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■グリーンデイ■
- 1 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)16時57分59秒
- ここで発表された小説に影響を受けて僕もモー娘。を題材に
小説を書いてみたいと思いました。
少年院を舞台にした娘。達の話を書きます。
完結まで一気に書きますのでお暇ならお付き合い下さい。
- 2 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)17時08分32秒
- 第1話 「塀の向こうへ続く道」
都心から離れた県境の山の中。ひっそりとたたずむ建物があった。
ここは医療少年院。
犯罪に手をそめた少年少女達。
彼等は家庭裁判所での形式的な審議を経て、
それぞれの処遇にそった形で初等・中等・特別少年院へと送られ保護される。
しかし、それらの施設では対処しきれないケース、
例えば精神的に不安定で短期間での社会への適合が難しい場合。
もしくは家庭の事情や環境によって、社会復帰が困難な障害を負っている場合。
その他、いくつか例外はあるものの、そういったケースに該当する少年少女達が
収容されるのが、この医療少年院なのだ。
- 3 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)17時30分29秒
- ゆるやかな丘の上に建てられたその長く高い塀に囲まれた施設。
その周りは林に囲まれ、丘の下からはその建物の影すら伺う事はできない。
そして施設の周囲数キロは山林が続き、其処にいたるのは車1台が通るのがやっと
の、舗装もされていない道が1本あるだけだった。
その道を、毎日決まった時間に塀の中へと向かう1台の原付。
その原付はでこぼこの道に揺られながら、ゆっくりと少年院の門の前にたどりつく。
門の側にある守衛にIDカードを提示すると、
守衛と軽く会釈を交わす。
そのIDカードには、髪の長い目の大きな女性の写真と、
刑務官、飯田 香織という名前が表記されていた。
- 4 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)17時33分53秒
- ○圭織×香織
- 5 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)18時07分46秒
- すいません、客が来たので続きは夜からまた書きます。
- 6 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)20時50分14秒
- 飯田はいつものようにふらふらとふらつきながら原付を駐車場に止める。
駐車場の金網には、以前スロットルを間違えていれて突っ込んでしまった穴がまだ
大きく口を開けていた。
この少年院は最寄の駅からも徒歩だと2時間はかかる。
ここに配属が決まり、近くの寮に引越す事になったので通勤の為に原付を購入した
のだが、元々何をやっても不器用な彼女はその乗り物に慣れる事がなかった。
施設への通勤の道すがらに、人通りがないのが救いといえる。
「さーて。今日も1日がんばりますか。」
半ヘルを取ると、その下にまとめられていた長い髪が風に踊った。
- 7 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)21時13分39秒
- 施設内には、奥に進むにつれいくつかのゲートが設けられている。
といっても、職員が鍵を管理しているだけの無人の格子付きの扉があるだけなの
だが。
刑務官達が普段つめている職員室はそのゲートの正面側にそなえられていて、
万が一の事態にすぐに対応できるようになっていた。
飯田がゲートの前を横切り職員室に入ると、部屋の中央に並んだ机の上。
そこに広げた書類の上に突っ伏している人物がいる。
飯田はため息を1つ、そして自分の机に荷物を置くと、
前の机の上に崩れるように眠る同僚を揺り起こした。
「おはよう、圭ちゃん。
…うわ。なんか酷い顔してるよお?」
「…ああ…圭織か……おはよ。
…うう。今何時よ?」
机から顔を上げたのは、飯田の同僚。刑務官、保田 圭だった。
- 8 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)22時12分10秒
- 机から顔を上げた保田の頬に、インクの文字が転写されているのを見てふきだしそ
うになるのをこらえながら、飯田は交代の時間が来た事を次げた。
「…あー、昨日は大変だったんだよ。
あの子がまた喧嘩騒ぎ起こしちゃってさ。
裕ちゃんは病院に診断書もらいに付き添いで行っちゃったし、
あたしは調書やら家裁への報告書やらでもう…
てんやわんやだよ。」
ふと目を落とすと、自分のよだれでにじんでしまった書類の文字が。
それにまた脱力し、けだるそうに頭を抱える保田。
それを見ていると、飯田は昨夜の騒ぎでの同僚達の苦労が目に浮かぶようだった。
「怪我したのは誰?」
「矢口。あの子がまた何かちょっかい出したみたい。
取っ組み合いになってるのを見つけて、すぐに止めに入ったんだけど…。」
飯田は机に散乱した書類のファイルから診断書を手に取ると、その内容に目を走ら
せる。殴打による腹部・肋骨への打撲、擦過傷。
怪我の具合はたいした事ないんだ……。
- 9 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)22時39分46秒
- ほっと安堵の表情をうかべる飯田だったが、もう1つ気になるのは怪我をさせた側
の少女の事だった。これまでも数回、この施設内で問題を起こしているその少女の
名前を飯田は口にする。
「で……後藤は?」
「夜も遅かったから、昨夜のうちに調書だけとって…
とりあえずまた矢口と一緒にするのはなんだから反省室に1人で移らせたんだけど。
相変わらず何も言わないのよ。」
「そっか…朝礼が終わったら私も本人から改めて話聞いて、
部屋に戻してもいいかな。
圭織、反省室とかってなんか嫌いなんだよね。」
「好き嫌いでやる仕事じゃないだろー?それは……。
まあ…任せるけどさ。」
苦笑を浮かべながら、安田は眠い目をこすり立ちあがる。
「さあ朝礼だ。終わったらあたしゃ帰って寝るよお。」
保田は大きく欠伸を1つ。
書類を適当にまとめると、飯田の肩をポンと叩きながら職員室を後にした。
- 10 名前:巴 投稿日:2002年01月06日(日)23時07分44秒
- 院内では毎朝、施設に保護されている子供達全員を集めての全体集会が行われる。
医療少年院では男女の区別はなく保護と療養、更正を目的に子供を収監する。
ただし、男女が一緒に行動するのはこの朝礼の時だけだ。
子供とはいえ、閉鎖された施設内での異性との交流は、余計な問題を引き起こしか
ねない。現代の少年少女の抱える問題の多くは、大人のそれともはや変わらない。
それは、この施設に送られてくる子供達も例外ではなかった。
当直の刑務官が引率する形で子供達は各々校庭に集められ、施設長の挨拶や1日の
訓示を聞かされた後、朝日を浴びながらラジオ体操をはじめるのだ。
- 11 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月07日(月)00時49分04秒
- めっちゃおもしろそうですね〜!
期待してます!がんばってください!
- 12 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)12時41分23秒
- >11
ありがとうございます。まだ序盤ですが、面白くなるようにがんばります。
- 13 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)12時56分08秒
- 飯田は朝礼が始まる前に、反省室の後藤の様子を見に行く事にした。
せっかくの気持ちいい朝だもんね。朝日を浴びないとなんか1日が始まらないし。
反省室というのはその名の通り、問題を起こした子供に反省をうながす為の特別室
で、他の棟とは隔離された地下に設置されたいわば小さな牢屋である。
めったにここが使われる事はないのだが、後藤という少女はもう何度かここで夜を
過ごしていた。
地下ということもあり、窓もないその部屋は冷たく寒い。
飯田は後藤の体調を心配し、足早に地下へと降りていった。
- 14 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)13時18分58秒
- 地下室への廊下を進む中、もう吐き出す息が白くなる。
全面コンクリートに囲まれたこの場所では、すぐに体温が奪われてしまうのだ。
反省室の前につき、一呼吸おいて飯田は鍵を開けた。
「…ごとー、起きてるかあ?」
部屋には電気もなく、その奥に剥き出しの便座と、錆び付いた水道があるだけ。
その中央に、小さな布団と毛布に包まって震える塊が1つ。
「…こんな寒い部屋で寝てたら反省どころじゃないよね…。」
飯田はここに勤務するようになってからクセになったため息をつき、横たわる後藤
へとそっと近付いた。
少女の寝顔は、寒さに少し青くなってはいたが、すーすーと小さな吐息を立て、
長いまつげが影を落とすその横顔は天使のように可愛いものだった。
普段の少女の、突き刺すような視線で人を見つめる、その様子は微塵も感じない。
「寝てる時はこんなに可愛いのにね……。」
その寝顔にやさしく微笑みながら、少女の頬にかかった茶色に痛んだ髪の毛先を
指先で払ってやる。少女はもぞもぞとくすぐったそうに身をよじると、やがて飯田
の気配に気がついたのか、目を見開いて飛び起きた。
「……っあ!な、なんだ……っ!」
- 15 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)14時10分55秒
- 「おはよー、後藤。もう朝だよ。」
飯田はまるで猫のように後ずさる後藤を落ちつかせるように、畳の上に正座して
笑顔で挨拶をした。
「…………。」
寝起きでまだ頭がはっきりしていないのか、飯田の存在を認識してもまだ何かを胸
に抱いたまま驚きで固まっている後藤。
普段、無表情で感情を表に出そうとしない少女には珍しい素の顔に、飯田はまた小
さく笑った。
そして後藤が固まったまま胸にしっかり抱き抱えたそれをよく見ると、それは職員
の仮眠室で見なれた湯たんぽである。
「そっか、圭ちゃんが持たしてくれたんだね。それ。」
保田のぶっきらぼうな顔が浮かぶ。刑務官の中では特に厳しく見える保田だが、
実は一番、子供達に思いやりのある女性なのだった。
やむを得ず後藤をここに入れる時、自分の湯たんぽを持たせてあげたのだろう。
刑務官の誰も、できる事ならこんな部屋を使用したいとは思っていないのだ。
後藤もやっと完全に目が覚めたのか、いつものクールな表情に戻る。
湯たんぽは抱えたまま飯田を睨みつけるのが何気に可愛く滑稽だったのだが、
今度は飯田は笑うのを我慢した。
余計に後藤を不機嫌にさせてしまいそうだったからだ。
- 16 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)14時31分53秒
- 「はい、挨拶は1日の始まりだぞ。」
一応、刑務官として神妙な顔をしてみせる飯田。
後藤は飯田を一瞥すると無視するように無言で湯たんぽを足元に置くと、布団と
毛布を黙々とたたみ始めた。
長い少年院生活で自然と身についた朝の習慣だった。
「みんな先に校庭に出てる筈だから、部屋戻って着替えて朝礼に行こう。」
「……。」
それでも飯田の顔を見ようとしない後藤。
ひょっとしたら、寝顔を見られたのを恥ずかしがっているのかもしれないと飯田は
思った。
「朝日浴びて、外の空気吸って体操すれば、お腹空いて、朝ご飯も美味しいよ?」
「…不味い飯は何やっても不味いんだよ。」
ようやく口を開いたかと思えば、つっぱった皮肉が口をつく。
それでも、後藤が口をきいたのを飯田は良しとした。
- 17 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)15時02分37秒
- 後藤に付き添って地上階にあがり、普段子供達が寝起きしている部屋へと戻る。
すでに朝礼の為に子供達は校庭に引率されていて、無人の部屋の中はがらんとして
いた。
反省室とは違い、一般の部屋には鍵つきの扉が1つ。鉄格子等はなく、あくまでも
保護療養という名目で複数の子供が班分けされ、一部屋にまとめて入室していた。
それでも、畳敷きの部屋は殺風景で狭く、お世辞にも快適な環境とは言えない。
後藤の班は、他に4人の少女からなる形で同室での生活を送っている。
昨夜、後藤と問題を起こした矢口 真理。
彼女は傷害事件と売春で補導され、1度収容された鑑別所でも問題を起こしたため
にこの医療少年院に送致されてきた。
彼女には虚言・妄想癖があり、そのカウンセリングを定期的に受けている。
その病状の性質から、他人に挑発的な態度で接する事が多く、いさかいの原因を
度々引き起こしていた。
- 18 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)15時26分59秒
- 後藤が無人の部屋に戻り、施設内で普段着として支給されているジャージに着替え
ている間、飯田は部屋の前で考え事にふけっていた。
飯田には特徴的なクセがいくつかあるが、こうやって暇があれば自分の世界に没入
してしまうのがその1つだった。
とはいえ、この仕事についてからはその思考のほとんどが子供達の事に割かれてい
る。今も、後藤と怪我をしてしまった矢口の、その後の処置の事を考えていた。
…とりあえず朝ご飯食べながら、昨夜の調書を読んで、二人の話を聞かなくちゃね。
部屋のドアが内側から乱暴にノックされ、飯田は我にかえる。
後藤の着替えが済んだ合図だ。
扉の鍵を開け、憮然とした表情の後藤を引き連れて校庭に向かった。
子供達の部屋から3つ設けられた鍵付きのゲートをくぐらなければ一般棟を抜ける
事はできない。
1つ1つ違う鍵で格子を開け、後藤を先に通した後、また鍵をかける。
飯田はいつもこの面倒な手続きに気が滅入ってしまう。
とはいえ、脱走などという問題が起きないように必要な設備なのは分かっていた。
- 19 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)15時49分36秒
- 玄関先から見える校庭には、もうすでに全員が整列し、院長の寺田の訓示が始まっ
ている。
皆の気をそらさないように、飯田と後藤は校庭を横切らず、玄関脇の廊下から集団
の後方に回りこむ事にした。
