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『イエスタデイ』をもう一度
- 1 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時22分58秒
- 映画『四月物語』をアレンジした作品です。
少々似すぎというか、そのままの感もありますが、
できるだけ娘風に書いたつもりです。
もし、興味を持たれたら、ぜひとも一度観てみて下さい。
最後まで終わっているので、毎日更新する予定です。
- 2 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時29分30秒
桜の花びらがまるで雨のように降りしきる。辺りは薄桃色に染まり、麗らかな春の午後の光がソメイヨシノの木々の間から射し込み、鳥たちが春の歌を朗らかに歌い上げている。
道端にはすっかり春めいた服装に替わった主婦たちが立ち話に興じ、子どもたちは甲高い声を上げながら、公園を駆け回っていた。黄色いヘルメットを被って真新しいランドセルを背負った小学生たちが、同じような黄色い帽子を被った上級生を先頭にして歩道を歩いている。自転車に乗った老女が、ベルを鳴らしながらその脇をのんびりと通り抜けていった。
桜並木を潜り抜けていた一台のトラックがウィンカーを点滅させながら停まる。助手席から若い男が走り下りると、地図を片手にお喋りに花を咲かせていた主婦たちに道筋を尋ね始める。
- 3 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時30分50秒
トラックは降り来る花びらを追い払うように、ワイパーが一定のリズムでフロントガラスを擦っている。コンテナは、けばけばしい配色で塗りたくられている。どうやら引っ越し業者の車のようで、子どもたちは横に描かれたパンダを見て、わぁっと指さしながら近寄ってくる。運転席の年老いた男がにこやかに手を上げて、子どもたちの歓声に答えてた。男は、薄黄緑の帽子を脱いで主婦たちに頭を下げると、すぐに助手席に戻ってきた。運転席の初老の男は二言三言言葉を交わすと、トラックは徐行をしながら再び走り始める。
二つ先の四つ辻を左に折れると、やがて白い壁の団地が姿を現す。その壁は汚れ、雨あとが黒い線を描いている。落書きがされたあともあり、よく磨いたつもりなのだろうが、青いペンキが僅かに残っている。縦にいくつもひび割れがあり、排水路は壁から引き離されて、風が吹くごとにからからと音を立てた。
団地の前には垢抜けない一人の少女が立っており、トラックが入ってくるのを認めると誘導するように手を振り始めた。トラックはゆっくりと停車をすると、中から二人の男が下りた。
- 4 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時31分40秒
「ご苦労様です」少女がか細い声で頭を下げてお礼を言った。若い男はそれに答えず、コンテナを開けにトラックの尻に回る。老いた男は帽子を脱いで禿げ上がった頭を掻きながら、少女に挨拶をした。
「紺野あさ美さんですかね」少女が頷くのを見ると、男は胸ポケットから用紙を取り出し確認をしてから、少女にそれを差し出した。
「それじゃあ、それを確認してから、ここんところに判子、いいですか」
「あ、はい」あさ美は慌てたようにポケットを探ると、黒光りする判子を取り出し、息を吹きかけてから印を押した。男は判子の押された紙を再度確認すると、満足したように自分の胸ポケットにしまった。
「これ、どこに運べばいいんですか」若い男がトラックの尻から顔を出して尋ねる。
「あ、四階です。ドアは開けてありますから…」
若い男は重たげに木造のタンスを地面に下ろした。老練の男もそれを手伝う。二人はタイミングを合わせると、それを抱えながら団地に入っていく。あさ美もトラックのコンテナから紐に縛られた本の束を両手で抱えると、その後ろについて団地に入っていった。
- 5 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時33分31秒
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- 6 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時34分23秒
い草の匂いのある部屋に荷物が運び込まれるのをあさ美はぼんやりと部屋の隅で眺めていた。先ほどから手伝おうと思って荷物に触るのだが、全く役に立っていなかった。プロの二人はあさ美に気を掛けることもなく、素早く部屋に荷物を運び込み適当に並べていく。
「…これじゃちょっと、全部はいんなそうだね」禿頭を叩きながら老人は、困ったようにあさ美を見た。まるでフリーマーケットのように、階段の踊り場にまで部屋に入らない物が並んでいる。あさ美も困ったようにそれらの物を見た。
「取りあえず必要なもんだけ置いて、あとは送り返すしかないでしょ」若い男は暑そうに帽子で自分を煽りながら、ぽんぽんとタンスを叩いた。
「どう考えても全部は無理そうだし」
「あ、そ、そうですね。お願いできますか?」
「それじゃ、必要なもんは言ってくれる? 不必要なもんはこっちで持ってくから」老人は近くにあった熊のぬいぐるみを手に持って見ながら言った。
「あ、それ…必要‥です」あさ美の科白に、老人は照れたようにそれをテレビの上に置いた。
- 7 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時34分55秒
「こっちのソファーいらないんじゃないんすか? ベットもあるし」若い男がぽんぽんとチェック柄のソファーを叩きながら言った。
「あ…」
「テレビはいるだろ。…冷蔵庫も‥いるよな。二つも本棚はいらないんじゃない?」
「あ……」
「それじゃ、廊下に出しときますね。こっちの布団はどうします?」
「それもいらないだろ。女子高生の一人暮らしだろ? だったら二つもいらないさ」
「でも…友だちとか来るかもしれないっすよ」
「別に二人でベットに寝たっていいだろ? 俺らは戦後間もない頃は、一つの布団に家族詰め寄って寝てたから、寝られないことなんてないさ。これも回送させてもらうね」老いた男は、もう一人に指示を出してそれらの物を運び出させた。その間、あさ美は口を挟むことができず、ただ黙って、送り出されていく自分の物品を見送った。
- 8 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時36分38秒
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- 9 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時37分18秒
部屋が部屋らしくなったのは、もう日が西の空に傾き始めたころである。
「ありがとうございました」あさ美は去っていくトラックに丁重に頭を下げながら見送った。頭を上げると辺り一面は桜の花びらが降り積もっている。団地の周囲には色とりどりの花が咲き誇り、風に吹かれるたびに甘い香りをかもし出していた。
あさ美は先ほど手渡された領収書を丁寧に折り畳んで、スカートのポケットに入れた。
北海道の四月よりもずいぶんと温かく、ボーダーの入った青いセーターを着ていると、自然に額に汗が浮き上がってくる。
緩やかに吹き抜けていく春風が、ゆったりとしたベージュのロングスカートを波打たせ、長くなってきた黒髪がさらさらと横に流す。そのたびにあさ美の服や髪には桜の花びらがまとわりつき、あさ美はそれを一枚一枚払い落としていった。
あさ美が何度も深呼吸をしてみると、ほんわりとした甘い匂いが、すっと身体の中に入ってきた。あさ美はしばらくのんびりとした陽気な四月の風景を楽しんでいたが、手を一叩きするとぐっと身体を伸ばし、新しい自分の部屋へと戻っていった。
- 10 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時38分56秒
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- 11 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時39分32秒
くすんだ肌色のドアの前で、あさ美はようやく意を決したように小さなボタンを押した。呼び鈴は下唇を擦り合わせたような音を鳴らし、あさ美は気持ちを引き締めるように、左手の紙袋を持ち直した。黒く汚れた表札が出ており、消えかけた鉛筆の字で『飯田』と書かれている。
しばらく待つも、ドアの向こう側で人の気配を感じることができずに、あさ美は首を傾げながら、もう一度呼び鈴を鳴らした。反応が無いと、あさ美は三度目の呼び鈴を鳴らし、扉を叩いた。
「すみません」スチール製の扉はべこべこと音を立てて、大きな音を響かせる。
「すみません。誰もいませんか?」あさ美は諦めたようにドアを叩くことを止めた。あさ美は紙袋の中を覗き込み、真後ろでドアの開けっ放しになった自分の部屋へと戻ろうとした。
その時ようやくドアが開き、ぼさぼさの長髪をかきながら、細面の若い女性が苛立ったように顔を出してきた。女性はぼんやりとした目であさ美を睨め付け、それから恥じることなく大欠伸をした。灰色のトレーナーに色褪せたジーンズを着用しており、あちこちが絵の具に汚れていた。
- 12 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時40分03秒
「……誰、あんた?」
「あ、す、すみません。今日、向かいの部屋に引っ越してきた紺野あさ美といいます。ど、どうぞよろしくお願いします」あさ美は慌ただしく紙袋から、丁寧に包装された箱を取り出して、それを女性の方へと差し出した。女性は箱を手にすると、耳元で振って中身を確認し始める。あさ美は女性のすることに驚きながらも、ただ黙って見つめた。
「‥これ、角の『清風堂』で買ってきたでしょ。あそこの水羊羹、あんまり美味しくないんだよね」ぶつくさ言いながら女性は箱を小脇に抱えると、まじまじとあさ美の観察をする。それから意味ありげに鼻を鳴らした。あさ美は相手の失礼な態度に何か言いたかったが、女性の雰囲気に飲み込まれ、言葉も出てこなかった。
「用事はそれだけ?」
「‥あ、は、はい……よろしくお願いします」
あさ美の科白を最後まで待たずに、女性は無表情でドアを閉めてしまった。あさ美は所在なさそうにその場に立ちすくむと、紙袋の中を確認した。まだ大家さん用の物が残っている。あさ美は困ったように額に皺を寄せた。
- 13 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月03日(水)01時40分37秒
***
- 14 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)00時53分28秒
入学式は校内の体育館で行われた。フローリングの床の上には薄黄緑のシートが幾重に引かれていた。パイプ椅子が整然と並べられ、クラスを標したプラカードが前に立てられていた。壇上には色とりどりの花が生けられた花瓶が置かれ、校章を印した校旗が飾られている。スーツを着込んだ先生たちが忙しそうに、上級生たちに指示を飛ばしていた。
慌ただしい雰囲気の中、あさ美は指定された席にゆっくりと腰を下ろす。真新しく、だぶつきのあるセーラー服はこそばゆく、すっきりとした匂いがあさ美の鼻を擽った。あさ美は受け取ったばかりの資料をぺらぺらと捲りながら、ちらりと後ろに目をやると、保護者たちが息子娘の晴れ姿を一目見ようと、ビデオなどを回していた。カメラのフラッシュが眩く光り、目を鋭く突く。顔を見知った生徒たちは談笑をしては、けたたましい声を上げている。
- 15 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)00時54分55秒
やがて体育館は一杯に埋まり、厳かな空気の中、入学式が始まった。あさ美は両手を丁寧に膝の上に揃えて、真剣に学長や高等部長の話に耳を傾けていた。
「二十一世紀を担うみなさんには、ぜひともこの学園で『生きる力』を学び……」
がくんと突然、肩に何かがのしかかり、あさ美は驚いたように隣を見やる。隣の生徒が幸せそうな顔をしながら居眠りをしていて、あさ美の肩を支えて使っているのだ。
何度か肩を動かしてみるも、隣の相手は半開きの口から微かに涎を垂らしながら、軽い寝息を立てていた。あさ美は激しく揺さぶろうかとも思ったが、余りにも心地よさそうなので仕方なく、あさ美の全身は硬直して、背筋を伸ばした。あさ美は困ったように顔をしかめながら、来賓祝辞に耳を向けた。
- 16 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)00時55分39秒
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- 17 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)00時57分47秒
クラスメイトの自己紹介をあさ美はそれをぼんやりと聞き流していた。窓から入る柔らかな日差しが気持ちよく、ふっと気を抜くとすぐにでも眠れてしまいそうである。それを紛らわすように、白いスカーフを指で弄った。
外は晴れ上がり、野球部の叱咤激励をする声やボールをバットで打つ音が聞こえてくる。離れた場所から女性のコーラスが響いてきて、あさ美は目を伏せると、そっとその声に身を委ねた。
突然にその静寂が破られた。眼前に座っていた娘が勢いよく立ち上がったのだ。前の娘は先ほどあさ美に寄り掛かってきた少女であった。
「うち、奈良から来た加護亜依って言います。血液型はAB型で、趣味は唄うことと食べること。あと特技はものまねです。中学ん時は、クラスのみんなの真似とかしてよく笑わしてました。そんなんやから、みなさん、どんどん友だちになって下さい」
歯切れの良い関西弁にクラス内がざわついた。亜依と名乗った少女は動じた様子もなく、堂々とした様子で背筋をぴんと伸ばして席に座った。
- 18 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)00時59分04秒
「それじゃあ、次は紺野さんね」
クラス担任の声に弾かれて、あさ美は慌てたように立ち上がった。そのため膝を机にぶつけてしまい、ごんと鈍い音がした。微かに笑い声が聞こえた。あさ美は顔を赤らめながら、とにかく思いつくことを言おうと思ったが、いざとなると言葉は浮かんでこなかった。
「こ、紺野あさ美です。北海道出身です。しゅ、趣味は、か、身体を動かすことで、み、見た目、暗そうですが、自分では結構、あ、明るい方だと思います。ええっと……よ、よろしくお願いします」
あさ美は早口で言い終えると、いそいそと腰を下ろしてしまった。
クラスで再びざわめきが起きる。亜依も興味ありげに振り返り、あさ美をじろじろと見る。あさ美は恥ずかしくなって目線を下げた。
- 19 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)00時59分43秒
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- 20 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時01分28秒
「あさ美ちゃ〜ん」
あさ美は上履きをしまい、買ったばかりの白いスニーカーを取り出すと、声の主の方を見た。亜依が駆けて近寄ってくると、大げさに息を切らしてみせた。
「今、帰んの? うちも一緒にいい?」
「い、いいよ。あ、で、でも私、駅の方だから……」
「ほんなら、うちも駅前までいこっと。うち、北海道の人みんの、生まれて初めてなんよ。ほんまにもち肌なんやなぁ」
遠慮なくあさ美の頬や肌を指先で押して、その感触を楽しんでいる。あさ美は恥ずかしくなってうつむいてしまった。亜依は乱暴に上履きをしまい込むと、ブランドのロゴが入ったスニーカーに足を突っ込んだ。
「あさ美ちゃん、一人暮らしなんやろ? せやけど、寮じゃみいへんけど、どっか知り合いのとこにでもおんの?」
「あ、わ、私、寮の手続きするの忘れてたの。それで、気がついたら寮の手続きの期限が切れてて、それで学校に大学生が使う団地があるから、特別に紹介してもらって……」
- 21 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時02分32秒
「ふえぇ、そんじゃ、あさ美ちゃん、ほんまの一人暮らしやん。羨ましいなぁ。ほんじゃ、料理とか自分で作ってるんや。テレビとかも一人で独占やないの。学校の寮は近いけど、うちは一人暮らしの方が憧れるなぁ。いいなぁ、そんなんがあるって分かってれば、うちもワザと寮の手続き忘れとくんやった」
「わ、私、別にワザとじゃなくて…」
「ええねん、ええねん。そりゃ、パンフの寮はすんごく綺麗やったけど、あくまでパンフやもんなぁ。実際に入ってみれば天国と地獄の差があって当然や。そこまで考えるなんてあさ美ちゃんも策士やなぁ」
神妙そうな顔を作った亜依が、ばしばしとあさ美の肩を叩いた。あさ美は痛みに顔をしかめた。
「せやけど、東京ってすっごいなぁ。うち、今まで人がぎょうさんおるところって大阪ぐらいしかしらんかったけど、東京もぎょうさん人がおるもんなんやなぁ。あっ、あさ美ちゃんは渋谷とか原宿とか行った?」
「私、まだこっちに来たばかりで、忙しいから…」
あさ美は頭を横に振った。亜依は驚いたように細い目を見開いた。
- 22 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時04分03秒
「ほんま? うち、この前行ったけど、すごいんよ。ほんまにスクランブル交差点があって、ドラマで見たんと同じやったで。あさ美ちゃんも一度行ってみ? あ、明日の日曜に一緒にいこっか? うちも高校生になったし、携帯電話を持とうかって思ってるんや。ほら、寮の電話使うと、寮母さんにいちいち報告せなあかんやろ。せやから、自分用の電話が欲しいって思ってたんよ。ねぇ、聞いてよ。その寮母さんがまた、関西出身の行き遅れたおばちゃんでな……」
「あ、ご、ごめんなさい。あ、明日はちょっと……」
マシンガンのように話し続ける亜依に圧倒されながら、あさ美は弱々しい声をどうにか出した。亜依の反応が気になって、探るような目で亜依をこそこそと観察する。だが、亜依は特に意に介した様子もなく、あっけらかんと笑った。
「そっか、そんじゃ、また誘うわ」
あさ美は、亜依の言葉に少しだけ安心することができて、ほっと胸を撫で下ろした。
- 23 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時04分49秒
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- 24 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時06分37秒
「あさ美ちゃんは何でここの高校受けたん?」
亜依は鞄を後ろ手に持ちながら尋ねてきた。狭い歩道を亜依がちょっと先行している。あさ美はその後ろを付きながら歩いていた。無防備で見えるうなじには、斜陽の光が当たり、産毛が光っていた。
「えっ」唐突の質問にあさ美の胸がドクリと跳ねた。
「ほら、志望動機っちゅうやつや。うちは、やっぱ女子高生になるんやから都会の高校行きたいなぁ思うて、大阪と京都と東京の高校受けたんよ。ほんまなら、関西の高校がよかったんやけど、二つとも落ちてもうて、そんで補欠でどうにか引っかかったここに来たんや。せやけど、同じ東京なのに武蔵野って渋谷からずいぶん離れててびっくりしたわ。まぁ、うちの場合はそんな感じの動機なんやけどな。ほんで、あさ美ちゃんはどうしてこの高校受けたんかなぁ思ってな。大学へのエスカレーターやから? それとも、うちと同じ?」
「あ、え、ええっと……、特に理由は‥無い‥です」
「ほんま? 北海道って馬とか熊ばっかりなんやろ。そんなんに飽きたんちゃうの?」
亜依がからかうように肘であさ美を突いてきた。あさ美は間違った亜依の北海道の認識に苦笑しながら、首を振った。
- 25 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時09分46秒
一方的な亜依の話が続いたまま、二人は駅前まで来た。車が朦々と排気ガスを撒き散らしながら、駅前を疾走していく。バス停には疲労の表情を浮かべたサラリーマンや、はしゃぎ回る子どもを諫める買い物帰りの主婦たちが並んでいた。人波にさらわれないようにと、二人は駅ビルの端の方へ寄って、別れの言葉を告げあった。
「‥加護さんに遠回りさせちゃってごめんなさい」
「そんなこと全然気にせんでええって。それにうちのこと加護さんって呼ぶのはやめてや。亜依とかあいぼんとか気楽に呼んでええよ。うちら同級生やから敬語使う必要あらへんし」
「…それじゃ、亜依‥ちゃん。また学校で…」
「うん。あっ、そうや! そのうち、うち、あさ美ちゃんちに遊びに行かせてもらうわ。そんじゃあね」
亜依は手を振りながら、雑踏の中に消えていった。あさ美はしばらくその背中を見送っていたが、人波に押されるように駅の中へと入っていた。
- 26 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月04日(木)01時10分28秒
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- 27 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時35分51秒
あさ美はぼうっと晴れ渡った空を見上げていた。空には飛行機雲が線を引き、雀たちが鳴きながら横切っていった。昨日よりも風は強めで、あさ美はスカートを片手で抑えながら、乱れ髪を揃えようと努力を重ねた。
出された椅子は、あさ美のお尻には少々小さすぎて、何度か腰を上げて座り直す。隣にはテレビでよく見るアイドルの立て看板が立っており、満面の笑みのまま固まっている。
あさ美は見上げて、そのアイドルに無言で見つめた。夏服を着たにこやかな彼女は、スポーツ自転車に手を置いていた。あさ美は正面を向いて、そのアイドルの真似をするように、唇をくっと上げてみる。ぽっぺたをちょっと両手で押し上げて、目を細めてみる。あさ美は、自分の満面の微笑みを確認することができず、その笑顔をアイドルの方へ向けてみた。だが、彼女は無視するように真っ正面を見たままだった。
- 28 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時37分57秒
「できましたよ」
店内から甲高い男性の声が聞こえてきて、あさ美ははっとしたように笑みを消した。慌てたように椅子から腰を持ち上げる。
中から男性が新しい自転車を転がしながら出てきた。銀色の車体が光を浴びて眩しく輝いている。前かごは可愛らしいバスケットに付け替えてもらった。後ろを確認するためのミラーも左ハンドルに取り付けてもらっている。
「ちょっと座ってみて」
あさ美が一度座ると、男性はサドルの高さを確認して、あさ美を下ろさせると、サドルを調節し直した。それが終えると全体図を見つめ、満足したように頷いた。
「はい、これでいいよ。大事に使ってやってね」
「あ、はい、ありがとうございます」
あさ美は自転車にまたがった。先ほどよりもサドルの位置が下がり、足も付きやすい。あさ美は地面を蹴ると、ペダルに足を掛けて走り出した。
- 29 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時38分52秒
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- 30 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時39分45秒
初めて走る街は、あさ美にとっては新鮮だった。綺麗なタイルに舗装された道は走りやすく、あさ美はペダルを力強くこぐ。風があさ美の髪を巻き上げ、花柄の入ったワンピースのスカートの裾は広がり、踊った。背中に背負った焦茶色の小さなリュックは、あさ美がペダルをこぐたびに左右に揺れる。
紺色の真新しい制服を着た保育園児たちは騒々しい声を上げながら、保母さんに誘導されながら道端に寄っていく。買い物袋を下げた主婦の集まりは、公園のベンチで軽やかな談笑を楽しみ、ジャージを着た中学生たちは部活の最中なのか、かけ声を掛けながらジョギングをしていた。お揃いのセーターを着た老夫婦たちは、連れた大型犬に引っ張られている。
あさ美は、とある店の前で自転車を足で止めた。電化商品が埃をかぶりながら、店先に並んでいた。店内にはばらされた電気機器の部品が転がっており、どうにか形を保っている旧式のテレビが砂嵐を映していた。
「あのぉ、すみませーん。『蔓屋』ってこの辺りにありますか?」
あさ美が砂嵐に負けないように声を張り上げると、ややあって奥から女性のだみ声が聞こえてきた。
- 31 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時40分39秒
「『蔓屋』ってあの『蔓屋』? それだったらこの道を左に真っ直ぐ行って、駅前に通じてる道の方、確か右だったと思うけど、に曲がると看板が出てるから分かると思うわよ」
「あ、ありがとうございます」
あさ美は再び自転車をこぎ始めた。
やがて駅前に出る青看板が目に入り、あさ美は右に曲がった。急に車の量が増え、駅前への細い道は渋滞をしていた。あちこちに自転車や自動車が違法駐車されており、苛立たしいクラクションの音が響いている。
あさ美はその隙間をよたよたと縫いながら前に進んだ。ようやく車の群を抜けると目の前に大型駐車場が目に入った。看板には『蔓屋 東国立店』と電飾されており、その下には満車と表示されていた。
あさ美は何度か確認をすると、自転車を下りて転がしながら駐輪場の場所を探す。駐輪場には学チャリやババチャリが所狭しと並んでおり、あさ美は端の方へ自分の自転車を止めた。購入したばかりのチェーン式の鍵も念のために掛けると、店内に入っていった。
- 32 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時41分10秒
