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ともだちのうた 2
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月27日(木)21時23分06秒
- http://mseek.obi.ne.jp/cgi/hilight.cgi?dir=blue&thp=994615470
同じ青板の続きです。て言うか後半です。
- 2 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月27日(木)21時26分43秒
- ゆっくりと蒲団から抜け出して、時計を見るとまだ矢口との約束の時
間まで充分なほど余裕があった。
携帯のアラームが鳴る前に起きた事に、少しだけ喜びを感じたが体か
ら疲れが取れていないことに気がつく。眠っていたはずなのに、意識だ
けははっきりしていて仮眠の状態を延々と続けていたようだ。だから昨
日までの疲れは癒える事はなく、ずっと体の芯に残っていた。
横を見ると圭ちゃんがベッドで眠っている。
起こさないように寝室を出ると、わたしは軽く身支度をした。
窓から外を見ると、雲が薄く覆っている。テレビをつけて天気予報を
見ると、午後から雨が降るらしいということをやっていた。
テーブルには昨日圭ちゃんが飲んでいたビールの空き缶が置かれてい
た。そっと人差し指と親指でつまむと、中が入っていないらしく軽く持
ち上がる。
ごみ箱にそれを捨ててから、わたしはソファに腰を下ろした。
- 3 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月27日(木)21時28分32秒
- 部屋は静まり返っていて、時計の秒針が耳につく。隣で寝ている圭ち
ゃんの吐息さえ聞こえるような気がした。
一人の時間。
すぐ隣には圭ちゃんがいるのにもかかわらず、漂う静寂のせいかわた
しは孤独を感じていた。でもそれはどこか落ち着くような感覚で、集団
の中の張り詰めた孤独ではない。
色んな事を考えることが出来た。
まるで時計の秒針が静かなリズムのように聞こえて、一秒ごとにわた
しの意識は自分の中に潜り込んでいく。
空っぽのわたしの中には、未来の光はなく、過去の思い出たちが溢れ
返っていた。整理する事も忘れたその思い出たちをわたしは一つ一つ手
にとって眺めていく。その度にあの頃には戻れないのだと言うもどかし
さが胸を締め付けた。
- 4 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月27日(木)21時29分40秒
- 後藤が加入した時の事。プッチの結成。シャッフルや映画。新メンバ
ー加入に、わたしの脱退。
自分の顔を両手で叩く。
パチパチと乾いた音が部屋に響くとわたしは深呼吸をした。
「……このままじゃ……いけないよなぁ」
あの散らかった部屋で何度も呟いた言葉を、わたしは圭ちゃんの部屋
で口にした。
わかっている。
このままじゃいけないって言う事は、始めからわかっている。
だから、わたしはここに戻ってきたんだ。
和田さんから持ちかけられたこの話に、散々悩んだが、わたしの中で
まだこのままじゃいけないという気持ちが残っていた。だから、わたし
はメンバーや後藤と会おうと思ったのだ。
- 5 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月27日(木)21時31分12秒
- でも、わたしは無力だと言う事を知った。
無力なくせに、もしかしたら周りを引っ掻き回したのかもしれない。
わたしはため息をついて目を閉じた。
体がソファに吸い込まれていく感じがする。もうこのまま眠ってしま
ったら目が覚めないのではないだろうかと、一瞬だけ考えて苦笑いをし
てみた。
静かな空間の中でわたしは思う。
後藤は今、どんな気持ちなんだろう?
と。
- 6 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月28日(金)00時10分18秒
- おお!更新されてる!
続き楽しみに待ってます。
- 7 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月28日(金)02時39分45秒
- 後半は市井の奮起に期待します。
- 8 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)01時55分31秒
「紗耶香! こっちこっち!」
人ごみにまぎれて、矢口は手を大きく上げながら飛び跳ねていた。わ
たしは周りにばれるのではないだろうかと冷や冷やしながら彼女の元に
駆け寄る。
「ばれるよ」
「その時はその時だ」
「背が小さくて目立つっていう事を自覚なきゃねぇ」
「おー、何気に暴言吐くね」
そう言う矢口の表情や口調には非難の色はなく、薄いサングラスの奥
の目は、嬉しそうに細くなっていた。わたしはホッ、と息をつくと空を
見上げていった。
「降るかな?」
「大丈夫じゃない? 天気予報はそう言ってたよ」
- 9 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)01時56分43秒
- 圭ちゃんの家から見たときより、空を覆う雲は厚くなっているような
気がした。それでも天気予報の降水率は半分を切っていたため、黙って
それを信じようと思い、傘を持ってこなかった。
「じゃ、行こっか」
矢口はわたしの手を取ると嬉しそうに走り出した。
わたしはそれに引きずられるように彼女の後についていく。非難の声
を上げるわたしに、矢口は一切聞く耳も持たず、その顔には笑顔が途切
れる事は無かった。
いつの間にかわたしも彼女に釣られて笑う。
それを見て矢口も満足そうに笑った。
人ごみを恐れる事はなく、芸能人だということを忘れてしまったので
はないだろうかと言う矢口の姿に、ここ数年感じた事が無いほどの開放
感がわたしを包んだ。
友達と笑い合って、気が強くなっていく感じ。今、この瞬間だけ何も
恐くない、と言う強気な感情が生まれる。
脱退してからもどこか人の目を気にしてきたわたしは、そう言う気持
ちにさせてくれた矢口に感謝した。
- 10 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)01時57分59秒
- それから矢口がほしいと言う服を買いに行ったり、適当な店に入って
小物を手にとりながら二人ではしゃぐ。店の店員さんは矢口の事に気が
付いたらしいが、気をつかってかはたまた遠慮していたのかわからない
が、何度も視線を向けるだけで声を掛ける事は無かった。
店を出てから矢口は言った。
「バレてたかな?」
わたしは黒い雲を見ながら、返事をする。
「バレてたね」
まあいいかと、矢口はいつものように高い声で笑うと、わたしの手を
また握って歩き出した。
- 11 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)01時58分47秒
- せわしなく歩いている人ごみの中で、まるでその流れに逆らうかのよ
うにわたしたちは進む。わたしの手を握る矢口の力は強く、決して少し
の事では離れないだろう。
金色の髪がわたしの目の前でなびく度に、甘い香りが届く。矢口の表
情はずっと笑ったまま。疲れた色も人目を気にして怯える事も無かった。
まるで完璧にテレビで作る笑顔と、今の表情は何も変わらない。
その事に気が付くと、わたしは急に言い知れない寂しさを感じた。
わたしの前でも、笑顔を作るの?
適当に昼食をとっている時にそう聞こうとしてやめた。
多分、矢口はそんなこと意識していないと感じたから。
無意識のまま、そうなっている事を彼女は気が付いていないのだろう
と思った。
でも、そんな完璧な笑顔も、一度だけ曇った。
- 12 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)01時59分36秒
- それは矢口の行き付けのショップに入った時、店員と話している彼女
と離れて、わたしはガラスケースに飾られているアクセサリーに目を奪
われていた。
どれもこれもほしいものばっかりだが、わたしの財布では到底手が届
きそうに無い。少しハードな感じのペンダントも、シンプルな感じのリ
ングも手持ちの予算を超える値段だった。
そんな時、わたしは一つのピアスに気が付いた。
思わず身を乗り出して顔を近づける。
- 13 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時00分29秒
- 「どうしたの? 紗耶香」
そんなわたしに、店員から開放された矢口が近づいてきて声を掛けた。
「そこのピアス」
指をさして言うと、矢口はすぐに目的のものに気が付いたらしく、あ
あ、と声を上げた。
「かわいいね。でも紗耶香にはどうかなぁ」
矢口がわたしを見上げながら言った。多分、その視線はわたしの耳朶
に向けられていたのだから、ピアスをつけている所を想像していたのだ
ろう。
「違うよ」
わたしは苦笑いして言った。
「後藤が付けたら、似合いそうだって思ったんだ」
またガラスケースの中のピアスに視線を向けて言った。少し落ち着い
た雰囲気のシルバーのピアス。後藤がそれをつけているところを頭の中
でイメージして、やっぱり似合うだろうと思った。
- 14 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時01分26秒
- どう思う? と聞こうとしてわたしは矢口を見る。しかし喉まで出た
言葉を、彼女の表情を見て飲み込んだのは、さっきまで完璧に作られて
いた笑顔が消えていたからだ。
無表情。
多分、その一瞬見せた矢口を例えるなら、その言葉が一番合っている
だろう。
眉も目も口元も頬も、全てが動かなく、時間が止まってしまったので
はないだろうかと錯覚してしまうほど、彼女の顔の筋肉は微動だにしな
かった。
無表情になった矢口の姿は、まるで彼女にそっくりなマネキンを連想
させた。
無機質な物体。
さっきまで、一緒にはしゃぎ合っていた矢口の存在を、遠い場所に感
じるのと同時に、確かに胸を襲う鋭い感覚。それは体全身を走り抜けて、
一瞬の目眩をわたしに感じさせた。
- 15 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時02分44秒
- 「ほら、紗耶香はこっちの方が似合うんじゃない?」
しかしそれも一瞬。すぐに矢口はまた笑顔を作ってペンダントを指差
した。
わたしは曖昧に頷く事しか出来なく、目の前にいる矢口の存在を始め
て不気味だと感じる。
戸惑いを隠せないわたしに矢口は気が付く事は無く、完璧な笑顔をそ
の後も絶やす事は無かった。
店を出てから、矢口に手を握られてまた歩く。
ぼんやりと曇り空を見上げながら、わたしは昨日のメンバーの反応を
思い出していた。
病的な感じに笑っていたメンバー。
もちろんその中に矢口も含まれていた。
クスクス、と笑う矢口。空中を泳ぐその視線の先には、多分自分自身
を感じる事も出来なかっただろう。
- 16 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時03分30秒
- そう思うと、嫌悪感とも似た感情を矢口に抱いた。
ゾクッと鳥肌が立つ。
わたしは思わず矢口の手を離した。
立ち止まるわたしに気が付いて振り返る彼女。
「どうしたの?」
矢口は首をかしげながら言った。
「あ……何でもない……」
熱を持った手を落ち着きなく空中で泳がせるわたしに、矢口はまた笑
顔を作って手を伸ばしてきた。
無意識のうちにわたしはその手を振り払う。
- 17 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時04分49秒
- 「イタッ……何すんのよ、紗耶香」
「あ、ごめん……」
心臓が高鳴っていた。
背中には嫌な感覚が走って、頭の裏側辺りにそれが痺れとなって消え
ていく。
「どうしたの紗耶香? 変だよ」
人の流れが激しくなっている。午後になって人口密度が上がっている
のだろう。
空耳かどうかはわからなかったが、遠くで雷の音のようなものが聞こ
えた。ますます雲が空を覆っていく。
「……ヘンかな? わたし」
唾を飲み込んで、わたしは言った。
矢口は不思議そうに首をかしげる。
「うん、ヘンだよ今日の紗耶香は」
また嫌な感覚が体を走った。
わたしはぎこちなく笑顔を作ると言った。
「……ヘンかな……わたし」
「うん、ヘンだよ紗耶香」
矢口はそう言って笑った。
ねぇ矢口。
ヘンなのはわたしなの?
- 18 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時06分32秒
- ◇
「うわぁ」
矢口が暗い空を見上げて声を上げた。
暗く闇を落としている空から雨が降り始めていた。ただでさえ曇りだ
と言う事もあって、圧迫感があるその空のせいで、街中のネオンがいつ
もより一層光が強い印象を感じるのはそのためなのかもしれない。
駅に飛び込むように入ると、少し濡れた服を埃を払うように手を動か
す矢口を見ながら、わたしは鞄からハンカチを取り出して渡した。
「気がきくじゃーん」
「大事な体だからね。風邪でもひいたら大変でしょう?」
「大事な体って、何かヤラシイぞ」
「アホ」
キャハハと笑う矢口。
- 19 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時07分12秒
- 辺りには帰宅につくサラリーマンや学生たちが溢れ返っているせいか、
とりあえず周りを気にして、わたしたちは人ごみを離れて隅のほうにい
る。忙しく流れる人たちを横に感じながらも、わたしの胸の奥は何かが
抜け落ちたように、周りの視線を気にすることはなかった。
こんなにも人が溢れているのに、今ここに存在しているのは矢口とわ
たしだけ。なぜかそう感じた。
「今日は楽しかったね。今度もまた遊ぼうぜ」
一日中歩き回って、確実に疲れているはずなのに矢口はわたしを見上
げながらそう言った。小さい体のどこにそんな元気が残っているのか疑
問に思いながらも、笑顔を作って頷く。
- 20 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時08分17秒
- 「そうだね。今度はいつになるかわからないけど」
「寂しいこというなよー」
「自由になる時間なんて、矢口には滅多に無いっしょ?」
「作ろうとすればいくらでもできるよ」
はは、とわたしはその言葉に苦笑いしながら答える。
「ではお姫様、その時間ができたらまたお誘いくださいませ」
「うむ、苦しゅうない」
「わけわかんねーよ」
わたしたちはケタケタと笑い合った。
電車が来る時間が迫ってきて、矢口は時計に視線を落とすと少し寂し
そうな表情を浮かべた。小さいと言う事もあって、わたしを見上げる形
になる彼女のその姿は、まるで子供のようだった。
- 21 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時09分25秒
- 「そんな顔するなよ」
「……うん」
「また明日会えるよ」
「……そうだね」
金色の髪が少しだけ濡れていて、彼女はそれに気を使って手で溶かす。
外の雨はどれぐらいの強さになっているのかわからなかったが、多分、
あの黒い雲は途切れる事はないだろう。
改札を通ろうとする矢口の背中を見ながら、わたしは胸の奥に沸き起
こるわだかまりを感じる。
- 22 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時10分13秒
- ――ヘンだよ、紗耶香。
その言葉を思い出して、思わずわたしは矢口の背中に声を掛けていた。
「矢口」
「……ん?」
彼女はゆっくりと振り返る。
電車の時間が近づいているせいか、人の流れが速くなっている。多分、
何人かはわたしたちの存在に気が付いていただろうが、声を掛けるもの
はいなかった。
「どうしたの? 紗耶香」
彼女はなかなか言葉を発しないわたしを、不思議そうな表情で見てい
る。流れていく人たちに気を使ってか、その声はいつもより小さくなっ
ていた。それでもわたしと彼女の距離は四五メートルほど開いていたが、
その声は雑音に消えることはなく、確実に耳に入り込んでくる。
- 23 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時11分26秒
- 「後藤……」
わたしは呟く。
矢口の前で後藤の名前を口にするだけで、どうしてこんなにも緊張し
なければいけないのだろうか?
矢口の表情は変わらない。さっきと一緒で、わたしを不思議そうな顔
で見ていた。
「昨日……後藤が襲われたんだ」
「知ってるよ。怪我なかったんだよね」
「……今、家から出られない状況なんだ。外出させる時も、家族か誰か
が傍につかなくちゃいけない」
「危険だからね。しょうがないよ」
「わたしは……後藤を守りに来たんだ」
「…………」
「勉強とか……そんなのじゃない……あの子を守りに来た」
わたしは矢口と視線を合わせるのを避けていた。ずっと見ている先に
は、彼女の後ろで、改札を通っていく人の流れだった。
「お姫様を助ける王子様だね。紗耶香らしいよ」
矢口の口調からは、不機嫌な様子を感じる事は出来なかった。
- 24 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時12分15秒
- わたしはゆっくりと彼女の顔を見た。
「でもちょっと後藤に嫉妬かなぁ。オイラも紗耶香に守ってほしいよ」
作られた笑顔が見えた。
わたしは胸の奥が締め付けられる。
矢口はまた時計に視線を落とす。時間が気になっている様子なのはす
ぐに分かった。
「紗耶香、じゃあそろそろ――」
「後藤が何をしたの?」
わたしは矢口の言葉に被せるように言った。すぐに彼女は口を閉じて
その視線を向けてくる。
「どうして……みんな後藤のことを無視するの?」
- 25 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時13分05秒
- それは多分タブーに近い言葉だっただろう。決してメンバー内で決め
られている事ではないだろうが、暗黙のうちに後藤のことは聞いてはい
けないという空気が作られていた。だからわたしがここに戻ってきて、
何度も後藤の対応で疑問に思っていても、決してメンバーに聞くことは
なかった。
それはタブーだから。
そう感じていたから。
しかし思い切って口にした言葉も、目の前にいる矢口の表情は変わら
なかった。さっきと同じような笑顔で、まるでわたしが間違っている事
を聞いているような感覚になった。
- 26 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時13分43秒
- 「何言ってるの? 紗耶香?」
体が少しだけ冷えているのに気が付いた。
多分雨に濡れて、それで冷えてきているのだ。
べとべとと肌に張り付く布の生地に、不快感を感じる。
「矢口……」
「後藤をいつオイラたちが無視してるんだよー」
矢口の声色は明るかった。まるで勘違いしているわたしの誤解を解こ
うとしているように、彼女の口調には余裕がある。
「でも後藤と話をしている所、わたし見ていないよ」
「してるよ。多分、紗耶香が目を離しているだけなんだよ」
「違う。わたしはいつも後藤の傍にいる。だから違う」
「……どうしたの? 紗耶香」
矢口はまた怪訝な顔でわたしを見た。
- 27 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時14分44秒
- 彼女の言い方から、それが嘘だとは思えなかった。しかし事実として
後藤へのメンバーの対応をわたしは目の前にしている。だから矢口とわ
たしの言い分には大きく矛盾が生じていた。
矢口は本気で言っているんだ。
自分たちは紗耶香が言っているような事はしていないよって本気でそ
う思っているんだ。
矢口はもう限界だといわんばかりに時計を見てからわたしに言った。
「そろそろ行くよ。じゃあまた明日ね」
そう言って改札を通る矢口の背中にわたしは思わず声を上げた。
「矢口!」
- 28 名前:名無しさん 投稿日:2001年09月30日(日)02時15分29秒
- その声で回りの人たちが驚いて視線を向けた。彼女は少し気恥ずかし
げに振り返る。
「……今……幸せ?」
わたしが呟く言葉に、矢口は何も答えず、テレビの向こうにいる彼女
が姿を現したような気がした。
矢口は笑顔でわたしの言葉に返事していた。
そして周りの視線から逃げるように走り去っていく小さな背中。
この寒さは、本当に雨に濡れたせいだろうか?
わたしは消えていくその背中を見ながら思った。
その笑顔は、どう言う意味なの?
- 29 名前:ななしめ 投稿日:2001年09月30日(日)02時21分03秒
- やたっ、更新されてる。
おもろいっす、ほんとに。
ところで、これってsageでしたっけ、一応しとこ
- 30 名前:ななしめ 投稿日:2001年09月30日(日)02時22分17秒
- やたっ、更新されてる。
おもろいっす、ほんとに。
ところで、これってsageでしたっけ、一応しとこ
- 31 名前:名無し読者 投稿日:2001年09月30日(日)05時27分25秒
- おお!ついに市井くんの動く時がやってきたのか!!
- 32 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月01日(月)03時55分21秒
- 市井ちゃん頑張れ!!
- 33 名前:初名無し読者 投稿日:2001年10月01日(月)16時02分48秒
- アンリアルの多い中、
久々に見つけたリアルの星です。
善い。
- 34 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)07時59分31秒
途中でビニール傘を買って、わたしはコンビニから出る。
空は黒一色で、どこまでも続くその雲には切れ目など見つけることが
出来なかった。
わたしは傘を開くと、ゆっくりと雨の中に飛び込む。傘に当たる雨粒
の音が軽快なリズムのように耳の中に響いた。
ピチャピチャとアスファルトに浮かんでいる水を蹴りながら、近づい
てくる圭ちゃんのアパートまで歩きつづける。信号待ちで携帯の時計を
見ると、午後の十時過ぎで、多分圭ちゃんは夕食を済ませてお風呂にで
も入っている時間だろうと予想してみる。
じゃあ、後藤は何をしているだろう?
テレビでも見ているのだろうか? それともお風呂に入っているかも
しれない。もしかしたら友達と電話で話しているということも考えられ
る。結局、彼女は家から出る事は出来ないのだから、やれる事といえば
限られてくるだろう。
- 35 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時00分36秒
- アパートの階段を上って、わたしは閉じたビニール傘の水滴を簡単に
振って落とす。この時間帯のせいなのか、それとも外が雨だからという
ことなのかわからなかったが、アパートの住民の姿を見かけることはな
かった。
圭ちゃんの部屋の前まで来ると、呼び鈴を鳴らす。しかし数秒待って
も中から返事どころか物音も聞こえなかった。
玄関横のスライドガラスの窓を見ると、明かりが付いている様子はな
い。中に誰も居ないのだろうと思って、わたしはバックの中から合鍵を
出してドアを開けた。
「圭ちゃん」
と暗い部屋の中に声を掛けてみる。もちろん返事など聞こえるはずも
なく、わたしは靴を脱いで中に上がりこんだ。
居間に来るとすぐに電気をつける。隣の寝室も覗いて見たが、ベッド
には圭ちゃんの姿を見つけることは出来なかった。
- 36 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時01分15秒
- 「……どっか行ったのかな?」
わたしは独り言を呟くと、濡れた上着を脱いで、バックの中からパー
カーを取り出してそれに着替えた。少しだけ濡れた髪を拭きながら、居
間に戻ってくるとテレビの電源を入れる。明るい笑い声が聞こえるバラ
エティー番組がやっていた。
タオルを首に掛けたまま、わたしはソファに倒れるように腰を下ろす。
すぐに体の奥から溜まった疲れがため息となって口から逃げていった。
トク、トク、トク、と心臓が脈を打っている。
帰り際の矢口の笑顔を思い出した。
いつもと、テレビの中と変わらないはずのその笑顔を、わたしはどう
してか異常なほど不気味だと感じた。
- 37 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時02分10秒
- ――ヘンだよ、紗耶香。
また心臓が脈を打つのを感じる。
それが疲れのせいなのか、矢口の今日の姿を思い出してなのかわたし
にはわからなかったが、その脈打つ心臓を感じるたびに、ため息ととも
に逃げていった疲れが体の中に製造されていくような気がした。
わたしは携帯を取り出すと、圭ちゃんの番号に掛けてみる。
今日の圭ちゃんの予定をわたしは聞くのを忘れていた。せっかくのオ
フなのだから、彼女が黙って家に居るはずがないと少し考えればわかる
はずなのだが。
しかし数秒たって電話の向こうから聞こえてきたのは、呼び出しのコ
ールではなく、電源が入っていないか圏外のため……、と言うアナウン
スだった。
「……どこ行ったんだろう?」
わたしは携帯を見ながら呟く。
- 38 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時03分30秒
- 部屋はテレビの音が包んでいたが、耳には確かに外の雨の音が聞こえ
る。圭ちゃんがちゃんと傘を持っていっていればいいな、と思いながら
テレビに視線を向けると、丁度CMに入った所だった。
ソファの上でわたしは横になる。髪の毛が鼻先を掠めて、それを手で
掻きあげながら、目を閉じた。
その暗闇の中で、わたしは色んな事を思い出していた。
テレビ局で後藤の新曲を聞いた事。ラジオの収録で後藤が圭ちゃんか
ら怒られた事。一人でダンスレッスンをする後藤の事。ストーカーに襲
われた事。そして何かにすがるような視線をわたしに向ける後藤の事。
その後の病院の事や、次の日に心配した圭ちゃんが後藤に電話をした事。
その他にも色んな事が頭の中を駆け巡っていく。
わたしはその中で、一度も後藤の笑顔を見ていない。
あの頃は常にわたしに向けられていた彼女のその笑顔。
こんなにもその笑顔が大切だった事に、あの頃のわたしは気が付かな
かった。
- 39 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時04分12秒
- 目を開けて仰向けになると、腕を額の上に乗せてため息をついた。
急激に眠気が襲ってくる。ソファに吸い込まれる体を感じながら、視
線の先の天井が徐々にぼやけてきた。
ゆっくりと目を閉じた時だった。
突然部屋の電話が音を上げる。
わたしはびっくりして思わず肩をすくめるが、すぐにソファから起き
上がると、テレビの横の電話に手を伸ばす。
しかしわたしは受話器を取る手を一瞬だけ引っ込めた。
なぜか、嫌な予感がしたから。
- 40 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時05分16秒
- 多分、その理由として昨日の圭ちゃんが取った電話の内容を思い出し
てしまったのかもしれない。昨日も、確か後藤が襲われたと連絡が入っ
たのはこのくらいの時間だった。
鳴り続ける電話。
わたしは唾を飲み込んで受話器を上げる。
「……はい」
喉の奥から声を振り絞ると、その電話の向こうから聞こえてきたのは、
後藤のお母さんの声だった。
「もしもし、保田さんですか?」
その声に、わたしは思わず返事をするのを一瞬だけ躊躇う。
「いいえ……圭ちゃんはどっかに出かけているみたいで……」
「市井さん?」
「ええ、そうです」
- 41 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時06分06秒
- なぜかわたしは緊張とも似たものを感じた。
どうして、後藤のお母さんが電話なんか掛けてきたのだろう?
そう考えると、わたしの思考は嫌な方向に向かう。
「……何か……あったんですか?」
わたしがそう言うと、後藤のお母さんは一瞬だけ電話の向こうで言葉
を切ったような気がした。しかしそれでもすぐに、前置きを省けると思
ったらしく、単刀直入な言葉が聞こえる。
「真希はそちらに居ませんか?」
また心臓が脈を打った。
しかしそれはさっきのように続く事はなく、一回だけ、それも手を当
てなくても感じるほど大きく動いた。
ドクン。
と。
- 42 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時07分11秒
- 「来てません。後藤がどうしたんですか?」
わたしは思わず早口に言った。
「夕食の時間まで居たんです。でもその後部屋に入ったきり姿を見せな
くて」
「居ないんですか?」
「気が付いたら部屋の中に真希が居なくなっていて……」
「誰か傍に付いているとか……」
「昨日のことがあるからわたしたち気をつけていたんです。それでも少
し目を離した隙に居なくなって」
「落ち着いてください」
「あの子の友達にも連絡してみたんです。もしかしたら誰かのお家に遊
びに言っているかもしれないと思って……でも確認できる所には全てし
たんですけど」
「落ち着いて」
「事務所の人にも話して。すぐに探してくれるって言ったんですけど。
でも警察には連絡してはいけないといわれて」
「落ち着いてください!」
- 43 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時08分25秒
- わたしは思わず声を上げていた。
電話の向こうでは息を飲む後藤のお母さん。
すぐに呟くような声が聞こえてきた。
「すいません……」
「大丈夫です……わたしたちの所には来ていません」
「そうですか……こんな時間にすみません」
そう言って電話を切ろうとする後藤のお母さんをわたしは呼び止める。
「待ってください! 後藤が行くような場所は探してみたんですか?」
はい、と小さく呟く声が聞こえた。
わたしは受話器を持ち直すと言った。
「わたしの方でも探してみます……とりあえず、そちらの方に伺います
から。そこで詳しい話を聞かせてください」
また、はい、と言う声が聞こえてわたしは電話を切った。
- 44 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時09分13秒
- 受話器を置いた瞬間に、信じられないぐらいの恐怖がわたしを襲って
きた。電話では落ち着けというような事を言ったくせに、いざ部屋の中
で一人だと気が付くと恐くなってくる。
わたしは首に掛けていたタオルをその辺に投げ捨てると、すぐに携帯
を拾って圭ちゃんの番号に掛けた。
しかしまたさっきと同じようなアナウンスが聞こえてきて、わたしは
訳のわからない苛立ちを感じる。
「どこ行っているんだよ」
そう独り言を呟いて、わたしは次に誰に掛けるべきかで考えを巡らせ
る。しかしすぐにそんなことは隅に追いやられて、後藤が姿を消したこ
とに付いて、悪い方向の考えが浮かんでいた。
後藤はストーカーに……?
それでなくとも、一人で家を出たとなると危険が大きくなってくる。
夕食まで姿があったというのだから、それが六時か七時ごろだと考える
と、もうすでに三四時間も過ぎていることになる。
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時10分07秒
- グルグル、とわたしの視界が回った。
そんな長時間、後藤はどこに行ったのというのだろう?