保田が二人に気づき、直立したままでこちらを見ると軽くウインクをする。
飯田もそれに苦笑いで応えた。保田のウインクははっきり言ってちょっと怖い。
後藤は相変わらず無表情だった。
後藤を列の後方に並ばせると、飯田はさりげなく前方へ進み矢口の姿を探す。
列の一番前、身長の低い矢口は後ろから見ると他の子供の背に隠れてしまっていた
が、その派手な金髪はすぐに矢口のそれだとわかった。
施設内ではもちろん化粧をする事は禁止されているのだが、矢口の整った目元は
ぱっちりと、同性の飯田から見ても愛嬌のある顔立ちをしている。
しかしその唇には青紫のアザが残っていた。髪に隠れてよく見えないがこめかみに
はばんそうこうが貼られている。
おそらく、昨夜の喧嘩で負った怪我だろう。
- 20 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)16時18分32秒
- とりあえず矢口には声をかけず、そのまま横を通りすぎる。
その間も、院長の訓示は続いていた。
院長の寺田は管理職とは思えない、見た目はひどく軽薄な印象の男だ。
本人の口から詳しく聞いた事はないが彼自身、少年時代にこの少年院に収監された
経験があるらしい。
しかしその内面は外見や言動とは裏腹に、真面目で誠実なものなのだった。
彼は何事もおそろしくシビアな物の言い方をするが、逆にそれが部下の刑務官達か
ら尊敬と信頼を集めている。
『こんな所が、家庭や学校よりも居心地のいい場所やったとしたら、
そんなんホンマはアカンねん。』
そう言って、寺田はあえて厳しく、子供達の自立心をあおる指導を徹底していた。
子供達を見守る立場の刑務官に必要なのは、中途半端な同情ではなく、思いやりを
持って厳しく接する事だと。
飯田も、その寺田の方針に従う事に納得していた。
しかし毎朝の訓示はお約束のように退屈で長い。そこだけは不満だった。
- 21 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)17時41分43秒
- 欠伸をこらえながら前に出ると、列の先頭にいた同僚の刑務官が飯田に気づき手招
きをする。
金髪に深い二重まぶた、青い目。といっても外国人ではなく、その鼻は日本人特有
の低さで、口はいつも意味ありげに笑っているように見えた。
場にそぐわない派手な化粧だったが、それが自然と似合う美人。
飯田の先輩にあたる刑務長、中澤 裕子である。
「おはよう、裕ちゃん。」
「ういっす。
圭織、あの子の様子どうやった?」
お互いに小声で、さっきの後藤の様子を話す。飯田も昨夜のあらましを聞いた。
- 22 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)18時12分57秒
- 中澤が言うには、昨日の深夜、突然騒ぎが起きたらしい。
夜勤の刑務官達があわてて駈けつけた時には、部屋の中央で矢口が腹部を押さえて
嘔吐していて、それを黙って見下ろしていたのが後藤だった。
後藤はすぐに取り押さえられ、事情を聞こうと聴取室に連行した保田だったが、
その時には後藤は黙りこんだまま何も言わなかったという。
深夜という事もあり、矢口は容態を考えて中澤が付き添い病院に搬送した。
しかし実際には大した怪我でもなく、その日の内に戻ってきたのだ。
そのまま、詳しい調書は後日という事になり、矢口もまた部屋に戻った。
- 23 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)18時48分38秒
- 「あたしも、圭坊も仮眠どころじゃないやんか。
で、朝になれば圭織も来るし、詳しい調書は明日にしようって。」
ポキポキと音をならしながら肩を揉むと、中澤は大きなあくびをした。
それにつられ、飯田もまたあくびをし、長い手をのばして背伸びをしてしまった。
ただでさえ身長の高い飯田が大きく身体を伸ばすとそれはとても目立つ。
壇上の寺田にもそれが目に入ったのか、軽く咳払いをする。
寺田や他の刑務官、子供達の視線が自分達に注目しているのに気がついて、中澤と
飯田はあわてて姿勢を正した。
なるほどね。裕ちゃんも圭ちゃんもお疲れ様でした…。
そうこうしているうちに訓示が終わり、寺田が壇上から降りたところで校庭の隅に
あるスピーカーからラジオ体操の音が流れ始めた。
飯田と中澤もそれぞれの持ち場に戻り、号令をかける。
この体操が終わると、そのまま食堂へ向かい全員の朝食が始まる。
今日の献立はなんだったか…、そんな事を考えながら、飯田は自分の体操の動きだ
けが皆とズレていることに気づいていなかった。
- 24 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)22時16分50秒
- 第2話 「塀の中の少女達」
朝礼が終わり、各々の刑務官に従って子供達が食堂に向かう。
セルフサービスでトレイを持った子供達がせわしなく列を組み、朝の献立のメニュー
を順々に手にとると、それぞれ決められた席につく。
朝の献立は大抵決まっていて、それらはどれも質素だった。ビン牛乳が1本。
おかず一品にパン、それにジャムか蜂蜜。
稀にデザートとしてヨーグルトかフルーツがつく。
今日のおかずは温野菜とソーセージのポトフだった。
メニューは、子供達も職員も同じ物を食べる。
子供達の朝食時間を見守った後、授業がある部屋に送り届け、そしてようやく交代
で職員の食事が始まるのだ。
だからというわけではないが、質素でもちゃんと健康面や味の事を考えた食事が毎
日出されていて、それに関してなんらかの苦情や不満が上がった事は1度もなかっ
た。
- 25 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)23時09分26秒
- 後藤もまた、自分の班の列へと戻り食堂のテーブルにつく。
同じ班の矢口も無言で後藤の正面に座った。
後藤はちらりと矢口の様子を伺うように視線をおくったが、矢口は顔を伏せたまま
顔を合わせようとしない。
後藤の横には、見るからに真面目で気の弱そうな少女が座る。外見からは少年院に
いるのが不思議なほど普通の少女だ。とはいえ、見た目で判断できないのはここに
限った事ではないのだが。
「真希ちゃん、昨夜は大丈夫だった?風邪…引いてない?」
おどおどとたずねるその声はまるでアニメの登場人物のように甲高くか細かった。
名札には石川 梨華とある。
「……別に、どうってことない。」
昨夜、刑務官の保田が渡してくれた湯たんぽの事が頭をよぎったが、余計な事だと
思い、後藤はそっけない一言でかえした。
「そう…よかった。」
それ以上石川は何も言わず、今度は心配そうに矢口を見つめる。
矢口は石川からも視線をそらすように、ただ黙ってうつむいた。
- 26 名前:巴 投稿日:2002年01月07日(月)23時24分19秒
- そして矢口の隣には、まだ無邪気そうな面影を残す少女が二人、大盛りの器からポ
トフをこぼさないようそれに集中しながら席についた。
どちらも双子のように仲良くよりそってはしゃいでいるその光景は、見るものにど
こか違和感を感じさせる。
笑うと歯並びの悪さが目立つ、八重歯が特徴の少女が辻 希美。
まるで赤ん坊のような澄んだ目をした少女が加護 亜衣。
年齢的には児童相談所か鑑別所での保護が妥当に思える二人だが、彼女達もまた一
般の施設での治療更正が難しいケースで、この医療少年院で保護されているのだっ
た。
『いただきます。』
食堂に全員の唱和が響くと、15分という短い食事時間にせかされるように食器の
音がそこ等彼処から聞こえはじめる。
まだ育ち盛りの少年少女達にとって、早い時間に消灯され睡眠を強制される環境は、
朝までの退屈と空腹の試練でもあった。
- 27 名前:巴 投稿日:2002年01月08日(火)00時29分18秒
- しかし皆が食事を進める中、矢口だけは全く手をつけないままうつむいている。
右手のスプーンでポトフをすくっては戻し、食べる様子もない。
それを見た石川がたまらず言葉をかける。
「矢口さん、大丈夫ですか?」
横の辻と加護の二人は興味がないのか、もうすでにポトフとパンを食べ終え、残り
の苦手な牛乳をやっつけるのに苦労していた。
「誰かさんに殴られた腹が痛くてね。食欲も出ないよ。」
ようやく口を開いた矢口の一言に、後藤も黙々と進めていた食事の手を止める。
「だったらもう口もきけないようにしてやろうか?」
一触即発の雰囲気に、ただおろおろするばかりの石川。
しばらく両者はにらみ合っていたが、矢口が先に目をそらした。
「やめた…また殺されそうになっちゃたまんないもんね。
人殺しの後藤さんだもん。アタシなんか怖くもないんでしょ。」
そういうと、矢口はひきつった顔でちぎったパンを口に入れる。
後藤はそれに反論もせず、また無言で食事を続けた。
- 28 名前:巴 投稿日:2002年01月08日(火)00時36分56秒
- 「真希ちゃん、人を殺したの?」
「人を殺すってどういう意味?」
食事を早々に平らげてしまった辻と加護が、興味本位で尋ねる。が、石川が二人を
制するように話題を変えた。
「そういえば昨日ね、真希ちゃんと矢口さんがいない間に
教官達が話してるのを聞いたんだけど、新しい子が入ってくるらしいの。」
「ホント!?どんな子が入ってくるのかな、ね?ね?」
辻と加護の興味はあっという間にその新しく収監される少女に向けられ、二人はま
た勝手にはしゃぎ始めた。
石川は後藤をちらっと見た後、うまく話題をそらせたことに安堵した。
そんなのただの噂だよね……真希ちゃん。
石川の気遣いを他所に、後藤はそんな言葉にはもう慣れてしまったといわんばかり
に、矢口からの挑発を無視してのける。
昨夜の喧嘩の原因は、実はそんな次元とは別の所にあった。
その本当の理由を知るのは、殴られた矢口と後藤の二人だけなのだが。
- 29 名前:巴 投稿日:2002年01月08日(火)01時00分39秒
- 「矢口さん、食べないんだったらそれウチが食べますーっ!」
「駄目ー、あいぼんはそれ以上太ったら駄目なんれす!」
「それはののやろ!」
「うるさーい!あんた達はもう食べたんだろー!?
おとなしく牛乳飲んでろ!」
1人食事の遅れていた矢口に、辻と加護がパンとポトフをたかりにかかり、矢口は
それを鬱陶しげに叱った。そしてこれは毎朝の事だが自分の嫌いな牛乳を二人に押
しつける。
しかしその顔は後藤に向けたものとは違い、目がやさしげに笑っていた。
辻と加護は矢口から押しつけられた牛乳ビンをしばらく押し合い圧し合いしていた
が、やがてそれを石川に押しつけると、今度は何がおかしいのか二人して笑い始め
る。このメンバーで朝食を迎える、いつもの光景だった。
後藤もかすかに表情が緩む。
この二人を見ていると、周りの誰もが和やかな気持ちになるのだった。
この身寄りのない二人の少女の境遇を詳しく知る者から見れば余計に、屈託なく笑
うこの子達が眩しくうつる。
当事者の二人は、それを理解する事もできないのだが……。
食堂の机の間を見まわる飯田や保田、中澤も、気になる後藤と矢口を見守りながら
そのテーブルの様子を伺っていた。
- 30 名前:巴 投稿日:2002年01月08日(火)03時05分52秒
- 「昨夜はどうなる事かと思ったけど、今朝は特に問題ないみたいねっ……ん。」
保田は飯田と並んで子供達の食事を見守りながら、何度目かのあくびをかみ殺す。
「それにしても、矢口が周りにちょっかい出すのはいつもの事なのに、
昨夜はどうしてあんな怪我するような事になったんだろ?」
「…さあ、あの子の妄想虚言に付き合わされて我慢しきれなかったんじゃない?」
保田も矢口の虚言には何度も振り回されている。
それでも憎めないのが矢口の愛嬌なのだが。
「圭織にはそうは思えないんだよね…。
後藤はそんなすぐかっとなるような単純な子じゃないし。
それが分かってるから矢口も安心してちょっかい出してた。
そうでしょ?」
「…まあ、そうなのかなあ。」
「何かあったんだよ。昨夜に限って、何かが……。」
飯田はそのままぶつぶつと何かをつぶやきながら、虚空に視線を向ける。
それを見た保田は、何か言いたげだったがすぐに止めた。
まあた交信はじめちゃうんだがら……こいつは。
今では見なれてしまった飯田の姿を、同僚達はこっそりそう呼んでいた。
- 31 名前:巴 投稿日:2002年01月08日(火)03時13分47秒
- この後、子供達を各部屋に戻し、それぞれ決められた朝の授業へと引率する。
そして朝食を取れば、夜勤だった保田と中澤はようやく休みに入れるのだ。
24時間、刑務官や守衛の管理を必要とするこの少年院では、1日3交代のシフトが
組まれ、それまでの引継ぎを行う事になっていた。
昨夜のように、何かしら問題が起きた場合は、その引継ぎの残業が余儀なくされる
場合もある。
とりあえず今日は、飯田が後藤と矢口の昨夜の事情を調べる事になった。
- 32 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月08日(火)03時17分45秒
- 今日はとりあえずここまでです。
やっぱり難しいですね。プロット通りには簡単に進みません。(><;)
それから、少年院内の描写や、病気等の注釈は完全にフィクションです。
誤認誤用に注意して下さい。
- 33 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月08日(火)21時18分59秒
- 今日初めて読みました。
かなり世界にひき込まれました。
続きがとても楽しみです。
- 34 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月09日(水)00時35分56秒
- 名作の予感・・・
- 35 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月09日(水)18時10分22秒
- 面白い…
期待大です。
- 36 名前:巴 投稿日:2002年01月09日(水)22時45分04秒
- 33さん>
まだ始まったばかりなのに目を通してくださってありがとうございます。
34さん>
とんでもないです。実際、書いてみて初めて、
過去の名作の凄さが分かりました。
35さん>
ありがとうございます。ご期待にそえるようにがんばります。
今夜中に、第3話までいけるように今テキストを整理しています。
資料とかもっと揃えてから書き始めるべきだったと後悔も少し。(><;)
でも地道にがんばります。
- 37 名前:ナンポン 投稿日:2002年01月10日(木)02時08分55秒
- 本当おもしろいすよ。
既にはまりつつあります。
じっくりやってください!
