カラフルワールド(旧題 夏のプリズム)

1 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月22日(土)00時39分15秒
以前2chで書いていたものの修正したものと、続きです。
2 名前:自称天使 投稿日:2001年09月22日(土)00時44分21秒
「天使――って言ったらどうする?」
彼女の自己紹介に、何も言い返せなくてただ黙る。
訝しげに睨む私を、彼女は面白そうに見つめ返して来た。

 < 一 自称天使 >
3 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)00時57分59秒
 それは目が痛くなるほど輝いた青い空の下の夏休み。

 一人川原に赴いて、乾いた土ぼこりと芝の中にべたっと背中をくっつければ
 スクリーン一杯に青空と白い雲。
 対岸の緑に高架の灰色が広大な天界に彩りを添える。

 そんな涼しげな自然と頑なな人工物の色の中に、突然柔らかな中間色が現れた。
 健康そうな肌の上に薄化粧を施している。
 白い貝のピアスと白い歯が、陽光を弾いて眩しい。
「行き倒れですか?」
 ひょっこり上からのぞいた丸顔の少女に、私は慌てて起き上がった。
4 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)00時58分40秒
「上に自転車が倒れていたから、何かあったのかと思って」
 ピンクの自転車は路上の脇に立てておいたはずである。
「……風で倒れちゃったのかな」
「川原に降りてみたら女の子が倒れてボーっとしてたから……」
 倒れていた、のではなく、寝そべっていた、のだが。
 キャミソールにスカートという服装で芝生の上に寝転がっているのは、
 確かに不審な構図だったのかもしれない。
「ごめんなさい。なんでもないの。私はその、別にね、だから……」
 部活に行くのが嫌で。中学でのやり方と違いすぎだから。執念の欠如といわれても。
 ――そんなことこの子に話してどうするのよ。
5 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)01時00分40秒
 どこから何をを説明したらいいのかわからず、口篭もってしまう。
 私の慌てふためく素振りが面白かったのか、少女があははと破顔した。
「寝てただけみたいですねぇー」
 原因を端折って結論だけ言えば。
「……みたいなんです」
 十六の乙女が部活逃避で川原に寝そべって、なにかの事件と勘違いされるなんて。
 なんだか情けない。
 自虐的になって身を縮めていると、少女の方が軽く頭を下げた。

「変な声かけてすいません。
 この川原、治安悪いから……一人で来ない方がいいですよ」
「……そうね」
6 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)01時09分54秒
 日が落ちると不良の溜まり場になり、昨年の夏には少女暴行事件が起きた。  
 といっでもそれは下流の話。
 中流に当たるこの辺りは小中高と各種学校へ続く通学路であり、少年野球場があり、
 散歩人たちのお気に入りの場所になっている。

 今周りに人気がないのは、たまたまのことだ。
 生まれてずっと過ごしてきた土地の歩き方など教えてもらうまでもない。
 そんな愛郷心の混ざったプライドが少女の忠告を軽く聞き流させた。

「ありがとう。心配かけてごめんなさい。それじゃ失礼します。」

 恥ずかしさを誤魔化そうと馬鹿丁寧なお辞儀をすると、
 私は逃げるように川原を上って自転車を走らせた。
7 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)01時18分08秒
 可愛い女の子だった。
 年はたぶん私と同じぐらい。
 背は絶対に私より高かった。
 赤いペンキを塗りたてたような鮮やかな色のキャミソールに
 濃紺のパンツというアクティブな服装。
 大きい目は真っ直ぐ過ぎて、目前のものを射ぬくような強さがあった。
 だけど、笑うとその目はキラキラと光を集めて夏を凝縮したような色になる――。

 印象に残る相手だから、恥ずかしさもなかなか消えてくれないのだろう。

「馬鹿みたい、私ったら、もう、もう、もー」
 呟き、ペダルをチャカチャカとかき回していると、ほどなく高校に着いた。
 部活をサボろうなんて考えたから、バチがあたったんだ。
 荷台に縛り付けておいたラケットバックを肩にして、部室に向かって小走りする。
8 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)01時29分02秒
 ――みんなコートに出ちゃっただろうなぁ。
 二時間の遅刻で部室に駆け込むと、
 案に相違して部員全員が円陣を組んでいた。

 全員の視線が部室の入り口に――
 私に、大幅遅刻してきた新入部員一年生に集中した。
「……あ、あ、あ」
 威圧感に胸を押され、酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせて、
「何か……あったんですか?」
「ドロボウよ。石川、あんたじゃないの?」
 日頃から私に風当たりの強い先輩が斬りつけるように言って来た。
「……え?」
「ちょっと、それ笑えないって」
 別の先輩が冗談で済まそうとやんわり口を挟むが、
 険の立った空気は変わらなかった。
「盗まれたのよ、あたしの新品のテニスラケットが」
 それで大体の状況を理解した。

 テニスラケットというものは、けっこう高い。
 ブランド物を使えば三、四万するものもある。
 そんなものに何かあっても困るので、
 私物は自己管理、部室に置きっぱなしにしないというのが基本なのだが
「昨日、部活の後にデートがあったから、かさばる物置いてったのよ。
 そうしたら今日――」
 こういうこともあるわけだ。
9 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)01時49分00秒
「私知りませんよ!私だってラケット新調したばっかりですよ!」
「あんたのは安物でしょ。私の見て『うらやましい』とか言ってたじゃない」
「そんな……」

 その時私は、私を見つめる先輩の目を醜いと思ってしまった。
 そして、そう感じてしまった私は、きっと先輩と心の底から通じ合う日は
 来ないだろうと気がついてしまった。

 女子テニス部はスポーツ進学校として有名なこの高校の中でも屈指の有名部だ。
 先輩はこの部のエースだった。
 一人頭抜けて高価なテニスラケットを愛用するような高慢さは
 前から感じてはいたけれど、
 私はこの先輩をテニスプレイヤーとして尊敬していた。
 愚図だヘタクソ、うるさいブリッコだと嫌われていながらも、
 先輩に近づきたいと思っていたのだ。

 だが、先輩への嫌悪感は名プレーヤーへの憧れまでも完膚なきまで叩き壊した。
10 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)02時02分59秒
「あーあ、泣いちゃったよ」
「泣けば誤魔化されると思ってるの?」
「ちょっと、やめなよ。これじゃイジメだよ」
「違うでしょ、盗んだかどうか聞いてるだけじゃない」
「泣かないで、ね、証拠はないんだしさ」
「何よ。私が悪者なわけ?あたしは被害者よ?」

 ――違う違う違う違う!
 憧れは密かに胸に抱いてきたマイルストーンだった。
 それがあったから、いつかは先輩のようなプレーができるようになりたいと
 思っていたから厳しい指導や練習にも耐えてきた。
 それを壊されてしまった。他でもない先輩自身によって。  

 結び付けておいたロープを切り離され、崖っぷちから突き落とされたような、
 あっ、と墜落してゆく気持ちをわかってくれる人はどこにもいなかった。

 私は文句も反論も口にせずに泣きじゃくった。
 伝えたい言葉を見つけられずに癇癪を起こしている子供のようだ。
 自覚しながらも、涙も声も止められなかった。
11 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)02時12分00秒
 部室には重苦しさが蔓延していた。
 誰が原因かはわかっている。
 ――いっそ、煙のように消えてしまいたい。
 私の耳障りな泣き声と、険悪な言い争いと、口を挟めない部員の気まずい沈黙が
 混ざり合い、時の流れが鈍くなったような部室の扉を
「失礼しゃーす」
 あっけらかんと開いた人物に、負の感情は吸い込まれるように集中した。

 肌が切れるような緊迫の一瞬。
「おおっとぉ……」
 鋭い視線の圧力に押されるように後ずさり、扉が閉まる。
「……なに?今の誰よ?」
 部員達は呆然とした。
 再び扉が開いて、
「あ、やっぱり失礼します。ごめんさい」
 二度目に彼女が顔を出したときには、陰鬱な雰囲気は白けた空気に変わっていた。
12 名前:_ 投稿日:2001年09月22日(土)02時13分13秒

つづく。
13 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月22日(土)23時40分28秒
意地悪そうな先輩・・・石川がらみとくればもちろん!?(笑
キーパーソンとなりそうな彼女は・・・彼女か彼女か!?
続き気になります〜更新はやめにお願いします〜
14 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月23日(日)00時35分01秒
あ゛〜〜〜〜!!!これ!!!超待ってた!!
やった。発見!!やっべ!まじで、すげぇ嬉しい!!!
むちゃくちゃ応援してます、がんばってください。
15 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)01時49分04秒
 彼女はすたすたと私の方に歩み寄り、涙だらけの私の顔を不思議そうに見て
「忘れ物。お届けに来ました……んすけどー」
 差し出されたのは、見覚えのあるラケットバック。
「え?」
 ラケットの新調と共に、ラケットバックも新調した。
 そのラケットバックだった。

 そうだ、今日はラケットバックを二つ持ってきたのだった。
 自分専用のラケットと、先輩のお下がりのラケット。
 お借りしていたラケットとラケットバックをお返ししようと
 自転車の荷台に積んできたのだ。
 そうしておいて、自分のものは道端にほったらかしにしてしまったらしい。
「ありがとう……」
 御礼を言うと、川原で出会った少女はニヤニヤ照れくさそうに微笑んだ。
16 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時04分14秒
「それが盗品?貸しなさいよ!」
 同級生の部員が私の手からバックをひったくった。
 虚を付かれた顔をする川原の少女。
 同級生の獰猛な行動に逆らえず、悔しさを噛み潰してうつむく私を見て、
 すぅっと冷え冷えした表情に変わっていった。
 ――なんであなたにまでそんな目で見られなきゃいけないのよ!
 憤りを叫ぶ覇気もなく、代わりに涙をぽろぽろ流しつづける。

 私の心はなんて脆弱な作りをしているんだろう。
 みっともないぐらい威嚇に脆く、情けないぐらいに悪意を感じやすい。
 薄紙を折って作ったような、子供が片手でくしゃりと潰せる心臓だ。
 風でへこむような心を内に持っているのに、胸を張って生きられるはずもない。
 自分への絶望は止め処なく続き、涙は止まらない。
17 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時10分21秒
「ほら、これ先輩のラケットですよ!やっぱり石川――」
 鬼の首を取ったような声に、私は驚くことも出来ないほど怯えていた。
 自分の殻に引きこもり、ただ喉を引きつらせ、体を震わせて泣く。
 盗ってない、と主張できずに、苛めないでと耳を塞ぐ。
 悪化する一方の私の立場を救ったのは、
「……ちょっと失礼」
 壁にかけた荷物を取るように私の腕を引いた、川原の少女だった。
 彼女は剣呑な顔つきで私を部室から引っ張り出そうとした。

「ちょっと、逃げる気!」
 同級生がじろりと私達を睨んだ。
「うっさいなぁ。こんな状況じゃこの子が言い訳も出来ないだろ。
 作戦タイムだよ」
「言い訳なんかする必要ないでしょ。本当のことを言えばいいだけよ」
 先輩の声は女王の威厳に満ちていた。
 反論を許さない声色、楯突くしまもない正論だ。
 それを少女は、はっ?と一息であざ笑った。
「この子が本当のことなんか言える状態に見える?
 逃げるって言うけど、同じ学校の同じ部員がどこに逃げられるって言うんだよ」
18 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時27分24秒
 私からは少女の背中しか見えなかった。
 真っ赤なキャミソールからの連想だろうか。
 少女の背中からは、焼け爛れた鉄板のような近寄りがたさを感じた。
 
 ――この子は強い。
 風でよろめく私と違い、風を身に含めて勢いを増す炎だ。
 敵意を受けてますます燃え盛る。
 振り向いた彼女の眼の中に火影が揺らめいて見え、
 私は庇護されているはずの少女に怯えた。

 部員達を制圧した少女に逆らえるわけもなく、
 私は涙をこぼしながら手を引かれるまま歩んだ。
19 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時34分00秒
 どこかの段差を降りた。
 半ば閉じたまぶた越しに強い陽光を感じ、外に出たことを悟る。
 私は背中と肩を押されて校庭のベンチに腰を下ろした。

 泣きじゃくる私の横に座った少女が、なにやらがさごそと音を立てていた。
 目の端で見ると、ショルダーバックからパンと紙パックジュースを取り出して
 パクつき始める。

 そんな時間が何分続いただろうか。  
 その間に私は泣き声と涙を捨てさることに成功し、
 だけど傍らの少女に接触する術もなくじっと俯いていた。

 じーじー、みんみんと鳴り響くセミの声と真っ白な熱線が、
 私の頭の回路を焼き切っていく。
 ああ、夏だ。
 肌をつき抜ける光、まとわりつく暑気。
 この土地のこの季節が、回転木馬のようにぐうるりと巡ってくる。
 記憶の木馬に乗って暦を回想してゆくうちに、ふぅっと心の枷が緩んでいく。
20 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時37分29秒
 心中の澱を流すように細く深い息をついたら、
「食べる?」
 少女がかじりかけのベーグルを千切って、歯形のないほうを差し出してきた。

 受け取って、大きくがぶりとかじる。
 泣きすぎてカラカラになった喉に、パン生地が粉っぽく張り付いた。
 目を白黒させていると、少女が紙パックを手渡してくれた。
 オレンジ牛乳とロゴが描かれている。
 詰った塊を流し込もうと勢いよく飲んだら、ほぼ空になってしまった。
「……ごめん、いっぱい飲んじゃった」
「別にいーけど」
 少女はもぐもぐとパンをかみ締める。
「部活で嫌われてるの?」
 ひゅうと吹くそよ風のように何気ない言葉をかけてきた。

 余りにあけすけな質問内容に私は苦笑した。
「いきなり凄いこと聞くんだ」
「凄いかな」
 少女はちょっと私の方を見ただけで再び手元に目を戻し、
 満ち足りた表情でベーグルをかじり続ける。
21 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時42分23秒
 様々な顔を持つ少女だ。
 初めてあった時の、大空の広さを感じさせる表情。
 部員を排除する、ざらついた熱砂の目。
 そして焼きたてのパンのようにほっかりあったかい顔もできる少女に、
 私は直感するものがあった。
 それは信頼、と呼ぶにはいささか弱い感情だ。

 藁にもすがるという言葉もあるし、旅の恥はかきすてという言葉もある。
 通りすがりの少女に苦い気持ちを礫にして投げつけて、
 私の痛みを共有させたかったのかもしれない。
 王様の耳はロバの耳、と叫ぶための穴を、少女に見出していたのかもしれない。
 とにかく、私の口は驚くほど軽く開いた。
22 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)02時46分33秒
「私は高校からの編入組だから、エスカレーター制の学校に馴染めてないのかも」
 それだけじゃないけど、
 と小声で付け足したことを少女は丁寧に拾ってきた。
「何か嫌われる心当たりがあるんだね」
「そう。私はあんまり人に好かれる性格じゃないみたい」
 すると少女はまじまじと私の顔を見て
「なるほどねぇ」
 自分から言い出したこと故に、まことに身勝手ながら、
 そんなことをじろじろ顔を見られて納得されれば反感も湧く。

「……なにがなるほどなんですか?」
「わかるよ。石川さんは女の子から嫌われやすそうな人相してるもの」
「なっ……」
 頭上に金だらいが振ってきたようなショックを受けた。
 年頃の娘である。顔に文句をつけられてへこまない訳がない。
 人相。よりによって人相。
 直しようがないではないか。
23 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)03時17分05秒
「そんな顔しないでよ」
 少女は愛嬌よしの可愛らしい顔をきょとんとさせた。
 私はどんな顔をしているのだろうか。
 悪い人相に磨きがかかって、指名手配犯のような顔でもしているのだろうか。
 どんどん落ち込んでゆく私に少女は、
「あのね、石川さんが綺麗な顔してるってことなんだよ」
「え?」
「女の子が見てて憂鬱になりそうなほど、綺麗な顔してるってこと」

 意外な話の展開だった。
 少女を見ると、ふわっと笑いかけられた。
「あたしは綺麗な人の顔見てるの、好きだけどね」
 頬が熱くなる。
 すぐに少女から目線を切った。
 綺麗という言葉を、こんなに綺麗に贈られたのは初めてだった。
 胸がどきどきして体中が熱っぽくなっているのに、
 少女の声はひんやり心地よく胸に沈んでいった。

 ――石川さんが綺麗な顔をしているってことなんだよ。
24 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)03時21分34秒
「あれ?」
 ひたひたと広がる甘い情感をゆっくり反芻しているうちに気がついた。
「どうして私の名前を知ってるんですか?」
 少女は咥えかけたベーグルを手に戻して、わざとらしくそっぽを向くと
「それは企業秘密ですね」
 大根役者の演技でとぼけて笑いを取ろうとする、コメディアンのようなふりをする。
「――部室で呼ばれてたからだ。そうでしょう?」
「さあねぇ」
「なによそれ。だって他にないでしょ。そうなんでしょ?」
 少女はくくく、といたずら小僧のように小憎らしい含み笑いをするだけだった。
25 名前:_ 投稿日:2001年09月23日(日)03時22分08秒
つづく。
26 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月23日(日)04時50分28秒
名小説復活ありがとう。羊時代から読んでました
27 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)01時42分42秒
「五メートル。絶対入るね」
 少女は私の背中の向こうの方を見て言った。
 視線の先にはゴミ箱がある。
 空になったジュースの紙パックを握りつぶすと左手に持ち替えて、
 えいとゴミ箱に向かって放り投げた。
 高い弧を描いて、橙色の紙箱が金網の筒の中に吸い込まれる。
「インっ!」
 少女が快哉を上げた。
 ガッツポーズをした手を組み合わせ、掌で空を押し上げるように伸びを打つ。
「そろそろ石川さんの部室の方も落ち着いてるんじゃないかな」
「……そうかもね」
 問題が何も片付いていないことを思いだした。
28 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)01時43分48秒
「私、本当に盗んでないんだよ。どうしよう」
「そうみたいね」
 少女はすんなりと相槌を打つ。
「まぁ、『どうしよう』じゃなくて『どうして?』だと思うけどなぁ」
「あなたはドロボウ扱いされてないからそんなこと言えるんだよ」
「そぉねぇ。まぁ解決は時間の問題だとも思うけど……」
 と、少女は小首を傾げた。
「時間の問題って、また他人事だからって……」
 不平を嘆く。
 少女はきりりとした目を真っ直ぐにして、
 高い空を突き刺すように向けて何かを考えている様子だった。
「そりゃ、ほっといても終わり方の後味は良くないかもしれないし……」
 なにやらブツブツと言い、
 やるか。
 少女はそんな風に呟いたように見えた。

「ねぇ、部員の携帯番号とかってわかる?」
「それはもちろん知ってるけど」
「じゃ、ちょっとここに呼び出して欲しい人がいるんだけど」
29 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)01時59分54秒
 険しい顔つきの同級生と先輩に詰め寄られても、
 少女は飄々とした態度を崩さなかった。

「あんた石川の友達かどうかしらないけど、部外者でしょ。口出さないで」
 敵意を剥きだしにして猛々しく噛み付く同級生に、少女はおっとりと応える。
「うん、部外者だからなんだよね」

 少女がベンチから腰を上げたので、私も追従して立ち上がる。
 ――やっぱり私より背が高い。
 ふと、そんなことを考えてしまう。

「テニス部の方々は頭に血が上ってたけど、あたしは割り込んできた部外者だったからさ。
 すぐに変な所に気がついたんだ。石川さんがドロボウだったらおかしいじゃん」
 少女の脇で所在なさげにおどおどしている私に目が集まった。
 きゅっと拳を握って、せめて目を伏せないようにと気を張った。

「なんで部室で盗んだものを持って部室に来るの?落ち着いて考えてみなよ」
 先輩は目をぱちぱちさせた。
 拍子を外されたついでに高学年としての威厳や風格をも外され、
 十代の娘年相応の、どこか幼い顔つきになった。
 対照的に、同級生は石を噛むような顔をして、口元に幾重ものしわを寄せる。
30 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時10分58秒
「――自分は犯人じゃない、って思わせるために演技したのかもしれないじゃない」
「んな馬鹿な演技あるかぁ?」
 少女は一笑に付した。
 それをきっかけに、少女はがらっと雰囲気を変えた。

 冷ややかに細められた瞳の中に、刺々しい粒を浮かべて一歩。
 少女が踏み出すと、同級生はぴくっと口元を引きつらせた。
「盗んでないものが石川さんのバックにあったんだから、誰かが入れたんでしょ。
 誰が入れたのかってのは、石川さんをすげー嫌ってる人でしょ」
 土の上を滑るように二歩。
 「だから、あんたでしょ。『石川さんが嫌い』って、目にはっきり書いてある」
 宣告され、同級生が声を荒げた。
「その子を嫌ってる奴なんかテニス部にはいくらでもいるわよ!」
「そうでもなかった――と思うけど。
 部室でけっこう石川さんを庇いたげな人もいたような――
 まぁ、あたしゃ部外者なんだからいいけどさ」
 話の継ぎ目に、無造作に頭を掻く。
 そんな俗っぽい動作でも、少女の圧力はびた一文とも減りはしない。
31 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時18分29秒
 少女の三歩目で、同級生は風に流されるようにふらっと後ずさった。
 先輩の背中で半分身が隠れる場所に立つと、
「証拠はあるの?証拠もないのに人を疑うわけ?信じられんない」
 濁った目を歪めた。

 どういう了見なのかまるっきりわからないその言い草は、私の胃を沸騰させた。
「ふざけないでよ!私をドロボウ扱いしておいて――」
 少女が振り向いた。
 口を挟むなと目で制され、私は同級生と全く同じ質の圧迫を受けて声を止める。
 ぎろちん。
 なぜか少女の姿に、凍えた広刃を備えた断首機のイメージが重なった。

 少女は裁判官さながらの冷酷さで続ける。
「あたしは証拠なんてもってないけどさ。警察が調べればポンポン出てくるかもね。
 ドロボウ事件でしょ。届けなきゃ」
 警察という単語でひどく動揺した同級生に、少女は四歩目を進める。
 少女と同級生は、もう手の届く距離。
 間に立つ先輩とは目線が合わないほど接近している。
32 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時22分28秒
「指紋はつけてない?アリバイは持ってる?――そこまで考えてないって顔だね。
 ねぇ、ここまで大騒ぎにするつもりなかったんでしょ?
 石川さんが家でバックを調べてたらそれで終りじゃん。
 厄介な揉め事やいい争いが起きるかもしれないけど、その程度でよかったんでしょ?」
 少女の語気は決して荒くもなく強くもないのに、一つ一つに胸を打つ迫力があった。

「でも、あんたは土壇場の勢いで石川さんをドロボウにした。
 ――覚えているよ。石川さんを泣かせて、あんたは楽しそうに笑ってた。
 だからその時、あんたがろくでもない奴ってのがわかったんだ」
 少女はゆったりとした動作で同級生の両肩を掴むと、
 口づけをするように顔を近づけて低い声で言った。

「その場の思いつきで人を傷つけるような奴は、考え無しの最低野郎だ」
 少女の声は静かなその場に重く響きわたった。 
33 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時27分28秒
 ひくひくとしゃくりあげる同級生と厳格な少女の間を分かつように
 先輩が手を横に広げた。
 先輩が確認するように少女を見ると、少女はうなづく。
「なんでこんなことをしたの」
 先輩は同級生を静かに問いただした。

「なぜって……嫌いだからですよ!」
 わかっていたことでも、剥き出しの悪意をぶつけられるのはやはり辛い。
 私の喉と目元はひりひりと乾いた熱を持って痛んだ。
「でしゃばりで性格最悪のくせして、色目や泣き真似ばっかり上手くて、
 テニスは大して上手くないくせに!」
 ぼやけた視界の向こうで、同級生もグラウンドの上に涙のしみを作っている。
「なのに次の試合に石川を出すんでしょ?なんでよ!コーチから聞いたんだから!」
 喉を裂くような悲鳴の後には、水を打ったような沈黙が訪れた。
34 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時33分31秒
 ――私が試合に?
 今、初めて聞いた事柄だった。
 二学期を迎える前に一年生を試合に出すというのは、
 伝統あるテニス部のセオリーから外れた行為だった。
 誰しもがレギュラーを狙って爛々と目を輝かせている最中に、
 そのようなことをされては心を乱されても仕方ない。
 現に私も、嬉しいというより困惑の方がよっぽど先立ってしまっていた。 

「馬鹿だね」
 先輩がぽつりと呟いた。
「私も石川のことは嫌いだよ」
 先輩の『嫌い』は、同級生のよりも落ち着いているだけに痛くはないが重苦しい。
「声や仕草が嫌い。審判に突っかかるし生意気だし、
 コートの中でも外でも余計なことばかりしてる下手くそだしね」
 胸にずしりとくることばかりだったが、日頃から言われ慣れている事柄なので
 妥当な意見かとも受け取れた。
35 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時34分32秒
「でも、石川の一歩目の踏み出しは正確で速いの。
 それはあんたもわかってると思うけど、だから潜在的にも石川を嫌っちゃうんだろうけど。
 ――下手なくせに勘がいいのよこの子は」
 思いがけない賛辞にどきりとしたが、同級生の獣のようなうめき声を聞いて
 再び心は固く縮こまる。
「石川は一年で一人だけ別の中学でしょ。ぬるい部活をやってたみたいだから、
 早めに使って怖い試合を覚えさせようって三年みんなで話し合ったわけ。
 今すぐ使えるなんて、これっぽっちも思ってないわよ」

 さすがの先輩も、痛々しい場の雰囲気に辟易していたのだろう。
 肩をすくめておどけて見せた。
「これで満足?二人とも――いえ、三人ね。怖い顔した部外者さん」
 少女は軽くうなずいた。
「あの、私も――」
 なぜそんなことを口走ってしまったのか、自分でもわからない。
「私も実は、先輩のことは嫌いなんです。
 でも先輩としてとかテニスプレイヤーとしてはすっごく尊敬してます」
 先輩は心底嫌らしそうに私をじろりと見た。
「あなたは一言多いし、変な媚売るから嫌いなのよ」
36 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時41分03秒
 日の色は赤く沈み、セミの鳴声はますます大きくなっていた。
「ありがとう部外者さん。事を荒立てないでくれて感謝するわ。
 後始末ぐらいは任せて――」
 先輩が颯爽と立ち去ると、取り残された同級生はぎりりと私を睨んだ。
 私の心を縛り付けるような顔を残し、彼女は先輩の去った方向と逆の方へ消えていった。
 少女と二人だけになると、私はハンカチを取り出して涙と一緒に額や首筋の汗を拭った。
 汗は気温だけのせいではない。小心なのだ。
 比べて、少女は汗一粒かいていない。
 厳格で固めた姿をさらりと溶かすと、少女の周りに人好きのする穏やかな空気が戻ってきた。
37 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時42分36秒
「――ありがとう」
「行きがかりだし。それにこれも私の使命みたいなものだからね」
「使命?何が?」
「困っている人助け」
 本気なのか冗談なのか区別のつかないような薄っぺらい表情だったので、
 私はへえーと意味のない相槌を打って話を続けた。
「あなたの名前、聞いていいですか?」

 少女は顎に手を当てて首を傾げた。
 先ほども、こんな格好をしていた。
 この角度で首を傾けるのが考えるときの癖なのだろう。
「天使――だっていったらどうする」
 待たされた挙句に、あんまりな回答だった。
 軽い憤りを覚えた私に、少女は猫のアクビのように人を食った笑い方をした。

「それじゃ。部活頑張ってね」
 少女は私に背中を向けた。
 ゆるゆると歩いて私との距離を離しながら、
 日焼けのない左腕をふんわりと掲げて別れの挨拶をする。
 白い片翼を広げるように。
38 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時45分18秒
 あれほど部員の感情を昂ぶらせたあの事件は、自然に収縮していった。
 『真実』は、私が間違ってバックを持って帰ってしまった、
 ということになっている。
 そのためにわざわざ私と同じラケットバックを購入してきて、
「ほら、石川と同じバックだったから」
 と、やってくれた先輩には頭も下がるし、お金持ちは――と呆れるところもあった。

 先輩はあいかわらず私のことが嫌いなようで、感情的な暴言を私に吐きつけながらも
 従わざるを得ないような的確な指導をしてくれている。
 私を陥れた同級生もそのまま傍にいる。
 もともと練習熱心な子だったのが、さらに練習に打ち込むようになった。
 彼女からは時々刺すような視線を感じることもある。
 そんな時、私は痛む心をこらえて俯きながら私の天使を思い出した。
 私を綺麗だと言ってくれた少女のことを――

 これから私はあんなに素敵な言葉を、いくつ手に入れることが出来るのだろうか。
 あの言葉を胸にしまって以来、私は身も心も全て綺麗な人になりたくなった。
 私も、背中に翼が見える少女になりたかった。
39 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時48分00秒
 そして私の手元には、まだ一つの謎が残っている。
 この辺りに学校は幾らもあるし、私は高校生だなんて一言も言っていない。
 あの少女がどこで『私の通う高校』を突き止めたのか、ということだ。

 だが、それはささいな問題のようにも思えた。
 ――だって彼女は天使なのだそうですから。

 天使のままでいいじゃない。
 腰のある歯ごたえのベーグルや温くて甘いオレンジ牛乳と一緒に
 暑い夏の日の記憶として焼き付けてしまおう。

 私は少女趣味的な感傷で、彼女の正体を追求することを止めてしまった。

 白い羽根を背中で羽ばたかせ、熱射に乾いた真っ青な大空を舞う。
 淡く美しい翼の幻影を追いかけて、私の夏はまだ続く。
40 名前:_ 投稿日:2001年09月25日(火)02時49分41秒
< 一 自称天使 >
41 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月25日(火)03時30分51秒
ほんと、びみょーに修正されてますね。
「その場の思いつきで人を傷つけるような奴は、考え無しの最低野郎だ」
このセリフは前のほうがよかったかな。
でもやっぱり面白いです!
42 名前:ニ 猫の重さ  投稿日:2001年09月26日(水)00時23分03秒
にゃあ、と、か細く鳴くノラ猫の声を道端で拾うたびに、
私は足元が崩れるような錯覚を覚えて立ちすくむように
なってしまったのだった。

< ニ 猫の重さ >
43 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時26分35秒
 悪夢のような練習試合が終了して、
 我がスパルタテニス部にも夏期休暇と言える時期が来た。
 といっても部活がまるっきり無くなる訳ではない。
 体を休めるために運動量が減り、代わりにトレーニングメニューや
 自己達成目標などの話し合いが多くなる。

 本日の午前中は先の試合について、先輩にこっぴどく絞られた。
 昼休みを迎えた私は、テニスウェアを首から引っこ抜くようにして脱いだ。
 落ち込んだ気分の時は何をするのも面倒になるものだ。 
 汗を拭い、服をかえるなんて動作をするのもおっくうで、
 自然、手つきが乱暴なものになる。 
 脱いだウェアをロッカーに丸めてつっこんで、
 代わりにハンガーにかけてある制服を取り出す。
 制服を頭から被り、服を引き裂きそうな勢いで袖に腕を通す。

 荒い着付けで乱れた髪を手ぐしで整えながら、
 部員が和気あいあいと談笑している部室からそっと離れた。
 テニスコート脇の部室から、学食のある校舎棟はすぐ目の前だ。 
44 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時40分18秒
 とぼとぼと重い足取りで廊下を歩いていると、
 学食の券売機に並ぶ列の中に見慣れた姿を見つけた。
「柴ちゃん」
「梨華ちゃん。お昼ご飯だ?」
「そうだよ」
 糊がビシッと利いたブラウスの胸元を少し開けて風通しを良くしている。
 小脇には楽譜の印刷された藁半紙の束を抱えていた。
「梨華ちゃん、襟」
 柴ちゃんは細い指を私の首元に寄せて、
 丸まって立っていたブラウスの襟をぴっと左右に引っ張った。
「だらしないよ、かわいい女の子が」
 にっこり笑う。
 私は気恥ずかしさを隠そうと、努めてはきはきした口調で話題を振った。
「音研も部活あるんだ」
 音楽研究会の略称である。
「あるよぉ。もう、毎日バリバリ弾いてる」
「ピアノってバリバリ弾くもんじゃないんじゃないの?」
「そういうラフな演奏スタイルもあるんですよー」  
 制服を程よく着崩したうら若きピアニストと話しながら
 肩を並べて学食に入った。
45 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時43分48秒
「ラブ?」
 柴ちゃんはチキンソテー定食、私はすうどんを注文した。
 品物をカウンターで受け取ると、空いている席に腰を下ろす。
 数年前に新築された校舎の中にある学生食堂は簡素な造りだが、
 潔いぐらいに広々とした殺風景さは清潔な空間として良い風に見えなくもない。

「ラブ、ですか?」
 柴ちゃんはもう一度繰り返した。
「そう、ラブ」
 私も繰り返す。
 何かの暗号のようなやり取りをしたあと柴ちゃんが、
「ふうん、『男と女のラブゲーム』だ。親戚のオジサンとかがカラオケで歌うよね」
「――言うと思った」  
 やれやれと頭を振って呆れてみせると、
 柴ちゃんは酔っ払ったサラリーマンの真似をして調子外れに古い歌謡曲の
 一節を歌ってみせた。

 柴ちゃんは高校の一年先輩である。
 中学でも一年先輩であったし、小学校でも幼稚園でも一年先輩だった。
 湯気を立てた煮物がやり取りされるような家の娘同士であったため、
 柴ちゃんは私が生まれた時からずっとの一年先輩だ。
46 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時51分52秒
「で、ラブゲームって何?」
 だからと言って、何もかも分かり合った仲という訳でもない。
 柴ちゃんはスポーツには余り関心を持たない方だ。
 私がドヴォルザークとブラームスの楽曲を聞き分けられないように、
 柴ちゃんはテニスとバトミントンのルールを取り違えてしまう。

「どっちかが一点も取れないで終わったテニスのゲームのこと」
 おそらく柴ちゃんはゲームというテニス用語を
 正確には知らないだろうが、大体の意味は通じるだろう。
「へえ。で、梨華ちゃんは勝ったの?負けたの?」
「……見ればわかるでしょ」
 私はすうどんを割り箸でぐちゃぐちゃとかき回した。
「そんなんしたら、食べられなくなっちゃうよ」
「いいもん。叱られすぎて食欲ないし」
「お百姓さんが泣きますよ」
 柴ちゃんは閑静な都市を颯爽と歩く女の子みたいに洗練された雰囲気があるのに、
 縁台でお茶をすするお婆ちゃんの知恵袋から取り出したような発言をよくした。
47 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時53分35秒
 そして、とびきりの茶目っ気も持っているお姉さんだ。
 柴ちゃんはナイフを皿の上に置くと、
 右手の人差し指を一本立てて指揮棒みたいに小さく振った。

「ご飯を食べない梨華ちゃんは、ますます元気がなくなってぇ、
 元気を無くした梨華ちゃんは、ますます先輩に叱られるぅ、
 ヘマをする。ヘマをする。ヘマヘマヘマヘマ、ヘマだらけ」

 柴ちゃんが小さな声で、だがよく耳に通るいい声で歌った。
 コミカルなミュージカルに使われそうな明るいメロディーが
 オリジナルの即興だとしたら、たいした物だが。
「――ますますのヘマで悪かったですね」
 笑劇の狂言回し扱いされた私が頬をぷぅと膨らますと、
 柴ちゃんは可憐な口元を優しくさせて、歌の続きを柔らかく奏でた。

「だから、ご飯を食べましょう」
48 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時57分00秒
 柴ちゃんは話をよく聞いてくれる。
 誰も聞きたがらないような私の愚痴を前にして逃げ出さない、
 貴重な人材だった。
 さっぱりした性格の柴ちゃんがグズグズしがちの私を
 上手く切り回してくれるからだろう。

「部活きついよー。私にはやっぱりこの学校はレベルが高すぎるのかなー」
 思ったことをそのまま口にしていくと、
「高校に入学してから梨華ちゃんの文句は、
 ずっと同じパートのエンドレスリピートだね」
 穏やかに指摘され、いつまでも進歩のない事を
 言っている自分に気がつかされて恥ずかしくなる。
49 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時57分55秒
「だってぇ」
 やり込められた悔しさを込めたつもりが、甘ったれた声になった。
「この所いい事がちっともないんだもん。
 先輩はイジワルだし部活ばっかで全然外で遊んでないし」
 もう夏休みも半ばを過ぎているというのにだ。

 制服を着て行き来する道中に、背中の大きく開いた
 可愛らしい服を着た女の子とすれ違ったりすると、
 ――私の青春はどこに行っちゃったのよ?
 などと眩しい太陽に向かって叫びたくなる。

「でも肌はよく焼けてるねぇ」
「……もともと地黒だもん。その上に部活焼けだもん」
「でも夏っぽい色してるよ。ほら、私なんか部屋でピアノばっかだから」
 柴ちゃんがテーブルの上に白い腕を出した。
 隣に私の腕を並べて比べあう。
 すべすべした柴ちゃんの白い腕を見て、
 私は嫌な出来事をまた一つ思い出して憂鬱になった。

 昨日、私は柴ちゃんよりも白い腕を持った天使と
 諍いらしきものを起こしたのだった。
50 名前:_ 投稿日:2001年09月26日(水)01時59分41秒
つづく
51 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)00時15分13秒
昨日は練習試合のために他校に赴いた。
電車で二駅県の海側に向かった観光地区にあり、
テニスコートからも潮騒が聞こえる。
周囲に立ち並ぶホテルに混じっても違和感のないような、綺麗な新設校だ。

うちの学校がテニスの名門と呼ばれるならば、対戦相手の学校は新進気鋭の強豪校。
私は第一試合に出場した。
対戦相手は同じ一年生であったのにもかかわらず、
一点も取れずにストレート負けをしてしまった。

「これはまた随分と盛り下げてくれたわね……」
あんまりにも一方的な試合展開に、いつも意地悪な先輩すら
私を怒鳴りつける気力を奪われたようだった。

「ドンマイ」
そんな風に声をかけてくれる人もいたけれど、
無言で冷たい目を注いでくる部員達もいる。
そのラケットを捨てろ、その席を譲れと無言の圧力をかけてくる。
私は、すみませんすみませんと、誰に向かってなのかわからない謝罪の言葉を
口の中で繰り返してうなだれた。
52 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)00時24分21秒
「でもかえって燃えない?次の私が二戦目をオール・ラブゲームで返したら
 カッコいいかな?」
 温厚と言うよりも、なんでも面白がるような先輩がラケットをブンブン振った。
「そんなこと出来たらランチ奢ってあげるわよ」
 意地悪な先輩が苦笑すると、楽天家の先輩は天にラケットをかざして
 一人はみんなのために、みんなは一人のために、
 と朗朗と宣告した。
「みんなー?石川の敵討ち、がんばりまっしょい!」

 惜しくも一点取られてランチを逃がした先輩を始め、
 他の試合は全て私の学校の圧勝で終わった。
 部内が険悪な雰囲気になることは避けられたが、私の気分は最悪だった。

 先輩方は空から降るライトを受けて舞台を跳ね回る、華麗な剣士達だった。
 私は登場していきなりバッサリ斬られてしまうようなやられ役だ。
53 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)01時22分14秒
 帰路につく私の肩で、ラケットバックは行きよりもニ割増は重く感じた。
 賑やかな駅前中心街を歩むのは久しぶりだ。
 帰りには寄り道をして買い物を楽しもうと計画を立てていたのだが、
 もはやそんな心境ではない。

 か細い腕を絡めあって嬌声をあげる少女たちにぶつからないように歩く。
 揚げたてのフライを思わせるおばさんとすれ違う。
 ビーチボールを抱えながら濡れた頭の子供たちがバスから雪崩れてきた。

 穏やかな色に満ち溢れる私の街の中で、
 私だけがが彩のないモノクロに沈んでいるのではないだろうか。
 どんどん急降下しだした気持ちに体が引きずられて、足が止まった。
 ――いけない、しっかりしないとダメだ。 
 口を横に引き締める。
 まず、下を向いているのがよくない。
 ふっと顔をあげたら、遠景の一角に白一色のワンピースの背中が飛び込んできた。
 さっと刷毛ではいたように心のもやが消える。
 私は目をこらして彼女を見つめた。
54 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)02時10分26秒
 左肩が大きく開いたワンショルダーのデザインは品がよく、
 以前に会った時のGパンスタイルよりもよっぽど天使らしい。
 あいかわらずの人の気をくるむ柔らかい顔で、彼女の隣にいる少女と
 談笑している。
 連れの少女は洋画のヒロインのような横顔をしていて、
 スクリーンから浮き上がってくるような力強さがあった。
 二人が並んでいると水彩画とポスターイラストを並べて飾ってあるようだ。

 とっさに早足になっていた。  
 距離を詰めると、連れの少女に話している彼女の肩を軽く叩いて、
「天使さん!」

 大声を口にしてから、あっとなった。
 案の定、彼女も彼女の連れも、きょろっと大きく目を剥いて振り返った。
 ばかりか、周囲の視線も集めてしまい、私は身を固めた。
 他に彼女に呼びかけられる名前を知らないのだから仕方ない。
 ええい、と開き直って
「お買い物ですか?」
 無言のまま、ありふれた風景を眺めるような表情のままの少女に不安を覚えた。
 私は不器用に笑顔を作って見せたが、少女の様子は変わらない。
55 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)02時23分10秒
 ぎこちなく停止した場を動かそうと、連れの少女が彼女に言った。
「ねえ、知り合い?」
 私を牽制するような声色がかすかに含まれていた。
 こわごわと天使の彼女を見たが、彼女の視線は連れの少女だけに注がれていた。
 そして、彼女の言葉は耳を疑うものだった。
「知らないよ。人違いじゃないの?」

「――え?石川ですよ。先日お世話になった」
 天使は緩やかな顔立ちに真摯な表情を乗せ、私の目を覗き込んできた。
 一字一句、かみ締めるように言う。
「だから、知らないって」
 彼女の瞳には、明らかに私を認識している様子があったので、
「ええー、なんでそんなこと言うんですか?ちょっと意地悪ですよー」
 私もムキになってしまった。
 彼女の腕を掴んだら、連れの少女にやんわり肩を押されて離された。
 連れの少女はキャッチセールスを相手にするような無関心を装って
「いこ」
 彼女の背中を押して歩き出した。
56 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)02時31分26秒
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
 少女がぐるりと体全体で振り返る。
「あんたちょっとしつこいっ!」
 険しく吠えられて動けなくなった。
 それっきり、彼女と少女は私がいなくなったように振舞った。
 遠ざかってゆく二人の会話が耳に入る。
「変なのにはキチっと言ってやんなきゃー」
 私は下を向いて、その場から走って逃げた。

 その後、何度考え直しても彼女から無視される理由は思い浮かばなかった。
 窮地を救ってもらったとき以来、なんのやり取りもないのだから当然だ。
 優しい思い出にひびが入り、欠けてしまったという事実だけが残り、
 私は諦めるしかなかった。
57 名前:_ 投稿日:2001年09月29日(土)02時32分06秒
つづく
58 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)00時54分29秒
 そんなこんなの日々を続ける今の私は、
 色に例えれば今にも泣き出しそうな曇天模様の空の色。
 灰色だ。
 柴ちゃんの歌ではないが、何をしても『ヘマだらけ』になってしまいそうな
 気がしてたまらない。

 午後の部活は明るい真昼のうちに終了した。
 また何か嫌なことが起きないうちに、とすっかり悲観的な考えに支配されて
 いそいそと学校を出た。

 川原へと繋がる住宅街の道路で、にゃぁという声を聞いた。
 頭上から。
 見上げると、ジャージ姿の少女が電信柱に蝉のようにしがみ付いている。
 臙脂色でおろし立てのツヤがある生地で出来ているジャージの肩には、
 私の出身中学の学章が白い糸で刺繍してあった。

 にぃにぃと辛そうに鳴きながら電信柱から降りて来た少女は
 地に足をつけて安堵の一息ついて、ようやく観察者に気がついたようだった。
「あ――」
 あどけない顔を恥ずかしげに赤らめる。
 見ない振りをするより、声をかけてあげたほうがいいだろう。
59 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)01時05分50秒
「何をしてたの?」
「……猫、探してるんです」
「あ、関西弁だ」
 砂糖菓子のような少女の甘い声と
 地方独特のリズムを持ったイントネーションが混ざると愉快に聴こえた。
 私が無邪気にはしゃいでもらした一言に、
 少女はつぃっと下唇を突き出して睨みあげてくる。
「関西弁、ちがいます。ちゃんと標準語、しゃべってます」
 声を尖らせて、平淡な口調で単語をバラバラと区切って並べる。
 それでも、やっぱり関西弁を感じさせるところがとても可愛らしい。
「ゴメンね。そういうつもりじゃなかったんだけど」
 出身地で面白がられるのは不快だろう。
 軽はずみな言動を反省する。

「猫、迷子なんです。見ませんでしたか?」
 少女はズボンのポケットからミニアルバムを取り出して開いた。
 ページをめくる少女の肩越しに覗いてみると、全ての写真に猫が写っていた。
 子猫から成猫までと年齢こそ違っているが、全部同じ猫。
 口の周りだけが黒い白猫だ。
 写真には猫一匹だけが写っているのも、猫と少女が一緒の写真もある。

 それは猫と少女の過ごした時間を切りとったフォトアルバムだった。
60 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)01時36分31秒
「猫を探して電信柱に?」
「屋根の上に見たような気ぃ、したんです。……違う猫、だったけど」
 消え入りそうな声で言う。
「いなくなったのは、いつから?」
 私の問いに、少女は眉を曇らせた。
「三週間ぐらい前……」
「夏休みが始まるぐらいだ」
「そうです。うち――私は、引っ越してきたんです。
 その時ごちゃぁーってしとっ、てた、から」
 関西弁を必死に打ち消そうとして、奇妙に喋る。
「荷物いっぱい、見てたから、逃げちゃった、ってお母さんが言いました」
 少女はしょぼんと俯いた。
「毎日、ずっと、探してるんですけど、この辺よう、わからない、ですから、
 うちが迷子になっちゃう……」
61 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)01時37分38秒
 何か、してあげられないだろうか。
 地元民として先輩として、愛らしい少女を助けてあげたかった。
 だが如何せん。
 ヘマばかりの高校生に、思わず柏手を打つような良案が浮かぶわけがない。
「訊ね猫の張り紙してみたら?」
 ありふれた意見を述べただけで、少女の顔はぱぁっと輝きだした。
「それやります!今すぐやります!ありがとうございました」
 関西のイントネーション全開で早口にまくしたてると、
 少女は時を惜しむように駆け出した。

 迷子にならないかしらと案じながら小さな背中を見送ると、
 私は再び歩みだした。
 人助け――と言うにはあまりにもささいな行為であるが、
 少女の笑顔は弱りかけていた私の心に暖かいものをくれた。
 ――情けは人のためならずって、こういう事なのかしら。

 みつかるといいな。
 アルバムの中の風景が彼女の元に戻ることを願いながら川原の道を進んでゆくと
「やーやー、部活お疲れ様」
 真っ赤なTシャツとデニムのホットパンツ姿の天使が、
 土手からのっそりと上ってきた。
62 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)01時49分34秒
 背中がずしんと重くなった。
 目を伏せてそのまま通り過ぎようとした私の前に、彼女が立ちふさがる。
「怒ってる。怒ってるね、さては」
 その脇を鰻のようにつるりと抜けると、歩幅を伸ばしてスピードを上げた。
 彼女は腕を小さく振り、ジョギングをしてついて来る。

「ねぇ、聞いてよ。けっこう待ってたんだからさ」
 背後から手首を掴まれて強引に足を止められた。
 私の手首は彼女の掌に容易く掴みこまれる。  
 その力強さがカンに触った。
「離してよ!」
 振り返らずに抗う。
 怒りに乗じて思い返せば、この天使がやることなすこと全て自分主導のものばかり。
 ――天使様だが知らないけれど、そんな傲慢なものに振り回されてたまるもんか。
63 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)01時57分19秒
 掴まれた腕を力任せに前に引いたら、少女がつんのめった。
 私の肩にがつりと硬いものが当たる。
 小さな悲鳴が首筋に触れた。
「つぅ……」
 少女は私の背中を抱き締めるようにしがみ付いていた。
 首を傾け、私の肩に乗った彼女の顔を見る。
 薄紅が引かれた唇の端に赤い切れ目が入り、じわりと血がにじみでていた。
 彼女は体を立て直すと
「――ごめん」
 ちろりと舌を出して傷を舐め、手の甲を唇に押し当てた。
 手についた血の形をまじまじと眺めて、幾度も傷の上に舌を回す。

 私は上着のポケットに手を差し入れて、空色のハンカチーフを握った。
 逡巡の後、私は少女の傷口の上にハンカチを押し付けた。
 彼女の吐息が私の指に沿って掌に広がる。
 薄い布の下で少女の口元の動きを感じた。
「ありがとう」
「――なによぉ。ばかぁ」
 彼女の正面に立てば、きっと私は取り乱してしまう。
 気がついていたから、彼女の前から早々に逃げ去りたかったのだ。
 少女は私の手をとり、ハンカチをぬき取った。
 血のついた面を折り返して綺麗な場所を表にすると、そっと私の目元を拭う。 
「ごめんね」 
 少女は優しく繰り返した。 
64 名前:___ 投稿日:2001年10月02日(火)02時10分05秒
 人前で泣くのは大嫌いなのに、私は小さい頃から泣き虫と呼ばれていた。
 カっと頭に血が上りやすく、気がつくと喉を詰まらせ目に涙を溜めている。
 おそらく、感情のコントロールが下手なのだ。
 今回も感情を爆発させてしまった私は、
 学生が行き交う往来の真ん中で高い声をあげて泣いてしまった。

 胸一杯に後悔を溜めて、川原の芝生に陰鬱と座り込む。
 抱えこんだ膝の中に半分顔を隠した私の横で、
 天使は胡桃を割るリスのようにベーグルを両手でつかんで食べつづける。

 泣かせたのは彼女の態度であったが、泣いたのは私の弱さである。
 所構わぬ駄々をこねた私の傍らに、自然体の彼女がいることがたまらなく悔しくなった。
 二人の間に置かれた紙袋に無断で手を突っ込み、ベーグルを取り出して食べてやる。
 それで彼女が腹を立てることもなく、
「美味しいものを食べると心が落ち着くよねぇ」
 などと、ひどく世俗臭いことを言う。
65 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時14分58秒
 天使の口車に乗っかれば、悪いのは私ということになるようだ。
「プライベート中に天使だなんて呼ばれてもすっごく困るんだよね。
 私が天使やってることは、周りには秘密にしてるんだから」
 天使というのは、やるものらしい。
 あえてその辺りを迂回して、
「天使のプライベートなんて聞いたことないよ」
 文句を言ってやれば、
「ああ、ひどいな。石川さんは天使を過労死させる気なんだ。天国が天使手不足になるじゃない」
 くるりと目を光らせる。
 どこまでが本気だかわからない茫洋な雰囲気もあるから、彼女は怖い。

「目を見れば、あたしの気持ちがわかってくれると思ったんだけどな」
「無理だよ」
 あの時の彼女はどんな目をしていただろう。
 ぴんと張り詰めた雰囲気しか思い出せなかった。
「あたしはわかるよ。目を見ればなんとなく気持ちがわかる。
 石川さんの気持ちもわかるよ」
「え?」
 こそばゆい気持ちになった。
「まだ怒ってるでしょ?ていうか、拗ねてる。ほら、もっとベーグル食べなよ」
「――もぉ」
 完敗だ。  
66 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時18分59秒
 爽やかな風を受け、私達の髪がなびいた。
 私はベーグルのない空いた片手で髪を整えたが、
 彼女は束ねた髪の先端を風に弄ばれるままでパン食に没頭している。
「困るなら名前を教えてよ。自分が天使だなんて言ったのはあなたの方じゃない」
 するとかじりかけのベーグルを見て、
「じゃあ、べーぐるってのは」
 ため息が出るほどふざけている。
「本当に呼ぶよ。ずっと呼んじゃうからね」
「いいよぉ」
「ベーグルさん」
「なんですか、石川さん」
 どこまでも能天気を崩さない天使に、プレッシャーを掛けてみたかっただけだった。
「困っている人助けが任務なんでしょう?なら助けてあげて欲しい子がいるんだけど」 
67 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時19分39秒
 転校してきた関西弁の少女なんて、その気になれば母校を通してすぐに連絡がつくだろう。
 ベーグルさんが件の猫を見かけたら、私に教えて欲しい。
 その程度の軽いお願いのつもりだったのだが、ベーグルさんの様子は大きく変貌した。

