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市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(2)
- 1 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時44分18秒
- 花板で連載していた話の続きです。
前スレ:http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi?dir=flower&thp=998923252
前スレから読むのは面倒だけどこのスレからなら読んでやってもいいぞ、
という奇特な読者のためのネタバレあらすじ>>2-3
前スレからの読者でさえほとんど忘れかけているであろう主要な登場人物一覧>>4
- 2 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時45分11秒
- <前回までのあらすじ>
2年前、モーニング娘。を脱退したものの留学にも失敗し、失意の底にいた市井。
その市井の前に現れた謎の男。
男に連れられるまま、韓国に渡った市井は再起を期し、その地でのデビューに賭ける。
だが、香港へのプロモートの途上、市井は謎の集団に拉致される。
目が覚めた市井の前に現れた男は、市井を韓国に連れ出した張本人だった。
動揺する市井。だが、さらに市井を驚かせたのは自分を拉致した集団の正体だった。
北朝鮮に拉致されたことを知り、激しい恐怖に襲われる市井。
だが、北朝鮮で初めて上演されるミュージカルのヒロインとして選抜されたことを聞き、
気を取り直して、再起を図る。
平壌での住まいには意外な先客がいた。
その名は後藤真希。
既にモーニング娘。を脱退していた後藤は、市井を助けるべく、
単身、北朝鮮に渡航していたのだった。
- 3 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時45分47秒
- 平壌で束の間の平和を楽しむ二人。だが、それも長くは続かなかった。
金正日(きむじょんいる)の官邸でのパーティに呼ばれる二人。
そこで市井は朝鮮労働党の実力者、延享黙(よんひょんもく)に襲われる。
市井を手篭めにしようと延享黙は恐るべき事実を告げる。
逆上した市井は延享黙に怪我を負わせ、その結果、強制収容所送りとなってしまう。
一方、日本では市井の失踪を不信に思う保田が行方を探していた。
鍵を握ると思われる弟のユウキと仲間のソニンはなにやら不穏な動きを...
実はソニンは北朝鮮からの亡命者を支援するグループに所属していたのだ。
もともと北朝鮮系の在日であるユウキはソニンに協力していた。
北朝鮮からの情報により、市井が収容所行きになったことを知るソニンとユウキ。
ユウキは市井を救出するため、単身、新潟港から北に渡航した。
そして、市井のいる収容所まで徒歩で進む途上、ユウキは疲労から倒れ、
北朝鮮に帰化した日本人に助けられたのだった。
- 4 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時46分15秒
- <主要な登場人物>
市井紗耶香…元モーニング娘。北朝鮮で強制収容所に収攬中
後藤真希…元モーニング娘。元在日北朝鮮人、北朝鮮最高指導者金正日の庇護を受ける
保田圭…モーニング娘。サブリーダー、市井を案じ、走り回る
矢口真里…元モーニング娘。W杯取材で韓国渡航中
ソニン…EE JUMPリーダー、北朝鮮亡命者支援組織幹部
ユウキ…後藤真希の弟、ソニンに協力し北朝鮮に渡航中
金正日…北朝鮮最高指導者、朝鮮労働党総書記、国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官
金永南…北朝鮮最高人民会議常任委員会委員長、朝鮮労働党政治局員
延享黙…国防委員、朝鮮労働党政治局員
謎の男…市井を韓国に連れ出した張本人、実は北朝鮮の工作員
李梨華(イ・イーファ)…市井の韓国デビュー時にバックダンサーとなる予定だった
- 5 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時46分40秒
- しばらく雑談に花を咲かせた後、ユウキはお世話になった礼として、
幾ばくかの品物を置いていこうと思った。
腕時計一個がどれだけの食料と交換できるのか、ユウキには感覚がなかったが、
それでも何もないよりはましだろう。
だが、差し出した腕時計を老婦人は受け取らなかった。
同胞からそのような施しを受けるわけには行かないと頑なに固辞した。
「行く先で何があるか、わかりません。それは持っていた方がいい。保衛部の人間は
貪欲です。ものがあれば、いくらでも買収はできますから。」
「しかし、それではお世話になった挙句、ご馳走になった僕の気が済みません。
ぜひ、受け取ってください。時計はまだあるんです。」
「気持ちだけ受け取っておくわ。うちは大丈夫です。」
毅然とした態度で返された言葉にユウキは為す術がなかった。
すみません...
思わず零れた言葉に老婦人は反応し、微笑んで言った。
「気にしないで。その代わり、もし、帰りもこの道を通るのだったら、必ず寄ってね。
お話しを聞かせてちょうだい。」
「はい、必ず。」
ユウキは恐らく二度とこの人と会う事はないだろうと考えながらも、力強く答えた。
- 6 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時47分03秒
- 老婦人に見送られ、手を振って別れを惜しんだ後、歩を進めながらユウキは思った。
うちの母ちゃんとはえらい違いだ...
真希ちゃんも喧嘩ッ早かったし…
ユウキは賑やかだった我が家の様子を懐かしく振り返った。
姉が今のままの状態ならば、再び家族が相見えることはないだろう。
それはとても悲しいことだ。
だが、もともと自分たち家族は縁が薄かったのだ。
仕方のないことなのだと納得することで、寂しさを紛らわした。
諦念にも似た思いにユウキは幸薄い姉、真希のことを思った。
父と早く死別した自分たちを女手一つで育てた母には言い尽くせないほど感謝している。
その母は父をとても誇りにしていた。
生活していく上で必要なために帰化したものの、心は今でも共和国にある。
共和国のために殉じた父の生き様の見事さをユウキはことあるごとに聞かされた。
だから、金正日同志のお側で仕えられるなら、それは最高の生き方なんだ...
母の紅潮した顔が目に浮かんでくるようだ。
真希自身も、小さい頃から共和国の英雄、金父子の話を聞かされてきたせいか、
金正日のために仕えることに抵抗はないようだった。
- 7 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時47分28秒
- そこが、ユウキと異なるところだ。
ユウキは家族で唯一の男手だったせいか、可愛がられる反面、ことあるとごに
『偉大なる首領様のようにおなり』
と葉っぱをかけられて、妙な反抗心を植え付けられてしまった。
学校の友達と話していても、北朝鮮は怪しい国だとの印象しか受けなかったし、
家族が金父子を称揚すればするほど、逆にそれらの実態は北朝鮮2千万の人民を抑圧する
独裁者なのだとの思いが強まった。
ユウキは姉三人とは異なり、丁度入学する直前に父が死去し、日本に帰化したため、
母親は不本意だったようだが、朝鮮学校における民族教育を受けていない。
その影響が大きいのだろう。
イデオロギーの違いというのだろうか。
こと共和国に関して、他の家族と意見が対立した場合、合意を見ることがないことを
早いうちに理解したユウキは、適当に話をあわせる術を身に付けていた。
家族が金父子を称賛すればするほど、ユウキの心は冷め、洗脳により人民を操ろうとする
北朝鮮の独裁者への嫌悪を余計に募らせるのだった。
- 8 名前:名無し娘。 投稿日:2002年05月28日(火)19時47分48秒
- そんな自分がソニンと出会ったことは、ある意味、運命的と言えなくもない。
初めて会ったとき、挑発的に自分の出自を晒してきたソニンにユウキは何か、
強く惹かれるものを感じた。
『あたし、在日なの。あんたは?』
『僕は...元在日...かな...』
満足そうに微笑んだ彼女の表情が忘れられない。
思えば、あそこからすべては始まっていたんだ...
ソニンと出会わなければ自分が今、ここにいることもなかっただろう。
そして、市井がこのようなことになることも...
ソニンは共和国の事情にやけに詳しかった。
最初はひどく勉強熱心な娘だと思った。
何しろ自分の知らないことまで知っていたのだ。
だが、後で考えてみれば、それは当然だった。
朝鮮学校で姉達が仕入れてくる情報は、すべて金父子が自分たちに都合よく脚色した
フィクションだったのだから。
知らぬ間に、今度はユウキの方がソニンに傾倒していた。
どういうわけか、ソニンは共和国から亡命希望者を助ける仕事を手伝っており、
中心的な役割を担っていた。
- 9 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月02日(日)13時54分48秒
- 前スレからぶっ通しで読みました。
(・∀・)イイ!!
(・∀・)ベンキョウニモナル!!
期待sage
- 10 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月03日(月)17時30分23秒
- 今に至るまで、その詳しい理由を聞いていないので、彼女がなぜ、そんなことに首を
突っ込んでいるのか、よくは解らない。
だが、彼女が真剣に取り組んでいることだけは伝わってきた。
ユウキとしてはその真摯な姿勢に惜しみない協力の手を差し伸べずには入られない。
最終的な目標は朝鮮半島の統一。
それは南と北。韓国と北朝鮮という二つの立場を超えて共通の願いだ。
前世紀中には無理だと思われたドイツの統一に励まされたものは多いだろう。
独裁者ホーネッカーの息の根を止めたのは、最後は民衆の力だった。
あのとき、東ドイツからハンガリーを経由して亡命していった人々の奔流は、
歴史の大きなうねりとなり、東欧諸国の民主独立に大きな影響を与えた。
今や、北朝鮮から中国へと逃げ出し、韓国への亡命の動きが再び歴史の大きな転換点
となりつつある。
市井の救出は組織の目的からすると、直接的に関連するオペレーションではないが、
それでも、万全を期したバックアップ体制を取ってくれている。
自分のような素人が、いくら祖国とはいえ、実際に共和国に入り込んで救出作戦に
加わることになるとは思っても見なかったが、この時点までは順調に進んで来た。
- 11 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月03日(月)17時30分54秒
- 韓国から潜入してくるというサポート部隊とうまく合流できればいいが...
ユウキはふと、韓国と日本が共催するというサッカーの大会に思い至った。
サッカー好きだからではない。むしろ彼自身はその球技に対する思い入れが、
同世代の男子とは対照的にほとんどなかった。
懸念しているのはセキュリティだ。
韓国では国是として「反テロリズム」を掲げている米国が予選を戦う。
フーリガンだけを対象に警備の準備を進めればよい日本とは根本的にその緊張感は異なる。
もちろん、「悪の枢軸国」のひとつとして名指しで非難された共和国とて、報復の機会を
虎視眈々と狙っているはずだ。
加えて、故金日成国家主席の生誕90年記念行事のアリラン祭典の盛り上がりが今ひとつだけに、
親愛なる指導者同志、金正日も内心穏やかではないだろう。
そのような時期に恐らく韓国政府にもマークされているであろうNGO(非政府援助組織)
の一員が果たして、越境できるのかどうか。
ユウキにはそれが不安だった。
今日の定時連絡で確認しよう...
- 12 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月03日(月)17時32分04秒
- それにしても...とユウキは思った。
今ごろ、日本は盛り上がってるんだろな...
北朝鮮が絡めなかったのは残念だけど。
ユウキ自身は取り立ててサッカーに興味はない。
だが、それを言えば多くの日本人がそうだろう。
ユウキ自身、今ひとつW杯にのめり込めない理由がそれだけではないことを意識していた。
彼がW杯を何か人事のように感じているのは、やはり朴康造(パク・カンジョ)の代表落ち
によるところが大きい。
朴康造は2年前、Jリーグの京都から韓国Kリーグの城南一和(ソンナムイルファ)に
移籍した在日韓国人だ。
165cmと小柄な朴だが、巧みなドリブルと戦術眼により、パワーと体格で押しまくる韓国の
パワーサッカーに新風を吹き込み、一時は韓国の代表にまで選出された。
在日の一人として、自分たちの代表として応援できる選手が韓国とはいえ、国の代表にまで
選ばれた事実は大きい。
在日は自己のアイデンティティを確保するのに苦労する。
国籍は北朝鮮、あるいは韓国でも、日本で生まれて日本で育ち、名本後しか喋れない自分たちが、
祖国の人間として誇りを保つことは難しかった。
- 13 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月03日(月)17時33分34秒
- そんな中、朴選手がJリーガーとして京都に加入したことさえ知らなかったユウキは、
彼が単身、韓国に渡り、代表として祖国を背負って戦うまでに至ったことを知り、
いたく感動した。
やっと自分たちの代表として応援できる選手が現れた気がしたのだ。
それは北だろうが南だろうが、変わりはない。
ソニンも同じようなことを言っていたような気がする。
『あたし韓国籍なんだけどさぁ、韓国なんか行ったことないし...実を言うとあんたみたいな
在日の方がぜんっぜん、仲間って感じなのよね...もぉ、北とか南、関係なくさ。』
それはユウキにしても同じことだった。
多分、自分たちはどこにも属さない...いや属すことのできない中途半端な存在なんだ。
思春期の感じやすい心は、自分が周囲と微妙にしっくりこないことを既に意識していた。
これが在米の韓国・朝鮮人なんかだと、随分違うんだろう、とも思う。
彼らは韓国人、あるいは朝鮮人としての文化や習俗に誇りを持ち、それを変えることはない。
だが、日本というこの同質化を強要する国では、同じ言葉を話し、同じ価値観を身につけ
なければ、異質なものとして即座に排除される。
- 14 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月03日(月)17時34分47秒
- 在日は、だから微妙に浮いた不自然な存在だった。
自分がどこかの空間の狭間に生息しているような、奇妙な生き物のように思えた。
地に足がつかない...まさにそんな感じだ。
なんとなく諦念のような心持で、将来への展望が開けない日々を過ごしていたとき、
朴選手のことを知った。
驚きだった。
彼は文化的には日本人で、国籍は韓国人だ。
だが、日本では(永住権を持つとはいえ)外国人だし、韓国でも国籍を持つとはいえ、
文化的に外国人だ。
もちろん、在日同胞として、彼を自国民として認めることに韓国の誰もが異論はないだろう。
だが、心の底から彼を韓国人と認める人は少ない。
そんな不自然な立場から、彼は自身の力で韓国人としてのポジションを掴み取っていった。
韓国の代表だ。
韓国人でさえ、容易には選出されないその枠を彼は、自らの力でこじ開け、認めさせたのだ。
痛快だった。
それ以来、彼は朴康造を追い続けている。
昨年は怪我に泣き、リーグ戦も後半はほとんど欠場していた。
だから、W杯の代表に漏れたのある意味、仕方がない。
そして、朴康造の出場しない、W杯など彼にとっては何の意味もなかった。
- 15 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月03日(月)17時39分44秒
- >9 名無しさん
レスありがとうございます。
前スレ開始から一年近く経っているのにやっと2レス目ですが...
これからもマターリよろしくお願いします...トホホ
- 16 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月05日(水)01時44分33秒
- 同様にサッカーとは無縁のはずだったのになぜか、W杯取材のために韓国へと渡っていた
矢口は、早くもその熱気にあてられていた。
「すごかったねぇ!ね、あの髪の長い人、かっこいい!ね、誰、あの人、誰?!」
「ああ、安貞桓ね、彼はイタリアのペルージャでプレーしてるんだ。」
「かっこいい!!ね、彼いこ、インタビュー、ね?!彼!」
相変わらず色男には目のない矢口にマネージャは渋い顔だ。
「真里ちゃん...あの...取材、なんだけどさ...一応...」
「いいじゃん、韓国だしさ、あたしも娘。卒業したんだから、そろそろ色っぽい仕事の
一つや二つ。」
はぁ...とため息をつき、グラスを傾ける。
矢口達はLFR、ニッポン放送の特別取材班としての任務初日を無事終え、宿舎である江南の
ノボテルホテル近くにある焼肉屋で祝杯をあげていた。
「それにしても、日本も引き分けたし、韓国もW杯、出場6回目にして初勝利だっけ?
とにかく、めでたいね!」
「いやぁ、本当は日本で応援したかったですけどね...」
サッカーヲタのマネージャはやや不満顔だ。
- 17 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月05日(水)01時45分24秒
- その道に詳しくない矢口でさえ、自国の代表が戦う試合を見られなかったことは残念に感じている。
マネージャの無念は推して知るべきだろう。
「それにしても、すごい盛り上がってたね...サッカーって、いっつも、ああなの?」
「まさか、ワールドカップだよ。しかも自国開催だもの、盛り上がらないはずがないよ。」
「ふぅん、そんなもんなんだ。それにしても、もう、なんかこっちまで興奮しちゃったよ。
不思議だね、今まで韓国ってなんか、遠い感じだったけど、今はすごい溶け込んでる。」
「それこそが今回の取材の狙いだからね。趣旨としては大成功じゃない?」
鉄板の上に肉がなくなったところで、アルバイトらしき店員がおかわりを運んできた。
骨付きカルビ。
甘辛いたれにつけてある長い肉をはさみで切って焼いてもらうのが、本場、韓国風だ。
「うめぇ!」
「真里ちゃん、一応、日本を代表する元アイドルなんだから...言葉遣いには気をつけてくださいよ...」
「ああ!ちょっと、そんなに骨んとこ取らないでよ!もう...油断も隙もないんだから...」
そう口では牽制し合うだけでなく、実際、鉄板の上でも熾烈な箸争いを繰り広げる二人である。
- 18 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月05日(水)01時46分44秒
- 「ところでさ...」
既にビールと焼酎でほどよく酔いが回り上気した顔でマネージヤが切り出す。
「もうひとつ、韓国での仕事が舞い込んできたんだけど...」
「ん?なに、それもサッカー絡み?」
相変わらず、視線を箸の先に向けたまま語る二人だが、そこはプロだ。
話の要点だけは押さえている。
「いや、それがさぁ...驚かないでよ、北朝鮮の取材なんだ。」
「ふぅん...北朝鮮ねぇ...って、北朝鮮かよ?!」
驚いた矢口はようやくそこで視線を上げてマネージャの顔を凝視する。
当の本人は今度はキムチをつつくのに余念がない。
「韓国のサッカー協会会長でFIFAの副会長でもある鄭夢準氏が韓国屈指の財閥、現代グループの
御曹司だということは知ってるかな?」
答える代わりに首を横に振ってマネージャの目を覗き込む矢口。
眼鏡の奥にはいたずらそうな瞳が底意の知れない光りを宿しているのが見えるだけだ。
「彼はビジネスマンとしても超一流だね。現代グループは北朝鮮への観光事業を扱う、
現代金剛山観光開発という会社を持っている...」
マネージャは焼酎のグラスをぐぃっと呷(あお)ると続けた。
- 19 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月05日(水)01時47分55秒
- 「だが、当初こそ南北分断で離散した家族が再開できるという触れ込みで人気を集めた
ツアーも最近では飽きられたんだね、閑古鳥が鳴いている。そこでだ...」
「そこで...?」
矢口はごくり、と唾を飲み込んだ。
「彼が目をつけたのは日本人だね。もちろん、日本人が北朝鮮に強い恐怖心と敵愾心を
抱いてるのは彼も承知の上だ。だが、金剛山の景観は本当に美しい、実際に見てもらえれば、
日本人にもその素晴らしさがわかるはずだ、彼はそう考えた...」
矢口は無言で先を促す。
「で、なぜかここに日本を代表するアイドルグループの元メンバーがいるじゃないか、と。」
「元メンバーでいいのかよ...」
自嘲気味に茶化して言う矢口を無視して続ける。
「彼女が旅行番組か何かで紹介してくれれば、きっと知名度が上がるに違いない...
とまぁ、ざっとこんな趣旨さ。どうだい?」
「どうだいって言われてもねぇ...」
「瀬戸さんはいいよって、OK出してくれてんだ。」
「マジかよっ?!」
- 20 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月05日(水)01時48分56秒
- あの能天気社長め...
まったく仕事を選ばないことでは、会長の山崎といい勝負だ。
もし、日本でこんな話が飛び込んできたら、冗談じゅないと一蹴していただろう。
だが、韓国戦の観戦で高揚した気分の今、なんだか新しいことにチャレンジしたいような、
そんな気分にあることは否定できない。
加えて、ハロプロメンバーとしていち早く台湾進出を果たした松浦に対する対抗心もある。
よしっ...
やってみるか...
「で、それ、ワールドカップ後のなの?」
「う、うん...じゃあ...OK?」
「やるよ。」
「さすが、やぐっつぁん!実はワールドカップ期間中なんだ...予選が終わる6月中旬くらいかな..」
「そう...早いほうがいいよ...なんかサッカーっていいね。私まで燃えてきた。」
実際、矢口はどこか心の奥の方でなにかが燻っているような、
それを解放しないことには気ばかりが焦って、落ち着いて先に進めないような、
そんなもどかしい感じを抱いていた。
ここは一発、チャレンジしてみよう...
勢いというのは恐ろしい。
これが後々、矢口の運命を大きく変えることになろうとは、矢口自身もまだ気づいていなかった。
- 21 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月07日(金)18時13分54秒
- 列車は山間に差し掛かると、ときどき息切れしたようにスピードを落とし、
黒煙を吐きながら、それでもなんとか坂道を登っていく。
時折、空腹を訴えるかのように間歇的に鳴らされる汽笛が、人間だけでなく、機械でさえ
飢餓に喘いでいる、そんな感じを与え、窓から覗く景色の色が余計にくすんで感じられた。
私は、窓から入ってくる煙と格闘していた。
煤で顔が汚れないように手で顔を覆うが、開け放たれた窓から噴流のごとく
流れ込んでくる黒煙を遮る術はなかった。
しばらく顔を背けたり、下を向いたりして、顔が直接、煤に晒されないよう苦心して見たが、
有効な手立てがないとわかり、諦めて、頬を撫でる風のなすがままに任せた。
左脇と正面には北朝鮮の警察機構にあたる人民保安省の保安員が座っている。
彼らは私を監視する役割を担っていた。
私は平安南道价川市にある政治犯収容所、正確に言うと「革命化管理所」に移送される
途上だった。
座れるだけましなのだろう。
列車の中は踏み場もないほどの乗客が詰め込まれ、呻き声や怒声が定期的に聞こえてきた。
- 22 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月07日(金)18時14分34秒
- 列車の走る日は限られていたため、皆、乗り過ごすまいと必死だ。
車内に入れなかったものは、ドアの取っ手に掴まったりしていたが、天井に乗って体を
横にしている者も多かった。
生きて外の風景を見ることができるのは、これが最後の機会かもしれない。
保安員二人の比較的穏やかな態度は、恐らく、この先に私を待ち受ける状況の苛烈さを
物語っているよう思えた。
彼らは一般人民からは蛇蠍(だかつ)のごとく忌み嫌われている。
後藤からそう、聞いていた。
彼らには権力がある。
この国には逮捕の口実となる罪状が呆れるほど多くあるのだ。
とりわけ、国家反逆罪については厳しく取り締まるよう規定されており、
この罪状容疑で逮捕すれば、多少の誤認は認められるような雰囲気があった。
それを笠に着て、保安員の中には露骨に袖の下を要求するものは多い。
いや、そのような要求をしたことのない保安員はいないと断言できる。
それほど、この国の司法システムは歪みきっていた。
- 23 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月07日(金)18時15分03秒
- 司法システムを云々する以前に、人権という意識があるのかさえ疑わしい。
この国には出身成分(しゅっしんそんぶん)という身分階級が規定されていた。
核心階層・動揺階層・敵対階層の三階層は抗日パルチザンに参戦した革命兵士の血統を
一番の良心層として核心階層と位置づけ、戦争以前に地主であったもの、資本家などは
すべて、敵対階層に区分され、政治犯収容区域と名づけられた辺境に追いやられた。
彼らは生まれてから死ぬまで、鉄柵で囲まれ痩せた土地で一生を過ごさなければならない。
出身成分は絶対だった。それによっては通える学校からして既に限られていおり、
動揺階層から大学へと進学できるものは稀だった。
就職に関しても、おのずから制限があった。
保安員は特に、採用にあたって出身成分が厳しく問われ、動揺階層から採用されることはない。
それだけに、彼らの動揺階層への態度は容赦がなかった。
強請(ゆす)り集(たか)りは日常茶飯事で、所望の品を差し出さない市民をでっち上げた
罪状でブタ箱に放り込むことなど朝飯前だった。
- 24 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月07日(金)18時15分46秒
- その保安員でさえ、私の境遇には同情しているのだ。
この先に待っている環境が決して天国ではないことが解ろうというものだ。
私はほぅ、と嘆息して、後藤の最後の姿を思い浮かべた。
泣きながら私の名を呼んで、駆け寄ろうとした後藤。
だが、金正日の護衛兵に肩を掴まれて、私に近寄ることもできなかった。
それが後藤を見た最後になるとは。
馬鹿なことをしたものだという後悔は、もう、拘禁されてから何百回となく重ねた。
自分のことならよい。それはよい。
心配なのは、後藤の身の上だ。
金正日の寵愛を受けている間はそう、酷い目に会うことはないだろう。
だが、後藤自身、言っていたではないか。
指導者同志の寵愛を得て、まともにこの国で一生を終えたものはいない、と。
元来、あの男は飽きっぽいのだろう。
いや、それは金正日に限ったことではないか。
男など皆、似たようなものだ。
綺麗な人形にはすぐに飽きて、次のおもちゃをねだる大きな子ども...
あの人もそうだった。
父さん...
なぜ、こんなときに思い出してしまうのだろう。
寂しくて、不安で仕方がないとき、自然と思い浮かべてしまうその名前。
私は大嫌いなはずだった。
- 25 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月10日(月)21時38分08秒
- 私には父と過ごした記憶がほとんどない。
いや、思い出そうと努力したことがないと言ったほうがよいかもしれない。
実際に父と過ごした時間がなかったわけではないと思う。
時間的にはあったはずだ。
だが、固く閉ざした心の鎧はそう簡単に開かない。
その蓋を内側から強固に閉じ込めている力...
それは...
わかっている。
心の暗部をさらけ出すのは辛いのだ。
対峙する対象が自分であっても。
いや、むしろ自分であるからこそ。
認めたくない...
父が私達を捨てたなんてことは。
認めたくないんだ。
長い事、そう思っていた。
母は多くを語らなかった。
仕方ないのよ...
寂しげにそうつぶやく母に向かって、問い詰めることはできなかった。
辛いんだ。お母さんの方が。
だから、私は我慢しなきゃならない。
私は強くなきゃならない。
虚勢を張った生き方を選んだのは自分自身だ。
誰のせいでもない。
誰のせいでも...
認めない。
私を愛さなかった父など。
認めない。
父を繋ぎとめられなかった私の存在など。
認めない。
認めてはならない...
- 26 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月10日(月)21時39分25秒
- 私は殊更、強がって生きてきたのかも知れなかった。
あの子の家は片親だから...
そう指差されることないように...
貧しかった。
母は一生懸命、働いて私を育ててくれたけれども、手に職のない子持ちの女ができる
仕事など知れている。
私たちは老朽した公団アパートの狭い部屋の一室で、肩を寄せ合うようにひっそりと
息を詰めて暮らしていた。
外食などした覚えはないし、千葉に住んでいるからといってディズニーランドなど
見たこともない。
母親に余計な心労をかけまいとその名を口にすることさえ避けた。
お金のかかりそうなことにはいつも先手を打った。
近所の女の子がピアノやバレエなどの習い事を始めても、興味のない振りをした。
いや、むしろ積極的に貶した。
なに、あの変な音。
上品ぶって、いやな感じ。
ね、お母さん。
私は、外で遊んでいる方がずっといい。
ね、お母さん、ね...
母がそれを望んでいたかどうかはわからない。
訝しんでいたかもしれない。
普通の女の子の言いそうな台詞ではないから。
恐らく、気付いていただろう。
ごめんね、とは言わなかった。
私を慮ってのことだろうと思っている。
- 27 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月10日(月)21時39分53秒
- どこかで無理していたのかもしれなかった。
虚勢を張る生き方がすっかり板についてしまっていた私は、娘に入ってからもひたすら
強気で押さなければ潰されそうな強迫観念に追われていた。
新人で入ってきた後藤の教育係を任されてもひたすら強気で通した。
なにしろその類稀な資質は思わず目を見張るほどのものだったから。
この子がすぐに私たち先達を追い抜いていくのは火を見るよりも明らかだった。
だから、先輩としての意地を示したかった。
お前が凄いのは認めてやる。
だが、何の努力もなしに超えられると思うな。
私たちが流してきた涙を、積み重ねてきた時間を簡単に超えられると思うな。
後藤は意外と素直だった。
気が強い、というよりは芯の強い子だと思っていたから。
それは、言い換えれば我が強いということにもなりかねない。
だが、後藤はこちらが拍子抜けするくらい、素直だった。
優しい子...
なぜだろう..
答えは直に見つかった。
後藤は父を失っていた。永遠に。
その喪失感こそが後藤を強く、優しい存在にしているのかもしれない。
あるいは、見透かされていたのか...
私にはそのどちらにも思える。
- 28 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月10日(月)21時40分26秒
- 私たち二人の家庭環境は似ているようでいて、その実、本質は全く異なっている点で
ひどく厄介だった。
後藤は父を愛していたという。
だから亡くなったのは本当に悲しいことだったと素直に言える。
そして、失ったものが占めていた心の欠落を、
喪失感を埋めることはできないんだと自覚している。
それでも、「欠けている」という事実を認めることでそれを埋めようと努力することができる。
そして、また家族がそれぞれ相手の喪失感を認めて埋めようと気遣ってくれる。
後藤が優しく、また一面厳しい気質の成因をそんな点に求められるかもしれない。
だが、私はどうだ。
私の父はどこかで生きている。
だから、完全に欠落しているというわけではない。
だが、かといってそれが再び埋められる可能性はと問われたら、ゼロに等しい。
そして、何よりも、私は「欠けている」ことを認めたくなかったのだ。
私はひたすら、それが端からなかったかのように、
なくてもどうということはない、というように振舞うことで、「欠けてはいない」振りをして、
自分を欺こうとしていたのだ。
- 29 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月10日(月)21時40分58秒
- 後藤にはそれが判っていたのだろう。
今になって思えば、あの子の優しさは私が認めない「欠落」を必死で埋めようと
していたようにさえ思える。
ふ、バカな子だ...
私自身が直視できない心の暗く深い淵の底に彼女は何を見たものか。
その心の深遠の余りの救いようのなさに手を差し伸べずにはいられなかったのか。
それとも、自分の抱える喪失感と相似している様に彼我の区別をなくしたものか。
共感という言葉に嫌悪の情を催すには、彼女は幼すぎ、
他者の悲しみを見過ごすには彼女は優しすぎた。
今、この段に至ってもまだ、後藤自身は自らの境遇よりも自分のことを案じているだろう。
恐らく、というよりは確信をもってそう言える。
そういう子だ。後藤は。
だから、金正日の心にも決して埋められることのない「欠落」を見てしまったのだろう。
そして、見てしまったのなら、それを埋めようとせずにはいられない。
そういう子なのだ。後藤は。
だが、果たして後藤自身の「欠落」を埋めてくれるのは誰なのだろう。
金正日は気付いてくれるのか?
――ありえない。
私は黙って首を横に振った。
- 30 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月10日(月)21時41分25秒
- そして、もし、そう望むことが許されるならば、後藤のいない今、私の心の「欠落」を
埋めてくれるのは誰なのだろう...
ふと脳裏をよぎった意外な顔に狼狽した。
まさか...
なぜ、あの人が...
その人、金永南が最後に残した言葉がその低い声色とともに耳の奥で響いた。
『生き残ることだけを考えなさい...』
生きろ...あの人はそう言った。
この私に。イルボンのこの私に...
何か含みがあったのだろうか。
それならば、价川への列車に搭乗させられる前に助け出されていても良いはずだ。
そんな雰囲気は微塵も感じなかった。
だが、あの晩、彼の囁いた言葉、あれは...
