神々の印3〜強く儚い者たち〜
- 1 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年06月21日(金)02時45分58秒
- 前スレ
神々の印
http://mseek.obi.ne.jp/kako/sea/996326124.htm
神々の印2〜過去編〜
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi?dir=sea&thp=1000005471
- 2 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時47分34秒
――― ―――
重苦しい雲が空一面に広がって、星ひとつ見ることができない、そんな夜。
街外れの古い小さな診療所で、静かに、運命の歯車が回り始めようとしていた。
- 3 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時48分38秒
――― ―――
蛍光灯の光に群がった羽虫たちの羽ばたきの音が耳障りな音を立てている。
診療所のシミの浮き出た白い壁には細いひび割れが四方に走っていた。
白衣を身に着けた『風の民』の若い女性は、向かい合って座る、同じく『風の民』の少女の左手人差し指に黄色い薬品を塗りつけ、バンソウコウを巻いている。
「はい、終わり」
そう言うと、バンソウコウを貼ったばかりの少女の傷口を軽く叩いた。
「痛っ。もっと、優しくしてくださいよ。私は怪我人ですよ」
少女は柔らかいふっくらとした顔をしかめて、大げさに悲鳴を上げ、女性を睨みつける。
「ざけんじゃないの。このくらい、唾でもつけときゃ直るわ。‥‥まったく夜中に、派手に現れるから、どんな病人かと思ったら‥‥アンタみたいなヒヤカシとはね。まったく、あたしもヤキがまわったもんだよ」
女性は長い茶髪をかきあげ、ため息をついた。
「失礼な。ヒヤカシなんかじゃないですよ」
「あぁ。もう、いいよ。‥‥あたしは眠いんだ。‥‥金は要らないから、とっとと帰んな」
女性は眠そうに大きなあくびをすると、両手をひらひらと振る。
- 4 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時49分36秒
少女は女性の言うことが耳に入らないとでもいうように椅子から立ち上がり、もの珍しそうに診療所を見渡した。
薬棚、診療台、ベッド、診療机。
どこの診療室にでもあるような作りだ。
しかし、ベッドの隣には、およそ診療室にはふさわしくないような、年代物の重厚なレコードプレーヤーと壁一面を覆うほどに大きなレコード棚が置いてある。
少女はレコード棚の前に立ち、その中から一枚のレコードを手に取って、しげしげと見つめた。
「あぁー!! 勝手に触んな。大事なコレクションを‥‥」
女性は少女の手の中にあるレコードを見ると、焦ったような声をあげる。
「‥‥先生、いい趣味してますね。‥‥これはご法度の『火』の有名ギタリストの限定3000枚プレスもの。‥‥あぁ、これまた同じくご法度モノ。『水』の有名ベーシストのアルバムですね」
少女は女性の慌てふためく様を見ながら、ニッコリと微笑んだ。
- 5 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時50分14秒
「‥‥随分、詳しいんだね」
苦虫をつぶしたような表情で、女性が言葉を紡ぐ。
「まぁ、多少は。ギタリストだと、私は『風』のイングヴェイなんか好きですけどね」
「‥‥‥」
「‥‥これ‥‥かけてみてもいいですか?」
少女は膨大な数のレコードの中から、一枚のレコードを選び、女性の返答を待たず、馴れた手つきでプレーヤーにレコードをセットした。
やがて、診療室に、切ないサックスの音が響き始めた。
少女はじぃっと回るレコードを見つめている。
女性は何も言えず、ただ、少女の後姿を見つめていた。
レコードが一回りして、針が元の位置に戻ると、
少女は、ふぅ、と小さく息を吐き、それを合図に振り向くと、女性の顔をじぃっと見つめる。
少女の瞳に暗い情念を垣間見たような気がして、女性はゴクリと唾を飲み込んだ。
- 6 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時51分22秒
「‥‥先生、最近、何か、気になることはありませんか?」
「‥‥気になること?」
「例えば‥‥例えばですよ。‥‥連絡のつかない友人がいるとか‥‥」
「‥‥っ‥‥」
女性は反射的に椅子から立ち上がり、少女を睨みつけた。
「図星ですか?」
少女はそう言うと、挑戦的に瞳を煌かせて、クスクスと笑う。
「‥‥アンタ?‥‥」
「詳しく知りたくないですか?」
「‥‥何を?」
「『彼女』について」
「‥‥‥」
「心配じゃないんですか?」
「心配に決まってるでしょうが!」
女性は握りこぶしで机を力任せに叩いた。
- 7 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時52分11秒
「ですよね」
腕を組んで、少女は納得したように頷いた。
「‥‥アンタ‥‥何か‥‥知ってる‥‥の?」
「おおむね、概要は」
「それなら‥‥」
「後戻りはできませんよ。‥‥それでもいいんですか?」
「‥‥それって、どういう?‥‥」
「文字通りの意味です。‥‥『話を聞く前のアナタには戻れませんよ』ってことです。‥‥アナタが何も聞きたくないというのならば、私はこのまま治療費を払って帰ります。もう、この診療所に来ることはないでしょう」
少女は女性の様子を伺うように、じぃっと見つめている。
女性は言葉を失ったかのように、無言で立ちつくしていた。
少女は肩をすくめ、ナイロンのナップザックから財布を取り出し、一番大きな紙幣を一枚、診療机の上に置くと、診療室を出て行こうとドアに手をかけた。
- 8 名前:プロローグ 投稿日:2002年06月21日(金)02時52分48秒
「‥‥ちょっと、待って」
女性がそう言うと同時に、女性の発した『風』の『力』によって、一旦開きかけたドアは『バタン』と音をたてて閉じる。
「‥‥その話、詳しく聞かせて」
「‥‥きっと、そう言ってくれると思っていました」
少女はそう言うと、ニッコリと微笑んだ。
- 9 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年06月21日(金)02時54分59秒
- 長い間お待たせしました。
第三部スタートです。
といっても、遅筆なので、マターリといかせてもらいます。
- 10 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月21日(金)03時14分00秒
- やったー更新だー!!
- 11 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月21日(金)06時45分11秒
- お待ちしておりました・・・(涙)
彼女達にまた会えると思うと・・・(涙)
マターリがんばって下さい。ついて行きます!
- 12 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月21日(金)10時27分41秒
- 待ってました!!
- 13 名前:M.ANZAI 投稿日:2002年06月21日(金)15時59分08秒
- お待ちしてました。
ついに彼女達のこれからかが語られるのですね。
楽しみにお待ちしてます。
- 14 名前:娘。 投稿日:2002年06月22日(土)00時54分05秒
- キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!
- 15 名前:3105 投稿日:2002年06月22日(土)01時05分14秒
- 待ってました!お帰りなさいです。
- 16 名前:JUN 投稿日:2002年06月22日(土)01時35分36秒
- 待ってましたよ!頑張ってください。
楽しみにしてます!
- 17 名前:読んでる人 投稿日:2002年06月22日(土)12時55分48秒
- あっちゃん太郎さん、お帰りなさいませ!!
再開を心待ちにしていました!!
「風」の女性と少女は新キャラですね?
いったい誰なんだろう・・・この先の展開が激しく楽しみです!!
- 18 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月22日(土)15時34分28秒
- 祝再開!!
白衣の女性とはもしかして・・・子育て奮闘中のあの人ですか!?
- 19 名前:沖 投稿日:2002年06月22日(土)21時26分47秒
- まってましたぁ。
って言っても、わかりませんね。
始めまして。もうちょっと前に
神々の印から全部読ませてもらいました。
これからも頑張ってください
- 20 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月29日(土)20時37分16秒
- 待ちくたびれてもう読む気がなくなった頃に再開されても…
- 21 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月30日(日)02時16分43秒
- 私は読む気充分ですが。。。
祝再開!!! 続きがますます楽しみです。
- 22 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月30日(日)12時57分23秒
- もういちど最初から読みなおしましたよ。
ps.