こんな時間になって、どうして連絡一つぐらいしないのだろうか?
後藤だって自分が狙われているの事を自覚しているはずだ。それなの
に一人で外に出ると言う行為は、ストーカーにとってこれほど都合がい
いことはない。それは誰にだってわかるはずだ。
わたしはどうしたらいいのだろう?
探すって、どこを探せばいいのだろう?
居間の中を何度も歩き回り、考え込むわたしの視界にテレビが入って
くる。明るい笑い声が頭の中に響いて、それが怒りへと変わっていく。
思わずリモコンでスイッチを切ると、それを乱暴に床に投げつけた。
ドン、と鈍い音を上げると、電池のカバーがその衝撃で外れて絨毯の
上を転がる。わたしはそれを目で追いながら、力無く座り込んだ。
- 46 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時10分58秒
- 後藤がどこに行ったのか、わたしには思い当たらない。
それが凄く悔しくて、自分の太ももを叩く。
わたしと後藤の関係はその程度のものだったのかと、思い知らされて
もどかしくなった。
教育係とか、先輩と後輩とか、わたしと後藤の関係は色々な言い方が
できる。わたしは少なくとも、あの頃は一番の彼女の理解者だと思って
いた。
それなのに、今、後藤が考えている事が全然わからない。
そう考えた時、わたしはふとある人物のことを思い出した。
後藤と仲が良かった相手。
――一緒にオフとかも過ごしてきたじゃん!
吉澤。
- 47 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時11分48秒
- わたしは顔を上げる。すぐに携帯を握ると、吉澤の番号をリダイアル
から探して通話ボタンを押した。
プップッと二三秒の間受話器から電子音が聞こえる。まさか吉澤まで
電源を落としていることは無いだろうな、とわたしは不安に襲われるが
すぐにコールが聞こえて安心する。
しかしなかなか吉澤は出ない。
一度留守電に切り替わったため、わたしは電話を切ってから数秒のう
ちにまた掛けなおした。
またしばらく出ない。
わたしはイライラしながら携帯を耳に当てる。
何回目のコールかは数えていないためわからなかったが、わたしには
凄く長い時間に感じた。
ガチャ、と音と共に吉澤の声が聞こえた。
- 48 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時12分32秒
- 「はい……」
その声はどこか暗く、わたしは一瞬だけ言葉を詰まらせるが、それど
ころではないと思い直して言った。
「吉澤!」
「……何ですか?」
「後藤が――」
わたしは早口にまくし立てる。
「市井さん……」
「吉澤! 後藤がそっちに――」
「……何ですか?」
わたしは言葉を切った。
何かおかしい。吉澤と話がかみ合わない。
- 49 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時13分16秒
- 「……市井さん……何ですか? 市井さん」
吉澤はゆっくりとわたしの言葉を無視してそう呟いていた。なぜかそ
の口調がとても不気味に感じて、背中に鳥肌が立つ。
しかしすぐに気を取り直す。
今度は子供に言い聞かせるように言った。
「吉澤……聞いて……後藤がね、居なくなったの」
「……ごっちんが?」
「そう、後藤。さっき連絡が入ってきたの……」
「ごっちん……一人じゃ危ないですよ」
「だからね、吉澤、後藤が行きそうな――」
わたしはそう口に出して気が付いた。
電話の向こうから、時々風の音が聞こえる。それだけではなく、吉澤
の声の後ろでは常に雨の音が鳴り続けていた。
不審に思ってわたしは言う。
- 50 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時14分07秒
- 「吉澤……今外に居るの?」
少しの沈黙が開いた。
「ええ……そうです」
「こんな雨の中、何やっているの?」
わたしがそう言うと、受話器の向こうからクスクス、と笑うような声
が聞こえてきた。思わずそれを昨日のメンバーたちの笑い声と重ねてわ
たしは胸を押える。
「吉澤……」
「……何ですか? 市井さん」
唾を飲み込む。
その音が吉澤に聞こえないように気を使った。
「……今……どこに居るの?」
- 51 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時14分55秒
- 跳ねる雨の音。
それは子守唄のように、聞き馴染みのある音楽。
心を深い場所に沈める。
「今……目の前にいますよ」
吉澤は呟いた。
一瞬の恐怖がわたしを襲う。
思わず顔を上げて部屋を見渡す。もちろんの事だが、彼女の姿が無い
事を確かめた。
それからカーテンがかかっているテラスに気が付いてわたしは立ち上
がった。
受話器からは雨と共に吉澤の息の音が聞こえる。
カーテンを掴む手が震えていた。
- 52 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時15分48秒
- 今になって、テレビを切った事を後悔する。気に障る声でも、こんな
に静まり返った空間よりはマシだ。
カーテンを開くと、わたしはテラスの鍵を開ける。
ゆっくりとそれを引いて開けると、雨が何粒か顔にかかった。それで
もわたしはベランダから下を見る。
圭ちゃんの部屋からすぐの電信柱の横に立っている少女の姿を確認す
る事が出来た。その少女は携帯を耳に当てながら、ずっとわたしがいる
ベランダを見上げている。傘もささずに、ずぶ濡れになっているその少
女――。
間違いなく、吉澤だった。
- 53 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月04日(木)08時16分27秒
- 「吉澤……」
わたしは呟く。
わたしと彼女の距離は直線にしても開いていたが、闇の中でもなぜか
吉澤が口元に笑みを作ったのを確認する事が出来た。
ドクン。
と、また心臓が脈を打った。
「こんばんは……市井さん」
吉澤は確かにそう言った。
でもわたしの中では、その声は降り続く雨の音と一緒に、頭の中を通
り過ぎていく。
いつの間にか携帯をわたしは耳から離していた。
微かに携帯から、もしもし? 市井さん、と言う声が漏れていた。
雨の音と一緒に――。
- 54 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月04日(木)22時05分56秒
- ひぃ〜、なんか凄いどろどろしてきたぁ〜〜…
でも続きが気になります。
超期待です。
- 55 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月05日(金)03時12分22秒
- 読んでてゾクゾクきました。
めっちゃ続きが気になります。
- 56 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月08日(月)01時06分49秒
- おおお!
ついに吉澤崩壊か!?
- 57 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時02分48秒
「はい、お願いします」
電話を切ると、わたしは振り返ってソファに座っている吉澤を見た。
彼女は毛布を何枚も体に巻いていて、歯を鳴らすように震えている。そ
の唇は紫色になっていて、濡れた髪の毛は目の下辺りまで垂れていた。
わたしはそんな彼女を目の前に密かに緊張していた。
しかし、その緊張がどこから来るのか漠然としていてわからない。
彼女を部屋に招きいれてから、わたしは自分の服を取り出して渡した。
濡れた髪の毛を拭かせて、それでも寒そうに体を震わせている吉澤に毛
布を渡す。
暖かいコーヒー一つでも出してあげるべきなのだろうが、そんな時間
は無かった。今すぐにでも後藤の家に行かなくてはいけない。吉澤にそ
こまで気を使うことは出来なかった。
- 58 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時03分51秒
- 「タクシー……呼んだんですか?」
唇を最小限に動かして、吉澤は呟いた。
わたしは黙ったまま頷く。
「ごっちんが……居なくなったって……」
「詳しい事はわたしにもまだわからない。さっき電話が来たばかりだから」
「……ストーカーですか?」
「……それもわからない」
体が温まってきたのか、吉澤は冷静になっているようだ。雨の中でわ
たしを見上げる彼女をどこか恐ろしく感じたが、今は会話の疎通がある
のだから安心していいのかもしれない。
わたしはテーブルに置いた携帯を拾う。投げ捨てていた上着を取ると
それに袖に通した。
- 59 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時04分38秒
- 「吉澤……いつから居たの?」
声は震えていないだろうか?
わたしが吉澤を恐れている事を悟られないように気を使った。
「……さっきです」
「それにしては濡れすぎだよ」
「……歩いてきたんです」
「……何のために?」
わたしがそう言うと、少しの間口を閉じた。静まり返った部屋に、外
の雨の音だけが聞こえる。わたしたちが黙った時間はそんなに長いわけ
ではなかったのだが、なぜかその間、体が強張った。
- 60 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時05分46秒
- 「保田さんに……お話があったんです」
「圭ちゃんに?」
「……はい」
わたしは思わず吉澤を見る。
「圭ちゃんと約束してたの?」
連絡が取れない圭ちゃんの事を何か知っているのではないかと、期待
を抱いたわたしは少しだけ声が上ずる。しかしそんな気持ちとは余所に、
吉澤は首を横に振った。
「……してません。わたしが勝手に来たんです」
「こんな雨の中を?」
「……はい」
「…………」
多分、圭ちゃんに話と言うのは後藤のことだろう。それはすぐにわか
った。あの学校の一件以来、ズレを生じていることを相談しようと思っ
たのだろう。
しかしそれだったら約束を取り付けておくべきだろうし、雨の中歩い
てくるのは普通では考えられない。
- 61 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時06分31秒
- わたしは今日の矢口の事を思い出した。
一瞬だけ無表情になった矢口。
そんな彼女たちの前で、わたしはどうしたらいいのだろう?
しばらく、わたしたちは黙り込んでいた。
気まずい雰囲気などは無かったが、どこか重苦しい感じはあった。そ
れは多分、わたしと吉澤二人で作っていたのだろうが、当事者である事
を自覚しているためか、それを変えようとは思わなかった。
外で車のクラクションの音が鳴った。
わたしは顔を上げる。
- 62 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時07分09秒
- 「……来た」
そう呟いて、わたしは毛布に包まっている吉澤を見た。
「吉澤はここにいて」
「……嫌です」
「風邪でもひかれたらみんなに迷惑がかかるからさ」
「……嫌です」
「圭ちゃんが戻ってきた時のために、留守番をしてほしいんだ」
「……嫌です」
吉澤はそう言うと毛布から抜け出して、湿った髪の毛を掻きあげた。
唇は相変わらず紫色だし、顔色だって悪い。体だって震えているくせに
吉澤は立ち上がってわたしを見下ろした。
「こんな時に、黙って待っている方が辛いんです」
「……吉澤」
- 63 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時07分49秒
- 辛いのはわたしも一緒だった。
何もせず、この部屋で待っている事の方が辛い。
それはわたしが時間を止めていた時と一緒だ。ここに戻ってくる前の
辛さと一緒だ。
わたしはため息をつくと、自分が着ていた上着を脱いで彼女に渡した。
それを受け取った吉澤は少し遠慮がちな表情を浮かべたが、すぐに袖を
通した。
わたしたちは圭ちゃんの部屋から出ると、外で待っているタクシーの
元に移動した。
気のせいか、雨が弱くなっているのにわたしは気が付いた。
- 64 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時08分55秒
- ◇
タクシーを外で待たせておいて、わたしたちは弱くなり始めた雨から逃
れるように後藤の家のドアを叩いた。
斜め後ろに居る吉澤の表情は強張ったまま。移動中に事の大きさを実感
したようで、暖房の効いた車内の中でも彼女は肩を縮めて震えていた。
数秒して向こう側からドタドタと騒がしい音が聞こえたかと思うと、勢
い良くドアが開く。出てきたのは少し髪が乱れている後藤のお母さんだっ
た。
わたしは頭を下げて言った。
「こんばんは……」
「こんな時間にすいません」
「いいえ、わたしたちが勝手に来ただけですから」
- 65 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時09分50秒
- 挨拶を短めに済ませて、わたしたちは家の中にあげさせてもらった。居
間の方向からボリュームが絞られているテレビの音が聞こえてきた。その
他はまるで留守中の家のように、ひっそりと冷たい空気が漂っていた。
「他の人たちはみんな探しに?」
わたしが後藤のお母さんの後ろについて歩きながら言った。
「ええ……事務所の人にも探してもらってます。昨日、あんな事があった
ばかりですから」
居間に案内されそうになるが、わたしはそれを断って後藤の部屋に連れ
て行ってくれと頼む。話を聞くならどこでもできるだろうし、寛いでいる
暇は無かった。
廊下を歩きながら、わたしは聞いた。
「居なくなったって、どれぐらいの時間なんですか?」
時計を見ると十一時を過ぎていた。
「電話でお話したように、夕食を食べ終わったら部屋に閉じこもってしま
ったので……でも気が付いたのは二時間ほど前です」
- 66 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時10分47秒
- もちろんその以前から姿を消したということも考えられるわけだ。そん
な長時間、後藤はどこに行ったのだろうか?
それとも、誰かに連れ去られたのだろうか?
自分が狙われていると知って、一人で外出するほど後藤はバカではない。
二度も危害を加えられているのだ。自分が今、どう言う立場にいるのか理
解しているはずだろう。
それなら、誰かに――。
わたしはそう考えて首を振った。
それだけは考えたくない。
しかしそう思っても、後藤の部屋の前について、ドアを開けると中から
逃げるように流れてくるその重苦しさに、わたしの思考はどんどんと悪い
方向に向かっていった。
わたしは後ろにいる吉澤を見る。彼女は不安そうな顔をして見返してき
た。
「吉澤……大丈夫?」
まだ微かに震えている吉澤に向かっていった。
「……大丈夫です」
- 67 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時11分27秒
- わたしはゆっくりと部屋の中に入った。昨日も足を踏み入れたはずのそ
の場所は、後藤の存在感を残しつつ、本人だけ切り取られたような感じが
した。
事実、全て昨日のままだった。
締め切られたカーテンも、置かれた鞄の位置も、全て変わらない。ベッ
ドに視線を向ければ、今でも後藤が体育座りをしているのではないだろう
かと思ってしまうほどだ。
わたしはゆっくりと移動する。勉強机の上には昨日の携帯。静まり返り
すぎると、ジーと音を聞かせる蛍光灯。そしてベッドの横の鞄。
わたしは振り返ってドアの前で立ち尽くしている吉澤を見る。
彼女は黙ったままわたしの姿を目で追っていた。
- 68 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時12分17秒
- 「あの」
吉澤の横にいた後藤のお母さんが口を開く。
「市井さんたちが来たら、とりあえず事務所のほうに連絡をよこしてくれ
と言われたので……」
「あ、はい」
わたしが答えると、後藤のお母さんは頭を軽く下げてその場から姿を消
した。遠くなる足音が聞こえなくなるまで、わたしたちは口を開かなかっ
た。
刻々と刻む時間を感じながら、わたしは吉澤に背を向けてカーテンに手
を伸ばす。
- 69 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時12分59秒
- 「市井さん……」
カーテンを掴んだのと同時くらいのタイミングで吉澤が口を開いた。
「何?」
わたしは振り返らないまま答える。
「市井さんはこの部屋に来た事があるんですか?」
呟くようにいう吉澤の声。
わたしはカーテンを開きながら答えた。
「……昨日来たよ」
カーテンを開くと、窓の鍵を見る。――それはちゃんと掛けられていた。
「そう言う意味じゃないです……」
「プライベートでって事?」
わたしのペライベートと言う意味は、モーニング娘に在籍していた時の
ことを言う。どうやらその意味はすぐに吉澤も理解してくれたらしい。
「……ええ」
カーテンを閉める。ゆっくりと振り返りながら答えた。
「あるよ……時々遊びに来た事がある」
吉澤は表情を変えずに、勉強机の上に転がっている小物を手に取ってい
た。
- 70 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時14分07秒
- 「いつまでですか?」
「もう忘れたよ」
吉澤の視線は手に捕っているその小物に落とされている。それは多分、
どこを見ていいのかわからないと言う戸惑いからなのだと思う。
「わたしはすぐにごっちんと仲良くなったんです」
「…………」
「同い年とか、そう言う理由は後についてきて……わたしはごっちんと一
番の友達だった……」
「…………」
「この部屋にも仲良くなってすぐに遊びに来たんです。仕事が終わった後
も、そのまま泊まりに来たりしてた」
「…………」
「市井さんはごっちんとそれ位仲良かったんですか?」
そう言ってわたしを見る吉澤の視線は、確実に嫉妬が含まれていた。そ
れは昨日感じた憎悪とも近いかもしれない。
わたしは視線を逸らしながら答えた。
「今はそんな事で争いたくないよ」
「…………」
- 71 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時15分05秒
- 遠くで後藤のお母さんが電話をしている声が微かに聞こえる。多分、ま
だ後藤を見付けられていないのだろう。
わたしはベッドまで歩くと、昨日の事を思い出した。
掛け布団の皺の形が、さっきまで後藤がいたことを感じさせる。その上
で座っていた彼女の表情を昨日は結局見ないままだった。
――このまま死んでもいいかなって……思った。
死と言う言葉を使った後藤。
わたしはその重さを感じる。
何で、そんな言葉を彼女の口から出させてしまったのだろう? 一番近
くにいたくせに。
- 72 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時16分11秒
- わたしはふと視線を鞄に落とした。昨日から弄られた形跡は無かったが、
開かれている口からごちゃごちゃと詰め込んでいる小物の中に、わたしは
お守りが無くなっている事に気が付いた。
あれ? とわたしは思い、その鞄に手を伸ばす。
座り込んで中をしばらく弄ってみたが、そのお守りは見つける事が出来
なかった。
後藤が……持っていたったのだろうか?
あんな物、一体何の役に立つというのだろうか?
――市井ちゃん。
わたしは顔を上げた。
後藤の、何気ないわたしを呼ぶ声が何度も頭の中に響いてくる。
――市井ちゃん。
- 73 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時16分49秒
- ゆっくり立ち上がる。ベッドに視線を移す。
わたしの頭の中に、何度も不安になると鞄を抱きしめていた後藤の姿が
浮かんだ。まるで子供がぬいぐるみを抱くように、不安を緩和させるため
に抱きしめていた鞄。
後藤は……本当に変わったの?
後藤は……本当に強くなったの?
後悔とも似た感情が、波のように襲ってくる。
あの鞄の中には、常にわたしが上げたお守りが入っていたのではないだ
ろうか?
後藤は不安になると、それを抱きしめていたのではないだろうか?
わたしは両手で下げた顔を覆った。
多分、わたしの考えは合っているだろう。
もちろん、昨日だけ鞄の中に入れていたということも考えられるし、わ
たしが偶然にそれを見ただけという可能性だってある。その事実は後藤本
人しか分からないのだろうが、なぜかわたしの胸の奥には確信めいたもの
があって、その他の可能性を全て否定していた。
- 74 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時17分44秒
- わたしへの後藤の態度を思い出す。
全て子供が自分に構ってほしくて拗ねているような態度ではなかった
だろうか? わたしはそれを後藤が変わったのだと思っただけではない
のだろうか?
本当に変わってしまったのは自分のほうだ。
後藤の事を受け止められなくなったわたしの方だ。
わたしは後藤に上げたお守りの事を思い出す。
あの時、お守りを受け取った後藤はどんな表情をしていたっけ?
泣いていた?
怒っていた?
それとも笑っていた?
- 75 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時18分35秒
- その全部を後藤はしていた。
わたしが脱退する事に泣いて、プッチをずっと続けると約束を破った事
に怒って、そしてわたしの考えを理解してくれて笑ってくれた。
でも、わたしがそのお守りを渡した時、彼女がした表情は、それを全て
含んだ上で、不安そうだった。
こんなちっぽけなものをわたしの代わりにする事。それでも彼女に残さ
れたのはそれしかなかったこと。
だから、不安そうな顔をしていた。
後藤はその不安をずっと引きずってきたのではないだろうか?
「……バカ」
わたしは自分でも聞き取れないほどの小さな声で呟いた。
お守りなんかで、不安から逃げられるわけ無いじゃん。
「……バカ」
その癖に、それをいつまでも持ち続けてくれた後藤の事を嬉しく思う。
本当にバカなのはわたしのほうだ。
- 76 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時19分33秒
- 「市井さん」
わたしは吉澤の言葉に我に戻った。
すぐに顔を上げて振り返る。
「ごめん……」
わたしはそう呟いて、吉澤の元に歩み寄る。
「探しに行こう。こんな所でじっとしていられない」
「でも……どこに行ったのか……それでなくとも、誰かに連れ去られたっ
て言う事だって……」
わたしは首を横に振った。
「後藤は連れ去られたわけじゃない」
「どうしてわかるんですか?」
わたしは勉強机の横で足を止めて、吉澤と一定の距離を取った。
「窓に鍵がかかっていたから。まさか玄関から進入して家族に見つからな
いように後藤を連れ去るなんてできっこないじゃん」
吉澤はわたしの言葉に、すぐにカーテンが引かれている窓に視線を移し
た。
「じゃあ、ごっちんはどうして一人で……」
わたしは後藤が持っていったお守りを思い出す。それは自分を勇気付け
るためだったのではないだろうか?
- 77 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時20分16秒
- 「……ストーカーに……会いに……」
口からこぼれるようにわたしは言った。
その言葉に驚きの表情を見せる吉澤。事実、自分でもそう考えている事
が意外だった。しかしよく考えて見ると、後藤が一人抜け出すとなればそ
れしか考えられない。
胸の奥に何かが突っかかる感じを覚えた。
漠然とした違和感。
それはずっとわたしの中で引っかかり続けていた事なのかもしれない。
ふとその時、わたしの視線に勉強机の上の携帯電話が入ってきた。
後藤がいつも使っている奴ではなく、型の古い、昨日わたしがなぜか気
になっていた物。
わたしはそれを見て、どうして気になっていたのか理解した。
その携帯には電源が入れられていたからだ。
- 78 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時20分58秒
- 昨日、わたしは後藤が使わないはずの携帯に電源が入っていた事に無意
識のうちに違和感を覚えたのだ。
わたしはそれに手を伸ばす。
「でも市井さん……」
吉澤が何かを考えながら言う。
「そうなると、ごっちんは――」
その後の吉澤の言葉にわたしもすでに気が付いていた。
――今日は大丈夫だもん。
携帯を握る。
――ダメ……出ない。
――寝ているのかもしれない。帰ったの朝方でしょう?
嫌な感覚が全身を走り抜ける。
こんなにも冷たい空気が漂っているというのに、背中にはジットリと汗
が浮かんでいた。
――死んでもいいかなって……思った。
その携帯の履歴を確認する。
- 79 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時21分52秒
- 予想通り、非通知が並びつづけて、それを操作していく指が微かに震え
る。出来る事なら、その名前が無い事を祈った。
しかしわたしは二日前の履歴で指を止めた。
予想していたとは言え、その事実にわたしは大きく衝撃を受ける。体中
を暴れるその感覚に、思わず座り込みそうになるが、机に腕をつき立てて
堪えた。
「市井さん、ごっちんは――」
吉澤の声が耳に入る。わたしはゆっくりと振り返ると、彼女は戸惑いを
隠せない表情を浮かべて、言葉を続けた。
「ストーカーの正体を知っているんですか?」
わたしはその言葉に静かに頷いた。
吉澤は驚いた表情をした。
――今日は大丈夫だもん。
- 80 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時22分36秒
- あの言葉は、そう言う意味だったんだ。
その日は確実に自分を狙わないって、後藤は知っていたんだ。
わたしは吉澤に言った。
「行くよ」
「市井さん」
わたしは吉澤の横を通り過ぎて、後藤の部屋から出た。すぐに後ろから
小走りで後を追ってくる足音がする。
居間の横を通り抜けると、電話の前で立ち尽くしている後藤のお母さん
が目に入った。どうやら事務所への連絡は終わったらしく、受話器は切ら
れていた。
「わたしたち、捜しに行ってきます」
わたしがそう言うと、後藤のお母さんは無言のまま頭を下げた。
靴を履いて、玄関を出る。外の雨はいつの間にか小雨になっていて、待
たせていたタクシーは白い煙を上げていた。
- 81 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時23分23秒
- 「市井さん!」
玄関のドアが閉まると、吉澤が声を上げた。
わたしは振り返る。
「どこを探すんですか?」
わたしは唾を飲み込んでから言った。
「学校……」
「学校? ごっちんのですか?」
「わたしには、そこしか思い浮かばない」
「でも何でそんなところに――」
「わからないけど……そこしか後藤が行きそうな場所がわたしにはわか
らないんだ」
「…………」
「いいから、早く乗って」
吉澤は黙ったままわたしの目の前を通ってタクシーに乗り込んだ。弱く
なり始めた雨を感じて、わたしは思わず空を見上げた。
あんなに厚かったはずの雲が速く流れていく。わずかに出来た雲間から
月の光がこぼれていた。
- 82 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月10日(水)04時24分11秒
- わたしの胸の中は不安だけが覆っていた。
タクシーに乗り込んで、行き先を告げる。ゆっくりと走り出す車内の中、
雨に濡れたせいだろうか、暖房の暖かい空気に湿気が混じっていた。
わたしは両手を組んで顔を下げた。
車内のラジオからは皮肉な事にモーニング娘の曲が鳴っていた。
アップテンポな曲が、今は凄く鬱陶しく思える。
そこには後藤の声と共に彼女の声も聞こえたから。
体が冷えているわけではないのに、わたしは何故か震えていた。それは
寒さのせいではないのに自分でも気が付いている。
胸を侵食した不安は、確実にわたしの動きまで影響をあたえようとして
いた。
体を揺らすエンジン音を感じながら、わたしは祈る。
自分の考えが間違っている事を、真剣に祈った。
でもそれは無駄な事だろうということにも気がついていた。
全ての出来事が、パズルのように組み合わさっていくのをわたしは感じ
ていたから。
そしてそのパズルが全て組み合わさって、出てきた結論。
それは圭ちゃんがストーカーだと言う結論。
わたしは祈る。
その考えが間違っていますようにと――。
- 83 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月10日(水)17時15分00秒
- えぇえええぇぇぇぇぇぇっ!!やっすぅーー!?(驚
- 84 名前:ななし 投稿日:2001年10月10日(水)18時26分37秒
- ぬうぉー、よっすぃーはしっていたのかー
つーか、しってたにきまってるわなあ。
- 85 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月11日(木)02時17分33秒
- うむ、驚愕である
- 86 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月11日(木)16時04分13秒
- 最高の展開です
- 87 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時44分12秒
「そんな……どうして……」
タクシーに揺られながら、横にいる吉澤が呟いた。それはわたしの出し
た結論を聞いた驚きなのだとすぐにわかる。
彼女は口元を押えて、信じられないと言った顔をする。しかしわたしが
真剣な表情をしていたため、冗談ではないと言う事は理解してくれたらし
い。吉澤はずっと視線を前に向けたまま口を閉じた。
窓には雨粒が当たって、それは近くの水滴と統合して大きくなる。ゆっ
くりと重さに耐えられなくなっていくその滴が、窓から流れ落ちていくの
をわたしは見ながら、胸に手を当てた。
心臓が走った時のように高鳴っている。体全体を埋め尽くす不安と疲労
感。それは常に感じるエンジン音で、少しの車酔いを感じさせた。
唾を飲み込んで、わたしは考える。
どうして、圭ちゃんだけ後藤の携帯に繋がったのか?
- 88 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時45分19秒
- それは後藤がストーカーに襲われた次の日、わたしたちは心配して廊下
で電話を掛けた。その時、圭ちゃんはしばらく携帯を耳に当ててこう言っ
た。
――ダメ……出ない。
その後こうも言った。
――寝ているのかもしれない。帰ったの朝方でしょう?
圭ちゃんの電話には、コール音がしたのだ。だから、そんな台詞を吐く
事が出来た。
常に電源が切られている後藤の携帯にどうやったら繋ぐ事ができるの
か?
――今日は大丈夫だもん。
後藤はただストーカーに狙われていたわけではなく、その犯人探しを水
面下で続けていたとしたら……?