望んでいた。
確かに、あの声は。
私に生きろ、と告げたあの声は確かに真剣な想いを孕んでいた。
きっと、助けてくれる。
根拠はないが、そんな気がする。
きっと誰かが助けてくれる。
それは必ずしもあの精悍な面構えの人民最高会議常任委員長ではないのかもしれないけれども。
その声の残滓にすがらなければならない今の私には、想像力だけが残された最後の希望だった。
- 31 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月11日(火)18時39分19秒
- 平地に差し掛かった。
窓から見える線路の先には价川の古びた駅舎の建物が見える。
平壌で乗車してから、既に数時間が経つ。日は既に傾きかけていた。
赤レンガの駅舎は向こう側から夕陽を受けて、長い影を手前に落としている。
いよいよ、収容所に収攬される瞬間が迫ってきた。
汽車は駅が近づくと徐々にスピードを落とし、駅構内に入ったときは
既に惰性で緩やかに進んでいるだけだった。
ガタガタと大きな音を立てて止まると、一斉に乗客が飛び出していく。
天井から窓枠を伝って降りる者、窓から飛び降りようとする気の短い者と、
列車を遠巻きに眺めていた乗客が我も我もと押し寄せて両者が入り混じり、
プラットホームの上は、しばし嬌声と怒号が飛び交う混乱の場と化した。
保安員は騒ぎが収まるまでじっと座り込み、しばらくして人波がすうっと引いてきたことを
確認してから、ようやく立ち上がった。
私も立つように促され、背の高い二人の保安員に前後を挟まれて、車両の通路から列車の
ドアへと向かった。
列車から降りようとタラップに足を踏み出すと、収容所の係官らしき者が二人、
つかつかと歩み寄り、形式的に保安員に対して敬礼した。
- 32 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月11日(火)18時39分54秒
- 保安員の一人が私の肩を掴んで一歩一歩、ゆっくりとタラップの板を踏み降ろしていく。
私は人形のように、ただ、促されるまま足を運ぶに過ぎない。
そして最後の一歩を踏み降ろしたとき、とうとう、行き着くところまで来てしまった
という恐ろしさとも寂しさともなんともつかない感覚に襲われ足が震えた。
迎えにきた係官の顔が無表情なだけに、また一層、不安感を煽る。
だが、案じても仕方がない。
後は成り行きに任せるしかないだろう。
ここで暴れても射殺されるのが落ちだ。
人民の命など指導者同志の爪の垢ほどの価値さえ認められない国のこと。
ハエでも叩く程度の感覚であっという間に蜂の巣にされているに違いない。
いや、弾がもったいないから、至近距離から一発か...
不毛な妄想はとめどなく続く。
やめよう。
正気を保ってこそ、希望は意味を持つ。
私が死ぬはずはない...絶対に。
気付くと、2〜30年くらい前から走っているのではないかという、オンボロを絵に描いた
ような車が後部座席のドアを開けて止まっていた。
係官が押し込むように私を乗せると、帯同してきた保安員二人は再び敬礼し、車を見送る
意志を示した。
- 33 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月11日(火)18時40分22秒
- シートはそこら中が破れて板の地肌が剥き出しになっており、クッションらしき素材の
残っている様子はまったく感じられない。
よくこんなものが今も現役で走っているものだ。
舗装されていない道路の状況を考えると、これは落ち着いて深深と腰を降ろすわけには
いかない。車が上下する度にしこたまお尻を固い板にぶつけなければならないだろう。
左隣に係官の一人が乗り込んで座ると、勢いよくドアを閉め、
運転を担当する同僚に出るよう短く告げた。
「カヨ(行くぞ。)」
車はぐるるんとお腹を空かせた動物のような音を立てると、けたたましくクラクション
を鳴らして、通行人を威嚇した。
驚いて、パッと道を明ける通行人たちには目もくれず、運転手がアクセルを踏む。
ぶろん、というような爆音を立てて急発進する車の後部で私はもんどりうって、なんとか
背もたれにしがみついた。
窓から後ろを覗くと、相変わらず二人の保安員が敬礼をしたまま、車を見送っていた。
- 34 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月13日(木)20時35分44秒
- 車から降りた私は二人の係官に挟まれるようにして門の前に立った。
赤茶けた煉瓦塀が並んでいる。
その中央に鉄の扉があった。
ギ、ギーと鈍い音がして、観音開きの戸が外側に開かれれる。
背の高い係官二人に両腕を挟まれた私は、ほとんど引きずられるような形で門を潜り、
収容所の中へと足を踏み入れた。
直ぐに扉は閉ざされて、ガチャンという乾いた音だけが構内に響き渡る。
塀の内側はだだっぴろい更地になっており、前方に聳える大きなコンクリートの建物以外は、
ほとんど何もないといって過言ではなかった。
私は後ろを振り向いて感慨に浸る間もなく、腕を引かれるままに建物の中へと進んだ。
廊下は大理石で敷き詰められており、歩くたびに係官の編み上げ靴がコツコツと
メトロノームのように規則的なリズムを打つ音が響き渡る。
まっすぐ長く続く廊下を渡りきったところ、右手にその部屋はあった。
所長室だろうか。明らかに他の部屋よりも上等な木製の扉を前にして、
係官の一人が緊張した様子で、ノックする。
- 35 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月13日(木)20時36分13秒
- 「トゥロガセヨ(入りなさい。)」
鋭く放たれた言葉に反応して係官がドアを開ける。
正面には机に座った所長らしき人物の姿が見える。
書類に目を通したまま顔を上げずに、入って扉を閉めるよう短く告げる。
調度といい部屋の装飾といい、高級感が漂っている。
驚いたことにその品質は、恐らく平壌の15号官邸で見たものとさほど変わらないようだった。
いったい、この所長はどれほどの権力を有して稲いるものか…
政治犯の収容所では、家族からの志といってもたかが知れている。
党の高位の職級に就いているかあるいは、党中央の幹部にコネがあるか…
いずれにしても、この男の危険な雰囲気を肌が感じ取っている。
私が机の正面に差し出されると、男はようやく書類から顔を上げた。
男は血色のいい頬を弛ませて厭らしい笑みを浮かべた。
その額は油でてかてかと光っている。
間違いない。この男は何か悪い事で私腹を肥やしている。
その言葉通り、男の体はぶよぶよとしていて締まりがなかった。
- 36 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月13日(木)20時39分23秒
- 「貴様が日帝の反革命分子かっ。」
男は吐き捨てるように言うと、それでも顔に硬直した笑みを張り付かせたまま、
舐めまわすように厭らしい視線を私の胸の辺りから腰にかけて這わせた。
満足そうにごくりと唾を飲み込むと、係官の一人に指示して、着替えを用意するよう告げる。
「イルボンの豚めがっ…お前などに着せてやる服があるだけましだと思え!」
それが服であることに気付くまで数秒かかった。
係官が無造作に突き出した腕の先にあるそのボロ雑巾のような布切れの汚さは、
思考を硬直させるに充分な衝撃を私に与えた。
それは既にもとの色が何色であったかさえ判然としないほどどす黒く汚れて不快な臭いを
発していた。もう何人もの政治犯がこれを着たまま命を落としていったのだろう。
その饐えた臭いはひょっとすると死臭をも留めているかと思わせる強烈な刺激で生存への
決意を萎えさせる。
戦いはもう既に始まっていた。
絶望…
やつらのやり口はわかった。
絶望を、生きる望みを失わせることでやつらは囚人の死期を早めようとしている。
負けちゃだめだ…負けちゃだめだ…
私は必死で自分を鼓舞し続けた。
- 37 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月14日(金)17時51分30秒
- 「ここで着替えるんだ。」
所長はいかにも好色そうな表情を浮かべ、係官二人に部屋から退出するよう告げた。
二人は戸惑う私の横を通り抜け、扉の前で振り向くと、敬礼して無言のまま部屋を出た。
私は渡された服を手にしたまま、阿呆のように立ち尽くすままである。
「どうした。主体思想のもと、偉大なる指導者同志のために身も心も捧げることが革命
精神を身につけるための最短の近道だと教えられなかったかね?」
所長は、いつまでたっても行動を起こさない私にいらついたものか、やおら立ち上がると、小型の鞭のようなもの手にして、机を回り込み、私に近づいてきた。
「あまり私を甘く見ないほうがいいぞ。ここでは革命精神の境地に至る途上で挫折した者は、
生きている資格さえ与えられんのだからな。」
脅しているのはわかる。
だが、屈辱に耐える怒りと汚臭への生理的嫌悪、加えて所長のあからさまな性的欲求に
対する恐怖の前に冷静な判断ができそうになかった。
それでも、一歩一歩、ゆっくりと所長は近づいてくる。
私に選択の余地はなかった。
- 38 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月14日(金)17時51分53秒
- 私は腹を括った。
15号官邸ではうまく撃退することができた。
だが、ここで同じことをすれば、すぐさま射殺されてしまうだろう。
先手必勝。
生きる...のだ。
生きるために割り切れ...
そう私の生存本能が囁く。
いいだろう。
生きるためならばすべてが許される。
他人を殺すことでさえも、正当防衛の名のもとに。
ならば、自分を殺したとて何が悪い。
純潔の処女(おとめ)市井紗耶香は今日を限りに死滅する。
代わりに、ひたすら生きるためだけに自己の全精力を注ぐ獣のような市井紗耶香が生まれればよい。
生きるためならば何でもやるぞ。
となれば、ここの権力者と関係を持てれば有利ではないか。
もはや、破綻した思考回路でやけくそに近い支離滅裂な結論を導き出すと、私は手足の
動かし方を忘れていたかのようなぎこちなさで、機械的に人民服の上着のボタンに手をかけた。
上着を脱いで肌着の上から、汚れた囚人服を被ろうとすると所長が止めた。
「誰が肌着をつけてよいと言った。腐り切った資本主義の垢はここですべて捨て去るのだ。」
高邁な思想を語るにはあまりに締まりのない顔つきで所長は肌着も脱ぐよう促した。
- 39 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月14日(金)17時52分16秒
- ふん。そんなに見たいなら見せてやる。
これから先に待ち受ける運命を考えるなら、それくらいは惜しくもない。
私は肌着の袖を一本ずつ抜いて、肘でもって上にずり上げた。
肌着を上げた反動のためか、さして豊かとはいえない私の乳房が小刻みに揺れる。
いよいよ我慢できなくなってきたのか、所長は荒い息を吐きながら、私の直ぐ鼻先にまで
近づいてきた。
興奮を隠そうともしない様子に、逆に私の方は少し客観的に眺める余裕が出てきた。
まったく、これじゃ、女の裸を見たことみない童貞みたいだ。
ぐっ...
左胸の先端に鞭の柄の部分を当てると、所長は小刻みに揺らしてきた。
痛い...
こいつは女の扱いを知っているのだろうか。
というより、こいつはひょっとして...
ビュン、と空を切る音が聞こえたときには既に激しい痛みを左胸に感じていた。
うぅっ...
恐る恐る視線を落とすと、ミミズのような紅い筋が一本這っている。
甘かったか...
こいつは特殊な性的嗜好の持ち主だ。
これ以上、好き勝手にやらせてエスカレートしては命が危ない。
ここは反撃に出るべきだ、と本能が告げていた。
- 40 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月14日(金)17時52分35秒
- 私は左肩から胸にかけての激しい痛みを堪えながら、おもむろに所長に抱きつくと
股間を弄(まさぐ)った。
思ったとおり、やつのそれはもうはちきれんばかりにカチンコチンに固くなっている。
はぁっ...
やつの耳裏めがけて息を吹きかけると、興奮のあまりわけがわからなくなったのだろう。
獣のようにくぐもった唸り声を上げて、私にむしゃぶりついてきた。
ゴツゴツと節くれだった手がズボンの中に入り込み闇雲に中心を目指して動き回る。
下着の上からではもどかしいとばかりに、今度は下着の端から指をもぐりこませようと
するが上手くいかない。焦って今度はズボンごと下着を脱がしにかかる。
私は必死で下着を脱がそうともがくやつの首筋に舌を這わせ、再びはぁっと息を吹きかけた。
さらに耳をちろちろと舐めながら、下の手はズボンを突き破りそうなほど熱く固くなった
塊を刺激し続ける。
んぐぁっ、と何かを飲み込むような音を発したのと股間の昂ぶりがびくっと震えたのは
ほぼ同時だった。
第1ラウンド終了...
続けてすぐさま第2ラウンドの攻撃に取り掛からねば...
相手にペースを掴ませたら、それこそ、何を仕出かすかわからない。
- 41 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月17日(月)18時33分45秒
- 私はやつの頭に左腕を回して口に吸い付くと同時に、下半身への刺激を再開した。
男は一度放出したら、次に準備ができるまで時間がかかると聞いたことがあるが、
切羽詰まったこの時だけに、そのようなことを慮る余裕はなかった。
口に吸い付いた途端、タバコのやにの臭いが口の中に広がる。
舌をねじ込むように割り入れてくるのに合わせて、私も舌を絡ませる。
口の端から滴り落ちる涎も気にせず、ひたすら唇と唇を重ね合わせやつの回復を待つ。
やつの手が剥き出しになった私の乳首に伸びてくる。
びくっ…
いやだ…こんなやつの前なのに固くとんがってる…
冷静でいなければならないのに、自分自身の積極さに体の反応が良すぎて困惑する。
下腹部の芯にあたるところがさっきからむずむずしてきたことをどう捉えたらよいのだろう。
熱い滴りを漏らすまいと知らずに股関節に力が入る。
まさか自分が本当に喜んでいるとは思いたくないが…
先ほどから刺激し過ぎないように、優しく撫でてきたやつの股間が再び勢いを増してくる。
私は、覚悟を決め、やつのベルトのバックルを外しにかかった。
- 42 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月17日(月)18時34分05秒
- カチャリ…
と音がしてバックルが外れたことを確認し、私はやつの口から重ねていた唇を引き剥がした。
急いで腰を押してやつの股間に跪くと、丁度顔の前に位置するファスナーを下ろし、
ズボンの腰のあたりに手をかける。
局部の布地を膨らませている怒張に視線をちらっと寄せて、一気にズボンを下ろそうと
した瞬間、やつが私の手を制した。
驚いて顔を上げると、やつの視線は扉に向けられている。
コン、コン、コン…
性急なリズムで、差し迫った要件を予想させるノックの音が聞こえた。
やつは所長の顔に戻り、急いで上着を着るように身振りで指示する。
私が上半身、裸なのはさすがにまずいのだろう。
急いで汚れ切った冷たい服を身に纏うと、私は、唾液に塗(まみ)れた口を袖口で拭い、
乱れた髪を整えた。
「何事だ!」
やや怒ったような所長の問いに対して答えた声は若い係官のものだった。
「所長、道の党中央委員会行政部から検閲係官がお見えになっています!」
「なんだと!…抜き打ちか…クソっ!」
所長は歯軋りが聞こえそうなくらい、悔しそうな表情を隠さずに、慌ててベルトの
バックルを締めると、扉を開けるように指示した。
- 43 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月17日(月)18時34分25秒
- 「係官殿をご案内しろ!」
所長の声に応じて、若い収容所の係官が扉を開けると、細身ですらっとした男が入ってきた。
さしもの所長もこの男の前では借りてきた猫のように大人しくなった。
平安南道における党の高位の幹部なのだろう。
この男の登場により、とりあえず最悪の事態だけは回避できたが、尚も予断を許さない。
味方であることまでは期待しないが、所長と結託してさらに私を窮地に陥れる存在である
かもしれないのだ。いや、むしろその可能性の方が高かった。
だが、男は横目で私をちらりと一瞥しただけで、すぐに所長の方に向かった。
「所長、少し内輪でお話しがあるのですがね。」
「これはまた、急にどうした風の吹き回しで?」
お楽しみを邪魔された所長は不満げな様子を露(あらわ)にして噛み付かんばかりの
勢いである。
男は私に聞こえないよう、所長の耳に口を寄せると二言三言、小声で囁いた。
その内容に驚いたのか、目を見開いては、ときどき私をちらっちらっと覗く様が、
気に掛かる。
なんだろう…
良い方に働けばいいが…
私は、次に所長がどりような態度に出るか、固唾を飲んで見守った。
- 44 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月18日(火)18時51分56秒
- 「なぜ金永南同志が…」
「ピパダ(血の海)の踊り子だ。何かあってもおかしくはない。ただ、あの堅物の金永南
にしては珍しい事だがな…」
本人達は声を潜めているつもりなのだろうが、私には筒抜けだった。
それにしても金永南という名前が聞こえたが。
どういう内容なのだろう?
気になる…
「政局がどちらに転ぶかわからない状況だ…やつの機嫌を取って置くのも悪くはない…」
「ですが…」
「妙な気をおこすな。たしかにこいつの色の白さはたまらんが、若い女はこいつだけではない。
お前もここで終わるつもりはないだろう…」
男はそれだけ言うと、所長に背を向けてつかつかと歩み去って行った。
私の横を通るときに一瞬、立ち止まって視線を走らされたような気がしたのは気のせいだろうか。
何はともあれ、今、この場で陵辱を受けることだけは避けられたようだ。
政局がどうとかわけのわからない理由で助かったことに一抹の不安は残るが、とりあえず、
胸を撫で下ろす。
- 45 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月18日(火)18時53分13秒
- 所長は呆然と男の後姿を見送っていたが、しばらくすると我に返って私に向かって声を荒げた。
「何をしている!早く着替えんか!」
私は下のズボンを脱ぐと、上着同様、どす黒く変色した制服に足を通した。
興奮して体温が上がっていたせいか、布地の感触が肌に冷たい。
後々、ときたま見え隠れする虱に悩まされるのかもしれないが、今はあまり気にならなかった。
金永南の名前を聞いた事で、これほどの精神の安定を得られた自分が不思議だった。
あるいは後藤の意を汲んでくれたのかもしれないが…
どちらにしても誰かがまだ、私を見捨てていないと知り得たことは大きな励みになる。
生きることでその想いに応えねば。
自分の命が自分だけのものではないと知ることこそが、生への強い渇望を生む。
「管理官はいるか!」
所長の野太い声に続いて、警防を腰に吊るした看守のような男が慌てて姿を現した。
「こいつを南棟の革命実践作業従事班の房に連れて行け!」
「所長、新入りですが、作業班でよろしいので?」
「こいつは、わけありだ。構わん。作業班だ!わかったら、さっさと行け!」
看守は慌てて敬礼すると私に向き直り、黙って腕を掴んで収容棟へと追い立てた。
- 46 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月19日(水)18時55分57秒
- 「うわっ、やった!すげぇやっ!!すごい、すごい、すごぉぉぉぃ!!」
劇的な幕切れに大田(てじょん)ワールドカップ競技場は興奮の坩堝と化し、歓喜の怒号が渦巻く。
燃えるような赤い波に呑み込まれそうな錯覚に陥りながらも矢口は最後のゴールを決めた
英雄、安貞桓の勇姿に見入っていた。
韓国での取材もいよいよ佳境に入り、韓国対イタリア戦を観戦していた矢口はその凄まじい
ばかりの雰囲気に鳥肌が起ちそうになった。
現代観光の金剛山ツアーで北朝鮮入りを明日に控え、早く床に就きたいところだが、
今夜はそうも行きそうにない。
きっとソウルの街も夜通し、この歴史的な勝利を祝うのだろう。
「なんか、日本の仇を討ってもらった気分だねぇ...」
「ああ、驚いたねぇ。まさかイタリアが負けるとは...」
サッカー好きのマネージャーはイタリアの敗戦に少なからずショックを受けながらも、
歴史的な瞬間に居合わせた幸運と先に敗退が決まっていた日本代表の不運を天秤に掛け、
戸惑っているようだった。
- 47 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月19日(水)19時00分42秒
- 「ソウルまで帰れるかねぇ...これ...」
混雑を見越して比較的早めに会場を飛び出したつもりではあったが、
興奮冷めやらぬ市民が道を埋め尽くし、なかなか進むに進めない。
「ま、最悪、車ん中で寝ればいいし。娘。のときももよくあったから。」
「そうだね。でも束草(そくちょ)までも高速で移動だし、束草−長箭港(じゃんじんはん)
間も快速船とはいえ、海上移動だから。できるだけ、今日は体を休めておきたい。」
サッカーファンではあるが仕事にはまじめなマネージャだけに、もう興奮モードからは
切り替えている。
本当はビールでも飲んで韓国の人たちと一緒に騒ぎたいところだけど、それもままならない。
矢口も娘。の頃から仕事に関しては厳しかった。
それでなければ、4年間も芸能界のトップを走ってこられるわけがない。
そして、娘。の看板を外した今となっては、さらに「信用」の重要性を噛みしめている。
降って沸いたような仕事ではあるけれど、日本の一民間人として北朝鮮ツアーのレポートが
できる機会などというのは、そうあることはないだろう。
自分の価値を高めるためにも、この仕事に対する意気込みは強い。
- 48 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月20日(木)18時34分32秒
- 結局、江南のノボテルホテルに辿り着いたのは、明け方に近い午前3時を周っていた。
高速道路に入ってからは比較的スムースに動いたものの、インターチェンジに入るまでが
大変だった。
なにしろ強敵揃いの予選リーグを突破しただけでも大変なのに、優勝候補と目されていた
(らしい)イタリアを下してしまったのだから。
長年ライバルとして競い合ってきた日本の敗退が決まっているだけに、アジア勢の面子を
保ったという誇らしさあるのだろう。
夜を通して騒ぎたくなる気持ちは理解できないでもない。
矢口は諦めて、車の中でもできるだけ目を瞑って体を休めようと努めた。
だから、いつ高速に入ってソウルに着いたのかも知らない。
ホテルの玄関で車を降りると、矢口はそのまま部屋に上がり、シャワーも浴びずにベッド
に転がり込むとすぐさま眠りに落ち、翌朝まで泥のように眠った。
朝7時。
モーニングコールに起こされた頃には既に日は高く、ソウルの空は綺麗に晴れ渡っていた。
さて、と...
いよいよ北朝鮮か...
昨日の興奮も冷め遣らない中、大仕事を前に心は昂ぶっている。
矢口はシャワーを浴びてはやる気持ちを抑えようと思った。
- 49 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月20日(木)18時35分07秒
- 束草までがまた大変だった。
W杯の試合当日は各地で混雑しないよう、交通規制が行われていたのだが、試合のない
今日はやはり、大都市ソウルだけに渋滞すること著しい。
「はぁ…お腹いっぱい。朝からキムチ食っちゃったよぉ。」
「真里ちゃん、くさいよ...」
「帰ったらみんなに言われるかな?」
「いや、マジでリステリンかなんか使った方がいいよ。」
景気づけの冗談のつもりだっただけに、本気で臭いと言われたのには閉口した。
自分ではそれほどの自覚がないだけに一層、ショックだ。
一応、アイドル...だったんだけどな...
っていうか、アイドルだろ、おいら!
心の中で突っ込みを入れて自分を励ますと、矢口は車の喉に目をやった。
街中のビルというビルに真っ赤な垂れ幕が下がり、ハングルで何事かを訴えている。
ベスト8おめでとう!!
祝!歴史的勝利!
おそらくそんなことが書かれているのだろう。
読めないのがちょっと悔しい。
日本に帰ったら、ちっょと勉強してみようか。
文法は日本語に似ていると言うではないか。
- 50 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月25日(火)18時18分21秒
- 束草(そくちょ)から長箭港(じゃんじんはん)まで3時間という謳い文句の快速船雪峰号が
正午に束草を出航して、金剛山の懐である長箭港に入ったのは夕刻5時過ぎのことであった。
矢口は同行する韓国の放送局MBCのクルーと上陸前に軽い打ち合わせをこなすと、
いよいよ北朝鮮の地を前にして胸をときめかせる。
回されるカメラを前に心境を独白するのでさえ、今は一人前の仕事ができるようになった
ようで気分を高揚させる。
「イェー、チョアヨ、カット。(ハイ、いいですよ、カット。)」
ハングルでカットの声がかかるが何となく雰囲気でわかる。
当たり前か。
今回はW杯の公式スポンサになったことで勢いに乗る現代グループが日本での知名度浸透
を狙って一社提供で送る番組ということで、金剛山観光を事業としている現代峨山の女性
社員、キムさんが道中をコーディネイトしてくれる。
ミス・キムはソウル大出の才媛で日本語がペラペラだ。
ハングルのできない日本のアイドルのため、通訳兼コーディネータとして矢口をバック
アップしてくれる。
- 51 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月25日(火)18時18分42秒
- 甲板からはもうじき落ちようとする夕陽をバックに金剛山の峰々が屹立している。
その荒々しい岩肌を夕焼けの残滓に赤く染め上げて、朝鮮半島随一といわれる景勝は
矢口の心を打った。
「すっげぇー!」
思わず写真を撮ろうとして、カメラをミス・キムに預けたことを思い出す。
一般観光客の場合、軍事施設など明らかに問題のある対象でなければ、それほど厳しく
注意されることはないそうだが、矢口の場合、TVカメラに追われていることもあり、
大事を取ったというところか。
クルーと共に船を降りると、ターミナルで入国審査のスタンプを押してもらう。
ここまでは普通の海外旅行と変わらない。
さぁ、いよいよ持ち物検査だ...
期待に胸を膨らます矢口だが、X線検査装置を自動的に通すシステムでは検閲の醍醐味を
これっぽっちも味わえない。これも当たり前といえば当たり前だ。
下船する前に、既にミス・キムに危なそうなものは預けてしまったのだから。
落胆する矢口を他所にマネージャはほっとした様子だ。
入国からトラブルに巻き込まれなかったことで安堵しているのだ。
- 52 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月25日(火)18時19分04秒
- 記念すべき北朝鮮第一日の宿泊は「ホテル海金剛。」
海上に浮かぶ客船ホテルのようなものだと思えばいい。
チェックインを済ませて部屋に入ると、清潔そうなこじんまりとした様子で好感が持てた。
もとより、自分のサイズなら、部屋の広さやベッドの大きさで文句をいう筋合いはないの
だけれど。
再びホテルを出て、食事に向かう。
ホテルでの食事ではないのか、と尋ねるとミス・キムは韓国美人らしく目を細めて
微笑みながら答える。
「温泉があるんですよ。日本の方はお好きでしょぅ?」
ハイ、お好きです...
矢口は取材旅行で温泉にまで入れるとは思っていなかっただけに、
小躍りせんばかりに喜んだ。
ヤタッ!温泉、温泉だっ!
見るとマネージャも心なしか表情が弛緩している。
確かにミス・キムが言うように日本人は温泉好きな民族かもしれない。
だが、矢口ははたと気付いた。
まさか...
撮らないよな...おいらの入浴姿なんて...
おずおずとマネージャに切り出すと軽く一蹴される。
「北朝鮮の温泉なんて珍しいものをレポートしないわけにはいかないでしょ?」
「っていうか、おいら、元がつくけどアイドルだったんだぞ!」
- 53 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月25日(火)18時19分28秒
- 「大丈夫だよ。水着も用意してきたんだから。」
聞いてねぇ...
矢口は、このスケベ、だの甲斐性なし、だのと悪態を吐きつつもそれでも弾む心を
抑えきれなかった。
心配していた浴場は一応、男女に分かれていた。
北朝鮮だからといって風呂まで男女平等ではないらしい。
というか、これは西側の観光客用施設なのだから、それも当然か。
下らないことら関心しつつ矢口が服を脱ごうとすると、後ろから何かの気配を感じる。
振り向くと鼻の下を伸ばした韓国人カメラマンが今まさに脱衣の瞬間をカメラに収めようと
していたところだった。
「このスケベやろぉっ!!」
日本女性は大人しいから文句も言わずに裸を晒すだろう、とそう考えていたのなら、
相手が悪かった。
ともかく、矢口の甲高い叫び声に驚いたカメラマンが一時退却。
女子更衣室から飛び出していく。
矢口は素早くマネージャの用意した水着を着けると、その上からバスタオルを巻いた。
ああ...なんかこの方がセクシーかも...
着替えを済ませた矢口はカメラマンを従えて、浴場へと入っていく。
その広さは日本の有名な湯治場の余剰と比較して遜色がなかった。
- 54 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月25日(火)18時19分49秒
- 湯船は三つ。そのどの浴槽も並々と金剛山の地下鉱泉から湧き出す良質の泉水を湛えている。
天井は高く、ガラス張りで湯気のために曇っていなければ星空さえ見通せるという。
矢口は足を滑らせないよう注意深く歩を進めると、浴槽の前で簡単に体を流し、
湯船に足を入れた。
ん、丁度いい湯加減かも...
ゆっくりと体を浸すと、体の芯までじわじわとぬくもりが染み込んでくるような
心地よさを感じる。
んぁっ...極楽ぅ...
矢口はカメラが回っているのも忘れて、その心地よい感覚に身を委ねた。
娘。のツアーは日程がきつかったが、地方で泊まる温泉は楽かったことを思い出す。
歌と踊りでステージ狭しと激しく動き回る彼女達がいくら若くとも、
その筋肉は酷使されて悲鳴を上げる。
マッサージを呼ぶのは日常茶飯事。中学生とて例外ではない。
その娘。達にとって温泉は、本当に一日の終わりを飾る、最高の楽しみだったのだ。
気がつくとディレクタがコメントを求めている。
仕事であることをすっかり失念していた矢口は、慌てて何か気の利いた言い回しを
探すため、キョロキョロと辺りを見回した。
- 55 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月26日(水)18時16分15秒
- 「あぁ、えっと、あ、あのっ、天井が高いです。ガラス張りで綺麗ですね。
ええっと、北朝鮮、思ったより進んでます。あ、いけねっ...」
急に振られたせいで焦ってしまい、ついつい思った事を口走ってしまう。
いつもなら、言ってはいけないことなど事前に確認しておく矢口だけには珍しい失態だ。
気を取り直して、鉱泉の効能を説明したり、入浴中の韓国女性たちへの軽いインタビュー
などを撮り終えた頃には、汗だくになってしまい、もう一度湯船に浸かるはめになった。
「ふえ〜っ、極楽、極楽ぅ。」
仕事とはいえ温泉で疲れを癒し、後は食事を待つばかりという状況は矢口ならずとも
嬉しいものだ。
心なしかマネージャを始め、主だったクルーの表情も柔らかい。
食堂のある木造の平屋までは徒歩で数分というところだった。
既に日は落ちて辺りは漆黒の闇に包まれている。
温泉と食堂の建物を結ぶ道路はわずかに照明が置かれているものの、
周囲に灯りを発するものはそれ以外なく、完全な闇に閉ざされていた。
想像してはいたことだが、道路の周囲は金網で囲われている。
時折、金網の途切れるところには北朝鮮の人民軍兵士がしっかりと監視の任に就いていた。
- 56 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月26日(水)18時16分38秒
- 食堂では食券を購入してから入場することになっているらしい。
わざとらしい説明を加えながらカメラの前で、自動販売機にドル札を挿入し、一枚$9の
食券を購入すると、入り口のお姉さんに渡し、入場する。
「うわっ、凄いね。」
食事はバイキング制になっており、自分で好きなものを取って食べるスタイルだ。
壁際のテーブルの上には所狭しと料理が並び、中には熱い湯気をくゆらしているものもあり、
否が応にも矢口の食欲を刺激する。
「うまそぉっ、どれにしよっかな...」
料理は洋風、中華などもあるにはあるが、やはり韓国からの顧客、しかも年輩の方が多い
せいか、圧倒的に韓国料理のレパートリーが多い。
とはいっても、矢口には何がなんだかさっぱりわからないのだが。
とりあえず、チヂミや数種類のキムチなどを皿に盛り、湯気を立てているユッケジャンを
お椀に掬う。極めつけはヒピンバップ。ホットプレートの上で熱い気配を漂わせている
石釜にコチュジャンをたっぷりとかけ、中身の野菜やご飯を混ぜて真っ赤に和える。
- 57 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月26日(水)18時17分04秒
- 「うっめぇ!!」
仕事を忘れて歓声を発する矢口だが、カメラを前にしては食事を堪能してばかりもいられない。
うまい!ばかりを連発するわけにもかず、何か気の利いたことを言おうとするが、
食を形容するうまい修飾語が出てこない。
モーたいの似非グルメコーナーき何とかギャグで乗り切ったものの、
本当のグルメリポータは大変だわ、と実感する。
それにしても...
矢口は未知の国、北朝鮮に足を踏み入れたという実感を全く感じられずにいることに
何かちっょとした違和感を感じている。
たしかに、歩道の脇は金網で囲われていた。
監視にあたる(何を?)人民軍兵士も見た。
だが...
なんとも物足りないという感覚、というよりは肩透かしを食らった感じか。
余りにも快適過ぎる。
ホテルも温泉も食堂もすべて現代峨山の社員、つまり韓国人としか接していないからだ
と気付いた。
こんなんで番組になるのかねぇ...
矢口の心配を他所にマネージャは韓国美人のミス・キムにビールを注がれて、恐縮しつつも
なんだか嬉しそうだ。
真面目一辺倒のマネージャだけに、こんなときくらいはリラックスさせてあげたい。
まぁ、頑張れ...