>>20
いちいちそんなこと書かなくていいからね。読まないんならこないように。
- 23 名前: 名無し読者 2 投稿日:2002年07月02日(火)00時44分29秒
- >>22
私も同意。
>>20
待ちくたびれた気持ちも分かります。
それだけ楽しみにしてたんでしょ?
でも、作者さんが帰って来てくれたんだから
気持ち良く待ちましょうよ♪
きっと放置はしないでしょう・・・
作者さんもきっと私生活が忙しいんですよ。
だからマッタリ待ちましょ♪
ここで喧嘩したら、作者さんも来にくくなっちゃうしね・・・
- 24 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)15時20分21秒
- そろそろご更新を。。。
- 25 名前:なっつぁん 投稿日:2002年07月05日(金)15時59分48秒
- 私も希望!(w
作者さん、お忙しいのでしょうか・・・
- 26 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時41分32秒
――― ―――
黒いハイネックのタンクトップ、光沢のある細いパンツ、黒い皮手袋に黒いサングラスという、いつもの出で立ちの裕子は『PEACE』カウンターの中にいる『火の民』の女性――圭織に左手を軽く上げて、合図を送る。
「‥‥よぉ」
「ゆーちゃん、矢口の具合はどう?」
「あぁ、熱も引いたし、もう大丈夫やろ」
裕子はサングラスをはずし、薄い微笑を浮かべながら、圭織の真正面――いつもの指定席に腰掛けた。
「そう。良かった。何か足りないものある?何なら、紗耶香に届けてもらおうか?」
ビールの並々と入ったジョッキをコトンと置いて、圭織は心配そうに裕子を覗きこむ。
買い物をするときは、『神々の印』と呼ばれる左手の石を見せる行為が慣習として厳然とある以上、それを共に失った裕子と真里は、頻繁においそれと買い物をすることができない。
必然的に、日用品や食料は圭織が調達するという生活を続けていた。
この世界では、『神々の印』を失った者は、協力者がいないことには生きていくこともままならない。
- 27 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時42分12秒
「いや、明日にでも矢口と取りにくるわ」
「じゃあ、また、いつものイチャイチャを見せつけられるんだ。‥‥『やぐちぃ、重いやろ?』『平気だよぉ』『そんなん持たせられんわ。ゆーちゃんが持ったる』『大丈夫だよぉ』‥‥」
いつまでも続きそうな、似ても似つかない圭織のものまねに、裕子は照れ隠しもあって、無言のまま圭織をジロリと睨んだ。
圭織は裕子の顔を見て、クスクス笑い出す。
つられるように、しかめっ面だった裕子も相好を崩した。
ひとしきり笑った後、表情を引き締め、裕子が呟く。
「‥‥圭織、いつも、ありがとな‥‥」
「何、今更改まって‥‥照れるじゃん」
「礼くらい言わせてや」
「らしくないって」
圭織がおどけたように肩をすくめた。
- 28 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時42分47秒
「何やて?ウチだって、礼くらい言うわ」
それに応じるように、小さく笑いながら裕子はシガレットケースからタバコを取り出し、圭織に目配せする。
「そうだっけ?」
とぼけるように圭織が首を傾げると同時に、裕子が咥えているタバコのすぐ傍に、小さな火が出現する。
圭織の『力』によるものだ。
タバコの白い煙を吐き出しながら、ゆっくりと店内を見渡した裕子が低い声で呟く。
「‥‥あれは‥‥何や?」
裕子の視線の先には、テーブル席で『火の民』の少女――紗耶香と見かけない女性が、真剣な表情で話し込んでいる。
紗耶香は何やら古いレコードジャケットを大事そうに抱えていた。
女性の左の手のひらには緑の石が輝いている。
『風の民』の女性だ。
ロングの茶髪、印象的に凄みのある目。
きつい印象を受ける顔、といった方がいいかもしれない。
- 29 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時43分18秒
「ん?‥‥あぁ、ゆーちゃんは会うのは初めてなのか。石黒さん。‥‥最近、よく来てくれるお客さん。‥‥ああ見えて‥‥お医者さんなんだってさ。‥‥音楽にも詳しいらしくって、紗耶香はすっかり懐いちゃってるよ」
圭織自身、この『風』の女性を気に入っているのだろう。
女性のことを説明する口調にも温かいものを感じる。
「‥‥連れはいたんか?」
女性と紗耶香に向けていた視線を戻して、裕子は圭織に小さな声で尋ねる。
「いや、一人。だから、余計印象に残っているというか。最初から、なんと言うか、人懐こかったけどね」
「‥‥ふーん」
「後藤がやきもち焼いて大変みたいだけど」
「‥‥へー」
「色々、古いレコードとか貸してくれたり、いい人っぽいよ」
「‥‥ほー」
圭織の言葉に対して、裕子は浮かない顔で相槌を打つ。
「気に入らない?」
「‥‥別に、そんなことないで」
裕子はそう言うと、テーブル席に顔を寄せて、音楽談義を続けているらしい二人に視線を向ける。
- 30 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時44分00秒
裕子の視線に気づいた女性が、顔を上げ、それにつられる形で、紗耶香も話すのを止めた。
裕子に気づいて、ぱっと顔をほころばせた紗耶香は、しばらく何か考えている風だったが、裕子に女性を紹介しようと思い立ったのだろう。女性に二言、三言耳打ちすると、カウンター席の裕子の元へ歩み寄った。
「ゆーちゃん、紹介するよ。こちら、石黒彩さん。色々、教えてもらっているんだ」
紗耶香がニコニコとはちきれんばかりの笑顔で隣にいる女性を裕子に紹介する。
「初めまして。石黒です」
彩は軽く会釈すると、裕子の顔をじぃっと見つめた。
裕子の思考を見透かそうとでもいうように鋭い視線をあびせかける。
「‥‥中澤です。‥‥紗耶香が、えらい、世話になってるみたいで」
彩の強い視線を受けて、裕子も彩を見つめ返した。
「彼女とは色々趣味が合うんです」
ふっと軽く微笑んで、彩はチラリと紗耶香を見た。
「‥‥石黒さんは‥‥」
裕子はギュっと膝の上で拳を握り締める。
緊張で手は汗ばみ、口内はすっかり乾いていた。
「彩、でいいです」
彩は裕子の言葉をさえぎり、わずかに唇の端を上げた。
「彩さんは‥‥こういう店にはよく行くんですか?」
「‥‥どうしてです?」
しばし考え込むように間を取った後、彩はゆっくりと口を開いた。
「ココは妙な噂が絶えない店ですからね。普通、一人で来ようなんてツワモノはなかなかいないんですよ」
裕子の挑戦的な視線と彩の強い視線が絡み合う。
裕子の物言いに、圭織は『コホン』と咳払いで割り込んだ。
- 31 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時44分49秒
「‥‥まぁ、ゆっくり、飲んでいってください」
しばしの沈黙の後、裕子は気がそがれたように、投げやりに呟いた。
「‥‥‥そうします」
彩は裕子の言葉に、静かに頷いた。
普段は鈍感な紗耶香も、さすがに裕子と彩の間にある、妙な緊張感に気づいた様子で、困ったというようにカウンターの中にいる圭織の顔を見る。
圭織は肩をすくめ、テーブル席を目配せした。
紗耶香は首をすくめ、彩と共に、元居たテーブル席に戻って行く。
しきりに、紗耶香が彩に対して、裕子の非礼をわびている様子が伺える。
彩は気にしていない様子で、紗耶香との音楽談義を再開し始めた。
「‥‥どうしたの、ゆーちゃん?」
圭織が眉をひそめて尋ねる。
「‥‥‥」
それには答えず、裕子は無言でビールを飲み続けた。
- 32 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時45分31秒
カウンター席に座っていながら、背中にテーブル席にいるはずの彩の視線を感じる。
最初――紗耶香が紹介する少し前、テーブル席に座るあの女と目が合ったとき、正直身震いした。
あの女の強い瞳。
自分のことを試しているような視線。
向けられている視線は、敵意なのか?
