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ペルセポネーU
- 1 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月02日(日)00時29分38秒
月板から移転させていただきました。
http://mseek.obi.ne.jp/cgi/hilight.cgi?dir=moon&thp=1000141061
前にも述べさせていただきましたが、2つほど読者の方々に申し上げておきたいことがあります。
1つ目に、この作品には、アレンジをしていますが、元ネタとした作品が2つあります。
2つ目に、現実に存在する建物や地名、人物名などが登場しますが、フィクションであり、一切の関わりがありません。
以上の点を踏まえていただきまして、どうぞ楽しんで下さい。
- 2 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月02日(日)00時44分50秒
- 移転し最初に、番外編を載せるというのはおかしな話ですが、今後の話の構成上、「犯罪者は国境に逃げる」を掲載します。
この話は上記に提示した2つの元ネタとは別のネタを参照としました。
知っている人が見ると、そのままに感じるかもしれませんが、出来るだけのアレンジは加えたつもりです。
それでも不快に思われた方がいた場合は、削除願いを出しますので、レスでお知らせ下さい。
と、堅苦しい挨拶ですが、番外編ということもあり、少々遊んでます。
今まで全くなかった濡れ場(?)も用意していますので、どうぞ楽しんで下さい。
- 3 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月02日(日)00時46分20秒
松浦亜弥が車を止めると、すぐに黒色肌の子どもたちが手を差し延べながら群がってくる。亜弥は笑顔を振りまきながら車から降り、眩しそうに目を細める。サングラスをしていてもメキシコの照りつけるような日差しは、十分に厳しい。
亜弥は子どもたちの間を抜けるように歩き、待ち合わせ場所であったバーの名前を確認する。まるで西部劇の舞台にでもなりそうな古びたバーで、今時珍しい押し扉の向こう側からは、昼食時の騒がしさが漏れ聞こえてくる。
出入口前には木椅子に座り、テンガロンハットを目深に被った人物が、暢気に昼寝を楽しんでいた。椅子が揺れるたびに床板が軋み、嫌な音を立てている。近くに置かれた丸テーブルには銀メッキ製のスキットルがぞんざいに放られており、そのテーブル下には日差しを避けるように犬が身体を丸めながら眠っていた。
- 4 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月02日(日)00時48分20秒
本当にこの場所が指定された場所かと亜弥は訝しがるが、取りあえず中へと入ってみる。亜弥が中へ進むと、一瞬、客席の声が止み、視線が注がれてくる。だが、それも一時のことですぐに店内は騒がしさを取り戻した。、Tシャツに短パンだけであったり、あるいは上半身裸の男性客ばかりが店内にひしめいている。一部の好色そうな男性たちは、亜弥のショートパンツから伸びた細い足などをじろじろと見ながら、下卑た笑い声をあげる。
亜弥はサングラスを取り、店内を見回してみるが目的の人物はいないようだ。亜弥は溜息を吐くと、カウンター席まで歩き、空いている席に腰を下ろす。店内は昼食時ということもあり、食欲を誘う香りが漂っている。
「…注文は?」
シェーカーを振っていた白髪の老人が、亜弥に訛のある英語で話しかけてきた。シャツにジーパンといったラフな格好で、見える素肌はあざ黒く染まっている。
「…コークを」
言ってから亜弥は、はっと口を押さえる。ついつい、日本にいるときの癖でコークを頼んでしまった。カウンター席に座っていた他の男性客たちが、わざとらしく騒ぎ立てる。老人も呆れたように亜弥を見やったが、グラスを取り出すと中に氷を入れた。
- 5 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月02日(日)00時49分25秒
老人が静かに置いたコークを亜弥はむくれながら見つめた。格好良く決めていたのに一言で台無しである。亜弥はコークを一気に呷った。炭酸が喉に絡み付き、頭につんと冷たさが響く。
「よう、お嬢ちゃんは中国人かい?」
屈強そうな男が亜弥の隣の席に座ってきた。後ろの丸テーブルから野次が飛んでくる。亜弥は答えずに相手をやぶにらみする。男は戯けたように肩をすくめて、後ろの連中を煽った。
「ここはコーク好きなお嬢ちゃんが来るような所じゃないぜ。コークが飲みてぇならファーストフードにでも行って飲むんだなぁ。それとも男をあさりに来たのかい?」
すぐに囃し立てるような笑い声が店内に広がった。老人は我知らずといった風に、シェーカーを無言で振っている。
「……この人を捜してるの」
亜弥は男の挑発に乗らずに、ハンドバックに入った写真を男に見せた。男は興味深げに覗き込むがすぐに笑い出した。
「ははぁ、男じゃなくて女の方か。それなら路上だ。いくらでも身売りをしたい女がいるぜ。まぁ、女を相手してくれるかどうかは知らねぇけどな」
男の言葉に笑い声が爆発した。
- 6 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月02日(日)00時50分36秒
亜弥はにこりと微笑んだ。そしてコークの入ったグラスを手に取ると、それを男に向かって投げかける。男は唖然としたように自分の姿を見下ろした。白いTシャツはびっしょりと濡れ、髪からはコークが垂れ落ちる。他の客たちも何事かと注目したが、すぐに笑いが再発した。男は憤慨をしたように顔の色を赤く染めていく。
「下卑た考えしかできないなんて、動物以下ね。‥いくら?」
老人がちらりと亜弥に目をやると、金額を伝えた。亜弥はコークの代金を置く。
「このアマ!」
男が腕を振り上げた。亜弥はそちらを見ると、ハンドバックに手を入れた。男の手が亜弥の寸前で止まる。
「こんな下らないことで死にたいの?」
亜弥は相手の腹部にベレッタM92Fを押し当てていた。相手は急に萎縮したように曖昧な笑みを浮かべながら、亜弥の隣の席から移動をした。店内もこの少女が銃器を持っているとは思いも寄らなかったようで、水を打ったように静かになっていく。
- 7 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月02日(日)00時51分59秒
- 亜弥は鼻を鳴らすと、ベレッタをハンドバックの中に仕舞った。それから写真も仕舞おうとすると、老人に手を止められる。
「こいつを捜しているのかい?」
「知ってるの?」
亜弥は老人に写真を手渡した。
「知ってるも何も店の前にいただろ。用心棒だって雇ったけど、寝てばかりの役にたたない穀潰しだがね」
忌々しげに老人は写真を亜弥に返すと、亜弥が置いたペソを拾い上げると、再びグラスを磨くために所定の位置へと戻っていった。
- 8 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月03日(月)00時09分01秒
亜弥は表に出た。午後の日射が亜弥の目を焼く。入り口横には来たときと同じようにテンガロンハットを被った人物は椅子に座り、のんびりと昼寝をしていた。足下の犬が亜弥の気配にぴくりと身を震わせたが起きる様子は見られない。
「市井‥紗耶香さんですか?」
亜弥の声に眠っていた人物は物憂げに帽子をあげた。そこには、すっきりとした輪郭に大きな瞳の女性が、ぼうっと亜弥のことを見つめ返してきた。ストライプの入った半袖シャツに深めの青ジーンズを穿き、足を前にある手摺りに掛けていた。
「……誰あんた?…なんであたしの名前知ってんの」
紗耶香は身体を伸ばすと、まだ眠そうに欠伸をした。
- 9 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月03日(月)00時11分13秒
すると椅子のバランスが崩れ、紗耶香は慌てたように身を動かしたが、時遅く木板に打ち付けられるように転がった。犬は異変に敏感に反応し、すぐにその場を立ち去ってしまった。衝撃が思ったよりもあったのか、紗耶香は腰の辺りを押さえながら痛みに口をぱくぱくと動かす。亜弥は呆れた返ったように紗耶香を見ながら、ハンドバックの中から手紙を差し出した。
「日本から来ました。松浦亜弥って言います。市井さんに仕事を手伝ってもらえってたいせーさんに言われて」
苦痛の表情の紗耶香は亜弥から手紙を受け取ると封を乱暴に破き、中身に素早く目を通した。それから納得したように紗耶香がにやりと笑った。
「……オーケー、分かったよ。よろしくね」
紗耶香が手を出してきた。亜弥は紗耶香に頼りなさを覚えながらも、渋々手を握った。
- 10 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月03日(月)00時12分43秒
亜弥はシートに持たれながら、退屈そうに流れていく広野を眺めていた。空港で借りたレンタカーは、そこら辺がべこべこにへこみ、エンジンの回転数を上げると低い悲鳴のようなうなり声が聞こえてくる。
隣の席にはぼろぼろのシートに、ゆったりと座った紗耶香が運転をしている。古びたラジオからは男性歌手のしゃがれた声が割れながら聞こえてきて、紗耶香はそれに合わせるように鼻歌を歌っている。
外はどこまでも直線路が続き、後は何もない。ただ荒れ果てた土色の大地だけが広がっている。これほど何もないとついつい道路脇に等間隔で並ぶ電信柱が愛おしく感じることが出来る。時折見える街道沿いの店は本当に営業をしているのか疑わしい。
車が切り込む熱風が車内に入り込み、亜弥の黒髪や顔を撫でていった。亜弥は乱れる髪を強引に押さえ込みながら、ハンドバックの中から紗耶香が写ったものとは別の写真を取り出した。
そこには高級そうなドレスを身に纏った少女が、両親に囲まれてにこやかな笑みを浮かべていた。
- 11 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月03日(月)00時16分56秒
亜弥がたいせーから仕事の依頼を受けたのは一週間ほど前のことである。日本でも屈指の賞金稼ぎである亜弥は高額の依頼しか受けないことで有名である。先日も半島が送り込んできた工作員を8名ほど捕まえて、ますますその名は上がり、鰻登りに仕事が増えていった。
そんなときに、情報屋で常にサポートをしてくれているたいせーから、メキシコに飛んでもらいと言われた。てっきり休暇をもらえるのかと期待をしてしまい、電話に向かって喜びの悲鳴を上げてしまった。
だが、世の中はそれほど甘いものではない。誘拐されて行方不明になっている現職大臣の娘を救い出してもらいたいという、れっきとした仕事の依頼であった。メキシコにまで出張して仕事をしてくれ、とはずいぶんと国際的な話だと皮肉を言っても、たいせーは聞いた様子もなく、結局亜弥は反論の余地なくメキシコに送られてしまった。
その際、たいせーが現地案内人として名を出してきたのが市井紗耶香である。何でも古い付き合いがあり、それなりに腕も立つらしい。強制ではなかったが、たいせーの顔を潰すのも気が引けるので会うことにしたのだ。
- 12 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月03日(月)00時18分15秒
亜弥はそっと隣に座る紗耶香を観察する。短く大ざっぱに切られたブラウンの髪に、形よく盛り上がっている眉はどこか男っぽい印象を与え、亜弥とはまるで正反対に位置するような感じだ。アーモンドのような目に、血色のよい小さな唇。肌は日に焼けたのか薄黒く、化粧をしたらずいぶんと愛らしい姿になるのではないかと思わせる。
先ほどの間抜けぶりといい、余り期待は出来そうはない。特にぴんとくる気配を持っているわけでもなく、飄々としていて掴みづらい人間そうだ。1人で仕事をこなすことが好きな亜弥としては、紗耶香の手を借りるのは自分の美学に反することであるが、見知らぬ地で仕事をするときは現地に慣れた人間がいた方が何かと助かる。利用できるものは利用させてもらうのが、この商売の鉄則である。
- 13 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月03日(月)00時20分11秒
「うん?何?」
紗耶香が亜弥のじろじろ見る視線に気が付いたのか横を向いた。
「…いえ、別に」
亜弥は慌てたように紗耶香から視線を外し、前方を見た。
「何だよぉ、気になるじゃんか。このこのぉ」
紗耶香がふざけたように亜弥の脇腹をつついてくる。
「ち、ちょっと市井さん、ふ、ふざけないで下さいよ。ちゃ、ちゃんと前を……」
亜弥が全部言葉を言い切るよりも早く、身体中に衝撃が走った。突然のことに紗耶香も呆然としたように、前方のバンパーから立ち上る白煙を眺めていた。
- 14 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時46分20秒
「いやぁ〜、参った、参った。やっぱり前方不注意かなぁ。日本の教習所で習ったときもちょっと横向いただけで車ぶつけちゃったことがあってさ。教官から『車は見ている方向へ動くから』って何回も注意されたんだけどね。やっぱシートベルトは命の恩人だよね」
紗耶香は跳ね上がったバンパーの中を調べながら、言い訳がましく亜弥に話しかけてくる。亜弥は石ばかりの荒野に腰を下ろしながら、煙を上げている車を膨れっ面で見つめながら、何度目になるかも忘れるほどの溜息を吐いた。
「ダメだこりゃあ。あたしの手には負えないよ。近くにある家まで行って電話貸してもらおう」
紗耶香は開き直ったように車の横っ腹を蹴りつけると、にこやかに亜弥に声を掛けてくる。
「これ、あたしが借りたんですよ。ちゃんと修理代を出して下さいね。それとこの電信柱の修理費も」
亜弥は立ちながらショートパンツに付いた砂を払った。
- 15 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時47分19秒
「冷静だなぁ。大丈夫だよ。領収書を持ってけばたいせーさんが払ってくれるから。だいたいあたしは金なんてほとんど持ってないんだよ。その日その日がやっとの生活なのにさぁ、払えるわけないじゃん」
悪びれた様子もなく紗耶香が亜弥の膨れた頬をつつきながら言った。亜弥は余りの気楽さに、怒りを通り越して呆れてしまった。よくも、たいせーはこのような能なしを紹介してくれたものだと別の方向へと怒りが沸き上がる。
「あ、怒った?ちょ、ちょっと待ってよ。別にあたしだって悪気があったわけじゃないんだからさ。事故なのにそんなに怒らないでよぉ」
先に歩き出してしまった亜弥に弁明をしながら、荷物を拾い紗耶香が付いてくる。
「……それで近くの家までどのくらいあるんですか?」
亜弥がようやく脇に並んだ紗耶香に聞いた。紗耶香は考え込むような振りをして、どこまでも伸びる直線路を見る。
「う〜ん、この道だとあんまり車が通らないからなぁ。まあ、10キロ圏内にはあると思うけど…」
紗耶香の言葉に亜弥は息を飲み、恨みがましく紗耶香を睨んだ。
- 16 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時48分25秒
歩き始めてもう1時間近く経ったであろうか。全身から流れ落ちる汗が亜弥の着ているTシャツを濡らし、喉はからからに渇いている。一向に日差しが弱まる気配もなく、日差しを避ける場所もない通りでただ足の動くままに2人は歩を進めた。紗耶香の方は帽子を被っていることと、この土地での暮らしが長いためさほど堪えた様子もなく、暢気に口笛を吹きながら歩いている。
亜弥はペットボトルに入った水を一口含むと、それを舌で転がし味わいながら喉に流し込む。歩きながら、もしかしてこのまま野垂れ死んでしまうのではないかという不吉な予感が何度も頭を過ぎるのだが、ここは砂漠ではないのだ。必ず民家があるはずである。それに紗耶香の脳天気な姿を見ていると、自分が真面目に考えていることが馬鹿らしく思えてきて自然と元気づけられてくる。
「そう言えばさぁ、亜弥ちゃんって日本じゃ有名な賞金稼ぎなんだよね。たいせーさんの手紙に書いてあったけど、結構凄いんだって?」
「…そうですけど……」
亜弥は喉元を過ぎる汗を拭いながら答えた。
- 17 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時50分03秒
「ふ〜ん、最近の日本じゃ、こんな小さい娘まで銃を握って商売をしてるのか。これじゃあ、日本の警察官も大変だよね」
紗耶香が感心をしたように、亜弥をまじまじと見つめてくる。紗耶香の深い鳶色の瞳を見ていると吸い寄せられそうになる。
「でも、時折その警察からも仕事の依頼が来ますけどね」
亜弥は皮肉めいて言う。自分は殺しを仕事にしているわけではないのだ。確かに殺し専門の仕事人もいるが、自分はただ指名手配をされた人間を捕らえて金銭を得ているだけで、銃は自分の護身用に持っているに過ぎない。その点を勘違いされるのが亜弥としては気にくわないのだ。
「別にそんなにむきにならなくたっていいじゃない。悪意があって言ってるわけじゃないんだからさ。ただ大変ねっていう世間話よ」
紗耶香が子どものように拗ねてみせた。
「亜弥ちゃんのことは殺し屋だとは思ってないよ。だって今回の依頼だって、ええっと……」
「新垣里沙。新垣厚生労働大臣の13歳になるお嬢さんです」
「あ、そうそう。その娘を探すだけでしょ」
紗耶香がテンガロンハットを脱いで、熱そうに自分を扇いだ。生温い風が亜弥の方にまで送られてくる。
- 18 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時51分34秒
-
「あのですね、依頼のことはその手紙に書いてなかったんですか?新垣里沙ちゃんはアメリカのカリフォルニア州に在住してて、母親と出掛けたときに、男女2人組の強盗に襲われて連れ去られたんですよ。つまり里沙ちゃんを救い出すっていうことはその強盗とも対峙しなきゃいけないってことになるわけです。分かります?」
亜弥は不機嫌そうに頬を膨らませると、事件の概要について説明をした。
「その強盗たちが里沙ちゃんを連れて国境を抜けて、メキシコに入ったと情報がありました。それであたしが穏便に解決するために送られて来たんです」
「……ねえねえ、何でそんなに頬を膨らませるの?もしかして癖?」
紗耶香は面白そうに何度も亜弥のほっぺたを撫でた。ひんやりとした手の感触が心地よさを与えてくれ亜弥は一瞬至福の表情を浮かべたが、はっとしてすぐに紗耶香の手を払った。
「あたしの話、聞いてましたか!」
亜弥は疲れと暑さにすっかり思考回路がやられてしまい、ただただ不機嫌さだけが立ち上ってくる。
- 19 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時52分57秒
「そんなに大声出さなくったって大丈夫だよ。ちゃんと聞こえてるって」
紗耶香はうるさそうに耳を押さえると、気にかけた様子もなくにやりと笑った。普段は冷静であることを心がけている亜弥だが、紗耶香といるとどうも自分のペースが崩される。
「要するに、そのボニーとクライド気取りの強盗から新垣っていう日本人の女の子を助けりゃいいわけでしょ。簡単じゃない」
紗耶香はテンガロンハットをくるくると回すと頭にのせた。
「ボニーとクライド?」
「あれ、知らないの。『俺たちに明日はない』って映画。そこに出てくる男女の強盗よ。行く先々で民家の人たちを殺害してお金とか取ってるの。ああいう半端物に憧れるのっていつの時代もいるからねぇ」
紗耶香がどこか遠くを見ながら、感慨深そうに呟いた。
「メキシコっていうのも、犯罪者はメキシコに逃げるもんだって決めつけてるんだろうね。最近の若い奴らは悪い映画の見過ぎだよ。って、亜弥ちゃんはこういうの知らない?」
亜弥は全く聞いたことがなかった。だいたいそれでは自分を何かに見立てて行動しているようで、まるで子どもの遊びのようにも感じられる。
- 20 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月04日(火)00時54分10秒
「駄目だなぁ。拳銃持ってるんだからちゃんと見とかないと」
紗耶香が呆れたように亜弥の頭を撫でてきた。何だか癪に障る態度である。亜弥は紗耶香の手を払いのけた。
「‥市井さんは西部劇オタクなんじゃないですか。だからメキシコに住んだりとかして……」
「オタクって言うな。あたしはマニアなの。そこら辺のオタクと一緒にしないで欲しもんだね」
特に自慢できるようなことではないのだが、紗耶香が胸を張って威張る。亜弥は頭を押さえながら深々と溜息を吐いた。
「あれ?あ、あれパトカーじゃない?」
紗耶香が遠方にどうやら車体の影を見つけたようだ。思い切り腕を振り始めた。亜弥も頭を上げてそちらを見る。そこにはパトランプを乗せた白い車が、粉塵を上げながら走ってきた。
- 21 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月05日(水)00時43分06秒
里沙はシャワーに打たれながら、鏡に映る自分の顔を改めて確認した。小顔に合わせるような顔のパーツと、三つ編みの微かに赤茶げた毛。肌は今まで十分に気にかけていたため、どこも日に焼けていない。まだ未発達の乳房の上を水が流れ落ち、自分の身体を伝うように排水溝へと向かう。にっと笑ってみると前歯が主張するように出てしまい、少し気にくわない。だが、それ以外は自分でも結構な可愛い姿であると思える。
シャワー室の隣からは女性の喘ぎ声が聞こえてくる。最初の頃はあまりにもうるさく眠るのも一苦労であったが、今ではすっかり慣れてしまった。
誘拐者たちは自分には絶対に手出しをしてこなかった。殴ったり蹴ったりすることで自分の商品価値が下がるとでも考えているのだろうか。
- 22 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月05日(水)00時45分04秒
男の方が一度里沙に襲いかかろうとしたが、女に止められて未遂で終わっている。その夜はさすがに屈辱的な気分に陥り、何度も逃げ出そうかと心が揺らいだ。だが、この未知の地で1人になることは得策とは言えない。結局、里沙は屈辱に耐えながらここまで旅を続けてくることになってしまった。
余りにも警察たちの手が遅いので里沙は何度も唇を噛みしめた。日本ほどの捜査力は期待していないとしても、このチンピラを発見することができないのは警察の職務怠慢としか言えないだろう。
里沙は髪を留めていたゴムを解くと、ばさりと髪が広がる。ここ数日間は風呂にも満足に入ることが出来なかった。久しぶりに浴びることの出来るシャワーは旅の疲れと共に、自分の汚れも祓ってくれるような爽快さがある。里沙はゆっくりと自分の手で自分の身体を撫でていく。自分の身体のことは自分が一番よく知り尽くしている。やんわりとした手の感触がなによりも心地よい。ゆったりと全身に快感が走り抜けていく。
- 23 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月05日(水)00時45分51秒
激しく雨が降り出したのか、シャワーの音に交じって地を叩く雨音が響く。時々小さな窓から稲光が見え、その後に鋭い轟音が辺りを揺るがせる。隣の部屋の男女の声が一層に激しく、息も絶え絶えに燃え上がる。
里沙は身体を愛おしそうに抱きしめながら眼前の鏡を虚ろな目で見つめる。鏡に映る自分の頬は上気し、恥ずかしさを隠すように照れ笑いを作っていた。
もうこのような旅生活にも疲れてきた。いつまでこんな生活が続くのであろうか。里沙は一息吐くと、シャワーから垂れ落ちる水粒に手を差し出して、散っていく様をじっと眺めていた。
- 24 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月05日(水)00時46分56秒
パトカーは4人も乗っていれば狭さを感じる。亜弥と紗耶香は後ろの座席に腰を下ろしながら、夕闇の迫り始めた荒野を窓越しに眺めていたが、前触れもなく東の空から迫ってきた暗雲が辺りを覆い尽くし、やがて激しく雨が降り始めた。パトカーの窓を激しく打ち付ける雨粒はやげて外を見るのも困難にしてしまい、運転席に座っていた黒人の男性が何やら罵倒の言葉を吐いた。
「助かったよ。あのままだったら雨に打たれて風邪ひいてただろうし。やっぱり警察官ってこうじゃなくちゃね」
紗耶香は助手席に座っている禿げ上がった男ににこやかに話しかけている。男も気さくな人物らしく、紗耶香とのやり取りを楽しんでいるようだ。
- 25 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月05日(水)00時48分21秒
煙草の匂いが車のシートの染みついているのか、強い匂いが亜弥の鼻をくすぐり、何度かくしゃみをしてしまう。その姿を見るたびに紗耶香と男は可笑しそうに笑う。亜弥はすっかりむくれてしまい、いつものように頬を膨らませた。するとますます笑い声が高くなった。
「それにしてもよかったな。この辺りには何でも2人の強盗が人質をとって潜んでいるって話だ。そいつらは何でも行く先々で民家の人間を殺しながら進んでるらしい。とんだ殺人狂だ」
禿げた男は自分の頭をぺしぺしと叩きながら話した。思わず亜弥と紗耶香は顔を見合わせた。
「そいつらって何処にいるの?」
紗耶香が尋ねる。
「いやな、その件で俺たちも捜査に出たんだが、結局無駄骨だったよ。その帰り道にあんたたちを拾ったってわけさ。なんだ、そいつらに何か用事でもあるのか」
男は自分で言った冗談に笑っている。
- 26 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月05日(水)00時49分12秒
「うん?まぁね。うちら賞金稼ぎと探偵のコンビだからさ。探してるんだよね」
紗耶香がにやつきながら、禿頭の警察官に腰に下がった銃を見せつけた。男は亜弥と紗耶香を交互に見ながら、何度も目をしばたいた。それから豪快に笑い出す。
「日本って国はあんたらみたいな女が賞金を稼いでるのかい?まるでアマゾネスだな」
「日本の男ってだらしがないからねぇ。あたしらみたいな女が頑張ってるんだよ。だから、2人組を見つけたらあたしたちはライバルになるからね。よろしくっ」
紗耶香は手を差し出して禿頭の手を握る。男は何度もオーケーと言いながら、小馬鹿にしたように笑い続けた。亜弥は紗耶香を横目に見ながら、窓の外へと目線をずらして、深々と溜息を吐いた。
- 27 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月06日(木)01時56分04秒
「マイケル、あっちの方に明かりが見えるぞ。あの家なら電話ぐらいあるだろう」
運転をしている男は、厄介者の2人を早く下ろしたいのか遠方に輝く明かりを指さした。辺りには他に明かりがなく、人がいると思われるのはその家だけであろう。
「何だ。ボブ、そんなにルイーザに会いたいのか。おい、聞いてくれよ。こいつはなぁ、先日結婚をしたばかりで、女房の膝が恋しくて堪らないみたいなんだよ」
マイケルと呼ばれた禿げた男はからかうように言うと、運転中の男はむきになって言い返す。
「あ、でもいいよ。あたしたちだってあんまり故障した所から離れ過ぎちゃうと困るし、それにあんまり迷惑かけたくないしね」
紗耶香が同意を求めるように亜弥に声を掛けてきた。亜弥は急いで首を上下に振る。
「そうですよ。あんまり気にしないで下さい。あたしたちは電話があるところで下ろしてもらえれば、それで十分ですから」
「日本の賞金稼ぎがどの程度のものか見せてもらえるかと思ったんだがな」
マイケルは残念そうに肩をすくめると、運転席の男に明かりの灯っている家に向かうように指示をした。
- 28 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月06日(木)01時57分54秒
家は辺りに何もない場所にぽつんと寂しく建っていた。周りは多少木々が生えそろい、雑草もぽつんぽつんと葉を伸ばしている。運転手のボブが車を道ばたに止めると、亜弥と紗耶香、それにマイケルが説明のために車から降りた。
雨は止むことなく一層激しさを増し、3人は濡れないように出入口の前まで走り込む。小さな雨除けに3人も並ぶと手狭である。横の窓にはカーテンが引かれはしているが、薄い光が漏れ出ているため人がいるのだろう。マイケルが呼び鈴を押した。まるで唇を震わせたような鈍い音がする。
「…静かだね」
紗耶香がぼそりと呟いた。亜弥も頷き、そっと自分のハンドバックに手を忍び入れる。マイケルは苛立たしげに再び呼び鈴を押した。
次の瞬間、銃声がして木製のドアから木片が弾けとんだ。マイケルは飛び退くと、素早くホルスタから銃を取り出し、ドアを蹴り開けた。亜弥もバックからベレッタを取り出した。
- 29 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月06日(木)01時59分30秒
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中は暗闇に包まれているが、明らかに人の気配はある。マイケルと亜弥はお互いにタイミングを計り、中に飛び込んだ。すると人の足音が聞こえ、続いてサブマシンガンが絶え間なく音を立ててくる。火明かりの向こうに見えたのは若い男性である。シャツをぞんざいに着込み、マシンガンをしっかりと固定しながら闇雲に撃っている。その後ろから補助をするように髪を乱した女性の影が見え隠れし、弾丸が床を削っていく。
亜弥はベレッタに取り付けられたレザーサイトを付ける。闇に一直線の赤線が走り、相手を捜し出す。亜弥はマシンガンから逃げながら、レザーサイトの光を男性の額に向けた。ぴたりと相手の額に目印を付けると、亜弥は引き金を引いた。弾丸が光に導かれるように、的確に相手の額を貫く。男は仰向けになりながら倒れ逝く。指がマシンガンの引き金に引っかかったのか、主無きマシンガンは1人で悲しく火を吹き続ける。
「1人目」
亜弥は銃口を振った。
- 30 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月06日(木)02時01分10秒
女性は恐怖に戦いたように、男性の影から走り出てきた。マイケルが弾が切れるまで撃ち続ける。中央階段の手すりなどを削るが、女性は上手く避けながら階段を駆け上がっていく。亜弥は女性のブロンドの髪にレザーサイトを向ける。赤い光点が弾頭の道を作りだし、亜弥はそれに従って弾丸を放った。女性は後ろから押されたように身を前に押し出しながら、階段途中で倒れた。
「2人目」
亜弥は再び敵の姿を探す。マイケルは弾倉を落として、換えの弾頭をセットした。すっかり形の無くなったドアの所には、銃声を聞きつけてボブが銃を構えながら来ていた。
「どうやら逃げてた殺人犯みたいだな」
マイケルが警戒しながら、階段に前のめりに倒れている女性の顔を確認して、亜弥に告げた。
- 31 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月06日(木)02時02分34秒
「じゃあ、ここに連れ去られた……」
「下にはもう誰も居ないみたいね」
何処へ行っていたのか紗耶香が、明かりのついていた部屋から姿を現した。
「何処へ行ってたんですか?」
亜弥はレザーサイトを消すと、呆れ果てたように紗耶香に尋ねた。
「えっ、だって電話借りるためにここに寄ったんでしょ。だから電話してきたの。大体の場所伝えておいたから、着き次第修理しておいてくれるって」
紗耶香は全く気にした様子もなくにんまりと笑いながら、亜弥に答えた。亜弥はあまりの暢気さに言葉を失った。
「ほら、ぼうっとしてないでさ。里沙ちゃんだっけ、探すんでしょ」
紗耶香は亜弥が出入口前に投げ捨てたバックの中から写真を取り出すと、亜弥の肩をぽんぽんと叩き、マイケルたちの所に行き、事情を話し始めた。
- 32 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時13分48秒
里沙は2階にあったシャワー室でマイケルにより発見された。隣の部屋には、蜂の巣になった家族の遺体が押し込められていた。すぐさまボブが署に連絡を取るため、パトカーまで走っていった。
亜弥が里沙の捕らえられていた室内を覗き込むと、服が乱雑に脱ぎ散らかされており、古びた革製のトランクのみを見ることができる。シャワー室からおずおずと出てきた里沙はクリーム色のバスタオルを身体に巻き付け、我が身をしっかりと抱きしめていた。
亜弥は写真で里沙の顔を確認する。少々やつれてはいるものどうやら当人で間違いはないようだ。顔は強張っているが、意外と慣れてしまったのか落ち着いてはいる。亜弥の後ろでは紗耶香が背伸びをしながら里沙を確認している。
「里沙ちゃん?」
亜弥はマイケルに付き添われるように出てきた里沙に問いかけると、こくりと頷いた。濡れた髪から滴が垂れ落ち、木の床に染みを作る。ずっと銃撃戦の最中、シャワー室に隠れていたのだろう。
- 33 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時15分32秒
「ついつい里沙ちゃんの裸見ちゃったんじゃないの?」
紗耶香が疑わしげにマイケルに言う。
「馬鹿言え。俺にはなぁ、家にちゃんと女房と愛する息子がいるんだぜ。それになぁ、こんな娘に近い女の身体になんか興味はねぇよ。それよりも、あんたは全然役に立ってないじゃないか」
マイケルが紗耶香に苦笑いを返しながら、亜弥に同意を求めた。明らかに皮肉っている。亜弥も緊張感が引いたためか、マイケルに同調するように紗耶香にふざけて膨れっ面を見せた。
「ひっどいなぁ、ここからがあたしの仕事だよ」
紗耶香が答えると、同時に銃声がした。マイケルが糸の切れたマリオネットのようにうつ伏せに倒れ込む。その向こう側には煙が立ち上る拳銃を持ち、無表情で2人を見ている里沙の顔があった。
亜弥は何が起こったのか思考を働かそうとしたが、紗耶香に横から体当たりをされて床に倒れ込んだ。銃弾が亜弥の立っていた背後の壁に突き刺さった。
- 34 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時16分30秒
- 亜弥は顔を見上げて紗耶香を見た。紗耶香は落ち着きを払ったようにリボルバー式のスーパー・レッドホークを構えて、里沙と対峙をしていた。里沙の手には2丁のデリンジャーが握られている。バスタオルはすっかり床に落ち、濡れた里沙の裸体が裸電球に照らされて妖しく光っていた。
「…まんざら馬鹿って訳でもなさそうね。あたしが誘拐されたんじゃないって知ってたのなら」
里沙の口元が不気味に歪む。その顔はとても13歳の少女のものとは思えないほど、凄艶なものであった。紗耶香も余裕のある笑みを浮かべた。
「せっかく交渉してやろうと思ったのに。…ガキの浅知恵なんてたかだか知れたもんだからね。強盗に襲われたときに偶然、観光客がビデオ回してて、あんたが母親撃ち殺すところ映ってたってさ」
亜弥は突然の展開に目を見開き、紗耶香の方へ驚愕の視線を送る。そんな話はたいせーから一度も聞いていない。だが、紗耶香はそんな亜弥の様子を知ってから知らずか言葉を続けた。
- 35 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時17分47秒
「幸運なことにあんたのパパは現職の大臣だ。警察とその観光客に大枚を積んで口をふうじてるよ。ビデオも買い取って破棄したってさ。どうする?パパの所に帰りたいって言うなら助ける約束になってるんだけど」
「なんでそんなことをしたの!」
里沙が気を損ねたように険しく顔を歪める。
「パパに反抗がしたかったんなら、もうちょっとマシな手を考えるべきだったね。現職大臣さんの娘が悪いお友達を煽ってお母様殺しを決行するなんていうスキャンダルは、マスコミの格好の餌食じゃない。それに行く先々であんたも殺ってたんでしょ。『現職大臣の娘が狂言誘拐!メキシコへの殺人旅行』なんて見出しが週刊誌に出ちゃうよ」
紗耶香は表情を変えない。しかし紗耶香の内側からは、今まで潜めていた鋭い殺気が周囲に放たれ、亜弥は身のすくむ思いがした。里沙は紗耶香の科白を聞きながら、それを鼻で笑った。
- 36 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時19分27秒
「あの女は死んで当然よ。あたしを玩具だっていった。だからお前の玩具じゃないってことを教えてやるために殺したのよ。あいつの死に際の顔は最高だったなぁ。…あの男も最低ね。日本に単身赴任してることをいいことに女を作ってるくせに、人前じゃいい父親なんか演じちゃってさ。でもまぁ、結構お金を持ってるから生かしてやってたんだけね」
里沙は左手のデリンジャーを亜弥へと向けた。亜弥は自分の銃を取り出す暇もない。
「でもさ、帰ってくるごとにうざったいんだよね。あっちこっちにおしどり夫婦ぶりを自慢したいみたいでさ。あたしに笑顔でいろって命令してくるの。それで、あたしむかついちゃってさ。ほら、あたしみたいに良い娘作ってると、誰でもあたしの言うこと信じてくれるでしょ。それに13歳の可憐な少女がまさか親殺しをするなんて誰も思わないし。だから警察に救出された後、錯乱した振りしてあいつの悪事をばらしてやろうかと思ってたんだけど……」
芝居じみた里沙の言葉が止まり、鋭い視線で紗耶香を睨み付けてきた。
- 37 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時20分30秒
「あんたがパパ、ママのことをどう思ってようとあたしには関係ないね。あんたが帰る気がないんなら、あたしはあんたを始末するだけだよ。パパは言ってたみたいよ。『娘は強盗に殺された』ってね。こんなパパだけど何か遺言は?」
紗耶香は相変わらずのからかい口調で里沙に尋ねる。里沙は怒気に満ちた瞳を見開き、それから何かを思い出したように、声を上げて笑い出した。
「外にいる警官はどうするの?あたしが保護されたのを見てんだよ」
「あっ、そっか。‥でも何とかなるっしょ。だから、心配してくれなくていいよ」
紗耶香は余裕を持ったように、ハンマーを右親指で立てた。
「…じゅ、銃を手放さなければこいつを殺すわよ」
里沙は紗耶香の殺気に押されたのか、一歩室内へと後退をした。先ほどまでの強気はどこかへ消え失せ、亜弥と紗耶香に向けられた銃口が震えだす。
- 38 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時21分38秒
「殺したかったら殺せば。でも言っておくけどあたしもこの娘もプロよ。プロならば潔く死ぬわけなんかないじゃない。きっとあんたを道連れにしながら死んでくれるんじゃないの?」
亜弥は紗耶香を唖然と見てしまった。それ以上に里沙は紗耶香の言葉にすっかり自分を見失ってしまっていた。怖気だったように亜弥から銃口を外し、2丁のデリンジャーは紗耶香に向けた。
紗耶香は躊躇うこともなくスーパー・レッドイーグルの引き金を引いた。激しい銃声がして、里沙の眉間に穴が空く。里沙は目を見開きながら仰向けに倒れていった。どさりと重たく鈍い音がして、里沙は木床の上に横たわる。じっとりと額から鮮血が流れ出てくる。恐怖と悲しみを湛えた目は閉じられることなく、汚れた天井をじっと見つめていた。
紗耶香は銃口にふっと息を吹きかけると、それを指で回しながら腰のホルスタに入れる。
- 39 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月07日(金)01時23分00秒
「ちょ、ちょっと市井さん。あ、あたしは何も聞いて……」
「敵を欺くにはまず味方からってたいせーさんの手紙に書いてあったよ。文句があるならあたしじゃなくてたいせーさんに言ってね。ほら、いつまで腰抜かしてるの」
紗耶香が亜弥の手を取ると立ち上がらせた。
「で、でも外にいる……」
「まぁ、たいせーさんに連絡をとれば、里沙ちゃんの駄目パパが助けてくれるよ。協力してくれなきゃ、里沙ちゃんの代わりにあたしが、そいつの悪事を暴いてやればいいわけだしさ。それに良いんじゃない。手錠を掛けてもらうなんて、そういう機会はなかなかないよ」
紗耶香は先に立って歩き出した。
「そ、それってあたしたち一度捕まるってことですか?ちょ、ま、待って下さいよ」
亜弥は一度後ろを振り返る。そこにはまだ目を見開いたままの里沙が横たわっていた。亜弥はそっとその目を閉じさせると、慌てたように紗耶香の後を追った。
- 40 名前:さるさる。 投稿日:2001年12月07日(金)04時06分16秒
- おもしろい。Tからずっと読んでますよ。
続きまってます。
- 41 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月08日(土)00時07分44秒
「どうしてたいせーさんは、あたしに依頼の話をちゃんとしてくれなかったんだろう」
亜弥は手錠の重さを腕に感じながら呟いた。開けられたパトカーの窓からは、冷まされた風が亜弥の頬を撫で、髪を踊らせる。流れるように雲は移動をしていき、その合間からは星たちの瞬きが光をもたらしていた。
「そんなに落ち込むなよ。こういうのって相手にも油断させておかなきゃ駄目だし、下手に口外されると依頼者も困るからね。その点では、まだたいせーさんに信頼されてないんじゃないの」
紗耶香は両手を上げて、テンガロンハットを直すと、そのまま亜弥の頭を撫でた。手錠が触れ合うたびに、耳障りな金属音が鳴る。亜弥は不服そうに頬を膨らませて、紗耶香の手を頭を振って払った。
- 42 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月08日(土)00時08分48秒
「これでもあたしは日本じゃ……」
「ほら出た。天狗になってるんじゃないの。日本じゃ凄いかも知れないけど、ここじゃあ、関係ないよ。そういう子どもっぽいところが、たいせーさんにまだ信頼されてないんだろうね。それに、さっきあたしがはったりをきかせたとき、あんた唖然としてたよね。死ぬ覚悟もないくせに信頼されたいなんて言わないでくれる」
亜弥は紗耶香の言葉に自分の科白を飲み込んだ。
運転席に座っていたボブが鋭い口調で2人の会話を注意してきた。紗耶香はちらりとそちらを見やると、窓に顔を張り付けるようにして、外に視線を持っていってしまった。
先ほどまで一緒に冗談を言い合っていたマイケルを殺されたのだ。気が立っているに違いない。亜弥が事の顛末を話そうとしたが、紗耶香はそれを止めて家の中を見てくるようにと言っただけであった。ボブが家屋から戻ってくると、紗耶香は黙って自分の銃を差し出した。マイケルを守れなかったことの紗耶香なりの償いなのかもしれないと亜弥は思った。
- 43 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月08日(土)00時09分54秒
亜弥はふと自分のことを思い返す。自分は、里沙に銃を向けられた時に死ぬ覚悟があっただろうか。それ以前の依頼でも命を考えて銃を握っていただろか。ただ、依頼を片付けていくことがだけが自分の中に積もっていき、それだけで満たされた気分になっていたのかもしれない。
鮮血に踊る美少女と亜弥は呼ばれることがある。どこかでその名に満足をしてしまい、依頼を始末さえしてしまえばよいという過信が生まれていたのかもしれない。それがたいせーに信頼をされきっていない原因なのだろうか。そのことを教えるために、今回の依頼で紗耶香というパートナーをつけてくれたのだろう。
- 44 名前:番外編 犯罪者は国境に逃げる 投稿日:2001年12月08日(土)00時12分02秒
「…まぁ、亜弥ちゃんは結構技術も持ってるし、運動神経も良さそうだから、そう簡単には死にそうにないけどね。……あ〜あっと、こっちの生活も退屈になってきたし、拘置所から出たら、そろそろ日本に戻ろっかな。たいせーさんからも戻ってこないかって誘われてるしなぁ」
紗耶香が急に亜弥に、にやりと笑ってきた。亜弥は驚いたように紗耶香を見た。すぐに亜弥は、それがあたかも自分の仕事に影響を与えるといったように頬を膨らませると、パトカーの窓から外を見やった。それでも亜弥は、自然と笑顔になっていく自分の顔を止めることはできなかった。
The end
- 45 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月08日(土)00時33分48秒
- ということで番外編は終了です。
最後まで読んで下された方々には、いつもながらの感謝です。
全く(?)ない組み合わせかな、と思いますが、本編で新垣嬢をどうしようかと迷っていた矢先に、市井嬢が復帰されることを知り、「これは!」と考えついた組み合わせです。
どうぞ愛でてやって下さい(w
次回からは本編に戻ります。第8話から最終話まで一応、話は一本になっていきます。
次の話は、飯田嬢と後藤嬢のお二人の視点から話が進んでいくため、主役の二人は登場しません。
徐々に色々なことが明けて来る予定になってます。
第8話「闇より引く手(前編)」は、まだ掲載日未定ですが、どうぞお楽しみに。
>>40
さるさる。さん。レスありがとうございます。
読んでいただいているだけで、嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
- 46 名前:さるさる。 投稿日:2001年12月08日(土)01時17分49秒
- やっとごっちん刑事の登場だ。
楽しみです。
- 47 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月13日(木)01時34分35秒
- >>46
さるさる。さん、いつもレスありがとうございます。
お待たせいたしました。後藤嬢が活躍(?)します。
とはいっても中盤以降に登場なので、楽しみにしていて下さいね(w
それでは第8話「闇より引く手(前編)」をお楽しみ下さい。
- 48 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月13日(木)01時36分05秒
つんくはサングラスを取ると、疲れ切った目を揉みしだきながら、持っていた書類を机の上に投げた。それから椅子を回すと、硝子張りの窓から外を眺める。外は風が強いのか、街路樹たちが枝をしならせながら、残り少なくなった葉を散らしている。
「つんく様、飯田圭織が面会をしたいとおっしゃってますが……」
ドア越しに秘書のアヤカの声が聞こえてくる。
「入れろ」
つんくは色つきのサングラスをかけ直すと、アヤカに命じた。
重々しい扉が開き、誰かが室内に入ってきた気配がする。つんくは椅子を再び元の位置に戻すと、そこにはそろそろと歩く圭織の姿があった。圭織はいつもと同じように白地の僧衣を着ていて、にこやかに笑みを浮かべ立っていた。
「こんにちは。いかがお過ごしですか」
「‥ぼちぼちやっとる。最近は安定しない政府の影響か信者が増えてきてるらしいな。お前こそどないや。相手するの大変やないんか」
つんくは机の上に乗るシュガレットケースから葉巻を取ると、口にくわえた。火がつくと細々とした煙が天井に向かい立ち上っていき、辺りにきつい匂いが染み渡る。
- 49 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月13日(木)01時37分47秒
「いいえ、私たちは心の拠となるだけです。彼らの話を聞き、彼らの心の内にあるものを少しでも解消させていくことができれば、それだけで私たちの存在意味があります。後は信者の方々が自分の形で修行や学習会を行っていけばいいのですから」
「相変わらずの自由形式か。‥新作のお札の売れ行きはどないや?」
「よく売れてはいるようです」
圭織はそれ以上は何も言わなかった。つんくは暗に圭織がやり方を批判しているのだと感じた。
「仕方ないやろ。俺らかて慈善事業でやってるわけやないんや。どこかで金は儲けなあかんし、そうやって今までやってきたんやからな。せやなきゃ、ペルセポネーなんて夢のまた夢やったんやぞ」
つんくは葉巻を灰皿に押しつけた。葉がこぼれ落ち、鼻にこびりつくような強烈な匂いに、胸がむかむかした。圭織は答えずに、ただ黙ってつんくに対して頭を下げた。
- 50 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月14日(金)01時41分02秒
『デメテル』は圭織が作った小さな宗教団体であった。つんくが友人の誘いで、偶然『デメテル』の会合に参加をした頃、圭織は短大生で、つんくは負債を抱えた無職者であった。
圭織やその他の信者たちは貧乏のどん底にいながらも、純朴に無償の愛を持って、新しい世界の構築を声高々に説いていた。
荒波に揉まれていたつんくにとって、それは全くの空論であり、一向に信じる余地もなかった。だが清潔な圭織が率いている宗教集団を上手く使えば、大衆を魅了することができ、金に換えていくことが出来るとほくそ笑んだ。
このご時世、人は救いを求めている。そして救いを与えられるのはこの団体だけだ、とつんくは心にもないことを語った。つんくのことを信頼したのか、圭織は活動は続けたいが資金がないと切々に悩みを打ち明けてくれた。そこでつんくはもっと売り込みに出るべきだと提案をして、自分の昔の繋がりを利用しながら、マスコミに『デメテル』を出していった。
つんくと圭織はすぐに時の人となった。圭織の人柄は人々から好かれ、つんくの商才はテレビで特集をされた。『デメテル』には信者が集まりだし、資金繰りにも困ることがなくなっていった。
- 51 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月14日(金)01時42分34秒
- つんくは巨大化した『デメテル』を組織化して統制を取った。
圭織には信者たちを相手にする宗教部門のトップに据え、つんくは宗教活動に関する商品などを企画する経営部門を担うようになった。他にも部門はあるが、つんくが仕切っており、自分の指示無しでは動かないようにしている。
つんくは海外に資金を回収する機関店なども作った。そのほとんどはカジノや風俗店のような娯楽施設であった。人手は信者に圭織の名前をちらつかせて調達することができた。当然、圭織の反対もあったが、「これも世間を知る修行や」とうそぶくと渋々ながらも圭織は納得をした。このこともあってつんくは世間知らずのお嬢の圭織を見下し、『デメテル』を私物化し始めた。
そして『デメテル』が軌道に乗り始めた頃、圭織がとある提案をつんくにしてきた。最初にその提案を聞いたとき、つんくはついに圭織が壊れたのかと思ってしまった。だが、一方でそれが自分の内に潜んでいたさらなる野心を燃え上がらせてくれた。
つんくは渋る振りをしながら圭織の提案を承認した。それが『デメテル』の第3部門、公には秘密にされ続けているペルセポネー機関の誕生である。
- 52 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月14日(金)01時43分53秒
「今日は何の用や。まぁ、ちょうどええことに俺もちょっとお前に話があったんや」
つんくは話題を変えるように咳払いをした。圭織から訪れてくるなど珍しい。
「はい、今日は鈴音からの要求を持ってきました」
「何や。また、金を入れろちゅう話か。先日も鈴音からは電話があった。あいつめ、待ちきれんようになって、飯田を寄越したわけか」
つんくは苦笑をしながら引き出しから小切手を取りだし、圭織の鼻先で振って見せた。圭織は興味がないのか微笑んだままである。
「こいつを鈴音に渡せ。金額は好きなだけ書き込んでええって言ってな。その代わり、ちゃんとした成果をださな、今後の資金援助はなしや、とも付け加えておいてくれや」
「鈴音にそう伝えます」
圭織は神妙な顔をしながら、つんくから小切手を受け取った。そしてそれを大事そうに僧衣の内にしまい込む。
「用はそれだけか?‥ほんなら次は俺の話や」
つんくは引き出しを閉じながら、圭織に対してやぶにらみをした。
- 53 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月14日(金)01時45分41秒
「‥愛の怪我、聞いたで。何でも訓練中に相手の実弾をもろに喰らって、そんで右脇腹に大怪我をしたらしいなぁ。気をつけるように言っときや。ほんで、愛の調子はどないや?」
「すこぶる元気のようです。訓練に熱中をしてしまっていて、相手の弾を避けることができなかったみたいですね。現在は研究所の医療室を出て、普段の生活に戻っています」
圭織は笑みを崩さずに答えた。つんくはその答えに満足ができなかったように、苛つきながら中指で机を叩く。
「ほんまに訓練中の事故やったんやな?」
つんくの念を押した質問に、圭織は躊躇無く頷いた。
「冗談も大概にせいよ。お前は俺を馬鹿にしとるんか!俺がペルセポネーには興味なんてないとでも思っとるんか!」
つんくは席を立ち、感情を爆発させたように怒鳴りつけた。
「何をそんなに怒っているのですか?」
圭織は耳にかかる髪を掻き上げ、にこりと微笑んだ。つんくは態度を変えない圭織を歯噛みしながら睨み付けた。
- 54 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月14日(金)01時47分13秒
「あくまでとぼける気か?」
つんくはまだ怒り覚めやらぬ様子で椅子を引き寄せると、身体を落とすように座った。皮のシートが柔らかくつんくの身体を受け止めてくれる。
「……愛の怪我ならば訓練中の事故です。それ以外のなにものでもありません。もし疑うのでしたら、愛を呼びしましょうか?」
「……ほんならええ。ならば、前に脱走したペルセポネー、確かあさ美やったな。そいつが見つかったことをどうして俺に言わんかった。俺は言ったな、見つかったら俺に情報を寄越せと…。それがどういうことか、この書類には、先月、愛と交戦した記録が書かれている。これはどういうことなんやろうなぁ。再教育を担当している飯田がきっちりと説明してくれんか」
つんくは机の上にある書類を手で叩くと、圭織に向かって投げつけた。それから2本目の葉巻を手に取った。それを指で弄びながら、圭織の様子をうかがう。
- 55 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月14日(金)01時48分13秒
- 圭織は黙って絨毯の上に広がる紙を拾いまとめると、小首を傾けながら、
「つんくさんの所へ上げる前に、私としても確認をしておきたかったのです。その後も情報を上げるつもりでしたが、忙しさにかまけてしまい、今日までお伝えすることを忘れてしまっていたのです。本当に申しわけありませんでした」
と柔らかい口調で言った。つんくは目を見開き、圭織を睨み付けた。
「……お前、一体何を企んどるんや」
つんくは低く響く声で圭織に尋ねた。
「さあ?おっしゃっている意味がよく分かりませんが…」
圭織はつんくに対して変わることなく丁寧な態度で接してくる。そのことがつんくには気味悪く思えた。
- 56 名前:さるさる。 投稿日:2001年12月14日(金)05時04分42秒
- おっ、愛は生きていたのか!