 食べかけのベーグルを丸めて口に押し込むと、考えに浸りこむように川に目をやる。
 穏やかに流れる川の表面は小波だっていて、波の背の一つ一つがきらきらと光を反射していた。
 心だけを深く沈ませ、ぷっくり頬を膨らませてベーグルを咀嚼している態度は、
 森の奥で自己の世界をひっそりと組み上げる隠者の、穏やかな隔絶を思わせた。
68 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時22分46秒
 やがて彼女が口を開いた。
「『この猫知りませんか』みたいなポスター張るのって一番ありふれた案だよね?」
「――だから?」
「ああもぉ、すぐに拗ねないでよ。石川さんをバカにしてるんじゃないんだから」
 本当に気持ちを見透かされているようだ。
「他人から言われる前にポスター貼りぐらいはやらないか、ってこと」
「――ただ単に思いつかなかっただけじゃないの?」
「三週間も?」
「思いつかないときは、ずっと思いつかないよ。行き詰まってるときなんか特にそう」
 火が消えた蝋燭が細い煙を吐くように、愛猫のことをしょぼしょぼと語った少女だ。
 頭の中が猫のことだけで一杯に詰っていても不思議はない。
 猫の少女を目の当たりにしていないからか、ベーグルさんは納得いかないように押し黙った。

 二人で川原を上がった。
「あ」
 ベーグルさんの腕を引いて電信柱に駆け寄る。
「このポスターだよ」
 猫の写真が載ったモノクロコピーのポスターが張られていた。  
69 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時24分10秒
 崩れた少女字体で、
『猫を知りませんか。
 名前はおーちゃん(口の周りが黒くてヒゲの生えたおっちゃんみたいだからです)です』
 から始まって、連絡先の住所、電話番号と続く。
 最後に『加護まで』と記入されていた。
「仕事が早いなぁ。さっきの今なんでしょ?」
 ベーグルさんが感心している。

「この猫見たことある?」
「ないよ。でも――」
 ベーグルさんがポスターに指を伸ばして猫の写真絵を触った。
 この手のものは正面顔の構図がよく使われるが、おーちゃんのポスターは違った。
 前からだけではなく、後ろや背中からとったもの。塀の上の猫を下から撮影したものなど
 様々なアングルからの九枚の写真が使われていた。
 ――気づいて、お願い。私の猫を見つけて。
 ポスターから少女の声が語りかけてくるようだ。

「この子が一生懸命なことはわかったよ。あたしも出来る限りやってみる」
 ベーグルさんは両腰にぽんと手を当てた。
「保健所ってどこ?」
70 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時32分53秒
 保健所になど思いを馳せるのも残酷だが、避けられない道でもある。
 所在地を知らなかったので、とりあえず私たちは市役所に行ってみた。

 環境衛生課という所から、よく日に晒した木の皮のような肌をした職員がやって来た。
 丸いメガネを掛けた背の低いおじさんは、市役所のロビーの端にあるソファを薦めてくれた。
 周りには手続きを待っている人や、職員から何やらの説明を受けている人たちがいる。

 おじさんは自販機からホットコーヒーの入った紙コップを二つ買うと、
 私たちに差し出した。
「こんなものですみませんが」
 恐縮してご馳走になる。
「この市ではね、猫の捕獲は基本的に行っていないんですよ」
 おじさんは意外なことを言った。
 どこかに刑務所のような檻があり、悲しい顔をした猫や犬が
 まとめて収められていると思っていたのだ。
 緊急手段だと加護ちゃんに謝りながら、電信柱から引っぺがしてきたポスターの
 モノクロ写真を見比べて、おーちゃんを見つけることが出来るのだろうか。
 そんな心配すらしていたのに、全てが先走りと言うことになる。
71 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時50分37秒
「捕獲と言うのはね、狂犬病、あるでしょ?あれを防ぐ法律に基づいて行っているんですね。
 でも猫は狂犬病にならないから法律で認められてない。だから捕まえません」
「でも、猫狩りって聞いたことありますよ。誰それの猫が狩られたとか」
 ベーグルさんが聞いた。
「それはケース・バイ・ケースでしてね。
 ゴミあさりがひどいとか子供を襲うとか、そんな猫がいると訴えがあればですね。
 猫をそのぉ、業者に頼んで捕獲したり、捕獲機を民間に貸し出したりする役所もあるようです」
「市役所なのに法律違反をするんですか?」
 私が高い声を出すと、おじさんはすみません、と深々と頭を下げた。
「役所には環境を守ると言う義務がありますし、
 住民にも守られた環境にすむという権利もあります。
 野良猫に赤ちゃんを齧られて死亡した、なんて報告もありますから、
 なんとも難しい所なんです」
 猫が肉食獣であることを思い出した。
 口の周りを血だらけにして赤子に覆い被さる猛獣を想像し、
 ぞっと肌があわ立った。
72 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時51分19秒
 十数分の相談を終えて、おじさんは
「迷い猫探しなら、動物センターと警察に届けておいた方がいいですよ」
 とアドバイスをくれた。
「みながあなたたちみたいな飼い主だといいんですけどね。
 捨てる人ばかり増えていくのではやりきれない」
 おじさんは大仏さまのような目鼻の真ん中を、くしゃっとさせた。
「ペットは愛玩動物なんです。自分なりのやり方でいいですから愛してあげてください。
 あなたたちみたいな可愛い子から見れば、オヤジのクセにキモイ、とか思われそうですけど」
 おじさんは冗談めかしたことを沈鬱な表情で言った。
「愛を無くしたペットは玩具、つまりおもちゃなんです。
 そこには命を見てあげられない。そんなのは悲しすぎるじゃないですか」
73 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)02時54分36秒
 どこかに腰を据えようということになって、私たちはファーストフードに入った。
「私たちが飼い主だって思われてたよね」
 ベーグルさんはうんうんと曖昧に頷いた。
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「保健所に狩られたってことはないんだよね。良かったね」
 ベーグルさんはそうだねと明らかに気のない相槌を打った。
「ねぇ、本当に聞いてるの?」
「かなり本当に聞いてる」
 失礼千万にも、この間彼女は市役所からもらった『正しいペットの飼い方』という小冊子を
 見つづけっぱなしだった。

 そろそろ夕方を越えて夜に差しかかろうとしている時だ。
「あたしはちょっと調べてみようと思う所があるんだ」
 ベーグルさんは小冊子を閉じて顔を上げた。
「石川さんは帰っていいよ」
「なによそれ。どうして私を無視するのよ」
「いや、あんまり楽しいこと起きないと思うから」
「楽しくてやってるわけじゃないもの」
 では、なんでやっているのだろう。
 心の中ではもやもやと形作るものがあるのだが、上手い表現が見当たらない。
74 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時01分16秒
「ベーグルさんは、なんで人助けをしているの」
 参考にしようと訊ねてみた。
「任務だから、ってのは無し。反則です」
 釘をさすのも忘れない。
 ベーグルさんはううん、と唸った後、押し黙ってしまった。

 ちょっと仲良くなれたからって図々しく踏み込みすぎただろうか。
 彼女のタブーに触れてしまったのだろうか。
 かっちりと口を閉ざすベーグルさんからは全く気持ちが読み取れない。
 アイスティーのストローに口を当てたり離したりして落ち着かない時間を耐えていると
「逃げたくないからね」
 ベーグルさんは柔らかく言ったが、表情は硬かった。
「天使をやってるときは、気がかりなことから逃げないし
 妥協しないって決めてるんだ」
 初めて天使ではない彼女の声を聞いた気がした。
75 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時09分53秒
 彼女は何か問題を抱えている。
 私はそう確信したが、追求はしなかった。
 これからも彼女をベーグルさんと呼びつづけようと決めた。
 気配りとかロマンなどと呼んでもいいが、一番強い理由は恐怖である。
 彼女から天使というフィルターを引っぺがしてしまえば、
 また『石川なんて知らないよ』と言い始めるのではないかと怯えていたのだ。

 彼女の前で二度も大泣きした。
 友達にも見せないような、本気の怒りをぶつけて見せた。
 挙句の果てには少年探偵団のように、一緒になって他人の猫を探す始末。
 ろくな話をしないうちに、視線が合えばにこりとできる距離に近づいていた。
 
 私たちの関係は、目を閉じて彫像に触れ、触感で芸術を鑑賞する行為に似ていた。
 見えないものを感じ取れるかもしれないが、目で見えるものは絶対にわからない。
 私は彼女の声や体温を知っているのに、彼女の名前も年もわからない。
76 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時13分29秒
「そっちで待っていてもいいんだよ」
 ベーグルさんは扉の前で、三回目の確認をしてきた。
「着いて行きます。私が言い出したことなんだから」
 ベーグルさんは困った顔をした。
「泣いたり怒ったりしないでね。あたしに合わせて、後は黙って笑ってればいいから」
「私を何だと思ってるのよ」
 それには返事をしないで、ベーグルさんは扉の脇のチャイムに手を伸ばした。
 訊ね猫のポスターに書かれていたとおり、市内のマンションの四階に
 加護ちゃんの家があった。

「はい――どちらさま」
 若い女性の声がした。
「あの、猫のことで娘さんとお話することが会って来たんですけど」
「また猫なの?」
 強い言葉が返ってきて、扉が開いた。
 チェーンのついた扉が半開きにされ、隙間から女性が顔を出した。
 加護ちゃんの母親だろうか。だとしたらずいぶん若い。
 美人だが、ちょっとお化粧が濃いようだ。
 女性は私たちを見て、険を立てた眉を慌てて下げた。
77 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時15分50秒
「あら……ひょっとして亜依のお友達かしら?」
「そうです」
 ベーグルさんが返事をする。私は横で笑っている。
 ――これでいいのかしら。
 立場に不満を感じるが、約束どおりに彼女のリードに大人しく従う。
「お名前を聞いていいかしら?」
 さあ、ベーグルさんはどう答えるのかしらと面白がっていたら
「石川です」
 ぬけぬけと言われて、私の方が慌てることになった。
「いい、し、柴田です」
 女の人から胡乱な奴だと目を向けられた。
「聞いたことないわね」
「今日、学校の近くで知り合ったばっかりなんです。
 猫のお話ですっごく盛り上がってぇ」
 彼女は両手を胸の前に組み合わせて子供のようにはしゃいで見せると、
 顔まで幼げになって見せた。
「柴田さん、亜依ちゃんと同じ中学の卒業生なんですよ。ね?」
「う、うん」
 出身校の名前を挙げると、女性は納得したようだった。
「あらあらあら。ごめんなさいねぇ。亜依のお友達なのねぇ。嬉しいわぁ」
 うって変わって上機嫌になると、
「亜依はちょっと出かけてるの。中で待っててくれるかしら?」
 扉を開いて、私たちを中に招き入れた。
78 名前:___ 投稿日:2001年10月02日(火)03時21分13秒
 玄関を抜けてすぐのダイニングには、床の上に店屋物の山が出来ていた。
 寿司、蕎麦、ピザ、中華――
 加護さんご一家には失礼だが、このスペースのどこで何十人のパーティが開かれるのかと
 悩むぐらいの量だった。

「あ、これね。困っちゃうのよ」
 亜依ちゃんのお母さん――推定だが、ほぼ確定だろう――は、艶っぽく口元に手を当てた。
「亜依がね、猫探しのポスターを街中に貼っちゃったのよ。
 そうしたら勝手に壁に貼るなって苦情もくるし、悪戯の注文まで来ちゃって」
 あっと声を出した私のわき腹に、ベーグルさんが強い肘鉄を入れた。
「だから亜依は今、外にポスターを剥がしに行ってるのよ。
 でもこれはいいのよ。言い方は悪いけどお金で解決できることだから」
「――と、いいますと」
「最近、物騒でしょ?亜依もまだまだ子供だけど、今はそういうのも関係無いみたいだし――」
「この辺りは特に物騒ですからね。用心に越したことは無いですよね」
 ベーグルさんが聞き捨てなら無いことを言う。
 そこまで言われるほど、この街は悪い街ではない――
 と、思っていたが、目前の店屋物の山は人の悪意をまざまざと造型していた。
79 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時25分37秒
「うちはみんな子供が小さいから、ポスターが変な目を引かないかと思うと心配で」
 お母さんが振り向いた先のリビングには、ベビーベットが置いてあった。
 ベットの足元には紙おむつが用意されている。
「妙な事件に巻き込まれなければいいんだけどねぇ」
 ほぉと小母さんにため息をつかれて、良心の限界が来た。
「すみませんっ!」
 頭を下げた私の横で、ベーグルさんがバカっと小声で呟いたが止まらない。
「ポスター貼ったらって亜依ちゃんに言ったのって私なんですっ!」

 小母さんはホホホと引きつった笑みを浮かべたが
「いいのよぉ、亜依のために考えてくれたんだものね、ホホホ……」
 ひとしきり笑い終えて、それよりも、と続けたときには母親の声に戻っていた。
「亜依のこと、どう思う?」

 困ったことを聞いてくる親御さんだなと思った。
 この手のタイプの質問をして、娘の対外評価を得られるとでも思っているのだろうか。
 すがるようにベーグルさんを見ると、目で促された。
 私しか亜依ちゃんと会っていないのだから仕方ない。
80 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時29分08秒
「可愛い子ですよね。それに……」
 小さい少女を言い表す当り障りの無いフレーズを生み出そうと、
 短い出会いを思い出す。
 外出時は制服または学校指定のジャージを着用。
 そんな規則を守っていた。
 猫を思って悲鳴を上げながら電信柱をよじ登る一心さ。
「真面目で、一生懸命……?」
 小母さんがくすくす笑い出した。
「亜依が?あの子が?――」
 小母さんの笑い声は泣いているように聞こえた。
「引っ越す前のあの子は、人懐っこいのだけがとりえの、
 手のつけられない悪ガキだったのよ。なのにどうしちゃったのよあの子は」

 取り乱したおばさんを見てしまった私たちは居たたまれない気持ちになって、
 亜依ちゃんが戻る前にお暇を告げた。  
81 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時31分26秒
 建物を出ると月が出ていた。
 紫がかった空に、ぽそっと掠れた白円が空いている。
 私は加護宅の白い明かりを思い出していた。
 新品の照明器具は整頓された部屋の隅々まで強い光を届かせていて、
 ねずみ色の絨毯に輪郭の鋭い影絵を刻み付けていた。
 その影が頭から消えない。
 泣くように笑う母親と、力なく一点を見つめる娘の暮らしの中に
 あってはならない影を見たような気がした。

 宵の空から舞い降りる光は幽かで、優しい。
 この灯りの元に、亜依ちゃんは歩いているのだろう。
 朧月は亜依ちゃんを慰めてくれるだろうか。
 それとも、行先を薄暗く霞ませて惑わせているのだろうか。
 小母さんは、月を見ているだろうか。

 ベーグルさんは入り口を出てすぐに立ち止まった。
 かなわぬ願いを乞うように月を見上げる。
「大丈夫?どうしたの」
「――ちょっと、最後の忘れ物」
 一言告げて、建物の中へと駆け戻る。
 残された私はベーグルさんまたもやの独走に腹を立てながら、
 入り口で待ちつづけた。
 ベーグルさんが戻ってくると、私はすぐに尋ねた。
「何してたの?」
 ベーグルさんは疲れた顔をしていた。
82 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時34分56秒
 マンションの玄関にはコンクリートで囲われた花壇がある。
 ベーグルさんは膝の高さほどのそこに腰掛けると、ふぅと息をついて両手で額を押さえた。
「どうしたの?」
 私は立ったまま、もう一度尋ねる。
 ベーグルさんは顔を上げるとさらりと言った。
「もう、加護さんの猫に関わるのはやめておこう」
「え」

 言葉通りに取ればギブアップ宣言である。
 ベーグルさんは私が思っていた以上にやってくれた。
 私一人だったら、ここまで関わろうとはしなかっただろう。
 いつ諦めたって文句を言われる筋合いは無い。
 でも、違っていた。
 私はベーグルさんの闇に沈む姿を見つめて言った。
「私が言い出して始めたことだよね」
「そうだね」
「だったら、終わらせるのも私だと思う」
 理のない勝手な言い草だが押し通す。
「何を隠してるの?知ってることを教えて」
 ベーグルさんは生気の抜けた顔を薄く笑わせた。
「ペットがいなくなった時、あたしだったらどうするか。
 そうやってずっと考えてた」
83 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時38分29秒
 冷酷とも受け取れる排他的な表情を見ているうちに
 ぞわりと嫌な予兆が背筋を上がってきた。
「考えた、って何を?」
「ペットがいなくなったら。ポスターを貼る。
 保健所――これは勘違いだったけど、とにかく市の役所に行く。
 こういうことって、あんまり一人でやらないよね。
 友達と一緒にするときもあるけど――」
 そこで区切って、私の方を伺った。
 私は後を受け継いで言う。
「亜依ちゃんに、まだ友達はいないんじゃないかな――」
 亜依ちゃんは転校生だ。
 夏休みの最中に転校してきて、それからひたすらに行方不明のおーちゃんを追っていた。
 誰かと暖かい関係を築けるような時間が合ったとは考えにくい。
「だろうね。だからあたし達が行って、お母さんもあんなに喜んだと思う」
 小母さんを騙したことが今更に胸を痛めた。

 亜依ちゃんは規則どおりに学校指定のジャージを着て外出する。
 中学校の誰もが公然と校則を無視していることを知らない。
 土地鑑もないのに街を彷徨う。
 電信柱をよじ登り、塀を越え、垣根を潜って人の踏み入れない場所を探る。
 一人で。
 たった一人で蒼天を見上げる夏休み。
84 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)03時45分39秒
「――休み越しの転校生って、寂しいね」
 ベーグルさんは小さく頷いて話を続けた。
「でも友達よりも、先に相談にするのは――」
 私を試すように、また区切る。
「家族――」
 ぽんと自然に放り出した言葉で私は凍った。
 加護さんの家にある鋭い影が頭をよぎった。
「そう、家族」
 ベーグルさんは凍える私を気遣うように見上げた。
「小母さんは、猫探しに対しては後ろ向きっぽかったよね。
 いたずらの原因だし仕方ない所もあると思うけど。
 赤ちゃんもいるからかな」
 暗い結末の予感を受けて押し黙った私に、ベーグルさんは淡々と言いつづけた。
「さっき、一人でマンションに戻ったとき管理人さんに聞いてきたんだ」
 答えがわかった。
 私はぎゅっと目を閉じた。
「このマンションの四階は社宅で、全部の住民はペット禁止だって」  
85 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時08分56秒
 私の声はみっともなく擦れていた。
「小母さんが――亜依ちゃんに隠れて捨てたんだ」
「捨てられたんなら、まだいいけどさ」
「どういうこと?」
 ベーグルさんはしまった、と口を歪めて黙った。
「何もかも言ってよ。全部」
 私が詰め寄ると、ベーグルさんは目を伏せてズボンのポケットをまさぐった。
「社宅だよ。きっとお隣さんとかうるさくて、ローカルルールが厳しい。
 万が一にも戻ってこられたら意味が無い」
 保健所からもらった小冊子を取り出して、それでパンと手を叩く。
「保健所は、飼えなくなったペットを処分してくれるって書いてあった」
 血まみれの猫を鼻先に突きつけられた気がした。
86 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時11分59秒
 ペット禁止の社宅に住み、家畜から赤ちゃんを守る。
 小母さんには過ごしやすい環境を選ぶ権利があり、役所はそれを助ける義務がある。
 その選択と仕事に口を出す権利はあたし達にはない。
「石川さん」
 足を震わせて俯く私に、ベーグルさんは語り掛ける。
「猫は逃げたのかもしれないし、誰かに飼われているのかもしれない。
 わからないから、もうあたし達は関われない。関わっちゃいけないよ」
 そう、すべてはベーグルさんの透き通った目で見た物語だ。
 追い詰められたように娘を案ずる母親の中にしか答えは無い。

「引越し先まで連れて来てから――なんて、最後まで悩んでいたんだろうね。
 小母さんのやったかもしれないことが正しいかどうかなんて簡単に言えないけど、
 測り間違えちゃっていたとは思うな」
 そしてベーグルさんは物分りのよい子供が時おり見せるような諦観の仮面を
 青白い顔の上に乗せて物語にピリオドを打った。
「小母さんが思ってたよりは、亜依ちゃんの抱き上げる猫はずっと重かった」
87 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時31分31秒
 私たちを包む闇色は重さを増していた。
「――でも、亜依ちゃんは元気になるよね?時間がたてば……」
 問いかけではなく懇願だった。
 根拠がなくても構わない。そんな救いの言葉を求めていた。
 だがベーグルさんは与えてくれなかった。
「時間がたてば、か。心の傷は時間が治すって言うけど」
 口にする言葉の苦さを誤魔化すみたいに笑う。 
「治るとこと治らないとこがあるのにね。
 あたしなら元気になっても一生忘れない」
「そんな……」 
 ベーグルさんは冷えこんだ雰囲気に初めて気がついたというように、
 つとめて明るく苦笑して見せた。
「ごめん。言うことじゃないね」 
88 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時32分19秒
 ベーグルさんの立ち上がる仕草から、別れのときが近づいていることを悟った。
 私はおずおずと切りだした。
「ねぇ、ベーグルさんに会いたくなったら、私はどうしたらいいの?」
「天使に会いたければ神様にお祈りでもするもんじゃないの」
 いとも簡単に突き放される。
 彼女に近づけたと感じたのは、願望が引き起こした錯覚だったのだろうか。
 また会おうよだなんて軽い挨拶が届かないほどに私たちは遠いままだった。
「会えれば会える、会えなきゃ会えない」
 ベーグルさんは当たり前のことを昔日を偲ぶように詠った。
89 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時37分48秒
 熱帯夜が水の匂いをさせて訪れようとしている。
 ずいぶん遠い回り道を経て、私は帰宅の道に戻ってきた。

 亜依ちゃんと出会った電信柱の近くに差し掛かると、私は息を詰めて早足で通り抜けた。
 もしこの瞬間に、くしゃくしゃになって破けがかったポスターの山を抱えた少女と出くわしてしまったら、
 私は鬼を見たように逃げ出すか、蛇に睨まれたように立ちすくむかするだろう。
 少女は私を見て、泣くように笑うに違いない。
 その想像は、柳の下に幽霊を見るよりも遥かに怖かった。

 ちょうどその時に猫の声を聞いた気がして、
 私は汗ばむ背の気持ち悪さを感じながら振り返った。
90 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時41分02秒
 塀の上に、かさかさの毛皮を持った茶色い猫が座っていた。
 目には緑がかった目やにが溜まっている。
 耳にはどす黒いかさぶたの塊がついていた。
 痩せこけた猫は高い塀の上から、星のように輝く瞳で私を睨み下ろしていた。
 膝が笑い、地面が下がったような眩暈を受ける。
 ――ごめんなさい。
 私は世界に向かって許しを乞っていた。
 そっと差し伸ばした手を、猫は鋭い爪で拒絶した。
 愛のかけらもない獣の顔で声高く叫ぶと、塀の向こうに姿を消す。
 むず痒くうずく手の甲には赤い線が引かれ、太さを増しつつあった。
 そこに口をつけると命の味がした。
91 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時41分38秒
< ニ 猫の重さ >
92 名前:_ 投稿日:2001年10月02日(火)04時58分28秒
ここまでが2chで書いていた部分です。

2ch閉鎖騒ぎに巻き込まれまして、この話を転載するのも二回目です。
最初はオン書きの書き逃げ気分で書いていた、いい加減なものでした。
なので、転載のたびにアラに気がついて修正しています。

sageでやっているにのは拘りはありません。
カッコウのように死にスレを乗っ取って書いていた浮気話なので、
ここでもsageにしようかと。そんなノリだけです。

レス、ありがとうございました。遅すぎますが、
>>13 たぶん期待はずれでしたよね?すみません。
>>14 m-seekで頑張らせていただきます。
>>26 こちらこそありがとうございます。
>>41 ああ、無念(w 先々を考えてみた修正なので、
   完結した後に見ていただくと印象が変わるかも……変わらないかも……。  

次回より、新規部分に入ります。
93 名前:ARENA 投稿日:2001年10月02日(火)22時08分42秒
そろそろ感想書いてもよいのかな・・・(w

2ch時代から読んでます。
そこでも感想を書きましたが、とにかく上手いの一言です。
はっきり言って今読んでる小説の中では別格で、プロが書いた小説を読んでるようです。
かなりストーリーに引き込まれます。
あと、二人のキャラもいいです。

実はログを何回も見返すぐらいこの小説のファンですので、
すぐに修正した部分もわかりました。
修正部分もあいまって、猫の話はまた切なさを感じましたね。

この後の話を心から期待しています。がんばってください。
94 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月03日(水)23時20分59秒
いよいよ続きが始まりますね。
がんばってください、ガンガンに見てます。応援してます。
95 名前:_ 投稿日:2001年10月08日(月)00時51分58秒
>>93
気を使っていただいたようでありがとうございます。 
ぎゅっと書き込んでみたいので、一段楽するまで
メール欄以外でのレスのお返しが出来ないと思いますが、
レスは大歓迎です。 
>>94
ガンガンに見ていただいているのに更新が遅くてスミマセン。 
では、始めます。
96 名前:三 熱病 投稿日:2001年10月08日(月)01時12分59秒
芝生に横たわる彼女の中に、私と同じ熱を見た。
肌のすぐ下を抜ける脈動を共に感じていた。
私たちは糸の切れたビーズのアクセサリのように散りやすい
この時間を守ろうと、互いに息を潜めて見つめあっていた。

< 三 熱病 >
97 名前:_ 投稿日:2001年10月08日(月)01時19分30秒
 高校生として初めて迎えた夏休みも余すところ一週間となった。
 過ぎ去りし日々を振り返れば、あっという間に見えるもの。
 そんな話はよく聞くけれど、しみじみ感じたのはこの夏が初めてだ。
 テニスラケットを振りボールを拾い、ふと気が付けば夏の出口はもう目前。
 ”余すところ”なんて贅沢な!
 と、悲鳴をあげたくなる日々だったけれども、
 様々な思いの色を心に焼き付けた季節だった。
98 名前:_ 投稿日:2001年10月08日(月)01時23分42秒
 その日の私はすこぶる機嫌がよかった。

 連日のテニス部猛特訓で肘に鋭い痛みを感じるようになった私は、
 登校前に学校近くの病院に立ち寄った。
「たいしたこと無いですが、二、三日は安静にしていた方がいいですね」 
 スポーツ外科のお医者さんに宣告されて、
 やった、とこっそり喜んだ私を責める人はいるだろうか? 

 日頃手厳しい先輩だって、
 同学年で集まれば「夏休みが欲しい」とため息をついているぐらいなのだ。
 軽い病気・怪我の類というのは、息抜きのない日常にあえぐ者へ
 天から与えられた公休に違いない。
 ――なんて調子に乗った考えをしていると、天罰を頂いてしまいそうだけれども。

 天下御免の診断書を手にして揚々と土手の通学路を歩いていると、
 遥か前方から軽快なはしゃぎ声が聞こえた
99 名前:_ 投稿日:2001年10月08日(月)01時47分57秒
 川に沿ってのこの道は、緩やかなカーブを描いて続いている。
 道の端の消失点が川上に来るように眺めると、
 雲のかなたまで続いている魔法の橋のようだ。

 どこまでも見通せる見晴らし良い道の遠くから、
 女の子が二人駆けてくる。

 袖なしのシャツ、膝の見えるズボンからのぞかせた棒のような手足は、
 こんがりと焼けている。
 透明のビニールバックをぶんぶん振り回し、ビーチサンダルをつっかけて、
 帽子を目深にかぶって真夏を満喫する準備は万全。
 バスに乗って市民プールにでも行くのだろうか。
 そんな元気いっぱいの少女達とすれ違った。

「あれぇ」
 その声で私は振り返り、どきりと立ち尽くした。
 見覚えのある愛らしい少女の顔がそこにあった。
 私に暗い月を連想させる少女は、
「こんにちわぁ」
 ヒマワリのように大きく笑った。

「しりあい?」
「うん、しりあい」
 少女達は走ってゆく。
100 名前:_ 投稿日:2001年10月08日(月)01時53分17秒
 二匹の小さな金魚のように寄り添った背中を見て、
「とーもだちーがーでーきーたー」
 『スイカの名産地』を口ずさむ。
 ここは何の名産地だっただろうか。
 外洋に広がる真っ青な海があり、異国の香りのする町並みがある。
 きっと亜依ちゃんもこの町を気に入ってくれるだろう。
 私は両手を広げて大空を仰いだ。
 ――今日は絶対に良い日。 
101 名前:_ 投稿日:2001年10月08日(月)02時14分12秒
つづく
102 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月11日(木)11時24分50秒
待ってました!!
かなりの期待作楽しみだ!
103 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月13日(土)03時55分41秒
よかった...。

探してもないから、もう書くのやめたのかと思いました
小説総合スレッドでたまたま見つけたんですけど、
さっき過去ログの方を読んでとても感動しました。
今まで読んだ中で、1番好きです
これからもがんばってください
…モウ4ジカ ハヤクネヨウ
104 名前:_ 投稿日:2001年10月15日(月)03時12分03秒
 部長に肘の故障を報告し、
 数日の休みを得た私はふわふわと浮き足立ってグラウンドを横切った。
 空は青く雲は白い。
 風は火照った肌に涼しい。
 眩しい季節にいつにない愛おしさを感じていると
「石川、部活はどうした」
 低い声に呼び止められる。

 校舎脇のベンチ――いつか、ベーグルさんと並んで座ったベンチだ――
 に、和田先生と山崎先生がいた。

 丸顔でぎょろりとした目だぐりが印象的な和田先生はテニス部の顧問だ。
 先生にはメンマというあだ名がある。
 学食ではいつでもラーメンを食べている。
 そのラーメンを注文する時には必ず、
「メンマ大盛りで!」
 と威勢良くカウンター向こうのおばさんに注文するからだ。
 本人いわく、旅館の板さんに知り合いがいて舌が肥えているそうだけれども、
「学食のラーメン食べて喜んでるんじゃねえ」 
 とは、柴ちゃんの談である。 
105 名前:_ 投稿日:2001年10月15日(月)03時15分50秒
 そんな行動からのあだ名であるものの、メンマとはよく言ったもので、
 しゃきしゃき歯ごたがいい中華のお漬物というのは、
 言論明快でいて思慮深けな和田先生に似合っている。

 和田先生がメンマというならば、山崎先生はさしずめナルト巻だろうか。
 ほんのりピンクに色づいて目に色を添えるが、
 添え物としての落ち着きがあって物腰が柔らかい。

 二人は揃って今年からこの学校にやってきた新米先生だ。
 穏やかな雰囲気が似通っているだけに気が合うらしく、
 この場のように二人で話している所を校内でよく目撃されている。
 若い二人の様子が好奇心旺盛の高校生のおもちゃにならないわけもなく、
 生徒達の間では公然とピンクの噂が流れていた。
106 名前:_ 投稿日:2001年10月15日(月)03時18分09秒
「あら石川さん、お化粧してない?」
 山崎先生が私を見上げて言った。
「えっと日焼け止めです。それと病院に行って来たからちょっとリップも……」
「ダメよ。学校にお化粧してきちゃ」
 軽い調子で言う。
「すみませーん」
 私も畏まらずに頭を下げる。

「病院だって。肘痛めたか」
 和田先生がテーピングされた私の肘を見た。
「様態はどうなんだ?」
「たいしたことないです。全治二、三日」
 わたしがオーバーサーブの振りをすると
「こらこら、止めろって」
 渋く睨む。
 私が恐縮した素振りを見せると、
「ったく、若い奴らはすぐ調子に乗るから。怪我をなめるなよ」
「私たちぐらいになると治りも遅いから」
 山崎先生が尻馬に乗ってきた。
107 名前:_ 投稿日:2001年10月15日(月)03時19分24秒
「やっかみたくもなるわよね」
「おいおい、真面目な説教のジャマしないでくれよ。
 だいたい俺たちだって十分に若い」
「私はそんなこと言えないわね。
 ピチピチの女子高生を前にして。
 この子たちにかかったら私たちはもうオジさんオバさんよ。ねぇ?」
 話を振られた。
 和田先生のお説教よりも返答がしにくい内容に、ただ曖昧に笑う。
「笑って誤魔化すのは日本人的って授業は先学期だったっけ?」
 国語の教諭だけに、ジョークでも婉曲でチクリとやってくる。 

 窮地にはまった私を助けるように、ピアノの音が流れてきた。
「おや、BGMが振ってきた」
 和田先生が空を向く。
 ベンチの真上の窓から、ピアノの伴奏と女生徒のコーラスが漏れていた。
「特等席だな」
「席料、高いわよ」
 校舎四階の開いている窓は音楽研究会の部室である。
 山崎先生は、その音研の顧問だったりする。
108 名前:_ 投稿日:2001年10月15日(月)03時33分23秒
 『音研は幅広い音楽を扱っています』
 とはこれまた柴ちゃんの談であるが、
 その実、扱う曲は部員の趣味に依存されていて偏向具合も甚だしい。
「なんでこの部にはカーペンターズの譜面が一つも無いのに、
 おにゃン子クラブの譜面は全部揃っているかなぁ」
 そんなことをボヤいていた柴ちゃんだって、
 金髪を逆立てた音研部長と一緒になって、さだまさしの『関白宣言』を
 流行のダンスミュージックのように弾き語って遊んでいたりする。
 
 音研では一昔前に流行った洋楽の主題歌が奏でられている。
 歌の中に柴ちゃんの澄んだ声を見つけた。
「先生、それじゃあ失礼します」
 お辞儀をする。
「私服で校舎に入ったらダメだぞ」
 わかりました先生、と素直な返事を返して、校庭をまっすぐ歩いて校門を出た。
 すぐさま、通用門に回って非常口から校舎に侵入する。
 サンダルを両手に持ち、たんたんたん、と早足で階段を駆け上って
 誰にも見つからないうちに音研部室に飛び込んだ。
109 名前:_ 投稿日:2001年10月15日(月)03時35分13秒
つづく
110 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月16日(火)03時49分51秒
更新待ってました!!
がんばってください。
111 名前:ARENA 投稿日:2001年10月16日(火)18時03分06秒
やった、更新だ!
明るい気分なだけにいつになく石川に行動力がありますね(w
期待大。
112 名前:_ 投稿日:2001年10月17日(水)03時38分28秒
 音研部室は、かつてはガリ版印刷室だったらしい。
 元々が教室でないので、そう広くはない。
 そこにアップライト型とはいえ幅を取るピアノが設置され、
 部員が持ち寄った品々が置かれている。
 あまつさえ様々な音楽メディアが所狭しと
 散乱している惨状に立ち入ってしまった私は、
 入り口から一歩入った所で足を止めた。

「大掃除ですか」
 ぽろろんと窓際でピアノを弾き語っている柴ちゃんではなく、
 床に座り込んでダンボール箱をかき回している飯田さんに尋ねた。
「うん。ぞーきょくせいり」
「ぞーきょく、って何ですか」
 尋ねた私に、飯田さんは説明を加える。
「図書館だと蔵書整理、ここはレコードやカセットなんかだから」
「ああ、蔵曲。ミュージックの」
「そういうこと」
 飯田さんが溝に埃の溜まったレコードを指に挟んで振って見せた。
113 名前:_ 投稿日:2001年10月17日(水)03時54分08秒
 飯田さんは三年生。
 柴ちゃんのツテで知り合った、音研の副部長だ。

 女生徒用のタータンチェックスカートでなく
 男女共用制服のカーキ色のズボンの方を履いて
 長い足をぽーんと無造作に投げ出していた飯田さんが、
「うわ、なつかし!去年の新入生説明会の編集テープだ」
 はしゃいだ声をあげ、ダンボールからカセットを取り出した。
「うーらうら、柴」
 犬にボールを投げるような間延びした掛け声をかけて、
 柴ちゃんにカセットテープを投げ渡す。

 髪が長くて背が高い。
 モデルさんのような飯田さんには女らしくも凛々しい所があって
 時々ふざけて男の子みたいな荒っぽい事をしてみせる。
114 名前:_ 投稿日:2001年10月17日(水)04時21分57秒
「覚えてる?柴。あんたこの時の説明会に引っかかって入部したんだよ?」
「引っかかったって、詐欺師の会みたいに言わないでくださいよ」
 ピアノを弾く手を止めてカセットを受け止めた柴ちゃんが、にこっとした。 
「ただでさえ、梨華ちゃんからはろくでもない部だと思われてるんですから」
「なに?それはホントかぁ、石川?」
 背高の飯田さんに詰め寄られて、面白おかしく凄まれる。
 どうも本日のラッキーデーは、休暇と引き換えに気の置けない年配者たちから
 やわやわと責められる日のようだ。
「違います違います。誤解ですって」
 くすくす笑いながら否定する。

「歴史伝統記録だけが部じゃないんだぞ。
 音研は若き血に燃ゆるもの、血から溢る我らが作った部なんだ」
 仰々しい飯田さんの言葉に、
 柴ちゃんはわざとらしく頷きながらぱちぱちと拍手をした。
115 名前:_ 投稿日:2001年10月17日(水)04時24分03秒
 飯田さんが一年生の時から全力投球してきた音研は、
 今年で創設三年目を迎える。

 学校を挙げてのバックアップがついている名門テニス部と、
 趣味を共にする同士が集まり立ち上げて数年の音研を比べるのは
 何ら意味も無いことだと思うけど、
 テニス部の末端で泣き言を言っている私と、
 音研を切り盛りしている飯田さんや柴ちゃんとを比べるのは実に容易い。
 青々と吹き出すガスバーナーの火と、
 七輪の中で燃えきれずにくすぶっている炭の温度を比べるようなものだ。

「柴。次、その曲でハモるぞ」
「あいよ」
 飯田さんの威勢のよさに合わせて、
 柴ちゃんも茶屋の娘さんのようにちゃきちゃき答えた。
 カセットテープがCDコンポの中にセットされる。
 どんな曲が流れるのかと耳を済ませていたら、
 携帯の着信メロディそのものの『キューピー三分クッキング』で 
 私はがくりと肩透かしをくらってしまった。

 テープの曲に併せてソプラノとピアノが
 格調高くハーモニーを奏でてゆく。
 才能の無駄遣いに私が呆れて
「うわ、バカコンビ……」
 嘆くと、即座に飯田さんが
「うるさい、オンチ」
116 名前:_ 投稿日:2001年10月17日(水)04時26分15秒
 これは自惚れでなく、私はオンチではない。

 と、信じている時点ですでに自惚れなのかもしれない。

 けれども、 客観的に見てもそう酷いものではないのだろう。
 高くて軽い感じのする変わった声をしていると言われることは多いが、
 カラオケに行けば「上手いね」と誉められることだってある。

 ただ、毎日歌って踊って暮らしているキリギリスみたいな人たちと
 比べられたらたまらない。

「まぁ、梨華ちゃんは音研部員じゃないんだし」
 柴ちゃんがフォローなのかどうかわからない口を一言いれて
「それよりも梨華ちゃんも衣装見てよ。今年の文化祭の衣装が出来上がったの」
117 名前:_ 投稿日:2001年10月17日(水)04時27分21秒
つづく
118 名前:ARENA 投稿日:2001年10月18日(木)14時04分35秒
おお!早い更新嬉しい限りです。
柴ちゃんの前では石川は一言多いですね(w
いきなり「うるさい、オンチ」とかいう飯田のキャラも面白い。
119 名前:_ 投稿日:2001年10月22日(月)21時17分58秒
 緑の土手の中腹で赤いトレーナーがぽつんと座っていた。
 駅前のパン屋の紙袋を抱えて、丸いキツネ色のパンを口に運んでいる。
 夜の中に私を置いていった少女が明るい陽光を浴びてそこにいた。
 
 ――イヤなものに気がついてしまった。
 戸惑い、土手の上の道で足を止めた。

 名も知らない恩人との関わりは終わってしまったのだと覚悟を決めていたのに、
 彼女はふっと私の目の中に姿を見せる。
 まるでこの世の理から離れたような繋がりが私達にあるようで、
 彼女に感じる浮世離れしたものを、より強く意識させられる。

 彼女のことを忘れた日はなかった。
 忘れられるはずが無い。
 私の心の中にある、一番脆い場所までやってきた女の子だ。
 優しく撫ぜられたと喜んでいたら、あっけなく背を向けられた。
 捨て犬の心情に近いものを抱いていたのかもしれない。
 寂しくて悲しくて切なくて、いたたまれない。
 だから忘れられなくても、終わりにしたつもりだった。
120 名前:_ 投稿日:2001年10月22日(月)21時20分20秒
 このまま見なかったふりで通り過ぎるのは容易いけれど、
 私のなけなしのプライドが許さなかった。
 不本意な別れ方をしたとはいえ、お世話になった人である。
 挨拶の一つも交わすのが仁義というものではないだろうか。
 仁義だなんて、ヤクザのような単語が頭に浮かんできた私の心は
 大立ち振る舞いの舞台を待つ役者のように奮い立っていた。

 やらなきゃいけないのは挨拶だけだ、難しいことじゃない。
 そんな風に自分を落ち着かせて、両手をぐっと握って土手に降りた。

 斜めに傾いた草原を歩くと、細く尖った葉先が足首をくすぐる。
 さくさくと草を切る足音で気がついた彼女は、
 座ったまま首を傾げて私を見上げた。
 丸い目、パンを食む口元が大きな草食動物みたいに優しかった。
「こんにちわっ」
 力みすぎて、私の声が裏返る。
 彼女は咀嚼しているパンを気にしてか、お行儀良く声を出さない。
 代わりに、レストランのボーイさんのような仕草で自分の隣の芝生を
 『どうぞ』とばかりに示して見せた。
121 名前:_ 投稿日:2001年10月22日(月)21時23分49秒
 さぁ、困った。
 挨拶を交し合ったら、そのまま歩き去るつもりだったのに。
 しどもどと、意味も無くあたりを見回した後、
 結局私は彼女の横に座った。
 何も話す事など無い。
 もぐもぐと口を動かす彼女と流れる川面を代わる代わるに見ていたら、
「やぁ、こんにちわ」
 食べ物を飲み込み終わった彼女がようやく挨拶を返してくれた。
 言わずとしれた、ベーグルさんである。

 では挨拶も終えたしこれで、と立ちあがるわけにもいかない。
「部活帰り?今日は早いねぇ。あぁ」
 私の肘を見る。
「軽いケガしてるね。お大事に」
「軽いってなんで」
「固定が甘いじゃん。湿布だけでしょ」
 やけに詳しい。
「ベーグルさん、なにかスポーツやってるの?」
 すると彼女は口をへにゃっと曲げた、困ったような笑い方をして
「別に」
 そっけない。
 他人の事は話されていないことまでも察するくせに
 自分の事に関わられると、いつもこんな風にはぐらかすのだ。
122 名前:_ 投稿日:2001年10月22日(月)21時25分11秒
「そんな事より、ほら、お昼ご飯どう?」
 紙袋を勧めてきた。
 中には、小さ目のベーグルがみっちり詰まっている。
「全部一人で食べるの?」
 私が目を丸くすると
「まっさかぁ」
 ベーグルさんは袋をぽんと叩く。
「お昼ご飯と、おやつと、夕飯と、明日の朝ご飯分の買いだめだよ。
 一個二個減っても変わらないから、食べていいよ。はい」
 にこっとして紙袋を揺する。
 
 親しくなろうと近寄った私を突き放しておいて、
 今はこうして傍に呼ぼうとするベーグルさんの態度には全く釈然としない。
 愛想のよいベーグルさんの様子に、私の中で何かがぷちっと切れた。
「ベーグルさん!」
 突然声を荒げた私に、ベーグルさんはぎょっと驚く。
「な、なんですか?石川さん急に」
 彼女の肩を掴んで詰め寄った。
「ベーグルさんは私が好きなの、嫌いなの、どっちなの」
123 名前:_ 投稿日:2001年10月22日(月)21時26分42秒
 ベーグルさんは困った時にするへにゃっとした顔で
「それ、二択なの?」
 私は答えない。答えられなかった。
 余りに恥かしい質問を勢いでしてしまった。
 私は彼女の肩を離して、そっぽを向いた。
 顔が熱い。目が熱い。喉が熱い。

「あのさぁ、幼稚園児でもそんな事聞かないよ」
「悪かったわね!どうせ私は幼稚園児ですよ!」
 もう自分が何を言っているのかわからない。
 地面に向かって叫びを吐き捨てると、
「そうじゃなくて、石川さん、落ち着いてよ」
 子供みたいに肩を抱かれて、背中を叩かれる。
 私は頭の中で火を炊いたみたいに混乱していた。
 体に触れた彼女をぎっと睨みつける。
「ねえ、当たり前のことだと思うんだけど」
 私のきつい視線にも怯まなかったベーグルさんが
 照れくさそうに、言いよどんだ。
「嫌いな人に、自分の好物はあげないでしょ」
 ベーグルさんが抱えたパンの袋が、風に吹かれてカサカサと鳴った。
124 名前:__ 投稿日:2001年10月22日(月)21時31分36秒
つづく
125 名前:ARENA 投稿日:2001年10月23日(火)03時36分53秒
おおっと!すごい(・∀・)イイ!感じですねー(w
石川の微妙な心理描写がまた良いです。
あいかわらず、べーぐるさんの前ではムキになる石川、
なにかと軽くあしらうべーぐる・・・コレ最強(w

あと、作者さんのもう一つの作品もそろそろ読んでみようと思います(汗
126 名前:ななしみっちゃん 投稿日:2001年10月23日(火)04時09分47秒
羊時代に見ていたんですが、ようやく続きを見つけられました。
第3部も変わらないクオリティで嬉しい限りです。
当方いしよし好きなんですが音研の2人もいい味出してて凄くいいっすね。
今後も忙しいでしょうが更新期待しております。それでは。
127 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月23日(火)23時16分04秒
この小説もっと有名になってもいい
と思ってるのは俺だけでしょうか
128 名前:ARENA 投稿日:2001年10月24日(水)04時45分53秒
俺もそれを願って、作者さんがsageに拘ってないということなので、
次からageで感想を書こうと思いますが、どうでしょうか?
ダメなら言ってください。
129 名前:__ 投稿日:2001年10月24日(水)05時41分55秒
 食べる、という行為は口を塞ぐ。
 私は余計な口を塞ごうと、ベーグルさんの好意の塊を頂いた。
 思えば、ベーグルさんと会えば二人してこのパンを食べている。
 私が彼女をベーグルさんと呼ぶのは、ずいぶんとストレートな呼び名なものだ。

 パンで口を封じれば、沈黙が生まれる。
 ベーグルさんは母親のご機嫌を伺う子供みたいに、
 おずおずと私のことを横からのぞき込んだ。
「ベーグルが好きなんだ。この町のパン屋のベーグルは美味しいね。
 ベーグルって毎日食べても飽きないから、つい毎日買っちゃうんだよね」
 取ってつけたような話を振る。
 今までマイペースな風で私を引っ張ってきたベーグルさんが、
 私に気を使っている様で何だかおかしかった。
 くすりと笑うと、ベーグルさんも安心したように笑う。
「なに?なにかおかしいの?」 
130 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)05時43分06秒
 ベーグル、ベーグルと好きな食べ物を連呼するベーグルさんは、
 ちっちゃい子みたいで可愛らしい。
 そんなことを『幼稚園児』の私が漏らしたら、またやり込められるのは
 火を見るよりも明らかなので
「別に、なんでもないよ」
「なんか怪しいなぁ」
「なんでもないって。そう、そのパン屋さんね」
 紙袋を指す。
「私の知り合いの先輩がバイトしてたんだ」
 ここで本日、音研で聞いた話が繋がってきた。
「その人、学校辞めちゃったんだけど」
 音研の部長のことだった。
131 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)05時45分46秒
 バッグの中から真っ黒の生地で出来た男性用スーツの上下を取り出して、
 芝生の上に広げて見せた。
「その人がこれを着るはずだったんだけど、
 辞めちゃったから私が着ることになったの」
「石川さんがこれを?なんで?」
「音楽研究会の文化祭発表で使う衣装なの」
 ベーグルさんは服に手を伸ばして
「ああ、ずいぶん上等な生地だ」と呟いた。
「でしょう?だから使わないのは勿体無いってことになって、
 部外者の私が借り出されて――」
「ずいぶんと部外者がのさばってる学校だね」
 どこの馬の骨ともわからない天使がやってきて、
 テニス部のいざこざに首を突っ込んだりもした。
「茶々入れないでよ。私は舞台袖で音響装置を操ったり、
 演目を書いた幕をめくったりする役として、これを着て出ることになったわけ」
「へぇ。それって――」
 ベーグルさんはスーツと私の腕を見て
「文字通り、黒子だね」
「――私の肌、見たでしょ」
 私の肌は人よりもだいぶ黒い。
132 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)05時49分47秒
「それは石川さんの被害妄想だよ」
「絶対、見たもん」
 どっしりと構えたベーグルさんに文句を言おうとすると、
 なぜか舌ったらずな言い方になってしまう。
 柴ちゃんに対してもそうだった。
 おっとりとした柴ちゃんと、活発そうなベーグルさん。
 まるで雰囲気の違ってる二人だけれども
 悠々と私をいなす態度は似ているかも知れない。

「そんなことより、これ男物でしょ?体に合わないでしょう」
「だから持ち帰って直すの」
 お母さんがね、というのはちょっとした見栄をはって端折った。
「男物のスーツねぇ。似合うのかなぁ、石川さんに」
「似合うよ。似合うもん」
 根拠は無い。
 梨華ちゃんはなよなよしてるとからかわれる事が多いので、
 男物のスーツをキリっと着こなしてみたいという願望があるだけだ。
「たぶん似合うよ……似合わないかなぁ」
 当然のことで自信も無いので、だんだん声が小さくなってくる。

 ベーグルさんは、上着を手にとって私の体に当ててみた。
「うーん。髪型と、メイクしだいかなぁ……」
 つまり、このままでは駄目だということだ。
133 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)05時54分37秒
 どんなに頑張っても色よい反応は得られそうに無いので、
 私は黙ってスーツを畳んだ。
「さーてと、ご飯も食べたし」
 ベーグルさんが立ち上がた。
「じゃ、石川さんばいばい」
 くるりと踵を返して立ち去ろうとする。
 私は大きなショックを受けて唖然とした。

「ちょっと、どこ行くの」
「え?どこだっていいじゃん」
「だって――」
 ――私を受け入れてくれたのに。どうして。
 先ほどのやり取りを思い返していくうちに、
 一番大事なことを言っていなかったことに気がついた。

「ベーグルさん」
 彼女の手をぎゅっと握る。
 柔らかくて暖かくて、意外に華奢な指をしていた。
 私はベーグルさんを見つめた。
「友だちになろう」

 今度は勢いではない。
 どきどきする胸の鼓動をしっかり押さえて、
 清水の舞台から飛び降りた気持ちで告白したのに、
 事もあろうか、ベーグルさんはぷっと吹きだした。
134 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)05時59分13秒
「――なんで!なんで笑うのよ」
「うん、友だちね。うんうん」
 ペットショップにいる動物をガラス越しに愛でるような目で私を見る。
「そんなこと言われたの、十年ぶりぐらいだよ」
「そんなことどうでもいいでしょ!友だちになろうよ!」
「うん、いいよ」
「え?うそ!?」
「なんだよ、うそって」
 ベーグルさんが苦笑する。