それとも、何か別の目的があるのか?
あの――『風』の女――石黒彩という女の意図がわからん。
嫌な予感がする。
何かがはじまる。
――はじまってしまう。
裕子は無言でビールを呷り続けた。
- 33 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時46分10秒
――― ―――
『ガチャ』とドアのカギが開く音と共に現れた裕子に、ソファーに座ってくつろいでいた真里は、嬉しそうに微笑む。
「おかえりなさい」
「‥‥‥矢口」
裕子は靴を脱ぎ捨てると、真里にのしかかるように抱きつく。
「うわっ、酒くさーい。ゆう‥‥」
いきなりの裕子の行動に、真里はわずかに顔をしかめる。
強引に裕子は真里の唇を塞いだ。
真里の肩をつかみ、その身体をソファーに押し倒す。
真里は裕子の身体の下でジタバタと身体をよじった。
- 34 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時46分42秒
「‥‥っ‥‥いきなり、どう‥‥」
唇をもぎ離した真里の抗議の言葉を封印するかのように、再び真里の唇を奪う。
歯列を舌でこじ開け、中でおびえている舌を探し出し、唾液を流し込む。
真里が病み上がりであることは、完全に裕子の念頭から消えていた。
今すぐ真里の存在を確認しなければ、不安に押しつぶされそうだ。
もうすぐ、逃れることのできない、何かがやってくる。
その時が近い。
熱い舌を身体中に這わせて、真里の奏でる歓喜の声を聞きたい。
自分の腕の中で真里の存在を確認したい。
ただ、それだけだ。
- 35 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月05日(金)22時47分25秒
裕子の細い指が身体を這いまわり、真里の柔らかいしなやかな身体を甘い刺激が走る。
「‥‥ちょっと、待って」
身体を仰け反らせ、裕子との身体の距離を取ろうと、真里は両手を突っ張らせた。
「待たへん」
「こんな所で」
「かまへん」
「ゆーちゃんっ」
「いやや」
裕子は真里の柔らかな胸に顔を埋め、駄々をこねる子供のように顔を打ち振るう。
裕子の切羽詰った声色に、真里の抵抗が止んだ。
「矢口が、欲しいんや」
裕子は真里の胸から顔を上げ、真里の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「‥‥‥ゆ‥うこ」
見上げた裕子の瞳は不安げに揺らめいていて、真里の胸がきゅっと痛む。
「‥‥‥裕子」
真里は裕子の背中に腕を回し、自分から抱きついた。
「‥‥‥矢口」
裕子の愛撫を受け入れるように瞳を閉じた真里の身体に、裕子の冷えた唇が押し当てられる。
裕子の吐息からは、切ない夜の香りがした。
- 36 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年07月05日(金)22時50分14秒
- 再開が遅れてすいませんでした。
更新も遅れ気味で、申し訳ないです。
- 37 名前:393 投稿日:2002年07月06日(土)00時17分12秒
- 更新、お疲れさまです。
無理はなさらずに、あっちゃん太郎さんのペースで
書いてください。
- 38 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月06日(土)03時38分50秒
- 更新お疲れ様です。
のんびりマイペースで全然いいんで・・・・・
あぁしかし、これから痛くなっていくんですよね。
嵐の前の静けさというか・・・・すごいドキドキしてます。
- 39 名前:読んでる人 投稿日:2002年07月06日(土)22時35分10秒
- あう〜この先どうなっちゃうんだろ・・・?
この2人には幸せになって欲しいのに・・・。
- 40 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月07日(日)00時37分33秒
- 痛くなったとしても、
願わくば、最終的にはこの2人に幸せな結末を・・・。
しかし、行く末はあっちゃん太郎さんのみぞ知る、ですね。
楽しみにしてます。がんばって下さい!
- 41 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)20時55分23秒
- 彩登場。
昔は彩裕にハマッタもんだ(w
この頃みることほとんどない(w
せめて・・・やぐちゅーの強い見方になって欲しい・・・
- 42 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月14日(日)17時34分47秒
- そろそろ更新願い(w
- 43 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時25分21秒
――― ―――
ブラインドの隙間から朝日が差し込んできて、夜が明けたのだということがわかった。
裕子の腕に頭をのせ、真里は身体を丸めるようにして眠り込んでいる。
裕子は真里にそっと顔を寄せ、その金髪に口付けた。
「‥‥ん‥‥」
裕子が額に唇を落とすと、真里は小さな声をあげて身じろし、ゆるゆるとその瞳を開ける。
ぼんやりと焦点の定まらない目を裕子に向けた。
「‥‥矢口‥‥‥‥ごめんな」
耳元で裕子が囁くと、真里はくすぐったそうに首をすくめる。
「‥‥どうしたの?‥‥ゆーちゃん、変、だったよ」
身じろぎしたせいで、ずり落ちてしまったシーツを胸元まで引き上げ、真里は裕子の頬を両手でそっと撫でた。
「‥‥‥」
裕子は瞳を閉じて、真里にされるがままになっていたが、やがて、深いため息をつくと、無言で真里の身体をきつく抱き締める。
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥ごめん。もうあんなことせんから‥‥」
裕子が真里の首筋をそっと撫でる。
赤い花びら――昨夜の情事の跡がはっきりと残っている。
真里の静止も聞かず、自分の欲望のまま突っ走ってしまった。
- 44 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時26分03秒
「‥‥別に謝って欲しいわけじゃないよ。ただ矢口は‥‥」
裕子に抱きしめられたまま真里は小さく身じろぎする。
シーツ越しに感じる裕子の身体が小刻みに震えていた。
「自分でも、何でか‥‥わからんのや。ただ‥‥」
「ただ、何?」
「‥‥‥時々不安になるんや」
裕子は力なく呟いた。
「言ったじゃん。矢口が守るって。どんなことがあっても矢口が傍にいるから。‥‥だから‥‥裕子が不安になることなんかないんだよ。」
真里は裕子の背中に腕を回してぎゅうっと抱きついた。
痛みを感じるほどに力を込める。
想いが裕子に伝わるように。
「‥‥そうやったな。うん、そうやった」
裕子はそう言うと、自分を納得させるように大きく頷き、そして、柔らかく笑った。
- 45 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時26分38秒
――― ―――
二人でパンとコーヒーという軽い朝食を取った後、裕子は仕事の連絡待ちで自宅待機。
真里は全身をすっぽりと包む黒いマントを羽織ると、いつものように仕事に出かけた。
占いから得られる収入は実に不安定だ。
一日に十何人も客がつく日もあれば、反対に一人の客も現れないこともある。
真里が占い師という仕事を選んだのは、身分不詳でもかまわないということ。トランプという古典的道具を用いて簡単に操作できること。手袋を着用していても、それは神秘的な雰囲気を演出するためと受けとられ、怪しまれる可能性が低いことを考慮に入れてのことであった。
そしてそれは同時に、店の看板に『民』のマークを掲げ、客をを選別している他の占い師とは異なり、全ての民からのお客さんが来てくれることにも繋がっていた。
真里は元来、ほとんど人見知りすることはなかったし、その人が言って欲しいことを先読みする能力にも長けていたから、常連客はそれなりにいたりもする。
「あんたの明るい声を聞いているだけで、気がはれるよ」そう言ってくれる客もいた。
そういうわけで、真里は今日もいつもの街外れの路地に佇んでいた。
ここは、街外れにあるものの、人通りはわりと多い通りだ。
お昼休みにはOLや営業マンらしき人が多数通りかかる。
道路脇に『占い』と書かれた小さな提灯がのっている机と二つの椅子を並べただけの粗末な作り。
それが、真里の城だ。
- 46 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時27分14秒
真里は机に膝をついて、ぼーっと通りに植えられた木々の枝が風に揺れるのを見つめていた。
‥‥裕子は最近変だ。
あたしを悲しげな瞳で見つめていることが多い。
‥‥何かあったのかな?