そしてその犯人がメンバー内にいるのではないかと、後藤は考えて、あ
んなトラップを仕掛けたんだ。
- 89 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時47分05秒
- それは無言電話に目をつけたやり方。
メンバー内の一人に、自分の番号を替わった事を伝える。それはダミー
の携帯だ。もちろんその人物が犯人ならば、無言電話をダミーの携帯の方
に掛ける事になる。それがいくら非通知で掛けようが公衆電話であろうが
関係ない。番号を知っているのは一人なのだから、その人物が犯人だと特
定する事は簡単である。
そしてその人物が圭ちゃん。
圭ちゃんはそれを知らないで、後藤の番号が替わったのだと思い込んで
いた。だから、あの時その教えられたダミーの携帯に電話をしたのだ。
証拠として、さっきわたしが見た携帯の履歴には、非通知が並ぶ中、そ
こに圭ちゃんの名前も確認する事が出来た。それも日付は二日前。わたし
と電話を掛けた時と同じ時間だった。
- 90 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時48分14秒
- それだけではない。ダンスレッスンがあった日、後藤が襲われた時にわ
たしが彼女の傍に居ない事を、圭ちゃんは同じスタジオにいたのだから聞
いている。わたしの帰りが遅くなる事も予想できていただろう。
あの時は後藤の予定外の自主レンや、わたしが来たと言うことがあった
が、それでも圭ちゃんは後藤を襲った。スタジオを出て、二手に分かれた
のを確認していたのだろう。
「でも……信じられない」
吉澤が小さく呟いた。
それは自分自身に言っているようで、わたしは言葉を返すことなく、移
り変わっていく風景を見ながら、学校が近づいているのを感じていた。
――今日は大丈夫だもん。
あの時の後藤の台詞は、間違いなく計算されて出てきたものだろう。わ
たしが圭ちゃんの傍にいるのは誰でもわかる。そのわたしに迎えに来てく
れと言ったのだから、近くにいる圭ちゃんが後藤を襲いに行く暇は無い。
後藤はそう計算していたのだろう。
- 91 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時48分52秒
- 事実は少し違ったが、圭ちゃんだけ吉澤と共に後藤に会いに行く事を知
っていた。だから、一人になっていた後藤を襲う機会なんて無かった。
わたしは財布を取り出して降りる準備を始めた。
横を見るとまだ信じられないような顔をしている吉澤がいる。わたしが
簡単に声を掛けると、彼女は我に戻ったように顔を上げた。
後藤は――。
後藤はずっと、ストーカーが圭ちゃんだと知って、一緒に活動をしてい
た。それはどう言う心境なのだろう? 恐くなかっただろうか? 辛くな
かっただろうか?
もしかしたら後藤は、わたしが戻ってくる以前から、その事を知ってい
たのかもしれない。彼女の口から、ストーカーへの不安な言葉を一度も聞
いた事がない。それは犯人が圭ちゃんだって知っていたから。
――そうなったら、あたし娘やめる。
- 92 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時49分58秒
- 圭ちゃんが自分を狙うのは、メンバーと同じように憎んでいるからと考
えていたからだろうか? 自分がそう言う立場になってもしょうがない
と割り切っていたからだろうか?
もし、そうならわたしはそんな後藤に何をしてあげた?
同じメンバーから狙われても口に出す事さえしなかった彼女に、わたし
はどんな事をして上げられただろう?
悔しくなった。
圭ちゃんが後藤を追い詰めていた事も、それに気が付かなかったわたし
も、歪んでいる事ことだけには気が付いていたはずなのに、何も出来なか
った事が悔しかった。
タクシーが止まって、わたしたちは開いたドアから降りる。雨は確実に
弱くなり始めて、糸のように細くなっていた。
タクシーが遠ざかっていき、目の前にそびえ立つ校舎を見上げる。わた
しは息を小さく吐いて、校門から入ろうと足を一歩踏み出した瞬間、ポケ
ットの中の携帯が音を上げた。
- 93 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時50分46秒
- 吉澤が振り返ってわたしを見る。
ポケットから携帯を取り出すと、光っている液晶に何粒かの雨が当たっ
て、滴が出来た。
その液晶には、圭ちゃんの名前が表示されていた。
わたしの鼓動が高鳴る。
通話ボタンの上に置いた親指が震えていた。
「……市井さん」
わたしは吉澤に視線を向ける。それだけで彼女は誰からかかってきたの
かすぐに理解したらしく、眉間に皺を寄せる。
通話ボタンを押して、わたしは歩き出した。
「もしもし? 紗耶香?」
電話の向こうから聞こえる圭ちゃんの声は、いつもと変わらず明るかっ
た。しかし、わたしにはその声の裏には演技のようなものが含まれている
のを感じる。
いつもと同じだけど、いつもと違う。
わたしにはそれくらいわかるよ、圭ちゃん。
校門の中に入る。闇が続く校庭を歩きながら、わたしは黙ったまま携帯
を耳に押し当てた。
- 94 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時51分26秒
- 「ごめんね。こんな時間まで帰れなくて……今、スタッフさんたちと飲ん
でて、気が付いたらこんな時間になっていてさ」
「…………」
「もう大変だよ。そりゃあたしも二十歳になったけど。みんな出来上がっ
て混乱ジョータイ。こんな場所で一人だけシラフのあたしはどうしたら言
いのかって言う状況ね」
「…………」
「何か賑わってて、紗耶香に連絡するの忘れちゃったよ。どうだった?
矢口とのデート。楽しめた? あたしの方はもう少し帰れなそうだから、
先に寝てていいよ」
「……後ろ、静かだね」
「ああ、うん、今外に出てるから。中はうるさくてしょうがないよ。まと
もに話も出来ないからね。それより寝るときは、ちゃんと元栓とか締める
の忘れないでよ……それから――」
「何でこんな事したの?」
- 95 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時52分04秒
- わたしは校舎を見上げながら言った。後ろでは黙ったまま付いてくる吉
澤の足音が聞こえた。
一瞬言葉に詰まった圭ちゃん。しかしすぐにまた明るい声で聞き返して
きた。
「え? どういうこと? あたしなんかしたっけ?」
「……後藤はどこにいるの?」
「後藤って、なんであたしが――」
そこまで言って言葉を切る圭ちゃん。電話の向こうで息を飲む音が聞こ
えて、わたしの胸の奥にさっきまで感じていた不安が、苛立ちと言う感情
に姿を変え始めてきた。
「……紗耶香」
「ねえ! 後藤はどこにいるの?」
わたしは声を張り上げる。
- 96 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時52分44秒
- その声は静まり返った闇の中に大きく響き渡った。すぐに電話の向こう
から雑音がして、その後こぼれ落ちる圭ちゃんの声が聞こえた。
「紗耶香……どうしてここに……」
わたしはその言葉に校舎を見渡した。
しかしどの教室も闇が落とされて人の姿を確認する事が出来ない。間違
いなく、圭ちゃんはこの中にいる。そしてわたしたちの姿をどこからか見
ているはずだ。
「ねぇ! どうしてこんな事したのよ!」
わたしは続けて声を上げた。
しばらく黙り込んでいた圭ちゃんが、観念するようなため息をついた。
「紗耶香……そんなに騒がないで。近所迷惑になっちゃうよ」
「圭ちゃん!」
電話の向こうで、ふふ、と笑う声が聞こえた。わたしは彼女の言葉を一
言も聞き逃さないように強く携帯を耳に押し当てた。
「大丈夫だよ。そんな声出さなくてもちゃんと聞こえてる」
圭ちゃんは呟くように言った。
「いつから気が付いてたの? 紗耶香」
小雨とは言え、雨に当たり続けて着ているパーカーが肌に張り付いてき
ているのを感じた。湿った髪が目の前でちらつくのが鬱陶しくて、掻きあ
げるようにオールバックにする。
- 97 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時53分28秒
- 「さっきだよ」
わたしは言った。
「……どうしてかなぁ……注意していたはずなのに、どうしてばれるんだ
ろう?」
「……圭ちゃん」
「後藤まで知ってた。あんなに惚けたような感じなのに、意外に鋭いんだ
なって、さっき思ったばかりなのに……まさか紗耶香にまで気づかれてい
るとは思わなかったよ」
圭ちゃんの言葉は、自分がストーカーの犯人だと言う事を証明していた。
出来る事なら自分の考えが間違っている事を祈っていたが、その期待は大
きく裏切られ、胸には鉛のように重いものが圧し掛かってくる。
- 98 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時54分11秒
- 「どうして……圭ちゃん……どうして?」
「入ってきなよ。そんな雨の中、風邪ひいちゃうよ」
圭ちゃんの声色には、自分の行動に反省しているようなものを感じる事
が出来なかった。
「一階の教室の窓が開いてるから。どうやら後藤が破ったみたい。まった
く乱暴な事をする子だよ」
「圭ちゃん! 後藤は無事なの?」
わたしがそう言うと、電話の向こうでクスクスと笑う声が聞こえた。
「さあ。それはどうかしら」
「ちょ――圭ちゃん!」
「後藤、無事だといいね」
「圭ちゃ――」
プツンと電話が切られた。
わたしはすぐに掛けなおしてみるが、その頃にはすでに電源が切られて
いて繋がらなくなっていた。
- 99 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時54分53秒
- 「市井さん」
後ろにいる吉澤の言葉にわたしは振り返らないまま、窓が開いていると
言う教室を探した。
一番端からわたしは窓に手を当てて、視界に入り込んでくる闇の中の教
室を見る。もしかしたら中に圭ちゃんがいるのかもしれないと思ったが、
その中は予想以上に暗く、わずかな外の光に反射して見えにくくなってい
た。
「市井さん!」
必死に割られている窓を探すわたしの後ろで吉澤が声を上げる。振り返
ると彼女は雨に濡れて、髪の毛の先から滴をたらしていた。
「保田さんはなんて……?」
電話でのやり取りが気になっていたようで、わたしは窓から離れると右
手で顔についた水滴を拭き取りながら答えた。
「圭ちゃんはこの中にいる。多分、後藤もいる」
「やっぱり保田さんがごっちんを……」
「…………」
わたしはその問いかけに答えなかった。
- 100 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時55分46秒
- その後吉澤と二手に分かれて、圭ちゃんが言う割られている窓と言うの
を探した。それ自体、そんなに手間を取る作業ではなかったし、時間的に
も五六分と言ったものだった。しかし、弱くはなっているとは言え依然と
して降り続く雨と、後藤の安否が気になって、その短い時間だったのにも
かかわらず、わたしには長く感じた。
「市井さん!」
吉澤が声を上げる。わたしはその方向に視線を向けると、反対側から割
られた窓を探していた彼女が、大体中央あたりに位置する教室の前で手を
振っていた。
わたしは走って彼女の元に近づくと、そこには開いている窓を確認する
事が出来た。
どうやら泥棒のように鍵の位置だけガラスを割って、そこから手を入れ
て窓を開けたようだ。
- 101 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時56分29秒
- 「市井さん……どうしますか?」
「もちろん行くよ」
わたしはそう言って、珊に両手を当てて登った。床に飛び降りようとし
た時に、割られたガラスの破片に気が付く。少しだけ慎重に片足ずつ床に
つけて窓から降りた。
すぐに吉澤がわたしと同じように窓から教室の中に入ってきた。飛び降
りる彼女はガラスの破片を気にせずに踏んだ。
パキンと乾いた音が教室の中に響き渡る。
わたしは息を飲んで吉澤を見た。
彼女は濡れた髪を掻きあげてから、ゆっくりと教室内を見渡していた。
綺麗に列を作っている机に黒板の前の教卓。そこから見て後方のほうに
は生徒たちのロッカーがあった。
別にどこにでもあるような風景。
でも、こんなにも人がいなくて闇の中にあると、まるで異質な感じがし
て、それが根拠のない恐怖心を煽った。
- 102 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時57分08秒
- わたしたちは窓際の一番後ろの席にいた。
静まり返っている教室。真っ直ぐ向こうにある引き戸が、まるで別世界
の入り口のように思えて、わたしたちはその場からしばらく動けないでい
た。
パキと吉澤の足の下にあるガラスの破片が割れる音がして、わたしたち
は我に返る。二人で視線を合わせて、その別世界に繋がっているかもしれ
ない引き戸の元に歩み寄り、それを開けた。
開けた瞬間に、真っ暗な世界が広がった。
どこを見ても黒い世界。
そこは廊下だということはすぐにわかった。しかし並んでいる窓からは
一切光が入り込んでいない。どうやら向かい側の校舎に月の光が遮られて
いるようだった。
- 103 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)02時58分51秒
- 「市井さん」
吉澤が呟く。
「なに?」
決して大きい声を出したわけではないはずなのに、わたしの声は信じら
れないくらいに闇が落とされている廊下に響き渡った。
「……靴」
吉澤が振り返ってわたしたちが歩いてきた教室を見ている。そこには泥
の足跡が無数についていた。
「……まずくないですか?」
雨の中を歩いてきたのだ。靴が汚れているのはしょうがない。でも吉澤
のまずくないかと言う言葉にわたしは頷いた。
明らかにこれは不法侵入だろう。おまけに窓ガラスまで割っている。そ
れなのに泥の足跡で床まで汚すとなると、さすがにわたしも気がひけた。
わたしたちは靴を脱いで、その教室に置いた。場所がわからなくなると
困ると思い、一応何年何組かと言う事を確認する。
その頃に闇に目が慣れてきたのか、光が届かない廊下に出ても吉澤の姿
を確認する事は出来た。
- 104 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時00分06秒
- 靴下から床の冷たさを感じる。体全身に残っていた疲労感で、働かなく
なり始めていた頭には良い刺激だった。
圭ちゃんはどこにいるのだろうか?
この校舎の中に居る事はわかっている。しかしそれが一階なのか二階な
のか、それとも三階のなのかはわたしたちで探すしかなかった。
ゆっくりと冷たい廊下を一歩踏み出した時、後ろから吉澤が声を掛けて
きた。
「……かれませんか?」
「え?」
わたしは振り返る。
こんなにも静まり返っていると言うのに、吉澤の声がはっきりと聞こえ
なかった。
振り返ると、彼女は顔をさげていた。
一瞬だけ、わたしは雨の中立ち尽くしていた吉澤の不気味さを思い出した。
- 105 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時00分40秒
- 「吉澤……何?」
わたしがそう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その表情はさっき
と変わらず、どこか不安げだった事に少しだけ安心する。
「別れて探しませんか?」
「別れて?」
「ええ」
「でもそれは危険だよ。何があるかわからない」
「ですから、一階なら二手に分かれて探す。その後落ち合って二階を探す
と言うようにしましょう。そっちの方が、時間も短縮できる」
「でも……」
「一つ一つの教室を見回らなければいけないんですよ。それなら別れた方
が速いです」
「…………」
- 106 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時01分18秒
- 吉澤の言っている事はわかった。確かにそっちの方が時間も短縮できる
だろう。どうやらこの学校は渡り廊下を挟んで二つに分かれている。それ
を片方ずつ分担して行った方が効率的にも良い。
反対する理由は見つからなかった。
しかし、どうしてか胸の奥には不安が消えない。
漠然としすぎていて、何の不安なのかわからなかったが、このまま吉澤
と分かれて探すということになぜか抵抗があった。
「市井さん」
吉澤が急かすようにわたしの名前を呼ぶ。
――後藤、無事だといいね。
さっきの圭ちゃんの言葉を思い出す。
結局、わたしは吉澤の案を飲んだ。
吉澤とは階段で落ち合う事にした。
ペタペタとわたしの元から走って消えていく吉澤の背中を見送りなが
ら、闇の中で完全に孤立する。
わたしはため息をついて、一番突き当たりの教室から探す事にした。
闇の中で、一人になったわたしの不安は、どんどんと大きくなっていく
のを感じた。
- 107 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時02分11秒
- ◇
圭ちゃんだけ、正気だってわたしはどうして思っていたのだろう?
いち早く自分が分担する教室を見回ったわたしは、吉澤と落ち合うため
に階段の元に歩きながらそんな事を考えた。
窓の外に視線を向けると、雲の流れが速い事に気が付く。降り続いてい
た雨は、肉眼では確認できないほど弱くなっていた。
廊下はひっそりと空気を落とし、時々ある非常口の案内板が緑色に輝い
ていて、それが一層と得体の知れない恐怖心を煽った。
圭ちゃんだって、矢口達と同じように常に異常な雰囲気が支配する場所
に居たのだ。その雰囲気に耐えられなくなった彼女たちが、徐々に自分た
ちを守るために変わって行った中、圭ちゃんだけ昔と変わらないで居られ
るはずがない。
- 108 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時02分50秒
- 圭ちゃんは強い女性だ。
わたしはそんな圭ちゃんのことを尊敬している。
でも、人は完璧でいられない。わたしが言う強いという言葉を聞いて、
多分圭ちゃんは否定するだろう。
あたしはそんな強くない。紗耶香は間違っているよ。
多分、そういうふうに言うはずだ。
でもわたしは圭ちゃんを強い女性だと思い続けている。弱い部分もひっ
くるめて、それは強さだ。
しかし、今回だけ、その弱い部分にわたしは目をつぶっていたのかもし
れない。気が付けなかった。
わたしは自分の事で精一杯だったから。後藤のことも、圭ちゃんの事も、
矢口やメンバーの事を見て上げられなかった。知らず知らずのうちに、圭
ちゃんが変わっていた事に、気が付かなかった。
- 109 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時03分22秒
- 階段の元にたどり着いた。周りを見てみるが、吉澤の姿はなく、多分ま
だ教室を回っているのだろうと思い、わたしは階段に腰を下ろした。
ひっそりとした闇が周りを包む。
静かな空間を感じて、迷子のように孤独への不安を感じた。
わたしは両手を組んで顔をさげた。
体を休めた事により、それまで無視し続けていた疲労感が暴れている。
目を閉じるとそのまま眠ってしまいそうになるのをわたしは堪えて、息を
つく。
一日って、こんなにも長いものだったっけ?
わたしは一人で苦笑いをする。
- 110 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時04分02秒
- 圭ちゃんが、後藤に危害を加えないとはわたしは思っていない。いくら
さっきまで信頼していた友人であったとしても、彼女は一度刃物で後藤を
傷つけている。その事実は消えない。
それだけではない。これまでずっと、圭ちゃんは後藤を無言電話などで
精神的に追い詰めている。
圭ちゃんは本気なんだ。
本気で、後藤を狙っているんだ。
そんな彼女の元にいる、後藤のことが心配だった。
自殺まで図った後藤の事が心配だった。
――このまま死んでもいいかなって……思った。
- 111 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時04分37秒
- そう、昨日のあの言葉はそういう意味だったんだ。
現に、後藤が車に轢かれそうになった時、圭ちゃんはわたしと共にいた。
だから後藤を襲うことは出来ない。
あれは、後藤の嘘だ。
ストーカーに背中を押されたという、嘘だ。
その現場を見ているものはいないのだから、真意ははっきりとしないだ
ろうが、昨日の後藤からの言葉の中に、ストーカーへの恐怖心的な言葉を
一度も聞かなかった。それは自分が車に飛び出したからだろう。
わたしと共に駆けつけた圭ちゃんはそのことを知っていたはずだ。
――紗耶香のせいじゃない……あなたのせいじゃないからね……。
その言葉さえも、わたしを思っていってくれたのか今では疑問になった。
わたしは両手で顔を覆うと、目を閉じる。
圭ちゃん。どうしてこんな事をするの?
今のわたしには、正直圭ちゃんのことが恐いと思えた。
後藤だけではなく、この闇のどこからかわたしを狙ってくるのではない
かという事さえ考えた。
それが多分、得体の知れない恐怖の正体なのだと思う。
- 112 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時05分38秒
- 「――井さん」
わたしはゆっくりと顔を上げた。
「市井さん」
そこには吉澤が居て、わたしを怪訝な顔で見下ろしていた。
「吉澤……」
わたしはそう呟いて階段から立ち上がる。体の芯のほうで溜まっていた
疲労がまた暴れだした。
体が重かった。わたしは階段の手すりを掴むとため息をついて吉澤に言
った。
「そっちのほうはどう?」
「何の異常もありません」
「そう」
「……上に行きましようか」
- 113 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時06分16秒
- そうだね、とわたしが答えると、彼女は横を通り過ぎて階段を上ってい
った。わたしはその背中に視線を向けながら、思わず声を掛ける。
「吉澤」
その声に彼女は振り返ってわたしを見下ろした。
「何ですか?」
わたしは手すりから離れると、彼女を見上げる。なぜか胸の奥には吉澤
に対する不安が消える事はなかった。
- 114 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時07分08秒
- 「恐く……ないの?」
「恐い?」
吉澤が聞き返すように言う言葉に、わたしは無言で頷いた。
「もちろん恐いですよ」
「でも、そんなふうに見えないよ」
「見えないだけです」
「…………」
吉澤は一歩だけ階段を下ると、わたしの顔を見ながら言った。
「……どうしたんですか? 急に」
その言葉にわたしは苦笑いをする。
「ごめん。わたし、暗い所が苦手なんだ」
「……そうなんですか」
「ごめん……こんな時に」
「……いいえ」
「行こっか」
わたしの言葉と共に、吉澤は階段を上っていった。その背中を追うよう
にわたしも後を付いていく。踊り場を通り過ぎて、十二段の階段を上る。
すぐに視界には左右に廊下が広がっていて、右手側には渡り廊下へと続く
角があった。
- 115 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時08分03秒
- 「じゃ、またここで」
吉澤はそう言うと、ぺたぺたと足音を鳴らして渡り廊下へと姿を消して
いった。
わたしはその消えていく背中を見ながら、さっき、一瞬だけ感じた不安
を思い出す。
あれは、闇のせいだろうか? それとも吉澤のせいだろうか?
その結論をわたしはあえて出さなかった。
今は圭ちゃんのことで精一杯だったから。
一人になったわたしは、階段のすぐ横にあるトイレのドアを開けた。一
番奥の壁にある窓から微かに光が入っているが、まるで幽霊でも出そうな
雰囲気に、わたしは苦笑いをしながら一つ一つの個室を調べて回った。も
ちろんトイレに靴下だけで足を踏み入れるのに抵抗はあったが、そんな事
を気にしている暇はなかった。
結局誰もいないことを確かめて出口に向かった時、洗面器の前を通ると
張られている鏡に自分の姿が写った事に気が付いた。わたしは思わず視線
を向ける。
- 116 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時09分26秒
- 「……なんだこりゃ」
思わず自分の姿に声を上げた。
髪は乱れていて、今朝したメイクは雨のせいで剥がれている。確実に疲
労が顔に出ていて、目の下には隈があった。まるで子育てに疲れた母親の
ような気がして、わたしは手グシで髪だけを整えてため息をついた。
トイレから出る。視線に飛び込んできたのは、窓を通して見る暗い空だ
った。厚い雲に覆われている月が自分の存在を教えようとしているように、
ぼやけて光っているのに気が付いた。
- 117 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時10分33秒
- わたしは背を向けて次の教室に向かう。
ひたひたと鳴る足音のほか、自分の荒くなっていく息が壁に反射して、
冷たい廊下の上に敷き詰められていくような気がする。その上を歩くわた
しは、いつ自分の作った恐怖心に足を取られてもおかしくはないだろう。
次々と教室を巡っていって、どこにも圭ちゃんの姿を見つけることは出
来なかった。そのくせその引き戸を開けるとき、この中に誰かが居たら、
と言う緊張感を何度も味わい、それは慣れる事はなくわたしの神経を削っ
ていった。
わたしが担当する二階の教室も、最後の一つになったとき、軽い目眩に
襲われた。思わず廊下にしゃがみ込んで眉間辺りを指で押える。よく貧血
で倒れる人がいるが、その人はこんな気分を味わっていたのだろうかと、
こんな時に思った。
目を閉じると意識が遠のいていくのを感じた。慌てて首を左右に振って
目を開ける。このまま冷たい床に倒れてしまいたいという衝動から逃れる
のに、わたしは予想以上のエネルギーを使った。
- 118 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時11分15秒
- その時、ふと視線を落としていた床に、金色の光が張り付いていくのに
気が付く。わたしは顔を上げて窓の外を見ると、雲間からさっきの月が姿
を現していた。
満月だ……。
わたしは思った。
丸い黄金の月は、その光で闇だった校舎を照らしていた。廊下には窓の
形に整形された光が張り付いていて、わたしの影がノッポになって横の壁
に姿を現した。
ゆっくりと立ち上がる。体がいつもより重かったが、窓に寄りかかるよ
うに体重を逃す。わたしが吐いた息で、少しだけ窓が曇った。
後藤も、この月を見ているのだろうか?
- 119 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時11分59秒
- 後藤知っていた?
こんなにも月って明るいんだよ。
わたしは手を伸ばして、その月を掌で覆う。
自分の掌よりも小さいのに、どうしてこんなに明るく輝く事ができるの
だろう?
指の隙間から金色の光が漏れていた。
もしかしたら、わたしたちが浴びていたスポットライトより明るいのか
もしれないね。
そう思った時、わたしの体に不気味な感覚が走り抜けた。
思わず窓から身を離して横に向きを変えた。
- 120 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時12分40秒
- そこにはさっきわたしが歩いてきた廊下が長く続くだけ。
わたしは一歩だけ後退りをした。
「……誰か居るの?」
その声は小さかったのにもかかわらず、ひっそりと影を落としている廊
下に響き渡る。
わたしは体を強張らせて、視線の向こう側に注意を払った。
あの一瞬感じた不気味さは、間違いなくわたしを見る視線だった。
どこかから、わたしを見張るような視線だった。
心臓が高鳴る。
緊張感が強張らせた体を走り抜けて、頭の中心辺りで痺れとなって消え
ていく。それでも確実にその痺れは、わたしの感覚を弱らせていっている
ような気がした。
「誰か……居るの?」
わたしはもう一度呟く。
しかしその向こうからは返事が返ってくることはなかった。
- 121 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時13分20秒
- 気のせいだろうか?
わたしはそう思うと、息を付いて頭を軽く振った。
軽い頭痛がした。
どうしてわたしがこんな目に合わなければいけないのだろうと思った。
こんなに体を酷使して、常に恐怖を感じなければいけない場所に、どうし
てわたしが居るのだろうと思った。
早く帰って眠りたかった。
何も考えずに、ただ蒲団の中で体を丸めて目を閉じていたかった。
――市井ちゃん。
後藤……。
――約束したじゃん。ズルイよ。
ああ、思い出したよ。
- 122 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時13分58秒
- ――ごとーがどう言う気持ちで待っていたかなんて、市井ちゃんは考えて
くれないんだ。
後藤との最後のメール。
――市井ちゃんは嘘つきだ。
後藤との最後の喧嘩。
――嘘つきで矛盾だらけで、それでも自分の事正しいって思ってる。
わたしは約束を破ったんだ。
後藤との約束を破ったんだ。
――市井ちゃんは全然正しくなんかない。
だから、後藤は怒って、そしてわたしも怒ったんだ。
- 123 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時14分44秒
- わたしは部屋で埃まみれになっているギターを思い出した。
いつか、後藤に言った事がある。自分で歌を作りたい。人を感動させら
れるような歌を作りたい。
――あたし、その歌聞きたいよ。
でもまだわたしは未熟者だよ。まず、楽器を覚えなきゃいけないし、そ
れに詩とかも一杯書いて勉強しなきゃいけない。
――詩なんて勉強するものなの?
そりゃそうだよ。何をするのも勉強しなきゃ。
――あたしは勉強嫌い。
そうだな、じゃあ一番最初のわたしの歌を、後藤のために作ってあげる
よ。
――ほんとっ?
ベンキョーが好きになるような歌。
――そんなのヤだー。
わたしたちは、それから二人で笑いあったんだ。たったそれだけのこと
が愉快で、それでも嬉しくて、だから笑いあったんだ。
どうしてそんな事さえ忘れていたんだろう。
- 124 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時15分25秒
- わたしは顔を上げて、最後の教室に向かった。引き戸をゆっくりと開け
ると、三十個ぐらいの机が並んでいた。静まり返ったその教室の中で、わ
たしは黒板に視線を向けながら考えた。
後藤は、この学校を通して、わたしとの思い出を見ていたのではないだ
ろうか?