- 38 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)03時47分32秒
- 医療少年院とはいえ、ここは刑務所ではない。
家庭裁判所での審議で起訴が決定していなくとも、保護観察処分として家庭での更
正が難しい場合、最長6ヶ月程の保護期間ここに身を置く子供達もいる。
そういった事から、ここで過ごす子供達を「受刑者」と呼ぶ事はあまり妥当ではな
いかもしれない。
世間的には、どちらも大差なく捉えられるかもしれないが。
施設内での子供達の過ごし方は、各々のケースによっても異なるが、更正の為のカ
ウンセリングやワークショップ。それらに多くの時間が費やされている。
精神科医や児童虐待専門のカウンセラーも常駐し、子供達のケアにあたっていた。
- 39 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)03時48分20秒
- また、義務教育も満足に受けられなかった環境から非行に走り、ここに送られて来
る者も多い為、希望するものには高校卒業の資格が取れるカリキュラムや、施設を
出た後、きちんと社会復帰し職場につきやすいよう、資格や技術を身につける為の
作業もある。
とはいえ、1度「少年院出」という汚点を引きずって生きる事は今の社会において
相当の障害だった。
結果として、ここに送られてくる子供達の多くが、過去にも鑑別所や少年院を経験
しているという、いわゆる「出戻り」が後をたたないのが現状である。
- 40 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)04時03分57秒
- 矢口 真理もまた、過去に鑑別所での生活を経験している1人だった。
当時、真理は14歳。
その頃にはすでに彼女の居場所は社会の闇。
自分ではどうしようもない所に身を置いていた。
父親は幼い頃に蒸発。水商売の母親の元、常に変わる情夫と共に各地を転々とする
幼少時代。
その母親も真理が中学に上がる頃、娘を置き去りに姿を消す。
その後、真理の身を預かったのは母親の情夫の1人だった。
其処からは地獄だった。
満足に学校へも行けず、夜の街が彼女の生活の場となる。
教えられるがままに薬物に溺れ、真理のような幼い少女がその糧を得る為の方法は
売春しかなかった。
まだその行為の意味もわからぬまま、大人達の欲望に消耗される真理。
そんな時、最初の事件は起きた。
- 41 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)04時30分17秒
- 母親の情夫。形だけではあったが、その男は真理の義理の父親となっていた。
母親が消えた日。
中学校から帰宅して誰もいなくなったアパートで、1人泣きながら途方にくれてい
た真理を無理やりに犯したのはその男だった。
荒々しい男の息を感じながら、真理は心を殺す事を覚えた。
それから男が客を取り、真理がその相手をする。
いつしか、何も感じなくなった。
これは私じゃない。私は、ここに居ない。
本当の、私は、ここに居る私じゃないんだ。
顔も覚えてはいない実の父親を思い、母親のやさしかった頃を思った。
小学生の頃、まだ何も知らなかった自分。
学校の友達。行けなかった遠足。修学旅行。
一緒に遊んだ友達の顔。離れていった友達の顔。
知らない高校生活。
いつしか真理は、それらの荒んだ悲しい記憶ではなく、別の幸せな人生を思い描き
その世界で生きることを望んだ。
現実の真理の生活は、夢だった。すぐに忘れてしまう、悪夢。
- 42 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)04時37分34秒
- 男がある日、複数の客を連れ真理を呼び出した。
酒と薬を与えられ、暴力団の事務所へと向かう。
男は金と引き換えに、真理を身売りしたのだ。
1週間、監禁された。
もちろんその間は男達の恰好の慰みものである。
殺した筈の心が、何も感じなくなった筈の真理が、泣き叫んだ。
でも、誰も助けてはくれなかった。
わめいても叫んでも、死のうと思っても、死ぬ事もできなかった。
そして真理が気がついた時。
以前から男をマークしていた警察が、その一室に踏み込んだ―。
悪夢の、かりそめの終わりだった。
- 43 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)04時54分58秒
- その後、保護された矢口は入院し、児童相談所へ送られたが、身よりのない彼女の
居場所などあるわけがない。唯一の居場所、その男すら居なくなった。
天涯孤独……。地獄から救われた少女、しかしそれが矢口の現実だった。
そして矢口は保護施設に送られたが、薬物依存からくる症状が彼女を苦しめる。
何度も脱走を繰り返し、その度に問題を起こした。
矢口には帰る家はない。友達もいない。
育った夜の街、そこだけが矢口を迎え入れる。
ようやく抜け出したと思えた闇、結局、その中でしか彼女の生きる場所はなかった。
そんな時、彼女はここ医療少年院に送致されて来る。
そこは、生まれて初めて矢口が本当の自分でいられる場所だった。
- 44 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)05時28分42秒
- 飯田は、大きなため息をつき、目を通していた矢口 真理のファイルを閉じる。
大きな目が震えていた。
それは、怒りなのか、悲しみなのか、飯田にもわからなかったが、やり場のない思
いがこみ上げる。
矢口のような少女が、何故こんな所にいるのか。いなければならないのか。
矢口だけでなく、後藤も、石川も、辻も加護も他の子供達も、その多くが自らの意
思が介在しない所で人生を歪められ、傷ついている。
『誰しも生まれてくる環境を選ぶ事はできない。
その一点において、人間は皆平等だ。』
だから、其処から本人がどうなるか、良くも悪くも、それは本人の選択でどうにで
も変化するものだ。
誰もが義務と責任を負って努力して生きていかなければいけない。
そんな事は分かっている。
売春も、人を傷つけるのも、嘘をつくことも、もちろん間違った行いだ。
それは立法で定められ、裁かれる。
けれど、それを選ばざるをえない少女達、それ以外を知らない者を裁く事の傲慢さ
理不尽さ、距離感はどうだ。
- 45 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)05時37分12秒
- 院長の寺田に言わせれば、余計な同情はかえって子供達の為にならない、そう言う
だろう。それでも、このやるせない思いは禁じえない。
……圭織に何ができるんだろう……。
飯田は、この仕事についてから己の無力感に直面する度、そう自問するのだった。
考えているうちは、決して答えの出ない問題ではあったが。
「……よーし。」
深く息を吸い、弱気になった自分を戒める。
同情なんかでこんなに一生懸命になれないよね。
これは、この仕事は、圭織が選んだんだから。
一生懸命やるんだ。それだけだ。
頬をぺしぺしと数回叩き気合を入れた飯田はすっくと立ち上がり、矢口を待たせて
いる聴取室へと歩き出す。
それを帰宅の仕度をしながら見ていた刑務長の中澤は声をころして笑った。
飯田の手と脚がギクシャクと一緒に出ていた。
- 46 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月10日(木)05時44分29秒
- 今日はここまでしか進みませんです。すいません。
完結まで一気に書くとか最初に言っておいて恥ずかしいです。(><;)
書き進めれば進めるほどプロットがいかに甘かったかが露呈してきますね。
難しいです。
ナンポンさん>
ありがとうございます、お言葉に甘えて、
ある程度じっくり掘り下げる書き方で考える事にしました。
- 47 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)07時46分00秒
- 第3話 「今夜も交信中」
飯田 圭織は北海道のごくごく普通の家庭に育った。
両親も健在だし、まあ思春期にはほんの少し、それなりに反抗期も迎えたが、家庭
的に大きな問題があった事など思い当たらない。
もちろん、どんな家庭にも夫婦間の問題は多かれ少なかれあるものだが、それに
飯田が迷惑をかけられたり、負担を感じた事は1度もなかったし、経済的にも何の
不満もなく育てられた。要するに、よくできた両親だった。
小学校、中学校、高校、短大。幸せな学生生活を送り、今も付き合いのある友達は
皆、学生時代にできた。
そんな平凡な家庭で育った飯田。何故、彼女がこの刑務官という仕事についたのか。
- 48 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月10日(木)07時47分06秒
- 「なっちはね、悩んでる子供達の為に力になってあげたいんだ。
明日香みたいな人を……もう見たくない。」
圭織がまだ高校生だった頃、同級生で親友の安部 なつみが言った一言。
二人は北海道で生まれ育ち、しかも同じ病院で生まれたという運命的な繋がりを
持った友達だった。
お互い、やわらかなおっとりした人柄で、おっちょこちょいな所も一緒。
そしてもう1人の親友、福田 明日香という少女。
二人とは違ってしっかり者で、面倒見のいい明日香は3人のまとめ役だった。
学校ではいつもつるんで遊んだ。部活も一緒。
吹奏学部とは名ばかりで、皆が思い思いの楽器で好き勝手ばかりして。明日香はド
ラムが叩けるのが自慢だった。
お互いの家に泊まりに行き、恋の話や音楽の話で一晩中語り合う。それは何処にで
もある風景。このままきっと、いつまでも続く友情だと思っていた。
大人になって、うんといい女になったって、またみんなして遊んでるよね。
お酒とか飲みたいね、3人で。カラオケも行ってさ!
そんなの今と変わらないじゃん。
―しかし、二人は知らなかった。明日香の隠された一面を。
- 49 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)07時48分48秒
- 高校卒業の間際、福田 明日香が亡くなったのだ。
死因は、流産に伴う出血多量によるショック死。駅のトイレの中での事だった。
明日香は―妊娠していた。
- 50 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時00分24秒
- 二人は泣いた。悲しくて、悔しくて、何故なのか分からなくて、泣いた。
明日香の死因は、学校では詳しい事は何も聞かせてもらえなかった。
ただ、「昨夜、福田さんがお家で亡くなった。」とだけそっけなく教師は言った。
圭織となつみは、信じる事ができなかった。
だって昨日の夕方、笑って手を振って別れたばかりのあの明日香に、もう、会えな
いなんて。そんな馬鹿な。嘘。
- 51 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時01分34秒
- お通夜の夜。
二人は他のクラスメイト達と焼香に向かった。
明日香は何も言わなかった。棺の中の冷たく青白くなった明日香。
普段、化粧っ気のなかった明日香に、死化粧がひどく色濃く施されているのがなん
だか二人には悲しかった。でも、ここに来るまでに涙は枯れてしまっていた。
それに現実感があまりにもなかったのだ。
目の前に横たわる明日香を見ても、今にも起き上がってきそうに思う。
そして、いつもの笑顔でこういうのだ。
『えへへー、驚いた?』
圭織となつみは、表情もなく焼香を済ませた。なんの感情もわかないまま、手を合
わせる。黒い額縁の中の明日香が微笑んでいた。
涙はもう……出なかった。
- 52 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時02分35秒
- 前に、圭織が母親の化粧品を持ち出して皆してお洒落をして写真を撮った事がある。
今見るとひどい顔で、ブサイクな顔で無邪気に笑っている3人がそこには写っていた。
その写真をそっと明日香の手に握らせ、明日香が好きだったCDも棺に納める。
そして彼女が冗談で大人になったら吸ってみたいと言っていた煙草をこっそり入れた。
- 53 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時05分06秒
- 帰り道、福田家の親戚達の話声が聞こえ、飯田と安部は耳を疑った。
明日香が妊娠していたこと、そして、駅のトイレで流産し、其処で亡くなったこと。
そしてもっとも驚いたのは、その明日香と関係を持っていたのが、実の父親と伯父、
祖父までもがそれに関わっているらしいという事だった。
ひそひそと下卑た噂話を繰り広げていた親戚連中は、圭織となつみが聞いているの
に気づき、露骨にあわてると厳しく口止めした。
「体裁が悪いから」と。
・
・
・
何を、言ってるの。
・
・
・
枯れたと思っていた涙がまた溢れ出した。悲しみじゃなく、怒りだった。
人を殺してやりたいと思ったのは、その時が生まれて初めてだった。
圭織となつみは、明日香が亡くなった駅のトイレで抱き合って泣き続けた。
- 54 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時17分02秒
- それから、圭織となつみの二人はしばらく学校でも顔を合わせる事はなかった。
二人で居たら、自然と明日香を思い出してしまう。そうすると、嫌でも頭をよぎる、
ドロドロと渦巻くどす黒い感情。
そして、1つの自問。
何も、気付いてあげられなかった。
それはどうしようもなく直面する、まぎれもない事実だった。
明日香は、自分達には言えなかったのだ。何も、何も見せず、何も話さないまま
逝ってしまった。それが、残された二人には辛すぎた。
しかしよく考えてみれば、言える筈がないのだ。
同じ年の友達に、自分の肉親と関係を持っているなどと。言える筈がない。
明日香にとっては、圭織やなつみと3人でいる時だけが、本当の自分になれたのだ
ろう。本当の、望んでいる自分の姿に。
自らが望まない自分の影、苦悩にさいなまれもがいていた明日香。
私達は、本当に友達だった?