それとも‥‥最近よく新聞の話題になっている、異なる『民』同士の小競り合いが増えてきたことも、裕子の憂鬱の原因のひとつかもしれない。
「おい、お前、誰の許しを得て、ここで商売してるんだ?」
真里が物思いにふけっていると、頭上から聞きなれない、ゴツゴツした男の声が降ってきた。
見上げると、そろいの緑のTシャツを着用した十代後半の少年が三人、真里のことを見下ろしている。
少年達の左手には緑の石が輝いていた。
『風の民』の極右集団『グリーン』のメンバーだ。
この他にも『火の民』の極右集団『レッド』、『水の民』の極右集団『ブルー』があり、各地で勢力争いのいざこざが絶えない。
- 47 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時27分46秒
「返事ぐらいしろよ。コラ」
そのうちの一人の少年が威嚇するように、机を拳でコンコンと叩く。
「‥‥ここは天下の公道でしょう。アンタたちには関係ないじゃないっ」
真里はきっと三人の少年を睨みつけた。
「へぇ‥‥ネーチャン‥‥威勢がいいな」
「お前、何の『民』なんだよ。何で手袋なんかしてるんだ。はずせよ」
「‥なっ‥‥やめてよ」
「うるさい。手袋を取って、石を見せろって言ってんだ」
少年達は真里の両腕を固定して、強引に手袋を取り去ろうとする。
真里の背筋に悪寒が走った
こんなやつらに、もしも自分が『神々の印』を失った者だということがばれたら、一体どうなるだろうか。
もしかしたら、裕子に二度と会えなくなるかもしれない。
そう思い、真里は渾身の力を振り絞って、抵抗する。
「こら、暴れるな」
「痛っ‥‥このアマ、噛み付きやがった」
三人の少年は真里の強い抵抗に戸惑ったようにお互いの顔を見合わせた。
- 48 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時28分25秒
「何騒いでいるの?」
その場の喧騒を破る、凛とした女性の声が響いた。
見ると、少年達と同じ緑のTシャツを着けた女性が腕を組んで立っている。
「「「Mさん」」」
三人の少年達は掴んでいた真里の腕を開放して、バツが悪そうな顔で女性を見つめた。
「矢口」
少年達の呼びかけを無視して、女性は真里に声をかける。
「‥‥え?」
いきなり開放され、戸惑い気味の真里はすぐに反応することができず、呆けたようにあんぐりと大きく口を開けた。
「やっぱり矢口だ」
女性はニッコリと笑うと、少年達に脱がせかけられた真里の手袋を元にはめ直してやる。
真里は気が抜けた様子で、女性のされるがままになっていた。
「‥‥そんなに変わったかなぁ。あたしよ、高校の同級生のMよ」
「あぁ!?」
真里は目を大きく見開くと、女性の顔を指差し、大きな声をあげる。
「‥‥そんなに驚くこと?」
真里の反応に女性は肩をすくめて苦笑した。
Mはロングだった髪をバッサリと切り、地肌が見えるほどの短髪にしている。
学生時代の制服と体操服から離れ、私服に身を包んだ友人は、その印象がガラリと変えていた。
- 49 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時29分04秒
「だ、だって‥‥全然、変わっているから」
「それはお互いさまじゃない?」
Mは含み笑いをしながら、真里の全身黒いマントに包まれた姿をジロジロと眺める。
「こんな所で会うなんて。‥‥身体の方は大丈夫なの?」
「身体?」
「病気で長期入院するから、学校も辞めたんでしょう?」
「え?‥‥あぁ、そ、そう、そうだった。‥‥うん。もう大丈夫。元気、元気」
恐らく両親が真里が学校を辞める理由として、『病気のための長期入院』ということで説明したのだろう。
真里は慌てたようにコクコクと首を縦に振った。
「‥‥あの‥‥」
一人の少年がおずおずとMに声をかける。
「何?」
Mは厳しい表情で少年達に向き直った。
「この方は‥‥」
「この人は私の親友よ」
「そうでしたか。‥‥失礼しました」
Mにピシッと敬礼すると、三人の少年は、Mと真里から5メートルほど離れた場所に移動し、直立不動のまま待機する。
- 50 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時29分47秒
少年達から視線を真里に戻すと、Mはじぃっと真里を見つめた。
真里は高校時代に時が巻き戻されたような錯覚に襲われた。
Mも同じような感覚に襲われたのだろう。
厳しい表情は影をひそめ、柔和な笑顔を浮かべる。
「‥‥相変わらず、小さくて可愛いね、矢口」
「‥‥な、何言ってるんだよぉ」
真里は居心地が悪そうにモジモジと身体を揺らす。
Mは真里の動きを見て、おかしそうに笑った。
そこに、路地裏から、鬼ごっこをしている数人の『水の民』の少女が走ってきた。
その内の一人の少女が、待機している『グリーン』の少年達を見て驚いたのだろう、足元を誤って転んでしまった。
アスファルトに足をすりむいて少女が泣き出す。
少女の膝小僧からは、かすかに赤い血がにじんでいた。
しかし、『グリーン』の少年達は動こうとしない。
他の『水の民』の少女達も怯えたような表情で、泣いている少女を遠巻きに見つめているだけだ。
- 51 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時30分32秒
真里はゴソゴソとマントのポケットを探って数個の飴玉を取り出すと、少女に近寄り、泣いているその子の手のひらに乗せてやった。
「ほら、痛いの痛いの飛んでいけー」
真里はおどけたような口調で、少女の傷口に息を吹きかける。
「おねーちゃんは魔法使いなの?」
少女は真里のマント姿を見て、絵本に登場する魔法使いと勘違いしたようすだ。
「そうだよ。だから、もう、泣かないの」
真里が少女の頭を撫でると、少女は嬉しそうに笑った。
「バイバイ。魔法使いのおねーちゃん」
少女は泣き止むと、真里のあげた飴玉を握り締めて、心配そうに遠くから見つめている仲間の少女達の元へ走っていく。
真里は笑顔で『水』の少女を見送った。
「矢口、あんた、相変わらず甘いね」
背後から刺すような鋭い声が響き渡る。
「え?」
「‥‥‥」
振り向いた真里の視線の先には今だかつて見たことがないほどの冷たい表情を浮かべたMがいた。
真里の背筋に冷たい悪寒が走る。
それから、Mは「久しぶりにお茶しよう」と言うなり、待機している『グリーン』の少年達に命じて真里の机と椅子を道路脇に片付けさせると、真里に口を挟む暇を与えず、強引に自分の事務所に連れて行った。
それは事務所というにはあまりにも大きな建物だった。
敷地面積は、ゆうに600坪はあるだろうか。
3階建ての緑一色の建物は不気味な雰囲気をかもし出している。
- 52 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時31分10秒
――― ―――
Mの部屋に置かれた来客用のふかふかした大きなソファーに座り、真里は足をぶらぶらと揺らしながら、Mが入れてくれた高級紅茶を口に含む。
冷たい瞳をしていたMも、高校時代の友人の話になると、上機嫌になり、クラスメイトだったIは高校卒業と同時に同級生の男の子と結婚したことなどを懐かしそうに話し出した。
真里は「ふーん」、「それで?」「へー」などと相槌をうちながら、Mの話に耳を傾ける。
「さっきは、どうしたの?」
「え?」
「うちのメンバーに囲まれていたじゃん。ナンパされてたとか?」
Mの瞳はいたずらっ子の子供のようにキラキラと輝いていた。
「ち、違うよ。‥‥手袋取れって言われてさ‥‥。でもこれ、一応、商売道具だからさ‥‥それで‥‥」
真里は懸命に首を横に振って否定する。
「‥‥なんだぁ‥‥つまらん」
興味を失ったといわんばかりのMの投げやりな口調に真里はカチンときた。
冗談じゃないよ。
死ぬほど怖かったんだから。
矢口は羽交い絞めにされていたんだよ!?