「だって……」
 散々思わせぶりなベーグルさんである。 
 どうせまた、何かはぐらかすような事を言うのだろうと構えてたのだ。
「本当に?友だちになってくれるの?」
「石川さんがあたしのことを友だちと思ってくれるんだったら、
 思ってくれていいよ」
 案の定、ややこしい事を言い出した。

「――どういうこと?ベーグルさんは私のことを友だちって思ってくれるの?」
「思うよ。石川さんが思ってくれるなら、あたしも思う」
 彼女の返事を、私はどう受け取ったらよいのだろう。
135 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)06時02分53秒
 授業中にわからない問題を当てられた生徒のように黙っていると、
「とにかく、あたし達は友だちってことで」
 ベーグルさんは商談成立を祝うビジネスマンみたいに
 私の手を両手で握って、にこにこと振った。
「じゃ、さよなら」
 そうしてまた、ベーグルさんは立ち去ろうとする。
「ちょっと!」
 これではコントだ。
 やっている方は全く笑えない。

「友だちでしょ!置いてかないでよ!」
「友だちったって、どこまでついて来るのさ」
「――ついて行きたいんじゃなくて、ベーグルさんのこと、もっと教えてよ!」
「あたしの何を?」
「名前とか、年とか住所とか」
「まるで職務質問だね」
「それぐらい友だちなら知ってて当然じゃない」
「――そうかな」
 面白そうに私の話を聞いていたのが、真顔になる。
136 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)06時04分22秒
「友だちにだって教えられないことはあるでしょ」
「……名前とかが教えられないことなの?」
 私の考える範疇では、名前も知らないような関係は友だちとは言わない。
 顔見知りと呼ぶ。
「どうせあたしは、もうすぐここからいなくなるんだよ」
 ベーグルさんの言葉は、いきなり横っ面をひっぱたかれたみたいに響いた。
「――え?」
「夏休みが終わったら帰るよ。名前も教えないし住所も携帯も教えない。
 二度と会えないとかもしれない。
 ――それでも、石川さんはあたしのことを友だちだと思ってくれる?」
 とても酷いことを、とても澄んだ目で言ってきた。
137 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)06時13分02秒
 ベーグル好きの彼女の事を、ベーグルさんと呼ぶのは相応しい。
 それと同じぐらいには、彼女は天使に相応しかった。
 人を助けた片側で人を打つ。
 微笑みが生まれるほど優しくて、言葉を失うほど残酷な両面を持っている。
 こんな意地汚いやり方で彼女は私を拒絶しようとしているのだろうか。
 それとも――

 それでも、私には彼女の目が綺麗だと思ってしまったのだ。

「――思うよ。ベーグルさんは友だち」
 泣きそうになりながら必死に堪えて声を絞ると、ベーグルさんは微かに頷いた。
「ありがとう」
 ――やはり。
 私は試されていたのだろうか。
 それを問いただすには、ベーグルさんの表情が寂しすぎた。
 一人ぼっちが当たり前すぎて、
 誰かから声をかけられてもすぐに反応出来ないような硬い顔。
 そんなはずは無いのに。
 ベーグルさんは、見ず知らずの人にも臆せず話し掛けることができるような
 少女のはずなのに。
 何かが、彼女を孤独な世界に押しやっている。
138 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)06時17分22秒
 彼女の硬さが崩れた。
「石川さんも変わり者だね」
 全てを冗談に流してしまって、ベーグルさんが私のいる世界に戻ってくる。
 雪解けの、春の陽射しの笑顔を見せた。
「じゃ、もうあたしは帰っていいのかな」
「待って、ええと――また、会いたい」
「会えるよ」
「いつ、どこで?」
「石川さんが本当にあたしに会いたいと考えてくれてれば、
 すぐわかる時間と場所」
 小憎らしい事を言う。

 悔しいので、真剣に考えた。
 考えろ、という事は何かヒントがあるはずだ。
 腕を組んでうんうんと唸る私の前で
 ベーグルさんは新しいベーグルを取り出して、ぱくりと立ち食いを始める。
 解答を待ってくれる情けはあるらしい。
 ならば、絶対に答えて見せて『友だち』の力を見せてやる。

 ベーグルさんとの短くて奇妙な付き合いを何回も回想して
「わかった!」
 手を叩いた。
 出会ったのは今日で四回目。
 うち一回はベーグルさんが『天使をやっていない』時に
 私が街中で見かけたものだ。
 残りは全て――
「お昼前ぐらいの時間に、この川原!」
 ベーグルさんが答えた。
「お昼ご飯をこの辺で食べてるんだ」
139 名前:_ 投稿日:2001年10月24日(水)06時30分27秒
つづく 

レスありがとうございます。
今回は取り急ぎ連絡差し上げたい事のみの返信で失礼します。
 
>>125 もう一方の話の方をご存知の方は更新の目安にでも、というだけですので、
お気使いなく。これとは大分雰囲気が違う話だと思いますから。

sageには拘っていないつもりでしたが、ここまで綺麗にsageていただけると
不思議と気持ちよいものでして、当面はsageで統一したくなってきました。
とりあえず、今回の話が終わるまではsage進行でよろしくお願いいたします。
140 名前:ARENA 投稿日:2001年10月24日(水)15時48分02秒
今回の長い更新、大変お疲れ様でした。
sageで統一ですか。まあ、それも良いかもしれませんね。
俺は小説投票の方で応援させてもらいます。

あと、作者さんのもう一方の方も読もうと書いたのも、ただ話題が出たからだけですよ。
本当は前から読もうと思ってましたが、気づいた時にはかなり進んでいたので・・・
そちらこそお気使いなく(w

小説の方は相変わらず二人のやり取りが面白いですね。というか、「石川が」なんですけど(w
雰囲気を一変させる感じもなんか上手さを感じます。うーむ。
141 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時11分58秒
 今週末の天気は下り坂だと天気予報が言っていた。
 川原でランチを食べる習慣をもつ私の『夏休みの友』は、
 どしゃ降りの時にはどこに行ってしまうのだろう。
 至急、確認する必要がある。
 夏休みの終りまであと五日。時間はあまりに少ない。 

 音研には相変わらず、柴ちゃんと飯田さんの二人がいた。
 飯田さんが大きなダンボール箱を床において、とんとんと後ろ手で腰をたたく。
「男手いないときついねー」
「男手がいても飯田さんは力仕事係だったじゃないですか」
 柴ちゃんは女手を使って、箱の中の品を取り出して一つ一つ埃を拭う。
「男は部長しかいなかったからなぁ。今の一年も女ばっか」
「コンセプトがわかりにくい部ですからね。なんとなく文系部って人が来てますね」
 柴ちゃんが珍しく辛口だった。 
 私は渡されたカセットを棚の指定位置に仕舞う。
 クラシック・Jポップ・洋楽・演歌・その他と区分けされている棚の中で、
 圧倒的に『その他』が占めている割合が多い。
 なるほど、わかりにくい部である。
 実際私にも何がコンセプトなのかは未だにわからない。
142 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時15分18秒
「二年に何人残るかね……」
 ダベリ気分で入部して、
 活動についていけずに一年で辞めていく人も少なくないと聞いている。
 ふざけているようなこの二人が、真面目に部を運営している証拠だ。
「柴。この書類はここにしまってあるから」
「了解でーす」
 副部長と二年代表という部の重鎮が夏休みに出席し、
 引継ぎ業務を含めた雑用仕事を淡々とこなす。
 実に健康的な組織で清々しい。 
143 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時16分22秒
「とっととこの箱の分片付けたら昼でも食べんべさ。石川も学食でいい?」
「私はお昼に先約ありますから、帰りますよ」
 音研に着たのは午前中の時間つぶしのつもりだった。
 本日はしっかり制服を着て、堂々と入ってきたら
『あ、名誉音研部員。掃除手伝え』
 と飯田さんに手を引かれて否応なく巻き込まれたのだ。

「あらら?デートかな?」
 柴ちゃんがクスクスする。
 私の初恋の相手から交際歴の乏しさまで熟知している柴ちゃんだ。
 それを逆手に取って、強がった口を叩いてみた。
「そうだよ。頼もしくてミステリアスな人とデートするんだ」 
「え?ホントだったの?」
 柴ちゃんは目を丸くする。
「緊急事態だね。柴。掃除は午後に回そう」
 飯田さんは副部長の威厳を込めて言った。
「学食で詳しく聞かせてもらおうかな。時間は取らせないから」
144 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時17分43秒
 飯田さんはカツカレー。私は自販機でレモンティーの缶を買った。
 思い直して、ミルクティとコーヒーの缶も買う。
 ベーグルさんにはいつもパンを分けてもらってばかりだ。
 差し入れを持っていこう。
 柴ちゃんはラーメン専用受け取りカウンターで並んでいたので、
 私と飯田さんで先に席につく。

「で、どんな子?」
 相手のことを、子、と聞いてくるのが飯田さんらしい。
「かわいい子です。ちょっと意地悪だけど」
「ふんふん」
「目が大きくて、人なつっこい感じがします」
「ちょっとまった。まさか犬とかってオチないよね」
 しまった。そっちの方が面白い。
「ええとぉ……」
 言いよどんでしまい、ついに白状してしまう。
 飯田さんは、なんだよそれつまんないよーと口を尖らせて文句を言った。
「なに?話はどーなったの?」
 そこに、ラーメンをお盆に載せた柴ちゃんがやってきた。
「石川のお相手。宝塚だって」
「なーんだ、女の子」
 笑われる。
145 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時18分41秒
「さて、どこから箸をつけていいのやら」
 柴ちゃんはうずたかくメンマが詰まれたラーメンを前にして、戸惑っていた。
「なんだぁ?それが和田センセの裏メニューの『メンマ大盛り』?」
「そう。頼んでみたのはいいものの……」
 端の方からメンマを崩すようにして食べてゆく。
「うーん、やっぱり得別に美味しいとも思わないなぁ」
「センセが貧乏舌なんでしょ」
 と、飯田さんは手厳しい。 
「それで、梨華ちゃんのダーリンのお話はもう終わりなの?」
 柴ちゃんに促されて、私はベーグルさんのことを話し出した。
146 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時19分45秒
 怪しまれたくもないので、詳細は省いた。
 偶然知り合った少女に窮地を助けられ、
 以後も時々会っていることだけを話すと
「そういうのってあるね。
 偶然の出会いが考えられないぐらい長い付き合いになっちゃったり」
 柴ちゃんが言うと
「そんなドラマチックなことって今まである?」
 飯田さんが訊く。
「あるよ」
 おおおー、と飯田さんが目を輝かせた。
「待ってました。その手の話が聞きたいのよ」
「例えば――」
 バス停の名前を出した。
「そこで毎朝会うおばあちゃんと、ちょっとした知り合い」
 枯草色の話になった。
 飯田さんは傍目にわかるぐらいにがっかりとして
「それは近所づきあいってやつじゃないの」
「でも、近所になったのも偶然でしょ」
「それを言ったら私と柴が知り合ったのだって偶然になっちゃうよ」
「偶然ですよ。知り合って親しくなれたのは私たちの意思ですけど」

 こんな時にふと、思い出す。
 世の中は偶然だらけ。
 その中で私とベーグルさんが友だちになれたのは素敵なことだ。
147 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時21分14秒
 一期一会という。
 この人と会うのは一度きりかもしれない。
 初対面の人とはもちろん、身近な人に対してもこのように思って
 一回一回の出会いを大切にしなさいという意味だったはずだ。
 
 学校でこの言葉を学んだ時、凄いと思った。
 身近な人に会えば、自然に次もあると考える。 
 大事な人に会えば、次も会いたいと考える。
 一回限りだなんて思わない。
 その言葉には潔さと凄惨さが含まれていた。
 『昔は交通の便も悪く、通信手段も今ほどなく、人がよく死ぬ時代でした』
 山崎先生の授業だった。
148 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時23分23秒
 ベーグルさんと私の関係は、
 いつ切れてしまうかわからないようなか細い糸のようなもので、
 まさに一期一会の気持ちで挑まなければならない相手だろう。 
 嫌だった。
 私は昔の人の様に潔くもないし、強くもない。
 大切な人とはまた会えると信じたい。 
 そのために、私はベーグルさんと戦うつもりだ。

 民話の中に『人間が化物の名前を探り出す』という物語がある。
 人間に名前を知られてしまった化物は悪事を働くことがなくなった、
 とハッピーエンドで締められていた。
 名前には魔力が含まれていると素朴に考えられていた時代の物語だろう。
 無論、今の時代だって名前は大事なものである。
 民話では化物が相手だったけど、私の相手は天使だ。
149 名前:_ 投稿日:2001年10月28日(日)13時26分47秒
つづく
150 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月28日(日)16時27分36秒
ベーグルさんとの糸をたぐりよせれるように頑張れ石川!
151 名前:ARENA 投稿日:2001年10月29日(月)21時49分23秒
頼もしくてミステリアスな人とデートするのか。いいなぁ、石川(w
これからのベーグルさんとの絡みが楽しみです。

4話からageですか、そちらの方も楽しみです(w
152 名前:ぶんや 投稿日:2001年11月05日(月)01時38分04秒
おそらく終わりが近いであろうこの小説・・・
どうエンディングを迎えるのか楽しみです
153 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時31分53秒
 土手の上から、赤地に英語のロゴが入ったTシャツのお腹が見えた。
 ベーグルさんは川原の傾斜にのんびりと寝そべっていた。

 コーヒーとミルクティ。
 寝そべる彼女の目の前に二つの缶を並べて差し出したら、
 ベーグルさんは腹筋だけで体をぐいと起こしてミルクティを掴んだ。

「やっぱり」
「なに?」
「ベーグルさんはミルクティだと思ったんだ。
 ミルクティって感じしてるもん」
 人当たりのよさそうな丸顔は、
 ミルクの口当たりのようにまろやかな感じがする。 
154 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時33分10秒
 予感的中と胸を張って見せると、
 ベーグルさんはプルトップを開ける手を止めた。
「そう言われると、石川さんもコーヒーよりもミルクティって感じだよねぇ」
 それがどういう感じなのかはよくわからない。
 小首をかしげて問うような目を向けてやると、
 ベーグルさんは私の目を真正面から受けてじろじろと見返してきた。
「どっちが好き?」
 目を見られると、彼女に気持ちは隠せない。
「……実はミルクティのほうが」
「なぁんだ、最初っからミルクティ選べばいいのに」
 はい、と交換された。

 譲ろうとした席を断られたときに似た気分になる。
「ベーグルさんには好きな方を飲んで欲しかったの」
「あたしはコーヒーでも何でもいいよ。ベーグルがあればそれで幸せ」
 気を使ってるのではなく、心からそう思っていそうだった。
「さ、一緒に食べようよ」
 いつものパン屋の紙袋からベーグルを取り出した。
155 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時35分54秒
 真っ白な光を振り下ろす空の下で芝生はエメラルド色に輝いている。
 私たちは互いの顔を見ながらベーグルを美味しく食べた。

「石川さんのお陰で、ドリンクセットメニューになった」
「今日は飲み物持ってきてないの?」
 聞くと、バツの悪そうな顔になる。
「持ってきてるけど、そのぉ……一人分。ごめん」
 聞いた私はもっとバツが悪くなる。
「ごめんね……いつも勝手に食べて飲んでばっかで。
 足りなくなっちゃってたよね」
「ああ、気にしないでよ。
 ベーグルは分け合って食べた方が美味しいんだよぉ」
「なぁに、それ」
「本当だって。人がベーグル食べてる所を見ると嬉しくなっちゃってさぁ」
 にかっとヒマワリのように大きな笑顔を作って、はしゃいでみせる。 
156 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時37分27秒
 ベーグルが大好きなのだろうし、
 他人と楽しみを共有するのが好きなのだろう。
 ――多分彼女は、人間が好きなのだ。
 それに気がつくと、私を拒絶していた時の冷たい表情が
 痛々しく思いだされた。
 冷淡な振る舞いによって凍えていたのは、
 私ではなくベーグルさん自身だったのではないだろうか。

「ああ、いい天気だぁ」
 私の思いも露知らず。
 ベーグルさんはお日さまに顔を向けて気持ちよさそうにしていた。
157 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時41分43秒
 ふわぁ、穏やかなあくびを見せる。
「しょっと」
 ベーグルさんは芝生の上にごろりと寝そべった。
「うふ」
 私が小さく鼻の奥で笑うと、
 ベーグルさんが眠たげな目だけを私に向けてきた。
 次の言葉を待つ些細な合図。
 ベーグルさんが投げてきたそれを自然に受け取れることが
 たまらなく嬉しい。
 昨日よりも今日と、ベーグルさんに確実に近づいていることを実感する。 
「私ね、ベーグルさんのこと、凄くカッコいい人だと思ってた」
「へぇ」
158 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時43分02秒
 竹林に住む虎のような人だと思っていた。
 触り心地のよさそうな毛皮と人を魅了するネコ科の瞳を備えている。
 近寄れば、さっと身を翻して竹林に消えてしまいそうな幻想的な生き物。
 同時に、うかつな事をすれば襲い掛かられてしまいそうな怖さも感じていた。

「でも、今はちっともカッコよくない」
 ちやほや愛されて育ったドラ猫みたいな無防備な顔を晒している。
「なんだよぉ」
 そこでオチを付けられたと思ったのか、ベーグルさんはにやにやする。
 だが、私の話はまだ終わりじゃない。
「かわいいね、ベーグルさん。かわいいんだ」
 凛々しい態度や気のない素振りばかりに目を取られていて、忘れていた。
 彼女はとても愛らしい。
159 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時49分39秒
「石川さんほどじゃあない」
 ベーグルさんは男の子みたいに頬をこすりながら起き上がった。
 照れているのか、頬がほんのりと桜色をしている。
「ほっぺが赤くなってる。かわいい」
「ああ、もう、やめやめ」
 虫を払うように手で扇ぐ。
「自分の方が可愛い顔してるんだからさ。からかわないでよ」
「かわいい、かわいいなぁー」
 彼女の腕を取って肩にしなだれかかると、
 ベーグルさんはぷいっとそっぽを向いた。
160 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時50分31秒
「すぐ調子に乗る……そんなんじゃテニスも上達しないにきまってるね」
 逆襲の意図が見え見えの、これ見よがしの憎まれ口を叩いてくる。
「関係ないじゃない」
「おおありだよ。
 アドバンテージとって油断してミス。アドバンテージ取られて気落ちしてミス」
「それじゃ私には負けしかないじゃないの」
 洒落になっていない実情が我ながら情けない。
 形勢逆転、落ち着きを取り戻したベーグルさんは真顔でこっちを見た。
「時間切れの引き分けってのもあるけど?」
 そんな鍔迫り合いのある試合ができる腕なら、
 ここまで深刻に悩むこともないだろう。
「微妙な顔してるね」
「……おかげさまで」
「すぐにふくれっ面になる石川さんって――かわいいなぁ」
 ベーグルさんはしてやったりというように言ってのけた。
161 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時54分12秒
 残暑の熱気は涼風に流される。
「ここ、いい風が吹くんだね」
「川っぺりだからねぇ」
 何気ない言葉には、何気ない返答が返ってくる。
 意味のないやりとりなので時折ぷつりと会話は途切れるが、
 ベーグルさんが相手の沈黙は怖くなかった。
 
 瞼を下ろして、世界を閉じてみる。
 風音と空高く飛ぶ鳥のさえずりだけになる。
 すぐ隣にいるベーグルさんと私だけが聞いている音。
 そう思うと、ベーグルさんと二人だけで小さなこの場所を占有しているようだ。
 このままこの場所で、他愛ないやり取りをずっと続けられる気がした。

 しかし、目を開けて日光の眩しさにくらっとしてみれば
 二人だけの世界も無ければ、ずっと、なんてものも無い。
 悠々と海に向かって流れる川と川向こうで遊ぶ子供たちの姿があり、
 先ほどと違う雲の形に気がつくのが現実だ。 
 世界は万人に広く開かれて、時は滞りなく流れ去る。
162 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時56分00秒
「夏も終わりかなぁ」 
 ベーグルさんが呟いた。
「そうかもね」
 日に熱された地面が暖かい。
 直射日光よりも地面の輻射熱を強く感じるようになると、
 この地の季節の変わり目だ。
 季節が変わる前に、夏が終わる前に。
 私はベーグルさんとの『始まり』を手に入れないといけない。

「ねえ、これから何か予定入ってる?」
「なんで?」
「あ、ゴメン。今のなし。聞かなかったことにして。やり直すから」
 デリケートな問題だ。慎重に行かないといけない。
「ちょっと長くなるけど、最後まで聞いてね」
 背筋を伸ばして気合を入れた。
 夏祭りの金魚すくいのように、網が破けてしまわないように。
 ベーグルさんの表情を見ながら、丁寧に話してゆく。
163 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時56分31秒
「一緒にどこかに遊びに行きたいって思ってるの。
 でも、ベーグルさんには予定があるかもしれないし、
 そうじゃなくても私と遊びたくないかもしれないでしょ。 
 どっちにしても『何か予定がある』って言ってくれれば今日は諦めるから。
 だから、ベーグルさんの予定のことは聞かなかったことにして」

 一息つくと、ベーグルさんは苦笑した。
「回りくどいなぁ」
「最後まで聞いてって言ったじゃない」
「はいはい」
 気を悪くはしていないようなので、そのまま気持ちをぶつけてゆく。
164 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)03時59分08秒
「それでね、お買い物したり、夜の割引の遊園地に行ってもいいし、
 映画とか…… 
 なんでもいいから、ベーグルさんの遊びたいことで遊んで欲しいの」
「石川さんのしたいことはないの?」
「このさいそれは、後回し」
 私の中ではこれ以上ないぐらいに控えめな提案のつもりだったのに
「そーいうのは困るんだよねぇ。
 あたしが任されて、後からつまんない顔されたら嫌じゃん」
 あっさり否定される。
 ――人の気も知らないで。
 頭にきた。
「だって、私はベーグルさんと一緒に居れればどこでもいいんだもん!」
 慎重に接するつもりはどこへやら。
 興奮して声を荒げてしまう。
 
 見る見るうちにベーグルさんは再び赤くなった。
「……石川さんと話してるとなんか調子狂うなぁ」
「……ごめんなさい」
 ベーグルさんの頬も赤いけど、
 きっと私も負けないぐらいに赤くなっているはずだ。
165 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)04時02分10秒
 もう少し考えさせて、という彼女に従った。
 断ることを考えているのか、遊びに行く場所を考えているのか。
 出来れば後者であって欲しい。
 芝生に転がったベーグルさんの寝顔を見つめながら、
 三十分ほど過ごしただろうか。
 ユニフォームを着た少年たちが川原の野球場に集まりだして、
 辺りは賑やかになってきた。
166 名前:_ 投稿日:2001年11月17日(土)04時02分54秒
「ここ、テニスコートも出来るんだってね」
 起き上がったベーグルさんが辺りをぐるりと示した。
「そうなんだ」
「そこに立て看板あったよ。知らないの?テニス部で地元のクセに」
「地元なら何でも知ってないといけないわけ?」
 軽く噛み付く私を、ベーグルさんは静かな笑顔一つでかわして見せる。
「野球場は普通の人には使いにくいけど、
 テニスコートなら運動好きのママさんから石川さんまで使えるね」

 『石川さんまで』と区切られると
 『ピンからキリまで』の悪い方にされているような気もしたが、
 そこまで噛み付くのはみっともない。
「さて、移動しましょうか」
 ベーグルさんが腰を浮かせた。
「え?どこに」
 慌てて立ち上がる。
 ベーグルさんは振り返って、遠くの方を見た。
「石川さんの学校に行ってみたいな」
 ベーグルさんの視線の先にある。
167 名前:__ 投稿日:2001年11月17日(土)04時05分22秒
つづく
168 名前:ARENA 投稿日:2001年11月17日(土)06時18分51秒
やったー!更新だー!!

いつになく仲の良い二人がたまんないっす!(w
「かわいい」言い合ってるのもよかったし、
興奮して言った石川の言葉に照れるベーグルさんもまた(・∀・)イイ!
期待以上の二人のやりとりにこっちが恥ずかしくなりました(w

そして、終わりが遠いということに一安心。長く読みたい作品なので。
169 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月17日(土)12時40分19秒
自分も正直、一安心だったり(w>終わりが遠い
甘ったるい雰囲気がなんともいえず良い感じっす!!
170 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月18日(日)13時09分40秒
二人のほのぼのした会話がとっても良かったです。
まだまだ面白くなりそうな話期待しております!
171 名前:空唄 投稿日:2001年11月21日(水)02時48分15秒
今更ながら面白いっす。
というか、2本書いててこのクオリティーの高さは驚きます。
3話はいしよし中心に進んでいるので、どういう結末になるのか期待。
172 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時03分54秒
 通って四ヶ月になる校舎の風景は目になじんでもいるし、
 未だ目新しくもあった。
 正門を抜けるとアスファルトで固められた小さな中庭があり、
 古ぼけた白い外壁を持つ旧校舎に迎えられる。
 玄関脇を左に抜けると、校庭に出る。
 広々とした土のグラウンドでは野球部と陸上部が練習をしていた。
 グラウンドの端を縁取るように、マーブルグレーの石を使った新校舎があり、
 テニスコート、プール、体育館、武道館といった施設がある。

「さすがに広いね」
「古い学校ですから」
「でも、建て増しでしょ」
 ベーグルさんが、旧校舎と校庭のあたりとを交互に指差した。
「こっちの部分は後から増えたのかな」
 グラウンドの上で指をぐるり。円を描く。
「わかる?」
 創立百周年の会で、説明された。
 いくつかの増築や拡大工事が行われてきたらしい。
 詳しいことは忘れてしまったけれど、目の前のコンクリート建ての旧校舎だって
 百年前そのままのものであるはずがない。
「これだけ広いのに、門を抜けてすぐ校舎って雰囲気がね。ちょっと変」
 きょろきょろするベーグルさんの先導に立ち、私は校庭の隅っこを歩いた。
173 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時05分05秒
 野球部の練習場の近くを通った。
 ネットの向こうでは体格のいい男子生徒たちが威勢の良い声を上げている。
 こっちのお腹に響くような胴間声に、私は思わず身を縮めた。
「――まだ、慣れないなぁ」
「何に?」
「うーん、何だろうね」
 私が曖昧に答えると、ベーグルさんは何だよと苦笑をもらした。

「中学は、あんまり運動が有名な所じゃなかったから」
 ケンカかと思うほどの荒々しい男の子のかけ声を聞くことはなかった。
「まだ一年生だし、肩身が狭いっていうか、学校に間借りしてすんでる感じっていうか」
「なんか卑屈だねぇ」
「それ、言い過ぎ」
 口を尖らせる。

 けれどもベーグルさんはニンマリ笑って
「石川さんはスポーツに向いてない」
「それも言い過ぎ!」
「だって、たいていのスポーツって相手をぶっ倒すもんだよ」
 一瞬、ボクシングのような身構えをして乱暴な言葉を使う。
「勝気なだけじゃなくて、自信過剰ぐらいじゃないと」
 そんな事を言われても、
 高校に入ってから勝ち星ゼロの身で自信など沸くわけがない。
174 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時08分21秒
「石川さんは、スポーツより武道をやった方がいいかもね」
 ベーグルさんはとんでもないことを言った。
 お花畑で花でも摘んでろと言われたことはあるけれど、
 武道をやれなどとは言われたことがない。

 目を開いて疑問を投げかけると、目を細めて受けられる。
「武道って、心が弱い人が心を鍛えるために始めるっていうじゃん」
「自己鍛錬?」
「そ。例えば剣道だけど――」

 ベーグルさんの話によると、剣士は星を打ち下ろすつもりで素振りをするという。
 すると試合の最中に相手の一瞬の隙が、夜空に煌く星のように『見える』。
 よく耳にするような達人談話ではある。
175 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時09分04秒
「相手は対戦する剣士じゃなくて、星、つまり練習に打ち込む自分自身になるって話」
「でもテニスの場合、星に向かってサーブ練習したら全部アウトだよ」
 利いた風な話をまぜっかえすつもりでズレたことを言ったのに、
 ベーグルさんは笑いも怒りもしなかった。
「だから、テニスだったら空の星を打ち下ろすつもりで」
 左手に持った架空のボールをふわっとトスした。
 ゆったりしたモーションで、大きく右手が弧を描く。
 頂点で右手の掌が白い太陽に触れた。

 そのまま彼女の腕は静かに振り下ろされて、
「流れ星の製造業者になれってさ」
 右手をぎゅっと握って前に突き出した格好でにっこりする。

 どう考えたって、キザな話だ。
 なのにそれをそうとは感じさせない彼女の綺麗な表情に、
 私の胸はずきりと痛んだ。
176 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時14分00秒
「……ベーグルさんって、ずいぶんロマンチストさんなんだ」
 見惚れていたことがばれないよう、
 さっと視線を外し、早足になって先を進む。
「――あたしは、そんなんじゃないよ」
 バカにされたと思ったのだろう。
 後ろからちょっと苛立ちの混じった声がした。
「これは聞いた話。黒星ばっかの石川さんにはぴったりの話でしょ」
「結局、オチはそうなるんだから」

 言い合いながら、背中を歩く彼女を思う。
 青竹のようにまっすぐに伸びた背筋と、満月のような顔。
 星を打つなんて猛々しいことより、静かに星を見上げている方がずっといい。
 夜の中でじっと星を見つめる彼女を想うと、
 夢の中を見返すような浮遊感に囚われて息がつまる。

 足を止め、肩を開いた大きな深呼吸を一つして振り返った。
「どこに行きたい?どこにでも連れてってあげるよ」
 勢い込んだ私の問いかけに、彼女は眩しげに空を見上げる。
177 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時22分22秒
 ベーグルさんは新校舎の屋上の金網に指を絡ませて
「けっこう高い」
 校庭を見下ろすでなく、まっすぐ遠くの雲を見て言った。
 新校舎は八階建てで、
 一軒家が多い学校周辺の中で頭をひょっこり出している。

 私は屋上の入り口に立ち、強い風に流される髪の毛を抑えた。
「あまり金網の近くにいると、下からバレちゃうよ」
 私服校舎侵入の校則違反に、関係者以外立ち入り禁止の規則違反である。
 ベーグルさんの真っ赤な服はグラウンドから
 旗のように目だって見えるはずだ。
 だけどベーグルさんはやきもきする私をほったらかしにして、
 金網に手を当てて歩き出した。 
 目の粗い網が手をこする感触を楽しむように、指を立てて網に触れている。

「学校はどこもおんなじだね。校庭があって、校舎があって、屋上があって」
「それぐらいはどこだって同じでしょ」
 『雨が降ったらお休みで』、
 なんて青空学校ではお金を納めている父兄が怒るだろう。
178 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時24分27秒
「違うのは、生徒と先生か。いい雰囲気の学校だね」
「そう?」
「うん、みんな元気でいい感じ。
 スポーツ名門校だってから、もちょっとキリキリしてるのかと思ったけど」
 屋上を一周し、私の方に近寄ってくる。
 私は頭をくらりとさせる空気に押されるようにそこを離れて、
 金網に寄り添った。

「下から見られるんじゃないの?」
「外が見たいの。テニス部は何やってるかなって」
 背後の彼女に言い訳をする。
 意識し始めたら、彼女をまともに見られない。
 これはまずいぞ、と冷静な部分が私の動揺を抑えようとした。
 目をぎゅっと閉じて、金網に額を押し付ける。
 金網のひんやりした感触と懐かしい錆の臭いが
 魔法の薬を与えられているように、気を静めてくれる。
179 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時26分21秒
 風の音が変わった。
 こぉほぉと、巻くような音に目を開いた私は、
 空の向こうにどす黒い縞を持つ灰色の雲を見つけた。
「ベーグルさん、雨が――」
 振り返った場所に、彼女はいない。
「ベーグルさん?」
「ここだよ」
 屋上入り口の屋根の上から、ひょっこり顔が出た。
「なにしてるのよ」
 あんぐりと見上げると、ベーグルさんはすぐに頭を引っ込めた。
「ここが一番高い場所――」
 立ち上がって見せる。
 彼女の背中が屋上に、十字架のような薄い影を作った。

「危ないよ、降りてきて」
 私も昇ったことがあるから知っている。
 入り口の上には金網が張られていなくて、
 落ち方を間違えればグラウンドまでまっ逆さまに落ちてゆける。
180 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時28分49秒
 ベーグルさんは両手を振って抗議する私を見下ろして笑い、
 ポケットに両手を突っ込んで、
 空を見上げながら気持ちよさそうに歌を歌い、
 屋上入り口の平らな屋根をぐるぐると歩き回った。

 知っている歌だ。
 爽やかなメロディと素敵な歌詞に乗せ、
 胸の鼓動がドキドキと早められる。

「降りてきてっ!」
 感情を静める代わりに声を荒げて叫んだ。
 ベーグルさんは上から手を振って『離れて』と合図を送り、
 ぴょんと私の近くに飛び降りてきた。

「空も飛べるはず、かぁ」
 歌詞の一部分を呟く。
「飛びたいね。ハングライダーでもなんでもいいから、
 こっからスーって向こうの海の方にさ。
 気持ちいいだろうなぁ」

 ――やっぱりロマンチストじゃないの。天使の癖にハングライダーはないでしょ。

 そっぽを向いたままで文句を二つばかり言おうとした時に、
 雲に覆われて暗くなった空からポツリと雨が降ってきた。
181 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時29分40秒
 一階に下りた頃には、雨は本格的などしゃ降りになっていた。
「ちょっと、外に出られないみたい」 
 忍び足で外の様子をうかがって、階段の隅に身を隠す。
 音研部室でも借りようか、近くの喫茶店にでも駆け込むか。
 ベーグルさんとコソコソ相談をしていると、
 昇降口の方で人の気配がした。

「いいですよ、使ってください」
「帰りまで降っていたら困るだろ。生徒に風邪引かせるわけにはいかないよ」
「先生に風邪を引かせるわけにも行きませんよ」
「大丈夫。俺は何とかだから風邪引かない」
 それで声は途切れ、足音が近寄ってくる。

 階段に身を隠した私たちの目の前の廊下を、和田先生が通り過ぎていった。
 先生が職員室に入ったのを見届けると、
 私はベーグルさんを引っ張って昇降口に駆けつけた。

 柴ちゃんは、黒い男物の傘を持ったままでそこにいた。
 私に気がつくと
「――降られちゃった」
 しとやかに笑って親指で外を指す。
「お友達と一緒なんだ。はじめまして。柴田あゆみです」
「はじめまして」
 ベーグルさんは、こう言った。
「――ゴトウ、ケイです」
182 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時30分20秒
「”ケイちゃん”」
 音研部室に向かう途中、彼女の袖を引っ張って、
「――それは本当の名前?」
 耳打ちする。
「違うよ」
 すぱっと否定されて、がっかりした。
 結局、彼女はベーグルさんのままなわけだ。

 私たちは綺麗に整頓のすんだ音研部室に招かれて、
 暖かい紅茶をいれてもらった。
「――傘、どうしようかな」
 柴ちゃんは、和田先生から借りた傘のことをずっと気にとめていた。
「押し返すのも失礼ですしねぇ」
 ベーグルさんがずずっとお茶をすすりながら相槌をうった。
「そうよねえ。生徒思いもいいけど」
 ピアノに座っている柴ちゃんは鍵盤のふたの上で頬杖をついて、
 ほぉとかわいいため息をつく。
「細かくてマメでちょっと偉そうで、先生が天職みたいな人なんだよね」
「――そうだね。テニス部のスケジュールも細かく立てるもん」
 柔らかに言う柴ちゃんに、控えめな声で肯定する。
183 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時30分57秒
「”ケイちゃん”」
 音研部室に向かう途中、彼女の袖を引っ張って、
「――それは本当の名前?」
 耳打ちする。
「違うよ」
 すぱっと否定されて、がっかりした。
 結局、彼女はベーグルさんのままなわけだ。

 私たちは綺麗に整頓のすんだ音研部室に招かれて、
 暖かい紅茶をいれてもらった。
「――傘、どうしようかな」
 柴ちゃんは、和田先生から借りた傘のことをずっと気にとめていた。
「押し返すのも失礼ですしねぇ」
 ベーグルさんがずずっとお茶をすすりながら相槌をうった。
「そうよねえ。生徒思いもいいけど」
 ピアノに座っている柴ちゃんは鍵盤のふたの上で頬杖をついて、
 ほぉとかわいいため息をつく。
「細かくてマメでちょっと偉そうで、先生が天職みたいな人なんだよね」
「――そうだね。テニス部のスケジュールも細かく立てるもん」
 柔らかに言う柴ちゃんに、控えめな声で肯定する。
184 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時31分29秒
「どうしようかな。傘は先生の傘立てに置いてきて、
 私は雨が小ぶりになるのを待って帰ろうかな」
「柴田さんの家、近いんですか?」
 ベーグルさん聞かれて、柴ちゃんは私と目を合わせた。
「バスで五分ぐらい」
 と、バス通学の柴ちゃん。
「走れば十五分ぐらいで着くよ」
 柴ちゃんのお宅のすぐ近くに住む、徒歩通学の私が答える。
「バスは定期券で?」
「もちろん」
「じゃあ……」
 ベーグルさんはちょっと小首をかしげて
「大雨の中、面倒でなければですけど、
 一回その傘で帰ってから先生に傘を返しにくれば」
 柴ちゃんは、あぁ、と吐くように言って
「――そっか。それなら三十分ぐらいで帰ってこれるかな」
「それで柴ちゃん、あたしたちの分の傘も持ってきてくれると嬉しいな」
 私が付け加える。
「それが目的だったのか――仕方ないなぁ」
 柴ちゃんは私のベーグルさんの頭を楽譜で軽く叩いて部室を出て行った。
185 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時32分27秒
 柴ちゃんが持ってきた傘は、半透明の白地に赤、青、黄色の大きな水玉模様。
 もう一本は黄色の布に、黒い線が交差しているスタイリッシュなデザイン。
「あのね……」
 ミツバチ傘を掲げた私は、
 水玉模様のベーグルさんと並んで川原を歩いていた。
 雨は一時の勢いを失っていたが、
 空はまだまだ降りつづけそうな色をしている。
「柴ちゃんだけど……なんかさ、なんとなく思ったんだけど」
 お腹のあたりをむず痒くさせる考えをハッキリさせてもらおうと、
 ベーグルさんに話しかける。
「和田先生のこと好きなのかな、なんて思ったりして……」
 昇降口の柴ちゃんが雨を見て『降られちゃった』と言ったとき、
 和田先生に『ふられちゃった』とでも言われたのかと
 思い違ってドキっとしてしまった。
 いつもよりも美人に見えた柴ちゃんが、なんだが不安に見えた。

「そんなん、あたしが知るわけないじゃん」
 ベーグルさんは簡単に言い捨てて、傘をぐるぐるさせた。
「でもベーグルさん、人の気持ち読むの上手じゃない」
「柴田さんの気持ちを知ってどーするのさ」
「どうって……」
 どうもしない。
 ただ落ち着かない気持ちを何とかしたいだけだ。
186 名前:_ 投稿日:2001年11月26日(月)19時33分22秒
「先生と、生徒だし……なんかどうかなって心配だし」
「それは両思いのときでしょ。
 柴田さんが一人で錯覚してるだけなら別に良くあることじゃん」
 口調は穏やかだが、口にした中身には聞く人を凍てつかせる冷たさがある。

「錯覚って……そんな言い方ひどいよ」
「錯覚は錯覚しか言えないじゃん。
 あんなん、頭がかーってなってるだけでしょ」
「そんな冷たい言い方しなくたって……。
 さっき仲良く話してたのに、柴ちゃんのことが嫌いなの?」
「好きとか嫌いとかじゃなくて――」
 傘を斜めに上げて、ベーグルさんは私を見た。
「誰だって錯覚ぐらいするよ」

 雨の糸の向こうに、ベーグルさんの姿が霞んだ。
 ベーグルさんの白く固い顔を見て、私はあることに気がついた。
 気がついて、すっと背中に寒気が走る。
 ベーグルさんは人の気持ちに敏感だ。
 敏感すぎる彼女が、
 すぐ隣にいた私の変化に気がつかないなんてことがあるだろうか。

「私のも……私も、錯覚なのかな」
 恥ずかしさで押しつぶされそうな胸の中から
 やっとのことで口からだした言葉に、
 ベーグルさんは傘の角度を変えて、傘をかぶるようにした。
「たぶんね」
187 名前:___ 投稿日:2001年11月26日(月)19時33分52秒
つづく
188 名前:____ 投稿日:2001年11月26日(月)20時08分38秒
つづく
189 名前:____ 投稿日:2001年11月26日(月)20時09分14秒
今回更新
>>172-187
190 名前:ARENA 投稿日:2001年11月26日(月)22時07分05秒
おおっと、早い更新お疲れ様です。
3部もだんだんと本題に入ってきましたね。
石川の気持ちはやっぱりベーグルさんにはお見通しでしたか。
あー!これからが気になる・・・!
191 名前:ななしみっちゃん 投稿日:2001年11月28日(水)20時06分50秒
更新お疲れ様です。
2人の心の揺れ具合が非常に気になって仕方ないです。
そして柴田の恋の行方も・・・。
これからも更新期待してますね。
192 名前:名無しさん 投稿日:2001年12月03日(月)18時20分17秒
柴ちゃんケナゲだなあと思いつつも、
なんで和田じゃあ、ちくしょーと思っているのは私だけなんでしょうか。
ともあれ、いしよしはどうなる??
193 名前:名無し読者 投稿日:2001年12月04日(火)15時55分21秒
もっと書いてください。
194 名前:イヌキチ 投稿日:2001年12月06日(木)05時19分58秒
次の部分は即更新する予定だったのですが、 
ちょっとハプニングがあって更新が遅れます。 
今週末あたりにアップする予定です。
すみませんが、もうしばらくお待ちください。
195 名前:名無しさん 投稿日:2001年12月11日(火)01時25分53秒
ハプニングはおさまらなかったのかな?
続き期待しております。
196 名前:名無しさん 投稿日:2001年12月24日(月)23時00分40秒
いつでも待ってますよ。がんばってください
197 名前:イヌキチ 投稿日:2001年12月25日(火)13時47分04秒
>>194 
嘘を付きました。ごめんなさい。 
予想以上にハプニングが尾を引いてしまいました。 
もうしばらくかかります。 
198 名前:ARENA 投稿日:2001年12月26日(水)02時59分17秒
待ってます。何があろうとも・・・
199 名前:空唄 投稿日:2001年12月27日(木)00時30分47秒
いくらでも、待たせていただきます。
200 名前:名無し読者 投稿日:2002年01月09日(水)04時28分05秒
そろそろ読みたいなぁ
201 名前:名無し読者 投稿日:2002年01月18日(金)04時00分53秒
待ってます
202 名前:イヌキチ 投稿日:2002年01月18日(金)04時51分43秒
すみません。生きています。 
大変遅れていまして申し訳ありませんが、必ず更新しますので……。 
203 名前:ARENA 投稿日:2002年01月18日(金)07時57分36秒
よかった、生きてて・・・(w
そして、待ってます。
204 名前:空唄 投稿日:2002年01月18日(金)13時18分29秒
一番好きな話なので、作者さんの納得いく作品が出来るまで待っています。
205 名前:通常の名無しさんの三倍 投稿日:2002年01月30日(水)21時02分56秒
はじめまして。今回はじめて読んだのですが、面白いですね。
続き待ってます。
206 名前:_ 投稿日:2002年02月17日(日)23時41分57秒
 夏の雨は激しく短い。
 昨日の雨は一晩ですっかり収まり、我が家の庭は朝の光に包まれていた。
 リビングのサッシを抜けた。
 足にサンダルを引っ掛けて、ぬかるんだ庭土に降りると
「梨華!パジャマで外に出ないの!」
 お母さんから叱られた。

「レジャーシート知らない?たしか庭の倉庫にあったよね」
 知らん顔をして問うと、
 ダイニングでお茶を飲んでいたお母さんがサッシ窓に近寄ってきた。
「なんに使うのよ」
「川原に座るのに使うの」
「なんでまた川原なんかに」
「友達と約束したの」

 一畳ほどの広さの小さな倉庫をがらりと開ける。
 中はガラクタの展覧会場だった。
 小学校時代の文房具や、古びた装飾品などの古道具が
 ぎっちりと詰め込まれている。
207 名前:_ 投稿日:2002年02月17日(日)23時50分52秒
 使いかけのクレヨンセットや絵筆洗いバケツを手にとって懐かしみながら
 お母さんに語りかけた。
「意外と片付いてるんだ」
「この前整理したばかりだからね。そこには無いわよ。
 レジャーシートは中の物入れに移したもの」
「早く言ってよ!」
 サンダルを抜いて室内に戻る。
 部屋を通り過ぎ玄関に着くと、洋風引き戸の押入れの扉を開いた。
 上下二段に分かれた棚の下部を覗く。
 梅酒のビンの上に、小さいペンギンが踊っている柄のレジャーシートが
 ちょこんと折りたたまれて乗っかっていた。
208 名前:_ 投稿日:2002年02月17日(日)23時52分57秒
 そのシートを小脇に抱えて自分の部屋に戻ろうとする途中、
「ちょっと」
 お母さんから呼ばれて足を止めた。
「川原なんかで遊ぶもんじゃないわよ。
 昔から神社とお寺と川原には、
 子供を一人で行かせるものじゃないって言ってね」
「もうそんな子供じゃないよーだ」
「なーに言ってるの。あんたは子供ですよ。
 イマドキの子供ならそれらしく、も少し気の聞いた場所で遊びなさい。
 待ち合わせなら喫茶店なり、ピクニックなら市民公園なりがあるでしょうに」
「そういう約束しちゃったんだから仕方ないでしょ。
 それに最近の川原はきちんと整備されて、
 親子連れが散歩に来るような場所になってるの」

 私が口を尖らせると、お母さんはため息をつくように言った。
「なんにしてもね、そんな変な場所で男の子に会うのは止めなさいよ」
 その言葉は頭に届く前に胸を激しく突いた。
 私は瞬時に沸騰した。
「相手は女の子だって!母親のクセに娘にくだらないこといわないでよ!」
209 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時00分48秒
 大声で叫ぶと、母は驚いたように目を開いた。
 母の強張った顔を見て、私も固まった。
 すぐに頭は冷えたのに、ごめんの一言は喉で引っかかって出てこない。
 ただひたすらに気まずかった。
 怒ったふりをしながら母親の前から逃げ去ろうした時に遠くでケイタイが鳴った。

 ダイニングの端に設置した充電器の上で、
 私のケイタイは友情をテーマにヒットした曲を奏でている。
 きびすを返してバタバタとダイニングを横断すると
「騒がしい子ねぇ」
 日常的になっている母の嘆息が私の意地を和らげた。
「母親似でしょ」
 軽く返してケイタイに飛びつくと、相手を確かめずに通話ボタンを押した。
「はいっ!」
「梨華ちゃん、ごめんね、寝てた?」
 柴ちゃんだ。
「起きてる起きてる」
「あれ、珍しいじゃない。絶対寝てると思ったのに」
「柴ちゃん、私にケンカ売ってるの?」
 家族の信頼も厚いしっかりものの幼なじみの名前で安心したのか、
 母はさっさとダイニングテーブルに戻って再びお茶を飲み始めた。
210 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時07分58秒
「なによお。梨華ちゃん妙に不機嫌。寝起きだから」
「違いますって。それで何?」
 話しながら部屋に戻る。

 柴ちゃんは、文化祭用の衣装のことを聞いてきた。
「もう、サイズの手直ししちゃった?」
「まだだけど」
「よかったぁ。それ持ってきてくれないかな」
「いいよ。後で柴ちゃん家に行くから」
「――あ、そうじゃなくて」
 柴ちゃんは申し訳なさそうな声を出して
「学校に。今、音研にいるから九時までに届けてくれない?」

 ベットの横の時計を見た。
 八時四十五分だ。
 バスの待ち合わせを含めて考え、学校まで十分。
 五分で着替えて支度をしなければならない計算になる。
211 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時08分57秒
「そんなの無理だって。朝ご飯も食べてないのに」
「少しぐらいの遅刻なら大目に見てあげましてよ」
 お隣りのお嬢さまは寛大なことをおっしゃって
「昨日、傘を貸してあげたことは忘れちゃったのかな?
 大雨の中を往復したのに」
 恩義の返済をしっかり迫ってきた。
「はいはい、忘れてませんよ!すぐ行くから待ってて」
 私は携帯を耳に当てながら、パジャマのボタンを外し始めた。

 柴ちゃんには本当に感謝していた。
 傘を並べて一緒に帰った十数分間。
 その時間に私はベーグルさんと大事な話を交わせたのだから。
212 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時36分03秒
 あの時の、雨がざんざかと傘を叩く音を覚えている。
 傘の柄に伝わる振動を、
 心臓を両手できつく締め上げられたような痛みを覚えている。
 口先だけの浅い呼吸を繰り返した時を思い返せば、
 蘇る息苦しさで胸が詰まってしまい、
 ため息混じりの深呼吸で息を整えなければならなくなる。

 あの時の私は、右隣を歩くベーグルさんの表情を知るのが怖くて、
 豪雨に霞んだ前方の風景だけを見つめていた。

「気を悪くしたらごめん」
 雨音を抜けて、ベーグルさんの低い声が届いた。
「あたしは石川さんがこだわるほど立派な人間じゃないってだけだよ。
 その点石川さんは錯覚――あたしを誤解してる」
「そんな――」
 謙虚に卑下してみせた口調ではなく、
 全ての交流を断絶するような重く暗いものだった。
「ベーグルさんはかっこいいし、優しいし」
 私の言葉は簡単に否定されるだろうと、雰囲気から察しはついていた。
 その通りだった。
 いや、ベーグルさんはそれ以上の反応をして見せた。
213 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時41分12秒
「優しい?止めてよ。私は優しくなんかないよ」
 ベーグルさんはいきなり怒った。
 私に対してじゃない。
 陰りを宿らせたベーグルさんの目は私を見ていなかった。
 ベーグルさん自身の中にある、何かに苛立っているようだった
「優しいってのはもっと……バカだよ。
 自分ばっか損しちゃうようなことが自然に出来ちゃうような人のこと。
 バカだよ。あたしはそんな風なバカじゃない」

 私は淡々と優しさを罵倒するベーグルさんを見つづけた。
 なぜ彼女は時おり発作を起こすように、
 世の中の当たり前の暖かさを拒絶するのだろう。
 訳のわからないまま、私は必死にアプローチを試みた。
「――でも、『情けは人のためならず』って言うじゃない」
 人にかけた情けは、必ず自分に返ってくる。自分のためになる。
 高校受験のときに覚えたことわざに、ベーグルさんは頭を降った。
「そういうのを考えちゃったら、もう優しさじゃないよ。
 優しいってのはもっと本能的で――例えば誰かを好きになるような」
214 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時42分44秒
 とっさにベーグルさんの横顔をうかがった。
 透き通った白い顔は怖いぐらいに真剣で、そこに凄烈な意思を感じた。
 目の前に立つもの全てに殴りつけてゆく暴漢のような、
 一心な狂気の色を見た。

「理屈も利益もないのは恋に似てるかもしれない。
 あたしはそういう感情、薄いから。
 あたしはバカだけど、優しいバカじゃない」
「……もういいよ。止めよう」
 静かに怒りに打ち震える彼女に危険なものを感じて、
 私はベーグルさんを制した。
215 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時50分20秒
 彼女のだらりと下がった右手を取って、包んだ。
 その手が一瞬ピクリと震えたが、振り払われるようなことはなかった。

 なんとなく暖かく大きな手を想像していたのだけれども、
 皮膚の下にすぐ骨を感じさせるような薄い掌で華奢だったし、
 雨に塗れたせいなのかヒンヤリしていた。

 握るでもない、開いているでもない。
 自然な形のまま固まって身動き一つしない手を握っていたので、
 マネキンと手を繋いでいるような錯覚に陥りそうだった。

 『手の冷たい人は心が温かい』というお話を思い出したが、
 そんなのどかな話題を口に出せる雰囲気ではなかった。
216 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)00時52分21秒
「ベーグルさんは私を助けてくれた。猫探しにも付き合ってくれた。
 私はそれだけでいいんだけど。そういう人と友達になりたいんだけど」
 私たちの間にある事実と、私の真実を告げると、
「あれは、やらなきゃいけないことをただやっただけ。
 たいしたこっちゃない」
「『天使をやっている時は困ってる人を助ける』?」
「そう」
「なんで?」
「だからそう決めてるんだって。
 自分で決めた事への義理を果たしてるだけ」