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- 33 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時47分14秒
店内では温かいにも関わらず、暖房が入っていた。誰もが腕まくりをしてビニールの掛かっていない本を立ち読みしている。流行歌が騒々しいほどに響き、それに併せるように子どもたちの怒鳴り声が聞こえてくる。
入り口付近には二階に上がる階段と、一階本屋のレジカウンターがあり、レジに立つアルバイトたちは忙しそうに働いている。
あさ美はゆったりと店内を見て回る。札幌にも『蔓屋』はあるため、何度か訪れたことがあるが、ここは札幌店よりも広かった。白く清潔な壁に、良く掃除のされたフローリングの床。フィーリングファンがクルクルと天井で回っていた。本の量も多いようで、あさ美は時折止まっては文庫本を手に取り、ぱらぱらと捲った。あさ美は選定をして、いくつかの文庫本とコミックを手に持つと、レジへと向かう。
「いらっしゃいませぇ」
亜麻色の髪をした小柄のアルバイト女性が元気に声を張り上げて、あさ美から本を受け取った。あさ美はお気に入りの財布をポケットから引っぱり出すと、中のお札を指で確かめた。それからゆっくりとレジに立つ人々に目を巡らせる。
- 34 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時48分33秒
「…三点で税込み1523円になります。二千円からでよろしいですか?」
「あ、小さいのあります」
あさ美は財布のポケットから急いで小銭を出すと、プラスチック製の受け皿に転がした。
「五百円のお返しになります。こちらの文庫本にはカバーをしますかぁ?」
「お願いします」
女性はカバー用の用紙を引き出すと、丁寧に付け始めた。あさ美は五百円玉を財布にしまい込むと、周りをちらちら見やり、はばかるように小声を出した。
「こちらはいつがお休みなんですか?」
あさ美の問いかけに女性は顔を上げた。その間も、手は休むことなくカバーを付けた文庫本とコミックを紙袋に入れている。
「基本的には年中無休ですね。夜も二時までやってます。…って表に書いてありますけど」
女性は呆れ返ったように鼻を鳴らした。
「あっ、そ、そうですか」
札幌店は火曜日が定休日であったため、あさ美は尋ねたのだが、相手の不可思議そうな顔を見て、あさ美は恥ずかしくなって顔を下げてしまった。
「こちらが商品になります。ありがとうございましたぁ」
あさ美は商品を手渡されるといそいそと本屋を出た。
- 35 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時49分13秒
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- 36 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時50分05秒
一度外に出て、自動販売機でスポーツドリンクを買うと、備え付けのベンチに腰を下ろして缶に口を付ける。冷たく甘酸っぱい液体が喉を通って胃に落ちていく。ほんのりとした温かさはあさ美にまとわりつき、自然と汗が首筋を流れた。見れば巨大看板には年中無休と書かれており、あさ美は先ほどのことを思い出したように頬を赤らめた。
あさ美は飲みきった缶をゴミ箱に捨てると、紙袋を小脇に抱えて、再び店内に戻っていく。今度は赤いペンキで塗られた手摺りに手をやりながら、二階に上がった。二階はビデオやDVDを貸し出したり、販売していた。
あさ美は横目でレジを見ながら通り抜けると、洋楽のCDが置いてある場所に向かう。アバ、エンヤ、クイーン、サイモン&ガーファンクル、ジャネット・ジャクソン等々、多種多様のジャンルが揃えられていた。
あさ美は一枚一枚指で擦り、タイトルや歌手名を見ていく。あさ美の指がビートルズで止まる。多く並んだCDケースの中から、厚めの赤いジャケットをしたものを引き出した。若い若しいメンバー四人を下からすくうように取った写真である。あさ美は裏表を何度か返して、確認してみる。それを両手で持つと、あさ美はレジに行った。
- 37 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時51分05秒
「いらっしゃいませ」
金色の毛髪を逆立てた男性が爽やかに迎えてくれた。
「会員証はお持ちでしょうか?」
「あの、これでも大丈夫でしょうか?」
あさ美は財布から札幌で作った会員証をおずおずと差し出した。
「大丈夫ですよ。あ、でも期限切れちゃってるなぁ。更新費用として200円いただきますけど、いいですか?」
カードのバーコードに機械を当てた男性はカードを返してくれながら言った。あさ美が頷くと、今度はCDに機械を当てる。
「こちらは一週間のレンタルになります。じゃあ、新会費と合わせて525円になります。千円からでいいですか?」
男性は素早くレジを叩くと、お釣りをあさ美に手渡した。青いナイロン製の袋をレジ下から引っぱり出すと、それにCDケースを入れた。プリンターが打ち出した領収書もそれに押し込む。
「ありがとうございましたぁ」
精一杯に張った声で男性は謝辞の言葉を述べた。あさ美はびくりと身体を震わすと、袋を手にとって階段に向かう。降りる直前にちらりとレジの方をもう一度見ると、駆けるように階段を降りた。
- 38 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月05日(金)00時51分51秒
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- 39 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時14分04秒
『もうここまで泰衡が軍勢が迫っておる。そなたは、侍女と早く逃げるがよい』
『いいえ、私も義経さまと共に、ここでこの身が果てるまで戦いとうございます』
『そなたは女の身、その上、その腹では十分な足手まといになろう。兄もそなたのことを捜しておるゆえに、この奥州平泉にまで探りを入れ、泰衡をたぶらかしたのじゃ』
『壇ノ浦で一度失った命をお助け下さったのは義経さまでございます。ならば、私も身を挺してあなた様のお力になりたく思います。私とて平家の血を引く女。無骨者の父より嫌というほど武は仕込まれました。薙を持てば義経さまの助けになりましょうぞ』
『我がやや子をそなたの身に宿していることが、十分にこの義経への奉公ぞ。平家の姫君よ。そなたは平家の血と我が血を絶やすことなく見守っていってもらいたいのだ』
『……義経さま』
『私もすぐに追う。そんなに心配そうな顔をするな。私はこの地で命を散らすことは考えておらん。いつも寝物語に語ったであろう。北陸の地より船出をして、家臣らと共に大陸の草原を駆け巡ろうぞ』
- 40 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時15分21秒
鎧武者の男が単衣に内袴の女性を抱き寄せると、愛おしそうに両手を背に回した。壮大な効果音が響き渡ると、ぐるっとカメラが二人の顔に寄り、アップで映される。
あさ美は暗闇の中まばたきもせずに、小さめのスクリーンをじっと見つめ続けた。からからと映写機が回る音がし、スクリーンでは二人の役者が末期の別れを演じている。室内の空調は強めで、誰かの溜息が聞こえた。館内はガラガラで、あさ美は遠慮なく隣りの席にリュックサックを置いている。
『蔓屋』の近くにあった公民館で『ある平家の姫君の一生』という映画をやっていた。夕刻も迫っていたのだが、早く家に帰るのも何か寂しい気分もあり、それを紛らわすかのようにあさ美は中へと入っていった。
『義経はもう平泉で首を上げられて死んだのだ。大人しく我が妾にならば、それなりの生活を得ることができるのだぞ』
『……鎌倉殿、私は、落ちぶれても平家の娘でございます。たとえ豪勢な暮らしに慣れていたとはいえ、誇りは失っておりませぬ』
- 41 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時16分53秒
『ならば、その平家の誇りとやらで、わらわの下働きをしてもらいましょうぞ。頼朝殿、この平家の姫君はわらわに預けて下さいませぬか?』
『う、うむ……。政子がその望むのであらばそうするがよい』
『北条氏は平家の下働きをさんざんして参りました。ならば、今、この鎌倉で平家の姫君にわらわたちの役に立っていただくことにしましょう。のぉ、姫?』
内容は壇ノ浦で源義経に助けられた平家の姫が、最初は憎みもしていたが、平泉で契りを結んだ義経と別れ、頼朝の追っ手に捕まり、鎌倉に連れてこられて頼朝の妻、北条政子にいびられるというような話であった。前半のラブロマンスの部分に比べると、後半はいたぶられる平家の姫が不憫すぎる。時折、平家の姫を演じている役者の目が、本気で相手を睨んでいるように見えたりした。
- 42 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時18分58秒
あさ美は、ついに子どもを流産してしまった平家の姫に同情をしてしまい、そっとリュックからハンカチを取り出そうとした。
と、いつの間にか自分の右側、少し離れた場所に先ほどまでいなかったコート姿の男性が座っていた。ちらちらと目線をこちらに向けている。あさ美が見ていることに気が付くと、慌てたように目をスクリーンに移した。
あさ美は小首を傾げながら、ハンカチを片手に握りしめると、再び画面に目をやる。
『所詮は平家、落ち武者の娘よの。さんざんの贅沢でまともに働くこともできない。そんなことでわらわの世話が出来るとでも思ってか』
『…申しわけ‥ございません』
『まぁ、下女の仕事も出来ないようであれば、あとは艶やかな声で喘ぎ、男を誘うことぐらいしかできないか。その端麗な容姿で義経殿にも迫ったのであろう? そして義経殿をそそのかして、この鎌倉を陥れようとでもしていたのであろう?』
『そのようなことは……』
- 43 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時20分30秒
『ならば、どうして義経殿ほどの聡明な御方が、そなたのような落ちぶれた平家の姫君をその手に抱こうか? そなたは夢物語を義経殿に呟いて、その野心を煽ったのであろう。このけがわらしい落ちた平家の娘が。贅沢にしがみつく犬っころめが』
『……』
『何じゃ、その目は。この、この』
『……私を卑下するのはいくらでも我慢できましょう。されど……、されど、我が生まれと我が愛おしき義経殿を侮辱することはたとえ政子さまであったとしても許せぬ』
屈辱に満ちた表情で平家の姫は、燭台を手に取ると、それを政子に叩きつけた。辺りに控えて笑っていた官女たちが止めに入るが、平家の姫は燭台を振るって迫る者たちを叩きのめす。やがて火の灯った蝋が床に落ちて、画面が赤く染まりだし、スピーカーから黄色い女たちの声が響き渡る。
- 44 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時22分20秒
カラカランと、突然の場に不釣り合いの澄んだ音に、見入っていたあさ美ははっと我に返った。右を見ると先ほど気になった男が、腰を屈めて転がった空き缶を立てている。あさ美と目が合った男は曖昧な笑いを浮かべて椅子に座る。だが、その席は先ほどの席ではなく、あさ美の席から数えて右に五番目の席に当たり前のように座っている。
あさ美は横に気を払いながらスクリーンの方を見ると、あさ美を伺い見ていた男は、さっと席を一つ左にずれて距離が椅子四つ分になった。
あさ美は身を強張らせて、リュックをかき寄せるように胸に抱えると、席を慌ただしく立った。男が舌打ちをする音が聞こえる。あさ美は背筋に冷たいものを感じながら、後ろを振り返ることもできずに、逃げるように出口へと向かった。
- 45 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時23分00秒
*
- 46 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時23分42秒
自転車の鍵を焦ったように外すと、あさ美はリュックサックを背中に背負い、サドルに腰を下ろしてペダルをこぎ始めた。暗室に目が慣れきっていたため、外の眩しい夕日が染みる。風も冷たいものになってきて、首筋を冷ややかに撫でていく。あさ美は身震いをして寒気を振り払うと、人の波に逆らうように進んでいく。夕焼けに浮かぶ雲は白い綿菓子のようで、微かな光を発しながら一番星が輝いている。
風に乗って走っていると、先ほどの不快感と恐怖感は徐々に和らいでいった。遠くに先ほど買い物をした『蔓屋』が見える。青看板はライトアップされてクルクルと回っている。
あさ美は深々と溜息を吐いた。もう一度『蔓屋』に行こうかとも思ったが、その元気も出てこなかった。
(夕飯どうしよ……。‥お母さん、今晩の夕食どうするのかな。お父さんは、今日は家にずっといたのかな)
ふっと両親のことが思い出されて、今自分が一人でいることが寂しく感じる。昨日、電話が掛かってきたのにもかかわらず、両親の声を聞いてみたくなった。
あさ美は地面を蹴ると、自分の家の方へとペダルをこぎだした。
- 47 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月06日(土)00時24分18秒
***
- 48 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時08分18秒
あさ美は焼きそばパンを囓ろうとしていた、その手を止めた。眼前では亜依が紙パックのイチゴミルクを手に取ると、それを啜った。
「‥えっ」
「せやから、部活どないするん? 来週までやろ。部活の入部届け」
「……うん」
「あさ美ちゃんは、中学ん時、部活何やってたん? うちは合唱やったけど」
亜依はほんわりとした白い菓子パンをちぎって口に放り込んでは、至福の表情を浮かべた。
「私は…陸上‥やってたんだけど……」
「陸上? ほえぇ、あさ美ちゃん、砲丸投げてたんや」
あさ美が頷くのを見ると、ますます感心したように亜依はまじまじとあさ美の顔を見つめてくる。相変わらず亜依の認識が偏っているのに、あさ美はくすりと笑ってしまった。
「私は走るのが専門だったから。速くなかったけど」
「いや、そんでもすごいって。うちは絶対せえへんなぁ。大体、車とか文明の歴が発達してるのに、わざわざ走ったりするの面倒やんか」
「うん。でも、私、身体動かすの好きだから」
- 49 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時09分20秒
「うちには真似できんわ。うちは高校じゃ、演劇でもやろうか思うてるんやけど。ほら、…ああいうのって大勢で楽しそうやろ」
「あ、私は……空手‥やろうって思ってたの」
あさ美の空手という言葉を聞くと、亜依はますます驚いたように目をしばたたかせた。あさ美は照れたようにはにかんだ。
「空手ってあのK−1とか? え、あさ美ちゃん、もしかして北海道で熊とか狩ってたんやないの?」
「…そんなことはないけど。小さいころから、道場に通ってたから、続けたくて……」
「ほんなら、あさ美ちゃんを演劇部に誘うの、無理そうやなぁ。残念や、せっかくあさ美ちゃんと演劇部に入りたかったんやけど」
亜依が残念そうに顔を落とした。指先で紙パックを弄り、つまらなそうに唇を尖らせている。ちらちらと見る亜依の目に、あさ美は困ったように顔をしかめた。
- 50 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時10分44秒
「ええよ、気にしなくても。だってあさ美ちゃん、高校入る前から決めてたんやから」
「あ、で、でも、わ、私もまだちゃんと決めたわけじゃないから……」
あさ美は慌てたように身体を乗り出した。それを聞くと亜依はぱっと表情を明るくする。
「ほんま? ほんなら、今日一緒に演劇部見にいかん? うち、この前ちょっと見たんやけど、何か宝塚みたいで格好良かったで。それに今は仮入部期間やから、気にいらんかったら入部しなくてもええわけやし。な?」
「あ、……う‥ん」
亜依の調子に乗せられて、あさ美は返事をしてしまった。
- 51 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時11分17秒
*
- 52 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時12分29秒
「演劇ってのはさぁ、ほら、やってる人も面白くなきゃ、見てる人だって楽しんでくれないでしょ。だから、うちの高校の演劇部は、シェークスピアとかそのままやるんじゃなくってアレンジするの。例えば『ロミオとジュリエット』は知ってるわよね」
亜依が目を光らせながら頷くのに反して、あさ美は気の抜けたような返事をしてしまった。保田圭と名乗る部長は、腰に手を当てて、あさ美の鼻先に人差し指を突き付けた。部長の口の右にある小さな黒子は、どこか大人びた印象を与えている。そのせいかセーラー服もあまり似合っておらず、険しい目つきを向けられるとあさ美は萎縮してしまう。
「あの、デカプリオが出てたやつですか?」
亜依の返答に、保田は眉を額に寄せた。
「あんた、演劇やろうってのに『ロミオとジュリエット』、映画でしか見たことがないの? 原作、読みなさいよ、原作。今度あたしが貸してあげるわよ。まぁ、それで、その『ロミオとジュリエット』を私たちは日本風にアレンジしたのよ。その名も『貫一とお宮』! どう、和風でしょ」
- 53 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時13分34秒
保田が胸を張った。亜依はぽかんとしたようにまばたきをしたが、すぐに拍手を打ち鳴らした。だが、乾いた音が部室に響くだけで、他の部員たちはくすくすと笑っている。さすがの亜依も照れたように拍手を小さくしていった。
「……それ、『金色夜叉』の主人公の名前‥ですよね」
あさ美がぼそりと呟いた。保田がはっとしたようにあさ美の方を見て、それから引きつった笑いを浮かべた。
「あ、あぁ、確か‥そんな作品もあったわね。べ、別にパクろうとか、他の劇団でやってたものを真似たとかそんなんじゃないわよ。た、たまたまネタが被ることもあるっていういい例ね。‥あ、あなた、ずいぶん本、読んでるじゃない。感心、感心」
保田は口端をぴくぴく引きつらせながら、あさ美に弁明をした。あさ美は気まずいように首をすくめた。
「うん。ま、まぁ、そんなわけで我が演劇部は、アレンジを大切にしてるのよ。分かる?」
「分かります!」
「はぁ……」
あさ美と亜依は対照的な調子で答えた。パイプ椅子に座っていた他の部員たちは、いつものことらしく保田の高尚な演説に付き合うこともせず、各々好きなことをやっている。
- 54 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時14分42秒
「残念ながら、我が部はこの通り頭数が少ないわ。芸術に理解のない連中らからは、演劇なんて性根の暗い連中の集まりだなんて、陰口をあっちこっちで叩かれてるけど、そんな罵詈雑言に負けずに来てくれる新入部員は大歓迎よ。特にあなた!」
あさ美は保田のピンと張った声に、びくりと身を震わせた。保田は亜依の肩に手を置く。
「あなたのその熱意、あたしはしっかりと感じることができたわ」
「ほんまですか?」
亜依は嬉しそうに答えながらも、保田の顔を見ていない。あさ美はその視線を追ってみると、パイプ椅子に座ったまま、雑誌を器用に顔に乗せ、居眠りをしている女子生徒を見ている。
「だけどあなたは、さっきから全然、気合いが入ってないじゃない。いっとくけど、文化部だと思ってなめないでよ。結構、練習大変なんだからね」
「あ、は、はい」
あさ美は弾かれたように勢いよく答えた。保田は疑わしげにあさ美のことを見下ろすような視線で見つめた。
- 55 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時15分19秒
*
- 56 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時21分56秒
亜依と別れたあさ美は革製の茶色い鞄の中を確認すると、自転車をこぎ出した。日が延びてきたこともあり、辺りはまだ明るい。この間知ったの裏道を自転車ですいすいと進んでいく。スカーフが風にそよぎ、昨日裾上げをしたばかりであるため、自然と気にしてしまう。
『蔓屋』の青看板を見上げながら、駐輪場に入るとあさ美は自転車をいつもの場所に止めた。鞄を小脇に抱えると、店内に入り、テンポよく階段を上っていく。レジの脇を通り抜けながら、ちらりと目をやると先日の金髪のアルバイトと書店にいた女性、それに髪をセミロングの女性が談笑をしていた。
あさ美はそのままレジに向かわずに、洋楽の棚の前に行くと、レジの方を気にしながら、この前と同じように指でジャケットをなぞりながら見ていく。一通り見ると、ビートルズの仕切があるところに戻り、青いジャケットを指で引き出した。赤いジャケットと同じ構図に、年老いたメンバー四人がにこやかに身を乗り出していた。
あさ美はそれを片手に持つと、ビデオの棚をゆっくりと見る振りをした。隙間からレジの方を見ると、退屈なのか男性が欠伸を漏らし、相変わらず女性たちは華やかに会話を続けている。
- 57 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時23分29秒
あさ美がレジに向かうと、三人の会話が止み、セミロングの女性が爽やかな笑みを作って迎えてくれた。すっとした身体のラインに、大きめの青いエプロンを掛けている。すっきりとした輪郭に、頬はふっくらとして赤みが差し、黒目がちの瞳に、薄く紅をさした小口が愛らしい。
「いらっしゃいませ」
「‥これ…返却です」
あさ美はナイロン袋をおどおどと差し出した。女性は受け取ると、中からCDを引き出して、バーコードに機械を当てる。その間も、二人はくすくすと何か話し、こづきあっていた。
「はい、ありがとうございました。あ、そっちは?」
「あ、これは…借りようと思って」
「それじゃあ、一週間の貸し出してよろしいですか?」
女性はあさ美からCDを渡されると、同じように機械を当てる。あさ美がこくりと頷くと、女性は微笑んで、先ほど返したばかりのナイロン袋にそれを入れた。
「一週間のレンタルで315円になります。……それじゃ、ちょうどお預かりしますね」
女性はプリンターが弾き出した領収書を、ナイロンの袋に丁寧に折って入れると、あさ美に手渡した。あさ美はそれをいそいそと受け取ると、逃げるようにその場を去った。
- 58 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時24分25秒
「ありがとうございましたぁ」
あさ美は階段で後ろを振り返ってみる。三人の談笑が再開した様子である。
「んもう、二人ともちゃんと仕事してよぉ。お客さん来てるんだからさぁ」
「あははは、ごめん、ごめん。だってさぁ、こいつがバカなことばっかり言ってるんだよ。聞いたら、なっちだって絶対に笑っちゃうよぉ」
「ほらぁ、矢口は、そうやって、すぐなっちも巻き込もうとするんだから……」
あさ美はその声を背に聞きながら、階段を走り降りていった。
- 59 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)00時24分58秒
***
- 60 名前:名無し読者 投稿日:2002年04月07日(日)17時31分51秒
- レスしてもいいんですかね…?なんか、最後までレスできないような雰囲気なんで
控えてたんですが、この映画を見ているような描写に引き込まれています。
主人公なのにあまり感情の動きが見られない紺野が新鮮です。
毎日チェックしてますんで、作者さん頑張ってください。
- 61 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)23時58分21秒
- >>60
レス、嬉しいです。ありがとうございます。
最初のレスにも書き込みましたが、
映画『四月物語』をモチーフにして、
できるだけ似ないように気をつけながら書きました(w
最後まで楽しんで下さい。
- 62 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月07日(日)23時58分59秒
***
- 63 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時03分07秒
あさ美はドアの手前で躊躇をしていたが、ようやく踏み切ったようにブザーを鳴らした。あさ美は反応があるのを待つ間、手にぶら下げたビニール袋の中を探るように確認した。
「はぁい」
不機嫌そうな声が聞こえてきて、慌てたようにあさ美は顔を上げて、髪を整えた。
ガチャリと重たい鍵が外された音がして、隙間から部屋の住人、飯田が顔を覗かせた。飯田は相手があさ美であることを知ると、チェーンを面倒そうに外し、ドアを大きく開けた。
「何か用?」
飯田は長い髪を掻きむしると、眠そうに目を擦った。赤く腫れぼったい目の下には、隈ができており、目脂が目頭に溜まっている。この前見たときと同じトレーナーに、白い二本の線が入った黒いジャージを穿いていた。色白い素足には点々と絵の具が飛び散っており、右頬は薄紅色に汚れていた。
「あ、これ、田舎から送られてきたものです。えっと、お、お裾分けです」
あさ美はビニール袋をさっと差し出した。飯田はあさ美とビニール袋を代わる代わる見て、中指でこめかみの辺りを押さえながら言った。
「…そういうの、あんまりあたし好きじゃないんだよね。隣近所のお付き合いってやつ?」
- 64 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時06分09秒
「あ、あの、別に‥私は……」
しどろもどろになったあさ美に気を払うことなく、飯田は眉をひそめて、ますます不機嫌そうな顔で言葉を続けた。
「今、あたし、仕事をしてたわけ。ちょうど調子が出てきて、これで締め切りまでになんとかなるかなって感じだったのよ。こういう神様が降りてくる状態って、そうなかなかないのよねぇ。ついでに言っておくと、あたし、ここ一週間ほどちゃんと寝てないの。そういう気分が悪いところに、呼び鈴、鳴らされたらどんな気分になると思う?」