それ見てて、よくそんなこと言えるねー!!
そう喚いてしまいたいのをぐっと堪える。
- 53 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時31分43秒
「‥‥Mってさぁ‥‥学生の頃から‥‥こういう活動に興味持ってたっけ?」
「いんや、全然。‥‥あの頃は‥‥何も考えない子供だったからね。‥‥ココに入ったきっかけは‥‥学校卒業しても就職先のない私を、拾ってくれたってのが始まり」
そう言うと、Mは空になった紅茶カップにお茶を継ぎ足し、ぐっと一口で飲み干した。
「それからは‥‥この『グリーン』を大きくするために色々やった。‥‥色々ね‥‥‥‥そして、ここまで大きくなったんだ」
「‥‥例えば?」
「‥‥寄付を集めたり」
「脅して?」
「人聞きが悪いなぁ」
Mが口を三日月のように薄く開けて笑う。
左手の緑の石が蛍光灯の明りを反射して、キラキラと輝いた。
「‥‥そういう問題じゃ‥‥」
「全ては『火の民』、『水の民』と戦うため」
「‥‥戦う?」
「そう‥‥この世の中ゴミが多すぎる。‥‥そうは思わない?」
「‥‥何言って」
「最も性質の悪い不燃ゴミが、『火の民』と『水の民』よ」
「あいつらさえいなければ、我が『民』はもっと豊かな生活をおくれるはず。あいつらのせいで、土地も空気も水も全て3分の1しか得られない」
「そ、そんなこと‥‥」
真里は友人の口から吐き出される、他の『民』に対する憎悪の感情に言葉を失った。
「今にわかるよ。『火の民』も『水の民』もこのままにしてはおけない」
真里の動揺を受けて、Mは意味ありげにニヤリと笑い、楽しそうに言葉を紡ぐ。
- 54 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時32分33秒
「‥‥何を‥‥する気?」
「それは秘密」
「‥‥‥‥」
「矢口も『グリーン』に入らない?」
「矢口が入ると、私も心強いし」
「‥‥‥‥」
「まぁ、考えてみてよ。悪い話じゃないと思うけど。あんな所で細々と占い師やるよりははるかにお金になるよ」
「‥‥‥‥」
真里は唇をかみ締め、マントの中で両コブシをぎゅうっと握り締めた。
「そうだ‥‥この建物を案内するよ」
Mは部下を呼んで紅茶セットを片付けさせると、真里を促し、『グリーン』事務所の建物の内部説明を始めた。
建物の内部は自家発電装置、会議室、コンピューター室、訓練場、武器庫、宿舎等が完備され、本格的な要塞のようだ。
恐らく、裏で大物政治家か企業家のバックアップを受けているのだろう。
チマチマと寄付金を集めるだけでは、これほどの施設と人数を維持運営することは不可能だ。
「ねぇ、こんなとこ、あたしみたいな赤の他人に見せてもいいの?」
宿舎の浴室、トイレまで見せられ、真里は困惑した表情を浮かべている。
「何心配してるの?変な矢口。‥心配しなくても、そんな内部秘密までは見せていないわよ。‥‥入隊希望者の見学でもこのくらいまでは見せるわよ」
Mは真里の髪の毛を優しく撫でた。
- 55 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時33分16秒
驚いたことに、各部署で、『グリーン』のメンバーが、Mを見るとすぐさま敬礼していく。
「‥‥ねぇ、もしかして、Mってえらいの?」
真里は隣を歩いているMのTシャツの袖をクイッと引っ張り、首を傾げるようにして尋ねた。
「一応、ここの支部のNo2ってことになっているけど」
Mは小さく笑いながら答える。
「‥‥No2」
真里は暗い気持ちで呟いた。
学生時代、自分と異なる『民』に対する不満を漏らすことがなかったM。
心の中に、これほどの他の『民』に対する憎悪をいつ育てたのだろう?
以前、『火の民』の極右集団『レッド』に囲まれたときも恐ろしかったが、今はそれ以上にそら恐ろしさを感じる。
人間の暗黒面を見てしまった気がする。
ここに存在する人達の大半は、今の自分のあり方に満足していないだけの、本来ならば、善良な一般市民のはずだ。
紗耶香や圭と出会わなければ。
裕子と愛し合わなければ。
圭織や希美との交流がなければ。
ひょっとしたら、自分も、この『グリーン』に入会し、お互いの『民』の真の姿を見ようともせず、一部のオピニオンリーダーに先導され、他の『民』に対する憎悪を増幅させてたかもしれない。
これは、そういう恐ろしさだ。
この人達は、あたしが『神々の印』を失った者だと知ったら、一体どういう反応を示すのだろうか?
- 56 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時34分02秒
‥‥怖い。
怖いよ。
助けてよ。
ココから逃げ出したい。
心の中に重たい黒い靄が湧き上がってくる。
それは、絶望、嫌悪、哀憫、悲憤。
全てに近いような気もするし、逆に全てからかけ離れているような気もする。
「‥‥‥‥」
真里はズルズルと廊下に崩れ落ちると、極度の緊張のために小刻みに身体を震わせた。
額には脂汗が浮かんでいる。
「矢口!?」
「ごめん‥‥あたし‥‥」
「あんた、顔真っ青じゃない。‥‥どこか具合が悪いんでしょ!」
Mは真里に駆け寄ると、その額に手を当てる。
「‥‥う‥‥」
「矢口、熱っぽいよ。少し寝たら?」
心配で堪らないというようにMは真里の額や頬を撫でた。
「‥‥大丈夫」
「そんな顔して大丈夫なんて言うんじゃないの」
「大丈夫。‥‥あたし‥‥帰るね」
真里は渾身の力を振り絞り、何とかふらつく足で立ち上がる。
送らなくていい、と断る真里に、Mはかたくなに送って行くと言い張った。
Mいわく、具合の悪い友人を放っておくことなどできないというのだ。
この優しさのほんの少しでも他の『民』に向けられれば。
この友人は、自分が『神々の印』を失った者だと知ったら、どういう反応をするだろうか?