 どこまでも突き放すようなベーグルさんの態度に
 悲しくなってしまった私は、
 また言わなくてもいいようなことを口にしてしまった。
「私を助けてくれたの、義理だったんだ」
 ベーグルさんは黙っていた。
217 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時27分52秒
 歩きつづけて駅前商店街の端に到着した。
 日本茶や海苔の置いてあるお店の屋根で雨から隠れると、
 ベーグルさんは傘を畳んで私に返そうとした。

「持っていっていいよ。明日返して」
「駅、もうすぐ近くだしさ」
「この雨、すぐに止まないよ。
 どこ行くか知らないけど降りた駅からも使うでしょう?」
 ベーグルさんの差し出した手を押し返し、もう一度繰り返した。
「明日、返して」
 ベーグルさんは傘に視線を落としてから、
 すっと顔を上げて私を見つめた。
「たぶんね、義理だけじゃないんだ」
 何を言い出したのか良くわからなかったので黙って見返していると、
 ベーグルさんは続けた。
「あたし、石川さんのこと前から知ってた。
 春に学校でデモの試合してたでしょ。それ観てた」
218 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時34分25秒
 五月に行った公開練習のことだろうか。
 新入生の気分が落ち着いた五月ごろは、
 部活説明会や公開練習が頻繁に行われた時期だ。

 先んじて入部した一年生は、生きた見本とばかりにさらけ出される。
 予想外に高度なテクニックを繰り出す新入部員のレベルに泡を食い、
 慌てて入部を諦めた人もいただろう。

 軽い気持ちで入部して、
 周囲を見回すにつれて自信を無くした新入部員も多く、
 退部者が一番多い時期でもあった。
 私も自信を失った部員の一人だったが、辞めずに続けて今にいたる。

「テニスで回転レシーブなんて、初めて見た」
 ベーグルさん上目づかいで薄暗い空を見て薄く笑った。
「もぉっ!笑わないでよ」
 公開練習での私の相手は、中学時代に県内トップと呼ばれた新入部員だった。
 私はあっちこっちとコートの中を走りまわされた。
 走るだけでは全く間に合わなくて、
 犬みたいにボールに飛びかかっては地面を転がった。
 その日だけで私は全身に無数の擦り傷と痣を作り、
 古いテニスラケットを二本折った。
 あれは間違えなく、私のテニス史の中で最悪のゲームだった。
219 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時39分11秒
「必死だったんだよ!緊張もしてたし」
 なんでそんな所ばかり見られているのだろうと、
 恥かしさを通り越して腹立たしくなった。
 なのにベーグルさんは、私の恥かしい過去をつらつらと語りつづけた。

「かわいい顔した女の子がすんごいムキになっててさ。
 試合終わった後はボロボロでさ。
 シロウト目で見ても全然勝負になってなかったのに、
 コート睨んで悔しがってたでしょ。観ててちょっと切なくなった」
「だって、あの時は本当に悔しかったんだから」
「――今も悔しがればいいのに。
 肘の怪我ったって、もうほとんど何とも無いんじゃないの?
 あたしとなんか会ってないで、もっと練習してればいいのに」

 ベーグルさんは左手で畳んだ傘をぐるぐる回しながら
「ランクアップするなら今の時期がイチバンなのにさ。もったいない」
 選手を椅子の上から見守るコーチを思い出させる言い方をした。

「私はそんなに上手くなんなくてもいいんだもん。
 上手い選手達のプレーを身近で見て、それに触れるのが楽しいんだもん」
「負けたときに、物凄い顔で悔しがるくせに?」
「それは悔しいよ。でも、私は私なりに部活をしてるのが好きだから」
220 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時43分03秒
 ベーグルさんは目を細めて、ふふふと鼻を鳴らした。
「いいなぁ。好きだから下手でもやってるんだ」
「下手は余計」
「そういう風なのが一番幸せなんだろうなぁ。気楽で楽しくて」
「また馬鹿にするし」
「してないよぉ。石川さんが羨ましい」
「嘘だぁ」
「ホントホント。マジだって。ホントに石川さんが羨ましいんだって」
 ベーグルさんは微笑んだ。

「それでさ、石川さんが川原に寝っ転がってるのを見てすっごい驚いた。
 あの子がこんな所で何があったんだよって。びっくりした。
 だから、声をかけたのは義理だけじゃなかったと思う。
 あの時は、石川さんが心配だった。それはわかってくれるかな」
「――うん」
 私の返事にベーグルさんは嬉しそうに笑った。
 私もつられて笑った。
221 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時43分41秒
 互いの声を重ねた笑いが掠れ消え行くほどに、私は心細くなった。
 ベーグルさんが妙に饒舌だったことが不安だった。
 全てを話し終えてしまえば彼女は消えてしまうのではないかと思い、
 そもそも彼女が全てを話してくれる日は来るのかどうかもわからないと思った。
 ベーグルさんはいつ私の前から消えてしまってもおかしくない人だ。
 明日にも。今にも。
 私たちの先は全く見えなかった。
222 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時49分38秒
「明日は絶対傘返してよね」
 弱気を吹き飛ばすようにわざと偉そうに言うと、
 ベーグルさんもまぜっかえしてきた。
「明日も雨かもしれないよ」
「それでも待ってるもん。ずっと川原にいるからね。
 ハチ公みたいにずっと待ってるから」
「バカ。雨のなか川原なんか行っちゃダメだ。風邪引くだけでしょ」
 ベーグルさんが真顔で私を叱った。
「……なんでみんなして、私のこと叱るかなぁ」
「だって、そんなバカなこと言うからでしょ。
 明日も雨だったらあたしが返しに行くよ。学校の傘立てに入れとけばいいかな」
「ダメダメ!そんなのナシ」
 それでは会うことが出来ない。
223 名前:_ 投稿日:2002年02月18日(月)01時51分44秒
 私は少し考えて、
「ケイタイ番号教えるから。メモして」
 私が番号を詠唱すると、ベーグルさんは慌ててケイタイを取り出した。
「もう一度、もう一度」
「行くよ、090――」
 ベーグルさんは白いケイタイを右手でがっちり掴み、
 電卓のボタンを押すように人差し指一本でぶきっちょに番号登録を行った。
「なんか、お母さんが家計簿つけてるみたいな手つき」
「うるさいなぁ」
「呼んでくれれば、川原でも駅前でも学校でも絶対行くからね。
 だから明日も――明日、返して」
「わかった。約束する」

 ベーグルさんが力強くうなづいてくれたので、調子に乗って私はもう一つお願いをしてみた。
「ベーグルさんのケイタイ番号も教えて欲しいな。なんて」
「それはヤだ」
「あ、やっぱり」
 苦笑しながら大人しく引き下がった。
 そして、もう一度確認する。
「また、明日」
「うん、また明日ね」
 私はそれを信じた。
 明日は来た。
 空はこれ以上ないぐらいに晴れていた。
224 名前:___ 投稿日:2002年02月18日(月)01時52分39秒
つづく
225 名前:___ 投稿日:2002年02月18日(月)01時54分56秒
今回更新
>>206-223
226 名前:名無し盛り 投稿日:2002年02月18日(月)02時39分50秒
最近読み出した読者なんですが、更新をリアルタイム
で立ち会うことができたのに運命を感じました!
よし・・ベーグルさん、なんか意味深で引き込まれます。
終わってほしくないと思った小説は初めてです。
これからもマターリ気長にがんばって下さい!
227 名前:ARENA 投稿日:2002年02月18日(月)07時31分47秒
ああ、更新されてる・・・(T▽T)

この小説って、好きなドラマを毎回楽しみにしながら見る様な感じなんですよね。
内容も本当に引き込まれるし、今回は重要な前回の会話の続きを
後に持ってくっていうような手法も連続ドラマ的なものを感じます。
とにかく更新が楽しみでならないです。

そして、今回はかなりベーグルさんの心の闇みたいなものが見え隠れしてますね。
それも含めたミステリアスなベーグルさんもこの作品の魅力です。
次は一転して快晴ですか。楽しみです・・・。
228 名前:名無し盛り 投稿日:2002年02月18日(月)17時28分32秒
ARENAさんの意見に完璧に同意です。
この作品の作者さんは本当に人物の心の動きや表現が上手です。
他の小説にはない独特の魅力がたまんなく心地良いです。
作者さん「情けは人のためにならず」精神でがんばれ!
229 名前:名無し読者 投稿日:2002年02月21日(木)02時24分36秒
この作者さんの他の小説も読んでみたいんですけど、よかったら
どなたか教えてくれませんか
230 名前:名無し読者 投稿日:2002年03月04日(月)00時17分15秒
>229
緑板過去ログ倉庫:ハウンドブラッド
緑板:ハウンドブラッドsecond edition
ごめんなさい、この二つしか知りません。
他にあれば 私も知りたいと思っています。
231 名前:229です 投稿日:2002年03月04日(月)02時27分00秒
>230さん
レス有難うございます。
ちょっと前にハウンドブラット見つけて読んだんですが、おもしろすぎます。
作者さんはこっちを「錆」と表現してるみたいなんですけど、どっちもメインで
がんばって欲しいです。
232 名前:名無しさん 投稿日:2002年04月02日(火)03時15分27秒
倉庫逝きは嫌なので保全カキコ。
そして続き待ち。
233 名前:名無し読者 投稿日:2002年04月21日(日)22時18分06秒
作者さん・・・俺は待ちますよ・・・
234 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月02日(木)03時47分10秒
緑板のほうには作者さんのレスポンスがあるのにこちらは一向に音沙汰
ないということは存在すら忘れられてる?
あちら以上にこちらを楽しみにしているのですが・・・
235 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月04日(土)05時46分05秒
同じく待ちます。
236 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月06日(月)13時27分09秒
上に同じく、待ってます。
237 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)00時52分51秒
いつもの川原の斜面のいつもの場所に、いつものすっと伸びた赤い背中が
川を向いて座っている。
頭が少し上下に揺れている。
きっと大好きなパンをよーく噛みしめているのだろう。

私はため息をつくと、背を丸めて下り坂を歩いた。
彼女との距離がつまり、呼びかけようかどうか戸惑っている間に私の後ろから
「ゴトーさぁん」
柴ちゃんが元気な声を出した。
238 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)00時54分57秒
 かつて名乗った偽名で呼ばれたベーグルさんはピクリと肩を震わせて振り返った。
 口をモグモグさせながら柴ちゃんと飯田さんにサンドイッチされた私を見て、
 お魚の骨が口に残っているような表情をした。

 飯田さんはとぼけ顔のベーグルさんを眺めてふうんと呟いて
「これが石川の宝塚?」
「飯田さん!」
 肩に回された飯田さんの腕を振り落とし、ぐっと握った両拳を上げて抗議する。

「いきなり訳のわかんないこと言わないでください」
「思ってたよりカワイイ系なんだ。もっとこうキリリとした――」
 言って、両方の眉を指で引き上げる。
「――きつめの娘を想像してたんだけど」
「……こんな感じですか?」
 ベーグルさんは口をきっと真一文字引き締めて上目遣いに飯田さんを見た。
239 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)00時57分07秒
「そうそう、そうすると五割増ハンサムに見える」
「へへぇ。ハンサムですかぁ」
「くだらないこと言ってないで。ベーグルさんもやらないの!」
 二人の間に割って入ると、飯田さんは疑問符つきの素っ頓狂な声を出した。
「べーぐるさんって何さぁ?」
「あたしです」
 ベーグルさんが右手をぴょこっと上げた。
「ベーグルばっか食べてるから。ほら」 
 左手でパン屋の包みを掲げてみせる。

「ははぁ、石川のネーミングでしょ。センスが直球最悪だから」
「もー、なんですかー!」
 上げっぱなしだった拳を使って、飯田さんの肩の辺りをぽこぽこ殴ると、
 飯田さんは人差し指で私のおでこをピシピシ弾いて応戦してくる。
「二人とも、仲いいんだから」
 柴ちゃんはのんびり言って、ベーグルさんにいいお天気ねと話し掛けていた。
 ベーグルさんもいいお天気ですねぇとゆったりとした言葉を返し、
 目を細めて川の上のはるか高くをゆく大きな入道雲を見上げた。
240 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時00分40秒
 飯田さんは名前だけの簡単な自己紹介を済ませると
「で、ベーグルさんはゴトウさんでしょ?」
 確認というよりも親しみを表現するような隔てない声で彼女の偽名を読んだ。
 ベーグルさんはほんのちょっと顔をしかめると、
 大きな瞬きをしながら「うん」と「うーん」の間のような唸り声を出した。

 ベーグルさんらしくない不器用な応答にどぎまぎしながら
 飯田さんたちの様子を窺う。
 だけど飯田さんたちは、ごく自然に肯定と受け取ったようだった。

 私はベーグルさんの隣りに、飯田さんと柴ちゃんは私達を挟み込んで
 横並びに芝に座った。
 ベーグルさんは柴ちゃんに傘を返すと、ベーグルの入った紙袋も手渡した。
 紙袋はみんなの手を回り、一人一つのベーグルを手にして川に対面する。

 場が一段落したところで、私は断りも無く連れて来てしまった
 ――私からすれば、断りきれずに勝手についてこられてしまった――
 二人について説明を始めた。
241 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時04分18秒
 文化祭の衣装を届けに音研部室に行ったこと。

 部室には飯田さんと柴ちゃん、三年生の部長さんと音研顧問の山崎先生がいて、
 公演の時に使う音素材の録音作業をこなしていた。
 作業が終わると部員たちはそれぞれの衣装に着替え、
 山崎先生を含めての記念撮影を行った。
 そうして音研の夏休み部活はお開きになったのだった。

「衣装が記念撮影に使いたかったんだって」
 卒業をまじかに学校を辞めるという部長さんの事を私は何も知らない。
 柴ちゃんや飯田さん、特に、同学年の飯田さんには様々な感慨があるに違いない。
 今日の写真が卒業アルバムにも載る事はないだろう。
 でも間違いなく、これこそが今年の音研の卒業写真になるはずだ。
 わかっていたから、撮影役の私は幾度もアングルを確認して慎重にデジカメのボタンを押した。
242 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時07分02秒
「暑いさなかにタキシードのお届けご苦労様でした」
 柴ちゃんから鷹揚にねぎらいの礼を受ける。
 柴ちゃんのふとした時に出るこういった言動から、
 年より上の大人びた雰囲気を感じることがある。
 逆に、見た目から大人びている飯田さんの方が
 子供っぽいことを平気でやらかしてくれる。

 撮影後に衣装を返してもらい、そのまま川原に向かおうとしたところ、
「ゴトウさんに貸した傘を受け取りに行くんなら、私が直接受け取った方が早いじゃない」
 と正論を言ったのは柴ちゃんで、
「石川のデートの相手が見たい見たい見たい」
 と駄々をこねたのが飯田さんだ。

 ベーグルさんと過ごせる一刻一秒を大事にしたい時なのに、
 私は駄々っこに押し切られるような形で二人を連れてきてしまったのだ。
243 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時12分20秒
 経緯を聞き終わったベーグルさんは
「オンケンってなんですか」と基本的な質問をしてきた。
「音楽研究会の略。同好会だよ。歌って踊れる高校生活をエンジョイするの」
 飯田さんが説明をすれば、柴ちゃんが
「飯田さんは踊れないじゃないですか」と茶々を入れる。

 ベーグルさんは音研師弟漫才を目の当たりにして楽しそうに微笑んだ。
「いいですねぇ。あたしも音楽好きですから。
 今日はどんな曲を録音してきたんですか?」
 初めて会う飯田さんにもいつもとおんなじ顔で、
 おんなじ声で愛想良く接してみせるベーグルさんだ。
 ちょっぴり悔しくなり、そんな風に感じてしまう自分にも悔しくなる。
244 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時13分56秒
 『えー、と』と質問に答えかけた飯田さんの声の上から、私は強引に話を重ねた。
「夜空のムコウとか、ベストフレンドとか、あと、なんか綺麗な洋楽」
 言葉をさえぎられたのに気を悪くしたのか、
 飯田さんが大きめのはっきりした声を出して
「The Sound Of Silence」
 英単語を喋った。

「中学の教科書に乗ってるぐらいの曲なんだけどね。石川知らないのかな?」
 意地悪な目を流してくる。
 私の中学校時代では習った覚えはない。
 素直に知らないといえばいいものを、
 ベーグルさんの前で得意げに言ってくる飯田さんにいつもよりも強い苛立ちを感じてしまい、
 私は噛みついた。

「飯田さんの英語の発音が悪くて曲が分りませんでしたぁ」
 歌い手の二人が『英語は音が出せない』と愚痴をこぼしていたことを
 踏まえての挑発だ。
「なんだと、こいつぅ」
 と、飯田さんは頬を膨らませて私を睨む。
「十月の文化祭までに発音直るんですかぁ?」
 なおも軽口を続ける私を制したのは、
「その曲を歌うのは来年じゃないんですか?」
 ベーグルさんの不思議そうな問いかけだった。
245 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時17分16秒
 わずかな間の沈黙が生まれた。
 柴ちゃんたちにもベーグルさんの前情報があったためだろう。
「はあ、これが石川を泥棒扱いから助けた名推理」
 飯田さんが目をぱちぱちさせる。
「なんで、そう思ったの」
 飯田さんが聞くと、ベーグルさんは弱った顔をして見せた。
「いや、だって。話の流れでなんとなくわかるじゃないすか」
「わからないって。なんかこう面白い理屈聞かせてよ。
 探偵マンガみたいな面白い奴がさぁ」
 飯田さんの無邪気で無茶な要求に、ベーグルさんはうーんと腕組みをしてた。

「本当になんとなくなんですけど――」
 ベーグルさんは口をむぐむぐさせて視線を宙に浮かせた。
「Sound of Silenceも夜空のムコウもベストフレンドも、
 卒業式で歌う定番ソングだし。
 それにもう、夏休みもあと少しで終わりじゃないですか」

 その時私達の間をささぁっと流れていった風は
 ベーグルさんの言葉を裏付けるようにひんやりとしていてた。
246 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時28分58秒
「今の時期に学校を辞めるって話なら、二学期から学校には来ないんでしょう。
 だったら夏休みの終わりの今の時期に録音してるのは、
 今年度部活の終わりの部分――」
 柴ちゃんが上品な仕草で口元に手を当ててうんうんと頷いた。
「卒業式ごろだね。へぇ。綺麗にオチがつくもんなんだ」
 落語を聴き終えたようなことを言う。
「うん、正解。今日は卒業公演の音を取ってたの。
 弦楽器弾けるのが部長だけだったのよね。
 それに男性の声も私達には絶対出せないから」
「悔しいなぁ。なんで女には男の声出せないんだろ」
 飯田さんが喉を押えて舌を出してみせる。

「少ない部員、出せない音、出来ない楽器。
 この三年間やりたいことは一杯あって、やり足りないものがもっと一杯」
「もう一年私とやります?」
 柴ちゃんの誘いに飯田さんが眉をしかめた。
「よしてよ」
「でも、二年の間で飯田さんと私の二人だけでステージで歌うの、
 Sound of Silenceが初めてですね。実は結構楽しみ」
 柴ちゃんが見えないピアノに指を下ろしてラララ、と声を出して演奏を始めると、
 飯田さんが低い声で英語の歌を呟きだした。 
247 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時31分05秒
 卒業式は夏休みの終わりのずっと向こうにある。
 思いを馳せるにはまだ遠すぎる季節だと思っていた。
 けれど飯田さんの囁くような歌を聴いて、そこに柴ちゃんが重ねる声を聴いて、
 目も合わせずに声を合わせる二人のメロディから、
 割れた皿のように音が欠け抜けてしまうのだと思うと、急に切なくなってきた。

 うつむいて歌を聴く。
 真昼の太陽が草の葉に跳ね、芝の上に緑色の光を散らせている。
 歌は程よい箇所で切り上げられた。
 目を上げると、頬杖をついて私を見ていたベーグルさんに気がついた。
 ベーグルさんは私の胸に生まれた隙間を見とって肯定するように、こくりと頷いた。
248 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時41分27秒
 音研の二人が立ち去ると、ベーグルさんはパンを咥えたまま鼻歌を歌い始めた。
 もごもごとこもっているけれど、まぎれも無く柴ちゃんたちが歌った
 Sound of Silenceのメロディだ。
「歌えるんだ」
 聞くと、ベーグルさんはパンを口から外して
「英語の歌詞は知らないけどメロディは知ってる。有名じゃん」
「どうせ私は、知らないもん」
 いつもの調子で拗ねてみせた私を、ベーグルさんは苛めてこなかった。
 パクパクと勢い良くベーグルにかぶりついて、
 半分ほど残ったパンを二、三口で片付けると、手についたパン屑を叩いて落とす。

「音楽好きの知り合いがいてさ。カラオケで昔の洋楽歌っちゃうようなイヤな奴」
 イヤな奴、の所をベーグルさんは不自然なほど明るく笑って言った。
「あたしはこんな陰気な歌好きじゃないんだけど、自然に覚えさせれらたというか」
「陰気かなぁ。陰気って言うより、静かな曲って印象なんだけど」
「だってこの歌の歌詞、すごい暗いよ」
 不快そうに口を尖らせる。
249 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時43分52秒
「『みんなは誰にも歌われることのない歌を書いてるばかりで、
 僕の声は誰にも届かないで穴に沈んで終わり』――とかって感じだったような」
 ちょっと聞いただけでも、かなり救いようがない。
 そんな歌詞を、柴ちゃんたちは低い囁くような声を重ねて歌っていたのだと知ると、
 歌への印象も大分変わってくる。
「ああ――なんか、終わってる歌だったんだ」
「終わってる、終わってる。地下鉄とかガン――病気のガンだよ。
 そんなの暗い言葉ばっかで出来てた歌。そういうのあたしは好きくない」
「なんで卒業式にそんな歌、歌うの?」
「『卒業』って映画の主題歌だったんだって」
「それだけ?」
「それだけじゃないの?」
 ベーグルさんは興味なさそうに言うが、
 そんな理由で孤独を抱え込んだ歌を門出の式で歌うだろうか。

 学校の決めることなら、あるのかもしれない。
 綺麗な名曲という理由だけで、式典で歌わせることもあるかもしれない。
 でも、音楽を愛する音研の、飯田さんと柴ちゃんたちが卒業公演にと選んだ曲なのだ。
250 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時47分15秒
「ね、もう一回全部歌って見せて。どんな歌だったかもう一回聴きたい」
「やだよお。嫌いな歌だっていったじゃん」
 にべもなく断られ、いいもんなら一人で歌うもん、と意地を張った。
 覚えてもないメロディをいい加減な鼻歌にしてフンフンと歌っていると、
 突然、横から声が加わってくる。
 聴いちゃいられないとでも思ったのだろうか、
 ベーグルさんは音程を修正するように私の声の上から声を重ねてきた。

 ベーグルさんが先導するもの悲しいメロディに着いて行きながら、
 私はこの歌のことをずっと考え続けた。
 Sound of Silence。沈黙の音。誰にも届かない歌。届かない声。
 まるで先のないような不吉な歌を卒業の歌に選んだ飯田さんと柴ちゃん。
 物憂げな顔で静かな主旋律を繰り返すベーグルさん。
 一つ一つを順繰りに思い浮かべて、ああ、そうだと思い当たった。
 これはきっと願いの歌だ。
 どこかの誰かに声を届けたいと、見えない闇の向こうをじっと見つめるような歌だ。
 届け、届けと思いを込めて歌うのならば、旅立ちの歌もなるだろう。
251 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時50分42秒
 合唱が終わった。
 ベーグルさんはウエストポーチを枕にすると芝の上にごろりと寝転がった。
「あー。あんなの上手い歌の後に、
 なんで石川さんとなんかと歌わないといけないんだよ」
「石川さんなんかってねぇ……」
 どんどん口が悪くなってくる天使には嬉しさ半分、憎さ半分と言ったところだ。
 ところで、とベーグルさんは私の方へと顔を向けてくれると、
「今日のメンツは美人ぞろいだったねえ」
 その上どうしようもないことを言ってくる。
「何ニヤニヤしてるのよ。やらしい」
「だって綺麗なお姉さん、好きだしぃ」
「やだぁ。言い方がオジサンっぽい」
 ハンサムな宝塚少女も、沈黙の音を嫌う憂鬱な少女も、すうっと煙のように消えてしまい、
 ひょうきんな愛嬌ものが傍に残った。 
252 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時51分16秒
 本当に変な娘だと思う。
 瞬間で周囲の空気を替えてしまうベーグルさんの変わり身の早さには感心を越えて呆れさせらる。
 そして強く惹かれてしまう。
 鋭い光を見せることもありながらも、決まった色に留まらない。
 まるで太陽の光だ。
 見ていると胸を焼かれるように辛くなることもあるのに、
 それでも彼女から目を離せない。
 もう仕方ないのだろう。この熱病は錯覚じゃない。
253 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時57分03秒
 胸の鼓動は強く感じられたけれど早いものではなく、
 喉が少し痛むけれど呼吸は穏やかだった。
「でも、やっぱり私はベーグルさんのこと好きだなぁ」
 自分で驚くほどすらりと口に出たが、言われた方はもっと驚いたようだ。
「それは――どう受け取ったらいいのかなぁ」
 ベーグルさんの目は雲の上に逸らされた。
 わざととぼけた声を作っているのが良くわかる。
「別に。ただ好きだなぁって言っただけじゃない。
 前にベーグルさんも私のこと好きって言ってくれたでしょ」
「んなこと言ってないよ。嫌いじゃないっていっただけじゃん」
「私はベーグルさんが友達じゃなくても好きなのになぁ」
 ベーグルさんのほんのり染まった頬を見て、自分の頬の熱さにも気付かされる。
 戸惑う彼女を眺めていると心地よい胸騒ぎがして、ちょぴり愉快だった。
254 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)01時59分26秒
 歌いながら考えていた空想が、今は直感出来るものに成長していた。
 私の声は彼女に届いている。
 彼女も私に声を届けようとしてくれる。
 ただ、私達の間には暗闇が横たわっていて、
 私が見えない向こうに呼びかけても、
 ベーグルさんは闇を越えてこちらに出てきてくれはしない。
 
 けれども、今、私たちは隔たりを越えて見詰め合っていた。
 私の前には苦痛を耐えるように顔を歪めた少女がちらりと見えた。
255 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時04分49秒
 ベーグルさんのついたため息と共に、悲しげな少女は消え去った。
「……あたしで遊ばないの」
 ベーグルさんは暗幕を降ろすように瞼を下ろした。
 そうしてゆっくりした瞬きをすると、苦笑する。
 また、逃げられた。
「年下の女の子からかうなんて、趣味悪いよ、おねーさん」
「年下?」
 新たに提出された事実の方に気を取られた。
 挑発するようにニヤリとされる。
「私より年下ってベーグルさん、ひょっとして中学生?」
 大きくて凛々しい眼のためか、無邪気に笑った時も大人びた落ち着きが残る顔立ちをしている。
 ころころ変わる態度の端々を見ていてもそう年上には思えなかったけど、
 年下には見えなかった。
「うそっ、ねぇ、また嘘ついてるでしょう?」
「またって、あたし石川さんには嘘はついたことないじゃん」
 自称天使が恥かしげもなく言ってみせた。
「柴田さんにはついちゃったけど。あたし、いつまでゴトーさんなのかな」
 それはこっちが聞きたい。
256 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時12分33秒
 柴ちゃんの話から、音研の話に戻った。
「部長さん三年生でしょ。この時期に学校を辞めるなんてさ、理由はなんなの?」
 考えようによってはシリアスな話題を、ぽーんと無造作に口にしてくる。
 部長さんとはさほど親しいわけでなく、
 向こうは私の顔を覚えていないかもしれないというぐらいの仲だ。
「それが、わかんないのよ」
 私も、世間話をするような気楽な調子で答えた。

「わかんない?」
「飯田さんたちが教えてくれないの。
 部長さんの妹さんが同じ学校にいるから、あんまり話を広げると迷惑になるとか」
「そんなんで、クラスメイト達にはどうやって通したの?」
「家庭の事情、で終わりだって。親しい人たちにもぎりぎりまで明かさなかったみたいだし」
 だから、音研の録音作業は急ピッチで進められたらしい。
257 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時16分14秒
「ね?ベーグルさんはどう思う?」
 私が身を乗り出すと、ベーグルさんは私の鼻の上を指差した。
「さっきの飯田さんとおんなじ目をしてる」
「え?」
「面白いこと言ってみろって。あんたらはあたしを何だと思ってるんだよ」
「何って、面白いことを言う人」
「ひどいなぁ」
 ベーグルさんは楽しそうに笑うと、生真面目な顔を作って、
「どう思うも何も、それじゃなんだって思えますけど。
 急にインドに修行に行きたくなったのかもしれないし、
 家で金属バット振り回して勘当喰らったのかもしれないし」
「部長さんはそんな感じの人じゃないよ」
「だから、どんな感じの人か知らないよ」

 私は飯田さんから写真屋さんに出すように頼まれていたデジカメを取り出して見せた。
「こんな人」
 カメラの後ろの小さなモニターに画像を再生させると、
 芝に寝転がっていたベーグルさんは身を起こして覗き込んできた。

 音研の黒板を背景にして前列には部長さんと山崎先生が椅子に座り、
 後列の両端に柴ちゃんたちが立って台形状に並んでいる。
 ベーグルさんは部長さんを見て、バットよりうちわを持って扇いでそうな人だねと言った
258 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時21分44秒
「このおねーさんは?」
 ふわりとやわらかそうな白い生地のワンピースを来た山崎先生を指差す。
 夏休み中だからなのか、普段のスーツ姿とは違ったカジュアルな装いをしていた。
 その上からフェイクファーや造花を飾り付けられている。

「それは音楽研究会の顧問の先生。衣装の残りで仮装されちゃってるけど」
「ふーん。若いし綺麗なおねーさんだね。羨ましいなぁ」
 綺麗なおねーさんが羨ましいのか、綺麗なおねーさんが先生なのがいいのか。
 先ほどからの態度からして、恐らく後者だろう。
 美人とベーグルに目のない天使なんてあるのだろうか。
「なんか写真の並び順、変だね」
 解けたアイスキャンディーを見るような目で彼女を見ている私に気も止めず、
 画像の真ん中に指を当てて丸を書いた。
259 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時23分22秒
「どこが?」
「部長さんと先生が妙に近づいてて、部員たちとの距離の方が遠いような感じ」
「そう言われると……。でも普通先生は前の真ん中だし、部長さん主役だし」
「まあね」
「これからフツーにわかることは、部長さんは悪い学校の辞め方じゃないだろうって事ぐらいかなぁ。
 先生と友達と仲良し写真撮ってるぐらいだもん」
 ベーグルさんがモニターを指で弾いたので
「やだ、傷つく」
 カメラを胸元に引き寄せて、独占状態で写真を眺めた。

「なんか家族の写真みたい」
 長女、長男、次女に三女。
 写真館にパネルにして飾ってある写真のようだ。
「家族ねぇ」
 ベーグルさんは寄って来ると、再び山崎先生を指差す。
「あたしには結婚式の写真に見えたんだけど」 
260 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時27分54秒
 面白い話ではある。
「部長さんがお婿さんで、先生がお嫁さん?」
「そ。飯田さんと柴田さんは付き添いのお姉さん」
「結婚写真に付き添いのお姉さんがつくの」
「それじゃ両家の両親か仲人のおばさん」
「それじゃ飯田さんたち怒るよ」
「どうかな?ありえない?」
 首をかしげて尋ねてくる。

 本気で聞いてるのだとわかって、私は絶対ないないと手を横に振った。
「めちゃくちゃなこと言ってるよ」
「タキシード男と白いワンピースの女が並んで座ってりゃ男女のカップルに見えないこともないでしょ」
「ベーグルさんは教室で先生を見たことないから、そんなこと言うんだよ」
「そうかなぁ」
 ベーグルさんは自分のスカートの腿のあたりに引っ付いていた芝生を摘み取りながら
「だったら逆に、石川さんが先生を教室でしか見てないからでしょ」
261 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時29分05秒
 逆もまた真なり。
 和田先生の口癖が耳に蘇ってきた。
 私の見方も『あり』ならば、ベーグルさんの見方も『あり』だろう。
 ありだなとは思っても、私にはベーグルさんの見方は素直に受け入れられない。
 私のそんな性質が、柴ちゃんの和田先生への態度の変化を受け取って不安を感じさせたのだろう。
 本当は好きなら好きと強く単純に考えたいのに、
 十六年間生きてきた私の価値観が、私の意思の邪魔をする。

「でも、それがそうだとしたら、柴田さんは複雑だね」
 ベーグルさんも柴ちゃんのことを連想したようだ。
「目の前で先にやられちゃうと、色々考えちゃうだろうから」
262 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時31分09秒
 柴ちゃんの恋心を阻んでいる障壁があったとして、
 それを別の恋人達が越えていったとしてだ。
「それがそうだとして、それもそうだとしたら――」
 想像しようとしてみた。
 学校を辞めてまで和田先生に思いを受け止めてもらおうとする柴ちゃん。
 途端、湧き出てきた嫌悪感が私の想像を中断させた。

「でも柴ちゃんは、変わらないんじゃないかな。
 急いだり焦ったり悩んだりはしない気がする」
「石川さんが柴田さんに変わって欲しくないって思ってるだけじゃないの」
 躊躇いを見抜かれた。手厳しいことを言われてしまう。
「人は変わるよ。何かのきっかけで別人になれる」
 ベーグルさんは右手に顔を落とし、ゆっくり握ったり開いたりしていた。
「天使にも泥棒にも殺人犯にもなれる。やる気になれば、なんだって出来る」
 そして、寒々とした顔をゆっくり上げると、にっこりと笑った。
「なあんて、ね。そう思わない?」
263 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時33分34秒
 緊張で胸に固まっていた息を吐いた。
「でも、私は……人間はそんなに急に変われないと思うな」
 ベーグルさんの顔色をうかがいながら恐る恐る言ってみた。
 白い顔をぼぉっと向けている彼女にほっとして続ける。
「何かがあって、それで柴ちゃんの様子が変わったとしても、
 今までの穏やかで慎重な柴ちゃんがいなくなっちゃう訳じゃなくて――」

 柴ちゃんのことを言いながら、ベーグルさんのことを重ねて考える。
 万華鏡のように色を変える少女。
 天使をやっている彼女も、傷痕を覗かせる彼女も、どちらも私の隣りにいた。
 静寂の闇に隠れている彼女に会うために、私はそれこそ人が変わったように
 一生懸命に彼女の後を追ってきた。
 それなのに、まだ、彼女の手を捕まえることが出来ていない。
 輪郭が砕けてきた入道雲を見上げると、時の流れが押し寄せてくるようで息苦しくなった。
 この先は一体どこへ行けばいいのだろう。
 呼び声を聞かせてくれれば、どこにだって行って見せるのに。
264 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時34分14秒
 口を閉じてしまった私に、ベーグルさんが体を傾けて尋ねてきた。
「なに、考えてるの」
 私は答えた。
「あなたのこと」
 
 空の色は涼しげな青に薄まり、そよ風はほんのりと冷えている。
 夏の別れを予感させられる日に、私は彼女の名前を知った。
265 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)02時35分35秒
今回更新
>>237-264
266 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月08日(水)02時43分36秒
ついに梨華ちゃんがベーグルさんの正体を知ったということなんでしょうか?
にしても、続きが楽しみです。
ってか、更新ありがとうございます。
267 名前:イヌきち 投稿日:2002年05月08日(水)02時53分27秒
ほんとうに長くかけてしまいました。
待ってくださった方々には申し訳ないとしか詫び様がありません。
第三話 終了です。

かなり前に書いた「アクシデント」というのは、
後々の話の展開を害する余計な内容を書き込んでしまったことでした。

少しの手間で直せるかと思っていたのですが、
結局かなりの部分を考え直すことになってしまいました。
そのためチグハグな部分も生まれてしまい、後悔するところが多多あります。

ですが、今回は自分の中では余りやらないことなど
いろいろと考えてチャレンジできましたので、
書いている方はそれなりに楽しめました。


次回のことはまだわかりませんが、次の投降時にはageます。
それまで沈めておいてくださるとありがたいです。

こんなに間が空いているのも関わらず、読んでくださった方、
レスをつけてくださった方、本当にありがとうございます。
268 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)04時22分25秒
ずっと待ってました。
何気ないやりとりに、心の揺れ動く様
相変わらず描写が秀逸です。ブランクを感じさせませんね
269 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年05月08日(水)21時42分31秒
待つのが何よりキライな自分がずっと待ったこの作品。

(^▽^)<お帰りなさい!!

ホントに・・・多くの方が言うように、作者さんの表現力には脱帽です。
『ハウンド・ブラッド』も読んでますが、登場人物の繊細な心の動きなど、
いつもスゴイ、と思って読んでます。
いつまでも待ちます!続き期待!!
270 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月08日(水)23時01分18秒
待ちわびてました。更新感謝!
相変わらず謎だらけだなべーぐるさん。正体を知りたいような、
知りたくないような。別れは来て欲しくないし…。
271 名前:名無し盛り 投稿日:2002年05月08日(水)23時29分38秒
よかった・・・更新してくれた・・・
安堵、今はそれが正直な気持ちです。
続き期待してます。相変わらずおもしろい。
272 名前:海月 投稿日:2002年05月09日(木)23時29分10秒
更新お疲れさまでした。
待っていた甲斐がありました。

夏を感じさせる描写も、まさにプリズムの様に変化するベーグルさんの描写も
ドキドキして読んでいて本当に楽しいです。
やっぱりこの小説大好きだなーって思いました。
続き、これからもずっと楽しみに待っていますね。


273 名前:___ 投稿日:2002年06月13日(木)16時18分49秒
自己保全
274 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月16日(日)23時48分18秒
よかった、放置じゃないんだ…。
心の底から安堵。
275 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月26日(水)14時47分38秒
昨夜、夜中までかかって全部一気に読みました。
今まで読んだ娘。小説と違う次元の創作世界に驚くばかり。
作者様にお礼を言いたい気分です。
今更ながら(?)こんなに良い作品に出会えて幸せです。

とりあえずお昼はベーグル買ってきました…。
276 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月27日(木)23時29分00秒
某所で話題になっていたので読んでみました。
作者さんがんばってください。
独特の雰囲気で面白いです。
277 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月12日(金)22時08分53秒
そろそろ禁断症状がぁ・・・なぁ〜んて、
ゆっくりと待っています。
278 名前:空唄 投稿日:2002年08月02日(金)18時39分27秒
緑の方で生存は確認させていただきました。
こちらの方も待ってますよ。
279 名前:277 投稿日:2002年08月15日(木)12時41分13秒
この小説の吉が好き。
じ〜っと、待ちます。
280 名前:名無しちゃん 投稿日:2002年08月16日(金)20時08分26秒
いっきに読ませていただきました。
読みだしたら止まらなくなってしまって…すごくおもしろかったです!!
いつまでも待ってます。
281 名前:たけのこ 投稿日:2002年08月24日(土)12時53分32秒
すっごい好きです、この作品!!!
ずっと待ってます。
282 名前:白い世界 投稿日:2002年09月01日(日)04時58分17秒
季節が変わり、町は変わった。
川原にテニスコートが完成し、雑草生い茂る草原には芝が植えられた。
河川敷公園の端、丸く削られた石のベンチに腰を下ろしてコートの前を合わせる。
冷たい風に茶枯れた芝の上に、あの夏の残影を見た。
優しい天使はもういない。

<白い世界>
283 名前:白い世界 投稿日:2002年09月01日(日)04時59分30秒
「最近元気がないねと友達が肩を叩く」
 歌いながら近寄ってきた柴ちゃんに肩を叩かれた。
 そのまま首に腕を回して絡めてくる。
 残暑厳しいお天気だというのに、クーラーにでも当たっていたのか柴ちゃんの腕はひんやりしていた。
 二人の体を寄せ合うようにして廊下を歩き始めると、柴ちゃんは歌の続きを再会した。
「寝不足かな、食べ過ぎかな、それとも恋わずらい」
「何の歌?」
 尋ねると、軽快な歌を止めてにっこり笑った。
「さっき作ったの」
 そして私の手を掴み、軽く振ってリズムを取りながら歌い続けた。
「四時間目は音楽だったの?」
 問いかける。
 柴ちゃんは区切りのいいところまで歌いきってから答えてくれた。
「ううん、体育でマット運動」
 きっと頭の中を音符だらけにして前転なんかをしていたに違いない。
「歌作りが音研の宿題でね。部員の受けがよければこの歌文化祭で歌うかも。
 さぁて、何食べようかなぁ」
 昼休みなのだ。私たちは学食へと向かっていた。
284 名前:白い世界 投稿日:2002年09月01日(日)05時00分52秒
 学食の席が混んでいたので、パンとジュースを買って外に出た。
 パラソル付きの席があるテラスは、学食の効き過ぎるクーラーを嫌う人たちですっかり占領されている。 
 日射しで熱々になったベンチに座る気にはなれないので、仕方なく日陰になった場所を見つけて陣取った。
 木陰の芝生に腰を下ろす柴ちゃんを見て、柴ちゃんが芝に座った、なんてくだらないことを考える。
 イチゴミルククリームサンドとパンケーキを半分に割って食べ始めると、
 ほどなく柴ちゃんが話しかけてきた。
285 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時01分28秒
「ゴトウさん、元気?」
 乾いたパンが喉に詰まるような感じがした。
 ミルクティのペットボトルを口にしてから答える。
「元気だよ。なんで?」
「うん、なんででもないけど」
 聞いてきた柴ちゃんはパンをかじりながらサザエさんの歌を鼻歌で歌った。
「梨華ちゃん、元気ない?」
「あー……暑いからかな。夏バテ気味」
「本当に暑いよねぇ。プーさんがホットドックになっちゃいそう」
 プーさんは森のくまさん、ではなく柴ちゃんの家の犬のことだ。
 毛がふさふさした小型犬の雑種で、
 暑い季節になると日陰に籠もって日中の散歩を嫌がるほどになる。
「こんなに暑いと、海にでも行ってプーさんに水浴びさせたくなっちゃうな」
 柴ちゃんはいたずらっぽくクスクス笑った。
 プーさんは水が大嫌いのカナヅチ犬だった。
286 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時02分47秒
 最近の柴ちゃんのテンションは紐から離れた風船のようにふわふわ浮いていて、
 私は少し切なくなる。
 二学期になると、音研の顧問だった山崎先生は学校を辞めていた。
 何かの折りに、飯田さんがぼそっと話してくれた。
「年内に和田先生と結婚するからってさ」
 夏休みの終わりに取った記念写真を見て、
 山崎先生を花嫁さんみたいだと指摘したベーグルさん。
 冗談みたいな話の中からすとんと核心をついてくる。
 そんな察しの良さには呆れるしかなかった。
287 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時03分49秒
 山崎先生を飾り立てて撮影したその記念写真に花嫁への祝福の意図が含まれていたとしたら、柴ちゃんはだいぶ前から二人の先生の仲を知っていたのだろう。
 私が柴ちゃんの、和田先生への特別な態度に気が付いた頃には、気持ちの整理があらかた終わっていたぐらいなのかも知れない。
 私が鈍いのだろう。でも、やっぱり柴ちゃんが大きかった。
 お隣のお姉さんは、いつも穏やかな所しか見せない。
 夜に咲く花のようにひそやかに、私の知らないところで大人になっていく。
 そう知るとなぜか胸の中に寂しさに似た隙間が生まれた。

「どうした梨華ちゃん?」
 隙間を埋めようとする思いが突き上がる。
 そんな感情を伝えたくて、でも何を伝えたらいいのかわからない。
「……柴ちゃんって、いい女だよね」
 苦し紛れに言ってしまうと、柴ちゃんはこれ見よがしに首をかしげて私の額に手を当ててきた。
「梨華ちゃん、夏バテが頭に来たらおしまいだよ」
288 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時04分41秒
 高校生になって初めての夏休みが終わった。
 地元の高校に進んだので、行動範囲ががらりと変わったということはない。
 学校と家と、その間にある河原。
 生まれ育った町中を力一杯駆け回り、厳しい部活動に追われて、
 風変わりな少女と知り合った。
 一日一日の出来事が鮮やかに記憶に残る、長い長い夏休みが終わって一週間がたつ。
 学校が始まるとベーグルさんは宣言通りに河原から姿を消した。
 連絡は未だない。
289 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時06分18秒
 スカートのポケットにあるケイタイの固さがいつも気になっていた。
 我ながら気の長い方ではないと思う。
 待つのは辛い。
 いつまで待てばいいのかというタイムリミットがないのがまた憎らしい。

 ベーグルさんの連絡は、ないかもしれない。
 夏休みが終わったその日から、私は心に予防線を張った。
 あの子は外国に転校してしまう子なのかも知れない。
 元気そうに見えたけれども本当は重病持ちで夏休みをおばあちゃんの家か何かで過ごしていてこれから手術を受けるのかも。
 そんな当てのない話を作って、もし手術が失敗したら――と慌てて想像を中断したりもした。
 馬鹿みたい。
 本当にそう思う。
 待つのが辛いなら待たなければいい。
 理屈はそうだけれど、『はい、これで終わり』なんて旗を振って行列を区切るようには思いは止められない。
 私が選べるのは彼女を待つか、待たないかじゃなかった。彼女を待つか、彼女を忘れるかだったのだ。
 それに気が付いてからは、少し気持ちが楽になった。
 忘却は時の流れに任せるしかない。私はただ、待つだけだ。
290 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時07分53秒
 思惑通り、時間は私を置いてけぼりにして進んだ。
 川原の整備工事が始まった。
 ずらりと重機が並ぶ。足の長い草が刈られて芝生に植え替えられた。
 土手上の歩道の両脇には、街灯と花壇が設置されてゆく。
 がらりと様変わりしてゆく川原を眺めながら登下校を繰り返していたある日、
 ケイタイがSound Of Silenceの音楽を鳴らした。
291 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時09分40秒
 その時は自分の部屋にいた。
 部活後の夕食前のお風呂上がりで、お父さんのノートパソコンを借りて爆弾探しゲームをやっていた所だ。
 見知らぬ番号全てに対応させた着メロに気が付き、ケイタイに飛びつく。
 そうかも。そうじゃないかも。
 期待を込めて耳に当てて
「もしもし」
 返事を待った。
 機械の向こうからはざわざわと町中の喧噪のような音が聞こえた。
 何かをためらうような無言の後、
「……誰よ?」
 低くかすれた女の子の声が聞こえた。
292 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時11分39秒
 私たちは夕食時で混み合う駅前のファミレスで待ち合わせた。
 店の前で一目見たときから、会ったことのある子だと気が付いた。
「前に、道で――」
 窓際の狭い二人席に着き、考え、思い出して指摘すると、少女はああ、と頷いた。
「――『天使さんっ!』の。道ばたで声、かけてきた」
 声を裏返して――私の声まねのようだ――答えた彼女に、恥ずかしさで目の前がぐるりとする。
「いきなり変な声かけてきた変な人でしょ。変なシューキョーの人かと思った。
 ひょっとして変なシューキョーの変な勧誘で――」
「……違います」
 変な変な、を立て続けに連発され、うなだれる。
「私は――」
 何からどこまで話したらいいのか。
 相手も同じ葛藤を感じていたのだろう。
 探るような目つきで私を見た後、
「ええと、自己紹介からさ」
 と切り出してきた。
「ゴトウです。ゴトウ マキ」
「ゴトウ?」
 ベーグルさんの偽名に不思議がると、
「ああ、漢字はこうね」
 腰から取り出したケイタイを使って漢字を打って見せる。
 後藤 真希。
293 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時17分05秒
 互いに名乗りを終えたあと、再び気まずい雰囲気に戻った。
 後藤さんは目を据えてこちらを見ている。
 喉を押さえ込まれた気分になった。
 和やかな会話を拒絶する雰囲気が伝わり、話題の一言目が投げられない。
 機嫌を悪くしたベーグルさんとよく似ているようにも思えた。
 服装もどことなく似ている。
 ジーンズのホットパンツに赤いTシャツ。長い茶髪を赤いバンダナで抑えていた。
 シンプルな形、ポップなデザイン、そして目に焼き付く赤い色。
 ふと、首にかかった銀のアクセサリーに目がいって、
「あ……」
 ペンダントヘッドを指す。
「天使」
 銀なら五枚。
 お菓子の森永の天使マークに似た、翼の付いた裸の赤ちゃんの像が
 後藤さんの首にぶら下がっていた。
294 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時18分27秒
「だから何?」
 後藤さんは不機嫌そうに天使を手にとり、ぷらぷらと見せつけた。
「天使天使ってさ。よっぽどの天使マニア?それともやっぱり変なシューキョーで頭が天国とか」
 こめかみを指して、くるくる指を回す。
「だから違うって……」
 私はへどもどしながらオレンジジュースに刺さったストローをくわえたり離したりしていたが、いくら待っても後藤さんの方から話を切り出そうとはしなかった。
 ただ、真っ黒な目でじっと見つめてくるだけ。
295 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時19分04秒
「――後藤さんは……ベーグルさんの知り合いなんでしょ」
 たまらずに話を切り出すと、後藤さんはけだるそうに口元をゆるめた。
「んん、『ベーグルさん』のね」
 ベーグルさんが誰なのか、説明しなくても伝わったようだ。
 私と後藤さんの間には、一人の女の子しかいない。
「ベーグルさんから私のケイタイを聞いたの?それで電話かけてきたんでしょ?」
 質問じゃなく、確認だった。
 そして「なんでそんなことをするの?」と続けようとしたのだけれど、後藤さんは私の期待を裏切った。
「いや、ケイタイアドレス勝手に見たの」
「え?」
「『ベーグルさん』のアドレスに知らない名前が乗ってたから誰だろうと思って」
 再び黒い目で私を見た。
「いったい、どんな子なんだろうって思って」
296 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時19分55秒
 蜂の巣穴のような目だった。
 奥に何かがうごめいている。薄ら暗い考えが六本の細い足をかき回して動いている。
 大きな羽虫がカチカチ鳴く音を聞いたような気がした。
 今、目の前の子は普通の女の子じゃない。
 獲物を狩る虫だ。
 小さい昆虫を捕らえる機会を伺うように私を見ている。
 私はオレンジジュースのグラスに直に口を付けてクラッシュアイスを含み、かみ砕いた。
 ごりごりと力強く歯を食いしばり、冷たさと怯えを一緒くたにして飲み込み、尋ねた。
「なんでそんなことをするの?おかしいよ」
297 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時20分47秒
 私は本当に何も知らなかった。
 後藤さんはそれを看取ったのだろう。
 瞬きをしたりテーブルの上に組んだ手に視点を下げたりしながら、ゆっくりと態度を解いていき、
「ごめんね。きっと私の勘違いだ」
 丸まったレシートの筒を掴んで立ち上がった。
「後藤さん?」
 ずんずんレジに進んでゆく彼女の腕を掴んだ。
「何それ、全然わからない」
 後藤さんは構わずにお会計をすませて、私と腕を組むようにして店の外に出た。
「可愛いね、そのお洋服」
 笑いながら私の胸の上を一本指でトン、と強く突く。
 私がひるんだその隙に、後藤さんは私の腕を振りほどいた。
 肩を取られて、背中に回られる。ぐいっとファミレスの壁に押しつけられる。
 一瞬だった。
 私が振り返った時には、後藤さんは夕刻の町の中に紛れようとしていた。
298 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時21分47秒
 後藤さんの後ろ姿を見ながら、まず私は突かれた胸に手を当てた。
 指先でノックされたようなものだ。それほど痛くはない。
 ただ、突然のこともあって、杭を打ち込まれたようなショックが残っていた。
 白いカーディガンの布地を握り、突かれた箇所を軽くこする。
 混乱した頭の中で、反射的に今日の洋服のことを考えた。
 ピンクのワンピースにカーディガンのことを、後藤さんは「お洋服」と言った。
 それも原因なのだろう。
 私の服装や態度が後藤さんの審査には通らなかったのだ。
 どんな審査をしていたのかはわからない。
 だけど彼女の虫のような目つきからは悪い想像以外は思い浮かばない。
 別れ際に見せた微笑みが、ベーグルさんと重なって見えた。