過ごすはずだった時間。それは過去の時間。その共通する過去の時間を、
形として存在するこの学校を通して、わたしとの思い出を見ていたんだ。
だから、圭ちゃんをここに呼び出したんだ。
自分たちの思い出が、幻でも感じられる場所なのだと、後藤は思ってい
たから。
わたしは教室から出ると、吉澤と落ち合うために階段に向かった。その
歩調は、さっきのように闇に恐がる事はなく、すぐに目的の場所にまで到
着する。
吉澤はすでにわたしを待っていた。
- 125 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時16分06秒
- 「吉澤」
わたしが声を上げると、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「そっちのほうはどう?」
「…………」
吉澤は無言のまま首を横に振った。
「そう……残るのは三階だけね」
「…………」
わたしは彼女の前を通り過ぎて、階段に足を踏み入れる。一歩上った時
に、吉澤が呟くように声を上げた。
「市井……さん」
わたしは振り返って彼女を見た。
吉澤はさっき上ってきた下りの方の階段に視線を落としていた。
- 126 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時16分43秒
- 「どうしたの?」
わたしは呟く。
吉澤はしばらく黙っていたが、ゆっくりとわたしに視線を向けて言った。
「音が……しました」
「音?」
わたしは階段を下りると、吉澤の元に近寄る。
「音ってどこから……」
「一階のほうです」
「いつ?」
「今です」
「今?」
わたしは下りの階段に視線を向けた。
今って、わたしには何も聞こえなかった。こんなにも静まり返っている
なら、わたしにも聞こえてもおかしくはない。
「わたしには聞こえ――」
「今聞こえした!」
- 127 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時17分34秒
- 吉澤の声が辺りに響き渡った。わたしは反射的に肩をすくめてから、ま
た階段に視線を向ける。
何も聞こえない。
「音です。何かを置くような、そんな音が聞こえました」
「一階に誰かいるって事?」
「……わかりません」
わたしはなぜか落ち着かなかった。
吉澤と共に居ると、まるで漠然としたような違和感に襲われる。その正
体がわからないため、それを必死で無視しようとするのだが、それが段々
と大きくなっているのに気が付いていた。
「でも一階は全部見回ったはずだよ」
「……隠れていたのかも」
「…………」
わたしは考えた。
一階は確かに全ての教室を見回った。少なくとも吉澤の方は分からなか
ったが、わたしはくまなく探したつもりだ。しかし、彼女の言う通りに、
隠れていたとして、この闇の中見落としている可能性だって否定できない。
わたしは吉澤を見ると言った。
「行ってみようか?」
「……そうですね」
- 128 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時18分28秒
- わたしはゆっくりと彼女の前を通り過ぎて、十二段の階段に足を踏み入
れる。視線の先には真っ暗な踊り場が、底が見えない穴のように感じた。
三階ではなく、圭ちゃんは一階に居るのだろうか?
何かを置くような音って、どう言うことだろうか?
そう思いながら、わたしは階段を下っていく。
四段目ほどだろうか、右足を置いた時に、わたしは漠然とした違和感の
正体に気が付いた。
背中から、視線を感じたから。
ゾクリと背筋を襲う視線。
それはさっき月に魅せられている時に感じたものと一緒だった。
わたしを見張るような視線を、なぜか今、背中に感じた。
思い出す。
吉澤といて、漠然とした違和感を抱いていたのは、わたしを常に見る視
線には憎悪が混じっていたからではないか?
吉澤は、わたしを憎んでいるのではないだろうか?
- 129 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時19分03秒
- そう考えて、わたしは振り向こうと体の向きを変える。
しかし、それと同時に背中に感じる熱っぽい掌。
その掌がわたしの背中の皮膚に食い込む。
その力でわたしの体はバランスを崩した。
悲鳴を上げる余裕はなかった。
ただ、回る風景に唖然としていただけ。
その風景の中に、もちろん吉澤の姿も確認できた。
わたしは階段を転げ落ちる。
全身を色んな所に打ち付ける。何とか体制を整えようと、無意識のうち
に思ったらしい、左足を起こそうと折り曲げたのだが、もちろん転げ落ち
る勢いには勝てなく、体の向きに逆らったせいで捻ってしまう。
わたしは踊り場で止まった。
- 130 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時19分43秒
- その瞬間に、階段を落ちている時には感じなかった激痛が体の全身を暴
れまわった。思わず小さな悲鳴を上げて、わたしは体を丸める。
背中を強く打ち付けたせいで、息が出来ない。それでも激痛に耐えよう
とすると、酸素が肺の中から吐き出されて、新たな空気を取り入れようと
するのだが、呼吸が出来ないため息苦しさに軽いパニックを起こした。
ゲホゲホとわたしは咳をする。
そのたびに全身の痛みが倍近いぐらいに膨らんだ。
涙が出てくる。
痛みで涙を出すのは子供の時以来だ。
- 131 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時20分29秒
- 「――井さんのせいです」
その時、階段の上から吉澤が何かを呟いた。わたしは必死に痛みに耐え
ながら目線だけを上げた。
「全部市井さんが悪いんです」
吉澤……。
わたしは声を出そうとするが、それは喉を通り過ぎる事はなかった。
吉澤は顔を下げたまま、逆光という事もあってその表情は見えなかった。
彼女はすぐに逃げるように駆け出して、わたしの視界から消えた。
- 132 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月17日(水)03時21分01秒
- 光もあたらない踊り場で、わたしは動く事が出来なく横になって痛みに
耐えるだけ。
意識が遠のいていくのは痛みのせいだろうか? それともさっきまで
の疲労のせいだろうか?
どっちでもよかった。
わたしには、闇の中に溶け込んでいく意識を止める事が出来なかったか
ら。
視界がぼやけて、その端の部分から黒く染まっていく。
すぐに全てが真っ暗になった。
痛みの中で、頬の床の感触だけが心地よかった。
- 133 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月17日(水)08時54分08秒
- 先がまったくよめない
まじドキドキです
- 134 名前:ちびのわ 投稿日:2001年10月18日(木)00時19分10秒
- あぁ〜、ドキドキする〜。
やっぱこれが一番気になります!
- 135 名前:ななしの一読 投稿日:2001年10月18日(木)13時41分58秒
- たてー、たつんだー、がんばれー
おもろいですなー、ほんまに。
- 136 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時22分36秒
『ウタ出来た?』
それが届いた時、わたしはベッドの上で漫画を読んでいた。ゆっくりと
体を起こして携帯を取り、メールを確認するとそんな文が一行だけ書かれ
ていた。
後藤だと言うことは、宛先を見なくてもわかった。
ここ一週間ほど、同じような内容が送られてきていたから。
わたしは漫画を読んでいたページを背に蒲団の上に置くと、ため息をつ
いて返事を返す。
『まだ出来てないよ。昨日からそんなに進むわけないじゃん』
送信して、ため息をつく。部屋の隅に置かれているギターが眼に入って
きて、それが急に鬱陶しく思えた。
- 137 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時23分23秒
- どこに行ってもわたしは元モーニング娘と言う視線を感じていた。たま
に会う人は、歌の勉強の事を聞く。別にやっていなかったわけではなく、
適当に返事をしていたが、毎回同じ事を言うのには疲れる。
いつからだろう。大学ノートに向かって詩を書くという行為が、苦痛に
感じ始めていたのは。
過去に書いた詩を読み直して、そして新しい詩を書いてみる。
でも途中まで書いて気に入らなくなってやめる。その繰り返しを延々と
続けて、いつしかペンを持つのをやめていた。
全部下らなく思える。
詩を書いている自分も、その内容も。
全部下らない。
徐々に歌を作る意欲を失い始めて、脱落感だけの部屋の空気に染められ
ていった。
そんな中届く後藤のメール。
- 138 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時24分11秒
- 『ウタの調子はどう?』『どこまで完成させたの?』『詩とかもうはもうで
きたんだよね?』
わたしはそれに全て返事を返した。
『順調』『半分ぐらい』『当り前だ』。
全部嘘。
強がって、わたしは嘘を付く。
後藤はその嘘に喜んでいて、どんどんと期待を込めたメールを送ってく
る。わたしはなんだかそれが鬱陶しくして、その反面、嘘に喜んでいる後
藤に罪悪感を抱いた。
『楽しみだよ。早く聞かせてね』
数分後、そんなメールが届いた。
わたしはその文を読みながら、胸に溜まっていた不満を押える事が出来
なかった。
- 139 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時25分16秒
- 『後藤のためには、歌わないよ』
送信した後に、わたしは後悔する。
何でそんなことを送ったのだろうと。
でも、この一言で後藤の期待から逃げられるならそれでいいと思った。
わたしを束縛する無言のプレッシャーを一つだけでも排除できるなら、誰
を傷つけてもいいと思った。
最低だ、と小さく呟いた瞬間にまたメールが届く。
『そうだね。まず初めのウタは自分の為に作らなきゃね。約束のウタはそ
の次でいいよ』
何もわかってない。
わたしは約束の歌なんて作る気なんてない。
- 140 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時26分02秒
- その後、多分酷い内容のメールを送ったと思う。段々と後藤の返事も喧
嘩ごしになってきて、その態度がなぜか気にいらなくなったわたしは電話
まで掛けたが、着信拒否されていた。
次の日には着信拒否が解除されていたため、わたしは電話を掛けて謝っ
た。でも歌に関して、一言も触れなかった。
それ以降、後藤と連絡を取る事はなかった。
- 141 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時27分09秒
- ◇
目を開ける。
体の節々にまだ痛みは残ったままだったが、意識を失う前よりはいくら
かは楽になっていた。
時計を見ると、大体五分ほどしか経っていない。気絶したのではなく、
どうやら眠っていたようだ。
わたしは息を吐いて、ゆっくりと立ち上がろうとする。
「イッ!」
しかしその瞬間に襲う、左足からの激痛。それは体の痛みを凌駕していた。
わたしはまず壁際に左足を引きずりながら這うように移動する。そして
それに寄りかかって座ると、息をついた。
体はまだ痛い。左足は捻ったせいで、動かすだけでも信じられないぐら
いの激痛が走る。
ゆっくりと手で触るだけでも痛みを感じた。
- 142 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時28分05秒
- 参ったな、とわたしは苦笑いをして顔を上に向けた。
どうやら折れてはいないようだが、体を動かすことは出来そうにない。
それでも、このままここにいるわけにもいかないのだからと、ゆっくりと
右足だけで立ち上がろうとするが、すぐにバランスを崩して床の上に倒れ
る。
息を吐くと、また眠りについてしまいそうになって、わたしは自分の頬
を叩いた。
今は眠りたくなかった。
眠ったらまたあの時の夢を見そうで、嫌だった。
人を傷つける事に、何も感じなかった最低の頃のわたし。その頃の夢を
どうしてさっき見たのだろうと考える。
これは罰か。
今のこの無様な自分も、あの頃の夢を見せさせられる事も、これは罰な
のではないだろうか?
- 143 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時28分57秒
- わたしはまたゆっくりと体を起こす。階段まで這っていくと、手すりを
掴みながら立ち上がろうとした。しかしすぐにまた左足が悲鳴を上げる。
思わず倒れそうになるのを堪えた。
額から汗が出てきている。それは熱いからではない。多分、あまりの激
痛に脂汗が出ているのだ。
着ているパーカーは湿っているせいで肌に張り付く。冷え切った皮膚は、
いつの間にか感覚がなくなってきて、それを気持ち悪いとさえ思わなくな
った。
わたしはこんな目にあうために、ここに戻ってきたわけではない。
後藤を守るために戻ってきたんだ。
約束を破って、その上後藤を傷つけてしまった事に決着をつけなくては
いけない。それは今までの自分へのけじめだ。
左足をゆっくりと階段の上に置く。体重を乗せると、何かに殴られたよ
うな衝撃が脳に伝わってきた。
- 144 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時29分48秒
- わたしは頭を振った。
これは罰だ。
わたしの罰だ。
そう思い、思い切って全ての体重を左足に掛けた。
「!?」
声にならない悲鳴をわたしは上げると、崩れ落ちるようにまた床の上に
倒れる。目からは涙が出てきて、体を転がして痛みから逃れようとした。
なんて無様なんだろう。
これがわたし?
痛みの中で、わたしは思った。
あのお守りを上げた時のわたしはどこに行ったのだろう? 自信を持
って、後藤の手をひいていたわたしはどこに行ったのだろう? こんなわ
たしじゃ、後藤は付いてきてくれない。後藤を守って上げらない。
- 145 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時30分34秒
- わたしは左足を乱暴に叩いた。
その度にまた激痛が体を走り抜ける。
それでもわたしはやめない。
動け。今だけでいいから、動け。
涙が出てきた。声にならない悲鳴を上げ続ける。動かない左足がこんな
にも憎くてたまらない。
何度も何度も左足を叩き続けると、いつの間にか何も感じなくなり始め
た。それは痛みに慣れたわけではなく、感覚が麻痺してきているのだとい
う事に気が付く。
わたしはまた再度手すりを掴みながら立ち上がる。
後藤は――。
後藤はまだこんなわたしを必要としてくれている。
あの頃のお守りを持って、圭ちゃんと決着を付けようとしている。
わたしは、ボロボロになったとしても、それを見守らないといけない。
後藤の背中を見守らないといけない。
まだわたしにやれる事があるなら、多分そう言う事だ。
- 146 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時31分18秒
- わたしは立ち上がる。左足には力が入らなかったが、歩けないわけでは
なかった。手すりに体を預けるように、一歩一歩階段を上っていった。
脂汗が鼻筋を通っていく。わたしは袖でそれを拭うと、丁度階段を上り
きった。
思わず膝を着きそうになるのを堪えて、わたしは左右を見渡した。
目はすっかりと闇に慣れていた。
心臓が高鳴って、息があがる。
何度も咳をして、入り込んでくる空気が喉に引っかかる感じを覚えて、
気持ち悪くなった。
コトッ。
- 147 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時32分06秒
- わたしは顔を上げる。
音がした。
視線をその方向に向けると、それはわたしが見回りに行っていた廊下の
奥の方だと気がつく。
「吉……澤……」
長く続く廊下の向こう側は、暗くなっていて見えなかったが、そこに人
の気配がするような気がして、わたしは足を引きずりながら歩く。
ずっと真っ直ぐは突き当たりだ。どこかに逃げようとするならば、わた
しの横を通り過ぎなければいけない。
一歩一歩に時間がかかる。
体に残る痛みがその度に暴れた。
- 148 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時32分46秒
- 徐々に突き当たりに近くなると、視界の中に人影を見つけた。その人影
は一番奥で、体育座りをしながら顔を下げている。
間違いない、吉澤だ。
「吉澤……」
わたしが声を掛けると、彼女はビクッと体を硬直させる。ゆっくりと顔
を上げてわたしの姿を確認すると、急に立ち上がって後退りをした。しか
し奥は行き止まりだ。彼女は壁に背をつけながら、近づいてくるわたしを
恐がるような視線を向けていた。
「わた……わたしは悪くない!」
吉澤が声を上げた。
わたしは無視して彼女の元に近づく。
「全部市井さんが悪いんだ!」
彼女まで数歩前という距離まで来ると、わたしは顔を上げた。
「全部市井さんが悪いんです!」
吉澤の表情は怯えきっていて、わたしを見る表情は、まるでゾンビでも
襲われるかのようだ。
- 149 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時33分37秒
- 「市井さんが現れなきゃ、こんな事にならなかった! ごっちんはずっと
わたしの傍にいた! だからわたしは悪くない!」
吉澤の声は静かな校舎内に大きく響き渡る。まるで山彦のように、その
言葉は前後からわたしを襲ってきた。
「……それがどうしたのよ」
わたしは呟く。吉澤の表情はどんどんと凍っていった。
「市井さんが戻ってこなきゃ、何も変わらないですんだんです! ごっち
んも保田さんも矢口さんも梨華ちゃんも! みんな変わらないですんだ
んです! 市井さんが全部原因じゃないですか!」
「……だから、それがどうだって言うのよ」
喉の奥から出てくるわたしの声は低くて、それに吉澤はまた怯える。
わたしはゆっくりと彼女の元に近づく。
- 150 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時34分11秒
- 「さっきから……何が後藤だよ」
わたしは吉澤のすぐ前に来ると、右手を壁に押し当てて前を塞いだ。
「何が圭ちゃんだよ……」
吉澤は怯えた目でわたしを見ている。数十センチすぐ前の彼女の顔を見
ながら、わたしは言葉を続ける。
「矢口も石川もそれにみんなも関係ないでしょう……」
「…………」
「ただあんたがわたしを気に入らないだけじゃん……みんなが総意だっ
て思わせないでよ」
「…………」
吉澤はわたしの視線から逃れるように顔を下げる。わたしより高い身長
のくせに、今は子供のようだ。
- 151 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時34分47秒
- 「わたしは悪くない……わたしは何も悪くない……」
「…………」
「悪いのは市井さんだ……わたしからごっちんを取った市井さんだ……」
吉澤は自分に言い聞かせるように呟いた。それはわたしから精神的に逃
げようとしているのだと思った。
「何が……取ったよ……そんなのあんたが勝手に思っているだけじゃん」
「違う」
「前に後藤が言っていた言葉、思い出した。自分のこといい人って思いた
いだけじゃないの?」
「違う」
「後藤を利用しているだけじゃないの?」
「違う!」
吉澤は悲鳴とも近い声で、そう言った。
「わたしは……わたしは……」
息を飲んでから、わたしは目の前で怯える吉澤の言葉を待った。彼女は
両手で自分の顔を覆う。それがわたしの視線から逃れようとしているのか
わからなかったが、ぎこちなく肩が揺れているのを見ると、どうやら泣い
ているらしい。
- 152 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時35分29秒
- 「わたしには何も無くなった……市井さんのせいで……全部……なにも
無くなっちゃったんです……」
「…………」
「お仕事でも迷惑掛けちゃったし、梨華ちゃんに酷い事言った。ごっちん
からも嫌われて……わたし……どうして……」
何もなくなったと言った吉澤を、わたしは一瞬だけ自分と重ね合わせた。
存在意義をなくした吉澤は、わたしと同じなのかもしれない。後藤に否
定される事によって、無くしたわたしの存在。
「市井さんが現れなきゃ、何も変わらなかった……わたしから全部奪って
いったんです……これから……どうしらいいのか……何も無くなったわ
たしはどうしたら……」
- 153 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時36分08秒
- 月の光が強くなっているようだ。どうやらもう雨は止んでいるのだろう。
あんなに降り続いていたはずなのに。
廊下には静かな空気が流れる。
吉澤とわたしの息の音が交互に聞こえた。
「……憎みなよ」
「…………」
吉澤の揺れていた肩が止まった。
「……何も無いなら、わたしを憎みなよ」
ゆっくりと彼女が覆っていた手を離して顔を上げる。その表情はわたし
の言葉が理解できないと言ったように、目が見開いていた。
わたしは息をつくと言った。
- 154 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時36分53秒
- 「何も無いならわたしを憎めばいい。今よりももっと憎めばいい。わたし
はあんたが大切にしていた後藤を奪った奴だよ」
「…………」
「わたしを憎む事で、その無くした物の替わりにすればいいじゃん。そん
な感情でも、何も無いよりはマシなはずだからね」
「…………」
吉澤は首を横に振った。
なんだかそれが聞き分けの無い子供を見ているようで、わたしは苛々と
してくる。
「もっと憎みなさいって言ってるでしょ! わたしを殺したいくらいに
憎めばいいじゃん! あんたはそんな事も出来ないの?」
吉澤はその言葉に首を横に振り続けるだけ。わたしは彼女の襟首を掴む
と、睨むように視線を向ける。
- 155 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時37分26秒
- 「言う事聞きなさいよ……あんた後輩なんだから……先輩の言う事黙っ
て聞きなさい……」
吉澤の顔は涙で濡れていた。それを拭こうとする事は無く、何度も何度
も首を横に振る吉澤は、その内喉から振り絞るように声を出した。
「何で……こんな事に……」
「吉澤……」
「わたし……こんな事……どうして……こんな事に……」
わたしは掴んでいた手を離すと、彼女は壁に寄りかかりながら座り込ん
だ。流れた涙は止まることなく、その何粒かが床の上に落ちる。
- 156 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時38分14秒
- 「わたしにはまだやらなくちゃいけないことがある……まだやれること
がある……」
「…………」
「だから、わたしはまだあんたに殺されるわけには行かないんだよ」
「…………」
「……階段から落とされたって、わたしは何度でも起き上がるよ」
「…………」
「まだ……わたしを必要としてくれる人がいるって知ってるから……」
「…………」
「だから、何度でも起き上がるよ」
吉澤は何も答えず、黙って首を振っているだけだった。
- 157 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月20日(土)17時38分51秒
- わたしは少しの間だけ彼女を見ていたが、すぐに体の向きを変えて歩き
出す。
相変わらず足を引きずって、歩き難かったが、徐々に吉澤から離れてい
き、彼女の泣き声も遠い場所になった。
階段の元に来ると、わたしは息を飲む。
誰であろうと、許さない。
例え、それが圭ちゃんであっても許さない。
後藤を傷付けたら、わたしは絶対にそいつ許さない。
わたしはそう思いながら階段を上った。
月の光は完全に校舎を飲み込んでいた。
- 158 名前:名無し 投稿日:2001年10月20日(土)23時21分10秒
- うぉ〜〜〜〜!!!
素晴らしい展開だ。
ちゃむは不死鳥のように舞い上がるのか…
- 159 名前:ななしの一読 投稿日:2001年10月21日(日)01時49分01秒
- よっしゃ〜、わきを固めてえぐるように
うつべしうつべし〜、がんばれ、ちゃむ
- 160 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月21日(日)02時26分20秒
- ちゃむかっけー!!
- 161 名前:ななし読者 投稿日:2001年10月21日(日)20時44分43秒
- 市井ちゃんカッコイーー!!
がんばれーー
- 162 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月22日(月)03時28分44秒
- 市井ちゃん完全復活ですね。
後は後藤を救うだけだ!!
- 163 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月22日(月)09時43分38秒
- この絞るような気迫はちゃむしか演出出来まいて!
- 164 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時24分38秒
階段を上って、わたしは次々と教室を見回っていく。圭ちゃんがこの三
階にいる事はわかっている。だから、一つ一つの引き戸を開ける手には力
が篭った。
ドン、ドン、と静まり返った廊下にその音が鳴り響く。わたしは足を引
き摺りながら、教室内に入っては声を上げた。
「圭ちゃん!」
もちろん一度見ただけで誰もいない事はわかっていた。それでもわたし
は机の間を歩きながら声を出し続ける。
「居るんでしょう! 圭ちゃん!」
その声は確実に校舎全体に響いていただろう。こんなにも静まり返った
中、叫んでいるのはわたしぐらいだ。
わたしが居る校舎を全て調べまわる。残ったのは向かい側の校舎だけ。
渡り廊下を歩きながら、体に残る痛みがどんどんと大きくなっていくのを
感じた。
- 165 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時25分28秒
- 意識が遠のく。
頬を暖かいものが伝ってきて、袖で拭うと真っ赤な血がついていた。コ
メカミあたりを触ると、ヌルとした嫌な感覚が指に伝わってくる。
目の前がぼやけて、今にも体が倒れるのを片方の足で堪える。こんなに
も学校の廊下が長いと感じた事は無かった。
外は完全晴れていた。
空にはまだ黒い雲があったが、丸い月を隠す事は無い。黄金の光が廊下
に敷き詰められて、まるでわたしを導いているような気がした。
渡り廊下を過ぎると、一番端の教室から手当たり次第に探した。
息が切れて、頬を通る血も拭う余裕さえなくなった。
それでもわたしは声を上げ続ける。
「圭ちゃん聞いてるの!」
乱暴に引き戸を開けて廊下に出ると、わたしは声を上げた。
「後藤はどこにいるのよ!」
- 166 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時26分24秒
- しかしもちろんだが圭ちゃんから返事は返ってこない。虚しく廊下には
その声が響き渡るだけだった。
遠くなる意識をわたしは何度も頭を振って降り切る。
耳鳴りがして、頭には締め付けられるような痛みが走った。
片足だけで無理に歩き続けていたせいだろうか、右足が震えてしょうが
ない。それでも歩けない事が悔しくて、太ももを拳で何度も叩く。痛みは
鈍くて重く脳に伝わる。それでもまだ足が死んでいない証拠なのだと、わ
たしは安心した。
残す所、教室が後二つだけになった。
一番奥から二番目の教室のドアに手を掛けたとき、わたしは思わず唾を
飲み込んだ。
その中に、人が居る気配がしたから。
瞬間的に緊張を感じる。
- 167 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時27分15秒
- わたしは覚悟を決めて、その教室の引き戸を開けた。
バン、と音が鳴ると、窓際で机に寄りかかるように座っている人物が見
えた。それは間違いなく圭ちゃんだと、後ろ姿だけで確信する。彼女は窓
から入ってくる光を浴びながら、黙ってわたしに背を向けていた。
「圭ちゃん……」
わたしは口から漏れるように呟く。
その言葉に圭ちゃんはゆっくりと振り返った。
「紗耶香……遅かったね」
その口調は滑らかで、まるで子供をあやす母親のように優しかった。
わたしは足を引き摺りながら彼女の元に近づく。
圭ちゃんはその姿を見ながら呟いた。
「……ボロボロだね……紗耶香……」
机の間を通り抜けて、わたしは圭ちゃんのすぐ前まで来るとその襟首を
掴んだ。
- 168 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時27分51秒
- 「どうして……圭ちゃん……」
わたしは息を切らしながら言う。
圭ちゃんは黙ったままわたしを見ていた。
「こんな事……圭ちゃん……どうして……」
「苦しいよ、紗耶香」
圭ちゃんはわたしの手を包むように掌を重ねた。
冷え切った手の甲に馴染みのあるぬくもりを感じた。それはわたしの心
を安心させて、喉の奥から涙が込み上げる。
わたしは頭を何度も横に振る。
そのぬくもりが変わっていない事が、とても悔しく思えた。
- 169 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時28分27秒
- 「後藤……後藤はどこにいるの……?」
「…………」
顔を上げて圭ちゃんを見ると、その表情は柔らかい。わたしを見る視線
も、いつもと変わらない。それが逆に神経を逆立てた。
「圭ちゃん! どうしてこんなことしたのよ!」
襟首を掴んでいる手に力を込めて叫んだ。圭ちゃんは少しだけ息苦しさ
を感じたようで、一瞬だけ表情を強張らせたが、ゆっくりとわたしのコメ
カミあたりを指先でなぞる。
「血が出てるよ……」
優しい言葉。
柔らかい声。
わたしはそれが悔しくてまた声を上げる。
- 170 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時29分15秒
- 「そんなのどうだっていいよ!」
教室に響くわたしの声は、開け放たれた引き戸から逃げていって、それ
が廊下を走り抜けた。
圭ちゃんはまたゆっくりと呟く。
「あたしが好きな紗耶香の顔に傷がつくのは嫌だよ」
口元には笑みが浮かんでいる。それが月の光に照らされて、甘い感覚が
わたしの胸の奥を締め付けた。
「圭ちゃん答えてよ! どうしてこんな事したのよ!」
圭ちゃんは黙ってわたしを見下ろしていた。わたしの息遣いはどんどん
と荒くなってきて、掴んでいる手の力が弱くなっている。体をいつの間に
か圭ちゃんに寄りかかるようにするわたしを、彼女は黙って支えてくれた。
全部悔しくなった。
圭ちゃんが変わらず優しい事にも、それにどこか安心しているわたしに
も、後藤を守らなくちゃいけないとわかっているはずなのに、これまで確
実に一緒に過ごしてきた時間に、心も体も反応する。
だから、尚更悔しかった。
- 171 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時30分11秒
- 「……ねぇ……圭ちゃん」
胸の奥に苦しさを感じる。それはきっと手の中からこぼれ落ちる水のよ
うに、通り過ぎていってしまった時間への後悔だったのだと思う。何も出
来なかったと言うその思いは、鉛となって胸の奥に圧し掛かる。
「わたし……壊れていたんだ……」
「…………」
「わたしは……あの部屋で確実に壊れちゃったわたしは、みんなの前に現
れるべきじゃないって思ってた……ただ流れる時間に身を委ねているだ
けだったから……その間にも圭ちゃんやメンバーは頑張っているの、わた
し見ていたから……だから現れるべきじゃなかった」
「…………」
「全部ぐちゃぐちゃだよ。わたしが現れたせいで、全部ぐちゃぐちゃにな
った。わたしはただみんなを引っ掻き回していただけ……」
「……紗耶香」
- 172 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時31分02秒
- 顔を下げる。目からはいつの間にか涙が溢れていて、それを圭ちゃんに
見せるのが恥ずかしくなった。でも圭ちゃんはそれに気がついているよう
で、その手をゆっくりとわたしの肩に置いた。
「わたしは後藤を守らなきゃ……」
「…………」
「あいつを守ってやらなきゃ……」
「…………」
「じゃなきゃ、なんでわたしが戻ってきたのか……意味が無くなっちゃう
んだよ……」
「…………」
後藤の顔が浮かんだ。
色んな表情の後藤。
わたしはまだ過去に囚われているのだろうか?