- 55 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時41分00秒
- 卒業式の当日。桜がかすかに芽吹いている道沿いの河川敷。
圭織となつみの二人は久しぶりに顔を合わせた。川沿いの土手に腰掛け、ただ会話
もなく二人並んで、もらったばかりの卒業証書を持て余していた。
圭織はただ、雲が流れていくのをため息まじりにながめていた。
するとなつみが、溜めこんでいた息を吐き出すように言う。
「圭織は将来どうするの?」
「…将来…。」
圭織は地元の短大をいくつか受験していたが、その先どうしたいか、何になりたい
か、何も考えてはいなかった。
あれ以来、何をするのもおっくうで、無気力だった。
もう、どうなってもいい。自分を責めて、自暴自棄になっていたのだ。
- 56 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時43分02秒
- 卒業式の当日。桜がかすかに芽吹いている道沿いの河川敷。
圭織となつみの二人は久しぶりに顔を合わせた。川沿いの土手に腰掛け、ただ会話
もなく二人並んで、もらったばかりの卒業証書を持て余していた。
圭織はただ、雲が流れていくのをため息まじりにながめていた。
するとなつみが、溜めこんでいた息を吐き出すように言う。
「圭織は将来どうするの?」
「…将来…。」
圭織は地元の短大をいくつか受験していたが、その先どうしたいか、何になりたい
か、何も考えてはいなかった。
あれ以来、何をするのもおっくうで、無気力だった。
もう、どうなってもいい。自分を責めて、自暴自棄になっていたのだ。
- 57 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時44分46秒
- 「なっちはね、家裁の調査官とか…そういうの、目指そうかなって。
大学行って、勉強して………そう、思ってるの。」
顔を上げたなつみの目は、まっすぐに圭織を見ていた。なつみの、本気だった。
「…家裁…って?」
「家庭裁判所。なっちも調べたんだよ、明日香の…明日香の事。
したらね、お母さんは相談してたんだって、児童相談所とかに。」
「そんな!だったら……っ。」
「児童相談所とかね、まだよく分からないんだけど、ご両親の承諾がないと、手助
けが難しいんだって。つまり………。」
明日香のケースは、児童への性的虐待。実の父親と祖父、そして親戚の伯父から性
的関係をその幼少時の判断力のない頃から強要されていた。
中でも最悪のケースだったのだ。
父親がそれに加担している以上、外部からの介入を良しとする筈がない。
母親がようやく現実を見つめ、父親の目を盗んで外部に助けを求めた時には、何も
かもが遅かった。
肉親の性の欲望にもてあそばれた結果、望まれない子供を身ごもってしまった事に
気がついた時、明日香は何を考えたのだろうか。
- 58 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時49分20秒
- 「なっちね、悩んでる子供達の為に力になってあげたいんだ。
明日香みたいな人を……もう見たくない。」
「なっち……。」
その一言が、圭織の胸を突いた。なつみは、明日香の死を、ちゃんと前を向いてまっ
すぐに受けとめたんだと。
「…圭織は……圭織は…。」
圭織には何ができるんだろう。圭織もまた、まっすぐに顔を上げなつみを見る。
その時、明日香が亡くなってから初めて、二人は少しだけ笑みを浮かべた。
- 59 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時51分49秒
- その後、安部なつみは目標通り、家庭裁判所の保護観察員になる。
今でも飯田と安部は頻繁に連絡を取り合って、お互いの悩みを相談したり、意見の
交換をしていた。
現場で子供達の更正に直接携わる両者のパイプが密にとられている事は、飯田にとっ
ても、そして安部にとっても有益なことだった。
そして現に、後藤 真希を医療少年院送致と判断したのは、安部なつみの手による
ものだった。
- 60 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月10日(木)08時58分54秒
- すいません、55が二重投稿ですね。読みづらくしてしまいました。
以後、注意します…。
こっからやっと後藤と矢口編の収束へもっていけそうです。
- 61 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)09時02分48秒
- ああ〜!しかも安倍の字間違ってるし!(>o<)
×安部 ○安倍
- 62 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)18時41分34秒
- 第4話 「鳴かない小鳥」
飯田が聴取室に向かう途中、ふいに呼びとめる声。
「圭織、ちょっと…ええかな。」
施設内医務室の常駐カウンセラー、平家 みちよだった。
すらりと長身の平家と飯田が並ぶと、まるでモデルが二人いるように見える。
着こなされた白衣のせいか、年齢的に上に見える平家だったが、実際には飯田とそ
う変わらない。刑務官達が心から信頼できる、職場での先輩だった。
「みっちゃん。」
「矢口の事なんやけど、ちょっと気になる事があって。」
「うん、今から昨夜の話を聞きに行く所なんだ。」
平家は懐から何枚かの小さな紙を取り出すと、飯田に手渡す。
それは矢口とのカウンセリングの傾向がその機会ごとに細かく書かれているものと、
そしてその治療の為の処方箋だった。
「矢口、最近様子がおかしかったんだ。
ひょっとしたら、薬を飲んでなかったのかもしれない。」
- 63 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)19時02分34秒
- 飯田は言われるがまま、処方箋に目を通してみる。
そこには矢口の抱える症状、そしてそれにあった薬の名前が羅列されていた。
最近では一般にもよく知られるようになった心の病、躁鬱病。
よく、「最近、鬱で辛い。」「今日はなんか鬱。」等、日常会話の中でも昔なら考
えられない程に浸透した言葉だが、それが本当に病気として認識されているのはご
く一部においてのみだ。
誰しも、気分が悪いとか、落ちこんだりするのは当たり前だ。
そうやって日によってうつろいながら生活を送りながら、それらに対して自然と対
処できるのが普通だろう。
しかしもうそういった次元ではなく、強迫観念のような不安感や喪失感、そういっ
たものが襲いかかり、自分の力では立ち直れない症状を現す人達がいる。
自覚症状が曖昧なので、それを病気とは思わないまま苦しみつつ、日常生活を送る
人も多い。
世間的な見方では、「怠けている」「甘えている」ように見えてしまう。努力が足
りないと感じる周りからのプレッシャーや、それからくる自分への無力感。
何かしら大きな問題が起きた時初めて、それが病気だと気づくのだ。
- 64 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)19時06分25秒
- 厳密にはそれぞれ人によって異なる細分化された診断があるのだが、おおまかに言
えば矢口の場合、彼女は重度の精神病を抱えていて、常に薬の助けを必要とする状
態だと言える。
そこには過去の覚醒剤等の薬物依存からの傷もあった。
抗不安薬、抗鬱剤、抗躁剤などの向精神薬。精神安定剤や睡眠薬。
病状の度合いや具体的な症状に合わせ、投薬しつつじっくりと治療を続ける。
それ以外に明確な治療方法がないのが実状だ。
- 65 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)21時12分12秒
- 「確証はないんだけど……あの子、今すごく危険な状態だと思う。」
平家は爪を噛みながらつぶやく。
これまで、何人もの子供達のケアに現場で直接あたってきた。保護期間を終え、施
設を出た子供達の中には、無事社会に復帰できた者も多い。
しかしその為には、地域の保護司や監察官、そして何より環境のサポートが必須だっ
た。矢口にはそれが満足な形では望めない。結局の所、すべては本人の意思次第と
言わざるを得ない。それが歯がゆかった。
「…危険?」
「矢口本人は、ここに来てすごく回復したと思う。
それはあの子がそうなりたいって努力したからよ。
色々問題を起こすのも、積極的に他者への関わりを求め始めた兆候だと思う。
でもね、ここに来て、あの子はすごく不安になってる。」
「……。」
「保護期間はじきに終わるわ。
あの子の年齢から言って、いつまでも施設下での保護は難しいと思う。
自分の中で矛盾を抱えてるのよ。
回復したいって望む気持ちと、
でも何も変わらないんじゃないかっていう気持ちに。」
- 66 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)21時21分10秒
- 「…分かった、みっちゃん、ありがとう。」
飯田は矢口のカウンセリングの記録に目を通すと、うつむいて腕組したままの平家
の肩を抱いた。
やっぱみっちゃんはすごいね……流石、私達のお姉さんだ。
圭織にはそこまで見えてなかったよ…。
平家は飯田のまっすぐな感情表現に少し照れたように微笑むと、飯田の背中を励ま
すように押す。
「調書が終わったら、矢口に伝えて。
またちゃんとカウンセリング受けに来いよってさ。」
「わかった。念を押しとく。」
心の中で平家のアドバイスに感謝しつつ、そう言って飯田は聴取室に向かった。
- 67 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)21時34分17秒
- 聴取室のブラインド窓から外の太陽の光が床に模様を描き出している。
それを矢口はうつむいたままじっと見つめていた。
しかしその瞳には、何もうつっていない。
昨夜から何も口にしていない為か口の中がからからに乾いていた。
朝食もほとんど食べていない。辻と加護の心配そうな顔が少し、うれしかった。
もうほとんど思い出せないが、昔。
幸せだった小学生の頃の友達とのやりとりを思った。
「後藤……なんで助けるんだよぉ……。」
昨夜の出来事。後藤は誰にも、何も話さなかった。
石川は薄々感づいているかもしれない。しかし後藤が何も言わない以上、石川も何
も話したりはしないだろう。
後藤が昨夜駈けつけた中澤や保田に言った「こいつがむかついたから殴った。」と
いう一言。その嘘が矢口には余計に辛かった。
- 68 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)22時11分52秒
- 窓の外に、歩いてくる足音と長身の人影を見て矢口は慌てて涙を拭く。
シルエットを見れば、それが飯田だとすぐに分かった。
ここ施設内では、1人きりになることがほとんどない。普段、矢口のふさぎこんだ
顔を見た者はそういなかった。
矢口は今まで、人の目にさらされている時には嘘でも明るく強気に振舞った。嘘で
守り固めた自分でしか、人と関わる事ができない。
素の自分がどうだったのか、他人へどう接していいのか、そんな事すら彼女は忘れ
てしまっていた。
注意を引こうと、どうしてもすぐに相手を怒らせてしまう。でも自分に向けられる
関心が、例え怒りに満ちていても矢口は嬉しかった。そしていつしか、そうする事
でしか他人と関われなくなってしまった自分がいた。
- 69 名前:巴 投稿日:2002年01月10日(木)22時28分27秒
- がちゃがちゃと扉のノブが回る。しかし飯田は何故か入っては来なかった。
矢口の目が思わず丸くなる。
「あれっ?開かない…っあ!」
押し戸を引こうとしていた飯田は思わず開いた扉に体ごと倒れこんだ。
そのまま勢いで、机の角で頭を打ちうずくまる。
部屋の中に微妙な沈黙が響いた。
「あっはははは!な、何やってんの?馬鹿みたい!」
弾けるような矢口の爆笑に、飯田は思わず赤面する。
矢口は、緊張した出鼻をくじかれたようなアクシデントに本心から笑ってしまった。
「そ、そんなに笑うことないべさ。」
ほこりを払いながら、すっくと立ち上がる飯田。
長い髪が乱れ、ついつい目元にしわをよせるブサイクな顔になってしまう。
「ひっ…お、可笑しい。お腹痛いっ。」
「もういいよ…。」
お腹を抱えて笑う矢口の笑顔、飯田はそれを見ているうち、部屋に入るまでがちが
ちになっていた肩の力がすっと抜けるのを感じた。
- 70 名前:巴 投稿日:2002年01月11日(金)00時46分43秒
- 矢口はまだ笑いながら、倒れた椅子を起こして腰を下ろす。
飯田は表情は憮然と、しばらくそれを黙って見ていたが、ふと矢口の唇が乾いてい
るのを見てとり、部屋の中のコーヒーメーカーに手をのばした。
「矢口、コーヒー飲むかい?」
「いや、いいス。」
そういえばこの子、朝食もほとんど食べてなかったんだっけ。
飯田は空っぽのお腹にコーヒーは流石にまずいと気づき、ポットのお湯に蜂蜜とレ
モンを入れて簡単なレモネードを作る事にした。
蜂蜜の瓶を手に取り、蓋を開けようとする。が、固まっているのかなかなか開かない。
渾身の力を込めるが、ふたはびくともしなかった。
- 71 名前:巴 投稿日:2002年01月11日(金)00時56分50秒
- 「ふっん、ぐぐぐぐう…ふんっく。」
力を入れる度に変なうめき声をあげる飯田の後姿に、矢口は頭を抱えたくなった。
なんなんだろう、この女は……。
矢口が今まで会った事のないタイプ。少なくとも、夜の街で知り合った人間の中に
はこんな間抜けで力の抜ける奴はいない。
もし飯田が矢口と同じ境遇だったとしたら、きっとこのお人よしは、すぐに騙され
て身包み剥がれても気がつかないだろう。そう思った。
根本的に、住んでいた世界が違う。矢口はそれをいつも他人に強く感じた。
だから嘘で自分を守り、コンプレックスを隠そうとする。嘘を守る為の嘘はさらに
嘘をつかせる枷になり、それもいつしか慣れてしまった。
何が嘘で何が本当なのか、時々自分でもわからなくなる。
しかし飯田には、そんな劣等感を感じさせるものがない。
それは飯田の人徳かもしれなかった。
- 72 名前:巴 投稿日:2002年01月11日(金)01時07分01秒
- しかし人徳では固い蓋が開くものでもない。
捻っても叩いても、固まった蜜がへばりついたふたは開かなかった。
そこで飯田は大きく深呼吸すると、姿勢を変える。
「でぃあー!」
突然、飯田は奇声をあげた。
蜂蜜の瓶を太股の間にはさんで固定すると、両手でその蓋を開けにかかる。
飯田が力をこめる姿を見ていると、それだけで矢口も思わず力んでしまった。
なんとなく、両拳を握り締めてしまう。
飯田の奇声と矢口の念力が効いたのか、ようやく固い蓋は開いた。
カップにお湯を注ぎ、蜂蜜を溶かす。
レモン果汁の瓶から数滴をカップに落とすと、部屋の中にかすかなレモンの香りが
たちこめた。
「レモネードなら飲むっしょ?」
血管が浮き上がるほど力を込めたからだろうか、肩で息をしながら飯田が振り向く。
うっすら汗の浮かんだその笑顔に、矢口は苦笑した。
「しょうがないなあ、飲んでやるか。」
威張るように胸を貼る矢口。
その小さな体でつっぱった言葉遣いが、なんとも可愛いい。
- 73 名前:巴 投稿日:2002年01月11日(金)01時26分02秒
- 「あんた……圭織ってなんか刑務官っぽくないよね。」
「あー、よく言われるの。」
矢口は思わず飯田を呼び捨てにしてしまったが、飯田は特に何も言わなかった。
二人して無言でレモネードを飲む。
蜂蜜の甘さが、体の奥までしみていく気がした。
「調書作るんじゃないの?なんであんた1人なのさ。」
飯田のペースに巻きこまれていると気がついた矢口は、少しだけ身構えて尋ねる。
「そういえばそうだったよね。なんでだろ。」
とぼけているのかいないのか、矢口には飯田の本心が見えなかった。矢口でなくて
も、まさか飯田が見た目の通り素で忘れていたとは考えないだろうが。
「昨夜言った通りだよ。矢口が後藤を怒らせたから、殴られた。それだけだよ。」
「……うん。それは分かってるの。
でも、後藤はなんでそんなに怒ったんだろうね。」
- 74 名前:巴 投稿日:2002年01月11日(金)01時49分22秒
- 「…なんでって…。」
あっさりと自分の言葉を肯定され、矢口は戸惑ってしまう。
飯田は矢口の目をまっすぐに見つめていた。
「矢口は後藤と同じ班になってもう何ヶ月にもなるよね。
矢口がよくちょっかいかけてたのは圭織も見てたけど、
その間、一回でも後藤が矢口に手を出したのは知らないんだ。」
確かにその通りだった。後藤が施設に入って来た時から、矢口は後藤の凛とした立
ち振る舞いが気に食わなかった。それは、傷害事件で起訴されてきた後藤が、それ
を意にするそぶりも見せず飄々としていたからだ。
後藤には、矢口自身にはない強さを感じた。それに、矢口は嫉妬にも似た思いを抱
いていたのだ。後藤はきっと、ここを出て社会に戻ることになんの恐怖も不安もな
いに違いない。そんな風に思いこんだ。
「それは矢口が…あいつを、後藤の事、人殺しだって馬鹿にしたんだ、だから…。」
「どうしてそんな事。」
「みんな言ってるよ、あいつが人を刺したって!」
- 75 名前:巴 投稿日:2002年01月11日(金)02時06分55秒
- 今日はここまでです。
いい所なんですが、先の展開を考えると簡単にまとめられません…。
元々はこんなに長くなる話じゃなかった筈なんですが。(^^;おかしいなあ)
最初の言葉を撤回させていただいて、長い目で見ていただけると嬉しいです。
いっそ長編にしてしまおうか、新キャラをどうしようか……
悩みの多い話になりそうです。
あと繰り返しになりますが、施設や病気の描写はフィクションですので、
余計な誤解のなきようお願いします。雰囲気だけの小説ですので。
- 76 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月11日(金)02時32分11秒
- 飯田さんが主役級の話、久しぶりに読んだよ。グーです。
ただひとつだけ。
些細なことなんですが、矢口の名前は「真理」じゃなくて「真里」ですよ。
- 77 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月11日(金)22時00分02秒
- おつかれさまです!長編でも大歓迎!
新キャラですか?
できたら中澤を活躍させてください。
ただの意見ですみません・・
- 78 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)00時34分56秒
- 76さん>>
ああー、ご指摘ありがとうございます。言われなかったら気づかないまま進めてま
した。(>o<)今後気をつけます。って最初から名前の表記間違えまくってますね。
飯田さんは電波キャラとして描かれる事が多いようなので、語り部の視点として選
んでみました。
77さん>>
ありがとうございます。新キャラには一応、吉澤を予定しているのですが…まだ分
かりません。中澤さんの活躍は……良き先輩としての視点にご期待下さい。(^^;)
- 79 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)00時35分39秒
- その言葉に飯田が少し苦笑いすると、それだけで矢口の気勢が削がれてしまう。
思わず口走ってしまった言葉に、矢口は後悔した。
飯田は、親友で家裁の保護司である安倍から事前に聞いていた、後藤の補導の事件
を思い出す。
深夜の公道での暴走族同士の抗争事件。それは通報で出動した警官隊との衝突に発
展し、多数の死傷者を出した。補導された少年少女の数も多い。しかし実際に立件
され起訴されたのは一部に過ぎなかった。
後藤はその事件の時、手にしていたナイフで一人の少年を刺した。とされている。
少年は病院で死亡したが、直接の死因はバイクでの事故からくる頭部損傷。
すでに死亡していた少年を後藤は刺した事になる。結局、その件では彼女は不起訴
になった。
その後、児童相談所での審議で後藤の保護処分が決定し、医療少年院へ送致された
のである。
「みんなが言ってるからってそれが事実とは限らないよ。
矢口も、それは分かるでしょ?」
- 80 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)00時36分47秒
- 飯田はカップを手にその温かさを手のひらに感じながら、ゆっくりと話を続けた。
「だから後藤は、矢口のその言葉に頭に来たんじゃないと圭織は思うの。」
「……っ。」
思わず絶句する矢口。目の前にいる、ぼーっとした天然のこの刑務官が、自分の心
の中を見透かしているような気がしてきた。
「こんな事、圭織の口からホントは言っちゃいけないんだろうけど、確かに後藤は
傷害で補導された事が何度もあるし、そして、その事件で死亡した人がいるのも本
当。でもあの子がここに来たのは、それとは直接的な関係はないよ。
審議で保護処分になったから。それだけなの。
だから、後藤が昨夜怒って矢口を殴ったとしたら、その理由は別の所にあるんじゃ
ないかなって。圭織は思う。」
「理由なんて……。そんなの矢口が知るわけないじゃん!