 ためらっていたのはわずかな時間だったと思う。
 後藤さんの背中はまだ見えていて、大声を出せば楽に届く距離にいた。
「後藤さん!」
 振り返らない。どころか、早歩きから小走りへと速度を変えられた。
「後藤さん!」
 私は走りだしていた。
299 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時22分47秒
 私の町は、県下一の大きな繁華街の近くにある、古くて小さな町だ。
 古いお店と住宅が多く、未開発の土地もそこそこ多い。
 いつみてもシャッターが降りっぱなしなんだけど営業しているんだろうか、と思うような店の後に、洒落たデザイン家具のお店が出来たりする。
 それは駅前商店街や大通り沿いのお店のお話で、細道が伸びる方には半端に古びた雑居ビルが並んでいて、よくわからないお店が入ったり消えたりを繰り返している。
 らしい。
 らしいというのはつまり、私があまり足を踏み入れないような雰囲気の場所と言うことで、後藤さんはそのような地区に向かって走っていた。
300 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時25分46秒
 この路地に入った最後の記憶は小学校ぐらいの時、腕白な同級生に連れられて、破格でゲームやCDが売っている風変わりな駄菓子屋に入ったこと。
 看板はビルの入り口に貼られた手書きのポスターで、外国語の文字が書かれた段ボールが道に積まれたていた。
 俺のゴヒイキの店なんだぜと胸を張った友達に、あのお店キモチ悪いからもう行かない、と断ると、彼の顔は奇妙に歪んだ。
 その後、大喧嘩をして、私は泣いて帰った。
 どういう経緯があったかは覚えてないけれど、そのうちに仲直りをして、そのうちに疎遠になった。
 今なら、あの時のあの子の気持ちが想像できる。
 すぐ赤くなる彼の顔は、きっと夏の熱のせいじゃない。
 彼が怒ったのもゴヒイキの店をけなしたせいだけじゃない。
301 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時27分20秒
 土地の記憶のブランクを埋めるように、かすれた思い出がわき上がる。
 この町でいろいろな人を傷つけた。
 そして今も、私は誰かを、ひょっとしたら自分を傷つけようとしている。
 見せてしまった後遺症を隠すように消えたベーグルさんと、凶暴な気配を覗かせて逃げた後藤さんを追いかければ、誰かの生傷を握るだろうことに気が付いている。
 それでも私は走らずには入られなかった。
302 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時30分54秒
 記憶の中の薄暗い路地は、今も薄暗いままだった。
 ネオンの明かりや壁に描かれたペンキ絵で、路地の住民の移り変わりを知る。
 道の脇に座り込む男の子、女の子。吸い殻。空き瓶。
 昔よりも足を踏み入れにくくなっていた場所を一息に走り抜けた。
 テニスコートの半分ほど先を走る後藤さんが道角を曲がる。
 遅れて私も曲がると、後藤さんの姿は消えていた。
 足が止まった。
 コンクリートのビルの壁に手をついて息を整えながら、一本道の先の先までじっと見つめた。
 まっすぐで、二人並んで歩くのも難しい、狭い道だ。見失うはずがない。
 冷たいコンクリートに触れながら歩く。
 細道の左右には幾つかお店らしい入り口があったけれど、
 シャッターが降りていないのは、道の右側にある半地下になった入り口だけだった。
 この壁をすり抜けたというのでなければ、ここしかない。
303 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時32分01秒
 毒を喰らわば皿まで。
 飯田さんの後を楽しそうに付いてゆく柴ちゃんがよく使っていたフレーズだ。
 和田先生や柴ちゃんは古い言葉や難しい言葉をよく使った。
 私は皿まで、皿まで、と心で呟きながら、入り口の鉄扉を押した。
 半地下の入り口は階段途中の踊り場につながっていた。
 上の方からわずかに日光が差し込んでいる。ここは地下一階への途中だろう。
 階段の上下方向、両壁にはバンドの紹介やライブ告知のチラシがびっちりと張られていて、
 その上から地下の方を指す矢印のポスターが貼られていた。
 黒地に赤字のポスターには、店名のような物も書かれている。
 ひょっとすると、ここはクラブという場所ではないだろうか。
 降りてゆくと突き当たりに、ガラスで区切られた映画のチケット売り場のような物があり、
 中には二人の女性がいた。
 半袖の黒いシャツを着た方は、女の子というにはややとうの立ったお姉さんで、
 赤いハート柄を細かく散らせたチューブトップを着た女の子がふざけた様子でお姉さんに話しかけては、
 軽く追い払われているようだった。
304 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時34分04秒
 歩き近づく私にお姉さんの方が気が付いた。
「すいません、まだ店は準備中なんですよ」
「あの、ここに女の子が来ませんでした?」
 尋ねると、ハートの子がひょいっとお姉さんの前に顔を出す。
「はいはいっ、後藤さんのことですかぁ?」
 上がり調子の元気すぎる声に、私は一瞬たじろいだ。
「あ、はい、ご存じなんですか」
「はいはいっ、ご存じですよ」
 邪魔や、とお姉さんは関西弁を覗かせて、目前をふさぐ女の子の頭を両手でどけた。
「なに?後藤来たん?」
「平家さんがトイレしてるときに見ましたよ。だっーって、搬入口の方に出ていきました」
「アンタなぁ、それ侵入者やで。止めな」
「そな言ったって、止められっこないです。後藤さんですよ?グーパンですよ?」
「なんやグーパンって」
「マジグーなパンチのことです」
「マジグーってなんや。ピングーの彼女かなんか?」
「それはピンガちゃん。あれ?ピンガは妹さん?」
「わからんって。ピンガって酒とちゃうん?」
「そんなの私がしりませーん」
305 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時35分20秒
 私の目の前を怒濤の勢いで関西圏リズムの会話が流れていく。
 ピンポンラリーが続く二人の話にあのぉ!と語気を強めに割り込んだ。
「搬入口ってどこですか?」
 平家さん――黒いお姉さんが元気な松浦さんを押しのけて小部屋から出てきた。
 私が降りてきた階段を指す。
「アンタが入ってきたのが『一般入り口』。お客さん専用の出入り口な」
 女の子との一悶着の後だからか、平家さんの口調はラフなものに変わっていた。
「店の中にも外へ通じてる出入り口が他にも二つあって、その一つが『搬入口』や。
 食材の搬入とかに――」
 長く続きそうなお話に、もう一度、あのぉ!と声を上げる。
「場所だけいいんで、教えてください」
「あー、な。だから。食材搬入だから厨房の脇に――
 せや、後藤が出ていったんなら鍵締めとかなあかんやんか」
 平家さんは役者さんのような上手なタイミングでぽんと両手を叩いた。
306 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時37分45秒
 店内に入る平家さんの後を無言で追いかける。
 お店の中は薄暗く、モノクローム・プラスチック調で統一されていた。
 全てのデザインがほどよくシンプル。
 大きなスピーカーと電気コードがうねうねと乗ったステージさえなければ、
 会社帰りの大人が通う、おしゃれなカフェ&パブのようだ。
 そんなものはテレビでしか見たこと無いのだけれども。
 それなのに、後藤さんとベーグルさんが目の前のテーブルに着いてくつろいでいる風景は
 簡単に想像ができた。
 私の門限がとっくに過ぎた時刻に集まって、お酒なんか飲んでちゃったりして。
 そばに男の子なんかいちゃったりして。
 私の知らない世界で綺麗に遊んでいるベーグルさんを想像して唇を噛んでいると、背後に気配を感じた。
 振り返る。
「どうもー、松浦でーす」
 女の子はにっこり笑いかけてきた。
307 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時39分02秒
「あの、おねーさんは後藤さんのオトモダチなんですか?」
「あ、はい」
 無難に肯定したら、松浦さんは顔に揺るぎない笑顔を貼り付けたままで、
「なんでオトモダチが追いかけっこしてるんですかぁ?訳ありっぽいですねぇ」
 挨拶に見せかけた誘導尋問だ。
「訳ありって……別に。なんでそんなこと」
「搬入口って、お客さんがケーサツの人から逃げるのによく使われるんですよね」
「――警察?」
「補導員や」
 前に進んでいた平家さんが話に入る。
「未成年のやんちゃもたまーに――ああ、やっぱりあけっぱやった。ドアまであけっぱやん」
 平家さんはバーカウンターの横の黒い鉄扉の前に立ち、鍵束から一つの鍵を選んで握った。
「あ……」
 私の声に平家さんは振り返った。
「何?こっから追っても、今から後藤なんか見つからんやろ」
「……ですよね」  
 肩を落とす。
 完全に見失ってしまった。
308 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時41分04秒
 どうしようかと途方に暮れていると、松浦さんの興味津々な顔にぶつかった。
「――後藤さんはよくこのお店に?」
 と、松浦さんは唇を突き出した不機嫌な顔になって何事かを考える。
「……んー、まぁー、最近の人だけど、ここいらは続けて来てますねぇ」
「あの、なにか連絡先とか――」
「おいこら、アンタ、後藤のどういうオトモダチなんや」
 平家さんが松浦さんと私の間で仁王立ちをする。
「連絡先も知らないって、どういう仲?」
 平家さんは、私を警戒していた。
 つまり、警戒するだけの理由を持っているのだ。
 常日頃、補導員に追われるお客さんを相手にし、
 小気味良いリズムの関西弁で畳んでいるだろう平家さんが、
 後藤さんの言う『可愛いお洋服』を着て、オシャレで薄暗い店内をおどおど歩く私に対して、
 慎重な態度を取らざるを得ないものがあるのだ。

 そして松浦さん。
 平家さんの背中に押しやられながら、顔をこちらに覗かせている松浦さん。
 おしゃべりをお母さんに咎められた女の子のように、目を不機嫌に輝かせ、
 への字口をしている。
309 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時42分14秒
 話そう。話さなければいけないと思った。
 ベーグルさんを知る手がかりを得たいだけではなく、後藤さんの近くにいるだろう二人に告げておくべきだと思ったのだ。

 背筋を凍らせた後藤さんの目つき。私に何かの見切りを付けてひらりと逃げ出した。
 友人のケイタイアドレスから私をより抜いて呼び出す異常な行動。
 それらは真っ青な空の下、ひょっこり現れた自称天使との出会いから始まって――

 私は初めて、この夏の出来事を包み隠さず話した。
310 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時44分39秒
 話してみると思っていたよりも短かいお話だった。
「あんたの事情は、まぁわかった」
 平家さんはうなずいて、
「とにかく、ちょっと座ろう。なぁ?」
 私をバーカウンター前の高くて不安定ないすに座わらせた。
 松浦さんは慣れた様子で、ひょいっと私の横に座る。
「平家さーん。私は桃ミルクで」
「アホ。そこの胡椒でも舐めとれ」
 平家さんは私とふくれっ面の松浦さんの前に、氷の入ったウーロン茶のグラスを出してくれた。
「もうすぐ店空くから、のんびり話できんけど――後藤があんたを呼び出した理由だけどな」
「はい」
「なんちゅーか……調べときたかったんだと思う。あんたがアブない奴じゃないかどうか」
 そして黙る。
 私は辛抱強く先の言葉を待った。
 意外なことに、真っ先に我慢が切れると思った松浦さんも黙ったままで、平家さんが話し出すのをじっと待っているようだった。
311 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時45分51秒
「だから……後藤はな、前にもこの店でもめ事起こしたことがあって。松浦は知ってるわな」
「はい」
 と、松浦さんは口の前で拳を握って、パンチを打つボクサーの真似をした。
「その理由も、石川さんを呼び出したのとたぶん根っこは同じでな。
 後藤は――せやな、友達を助けてやりたいって思って懸命なんや。
 やり方は荒っぽいけど、あいつなりに友達を思っておかしくなってる。
 可哀想な子や」
 平家さんはため息をついた。
 カウンターの下から缶ビールを取り出して、一口飲み、
「後藤の友達いうのは、あんたの『夏のお友だち』のことやで」
 言われないでもわかっていた。
312 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時48分33秒
 色鬼だ、と平家さんは言った。

「カラーギャングって知ってる?」
「テレビで見たことあります」
 ニュース番組だった。
 東京の繁華街を仕切る不良少年のことを、そう番組は呼んでいた。
「この町にもそういう奴らがいてな。
 色にちなんだ名前決めてな、揃いの服来てな。
 秘密基地つくっとる男の子みたいなもんやけど、モデルが良くないわな。
 悪ぶるのが目的なんやから、どうしても悪くなる」
 平家さんは悲しげな表情を浮かべてビールを飲んだ。
 私もウーロン茶を一口含む。
 悪い話を予感して、すでに喉が引きつり始めていた。
313 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時49分39秒
「せやけど、ここいらのワルはそんな派手なもんじゃない。
 都会と違って大人のワルの勢力争いがないってのもあるかもしれへん。
 ここいらを持ってる親分さんはずいぶん古い人やから。
 それとも、半端な都会の子供ってのは、頭が良いのか度胸なしなんか陰湿なんか。
 うちにはようわからん。わからんけど、この店で聞こえてくるのは、
 酒、たばこ、とか……あまりよろしくない物とか――
 うちの若い頃も聞いたような話だった。
 最近のニュースで聞くような、わけのわからん酷い話ってのは、
 少なくとも、うちは聞いたことがなかった」

 そこで平家さんは、色鬼のことを詳しく語りはじめた。
314 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時51分53秒
「カラーギャング言うからには、チームカラーがある訳や。
 色鬼っちゅーのはその色にちなんだ物を集める遊びでな。
 くだらん遊びや。
 だから子供の遊びって思いが、うちにはどうしても捨て切れへん。 
 それだけにやりきれん」

 平家さんは、色々なことを教えてくれた。
 今年の五月に、この町の白ギャングのリーダーの誕生日を記念して、色鬼が行われたこと。
 後藤さんの友達――ベーグルさんが当時の最新型ケイタイのパールホワイト色を持っていたこと。
 話途中だというのに、私の胸には重い幕が下ろされていく。

「そんなの、子供の遊びじゃありません」
 平家さんは顔を伏せた私の肩を優しく叩いて、ちゃうねん、ちゃうねんと繰り返し言った。
「奴らに直接どうこうされたんちゃう。逃げたんや。
 後藤の友達二人で歩いてて、ケイタイ盗られそうになって走って逃げた。
 それで道に飛び出して車に轢かれてしもうた。事故なんや」
315 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時52分49秒
「……事故?」
 平家さんの言っていることがわからなかった。
 車に轢かれた?
 夏の日射しを浴びて誰よりも眩しく輝いていた少女が、
 ほんの数ヶ月前には排気ガスを吐きだして走る車のタイヤの下に踏みにじられていた?
「でも……そんな事故なんて、ぜんぜんそんな風に見えなくて――」
 ベーグルさんは、心の傷を伺わせるような所は見せても、体の傷を想像させなかった。
 仕草は快活であり、のんびりともしていて、いつも自然体だった。
「一人はそれなりに軽傷やったいうからな」
 平家さんはビールをあおり、
「もう一人は頭打って、今も入院中って聞いとる。
 今も回復してへんから、後藤のショックも治らへん。
 ギャングの奴追っかけて、チームの解散を迫って騒動を起こす。
 そんなことしても何にもならへんのにな。可哀想な子や」
316 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時53分48秒
「可哀想なんかじゃないですよ」
 松浦さんがゆっくりしっかりした口調で言った。
 おかわり、と空になったグラスを平家さんの方に滑らせ、
「後藤さんは気の毒だけれども、正直、迷惑で勝手なことしてます」
「あんたハッキリもの言うなぁ」
 平家さんはペットボトルのウーロン茶をグラスに注ぎながら苦笑する。
「あんた気がまっすぐで強いから」
 平家さんは出来の良い妹を褒めるような暖かい目で松浦さんを見つめた。
「弱い人間のよろめきっちゅーのは、ようわからんのかもしれへんなぁ」
 松浦さんはぷいっとそっぽを向いた。
「そんなの、マジわかんなぁーいって感じぃ」
 平家さんに当てつけるようにわざとらしく言う。
317 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時54分48秒
「もうやめやめ。石川さんに迷惑やろ」
 なぁ、と同意を求められ、
 どんな顔をすればわからないまま口を愛想笑いの形にしていた。
「私にも、なにがなんだかわかりません」
 私はつい最近のベーグルさんしか見ていない。
 事故に遭う前の彼女や、事故直後の彼女のことはわからない。
 わからないながらも、過去の中でベーグルさんは手ひどく傷ついたのだと思うと、
 心臓がきゅっと縮むように痛んだ。
 もう一度、後藤さんの連絡先を尋ねると、
 平家さんは寂しそうに後藤さんの通っている学校を教えてくれた。
318 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)05時57分45秒
 後藤さんの通う中学校は、私の学校から一時間ほどかかる所にあった。 
 翌日、部活をサボって後藤さんの学校に駆けつけたものの、
 後藤さんには会えなかった。
 校門で捕まえた生徒さんの話によると、後藤さんはさっさと下校してしまったらしい。
 ダメもとでベーグルさんの事も聞いてみたら反応があった。
 後藤さんの事を尋ねたときも警戒した様子を見せた生徒さんは、言葉を選ぶようにして、
 彼女はこの学校の生徒だったけれど夏休み前に転校したことを教えてくれた。 
 転校先は後藤さんの学校から離れた区にある女子校だった。
319 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時00分23秒
 駅前の商店街を抜けて十分ほど歩き、
 住宅街の閑静な空気が流れ始めて公民館や図書館らしき公共施設がちらほらと見受けられる場所に、
 ベーグルさんの通う学校はあった。

 学校の周りはざらざらした灰色の壁で囲われていて、
 正門の柱はつるつるした黒い石のブロックを積み上げて出来ていた。
 校舎は縦に高い。
 都内私立の学校だけあって、赤っぽい外壁の洒落た建物だった。
「こんにちは」
 ベーグルさんが校門から外に踏み出したと同時に声をかける。
 壁にもたれている私に気が付き、こちらを向いた。
320 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時02分05秒
 ベーグルさんの印象は、まるで違っていた。
 白地のセーラー服を着て、黄色のセーラータイを緩く結んでいる。
 束ねてアップにしていた髪をばっさりと肩の上あたりまでで切っていて、
 ショートヘアになっていた。
 血の気のない白い肌は白セーラの布の中に織り込こまれてしまい、
 彼女はすっかり服に存在感を飲みこまれてしまっていた。
 襟元を力強く引き締めるはずの紺の縁取りは、彼女の胸元を括る縄のようだ。
 大きな目の外郭だけがそのままで、
 生気の無い瞳の色は電車の窓から見下ろす夜の川を思わせた。
 
 残暑の熱気に生徒を続々と送り出す校門の前で、
 彼女は白い陽炎のようにゆらゆらと幽かに立っていた。
321 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時04分46秒
「ほんとうに中学生だったんだ」
 受けた戸惑いをごまかして、ことさらに明るく話しかける。
 ベーグルさんは私のカラ元気を片微笑みで返した。
 私の目にはどんな風に自分が映っているのかをよく知っていて、
 それを自嘲しているような皮肉さが見える。
「驚いた?いきなり待ち伏せなんて」
 いや、と小さく口を動かす。
「後藤さんから聞いたから。石川さんとこ行ったんだってね」
 彼女はぽつりと言った。
「ごめんね。わたしたちが迷惑かけた」
「全然――後藤さんのお陰でベーグルさんに会えたって言うか会いに来られて。
 私の方こそこんな――」
 強引に来てしまった。
322 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時05分40秒
 こんなご時世、学校を調べたあげくに校門で待ち伏せるなんて
 ストーカーと呼ばれても仕方ないと思う。
 どうしようもなく会いたかった気持ちと
 冷静に自分を責める理性がごっちゃになって、
 それに加えて紙人形のようになってしまっていたベーグルさんに
 強く接することができなくて。
 私は言うべき言葉を見失ってしまった。

「連絡できなくてごめんね」 
 私の沈黙と取り変わるように、ベーグルさんが話し始める。
「来てくれて、ありがとう」
 その言葉と彼女のささやかな微笑みに、私はずいぶん救われた。
323 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時10分45秒
 学校から駅まで歩いて、そこから一駅。また歩いて十数分。
 ベーグルさんの家まで移動しながら、とりとめのない話をした。
 部活はどうしたのサボったのとか、飯田さんと柴田さんは元気かとか。
 ベーグルさんが振ってくれる話題に、私はしがみつくようにしゃべり続けた。
 部活はサボっちゃった怪我が悪化したって言い訳して――
 柴ちゃんも飯田さんも、もううるさいぐらいに元気――
 柴ちゃんの家のイヌの話まで持ち出して、私は頑張って重苦しい沈黙を追い払った。
324 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時11分31秒
「ここ」
 と、ベーグルさんは住宅地の一軒家の前に立ち、吉澤とかかれた表札を左手で叩く。
「ベーグルさんの名字、漢字でこう書くんだ」
「うん」
 ベーグルさんは童謡の歌詞を読み上げるように、
「『吉澤と石川が川原で会った』」
「え?」
「吉ザワと石カワとカワラ。川つながり」
 なんて事はない言葉遊びだ。
「じゃあ私たち出会う運命だったんだ」
 冗談めかして言うと、
「そーかもね」
 クスリともされず、うなずかれた。
「運命なんて見えないんだから、どんな運命があるかなんかわかんないだし」
 見えない運命に引かれて車に跳ねられた彼女の言葉は、私の胸に静かに沈んだ。
325 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時13分59秒
 ベーグルさんのお母さんは外出中だった。
 二階のベーグルさんの部屋に通されて、私は部屋をぐるりと見回す。
「狭いけど片づいているでしょ」
 一階から麦茶とおせんべいを運んできたベーグルさんが言った。
「大掃除して色々捨てたから」
 和室の六畳間には、パイプベッドとタンスと一体になったライティングデスク。
 壁際で横積みにされたカラーボックスの中には、本やCDや化粧品やらがきちんと区分けされている。
 カラーボックスの上に、小さなCDラジカセが一つ。テレビデオが一つ。
 簡素な生活感を見せる家具の面々は、ホテルや病室のそれを思わせた。
 誰かにもらったぬいぐるみとか、どこかで買った記念品とか、
 そんな類の物が見つからないのだ。
 それが彼女の気質なのか、それとも――
「大分模様替えした?」
 私たちはパイプベッドに横並びに座って話し続けた。
 ベーグルさんがうなずく。
326 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時16分14秒
「わたしが――大きい怪我したのは後藤さんから聞いた?」
「大きい怪我なの?!」
「え、あー、そんなに大きくもないんだけど――中くらいの怪我かな」
 私の悪口を言うときは飛んでもなくずうずうしいクセに、
 自分の怪我の表現なんかを遠慮する。
 後藤さんではない、別の人から事故のことを聞いたと告げると、
 「人の噂は早いなぁ」と、ありえない自然さで笑ってみせた。
「前はロフトベッドだったんだけどさ、
 ハシゴが危ないからってんでこのベッドになったのね。
 それで部屋のスペース無くなって、家具を総取っ替えすることになって、大掃除」
327 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時21分40秒
「怪我の様子は――今はどうなの」
 聞きたいことのとっかかりを拾ってベーグルさんに差し出すと
「まぁ――それなり」
「それなりって」
 目で問いつめる。
 ベーグルさんは苦笑いを浮かべて右腕を上げた。
「右の肩がね」
 上げた腕をまっすぐ前に。右腕一本で『前へ習え』をしてみせる。
「自分の力だと、ここまでしか上がらない。
 あと右膝が時々、カクって抜ける感じがする。今はそれぐらいだよ。
 そんなに不自由はない」
 確かに、一緒に過ごした限りでは不自由そうな様子は気が付かなかった。
 けれども聞かされて、それでは右腕で思い切りテニスラケットを振ることはできないじゃないと即座に考えた。
 私がぱっと思いつくようなことから、気が付かないだろう些細なことまで、無数の不自由があるだろう。
 そしてロフトベッドがパイプベッドになったことから部屋が一新されるように、無数の不自由に押し流されるようにして、
 ベーグルさんの生活は連鎖的に変えられていったはずだった。
 その変化の中で、彼女は天使を名乗ったのだ。
「川原で、何をしていたの」
 わずかな沈黙の後、言った。
「自分探しかな」
328 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時23分02秒
 変な顔をしてしまったのだろう。
 私を見たベーグルさんが「冗談じゃなくて」と付け加える。
「事故の前後のこと、よく覚えてないんだ。
 頭打ったせいとか興奮したせいだって言われたけど、どうだか」
 と、形の良い頭に手を当てる。
「覚えているのは、日曜日に先輩と後藤さんと一緒に石川さんの学校に行ったこと」
「え?」
「学校の見学だよ。来年、高校生だし。あの学校も公開見学やってたじゃん」
「うちの学校に進学するの?」
「もう行けないけどね」
「なんで」
 聞いた途端、ベーグルさんの寂しげな笑顔を見て後悔した。
 私の学校の誇りは、スポーツが盛んなことだ。
「バレーでね、入学誘われてたんだ。
 いろんなクラブを見学して、石川さんのテニスを見たのは覚えてる。
 すんごい下手くそだった」
 怒らせて、笑わせようとしているのがわかるのに、上手く笑えない。
 それはベーグルさんも同じみたいで、泣きそうな笑いそうな、
 不思議な顔をしていた。
329 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時25分04秒
「お昼を先輩と外に買いに行って、川原に行って
 ――それで、突き飛ばされた。土手に転がって色々で走って――」
 顔を歪ませる。
 彼女の言葉の後半は早口で、動揺と混乱が伺えた。
「その後は――白い空を見てた」
「白い、空――」
「それも頭打ったせいだって言われたけど」
 口だけをニヤリとさせる。
「でも、ずっと見てたと思う。息苦しくて体が動かなくて金縛りみたいな感覚で、
 どこもかしこも真っ白だったの見てたの、覚えてる」
 川の向うでおばあちゃんが手を振っていた、の類なのだろうか。
「その次の記憶は――病院で。間がない。覚えてないの。
 それで、体がほとんど治ったから川原に行って見たんだ」
「記憶を思い出そうと思って?」
「それもあるし、もう一度って」
「え」
 ベーグルさんに、ふっと天使の時の気配が戻った。
 目の中に暗い光を宿らせて言った。
「もう一度同じ事があったら、今度は上手くやれると思ったから。
 少なくとも、何があっても絶対に記憶は飛ばさないって」
330 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時27分25秒
「もう一度――」
 襲われようと思っていたというのか。
 体と記憶を吹き飛ばされた事件を、再現しようと。
「そんな――ダメだよ、何考えて――」
 人気のいない川原で一人、じっと『魚』が食らいつくのを待っていたと言うのだ。
「あるわけないじゃん。そんなこと何度も――」
「起こらないなんて何で言えるの。何があるかはわからないでしょ」
「だって、ないよ、そんなこと」
 そんな運命、悲しすぎる。
 けれど『悲しいから起きない』なんて理屈はあり得ないのも知っている。
 それがまた悲しかった。

 ひどく悲しい思いをした人は、
 次の悲しさに出会す可能性を減らしてあげればいいのにと無意識に願っていた。
 それなのに、ベーグルさんを見て、現実はその逆なんだということがわかってしまった。
 悲しさの渦に巻き込まれた人は、必死に逃げて渦の外に飛び出すか、
 あるいは悲しさに流されていくのだろう。
 流されてしまったら、渦の中央に向けて悲しみの勢いは増すばかりだ。
331 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時29分13秒
「あの川原はあんまり良くない。
 夜にケンカとかひったくりとか何度も起きてるの知ってるでしょ。
 昼でも、人目のない時間は良くない。公園と一緒だ」
 公園が危ない場所になったのはいつからなんだろうと思う。
 子供の頃に何も気にせず遊べたのは、世の中が急に悪くなったせいなのか、
 それとも子供の私が世の中を知らなかったせいなのか。

 私はベーグルさんの手を取り、目をのぞき込み、懇願するように言った。
「もし何かがあったとしても――なんにもなんないんだよ。
 記憶が思い出せるわけじゃないし、怪我が治る訳じゃないんだよ」
「わかってるよ。これは自己満足。
 わたしも意識不明になって入院したかったのかなって時々考えてた。
 たぶん、どこか、なにかに逃げたかっただけなんだ」 
332 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時31分35秒
『それなりに軽傷だった方』の、心への自傷を明かして見せる。
 いわれのない罪悪感に捕らわれ、自分を可哀想に思うこともできない。
 二人分の力で前進することを自らに課そうとして――
 耐えきれず、目前の感情が導く方向へ走ってしまう。
 憤りの原因へ。悲しさの真ん中へ。
 そう考えて、後藤さんも同じなのではないかと気が付いた。
 彼女は無傷だけど、それだけに心への自傷は大きいのかも知れない。
333 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時33分37秒
「夏が終われば新しい学校も始まる。川原の工事も始まる。
 全部変わるし、変えられる。
 だからそれまでは、何からも逃げないでいようってしてたんだ」
「――そんなに思い詰めたらダメだよ」
「だって、その間に先輩は動けなくなったんだよ。
 わたしが起きたときには先輩はもう頭の手術が終わってた。
 あれきり喋ってない。あの時が最後になるかも知れないのに覚えてない――」
 彼女がうつむき加減の顔を上げたとき、目が潤んでいた。
「石川さんとかと……会ってね」
 声はかすれていた。
「……うん」
「わたしのこと全然知らない人たちで……
 別人になって過ごすのは……すっごく気が楽だった」
334 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時34分45秒
 涙をぼろぼろ落としながら言葉を落とすベーグルさんを、私は抱き寄せた。
 子供の頃に柴ちゃんがやってくれたように、ベーグルさんの頭を胸元に引き寄せる。
 すんなり私に体を預けてきた彼女の黒髪の中に手を差しいれて、
 もう片方の手を背中に当てると、
 セーラー服を通して彼女の背中が震えているのがわかった。
「ごめんね。わたし、カッコよくない。
 本当にカッコよかったら良かったのにね。
 石川さんが思ってくれたぐらいカッコよかったらよかったのに」
 嗚咽する彼女を抱きしめるながら、彼女が天使じゃなかったことを悟った。
 彼女が、彼女を救ってくれる天使を探していたのだ。
 そして、私が探していたのは天使じゃなく、腕の中で泣いている彼女だった。
「こんなん見せたくなかったけど、石川さんには会いたかったんだ。ごめんね」
 ごめんね、を繰り返して泣く彼女を抱きながら、
 私は「私も会いたかったんだよ」とささやきながら彼女の髪を梳きつづけた。
335 名前:_ 投稿日:2002年09月01日(日)06時43分12秒
今回更新
>>282-334

レスありがとうございます。
更新回数は残り少なくなりましたが、
前回の宣言通り、今回から更新終了時はageで行きます。

ホームページを作りました。
当分娘。小説はm-seekなどをお借りして公開させて頂くつもりですので、
主に作者の生存報告場となります。

http://isweb45.infoseek.co.jp/computer/palmus/
336 名前:LVR 投稿日:2002年09月01日(日)06時46分23秒
大量更新お疲れ様でした。
この時間まで待っていたかいがありました。
全てのことが明瞭になってきて……、続き期待です。
337 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月01日(日)21時05分40秒
それぞれ皆が傷を抱えていたんですね…
これからどうなっていくのか、想像もつきません。
338 名前:海月 投稿日:2002年09月04日(水)21時20分04秒
石川さんはやっとベーグルさんを捕まえられたのでしょうか。
以前、窮地に立たされた石川さんをベーグルさんが助けたように
今度は石川さんがベーグルさんを助けてあげられたらいいなって思います。

のんびりと楽しみに続きをお待ちしています。
339 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月05日(木)14時48分01秒
せつなくて美しい… 作者さんの文章、本当に大好きです。
いつまででも待つので、がんばってください!
340 名前:青鬼 投稿日:2002年09月30日(月)21時29分25秒
はじめまして!青鬼っていいます。この作品本当にいいですね?
石川さんとベーグルの関係がいい感じです。
やっとベーグルの謎が少しづつ解けていくようですね。
楽しみです。がんばってください!!
341 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月30日(水)01時28分08秒
続き期待してます。
342 名前:いしよし読者。 投稿日:2002年11月20日(水)22時46分20秒
まだかなぁ〜〜
更新楽しみにしておりますぅ〜
343 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月08日(日)03時04分23秒
待ってますよ〜
頑張ってください。
344 名前:イヌきち 投稿日:2002年12月08日(日)15時50分47秒
いつもすみません。
次の更新までまだしばらくかかりそうです。

次回はなるべく多めに更新しますので、
よろしかったらもう少しだけおつきあいください。
345 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月09日(月)19時37分00秒
いつまでもお待ちしていますよ。
プレッシャーをかけるつもりはないですが
一読者としては、完結さえしていただけるなら
それで十分です。
346 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月28日(土)06時42分24秒
頑張れ保全
347 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月06日(月)20時55分02秒
マターリマチコ
348 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月02日(日)22時34分25秒
ガムバレ〜
349 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月23日(日)11時23分57秒
ホゼン
350 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月09日(日)00時05分21秒
ほぜん。
351 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月23日(日)11時35分21秒
待ってます
352 名前:名無し読者 投稿日:2003年04月14日(月)03時13分17秒
hozen
353 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月02日(金)09時51分13秒
がんがってー
354 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)23時54分20秒
hozen
355 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月24日(火)12時56分45秒
がんばですぞぉ〜
356 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月28日(土)01時55分33秒
待ってます。ほんとにプロの作品みたいで大好きです。文庫本にしたいくらい。
357 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月28日(土)07時59分08秒
よりによってこれをageねーでくれ。
つーわけでochi。
358 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月10日(木)21時23分12秒
保全
359 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月04日(月)20時01分41秒
hozen
360 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時30分36秒
 私は高校生だ。
 朝起きて学校に行って部活をする。
 部活が終わればもう夜だ。用がなければまっすぐ帰る。

 こう纏めてしまうと、いかにも単調な繰り返しみたいだけど、
 『暇だから不良でも始めてみようかしら』と思いつくほど退屈ではない。

 同じ場所をぐるぐる回されるのではなく、螺旋階段を上がるように、
 見上げた場所にたどり着けることを願って道を進んでいる。
 それが私や柴ちゃんたちの日常だ。
 その日に出会ったのは、私の周囲とは全く違った彼女の日常だった。
361 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時32分26秒
 道の壁際を頭を垂れてふらつく老犬のようにひっそりと登下校をする。
 生気のない傍観者で、道行く人のようには見えなかった。
 川の端でくるくる回りながら流れてゆく茶枯れた落ち葉の末を予感させる。
 水門までもつかないだろう。岩溜まりに引っかかって腐り溶けてしまうのだ。

 だけど私を見て話している間は、彼女に表情があった。
 外側に向けた顔だ。
 私はまだ、彼女の日常枠の外にいたのだろう。
 それは寂しいようだけど、悪いことでもないと思った。
 そばにいれば、無理にでも笑ってくれる。
 作り笑いも一万回も繰り返せば、本当の笑顔になるかもしれない。
362 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時35分28秒
「部活、がんばってね」
 別れ際に駅まで見送ってくれた彼女のありふれた挨拶が
 私の胸にのしかかった。
 スポーツが出来なくなった彼女の応援。
 自分のものではない荷物を背負わされる苦しさもあったけど、
 もっと重かったのは、私を見つめる瞳に映った夕焼けだった。
 頑なな拒絶はない。
 一日を抱きかかえて地平線の向こうに押し沈めてしまう、おしまいの色だった。

 懐かしむように私を送ろうとする彼女に、両手でガッツポーズを作って返した。
「部活もがんばる!」
 帰り道に向かいながら、くるりと半分体を回して彼女に手を振った。
「電話するから、また!」
 彼女はにっこり笑って、ゆっくりと片手を振り返してきた。
363 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時37分33秒
 その笑顔を彼女の日常の中に戻してあげたいと思うと、
 突然、家と学校と部活と自宅から彼女の家までの距離が
 もどかしく浮かんできた。
 私の日常を組み上げる道のすべてを振り切って駆け戻り、
 あの子を抱きしめたくなった。

 大きくため息を付いて、こみ上げてきた衝動を吐き出すと、
 改札口の向こうを目指して、引いた線の上を踏むようにまっすぐ突き進んだ。
 強くなろう。
 なぜだかそう思った。
364 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時42分09秒
 彼女に胸を張れるぐらいに週の残りを頑張って過ごし、
 やっとのことで土曜日になった。

 対外試合直前でない限り、土曜の部活は日没前に終了する。
 ちょっぴりの後ろめたさを覚えつつ自主トレ組から抜け、
 制服に着替えて部室を出ようとする所を、
「ちょっと」
 テニスウェア姿の部長に呼び止められた。

 部長は言葉を省略する癖がある。
 説明や指導をする時はくどいほど丁寧に話すのに、
 相手の意見を聞く時は言い捨てるように問いを放つ。
 語調から考えると、今の『ちょっと』は『ちょっといいかしら?』
 の質問ではなく『ちょっと待ちなさい』の命令だった。
365 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時44分36秒
 網をたぐるように部室にいる人たちの視線が私たちに集まる。
 『名門テニス部を率いる部長婦人』と
 『部の落ちこぼれの一年生』の組み合わせは、まるで漫画だった。
 今にもなにか事が起こりそうだし、
事実、この夏の初めに私達は一騒動を引き起こしているのだ。

 興味しんしんの目に囲まれながら、
 やや長身の部長を見上げるように顔色をうかがったら、
「顎」
 と、部長は自分の顎を親指でつついてみせた。
「は?」
「顎をあげて。人を上目遣いで見ないで」
 あわてて顎を突き出すように持ち上げた。
 目が合うと、部長の鋭い目つきがふっと和らいだ気がした。

「最近、休みが多かったでしょ」
「……すみません」
 ──気のせいみたい。
 思いなおして、私はおしかりに備えて拳を握りしめた。
 部長のお言葉が槍のように振り下ろされるのをじっと待つ。
 だけども、予想は違った。
366 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時48分44秒
 私が休部中の練習内容やミーティングのことを説明し終えると、
 部長は最近の私のプレーについて評し始めた。

 ボールのこぼれが減った。リターンが正確になった。
 練習さぼったせいか出足が鈍ってるみたいだけれど、
 なんてお小言もあったけれど、
 どう疑いかかって聞いてみても、おおむねは誉め言葉のようだった。

「ボールを見る目が良くなったんじゃない」
 今度は気のせいではない。
 部長は私の前ではっきり笑った。
 ニヤリ、と表現できるような笑い方だ。
 取り澄ましている部長がこんな笑い方をする人だとは思っても見なかったので、
 私はちょっとどぎまぎした。
 部長から嘲笑以外の笑みを受けたのは初めてだったのだ。
367 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時49分20秒
「私の目をきちんと見て話を聞くようになったしね」
 俯かずに見た先輩は、いつもよりも間近に見えた。
 その後、先輩は秋試合への抱負を語り、
 まぁせいぜい頑張りなさいとお話を締めた。
「それじゃ、お先に失礼します」
 鞄とバックを掴んで出ようとする私に部長の声が飛んだ。
「用事でもあった?」
 その言葉の中に省略された『ごめんなさい』を感じることが出来た私は、
 ちょっぴりふざけてみたくなった。
「デートなんです。テニス部の部外者と」
 符丁を混ぜた私の軽口を、部長は鼻で笑いとばした。
368 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時51分41秒
 残暑の午後六時は夜のなり始めだ。
 空全体がうっすらと明るい。
 古びたノートを透かしたみたいな白ぼけた色が、
 青黒い夜空と街の灯りの間に挟まっている。

 地元からだいぶ離れたこの大きな駅で、彼女と待ち合わせた。
 名前だけは知っている、初めて降りる駅だ。
 本を見ながら自分で作った駅周辺図のメモは
 省略のしどころをことごとく間違えていて、まるきりの紙屑だった。
 自分自身が情けなくて、やり場のないいらだちを抱えて
 あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。
 ようやく約束の場所にたどり着くと、とっくに彼女はそこにいた。

 建物の壁を背にして立っていた彼女は私を見つけると、
 人差し指と中指の二本指を使って自分の手首の背を叩いて見せた。
 意味を悟った。
 小走りで近寄りながらケイタイを見る。
 十二分の遅刻。
369 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時57分05秒
「ごめーん」
 ケイタイを持ったままの片手で拝むように謝ると、
 彼女は私の方に腕を伸ばしてきた。
「鞄かバック、どっちか持つよ」
「いいよぉ」
「いいからさ」
 と、大きいスポーツバックの取っ手を掴んで引き上げようとする。
 軽く抵抗をしたけれど、
「リハビリさせてよ」
 そう一言笑って私をためらわせた隙に、荷物を奪われてしまった。
「軽い軽い。途中でその辺のロッカーに入れてこ」
 バックを前後に軽く振ってはしゃぎながら先に歩き始めてしまう。
「待ってよー」
370 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)20時57分59秒
 この街に詳しいのは彼女の方だ。
 小走りで駆け寄って、彼女から半歩下がった横に位置を取る。
「学校から直に来たんだ」
「じゃないと時間に間に合わないから」
「そーいう制服だといいね」
 彼女は私の制服の襟当たりを指さした。
 夏服はブラウスにタータンチェック入りのスカートというデザインで、
 かわいいと評判になるほどのものではない。
 無難な制服だった。
「うちのはセーラーだからさ、なんか遊びにくい」
 今の彼女は私服姿だ。
 アジアンテイストの紐で飾られた赤いカットソーにミニスカート。
 ここにいるのは明朗快活なベーグルさんだとすぐわかる。
 夕暮れに薄い影を伸ばす少女の面影は、からりと消え去っていた。
371 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)21時08分52秒
 女心と秋の空。
 女の子二人で初秋の街を歩いていることもあって、
 そのままのことわざがチラッと思い浮かんだ。

 確かに変わりやすい女の子だ。
 けれど、彼女の告白を聞いた後の今になってよくよく考えてみると、
 彼女の天気は変ってないような気がした。
 雨は止むことなく降っていて、変わるのはそれの受け止め方。
 傘を回してはしゃいでみせたり、雨に打たれて怒ったり、震えたり。

 今そばにいる彼女は、私のバックを前後に振る勢いでリズムを取って歩いている。
 私は傘になれているのだろうか。
 
 そんなことをぼんやり考えながら彼女のご機嫌な横顔を見ていたら、
 肩にかかっているコードに気がついた。
 飴のように透き通ったオレンジ色のコードは
 ビニールのショルダーバックから出ている。
 彼女の首あたりで二またに分かれて、だらりと両肩にかけられていた。
 先端には白い小石みたいなイヤホンがついている。
372 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)21時10分18秒
「何聞いてたの?」
 コードを引っ張ると、ベーグルさんはふふんと笑って
 イヤホンを私の耳にはめてくれた。
 彼女がバックに手を入れると、念仏のような男の人の声が流れてきた。

「わ」
「音おっきかった?」
「じゃなくて」
 空間が歪む音を聞いたようだった。
 男性の声が唱えている言葉は念仏ではなく外国語だとわかったところで
 ギブアップする。
「変な曲」
「そう?有名な曲なんだけど」
「こんなの歌詞聞き取れないじゃん」
「英語だからでしょ」
「英語ってのもあるけど声が変だし……」
「石川さんの声よりましじゃん」
「ましって!」
「音痴だから曲のよさが、わっかんないんじゃないのー」
「ちょっとー!」

 からからと笑う、彼女の遠慮のなさが心地よかった。
 ちょっとためらってから、彼女に訪ねてみた。
「元気そうだね」
 彼女は振り返ると、目をくりくりさせて私をじっと見つめて、
「お、か、げ、さ、ま、で」
 区切り区切りを強く言い、にっと口を横に引っぱってみせる。
「なによぅそれ」
 一緒に笑った。
 彼女の笑顔は頼もしい。
 今はその堂々とした明るさを受け止めることにして、
 夕暮れの少女を頭から追いやった。
373 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)21時49分36秒
 夏の太陽と、時を見過ごす黄昏が同居している女の子だ。
 彼女との再会の場所を選ぶとき、ずいぶんと考えた。
 あけすけな友人と使う遊び場は似つかわしくないと思ったし、
 かといって部活にいそしむ高校一年生が大人の隠れ家のような
 とっておきの場所を知っているわけじゃない。
 
 彼女のための特別などこかを探して頭を痛めている時に、
 立ち読みした情報誌の中で夜の水族館の事を知った。
 閉館時間を午後の六時から九時に延長し、
 最小限の光を残して館内照明を落としてしまう。
 懐中電灯を手にしたお客さんは、深海の底を歩くように暗い館内を歩くそうだ。

 紹介文の横には二枚の写真が掲載されていた。
 夜空の下のステージでライトを当てられ芸をするペンギン達と、
 ブラックライトが光る水槽に泳ぐ奇形の深海魚。
 その二枚が並んだページの色遣いが、
 彼女の雰囲気とよく似ている気がしたのだ。
374 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)21時56分52秒
「石川さんって、ホラー好き?」
 私に手を引かれいた彼女が唐突に言った。
「――なんでそういう意見が出るのかな?」
 水族館に入ってすぐ、薄暗く透き通った空間に引き込まれていた私は、
 場違いな言葉を耳にして唖然とした。

「だって、ほら、なんかさ。ここ」
 なまものの痛んだ部分を見つけてしまったような目つきで
 あたりをちらちら見る。
「なによ。綺麗じゃない」
「まぁ、そりゃ綺麗だけど、さ」
 この区域のテーマは『柔らかそうな生き物』なのだろうか。
 水中のクラゲは薄膜のような身を伸縮させる影絵のように泳ぎ、
 底面に張りついたイソギンチャクは極彩色の触手を水にたゆたわせている。
375 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)21時58分09秒
「ちょっとホラーチックじゃん?」
「……どうしてそう思うかなぁ?」
 彼女の表情が陰っているのを見て、私はあわてて聞いた。
「ここ、イヤだった?」
「そんなことないよ。生き物は好きだから」
「でもなんか顔がイヤがってる」
「いや、ここ暗いしさぁ。うねうねしたのばかりだしさぁ」
 彼女に懐中電灯を持たせて、私は彼女の手を引っ張った。
「奥の方には、うねうねじゃないお魚さんいるから」
「お魚さん、ね」
 はしゃいだ声で繰り返すと、サカナ、サカナと上機嫌で歌い出した。
 喜んでいるのか、馬鹿にされているのか判断が付かない。
「もうっ。行くよ?」
 苦笑の音がこぼれないよう、ぎゅっと口を結んで彼女を引っ張った。
376 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時03分22秒
 そのまま順路をまっすぐ進むとT字の分岐路になった。
 突き当たりには大きな水槽がある。
 天井を支える柱のような、円筒状の水槽だ。
 中心部には、発光体の柱があって、
 その周りを小魚の群れがぐるぐると泳いでいた。
 鉄片のような魚たちだ。
 水の流れに逆らって、まだらな群を作って泳いでいる。
 
 途切れることのない魚の流れを見ているうちに、
 幾つもの弾丸がゆっくりと飛んでくる映画のCGを連想した。
 ヒーローは弾丸をのけぞって避けたり、手を前に出して受け止めたりする。
 飛んでくる小魚を避ける。わしづかみにする。
 潰れちゃうな。それこそホラーだ。
 くだらないことを考えていたら、脇で彼女がつぶやいた。
「回転寿司みたい」
「……もう」
 間抜けな言葉は先に口にした方が負けなのだ。
 そうやって自分を棚上げにして、一方的に呆れたふりをしてみせる。
「なんでそんなことばっか思いつくかなぁー」
377 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時11分46秒
 そんな風に私達はお調子者のでこぼこコンビを貫き続けた。
 彼女のそばで笑い合う時間。
 私はこれが欲しかったのだろうか。
 これだ、と決めつけようとすると、夕暮れの少女の姿が頭をよぎる。
 釈然としないまま彼女の腕をとろうとしたとき、彼女は周辺に目をやった。
「それにしてもカップル多いよね
 思わず伸ばした手をあわてて引っ込めた。
「そんなの、きょろきょろ見ないの」
 沸いた気まずさを打ち消すように、彼女を叱った。
「水族館なんて子供が行くところだと思ってたけどさぁ、
 デートコースにもなるんだねぇ」
「時間も時間だしね。夜だもの」
 適当に流したら、彼女はいきなり聞いてきた。
「なんでさ、今日ここ選んだの?」
378 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時12分29秒
 あなたに似てると思ったから。
 そんな思いこみを話せるほどナルシストじゃない。
「……イヤだった?」
 質問に質問で返すと、
「だからイヤじゃないけどさあー」
 彼女は伸びを打って、さばさばと言い続けた。
「暗くて静かな場所は、苦手だけどね。
 寝るときも電気つけて寝るしさ」
「やっぱりイヤだったんじゃないの」
「違うってるのにしつこいなぁ」
 私のおでこを叩くふりをして、
「暗くても静かでも、一人じゃないから」
 と、微笑んだ。
 水の中には淡い光が息をするように揺らいでいる。
 揺らぐ青の照り返しが彼女の顔に陰影の波を映す。
379 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時20分22秒
 見とれてしまって、だから次の言葉を言いだしたのは彼女だった。
「でも、じっと見ていると頭がくらくらしてくる」
「え?」
「普通に暮らしてたらぜったい見ないじゃん。こんな景色」
 水の奥に何かを見ているように、彼女は片頬を引き上げて目をすがめた。
 夕暮れの影に気を取られて忘れかけていた、寒々とした天使の顔だった。

「どうしたの?」
 私の声に振り向いたと同時に彼女は破顔した。
「お魚さん見てるんだけど?」
 やんちゃな顔に戻ってしまった彼女に苦々しさを覚える。
 いつものことだ。
 なんだろうと手を伸ばした時には消えている。
「……もういい」
 追求してたら切りがない。とにかく彼女は私のそばにいる。
 せめて私の前だけでも、悲しい顔をして欲しくなかった。
「行こ?止まってると邪魔だし」
 と、彼女の背中を押して歩みを促した。
380 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時25分44秒
 だけど思い出してしまった天使のことが気がかりで、
 なかなか次の会話が始められない。
 ぶらぶらした足取りで水槽を眺めながら、
 きれい、かわいい、なんて言葉を一人で漏らしていると、
「実はさ」
 と、彼女が軽い調子で話しかけてきた。

「海で死にかけたことがあったんだよね」
「ええ?」
 彼女は驚く私をくすくす笑った。
 そんなことはなんでもないんだよ、という素振りをして話し続ける。
「それで恐怖症ってほどじゃないけどさ、
 水族館ってのはどうもなーて思ってたんだよね。
 でも案外平気だった。楽しい」
 にこにこしている彼女に言うべき言葉でないとも思ったけど、
 他の言葉が出てこなかった。
「……ごめんね」
「やっぱり石川さんは謝るんだ。楽しいって言ってるのに」
 それでも笑い返せなかった私に、もう一度繰り返してくれた。
「楽しいよ。石川さんといるの」
381 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時32分25秒
 メダカのような稚魚が数匹泳いでいるだけの、
 人気のない水槽の前で立ち止まった。
 彼女は柵のように張り巡らされた手すりに後ろ手に寄りかかって、
 私とまっすぐに向かい合った。
「一緒にいると、これが普通なのかなって感じることあるんだ。
 普通ってのもよくわからないけど、なんつうか──
 石川さんからかってると癒される?」
 冗談交じりの疑問系で言われても答えようがない。
 普段なら平手でぴしゃりと腕でも叩いてやるところだけど、
 話の雰囲気がつかめないので、おとなしく聞き続けた。