ちょっと安心(笑)
かおりんつんくにまけんなー。
続き楽しみ♪
- 57 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月15日(土)00時38分43秒
「なら、あさ美の件はこっちで動かせてもらう。愛かてまだ万全じゃないんやろ」
「ペルセポネー計画が発動できたのもつんくさんのおかげです。それを私に断るのはおかしいのではないですか」
圭織は書類を机の上に戻しながら、可笑しそうに言った。つんくは忌々しげに圭織を見やると、葉巻を口にくわえた。
「あさ美は状況によっては処理するかもしれへん。お前に一応確認しといたまでや。何せ抜け駆けをするほどお気に入りみたいやからな」
精一杯の皮肉であったが、圭織は特に気にかけた様子もなく、ただ楽しそうに笑っている。つんくはその余裕のある圭織の笑みを見て、舌打ちをした。もう一声怒鳴りつけようかとも考えたが、そんな子供じみた行為で自分を貶める必要などないのだ。今の自分は『デメテル』の事実上のトップだ。自分が支配下に置いている小娘相手にむきになることなどない。
「それではお話が終わったようなので私は失礼させていただきます。どうぞ、お体には気をつけて下さい。これからは寒くなりますからね」
圭織は丁寧に頭を下げると、部屋から出ていった。つんくは葉巻のくわえ、噛みしめると、苦々しげな顔をしながら受話器を手に取った。
- 58 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月15日(土)00時40分54秒
圭織は出入口前にある秘書室で、暇そうに口元を隠して欠伸をしていたアヤカに会釈をすると、アヤカも慌てたように頭を下げてきた。
圭織は笑みを浮かべたまま、ビルの通路を歩く。厚めの絨毯が敷かれており、圭織の足を一歩つづ丁寧に受け止めてくれる。圭織がエレベーターホールに到着すると、エレベーター前には白衣を着た女性が煙草を吹かしていた。
「…あっ、ねぇねぇ、どうだった?」
女性は圭織の姿を見つけると、いそいそと寄ってきた。圭織は黙って先ほど手渡された小切手を女性に見せる。それを認めると女性はにんまりと笑う。
「サンキュウ。助かったよ」
女性は圭織の手から小切手を奪い取ろうとしたが、圭織は持つ手を引っ込める。女性はお預けをくらった状態になり、不満げに圭織を見た。
「ちゃんと研究を進めるって約束をしてくれないとこれは渡せないわ」
「分かってるよ。私が圭織の期待を裏切ったことはないでしょ」
女性は隙を見て、圭織から小切手を奪った。圭織は煙たそうに煙草を相手の口元から取り上げる。
- 59 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月15日(土)00時42分01秒
「あれ、これ金額が書いてないよ」
「好きなだけ書き込んでいいそうよ。常識ある金額にしなさいね、鈴音。それと研究が今後進まないようであれば、資金援助もそれで打ち止めだそうよ」
鈴音と呼ばれた女性は、圭織の忠告を聞いた様子もなく、真面目な顔でぶつぶつ呟きながら、小切手の値にいくらを書き込むか悩んでいるようだ。圭織は軽く息を吐くと、エレベーターを呼んだ。
「いくら自分に回したの?つんくさんに随分資金援助を申し出てるみたいだけど…」
鈴音は内ポケットに小切手をしまい込むと、指を4本立てた。圭織は呆れたように頭を左右に振った。
「でも、それなりにちゃんと研究は進めてるじゃない。愛の件だって約束通りに2週間で動けるようにしたし、その後の再教育もしっかりプランを組んでやってるのよ。おかげで愛も今じゃすっかりよくなってるじゃないの」
鈴音は圭織が持つ短くなった煙草を取り上げると、携帯用の灰皿にそれを押し込んだ。
- 60 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月15日(土)00時42分51秒
「後は精神面だけね」
圭織は来たエレベーターに乗り込むと、鈴音も後に続いて乗ってきた。
「それは仕方ないよ。ペルセポネー研究を始めてから、今まで一度だって精神面の安定では成功したことないんだからね。あさ美が唯一先天的なもので成功に近い形だったのよ。なつみだって成功させることができなかったんだから、専門外の私じゃ倍時間がかかるね、きっと」
鈴音は階数を押すと、ポニーテイルにした髪を弄りながら言った。
「それは困るわね。期待してるのよ」
圭織は苦笑をもらした。
- 61 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月15日(土)00時47分24秒
- >>56
さるさる。さん、レスありがとうございます。
高橋嬢はまだ頑張ります。何せ負けず嫌いですから(w
- 62 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月17日(月)01時13分21秒
「つんくさんがあさ美の情報を得たわ。ペルセポネーを動かすみたい」
「ああ、それでユウキとソニンが用意されてたわけか。そっちは私の担当じゃなくて、つんくさん付きの和田さんの仕事だからね」
鈴音は壁に寄り掛かると、懐から煙草を取りだして、口で弄ぶ。
「そう、それでその2人はどの程度なの?」
「まぁ、初期のペルセポネーと違って、汎用型のプログラムを使用しているから、ただの強化人間と変わらないんじゃない。和田さんは初期参加者じゃないからね。あたしたちが作ったプログラム知らないし。それにつんくさんも知らないんでしょ」
鈴音の問いかけに圭織は首を縦に振った。
「それじゃあ、ただ薬を投与をして、それでペルセポネーって名前だけ付けてるだけだよ。おそらくは、愛とやり合ってもあの2人じゃ勝てないんじゃないの?だた、薬で相当やられちゃってるみたいだから、下手するとかなり暴れるかもしれない」
- 63 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月17日(月)01時14分34秒
鈴音はエレベータが止まると、先に降りた。圭織は鈴音の情報に満足をしたように、エレベーターを降りてきた。2人は並んでビルのフロアーを歩く。よく磨かれた御影石の床を歩く度に、心地よい靴音が鳴り響く。
「愛に手傷を負わせたあさ美ならば間違いなく撃退はできそうだけど、何せ異分子も紛れてるからね。それがどういう影響をもたらすか私には予測できないけど…」
「あさ美が、現在身を寄せている女性のこと?確か吉澤ひとみとかいう名前だったわね。今、その娘のことは調べさせてるわ」
圭織の問いに鈴音は頷く。
「でも愛の時の例があるからなぁ。愛が言ってたけど相棒のためにあさ美が切れたって。その時は本当に危なかったって言ってたから、意外とプラス効果を観ることができるかもしれない…。そこら辺のデータも採取しておきたいなぁ」
鈴音はライターを出すと、煙草に火を付けた。
- 64 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月17日(月)01時15分51秒
ビルの前にはリムジンが止められていた。質素な生活感を崩したくない圭織としては、余り気が進まないのだが、断ってもつんくがいつも用意する。そのため仕方なく使用している。
圭織が運転手に会釈をすると、老練の運転手はにこやかに微笑みながらドアを開けてくれた。圭織が乗り込むと、中には愛が退屈そうに膝に手をのせて待っていた。
「どう、調子は?」
圭織は愛の隣に座りながら尋ねた。愛は嬉しそうに顔を緩めながら頷いた。鈴音も乗ってきて、リムジンは走り出す。
「それはよかったわ。あなたには無理をさせてしまったものね」
「いいえ、そんなことありません。あさ美ちゃんに負けたのは私の力不足です。私が油断をしなければ」
愛は悔しそうに腕を振るわせた。鈴音は真面目な愛の態度を見て肩をすくめる。
「心を闇に飲み込まれてしまえば、あなた本来の力が出なくなってしまうわ。あなたは闇をコントロールできるようにならなければ強くはなれない。そのためにはちゃんと鈴音の言うことを聞いて、プログラムを受けなければ駄目よ」
圭織は愛の手を握ると、微笑みながらそう言った。愛は圭織の手の冷たさにびくりと身体を震わせ、恐る恐る視線を圭織に向けた。
- 65 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月17日(月)01時16分53秒
「プログラム…ですか」
愛は少々苦々しい顔をしながら、鈴音の方を見た。鈴音は流れゆく外の風景を見ながら、美味しそうに煙草をくゆらせている。
「…辛いのは分かるわ。だけどね、私はあなたに期待をしているのよ。あなたならば私が望んでいる理想のペルセポネーになることができると思っているのだから」
「‥でも、プログラムを受けると何だか私が私じゃなくなるような気がして……。あさ美ちゃんも言っていました。『自分を失いたくなかった』って」
愛が不安そうに圭織の顔を見つめてくる。圭織は目を細めながら、愛の視線を受け止めた。圭織が握っている手には自然と力が入ってくる。
「……私、分からないんです。飯田さんや鈴音さんの所にいて、ペルセポネーでいることが、私にとって正しいことですよね。‥あさ美ちゃんの方が間違ったことをしてるんですよね?」
鈴音が心配そうに圭織へと目を向けてきた。圭織は余裕のある目で鈴音を制すると、愛に対してにこりと笑いかけた。
- 66 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月17日(月)01時17分55秒
「愛はあさ美と同じ部屋で一緒に生活をしていたから、不安になってしまったのね。でもね、あなたはあさ美と逃げようとした時に、あさ美を撃ったでしょ。それはあなた自身があさ美のことを間違っているって判断したからではないの?」
圭織はやんわりとした口調で愛に問いかける。愛は言葉に詰まったのか、困った表情をした。
「そ、それは、‥あの時、私は何故だか分からないうちにあさ美ちゃんに銃を向けてて……。で、でも、決してあさ美ちゃんが憎かったりとかしたわけじゃなくて……。ただ、あさ美ちゃんが逃げちゃいそうで…。その‥何だか分からないうちに撃っていました…」
しどろもどろになりながらも、愛は必死に自分の心に散らばる想いを伝えようとしてくる。圭織はその愛の幼さが可笑しかったのか、優しく愛の髪に触れ、そっと撫でた。愛はますます身を縮める。
- 67 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月17日(月)01時19分11秒
「あなたを責めているわけではないのよ。元々あさ美は外で成長をさせようと思っていたの。だからあなたが気に病まなくてもいいのよ。時期が来ればまた、あさ美は私たちの所へ戻ってきてくれるはず」
圭織は息を継ぐように一度言葉を切った。愛が顔を上げてまじまじと圭織を見つめてくる。
「本当ですか。あさ美ちゃんが」
愛の言葉に節にはどこか喜びが含まれていた。圭織は微笑んで答える。
「あなたたちは世界を正しい方向へ導くために必要な人間なの。私がこの汚れきった世界を浄化したいと思っているということは前に話したわよね。私はあなたやあさ美に手助けをしてもらいたいの。そのためには心の内に巣くう闇を飼い慣らさなければならない。ペルセポネーとして愚かな人々に裁きを下すために……」
圭織はそう言うと、そっと愛を包み込んだ。真っ白なローブが愛の身体を覆い尽くす。愛は急なことに戸惑ったようだが、すぐに心地よさそうに圭織の身体に身を預けてきた。
「……身体はもう十分癒えたわね」
愛がこくりと頷くのを圭織は感じた。圭織は意味ありげな視線を鈴音に送った。鈴音は疲れたように息を吐くと、煙草を携帯用灰皿に放り込んだ。
- 68 名前:さるさる。 投稿日:2001年12月18日(火)00時49分18秒
- プログラム・・・恐いねぇ。
愛がこんなに可愛らしい子だったとは
あのあさ美との戦いからは想像できなかった。
そのギャップがまたいい笑
にしても、かおりが不気味で怖いですなぁ。
後藤デカの登場が待ち遠しいです。
- 69 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月18日(火)01時45分00秒
- >>68
さるさる。さん、いつもいつもレスをありがとうございます。
本当に嬉しい限りです。ペコリです(w m(_ _)m
今後ともどうぞよろしくお願いしますね。
それでは後半にいってみよう
- 70 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月18日(火)01時46分43秒
警視庁捜査一課はいつものように煙草の煙に包まれていた。後藤真希は香水を首筋に塗りながら、不満げに周囲に睨みを利かせる。しかし、普段からこの汚れきった空気にいることに慣れきった男性刑事たちは、特に気にかけた様子もなく慌ただしそうに駆け回っている。
真希は香水の蓋を閉じると、疲れ切ったように机に突っ伏した。先日起こった殺人事件の調査のために、今朝も早くから歩き回る羽目になってしまった。捜査が一段落して戻って来られたと思ったら、上司から書類を渡されてコピーをしてこいと命令された。不満げに頬を膨らませると、すぐに怒鳴り声が飛んできた。そのため憮然とした表情で、数百枚にのぼるコピーを終えて、ようやく椅子に座ることができたのだ。歩き続けた上に、コピー機の前に立ちっぱなしで、すっかり足はむくみ、節々が痛む。
「ああ、ベットで寝たい」
デスクマットに横顔を押しつけながら、呻くように真希は声を出す。ここ数日事件が重なり、真希は十分に家にも帰っていない。
- 71 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月18日(火)01時47分37秒
「後藤!何をさぼってる。先日の八王子の事件報告書がまだ出ていないぞ」
上司は休む間も与えてくれないようだ。後藤はゆるゆると身を立てると、気の抜けた返事をした。
「今、やってま〜す」
この軽やかな返答に上司は気分を害したのか、真希を睨み付けてきた。現場叩き上げの上司は、女性エリートの真希が気に入らないようで、常に目の敵のようになじってくる。真希は眉を寄せながら、報告書用紙にペンを走らせる。
「後藤。科捜研の稲葉から電話がかかってきてるぞ。2番な」
離れた場所に座っていた同僚が声をかけてきた。真希は礼を言いながら受話器を取り上げる。
- 72 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月18日(火)01時48分37秒
「もしもし、後藤です」
「後藤?この前、預かったもんなんやけど、あんたの考えてたとおりのもんやったみたいやな」
軽やかな関西弁が受話器から聞こえてきた。
「やっぱり」
真希は電話を受けながら、薄紅色のマニキュアを塗った指先を気にする。
「説明聞きたいやろ?ほんなら、今から科捜研に来いへん。今日は暇なんよ。話し相手が欲しゅうてなぁ」
「今から…。‥うん、分かった。これから行くよ」
真希は受話器を置くと、横顔に突き刺さるような視線を感じた。見ると上司が睨み付けている。
「後藤!お前、勝手に科捜研に何を頼んだ。前から言ってるだろ。捜査はな……」
「あ、ごめんなさい。ちょっと捜査に行ってきます」
真希は慌てたように立ち上がると、ハンドバックを手に取って、上司の制止も聞かずにいそいそと捜査一課を出ていった。
- 73 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月18日(火)01時50分10秒
真希はそっと科学捜査研究所と表示がされたドアを開けると、中には稲葉貴子が1人でコーヒーを啜りながら、雑誌をめくっていた。
警視庁科学捜査研究所内も捜査一課と同様に、壁にはヤニがこびり付き黄色く変色しており、並べられた机の上には書類が乱雑に積まれている。捜査一課と異なるのは、どの様に使用しているのか分からない機械が端に寄せられているところぐらいである。
「こんにちわぁ」
真希がそろそろと中に踏み込むと、貴子が手を止めて、悦ばしそうに手招きをした。真希は床にぞんざいに置かれた段ボールの間を縫いながら、貴子の側に近づいた。
稲葉貴子は大阪府警の科学捜査研究所に所属をしていたが、有能との名が伝わり警視庁への栄転となった。彼女の冷静で地道な分析は今までにも数多くの事件を解く役にたってきた。貴子は真希のことを妹のように可愛がってくれ、真希が時折、無理な相談をしても手を貸してくれたりもする。
派手な色のトレーナーに、汚れきった白衣を着用している。乱雑になった茶褐色の髪に、福耳にはアクセサリーが鈴なりに付いている。顔は肉付きがよいが、目元がどこか腫れぼったい。厚みのある唇には真紅のルージュが引かれていた。
- 74 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月18日(火)01時51分53秒
「ようやく来たんか。また上司に文句でも言われてたんやろ」
「へへへ、分かる?」
真希は照れ隠しをするように、髪の毛を掻き回した。貴子が席を立ち、準備をしていたのか、引き立ての豆を使ってコーヒーを入れてくれた。
「砂糖とミルクはそっちにあるから勝手に使ってええで」
「まったくむかつくんだよねぇ。あたしが別に何か悪いことをしたわけでもないのにさ、文句ばっかり言ってきて」
真希はビーカーに入れられた砂糖を2匙ほど掬うとカップに流し込み、かき混ぜ棒で掻き回す。真希は愚痴を言いながら、コーヒーの香りを楽しみ、カップに口を付けた。熱くほろ苦い液体が、真希の胃の中に流れ落ちていく。
「まぁ、後藤は狙われて仕方ないもんなぁ。何せ公務員試験を鉛筆サイコロ使って受かってきたんやろ。そんなんやったら、誰やって文句の1つぐらい言いたくなるもんやで」
貴子が自分のカップを手に取り、可笑しそうに言った。
- 75 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月18日(火)01時52分50秒
「そんな根も葉もない噂で、狙われたらあたしがたまんないよ」
真希はカップ口を指でなぞりながら、不服そうに頬を膨らませた。
「そんだけあんたが有名ってことなんやないの。今だけやで、上司から文句を言ってもらえるんは」
貴子が椅子に座ると、開いていた外国雑誌を閉じた。
「でも……」
真希は不満を口にしようとしたが、貴子の立てた人差し指に、真希はぐっと言葉を飲み込んだ。
「警察官ってのはな、時には命を損なうこともあるってことは分かってるやろ。せやったら、多少でも現場にいた人間の言うことはよく聞くもんや。いつか役に立つとも分からんやろ。…う〜ん、うちも結構ええこと言えるやないか」
貴子が勝ち誇ったように真希を見据える。真希は不満げに額に眉を集めると、回転椅子を回して貴子から顔を背けた。
- 76 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月19日(水)01時53分54秒
「そんなにへそを曲げとらんで、こっち向きや。今日はこれを聞きにきたんやろ」
貴子が真希の子供じみた行為を楽しみながら、2つのビニール袋を引き出しから取りだした。
「あんたが、先月の上野公園の事件で拾ってきた薬莢や」
真希は貴子から袋を受け取る。
「確か……組織から麻薬を盗んで逃げようとした男が、組織の追っ手に殺されたことになった事件やね」
貴子の問いに真希は頷いた。貴子は机からバインダーを引き出すと、そこに挟まれた書類を捲った。
「事件は一応組織の追っ手が手に掛けたってことで決着がついてるみたい。あたしは外されちゃったから分からないんだけど、容疑者はまだ捕まえていない。目星は大体つけたって聞いてるわ。でも…」
「でも?」
貴子が覗き込むように視線を上げた。
- 77 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月19日(水)01時54分57秒
「殺害された男性の恋人の女性が、上野公園の現場に倒れていたのね。それで病院に搬送されるときに『女の子が殺した』って言ってたらしいの。捜査本部は事件後の精神錯乱状態と見なして、すぐにその線は切ったけど…。警察病院に入院中の女性は相変わらず、そう言ってるみたいだから、何だか気になっちゃって」
「こっちの報告を先にしておくわ。あんたが考えたとおり現場には2種類の薬莢が落ちておったようや。1つは現場に落ちていたトカレフTT−33から放たれた7.63mmの薬莢やな。これは銃痕からも証明できる」
貴子が真希の持つ一方のビニール袋を持ち上げた。
「調べたところ、現場のほとんどの薬莢はこれやったな。おそらく男が抵抗しようとして撃ったんやろ。…それとこっちは7.65mmの薬莢やった」
「7.65mm?」
「銃痕を調べてみたけどな、現場のトカレフのもんとは違った。改造もされてへんかったしな。犯人が用いた銃から撃たれたもんやろ」
貴子はコーヒーを口に含みながら、指でビニール袋を弾いた。真希はまじまじと中に入っている薬莢を眺める。
- 78 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月19日(水)01時55分40秒
「それにしてもよう見つけてきたなぁ。たったの2mmしか差はないんやで。普通の連中らなら一緒の袋につめこんどるわ」
「うん…。なんか、樹木の側に隠れるように落ちてたから不思議に思っちゃってさ。普通、私刑ならば、取り囲んで相手の脱出路を奪ってからやるじゃない。だとすると遺体近くに薬莢が転がっててもおかしくないかなぁ、なんて思って…」
「薬莢を全部調べてみたんやけど、5個だけやな。他はみんなトカレフからやった」
「つまりは?」
真希は興味が出てきたのか、身を乗り出して貴子の話に耳を傾ける。
「まぁ、うちの推測やけど、プロの可能性が高い。まず第1に7.65mmの弾丸を使っているっちゅうことは、かなり自分の腕に自信を持っているんやろうな。この弾丸じゃ急所を的確に狙わな相手は倒せへんしな」
真希は遺体の状況を頭の中で思い出す。左胸部に2発の銃弾が突き刺さっており、一方はほぼ心臓に的中していた。
- 79 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月19日(水)01時56分59秒
「もう1つは?」
真希は爪を弄りながら、貴子の言葉を促す。
「撃ってる数や。5発で相手を仕留める腕はかなりのもんやと思うで。殺された男は弾倉を落とすほど弾を撃ってる。これが普通や。相手と対峙し冷静に撃つことができる奴なんて、そうなかなかおらへん。せやけどこの場合はたった2発で相手を仕留めとる。それにその場にいた女性も足に着弾しとるんやろ。それとトカレフの削られた跡を見てみると、おそらく銃にも当てとるんやろ。そうなると無駄弾は1発だけや。わざと威嚇のために外したことも考慮に入れると、無駄に弾を撃っとらん」
「でも、あたしだって訓練では結構な命中率だよ。5発あれば……」
「あんたは実戦で撃ったことないやろ。実戦は敵も動くんやで。止まっている的とは違う。それに自分にもいつ銃弾が当たるか分からへんから、冷静にも撃てへん。これは慣れやな。つまり男を撃った犯人は結構慣れているっちゅうことが考えられるわけや」
貴子はカップを傾けながら、バインダーを机の上に投げた。真希はどこか自分がまだ未熟者であることを指摘されているような気がして心が落ち着かなかった。
- 80 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月19日(水)01時57分52秒
「あくまでこれはうちの推測やで。実際はどないやったか、その場で見てなきゃ分からへんよ。もしかすると組織の連中が古い銃を愛用してたんかもしれへんし、偶然5発で片づいた可能性も捨てられんしな。まぁ、そんなにでかい組織やないから、プロ雇ったってのは考え難いけどな」
「……7.65mmで考えられる銃って何があるの?」
真希はコーヒーカップを机の上に置くと、横髪を掻き上げた。すぐに警察手帳をスーツから引き出し、メモを取り始める。
「ワルサーPPKやろ、おそらく」
貴子は真希をちらりと見やると答えた。
「ワルサーってドイツ製の?」
「7.65mmって言ったら、うちはワルサーPPKしか知らん」
「そっか…。ありがとうね。…このこと捜査本部には?」
真希はハンドバックを手に持つと、席を立った。
「あんたが言うなって言ったからうちは報告しとらへん。今更言ったところで嫌な顔されるだけやしな。ほんなら、後藤刑事に事件を解いてもらおっかなって思うてな」
貴子はコーヒーを啜りながら、冗談めかしたように笑った。
- 81 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月19日(水)01時58分36秒
「誰も薬莢の大きさに気が付かなかったのかなぁ。そういうのが警察は手抜きをしているって言われちゃう原因だと思うけど……」
真希は準備をするように首を左右に振る。張りに張った肩からは骨が鳴る音が聞こえてきた。
「まぁ、あんまり勝手なことするな。また上司から怒鳴られるで」
苦笑いをしながらの貴子の忠告に真希は微笑んだ。
「うん。でもさ、この事件はちょっと気になるんだよね。あたしってそう勘は信じるようにしてるし。それに恋人だった女の人、あの人がまだ元気がないからさ。ちょっと励ましてあげようかなぁって」
貴子はびっくりしたように目を見開くと、楽しげに口元を上げた。
「あんたがそんなに仕事熱心やったとは知らんかった」
「ひどいなぁ。これでもあたしは市民の味方、正義の刑事だよ」
真希はふざけたように、笑いながら貴子に敬礼をして見せた。
- 82 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時48分45秒
警察病院内は消毒液や様々な薬の匂いが混じり合い、真希の鼻をくすぐった。リノリウムの床は歩くごとに引き締まった音を立てて心地よい。
真希はとある病室の前で足を止めた。それから手に持っている花束を確認すると、扉をノックした。中からは返答はない。真希は再度ノックをしてから、ゆっくりと扉を押し開けた。
中は午後の光がよく入り込む白い部屋だった。窓際のカーテンが晩秋の冷たい風に吹かれて踊っている。窓のすぐ側にはベットが置かれ、1人、保田圭が虚ろな視線で、流れゆく雲を眺めていた。
室内にはイーゼルが立てられて、そこには何も描かれていないキャンバスが立てかけられている。側にはパレットなど画材道具も置かれていたが、どれも使われた様子もなく新品そのままであった。小型冷蔵庫の上にはお見舞い品であろう、フルーツの積まれたバスケットが乗せられていて、その脇に細々とした薬類があった。
「こんにちは、圭ちゃん」
真希はベット脇にまで近づくと、そこにあった椅子を引き出し、座った。圭はようやく人がいることに気が付いたのか、脇に座った真希に視線を移す。
- 83 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時49分59秒
「あんた…、確か捜査から外されたんじゃなかったっけ。生意気そうに先輩に意見して」
どこかうんざりとした口調で圭は真希を迎え入れた。真希は持ってきた花束を圭に手渡す。圭は花束を受け取ったまま、どこか憎々しげに真希を見つめてきた。
「それで、ちゃんとあさ美って娘を見つけてきたんでしょうね。あんたたち警察は何度あたしに話を聞きに来れば、あさ美を捕まえてくれるわけ。それともまだあたしたちを狙った人間があさ美って娘だって信じてないの」
「‥今日はね、ちょっとそのことで話があるんだけど」
真希は手帳を取り出すと、興奮状態になった圭を安心させるようににこりと笑った。
「話?あたしはもう喋ることは全部喋ったわよ。後はあんたたちの仕事でしょ。さっさとあさ美を捕まえてあたしの所に連れてきてよ」
圭は気分を損ねたように、再び窓の外に目線を持っていってしまった。
- 84 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時51分33秒
圭は病院に運ばれて以後、同じことを何度も警察官に話してきた。真希も初動捜査からしばらくは捜査本部に身を置いていたため、圭の同じ話はうんざりするほど聞いている。捜査本部は圭を精神衰弱状態とみなして、その証言のほとんどは妄想だと判断した。真希もどこか引っかかる所はあるものの、結局は捜査本部を外れてしまい、そのままになってしまった。久々に圭の所を訪れたが、相変わらずの様子に真希は苦笑いをした。
「だからね、圭ちゃん。そのあさ美って娘の話をもう一度聞かせてよ。あたしが捜査してくるからさぁ」
「あんたが?」
圭が不服げな顔で真希を見た。その視線は明らかに失望の色が濃かった。
「何?あたしだってこう見えて警視庁捜査一課の刑事なんだけど……」
「どうせ、あたしの言ってることなんか信じてないんでしょ。だからあんたみたいな溢れた人間を送ってきて、それでいかにも捜査を継続させてるように見せかけてる。適当に捜査をしたら、『見つかりませんでした。ちょっと精神鑑定をしてみましょうか』なんて優しい声をかけてくれて、それで闇に葬るつもりでしょ。あたしは騙されないわよ」
- 85 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時52分39秒
ずいぶんと立派なストーリを作り上げたものだ。真希はその想像力に敬服してしまった。だがいつまでも言わせたいように言わせておくわけにはいかない。真希は相手の言葉を払うように咳をし、事情聴取を始めた。
「ええっとね。圭ちゃんが言ってるあさ美って娘なんだけど、随分年齢が若いみたいな話をしてたじゃない。具体的にはどのくらいに見えた?」
真希は感情を胸の内に押し込めながら、それでも笑顔を忘れずに圭への質問を開始した。
「……中学生ぐらいね。13歳か、14歳ぐらいに見えた。結構暗そうな娘で、影のあるような女の子だった。まぁ、殺し屋だったんだから当たり前だろうけど」
「自分で殺しの仕事をしてるって言ったの?」
真希はメモを取る手を休めて、顔を上げた。圭は思い出すように顎下を指でさすった。
「言ってはいないけど、あたしたちのデータは持ってたみたいだし、何をやって逃げてたのかも知ってたみたいだった。それに銃の扱いにも慣れてた。あたしの持つ銃を狙い撃ったりできたからね」
- 86 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時54分22秒
「それじゃあ、その娘なんだけど、どこに住んでるとかって分かる?」
「それが分かったら、あたし自身がそこに乗り込んでるよ!それを探すのが警察の仕事だろ」
圭が不機嫌そうに強い口調で真希を責め立てる。真希は自身の失言に舌打ちをした。
「あ、ごめん。じゃあ、今の質問は無しね。その時、着てたものとかって覚えてる?」
「確か白いフード付きのウインドブレーカーに、短いスカートを穿いてたと思う。もう、一ヶ月も前のことなんだからそんなのはっきりと覚えるわけないじゃない!」
真希はため息を吐いた。この調子だと何を聞こうと警察の不始末に祭り上げられてしまう。真希は手帳を閉じた。
「ちゃんと捕まえられるんでしょうね」
圭は疑り深い目で真希を見据えてきた。
「…あのさ、あたしがこんなことを言うのもなんだけど、圭ちゃん一緒にあの男と逃げなくてよかったと思うよ」
真希はずっと溜めていた言葉を口にした。
「どういう意味よ」
圭の顔がすぐに険しいものへと変わる。真希は髪を弄りながら、言葉を続けた。
- 87 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時55分25秒
「だって逃げたって、どうせ不正に作ったお金でしょ。どこまでも警察とか組織に追われて安定した暮らしなんて望めないよ。それに圭ちゃんの絵を見せてもらったけど、……言っちゃ悪いけど正直言って才能ないと思う」
真希の言葉に圭は目を見開き、悔しそうに唇を噛みしめた。それでも何も言い返せないのは自分がそれをすでに自覚している部分があるのかもしれないと真希は感じた。圭は悲憤したように顔を背けた。
「あたしがそのあさ美って娘を連れてきてあげるよ。だからさぁ、圭ちゃんも早くこの事件のことを忘れて、新しい場所に踏み出す準備を始めようよ。…あっ、どうせだったら下手な絵を描くよりも、写真にすれば?それなりに綺麗に取れるだろうし、楽しいと思うよ……」
真希は冗談のつもりで、努めて明るい口調で圭を励ました。
「……帰ってよ」
圭が低い声で呟いた。真希は聞き取れずにぽかんと口を開ける。
- 88 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月20日(木)00時56分29秒
「帰ってよ!あんたなんかに何が分かるって言うの。そうよ、どうせあたしは絵が下手よ。下手で見ることだって出来やしないわよ。でもね、あたしは絵に夢をかけてたのよ。あんたみたいなちゃらちゃらした税金泥棒が、それにあれこれ言う権利があるって言うの!」
「別にそういうつもりは…」
圭は興奮したように真希の持ってきた花束を床に叩き付け、バスケットに入った果物を投げてきた。真希はそれを避けながら、慌てたように席を立った。
「ただ、あたしは圭ちゃんに早く元気になってもらおうと思って…」
「早く帰れ!」
圭の罵倒を聞きながら、真希は床に落ちた林檎を拾いつつ、いそいそと病室を出た。病室からは押し殺したような啜り泣きが漏れてくる。
「まぁた、やっちゃったかなぁ?」
真希は舌を出しながら、髪を掻き上げた。
「まあ、あさ美って娘を連れてくれば大丈夫…だよね?」
真希は林檎をスーツ袖で磨くと、それを囓りながら、廊下を歩いた。
- 89 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月21日(金)01時43分18秒
梨華は眼前に座る真希を注意深く観察しながら、相手の気配を探った。真希の方は気にかけた様子もなくワイングラスを傾けながら、その味を舌の上で転がしながら楽しんでいる。
「どうしたの?梨華ちゃんも飲めば?あ、心配ないよ。今日はあたしのオゴリだから」
「う、うん。それじゃあ御馳走になるね」
梨華はにこりと微笑みながら、ワイングラスを手元に引き寄せた。それでも飲む気にはならず、指でグラスを弄る。
業務が終了した梨華が職場から出ると、出入口前に真希が暇そうに待っていた。そのまま真希に手を引かれて、都内でも有名なフランス料理店に連れてこられてしまった。
梨華と真希は大学時代の同級生であり、現在も交友を続けている。時折、真希が情報を欲したときは梨華が提供し、その見返りに何度か見逃してもらったりもしている。ようは持ちつ持たれつの関係でもあるのだ。
- 90 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月21日(金)01時44分07秒
本来であれば友からの誘い(しかもオゴリ!)を喜ぶべきであるのだが、最近、梨華は調子に乗り、ずいぶんと危ない仕事に手を出しすぎていた。そのため、この急な訪問が梨華にとっては不吉なものに感じられるのだ。頭の中であれこれと今までの違法行為が巡りに巡った。
「…それで急にどうしたの?」
梨華はナイフで牛肉を切り分けている真希に尋ねた。
「うん?何よぉ。友だちが会いに行っちゃいけないの」
「だって食事なんておごってくれることなんて普段ないじゃない。だからまた何か困ったことでもあったのかなって思っちゃって…」
梨華はもじもじと身体を動かす。喉を食べ物が下っていっても、食べているという感覚がない。もしかすると真希は最後の晩餐のつもりで自分を誘っているのかも知れないと邪推をしてしまう。
「やっぱり梨華ちゃんは鋭いね。ちょっとさ、情報が欲しいんだけど」
真希は汚れてもいない口元をナプキンで拭き取ると、ナイフとフォークを置いた。
- 91 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月21日(金)01時44分43秒
「あさ美っていうプロの殺し屋の娘を探してるんだけど梨華ちゃん知ってる?」
真希が声を潜めるように、梨華に顔を近づけながら尋ねてきた。梨華は驚きに目を見開く。
「そ、その娘って何か特徴ないの?」
震える声を必死で押さえながら梨華は尋ね返す。喉が急激に乾いてきて、梨華はワインに口を付けた。渋みだけが梨華の舌を刺激した。。
「うん、何だか中学生ぐらいの女の子らしいんだけど、結構凄腕みたい。あ、あと使っているのがワルサーPPKらしいよ」
梨華は天井を仰ぎ見た。天井にぶら下がるシャンデリアからは眩い光が放たれ、梨華の顔を照らしつける。反射的にひとみとあさ美の顔が思い浮かんだ。
「……何かその娘がやったの?」
「ちょっとね…。捜査本部にはあがってないんだけど、あたし独自で調査してるんだよ。ほら、プロなら梨華ちゃんの所に情報があるかなぁって思って。どうかな?」
真希が覗き込むように梨華の目を捉えようとする。梨華は真希の魅力的な瞳には弱いのだ。梨華は慌てたように目線をずらす。
- 92 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月21日(金)01時45分37秒
「知ってるね?」
真希は梨華の反応に満足をしたようだ。再びフォークを握ると肉片を口の中に頬張った。
「知ってるって言えば、知らなくはないけど……。こっちは出るの?」
とりあえず梨華は相手の出方を窺うために、指で円を作った。友人とはいえビジネスは別である。それにひとみに害が及ぶようであれば、そうそうに情報を流すことはできない。
「……この間さぁ、防犯の薬物対策課がある香港系の麻薬組織を検挙したんだけど、そこの友だちに聞いたらね、そこで押収したMOに、なんだか警視庁の重要捜査情報が入ってたらしいのよ」
真希がフォークを振りながら、話題を変えた。梨華はびくりと肩を震わせた。
「そう言えばさ、この前、梨華ちゃんと食事した時ね、トイレ行ってる間にあたしの上着をあさった奴がいるみたいなのよ。もしかするとそこに入ってた警察手帳から警視庁のパスワードを盗んだ奴がいるのかもしれないなぁ。あたしは結構あたしのことを良く知ってる人がやったんじゃないかなぁって推理してるんだけど。ねぇ、梨華ちゃん」
真希がワイングラスを指で弾いた。澄んだ音が響き渡り、真希は心地よさそうに目を閉じた。
- 93 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月21日(金)01時46分15秒
「んもう、分かったよ。情報渡すよ」
真希の鋭さには参ってしまう。梨華は諦めたように口を尖らせると、自分でワインをグラスに注ぎ、それを飲んだ。真希の顔には勝利の笑みが浮かんでいる。
「その代わり約束してよ。私が情報を提供したことは他言しちゃ駄目。特に本人には絶対に言わないでよ。それと公の検挙しないこと。どのみち警察側だって汚いことで私たちを使ってるんだからね。もし逮捕とかしたら絶交するよ」
梨華は念を押すように真希に対していった。あさ美がどうなろうと知ったことではないが、その余波でひとみまで検挙されることなれば、梨華にとって一生後悔することになってしまうだろう。
「あたしだって違法捜査してるんだから、捕まえたりとかできないよ。あ、それと料金はここのオゴリでね」
真希がからかうように笑みをこぼした。梨華は心底悔しそうに顔をしかめた。そして心中でひとみに謝罪をしながら、ワインを一気に呷った。
- 94 名前:さるさる。 投稿日:2001年12月21日(金)22時30分10秒
- 絵心のない圭ちゃん・・・爆笑
たんたんと傷つく言葉をはく後藤刑事・・・笑
後藤刑事との対面、ドキドキするなぁ。。。
あさ美に勝てるのかなぁ後藤さん。
- 95 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月25日(火)02時26分35秒
翌日の正午過ぎ。真希は梨華から教えられた高級マンションの前で足を止めて見上げていた。青空を突き抜けるような高さに、上品な薄茶色の壁がよく光っていた。ベランダには所々に洗濯物がぶら下がっていて、優しい風に揺らめく。遠くからは子どもたちの遊び声が聞こえてくる。マンション前には名の知られた郵送会社のトラックが停車をしていた。普通のマンションの普通の日常であった。まさかこんな穏やかな場所に暗殺者が住んでいるとは誰も思いはしないだろう。
真希は手をかざして光を遮りながら羨ましげに、溜息を吐いた。ついつい自分のハイツと比べてしまう。
「こんないいところに住んでんだ」
じろじろと不審そうな目つきで通り過ぎていった女性に照れ笑いを浮かべながら、真希はとりあえず吉澤ひとみの名で借りられている部屋を開けてもらおうと守衛室へと向かった。
守衛室の目前に、真希は唖然としたように歩みを止めた。硝子窓には血が飛び散っていて斑模様が描かれていた。真希は急いで駆け寄り、室内を覗き込んだ。そこには全身を撃たれたと思われる男性老人がうつ伏せになって床に倒れていた。
- 96 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月25日(火)02時31分01秒
真希は飛び込むように室内に入った。むんと立ちこめる血の匂いは、この老人がまだ殺されて間もないことを表している。出入り口付近には無数の薬莢が転がり、無抵抗な相手に手加減をしないで撃ち込んだのが容易に分かる。
真希は押し上げてくる吐き気を抑えるように口を覆い、目を背けながら老人の手首を取った。付近には丁度昼食中であったのか、弁当箱がひっくり返り、中身が床にこぼれていた。また、多くの書類が四散しており、白い紙が跳ね散った血を吸い込み、赤々と染まっていた。付けっぱなしになったテレビからは事情を全く知ることのない出演者たちが、観客たちの笑いを引き出している。
「温かい。犯人がまだ近くに」
真希はヒップホルスタからSIG・P230JPを取りだした。実戦で使用するのは初めてである。訓練通りに装填された弾を確認しようと弾倉を落とそうとすると、自然と緊張に手が震え、身体が堅くなっていく。何度も生唾を飲み込みながら、安全装置に手をかけた。
- 97 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2001年12月25日(火)02時31分50秒
そのとき、耳をつんざくような轟音が響き渡った。弾かれたように真希は守衛室を駆け出る。見上げると先ほどまで穏やかであったマンションの一角から黒煙が立ち上り、空から硝子の雨が降り落ちる。周囲を歩いて人々は何事かと見上げ、一斉に悲鳴が上がり、硝子破片から逃げまとう。
真希はその風景を呆然とした表情で眺めていたが、思い出したかのように警察へと連絡をするため携帯電話を取りだした。
To be continued
- 98 名前:三文小説家 投稿日:2001年12月25日(火)02時47分00秒
- 更新が遅くなって済みません!
と、いうことで第8話「闇より引く手(前編)」はおしまいです。
この続き、第9話「闇より引く手(後編)」は年明けより更新予定です。
多くを語るは野暮となりますので、どうぞ楽しみにお待ち下さい。
>>94
さるさる。さん。レスありがとうございます。
いつも励みにさせてもらってます。
後藤さんは次の話でも登場しますが、実はあさ美とではなくて……
あっと、ここまでにしておきましょう(w
これからも楽しんで下さい。
- 99 名前:さるさる。 投稿日:2001年12月29日(土)23時15分33秒
- 何があったんだ・・・。
作者さんの文章力は素晴らしいですよねほんと。
情景がすぐ目の前に浮かぶような文はなかなか書けないっす。
それに、銃の名称とか詳しいですねぇ。感心。
年明けお待ちしとりまーす。
- 100 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月01日(火)01時00分36秒
- 明けましておめでとうございます。
今年も楽しみにしています。がんばってください。
- 101 名前:三文小説家 投稿日:2002年01月02日(水)01時33分39秒
- 明けましておめでとうございます。
話の方も全16話予定のちょうど半分。折り返しまで来ました。
これも一重に皆様方、読者の方々のおかげであります。
レスを下される方、読んでくれている方、本当に昨年度はありがとうございました。
これからも、未熟者の三文小説家の書く駄文にお付き合い下さいませ。
さて本編もようやく動き出します。後半は一話完結から、一本筋の話になっていきます。
まだ出てきていないメンバーから、出てきたけどちょこっとで消えたメンバーの再登場まで。
あさ美とひとみの関係や、あさ美と愛の関係。
つんく・圭織の目的から、ペルセポネーにまつわる人々の話まで錆び付いた頭をできる限り動かすつもりです。
どうぞお楽しみ下さい。
- 102 名前:三文小説家 投稿日:2002年01月02日(水)01時40分14秒
- >>99
さるさる。さん、レスありがとうございます。
実はハードボイルド系の話は始めてで、銃の種類などもエアガンのカタログを見ながら勉強中です。
あさ美のワルサーPPKは趣味ですが、ひとみのベレッタM84は、彼女の昔の職業と深く繋がりがあります。
>>100
レスありがとうございます。
明けましておめでとうございます。
そして100レス目おめでとうございます(w
景品などはありませんが、どうぞ今後も楽しんで下さい。
- 103 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月02日(水)01時54分37秒
「ねぇ、ひとみちゃん。今日、東京ディズニーランドに行かない?」
「はぁ?」
ひとみは梨華の唐突な誘いに間の抜けた声を出してしまった。台所で寸胴の中を掻き回しながら、パスタの茹で具合を見ていたあさ美が不思議そうにひとみの方へと目線を向けてきた。
「‥何であたしがあんたとディズニーランドになんか行かなきゃいけないの?大体、梨華はこの時間は仕事中でしょ」
「今日は有給を取ったのよ。なんかね、今朝ミッキーがね、梨華の枕元に立って手招きをしてたの。ね、これってきっと今日はディズニーランドの日なのよ。何だったらディズニーシーもオッケェだよ。オールナイトで遊んじゃおうよ」
電話越しの梨華の声が微妙に上擦る。きっとどこか遠くを見ていることだろう。
- 104 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月02日(水)01時56分59秒
「嫌だ」
ひとみは一刀に答えた。
「ちょ、ちょっと。あ、じゃあディズニーランドは今度でいいから、ホテル行かない。ホ・テ……」
追いすがるような梨華の科白を無視して、ひとみは電話を切った。
「…仕事の依頼?」
あさ美が鍋をかき回しながら尋ねてきた。
「下らない誘いの電話。気にしなくていいよ」
ひとみが硝子テーブルの上に携帯電話を置こうとすると、再度着信音が鳴り響いた。ひとみは舌打ちをすると耳に当てる。
「ひどいじゃない、途中で切っちゃうなんて。ホテルっていったって別に怪しい意味じゃないよ。美味しいレストランがあるから、そこに行こうって言いたかったのにぃ」
梨華が半泣き声で訴えてくる。
「それ、あたしだけじゃなくてあさ美も一緒に?」
「何で?ひとみちゃん1人だけだよ。もしかして来てくれるの。だったら今から赤坂の…」
泣き声はすぐに影を潜め、なんでそんなことを聞くのかといった口調で梨華が答えてくる。
- 105 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月02日(水)01時59分46秒
「あのね、今、昼食はあさ美が作ってくれてるの。あんたと食べるよりもよっぽどそっちの方が美味しいよ。あんたと食べるとどんなものも美味しく感じられなくなるからね」
「そんなぁ。じゃ、じゃあさ、とにかく外で会おうよ」
「何で?」
梨華の様子は明らかにおかしかった。こういうときの梨華は何かをしでかした後で、大概これがひとみにとって不利益な状態へと陥れるものであるのだ。
「な、何でって……。そ、そう、今日はひとみちゃんは外に出るとラッキーな事があるって天からの啓示で……」
ひとみは電話を切った。戯言を聞いたとしても、梨華の尻拭いをしなくてはならないのだ。再度電話は鳴り始めるが、ひとみは出なかった。やがて諦めたように電子音が鳴りをひそめる。
「…いいの?私のことだったら気にしなくてもいいから…」
あさ美が遠慮がちに言ってくるが、ひとみは無視して硝子テーブルの上の雑誌を取って捲った。あさ美もこれ以上言ってもひとみの態度が変わることがないと感じたのか、鍋からパスタを取り出す作業にかかった。
- 106 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月02日(水)02時02分21秒
ひとみは雑誌を捲りながら、梨華がやらかしたことに思いを巡らせる。
「厄介なことじゃなきゃいいけど」
ひとみはぼそりと呟くと雑誌を放り投げ、パソコンの前にある回転椅子へと身を移した。口ではなんだかんだと言ってもやはり気にはなってしまう。
梨華と知り合ってから3年近くなる。その間何度、梨華の不始末を処理してきたことだろう。ひとみはパソコン机の引き出しを開ける。中にはうつ伏せになった写真立てが静かに眠っていた。
「いくら役立つからって、梨華みたいのと仕事をしなてなくてもよかったのに……」
ひとみは写真立てを久々に取り出す。ここに仕舞い込んでからどれほどの時が経ったであろうか。あさ美は断り無く開けたりはしないので、写真立てが日の目を見るのも久し振りのことだろう。
- 107 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月02日(水)02時03分21秒
ひとみが写真立ての表を見ようとした時、タイミング良くチャイムが鳴った。あさ美が作業の手を止めてインターホンに出ようとしたが、ひとみはそれを制した。
「いいよ。あたしが出るから。あさ美は早く料理を作っちゃいな」
あさ美は軽く微笑むと、スリッパの音を立てながら台所へと戻っていく。
最初にあった頃は無表情で何を言っても頷くだけであり、まるで木偶人形と話しているような感覚をひとみは持っていたが、近頃では何かがあれば言葉を用いるし、それなりの反応も返ってくるようになった。暇さえあれば料理の本を開いて見ているし、台所に立って料理もしてくれている。そして何よりもよく笑うようになった。
ひとみは時々あさ美の笑顔にほっとし、心の安まる思いを感じる。時にはこのような仕事を辞めて、新しく違った生活ができるような気もしてくる。
「この写真はいらなくなるかもしれないな」
ひとみは写真立てを机の上に寝かせると、インターホンへと向かった。
- 108 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月04日(金)01時06分59秒
インターホンの粗悪な画面に映ったのは若い男であった。薄黄緑色の制服を着て、帽子を小脇に抱えている。頭は焦げ茶色の短髪を立てており、辺りをきょろきょろと見渡している。顔は清廉ですっきりとした鼻を持っている。耳にはピアスが並び、口端が常に持ち上がっている。一見すると女性にも見えないことはなく、中性的な魅力をかもしだしていた。
「‥はい」
ひとみが声を出すと、男は気が付いたように画面を正視した。
「あ、吉澤さんですか?お届けものです」
男はひとみに分かるようにネームプレートを画面に押し当ててくる。
「ああ、パイプベットね。……管理人さんがいつもは伝えてくれるはずなんだけど、今、居ない?」
- 109 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月04日(金)01時12分00秒
「あっと‥ちょっと見あたらないみたいなんですけど…」
男は困ったように頭を掻いた。
「ふ〜ん。まっ、いいや。じゃあ、悪いんだけどここまで運んでくれる?」
ひとみはインターホンを操作した。
「分かりました。607号室ですね。判子、準備して待っててください」
男が画面から消えた。ひとみは男の姿が見えなくなると、インターホンから離れて、クローゼットの前に立つ。髪留め用のゴムで髪をひとつにまとめると、クローゼットを開ける。中には様々な銃器がぞんざいに放られていた。
「‥どうかしたの?」
あさ美が火を止めると、台所から出てきた。
「昼食は後回しになりそうよ。ぶっそうなお客さんが遊びに来たみたいだからね。あの爺さんが昼前に管理人室を出てくわけなじゃない。昼からは毎日楽しみにしてる『おもいっきり生放送』があるんだよ」
ひとみはベレッタM84を取り出すと、弾倉を確認しスライドを引いた。
- 110 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月04日(金)01時13分21秒
ドア前のチャイムが来客を知らせる。ひとみは覗き穴から来訪者を確認する。特に怪しい様子はなく、ドアが開くのを待っているようだ。
ひとみは奥に控えているあさ美と目を合わせると頷きあった。ひとみは用心深く鍵を回して、チェーンを外す。そしてドアをゆっくりと開けていく。
「あっ、どうも、判子用意しておいてくれましたか?」
「その前に、何か身分を証明するもの見せてもらえない?」
ひとみは相手にベレッタM84を向けた。男は一瞬虚をつかれた表情をしたが、すぐににやにや笑い出した。
「最近は宅配をするだけでもずいぶんと物騒なんすね」
「あたしんところは特別厳重体勢が引かれているのよ。身分を証明できるものだせなきゃ敵と見なすよ」
ひとみもにやりとしながら引き金に指を掛けた。
「動かない方がいいんじゃないですか」
男の言葉が終わると同時に、身動きをする間もなくひとみの喉元に冷たい金属が押し当てられた。相手の予想以上のスピードにひとみは声を出すこともできなくなった。
- 111 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月04日(金)01時15分35秒
「言っておきますけど、俺はあんたが引き金を引くよりも早くあんたの喉元をかっ切ることができますからね」
男はよく手入れがされたナイフでひとみの首筋をなぞる。一瞬にして立場が逆転してしまった。男は赤々しい舌で自らの唇を舐めた。
「ここにあさ美って娘がいるって聞いてるんですけど、まずはその娘に会わせてもらえませんか?あんたは妙な動きをしなければ殺しませんから。それと銃を下ろしてくれません?そんな危ないものを向けられていると気分が落ち着かないので」
男はナイフを突きつけたまま、ひとみを室内に押し戻しドアを閉めた。ひとみは後退しながら相手の隙を窺うが、接近しているうちはナイフの方がどう考えても有利である。
「…あさ美に何か用なの」
「いやだなぁ、さっき俺が言ったこと聞いてなかったの。…妙なまねするなって言っただろうが!無駄口もそれに含まれてるんだよ!」
男が苛立つようにナイフの切っ先でひとみの喉元をなぞった。真紅の血が切り口から流れ落ちてくる。
「あっ‥と、ごめんね。人の話をちゃんと聞いてなかったみたいだから興奮しちゃって、ついついきれいな肌を傷つけちゃったよ」
- 112 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月04日(金)01時16分39秒