殴られたのは矢口の方なんだから……。」
飯田の包み込むような言葉に、思わず身をひるんでしまう。
自分の嘘を、まるで嘘じゃないみたいに受けとめて、それでいてまっすぐに言葉を
返してくる。それは今まで矢口に向けられてきたような攻撃的な言葉ではない。
- 81 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)00時38分55秒
- 『つかれた嘘をただ、嘘や!って否定したらそれは、其処で終わってまうんや。』
刑務長の中澤の言葉だった。
子供が嘘をつく時。子供に限ったことではないが、人が嘘をつくには理由がある。
だからこそ、その声の裏には本心が隠れているのだ。
それを見たければ、その嘘の表層に囚われず、その奥にある声に耳をすます。
飯田が中澤から教わった心得の1つだ。
- 82 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)00時40分01秒
- 矢口の本心が少し見えた気がした飯田は、話題の角度を変える事にした。
「みっちゃん…、じゃない。
平家先生が心配してたよ。最近、カウンセリング受けてなかったらしいね。」
「まあね。だって退屈なんだもん、毎回毎回同じ事の繰り返しでさ。
それに嫌いなんだよね、色々と詮索されるのって。
子供の頃の話とかさ、面倒くさいっての。そんなの関係ないんだから……。」
「でも薬はちゃんと所内の薬局で処方箋出してもらってるね。」
手元の資料とは別に、先ほど平家から渡された紙には今月に入ってから矢口に渡さ
れた薬の数と種類が書かれてあった。
毎日の投薬を受ける子供達は、各々医師から処方された処方箋に基づいて、その日
の分だけを薬局で受け取る事になっている。
矢口は、平家に直接会うのを避けるように、薬だけを毎日受けとっていたようだ。
- 83 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)00時41分13秒
- 「平家先生、矢口の様子が最近おかしかったって。」
「っだから関係ないじゃん!
アタシがどうなろうが、どうせここ出たらどうでも良くなるんでしょ!」
矢口は苛立たしげに立ちあがった。
「っ!」
机の上のカップが倒れ音を立てる。冷めてしまったレモネードが机に広がった。
飯田は何も言わずに、あわてて布巾でそれを拭く。
「……良い人ぶって気持ち悪いんだよ!どいつもこいつも…。」
矢口は立ち上がったまま叫ぶと、下唇をぐっと噛みしめた。
ホントはそんな事を言いたい訳ではない、しかし他人に素直になる方法を矢口は知
らない。その自分のもどかしさに頭痛が襲う。
吐き気がして、思わず髪をかき乱して床に座りこんだ。
「矢口!」
飯田が驚いて駈けより、手をのばす。しかし矢口はそれを振り払って膝を抱えた。
「嫌なんだよ!もう!何もかも嫌なの!」
やはり矢口の様子は情緒不安定という度合いを越えている。処方された薬を飲んで
いない証拠だった。
「矢口、…違うよ。そうじゃないんでしょ。圭織にはもう分かったから…。」
「分かんないよ!分かったフリしないでよ…!」
- 84 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)01時00分12秒
- 小さな子供が駄々をこねるように、矢口はしゃがみこんだままわめき散らした。
飯田の目を見ることができない。その哀れみの視線を見れば、もう耐えられない。
その時、飯田の平手が矢口の頬をひっぱたいた。
「っ……。」
突然の出来事に、思わず飯田を睨みつける矢口。苛立ちにまかせて振るわれた手に
怒りを感じて見た飯田の顔は、矢口以上に今にも泣きそうな顔をしていた。
しかしその目は哀れみではなく、強い意思で、何かに怒っているように見えた。
それは昨夜、後藤が見せた瞳と同じ物だった。
「しっかりしな!矢口!」
矢口の顔を両手でしっかとつかみ視線を合わせると、飯田は震える声で、しかし厳しく恫喝する。
「不安なのは、分かる。ここから出るのが怖いのも、分かる。
だけど圭織には、他の誰だって、矢口の過去を変える事はできないんだよ。
ここに居る間にみんながしてあげられる事は、ここを出る強さを矢口に与える事。
矢口が2度とこんな所に戻って来ない様に、戦う気持ちを教える事。」
「……。」
「その為だったら、圭織なんだってできるよ。」
- 85 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)01時19分24秒
- 「怒ってごらん、理不尽な事には怒ればいいんだよ!
矢口が諦める事なんてないんだから!何もかもどうでもいいだなんて、そんな事
思っちゃ駄目なんだよ?そんな事、誰も望んじゃいないの、矢口だってホントはそ
うでしょ?」
揺さぶるように飯田は矢口を抱きしめた。
「……矢口は……。」
飯田の胸にぎゅうっと押しつけられると、その薄い胸の鼓動が熱かった。
自分の中の何かが、溶けて流れ出すような気がした。
嗚咽がこみ上げ、飯田の背中を思いきり叩いた。何度も何度も叩いた。
「…………うっ、……矢口は……ひっく。」
飯田の背中を叩きながら、しがみつくようにして喘いだ。それでも飯田は矢口を抱
いて離そうとしない。
「……死のうって思った……。」
ぽすぽすと背中を叩く力が弱くなり、そのまま両手ですがりつく。表情を見ようと
はせず、飯田はただ胸の中で泣く矢口の言葉を待った。
「…ひっく………矢口は………死のうとしたんだ………。」
- 86 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月12日(土)01時34分20秒
- 明日に続きます。
- 87 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時34分23秒
- 第5話 「やさしい嘘」
施設内の子供達が生活をおくる室内。
中には人数分の二段ベッド。そして格子付きの窓が2つ。壁には各自の名札のつい
たジャージがハンガーにかかっている。
トイレは部屋の角に1つだけ。
そして天井には蛍光灯が1つ、そして入り口の扉の上にはカメラが24時間監視を続
けていた。
昨夜、矢口は以前から隠して貯めこんでいた睡眠薬をこの部屋に持ち込んだ。
1日1日の分量は少なくとも、一ヶ月間飲まずに隠しておいた錠剤はかなりの量に
なる。
もちろん、施設ではそういった危険に備え、消灯前には室内と少女達の身体検査が
行われている。心に障害を負った子供達が多く送致されてくるこの医療少年院で最
も注意しているのが、収容された子供の自殺だった。
そういった危険を未然に防ぐ意味もあって、通常は子供達を個室でなくいくつかの
班に分け、集団生活をおくらせている。
自傷行為を繰り返したり、危険な状態にある子供だけが特別病棟に移されていた。
- 88 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時37分08秒
- そこで矢口は薬が発見されないよう、部屋の中に隠す事を避けた。
睡眠薬は錠剤のみを取り出し、午前中のうちに施設内の誰もが自由に出入りできる
図書室の中に隠したのだ。図書室が閉められるのは夕方。
そして図書室から借りてきた本の中に、薬を隠し持ちこんだ。
薬を飲まず、言い様のない不安と襲いくる自殺願望に眠れない夜が続いている。
しかしきちんと薬を飲んでいたとしても、ここ数週間それは同じだったろう。
矢口は自分がここに来てある程度、順調に回復しているのを自覚していた。カウン
セラーの平家の言う通り治療を受け、薬物依存もあとは精神的なものだけになって
来ている。ここに来た当初の矢口から考えれば、信じられない事だった。
しかし、自分を取り戻せば取り戻す程、希望のない現実を直視せざるを得ない。
そして最も大きな恐怖、それが矢口を安らかな死へと推し進めていた。
- 89 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時38分32秒
- 14歳のあの時から、もう5年近く経つ。
未成年略取・児童売春等の刑罰は多くともたった5年以下の懲役刑だ。数百万以下の罰金
刑で実刑には執行猶予がつく事もある。
詳しくは矢口の知る所ではなかったが。
もし、あの男が、出所して来たら―。
また、地獄のような日々が待ちうけている。
あの場所に戻るぐらいなら、矢口はここで全てを終わらせたいと考えていた。
その夜の検査で睡眠薬を発見できなかったのは、刑務官の保田の落ち度といえる。
しかし毎日行われる作業の中、本棚は調べてもその中の本1冊1冊を調べなかった
のは仕方のない事だった。
矢口は前もって図書室から本を借りてきた際、その本の中身までは調べられない事
を確認していた。
チェックが終わり、保田が外から部屋の鍵をかける。
消灯時間にはまだもう少し間があった。
矢口は薬を隠した本を手に取り、ベッドに横になって読むフリをする。
辻と加護は先ほど保田に怒られたにも関わらず、同じベッドではしゃいでいた。
後藤はその上の段で無表情に寝そべり、石川は矢口の上の段にいる。
矢口は静かに消灯を、最後のその時間を待っていた。
- 90 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時41分23秒
- 「矢口さん最近、よく本読むんですね。」
石川が話しかけてきたが、矢口はいつものように無視する。
矢口は石川が苦手だった。
見るからに世間知らず風のお嬢様。そんな印象から、甲高い細い声まで何もかもが
鼻についた。立ち振る舞いや仕草の一つ一つが、石川の育ちの良さを物語っている。
それに気づく度、矢口は劣等感を感じるのだった。
しかし、その奥には石川の笑顔を眩しく見つめる自分がいる。
憧れと言ってしまえばいいのだろうか。こんな場所にあって、他人にやさしく接す
る事ができる石川を矢口は羨ましく感じていたのかもしれない。
今まで、そんな人間と一緒に過ごした事はなかった。
しかし何故、石川がここに送致されてきたかについては誰も聞かなかったし、石川
もそれについては話そうとはしなかった。別に、興味もなかった。
- 91 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時42分05秒
- 「それ、その本。私も子供の頃読んだ事あるんです。」
石川は無視されるがまま、話を続けてきた。後藤にもいつも無視される彼女は、ま
だ矢口の方が話しやすいのだろうか。
後藤もふと耳に入った二人のやりとりに振り向いた。
「洋服だんすを開けると、不思議の国が広がってるっていうのが好きで。
よく家のたんすを開いて中で眠っちゃったりとか。
矢口さんもやりませんでした?」
「……あたしもそれ知ってる。」
珍しく後藤が会話に口を出した。表情は相変わらずクールなままだったが。
「はあ?」
矢口も思わず驚いて石川と後藤を見る。同じ経験が矢口にもあった。
- 92 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時43分01秒
- 子供の頃、まだ父親が居て、母親が買ってくれたであろう絵本。
もうおぼろげな記憶しかないが、布団の中、母と父にはさまれて、寝物語に読んで
聞かせてくれたお話。
その中で、洋服たんすを開けておとぎの国に行くという物語を、矢口は覚えていた。
その後、父親が蒸発し、家を手放した母親に連れられて各地を転々とした。
ボロボロのアパートには、かつて両親と暮らした家にはあった洋服だんすもない。
しかし母が仕事から帰ってくるまでの間、押入れの戸を開けたり閉めたりしながら、
その中で矢口は空想にふけった。
違う世界に行きたい。決して、一人ぼっちじゃない世界。
やさしかった父がいて、酒に酔っていない母がいて、会えなくなった学校の友達が
たくさんいる世界を想像した。
その押し入れの中でだけは笑っていられた気がする。
いつか、誰かが迎えに来てくれる。
ここではないどこか、幸せな世界に行けると。願った。
- 93 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時44分47秒
- 別に本の内容まで読んでいる訳ではなかったが、借りてくる本は毎回、何気なく気
になったタイトルの本を手にとっていた。偶然それが、子供の頃読んだ絵本の原作
だったのだ。
「矢口さんの後で私も借りていいですか?また読みたくなっちゃいました。」
「…別に、勝手にすれば。」
矢口はそっけなく答えた。
しかし本のページは中央を破って薬を隠す為の隙間を作ってしまっている。
最後に子供の頃の思い出の本を読んでおけばよかったと少しだけ後悔した。
消灯前の検査が終わった後、石川や後藤がベッドに横になったのをうかがう
と、矢口はトイレの中でその睡眠薬を少しずつ飲みほした。
矢口が処方された薬を就寝前に飲むのはいつものことなので、誰も怪しむものはい
ない。
辻と加護にも薬は処方されていたし、毎晩それを面倒くさがる二人に薬を飲ませて
あげる石川も、矢口が水を持ってトイレに入った所で何も気付かなかった。
- 94 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時45分57秒
- 「……………。」
そのままベッドに戻り、暗闇の中、天井を見つめていた。
なんとなく、ここに送致されて来た時の事を思い出す。
暴力団の事務所から保護され、数ヶ月の間、入院していた矢口。その間、もしかし
たら母親が迎えに来てくれるかもしれないと期待したが、毎回違う保護司が何度か
見舞いに訪れただけだった。形式通りの保護と監視。
そこでも矢口は常に孤独だった。
その後、施設に移り、居場所の作れない其処から何度も脱走した。
夜の街を徘徊し、一晩の宿を求めて声をかけてくる男の元を渡り歩く日々。
母親と同じ、不器用な生き方だった。
何度も施設に戻され、鑑別所にも入った。その度にやり直そうと心に誓ったが、体
を深く蝕んだ麻薬の誘惑、耐えきれない孤独感に抗う事はできなかった。
そして半年前。矢口はここに送致されてきたのだ。
厚いカーテンのかかった護送車の窓からかすかに見えた林の広がる丘の風景。
高い塀の門をくぐると、矢口はここからは逃げ出さずにすむかもしれないと思った。
- 95 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時47分42秒
- 彼女を最初に迎えた刑務官は金髪の強面の女性。
「刑務長の中澤 裕子です。よろしくな。」
ケバイ化粧に青いコンタクト。染められ、ウエーブのかかった髪。
繁華街のクラブホステスのような雰囲気に、矢口は母の面影を感じた。
もっとも母親は、こんなきつい関西なまりの口調ではなかったが。
家裁からの付添人と書類のやり取りを交わした後、中澤は矢口を連れ施設の案内を
始める。
施設の雰囲気は、これまで矢口が転々とした保護施設となんら違いのあるものでは
なかったが、そこにいる子供達の表情に少し違和感を感じていた。
「ここは一応、少年院って事になってるけどな、目的は療養と保護やから。
まあ建前は何処もそうなんやけど……。
普段は別に授業受けるもよし、寝ててもかまわへん。
まあ定期的に先生のカウンセリング受けたり、児童相談所への報告書類の作成で刑
務官と話したりはしてもらわなアカンねんけど。」
「……ネンショーなんて何処も一緒だよ、ワルのゴミ溜め。」