わたしの記憶にある後藤の表情は、全部あの頃のもの。戻ってきてから
は、それを彼女は見せてくれなかった。
囚われていようと何でもいい。
もう一度、それが見られるなら、わたしがどうなってもいい。
- 173 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時33分16秒
- 「紗耶香……」
圭ちゃんが呟く。
わたしは顔を上げると言った。
「圭ちゃん言ったよね。後藤の事を嫌いになれるはずが無いって……それ
は嘘なの?」
圭ちゃんはわたしから視線を外さない。肩に置かれていた手がゆっくり
とわたしの頬に通る涙を拭う。少しだけ湿ったその指が、月の光でキラキ
ラと光った。
「嘘じゃないよ……」
圭ちゃんは呟いて、またわたしの頬の涙を触る。
「あたしは後藤の事を考えていたよ」
「嘘だ」
「ホントだよ」
「そんなの嘘だよ!」
わたしはそう声を張り上げると、圭ちゃんの手を乱暴に振り払った。
「じゃあ何でこんなことしたのよ! 後藤の事を思っていてくれるなら、
どうしてこんな事したのよ!」
- 174 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時34分19秒
- わたしの言葉に圭ちゃんは表情を変えない。
振り払った手を空中で泳がせてから、またわたしの肩に置いた。
「後藤の事を思ってだよ」
「なんだよ、それ」
わたしは圭ちゃんの考えている事がわからずにそう言った。
後藤の事を思って、どうしてこんな事をするのだろうか?
圭ちゃんは言った。
「後藤の事大好きだから、潰してあげなくちゃダメなの」
「……なに言ってるの?」
なぜかその瞬間に不気味な感覚がわたしを襲った。
さっきまでの柔らかい雰囲気がいつの間にか無気味になっている。それ
はこれまで何度も感じてきたメンバーたちのそれと同じだった。
- 175 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時35分01秒
- 唾を飲み込む。
「後藤はもうダメなんだよ。紗耶香にもわかるでしょう?」
「ダメって……」
「このままあの子にこの世界に留まらせるのは酷だよ」
「…………」
「あの子はまだ若いから、いくらでもやり直せるし、このまま辛い思いだ
けを背負わせるより、潰して普通の生活に戻した方がいいのよ……紗耶香、
その方が後藤のためだと思わない?」
「…………」
「後藤が頑張り続けるの見ているのが辛いのよ。まだ十五歳のあの子には
色んな期待が乗りかかってる。それに応えようと、またあの子は頑張り続
ける。みんなから無視されて、笑わなくなっても、あの子は頑張り続ける
んだよ。それなら、この世界から抜けて普通に暮らした方が幸せに決まっ
てるよ」
月の光に照らされて、青白くなる圭ちゃんの姿が無気味に演出されてい
る。その光は色んな形に変化して、様々に人の印象を変えるようだ。
- 176 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時35分43秒
- 「あの子に普通の女の子みたいな生活させてあげたいじゃない。街で笑い
合っている、普通の女の子のような表情をさせてあげたいじゃない……だ
から、あたしは後藤の事を思って、潰してあげようとしてるの」
わたしはまた首を振る。
その度に体の痛みが全身を走り抜けた。
「なんだよ……それ……」
わたしは呟く。
「紗耶香……」
圭ちゃんはまた手を伸ばしてきた。
わたしはそれを振り払う。
「なんだよ……潰すって……何なんだよ……」
「紗耶香、あたしは後藤のことを考えて――」
「そんなの間違ってるよ!」
わたしの言葉に圭ちゃんは口を閉じた。
- 177 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時36分53秒
- また悔しさが沸き起こってくる。
それはさっきの悔しさとは種類が違っていた。今はただ、圭ちゃんが本
気でそれが後藤のためになると考えている事が悔しかった。
「そんなの、後藤が頼んだのかよ! 後藤が圭ちゃんにそうしてくれって
頼んだのかよ!」
わたしの言葉に圭ちゃんの顔色が曇る。それはどうやら自分の考えを否
定された事への苛立ちのようだった。
圭ちゃんは声を荒上げる。
「頼んで無くてもわかるのよ! あたしは紗耶香が居なくなってもあの
子の傍にずっといたのよ!」
「だからそれが間違ってるんだよ!」
わたしは声を張り上げると、もう一度圭ちゃんの元に歩み寄り襟首を掴
んだ。
- 178 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時37分31秒
- 「どこがわかってるんだよ! 後藤のなにをわかってるんだよ!」
その勢いに圭ちゃんは二歩三歩後退りをした。
「わたしより長く傍にいて! 後藤のことを考えて出たのがそんな結論
かよ!」
「そんなってどう言う意味よ!」
圭ちゃんも負けずに声を上げる。
「あたしは真剣にあの子のことを考えてるのよ!」
「だったら後藤を傷つけるなんて事しないでしょう!」
傷つけると言う言葉に、圭ちゃんは口をつぐんだ。多分、彼女にとって
も、刃物で傷をつけたと言う事には後悔しているのかもしれない。
わたしの息はまた乱れる。声を上げるたびに全身が悲鳴を上げるのがわ
かった。
- 179 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時38分17秒
- 「圭ちゃんの優しさは捻じ曲がってる」
「…………」
「その捻じ曲がった優しさが、どれだけ後藤を苦しめていたのかわかって
いるの? 圭ちゃん」
「…………」
「自殺までしようとしたんだよ……圭ちゃんの優しさも、後藤が死んじゃ
ったら意味が無くなるじゃんかよ……」
わたしの言葉に、圭ちゃんは初めて視線を逸らした。
多分、圭ちゃんもどこかで間違っている事に気が付いていたのかもしれ
ない。それが自覚していなくても、心のどこかに引っかかっていたのかも
しれない。だから、こうして後藤の呼び出しに応えたのだと思う。
- 180 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時39分49秒
- 「後藤を傷つけて、精神的に追い詰めて……それが後藤のためになるはず
が無いじゃん。やめさせて普通の生活をさせたいって……じゃあ何で後藤
は辛い中頑張り続けていたんだよ……そんな思い込み、圭ちゃんの独りよ
がりじゃんか……」
「でも紗耶――」
「圭ちゃん」
わたしは圭ちゃんの言葉を遮るようにいった。すぐに彼女は言葉を切っ
てその視線を向ける。
わずかな沈黙が開いて、静まり返る空間の中、わたしは言った。
「……後藤は何も変わっていないんだよ」
「…………」
ここに来る前の後藤の部屋を思い出した。
わたしと買った鞄。わたしがあげたお守り。
- 181 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時40分21秒
- 「あの頃と、何も変わってない……」
「…………」
「見かけだけだよ、変わったの。わたしたちが過ごして来た中の、あの頃
の後藤はいつも傍にいたんだよ。……楽しそうに笑って、三人でふざけ合
ったりして……真剣な話をしている時も怒られている時も……わたした
ちの中に居た後藤は、すぐ横に居たんだよ」
「…………」
「わたしは……わたしたちは、あいつの悲鳴を聞き逃していたんだよ……
助けてっていう悲鳴……聞き逃していたんだ……後藤は何も変わってな
い……」
「…………」
「変わったのは、わたしたちの方だよ」
- 182 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時40分57秒
- わたしは全身の力を圭ちゃんに掛ける。彼女は一歩だけ後ろに下がった
がすぐにそれを支えてくれた。
襟首を掴んでいる手を離さずに、わたしは圭ちゃんの胸に顔をうずめる。
流した涙がとまる事は無く、彼女の服を湿らせた。
MDを聞きながら楽屋の隅にいる後藤に、わたしはどうして一度も話し
掛けなかったんだろう? この学校に呼び出された時、どうして後藤の話
を聞いて上げられなかったんだろう? ダンスレッスンの時も病院の時
も、わたしはもっと違う事を言って上げられたのではないだろうか? 後
藤のことを気が付いてあげられたら、わたしはもっと違う事が言えたはず
だ。
後悔が押し寄せる。
後藤を守らなければいけないのに……。
あの子を守らなければいけないのに……。
- 183 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時41分52秒
- 悔しくて悲しくて、わたしは肩を振るわせる。
圭ちゃんはただそこに立っているだけでなにも言わなかった。
足の力が無くなって、わたしはゆっくりとひざまずく。襟首から離した
手はそれでも圭ちゃんの服を掴んで、わたしは顔を下げる。
「紗耶香……」
わたしを見下ろしながら、圭ちゃんは呟いた。
溢れてくる涙が何粒か床に落ちた。それは月に照らされて光った。
わたしは呟いた。
「お願い……圭ちゃん」
「…………」
「後藤を……あの子を……一人にしないでやって……」
「……紗耶香」
「わたしだけじゃダメなんだ……」
「…………」
「だから……一人にしないでやって……」
- 184 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時42分37秒
- わたしは弱い人間だ。
元々、そうだったのだと思う。
でも、あの頃のわたしは、自信と言う鎧を纏う事が出来ていた。仲間と
言う存在に守られていた。
でも、その二つが無くなれば、わたしはこんなにも弱い人間だ。
たった一人の女の子も守る事も出来ない。
でも、それでいいのだと思う。
わたし一人に守られるより、みんなに守られた方が彼女のためになるし、
それは時に大きな武器となる。わたしはそれの手助けさえできればいいの
だと思った。
圭ちゃんがゆっくりとわたしと目線を合わせるように、しゃがみ込んだ。
その手は濡れているわたしの前髪に伸びていて、横に分けるように動かし
た。
- 185 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時43分18秒
- 「ボロボロだね……あたしたち……」
「圭ちゃん……」
「紗耶香も後藤もあたしも……メンバーも……みんなボロボロだよ」
「…………」
「あたしは……メンバーの中で、一人だけ正気だと思っていた……」
圭ちゃんはわたしを覗き込むように顔を下げた。
泣き顔でぐちゃぐちゃのわたしの顔を見て、圭ちゃんは苦笑いをする。
「あたしも……おかしくなっていたんだね……もしかしたら、一番おかし
くなっていたんだね」
「……圭ちゃん」
そう言ってわたしを見る圭ちゃんの苦笑いをする顔には、どこか寂しそ
うな影があった。
圭ちゃんにとって、自分がしていた事は後藤のためになると本気で思っ
ていたのだ。それが実はただ追い詰めているだけだと言う事を知ってどれ
だけのショックが圭ちゃんを襲っているのかわたしにはわからない。
- 186 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時44分03秒
- 後悔した頃には、もう後戻りが出来ない。
わたしたちは、そんな繰り返しを一体いつまで続けなければならないの
だろう?
もう少し、器用に生きられたら、どんなに良い事だろう。
わたしは袖で涙を拭うと、苦笑いをしている圭ちゃんを見る。彼女は視
線を逸らすことなく、言った。
「……後藤は無事だよ」
「…………」
「……あたしが来た時には、あの子寝ちゃってた」
「…………」
「呼び出してくせに、寝てるなんて失礼な奴だと思わない?」
クス、とわたしは笑う。
「失礼なのは昔からだよ」
「……ホントだね」
- 187 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時44分56秒
- わかったような気がする。
後藤がストーカーに対して恐がる様子が無かった事。それは圭ちゃんの
気持ちを理解していたからかもしれない。捻じ曲がった感情でも、そこに
優しさがあることをあの子は知っていたのかもしれない。
だから、圭ちゃんを呼び出しても、安心して眠る事ができるのだ。
それは相手が圭ちゃんだから。
それとも、ただ眠かっただけかな?
わたしはそう思うと、またクス、と笑った。その顔を見て、圭ちゃん一
緒になって笑った。
こんな場所で、こんなにボロボロになっているのに、わたしたちは久し
ぶりに笑えたような気がした。何がおかしかったわけでもないのに、お互
いの笑っている顔が嬉しかっただけで、こんなにも人を思いやれるのだと
始めて知った。
しばらくわたしたちは笑い続ける。
床のひんやりとした感触が、心地よかった。
わたしは圭ちゃんの肩に捕まりながら立ち上がる。力強くて、心から信
頼できる肩だった。
- 188 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時45分39秒
- 「……後藤に……謝らなきゃいけないよ」
わたしは圭ちゃんに向かって言う。
「そうね……」
一瞬だけ曇る圭ちゃんの表情を読み取ってわたしは言った。
「大丈夫……後藤なら大丈夫だよ」
「……知ってる」
「後藤は隣?」
わたしが言うと、圭ちゃんは黙ったまま頷いた。
この隣は一番奥の教室だ。皮肉にも、最後の教室に後藤がいたことが運
命のような気がした。
大丈夫。わたしたちは、まだ大丈夫だ。
圭ちゃんの肩に腕を回しながら、わたしは思った。
まだわたしたちは迷い込んでいない。闇の中の世界で、わたしたちはこ
うして仲間を見つける事が出来た。一人だと言う孤独の中の不安に押し潰
されないだけ、わたしたちにはまだ道がある。
- 189 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時46分28秒
- 圭ちゃんに寄りかかりながら、わたしたちはゆっくりと教室を出ようと
した。
多分、その瞬間だけ月の光が強くなったのは気のせいだったのかもしれ
ない。わたしの疲労が見せた幻覚だったのかも知れない。
甲高い悲鳴が校舎を駆け巡った。
それと同時にわたしは強い光を感じて、目を細める。月の光は廊下側か
ら届いているわけではなかったのに、なぜか眩しさを感じた。
「吉澤……」
圭ちゃんが耳元に呟いた。
それはわたしに教えるような言い方ではなく、自分を納得させるような
感じだった。
「紗耶香」
わたしは頷いて、圭ちゃんの肩に捕まりながら教室を出た。
廊下に出て、すぐに吉澤の姿を確認する事が出来た。悲鳴から、近くに
いることはある程度予想できていた。すぐ横の教室、後藤がいると言って
いた教室のドアの前で彼女は口元を手で押えながら立ち尽くしていた。
「吉澤」
圭ちゃんが声を掛けても、吉澤は何の反応も返さなかった。徐々に近く
なる吉澤の姿。彼女はまるで結界でも張られているかのように、教室の中
に入る事は無く、入り口の前で足を揃えて立っているだけ。
- 190 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時47分13秒
- 吉澤は何を見ているのだろう?
わたしの胸の奥にまた不安が芽生え始める。
吉澤の元に来ると、わたしは回していた圭ちゃんの肩から腕を離す。焦
りだけを感じて、足に力が入らなくなっている事を忘れていたため、転び
そうになるのを堪えた。
入り口の前に立ち尽くしている吉澤を押しのけて、わたしは教室の中に
視線を向けた。
その中はわたしたちが居た教室と変わりない作りをしていた。
三十個ほどの机が綺麗に並んで、黒板の前の教卓。壁には生徒たちが書
いた絵が張られていた。
後藤は、教室の中央辺りにいた。
月の光に彼女の髪が金色に輝いて、青白くなっている肌や顔。机に囲ま
れながら、その顔は少し眠そうに目を細めていた。
「後藤……」
わたしはそう呟いて、一歩教室に足を踏み入れる。
- 191 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時48分09秒
- あんなに心配していた後藤がやっと目の前にいる。一日中捜し続けてい
た存在が、ようやく目の前にいる。
わたしの頬に風が通り抜けた。揺れるカーテン。張られている絵がささ
やかな音を上げて揺れる。
窓……開いているんだ……。
なぜかこんな時にわたしはそんな事を考えた。
視線を向けると、その風に後藤の髪がなびいていた。
「後藤……」
わたしはもう一度呟く。
その時、すぐ後ろにいた圭ちゃんが息を飲んだのに気が付いた。
どうしたんだろう、とわたしは振り向こうとした瞬間に、ソレは目に入
ってきた。
- 192 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時48分49秒
- 後藤の両手は、左手を下に胸元を押えるように置かれていた。まるで祈
りをささげる時のようだ。
でもその右手には何かが握られている。そんなに長いわけではないが、
棒状の物である事はわかった。その先端部分が、月の光を反射させる。そ
の光は天井に張り付いて、蛍光灯の間を震えるように移動していた。
……カッター。
わたしの頭に、カッターと言う単語が浮かぶ。でもそれがどうして後藤
が持っているのかと言う事には繋がらなかった。
次に視線は後藤の服に移動した。
手を当てている胸元から、流れるような黒い模様。まるでシミのように
思えて、不思議なガラだなと思う。
トクトクトク、とわたしの心臓が高鳴った。
後藤の手から、液体が落ちていく。どうやら服の柄だと思っていたのは、
そのシミだということに気が付いた時、わたしは圭ちゃんのように息を飲
んだ。
悲鳴を上げる余裕は無かった。
心臓が押し潰されるぐらいの衝撃が襲ってくる。
- 193 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時49分28秒
- わたしは体を硬直させて、唖然と後藤を見ている事しか出来なかった。
「市井ちゃん……」
光に包まれながら、後藤は呟いた。
わたしは唾を飲み込む。
「どうしよう……」
彼女はそう言って、自分の左手首に視線を向けた。
そこには依然として床に滴り落ちる黒い液体。
「止まらないの……」
カッターが後藤の右手から床に落ちた。
カチン、と言う音が教室の中に響く。
彼女はまたわたしに視線を向けると言った。
「血が……止まらないの……」
- 194 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時50分07秒
- わたしと後藤の視線が結びつく。
決してそれる事は無い。
わたしはまた一歩足を動かした。後藤はやっと困ったように自分の左手
首を見て、何度も傷口を右手の親指で塞ごうとしていた。
でもそれでも溢れる血。
どうして止まらないのだろう、と後藤は子供が疑問に思ったような表情
で手首を眺めていた。
それはまるで自分の物とは思っていないようだ。
「ゴトッ……」
わたしは喉から振り絞るように声を出す。その声に彼女はゆっくりと視
線を向けて、ぎこちなく笑みを作った。
「……市井ちゃん……どうしよう……」
そう言った時、ふらりと後藤の体が崩れ落ちるように床に倒れる。
後ろから吉澤の悲鳴が聞こえて、わたしは我に返る。
- 195 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時50分45秒
- 机に腕を突きたてながら、後藤の元に歩み寄る。途中でバランスを崩し
て、椅子を巻き添えにして床に転んだ。
机の脚の部分を通して後藤の姿を確認する。彼女は自分の血で体を汚し
ていた。
「後藤……」
わたしはそう呟きながら立ち上がろうとするが、平気だったはずの右足
さえもすでに感覚が無くなっていた。
「後藤」
机に捕まりながら立ち上がる。今にも転びそうになるのを耐えながら、
わたしは並んでいる机にぶつかるように移動した。
「後藤!」
- 196 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時51分39秒
- 何個かの椅子が倒れる。辺りにはわたしの声がその音を掻き消した。
こんなにも近くにいるはずなのに、どうしてわたしの足は満足に動いて
くれないのだろう? 今すぐに後藤の元に駆け寄りたいのに、並んでいる
机が邪魔に思えて、それでもそれに助けられている事が悔しかった。
後藤の元に来ると、彼女は目を閉じて床に倒れていた。流れる血で辺り
は結界のように真っ黒な液体が覆っている。
わたしはその液体に膝を付くと、彼女を抱き起こす。依然として流れる
左手首の血がわたしの服を汚した。
「ごとうぉ!」
声を上げる。
後藤はゆっくりとわたしの腕の中で目を開いた。
「何でこんなこと……」
わたしを見上げる後藤の表情は、怪訝な感じて不思議そうな視線を向け
ていた。
「……市井ちゃん」
後藤の右手がゆっくりとわたしの顔に伸びてくる。それは頬について、
ゆっくりと人差し指でなぞるように口元に移動する。
「市井ちゃん……泣いてるの……?」
- 197 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時52分19秒
- わたしはその言葉に首を横に振った。そんなことで涙が消えるとは思え
なかったが、後藤の前で泣いているのが恥ずかしかった。
「紗耶香……」
後ろで圭ちゃんの声がする。
わたしは溜まらず声を張り上げた。
「救急車! 早く救急車呼んでよ!」
あ、うん、と我に返る圭ちゃんが携帯を取り出して電話している声が聞
こえた。後ろを振り向くと、二人は教室の中に入る事は無く、入り口で立
っているだけだった。
「市井ちゃん……」
後藤の声にわたしは視線を戻す。
青白い顔で見上げるその瞳。血が溢れている左手は拳が作られていて、
そこから垂れるようにはみ出ている白い紐。ゆっくりとそこに手を伸ばし
て、指を一本ずつ剥がして行くと、血で真っ黒になったお守りが握られて
いる事に気が付いて、わたしはまた涙を押える事が出来なかった。
胸の奥がもどかしくなってくる。わたしは後藤を強く抱きしめた。
- 198 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時52分54秒
- 「バッカじゃないの……手首切ったら血が簡単に止まらないって、子供だ
ってわかる事でしょう?」
後藤はわたしの胸に顔をうずめているため、その表情がわからなかった。
それでもわたしは子供を叱り付けるように言葉を続ける。
「あんたは迷惑掛けてばっかり。少しはわたしの苦労も考えなさいよ……
勝手な行動して、どれだけの人に迷惑かけてるのかわかってるの?」
「…………」
「わたしは挨拶の事だけを教えてきたわけじゃない……色んな事を教え
てきた。それが一つも守られて無いじゃん……バカ」
わたしがそう言うと、後藤はゆっくりと顔を離した。その表情は相変わ
らず怪訝な感じで、虚ろな瞳でわたしに視線を向ける。
涙が止まらなくて、必死に袖で顔をこする。そんなわたしを見ていた後
藤は、ゆっくりと左手に握られていたお守りを右手に移して、わたしの首
に回した。
- 199 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時54分33秒
- 「……汚れちゃったから効果半減かもしれないけど」
後藤は弱々しく呟く。
わたしの首にかかる真っ黒なお守り。彼女は人差し指で満足そうにそれ
を弾くと小さくまた呟いた。
「あたしが大好きなひとから貰ったお守り……泣き虫のお守りなんだっ
て……」
「後藤……」
「よく効くんだよ……これのおかげであたしは泣き虫じゃなくなったん
だ……」
「…………」
わたしはそのお守りを掴むと、こみ上げてくる涙を必死に押えようとす
るが、それは意味が無く、セキを切ったように頬を伝っていく。
後藤は困ったように苦笑いをした。
「やっぱ……汚れちゃったから……効果無くなっちゃったかな……?」
わたしはまた強く後藤を抱きしめた。
- 200 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時55分18秒
- 冷え切った体。それでも彼女が胸の中で息をすると、それは丁度心臓辺
りに心地良い暖かさを感じて、重くわたしを押し潰そうとしていた鉛が
徐々に溶け出してきているような感覚がした。
包み込むように抱く後藤の体。彼女は安心したように、息を徐々に整え、
それは段々と回数を減らしていった。
どうしてわたしは早く、こうして後藤を抱いてあげなかったんだろう
か? と後悔した。心細さを感じた彼女をわたしが持っているぬくもりで
刹那的にでも逃れられたのなら、もっと早くこうしてあげるべきだった。
ごめん。
ごめんね、後藤。
わたしは冷え切った彼女の体を抱きながらそう思い続ける。
カーテンがパタパタと揺れた。
冷たい風がわたしたちの横を通り過ぎる。
空には丸い月が雲に隠れることなく、その存在を示していた。
- 201 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時56分14秒
- 気が付くと、腕の中で後藤の肩が微かに揺れているのに気が付いて、わ
たしが視線を落としたのと同時に、彼女は顔を少しだけ離して目線だけを
向けてきた。
「後藤……」
わたしが呟くと、彼女はその顔に微笑を浮かべた。
「市井ちゃん……ドキドキしてるよ……」
「……何言ってるんだよ」
あは、と笑う後藤。
その続きの言葉を言おうとする、その表情は、まるで子供がこれから悪
戯をする時のように、高揚感を抑えきれないそんな笑みを浮かべる。
後藤は笑みを浮かべながら言った。
「……ごとーに……惚れたな……」
わたしの涙が一粒、後藤の頬に落ちた。
それは月の光に照らされて、きらきらと光る。
きらきらと――。
- 202 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月25日(木)06時56分58秒
- 「バカ……こんな時に……何言ってんだよ……」
また強く後藤をわたしは抱きしめた。
苦しいと抗議したって離さない。こんな奴の頼みなんて聞かない。
人に迷惑かけて、人の事心配させて、それでも頑固に謝りもしない。わ
たしより負けず嫌いで……。
そんな奴の頼みなんて聞いてやるもんか。
わたしと後藤の体は血で真っ赤になっていた。
足も手も体も顔も全部真っ赤。
月の光で黒くなっているはずなのに、なぜかわたしには赤く見えた。
わたしはずっと後藤を抱き続けていた。
遠くでサイレンが聞こえ始めて、後藤が一言も喋らなくなっても、わた
しは全身に残っている力全てを使って抱き続けていた。
気が付くと時間は十二時を過ぎている。
一日が終わった。
わたしたちの……長い長い一日が終わった。
- 203 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月26日(金)02時00分18秒
- のおおおぉぉぉぉぉ………!!!!!!!
後藤ぅ………
どうなったの……
- 204 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月26日(金)04時45分13秒
- 同じく、のおおおぉぉぉぉぉ………!!!!!!!
- 205 名前:名無しさん 投稿日:2001年10月26日(金)20時40分15秒
- やばい、マジで感動した・・・
映画化してほしい・・・
- 206 名前:名無し読者 投稿日:2001年10月26日(金)22時38分37秒
- これ、最高。
- 207 名前:名無しさん推奨 投稿日:2001年11月05日(月)16時38分28秒
- 更新ファイッ!