- 58 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月26日(水)18時17分22秒
- ミス・キムとW杯談義を始めるマネージャの姿を微笑ましく思いながら、矢口はなんとなく、
視線を遠くに投げてみる。
大きな食堂の入りは約3割くらい。
W杯の最中ということで、ほとんどの国民はTVの前に陣取って応援しているのだろう。
韓国代表が勝ち進んでいるのだから、それは仕方がない。
ほとんどが年輩の韓国人だが、中には若い人もいる...と思ってよく見ると、どうも様子が違う。
やはり、現代の社員のようだ。
かつて韓国最大の財閥(今はサムスンについで2番手だけれども)だっただけに、
日本でいえば、三井三菱グループ企業のようなステイタスなのだろう。
皆、身なりもパリっとしているし、何より頭が良さそうだ。
韓国人というとやたら激しく日本人に突っかかってきそうな怖いイメージがあるが、
彼らの印象はそうしたステロタイプな偏見を覆すのに充分なスマートなものだった。
田舎の老夫婦らと談笑する韓国のエリートから目を離すと、矢口は食堂の入り口に目を向けた。
- 59 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月26日(水)18時17分42秒
- あれっ...?
まさかね....
一瞬、よく知っている人物の横顔を見たように感じたのは疲れが溜まっているせいか。
矢口は追いかけてみたい衝動にかられたが、そんなはずはないと思い直して、上げかけた
腰を下ろした。
まぁ、こんなとこにいるはずないよね...
行方知れずとはいえ...
まったく、こんなところに来てまでかつての仲間の姿をたまたま通りすがった人に重ねる
なんて、いくら似ているとはいえ、すこし気恥ずかしい。
これではまるで、自分があの娘に懸想しているようではないか。
実際のところ、忙しさにかまけて彼女のことなど、ここ最近はすっかり忘れていたというのに...
彼女の行方を気にしていた保田ならあるいは、そのように錯覚することもありえるのだろうが。
矢口はむしろ、そちらが気になってしまう。
娘。における居場所を失いつつ尚も献身的に他メンの引き立て役に回り続ける保田。
同期として必ずしも良好なだけでの関係ではなかったが、最近の虚ろな表情を見ていると
やはり無性に居たたまれなくなる。
せめて北朝鮮名物の力道山ウィスキーでも買っていこうか...
そう思ったときには既に後藤のことなど忘れていた。
- 60 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月27日(木)19時31分12秒
- はぁ、はぁ...
攣りそうになる足を必死に持ち上げては登る急坂の向こう、ごつごつとした岩肌の間、
切り取られたようにぽっかりと浮かぶ空の青さが目にまぶしい。
軽いハイキングと聞いていたのに、朝っぱらから険しい坂の上り下りの連続で、
鉛をつけたように足が重い。
傍らにはやはり、ぜぇぜぇ、はぁはぁ、と荒い息を吐いて今にも倒れそうな様子のマネージャ、
その後ろには、汗一つかかずに平然とした顔で黙々と登坂してくるミス・キムの姿がある。
周囲に聳え立つ険峻たる岩峰の連なりは、その無骨な灰色と鋭角的な断面により、
山中で高層ビルの摩天楼に囲まれているかのような錯覚を催させる。
そして、その峰々の間には切り絵のような紺碧の空がくっきりとした輪郭で視線を奪い、
その先にある宇宙の深遠へと意識を誘う。
これほど疲れていなければ、もう少しこの絶景を楽しめたに違いない。
急峻な岩峰の山間に開かれた山道の両脇には自生した天然の松が枝を広げ、
さらにはその合間に木蓮の花が顔を覗かせる。
ただ人の吐く息と、未知を踏みしめる足音だけが響く中、矢口は深山の静寂に全身を浸し、
ひたすら頂上を目指して雑念を払った。
- 61 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月27日(木)19時31分34秒
- ざく、ざくっ...
一歩一歩踏みしめる地面が白い。
額から滴る汗がその石灰石の岩盤に点々と痕を残す。
まるでそれが自分の足跡だとでも言わんばかりの痕跡を振り返ることで、
矢口は自分が辿ってきたその長い道のりを確かめた。
眼前の青は足を踏み出す度にいよいよその鮮やかさを増し、その先へと向かい
焦がれるような思いを増幅させる。
一歩、また一歩と近づくに連れ、矢口は天国への階段を上るような錯覚を覚えた。
時折、岩肌に刻まれた金父子を称えたハングルの大文字が見えると、それがまた
さらに不思議な雰囲気を醸し出す。
もうすぐだ...もうすぐだぞ...
段々と視界の中に青以外の色が占める割合が下がる。
最後の一歩を踏み出す頃には、ほとんど青一色の世界に向かってその体を投げ出す。
その色彩が一変した。
360度開ける視界の向こうには白々とした雲海。
そして尖った針の連なりのようにギザギサと鋭角な稜線を形作る岩峰の銀色。
頬を撫でる一陣の風が心地よかった。
音のない、、静かな世界のはずなのに...
様々な色彩の奔流が音とも色ともつかぬ圧倒的なイメージの洪水として、
矢口の頭の中をで溢れかえっていた。
- 62 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月28日(金)19時18分32秒
- 後から追いついてきたカメラが自分の姿を映しているのにも気付かず、矢口はひたすら
その絶景に見入っていた。
「向こうの方、遠くに海が見えます。あれが東海(日本海)です。」
ミム・キムが説明してくれるのに気付いたときは、既にハァハァと息を切らしている
マネージャや他のクルーも頂上に上がってきていた。
急に人口密度が高くなったせいで、たった今感じたばかりのはずの自然に対する神々しさが
失われそうな気がして、矢口は少しだけ悲しくなる。
気を取り直してカメラに向かい、それでもなんとかその感動を思い出して伝えようと努力した。
「凄いです...矢口、登山ってあんましたことないんですけど...ちょっと感動しました...」
その言葉に自分自身が反応してしまったのか...
驚いた事に額から落ちる汗に替わって、今はその両目から溢れる熱いのもが
頬を伝わって落ちた。
映像的には文句なしの演出だろう...
そんなことを考える自分が当初は嫌だったが、今では慣れてしまった。
- 63 名前:名無し娘。 投稿日:2002年06月28日(金)19時19分04秒
- 慣れた...というよりは、むしろ心の動きを客観的に監察できるようになったと
言うべきだろうか。
ある程度訓練を積んだ女優ならば、涙を出すことくらいは当たり前のようにできるらしいが、
矢口の場合、そのような演技とは違う形で自分を曝け出している。
たった今、流した涙は決して演技で出たものではないし、その感動は本物だった。
一方で、その情景をTV的にはおいしいんだろうな、と客観的に見つめている自分がいる。
そんな自分がどうにもあざとくて、打算的に過ぎるように思えて嫌いだった時期がある。
人間としての純粋さとプロ意識を混同していたことに気付くのは大分後になってからだ。
思春期特有の潔癖症から、こうした芸能界において要求されるプロ意識を受け入れられず、
去って行くものは多い。
今となって見れば、明日香の脱退に関しては、そうした自己の内部における葛藤が一因と
してあったように矢口には思えた。
さてっと...
プロの顔に戻った矢口は、回りつづけるカメラの前でにっこりと微笑み、ピースサインを
決めた。
「さ、それじゃ、降ります。」
- 64 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月01日(月)18時33分02秒
- 九龍台と名付けられた頂上からの下り道は上りよりもはるかに楽だった。
途中、朝鮮半島三大名滝の一つと言われる「九龍の滝」でやはり、瀑布に晒されて
水浸しの絵を撮った後、帰路はクルーや北朝鮮の監視員などと入れ替わり立ち代り、
軽口をたたきながら楽しい下山となった。
北朝鮮でもW杯は話題になっているようで、日本や韓国代表の活躍に驚く様子が
新鮮だった。日帝とか米帝の傀儡などと両国を貶めるような発言を繰り返す政府と
個人との立場はまた別なのだろう。それでも、アジアで最初にW杯ベスト8に輝いたのは
我が国だと誇らしげに語るのを忘れないちゃっかりしたところはご愛嬌だ。
駐車場に戻ると既に帰りのバスが到着していた。
車中ではすっかり雰囲気の解(ほぐ)れたMBCの韓国人クルーと北朝鮮の監視員が
和気藹々と談笑に花を咲かせたが、朝鮮民族というのはどうしてこう、声が大きいのか。
娘。で騒がしいのは慣れていた矢口も男のお喋りには辟易した。
- 65 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月01日(月)18時33分29秒
- 昼食の後は再び温泉に入って、午後4時からサーカスを観覧する予定だという。
矢口は口に入れたばかりの冷麺を噴出すのを堪えて、マネージャに尋ねる。
「サーカスぅ?!こんなとこで?」
「んんっと、一応、北朝鮮の貴重な外貨獲得資源だからね、サーカス団は。」
「どういうことよ?」
「話すと長いんだけどね。」
時間は充分ある。矢口は目で続きを促す。
「もともと、金正日の趣味道楽で始めたようなものなんだけどね。かつて経済が正常に
回っていた頃は、平壌市民のための文化厚生事業ってことで、それなりに華々しい活躍も
してたんだ。」
マネージャはそこで水の入ったコップをぐいっと飲み干して話を続けた。
「ところが、もはや市民もサーカスを楽しめるほどの余裕はない。頼みの外国人観光客も
平壌にはなかなか来ない。それで考えついたのが、金剛山観光さ。」
「韓国から観光客がたくさん集まるから?」
「その通り。アトラクョンとしては魅力的だからね。これには現代側も飛びついたんだ。
当初は金剛山の自然とラスベガスのようなエンターテインメントの融合した一大リゾート
を目指してたらしいから。」
- 66 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月01日(月)18時34分01秒
- それにしてもリゾートにサーカスとは余りにも突飛な考えだ。
その突飛なアイデアに載ってしまう現代財閥もどうかと思う。
トップの意向が強く経営運営に反映される財閥体質だけに、北朝鮮出身の故鄭周永総裁に
は逆らえなかったということなのだろう。
「牡丹峰(モランボン)サーカス団と言えば、かつては海外公演なんかも頻繁にこなした
優秀なサーカスだったのにねぇ。」
マネージャはどうせミス・キムからの受け売りなのだろうがいっぱの口をきいて、
批評家気取りのようだ。
矢口にはその様子が可愛くもあり、小面憎くもありで、ちょっと虐めてみたい誘惑に
駆られる。
「なによ?ミス・キムからマンツーマンで教えてもらったの?」
「えっ?ち、違うよ...それくらいはガイドブックにも書いてあるし...」
顔を真っ赤にして否定する様がさらに矢口の中の小悪魔を刺激する。
「ふぅーん。ガイドブックに載ってるの知ってて、ミス・キムに聞きにいったんだ。ふーん...」
「真里ちゃん...あのさ...」
「昨日の夜、海の見えるラウンジでなんかい雰囲気の二人を見ちゃったんだけどなぁ...」
「そ、そ、それは...」
- 67 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月01日(月)18時34分22秒
- なぁんだ、ホントだったのか。
矢口はちょっと悔しくなったけど、茹蛸のように顔を赤く染めたマネージャをこれ以上、
懲らしめるのも何だか大人げない気がした。
「ってのは嘘だけどね。」
それっきり、興味はないとばかりに冷麺を掻き込み、入れすぎた芥子に噎(む)せて、
涙が出た。
あれっ?これってホントに芥子のせい?
まるでこれじゃ、マネージャが女性といい感じで付き合ってるのを妬いてるみたい。
どうにも格好悪く、気まずい感じがして、矢口はコップの水を一口で呷(あお)り、
ゴクッと豪快に喉を鳴らして、キャハハハと笑ってみた。
照れ隠しのつもりが、マネージャの目に同情の色まで浮かせてしまっている。
上手くいかないときは、上手くいかない。
矢口は、いい加減忘れようと思いながらも、自分との写真をゴシップ誌に売りつけた、
あの男に今更ながら心のうちで毒づいた。
ったく、あいつのせいで、ろくな目に会いやしない...
あれ以来、事務所の監視が厳しくなって、恋愛に発展しそうな男女の付き合いは
できていない。
それでもどこか憎めずにいるのはどういうわけだろう。
わけわかんね...
芥子の黄色がやけに目に沁みた。
- 68 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月11日(木)16時25分32秒
- サーカスは食堂から直ぐ近くの小さなドーム状の建物で行われた。
思っていたよりも随分小さな会場で、最近。村興しなどで日本の農村にいきなり
ぬぼぉっと現れる小洒落た公民館風とでも言えばいいだろうか。
とにかく収容人員はせいぜい数百人程度の入れ物で、矢口が娘。で訪れたどの会場よりも
小さかった。
一応、観光ガイドが目的なので、取材とはいえ、チケットを購入する場面も収録してはむいるのだが、一人あたり$10もするこのチケットが北朝鮮の物価や諸所の相場に比べて、
高いのか安いのか、矢口にはまったく見当がつかなかった。
「ああ、でも、天井は高いね。」
マネージャの声に見上げてみれば、確かに高い。
普通の公民館の天井の優に倍はありそうだった。
「さすがにね。空中ブランコやるのにぶつかっちゃうだろうし。」
「でもね、牡丹峰のサーカス団は、本当にレベル高い...そうだよ。」
人の受け売りであることを見透かされているだけに、大口は叩けない。
まったく、矢口にかかったら、敏腕のマネージャでさえ、この体たらくだ。
- 69 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月11日(木)16時25分55秒
- 軽口を叩いている間に、いきなりドラムロールのダラダラダラという轟音とともに、
朝鮮語でやたらとテンションの高いアナウンスが流れる。
場内で買ったポップコーンを頬張りながらも、矢口はステージに視線を集中した。
最初は熊のボール乗りなどの軽めの芸。
続いてパントマイムなど、道化のやり取りが面白おかしく(なのだろう)進行する。
韓国人は元来、陽気な気質なのか、盛んに囃し立てながらステージ上で繰り広げられる
パフォーマンスを楽しんでいるようだ。
サルティンバンコなどの衣装や美術など、最先端の技術の粋を尽くした芸能を見慣れた
矢口にとっては、どれも好感は持てるが野暮臭いものばかりであったのだが、
そこは調子を合わせて、ほぅっとかおぉっ!などと歓声を上げては、
楽しんでいる雰囲気を横で回りつづけるカメラ越しに伝えようとした。
公演も終盤に差し掛かり、いよいよ本日のメインイベント、空中ブランコの曲芸師達が、
ステージに登場する。
矢口は一瞬、目を凝らした。
ん...?
あれっ...? まさか...ね...
- 70 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月11日(木)16時26分49秒
- 矢口は目を疑うとともに、まさかそんなはずはあるまい、と努めて冷静にいようとする
自分を内側から見つめていた。
まさか、ねぇ...
でも、昨日、見たような気がしたのはホントだったんだ...
それにしてもよく似ている。
世の中に三人は自分と似ている人がいると言われるが、あれだけ似てる人もいるもんだ
と、ある意味、貴重なものを発見したような感慨さえ覚える。
こりゃまた絵的には美味しいな…などと考えているうちにも、そのそっくりさんが大きく
腰を曲げて挨拶し、足場を登ってブランコの基点に到達した。
「それにしても、そっくりだねぇ...」
「えっ、何が?」
驚いて振り返るマネージャに矢口はカメラを意識しながらも、そっと耳打ちする。
「何って、後藤だよ、後藤真希...ほら、あのブランコに手をかけてる女の子。」
「ん、んん...あ、言われてみればそっくりだね、でも体型は...向こうの方が
だいぶ細くない?」
「んん、そう言えば...ごっつぁん、北朝鮮の厳しい練習で痩せちゃったかな、
キャハハハハ」
いよいよ、ブランコの少女が飛び立とうという場面を前に、矢口はその後藤に似た少女が
うまく演技することを祈った。
- 71 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月15日(月)18時22分31秒
- 照明が落とされ、少女の細身の体にスポットライトが当たる。
ひらひらとしたフリルのついた銀色のレオタードに身を包み、颯爽とブランコのバーを
掴む白い腕に力が入り、二の腕の盛り上がりに緊張感が宿る。
フッと力の抜けたような表情を見せたかと思うと、照明を反射して銀色の光と化した少女
は、ふわりと宙に浮かび上がり、やがて加速のついたブランコとともに落下していった。
自ら生み出した遠心力により重力を振り払って再び浮上すると、その頂点に達した中空で
彼女はバーから手を離し、伸身のまま体を捻りながらくるりと一回転。
ゆっくりと戻ってきた彼女の腕がしっかりと反対側のブランコのバーを掴んだ瞬間、
会場は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
「すげぇっ!!」
「やったぁ!」
思わず声をあげる矢口とマネージャは、既に少女が後藤である可能性など、
すっかり忘れている。
さらに素晴らしい技を繰り広げる少女の肢体は、白日の下、白い太陽光を浴びて水面から
銀色の飛沫をあげて跳ねる、若鮎のような印象を残した。
- 72 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月15日(月)18時22分58秒
- 他のブランコ乗りも確かな技術に基づいた確実な演技を見せ、
充分に観客を湧かせたものの、
この夜の主役はやはり後藤似の少女だった。
演技が終わってもなお、ざわつく会場からは、まだ何かを期待しているような
熱っぽい雰囲気が感じられた。
「ねぇ…もう終わったんじゃないの?」
「いや、そのはずだけど…ちょっと待ってね。」
傍らのミス・キムに確認するマネージャを横目で見ながら、矢口は先ほどの少女を間近で
見てみたい誘惑に駆られた。
彼女とツーショット撮れたら、絵的には最高においしいよね…
『衝撃!失踪中の後藤真希と北朝鮮で再会?!』
煽動的なTVのテロップが今から目に浮かぶようだ。
ベタな想像にひとりニヤけといると、マネージャが肩を叩いた。
「真里ちゃん、記念撮影だって。」
「ハッ?記念撮影?」
鸚鵡返しで尋ねた表情は恐らく相当に間抜けなものだっただろう。
咄嗟には理解できずに、思わずステージの方を眺めると、既に気の早い韓国人観光客が
我も我もと押しかけている。
- 73 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月15日(月)18時23分22秒
- 「サーカスの花形スターと記念撮影の写真を取れるんだよ。一枚$30だけどね。」
「ほ〜ぉ、ボロい商売だこと。」
その商魂の逞しさには、娘。の所属事務所で慣れっこの矢口でさえ感心した。
だが、もしあの後藤似の少女と写真が撮れるなら、願ってもないチャンスだ。
それにしても…
「$30とはなかなか強欲だねぇ…」
「いや、まったく…うちの事務所も真っ青だよ。」
軽口を叩きつつも、二人は早速、腰を上げてステージへ近づくと、
韓国人たちが並ぶ列の最後尾につけた。
現代峨山の社員が並んだ客達から撮影料(?)を徴収している。
矢口はステージに視線を移して、先ほどの少女がいるかどうか確認した。
あ、いるいる…
心なしか少女は笑顔で観光客との記念の写真を撮影する合間合間に、
矢口の方をちらちらと眺めているように思えてならない。
ごっつぁん、おいらにホの字かよ…
そんなはずはないと思いつつも、列がステージに近づくに連れ、少女が自分を
見つめているという確信はいよいよ強まってくる。
似ている…後藤、本人といって誰しもが信じそうなほどその少女は似ている。
- 74 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月15日(月)18時23分48秒
- 後一人、という段になって少女は視線で明確な意思を示した。
その瞳の美しさに吸い込まれるような感覚を覚える。
美しい、しかし何か言い知れない悲しみを湛えて、静かに波紋を広げる水面が映すかの
ように淡い光が瞳の奥で瞬く。
前の客が撮影している時間が矢口には永遠のように長く感じられた。
いっそ、このまま時間が止まってしまえばいいのに…
緊張のためか、それともこの後に起こる何事かを予想してか、
矢口の心臓は早鐘を打つようにその鼓動の間隔を狭めていく。
並んでいた間に行った打ち合わせでは、矢口がその少女の横に並ぶ手はずとなっている。
いよいよ、前客の撮影が終わり、自分たちの番が巡ってきて、矢口の心臓はそれこそもう、
飛び出しそうなくらい、バクバクと脈打って隣の少女に聞こえるのではないかと心配になった。
演技を終えたばかりでまだ額に汗の残る少女の香はなんだか、甘酸っぱくて、
切なくなるような懐かしさを覚えた。
思わず真横に立つ少女の顔を見上げると、彼女の視線が向けられている。
にっこりと微笑む少女の口から発せられた言葉に矢口はもう驚かなかった。
「やぐっつぁん…久しぶり…」
- 75 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)19時11分51秒
- 日本に帰国した矢口は疲れた体に鞭打ち、その足で保田の元へ向かった。
成田からの車中、視界に流れる風景を留めながら北朝鮮での出来事を振り返る。
あれは、本当に後藤であったのか...
愚問だ。
矢口は首を振って、自らの問いかけに対し、即座に否定の意を示した。
結局、無言のまま別れた二人ではあったが、矢口は確信していた。
あれが、後藤でなくて誰だというのだ。
帰国後韓国政府から下された放映禁止の措置がすべてを物語っている。
後藤は、何か北朝鮮にとって特別な存在なのだ。
幸いなことにサーカスの場面以外は無事放映に漕ぎ付けたが、後藤との再会の場面だけが、
放映を禁じられたことで確信はさらに深まる。
無言のまま見つめあい、手にとった後藤の指はブランコの練習による肉刺(まめ)で
ゴツゴツとしていた。
だが、その掌の温もりは今も矢口の掌中に残り、その残像を辿る縁(よすが)となる。
だが、何よりも矢口の心を打ったのは、力なく微笑む後藤の表情であった。
その暗く、沈んだ瞳は、娘。在籍時には想像もつかないほどの辛酸を嘗め尽くしたことを
如実に物語っていた。
- 76 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)19時12分14秒
- 「そう...やっぱり北にいたんだ。」
「圭ちゃん、知ってたの?!」
矢口は一応、驚いた。
気分を出すため...でもある。
だが、こうなることはある程度予想していたのかもしれない。
実の所、心底驚いたというわけではなかった。
韓国への渡航前から、保田の態度になにか割り切れないものを感じていたせいでもある。
「それにしてもサーカス団とは意外だったわ...」
「空中ブランコ、上手かったよ。手も肉刺(まめ)だらけだったし。」
後藤は大事にされているはずではなかったのか...
考え込む保田を前に、矢口の口は回りつづける。
「疲れた顔してたな...うちらじゃなきゃ、ごっつぁんだってこと、
わかんなかったかもしれない。」
「苦労は...してるだろうよ。」
矢口はそろそろ切り出してもいいだろうと思った。
「で?なんで圭ちゃんは後藤が北朝鮮にいること知ってたわけ?」
「...」
大きな瞳から放たれる鋭い視線が射すくめるように矢口の目を貫く。
真剣な表情だ。
値踏みしている。
そう感じた矢口は、その勢いに負けないよう、細い目を大きく見開いて保田を睨み返した。
- 77 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月30日(火)19時19分59秒
- 「知らない方がいいこともあるよ。」
「...」
表情を変えずに言い募る保田に矢口は覚悟を決めた。
「圭ちゃん...うちら、仲間だろ...?」
「...」
保田は視線を外し、ふっ、と軽く息を吐いた。
彼女とて緊張していたのだ。
それだけ危険を孕んでいる...と、そういうことなのだろう。
「矢口...」
「圭ちゃん...」
今、この瞬間。
保田が口を開いた瞬間から世界が一変しそうな、
そんな予感を矢口は抱いた。
なにか想像もつかないことが起こり始めているような。
梅雨時だというのに、先程までじりじりと焼け付くような日差しを降り注いでいた
太陽もようやく傾き始めた。
保田の部屋からは窓を通して、近くのマンションの壁が迫っている。
その間から、切り取られたように見える空は紅く染まり、しっかりと構図が決まった
絵画のようにこの場を飾っていた。
「紗耶香が…」
えっ? なにっ...?
「紗耶香が、北朝鮮で拉致投獄されている...」
矢口は混乱していた。
保田はいったい何を話しているのか?
「後藤は、紗耶香の拉致に関わっているらしい...」
事態は矢口の想像を遥かに越えるスケールで拡がっていた。
- 78 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月31日(水)18時58分13秒
- 「ら、拉致って何のことよ...?」
「紗耶香は香港で北朝鮮の工作員に拉致されて向こうに渡ったんだよ。」
保田は市井が海外旅行でもしたかのような気軽さで話を進める。
矢口とのテンションの差は薄っすらと額に浮ぶ汗の雫となって流れ、
ひんやりとした感触を伝える。
蒸し暑い日々が続くため、保田は部屋を閉め切って早くも冷房を入れていた。
「最初はミュージカルの女優として、活躍してたらしいんだけど...」
保田は夕日が窓の向こうに沈むのを確認して、部屋に灯りを点した。
「幹部の集まるパーティか何かで、まずいことをやらかしたらしい。
ま、紗耶香のことだから、大体の想像はつくけどね。」
「そ、それで...紗耶香はいまどうしてるの?」
「うん、それで金正日の逆鱗に触れて、強制的に収容所に入れられたらしい。」
「強制収容所?」
矢口は思わず聞き返した。
無理もない。
戦争中ではあるまいし、そんなものが何のために存在するのか、
民主主義社会に育った矢口に見当のつくはずはなかった。
- 79 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月31日(水)18時58分52秒
- 「ああ。思想強化所...とか、言ってたかな。まぁ、政治犯とかをぶち込む
便利な刑務所みたいなもんだよ。」
「無事なの?」
「幸いね。まだ無事らしい。」
「まだ?」
保田は、一瞬、そこまで話していいものか考えたが、すぐに覚悟を決め、
矢口をまっすぐに見つめた。
「ユウキが...紗耶香の救出に向かっている。」
「ユウキ...? ああ、ごっつぁんの弟か。えっ、でもなんで?」
まったく、保田の話は突拍子もないことばかりで、これが例えば飯田から
聞いたのであれば、到底、信じられないところだった。
「ユウキ...っていうか後藤が在日だったってことは知ってた?」
「んん、なんとなくはね...そう思える節はあったけど...」
さすがに矢口ではある。
観察眼の鋭さでは娘。でも随一だ。
「ソニンは韓国系、後藤家は北の出身...」
「えっ? ソニンちゃんまで係わってんの?」
「っていうか、ソニンが首謀者だよ...この件に関してはね。」
矢口はもう、どうにでもなれ、といった風に額に手を当てて、天を仰いだ。
- 80 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月31日(水)18時59分20秒
- 「話はちょっと遠回りするんだけどさ、最近、北朝鮮から中国経由で亡命を希望する人
増えてるでしょ?」
「おぼろげには聞いてるけど。」
韓国でそういう話題が出たことは矢口の記憶にも新しい。
日本の対応が非難されていたことも...
「ああいう動きを支援してるんだそうだ、ソニンのグループは。」
「ああ、NGOみたいなやつ?」
「んん、その通りなんだけど、もうちょっとアンダーグラウンドな感じかな。」
「なんか裏稼業みたいで格好いいじゃん。」
ここへ来て、ようやく現実感が戻ったのか、軽口を叩く矢口である。
「そういう活動の関係から、北朝鮮内部にルートがあってね。情報は入ってくるらしい。」
「ははん、そのルートで紗耶香や後藤の情報も入ったと。」
「ご明察。さすが矢口だ、頭の回転が速いね。」
「誉めたってなんも出ないよぉ、お土産のキムチくらいさ。」
- 81 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月31日(水)18時59分44秒
- もちろん、保田とて矢口からのご褒美など期待するはずもない。
このしっかりものの始末屋は、親にマンションを買い与えるほど
経理的な才覚に富んでいるのだから。
だが、期待するところが全くないと言えば嘘になる。
それは、多分、矢口以外の誰にも期待できないもののはずだ。
急に真顔になった保田は、声を潜めて矢口に告げた。
「実はね、私もソニンのグループに加わろうかと思ってるんだ。」
矢口は頭のてっぺんにハンマーを打ち下ろされたかのような衝撃を覚えた。
ガビーン!!
本日、一番のインパクト!
なんと、ケメコがNGO!!
さぁさぁ、みんな聞いておくれ!
いよいよ、グローバルケメコの本格デビューだよっ!!
頭の中ではふざけたフレーズが飛び交うが、現実の矢口は完全に固まっていた。
顔面蒼白になり、呆然として、ただただ保田の顔を見つめるだけだった。
- 82 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月08日(木)19時20分44秒
- 「それって、娘。を脱退するってこと?」
ようやく口から搾り出すことができた言葉は至極平凡なものだった。
ラジオのDJなど長くやっても、なかなか咄嗟に気の利いた言葉など出るものではない。
「そういうことに...なるね。」
保田は静かに答えた。
その表情は確信に満ちている。
恐らく迷いはないのだろう、矢口はそう考えた。
「でも、これで2期追加メンバーはみんな娘。を離れちゃうんだよ...」
「わかってる。でも、カオリもなっちもいるし、娘。は大丈夫だよ。」
「圭ちゃん...」
矢口はもう、止めるつもりはなかった。
というよりも、保田の固い決意を確信した。
今さら止めたところで、どうなるものでもあるまい。
それが果たして正しいのか間違っているのか、後になって見なければわからない。
むしろ気になるのは...
「ひょっとして、芸能界も...引退するわけ?」
「そうね...」
保田は天井を睨んでしばし考え込んだ。
業界からまったく足を洗うというつもりではないのか...
「ま、しばらくはメディアへの露出がなくなるだろうね。」
「...しばらくは?」
「うん。完全に引退しちゃったら意味ないし。」
- 83 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月08日(木)19時21分24秒
- それは矢口にも何となく理解できた。
いわゆるスポークスマン、いやスポークスウーマンのような位置付けか。
よくも悪くも芸能人がそのような活動に与える影響は小さくない。
特に娘。ほどのネームバリューがあれば尚更だろう。
たとえ、それが保田だという比較的地味な存在だとしても。
「圭ちゃんも北朝鮮に行くの?」
「行きたいけど...ま、すぐには無理だろうね。」
「紗耶香は大丈夫かな...」
保田の最大の懸念はそこにあった。
ソニンの情報では何らかの形で保護は受けているらしいものの、
ユウキによる救出作戦も捗々しい成果は得られていない。
どころか、ユウキ自信の安否さえ保証されているわけではない。
保田によるメディアでの広報宣伝活動が、二人を安全に救出することに
繋がればベストだ。だが、逆に二人の命を脅かすことになる可能性も否定できない。
ソニンの判断では、ここぞというときまで、二人の名前は伏せておいた方がいいという。
- 84 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月08日(木)19時23分18秒
- 「今んとこ大丈夫そう...最近、アメリカの強硬姿勢に対して金正日の譲歩が
著しいわ。ソニンはこの期に乗じて一気に決めたいみたい。」
「圭ちゃん...なんか勉強してんだね...」
矢口は保田の決意の固さを改めて確信した。
もはや、何人たりとて保田の決心を揺るがすことはできないだろう。
あとは保田までもが危ない端を渡ることがないよう祈るばかりだ。
「矢口みたいに頭よければもっと活躍できるんだけどね。」
「圭ちゃん...」
寂しそうに微笑む保田の顔を矢口は正視できなかった。
俯いて肩を震わせる矢口に保田は優しく語りかける。
「引継ぎとかあるから、そうすぐというわけにはいかないけど、
できるだけ早く辞めるつもりだよ。」
「いつ頃になりそう?」
保田はすでに日の暮れた窓の外に目をやり、部屋の明かりを点した。
カーテンを閉めながら、ゆっくりと矢口に告げる。
「9月23日、横浜アリーナが最後になると思う。」
「横アリ...」
「7月中には発表すると思うよ。」
矢口は祈りを込めて保田の目をじっと見詰めた。
柔らかく微笑み返した保田の表情は力が抜けていて、気負いがなかった。
矢口にそれが、とても素敵に見えた。
- 85 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月15日(木)00時39分27秒
- ヤッスー、やっぱりあんた素敵だよ!