「でさ」
「うん」
「今日ここに来てさ、いろんなとこ石川さんといきたいな、って思った。
 水族館も大丈夫だったし。
 怖い映画も海水浴も、石川さんとなら、いろんなとこにいけそうな気がする」
 胸がぱくんと鳴った。
 分厚い教科書を勢いよく閉じたような、
 ぱん、と張った音の感触が体の端へと抜けてゆく。
 私を縛り付けていた何かから解放された気がして、体の力が抜けた。
「──へぇ」
382 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時34分43秒
 どうしよう。顔がにやけてしまう。
 柴ちゃん相手によくやるように、
 彼女の腕に腕を絡めて体重をかけてひっついてやった。
 ゆるんだ体を彼女に委ねる。
 こうして下向きの顔を肩に押しつけてしまうと、
 覗き込もうとしない限り向こうからは私の顔は見えない。 
 
 彼女はくすぐったそうに喉を鳴らした。
「なんか石川さんって、ほんと女の子」
「女の子だもん。あなただって女の子じゃない」
「石川さんみたいなのと、わたしはゼンゼン違うし」
「またそうやっていじめる」
「なーんでこれが苛めなのさ。褒めてるのに」
「ええ?」
383 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時38分50秒
 見返ると、彼女はえさを突っつく金魚みたいに口をとがらせていた。
 『自分とは違う私』を、本気で褒めていたのだと気がつく。
「……ひとみちゃんはわかりにくい子だから」
「そちらの方はわかりやすいですけどね」
「そちらって言い方!」
 眉間に力を込めて見つめてやる。
 彼女は胸を軽く開いて片手を上げ、
 OK、OK、なんてふざけた返事を挟んで、
「梨華ちゃんはわかりやすい」
「よしっ」
 彼女の肩を軽く押して離れた。

 彼女は「幼稚園児みてー」とか「何がそんなにうれしいんだか」とか、
 ぶつぶつとぼやいていた。
 目を合わさずに悪態をつくときは、ただの照れ隠し。
 わかりにくい彼女の中での、貴重なわかりやすい法則だ。  
 だから私は「ひとみちゃん」を連呼して、雑な手つきで追い払われては
 くっついたりを別れの際まで繰り返した。
384 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時40分31秒
 いつもそうだった。なんだろうと手を伸ばした時には消えている。
 彼女の姿はたとえ陽気な少女の時であっても、儚くておぼつかない。
 ガラスの破片がある角度になったときだけ輝いて見せる、様々な色のようだ。
 触ると切れそうな閃光、脆いところを焼け焦がす陽光、沈んだ心を照らす灯火。
 彼女に感じた優しさと痛みの色に取り付かれて、夏をかけて追い続けた。
 
 彼女が明かしたわずかなことを知っただけで、
 私は全部を捕まえた気分になっていた。
 いつかは全てがわかるのだろうと思っていた。
 名前を呼べば振り向いてくれるのだと信じて彼女を追うのをやめて、
 そして今また見失い始めていた。
 水族館で別れてからまもなく、彼女は私を避け始めた。
385 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月06日(水)22時43分46秒
 
386 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時44分11秒
 
387 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時44分54秒
今回更新
>>360-384
388 名前:_ 投稿日:2003年08月06日(水)22時46分20秒
長らくの放置、大変申し訳ありませんでした。

>>385
いろいろとお腹立ちかもしれませんが、更新終了の報告としてageさせてください。
389 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月06日(水)23時09分23秒
待ってたよー。
待ってて良かったよー。母さん今夜は赤飯だ。

相変わらず、本当に言葉の選び方が巧いすねー。
どこか一方通行な心情の描き方、一人称の利点を最大限に使ってる感じ。
しかもヒキが巧くて…
またまた次回を楽しみにしてます。
390 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月07日(木)19時49分03秒
391 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月07日(木)23時20分08秒
>>390
わざわざ落とす理由はないと思うよ。
392 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月03日(水)02時27分17秒
お帰りなさい。
393 名前:_ 投稿日:2003/10/07(火) 23:28
自己保全。遅れてすみません。
394 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/23(木) 15:09
>>393
俺にとっては待つ時間も楽しみのひとつだから構わないよ
じっくり書いてください
395 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/02(火) 21:01
こっそり保全
396 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:20
柴ちゃんの近況報告によると、音研部員は二学期が始まってから
文化祭の準備にいそしんでいるとか。
飯田さんと柴ちゃん二人の首脳部は寸暇を惜しんで部室に集まり、
なのにダベりに流れてしまう。
そんな反省の日々を過ごしているらしい。


「曲を探してるんですけど」


昼休みに音研部室を訪れると案の定。
大きなヘッドホンを片耳ずらしで装着した音研のヌシ二人はいた。
397 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:22
部室中央には机四脚でこしらえられた大テーブルができていた。
その上には黄ばんだ紙のレコードケース、
プラスチック部が白く削れたカセットテープ、
傷部分が浮かび上がって反射した虹色のCD円盤らが、
神経衰弱のカードの様に広げられている。

壁際のコンポからは流行のJ-POPが流れ、
だけど録音機材に繋がれた二人のヘッドホンからは、
リミックスされたらしいHIPHOP調の演歌が漏れ聞こえていた。

「んー」
機材をいじりながらメロンパンをくわえていた柴ちゃんは、
一声唸ると隣の椅子を引いた。
そこに座ると、対面の飯田さんがヘッドホンを外し、
ろう細工みたいに白くて細長い首にかけた。
398 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:24
「曲探しってなんの曲さ?」
「それがわかれば、梨華ちゃんも聞かないですって」
パンを飲み込んだ柴ちゃんが即座につっこむ。
飯田さんは口を尖らせ、
「ジャンルとかなんとか、取っ掛かりの情報ぐらいあるでしょーが?」

促されて、答えた。
「ジャンルはたぶん、洋楽なんですけど」
「洋楽ぅ?──ははぁ、さては石川ぁ」
飯田さんが、ぱっちりした目を細めて笑う。
「オトコは出来てませんからね」
 先を制すると、ぷっと柴ちゃんが吹き出す。
「飯田さん、アタマ読まれてますよ」
「誰もが彼氏の影響で洋楽を聴き始めたわけじゃないでしょう。
 人にふっかけないでくださいよ」
「何だよ、今日はやけにつっかかるね」
 飯田さんは腰に手を当てて首をかしげた。
 話の後を柴ちゃんが受け継ぐ。

「で、どうしてその曲を探ししてるの?」
「たまたま耳にした曲が気になって」
「どういうシチュエーションで?」
「……別にどういうって、ものでも」
 言いよどんだ私の両肩に、飯田さんがぽんと手を置いた。
 枝木を掴む鷲みたいに爪を立てて肩の骨を掴んで、にんまりする。
「いかにもあやしい」
399 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:25
「……そんなの、関係ないじゃないですかー」
「あるある、関係ありありって」
 飯田さんの瞳が上向きになり、独白体勢になる。

「コンビニやファミレスなら有線の曲。
 レンタル屋だったらヒットチャートかパワープレイ――
 って風にさ、シチュエーションで範囲を絞れるでしょ。
 TVで偶然耳にするなんてのだったら、チョー有名な曲か新曲だったりさ、
 たとえば今なら来日する――」
「で、どんなシチュエーションだったの?」
 飯田さんはともかく、にこにこと追求してくる柴ちゃんの方は
 絶対に脱線してくれないので言い逃れのしようがなかった。
 
「吉澤さんが聞いてた曲なの」
 私が明かすと、二人は首をかしげるようにして互いに視線を交わした。

 飯田さんはもちろん、おっとりしてみえる柴ちゃんだって、
 本質的にはちゃかし屋さんだ。
 何かのネタを見つけては、わっと沸いて、きゃーと騒ぎたがる。
 そんな二人が、私の言葉を聞いて微妙な合間をとってから、
 平坦な低い声を合わせてきた。
「……へぇー」
400 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:30
 その反応を受けて、私は飯田さんにからかわれてムキになった理由に気が付いた。
 彼氏の影響ではなく、彼女の影響だから。

 図星を突かれているしようでもあり、大きく的はずれでもある。
 自分でも整理できていないぐちゃぐちゃの場所を覗かれて、動揺したのだ。


 音研二人の間でだけ通っていた『後藤さん』の名前は、
 すでに吉澤さんに訂正済みだった。
 名字は家庭の事情で、とお茶を濁した。
 家庭の事情。
 会話を強引に打ち切る言葉でひとみちゃんのことをごまかす自分に嫌気がさした。
 だからといって、
 『あの子は私と深く知り合いたくないから偽名を使っていたんだよ』
 なんて自虐的なことを二人に言えるはずもない。

 結局ひとみちゃんは近づいたり離れたりをしながらも、
 最初から最後まで、私のことを遠のけようとしていたのだった。
 それでもベーグルさんではない、吉澤ひとみと過ごした数日間は幻ではない。
 現実だ。
 両手で抱きしめた彼女を忘れてしまうなんて出来はしない。
401 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:32
 推し量るように沈黙した二人の目前で、私はため息をついた。
 私のため息をどう捕らえたのか、飯田さんは丸まった私の背をばんと叩いて
 「ほらほら!」と発破をかけた。

 「他にどんな曲だったのか、ヒント教えなさいってば。考えようがないでしょ」

 探しているのは水族館で会ったときにひとみちゃんが聞いていた曲だ。
 ひとみちゃんいわく有名な曲であるらしい、と二人に伝える。
 うろ覚えのリズムやメロディを鼻歌で歌わされたり、
 飯田さんがキーボードから奏でる様々な楽器音と記憶を照らし合わせたり。

 そんな感じだったかも。
 そうだったかなぁ。
 そうだったような……。

 頼りない返答ばかりの質疑応答をすますと、
 飯田さんは顎をなでながら渋い顔を作った。

「謎は全て解けた」
 なんて事を言い、CDラックと化している合板の本棚に歩いてゆく。
 そこから三枚のCDを抜き取って戻ってきた。
「たぶん、この中のどれかに入ってる曲だ」
 飯田さんが指摘したCDをミニコンポにかけていくと、
 三枚めで例の、頭の中が歪んでくる音と出会った。
402 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:34
「――すごーい」
 振り仰げば胸を張られる。
「カオリは音楽探偵マル秘デカ長だからね」
 反り返った飯田さんの背を、柴ちゃんが扉を閉めるように押し戻した。
 おっとっととつんのめる飯田さんに柴ちゃんは言った。
「ものすごーく運が良かったですね」
「こら柴」
 飯田さんは外国の油絵に描かれた革命市民みたいに
 勇ましく拳をふり上げて抗議をした。
「先輩に向かって生意気だぞう」
 そんなことを駄々っ子のような口ぶりで言うのだから説得力がない。

「まず、梨華ちゃんがたまたま聴いた曲が部室にあるってこと自体、
 運がいいじゃないですか」
「たまたま耳にしただけでオンチの記憶にも留まるような名曲を置いてある、
 音研のセンスの良さを褒めるべきだ」
「でもそれ、日本でかなり売れたアルバムですしねぇ」
「オンチのつたない情報だけでアルバム中の曲までをも選別できた、
 カオリのセンスを褒めるべきだと思う」

 柴ちゃんは両掌を上向きにして肩をすくめてから、
 ぽつぽつ滴る雨だれのような拍手を送った。
 息のあった師弟のやりとりに、私も拍手の追従をした。
 引かない飯田さんに柴ちゃんが引いて、音研漫才の幕は引かれたわけだ。
403 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:38
「吉澤さんってこういう曲を外で聞くんだねぇ」
 柴ちゃんの独り言にはどことなく辛い調子が混じっていた。
「こういうのって?」
「なんて言うのかな……酩酊感?音楽酔いしそうな曲」
「メランコリックだね」
 腕を組んで仁王立ちした飯田さんが頷く。

「こーいうのはでっかいヘッドホンつけて、
 ベッドの隅っこにちょこんと座って頭ガクガクさせて聞くの」
 と、飯田さん目を剥いてぐるんと首を回した。
 柴ちゃんが笑う。
「恐い恐い恐い」
「でもそーいう曲っしょ? 私なんか曲に没頭するタイプだからさ、
 これ聞きながら歩くと車に轢かれそうだもん」

 飯田さんのふざけた表現に私はぞくりとした。
 彼女が車に跳ねられた事など飯田さんは知るはずもない。
 ただの偶然だ。
 だけどこの不安なメロディには、不吉な偶然を呼ぶような要素が確かにあった。、

 あの子はこの曲をどんな思いで手にとり、耳にしたのだろう。
404 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:40
「そうだよ、聞いてた曲のことなら吉澤さんに直接聞けばいいんじゃん」
 ひらめいたとばかりに手を叩く飯田さんに、私は苦笑してみせた。
「今、そういう話をする感じじゃないって言うか――だから」 
「なに?喧嘩でもしたの?」
「そんなんじゃあ、ないですけど」

 笑ってみせると、柴ちゃんが近寄ってきて私の前髪をかき上げた。

 額をこつんとぶつけてくる。

 こうやっておでこを合わせるのは小さい頃からの習慣だ。
 落ち込んでいるときにおまじないをかけて貰ったり、
 テニスの試合前にパワーを分けて貰ったりしてきた。
 そういうときは柴ちゃんは目を閉じて行ってきたものだっだけれども、
 今日の柴ちゃんは至近距離から私の目を上目遣いで見つめてきた。

「……大丈夫?」
「大丈夫だよぉ」
 何が大丈夫なのかを聞かれたのかもわからないのに、笑ってそう答えていた。
「ならいいけど」
 柴ちゃんは私の前髪をくしゃっと撫でるように整えた。
405 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:41
 ミニコンポは飯田さんが見つけてくれたアルバムを流しっぱなしだ。
 私が探していた曲はとっくに終わっている。
 今は男の人が何かを嘆くように歌っていた。
 耳を澄まして聞き入ると、意識が引き延ばされていく感じがした。
 これが柴ちゃんの言う音楽酔いなのだろう。
 足下が柔らかに緩んだ感じがして体がふらついた。
 テーブルに手を付いて体を支える。
 卓上にあった、赤と黒が目立つアルバムジャケットが目に入った。

 夜を抜きとったような黒地の中央部に、空を焦がしたように赤い布が広げられている。
 布の真ん中には子供の落書きのような線画で、
 顔を覆って泣く二頭身ほどの人が描いてある。
 夜空の黒部分には白文字の見知らぬ英単語が星のように置いてあった。

「このアルバムのタイトルってどういう意味なんですか?」
 飯田さんがさらりと答えた。
「記憶喪失者」
406 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:44

 最後にひとみちゃんと会ったのは近所の喫茶店だった。


 あちこちの駅前繁華街に並ぶガラス張りのチェーン店とは違う路線を行くお店で、
 要すれば古くからある街の喫茶店だ。
 店員さんが歩くのに苦労するほどぎっちりと席が並んでいない代わりに、
 お値段はおよそチェーン店の五割増しとなっている。
 コーヒーと紅茶は豆と茶葉の種類が選べる。
 そういうお店だから、下校する学生で通りが賑わう時間になっても
 大人のお客さんが多い。
 私は入り口のすぐ近くの壁際に座り、ダージリンティーとレモンパイのセットを頼んだ。
 ひとみちゃんはオレンジジュースを注文した。

「ここのフレッシュジュースなんだよ」
「いいねぇ。若いもんはビタミンとっとかないと」
「ケーキも美味しいよ。きのこのキッシュやシーフードホットサンドも美味しい。
 ベーグルはないけど」
「そりゃ残念」
「飲み物だけでいいの?」
「家で軽くつまんできたから、そんなお腹減ってない」

 帰宅をすませてきたらしいひとみちゃんは白いパーカーにジーパン姿だったけれども、
 こっちは部活をすませて帰宅途中だった。
 制服姿のままだし、先輩たちにたっぷりしごかれた直後で
 お腹と背中がくっつきそうだった。

 届いた紅茶にはミルクと砂糖をたっぷり入れだ。
 一口含む。
 暖かい甘さが喉を通ると、自然に微笑みが浮かんできた。
「おいしい」
「よかったね」
 ひとみちゃんは背高のグラスの中をジュースをストローでかき回していた。
 水面が泡だったオレンジジュースは夕焼けの雲を溶かした魔法の薬みたいで、
 それを気怠げにかき混ぜるひとみちゃんは勉強嫌いの魔法使いの弟子のようだった。

 つまらなそうな瞳をそのまま持ち上げて
「あのね」
「うん」
「やっぱりさ、友達関係辞めてくれないかな」
407 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:53
 オレンジジュースの入ったグラスの中で、からから音を立てる氷を見つめていた。
 ひとみちゃんのかき回す手つき一つで氷の音も変わってしまう。
 円を描くように動いていたストローはやがて突き刺すような動きに変わって、
 転がる音は砕ける音になった。

 私を見つめるひとみちゃんは、はかない顔をしていた。
 激しい言葉をぶつけたらその顔のまま石の彫像みたいに固まってしまいそうで、
 それに苛立ってもっと強く罵ったら砕けてしまいそうで、
 私はどうすることもできずに綺麗なひとみちゃんの危うい沈黙を見守りつづけた。

 意識した静けさに鼓膜が張るのを感じながら、
 この沈黙をなんとかして打ち破るための柔らかな何かを考えていたら、
 ひとみちゃんはテーブルに両手を重ねて頭を下げた。

「ごめんなさい」
 そのまま席を立とうと腰を浮かしかけるので、慌てて彼女の手を掴んだ。
「ちょっと!」
 ひとみちゃんのおびえた様子を悟って、荒げた声をすぐに下げた。
「……いくらなんでも、それはないでしょう?」
「……だよね」
 ひとみちゃんは他人事みたいに言って席に戻った。
「梨華ちゃん、何も言わないから。
 もっとなんかすごいこと言われるかなって思ってたんだけど」
「……もう、なんていうか」
 彼女の唐突な変わり身には注意してはいたけれども、
 実際に対応するだけの心支度はしていなかったのだ。
 頭が重くなった。
 テーブルに肘を立て手を組んで、その上に顎を乗せた。
 そうして、表情を無くして動かないひとみちゃんをじっと見つめた。
 捕らえどころがない彼女だけれども、ただ、私は一つ確信していた。
「わけわかんないよ。だって、ひとみちゃんは私のことぜったい好きなはずだもん」
408 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 04:59
 すると紅茶に溶ける角砂糖みたいに、固い顔がさあっと崩れた。
「やっぱり、すごいこと言われた」
 ひとみちゃんは静かに、顔の部分部分をバラバラに引きつらせて
 不器用に微笑んだ。
「違う。そっちが先にすごいこと言ってきた」
「そうかもしんないけど。
 でも、もういい加減見捨てられちゃうかなと思ったんだけどな」
「今ひとみちゃんがそれ言うのおかしい」
「おかしいね」
 コミカルに肩をすくめてみせたが、一つ一つの動作は弱々しいものだった。
「マジで梨華ちゃんのこと嫌いだったら、何も言わないでばっくれてすんだのになぁ」
 私はすっかり味のわからなくなった熱いミルクティを細かく口に運んでは
 喉に流し込んでいた。

「私のことが嫌い?」
 尋ねると、ひとみちゃんは目を伏せてため息を吐いた。
 それからゆっくりと、細やかな壊れ物を組み立てるような慎重さで言葉を紡いだ。
「嫌いじゃないよ。だけど梨華ちゃんのそばにいるのが辛いんだ」
 実は、以前にも別の子からそんなことを言われた事があった。
「理屈では嫌いじゃないけど、私のことが生理的にイヤだとか?」

 するとひとみちゃんはきょとんと私を見て、顔全部を使ってにやっと笑った。
「梨華ちゃん、おもしろい」
「──おもしろくない」
「おもしろいよ。梨華ちゃんがそんなんだからペース狂っちゃったんだろうなぁ」
409 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 05:04
 ――覚えてる?
 と、ひとみちゃんは今年の夏を引き出してきた。

「私さ、夏が終わったらいなくなるって宣言してたよね。
 そういうことなんだ。
 夏休みの間だけコレとかのことを客観的に考えて、それで終りにしようと思ってた」
 ひとみちゃんは自分の右肩に左手を当てた。

「コレで何かが無くなったって考えないように。
 まっさらになって。吉澤じゃない何かで。
 それを天使なんて言うなんてのはホントは私のガラじゃないのに。
 そんなのを名乗ったのは、たぶん先輩のせい」
「先輩ってあの――」

 うん、とひとみちゃんはうなずいた。
「お守りって言って天使のグッズを集めてる。
 先輩は肌が白くて白い服が似合って、見た目はぜんぜん似てないのに、
 あの日初めて梨華ちゃんと会って過ごして、先輩を思い出したんだ」

 誤解する余地はなかった。
 先輩とは、ひとみちゃんと一緒に事故にあった人だ。
 私にとって”天使”の名がひとみちゃんのものであるように、
 彼女にとっての天使はその先輩なのだろう。
 天上に住む憧れの存在。願っても手が触れないもの。
 ひとみちゃんが思う天使は、病棟の殻に囲われて眠り続けている。

「私が先輩に似てるから、そばにいたくないの?」
「見た目も性格も似てないよ。
 だけど知らない人を見に河原に降りてくるような所は似てた。
 でもそれが原因じゃない」
「じゃあ、」
「こんな街にも先輩みたいなお節介がいるんだなって思ったらおかしくなって、
 それで川原の空見たらぱあっ、て昔の色が見えたんだ」
「──昔の色?」
「毎年友達と遊んで夏休みに見ていた、水色で真っ平らな空の色。
 これはずっと続いてるんだなって思い出しちゃったから。
 私はずっと、吉澤の続きなんだってね。
 空も梨華ちゃんも悪くない。
 ただ、私はこういうのを終わらせたいだけ」
410 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 05:17
 終わらす、という言葉に私は一瞬動揺した。
 けれど彼女は強かな顔をしていて、すぐに最悪の想像は打ち消された。

「たぶん、近いうちに怪我のこととかで裁判をすることになると思う。
 そうなるとますます梨華ちゃんに会えない」
「――私と会わないと、終わらせられるのかな」
 ひとみちゃんは苦悶の表情を浮かべた。
「わかんない。でも今の私は友達なんて作れない。
 優しくなれるまでは友達なんて作れない」
「──ひとみちゃんは、優しいんだよ」
 ただそれだけを言うので精一杯だった私に、彼女は笑った。

「梨華ちゃん。好きだよ。ありがとう」
 突然与えられた回答に、彼女の一線が見えた。
 これの線を越えれば、きっと彼女の芯を崩してしまう。
 欲していた答えと笑顔を手向けてくれた彼女を、
 私は壊すことが出来なかった。
411 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 05:22
今回更新 age
>>396-410

読んで頂いている方、ありがとうございます。
m-seekに2chブラウザの導入が出来るようになったので、
更新報告ageは今回で最後にさせて頂こうと思います。
412 名前:_ 投稿日:2003/12/03(水) 05:23
>>411
(・e・)age忘れにて失礼
413 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/03(水) 09:49
書き続けてくれてありがとう!! 嬉し号泣。。
414 名前:名無し 投稿日:2003/12/03(水) 11:27
ああもう本当に…待ってた甲斐があった。
久しぶりに読んでも一気にこの世界に浸れるんだなあ。
415 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/03(水) 16:39
レディオヘッドでしたか。
416 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/03(水) 22:32
よりによってAmnesiac聴いてるのか……。そりゃ暗いよ。
そんなことより絡ませ方に鳥肌が立ちました。
自分は、大体のいしよし小説には正直時代錯誤を感じているのですが、
この小説は好きです。最後まで見たいです。
417 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:09
 出会った夏は遠い向こうに、吐く息が丸く見える確率が増えていく季節。

 私は音楽を聴きながら登校をするようになった。
 ひとみちゃんがが聴いていた曲を録音したMDを流しながら
 通学路を軽くジョギングをしている。
 早朝の人通りの少ない道を、イヤホンの曲に会わせて駆け足して、
 ──これがいわゆる『振られた』ってことなのだろうか
 などと考えていた。

 彼女がいなくても、私は変わらない暮らしの手続きを繰り返す。

 だれかを愛しく思う気持ちは最上級のものとは限らなくて、
 家族も学校も振り切って四六時中彼女のためだけに考えていくことはできないし、
 そもそも向こうから会いたくないと言われては近づくこともできない。

 私は自分で思ってたより理性的だった。
 物わかりの良い自分を受け入れながらも幻滅し、腹を立てた。
 いらいらしたままテニス部に出て、腹立ち紛れでサーブを打てば、
 どういうわけだか絶好調だ。
 何もかも思い通りに行かないまま上手く過ごせている。

 大事に思う。思われている。
 彼女と交わした温もりが時間によって冷まされ、堅くなり、
 過去の出来事として記憶にだけ留まる。
 順調な日々の中にその予兆を感じてぞっとする。

 私は朝夜と暗い曲を耳に入れ、失われかけた彼女を悼んだ。

 だけど、私は全てをあきらめたわけではなかった。
 後藤さんを追いかけ、迷い込んだ町外れのクラブへと足を運んだのも、
 繰り返しの外へ踏みだしてみようと思ったからだ。
418 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:10
 フライヤーがモザイク模様に両壁を覆い尽くしている階段を下り、
 空っぽのチケットブース前を素通りする。
 重い扉をわずかに引き開けたとたん、爆音が漏れてきた。
 慌てて体を中に滑らせ、扉を閉める。
 薄暗い店内はがらんとしていた。
 爆音の元は大型スピーカーから流れる曲で、ステージには誰もいない。
 人気は少なく、バーカウンターに二人座っているだけで
 店員らしき姿すら見えなかった。

「あ、石川さんだ。どぉーもぉー」
 カウンターに座っているシンプルな半袖カットソーにパンツ姿の子は、
 この間も会った松浦さんだ。
 愛嬌たっぷりに微笑んで手のひらを見せてくる。

 松浦さんの隣にいる人は私と目が会うと、
 飲みかけの小さいビール瓶を持ち上げて会釈した。

 グラスはなく、ビンから直接ラッパ飲みしているようだ。
 小柄で華奢な外見だ。
 黒っぽいキャミソールワンピースに白いカーディガンを重ねている。
 幾分お酒が回っているようで、頬はほんのり赤くなっていた。
 カウンターの高椅子にひょいと腰かけて、
 サンダルを履いた足をぶらぶらさせている。

 はすっぱな白雪姫。
 市井さんはそんな人だった。
419 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:13
 松浦さんは、私を『吉澤さんの友達』と言い、
 市井さんを『後藤さんと吉澤さんの先輩』と紹介した。

「まだ吉澤の友達をやれるようじゃ、相当のオオボケだね」
 と、市井さんは私を下から上まで大きな舌で舐めあげるように顎を動かした。
「いちいさぁーん」
 語尾上がりの甘い声で松浦さんは市井さんを制した。
 市井さんは肩をすくめ、瓶からビールを一口流し込む。
 二人のやりとりの意味を何となく察した。
 市井さんも、ひとみちゃんのごたごたに絡んでいる人なのだろう。

「よそ様にそーいう話し方するの止めましょうよー」
 市井さんは私の鼻先に人差し指を伸ばした。
「よそ様なんだ?」
「違います」
 断言すると、市井さんは両手をぱんぱん叩き合わせ、大げさな引き笑いをした。
 松浦さんはふくれっ面で、ほおづえをつく。

「ホント、人を焚きつけるのはやめてくださいよー。
 後藤さん達がやんちゃすると、うちの中学ぜんぶがカンジ悪くなるんですから」
「あんな中学なんて荒れて当然。イヤならお嬢学校でも行けばいいじゃんか」
「そうやって暴論言う」
「こいつ関西から来た金持ちで県会議員の娘なんだよ。チョーお嬢」
 と、市井さんは人差し指を松浦さんの耳に向けた。
 松浦さんは振り向きざまのチョップで市井さんの指鉄砲を軽く叩きおとし、
「市井さん、カンジ悪ーい」
 そのまま市井さんの手の甲を握ってカウンターに下ろさせた。
420 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:16
「で、石川さんは何しに来たんですか?」
「何しに来たってのもひどいよね」
 松浦さんは市井さんの茶々を無視した。

「なんか話なら、どっかでお茶します?」
「吉澤さんのことで」

 親指を立てて肩越しに背中の扉を指す松浦さんと、
 私の言葉は同時に発された。

 とん、とビール瓶の底がカウンターにぶつかって音を立てる。
「……あーあ」
 松浦さんが顔をしかめた。
「残念。言われちゃったね」
 市井さんは空のビール瓶をつまらなそうに指で弾いた。
「そんなにあたしを病原菌扱いしなくてもいいでしょーに」
「……そういうわけじゃないんですけどね」
 松浦さんは可愛らしく首をかしげて苦笑した。
「じゃあどういう訳だか」
「さぁ」
 松浦さんは立ち上がって、バーカウンターの向こう側に入った。
「もう時間ですよね。酔い醒ました方がいいんじゃないんですか」
421 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:19
「そうやって追い出そうとしてこの子は」
 松浦さんはグレープフルーツジュースの紙パックをカウンターに出した。
 氷を入れた二つのグラスに注ぐ。一つは市井さん、もう一つは私の前。
 喉は渇いていなかった。
 申し訳程度にグラスの縁に唇を当ててジュースを舌に載せる。
 柑橘系の刺激が、喉にイガらっぽく絡んで痛かった。

「ここは松浦の父ちゃんのお店。だからこれも松浦のおごり」
 そう言って、市井さんはくいっとグラスを空にした。
「おごるなんていってないし。
 だいたい市井さんビール何本飲んだんですか、その顔。
 ケースから勝手にとったでしょ」
「けちけちしないでよ。県会議員でこんな店持ちなんだから
 少しは国民にサービスしようよ」
「お店は持ってませんー。このビル持ってるだけですー」
「だけですって。クラブとエセ絵画屋とサラ金のイカガワシイ雑居ビルを持ってるだけ」
「市井さん、ほんっと、カンジ悪い」
 松浦さんは険を立てすぎず、市井さんを睨んでみせる。
 薄暗がりの店内での、そうした仕草一つ一つが堂に入っていた。

 松浦さんは私より年下の中学生には思えない。
 市井さんの年齢も、よくわからなかった。
 おそらくは十代。
 年上に見えるけど、ひとみちゃんの例もあるので自分の目を当てには出来ない。

「で、吉澤の話?いいよ。なんでも話すよ。あなたが吉澤の本当の友達ってならね」
「市井さん。──石川さんも。話ならあとで私がつき合いますから」
 年齢はさておき、続く言葉を顔色一つ換えずに告げた松浦さんが
 この場で一番の大人だった。
「市井さんはヤクザ屋さんですよ」
422 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:21
 私がぽかんと松浦さんを見つめていると、すぐ脇でジジッとジッパーの開く音がした。 
 見ると、口の開いたショルダーバッグをカウンター投げ出して、
 身を乗り出した市井さんが何かを松浦さんに差し向けている。
 
 チョコレートが包まれていそうな、小さい銀の棒。
 それを親指と人差し指の間に入れて浅く握り混んでいた。

「こういうことがいいたいわけ?さっすがお嬢は言うことが上から」
 と、市井さんが喉の奥で小鳥が鳴くような音を立てた。
 笑っている。
 笑いながら心で怒っているか、泣いているか。
 そういう音と、顔だった。

「いちー、さん」

 松浦さんはゆったりと市井さんの名前を唱えた。
 それだけで市井さんは、顔を押さえてどさっと椅子に落ち込んだ。

「酔っぱらってますよね」
 松浦さんが言う。
「そうね。ごめんね」
 市井さんが認めた。
 そればかりか謝った。
 端から見ていて、傷つけられたのは市井さんの方に見えたのに。
 私には二人のやりとりが全くわからなかった。
 お酒を飲まないから、酔っぱらいというのがわからないからなのか。
 それとも根本的な何かが違うからなのか。
 理解できない領域で感情を通わせているらしい二人を前にして、
 私は背中に寒いものを感じた。
 ついていけない。
 でもここで凍り付くわけにはいかなかった。
 私には──
423 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:26
「吉澤ね。吉澤」
 顔を上げた市井さんは、今度は私の方へと銀の棒を降り出した。
 ばちん。跳ね上がる。
 市井さんの手元に銀の刃が見えて、私は今度こそ凍り付いた。
「や!や!ちょっとやめてやめてやめてください!」
 鷲のくちばしのような刃を向けられて、私は座った椅子ごとぴょこぴょこ後ずさった。

「いちー、さん。わかってます?」
「……はいはい」
 松浦さんに諫められ、市井さんは片手を振る一動作で刃を折りたたんだ。
「その反応が正常。アンタは正しくそっち側」
 急に冷めた顔になって、私を手の甲で払いのける仕草をする。
「吉澤は馬鹿だからさ、初めてコレ見たときも
 『なんかかっこいいですねー』とか言ったんだよ。かっこいいじゃないだろうよ」
「いったい、バカなのは誰ですかねー」
 それまで仏像のような穏やかさを保っていた松浦さんも呆れたようだった。
「あたしなんでしょうねー」
 ぶっきらぼうに言い捨て、市井さんは折りたたんだナイフをバッグに投げ入れた。
 バックのジッパーを閉じ、を肩にかけて席を立つ。

「これから吉澤の寝たきり友人のお見舞いに行くけど、一緒に行く?」
 私も慌てて立ち上がった。
「それって、吉澤さんの先輩のですか」
 聞くと、市井さんはぽんとバッグを叩いて言った。
「来る、来ないは自分で考えて選んでね。あたしが松浦に怒られちゃうから」
424 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:29
 私は市井さんについて行き、天使の源と対面した。

 その後、帰宅途中にコンビニに立ち寄って、果物ナイフを一本買った。
 こっそり部屋に持ち帰り、プラスチックパックの封を切り、
 露わになった薄っぺらい刃を見つめた。
 彼女の曲が入ったMDを勉強机の上に横たわらせて、
 カートリッジの中央めがけてナイフを突き立ててみたけれど、
 鈍い刃先がはプラスチックにわずかめり込むだけで横に滑った。
425 名前:_ 投稿日:2003/12/12(金) 05:44
>>417-424 今回更新

レスありがとうございます。
前回更新で特に取り上げた曲は、
レディオヘッドのアルバムAMNESIACの一曲目です。

他にも曖昧に取り上げてるものがあると思いますが、
いづれ何らかの形で明らかにしたいともいます。
読者の時は、そういう要素が気にかかる方なので・・・
426 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/12(金) 12:41
作者さん有難う♪
この物語の続きが読めることは本当に嬉しい。
427 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:39
 ささいなことからテニス部の同級生と大喧嘩をして、
 ラケットで前腕をしたたかに打たれてしまった。
 青黒い痣が出来たが骨には影響はなく、腫れがひいたら運動をしてもよいと
 お医者さんは言ってくれた。
 だけど私は自室の状差しに白紙の退部届けを備えて考えている。
 切れ味の悪い果物ナイフだけど紙を切る用はよく達した。
 わら半紙に印刷された退部届けは破けやすく、すっぱり切れたのは数枚しかない。
428 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:41
「梨華ちゃん、お散歩しよ」
 我が家の扉を開けた柴ちゃんは夕日を背負って登場した。
 その足下には小型犬のぷーさんが真っ赤な革のリードで繋げられて
 ちょこんと座っている。
 賢さが顔立ちに表れている子で、雑種ながら一見血統書つきに見えるという
 柴田家の愛犬だ。
 中学の頃は時々一緒に散歩をしていたけれど、
 私が部活に時間を費やすようになってからはご無沙汰になっていた。
 柴ちゃんと同じ高校に通うようになってからは、
 わざわざ柴田家に足を運ぶ機会も少なくなったので、
 ぷーさんの顔を見るのも久しぶりだ。

 花柄のベストを着こんで顔をきょろきょろさせているぷーさんの鼻先をかいてやると、 
 私達は町に繰り出した。
 駅から離れる方に進み、住宅街近くの商店街の脇道を曲がって小学校の方へ行く。
 こちらには古くからのマンションが多い。
 マンションの脇には公園が設置されるものだ。
 空き地が多かった時代に立てられたマンションは公園の敷地も広めに取ってある。
 小さな頃はわざわざこの当たりまで足を運んで、マンション公園めぐりをして
 遊び回っていたいた。
429 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:42
「寒いね」
 柴ちゃんは首を縮めて歩いていた。
 途中の自販機で温かいお茶を買って手を暖め、暖めた手をむき出しにされた
 互いの首や耳に押し当てた。
 住宅街を抜け、河原の方へ回った。
 周囲に建物がない分風が強くて冷たい。
 土手の上を歩いていると、下の河原で大型犬を遊ばせている家族と
 町並みを自転車で行く小学生の群れが同時に伺えた。
 冬の日差しは赤らんでいても、時刻はまだ四時を回ったばかり。
 故郷の町中にいながら郷愁に身を任せてぼんやり歩いていたので、
 その後に起きた出来事は雷に打たれたようなものだった。
430 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:46
 何かが私と柴ちゃんの間を押しのけて通り抜けた。
 ゴムを擦るような悲鳴が聞こえた。
 白いパーカーとニット帽の少年達が背中を向けて走り去っていき、
 ようやく柴ちゃんの方を見ると柴ちゃんは土手にお尻を付けて滑るように
 車道へ降りようとしていた。

 車道には赤い紐の付いた白いものがひしゃげていた。
 前足が一つ背側を向いている。よたよたと起きあがろうとしては倒れている。
 少年達の背中へと、柴ちゃんへと、私の意識は真っ二つに裂かれた。
 遠ざかる白。のたうつ白。
 気が遠くなった私は何かを叫んでコートのポケットに忍ばせた果物ナイフを掴んだ。
 サングラスをかけた少年達は私を迎え入れるように立ち止まり嘲笑していたのに、
 私の手のものを見ると顔色を変えた。

 身を翻す少年達と、私の距離はじりじり縮まる。
 狙い据えればずいぶん華奢な背中だ。
 やせっぽっちの子供の背中だ。
 走る私の腰に何かが当たり、ナイフを振り回して向き直る。
 すこし遠くで柴ちゃんが、白くつぶれたものを抱きかかえていた。
 靴下で草を踏んで、片手にスニーカーの片っぽを掴んでいる。
「梨華ちゃん!」
 十六年間も私を叱りつけてきた甲高い声を聞いて硬直した。
431 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:47
「何してるの!こっち来なさい!」
 私の足下には柴ちゃんのスニーカーが一つだけ転がっている。
 あたりをぐるりと見回すと、赤く染まった水面、風に薙ぐ足長の草、
 騒ぎに気がついた人々の力無い傍観顔。
 少年達は背中を丸めて猫のようになり、いつでも動き出せるようにして私を見ている。
 目眩がして地面が頼りない。
 ああ、これはあの音楽酔いだ。
 わーんと歪んで広がる音がする。視界に靄がかかる。

「梨華ちゃん」
 肩を掴まれて、振り払おうとして手を振った。
 かすかな手応えを感じ、その気色の悪さにナイフを手放した。
 見開いた目に、頬に片手を当てた柴ちゃんが映る。
 見つめていると柴ちゃんの白い手の下に、赤い線が浮き上がってきた。
 なのに、柴ちゃんは私に笑って見せたのだ。
 私は全てが怖くなって、その場から走って逃げ出した。
432 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:49
 蒲団をかぶって寝ていると、携帯が何度も鳴った。
 出るのも面倒で、電源を落としてしまう。
 それからしばらくすると、私の部屋の扉を叩く音がした。

「梨華ちゃん、夜のお散歩しよ」
 扉の向こうの朗らかな声に反応し、扉を上げると頬にガーゼを貼った
 柴ちゃんがおどけて敬礼をした。

「ぷーさんね。骨折だって。足と胸。手術して入院してる」
 柴ちゃんは私の部屋にずんずん入ってクッションの上に座った。
「それで、このほっぺの傷は全然浅いから。
 ちっちゃい頃自転車二人乗りして転んだでしょ。
 顔面から落ちてほっぺ擦っちゃって、でもすぐ治ったよね」

 柴ちゃんは黙りこくった私の様子を伺いながら、緩急をつけて話した。
 腰までも背がないほどの子をあやすような、ゆったりと甘ったるい
 口ぶりを聞いて、私達がそのぐらいだった時代を思い出した。
 このリズムは幼かった柴ちゃんからはよく聞かされていた。
 最近は聞いた覚えがない。
 今より、昔の方が一つ年の差の幅が大きかったのだろう。
 だけど今夜に限っては、保母さんと園児ほどの心の年の差が開いている。

「だから、夜のお散歩いこ」
「だめ」
 私は首を横に振った。
「どうして」
「夜だし。外は怖いから」
 柴ちゃんはトレンチコートを着こんで外出準備をしっかりと整えていた。
「うちのお母さんに言われてきたの?」
「勝手に来ただけだけど。 ペットボトルの買いだしにつき合って欲しいの。
 二リットルが六本。だから荷物持ちして」
 と、五千円札を印籠のようにつきだして見せた。
433 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:52
 私は悪戯をした悪い園児だった。
 そのことを怒りもせず、どころか慰めるように簡単な用事を言い付けてくる
 保母さんに逆えるほど自分を見失ってはいなかった。

 コンビニまでは数分だ。
 サラリーマンや学生が通る時間帯で人気は多い。
 だけど今の私には、この町のこの夜が怖くてたまらない。
 柴ちゃんにすがって、腕を組んで歩いた。
 紙幣でも握っているのか、柴ちゃんは片手をポケットに入れたままだ。
「学校でなかなか顔合わせなかったけど、
 梨華ちゃんはずっと部活が忙しいのかなって思ってた。
 ぜんぜん気づかないってのも凄いね。お隣なのに」
 そう言う柴ちゃんの目は夜気のように冷えていた。
 気づけなかった。
 そんな謂われのない罪悪感を背負って自分を責めているのだろう。
 ぷーさんのことだけでも水位が一杯だろうのに、
 その上こんな目をさせてしまう自分がもどかしかった。

 街灯が生み出した私の影が針路を示すように前に伸びている。
 沼のような夜の影に靴の裏から沈んで溶けてしまいたい。
 星が瞬く空よりも均一な黒い影は頼もしい。
 こんな私でも全て受け入れてくれるだろうと思った。
 重く、静かな夜だった。
 私達が行く細い夜道は気がおかしくなるほどに広い。
 俯いた私を抱き起こそうとするように、
 柴ちゃんは私の肩口を優しくぽんぽんと叩いた。
「梨華ちゃんが学校に休んでるのはどうして」
434 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:53
 私はアスファルトが街灯を反射して白んでいる箇所に向かって答えた。
「世界が、怖いの」
「ほんとに怖いね。今日なんて本当に」
 柴ちゃんはポケットからハンカチに包まれた細長い物を出す。
「梨華ちゃんがこんなのを持ってる世界は怖いよ」
「ごめんなさい」
「梨華ちゃんは怖くないんだよ。ずっとお隣にいて怖いわけないでしょ。
 怖いのは、そういう世界がね」
 私が差し出した包みに触れることが出来ずにいると、
 柴ちゃんはそれを指の間でくるくる回して見せてから自分のポケットに仕舞った。
 指揮棒や鉛筆で良くやってみせる、柴ちゃんの得意技だ。
 鍵盤の上で弾けて踊る指先はとても器用だった。

「こんなのどうするの。何に使うの」
 覚えのある言葉に、私は過去に思いを馳せた。
 そっくり同じ質問を市井さんにぶつけていたのだ。
 その時の市井さんの回答を思い浮かべ、オウム返しに呟いた。
「──切っ先を世界に向けて立っている」
435 名前:_ 投稿日:2003/12/24(水) 04:55
>>427-434
今回更新
レスありがとうございます。
ラストまで行進続けます。
436 名前:ヒトシズク 投稿日:2003/12/24(水) 21:18
面白い。ずっとROMってましたが面白すぎて思わずレスしてしまいました。
作者さんのこの小説のおかげで素晴らしい音楽と出会えました♪
ありがとう。そしてラストまで頑張ってください。
437 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:24
 ひとみちゃんの先輩が眠っている病院は都内にあった。
 電車を乗り継ぎ、夜の都心を市井さんに着いて歩いた。
「護身用ですよね」
 道中での念押しの質問に、市井さんは再び銀塊を手に取ってみせた。
 市井さんの手の中にある折りたたみナイフは夜道にあって月の色に光っていた。
 握りに細やかな彫金が施された金属は神秘的で、
 松浦さんの前でつきつけられた刃の鋭さを忘れそうになった。

「護身用って、なあに」
 なのに市井さんは私を試すような質問をぶつけてきた。
「何って……だから身を守るためのものですよね」
「具体的にどうやって守るの。印篭みたいに掲げればみんながひれ伏してくれるの」
 市井さんの言い示すことは、すぐに思い浮かんだ。
 回答にためらった私の背中を押すように、市井さんは言った。
「結局これは人を刺すための道具だよ」
「……市井さんは誰かを刺すんですか」
「どう思う?」」
「そりゃ……刺さないと思います」
「石川さんはそう思いたいタイプの人なんだ」
 悪意は感じない。でも、あきらかに馬鹿にされていた。
 傲慢な振りで言い捨てるやり方がひとみちゃんのふざけ方と似ているけれど、
 それより険を感じるのは、私のひとみちゃんひいきのせいだろうか。

「松浦の言うとおり、あたしはヤクザ屋なんだ。後藤もそう。
 お互い、父親がそれ系でね。
 あたしは臆病だから、家族が刺される夢とか自分が襲われる夢なんかを
 何度も何度も見すぎてきた。寝ても覚めても不安でたまらない。
 纏足って知ってる?」
「え?てんそく?」
 突然振られて即座に返せない。
「小さい頃につま先をちょん切って、小さな靴に足を押し込むんだ。
 そうすると足が靴に収まるように歪んできちんと歩けなくなるの。
 あたしはそれなんだって思ってる。
 不安は心の纏足で、心の中を歪ませる」
438 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:25
 市井さんは暗い目を明るい夜空に向けて、肩をほぐすように左手を頭上に伸ばした。
「星がほしー」
 ほぐしたかったのは体ではなく、場の空気と心情だったのだろう。
 視力は悪い方ではない。
 その私の目には星なんて一つも見えなかった。
 見えるのは繁華街を飾るネオン看板、ビルの窓灯。
 言葉を酔いに任せているのだろう市井さんは、見えない星を欲しいという。
 そんな市井さんにひとみちゃんのお話を思い出した。
「市井さんは古い洋楽をカラオケで歌ったりとかします?」
「なんで?」
「吉澤さんがそういう──ロマンチストな先輩がいるって言ってました」
「ロマンね。物は言い様だ。確かにあたしは夢想家なんだろうね。
 ろくな夢を見ていない」

 市井さんは見えない星を見上げ続けた。
「空は突然落ちてくる。
 あたしは吉澤が石川さんを遠ざけようとした気持ちがわかるよ。
 空は歪んでる場所に落ちやすいから。
 それでも吉澤はあたしらに近づいてきて、落ちた空に当たっても離れなかった。
 だからあたしは石川さんを連れて行くの。
 あたしらに吉澤がいて、吉澤に石川さんがいないのは筋じゃないもの」
 そして、あの言葉をいったのだ。

「あたしはこの刃の切っ先を世界に向けて立っているんだ。
 そうして、これ以上空が落ちてこないようにって構えてるの」
439 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:29
 市井さん達の”父親の会社”のツテがあるという病院は、
 ドラマのロケに使われそうな大きくて綺麗な病院だった。
 内装も近代的だ。
 クリーム色の壁には塗装のヒビも染みもない。
 受付は小劇場みたいに広く、夜だというのに半数の椅子が埋まっていた。
 何台もの液晶テレビが壁に貼られ、天上から吊され、
 郷土料理の作り方やプロモーションビデオなどを映していた。
 その右上隅に小さめに二分割された画面には、
 受付待ちの整理番号が表示される仕組みだ。 

 面会用の受付は別になっていて、並び待つ必要がなかった。
「会社の優待権借りてね。個室をもらってるんだよ」
 ロビーで缶コーヒーを飲んだ市井さんは、すっかり酔いを醒ました顔をしていた。
 入院病棟の階の奥の方だった。
 入り口の扉が開けっ放しでカーテンで仕切られた集団病室と違い、
 廊下に向けて扉が閉まった部屋が続く。
 その一室の前で止まった。
 病室のネームプレートの下に面会中の札がささっていた。
 市井さんはブザーを押した。
「市井です」
「今、いないわよ」
 不思議な返答だった。
「あたし、保護者連からは嫌われてるんだ。
 お母さん達とぶち当たらない時間選んで来てるから」

 病室はものが少ない分広く感じたけど、私の部屋と同じぐらいだ。
 ベッドを夾むようにサイドテーブルが二つある。
 壁際の一つには柔らかな色合いの花束がガラスの花瓶に刺さっていて、
 その下に化粧品ポーチのようなものが置いてあった。
 いくつかの化粧品は外に出ている。
 もう一つのテーブルはMDコンポで占められていて、
 CDやMDのケースが本体とスピーカーの上に低く積まれていた。
440 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:31
 若い女の人が壁際の椅子に座っていた。
 先ほど返答したのはこの人だろう。大きくてきつい感じの目をした人だ。
 コンポからは、何かクラシックが流れていた。

「もっと景気の良い曲にしようよ」
「さっき、お母さんが付けていったのよ」
「じゃあ仕方ないか」
「ほんとにすれ違い。サヤカは遅めに来て正解」
 女の人は市井さんとやりとりをすませると、そちらはどなた?
 というような視線を私に向けてきた。
「ええと、あの吉澤の友達」
 おざなりな説明に、女の人は眉をひそめた。
「ちょっと。そんなんじゃわからないわよ」
「すみません、私もまだ全然詳しいことを聞いてないんですけれど」

 部屋とベッドのネームプレートでようやく患者の名前を知っただけだった。
 白いベッドの上、呼吸器の下に薄化粧を施されて眠る人の名前は安倍なつみさん。
 ひとみちゃんの天使だ。
 閉じた目からもまつげの長さが伺える。
 小さな丸顔をしているから、きっと童顔だ。
 目を開ければ、夏休みの子供のように笑うのだろう。
 お日様の下で遊び疲れ果てた子みたいに、穏やかに眠っていた。
 そんな子供の情景を思わせる人の、
 痩けた頬をごまかそうと塗られたオレンジ色の頬紅が痛ましかった。
441 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:32
「それじゃあ、改めて状況整理でもしましょうか」
 部屋の大きな隙間にパイプ椅子を三つ、丸く集めて市井さんは言った。
「吉澤からどの辺まで聞いてるの?」
 市井さんに聞かれて素直に話すと、市井さんと女の人は顔を見合わせた。
 女の人が”そんなことも知らない子を連れてきたのか”
 と市井さんを責めているような雰囲気だ。
「でもね、この子は吉澤の大事な友達なの。ほら、石川さんだよ」
「ああ、あの……あの、石川さん」
 と、女の人がクスリとした。
 あの石川さんはどんな石川さんなのだろうかと思ったが、
 それ以上に前から私を知っていた風な二人の素振りに驚いた。
 ひとみちゃんは私の何らかを、この二人に話していたのだ。
「おかげで吉澤が大分救われてたわよ」
 女の人のきつめの顔がふっと緩んだ。
 笑うと案外優しい顔になった。
 にらみ顔の書かれた紙を逆さにすると、
 笑い崩れたおじさんの顔になるだまし絵を思い出した。
 もっとも女の人はそこまでひょうきん顔になった訳ではなく、
 可愛らしいものを目の当たりにしてふとこぼれたような表情をしていた。
 その顔に、あなたもこの場所に座りなさいねと認められた気がした。
442 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:37
 二人がかりの整理された話を聞き終えて、
 私は鳥が町を見下ろすように事の全貌を見ることが出来た。

 女の人は保田圭さん。私と同じ町に住む人。
 市井さんは市井紗耶香さん。市井さんも同郷の人だった。
 市井さんのお父さんの内縁の妻の娘──つまり市井さんの義理の妹が後藤真希さん、
 後藤さんの友達で他県に住む吉澤ひとみちゃん、
 市井さんの友達の安倍なつみさんをくわえた面々が事件の被害者だ。