男は指でひとみの頬を丁寧に撫でてくる。そのおぞましき指の動きにひとみは不快な表情で相手を睨みつけた。
「さて、あさ美ちゃんはどこにいるのかなぁ?よかったら教えてくれませんか?」
相手に口調にはまだまだ余裕がある。ひとみは何とか身を動かそうとするのだが、相手のナイフはしっかりとひとみを捉えていて逃れることは困難である。
「…今、買い物に行ってるよ」
「買い物?そう……嘘ついてんじゃねぇよ、このアマが!こっちが下手に出てやれば調子に乗りやがって!」
男がぐっとひとみに顔を寄せ、ナイフを首に押しつけてくる。首筋に堅い痛みが走り、ひとみは顔をしかめた。
「靴があるじゃねぇかよ、靴が。俺が見てねぇとでも思ってるのか!…そうか、そっちがその気ならばこっちにだって考えがあるんだよ!」
男はひとみを睨みつけながら、懐を探ると球状の手榴弾を取りだした。
「別に殺していいって言われてるんだ。お望みならばあんたとあさ美って娘をここで仲良く飛ばしてやってもいいんだぜ」
男は狂気に憑かれたようにひとみの顔に手榴弾を押しつけながら、甲高い笑い声を上げた。ひとみは苦痛と屈辱に歯を噛みしめて、顔を背けようとする。
- 113 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月05日(土)23時30分59秒
「……ひとみを放しなさい」
いつ回り込んだのであろうか、男の背後からあさ美の静かな声が聞こえてきた。怒りに満ちたように眉間には皺が寄っていた。男ははっとしたように振り返る。ひとみはその隙を見計らって、相手の腕を払うとベレッタを憎々しげに相手に向けた。
「あんたがあさ美ちゃん?何で自分が狙われているのか分かってるよな?」
あさ美は男の問いかけに答えず、ただ黙ってワルサーPPKを向けている。その表情は苦悶に満ち、唇を噛みしめている。
「あんたには2つの選択肢がある。俺と一緒に戻るのか。それともここで木っ端みじんになるのか。どっちがいいかは自分で選んでいいってよ」
「……ひとみ、走って!」
あさ美はこれまでに聞いたことが無いくらいに声を張り上げた。それと同時にワルサーが火を噴く。弾頭は男の頬をかすめ、白い壁へと突き刺さった。ひとみはあさ美の気配に押されたのか、出入口へと駆け出す。あさ美もワルサーを撃ちながら、室内から出ようと走り出した。男は自分の頬を手の甲で撫で、そこに付いた血を払い落とす。
「てめえら、2人とも死刑だ」
男は手榴弾のピンを引き、ひとみたちの方へと投げつけた。
- 114 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月05日(土)23時32分11秒
瞬間の沈黙の後、凄まじい轟音が鳴り響く。ひとみはあさ美が廊下に出て来たのを確認すると素早くドアを閉めたが、風圧によりドアは内側からひしゃげていき、押さえが効かなくなってくる。髪は踊るように巻き上げられて、コンクリート片が体中に飛礫となり当たる。あさ美も飛礫から身を守るように低く体勢を取り、顔を腕で覆っている。
すぐに風圧は収まっていく。ひとみはあさ美の手を取るとエレベータの方へと走り出した。あさ美が濛々と立ち上る土煙に咳き込んだ。
「一体どういうことなの。あさ美のことを探していたみたいだけど……」
「……それは……」
あさ美が言葉を濁した。
「…まぁ、いいや。とにかく無事にここから出ることから考えなきゃ」
ひとみはエレベーターのボタンを押す。鈍い音を立てながらゴンドラがゆっくりと登ってくる。あさ美は残り弾丸数を確認すると、周囲の気配を探るように視線を巡らせた。
「……っ、危ない」
あさ美が突然ひとみの身体を突き飛ばした。小窓の硝子が割れた音がしたと思うと同時に、エレベータの扉に穴が開いた。
- 115 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月05日(土)23時32分57秒
「今度は何!」
ひとみは敵の姿を捕捉しようと目を這わせるが、エレベーターフロアーには2人の他に人影はなかった。あさ美も緊張したように目を忙しそうに働かせている。
再びエレベーターの扉に穴が生じた。あさ美が弾頭の飛んできた方向を見る。
「……あそこから」
ひとみはあさ美の指さした方を見やる。真向かいには高層ビルが高々と建っている。その屋上をあさ美は指さしている。
「あんなところから?」
撃っている人物の姿を見ることはできないが、ビルの屋上に太陽の光を反射しているものがあるようだ。当然この場からの対処は不可能である。
「ここで待つのも危険ね。それに、いつさっきの生意気な男が追いかけてくるかもしれないし。非常階段で下まで降りよう。爆発で警察に通報した人もいると思うし、大勢の前ならばあいつらも手を出してこれなくなるよ」
ひとみが話す間にも壁を銃弾が削っていった。あさ美は頷くと、エレベーターホールの脇に備え付けられた非常口を開けた。外のひんやりとした冬の空気が入り込んできて、2人の身体を包み込む。ひとみは身震いをすると、先だって階段を下り始めた。
「今度マンションを借りるときは一階にしなきゃね」
ひとみはぼそりと呟いた。
- 116 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月08日(火)00時26分39秒
一階まで降りてくると、辺りは野次馬たちが何事かと騒ぎ合っている。ひとみとあさ美は銃を隠しながら、人混みの中に潜った。まだ警察や消防などは現場に到着をしていないらしく、逃げるのであれば絶好の機会のようだ。
ひとみは顔を上げてマンションを見てみれば、黒煙が立ち上り、明らかに何か事件があったと思わせるような様相になっている。ひとみは喉元の血を手で拭うと、舌打ちをした。おそらく警察の立ち入り捜査が行われれば部屋に残った銃器類から、銃刀法違反などで引っかかってしまうことであろう。その上身元まで判明させられてしまい、仕事に影響がでてくる。梨華に処理をさせるため借りを作らなければならない。何よりも嫌なことである。
ひとみは視線を下げて、そっとあさ美を盗み見た。普段から表情が余り多い娘ではないが、今は顔を白くさせながらうつむき、何かをぶつぶつと呟いている。これほど動揺をしているあさ美の姿は見たことがない。ひとみはあさ美の足を促すように、肩を叩くとあさ美は驚いたようにひとみの方を見てから、静かに頷いた。
- 117 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月08日(火)00時28分10秒
「大丈夫?随分、顔色が悪いんだけど」
「……心配しないで。それよりも早くこの場から移動した方がいいよ。多分また狙ってくるから」
あさ美が握り込めた拳にさらなる力を加えて、身を震わせている。
ひとみは再び人混みを潜り抜けようとした。すると突然、脇から声を掛けられた。しっかりと張った若い女性の声である。
「…‥あさ美さん‥ですよね?」
本当に今日はあさ美のよく声が掛かる。ひとみは苛々したように声が聞こえた方を向いた。あさ美も緊張したように顔を強張らせ、ズボンポケットに手を入れている。
「あっ、あたし警視庁捜査一課の刑事で後藤っていいます。ちょっと話を聞かせてもらいたいんだけど」
そこにはグレースーツを着た女性が、警察手帳に挟んだ写真とあさ美の顔を見比べながら微笑んでいた。
- 118 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月08日(火)00時29分52秒
後藤真希と名乗った刑事は、ひとみとあさ美をマンション内に作られた公園へと連れて行った。公園内には遊び途中で放り出されたプラスチックの用具があちこちに転がっている。おそらく爆発音に親たちが子どもを引き連れて逃げたのだろう。鉄棒には誰かが掛けていって忘れた黄色い帽子があり、その近くのブランコは風に吹かれて小さく揺れていた。
ひとみは真希をつぶさに観察する。肢体からはすらっとした細い腕と足が伸び、薄く化粧を施した顔はなかなか愛らしい。歳は自分と近いようで、無意識のようにマニキュアを塗った指先を触っている。真希の方も撫で回すかのようにあさ美を観察をしている。
「それで用事っていうのは何?」
ひとみは苛立ったように横から口を出した。真希はちらりとひとみを見やると咳払いをして勿体ぶったように口を開いた。
「あ、ええっと、最初に言っておきたいのは、あたしは別にあなた達を逮捕しに来たわけじゃないんだよね。それを踏まえて聞いてもらいたいんだけど、保田圭って娘を知ってるね?」
あさ美が身体を震わせ、真希の方を見つめた。
- 119 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月08日(火)00時30分51秒
「その様子だと覚えがあるみたいだね。ちょっとさ、あなたに来てもらいたいのよ。任意同行で」
「どういうこと?‥油断でもさせて捕まえるつもり?あんたがどこであたしたちのことを嗅ぎつけたか知らないけど、あんたら警察だって後ろ暗いことやってるでしょうが。それを処理してるのはあたしたちなんだよ。捕まえて困るのはあんたたちの方じゃないの?」
ひとみは真希に詰め寄るように言った。
「ば、馬鹿なこと言わないでよ。警察が殺し屋の脅し文句に乗るとでも思ってるの。あたしが用があるのはそっちの娘だけ。今回はあなたを見逃してあげるんだから、さっさとどっか行きなさいよ。さっきの爆発でもうすぐ警察も来るわよ」
真希はぷいとひとみから顔を外すと、あさ美の方へと近寄った。
「……保田さんはお元気なんですか?」
「警察病院で毎日騒ぐぐらい元気。毎日あなたの名前を恨みがましく叫んでるよ」
真希の言葉にあさ美は寂しそうに微笑んだ。
「…そうですか」
- 120 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月08日(火)00時32分19秒
「あさ美。そんな奴の言うことなんて聞くことないよ。さっさとこの場から逃げよう。さっきの奴らがまだ狙ってるかもしれないんだから」
ひとみはあさ美の手を取ろうとしたが、それを真希が割り込み阻止をした。
「ち、ちょっと待って。さっきの奴らって、まさかさっきのって爆発犯のことを言ってるの?だったら殺された管理人のこととかも知ってるんじゃない?」
真希が捲し立てるように質問を繰り出してきた。
「袖引かないでよ。そういうことも答えなきゃいけないわけ。あたしは警察とか公金を使ってる連中は嫌いなんだよね」
ひとみが腕を掴む真希の手を力強く払うと、真希は睨み付けてきた。
「ほら、早く行くよ。こんな刑事に付き合わなくていいからさ」
「……でも」
真希を押しのけてあさ美の手を取ると、ひとみは無理にでも引こうとした。だが、あさ美の足を重く、戸惑いある表情でひとみをじっと見つめた。
「あたしたちは依頼があったら、人を始末するのが仕事なんだよ。謝ってたら仕事なんかできないじゃないか」
ひとみが鋭い目であさ美を射抜く。あさ美は目を伏せて、首を横に振った。
- 121 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月10日(木)00時06分05秒
「困るなぁ。勝手にあさ美ちゃんを連れて行っちゃ。ねぇ、真希ちゃん」
ひとみは唐突の男の声に振り向いた。先ほど襲ってきた男が煤けた顔でにやにやしている。
「あんたは!‥しつこい男は嫌われるよ」
ひとみの手は自然とベレッタの入ったポケットに伸びていった。
「あんたが銃を抜けば、さっきあんたを狙った俺の相方が脳天をぶち抜くぜ」
男の余裕のある言葉に、ひとみの手は銃を掴む前に静止した。
「それよりも真希ちゃん。その娘は連れてかないでよ。俺たちの方が先に目を付けてたんだからさ」
男は懐からナイフを取り出すと楽しそうに、両手で弄びながら歩を進めてきた。ひとみは真希へと目をやる。真希が驚愕に言葉も出せないようだ。青く染まる顔は、近寄ってくる男とよく似ている。おそらくカツラなどで男が変装していたら、見分けることは不可能であろう。
「…ユ‥ウキ…」
真希がようやく上擦った声を発する。
- 122 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月10日(木)00時07分31秒
「久しぶり‥って挨拶するほどの間柄でもないか。でも、驚いたなぁ。まさかこんな所で真希ちゃんと会うことができるなんてね。元気に警察やってんだ」
「……ユウキ。‥何やってるのよ。行方が分からなくなってから、ずっと母さん心配してたのよ。それが…‥一体どういうことなの。ちゃんと分かるようにあたしに説明しなさいよ」
真希が動揺しながらも、ユウキと呼ぶ男を怒鳴りつけた。ユウキはからかうように肩をすくめた。
「真希ちゃんに説明しても分かんないよ。ただ、今はそこのあさ美ちゃんを連れて帰らなきゃ駄目なの。だから渡してくんないかなぁ。可愛い弟の頼みじゃない」
「あたしもこの娘に用があるのよ!警察手帳出すわよ。銃刀法違反、公務執行妨害……」
真希はますます冷静さを欠いたように、掠れる声でユウキに言葉を浴びせる。
「そう?だったら、そこの娘に聞いてみる?」
ユウキはナイフで、あさ美を指した。頭を下げていたあさ美は、ゆるゆると顔を上げた。
「ちょ、あんたたち2人で勝手に話を進めてるけど、あたしはあさ美を連れていくことには賛成してないよ」
- 123 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月10日(木)00時09分08秒
ひとみはよく見えてこない2人の関係に戸惑いながらも、あさ美の手を引こうとした。すると、突然ひとみの足下で土が跳ねた。そこには深々と銃弾が突き刺さっていた。
「あぁ〜あ、言っただろ。俺の相方がちゃんと見張ってるって。今度、動いたら当てさせるよ」
ユウキはナイフをちらつかせる。
「……あんた、何やってるのよ…」
真希も盛り上がった土を見て、目を見開いている。
「だから言ってるだろ。そこの娘を連れて行くんだよ。何度も何度も言わせると、真希ちゃんも殺しちゃうよ」
ユウキが苛ついたような視線で一同を眺め回した。
「……私があなたに付いていけば、この人たちを襲わないのね‥」
それまで黙っていたあさ美が静かな声でユウキに尋ねた。ユウキは申し出に驚いたようだが、すぐにつまらなそうな顔になり、それから頷いた。
「あさ美、あんた何を言ってるか分かってんの!」
ひとみは信じられないように、あさ美の腕を掴んだ。あさ美は微笑むと、ひとみの指を丁寧に剥がした。
「…大丈夫。この人たちは抵抗しなければ、私に手出しはしないから」
あさ美はそう言うと、決意に満ちた表情でユウキに方に向かって歩き出した。
- 124 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月10日(木)00時10分38秒
ユウキは渋い顔をしながら、ナイフをしまい込むと、大切な客人をエスコートするようにあさ美に手を取り、公園の外に止めておいたライトブルーの車に向かった。
「…後藤さん、ごめんなさい。保田さんの所に行って謝りたかったんですけど‥。でも危険だから、追跡はしないで下さい」
あさ美はそこで言葉を止めて、深々と息を吐き、ひとみを見つめた。その顔には悲しげな笑みが浮かんでいた。
「…ひとみ。ありがとう。急にこんなことになっちゃって。‥こんな形の別れになっちゃってごめんね。今まで楽しかった‥。本当は……」
あさ美の声は最後まで聞こえなかった。あさ美はぺこりと頭を下げて、ゆったりとした動作で車の後部座席に乗り込んでしまった。ひとみは一挙一動をそつなくこなすあさ美の様子に、全く動くことができなかった。
「それじゃ、目的は果たしたから俺は帰らせてもらうね。もっと抵抗してくれるかなぁって思ってたから、残念だなぁ」
ユウキは唇を尖らせながら、運転席に座ると車を発進させた。土煙が舞い上がり、派手な音を立てながら消えていった。後部には表情のないあさ美が、別れを惜しむ様子もなく、ただじっと座っていた。
- 125 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時29分41秒
「……一体どういう事よ!あいつは何なのよ!あんた、知り合いなんでしょ。大体さっきの爆発だってあいつがあたしの部屋でパイナップルを爆発させて起こしたのよ!」
金縛りが解けたかのように、ひとみは怒りの矛先を真希に向けて、真希に対して突っ掛かっていく。
「あ、あたしだって聞きたいわよ!どうしてユウキがあの娘に用事があるの!それに……」
真希は言葉を詰まらせた。それから自分を落ち着かせようと深々と息を吸った。
「とにかくあたしはユウキを追うわよ。あんたの話じゃあいつが爆破事件を起こしたみたいだし、多分管理人殺害にも関係がある。刑事として逮捕することがあたしの仕事だからね」
真希はこう言うとマンション方へと駆け出した。
- 126 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時31分20秒
その場に取り残されたひとみは、自然と沸き上がってくる黒い感情に身体を震わせた。脳内では状況を冷静に把握しようとしながらも、喪失感が覆い被さり余計に混乱するばかりである。あれほど信頼をして、お互いの距離を縮めてきたあさ美は、ただの一言を残しただけで去ってしまった。そして自分はそれを止めることもできなかった。
深淵より身を擡げるもう一人の自分が、すぐに甘い吐息で自分を慰めようとする。
『あさ美はあたしたちの命を助けようとして、従っただけなのだから、自分には否がないはずよ』
「…あたし‥は」
ひとみは身から振りほどこうと抵抗するしようとも、その声は耳に流れ込んでくる。
『それが分かってたからあなただって、助けようとしなかったんじゃないの。誰だって自分が可愛いもの。それにあさ美の自己犠牲精神を無視するのは彼女に対して失礼だと思ったんでしょ』
艶やかな声がひとみの身体を包み込んでいく。辺りは何一つ変化がないはずなのに、ひとみは息をするのも困難になってきた。
- 127 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時34分04秒
『あなたは自分が思っているほど強くないって分かってるんでしょ。それなのに変な復讐心を持って、持ちたくもない銃を握ってる。もう止めたいと思ってるのにね。ちょうどいい機会じゃない。あさ美もいなくなってあなたを縛るものは何もないのよ。錆び付いた復讐心を捨てて、今まで稼いだあなたの正当な報酬で海外に家でも買って悠々自適に生活をすれば…』
闇の声は高らかに笑い声を上げた。その嘲笑にひとみは顔を歪ませながら反論をした。
「違う!あたしの復讐心は錆び付いてなんかいない。あさ美のことだって見捨てた訳じゃない!」
『弱虫のあなたが、よくもそう吠えられるものね。今まで銃を握りながら震えてたくせに…。それとも血に飢えた吸血鬼のように人の血が欲しくて仕方がないのかしら。あたしはどっちでもいいのよ。逃げるのでも、手当たり次第に殺すのでも……』
ひとみは闇が身体中を冷たい手で撫で回していく。ひとみは闇から逃れようとしながらも、半分その心地よさに身を委ねたくもなってくる。あさ美を失ったことで投げやりな感情が、快く迎え入れる準備をしてくれていた。
- 128 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時35分09秒
鋭いクラクション音がひとみの耳を突いた。闇が瞬間に気配を消し、ひとみは弾かれたように音のした方を見た。正常な思考回路がすぐさま働き始める。そこにはパトカーに乗った真希が、逸る気持ちを抑えるようにひとみの方を見ていた。
「…どうするの。行くの?行かないの?」
真希の言葉に背を押されたように、ひとみはパトカーの助手席のドアを引いた。
「…ごめん、ありがと」
取りあえずの礼をひとみは口にする。
「別にあんたが可哀想とか思って乗せるんじゃないよ。逃げられたら、ユウキの犯行を証明してくれる人がいなくなるからね。それにあんたみたいな銃刀法を違反してる奴を野放しにはできないからさ」
真希がひとみがシートベルトを締めるのを確認すると、クラッチを入れた。ひとみは走り出すパトカーの中で、闇に触られた身体を温めようと自分の身体を強く抱きしめた。
- 129 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時36分10秒
「ユウキはね、あたしの弟なんだ」
真希は車の間を抜けながら、クラッチを上げていく。パトランプを回しながら走っているため、他の車たちが何事かと道を開いてくれる。先ほどから無線機に応答を求める声が聞こえてくるのだが、真希はそれを無視して運転を続けた。
「それがね、一年前かなぁ。急に行方不明になっちゃってさ。一応、捜索願も出したんだけど、家って放任主義なのよ。だから、見つからなければ見つからなくても元気でやってるだろって」
真希が呟きながら、苦笑を漏らした。ひとみは黙って真希の言葉を待った。
「そう言いながらも母さんなんか結構心配してたみたいだけど。あたしも暇なときは調べたりもしてみたけど、全然分かんなくてさ。それが突然、ナイフ持って人を脅したり、爆発物を扱ってたり、人を……」
真希は一旦言葉を区切った。ひとみが真希の横顔に目を向けると、彼女は沈痛の表情で前をじっと睨んでいた。
「ばっかだよねぇ。何に騙されてるか知らないけど、あんなことしてるなんて全然考えたことなかったな。いつもグズでドジで、弱虫で泣いてばっかだったユウキがさ。喧嘩したって、あたしに勝ったことなかった奴なのに……」
真希はそれっきり押し黙った。
- 130 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時37分15秒
ひとみは狂気に満ちたユウキの目を思い出す。言動も不安定で、自分の感情を上手に扱うことができないように見受けた。だが、それが反動になっているかのように強かった。隙がなく、身のこなしも自分に比べて数段早かった。男女の力差もある。
「あさ美とは初めてだよね?」
ひとみの質疑に真希は頷いた。おそらくユウキも初めてあさ美と接触したのだろう。真希の場合は目的がはっきりとしているが、何故ユウキがあさ美を連れていったのか分からない。特に個人的な付き合いがあったとも思えない。ならば、あさ美のことを追っている人間がいるということになる。
ひとみの脳裏に、以前出会った黒ずくめの少女が思い浮かんだ。彼女は自分を餌にして、もう一人を誘き寄せると言っていた。
「もしかすると……」
唐突にひとみの携帯電話が音を立てた。ひとみは慌てたように電話を耳に当てた。
- 131 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月12日(土)01時38分32秒
「あっ、もしもし、ひとみちゃん?」
梨華の焦ったような声が聞こえてきた。
「何?今ちょっと忙しいから下らない電話だったら止めてよね」
「それがね、変なメールが来たのよ。『吉澤様へ』っていうタイトルで、『品川埠頭の倉庫群で、背徳者が神に捧げる子羊を飼い慣らす』ってひとみちゃんのことを知ってるみたなんだけど。何か気味が悪くて」
「品川埠頭の倉庫群?」
ひとみの声に、真希が神妙そうな顔で見つめてくる。
「何かあったの?」
梨華のこれほどまでの不安げな声は聞いたことはない。
「別に‥。大丈夫だよ。取りあえずメールにあるとおり、台場埠頭に向かってみるから。あ、メールの発信元を探ってみてくれる?」
「…どうしたの?何かさっきと全然対応が違うんだけど…」
言われてみると、ひとみはこれほどまでに優しい言葉で梨華に話しかけた事がなかった。梨華が電話の向こう側で戸惑っている姿が思い浮かび、独りでに笑いがこぼれてくる。ひとみは電話を切ると、息を吐き、シートにもたれかかった。
「品川埠頭に何かあるの?」
「‥多分ね」
ひとみはズボンポケットに入れられたベレッタM84を二度三度叩いた。それから緊張を解すように唇をそっと舐めた。
- 132 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2002年01月14日(月)02時35分24秒
あさ美は何度か目をしばたたいた。前の座席ではユウキが携帯電話を片手に、誰かと話している。相手は高地位にある人物らしく、しきりに言葉遣いを直している。
車窓から見える光景は倉庫の群れが立ち並び、近くから打ち寄せる波音が聞こえてくる。それに混ざるように海鳥たちが、喉に掛かるような声を上げながら飛び回っていた。
あさ美が座り直すと、ユウキがちらりとバックミラーに目をやり、それから何事もなかったことを確認すると会話を続けた。
ユウキは決してあさ美を不作法に扱わなかった。ポケットに入っていたワルサーPPKは取り上げられてしまったが、それ以上のことは何もしてこなかった。
- 133 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2002年01月14日(月)02時37分20秒
あさ美はそっと瞼を落とす。ぐっと眉間に皺が寄るのが分かる。このまま『デメテル』の本部に連れて行かれれば、自分や愛をペルセポネーに育て上げた人々を一網打尽にすることができだろう。それこそがこれまで自分を生かしてきた理由であり、これ以上、自分と同じように望まない罪を重ねる人を生み出さないために、そのために自分は今まで手を血に濡らしてきたのだ。
もちろん、ひとみと別れることには躊躇いがある。ここ数ヶ月の生活で自分は変わってきたと思っている。それは紛れもなくひとみと生活をしてきたことが原因であり、誰かと共に信頼しあいながら、仕事をしてきたことにあるとあさ美は確証している。
だから余計にひとみには自分の持つ過去に触れさせたくなかった。このことは自分が蹴りをつけなければならないことであり、そこに大事な人を巻き込むことではないのだ。
そのためあさ美は今、こうして静かにユウキの指示に従い大人しくしている。ペルセポネーに楔を打つために、そして自分自身に別れを告げるために。
- 134 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2002年01月14日(月)02時39分39秒
ユウキは相手に見えていないのに恭しく礼をすると電話を切った。電話越しのつんくは、ずいぶんと上機嫌で何度も褒めの言葉を掛けてくれた。この仕事が上手くいけば、案外早くユウキの望みが叶うかもしれない。
ユウキの脳裏に飯田圭織の裸像が浮かび上がる。すましながらも優しく慈愛に満ちた表情に、十分に潤いを持った黒目がちの大きな瞳。白い素肌が赤く染まっていく姿を何度妄想しただろうか。今のつんくならば『デメテル』の最高司祭をこの手に抱くことを許してくれるかもしれない。
ユウキはほくそ笑みながら、バックミラーであさ美をそっと盗み見る。静かに後部座席に腰を下ろしていて、瞑想でもしているのか、目を閉じていた。
ユウキは物足りなそうにわざと座席を揺らしてみせるが、あさ美は反応すらしない。やがてそれにも飽きたため、ユウキは再び電話を耳に当てた。
「もしもし」
向こう側から相棒のソニンが応答してきた。
- 135 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2002年01月14日(月)02時41分02秒
「予定通り品川埠頭に潜んでる。首尾はつんくさんに報告したから。取りあえずこれから軽井沢の別荘に連れていって、しばらくはそこに置くらしい。食糧なんかを買い込んでおいてくれよ。あと着替えな。お姫様は丁重に扱わないとつんくさんがうるさいからさぁ」
「それどころじゃないわ。さっきの女と警察が台場方向に向かってる」
ソニンが車を加速させたらしい。爆発したようなエンジン音を電話が拾った。
「どういうことだ?」
「分からないけど、ともかく連中がそっちに向かってるのは間違いないわね。おそらく何らかの情報が回ってるのよ」
「飯田の方が邪魔しようっていうわけか」
飯田とつんくがあさ美の存在を巡って争っているという話は聞いている。丁の良い駒を仕向けて漁夫の利を狙うつもりなのだろう。
「とにかく、邪魔をするつもりだったら片づけるしかないでしょ。それよりもあさ美の動向に注意をしないと後ろから狙われるわよ」
心配性のソニンが忠告を促す。
- 136 名前:第8話 闇より引く手(前編) 投稿日:2002年01月14日(月)02時42分44秒
ユウキは小馬鹿にしたような笑みを浮かべると言った。、
「大丈夫だよ。あさ美は静かにしてるし、銃も取り上げてる。だいたい、こんな小娘に俺が負けるとでも思ってるのかよ?2人だろうと3人だろうと、たいして変わりゃしない。抵抗するなら俺が1人で片づけてやるよ」
「せっかく手に入れた獲物だから、慎重に事は進めたいの。あたしはぎりぎりまで付けて、いつものように後方支援に回るからね」
ソニンはそう言うと電話を切った。ユウキは軽く息を吐くと、電話を隣座席に放る。あさ美が目を開けて様子を確認したようだが、すぐに目を瞑ってしまった。
ユウキはそんなあさ美を一瞥してから、身体を伸ばした。ソニンの腕は認めているが、口うるさいところが真希そっくりであり、そういうときのソニンの態度はユウキに苛立ちをもたらした。
「俺はいつまでもガキじゃないんだ」
ユウキはナイフをベルトに通してある革製のサックから引き抜いた。光るまで磨かれたナイフの刃にユウキの顔が歪んで映っている。今までこの顔のために何度有能な姉と比べられ、馬鹿にされてきたことか。
「でも今日でそれも終わりかな。真希ちゃんも来てたら死んじゃうわけだしなぁ」
ユウキはナイフを太陽にかざした。ナイフを動かすごとに眩い光が散り、目を鋭く突いてくる。ユウキは目を細めながら、これからの楽しいショーを思い浮かべて口元を歪ませた。
- 137 名前:さるさる。 投稿日:2002年01月14日(月)04時23分39秒
- 年明け初読み。
急展開ですね!ユウキが曲者だなぁ。
ものすごい事になりそうですね。
愛とかも出てきちゃったりすんのかな。
ドキドキです。
- 138 名前:三文小説家 投稿日:2002年01月16日(水)00時47分35秒
- >>137
神様、仏様、さるさる。様
毎回毎回のレスありがとうございます。
レスが少ない中で、いつも励ましにさせていただいてます。
今後もどうぞよろしくお願いしますね。
それとこれ以後、暴言等々が飛び交うので、
ファンの方々にはお先にお詫びを申し上げておきます。
決して悪意あっての科白ではないので、その点をご考慮下さいませ。
- 139 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時48分43秒
ひとみはもどかしそうにシートベルトを外すと、車から飛び降りた。品川の倉庫群はひっそりとしていて、人影は見あたらない。遠くから磯の香りが漂ってきて、ひとみの鼻を擽る。海鳥たちはテトラポットの上で疲れを癒すかのように止まり、訪問者たちを丸い瞳で眺めている。それを狙うように野良猫が近寄っていくのだが、気配に気づいた鳥たちは派手に羽音を立てて、飛び立っていってしまった。
「ほんとにここに居るの?」
真希が気怠そうにひとみに尋ねてきた。
「分からない。でも数年前から機能していないこの辺りなら身を隠すには最適な場所でしょ」
ひとみは辺りを探るように視線を這わせる。
「言っておくけど、あたしはあんたが銃を使用することは認めてないからね。もし使ったら銃刀法違反。犯人に怪我を負わせたら障害、ひどければ殺人未遂ってことだって……」
「黙って!」
ひとみが倉庫の影に隠れるように停められている車を顎で示した。真希は講釈を途中で止められたことにぶすっとしながらも、ひとみの指すほうを見やる。
- 140 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時49分38秒
「…ユウキ」
ライトブルーの車に寄り掛かるように、ユウキが立っていた。その顔には余裕の笑みが浮かび、手には2本のナイフを持ち、それを合わせては音を鳴らしている。車の後ろの硝子窓にはあさ美のものであろう後頭部がある。多分、ひとみたちの来訪を知っているのだろうが、一向にこちらに視線を向ける様子はない。
「誰の入れ知恵だか知らないけど、ここまで追いかけてきたってことは覚悟ができてるって思っていいわけだ。ねぇ、お姉さん方?」
「あんたこそ、あさ美に手出しなんかしてないでしょうね」
ひとみは高鳴る胸の鼓動を押さえようと、少々大きめに声を張る。手はいつでもベレッタを引き抜ける準備ができている。たとえ真希が止めようと、この場では命がチップであり、それを守るのは力である。
「ユウキ!止めなさい。今大人しく捕まるのならば、ちゃんと事情を聞いて、それなりの弁護士を付けてあげるから。だから、こっちに来なさい」
- 141 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時50分25秒
「はぁ?真希ちゃん。何かおかしくない?俺はね、あんたなんかすぐに殺せるんだよ。それなのに『来なさい』ってのは俺に命令をしてるんだよね。普通、弱い者は強い者に従わなきゃいけないんじゃないの?」
ユウキは車から身を離すと、ナイフを逆手に構えた。何度か握り具合を確認するかのようにナイフを振るった。その度に空気を切り裂く音がする。
「俺はね、弱い人間から命令されるのって嫌いなんだよ。今の真希ちゃんだったら俺、負ける気がしないね。何せ許可がなきゃ銃も使えない公僕だもん」
ユウキが白い歯を見せて笑った。
「殺す前にいっとこっかなぁ。俺ね、真希ちゃんのことずっと嫌いだったの。だからようやく殺せて嬉しいよ」
「な、‥…」
真希は声を出そうとしたようだが、何を言っていいのか分からない様子で、すぐに言葉を飲み込んでしまった。それでも顔は険しく、瞳には悲しみを宿らせていた。
ひとみはベレッタを抜く。真希が弱々しくひとみの構える銃を見つめた。
- 142 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時51分47秒
「あんたたちの姉弟喧嘩に付き合ってる暇はないんだよ。あさ美を早く返してもらおうか」
「心配しなくたって大丈夫だよ。あいつは大事な商品だからね。殺しはしないって。だけど‥あんたたちは別。だからね‥」
ユウキが動く。その動きは素早く、剣先が風を切り裂く音が聞こえてきた。ひとみは慌てたように銃を撃った。乾いた銃声が倉庫群の間に響き渡り拡散されていく。ユウキはその弾筋見極め、身をかわすとひとみの懐に飛び込んでくる。ひとみは銃を盾にユウキのナイフを受け止める。金属同士が甲高い呻き声を上げ、お互いに腕に共鳴が起こる。
「ユウキ!止めなさい」
真希は間近で行われる闘いに、どう対処してよいのか分からずに声だけを上げた。ユウキはそんな真希をうっとおしそうに、もう片手に持つナイフで斬りかかる。真希は驚いたように身を引くが、高いヒールがコンクリートに引っかかったようで、そのまま尻から座り込んでしまう。
ひとみは真希に気を取られたユウキを逃さなかった。ベレッタで相手のナイフを押し返すと、手を狙って蹴り上げた。軽やかな音を立てて左手からナイフが落ちる。苦々しげな表情をしたユウキは、一旦ひとみとの距離を取った。
- 143 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時52分51秒
「お姉ちゃんに気を取られて、力が出せないんじゃないの」
ひとみは痺れた右手から銃を左手に持ち直すと、ユウキに向ける。
「お姉ちゃん?馬鹿言わないでくれるか?俺はなぁ、こんな奴一度も姉だなんて思ったことないんだよ。なあ、真希ちゃん。あんたは俺にとって他人同然なんだよ」
ユウキが乾いた笑いで、真希を見下す。
「いっつも俺のことを見下してたよな。真希ちゃんは近所でも評判の良い愛らしい娘。俺は近所でも有名な泣き虫。出来の悪い俺をいつも見下すような目で見てただろ。近所の連中が勝手に比べて、俺は真希ちゃんよりも上に名前が出たことない。男なのに、女の真希ちゃんに一度も勝ったことがないんだよ」
どこか狂気と憎しみのこもったユウキの言葉は、真希に対する勝手な思いこみのようにひとみには聞こえた。真希は弁明をしようと言葉を探すが、ユウキの勢いに飲まれてしまっている。
「何で俺が真希ちゃんって呼ぶか分かるか?姉ちゃんなんて呼べねぇよ。あんたは俺にとっちゃ姉ちゃんじゃねぇんだからな」
- 144 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時54分10秒
「ち、違う。あたしは…そんなこと、一度も……」
ユウキは右腕を振った。ナイフが手から離れて、真希目掛けて飛んだ。ひとみは咄嗟に横に身を躍らせた。自失している真希を押し倒すと、右足に激痛が走る。
「っう」
ひとみは自分の右足に目をやると、太股の辺りにナイフが突き立っていた。ひとみの身体の下から、頭を押さえながら真希が姿を出すと、ひとみの右股に刺さったナイフを見て、引きつったように顔を歪めた。真希は息を飲み、急いでナイフを引き抜こうとするが、柄に触れるとひとみが苦痛に顔をしかめるため、真希は手を止めた。
「‥ユ…ウキ」
真希は近寄ってくるユウキを睨み付けた。ユウキは狂気を宿らせた笑顔で、2人の前に立つ。真希はホルスタからSIG・P230JPを取り出す。ユウキはそんな真希の様子を可笑しそうに眺めていた。
- 145 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月16日(水)00時54分54秒
「無駄な抵抗?いいよ。好きなだけ撃てば。その代わり弾が無くなったら、真希ちゃんが死ぬときだから。今度は俺が満足できるようにあんたで遊んでやるよ。絶望の表情をしてる真希ちゃんを犯して、切り刻みながらもう一回犯してやるよ」
ユウキは片口を上げた。口端から見える鋭く尖った犬歯が飢えた野獣を想像させる。
ひとみは唾を地に向かって吐くと、自分の足からナイフを抜いた。瞬間の激痛が走り、濃い匂いが鼻についた。深紅の血がこぼれ落ち、コンクリートの大地を染めていく。
「…今、武器を捨てれば、逮捕で許してあげるわ」
真希はユウキの言葉を無視して立ち上がると、銃口をユウキの方へと向けた。ユウキは戯けたように肩をすくめた。
「…ならば‥正当防衛のために、あなたへ発砲をします」
真希は震える指で、ゆっくりと引き金をしぼった。
- 146 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月18日(金)00時32分52秒
ソニンはビルの最上階に立った。遠くまでよく見渡せ、ユウキの停めているライトブルーの車も分かる。
ソニンは肩に下げていた細長い布袋を下ろすと、中身を確かめた。中には長物のAPS−2オリジナルが入っている。それを外に出すと、他の部品もこぼれ落ちてくる。ソニンは焦ったように布にくるまれたスコープを拾い上げると、しげしげと眺め満足したように、それを取り付け始めた。それから口紅のような鋭く尖った銃弾を、6発並べる。
ソニンは髪をかき上げて耳の後ろに固定させると、ゆっくりと腰を落としてASP−2オリジナルを構えた。吹きさらされてペンキの落ちかけた鉄柵から銃口を押し出して、スコープを覗き込むと、下ではグレースーツを着た女性がユウキに向かって銃を放っている。腕の方は素人らしくユウキは鬼ごっこでもするように、跳ね回っていた。
ソニンはため息を吐くと、もう一人の女性に目を持っていく。足に傷を負っているようで引きずりながらも、銃を撃っているようだ。
「仕方ないわね」
ユウキの余裕を持った態度は、いつもソニンの心配を掻き立てる。何度も注意をしているのだが馬耳東風といった様子であり、やきもきさせられている。
- 147 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月18日(金)00時33分58秒
ソニンは在日半島人の血を受け継いでいる。本人にとって生まれた時からのことで、特に意識したことはないのだが、他の人たちは違った。この出生について黙って放っておいてくれなかのだ。ことあるごとに、ソニンの血について触れてくる。それはちょっとした冗談のようなものから、心を切り裂かれるように辛い出来事まで様々なものであった。
特に酷かったのが、小学校時代に近所の男子たちにそのことで虐められ続けたことである。異なった血を引いていることが弱点であるかのようにからかわれ、笑われてきた。ソニンは涙を堪えながら、相手につかみかかるような大喧嘩を何度もした。家に帰ると堰を切ったようにソニンは泣き、両親に悔しさを何度も訴えた。その度に父が悲しげに、そして静かにソニンの頭を撫でてくれたことを覚えている。相手の男たちはもうそんな些細な虐めなど忘れているだろうが、あの時の屈辱をソニンは決して忘れはしないだろう。
そんなソニンが『デメテル』に入信したのは、まだ2年前のことである。マスコミに取り上げられた圭織は高潔で、誰にでも平等に接していた。それに加えて女性指導者としての強さがソニンを魅了した。
- 148 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月18日(金)00時34分50秒
入信して半年ほど経つと、経営部門最高顧問のつんくがソニンを東京に呼び出した。全く寝耳に水の話で、ソニンは何事かと身を震わせた。
つんくが言うには、運動能力が他者よりも高かったソニンは「選ばれた者」らしい。そして、その能力をさらに開花させるペルセポネーにならないかと誘われた。その実体への懐疑心からソニンは一度断ったが、いずれ圭織の親衛に所属するとつんくから言われて、ソニンは考えを改めて2つ返事をした。
現在はつんくの親衛部隊として所属をしているが、何度か研究所に圭織が訪問したときに声を掛けてもらったことがある。ソニンはあまりの緊張にろくな科白を口にすることもできなかったが、圭織は意に介した様子もなくにこにことしていた。
最近つんくと圭織が仲違いしていると噂されていて、ソニンは圭織に力を貸したいと思っているのだが、なかなか思うように事が進展していなかった。そこに今回の仕事が命じられた。今回の依頼を成功させれば、裏切ることにはなるが、つんくはソニンの望みを叶えてくれるかもしれない。そんな甘い考えが頭にあった。
- 149 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月18日(金)00時35分51秒
ソニンはスコープで動きの散漫な女性に狙いをつける。
「悪いけど、これが仕事なんでね」
ソニンは引き金に指をかけた。自然と目元が緊張して左目が伏せられる。
その時、頭に冷たく堅い物を突きつけられた。ソニンははっと頭を回そうとしたが、それを許してくれそうにない。
「こんにちは、ソニンさん」
訛の残った聞き覚えのある声である。
「……愛‥ね」
ソニンは長物から指を外す。
「正解です。あさ美ちゃんはまだ『デメテル』には招待できないって飯田さんが言うんです。だから邪魔をさせてもらいます」
「…あいつらを呼んだのもあんたの仕業だね。‥あたしは飯田さんの味方よ!」
ソニンは弾かれたように立ち上がり、愛のグロック17を手で払った。愛は普段と変わることのない黒い服装で、ロングスカートの裾が風になびいていた。一瞬驚いた表情を浮かべるも、すぐににこりと笑う。銃口はソニンに向いたままだ。
「ごめんなさい。飯田さんがペルセポネーとして欲しているのは、私とあさ美ちゃんだけなんです。ソニンさんやユウキさんみたいに、つんくさんによって作られたペルセポネーは必要ないそうです」
- 150 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月18日(金)00時36分39秒
「あたしとあなたと何処が違うって言うのよ。あんたたちだってあたしたちと同じプログラムを受けて…」
「違いますよ。初期プログラムを受けたペルセポネーは3人しかいません。1人は暴走が酷くなって、香港に飛ばされていますので、今、日本にいるのは私とあさ美ちゃんだけなんです。あなたたちは、ただ薬による強化処理を受けて、つんくさんからペルセポネーという名前を与えられただけです」
愛は憐れむようにソニンを見つめた。ソニンは茫然としながらも、紺のブレザーの中に自然と手を入れた。愛は何も答えずに引き金をしぼる。ソニンは素早く愛器のグロック26を抜くも、左肩に焼けるような激痛が走る。身体が崩れ落ちそうになるのを、ソニンは必死になって踏ん張った。
愛は追いつめた獲物を弄ぶように、グロックを放ち続けた。ソニンの身体中を弾丸が通り抜け、そのつど血が吹き出てくる。ソニンは何とか愛を狙おうとするが、腕に力が入らず、銃口を向けることも叶わない。
- 151 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月18日(金)00時37分38秒
「飯田さんが、あなたみたいな偽物を生かしておくと危険だと言ったので、私が処理させてもらいますね。さようなら」
やがてソニンを弄ぶのにも飽きたように、愛は銃先とソニンの左胸とを一線上に結ぶ。ソニンは恐怖におののき、弾ける限り引き金を引いた。銃口が定まらない状態で弾丸を放っても愛には当たらなかった。愛は柔和な笑みを浮かべながら、一歩ずつソニンへと近寄っていく。カチカチと銃弾が切れてもソニンの指は止まることを忘れていた。
愛の放った銃弾は的確にソニンの胸を射抜いた。ソニンは飛ばされるように仰向けに倒れ込んだ。苦しそうに口をぱくぱくと動かすも呼吸をするのが困難になってきて、やがて意識が虚ろいでいく。瞼を下ろす直前、近寄ってきた愛の姿が霞む中に見える。その向こうには何処までも広がる青い空が眩しく光っていた。その青さがソニンの目に染み入った。ソニンの目からは自然と涙がこぼれ落ち、血に汚れた頬を清めるように流れていく。
もう一度銃声がする。胸に熱い鉛が打ち込まれて、最後の痙攣が全身を駆け抜けるとソニンは半目のまま絶命をした。
- 152 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時30分14秒
あさ美は車の外で行われている激戦から、気持ちを切り離そうと目を伏せ続けている。時折耳を襲う叫び声やひとみの声に何度も心を乱されるも、ペルセポネーを絶滅させるためには、自分の勝手な想いに従って動くことはできないのだ。このときほど、あさ美はひとみという相方を持ったことを恨んだ事はない。これほど足枷になり、これほど助けられないことが心苦しいとは、出会った当初には思いも寄らなかった。
突然、車内あった電話が震え出す。あさ美は目を開けると前にある携帯電話を見る。あさ美はそっとそれを手に取ると、耳に当てた。
「ちゃんと出てくれたね、あさ美ちゃん」
「愛‥ちゃん…」
あさ美は掠れる声をどうにか出した。
「近くのビルの屋上からね、よく手入れされたスコープで見てるよ。今、そっちの男の相方を片づけたの」
「‥どういう……」
あさ美は頭を振り、愛の所在を確かめようとする。
- 153 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時31分09秒
「飯田さんからの依頼でね。つんくさんの作ったペルセポネーに好き勝手されると困るんだって。あなたは呑気にそこに座ったままなの?」
愛が微かに笑った。
「飯田さんはあなたの考えてることなんて分かってるみたいよ。こんな他人に引きずられるような格好で来られると困るそうよ。だから私に今回のことを邪魔するように言ってきた」
愛はそこで言葉を一旦切り、それから相変わらずの標準語からずれた発音で会話を続ける。
「本当はね、私はあさ美ちゃんのことを助けるなんて嫌だったんだけど、飯田さん直々のお願いだもの。仕方無しに今回はあなたのことを助けてあげてるの」
「‥どうして、私が戻ると困るの?飯田さんもつんくさんも私のことを待ち望んでるんでしょ」
「潜入が目的なんでしょ。手当たり次第ペルセポネー計画参加者を手に掛けてきたのに、一向に効果がない。だから諸悪の根元を断とうでも思って、わざと捕まってるんでしょ。飯田さんはあさ美ちゃんに自分の意志で戻ってきてもらいたいみたいよ」
「…自分の‥意思?」
飛び出した自分が、望んで圭織の元に戻ると思っているのだろうか。あさ美の内に言いようもない不安が膨らみ始める。
- 154 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時33分17秒
「それともう一つ。鈴音さんからのお願いも。あなたが仲間がやられそうな時にどれほどの力を出すことができるかを調べたいそうよ。鈴音さんも近くに待機していてあなたの活躍を待っているの。だから、あなたはあの男性を殺して」
「……私は‥」
あさ美が言葉を発しようとするも、愛の言葉で遮られる。
「駄目よ。ちゃんと闘わなきゃ。さもなければ、ここから私があなたの相棒ともう一人の女性を撃つわ。もちろんユウキさんも始末はするけど、それが済んだら今度はあさ美ちゃんね。あの教会での決着をちゃんとつけさせてもらうよ。そうならないようにしたいなら、あなたが殺るしかないの」
愛は耳障りのよい声を残したまま電話を切った。あさ美はゆるゆると電話を耳から離す。おそらく愛の言葉は本当だろう。自分が車から降りて、ユウキと対峙をしなければ、外にいる2人は愛に狙われる。あさ美は初めて、後ろの硝子窓から戦況を見た。
足を引きずりながら身を隠し、銃を撃つひとみと、慣れない手付きで弾倉を変えている真希がいて、ユウキはまるで遊ぶかのように2人と接している。決してユウキは手を出さずに、相手の体力が消耗しきるのを待っているようだ。
- 155 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時34分06秒
あさ美は天井を仰ぎ見て、それからゆっくりと深呼吸をする。自分には選択肢が、目的を取るか、大切な人を取るかの2つしか与えられていない。
あさ美は目を数秒伏せる。暗闇が目蓋の奥に広がり、自らの精神が巨大な闇に覆われていくのを感じる。今までそれがあさ美にとっての全てであった。闇が心を覆い、目的に人を殺すことを厭わなかった。それが変わった。闇に一条の光が射したのだ。誰かを守るために銃を握り、誰かを助けるために身を張るということを知った。それはひとみとの出会いから始まったように思う。
あさ美は目を開ける。それから車のドアを開けると、身体を潮風が吹く外へと出した。
- 156 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時35分20秒
ユウキは、真希の持つSIG・P230JPを払い落とした。真希はすぐさま銃を拾おうと身を屈めようとするが、その余裕のない行動中にユウキは銃を足で押さえつけた。真希は悔しそうにユウキを見上げてくる。その憎々しげな視線がユウキの欲望をさらに誘った。
真希の銃捌きは素人そのものと言ってよかった。ユウキは少々げんなりとしながらも、真希との遊びに興じた。時折飛んでくるひとみの銃弾の方がよっぽど気を付けていなければならなかった。
「警視庁捜査一課のエリート刑事もこんなもんなんだ」
ユウキが真希の髪をナイフですくうと、甘い匂いが鼻に届き、自然と歪んだ笑いが浮かんでくる。
「そいつを離しなさい!」
ひとみがベレッタを向けているが、相手は手負いである上、人質がいる分ユウキの方が余裕である。
「心配しなくてもいいよ。殺すのはもったいないけど、あんたもしっかり真希ちゃんと同じ所に送ってやるから」
「‥殺すのね」
真希がまっすぐとユウキを見つめながら問いかけた。ユウキは無言で頷く。不思議なことに実の姉を手に掛ける段階になっても、まったく心に動揺がこない。ユウキはつんくが与えてくれたペルセポネーとしての力を心底敬った。
- 157 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時36分32秒
「それじゃ、そろそろ死のっか。真希ちゃん」
ユウキは手に持つナイフを振りかざす。ひとみが何か大声を上げたようだが、ユウキの耳には届かなかった。身体を銃弾が削って行ったようで熱く痛みが駆け抜けた。だがそれ以上の高揚感がユウキの痛みを消した。
完全に振り切り、ナイフに手応えがある。しかしそれは真希にまで刃が届いた感触ではなかった。真希とナイフの刃との間には、変色した木の棒が差し出されており、そこにナイフの剣先が刺さっている。
「…あさ美」
ひとみが困惑を交えた声を出す。間一髪に割り込んできたのはあさ美であった。倉庫に立て掛けられていた細く頼りなさげな木の棒を手に持ち、ユウキと真希の間に踏み込んでいる。
「我慢できなくなって出てきたのか」
ユウキが鼻で笑う。あさ美は答えずに棒を立てると、ユウキの手から力強くナイフを横に払う。コンクリートに転がるナイフは、高く鈍った音を鳴らした。あさ美は息が荒く立つこともできない真希を気遣う。真希の目からは涙がこぼれ落ちており、死への恐怖かぶるぶると震えていた。
「大人しくしてられないなら、殺していいって言われてるんだ」
ユウキは腰のサックからナイフを出す。
- 158 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時37分42秒
「……あなたと仕事をしていた人は死にました」
あさ美は悲しそうに言うと、ユウキと対峙する。
「どおりで。いつもなら俺が遊んでれば、遠くから勝手に撃って始末していたからな」
ユウキは気にかけた様子もなく、あさ美にナイフを向けた。獲物に襲いかかれるように、腰をぐっと落として、爪先に重心が移していった。
「‥それでも手を引くつもりはないの」
「仕事をするだけだよ。お前たちが普段、その日の飯のために人を殺すように、俺も生きるために人を殺すんだ。真希ちゃん、良かったなぁ。こいつを片づけるまであんたは生きられそうだよ。残り少ない時間を大事にしな」
近づいたひとみに肩を抱かれている真希に向かって、ユウキは言葉を投げかけた。あさ美はゆっくりと棒を水平に構える。
「あさ美‥あんた」
「……大丈夫だから心配しないで。怪我をしているんでしょ。後藤さんを連れて離れていて。この人は私が止めないといけないの」
あさ美はひとみにそう言うと、眼差しをユウキにぶつけた。ひとみは真希を庇うように、後ろ髪を引かれるようにその場を引き始めた。
- 159 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月20日(日)02時39分00秒
ユウキはナイフを横に払った。鋭い切っ先があさ美の腹部を横走る。あさ美はそれをバックステップで避けた。ユウキは突き出す攻撃を避けられながらも、ナイフを前へ前へと出していく。あさ美は時折剣先を棒ではじき返しながら、後退をしていく。
「ほらほら、守ってばっかりじゃん。そんなんで3人仲良く逃げられるとでも思ってるのかよ!」
ユウキはもう一本ナイフを取り出す。それが下方よりあさ美の胸に向かって斜めに走らせた。あさ美は不意の攻撃に身を大きく反らしながら、棒でユウキを突いた。
ユウキは身を捩ってその突きから身をかわすと、ナイフを振るってくる。それよりも早くあさ美は棒を横に払った。
棒はユウキの腹部を強打して、ユウキの動きは瞬間的に止まった。そのままあさ美は棒を上に上げる。ユウキの顎に棒がすくい上げ、ユウキはバランスを失って後ろに蹌踉めいた。
- 160 名前:さるさる。 投稿日:2002年01月21日(月)23時52分18秒
- とうとうはじまりましたねあさみとユウキの対決!