- 208 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時06分59秒
夢を見た。
黒くて、真っ暗で、それでもどこか暖かくて……。
音は波のように、静かに、何度も同じリズムを刻んでいた。
匂いはわからなかった。多分、忘れてしまっている。丸い球体が水の上
をぷかぷかと浮かぶように、その夢も、不安定だった。
- 209 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時07分56秒
- ◇
目を開けると、白い光がわたしを包んだ。
あまりの眩しさに、目を細めて右手でその光の中に手をかざす。少しだ
け出来た影に、やっとで周りが見えるようになった。
カーテンが揺れている。半分だけ開かれた窓から心地よい風が吹いて、
わたしを通り過ぎていく。少しだけ体が熱くなっていて、背中に湿った感
じを覚えた。多分、汗が出ていたのだろうと思いながら、その風はひんや
りとそれを冷ましてくれた。
「紗耶香……」
眠りから覚めたばっかりだったからだろうか、その声はさっきの夢の様
に現実感が無かった。
わたしはゆっくりと視線を向ける。
そこには心配している顔をした矢口の姿があった。
彼女はわたしのすぐ横に来て、言葉に詰まりながら見下ろしている。
「矢口……ここ……どこ?」
喉から搾り出した声はカラカラに乾いていて、自分のものではないよう
な気がしたが、矢口が安心した顔をしたため、どうやらわたしの言葉だっ
たのだと確信した。
- 210 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時08分48秒
- 「病院……目が覚めたみたいだね」
矢口とは反対側のほうから声が聞こえた。
その馴染みのある声に、姿を見なくても誰なのかわかった。
彼女は片手に花束を持ちながら、矢口の隣に来る。
「……圭ちゃん」
「調子はどう?」
圭ちゃんの言葉に、わたしはやっと自分がベッドに寝かせられている事
に気が付いた。
「わかんない。頭がボーっとしてる」
「それは元々でしょう?」
圭ちゃんは楽しそうに微笑むと、半分だけ空けられていた窓を全開にし
た。
矢口がわたしのお腹辺りに顔をうずめて言った。
「丸一日寝てたんだよ。あたしがどんなに心配したかわかってるの?」
体がただでさえ重いというのに、矢口の体は小さいとは言え、腹部から
背中にかけて息苦しさを感じさせる。
わたしはゆっくりと彼女の頭を撫でた。
- 211 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時09分57秒
- 「夢……見てたんだ……」
矢口が顔を上げて視線を向ける。窓際に立っていた圭ちゃんも、首だけ
をわたしの方に向けた。
「……夢?」
「悪い夢じゃなかったように思う……でも……どんな夢だった覚えてな
いんだ」
「覚えてないのに、悪い夢じゃないってわかるの?」
矢口が呟いた言葉に、わたし自身も首を捻ったが、笑みを作ると頷いた。
「暖かかったから……だから、悪い夢じゃない」
しばらく二人とも黙り込んでしまった。
わたしの言葉を理解しようと思ったのかどうかはわからなかったが、こ
れだけ喋られるようになったのだと彼女たちは安心したらしく、顔を合わ
せていた。
- 212 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時10分46秒
- わたしはふと思い出す。
「後藤……圭ちゃん」
わたしが思わず起き上がろうとすると、それを慌てて圭ちゃんが両肩を
掴んで押さえ込んだ。
「大丈夫……」
「……圭ちゃん」
「後藤は大丈夫だから……」
花の香りがわたしの元に届いた。
甘くて、心を落ち着かせる香りだ。
ああ、夢で嗅いだ匂いはこれだったのかもしれない。
そう思うと、わたしは再び眠気に襲われる。
静かに息を吐くと、体がベッドの中に吸い込まれていくような気がした。
圭ちゃんがゆっくりと離れて、目を細めるわたしに言った。
「もうしばらく……眠りなさい」
目を閉じたわたしは思う。
今度は、ちゃんとどんな夢だったのか覚えておこう。
- 213 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時12分01秒
- ◇
目の前で後藤が眠っている。
窓を開けて、それでも外部から見えないようにカーテンを閉めている病
室内は、晴れ渡った外の光を半減にして、どこか薄暗かった。
わたしはカーテンを少しだけ捲ると、窓から地面を見下ろす。駐車場に
並んでいる車がとても小さくて、そこを歩く人は米粒のようだった。
病院の入り口前に、数人の怪しげな男の人たちが携帯電話片手に立って
いる姿が見える。中にはタバコを吸っている人もいる。
あれか。
わたしはぼんやりと、その米粒のように小さい不審者たちを見て思った。
学校の事件から、三日ほど経っていた。
わたしは救急車に運ばれる後藤に付き添って、必死に名前を呼んでいた
ことまでは覚えている。しかしいつの間にか意識が薄れていき、気が付い
た時には病院のベッドの上だった。
丸一日眠っていたらしい。目を覚ましたときには、体の節々が悲鳴を上
げていて、左足が空中に釣られていた。血を流したコメカミ辺りには、大
きなガーゼが張られていて、薬品の匂いが常に鼻に届いてくる。触ると血
の塊らしきものがザラザラと指に感じた。
- 214 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時12分58秒
- 松葉杖を壁によりかけるように置くと、わたしは椅子の上に腰を下ろし
た。カーテンがひらひらと揺れて、生暖かい空気が静まり返った病室に入
り込んできた。
わたしは前髪を掻きあげると、一つため息をつく。
二日ほど入院したわたしは、取りあえず松葉杖さえあれば歩けなくは無
く、その他は普通の人と同じで体力も取り戻していた。体に溜まっていた
疲労はいつの間にか消えていて、その代わりに穴を埋めるように生まれた
のは、自立心とも似たような感情だった。
後藤の枕もとの横にある棚には、花束が置かれていた。
圭ちゃんが持ってきたものだということは、すぐにわかった。どうやら
彼女はもう後藤と話をしたようで、わたしに心配が無いと言う事も伝えた
のも彼女だ。
圭ちゃんがストーカーだったと言う事実は、わたしたちだけの秘密とな
った。事務所の人間も、メンバーも誰も知らない。救急車に運ばれる前に、
わたしが三人の口を封じたのだ。その時には後藤の意識は無く、返事を取
る事は出来なかったが、多分圭ちゃんが見舞いに来た時にその事は話した
のだろう、後藤も反対はしなかったようだ。
- 215 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時13分52秒
- 後藤が運び込まれてから、圭ちゃんたちの周りは慌しかったようだ。学
校の事件のことは、事務所が必死になって隠し続けているようで、後藤が
入院している事もマスコミなどには流されていない。病院の関係者も、一
部の人しか知らされていないようだ。しかし、中には噂を嗅ぎつけた連中
もいる。それが病院の入り口付近に居る不審者たちだ。
どうやら彼らは雑誌や新聞の記者らしく、後藤が入院していると言う事
をどこかからか聞きつけたのだろう。その真相と写真を撮る為に、朝から
晩までああして張り込みをしている。
わたしは呆れたように苦笑いすると、眠っている後藤の顔に視線を向け
た。青白い顔色だが、その表情は安らかだった。
わたしは松葉杖を取ると、ゆっくりと椅子から立ち上がって彼女の元に
移動する。目元まで隠れている前髪を人差し指で触ると、さらさらと糸の
ように柔らかい感触がした。
目を閉じている後藤の顔を見ながら、わたしはいつの間にか微笑んでい
た。
寝顔なんて、いくら時間が経っても変わらないものだね。
- 216 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時14分55秒
- わたしはその寝顔を見ながら後藤が手首を切った時のことを思い出す。
多分、後藤はあの時、圭ちゃんとわたしの会話を聞いていたのだろう。
すぐ隣の教室に居たのだ、静まり返った校舎全体に響いていたわたしたち
の声が聞こえないはずが無い。
後藤はその会話を聞きながら、手首にカッターを押し当てた。その時の
彼女の心境は本人しかわからない事だろうが、多分そこには自分の事をこ
んなにも強く思ってくれていた人たちが居た事に、後悔していたのだと思
う。自分の行動は、全部その人たちを裏切っていた事に、後藤は気が付い
たのだ。
だから、カッターを手首に押し当てた。
「……アホ」
わたしはそう呟くと、軽く後藤の額を人差し指で押した。
後藤は静かに寝息を立てるだけだった。
カーテンがまたひらひらと揺れたようだ。わたしの背中めがけて、風が
通り抜けると、眠っている後藤の髪が微かに揺れた。
そっと彼女の頬に手を伸ばす。
指先に滑らかな皮膚の感触と共にひんやりとした冷たさが伝わってき
た。
- 217 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時15分52秒
- わたしはゆっくりと手を離すと思った。
もう、わたしの役目は終わったね。
松葉杖を付きながらわたしは病室を後にした。
廊下に出ると突き当たりのエレベーターが丁度開いて、そこから帽子を
深く被った少女が降りて来た。ずっと下を向いて歩いてきているため、顔
は見えなかったが、わたしはすぐにそれが誰なのか理解する。
その少女はわたしの数歩前で立ち止まる。
ゆっくりと顔を上げた。
- 218 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時16分36秒
- 「……市井さん」
「おはよう、吉澤」
もう昼過ぎですよ、と吉澤はわたしから視線を逸らして呟く。
「お見舞い? 仕事の方は?」
「空きが出来たんです。だから来ました」
「外の連中はどうだった?」
「変装してるんで、ばれませんでした」
それのどこが変装なんだよ、とわたしは言いかけてやめた。
「後藤は眠ってるよ」
わたしはすぐ横の病室のドアに視線を向けてから言った。
「顔を見たら帰ります。そんなに時間も無いんで……」
「忙しいのに、ごめんね」
「市井さんに謝られる覚えはありませんよ」
依然としてわたしと目を合わせることを避けているのは、多分まだ嫌わ
れているのだろうなと思った。彼女は時々松葉杖を一瞬だけ見ては視線を
床に落とす。どうやら罪悪感があるようだ。
「……わたしの事、どうして言わなかったんですか?」
吉澤が呟く。
- 219 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時17分29秒
- 診察を受けた時、わたしは自分から階段を落ちたと言った。医者は深く
は聞いてこなかったし、事務所の人間も同じだった。どうやら彼らは結果
以外に興味が無いらしい。
「吉澤には未来があるからね……気にすることはないよ」
「……なんか嫌な言葉ですね」
「どうして?」
「偽善者みたいです」
はは、とわたしは苦笑いをした。
「似たようなものだよ。わたしは立派な人間じゃないからね」
「…………」
しばらく沈黙が続く。
廊下には時々看護婦さんが横切って行ったり、患者さんが談笑している
声が、冷え切った空気を幻の暖かさで包んでいた。
何となく気まずさを感じる。
多分、吉澤もそれは感じていたのだと思う。
それでも彼女は言った。
「わたし……市井さんの言う事聞きませんから」
「……言う事?」
- 220 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時18分24秒
- 視線を落としながらも、その口調には何かを決意しているような力強さ
みたいなものを感じた。
「もう市井さんは関係ない人ですから……だから市井さんの言う事は聞
きません」
――何も無いならわたしを憎めばいい。今よりももっと憎めばいい。
ああ、あの事か。
気が付くと吉澤は顔を上げて、わたしと視線を合わせていた。
「素直じゃないね」
「…………」
ふっ、とわたしは思わず笑った。
吉澤のわたしを見る表情はこれまで見たことがないほど、何かを吹っ切
ったようだった。言葉では嫌悪感を表していても、その視線には前のよう
にそれを感じる事はなかった。
- 221 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時20分01秒
- この三日間、彼女は何を考えたのだろう?
あの学校の事件を目の当たりにして、それから彼女の中にどんな変化か
があったのだろう?
確実に、わたしたちは変わり始めていた。
少しだけわたしを見下ろす吉澤に視線を合わせようと胸を張った。
相変わらず、目の前の少女は表情一つ変えない。
何だかそれが憎たらしく思えた。
「後輩なのに生意気なんだよ」
「…………」
「少しは先輩を労われ」
「…………」
わたしはそう言うと、クスリと笑った。
吉澤は一瞬だけ釣られて笑みを作るが、すぐにそれを隠すように顔を下
げる。
しばらくして、吉澤は簡単に会釈して横を通り過ぎていく。後藤の病室
のドアに手をかけたとき、わたしは思わず声を掛けた。
- 222 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時21分04秒
- 「吉澤……」
「…………」
吉澤はドアノブに手をかけたまま、動きを止めた。
わたしは松葉杖を付きながら、ゆっくりと体の向きを変えた。
「吉澤には色んな魅力があるよ」
「…………」
「メンバーもわたしも……誰も持っていないものを、吉澤は持ってる」
「…………」
「どんなにわたしたちが頑張ったって手に入らない。吉澤しか手に入らな
いもの……正直、わたしはそれが羨ましいよ」
「…………」
「それは大きな武器だから……だから――」
「…………」
「胸を張りなさい」
- 223 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時21分54秒
- わたしがそう言うと、彼女は何も言わずに頭を下げた。それはさっきの
会釈程度ではなく、深々とお辞儀をするような感じだった。
吉澤はドアを開けて病室の中に姿を消す。
バタン、と言うドアの音が賑やかな筈の廊下に響いた。
わたしはため息をつくと、ゆっくりと体の向きを変えて帰ろうとする。
どうやらまだ松葉杖に慣れなくて、少しだけ手間取っていると、病室から
吉澤の声が聞こえてきた。
思わず耳を傾ける。
「ごっちん……起きたの?」
ドアの隙間から漏れてくるような声。
「……市井ちゃんは?」
後藤の声はどこか弱々しかったが、それはきっと壁一枚挟んでいたせい
なのだと思う。
「帰ったよ……起きてたの?」
はっきりとは聞こえなかったが後藤はうん、と頷いたようだ。
「寝た振り?」
「……うん」
にゃろう。
わたしは口元に笑みを浮かべた。
- 224 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時22分48秒
- しばらく向こう側から声が聞こえなくなった。小声で喋っているせいと
言うわけではなく、単純に二人とも黙り込んでいたようだ。
盗み聞きしている事に罪悪感を持ったわたしは、ゆっくりと廊下に松葉
杖を押し当てて、歩き出そうとする。
その時、微かな、今にも消えてしまいそうな後藤の声がした。
一言だけ、それでもはっきりと。
「……ごめんね」
と。
その言葉に吉澤がどう応えたのかわたしは知らない。
ただ、自分の事ではないのに、その一言はどこかわたしの気持ちを弾ま
せたようだ。
わたしはいつの間にか口元に笑みを作りながらエレベーターに向かっ
ていた。
- 225 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時24分08秒
- ◇
その電話が来たのは、圭ちゃんがお風呂に入ってわたしがソファで寛い
でいる時だった。
「……それって帰れって事ですか?」
テレビを消して、静まり返った部屋の中にはお風呂の水の音だけが聞こ
える。携帯電話の向こう側の相手は、しばらく黙ったままだが、返事をす
る事への躊躇いがあったのだと思う。
相手は和田さんだった。
「おまえは良くやってくれたよ。後藤があんなことになってしまったが、
もう心配は無くなったんだ……」
「…………」
ストーカーの件が解決した事は事務所は知っている。ただどういった事
があったのかあまり詳しく聞いてこないことを考えると、もしかしたら初
めからメンバーの中に犯人が居る可能性を考えていたのかもしれない。大
事にはせず、余計な事は知らなくていい。そう言った態度は、わたしたち
の方からすれば好都合ではあったが、どこか嫌な感覚がするのは大人の都
合を感じさせるものだったからだろう。
そして、この電話もそうだった。
- 226 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時25分16秒
- 「おまえにはおまえの生活がある。そこに戻らなければいけないだろう」
「……わかってます」
そう、大人の都合に振り回されているが、その言葉は正しかった。わた
しはいつまでもここに居座っていてはいけない。それはきっとメンバーに
も自分にも悪影響しか与えないだろう。
「帰りの交通費は事務所から出るらしい。明日にでも寄っていって貰って
くれ」
「……ええ」
その後事務的な言葉が彼の口から出てくる。わたしはただそれに頷いて
いるだけだった。
全てを言い終わると、和田さんは言った。
「すまなかったな……色々と」
わたしはその言葉に思わず鼻で笑った。
「突然現れてここに連れ戻したかと思ったら、今度は電話一本で帰れです
か……」
「…………」
「わたしが居たのは、そう言う場所なんでしょうね」
「…………」
- 227 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時26分10秒
- 電話を切って、ため息をついた。ソファから腰を浮かせて、リモコンで
テレビのスイッチを入れたとき、わたしは人の気配に気が付いて思わず振
り返った。
「圭ちゃん……」
そこには湿った髪をタオルで拭いている圭ちゃんが立っていた。
「驚かせないでよ」
「帰るの?」
わたしの言葉を無視して圭ちゃんは言う。
ゆっくりと彼女はわたしの向かい側に座ると、タオルを肩にかけた。髪
の甘い匂いが鼻に届いてくる。
「うん……色々迷惑かけてごめんね」
「電話、和田さんからでしょう?」
圭ちゃんはテーブルに置かれたわたしの携帯に視線を落としていった。
わたしは思わずそれを取ると、苦笑いをする。
「言われたから帰ろうと思ったわけじゃないよ」
「勝手だよ、和田さんは」
「違うよ。和田さんに言われなくても、わたしは帰るつもりだったよ」
「退院したばかりじゃない。後藤だってまだ……」
圭ちゃんはその言葉の先を飲み込んだ。
- 228 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時27分09秒
- 彼女の気持ちは理解することが出来た。あんな状態にしてしまったのは
自分のせいなのだと、罪悪感を抱いているのだろう。わたしは退院してか
ら、あえてその事には触れなかった。だから圭ちゃんが後藤の見舞いに行
って、何を話したかも聞いていない。
わたしは座る位置を直すと、携帯を置く。寄りかけるように置いていた
松葉杖を一本だけ取って膝の上に置いた。何かに触れていないと、落ち着
かなかった。
「丁度、いい時期だと思うんだ」
「…………」
わたしの言葉に圭ちゃんは黙って視線だけを向けていた。それにはどこ
か、わたしが言う一言一言を真剣に受け止めようとしていることがわかっ
て、考えながら言葉を口にする。
「わたしは長くここに居過ぎたよ」
「長いって……まだ十日ほどしか……」
「充分長いよ」
「…………」
- 229 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時28分07秒
- 松葉杖を指先でなぞる。木のひんやりとした冷たさが伝わってきた。
視線は依然としてそれに落としていた。別に圭ちゃんを見るのが恐かっ
たわけではない。何となく、無機質な物を見てわたしは胸の中の気持ちを
整理していた。
「本当は見学のつもりだったんだ……ストーカーとか、そんなのどうでも
良くて、ただ見学するつもりでわたしは戻ってきたの……多分、まだみん
なと……娘と繋がっていたいって思っていたのかもしれない。たったそれ
だけの理由だったんだ……だから、わたしは長くここに居座りすぎた」
「紗耶香……」
「ここに戻ってきてね、何だかイメージがあった。真っ暗で、何も無い場
所に一人一人が迷い込んでいるみたいな……お互いの声も聞こえないで、
孤独なの……わたしはそんなイメージをメンバーにも自分にも持ってい
た」
わたしの言葉に圭ちゃんは黙っていた。自分が言っている事が彼女に理
解してもらえるか不安だった。
- 230 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時28分55秒
- 「でもそれは多分、わたしが無理矢理押し込んでいたのかもしれない。自
分をそのイメージの中に閉じ込めていたんだと思う……だから、わたしは
帰ろうと思うの」
「…………」
「わたしの場所は、ココには無いんだもの」
圭ちゃんはそう、と一言だけ言うとおもむろに立ち上がって冷蔵庫の中
から飲み物を取り出していた。わたしはその後ろ姿を見ながら、唯一の心
残りを思い出していた。
わたしは後藤を守ってやれただろうか?
後藤の不安から、メンバーの気持ちから、守ってやれただろうか?
圭ちゃんがコップを二つ持ちながら戻ってくる。一つをわたしに渡すと
彼女はそれに口をつけた。
「圭ちゃん」
わたしはそんな彼女を見上げながら言った。
「アイツのこと――」
「見舞いに行ったわ」
言葉を被せるように言った圭ちゃんはコップを片手に座る事は無く、視
線はテレビに向けられていた。
- 231 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時30分06秒
- 「見舞いに行った時に、あの子と話をした」
「……圭ちゃん」
「正直、紗耶香が学校での事を秘密にしようって言った時、あたし安心し
てた。吉澤もそれに頷いてくれてたし、誰にもばれなければあたしは今ま
でと変わらない生活が送れるんだと思った」
そこまで口にした彼女は、ふっ、と鼻で笑って自嘲した。
「あの子の見舞いに行ったのも、そう言う気持ちが無かったって言う事は
否定しないよ……口からあたしのやってきた事が出ないか不安だったも
の……」
「…………」
「あたしと顔を合わせたあの子が、なんて言ったか紗耶香わかる?」
わたしは黙って首を横に振った。
圭ちゃんの表情は段々と苦痛に歪んでいって、多分後藤の事を思い出し
ているのだろう、辛そうだった。
圭ちゃんは言った。
- 232 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時30分56秒
- 「ごめんなさい、だって」
「…………」
「あたしが謝らなきゃいけないのに、逆に謝られちゃった」
また圭ちゃんは自嘲気味に笑った。
――……ごめんね。
今日の吉澤への言葉を思い出す。
圭ちゃんにも吉澤にも、後藤はどう言う気持ちで謝ったのだろうか?
圭ちゃんはゆっくりとわたしに視線を向けた。手に持っているコップの
中の液体が静かに波を作っていた。
「あたし……あの子の為に何かをしなくちゃいけないんだと思う」
「…………」
「何かして上げられる事があると思うの」
「…………」
「これまであたしがやってきた事を、償わなくちゃ」
圭ちゃんはそう言ってコップの中の液体を一気に飲み干した。
- 233 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時31分44秒
- ごめんね。
後藤はどう言う気持ちだったんだろう?
たった一言の言葉。
わたしたちは、その言葉が初めて生きて存在していた事を実感した。
その一言は、こんなにも人を変えることができる。
それぐらい、生きた言葉だ。
- 234 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時32分54秒
- ◇
この日のダンスレッスンは、数日後に始まるツアーへの最後の時間とな
っていた。
昼間からスタジオに現れたメンバーたちが、真剣な顔をして夏先生の話
を聞きながら振り付けの確認を始めている。このハードスケジュールの中
でのダンスレッスンの時間は、わたしの想像以上に貴重なものなのだろう。
みんなの表情からは余裕を感じる事は無かった。
そんな貴重な時間の中に、後藤の姿は無い。
まだ退院を許されていないし、したとしてもダンスレッスンなどさせる
わけにも行かないのだろう。体力は戻り始めているが、彼女はまだ病院の
ベッドの上だった。
後藤は復帰早々、リハーサルだけで本番を臨まなくてはならなくなった。
それは仕事始めにしては酷のような気もした。
わたしは部屋の隅に用意されているパイプ椅子に腰を下ろしながらメ
ンバーを見ていた。彼女たちの口から、後藤の名前が出ることは無く、ま
るで昔から九人だったように、そのレッスン中も違和感を持つ事も無かっ
たようだ。
- 235 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時33分40秒
- 結局、後藤の見舞いに行ったのも圭ちゃんと吉澤以外に居なかった。事
務所が目立つからといって禁止にしていると言う事も理由だっただろう
が、それでも二人はその目を盗んできてくれた。後藤が心配なら、それぐ
らいしてくれてもいいのではないだろうかと思いながらも、それを期待す
る事もわたしの中から抜け落ちていたのも確かだ。
これまでのメンバーの反応を見ていれば、今回のような事件でも何の反
応も示さないのではないだろうかと、諦めの気持ちを持っていた。
締め切られているカーテンの下のほうから、外の晴れ渡った光がフロア
に張り付いていた。あの雨の日以降、太陽はいつも天辺から消えることは
無かった。
それから一時間ほどして休憩の時間となる。汗をタオルで拭きながら、
メンバーたちは疲労の言葉を各々に言い合いながらわたしが居る方向に
歩いてきた。
わたしは一人一人におつかれ、と言葉をかける。みんなは適当に返事を
しながら、床にペタリと座り込んでいた。
- 236 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時34分31秒
- 「紗耶香」
そんな中、金色の髪を束ねている矢口が駆け寄ってきた。
「お疲れ、矢口」
わたしがそう言うと、彼女はパイプ椅子を適当に拾ってきて、それを隣
に設置して座った。照れるように笑いながら彼女はわたしを見上げる。
「どうだ? オイラのダンス」
「セクシーだったよ」
「だろー? 惚れたっしょ?」
みんなが疲れているというのに、矢口の元気はどこからくるのだろうと
わたしは感心しながらそれに適当に返事をする。しばらく彼女は一人で喋
っていてわたしは頷くばかりだった。
そんな時、突然矢口は黙り込んでわたしの顔を覗き込んだ。
「何?」
わたしがそう言うと、矢口は少しだけ寂しそうな顔をする。
「帰るんだって?」
ああ、もうみんなに伝わっているのか。
- 237 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時35分16秒
- わたしがスタジオに来る前に、事務所から交通費を貰っているのを誰か
が見ていたのかもしれないし、もしかしたらマネージャーが言ったのかも
しれない。どうやら矢口はそれを知っていて、空元気に振舞っていたよう
だ。
「いつ帰るの?」
「明日」
「あしたっ」
矢口が声を上げると、他のメンバーが何事かと視線を向けてきた。わた
しが戸惑いを隠せないのを無視して彼女は言葉を続ける。
「何でだよ。もう少し居たっていいじゃん」
「もう充分勉強させてもらったよ。矢口からはセクシーさを教わった」
「ごまかすな」
「ごまかしてないよ。本当に、色んな事をわたしは教わったよ」
「……もう少し居てよ」
「……矢口」
- 238 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時36分04秒
- ゆっくりと体の位置を変えると、彼女と向かい合うようにした。熱っぽ
い矢口の両手を握るとわたしは決心する。
後藤の事を、話さなくてはいけない。
わたしが遣り残したことに決着をつけなくてはいけない。
今の矢口を見ていると、後藤の事も話せるのではないだろうかと思った。
もしかしたら、後藤の事を頼めるのではないかと、そんな期待をした。
でも、それは間違っていたようだ。
「後藤の事なんだけど――」
そう言った時、あんなに表情豊かだった彼女の顔が一瞬にして凍りつい
た。それと同時に、わたしの胸にはチクリとした痛みが走る。
まだ、ダメなんだ……。
その表情を見て、わたしは悟った。
- 239 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時36分52秒
- 後藤は、何も変わってないよ。
多分、そういうことを言ったとしても、彼女たちは耳を傾けてくれない
のだろう。後藤と言う名前は、いつの間にかその本人を離れて、メンバー
たちの中で拒絶対象になってしまったのかもしれない。
本人たちも自覚が無い場所で、そうなってしまっていたようだ。
悲しい気持ちが胸を締め付ける。病院のベッドの上で眠っている後藤の
事を考える。今のメンバーの気持ちが弱った彼女にどれだけのダメージを
与えるのだろう?
そんな事を考えていた時だった。
「すいません」
フロアから夏先生が出て行こうとしたとき、それを呼び止める声がして
わたしは思わずその方向に首を向けた。
それは圭ちゃんだった。
一体なんなのだろうと、興味を引かれたメンバーたちもいつの間にか圭
ちゃんを見ていた。
その集まる視線の中で圭ちゃんは夏先生に言った。
- 240 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時37分46秒
- 「後藤のパート、教えてくれませんか?」
その一言で、賑やかだった筈のフロアの空気が一気に凍りつく。向けら
れている視線はいつの間にか鋭いものに変わっていた。
「あの子が戻ってきたら教えてあげなくちゃ……」
多分、圭ちゃんもその視線を感じていたのだと思う。声がどこか上ずっ
てはいたが、それでも決心したかのように胸を張っていた。
――あの子の為に何かをしなくちゃいけないんだと思う。
昨日の言葉を思い出す。
多分、ずっと圭ちゃんは考えていたのかもしれない。寝ているときも、
スタジオに来る時も、ダンスレッスンしている間にも、自分の出来ること
を考えていたのかもしれない。
ふとわたしは目の前に居る矢口の顔を見た。その目は険しく圭ちゃんに
向けられている。まるで裏切り者でも見ているかのようだった。
もちろんそれは矢口だけではない、座り込んでいるメンバー全員が同じ
ような顔をしていた。
わたしは不安になる。
- 241 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時39分07秒
- 圭ちゃんも、後藤のようになってしまったら……。
その時、わたしは圭ちゃんと目が合った。
その一瞬の間のうちに、彼女は声を出さずに口だけをゆっくりと動かし
た。
だいじょうぶ……。
そう、彼女の唇は動いたような気がした。
圭ちゃんなりのけじめだろうか? 後藤にしてきた事へのけじめだろ
うか? この先、メンバーとの関係の不安より、彼女はそのけじめを選ん
だ。
でも、圭ちゃんがこれから、後藤のような立場になってしまうような気
がして、胸の奥に不安が芽生え始める。
「わたしも――」
その時だった。メンバーたちの中から一人の少女が立ち上がった。すぐ
に彼女は圭ちゃんの元に小走りで駆け寄る。
- 242 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時40分19秒
- 「吉澤……」
圭ちゃんが呟くと、吉澤は少しだけ誇らしげに笑って言った。
「わたしも、教えてください」
騒然となるメンバーたち。
確実にその視線を感じているはずなのに、吉澤は圭ちゃんと同じように
胸を張っていった。
「一人より、二人でやった方が良いじゃないですか」
しばらく吉澤を信じられないように見ていた圭ちゃんは、すぐに嬉しそ
うに微笑むと言った。
「ばか」
- 243 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時40分56秒
- えへへ、と照れたように笑う吉澤。それに釣られて圭ちゃんも笑ってい
た。
いつの間にか二人は楽しそうに笑っていた。メンバーの視線を感じてい
るのにもかかわらず、そんなことは関係ないみたいに、声を上げて笑って
いた。
わたしはそれを見ながら、本当に二人が楽しそうだと感じた。
メンバーはいつの間にか黙り込んでいた。その視線は各々で散乱してい
たが、誰も二人を見ようとはしていなかった。
目の前にいる矢口は顔を下げていた。
わたしは握っている手に少しだけ力を加える。
- 244 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月06日(火)22時41分38秒
- 「矢口……」
「…………」
「後藤のこと、お願いね」
「…………」
「わたしたちの、仲間の後藤のことをお願いね」
「…………」
「アイツは……わたしたちの仲間だ」
「…………」
「だから……お願いね」
「…………」
結局矢口はその言葉に一言も返す事は無かった。
それでもわたしはこれでいいのだと思った。
まだまだ時間が掛かるかもしれない。でもそれでいいのだ。
もう焦る必要は無い。もう怯える必要も無い。
後藤はもう一人ではないのだから。
わたしは楽しそうに笑いあっている二人に視線を向ける。
頼もしい、仲間が後藤を守ってくれる。
今は、それだけでいい。
- 245 名前:言えることは これだけ 投稿日:2001年11月07日(水)00時22分41秒
- (・∀・)イイ!