作者さん、ヒソーリ応援させてもらいます。
- 86 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時21分03秒
- 風が乾いていた。何やらきな臭い。
触れれば切れそうな程張り詰めた空気はいたずらに不安感だけを増幅させる。
ここ三日ほどユウキは同じ場所から動けずにいた。
順川(すんちょん)を過ぎた頃からにわかに検問の数が増えた。
昼間の移動は完全に封じられ、夜間の行軍もまた24時間の厳重な警備体制が敷かれており
突破に時間がかかる。
ところによっては防御ラインが横に広がり、配置された兵士の人数は増強されていた。
民家の付近でさえ、もはや近づける雰囲気ではなかった。
北朝鮮の巧妙な統治手段のひとつである市民の相互監視システムに引っ掛かり、
自分のような不審者は通報される恐れがあるからだ。
世情が不穏な方向に動きつつあるのは確かだった。
食料の配給が再び滞り始めたのかもしれない、とユウキは推測する。
徘徊する人々の数が目に見えて増加していた。
厳重な警備はそれに呼応した動きとも考えられる。
ソニンとの連絡でそのことを伝えたが向こうにも確たる情報があるわけではない。
だが、ここで命をかけて市井の救出に向かうユウキには肌でわかるのだ。
自らの命を脅かすものの匂いは。
- 87 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時21分43秒
- 危険は官憲だけではなかった。食えない農民、労働者達は徒党を組んで強盗団と化し、
一部の富裕層宅を襲撃しているようだった。一般民衆の怒りももはや抑えられない所まで
来ている。今、いる場所に到達することができたのも、そうした動きに便乗したからだった。
三日前。
突破の方法を考えあぐねて隙をうかがっていたところ、ざわざわと周りに人の集まる気配を感じた。
ユウキは緊張し、ベレッタを握り締めた。突然、銃声が聞こえたかと思うと、検問の向こうから
門が開けられ、隠れていた集団が一斉にゲートへと殺到した。警備兵の内部に誘導したものが
いたのだろう。動揺した兵士たちは丸腰の人民暴徒になすすべなく、武器を奪われて惨殺された。
すべては一瞬の出来事だった。暴徒はあっという間に去っていった。
ユウキはしばらく様子をうかがい、残っている、つまり生存しているものがいないことを確認すると、
尚も警戒を解かずに物音をたてぬよう、そっと立ちあがった。乾いた風が血の匂いをはらみ
気分を萎えさせる。何とか自分を奮い立たせ、渾身の恐る恐る門の内側に顔を覗かせる。
- 88 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時22分11秒
- その惨状に思わず目を背けた。血溜まりを避けて、なるべく死体と顔を合わせぬよう、
場所を選ひ、ゆっくりと足を踏み入れていく。ユウキに状況を仔細に確認する術はなかったが、
ざっと見たところ、兵士が持っていた武器はすべて奪われていたようでもあった。
急ごう…こんなところに長居は無用だ…
再び歩き出してすぐ、何かを踏んだような感触を覚え、ユウキは立ち止まった。恐る恐る
足をあげて、下に目を落すと小さなバッジのようなものが落ちている。
なんだろう…
ユウキは手にとって眺めた。人の顔が浮かんでいる。
ひょっとすると…
ユウキは辺りを見回した。
これが金日成バッジという奴か…
北朝鮮の公民はこのバッジを常に着用する義務があると聞く。何かのときに役立つかもしれない。
ユウキはバッジを人民帽に着けると、再び、歩き出して検問所を後にした。
気がついたときには現場から大分離れていた。
緊張と興奮でどれくらい歩いたのかも定かではない。
ソニンとの提示連絡でGPSの示す距離を聞き、ようやくどこに居るのかを把握できたくらいだ。
その位置から、今日までほとんど進めていない。
そこかしこに設けられた警戒所のせいだ。
- 89 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時22分36秒
- 「――どうなってんの...?」
「こっちでも詳しいことはわからない。でも、北朝鮮政府が焦ってるのは確かね。
最近の対話姿勢には、明らかに援助を期待して切羽詰った感じがありありだもの。」
「なんか変わった動きは?」
矢継ぎ早に質問を繰り出すユウキこそが切羽詰っていた。
どうも日本にいるソニンとは温度差が違う、と感じてそこがなぜかもどかしかった。
「かなり大胆な経済政策を断行したみたい。」
「というと?」
「まずは通貨の切り下げね。外貨との交換レートもそうだけど、実質強制インフレみたいなものよ。」
「どういうことだよ?」
それこそ余裕のないユウキには難しい言葉自体が腹立たしい。
「物価を思い切り上げると同時に給料も上げたの。闇市に対抗する動きらしいけど、そうなればなったで、闇の物価もスライドして上がるだけだわね。」
「闇市の排除を狙った政策か...」
「あれでは無理ね。だから、何も変わってないでしょ。っていうか、むしろ悪くなるだけだわ。」
「悪いね。最悪だよ。生きて返れるかどうか...」
- 90 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時23分20秒
- 半分、本気だった。
ちょこっと市井さんを救出に...などと軽い気持ちでこそなかったものの、
まさか本当に命を危険に晒すような展開になるとは思いも寄らなかったのだから。
騎士(ナイト)的な響きに酔って、大変な任務を負ってしまった自分の浅はかさが恨めしい。
だが、後悔していても仕方がない。
自分で、この苦境を打開するしかないのだ。
幸いにも市井の収攬された強制収容所の所在地、价川(けちょん)へはあと一歩の距離まで
近づいている。ここさえ突破できれば、韓国から派遣されるという援軍と合流できる。
まったく知らないもの同士とはいえ、誰かと行動をともに出来るのは、一人の心細さとは
比べ物にならいくらい、心強いことだろう。
「ああっ、惜しいなぁ...韓国から優秀な助っ人がもう、价川(けちょん)入りしてるというのにぃ...
哀れ、ユウキ少年の命運もここまでかぁ...」
「けっ、その性格の悪さを叩き直すために生きて帰るまでは死んでも死にきれないね。」
- 91 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時23分47秒
- まったく...ユウキは深刻に悩んでいることがバカバカしくなってきた。
口の減らない女だ。
自分の周りにはどうしてこう...
そう考えてまた、ユウキはまた市井に想いを馳せた。
待ってろよ...必ず...
必ず僕が助けるからね...
「んじゃ、まぁ、今日のところは、ゆっくり寝な。休まないといいアイデアも出ないさ。」
「そうさせてもらうよ。助っ人の合流はちゃんと手配してくれよな、段取り悪いんだからさ。」
「おぅおぅ、死にそうな声出してたくせによう...心配すんな。ほれ、寝ろ。」
「じゃな。」
「おう。」
そっけないやり取りが今は一番、彼の気持ちに落ち着きを与えた。
初めて銃による殺傷死体を見た恐怖感はまだ簡単には拭えそうにはない。
だが、少しでも生き長らえるためには、これくらいで混乱していてはいけないのだ。
生きるために休む。もちろん、気を抜くことはできないが。
枕もとには常に携行しているベレッタを置く。
目を瞑るとユウキはすぐに深い眠りへと落ちていった。
- 92 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時24分13秒
- あまりの空腹に目を覚ました。最悪の寝覚め。
空腹が度を過ぎると、刺すような痛みを伴うことをこの年で初めて知った。
だが、予定外の足止めのために、いたずらに食料を浪費するわけにはいかない。
遅れた日程の分は一日あたりの摂取量を減らすことで、温存を図るしかなかった。
さらに問題なのは水だった。
川べりを歩いている間は、川の水を沸かして飲んでいたが、山中に入って今日で四日。
川や池などの水源が見当たらない以上、飲料水はさらに貴重だった。
あそこに行ければ楽勝なんだけど...
ユウキは、潜伏している場所からそれほど遠くない街はずれに市場のようなものがあり、
人々の活気で賑わっていることを確認していた。
いわゆる闇市である。
戦後の日本の復興過程において、やはり現在の北朝鮮同様、食料の配給制度が施行されていたが、
それと似たようなものだろう。
事実上、配給制度はほとんど機能しておらず、日本や韓国、米国などの西側諸国が送った米は
人民に配給されることなく一部の権力者が着服し、こうして闇に流している。
流通システムが麻痺しているため、事実上、闇市を通してしか物資の調達は困難になっていた。
- 93 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時25分20秒
- 闇市というだけあって、その価格は驚くほど高いのだろう。
だが、ユウキにとってそれは問題ではなかった。
まさか米を背負って、价川(けちょん)まで歩くわけにもいかない。
市場でアジュモニ(おばさん)がつくるそばのようなものを一杯食べられれば、それでよかった。
また、餅なども携帯食として、あと何日かは持つだろう。
韓国からの支援者がすぐ近くまで来ているのであれば、食料問題でそれほど悩む必要はないの
かもしれない。
ユウキは危険であることを充分承知しつつ、市場へと赴く誘惑を断ち切ることができなかった。
その点、さすがに彼もまだ少年だった。
起き上がり、荷物を整理すると顔に土をなすりつけ、色の白さを目立たないようにする。
どれほどの効果があるかはわからないが、何もしないよりはましだろう。
ユウキは辺りをうかがいながら道路へと降りた。
少しでも顔が隠れるように人民帽を深くかぶり、ゆっくりと足を踏み出していく。
何かのときに役立つかもしれない、と平壌の協力者が持たせてくれたお金が役に立ちそうだった。
- 94 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時25分43秒
- ソニンから聞いていたインフレは心配だったが、とりあえず行って見なければわからない。
价川への方向からすると逆方向、少し戻る形になる。30分ほど歩くと右手の向こうの方に
人の塊が見えてきた。早朝だと言うのにかなりの人出だ。
ユウキは恐る恐る近づいてみた。怪しまれることを恐れていたが、自分と同じような風体
の人間が幾人も手持ち無沙汰にぶらぶらと歩いているのを見て安心する。
露店は様々な商品を並べていた。米や野菜はもちろん、肉、魚、など主な食材はここで揃
いそうだった。食品だけでなく、服の生地や靴、ベルトなどの日常品を扱うところもある。
そばなどのちょっとした食事を提供する屋台も少なくない。そばつゆの匂いが耐え難いほ
どに空腹を刺激した。はやる心を抑えてユウキは注文する人の様子を観察することにした。
下手にボロを出して騒ぎになっては困る。辺りを見回すと、子供が多いことに気付く。
今日は平日のはずだが…
そう思って再び屋台に顔を向けたユウキは驚くべき光景を目にした。
- 95 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時26分09秒
- 客の一人がそばを食べ終わり、器を屋台に置いたところ、側に屈んでいた10歳前後の少年
が猫のように機敏な動きを見せ、客の残したそばつゆをごくごくと飲み始めたのだった。
ものの数秒できれいにつゆを飲み干すと、少年は脱兎の如くすばやくその場を去り、市場
から少し離れた所へと渡った。
5〜6人の同じような身なりの子供のたむろする中へ戻ると、微笑んでその輪に加わる。
少年たちは皆がみな、坊主頭に刈りそろえていた。人民服を着てはいるものの、ひざの
あたりは擦りきれて穴が開き、靴も履いていない。
店主はまたか、というような冷めた目で少年の行方を見届けると、何事もなかったかの
ように器を片付けた。
ユウキは強い衝撃を受け、しばらくその子供達から目を離せなかった。
中にはまだ3〜4歳と思しき幼児がおり、うずくまって空腹を訴えるように悲しげな表情で
ユウキの方を見つめる。
「一杯、くれ。」
聞こえた声に振り向くと、軍人らしき中年の男が一人、そばを注文して屋台の椅子に腰を
下ろしたところだった。
- 96 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時26分53秒
- 男がアジュモニに差し出した金額を見てユウキはほっとした。10ウォンなら懐はほとんど
痛まない。後髪を引かれる思いで幼児の視線を断ちきり、男に倣ってそばを注文した。
「ハナ、ジュセヨ(一杯、ください。)」
1ウォン札を10枚差し出すと、ほどなく湯気を立てた熱いそばの器が前に置かれた。
夢中で箸を入れて口にかきいれる。熱い。
しばらくふぅふうと吹いてから、再び麺をつるつると吸い込む。
味はパサパサとして粘り気がない。噂に聞くトウモロコシそばというものらしかった。
空腹時でなければとても食べられそうにない代物に思える。
だが、久しぶりに口にする汁気の多い食事は信じられないほどうまかった。
ゆっくりと楽しむ余裕はなく、あっと言う間に麺を平らげ、つゆを飲み干そうとして、
ユウキは隣の軍人がじろじろと自分の頭を見つめているのに気づいた。
髪は一応、染め直したけどな…
怪しまれないうちに立ち去ろうと思い、ユウキは器を置いた。
「マシッソヨ(ごちそうさま。)」
立ち上がると同時に黒い腕がにゅっと突き出され器をさらった。先程よりもさらに小柄な
少年が懸命につゆを飲み干している。
- 97 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時27分17秒
- ユウキはその様子をしばらく眺めた後、うつむいたまま歩き出した。
こうして市場の残飯をあさる子供たちの様子に胸は痛むものの自分にできることはないのだ。
とりあえず空腹は解消した。先のことを考えると携帯できる食べものを購入しておくこと
が得策と思えた。予期せぬアクシデントでいつまた足留めをくらうかわからない。
持ち歩けそうな食べもの、と考えて、ユウキは先程、餅を並べて売っているアジュモニが
いたことを思い出した。
餅、といっても米でつくったものではない。トウモロコシの粉でこねたそれは、やはり
パサパサとして嫉く前のパン生地を思わせた。
「オルマヨ(いくらですか?)」
5個で10ウォン、と答えるアジュモニに1ウォン札を20枚渡して、黄色い餅を10個受け取る。
袋も紙さえもないのか、裸で10個を渡されてユウキは戸惑った。はて、どうしたものか。
リュックにつめ込むにしても裸のままではすぐに乾燥して固くなってしまう。
両手にのった餅を眺めていると、突然、黒い手がパッと振り払われて餅が地面に散らばった。
- 98 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時27分48秒
- いつのまにか集まっていた子供達が落ちた餅を要領よく拾い上げ、口の中に放り込むと、
あっと言う間に逃げていった。呆然と立ち尽くすユウキに周囲の大人達は何の関心も
示さない。
やれやれ…
ユウキはもう一度、1ウォン札20枚を餅売りのアジュモニに渡し、餅10個を受け取った。
もちろん、今度は周囲への気配りを忘れない。念のため、さっそく1個を口に入れて確保する。
乾燥させたような、食べるとさらにひもじさを感じるような代物だった。だが安い。
子供達にかすめ取られた分は、ささやかな慈善活動とでも思うことにしよう。
実際、自発的か否かの違いだけで、客観的事実として、ユウキが飢えた子供達に食べもの
を与えたことには変わらない。
そう考えると、何だか気が楽になって、ユウキは危うくタバコを買うのを忘れるところだった。
といっても自分が吸うわけではない。一種のお守りのようなものだ。まだ車が走っていた頃は、
トラックなどがタバコ何箱かで目的地の途中まで乗せてくれたこともあるらしい。
燃料の配給が滞っている現在では、臨むべくもないことではあるが。
- 99 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時28分10秒
- タバコを1カートン買って、再び价川に向けて踏み出した足取りも軽くなったように思えた。
既に日は高く上っている。暑い。
工場や車などの生活排気がないせいか日差しが日本よりもきつく感じる。
北朝鮮の人がやけに色黒なのは紫外線を遮る排気ガスがないためではないかとユウキは思った。
いずれにしても昼間、うろうろしているのは危険だ。夜までまた山中に潜んで待たなければならない。
今日こそはさすがになんとかして検問を突破しなければ。价川まで目と鼻の先に位置しながら、
足留めをくらっているこの状況がユウキにはもどかしくてしかたがない。
そう考えているうちに山道へ差しかかった。ユウキは後ろを振り返り、誰にも見られていないか確認する。
一瞬、小さな影が、視界の端をかすめたように感じたが、人間が身を隠せるような場所はどこにもない。
道の傍らには背の低い草むらがおい茂っているばかりだ。
そして、ユウキの第六感も危険な匂いを感じとってはいなかった。
だが…
ユウキはゆっくりと足を踏み出すと、二、三歩歩く…と見せかけて急に立ち止まり、
後ろを振り向いた。
- 100 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時28分37秒
- ガサッ…急いで草むらに隠れたそれは人間だった。ただ、とても小さい。
ユウキはつかつかと音のした方に歩み寄ると、優しく声をかけた。
「出ておいで、なにもしやしないよ。」
ガサッと草むらが揺れる。が、出てくる気配はない。
フゥッ…手間がかかる子だな…
ユウキはやっかいなことにならななければいいが、と気を揉みつつもその子を放っていく
ことに一末の後ろめたさを覚え、しかたない…と天を仰いでひとりごちた後、もう一度、
草むらにむかって声をかけた。
「出ておいで…お餅をあげるよ…お腹が空いたんだろ…」
ガサッ、ゴソッ…今度は躊躇している様子がうかがえた。先程、市場でたむろしていた
子供達の一人だろうか。
餅を与えれば素直に帰るだろう…そう考えての決断だった。
餅の一個や二個で今すぐ飢えることはない。
迷いがちにいが栗頭が見え隠れする。しばらく、同じ動きを繰り返した後、意を決したように
小さな頭が草むらの上に覗いた。いたずらを親に見つかったように、ばつが悪そうな表情
を伴って、小さな体が草むらを押し分けて、ユウキのところへと向かってくる。
- 101 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時29分32秒
- その顔はもう、何日も、何十日も洗っていないのだろう。埃と垢で真っ黒になった顔は
まだあどけない表情を浮かべていた。
4〜5歳くらいか…
ユウキはやりきれない思いを抑えつつ、リュックから市場で買った餅を二個取り出して、
子供に差し出した。
「ほら、お食べ。こんなものしかないけど。」
今度は子供も迷わなかった。コマッスムニダ、と早口でつぶやくと、餅を掴んでかぶりついた。
「よく噛めよ、喉に詰まらせるぞ…」
だが子供は、かぶりつくのに夢中でユウキの言葉が聞こえている風ではない。
案の定、喉につかえたらしく、うっ、と苦しそうに顔を歪める。
「だから言わんこっちゃない…」
ユウキは苦笑して、子供の背中をトントンと叩いてやった。
ふぅっ、と息を吐き、生き返った、とでも言うようにくりくりと
した目を広げておおげさに驚く子供の様子を見て、ユウキは存外に愛らしく感じた。
「さ、食べたんだから、おかえり。仲間のところへ戻りなさい。」
「仲間じゃないよ…あんなやつら…」
初めて聞いた子供の声はか細く…そして…
- 102 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時30分16秒
- 「き、君は…女の子?」
こくり、と肯く子供にユウキは驚いた。
女の子が丸刈りにしているのか…
それはともかく…
「でも、僕についてくるわけにはいかないだろ。」
「…」
黙って自分を見つめる子供の視線にユウキはたじろいだ。
「親はどうしたの?」
「お父さんは食べ物を探しに行ったまま戻ってこない。お母さんは死んだ。」
「兄弟は?」
「いない。」
ユウキは絶句した。どうやら完全な孤児らしい。だが孤児院のようなものがあるのではないか。
仮にも社会主義を標榜する国のことだ、体裁だけは整えているはずだ。
「親のない子供のいく施設みたいなものがあるんじゃないの?」
幼女はこくり、とうなずいた。だが、表情は晴れない。
「虐められるし、食べ物も大きい子に取られるから。市場で残り物を拾ってる方がいい。」
なるほど。もちろん国中が飢えているときに、施設に配給される食糧などたかが知れている。
小さな幼児が年長の子供を押しのけて自力で確保することは難しいに違いない。
- 103 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時30分42秒
- 「それなら、市場にいた方がいいんじゃないの?」
「あいつらに食べ物、全部とられちゃうもん。」
「さっき、僕が落した餅はどうした?」
「大きい子に食べられちゃった。オッパ(お兄さん)と一緒にいく。」
そういうことか…
だが、この子をずっと連れて歩くわけにはいかない。今日の夜にはどうあっても、
検問を突破しなければならないのだ。
「僕は旅の途中だ。君は市場に帰ったほうがいい。」
ユウキはわざと冷たくいい放ち、立ち上がると、山中の隠れ場所を目指して足早に歩き出した。
振り返ることはない。未練があると思われてしまう。だが、振り返るまでもなく、足音で
幼女がついて来る気配を感じ、ユウキは立ち止まった。
「来るなって言ったろ!」
「…」
懇願するような瞳にユウキの決意も揺らぐ。だが、この子を連れて行くわけにはいかないのだ。
連れて行くわけには…
- 104 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時31分33秒
- ユウキはハッとした。連れて行く…この子を…そうか…
この子は妹、自分は兄…兄妹という設定はどうだ?
幼児を連れていれば多少なりとも兵士の警戒も緩むのではないか…
考えれば考えるほど名案に思えた。
「君、名前は?」
幼女はキョトンとした顔で呆けたようにユウキの顔を見つめている。
「名前だよ!」
「ハ、ハンミ…」
「そうか、ハンミか…」
ハンミはユウキの態度が急に変わったことで戸惑いつつも、機を逃すまいと懸命に寄り添ってくる。
よし…
「いいかい、よく聞いて。これから、僕は検問所を通って价川に行く。价川に誰か
知り合いはいないかい?」
ハンミはしばらく考えたあと、自信がなさそうに答えた。
「お母さんの…親戚がいた、と思うけど…」
「どこに住んでいるかわかるかい?」
今度は悲しそうに首を横に振る。
ユウキはなんだか、可愛そうになってハンミの頭を撫でてあげた。
「アッハッハ。そんな落ち込まなくてもいいよ。价川に親戚がいる、というだけでいいんだ。
それが重要さ。」
- 105 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時32分01秒
- そう、まさにそれが重要だとユウキは思った。
价川の親戚を頼って旅する孤児の兄妹。このご時世だ、そんな境遇の兄弟姉妹はそれこそ、
掃いて捨てるほどいるだろう。ユウキひとりでは怪しまれるところが、小さい子を一人、
連れているだけで、その印象は大分変わるに違いない。
そして、昼間なら…
昼間なら、それほどの人数を割いていない可能性もある。
そうだ…今まで夜間に隙を狙って突破することばかり考えていたが、昼間に市民を装って堂々と
通り抜けるという選択肢もあったのだ。ユウキは賭けてみる価値はあると思った。最悪の場合、
ベレッタを使うことになるが…それでも夜間、完全武装で警戒している小隊規模の軍隊を相手に
するよりは、行き長らえる可能性が格段に高いことは確かだ。
「ハンミ、行こう。」
「え?どこへ?」
「价川だ。今から検問所を抜けよう。」
腰を下ろしたばかりで、落ち着かないのか、ハンミはどうしたものか戸惑っている。
「いいかい、僕たちは今から兄妹だ。検問所では、そう言うんだよ。」
こくり、と肯くハンミ。ユウキはその理解力に感心した。
- 106 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時32分25秒
- 北朝鮮の教育水準が高い、というのは本当だったんだな。
妙なことに感心しつつ、ハンミの年齢を聞いていなかったことに気付いた。
「ところでハンミ、君はいくつなんだい?」
「8歳。」
8歳だって!どう見ても4〜5歳の幼児じゃないか…ユウキは激しく動揺した。
栄養失調による発育不全だ。飢餓という危機的状況のもとで、一番の皺寄せはやはり、
一番弱いものへ…子供達へと向けられていた。
ユウキはギュッとハンミの手を握り、立ち上がらせた。
「行こう。」
せめてもう少し、日差しが弱まってから出発すればよかったと思ったが、夕方まで待っていたら
決心が揺らぎそうだった。ハンミの手を引きつつ、ユウキは後ろめたい思いに捕われた。検問を
突破したら、ハンミとはそこで別れなければならない。韓国からの支援者と合流してからは、本当
に危険な行動を伴うはすだ。とても連れて歩くわけにはいかなかった。
この子の将来はどうなってしまうんだろう…
いくら考えてもユウキに答えが出せようはずはなかった。
- 107 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時35分39秒
- この状況で小さな子をひとり残すことは、早いか遅いかの違いだけで、いずれ死を免れないのは
確かなのだから。憂鬱な気持ちに胸を塞ぎつつ、ユウキはそれでもしっかりとハンミの手を握り、
その温もりを確かめた。
ほどなく視界の奥に検問所を囲む高い有刺鉄線が昼間の太陽を受けてキラキラと光る様が確認
された。ユウキは道の脇に寄ってリュックを降ろし、双眼鏡で検問所を守る兵の人員を確認した。
一人…二人…門の外側を手持ち無沙汰にぶらぶらと歩きまわっている兵士は二人だった。
恐らく中にもう一人か二人はいるだろう。全員で3〜4人というハンミの観察は正しかったことになる。
ユウキは平壌の協力者が入手してくれた交通証明書を丁寧にリュックのポケットから取り出し、
ついでにベレッタを尻のポケットに突っ込んだ。賄賂代わりのタバコの箱を取り出し易い場所に
入れ替えておく。再びリュックを背負うと大きく深呼吸をして、ゆっくりと歩き出した。ハンミが慌てて
駆け寄ってくる。検問所が近づくに連れて胸の鼓動は大きく激しくなっていった。
- 108 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時36分03秒
- 落ち着け…呼吸を整えるんだ…
頭ではわかっていても、動悸を抑えるのは困難だった。一歩一歩、ぬかるみの中を歩ように
ゆっくりと足を踏み入れていく。
喉はカラカラに乾いているのに、ハンミの手を握る掌は汗ばんで湿っていた。
遂に番兵の視線を直接感じられるほどの距離に到達して、ユウキは逆に血の気がすぅっと下がり、
落ち着きを取り戻した。
ユウキは一歩一歩、ゆっくりと検問に近づいていく。不安に思う内面の動揺が番兵に気付かれ
ないか心配だった。自分は不審な挙動を示してないか。怪しいと思われていないか。遂にユウキ
は検問所に到達した。
「交通証明書を見せろ。」
何らの感情も読み取れない無機質な口調で兵士が命ずる。ユウキもまた、黙って交通証を差しだす。
無言のまま交通証とユウキの顔を見比べる兵士の目が真剣さを帯びる。ごくり、と唾を飲み込む
音が聞こえないか、ユウキは心配になった。ハンミはどこまでわかっているのか、ユウキの手を
ギユッと握り締めたまま、じっと事の成り行きを見守っている。
- 109 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時36分36秒
- 「この子の交通証はどうした?」
「!」
そうきたか…だが、考えていないではなかった。
「出発する直前に両親が死んでしまって…幼児だから、交通証はいらないって郡の責任党員にも
聞いたし…」
兵士は黙ったままだ。実際、幼児に証明書類のたぐいは必要ないはずだ。本来、必要ないはず
のものを提示するよう命じて、暗に物品を要求することもまた、想定の範囲内であった。ユウキは
黙ってリュックを降ろし、タバコを取り出した。この兵士はどうだろうか。賄賂どころか、荷物を根こ
そぎとりあげようとする兵士も最近は少なくないと聞く。軍隊の風紀の乱れは既に中央のコントロ
ールが利かないほど緩んで久しい。
じっくりと判断する暇はない。黙ってタバコを二箱、差しだすと、隣の兵士もまたカチャっと銃を鳴
らし、さりげなく分け前を要求する。ユウキはリュックからさらに二箱取り出すと、黙ってもう一人の
兵士に渡す。
これだけで済めば安いものだが…
二人の兵士は目くばせをして肯き合うと、ユウキに向き直り黙ったまま、
顎をしゃくって門の内側へと通るよう促した。
- 110 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時37分04秒
- いいのか…ユウキは拍子抜けしたが、兵士の気が変わらないうちに通ってしまおうと、再び荷物
を背負い、ハンミの手を強く握った。
「行くよ。」
黙ってうなずき、ハンミも手を握り返す。緊張しているのか、口の端をキュッときつく結んで表情を
引き締める。少し符に落ちないまま、ユウキは検問の内側に入り、右側の小さな建物の中を窓か
ら覗いた。事務官らしき若い男が一人、机に向かって書きものをしていた。
リン、リリリリ。
突然ベルが鳴った。ばれたか?!びくっとして、慌てて振り返るが、門の外にいる兵士二人は無
反応だ。音はすぐに途絶えた。建物の中を窓から確認すると、事務官が黒い受話器を手にしていた。
電話か…
ほっと息をつく。電話の呼び出し音と言えば電子音世代のユウキには機械式の電話と警報装置
の区別がつかない。目が合って、またぞろ物品を要求されても面倒だ。荷物の中身を広げられた
ら、厄介なことになる。ユウキは見つからないように腰を屈め、ハンミの手を引いて足早に検問の
敷地を通り抜けた。
- 111 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時37分35秒
- 「ふぅっ…」
知らずと額に汗が滴る。右手で拭うと風が吹いた。ひんやりとした感覚が心地いい。さ、長居は
無用だ。急ごう。昼間に移動はしたくなかったが、价川まではもう目と鼻の先だ。地図上では、もう、
あとひとつ山を越えれば价川に入る。今夜はそこでソニンの指示を待ち、韓国からの助っ人と合
流する算段を整えよう。
「さ、行こう。」
ユウキは再びハンミの手を取り、歩き出した。心なしかハンミも緊張が解けたのか、表情も明るく
足取りが軽くなったように思える。ただ、ユウキの心はそれに反して重苦しく、暗鬱なもやもやとし
たものが広がった。ハンミとはいずれ別れなければならない。遅くなればなるほど情が移る。早く
別れなればなないが、さりとて、道の真ん中で置いていくわけにもいかない。价川にいるという遠
い親戚を頼らなければならないだろうか。
「ハンミ…价川の親戚の人には会ったことがあるの?」
ハンミは首を横に振って答えた。
「うんん。ないよ。」
ユウキは少し躊躇いつつ、それでも偽ることなく告げた。
「价川に入ったら、僕らは離れなければならない。君は親戚を探して頼るんだ。」
- 112 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時38分24秒
- 「やだよ!オッパと一緒に行く!親戚なんてどこにいるか、わかんないよ!」
今すぐ置いていかれるわけでもないのに、ハンミはユウキの腕に強い力ですがりついた。
わかっている…
自分と離れたら、この子はまた、自力で生きていかなければならないのだ。そして、生きて次の冬
を越すことさえ、難しいであろうことも。だが、自分は市井を救出するという任務を帯びている。
あるいは自分もそこで死んでしまうことだってありうるのだ。ユウキはそれ以上、何も言えず、黙って
ハンミの肩を抱いた。その手が包む小さな肩の震えは、ユウキの心に懸命に訴える。
見捨てないで…と。
「オッパ!ちょっと待って…」
突然、ハンミが駆け出して、道の脇の草叢へと分け入った。しばらくガサゴソと何かを探している
様子だったが、すぐに蔦のような長いレンゲ草の束を手に戻ってくる。ユウキの前で器用にそれ
を縒(よ)って、ふたつの花の首飾りを作ってみせた。
「こっちはオッパにあげる…こっちはわたし…オッパとわたしがはぐれてもすぐにまた会える様に、
おまじない。」
- 113 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時38分47秒
- レンゲ草の首飾りにそんなおまじないがあるのか…
ユウキはぼんやりと、北朝鮮の習俗はおもしろいな、などと考えて、花の輪を首から下げてみた。
「似合うかい?」
「うん!」
ユウキが自分のつくった首飾りを着けてくれたことが嬉しかったのだろう。ハンミは子供らしい
自然な笑顔を浮かべ、ユウキの腕にまた強くすがりついた。
こういうとこは、女の子らしいんだな…
変なところで感心しつつ、それでも、いずれ別れなければならないことを思うと、無性に悲しさが
こみ上げてくるのを、どうすることもできなかった。
「さ、行こう。」
「うん…」
行こう、とは言ってもハンミには自分がどこへ向かっているのか、わからないだろう。それはユウ
キも同じことだった。とりあえず价川には向かっているものの、ソニンからの指示がなければ、動
けないのが実情だ。中国経由でこちらに渡ってくるという韓国の助っ人と合流してしまえば、もは
やハンミと連れ立って歩くことは適わない。感傷的になる自分を抑えて、ユウキはハンミの手をと
り、再び歩き出そうとした。
そのとき…バンッ!と大きな銃声が後方から聞こえて、ユウキは振り返った。
- 114 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時39分29秒
- 「こらっ、待てぇっ!」
「待たんか、この逆賊がぁっ!」
凄い勢いで銃を構えた、先ほどの兵士達が追いかけてくるのが見えた。
ちっ…バレたか…
舌打ちする間にも、さらに二、三発、銃を撃ちながら、連中は近づいてくる。怖がるハンミを腕に抱
えて、道の脇、草叢に倒れこむと、ユウキはベレッタを尻ポケットから抜き出して、ロックを外した。
背の高い雑草の間から、今きた道を追ってくる兵達に狙いを定め、トリガーを引いた。キーン、と
いうような金属音がして、一人がもんどりうって地面に倒れた。もう一人は予想外の反撃に恐怖し、
パニック状態に陥っているようだった。慌てて退却するところを狙って、さらにもう一発撃つ。敵は、
一瞬、宙に浮かんだように動きを止めると、やはり、地面に崩れ落ちた。
やったのか…自分が殺したのか…
ユウキは緊張からか、引き金にかけた指が緊張と疲労で固まって抜けない様を呆然と見つめた。
僕が…殺した…
ユウキは初めて、防御のためとはいえ、人を殺めたことに激しい後悔の念を覚えた。さして練習
したわけでもないのに、二発で仕留めるというおまけつきで。
- 115 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時39分59秒
- ぼんやりしてる暇はなかった。何がどうバレたのかわからないが、自分は明らかに人民軍から狙
われている。早く逃げなければ。少なくともここからなるべく、遠くに離れている必要がある。幸い、
二人以外の追っ手はまだ来ていないようだ。
「行こう。」
抱えていたハンミを降ろして、手を取ると、ユウキは足早にその場を立ち去ろうとする。だが、ハン
ミの歩幅では、ユウキのスピードについてくるのは無理だ。一刻も早く、その場を立ち去りたいユ
ウキは、ハンミのペースがもどかしく、見かねて、リュックの上に座らせた。座る、というよりはしが
みつく感じだが。8歳とはいえ、5〜6歳にしか見えない、小さな体の体重はユウキの肩にそれほど
の付加を与えたようは感じられなかった。
「よし、行くぞ…」
二、三歩歩き出したそのとき、またしても銃声が聞こえた。だが、後ろを振り返るのと、背中からハ
ンミが落ちるのを確認したのはほぼ同時だった。
- 116 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時40分28秒
- 「ハンミィッ!!」
撃たれている…なんてことだ…右胸のあたりが鮮血で真っ赤に染まっていた。ハァハァと荒い息
遣いで呼吸するハンミの姿にユウキは冷静さを失った。
「待ってろよ…今、すぐ片をつけるからな…」
血が逆流してドクドクと頭の先にまで昇っていくのを感じた。こめかみが、ひくひくと脈打っている。
殺してやる…ぶっ殺してやる…
初めて感じた、憎しみ、殺したいほどの憎しみ。だが、敵の姿は見えない。どこだ、どこにいる?