一時はどうなるかと思ったけど、あさみの勇ましい姿
が早く見たい、ざまーみろユウキと思ってしまう・・・笑
作者さんは本当に上手です、映画化できそうですよねこれ。
- 161 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時48分38秒
「……まだ、やるんですか?」
あさ美はユウキの喉元に棒を突き付けながら言った。ユウキは屈辱に満ちた表情で下から睨み付けてくる。削れもしないコンクリートを引っ掻き、爪からは血が漏れだしている。
「…私は愛ちゃんみたいに殺したりはしません。ただ、私のことを放っておいてくれればそれだけでいいんです。あなたも私と同じように利用されて……」
「はん!俺は望んでペルセポネーになったんだ。何でも自分と同じ悲劇のヒロインだと思ってやががるのか。そういうの見てると虫唾が走るんだよ!」
ユウキはナイフを投げつけた。空気を切り裂く音がして、あさ美の顔面横を通り抜けていく。それに気を取られたあさ美は身体ごとぶつかって来たユウキを避けることができなかった。
「…ぐっ」
あさ美は堅いコンクリートに押し倒されて、鈍い声をあげた。
- 162 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時49分15秒
「俺はなぁ、お前みたいに呑気に友情とか信頼とかを愛してるわけじゃねぇんだよ。何でつんくさんがお前みたいな甘ちゃんを必死になって呼び寄せようとしてるのか、分かんねぇよな。仕事だからここまで我慢してやったんだんだよ。それなのに俺の恩情が分かんねぇなんて、お前は馬鹿だよな」
ユウキはあさ美から奪い取ったワルサーPPKをあさ美に向ける。その哀れみを含んだユウキの目はどこか怪しい光があった。
「…そっか、あいつらがいるからお前はいつまでも友情ごっこに満足してるんか。あいつらを殺せば、黙って言うこと聞いてくれるよな」
ユウキが虚ろな視線を上げて、ひとみたちの方を見た。どこか言っていることがおかしくなってきている。あさ美はどうにか逃れようと身を捩るが、ユウキの手はしっかりとあさ美の肩を押さえつける。
- 163 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時49分55秒
「困るんだよ。あんたがつんくさんの所に行ってくれないと…。飯田を抱くことができないだろ。だから、あいつらを殺したら、黙って付いてきてくれるよな。な」
ユウキはあさ美を押さえつけたまま、ゆっくりとした動作で銃先をひとみたちの方へと向けた。あさ美は驚愕に目を見開き、よりいっそう身を捩った。
「ひとみ!」
あさ美は腹の底から自分の出せる最大音量を絞り出した。ひとみは気が付いたように、ベレッタをユウキの方へと向けた。だが口を醜く歪ませ、狂気を宿らせた目で対象を眺めているユウキにはそんなことを気にかける様子もなかった。
- 164 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時50分38秒
あさ美の中で何かが弾け散った。瞬間にして闇が自らの心を覆い尽くし、あさ美は本来自分が持ち得ている意識が遠退いていくのを感じた。
あさ美はありったけの力を持ってユウキの手を持ち上げると、鳩尾に拳を叩き込んだ。ユウキが絶叫を上げながら、前屈みになる。ちょうどひとみが銃を放ったのであろうが、2人の上を銃弾が通り抜けていく。
あさ美は鳩尾から抜いた拳を、今度は右頬に入れる。ユウキはそのまま飛ばされるようにあさ美の上から退いた。あさ美はワルサーを手に持つと、ゆらりと立ち上がった。その目は普段の穏やかな瞳ではなく、鋭く尖り憎悪に満ち満ちたものであった。痛みにうずくまるユウキに冷ややかな視線を向け、そのまま無言で銃口で指す。
ユウキはおののいたように転がるナイフを拾うとあさ美の足を狙うが、あさ美はそのユウキの手を踏みつけた。再度、苦痛の声をユウキは出す。あさ美は銃をユウキに向けたまま、口内で何事かぶつぶつと呟き始めた。
- 165 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時51分18秒
「あさ美!」
遠くからひとみの声がする。あさ美は顔を上げてその方を見ると、ひとみが足を引きずりながら近寄ってきている。あさ美はふっと口元を歪ませた。ひとみが今までに見たこともないような凄艶な笑い顔であった。ひとみは普段との変わり様に、一歩を戸惑う。
「殺しちゃ駄目よ。そいつは、この刑事が逮捕するって言ってるんだから」
「……どうして‥殺しちゃいけないの…」
「あんた、自分が何を言ってるのか分かってるの?」
「…教えてくれたの……。殺しなさいって‥邪魔な人間を…。‥そうすれば幸せになれるって……。みんなが幸せに…」
あさ美は虚ろな視線を再びユウキの方へと持っていった。あさ美は引き金を引こうとした。
「待ちなさい!その子はあたしが逮捕するから、勝手に銃を撃たないで」
気分の乱れを抑えながら、真希があさ美の手を止めようと飛びついてきた。
「‥あなたも…邪魔するの‥」
あさ美は真希を払いのけると、ユウキに銃口を向けながら鋭い視線で睨んできた。その凄まじさに真希は言葉を飲み込み、自然と足が引いてしまった。
- 166 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時52分42秒
真希に邪魔する気配がないと知ると、あさ美はユウキとの間を詰めるように歩を進めた。ユウキは発狂したように泣き喚きながら悲鳴を上げた。それは死を直前にした者の正常な反応であった。
「あさ美、止めなさい!」
ひとみはあさ美の身体を抱き締める。突然の抱擁にあさ美は戸惑ったように引き金から指を外した。それから不思議そうにひとみを見上げた。
「……どうして止めるの?……私は‥教えられたことを…守ろうと思って‥」
「今のうちに逮捕しちゃいな」
ひとみはあさ美の言葉を無視して、真希を促した。真希はこくりと頷くと、持っていた手錠をユウキの手に掛ける。ユウキも抵抗する気をすっかり無くしたのか、顔をくしゃくしゃにしながら真希に立たせてもらった。
「…あんたがどうしてこんなことをしてたのか。じっくり聞かせてもらうからね」
真希は怒りと困惑を交えた表情でそう言うと、引きずるように恐怖に震えたユウキを連れて、パトカーの方へと歩いていった。
- 167 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時53分53秒
「あたしたちは、ただ無差別に人を殺してるんじゃない。依頼に従ってるだけなんだよ。自分勝手に人を殺めるのならばあさ美と組めないよ」
「……でも‥飯田さんが…」
ひとみの胸に抱かれたあさ美は、くぐもった声で言う。
「あんたの過去に何があったかは知らないよ。ただ今はあたしと組んでるんだ。あたしたちは二人で生き残るためのルールをちゃんと決めた。それが守れないんなら、あたしはあんたと別れる。…ルールも守れないんじゃこんな世界で生けていけないんだよ」
ひとみは語気を強めると共に、あさ美をきつく抱き締めた。
「…わた‥し‥は」
あさ美が震える声で言葉をつなごうとする。だが、それ以上は何も聞こえずに、ただ身をぎゅっと押しつけてくるだけであった。ひとみは深々と息を吐く。出会ったときから心に生じていたあさ美への疑念が深くなってくる。
「あんたは一体何なのよ」
ひとみは胸にあさ美の温もりを感じながら、誰の耳にも届かない小声で呟いた。そしてあさ美が口にした「飯田」という名をしっかりと脳裏に刻み込んだ。
- 168 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時54分41秒
「首尾はどうだったの?」
圭織は読んでいた書物を閉じると、回転式の安楽椅子を回して、鈴音の方を見た。鈴音は煙草を吹かしながら、白衣のポケットに手を突っ込んでいる。
「上々じゃない。あさ美にも愛にも訓練させられたし、つんくさん側のペルセポネー1人を処理、もう1人を警察送りにできたんだから」
「そうね。そう言えばさっき、つんくさんから電話があって、警察に送られたユウキを処理しろって言われたわ。警察に彼の姉がいて、ひょんなことからペルセポネーについて漏れることを恐れてるみたいね。‥愛は一緒に来てないの?」
「そこまで一緒に来たんだけどね。急に引き返しちゃったよ。多分嫉妬のせいだね」
「嫉妬?」
圭織は興味深げに鈴音に尋ねた。
「あの娘のお気に入りが抱擁してたからね。ますます確執が生まれちゃうんじゃないの」
鈴音は面白そうにそう言いながら、煙草を口から離すと、陶器の灰皿に押しつけた。圭織も困ったように笑みを浮かべた。
- 169 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時55分31秒
「それよりもあさ美が壊れたときはびっくりしたよ。あれは、愛以上だね。もし彼女の相棒…ええっと、吉澤ひとみだっけ、彼女が止めてなかったらユウキも殺られてたんじゃないかなぁ。ちょっとデータを修正しとかないと」
「その吉澤ひとみについての情報が届いているわ」
圭織は机の上に置いておいた報告書を鈴音に手渡し、安楽椅子に身を沈めた。鈴音は素早く用紙を捲っていくが、あるところで手を止め、じっと凝視をした。
「‥これ……どういうこと?」
「そういうことよ」
圭織は書物を引き寄せると、目を落とす。
「こういうのって偶然って言うの?それとも必然?」
鈴音は髪を掻きむしりながら、書類を捲り続けた。
「鈴音、準備の方はちゃんと進んでる?」
圭織は顔も上げずにいつもの柔らかい口調で鈴音に尋ねた。鈴音はちらりと圭織を見ると、書類を机に置いた。
- 170 名前:第9話 闇より引く手(後編) 投稿日:2002年01月22日(火)00時58分31秒
「‥ちゃんと進行してるみたいよ。急がしてはいるわ。ただつんくさんの目を盗んで信者を海外に送るのは骨が折れるけどね」
「そう、それならばいいわ。ありがとう。愛にもご苦労様って伝えておいて。あ、それからつんくさんからの処理依頼は愛にやらせておいて。あの娘はもう少し調整しておいた方がいいだろうから」
圭織に言葉に、鈴音は頷くとそっと部屋から出ていった。圭織1人だけは部屋に残される。鈴音が吸っていた煙草の香りが辺りに燻っており、日当たりのよい南側の窓からは柔らかい日差しが、絨毯の上に光の染みを作る。
圭織は本から目を上げると、机の上に飾ってある写真立てをじっと見つめた。真新しい灰色の建物の前で女性4人、ある者は恥ずかしげに、ある者は不機嫌そうに、それぞれがその刻の瞬間を写し取られたものであった。
「いつの間にかあなたもゲームに紛れ込んでいたのね。真里」
圭織は写真立てに微笑み続けていたが、再びゆっくりと本の方へと目線を戻していった。
To be continued
- 171 名前:三文小説家 投稿日:2002年01月22日(火)01時11分22秒
- 以上第9話「闇より引く手(後編)」でした。
いつも読んでくれている読者の方々、初めて読んでくれた方々。
楽しんでいただけたでしょうか。
ようやく話が進み始めた感じで、書く者としてもようやく一段落です。
そのため恒例のショートカットを用意させてもらいます。
活用して下さい。
第10話「雪の降る街で」はまだ更新予定日未明ですが、
タイトルのペルセポネーについて
より詳しくある方に語ってもらっています。
楽しみのお待ちいただければ幸いです。
それでは
>>160
さるさる。さん。いつもレスをありがとうございます。
このサイトでもすごく上手い方々がいらっしゃって、
いつも勉強させてもらっている次第です。
私はまだまだ未熟者であります。それでも褒めの言葉をいただけて嬉しいです。
今後ともどうぞ楽しんで下さい。
- 172 名前:三文小説家 投稿日:2002年01月22日(火)01時17分00秒
ショートカット
>>3-44 番外編「犯罪者は国境に逃げる」
>>48-97 第8話「闇より引く手(前編)」
>>103-170 第9話「闇より引く手(後編)」
- 173 名前:名無し読者 投稿日:2002年01月23日(水)02時14分26秒
- 巧い、今後の展開が気になる!!これ以外
言い様がないですね。
繋がりを全貌を…続き待ってます。
- 174 名前:三文小説家 投稿日:2002年01月28日(月)01時50分04秒
- >>173
レスありがとうございます。
話もようやく佳境にさしかかった感じで、
楽しんでいただけていれば嬉しい次第です。
どうぞ今後も楽しんで下さい。
第10話「雪の降る街で」は
今週中には始めるつもりなので
もう少しお待ちください。
- 175 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月29日(火)01時36分19秒
- マジで楽しみ…
- 176 名前:三文小説家 投稿日:2002年02月12日(火)02時21分42秒
- 復活おめでとうございます。
というわけで、今宵はレスのみですが、
明日より連載を再開させていただきます。
どうぞ皆さま、これからもよろしくお願いします。
>>175
レスありがとうございます。
期待にそえるような作品になるように、
頑張らせてもらいますので、
これからも楽しんで下さい。
- 177 名前:三文小説家 投稿日:2002年02月13日(水)00時39分41秒
- それでは第9話「雪の降る街で」を始めます。
と、その前にちょっと注意です。
文中に『あさみ』が2人登場します。
1人は紺野嬢で『あさ美』
もう1人はカントリーのあさみで『麻美』と表記します。
それではお楽しみ下さい。
- 178 名前:第9話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月13日(水)00時41分17秒
あさ美はベージュのコートをかき集めるようにすると、二三度身震いをした。吐き出す息は白く染まり、手に吐きかる度に温もりを感じることができる。冷たい風が剥き出しになった耳を襲い、つんとした痛みにじんじんした。
あさ美はビルの角に寄り掛かるようにして、表通りをじっと眺めていた。高いビルが陽の光を遮り、自分の眼前には薄い影だけが広がっている。そのため空気も暖まらずにより一層の寒さが感じられるのかもしれない。
あさ美は暇そうに足をぶらつかせて、転がっている石を軽く蹴飛ばした。乾いた音を立てながら、ガードレールを越えて道路へと転がっていく。その石の上をスピードを出したミニバンが通り過ぎていく。切り裂かれた空気があさ美の方へと流されてくると、伸びてきた髪が、それに合わせて軽やかに横に踊る。
- 179 名前:第9話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月13日(水)00時42分03秒
ときおり表通りを歩く人が、待合い場でもない場所にいるあさ美を訝しそうに見やりながら通り過ぎていく。あさ美はそのつど、密かに相手の顔を観察した。知った顔はまだ通らないようだ。あさ美は、上野の路上市で買った安物の時計にちらりと目をやる。端から見ればその様子はまるで愛しい人を待ち望んでいる少女のようである。
時計から目を離したあさ美は、再びぼうっと通りを眺める。こうしてじっくりと時間を過ごすことは久しぶりである。あさ美は暇そうに手を後ろで組むと、薄青い空に目線を上げていった。雲一つなく、よく澄んだ天気である。何度か深呼吸をすると、身体の奥がすっかり綺麗になっていくような気分がして、すっきりとしてくる。
- 180 名前:第9話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月13日(水)00時42分59秒
街路樹の葉は色が変わり、路上に散り積もっている。それをゆったりとした調子で、年老いた老人が箒で掃き上げていく。老人は壁にもたれているあさ美を見つけると、帽子を取って挨拶をしてきた。あさ美もそっと微笑みながら、挨拶を返す。老人は満足したように作業に戻っていった。ただ、それだけであったがあさ美は少しだけ心地よさを得ることができた。
あさ美と老人の間を縫うように1人の女性が犬と共に通り抜けていく。老人はあさ美にしたように挨拶をした。女性はそれに気が付かなかったのか、犬を前にして歩いていく。老人はひどく気分を害したように、ぶすりとした顔を作り、苛立つように箒を操りだした。
あさ美は老人の方に丁寧に会釈をすると、すぐにその女性の後を追うように歩き出した。状況を知ることのない老人は、年の割に礼儀正しいあさ美に好感を抱き、先ほどまでの不機嫌さはどこへやら、口笛を吹きながら落ち葉たちを掃き集め続けた。
- 181 名前:第9話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月13日(水)00時48分36秒
女性はどんどんと郊外へと歩いていく。犬は息荒く吐き出す声は、後ろで尾行を続けるあさ美にも聞こえてくる。女性は全く気にかけた様子もないように、犬に時々声を掛けては、1人軽やかな笑い声を上げる。
あさ美は背後からではあるが、女性を観察する。首筋の辺りで揃えられて切られた亜麻色の髪に、丸みある輪郭。身体も肉付きが良く、健康そうに見える。ゆったりとした薄茶のロングスカートに、黒いカーディガンを羽織っていた。顔はよく見てはいないが、サングラスはしているようだ。
気ままな犬の具合に任せるように、女性は立ち止まってはぼんやりと風景を眺め、犬が歩き出すと、それに引かれるように女性も歩を進め出す。その度にあさ美は、離れた位置に止まり、相手が歩きだすとあさ美もそれに続いた。何度か犬が後ろを気にするように振り返るのだが、女性は気にかけた様子もなく屈んでは犬の毛を優しげに撫でた。そんなこともあり、あさ美の未熟な尾行も悟られずにすんだのだ。
- 182 名前:第9話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月13日(水)00時51分01秒
「なつみさん!」
女性が声を聞き足を止めた。犬が悦ばしそうに尾を振りながら、吠え出す。
「寒くなってきたのに、そんな格好で外に出てたんですか?」
なつみと呼ばれた女性の側に別の女性が駆け寄ってきた。女性は大げさに息を継ぎ、白い息が漏れていく。
「だって、いつも部屋の中じゃ運動不足になって無駄な脂肪が溜まっちゃうでしょ」
なつみはいたずらが見つかった子どものように拗ねたような声を出した。あさ美は懐かしい声に思わず、ぎゅっと拳を握りしめた。
「だからってそんな格好で出ないでくださいよ。家まで行ったら鍵が閉まってるから心配したんですよ」
「大丈夫だって。メロンを信用できないの?あなたが育てた犬でしょ」
「そりゃあ、そうですけど…」
女性は犬の頭を撫でると、犬は甘えたように甲高い声を上げる。女性が手を伸ばすと犬が舐めてきて、気持ちよさそうに女性は顔を和らげた。
「そんなに心配しなくっても大丈夫。最低限のことぐらい自分で出来るんだから」
なつみは女性をからかうように言い、女性の肩を指で押した。女性は不服げになつみの方を見るが、すぐに表情を崩した。
- 183 名前:第9話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月13日(水)00時51分47秒
「それじゃあ、いこっか。麻美ちゃん」
なつみが女性を誘う言葉を発したのだが、「あさみ」という名に思わず反応して、あさ美は身を乗り出してしまった。すると犬がくるりと後ろを向いて、吠え始める。なつみともう一人の女性は不思議そうに後ろを見た。
「麻美ちゃん。誰かいるの?」
「‥はい、女の子が。見たことないけど、なつみさんの知り合いかなぁ?」
麻美と呼ばれたふくよかな少女が近づいてくる。
「あなた、なつみさんの知り合い?」
柔らかい口調で尋ねられた。あさ美は無表情になりながら、犬を引いているなつみをじっと眺めた。
- 184 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月14日(木)23時59分21秒
あさ美は前回の出来事の後、激しいまでの自己嫌悪に陥った。いや、自己嫌悪などという言葉で言い尽くせないほどの、苦しみを胸に生まれた。そのせいもあって、ひとみと一緒の空間にいることが辛くなるときもあった。
ひとみの方もあの時の変容したあさ美に対して、どう接したらよいのか戸惑っている風があって、無言の刻が流れることが多くなり、出会った頃のようなどこかぎこちない空気が戻ってきてしまった。ひとみがそんな雰囲気を崩そうと明るく努めているのだが、どうしてもあさ美はそのひとみの気持ちを汲み取ることが出来ずにいた。
それは、再びあのように襲われるのではないかという不安からであった。ひとみだけに限らず、自分が接した人物については、おそらく『デメテル』が調べあげていることだろう。梨華に送られてきたメールのアドレスはネット上で無料配布されているもので、返信をしてもすでに使われていなかったようだ。
辛くもこの間は撃退することができたが、ひとみを巻き込んでしまった。次に襲われるときは、自分一人の範囲で処理することが出来るだろうか。そのことばかりがあさ美の頭を駆け巡る。
- 185 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月15日(金)00時00分30秒
ペルセポネーと呼ばれていたころのように、再び自分を失うことが怖かった。ようやく自由を手に入れて、ひとみという大切な守るべき人を見つけられたのに。
本当ならばひとみと決別して、『デメテル』を早く壊滅させてしまえばよいのだが、いざ1人でそれをやるとなると予測する以上に困難であろう。
まず愛やユウキのようなペルセポネーがあと何人いるのかも分からない。
その上日本に名を響かせている団体である。それなりの警護が出来ているだろう。一部の信者は圭織に絶対の信仰を持っているとも聞いている。彼らは盾となって圭織を守るかもしれない。罪のない人間を殺めることはあさ美には苦痛である。
それにひとみに何と言って別れを告げればよいのか分からなかった。黙って出ていきたくない。だからといって止めてもらいたくもなかった。そのことがますますあさ美の決心を鈍らせた。
- 186 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月15日(金)00時01分51秒
ひとみとあさ美が北海道の室蘭に出向いたのは仕事のためであった。先日の襲撃により、マンションにいることが出来なくなってしまい、梨華が新しい住居を見つけているうちに、北海道での仕事を押しつけられてしまったのだ。
梨華には事後処理で世話になったため、ひとみの嫌とは言えずに、寒風が吹き始めた北海道で出てくることになってしまったのだ。
今回の依頼が北海道であったことをあさ美は密かに喜んだ。東京のような閉塞した場所から抜け出すことで、自分の気持ちも整理しやすくなると期待をしてきた。
実際、新千歳空港に降り立つと、冷え切った風が身体中から、汚れを祓ってくれたようで、憂鬱な気分も和らいでいった。ひとみの方も嫌がっていた割には、久しぶりの遠征にすっきりとした顔をしていた。
仕事自体は簡単なもので、到着後ホテルにも行かずにすぐに済ませてしまった。そのせいか久しぶりに二人の会話も軽かった。だがホテルに向かう道すがら、あさ美は懐かしい顔に出会った。それが先ほどまで尾行してきた安倍なつみである。
- 187 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月15日(金)00時03分47秒
安倍なつみ。『デメテル』秘密部門、ペルセポネー機関の最高責任研究者で、最初のプログラムを完成させた女性研究者である。
プログラムについては、あさ美は詳しいことは分からないが、ペルセポネーを育てていく教育方法のことを総称していっているようだ。
いつも暗闇に包まれた部屋で、ベットに寝かされて横になっていたことを思い出す。不快感が全身を襲い、心に何か種のようなものを植え付けられたような気分になって、開放された後に何度も嘔吐をしたこともある。
なつみはいつも汚れた白衣に身を包み、縁なしの眼鏡を掛けて鋭い眼光を飛ばしていた。化粧っ気もまるっきりなかったにも関わらず、素朴な愛らしさを持っていた。
ただ残念なことに彼女は研究の虫であり、他のことには一切気を払っていなかった。いつも苛々したように研究者たちを怒鳴りつけ、戸田鈴音がなだめていたことを覚えている。
あさ美たちにも優しい言葉など掛けてくれたこともなく、モルモットたちが弾き出す実験の成果だけが、彼女を一喜一憂させていた。
- 188 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月15日(金)00時06分34秒
それが昨日、偶然出会ったなつみは随分と緩やかな表情に変わり、身体も少しふっくらとしていた。先ほども今までに見たこともないほど柔らかな口調で、麻美に話しかけ、メロンと呼ぶ犬を大切そうに可愛がっていた。
あさ美の知るなつみとは大きく異なっていた。だが、あさ美は忘れない。彼女が自分や愛のようなペルセポネーという殺人道具を作りだして、多くの人を悲しみに巻き込んだことを。
あさ美は今までペルセポネー計画に参加をしてきた人間を許してこなかった。たとえ実体を知らなくとも出資をした者でさえも殺めてきた。
そのあさ美が最も憎んでいるのが、つんく、飯田圭織、戸田鈴音、そして安倍なつみであり、彼らを始末すればペルセポネーという悲劇が生み出されることがなくなっていくだろうと考えている。
この北の地でのなつみとの思いがけない再会は、あさ美にとって復讐を遂げる絶好の機会が到来したのである。
- 189 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月17日(日)00時02分18秒
「…麻美ちゃん。誰?」
なつみは犬に引かれるように2人に近寄ってきた。近づいてきたなつみを見て、あさ美は、薄く色の入ったレンズの奥にあるなつみの目が何処も見ていないことに気が付いた。黒目がちな瞳は一点のみをただじっと見つめていた。
「さあ?迷子じゃないんですか」
「…そう‥?」
なつみは不可解そうな顔で小首を傾げた。メロンと名付けられた犬は、あさ美にじゃれるように飛びついてくる。大型のゴールデンレトリバーに飛びつかれてあさ美はたじろいでしまった。犬の激しい息が顔にかかってこそばゆい。
「こら!メロン」
なつみは慌てたように綱を引くと、メロンは苦しそうに、未練があるように引きずられる。
「ごめんね。この子誰にでもすぐにじゃれたがるのよ」
麻美がメロンの頭をぽんぽんと叩きながら謝ってきた。
「…いえ、気にしてませんから……」
あさ美は高鳴る気分を抑えながら、冷静を装った。
なつみの目が見えていないことはあさ美にとって好都合である。相手は自分を認識していないのだ。上手く潜り込めば、なつみを始末することも簡単に出来そうである。あさ美は大きく息を吸い込むと、出来る限りの笑顔を作りだして言った。
- 190 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月17日(日)00時03分04秒
「…可愛い犬ですね。撫でていいですか?」
「いいけど……」
なつみの返答を聞き、あさ美はメロンを撫でる。気分良さそうにメロンは伸びをすると、目を細めて舌を出し、荒く息をする。なつみが腰を屈めると、あさ美はそっと口をなつみの耳元に寄せた。
「‥飯田さんからの伝言を言付かってきました」
なつみは圭織の名前に身体を震わせ、見えない目をあさ美の方に向けた。
「あなた‥」
「どうかしましたか?なつみさん。身体の具合が悪くなってきたんですか?」
声が聞こえていなかった麻美は、顔色の変わったなつみを見て心配そうに声を掛けてきた。
「‥何でもないよ。この娘がね、遠い親戚の娘だって分かったから、ちょっと驚いただけ。なんかね。わざわざ東京からあたしのことが心配で来てくれたんだって」
なつみはすぐに弁明すると、あさ美の肩を探り抱く。あさ美もそれらしい顔を作ってにこりと微笑んだ。
- 191 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月17日(日)00時04分03秒
なつみの住んでいる家は郊外にぽつんと建った古めかしい2階建ての一軒家であった。洋風で格式ある家のように思われる。焦茶色の煉瓦壁には蔦が絡み付き覆っていた。出窓枠は白ペンキでなぞられていてあちこちが乾燥して剥がれ落ちそうになっている。
話を聞く範囲では、麻美はメロンを育成した犬の調教師で、時折なつみの元へ世話を焼きに訪問しているようだ。なつみはメロンと広い邸宅でひっそりと暮らしているようだ。
「どうぞ」
なつみがあさ美を招き入れると、あさ美は殺風景な室内に目をしばたたいた。入ると暖房に温められた空気があさ美にまとわりついてきた。床には真っ赤な絨毯が敷き詰められており、足下も温かかった。靴を脱ごうとすると麻美は笑いながら、土足で良いことを伝えてくれた。
「…こんな所に」
なつみが室蘭にいたことも驚きであるが、それ以上に研究者とかけ離れた生活をしている姿にますます驚いた。
「あ、じゃあ、あたしが夕食の準備しますから、懐かしの再会を楽しんで下さいね」
麻美が2人の邪魔ならないようにと、気を利かせて一階にある台所の方へと引っ込んでしまった。メロンは身を震わせると、後ろ足で耳の辺りを丁寧に掻きむしる。
- 192 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月17日(日)00時04分50秒
「‥こっちに来て」
なつみはあさ美を二階へと導く。あさ美は、メロン無しで階段の手すりを使いながら登っていくなつみの背をじっと見つめた。白衣のころの面影はすっかり消え失せている。研究欲に飢えていたころのなつみは、今ではすっかり牙を失ってしまっているようだ。
あさ美は階段を上りながら、いつなつみを始末すればいいのと思いを巡らせた。麻美が下にいる内は手を出すことは出来ないだろう。となれば、彼女を片づけるのは夜半になるだろうか。
なつみが扉を開けた部屋にあさ美は入る。中には大量の書物が所狭しと本棚に収められていた。だが、どれももう開かれていないのか、埃が積もっている。机の上には古びたパソコンが置かれているが、これも使われていないのだろう、くすんだ色に変色し、埃を被っていた。
室内は掃除もされていない様子で、あさ美は二度三度咳き込んだ。モスグリーンのカーテンの向こう側からはうっすらとした光が入り込み、本の黄ばんだ背表紙を照らしていた。
- 193 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月17日(日)00時05分32秒
なつみはあさ美の後ろから部屋に入ると、扉を閉じた。蝶番からは歯に染み入るような嫌な音が聞こえてきて、あさ美は思わず顔をしかめた。
「…それで、あなたは何を伝えに来たの?」
なつみの表情が変わった。あさ美の知っている頃の研究者としての顔だ。それでも昔のような気迫を感じることができないのは、彼女が変わったからであろうか。
「……あなたを狙っている者がいるそうです」
あさ美は適当な嘘をついた。まさか目の前の人物が暗殺者だとは思いもよらないだろう。なつみはそれを聞いて深々と息を吐く。室内でも息が白く染まった。
「もう、あたしに関わらないでって圭織には何度も言ってるのよ。それなのに何でまだあたしを縛り付けようとするの」
なつみの口調は怒気を含んだものであった。
「‥私は、ただ伝えてくれって言われて…」
なつみの態度に、少々たじろぎながらもあさ美は何とか使者ぶろうとする。このようななつみを今まであさ美は見たことがなかった。
あさ美が『デメテル』を出るまで、なつみは厳格な研究者であった。だから、今でもペルセポネー研究所にその身を属しているのかと思っていたが、口調からするとどうやら圭織と仲違いをしたのかもしれない。
- 194 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月17日(日)00時06分41秒
あさ美は素早く頭を働かせながら、なつみの目を読みとろうとする。だが、サングラスの奥にある何も見ていない目から、心の内を読みとることはできなかった。
「ごめん。あなたに怒ったって仕方ないね。圭織には忠告嬉しく受け取ったって伝えてくれる?」
なつみは気分を落ち着かせて、緩やかな表情になるとあさ美にそう言った。
「‥はい」
「それじゃあ、あなたの仕事は終わりね。だったらさ、今晩はここに泊まっていきなさいよ。日が暮れるのも早くなってるし、特に急ぐこともないんでしょ」
「…いいんですか?」
思いがけない提案であった。もしすぐに戻るように言われたら、身を守るとか言って居座るつもりであったが、なつみから網に飛び込んできてくれたのだ。
「もちろん。東京の人でしょ。だったら、こっちで羽根を伸ばしたっていいじゃない。もし圭織に何かを言われたら、あたしが責任を取ってあげるよ。冬の北海道は食べ物がおいしんだから」
今までに見たことのない笑顔であった。あさ美は躊躇をしながらも、なつみの言葉に有り難く受けることにした。
- 195 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時10分35秒
「…もしもし」
「あっ、あさ美か。見知らぬ電話番号だったから誰かと思ったよ」
受話器からはひとみのほっとした声が聞こえてくる。あさ美はひとみの声を聞くと、緊張してしまい身体が強張ってしまった。
「どう?一人でも楽しんでるの」
ひとみはどこか寂しげに言ってくる。ひとみ側の電話が人の声や軽快な音楽を拾い上げてくるため、おそらく外に出ているのだろう。
2人別々に行動するなど、出会ってからそうなかった。本来なら今日はひとみと室蘭の街でゆっくり過ごす予定であったが、昨日なつみを発見したことであさ美はひとみに予定を変えてもらったのである。
「……はい」
自然とあさ美の声は小さくなってしまう。
「そう‥」
2人の間に沈黙が流れる。あさ美は手持ちぶさたを紛らわすように、受話器のコードを指に巻き付けながら言葉を探す。受話器の向こうでひとみが咳払いをした。
- 196 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時11分33秒
「…用事ができてしまって、今日ホテルに戻れそうもありません。だから、夕食の約束も……」
「‥分かった。気にしなくてもいいよ。でも、明日帰るんだからね。ちゃんと予定の時間までには室蘭駅に来てよ。じゃなきゃ自費で東京に戻ることになるから」
ひとみは明るい喋り口で笑ってきた。それでも、どこか落胆した雰囲気は隠しきれていない。
「それじゃあ‥」
あさ美は辛くなって電話を置こうとする。
「あ、前に言ったけど、一人で危険なことに足を踏み入れないでよ」
ひとみが慌てるように言葉をつなぐ。あさ美は耳から離した受話器を、もう一度当てた。
「…大丈夫‥です」
「あさ美の事情だから、あたしは今、無理に聞こうとは思っていないけど、あんたはあたしの大事なパートナーだからね。それだけは忘れないで」
「‥はい」
「はい、じゃないよ。あのさ、この間から言おうと思ってたんだけど、また最初の頃みたいに敬語に戻ってるよ。そんなに気を使わなくてもいいからさ。過去の話なんて、言いたくないことの方が多いんだから。あさ美が喋りたくなったときに、あたしに話してくれればいいよ」
電話越しのひとみの声は優しかった。あさ美はぎゅっと受話器を握りしめる。
- 197 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時12分53秒
「…うん」
あさ美は小さな声で、照れたように答える。
「そう、今度敬語を使ったら、罰則つけるからね」
ひとみは受話器の向こう側で朗らかな笑い声をあげた。
あさ美はそっと受話器を元の場所に置く。振り向くと、階段の手摺りに手を添えているなつみがじっとあさ美の方を見ていた。
「電話おわった?」
「…はい」
「そう。随分と楽しそうに喋ってたみたいだから、友だちか誰かかな?」
なつみがからかいの口調でにこりと微笑む。相手が見えていないこともあって、あさ美は鋭い目つきでなつみのことを見返す。なつみには穏和な笑みを浮かべる資格など無い。あさ美から愛を奪っていった張本人である。それをどれほど胸の内に刻み込んできただろう。
「はい、大切な人です」
あさ美は抑えきれずに沸き上がってきてしまう殺気を、必死に止めようとする。なつみも何か異様な空気を読みとったのか、小首を傾げながら食道の方へと歩いていく。あさ美も静かにその後へと従った。
- 198 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時14分03秒
「それじゃあ、あたしは帰ります。明日また来ますから、ちゃんと薬飲んで下さいよ」
麻美は玄関で念を押すようになつみに言った。なつみはうるさそうに頷く。麻美はそんななつみの様子を見てさらに言葉を続けようとしたが、メロンが抱きついてきたため言葉を飲み込み、引き離そうとする。
「じゃあ、ひとみちゃんお願いね。ちゃんと薬を飲むところを確認してよ」
あさ美に向かって注意をしてきたため、あさ美は無言で頷いた。彼女たちには自分の名前を「ひとみ」と偽って告げた。
「心配しなくても大丈夫だよ。あたしがそんなに信じられないっていうの」
なつみは不服げに玄関から麻美を押し出そうとする。メロンは名残惜しそうに甲高い声を上げるのだが、麻美は挨拶もそこそこに立ち去る羽目になってしまった。
「……身体の具合が悪いんですか」
玄関に鍵を掛けたなつみに、あさ美は尋ねた。
「うん?まぁ、ちょっとね。二十歳過ぎればどっかしらにガタがきてるもんよ」
なつみが苦笑をしながら、メロンのほころびのある手綱を手に取る。
- 199 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時15分07秒
「それよりも食事はどうだった?あの娘、ああ見えて結構料理が上手いのよ。口にはあったかな」
なつみはメロンを先導させて歩きだす。あさ美が返事をすると、なつみは満足したように満面の笑みを浮かべた。
「明日…何時頃にここを立つの?」
「‥早朝には」
「そう。…じゃあ、あたしは寝てるかもしれないなぁ」
「…心配しないで下さい。そうなれば、私は勝手に出ていきますから」
あさ美は翌朝ベットに横たわっているなつみの姿を思い描いた。二度と起きることのできない永遠の眠りにつくことになるのだ。
「圭織によろしく言っておいて。それと、あたしに二度と干渉してこないようにもね」
なつみは振り返ってサングラス越しにあさ美を見た。メロンは歩行を邪魔されたので、不思議そうになつみの方に首を向ける。なつみの目は何も見えていないはずなのに、鋭い威圧感があさ美の身体を駆け巡った。
「それじゃあ、部屋はさっき言った所を使って。何も無いけど、室内の物は自由に使っていいから」
その威圧感もすぐに消え去る。なつみは人懐っこそうな笑みになると、あさ美にそう言うと階段を上って行ってしまった。
- 200 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時15分47秒
あさ美はなつみが用意をしてくれた一階の部屋に入る。室内は質素でベットとグリーンのカーペットだけが目に入る。麻美が用意をしてくれたのか小さなテーブルの上にポットとティーカップが置かれている。石油ストーブが低く呻くような音を立てながら活動をしていてくれたため、室内は温かい。
あさ美は一瞥をすると、ベットに倒れ込むように横になった。客用の真新しいシーツからは、ひんやりとした感触と清潔な匂いがした。あさ美は枕に頭を押しつける。このまま気持ちよさに身を委ねていると、立ち上がることさえ出来なくなってしまいそうだ。
なつみは優しかった。自分の姿が見えていないこともあるのだろうが、それでも『デメテル』にいたころのなつみとは全く違っていた。食事の時もよく笑い、親切に応対をしてくれた。あの厳格で、人を寄せ付けずに一人で研究室に隠っていたなつみからは想像もできない姿であった。今のなつみの姿に、あさ美の復讐心が鈍っていく。
- 201 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月19日(火)00時17分10秒
「……違う。私は‥ずっと‥このために」
あさ美は枕から頭を上げた。
あさ美はコートの内側にずっと隠し持っていたワルサーPPKを取り出した。黒く鈍い光を放つ銃身はあさ美に落ち着きを与えてくれる。弾倉を落とすと、そこには十分の銃弾が詰められている。
「……私は、私と愛ちゃんのために安倍さんを殺さなければいけないのよ」
あさ美は弾倉を戻すと、目を瞑り、銃のスライドを引いた。
- 202 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月21日(木)00時13分30秒
夜は更けゆき、吐き出す息は白い。あさ美はベージュのコートを纏い、いつでも外に出られる格好をしているのだが、一向に暖かさを感じることはできない。呼吸を整えながら、暗闇に覆われた家の中を注意深く進んだ。階段が軋む音に身を震わせ、重心を爪先に移す。それでも微かな物音がするたびに、あさ美は辺りの気配を気にかけた。あまりにも静かすぎて、心がざわめく。
あさ美はなつみの部屋のドアノブに手を触れる。冷え切った金属に思わず顔をしかめるが、時間を掛けて回していく。鍵は掛けられておらず、ゆっくりと部屋のドアは開いていく。
あさ美は素早くドアの内に身を滑り込ませると、ワルサーPPKを取り出した。室内にはベットが窓に寄せられるように置かれており、その脇に小型の木製机が添えられるように設置されている。メロンはベットの脇に身をくるめるようにして、唸るようないびきをかいていた。
- 203 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月21日(木)00時15分13秒
あさ美は音を潜ませながら、なつみの眠るベットへと近づいていく。メロンが何かしらの気配を感じたのか、耳を立てるも目を開けることなく再びいびきをかきだす。なつみを始末した後に、メロンも始末をしなければならないだろう。あさ美は寂しげに、横たわるゴールデンレトリバーを見つめるも、すぐに視線を逸らした。
ベットで目を瞑っているなつみは行儀が良く、仰向けになっていた。数枚の掛け布団には乱れもなく、規則正しく呼吸をおこなっている。出窓には就寝直前に飲んだのか、薬袋と水差しが置いてあり、レースのカーテンから差し込む月光に照らされて、白く輝いていた。
あさ美は緩やかな眠りを続けるなつみを数秒眺めた。あさ美の顔には哀れみだけが宿り、その目には悲しみだけがともっていた。やがて目を一時閉じると、あさ美はワルサーをなつみの額に向けた。そしてゆっくりと目を開けると、唱え慣れた言葉が自然と口からこぼれ出る。右の人差し指に力がこもり、引き金が引かれていく。
- 204 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月21日(木)00時16分04秒
あさ美の発する言葉に導かれるように、仰向けに横たわっていたなつみはそろそろと瞼を持ち上げていく。あさ美は驚きに目を見開き、言葉を止めた。自然とワルサーを持つ手が震え出す。相手には自分の姿が見えていないはずなのに、なつみは闇の中でしっかりと自分に目線を向けているのだ。
「…あたしを殺しにきたのね。…あさ美」
なつみの声は静かであった。主人の声に、ようやくメロンは首を持ち上げる。あさ美の指はまるで金縛りにあったように、引き金を引くことが出来なくなってしまっている。
「あなたがあたしを恨んでいるのは分かるから。だから遠慮はしないで撃っていいよ」
「…ずっと‥分かって」
「何年あなたと一緒にいたと思ってるの。あなたは大事な実験体だったのよ。その声、忘れる訳無いじゃない」
なつみの顔が優しく微笑んだ。月の光が雲に遮られ、なつみに影が落ちる。
- 205 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月21日(木)00時18分39秒
「…どうして」
あさ美は銃口が下がるのも気にかけずに、なつみに食ってかかった。
「知ってたのに、どうして私を泊めたんですか。まるで殺されることを待ってたみたいに……」
「いつかあなたが来るんじゃないかなって思ってたよ。圭織からペルセポネー計画に賛同した人間が殺されてるって聞いてからずっとね。あなたはあたしが憎いんでしょ。だったら撃ちなさい。撃って、恨みが晴れたらもう二度と圭織に利用されないように、遠い外国にでも行って身を隠しなさい」
なつみは再びそっと目を閉じる。どこから見ても無防備ななつみの姿に、あさ美は銃を向けるも、気分は段々と鈍っていく。あさ美は銃を向けながらも顔を背けた。闇の中でメロンの光る目がじっとあさ美を見ている。あさ美は自分を射抜くようなメロンの目を避けるように顔を背けた。
- 206 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月21日(木)00時19分44秒
「…ペルセポネー」
あさ美が力の抜けたように呟いた。なつみは不思議そうにあさ美の方を見る。
「ペルセポネーって一体何なんですか。どうしてあなたや圭織さんはペルセポネーにこだわっているんですか。どうして私や愛ちゃんみたいな人間が作りだされなきゃいけなかったんですか」
「撃たないの?」
「…私は知りたい。あなたは私たちを作りだした人間。私たちを作った理由を教えて欲しいんです。それを聞いてからでも…遅くはないはずです」
自分が撃てなくなってしまっているなどと、情けないことは言いたくもない。あさ美は銃を下ろし、悔しそうに歯を食いしばりながら、なつみを睨んだ。
- 207 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時49分42秒
室内に明かりが灯る。なつみは手探りで椅子を探り出すと、そこに身を落ち着かせた。あさ美はただ黙して、じっとなつみに鋭い視線を送る。
「どこから話せばいいのかしら」
なつみは困ったように苦笑をした。
「…ペルセポネーは古から人を殺す、暗殺者に付けられた名前ということはあなた達に教えてもらいました」
あさ美は当て付けるように言い放つ。なつみはそれを柔らかく受け止めた。
「そうね。ペルセポネーは古代ギリシアの頃より存在していて、一部の私腹を肥やし、民の暮らしを省みない人間に対して、自治を求めた人々が粛正のために暗殺を専門とする人物を作りだしたことが最初らしいわ。ギリシア神話の中でペルセポネーは豊穣の女神デメテルの娘で、地獄の神ハデスの妻として位置づけられているわ。豊穣の女神の娘が大鉈を振るうことで罪深き人間を地獄に送り、選ばれた人間のみがその豊穣の恩恵を受けることができるようにという意味でつけられたそうよ。
- 208 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時50分50秒
「やがて、その人たちは近隣の戦争に巻き込まれて消えていったわ。けれどもペルセポネーという名前だけは失われなかった。それどころか人々の心に義賊として名が残っていったのよ。それを知った他の国々は、名にあやかろうとしてこぞって暗殺者たちにペルセポネーと付けたそうよ。中央アジアにあった『秘密の花園』。世界中に会員がいると言われる『フリーメイスン』。有能な暗殺者たちにはペルセポネーという名が与えられたそうよ」
なつみは言葉を区切ると、深々と溜息を吐いた。顔にはどこか嘲りの表情があった。
「人間はいつになっても変わらないわ。幸運があれば、それをこぞって手に入れようとする。あなたが知りたいペルセポネーも同じ。ただの願掛けよ。名誉や人々の賞賛。それに敵を抹殺できますようにっていうだけのね」
- 209 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時51分45秒
「‥…本当にそれだけですか。それだけで私や愛ちゃん、他のペルセポネーと呼ばれている人たちは縛られているんですか」
あさ美の口調は強く怒気が表情に表れていた。表情を見ることができないなつみは気配を感じたのか、からかうように笑った。
「それだけよ。現在も各国でペルセポネーと呼ぶ暗殺者たちを育成しようと研究されているらしいわ。大将を射ることができれば、その国にダメージを与えることができる。合理的でしょ」
なつみが手招きをすると床に伏せていたメロンが駆け寄る。なつみはその頭を丁寧に撫でながら、無表情をあさ美に向けた。それは研究所でずっと見てきたなつみに近かった。だが、その瞳は深い悲しみの色を湛えていた。
- 210 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時53分01秒
「ノストラダムスの予言って知ってる?『1999年、世界は破滅をする』って解釈されていたもの」
なつみの問いかけにあさ美は首を横に振った。
「そりゃそうよね。もう20年近くも前の話だもんね。これをあたしが知ったのは小学生の時だった。もうすぐに世界の崩壊よ。あたしは恐怖で絶叫したわ。死んだら好きな事ができないってね。恥ずかしい話、母親に泣きついたりしてさ、当時は本当に怖かったなぁ。
「1999年には期待をして夏休みの宿題をしてこない人がいるくらいみんなが、真実と虚偽の狭間を彷徨っていたわ。結果は今の通りよ。昔の人が想像していたように車は宙を浮くこともなく、瞬間移動装置もタイムマシーンも出来上がっていなかった。人々は大らかで、誰一人として不幸を背負うことのない世界を夢見て目指していたのに、何一つ変わることのない日常が続いたわ」
なつみは自嘲をするように、喉の奥で笑った。あさ美はこれほど饒舌に語るなつみの姿に驚いた。
- 211 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時54分24秒
「あたしは小さいころから頭だけは働いてね、大学にも飛び級で入った。あたしは、あれほど人を熱狂させて、人を惑わせたものの正体が一体何だったのか知りたいと思った。だから大学では臨床心理学を専攻した。研究に夢中になって気が付くと大学を出るときには、論文は全世界で取り上げられて、大学側はあたしに最年少で教授の地位を与えてくれた。そんな時よ、圭織があたしの所に訪ねてきたのは…」
なつみはあさ美に水差しを取るように頼んだ。あさ美が差し出すと、中に入った水を美味しそうに喉に落とし、唇を舌でなぞった。
「圭織は言ったわ。『どんな聖人君主でも本質に闇を飼っている。私も、あなたも‥』ってね。公然とみんなが口噤んでることを言うもんだから、呆れちゃったけど」
なつみは当時を思い出したように苦笑をもらした。
あさ美の記憶は過去へと戻っていく。圭織はいつも「闇」を口にしていた。いつの間にかあさ美は、圭織の言っていた「闇」に引かれるようになり、それが心の内を支配するようになっていた。
- 212 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時54分59秒
「あなたにも実感があるでしょ。圭織が言ったこと、それがペルセポネーの原動力よ。あたしは圭織から頼まれたの。ペルセポネーに『狂気の種子』を植え付けてくれって。圭織に全面賛同したつもりはないけど、あたしは、研究欲を満たしてもらえるって思って『デメテル』に入信した」
「……狂気の種子」
「まあ、言うなれば、闇の力増長器みたいなものね。普通の人ならば、人を殺めることは理性がストップを掛けてくれる。つまり闇が首を擡げてくることはないわけね。だけどペルセポネーは理性を消さなければ仕事ができない。つまり理性を排除した闇を沸き上がらせるの。まぁ、簡単に言い切っちゃえば暗殺を請け負ってくれる専門の人格を作り出すわけ。黒曜石のように深い闇を抱いた人間をね」
- 213 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月23日(土)01時55分39秒
「……別の自分」
あさ美には覚えがある。先日の時もいつの間にか自分の意志から離れてしまい、人をいたぶることに恍惚を感じていた。愛と対峙したときも、香港の時も、自分を保とうとする一方で、黒い感情が身体中を駆け巡っていた。
「強力な催眠を何度も何度も使用して、徐々に新しい自分を意識させていくの。でもそれは決して認識できない、影のような存在。そうしてペルセポネーは作られたのよ」
なつみは一息を吐くと、メロンの頭や背を丁寧に撫でた。メロンはくすぐったそうに身を震わせた。
「…私の中にも…‥」
あさ美は拳を握りしめて、胸元に置く。左胸は激しく脈打っていた。この中に決して表に顔を出さない、もう一人が巣くっているのだ。そして、2人で多くの人たちを殺めてきたのだ。
あさ美は瞼を落として、天井を仰ぎ見た。
- 214 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時51分46秒
「寒くなってきた。きっと雪が降ってくるわね」
なつみは椅子から立ち上がると、水差しを机に置いて、ベットへと近づく。レースのカーテンを持ち上げ、外の様子を伺う。
「冷たい音を感じるわ。空気がぴんって張るような音‥。こういうときは雪が積もるのよ」
ベットに腰を下ろすと、なつみは弱々しい笑みを浮かべた。
「目が見えないと、色々なことを感じることができるのよ。人間は上手くできてるわね」
「…どうして私が、どうして今も飯田さんに追われなきゃいけないんですか」
あさ美はなつみに詰め寄るようにして尋ねた。なつみは微笑んだ。
「それはね、あなたがペルセポネーとして天才だからよ。あなたみたいな鈍くさそうな娘が天才っていうのは驚きだけどね」
「…私が‥天才?」
「確かに愛は才能があるわ。でも彼女はどんなに才能があっても英才止まりなのよ。あなたは実験でも自分を抑えることが自然に出来てたけど、あの娘は自分を抑えることができないの。覚えてるでしょ。あなたが『デメテル』を脱走しようとしたとき、研究所で愛があなたにしたことを」
あさ美は首を横に振った。だが腹部の古傷に自然とじっとりとした痛みを感じ、あさ美はそっと手をやった。
- 215 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時52分36秒
「脱走を止めようとした警備員たちを撃ってて、愛はすっかり狂気に飲み込まれてしまていた。あれはまるで野に放たれた獣だったわ。あなたは必死に説得を試みたでしょ。でも、無駄だった。そのうちあなたも壊れた‥」
あさ美は思い出す。燃え立つ炎が身を覆い尽くし、辺り一面には血の匂いが充満している。萌黄色のワンピース姿の愛は嬉々として銃を構えていた。あさ美は叫びながら、愛に何度も言葉を投げかけた。だが、愛の放つ弾丸だけがあさ美の身を削っていった。やがて腹部に燃えるような痛みを感じて、ゆっくりと意識が消えていった。
気が付いたときには愛の姿も、見慣れた研究所の影もなかった。見知らぬ場所に横たわっていた。身体には暖かな毛布が掛けられており、傷にも治療が施されていたが、誰もいなかった。ただ波の音だけが、あさ美の耳に響いてきていた。身を起こすと、腹部にまだ激痛が走ったが、立てないことはなかった。手が愛器のワルサーPPKに触れた。空には星が皓々と瞬き、月が妖しげに輝いていた。
「…気が付いたら私は1人でした。でもそれは私が脱走を成功させたからじゃ…」
それを聞くとなつみは瞬間虚を付かれた表情をしたが、すぐに笑い出した。
- 216 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時53分35秒
「圭織がね、あさ美を外で成長させてみたいって言い出したのよ。愛は内で、あさ美は外で育てようってね。つんくさんは渋々だけど了承して、しばらく放っておくことにしたの。あなたがペルセポネー計画に参加した人を狙っていったのも、圭織にとっては計算の内だったみたいね。
「だけど、あたしはそれどころではなかった。ペルセポネーの狂気を目の当たりにしたのよ。こんな危険なものだなんて思ってもみなかった。あたしは圭織にペルセポネー計画は白紙に戻すべきだって主張した。圭織はそれを一笑に付した。彼女は言ったわ。『ペルセポネーは私の夢だから』って。それで決裂。あたしは『デメテル』を抜けた」
「‥あなたみたいな人を、よく飯田さんが手放しましたね」
あさ美は皮肉のつもりで言った。なつみもそれを感じた様子で苦笑をした。
- 217 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時54分59秒
「天才と英才。この2人が圭織の心を奪ったのね。圭織は何に引かれたのか分からなかったけど、特にあなたはお気に入りなのよ。きっと圭織はあなたや愛がいればそれで満たされてるのね。
「『デメテル』を出ることで、あたしは保身を計ろうともした。つんくさんがあたしに近寄れば、圭織は躊躇無く始末するでしょうしね。現に始末された人も見ているから。まぁ、それほど彼女はペルセポネーを大切にしていたのよ。あたしは『デメテル』を出て、生まれ故郷、つまりここに戻ってきたわ。家でしばらく論文書いたりとかして、のんびりしてたけど……。やっぱり天罰かな。視力を失った……」
「……科学者が天罰だなんて言うんですか?」
「まあね、それで近所に盲導犬育成所からこいつに来てもらったのよ」
なつみはメロンを抱き上げる。メロンはその温もりを確認するように身を擦り寄せた。
- 218 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時55分58秒
「さあ、これであたしの話は終わりよ。後はあなたの好きにしなさい。あたしは殺されても仕方ないことをしたわ。あなた達のことを考えなかったわけじゃないけど、あたしには研究ができるっていうことが何よりも魅力的だった。私はただ人の奥底にある闇に迫りたかっただけなのよ。だから弁解はしない。きっと私も圭織の言う闇に振り回されてたのね」
あさ美は手に持つワルサーPPKを強く握りしめると、ゆっくりと上げていった。手が寒さに少々かじかんで、赤く染まっていた。
「ただ最後のお願いがあるの。この子は殺さないで。この子には色々と世話になったからさ。あの世まで縛り付けることないでしょ」
なつみは最後のつもりでメロンを強く抱き締めると、腕から下ろした。メロンは温もりがなくなったことが不服なのか、なつみを恨めしげに見やり、すぐ近くのあさ美の足下に寄り添ってきた。
なつみは目を閉じて、手を膝の上に乗せた。その姿はすっかり覚悟が出来た者の風格があった。あさ美は銃口をなつみの額と結ぶ。後は引き金を引くだけで復讐が終わるのである。だが指先が震える。あれほど、どんな状況でも人を殺める方法を学ばされたのに、大事な時に指が動いてくれない。
- 219 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時56分50秒
「‥何でそんなに…」
あさ美の声になつみはうっすらと瞼を上げた。
「…何でそんなに静かにしてられるんですか。もっと怖がって下さい。もっと……」
あさ美は感情を爆発させたように声を高めて、引き金を引いた。乾いた銃声の後に薬莢が鈴の音のような音を立て、木板の上に落ちる。メロンはその音に驚き、あさ美を見上げるが、主が心配なのかベットに上がり、なつみの側に伏せる。メロンの柔らかい瞳はじっとあさ美を見つめていた。それがあさ美にとって哀れみに感じられて、指先が震えた。
「ちゃんと狙うように教えられてきたんでしょ。そんなに感情を振り回していたら、相手を的確に殺すことなんてできないよ」
なつみは鋭い視線をあさ美に向けた。あさ美は何度も引き金を引いた。続けざまに弾丸が飛んでいく。どれもなつみには当たらずに壁へと刺さっていく。硝子窓にも当たり、軽やかな音を立てて割れた。外からは唸りを立てながら冷気が入り込んできた。
- 220 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時58分10秒
「‥嫌なんです!私は‥もう…誰も殺したくないのに……どうして私たちをこんな風にしたんですか!」
あさ美の足下に薬莢が溜まっていく。あさ美の大きな瞳からは一筋の涙がこぼれ落ち、赤く染まった頬をなぞって垂れていった。ゆっくりと力の抜けたようにあさ美は膝を床についた。手からはワルサーが音を立てて転がり落ちた。なつみは深く息を吐くと、あさ美の元に近づいた。
「ボストンに大学時代お世話になった先生がいるわ。奥さんとのんびり老後を暮らしてる。あたしはもうしばらくしたら頼ってそっちに行こうと思ってたの。だからあなたも一緒に来なさい」
あさ美は顔を上げる。何処も見ていないなつみの目が眼前にあった。それは今までに見たことのない優しい笑みであった。
「もうこんな物を持つ必要もないわ。あなたは遅くなったけど、自分の道を歩くときなのよ」
なつみは手探りでワルサーを拾い上げた。あさ美は銀色に光る銃身をぼうっと見つめた。
「もうこんな物に縛られることはない。あなたは圭織の玩具である必要はないのよ」
なつみの言葉に、あさ美は戸惑ったようだが、ゆっくりと首を横に振った。
- 221 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月25日(月)23時59分13秒
「どうして。あなたは人を殺すことを望んでないんでしょ。だったら…」
「…愛ちゃんを…。愛ちゃんを放って自分だけ逃げる事なんて出来ません。愛ちゃんは私が『デメテル』にいたとき、優しくしてくれました。人見知りで、いつも怒られてばかりいた私を気遣ってくれて、一緒に絵を見に行こうって‥。だから、私は…」
「あたしを殺すこともできないで、圭織から愛を助けようなんて甘い考えね。人を殺せないのなら、あなたは黙って引くのが道理でしょ」
「…教えてもらったんです。大切なものは守るものだって。私にとって愛ちゃんは大切な人なんです。どんなに恨まれていても、銃を向け合うことになっても」
あさ美の言葉に、なつみは首を振った。その顔はあまりにも抒情的なことを言っているあさ美が信じられないようであった。
「なつみさんは殺しません。あなたは自分でしたことを悔いています。死を怖がってもくれませんでした。だからあなたには生きて罪を償ってもらいます」
- 222 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月26日(火)00時01分30秒
「『デメテル』を出てから、一体どんな人に出会ったのか知らないけど、ずいぶんと甘いことを言えるようになったんだね。お気に入りの天才ペルセポネーがこんなんじゃ圭織が嘆く顔が思い浮かぶよ」
なつみは笑いながら、ワルサーをあさ美の手に渡した。
「言っておくけど、これが最後のチャンスだと思った方がいいわよ。後であたしを恨んでも、その時にはあたしは日本にいないんだからね」
あさ美がこくりと首を縦に振ると、なつみは探りながらベットの端に座った。あさ美はワルサーの重みを手に感じながら、立ち上がった。
「‥日本にいればペルセポネーに戻るよ。きっと」
「…私には大切な人がいます。だから、私は‥守ってみせます」
「紺野だってさ」
「…えっ」
突然のなつみの言葉に、あさ美はきょとんとした目で彼女を見つめた。
「名字。あなたはペルセポネーに戻らない決意があるんでしょ。だったら、圭織が教えなかったあなたの名字教えておいてあげないとね。昔、中国に名前を奪っておくと相手を支配できるって迷信があったのよ。だから迷信好きの圭織はペルセポネーたちに名字を与えないそうよ」
- 223 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月26日(火)00時02分17秒
「‥紺野…あさ美‥…。それが、私の…名前」
「孤児院の院長があなたのことをそう呼んでいたらしいわ。あなたは圭織がどこかの孤児院から見つけてきた娘なの。ペルセポネー実験のためにね」
なつみはメロンを口笛で呼び寄せると、愛おしげにその身を抱いた。外より入り込む風に震えていたメロンはこれ幸いと、なつみの身体を押しつけてくる。
「最後にもう一度聞くわ。本当にいいのね。あたしを殺しておかなくて。あなたは後悔するかもしれないよ」
なつみは念を押すように言った。抱かれたメロンが苦しそうに首を振る。
「…私はあなたを許した訳ではありません。今回はペルセポネーについての情報を提供してくれたので、生かしておくだけです。愛ちゃんを助けたら、一緒にあなたを殺しに行くかもしれません」
あさ美は無表情でそう言うと、ワルサーを仕舞った。
「そう。……それじゃ、その日を楽しみにしてる」
なつみはどこか悲しそうな笑顔で、あさ美を見た。
- 224 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月27日(水)00時13分22秒
ひとみは寝不足の腫れぼったい目を擦りながら、ホテルをチェックアウトした。外は夜の内に降り積もったのか、辺り一面銀世界であり、今もこんこんと雪が降ってきている。ひとみは寒そうに首をすくめると、折り畳み傘をバックから取り出して、それを天に向けた。足下には冷え切った空気が通り抜けていき、薄い靴下の中に入り込んできた。
結局あさ美はホテルに戻ってこなかった。ベットに座り、面白くもない深夜番組を眺めていたが、いつの間にかうとうととしてしまい、朝目が覚めたとき、慌てたように隣のベットを確認してしまった。だが温もりもなく、あさ美の姿は室内になかった。
- 225 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月27日(水)00時14分06秒
今回の北海道への仕事は、あさ美との広がってしまった溝を埋めるためのいい機会だと思っていたひとみとしては、ご破算になってしまった。それに昨日電話が掛かってきたとき、あさ美の様子はどこか余所余所しく、緊迫感があった。
ひとみとしては、あさ美が何を隠しているのか問いつめて吐き出させたいのだが、自分がそんなことをされたら嫌に決まっている。
どこかであさ美が戻ってこないのではないかという不安がある。この間もあさ美はあっさりと別れの言葉を述べて、相手の指示に従ってしまった。気がつくとあさ美は黙っていなくなってしまうようで怖かった。
「女々しいなぁ、あたしは」
ひとみは苦笑をしてしまう。
ひとみが歩むごとに、降り積もった雪がきゅきゅと心地よい音を立てた。傘にはすぐに雪が溜まってしまい、時折払い落とさないと重さが増してくる。
- 226 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月27日(水)00時15分08秒
室蘭駅は早朝のためか、人影は少なかった。構内では駅員たちが箒を動かしながら雪を掃いていた。純白の雪は擦られ、靴に削られて汚れていく。ひとみは傘を叩くと、バックを背負い直して待合室へと入っていく。待合室では古くさいストーブが低い音を立てながら室内を温めていた。使い古された3個のベンチはあちらこちらが痛み、汚くなっている。
その手前のベンチにあさ美が眠っているのを見つけると、ひとみはようやく安堵の息を吐いた。それと同時に、会えたら問いただそうと思っていた疑問を胸の奥へとしまい込んでしまった。何も今無理矢理問いただすことはないのだ。
あたしたちは信頼関係をちゃんと築いてるんだから。
ひとみはバックを床に置くと、あさ美の肩を軽く揺する。あさ美は小さく身を動かすが、起きる様子はない。
- 227 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月27日(水)00時16分06秒
「ほら、起きな。こんな所で寝てると風邪ひくよ」
いつから寝ていたのか分からないが、熱せられた空間に、コート姿のまま眠っているのはあまり良くはないだろう。ひとみは少々強めにあさ美の身体を揺すった。
「‥う…ん」
あさ美は心地よさげに唇を舌でなぞり、寝返りを打つのだが、軽やかな寝息を続けた。ひとみは呆れたように溜息を吐くと、仕方ないように自分の着ていたコートをあさ美に掛けてやり、あさ美の隣に座る。すぐに冷気がひとみのセーターを素通りしてきて、ひとみは身震いをしてその寒気を振るい落とす。
「ったく何処へ行って遊んでたんだか。可愛らしい顔して寝ちゃってさ。あたしが心配したの分かってるのか」
- 228 名前:第10話 雪の降る街で 投稿日:2002年02月27日(水)00時17分01秒
ひとみは思いついたように、あさ美の身をぴたりと付けると、自分にもコートの裾を掛けた。1人よりは2人の方が寒さを凌げる。ひとみはいたずら心を出して、あさ美の頬を人差し指でつついてみる。思った以上の柔らかい感触に、ひとみは少しの驚きを覚え、ついつい病みつきになってしまいそうだ。