中澤のなれなれしい口調に拒絶感もあらわに吐き捨てる矢口。
鑑別所で散々聞いた少年院の噂。そして実際、鑑別所内だけでも、くだらないイジ
メや派閥の抗争などを経験していた。
- 96 名前:巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時48分55秒
- 「はは。まあそうかもしれん。
けど心配しんとき。根っからのワルはここには居られへん。」
中澤は腕組したまま、廊下の窓から校庭を見下ろしながら言う。
外にはドッチボールをする子供達の姿。明るい笑い声が聞こえていた。
「なんの確証があって言ってんのさ?」
「そのうち会う事もあるやろけどここの所長、
つんくさ……いや寺田さんって人な。
昔、相当なワルやったんよ。少年院にもずっと入ってたらしい。
そんなあの人が叩き直すねん。ホンマのワルの腐った性根っからな。」
「……。」
「実を言うとアタシもここの卒業生なんよ。他の奴には内緒やで。」
ウインクをしながら耳元で囁く中澤の言葉に驚きを隠せない矢口。
その腕を取ると、中澤はそこに赤紫色に点在する注射の跡を見て笑った。
「大丈夫。あんたもきっと良くなるよ。
クスリなんかな、水飲んで寝てたら抜けるんや。」
それが辛いねんけどな。そう言って中澤はまた大きく笑った。
- 97 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月12日(土)05時56分54秒
- 矢口編、後日ももうしばらく続きます。
(とかいいつつ、さっきは早朝起きて更新してしまいましたが。)
- 98 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月12日(土)14時12分46秒
- うまく少年院の雰囲気が伝わってくるな〜。
よく書けてるので想像しやすく、読みやすいです。
- 99 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時18分40秒
- 98さん>>
ありがとうございます。皆さんの言葉はホントに励みになりますね。(^^)
ちなみに作者は少年院出ではないです。
当然、それに伴う知識もおそらく皆さんと同じ一般的な程度です。
おそらく実際の少年院はこんなものではないと思いますが、雰囲気にリアリティを
多少なりとも持たせる為に、実際の矯正局や少年犯罪の裁判手続き案内を参考には
させていただいていますが。
しかし、作中の表現はその都合上、矛盾がとても多いですので誤解きようお願いし
ます。「塀の中の懲りない面々」とか「リップスティック」をイメージしていただ
くと分かりやすいかと思います。
- 100 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時33分31秒
- ゆるやかなフラッシュバックは続く。
保田の厳しい顔。
「こら!やぐちぃーっ、先生の言う事はちゃんと守りな!」
顔を見ればまるで姉のように口うるさい小言を残していく。
「説教臭くて気持ち悪いんだよ、おばちゃん。おえっってなる。」
そうやって毛嫌いしたそぶりをいつも見せてしまった。
でも、いつも影からそっと距離を置いての見守るような視線を感じていた矢口は、反抗する度に見せるその怒った顔が好きだった。
平家先生。カウンセリングをすっぽかす矢口を探し出してはしつこく話を聞こうとする。平家はブツブツ文句を言いつつも、必ずいつも自分を迎えに来た。
顔を合わせれば矢口の嘘に本気で怒ったりして。喧嘩ばっかりだった。
喧嘩の中でも、根気を持って矢口の話に付き合おうとする平家。
- 101 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時34分22秒
- 天然ボケの電波女、飯田。
頼りないようで実際つかみ所の無いその姿を見ていると、矢口の方が思わず手を差し伸べてしまいそうになる。
つっかかっても、まるでのれんに腕押し。喧嘩にもならない。
ただ側に居て、温かくて、まるで不愉快にならない存在。
矢口の心の垣根を、何気なくまたいで入って来てしまう飯田に、矢口は戸惑った。
飯田の中には垣根も何もない。そのまなざしは、いつもまっすぐで、タンポポの綿毛のようにふらふらしてて、そしてやわらかだった。
そして所長の寺田。
『まあ、がんばれや。』
初対面でかけられたたった一言。人を小馬鹿にしたような口調が気に入らなかった。
刑務官の誰もが信頼をよせるその男。今まで矢口の周りにいた大人達と何が違うのか。その時、矢口にはまだ分からなかった。
- 102 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時35分22秒
- その後、毎晩のように襲う覚醒剤の依存症。発作に苦しみ暴れた為に特別病棟に矢口は移された。
そんな時、矢口のベッドの側で付き添った中澤が一晩中、ずっと手を握りながら話してくれた事があった。
「あたしもまだ10代の頃…もうずいぶん昔なんやけどな。
悪い男にひっかかってなあ。ぼろぼろになってここに来た。」
「……。」
「ここに送致されてきた時、妊娠してたんや。ウチ。
結局、流産してもうて……2度と子供産まれへんって言われてさ。」
矢口の震える手をぎゅっと握りしめ、中澤ははにかんだ笑顔で続けた。
なんで、そんな顔ができるの?
朦朧とした中、握られた手から伝わる強い想い。それが、矢口を繋ぎとめた。
- 103 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時36分16秒
- 「そんな時な、寺田さんにこうして今みたいに励ましてもらったんや。
ウチみたいな女でも、世の中にはいっぱい出来る事があるんやって。
いや、アタシやからこそ、出来る事がある筈やって。
……だから、この仕事についたんや。
ここに居る人間はみんなそうや、人には言わへんけど色んなもん抱えてる。」
手をつないだまま、矢口の額の汗をそっとぬぐう。
赤ん坊をあやすように、胸の上に手をそえると、やさしく布団をかぶせた。
「矢口もそうや、あんたにしか出来へん事がきっとある。
寺田さんも、ウチも、他のみんなも、それを信じてる。
だから、こんなんで負けとったらアカン。
諦めたらアカンで……矢口……。」
裕子…さん……裕ちゃん……。
ゴメンね……私やっぱ駄目だぁ……。
目を閉じた中、昨日のことのようにも思える光景が浮かび上がる中、矢口はだんだんと自分の輪郭がぼやけていくような気がした。
- 104 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時36分56秒
- 背中から深く暗い底無し沼に沈んでいくような心地に怖くなり、目を開けて見ようとするがまぶたが重くて動かない。もう、光を感じる事もできなかった。
気がつけば手足が鉛のように重く、その感覚もが無くなっていく。
ふと熱い雫が頬を伝うのを感じた。自分の涙だった。
ああ……本当に、私は死んじゃうんだ。
もう、これで楽になれるんだ。
過去の傷もこれからの不安も全部無くなっちゃうんだ。
生きつづけるなんて、疲れたから。
これで、お終いにするね………。
とりとめない言葉や記憶のかけらが流れては消えていく。
矢口は自分の呼吸音も聞こえなくなった。
意識がどこまでも落ちていく感覚。
細く細くなった糸が切れる瞬間、矢口は消えそうな心の殻の中で、最後に中澤の言葉を叫んでいた。
………あ……たく……ないよぉ……た…………。
- 105 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時38分45秒
- 後藤はまだ完全に眠りについてはいなかった。
あの事件から、夜になると落ちつけず眠れない。血に染まった自分の手を思いだし、何度もそれが過去の記憶だと確認した。
人を刺した時の、まるで豆腐を刺すような抵抗のない感触が体から離れない。
ぬるっとした血の色、鼻をつく乾いていく血の匂い。
それらを振り払うように、後藤はかぶりを振った。
その時、何かが床に落ちるような物音を聞いた気がした。
暗闇の中、目をこらし起き上がる。
「?」
入り口の扉の窓からさしこむ非常灯の明かりに目が慣れると、かすかに部屋の中が見渡せるようになる。
後藤の二段ベッドのちょうど正面には石川が、そしてその下の段から、矢口の右手がだらんと床にはみ出している。そして、その手元には消灯前に矢口が手にしていた本が落ちていた。
- 106 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時39分52秒
- 「……矢口さん……行っちゃ、……ダメなのれす……矢口さん……。」
さっきまで気がつかなかったが、かすかに下からすすり泣くような辻の寝言が耳に入る。耳をすまし、とっさに後藤ははしごを降りると枕元の辻を見た。
加護と二人で抱き合うように眠る辻。熟睡している筈なのに、辻はうわごとのように矢口の名を呟いていた。
とたんに嫌な予感がして矢口のベッドに駆け寄る後藤。
床の本を手に取ると、破られてばらけたページがばらばらと落ちる。
真ん中だけがくりぬかれるように破かれたページ。
ぞっとするような悪寒が背筋を走る。後藤は瞬時に矢口が何をしたのか理解した。
「………っ。」
暗くて矢口の表情まではよく見えなかったが、明かに様子がおかしいのは一目で分かる。唇が半開きになったままよだれがたれ、枕元を濡らしていた。
軽くゆさぶると、体が弛緩しきったように反応がなかった。
あわてて矢口の口元に頬をあてる。
呼吸をしていない。
- 107 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時40分49秒
- 「……っ!!この……馬鹿!!」
後藤は矢口の方をつかみ大きくゆさぶる、しかし矢口の体にはもう抵抗する反応もなく、勢いあまってベッドのフレームに頭をぶつけてしまった。
それでも矢口にはなんの変化もなく意識を失ったままだ。
後藤は思い切って矢口の顎を持ち上げると、人工呼吸を試みる。
見よう見真似の行動だったが、突然の出来事に頭の中は真っ白で、無我夢中の行動だった。何故助けるのかとか、そんな事を考える間もない。自然とそうしていた。
矢口の唇を押し開け、喉につまったよだれを吸い上げると、鼻をつまんで息を吹き入れる。矢口の肺がふくらみ、胸が持ちあがる。
矢口の唇から感じる体温は、まだその温かさを残していた。心臓がまだかすかに脈打っている証拠だった。
そうか……まだ胃に残ってる薬を吐き出させないと……!
呼吸の止まったままの矢口の上半身をベッドから引きずり出すと、床にうつぶせにさせる。そして、背中を思いきり何度も叩いた。
しかし、なんの反応もない。
- 108 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時41分51秒
- せっぱつまった後藤は、矢口の腹部を押しこむように殴りつけた。
そのとたん、矢口は胃液と共にまだ溶けきらず形を残したたくさんの錠剤を吐き出した。まだそれほど消化されていない。
それを見た後藤は容赦なく、胃液がもう吐き出されなくなるまで、矢口の腹部を殴り続けた。
そして再び矢口をあお向けにし、人工呼吸を繰り返す。咽返るような胃液の味がしたが、気にもならなかった。ただ、無心にそれを続けた。
- 109 名前:巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時42分24秒
- ギシギシときしむベッドの音に、石川も気がついた。
「かはっ!う…えっ…はあっ!」
息遣いと、そして誰かが咳き込むような声が響いて、完全に目を覚ます。
「……何!?…どうしたの?」
暗闇に慣れない目をこすりながら、石川は下を覗いた。
「げえっ…、はっ、はあっ、あっが……っ!」
矢口が腹部を押さえながらうつぶせに倒れ、その傍らに後藤が立ちすくんでいる。
喘ぎもだえながら矢口は床の上の吐瀉物の中に転がっていた。
それに驚いてあわてて下へと降りる。
「はあっ、はあっ、……はっ。」
後藤は肩で息をしながら、無表情に矢口を見下ろしていた。しかし分かるものが見れば、その顔に少し安堵の色が浮かんでいるのに気づいただろう。
「矢口さん!真希ちゃん…っ、どうしたんですかこれっ!」
ただ事でない様子に、血相を変えて石川は入り口の扉を叩き叫ぶ。
「誰かー!!誰か!救急車呼んで下さい!」
- 110 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月13日(日)05時45分58秒
- 今日はここまでです。
改行のやり方を勘違いしていて、人によってはブラウザの幅で非常に読みづらかったかもしれません。
ごめんなさい。
今日の更新から改行とかを変えてみました。
次の更新で矢口編は終わりそうです。
- 111 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月13日(日)20時28分28秒
- すごいとしか言えない作品ですね。名作です。
矢口と後藤の喧嘩の真相、かなりどきどきしながら読んでました。
- 112 名前:ナンポン 投稿日:2002年01月13日(日)20時49分35秒
- 細部まで説明があって場景が浮かんできます
この後の展開と新キャラ登場マジたのしみです
無理のない更新で頑張ってくださいね
ほんと期待してます
- 113 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時23分24秒
- おはようございます。早朝の更新です。
111さん>>
目を通してくださって、ありがとうございます。
最初に書きたいと思った部分が、
その二人の喧嘩の理由だったのでそう言っていただけるとうれしいです。
ナンボンさん>>
度々ありがとうございます。
とりあえず今回の更新で開始時に書きたかったシーンは書いてしまったので、
今後は1話ごとに書き貯めての更新にしようと思っています。
ペースは落ちると思いますが、引き続き見て下さればうれしいです。
- 114 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時24分27秒
- 何も見えない、何も感じない暗闇に深く深く沈んでいく。
冷たい水のような漆黒の空間の中に浮かびながら、自分の体が静かに崩れて溶けるのをただ見ていた。
心では必死で足掻きもがこうとするのに、手足の感覚が何もない。
今まで感じた事のない大きく得体のしれない恐怖の淵が矢口を飲みこもうとしているようだった。
「…さん…。」
「……や…ち…さん。」
遠くから何かが聞こえた気がして、消えかかった矢口の輪郭はおぼろげにとどまった。それは声というよりも、何か意識そのものが波のように伝わってくるような、そんなかすかなものだ。
真っ黒な闇の中、霞がかった灯火のような光が降りてくる。
小さく、今にも消えてしまいそうなその光はゆっくりと、矢口に近付いてきた。
「………辻………?」
- 115 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時25分14秒
- 目の前に、辻がぽつんと浮かんでいた。
いつもの何を考えているかよく分からない、頭の悪そうな顔で。そして頼りなげに矢口を見つめている。
「矢口さん、そっちに行っては駄目なんれすよ。」
「辻…あんた…なんでこんな所にいるの…?