目を凝らして、検問所までの道路を眺めるが、人の気配はない。
何故だ…何故いない?
ハンミの息が弱くなってきた…出血は止まる気配がない。ユウキは怒りと涙でまったく前が見えな
くなっていた。
ちくしょう、ちくしょう…
「オッパ…早く逃げて…」
「僕は、大丈夫だよ…ハンミ、喋るな。体力を消耗する。」
だが、そう告げた自分自身が、その言葉を信じていないことをよく知っていた。そして、またハンミも。
「わたし、オッパと会えてよかった。最後にオッパがいてくれてよかった…」
「もういい。喋るな…」
だが、最後の力を振り絞ってハンミは伝えようとした。
- 117 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時40分56秒
- 「市場でね、ひもじくて死んだ人、たくさん見たの。みんな、誰にも知られずに一人で死んでいったの…
だから、わたし、しあわせ…オッパがいるから、しあわせ…」
「死ぬな…頼むから死ぬな…」
涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を拭いながら、ユウキはハンミの手を握り続けた。しかし、既に
呼吸の音さえ消え、青白い顔で最後の微笑みをつくったハンミの手は冷たく、もはや握り返すこと
はできそうになかった。
「ハンミ…」
握り続けたまま、どれくらいたっただろうか。気がつけば、ハンミの手は冷たく固くなっていた。
左胸に手を当てるが、一切の鼓動は感じられない。既に生きていないのは明白だった。尚も、
ハンミの手を握り続け、あふれ出る涙を地面に滴らせて、ユウキは嗚咽の声をあげた。
「うわぁぁぁあああああっっ!」
悲しみの深さを怒りに変え、ユウキは草叢から飛び出すと、一心不乱に検問所へと突っ込んでいった。
- 118 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時41分24秒
- それを待っていたかのように、銃声が再び空気を切り裂く。運がいいのか、それともユウキの気
迫がそうさせるのか。何発も撃たれたはずなのに、銃弾はユウキのそばを掠めることすら出来ず、
遂にユウキは検問所まで到達した。手にはベレッタを握っている。建物の壁にぴったりと体を寄
せて様子を窺う。すぐ近くに敵の気配は感じられるのに、姿は見えない。
どこだ…どこにいる?
引き金に指をかけたまま、壁に沿って移動する。窓のすぐ下を屈みこんで通り過ぎ、表へと回ると
息を整えて、一気に足で扉を蹴り上げた。だが、しばらく待っても何の反応もない。
逃げたか…
そう考えて顔を覗かせた瞬間、こめかみに冷たく固い感触を覚えた。心臓が凍りつきそうなほど
の恐怖に思考が硬直する。
「銃を捨てろ。」
短く、抑揚の無い声が命じた。大声ではないが、それが逆に相手の余裕と容赦の無い感じを与える。
選択の余地はなかった。ベレッタを投げ捨てるユウキに向かって敵はさらに告げる。
「手を上げて壁に張りつけ。」
- 119 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時41分56秒
- 機械的に両手を挙げて壁に密着する。
ここまでか…
自分の軽率さを悔やむ気持ちはまったくなかった。だが、市井の救出に向かえなくなったことが
心残りと言えば、言えないこともない。
ごめんよ、ソニン…
感慨にふける暇もなく、敵は事務的に告げた。
「お前を国家反逆罪の罪で逮捕連行する。行く先は…」
平壌に戻されるのだろうか…
「价川の教化所だ。」
「!」
市井の収容されているところではないか…自分の命運は未だ尽きていないのか…
「だがその前に、お前にはここで平日(ビョンイル)党の全てを吐いてもらう必要がある。」
平日党?…なんだ、それは?
ユウキはひょっとすると、とんでもない陰謀に自分が巻き込まれているのではないかと感じ始めた。
そして先ほど告げられた罪状は「国家反逆罪」…
「なぜ、わかったんだ?…俺が平日党の一員であると…」
ユウキは冷静さを取り戻しつつあった。知らぬ存ぜぬが通用する相手ではない。わざと、容疑を
肯定しつつ、逆に相手から情報を引き出す必要があった。
- 120 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時42分25秒
- 「ふっ、バカな奴だ。お前が、人民帽につけていたバッジに気づいたものがいる。一般の人民には
わからなくとも、人民武力省の兵士でそれがわからなければもぐりだな。」
バッジ…そうか…
ユウキは後悔した。いらぬものを拾ってしまっていたようだ。だが、あれはどう見ても、金日成
バッジそっくりだったが。
「たしかに平日(びょんいる)同志は偉大なる首領様のご子息だけあって、ご尊顔に似てはいるが、
いくらご子息といえども、首領様のみに許されるバッジを勝手につくることなど許される行為ではない…」
そうか…金日成の息子に金平日という者が確かにいたはずだ。その名前を騙る反体制勢力に自
分は間違われているわけだ。話が見えてくると、逆に事の重大さがわかり、いよいよ、助かる確
率は低いのではないかと思えてくる。おそらく价川に送られると、組織の全貌について吐くまで、
それこそ死んだ方がましだと思えるような拷問を受けるはずだ。ユウキには、一瞬抱いた光明が、
瞬く間に遠ざかっていくように思えた。
- 121 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時42分57秒
- 「順川第五警戒所を襲ったのは貴様らの仕業だな…?」
おそらくユウキが目撃した事件のことだ。犯人を装って、それらしく答える。
「ああ。」
その途端、相手の態度が激変し、こめかみに当てられた銃口が強い力で食い込んだ。
「う、うっ…」
思わずうめき声を洩らしてしまうほど激しい痛みにユウキは動揺した。
まずい…この場で、殺されかねない…
「なぜ、ああも簡単に警戒所を突破できた?なぜだ?!」
「内応者がいたからな…それだけのことだ。」
ユウキはなるべく本当らしいことを告げることにした。下手に嘘を吐いて辻褄が合わないと、
激昂した相手に、その場で射殺されかねないと感じたからだ。そして、その予想は当たっていた。
「そうか…お前の口から、それを聞けただけでも収穫だった…」
急に落ち着いた相手の口調が不気味だった。
「殺された番兵は俺の弟だったんだ…」
な、なんだって…
「お前ごとき下っ端にもう用は無い。ここで死ね。」
そう言って銃口を離された瞬間、ユウキは終わった、と思った。
- 122 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時43分37秒
- 瞬間、激しく火薬の弾ける音が至近距離から聞こえた。だが、ユウキはまだ生きている。
動揺して手元がぶれたか…だが二度目はないだろう…
こんなときに冷静でいられる自分が不思議だった。
すぐにくる、と思われた二発目はしかし、なかなか来ない。どれだけの時間が経ったのだろう。
長い長い時間、微動だにせず、壁に突っ伏したままで、待ち続ける。主観的に見て、数分が経っ
たのち、ようやく後ろを振り返り、ユウキは唖然とした。兵士が一人、地面に突っ伏している。おそ
らくユウキに銃口をあてがっていたはずの人間だ。だが、その頭部は銃に撃たれて大部分が破
損していた。
まさか…自分で撃ったのか…?
だが兵士が握っている銃口には返り血の痕跡がない。理解不能な現実に直面し、ユウキの思考
は錯乱に陥りかけた。狂気の淵へと足をかけ、そのまま彼岸の人となろうかという直前、新たな
声が聞こえた。
「ようこそ地獄へ。ユウキくん。」
- 123 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時44分02秒
- ハッとして兵士の死体から目を上げると、人民服姿の女性がユウキに微笑んでいた。
「あ、あなたは…?」
問い掛けてから、ユウキは愚問だと悟った。自分の名前を知っていて、危機から救い出してくれ
たこの人こそ…
「韓国から来た李梨華(イ・イーファ)です。ソニンちゃんはお元気?」
精悍そうな顔を緩ませて微笑みかけるその姿は、ユウキにとって、まさに地獄で出会った女神
そのものだった。
- 124 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月28日(水)14時49分51秒
- >85名無し読者さん
かなり遅くなってしまいましたが、レスありがとうございます。
これからまとめて更新するつもりなので、更新期間は長くなるかもしれません。
あらかじめ申し訳。
- 125 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時04分26秒
- 「あなたが…」
あまりの驚きにユウキは助けてもらった礼を述べることさえ忘れていた。
「しかし、これは…」
「ごめんなさい。もっと早く助けられれば良かったんだけど、こいつがどこまで知ってる
かわからなかったから。」
「いや、それはいいんですけど…」
ユウキは口篭り言い淀んだ。すぐには状況を整理して理解することができそうになかった
上、ハンミを死なせてしまい激しい自責の念に苛まれていたからである。すぐにも市井救
出の打ち合わせを行うべく、价川への道を急ごうと促すイーファにユウキは少しだけ、と
頼み込んでハンミの遺体を葬る許可を得た。道の脇に浅い穴を掘って遺体を横たえると土
をかけ、トウモロコシ餅を一個置くと、軽く手を合わせ、その短い人生を弔う。後ろ髪を
引かれながらも先に進まなければ、との思いも新たにユウキはその場を後にした。
- 126 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時05分10秒
- イーファは偶然、この場に居合わせたわけではなく、ユウキが价川境界警戒所(というら
しい)で足留めをくらっているために、价川市内で合流するという当初の予定を変更し、
検問の突破を助けるためにその付近で待機していたということだった。ユウキの特徴は聞
いていたものの、子供を連れていたために確信が持てず、接触したものか様子を見ている
うちに事態が急転してしまったという。そのことについてユウキは何の感想ももらさなか
った。ただ、一言「ありがとう」と短くつぶやいた以外は。
道中、イーファの説明を聞きながらユウキはおぼろげながらも状況を理解してきた。世情
が騒がしくなってきたのは確からしい。各地で一揆のような単発の騒乱は、いくつも確認
されているという。この国が唯一、世界に誇れる能力である情報統制力により、国際的に
認知されるには至っていないが、それでも韓国や中国の事情通の間では、金正日危うしと
の見方が急速に広がりつつあるという。
「市井さんは大丈夫なの?」
「ソニンちゃんから聞いてると思うけど、今のところ命に別状はないわ。金永南が動いて
るらしくて。」
「そこがよくわからないんだけど…」
- 127 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時05分54秒
- ユウキには最高人民会議常任委員会委員長という要職にある党の高官がなぜ、市井を保護
するのか、その理由がまったくわからない。イーファの説明によれば、今、反対制勢力と
目されているのは金正日に代わる頭目として異母弟の金平日(びょんいる)を担ぐ守旧派
主体の平日党、金永南を頭目と仰ぐ党内改革勢力や学生などを中心とする改革派、人民軍
の呉克烈(おぐにょる)将軍を中心とした軍内部の青年将校勢力の三つがあるという。も
ちろん、その他にも群発する反体制的運動の萌芽はあるのだが、極度の情報不足から横の
繋がりへと広がりにくい事情があるらしい。
「乱世の様相を呈してきたからね。反対制側の一部では政治犯の解放を狙っているところ
もある。」
「ってことは?」
「价川の教化所は多くの政治犯を抱えているわ。彼らを抱き込むことは自由と解放の象徴
になるから現体制の打倒を狙う勢力にとって政治犯を救出し、その弾圧を白日の下にさら
すことは格好のプロパガンダとなる…」
- 128 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時06分46秒
- なるほど…
ユウキは感心した。だが、もし价川教化所の政治犯たちが解放されたとしても、市井の無
事は保証されていない。むしろ、憎き日帝の象徴として血祭りにあげられる可能性だって
…ユウキはぞっとしない想像についてイーファに問い質した。
「大丈夫よ…っていうか、逆に彼女の存在が知られた場合、利用される可能性の方が高い。」
「えっ?なんでまた…」
ユウキには理解できなかった。一介の日本人に過ぎない彼女にどれだけの価値があるとい
うのだろう。日本でなら元モーニング娘。の一員ということで、大きな話題にはなるかも
しれないが…
「あっ!」
「その通りよ。」
ユウキが思いついた内容は、イーファの説明とほぼ変わらないものだった。反乱勢力にと
ってクーデターを成功させるために海外各国から支持を取り付け、あわよくば武器や資金
などの物的支援を得ることは欠かせない。特に日本は隣国でもあり、拉致疑惑やテポドン
の頭上通過などにより、金正日政権への印象はすこぶる悪い。そこへ持ってきて、拉致さ
れていた市井という有名人の解放が大々的にメディアで扱われれば、その勢力に対する日
本からの私的公的支援はかなり固い。
- 129 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時07分26秒
- 「市井さんの存在価値に気付いている勢力はどれだけあるの?」
「今のところ、金永南の改革派だけだけど、他のグループが気付くのも時間の問題ね。な
にしろ外国から最大限の支援を引き出すことにかけてはこの国の人間ほど長けている国民
を見たことがないわ。」
なるほど、期を見るに敏というか、始終、他国の動静に気を配らなければ国の存続さえ危
ういこの国に生まれて、自然に身についた能力というわけか。これでは日本の外務省など
が軽くあしらわれるのもしかたがない。ところでユウキにはもう一つ気になっていること
があった。
「で、僕らはどう動くわけ?」
「というと?」
「なんだかイーファさんの言うことを聞いてると、反対制勢力が价川の教化所を襲撃する
のに乗じて市井さんを救出、いや、もっと積極的に反対制勢力と協力して、教化所の襲撃
に加担しようとしているようにさえ聞こえる。」
「鋭いわね…」
イーファは否定しない。どころかユウキの推理を楽しんで聞いている風にも見える。
ユウキは緊張した。
- 130 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時09分00秒
- 「どこと組む気なの?」
「それはまだ言えない。」
「なんでだよ!僕らはパートナーじゃなかったの?」
イーファは悲しそうに首を横に振った。
「ごめんね。じらしてるわけじゃないの。まだ決められないのよ。」
「とりあえず何でも話してもらえないとお互い信用できないよ。」
「そうね…これを戦争と捉えた場合、三つの中で一番、戦闘能力が高いのはもちろん人民
軍内部の勢力だわ。ただ、彼らにどれだけ求心力があるか…」
なるほど…軍部を中心としたクーデターではその後の統治能力に不安が残るということか。
しかし、政府転覆を狙うなら軍勢力の協力は欠かせない。その心配さえなければ、考える
までもなく、金永南の勢力に協力するはずだ。なにしろ彼らが一番、市井の政治的利用価
値を認識しているからだ。実際、今、現在も市井を保護し、収容所内部に睨みをきかせて
いるという。で、あれば、最も望ましいのは彼らと軍勢力が組むことだが、イーファは当
然…
「考えてるんでしょ?」
「何を?」
イーファは目を細めてユウキを見つめた。その視線はどこか値踏みしているように見えな
くもない。
- 131 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時10分16秒
- 「改革派と軍勢力を組ませること…」
「買いかぶりね。一民間人、しかも韓国籍の私に何ができるっていうの?」
いたずらそうに光る瞳にユウキは確信した。この人は何か企んでいる。だが、手のうちを
すべてさらけ出すつもりはないようだ。それならそれでかまうまい。自分は市井さえ無事
に救出できればよいのだ。だが…姉はどうなるのだろう?金正日のもとで踊り子として生
きる道を選んだ姉の行末は…ユウキはイーファの質問には答えず、そのまま黙って物思い
に耽った。价川の町に入る頃には既に日が傾きかけていた。黙って紅に染まる薄暮の空に
向かいユウキは姉の境遇に思いを馳せた。そして、祖国にありながら立場を異にする自分
たち、兄弟の行末に…
- 132 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時11分23秒
- 「真希同志、そんなに根をお詰めになっては…」
「いいんです。親愛なる指導者同志のために少しでもお役に立たなければ。」
金剛山近郊の招待所、つまり金正日の別荘では後藤がまかないのアジュモニ(おばさん)
に給仕されて遅い食事を取っていた。向かいの席には、こちらでの世話を担当する党書記
が座っている。市井の収容所送致が決まって、せっかく軌道に乗り始めたミュージカル版
「ピパダ(血の海)」は主役を失い、頓挫した。
市井の収監以降、気落ちして自宅で塞ぎ込む後藤に金正日は優しく接し、しばらくは後藤
の家に帰る日々が続いた。ようやく後藤が立ち直り、再び、「ピパダ」のミュージカル化
に取り組みたい意向を伝えたが、金正日には、もはやミュージカルを継続する意志はなか
った。金日成生誕90周年記念行事に忙殺されていたことが大きかったが、観光客の誘致で
は、金剛山観光プロジェクトがある程度の成果を納め、そちらに注力する必要性が高まっ
ていたからである。
- 133 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時13分59秒
- 金正日はそのまま何もせず官邸に留まることを勧めたが、後藤のたっての希望も有り、金
剛山観光の目玉として期待の高まる牡丹峰(モランボン)サーカス団で空中ブランコを担
当することにしたのだった。市井のことを忘れるために何か体を動かしていないとやりき
れない、という理由だけでなく、北朝鮮の深刻な外貨不足の現状を知るにつれ、外貨獲得
のために何か役立ちたいという気持ちに動かされた面もある。「指導者同志のために…」
という言葉はあながち通り一遍の美辞麗句ではなかったのだ。
「市井同志のことですが…」
担当書記が言いにくそうに切り出すと、後藤は伏せていた顔を上げ、まっすぐな視線を返
した。市井への関心を隠そうともしない。いやできないというべきか。
「市井同志がどうかしましたか?」
「革命の思想闘争は順調に進んでいると聞いています。」
生きているんだ…
それを知ることができただけでも嬉しかった。目の前の女性書記がそれほど気のつく人だ
とは思えなかったが、それでも自分の一番知りたいことを告げてくれたことに感謝した。
- 134 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時15分04秒
- なにしろ後藤には親しく話せる相手がいない。その特別な立場から下手に不興を買って、
告げ口でもされたらかなわないと思われているのだろう。加えてその外見は一般の北朝鮮
人民と著しく異なるために、親近感が湧かないのかもしれない。実際のところ、その白い
肌と切れ長の美しい瞳の美しさが一種、近寄り難い雰囲気を醸しだしていたのは確かなの
だが。
「それは喜ばしいことですね。親愛なる指導者同志の恩寵に感謝しなければ。」
心ここにあらず、といった体で視線は遠くへ向けられながらも、指導者同志への型どおりの感
謝は忘れない。この国に暮らしていると自然に身についてしまった。すでに慣用句のようなも
ので、これをつけないと逆に何か物足りないような気さえしてくる。
「革命思想の再教育が終了したら、再び平壌に帰ってくることはできるのでしょうか?」
「愚問ですね、真希同志。革命思想の勉強に終わりはありません。」
「では、市井同志は一生、塀の中で…」
「それは親愛なる指導者同志のみがお決めになられることです。」
- 135 名前:名無し娘。 投稿日:2002年08月30日(金)01時16分10秒
- そっけない、担当書記の言葉が逆に後藤の心に希望の火を灯した。すべては金正日の胸先三寸。
であれば、自分が懇願すればなんとかなるかもしれない…
とにかく、収容所での日々を無事に過ごしてさえくれれば…
そのような甘い考えが粉々に打ち砕かれるほどの凄惨な現実と市井が戦っていることを後藤は
知らない。そして、その市井を救出するために、血を分けた弟が必死の決意で向かおうとして
いることも。三人の若者は今、激しい奔流となって流れる運命の前になすすべもなく、押し流
されようとしていた。
- 136 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時01分20秒
- 「起床!点呼!」
「1!」
「2!」
「3!…」
看守の号令とともに収容者達が寝ぼけた様子で目をこすりながら点呼の声を上げる。早朝
5時。まだ暗いうちから价川思想教化所の朝は始まる。最初のうちは、眠れぬ夜を過ごすこ
とが多かった。明け方になってようやく、うつらうつらしているところを叩き起こされる。
そのため、作業中に居眠りをして監視係の看守に鞭で打たれることもしばしばだった。さ
すがに2ヶ月も経つと、体の方が順応してきて眠るべき時間にきちんと眠れるようにはなっ
た。そもそも深夜12時まで過酷な労働が続く中で、とてもその後も起きていることなどで
きなかったのだが。
「17!」
「18!」
「…」
「19番!19番はどうした!」
ここでは収容者は全員、入所後に割り振られた管理番号で呼び合っている。私も例外では
なく、16番というありがたい番号をいただいていた。ともかく、大声で呼んでも返事の無
い19番の態度に、看守はこめかみに青筋を立てて、怒りを顕にしている。
- 137 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時02分02秒
- まずい…19番の娘は昨日も眠っていた。入って5日では体も慣れておらず無理もないが、こ
れではまた、自分が所属する15〜20番組に罰則として2時間の作業延長が課されてしまう。
すぐそばで死んだように横たわる19番の娘の体を揺さぶり、なんとか起こそうと試みた。
だが。娘は心底疲れきっているのか、顔が土気色で、一向に目を覚ます気配はない。しび
れを切らした看守が凄い剣幕で怒鳴り出した。
「19番はどうしたのだ?!お前ら、連帯責任であることを忘れたわけではないだろうな!」
「管理官先生様、19番は病気と思われます。先生様のお慈悲により診療を受けさせていた
だきたく…」
すべてを言い終える前に、ビシっと空気を震わせる音がして目の前に鞭の振るわれた残像
が浮かび上がる。
「また貴様か…」
掴みかからんばかりの形相でにくにくしげに私をにらみつける看守はしかし、それ以上、
何も言わなかった。代わりに、比較的自分に従順な17番と18番の収容者に19番の娘を診療
室に運ぶよう、命令した。
- 138 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時02分39秒
- 「市井同志、コマッスムニダ(ありがとう。)でも大丈夫?あいつかなり怒ってたよ。」
「アジュモニ、ケンチャナヨ(大丈夫。)私はまだ元気だし、作業の延長も平気だから。」
15番のアジュモニは心配そうに尋ねる。だが、なんとなくではあるが、看守が自分に手を
出せるとは思っていなかった。ただ、代わりに組の他の収容者に迷惑がかかるといけない
ため、極力、看守の反感を買うような行為は慎んでいるつもりだった。
「それより、あの娘、心配だわ。昨日も作業中、何回か倒れたし。」
「ああ、あの顔色は危ないねぇ。前にもあんな土気色になってすぐ死んでしまった者がい
たよ。」
私は答える代わりに肩をすくめた。ここにいると人の死に対して鈍感になってしまう。そ
れではいけない、と自分を鼓舞するのだが、時折面倒くさくなって、どうでもよくなるこ
とがある。その度に、後藤のことを思っては、なんとか生きる希望を繋いでいる。
この収容所に2ヶ月もいると、希望を持たない、あるいは持てない人がいかに脆く壊れ易い
かがわかる。反対に生への執着心が強い者は、どんな過酷な目にあってもなかなか死なな
いものだということも。
- 139 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時04分05秒
- だから、ここでは若い娘ほど命を落とすことが多かった。逆に子供を産んだ母親の世代は
子供のためになんとか行き延びてやる、という強い意志の力で行き抜いている。今、話し
ていたアジュモニも子供を残しては死ねないと頑張っている一人だ。この人は平安南道の
中心都市、平城(ぴょんそん)で初等学校の教師をしていたが、学校に入った泥棒の犯人
にし立て上げられて、無実の罪で収容されてきたという話だった。驚くほどのことはなく、
ここでは、ほぼ全員が無実、あるいは取るに足りない理由で収容されているものばかりだ
った。
朝の点呼を終えると、収容者たちは運動場に集められ、そこで朝の革命思想宣言と呼ばれ
る金正日への忠誠を誓う長い文言を一字一句、間違えずに読めるまで繰り返す。さすがに
2ヶ月も経つとそらで言えるようになったが、入所したばかりのものには、やはり難しいの
だろう。途中で間違えたり、詰まったりしたものは、その都度、看守に鞭を振られ、痛み
に耐えていた。
- 140 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時05分06秒
- 収容者たちは運動場で朝の革命思想宣を終えると、ふたたびそれぞれの房に戻り、食事を
取る。食事と言っても、トウモロコシ数粒とほとんど塩気のないすまし湯のようなスープ
だけだった。さすがにこの食事はきつい。食べられるだけありがたいのだが、北朝鮮入国
当初ふっくらとまでは言わないが、年齢相応に張りの合った私の体も今では、すっかりと
痩せこけてしまった。おもしろいことに、痩せるに連れて、顔つきが朝鮮人らしくなった
ようだ。
収容者番号15番のアジュモニに言わせると、柳寛順(ユ・カンスン)という伝説の少女に
似ているらしい。柳寛順烈士は1919年、日本占領下の朝鮮で、日帝支配に立ち向かった勇
敢な少女だという。
いわゆる3.1独立運動以降のことになる。当時ソウルの梨花学堂(現梨花女子大)に学んで
いた16歳の柳はソウルでの抗議運動が禁止されたことから、故郷の忠清南道天安郡(チョ
ナングン)に帰った。そこで、地元の有力者に働きかけて説得し、並川市場(ピョンチョ
ンシジャン)にて独立運動に立ち上がる。
- 141 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時06分10秒
- 彼女は並列市場に集まった数千の群衆に対して、少女とは思えぬ堂々とした演説を行い、
群衆は、少女の訴えに感動したという。その勢いのまま、人々は、日帝による圧制の象徴
でもあった日本軍の憲兵隊に、平和的デモ行進を敢行。それに対して憲兵隊は銃口をもっ
てこたえた。これが世にいう並川事件で、憲兵隊の発砲により、あたり一面血の海となっ
たという。首謀者として投獄された柳烈士は、栄養失調と激しい拷問による衰弱で、1920
年10月に獄死している。
享年16歳。今の私より若く、後藤と同じ年だ。その若さに驚くとともに、日本から韓国に
渡り、香港で拉致された私が朝鮮救国の英雄に似ているという皮肉に苦笑する。困ったこ
とに、アジュモニがあんまりそのことを言いふらすので、収容者の間で、いつのまにかち
ょっとした英雄扱いされていた。もちろん本気ではないのだろう。ただ、私の看守を恐れ
ない言動が日帝支配に敢然と立ち向かった救国の少女伝説とあいまって、収容者たちのさ
さやかな希望となっているのは確かなようだ。その意味では、自分の存在が、多少なりと
も役立っているようで嬉しくないこともない。
- 142 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時07分05秒
- 「どうだい19番は?」
作業場に出ると、私は彼女を診療室に運んできた17番に尋ねた。作業場ではおおっぴらに
話しをしているとすぐに監視係の看守が飛んできて鞭打つので、自然と会話は口を動かず
にささやくような声で遣り取りされる。
「危ないよ。息も弱くなってきたし。」
「彼女は小さい弟を残して来たんじゃなかったっけ?」
「そう。腹を空かせた弟のために、トウモロコシパンを一個盗もうとしただけさ。」
気の毒としか言いようがないが、悲しむべきことにそれが現実だった。政治犯と言えば聞
こえはいいが、罪にもならないような些細な出来事をあげつらって、収監し、強制労働に
従事させる。それが、この有り難い「革命思想教化所」の実態だった。
「弟はどうしてるんだろう?」
「知らないよ。きっと市場で残飯を漁るコッチェビ(浮浪少年)になってるさ。それでも
食えなきゃ、のたれ死んでるよ。」
17番は興味がなさそうに答えた。口は悪いが本当は優しい子だ。でなければ進んで病人を
運んだりはしない。その点、18番は明らかに看守の気を引こうとする態度が見え見えで気
を許せないのだが。
- 143 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時08分44秒
- 19番の娘を気遣いながらも作業の手を緩めるわけにはいかない。ノルマをこなせなければ、
残業につぐ残業で睡眠時間を削る羽目に陥る。そうなったら最後、作業の能率は落ちる、
残業が増える、睡眠時間が減る、また作業が遅れる、へまをしでかすという負の循環に陥
るのだ。あまり、不注意による不良を出すと、貴重な国家財産を無駄にした罪ということ
で、懲罰房に入れられる。短くて3〜4日、長ければ2週間も。
狭くて天井がい空間で、長いこと脚を動かせないでいると、しまいには筋肉が硬直して、
関節が動かせなくなることも多い。特に年配の女性でびっこを引いて歩いている収容者の
姿を見るのは悲しい。自分も3日ほど入れられたことがあるが、金輪際、ごめんこうむる。
二度と入りたくはない。たった3日だというのに、脚はパンパンに張り、独房を出てからも
関節はまる一日、動かすことができなかった。とにかく、そうならないためにも、ノルマ
だけはきっちりこなさなければ。
革製のベルトを縫製する作業は退屈で根気のいる仕事だった。ミシンでステッチを縫いつ
けていくのだが、気を許すとすぐに曲がってしまい、売り物にならなくなる。
- 144 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時09分27秒
- どこへ持って行って売るのかはっきりと知っているわけではないが、どうやら日本に輸出
ているらしい。品質の基準がやけに厳しいことから見当をつけた。少しの汚れさえ許され
ないのだが、収容者たちは風呂に入れないため、あかのたまった皮膚はとても清潔とは言
い難い。ときおり、そうした汚れが製品に付着することがあり、見つかるとこってりしぼ
られる。
昼飯はない。少しだけ交替で休憩を取るとすぐに作業を始めなければならない。まったく、
ただ生きているといだけの毎日。生に対する執着心、執念、あるいは何らかの希望がなけ
ればとっくに生きる気力をなくし、ひたすら死への時間を早めていったことだろう。
昼過ぎに18番が看守に呼ばれた。しばらくして戻ってきた彼女が、皆に告げる。
「19番が死んだよ。」
「そう…」
人が死ぬことには慣れていたものの、それでも昨日まで一緒に働き、同じ房で寝ていた仲
間が死んだことに対し、何らの感傷も覚えないといったら嘘になる。無言のまま俯く自分
たちの態度は消極的な追悼の意の表出だった。そして彼女の死、それ自体よりもさらに彼
らを憂鬱にさせたのは…
- 145 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時10分11秒
- 「その分のノルマが次の人員補充があるまで続くから…」
わかりきっていたことだけにため息さえ出ない。死んだ19番の作業量は残りの人員で分担
しなければならない。自分のノルマでさえ、時間内にこなすため必死だというのに、さら
なる負荷は睡眠時間の減少や歩留りの悪化などを誘発し易くする。なんだか懲罰房がすぐ
隣に戸を開けて近づいてくるような錯覚さえ覚えた。
「私は19番の遺体の処理で看守先生様に呼ばれているから、残りは頼むわね。」
「ちよっと待てよ。遺体の処理なんか、ごろごろしてる暇な看守連中の仕事だろうが。
くだらねえ理由でさぼるんじゃねぇよ。」
「あんた…あたしにそんな口きいて、ただで済むと思ってんの?」
普段は滅多にしゃべらない17番がくってかかると、18番がものすごい形相でにらみ返した。
確かに18番の言い分には無理がある。それは彼女が看守の一人と特別な関係にあることを
露骨に匂わせていた。一触即発の状態にアジュモニが割って入った。
- 146 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時10分46秒
- 「あんたたち、昨日まで一緒に働いていた人間が死んだというのに、もう少し喪に服そう
とかいう気はないものかね。」
「そうだね。18番はできるだけ早く戻っておいで。19番の作業は4人で分担だ。あんたが遅
れたらその分はあんたがやるんだ。17番もそれでいいかい?」
私が結論を出すと、18番は不服ながらも認めざるを得ないと悟ったようで、無言のまま、
さっさと行ってしまった。17番はけっ、と吐き捨てるように言うと再び自分の持ち場に戻
っていった。結局18番が戻ってきたのは大分、後になってからだったが、自分に割り当て
られたノルマをこなせないまま、作業を終えて房に帰って寝てしまった。それでも彼女に
対し、特別、懲罰が与えられることはなく、看守との特殊な関係がいよいよ明らかになっ
たのだった。
- 147 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時12分08秒
- 数日後、昼の休憩が終わる頃、突然、招集がかかり、全収容者が運動場に集められた。
「何があるの?」
尋ねる私にアジュモニはただ首を横に振るばかりだった。私より古くからいる17番も俯い
て地面を見つめている。収容者全員が揃うと、所長が看守数名に伴われ、収容者の前に出
てきた。奴の姿を見るのは入所以来だが、でっぷりと肥えて脂ぎった顔のてかりは相変わ
らずだ。収容者は貧弱な食事内容から体を壊し、毎週のように衰弱死していく者がいると
いうのに…
あれ以来手を出して来ないのは何か意図があるのか、それとも、あのときに聞いた金永南
同志の名前、あれが何か関係しているのか。考えても仕方はないが、とにかく自分は生き
て、生き長らえてここを出なければならない。所長のダミ声が私の思考を中断させた。
「親愛なる同志諸君、日々、革命思想の研鑚に務めていただき大変、ご苦労である。
本日、集まって頂いたのは、他でもない。我々が革命を完遂するための障害となる、
内なる敵を排除するためである。我々は、ここに同志諸君の総意により革命の敵、
人民の敵を駆逐する!」
- 148 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時12分52秒
- 気の入らない、パラパラとしたまばらな拍手の中、後ろ手に拘束され、目隠しをされた「人
民の敵」が看守に引きつられて管理棟から引き出されてきた。さすがにこの期に及んで、
私も何が起こりつつあるのか、完全に把握した。
話には聞いていたが、公開処刑というものをこの目で見る覚悟まではできていなかった。
恐ろしさとおぞましさで急激に気分が悪くなる。吐きそうなほどの不快感を覚えながらも、
逆に自分の中の何かが、これから起こるであろう凄惨な場面を見よ、と告げる。動揺して
いる私よりも処刑される者の方が落ち着いているように見える。少なくとも暴れたりする
者はいない。処刑囚三人が壁の前に引き出された。
「このものは、親愛なる指導者同志からの預かり者である貴重な国家財産を、怠慢な勤務
態度により無駄に破棄せしめた横領の罪、このものは親愛なる指導者同志の代理たる管理
官同志に対し、革命思想にもとる言動により愚辱せしめた罪、そしてこのものは革命の敵
である資本主義にかぶれた国家反逆罪によって、我々人民の総意に従い、正義の審判を下
された。よって、今から革命の敵を同志諸君の連帯適任により駆逐するものである!」
- 149 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時13分28秒
- 今度は拍手も起きなかった。さすがに何回見ても慣れるものではないのだろう。目を瞑る
ことは禁じられているのか、アジュモニは手を握り締めて、次に来る凄惨な場面と戦おう
としている。17番は「やっぱり…」と言ったまま、放心したように前を見つめている。
「何がやっぱりなの?」
私は、17番のつぶやきが気になって、思わずささやき返した。見つかると自分も、あの列
に加わる可能性があるだけに慎重になる。だが、答えたのは相変わらず呆然と突っ立って
いる17番ではなく、アジュモニだった。
「なぜ18番がここにいないと思う?」
「!」
バカだった。なぜ今までそれに気づかない。自分の組に並んでいるはずの18番がいなかっ
たのに…前に並べられた処刑囚の真ん中は確かに18番だった。しかし、なぜ…?