一方のあさ美は寝顔をしかめると、顔の向きを変え、そこに寄りかかれる場所を見つけるとひとみの肩にもたれ掛かってきた。首筋にあさ美の規則正しい呼吸が当たり、むず痒い。
「まぁ、戻ってきてくれただけでも良しとするか」
ひとみは穏やかな顔になると、伸びをして、あさ美の頭に自分の頭を軽く乗せるようにした。あさ美の髪からいい匂いが沸き上がり、ひとみの鼻を心地よく擽る。
辺りはまるで時が止まったかのように静かであった。外から入り込んでくるやんわりとした朝の日差しに、ひとみは眩しそうに目を細めた。
To be continued
- 229 名前:三文小説家 投稿日:2002年02月27日(水)00時26分51秒
以上で第10話「雪の降る街で」は終了です。
前に全16話完結としましたが、
書いている内に長くなってきてしまって、1話増えてしまいました(w
更新スピードも遅くなってきていて、申し訳ないです。
それに見合う努力をするつもりなので、長い目でお許し下さい。
さて次回は第11話「過去に手向けの花束を」です。
今回はあさ美の過去を中心とした話でしたが、
次はもう一人の主人公ひとみの過去の話になります。
そろそろ話の筋も見えてきた方もいるかと思いますが、
最後まで我慢して下さい(w
第11話は、3月の頭から更新する予定なので、どうぞお楽しみに。
- 230 名前:名無し読者 投稿日:2002年03月03日(日)21時51分29秒
- 続き期待
- 231 名前:三文小説家 投稿日:2002年03月06日(水)23時24分57秒
- >>230
レスありがとうございます。
期待にそえるように今後も頑張らせてもらいます。
第11話を始める前に訂正をします。
第5話でひとみが「昔、刑務所から助けてもらった」と
言ってますが、そのような事実はありませんでした(w
その部分は記憶から削除しておいてください。
- 232 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月06日(水)23時26分12秒
空は細く線を引く雲を持ちながら、何処までも広がる青さを持っていた。北北西から吹いてくる冷たい冬風も、空の青さに免じて許すこともできそうな心地よい平日の午前であった。
ひとみは風を切りながら、国道15号をバイクで走り抜けた。疾走するごとに風が焦茶色のジャンパーをはためかせ、布地を通して寒さが伝わってくる。脇を自動車が追い越していくたびに、それはひどくなり、そのつどにひとみは舌打ちをした。全面ヘルメットを着用しているため顔は完全に防護されているが、おそらくヘルメットをしていなければ頬や耳などが真っ赤に染めたてられ、切り裂くような痛みを感じていたことだろう。
今日は後ろにあさ美の姿はない。そのため存分にスピードを上げていき、小さなカーチェイスを楽しむことができた。ひとみはからかうように車線変更をして、車の合間を縫うように進んでいく。久しぶりの1人がひとみの気分を高揚させていった。
- 233 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月06日(水)23時26分59秒
やがて東京を抜け、横浜に入ると海沿いの潮風がバイクの横腹に突き刺さってきた。ひとみは微妙にバランスを立て直しながら、ギアを踏み込んでいく。横浜港に架かるベーブリッジが見えてくる頃には、ひとみはすっかりバイク運転に夢中になっていて危うく目的を忘れかけそうになっていた。ふっと気を戻したひとみは慌てたように国道を外れると、細くうねる路地へと入っていった。
ひとみはギアを落としながら、スピードを下げていく。ひとみはとある薄いブロック塀に囲まれた墓地前でバイクを止めた。ひとみは窮屈なヘルメットを脱ぐと、それをバイクのハンドルに掛けた。それから革手袋をしたまま髪を強引に撫でつける。
平日のせいか、墓地では人影を見つけることは出来なかった。所々で枯れ果てた花束が細れた身を風に曝していて、時折かさかさと乾いた音を立てていた。墓地を自由に野良猫が闊歩しており、その場に供えられたことが悪かったかのように遠慮もなく、お供物に鼻面をつけていた。それを枯れ落ちた細木の上からカラスたちの群が羨ましげに眺める一方、隙あらばと狙ってもいた。
- 234 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月06日(水)23時27分50秒
ひとみは目の前を駆け抜けた黒い子猫を口笛で呼び、手でおいでと誘った。相手は不思議そうに小首を傾げたが、興味がなかったのか墓の影に隠れてしまった。ひとみは唇を尖らせ、自分の所為ではないことを強調するかのように飽きた表情を作りだし、目的の場所へとゆったりとした歩調で向かった。
風に当てられて頬には自然と赤みが差していく。ひび割れて痛む唇をそっと舌でなぞると、剥がれ落ちそうな薄皮が張り付いてきた。
ひとみの足は小さな正方形の角の方にある場所で止まった。そこは他の墓とは異なった小振りな石がぞんざいに立てられているだけであった。しばらく人が訪れた様子もないようで土色の掃き慣らされた大地に、まさか人が眠りについている場所とは到底思えない場所であった。
- 235 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月06日(水)23時29分12秒
ひとみは寒そうに肩をすくめながら腰を屈めた。
「1年ぶり。元気にやってる?」
ひとみは答えてもくれない石に向かって言葉をかけた。
「月日の経つのは早いって言うけどほんとだね」
ひとみは石をつつく。石にこびり付いていたひんやりとした緑苔が指先に付着してきた。それを指で擦り落とす。
「梨華は相変わらずだけど、あたしは随分変わったよ。新しい相棒ができたんだ」
ひとみはぼそりと呟くように報告を始めた。相手は無機物の石ではあるが、これはひとみの1年の総括である。屈めた足が痛み、ひとみは何度か立ったり座ったりを繰り返した。そうしていると独りでに身体が温まってきた。
「まだ復讐は果たせてないよ。本当はさっき言ったあさ美って娘と一緒に仕事を始めたから、もう忘れるべきなのかな、なんて思ったけど、でもやっぱり先輩の仇を討ちたい」
ひとみの言葉に誘われるように冷え切った北風が、彼女の髪を踊らせながら通り抜けていった。
- 236 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月08日(金)00時30分39秒
20世紀を終える頃、日本には麻薬が広がり始めた。覚醒剤から大麻、コカインまで街頭で素人バイヤーたちの手により広く売りさばかれた。そのため厚生労働省は麻薬取締官へとなる制限を緩め、採用人数も増やしていった。
短大生であった吉澤ひとみは就職活動の一環として試験を受け、特に高尚な目的もなく麻薬取締官へとなった。
研修を終えて配属された場所は成田空港であった。この頃の成田空港は日本主要の国際空港としての働きをしておらず、すべて羽田空港にその機能が移行されていた。成田空港では発着便数が減り、近い内に廃止されるのではないかとまで噂されるようになっていた。そのため羽田に配置される新人は出世街道から外れた位置づけがされていたらしい。だが、ひとみは、遠くに飛ばされて不便だなぁなどと暢気に思った程度であった。
ひとみは自分のことをそれほどとは思っていないが、よく真面目な娘だと言われた。仕事に対しては責任をもって扱うし、上司たちの命にもよく従った。本来であれば麻薬取締官として数年の業務をこなした後に、然るべき人を見つけて幸せな人生を全うできるはずであった。
- 237 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月08日(金)00時32分00秒
ひとみが麻薬取締官になり、一年経つと配置換えで今までの実直な上司は東京の捜査へと回された。
新しく横浜港勤めをしていた中年の男性がひとみの上司になった。体躯はがっちりとしていて、眉はきりっと力強さを持っていた。顔に刻まれた皺は彼が積み重ねてきたそれまでの栄誉ある経験を物語っていた。短く刈った白髪混じりの髪には整髪料の染み渡るような匂いがあった。穏和な笑みで挨拶の時に握手を求めてきた男性に、ひとみは父親を感じた。
それからは特に意識していたわけではないが、ひとみはこの上司と顔を合わせるごとに丁のよい緊張感と、ほのかな胸の高鳴りを感じた。学生時代の友だちに電話で相談をしてみると、それは恋だと一括された。ひとみは慌てたように否定を繰り返したが、よくよく思い返してみると友人のほうが正しかったように思える。
ある日、ひとみは上司に空港内のレストランに呼び出された。胸が高鳴り、柄にもなく緊張をしてしまった。
上司は神妙な面もちでコーヒーを飲んでいた。ひとみが薄紅のルージュを引いた濡れた唇をちょっと持ち上げて笑うと、上司もそれに合わせるように笑った。そんな行動が何度も続き、ようやく上司は口を開いた。
- 238 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月08日(金)00時33分26秒
「来週の水曜日、タイから来る連中を見過ごしてほしいんだ」
随分となれなれしい口調で、最初は何を言っているのか意味を理解できなかったが、それが麻薬所持者を無視せよとの命令であると気がつくと、ひとみは思わずフォークを落としてしまった。細く澄んだ音を皿が立てると、客たちが一斉に眉をひそめたため、上司は表情も変えずに、ただにやりとひとみの反応を楽しんでいた。
「それは‥」
当然ひとみは言葉に詰まりながらも反論をした。上司は自分に命令を下すと共に、自分の秘密を打ち明けてくれた。
上司は横浜港にいた時からずっと麻薬のバイヤーを素通りさせていた。また応酬したものも一部を着服し、それをある組織に横流しをしていたとも言った。だが、管理職についた今、自ら率先して税関に立つことはできない。そのため勤務態度が一番良いひとみに目を付けたそうだ。素行優良であればあるほど疑われることは少ないという考えのようだ。
混乱する一方でひとみは秘密を打ち明けてくれた上司に対して情愛を抱いた。自分だけに秘密を打ち明けてくれたと誤った認識がひとみの中に生まれていた。
- 239 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月08日(金)00時34分34秒
水曜日になるとひとみは一つの税関を任せられた。
ひとみは内心の不安をどうにか抑えながら職務に集中しようとしたが、それも適わなかった。朝食も無理に押し込んだのだが吐いてしまい、昼食もコーヒーを一口啜るのが精一杯であった。午前中にわざわざ上司はひとみの所へ来てくれて、肩を軽く叩いてにこやかな笑みを浮かべてくれた。
午後の第3便、タイのバンコクからの到着便に乗っていたカップルが遠目で税関窓口を探しているのをひとみは発見した。怪しい雰囲気があり、ひとみは密かに同僚が声を掛けてくれないかと期待をしたが、無駄であった。
入国者の数が減ってくるとそれまでうろうろしていたカップルは、躊躇せずにひとみの立つ税関へとトランクを転がしてきた。
- 240 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月08日(金)00時35分19秒
褐色の肌を持つ男女は、真っ白く並びのよい歯を見せながらトランクをひとみの前で開けて見せた。中身は時期相応の洋服が数着と簡易食、それにガイドブックなどが押し込まれていた。一見では不審物は見あたらなかった。
だがひとみはもぞもぞと身体を動かしている女性自身が運び屋であることに感づいた。よく女性はコンドームなどに詰め込んでそれを体内に隠し、持ち込んできている。男性の方も悠々とした表情をしているが体内に隠し持っているのだろう。
ひとみは辺りを見渡した。何の変わりもない普通の空港風景が広がっていた。隣の税関ではにこやかに同僚たちが旅人を送り出しているし、フロアーでは顔見知りたちが忙しそうに動き回っていた。ひとみは少し離れた場所で談笑をしていた上司の姿を見つけた。彼はちらりとひとみの方を見ると微かにかぶりを振った。
「どうぞ、…よい旅を」
ひとみはトランクを閉めると、強張った笑顔でカップルを日本国へと入国させた。
- 241 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月09日(土)01時05分07秒
一度限りで終わるかと思っていたひとみは、翌週にも同じ場所に立たされた。今度は南米からの訪問者だった。上司はその仕事が終わると決まってひとみを食事に誘ってくれた。最初はとても食事をする気分ではなかったが、それも慣れてくれば何ともなくなることで、豪華な食事を段々とひとみは受け入れられるようになってきた。何よりも上司が期待を掛けてくれていることが嬉しかった。ひとみは週に一度の上司との2人きりの時間を待ち遠しく思うようになっていった。
徐々に通常業務と犯罪行為とが混じり合っていくようになり、一ヶ月ほど近くになったころ、上司から次の仕事を言い渡された。今度は応酬した薬の着服であった。押収品は一度集められ保管される。それを盗んできてもらいたいというものであった。
そのころになるとひとみは、変化とスリルある日々を純粋に楽しめるようになっていた。それまで窮屈であった変わり映えのない毎日が、上司のおかげで息づき始め、ひとみはますます上司に傾倒していった。
押収品の着服もさほど難しいことではなかった。遠地の成田空港へと配属された同僚たちは使命感へ燃えるというよりも、与えられた仕事を丁重にこなしていくことで満足をしていたからである。
- 242 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月09日(土)01時07分18秒
だが、ひとみの行動が大胆になるほど、押収品着服は犯罪の匂いを残していった。いくらやる気のない人たちが集まろうとも、月に僅かずつであれ押収品が減っていけばおかしく感じるものである。
犯行を繰り返していたことで、何かと理由をつけて保管場所への立ち入りが多くなってしまっていたひとみは真っ先に疑われた。もちろん真面目一辺倒で通っているひとみが容疑者であるはずはないと誰もが思ったが、ある人物の証言が彼女の犯行を確定させた。
それは誰あれ彼女に背任行為を命じた上司の男性であった。上司はひとみが1人で保管場所に忍び込んでいるところを見たと公言した。彼は自分の権限でひとみに逮捕を命じた。驚愕しながらもひとみは反論をし、上司が命じたと騒ぎ立てた。
だが上司はひとみ以上に清廉潔白で通っていた。その上部下からの信頼も厚かった。結局ひとみの言葉はただの戯言として誰の耳にも残ることはなく、ひとみのほんの気の迷いからそれが手癖になってしまったと理由付けがされて、警視庁へと引き渡されることとなった。
- 243 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月09日(土)01時08分24秒
警視庁からパトカーで出迎えが着てもひとみは納得がいかず騒ぎ立てた。そのため若い刑事に叩かれた。自分の脇に付いてくれた女性刑事は不快な表情で、その男性刑事に反論をしてくれた。
「今のは目をつぶってね」
見せられた警察手帳には市井紗耶香と銘打たれ、少しピンぼけた写真が貼られていた。紗耶香は、すまなそうにひとみの頬を冷やすためにハンカチを水に濡らして当ててくれた。
ひとみは憎々しげに自分を売り渡した上司を睨み付け、唾を吐いた。上司は見下すような目でひとみを一瞥し、刑事たちにこれまでの業務様子を事細かに語った。
「彼女の業務はいつも適切なものでしたよ。なんでこのような所業に及んだのか、私には計りかねます。ただ、上司である私の監督不行届でした」
あれほど自分を狂わせた情愛はすっかり鳴りを潜め、自分が裏切られた事に対する苦しみに心が痛んだ。何故自分が裏切られたのか分からない。もしかすると最初から自分は利用されていただけなのかもしれないと、ひとみは自らの浅はかさに拳を握りしめた。
- 244 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月09日(土)01時09分23秒
引きずられるようにパトカーにひとみは乗せられた。刑事は3人で先ほどの小生意気な刑事と紗耶香がひとみを挟むように座った。運転席には制服警官が硬い表情でハンドルを握った。
成田の緑茂れる道をパトカーはランプも回さずに進んでいった。空には梅雨前の最後の青空が気持ちよいほどに広がっており、時季はずれのツバメが曲線を描きながら飛翔していた。水田には腰を曲げた農夫たちが田植えの最中で、すでに植えられた稲の苗が心地よさげに風にそよいでいた。苗の影からは蛙たちの長閑な合唱が聞こえてきていた。
ひとみが手錠を掛けた手を動かすごとに、隣の刑事は睨み付けてきた。
「麻薬取締官が麻薬の横流しなんて世も末だな」
ひとみは刑事の言葉に顔を上げた。
「あたしだけじゃない。あの男だって…」
だが男の刑事はそれを鼻で笑った。
「どうせ金目当てだろ。全体の奉仕者が聞いて呆れる」
警察の不祥事を棚に上げてよくも言えるものだと、ひとみは悔しさに唇を噛みしめた。
- 245 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月09日(土)01時10分31秒
「そういうのは本庁に着いたら十分聞いて、それからちゃんと捜査するから。もしかすると最近巷を騒がせてる組織に繋がってるかもしれないからね」
紗耶香がなだめるようにひとみの肩を軽く叩いた。ひとみが紗耶香を見ると、紗耶香は優しく微笑んでくれた。その笑みを見ているとひとみは少しだけ安心することができた。刑事はぶすりとした顔で紗耶香に鋭い視線を向けたが、紗耶香が無視をしたため機嫌を損ねたように窓の外に目線をやってしまった。
「あの、前の原付が随分ふらふらしてるんですけど」
運転席の制服がおどおどとした声を上げた。ひとみと紗耶香は前を見ると、確かに白い原付バイクが狭い道で中央分離帯を越えたり戻ったりしながらパトカーの前を走っていた。刑事が苛ついたようにクラクションを鳴らせと命じた。耳を刺激するラッパ音が鳴り渡ると前の原付は驚いたように後ろをちらりと見やり、それから道の端に寄った。それを追い抜けという合図だと受けた制服は、アクセルを踏み込み速度を上げた。
- 246 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月10日(日)00時26分44秒
次の瞬間だった。道端に寄っていた原付が急にパトカーに向けて突進してきた。制服は息を呑みながら、ハンドルを切った。鈍い音と何かが破裂した音がしてパトカーは急停車をした。ひとみの身体は大きく前方に振られ、額を前のシートにぶつけてしまった。
「バカ!何やってんだ」
刑事は慌てたように、エアバックに顔を埋めた制服を叱りつけるとドアを開けた。前のバンパーからは白煙が上がっており、左端が見事にひしゃげていた。紗耶香も頭をさすりながらも、ひとみの手錠に付いた紐を確認した。
「あ、あっちが急に飛び出してきて」
制服は蚊の鳴くような声で言い訳をしながら、エアバックから顔を離した。バックミラーに映ったそいつの顔はくしゃくしゃになっていて、ひとみは思わず喉の奥で笑ってしまった。
「あちゃあ〜、こりゃあ減俸もんだ。大丈夫?」
紗耶香は暢気にそう言うと、前の制服に声を掛けた。制服が首振り人形のように頭を振った。
「…ま、待て」
外から刑事の引きつったような声が聞こえてきた。ひとみがそちらに目をやると刑事は両手を高々と上げて後退をしてきた。
- 247 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月10日(日)00時27分41秒
「あっ、いたいた。お迎えに来たよぉ」
陽気な女性の高い声が聞こえた。そして白いヘルメットを被ったままの女性が車の中に首を突っ込んできた。ただ物騒なことに彼女の左手には銃が握られており、それが外にいる刑事に向けられたままになっていた。制服が裏声で小さく悲鳴を上げた。紗耶香は素早く自分のスーツ内に手を入れた。
「銃を出したら分かってるね」
女性の顔はにこやかではあるが、有無を言わせない強さがあった。紗耶香は懐に忍ばせた手を引き出せずに、女性の顔を苦々しげに見た。
「ほら、あんただよ。あたしに着いてきて」
女性はひとみの肩を叩くとパトカーから出るように促した。ひとみは虚をつかれた表情をしながら這い出るようにパトカーから身体を出した。
外の空気は美味しかった。どこか遠くの鳶の鳴き声が風に乗って聞こえてきた。
- 248 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月10日(日)00時32分24秒
「ぼうっとしてないでよ」
女性は不満げに声を出した。ひとみは弾かれたように女性を見る。
「あんた。あたしたちから逃げられると思ってんの」
紗耶香がパトカーから身を乗り出してきた。
「言っておくけど、あたしたちを追ったらこの人質、殺しちゃうよ。そしたらまたマスコミが騒ぐだろうなぁ」
女性がからかうようにからからと笑った。刑事が動転したように目を広げていた。
「市井。悔しいがこいつの言うとおりにしよう。逃亡程度なら検問を要請して、後で捕まえればいい。言い訳だっていくらでもつく。だが、人質が殺されたらそれで終わりだ。お前は出世したくないのか?」
刑事の顔は動揺には見えるも、悔しそうには見えなかった。紗耶香は何か言いたげに刑事を見やったが、深々と溜息を吐いた。それを譲歩の合図と見取った女性はひとみに銃を向けながらゆっくりと車道から、脇の木々生い茂る森の中へと入っていった。
「ちくしょうぉぉ」
紗耶香の罵声が蛙の合唱に乗るように聞こえてきた。
- 249 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月10日(日)00時33分06秒
ひとみが歩くごとに、地面に落ちた小枝が細い音を立てた。足を止めようとすると後ろから鼻歌を歌いながら女性が銃口を強く突き付けるため、ひとみは渋々歩を進めた。湿った土を歩くため、お気に入りの白いスニーカーはますます汚れてしまう。
ひとみは改めて女性がただ者ではないことを知った。最初からこの樹海に忍ぶつもりであの場でパトカーを襲ったのだろう。決して広くなくとも樹影に紛れてしまえば、3人の警官たちには捜索が難しいものとなる。
辺りには高く連立した針葉樹たちが植えられ、日光を遮っている。鼻に染みつくような土の匂いがして、時期よりも僅かに早いアブラゼミが騒ぎ立てていた。樹木にはカラスが巣くっているのか、時折嗄れた鳴き声を放っていた。どこかでクレーン射撃でもやっているのだろうか。乾いた銃声が一定の調子で木霊した。
- 250 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月10日(日)00時34分08秒
「十分時間は潰したし、ここらでいっか」
女性がひとみの背から銃口を外した。ひとみは振り返りまじまじと女性を観察した。
何よりも特徴的なのはひとみよりも頭一つ半分身長が低いということである。ヘルメットを被ったままではあるが、脇からは小麦色に染めきった髪の毛がはみ出ている。丁寧に化粧が施されており、眉も髪と同じように染められ、細く剃られていた。好奇心旺盛の猫のような目を持っており、唇は厚く小口であった。両福耳にはピアスが微かな光を反射していた。半袖から覗く両腕は白く輝き、左腕には先ほどの事故演出で怪我をしたのか擦り切れていた。
「あ、ありがとう…ございます」
ひとみは取りあえずお礼の挨拶をした。すると女性はきょとんとした表情でひとみのことを見たが、意味を介したように大きくかぶりを振った。
- 251 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月10日(日)00時34分58秒
「えっと…。ああ、そっか。そういうことか。ごめん、何でお礼言われたのか分かんなかったよ」
女性は納得をしたようににんまりと笑った。
「でも、どうしてあたしを……」
ひとみが言葉を続けようとすると、女性は手でそれを制した。
「ごめんねぇ。ちょっと勘違いしてるみたいだから言っておくね」
女性はゆったりと右手に持つリボルバー式の拳銃を向けた。ひとみは突然のことに一二歩後退をした。
「あたしさぁ、あんたを殺すように依頼されて来たんだぁ。せっかく良い知り合いに慣れそうだったのに残念だったね」
女性がおかしそうに吹き出すと、耳障りな甲高い笑い声を上げた。
- 252 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月11日(月)23時51分41秒
「ど‥うし…て」
ひとみは掠れる声で後退をしながら、女性に尋ねた。
「う〜ん。ま、いっか。どうせ死人に口無しだしね。あんたが横流し手伝ってた組織がね、麻薬の流通経路を自白しちゃうんじゃないかって考えたらしくって、あたしん所に依頼が来たわけ。要するに口封じだよね。ご愁傷様」
女性はにこにこしながら、リボルバーのハンマーを立てた。弾が装填される音がして、ひとみは瞬間的に振り返り駆け出した。
「あ、ちょっと!逃げんな。こらぁ」
女性の声の後に、銃声がした。ひとみのすぐ脇の木を銃弾が削った。ひとみは息を飲みながら木々の隙間を走り抜けた。これならばパトカーに乗ってた方がマシであった。
ひとみは恐怖に目を潤ませながら、足場の悪い地面を蹴った。再度銃声がしてひとみの足下の土が跳ね上がった。ひとみは前のめりに転んだ。
「ったく、急に逃げ出すなんて往生際が悪いぞ」
女性がまるで子どもを叱りつけるように俯せになったひとみへと近寄ってきた。
ひとみは自分の目元から涙がこぼれ出てくるのを感じた。頬の辺りが痙攣をしたようにひくつき、喉の奥からは小さな嗚咽が漏れた。握りしめた手は自然と土を穿り返した。そして何度も地面を叩いた。
- 253 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月11日(月)23時52分36秒
それを見ていた女性は、ひとみの足下近くに立ち、わざとらしく大きく溜息をした。
「あのさ、あたし、そういうの苦手なんだよね。できれば泣かないでくれる。泣いてるとあたし同情しちゃって撃てないんだよ。もっとさ、明るくパーッとしてもらえないかな」
そうは言われてもひとみの目からは涙が止まらなかった。そもそも悲しいから泣いているわけではないのだ。情けなさや悔しさが胸が詰まり、歯をぐっと噛み締めた。ゆっくりと身を起こしていくと、頬や顔が泥まみれになっているのが分かるが、それを払う気分的な余裕はなかった。
「参ったなぁ」
本当に女性は困ったように頭を掻いた。
「あ、そんじゃさ、こうしようよ。一応あんたの言い分も聞いてあげるよ。言いたいこと言わずに死んじゃったら幽霊になっちゃうもんね。そんで、あたしがそれを聞き終わったら、黙って仕事させてくれる?うん、そうだ、そうしよう」
女性は1人で納得したように頷くと、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。ひとみは女性のあまりの楽天性に開いた口を閉じることも忘れ、ぼんやりと彼女を見つめた。
- 254 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月11日(月)23時54分07秒
ひとみが今までの経緯を語り終えると、女性は憤怒の表情で地面を足先で穿り返した。
「おいおいおいおい。オイラ聞いてないよぉ。石川のヤツ、ちゃんと情報よこせっていってんのに、もう。それにしても許せねぇーな、その男」
何をそれほど怒っているのか、女性は悔しそうに拳を樹木にぶつけた。
「あんたは悔しくないの?そんなスケコマシに騙されちゃってさ。大人しく警察に捕まってるつもりだったわけ?」
「あたしは、そんなつもりはなくて…」
ひとみは反論をしようとしたが、女性の言葉が覆い被さるように降りかかってきた。
「で、こんな所で泣いちゃって。そんなんだから馬鹿にされちゃうんだよ。あんた女だろ?だったらガツンと一発かましちゃえよ」
「だからあたしは‥」
それを警察で洗いざらい話そうとした所で襲われて、命まで狙われているのである。だがそれを言う気にもならず、ただ目の前の女性の憤慨ぶりに驚くばかりだ。
- 255 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月11日(月)23時56分12秒
「それであんたは女を見せるつもりはあるの?」
女性は一通り怒り終わると、肩で息を切らしながら聞いてきた。小振りの胸が激しく上下運動を繰り返す。
「‥はぁ」
ひとみは何を言われているのか分からずに、気の抜けたような返事をしてしまった。すっかり涙を止まり、何か自分がそぐわない場所にいるような思いであった。女性はひとみの返事を聞いて、痛そうに額を抑えた。
「だっめだなぁ。そんなんじゃ気合いが入ってないよ。復讐だよ。復讐をするつもりがあるのって聞いてるわけ」
「復讐って‥湯飲み茶碗に雑巾を絞るとか…?」
「だあぁ、違うよ、もうぉ。そんな低俗で陰険な復讐じゃなくて。拳銃を握る気ぐらいはあるのかって聞いてるの。その上司を始末したいくらい恨んでるの?」
突然の拳銃という言葉に、ひとみは目をしばたかせた。正直言って話が見えてこない。ただ、目の前の小柄な女性はすでにひとみを処理するという初期目的をすっかり見失っているようであった。
「‥人を…殺せるかってことですか」
「あったりまえじゃん。だって悔しいんでしょ。その元上司をぎゃふんと言わせたいんでしょ。だったら強いところ見せなきゃ。そんくらいの覚悟はあるわけ?」
- 256 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月11日(月)23時57分22秒
ひとみは目を伏せた。上司には愛おしい想いを確かに抱いていた。だが彼は裏切った。法を犯したことはすでに周知の事実であり、それを否定することはできない。それを彼は全てひとみに押しつけて、今ものうのうと悠々自適な生活を営んでいるのだ。
自分は警察に恨み言一つを述べて、捜査をしてもらって、もしそれが証拠不十分であればどうするつもりであったのだろうか。どのみち自分は法の道を外れているのだ。ならば今更躊躇などせずに、徹底的に外れてやろうではないか。
ひとみは決意を目に秘めて、首を縦に振った。
「いっとくけど、犯罪者になるんだからね。捕まったら極刑ってことだって有り得るんだよ。そこんところまでちゃんと踏まえて考えた?」
- 257 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月12日(火)00時00分13秒
女性はしまったという表情をしながらも、一方ではひとみに興味を抱いた様子で、目を輝かせていた。ひとみの心にはもう迷いはなかった。じっと冷たい土に正座をして何度もかぶりを振った。
「そっか…。石川が何か言ってくるかなぁ。‥まぁ、いいや。…そんじゃあんたは今日からあたしのパートナーにしてあげるよ。ええっと、確かあんたの名前は吉澤…」
「ひとみです。吉澤ひとみ」
「う〜ん、そんじゃ……よっすぃって呼ぶことにしよう。あ、あたしは矢口ね。矢口真理。好きに呼んでいいよ。よろしくね」
真里と名乗った女性はにっこりと微笑みながら、小さな手を差し出してきた。ひとみはおずおずと泥に汚れた手でその手を握った。真里の手は温かく、そして優しく、ひとみの手を握ってくれた。
- 258 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月13日(水)00時06分42秒
あさ美は便せんを目の前にしながら、思案にくれた顔をしていた。先ほどから買ったばかりのボールペンを弄んでいる。鼻先にペン先が近寄るごとに真新しいインクの匂いが通ってくる。
新しく梨華が用意してくれたマンションは、前のマンションよりも一部屋減った。そのため今は簡易式ベットを2つ並べて、ひとみとリビングで寝ている。ひとみがキッチンについて言っておいてくれたのか、前のマンションと同じ型のものであり、あさ美としては嬉しい次第であった。
パソコンやらテーブルやら日常雑貨品一式に、仕事用具などは梨華が揃えてきてくれた。念のため確認をしてみると盗聴器が2つほど見つかった。ひとみはそれに警戒をして室内を隈無く探し回ると隠しカメラも数台発見できた。そのためひとみはマンションの鍵をその日の内に変えてしまった。
あさ美は硝子板のテーブルに頬杖を付きながら、便せんに書き込むべき言葉をゆっくりと選定していった。ようやく筆が進み始めて調子が乗ってきた頃、携帯電話の電子音が部屋中に響き渡った。あさ美は慌てたように便せんの表紙を元に戻し、電話を耳に当てた。
- 259 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月13日(水)00時07分22秒
「こんにちわぁ。梨華ちゃんで〜す。ひとみちゃん元気にしてる?新しいマンションには慣れたかなぁ?」
「……こんにちわ‥」
まるで対照的な調子であさ美はぼそぼそと返答をした。これには梨華も気を削がれたようで、受話器が一瞬無音状態へとなった。
「ひとみちゃんはどうしたの。ひとみちゃんと変わってくれる?」
梨華が落ち着いた、それでも不服さを隠すことのない猫なで声で言ってきた。
「…ひとみは今日は出掛けています。私が留守番をしています」
「ねぇ、あさ美ちゃん。私ってね、結構優しく穏和な方なのよ。分かる?」
見えるはずはないがあさ美は無言で頷いた。
「そんな私はね、ひとみちゃんのことを『ひとみ』だなんて呼び捨てにしてないの。相思相愛の私たちでも呼び捨てにしてないのに、何であさ美ちゃんは呼び捨てにしてるのかなぁ?」
まるで幼稚園児に尋ねるような柔和な口調ではあるが、節々に棘がある。
「やっぱり年下なんだから、ちゃんとひとみさんとかって呼ばないとね。それでひとみちゃんは何処にいるの?もし居留守なんて使ってたら、梨華怒っちゃうよ。うふふ」
- 260 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月13日(水)00時08分35秒
「…‥ひとみ…さんは、行き場も告げないで出掛けてしまいました」
「それ本当ね?嘘ついてたら、針千本飲ませちゃうから」
梨華が声を低めて脅すような声を出した。あまり怖く感じないのはおそらくその特異な声の性質のためだろう。
「‥はい」
あさ美は丁寧にこくこくと頷きながら返事をした。
「な〜んだ。せっかく頼まれてた情報が入ったから教えて上げようと思って電話したのに」
「…伝言‥しますけど…」
あさ美はゆるゆると自分の便せんを手元に引き寄せて、ボールペンのキャップを取った。
「う〜ん。残念だなぁ。ま、いっか。後で電話すればいいんだから」
梨華がまるであさ美などと会話をしていないような言葉を吐き、そのまま電話を切ってしまった。あさ美は瞬きをしながら電話の不通音にしばらく聞き入っていたが、のろのろと電源を切って電話を置くと、せっかく用意したボールペンを器用に指先で回し始めた。
- 261 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月14日(木)23時51分37秒
ひとみが真里の家に居候を始めると同時ぐらいに、元上司の男が海外に飛んだという情報がもたらされた。そのためひとみの復讐劇はあっさりと幕を下ろされてしまったわけである。
逆に真里はそのことを喜んだ。自分がその場のノリとは言え、裏業界に誘い込んでしまったのである。
そうなればひとみの命に責任を持たなければならない。真里はひとみが暗殺者として裏社会で生き残っていくための術をじっくりと教えていった。
意外に真里は慎重な性格で、仕事に対しても冷静に状況を把握しながら取りかかるらしく、真里が紹介してくれた情報屋の梨華も真里の性格にはやりにくそうであった。それ以前に梨華は真里には頭が上がらない様子ではあったのが…
- 262 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月14日(木)23時53分46秒
真里はひとみに麻薬取締官に支給されるベレッタM84をどこからか探してきて渡してくれた。
「使い慣れた銃の方が仕事の時はいいからね。ベレッタM84は殺傷能力が低いから、よっすぃがしっかり腕を磨かなきゃ仕事のために使いこなせないよ」
二人の同居するマンション近くの廃線となった地下鉄抗に、真里が者下に練習用に使用している場所があった。ひとみはそこで鼻をもぐような匂いを我慢しながら、真里の指導を受けた。時代外れの蝋燭立てが周囲にくくりつけられており、ひとみが銃を撃つごとに炎が揺らめく。コンクリート壁に映された影がその度に踊った。
真里の銃はスミス&ウエッソンM29、通称44マグナムであった。ひとみが的を外すたびに、真里は格好をつけるように銃口を的に向けた。 破壊力があり安定性もあるため、短身の真里でも十二分に活用することができるのだ。ひとみが一度どうしてその銃を使っているのかと訪ねてみた。
「あたしの身長って145pなんだよね。44マグナムならあたしの方が数字1つ大きいだろ?あっ、何で笑ってんだよ。ほら、下らないこと聞かないでもう一回撃ってみな」
真里は照れたように言ったことをひとみは覚えている。
- 263 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月14日(木)23時54分28秒
ひとみが最初の仕事、ある組織のボスの始末をさせてもらえたのは、真里と同棲を始めてから3ヶ月ほど過ぎてからである。訓練では銃の扱いにも自信が湧くほどになっていたが、実戦では全く違った。飛んでくる銃弾がひとみの脇を通り抜けていくたびに、彼女は震えた。指は思った以上に堅く、引き金を引くのもままならなかった。
ひとみが撃った弾が敵に着弾するたびに血が飛び散り、恨むような断末魔を上げながら倒れていった。そのたびに胃に収まったものが食道を逆流してきて、喉の辺りに甘酸っぱいものが広がった。
一方真里はベテランであった。彼女はリボルバー式を使用しているにも関わらず、的確に相手を討ち果たし、障害物の影を使いながら銃弾を補填していた。
ひとみが2人ようやく始末を終えた頃には、真里はその倍の人数とボスを1人で片づけていた。ひとみはほっとしたのか、現場で汚物をぶちまけてしまった。
- 264 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月14日(木)23時55分20秒
「初めてなんてそんなもんだよ。あたしだって最初からこんなんじゃなかったからね。まぁ、こんな道を選んじゃったわけだから耐えなきゃ」
血と吐瀉物の混じり合った匂いに一足先に現場を飛び出した真里が、マンションに帰ると反省会を開いてくれた。すっかりしょげてしまっていたひとみは弱々しい顔で、真里の言葉も耳に入れず頷いた。
「前も言ったけど、あたしたちは仕事を失敗しちゃ駄目ね。これは依頼者との信頼にも関わるし、日々の糧にも影響してくる。それとあたしたち自身が死ぬのも駄目。それこそゲームオーバーだよ。分かってる?そんくらい繊細な仕事ってことなんだから、お互いに信頼しあっていかないと駄目なんだからね」
真里は気の抜けたようなひとみの肩を掴むと、揺するように言った。
真里がこんな仕事でも慣れると言ったが、それは嘘ではなかった。徐々にひとみも人に向けて銃を撃つことに抵抗を感じないようになってきた。
- 265 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月14日(木)23時56分33秒
心の内では現場に出ることの恐怖心はあるのだが、人を撃つことにある種の恍惚感を持つようにまでなってきた。絶対的な力で他者を押さえつけていくような喜びであり、自分の命と人の命を賭けて遊んでいるような気持ちが生まれるようになってきた。
一度真里にそんなことを冗談めかして言うと、真里は不快そうな顔をして口を尖らせた。
「あのさぁ、よっすぃ。よっすぃは1人じゃないんだからね。もしよっすぃが命の賭けに負けたらどうするんだよ。あたしもいるんだよ。そりゃ、大概の事は1人で切り抜けられる自信はあるけど、よっすぃが死んだら、あたし、きっと動揺するよ。あたしはよっすぃを守ること考えながら仕事してたんだけどなぁ。よっすぃは違ったみたいだね」
真里は残念そうに俯いた。ひとみは真里の言葉を慌てて否定したが、実際仕事中は自分のことが手一杯で真里のことまで気を回したことはなかった。というよりも真里ならば1人ででも大丈夫だろうという安心感があった。
ひとみは真里の言うことも分かる一方で、技術を上げてきたひとみに対する危惧心から素直に喜んでくれていないんだと邪推もしていた。
- 266 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月16日(土)00時58分32秒
真里は一切ひとみに過去の事を話してくれなかった。ひとみは何度も真里のような明朗活発な女性が、手を血に染めているのか不思議であった。
「ええぇー。あたしの昔話なんか聞いたってつまんないよ」
真里は話をはぐらかすのが上手く、いつの間にか別の話題に変わっていた。そこでひとみは攻め口を変えて、梨華に聞いた。梨華はひとみにすぐにうち解けて、あれこれと気遣ってくれていた。真里に言わせてみるとそれは梨華の求愛行動らしい。
「矢口さん?う〜ん、私もよく知らないんだけど、昔、陸上自衛隊にいたことがあるらしいよ。優秀らしかったみたいで、イギリスのSASとかに研修にいったことがあるとかって噂で聞いたことあるし‥。ねぇ、それよりも今日の私ってどうかなぁ。よっすぃのために服新調してきたんだよ」
終始そんな具合であったため、梨華との会話も大して役に立つことはなかった。真里は過去を知られるとが嫌だったのか、丁寧に自分の歩いてきた足跡を消していて、ひとみがありとあらゆる方法を試みてもそれを知ることはできなかった。
「だからぁ、あたしの過去なんて知ったって面白くないって」
とにかく真里はひとみに自分のことを一切話さなかった。
- 267 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月16日(土)00時59分23秒
真里は、時折ひとみに何も言わずに所在を消してしまうことがあった。連絡を取ろうとしても携帯電話は電源が切られており、その間はただ部屋で真里が帰ってくるのを待つしかなかった。早ければ一日も経たずに、時には外泊もあった。
ひとみは最初男性関係で真里が家を空けているのかと、からかったりもした。
「いいじゃん。そんな野暮なこと聞くなよぉ。もぉ、よっすぃはそうやってすぐ人のこと知りたがるんだから。真里こまっちゃう〜」
真里は適当に誤魔化し笑いを浮かべながら、ひとみの肩をばしばしと力強く叩いた。
結局ひとみは2年間も同じ屋根の下に暮らしていたのに、真里のことについては詳しく知り得ることはなかった。
それでも2人の間には僅かずつであるが、信頼関係が生まれるようになり、裏業界には2人の名は広く伝わるようになっていった。
- 268 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時05分04秒
梨華から慌てたように連絡が入ったのは真里がちょうど例の外出をしている時であった。1人でいるときは仕事をしないと、2人の間の約束であったため普段であればひとみは一笑して、梨華に真里の不在を伝えただろう。
「聞いてよ、よっすぃの仇が帰ってきたんだってよ」
口を滑らせた梨華のこの一言でひとみの胸の奥深くに眠っていた復讐心が燃え上がり、深淵に潜む闇がひとみの理性を覆った。ひとみは約束を破った。静止する梨華から情報を得るとひとみは1人でベレッタM84を握り、相手の居座るアジトへと向かった。
元上司は自分の築き上げたネットワークを最大限に生かして海外からドラックを輸出していた。彼の能力はある組織に重要視されるようになっており、いつの間にか幹部にまで成り上がっていた。その組織で長老が病死するのをきっかけに、組織はシナリオがあるかのように分裂をした。元上司はそれを収拾するために海外から召集されたそうだ。
- 269 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時05分58秒
まるで映画のクライマックスのような場所にひとみは単身乗り込んだ。映画であればまさに主役の見せ所であるだろう。だが残念なことに現実は甘いものではなかった。集まっていた俗に言う若い連中は血気はやり、野心溢れる幹部たちはこの闖入者を手厚くもてなしてくれた。
身体中を走る痛みは徐々に増していき、用意していった弾倉もなくなってきた。自分の着ているものはどこもかしこも血に濡れ、頬には跳ねた泥や深紅の血がペイントのように鮮やかに張り付いていた。周囲には凶弾に倒れていったものたちが静かに眠りについており、その上に不気味なほど丸い月からの薄明かりが降り注がれていた。
気分だけは高揚し、黒い感情がひとみの理性を飲み込み尽くしているのだが、荒波のように迫ってくる敵たちに、ターゲットを発見するよりも早く体力の方がなくなってきた。一線の銃弾がひとみの腕を貫いた。激痛にひとみは呻き声を上げ、拳銃を落として、その傷を押さえた。指の隙間から赤黒い血がこぼれ落ち、どろりとした感触が掌にこびり付いた。その間にもひとみの身体を銃弾が削っていった。痛みはとうに精神を凌駕し、ただこぼれ落ちる自らの血に奪われたようにひとみは見入った。
- 270 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時06分57秒
ひとみは引きずられるように座敷に上げられた。二十畳はあろうかと思われる座敷には、騒ぎの最中に派手に飛ばされた食器類や食物などが散らばり、日本酒の強い匂いが漂っていた。
ひとみが力無く視線を上げると数人の強面の男たちに交じり、昔、自分に指示をして、自分が憧れた男の姿があった。彼の姿は2年も経つのに変わったところがなく、老いてますます端整な体付きになっていた。相手も自分のことが分かったらしく、他のものを押しのけるようにひとみの前に立つと、哀れみと歓喜の表情を作った。
「どこに逃げたかと探していたよ」
男の哄笑混じりの言葉にひとみの復讐心が再燃した。最後の抵抗を試みようと身を捩ったが、両腕を捕まえていた男たちがひとみを畳に組み伏せた。
「助けてやってもいいぞ。お前はいい女だからなぁ」
男の慈悲の科白は、プライドを傷つけられ、ひとみは射抜くような視線を男に向けた。男は演技めいた溜息を吐き、ひとみの顔を蹴り飛ばすと、スーツの上着に手を突っ込んだ。ひとみには見ることが出来ないが、死の気配が近づいてきたことをその場の空気で知る。全てが張りつめ、周囲の飢えた野獣のような視線がひとみの身体を貫いた。
- 271 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時08分46秒
ひとみは胸の奥で何かが弾けそうになるのを知って、必死の思いで押さえつけられた顔を上げようとした。自然と歯が噛み締められ、憎悪と悲嘆の目で自分を殺そうとする男の姿を見ようとした。
パンと弾けた音がした。ぱっと血が花火のように辺りに飛散し、ひとみの上へと降り来る。ゆっくりとひとみに向かって立っていた男が力を失って倒れてきた。勢いよく倒れてきたためひとみの背骨を強打した。ひとみは痛みに呻き声を上げたが、同時に自分が死から遠のいた事を知った。
周囲に立つ男たちも何事かと喚き立つ。そんな中銃声がリズミカルに鳴り響き、その度に男たちは倒れ逝く。ひとみはどうにか首を回して、小柄の真里の姿を認めたような気がした。だがひとみは声を上げることもできずに、ゆっくりとかつて愛した男の腕の中で意識を失っていった。
- 272 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時09分32秒
ひとみが気が付いたときは身体中がベットの上にあって、言うことを聞いてくれなかった。少しでも動かそうとすると激痛が全身を駆け巡った。ベット脇からは真里の小声ながらも綺麗な歌声が聞こえていた。ひとみが自由にならない口を動かすと、真里は何をしていたのか手を止めて覗き込んできた。
「気が付いた?」
真里の言葉にひとみは目で合図をした。すると真里は無言でひとみの右頬を張った。背骨を起点に言いようもない痛みが全身に伝わった。
「あれだけ勝手なことをするなって言っただろ!」
真里はひとみの身体を無理に起こすと胸ぐらを掴み、揺すった。ひとみは痛みを感じながら、自分がまだ生きていると認識した。目からは涙が頬を伝って落ちていった。
「あ〜あっと、石川に泣きつかれたけど、助けなければよかったよ。馬鹿は死ななきゃ治んないからね」
真里はひとみから手を離すと、不機嫌そうに椅子に腰を下ろした。ひとみの身体は自然とベットに横たわった。真里の顔は紅潮し、髪は何度も掻きむしったのかぼさぼさであった。疲れ切ったように隈ができており、目は充血をしていた。服装も着替えていないのか、血塗れた薄手のシャツを着たままであった。
- 273 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時10分23秒
「…‥ごめん‥」
ひとみが絞りながら掠れた声を出した。
「ごめん?謝るんなら最初っからしないでほしいよ。ったくこっちがどれだけ後片づけに苦労したのか分かって言ってんの」
真里の言葉は辛酸であった。ひとみは黙って目を伏せた。言い返す言葉さえ見あたらず、涙だけがひとみの今の気持ちを物語ってくれていた。真里はそんなひとみを一瞥すると、ベットの近くにあるテーブルを引き寄せて、白磁の皿を差し出した。
「食べな。‥2日も何も口にしてないんだから何か食べといたほうがいいよ」
ぶっきらぼうな言い方で、ひとみが返事もしていないのに真里は、無理矢理口にリンゴを放りこんできた。ゆっくりと口を動かすとリンゴの渋みのある香りが口内に広がった。真里はいそいそと手を引っ込めてしまったが、ひとみはその指が傷だらけであることに気が付いた。
- 274 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月19日(火)00時11分10秒
「‥…それ」
「あっ、な、何でもないよ。ただちょっと怪我しただけだから気にすんな。それよりもこれに懲りたらちゃんとルールは守る。分かった?」
真里は睨むように眉間に皺を寄せてひとみに言ったが、すぐに顔を緩めた。
「まぁ、助かったんだから、その命を大事にすることだね。今はあたしがここにいてやるからさ。しばらくゆっくり身体治しなよ」
真里はそう言うと毛布を掛け直してくれ、それから子守歌のつもりなのか澄んだ声で歌い始めた。ひとみはそれを聞きながらゆっくりと夢の世界へと落ちていった。
- 275 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月20日(水)00時23分48秒
翌朝、気が付いてみると真里の姿はなく、テーブルの上には湯気の立つ粥が乗せられていた。そこにはメモ帳が置かれており一番上のページに不格好な文字が並んでいた。
『用事で出掛けます。それを食べたら、しっかり寝てろよ』
ひとみがようやく身を起こして、粥を口にしてみると、予想以上に水っぽく、時折溶けきっていない塩の固まりが口の中でじゃりじゃりした。ひとみは顔をしかめながらではあるが、残さずにそれを全て食べきると、再び身体を横たえた。
南側の小窓からは柔らかな日差しが室内に入り込み、外からは子どもたちの騒ぎ声が聞こえてきた。ゆったりとした時間に身を委ねたままひとみは再び眠りについた。
どれほどの時が経ったのだろうか。ひとみは携帯電話の電子音で目を覚ました。辺りは日が落ち始めたのか暗くなってきている。窓から見える薄青空は夕闇と混じり合い、不確かな刻が訪れていた。小窓を勢いのある風が何度も叩き、空気を切り裂く音を立てていた。
- 276 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月20日(水)00時25分22秒
ひとみは痛みを我慢しながらベットから身を起こした。身体中からは汗くさい匂いがした。足はふらつき、ひとみは蹌踉めきながら携帯電話の置いてある隣の部屋へと歩いていった。真里の携帯電話が暢気な着信音を立てながら、ひとみを急き立てる。ひとみはそれをどうにか取ると耳に当てた。
「よっすぃ!」
梨華の嗚咽混じりの声であった。こういう状態で聞くと真里の言う不快さがよく分かる。ひとみは生返事をした。
「矢口さんが、矢口さんが‥…」
「矢口さんがどうしたの?」
梨華の狼狽ぶりにひとみは異常を感じた。
「‥矢口さんが‥殺られたのよ」
そこまで言うと梨華が完全に壊れたように泣き始めた。ひとみは一瞬真里と梨華が供託して騙しているのではないかと勘ぐった。
「どういう事よ。矢口さんが殺されたって。‥それ冗談でしょ」
ひとみは声を抑えながら梨華に事情を尋ねた。
- 277 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月20日(水)00時26分23秒
梨華が言うには真里らしき人物の遺体が台場の青海近くで見つかったらしい。かねてから真里は自分にもしもの事があった場合は全て梨華に連絡がいくようにしていた。警視庁から連絡を受けた梨華も半信半疑で、取りあえず遺体の確認をするため警視庁に行った。霊安室に横たわっていたのは紛れもなく真里であり、真里は静かにそこで眠っていた。
「全身が拳銃で撃たれてた。警察は殺人事件として捜査するって‥…」
「嘘でしょ。2人であたしのこと騙そうとして…」
「違うよ!本当に矢口さんだったの!顔だけは綺麗で、それで…すぐに矢口さんだって…」
「…嘘だ!昨日までここにいたんだぞ。昨日まであたしの看病をしてて、今朝だってお粥を作って、それで、それで……」
ひとみは涙に喉が詰まり、言葉が続けることができなかった。
「でも矢口さんだったんだよ!」
梨華も泣き声を荒げた。それでひとみは嫌なものでも払うように、電話を切った。それでも耳に残った梨華の声だけは消えない。
ひとみは力の抜けたように床にしゃがみ込んだ。携帯電話が再び鳴り始める。だがもう取る気もしなかった。ひとみは激しく嗚咽をしながら何度も床を痛みの残る両腕で打ち叩いた。
- 278 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月20日(水)00時27分27秒
真里の遺体の処理は梨華がした。この様な事態になった時のために生前から真里が全て梨華に指示をしておいたらしい。ひとみは真里の姿を見取ることはなかった。真里が死んだということを受け入れることができなかったし、それに身近な人間を失ったというショックからか高熱を出して寝込んでしまったのだ。
ひとみはその眠りの中で何度も悪夢に襲われた。全身に穴を開け、顔だけが妙に白く汚れのない真里が燦々の太陽の下に倒れている姿が浮かんでは消えていった。ひとみを恨みがましい目で見つめ、どこかもの悲しげなその表情はひとみを責めているようにも感じ取れた。
梨華は自分も衝撃を受けているはずであろうが、真里の事後処理を終えると仕事も休んでひとみに付き添ってくれた。ひとみが梨華に感謝の念を抱いたのは後にも先にもこの時だけである。やがてひとみの体力がどうにか回復をしてくると、梨華は頬痩けた弱々しい顔で励ましの言葉を掛けてくれた。
- 279 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月20日(水)00時28分43秒
「矢口さんはいつかこうなることが分かってたみたいだから、私に死んだ後のことを指示してたんだと思うよ。よっすぃの所為じゃないよ」
自分を責めているひとみに対して梨華は慰めてくれた。ひとみの心にはそれを受け入れる余裕がなく、口をついて出てくるのは自分を責める言葉と、梨華への不満不服の言葉だけであった。
「よっすぃなんて呼ばないでよ!‥私が悪いんだ。矢口さんとのルールを破ったからこんな事になって……。大体、梨華はどうして矢口さんを止めてくれなかったんだよ!」
後で聞いた話であるが真里は依頼で出掛けていたわけではなかったそうだ。だがこの時のひとみはそれが殉職死だと思い込んでいたため、一人で行かせたと梨華のことを責めた。梨華はそれに反論することなく、ひとみの糾弾を黙って聞いてくれた。
ひとみが真里の墓地を訪ねたのはそれから一週間後ぐらいであった。真里の指示らしく小さな石だけがどうにかそこに人が眠っていることを表していて、他には何もなかった。梨華が言うには、ここには一掬いの遺骨が埋められているそうだ。残りは粉々に砕いて、横浜の波止場から太平洋に流したそうだ。
- 280 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月20日(水)00時29分14秒
ひとみが大陸へと旅だったのはそれからすぐであった。梨華は必死に止めたが、すでに復讐を心に誓っていたひとみは自分を鍛え上げるために大陸へと向かうことにしていた。
ひとみは大陸で手当たり次第に依頼をこなしていった。いつも復讐の炎が燃えたぎり、それを踏み台としてひとみは強くなっていった。何時しかひとみの内には黒き闇が巣くうようになり、それが自分を強く成長させていってくれるように思えた。
ひとみが梨華に呼び戻されたのは半年ほどしてからのことである。真里やひとみがいなくなってから梨華は別の人間と仕事をしていたようだが、その相手が下手を打ったらしく、梨華が電話で泣きついてきたのだ。ひとみは梨華に一応の恩情があったため、日本へと戻って来た。
- 281 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月24日(日)23時57分30秒
随分と日が落ちてきて、より一層寒さが身に染みてきた。ひとみは重たくなった腰を上げると、目を細めて小さな石を見つめた。墓碑銘もないただの石。ここに自分の先輩は永劫の眠りについている。
「今度ここに来るときは、先輩の仇を討ったときにするからね。‥そしたらあたし‥銃を捨てるよ。今組んでる娘がいいって言ってくれたら、2人で静かに暮らしたいんだ」
ひとみは風になびく伸びてきた髪を押さえながら、やんわりとした口調で呟いた。
「あたしの半生って何だか復讐ばっかりだよね。それもこれで終わりにしたいな」
赤く染まる空では雲が凄いスピードで流されていく。星が微かに煌めき、東には赤々しい半月が不気味に登っている最中であった。枯れきった樹木にはカラスが数羽止まり、しゃがれた鳴き声をあげ、満足したのか大きな羽音を立てながら飛び立っていった。
「‥じゃあね」
ひとみはジャンパーに両手を突っ込むと、身体を丸めながら墓の前を離れていった。
- 282 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月24日(日)23時58分24秒
あさ美はビニールの買い物袋を2つぶら下げながら、ゆったりと道路を歩いた。おそらくひとみは夕食までには帰宅するだろ。あさ美は先ほど料理の本で繰り返し確認をした肉じゃがの作り方を反芻した。
自然と空に目をやると雲が朦々と沸き上がり、まるで異形の物を表しているかのようであった。あさ美は目をしばたたかせながら、雲に見入るように足を止めた。膝上のチェックのスカートが揺れる。風があさ美の剥き出しなった足をからかうように通り抜けていった。コートを掻き寄せるようにすると、あさ美は首をすくめた。
黄昏時を逢魔時ともいう。夜の帳が下りきる頃、人々はそこを魔の領域として認識していたのである。闇は妖魔の住む世界である。あさ美は自身も闇夜に巣くう妖魔と変わらないような気がした。なつみよりペルセポネーについて聞かされ、自分に中に息づく闇がいつ弾けるか恐々としていなければならないのだ。
あさ美は密やかに息を吐くと再び歩き始めた。横断歩道の電子音が遠くから響き、賑やかな街の喧噪が徐々に遠退いていく。自転車に乗った小学生たちが喋り立てながらあさ美の脇を通り抜けていった。
- 283 名前:第11話 過去に手向けの花束を 投稿日:2002年03月24日(日)23時59分21秒
マンション前であさ美の足は再び止まった。白い出来立ての壁に寄り掛かるように1人の女性が美味しそうに煙草を燻らせていた。裾の長いくすんだ薄茶色の外套からは黒いスラックスが覗いていて、随分待っていたのか時々身震いをした。髪を後ろでポニーに縛り、つまらなそうに煙草を口から落としてはそれを足で灰色の地面へと擦り付けていた。女性はあさ美の姿に気が付くと身体を壁から離し、顔に笑みを作った。
「久しぶり」
「…‥私に何か用ですか。鈴音さん」
あさ美の声は堅かった。
「ま、用がなきゃあなたの前に姿を見せたりはしないわね」
鈴音はのんびりとした口調で言いながら、煙草を取り出しくわえた。あさ美は周囲に気を払ってことに、鈴音は口元を歪めた。
「大丈夫だよ。愛は来てないから。今日はあなたと話し合いに来ただけだからさ。まぁ、こんな所じゃ寒いし」
鈴音が顎で示した方を見ると、そこには黒光りするリムジンが止まっていた。
「圭織があんたに会いたがってるよ」
鈴音は火をつけていない煙草を唇で弄びながら、先に立って歩きだした。右腕に下げていたビニール袋からジャガイモが転がり落ちたが、あさ美はそれを拾うこともなくリムジンの方へと向かった。
To be continued
- 284 名前:三文小説家 投稿日:2002年03月25日(月)00時10分46秒
- 長らく掛かりましたが、
ようやく第11話まで終わらせることができました。
さて、ここで皆さまに謝らなければなりません。
実はちょっとの間、お休みをいただこうと思います。
第12話「Cage(前編)」は
できているので掲載はできるのですが、
マンネリ化の打破と今後の展開の練り直しをしたいので、
少し間を置くことにしました。
大体一ヶ月程度を考えていますが、それ以上になることもあります。
ですが、書き始めた責任は果たすつもりですので、気長にお待ち下さい。
それではここまで読んで下された方々、どうもありがとうございました。
最後にショートカットのサービスもさせていただきます(w
- 285 名前:三文小説家 投稿日:2002年03月25日(月)00時12分45秒
- ショートカット
>>3-44 番外編「犯罪者は国境に逃げる」
>>48-97 第8話「闇より引く手(前編)」
>>103-170 第9話「闇より引く手(後編)」
>>178-228 第10話「雪の降る街で」
>>232-283 第11話「過去に手向けの花束を」
- 286 名前:名無し読者 投稿日:2002年03月25日(月)12時25分31秒
- 1ヶ月か…こんないいところで。
待ってるよ。
- 287 名前:名無し読者 投稿日:2002年04月03日(水)20時55分51秒
- 期待して待ってます。
- 288 名前:名無し読者 投稿日:2002年04月25日(木)01時33分40秒
- 同じく期待して待ってます。
- 289 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月03日(金)01時44分46秒
- お久しぶりです。
お待たせいたしました。
再更新をさせていただきます。
一ヶ月をちょい越えてしまって、申しわけないです。
今後もがんばっていきますので、
よろしくお願いします。
>>286
レスありがとうございます。
一ヶ月も待たせてしまって申しわけないです。
待っていただいて嬉しいです。
>>287
レスありがとうございます。
期待をしていただけるのは、書き手冥利に尽きます(w
>>288
レスありがとうございます。
お待たせいたしました。
これからも楽しんでいただければ幸いです。
それでは第12話「Cage(前編)」をお送りします。
- 290 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月03日(金)01時47分08秒
中澤祐子は割り箸を口にくわえながら、前の席で一心不乱にハヤシオムライスを頬張っている亜依を呆れたように見つめた。口の周りを煮込みスープで汚し、あちこちに飛び散っていた。祐子は亜依の食欲に少々げんなりしながら、自分の天麩羅うどんを顔をしかめながら啜った。汁が高級ブランド物の白色のスーツに飛び散らないように十分に気を使う。
「やっぱ関東のは濃いなぁ。薄味の方がうちのデリケートな舌に合うねん」
祐子は亜依に同意を求めるつもりで言ったのだが、亜依は無視をしているのか、それとも食べることに夢中なのか返事をくれなかった。祐子は口を尖らせて不機嫌そうにうどんをかきいれた。
- 291 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月03日(金)01時48分16秒
現在『デメテル』香港支部の総責任者である中澤祐子は、元々六本木でホステスとして働いていたところをつんくに拾ってもらった。その無謀な経営術と押しの強さで、つんくと共に『デメテル』を巨大化させた経営部門の一人者である。また、その豊かな人生経験は圭織たちからも一目を置かれており、頼りにされる存在でもあった。
先日東京のつんくから突然の呼び出しがあった。亜依を連れて早急に上京をしろという旨を聞いたとき、祐子は己の耳を疑った。ようやく落ち着きを持てるようになった亜依を再び日本に戻すことは危険ではないかと考えた。とはいえ最高責任者からの奏上である。取るものも取らずに祐子は亜依を連れて帰国することになった。
急な帰国ということで飛行機も羽田着でなく成田早朝着の安売り航空券であり、ファーストどころかビジネスにも入れず、エコノミーで亜依と狭い座席を肩で押し合いながらの旅であった。くたくたになりながらも上野まで出てきた。
するとそこで亜依が空腹を訴えた。つんくから極上の食事を存分に頂くつもりであったが、亜依は駄々っ子のようにごね、祐子は渋々ながら駅近くにあったレストランで遅めの昼食をとることになってしまったのだ。
- 292 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月03日(金)01時49分28秒
亜依は久々に日本へ戻ると聞くと表情が堅くなった。圭織からペルセポネーとして不必要の烙印を押され、挙げ句に海外へ休養と研修の名の下に左遷されたのだ。祐子もそれを察すると言葉はなかった。
圭織が言うには亜依は両親を早く失ったそうで、都内で窃盗などを重ねながら生活をしていたそうだ。それをどこで目をつけたのか圭織が引き連れてきた。そして亜依はペルセポネー実験の最初の被験者となった。そのころはなつみや鈴音も手探りであったため、目標とされた数値もはじき出せず、結局亜依は、ほんの些細なことで自分の感情のコントロールを失い、暴走状態が続く危険な人間へとなってしまった。
ちょうど香港へ移ることになっていた祐子は、圭織から亜依を連れていってほしいと頼み込んできた。子どもが嫌いな祐子は拒み続けたが、圭織の熱心な頼みにとうとう折れて、仕方無しにお荷物として亜依を引き取ることにしてしまった。
亜依は想像以上に破壊欲に取り憑かれた少女であった。まるで幼児が癇癪を起こすように、銃を持ちさえすればすぐに撃ち、そうでなくとも気に障ることがあれば、体術で相手をのした。
- 293 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月03日(金)01時50分59秒
最初のうちは慣れない土地のこともあって、お互いに衝突を重ねていたが、そういうことを面倒とする祐子はすぐに飽きた。自分の仕事を邪魔しない程度であれば、亜依に多少のわがままを許した。するとかまってもらえないことがつまらないのか徐々に亜依は落ち着いてきた。
祐子は亜依を容姿も良いのでカジノのディーラーにでもしようかと考えていたのだが、彼女は勝手に用心棒まがいのことを始めた。元々実力のある亜依は信者や現地人の用心棒よりも有能な存在になっていった。そのため祐子も亜依の勝手な行動に目を瞑ることにしたのだ。
亜依の暴走は徐々に目につかなくなってきた。つい近頃で一番ひどかったのが秋口に来た2人の客への暴走であった。1人は祐子も恨みがあってギャンブル代を踏み倒した上に、カジノ船で好き放題やっていった。もう1人は亜依が個人的に知っていたらしく執拗に狙っていた。おかげで客を何人か撃ってしまいそれの処理に追われた(ババァとも言ったので特別丁寧に教育を行ったが)。
あの時は祐子には本当にいいことはなかった。
- 294 名前:3105 投稿日:2002年05月03日(金)12時46分32秒
- おーっ!ついに再開しましたね。
めっちゃ楽しみにしてました!