あんたこそ駄目だよ、こんな所に1人で来ちゃ…。」
思わず薄れゆく意識の中で言葉を返す、声にはならなかったが辻には届いているようだ。
その声に何が嬉しいのか、にへー、と歯並びの悪い八重歯がのぞく。
いつも、「馬鹿に見えるからやめな。」と矢口が言っているその表情は、辻が本当に嬉しい時に見せる笑顔だった。
「矢口さんが、どっかに行っちゃいそうだったから。
連れ戻しに来たんれす。」
「…あたしは……。」
辻が近付いてくるにつれて、矢口の輪郭がだんだんと元の形を取り戻していく。
その手をつかんで、辻は必死でぐいぐいと上に引っ張り始めた。
しかし二人の周りを満たす黒く冷たい水のようなものがうごめくと、矢口だけでなく辻の体にも浸透し、その形を崩そうとしはじめる。
- 116 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時26分16秒
- 「辻!駄目だよ、あんたまで消えちゃうよ!」
「嫌ですー!矢口さんどっかに行っちゃうもん!」
それでも手を離そうとはしない辻。矢口と一緒にどんどんと沈んでいく。
「そんな事言ったって……っ!」
…あたしは……あたしはなんでここにいるんだっけ?
そう、あたしは、自殺したんだ。
施設の中の世界が、あんまり居心地がよくて、外の元の世界に戻るのが怖くて、もう全てを終わらせちゃおうって……楽になりたかったのに。
なのに…こんな所に、しかも辻が一緒に来ちゃうなんて、そんなの嫌だよ。
誰かを道連れになんて、そんなの駄目だよ。
あんたを連れて死んじゃったら、加護がどれだけ悲しむか…。
「辻…っ!離して!」
「嫌らー!真希ちゃんも助けてくれてるんですー!」
「後藤?」
二人して闇の中に消えてしまいそうになったその時、視界が突然光に包まれる。急激に体が浮き上がるような感覚、そしてまばゆい光の中、辻と矢口の意識は消えた。
- 117 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時27分15秒
- 矢口は気がついた瞬間、激しい痛みと共にこみ上げる吐き気に襲われた。
熱く酸っぱい液体が喉を焼く。
「かはっ!う…えっ…はあっ!」
床に顔をこすりつけるようにのたうちながら、こみ上がる胃液を吐き出した。
誰かが上からもつれ合うようにして馬乗りになって、矢口の頬を叩いていた。
矢口はまだはっきりしない意識の中、自然と肺に送りこまれる息に激痛を感じながら何度も喘いだ。腹部や胸の痛みが、だんだんと現実を認識させる。
後藤……?
矢口の瞳にようやく光が戻ったのを見て取ると、後藤はようやく矢口の頬を叩いていた手を止めた。そのまま乱れた呼吸で、呆然と見下ろしている。
「矢口さん!真希ちゃん…っ、どうしたんですかこれっ!」
石川のヒステリックな声が響く。
そして再び、矢口の意識は遠くなった。
- 118 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時28分42秒
- 気がついた時には、病院のベッドの上だった。
何故、そこが病院だと分かったかといえば、横にしかめっ面でカルテを見ている白衣の医者がいたからだが。
腕には血圧計の帯がまかれていて、その横に看護婦が1人。
やはり機嫌の悪そうな顔であくびを噛み殺していた。
矢口は薄目を開けて横たわったままの状態で視界を見まわす。
「…ったく、困るんだよねえ。おたくの所はいつもいつも…。」
当直の医者なのだろうか、中年の男は機嫌の悪い口調で言う。
その机の横には、矢口と一緒に救急車で付き添ってきた中澤が頭を下げていた。
「すいません。なにしろ夜分でしたし、怪我もしてる様子なのでウチの内勤の神経科の先生方ではちゃんとした診断もできませんので。
いつもご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
中澤は男のねちねちと責めるような言葉にも顔色1つ変えずに謝罪を繰り返した。
「…怪我は大した事ないみたいだし?どうせつまらんいざこざで喧嘩でもしたんでしょうなあ。こんなろくでなしの為にあんた達もご苦労なことだ。」
- 119 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時30分06秒
- 「……診断書は書いていただけますか?」
「あー、腹部への打撲、頭部の擦過傷、それ以外は特にないね。レントゲンでも骨に異常はないし。特に問題ないよ。」
医者は矢口の方を見ようともせずにカルテにボールペンを走らせた。
「でも、ずいぶん吐いてたんですよ?
入院させて明日、内科の先生に様子見ていただくとか
……ホンマに大丈夫なんですか?」
「大丈夫だよ、カルテじゃこの子、薬物依存もあるんだろ?
ちゃんと考えて処方してんのかねおたくの方じゃあ。
まさか坑鬱剤やらでラリって喧嘩したんじゃないのか?
全く、つまらん事でいつも煩わされて迷惑なのはこっちなんだからね。
うちの病院は普通の患者で手一杯なんだよ。それをこんな……。」
「……。」
中澤の瞳から焦点が消える。
- 120 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時33分20秒
- もし、ここで医者がきちんと胃の内容物の検査や、血液検査をしていればその結果から矢口の自殺未遂が発覚しただろう。
しかし結果的にそれはこの場にいた人間にはわからないままだった。
医者の言葉を聞き流し、診断書の封筒を受け取った中澤。その瞬間、中澤は思いきり医者の机に拳を叩きつけた。
スチールでできた机の天板が音を立てて凹む。机の上のペン立てが倒れて散乱した。
そして無言のまま、医者の胸倉をつかんでゆっくりと顔を近づける。
目の前の相手の突然の豹変に驚きで固まる医者。
看護婦も目がさめたように振り向く。
「…どうも、お世話おかけしました。
アンタみたいな、ド腐れヤブ医者には金輪際!
2度とウチの大事な子供等の面倒はかけへんから安心しといて下さい。」
- 121 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時34分17秒
- ドスの効いた声で我慢していた想いをぶつける中澤。思わず殴り倒すのを2度こらえての行動だった。
怒りで髪の先がピリピリと逆立つ。
胸倉をつかみ上げたまま、もう片方の拳が凹んだ机から目の前の中年男の顔面に向かわないよう、必死で理性を働かせた。
「…っな、なんて物の言い方だ!き、き、君ぃ!なっ、何を!」
「ああ!?…さっきなんて言うたコラ?
…普通の患者で手一杯で?それをこんな?その先言うてみいや。」
「…や、やめたまえ!こんな事をして、問題になるぞ!」
取り乱した自分を躍起になって静めようと医者は強気に出る。
たかだか、少年院の職員ふぜいに罵倒されるのはプライドが許さない。彼は少し冷静さを取り戻すと、血気に燃える中澤を非難しにかかった。
『ウチの大事な子供等』
耳に飛び込んできた中澤の怒号。それが矢口の心に深く響いた。
顔が、耳までかっと熱くなり、涙が出そうになる。
思わず、医者に殴りかかってしまいそうな中澤に手をのばそうとした。
- 122 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時35分36秒
- 「…っ……。」
声はまだ出なかったが、懸命に中澤を止めようと思った。
このまま医者に手を出せば、中澤が責任をとらされるのは当然だった。
自分のせいで、中澤にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「っ先生、あの…この子気がついたみたいなんですけど…。」
医者と中澤の様子を手をこまねいて見ていた看護婦が、意識の戻った矢口に気がつく。
とたんに、掴んでいた白衣の襟をぱっと離す中澤。
そのまま何か言いたげに口をパクパクさせる医者には目もくれず、矢口の枕元に駆け寄った。
「矢口ぃー、心配させてホンマに!この阿呆!」
「痛っ…、痛いって裕子…。怪我してるんだからっ。」
思わず頭を抱きかかえた中澤に、喉の潰れたしゃがれた声で反抗する矢口。
泣きそうなのをごまかそうと、見られないように抱きかかえられた胸で涙を拭いた。とにかく水が飲みたかった。
「ああ、っゴメン。」
中澤は矢口の髪をなでると、今度はそっと気をつけながら抱きしめた。
- 123 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時36分37秒
- 「ぇおっほん!ごほん!」
わざとらしく咳き込む医者。
その存在を忘れていたかのような中澤は、振りかえるなり態度を変えた。
「嫌やわあ、先生!
本気にせんといて下さいねぇさっきの。心にもない事言うてしまいまして。
こんな夜分にお世話おかけしました。
そしたらこれでさっさと失礼いたしますので。
先生もあんまり冗談言わんといて下さい?
ウチの所長からそのうちまたご挨拶あるかもしれませんので。」
「…。」
医者は中澤のあまりの言葉にあっけにとられながら口を開けている。
そして中澤は医者と看護婦に深く一礼すると、矢口が横たわったストレッチャーを押して診察室を出ていった。
- 124 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)06時37分18秒
- 帰りの護送車の中、矢口は中澤に本当の事を言えずにいた。
後部座席に毛布にくるまって横たわりながら、矢口は自分が生きている事に戸惑いを覚える。どうして助かってしまったのだろう。
それなのに、ズキズキと痛む体は生の実感を伝えてくる。
体の痛み以上に、心の中が絞めつけられるように痛んだ。
もし自殺を図ったなんて事を中澤に言えば、きっとものすごく怒るだろう。
そして自分に失望するに違いない。
「…後藤は……?」
結局、口から出たのは自分を助けてくれた後藤の事だった。
後藤は気がついているに違いない。だから助けてくれたのだ。
「ああ、圭ちゃんが話聞いて、多分…反省室やろうなあ。」
「……。」
中澤は、自分からは何も聞こうとはしなかった。
運転を続けながら、ただ、矢口が無事だったことに安堵していた。
- 125 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)07時10分02秒
- そして。
聴取室では、飯田が矢口の話した真相を調書にまとめていた。
矢口は落ちつきを取り戻すと、皆がいる校庭へと戻って行った。
この件に関してはもう、後藤からは事情を聞く必要はないと判断し呼び出す事をやめる事にする。
何故、後藤が真相を話さずに責任を負ってまで嘘をついたのか。
飯田にはなんとなく分かる気がした。
そして矢口の自殺未遂の事は正式な記録に残さない事に決める。
家裁や児童相談所に送る書類は、自殺未遂の件だけを消して報告する事にした。
もちろん、これは内部での隠蔽工作なのだが…。
飯田はそれに罪の意識を感じるほど考えようとはしなかった。
ここが、保田との違いなのかもしれない。
保田であれば、それはそれとして報告書を書くに違いない。
しかし問題が公になれば、刑務官として中澤や保田は当然、責任を問われるだろう。矢口も特別病棟へ移されるか、児童相談所へ話が上れば、別の施設への送致もありうる。
それは、今の矢口が一番望まない結果だといえた。
- 126 名前:巴 投稿日:2002年01月14日(月)07時11分35秒
- 中澤に話すと、彼女はいつものように笑っただけで何も言わなかった。
「圭織やったらそう言うと思ってた。矢口をまかせて正解やったわ。
圭ちゃんは怒るかもしれんなあ…。」
ひょっとしたら、中澤は薄々気がついていたのかもしれない。
所長の寺田からは、矢口と後藤の二人に対しては、なんの処分もしないようにと指示が下りた。
中澤と保田には厳重注意。実質、お咎めはナシということだった。
ただ後日、夜間の緊急搬送先の指定病院が1つリストから消えた。
それに気がついたのは中澤だけだったのだが…。
保田は、自分のミスで事件を未然に防げなかった事を悔やんだ。
その後、消灯前の身体検査と室内の検査が徹底される事になる。
これはもっと先になってからの話だが、この騒動以後、この施設内での自殺者は未遂を含めて1人も確認されていない。
冬が終わり、暖かな春を迎えようとしていた。
第1部 終
第2部に続く。
- 127 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月14日(月)07時31分39秒
- 第1部終了です。
はー…初の連載投稿だったのですが、とりあえず区切りまで持って来れたので、
途中励ましを下さった方、読んで下さった方には本当に感謝です。
ありがとうございました。
第2部は、第6話から新展開ですが、しばらく時間を置いて始めようと思います。
書き貯めはこれで消化してしまったので。
再開時にスレッドが消えていたら新スレで。
残っていればここで始めようと思っていますが、
それはここでは迷惑かもしれませんね。
よければご意見を下さい。参考にさせていただきます。
- 128 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月14日(月)15時28分53秒
- かなりおもしろいっす。
それぞれのキャラもたっているし、
話の流れもしっかりしていて引き込まれます。
まだ明らかになっていない人の過去や
これから矢口・後藤がどう変わっていくのか楽しみです。
これからも頑張って下さい。
- 129 名前:全権特使 投稿日:2002年01月15日(火)03時15分24秒
- スレが立った時から読んでましたよ。
私のスレとも何か方向的に似通ったものがあったので、
面白く、引き込まれました。
最近は色々と取り上げられる機会の多い医療少年院を取り扱った小説というのは、
やはり書くのはかなり難しいと思います。
精神的な描写が不可欠な題材ですよね。
それをうまく描写できていると思います。
第2部も期待してます。
頑張ってくださいね。
- 130 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月15日(火)06時21分38秒
- まだ120ちょっとですし、このままこのスレで続けていいと思います。
良質の作品ですので、中断中も読めるように残しておきたいですし。
- 131 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時35分44秒
- 128さん>>
ありがとうございます。
第2部は少年院から少し離れて、外から後藤の過去を書いて行こうと思います。
まだおぼろげにしか考えてないのですが。(><;)
気長に見守ってやってください。
全権特使さん>>
ああ、ありがとうございます。
僕も読ませていただいて、勉強になってます。
少年院を舞台にしようと思ったのは、ポラロイドのCMでモー娘。が囚人と看守になったのがありましたよね。
あれがイメージにあって、それで書いてみようと思いました。
全権さんも忙しいと思いますが、続き楽しみにしてますのでがんばって下さい。(^^)
130さん>>
ありがとうございます。お言葉の通りにしようと思います。
また何かあればアドバイスいただければうれしいです。
それでは第2部、第6話「塀の外」読んでやってください。
- 132 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時38分48秒
- 第2部
第6話「塀の外」
都内で最も大きい大学病院。
その敷地内にはいくつもの建物が立ち並び、内部に設けられた公園には患者だけでなく白衣を着た学生達の姿も目立つ。
外科病棟に入り、一般病室前の廊下を抜けるとそこには集中治療室があった。
そこに向かう1人の少女。
背筋をぴっと伸ばし、凛々しく歩くさまは可愛いというよりは美しい印象を与える。落ちついた一定の感覚で歩を進めるたびに、ゆるいパーマのかかった栗色の髪が肩の上ではねた。
容姿を見れば、はっとするような白い肌、長い睫毛が伏せ目がちにゆれている。
化粧っ気のないその素顔は17歳という年齢よりも大人びて見えた。
手には小さな花束が1つ。派手ではないが、黄色を基調とした感じの良いものだ。
少女はほぼ毎日のように、学校が終わり夕方になると駅前の花屋で花束を買い、この病院に訪れるのだった。
- 133 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時40分22秒
- 少女の向かう集中治療室の横にはナースセンターがあり、その扉の横では昼休みなのか数人の看護婦達が井戸端会議の様相を呈している。
『集中治療室の患者さん…もう一ヶ月以上も意識が戻らないみたいよ。』
『それよりあの子の部屋で付き添いしてる人!あれって絶対ヤクザだよね。』
『知ってる知ってる!怖いスーツの人が毎日様子見に来るんだもん。』
『あんな女の子になんで?ひょっとしてどっかの愛人だったりして。』
すれ違う看護婦達の噂話が耳に入り、少女は不機嫌な表情をさらに固くした。
これから見舞う患者の身の上話など、彼女には全く興味がない。
こちらに気づいて気まずそうに口を閉ざす看護婦達を鋭い視線で一瞥すると、少女は集中治療室の扉を軽くノックして中へと入る。
部屋の扉には「市井 紗耶香」と名前が記してあった。
- 134 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時41分10秒
- 個室になっている室内には大きなベッドが1つ。
部屋の窓は大きなカーテンで隠され、全体は薄暗く日差しも入らない。
ベッドの周りには人工呼吸機や心電図、点滴などのいくつもの機器が並べられ、そこから延びたコードやチューブが、横たわった患者の体へと伸びていた。
人工呼吸機の立てる低い空気音だけが室内を占める。
頭部を包帯で巻かれ、点滴の管をいくつも腕に繋いだ女性。
その喉にはチューブが直接つながれていて、人工呼吸機が動く度に胸がかすかに上下しているのが見えた。
もう数ヶ月、彼女は意識の戻らない植物状態でここに入院していた。
そのベッドの脇には、がっしりと体格のいい男が1人座っていたが、少女が部屋を訪れた事に気がつくと立ちあがって出迎えた。
「吉澤ちゃん、また来てくれたんか。」
「いえ、それより市井さんは…。」
男は無言で首を振った。
吉澤は男に気を使わせるつもりはなく、男もそれを分かっているのかそれ以上の会話を必要としなかった。
ベッドの上の市井の表情は青白く、精気と呼べるものを感じない。
しかし吉澤は彼女が必ず回復すると信じていた。
- 135 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時42分37秒
- 額にそっと手を差し伸べ、語りかけるように顔を何度も撫でる。
かつての笑顔を思い出し、吉澤は少し微笑んだ。
もちろん反応がないのは分かっているが、毎日ここに来て続けている習慣だった。
しばらくそうした後、ベッドの側の花瓶にいけた古い花と水を捨て、新しい物と取り替える。
「市井さん、今日はカーネーションだよ。
ね、いい香りでしょ?