「それは‥イヤです」
「そう、そうなのよ。それをあんたはやってるわけ。分かった? だからお裾分けはいいからさぁ、あたしの邪魔しないでくんない? これからもこういうことしなくていいから」
- 65 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時06分46秒
飯田はドアを閉めようとした。あさ美は慌てたようにドアに足を挟み込む。
「あ、で、でも、これ飯田さんの分ですから、だから受け取って下さい」
あさ美はビニール袋を押しつけるように飯田に渡した。飯田は渋々顔でそれを受け取ると、そのままドアを閉めてしまった。鍵が掛けられる音がした。
あさ美はドアの前に立ったまま、下唇を噛んだ。あさ美は涙がこぼれ落ちそうな目を擦ると、小さく鼻を啜った。
- 66 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時07分18秒
*
- 67 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時08分16秒
部屋に戻ったあさ美は、流しで顔を洗うと、先ほどから煮詰めていた鍋の中を覗き込んだ。あさ美はコンロの火を弱火で点けると、ぼんやりとお玉で鍋の中をかき回した。部屋中にカレーの香ばしい匂いが広まっていく。あさ美は深々と溜息を吐いた。
唐突に、電話の着信音がけたたましい音を立てて鳴った。驚いたようにあさ美は、コンロの火を止め、鍋に蓋を置くと、受話器を手に取って耳に当てた。
「……もしもし、あ、お母さん? うん、うん、ちゃんと届いたよ。‥…えっ、何もないよ。いつもと同じだよ。…あ、ちょっとたまねぎ切ってたからかな」
あさ美はテーブル椅子を引っぱり出すと、それに腰を下ろした。テーブルの上にはテレビのリモコンが置かれており、自然とテレビのスイッチを押した。賑やかな音楽が流れ、爆笑する声が響く。あさ美は音量を下げると、チャンネルを適当に押しながら会話を続けた。
「うん、そう。……うん、大丈夫だって。だってつい三日前にも電話くれたじゃない。そんなに急に変わったりしないよ。……ちゃんとお裾分けしたよ。‥うん、喜んでくれてた」
- 68 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時08分57秒
あさ美はベットまで歩いていくと、その端に腰を下ろした。僅かに開いた窓からは、甘い桜の香りがする、少し冷たくなった風がカーテンをそよがせた。近くで豆腐屋がラッパを吹き鳴らしているらしく、風に乗ってその音が聞こえてくる。
「だから大丈夫だって。それよりもお父さんは? …そう、日曜なのに仕事なんだ。…………えっ、……やっぱり空手止めようかなって思ってて。…うん、演劇。……そ、そんなことないよ。……うん、ちょっと違ったことやりたかったの。何だか、気分とか変えたかったの。お父さんに言ったら、また怒られるかなぁ? ……そうだよね。うん、うん、‥あ、ちょっと人が来たみたい。ごめん、また、電話するね。…はい、うん、バイバイ」
あさ美は受話器を置くと、呼び鈴が鳴り続いているドアの方へと急いだ。玄関の覗き穴から踊り場を伺うと、憮然としたような表情でそっぽを向いた隣人が立っていた。あさ美は驚いたように鍵を外すと、ドアを開けた。
- 69 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時09分52秒
「どうか‥したんですか?」
あさ美は上擦りそうな声を抑えながら尋ねた。
「……これ」
飯田は手に持った包み箱を差し出すと、あさ美に抱かせた。
「えっ‥あの…」
「『清風堂』で買うんなら、こっちの『エトワール』で買った方がいいわよ。『清風堂』よりはちょっと遠いけど、美味しさは折り紙付きだから。洋菓子が嫌いじゃなきゃね」
「はぁ……」
「別にあんたに刺激されてお隣付き合いするわけじゃないのよ。ただ、いつも物もらってばっかじゃ悪いじゃん。あんた、女子高生でしょ。あたしは一応働いてるわけだしさ。それに…同郷だしさ」
「えっ、飯田さんも北海道なんですか?」
「あれ、送ってきたのあんたのお母さん? 何かぼんやりしてそうだよ、あんたに似て。ジャガイモの間に領収書が挟まってた」
飯田はポケットを探ると、紙切れをあさ美に渡した。あさ美は顔を真っ赤に染めて、それをくしゃくしゃにし、ポケットの中に突っ込んだ。
飯田はちょっとあさ美の部屋を覗き込むようにして、しきりに鼻を動かしている。あさ美が不思議そうに飯田を見ると、飯田は気まずそうに咳払いをした。
- 70 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時10分43秒
「ま、まぁ、久々に北海道のジャガイモ、食べられるからさ。一応お礼ぐらいはしておこっかなぁって思ったの。‥それじゃね」
突然、飯田の腹部が派手な音を立てた。今度は飯田が頬を赤く染め、恥ずかしそうに早く自分の部屋へと戻ろうとした。
「あっ、飯田さんも夕食一緒に食べませんか? 送られたジャガイモとか使って、カレー作ったんです。‥その、飯田さんもお腹が減ってらっしゃるようだし」
「あ、あのね。だ、大体あたしはそんなつもりでここに来たんじゃなくて‥…」
「いっぱい作っちゃいましたから。一人じゃ食べきれないですし」
「……そ、そこまで言うのなら…食べて‥行こうかな。あ、か、勘違いしないでよ。ここんとこ仕事が忙しくて、ちゃんと食べてなかっただけなんだからね」
狼狽しながら手を振る飯田の姿を見て、あさ美は思わず笑ってしまった。飯田はぶすりとした表情で髪をかき上げた。
「それじゃあ、どうぞ。今、スリッパ出しますから」
あさ美は嬉しそうに、飯田を室内に導き入れた。
- 71 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月08日(月)00時11分19秒
***
- 72 名前:名無しですが 投稿日:2002年04月08日(月)00時28分30秒
- なんかこんかおが新鮮でいいなぁ〜。
映画を元にしているらしいですが、これは雰囲気出てて良い!と思います。
- 73 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時29分04秒
- >>72
レスありがとうございます。
そう言ってもらえると嬉しいです。
紺野はほっとした雰囲気を出しやすくて、
何か誰と絡んでも使いやすいんですよね(w
- 74 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時30分12秒
***
- 75 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時31分43秒
多摩川沿いの緑萌ゆる土手には、演劇部の面々が各々の場所に立ち、声を張り上げていた。特に保田は腹部に手を当てて、しっかりと張りのある声を遠くに向かって発していた。
あさ美も腹から声を出そうと努力をするのだが、時折咳き込んでしまう。隣の亜依は中学校の頃、合唱部で慣らしていたのか、余裕があるように発声練習に勤しんでいた。他の部員たちは、やる気がないのか適当にこなしているのが傍目からでも分かる。
背中を赤い斜陽が照らしつけてくる。空にはオレンジ色に染まった綿菓子のような雲が浮かび、その隙間を縫うようにツバメが宙返りをしながら飛んでいく。青々しい芝には木々の影が真っ直ぐに伸びて、部員たちを覆っている。シャツ姿でランニングをしている老人の見受けられ、犬を散歩している小学生が冷やかしの目でこちらを見ては、からかいの言葉を投げかけてきた。保田は慣れっこなのか、それに取り合わずただひたすらに声を出していた。
- 76 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時32分49秒
発声練習のあとは、二人組になっての柔軟体操であった。あさ美は亜依と組んで、身体を伸ばした。あさ美は普段の空手の練習で慣れていたが、亜依の方はずいぶんときつそうに身体を折り曲げていた。
それが終わるとようやく台本読みになった。保田曰く、台本は青空の下で読むとよく頭に入るそうだ。あさ美と亜依は仮入部中であるため、印刷された一つの台本を手渡されて、それを二人で共有した。
台本を見ながら、科白を聞いていたあさ美は、亜依に脇腹をつつかれて隣を見た。にやにやと嬉しそうな亜依があさ美の耳元に口を寄せて呟く。
「なあなあ、あの人、どない思う?」
亜依が顎をしゃくって指した。
赤いジャージ姿で、長い髪を後ろで一つにまとめている。すっきりとした顔立ちで、目鼻立ちがはっきりとしている。校則に違反であるのだが、大きな耳たぶには小さなピアスが光っていた。体育座りをしていて、太股のところに台本を乗せてぼんやりとそれを眺めていた。先日、部室で器用に雑誌を顔に乗せて眠っていた先輩である。
- 77 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時33分50秒
「後藤さんって言うんよ」
「どうって?」
「うち、この前、新入生歓迎公演を見たんやけど、めっちゃかっこよかったんよ。うち、あの人みたくなりたくて、演劇やろって決めたんだ」
あさ美は先輩の姿を改めてまじまじと見た。あさ美は新入生歓迎公演を観賞していないため、後藤という先輩がどれほど格好いいのか知らないが、ぼうっとしている姿からは、亜依の言うような格好良さを感じることはできなかった。
あさ美が曖昧な表情で亜依の方を向くと、亜依が熱っぽく語ってくる。
「あさ美ちゃんかておるやろ。憧れる先輩とかって」
「……う‥ん。ま、まぁ‥北海道にいたときに……」
あさ美はどぎまぎしながら答えた。
「そやろ。やっぱり目標になる人とかって必要やもんな。あさ美ちゃんはどんな人に憧れてたん?」
「‥う…ん。…元気で優しい人。何かとってもがんばってるって感じの人‥かな」
あさ美は照れたように小声で答えた。亜依はますます顔を寄せてきてひそひそ声でからかった。
- 78 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時35分06秒
「すっごい思い入れやな。それって女の人やろ。案外あさ美ちゃんってそっちの気があるんやないの?」
「そ、そんなことないよ! わ、私は……」
声を荒げてから、あさ美ははっと周囲からの突き刺さるような視線に気が付いた。座っていた全員が茫然としたようにあさ美の方を見ている。亜依もびっくりしたように目をしばたたいていた。
「紺野ぉ、人の話はちゃんと聞くもんだって、教わってるでしょ。あたしたち、集中して本読みしてたなのに、急に大声出したりとかしたら、せっかくのいい雰囲気も台無しじゃない」
保田が腰に手を当てて、眉毛をつり上げながら言った。
「ご、ごめんなさい」
あさ美は慌てたように立ち上がり、何度も頭を下げた。保田はその姿を見て、溜息を吐くと、あさ美を座らせたが、あさ美はすっかり萎縮してしまったように、うつむいた。亜依が無言で手を合わせて謝ってくれて、あさ美は弱々しく笑った。
- 79 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時36分03秒
「そんじゃ、続きからね。えっと十六ページの吉澤の科白から。あ、あと石川、あんた、ちょっと棒読みすぎ。もっとちゃんと感情込めなさいよ」
くすくすと隣の娘と忍び笑いを漏らしていた先輩が注意され、慌てたように背筋を伸ばして、勢いある返事をした。
再び本読みが始まる。さすがに今度は亜依も自重したように、真面目な顔で台本を睨んでいた。
あさ美はそっと顔を空に向ける。綺麗な夕焼けの空を、影になったカイトが踊っていた。カラスが数羽、群になりながら川岸に降り立っていく。遠くの鉄橋を電車が轟音を立てながら横切っていった。
何処までも広がるこの空を、あの人も見てたりするのだろうか?
柔らかい春の風が舞い上げようとする髪をあさ美は抑えながら、ふっとそんなことを考えた。
- 80 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月09日(火)00時36分55秒
***
- 81 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時23分55秒
私は北海道の広大な大地と、どこまでも繋がっているような空が好きだ。
だから私は、小さいころから、北海道を出てどこか別の場所で生活することなんて考えたことなんてなかった。中学校を卒業したら、当たり前のように地元のそこそこの高校に進学して、短大か大学かに行って、北海道で就職して、北海道でいい人を見つけてごく普通のお嫁さんになるんだとずっと思っていた。
私の家は北海道の札幌だから、一応都会だって言えるし、自転車で郊外に出てみれば、青々しい草の絨毯が敷き詰められた大自然を感じることもできた。遠くを指さしたクラーク博士の銅像もちょっと走れば見に行けたし、時計台も小学校の社会科見学で何度も訪問した。札幌のテレビ塔があったから、特に東京タワーも羨ましくもなかった。
ただ、ディズニーランドが無いことと、好きな歌手があんまり札幌でコンサートをしてくれないことで、北海道にもどかしさは感じていたが……。
でも、これを除けば北海道ほどいい場所は無いって思っていたから、どこか他の場所に行くなんて考えたこともなかった。
- 82 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時24分57秒
*
- 83 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時26分08秒
両親も私がのんびりした娘だから、慌ただしいところの風潮に合ってないってずっと思っていたらしく、東京の高校を受けるって言ったときの驚いた顔は今でも忘れない。
大学ならまだしも東京の高校に行くのは…、と当然のごとく反対された。
特にお父さんは、私が一人娘だったからよけいに激しく抵抗した。意外にお母さんはさっぱりしていて、すぐに私をダシに東京まで遊びに行くという計画を心の内で立てていたようだ。
お父さんは受験が終わって合格通知が家に来てからも、ことあるごとにぶつぶつと文句を言っていた。私が東京に旅立つ日などには駅のホームでずっと不機嫌そうな顔をして、私と目を合わせようともしなかった。
- 84 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時27分15秒
お母さんは本当は入学式に東京まで出てきたかったらしいが、ママさんバレーの大会が東京渡航にちょうど重なってしまい、泣く泣く今回は見送っていた。せっかくの私の入学式なのに家族は誰一人も出席はしてくれず、ちょっと寂しかった。
幾人か見知った友人も駅に見送りに来てくれた。ほとんどは地元の高校に通うことが決まっており、私が東京に行ってしまうことを残念がってくれた。だが、その一方で東京名物を書いた一覧表をしっかりと手渡され、それを機会があったら送るように言われた。
そんなあっさりとした旅立ちで、私は住み慣れた北海度を出て、東京に出てきた。
- 85 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時27分52秒
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- 86 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時29分17秒
私は両親にも、学校の三者面談でも、高校の面接でも、本当の志望動機を言ったことはなかった。あまりにも恥ずかしくてそんなことを言えなかった。言ったらたぶん両親の反対運動を盛り上げただろう。学校の先生たちには呆れられて、『そんな不純な動機で高校を受けるつもりか?』って怒鳴られていただろう。
だから誰にも言わなかったし、言うつもりも無かった。
私が、その『不純な動機』に取り憑かれたのは中学二年の冬だった。それまでの私は、ちょうど来年に受験を控えていたが、特にやりたいこともなかったし、近ければ朝寝坊もできると思って近場の高校を受けるつもりでいた。
- 87 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月10日(水)00時30分11秒
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- 88 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時07分34秒
一月に、札幌雪祭りに併せた空手の大会がいつも札幌で開かれている。私が所属する空手道場は例年行事としてその大会に参加をしている。
幼少よりお父さんの薦めで空手をやっていた私は、それなりの腕前があり、大会でもレギュラーとして加えられていた。
準々決勝でのこと、私たちのチームよりも弱いチームと対戦した。幾度か練習試合をしたことがあり、自慢をするわけではないが、私はこのチームの面々に一度も負けたことがなかった。
私の前の二人はすでに勝利を収め、中堅の私が勝てば準決勝に進出できる。そんな余裕と、その日は調子もよかったことから、私は結構力を抜いて試合に取りかかっていた。相手の女の子は必死の形相で私のことを睨んでいたが、相手にならなかった。私は身体を温めることも考えながら、のんびりと相手をこなしていった。
- 89 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時09分29秒
突然、背後の応援席の方から大きな声が聞こえてきた。私はその声に気を取られ、バランスを崩してしまった。対戦相手はその隙を見逃してくれず、見事に私の記録に泥が付いてしまった。
礼が終わってから、私が呆然と二階にある観客席に目をやった。そこには、ふっくらとした女性が声を張り上げて、拍手をしていた。彼女の友人らしき人は、隣の席で身を屈めて恥ずかしそうにしていたが、女性は一向におかまえなく大きく手を振っていた。私の対戦相手も照れたように小さく手を振って、チームに戻っていった。
結局、私の次の人が勝って準決勝に進んだ。フロアーを出ていく前に、私はもう一度客席にいた女性の方を見た。まるで向日葵のようなと揶揄するのが適切な笑顔を浮かべて、励ますように負けたチームの方に大声で何か声を掛けていた。
- 90 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時10分03秒
*
- 91 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時12分02秒
私は翌日、クラスの友だちたちと札幌雪祭りに行った。
毎年、札幌は大勢の人たちに賑わい、雪像を一目見ようと集まってくる。この時期だけは寒さも人の熱気に押され、微かに温かく感じるから不思議である。人波が札幌の大通り公園を川のように流れ、おしくら饅頭をするように押し合い、ひしめき合う。雪像を見るというよりは、人を見に来ると言ってもいいぐらいに込み合ってしまう。
私は、屋台でのんびりと、あんず飴を買うために並んでいたら、迷子になってしまった。一緒に来ていた友だちたちの姿は見えず、仕方なく私は飴を舐めながら、テレビ塔の方へと向かった。携帯電話の所有を親から禁じられている私たちは、迷子になったらテレビ塔へ向かうと決めあっていた。
人波と逆の流れをどうにか歩き、札幌テレビ塔の前に着くと、私はほっとして、金網のフェンスにもたれ掛かった。まだ誰も私がいなくなったことに気が付いていないのか、テレビ塔の周りには知った顔が無かった。口の中にはあんず飴の甘さがべとべとして気持ちが悪く、お茶か何かで口を洗いたく、辺りに自動販売機が無いか探してみた。
- 92 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時13分17秒
自動販売機の横には私と同じようにもたれ掛かって、ぼんやりとした女性が背後で手を組んで、足をぶらぶらとさせていた。私はあんず飴が刺さっていた木の棒を雪の上に落とすと、ハンカチで口の周りを拭い、自動販売機へと歩いた。硬貨を取り出して、販売機に入れながら、ちらりと女性の方を伺い見た。
「…あっ」
私が不意に上げた声に、女性は不思議そうな表情をして私の方を見た。私は顔を落として、硬貨を入れながら、適当にボタンを押した。出てきたのは温かい紅茶だった。持ったアルミ缶は手袋越しに温かさを伝えてくれた。
私はそれを啜りながら、女性からできるだけ離れて腰を下ろした。口の中がますます甘ったるくなり、私はそれで二度三度口を濯ぐと、真っ白な雪上に吐き出した。雪からは湯気が立ち上り、その部分だけ茶色い染みができた。
しばらくの間、私は遠くから聞こえてくる喧噪に耳を向けていながら、ちらちらと女性の方を意識した。女性と目が合うと私は慌てたように視線を外した。
- 93 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時17分17秒
「ねぇ、あなたも待ち人?」
女性が側に寄ってきながら尋ねてきた。私は見上げて女性の顔を見る。それは昨日見た向日葵のような笑顔だった。私は昨日の負けが思い出されて、恥ずかしくなり、いそいそと顔を落とした。
「私もねぇ、待ち人。ったく彩っぺは何処まで行っちゃったんだか」
私は何も答えず、紅茶を口に流し込んだ。温かい液体が私の舌を焼いた。私は思わず口を缶から離し、それを見た女性は可笑しそうに笑った。
「あなた、中学生? 札幌の娘?」
女性の立て続けの質問に、私はこくりと首を振った。
「そっか‥、私は札幌じゃなくて室蘭なんだ。毎年、雪祭りのときは、友だちんとこにお世話になってるの」
女性の言葉を私は黙って聞きながら、早く友だちたちが来てくれることを祈っていた。女性はそんな私のことなどお構いなしに、にこにこと太陽のような笑顔で私のことをじっと見つめていた。
- 94 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時18分44秒
「あ、ねぇ、あなたさ、音楽って興味ある?」
「‥音楽……ですか?」
「そう、私さ、さっき言った友だちたちとバンドやってるの。でもね、四月になったら私、東京に行くから、もうすぐ辞めちゃうんだよ。それで、今度最後のライブやるんだけど、興味ないかなぁ?」
「あ、‥いえ、…あの……」
「もしさ、興味があるようだったら来てよ。場所は札幌だから、交通のことは心配しなくてもだいじょぶ。お金はもらうけど、それに見合うような舞台にするつもりだから。あ、これ、チラシ」
女性は狐色のコートのポケットからカード型の紙を取り出すと、私に渡してくれた。コピーして作ったのか、丸みをおびた字が所狭しと並んでいた。私はそのカードと女性の顔を代わる代わるに見た。
- 95 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時21分53秒
「もし友だちとかいるなら一緒に来てよ。もし、興味がなかったら捨てちゃってもいいから。ねっ」
ちょうどその時、友だちたちがぞろぞろとテレビ塔に向かって歩いてきたのが目に入った。私の姿を見かけた友だちが手を上げて、駆け寄ってきた。私は女性に一礼をすると、そちらの方へ駆けていく。
私は頭を軽く小突かれたり、擽られたりして迎えられた。私は振り返って女性の方を見ると、女性はにっこりと微笑みながら、小さく手を振ってくれた。私は手渡された紙をもう一度見た。
『『カナリア』の安倍なつみ ラストコンサート』そう書かれていた。
- 96 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時22分25秒
*
- 97 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時23分44秒
安倍さんの所属したバンド『カナリア』のコンサートは凄かった。
私は初めて生のコンサートに行ったのだが、メインボーカルの安倍さんの透き通るような歌声が会場に響き渡り、私の全身には電撃が走った。前の方に座るのは恥ずかしくて、私は出口に一番近い壁際の席にひっそりと座っていた。それでも後ろまで響き来る安倍さんの歌声に、私は時間も忘れて聞き惚れてしまった。
舞台に立ち、スポットライトを浴びた安倍さんは、額に汗を光らせながら、楽しそうに唄っていた。透き通るような歌声で、古いフォークソングや流行歌をアレンジして披露していった。
最後のMCでは安倍さんは涙ながらに、それでも笑顔は崩れてなくて、明るい声でこれまでの思い出を語った。
それから最後の曲を歌った。ビートルズの『イエスタデイ』だった。安倍さんの目から止め処なく涙がこぼれ落ちていた。それでも声は乱れることもなく、最後の曲を大切に包み込むような声で唄っていた。
私はいつの間にか安倍さんの顔を見ながら、その格好良さに、その綺麗さに、その神々しさに引き寄せられていた。
- 98 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月11日(木)00時24分17秒
*
- 99 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時02分36秒
それから私は本屋に行っては、よく東京のガイドブックを立ち読みした。安倍さんは最後の挨拶で「東京の多摩にある大学に行く」と言っていたからだ。
多摩……
私は猫の名前みたいだと思った。ガイドブックを見てみると、幾枚かの写真には私の想像する東京には似つかわしい緑の溢れた自然が広がっていた。田畑が段々と敷き詰められ、街路樹には青々しい葉が風に揺れていた。
私の中で、安倍さんがだだっ広い田畑の真ん中でクラシックギターを持って、唄っている姿を思い描いた。紺碧の空が安倍さんを優しく包み込み、安倍さんの美しい歌声が響く。そんな風景だった。
私はいつしか、私が思い描く多摩の姿に捕らわれていった。それは北海道の原野がそのまま、東京の多摩にまで続いているように思えた。どこまでも続く青い空と途切れることのない一本のあぜ道。それを私は自転車で走っていくことを何度も空想した。
- 100 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時04分01秒