「私は被害者って言えないし、言いたくない」
 話の最中にふと言い淀んだ保田さんに市井さんが言った。
「自分は悪いことしてなくて面倒事に巻き込まれたってのだから、
 十分に被害者じゃないの」
 保田さんのお父さんが運転していた軽トラックが、
 飛び出してきたひとみちゃんと安倍さんを轢いたのだ。
 慌てて車から飛び出したお父さんが見たのは、
 軽いショックと共にブレーキを踏んだ瞬間にちらりと記憶に残った
 制服姿の女の子ではなく、
 白づくめのスポーツウェアを着た柄の悪そうな少年達が凄む姿だった。

「うちの父さんは気が弱いのも取り柄のうちって人でね。
 自分の娘よりも若い子達に脅されてさっさと追い払われちゃったのよ」
 その後、お父さんは警察に事故届けを出しに行き「人をはねてすぐに届けなかったのか」
 と、こっぴどく叱られたという。
 現場に被害者の姿はなく、目立ったトラックの傷も無いところから
 引っかけた程度だろうと結論づけられて夜も更けてきたということで釈放された。

 後になってわかったことだそうだけれど、
 その担当の警察官は事故現場の調査を怠ったらしい。
 空き瓶回収箱が置かれて陰になっている壁の部分や
 道路に水がまかれている理由とかを調べなかった。 
 保田さんのお父さん自身が何をどう轢いたのかもわからないぐらいだ。
 みんな、不良少年グループの誰かをちょっとかすめただけだと思いこんでいたのだ。
 壁や地面に叩きつけられて重体を負った少女達が
 港に投げ捨てられようとしていたなんて考えられもいなかった。
443 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:41
「港?」
 疑問点を市井さんが補足する。
「連中の一人が実家の魚屋の軽トラ出したの」
 死んだ魚を積むように、生きた人間を荷台に積んだのだろうか。
 そして少年達は二人を海に放り込んだ直後を港の夜警に見つかった。

 平家さんは、これは事故だと言った。
 嘘ではない。間違ってはいない。
 だけどこれは事故よりも事件だった。
 今となっては「少年達は貴重な携帯を取ろうとしてひとみちゃんたちを追いかけた」
 というのは言い繕いで、本当はもっと取り返しの着かないことを企んでいたのだとしか
 思えなかった。
 よほど後ろ暗いことがなければ、人を葬ろうとするわけがない。

「ひとみちゃん、裁判があるっていってましたね」
 市井さんが顔色を曇らせた。
「吉澤がね、きちんとさせたいって始めたんだ。
 相手も悪ガキの未成年だからいろいろ揉めてるんだけど、
 それはきっとみんなでなんとかするよ」
 そのみんなには、私は含まれてはいなかった。
444 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:43
 一通り話が終わると、市井さんは途切れたBGMをかけ直した。
 先ほどとうって変わって、威勢の良いギターとドラムの音が病室内に響き渡った。
 男の人が叫び始める。いつまでも日本語が出てこない。
 これも洋楽なのだろう。
 ひとみちゃんが聞いていた地面が沈むような曲とは正反対で、
 ハイテンションに酔いそうな曲だ。
 曲のサビらしい部分で男の人たちが、わら、わら、わら、と祭りのように叫んでいた。

「オススプのワラワラ?」
 保田さんが聞いて、市井さんが頷いた。
「奴らだって刑務所送りだ」
 と、市井さんはウァラ、ウァラと歌に合わせて呟いていた。
 なんと言っているのだろう。
 英語の発音で「ウォーター」と言っている風にも聞こえる。
 水、水と乾いた集団が叫んでいるのだろうか。

「今日の反証読んだ?未成熟な少年達が事故に対面して正気を失った結果、って。
 少年犯罪が世に騒がれる今こそ風潮に流されない慎重な判断が必要です、だって」
「ふざけんな、だ」
「私は何も言える立場じゃないけどね。
 なんにしたって、こんな場所でこんな曲は趣味が悪いわよ」
 保田さんは顔をしかめた。
 二人のやりとりを見るに、この歌は明るい曲調と違った物騒なものなのだろう。
 そう思えば、曲からは薬物中毒者めいた底抜けで鋭い明るさを感じた。
445 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:46
 常識的に考えれば安倍さんに化粧をしたのはお母さんだろう。
 思い出の曲を幼い日を思いながら眠り続ける子供の薄紅をひく。
 ピアノからの連想で安倍さんに柴ちゃんが重なった。
 安倍さんのお母さんには柴ちゃんのお母さんが重なり、
 さらに自分の母親を思い浮かべた。

 切なげなピアノの情景と、暗い音楽酔いと、破壊的なハイテンションが
 この病室の中では全て隣り合わせになっていた。
 一体この場所はどういう仕組みで動いているのだろうか。
 私は迷い道を歩かされているような気分になって
 市井さんと保田さんの姿を見失わないように目と耳とで追いかけた。

 安倍さんは、市井さんにとって普通の友達だった。
 学校で知り合い音楽の趣味で仲良くなって父の家業を明かしても
 友達で居続けた人だという。

「ヤクザの家って聞いてもつきあい続けてくれる人は結構いたけど、
 本当の意味で引かなかったのはなつみぐらいだった」
 明かしてもスルーされタブーになるのがお決りだった家業のことを、
 安倍さんは無遠慮なまでに突っ込んで聞きだそうとしてきた。
「他の人よりきょーつけて生きないといけないね、って言ってきたんだ。
 なつみはあたしの特殊を認めた上で受け入れてくれた一般人」

 市井さんにとっての安倍さんは、後藤さんにとってのひとみちゃんだった。
 四人は仲良くなり、今年の春が来た。
 ひとみちゃんと後藤さんの進学先候補の下見に市井さん安倍さんが同行して、
 別れて帰ったひとみちゃん達だけが落ちてきた空にぶつかった。
446 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:48
 聞けば聞くほどに、思えば思うほどにわからなくなっていった。
 世の中にあり得る話だ。
 だけどあってはいけないと思う。
 もっと正直に言えば関わりたくない話だ。
 なのに私は席を立てない。
 何が私の足止めをしているのかもわからない。
 ひとみちゃんに会いたかった。
 そうじゃなければこの場から追い払われたかった。

 そのどちらもないまま、市井さんが言った。
「あたしにはなつみは欠かせない友達だった。
 だから後藤も吉澤が欠かせなかったんだと思うし、
 吉澤もそういう人が必要なんだろうって思う」
 私に向けて言ってるのだ。
 それで私の足は釘で止められたみたいになって、本当に立てなくなった。
447 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:51
 面会時間の終了によって私は解放された。
 足が重いままで、頭の中はぐるぐるしていた。
 そのまま帰る気になれず、電車を乗り継いでひとみちゃんの家に向かった。
 ひとみちゃんの家は病院から遠くはない。

 電話もかけられないような状態だ。
 行ったって会えない。玄関のチャイムも押せない。
 ただ家の前を見てこようとしただけだった。
 住宅街の夜道を小走りしてひとみちゃんの家に着いた。
 二階の彼女の部屋を見上げると、カーテンが閉まっていて
 わずかな明かりが漏れていた。
 あの窓の中に彼女がいると思うと、胸の奥まで深呼吸できるぐらいまでに
 気分が落ち着けた。

 玄関の表札に目を落とすと、ガムテープで紙が貼られていた。
 門灯に照らされた紙面にはひとみちゃんを中傷する文章や脅し文句が
 乱雑にびっしりと書かれていた。
 どのくらいかの時間をその場で佇んでいると玄関の扉が開いた。
 まぶしい光りに目を貫かれる。
 男の人と女の人がそれぞれ手にした懐中電灯の明りを武器のように
 私へと向けていた。

 とっさに私は走っていた。
 背後で「待て」と男の罵声が聞こえた。
 私は何も悪いことをしていない。何もしていない。
 一気に区画を走り抜けて大通りまで出ると、壁に手をついて肩で息をした。
 私は何もしていないのに、どうしてこんなに苦しいのだろう。
448 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:53
 ──切っ先を世界に向けて立っている

 柴ちゃんの耳は私の呟きを聞き取っていた。
「すごいな。世界を敵に回してるんだ」

 ──あたしはこの刃の切っ先を世界に向けて立っているんだ。
 市井さんの心構えが理解できたのは、私自身もナイフを携帯するようになってからだ。
 常に刃を持ち歩く。
 それは世界に矛先を向けることだった。
 私は知らないうちに世界を敵に回していた。
 いつでも全てに刃先を突き付けられる状態でいないと怖くて仕方なくなっていた。

「これからもまだ武器が必要かな?」
 私は答えない。
「いらない?梨華ちゃんがいらないのなら、これ私がもらっちゃうよ」
 と、柴ちゃんはナイフの入ったコートのポケットを叩いた。
 私が答えないでいると、
「はい、物々交換」
 と、柴ちゃんは私のポケットに何かをねじ込んだ。
 のそのそと取り出してみると、近所の神社の赤いお守りだった。
「もう今年も大分終わっちゃってるけど、
 新年になったら新しいの持ってきてあげるね」
 柴ちゃんは私の丸まった背中をどんと叩いて、それから優しく撫でてくれた。
「大丈夫だよ。世界は怖いかも知れなけれど梨華ちゃんの周りはそんなに怖くない」
449 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:56
 ぷーさんは足を一つ減らして帰ってきた。
 柴ちゃんはほっぺにガーゼを当てたままで学校に通っている。
 私も学校に通い出し、部活を再開した。
 それが柴ちゃんに出来る返事だと思ったからだ。

 ある日私はあのナイフと思いがけない再会をした。
 音研部室で飯田さんがリンゴを剥くのに使っていたのだ。
 いかにして”なまくら”ナイフを一生懸命研いだのか力説する飯田さんに、
 柴ちゃんは知らんぷりをしていた。
 私のナイフは果物ナイフで、果物を切るためのものだ。
 当たり前のことを見せつけられて、私は笑ってしまった。
 あっちこっちに傷やほつれがあるはずなのに、
 この場所はこんなにも丈夫だった。
 兎に剥かれたリンゴをヌケヌケと食べている柴ちゃんがおかしくて、
 これが私のある世界なのだろうと信じてみたくなった。

 しばらくして柴ちゃんと二人になった機会に、
 私とひとみちゃんの事件をおおむね話した。
「おかしいと思うけど、私は吉澤さんのことがすごく好きなんだ」
 ピアノ部屋でぷーさんを膝に載せ、片手で子犬のワルツを
 のんびり弾いていた柴ちゃんは、弾き途中の曲に終わりの和音をちゃんちゃんと
 叩いて付けた。
「うん、そうなんだろうね。見ててもわかるよ」
450 名前:_ 投稿日:2004/01/08(木) 18:58
>>437-449
今回更新
レスありがとうございます。
ここまで書けてこれたのも顎さん、読んでくれている方々のおかげです。
451 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/09(金) 00:13
やっぱり天使はあの人でしたか。
柴ちゃんみたいな友達がいれば、石川さんは大丈夫。
そんな気がしました。
452 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/01/09(金) 23:12
おもしろいなぁー・・・
汚れない柴ちゃんのキャラがぐっときます。
それぞれのキャラが立ってていいなぁ、と思いました。
453 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/07(土) 15:06
保全
454 名前:_ 投稿日:2004/03/12(金) 03:47
呼んでくださる方・顎さん

ながらく更新を停めていまして申し訳ありません。
放置は致しませんので、スレを残しておいてください。
よろしくお願いいたします。
455 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/08(木) 23:22
綺麗だなぁ。
全然、関係ないけど、北村薫や、加納朋子がおもいうかびました。
456 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:00
 持ち手のないバケツ型をしたグラスにオレンジジュースを半分ついだところで
 紙パックは空になった。
 背後を通り過ぎたお母さんは、制服姿のままの私を見て、
「あら、ちょうど良かった」
 夕食の鍋に足りない食材が書かれたメモを渡されておつかいに出された。

 ベテラン主婦のように一円でも安い所を探しまわるでなく、
 駅ビルの中のスーパー一軒で全てをすませる。
 店内のフードコートから漂う甘いバターの香りに足を止め、
 クレープ屋さんの店頭に飾られた蝋細工を眺めていると、 
 右側から名前を呼ばれた。
 テーブル席が並べられている方を見れば、
 パイ菓子とコーヒーをトレイを抱えた保田さんが手を上げていた。
 保田さんとの距離と、クレープの受けとり時間を比べて、
 私はウーロン茶だけを頼んで保田さんの元に向かった。 
457 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:02
 初めて安倍さんのお見舞いをした時、
 その場にいた人たちは「またおいで」と言ってくれた。
 『私はひとみちゃんの友達で無関係じゃないしあれは社交辞令なんかじゃない』
 そう思いこもうとしてずいぶん苦労をした。
 二回目のお見舞いは、一人の心細さを押さえるように胸に手を当てて
 病室に踏み込んだのだ。
 その後、ずいぶんと足は軽くなった。

 病室では、市井さんから当たり障りのないひとみちゃんの昔話を聞いたり、
 その脇で椅子に座ってぼおっと窓の外を眺めている後藤さんに
 気まずい思いをさせられたりした。

 それらのいつでも、保田さんはそこにいた。
 率先して話をするでもなく、だんまりを決め込むのでもない。
 自然に病室の時間を共有していた保田さんは、その自然さで
 パイを二つに割って私に差し出した。
458 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:05
「食べる?」
 ペーパータオルにくるまれた暖かな焼き菓子をありがたく受け取る。
 棒状のパイの表面にはバーコードのような切れ目があり、
 表面には蜜を伸ばしたようなテカリがあった。

「そういえば」
 触れればひっつきそうな、パイ皮の粘着質なツヤを見て思い出した。
「この間友達とアップルパイを作ったんですけど」

 丸形の、ホールタイプと呼ばれる形状のアップルパイを作った。 
 最近何かと遊ぶ機会の多い、柴ちゃんに誘われたのだった。
 ご機嫌になるとキューピー3分クッキングのテーマ曲を歌いだす
 飯田さんにレシピを教えてもらったという。

「冬はパイ料理を作るといいらしいよ。やってみない?」
 楽譜ノートの最終ページに書き込まれたレシピを見せながら言った。
「なんで?」
「飯田さんの理屈は知らないけど。
 冬に鍋がおでんが美味しいのと同じようなことなのかね」
 一緒にお菓子を作る慣習なんてないのになぜ突然、という質問だったのに、
 わざか本気か、柴ちゃんは変な答えをした。
459 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:07
 柴ちゃんは私と同じく、あまり料理が得意な方ではない。
 私は不器用。
 柴ちゃんは器用で気が細かいけれども、いわば感性の人だ。
 機械を使って計ったり分けたりを面倒くさがる。
 そんな私たちが二人で作った料理の敗因を考えれば、
 作業分担を間違えたことに尽きるのだろう。
 柴ちゃんがノートを片手に手早く材料を分量し、
 私は渡された物をボールに放り込んで機械的に攪拌した。
 私たちはとても手早かった。
 たぶん、手早すぎたのだ。 

 後悔先に立たず、役立たず。
 オーブンがチンと鳴ると、表面がムラだらけのパイが焼き上がった。
 カサブタはがれたての皮膚のようになめまかしくテカる箇所があり、
 水仕事で荒れた手のようにカサカサと白く毛羽立っている箇所があり。
 まるで砂漠とオアシスの大地。
 丸い形状と相成って、クレーターの空いた月面のようなものにも見えた。

 嬉しそうに試食会を訪れた飯田さんは、完成品を一目見て全てを悟った。
「初心者は市販のパイ生地使った方がいいって、言ったっしょ?」

 私が初めて聞いたお言葉に、あらぬ所に視線をやった柴ちゃんだった。
 隣のお姉さんは器用で気が細かく、時々雑だけれども凝り性だ。
460 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:15
 その話をすると、保田さんは控えめに笑った。
「それは店に並べられないね」
「まぁ、味はそれでも良かったんですよ。
 クッキーみたいな、堅焼きのおせんべいっていうか、所々歯ごたえも違ったし」
 ……ある意味、斬新な味でしたよ」
 にやにやと笑っていた保田さんが堪えきれなくなったように吹き出した。
「そんなに必死に言い訳しなくても」
「でもでも、手作り感溢れたのっても、食欲をそそられませんか?」
「石川さんはそれ見て食欲をそそられたの?」
 見た目は、飯田さんが額に手をやりため息をもらした塊だ。
「見た目に捕らわれず、何でも挑戦してみるものですよ」
「言ってることが変になってるけど、むやみやたらにポジティブねぇ」

 悪い立場に立たされると、すぐ混乱して必死にもがく。
 家で部活で友達づきあいで、散々指摘されてきた私の性格だ。
 この性格で喧嘩したり嫌われたり、
 うんざりするほど落ちこむことを繰り返して
 もうすぐ十六歳。
 情けない自分に肩をすくめて、苦い気持ちをやり過ごすことも
 出来るようになってきた。
 それは本当に最近のことで、ひとみちゃんにからかわれているうちに
 身についたものだった。

 飼い猫の蚤取りをするご主人のような顔をして、
 ほらこんな所にあった、とご満悦に私の欠点をつまみ出して日に晒す。
 蚤がいるから、という理由で愛猫を捨てる人はいないだろう。
 ひとみちゃんと会っていると、自分に欠けている部分を意識させられながらも
 痛みにはならなかった。
461 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:20
 保田さんはパイの断面を私に向けた。
 ふっくらと黄色いサツマイモのマッシュが見える。
 マッシュの中に角切りに混ざっているきいろい固形物は、栗だろう。

「本当の月は白っぽく見えるのに、この手のイベントだと黄色扱いよね」
 サツマイモと栗で月色だ。
 保田さんはドーナツショップ店頭の広告旗を指し示した。
 広告旗の薄軽い布には『秋のゴールデンファア』と大きな文字が斜めに書かれ、
 ウサギやススキの絵と共に焼き菓子の写真が載っている。
 保田さんが手にしているパイの写真もあった。
 『スイートポテトとマロンのゴールデンパイ』という名前だった。
 早口言葉じみて、長い。
 注文をするのも受けるのも大変だろう。

「秋っぽいですね」
「もう冬なのにね」
 首を縮め、コートの襟に隠れて歩く季節だった。
 世間が雪だるまやサンタクロースで飾られるまでは、
 なんとかして秋を引っ張るつもりかも知れない。
462 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:23
 保田さんは小さくなったパイをパクパク片づけると、
 流し込むようにコーヒーを口にした。
 そして、再び広告旗の方を見つめる。
 会話の途切れに、私も同じ方を向いた。
 マロンパイに並ぶ、洋なしタルトの写真を見る。
 熱を通された洋なしが卵色のクリームに埋もれて、透き通った金色に輝いていた。
 写真脇に描かれた 『ラフランスとハニークリームの』までを読んで止めた。
 ともかく、これも『秋のゴールデンフェア』の一品だ。

 保田さんはお菓子のお代わりでも考えているのだろうかと思ったら、
「芋は掘る。栗は拾う。梨は狩る」
「はい?」
「うちの父さん、この秋全部体験したわよ。知り合いの千葉の農家手伝ってたの」
「そうなんですか」
「筋肉痛起こしながら農業もいいなぁ、なんて言ってたわ。
 来年からはビル管理の仕事が決まったから、当分土いじりもないだろうけど」
「良かったですね」

 保田さんのお父さんは、事件の後に仕事を辞めていた。
 改装業者だったという。
 仕事場を車で移動している際に、事故を起こした。
 市井さんの話から知ったことで、それ以上のことは聞いていない。

 聞いていないと言えば、保田さん自身のことも聞いていない。
 学生だったということ。今は学生ではなくなったということ。
 それらを会話の端々から知っただけだ。

 辞めざるを得なかったのか、辞めずにはいられなかったのか。
 保田さん一家の心情を想うだけで踏み込めなかった。
 ひとみちゃんにも、市井さん後藤さんにも踏み込めない。
 知らないと気づき、聞けないとためらうたび、
 本当に私は部外者なんだなと実感する。
463 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:28
 報告以上のつもりはなかったようで、
 保田さんはそれでお父さんの話を打ち切った。
 カップに残ったコーヒーを飲み干し、そろそろお話は終わりかなと思わせて、
「吉澤さんの話だけど」
 油断しきっていた私をどきりとさせる物を出してきた。

「吉澤さんと会ってたりする?」
「いえ」
「私も会ってないのよ。紗耶香たちは会ってるのかしらね」
「話、聞かないんですか?」
「あなたは?」
 口を重くして顔を見合わせた。
 ひとみちゃんに関しては、保田さんも部外者なのかもしれない。

「噂は聞いたのよ。弁護士から。
 弁護士の頭を通り越して、子ども同士が会ってるらしいって」
「はぁ」
 不本意だけれど、市井さんたちとひとみちゃんが
 私たちの知らないところで会っていてもおかしくはないだろう。
「そうじゃなくて」
 保田さんが苛立ったように爪でテーブルを叩いた。
「弁護士が、加害者と被害者が直に交渉しているらしいってことを問題にしてたの」
「加害者と被害者」
 ニュースでは聞き流しているが、口に出すといかめしい単語を繰り返してみる。
 ようやく私は、ひとみちゃん達を害した白ずくめの少年たちに思い当たった。

「知り合いなんですか?」
「元々、紗耶香たちの遊び仲間だったらしいわ」
 私はヤクザの娘だから、と市井さんは自嘲していた。
 焦点の広がった目、風船が破裂したような笑い方が思い浮かぶ。
 火のような市井さんと対照的に、後藤さんの刃物のような眼差しは冷たい。
 どんなに愛想よく、あるいは無干渉な態度で接されても、
 二人が抱いている薄暗い背景は、雰囲気として感じられた。

 見えない闇の中、どうしようもないことが起きた。
 今も進んでいる。もっと見えない、どこか奥の方へ。
 その予兆を感じて、憎らしさとも悔しさともつかない苛立ちが吹き出してくる。
464 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:46
「私は心配していいんでしょうか」
「なんでそんなこと」
 だって私は部外者だから。
 保田さんも少なからず同じ思いを抱いているようだったから、
「駄目だって言われても、心配を止められるわけじゃないでしょ」
 保田さんの答えは、保田さん自身への解答でもあったのだろう。
「踏みとどまることは出来ます」
「踏みとどまるって、石川さんいったいどこに突撃する気よ」

 激情に駆られて起こした出来事を思い出して、私は苦笑した。
 柴ちゃんが止めてくれなかったら、とんでも無いことになっていたかも知れない。
 ひとみちゃんと距離を縮めたい。
 だけどどこまで冷静を保っていられるかわからない。
 不穏な空気に怯えることなく近づけるだろうか。


 私の心にある秤は大きく傾き、針は面倒に関わるなと示している。
 傾いてるからって重りを捨てるのは汚いという声もしていた。
 たぶんこれらが私の理性と良心というものなのだ。
 ひとみちゃんを思い、考えることで自分を知ったような気がする。

 だけど理性の秤も良心の声も一緒に封じ込めて、
 彼女に会いたいという衝動だけに素直になっているのだから、
 自分を知ったところで、あまり状態は変わらないようだ。
 初めて会ったときから、迷いながらもずっと私は彼女を選びつづけている。

「会いたいなぁ」
 ぼやいただけのつもりだったのに、保田さんが反応した。
「じゃあ、会ってみようか?」
465 名前:_ 投稿日:2004/05/06(木) 22:48
>>456-464
今回更新。
スレを残して頂きありがとうございます。
レスを頂きありがとうございます。
466 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/13(木) 02:01
石川さんはひたむきですね。
今後どう話が転がっていくのか予想もつきません。
467 名前:_ 投稿日:2004/08/09(月) 22:18
生存報告です。

更新が滞っていてすみません。
長らくにわたってスレを使用してすみません。
どうかスレを残しておいてください。
よろしくお願い致します。
468 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/10(火) 11:47
続けてくれるのが嬉しいです。よろしくお願いします!
469 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/09/13(月) 22:33
470 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/05(金) 19:44
つづいてw
471 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 00:43
 校則より少しばかり短くしたスカートのすそに合わせて、
 学校指定のコートの丈も詰めている。
 風が強い日だった。
 マフラーを奪われないようにコートの襟元を押さえて歩く。
 上身はそれで防げても、足元は無防備だ。
 重い風音をさせてぶつかる寒気はハイソックス一枚の足を強張らせる。

 落葉の季節を終えかけた校庭を
 ぎくしゃくロボット歩調で小走りする私と柴ちゃんに、
 悠々とした大股で横を行く飯田さんは、
「ばかだなぁ」
 と、言った。
「おまえら『防寒具』ってどういう意味だか知ってるかぁ?」
 飯田さんはひざ下までの黒コートをきちっと着込んでいる。
 背高細身の体に纏った長いシルエットは夜の樹木のようだ。
 影に見下ろされる迫力がある。
472 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 00:44
「もう少し毎日が冷えてきたら、コートとスカートの丈下ろしますもん」
 すでに風邪っぴきになっていた柴ちゃんは、
 くしゅくしゅと鼻をすすって言った。
「いつだよそれ」
「校庭の霜柱がザクザクに踏めるようになるぐらい」
「もう立ってるんじゃん?
 登校する頃には日に当たって溶けてるだけだって」
「だから、登校時刻でも霜柱が残ってるぐらい
 寒くなる前には丈直しますって」
 やたら霜柱にこだわる柴ちゃんだった。
 雪や水たまりに張った氷に喜ぶところがある。
 そういえば冬が好きだといっていた。
 冬を表現する音楽が好きだとも。

「柴ちゃん、私のも一緒にやって」
「いいよぅ」
 丈を上げた時も、柴ちゃんにお願いした。
 お裁縫は苦手なのだ。
 かといってこんなことをお母さんに頼んだら
 お小言をもらうのは確実だし、
 毎朝、ひざ小僧の具合を監視されることになりかねない。
473 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 00:46
「ったく、冬の寒さをなめんなぁ。今年の風邪も辛いぞお」
「大丈夫、私がひけるのはこれだけです」
 柴ちゃんが胸の前に手を上げて空想ピアノを弾くと、
 飯田さんはコートの上から柴ちゃんの制服の後ろ襟を掴んだ。
「んで、鼻でひくのは風邪と牛ってもんだ。
 ほら行くぞ。ドナドナの刑だ」
 可哀想な子牛は荷馬車で市場に運ばれるわけである。

 柴ちゃんは「もー」と、売られる子牛にしては楽しそうな声を上げて
 音研部室のある棟に引かれていった。
 放課後の部活動だ。
 文化祭公演を好評のうちに終えた音研は、
 卒業公演に向けて休みなく活動を続けていた。

 去り行く柴ちゃんは片手を軽く振りあげて、
「梨華ちゃん、お大事にー」
「それはこっちのセリフだってばー」
474 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 00:48
 今日の放課後には保田さんとの約束があった。
 テニス部には部活を休むと報告済みだ。
 全国レベルのテニス強豪校だから、色々と気を使う。
 昼休みに部長の教室を訪れて欠席届を手渡すと、
 部長は冷たい眼を向けて軽くうなずき、
 さっさと帰れとばかりに顎を高く上げた。

 元々酷薄とした面ばかりむけてくる先輩なので、
 その心中はわからない。
 だけど今年の夏休みの時点では、
 テニス部員としての私に期待をしてくれていたらしい。
 そういう人に嫌味を言われるでもなく、
 軽くあしらわれてしまうのは、
 ”どうでもよい”という仕分けの棚にしまわれてしまったようで、心寂しい。
 
 今の私はテニスが下手な上に、休み癖のあるサボり魔になっている。
 この間大げんかをした同級生の部員とはずっと口をきいていない。
 厄介者にはそれ相応の応対というものもあるだろう。
 わかっている。いるのだけれども。
475 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 00:48
 ため息をつくかわりに空を仰いだ。
 寒風が吹くだけあって雲が多く、お日様をすっかり隠してしまっている。
 光が少なく、色白く、気が晴れ晴れする色ではない。
 それでも見上げることは気持ちいい。
 雲がかりなお高い、冬の空――。

 冷たい空気を鼻から深く吸うと、
 鼻に水を入れてしまった時に似た痛みがした。
 こっちを立てればあっちは立たず。
 半端になってしまっているテニス部への姿勢は、
 いずれどんな形にせよ正さないといけない。
 そう決めて、いったん頭の片隅に追いやった。

 ――さて、さしあたっての問題は”こっち”の方だ。
476 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 01:05
 白ギャング達とひとみちゃんは、知らない仲ではなかったのだった。

 先日、ショッピングモールのフードコートで保田さんから聞いた話だ。
 市井さんの顔は広く、白ギャンクと顔見知りだった。
 その友達のひとみちゃんも、彼らと挨拶を交わす程度の関係だったという。

 それを、相手側に言わせると
『原告側の少女一人と被告側の少年達は一緒に食事を取り、
 時にはカラオケやゲームセンターで共に遊ぶ親しい友人だった』
 と、変換されるらしい。

「不良同士の悪ふざけ、
 日常の喧嘩って風に印象を操作したいみたい。
 さすがに罪の無い少年達では通しきれないから」
「結構いいかげんなんですね。
 こういう事件とかって、
 もっと新聞で取り上げられたりするもんじゃないですか」
 沢山の目から注目されれば、
 もっと公平な見方が生まれるのではないだろうか。
 私の甘い考えに、保田さんはごまかすような笑い方をした。
「あまり取り上げられるのも、困るんだけどね」
477 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 01:27
 うかつさに、胃がきゅっと縮む。
「すみません」
「いいの。うちはもう落ち着いてるけど、吉澤達はまだだから。
 それに、ある程度は事実だし、晒して損するのはこっち側なの。
 悪い噂で困るのは、向こうよりも私達だから。
 最初は示談で進めてたもの」 
 
 悪評を囁かれ続ければ、心は磨耗し尖っていく。
 病院で聞く市井さんの話はいつもどこか底が抜けていて、
 傍で押し黙っている後藤さんの目の奥には、
 暗い火種が揺れている。
 最後に別れた時、ひとみちゃんは弱っていた。
 まだ、大丈夫なのだろうか。

「意識ない人間を海に投げ込むなんて
 どうしたって犯罪なんだから、
 裁判沙汰にしないといけなかったのよ。
 でも、安倍さんと吉澤のご両親が大騒ぎしたくないって言ってね。
 だからあまり表沙汰にならなかったの」
478 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 01:28
 詳しく話を聞けば、色々と疑問がわき出てくる。
「なんか、おかしくないですか」
「今になって裁判を選んだのは、
 吉澤が耐えきれなくなったんだって思うけど、その後がね」
 示談を取りやめて法に委ねようとする一方で、
 個人交渉をしているなんて矛盾しているし、危険を感じた。
 
「いったい何をしてるんですか」
「それを吉澤を呼び出して聞こうと思うの。
 病院で紗耶香に聞いたって、だまくらかされっぱなしだから」
479 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 01:33
 そして約束の場所の駅前公園に現れた保田さんは、
 薄紫のニットの上に柔らかそうなファージャケットと、
 ごく当たり前の冬の装いをしていた。
 制服のスカートから素足を覗かせている私を見て、眉をひそめる。
「なんだか寒そうね」
「そうでもないですよ」
 軽く強がって、本題に入った。
「来てます?」
 保田さんは首を振った。
「まだ約束の時間まで少しあるし、
 とりあえずそこいらで待ちましょう」
 長い銀色の棒を緩やかに湾曲させた、
 シンプルな形状のベンチに腰を下ろした。
 公園内の街灯も、、金属棒に金属皿を載せただけの形をしている。

 町の規模のわりには、人気が少ない公園だった。
 人がいない、わけではない。
 人が溜まらない。
 駅前という場所柄なのだろうか。
 人々は私達の前を通り抜けては、消え失せる。
480 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 01:43
 公園中央には野外ステージがあるけれど、今日は何のイベントもないようだ。
 まるで準備がされていない、鉄骨の目立つ舞台だった。
 ステージのふもとで四、五人の男の子達がギターを弾いていた。
 円陣を組んで演奏している様はいかにも内輪で楽しんでいる風で、
 男の子達の前で足を止める観衆は無い。

 滞りない人々の流れと、単純な線と金属でできた設置物と、
 葉を落としてすっかり骨になった植木とを眺めていると、
 雑念が消えて胸の中がしんしんと乾いてゆく。

 冬枯れの心地は嫌な気分じゃない。
 心弾ませるデートには向いていない心地かもしれないけど、と考えて、
 デートといえば、と思い出す。
 ここは以前、ひとみちゃんと訪れた町だ。
 その時はこの公園を知らなかった。
 あの明るい夏の終わりにも、
 この場所はさばさばと人を流していたのだろうか。
481 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 01:56
 時が過ぎるにつれて、園内にぱらぱらと小集団が生まれていた。
 待ち合わせ風の人が目立っている。
 夜の町に繰り出すのだろう。
 薄暗い町並みには、迎えるようにネオン看板を浮び始めていた。

 時計が約束の時刻を指し示す。
 駅に繋がる側から流れる人の姿を凝視していたら、
 保田さんに腕をつつかれた。
「来たわよ」
「へ?」
 立ち上がった保田さんが向う先は、私が見ていた方向と正反対だ。
 ひとみちゃん達は、公園奥にある劇場みたいな建物の出入り口から現れた。
 達、だった。
「三人・・・・・・」
 保田さんが呟いた。
 市井さんと後藤さんもいる。

 市井さんはデニムのブルゾンとスカート姿で、
 濃い紺色が小柄な体をいっそう絞って見せていた。
 後藤さんは薄桃色のコートに白のミニスカート。
 私よりも多く肌を露出している。
 そして後藤さんと並んでいだひとみちゃんは、灰色のダウンジャケットと
 黒いパンツを着ていた。

 暗めの服に対照的な白い顔は無表情だ。
 息を詰めて見つめる私を見つめている。
 焦げ茶色だった髪は透き通るような金色に変わっていた。
482 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:02
 建物の入り口脇で待ち受ける市井さんたちに
 ある程度の距離をおいて近づき、荒野の決闘場に立つように向かい合った。

 最初に話したのは保田さんだった。
「紗耶香達を呼んだつもり無いんだけど?」
「そのことで吉澤を責めないでよ。漏らした訳じゃないんだから」
 やや険のある態度を示す保田さんに反し、
 市井さんは余裕しゃくしゃくという風にひとみちゃんと保田さんを見比べた。

「いつ何があってもいいように、メールはみんなのところに回るようにしたの。
 だいたい吉澤一人を奴らのたまり場の公園に呼び出すなんて、
 ちっと配慮に欠けてるってもんじゃない、圭ちゃん?
 それに、人質を使うなんてのもずいぶんなもんだよねぇ?」
 と、愛想の良い顔を私の方にも回す。
483 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:06
「……確かに、気は回らなかったかもしれないわ」
 保田さんはあっさりと非を認めた。
「前から遊んでいる場所だっていうから、着やすい場所かって思ってた。
 それに、あんた達がどんな場所で過ごしてるのか見てみたかったのよ。
 石川さんを連れてきたわけは、
 一緒に話していたときに、吉澤を呼び出してみようって思いついたから。
 それにあたし一人の呼び出しじゃ、
 吉澤に無視を決め込まれるかもしれないって思ったから」
「ひどいなぁ。圭ちゃん一人だってあたしらは来たよ」
「とにかく、どこかお店に入りましょう」
 と、振り返って町並みを見る保田さんに、市井さんは、
「いいよ、このままここで話そう。手早く済ませようよ」
 片手を腰を当てて小首をかしげた。

 保田さんは渋い顔をした。
 そういうわけにはいかないわ、いや構わないって。
 二人は押し問答を始めだす。
 保田さんは上手な交渉人には見えない。
 普段から自分の意見を主張するより、人の意見を聞くタイプだった。
 出鼻を挫くタイミングでくるくると軽口を叩く市井さんを相手にすれば、
 劣勢を強いられ、丸め込まれてしまうだろう。
484 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:11
「ひとみちゃん」
 二人の攻防を避けて話しかける。
「ここで、不良の男の子たちとどんな話を話してるの?」
「裁判はどうなるとか、そんな情報交換してるだけだって」
 そうはさせじと市井さんが割って入った。
「紗耶香。石川さんは吉澤に聞いてるの」
「誰が答えたって同じだって」
「大体、なんで敵とそんな情報交換なんてしてるのよ」
 やはり。
 保田さんは場を移そうと主張していたのに、この場で質問を始めてしまう。
 市井さんにペースを取られてしまった。

「あいつらが『こりゃダメだ』って早めに悟ってくれれば
 それに越したこと無いもの。
 だから圧倒的不利だぞーって勧告してるの。
 君達は完全に包囲されている、ってね」
「それは弁護士の仕事でしょう」
「あいつらもうちらも、弁護士の言うことなんて聞いちゃいないって」
「だったら、裁判なんてする意味ないじゃない」
「でもさー、奴ら腹立つから、いっぺん檻の中に入れたいのよー。
 それだけのために弁護士使ってるだけだしー」
 
485 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:13
 端から見れば、よくわかる。
 市井さんは他人の話に答えるふりをして、
 自分の言いたいことだけを述べている。
 大げさに顔を動かして、傲慢な身振りで、故意に不遜を装っている。
 私達を怒らせる気だ。
 愛想を尽かさせ、去らせようとしている。
 たぶん好意なのだろう。
 深く事に関わらせないようにしているのだろう。
 それが見えていても、腹立たしい。
 真剣に話したい相手を適当にあしらい、
 丸め込もうとするのは傲慢な振りではなくて、真実傲慢だ。

「あんたね、もっと真面目に考えなさいよ!」
 市井さんの思惑を知ってか知らずか、保田さんが熱を上げる。
 私もイライラが頂点に達しそうだ。
 やり合う二人から目を反らしてひとみちゃんを見れば、
 妙に座った目をして街路樹を眺めている。
 すっかり暗くなった辺りの様子に、ふと、夜の家を思い出した。

「この間の夜、ひとみちゃんの家の門に張り紙されてたのを見たんだけど」
 ひとみちゃんが反応した。
 急に明るいところに出たみたいに、瞳をしばたたかせる。
「それが何かと関係してるの?」
 市井さんの方も見やると、片頬片目を歪めていた。
 おじさんがひげのそり跡をさするように、顎から頬をゴシゴシ拳でこすっている。
「張り紙って何?」
 保田さんが聞く。
「その、あまり良くない感じの内容の張り紙が……」
「……」
 スピードを上げる車の音が聞こえる。
 流行のラップ調の曲を流して走っていた。
486 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:27
「そういう時こそ使えないの?……あんたんとこの家業の関係」
 保田さんのテンションはすっかり元に戻っていた。
 それ以下かも知れない。話声は普段よりも密やかなものだ。
「平和な住宅街に強面を張り込ませて、吉澤一家の風評下げるの?
 それとも奴らを直接を脅して、向こうの弁護士に逆転ネタを提供するの?」
 あたしらの家ってさ、元々裁判とかっての向いてないよね。
 だから、一方で柔らかに直談判してるわけだけど」
 私は口を挟んだ。
 市井さんに向けて、でもひとみちゃんに対して。
「じゃあなんで、裁判なんてするの?」

 敢えて不利になるやり方で、何を求めているのか知りたかった。
 かつて、あの子は気がかりなことからは逃げたくないと言っていた。
「まだ、天使をやってるの?」
 今度はひとみちゃんだけに向けて。
「あたしは天使の真似も出来ないみたい。やってみて、よくわかった」
 攻める気はなかった。
 でも、ひとみちゃんはしょげた子供が落胆を誤魔化すように、
 弱り目のまま胸を張った。
「バカだし、将来偉い人にはならないと思う。
 市井さんとこみたいにバックに何かある訳じゃないし、
 このまま普通に、たいした奴じゃないまま過ごすんだと思う。
 そういう奴が何かひどい目に会ったら、法律とか警察に頼るしかないじゃん」
 一呼吸。
 場が耳を澄ましているのを確認してから先を続ける。

「あたしは、境界線を知りたい。
 正義感とか、知りたがりとかいうんじゃ全然なくて、
 それがわからないとあたしは・・・・・・」
 言葉を探すように押し黙った。
 物を思う視線を辺りにさまよわせる。
 その目が私の上にたどり着き、一瞬で通り過ぎた。
 そのまま地に落ちる。
「境界線や道標がないと、知らない間に悪い道を歩いてるかもしれないし」
 後藤さんと市井さんが顔を伏せ気味に目線を交わしていた。
 あるいは悪い道を見極ているのかも知れない、深い瞳。
487 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:31
「それで、後々恨みを買ったりすることは無いの?」
 保田さんが確認する。
「圭ちゃん、言ってることおかしくない?」
 市井さんは目と口の形だけで笑った。
「なんで奴らに恨みなしすっきり満足させてやらないといけないの?」

 ああ、この人はとても遠い。
 ひとみちゃんじゃないけれど、
 市井さんの思考にたどり着くには道標が必要だ。
 保田さんも同じ感慨を受けたらしい。
「やめてよ」
 顔の周りにまとわりつく煙を払うように、わずかに頭を振る。
「あんたたち、これからどうするのよ」
「どうにかするよ」
 これ以上ないぐらいに、軽く言う。
「今までだってけっこう上手くやってきたもの。
 今回はもっと上手くやるようにする。
 こんな喧嘩、どこにでもある話でしょ。
 ただ話し合って、ただ裁判するだけだよ」
 会話初めとはまったく逆で、その軽さに救われる。
 希望的なだけ。
 根拠のない言葉を信じたいぐらいに思考が停止していた。
「今は、他のやり方がわかんない」
 静かに、ひとみちゃんがだめ押しをした。
 敗北感に包まれる。
 とても、疲れた。
「落ち着くまでは、家の周りに来ないで」
 確かな拒絶に私は頷かなかった。私の出来た抵抗はそれだけだ。


「じゃあまた、いつか」
 遠ざかるひとみちゃんの背中を見ながら、
 別れを受け入れたのは何度目だろうと考えていた。 
 また、いつか。
 その時を笑顔で迎えられるのだろうか。
488 名前:_ 投稿日:2004/12/27(月) 02:34
>>471-487
今回更新。
すみません。そしてありがとうございます。
489 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/27(月) 07:57
わーーーーい!
490 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/28(火) 00:24
なんだか皆が皆やりきれないですね
491 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:47
 二時間目の休み時間に届いたメールで市井さんが襲われたと知った。
 送り主の松浦さんに電話しても通じず、
 保田さんに電話をして病院に入院してることを聞き、
 鞄を持って学校を飛び出した。

 市井さんは安倍さんが入院している病院に運ばれていた。
 同じ個室棟の上階だ。
 教えられた病室まで行くと、扉の前で男の人が声をかけてきた。
 細身で背が高い。
 茶短髪で洒落たスーツを着ている若い男の人だ。
 丁寧で、営業的な応対で名前と用件を聞かれる。
 全て答え、松浦さんからもらったメールまで見せてようやく
 扉を開けてくれた。

 中には制服姿の松浦さんに、私服の後藤さん、保田さんがいた。
 後藤さんはベッドの前のパイプ椅子に、前後逆さの馬乗りで座っていた。
 保田さんは腕組みをして立ち、松浦さんは壁にもたれて花瓶の花をいじっていた。
 みんながベッドの方を向いていた。
 そのベッドには、頭に包帯を巻いた市井さんが眠っている。
 床で眠り続ける小柄な少女の図が、二つ重なる。
 私は鞄を落とし、空いた手で額を押さえた。
 浮かんだ絵を消すように目をこすると、指先が濡れた。
492 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:47
「……なんで?」
「平家さんのお店から朝帰りするところをガツってやられちゃったみたいです。
 だから第一発見者平家さんで」
 松浦さんが答える。
 いつもの元気はないが、暗さもない。
 声も態度もしっかりしていた。
「朝一手術で麻酔で寝てるんですって。
 手術前まではしっかり意識があったって言うし、
 脳波とかまだわからないですけど、命とかに別状なさそうです。
 打撲骨折で、何か固い棒、バッドとかなんかそういうんで──」
 松浦、と後藤さんが唸るように名前を呼んだ。
 睨み上げる。
「うるさいんだけど」
「……すみませんでしたぁ」
 そっぽを向いて、ふてくされた顔を窓に向けた。
 景色の開けた窓からは格子戸じみた枯れ枝と。晴れた空しか見えない。
「もうこんなこと……」
 たまらず嘆いた。
「巻き込まないでよ、関係ないじゃない」 
 ひとみちゃんは市井さん達と違うんだから。
 こんなやり方は駄目だ。ついて行けない。ひとみちゃんが潰されてしまう。
 途端、頬に衝撃が走った。
 びしゃんと大きな音がして、体が壁にぶつかった。
 台風のときに聞いた、飛んできた看板が地面に激突したのと同じ音だ。
 何が起こったのか把握しようと前を向くと、
 憤怒の形相をした後藤さんが襟首を掴みかかってきた。
「どいつもこいつも、みんな、みんな、みんな」
 鎖骨と顎を、拳で締め上げられる。
 保田さんと松浦さんが背中に取り付くと、後藤さんはあっけなく私を離した。
 保田さん達と三人一塊になって、よろよろと後ろに尻餅をつく。
 ぺたんと座り込んだ後藤さんは、目をかっと見開いて天井を仰ぎ、
 ぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
「なんだよちくしょう、ちくしょう」
 拳でリノリウムの床を打つ。
 外から駆け込んできた男の人と保田さんとで暴れる後藤さんを抱きしめた。
 二人の背中の陰から手足が激しく突き出される。
 私は呆然と眺めていた。
「石川さん、こっち」
 立ち上がった松浦さんに手を引かれるまま病室を出る。
 閉じた扉が悲鳴を遮断した。
493 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:49
 足早に病室を離れる松浦さんについて行き、私はちらちらと背後を振り返る。
「あの、後藤さん、私が、……」
 動転した私を松浦さんは先導する。
「逃げちゃいましょ。あたし、ああいう場キライです」

 廊下の突き当たりに着いた。
 大きくな出窓の付いたスペースは自動販売機と公衆電話機が設置され、
 休憩所になっていた。
「ふー」
 松浦さんは一息ついたとばかりに深呼吸して、
 自販機の脇に寄りかかって、
「もうお酒のみたい気分。濃いロシアンティーとか、
 甘ーいホットワインとか」
 四角い機体を裏手で軽くノックする。
「石川さんも制服ですねぇ」
 と、先の押し合いで乱れた制服を正した。
 お尻をはたいてスカートのしわも直すと、
 背もたれのない正方形のソファにの一つに腰を下ろす。

「手術か終わった後に、平家さんから連絡もらったんですよ。
 ちょうど登校中だったから、そのまま病院に来ちゃいました」
 再び立ち上がると、無造作に私の頬に掌を押し付けた。
 突然ひんやりした手に触れられて身じろぎする。
 引いた私にお構いなしに、松浦さんは顔を寄せてきた。
「引っぱたかれたとこ、腫れちゃうかなー」
 言われて頬の熱を思い出した。
 内側から張りだすような痺れがある。
494 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:49
「あのですね」
 と、近距離の目が狭められて、可愛い顔がいかめつらしい風になった。
「後藤さんと市井さんは、
 実はあれで安倍さんと吉澤さんのことがすっごく好きなんですよ」
「え、ああ」
「だから市井さんたちを好きになって、とは言いませんけど、
 怪我した直後ぐらい、ちょーっとだけでも心配してあげてくれませんかね?
 ふりだけでもいいですから」
「ああ……」
 市井さんの身を案じていなかったこと指摘されて、
 張られてない方の頬まで熱くなった。
「まぁ、でもたぶん大事ないと思いますし、
 あそこでパンチしちゃう後藤さんも良くないですけどね。
 でも、ぱーで良かったですよ。
 後藤さんのグーパンはマジでシャレにならないです」
 笑って、再びソファに座った。
 私も、横のソファに並び座る。

「市井さん、いつもやり過ぎなんですよ。
 一回痛い目にあって反省した方がいいんです。
 こんなん無事だったから、言えることですけどね。
 こんなん言ってるのバレたら、後藤さんにぐわぁぁってグーパンされちゃう」
 自分の頬に握りこぶしを押し込める。
 細やかな顔がぐにゃりと歪んだ。
 松浦さんの冗談に、私は笑った。

 たしか、松浦さんは後藤さんと同じ学校に通っているはずだ。
 ならば中学生。なのに。
「松浦さん、すごい落ち着いてるんだね」
「それはまぁ……」
 恥じらうように笑う。
「松浦も、いわばヤクザ屋ですから」
495 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:52
 松浦さんは大事ないと言うけれど、市井さんは十分大事に至っていた。
「ええと、頭と肋骨と腰骨と、
 なんでしたっけ、なんかややこしい名前の、右の二の腕の骨」
 指折り数える。
「骨はひびとか単純骨折とか。あと打ち身ねんざ。擦り傷もです」
 怪我を読み上げられるたびに顔が引きつる。
 めった打ちだ。
 松浦さんは折りこんだ指をぱっと開いて、両手を軽く合わせた。
「でもですね、考えようによってはこれでお終い、
 って風になるかも知れませんし。
 よかったっていったらなんですけど、でもまぁ……。
 幸いまだ犯人は確定できてないみたいですし。うん」
 口をちょっと尖らせた顔で頷いていた。

「え?」
「警察に保護されてなければ、話しもつけ放題、
 言いがかりもつけ放題ってことですよ」
 話が見えない私に、松浦さんが説明する。
「市井さんのお家、こんな事されちゃ黙っちゃいないでしょ。
 裁判とか余計な手間なくなるかもしれないですね」
「裁判が余計な手間って」
 それでは、ひとみちゃんの言い分がどうなってしまうのか。
「余計な手間じゃないですか」
 松浦さんは主張する。
「せいぜい未成年の少年院送りですから。
 勝ったってたいしたことないし、
 どのみち釘刺しておかないと、仕返しするかも知れないですよ。
 っていうか、現に一番ヤバい相手の市井さんをやっちゃうぐらい見境なしじゃ、
 手を打たなけれは犠牲者拡大しちゃうかもですよ」
 肩をすくめて冗談っぽく言った。

「男の子達と、バックに話を付けて、ちょっと脅して終わりかなぁ。
 それで市井さん、吉澤さん達にはちょっかいしなくなると思いますよ。
 ストーカーみたいに、何メートル以内に近づくな、
 って風に話を付けれるといいですよね」
496 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:53
 状況が良くわからなくなってきた。
「つまり裁判を中止にして市井さんのお宅が──その、出てきて、
 それで示談になるの?
 今回の事も、前のことも?」
「うーん、私は当事者じゃないから細かいこと知りませんし、
 法律にも詳しくないんですけど」
 頭の中のメモを読み取るように上目になった。
「裁判あるかないかは、まだわからないと思いますよ。
 今回の事件は市井さん殴った人が何歳かによって、
 法律的に変わるかもしれないです。
 前回のはどうだろう。
 またみんなで相談しないと決められないんじゃないでしょうか」
 それでも私よりも遙かに状況を把握している。

「やっぱり白ギャングがやったの?」
 わかっていたことだけれど、念のために確認する。
「以外、ないですよねぇ」
 鷹揚に頷いた。
「平家さんも怪我したんですよね。かすり傷だからヨソに言わんでいい、
 って言われてたんですけど」

 店外での騒ぎを聞きつけて、駆けつけてみたら市井さんが殴られていた。
 平家さんも襲われたけれど、店に逃げ込み非常ベルを押したら
 たちまち逃げていったのだそうだ。
「その時、顔見たそうですから。
 目出し帽だったけどわかったって。
 それくらいの常連さんにそんなことされてかなり凹んでましたよ。
 でも市井さんは、こうやって」
 座ったまま前のめりになって、膝を抱えるような格好をする。
「丸まって横に倒れてて、くすくす笑って白ギャングのことバカにしてたそうですよ」
「……相変わらずだ」
 強い。
 近づくと鋭い破片をまき散らして壊れそうな武器の強さだ。
 一方で松浦さん。明るく社交的だ。
 常識的な批判をするときもある。
 けれど悲しい不条理を傍観し、黒い制裁を軽く認める所もある。
497 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:56
「……みんな強いけど、ちょっとおかしいよ」
「ですよねぇ。頭殴られた酔っ払いだから
 いつもよりもちょっとおかしくなってたと思いますけど」
 呆れてみせる松浦さんに、いや、あなたもですよ、とは言えず。
 私はコートのポケットに手を入れ、柴ちゃんからもらったお守りを握り締めた。
 親指で刺繍の凹凸を擦って考える。
 ひとみちゃんはどうしてるだろうか。 