- 246 名前:ななしの一 投稿日:2001年11月07日(水)00時28分00秒
- か、かん、かんど、かんど〜した。
- 247 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月07日(水)23時18分36秒
- 間違い無く名作になると確信
- 248 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時06分03秒
相変わらず、病院の入り口前には雑誌の記者などの姿があった。
多分、メンバーなどの写真をとろうとしているのだろうが、帽子とサン
グラスをかけて、なおかつすでにメンバーではないわたしの事は気づくこ
とはなく病院の中に無事に入る事が出来た。
賑わっているロビーを抜けて、松葉杖をつきながらエレベーターに乗る。
数人のパジャマ姿の患者たちに囲まれながら、階数の表示が変わっていく
のをぼんやりと眺めていた。
メンバーたちはダンスレッスンが終わってからも仕事があった。わたし
はそんな彼女たちの前で、お別れの挨拶をした。
今までありがとう。
その言葉を聞いたメンバーたちは複雑な表情をした。多分、圭ちゃんと
吉澤の件があった直後だからだろうが、曖昧な言葉が返ってくるだけだっ
た。
- 249 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時07分07秒
- エレベーターが開いて、わたしは蛍光灯に反射する廊下を歩く。後藤の
病室前に来ると、ゆっくりとノックをした。
後藤にも、最後の挨拶をしようと思った。
お別れの挨拶だ。
中から静かな声の返事がして、わたしはドアノブを回す。徐々に開くド
アからは、真っ白な光が逃げるように漏れてきた。
「おはよ」
わたしは病室の中に入ると、ベッドの上で体を起こしながら雑誌を読ん
でいる後藤に向かっていった。彼女はすぐに訪問者がわたしだと気が付く
と、慌てて雑誌を畳んで蒲団の中に潜り込む。
「なんだよ、その態度」
わたしは松葉杖を付きながらベッドの脇まで移動すると、膨らんでいる
蒲団を叩いた。
「昨日みたいに、寝たふりなんかするなよ」
「…………」
そう言うと、後藤はゆっくりと蒲団の中から目元まで出してわたしを見
上げた。
- 250 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時07分45秒
- 「……市井ちゃん」
後藤が小さく呟く。
わたしは窓際まで移動すると、開いているカーテンを閉めた。真っ白な
壁に蛍光灯の光が反射して、白く濁った空間が生まれた。
病室には昨日の圭ちゃんの花がいけられている。そのせいだろうか、甘
い匂いが充満していた。
「カーテンは閉めなきゃね。下の連中に隙を見せちゃいけないよ」
「暗くなったら雑誌読めないじゃん」
「充分明るいだろ」
わたしはそう言って振り返ると、彼女は相変わらず顔を半分だけ蒲団の
中に隠していた。それでもその視線は常にわたしの動きを追っている。
「調子はどう?」
「体が重い」
「ダイエットしなきゃね」
「そう言う意味じゃないよ」
- 251 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時08分27秒
- 後藤が抗議の声を上げて、わたしは思わず吹き出した。
彼女はそんなわたしの顔を観察するように見ている。
静まり返った室内には、わずかだが廊下のざわめきの音が入り込んでい
た。それでもその音は別世界のように思えて、確実にこの空間に存在して
いたのは、甘い香りだけだったような気がする。
わたしは椅子をベッドの脇に設置すると、それに腰をかけた。二つの松
葉杖を枕もとから少しはなれた棚に寄りかけるように置いた。後藤の視線
は、その松葉杖に一瞬だけ移る。
「元気そうで良かった」
「元気じゃないもん」
「顔色は昨日より良くなってるみたいだね」
「光のせいじゃないの?」
「ご飯とかちゃんと食べてるんでしょうね」
「ビョーインの飯は不味い」
ふう、とわたしはため息をついた。
「あんたねぇ、喧嘩売ってるの?」
そう言うと後藤は体をすくめるように、蒲団を数センチだけ上げた。
なんだかその仕草が可愛らしく思えて、わたしはまた吹き出す。
- 252 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時09分12秒
- 「……市井ちゃん……何しに来たの?」
「お見舞いだよ。後藤の寝ぼけている顔が見たくなった」
わたしの言葉に後藤は少しだけ不機嫌になった様子で、出ている目元が
細くなって睨んでいた。
「あたし、もう大丈夫だもん。体だってもう元に戻ったし、ちゃんと歩け
る……市井ちゃんみたいに松葉杖なんか使わないもん」
「…………」
「だから別にお見舞いなんか来てくれなくたって――」
そこまで言った所で、わたしは椅子から腰を浮かせて、ベッドで横にな
っている後藤の体に覆い被さるように移動した。両手を彼女の顔の横につ
きたてる。目線が数十センチ先で絡み合った。
「反抗的だぞ」
わたしは後藤を見下ろしながら言った。
- 253 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時09分55秒
- 彼女は少しだけ肩をすくめながらわたしを見上げている。
その目の奥には、不安と期待が入り混じっていて、子供が知らない場所
に初めて足を踏み入れた時のように静かな高揚感があった。
わたしと後藤の息が交互に絡み合った。静かな沈黙の中で、わたしたち
はゆっくりと心を開こうとしていたのかもしれない。
「反抗的だぞ」
わたしはもう一度言った。
後藤は黙ったままわたしを見上げている。
沈黙に耐え切れなくなったのか、後藤は我慢しきれないように肩を振る
わせた。
「笑うなよ」
わたしは少し演技っぽく顔をしかめてみた。しかしそれは逆効果で、後
藤は抑えきれないように、声を出して笑った。
子供のように、愛らしい笑顔だった。
- 254 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時10分43秒
- 「こら、わたしは真剣なんだぞ」
「そんなふうに見えないよ」
「いつからこんなに聞き分けなくなったんだ?」
「市井ちゃんこそ、前にもまして演技っぽいね」
「それが生意気なんだよ」
クスクスとわたしたちは笑いあった。
花の匂いが優しくわたしたちを包む。微かにするそれに混じっている薬
品の匂いが、頭の中でチクチクと暴れている。それに感化されてか、わた
しは少し意地悪っぽく言った。
「わたしの言う事聞かないと、襲うぞ」
後藤はきょとんした表情でわたしを見上げていた。
しかしすぐに挑戦的に彼女は上目遣いでわたしを見る。
「ごとーのバカ力忘れたでしょう? 市井ちゃんなんかに襲われないよ」
『なんかに』と言う言葉にイラッとした。
「ベッドで眠っている女の子一人ぐらい、わたしでも何とかなるさ」
「挑戦的だねー」
「それはアンタのほうだよ」
- 255 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時11分41秒
- そう言った瞬間、蒲団の中に隠れていた両腕が出てきて、それはわたし
の首の後ろに絡まるように回りこむ。あ、と思った瞬間にはもう遅くて、
彼女の力はわたしの体を押し倒そうとしていた。
突き立てていた両腕が肘の部分から崩れ落ちる。わたしの顔は後藤の頬
を掠って、蒲団の上に埋められた。
「タンマ! ちょっとまって!」
わたしは思わず声を上げる。それでも後藤の腕の力は強まり、わたしの
体は彼女の上で覆い被さる状態になった。
「ゴトッ! 冗談だよ!」
わたしは蒲団に顔を埋めながら声を上げる。その度に埃を吸い込んでい
る感じがして、思わず咳き込みそうになるのを堪えた。
後藤の腕の力で確実に息苦しくなった。
我慢しきれなくなり、ゲホゲホと咳き込みながら声を上げる。
「ギブ! マジでギブ!」
「…………」
後藤はわたしの言葉を無視して、首に回した腕を放そうとしない。すぐ
横にあるはずの彼女の顔も、そのせいで見ることは出来なかった。
「後藤? おーい! ……後藤ちゃん?」
- 256 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時12分49秒
- 後藤は無言のままだった。まるでわたしを放したくないように、その力
は弱まらない。密着している体から、彼女のぬくもりと柔らかさを感じる。
心臓の音がわたしの体を使って伝わってきた。
無言のまま後藤の違和感にわたしは気が付く。
甘い匂いはわたしたちを外の世界と遮断するように覆っていた。
「ごめん……」
後藤が呟いた。
わたしは黙って後藤の言葉を待つ。
「ごめん……少しだけこのままで居させて……」
「…………」
わたしは言葉通りに全ての力を抜いた。
それに合わせて首に回っていた彼女の腕の力も緩む。
お互いのぬくもりを実感して、それが凄く懐かしく思えた。
わたしはちょっとだけ顔を上げて、後藤の耳元で囁く。
「……重くない?」
- 257 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時13分37秒
- 後藤は微かに首を縦に動かして応える。
「……大丈夫」
わたしはその言葉を聞いて、また顔を蒲団の中に埋めた。
「苦しくなったら言うんだよ」
「……うん」
「無理するなよ」
「……うん」
わたしはクスッと笑う。
「素直が一番だね」
「…………」
ふざけあって、お互いが楽しかったあの頃のように、わたしの胸の中を
包んだのは懐かしさだった。
本当はもっと速い段階でこうして二人でふざけ合えたのかもしれない。
帰る間際になって、お互いに素直になった事に少しだけ後悔した。
耳には後藤の息遣いが聞こえた。
多分、後藤にもわたしのそれが聞こえていたのだと思う。
重ねている体と同じように、その息も溶け合っていた。
そんな中、後藤は呟く。
- 258 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時14分29秒
- 「市井ちゃん……痩せたね」
耳に直接聞こえる後藤の声。わたしはふっ、と笑うといった。
「そう? セクシーになったかな?」
「あたしが本気になったら折れちゃいそうだよ」
「そんなヤワな体してませんよ」
「……やつれた感じがする」
「……後藤」
「一杯、迷惑かけちゃったね」
「…………」
少しの間を開ける。
わたしはゆっくりと起き上がると、さっきと同じように彼女の顔の脇に
両腕をつきたてる。
しばらくお互いの顔を見つめ合い、これまで出来なかった存在を胸の奥
に染み込ませた。
- 259 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時15分07秒
- 「……いちーちゃん」
「…………」
「……ごめんね」
わたしは右手をゆっくりと上げると、後藤の頬を触った。ひんやりと冷
たい肌。彼女はその手のぬくもりにゆっくりと目を閉じた。
わたしは彼女に顔を近づける。
後藤は気配を察して目を開けた。
段々近くなるお互いの瞳を逸らす事は無かった。
わたしたちは額をくっつけ合う。鼻先がお互いの顔を掠って、くすぐっ
たいように笑みを漏らす。
数センチ前の後藤の顔。目も鼻も唇もすぐ前。
額には、熱っぽさをお互いに感じていた。
- 260 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時15分52秒
- 「後藤……」
「…………」
「……よくがんばったね」
「いちーちゃん」
「……よく頑張り続けたね」
「…………」
「わたしの方こそ――」
「…………」
「ごめんね」
その時、彼女の右目からまるで流れる事が自然だったかのように、一粒
の涙が伝った。
それはとても綺麗に輝いていて、宝石のようだった。
髪の毛の中に消えていく、その宝石に未練を覚えた。
わたしの大切な存在。わたし自身を大きくしてくれた大切な存在。
- 261 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時16分30秒
- もう心配は要らないよ。
後藤は、もう一人じゃなくなったから……。
だから、わたしは姿を消さなくちゃいけない。
幸せそうな顔をしている後藤を見ながら思った。
きちんと、お別れをしなくちゃね。
その気持ちを見透かしていたのかどうかはわからないが、後藤はあの頃
のように甘えた表情で言った。
- 262 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)05時17分06秒
- 「もうどこにも行かないよね」
ズキ、とわたしの胸に痛みが走る。
でも、もうわたしはそれから目を逸らしてはいけない。
あの頃の失敗をもう一度繰り返しちゃいけない。
わたしが黙り続けていると、後藤はそれを察したのかどんどんと表情が
凍りついてきた。
わたしはゆっくりと起き上がって顔を離す。
依然として彼女はわたしを見上げながら呟いた。
「嘘……でしょう?」
わたしは首を横に振った。
- 263 名前:ななしの 投稿日:2001年11月08日(木)12時41分36秒
- おおっ、更新がはやい。
でもなんか終わりがちかそうだのう・・・・
無理だとはわかっているが、おわらないでくれ〜
- 264 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月08日(木)23時37分17秒
- 嗚呼……………良すぎる……………
- 265 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月09日(金)03時53分28秒
- いちごま作品にまた1つ名作が加わりますな。
- 266 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時22分26秒
「時間が動き出しているんだ」
わたしは言った。
後藤は子供がふてくされたように蒲団を頭まで被って、わたしに背中を
向けている。松葉杖を膝の上に置きながら、白く濁った世界に言葉は飲み
込まれていく。
椅子に座りながら、蒲団の膨らみに視線を向けて言葉を続ける。
「色んな事をわたしはここに戻ってきて教わったんだよ……吉澤から……
圭ちゃんから……メンバーから……そして後藤から。わたしは数え切れ
ない事を、この短い時間の間で教わった」
「…………」
「今ね、わたし、胸の奥が熱いんだ……何か良くわからないけど、こんな
気持ちになったのは、きっとここに戻ってきたせいだと思う。前までのわ
たしには感じられなかったものだよ」
「…………」
「だからね、後藤」
「…………」
「ありがとう」
- 267 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時23分17秒
- 後藤はゆっくりと蒲団から顔を出した。依然としてわたしに視線を向け
てはくれなかった。
「何……ありがとうって……何?」
「……後藤」
静まり返った空気は、数分前までの香りを無視して、いつの間にか張り
詰めたものに変わっていた。カーテンからこぼれる外の光が、ドアに張り
付いて、微かに揺れる陰を作る。
「市井ちゃんは……またあたしを独りにするんだ」
「……独りじゃないよ」
「独りだよ……市井ちゃんはいつも自分勝手だ」
「…………」
「矛盾の塊だ」
いつか、そんな言葉を言われたな、とわたしは思いを巡らせる。あの時
はその意味がわからなかったが、多分今なら理解できる。
後藤の言う通り、わたしは矛盾の塊だ。
- 268 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時24分24秒
- 「……後藤、わかって……わたしは歩くの。今までずっと休んでばっかり
だったけど、わたしは歩くの……歩こうと思うの……後藤……だから」
「そんなのどうだって良いよ……市井ちゃんがあたしを独りにすること
には代わりがないもの」
「……後藤」
どうして後藤はそんなに独りだと思い続けるのだろう? 圭ちゃんや
吉澤の今日の行動を説明しても、後藤はずっと自分を独りだと言った。
後藤はまたゆっくりと蒲団を頭まで被った。
「……帰って」
「…………」
「帰ってよ」
「後藤、あのね――」
「帰ってって言ってるじゃん!」
ヒステリックな声に、わたしは思わず肩をすくめた。
彼女のその声は、多分わたしが何を言っても耳を貸してくれないだろう
と言う意味が篭っていた。それは確実にわたしの思いを削っていく。
わたしの決心は後藤には伝わってくれないのだろうか?
- 269 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時25分49秒
- わたしはゆっくりと松葉杖を付いて立ち上がった。この状態で、何を言
ったとしてもきっと無駄だろう。諦めの気持ちと、それでもまだ残ってい
るわずかな希望。ドアの前まで歩くと、ノブを握っていった。
「後藤……これだけは覚えていて……」
「…………」
わたしはそのわずかな希望に賭けて言った。
「わたしは後藤の事、大好きだよ」
「…………」
病室から出て、バタンとドアが閉まる。
わたしの言葉は、彼女に届いてくれただろうか?
ざわつく廊下の中で、わたしはポケットの中に手を入れた。そこには真
っ黒になったあの時のお守りが入っていた。
わたしはそれを取り出すと、呟く。
「返すの……忘れちゃったな……」
その声は、わたし自身にも届く事は無く、廊下のざわめきにかき消された。
- 270 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時26分33秒
- ◇
どうしてだろう?
蒲団の中に入って目を閉じたわたしは思った。
服も着替えたし、お風呂にも入った。
それなのにどうしてだろう?
わたしの体には、まだ後藤の香りが染み付いている。
- 271 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時27分18秒
- ◇
一人でソファに座りながら、わたしは首を天井に向けて目を閉じた。
窓からは昼の太陽の光が入り込んでいる。それはとても強く、居間全体
を照らしてくれた。
テレビも何もつけてない空間。静寂だけで、わたしの息の音も心臓の音
も、全て無かった。
圭ちゃんが出て行った玄関を見ようと首を伸ばす。それでも視界の中に
は居間に続く廊下しか見えなく、わたしは諦めて体を横にした。
時計を見ると、まだ帰るには時間があった。
それでも圭ちゃんが戻ってきた時には、ここにわたしの姿は無い。だか
ら、彼女との最後の会話を思い出していた。
圭ちゃんが玄関で靴を履いているのを、わたしは松葉杖で支えながら見
下ろしていた。その間二人とも無言で、物音が聞こえるだけ。
ゆっくりと立ち上がって、鞄を手にした圭ちゃんは小さく息を吐いてわ
たしを見た。
- 272 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時28分03秒
- 「本当は見送ってあげたいんだけどね」
「充分だよ」
「立場が逆になっちゃったよ」
「こんな別れ方も、洒落てるかもね」
「さあ、あたしには判断がつかないよ」
わたしたちはお互いの顔を見てにやける。心の中には、別れ特有の喪失
感がした。わたしが娘をやめたときとは別の、静かな別れだった。
圭ちゃんは呟く。
「紗耶香、すっきりした顔になったね」
「そう? メイクしてないからかな?」
「そう言う意味じゃないよ」
わたしは苦笑いをすると、素直にありがとう、と言った。
「紗耶香がここに戻ってきた時、大人っぽくなったって思ったけど、何か
違和感があったよ」
「それはわたしも感じたよ。圭ちゃんに違和感を持った」
ふ、と圭ちゃんは笑うと言った。
「そうね、お互いにそれを感じていたのかもしれないね……その違和感は、
今は消えているかしら?」
「どこかに吹っ飛んじゃったよ」
そう言ってわたしは笑った。
- 273 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時28分52秒
- 圭ちゃんは満足そうにわたしを嘗めるように見回すと、息をついて、そ
れでもはっきりと言った。
「ありがとう……紗耶香」
「……圭ちゃん」
圭ちゃんは自分の言った言葉をかみ締めるように、たっぷりと間を開け
る。その間に、わたしの胸の奥からこみ上げるものがあった。
「短い間だったけど、戻ってきてくれてありがとう」
その言葉は、わたしがここに戻ってきてから初めての自分を認めてくれ
た言葉だった。それがとても嬉しくて、ゆっくりと息を吐く。こみ上げる
ものを必死で堪えながら、無理に笑ってみる。
「やめてよ……この場で泣いちゃうよ」
「相変わらず泣き虫は変わってないね」
「圭ちゃんも涙もろい方でしょう?」
「あたしは大人だからね、子供の涙とは重さが違うのよ」
「ひでえ」
- 274 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時29分30秒
- わたしたちはまたお互いの顔を見ながら笑いあった。何故だか、ちょっ
ぴりだけ圭ちゃんは目に涙を浮かべていた。
笑いすぎちゃったよ、そう言って圭ちゃんは人差し指で涙を拭う。わた
しは黙ってその光景を見ていた。
圭ちゃんがゆっくりとドアを開けて出て行こうとする。光に包まれたそ
の背中がとても眩しくて、わたしは目を細めた。
「じゃあ……」
圭ちゃんは言った。
「いってきます」
わたしは微笑を浮かべて言葉を返す。
「……行ってらっしゃい」
バタン、とドアが閉まった。
圭ちゃんとの別れは、そのドア一枚によって終わった。
- 275 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時30分24秒
- わたしはゆっくりと立ち上がると、玄関で靴を履く。手に持った鞄は少
し重かった。
靴を履いて玄関から外に出る。太陽の光が眩しい。
鍵をかけると、それを新聞受けから落とす。カチン、と小さな音を聞い
て、帰るのだと今更ながらに実感した。
外の空気は暖かい。それは多分陽射のせいなのかもしれないが、長袖の
服を通して冬の終わりを確認して、そして次の季節の始まりを予感させた。
アパートを後にしたわたしはすぐに細い通りに出る。車も人も滅多に通
らないが、違法駐車は目に付く所に転がっていた。顔を上げると、圭ちゃんのアパートの天辺部分が見えた。
心地よい風が吹く。
さらさらとわたしの髪がなびいて、毛先が鼻先を掠めた。
それと同時に、ポケットの中の携帯が音を上げる。わたしは思わず肩を
すくめたが、重い鞄をアスファルトの上に置くと、右手でそれを取り上げ
る。
液晶には和田さんの名前が出ていた。
なんだろう? 何か忘れた事でもあっただろうか?
そう思いながらわたしは通話ボタンを押して携帯を耳に当てた。
- 276 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時31分27秒
- 「市井か?」
「誰に電話したと思っているんですか?」
和田さんの声色には、わたしの言葉を受け止めてくれる余裕を感じさせ
なかった。どこか慌しく、その後ろの方からも男の人の声が複数聞こえた。
「どうしたんですか?」
わたしは不審に思って聞く。
和田さんは単刀直入に言った。
「後藤が病院を抜け出した」
それを聞いたわたしは自分でも予想外に落ち着いていた。それがどうし
てなのか先にもわからない。ただ心地よい風に吹かれながら、慌しかった
数日間が終わるのだと、確信していた。
和田さんはどうやら事務所に頼まれて後藤を探しているらしい。後藤が
雑誌の記者などから張られているのは周知の事実だ。そんな中、彼女がそ
の人たちに捕まれば、嫌でも学校の件がばれる事になる。それが事務所の
人間が慌てている理由だった。
和田さんは車に乗っているようだ。時々電波などが切れたりする。その
中には複数の人間が居る事も確認できた。
- 277 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時32分12秒
- 「おまえ、後藤が行きそうな所に心当たりは無いか?」
焦らせるように和田さんの声は早口になる。
「さあ、わたしにはわかりません」
風が吹いた。
それはなぜか甘い匂いがした。
わたしが病院で眠っている時に見た夢の中も、もしかしたらこんな風が
吹いていたのかもしれないと思った。
人の気配がして、わたしはゆっくりと振り返る。
視線の先には、まるでそこにいるのが当り前だったかのように一人の少
女が立っていて、わたしを黙って見ていた。
わたし自身も、そこに彼女が居るのが当り前のように、その事実を受け
止めていた。
「大丈夫です……」
わたしは呟く。
- 278 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月13日(火)03時34分09秒
- 電話の向こうでは違和感に気が付いた和田さんが言葉を切っていた。
「大丈夫です……何も心配ありませんから……」
「そこに……いるのか?」
わたしはゆっくりと携帯を耳から離す。和田さんの、誰かに行き先を指
示している声が聞こえたが、わたしはそれを無視して電話を切った。
また柔らかい風がわたしの体を通り過ぎていって、目の前の彼女に当た
っていた。
お互い無言のまま、数メートルの距離を開けていた。
わたしは無意識のうちに携帯の電源を落として、それをポケットの中に
入れる。
もう一度、彼女と別れよう。
あの時出来なかった別れを、ここでしよう。
目の前の少女――後藤はわたしに不安な視線を向けていた。
- 279 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月13日(火)20時03分18秒
- うぉ〜更新だぁ〜
いったいどうなるの・・・
- 280 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時03分16秒
- 青空に飛行機雲が直線を描いていた。
これからあの青々としたキャンパスに絵が書かれるかのように、小さな
飛行機は白い色を塗っていく。
わたしはゆっくりと鞄を置いて一つため息をつく。
目の前の後藤は、病院のパジャマに上着を羽織っただけと言う姿だった。
ここに来るまでの間、雑誌の記者などに見つからなかった事が奇跡的だ。
彼女は少しだけ周りに視線を向けてから、ゆっくりとわたしの元に歩み寄
ってきた。
弱々しい風が吹くと、糸のように細い彼女の髪がゆらゆらとなびく。太
陽の光に照らされて眩しいぐらいに金色になっていた。そのせいだろうか、
パジャマに上着だけと言う格好なのに、健康的な印象を与えた。
わたしは少しだけ自分の髪の毛を摘んでみる。
伸ばしてみるのも悪くないかもしれない。
なぜかこんな時にそう思った事がおかしくて、わたしは苦笑いをした。
その様子を見ていた後藤は、三歩位の歩幅ほど距離を開けて立ち止まる。
笑っているわたしの顔を少しだけ不満げに見た。
- 281 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時03分59秒
- 「……なんで笑うの?」
自分のことを笑っていると誤解したらしい後藤は、唇を尖らせて膨れっ
面になる。その仕草は外見とのギャップを感じさせて、微笑ましくなる。
「後藤が可愛かったからだよ」
わたしは少しだけ胸を張ると言った。
「なにそれ、バカにしてるの?」
「素直じゃないねー」
青々とした上空を鳥が横切った。
吹いた風に羽根を任せるように、直線に高く舞い上がる。その向こうに
は眩しいぐらいの太陽があった。
「病院に戻らなくちゃね」
わたしが言うと、後藤は不安げに上目遣いで見上げてきた。まるで子供
が親に怒られている時のように、機嫌を伺っているように見えた。
「……ヤだ」
予想していた言葉に、わたしには対した感想は無かった。
「みんな心配してるよ。誰かに見つかったら大変だ」
「……そんなの知らないもん」
- 282 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時04分52秒
- 後藤の視線はわたしの置いた鞄に移った。それを見た彼女は少しだけ寂
しそうに眉を寄せる。
「どうした?」
わたしがそう言うと、彼女は何度も口を開いては閉じて、出てくる言葉
を飲み込んでいた。それは多分、素直になる事が恐かったのかもしれない。
それでも彼女は躊躇いながら上目遣いでわたしを見ると、ゆっくり唇を動
かす。
「……帰らないでよ」
小さく、すぐ目の前にいるわたしでも聞き逃してしまいそうなほどの声
で後藤は呟いた。その声の裏には、どこか孤独を感じさせて、わたしの胸
の奥を直接刺激する。
わたしはまだ後藤に必要とされているのかもしれない。
そう思えるだけで、わたしは嬉しかった。
だから、まだ必要とされているうちに、わたしは歩き出さないといけな
いのだ。
- 283 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時05分37秒
- 「帰るよ。いつまでもここにいるわけにもいかないでしょう?」
わたしの言葉が不満だったからだろうか、後藤はニ三度首を横に振る。
「居れば良いじゃん。居ちゃいけないなんて誰も言ってない」
「言われたよ」
「……誰から?」
ふっ、とわたしは息をつく。
「誰でも良いよ。そんなのはきっかけに過ぎないんだから……」
「…………」
わたしはゆっくりと彼女に近づいて、その金色の髪の毛に手を伸ばした。
手には今にも切れてしまいそうなほど細くて繊細な感触。顔にかかる前髪
を分けて、後藤の表情を伺う。
少しだけ青白い顔色。それを見ると、今まで入院していた人間なんだと
実感した。左の手首には過剰なほど包帯が巻かれている。上着で見えなか
ったが、圭ちゃんが傷つけてしまった腕の怪我はもう治っただろうか?