真里は隣を歩く、背の高い横顔をそっと見つめた。
冷たい横顔。
会わないでいた、約三年の月日の重さを感じる。
- 57 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月17日(水)00時34分35秒
「ここでいいよ」
暗い夜道、街灯の下で、俯きながら真里はMにそう告げた。
「ここ?」
「うん、すぐ近くだから」
「矢口‥‥家、引っ越したの?」
「ううん。‥‥‥‥家を出たの」
「‥‥‥そう」
「うん」
「‥‥また、会えるよね。‥‥急に消えたりしないよね」
「‥‥うん」
「‥‥‥じゃあ、またね、矢口。身体には気をつけるんだぞ」
そう言うと、Mは踵を返し、コツコツとブーツの音を響かせながら、夜道を早足で帰って行く。
Mの口調はあくまでも優しい。
言葉の端々から真里に対する思いやりが溢れている。
優しいのに。
この優しさが向けられるのは『風の民』限定なのだ。
真里の瞳から涙が溢れてきて、視界が歪みはじめた。
――だめだ。
今は、だめだ。
――まだ、泣くわけにはいかない。
帰ろう。
あの人の胸に帰ろう。
真里は街灯の薄明かりの下を、全力で走り出した。
- 58 名前:( `.∀´)ダメよ 投稿日:( `.∀´)ダメよ
- ( `.∀´)ダメよ
- 59 名前:( `.∀´)ダメよ 投稿日:( `.∀´)ダメよ
- ( `.∀´)ダメよ
- 60 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年07月17日(水)00時38分51秒
- 更新しました。
実に暗い内容です。
- 61 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月17日(水)00時43分06秒
- 更新ご苦労様です。
裕子は何かを感じとってるのでしょうね。
矢口の友人Mが気になってます。誰だろう?(w
- 62 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年07月17日(水)00時45分27秒
――― ―――
『PEACE』の扉を開けて、真里が入ってくる。
息も絶え絶えに、髪は乱れ、顔は汗と涙でグシャグシャだ。
真里の様子を見て、カウンターの中にいる圭織の表情がこわばった。
真里はカウンター席の裕子の元へ駆け寄ると、その腕を引き、裕子の胸に顔を埋める。
その拍子に、裕子はバランスを崩し、座っていた椅子から転がり落ちてしまった。
咄嗟に裕子は真里の身体をかばうように抱き留める。
床に背中を打ちつけ、苦痛に顔を歪めながら、それでも裕子の腕は優しかった。
「矢口?‥‥どないしたん?」
裕子はすっかり乱れてしまった真里の髪を手で梳いてやる。
「‥‥‥‥」
真里は何を言われてもかぶりを振る。
裕子の温かな胸に抱かれていると、涙が次々と溢れ出てくる。
真里は声を抑えることができず、嗚咽を漏らした。
- 63 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年07月17日(水)00時46分22秒
ゆーちゃん。
矢口、矢口ね。
あの子のこと、大好きだったんだよ。
本当に大切な友達だったんだよ。
それなのに――今はまったく違う道をお互いに歩いている。
再び交差するのは不可能かと思えるほどに。
大きく分かれてしまった二つの人生。
片や、「神々の印」を失った者。
片や、『風の民』の極右集団『グリーン』の幹部。
異なる『民』の融和を望む者と、それを憎悪する者。
決して相容れない、水と油のような関係。
いつか――Mと分かり合える日が来るのだろうか。
あの、学生時代のように。
何も知らなかったあの頃のように。
肩を並べて、くだらないジョークで笑い合う。
そんな日は来るのだろうか。
「‥‥矢口‥‥矢口」
裕子は真里の小さな身体を包み込むように抱き締める。
裕子の腕の中で、真里は一層大きく身を震わせて泣き出した。
- 64 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年07月17日(水)00時48分39秒
- コピべミスです。申し訳ない。
- 65 名前:40 投稿日:2002年07月17日(水)01時05分14秒
- やった!更新!待ってました!
ありがとうございます。
しかし、ドキドキするなあ・・・・。
- 66 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月17日(水)03時50分51秒
- 更新ありがとうございます。
物語り、動いていきますねぇ・・・。
裕ちゃん、やぐっさんの無事を祈りやす。うぅ。
おおっと! なにより、あっちゃん太郎様、お身体大切に・・・
- 67 名前:読んでる人 投稿日:2002年07月17日(水)20時31分10秒
- なんかこの先、恐ろしい事が起こりそうですね・・・。
- 68 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時06分44秒
――― ―――
彩が現れて早一ヶ月、どうやら『PEACE』の一員としての認知を得たらしい。
『彩っぺ』という愛称も定着してきた。
彩に対して、内心面白くない思いを胸に秘めているのは、裕子と真希の二人だけだった。
裕子は表面上、彩に対する複雑な心境を隠しながら、接している。
真里が彩のことを気に入っていることも裕子が彩を受け入れるに至った要因の一つだろう。
真里は生来の人懐っこさを発揮して、すっかり、彩とは仲良しになってしまった。
彩は暇さえあれば自前のレコードを持ってきて、紗耶香をはじめ、『PEACE』の客達に秘蔵コレクションを聴かせている。
紗耶香が音楽に詳しい彩に心を許しているのは誰の目から見ても明らかだった。
一方、真希はそれが気に入らない様子で、かといって、彩を嫌いというわけでもなく、ただただ、火にあぶられた餅のように、ぷーっと膨れていることが多い。
圭織は気前のいい常連客が増えたことにほくほく顔だったし、希美と亜依は綺麗なお姉さんが一人増えたことを単純に喜んでいるようだ。
圭は飲み友達が増えたことを嬉しく思っていたし、ひとみと梨華は彩にやきもちを焼く真希を見て面白がっている。
- 69 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時07分47秒
――― ―――
そんなある日、紗耶香と真希は彩から蔵出し禁止の秘蔵中の秘蔵コレクションを聴かせてあげるから診療所に来ないか、という誘いを受けた。
紗耶香は一も二もなく、喜び勇んで彩に同意する。
勿論、真希もこれに倣って頷いた。
珍しいレコードを聴きたいのは山々だったが、それ以上に紗耶香と彩のことが心配だった。
彩っぺと仲良くしないで!
‥‥そんなこと、市井ちゃんに言ったら、きっと呆れた顔をするんだろうね。
でも、面白くないんだよ。
市井ちゃんと彩っぺが、二人っきりで話してるのを見るとさ。
胸が痛むんだよ。
じんじんと疼くんだ。
ねぇ、分かってよ。
後藤は市井ちゃんが好きなんだよ?
真希は診療所へ向かう道すがら、自分の前方を歩く、ギターケースを肩にかけて、楽しそうに彩と談笑している鈍感な想い人をギロッと睨みつけた。
「後藤、疲れたのかぁ?歩くの遅いぞぉ」
紗耶香は振り返ると、真希に向かって大声を張り上げる。
‥‥わかってないなぁ。
乙女心は複雑なんですぞ。
真希は、ふぅ、とため息をつくと、心持ち歩くスピードを上げた。
- 70 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時08分34秒
診療所に入って、まず真っ先に目に入ってくる巨大なレコード棚に、紗耶香の視線はくぎづけになった。
そして、次から次へと、聞きたいレコードを選んではプレイヤーにセットする。
時折、彩がかかっているレコードの説明をする時以外は、診療室の木目の床の上にぺたっとお尻を下ろして、目を閉じて、じっと音楽に聴き入っていた。
同じく床に腰を下ろして、真希もおとなしく音楽に耳を傾ける。
真希紗耶香と同様に、聞いたことのないレコードを聴くのは楽しかったし嬉しかったが、素直に喜べないことも多々あった。
流れている曲の説明をするたびに、彩の顔と紗耶香の顔が接近する。
二人の顔が近づくたびに、ムカムカ。
紗耶香の真剣な表情を見て、ドキドキ。
ああぁぁー。
そんなに顔引っ付けなくたって、話できるじゃん!
‥‥こんなことに、いちいち、いちいち、やきもち焼くあたしって馬鹿ですか?