珍しく晴れた日に、屋上で昼食を取りながら、全国高等学校ガイドを捲りながら、友人の雪野すずなに聞いたことがあった。
「ねぇ、多摩って知ってる?」
「タマ?」
「そう、東京の」
「ああぁ、東京の多摩か。 それって『平成タヌキ合戦ぽんぽこ』で出てきたところじゃなかったっけ? あさ美ちゃん、東京の高校受けるの? 遠くない?」
「……うん、‥遠いね」
私は、屋上からまるでミニチュアのような札幌の街を見下ろした。所々に冬の間溶けることのない汚れた雪の残骸が見ることができた。空には白い雲が細い一線を引き、澄んだ冷たい風がカーディガンを通して感じられた。すずなは牛乳の入っていた紙パックを踏みつけた。パンと紙パックは破裂音を起こし、すずなは満足げに笑った。
- 101 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時06分02秒
「ねぇ、『イエスタデイ』って聴いたことある?」
「『イエスタデイ』? それ誰の新曲?」
「ビートルズだって。ジョン=レノンとかポール=マッカートニーとか」
「へぇー、ビートルズか。‥それ古いんでしょ。よく知ってるね」
「うん、お父さんから聞いたんだ。良い曲なんだよ」
私はメロディーを鼻歌で歌った。
「あ、知ってる。へぇー、それが『イエスタデイ』なんだ。何か別れの曲っぽくて寂しいよね。あたし、その曲、聞くと何か卒業式思い出しちゃうよ。よくオルガンで流れるよね」
「‥うん、そうだね。何か寂しいね」
私はすずなに同意をした。
- 102 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時06分30秒
*
- 103 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時11分23秒
中学三年生になって、ようやく渋々ながではあるが、お父さんが東京の高校を受けることを許してくれた。
参考書や過去問を買いに本屋に行くと、ついでに東京のガイドブックを立ち読みをした。その度に私はますます多摩という言葉に取り憑かれていった。私の中だけで多摩のイメージは膨張していった。
中学三年の長い夏休みがもう終わりに近づいてきた頃、東京に行っていた空手の後輩、環皐月が帰ってきた。元々垢抜けた娘で、流行には敏感な娘であり、安倍さんの所属していたバンド『カナリア』を知っていた。そのため私は彼女から安倍さんのことをよく聞いたりした。
受験勉強に勤しんでいた私は、東京の空気を吸ってきて、どこか都会風を吹かせながら、ソファーに座った彼女を尊敬の眼差しで見た。
「先輩、先輩。これお土産です」
皐月がテーブルの上に置いたのは『蔓屋』の紙袋だった。私はそれを開けてみると、中から東京のガイドブックが出てきた。
「これ?」
「先輩、東京の大学受けるんですよね。だから、買ってきました。それ、誰が包んでくれたか知ってます?」
- 104 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時12分09秒
皐月がカルピスを飲みながら、楽しそうに笑った。私はぱらぱらと捲ってみたが、ヒントなど書いてあるわけもなく、私は首を横に振った。
「それ、安倍さんが包んでくれたんですよ」
「へ、へぇ」
私は、突然安倍さんの名前が出てきたことに、驚きに目を見開き、上擦った声を出してしまった。
「あたしのお祖母ちゃんの家って東京の国立ってとこにあるんですけど、近くの『蔓屋』に行ったら安倍さんがアルバイトしてたんですよ」
私は『蔓屋』のロゴの入った茶色い紙袋をまじまじと見つめた。橙色のエプロンを着けて、にこやかに接待をする安倍さんの姿がすぐに思い描かれた。
「何か話とかしたの?」
「別に、だって忙しそうでしたから。それにあたしのことなんて知りませんよ。コンサートには行ってたけど、話しかけたりしたことないし、もう辞めてから半年経ってますからね」
皐月はカルピスの入ったコップからストローだけ引き出して、口先で弄びながら言った。
「…そっか」
「そうですよ」
皐月は我が家の飼い猫を呼び寄せると、無理矢理に抱き締めて、首の辺りを掻いてやっていた。私はガイドブックと『蔓屋』の紙袋をじっと見つめた。
- 105 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時13分14秒
*
- 106 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時14分59秒
こうして私は、残り少ない中学生活と、おそらく希望溢れるであろう高校生活の全てを、東京の『多摩』に注ぎ込んだのである。
- 107 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月12日(金)00時15分34秒
***
- 108 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時49分28秒
空には雲が広がり、今朝方晴れていたのが嘘のようである。遠くの方では、雷鳴が鳴り響いており、風が生温くあさ美の脇をすり抜けていった。今朝の天気予報では晴天マークが地図上に広がっていて、すっかりそれを信じていたのだが、やはり春の天気は信じられないものだ、とあさ美は自転車をこぐ足を早めた。
滑り込むように『蔓屋 東国立店』の駐輪場に自転車を止めると、急ぐように店内に入った。あさ美は鞄からナイロン製の袋を取り出すと、それを胸に抱いて階段を上った。レジに目をやるとそこには難しい顔をしながら何かをチェックしている先日応対してくれたセミロングの女性−安倍なつみの姿だけがあり、陳列棚の周りには誰の人影を見ることが出来なかった。光は雲に覆われて、天窓からは黒い影が店内に向かって降り注いでいた。
- 109 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時50分05秒
あさ美はレジに向かおうとしたが、すぐにいつもの洋楽の棚の方へと足を変えた。履き慣れてきた白いスニーカーには汚れが目立つようになり、木目の残るフローリングを歩く度にきゅきゅと心地よい音を立てた。その音になつみは顔を上げて来客を確認した。
「いらっしゃいませぇ」
なつみののんびりとした声に、あさ美は思わず会釈をした。なつみの方も軽く微笑むと、再度用紙に目を落としてにらめっこを続けた。
- 110 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時50分50秒
あさ美は洋楽の棚の前でいつもと同じように指でCDケースの背をなぞりだした。
「すみません」
不意の声にあさ美は振り返った。
「そこ、いいですか?」
キャスター付きのプラスチック籠を押したなつみが、CDケースを抱えながら立っていた。エプロンに引っ掛けた名札はカラフルに彩られており、丸みを帯びた字で『安倍』と書かれていた。
「あ……」
あさ美はすぐにその場所を退いた。なつみはCDの名前を確認しながら、元あった場所へと戻していく。あさ美はどうしたらよいのか分からずにもじもじとしながら、なつみが仕事を終えるのを待った。
しかし、その心中はまるで心臓が飛び出さんばかりに跳ね上がっていた。血が全身に巡り足らないようで、頭がクラクラして、足に力が入らなかった。あさ美は落ち着こうと、何度も唇を舌でなぞり、指先で必死にCDを探すふりをした。
- 111 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時52分51秒
「ちょっと、そっちいいですか?」
意に反してなつみはあさ美の方へと寄ってきた。あさ美は再び退く。あさ美は仕事をするなつみの横顔を魅入られるように見つめた。北海道にいたときのなつみに比べると少々痩せたようで顎の辺りがシャープになっている。
「……あ、あっ」
「はい?」
あさ美が何かを言おうと思って声を出そうとしたが、顔を上げたなつみの不思議そうな顔に、あさ美は口を噤んでしまった。
その瞬間、二人の目が出会った。すぐにあさ美は視線を逸らすと、誤魔化すように適当にCDケースを引き出して、それの両面を返し返し見た。なつみは何か言いたそうにあさ美の顔をじっと見たが、何も言わずに籠を押しながら、別の場所へと移っていってしまった。
手に持っていたCDケースを元の場所に戻すと、あさ美は深く溜息を吐いた。
- 112 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時53分24秒
*
- 113 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時54分54秒
あさ美は青いナイロン袋をなつみに差し出した。なつみは中身を確認すると、いつものようににっこりと笑った。
「ありがとうございましたぁ。…そっちは貸し出しですか?」
「あ、は、はい。…お願いします」
あさ美は白いパッケージのCDケースをなつみに手渡した。
「それじゃあ、これは一週間のレンタルですね。315円になります」
あさ美はポケットから財布を引っぱり出すと、五百円玉を置いた。なつみはレジを打つと、いつもと同じようにプリンターが激しい音を立てながら紙を吐き出してきた。
「ビートルズ、好きなんですね」
なつみが袋に借りたばかりのCDを入れながら尋ねてきた。
「あっ、いえ、……はい」
あさ美は消え去るような声で答えた。なつみは嬉しそうに笑った。あさ美も照れたように顔を落としながら、それでも自然と口端が笑みを作った。
「それじゃあ、185円のお返しになります。ありがとうございました」
なつみは微笑むとお釣りを手渡してくれると、続いてあさ美に袋を差し出した。あさ美は袋をいそいそと鞄に入れると、その場を立ち去ろうとした。
- 114 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時55分42秒
「あっ、ねぇ、もしかして、あなた、北海道の娘じゃない?」
「えっ」あさ美は足を止めた。
「間違ってたらごめんなさい。でも、もしかすると会ったことがあるんじゃないかなって思って」
「…………」
「違ってたらごめんね」
「……はい」
あさ美は消え去りそうな声で返事をした。
「あっ、やっぱり。さっきCD戻してるときに見たら、会ったことあるんじゃないかなって思ったんだ。札幌の雪祭りで一回会ったよね。確かテレビ塔の前で。あれ? 結構前だよね」
なつみがはしゃいだようにあさ美の手を取った。ほんわりとした温もりがあさ美の手を包んだ。あさ美の気分は高揚し、頬が熱くなるのを感じる。
「はい、一年とちょっとです」
「そうだよね。だって私がまだ高三のときだもん。わぁ、東京で何してんの? 見たところ学生さんみたいだけど、引っ越してきたの?」
- 115 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時56分28秒
「あ、わ、私、一人暮らしして、東京の高校に通ってるんです。国立にある私立高校に」
「えっ、そうなの? 私もこっちの大学に通ってるんだよ。一人暮らしでさ」
「知ってます。最後のコンサート…行きましたから」
「ホント! あ、そういえば私、テレビ塔で誘ったっけ。来てくれてたんだ。嬉しいなぁ。ねぇ、名前教えてよ。私、安倍なつみね。あ、コンサート来てくれてたんだから知ってるか。へへへ」
「…紺野です。紺野あさ美です」
あさ美は勢いづいたように言った。
「コンノ……」
なつみはよく聞こえなかったように、耳を傾けた。
「紺野あさ美です。紺野美沙子の紺野に、平仮名であさを書いて、みは美しいの美です」
「紺野あさ美ちゃんか。えっ、でも凄いよねぇ。東京の高校受けるってことはあさ美ちゃん、頭いいんだ」
「そ、そんなことありません。……私、安倍さんが最後の歌った『イエスタデイ』聞いて、ビートルズ好きになったんです」
- 116 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時57分11秒
「えっ、ほんと。それは嬉しいなぁ。あっ、ねぇ、連絡先教えてよ。せっかく東京で再会したんだからさ。あさ美ちゃん、携帯持ってる?」
なつみはジーパンのポケットから携帯電話を引っぱり出した。
「あ、いえ……。……でも、今度、友だちと買いに行くつもりです」
「それじゃ、私の番号とメアド、教えておくね。もし、買ったらメールか電話掛けてきてよ」
なつみはエプロンのポケットからメモ用紙を引き出すと、それにボールペンで電話番号とメールアドレスを書き込んで、あさ美に渡した。あさ美はそれを二つに折ると、セーラー服の胸ポケットに丁寧に入れた。それからあさ美は照れたように笑った。
- 117 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時57分44秒
*
- 118 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時58分36秒
「じゃあさ、また来てよ。私、ここでバイトしてるから」
「はい!」
あさ美の勢いある返事に、なつみは楽しそうに笑った。あさ美はかっと頬が熱くなるのを感じたが、それ以上に嬉しかった。自然と口元が緩んでしまう。
「それじゃあ、また来ます」
「うん」
あさ美は鞄を抱え直すと、なつみに一礼をして階段へと向かった。と、天窓をいつの間にか雨粒が叩いている。先ほどまでの空を覆っていた雲は黒く色を変え、稲光が雲間から見える。階段下の出入口付近には数人が困ったように外の様子を伺っていた。
「あ、雨…」
「えっ、雨降ってんの。今朝の天気予報じゃ、晴れだったのに。あさ美ちゃん、傘持ってる?」
なつみがあさ美に横まで来て、天窓を見ながら問いかけてきた。不満そうに腰に手を当てて、なつみはぷっくりと頬を膨らませた。その顔も愛らしかった。
- 119 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時59分09秒
「…大丈夫です」
「えっ、でも、結構強いじゃん。たぶん通り雨だし、ちょっとここで待った方がいいんじゃない? 弱くなってきたら、傘、貸してあげるよ。こういうところってお客さんがよく傘忘れちゃうから、いくらでもあるし」
「あっ、でも大丈夫です。私の家、近いですし」
あさ美はあたふたしながら答えた。
「でも、濡れてったら風邪引いちゃうよ。そんなにお客さんいないし、何だったら従業員の控え室で雨宿りしてってもいいよ」
「ほ、ほんとに大丈夫です。自転車を飛ばせば、ほんとにすぐなんです。ありがとうございました」
あさ美はなつみが制止する言葉を背に受けながらも、あさ美は階段を駆け下りて、激しく降りしきる雨の中へと飛び出していった。
- 120 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月13日(土)01時59分50秒
*
- 121 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時45分19秒
あさ美は耐えきれず、茶色いレンガ壁の市民会館前に自転車を止めると、雨を避けるように庇の下に屈んだ。雨は止むどころかますます勢いを強め、道にはまるで洪水のように、側溝から溢れ出る水に侵されている。車軸を流すような雨粒は窓硝子を強く叩き、稲妻は空を駆けた。温かい風は街路樹の枝を強烈に揺すり、道を行く車は水飛沫を高々と上げながら急ぐように通り抜けていった。
あさ美は膝の上に肘を乗せて頬杖を付くと、まるでバケツをひっくり返したような雨粒の行進をぼんやりと眺めた。身体は濡れており、白いセーラー服は十二分に水を吸い込んでいる。うっすらと透ける下着を、濡れて重くなった鞄を胸に抱くようにして隠した。首筋を長くなってきた髪から垂れる水が伝い、服の中に忍び込んでくる。
瞼に上の水をあさ美は指で払うと、スカート裾を絞ってみると、コンクリートの上に黒い大きな染みができた。スニーカーもびしょ濡れで、中に水が入っており、足を動かすごとに吸い込んだ水がぐにゃりと音を立てた。
- 122 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時46分26秒
「ひどい雨だねぇ」
あさ美は顔を上げた。いつの間にか横には初老の男性が、水浸しになった道路を見て楽しそうに立っていた。紺の縦縞スーツに、黒い山高帽を被っていた。白髪に白くなった口髭があり、皺の寄った顔に柔和な笑みを浮かべていた。あさ美はかぶりを振って、首を道路の方へと向けた。
「今度の市で主催する絵画展の企画で来てたんだけど、傘、持ってこなくってねぇ」
老人が困ったように額にしわを寄せ、雨粒の方へ向けて手を差し出した。
「あっ、まだいらしたんですね。行ってしまったんではないかと、心配しました」
硝子ドアが開けられると、桃色のスーツ姿の年若い女性が姿を現した。
「こちらをお使い下さい」
女性は茜色の雨傘を初老の男性に差し出した。柄の部分は木製でがっちりとした感がある。初老の男性が受け取ると、女性は一礼をして、中へと戻っていってしまった。初老の男性はそれを広げてみて、調子を確認するとあさ美の方を見た。
「使っていいよ」
「えっ、で、でも……。わ、私、大丈夫ですから……」
- 123 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時47分17秒
「私は奥でもう一本借りてくればいいわけだし、それにそんなに濡れていては風邪を引いてしまうよ。春は気まぐれだから、気候が変わりやすく、風邪を引きやすい」
「でも……」
「学生なんだから四月は行事が多いだろ。学校を休むと色々と大変だ。君が使って、あとでこの市民会館まで持ってきて返してくれればいい」
「…………それじゃ、ちょっと待っててください。し、知ってる人が近くにいるんです。私、その人から傘借りてきますから、だからちょっとここで待っててください」
あさ美は初老の男性から傘を受け取った。
「しかし、私は中で借りてくればいいだけだから」
「ちょっと待っててくださいね。すぐですから」
あさ美は傘を右手に持つと、走り出した。傘は風の抵抗を受けて、大きく揺れる。足を上げる事にスニーカーが水を跳ね上げ、あさ美の白いソックスを汚していく。だが、あさ美は気にした様子もなく道路を走っていった。初老の男性は呆れたように、それでも楽しそうに微笑みながら、あさ美の背を見送った。
- 124 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時47分48秒
*
- 125 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時48分28秒
あさ美は『蔓屋』に着くと、傘を傘置きに入れることも忘れて、濡れたままくるくるっと乱暴に丸めると、階段を駆け上がった。出入口前で雨宿りをしていた人々は何事かと、あさ美を怪訝そうに見た。
レジには先ほどと同じようになつみが、用紙を眼前に置いて、ボールペンで頭を掻きながら、電卓を叩いている姿があった。
「安倍さん!」
あさ美は高調した声を上げた。なつみが首をあさ美に向けて、それから驚いたように口をぽっかりと開けたまま、あさ美を見つめた。
「どうしたの、あさ美ちゃん? ずぶ濡れじゃない」
「傘‥借りに来ました。途中まで行ったんですけど、雨がひどくなって、それで」
「で、でも、傘、持ってるじゃない」
「あっ、これ借り物なんです。返さなきゃいけないんです」
あさ美は息を切らしながら水の滴る雨傘を後ろに隠した。なつみは呆れたようにあさ美の姿を見ていたが、すぐに表情を緩めた。
- 126 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時49分15秒
「分かった。ちょっと待っててね」
なつみはレジの後ろにあるドアノブを回すと、中へと消えていった。あさ美は髪から滴り落ちる水を絞って、服でその手を拭くと、髪型を整えるように前髪を払った。
「これだけあるから、好きなの持ってていいよ。お客さんの忘れもんだけど、誰も取りに来てくれないんだ。だから自由に使っていいから」
なつみは傘の束を両手に抱えて出てきた。色とりどりの傘があさ美の前に差し出された。
「じゃあ…これを」
あさ美は白い布の張った傘を選択した。
「やっぱりね。あさ美ちゃん、それ選ぶと思った」
「えっ?」
あさ美はびくりとしたように、なつみの悪戯っ子のような顔を見つめた。
「だって、何か、あさ美ちゃんのイメージにぴったりだもん。ほら、白って北海道のどこまでの続く空に浮かぶ雲の色って感じもするし。って、な〜んか、なっち、ちょっと詩人だったね」
なつみが照れたように笑った。あさ美は顔をほころばせながら、勢いよく返事をした。
- 127 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時50分28秒
あさ美はなつみから傘を受け取ると、それを広げてみる。白い布のには肩を寄せ合うアニメチックの二匹の黒猫と白猫が描かれていた。どうやら子供用の傘であり、大きくない。おそらく差せば、肩の部分が濡れてしまうだろう。
「あちゃぁ、それじゃ、ちょっと小さくすぎるね。別のやつにしよっか。あっ、こっちの方が大きいんじゃない?」
なつみが傘束を小脇に抱えて、黒傘を開いた。だが、その傘の布はあちこちに穴が空き、骨が折れていた。なつみは苦笑してそれを元通りにまき直した。
「‥これでいいです」
あさ美は傘を閉じると、それを胸に抱え込んだ。
「えっ、でも、それじゃ濡れちゃうよ」
「これがいいんです。それにもう十分濡れちゃってますし」
「‥そっか。そうだね。もう、濡れちゃってるもんね」
あさ美となつみは顔を見合わせて可笑しそうに笑った。
- 128 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時51分00秒
「安倍さん‥…、まだ、歌、唄ってるんですか?」
「歌? …う〜ん、今は唄ってないんだ。…色々と忙しくってね」
「…そうですか……。あっ、じゃ、じゃあ、今度、カラオケ行きましょう。私、安倍さんの歌が聞きたいんです」
「カラオケ? ……うん、いいね。でも、そんなに私の歌が聞きたいんだ。ちょっと照れるけど、何か嬉しいね」
なつみは溢れんばかりの笑顔を浮かべた。あさ美はその笑顔を見て、胸の奥に言いようのない心地よさを感じた。
「それじゃ、また、この傘、返しに来ます」
「あ、いいよ。どうせ、持ち主が取りに来るわけじゃないし、適当に処分しちゃっていいよ」
「いえ、返しにまた来ます」
「……そう? それじゃ、また来てよ。待ってるから」
なつみは傘の束を抱え直した。
「それじゃ、失礼します」
あさ美は興奮したように顔を赤らめ、それでも嬉しさを隠すことなくなつみに一礼すると、階段を再び駆け下りていった。なつみはあさ美の後ろ姿が見えなくなると、傘を抱え直してレジの中へと戻っていった。
- 129 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時51分32秒
*
- 130 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時52分39秒
あさ美が市民会館の出入口に着くと、先ほどの老人は山高帽を上げてあさ美を呼び寄せた。あさ美は軽快に小階段を上ると、激しく動悸する胸を手で押さえながら、老人に先ほど借りた茜色の雨傘を差し出した。
「あ、ありがとう、ございました」
「いや、久しぶりにこうやって雨空を眺めたよ。最近じゃなかなか忙しくてね。ゆっくりと辺りを観察している暇もない。こういうのんびりとした時間もたまにはいいものだ。それにここに居ないと、あなたの大事な相棒が姿を消してしまうかもしれない」
老人はあさ美から傘を受け取ると、並木の側に止めてある自転車を顎で指した。
「あ、す、すみません」
「いやいや、ここで待ってたお陰で、雨足も弱まってきたようだ。きっと雨が止めば、綺麗な虹が架かるだろう」
「…虹が」
あさ美は晴れ上がった空を思い浮かべた。高々と立つコンクリートのビルの間から、天上に向けて七色の帯が伸び上がっていく。雨に濡れた木々の葉は太陽の柔らかな光を浴びて、きらきらと輝く。そんな風景だった。
- 131 名前:名無し作者 投稿日:2002年04月14日(日)01時54分04秒
「それじゃあ、私は行くよ」
老人は傘を差すと、雨に濡れる道路の中央を横切っていった。向こう側に行って、老人は傘をちょっと上げた。あさ美もそれに答えるように白い傘を上げた。老人は傘を上げたまま、道路を右に曲がっていった。
白い雨傘に庇から垂れる雨粒が当たった。張られた布の上で滴が跳ねて、小気味よい音を立てる。
あさ美は手の内で傘の柄を回す。クルクルと傘は回り、雨粒が周囲に飛び散っていく。あさ美は楽しくなってきて、庇の下から身を躍らせると、小止みになってきた雨降る歩道へと飛び出した。
いつの間にか雲の切れ間からうっすらと温かげな光が覗いていた。
終
- 132 名前:あとがき−1 投稿日:2002年04月14日(日)02時02分24秒
最後まで更新することができました。
これにて話は終わりになります。
如何でしたでしょうか? 感想などをいただけると嬉しいです。
さて、この話は何度も言うように映画『四月物語』を元にしています。
特に最後の方はほとんど元ネタを越えることもできず、
本当にそのまんまのような感じです。
タイトルも本当は原題を使いたかったのですが、
それでは余りにも失礼だと思いまして今のタイトルが付いたわけです。
だから『『イエスタデイ』をもう一度 〜四月物語〜』が、
自分の中では正式なタイトルになってます(w
- 133 名前:あとがき−2 投稿日:2002年04月14日(日)02時08分31秒
- 興味を持たれた方は、
ぜひとも元の『四月物語』も観てみて下さい。
おそらく、どのレンタル店の邦画の棚にあるはずです。
宣伝のようになってしまいましたが、
最後にここまで読んで下された方々、レスを下された方々に
深く感謝をしつつ、終わらせていただきます。
ありがとうございました。
- 134 名前:名無し 投稿日:2002年05月11日(土)14時01分51秒
- 紺野と安倍、なんかいいですね。
「四月物語」また観たくなりました。
- 135 名前:名無し読者 投稿日:2002年05月11日(土)15時59分26秒
- 好きですね。こういうの。
「四月物語」知らないですが見てみたくなりました。
疲れが溜まっているせいか、空手の話で熊云々の所で大爆笑しました。
唯、ちょっと読み難いです。
句点で改行して欲しかったかな?