おかえりなさいです。
- 295 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月04日(土)01時29分56秒
- おかえりなさいませ。
復活、嬉しい限りです。
- 296 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月04日(土)02時09分38秒
>>294
3105さん、レスありがとうございます。
そう言ってくれるだけで、感激の極みです。
今後も頑張らせていただきます。
>>295
くわばら。さん、レスありがとうございます。
帰ってまいりました(w
どうぞこれからもよろしくお願いします。
- 297 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月04日(土)02時12分19秒
「なぁ、そんなにそれ美味いんか?」
祐子は食事に熱心な亜依につまらなそうに尋ねた。亜依はちらりと視線を上げたが、無言で食事を続けた。それに祐子は気を損ねたらしく、割り箸でオムライスの端を削って口に持っていった。半熟の卵が口の中でとろけ、僅かに苦みのあるソースが広がった。
「ああっ、うちがええって言ってないのに勝手に取ったぁ」
亜依が膨れっ面を非難がましく祐子に見せる。
「ええやないの。どうせ誰かの腹に入るもんやったんだから」
祐子が再び箸を伸ばそうとすると、亜依は睨みながらその手を叩いた。
「中澤さんはそっちがええって言って頼んだんやないの。ああぁ、うちの昼食が中澤さんの邪気に侵されてしもうた。勝手に取ったら泥棒やで。おまわりさぁん。泥棒が‥むぐっ」
突然亜依が大声を出し始めたので、慌てたように祐子は口を塞いだ。周囲が何事かと2人に目を向けきたため、祐子は愛想笑いで誤魔化した。
「あほぅ、大声出すほどのもんやないやろ。うちはほんのちょびっと食べただけやないの。そんなに大騒ぎなんかすんな。大体、邪気ってなんやねん」
- 298 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月04日(土)02時13分25秒
「ほんなら、もうひとつ頼んでもええ?さもなきゃ騒ぐで」
亜依の口は祐子の手から脱出するとにんまりと笑顔を作った。祐子は亜依の大食漢ぶりに溜息を吐くと、亜依は了承と見取ったらしく、手を上げて給士を呼んだ。祐子はもう一度深く息を吐き出し、自分のうどんを片づけた。
店内は下町風の女性たちが止まることなく動き回っていた。休日であるためか子ども連れが多く、店内は騒がしかった。あちこちから上野公園での話題が飛び交い、大人たちは子どもたちの無邪気さに振り回されていた。祐子はそんな様子を横目で見ながら、鼻をならした。
「せやからガキは嫌いやねん」
祐子は誰に言うでもなく呟くと、最後の汁を飲んだ。喉に染みつくような濃いうどん汁が胃へと落ちていった。そんなガキ嫌いが何故亜依を預かってしまったのか、祐子は今でもよく分からなかった。圭織からの願いを頑として突っぱねてしまってもよかったのだが、もしかすると亜依の境遇に自分を照らし合わせてしまっていたのかもしれない。
祐子は溜息を吐きながら、静かに器を置いた。
- 299 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月04日(土)02時14分41秒
向かい合わせに座っている亜依はフォークをくわえて、先ほどまでの元気の良さはどこかに鳴りをひそめ、どこか視点の定まらない目で辺りの様子を見ていた。 祐子は背もたれに腕を掛けながら、亜依の視線を辿って後ろを向いた。
「ほら希美、中学生なんだからそんなに行儀悪くちゃ駄目じゃない」
髪をツインテイルに縛り、ふっくら顔つきのオーバーオールを着込んだ少女が、母親に口元を拭ってもらっている。希美と呼ばれた少女は一向に気にかけた風もなく、ただ目の前にあるお膳に必死に取り組んでいた。その姿は亜依ともよく似ていた。
「今日は晴れてよかったねぇ」
急に食事が止まると希美と呼ばれた少女は対面の母親ににこやかに笑った。母親が頷いて返すと、希美は汚れたままの口端を持ち上げて、
「ののはパンダが見たぁい。お母さんは何が見たい?」
愛らしく垂れた細い目をますます細めて楽しそうに訪ねた。
祐子は納得をしたように亜依の方へ顔を向けると、亜依はフォークで皿の上のオムライスを弄っていた。
- 300 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月04日(土)02時15分40秒
「仲睦まじい家族の光景やなぁ。…なんや、羨ましいいんか、…動物園?」
真意は分かっているのだが、祐子はからかうように亜依の額をつついた。亜依はぷいと顔を背けると、吐き捨てるように答えた。
「羨ましいわけなんてあらへん。うちを誰やと思ってるん?今更、動物園やなんて、ガキやあるまいし」
「へぇ、そんなら何でそんな顔しとるんや?無鉄砲な亜依でもそないな顔なんてできたんやなぁ。可愛らしい」
「ば、ばっかやっないの。可愛いなんて言うな。うちはガキやあらへん。あんな鈍くさそうで小便臭そうなガキと一緒にされたらこっちがいい迷惑や」
亜依は顔を赤く染めながら、ますますムキになって言い返してきた。
「そやなぁ。今日は天気もええし、久々の日本やし、息抜きでもしてからつんくさん所に行こうかな」
祐子は突然の思いつきににんまりと笑った。
「大陸にいてもパンダなんて見たことなかったし、上野動物園の見せ物ちゅうたらパンダやろ。東京の動物園なんて来たこともなかったしなぁ。どや、うちと動物園でも行くか?」
亜依はきょとんとした顔で祐子を見つめたが、祐子の思惑を知ったようで鼻で笑った。
- 301 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月04日(土)02時18分26秒
「おばちゃんがええ年して動物園なんてキショイこと言ってるわ。いっとくけどなぁ、うちは別に動物園なんて行きとうないんやからな。大体つんくさんから呼ばれてるんやろ。寄り道なんかして怒られてもうちはしらんで」
「つんくさんには急に呼び出されたんや。飛行機に間にあわへんこともあるやろ。まぁ、亜依が行きとうないんやら、うちは1人でゆっくりさせてもらうで。あんたは早々につんくさんの所へ行けばええ。…1人で行けるんならな」
祐子がにやりと笑い、亜依は言葉に詰まったように、口をへの字にした。東京に不慣れな亜依ならば、在らぬ方へと迷ってしまうことは想像しやすい。亜依はますます不機嫌そうに顔を背けながら唇を尖らせた。
祐子は懐から使い慣れた長パイプを取り出すと、口にくわえて火を落とした。外に目をやるとちょうど山手線が上野駅に滑りこんでいる最中で、鉄橋下の交差点では休日を楽しむ人々のざわつきで埋まっていた。
- 302 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月04日(土)02時19分52秒
「……その動物園ってキリンはおるん?」
亜依がぼそりと尋ねてきた。下を俯き、指先をもじもじと擦り合わせている。
「‥おるんやないの?動物園やしな」
祐子は唇を丸めて煙を吐き出した。円形の白煙がゆるゆると天上に昇り、広がり消えていった。
「……ほんなら‥付き合ってやってもええで。おばちゃんの楽しみにな」
憮然としながら小声でもごもごと亜依は言うと、残ったオムライスを口に頬張りだした。
「‥引っかかる言い方だけど、まぁええか。…せやけどな、亜依…」
祐子は身を乗り出して、亜依の頭に手を乗せた。亜依は目線をあげてにこやかに微笑む祐子を見た。
「‥うちはおばちゃんやないやろ!ちゃんとオネーサンって呼べって何度言わせるんや!」
亜依の頭に堅い拳が落ちた。
- 303 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月05日(日)02時09分27秒
つんくは苛立ったように樫の机を人差し指で叩き続けた。肩肘を付いてそれに頭を乗せているが、顔は明らかに不機嫌で、眉間に深い皺が寄っている。
「日本に着いたら連絡せえ言ったよなぁ。俺が迎えの車を出すから。せやけど、連絡はしてこんわ、挙げ句に夕刻突然の訪問とは随分偉くなったもんやな。おかげで議員との会食、ひとつ潰してもうたわ」
つんくは身を大きく反らせると、背後の背もたれに身を任せた。祐子と亜依は顔ではまずそうな表情を作っているものも、時折口をもぐもぐと動かしては何か言葉を転がしている。そんな2人につんくは鼻を鳴らした。
「済みません。亜依がどうしても動物園へ行きたいとごねたもので‥」
祐子が申し訳なさそうに言った。亜依が目を見開いて祐子を見た。祐子は素知らぬ顔でちろりと舌を出す。
- 304 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月05日(日)02時10分41秒
「ずるっ。そやありません。この三十路手前のおばちゃんが年甲斐もなく動物園ではしゃいでたんですよぉ」
「亜依ちゃ〜ん。おばちゃん言うなって言ったやろ。オネーサンやって何度言えばこの口は分かるんかい!しかも三十路やて。一番言っちゃあいけない言葉を言いおって」
祐子が鋭い目つきで亜依を見ると、亜依の両頬をつまんで引っ張った。亜依も負けておらず、小さい背で祐子に反抗しようと駄々をこねるように両腕を振り回した。
「分かったからもうええ!」
つんくは呆れ果てたように深々と溜息を吐いた。2人の動きが止まる。祐子は亜依の頬から手を離すと、乱れた裾を直し、亜依を睨みながら咳払いをした。亜依は唇を尖らせ、不満そうにしている。
「今回は急な呼び出しやったし、久々の日本で羽目を外したくなった気持ちは分かる。せやけどな、俺がどれだけ待ちわびていたかも知っておいてほしいんや」
つんくは勢いをつけて身を乗り出すと、両肘を机に付いた。そして組んだ指の上に顎を乗せた。
- 305 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月05日(日)02時11分52秒
「元気やったか?亜依」
突然名指しされて亜依は困惑したように眉をひそめた。無言で亜依が頷くと、つんくは満足をしたように2人に座るように勧めた。祐子と亜依は黒革のソファーに腰を下ろした。するとつんくも机から離れて2人の前に座った。きゅっと皮が音を立てる。亜依は座り心地悪そうに二度三度立っては座り直した。
つんくが外に声を掛けるとアヤカが室内に入ってきて硝子板のテーブルにコーヒーと茶請けを置いた。それが終わるとアヤカはそつなく一礼をして静かに部屋を出ていった。
「中澤、香港はどないや。ずいぶん手広く儲けてるそうやないか」
つんくはテーブルの上にあった鈍く銀色に光るシュガレットケースから葉巻を取り出した。
「毎月報告している通りです。うちの儲けなんてそんなありませんよ」
亜依が隣で微かに笑った。余計なことを言ったらすぐに亜依の口を抓るつもりで祐子は睨め付けた。
「まぁ、よくやっとるみたいやからなぁ。多少ボーナスでも出さなあかんかなぁなんて思ってるんや。よく働くもんにはそれなりに手当を与えな割にあわへんもんなぁ」
- 306 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月05日(日)02時12分44秒
つんくは葉巻に火を灯すことなく唇でそれを弄んだ。煙を出していなくても葉巻の強烈な匂いが祐子の鼻をくすぐり、祐子はもぞつく鼻を落ち着かせようと顔をしかめた。
「‥それは…‥喜んでええんですか‥」
祐子はサングラスの奥で笑っていないつんくの目を見ながら言った。このケチな最高指導者が金の話をするときは、大概腹に何かを持っているときである。祐子は疑惑に満ちた目でつんくを見た。亜依が苦そうにコーヒーを啜ると、茶請けに入ったチョコレートに手を伸ばした。
「何や、嬉しくないんか?」
「そんなことだけに、うちらを香港から呼び寄せたりはせえへんでしょ」
「俺は随分野心家のように見られてるようやな。残念やけど、中澤はそのためだけに日本に来てもらったんや」
にやにやしたつんくは懐から小切手と万年筆を引き出すと、考える様子もなく金額を素早く書き込んだ。祐子がそれを受け取ると亜依も興味深そうに覗き込んできた。
- 307 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月05日(日)02時13分41秒
「…3億」
祐子はしげしげと小切手を見つめ、それからつんくへと視線を送る。つんくは特に大したことを感じでもなく、葉巻に火を付け、深々と煙を吸い込む。
「それでも少ないと思うなら、もう一枚切ってもええで」
溢れ出るようにつんくの口鼻からは煙が漏れてくる。唖然としていた亜依がくしゅりと小さくくしゃみをした。それから煙たそうに目を擦る。再び祐子の手元の小切手に目をやって、確認するようにまばたきを繰り返していた。
「…うち、そんなに働いてないですよ」
祐子はコーヒーに口をつけた。唇とカップを持つ手が微かに震えている。祐子は手を叱りつけるように、力を入れた。普段気丈に振る舞っている者がまさか3億で気分が参ってしまっているなどと思われたくなかった。
「貰えるもんは遠慮なくもらうのが礼儀っちゅうもんやろ。どや気に入ったか?」
つんくは祐子の動揺ぶりを見取ったのか可笑しそうに、葉巻を灰皿に置いた。祐子は取りあえず小切手をテーブルの上に置いて、張り付くような喉の渇きを癒そうとコーヒーを飲んだ。ほろ苦くどろりとした液体が喉を下りていく。
- 308 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月05日(日)02時40分35秒
- つんくのモクロミは何なんでしょうか。。。
- 309 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月06日(月)01時14分24秒
- >>308
くわばら。さん、レスありがとうございます。
そうですねぇ。つんく氏は引っ掻き回し役なんで(w
今後も色々と画策してくれる様子です。
- 310 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月06日(月)01時15分58秒
「さて、お次は亜依やな。お前は…どうや、日本に戻って来いへんか」
つんくの言葉に亜依がぱっと顔を上げた。表情が輝いている。つんくは脈ありと見たのか、まるで父親のような笑みで亜依を楽しげに眺めている。
祐子はカップの淵を指で擦り口紅の跡を消すとそれをテーブルに戻した。ようやくつんくの召還の目的が読めてきて、祐子は眼前に置かれた小切手を見た。
「亜依も寂しいやろ。香港だなんて遠方の地で用心棒をやっとるなんて。そこでや、今回特別に俺がお前を呼び戻したろ思ってな」
「‥ほんまに……ほんまにうちを日本に戻してくれるんですか!」
亜依が食らいつくように身を乗り出した。亜依が日本に戻りたがっていたことは周知の事実である。
- 311 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月06日(月)01時17分52秒
「そもそもな、俺はお前みたいな優秀なペルセポネーを海外に持っていくことは反対やったんや。せやけどな、飯田のヤツがお前は役に立ちそうもないからって言いおってな。けど、お前の香港での活躍はいつも中澤から聞いてるで」
つんくは顎で祐子を指した。亜依も祐子の顔を見上げてくる。その顔には意外そうな表情があった。祐子は黄金色の髪を掻き上げると、ぷいと顔を背けた。
「うちはあったことをそのまま報告してるだけです。特に優秀とも何とも言ったことはありませんよ」祐子の言葉につんくは苦笑をしながら、亜依の方を見た。
「柄にもなく照れとるんやろ。とにかく俺は亜依の報告をいつも楽しみにしとってな。せやけど飯田のヤツが一向に呼び戻そうとせんから、代わりに俺が面倒を見てやろうって思ったんや。どうや、戻ってくる気があるんやろ?」
「も、もちろんです!…でも……」
亜依がちらりと祐子の方を見た。何かを待っているように思えた。祐子は横目で亜依を睨み付けながらコーヒーカップに手を伸ばした。取る瞬間に、わざとらしくつんくが咳払いをした。祐子はちらりとつんくの方を見やって、コーヒーカップを手に取った。
- 312 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月06日(月)01時18分54秒
「‥なんや、そんな顔して。よかったやないの。あんた、ずっとこっちに戻ってきたかったんやろ。せっかくつんくさんから呼び戻してくれる言うてるんやから、ありがたく聞けばええやないの」
祐子は口元に引きつりを感じながらも、笑顔で返した。これほどの笑顔を浮かべられるとは随分の役者だ。
「…そうやけど」
亜依の言葉が濁った。祐子の心に苛々が募ってきた。
そもそも祐子と亜依との関係はそんなお友達感覚のものではない。お互いに馴れ合うことが苦手で、常に一定の距離を取ってきたつもりである。それがこれほどまでに悲しげに俯き、少女のようにもじもじとしている亜依の様はどうだろう。いつものように破天荒に銃を振り回して、遊ぶように人を撃っている亜依からは想像もつかない姿だった。
祐子にはそれがもどかしくもあり、驚きでもあった。そして自分の口から今にも引き留めようとする言葉が飛び出てきそうになって、何度も言葉を飲み下した。
- 313 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月06日(月)01時19分45秒
「‥あんた、うちのことを勘違いしとるんやないの?うちはあんたのことなんかどうとも思うてへんよ。うちがあんたのことを止めるとか期待しとるんなら、それは間違いやで。あんたはつんくさんに呼ばれた。ほんならその言うことを聞けばええんよ」
最後の科白は自身に向けられたもののようにも思えた。祐子は亜依の何かを求める目を振り切りように小切手を握り取ると、急いで席を立った。強引に小切手をハンドバックに押し込む。
「おお、もう帰るんか。ご苦労やったんな。近くのホテルを取ってあるから、今日はそこで一泊せえ。今、アヤカに命じてハイヤー呼ばせるからな。明日の飛行機のチケットはこっちで手配とく。これからもよろしく頼むでぇ」
つんくが満足げに葉巻を潰し、祐子を見上げてきた。祐子はつんくを見るが、その目が厳しかったためかつんくが苦笑をしている。亜依が何か言いたそうに口を半開きにしているが、言葉が見つからないのか、虚ろげに顔を下ろした。祐子は舌打ちをすると、つんくに頭を下げた。
- 314 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月06日(月)01時20分31秒
「あ〜あ、これでやっと清々するわ。ようやくガキのお守りから開放されたんやからなぁ。その上、金も手に入って万々歳や」
祐子は部屋を出るとき亜依を見下すように言葉を投げかけた。亜依も慌てたように顔を上げて、それから強張った笑みを浮かべた。だが、ふとするとすぐに不機嫌そうな表情に変わってしまう。
「う、うちかて、ようやくおばちゃんから離れられて嬉しいわぁ。香港でもう扱き使われなくても済むしな。便所の掃除かてしなくてええもん。それになぁ……」
祐子は重々しい扉を後ろ手に閉めた。亜依の言葉が分厚い扉に遮られて途切れる。扉の向こうでは亜依がまだ不平不満を言い続けているようだ。
「…ほんま清々するわ」
祐子は扉に寄り掛かるとそっと息を吐いた。
- 315 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月08日(水)02時27分29秒
- もう裕ちゃんは出てこないのかな?
- 316 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月09日(木)00時26分55秒
- >>315
くわばら。さん、レスありがとうございます。
書き手冥利に尽きます。今後も楽しんで下さい。
中澤嬢はとっても大切な役割が…、とこれ以上は秘密です(w
- 317 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月09日(木)00時29分09秒
祐子は気の抜けたように一階のロビーで、ソファーに座りながら長パイプを吹かし続けた。退屈を紛らわすように口を細めると円形の煙が立ち上り、やがて消えていく。それをぼんやりと目で追いながら、祐子はソファーにもたれ掛かる。高い灰色の天井には豪華なシャンデリアがぶら下がり、眩く散らばる光を放っていた。
全面硝子張りの窓からは、夕闇が迫ってきているのか、星が微かに光を放ち始め、赤と黒とが層になりながらひとつへ交じっている光景が見える。白く輝く月には兎のような染みを浮かび上がり、自らの時のために上昇してきて、それを邪魔するかのようにカラスが二羽横切っていった。人々は家路を急ぐためかクラクションが耳障りなほどに響き続けている。
祐子は何度目かも忘れるほどの溜息を吐くと、物憂げに硝子窓に視線を移した。つんくにただ小切手を渡されるためだけに、香港からわざわざ呼ばれたことは腹立たしかった。だがそれ以上に喩えようのない苛立ちが胸の奥でざわついていた。祐子は舌打ちをすると、パイプの火を灰皿に落とした。
- 318 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月09日(木)00時31分23秒
祐子の側に誰かが立つ気配があった。祐子が顔を上げるとそこには懐かしい顔がにこやかな微笑みを浮かべて立っていた。
「こんにちわ、祐ちゃん。香港から帰ってきてたそうね」
「つんくさんのお呼びや。面倒やったけど仕方あらへん。これも仕事のうち。それよりも圭織は元気にしてたんか?」
祐子は少々引きつりながらも笑った。
「元気にしてるよ。祐ちゃんも元気そうでなによりだね」
圭織が祐子の横に腰を下ろす。相変わらずの白色のゆったりとしたローブに、祐子は時代錯誤を感じてしまう。祐子は腰をどかして圭織を迎え入れると、久々の友人の顔を観察する。
「どうかしたの?」
そんな祐子の視線に圭織は微笑んだまま、小首を傾げた。そっと長い髪を掻き上げると隠れていた白く華奢なうなじが姿を現し、甘い匂いが漂ってくる。
「うん?いや、相変わらずやなぁって思ってな。その憎たらしいほどの笑顔……」
祐子はからかいのつもりで言ったのだが、圭織は困惑したように顔をしかめた。
- 319 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月09日(木)00時32分15秒
「‥悪い。今のは言ったらあかんかったな」
「ううん。いいのよ。私はもう気にしてないから」
圭織の表情は再び元のように戻っていく。祐子はほっとしたように、指先でパイプ口を弄くった。先ほどまでの熱が残っており、祐子の指先をほんのりと温めた。
「香港ではどうなの?」
数分の沈黙の後、圭織は自分の足下を見ながら話題を切り出した。祐子はパイプをしまい込むと、軽くかぶりを振った。
「それはうちの仕事のことか?それとも亜依のことか?」
圭織は祐子の言葉に吹き出すと、軽い調子で両方だと答えた。祐子もすぐににんまりと笑うと、パイプを口にくわえた。
「香港はええところや。こっちみたいに騒がしくないし、好き勝手にやれる。なにせ誰の目もないからなぁ。うちは日本に戻れ言われるほうが辛いわ」
祐子は乾燥した煙草を取り出すと、それをパイプ先に落として、それから火を入れた。すぐに濁った煙が立ち上る。
- 320 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月09日(木)00時32分58秒
「亜依ものびのびやってたみたいやで。ま、最初は圭織に飛ばされたことを恨んでたみたいやけどな。少なくとも日本にいるよりは良かったと思う。亜依に言ったら怒られそうやけど、圭織の判断は間違いなかったんやないの」
「そう。そう言ってもらえると私も嬉しいよ」
祐子の前であると圭織の口調も砕けたものになる。普段は大人びた調子で大勢の信者の前に立っているだけに、年相応の愛らしい圭織が祐子は好きである。圭織も甘えた表情を見せることから祐子のことを信頼していることは察せられる。
祐子は口から煙を出すと、肩をすくめた。
- 321 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月09日(木)02時09分40秒
- 更新ご苦労様です。
もしかして、動物園に行きたがってたのは、
あのストリートチルドレンだった希美ですか?
- 322 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月09日(木)11時32分02秒
- 強がってる姐さん&亜衣がツボ(w
圭織と姐さんのやり取り・・・先が気になる。
祐子→裕子の間違いでは・・・
- 323 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月10日(金)01時26分50秒
- >>321
くわばら。さん、レスありがとうございます。
その通りです。
やはり辻加護のコンビで接点が無いのは
と思って用意をしました。
実はそれ以上に深い意味も持っているのですが…
今は多く語るを控えさせていただきますね(w
>>322
レス、それに指摘ありがとうございます。
まさに最悪のミス!
人の名前だけは間違えないようにと注意をしていただけに…
今後このようなことが無いように気を付けたく思います。
- 324 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月10日(金)01時28分34秒
「せやかて、急に亜依をこっちに戻して仕事をさせるのはどうかと思うで。あの娘は今一番落ちついとるんや。向こうじゃ無理な仕事はさせんかったからな。こっちは違うやろ?あの娘を無理に使うことにはうちは反対するで」
圭織の表情が曇った。裕子から目線をずらすと、思案するように瞼を閉じる。
「そういうこと。急に裕ちゃんが帰ってきてたから何事かと思ったけど…。…そういうことね」
「…あんた、知らんかったんか。ほんなら、あんたとつんくさんが仲違いしてるっていう噂もまんざら嘘じゃなさそうやな」
「仲違い?それは違うわよ。つんくさんが勝手に私のことを邪険にしているだけ。あえて言えば…思念の違いかな?人間同じ考えで行動ができることなんて少ないよ」
圭織が言ってから可笑しそうに口元を緩めた。
「ま、うちはあんたたちが何をしようとしてるのか関係あらへん。うちはうちの生活が安泰ならええんやしな。…せやけどな」
裕子は言葉を切った。圭織を見やると、圭織はにこやかに笑みを浮かべていた。まるで先を見通されているようで気分が悪く、裕子は舌打ちをした。
- 325 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月10日(金)01時29分41秒
「亜依まで巻き込むのはうちとしては口出しせなあかん。うちは亜依を圭織から任せられたし、その時点で亜依はうちのもんや。それを勝手にあんたらの喧嘩に持ち出されるのはうちとしてはメンツを踏みにじられたようなもんやで」
裕子は自分の言葉を再考してみて、急に恥ずかしくなった。まるで亜依を惜しんで手放すことを拒んでいるように聞こえる。
圭織がまじまじと裕子の顔を覗き込んできた。
「変わったね。人よりも自分のことが一番だった祐ちゃんが、亜依のことにムキなるなんて」
「うちはムキになってなってへん。ただ…ただな、うちはうちのもんを勝手に使われるんが嫌なだけや。言っとくけどなぁ、亜依のことをお払い箱にしておいて、今更何に必要なんか知らんけど、呼び戻すのは虫が良すぎるんやないんか」
「そういうことはつんくさんに言ってね。私は亜依を裕ちゃんに任せたわ。私はペルセポネーを私心で使用するつもりはないもの。つんくさんのお金儲けのために亜依を使われるのが嫌ならば、裕ちゃん自身が動くべきじゃないかしら」
圭織の言葉が強いものへとなる。親しみは消え去り、冷たく突き放す感がある。
裕子はパイプを灰皿に向けて逆さにした。
- 326 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月10日(金)01時31分00秒
「…あんたはまだ続けるつもりなんか?身内のもんまで殺っといて、それでもあんたが言う理想郷を作るべきなんか?」
斜陽が裕子の頬を照らした。温もりが肌を滑り、光が目を突いた。裕子は眩しげに瞼を下ろした。裕子が香港に発った後、すぐに裕子がスカウトしてきた者が殺害された。たとえ同じ目的を持っていても、圭織の言う『思念の違い』で殺されてしまってはたまったものではない。
圭織からは返事がなかった。彼女はじっと前を向いたまま、何を考えているのか表情はまったく普段と変わりのないものであった。
「うちはにはな、圭織の言うこともよう分かる。うちもそれなりに辛酸嘗めてきたからな。社会は強者が支配して、弱者が己の頭上にある重石を恨みながらも、何もすることができない。何もさせてもらえへんわな。せやけどな、だからといって誰もそれに対抗せんやない。その仕組みにいつの間にか組み込まれて、抵抗することでさえ鬱陶しいと思っている。弱い連中らは食い散らかされた残骸にありついて満足しとるやないの。結局この世は弱肉強食ちゅうことや。それを誰もが知らんうちに、受け入れとるんやろ」
- 327 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月10日(金)01時32分09秒
裕子は言葉を切って、ちらりと圭織を見やった。圭織からは何の反応もなく、じっと裕子の言葉に耳を傾けているような様子であった。
「あんたがそれに嫌悪を持って、ひっくり返したい思う気持ちもわからんわけやない。せやけどな、あんたの都合で人を殺めていいんか?亜依とかを道具のように使用してあんたが言う理想郷が完成するんか?結局支配者が変えるだけやないか」
「裕ちゃん。私は全てを変えるつもりはないのよ。仕組みも根本から崩すことはないもの。だけどね、私欲者たちには誰かが裁きを下さなければならないの。それは誰かのためじゃない。私が気付いたゴミを掃除するだけのことなのよ。ペルセポネーはそのための掃除道具なのよ。信者たちはただ私に同調して、言葉の上だけで満足してるだけ」
「だけどな、亜依とかを犠牲に…」
「人の夢はね、大勢の屍の上にしか築けないの。犠牲はつきものなのよ。亜依やその他のペルセポネーたちを犠牲にしてしまうことは心苦しいけれども、彼女たちも分かってくれるわ。この汚れきった世界を浄化することの意味を」
- 328 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月10日(金)01時32分43秒
圭織に大きな瞳には強い力があった。裕子は首を左右に振ると、諦めたようにパイプをしまい込んだ。ちょうど表に良く磨かれた黒いハイヤーが止まり、中から運転手が下りてくる。裕子の姿を見つけると深々と頭を下げた。裕子は深く息を吐くと、手を上げて合図をした。荷物をまとめると裕子は腰を上げた。
「あんたはもう引く気がないんやな」
裕子の問いに圭織はにこりと微笑んだ。普段の笑みだが、圭織の目は常に笑っていなかった。圭織はにこやかな表情にいつも自分の心を隠している。それは自信の表れと、誰にも追随させない自分の道の確かさを秘めたものなのかもしれない。裕子は背筋にぞくりと寒気を感じた。
- 329 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月10日(金)01時33分51秒
「これだけは言っとく。亜依はうちのもんや。あんたがうちにくれたもんやからな。あんたにしてもつんくさんにしても勝手にされたら困る。うちにもうちの考え方があるんやからな」
「いいよ。そういう裕ちゃんに、私は亜依をあなたに預けたんだから」
圭織は全てを見通したようなことを言った。裕子は眉をひそめる。
「…あんたにとっちゃ誰も彼も駒なんやな」
裕子はぼそりと呟くと、寒空の下に止まるハイヤーへと肩をすくめて歩いて行った。後に残された圭織は笑顔の仮面を張り付けたまま、席を立った。
- 330 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月13日(月)00時13分02秒
ひとみは訝しげに首を捻りながら、鍵を回した。ガチャリと鍵の外れた音がして、ひとみは中を覗き込むように入っていく。室内は明かりがついておらず、夕闇が辺りを覆い始めたため、深い闇が広がっていた。
「ただいま」
ひとみは聞こえるように声を出しながら、靴を脱いだ。スリッパも履かずにリビングに入ると、手探りで電灯のスイッチをつける。一瞬でぱっと黄色い光が散らばり、室内を明るく照らしつける。ひとみはバイクの鍵をテーブルに放ると、人の気配が無いかを確認する。
カーテンが引かれていないため、室内はひんやりとしている。丁寧に掃除がされた跡があり、塵1つ見つけることは難しいだろう。ひとみは頭を掻きながら、台所に向かった。そこにも人影は無く、北側に設置された台所はすでに暗闇に支配されていた。ひとみはコンロに置かれた小さな鍋を覗いてみるも、きれいに洗われ、中には何も入っていなかった。
- 331 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月13日(月)00時14分26秒
ひとみは取りあえずジャケットを脱ぐと、ソファーに腰を下ろした。テーブルの上には携帯電話が置かれたままになっていて、着信履歴を確認してみると梨華の名前が連なっていた。ひとみは嫌な顔をすると、それを同じ場所に乱暴に戻した。
「…買い物…にしちゃ、遅すぎるよね」
今日は遅くなるつもりがなかったため、夕食はあさ美が用意をしておいてくれることになっていた。国道が渋滞したためひとみも帰ってくるのが遅くなってしまったが、それにしてもこれほど遅い時間にあさ美がどのような用で家を空けているのかが気に掛かった。
そのとき携帯電話がけたたましい電子音を鳴らした。ひとみは急いでそれを手に取るも見知った番号で落胆をした。ひとみは渋々それを耳に当てる。
「はろ〜、ようやく出てくれたね。今日はどっか出掛けてたんだって?んもう、そういうときでもちゃんと携帯電話持っていってよ。おかげであさ美ちゃんとしたくもない会話しちゃったじゃない。梨華、ちょっとブルー…」
「あんたとしたくもない電話で気分を悪くするのが嫌だから、あさ美に電話番をしてもらってたの」
- 332 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月13日(月)00時15分22秒
「またまたぁ、そんなこと言って梨華のことをイジメるんだから。ひとみちゃんも結構なサディストね。うふ」
「切るよ。あたしは今あんたの下らない冗談に付き合ってられるほど気分的に余裕がないからね」
ひとみはふつふつと沸き上がる怒りを抑えながら言った。一方自分の世界を展開した梨華は気にかけた様子もなく世迷い言を相変わらず電話口で口走っている。
「…こいつ…聞いてない」
ひとみは怒りに肩を震わせながら電話を切ろうとした。するとそれを察したのか梨華が不気味な笑い声をあげた。
「切るの?この間頼まれた事がようやく調べついたんだけどなぁ」
「何か分かったの」
ひとみは電話にかじり付いた。
「もっちろん。私のこと誰だと思ってるの?私にかかればどんな情報だってイチコロよ」
「それで‥」
「あっと、ひとみちゃん。ここから先は残念だけどタダってわけにいかないの。いくら私が有能でプリティーな情報屋だからって言っても、無料で情報を流しちゃお天道様に怒られちゃうもん」
梨華の甲高い笑い声が響く。ひとみは頭が痛くなってきた。
- 333 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月13日(月)00時16分27秒
「プリティーって…。…どうしてもらいたいわけ?」
「う〜ん。ひとみちゃんは私の大事な人だからなぁ。本当はタダでもいいんだけど…。あっ、ねぇ、旅行行かない?ふ・た・りで。うふ」
「…二人で……。あのさ、あさ美も一緒じゃダメ?」
「あ、じゃあ、いいんだ。せっかくひとみちゃんのために調べたのに…。残念だなぁ」
梨華がふふんと鼻を鳴らした。ひとみは言葉を飲み込み、言葉に詰まる。
「……わ、分かった。その代わり一泊だからね。あ、あと部屋は別々に……」
ひとみは自分の身の最大限の安全を確保するためにできる限りの条件を提示する。
「えー、それは無理だよ。それじゃ機内で終わっちゃうじゃん」
「ちょ、ちょっと何で飛行機なんて…。国内じゃないの?」
- 334 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月13日(月)00時17分21秒
「だってぇ、梨華、ラスベガスに行きたいんだもん。スロットで億万長者になって名前を残したいんだもん。それにひとみちゃんと二人っきりで高級ホテルに宿泊したいんだもん。駄目ぇ?」
まるで子どものような甘える口調で梨華が聞いてきた。ひとみの脳で血管が切れそうなり、電話を床に叩きつけたくなった。口端が引きつって、顔面が硬直しそうである。
「あ、ねぇ、ついでからだから性転換手術もしちゃう?ほんとはひとみちゃんに転換してもらいたいんだけど、私がしてもいいよ。日本よりあっちの方が安いし、安全だって聞いてるから、立派な……」
梨華が嬉しそうに戯言を続けた。同時にひとみのヒューズも飛び、ひとみは力一杯携帯電話をフローリングの床に叩きつけた。
- 335 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月13日(月)01時41分38秒
- 久々によっすぃー登場だ。
こんこんの行方も気になりますが、梨華ちゃんとの電話のやり取りは笑えます。
- 336 名前:sohma 投稿日:2002年05月13日(月)11時52分55秒
- 初レスです。復活待ってました。
この話、おもしろいですね。頑張ってください。
- 337 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月14日(火)00時30分49秒
- >>335
くわばら。さん、レスありがとうございます。
石川嬢は見たことない壊れたキャラ設定でと思ってたら、
最近テレビじゃずいぶんと壊れてきましたね(w
>>336
sohmaさん、初レスありがとうございます。
おもしろいと言ってもらえるだけで、書き手冥利に尽きます。
今後も楽しんで下さい。
- 338 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月14日(火)00時31分55秒
「それで頼んでおいた『飯田』っていう名前のことはどうなの?」
携帯電話は雑音が入るもどうにか音を伝えてくれるようだ。床にはプラスチックの破片が飛び散っている。ひとみはそれを足で弄りながら、憮然とした顔で電話越しの梨華に話しかけた。
「ええっとね、『飯田』って名前だけで調べると正直言ってかなりの人間が引っかかっちゃうのよ。それでね、今回はひとみちゃんがこれまで扱ってきた依頼と関係のありそうなものをピックアップしたの。それであさ美ちゃんとも関係が深そうなんでしょ。だからあさ美ちゃんと会ってからの約3ヶ月間に絞って調べてみたわ」
梨華の不機嫌そうな声が乱れながら聞こえてくる。
「当たりは?」
「条件にビンゴのが一件あったわよ。『デメテル』って所の依頼覚えてる?そこの最高責任者の名前が飯田圭織っていうのよ」
「飯田…圭織…。‥その『デメテル』って所と、あさ美がどんな関係があるの?」
- 339 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月14日(火)00時33分54秒
「それは分かんないけど、ただ『デメテル』ってとこ、随分危ないことやってるみたいよ。もう1人つんくっていう最高責任者がいるんだけど、そっちは財界とか政界にも顔を利かせてるみたいで、裏じゃかなりの野心家として名を通してるみたいだよ」
「あさ美は言ったんだ。『飯田さんから教えられた』って」
ひとみはあの時のあさ美の虚ろな目を思い出す。そもそもあさ美のような少女が拳銃を握っていることが不可思議なことである。それが梨華の言う飯田何某に関係のあることなのだろうか。
「う〜ん、『デメテル』のパソにハックしてみたんだけど、どうしても入れない場所があるんだよね。パスワードとか出来る限りのことは尽くしてみたんだけど、強固な壁があってどうしても中をみられないの。おそらくそれが何かその組織の重要なものなんじゃないかなぁ。
「ただね、さっきも言った飯田圭織って人はね、人気があるみたいよ。若い女性の指導者で、かなりの信者を集めてるの。有名人とかも少なくないんだよ。テレビとかでも一時期、引っ張りだこだったみたいだしね。あさ美ちゃんもそこの信者だったんじゃないの?」
- 340 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月14日(火)00時34分56秒
「だけどそれじゃ、あさ美が拳銃を持ってる理由にならないだろ?」
「それは…例えばその組織の自衛兵だったとか?」
「兵隊を作らなきゃならないほど、危ない組織なわけ?ただの宗教団体でしょ」
「あ、ひとみちゃん。馬鹿にしてるでしょ。分かんないよぉ。現実に20世紀にもそういう事件も数多くあったし、それに『デメテル』は政界とかの高名な人も出入りしてるみたいだからね。少年兵とかだったら自然と警戒心も薄れるだろうし、きっと需要もあるんじゃない?あ、今度こういうの誰かにやらせてみよっかな。結構いい儲けになると思わない?」
「だからって少年少女の兵隊?時代錯誤もいいところじゃない」
ひとみは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ま、それはあさ美ちゃんに聞かないと分からないけどね。私は頼まれた仕事をしただけだから。それにあさ美ちゃんのことなんてどうだっていいわけだし。それよりもひとみちゃん、二人でラスベガス行くんだからね。じゃないとこれから押し掛けてって、それでイヤと言うほど……」
- 341 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月14日(火)00時36分41秒
「あっ、ごめん。今誰かが来たみたいだ。ごめん、じゃあね」
ひとみは梨華の非難の声を残したまま慌てたように電話を切ると、そのまま電源も切った。
ひとみはようやく居心地をついたように息を吐いた。それからソファーにもたれ掛かると、窓に目をやる。一階のため植えられた木々しか目につかないが、十分に表は暗くなっている。風が出てきたのか枝がざわめき、窓硝子ががたがたと音を立てる。月明かりが雲に遮られ、さらに闇が辺りを覆い尽くしていた。
ひとみは片肘をついて、頭を拳に乗せると考え事をするように瞼を下ろした。
- 342 名前:sohma 投稿日:2002年05月16日(木)00時28分51秒
- だんだんと吉澤さんも”デメテル”に近づいていますね。
紺野さんもそろそろ出てくるかな?
- 343 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月17日(金)00時43分21秒
- >>342
sohmaさん、レスありがとうございます。
徐々に物語も佳境に入ってきました。
今後の二人の関係に注目!