「だ、だけど、何で…?」
「シーっ、看守が見てるよ。」
思わず口に出た言葉はアジュモニに遮られた。私は激しく動揺し、もはや前を向いて18番
の姿を正視することに耐えられなかった。
- 150 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時14分21秒
- 吐くものなどないはずなのに、咽喉の奥から熱いものがせり上がってくる感触を覚える。
短刀を手にした兵士たちがそれぞれの処刑囚の背後ににじり寄った。見たくはないはずな
のに、その光景から目が離せない。
「用意!」という看守長の号令のもと、背後から短刀が差し出され、切っ先が処刑囚の首
に当てられる。「始め!」号令一下、身の毛もよだつ、惨状が目の前で繰り広げられた。
横一文字に切り裂かれた頚動脈からは鮮血がほとばしり、シャワーのように地面を濡らし
た。崩れ落ちた18番は口からもごぼごぼと血を吐きながら、苦しみに耐えきれず、しばら
く芋虫のようにくねくねともんどりうった後、突然、ぱったりと動かなくなった。
「鉄砲の玉がそんなに惜しいかよ…」
17番が悔しそうに口を歪めるのが見えた。静まり返る光景の中、彼女のつぶやいた声は
風のささやきのように、さらさらと収容者の間を渡って消えた。
- 151 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時15分07秒
- 「同志諸君、我々は今、革命への途上を妨げる危険分子の排除に成功した。この結果を粛々
と受けとめ、偉大なる首領様の定めた主体思想の実現に向けてさらなる努力を傾けようで
はないか!」
パッと右手を高く掲げた所長の動作に合わせて周囲を囲んでいた監視兵たちが、ワァっと
声を上げた。収容者たちもつられたようにおぅ、とか、わぁ、とかおざなりに口ごもると、
パラパラと拍手を送った。当然、この行動に対する監視は行われていて、後の評価に繋が
るのだ。常人の神経ならば、あんなものを見せられた後で、とても拍手などできる心境に
あるはずもない。だが、自分の命がかかっているともなれば、また話しは別らしい。
まったく、ここにいると人間の脆さだけでなく、生に対する執着心の醜さまで、いやとい
うほど見せつけられる。このような生と死の境界に立っていると自分がわずか18年という
短い時間に培ってきた人生観など、一夜のうちに崩れ落ちてしまう。さっきまで、あれだ
け気分が悪かったと言うのに、その余りの悲惨さとの対比から、今は自分が生き延びてい
るという、そのことだけを強く感じている。
- 152 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時16分27秒
- まったくあさましいとしか言いようがないのだが、これはどうしようもないほど事実だ。
私は生きていることが嬉しくてしかたがない。だが、このまま行き延びて、ここを出られ
たとして、果たして後藤に合わせる顔があるのだろうか…
私は周囲を窺った。俯いて重い足取で歩く姿…あれは私の姿そのものだ。きっと後藤の前
で、胸を張って何事もなかったかのように会うことはできまい。それでもいい。恥ずかし
くとも何だろうと、生きて再び会えるならば。そのために私は何でもするだろう。
何でも…
再び作業場に戻ってベルトの材料となる革をミシンに当てた。ぼんやりとミシンの動く様
を見つめる。カタカタと音を立てて、上下する針の下に指を落とせば大怪我をするだろう。
その恐怖が、再び私を覚醒させた。何も考えず、機械のようにただ、皮を取っ手はミシン
の引き込み口へと指で押し出す。その地道な繰り返しだけが、今の乾いたこころを癒して
くれるとでもいうように。
- 153 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時17分39秒
- その晩はやけに監視兵の飼犬が鳴いた。運動場の地面に染み込んだ血の匂いに昂奮してい
るのかもしれない。脱走者の対策にと飼っているらしいが、脱走など企てる体力のあるも
のは皆無で、ただ飯を食わせておくわけにもいかず、ろくに餌も与えられていないようだ
った。腹を空かせて、血の匂いに食欲を刺激されたのかもしれない。
ノルマを課されて疲れ切っていなければ不眠に陥っていたところだ。以前は体を洗えない
ためダニやシラミの痒さに悩まされた。髪の毛を払えば、ふけか何かわからないくらいパ
ラパラと落ちてくる。今ではすっかり慣れて気にもならなくなったが、垢が固まって皮膚
をガードしているだけなのかもしれない。
幸いに、と言うべきか、犬の激しく鳴き合う声が聞こえたことは辛うじて覚えているとい
う程度だった。ああ、騒いでいるな…と思った次の瞬間には深い眠りへと落ちていったの
だから。
- 154 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時18分17秒
- 18番は結局、看守の一人と関係を持っていたらしい。数日後、アジュモニがどこで聞いた
のか、その理由を教えてくれた。
「でも、関係しただけで殺されちゃうの?」
「まさか。できちゃったんだよ、赤子が。そうなれば隠せないだろう。収容所の中で妊娠
したら、はらませることができるのは看守か党の幹部くらいだ。」
「子供は中絶すれば済むでしょ?殺すことはないと思うけど…」
恐ろしい言葉を平気で口にするようになった。だが、それがここでのスタンダードである
ことも、また確かだった。そのような言葉を平気で口に出せるような神経でなければ生き
ていけないのだ。
「看守たちが一枚岩だと思ったら大間違いさ。やつらだって、他の同僚の足を引っ張ろう
と鵜の目、鷹の目で人の失敗を狙ってるんだ。」
「妊娠させた看守を上に訴えて出るわけ?最低だね。」
「まったくだ。その最低な連中に殺されて死ぬなんて私には耐えられないね…」
- 155 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時19分08秒
- そんな屈辱に耐えられるものはいないだろう。死んでしまった張本人以外は…いや、彼女
達とて悔やむに悔やみきれない思いを抱えて、死んでいったに違いないのだ。それにして
も…私は、入所当日に自分が冒してしまった愚かしい行為を思い起こして鳥肌がたった。
さすがに所長という肩書きを持つ、やつほどの地位になれば、女の妊娠を隠すことなど造
作もないだろう。だが、逆にそれだけ地位が上になるほど風紀上の些細な問題で地位を脅
かされる危険性が高いとも言える。やつと関係を持つことは、この上もなく危険な賭けで
あったことを今、ようやく悟り、背筋を冷たいものが走った。今、こうして生きているの
は、やつの気まぐれのせいなのか。それとも…
「それにしても、許せないのは…」
言いかけてアジュモニは口をつぐんだ。作業を監視する看守が戻ってきたからだ。私は、
続きが気になったが、同じ組の人間が二人も死んで大変な負荷がかかっている。自分への
ノルマをこすのに精一杯で、作業に没頭するうち、次第にそのことは頭の隅へと追いやら
れていった。
- 156 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時19分52秒
- さらに数日が経ち、欠番となっていた18、19番の補充となる新規入所者がようやく組に入
ってきた。これでようやく、きついノルマから解放される、と15番などは大いに喜んだの
だが、新入りがすぐに使いものになるわけではなく、こなせる作業量は限られている。そ
れでも、二人分のノルマがまるまる加算されることに比べたら雲泥の差と言えた。しばら
くは作業の内容などを教えなければならない分、余計に工数を取られるが、それさえも疲
弊しきった現在の状態から脱するための糸口として歓迎したい気分であることは確かだっ
た。
午前中に一人、午後にまた一人と別々にやってきた新たな収容者はそれぞれ、到着順に18
番、19番となった。最近は手辺り次第に道を歩いている娘を拉致してきたのではないか、
と感繰りたくなるくらい若い娘が多かったが、18番もやはり20歳前後、私とそれほど年の
離れていない感じだった。
- 157 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時20分42秒
- 19番はそれよりやや年かさではあるものの、やはり20代半ば程度と見受けられた。二人が
逮捕された事情は、他の収容者たちとやや異なっていた。まず外見からして、二人は体つ
きがしっかりしていた。入所時から明らかに栄養不良で衰弱しかけていた前の19番などと
比べると、頬の肉付きの豊かさは羨ましい限りだった。
ひもじさから盗みを行った訳ではない。彼女達は二人とも売春婦だった。家庭の主婦など
が急場凌ぎで客を取ることは少なくないと聞くが、二人はその仕事を生業とする、いわば
プロだった。この国のいわば国難とも言える飢餓の世にあって女が暮らしていく術が他に
見当たらないだけに、決して責める気にはなれない。
だが、彼女達の比較的豊かそうな暮らしぶりの窺える容貌からは、食うや食わずと言われ
ながらもそれが職業として成り立つことの不思議さ、言いかえれば男達のあさましさが垣
間見られるような気がして、あまりいい心持ちはしなかった。その思いは二人が入所して
きた理由を聞いてさらに強まった。
- 158 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時21分33秒
- 彼女達は普通のアパートを借りて仕事場にしていたという。たまたま羽振りのよさそうな
二人づれの客を取ったところ、これが質の悪い連中だった。事を終えると、金も払わずさ
っさと帰ろうとする。怒った若い方の娘が、金を払うよう請求したが、まったく相手にし
てもらえない。
怒り心頭に発した娘は、男に掴みかかり、財布を奪って金を取り出そうとした。ここまで
はうまくいったのだが、相手が悪かった。男二人は郡の保安員(警察官)だったのだ。そ
の場で逮捕された二人はすぐに郡の保安事務所に連行され、そこでもさんざん、胸やお尻
を触られるなどの性的な嫌がらせを受けた上、ここに連れられてきたというわけだ。
「気をつけなよ。あんたたちみたいに若くて肉付きがいいと看守が放っておかないよ。」
「ふん、そんときは金玉握り潰してやるよ。」
「ははは、その意気だ。まぁ、怪我しないように気をつけておくれ。ここはまともな薬も
置いてないからね。」
「ぼちぼちやるさ。」
- 159 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時22分09秒
- 二人はまだここの恐ろしさをわかっていないようだった。無理もないだろう。外の世界か
ら入ってきたばかりなのだから。18番となった若い娘の方が穣舌で、アジュモニの注意に
も強気の言葉を返している。それに対し、19番のやや年上の女性は寡黙だった。慎重なタ
イプなのかもしれない。
ここではそういう人間の方が生き延びる可能性は高い。本当なら自分など、とっくに処刑
されていてもおかしくはないのだが。看守による作業の巡回が始まり、5人は休めていた手
に材料の皮を取り、再びミシンに向かった。
- 160 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時23分09秒
- 何日か経つと新入りの二人も大分、作業に慣れてきて残業の回数が目に見えて減ってきた。
その分、睡眠時間が増えるわけで、このところ、ろくに眠れず疲労の極みにあった体が求
めるままに惰眠を貪った。人間は丈夫にできている。少し睡眠時間が増えただけで、体が
思いのほか軽くなったように感じる。
食事の貧しさから実際、体重は入所前に比べるべくもないのだが、それでもまた生きるた
めの活力を得て、作業もはかどるのだった。規定の作業量以上の仕事をこなしたところで、
その分、早く眠れるわけではなかったが、残業を課されまいと焦るよりは精神的によほど
健康的だった。
気がつくと、終業時間まであと数分、というところだった。看守が姿を消したのをいいこ
とに、早くも帰り始める収容者たちを横目に作業を続ける。今日のノルマは既にこなして
いるから後は余裕で…などと考えていたところ、新入りの19番が話しかけてきた。すでに
残っているのは私と19番を含め僅かしかいない。
- 161 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時23分50秒
- 「市井同志…お話しが…」
「えっ?なぜ私の名を…?」
「さっき、アジュモニが16番のことをそう呼んでました。市井同志は帰国者なんですね。」
それでか…
たしかにアジュモニは私のことをたまにそう呼ぶ。だが、それも二人の間で会話するとき
だけだ。他の収容者も私が帰国者であることくらいは知っているが、いまさらそんなこと
を話題にあげける者もいない。なにしろ私は日帝に立ち向かった救国の英雄なのだから。
ただ、新入りが私のたどたどしいハングルに疑問をいだいたとしても不思議はないのだが。
それにしても寡黙な19番が話とは…少なからぬ興味を抱いて私は彼女に視線を向けた。
「そう…別に隠しているわけではないからいいけど。それで話しって?」
「市井同志は何か特別な任務を遂行されているのですか?」
「はぁ?何それ、誰がまたそんなでたらめを…」
「いえ…それならいいんです。」
まったく、わたしが帰国者だからというだけで、そんな噂が一人歩きしていようとは。
まったく油断も隙もあったものではない。
- 162 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時24分21秒
- 「話ってそれだけ?」
「いえ…実は…」
何やら言いにくそうに口篭っている。配給の食事を分けてくれ、とかいう願いごとならご
めんだが…もちろん、そんなことではないだろう。まだ外の世界からここへ来て間がない
だけに、空腹感が耐えがたい苦痛を与える時期であることを差し引いても。18番はともか
く、19番は年上だけあって、自分をうまく制御している印象があった。
「これは言おうかどうしようか迷っていたのですが…」
あいかわらずもったいをつけたしゃべり方だ。だが、それだけ重要な何かだというのだろ
うか。ここでは同じ房の仲間だといっても密告を奨励されている。脱獄の企てたなどを思
いつきでしゃべっただけでも、知らぬ間に看守に報告されて、いつのまにかいなくなって
いることもある。収容者の公開処刑は常に行われているわけではなく、そうやって人知れ
ず殺されていくものも少なくないのだ。だから、何か少しでも危険な匂いのする話を口に
出すことを19番が躊躇するのも無理はない。
- 163 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月05日(木)00時25分29秒
- 「そこまで言われると聞かずにはいられないね。」
「…」
私の興味津々な態度を目の当たりにして、19番は困ったようにくちをつぐむ。なおも言い
出すきっかけがつかめないのかもしれない。
「実は私、」
いいかけた瞬間、ガラっと音がして、看守が姿を現した。
「怠けるなよ!お前らの行動など、俺はお見通しだぞ!」
普段は残業者の監督などしないくせに、今日に限ってどういう風の吹き回しか。とにかく、
もうそれ以上19番と話をすることはできなくなった。ノルマを終えている私が残業につき
合うのもおかしな話なので、疲れていることもあり、その場は退散することにした。
何か言いたげに強い視線を向ける19番に申し訳なく思いつつも、間が悪いときというのは
あるものだ、と自分を納得させる。広い作業場にぽつぽつと残る残業者たちに背を向けて
私は就寝房へと帰っていった。だが、このとき無理矢理にでも聞いておけばよかった、と
後悔するのは大分、後になってからのことだった。
- 164 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時46分57秒
- 「起床!点呼!」
「1!」
「2!」
「3!…」
いつものように朝は収容者の人員を確認するための点呼から始まる。だが、その日は朝から明ら
かに異常だった。
「17!」
「18!」
「…」
19番はいなかった。看守が血相を変えて飛んでくる。
「19番はどうした?!」
「…」
誰もまともに答えられるものはいない。彼女がいつ戻って、いついなくなったのか。
「昨日の夜は帰ってきたの?」
小声で同じ房の者に聞いてみるが答えはない。それはしかたないだろう。この中で一番遅
く戻ってきた私だって、房の寝床に就くなりすぐに寝入ってしまったのだから。
「ひょっとして帰ってきてないんじゃ…」
「何だと!」
看守は青い顔で慌てふためいている。もし脱走、とでもいうことになったら、責任問題だ。
ひょっとすると失職程度では済まずに投獄、あるいは最悪の場合、処刑されることだって
あり得るのかもしれない。
- 165 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時47分34秒
- 「おい、お前!18番のお前!作業場を見てこい!」
指示された18番は心得たもので、看守に房から出されると小走りに作業場へと向かった。
彼女の後ろ姿を眺めながら、この娘もまた、前の18番と同様に危ない橋を渡っているのだ
ろうか、と危惧を覚える。看守が彼女だけを指名したということは、その深さはともかく、
ある種の関係にあることは確かだ。
「脱走などということになったら、お前ら全員、公開処刑だぞ…」
今や顔面蒼白。掠れがちな声でつぶやくようにこぼした彼の言葉は、大声での恫喝よりも
私たちを恐れさせた。事態を理解した残りの二人も今や死の恐怖に震えながら、18番が何
らかの成果を持って戻るのを待つしかなかった。落ち着き無く、房の格子状の入口の前を
行ったり来たりする看守のたてる足音が、刻一刻と迫る命のカウントダウンのように聞こ
える。
本当に脱獄なのだろうか…
死との恐怖と戦うために、とりあえず何か考えずにはいられない。最後に19番の姿を確認
したのは私ということになる。そして言葉を交わしたのも。そう考えると、最後に彼女が
伝えようとした言葉が気になる。『実は私、』そう言いかけて彼女は止めた。
- 166 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時48分06秒
- なんだろう、何が言いたかったのだろう?
考えれば考えるほど混乱するばかりだが、その内容を類推できるような手掛りは何もなか
った。大体、作業場で口を聞いのでさえ、昨日が初めてだったのだ。それほど彼女は寡黙
だった。
「大変!大変です、先生様!」
18番が大声で叫びながら駆けてくる。その顔色はやはり蒼白だ。
「何事だ?!」
理由を確認しながら、看守は少しずつ落ち着きを取り戻していった。何の情報も無く、18
番が戻ってきたわけではなさそうだと判断したからだった。
「あ、あ、あのっ!」
「落ち着いて話せ。」
どうも人間は不思議なもので、自分より慌てている人を見ると落ち着いてしまうらしい。
すっかり余裕のできた看守は、18番をなだめて何が起きたのか話すよう促した。ふぅっと
一息つくと18番が口を開く。
「先生様、19番が死んでいます!」
「えっ!」
「なんだと?!」
- 167 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時48分48秒
- 私はすっかり混乱してしまった。なぜ?いったい誰が?驚いたのは看守も同様で、呆然と
作業場の方向を見つめたまま立ち尽くしている。しばらくして、ようやく自分のなすべき
ことに思い至ったのか、18番を再び房に入れると自分で確認するために作業場へ向かい、
その場を立ち去った。看守がいなくなると、房の中は18番を問い質す声で騒がしくなった。
「どういうことよ?えっ?」
「…死んでた…ベルトが首に…」
「絞め殺されたってこと?」
「ベルトが首に…凄い顔…目が飛び出して…舌が化け物みたいに伸びて…」
彼女も相当にショックだったのだろう…文章になっていない。だが、途切れ途切れに口か
らこぼれる単語の連なりは、現場の凄惨さを余すところ無く伝えていた。19番は殺された
のだ。ベルトで首を絞められて。
くそっ…
悔しかった。彼女が殺されたのは私に言いかけたあの言葉に関係があるに違いない。あの
ときの何か言いたげな視線が脳裏から離れない。もう少し居残って、聞いておけば良かっ
た。一緒に房へ戻ってくれば、あるいは彼女が殺されることも防げたかもしれないのに…
唇を噛んで後悔しても、もはや手遅れだった。
- 168 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時49分32秒
- 「それにしても何で殺す必要がある?ここからは逃げられないし、恨みを買うっていって
も、入所してまだ、わずかだ。」
「そうだよ、何かおかしい…」
「でも…何か変だった…あの人…」
「えっ?」
不思議がる私とアジュモニに対し、17番は何か思うところがあるようだった。
「例えば?」
「どんな?」
答えをせかす私たちを焦らすかのように、目を閉じてんんっと唸る17番を18番が冷ややか
に見つめている。私は何だかそれがとても気になった。なぜだか不自然に感じたのだ。
なぜだろう…
だが、17番がようやく口を開いたので再びそちらに注意を集中する。
「そう言えば、あの人さ、わざと残業するために、仕事を調整してるように見えた…」
「そんなことあったっけ?」
私はアジュモニに確認した。
「ああ、そう言えば…」
なんだ…私だけが見落としていたのか…
- 169 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時51分00秒
- 「あの娘、えらくミシン縫い、上手だったよ。何であんなに早くできるのに、残ってるこ
とが多いんだろうって思ったことがある…」
「そうでしょ…それにさ、なんかやたら最初から落ち着いてておかしかった…」
「そうだよ…普通はもっと、絶望っていうか、生きる希望もありゃしないって感じで、気
分の浮き沈みが激しくなるもんだけど…」
なんだ…それでは、19番は何か最初から入所する覚悟ができていて、しかも作業を早くこ
なせるのにわざと遅い振りをして、残業してたということになる…
そんなことをして何になる…
考えてもわかりそうにない。ふと、視線を感じて横を向くと18番と視線が合った。私を見
ていたのだろうか?