完結お疲れ様でした。
- 136 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月15日(土)02時21分05秒
>>134
レス、ありがとうございます。
紺野は誰と絡んでも、
ほんわりとした雰囲気が出しやすくて、
イメージにもぴったりかなと思って使いました。
>>135
レス、ありがとうございます。
指摘していただいた点、最もに思います。
以後書くときの反省にさせていただきます。
- 137 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月15日(土)02時30分07秒
- お久しぶりです。
完結して早二ヶ月近く。
実はこの作品を書いているときから、
新しい作品を考えていまして、
身も空いたこの時期に掲載することにしました。
次の作品はオリジナルです。
タイトルは「『カリフォルニア・ガール』に憧れて」です。
サブタイトルを付けるなら『七月物語』でしょうか(w
世界観は変わりませんが、主人公は変わります。
ちょっと変わった組み合わせをお楽しみ下さい。
- 138 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月17日(月)02時02分48秒
- 続編ってことで良いのでしょうか?
どんなカップリングなのか気になります。
- 139 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時37分51秒
- すみません。タイトルをさっそく間違えていました。
正確には
「『カルフォルニア・ガールズ』に憧れて」でした。
>>138
さっそくのレス、ありがとうございます。
続編というつもりではなく、
オムニバス的な雰囲気だと思います。
読んでいただけば、なるほどと思っていただけるはずです。
それではお楽しみ下さい。
- 140 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時39分39秒
『カルフォルニア・ガールズ』に憧れて
- 141 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時40分28秒
先週、ようやく東京地方の梅雨開け宣言がなされて、
日に日に夏の気配が寄ってきていた。
空にはもくもくと入道雲が立ち上り、そこかしこからは蝉の合唱が響いている。
じりじりと身に染みつくような暑さに誰もが力無く、
身体中から吹き出す汗を鬱陶しそうにタオルで拭っている。
時折道路を急ぐように走る自動車からは黒煙が残され、より一層苛立ちを覚える。
これでも正午に比べれば随分と暑さも引けてきた方で、
たまにひんやりとした風が、思いだしたかのように通り抜けていった。
西の空に今にも沈みそうな太陽が、
一日の最後の光線をこれでもかと言うほどに降り注ぎ、
東の空には対するような柔らかな光を放つ月がうっすらと姿を見せ始めていた。
まだ明るい空を二三羽のカラスが横切り、
堂々と舗装された歩道に降り立っては、嘴であちこちをつつく。
時期尚早の麦わら帽子を被った老父が連れた薄茶色の犬が、
それを目ざとく見つけ吠えると、カラスたちは慌てたように飛び立った。
それでもしばらくはその場で旋回し、まるで犬を小馬鹿にするかのように鳴き続けた。
- 142 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時41分33秒
夕刻、しかも学校終わりということもあり、
信号機前には多数の制服に身を包んだ生徒やら、
会社終わりのサラリーマンやらがひしめきあい、
その中の誰かが苛立つような音を爪先を地面に叩きつけながら立てていた。
小川麻琴はまだ濡れた髪を指先で弄りながら、
隣で疲労しているのか、げんなりとしている辻希美を覗き見た。
ふっくらと肉付きのよい輪郭に、垂れがちの細目。
形のよい鼻と、少し大きめの薄い唇が可愛らしかった。
麻琴と同じようにしっとりと濡れた髪をポニーテイルにしている。
意外と体躯はがっちりとしており、
だらけきったように藍色の手提げ鞄を左肩に下げ、右手で信号機の支柱を叩いていた。
「うん? 何?」
麻琴の視線に気付いたようで希美は、
不可思議そうに愛らしく小首を傾げて見せた。
- 143 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時42分20秒
「あ、う、ううん。何でもない」
麻琴は慌てたように両手を振り、曖昧な笑みを浮かべて見せた。
希美は追求するわけでもなく、目をしばたたかせると、
再び支柱を叩いて、暇な時間を弄び始める。
麻琴は前を向くが、隣の希美が気になるようで、すぐに顔を覗き込むようにする。
信号機が変わり、電子音の『とうりゃんせ』が流れてくる。
急いで交差点に飛び込もうとしたスポーツカーが慌てたように急ブレーキを踏んだ。
誰かが非難の声を上げたが、運転手の男は横柄な態度でガムを噛み続けていた。
「…ほら、まこっちゃん。信号変わったよ」
希美が麻琴の肩をぽんとつついた。
麻琴ははっと我に返ると、慌てたようにリュック型鞄を背負い直し、
それから照れ隠すように希美に笑いかけた。
- 144 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時43分01秒
*
- 145 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時43分44秒
駅前まで来ると希美は勢いよく振り返って麻琴の方を見た。
いつものように満面の笑みを浮かべて楽しそうである。
「それじゃあねぇ。また、明日学校でね」
「あ、う、うん」
別のことを考えていた麻琴は、はっとしたように返答した。
希美は寮生活の麻琴とは違い、東京出身である。
ここから電車で自宅へと帰っていくのである。
希美は不思議そうに首を傾げたが、腕時計を見て、
慌てたように麻琴に手を振り、改札口をくぐって行ってしまった。
- 146 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時44分19秒
その場に残された麻琴はしばらくぼんやりとその後ろ姿を見送っていたが、
希美の姿が見えなくなると、すぐに切符売り場の方へと走る。
もどかしげに硬貨を自動販売機に投入すると、
取りあえず最寄り駅のボタンを押す。
切符を握りしめ、今度は改札口へと駆け込んだ。
後ろからしゃがれた老女が「お釣り、お釣り」と声を掛けてきたが、
麻琴は振り返ることなく階段を走り降りた。
ホームにはちょうど赤い車体の電車が滑り込んできていた。
麻琴は足を止めて、首を回した。
先頭車両に今まさに乗り込もうとする希美の姿が見えた。
麻琴は希美に見つからないように別のドアから先頭車両に飛び乗った。
- 147 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時44分51秒
「あ、済みません」
乗ったときちょうど開き扉の付近にいたサラリーマンの靴を踏んでしまった。
年若いサラリーマンは不機嫌そうに麻琴を睨め付けると、
その場を離れていってしまう。
麻琴は気にしながらも、そのサラリーマンのいた場所に身を寄せる。
ちょうど影になって姿が隠れやすく、車中の様子もよく知れる。
麻琴は弾む胸を落ち着かせながらも、こっそりと希美の姿を見つめ続けた。
- 148 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月18日(火)01時45分23秒
***
- 149 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時42分57秒
今年の四月、小川麻琴は東京の私立高校に入学した。
水泳のスポーツ特待生として推薦入試に合格したのである。
そのため現在は出身地の新潟を離れ、寮に暮らしている。
幼少より地元のスイミングスクールに通い、
中学校でも水泳部に入っていた。
地元新潟の水泳記録大会では、
そこそこいい順番で、その名を馳せていた。
オリンピックというには実力不足であることは分かっているのだが、
それでも両親はそれなりの期待をしているらしかった。
中学の三者面談では恥ずかしげもなく、
『この娘をオリンピックに出したいんですけど、どこの高校がいいでしょう?』
などと担任の先生に聞くため、麻琴の方が赤面してしまった。
担任の先生も困惑顔で、東京の私立高校の推薦入試を勧めてくれた。
友人からはしっかりしていると評判であったのだが、
それは単に心配性のだけである。
そんな麻琴が親元離れて東京という都市で、
寮生活を営むなど想像もできなかったが、
この高校進学に両親が一にも二にもなく賛成し、
地元では期待の星として送り出されてしまった次第である。
- 150 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時43分42秒
東京は広大だった。
新潟とて日本海側では有数の都市であれども、
東京はやはり違った。
初めて見る高層ビルの森に、
麻琴は目眩を感じ、車や人の波に吐き気を覚えた。
すぐに回れ右をして、新幹線に乗って生まれ故郷に戻りたかった。
だがそんなことも三ヶ月経てば、自然と慣れてくるもので、
どうにかそれなりの悠々自適な生活を営めるようになってきた。
何よりも寮の同室者−加護亜依が公私により支えてくれていた。
垢抜けていて、東京の街を闊歩しては、
その時知ったことを、まるで週刊誌のように色々なことを教えてくれる。
根っから明るい彼女といると、
知らず知らずに元気が出てくるのだ。
- 151 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時44分25秒
麻琴はスポーツ特待生ということで通常クラスとは別の、
『特別教科クラス』という大層な名前のクラスに所属している。
担任の体育教師が言うには「教科」と「強化」を掛けているらしい。
とりあえず勉強は出来なくとも、運動だけは頑張れという、
はなっから学習とは切り離された学校内の孤島クラスであるわけだ。
クラスメートも他生徒と比べてみればがっちりとした体格者たちだった。
麻琴はついつい萎縮してしまい、
クラス内では一番静かな存在になってしまった。
教えにくる教師たちも気楽なもので、
他クラスと違った教科書を適当に読んで、
テストに出る場所に赤線を引かせる程度である。
麻琴は最初この授業形式には驚いて、
余りにもあっさりと終わってしまう授業に、
高校とはこれほど楽なものなのかと茫然としてしまった。
だがそれも三カ月経てば当然のことのように思えてくる。
それだけ毎日が麻琴の身体に浸透してきたのである。
- 152 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時44分56秒
*
- 153 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時45分52秒
変わりに大変だったのが、当然ながら部活動であった。
早朝の体力作りに始まり、
放課後はプールから上がる機会も与えられないほど、
レーンを何往復もさせられた。
雨が降れば多財が投入された室内練習場がここぞとばかりに活躍した。
一年中練習ができるシステムがしっかりと組み立てられており、
さすがに麻琴もうんざりとしてきた。
毎日水着を着ていると、
それがまるで皮膚のように感じられることもあり、
時折水着のまま授業を受けても何も言われないのではないかなどと考えてしまう。
その上毎日の洗濯が容易ではない。
寮室に通された洗濯紐にはいつも麻琴の競泳用水着がぶら下がっている。
最初の頃は亜依が色々とからかったりもしてきたが、最近ではそれもなくなった。
- 154 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時46分56秒
さすがに特待生の集まる場所だけあって、
麻琴はすぐに自分が井の中の蛙であったことを知った。
懸命にタイムを叩き出しても、
集められたエリートたちとは比べるにも恥ずかしい結果に終わってしまう。
徐々に麻琴は水泳に対する熱意を失っていき、
監督やコーチも麻琴の内を読んだのか、
麻琴は一ヶ月を越えてすぐに、
一般生徒との練習に格下げられてしまった。
水泳部は特待生たちだけが練習をしているわけではない。
一般学生たちも水泳部に入りたければ、それが許可される。
とはいえ名だたる猛者たちが結集しているため、
大会などで正選手として日の目を見ることはほとんど有り得ない。
その点は誰もが心得ており、
一般学生たちには別メニューの練習が用意されている。
それは取りあえず基礎的な練習の繰り返しで、
もしできるのならば自分で選考会に参加して、選手を勝ち取ってみな。
まぁ、無理だろうけどねといった感じのものである。
ともあれ麻琴はたった一ヶ月で特待生から、
一気に落伍者になってしまったのである。
- 155 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月19日(水)01時47分28秒
*
- 156 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時30分44秒
元々強気であるも精神的には衝撃を受けやすい麻琴は、
ゴールデンウィークを練習で費やしたこともあり、
またその練習最終日に脱落者宣告されてしまい、
体調を崩して寝込んでしまった。
責任感が強く、何事も深刻に受け止めてしまう麻琴は、
故郷に錦を飾ることができそうもなく、この上なく落ちこんでしまった。
そのことが原因であるのか、熱もなく咳もでないのに気怠かった。
連休が開けても、
一向に起きられずベットでごろごろと枕を抱きながらしていると、
一人の見舞客が来てくれた。
それが辻希美であった。
彼女は一般学生で水泳部に所属しており、
それまで口を聞いた回数も僅かであった。
希美は伺い見るように室内を覗き込み、
それから照れたように笑った。可愛らしい笑顔だった。
麻琴は慌てたようにパジャマを直すと、
彼女を部屋に招き入れた。
亜依は何処をほっつき歩いているのか不在だった。
- 157 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時31分26秒
「大丈夫?」
開口一番希美は心配そうに聞いてくれた。
親しい友人でもないのに希美の人なつっこさに麻琴は驚いた。
と同時に好感も抱いた。
ちょうど人恋しさが募っていたのである。
この柔らかな優しい一言が麻琴の胸にはいたく染み入った。
希美はもぞもぞと座り直しながら、
小さな手を麻琴の額に乗せた。
ひんやりとした心地よい感触に麻琴はぼうっとしてしまった。
「熱…ないね」
希美は手を離すと、安心したようにほっと息を吐いた。
麻琴は顔が赤く染まっていくのを感じた。
「ど、どうして来たの?
ほ、ほら、あたしたちってそんなに親しいわけじゃないじゃない」
麻琴は焦ったように聞いた。
希美は不思議そうに小首を傾げると、
考えるように一差し指を口元に持っていった。
- 158 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時37分54秒
「え、え〜と、う〜ん、みんなから…頼まれたの…
あ、でもみんな小川ちゃんのこと心配してたよ。
ほら、ののと違って、特待生だし…
……ショック受けてるんじゃないかなって。
ののだって、小川ちゃんと一緒に練習できるんだって楽しみしてるんだよ
あ、これ、ホントだよ」
希美はしどろもどろになりながらも説明をしてくれた。
最後だけずいぶんと強調をして、言い終えた希美は頬を紅潮させていた。
麻琴は唖然として目を白黒させた。
麻琴は言葉に詰まりながらも
「あ、明日からまた学校に行こうって思ってたから…もう、大丈夫だから」
と言った。
「あ、そうなんだぁ。よかったぁ。
でも羨ましいなぁ。
小川ちゃんだけ、ゴールデンウィーク長かったんだもん。
どっか行った? ののはねぇ、原宿にアイス食べに行ったんだよ。
えへへ、今度一緒に食べに行く?」
希美はにこりと笑った。
麻琴は再度気を抜かれたように茫然としてしまった。
- 159 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時38分50秒
*
- 160 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時39分41秒
その日から麻琴と希美の仲は急速に発展した。
翌日部活に出ると、希美は嬉しそうに出迎えてくれ、
復帰祝いということでアイスをおごってくれた。
麻琴はますます希美の脳天気さに呆れさせられると共に、
どこかその温かさが心地よかった。
初めての中間テスト結果は、
どうにも赤点を免れそうにないもので、
それなのに希美は意に介した様子もなくにこにこと見せてくれた。
一般学生であるため、
麻琴はてっきり希美は勉強ができるんだと思い込んでいたのだが、
余りにも見事に真っ赤に染まっているため逆に感心させられてしまった。
希美が言うにはマークシートでないテストはいつもこんな感じなのだそうだ。
- 161 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時40分19秒
水泳も決して上手いわけではなかった。
どう見ても犬が無様にもがいている姿にしか見えてこない。
どうやら競泳を目標とはしておらず、
適度な運動で痩せられるというダイエット目的らしい。
何かのテレビで水泳がカロリー消費には最適だと言っているのを聞いて、
一般生には厳しくない水泳部に入部したそうだ。
つまり全くのダメ子だったのである。
それなのにしょげてもすぐに開き直って、
にこにこと陽気に話している希美を見ていると、
たかだか一度の挫折で落ち込んでいた麻琴は自分を馬鹿馬鹿しく思ってしまった。
希美の明るさに救われて、姉御肌の麻琴はその恩返しのつもりで、
勉強や水泳を自分のできる範囲で教えだした。
希美の必死な姿を見ていると、どこか微笑ましく、
何だか自分までも嬉しくなってきてしまう。
いつの間にか麻琴にとって希美は自分に必要不可欠な存在になってきていた。
- 162 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時40分58秒
***
- 163 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時41分33秒
麻琴はまるで探偵のように、
物陰から希美の一挙一動逃すことなく覗き見た。
長椅子に座り、呑気に何か音楽を聴いている。
時々楽しげに首を揺すっては、隣の主婦が迷惑そうに希美から離れようとしている。
ここ数日、希美の様子はおかしかった。
麻琴が一般学生と練習を行うようになった五月の上旬から、
麻琴は希美と帰らなかった日はない。
練習の後に、慰安ということで軽食を取りにいったり、
映画を見に行ったと、ずいぶん遊びに出ていた。
(おかげで麻琴の体重は気になるほどに増えてきたのだが)
休日には練習をさぼって、亜依も一緒に原宿や渋谷に遊びに出掛けたりもした。
だが、つい二三週間前、練習が終わったあと、
希美は麻琴に軽く別れの挨拶をすると、急ぐように帰ってしまった。
それがその日だけならば気にも掛けなかったのだが、
今日までに六度あった。
よしんば一緒に帰っても寄り道に誘っても、困ったような顔で断ってくる。
- 164 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時42分22秒
麻琴はいいようのない不安にかられた。
自分に何か不備があって、希美が愛想を尽かしたのかと真剣に悩んでしまった。
希美に聞いても曖昧に誤魔化されてしまい、
(これがまた下手の嘘で誤魔化そうとする)
麻琴もあまり強く聞くことができなかった。
思い悩んだ麻琴がようやく得た手段が、今日の尾行である。
何度も止めようと思ったのだが、
どうしても自分を押しとどめることができなかった。
そして今日決行に及んだ次第なのである。
明らかに希美は何かを隠しているということが、すぐに分かった。
いくら麻琴が東京の地理に疎いといえども、
電車が新宿方面に走っていないことぐらいは分かる。
前に希美の住んでいる所を聞いたことがあるが、
その時新宿で乗り換えすると言っていた。
だが今、電車は逆方向へと走っている。
麻琴は隠すこともしないで、
大欠伸をしている希美を逃さないようにじっと影から見つめ続けた。
- 165 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月20日(木)01時43分16秒
***
- 166 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時09分46秒
希美が四駅目で降りると、麻琴もドアが閉まる瞬間を見計らって電車を降りた。
麻琴は改札口を抜けると、希美の姿を見失わないように、
一定の距離を保ちながら追いかけた。
やがて希美は『蔓屋 東国分寺店』という青看板が立つ店へと入っていった。
麻琴は緊張と暑さでかいた汗をハンカチで拭いながら、
回っている青看板を見上げる。
新潟にも進出している店舗である。
麻琴も色々とお世話になったが、
東京の店ともなるとその規模は違った。
麻琴は感心しながらも、店内を覗き込むと、人が溢れかえっていた。
「これなら見つかんないかなぁ」
麻琴はスカーフを肩指でつかみ、
それからうつむきながら店内に入っていく。
いらっしゃいませぇと大声で店員たちが迎え入れてくれ、
後ろめたい行為中の麻琴はびくりと肩を震わせた。
- 167 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時10分23秒
クーラーが十分に浸透しており、
ひんやりとした空気が麻琴の火照った頬を冷ましてくれる。
汗で肌にしみついた夏用のセーラー服に冷風が進入してきてこそばゆい。
学校帰りの制服を着た生徒や近隣の大学生らしき人たちが、
本棚の間を埋め、麻琴はその隙間をぬうように希美の姿を探した。
希美は料理本の所で雑誌を捲っていた。
麻琴は足を止めて、
取りあえず適当な雑誌を持つと読むふりをする。
雑誌の文字は全く目に入らず、麻琴はちらちらと希美を見やる。
しばらくその場で本を吟味していた希美は、
やがて一冊手に取ると、漫画の棚を眺めつつレジの方へと向かった。
麻琴は雑誌を乱暴に戻すと、気付かれないようにその後を追う。
「いらっしゃい……って、辻かよ!」
レジに立っていた小柄の女性が、希美を見て鼻を鳴らした。
後ろにいた同じエプロンの女性が、
タイミング良くパーンとその亜麻色の頭を叩いた。
小柄な女性は頭を抑えながら、唇を尖らせて振り返る。
- 168 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時11分06秒
「いったぁ。痛いよ、なっち」
「お客さんだよ、お・きゃ・く・さん」
小柄な女性はぶつぶつ言いながら、
くすくすと笑う希美から本を受け取った。
どうやら希美とレジの女性とは顔見知りの仲らしい。
麻琴は自分の知らない交友関係を持つ希美を見て、僅かに胸を痛めた。
「今日も行くの?」
女性の問いかけに希美はこくりと頷いた。
「よくもまぁ、あんな変わりもんの所に通うよねぇ。はい、1365円ね」
「そうでもないですよ。のの、いろんなこと教えてもらってますし。
それに勉強も見てくれたりするんですよ」
希美は財布をポケットから取り出して、
小銭をレジ台に転がす。
一枚手から滑り落ちて、床に落ちた。希美が腰を屈める。
麻琴は慌てたように本を手に持って、それで顔を隠した。
「ええー、勉強なんて見てもらって大丈夫? ちゃんと日本語で教えてもらってる?」
女性がからからと笑いながら、お釣りを希美に返した。それから商品を袋に包む。
- 169 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時11分45秒
「矢口ぃ、お釣り違ってるよ。
んもう、ちゃんと真面目にやってよぉ」
先ほど頭を叩いた女性がレジから小銭を拾い出すと、
それを希美の手に握らせて、
横で包装している矢口と呼ばれている女性を睨み付けた。
「あ、違ってたぁ?
ごめん、ごめん。ごめんな、辻」
矢口嬢は反省した色もなく、
包んだ雑誌を希美に手渡した。
希美はぶうと唇を尖らせ、
もう一人のなっちと呼ばれた女性の方には笑顔を見せて、店を出ていった。
麻琴は弾かれたように本を放り投げて、
希美の後を追って店を出た。
「あっ、もぅ。あの客、
本の山崩したのに直さないで行っちゃったよ」
後ろでレジの女性が不満げな声を上げていたが、
麻琴の耳には届かなかった。
- 170 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時12分17秒
***
- 171 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時13分15秒
青々と繁る街路樹の道を抜けて、希美は角を左に折れた。
麻琴もその後を追う。
眼前には白くひび割れた壁の団地群が姿を現した。
白いとはいってもあちこちが泥に汚れており、
子どもがチョークで描いた不格好なアンパンマンが残っていた。
団地前には自転車置き場があり、
いくつかの自転車が丁寧に並んでいた。
その脇にはゴミ捨て場が確保されており、
誰かが投げ捨てていったペットボトルが転がっていた。
「あれ?」
希美の姿を見失ったようで、麻琴はきょろきょろと首を回した。
「ここに来たと思ったけど……」
麻琴は尾行失敗を思いながらも、
諦めきれずに団地の入り口の方へと歩み寄っていく。
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
麻琴は急いで近くにあった電信柱に姿を隠すとそっと覗き見た。
その姿はまるで星明子か市原悦子である。
- 172 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時13分53秒
「…………ってね、ののが言ったの。そしたらね、……」
「あのねぇ、辻。
そんなに一気に喋ったら、カオリついてけないよ。
もっとゆっくり話しなさい」
麻琴は電柱の影から顔を出して、希美の姿を確認した。
隣には長身の女性が気怠そうに髪をかき上げている。
すらりとした長い足に合うジーパンを穿き、
白いTシャツはあちこちに何かが飛び散っており汚れている。
目の下には深々と刻まれた隈があるが、
ほっそりとした顔立ちは十分に美人の類であり、
大きな瞳は魅力的な様相を見せていた。
「あ〜い」
麻琴はこれほどまでに嬉しそうな顔で笑う希美を見たことがなかった。
普段からにこにこと可愛らしいのだが、
今の希美はそれ以上の溢れんばかりの笑顔であった。
「で、今日はどうすんの? 続き‥やる?」
「うん!」
希美ははにかみながら、かくかくと頭を振った。
- 173 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時14分29秒
「辻はぶきっちょだから時間かかるもんね。
ちょっとずつ教えてかなきゃダメだから、カオリ疲れちゃうんだよ。
そこんとこ分かってる?」
苦笑しながら女性は希美の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
希美は心地よさそうに目を細めて、女性を見上げる。
チャームポイントの八重歯をちょこっと出して笑う。
「そんじゃ、今日も頑張るか」
女性は希美の背を押しながら、団地の中へと姿を消した。
二人の笑い声は団地内からも響いて聞こえてくる。
麻琴は電信柱の影から姿を出した。
斜陽に照らされて赤く染まるその顔はすっかり放心しており、
しばらくその場にぼんやりと立ち惚けてしまっていた。
- 174 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月21日(金)01時15分06秒
***
- 175 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時39分08秒
「ただいまぁ」
すっかり力を失った麻琴は、
溜息混じりで自室のドアを引き開けた。
約十畳程度の部屋に備え付けられた二階建てのパイプベットがあり、
端の方に寄せられている。
床にはピンクのカーペットが引かれており、
麻琴はドア前でスリッパを脱いだ。
地元から持ってきた従姉のお古のこぢんまり木製机があり、
その横にはまだ艶の残る亜依の物が溢れた机があった。
そのため実際に行動のとれる場所は部屋中央の二畳ほどでしかない。
パイプベットの二階では亜依が横たわりながら、
真新しい携帯電話を弄っていた。
麻琴の声でひょいっと顔を出すと、
「おかえり」と一言投げかけ、再び携帯の画面に見入ってしまった。
- 176 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時39分53秒
麻琴は鞄を自分の机に置くと、
ベット下に収納してあったプラスチックボックスから、
私服を引っぱり出し制服を着替え始めた。
初めは同性とはいえ、人前で着替えることに抵抗があったが、
それも最近では気にしないようになってきた。
オレンジ色のカラーシャツに、洗い晒したジーパンを穿き、
セーラー服をハンガーに掛けて、ベットに引っ掛ける。
それが終わると麻琴は机に向かって座った。
麻琴の体重に古びた木製の椅子はギチギチと苦しそうなうめきをあげる。
麻琴は鞄を開けると、
今週末に迫った期末テストの勉強をしようとプリントを引っぱり出し、
筆箱から人気キャラクターの印刷されたシャープペンを取りだした。
だがいざプリントに向かっても、麻琴はそれに集中することができない。
(あの女の人は誰なんだろう?)