真希はジト目で二人を見つめ、きゅっと唇をかみ締める。
ふと顔を上げた彩と目が合って、ドキッとする。
彩は右手で髪をかきあげ、苦笑すると、声には出さずに、口の形で「ごめん」と言った。
―――きっと、嫉妬丸出しの顔だったに違いない。
慌てて真希は自分の顔を両手でペチペチと叩く。
- 71 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時09分04秒
おもむろに彩は立ち上がると、部屋の隅の古いキャビネットの鍵を開け、中から一枚のレコードを静かに取り出した。
「あたしの持ってるレコードの中で、一番レア度が高いのが、これ」
そう言うと、レコードのジャケットを見やすいように紗耶香と真希の方へ向ける。
「ジョン・レノン‥‥イマジン?」
聞き覚えのない名前に、紗耶香は首を傾げた。
「発禁処分になって、今じゃほとんど手にはいらない。超レアのレコード」
彩は紗耶香からレコードを受け取ると、神妙な面持ちでレコードプレイヤーにセットする。
ピアノの柔らかい旋律と共に、男性の優しい歌声が流れてきた。
- 72 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時10分04秒
天国なんてないと思ってごらん。
やってみれば簡単なことさ。
僕らの下には地獄なんてないし、僕らの上には空しかない。
すべての人々が今日のために生きているんだと思ってごらん。
国境なんてないと思ってごらん。
難しいことなんかじゃない。
殺し合う理由なんてないし、宗教なんてものもない。
すべての人々が平和の中で生きているんだと思ってごらん。
君は僕のことを夢想家だというかもしれない。
でも僕は一人じゃない。
いつか君も僕らの仲間に加わって、世界がひとつになればいいと願っている。
財産なんてないと思ってごらん。
君にできるかな。
貧欲も飢餓もなく、人間はみな兄弟。
すべての人々が全世界を分かち合っているのだと思ってごらん。
君は僕のことを夢想家だというかもしれない。
でも僕は一人じゃない。
いつか君も僕らの仲間に加わって、世界がひとつになって生きていければいいと願っている。
- 73 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時10分45秒
曲が終わり、レコード針が、微かな音をたてて、元の位置に戻る。
三人とも身動きひとつしないで、静かに曲に聴き入っていた。
「‥‥この人‥‥今どうしてるの?」
紗耶香が彩の顔を見つめる。
「‥‥殺された」
言葉に出すのを躊躇うかのように目を伏せた後、たっぷりと間をあけて、彩は言葉を紡いだ。
「殺された?」
彩の言葉に真希が身を乗り出す。
「犯人は彼のファンって言われてるけど‥‥どうだかね。‥‥真実は闇の中。‥‥政府首脳から暗殺依頼が出てたなんて噂もあるよ」
「ひょえー」
「こんな歌歌ってたら、そりゃ、政府からしたら目の上のタンコブだろうね。『国境』を『民』に変えたら、うちらの状況とまったく一緒じゃん?」
「うーん、そうかも」
「真実の歌は心を打ち抜くってくとだろうね。だからこそ、彼を殺して、彼の作品を発禁処分にした。」
「ふむふむ」
真希は腕を組んで、うんうんと頷いている。
- 74 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時12分18秒
「‥‥‥何故、彩っぺは、このレコードを?」
沈黙を守っていた紗耶香がポツリと呟いた。
「おじさんの趣味がレコード鑑賞だったのよ。んで、診療所を受け継ぐついでに、コレクションもそのまま譲り受けたってわけ」
「‥‥‥後藤、この曲歌いたい」
真希はゆっくりと言葉をかみ締めるように言う。
「問題です。何故、この名曲が今までカバーされなかったのでしょうか?」
彩は少しおどけた調子で言葉を紡いだ。
「んー‥‥わかんない」
「‥‥そんなの決まってる。怖いからだよ」
紗耶香は顔を強張らせて、両コブシを握り締める。
「ん?何が?」
「‥‥‥」
能天気な真希の表情に、紗耶香は何も言えず、泣き笑いの表情を浮かべた。
「答え、死ぬのが怖いから」
彩は『パチン』と指を鳴らし、器用にウインクする。
「この曲を歌うには、それ相当の覚悟がいるってこと。あんたらにその覚悟がある?」
彩は挑戦的に瞳を煌かせ、紗耶香と真希を交互に見た。
「‥‥‥」
紗耶香はぐっと息を飲み込んで、彩を睨みつける。
- 75 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時13分12秒
「あるよ。ね?市井ちゃん」
「‥‥‥」
「‥‥市井ちゃん?」
「駄目だ」
「何でさ! いい曲じゃん!! 後藤は歌いたいよ!!!」
真希は紗耶香の両肩を掴んで力任せに揺さぶった。
「絶対に駄目だ」
真希に前後に身体を揺さぶられながらも、紗耶香は首を横に振る。
「市井ちゃん!」
真希は両コブシをぎゅうと握り締める。
「駄目だ」
「市井ちゃんのバカ。意気地なし。いつもそうなんだ。‥‥また、後藤から逃げるんだね」
真希は目に涙を浮かべて、紗耶香を睨みつけた。
「もう、いいっ」
「後藤!」
真希は踵を返すと、紗耶香の制止も聞かず、一目散に診療所を飛び出していく。
ドタドタという足音が遠ざかっていった。
- 76 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時13分51秒
「‥‥追わなくていいの?」
真希の後姿を目で追っていた彩が、紗耶香を振り返る。
「‥‥‥」
紗耶香は黙って首を横に振った。
「紗耶香」
「馬鹿はあいつの方だよ。‥‥人の気も知らんと‥‥」
「‥‥言葉にしなきゃわかんないよ」
呆れたような顔で彩は紗耶香を見つめる。
「‥‥そうかもね」
紗耶香はばつが悪そうに俯いた。
「そうだよ」
彩はそう言うと、紗耶香の髪の毛をクシャクシャとかきあげる。
その拍子に、彩の左手の緑の石がキラキラと輝いた。
彩は腕に力を込め、紗耶香の身体を引き寄せる。
紗耶香はじっと自分の左手の赤い石を見つめながら、おとなしく彩の腕の中に収まった。
- 77 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時14分26秒
「怖い?」
耳元で囁いた。
「当たり前だよ」
「でも歌いたい‥‥でしょ?」
「‥‥まあね」
「でも、ためらってる」
「あたし一人の問題じゃないから」
「心配なんだ」
「そりゃね。無鉄砲なやつだし」
「ふうん」
彩は思案する風に顎に手を当てて考え込んでいたが、紗耶香と目が合うと、ニヤリと意地の悪い微笑を浮かべた。
ちゅっ
彩は首を微かに傾げると、紗耶香の唇にそっと触れる。
「‥‥っ‥‥」
顔を真っ赤にして、紗耶香は唇を両手で押さえた。
「女の子の唇って柔らかいんだね」
「ど、ど、どうして‥‥」
「一回してみたかったんだ。紗耶香とのキス」
「な、なんで‥‥」
「興味があるから」
「‥‥興味?」
「ねぇ‥‥禁断の恋って、どんな感じ?」
核心を突く言葉を発しながら、彩は静かな微笑を浮かべている。
「‥‥っ‥‥」
紗耶香は息を呑んで、彩の顔を凝視した。
「後藤のことが好きなんでしょ?」
尚も、彩は追求の手を休めない。
「‥‥‥‥」
紗耶香はためらうように彩から視線を外していたが、やがて諦めたようにため息をつくと、きっと彩の顔を見据え、顔を赤く染めながら、「そうだよ」とふてくされたように言った。
- 78 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時15分17秒
――― ―――
いいもんね。
市井ちゃんがその気なら、こっちにだって考えがあるんですぞ。
もう、市井ちゃんなんか知らないから。
勝手に歌うもんね。
勝手にするもんね。
彩の診療所の周りは、キックベースができるほどのスペースがあって、そこには野の花が咲き乱れている。
夏の強い日差しの下、緑と赤や黄の花々が風に揺れていた。
‥‥のの達、連れてきたら喜んだろうなぁ。
服を泥だらけにして、転げまわるんだろうなぁ。
そして、彩っぺの株が、また上がる、と。
‥‥‥。
そんなことを思わず考えてしまった自分に腹が立って、真希は目の前に生えている菜の花を引きちぎる。
花は真希の左手の中で無残に形を崩した。
左手の青い石がキラキラと輝く。