ごっちんが『母さん』なんて言ってあげてた時さ、うれしそうだったもんね。」
意識はなくとも声は届いていると信じて、吉澤は話しかける。
毎日病室に花をいけるのも、退屈な市井に香りだけでも楽しんでもらおうと思って続けている事だった。
植物状態の人間が退屈を感じるかどうかはともかく、こんな事ぐらいしか吉澤に出来る事はない。
元はといえば、市井がこうなってしまったのは自分に責任があると吉澤は感じていた。
ごっちんはあたしを責めたりしないだろうけど…でも。
そう、あの事件が起きる一ヶ月前。
吉澤がある事から市井に助けを求めなければ、こんな事にはならなかった。
- 136 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時45分24秒
- 時間は2年前に遡る。
吉澤は中学を卒業し都内の私立高校に入学した。
その学校は都内では有名な進学校だったが、生徒達に「お受験」的な雰囲気はなく、私立校特有の自由な校風からか多種多様の生徒達が集まり、あらゆる分野においてその成果を上げていた。
吉澤は学校では決して目立つ生徒ではなく、どちらかというと中学からの友人との付き合いを大切にしていたため、校内では主に1人でいる事が多い。
それに他の女子高生のように、多人数で群れて行動する事が苦手だった。
中学から続けていたバレー部を高校でも望んだが、部内の上下関係や女性特有の派閥等に嫌気がさしてすぐに辞めてしまう。
中学生のように気楽に仲良くとはいかない、それが悲しかった。
女性の横のつながりというのは信じられない広がりを見せる。
上級生に反感をかってしまった事実は、他の生徒達にもあっという間に広まった。
それが、吉澤の孤立を一層深める事になってしまう。
- 137 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時46分43秒
- いつしかそういった一匹狼的な雰囲気が板についてしまったせいで、眼をつけられる事もしばしばある。
しかしそういった時でも彼女は取り乱す事なく対処した。
別に命まで取るつもりなんてないんでしょ?
怪我して困るのはお互い様なのに。
吉澤は逆上した上級生との喧嘩を収めるのにいつもそういう言い方をする。
取っ組み合いの喧嘩でも負けた事はなかったが、入学早々それで自宅謹慎を食らってしまった事があって、これ以上馬鹿馬鹿しい茶番に付き合うのはゴメンだった。
彼女のそういったふてぶてしく映る態度に、最初は突っかかってきていた先輩達も次第に相手をしなくなり、むしろその存在に一目置くようにさえなる。
そんな事を吉澤はかけらも望んでいなかったのだが。
クラスでも友達はできず、仲良くしようとすれば余計な因縁をかけられると皆が吉澤を避けた。
- 138 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時47分36秒
- 高校で吉澤は常に孤独だった。
普通ならこれはイジメに近いのだが、吉澤にその自覚は全くない。
中学の友達がいれば別に寂しくない。
自分の境遇を気にも止めないそぶりが、余計に周りの気に障った。
- 139 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時48分27秒
- ある日、いつものように昼休みに一人、校舎の屋上で昼食のベーグルを黙々と食べていた吉澤に、3年の校章をつけた上級生の一人が明るい声をかけて来た。
「よ。天気いいね今日。一緒してもいいかな?」
短い黒髪と大きな目が、精悍な印象を与える少女。
入学してから今まで、無愛想な吉澤に笑顔で話しかけてきた上級生などいなかった。まして、今の吉澤の状況なら尚更である。
一瞬、また因縁をつけられるのかとウンザリした吉澤だったが、目の前の相手の雰囲気には何か他の上級生とは違う感じがした。
この相手の笑顔には何の打算も思惑もない、吉澤の狭い心の隙間に自然に入り込んでくるような、そんな声だった。
- 140 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時49分41秒
- 「別に…、いいですけど。」
「前から面白そうな奴だと思ってたんだ。
いっつも一人でいるしさ、なんか気になってて。」
吉澤は自分がこの学校で「面白そう。」と初めて言われた事に気がつく。
中学の頃バレーに夢中だった時には、彼女も普通に友達と笑いあったりはしゃいだりしていたが、高校に上がってからというもの、学校で思いきり笑う事などほとんどなかった。
彼女の言葉に、思わずぎこちない笑顔がこぼれる。
その素直でない反応に吉澤は自分に苦笑した。
笑い方まで忘れていたなんて。
…この人、なんか良い人だな。
吉澤は直感でそう思った。
と同時に、その良い人が心配になる。
- 141 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時50分32秒
- 「…あの、あたしに声かけて大丈夫なんですか?
他の先輩とかになんか言われますよ。
あたし…なんか眼ェつけられてるから。」
その吉澤の気遣いの一言にきょとんとした表情をしたかと思うと、その上級生は大声で笑った。
訳がわからず戸惑う吉澤の肩を叩き、まだこみ上げて来る笑いを必死でこらえる。
まさか、自分のことを知らない人間がいたなんて。
それだけ、吉澤が校内でつまはじきにされていた証拠だ。
校内の噂に疎い吉澤は後で聞くまで全く知らなかったのだが、この上級生は校内では知らない者はない有名人だ。
なにしろ指定暴力団系の組長の家の一人娘という肩書き。
学区内全体でも、ちょっとした不良ならその名を聞けば下手な事は出来ない。
具体的に彼女が何かをしたという事ではないが、背後に暴力団の名前を背負っているというだけでその理由としては十分だ。
それが、市井 紗耶香だった。
- 142 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時52分04秒
- それ以来、二人は仲良くなった。
市井も、普段の学校では皆が恐れて近寄らず遠巻きにするだけの存在だったし、吉澤も高校で初めて話せる相手と出会った事で素顔の自分を取り戻す事ができた。
二人は出会うべくして会ったような、そんな関係だったのかもしれない。
市井は家がヤクザだと言う事を特に威張る事もなく、それが大した事ではないように振舞っていて、実際に吉澤も市井の家に遊びに行くまで気がつかなかった。
夏休み前の週末、吉澤が初めて市井の家に誘われた日の事。
「…市井さん…、ここって…市井組って書いてますけど。」
「ああ、ここがあたしん家。まあ上がってよ。」
大きな門戸をくぐると、きれいな砂利が敷き詰められた小さな庭園が広がり、その奥に大きな日本家屋が立っている。
……でっけえ家……なんじゃこりゃ。
家みたいなマンション住まいとは違うなあ。
掃除するの大変そう…。
- 143 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時52分53秒
- 流石にあっけにとられた吉澤だったが、映画のようなチンピラがたむろしているようなイメージはすぐに違うと分かった。
何人かの男とすれ違うが、皆礼儀正しく、逆にこちらが恐縮してしまうような態度で吉澤に接してくれたのだった。
市井も、そんな吉澤を見て楽しんでいる。
実は学校の友達を連れてきたのは吉澤が初めてだった。
市井はまず吉澤を地下の駐車場に案内すると、たくさん高級車が並ぶ奥にある自分のバイクを見せた。
400ccの赤いボディ。後ろに突き出した銀色に輝く大きなマフラー。
バイクに興味のない吉澤が見ても、なんだか物凄く速そうに思えた。
それをにやにやしながら見ていた市井はふいに言った。
「吉澤、バイクの免許とりなよ。あんたきっと向いてると思うよ。」
「バイクですか?んー…どんなだろう。」
「あたしが教えてやるからさ。
チーム作ってるんだ。吉澤も入ればきっと面白いよ。」
- 144 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時53分33秒
- 「チームって…?」
その言葉に少しぎょっとした吉澤の顔に、あわてて付け足す市井。
「違うって!族とかじゃなくって、純粋に走りを楽しむチームだよ。
そりゃスピード違反はしてるんだけど……。」
暴走族の多くは実はそういう単純な動機から派生しているのだが、実際には、それを構成する縦横のつながりからくる資金力に目をつけ、何時の間にか背後につく暴力団への資金が流れたりする中で、どんどんと歪んだ組織になっていく。
そして、その流れが地元に定着してしまうのだ。
しかし皮肉な事に、ヤクザの娘である市井の作ったチームはそれを免れている。
一般公道を走る事は稀で、主に山を越える峠で走る事を目的とする集団だった。
尻ごみする吉澤にメットをかぶせると、市井は強引に後ろに乗せてバイクを出した。
「ちょっ、市井さん!あたし初めてなんですけど!」
「大丈夫!ちゃんとつかまってりゃ落ちないから!」
手馴れた運転で街を抜け、峠へと向かう市井。
その背中に必死でしがみつきながら、吉澤は生まれて初めての体感に胸が騒ぐのを感じていた。
- 145 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)16時54分55秒
- 視界を流れていく街並み、そして体中を叩くような風。
車の間をすり抜け、軽快に飛ばすバイク。
最初は耳障りだったエンジン音も、道路すれすれにまで重心を傾けて曲がる時にぐわっと体に圧しかかる重力も、すでに心地よく思える。
「市井さん!なんか!これ最高!」
「だろーっ?そう言うと思ったんだ!」
市井の教えてくれたスピードの与える快感に、吉澤はすぐに夢中になってしまった。
うねるような山沿いの道路を上ると、すこしひらけた場所に出る。
道路の両側を遮っていた森の木々が切れ、視界がさあっと広がった。
「うわぁ……っ。」
標高はまだそれほど高くないが、そこから見える下の街並みの景色は絶景だ。
少し霞がかったような風景が足元に広がっている。
- 146 名前:巴 投稿日:2002年01月18日(金)17時01分10秒
- 「仲間に紹介するよ!」
「え?聞こえない!」
「あたしの仲間にー!紹介するって言ったの!」
吉澤の興奮はもう最高潮である。
市井の声も聞こえないほど、吉澤はその走りを満喫した。
峠につくと、其処にはすでに市井のチームの仲間が待っていた。
10台ほどのバイクが止まり、同年代から年配の男女までが和やかに談笑している。
「いちーちゃん!遅いじゃん!」
大きく手を振りながら、まっさきに市井のバイクに駆け寄ってくる少女。
綺麗な金髪をなびかせ、少女は弾けるような笑顔で市井の腕に抱きついた。
「そう言わないでよ、ごとー。
今日は後ろにお客さん居るんだからさ。」
市井はメットをとると、後ろに乗った吉澤を指差した。
吉澤も促されるままメットを取った。
それを見た少女が嫉妬するように間に入る。
ふくれっ面の少女が、吉澤はたまらなく輝いて見える。
なんて無邪気に笑うんだろう、この子は…。
吉澤がバイクの魅力に見入られたその日、それが吉澤と後藤の出会いの日でもあった。
- 147 名前:作者/巴 投稿日:2002年01月18日(金)17時04分28秒
- 第6話終了です。今月中にもう一回更新したいですね。
次は月末の週にできればと思います。
- 148 名前:名無し読者 投稿日:2002年01月19日(土)09時18分06秒
- 徐徐に役者がそろつてきましたね。
次の更新楽しみに待ってます。
- 149 名前:名無しさん 投稿日:2002年01月27日(日)13時46分56秒
- このあと、後藤に吉澤がどのように絡んでくるのか。
そろそろ月末、更新が待ちきれません。
- 150 名前:名無し読者 投稿日:2002年03月12日(火)23時25分03秒
- う〜ん…まだかな?
待ってます。
- 151 名前:巴 投稿日:2002年03月26日(火)03時16分44秒
- 長期間放置していて申し訳ありません、
当初の予定から外れ大幅に実生活がせわしなくなってしまったため、
更新が不可能になってしまいました。
長期間の放置、勝手な更新放棄をお詫びします。申し訳ありません。
目を通してくださった方、一声かけて下さった方には本当に感謝しています。
それから、管理人の方には場をお借りさせていただいた事をお礼申し上げます。
ありがとうございました。勝手な言い分ですが、お許し下さい。
- 152 名前:名無し読者 投稿日:2002年04月12日(金)00時50分02秒
- そうですか…お気に入りの小説だったので残念です…
作者様お疲れ様でした。
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