をしていけるような文章を書いていきたいですね(w
- 344 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月17日(金)00時44分34秒
あさ美は居心地悪く何度もソファーに座り直した。テーブルに置かれたレモンティーからは、ほのかに香しい湯気が上がっている。何度もそれに口を付けようと思って手を伸ばすのが、その度に指を引っ込め、じっと琥珀色の液体に写った自分の陰鬱な顔を眺めた。しばらく立つと湯気も消えてしまうが、そのタイミングを見計らったように女性が部屋に入ってきては、カップを下げて新しいものを用意してくれた。
あさ美は軽く息を吐くとそっと辺りを見渡した。白く汚れのない壁に質素な家具が備え付けられており、黒光りする木製の机には丁寧にファイルされた書類が積み上げられていた。その影に隠れるようにフォトスタンドが立てられている。机の脇にはかざりっけの無い本棚があり邦語から英語まで多種多様の背表紙が並んでいる。
カーテンで閉じられていない窓にはすでに瞬く冬の星空をみることができ、あさ美が待たされてかなりの時間が過ぎたことを知ることができた。
ふとひとみのことが脳裏に浮かんだが、この状況ではどうすることもできない。女性に電話を頼もうかとも考えたが、敵地から電話を掛けられるわけも無いと思い、あさ美は頭を振ってひとみのことを追い払った。
- 345 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月17日(金)00時45分24秒
鈴音によって連れてこられたのは懐かしい場所であった。あの頃に比べると建物内には薬の匂いが染み込み、埃の払われない電灯はより一層暗い光を落としていた。ほとんどその内部は機能していないのか人影は少なく、いくつかの部屋の中は蜘蛛たちが巣くい、壁は黒ずんでいた。
あさ美はこの部屋まで連れてこられると鈴音にソファーを勧められた。女性が紅茶をあさ美の前に置くと、鈴音に耳打ちをした。鈴音は顔をしかめ、あさ美に待つように言うと、部屋から女性と出ていってしまった。
あさ美は喉の渇きを覚え、ようやく紅茶カップを手に取った。すると同時に部屋のドアが開いた。そのためあさ美は慌てたようにカップをテーブルに戻し、室内に入ってきた鈴音を見る。
- 346 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月17日(金)00時46分20秒
「悪いわね。ちょっと予想外のことが起こっちゃってさ。圭織が勝手に出払っちゃったのよ」
鈴音は唇で火のついていない煙草を弄びながら笑った。あさ美は無言で首を横に振った。
「それ…今晩の夕食の材料?」
鈴音は机備え付けの安楽椅子に腰を落ち着けると、顎であさ美が脇に置いたビニール袋を指した。今頃ひとみは家で自分の姿が無いことに困惑しているだろうか。再びあさ美の頭にひとみの姿が思い浮かぶ。
「意外だね。あなたみたいな人間兵器が料理をするなんてさ」
鈴音が煙草に火を付けた。紫煙が立ち上っていき、部屋に鼻を突くような強い匂いが広がっていく。
「……私に…何か用があるんですか…」
あさ美は鈴音を見ずに、真っ直ぐ前を見つめたまま言った。そんなあさ美を鈴音が微かに笑ったようだ。
「用がなきゃ呼ばないよ。まぁ、詳しいことは圭織が話してくれるよ」
「…私はもうここを抜けた人間です。…どうして私に構うんですか」あさ美の語気が強くなった。鈴音が煙を吐き出した。
「それはあなたが一番よく分かってるんじゃないの?室蘭でなつみに聞いたんでしょ」
- 347 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月17日(金)00時47分03秒
「…どうして‥それを」
「あのね、あんまり私たちの情報網を甘く見ない方がいいよ。大体なつみは元ペルセポネー機関の研究総責任者だったんだよ。それを私たちが野放しにしておくと思う?」
鈴音の言葉にあさ美は首を横に振った。鈴音は満足したように口元を緩めると、煙草を口から離し、それを自分の携帯用の灰皿に押し込んだ。
「ま、なつみも多少の罪滅ぼしができたと思って、残り少ない余生を過ごすことができるんじゃないの」
「…残り少ない余生‥…どう言うことですか」
「そんなに睨まないでよ。そっか、なつみはわざわざ伝えなかったんだ」
鈴音は椅子から立ち上がると白衣のポケットに左手を突っ込み、右手で机の上にあった写真立てを手に取った。
- 348 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月17日(金)00時47分36秒
「なつみはね、脳に悪性の腫瘍があるの。ほら、視力を失ってるのもそのせいよ」
あさ美の脳裏に月影の下で静かに横たわり微笑んだなつみの顔が思い出された。抵抗もせずに黙ってあさ美の銃口を見つめ続けた、彼女の後ろには死の暗い影が忍び寄っていたのだ。あの静けさの理由がようやく分かり、あさ美は瞼を落とした。
「何度か圭織が連絡を取ったみたいだけど、なつみの方はあまりこっちと付き合いたくないみたいね。アメリカに手術するために渡るって言ってたそうよ」
鈴音は写真立てをテーブルの上に置いた。あさ美は瞼を上げてそこに写った顔を見つめていく。4名の女性の顔はどれも見知ったものであり、どれもあさ美の記憶に深く刻まれたものである。
- 349 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月17日(金)03時15分45秒
- 更新お疲れ様です。
鈴音の「あなたみたいな人間兵器が料理をするなんてさ」って言葉が、
何かせつないですねぇ。。。
- 350 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月18日(土)00時27分36秒
ようやくこの部屋の主が姿を現した。いつものように張り付いたような笑みを浮かべながら、ゆったりとした動作であさ美を見て、それから嬉しそうに目を細めた。
「こんにちわ。久しぶりね」
あさ美はかぶりを振った。圭織はそれでも満足げにあさ美と向かい合うようにソファーに腰を下ろした。鈴音は息を吐くと壁に背を付けて寄り掛かった。
「ごめんなさいね。あなたを待たせるつもりはなかったのよ」
「…私に何の用があるんですか?急に…」
「本当はあなたからあなたの意思で戻ってきてもらいたかったんだけど、最近つんくさんの動きが早いの。それで計画を早めることになってしまって」
「つまるところあなたに帰ってきてもらいたいわけよ」
鈴音が脇から口を挟むと、圭織がそれを受けて頷いた。
「…私がここに戻ってくると本気で思って言ってるんですか」
あさ美の口調は淡々としたものであるが、そこには深い怒りが含まれていた。
- 351 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月18日(土)00時28分47秒
「‥私が今日ここに来たのはあなた達に復讐をするためです。あなた達に壊された私と愛ちゃんの人生を取り戻すためです。私はあなた達のためにここに来たんじゃありません」
圭織が困ったかのように額に皺を寄せた。それでも顔が笑っているのは余裕があるからだろうか。鈴音の方も最初から答えが分かっていたかのように動じた様子もなかった。
「無理強いはしないわ。あなたは自分の居場所を見つけたみたいだから、それを捨てろと言われるのは嫌でしょうし」
圭織は髪を掻き上げると、テーブルの上に置かれた写真立てを手に取った。腕にはめた貴金属の腕輪が澄んだ音を鳴らした。
「でも、もしあなたが今の居場所を失ったらどうするつもり?」
「……ひとみに、何かをしたんですか?」
「それは間違いね。私たちは何もしてないわよ」
鈴音がいつの間にかあさ美の背後に立っていた。あさ美は振り返る。
- 352 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月18日(土)00時29分51秒
「‥どういうことですか?」
「あさ美、この写真は分かるわね」
圭織は優しい口調であさ美に写真立てを渡した。あさ美はこくりと頷く。
「これはこのペルセポネー研究所が完成したときに取った最初で最後の記念写真よ。当然、私と鈴音も写ってるわ。それになつみも。見て分かるわね?」
あさ美は再度頷いた。
圭織と鈴音は並ぶように焦茶色の出入口前に姿勢正しく立っている。なつみは圭織の隣に立ち、少々不機嫌そうに横を向いている。
「そしてこれは誰だかも分かるわね?」
圭織は自分の前に立つ女性を指さした。あさ美は躊躇をしながらも頷いた。おそらく自分にとってこの女性は忘れることができないだろう。圭織の前に立ち1人だけピースサインをしている。髪は小麦色で満面に笑みを浮かべ、随分と元気が良さそうな印象がある。
- 353 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月18日(土)00時31分05秒
「この娘はあなたと愛がこの研究所に来たときには、すでに『デメテル』を抜けていた。彼女は最初の実験の失敗で、その危険性を示唆して去っていったわ。そしてその後も彼女は事あるごとに私たちに忠告をしてきたの。
「私は徐々に彼女のことを危険に思うようになった。もしこのことを外部が知ることになれば、実験の中止はおろか、多くの信者たちも、手を貸してくれた学者たちも、そして私自身の夢も消えてしまう。それはつんくさんも同じ思いだったようね。そして私とつんくさんはこの娘を消すことに決めた。後にも先にもつんくさんと意見を共にしたことはこの一回きりね」
圭織は微笑むとあさ美を見つめた。あさ美は無表情でその視線を受け止める。
- 354 名前:第12話 Cage(前編) 投稿日:2002年05月18日(土)00時32分12秒
「…何が言いたいんですか」
あさ美は顔を強張らせ、硬い声で圭織に問いただした。
「この娘はね、『デメテル』を離れた後、街で殺し屋家業を営んでたのよ。そして彼女は1人の女性と出会った」
鈴音があさ美の手から写真立てを取ると、指先で硝子の上から軽く叩いた。
「それが吉澤ひとみよ」
鈴音が横目であさ美を見ながら言った。あさ美は無言で圭織の顔を見つめ続けた。鈴音は思ったよりもあさ美の反応が悪くがっかりをしたように視線を落としたが、微妙にあさ美の肩が震えている。鈴音は圭織を見やった。
圭織に表情は変わらない。でも鈴音の視線に気が付いたのか軽くかぶりを振った。それから圭織がゆっくりと口を開いた。
「吉澤ひとみは、あなたが最初の仕事で殺した矢口真里の仕事仲間だったのよ」
To be continued
- 355 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月18日(土)00時43分11秒
ようやく第12話が終わらせることができました。
これも一重に多くの方々のレスのおかげです。
駄文を読んで下さる方々がいらっしゃることで、
どうにかこうにかここまで来ることができた次第です。
さて、物語はようやく後半、佳境へと入りました。
残り5話(予定)ということもあり、
何とか早く終わらせたいとも思っていますが、
なかなか厳しい状況で(w
取りあえず今後は疾風怒濤の展開で(w
いけるように頑張らせていただきます。
第13話「Cage(後編)」では
紺野嬢、高橋嬢、加護嬢の3人の想いと、
それに関わる吉澤嬢、中澤嬢に注目を…
なんて期待を持たせながら、早く更新できるように努力します。
- 356 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月18日(土)00時47分57秒
>>349
くわばら。さん、いつもレスありがとうございます。
鈴音は本来のイメージのボケキャラと違って、
冷静な研究者として書いています。
しかも、おそらく当人は吸っていないと思いますが、
かなりのヘビースモーカーで…。
ちなみに吸っている銘柄はマルボロのメンソールです(w
- 357 名前:くわばら。 投稿日:2002年05月18日(土)04時06分07秒
- 更新お疲れ様です。
にしても、矢口とデメテルの繋がり…
しかもあさ美の初仕事が。。。(:_;)
そんなこんなで、作者さんの楽なペースでの更新待ってます。
- 358 名前:sohma 投稿日:2002年05月18日(土)16時01分46秒
- 第12話終了、お疲れ様です。
謎が明らかになっていきますね。これからも楽しみに待っています。
- 359 名前:ぶらぅ 投稿日:2002年05月18日(土)16時17分08秒
- 今日はじめてバーって読みました。
凄く先がどんどん気になる話です(w
あさ美と愛もどうなってくのか・・・
矢口のこともわかってひとみとどうなるのか・・・
続きお待ちしております
- 360 名前:三文小説家 投稿日:2002年05月26日(日)23時46分16秒
お久しぶりです。
そろそろ第13話の更新をと思っているのですが、
今までの暇が嘘のように、忙しくなってしまい、
もう少しだけ時間をいただきたく思います。
六月に入る前には何とか更新を始める予定ではあります。
もうしばらくお待ち下さい。
>>357
くわばら。さん、レスありがとうございます。
楽なペースをと言っていただけるととても嬉しいです。
のんびりではありますが、お付き合い下さい。
>>358
sohmaさん、レスありがとうございます。
更新が遅くなりますが、どうぞこれからもよろしくお願いします。
>>359
ぶらぅさん、レスありがとうございます。
今後、迷えるあさ美やひとみの姿を書いていければ、
と思ってますが、上手く書けるかどうか…(w
- 361 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月09日(日)02時52分02秒
ひとみは喜び勇んで鍵を外すとドアを開けた。
そこにいたのがあさ美で無いことに落胆するも、すぐに眼前に立つ見覚えのある少女の姿に愕然とした。その少女は愛であった。
無意識の内に右手は銃を求めてしまうが、生憎今日は木の匂いがまだ残る新品のクローゼットにしまい込んだままである。
僅かに赤茶げた髪を愛は指先で払うと、ひとみの困惑ぶりを気にかけた様子もなくにこやかに微笑んだ。
「お久しぶりです」
白いコートをしっかりと羽織っており、すっきりとした足にぴったりの焦げ茶のパンツを身につけた愛が挨拶をしてきた。
「‥久しぶりって言えるほどあたしたちは親しい仲じゃないんじゃないの」
ひとみは唇を曲げながら、相手の意図を探るようにじっと見つめた。愛はその視線を真っ向から受け止め、漆黒の瞳にしっかりと相手の姿を焼き付けるかのように見つめ返してきた。2人に間に微妙な間が流れる。
- 362 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月09日(日)02時52分54秒
先に根負けしたのはひとみであった。軽く息を吐くと相手から目線を外す。
「それであんたはどういった用件でここに来たわけ?まさか奇襲に来たとか質の悪い冗談を言ったりはしないわよね。あたしたちはこの間マンションを襲撃されて引っ越したばっかりなんだからね」
「知ってます。安心して下さい。今日は銃器類を持参していませんから」
愛は相手を安心させるかのように両手を上げて見せた。それでもひとみは安心した様子は見せない。じろりと相手をまさぐるような視線を何度も上下させた。
「今日はあなたが知りたがっていることを教えて上げようと思って来たんですよ。少しくらいは歓迎をしてください」
愛は冗談めかしたようにくすりと笑う。
「あたしが知りたいこと?…どういうこと」
ひとみは自然と身体が堅くなるのを感じる。
- 363 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月09日(日)02時53分28秒
「‥私はあなたに有意義な情報を提供しにきたんです。それなのにこんな所の立ち話で済ませようとするのですか。吉澤ひとみさん?」
愛は焦るひとみを面白そうにからかった。
ひとみは憮然とした表情で愛を見ると、ドアから身体をずらした。部屋の中の恍々とした光が漏れてくる。愛は中を覗き込むと警戒もせずに靴を丁寧に脱いだ。
「お邪魔します」
振り返った愛のにこやかな顔にひとみは舌打ちをし、それからドアを閉めた。
- 364 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月09日(日)02時54分16秒
ひとみがリビングに戻ると、先に入った愛は興味深そうに室内を物色していた。物を勝手に取り出してはしげしげと見つめ、それに飽きると元の場所に戻さずに乱雑に放った。
「…それで、あんたは一体何なのよ。あたしが知りたい事って…。大体何であたしの名前を知ってるわけ?あたしはあんたが誰かも知らないんだから…」
ひとみは腰に手を当てると相手に声を掛けた。愛はひとみの方を向くと、涼しげな顔で笑った。少女の中にも大人びた魅力があった。
「ご自分の胸に聞いてみたらいいんじゃないですか?あなたが今一番知りたいことは何かって…」
そう言うと愛はソファーにゆっくりと座った。礼儀正しく背筋をぴんと伸ばし、両手を揃えて膝の上に乗せている。それでも目は隈無く室内の様子を探っているようだ。
「あたしは考えることが嫌いなの」
ひとみは愛の背後に立つと威圧するように気を送った。愛がくるりと振り向くと可笑しそうに白い歯を見せた。
- 365 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月09日(日)02時54分56秒
「そんなに殺気立たないで下さい。私は丸腰なんですよ。それとも吉澤ひとみという殺し屋は依頼が無くても人を殺すことをするんですか?」
まるでひとみの信念を知っているかのような口振りである。ひとみは唇を噛みしめながら、それでも余裕ある口振りで言った。
「一度あんたには酷い目に合わせられたからね。私的な恨みであんたは殺られても文句は言えないんじゃないの」
「あまり歓迎してくれないみたいですね。残念だなぁ」
「‥それで用件は何なの。これ以上あんたのなぞなぞに付き合う気は無いよ」
ひとみは少々苛々したように乱暴にパソコンの前の椅子に座った。
「あなたが必死になって情報屋の友だちに調べさせていたことですよ。飯田圭織について、それにあさ美ちゃんについて。知りたいんでしょ?」
愛の言葉にひとみの表情が変わる。ひとみは身を乗り出した。そんなひとみの狼狽ぶりが可笑しかったのか、愛は喉の奥をくくっと鳴らした。
- 366 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月09日(日)02時55分29秒
「あんた、あさ美とどういう関係が…」
ひとみは乾く喉を唾で湿らせながら、掠れたような声を出した。微かに唇が震え、心中がざわめきだす。
「全部話してあげますよ。あなたが望むなら。あさ美ちゃんがどういう人間なのか。あさ美ちゃんがどれほどの裏切り行為をして、どれほど多くの人に迷惑をかけてきたのか。あなたが後悔するぐらいに‥」
愛はそう言うとこれ以上ない妖美な笑みをひとみに向けた。
- 367 名前:くわばら。 投稿日:2002年06月10日(月)04時47分40秒
- 更新お疲れ様です。
ついに、ひとみがあさ美の過去を知っちゃうんでしょうかねぇ。。。(:_;)
- 368 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月11日(火)01時11分47秒
- >>367
くわばら。さん、レスいつもありがとうございます。
当初の予定よりもずいぶんと遅くなってしまいました。
最近は少々忙しいので、更新速度も遅くなりますが、
どうぞよろしくお願いします。
- 369 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月11日(火)01時13分19秒
室内はすっかり暗くなり、圭織はカーテンを引いた。圭織は自分の安楽椅子に腰を落ち着けると、身体を鈴音の方へと回した。鈴音はソファーに座って、何か考えながら相変わらず煙草を吹かしている。圭織は背もたれに身を預けると、胸の奥から全ての息を押し出すかのように深く息を吐いた。
「あれでよかったの?せっかく落とせる機会だったのに帰しちゃって」
鈴音が聞いてきた。圭織は疲れたように顔をそちらに向けると、緩やかな曲線を描く細い眉を少し上げた。テーブルの上にはあさ美が飲んでいかなかった陶器のカップが置かれたままになっており、すっかり冷め切ってしまっているようだ。
「あの娘、戻ってくるとは限らないよ。そりゃあ、今の場所には居られないとは思うけど、だからってこっちに来るとは限らないじゃない」
「どんなときでもお別れの挨拶は大事でしょ。あの娘にもさせてあげなくちゃ」
圭織がくすりと笑った。圭織が冗談を言うなど珍しい。それだけ機嫌が良いのか。鈴音はそう思い、合わせたようににっと笑みを浮かべた。
- 370 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月11日(火)01時14分10秒
「圭織にしてはずいぶんと心優しい気遣いね。でもそんなんで大丈夫?あの娘は何考えてるんだか分かんないところがあるからね」
「大丈夫よ。あの娘は絶対に帰ってきてくれる。あの娘の奥底で求めているものは結局ここにしかないんだから」
「その自信はどこから来るのかしら?圭織の考えてることは、私には理解できないな」
笑いながら鈴音が肩をすくめると、煙草を灰皿に押しつけた。それからカップを手に取るとそれを飲んだ。すぐに鈴音の顔が渋いものへと変わる。
「そういえば、どうして中澤さんが急に帰ってくることになったの?」
「つんくさんからの召還だそうよ。目的は祐ちゃんじゃなくて、もう一人の方だったみたい」
「もう一人?ああ。つんくさんの方は有能な駒が無くなってきたわけか。それで死に駒を打つつもり。どうするの?」
「そっちは祐ちゃんが動いてくれるわ。口では否定しながらも亜依のことが気に入ってるみたいだからね」
圭織は足を組み直すと、片肘を机に乗せた。
- 371 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月11日(火)01時15分09秒
乱雑に閉められたカーテンの隙間からは外の様子を伺うこともでき、微かに星が光っているのを見ることもできた。圭織はその微量の光に引かれるようにじっとそれを見つめる。
鈴音は髪を掻き上げながら、煙草を取り出す。火を付けることなくそれを口にくわえると、唇でそれを上下させて弄ぶ。
「もし亜依とあさ美がぶつかる事になったら、あさ美だって無事にってわけにはいかないかもよ。いくら亜依が不完全であったとしても、私たちがプログラムを施したんだから。あの頃はまだ真里がいたから、亜依の戦闘技術は真里直伝なわけだし」
「そうね。でもあさ美は追いつめられるぐらいがいいのよ。それが彼女の力を伸ばしてくれる。闇に引き込まれることなく、逆に上手にそれを活用することができるように。それが私たちの求めるペルセポネーでしょ。亜依のように技術的にも有能な相手とぶつかれば、より才能を開花させることができるかもしれないわ。実験では補えなかった点をね」
「いいの?そんな悠長なことを言ってて。あさ美をここに呼んだってことは、圭織だって賽を投げたんでしょ。時間は少ないわよ」
鈴音の言葉に圭織は軽く頷いた。
- 372 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月11日(火)01時16分00秒
「つんくさんが聞いたら私たちも無事に済むかどうか」
「大丈夫よ。つんくさんは今まで一人で上手くやってきたんだから。それにお金にならないことには興味がないでしょ」
圭織は皮肉を交えてにこりと微笑んだ。鈴音の背筋に悪寒が走る。思わず鈴音はその横顔を見ながら呟いた。
「お金にならないけど、つんくさんだって命は惜しいんじゃないの」
圭織には鈴音の科白が聞こえていなかった。圭織は自分の思考を広げ、ゆっくりとその中へ落ちていく。瞼を閉じたまま圭織は、余裕のある微笑みを浮かべた。
鈴音はそんな圭織を見て、険しい顔で息を吐くと、安物のライターを取り出しくわえた煙草に火と付けた。
- 373 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月13日(木)03時33分31秒
- 中澤嬢にワラッタ・・・
祐ちゃんではなく裕ちゃんかと・・・
この作品凄いですね。
- 374 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月15日(土)02時08分57秒
- >>373
レス、ありがとうございます。
う〜ん、まだ名前の間違えがあったとは。
確かに中澤は嬢よりも女史ですね(w
- 375 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月15日(土)02時10分07秒
愛はスキップをしたくなるような心持ちで車に乗り込んだ。運転手は愛の姿をバックミラーで確認すると無言でエンジンをかけて、車を走らせ始めた。愛は一仕事を終えた後の開放感からか、ゆったりとシートにもたれ掛かり、流れていく外の景色に目をやった。
吉澤ひとみは随分と驚倒していた。余りのことに言葉もなく、茫然とした顔で口を金魚のようにぱくぱくとしていた。愛はそのひとみの表情を思い出すごとに笑ってしまう。しばらく自分の脳裏を整理するかのようにひとみは目を虚ろげに動かし続けていたが、やがて苛々したように室内をうろうろし始めた。
- 376 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月15日(土)02時10分45秒
愛はその間も思いつくままの言葉を得意げに紡いだ。それがひとみの耳に入っていたかどうかは分からないが、少なくともこれであさ美とひとみの蜜月は終わりを告げるだろう。それを十分実感できると愛は、爪を噛みながら思慮にふけっているひとみに別れの挨拶もせずに部屋を出てきてしまった。
愛はついに堪えきれずに吹き出してしまった。運転手が怪訝そうな目をミラーに向けて愛の様子を確認しているため、愛はすぐに神妙な顔を作り、軽く微笑み返した。運転手は興味なさげに目線を前方へとずらした。
「ざまぁみろ」
愛は小さく呟き、くすくすと笑った。こんな下卑た言葉で祝福をしてやるのが、あの女にはふさわしいだろう。愛は目にかかりそうな長い前髪を指先で転がしながら、間もなく戻って来るであろうあさ美の事を考え始めた。
- 377 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月15日(土)02時11分53秒
高橋愛が『デメテル』に入信するきっかけになったのは、両親が熱心なセミナー参加者であったからである。両親は愛を何度も『デメテル』の講演会へと連れていった。まだ小学生であった愛には、壇上に立つ大人たちが話していることは難解で訳が分からなかったが、新幹線で見知らぬ都市に行けることと、その帰りに家族で食事をして帰るのが楽しみであった。
愛が圭織と出会ったのは何度目かの集会であった。その日は両親も周りにいる大人たちも異様な盛り上がりで、愛は内に自然と恐怖と高揚感を感じた。やがて壇上に立ったのはうら若き美しい女性であった。愛は一瞬で目を奪われた。周りの大人たちが騒ぐ理由も分かった。それが『デメテル』の最高指導者で司祭と呼ばれている飯田圭織であった。
- 378 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月15日(土)02時12分26秒
すっきりと通る柔らかい声で圭織は会場にいる全てのものに語りかけていた。愛にはその内容はよく分からなかったが、それでも世界平和のことを言っていたように覚えている。しきりに頷き、何度も拍手をした。
帰りに会場の出入口で圭織が愛の手を握ってくれた時は、嬉しさに卒倒しそうになった。人間なのにまるで女神のように愛には思えて、思わずぎゅっと強く握ってしまった。圭織は驚いたように表情を緩めると、柔らかな手で握り返してくれた。愛はその時何かを言ったのだが、興奮のあまりにその言葉は忘れてしまった。ただ、その言葉を聞いて圭織は愛をペルセポネーとして育てようと決意したと言ってくれたことがある。
- 379 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月15日(土)02時13分12秒
それから数ヶ月後、愛は東京の『デメテル』本部に赴くことになった。両親にはただ圭織の目に適ったため、東京で育てたいという旨だけが圭織自身から伝えられたらしい。両親は名誉な事だと喜んで愛を送り出してくれた。
東京では圭織や鈴音たちが温かく迎えてくれた。そしてその時に出会ったのがあさ美である。圭織は愛にこれからは高橋愛でなく、ペルセポネーとしての愛として成長してもらいたいと言った。それからもう一人のペルセポネー、あさ美とも仲良くしてもらいたいとも言われた。愛が明朗に返事をするも、あさ美の方はぼそりと僅かに声を発しただけであった。
愛はあさ美に友だちになろうと言って手を差し出すと、あさ美はその冷たい手で軽く愛の手を握っただけで、後はぼそぼそと口内で何事か呟いた。そのため愛のあさ美に対する第一印象は随分暗い娘だなぁというような余り良いものではなかった。
- 380 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月15日(土)02時13分50秒
愛とあさ美の違いはプログラムを受けている最中にも如実に表れた。2人とも目に適っただけの能力は持ち合わせていたものの、どうものんびりとした気性のあさ美は愛に比べて動きに切れが無かった。圭織は特に何も言わなかったが、なつみはそんなあさ美に対してきつく当たった。なつみに怒られているあさ美は悲しげに視線を落とし、じっと嵐が過ぎるのを待っているように見えた。
愛にとってそんなあさ美の姿が哀れに思えた。それと同時に愛はあさ美に対して優越感を抱くこともできた。どれほど失敗をしてもあさ美ほど酷いこともないし、そのことで誰かに迷惑をかけたこともなかった。あさ美に同情の言葉を掛けながらも、愛の心にはどこかこの娘には負けないだろうという自負心が生じてきた。
一方のあさ美も徐々に愛に心を開いてくれるようになり、僅かではあるが愛に笑顔を見せてくれるようにもなった。愛とあさ美の間には友人関係が築かれていったが、それでも愛のあさ美のことを見下した視線は決してなくならなかった。
- 381 名前:sohma 投稿日:2002年06月16日(日)03時54分20秒
- 更新お疲れ様です。
飯田さんの狙いは何なのでしょう?その辺りも楽しみに待っています。
これからも頑張ってください。
- 382 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月18日(火)01時11分43秒
- >>381
sohmaさん、レスありがとうございます。
う〜ん、飯田さんの狙いは何なんでしょうね?(w
書いている方もはっきりとしたものが無くて、
困ってます。
ただとっても個人的なものが暴発した感じの
ものなのかもしれません。
- 383 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時13分08秒
有能な実験体であるはずの愛にとって気に入らなかったことは、圭織があさ美に期待をしていたことであった。なつみに怒鳴られるあさ美をそれとなく庇ったり、プログラムを終えた後、優しく語りかけている所を何度も見かけた。
もちろん愛にも圭織は優しかったが、愛の中では徐々に友人に対しての嫉妬心が生まれてるようになった。見下していたからよりその感情は燃え上がり、時折わざとあさ美に意地悪をしては、あたふたするあさ美の姿を見て自分の立場を確認したりもした。その反面困り切ったあさ美の顔を見ている急に愛おしくなってくる。
- 384 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時14分25秒
そんな矛盾した感情が愛の内でぐるぐると回り、いつの間にかあさ美が自分の心を占める割合が多くなっていった。それを愛の脳は恋愛感情という嘘の情報で自らを偽った。友情と罪悪感の狭間で痛む胸を恋の動悸とすり替え、あさ美へと意地悪を愛情の裏返しと誤魔化して続けてきた。
「……愛ちゃんは優しいね」
あさ美の愛を信頼しきった笑顔は、愛の優れた才気に影響を与えた。平常を保つことが要求される実験で、愛の精神状況が徐々に針を振るわせ始めたのだ。なつみにお小言をもらいながら、愛は悔しさに唇を噛みしめ、あさ美が自分のことを馬鹿にして影で笑っているのではないかと何度も邪推するようになった。
- 385 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時16分40秒
ペルセポネーは人に裁きを下すことの許された人材であると圭織から何度も教え込まれたが、愛はそのつど、圭織の高尚な思慮に深く感銘した。横行する愚人たちに鉄槌を下し、それにより自分が必要とされることが嬉しかった。あさ美は圭織に拾われた手前もあり、何も言わなかったが、余り気を乗せている様子は見られず、愛が嬉々として圭織の素晴らしさを語っている間も寂しげな表情をしていた。
だから、あさ美の方が先に圭織から仕事を言いつけられたときは、さすがの愛も困惑した。確かに愛の実験数値は振るっていなかったが、あさ美が先攻してしまうというのは、愛にとって納得がいくものではなかった。
- 386 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時17分28秒
愛はそのことで圭織に向かって激しく抗議をした。まず自分に仕事をさせて欲しい。あんな何処の馬の骨とも知らない娘よりも、自分はずっと飯田さんの考えに触れて、誰よりも飯田さんの事を尊敬していることを熱心に述べた。しかし圭織はいつものような柔和な笑みを浮かべながら、ゆったりとした手付きで愛の肩を叩いた。
『人のことを認めるのも必要なことよ。思うところがあってあさ美を使ってみるの。あなたにもいずれ仕事をしてもらうわ』
そう言われてはそれ以上の反論もできなかった。愛は悔しさを抑えながら、あさ美に励ましの言葉を掛けた。それは精一杯の強がりであった。あさ美は青い顔をしながらも、こくこくと首を縦に振っていた。
- 387 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時18分24秒
あさ美が初めて人を殺めて戻ってきたとき、彼女は自分の所業に震えていた。絶対の精神と巧みな暗殺術を叩き込まれたペルセポネーが怯えている姿を見て、愛は圭織の判断ミスを思った。やはり自分にしておけば、圭織を残念がらせるような結果をもたらさなかったのにとあさ美のことを鼻で笑った。
一方で震えるあさ美に対して憐憫の情が生まれた。部屋の隅でがくがくと身を震わせているあさ美は出来損ないで、普通の少女だったのだ。圭織の思い過ごしで、あさ美は何ら特色もない普通の女の子だっただけなのだ。ならば人を殺めたことが重荷となってあさ美に襲いかかっていることだろうと、愛は思った。
だから彼女はこう言った。
「あさ美ちゃんのこと逃がしてあげるよ」
あさ美は驚いたように愛のことを見上げた。
- 388 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時19分23秒
どうしてこんなことを言ったのか分からないが、普通の娘に飯田さんの高尚な目的を達せられるとは思えない。危険な目に遭わないためにはこんな所に居ない方がいいと、愛は考えた。そう言えば飯田さんだって納得してくれるだろう。後は自分一人が頑張れば済むことなのだ。あさ美に足を引かれる心配も無くなるだろう。
あさ美は首を左右に振って悲観的な顔をした。
「…逃げられないよ。何度かやったことあるもの‥。すぐに捕まっちゃう」
あさ美の行動力に愛は目を見開いた。そんなことをやっていたなんて知らなかった。愛はむきになってあさ美の腕を掴んだ。あさ美が驚きと苦痛に顔を歪めたが、愛は気にしなかった。
「大丈夫だよ。今度は私が手伝ってあげるんだよ。無事に外に出られるって」
愛は暗い部屋の中であさ美を無理に立たせると、圭織からもらったグロック17の弾倉を確認した。あさ美もようやく決心をしたのか、自分のワルサーPPKを取り出して銃弾を確かめていた。
「飯田さんに、それにあさ美ちゃんに教えてあげるよ。本当に優秀なのは私だって」
愛は2人で使ってきた部屋を出る前にそっと呟いたことを覚えている。
- 389 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時20分14秒
車を強い風が襲い、車体がバランスを失ったように揺れた。老練な運転手は落ち着いた手付きで軽くハンドルを回し、何事も無かったかのように車道を走り続ける。
愛も気にかけた様子もなく、ぼうっとした表情で厚くなってきた雲に目をやっている。無意識のうちに愛は右下腹部に手をやる。先々月にあさ美に撃たれた場所である。痛みはすっかり癒えたが、傷つけられた自尊心の回復はまだのようである。
自分がこれほどまでに気にかけてきたあさ美は、新しい場所でのうのうと暮らしていた。さすがに銃は捨てられなかったようだが、それでも吉澤ひとみというパートナーを見つけ、『デメテル』にいたころと全く違った表情をしていた。自分はあさ美のことを今でも必要としているのに、あさ美は自分のことを忘れたかのように、他の人との関係に満足げな表情を浮かべていた。
愛はそれが許せなかった。
- 390 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月18日(火)01時21分01秒
今回鈴音から「あさ美が戻ってこれるように、吉澤ひとみに全て教えて上げなさい。あの娘のしてきた事をね」と言われた。愛が不可思議そうに小首を傾げると、鈴音は事情を話してくれた。聞けば矢口真里というペルセポネー機関に所属していた女性は、吉澤ひとみの仲間でもあったようだ。それをあさ美が最初の仕事で殺した…。
愛はそれを聞いて驚きと、喜びの交じった顔で鈴音をまじまじと見つめた。もしそれをひとみに伝えれば、あの二人の関係を壊すことができる。その上、あさ美が戻ってくるかもしれないのだ。
「あさ美ちゃん、あなたに撃たれたことは恨んでるけど、だけどそれ以上に私はあなたのことを待っているのよ。私にはあなたが必要なんだから」
窓を僅かな雨音が叩き始めた。時間をおかずにその雨は本格的に降り始め、運転手は手際よくワイパーを入れた。愛は雨粒に濡れた窓に顔を向けた。清廉な笑顔を浮かべた愛の顔がうっすらと歪んで映っていた。
- 391 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月20日(木)01時53分34秒
あさ美はドアの前で何度も躊躇したあと、ようやく決心をしたようにドアノブを回した。室内には明かりが灯り、人の気配を感じることができる。あさ美はゆっくりと時間を掛けて靴を脱ぐと、足音を潜めながらリビングへと進んだ。
リビングではひとみがソファーにもたれながら、ぼんやりとしていた。あさ美はひとみを目の前にすると、急に足が震え始めた。何か言わなければと思うのだが、言葉が喉に詰まり、何を言っていいのか分からなかった。背後の立つ気配に感づいたのかひとみがはっと後ろを向いた。
「…‥あさ美‥か」
ひとみの声はどこか上擦り、緊張を解すかのように唇を舌でなぞっていた。
「…ご、ごめんなさい。遅くなってしまって‥。…今、食事の支度をするから……」
詰まりながらもどうにか声を出すことができた。あさ美は慌てたように台所の方へと引っ込んだ。綺麗に掃除されたキッチンの上にビニール袋を乗せると、あさ美はようやく一息吐くことができた。胸にはまだ激しい動悸が残り、緊張に目が霞んで見える。
- 392 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月20日(木)01時54分29秒
「…どこ‥…行ってたの」
突然の背中の気配にあさ美は振り返った。台所に明かりが入っていないため、ひとみの表情を伺い知ることはできないが、影に覆われたその表情は決して明るいものではないと感じることはできる。
「……ちょっと‥…」
あさ美の返答に、ひとみは何か言いかけたがすぐに言葉を飲み込み、誤魔化すかのように買い物袋を覗き込んだ。
「…何、作るの?」
「……肉ジャガを」
あさ美は収まらない緊張感を抱きながら答えた。ひとみが軽く笑った。だが、その表情は普段のひとみのものでなく、どこか強張ったものであり、目には疑念の炎が宿っていた。
「ごめん、邪魔しちゃったね」
ひとみはそう言うと、リビングへと戻っていってしまった。あさ美は買い物袋の中からジャガイモを取り出しながら、もう一度深々と息を吐いた。
- 393 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月20日(木)01時55分30秒
食事中も2人の会話は少なかった。片方が話しかけると、ようやく重たい口を開くような感じで、言葉に生気を求めることはできなかった。あさ美は箸を操りながら、ひとみの顔を盗み見た。
いつものひとみとは明らかに異なり、沈痛の面もちで、しきりに眉を額に集めていた。時々あさ美が見ていることに気がつくと、何か言いかけるのだが、それを飲み込み、すぐに当たり障りのない会話へと変えてしまう。2人とも気まずく、そのため食事も全然食べた感覚がなかった。
食事後、シャワーを先に浴びたあさ美は、ソファーにもたれ、ぼんやりとしながら乱暴に髪をバスタオルで拭いた。浴室の方からはひとみがシャワーを浴びている音が聞こえてくる。それに交じるようにより一層雨音が激しくなり、風が窓硝子を叩いている。
あさ美はバスタオルを投げ捨てると、寝室へと入った。しばらく2つ並んだベットをじっと見ていたあさ美は、急に何を思ったのか自分のベットをひとみの方へと押し始めた。幸いパイプベットであったため、あさ美にも簡単に寄せることができ、簡易式のダブルベットが出来上がった。
- 394 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月20日(木)01時56分15秒
あさ美はそのベットの上に腰を落ち着けると、再びぼんやりとし始めた。シャワーの音が止むと、ひとみが気怠そうにバスタオルを首に巻き付け、寝室へと入ってきた。ひとみの顔はすぐに驚いたものになり、眉をひそめた。
「どうしたの?1人分のベットじゃ小さかった?」
「……今晩だけ‥2人で寝ちゃ駄目ですか?」
ひとみはますます驚き、すぐに声を上げて笑った。あさ美は笑い声に頬を赤く染めた。
「何?梨華がよけいな知恵でも付けてくれたの。言っておくけどあたしはそっちの気は無いからね」
「……わ、私はただ……ただ‥雷‥雷が怖くて…」
あさ美がしどろもどろになりながら答えた。風雨は激しいが、雷が鳴っている様子はない。ひとみが優しい顔でベットの淵に座った。それからあさ美の頬を指先でつついた。温かい指の感触の心地よさに、あさ美は目を閉じた。洗いたてのひとみの身体からは甘い香りがした。
「‥別にかまわないよ。ただ、寝相が悪くてあさ美を蹴り飛ばすかもしれないけど」
ひとみが冗談めいた口調で言った。あさ美はゆっくりと目を開けると、照れたような笑いを浮かべてこくりと頷いた。
- 395 名前:sohma 投稿日:2002年06月21日(金)00時13分09秒
- 更新お疲れ様です。
久々の2人ですね。これで最後にはなって欲しくないですが…。
これからも楽しみにしてます。
- 396 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月23日(日)01時31分10秒
- >>395
sohmaさん、いつもレスありがとうございます。
この先2人がどうなるかは…
まだ秘密です。
ただ紆余曲折あるでしょうねぇ(w
さて、13話の後半に行ってみましょう。
- 397 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月23日(日)01時32分06秒
暖房のかかった室内から外に出ると、亜依の身体を冷え切った空気が包み込んだ。亜依は二三度身震いをすると、冷気をふるい落とし、それから降ってくる激しい雨を避けるため傘を広げた。亜依はほおっと息を吐いてしまう。真っ白な息が吐き出され、亜依はその熱を大事にするように、傘の柄を脇に挟み込み、両手を口前に持ってきて擦った。
「どや、結構美味かったやろ」
背後からつんくの声がして、亜依は振り返ると恭しく頭を下げた。つんくはカーキー色のロングコートをしっかりと着込み、口には葉巻をくわえて、それを吹かしていた。
「ごちそうさまでした」
「ええって。今日は亜依が俺の所に来てくれた祝いや。満足してくれれば俺かておごった甲斐があるってもんや」
会計を終えたアヤカがいそいそと出てくると、つんくはアヤカに何事か耳打ちをした。それを聞くとアヤカは携帯電話を手にその場を離れた。
- 398 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月23日(日)01時33分17秒
「さてと…今、車が来るからな。実はな、ビルの方に、お前の部屋を特別に作ってあるんや。家具とか世界中から集めさせたんやで。金はかかったがどれもこれもお前のためや。『奇貨は置くべし』ってな。ま、今夜はそこでゆっくり英気を養え。明日にはさっそく仕事をしてもらうつもりや」
「仕事‥ですか?」
「そうや。近頃、飯田の動きが慌ただしいからな。こっちが先手を打たせてもらうつもりや」
つんくは葉巻を口から離し、しげしげと見つめるとそれを捨てた。亜依は無意識にそれを目で追った。雨に濡れた葉巻はぼんやりと白煙を燻らせながら、最後の赤い光を放っていた。
「なに、簡単な仕事や。優秀な亜依ならちょちょいのちょいで終わるようなことやから、心配せえへんでも大丈夫やで。せやけどなぁ、飯田に与えるダメージは大やで」
つんくのくったくない笑顔に、亜依は気のない返事で答えるしかなかった。
「何や。そんなに情けない顔して。俺はお前に期待しとるんやからな。お前にとっても絶好の機会やないか。お前に見切り付けた飯田を見返してやるチャンスやろ」
- 399 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月23日(日)01時34分16秒
「せやけど、…中澤さんからあんまり銃を振り回すなって言われて」
亜依の口から裕子の名前が出た瞬間に、つんくの顔つきが変わった。つんくは険しい顔で亜依に詰め寄ってきたため、亜依は身を引いてしまった。
「今のお前の上役は誰や?中澤やないやろ。俺はお前を必要だから呼び戻したんやぞ。それを恩義も忘れて、前の監督者の言ったことを守ろうとするんかい。犬でも3日は恩を忘れんって言うで。それを会って一日も経たずに、口答えするつもりか?」
「い、いえ。うちはそんなつもりじゃなくて…」
「ほんなら俺の言うことが聞けるな?何もお前に死ね言うてるわけやない。簡単な仕事を片づけてくれ言うてるだけなんやからな」
つんくの激しい剣幕に、亜依はカクカクと首を振って答えた。つんくは満足したように亜依を見下すと、唾を路上に飛ばした。
亜依は早まる胸を押さえながら、ついつい裕子へと想いを馳せた。裕子は今どこで何をしているのだろうか。明日には香港に1人で戻ってしまうのだろうか。
- 400 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月23日(日)01時36分24秒
確かに日本に戻ってこれることは嬉しい。自分を不必要とした圭織を見返してやることもできるし、何もかもが揃ったこの土地が亜依の心を安らげてくれる。裕子には止めてもらいたくはなかった。
だが、だからと言って一言も自分を引き留めることなく、去られてしまうのも物足りない。今まで扱き使われてきたのだ。裕子の哀愁漂う顔を笑い飛ばしてやることぐらいしたかった。しかし、裕子は残念がる様子もおくびに出さず、最後まで憎まれ口で別れることになってしまった。それが亜依にとっては胸にもやもやとした嫌な気持ちを沸き立たせるのだ。
つんくを見ると、何かにやけた顔で携帯電話に向かって話をしている。相手は懇意にしている女だろうか。つんくの崩れきった顔が亜依の不信感を否応なしに掻き立てる。亜依は舌打ちをすると、水たまりを蹴り込んだ。
- 401 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月23日(日)01時39分19秒
「あんなおばちゃんのことばっかり、何で頭に浮かぶんやろ」
亜依は頭をぶんぶんと振って、自分の考えを払おうとした。
それなのに昼間、一緒に行った動物園のことが思い出される。妙なほどにはしゃぎ、亜依の背を押していた裕子の姿は今までに一度も見たことのないものだった。
長い間裕子と香港で一緒に生活をしてきた。最初はむかつくことばかりで、裕子とも喧嘩が絶えなかったが、いつの間にかそれが日常になり、軽口の冗談に変わっていくようになった。周りが変わったわけではない。ただ、亜依にとって裕子に文句をぶつけることが楽しめるようになってきていたのだ。裕子の方も真面目に取り扱わず、何かといえば関西風のつっこみよろしく頭を軽く叩く程度で事を収めてしまう。
口が裂けても「信用している」とか「気心が知れてる」とかいう言葉を裕子に使いたくないが、それでもやはり信頼していたのだろうか。それは彼女のことを亜依が好きであったということなのだろうか。
亜依は今、裕子が身近にいなくなって、初めてそんなことを考えた。
- 402 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月25日(火)15時20分46秒
- 亜依と裕子の絆はいいですね〜。
モー大変(1回)の卒業SPで加護が姐さんのことを「お母さんみたいでした」って言ってた表情を
おもわず思い出してしまいました。
- 403 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月26日(水)00時50分27秒
- >>402
レスありがとうございます。
実はモーヲタ歴が一年弱であるため、
モー大変の卒業SPは見てないんです。
でもきっと中澤女史は、モー娘の誰にとっても
厳しさと優しさを備えたお母さんみたいな存在だったんでしょうね。
- 404 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月26日(水)00時51分46秒
車は『デメテル』本部が入っているビルの地下駐車場に滑り込んだ。雨音が遠退き、ワイパーが窓を擦る音だけが耳に残る。うっすらと照らされる駐車場には停まる車もまばらで、運転手はエレベーターに近い空地にハイヤーを入れ始めた。
亜依は車中ずっと窓から外を見ていた。助手席に座ったアヤカがバックミラーで亜依を確認しながら、時々声を掛けてきてくれたが、亜依は生返事を返した。つんくは亜依の隣に座っていたが、興味なさげに首を左右に振っては自分の肩をほぐしていた。
「ほんなら、明日はよろしゅう頼むな」
アヤカが開けたドアから、つんくは身を出しながら言った。亜依はこくりと頷く。亜依は気分を入れ替えるように軽く息を吐き、それから車を降りようとしてドアの取っ手に手を掛けた。
- 405 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月26日(水)00時52分36秒
「おお、どないした?忘れもんでもあったんか?」
つんくの声が反響して聞こえてきた。亜依は不可思議そうに首を声の方へ回すと、我が目を疑った。そこには昼間別れたばかりの裕子がいた。
「ええ、ちょっと忘れもんがあって。夜分遅くにすみません」
「かまわへん。明日帰るんやからな。忘れもんされて、こっちが香港まで送るのも面倒やしな。それで何や。必要ならアヤカに取ってきてもらえばええ」
「いえ、‥…亜依はどこに居るんですか?」
「亜依なら、あっちの車に居るやろ。何や、亜依に何か渡したままやったんか?」
つんくの前に立った裕子と亜依の目が合った。裕子はいつもにも増して澄ました表情をしていて、亜依を見てもその表情は変わらなかった。亜依は目線をずらす。
「おおっ、亜依。中澤が何か忘れもんしたらしいんやが、お前何か返してなかったもんでもあるんか?」
つんくが手招きするため亜依は仕方なさそうに近づいていく。亜依は顔を落とし、薄暗いコンクリートの床を見つめながら歩く。こつこつと靴音が響き、一歩一歩の足取りが重くなっていくのを感じる。
- 406 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月26日(水)00時55分17秒
「中澤さん!」
アヤカの叫ぶような声が聞こえた。亜依ははっとしたように頭を上げる。裕子は近寄ってくる亜依には気も払わず、つんくに銃を突き付けていた。つんくも突然のことに顔色を変え、引きつった笑い顔で裕子向かって斜に構えた。
「……これは何の冗談や」
「手を上げてくれますか?うちは素人やから、変な素振りしたら間違って引き金引いてしまうかもしれませんから」
つんくはゆるゆると両手を上げる。裕子はアヤカを睨み付けると、アヤカも恐る恐る両手を小さく上げた。亜依は余りにも唐突なことに足を止めて、裕子の凶行に目を奪われた。
「つんくさんには悪いけど、これ返させてもらいますわ」
裕子はポケットから小切手を取り出して、つんくの鼻先に見せつけると、指を離した。ひらひらと小切手は舞いながら、コンクリートの上に落ちていった。
「やっぱり、うち、亜依を香港に連れて帰ります」
「ほんなら、どうしてこんな物騒なもんを突き付けてる?まるで強盗やな」
- 407 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月26日(水)00時56分38秒
「うちが亜依を返してもらいにきても、つんくさんは首を縦にふらんでしょ。せやからちょっと乱暴やけど、こういう手段取らせてもらいました。アヤカ、あんたも妙な真似せえへんほうが身のためやで」
つんくは鼻を鳴らした。裕子は銃をつんくの腹部に押し当てると、亜依の方を見た。亜依は困惑した表情を浮かべ、状況を把握しようと目をきょろきょろと動かした。
「亜依。うちと一緒に香港に帰ろ」
裕子の科白に亜依は身体を震わせた。
「ど、どういうことですか?うちが‥中澤さんと?」
「そうや。あんたは日本に戻ってきたらあかんの。うちと一緒に香港にいた方があんたのためなんよ。だから……」
「何でですか!何でうちが日本にいちゃあかんの。うちはずっと帰ってきたかったんですよ。そんなのに何も言わんで立ち去って、そんで急にそんな風に…」
- 408 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月26日(水)00時57分45秒
「つんくさんはあんたを道具としか使ってくれへん。うちはな、あんたをロボットにしたくないんや。ただ人を殺すだけのロボットなんかに。だってそうやろ、あんたみたいな年端もいかん女の子が銃なんか握って人を撃ち殺すなんて正気の沙汰やないんやで。あんたは普通に話ができて、普通に怒れるやないか。普通に冗談を言って、普通に悲しめる。それに普通に笑えるやないか!」
亜依はこれほどまでに裕子が感情的に叫ぶのを見たことがなかった。亜依の重たい足が一歩前に踏み出した。
「うちはなぁ、あんたなんか嫌いや。大嫌いや。文句ばっかりやし、人一倍食うし、人のことを三十路三十路言うしなぁ。せやけどな、うちはあんたをここに残して帰れへん」
「そんなん……」
亜依は足を再び止めて、裕子にきっと視線をやった。亜依の中で2つの心が揺れ動く。このまま裕子の胸に飛び込みたい衝動と、それを覆い尽くす黒い感情がせめぎ合い、亜依の脳裏を混乱させていく。
- 409 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月26日(水)00時58分21秒
「そんなん勝手やないですか!うちはあんたらに人を殺すように命令されたんや。うちは金になるって聞かされて連れてこられて、さんざん身体を弄られたあげく、出来損ないって分かると香港に飛ばして…。それを急にうちのことを心配したようふりで、またうちの邪魔をする。うちは日本に帰ってきたいだけやのに、日本で普通に暮らしてただけだったのに。それなのに勝手なことを‥」
亜依の言葉は最後まで続かなかった。言葉が無意識に生まれ、今まで溜められてきた不満が爆発したように亜依の身体を駆け巡る。脳は思考が滞り、ぼんやりとした夢見心地のような感覚になる。それでも裕子の悲しげな表情だけが、印象的に目に入ってくる。
- 410 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月27日(木)04時30分30秒
- おおおっとどうなっていくのか???
- 411 名前:sohma 投稿日:2002年06月28日(金)02時55分26秒
- 中澤さんが加護さんを連れ戻しに来るといいなと思っていたので少し安心です。
しかし加護さんはどうするのか…?
- 412 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時38分52秒
「…亜依。……っうぅ」
裕子が苦痛の声を上げた。亜依ははっとしたように裕子に目をやる。
見るとつんくが裕子の右手を捻り上げ、アヤカが裕子の手から銃を奪い取ったところであった。裕子の顔は痛苦と悔しさに表情を歪めていた。
「素人が目なんか離して感動的なご対面を果たしとる場合やないやろ」
つんくはより一層に力を入れて裕子の腕を締め上げた。裕子は歯を食いしばりながら、つんくの方へ顔を向けた。目には憎々しげな炎が宿り、腕を解こうと身を捩らせる。
「分かってるか?『デメテル』は組織やで。お前は最高指導者の俺に銃を向けたわけや。つまり、俺に対して造反したと見られても文句は言えへんはずやな。誰に頼まれた」
「うちは、うちの考えで亜依を返してもらいに来ただけや。誰かに頼まれて来たわけや……っつう」
「まるで去勢された犬のような言い草やな。子ども嫌いの中澤ともあろう者が、亜依のために銃持ちでここまで来たことを信じろ言うのか」
つんくは勢いをつけて裕子を突き飛ばした。裕子はコンクリートの上に身体を打ちつけた。つんくはアヤカの手から銃を引ったくると、それを裕子の眉間に照準を合わせた。
- 413 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時40分10秒
「飯田やな。飯田のヤツが亜依を香港に連れて帰れ言ったんやな」
「違う!うちは…」
「黙れ!どうやら有能で聡明な中澤女史は飯田にすっかり洗脳されたようや。青少年推奨のビデオ見せられながら第九でも聞かされたんか。ううん?」
つんくは見下すように冷たい視線を裕子にやり、鼻で笑った。裕子は立つことも許されず、じりじりと身を引く
「残念やけどな。内乱罪は重罪や。せやから俺が、ここで断罪したるわ」
つんくはトリガーに指を掛け、ゆっくりと引き金を引き始めるが、途中で思いとどまったようにその指を止めた。
「そうや、亜依」
つんくの唐突な呼び声に亜依はびくりと身体を震わせた。背けていた生気のない目をゆるゆると2人の方へと持っていく。
「お前が殺れ」
つんくの冷め切った口調で言った。
- 414 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時41分02秒
「…うち‥が‥ですか」
「そうや。中澤の報告やとお前は随分香港じゃ暴れてたそうやな。人を殺すことを屁とも思わない人間、まさにペルセポネーの鏡やないか。ぜひにともその冷酷非道のペルセポネーに内乱者を処理してもらいたいんや。そうすればお前の実力のほどを知ることができるし、中澤がいかに忠実に報告をおこなってか知ることできるからな」
つんくは銃口を裕子に向けたまま、亜依の方へと歩み寄った。裕子はそれを隙と見て立ち上がろうとしたが、雷音のような銃声がし、コンクリートの上で火花が散った。
「お前はショーの大事な主役やぞ。勝手に舞台下りることは許さへんで」
つんくはそう言うと、銃を亜依の手に握らせた。
亜依はまじまじと自分の手の中の銃を見た。
コルトパイソン3インチモデル。
裕子のお気に入りの銃で、亜依も何度か撃とうとしたことがあるが、そのたびに裕子に手を叩かれた。リボルバー式で、しっくりと亜依の手に収まる。命中性は低いのだが、殺傷力は高い。急所に当たればひとたまりもないだろう。
- 415 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時41分57秒
つんくは亜依が構えないことに苛立ったように、亜依の腕を無理矢理掴むと銃口を裕子へと向けさせた。亜依は困惑したようにつんくを見るが、つんくは何も言わずに顎をしゃくって裕子を指した。
「‥…亜依」
裕子は詰まらせながら、掠れた声を上げた。
「どないした?有能なペルセポネーなんやろ。飯田のことを見変えすんやなかったのか?」
つんくが熱を持った手を亜依の両手に添えた。亜依は憐れむように裕子を見やる。それから再度つんくに目で訴えるが、つんくはその視線を無視した。その代わりにぎゅっと亜依の手に力を加える。亜依の指先が引き金を軽く引き始めた。
「‥お前はそれでええんか。…お前は圭織にもつんくさんにも好きなように使われて、それで人を殺し続ける人生を歩き続けるつもりなんか。うちは……」
亜依は叫び声を張り上げた。銃声がその声に消され、地下駐車場には絶叫が響き渡る。裕子は低いうなり声を上げると、右肩を押さえて、地面に跪いた。つんくは満足したように亜依を見ると、自分の手を離した。
- 416 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時44分29秒
「今更なんやねん!今更戻ってこい言うなんて。どうしてあの時につんくさんに小切手突き返して、うちのことを必要って言ってくれなかったん?うちのことを必要としてるんならあの時そう言ってくれれば…。それなのにお金を選んでおいて、何で今更……」
亜依は狂ったように引き金を引いた。続けざまに轟音が響いたが、それは全て裕子の側をかすめて行くだけで、どれ一つ命中しなかった。
「あの金はうちをつんくさんに売り渡した金やろ。ペルセポネーの、人間兵器のうちを売って得た金やろ。うち、また捨てられたんやと思った。中澤さんに捨てられたんやと思ったんや。せやからうちのことを必要としてくれているつんくさんに……」
撃った弾が逸れて、出入口付近のコンクリートを削った。アヤカが低い悲鳴を上げると、慌てたようにビル内に駆け込んだ。
「何や、亜依。お前は的確に人を殺すことができるんやろ。無駄に弾を撃ってどないする。やるんなら一撃であの世に送らな」
つんくが葉巻を取り出して、それを口にくわえた。たっぷりと時間を使いながら火を付け、それから楽しむように煙を吐いた。
- 417 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時46分32秒
「…‥うちには…も、‥もう」
亜依が銃口を下げようとした。その手をつんくは無理矢理に掴むと無理に裕子に照準を合わせさせた。緊張に顔を強張らせた裕子の荒い呼吸が聞こえてくる。
「冗談で言ってるんやないやろな。お前は特別なプログラムを受けた最初のペルセポネーやで。裏切り者ぐらい始末できへんでどうする。それともお前はやっぱり出来損ないやったんか。飯田の言うように無能なヤツやったんか」
つんくは苛ついたように亜依の手からコルトパイソンを奪い取ると、躊躇いなく裕子を撃った。裕子の頭ががくっと前後すると、呻きながらそのまま前に倒れた。吐血をして、灰色の床に鮮血が散った。苦しげに裕子は指を動かしながら、どうにか亜依の方を見ようとしている。
亜依は頭に両手をやると、混乱をさらに掻き回すように髪を掻きむしった。表情はすっかり崩れ、目は涙をこぼすぐらいに見開かれている。唇は血の気を引き、わなわなと小さく震えていた。言葉を持とうとしても、それが声にならず、恐れたように血に覆われた裕子に見入った。
- 418 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時47分18秒
「後はお前が始末せえ。そんぐらいできな、お前を呼び戻した意味がない。それができへんのやら、お払い箱や。お前には中澤と同じ末路を辿ってもらわなあかんことになるやろうな」
つんくはコルトパイソンを亜依に押しつけると、一仕事を終えた後のように深々と煙を吸い込んだ。
亜依は真っ直ぐに歩くことさえ適わない足でどうにか裕子に近づくと、指を引き金に掛けた。
「…あ、亜依。…う、うちは‥あんたを…なぁ」
亜依は震える手で銃を裕子に向けた。 だが、徐々に亜依の目には裕子の姿が見えなくなってきた。目の前に転がるのは以前のような歴然とした裕子の姿ではなく、自分を見捨て、組織に逆らい、そして死んでいく。そんな哀れな女性であった。
亜依は突然にこんな女に銃を向けることを拒んでいた自分を恥じた。どうしてこんな自分を捨てた女を守ろうとしたのだろう。どうして自分よりも金を選んだ女に未練なんかを持っていたのだろう。亜依の心はどす黒い闇が生まれ、その闇は止まるところを知らずに広がっていく。
這い蹲る裕子の前に立ったとき、亜依から迷いが消えた。
- 419 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時48分33秒
「……結局あんたもうちのことなんかどうでもよかったんやな」
亜依はぼそりと呟いた。
裕子は何かを言ったが、それは声にならずに、空気がすうすうと音を立てただけであった。
亜依はハンマーを指で上げると、裕子の血で濡れた左胸に向かって銃弾を放った。
裕子の身体が僅かに跳ねる。苦しげに最後に顔を上げるが、その目はゆっくりと閉じられ、そして裕子は重力に身を任せるように冷たいコンクリートの床に横たわったままになった。亜依はそれを冷たい目で見つめた。
「よっしゃ!ようやったなぁ。これで安心して仕事を任せられるっちゅうもんや。このけったいな死体は早々に片づけな縁起悪いわ。おい、アヤカ、誰かに命じてさっさと片づけさせとけな」
つんくがにやにやしながら亜依の肩を叩くと、血池に葉巻を投げ捨て、そのままビルの中へと消えていった。
- 420 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時49分12秒
亜依はしばらく放心したようにぶらんと両手を下げたまま、立ちすくんでいた。
亜依の手からコルトパイソンが落ちた。がちゃんと金属が鈍い音を立てた。
亜依は力の抜けたように両膝をつく。薄赤い膝下スカートが血に濡れ、より赤く染まる。足にも裕子の血が付き、べっとりとした気持ち悪さがまとわりつく。亜依は裕子の身体を確かめるように両手でまさぐった。まだ裕子の身体は温かく、柔らかかった。その赤く染まった顔は、ただただ静かであった。
亜依は掌を見る。どろりとした血が、亜依の腕に流れてきて、一筋の赤い線を描き出す。その手を亜依は自分の顔に擦り付ける。唇は再び震えだし、感情が爆発したように裕子の身体に抱きついた。泣きたいのに涙が出てこない。冷たいコンクリートの壁に囲まれた地下駐車場に、亜依の絶叫だけがいつまでも響いた。
- 421 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時50分24秒
あさ美はもぞもぞと身体を動かすと、隣で安らかな寝息を立てているひとみの邪魔をしないように、身を起こした。少々ぼんやりとした頭に手をやりながら、高速で頭脳を回転させ始める。
まだ雨は降り続いているようで、激しい雨粒がそこら辺を叩き回っていた。それに混ざるように新聞配達夫のバイクが立てるエンジン音も聞こえてくる。
あさ美は暗闇の室内で何度かまばたきをして、目を慣らした。やがて徐々に慣れてくるとあさ美は両手で髪の毛を整える。ベット横のテーブルに置かれた時計を確認すると、夜明けまではまだ時間があった。それから横に眠っていたひとみに目をやる。
つい先ほどまでひとみは横になりながらも、あさ美のことを探るように起きていたようだ。何度も寝付けないように身体を動かし、その度にあさ美は身を縮めて、自分の気配をできる限りひそめて、寝たふりをした。そんなことが何度かあり、ひとみが寝息を立て始めても、安心できずに、あさ美はベットの中でじっと身を丸くしていた。
- 422 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時51分12秒
あさ美は注意をしながらベットから下りると、ずれた掛け布団をひとみに掛け直した。二度三度身体を伸ばしてから、足音が立たないように自分の服がまとまっているタンスを開ける。あさ美は服を選定する様子もなく、上に押し込まれたものを急いだように着込むと、奥の方に手を伸ばし、自分の愛器ワルサーPPKを取り出した。
「…う‥ん」
不意にベット上からひとみの声が聞こえ、あさ美は肩を上げてゆっくりと見やるも、どうやら寝返りを打っただけのようであった。あさ美は弾倉の銃弾を確かめ、換えの弾倉を数個ポケットに乱暴に詰め込むと、ワルサーを内ポケットに突っ込んだ。
それが済むと音を立てないように寝室を出る。用意をしておいた便せんを取り出して、それをリビングの硝子板のテーブルに置いた。それからあさ美はゆっくりと室内を見渡すと、玄関口へと向かっていく。
- 423 名前:第13話 Cage(後編) 投稿日:2002年06月29日(土)01時52分07秒
玄関の鍵がガチャリと大きな音を立てたため、あさ美は不安になって奥を覗くも、ひとみの耳にまでは届いていないようであった。あさ美が玄関を開けると、雨音が否応なしに耳に入ってくる。あさ美は傘を持っていこうかどうかを迷ったが、結局止めた。コートのフードを目深に被ると、あさ美は最後に名残惜しそうに室内に目をやり、それからゆっくりと玄関を閉めた。
「‥さようなら」
あさ美は二度と自分で開くことのない玄関に向かって呟くと、誰もいない静かな廊下を歩きだした。
To be continued
- 424 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月29日(土)02時15分55秒
ようやく大量更新で
第13話「Cage(後編)」を終わらすことができました。
残すところ4話!
最後まで一応の流れはできているのですが、
まだ書く方が追いついていない状態です。
ちょっと更新に時間はかかりますが、
どうぞ長い目で見守って下さい。
第14話「別れ」は七月の中頃更新予定です。
タイトルから想像してもらえばどんな話かは…。
取りあえずもう少しお付き合い下さい。
- 425 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月29日(土)02時21分44秒
>>410
レスありがとうございます。
こんな感じになってしまいました(w
>>411
sohmaさん、レスありがとうございます。
中澤と加護はこんな形でまとめました。
次の話にもつながっていきますので、どうぞお待ち下さい。
- 426 名前:三文小説家 投稿日:2002年06月29日(土)02時26分04秒
- ショートカット
>>3-44 番外編「犯罪者は国境に逃げる」
>>48-97 第8話「闇より引く手(前編)」
>>103-170 第9話「闇より引く手(後編)」
>>178-228 第10話「雪の降る街で」
>>232-283 第11話「過去に手向けの花束を」
>>290-354 第12話「Cage(前編)」
>>361-423 第13話「Cage(後編)」
- 427 名前:sohma 投稿日:2002年06月29日(土)04時40分18秒
- 第13話終了、お疲れ様です。
しかし、なんとまぁ…。加護さんと中澤さんの場面はちょっと予測できなかったです。
続きも楽しみにしています。
- 428 名前:くわばら。 投稿日:2002年06月29日(土)05時26分41秒
- 更新お疲れ様です。
一体全体、今後どうなっていってしまうのでしょうか…
紺紺も気になりますが、あいぼんも…。
14話も楽しみにしております。
- 429 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月07日(日)01時46分34秒
- APSっていうのは実際には存在しない銃なのですが…
わかっていらしたらすいません。当方銃マニアで気になったもので…
- 430 名前:名無し 投稿日:2002年08月04日(日)19時32分27秒
- 保全します
- 431 名前:三文小説家 投稿日:2002年08月06日(火)01時41分07秒
ずいぶんと間が開いてしまって申しわけありません。
本来ならば予定通り七月の半ばから更新を始めるべきなのですが、
まだ先の話が脱稿していないのです。
「石橋は叩いても渡らない」をモットーとしている私としましては、
ある程度書き溜めてから更新をしたい。
しかし一年近く経つに至って、筆が止まってしまった次第です。
そのためもう少しお待ち下さい。
本来ならば七月末に言うべきだったのですが、
モー娘に色々とあり、私自身にも色々とあり、心ここにあらずの状態で、
>>430さんが保全して下さる状況にまで至ってしまったわけです。
(名無しさん、保全ありがとうございます)
まだしばらくは更新できそうもありませんが、
取りあえず八月末日ぐらいを目標にがんばるつもりです。
長い目で見守っていただけると幸いです。
- 432 名前:三文小説家 投稿日:2002年08月06日(火)01時52分12秒
>>427
sohmaさん、レスいつもありがとうございます。
良い意味で予測できないシーンであったならば、作者冥利に尽きます。
もうしばらくお待ち下さい。
>>428
くわばら。さん、レスいつもありがとうございます。
どんどんと話は重くなっていきますが、
どうぞ今しばらくお待ち下さい。
>>429
レスありがとうございます。
分かってませんでした(w
実はどこかでライフルを出したいなぁ
って思ってエアガンのカタログ見て出してしまいました。
勉強不足で申し訳ありません。
今後こんなことがないようにできれば…
ともかくご指摘ありがとうございました。
>>430
名無しさん、保全ありがとうございます。
- 433 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月17日(土)12時48分45秒
- 色々がんばってください。
もう少しなら待つから(w
- 434 名前:三文小説家 投稿日:2002年08月26日(月)00時26分37秒
長らくお待たせいたしました!