「後藤……」
わたしは指先から逃げる髪の毛から手を離して言った。彼女は少し未練
が残ったように、その離れていく指先を見ていた。
- 284 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時06分33秒
- 「昨日……後藤に言った言葉は嘘じゃないよ」
風が吹く。太陽の陽射とは逆に冷たい。でもそれはどこか心地よく、わ
たしの気持ちを安心させた。
でもそれとは対照的に後藤は不安げにわたしを見る。
彼女は、一体に何が不安なのだろう?
「わたしは後藤のこと大好きだし……きっとみんなだってそうだよ」
「…………」
「後藤に色んなこと教わった。教育係だったくせ、わたしの方が教えても
らった事が多いのかもしれない。だからね、後藤には感謝してるんだ」
「…………」
「昨日も言ったけど……」
「…………」
「ありがとう」
- 285 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時07分16秒
- 後藤はゆっくりと顔を下げた。小さくなるその姿は、わたしの胸を締め
付ける。大切な人を傷つけるのは辛かった。
「知らないよ……あたし……何もしてないじゃん」
「……後藤」
「あたし、ありがとうって言われる事何もしてない……市井ちゃんにも何
も教えてない……みんなから好かれることもしてない……」
後藤の声はどこか震えていた。今にも壊れてしまいそうな、ヒビの入っ
たガラスをわたしはなぜか連想する。少し触れるだけで、割れてしまいそ
うな、繊細すぎるガラス。
「それなのに、ありがとうって言葉、間違ってるよ……」
わたしが言った教わると言う事と、後藤が言っている意味は多分、相違
があった。わたしは傍に居るだけで、相手から気づかされる事、学ぶ事が
あると考えているが、後藤はそのままの意味、直接的に教えられる事を言
っているのだろう。
わたしがあの頃していた教育係のように。
- 286 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時08分13秒
- 「間違ってないよ……」
わたしは言う。
後藤は首を横に振り続けていた。
「ありがとうって言葉、間違ってない」
わたしの声はどこか落ち着いていた。子供を慰めるように、無意識のう
ちに柔らかい口調になる。でもそれが後藤には気に入らなかったのかもし
れない。
再び彼女に伸ばした手を乱暴に払いのけられた。熱くなるその手の甲を
感じながら、わたしは後藤に視線を落とす。
「好かれなくても良いよ……ワガママでも良いよ……ありがとうって言
葉も要らない……だから……また独りにしないで……」
「後藤……」
金色の髪の毛が彼女の顔を隠す。
「嫌われても頑張るよ……無視とかされるのも慣れたし……テレビでも
もっと笑うよ……だから……市井ちゃん……独りにしないで……」
- 287 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時08分58秒
- そう言った後藤の肩が微かに震えだした。一粒の滴が、隠れている顔か
ら地面に落ちる。アスファルトが黒く湿った。
どうして後藤は独りだって思い続けるのだろう?
圭ちゃんが居る。吉澤が居る。後藤は独りじゃない。それなのにどうし
てそういい続けるのだろう?
わたしはまた彼女に手を伸ばす。今度は振り払われずに、肩につく事が
出来た。
その肩を少しだけ強く握る。後藤は体を硬直させたようだ。
「独りじゃない。後藤は独りじゃないんだよ」
「独りだよ」
その言葉に反抗するように重ねる後藤に、わたしは口調を強めて言った。
「独りじゃない」
「独りだよ!」
悲鳴のように声を上げた後藤にわたしは驚く。掴んでいた手を通して、
彼女の肩の揺れが激しくなっているのを感じた。
「市井ちゃんが居なきゃ意味が無いの! 市井ちゃんが居なきゃあたし
は独りなの!」
「後藤……」
- 288 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時09分46秒
- 後藤は声を張り上げると、わたしの胸の中に飛び込んできた。その勢い
に二三歩後退ると、彼女は体を丸めた。
胸の中で息を荒上げているのがわかった。わたしのその中で、彼女は今
まで溜めていた言葉を叫ぶように声を上げた。
「ねぇ! どうしてやめるって言ったの? どうして帰るって言うの?
あたしの傍にどうして居てくれないの? まだまだ大変な事ばかりだ
よ! 疲れちゃうし、弱音だってはきたい! どこか間違っている所があ
るかもしれないし、スタッフの人たちに失礼な態度とか取ってるかも知れ
ない! そう言うとき、いつも市井ちゃんが傍に居てくれたじゃん! ダ
メな事はダメって言ってくれたじゃん!」
積を切ったように後藤の口から言葉が飛び出してくる。それは直接的に
わたしの胸にぶつけられて、締め付けられるように窮屈さを感じた。
わたしはすぐ目の前の彼女を見ていることしか出来なかった。
胸の中で息を上げる後藤の熱を感じた。服を通して涙が染み込んで湿っ
ぽさを感じた。鼻先でかすめる髪が甘い匂いを運んでくる。
- 289 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時10分40秒
- 「……ダメな事はダメって言ってくれたじゃん」
「後藤……」
「一杯怒って……それでも良い事は誉めてくれて……色んな事教えてく
れて……一緒に緊張してくれて……一緒に悩んでくれて……忙しくても
がんばろうって……一杯一杯、大切な事があって……ずっとずっと……そ
うしていたかったよ……」
両手に拳を作って、わたしの胸辺りにそれを当てながら体を預ける彼女
に、わたしは右の松葉杖を離してその背中に腕を回した。
カラン、とそれが音を立ててアスファルトの上に倒れる。腕を回した背
中は、頬と同じように冷えきっていた。
「あたし……もっと一杯笑いたいよ……一杯幸せだって思いたいよ……
もっともっと……だから……市井ちゃんが居なきゃ意味がないの……」
悲痛な言葉。後藤がわたしを必要としてくれるのはありがたかった。で
も彼女の満足が行くようなことをして上げられない自分が嫌になる。
わたしは歩き出すために後藤を傷つける。
そんな自分が嫌だった。
そう思ってわたしは気が付く。
――市井ちゃんって矛盾の塊だよね。
その通りだよ。わたしは矛盾の塊だ。
- 290 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時11分28秒
- 「……ごめんね」
廻している背中の感触を感じながらわたしは言った。
「……こんな先輩で、ごめんね」
「…………」
「……ワガママなのはわたしの方だね。嘘も一杯ついて来たかもしれない。
一杯人を傷つけてきたかもしれない……ワガママなのはわたしのほうだね」
「…………」
「でも後藤――」
「…………」
「勝手かもしれないけど、わたしは後藤の先輩でよかった。こんな頼りな
いけど、わたしは後藤に会えてよかった」
わたしはそう言って強く後藤を抱く。下げている彼女の頭に頬を乗せて、
そのぬくもりを全身で感じた。
「だからね、やっぱり思うんだ――」
「…………」
「ありがとうって言う言葉は間違ってない」
- 291 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時12分16秒
- 後藤の背中が、また大きく揺れた。
顔を上に向けると、青空がわたしたちを見下ろしていた。
遠くから車の音が聞こえる。それは徐々に近づいてきているようだ。わ
たしはゆっくりと彼女から顔を離すと、覗き込むように姿勢を下げた。
髪の毛からわずかに覗く彼女の表情は涙で濡れていた。わたしはゆっく
りと頬を伝うそれを親指で拭う。
「全然効いて無いじゃん」
「…………」
「お守りのおかげで、泣き虫じゃなくなったんでしょう?」
わたしはそう言って微笑んだ。
- 292 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時13分53秒
- 後藤は涙を止める事が出来なかったようだ。
気が付くと、近づいてきた車がわたしたちの姿を見つけて、数メートル
先で止まった。一体なんなのだろうと、わたしは少しだけ体を強張らせる
と、すぐ近くにいた後藤が不安そうにその車を見ていたことに気が付いて
肩を強く抱き寄せる。
一瞬だけ、雑誌の記者たちに見つかったのかと嫌な事を考えたが、車か
ら出てきたのは、和田さんと事務所の人間が二人だった。
和田さんはわたしたちを見つけると声を上げる。
「後藤」
そう言って近寄ってくると、後藤は不安そうにわたしの服を掴んだ。
目の前まで来ると和田さんは、後藤からわたしに視線を移す。
「すまなかった、最後まで迷惑かけた」
「和田さん……」
「さあ、病院に戻るぞ」
後藤を見て言うその口調は厳しく、彼女は怯えていた。
わたしは思わず彼女の前に出ると、和田さんに言う。
「少しだけ……待ってくれませんか?」
「無理だ。こんなところを見つかりでもしたらどうするんだ」
「でも――」
- 293 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時14分37秒
- そう言葉を続けようとしたわたしは、和田さんの視線に部外者を感じさ
せるものが混じっていた事に気が付いて口を閉じた。
体に痛みが走る。
大人から、見下された痛みだ。
もう自分は関係ない人間なのだと、その痛みで気づかされる。
和田さんが後ろに居る事務所の人間に視線で合図すると、二人の男の人
はのっそりと歩いてきてわたしの後に隠れているように体を縮める後藤
の腕を取った。
「イヤ!」
悲鳴のように高い声で後藤が叫んだ。
わたしは思わずその二人の男の腕を掴む。
「乱暴しないで!」
そう言った瞬間に、わたしは後ろから肩を捕まれて後藤から引き離され
る。振り向くと和田さんが顔を強張らせて睨んでいた。
つれていけ、と和田さんが言って、二人の男の人は後藤の両腕を掴んで
引き摺るように車へと移動する。彼女は体を捩ったりして反抗しながら悲
鳴を上げた。
- 294 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時15分18秒
- 「いやぁー! 離してよ!」
鳴り響く悲鳴に、わたしは思わず顔を下げる。
胸の奥が掻き毟られていくような気がした。
「市井ちゃん!」
後藤の叫ぶ声。無表情で彼女を連れ去る男の人たち。
わたしの胸の奥にはこれでいいのだという思いと、後藤の悲鳴に反応す
る自分が居た。
わたしは和田さんを見上げる。
「和田さん!」
和田さんは黙ったままわたしを見下ろしていた。
「少しだけ……少しだけ時間を下さい」
「……無理だ」
「後藤があんなに嫌がってる。だから和田さん――」
わたしがすがるように口に出す言葉を、彼は無表情で聞いていた。それ
は大人としての冷静さを感じさせた。
嫌な大人の冷静さだ。
- 295 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時16分01秒
- 「後藤じゃなくて、おまえの都合だろ」
和田さんから出たその言葉は、わたしの胸をえぐる。体中に走り抜ける
その感覚に、思わず言葉を切った。
「いつまで教育係り気分で居るんだ?」
「和田さん……」
「それは後藤のためになるのか?」
「…………」
「おまえもわかっているだろう」
「でも……」
和田さんはわたしの言葉を無視して車へと移動していった。運転席に乗
り込む彼を視線で追いながら、まだ抵抗する後藤はわたしに助けを求める
ように手を伸ばして声を上げ続けていた。
「市井ちゃん! 助けてよ! 市井ちゃん!」
顔には涙を溢れさせて、必死の形相でわたしに助けを求める視線を向け
てくる。今にも駆けつけてあげたい気持ちを押えるのに、わたしは想像以
上に苦しくなった。
わたしはもう関係ない。
関係が無い。
- 296 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時16分38秒
- ただ立ち尽くして、後藤の抵抗する姿を見ながらわたしはそう考えて自
分を抑えようとしていた。
髪を振り回して、自分を連れ去る力に最後まで抵抗しようとして、それ
でもわたしに必死で助けを求める後藤。
「市井ちゃん!」
もうわたしはあの子の教育係じゃない。
「市井ちゃん!」
あの子には、もっと強くなってもらわなきゃいけない。
「いちーちゃん!」
わたしに頼ることなく、独りで立っていられるように、強くなってもら
わなきゃいけないんだ。
「嫌だよこんなの!」
後藤はわたしに手を伸ばして叫んだ。
- 297 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時17分32秒
- 「もっと一杯喋りたい事あったよ!」
その手は空中で虚しく漂うだけ。
「あたしもっと一杯笑いあいたいよ!」
彼女はその手を握ってほしかったのかもしれない。あの頃のように、力
強く握って自分をどこかに連れ去ってほしかったのかもしれない。
「あたしまだ何も市井ちゃんに言ってない! まだ市井ちゃんに言いた
い事一杯あるよ!」
車に押し込められようとしている後藤は何度も座席から出ようとして、
阻まれていた。それでもその視線はわたしに向けられていて、悲痛な叫び
声が聞こえる。
「市井ちゃんにありがとうって! あたしを見てくれてありがとうっ
て! まだ一杯! まだまだいっぱい! あたしは市井ちゃんに言わな
きゃいけないことがあるんだよ! だから嫌だよこんなの!」
わたしはいつの間にか泣いていたようだ。
頬に伝う涙を感じた。
- 298 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時18分16秒
- また繰り返すの? またわたしは同じ事を繰り返すつもりなの?
関係がなくなったからって何?
それがわたしと後藤との間に一体何の意味があるの?
わたしはポケットに入っているお守りを取り出した。血で真っ黒になっ
ているお守り。
わたしは片方の松葉杖を必死に付いて、車の中に押し込められた後藤の
元に駆け寄った。
「後藤!」
わたしはそう声を張り上げて、車の窓を叩く。
- 299 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時19分53秒
- 二人の男の間に挟まれるように座っていた後藤が、身を乗り出して窓に
両手を着いた。
わたしは必死に窓を叩きながら運転席に居る和田さんに声を上げた。
「和田さん!」
しかし和田さんは無言のままわたしに背を向けるだけ。
「和田さん!」
何度も何度も叫び続けた。このまま窓を開けてくれないのなら、割って
しまってもいいとさえ考えた。
しばらく乱暴に窓を叩き続けていると、ゆっくりと機械音が聞こえ出し
て、それが開かれた。運転席に視線を向けると、依然として背を向けてい
る和田さんが居るだけだった。
窓が全開に開くと、そこから飛び出す勢いで後藤が手を伸ばしてきた。
わたしはすぐに彼女の手を強く握り締めた。
「市井ちゃん! 嫌だよ! こんなの嫌だよ!」
後藤の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。メイクも髪も乱れているそ
の顔は、泣き叫ぶ子供そのものだった。
- 300 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時21分01秒
- わたしはお守りを彼女に握らせた。
そして強くその手を包む。
「後藤、わたしたちはまだ大丈夫だ」
わたしは後藤の目を見て言う。
その口調は力強いものに変わっていた。
それを感じたらしい後藤は、叫ぶ事をやめてわたしの顔をただ見ていた。
でも涙は溢れていて止まらない。
「わたしたちはまだ思い出を作る事ができるんだ」
そんな顔を見ながらわたしは言った。
「わたしたちが数年後、振り返って懐かしむような、そんな思い出をまだ
作る事ができるんだ」
「…………」
- 301 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時21分37秒
- 後藤が向ける視線は相変わらず不安の色を感じさせた。寂しさで体を振
るわせるその少女をわたしは強く抱いてあげたかった。
「それはまだわたしたちが終わったわけじゃないって言う事なんだよ。あ
の頃でわたしたちが終わったわけじゃない」
「…………」
「その証拠に……こんなにも数日間の後藤との思い出がわたしの胸の中
で一杯溢れているもの……」
「…………」
「お互いに傷つけあって、痛みに怯えて……色んな出来事がわたしの胸の
中で溢れてる……それは後藤の色んな表情が一杯詰まった思い出だよ」
「…………」
「だから、わたしたちはまだ大丈夫なんだ……まだ終わってないんだ」
- 302 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時22分19秒
- 「いちーちゃん……」
わたしは強く後藤の手を握った。
そして、小さく深呼吸をして後藤を見た。
「だから――終わらせるもんか」
窓が閉まりだした。後藤は焦ったようにわたしを見る。
「お守りはアンタが持ってなさい……」
「市井ちゃん……」
「わたしには必要が無いよ……」
「……あたし……市井ちゃん……あたし――」
窓が閉まる。わたしたちはその窓越しにお互いの両手を重ねた。気のせ
いか、後藤のぬくもりを感じた。
わたしは強く頷く。
でも後藤はまだ不安そうだ。
エンジン音がした。
- 303 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時24分47秒
- 「市井ちゃん!」
後藤が声を上げた。
車がゆっくりと走り出した。
「あたしも――市井ちゃん! あたしも――」
わたしは松葉杖を必死に着きながら後を追った。
後藤はお守りを固く握り締めていた。
溜まらずわたしは声を上げる。
「後藤! わたしたちはまだ大丈夫だから――」
車のスピードが上がってついていけなくなる。それでもわたしは声を張
り上げた。
「だからそんな顔しないで!」
そう言った瞬間に、足がもつれてわたしはアスファルトの上に転んだ。
掌を擦って、電気が走るような痛みを感じたが、すぐに起き上がって顔を
上げる。
車はどんどんと小さくなっていく。しかし後藤が身を乗り出して、後部
座席からわたしを見ている姿を確認した。
彼女はわたしに見えるようにお守りをかざしている。
- 304 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時25分35秒
- 「……笑って」
わたしは呟く。
お願い、わたしが大好きな後藤を見せて。
小さくなる後藤の姿。
でも彼女はお守りを手に、頼りない笑顔を作った。
メイクもしていなくて、髪も乱れていて、涙でぐちゃぐちゃになったそ
の笑顔。
一瞬だけだったはずなのに、まるで写真で切り取られたようにわたしの
頭からその笑顔が消えることは無かった。
車が完全に見えなくなって、その音も遠ざかっていった。
わたしはゆっくりと松葉杖を支えながら立ち上がる。
全身が熱かった。
それは太陽の光のせいだったのかもしれない。
時折吹く、冷たい風は、優しくその体を冷やしてくれる。
空を見ると、突き抜けるような青が一面に広がっていた。
頬にまた涙が伝った。
わたしはそれを拭うと、何だかおかしくなって苦笑いをする。
どうやらあのお守りが必要なのは、わたしの方だったみたいだ。
澄み渡った青空がぼやけていた。
- 305 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時26分33秒
――エピローグ――
- 306 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時27分05秒
白紙のノートに文字を書いてみる。
カリカリと音を立てるシャーペン。刻まれていく文字たち。
一文字一文字を、わたしは大切にした。
不器用で、気の利いた言葉なんか浮かばなかった。
洒落た英語の文字も入れなかった。
ノートに書かれていた言葉は、全てわたしの思いだった。
- 307 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時27分54秒
- ◇
困った事と良い事が起きた。
困った事と言うのは、わたしの手元に同じCDが二枚あるという事実だ。
茶色い髪の少女が人差し指を立てて口につけているジャケット。丁度、秘
密と約束させるような仕草だ。
なけなしのお金(と言うのは少し大げさかもしれないが)でわたしはレ
コード店でそのジャケットのCDを買った。少しだけ帽子を深く被って、
店員に市井紗耶香がその少女のCDを買ったと言う事がばれないように
気を使ってしまう。
それは恥ずかしくもあり、少しだけ悔しかった。
その数日後、まるっきり同じCDが送られてきた。手紙も何もなく、た
だそれだけが入っている袋。宛名の欄の文字は、まるで子供が書いたよう
にへたくそな字だった。
まったく、送るなら送ると早く言ってほしかった。そうすればわたしは
自腹をはたく必要が無かったのに。
でもそれはそれでいいか、とすぐに思った。
- 308 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時28分34秒
- 良い事と言うのは、二つある。
一つは部屋を片付けたと言う事だ。
散乱していた本も、お菓子の袋も全て片付けた。埃っぽかった部屋の空
気が変わって、綺麗に磨いたギターが窓から入り込んでくる陽射に反射す
るのをわたしは満足しながら見ていた。
ベッドに飛び乗ると、スプリングが窮屈そうに音を上げる。その上であ
ぐらをかいて、わたしは携帯に手を伸ばした。
二つ目の良い事は、わたしは晴れて自分の唄と言うものを作ったと言う
事だ。詩も曲も全て自分で作った。ギターをなれない手で触りながら、一
つ一つの音を組み立てていく。それは想像以上に大変な作業で、長い時間
を掛けることになる。
正直に言うと、未だにまだギターを上手に弾くことは出来ない。何度も
突っかかってしまう。それでも最後まで完成させた事に満足した。
わたしの手元には、一枚の紙がある。そこに並ぶ言葉。時折消しゴムで
消した跡や、字に斜線を引いている場所もある。一目見ただけでは決して
自分以外の人間が、これが詩だとは思えないかもしれない。
わたしは携帯を片手に、その並ぶ言葉を読み直す。
- 309 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時29分29秒
- 自分では満足しているが、他人……あの子はどんな反応をくれるだろうか?
久し振りにメールを送ろうと思ったのは、彼女たちの仕事がある程度区
切りが出来ただろうと予想をしたからだ。まだこれからミュージカルのレ
ッスンが続くだろうが、春のツアーの終わりはテレビで流されていた。そ
れは一つの区切りを感じさせた。
わたしはベッドに横になって、その書いた詩の題名を読んでみる。
シンプルで気の利いた言葉ではない。少し背伸びをして英語にしてみる
ことも考えたが、あまりピンと来なかった。
結局こんな一言……。
何だか、NHKの唄のような気がした。
春の光が、窓を通して部屋全体に充満する。光源に混じってホコリが宙
を浮いていた。静まり返った部屋は、いつの間にかわたしの心を静かにさ
せてくれたが、それでも胸の奥のほうでは、未だに熱が冷めない。
- 310 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時30分07秒
- わたしは携帯をかざして文章を考える。
言いたい事、伝えたい事は一杯ある。
でもそれをうまく言葉に整理する事が出来ない。
結局わたしは色々と悩んだ末に、携帯をベッドの上に放り投げてため息
をついた。
焦らなくてもいい。
焦らなくても、わたしの熱は冷めない。
だから焦らなくてもいい。
わたしはゆっくり起き上がってギターを手にした。
少しだけ苦笑いしてから、ゆっくりと音を鳴らす。
へたくそかもしれない、期待はずれかもしれない。
でも今の気持ちが全て込めた唄。
わたしは窓の向こうの景色を見る。
晴れ渡った青空が、どこまで続く。きっとそれは彼女の元まで伸びてい
て、わたしたちは一つの空の下にいる。
風に乗って、わたしの唄もあの子に届いてくれる事を祈った。
- 311 名前:名無しさん 投稿日:2001年11月14日(水)17時31分07秒
――ともだちのうた――終了。
- 312 名前:お礼。 投稿日:2001年11月14日(水)17時42分15秒
- どうにか完結する事が出来ました。
こんな長い話を読んでくださった方、ありがとうございます。
そしてお疲れ様です。
レスをつけてくれた方、本当に感謝してます。何度も励まされました。
作者の勝手で返事をしなかった事を許してください。
誤字脱字だらけで、読みにくい文になっていると思います。すいません。
更新も定期的に出来なかった事もすいません。
それでも読んでくれた方には、本当に感謝してます。
どうも長い間、ありがとうございました。
- 313 名前:モーヲタ家族 投稿日:2001年11月14日(水)17時51分21秒
- 作者さん、お疲れ様でした。
当方、自営業なのですが、最近は仕事が暇な為、ほぼリアルタイムで読ませて頂きました。
何か、実際の娘。達も後藤に対してこんな感じなのかな?と思ってしまい、悲しくなりましたが
大変素晴らしい作品でした。
ゆっくり体と頭を休めて下さい。次回作(是非書いて下さい)期待してます。
- 314 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月14日(水)23時05分36秒
- お疲れ様でした!!
いや〜マジ感動っス!
もう言葉も無いです
いちごま名作に新たに加わりました
ありがとう!!!!
- 315 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)00時20分53秒
- 心にズッシリ残る正に名作、マジで感動しました。
心の高鳴りを抑えつつマウスのスクロール転がす人差し指が何度震えたことか。
ラストにかけては、こみ上げてくるモノを抑えことができずモニターの文字が歪
んでしまって、もう・・・。
作者さん、本当にお疲れ様でした、そして有難う御座いました。
- 316 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)02時58分09秒
- 今日、この小説が完結したということで一気に全部読ませていただきました。
ものすごく痛い話でしたが、ハッピーエンドでほっとしました。
実際の娘さんとかもやっぱりつらい部分はあるんでしょうね・・・。
ところでこんなこと菊の失礼かもしれませんが、作者さんって他にも小説(いちごまもの?)書かれてます?
名作と呼ばれる作品を・・・。
- 317 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)03時52分15秒
- 本当によかった。
長かったけど、全然飽きなかった。
ひとえに、作者さんの文章力の高さ。
痛い系?の作品では最高峰の一つ。
いや、モー小説全体でもトップレベルだ。
短くてもいいから、すぐじゃなくてもいいから
次回作があるといいな。
- 318 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)04時47分41秒
- 作者さん、お疲れ様でした!!
いや〜、マジで名作ですよ!!
いちごまは結構名作揃いですけど、その中でもかなり上位になるのではないでしょうか。
長い間本当に素晴らしい小説をありがとうございました。
- 319 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月15日(木)08時08分58秒
- まずはこれだけの大作連載お疲れ様でした。
そして、素晴らしい作品を読ませて頂き
ありがとうございました。
特に終了間際の二人のやりとりがずっしりと
胸に響きました。また、機会があったら書いてください。
本当にありがとうございました。
- 320 名前:名無し読者 投稿日:2001年11月16日(金)04時26分57秒
- 誠に御疲れ様でした。
心の底からなんど震えるほど感動したことか。
いまはただ、この大作に出会えた
ことと作者さんに感謝の気持ちで一杯です。
- 321 名前:再びお礼。 投稿日:2001年11月16日(金)17時24分22秒
- レスありがとうございます。
>>313
多分仲いいと思います。と言うかそうあってほしいなって感じです。
お仕事がんばってください。
>>314
読んでくださってありがとうございます。感動したって言う言葉が
こんなに嬉しいものだとは思いませんでした。こちらこそありがとうございます。
>>315
315さんの読んでいる姿を想像してしまいました。こんなお話でしたが、
そう言ってもらえると、本当に書いて良かったなと思います。ありがとうございます。
>>316
長い話、一気に読んでもらったそうでお疲れ様です。
実際の娘さんたちの苦労は作者にはわかりませんが、まあ色々と大変だと思います。
ちなみに316さんは誰かと間違っているのかな? 作者は他には書いてません。
某所で言われていた、いちごま名作の方とは別人です。
- 322 名前:再びお礼。2 投稿日:2001年11月16日(金)17時27分21秒
>>317
実はこの話もっと短い予定でした。ただ途中色々と付け足していったら長くなって
しまって……飽きなかったと聞いて安心してます。
文章に関しては、本当に難しさを実感しました。読んでいただいてありがとうございます。
>>318
いちごまは本当に名作揃いですね。作者もそう言ったものを読んで書いてみたいと思いました。
長い間、こんな話に付き合っていただいてありがとうございます。
>>319
終了間際に関しては、書き始めたときから決めていましたので
そう言っていただいて安心しました。ありがとうございます。
>>320
ありがとうございます。やっぱり何らかの反応があると嬉しいものです。
こちらこそ、読んでいただいて感謝してます。
- 323 名前:感謝。 投稿日:2001年11月16日(金)17時47分52秒
- 容量もあるので、少しだけ作者の戯言。
当初、この話は短くて、こんなに暗くなる予定ではありませんでした。
もっとストーカーは誰だ? みたいなミステリーチック(あくまでもチック)
な感じでした。どうしてこうなったのか、作者もわかりません。
反省点も一杯ありますが、まあそれはそれでいいかと、今は思います。
市井さんもめでたく復帰して、CDが出る前に終わらせようと思いました。
なんとかそれが出来てよかったなと……。
次回作に関しては、正直何も考えていない状況です。でも書くなら短かくて(長いのは
疲れました)軽めな感じになると思います。
しばらくは、また一読者に戻ります。
最後に、本当に読んでくださった方に感謝します。
ありがとうございました。
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