「18番は何か気付かなかったのか?」
「?」
17番の質問に18番が振り向いた。遺体の第一発見者であるし、それ以前に二人は入所以前
からの知り合いなのだ。何か19番が殺される背景について知っていても不思議ではなかっ
た。
- 170 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時51分35秒
- 「わからない…」
18番は脅えていた。だが何に対して?長く生活をともにしてきた仲間が殺されたことへの
悲しみ、憤り、といった、当然抱いておしくない感情よりも恐怖が彼女の内面を支配して
いるようだった。この場で、いくら詰めよってもそれに対する答えはかえってこないだろ
う。だが、私は諦めたわけではなかった。19番が私にうち開けようとした秘密…そう、今
となっては秘密と言ってよいだろう。それを明らかにしないわけにはいかなかった。
結局、その日は看守総がかりでの現場調査、収容者の取り調べなどでほとんど作業にはな
らなかった。18番の取り調べだけ、異様に時間がかかった。待ち続ける間、房で過ごす時
間が長く感じられる。何もできない自分が歯がゆい。作業が再開されれば、18番に話しか
けることもできるのだが。だが、その必要はなかった。18番が戻ってきて、私に告げた。
「16番、看守先生様がお呼びだ。」
「私はもう、話したよ。なぜもう一回呼ばれるの?」
「知らないよ、先生様に聞いて。」
- 171 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時53分55秒
- 18番はそれだけ告げると、鍵を外して、私を房から出した。19番の死で混乱していたため
気付かなかったが、早くも、彼女は看守に取り入ったようだった。思い返して見れば、19
番がいないからといって18番だけに様子を見に行かせること自体、そもそもおかしかった
のだ。いつ頃から、そんな関係になっていたのだろう。考えてみたが、これという兆候は
なかった。単に自分が見過ごしていただけなのかもしれない。だが、19番の死をきっかけ
に18番が急速に看守の信頼を集めたのは確かなようだ。房の鍵を預けたことを見ても、そ
の信用度の高さがうかがえる。
「16番…あんたに話したいことがあったんだ。」
「何?」
私は意外に感じた。彼女が19番の死について、何か知っているだろうとは思ったが、自分
から話しかけてくるとは考えていなかったからだ。
「バンヒは…19番はね…あんたに何か話たがってた。」
「何を…?」
「聞いてないの?」
19番はバンヒという名前だったのか…
ここでは皆が番号で呼ばれる。まるで記号か何かのように扱われていた19番の名前を聞く
と、急に血の通った生身の姿が脳裏に浮かんでくる。
- 172 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時54分36秒
- 18番が値踏みするような目つきで見つめる。慎重に答えなければならない。18番に話す内
容はそのまま、看守に伝わるだろう。私が何を知っているか、それを聞き出すために、わ
ざわざ、看守がよこしたに違いない。でなければ、このように二人だけになれる機会が都
合良く訪れるわけがない。
「聞いてない。」
「そう…」
18番は考え込んだ。本当かどうか判断しかねているのだろう。しばらく逡巡した後、おもむろに足
を止めて真剣な表情を浮かべ、私に体を向けた。
「正直に言うわ。私、看守にあんたがバンヒから何を聞いたか探るよう言われてるの。」
驚いた。その内容にではなく、彼女が自らその立場を明かしたこことに。
「それで…?」
私は相変わらず慎重な態度を崩さずに、彼女が次に何を言いだすか待つことにした。北朝
鮮で学んだことのひとつ。決して本当のことは言うな。それが、たとえどんなに親しい人
であっても。
- 173 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月08日(日)04時55分18秒
- 私が入所したばかりの頃、ある看守が収容者のひとりと密会している現場を見た、と興奮
気味に話したものがいた。その収容者は、次の日から忽然と姿を消した。収容者の中に看
守と通じているものがいたのだ。恐らく、それは先日、処刑された18番だったのだろうが。
「本当にまだ何も聞いてないの?」
「うん…」
「これは絶対に他の人には言わないでほしいんだけど…」
声を潜めて彼女が口に出した言葉は私を沈黙させた。
もし、それが本当なら…
いや、罠かも…
疑惑と困惑、そしてわずかな期待が胸のうちを交互に駆け巡る。看守のいる臨時取り調べ
室に入っても上の空でろくな受け応えもできなかったはずだが、それでも特に厳しく責め
立てられることもなく、あっさりと房に戻された。思えばそれが既に罠であることをはっ
きりと示していた。だが、その時の私は、18番の話した内容で頭がいっぱいになり、先の
ことまで考える余裕がなくなっていたのだ。
- 174 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時37分59秒
- 周囲が寝静まったことを確認し、房の出入り口をそうっと開ける。看守に取り入った18番
が開けておいてくれたのだ。その張本人が今、この時間に起きているかどうかは確認でき
ない。寝息を立てているような気はするものの、食わせ物の彼女のことだ。じっくりと観
察して、あとで看守に報告するつもりかもしれない。それでもいい。私は、賭けに乗った。
このまま、ここで朽ち果ててしまうよりは、僅かな可能性に賭けることを選んだのだ。
重心を足の前の方に移し、音を立てないように注意しながら廊下を渡る。明かりの無い中、
一歩一歩、全身を耳のようにして周囲に注意を払いながら進んでいく。作業場までは、慣
れたもので目を瞑っても歩いていけるはずだが、普段とは異なる緊張感からだろうか。な
かなか体が前に進まない。ようやく、作業場に辿り着いたときにはかなり神経をすり減ら
していた。
いつもなら鍵のかかっている作業場の入り口は18番の言った通り、鍵が外されていた。ギ
ーッと音を立てる扉を横に開き、すばやく体を中に滑り込ませる。
- 175 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時38分28秒
- 慎重に扉を閉めると薄明かりの中、相手が来ているか確認する。しばらく目を凝らして隅々
まで視線を走らせてみたが、人のいる気配は無い。
待つしかないか…
私は自分の持ち場に行くと、いつものように座り込んだ。そして、今日、18番から聞いた
話の内容を頭の中で繰り返した。
『いい、これは絶対に他の人には言わないでほしいんだけど…』
『なに?』
『バンヒはね…どうもあなたを助ける手配を誰かに言付かってたみたいなの。』
『私を…助ける…』
『そう…看守の誰かが、外と通じてるらしいの。で、その人物とあんたを19番が仲介する
ことになってたんだけど…』
看守なら収容者にいくらでも接近できるはずだ。わざわざ収容者を介して伝えるべきこと
とは思えないが。そう応えた私に、18番はすかさず、
『それがね…看守があんたに直接は接近できない理由があるらしいのよ…』
『で、19番の代わりに、今、あんたがそれを私に伝えてくれようとしている…
そういうことか?』
- 176 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時39分46秒
- 18番は満足そうに肯いていた。そして、今日の夜、皆が寝静まった頃に作業場でその看守
を待つよう指示されたのだ。18番が生前の19番から聞いた話の断片を総合すると、そうい
うことになる。
限りなく、罠に近い胡散臭い話ではあるが、私は直観的に、これは乗った方がいい、と判
断した。失敗したところで、また房に戻されるだけ。脱走を試みる段階になれば、その期
に及んで処刑は免れないだろうが、おそらく、やつらの狙いは私を助けるはずの看守が誰
かを特定することにあるのに違いない。私を助けるはずの看守が直接接近できない、とい
うのもそれで納得がいく。
どれくらい待ったのだろう。ひょっとすると、もう今夜は現れないのではないか。そう思
い始めたとき、ギギーッと大きな音とともに作業場の入り口が開けられた。名乗り出よう
か、どうしようか迷っていると、ライトの強い光で照らされまぶしさに目が眩んだ。
「誰だっ!」
その声に私は悟った。失敗だと。
- 177 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時40分10秒
- その夜、見回りの看守に私は散々詰問されたあげく、懲罰房に入れられた。一週間の期限。
それは、まさに命を削る時間となるだろう。絶望の淵に沈んだまま、それでも私は、狭い
独房の中で体を押し曲げた窮屈な姿勢のまま、疲れからからか直に寝入っていた。救いの
手がすぐそこまで差し伸べられているという希望を胸に抱いたまま。
食事の回数が一日二回から一回に減らされた。そして量も。ただでさえ少ない食事がさら
に減らされたことで、せっかく慣れかけていた体が再び悲鳴をあげる。関節を常に曲げて
いなければならないくらいの狭さは息苦しく、これだけで精神に変調を来すには十分な過
酷さだ。さらに空腹の苦しみもあいまって、ここに入れられるだけで、ただでさえ長くは
ない寿命が確実に縮まっていくのを実感できる。
寝ていられればいいのだが、空腹と苦痛に悶絶しつつ、意識だけは常に覚醒している状況
の中、私は気を紛らわせるために、後藤のことを考えた。
- 178 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時40分33秒
- 今、彼女はどうしているのだろう。私を救うために、金正日の愛人として仕えることを余
儀なくされた後藤。彼女に直接の責任はないとはいえ、延亨黙(よん・ひょんもく)に怪
我を負わせた私との関係は周知の事実だ。さぞ居心地の悪い思いをしているだろう。この
国の唯一にして絶対的な君臨者、金正日が後藤を保護しているという事実だけが今は心の
支えだった。
最初の日、二日目はまだ窮屈な姿勢を無理矢理に取らざるを得ないことによる肉体的、精
神的苦痛が勝って、意識ははっきりとしていた。だが、三日目になると既に意識は朦朧と
して自分でも覚醒しているのか夢でも見ているのか判別し難い状況に陥っていた。正直な
ところ、それが何日目だったのかも自分では既に意識していなかった。半分、正気を失い
かけていたのかもしれない。その段階でもはや苦痛を感じていなかったのだから。そんな
中、頻りに自分を呼ぶ声が聞こえて、私は不思議に思った。
- 179 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時40分54秒
- 「16番、16番、起きてください…」
それがあまり大きな声でなかったせいもあるのだろう。私はしばらくぼぅっとしたまま、
その声に反応できずにいた。どれくらい経ったのか。辛抱強く私の番号を呼び続ける声に
ようやく覚醒すると、慌てて声の主に応える。
「私を…呼んでいるの?」
「おおっ…やっと気付いてくれましたか…」
声の主は丁寧な口調で、控え目に喜びを表現すると畏まって私に告げた。
「あなたに伝えたいことがあります。」
「あなたは何者なの?」
「今は言えませんが、あなたの味方です。あなたを救うためにここへ入っていただく必要
がありました。」
「他の収容者と隔離するために?」
私はわからなかった。ここで自分の味方、と称する人間を前にした今も、生きてここから
出られる確信など少しも持てなかった。まあ、いい。動かねばここで朽ち果てるだけの身。
話を聞くのにやぶさかではない。
「そうです。他のものに聞かれては困りますので。」
「19番に関係ある話?」
「19番は…気の毒なことをしました…」
- 180 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時41分14秒
- 何か知っているらしい。私は知りたかった。なぜ19番が死なねばならなかったのかを。
声の主は落ち着いた声で語り始めた。
「あまり時間はないので、かいつまんで話しましょう。私たちはこの教化所の解放を計画
しています。19番はその一員として、内部の繋がりを指揮する役回りだったのですが…
18番が何か感づいて看守に密告したのですね。私と連絡を取る前に殺されてしまいました。
彼女から、あなたに懲罰房へ入るよう伝えてもらうはずだったのですが…可哀想なことを
しました…ただ結果として、あなたがここへ来られたのは幸運でしたが。」
「教化所の解放…?」
「そうです。あなたは御存じないでしょうが、この国の現体制はもうじき終わります。
革命が起こるんですよ、本当の革命がね…」
本当の革命…
どういうことだろう…
あの強大な権力を誇る金正日がそう簡単に政権から降りるだろうか。私にはそうは思えな
い。そんな動きがあったとしても、すぐに弾圧されてしまうのではないか…
- 181 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時41分36秒
- 「それは、ここの収容者たちが立ち上がる…ということね。」
「そうです。まずは、収容者たちを人間ではなく、虫けら同然に扱ってきた所長一派が血
祭りに上げられるでしょう。」
とんでもないことに…それはもう、戦争だ。金正日対革命勢力の…
「あなたには、収容者のリーダーとして横の連係を構築してほしいのです。」
「なんで私が…」
聞かずともわかっていた。おそらく私に関して所内で広まった噂…抗日運動に殉じた革命
烈士…伝説の少女、柳寛順(ゆ・くわんすん)。その少女に似ているということから半分、
冗談込みで英雄視されいる私の立場。
「ご想像の通りです…収容者を立ち上がらせ、束ねられるのはあなたしかいない。」
「あれはただの…」
「噂に過ぎない、と思ってらっしゃいますか?」
読まれていた。だが、その通りだ。単なる噂に踊るほど収容者たちが従順だとも思えない。
体制に反抗するなら、それなりにカリスマ性を持ったリーダーが必要だ。私がその任に耐
え得るとは思えない。
- 182 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時41分57秒
- 「案ずる事はありません。あなたにはリーダーとしての資質があります。」
「そんなこと…どうしてわかるの?」
「看守の強圧的な態度に動じないあなたの侠気には、収容者だけでなく、私たち看守の中
にも共感しているものがいます。あなたこそ、リーダーに相応しいと。」
乗せようとしてるのだろうか。その声の伝える言葉を額面通り受け取るわけにはいかなか
った。自らの命と尊厳を賭けて蜂起するためには、求心力のある指導者が必要だ。誰かが
その大役を担わなければならない。それを私に託そうと…
「そんなことを私に話してどうするつもり?私はまだ独房の中なのよ。」
「それについては、おいおい説明します。それまでお体に気をつけて…」
「なんだ、出してくれるわけじゃないの?」
少しは期待していたのだが。
「我々が立ち上がるまで、極秘裏に計画を進める必要があります。そのために、あなたに
はもう少しの間、我慢して頂かなければなりません。」
「いいよ…ところで…」
- 183 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時42分14秒
- それはいい。もともと出られるとは思っていなかったのだから。ただ、一番気になってい
たことを尋ねるのだは忘れなかった。
「19番は誰に殺されたの?」
「恐らく18番と通じている看守でしょう。彼は所長の息がかかってますから。」
おかしいと思っていた。だいたい19番が失踪したというのに、18番に探させるのは不自然
だ。あらかじめ、作業場に何があるか18番に言い含めていたに違いない。
「18番がすべて漏らしてたわけね…戻っても彼女には気を許せないわ。」
「そういうことです。今回、偽の情報であなたを動かしては見たものの、我々が動かなか
ったので、彼らも焦っているでしょう。くれぐれも慎重に。」
その言葉を最後に声の主は去っていった。私は一人、独房のなかでたった今聞いたばかり
の話を頭の中で反芻する。金正日に対する革命闘争…途方もない空想家でもなければ想像
だにしないことだった。平壌の整然とした街並み、大きな官邸、大劇場…私の見たものは
金正日の絶大な権力の一端を示すに過ぎないが、あの強大な力を前に民衆がどこまで戦え
るというのだろう。
- 184 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時42分35秒
- 外の様子がまったくわからないので、なんとも言えないが、この2ヶ月で状況が大きく変わ
ってしまったとでもいうのだろうか。そして、民衆の蜂起が本当に政権の基盤を揺るがす
ほどの大きな潮流となったのなら、再び生きて日本に帰れるだろうか…
考えもしなかった環境の変化に驚きつつ、それでも私は考えるべき未来を与えられて、再
び生への渇望が蘇えってくるのを感じた。興奮したせいかなかなか寝付けなかったが、そ
れでも目を閉じて考えを巡らせているうちに知らずと眠りへ落ちていた。
次の晩、その次の晩と男はやってきて、今度は具体的な指示をいろいろと与えていった。
北朝鮮全土に起こりつつある民衆蜂起の具体的事例とその分析、价川収容所解放後の計画。
そのための闘争方法。収容者の組織化、武器の格納場所、使用方法、所長の息がかかって
おり注意すべき看守の配置など。そして私たちの作業により生産される革ベルトが日本に
輸出されること、貿易会社との取引により、所長が不当に私腹を肥やしていること。所長
及び配下の看守たちが収容者に対して行った悪虐非道の数々。
- 185 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時43分28秒
- 特に看守が慰みに関係を持った若い女性収容者にまつわる話は聞いていて、吐き気を催し
た。もはや吐くものさえないはずなのに、それでも胃液が喉元までせり上がってくるほど
の不快感を覚えた。彼女たちが捨てられるとき、それは例外なく妊娠してしまったときだ。
胎児は中絶して堕ろされるが、そのやり方がひどい。麻酔もろくにないここの診療室では、
医者がむりやり火かき棒のようなもので胎児を掻き出すのだそうだ。形良く取り出された
ものは臓器売買のルートに乗って国外へ持ちだされる。そうでないものは犬の餌になる…
もし、胎児の母親がそれを知ったら、正気ではいられないだろうが、大半はただでさえ体
の弱っているところに、無理矢理、胎盤ごと胎児を掻き出す際に失血亡くなるらしい。
私が目にした前の18番は処刑されてしまったが、運良く堕胎の出血に耐えられたのだろう
か。わからない。だが、吸血鬼のように人の血をすすりながら、肥え太っていく所長をこ
のまま許すわけにはいかなかった。それは数百万人もの餓死者を出しながら、享楽に耽る
平壌の金正日の姿にそのまま重なった。
- 186 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時44分24秒
- 後藤…最悪の場合、敵味方に別れて戦わなければならないのか…いや、彼女だけは何がな
んでも助け出さなければ…今や、自分は後藤に庇護される立場ではなく、逆に後藤を救わ
なければならない立場へと転じていたことに気付き、しっかりしなければと自らを励げま
した。
一週間の拘束期間が過ぎ、再び集合房に戻された私は、懲罰房での劣悪な食事と過酷な環
境にも関わらず、気力の横溢した姿を見せて、他の収容者たちを驚かせた。関節が固まっ
てしまうのはしかたがないとして、背筋をピンと伸ばして、歩く私の様子に彼女達は目を
見張った。
そして何よりも皆を驚嘆させたのは、アジュモニをして「あんた、ホントに柳寛順が乗り
移ったみたいだよ!」と言わせしめた私の瞳の輝きだった。日帝の圧政から同胞を解放す
るために自己を犠牲にして立ち向かった、朝鮮のジャンヌ・ダルクとまで言われた柳寛順
とはその動機の純粋さにおいて、比べるまでもない。だが、それにも関わらず、今の私は、
市民を抑圧する体制の破壊という目標を得て、ちょっとした義士気取りだった。
- 187 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時44分59秒
- 矢口真里は中澤裕子の後を継いで笑っていいともへのレギュラー出演を果たしていた。
いつものように出演後、アルタの裏口から出てタクシーに乗り込もうとしたところ、
聞き覚えのある声に足を止める。次の予定が迫っていると急かすマネージャを制して、
矢口はその声に意識を集中した。
「――ですから、小泉首相の訪朝は断固として阻止しなければならないのです!
有本恵子さん、横田めぐみさんなど多くの拉致被害者の完全帰国なくして、国交の
正常化など考えられません!」
これは…このこ声は…
「みなさん、歴代の首相経験者は歴史に名を刻もうという誘惑に駆られ、何度も北朝鮮
との国交回復に手をつけては、みな痛い目にあってきました。それほど、北朝鮮、いや
金正日は手強いのです。もし、日本のトップである首相が訪朝しながら、何も成果を
得られなかった場合、国交回復は暗礁に乗り上げ、拉致被害者の帰国はさらに遠のく
でしょう!」
- 188 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時45分31秒
- 矢口は耳を疑った。街頭で演説しているその姿は、紛れもなく保田圭その人であった。
「真里ちゃん!」
矢口はマネージャの制止する声を振り切り、アルタの表側へと走りこんだ。信号が変わるのを待ち切れず車を避けながら新宿通りを渡ると、新宿駅東口駅前の広場は、人だかりで
前が見えそうにない。暇そうにブラブラしている見物人の列を掻き分けて前へ進む。
保田の声は一層、激しさを増すが、見物人の反応は保田の演説が熱を帯びれば帯びるほど
冷めていくようだった。
「モー娘。クビになったからって、チョンに腹いせかよ?」
「許してやれよ。仕事ないんだろ」
「つーか、マジ、ブサイクだな、あいつ。よく恥ずかしげもなくモー娘。やってたな」
「なんか大丈夫?あの人?」
「あんまり人気ないからノイローゼになって、それでクビになったらしいぜ」
「たしかにあの目はイッちゃってるよね」
保田を取り巻くやじうまの心無い言葉は矢口の小さな胸を痛めた。
ちくしょぉ…お前ら何にも知らないくせに…
- 189 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時45分54秒
- 悔しくて拳を握る矢口に保田が気づく様子はない。代わりにその存在に気づいたやじうま
達が遠巻きにして囲むように集まってきたため、それ以上そこに留まることもできず、
矢口は後ろ髪を引かれる思いでその場を後にしようとした。
圭ちゃん…なんで…
おいら、悔しいよ…
「おい…あれ、矢口じゃねぇか?」
「ちっせぇ…子供みたいだな」
「なんだよ、あいつも仕事ねぇのか?モー娘。完全に落ち目だな」
その言葉に矢口は我を忘れた。気が付いてみれば、群集を相手に啖呵をきっていた。
「お前ら、ふざけんなよ!圭ちゃんがどんな思いで活動してるかわかってんのかよ!」
「…」
ざわざわと蠢く人込み…
矢口の剣幕に言い返せるものはいない。
好き勝手な言葉を吐いていた無責任な見物人はすごすごと引き返さざるを得なかった。
衆目の集まる前で自ら口にした内容の正しさに自信を持てるもものではない。
注目を浴びる前に人前から去ろうとする見物人たちに矢口は怒りを抑えきれず、
その背中に向けて叫ばずにはいられなかった。
- 190 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時46分18秒
- 「逃げんなよ!お前ら、圭ちゃんに謝れ!」
「…」
矢口の言葉に反応せず、尚も人ごみの輪から逃れようとする者たちを追おうとする矢口の
手をマネージヤが無理やり引張って、連れ戻そうとする。ここへ来て、ようやく静まり返
った群集の一角にその存在を発見した保田が、矢口のもとへ駆け寄った。
「矢口っ!あんたどうしたの?!」
「圭ちゃん!おいら悔しい!」
目に泪を溜めながら訴える矢口の視線に、事の成り行きが見えないながらも、ここは保護
するのが先決だと保田は考えた。憮然とした表情で矢口の手を引くマネージャに代わって
肩に手を回し、スタッフに「後で連絡するから」と一言かけた。人ごみを掻き分けながら
新宿通りを渡ってアルタの裏手に回り靖国通りへ出ると、通りかかったタクシーを呼び止
めて、乗り込んだ。
- 191 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時46分43秒
- 「マネージャさん?」
「あ、ああっ、青山まで」
とりあえず事務所に戻って落ち着くつもりだろう。次のスケジュールに差し支えなければ
いいが、と落ち着いて考える保田に矢口が詰め寄る。
「圭ちゃん!なんで、あんなこと言われて言い返さないんだよ?!悔しくないの?」
「はぁ?なんであんたが怒ってんの?」
保田はなんだかおかしくなった。とともに自分のことのように、罵倒されたことへの怒り
を隠さない矢口にたまらない愛しさを覚える。
「ぷっ、バカねぇ。あんたが怒ることないじゃない」
「だって悔しかったんだもん…」
今度は口を尖らせる。もうすぐ二十歳だというのに、この辺はまだ少女そのものだ。
ミニモニ卒業は早すぎたのではないか、と保田は今さらながら事務所の失策を惜しんだ。
「圭ちゃん…あんなことやっても意味ないんじゃないの?」
「意味はあるよ。マスコミも集まってたし。やっぱり、私だって元モー娘。の端くれ
だからね。それが反北朝鮮の活動してたら話題性はあるもん」
- 192 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時47分10秒
- 「でもさ…圭ちゃんがそういうことしてると、モー娘。が落ち目だとか言われちゃう…」
「矢口…」
保田はもう一度、矢口の肩に手を回し、耳元で囁いた。
「大丈夫だよ…5期メンが活躍してるだろう?なっちやカオリも頑張ってる…
モーニングは何も心配する必要ない。
だって、OBのあんたがこんなに頑張ってるんだから…」
「圭ちゃん…」
保田は優しく矢口の肩をぽんぽん、と叩くと、今度はやや真剣な目つきで告げた。
「さっき、首相の訪朝断固反対!って言ったでしょ…」
「うん…」
不安そうに見つめる矢口に保田はゆっくりと伝えた。
「あれ、本当に行けなくなると思うよ」
「えっ、なんで?…なんか企んでる?」
心配そうに剃り上げられた上に細く描かれた形の良い眉を顰めて訊ねる矢口に、
保田は笑いながら答えた。
「あははっ、まさかそこまで無茶なことはしないよ。そうじゃなくて」
そこで言葉を切って少し考えた後、保田は続けた。
「会談する相手がいなくなったら、行っても仕方がないでしょ?」
「どういうこと?」
- 193 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時49分12秒
- 「最近、民衆の蜂起が頻発しているらしいの。今までは政府の力が強大過ぎてすぐに
鎮圧されてきたらしいんだけど、今回は軍部にも一部造反する勢力が出てきてるらしいの。
内乱に発展するのはほぼ間違いないと見られてるわ。そんな状態で呑気に会談なんて
できるかしら?」
矢口は驚きの余り目を丸くしている。そして次の瞬間には気づいていた。
「紗耶香と…後藤は大丈夫なの?」
「それが一番、心配でね…」
保田は肩を落とすと、力なくつぶやいた。
「…後藤は金正日に保護されているから多分、大丈夫…いざとなったら、国外に逃がして
くれると思うし…問題は…」
「紗耶香だね?」
こくり、とうなずく保田の表情にもはや笑顔はなかった。
「最悪、敵同士になるかも…」
かつての新人と教育係。その二人が異国の地で、今度は敵味方に別れて逢い見えなければ
ならないのか…
- 194 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月12日(木)12時49分32秒
- 「ユウキの救出作戦は不調なの?」
「それが…」
保田の表情がさらに曇った。俯いた横顔に映る影は焦燥の色さえ浮かび上がらせていた。
「この一週間、音信不通なんだ…」
車内が黙に包まれたまま、タクシーは青山の事務所に到着した。ドアを開けて歩道に降り
立つと、三人は無言のまま事務所のビルに消えた。タクシーの運転手はその姿を見届ける
と、首を傾げてぶつぶつと何やらつぶやき、再び、車を走らせて去った。
- 195 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)02時53分08秒
- 「無期延期…ですか?」
「はい…平壌の意向ですので…」
「それにしても、ひどく急な話ですね…」
後藤は金剛山観光の突然の打ち切りー公式には無期延期ということになっているーに戸惑いを
隠し切れなかった。牡丹峰(モランボン)サーカス団の評判も上々で、矢口が日本のTV番組で紹
介して以来、日本人観光客の数もうなぎ昇りで増えている最中だけに解せなかった。おそらくは
政治的な理由…それは容易に想像できたが、その内容についてまでは想像もできなかった。
経済的に困窮する祖国の実状からして、貴重な外貨獲得手段である金剛山観光の中止は死活
問題のはずだ。それを中止せせざるを得ないということは決して小さくない問題が平譲で起こりつ
つあることを示してるに違いないのだ。
「指導者同志はお元気でいらっしゃいますか?」
「は、はい…もちろんでございます」
おもわず金正日の安否を気遣う自分に苦笑しながらも、何か胸騒ぎがしてしかたがない。
- 196 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)02時53分59秒
- 金剛山は韓国や日本など外国の接点だけに情報の流出には敏感で、中央の情勢がわかりづら
い側面がある。ただ、禁止はしていてもたまに観光客の持ち込んだ新聞や雑誌などで外の様子
が窺えることもあり、まったくの情報僻地ということでもなかったのだが。
そして、その「外から」の情報は大きな出来事を伝えていた。後藤の生まれ育った国…祖国とは
あえて呼ばないようにしているその国、日本から小泉純一郎が日本の首相として初めて祖国を訪
れる。それは後藤のように日本で埋まれ育った北の人間にはもう長い間望まれつつも実現してこ
なかった、大きな出来事であった。
「小泉首相の訪朝と何か関係があるのでしょうか?」
「わかりません…ただ小泉首相のご訪問は延期になったと聞いていますが…」
「そうだったのですか?」
「はい、何でも党の準備ができていないということで…なにしろ日本とのトップ会談ともなれば、日
帝支配の補償に決着をつける絶好の機会ですから…慎重にならざるをえないのかもしれません」
- 197 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)02時55分17秒
- 後藤は自分の身の振り方について考えざるを得なかった。金剛山の観光がストップということに
なれば、ここに留まる理由はない。平壌に帰っても果たしてサーカス団の興行が行えるような状
況にあるのか、甚だこころもとないが、それでも金正日の側にいられるなら、ここにいるよりも遥か
に意義があると思えたのだ。
「サーカス団の人達はもう、平壌に向けて発ったと聞いています。私も早いうちに戻りたいのです
が」
「真希同志…それが言いにくいのですが…」
連絡係の党指導員が言いにくそうに後藤の顔をちらりと一瞥した。
「真希同志にはここに留まっていただくとの指導者同志のお言葉でして…」
「なんですって!」
「…」
党指導員の女性は自分のせいではないのに、申し訳なさそうに体を縮こませては、ひたすら恐縮
している。
「私はどうしたらよいのでしょう?」
「真希同志のお体を安全にお守りするのが私どもの最大の使命ですから…」
「わかりました。指導者同志のお言葉ですから」
- 198 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)02時55分48秒
- 後藤はそれ以上議論してもしかたがないことをよく理解していた。金正日の言葉は絶対である。
その言葉に逆らうことは場合によっては死を意味する。後藤の場合、寵愛を受けている身であれ
ば、そこまでの極刑はないにしても、ただではすまされないことを市井の例から身を持って理解し
ている。
「少し外の風に当たってきます」
「それがよろしいかと…ただ、護衛をつけるよう指示されておりますので…いろいろと物騒ですか
ら」
「御意に…」
後藤は山荘から出るといつものように山の尾根づたいに歩いた。背後からは気にならない程度
の距離を開けて護衛総局の兵士がついてくる。木々の間を縫って歩くとしばらくして視界の開け
た場所に出くわす。後藤が景色のよい場所を見つけたと手紙で知らせたところ、金正日が早速、
そこにベンチをしつらえてくれた。山腹から遠く東海(日本海)まで見渡せる眺めのいい場所でベ
ンチに腰かけ、こうやってぼんやりと物思いに耽る時間が今では一番貴重に思えた。
- 199 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)02時58分48秒
- サーカス公演の忙しさで気を紛らわせてはいたものの、こうして一人になるとどうしても市井のこ
とを考えざるを得なかった。体を壊すことなく無事でいるだろうか…平壌にいる間はそれとなく金
正日に恩赦の適用を願い出ることもできたのだが、今となってはそれも適わない。
市井を許してくれと泣きながら頼み込む度に申し訳なさそうに「今はまだ難しい…」と繰り返してい
た指導者同志。後藤の願いを知りつつ市井を殺すことはないだろうと思いつつ、それでもその身
を救えぬ自分がふがいなく、情けなかった。市井を助けるつもりで北に渡ったつもりが、逆に窮地
に陥れることになるとは…
山肌を撫でる風が冷んやりとして心地好かった。金剛山の荒々しい風景が薄紅に染まりゆく夕景
が後藤の心を和ませる。今はここに留まる身ではあるけれど、いずれ平壌に帰るときがくるだろう。
そのときに、また市井への恩赦を願いでてみよう。なんとなくではあるが、後藤には平壌を離れて
から金正日との心の繋がりが一層強まったような気がしている。
- 200 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時04分21秒
- 不思議な関係だった。当初、歌劇ピパダ(血の海)の話が来たときは即座に断った。北鮮など父
母の祖国であるとはいえ、伝え聞く噂はひどいものばかりだった。市井が捕われたと聞かない限
り、決して海を渡ることはなかっただろう。ましてや北の工作員はありもしない父の遺産の件で何
度も母のもとを訪れては公安警察にマークされる誘因となったのだ。その自分が北朝鮮の、しか
も最高指導者のもとに傅(かしず)くなど、想像だにしないことであった。
高く切り立った峰々は黒く深い影を落し始めていた。既に太陽は山の裏側に隠れて久しい。後藤
はゆっくりと立ち上がると、東海(日本海)の方向に一瞥をくれ、しっかりとした足取りで来た道を
引き返した。薄暗い林の中を通り抜けると時折、夕闇の中に溶け込んだ木々の幹がぬっと立ち
はだかっては後藤を驚かせる。急に悪い噂を思い出して恐くなり、足早に尾根を下ると、山荘から
はアジュモニの用意してくれた夕食の匂いが立ち込めているのに気付き、ようやく空腹を意識し
た。後に着いてきた護衛総局の兵士が党の責任担当に後藤の無事を報告した頃には、既に後藤
はシャワーを浴びていた。
- 201 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時14分46秒
- 突然、激しい銃声が轟き、二人は慌てて地面につっ伏した。
「なんだよ!今の?!」
「しっ!黙って!」
ユウキを手で制したイーファは平伏したまま、先程警戒所で狙撃した敵兵から奪ったAK74アソー
トライフルを構えて、四方を見回している。周囲の建物は激しい銃撃戦の後で崩れ落ちたものが
ほとんどで、自分たち二人を高所から狙い撃つことはできそうにない。もとより狙い撃たれたのな
ら、一発でしとめられて今頃は息もなく屍として転がっているだけだったのかもしれないが。背後
には身を隠すには丁度手頃な壁の残骸があった。
「ユウキ…銃を構えてそっちを確認して…」
ユウキはイーファが小声で命じるままに、物音を立てぬよう、しかし機敏に壁から顔を覗かせると
銃の安全ピンを外した。だが、その途端、再び激しい音とともに頬の横をかすめていく銃弾に震え
あがり、慌てて顔を引っ込めた。
「武器を捨てて地面に伏せろ。手は頭の後ろで組むんだ」
- 202 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時15分29秒
- 落ち着いた、しかし良く通る声が降伏するよう告げている。イーファの方を見ると、諦めたように首
を横に振り、アソートライフルをぽーんと投げて再び地面につっ臥した。両腕を頭の後ろで組み、
降参の意志を示す。ユウキも遅れじ、と慌ててベレッタを投げ、地面に伏せた。
「よし、指示があるまでその姿勢で待て」
不思議と声の主は二人をすぐに撃ち殺すことは避けていた。その事実から、ユウキは政府の息
がかかった人民軍の部隊ではないと直観したが、まだ安心するには早かった。伏せたままの姿
勢でイーファの表情は確認できないが、微動だにしないその態度は徒に緊張を解くなと暗に伝え
ている。ユウキは再び声がかかるまで息を潜めて同じ姿勢を維持し続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。そろそろ、頭上に組んでいる腕の付け根が痛くなりかけた頃、
背中に鋭く固い何かの先端が当てられた。銃口だと気付くのにそれほどの時間はかからなかっ
た。無期質な兵士の声が告げる。
「ゆっくりと腕を下ろせ…そうだ。では、ゆっくりと立ちあがれ」
- 203 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時16分05秒
- 声の命じる通り、ゆっくりと立ちあがると今度は手を上げて壁の残骸に向かって張りつくよう命令
された。おとなしく従うと再び背中に銃口の感触を覚えた。
「そのまま待て」
今度は少し長かった。サクッサクッと瓦礫となった建物の残骸を踏み締めて歩んでくる足音が聞
こえると、ユウキは背中に押しつけられた銃口に加えられていた力が少しだけ緩められたように
感じた。
「よし、離せ。手を上げたままゆっくりとこちらを向け。ゆっくりとだ」
言われた通り、緩慢に体の向きを変えると複数の銃口がこちらをにらんでいた。
「その襟章は…自由革命軍も上佐のポストを踏襲しているのですか?」
「貴様!人民軍の犬か?!」
カシャッという硬質の音とともに銃口が一斉にイーファへと向けられる。ユウキは固唾を飲んで成
り行きを見守った。
「騒がないで。上佐なら話が早いわ。呉克烈(オ・グニョル)大将にリ・イーファが戻ったと伝えて頂
戴」
「な、なに!お、お前…大将閣下に面識があるとでもいうのか?」
- 204 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時16分45秒
- 部隊を率いているらしい上佐は逡巡していた。仮にも大将の名を引き合いに出した者をこのまま
捨て置くわけにはいかない。かといってその容貌を見る限りでは敵か味方か判別する判別する
のも難しい。人民軍の斥候兵、あるいは特殊工作部隊という線もあるかもしれない…上佐の悩ん
でいる様子が額に浮かぶ汗に感じ取れた。
「とりあえず、貴様らを連行する…おい、縄を持て!」
「上佐!よろしいのですか?こやつらは人民軍の犬かもしれません!」
「呉克烈大将閣下のお名前を口にしたのだ…少なくとも大将閣下にご確認するまでは処分でき
ん」
「…扱いはどういたしましょう?」
若い下士官は不満げに眉をひそめながら、それでも上官の命令に従い、二人の扱いを確認し
た。
「一般市民保護レベルCを適用する。ただし24時間の監視と拘束具を付帯」
「ハッ、了解しました!」
二人は後ろ手に縛られて、そのまま兵士たちが促すまま徒歩で部隊の本営まで連行された。
- 205 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時17分25秒
- 本営の一室に拘束されたまま一週間が経とうとしていた。連行された当初は、本営の一室に拘禁
され、常に監視がつくことをそれほど苦痛には感じなかった。だが、一週間何も進展がないとさす
がに焦燥感が募ってくる。どういう精神的鍛練を積んでいるのか、泰然として落ち着き払ったイー
ファはともかく、ユウキはもう暴発寸前。何かと気に入らないことに対して不満を並べては、喧嘩
腰になるのをどうすることもできなかった。
「いったいどうなってんだよ?まだ見つからないの?その大将軍様は?!」
「まぁ、落ち着きなよ…怒鳴っても大将閣下と接触できるわけじゃない」
先の見えない不安からか些細なことに苛立つユウキに対し、イーファはあくまで冷静沈着。決して
ユウキの挑発には乗らなかった。内心イーファとて不安がないわけではない。ただそれを表には
出さないよう己を律する訓練が出来ているだけだ。
だが、こうした状況には、どうやら慣れているらしいイーファも焦りを感じていた。さすがに、そろそ
ろコンタクトがとれないと、自分たちの身はもちろん、この自由革命軍と名乗る反乱軍の存続さえ
危ういと見なければならない。
- 206 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時17分55秒
- そんなイーファの心の動きを見透かしたわけではないだろうが、タイミングよくドアがノックされ、二
人は揃って音のする方向に顔を向けた。
「ハイ!」
「リ・イーファ同志…呉克烈大将閣下がお呼びです」
「来た!」
思わず顔を見合わせる二人に対し、監視の兵士は今までの態度が嘘のように丁重な態度でドア
を開け、部屋を出るように促した。
「どうか…今までのご無礼はお許しください…」
「気にしていません…同志の任務に忠実なことはよく理解しております」
「そう言っていただけると助かります…」
若い監視兵はイーファが呉大将と何らかの関係があると知って、今まで二人を扱っていた厳格な
姿勢を責められるのではないかと恐れているのだった。もちろん、そのような些細なことにこだわ
るイーファではなかったし、もとよりユウキにはそれに対して憤る権利さえなかった。
「大将閣下はお元気ですか?」
「それはもう…平安道以北の地域を大方、平定して凱旋されたところですから…」
「まぁ!…」
- 207 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時19分01秒
- イーファは驚いていた。そこまで内戦が本格化しているという事実と、北朝鮮の北半分を既に治
めてしまった呉克烈の行動力に対してである。そうこうしている間にも本営の作戦本部が置かれ
ていると思しき部屋の前に到着していた。案内してきた兵士がドアをノックすると中から「入れ」と
短く鋭い声が告げた。間を開けずにドアを開けて入ると、精悍な顔つきの浅黒い肌をした中年の
男性がイーファの顔を確認し口許を緩めた。
「リ・イーファ同志…久しぶりだな。任務ご苦労」
「ハッ、呉克烈大将閣下。李梨華中尉、ただいま任務より帰還いたしました」
な、なんだって…
どういうことなんだ…イーファが中尉ってことは?