ようやく更新をすることができます。
レスを下された方々、長々とお待ちになった方々、
本当に申し訳ないと思っています。
ただ、前にも言ったように書き始めたからには終わらせる。
これが最低限の責任だと思っていますので、
更新は遅くなるとも必ず終劇まで持って行くつもりです。
これからもゆっくりなろうとも変わらずのご愛好下さいますように。
それでは第14話「別れ」をお届けします。
>>433
レス、ありがとうございます。
もう少し待っていただいて嬉しいです(w
これからもどうかよろしくお願いします。
- 435 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月26日(月)00時28分35秒
雨は激しさを増して、降り止むことなくコンクリートの道を濡らし続けた。空は灰色の雲に覆われ、雨粒はそこから途切れることなく落ちてくる。どこかで木の枝がしなり、雨宿りに飽きた鳩が飛び立っていく羽音が聞こえてきた。公園の噴水も誰に見られるわけでもないのに、大量の水を吹き上げていた。遠くでは車のクラクションが焦るように、断続的に響いてくる。
誰も通ることのない雨の公園で、あさ美は傷だらけの楡の大木の下で三角座りをしながら、雨を避けていた。すでに着てきたコートはぐっしょりと濡れ、フードからは止め処なく染み込んだ雨が垂れてきた。眉やまつげにも水がまとわりつき、あさ美はそれを落とすように何度もまばたきを続けていたが、やがてそれも止めて目を伏せたままになった。
- 436 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月26日(月)00時29分58秒
もうどれほど時間が経ったのだろうか。
あさ美は顔を上げて、全てを覆い尽くした雲の層を仰ぎ見た。フードがぱさりとあさ美の頭から落ちる。風が吹きさらす雨粒があさ美の顔に当たり、まるで涙のようにあさ美の頬を濡らしていく。朝からずっと枯れきった芝生の上に座っていたため、あさ美のロングスカートはすっかり泥に汚れ、随分と水を吸い込んでいた。
頭を膝に押しつけた。長くなってきた髪がうざったく、そこから垂れる雨水があさ美の気持ちを苛立たせた。コートの内ポケットに入ったワルサーPPKの堅い感触が膝に当たる。今、自分はこの銃器と2人だけであるという寂しさが自然と込み上げてくる。
- 437 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月26日(月)00時30分43秒
「…これからどうするの?」
あさ美は胸に手を当てて、自分に力無く尋ねた。
もうひとみの所には戻れなかった。
あさ美は自分をいつの間にかひとみにとって必要な存在であろうと思えるようになっていた。自分自身を失ってしまってもひとみは優しく抱擁してくれた。何も過去のことを聞かずに自分自身を認めてくれた。だから信頼もしていたし、徐々に心を開いていけた。
だが、自分はひとみの大切な人を奪っていた。
知らなかったこととは言え、犯した罪は消えることはない。本来ならばすぐにでもひとみに全てを語り、この命を差し出すのが正しい選択なのかもしれない。
しかしあさ美にはやらなければならないことがある。自分の手で『デメテル』にも圭織にも自分が変わったことを証明したかったし、間違っていることを教えたかった。そしてその犠牲者でもある愛を自分の手で救いたかった。
「……わがままね、私は」
あさ美は薄く微笑むと胸元を撫でた。全てが終わるまで、ひとみは待ってくれているだろうか。
私のことを、そしてこの要らない命を……
- 438 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月27日(火)01時47分00秒
「ずいぶんと濡れとるやないの。風邪引いちゃうんとちゃう?」
軽く芝を踏む音がして、歯切れのよい関西弁が、あさ美の頭上から降ってきた。
あさ美はのっそりと顔を上げて、その声を掛けてきた人物をぼんやりと眺めた。見覚えのある顔であった。愛らしい顔つきに、あさ美よりも僅かに低い身長。髪を頭に団子にして乗せ、小悪魔のような笑みを浮かべて、傘もささずに立っていた。紺色で腰辺りのジャンパーに、短いチェックのスカートを着けていた。剥き出しの足は、寒さからかほんのりと赤みが差し、ソックスにもスニーカーにも泥が跳ねて汚れていた。
「久しぶりやな。まさか、もう一度会えるなんて思ってなかったわ」
「……亜依‥さん……?」
亜依は雨に濡れた頬を拭うと、ニコリと柔和に微笑んだ。
あさ美は立ち上がろうとしたが、亜依の気配にそれが容易でないことを知った。その表情とは対象的に、彼女の全身からは計り知れないほどの殺気が溢れ出ていた。
- 439 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月27日(火)01時48分11秒
「うちのこと、覚えてくれたんや。光栄やわ」
目を細めながら、亜依が冗談めかしたように言った。だがその目は赤く染まり、ぎろぎろと落ちつきなく動いていた。頬も痩せこけ、踏む足取りもあやしかった。
「……どうして、あなたが…」
「残念やけど、あんた、かなりの人気もんらしいわ。つんくさん側も、飯田さん側もあんたのこと血眼になって見張ってるんよ。ま、うちが全部お片づけしといたけどな」
亜依はジャンパーの内側に手を突っ込むと、中から銃器を引き出した。重々しいデザートイーグルは雨に打たれながらも、銀色の鈍い光沢を放っていた。
あさ美は亜依から目を離さずに、ゆっくりと立ち上がった。亜依は余裕あるようにそれを許した。あさ美は怒気を含んだ口調で亜依を問いただした。
- 440 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月27日(火)01時49分16秒
「…私を見張ってた人を、殺したんですか……」
「感謝されるんならいざ知らず、まさかそんな顔されるとは思わなかったわ。うちがテストしてやったんよ。ちゃんと見張りできとるかどうかなって。残念やったけど、どいつもこいつも役立たずやったから、全滅やけど。今度つんくさんにちゃんと言っとかなきゃ。ちゃんと役に立つのを集めた方がいいでってな」
亜依が引きつった声を上げて神経質そうに笑った。
「…何をしてきたわけでもないのに……」
あさ美がきっと睨み付けると、亜依も侮蔑の表情を浮かべ肩をすくめると、あさ美の額に銃口を向けた。あさ美はたじろぐこともせずに言葉を続けた。
「……無益に人の命を奪う権利なんて誰にも無いはずです」
「あんたも存分に人殺しやっといて今更よう言うわ。あんたかて、うちとどこも変わらへんやろ。まぁ、もっとも、あんたはうちと違って飯田さんから好かれてて、切り札にされとるけどな」
亜依は自虐的な科白を吐くと、あさ美を鋭い目で射抜いた。だが、すぐにその表情を緩めて、相変わらずの猫なで声で言葉を続けた。銃口は自然と下がり、一時張りつめた殺気は鳴りを潜めて、辺りの空気は静かになった。
- 441 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月27日(火)01時50分14秒
「あんたとこんな不毛な議論しにここに来たわけやないんよ。今日ここに来たんはあんたに最後通告しにきたんや」
「…最後通告?」
「つまり飯田さんの切り札のあんたが、つんくさんの手伝いせえへんかっちゅう割のいい話しや。うちにしてみれば、あんたと遊ぶことできへんからあんまり割がいいって言えへんけど。どう?」
「…私は誰の言いなりになるつもりもありません」
「はん、あんた一人で『デメテル』を壊すことができる思ってるん?世界中に足伸ばしてる組織やで。そんな物騒なこと考えるよりも、つんくさんから金もろうて、面白可笑しく暮らせばええやない。うちらは清掃夫と変わらんのよ。邪魔な人間を片づけていくだけやもん。ほんなら、大枚払ってくれる依頼人に従えばええやない」
無言であさ美は悲しげに視線を落として、憐れむように亜依を見た。その視線に苦々しげな表情を浮かべた亜依は、爪先でぬかるんだ地面を穿り返した。
- 442 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月27日(火)01時51分29秒
「あくまでもあんたは最後まで良い娘ぶるんやな。残念やけど、うちはこの世を金で渡るように仕込まれたんよ。有能な指導者にな。残念ながらその当人は、最後に欲よりも人情取って、三途の川に行ってもうたけどな」
亜依が狂気を含んだ笑みをこぼした。亜依の眠らせていた殺気が鎌首擡げて、辺りの雰囲気が凍り付く。まるで身体を貫くように刺々しく、全身を駆け巡る冷たい気配に、あさ美は二三歩後ずさりをした。
香港で対峙したときは、亜依の気は悪戯心に満ちた無邪気なものであったが、今眼前に立つ亜依が発している気配は、あさ美にも覚えのある、全てを飲み込もうとする闇の匂いだった。雄々しく、乱暴な狂気に溢れ、それなのにどこか悲しげだった。
あさ美の内にある闇も、まるで引き寄せられるように目覚めようとして、あさ美はそれを無理に押さえつけるように自分の胸にぎゅっと拳を当てた。苦悶に眉をひそめ、暴走を抑えようと必死に精神を集中させる。
「うちは絶対に上手くいくはずないって言ったんやけどなぁ。つんくさんは良いカードが欲しくってたまらない。贅沢なお人や」
- 443 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月27日(火)01時52分56秒
亜依は銃口をあさ美に向け直す。二人の間には細糸のような雨が絶え間なく通り抜け、耳にざわつきがまとわりつく。さっと冬の冷たい風が走り、二人の髪が風に踊り、雨粒が顔を打った。それでも二人は瞬きもせずにお互いを見つめ続けた。
「ええよ、うちはそっちの方が楽しめるしな。あんたが片づいたら、次は飯田さんや。……そんでそれが終わったら香港戻って、中澤さんとまた二人で稼ぎまくろ。もし、つんくさんがうちを手放さなかったら、つんくさんかて殺しちゃえばええんやもん。全部壊して、全部殺して、そんで全部真っ白にしてしまえばええんやもんなぁ」
亜依は半開きの口でぼそぼそと口ずさみながら、一人でくすくすと忍び笑いをした。目はどこか虚ろで、あさ美の姿をしっかりと捉えて無かった。それでもデザートイーグルの銃口はあさ美の眉間をしっかりと狙い定めていた。
あさ美は左拳を胸に当てながら、素早く右手でワルサーPPKを引き抜くと、それを亜依に向けた。あさ美の動きにぴくりと亜依が肩を震わせ、にんまりと笑うと、引き金を引いた。
- 444 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月27日(火)20時50分13秒
- ああ・・・待った甲斐があった。
愛してます!この小説。
- 445 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月27日(火)23時11分49秒
- 1から一気に読ませていただきました。
こんなに良い作品があったとは…。
元ネタのやつもかなり好きなので これからの展開が楽しみです。
- 446 名前:三文小説家 投稿日:2002年08月28日(水)00時56分30秒
>>444
レスありがとうございます。
愛されてしまいました(w
更新はゆっくりになってしまいますが、
どうぞ楽しんで下さい。
>>445
レスありがとうございます。
これからますます元ネタの踏襲みたいな感じになってしまいますが、
どうぞこれからもよろしくお願いします。
- 447 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月28日(水)00時57分23秒
ひとみは吹き荒れる雨を鬱陶しそうに、顔を手で拭いながら走った。髪も服も全てがぐっしょりと雨水に濡れ、道行く人はひとみの様子を興味深げに、気味悪げに見送った。誰かがひとみに対して肩がぶつかったと罵声を浴びせるも、ひとみは耳にも入れずに人通りの多い、歩道を人の波をぬうように進んだ。
目覚めたとき、隣りで眠っているはずのあさ美の姿はすでになかった。ひとみはぼんやりと無人のベットを見つめていたが、すぐに弾かれたようにタンスに飛びつき、あさ美の服が入っている段を開けた。中に入っているはずのあさ美の銃、ワルサーPPKが無かった。横のクローゼットも開けてみる。弾倉を確認してみると、ワルサー用の弾倉がいくつか消えていた。それにあさ美のコートも無く、ただハンガーだけが空虚にぶら下がっていた。
- 448 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月28日(水)00時58分30秒
ひとみは茫然としたように、クローゼットの前で立ちすくんでしまった。リビングを見てみるも、そのあさ美の姿は見受けられず、ただ、テーブルの上に白く宛名のない封筒が丁寧に置かれているだけだった。ひとみはその封筒を手に取り、しばらく眺めていたが、それを開けることもなく、くしゃくしゃに丸めるとゴミ箱に放り、携帯電話を取り上げた。
長いコールの末、ようやく出た梨華は当然不服の声を上げた。だが、ひとみはお構いなしに、あさ美の居場所を探すようにと梨華に立てしまくると、一方的に電話を切った。すぐに電話が音を立てたが、ひとみは無視をして、素早く着替えた。それから自分のベレッタM84を手にすると、弾倉を確認し、それをジャンパーの内ポケットに突っ込み、部屋を出てきたのだ。
ひとみは走りながら後悔をしていた。本来ならば、昨夜、あさ美を問いつめるべきだった。明らかにあさ美の様子はおかしかったし、ベットの中でもあさ美の目は常にこちらを伺っていた。
- 449 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月28日(水)00時59分51秒
だが、ひとみにはどうしても問うことができなかった。愛と名乗る少女の言ったことを。
『矢口真里さんは、あさ美ちゃんの実験台として殺されたんですよ。あさ美ちゃんが一流のペルセポネーになるために…』
ペルセポネーという存在がどんなものであるかなど、ひとみには分からなかった。だが、あさ美が真里を殺害したという愛の言葉だけが、その軽やかな笑い声と共に、ひとみの耳奥に何度も響き渡った。
ひとみは目を剥いて愛を問いつめたが、彼女はひとみも知らなかった真里の過去を語り、真里が『デメテル』の飯田圭織と共に、人間実験を行っていたことを教えた。だが、それに反対をした真里の存在は組織から危険視され、その実験体だったあさ美が、実験と称する真里の処刑を実行したというのだ。
ひとみは怒りも忘れて、眼前の少女が語る、不可思議な話に耳を取られた。余りにも現実離れをしていて、想像の範疇を超えていた。ひとみの脳裏をぐるぐると愛の話が駆け回った。気が付くと少女はおらず、あさ美が不思議そうな顔つきで、どこか疲れたような表情で部屋にいた。
- 450 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月28日(水)01時02分57秒
何度もひとみはあさ美に尋ねたかった。当人が望んで殺したのではないということは分かっている。だが、聞きたかったのだ。
あなたが矢口さんを殺したの、と……。
もしあさ美が首を縦に振ったら、あたしはどうするのだろう。
ひとみはふっと足を止めて、濡れた顔を指で拭った。人波は逆方向に進み、誰彼もひとみのことを怪訝そうに眉寄せて見た。ひとみはそんな視線に気づくこともなく、立ちすくんでしまった。
『あの娘は自分のしたことが分かっているんだよ。だから逃げたんだ。殺されるのが怖くなって…。ならば、あんたは追撃者になって、あの娘を地の果てまで追いつめて、あなたの復讐を遂げればいいじゃない』
ひとみは唐突の声に振り返った。道行く人で誰もひとみに声を掛けてくるものはいない。ひとみは空耳かと乾いた唇を舌で舐めた。しかし、ひとみが再び歩を進めようとすると、声がひとみの耳に突き突き刺さった。
- 451 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月28日(水)01時03分43秒
『あなたはずっと復讐を胸に抱いてきたんだろ。ならば、あの娘を殺せば、あんたは救われるんだよ。ようやく嫌な裏の仕事から足を洗うこともできる。もう何にも束縛されることなく、稼いだ金で自由に生活することができる。最後の仕事に相応しいじゃない。あなたの心を裏切ったあの娘を始末できるだなんて。しかも追ってきた復讐の相手だっただなんて。……それとも一緒に生活してきて、安っぽい感情が生まれちゃった?』
人無き声はざわざわと楽しげにからかうような笑い声を上げた。ひとみは自分の耳を押さえるも、その笑い声は消えない。ひとみは眉間に力を込め、耐えるように歯を激しく摺り合わせた。
「私は!…私は……」
ひとみの声に周囲の人たちが振り返り、足を止めた。しかし、すぐにそれらの人たちはひとみを避けるように歩いていってしまった。
- 452 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月28日(水)01時05分13秒
『結局、誰もあなたの側なんかいられないんだよ。あんたは人の死をばっかりを招いて、あんた一人だけが悪運に助けられながら生き残っていく。寂しがり屋のあんたの部屋はいつも空っぽ。自分の存在を認めてくれる人と歩いていきたいのにね。不運なあんたは一生そんな人に出会えない。だったら自分以外の人間なんて必要ないだろ。安穏な生活なんて望まないでどんどん人殺しを続けて人の血を吸い続ければ?手始めにあの清純な顔して裏切った小娘を殺してからさぁ』
ひとみは耳元で身体の芯まで凍るような気配を感じた。ひとみの身体は重々しさに捕らわれ、内から沸き上がるもの悲しい黒い感情は、内蔵を突き破りそうなほどに駆け巡った。
ポケットから電子音が聞こえ、ひとみは我を取り戻した。全てがばっと姿を隠すように消え失せたが、それでも冷たい感覚がひとみの身体にまとわりつくような残った。
ひとみはゆるゆると携帯電話を引き出すと、それを耳に当てた。それは梨華からの電話だった。
- 453 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時01分23秒
広い室内には堅い音がリズミカルに響き渡った。つんくは苛立ちを表すように指先で樫の机を叩きながら、ソファーに座る圭織と愛に何と切り出そうかと、会話の糸口を探した。
愛の方は無表情であるが、圭織は相変わらず張り付いたような笑みで、つんくをにこにこと微笑みながら見ていた。アヤカが居づらそうに紅茶を二人の前に出すと、いそいそと室内を出ていってしまった。ほんのりと立ち上る湯気が、甘い香りをかもし出していた。
「……せっかくのお茶や。高かったんやでぇ。口を付けたらどうや。毒は入っとらん」
張りつめた空気を打破しようとつんくは冗談めかして言った。圭織は意に介した様子もなくカップを手に取り、それを口に付けた。愛が不安げに圭織の方へと視線を送る。だが圭織がそっとその味を堪能しているのを知って、自分もようやくカップを手に取った。
- 454 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時02分23秒
「それで?今日は何の用や。ここんとこ、お前からの連絡が多いなぁ。何か企んでるやないやろな」
皮肉を交えながらつんくは、黒椅子の背もたれに身を預けた。高層階の窓から見える東京の空は、重圧な雲に覆われ、まるで夜のような暗さである。先ほどから激しさを増してきた雨が、絶え間なく厚手の硝子窓を叩き続けている。
圭織はカップをテーブルに戻すと、細めた目でじっとつんくのことを見つめた。つんくはその何かを伝えようとする目に寒気を感じ、圭織から目を離した。
「冗談や。俺とお前は同じ商売仲間やからな。お前は陶酔者を集めて、俺がそいつらから金を分捕る。どっちかが裏切るなんて行為は、商売に悪影響を与えることや。これからも仲良うやっていかなあかんわな……」
「今日は、お別れを言いに来ました」
つんくの言葉など耳に入れた感のない圭織が、ゆったりとした口調で言った。つんくは自分の言葉を飲み込み、ぽかんと間の抜けた顔で圭織を眺めた。圭織が憫笑を浮かべた。
- 455 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時03分23秒
「『デメテル』はペルセポネーを育て上げる組織でした。つんくさんの商才のおかげで私の立てていた計画よりも早く有能なペルセポネーを育成することができました。この点は深く感謝をしています。ですけれど、勘違いをして欲しくないのは、『デメテル』はただの宗教団体ではないということです。ましてあなたのお金儲けの道具でもありません」
「ちょ、ちょっと待てや。お、お前、今、何て言ったのか自分で分かってるんか!お前、ここまで成長した金蔓を捨てようって、正気の沙汰やないで」
「『デメテル』は元々、ノアの箱船です。ただ純粋に、ただこの世の過ちを正したいと思っている人々のための組織として成立させたものです。けど、つんくさん。あなたはそれらの人々を食い物として、私腹を肥やし、自分の利権を伸ばしてきました。私もそれを利用させてもらっていたため同じ業は背負っています。そのことは認識していますし、今後その罪は償っていくつもりです」
「なっ…」
つんくは言葉を失ったように息を飲み、それから斜に圭織を睨み付けた。
- 456 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時04分17秒
「お前、自分で何言ってるか分かってるんか?多少のことには目をつぶってきたぁ?お前、『デメテル』をここまで成長させてきたのは誰のお陰やと思ってるんや!利用?随分と笑わせてくれるやないか!」
つんくは動揺する心中を抑えながら、早口で罵った。圭織はつんくの焦燥を見切っているのか表情は変わらない。
「それもここでお終いです。私と共に世界を清浄していくことを望んだ信者は、すでに『デメテル』を離れています。私もこの『デメテル』は全てつんくさんにお譲りするつもりです。後はこの抜け殻をあなたの好きなように使って下さい。お金儲けがしたければ、人を騙して。権力が欲しければ、偽物のペルセポネーたちを行使して。これからは私に気兼ねなく」
圭織が可笑しそうに口を緩めると、カップを再び手に取った。
「ええかげんにせぇ!信者たちはお前をカリスマとして崇めてるんやで。お前がいなくなればこの組織かて成りたたん。そんなんはお前のその少ない頭かて分かってるやろ!それは俺に対する嫌がらせか」
- 457 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時05分41秒
「嫌がらせなんて。共に『デメテル』を育ててきた半身に対してそんなことをするつもりはありませんよ。ただ私は私の思う道を歩くだけです。『デメテル』はペルセポネーという娘を産み落としました。娘は成長すれば、後は独り立ちをするだけです」
圭織が愛の方を見ながら言った。愛は悦ばしそうに圭織の方を見てかぶりを振った。一方つんくは頭に血が上ってしまい、むっすりと口を閉じて圭織のことを憎々しげに睨んだ。
「……何をするつもりや。お前は、ここを出て何をするつもりなんや」
「さぁ?何をするつもりなんでしょうね」
圭織は謎かけを楽しむように微笑んで見せた。
「…………俺を殺すつもりなんか?」
つんくは机の引き出しの中に気付かれないよう手を差し入れた。指先に硬い感触をつかむと、つんくは動悸を押さえながらそれをきつく握った。
「安心して下さい。つんくさんには恩義がありますから、邪魔さえしなければ殺すことはしません」
圭織は飲みきった白磁のカップの端を指先で拭ってからテーブルに置くと、やんわりとした目つきでつんくに見据えた。
- 458 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時06分39秒
つんくは引き出しから銃をゆっくりと気付かれないように引っ張ってくる。と、頭に堅い感触を覚えた。つんくの手は止まった。いつ近づかれたのか、愛が傍らに立ち、グロック17をつんくの頭に突き付けていた。
「動かないで下さい。ちょっとでも変な真似をすれば命はありませんよ」
愛の涼やかな声に、つんくは舌を打った。机中の銃から手を離すとゆるゆると両手を上げる。
「なるほど、用意周到っちゅうわけなんやな」
「そうですね。私の悲願ですから…。それでは私の言いたいことはそれだけですから」
圭織はソファーから立ち上がって、部屋のドアを開ける。
「今に吠え面かくことになるで。お前が期待してるあさ美なら、今頃のたうち回ってるはずやからな。あさ美が終われば、次はお前や!」
つんくが吐き捨てるように言った。圭織はくるりと身を翻して、つんくの元へと寄っていく。愛が警戒したように強くつんくのこめかみに銃口を突き付けた。圭織はつんくの脇に立つと、じっとサングラスの奥で血走らせている眼を見据えた。無気と憎悪の視線が絡み合う。
- 459 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時07分32秒
「……裕ちゃんを殺したのね」
圭織は静かに言った。今までの慇懃すぎる口調は消え、一人の女性としての呟きだった。つんくは背筋に冷たいものが走るのを感じた。どうして今までこれほどの冷徹な目をする女を側にのさばらせていたのだろうか。
(こいつは危ない。こいつは誰かに使われるような人間やない)
つんくはここにきて自信を持っていた人間観察眼が誤っていたことを素直に認めた。
「だ、だったら、どないいうんや。お前と同じことをしただけやないか。使えない人間は切る。自分の夢に不必要な人間は切る。お前も俺も同じ穴のムジナや」
つんくは必死に虚勢を張った。圭織は静かに目を伏せた。
「…そうね。私もあなた達とたいして変わらない人間になってきているのかもしれないわね」
圭織は悲しげにそう言うと踵を返し、部屋を出ていった。愛は机から拳銃を取り出すと、それをもう一方の手に持って、グロックをつんくに向けながら部屋を出た。重々しい扉が激しい音を立てて閉まる。
- 460 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年08月31日(土)01時08分56秒
つんくは歯軋りをしながら、机の上に受話器を取った。
「……俺や。すぐに飯田を止めろ。殺してもかまわん。絶対に逃がすな。それとあいつが何をしようとしていたのか、すぐに調べて俺に知らせろ。‥なに?せやから、すぐに飯田を処理せえ言ってるやろ!ペルセポネーの実験体、全部使ってもかまわん。早う、あいつの首を俺んとこまで持ってこい!」
つんくは乱暴に受話器を放ると、葉巻を取り、口にくわえた。火を点けようと何度もライターを擦るのだが、怒りと屈辱に震える手で、上手く点けることができない。自然と力の入った歯は、葉巻を噛み砕いてしまった。
「くそっ」
つんくはライターを床に投げつけた。葉巻を吹き飛ばすと、息荒く椅子に座り、拳を机に叩きつけた。
- 461 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月02日(月)00時18分28秒
あさ美は隠れながら、呼吸を整えた。吐く息は白く染まり、邪魔な前髪を無理矢理にかき上げた。身体にまとわりつく濡れきったコートを強引にはぎ取る。周囲には色を失った木の葉が落ちそうになりながら揺れ、あさ美は音を立てないように注意をした。
「ど〜こ行っちゃったんやろなぁ?」
亜依の呑気な声の後、銃声が響く。どこか別の場所で木が削れた音がする。雨宿りをしていた鳥たちが、驚いたように雨空に飛び立っていってしまった。
あさ美は唾を飲み落としながら、亜依の気配を探る。だが、亜依の気は混沌としていて、予測することができなかった。まして今の自分は、もう一人の自分を抑えることに集中している。散漫としたあさ美に、亜依を気取ることは困難だった。
- 462 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月02日(月)00時21分21秒
もう一度銃声がする。今度は低い呻き声が聞こえ、誰かが倒れた音がした。
「あら、違ったわ。そんなとこでおどおどとした気放ってるから、あさ美ちゃんかと思ったんやけどな。ただのおっちゃんやないの。運悪かったな。こんなとこうろうろしてるから悪いんやで。可哀想やなぁ。うちが苦しくないようにしっかりトドメさしたるからな」
亜依はからからとした乾いた笑い声を上げていた。それに被さるように銃声が続く。あさ美は亜依の悪意ある行為に震えると共に、誰とも知れない犠牲者に胸を痛め、ぎゅっと目をつぶった。
「さ〜て往生際の悪いあさ美ちゃんはどこかなぁ。うちが引導渡したるって言ってるのに。それとも一人じゃ何もできへんの?来いへんなら、こっちから行っちゃうでぇ〜」
かさかさと亜依が木の葉を踏む音が聞こえ、時折足が止まっては、根幹を覗き込んだりしている。あさ美は呼吸を抑えながら、今はひたすらに自分の気配を消すことだけに努めた。
- 463 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月02日(月)00時22分25秒
「あれ〜、ここら辺が何かきな臭いなぁ」
亜依の足音が完全にぱたりと止まった。あさ美からもその姿を確認することができる。亜依は銃を両手で構えると、わざとらしい科白を口にしながら、回り込んでくる。その顔は悪戯っ子のようににやけている。
「みぃ〜つけた」
亜依の視線が上を向き、構えた銃口が上空を見定めた。そこには木に登り、枝に身を隠していたあさ美の姿があった。
亜依が引き金を引くよりも早く、あさ美は自分のコートを投げ捨てた。バッと雨空にコートが広がり、亜依の目を隠す。亜依は咄嗟のことにたじろぎながらも、二度三度デザートイーグルを放つ。
だが、それは怯むことなく、まるで生き物のように亜依の顔面に覆い被さり、その視界を防いだ。亜依がもたつく。あさ美は枝から飛び降りすると、膝をバネに柔らかく着地をし、亜依の側頭部目掛けて鋭い蹴りを放った。
- 464 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月02日(月)00時23分30秒
「っう」
亜依は側面を押さえながらバランスを崩した。ようやく顔から穴の空いたコートを剥ぎ取る。あさ美は隙を逃さず、銃を撃った。亜依の左足に着弾し、呻き声が上がった。これで亜依の動きは封じられた。亜依は苦痛に顔を歪めながら、あさ美に再度銃口を向けようとする。あさ美は間も入れずに手刀で亜依の両手首を狙い、その銃を落とすと、次に腹部に掌手を入れた。
「がはっ」
亜依は身もだえながら地面に俯せに倒れる。
「……ごめんなさい。私は誰にも負けるわけにいかないんです」
息荒くあさ美はデザートイーグルを拾うと、その弾倉を落とした。あさ美は苦しそうに何度か頭を振り、左腕を強く胸に押しつけた。息苦しさが消えず、気を抜くと高揚したもう一人の自分がすぐにでも姿を現しそうになる。
- 465 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月02日(月)00時24分40秒
亜依は腹部を押さえながら地面より身体を起こそうとしている。憎しみに満ちた瞳はぎろぎろとあさ美を見据え、上気して赤く染まった頬にはべっとりと泥が張り付いていた。亜依の表情は硬直したように笑顔が接着しており、あさ美は思わず後ずさった。
「ええなぁ、その強さ。うち、久々にドキドキしとるわ。中澤さん撃ち殺したときみたいに、心臓が脈打ってるわ」
「えっ」
瞬間、亜依の殺気が鋭くあさ美に突き刺さった。戸惑ったあさ美の反応が遅れる。銃声が響き、あさ美は左肩に熱と痛みを感じた。あさ美は手からデザートイーグルをこぼし、手で肩を押さえた。じんわりと血が指間から洩れ、あさ美は苦しそうに唇を噛みしめた。
- 466 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月02日(月)01時29分33秒
- 紺野と加護の闘いも気になるし、
飯田・高橋のこれからの動向も気になる…
- 467 名前:くわばら。 投稿日:2002年09月02日(月)07時20分41秒
- 更新お疲れさまです。
飯田さんは何を考えているんだろう?
吉澤さんはどうするんだろう?
紺野・加護はどうなっちゃうんだろう?
今後も目が離せないです。
楽しみにしております。
- 468 名前:三文小説家 投稿日:2002年09月04日(水)00時37分19秒
>>466
レス、ありがとうございます。
今後どんどん話が重くなっていくような…
そんな感じです(w
>>467
くわばら。さん、レス、ありがとうございます。
本当に手を持て余すのが飯田さんです。
今後彼女が支離滅裂な行動をしないように、
頑張っていきたいです(w
- 469 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月04日(水)00時39分22秒
亜依はあさ美にコルトパイソン3インチモデルを向けて、にやりと笑った。
「今、中澤さんが、はよう香港帰ってこいって、うっさいねん。あのおばちゃん。せやけど、うち、あの人のこと嫌いじゃないんや。うちのこと大切にしてくれるもん。飯田さんやつんくさんと違ってうちのこと認めてくれてるんよ。せやから、さっさとあんた片づけて、香港で中澤さんと荒稼ぎして大儲けしよ。これ、終わったらつんくさんにお願いするんや」
亜依は頬に付いた泥を手で払い落としながら、憎々しげにあさ美を睨み付けた。撃たれた亜依の足からは鮮血が流れ出て、亜依は痛そうにびっこを引きながら、あさ美に近づいてきた。あさ美は咄嗟に動こうとしたが、その顔を亜依が押さえつけ、そのまま地面に押しつけた。
- 470 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月04日(水)00時40分35秒
「うちだけ泥食ったんじゃ、不公平やろ。あんたにも腹が膨れるまで食わせたるわ。これでアイコや」
冷笑をしながら亜依はあさ美の髪を無理に引っ張り、彼女の泥にまみれた顔を見ながら、楽しむように言った。あさ美は顔を拭うこともできずに、息荒く、亜依を力無い目で見つめる。
「なんや、もう終わり?もっと抵抗してくれへんと楽しめんやないの。つまんないなぁ」
あさ美は咳き込み、唇に付いた枯れ葉を落とした。水を含んだ土は独特の腐敗臭を放ち鼻をつく。口内にはじゃらじゃらとした土と石の感触が残り、涎が自然と垂れてくる。
亜依はあさ美の頭を叩き落とすと、腹部を蹴りつけた。あさ美は痛みに顔をしかめた。亜依は悲鳴も上げないあさ美に面白みも感じず、次に銃痕の残る、左肩を踏みつけた。今度はさすがにあさ美が低い呻き声を上げた。
- 471 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月04日(水)00時41分54秒
亜依はあさ美の手からワルサーPPKを奪い取ると、物珍しそうに銃身を眺めた。亜依はその銃であさ美の右腕を撃った。あさ美は再び声にならない悲鳴を上げた。
「こんな古くさいんでよう人殺しやってるんやなぁ。こんなんじゃ一発で仕留められへんやないの。ま、今のうちにはいいけど。あんたにやられた分、時間掛けて殺したるわ」
亜依はワルサーを構えて、あさ美に狙いをつけた。
「立ってみい。もっと遊ぼうや。うち、何でも大切に使うタイプなんよ。たとえ使えへん玩具でも、壊れるまで遊ばなもったいないやろ」
亜依は挑発をしながら、一発銃弾を放った。あさ美の顔面横の土が跳ね上がり、あさ美の顔を汚す。
あさ美は両手を支えに、ゆっくりと身体を起こそうとする。全身には今まで知ったことのない痛みがあり、骨がぎちぎちと鈍い音を立てる。それなのに胸の奥底が、何かが燃えているように熱い。これほど満身創痍の肉体なのに、全ての神経が張りつめ、運動情報が雷鳴のように全身を駆け巡る。硝子玉のような目は何も見ておらず、能面のように表情の無い顔であった。
- 472 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月04日(水)00時42分47秒
「何か言わんの?こんなにされて黙ってるなんて、プライドも何も無いんやな」
亜依は銃口を外し、哄笑しながらあさ美の脇腹を蹴りつけた。
「つまらんなぁ。あ、そういえばあいつ、あんたの相方はどないしたん?あいつにもずいぶん酷いことされたからな。あんたと一緒にあの世に送ったろうか?」
この言葉にあさ美の中で何かが弾けた。僅かな隙間から何かが溢れ出し、それは柔らかい肢体を求めるようにあさ美の中を飛び回った。そしてあさ美の全身から痛みの感覚が消えた。
- 473 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月04日(水)01時32分12秒
- 紺野がんばれ!
そういえば よっすぃ〜は電話で石川に何を言われたのだろう…
- 474 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時48分21秒
あさ美が消えた。亜依の目にはあさ美の姿がまるで消えたように見えた。今まであさ美がのたうち回っていた場所は、いつの間にか人影もなく、目標を失った亜依は茫然と立ちつくした。亜依は慌てたようにあさ美の気配を探る。
銃を握った手に冷たい指が掛かった。背後には冷たい全てを包み込むような気配が亜依に襲いかかってくる。突然のことに亜依は混乱したように怯え、その指を振りほどこうとした。だがその冷たい手はまるで万力のような力で亜依の手を締め付けて離さない。
「くっ」
亜依は首を回そうとした。それよりも早く亜依の手首は無理矢理に回され、ワルサーPPKの銃口が亜依のこめかみに照準を合わせた。
- 475 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時49分44秒
「あ、あんた、いつの間に……」
亜依の取り乱した声にも、いつの間にか背後に回っていたあさ美は何も答えなかった。引き金を握った亜依の手の上に、あさ美の手が添えられ、躊躇無く引き金が引かれた。
鼓膜を突き破るような轟音が鳴り響き、亜依の首は大きく振られた。亜依は足から力が抜けていくのを知り、膝がぬかるみに落ちる。亜依はそのまま前屈みに倒れた。耐え難い燃えるような激痛の中で亜依は全ての感覚を失っていく。亜依は白濁していく意識の中で、最後に裕子の姿が思い描かれた。
- 476 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時50分51秒
『なぁ、亜依。あんた……キリン、好きなんか?』
亜依は感心したように葉をはむキリンを見上げていた。その横で呆れ返ったような表情の裕子がからかうように亜依を眺めていた。亜依ははっと振り返った。その顔は赤く染まり、裕子はますます可笑しそうににやにやと笑った。
『ち、な、何言ってるん!う、うちはただ何であんなに無駄に首長いんかなぁって思って観察してたんや』
『……そら、亜依と同じように腹でも空かせて、雲でも食おうと思ってるんやないの。あっちのなんて結構美味しそうやん。ほら、物欲しげに空ばっか親子で眺めとるわ』
裕子が禁煙の札を見つけて忌々しそうに長パイプを仕舞いながら答えた。意外なロマンチストに今度は亜依はからかい笑った。
- 477 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時52分24秒
『…おばちゃんのくせにキショ。そんなロマンチックなことばっか言ってから、婚期逃してるんやないの』
『……もう一回言ってみぃ』
裕子がドスを利かせた声色で亜依を睨み付けた。亜依はからかう言葉を続けながら逃げ始めた。裕子がその後ろから拳を振り上げながら駆け出した。二人はしばらくその場でぐるぐると追いかけっこを続けていたが、裕子はへばったように近くにあったベンチによろよろと座り込んだ。
『なんや、もう、疲れたん?』
『あほ。うちは無駄なことに体力はつかわんの。あんたみたいにガキやないんやから』
『なんや、疲れたんか。やっぱおばちゃんやな。ハアハア言ってる』
亜依がひょいと裕子の隣りに座った。しばらく二人でぼんやりとキリンの遊ぶ柵の中を見る。
- 478 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時53分14秒
『…………うち、キリンだけは覚えてるんや』
『ああん?』
『思い出。うちが飯田さんに拾われる前のずっとずっと前の話や。どっかの、きっと動物園やったと思うけど、ベンチかどっかでお母さんが、まだ赤ん坊だったうちのこと抱きながら、キリンの歌唄ってくれたんよ。それだけは覚えてるねん』
『ふん、そうか』
裕子は気のない返事をした。冬の澄んだ空には綿菓子のような雲がいくつも浮かんでいた。轟音を立てた飛行機が二線を描きながら横切っていき、その音に驚いたように餌をついばんでいた鳩たちが一斉に飛び上がった。
- 479 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時54分37秒
『…ええ思い出やないの』
『え?』
亜依が声を出そうとしたが、それを遮られるように裕子が亜依の肩に手を回してきて、そっと自分の方に引き寄せた。裕子の付けた香水の強く甘い匂いが亜依の鼻に届いてくる。いつもなら近づいてくるだけで、その匂いに嫌悪の表情を悪戯心から浮かべるのだが、突然のことに亜依は何も言えずに、何も言わずにただじっと裕子にされるまま身を寄せた。
『ええ思い出よ。それは。…大事にしいや』
裕子が優しく呟いたのを、亜依は裕子の胸の中で聞いて、微かに首を縦に振った。
- 480 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月06日(金)00時56分10秒
亜依の意識は途切れていく。もうすぐ死ぬのだろう。大した一生ではなかった。その最後に裕子の姿がどうして出てきたのか、亜依は苦笑をしたい気持ちで一杯だった。
死んだら、もう二度とあんな訳の分からない連中らと関わりなど持たずに、普通の少女として笑っていよう。でも、もし裕子が地獄の淵で待っていてくれたのなら、嫌そうな顔をしながらもその道中に付き合ってやろうか。今度はきっと誰も邪魔はしてこないだろうから。
地獄の沙汰も金次第、うちと中澤さんならいくらでも稼げるもんな。きっと楽しいやろうな。
亜依は掠れてよく見えない目を空に上げた。そこには灰色一色の雲が天上を覆い尽くし、冷たい雨を降らせ続けていた。
「……おばちゃんのウソツキ。‥雲なんか全然不味そうやんか……」
亜依は軽く笑みを浮かべると、空に浮かぶ雲を掴むかのように手を伸ばそうとした。だがその手は途中で力を失ったように、ぱたりと地に落ちた。亜依は覚めない眠りへと落ちていった。
- 481 名前:三文小説家 投稿日:2002年09月06日(金)01時01分01秒
>>473
レス、ありがとうございます。
と、いうような具合になりました。
紺野と加護とが終わり、
そして今度は……。
どうぞ、お楽しみ下さいね。
- 482 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月06日(金)04時20分44秒
- 加護の役キライだったけど最後 可哀相になった。
段々と重みが増してきましたな。
- 483 名前:三文小説家 投稿日:2002年09月16日(月)00時44分22秒
>>482
レス、ありがとうございます。
加護は書いていて、急にキャラ立ちしてきました。
だからそう言っていただけると、書いている者冥利に尽きます。
これからもよろしくお願いします。
- 484 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月16日(月)00時45分54秒
あさ美はぼんやりと雨に打たれる亜依の冷たい身体を見ていた。自分の手に残ったワルサーPPKは、水たまりに向かって滑り落ちた。雨に濡れた長い黒髪からは水が辿るように垂れていく。その髪に覆われてあさ美の顔には影が差しているが、僅かな隙間からは、軽く口端を持ち上がっているのが見えた。
だがそれも一瞬でだった。すぐに我を取り戻したかのようにあさ美は生温い血に染まった自らの手をじっと見つめながら、自分のしたことに驚愕した。
自分の意識はぼんやりとした闇に包まれ、気が付いてみると身体が勝手に動いていた。まるで刀が鞘から抜かれ、まばたきをする間もなく人を切断したような、そんな感覚だった。それは亜依の行動への怒りでも屈辱でもなかった。
ただ人を殺したのである。自分が殺したのか、それとも自分にプログラムされた闇が殺したのか、分からなかった。
- 485 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月16日(月)00時46分57秒
今まであった人を殺害するという行為への譴責と苦役が全く湧いてこないのである。雨に打たれ、無惨に横たわっている亜依の遺体は、動力を失ったモノにしか見えてこないのだ。
「…わ‥たし……」
あさ美は顔面を手で覆った。こびり付くような生臭い匂いがし、喉に異様な渇きを感じる。あさ美は身震いをして、しばらくその場に立ちすくんでいた。
徐々に思考がクリアーになってきてあさ美はぼんやりと首を回した。
自分はいつまでここにいるつもりだろう。誰かに見られれば警察に通報されてしまう。目的のある自分はここで捕まることなんて出来はしない。
あさ美は自身を叱咤した。しかし足が動かないのだ。
まるでぬかるみに足が沈み込んでしまったかのように、足を踏み出すことができない。あさ美は耳障りなほど雨音に気づき、身体がすっかり冷え切っていることを覚える。あさ美は身震いをすると、自らの足に力を込めてどうにか歩くことを始める。重々しい何かに取り憑かれたような足を動かしながら。
何よりも立ち去りたいという気持ちが強く作用した。自然と吐き気が沸き上がる。
この不浄に満ちた場所が自分にいかほどの悪影響を与えているのか。
- 486 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月16日(月)00時47分59秒
あさ美は逃げるように走り出した。
だがすぐに節くれ立った樹木の根につまずき、あさ美は前のめりに転ぶ。再び泥に顔を突っ込み、あさ美は咳き込みながら立ち上がろうと、自分の足に目をやった。それから目を大きく見開く。
そこには青白い幾つもの手が地面から生えだし、あさ美を逃がそうとしないようにしっかりと掴んでいた。冷たく血の通わない青白い腕と、折れそうなほどの細い指。それがあさ美の両足をしっかりと握って離さない。
あさ美は声にならない悲鳴を上げ、足を必死に動かしながら腕を蹴り落とそうとした。泥が跳ね、白くほっそりとしたあさ美の足を汚していく。
手たちはまるであさ美を嘲笑うかのように、より一層に力を込めてきた。あさ美は這い出しながら前に進もうとする。形振りも構わず必死の形相に、べったりと服にも泥がこびり付き、ぬめりとした感触が心地悪い。
- 487 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月16日(月)00時49分52秒
あさ美の耳に笑い声が響き渡る。
先ほどまで陽気に喋っていた亜依の声のように聞こえた。それとも昔、死ぬ直前まで何かを必死に語りかけていた真里のものかもしれない。自分が殺してきた罪もない人々の声かもしれない。
あさ美は半狂乱になりながら、耳を両手で押さえつけ、それからいやいやと首を振るった。何度も掠れた声で悲鳴を上げた。木々の間をあさ美のか細い悲鳴が木霊し、カラスたちがその悲鳴を楽しむかのように、静かに宙を旋回しながら成り行きを見守っている。
あさ美は自分が銃を持っているのを思い出すと、それを闇雲に打ち始めた。銃弾が音を立てながら地面を削る。泥が跳ね上がり、それがあさ美に襲い掛かってくるが、あさ美は狂ったように銃を撃った。
- 488 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月16日(月)00時51分04秒
どれほど経ったのだろうか。あさ美は自分が弾の切れた銃のトリガーを引き続けていたことに気付いた。自分を追ってきていた手など無く、辺りはあさ美の撃った銃弾に傷つけられていた。薬莢も山のように転がり、泥に沈んでいる。カラスのしゃがれた鳴き声が、あさ美の行動を笑っているようだ。
クルッテル?
あさ美は息を荒らげながら、じっと辺りの様子をうかがった。亜依の遺体もその場を動くことなく、あさ美の方に向かって手を差し出していた。それは地獄へと招く死霊の手にもあさ美には見えた。
「……わ、私は……」
言葉が出てこなかった。今のは幻だったのだろうか。足には生々しいほどの血塗れた手の感触が残っており、冷ややかな気配に震えている。
罪の意識が深淵より這い出てあさ美を苦しめてたのか。それとも自分は本当に……。
背後で枯れ葉を踏む足音が聞こえた。あさ美は弾切れのワルサーPPKをその音の方向に向けた。その表情は怯え、涙がこぼれんばかりに大きく見開かれた目は充血している。手や足は抑えることができないのか、激しく痙攣していた。
「……あさ美」
懐かしく感じられる声だった。そこにはあさ美と同じようにずぶ濡れになったひとみが白く染まる息を吐き出しながら立っていた。
- 489 名前:読者 投稿日:2002年09月18日(水)18時17分04秒
- とうとうよっすぃーと紺野が再会ですか。楽しみです。
次回更新は新スレですね。
- 490 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時38分07秒
二人の間に沈黙が流れる。ひとみはあさ美の後ろから伸びている汚れた足や、泥に汚れ、手が血に濡れたあさ美を見て、この場で何が行われていたのか悟った。あさ美はうつむいたまま言葉もなく、じっとしている。
「…あんたが…殺ったの」
結局こんな科白でしか沈黙を破ることができなかった。ひとみは下唇を噛み締めながら、あさ美の後ろに横たわる遺骸を覗き込んだ。知った顔だった。確か香港のカジノ船で執拗にあさ美を狙い、一度二人でこの少女と対したこともあった。
「何でその娘が。……『デメテル』ってとこと関係があるの」
ひとみの口から『デメテル』の名が出てくると、あさ美ははっと顔を上げた。顔には明らかに困惑と動揺が走っている。
「あさ美が殺ったんなら言って。警察が来る前に姿くらまさなきゃ駄目でしょ。もし、殺されてたんなら匿名で警察に連絡しなきゃ……」
後説の可能性はほとんどないことを知りながらもひとみは、あさ美に近寄ろうとした。
- 491 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時39分14秒
「……来ないで」
あさ美は静かに、だが震えた声でひとみの足を制した。
「どうしてさ。いつものことだろ。あたしたちの仕事って人を殺って、それで日々の糧にしてるんだよ。今更、一人あんたが殺ったところで動揺するなんて。…あんたらしくないよ。梨華に連絡すればすぐに処理してくれるって。大体、あんたから殺ったんじゃないだろ。それなら正当防衛だし」
ひとみは場を和ませようと軽口で言ったつもりだった。それでも知らず知らずの内に声が大きくなっていた。あさ美は黙って首を左右に振った。
「……どうして勝手に出てったの。朝起きたらさ、あさ美がいないんでびっくりしたよ。慌てて梨華に連絡取って、あんたの場所探してもらってさ。ほら、あの娘、家中に盗聴器仕掛けたりするでしょ。だから、もしかしてって思って連絡取ったら、案の定、梨華のやつ服とか装備とかに手当たり次第、発信器付けてやんの。ま、そのお陰であさ美を見つけるのに役立ったわけだけどね」
ひとみは親しさを主張させながら笑顔であさ美に向かって足を進めた。だがその笑顔は不自然なもので、頬の辺りが強張りひくついていた。
- 492 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時40分42秒
「……もう、私にかまわないで下さい」
あさ美がひとみから離れるように足を引いた。
「どうしてよ!今まであたしたち上手くやってこれてたじゃない。急に……。……あんたが先輩を、…矢口さんを殺したから?」
あさ美の顔に怯えが広がった。まるで力を無くしたように銃が彼女の手から滑り落ち、がたがたと震え出す。歯がカチカチと堅い音を立て、あさ美は全身を抱き込むように両手を自身の身体に回した。
ひとみは全身から血の気が引いていくのを感じる。立っているのが不思議なほどに足に力が入らず、ひとみは今すぐにも弾けそうな感情を抑えながらあさ美を見つめ続けた。
(……こいつが矢口さんを殺ったんだ…)
ひとみはあさ美の様子からそれを確証した。ようやく探してきた復讐の相手を発見したのだ。両拳に力がこもり、緊張が全身に伝染し、身体中が硬直する。あさ美の姿を見失わないように、目だけは大きく見開く。
- 493 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時41分52秒
「…愛って娘が教えてくれた。あさ美が『デメテル』ってとこでの実験体だったってことも、あんたがそこを逃げて、外に出てきたことも、あんたの身体をめちゃめちゃにした連中に復讐してることも、そして、あんたが『デメテル』の一員だった先輩を殺したってことも……」
「やめて!」
あさ美は両耳を塞ぎ、膝を地面に付いた。それは絶叫だった。まるで取り憑かれていたかのようにぼそぼそと言葉を続けていたひとみは、はっと我に返った。
「あさ美……」
ひとみはあさ美に寄ることもできず、雨に打たれ続けるあさ美を見つめたままだった。
- 494 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時43分05秒
「……私は……多くの命を奪ってしまった。罪がある人も、罪がない人も…。誰かが死ぬのが嫌だったのに…、それなのに私の毎日は、どんどん麻痺していって…、いつの間にか自分の心まで麻痺していて…。…這い寄るような嫌な感覚だけが肥大していって、まるで私を食べ尽くそうとして…。このままじゃ大切なものも失ってしまいそうで…。…だから私は……」
あさ美は顔の顔から緊迫感が抜けたようにそっと微笑みが見えた。その大きな漆黒の瞳は強い光を放ち、何かを覚悟したようにしっかりとひとみを捉えていた。
ひとみにはあさ美の言いたいことが分かった。自分にも実感があるのだ。毎日闇に浸食されていく気持ちの悪い感触。それが日常化し、ふと気が付いてみれば血を得ることのない生活が考えられなくなってきている。自分で選んでしまった道とはいえ、強くなっていくごとに何かが失われていく感じが胸の奥底でくすぶる。
- 495 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時49分36秒
「……でも…もう駄目なの…。もう一人の私が、意識もできない間で出てきてしまう。…何も感じずに人を殺してしまった。同じ犠牲者だった娘を。嫌な感情さえ生まれずに……」
ひとみは亜依を見やる。彼女も愛の言ったペルセポネーと呼ばれている人間兵器だったのだろうか。加害者であり被害者。ひとみはペルセポネーなる存在に畏怖心を覚えた。そして目の前に立つ少女もそのペルセポネーと呼ばれている人殺しなのだ。
「だから!…だから、ひとみ。……私を…止めて。私を殺して」
あさ美はすがるような目つきでひとみを見た。ひとみはあさ美の勢いに押されるように足を引く。余りにも重大な決意を聞いたせいで逆に気を抜かれ、ぽかんと口を半開きにしたひとみに場違いな笑いが込み上げてきた。どう反芻してみてもあさ美が冗談を言っているようにしか思えなかった。
何を真剣な顔をして言っているのだろう、この娘は。
こんなお誂え向きな場面で、殺してくれってあたしに頼むなんて。
一体どっちが道化だ。あさ美? それともあたし?
- 496 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時51分12秒
ひとみは錯乱しておかしくなりそうな頭を手で押さえながら、あさ美の方を睨み付けた。あさ美に対する憎しみ、憐れみ、そして寂しさが浮かんではひとみの心を掻き乱す。
「…私はあなたの追い求めきた復讐の相手。殺すことにも躊躇がないでしょ。だから、私の命を奪って。私が生きているということは、いつ破裂するかも分からない危険な爆弾を放ってあるのと同じなのよ」
あさ美は興奮したように声が高まり、そして科白が終わると笑った。それは弱々しい生気のない笑みだった。だがその中には自嘲も含まれているようにひとみには思えた。
「……ひとみに会えてよかった。何だか全てから逃げてしまうような、そんなずるい考え方かもしれないけど、だけど、ひとみの復讐だけは叶えてあげられる」
「…あんたが…矢口さんを殺したんだね」
ひとみは静かに言った。あさ美は何も答えずに、ひとみをじっと見つめ続けている。それはすでに生きることを拒否し、ただ断罪の時を待つ罪人の姿に見えた。ひとみはその無言から全てを悟り、息を深く吐き出した。
- 497 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時52分44秒
ひとみはベレッタM84を抜いた。それから一歩足を踏み出す。自分がこの局面でこれほど落ち着いていることに気付きひとみは心の内で驚いた。銃口をあさ美の額と一線で結ぶと、ひとみは安全装置を外した。あさ美は目を伏せて、静かにその時を待った。
ひとみの脳裏で様々なことが渦を巻き始める。ここで引き金を引けば、あさ美は確実に仕留められる。これで自分は復讐心から解き放たれ、悠々自適な生活を営むことができるようになるのだ。それは真里を失った悲しみからの解放とも言える。
だが、そんなものはもう十分に癒えていたのではないか。一人で大陸に渡り自暴自棄になり日本に戻ってきた。毎日がまるで終わらない映画フィルムのように流れていく中でひとみは真里の死を風化させていき、結局は昔取った杵柄ということで殺し屋家業を続けてはいるものの、それは真里の死に申し訳ないという建前と、どこかでもう一度あの命の駆け引きで生まれる高揚感に支配されたいという欲望からであったのかもしれない。
そして段々と真里のいない新しい日常を作りだしてきたではないか。
- 498 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時53分48秒
そして獄窓に唐突に月光が射し込むようにあさ美と出会った。あさ美が自分の近くに来てからは、いつの間にかこの不可思議な銃を持つ強靱な少女と一緒にいたくなって、誰かを守りたいと再び思うようになった。彼女の笑顔を見ていたいと密かに思うようになっていた。だから銃を握る一方でいつかあさ美と違った生き方をしたいと求めていたのだろう。
墓前で復讐を誓えども、それは真里のためにではなく、あさ美が銃を捨ててもいいと言ってくれるその日まで同じように血を浴び続けようと、どこかで真里に報告して、真里と決別をしようとしていたのかもしれない。
(大事なのは今だ。過去じゃない。あたしは過去を忘れさせてくれるあさ美に出会えた。だけどあさ美は……)
ひとみは眼前で膝を付き、うなだれているあさ美に視線をやった。
(この娘にはあたしじゃ駄目なんだ…。あたしじゃこの娘の過去を消すことができないんだ)
ひとみは震える手を必死に押さえながら、狙いをあさ美に定めた。
- 499 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時54分44秒
それは僅かな時間だったのかもしれないが、二人にとっては永劫にも思える時だった。あさ美はいくら待っても銃弾を放たないひとみを訝しげながら、顔を上げた。
「……どうして…」
あさ美は非難がましく声を荒げた。ひとみはすでに銃口を下ろして、無言のままうなだれていた。その肩は小さく痙攣をしている。あさ美は激昂したように険しい表情でひとみを非難した。
「どうして撃ってくれないの!あなたの復讐の相手なのよ。私があなたの大切なものを奪ったのよ!」
感情が胸の奥から吹き出し、あさ美は今までにないほどの声を張り上げた。苛立ちと戸惑いが渦を巻き、あさ美の脳内をかき乱した。
- 500 名前:第14話 別れ 投稿日:2002年09月26日(木)00時55分41秒
「…どうして分かってくれないの!私を殺してよ!ひとみの手に掛かって死ねるなら、私、それでいいのよ!」
あさ美は感情を高ぶらせ、言葉を詰まらせながら怒張した。だが、その顔は悲傷に満ち、くしゃくしゃに歪んでいる。
「……あたしには…あんたを…殺せないよ」
ひとみはただその言葉だけを発した。ひとみは踵を返し、歩きだした。あさ美はまるで見放されうち捨てられた子犬のように身を抱き込んだ。
「…どうして……」
あさ美の呟きを聞き、ひとみが足を止めたようだ。しかし振り返りもせず、言葉もなかった。しばらく足音は止まっていたが、再び葉音を立てながらそれは段々と遠退いていった。
あさ美はもう何も言わなかった。その背に声を掛けても無駄であることが分かったからである。あさ美は身体を折るように額を泥の土に擦り付け、ただ黙ったまま嗚咽を繰り返した。
二人の間にはいつまでも冷たい雨が降り続いた。
To be continued
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