麻琴はシャープペンを指先で回しながら考えに耽った。
あれほどまでに砕けきった希美を見たことが麻琴はなかった。
それだけ希美とあの女性とはかなり親しい関係だと想像がつく。
しかも会話の意味を考えてみると、ずいぶんと怪しかった。
- 177 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時40分39秒
(まさか!)
麻琴は頭を振って、湧いて出てきた汚らわしい想像を追い払おうとする。
だが、分からない。
ここは日本の首都、天下の東京である。
何があったって不思議ではない。
そのようなことも考えられなくはない。
その「まさか!」という娘が、
意外と成熟だったりするとテレビでデーブ・スペクターが言っていた気がする。
そんな考えが頭の中をぐるぐると駆け巡り、
麻琴は段々とむしゃくしゃしてきた。
とても勉強をする気持ちにはなれない。
麻琴は苛立ちを解消するかのように髪を掻きむしり、それから深々と溜息を吐いた。
「どないしたん?」
ベットの上から麻琴の吐息を聞きつけ、亜依が顔を覗かせた。
「ずいぶん疲れた顔しとるやん。部活が大変やったの?」
「べ、別に…、ちょっと考え事してて」
- 178 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時41分25秒
「ふ〜ん、あ、なぁなぁ、まこっちゃん、今度の日曜、暇?」
「ちょっと待って。……予定は無いけど」
麻琴は鞄から手帳を取り出して予定を確認した。
亜依がテンポよくベットの上から降りてくると、自分の椅子に座る。
「ほんなら、遊びいかへん?
ちょうどテストも終わったあとやろ。
ほんでな、うち、同じクラスの紺野ちゃんちに遊び行く約束しとるんよ」
「え、で、でも、あたし、顔見知りじゃないし。
迷惑なんじゃない?」
「だいじょぶい。
あさ美ちゃんには、よくまこっちゃんのこと話してるからよく知ってるよ」
「ええっ! あたしのこと話してるって、どんなこと話してるのよ」
麻琴は心底嫌そうな顔をしたのだが、
亜依は気にした様子無く、指を折りながら言った。
- 179 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時42分04秒
「そりゃ、水泳で特待生だってことでしょ。
しっかりもんでいつも部屋の掃除してくれることでしょ。
あと、食べるのが好きとかってことかな。
他にもいっぱい言ったような気もするけど?」
「やめてよぉ。あたし、もう部活内じゃ特待生扱いじゃないんだから」
「ええやん、ええやん。
あさ美ちゃん、そんなん気にせえへんよ。
北海道に見合って心もデッカイドウやから」
亜依が自分の冗談をおかしそうに笑った。
麻琴は笑いもせずに、渋い顔で亜依を軽く睨んだ。
「それにどのみち暇なんやろ。
せやったら一緒に行こうよ。
あさ美ちゃんが北海道から送られてきたもんで、
美味しいもん食わせてくれるって言ってるんよ」
「北海道の?」
不機嫌だった麻琴の耳は過敏に反応を示した。
麻琴は腕組みをして、しばらく考え込むようにして、
それからにんまりと笑っている亜依の顔を見た。
- 180 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時42分39秒
***
- 181 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時44分25秒
「ののちゃん、明後日の日曜、暇?」
本日でようやくテストが終わり、
解放感からざわついた通学路で、
麻琴は希美に話しかけた。
今日は部活が休みで、時間もまだ正午をすぎたばかりである。
そのためは麻琴も今日の天気のような晴れ晴れとした気分であった。
「日曜日? 何で」
「亜依ちゃんと同じクラスの人の家に遊びに行くの。
それでののちゃんもどうかなぁって思って。
あ、だいじょぶだよ。その人には亜依ちゃんが言っといてくれるってから」
麻琴が希美の顔を覗き込むと、
希美は鼻の上に皺を寄せ、困ったようにおずおずと頭を下げた。
「あっ、ごめんね。日曜日は……用事があるんだぁ。ごめん、今度誘ってね」
「…用事って……何?」
麻琴は上擦る声を抑えながらも希美に尋ねた。
ここまでは十分予測できていたことだ。
麻琴は唾を飲み込み、努めて冷静を装った。
- 182 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時45分21秒
「え…っと、…お姉…ちゃんと、
そう、お姉ちゃんとお買い物に行くんだよ」
希美は嘘を言っている。
麻琴は直感的に思った。
目は麻琴から逃れるように泳ぎ、
ぷっくりと肉付きのよい頬を指先で掻いている。
麻琴の疑るような視線に慌てた希美はにっこりと微笑んだ。
疑心暗鬼となった麻琴は下唇を噛み締めながら、
最終手段を使うことを決意した。
「そっか、それじゃあ、残念だね。
何かカニとかサーモンとか北海道の特産品で、
美味しい物が食べられるみただけど、
ののちゃんは行けないんだ。残念だねぇ」
希美の顔つきが変わった。
急に物欲しげな表情になり、
その頭の中ではおそらく北海道の食品が巡っていることだろう。
自然と半開きになった口端からは、
だらしなくあるが涎が垂れそうになっている。
希美の食いしん坊は周知の事実である。
そこを揺さぶれば辻城の外堀、内堀を埋めたも同じだろう。
麻琴はしてやったりと胸を張った。
- 183 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時47分40秒
「でも行けないんでしょ。ホント残念だねぇ……」
麻琴は心底残念そうな声を出した。
だが心の内では希美の次の返事が、
快いものであると思い、自然と顔が緩んでいくのが分かる。
「……ほ、ほんとに残念だなぁ。
……ののも、食べたかったけど、でも行けないんだもん。
…残念だなぁ」
希美は涎を啜りながら、
泣きそうな顔で麻琴の誘いを断ってきた。
「えっ…」
想像していた答えでないことに麻琴はたじろぎ、
必死に耐えている希美を唖然としたように見た。
「次にそういう機会があったら、ののも絶対に誘ってね。
ごめんね。あ、じゃあ、駅に着いたから」
希美は涎を拭うと、まるで麻琴から逃げるように、
急いで構内の方へと走って行ってしまった。
後に残された麻琴は全ての目論見が外れ、悔しげに希美の背を見送った。
- 184 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月22日(土)01時48分11秒
***
- 185 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)01時59分40秒
麻琴は紺野あさ美の住む場所に近づくにつれて、
何かざわついたものに襲われた。
前を歩く亜依は手帳に取ったメモを確認しながら、
首をあちこちに巡らせている。
湿気の多いむっとした日で、
麻琴はチェックの襟付きシャツの袖を捲った。
日焼けしないようにと同じように裾の長い焦茶色のズボンは、
汗を吸い込み足にまとわりついてきて気持ちが悪い。
「ええっと、ここらで左に曲がると思うんやけど……」
「あ、もしかして、もうひとつ次の角じゃない?」
困ったように眉をひそめた亜依に、麻琴は横から口を挟んだ。
亜依はメモをもう一度見て、それから目をしたばたたいた。
「ほんまや。まこっちゃんのおかげで助かったぁ」
大げさに喜びながら亜依は、麻琴の手を取ると走り出す。
引っ張られる麻琴の心中は複雑のものがあった。
- 186 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時01分17秒
左に折れると先日、麻琴が来た白い団地群が見えてきた。
麻琴から自然と溜息が漏れる。
「えっと、三号棟やから、こっちやな」
二人はひんやりとしたコンクリートの階段を上っていく。
休日らしく子どもたちの騒ぐ声が遠くから響いて聞こえてくる。
薄着をした主婦が自転車をこぎながら、下を通り過ぎていく。
整然と並べて植えられた木々には蝉がしがみつき、騒々しい歌声を上げている。
空には雲一つなく、じりじりとした暑さが直接に地上に降り注いでいた。
亜依の軽やかな足取りから遅れるように麻琴は重たい足を進めた。
もし運が悪ければ、
この間希美と一緒にいたあの女性と出会ってしまう可能性もある。
お互い顔を知っているわけではないのだが、あまり会いたくない相手である。
麻琴は力が抜けたように再び息を吐いた。
「どないしたん? そんなに溜息ばっかやと幸せ逃げてまうで。もっと明るくいかな。せっかくの休みなんやし。あ、ここがあさ美ちゃんの部屋みたいや」
亜依が足を止めて、躊躇もなく呼び鈴を鳴らした。
まるで下唇を擦らせたような音が鳴り、
中からパタパタと誰かが走り寄ってくる。
- 187 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時02分10秒
ガチャリと重い鍵が外され、中から爽やかで優しげな少女が顔を出した。
「あ、亜依ちゃん、いらっしゃい」
どうやら部屋の主の紺野あさ美らしい。
あさ美は亜依の姿を認めると、ドアを開けてにこりと微笑んだ。
紺色で犬のアップリケのされたエプロンを身に付け、
その裾からは白いロングスカートが見えた。
長めの黒髪を後ろでひとつにまとめて、
ふっくりとした頬には赤みが差し、
黒目がちの大きな瞳と、ちょっと丸みのある鼻が可愛らしかった。
「こんちわ、あさ美ちゃん」
亜依は遠慮もせずに靴をいそいそと脱ぎ始めると、
あさ美に断りもなく部屋の中へ飛び込んでいってしまった。
「ど、どうも。お、小川麻琴っていいます。
きょ、今日はお招きいただいて…」
取り残されてしまった麻琴は、勢いでぺこりと頭を下げてしまった。
「あ、こ、こんにちわ……こ、紺野あさ美、十六歳です。
ほ、本日はお越しいただいて、
た、大したおもてなしもできませんが、ど、どうぞ」
同じようにガチガチのあさ美も礼儀正しく一礼を返すと、
麻琴を部屋に招き入れてくれた。
- 188 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時02分49秒
*
- 189 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時03分30秒
あさ美の部屋は簡素ながらも、
落ち着いた女の子らしい部屋だった。
二人が訪問することからか掃除もよくされており、
開け広げられた窓からは心地よい午前の風が、
カーテンを揺らしながら吹き抜けていった。
テレビからはどっと湧くような笑い声が聞こえてくる。
台所からはカレーのよい匂いがしてきて、
麻琴の鼻をくすぐり、否応なしに空腹を感じてしまう。
亜依は部屋のあちこちを探っては、しきりに感心の声を上げていた。
「ええ部屋やなぁ。なぁ、まこっちゃん。
うちらの部屋、こんなに広くないもんなぁ。
バスもトイレもあるし、それに眺めもそこそこやし。
ええな、ええなぁ」
亜依は窓際でぴょんぴょん跳ねながら、
楽しそうに外を指さしながら言った。
麻琴も窓から外の眺めを見てみる。
東京の片田舎の風景が眼前に広がり、
都心で感じた不快感とはまた別の柔らかく穏やかな雰囲気を感じることができる。
麻琴は軽く深呼吸をしてみた。
地元よりも空気は汚れてはいるが、
それでも久しぶりにほっとできるような気分だった。
- 190 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時04分22秒
「そ、そんなことないよ。
一人だとたまに寂しくなるもん。それに食事とか大変だし…」
あさ美は苦笑をしながら、テーブルの上に空皿を並べていく。
「あ、な、何か手伝うことは……」
麻琴は慌てたように台所に入る。
「いいですよ。小川さんはお客さんですから。座って待ってて下さい」
「で、でも……」
「ええって、あさ美ちゃんが全部やってくれるんやろ。
わぁ、ええ匂い。カレー? あさ美ちゃんって料理得意なんやなぁ」
「得意っていってもこれだけなんだけどね」
あさ美は照れ笑いを浮かべて、
乱雑に切り盛りをしたサラダをテーブルに乗せた。
麻琴はあさ美が断るのもかまわず、
ステンレス台に乗せられた白磁の皿をテーブルの上に並べていく。
亜依は一人でのんびりとベットの裾に腰を下ろして、
テレビを見ながら笑い声を上げていた。
- 191 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時05分02秒
その時呼び鈴が寂れた音を立てて鳴った。
「あれ? 誰か来たみたいやけど」
「あ、隣に住んでる人も誘ってるの。いい?」
「うちらはお呼ばれしただけやもん。
あさ美ちゃんが主催者やからうちらに気兼ねせえへんでもええよ。な」
亜依の同意に麻琴は頷いた。
それを聞くとあさ美はほっとしたように、いそいそと玄関に出迎えに出ていった。
「…………たぁ、カレー? あんたん所来るといつもカレーね。
他に何か作ったりできないの?」
ずいぶんと横柄な声が玄関口から近づいてくる。
あさ美の苦笑が聞こえてくる。
麻琴と亜依は目を見合わせた。
「……レーでもいいですよ。
とってもいい匂いだし、それにカレーなら一杯食べられるから」
それに併せるようなもうひとつの可愛らしい声には、
麻琴は聞き覚えがあった。
というよりも忘れることもできない声であった。
麻琴は心を鷲掴みされたように、目を見開いた。
- 192 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時05分44秒
「あれ? なんかののの声に似てへん?」
亜依も気が付いたようで飛ぶように部屋を出ていった。
それと入れ替わりに怪訝そうに亜依を見送った長身の女性が部屋に入ってくる。
この前の女性だった。
麻琴は軽い目眩を覚え、自分の額に手をやった。
「あー、やっぱりぃ」
亜依の弾けるような声が聞こえた。
すぐに亜依と一緒にはしゃいで部屋に入ってきたのは希美だった。
希美は室内に目やり、
そこに麻琴の姿を見つけるとあんぐりと口を大きく開け、
それから不思議そうにまばたきを繰り返した。
- 193 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月23日(日)02時06分30秒
*
- 194 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時31分22秒
カーペットの上に座った希美は、
亜依とあさ美に挟まれるようになりながら、
麻琴の方をちらちらと見ては居心地悪そうに視線を外した。
麻琴にしても希美の嘘が公然と発覚したことで、
本当に自分は避けられていると知ってしまったのである。
ショックは大きく、皿に盛られたシーフードカレーの山をスプーンで弄りながら、
希美の方を見ては泣きたくなるような気持ちであった。
しかもテーブルの真向かいに座った相手は最悪だった。
こういうときにじゃんけんが強い自分を恨めしく感じてしまう。
「ふ〜ん」
眼前に座った女性が鼻を鳴らして、
じろじろと麻琴のことを見ていた。
麻琴がその視線に気がつき、女性に対するようにきっと鋭く睨み付けた。
女性は一向に意に介した様子もなく、
にやりとバカにするような笑みを浮かべた。
先ほどあさ美の紹介でこの目の前の女性が、
飯田圭織というしがない絵描きの卵であることを知ったばかりである。
それなのに相手は初対面であるにも関わらず麻琴を凝視しては、
思いだしたかのようにカレーを口に運んでいた。
- 195 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時32分16秒
「…なんですか」
怒気を含んだ口調で麻琴は不機嫌そうに尋ねた。
「いやぁ、別にぃ。ただ、ふ〜んって思っただけだけど」
「そんなにあたしを見ないで下さい」
「別に何かをしてるわけじゃないじゃん」
「あたし、そういうの気味が悪くって好きじゃないんです」
「へぇ〜、そんじゃ、あんたは自分が嫌いなのに、
人にはそういうことしても気にしないんだぁ」
圭織が小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「…辻のこと見てたんでしょ」
余裕のある大人の口調で圭織は真実を突いた。
麻琴は恥じたようにぐっと息を飲み、顔を赤らめながら身を乗り出した。
それから小声で抗議するように言った。
「見てません!」
「そんなにおこんなくったっていいじゃん。
あんたのことは辻がよく話してくれるよ。
水泳部じゃ結構なもんなんだって。ねぇ、まこっちゃん」
最後の呼び方はふざけたものだった。
麻琴は今にも爆発しそうな怒りを押しとどめながら、
黙ってスプーンで弄くった。
ぐっと圭織は顔を寄せてきて、麻琴にこそこそと語り続けた。
- 196 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時33分14秒
「この間も辻の後付けて来てたでしょ。
階段の踊り場からあんたの姿見えてたよ。
何かずいぶん思い詰めた顔してるなぁって思ってたら、
今日会ってみてびっくり。
あんたがあの有名な『まこっちゃん』だったとはね。
辻は気付いてなかったみただけど、何かストーカーぽかったなぁ」
麻琴は悔しげに唇を噛みしめ、今にも涙がこぼれそうな目で相手を睨み付けた。
まさか希美がこの女性に自分のことをつまみとして、
話しているとは考えたこともなかった。
しかも部活のことまでも話しているとは…。
麻琴は我を失ったように声を荒げた。
「な、何なんですか! 飯田さんはののちゃんの何なんですか!」
和やかな部屋の空気が一変した。
全ての視線が麻琴と圭織に集まった。
希美は自分の名前が出てきたことに目をしばたたかせ、
おろおろとしたようにスプーンをくわえたまま、二人を交互に見ていた。
はっと冷静さを取り戻した麻琴は自分の失態に顔を真っ赤に染め、
うつむきながら椅子に座り直した。
- 197 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時34分59秒
「な、何かあったん?」
亜依が恐る恐る聞いてきたが、圭織が首を横に振った。
亜依も何か事情を感じたのか、
空気を変えようとべらべらと関係のない話を始めた。
あさ美は慌てたように相づちを打つ。
「別にあたし、辻の何でもないよ。
あんたちょっと想像が飛躍しすぎてるんじゃないの?」
圭織は不機嫌そうに眉をひそめながらカレーをすくった。
「で、でも……」
麻琴は羞恥に泣きそうな声を出しながら、鼻を啜った。
ちょっとでも気を緩めたらこの場で泣き出してしまいそうだ。
「あのね、例えば誰も蓄えのないキリギリスの所に、
自分の子ども預けたりしないでしょ。
夏の間一生懸命努力をしたアリの家で温かく冬を過ごさせてあげたいじゃない」
圭織は人差し指を立てながら、くどくどと諭すように麻琴に言った。
だが言っていることが意味を介さない。
麻琴は疑問符を頭に浮かべながら、黙って圭織の言葉を聞いた。
「つまりはね、あんたが意気地なさすぎんのよ。
あぁ、やっと言えた。いっつも辻から話聞いてて、
一回は言ってやろって思ってたんだ。満足、満足」
- 198 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時36分44秒
圭織は胸のつかえが取れたかのように柔和な笑みを浮かべて、
それから目の前のカレーに再び取りかかりだした。
「あ…の……、どういう…」
麻琴は圭織の言っていることは半分も分からなかったが、
意気地がないと言われればかちんとくる。
しかも相手とは初対面であり、
そんなこと言われる筋合いなどないのだ。
「あんた辻のことバカにしてるでしょ。
あの娘、思ってる以上にあんたのこと考えてるんだからね。
その気持ちぐらい汲み取ってやんなよ」
「あ、あたし、別にバカになんか……」
麻琴はまるで知ったように話す圭織に、
腹を立てながら反論をしようとしたが、圭織は聞いていなかった。
先ほどまでの鳴りはひそめて、
ぼんやりとスプーンで皿の中をかき回しながら、それを口に運び始めている。
- 199 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時37分39秒
麻琴は圭織に話を聞くのを諦めて、希美の方を見る。
普段は人一倍食欲をアピールしている希美であるが、
いつもと違って何か思案顔で黙ってカレー皿を見つめていた。
麻琴の目がふっと顔を上げた希美の目と合う。
希美はすぐに視線を外し、
それから麻琴など全く気に掛けた様子もないように、
亜依とあさ美の会話に割り込んでいった。
麻琴は全てから置き去りにされたような気分でうつむいた。
- 200 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時38分12秒
*
- 201 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時38分48秒
「なぁなぁ、あの人と何話してたん?」
帰り道、亜依が麻琴の顔を覗き込みながら聞いてきた。
その顔は噂好きの近所のオバチャンと変わりのない。
麻琴は眉間に皺を寄せて、不機嫌そうに顔を背けた。
「亜依ちゃん、そういうのって聞いたら失礼だよ」
用事があると一緒に出てきたあさ美が自転車を押しながら、亜依を窘めた。
亜依は片手を振ってあさ美の提言を無視した。
食事会はあの後滞り無く終了を迎えた。
圭織と希美は食事を終えると挨拶もそこそこに出ていってしまった。
希美は退出するとき、振り返りもせずに圭織の後ろに付いて行ってた。
麻琴はせっかくのあさ美の料理も楽しむことができずに、ぼんやりとしていた。
「でも、あの飯田さんって怖いなぁ。
うち、何かあの目見とったら魂でも吸い取られそうな気分になるわぁ。
まこっちゃんも災難やったよなぁ、あんな人の前でご飯やなんて」
亜依が頭の後ろで手を組み、麻琴を励ますかのように言った。
- 202 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時41分38秒
「で、でも結構いい人なんだよ。
色々と面倒見てくれるし、それに絵も上手だし…。
口調がきついのは仕方ないけど……」
前籠に置いたカレーのタッパーを気にしながら、
あさ美は圭織を弁護するように言った。
亜依はあれこれと圭織の粗を探しては、文句を並べた。
「でもののは何であの人と知り合いなんやろ?