ユウキは余りの驚きに声を失って呆然と立ち尽くしていた。その様子を見て指揮官はイーファに
目で説明を促す。
「こちらは例の”サヤカ”同志救出支援にかけつけてくれた在日同胞、ゴトー・ユーキ同志です。そ
して、金正日労働党総書記の…」
「ほぉ、あなたが。話は聞いています。ご協力感謝しますよ」
- 208 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時20分09秒
- 大将、呉克烈は意外にも丁重な扱いでユウキを遇するつもりのようだった。だがそれよりも気に
なったのは、イーファが口篭った最後の台詞だ。自分が金正日の何だと言うのだ。目でイーファに
訴えると、待て、というように強い視線を返し、再び指揮官に向き直り告げた。
「閣下…サヤカ同志の救出については一刻の猶予もありません。この一週間、拘束されていたた
めに現状を把握していませんが、直前に懲罰房へ入れられた旨、報告を受けています。このまま
では安全の確保が難しいかと…」
「うむ。それについては、収容所内部への工作について進捗を確認している。報告を待って判断
しよう」
「了解しました…それにしても…」
イーファはユウキの存在を無視したかのように親しげに指揮官へ話しかける。
「早速、咸鏡両道、両江道、慈江道、平安両道、を制圧されたとのこと、人民軍は震えあがってい
ることでしょう」
「いや、そう簡単にはいかないよ。何しろ人民軍の主力のほとんどは38度戦に張りついているの
だから」
「平壌はどういう状況に…」
「それがまた難しいことになっている…」
- 209 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時20分52秒
- 急に顔をしかめた指揮官とイーファはそれから、ユウキを放ったまま、小一時間ほど内戦の状況
について語り合い、戦況を整理するとようやく、ユウキを解放した。監視のなくなった部屋に戻ると、
早速ユウキはイーファに食ってかかる。
「いったいどうなってんだよ?!あんたは何者なんだ?!」
「落ち着いて。韓国の亡命者支援団体の一員というのは本当よ。ただ肩書きがそれだけじゃなか
った、ってことかしら」
「あんたが人民軍の兵士だということはよくわかったけど、問題はなんで韓国のNGO活動なんか
に手を出してるかってことさ!」
「まぁ、落ち着きなさい。そう興奮してたらきちんと整理して説明できないわ」
そう言い置いて、イーファはタバコを取り出すとマッチで火をつけて口にくわえ、深く吸い込むとプ
ハァッと気持ち良さそうに息を吐き出した。
「一週間くらいの拘束なんて屁でもないけど、これが一番こたえるわね」
「…」
「ソニンには感づかれてる節もあったんだけどね…」
「わかんないよ…」
「まぁ、待ちなさい。慌てる乞食は儲けが少ないってね…」
イーファはタバコの灰を灰皿に落とすと、煙を吐いて目を細めた。
- 210 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時21分41秒
- 「私はね…もともと朝鮮労働党作戦部直属の特殊部隊に所属してる作戦軍官なの」
「つまり…」
ユウキは唾を飲み込んだ。
あれだ…要するに…
「今流行りの工作員ってやつね」
「…」
「対南工作…つまり韓国での工作活動が主な任務だったんだけど、一昨年前の南北首脳会談以
来、表立った活動はできなくなっちゃってね」
イーファの続けたところによれば、南北の雪溶けで敵対的な活動を制約された工作員はそのほと
んどが経済的な情報収集の任務を課せられたという。イーファも例外ではなかったのだが、どう
いうわけか日本から渡韓する少女の韓国芸能界入りに協力せよとの司令が下った。つまり市井
紗耶香その人である。
金正日の後継を狙う金正男が芸術好きな父の関心を集めようと仕組んだらしいのだが、この時
点でイーファに詳しいことは伝えられていない。当初は本気で市井を韓国でさせる予定だったらし
いのだが、昨年、金正男が日本への不正入国で強制退去の不名誉をしでかしたことで、予定が
大幅に狂う。
- 211 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時22分38秒
- 汚名挽回に必死になった正男が強引に市井の拉致を強行したため、イーファは不本意ながらそ
の作戦に携わるとになる。これに関しては金大中政権による太陽政策が韓国内で批判され始め
た時期だけに、一歩間違えば南北関係はおろか、日朝関係をも冷え込ませる可能性があった。
そのため、市井の拉致が露見すると、父の覚えをめでたくするどころか完全に機嫌を損ねて、正
男は汚名挽回適わず、完全に政治の表舞台から遠ざけられてしまった。
ややこしいのは、ここで市井の拉致を知った後藤が突如、北に渡ってしまったことである。もともと
正男の希望が後藤のミュージカル登用であったため、彼女はすんなりと受け入れられた。ユウキ
はこの前後の姉の心情を思うといたたまれなくなるのだが、残念なことに、仕事が忙しいこともあ
り、言葉を深く交わすことも無く、行き別れに近い状態になってしまった。
一方で市井は後藤の渡韓によりその役割を失い、本来であればユウキと一緒に万景峰号で新潟
港に帰れるはずだった。パーティの席で延亨黙(よん・ひょんもく)に怪我を負わせることさえなけ
れば。
- 212 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時23分12秒
- 興奮した延亨黙が殺すと主張して譲らないため、金正日もしかたなく収容所送りにしたものの、
これは余りにもリスクが大きかった。もし外国のメディアに知られたら、せっかくの外交努力がす
べて水泡に帰す。
一方で度重なる経済政策の失敗による飢餓は中国への亡命者を激増させる。軍部への配給も
完全にストップし、若手将校を中心とする人民軍内部の不満分子がたびたび暴発するも、既に
党中央は抑える力を失って久しかった。地方の反乱勢力と結んだ人民軍の一部勢力は頭目に呉
克烈を推戴し、「自由革命軍」を標榜、朝鮮労働党政府及び人民軍に宣戦布告した。自由革命軍
は瞬く間に北部を席捲、いよいよ、決戦のときは近づいていた。
北朝鮮全土の北半分を制圧したとはいえ、未だ首都平壌は政府の勢力圏内にあり、金正日の護
衛部隊である護衛総局や人民軍主力部隊が駐屯している。そして、南朝鮮との交戦状態からそ
の数百万と言われる朝鮮人民軍の兵力の大部分が38戦付近に展開されており、それらの各個
師団は未だ中央の人民武力省管理下にあった。
- 213 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月20日(金)03時23分50秒
- 政府人民軍との交戦は長期化の様相を呈し始めていた。長引けば武器の補填や食料などの供
給ルートを確保できていない、自由革命軍には不利になる。この戦いで勝利するためには、西側
諸国の支援を得る必要があった。そのためには、金正日政権による圧政とそのテロリスト国家で
ある正体を暴いて世論を動かさなければならない。
そこでクローズアップされるのが市井の存在である。日本から拉致されただけでなく、強制収容所
に入れられて虐待される市井の姿を白日のもとに晒せば、日本の世論はおろか、人権意識の高
い欧米諸国でも、反金正日の機運が高まるだろう。そのためにも、生きた市井を確保することは、
自由革命軍にとって、最優先の軍事作戦と認識されているのだった。
- 214 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時28分15秒
- 「いよいよ明日決行のようです」
「サヤカ同志の無事は確認済みか?」
「は、抜かりなく」
价川に野営する自由革命軍西部方面臨時司令部本営では思想教化所における内部蜂起を前に
緊張が高まっていた。市井を首領とする収容所内部の決起に呼応して、歩兵大隊が収容所を包
囲、抵抗する看守など武装要員はその場で駆逐する段取りである。
「飽くまでも内部の蜂起を支援、という立場であることを忘れるな」
「は、しかし…」
「伝説が必要なのだ…サヤカ同志のな」
総司令官呉克烈の指示は何とも謎めいていた。単に市井を救出するのが目的なら、一個大隊を
もって収容所を解放してしまえばよい。だが、それだけではない、何か特別な企みを、この精悍な
風貌の司令官は秘めているようであった。
別室ではイーファが歩兵を前に明日の行動の詳細を確認していた。
「いいこと、サヤカ同志の外見はこちらのユウキ顧問しか存じ上げない」
「では顧問も突入隊に同行されるのですか?」
「そうなります。ユウキ顧問、サヤカ同志の特徴を」
- 215 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時29分55秒
- イーファに話を振られたユウキは、兵士達を前にやや緊張しながらも、落ち着いた声で説明した。
「短髪で目は一重、鋭い視線が特徴です。年齢は18歳、こちらの女性に比べて色が白いはずで
す」
「了解しました。しかし、収容者達に武器が扱えるでしょうか?」
兵士がイーファに尋ねた。もっともな疑問ではある。
内部蜂起と言えば聞こえがいいが、実際、革命軍の突入部隊なくしては、初期の段階で鎮圧され
てしまう可能性は決して低くない。
「内部に同志が潜入している。彼らの活躍に期待したいが、残念ながら殉死したものがいるらしい
…」
兵士達がざわめいた。仲間の死には敏感になる。明日は我が身かもしれないのだ。
「収容者として潜入した同志が政府の犬に殺られたらしい…同志諸君、彼女の遺志を継いで任務
の遂行に全力を傾けてほしい。以上だ」
オォッという歓声とともに、兵士達が立ちあがった。イーファ中尉に敬礼して、次々に退出していく。
ユウキは不安と緊張に顔の表情をこわばらせながらイーファに詰め寄る。
- 216 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時30分28秒
- 「本当に、大丈夫だろうね?」
「何度も説明したようにサヤカ同志は外交カードとして非常に重要な存在なの。だから彼女の安
全確保は作戦の最優先事項で間違いないわ」
「その言葉を信じるよ…」
ユウキには信じるしかなかったのだ。肩をポンと叩かれて、顔を上げるとイーファが白い歯を覗か
せて微笑みかけていた。
「大丈夫、きっと大丈夫」
「うん…」
そのまま宿舎に戻るとユウキは毛布を被って目を閉じた。明日の決行を前に興奮しているのか、
なかなか寝付けない。市井の風貌は変わっていないだろうか、痩せこけて見る影もないんじゃな
いか…思いは巡りいつしか、姉のもとへと及んでいた。今頃どうしているだろう。
- 217 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時31分19秒
- 平壌で無事に保護されているだろうか。市井を救出すれば、革命軍は外交攻勢とともに猛烈な首
都攻撃を開始するだろう。そうなれば、姉は無事でいられるだろうか。ユウキはよく姉に殴られた
ことを思い出して、くすっと笑った。
マキちゃんは大丈夫だ…
あの元気があれば
ユウキはいつしか眠り込んでいた。夢の世界では市井に甘える姉の姿をぼんやりと眺める自分
の姿があった。やがて、その光景さえも霞んでぼやけ、遠くの彼方へと消えた。ユウキはいよいよ
深い眠りへと落ちていった。
- 218 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時32分15秒
- 作業後、房へと戻る途中、監視の目が届かなくなる一瞬を狙って、最後の確認を行った。
「アジュモニ、わかった?ひきがね引く前に必ず安全装置を外すんだよ」
「市井同志…本当にやるのかい?」
「やらなければ殺らられるだけだよ。前の18番、見たでしよ?私だってこないだ懲罰房に入れられ
てまた寿命が縮んだ。ここにいる限り、生きて子供に合えることはないんだよ」
「それを言われるとねぇ…」
作業の合間に監視の目を縫っては収容者達に武器の使い方を教えてきた。自分自身、懲罰房に
入れられていたわずかの間に、それも空腹で意識がもうろうとしている中で覚えた内容だけに、
甚だこころもとない面はある。だが、決起を決めた以上、武器の使用は避けて通れない。だが、そ
れも後数時間のことだ。
「いい?繰り返すよ。私が夜中のうちに房の鍵を開けるから、ひとりずつ資材倉庫に潜り込んで
銃と鍵を調達、各房の鍵を開けて収容者を解放するんだ」
「どこに逃げるんだい?」
「私を先頭に所長室を襲撃して、やつの身柄を確保する。やつを盾にして、正門から堂々と出て
いくつもりさ」
- 219 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時33分17秒
- アジュモニはなおも半信半疑といった顔つきで私の顔をうかがっている。確かに信じられないのも
無理はない。だが、この収容所、ひいてはこの国自体が信用ならないものである以上、自らの手
で未来を掴む機会をみすみす見逃す手はないだろう。粘り強く説得した結果、房の主だったもの
は既に決意を固め、決行に際してそれぞれの役割を与えられていた。
「18番は大丈夫かい?」
「うん。手は打ってある」
決起の遂行に最大の障害となったのは看守と通じている同房の18番収容者の存在だった。下手
に動けば必ず感づかれて密告される。そこを逆手に取った。18番を避けているとあからさまでな
い程度に匂わせる。彼女が聞き耳を立てているところを狙ってわざと決行は一週間後であること
を房の仲間に伝え、18番をミスリードしたのだった。
もちろん、その後で今夜の決行であることは既に確認している。決行前に18番を拘束することも
打ち合わせ済みだ。まさか自分が昼間こしらえた革製のベルトで縛られるとは思ってもいまい。
- 220 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時34分28秒
- 「他の房の連中は大丈夫かね?」
「わからない…けど、もし今夜のことをチャンスだと考えて逃げなければ、いずれ殺されてしまうの
はわかりきってる。大方は同調するはずさ」
確信はなかった。だが、アジュモニの流してくれた妙な噂のおかげで自分は不思議と人望がある。
昼間の強制労働ですれ違うと会釈を返してくれる他房の収容者も少なくなかった。今に甦った柳
寛朱(ゆ・くぁんす。)その16歳という短い生涯を抗日運動に捧げた、独立運動の闘士。私もまた
死して反対制運動の伝説となるのか。
今はまだわからない。それでも、このまま座して死を待つよりは生きている限り、最大限の努力を
しなければならない。その証を残せるだけでも意味があるとは言えないか。
「とにかく。生きることへの強い執念を失わないものが最後には生き残る。アジュモニ、生きて子
供達に会うんだ」
「アイゴー…もう一度、子供を抱くまでは死ぬに死ねないよ!」
「その意気だ!それじゃ、深夜まで少しでも体を休めよう」
- 221 名前:名無し娘。 投稿日:2002年09月26日(木)00時35分09秒
- 房へ戻ると横になり、目を閉じた。疲れはない。不思議とまぶたの裏に浮かぶのは楽しかったは
ずの娘。での日々でもなく、韓国でのデビューを目指し、イーファとともに頑張っていた日々でもな
かった。不思議なことに思い浮かんでくるのは、後藤と過ごした平壌での生活のシーンばかりだ。
一緒に大同川沿いを歩いた日、羊角島のガラス張りの窓に映る夕陽の照り返しがまぶしかった。
ピパダ歌劇場での練習、15号官邸でのパーティ、そして金永南最高人民会議常任委員会委員長
…生きろ、と私に伝えてくれたあの人の言葉…あの言葉が、今日までの支えになっていたことに、
今さらながら気付いている自分がいる。
生きろ…単純な言葉にこそ、真摯なメッセージが宿ることを金永南は示してくれた。
だから私も後藤に向けて祈る…生きろ、いや、生きてくれ、と。
首都平壌で金正日に保護されて、今ごろは歌劇ピパダの主演女優として押しも押されぬ人気を
誇っているだろう後藤が少しだけ誇らしく、喝采に包まれカーテンコールに応える後藤の雄姿を
想像しつつ、私は満ち足りた気分で眠りについていた。
- 222 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時52分52秒
- はっと目が覚めた。房の中は静まり返り、仲間のたてる寝息だけが静寂を縫って耳に届く。
暗い…私は横で寝ているアジュモニを揺すって起こした。
「んんっ…ん?」
「時間だよ」
その言葉を聞いて覚醒したのだろう。自分がこれから何をすべきかを思い出して、気を張
り詰める。
「18番は?」
「寝ている…まずは17番を起こすわ」
右側の脇腹を下にして廊下から背を向けるように寝ている17番の肩に手を掛けた。静かに
揺さぶると、んんっと不機嫌そうなうなり声とともに目を細めて私をにらむが、やがて頭
がはっきりしてくるにつれて今夜の計画を思い出したらしい。機敏に半身を起こすと隣で
寝ている18番に視線を落とした。
「やる…?」
「…」
私たちは無言でうなずくと、服をたくし上げて、体に巻いていたベルトを外す。一人二本
ずつ、作業場からの帰りに見つからないよう持ち込んだ革製のベルトを両手に持つと、三
人はもう一度顔を見合わせた。
- 223 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時53分33秒
- 私がうなずいたのを合図に、17番が18番の上に背中から馬乗りになり、口を抑えた。すか
さず私があらかじめ輪にしたベルトを両脚にすっぽりはめるとギュッと締め、自由を奪う。
アジュモニが背中の後ろに回された18番の両腕を手首のところで締め上げると18番は手で
覆われた口からううっ、というくぐもった声を洩らし、バタバタと上体を上下させたが、
やがて無駄なこととあきらめたのか。動きを止めて静かに体を横たえた。
17番が口を抑えていた手を離すと、鋭い声で威嚇した。
「あんたたち、銃殺だよ!」
「お前の大好きな看守様が生きてればな」
「何?」
「今頃、所長の犬になってた連中は殺されてるさ。今日は監視兵もいないだろう?」
確かにこれだけの物音を出していれば、巡回の看守が駆けつけてもおかしくはないが、今
日に限っては一向に姿を現す気配はなかった。それを聞くと17番は大声で助けを呼ぶ気力
を失ったらしい。一瞬、力を失いかけた17番の声はしかし、すぐに媚を含んだものへと変
わり、私たちを懐柔しようと試み始めた。
- 224 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時54分20秒
- 「ねぇ、あんたたち、何をしようとしてるのか知らないけど、私を味方にしといた方がい
いわよ」
「…」
私たちは無視して雑巾代わりに使っていたボロ布を彼女の口に押し込んだ。もごもごと口
を動かしては必死に何か言おうとするが、口蓋いっぱいに積め込まれた布が邪魔をして、
くぐもったうめき声が少し洩れる程度だった。
「よし…まずは私が行ってくる。アジュモニ、オンニ、こいつの見張りを頼むわね」
「わかった…気をつけて」
「うん…」
私は立ちあがると房の上の方に設けられた小さな灯取りから洩れる月明かりを頼りに、鉄
格子の枠に掴まり錠の在りかを探った。袖口に忍ばせていた鍵を取り出すと鍵穴に挿し込
んでゆっくりと右に回す。ガチャリと重い音をたてて錠は開いた。
よし…
背後から二人が息を呑んで見守る気配が伝わってくる。私は鉄格子の扉を横に少しだけ開
くと、その狭い隙間に体を滑り込ませた。すばやく左右を確認すると、半身を屈めながら
小股で早足に進んだ。他の房の者には今夜の決行を伝えていないため、静かな寝息だけが
聞こえてくる。
- 225 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時55分03秒
- 資材倉庫は作業場の奥にあった。作業中は監視兵が守衛しているため、資材の皮革やを取
り出すのにいちいち監視兵の許可が必要だが、夜間には誰もいないため、難なく忍び込む
ことができた。鍵は味方の看守が既に開けてある。
銃と各房の鍵は入口を入ってすぐ右横の脚元にダンボール箱に入れられていた。短銃が5
丁、無造作に置かれている。なんという名前かは知らないが、オートマチックで弾倉はグ
リップのところにあるらしかった。銃弾は…装填されていた。その冷たい感触を楽しむ間
もなく、ベルト資材の皮革を一枚取ると、5丁の拳銃と鍵をその上に並べて、風呂敷の要領
で包み込んだ。
再び房に戻ると銃を二人に渡し、最後の確認を行う。
「鍵が束になっているから、一個ずつ開けていく必要がある」
「いくつくらいあるんだ?」
「10個以上はあるな」
「よし…」
私は提案した。
「私と17番が見張っている間にアジュモニが錠前を開けてくれ」
「開けたら?」
「私が収容者を起こして説得する」
「従わないものは?」
「放っておく。失敗したら、いずれみな殺しだ。逃げるしかないんだよ」
- 226 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時55分34秒
- 私たちは鉄格子を目一杯開いて、自由に向けての第一歩を踏み始めた。廊下は照明が無く
薄暗かった。各房からぼんやりとこぼれてくる月の薄明りに目を凝らして、居場所を確認
しなければならない。手始めに隣の房の入口の前に立った。アジュモニに錠を開けるよう
促し、私と17番は廊下の両端に意識を集中した。カチャ、と冷たい音が響きアジュモニが
告げた。
「開いたよ」
「よし…」
私は手早く鉄格子の扉を横にずらすと半身で中に滑り込んだ。大きな音を立てないよう、
一人一人揺さぶって起こしながら、ささやくように声をかけていく。
「起きて。みんな逃げるチャンスだよ」
「…ん?なんだ…16番がなんでここにいる?」
「鍵がある。みんな逃げるんだ」
「逃げるったってどこへ…?」
「着いて来ればわかる。ここに居たいやつは残れ。自由がほしいやつは着いてこい」
- 227 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時56分20秒
- それだけ言い残すと、私は即座に房を飛び出し、早くも隣の房で銃前を開けたばかりのア
ジュモニに、次!と短く声をかけ、房の中へ飛び込んだ。同じ要領で一人一人を揺すりな
がら、声をかけていく。次々に錠前を開けていくアジュモニの後から、私に起こされて半
信半疑ながら着いてきた他房の収容者達が、私の代わりに寝ているものを起こしていく。
頃合を見計らって、私と17番、それから他の房から出てきた者の中から三人に拳銃を渡す
と、廊下を突っ切ってまっすぐに所長の部屋へと向かった。
途中、収容者棟の入口にある入退出監視所を覗くと、味方の看守が約束してくれたように、
当直の監視兵は酒に酔っぱらい、既に高いぴきで寝入っていた。
「よし…」
「…」
手ぶらで来た者が兵士の武器を奪うのを待って、私たちはその場を後にした。周りを警戒
しながら、早足でその場を抜けると、まっすぐにあの見覚えある部屋へと進んで行く。後
ろからは房を出たものがどんどん押し寄せてくる気配が感じられた。
- 228 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時56分50秒
- ついに所長の部屋の前にたどり着くと、私は他の者を制して扉の前から離れるよう指示し
た。壁にぴったりと身を寄せる。ゆっくりとドアノブに震える手を置くと、静かに右へ回
す。カッと固い音とともにノブは途中で止まった。鍵が掛けられている。私は他の者に対
し、さらにドアから離れるよう態度で示すと、銃の安全装置を外し銃口を鍵穴に向けた。引きがねに指をかけて、しばし躊躇する。
これを撃てばもはや引き返せないだろう…
いや、撃たなければ、どのみち殺られるだけだ
私はやる…
人差し指に力を込めて絞る。鋭い音とともに錠前が崩れ落ちた。すかさず脚でドアを蹴り
入れると、間髪を入れずに激しい銃声が続いて廊下の壁に銃弾の跡が刻まれていく。激し
い音による恐怖で一瞬、心臓が凍りつく。銃声の止んだのを確認して気を取り直すと、壁
から半身を乗り出して再び引きがねを引く。
撃つたびに体を引っ込めては又撃つ。すさまじい破裂音に耳の感覚がなくなるまで、撃っ
て撃って撃ちまくる…気付かぬうちに17番や他の収容者が同調して、やはり散発的に部屋
の中へ向けて銃弾を放っていた。
- 229 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時57分40秒
- 私は17番と他の拳銃を握った連中に援護射撃を頼むと、部屋に飛び込む体勢を取った。視
線と手の動きで合図する。
待て…
よし、一斉に撃て!
太鼓連打のように連なる銃声のリズムとともに低い姿勢で部屋の中に突っ込む。迷わず銃
を正面に構えながらまっすぐ突っ込むと、恐怖に青ざめた顔が机の影から覗く。そこに向
かって撃つ。進む、撃つ。たまらずその男、収容所長が上ずった声で助けを求めた。
「わ、わかった!や、やめろ…何でもする…」
「…」
「ほ、本当だ、銃も捨てる!」
甲高い声に続いて、小さな鉄の塊が投げ出された。私は外の連中に銃を構えるよう指示す
ると、側にあった椅子を持ち上げた。机の向こう側に投げ込むと、身を伏せる。うわっ、
という裏返ったような声に遅れて銃声が響いた。
今だ!撃て!
激しい銃声は今度こそやつの戦意を喪失させた。私が転がりながら机の後ろに周り込むと、
やつは腰を抜かしてだらしなく床に座り込んでいた。
「手をあげろ」
「!」
- 230 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時58分21秒
- 私の顔を確認して再び戦意を取り戻したのか、腕に抱えたライフルを構えようとする。だ
が私の銃がまっすぐにやつの頭を狙っているのを見て、すぐにあきらめの色がやつの表情
を支配した。
「それを投げろ」
「…」
やつは動かない。何かいいたそうだ。口をパクパクしている。私はやつの脚元に向けて引
きがねを引いた。
「!!」
もはや正気を失った男はライフルも投げ出し、私が銃口を向けているにも関わらず机の前
に飛び出す。部屋の外側から激しい銃声が響き、あっという間に一斉射撃の餌食となった。
もうもうと部屋に篭る煙を通して倒れたやつの体の下には血溜りができあがり、時間が経
つに連れてその面積を広げていた。
「武器を取って!」
迷っている暇はなかった。やつの投げ捨てたライフルと短銃を広い上げると、急いで部屋
を飛び出る。これだけの銃声に看守たちが呑気に寝ていられるはずもなかった。所長を盾に正門を突破する計画は狂ったが、まだチャンスはある。
- 231 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時58分51秒
- 収容所内にどれだけ、内応者がいるのかわからないが、同時に呼応して立ち上がったのな
らば、今頃は所内各地で激しい銃撃戦が繰り広げられている可能性が高い。私は先頭に立
って皆を従えた。人数は後から房を抜け出してきたものが加わり、廊下からあふれ出さん
ばかりに膨れ上がっている。
「アジュモニ!アジュモニはいる?」
「市井同志!わたしはここだよ!」
アジュモニは残りの収容者を引きつれて無事、ここまで到達していた。急いでここまでの
状況を尋ねる。
「みんな無事?」
「何人かやられている…逃げるのに必死で数えられなかったけど…」
「そう…」
痛ましい。私が立ち上がることがなければ、あるいはこんなにも早く命を落とすことはな
かったのかもしれないのだから。だが、感傷に浸っている暇はなかった。私は収容者達を3
列横隊に整理すると一番前と後ろに武器を持った人員を配置した。一番先頭に私、最後尾
に17番という形でそれぞれリーダーを置き、臨機応変に対処するこ
ととした。
- 232 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)01時59分35秒
- 「いくよ…」
静かに合図すると、各々は無言でうなずき隊列が歩き出す。房とは反対側の方向に伸びる
この廊下の奥に建物の出口はある。私が2ヶ月前に通ってきた、あの扉だ。廊下の右側には
いくつかの部屋が連なっており、そのすべてをいちいち開けて確認しなければならなかっ
た。隊列の横腹を襲われたらひとたまりもない。
出口がもうすぐそばに迫って来ているというのに、遅々として進まず、いらだちがつのっ
てくる。幸いにも看守が潜んでいる部屋はなく、また建物を守る衛士のためだろうか、保
管されていたライフルと弾薬を見つけて確保した。最後の部屋の確認を終えると一同から
ほっとした雰囲気が伝わってくる。だが油断はできない。出口の外は兵士が包囲しており、
扉を開けた途端、蜂の巣にされてしまうかもしれないのだ。
「念のため、銃弾を防げるような弊遮物を置いた方がいい」
「バリケードかい?」
アジュモニが応えた。私はうなずくと、前の部屋に手頃な机があったのを思い出し、後方
の17番に呼びかけた。
- 233 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)02時00分08秒
- 「17番!その部屋に机があるでしょ、扉の前に運んでくれない?」
「結構、重そうだぞ!」
「いいの、頑丈な方がいいから」
17番が収容者達を何人か手配して机を運び出すため部屋に入った。想像以上に重かったよ
うだ。追加で何人かが呼ばれて加わり、ようやく持ち出すことができた。だが、それは机
が重過ぎるというよりは、収容者の体力の減退に負うところが大きかった。無理もない。
一日二度の食事でほんの一握りのとうもろこしでは必要な筋肉さえ衰えてしまう。
扉の前に机を置くと、私は慎重に解錠し、扉の取っ手に手をかけた。机の後ろで体を屈ま
せながらゆっくりと取っ手を押し出す。カチャリという無気質な音が静まり返った廊下に
響く。皆が固唾を呑んで見守る中、今、外界への扉は静かに開かれた。
- 234 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)02時00分57秒
- ◇◇◇
「まだなの?」
「待って…中の様子がわからない以上、迂闊に手は出せないわ」
「さっき散発的に銃声が聞こえたじゃないか?」
ユウキはいらだっていた。市井の安否を気遣う余り、ついついイーファにあたってしまう。
「その後、すっかり静かになったでしょ。それが不気味だわ」
「鎮圧されちゃったのかな…」
「いいえ。銃声から判断して、あれは銃撃戦だわ。看守が一方的に銃殺したという感じで
はない」
「どっちが勝ったんだろう?」
今度はイーファも応えなかった。塀の上から中の様子を偵察している斥候の報告を待って
いるのだ。応えのないことにすねてユウキが側に立つ木に蹴りをお見舞いしていると、タ
イミングよく斥候が戻ってきた。身を乗り出してイーファが報告を受けようとした瞬間、
塀の内側で轟音が鳴り響いた。
- 235 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)02時01分41秒
- 「なに?!報告して!」
「はっ、敵主力隊が目標物Aの甲出口を封鎖、包囲しています!」
イーファは苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、さらに尋ねた。
「指揮官は?」
「ターゲットAの姿は見あたりません。ターゲットCと思しき人物が指揮を取っている模様
です!」
「保護対象Aの生存確認は?」
「未確認です!」
断続的に続く銃声のために聞く方も報告する方も自然と大声にならざるを得ない。ユウキ
は思わず口を挟んでいた。
「あの銃声は何なの?!」
「はっ、敵主力隊による目標物Aへの攻撃と思われます!」
「よし、突入するわよ。全軍配置!」
ユウキは慌てて連絡兵用の野戦ジープに乗り込んだ。市井の顔を確認できるのはユウキし
かいない。いや、イーファがいる。だが、指揮官であるイーファは作戦本部を動けない。
M-38迫撃砲の砲撃により、かつて収容者を二度と生きては外へ通すことのなかった堅固な
正門はあっけなく崩れ落ちた。
- 236 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)02時11分51秒
- 次々に歩兵がなだれ込み、入口を広げた後にユウキの乗ったジープがようやく中へと進入
する。敵は建物に向かって隊形を組んでいたために、背後から挟撃されて、慌てふためい
ていた。自軍の突入に勢いづいたか、建物に篭って散発的に敵を銃撃していた収容者達の
一部が敢然と飛び出して弾幕を張り、浮き足立った看守兵達を次々に掃討する。
看守兵達は必死で抵抗するが、慌てて背後に目を向けると敵は正規の軍隊である。とても
かなうはずはない。バタバタと倒れていく味方の姿を見てすっかり戦意を喪失したと見え
る。その場を指揮していた看守はあっけなく、白旗を上げた。
ユウキが扉に注目すると、中からは武器を掲げ、薄汚れたねずみ色の服を来た女性達が続々
と飛び出して来た。市井さんは…目を凝らして見るが、遠目ではっきりと確認できない。
たまらずにジープを飛び出すと、女性達の方に駆けよって行った。
- 237 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月03日(木)02時12分45秒
- 「市井さぁぁん!」
一人の女性がとても信じられない、という風に目をしばたいている。間違いない。市井だ。
だが、その変わり果てた姿はどうだろう。髪はほつれまるでレゲエのラスタヘアのよう。
顔は薄黒く汚れ、まるでドブねずみのように黒ずんだ服は継ぎ当てだらけだ。ユウキはあ
まりの変わりように言葉を失った。ゆっくりと近づいてくる市井の姿を正視できない。
だがその瞳の輝きは。薄汚れた身なりにも関わらず全身から発せられる市井の生気はユウ
キのみならず、並みいる兵士達にある種の感銘を与えていた。
「市井さん…」
「ユウキくん…」
それ以上の言葉はいらなかった。敵兵の武装解除を進める革命軍の淡々とした作業が進む
中、黙って抱き合う二人の一角だけは時間の流れが異なっているようだった。その神々し
いまでの姿に、周りを囲む兵士達、収容者達の輪から知らずと拍手が沸き上がった。
自由革命軍の兵士、市井、誕生の瞬間だった。
- 238 名前:業務連絡 投稿日:2002年10月03日(木)02時16分58秒
- きりがいいので、次は新スレに移りたいと思います。
そろそろ終盤なので、容量がどれくらいになるか見極めるため、少し書き溜めてから
スレを立てる板を決めるつもりです。そのため少し時間がかかるかもしれません。
今後ともよしなに。
- 239 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時07分34秒
- 金板に移転しました。最後になりますので、もう少しお付き合いください。
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/gold/1035453065/
- 240 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月26日(土)01時46分52秒
- 了解しました。
頑張れ市井!
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