 訪ねてみると、
「学校じゃないですか?
 保田さんはご両親にだけ伝えたらしいですし、
 その時は『後で家族でお見舞いする』って言われたそうですから。
 吉澤さんはまだ知らないかもです」
「伝えない方がいいのかもね」
 少なくとも市井さんが目を覚ますまでは。
 病院のベッドで寝こむ友人ばかり見ているのは、
 あまり心にいい物ではない。

 着メロが鳴って、スカートのポケットから携帯を取り出した。
 病院なのに電源を落とし忘れていた。
 あわてて電源を切る。
「この階、携帯OKエリアですよ」
 松浦さんが自動販売機の横を指さした。
 携帯のイラストと『このフロアは携帯電話が使用できます』と書かれた
 緑字のプレートが貼ってある。
「そうだ、ほっぺ冷やした方がいいですよね。冷たいタオルとかもらってきます」
 病室の方に向かう松浦さんを見送って、私は携帯電話の電源をつけなおした。
 着信履歴を確認すると自宅からだった。
 そうだった。
 学校を無断で抜けてきたのだった。
 どうしようと悩んでいると再び着メロが鳴り出して、
 反射的に終話ボタンを押してしまう。
 また自宅からだった。
 二回連続、ワンコールも持たずに電話を切られては心配するだろう。
 鳴り出さないように一旦電源を切って、なんと説明しようかと考える。

 友達が事故にあって病院にいる、
 学校に理由を言って早退の連絡を入れて欲しい、
 ここは病院なので詳しい話は後で、帰ってからじっくりする。

 よし、この路線で説明しようと心に決めて電源を再投入すると、
 携帯に新たなメールが届いていた。
498 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 15:59
 小走りで市井さんの病室に駆けつける。
「後藤さん!」
 後藤さんはノックアウトされたボクサーみたいに
 パイプ椅子に反り返って座っていた。
 仰向けにした顔に濡れタオルを乗せていて、
 拳には包帯が巻かれている。
 名前に反応して起きあがると、タオルで顔を拭いた。
 赤く腫れた目には痛々しさと刺々しさが残っている。
 一瞬話が詰まったけれど、思い切って吐き出した。
「後藤さん、メール見た?」
「なによ?」
「携帯」
 画面にメールが映し出されたままの私の携帯を後藤さんに手渡す。
 保田さんも後藤さんと一緒になって、画面をのぞき込んだ。
 見て二人、はっと顔を上げた。
「後藤さんのも見せて」
 後藤さんはサイドテーブルに置かれたバックに飛びついて、
 自分の携帯を取り出してチェックした。
「……こっちには新しいの来てないよ」
「でも、見せて。いいから」
 強い調子で手を差し出す私に、しぶしぶと携帯を手渡した。
499 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:01
 今朝方からたくさんのメールが届いていた。
 差出人は何人かから。
 それぞれから、何十通も届いている。
 メールチャットをしていたのだろう。

 内容は市井さんの入院のことだ。
 真摯に心配する内容から、唖然とするほどふざけて失礼なものまで。
 受信メールだけを到着順に読んでいるので、後藤さんの返答はわからない。
 他人の電話をそばで聞いているような物で、
 話は一方通行で内容が見えづらい。

 このメールの流れでは市井さんの様態はわからないし、
差出人と後藤さんがどんな関係の相手かわからない。
 不透明で、不安と苛立ちを煽るものだ。


「この後藤さんのメールも、ひとみちゃんに回るようになってるんでしょう?」
 これらのメールを見て市井さんの入院を知ったひとみちゃんは、
 何を思ったのか私にメールを送ってきたのだ。
 内容は短いものだった。

 市井さんが奴らに襲われた。ごめんなさい。

「ごめんなさいって、なんだよ」
 私の携帯を放り投げて、後藤さんが声を荒げた。
「なんかしたの?なんか知ってんの!」
「知らないよ!」
 胸のあたりにぶつかってきた携帯を掴んで言い返す。
「待って、吉澤のお宅に聞いてみる」
 保田さんが問い合わせると、
 ご両親が学校に連絡してひとみちゃんの様子を聞いてくれた。
 ひとみちゃんは学校で行方不明になっていた。
500 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:01
 市井さん達のお父さんの部下を使って彼女を捜すことになり、
 私は家で連絡を待つように言われた。
 進行方向に背を向けるように電車の扉脇に立ち、私は考えていた。

 行く当てもなく衝動的に飛び出したのならば、
 学校、自宅周辺や、親しい友人の家なんかをさまよっているかもしれない。
 とにかく、近所や心休めるような場所をうろついているだろう。
 ただ飛び出したのではなく、目指す場所があるならば、
 目的が何かという所から考える必要がある。

 小さな鉄橋に差し掛かって電車の立てる音が変わった。
 すぐに細い川を超え、がたんごとんと規則正しい音に戻る。
 私は遠ざかる水の流れを眺めた。
 
 彼女と初めて会った場所は、河原だった。
 事件現場に居座って、白ギャング達が再度手を出してくることを待っていた。
 次はどこだったか。
 学校だ。
 彼女の学校に私は押しかけた。家にも行った。
 約束をして、学校帰りにあの街の水族館に行った。
 それから裁判を始めることになり、私達はしばらく会わなかった。
 そしてこの間。公園での再会。
 
 最初は待っていた。次に法に訴えようとした。
 受け身から転身して攻めになっている。
 河原から法廷へ。
 進むとしたら、次の場はどこになるのか。
 
 白ギャング達の家や遊び場にも捜索隊は回っているのだろう。
 私はそれらの場所は知らない。
 行ける場所は一つだけだった。
 電車が終点に着いた。
 下車する人の流れに乗って、冬枯れた公園のある大きな町へ降り立った。
501 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:06
 構内にあった駅周辺地図を頼りに進むと、
 劇場の地下に通じる道に出た。
 前回、ひとみちゃん達が利用した出入り口だろう。
 駅から建物に入り、地下数階分を貫く吹き抜けの底から
 エスカレーターで一階に上がると、すぐ正面に公園が見えた。

 外に出た私は、ゆっくりと公園を一周した。
 日を置いていないから当たり前なのだけれども、
 以前訪れた時とあまり景色は変わらない。

 ステージは空っぽで、学校はどうしたのかわからない男の子達が
 楽器を演奏していて、人が公園の真ん中を通り過ぎている。
 そんな公園の端っこのベンチに、
 制服姿のひとみちゃんが腰を下ろしていた。
 セーラー服の上に、私服らしいデザインの白いコートを着ている。

 辺りには誰もいない。
 私はゆっくりと近寄った。
「ひとみちゃん」
 呼ぶと、遠目にしていた顔を私に向けた。
 予想した驚きも拒絶の色もない。
 文字を読むように私の顔を認識しているだけで、何もなかった。

「よくこんなとこ」
 小さく口が開く。
 声はハッキリとよく届いた。
「偶然だよ」
「そんな偶然あるわけない」
「もちろん狙い絞ったけど、でも偶然」
 隣に座ろうかどうしようか迷い、このまま前に立ち続けることにした。
502 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:09
「ひとみちゃんがくれた、あのメールは何なの?」
「だから、市井さんが──」
「知ってる。松浦さんからメール来て、さっきお見舞い行ってきたの」
「やっぱ」
 合点がいったと相づちを打った。
「あたしだけ連絡外されてたか」
「それは……」
 取り繕おうとした私に、ひとみちゃんは掌を向けて制止した。
「うちんとこに直接連絡こない時点でわかってたから。
 ただ、石川さん知らないかなって送ったんだけど」

 私のことを名前でなく、石川さんと呼んだ。
 突き放して距離を取ろうとしている。
 市井さんとやることなすことよく似ているが、
 よりストレートだ。
 それだけに怖い。
 ひとみちゃんはきっと、止まりにくい。

「送るのはいいけど、なんで謝るのよ」
「謝るって、何が」
「メールで。謝られる理由もわからないのに謝らないでよ。
 心配するでしょ」
「理由──そんなの何もかも。
 石川さんが今ここにいるってのも十分……」
 自分の胸元に目を降ろし、セーラータイの端をいじりながら言う。
「制服で。学校サボった?」
「だから、そんなん謝られることじゃないし」

 謝られるために来たのではない。
 ただ話をするためでもない。
「ひとみちゃん疲れたでしょ。帰ろう。
 待ってもしょうがないよ。もういいじゃん。やめようよ」
「やめようよって、何を」
 話をオウム返ししてから聞いてくる。

「ひとみちゃんは白ギャングの人を──」
 直接的すぎる動詞が出かけて言いよどむ。
 スタートラインで構えているひとみちゃんに強い言葉を向けるのは、
 合図のピストルを撃つようで、危ない。
 言い換えて、続けた。
「──自分でやっつけるために来たんでしょう」
 私は止めに来た。

「やっつける」
 またオウム返しにしてきた。
「どうやって?」
 答える気はない。私も繰り返すだけだ。
「帰ろう」
 ひとみちゃんは首を横に振る。
503 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:17
 残りを市井さんのお家に託してしまえば、
 みなに平穏が戻ってくる。
 そうやって、事は終盤を向かえたと安堵したかった。
 けれど、彼女は最初からそんな物を求めていない。

「市井さんの怪我は、大したこと無いみたいだったよ」
 様態を知れば態度が変わるかも知れないと言ってみた。
 ひとみちゃんはうっすらと笑った。
 期待とはほど遠い反応だ。
「運が良かった」
「……そうだね」
「市井さんが死んだりしてたら、どうしようもないぐらいに負けだった。
 我慢して苦労してせこせこ準備したって、一発殴ればひっくり返るんだ。
 なんなのかな。なんでこうなるのかな」
 
 彼女は道理を求めている。
 信頼できるルールに乗っ取って、勝敗が決定する世界を望んでいる。

 世の中はそうきっちり出来ていないと私は知っている。
 喧嘩や誤解を繰り返し、無理は承知で押してしまったり、
 必ずしも自分の道理は通らないと引いたりして過ごしている。

 彼女だって、そうしていたはずだ。
 諦めて引き下がれない物を掴み出され、不条理に傷つけられる前までは。

「死んだら負けってのはあるのかもしれないけど……。
 その逆は絶対にないよ」
 断言した。
 これが道理だろうがなかろうが、ここで引くわけにはいかない。
「勝ちとかそういうのはないんだよ。だから」
 諦めて。

 ──痛んだ記憶を払おうと天使を名乗り、
 完治しない怪我を大したこと無いと言い張り、
 他人を思えば私は偽善だと責め、友人を傷つけられ、風評を汚され、
 無力だと自らに失望して全てに懐疑的な目を向ける。

 そうして季節を越してきたひとみちゃんには、
 どうしても言えない言葉を飲み込んで、
 口を結んで、ただ立ちふさがる。

 以前、私は世の中の怖さに駆りたてられて、
 暴走してしまったことがあった。
 止めてくれたのは柴ちゃんだった。
 生まれた時から側にいた幼なじみが、
 そっちじゃないよと手を引いてくれた。
 出会って間もなく、わからないことだらけの
 ひとみちゃんの道標になる自信はない。
 だけど私は壁になる。
504 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:19
「……どこかで折り合いをつけないといけないのは、わかってる」 
 ひとみちゃんは腰を上げた。
「石川さん、一つ外した」
 私が一歩も下がらなかったので、コートが触れ合う距離で立ちあった。
 鼻先当たりで彼女の唇が動く。

「『待ってもしょうがない』って言ったけど、
 あたしは奴らを待ってるんじゃない。
 ずっと見てた。向こうは気づきもしない」

 私の肩越しに視線を向ける。
 首を回して追ってみる。
 その先にはステージのふもとでギターの先端をぶつけ合って
 ふざけている男の子達がいる。

「あいつらちっとも変わらない。なんも見てないし聞かない。
 どこにいたって、何をしたって。
 その通りだよ。待っていたってしょうがない」

 船が水を割って進むように、ひとみちゃんは肩で私を押しのけて進んだ。
 半転した体は踏ん張りが利かず、通してしまう。
 腕を取って止めようとしても腕を振り、私を弾いて前進する。
 前に回りこみ、大木にしがみつくように抱きとめた。
 額を胸に当て、全身で押し返す。
 止まった。
 突然彫像のように固まったひとみちゃんに、
 安心よりも違和感が先に立つ。
 見ると、ひとみちゃんは怖い顔で正面を睨んでいる。

 抱きしめながら振り返る。
 こちらに気がついた男の子たちが、
 長い棒で遊ぶようにギターを振りながら歩いてきていた。
 そうして、笑い合いながら一斉に片方の拳を前に出した。
 親指を逆さにして地面に向ける。
 古代ギリシャの闘技場で貴族が奴隷に向けたサインだ。
敗者には死を。

 白ギャングが引き金を引いた。復讐がスタートする。
505 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:21
 ひとみちゃんは雄叫びを上げて私を突き飛ばした。
 コートの内側に手を入れて取り出したのは、
 白布で巻いた大振りの包丁だ。
 布が落ちると、た易く肉塊を切り分けそうな
 大きな刃がむき出しになった。
 青空の下で閃く鉄の禍々しさに私はひるんで息を呑む。
 刃先を地に向けたまま、ひとみちゃんは走り出した。

 怖れが確信に転じた。これがあの子の折り合いだ。
 私は立ち上がりかけの低い姿勢から、白い背中を目掛けてダッシュする。

 テニス部の部長は私のことを「一歩目が早い」と評してくれた。
 読みは拙いのに勘だけが利く。
 他の人より頭一つ早く飛び出して動線をふさぐ。
 そこかムカつくのよ、敵からしても味方からしても邪魔なのよ。

「駄目!」
 周囲の人たちも気がついた。
 ひとみちゃんが手にした物から飛びのくように、
 あるいはあとずさるように逃げてゆく。

 その中の一人、散り散りになって逃げ出した集団の、
 背の高くて細身の少年一人を追って、
 ひとみちゃんの進路が弧を描く。
 膝に障害が残っているはずだ。それでもひとみちゃんは速い。
 全力で追っても、あと一歩が埋めらない。
 一か八かで飛びついだ。
 伸ばした指がコートをかすめる。
 裾を握った。
 着地で崩れた体勢に体重を乗せて、下に引きながら勢いよく転ぶ。
 倒れた体を碇に、コートを握る腕を縄にして、ひとみちゃんも転ばせる。
 即座に石畳をよじ登って、うつ伏せた背中にしがみついた。
 届いた。
506 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:22
 起きようとするひとみちゃんを抑えようと懸命になっていたら、
 頭に衝撃を受けた。
 穴に落ちたみたいに、がくっと視界がズレる。
 横腹にも何かがめり込んで、ひとみちゃんの背中から転がり落ちた。
 天地がひっくり返り、大の字になって見上げた空には
 ギターを振りかぶった男の子がいて、顔に打ち下ろそうとしている。
 
 杭のように打ち込まれて──気がついたら雲一つない日本晴れが広がっていた。
 音に横を向けば、顔中血まみれにしたひとみちゃんが
 包丁を逆手に掴んだ男の子と揉み合っていた。
 泣きながら掴みかかって、紙人形みたいに突き倒された。
 ふらふらと立ち上がってまた向かい、蹴り倒された。
 周りで他の男の子たちがはやし立てている。

 こみ上げる悔しさで総毛立つ。
 力んだ首とこめかみが痛むほど、ぎりぎりと歯を食いしばった。
 後から後から涙がわいくる。
 拭うと手には水っぽい血が付いた。
 立とうとしても、気ばかり急いて体がついて行かない。
 やっとのことで起きてみれば、景色がぐらぐらしていて落ち着かない。
 私は何か叫んで、ひとみちゃんと揉めている男の子に横から飛びかかった。
 腕を掴もうとして振り払われ、地面に横倒しに叩きつけられた。
 左腕に激痛が走る。
 石畳に擦りつけたかしたのか、前腕がじんじんする。
 
 その手を使って起きあがろうすると、
 ぬかるみに手をつっこんだような気色悪さを感じた。
 眉をしかめて手先を見ると、コートの上から腕がざっくりと裂けていた。
 石畳の上には血溜まりができている。
507 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:23
 私は困惑した。
 まず居ずまいを正して横すわりになった。
 左腕を縦に立てて、肘の内側を右手で握り締めてみる。
 止まらない。
 ぼとぼと落ちてくる血で、裂けた袖がべっとり濡れていく。
 服の内側にも流れ込み、脇腹の上を生あったかいものが流れていった。
 
 誰かの悲鳴がして、あたりを見れば少年たちは逃げ出す最中で、
 刃の半ばまでを赤く染めた包丁が捨てられて転がっている。 
 ひとみちゃんは目を見開いて私を見ていた。

 怯えるひとみちゃんを安心させてあげなければと思うのに、
 優しく笑いかけようとしてるのに、ちっとも優しい気分になれない。
 なぜかおかしくてたまらなくて、くすくす笑いが止まらない。
 これでは駄目だ。
 なんでこうなったのか。
 それでも私は何か出来たのか、それとも壊してしまったのか。
 何もかもがわからない。
 
 すっかり途方にくれてしまった私は、逃げ場を求めて空を仰いだ。
 青い塗り壁がどこまでも広がっている。
 指先で開けたような白い穴は月だろうか、太陽だろうか。

 周囲の声が残響する。
 意味のとれない言葉が平たい音になる。
 空が吊り天井のように迫ってくる。
 落ちてきて、白ばんで、町が消えた。
508 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:24
< 四 白い世界 >
509 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:27
>>491-508
今回更新。
510 名前:_ 投稿日:2005/01/04(火) 16:27
第四話。終了です。
一話だけ突出して長く、読みにくくてすみません。
それ以上に謝らないといけないことは山ほどありますが……

読んで頂いた方、ありがとうございました。
511 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/06(木) 22:17
更新おつかれさまです。
上手くいえないのですけれども、
毎回話の雰囲気に本当に引き込まれてしまいます。
大好きです。
続きをとても楽しみにしています。
512 名前:_ 投稿日:2005/02/22(火) 00:58
保全
513 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/22(火) 11:58
作者です。遅い更新ペースですみません。

>顎さん
申し訳ありませんが、今しばらくこのスレの保存をお願い致します。
514 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:10
 私達は続いている。
                 <グレーゾーン>
515 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:11

 祖父の家は古い木造家屋だ。
 明かりを付けたまま床に入って仰向けになると、視界に天井の木目が焼き付いた。
 不規則にしわがれた線を目でたどると、傷痕が想起される。
 怪物に刻まれている類の、ぶっ違いに荒く縫い合わせた跡だ。
 レールのように左の腕を巻いて走る。
 線路は螺旋を描いて続き、首をぐるりと括って彼方の終着駅へと伸びていく。

 目を閉じても、消えてはくれない。
 悪い意識に心が腐食されているからだ。
 縫跡から、赤や黄色の体液がしみた包帯を連想する。
 頭痛がするほどきつい匂いの消毒薬を思い出す。
 夜暗い病室で聞いたナースシューズの音も。
 靴音は波音に似ていた。一度耳に付くと響いて離れないのだ。

 この地で聞こえるのは本物の波音だ。
 寄せては返す一定のリズムを保ちながらも、深く引き込むように遠ざかる。
 聞き入る内に海に放たれた小舟に一人置いてかれたような不安、
 揺らぐ世界の恐ろしさに捕らわれた。
516 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:11
 恐ろしい時、幼い頃は母を呼んだ。
 目をつぶり、心の中で繰り返し母を呼び続ければ、やがて眠りへ落ち込んでいった。
 だが今は、母は遠く神通力を失い、代わりに唱える名はない。
 体を丸めて耐えていると、様々な友人の姿が脳裏に思い浮かんでは消えていった。
 呼び覚まされる感情は、安堵とはほど遠い後悔と苛立ちだ。
 焦燥に耐えず布団をはねのけ目を開けば、また留まる、天井の傷痕。

 傷痕は格子の檻を、木を縛る蔦を、壁に垂れ下がる鎖を想像させる。
 その図はそのまま、私を縛る枷になる。
 砕けてしまえと願う心を無数の縁に拘束されて、形取られて、
 私はかろうじて人間だった。
517 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:12
 祖父の家は、県都市部から離れた田舎町にあった。
 海と山とが近い半島の端にあり、夏は日差しがきつく、冬には寒風が辛い。
 季節の刃を代わる代わる突きつけられてきたからか、
 切り立った山や崖が多い険しい地形になっている。

 かつては山には城があり、神社仏閣が立てられてそれなりに栄えた
 名のある土地である。
 だが戦をしない現代人から見てみれば、
 山中崖っぷちなどただ交通の便が悪いだけだ。
 温泉もない山、砂場のない海に逗留する客もない。
 釣り人が物好きが民宿に泊まる程度で、
 大勢からは無視されがちの観光地だった。

 訪れるには電車の本数を確認しなければならないような、
 そんな僻地に彼女は貴重な冬休みの初日を使ってやってきた。
 紙袋一杯に詰めたベーグルを片手にぶら下げて。
518 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:14
「ほら、嬉しいでしょ?」
「……うん」
 電車で数時間かけて抱えるほどのパンを運んでくるとは。
 会わせる顔に悩み苦しむ私の心を気遣ったジョークアイテムなのかと
 勘ぐってみたけれど、どうやら本気のプレゼントらしい。
 田舎町では手に入らない好物を山ほどもらえたのだから、
 嬉しくないわけではないが、彼女の不器用な選別に拍子抜けもする。

「冷凍保存すれば日持ちするってパン屋さんが言ってた」
「……まぁね」
「なによー。もっと喜んでよー。これだけ詰めると結構重いんだよ」
「あ、ごめん!」
 あわてて手提げ袋を奪い取る。
「別にいいけどさ」
 掌を返した私の態度に彼女は苦笑するだけで、
 自らの首に三角巾でつり下げている左腕の事を
 殊更に蒸し返したりはしなかった。
 
 自然な関係をを装うために、あり得ない不自然を行う。
 見ないふりをして、話題にしない。
 それでは再会の意味はなく、きっと彼女もわかっていて
 互いにタイミングを見計らっている。

 相手を待つのは卑怯だ。
 だけど耐えきれずに切り出すのは傲慢だ。
 最近は何を考えてもこんな風に裏と表の言い訳が浮かんでくるし、
 どちらに決めても後から間違いだったと後悔するのだ。
519 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:15
 そんな事を思ってしまうと、首の辺りから汗がにじんできた。
 心臓が強く、痛いまでに胸を打っている。
 唾を飲み込みたいのに喉が上手く動かない。
 悪い兆候だった。
 細く長い呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせようと
 努力しながら彼女の前を歩んだが、
 改札を前にして立ち止まってしまった。

 こうなったらもう動けないし、すぐに限界がやってくる。
 初めての現象ではないので諦めも早い。
 あっさりと屈服して、膝に手をついて下を向いた。
520 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:15

「どうしたの?」
「なんでもない、ちょっと疲れただけ」
「大丈夫?おじいさんのお家って近いんだよね?」
 家と聞いた途端、第一波が来た。
 足下がおぼつかなくなり、壁に手をついて体を支える。
 崩れかけた体を腹から抱きかかえるように支えられ、
 私はわざと体の力を抜いた。
 彼女はたたらを踏みながら、
 それでも私の体を壁に押しつけるようにして安定させる。

「お客さん大丈夫ですか?」
「あ、はい大丈夫です」
「中でしばらくお休みになっては」
「ええと……そうですね。ひとみちゃん、どう。休ませてもらおうか」
 駅員とのやりとりを遠くから聞くように耳にする。
 私は小さく頭を振った。
 このまま狭窄されていなければ膨らんで割れてしまいそうだ。
 私の気持ちを感じたように、彼女の抱きしめる力が強まった。
521 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:15

 壁にこすりつけられながらベンチまで運ばれ、背を丸めて席に収まった。
 互い違いの手で肘を掴み、縮こまって廃線になった向かいを見、
 ホームの屋根を支える赤錆びた鉄柱に目を留めた。

 綻びや脆いものばかりが気にかかるのは、
 自分に似たものを捜しているからだろう。
 ほつれた糸は思い切り引っ張りたいし、ヒビの入った壁は叩きたい。
 それなのに彼女の震える眉を見つけて不思議に安堵した。
 彼女が下がれば私が上がらなければいけないと、
 おかしくなった心の中にも奇妙なバランスは残っているようだ。

「家は嫌なんだ。
 ただ居るのはいいけど、話して、聞かれて、
 知られたり言われたりするのが。
 あの家で私は居るだけだから。
 ──ひどいことされてるってわけじゃないよ」
 彼女の顔色を見て付け加える。

「お母さんもお婆ちゃんもお爺ちゃんも、家族はみんな気を遣ってくれてる。
 気を遣われすぎて、おかしくなってる感じ。
 家が変わっちゃった。
 お爺ちゃん家には新聞が来ないし、テレビはバラエティしか見ない。
 元々はそういう家じゃないんだよ。
 一緒に食事をするときとかには、家に残ってる父さんや弟の話とか、
 私の知らない近所の人の話とか、そういうので普通に盛り上がる。
 でも事件の話は一切しない。
 携帯だって新しいのに変えられたの知ってるでしょう」
522 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:16
 アドレスを消されて、通話制限を設定されて、
 外の誰とも連絡が取れないようにされた。
 彼女が今日ここに来るという情報も、母から口伝えにされたのだ。
 質の良い部類に振り分けられる友人であり、
 被害者である彼女の来訪を拒否するまでは
 出来なかったのだろう。


「弁護士と保護司の人と話してるから
 みんな大体のことは知ってるとは思うけど、
 誰がどの程度まで知ってるのか知らないし、
 弁護士さん達だって詳しいことは教えてくれない」

 
 市井紗耶香は退院した。

 後藤真希は怒っている。

 松浦亜弥は何かと気を遣っている。恐らく金と手も。

 石川梨華の腕の傷は、命に別状はなく、機能的にはやや深手で、
 見た目はかなり悪いことになる。

 犯罪少年達に関しては情報を一切漏らされないので考えないで良い。

 私は反省の必要な罪人だが、反省さえすれば事実上の罰は無くなるかも知れない。


 問題の震源地なのに、この程度の認識だった。
 様々な人が防災準備を整え、皆が傷つかないように奮闘しているのだ。
 おかげで母と私は母の実家で静かに暮らしている。
 自宅に残った父と弟にも大事ない。

 だが私や奴らまでも守られているのはおかしくはないだろうか。
523 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:16

 おかしいと、言い切れないのが今の私だ。
 かつての私は言い切った。
 守られて暮らしている今の身分で、否定できるわけがない。
 いや、守られていたというならば、今も昔も何かしらに守られていた。
 昔は意識できなかっただけ。
 少し前の自分は上等だったと思いたがった時もあったが、そんなものは幻想だ。
 
 何が大事かわからない、白黒の見えない人間に成ったのは、
 復讐を決めた時でも、安倍先輩を見捨てて逃げようとした時でもない。

 高校見学の際、反応の鈍いテニス部員が必死となって
 試合に挑んでいる姿をおもしろおかしく眺めていた時には、
 曖昧模糊とした取り留めのない人間の原型が出来ていたはずだ。

 だからこそ、彼女から目が離せなかった。
 無様な滑稽さの核にある、まっすぐな熱意を羨んだ。

 出会って知った。
 器用でなく強くもないが、色を選んで表せる人だった。
 そのような人に成りたくて、成れなかった。
 成り損ないは何に成ってしまうのだろう。
 未来は黄昏の先にあり、正体の付かない者が立っている。
524 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:17

「じゃあ、どこに行こうか」
 深く思いに沈んでいたので、彼女の声にびくりと体を跳ねさせた。
 丸まった背中に彼女の手が置かれて、赤子を寝かすように数回叩かれる。
「ここにいてもいいけど、ずっと座ってると冷えちゃうし。
 寒くない?大丈夫?」
「大丈夫」
「そっか」
 大袈裟に息が吐かれて、吸う音がした。
 うつむいた私にも届くぐらいの白い深呼吸を見せつけて宣言する。
「ひとみちゃんが自分を許さない限りは、私は許して上げないからね」
 言葉を理解するのに手間取ったので、時間差をつけて頭を上げることになった。
 彼女は興奮しているのか寒風に晒されたからか、赤ら顔を固くしていた。
「でも許せなくても、ひとみちゃんのことは好きだよ。
 今までもこれからも。
 だから、大丈夫。今日はそれを言いに来たの」
 そして睨むような目つきをして黙った。
 これ以上ないほど優しいことを言っているのに、まるでけんか腰だった。

 なぜ彼女は、一心に私を選ぼうとするのだろう。
 考えあぐねて生まれた長い静寂を、彼女が責めるように断ち切った。
「どこかないの?次の電車にでも乗ってどっか行く?」
 私はとっさの思いつきを提案した。
「じゃ海の方行こうか」
 なぜか彼女はひどく驚いたので、解説する。
「ここ、海と山しかないし。山は遠いし。
 海の岩場の方なら遠くないし。道中にファミレスもあるし」
「でも、海は苦手なんでしょう?」
 問われて、彼女の戸惑いに納得した。
 海が私の死に場所になりかけたのを知っていたのだった。
 だが日長一日と波音を聞いて過ごしていれば、
 忌まわしい海と、この地の海の区別が付く程度には慣れもする。
525 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:18

「いつか一緒に行けるかも、って言わなかったっけ」
「そういえば言ってたね。……あ、でもちょっと違う」
 それまでずっと怒ったり不安がったりしていた彼女が、
 ようやく明るい笑顔を見せた。
「正確には、私と一緒なら行けるかも、って言ってたもん」

 彼女の傷痕は私に続いている。
 私の痛みは彼女に続いている。

「でも、本当に大丈夫?」
 何度目かの『大丈夫?』に、
 心にもない返答をしようとして視線を外した弾みに、
 真っ白な三角巾に目を奪われてしまい、
 その中の事を想ってしまった。
 慣れても消えない不具の苦痛がぶり返し、
 嗚咽がこみ上げて顔を伏せる。
526 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:18

 壊れた物は治らない。
 だから先輩は目を覚まさず、彼女の傷は癒えず、私の歪みは正されない。
 治らない物ならば、せめてこれ以上崩れないようにと縛り付ける。
 彼女が鮮やかな意志で私を選び続けるというならば、
 枷された私は怯えながらも先の見えない灰色の海を行くのだろう。
 
 急に泣き出した私に彼女が私に問いを繰り返す。
 私は答えられなかった。
 大丈夫など無くても、私はここにあり続ける。
 私達は続いて行く。終わりは見えない。
527 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:19
< グレーゾーン >
528 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:19
>>514-527
今回更新
529 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:21
読んで下さった方、管理の顎さんに改めて、
ありがとうございました。
530 名前:_ 投稿日:2005/02/25(金) 05:21
更新上げ忘れてました。失礼します。
531 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 09:04
ずっとROMさせてもらってましたが、
初めてレスさせてもらいます。
息を呑んで読み入ってしまいました・・。
内容ももちろん、言葉の選び方ひとつひとつに
いつも感嘆させられます。
これからも楽しみにしております。
532 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 15:15
今回(から?)はこういう書き方なんですね
ちょっと面食らいました
533 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 15:45
砕けた空の瓦礫の中から。

           <ブレイクブルー>
534 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 15:50
 わずか数日で。
 みるみるうちに。
 そんなフレーズを紙に書いて額に貼り付けたい程に、短期の入院で簡単に体は鈍った。

 寝ても起きても頭が痛むし、手足の芯に重さを感じる。
 詰め物されたマカロニの気分だ。
 怪我が治っていないのかも知れない。
 痛み止めだ、化膿止めだと説明された、様々な薬のせいかもしれない。
 混迷する思いの中で、上澄みに浮いた軽いものをすくうと手近な松浦に投げつけた。
「寝たきりすぎて、寝疲れたみたい」

 松浦はまたか、と顔をしかめた。
「いちーさんは人生にリアリティ持ってないんじゃないですか。ゲーム感覚ってやつですか」
「あんたはPTAのおばちゃんか」
「だったら、いちーさんはPTAに突っつかれるイマドキの問題児ですか。いい年して」
「イマドキってイマドキの人は言わない」
「別にイマドキじゃなくて結構ですから。
 ほら、そっちの棚きちんと拭いておいてくださいよ」
 軽口を叩きながらも松浦は、雑誌やコミックを紐で縛る手を休めない。
 本日退院日を迎えてサンタクロースより一足早く家に帰れることになった
 私の病室を掃除しているのだ。

「マンガ読み過ぎなんですよ、雑誌多すぎなんですよ」
「欲しいの持ってっていいよ」
「いりませんから」
「後藤は?なんか持っていきたいのとかある?
 そっちの実話マンガとか面白くなかった?」
 荷物を片づけている後藤に話を降る。
「いらない」
 後藤は雑草を抜くような手つきで荷物をボストンバッグに放り込んでいた。
 ぶつくさと文句を言いっぱなしの松浦とは対照的に、黙々と作業を行っている。
535 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 15:51
 後藤は同級生の白ギャングを授業中に殴り倒して無期停学になった
「授業中にずーっとメールしてバカ話してメロンパンまで食べだしてウザくてムカついた」
 短気な暴力教師のような言い分は、もちろん通用しなかった。

 空白になったスケジュール表を塗りつぶすように、
 後藤は面会時間の端から端までびっちりと、市井の病室で過ごしていた。
 今もまだ左目周りには、打撲傷の跡が浮き出ている。
 薄い肌を透かした青黒い鬱血は墨で書かれた幽霊画を思わせる。
 薄ら寒くて物悲しい色だ。
536 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 15:55
 ある日、父親が連れてきたのが後藤だった。
 やっと小学生という年の娘に、指をしゃぶった幼児を引き合わせると、
 面倒見てやってくれと父親は言った。

 この子のお母さんは働いていて娘の面倒を見られないから、お前が見ててやってくれ。
 父親はそう命じ、お前はお姉さんだもんなと、取って付けたように煽ててきた。
 不意に与えられた甘い言葉に私は有頂天になって、一生懸命に世話をすると天に誓った。

 だが後藤と私の年の差はたった二つだ。私自身が世話役の必要な子供だった。
 物心ついた頃には母親はなく、世話を焼かれた経験に乏しい。
 面倒を見るとはこういうことなんだろうと見当をつけることもできない。
 真似事をするにも、手本がなかったのだ。

 手に入れた食事を分け合って過ごすだけの時代が過ぎると、
 私は反抗期に突入して自分のことすら省みないようになった。
 あてもなく走り回り、道の行き詰まりに気がついてふと振り向くと、
 私のすぐ後ろに後藤が来ていた。
 手を引いた覚えはない。なるべくしてなったのだと思う。
 
 一度だけ、後藤の母親を見たことがあった。
 小学校に上がったばかりの頃までは、後藤は週末を母の元で過ごすことになっていた。
 普段は父親が送迎を受け持っていたのだが、その日は私が迎えに行った。
 後藤の母親と後藤は似ていなかった。
 鼻筋なんかはむしろ、私の父親の方に似ているんじゃないかなと思った。

 その後、父親と後藤の母親が仲違いしたとか、
 復縁したなどの類の無遠慮な噂を耳にするようになって、合点がいった。
 後藤と父親は、私と父親よりも似ている。
 そう気がついてから私は様々な考察をして、別の事実にも気がついた。
 私と父親は全く似ていない。
 気がついてしまえば、何もかもが疑わしいことだらけだった。
537 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 15:57
 お世話になった医師や看護婦への挨拶を終えてロビーに出ると、
 見覚えのある集団がいた。
 圭ちゃん。
 そして青白い顔の吉澤と、腕を包帯でつり下げた石川さんだ。

 圭ちゃんは何度か見舞いに来ていたが、
 後の二人とは顔を合わせるのは久しぶりだ。
 それどころか、二度と会う機会はないかもしれないとの覚悟すら抱えていた。
 事件後に吉澤は遠いおじいさんの家に隔離されていたし、
 石川さんも入院していて最近退院したばかりのはずだ。
 もちろん、今日出向いてくるなんて聞いていない。

「松浦……あんた?」
「ええ、まぁ、だって吉澤さん達は来られるかどうかわかんなかったから、
 知らせるのはその時になってからでいいかなって」
 松浦は聞かれてもないのに言い訳をした。
 つまり、企んでたとの自覚があるのだ。
 松浦は時々、こういう事をする。
 自分こそが適切なのだと正門面をして勝手に道を造るのだ。
 頭に血が上がり、その分ぞっと腹が冷える。

「あんたさぁ……」
 自然、冷たい目になっていただろう。
 私の憤りに松浦は怯むどころか、顔に険を浮かばせて噛みついてきた。
「前もって知らせたら、市井さん悩むでしょう。逃げるかも知れないし」
「逃げる?なにいってんの。大体元々、関係ないでしょあんたは」
「あのですね。私だって少しは後悔してるんですよ。
 もっと早く、もっと市井さん後藤さんと付き合っておくんだったって。
 こんな風にカンケーするようになるんだったら、避けるんじゃなかったって。
 お節介しておけば良かったって。そうしたら、も少し後味良くなっていたのに」

 小声の早口でまくし立てるときびすを返し、吉澤達のもとに駆け寄っていった。
 吉澤達は満面の笑顔とまでは行かないが、
 松浦を迎えてなんとか明るそうな雰囲気を醸し出している。
 火種になるのも馬鹿らしかった。
「……お節介ってレベルじゃない。あれじゃ言いがかりだよ」
 愚痴ると、後藤も拳を握って同意する。
「時々、あいつんこと、ぐーで殴り倒したくなる」
 松浦を罵りあいつつ歩みを揃えて皆に合流した。
538 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:02
 本当のところを言えば、松浦は大体に置いて適切な言動をとる奴だと評価している。
 今回も松浦の言うとおりだ。
 実際、吉澤達の前に立つのはとても辛かった。
 事前に知らされていたら何かと理由をつけて会うのを避けようとしたかも知れない。

 私の存在が吉澤と白ギャングを出会わせてしまった。
 その罪悪感を減らそうと、白ギャングに脅しをかけてみたものの反撃を喰らった。
 それだけだ。
 どうしたって自業自得なのに、吉澤はそう思わなかったのだろう。
 自分のせいだと思いこみ、復讐を行って傷害事件を起こした。
 互いに損害を受けながら、我こそが加害者だと主張する。
 さらに完全被害者と言ってしまえる石川さんがいて、
 お互い様だと収めてしまうには帳尻が合わない。
 いびつな三すくみが出来上がっていて、身じろぎするのも息苦しい。

 再会の挨拶を終えて、場を尖らせない程度の愛想笑いをしていると、
 教室で一人だけ立たされた劣等生みたいな気分になった。
 これは過去への一つの手打ちでもあり、現在の罰だ。
 そういう意味でも、松浦が仕組んだ再会の儀は必要なのだろう。
 微妙な空気が冷えきる前の絶妙なタイミングで、松浦は私達を外へ誘導した。
 軽く食事を取れる、良い場があるのだと誘いをかけてくる。

「平家さんの転職場なんですよ。
 前のとこと全然違って、喫茶店っぽいとこでスイーツが美味しくて」

 平家さんは顔見知りの店員というだけなのに事件に巻き込んでしまい、
 謝罪もすんでいなかった。
 どのような形であれ、平家さんの元に行くと言われては断れない。
 そこまで計算し尽くしているのかどうかわからないが、
 本日の仕切りは準備万端といった様子の松浦に任せることにした。
539 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:04
 昼にはまだ早い陽光は、暖かさよりも鋭さを感じた。
 久々の直射日光に目が眩み、冬の女王の話を思い出した。
 童話の登場人物である少年の目には、女王の鏡のかけらが入るのだ。
 私の目には光の破片が入ったようで、しきりに瞬きをしていると涙がにじんできた。
 まさに泣く思いで苦労している私の脇で、
 圭ちゃんが気持ちよさそうに両手を空に向けて体を伸ばしていた。

「小春日和ね」
「小春日和にはちょっと遅いんじゃないかな。冬の初めの事を言うんだよね」
 私が応じると、圭ちゃんは首をかしげた。
「そうだっけ。ただ単に冬の暖かい日のことを言うんじゃないの」
「晩秋の時期ってのも聞いたことありますよ」
 先頭を行く松浦が振り返った。
「収穫の時とかなんとか」
「それはいくらなんでも早いでしょ」
「だって映画で見たインディアンサマーは秋でしたよ。
 小春日和とインディアンサマーは同じですよね」
「『小春』なのに秋だか冬だかわからないなんて、ややこしいですね」

 石川さんも加わって、話は弾みだす。
 天気の話は万能だなどと思いながら、
 私はデニムジャンパーのポケットに入れた手をそのまま外側に広げた。
 生地が張り子のように膨らむ。
「インディアンサマーならもう終わりってか」
 私の夏は白人の襲来とインディアン敗走の夏だった。
540 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:06
「あのさぁ」
 と、後藤のしまりのない声で呼びかけられた。
「うちら遅れてるよ。行こうよ」
 私の袖を引っ張る。
 共に列を組んでいた圭ちゃんとはすでに距離が空いていた。
 前方の吉澤達に混ざりかけている。
 促されて歩き始めると、後藤はまた、あのさぁ、と緩い口調で話し出した。

「あたしらの名前の呼び方さ、ちょっと変えようかなーって思ってるんだけど」
 なんの脈絡もない、唐突な話をされて困惑する。
「なんでいきなりそんなことを言うの」
「看護婦さんとかには姉妹ですって説明したのにさ、
 市井ちゃんとかと後藤とかって呼び合ってるの、なんかやっぱ変だったから」
「向こうだって事情ぐらい知ってるよ。松浦紹介の病院なんだからさ。
 本当に名字違うんだからなんも間違っちゃいないし」
「だけどさ──」
「今更、いいじゃん」
 面倒な話に発展しそうなので手を振って打ち切ろうとすると、
 後藤は不満そうに口をつぐみかけ、
 やっぱり我慢できないというように話し出した。
「今更じゃなくてさ、これからのこといってるんじゃん」
541 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:07
 先のことなどを語る後藤に、追い抜かれたんだなと漠然と感じた。
 私の後ろにはもう誰もいない。
 軽くなった背には、涼しいとも薄ら寒いともつかない風通しの良さが残った。

「後藤は好きなように呼んでいいよ。私は呼びやすいように呼ばせてよ」
 そう告げると、後藤は、もしょもしょと何かを言うと照れたのか、足早になって歩き出した。
 名字ではなく、名前で、後ろに、『お姉ちゃん』を付けて呼ばれたような気がする。

 私の前を歩いても、後藤は遠く離れない。
 紐でも付いているようだ。
 松浦や、吉澤達ともそうだった。
 無理に離れようとすれば、どこかに引かれる思いが生まれる。
 この世界には得体の知れない虫でもいて、
 私達の間に生まれる感情を餌に、つかず離れずの網を張っているのだろうか。
 そうであってもいい。
 どこでも生き延びる虫の強かさは嫌いじゃない。
542 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:07
 後藤が近づく気配に気がついたのか、吉澤が振り返った。
 私と目が合うと、ため息をつくように表情を崩した。
 指し示すように視線を上げる。
 私も吉澤と同じようににした。

 見上げた窓は日差しをほぼ全反射する方向にあり、氷が張った水面のように見える。
 病棟の構造は知っている。外からだって間違えない。
 なつみの病室は夏のまま凍りついていた。
543 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:08
<ブレイクブルー>
544 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:09
>>533-543
545 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:09
私はここにいる。

       <カラフルワールド>
546 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:10
 ハタハタとなびく布に鼻先を撫でられながら、娘は背中で揺れる波を受けていた。
 清かな風が耳を抜けてゆく。
 風が近づいては音は大きく、離れ去っては小さくなった。
 様々な方から吹く風が幾たびも通って、
 風音はふるいを掛けて整えた砂のようにざらついた合唱になる。
 強い光が瞼を透過して目が白む。
 良く晴れた海面の上で眠っているのだ。

 安穏と惚けていたら、突然、ぐらりと基盤が沈んだ。
 回転板に寝ていたのかと思うほど、横向きにぐるぐると周りながら落ちてゆく。
 そんなに深く沈んだら、海底に着いてしまう。
 海底には船は通らないし、電車も止まらないだろう。
 門限までに帰れなくなってしまう。
 脱出しようと必死になって、重い瞼を押し上げたら真っ白な部屋に入り込んでいた。
547 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:13
 キャビンだろうか、と娘は思った。
 娘の部屋よりも二回りは大きな部屋だ。
 相変わらず仰向けになった背中は揺れている。
 部屋の壁は配管や配線が貼られたり突き出たりして凸凹していた。
 周りを良く観察しようと、もっと瞼を大きく開いた。
 吊られたカーテンレールが空から娘を囲んでいる。
 カーテンはビニールのような白布で、
 片隅にたぐり寄せられているのでほとんど視界を塞いでいない。

 いつの間に背中の揺れは全身の震えに変わっていた。
 寒い。
 皮膚と肉の層の隙間で水分が氷結して、分厚い氷層が出来上がっているようだった。
 このまま凍ったら帰れなくなってしまうと思い、娘は再び脱出を試みた。
 メダカの胸びれほども働かない手足を使って泳ぐと、寝台から転がり落ちた。
 共に、何かが娘の顔のすぐ横に落ちる。
 薄黄色の液体の入ったビニールパックで、細い管がついていた。
 管を辿っていくと、娘の手首まで伸びている。
 先端は針になっていて、中の液体をじわじわと垂れ流す。
 たちまち白い床の上に黄色い水たまりが広がった。
 水際には娘の手首から漏れた赤い色が混ざっていて、
 ガーゼにしみた膿を想起させた。
548 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:16
 娘が起きあがろうと体勢を変える時に、
 胸から下がった天使のペンダントヘッドがリノリウムの床にあたった。
 コツリとした振動が伝わる。
 銀の鎖が喉に絡みつかないようにと気をつけて首を伸ばしながら、
 横眠りの胎児の姿勢をとった。
 指先で手足を触ると、まるで覚えのない感触がして驚く。
 これが自分の手足だとしたら、自分はこの体を知らない。

 ──これは誰だ。
 記憶を探ると、名前、住所、年齢などはあっさりと思い出せた。
 単純なパズルピースを羽目合わせるように思い出はぴったり組み上がるのに、
 浮かんだ図はしっちゃかめっちゃかだ。
 記憶と気持ちがまったく合わさらない。
 昨日は蝉の声に溢れた夏だったのに、今日は冷えた床の上で丸まっている。
 世界の奇妙な断絶について、いくら考えても答えは出てこない。
549 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:18
 鐘が鳴り、オルゴールの曲が流れ出した。
 頭の上の方からだ。
 寝台のパイプ足を掴んで、上半身を引き上げた。
 マットレスの横部分に寄りかかって斜め後方を見ると、
 サイドボードに飾られたスノードームが雪を降らせていた。

 銀のもみのきが中央に立つだけの、寂しいぐらいにシックなデザインをしている。
 黒木の土台が厚底に作られ、中央に銀時計がはめ込まれていた。
 時刻は九時ちょうどを指し示している。
 仕掛け時計になっているのだろうか。曲はそこから聞こえていた。
 サウンドオブサイレンス。
 虚無を孕んだ友が好んだ沈黙の曲だった。
 柔らかな金属音を繰り返し聞くうちに、娘は冬に迷い込んだのだと理解した。
 だからこんなに寒い。
 あるいは、大きなスノードームの中なのかも知れない。

 夏を追いやったこの冬は、どこからどこまでなのだろうと考えて、
 娘は部屋の外を見て確かめたくなった。
 寝台に這い上がってシーツの上に倒れ込むと、
 ゆっくりと転がって反対側の端にたどり着いた。
 頼りない膝に十分注意を払って立ち上がり、壁に手を当てて伝い歩く。
 指がアルミの窓枠にぶつかったので握った。
550 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:21
 ありふれた三日月錠を開けて窓を引くと、差し込む日差しの強さが増した。
 ガラス板の隔てなく浴びるの陽光は、晴れた海の反射に似ていた。
 目を細めて遠くを見る。
 それから視点をゆっくり手元に引いていくと、視界が広角になって近づく。
 空を飛ぶように街を観察し、ここはスノードームの中などではないと確信に至った。
 針葉樹が目立つ区切りのない街だ。

 飛行視点が着地点の病室に近づくうちに、目に賑やかな集団をみつけた。
 周囲に人気がないので、少女が数人固まっているだけでも
 ケーキの上の砂糖菓子ぐらいに目を引く。
 その上、彼女たちは色鮮やかだった。
 モスグリーン、カーマインレッド、エッグイエロー、パールパープルと
 アスファルトに多種多様な絵の具を散らした抽象画だ。
 その絵の中で、インディゴとグレーがこちらを見上げていた。
 瞳で娘をしっかりと捕らえながらも、意識はどこか遠い世界へと溺れさせている。
 夢を見るように、娘を見ている。

 私はここにいる。
 娘は少女達を連れ戻そうと、窓の外に手を差し出した
 生成りの白パジャマの袖が目に入って、冬服を揃えなければなと思った。
 寒さを吹き飛ばすぐらい明るい色にしよう。
551 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:22
<カラフルワールド>
552 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:22
>>545-551
553 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:28
カラフルワールド、全終了です。
長らくスレを使わせて頂いてありがとうございました。
先をお待たせしていた方にはすみませんでした。
全部が大幅に狂いましたが、とりあえず終えることができました。

お話を作ることを最後まで楽しまさせて頂きました。
顎さん、感想を頂いた方、読んで頂いた方のおかげです。
ありがとうございました。


>>532
エピソード三部作という感じでした。
見づらい感じの構成になってしまってすみません。
554 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:41
インデックス

1.自称天使    
 >>2-40
2.猫の重さ    
 >>42-91
3.熱病 
 >>96-267
4.白い世界 
 >>282-508

 グレーゾーン  
  >>514-527
 ブレイクブルー
  >>533-543
 カラフルワールド
  >>545-551


引用物

>>244
The Sound Of Silence
 サイモン&ガーファングルの歌

>>372
PACKT LIKE SARDINES IN A CRUSH TIN BOX
 レディオヘッドの歌

>>405
アムニージアック
 レディオヘッドのアルバム

他、何かありましたら、スレにでもお気軽にお問い合わせ下さい。
このスレの再利用の予定はありません。
それでは、あらためてありがとうございました。
555 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 16:42
今回更新
>>533-544
556 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 17:05
最後の最後で間違えました・・・・・・・・・・・

今回更新
>>533-556
557 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/05(木) 22:23
一気読みしました。
おもしろかった。
いいもの読ませてくれてありがとう。
おつかれさまでした。
558 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/06(金) 02:58
狙ったかどうかわかんないけど新メンネタワラタ

ずっと読んできました
どうもありがとう
あなたの書く文章がとても好きなので、また読みたいです
559 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/06(金) 04:49
大量更新びっくり 今まで本当にありがとう
560 名前:LVR 投稿日:2005/05/06(金) 18:05
完結お疲れ様です。
一番大好きな小説だったので、完結を見れて嬉しい反面、少し寂しいです。
石川さんと吉澤さんはもちろん、四部からエピローグにかけての空を睨む市井さんがとても魅力的でした。
何度も何度も読み返した話なので書きたいことはたくさんありますが、キリがないのでこの辺で。
もし次回作があるのなら必ず読みます!
いつかまたイヌきちさんの小説に会える日を楽しみにしています。
561 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/08(日) 14:41
完結ほんとうにお疲れ様です。
>>560さんに同感で、少し寂しいです。更新を待つ楽しみも多分にあったので…。
前作といい本作といい、イヌキチさんの創り出す独特の世界観にすっかり魅了されたようです。
ありがとうございました。
562 名前:メトロ 投稿日:2005/08/22(月) 16:15
若いって綺麗!
そう実感しました…。
感動しました。

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