接点なんてありそうにないのに」
「あ、前に聞いたけど、ののちゃん、
画展に行ったとき飯田さんの絵を見て、
それで連絡先を係りの人に聞いたんだってよ。
ほら、亜依ちゃんに招待券あげたでしょ」
「ああぁ、そういえばうち興味ないんで、
まこっちゃんにあげたんやなかったっけ?」
亜依が同意を求めてきた。
五月の末に国立にある公民館で画展があり、
麻琴は希美と一緒に行った。
希美がある一枚の絵の前で、
まるで吸い寄せられたかのように食い入るように見つめていたのを覚えている。
思い返してみればそれが圭織の絵だったのかもしれない。
- 203 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時42分33秒
「ののも変わりもんやなぁ」
亜依が苦笑をしながら、小石を蹴飛ばした。
コンクリートの上を耳障りのよい音で飛び跳ねていき、
ブチの野良猫が塀の上からそれを見送って、目を細めた。
「……あたし…ののちゃんに…どう思われてるんだろう」
ふっと思い詰めていた言葉が麻琴の口からこぼれ出た。
亜依は驚いたような顔をして足を止め、
あさ美は不思議そうに目をしばたたかせた。
「あ、べ、別に変な意味じゃなくて…。
このごろ何かののちゃんに避けられてるような気がして」
麻琴は慌てながら弁明をした。
- 204 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時43分06秒
「そっかなぁ? うちにはそう見えへんけど。
まこっちゃんの思いこみやないの?」
「……あ、あの、今日初めて会ってこんなこと言うのはどうかと思いますけど……」
あさ美がおずおずと口を挟んできた。
麻琴がずいぶんと怖い顔をしていたのだろう。
あさ美はどうしようかと、亜依の方へ助けを求める視線をちらちらと見た。
「お、小川さんは、部活で嫌なことがあったって聞いてます。
特待生なのに一般生と一緒に練習してるって。
そ、それでののちゃん、
自分と一緒にいると小川さんが、
ずっと特待生としての練習に参加できないんじゃないかって思ってるんじゃ…」
「ののがぁ? まさかぁ。そんなに細かいやつやないやろ」
亜依が意外そうな声を出して、それから可笑しそうに腹を抱えた。
- 205 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時43分41秒
「で、でも、さっきも特に小川さんのこと嫌ってるような素振りはなかったし…。
きっと仲良くしてたいけど、
その反面、小川さんにがんばってもらいたいって思ってるんじゃないですか」
あさ美は自分で言っていて照れてきたのか顔を赤らめ、
自転車のハンドルをぎゅっと握った。
「もしそうなら簡単やん」
「えっ」
亜依の言葉に麻琴は横を向いた。
亜依は最善の策が見つかったかのようににっと笑った。
「だってののはまこっちゃんの足引っ張ってるって思ってるんやろ。
せやったら、まこっちゃんが部活頑張ればええんちゃうの?
そうすれば自然と仲良うできるやろ」
「あたしが…頑張る……」
麻琴は考え込むようにうつむいた。
- 206 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時44分18秒
「あ、それじゃあ、私は蔓屋に用事があるから…」
あさ美が交差点手前で足を止めた。
「そんじゃ、ここでお別れやん。
今日はありがと。明日また学校でな」
亜依も歩みを止めたため、考えに耽っていた麻琴も慌てたように振り返った。
「あ、ど、どうもありがとう」
「それじゃあ」
あさ美はペダルに足を乗せ、
ゆったりとサドルに腰を乗せると、片足を付きながらぺこりと頭を下げた。
それから自転車をこぎ出す。
段々と小さくなっていくあさ美の背を見送りながら、麻琴は肩で息を吐いた。
「なぁに、落ちこんどるん?
どうせまこっちゃんの思い込みやよ。
のののことやから三歩歩けば、何だって忘れるよ。
あ、それより信号変わっちゃう。はよ、行こ」
亜依が麻琴の腕を取ると、無理矢理に引っ張った。
麻琴は亜依に引かれながら、心の内で密かにある考えを強めていった。
- 207 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月24日(月)00時44分48秒
***
- 208 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時21分10秒
室内練習場は湿気でじとじととしており、ねっとりと蒸された空気だった。
水面を掻く音が絶え間なく響き、コーチの指示がそれに覆い被さるように反響した。
でこぼことしたモルタル床にはザラザラとした感触を足裏に感じる。
真新しい白壁には各自のタイムが記録されたホワイトボードが掛けられ、
まるで競り市のようにその数字は刻々と書き換えられている。
笛が吹かれるたびにスタート台からは、
華麗なフォームで生徒たちが飛び込み、静かな水飛沫が立つ。
麻琴はクロールで軽く泳ぎ終わると、身をプールから上げた。
片足で立ちながら首を傾け、耳に入った水を落とす。
白い水泳帽を脱ぐと、濡れた髪が重々しく広がる。
麻琴はプラスチックベンチに放っておいたバスタオルで髪を拭きながら、
特待生の練習レーンの方を見た。
- 209 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時21分52秒
- ちょうどコーチと話を終え、
同じように髪を拭っていた少女がベンチに腰を掛け、
ペットボトルを手に取っていた。
麻琴はバスタオルを首に引っ掛けて、そちらに向かった。
少女は麻琴が近寄ってくるのを見つけ、ニコリと微笑んだ。
紺色の競泳用水着に、漆黒の長髪がばらけ、
つややかな白い素肌は運動後のせいか紅潮していた。
スポーツドリンクを美味しそうに口に含み、柔らかな手付きで髪をけずり続ける。
「どうかしたの?」
「実は…亜弥ちゃんにお願いがあるんだけど……」
麻琴は隣りに座ると、改まった調子で言った。
少女は麻琴と同じ水泳の特待生で松浦亜弥という。
一言で言えば文武両道、完全無比の少女である。
その愛らしい容貌と笑みには多くの男子生徒のファンがいると聞き、
勉強も特待クラスに所属をしていても、学年では上位に名を連ねている。
そのくせ全然嫌みっぽくなく、
麻琴が特待クラスの中で唯一気兼ねなく相談のできる相手でもある。
- 210 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時22分39秒
「なに? 改まっちゃって。
そんな神妙な顔、まこっちゃんには似合わないぞ。
あ、言っとくけどお金は貸せないからね。あはは」
「あの…さ、実はあたし、夏の大会に出たいなって思って…」
麻琴は言ってから拳をぎゅっと握りしめた。
「え…、だって…」
亜弥の表情は強張り、答えずらそうに目線を外して、手でペットボトルの蓋を弄る。
「分かってる。今のあたしじゃ、そんなこと言ったって無理だよね。
でも、夏の大会に出るための選考会があるでしょ。
そこで好タイム出せれば、いくら特待から弾き出されたって…」
興奮してきたのか麻琴は身を乗り出した。
亜弥はそれを落ち着かせるように肩を軽く叩く。
「まぁまぁ。そりゃあ、まこっちゃんの言ってることは分かるけど…」
「だからお願いしたいの。亜弥ちゃんに指導してもらいたいのよ」
- 211 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時23分18秒
「私が? 無理! それは無理だよ。
私だって自分のことで手一杯だし、それに私にそんなことできるわけないよ」
「手取り足取りで教えてくれなくてもいいの。
ほら、亜弥ちゃん。400メートルの自由形で4分27秒切れるでしょ。
あたしの自己ベストは4分29秒台ぎりぎり。
ね、だから少なくとも常に5分台を切れるようになりたいの」
「でも…それじゃ……」
亜弥は言葉を詰まらせる。
それでは大会に出るどころか、特待生としても決して威張れるタイムとは言えない。
「分かってるよ。でもこれで少なくとも特待生の端っこに並べるでしょ。
ね、お願い。亜弥ちゃんと一緒に練習させて」
麻琴は両手を合わせて深々と頭を下げた。
- 212 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時23分54秒
「う‥ん……」
亜弥は困ったように渋い顔を作り、濡れた髪をバスタオルで擦る。
「練習で大変なのは分かるけど、お願い! 哀れな脱落者を救うと思って」
「……しょうがないなぁ。まこっちゃんには負けた。
いいよ。競い合うのもお互いにいいかもしれないね」
「ほんと! ありがとう」
麻琴は亜弥の手を取り、嬉しそうにその手を振った。
それでは喜びが表現しきれなかったのか、麻琴は亜弥に抱きいた。
亜弥は引きつった笑みを浮かべながら、強引に麻琴を身体から引き剥がした。
「うん、まこっちゃんがずいぶんやる気なんだもん。
断れないよ。そのかわり厳しくビシビシしごいちゃうからね」
亜依が人差し指を立てて、可愛らしくすごんで見せた。
- 213 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時24分24秒
*
- 214 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時25分03秒
部屋のドアが叩かれる。
最初は遠慮するように軽い調子であったが、徐々に遠慮がなくなってきた。
麻琴は寝ぼけ眼を擦りながら、重たい身体を起こした。
締め切られたカーテンの隙間からは柔らかな太陽の光が入り込み、
雀たちの囀りが聞こえてくる。
机の上に置かれた時計の文字盤は、
まだ六時手前で二階のベットでは亜依がまだ軽やかな寝息が立てていた。
「まこっちゃん、まこっちゃん」
ドア越しに亜弥のひそめた声がする。
麻琴は汗ばんでまとわりつくパジャマを直しながら、
ふらつく足取りでドアを開けに行く。
「…おはよ」
麻琴はドアを開けると、恥じることのなく大きな欠伸をもらした。
- 215 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時25分55秒
「まだそんな格好? 早く着替えて。行くよ」
「行くって?」
麻琴は閉じそうな目をどうにかこじ開け、亜弥の姿を見た。
彼女はすでにTシャツとショートパンツという出で立ちで、
髪をアップにして、腰にはウエストポーチを巻き付けていた。
「ジョギングでしょ。昨日そう言ったじゃない。
ほら、早く行くよ。さっさと着替えてね。私は出入口前で待ってるから」
亜弥は言うが早いかすたすたと廊下を行ってしまう。
廊下もまだ薄暗く、しんと静まりかえっている。
麻琴は渋々パジャマを脱ぎ捨てると、
亜弥と同じようにTシャツにジャージの下を掃き始めた。
その最中に麻琴は再び大きな欠伸をもらした。
- 216 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月25日(火)01時26分41秒
*
- 217 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時16分23秒
寮の出入口前では亜弥が麻琴を今は遅しと苛立ちながら立っていた。
「ほら、早く準備運動して。私は先に行ってるからね」
亜弥はまだぼんやりしている麻琴を尻目に、
一人軽やかな足取りで走り始めた。
麻琴は慌てたように準備運動を始める。
夏の空はすでに青々しく染まり始め、白い雲がたなびいていた。
早朝というのに控えることもなく蝉は歌い続け、
それに併せるように寮のひさし下に、
もうすぐ旅立つツバメの子どもたちが餌を求める鳴き声を上げていた。
麻琴は走り始める。
亜弥はずいぶんと先に行ってしまっている。
顔を出した太陽が目に染み入るような光を放ち始め、
まだ冷ややかな風が人通りの少ない道を駆け抜けていく。
- 218 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時17分03秒
久しぶりのジョギングである。
四月の入学したばかりの時は、とにかく必死だった。
朝練もさぼったことはなかった。
だがそれも五月までのことで、
特待生が名ばかりになってからは朝練にも参加をする気を失ってしまった。
麻琴は風を身体に感じながら、亜弥の背中を追った。
やがて慣れない身体が鉛のように重たくなっていく。
足も上がらなくなり、息が切れ切れになってくる。
どれほど走ったのだろうか。
麻琴は亜弥の姿を見つけると、崩れ落ちるように地面に腰を落とした。
胸が早鐘のように脈打ち、肩で息を切らす。
「だらしないなぁ。今までちゃんと練習してなかったでしょ。
朝練だって来てなかったし」
一足先に休んでいた亜弥は、
耳からイヤフォンを外すと呆れ果てたように麻琴を見下ろした。
「だ、だってぇ…」
「もう、しょうがないなぁ。はい」
亜弥がスポーツドリンクの缶を差し出した。
麻琴は甘露を見つけたかのように亜弥の手にすがり付いた。
冷たく心地よい液体が麻琴の喉に落ちていく。
亜弥もタブを上げて、それを傾けた。
- 219 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時17分41秒
公園にはラジオ体操の音楽が流れ始め、
それに合わせてジャージ姿の老人の群が動く。
木陰には気に結びつけらえた犬たちがのんびりと横たわり、
ゆったりとした時間を楽しんでいた。
「明日からちゃんと用意しておいてよね。
毎朝起こすところからしなきゃなんないの大変なんだから」
「りょ、了解」
麻琴は飲み終えた缶を地面に置くと、
べったりと地面に向かって身体を伸ばした。
ひんやりとした地面の感触でさえ愛おしい。
麻琴は額の汗を拭い、
それから風を通すようにTシャツの胸元を指先で引っ張った。
まだ心臓はじんじんと跳ね、全身に血液が巡っているのを感じることができる。
- 220 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時18分43秒
「あ、ねぇ、何聞きながら走ってたの?
そういうのって良いのかなぁ」
「私はずっとこうやってきたから癖になっちゃってるね」
亜依はイヤフォンを麻琴の耳にはめてくれた。
「何? 洋楽?」
聞いたことのない男性のコーラスが小さな音で流れている。
陽気で軽快に刻まれるメロディーは、
まるで澄み切った夏空のようで麻琴は思わず空を仰いだ。
「ビーチ・ボーイズ。知らない?
私、夏になるとずっとこれ聞きっぱなしになるのよね」
「へぇ、……あ、これなら聞いたことがある。
何かのBGMで流れてたやつだ」
「もし気にいったんなら、あとでCD貸してあげるよ。
…さて、じゃあ、戻りますか」
亜弥は麻琴の耳からイヤフォンを引っ張り抜くと、
それを自分の耳にはめなおした。
「ええっ、もう……」
麻琴の不平の声も亜弥には届かなかったようで、
飛び出すように走り始めた亜弥の背を再び麻琴は見送った。
- 221 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時19分17秒
*
- 222 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時19分57秒
一日がようやく過ぎ去ったような気持ちである。
麻琴はぐったりしながら、枕に顔を押しつけた。
この格好でいると眠気が自然と襲いかかってくる。
亜弥から借りてきたビーチ・ボーイズの陽気な歌声はまさに絶好の子守歌である。
朝のジョギングの後、寮に戻って朝食を取ると、すぐに学校に向かった。
部活の朝練である。
再びのジョギングを済ませると、次は退屈な授業だった。
麻琴は一時間目からずっと机に突っ伏していたが、
亜弥は全く疲れた素振りも見せない。
昼食は亜依とあさ美が来てくれて一緒に食べたのだが、
げっそりとしている麻琴を見て言葉を失った様子だった。
- 223 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時20分37秒
放課後は部活だった。
普段は適当にやってしまうのだが、今日は久しぶりの真剣モードだった。
誰もが人の変わったような麻琴の練習を見て、
こそこそと内緒話をしていたようだ。
亜弥がコーチに口を聞いてくれて、
麻琴は一度だけ特待生たちに交じって泳ぐことができた。
着順は最下位だったが、タイムはそこそこ良かった。
コーチも驚いた様子で、麻琴に二言三言アドバイスをしてくれた。
部活が終わると亜弥は近くのスイミング教室に顔を出した。
軽く練習をこなし、その後小学生たちの水泳指導を行った。
その見返りにマッサージをしてもらっているそうだ。
麻琴もそれに付き合い、なんだかんだと騒ぐ小学生相手に手を焼いてしまった。
それだけにマッサージは心地よく、今は全身を虚脱感が襲っている。
- 224 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時21分09秒
麻琴は亜弥の練習量に感服してしまった。
これだけ練習を重ねれば、確かに亜弥が速いのも頷ける。
それどころか驕ることもなく、練習を黙々とこなす亜弥に対して、
麻琴は感嘆の想いを抱くと共に自身の甘さを知った。
「意気地なし…か」
麻琴はごろりと寝返った。
圭織が言った言葉が自然と思い出される。
麻琴は希美のことを好きだ。
それは消しようのない事実である。
だがそれを盾に自分は特待生から蹴落とされたことを誤魔化していた。
希美がいるから…と言い訳をして、
戻る努力もせずに、一般練習生として甘んじていた。
希美はそんな麻琴の不甲斐なさをどこかで感じ、
それが自分にも原因があると考えていたのかもしれない。
だから希美は麻琴から距離を取ろうとしていたのだろう。
- 225 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時21分55秒
「これって十分、ののちゃんのことバカにしてるよね」
麻琴は呟いた。
希美はあの日から練習に顔を出していない。
学校でもすれ違う機会もなく、あの日以来顔さえも見ていない。
何か圭織から言われているのだろうか。
ふと希美ののんびりとして、陽気な声を聞きたかった。
「あれぇ、何や。もう、寝てるんか」
部屋のドアが開き、亜依が戻ってきた。
手には携帯が握られている。
気遣ってどこか別の場所で誰かに電話でもしていたのだろう。
「何聞いてるん? 洋楽やないの」
「あ、ごめん。音大きかった?」
麻琴は気怠い身体を起こした。
- 226 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時22分32秒
「気にせんでええよ。ええっと、ビーチ・ボーイズ?
あっ、これ『カリフォルニア・ガールズ』やん」
「知ってるの? 亜弥ちゃんに借りたんだけど」
「ドラマの挿入歌で使われてたんよ。
でもな、この歌詞失礼やで。
さんざんカリフォルニアの娘褒めて、
みんな素敵な女の子がカリフォルニアガールやったらなって。
ビューティフルで素敵な女の子なら、カリフォルニアやなくとも、
ここにもいっぱいおるのになぁ」
亜依がそう言ってCDケースを麻琴の机に静かに置くと、
悪戯っ子のようににやりと笑った。
「そうだよね。見る目ないんじゃないの?
カリフォルニアまで行かなくたってここで十分!」
麻琴もくすくすと笑いながら、亜依に同意をした。
- 227 名前:名無し作者 投稿日:2002年06月26日(水)01時23分10秒
***
- 228 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月14日(日)23時06分01秒
- 突然、更新を停止なさったので、かなり心配しているのですが、大丈夫でしょうか?
切れ目無く続く、美しい文章と世界観に、レスはつけにくいのですが、期待して待っている読者は多くいると思います。
いつまでもお待ちしています。
- 229 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時09分33秒
- >>228
長い間、更新が無くてすみませんでした。
レスのお言葉、実に嬉しく思います。
このような駄文で、構成もしっかりとしていない作品を
読んでいただいてくださっていて、書き手冥利に尽きる次第です。
実は最後まで終わっているのですが、
七月に入ってから目の回るように私用が忙しく、
また自分で納得のいく作品と言えずに、
あれこれと推敲を繰り返していました。
ようやく用事も一段落し、一応の形で決着はつけるつもりです。
満足していただけるような作品ではないと思いますが、
どうぞよろしくこれからもよろしくお願いします。
- 230 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時10分27秒
***
- 231 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時11分37秒
射抜くような視線に麻琴は顔を引きつらせながらも、背筋をぴんと伸ばした。
カウンターの向こうでは、
不機嫌そうに爪を削っていた寮母の中澤裕子が、指先に息を吹きかけた。
丁寧に化粧の施された顔は恐ろしく歪み、眉間には深々と皺が生まれている。
「…あの……」
「ふん」
裕子は面倒そうに年代物の汚れきった白電話をカウンターに乗せると、
気怠そうにテレビに視線を移した。
寮の受付に用事があるとすれば、
裕子からお小言をもらうために呼び出された時か、
電話機を借りるかのどちらかしかない。
「あ、ありがとうございます」
麻琴は受話器を手に取ると、
手帳を見ながらボタンをプッシュしていく。
やがてコールが始まると、
麻琴は裕子から離れるようにカウンターの下に腰を下ろした。
呼び出し音がなり続く間、麻琴は暇を弄ぶように、
ひんやりとした木目のある床をなぞった。
- 232 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時12分39秒
「…携帯ぐらい買えっちゅうねん。
あんたぐらいやで、ママに電話すんのにここですんの」
裕子のぼやきがカウンターの上から降ってきた。
麻琴は身を小さく屈めながら、裕子の言葉を無視した。
機嫌が悪いのはいつものことである。
最近は特にプライベートなことが原因で、
あれやこれやと寮生に当たり散らしているそうだ。
麻琴は落ち着くように軽く深呼吸をして、
それから受話器を持つ手に力を込めた。
「……もしもし?」
寝ぼけた声が電話に出た。
麻琴の心臓がどくんと跳ねた。
「あ、もしもし。…ののちゃん?」
「あっ…まこっちゃん…」
「ご、ごめん。今、大丈夫?」
麻琴は流れる沈黙を打破しようと、焦ったように言葉を探した。
希美は小さく、うんと答えてくれた。
微かに床が軋む音を受話器が拾い、
希美が移動しているのを知ることができる。
- 233 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時13分46秒
「ご、ごめんね。電話しちゃって。
ほ、ほら、部活来てないから…。
風邪…引いちゃったのかなって。
さ、最近暑いでしょ。そ、そんで疲れてるんじゃないかって。
お、お母さんが、季節の変わり目って風邪引きやすいから注意しなさいって言ってたから…」
「だ、大丈夫だよ。ご、ごめんね。心配させちゃって」
「あ、う、ううん。良かったぁ。
ののちゃんが風邪引いてたなら、お見舞いいかなきゃって思ってたから。
ほら、前にあたしんとこに来てくれたでしょ」
「えっ、お見舞い? メロン?」
希美の口調が弾んだものに変わった。麻琴はその変わり様に苦笑をした。
「風邪じゃないんでしょ。お見舞い品なんてないよ」
「あっ、そっか」
受話器の向こうで希美がようやく朗らかな笑い声を上げた。
「…あ、あたしね、今日特待生と練習したんだよ」
「えっ、ほんと!」
希美が驚きと喜びの交じった声を上げた。
- 234 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時14分51秒
「ほんと。
夏の大会の選考会に出るために亜弥ちゃんと一緒に練習始めたの。
でもさ、全然ダメ。
まだまだがんばんないと大会に出られなさそう」
「で、でも、まこっちゃん頑張ってるんでしょ。
だったら大丈夫だよ。のの、応援してるもん。きっとだいじょぶだよ。
……飯田さんの言ってた通りだ」
「え?」
聞こえていたがわざと麻琴は聞き返した。
希美が慌てたように前の言葉を打ち消そうと声を被せてきた。
「あ、う、ううん。な、何でもないよ」
「そう? それでさ、明日はののちゃん、部活に来るの?」
頑張っている自分の姿を希美に見てもらえれば、
今の状況であれば関係を修復することができるだろう。
麻琴は色好い返事を期待した。
「あっ……ごめん……」
希美の答えは非情だった。
麻琴は戸惑い、思わず腰を上げてしまい頭をカウンターに打ちつけてしまった。
麻琴はじんわりと染み付くような痛みを、手で撫でながら悲痛の声を上げた。
- 235 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時15分37秒
「ど、どうして!
あたし、ののちゃんに見てもらいたくって……」
「ごめん、明日も明後日も用事があるの。
だからしばらく部活には行けないんだ」
「……もしかして飯田さんと?」
失意の麻琴の問いかけに、希美が息を飲み込んだようだ。
「ち、違うよ。な、何で飯田さんが出てくるの?」
「の、ののちゃん。騙されてるよ! ダメ!
いくらあたしが不甲斐ないからって、
飯田さんみたいな中途半端な芸術家タイプに傾倒しちゃ。
ああいうのって危ないんだよ。貞操の危機だよ!」
「テイソウ? あ、あのね。落ち着いてよ。
まこっちゃん勘違いしてるよ。飯田さんっていい人なんだよ。
のの、飯田さんに色んなこと教えてもらってるんだよ。
だから今回のテストは赤点なかったし、絵だって……あっ」
希美は慌てたように言葉を止めた。それがますます麻琴の不安を煽り立てる。
- 236 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時18分46秒
「と、とにかくごめんね。
あ、あと、電話してくれてありがと。
また学校で会ったら色んな話ししようね。それじゃ」
希美は一方的に言いたいことを言ってしまうと、電話を切ってしまった。
茫然とした麻琴の耳には不通音が響く。
麻琴は力が抜けきったように立ち上がった。
受話器を元に戻して、裕子の方へと差し戻す。
裕子は先ほどまでの不機嫌そうな表情を消し、
興味ありそうににやにやしながら麻琴から電話機を受け取った。
- 237 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時19分29秒
「…ずいぶん派手にやってるようやなぁ。
小川は興奮すると声が大きくなって、よう話が分かるわ。
なんや、面白そうやないの。裕ちゃん、興味津々やわ」
裕子が麻琴の方を見てにやりと笑った。
こってりとした関西弁で言われると意味深に聞こえてくる。
麻琴は裕子の嘗め付けるような目つきにたじろいでしまった。
「小川はそっちの方にも興味があるんか? 何やったら……」
「す、すみません。しゅ、宿題が残ってるんで…」
麻琴は逃げ出すようにその場を立ち去った。
追いかけるような裕子の舌打ちが聞こえてきて、
麻琴は背筋に走った寒いものを落とそうと身を大きく振るわせた。
- 238 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月15日(月)01時20分07秒
***
- 239 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月17日(水)01時18分27秒
いくら希美が姿を出さないとはいっても、麻琴の亜弥との練習は終わらなかった。
最初は不純の動機であったが、最近はその不純な動機を忘れて、
水泳自体を楽しめるようになってきた。
まるで水泳を始めて間もない頃、泳ぐことに集中し、
一秒でも速くと躍起になっていたことを思い出す。
ただ楽しいから泳ぐ。
ただ速くなりたいから泳ぐ。
順位や大会に出ることにだけ想いを掛け、
自分の気持ちを磨り減らしながら泳ぐのではなく、
誰かと助け合い、競い合いながら、自分の満足のために泳ぐ。
今の麻琴はそのことで心を膨らませいた。
それが自分の中で情熱となり、
決して速くはないのだが、それでも段々とタイムが上がってきた。
徐々に特待生との練習にも呼ばれるようになり、
いつの間にか四月の入学した頃のように、特待クラスで練習していることが多くなった。 麻琴の中で充実感が広がっていった。
だが、それとは別に満たされない部分もあった。
あれほど見てもらいたい希美は何日経とうと部活に顔を出さなかった。
- 240 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月17日(水)01時19分15秒
やがて希美が水泳部を辞めたという話を聞いた。
理由のほどは分からなかったが、
戦力にもならない希美は引き留められることもなく、
退部届けは難なく受理されたそうだ。
麻琴は衝撃を受け、選考会まで残り少ないというのにスランプに陥ってしまった。
いくら肉体的には鍛えられても、精神的には未だに強くなりきれていないのだ。
ただでさえ大舞台を前にすると腹痛に襲われ、
トイレに駆け込む回数も多くなるのに、
希美退部のニュースはさらに麻琴の精神状態を劣悪なものにした。
調子を落とした麻琴を亜弥が気遣ってくれて、
今度の選考会は避けた方がいいと助言をしてくれたが麻琴はそれを断った。
精神状態は悪くとも麻琴は自身にケリをつけたかった。
それはあの圭織の言った言葉、
「あんた、意気地がなさすぎるのよ」が胸のどこかに突っ掛かるのだ。
- 241 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月17日(水)01時19分57秒
麻琴はあの日以来、素直に自分の脆さを認めた。
地元では河童であっても、それは井戸の中の蛙に過ぎなかったこと。
自分で勝手に見切りを付けて、希美をダシに一人で閉じこもってしまったこと。
それを周りの環境の変化や誰も助けてくれないという理由に置き換えて、
努力も忘れてしまったこと。
上げれば切りもなく反省できてしまうほど、麻琴は考えた。
初対面の圭織に言われたことは腹立たしくもあり、泣きたくもあった。
相手が希美を独占しているらしいと思えば尚更のことである。
だから麻琴は見せたかったのだ。
自分は変われたというところを。圭織の言が自分の背を押したことも事実であるが、
そこから自分で立ち上がって、前に歩きだそうとしていることを示したかった。
そんな麻琴の頑なな意地が希美に電話を掛けさせなかったし、
希美に会いにわざわざクラスに訪ねたりもしなかった。
- 242 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月17日(水)01時20分36秒
亜弥が教えてくれたのだが、
ビーチ・ボーイズのリーダー、ブライアン・ウィルソンは、
サーフィンソングを歌っているが泳げないそうだ。
「私ね、思うのよ。
きっと自分が泳げない分、海の歌を真剣に歌うことで、
自分には届かないどこか遠くにある物を追い求めてるんじゃないかって。
だからこんなにも陽気に、こんなにも楽しげに歌ってるんじゃないかって。
ビーチボーズの歌って陰鬱な梅雨空でも、
からっと晴れた夏空でも合うのってそんな理由なんじゃないかなぁ。
これが晴れれば、明るい空があるってね」
麻琴も今、何かを追い求めようとしている。
それは希美なのかもしれないし、泳ぐ者のプライドかもしれない。
今を乗り越えていけば、
自分は素敵なカルフォルニア・ガールになれるのだろうか。
麻琴はふっとそんなことを考えていた。
- 243 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月17日(水)01時21分11秒
***
- 244 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月21日(日)23時58分56秒
からりと晴れ渡った青空がどこまでも広がっている。
陽の光は突き刺さるように降り注ぎ、コンクリートのタイルを焼く。
それだけにプールの水が一層心地よさげに感じられた。
日差し除けのテント下には顧問と監督とが暑そうに団扇を扇いでいる。
その脇にはマネージャーをしている女子生徒は、
タイムウォッチを首からいくつも下げて、
じんわりと滲み出る汗をハンカチで拭っていた。
夏休み二日目であるためか、
まだどの部活も精力的に活動を行っているようだ。
そのため金網で仕切られたプールの外には暇そうな野次馬が集まり騒いでいた。
部活途中の男子生徒がこちらを見ては下卑た笑いを浮かべながら、
金網にへばりついたりしていた。
- 245 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月22日(月)00時00分24秒
「いよいよだね」
亜弥がぽんと麻琴の肩を叩いた。
麻琴は緊張に顔を強張らせながらも頷いた。
先ほどから足が自然と震えている。
その度に濡れた身体から水が垂れ、灰色のコンクリートに染みを作っていく。
コーチが選考に際しての説明をしているが、麻琴の耳には入ってこなかった。
麻琴は不安を紛らわそうと深呼吸を繰り返し、首を振った。
金網に亜依とあさ美が張り付いて、麻琴に向かって手を振ってきた。
麻琴は軽く強張った笑みを返す。
と、その二人の後ろに希美が立っていて、
そろそろとこちらの様子を伺っているのが目に入ってきた。
亜依が強引に押すように希美を前に出してきた。
「……ののちゃん」
居づらそうに視線を落としている希美の姿を見るのは久しぶりであった。
今すぐ駆け寄って問いつめたいこと、言いたいこと、伝えたいことが沢山あった。
麻琴は半ば腰を起こし、じっと希美を凝視した。
- 246 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月22日(月)00時01分34秒
「ほら、まこっちゃんも呼ばれたよ」
亜弥が麻琴の身体を揺する。
麻琴ははっと視線を上げた。
緊張が舞い戻り、麻琴は唇を噛み締めて立ち上がった。
亜依の関西弁が、悲鳴のような声援をあげた。
スタート台に各選手が並ぶ。
幸か不幸か隣のレーンは亜弥だった。
亜弥はちらりと麻琴の方を見て、親指を立てて麻琴に合図をした。
麻琴は唾を飲み落としながら頷く。
水泳帽を直し、それからゴーグルをはめ、
脇で押さえつけるゴムの調子を合わせた。
笛が一吹きされる。横に並んだ選手たちは一斉にスタート台に上がる。
眼下には底までも見通せるほどの透明な水が張ってあった。
ただ静かに天上の雲を映し出し、
生暖かな風が吹くたびにきれいな波紋が広がっていく。
麻琴の姿もそこに映り、ぼやけて揺れた。
- 247 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月22日(月)00時02分09秒
麻琴はもう一度希美の方を見た。
希美は顔を上げて、スタート台に立ち並ぶ選手群に見入っていた。
いつもと違いポニーテールにした希美はどこか大人っぽく見え、
亜依が希美の肩をつつくたびに馬の尻尾が左右に振れた。
やがて二人の視線が交じり合う。
希美が微かに口を動かして、何かを呟いたように見えた。
麻琴は聞き取れるわけもないのに、身を乗り出そうとした。
再び笛の音が聞こえる。
麻琴は慌てたようにスタート台に指先を付く。
一時の間があり、最後の笛音が響き渡ると、一斉に水飛沫が上がった。
- 248 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月22日(月)00時02分44秒
***
- 249 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時23分52秒
夕刻が迫っても暑さは引かなかった。
セーラー服には汗が斑の染みを作り、
南から生暖かい風にゆっくりと麻琴の髪をそよぐ。
重ねられたアイスがひんやりとした感触を麻琴の舌に与え、
頭がきんとした痛みを覚える。
二度三度拳で軽くこめかみ辺りを叩き、それから照れたように顔を緩めた。
「でも、まこっちゃんも凄かったよなぁ」
亜依がアイス片手に、感心の表情で麻琴を覗き込んでくる。
隣にいた亜弥もアイスを嘗めながら、感慨深そうに頷いた。
「そうだね。自己最高でしょ、4分28秒78。
まさかこんなにタイム上がるとは思ってなかったもん。
こりゃあ、私も兜の尾を引き締めなきゃ」
「そんなに褒めないでよ。
亜弥ちゃんには勝てないよ。
だって、どんどん前に行っちゃうんだよ。
泳いでる最中、気ばっかり焦っちゃってさ」
- 250 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時24分59秒
「いやいや。
本気になったまこっちゃんは恐いよ。すぐに正選手になれるって」
「そうですね。気迫っていうか、熱意が伝わってきました。
すごく頑張ってるの分かりました」
あさ美が興奮したように、意気込んで言った。
「何か恐いなぁ。
そんなに褒められてばっかりだと、
またすぐにだらけちゃいそうだよ。
それに今回は選ばれなかったんだから、
そんなに慰めてくれなくたっていいよ」
そう言いながらも、麻琴の顔は充実感に溢れていた。
「慰めなんかやないでぇ。
ほんまにまこっちゃん、凄かったもん。
なぁ、のの」
亜依がアイスにかじり付いていた希美に同意を求めた。
希美はそれを急いで口に頬張り、それからにこっと笑った。
口端にはアイスがこびり付いていて、その姿は無垢な幼児のように見える。
「まこっちゃん、格好良かったよ」
希美のこの一言は、麻琴の胸を突いた。
麻琴は瞬間呼吸が詰まり咳き込んでから、それから恥ずかしそうに顔を赤らめた。
- 251 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時25分57秒
「そ、そうかなぁ」
「うん。やっぱりまこっちゃんはののと違ったよ。
すっごっかったもん」
希美がにこにことしながら、心底嬉しそうに微笑む。
「ち、違うよ! 全然すごくないよ」
麻琴はそれを否定するように声を張った。
誰もが驚き、足を止めた麻琴の方をびっくりしたように見やる。
特に希美は開いた口も塞ぐことも忘れて、
不可思議そうにまばたきを繰り返している。
「違うよ。
ののちゃんがいてくれたから、あたし、頑張れてきたんだよ。
亜弥ちゃんもあいぼんもあさ美ちゃんも、……それに飯田さんも‥
みんなが励ましてくれたり、叱咤してくれたりしてくれた。
でも甘えるあたしを突き放してくれたのはののちゃんだよ。
あたしはその成果を示したかった。
そんな不純な動機で、それでも頑張ってきたんだ」
麻琴は心から湧き出てくる言葉を続けた。
言いたかったことは沢山あった。
でもそれを続けると、麻琴の目から涙がこぼれ落ちそうで麻琴はぐっと堪えた。
- 252 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時27分00秒
「何やか‥意味深やなぁ」
亜依がからかうように言うのを、あさ美が遮った。
「あ、じゃ、じゃあ、私たちは先に行きますね」
必死に抵抗しようとする亜依を引きずって、あさ美と亜弥は行ってしまった。
二人の間に微妙な空気が流れる。
麻琴の胸は早鐘のように鳴り響き、
緊張と恥ずかしさに赤面し、
溶けてくるアイスに濡れる手もそのままに地面をじっと見つめ続けた。
こんなことを言うつもりはなかったのだが、
ついつい感極まって口が滑ってしまったのだ。
「あのね…。これ……」
希美はごそごそと鞄をまさぐると、何かを差し出してきた。
「……これ?」
「へへへ、これ、まこっちゃんにために描いたんだよ」
それは一枚の絵だった。
燦々と輝く太陽が浮かび、波打つ海で一人の少女が泳いでいた。
決してうまいものではないが、
丁寧に線が描かれており、鉛筆の筆圧がやんわりとした雰囲気を出していた。
- 253 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時28分02秒
「あたしの…ために……」
麻琴はそれを胸に抱いた。感激のあまりに目が潤んでくる。
「でも、ののちゃんって絵が上手かったんだ」
「ううん、だってねぇ、のの、飯田さんとこで絵習ったんだよ」
「えっ」
「へへへ、のの、ぶきっちょだから、
普通の人よりも時間がかかるって飯田さんに言われちゃってね。
まこっちゃんが頑張ってるって電話してきてくれたでしょ。
それなのに、のの、絵が半分も終わってなかったんだよ。
だから部活も辞めちゃった」
恥ずかしそうに笑う希美は、後ろで手を組み、
それから誤魔化すように片足を振った。
「う…そ……、そんな理由で…」
「だって、まこっちゃん、ののと違うトクタイセイだよ。
友だちに頑張ってもらいたいのって当たり前じゃん。へへへ」
- 254 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時29分01秒
「で、でも、どうして絵なんか…」
麻琴は希美の描いた絵を握りしめた。
「う〜ん、何かののがへたっぴなことで頑張れば、
まこっちゃんも頑張ってくれるかなって?」
半疑のように希美は首を傾げて、自分自身にも問いかけていた。
麻琴はずっこけながらも、希美らしさに微笑んでしまった。
「それにね。飯田さんの絵ってすっごくよかったから。
気持ちが伝わったんだぁ。飯田さんの絵を見たときに。
だからのののまこっちゃんに頑張ってもらいたいって、
気持ちがよぉーく伝わりますようにって、
無理言って、絵、教えてもらったんだよ」
「そ…っか……。…そうなんだ」
「あ、そのアイス食べないの? こぼれちゃってるよ。
要らないんだったら、ののが貰っちゃうけど」
照れ隠しのつもりか希美は麻琴の同意も得ず、
麻琴の手から溶けだしたアイスを取ると、
それを素早く口に放り込んで、満足そうに至福の表情を浮かべた。
- 255 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時29分37秒
麻琴は急に希美を愛おしく感じ、
胸の奥底が締め付けられるように苦しくなった。
そっとその肩に触れようとそろそろと手を伸ばそうとする。
柔らかな漆黒の髪は斜陽に照らされきらめき、
幼さを残すその表情で不可思議そうに首を傾げている。
その時、麻琴はじっと自分を見つめている視線に気付き、
麻琴は意識を持ち直して、その視線の方を見た。
さっと電信柱の影に姿が隠れた。
麻琴は鞄を持ち直すと、そちらに歩いていく。
狭い影でひしめき合うように隠れていたのは亜依たちだった。
曖昧な笑みを浮かべる三人の姿を麻琴は睨み付けた。
希美も駆け寄ってきて、かくれんぼでもしているのかとにこにこ顔で尋ねた。
- 256 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時30分16秒
「帰ったんじゃなかったの!」
恥ずかしくなった麻琴は、
苛立ちを隠すこともなく語気をあらげて腰に手を当てた。
「え、ええっと…」
あさ美が他の二人の方を見て、困ったように眉を寄せた。
「…そ‥の…。あ、忘れもんや。
メガネどこやったやろ。…メガネ、メガネ」
亜依がありもしないメガネを探して、彷徨うふりをする。
「あいぼんはメガネ掛けてないでしょ!」
麻琴は強く言ってから、吹き出してしまった。
その笑みが伝染し、やがて五人に広がった。
- 257 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時31分26秒
「そうだ。ねぇ、夏休み中に海に行こうよ。みんなで」
麻琴が思いついたようにパンと手を叩き、提案をする。
「あ、それいいね。今年は暑い夏になりそうだもん。
海でぱあっと騒ぎたいね」
亜弥が一二もなく賛成する。亜依とあさ美も顔を見合わせて笑った。
「……あの、飯田さんも呼んでいい?」
希美がおずおずと発言する。
「…いいんじゃない。みんなで行ったほうが楽しいでしょ」
亜依は圭織の名前に麻琴の方を見て舌を出してきた。
だが、麻琴は希美に同意をした。
希美の顔がぱっと輝き、それから嬉しそうに首が外れそうになるほど頷いた。
希美も感心する華麗な泳ぎっぷりを圭織が見たら何て言うだろう?
麻琴はふっとほくそ笑んだ。
- 258 名前:名無し作者 投稿日:2002年07月29日(月)01時33分14秒
「あ、…じゃ…じゃあ、私も……」
あさ美も恥ずかしそうに手を上げて、
誰かの名前を出してきたが、麻琴の耳にはすでに入らなかった。
「えー、あさ美ちゃんも呼びたい人がおるの? もしかして彼氏ぃ?」
「ち、違うよ」
「何か大人数で、修学旅行とかっぽいよね」
三人は楽しげに、計画をあれこれと話し始めた。
麻琴は鞄をぶんぶんと振りながら、
『カリフォルニア・ガールズ』を口ずさみ始めた。
希美が興味ありそうに、その歌なぁにと麻琴の腕にぶら下がってくる。
空には赤く照らされた入道雲が立ち上り、
むっとするような熱気に汗が自然と滲み出てくる。
もう間もなく本格的な夏が到来する。
終
- 259 名前:あとがき 投稿日:2002年07月29日(月)01時53分04秒
途中止まったりもしましたが、
ようやく最後まで終わらせることができました。
いかがでしたでしょうか?
前作の「『イエスタデイ』をもう一度」は紺野が主人公でしたが、
今作「『カリフォルニア・ガールズ』に憧れて」は小川が主人公です。
読み返してみれば、
小川の魅力が十二分に出すことができなかったように思えます。
何よりも小川を書くのが難しかったぁ(w
取りあえずスポーツが得意そうで、夏が似合いそうという
独善的なイメージから、話を書いてしまいました。
反省すべき点は多々ありますが、楽しんでいただければ幸いです。
さて春、夏とくれば次は……
何てことも考えています。
当然主人公も……
いつごろ完成するかはまだ未定ですが、
言ってしまった手前今作の反省を活かしつつ頑張るつもりです。
どうぞよろしくお願いします。
- 260 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月29日(月)21時24分41秒
- 最後まで下手にレスを入れなくてよかったです。
この小説の雰囲気を崩さないような上手い感想が浮かびませんので……
とにかく、不安定な小川の心情の描写にとても心惹かれました。
是非とも次回作を期待しています。
- 261 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月04日(日)01時58分39秒
- 一気に全部読ませていただきました。
「『イエスタデイ』をもう一度」と話がリンクしていてとても読みやすく、情景がイメージしやすかったです。
次回作も期待しています。
こんな稚拙なレスですみません。
- 262 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月05日(月)14時42分06秒
- 読ませていただきました。
中3の4人が主役のお話ってあんまりないんですよね、探してたんですけど。
やっと見つけたので読んでみたら、文章もキレイだし話もおもしろいしで見事にはまりました。
次回作も期待しています。
- 263 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月06日(火)23時39分04秒
- 一気に読みました。とにかく作者の世界観というか、雰囲気がとても良かったです。
夏の匂いが作品からしてきました。
次回作も楽しみにしています。
- 264 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月25日(日)22時02分53秒
- 夏のお話はまだかな?期待保全
- 265 名前:名無し作者 投稿日:2002年09月02日(月)00時45分45秒
>>260
レス、ありがとうございます。
全く小川の表現がなってない!っと
自己反省の中、そう言っていただけるのは
とても嬉しく思います。ありがとうございます。
>>261
レス、ありがとうございます。
稚拙なレス? とんでもない!
感想をいただけるのは書き手として、
とても嬉しいことです。
お気になさらずに、どんどん感想を言って下さい。
>>262
レス、ありがとうございます。
そうですね。新メンの小説は少ないですよね。
実は新メン小説を読みたいという思いから、
書き始めました。
楽しんでいただければ幸いに思います。
>>263
レス、ありがとうございます。
夏を意識して書いたため、そう言っていただけると
嬉しいです。
どうぞこれからもよろしくお願いします。
>>264
レス、保全、ありがとうございます。
期待に添えるように頑張らせていただきます。
- 266 名前:名無し作者 投稿日:2002年09月02日(月)01時00分43秒
お久しぶりです。
あっという間に9月になってしまいました。
かねてから早く更新したいと思っているのですが、
申し訳ないことに、まだ更新の予定はありません。
実は次の作品「『カントリー・ロード』にさようなら(仮)」
が思ったよりも長くなりそうなのです。
そこで新スレを立てようと計画しているのですが、
まだカキコができる。もったいない(w
と、いうわけで急遽番外を挟むことにしました。
そのためもう少し更新までに時間がかかりそうです。
早くても9月中旬ぐらいまでにはと考えています。
どうぞ、今しばらくお待ち下さい。
それとショートカットのサービスをさせていただきます。
どうぞ活用して読んでやって下さい。
- 267 名前:名無し作者 投稿日:2002年09月02日(月)01時04分41秒
ショートカット
>>2-131 『イエスタデイ』をもう一度
>>140-258 『カリフォルニア・ガールズ』に憧れて
- 268 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月18日(水)07時19分08秒
- ☆ チン 〃 /ノハヽo∈ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(・-・o川 < 番外まだぁ〜?
\_/⊂ ⊂_)_ \
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄/|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:|:|
| 空腹 |/
- 269 名前:名前ってなあに? 投稿日:2002年10月12日(土)03時01分56秒
- 続き、待ってます
- 270 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月22日(火)01時29分47秒
- 久しぶりになってしまいました。
早ければ9月中に更新をすると言っておきながら、
この体たらく。
本当に申しわけありませんでした。
実は番外編を載せると、前回書きましたが、
仕上がったものは、
スレッドサイズを越えてしまうものになってしまいました。
そのため、どのみち新スレを立てるのならばと思い、
本編「さようなら『カントリー・ロード』」
を仕上げて、載せることにしました。
一応完成させることができたので、
数日間の猶予をもらい、新スレに移動したいと思います。
レスを下された方々、また前作を読んでくれた方々、
多くの方に感謝の言葉を述べつつ、
今後ともどうぞよろしくお願いします。
なお番外編のほうは、せっかく書きましたし、
今後何らかの機会を作って、載せたいと思っています。
- 271 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月22日(火)01時35分25秒
>>268
レス、ありがとうございます。
道産子娘たちは、ほっとさせてくれる雰囲気がありますね。
空腹にさせてしまってスミマセン(w
>>269
レス、ありがとうございます。
お待たせしてしまって、申しわけありません。
お待たせした上で、
ご期待に添える作品かどうか、分かりませんが、
どうぞこれからもよろしくお願いします。
- 272 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月25日(金)01時11分44秒
- おお!
これだけ期間が開いたので続きは期待してなかっただけにメチャ嬉しいです。
がんがってください。
- 273 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時21分15秒
月板に移動しました。
さようなら『カントリー・ロード』
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/moon/1035734106/
>>272
レス、ありがとうございます。
どうにかこうにか新スレを立てることができました。
お待たせしてすみません。
できるだけ頑張りたいと思いますので、
これからもよろしくお願いします。
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