引きちぎってしまった花を投げ捨てながら、真希は深々とため息をついた。
- 79 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時15分57秒
とぼとぼと、診療所の裏手を歩いていると、裏口のドアが薄く開いているのが目に入ってきた。
開けたい。
開けちゃいたい。
好奇心がムクムクと湧き上がってくる。
やっちゃえ。
まず、やっちゃえ。
真希は頭の中で知らないオッサンの声が聞こえたような気がした。
罪悪感に蓋をして、はやる気持ちを抑えながら、真希はゆっくりとドアの取っ手に手をかけた。
首を中に突っ込んでそっと中を覗くと、窓ガラスのカーテンから日差しが漏れている。
そこは、どうやら、彩の書斎らしかった。
靴を脱いで、そっと書斎の木目に足を降ろす。
ディスクトップのパソコン、本棚、机。
机の上には読みかけの本やらノートやらが山積みになっていた。
本棚には分厚い本がぎっしりと隙間なく並んでいる。
一冊抜き取って開いてみると、見たこともない外国の文字で埋まっていた。
頭が痛くなってくる。
こんな本を読んでいる人は、どこか頭の造りがおかしいんだ。
真希は首を振り振り、本を元の位置に戻した。
机の上に積まれたノートを何気なく手に取り、パラパラとページをめくってみる。
そこに書かれた文字に、真希は思わずページをめくる手を止めた。
- 80 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時20分00秒
飯田圭織
『民』 火の民
『力』のランク D
健康状態 良好
備考 『PEACE』前マスター飯田守の長女。現在は『PEACE』のマスターを勤める。
飯田希美
『民』 火の民
『力』のランク 特A
健康状態 身体的には良好。PTSD(外傷後ストレス障害)。全緘黙(無言症)。
備考 『PEACE』前マスター飯田守の次女。父親死亡の際の外傷体験のため、『力』を自ら封印。事件直後は左手を切り刻むなどの自傷行為有り。専門機関の治療が必要と考えられる。
市井紗耶香
『民』 火の民
『力』のランク F
健康状態 良好
備考 生まれつき『力』を持っていない。『水の民』の後藤真希から慕われている。ギターを弾いている。将来は歌手になりたいという夢を持つ。
後藤真希
『民』 水の民
『力』のランク F
健康状態 良好
備考 生まれつき『力』を持っていない。『火の民』の市井紗耶香を慕っている。紗耶香とセッションを組んで歌を歌うこと多し。
吉澤ひとみ
『民』 水の民
『力』のランク A
健康状態 良好
備考 『力』の制御が難しい。現在、自己流のコントロールの訓練を行っている。同じ『水の民』の石川梨華とは相思相愛の仲。
石川梨華
『民』 水の民
『力』ランク C
健康状態 良好
備考 『水の民』高校生三人組みの中では一番の良識派。吉澤ひとみとは相思相愛の仲。
- 81 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時21分46秒
-
保田圭
『民』 水の民
『力』ランク B
健康状態 良好
備考 『水の民』の高校教師。上記の後藤真希、吉澤ひとみ、石川梨華のクラス担任。教科は社会を担当。『力』のコントロールは抜群。
矢口亜依
『民』 風の民
『力』ランク A
健康状態 良好
備考 矢口真里の義妹。『火の民』の飯田希美とは大の仲良し。学校のいじめが原因で不登校ぎみ。感情に流され『力』を暴発すること有り。
矢口真里
『民』 風の民?(左手の石は確認できず)
『力』ランク 不明
健康状態 良好
備考 矢口亜依の義姉。いつも皮の黒手袋を着用。黒いマントを羽織り、路地で占い師をして生計を立てている。中澤裕子とは相思相愛の仲。
中澤裕子
『民』 不明
『力』ランク 不明
健康状態 良好
備考 いつも皮の黒手袋を着用。何でも屋で生計を立てている。矢口真里とは相思相愛の仲。
- 82 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時22分26秒
「‥‥どういうこと?」
真希は呆然と呟いた。
自分を含め『PEACE』の常連客のデータが書き留められている。
ノートには、癖のある手書きの文字が、あざ笑っているかのように規則正しく並んでいた。
緊張のあまり汗ばんできて、握り締めているノートの紙が湿ってくる。
「後藤‥‥後藤、どこだよ」
苛立ちを含んだような、紗耶香の声にが聞こえてきて、真希ははっとわれに返った。
慌てて、ノートを机の上に戻し、靴を履いて、外に飛び出した。
裏口から出て、正面玄関に回ろうとしたところで紗耶香とぶつかりそうになる。
「どこ行ってたんだよ。‥‥まったく‥‥心配するだろ」
紗耶香は急に現われた真希を見て、驚いたように目を丸くした。
額には汗が微かに滲んでいて、真希は自分が飛び出した後、紗耶かが必死探してくれていたことを知った。
「‥‥ごめんなさい」
真希は涙声で謝ると、俯いてしまう。
- 83 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年07月30日(火)23時23分27秒
「後藤さ‥‥お願いだから‥‥急に消えるなよ」
紗耶香は顔を歪め、真希の身体をきゅっと抱き締めた。
紗耶香の背後には、やれやれ、といった表情の彩が肩をすくめて立っている。
真希の脳裏に先ほど、彩の書斎で盗み見たノートのことが思い浮かんだ。
―――言えない。
市井ちゃんには言えない。
真希はきゅっと唇をかみ締める。
市井ちゃんは彩っぺが大好きなんだから。
だから、市井ちゃんを悲しませるようなことは言えない。
それに―――
真希は考えを巡らせる。
今は、何も考えずに、この温かなぬくもりに包まれていたい。
紗耶香に抱き締められたのは、実に久しぶりだ。
今のうちに堪能しておかなければ、今度はいつこんなことができるかわからない。
真希は紗耶香の首筋に顔を埋めた。
香水のほのかな甘い香りが鼻をくすぐる。
「くすぐったいよ。後藤」
紗耶香は笑って、首をすくめた。
「いいもん」
真希は、いっそう力を込め、紗耶香の身体を抱き締めた。
彩は柔らかな微笑を浮かべて、二人の抱擁を見つめていた。
- 84 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年07月30日(火)23時25分48秒
- 更新しました。
イマジンの歌詞訳、そのまま使用させてもらいました。
- 85 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月31日(水)04時19分41秒
- お待ちしてましたっ!! 更新お疲れさまです。
イマジンかぁ。自分がこの曲の訳詞に感動した頃って・・・ン十年前か(w
物語が進んでいくのを楽しみにしています。マターリガンガッテ下さいね。
(でも、やっぱり、先が、恐い・・・)
- 86 名前:読んでる人 投稿日:2002年07月31日(水)19時04分28秒
- 石黒はいったい何者なんだろう・・・?
何が目的なんだろう・・・?
続きが物凄く気になります。
- 87 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月07日(水)16時10分24秒
- なんか続きが気になります
- 88 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月15日(木)03時55分37秒
- 作者さんにかぎって・・・放置なんてことはないでしょうが・・・
ちょっぴり心配・・・
- 89 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月16日(金)13時37分20秒
- まだですか〜
- 90 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月17日(土)00時07分53秒
- まだたった半月だべ。マターリ待とう。
- 91 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時32分30秒
――― ―――
「‥‥進路かぁ‥‥そろそろ考えなきゃだね」
放課後の静まりかえった教室で、梨華は机に頬杖をついてため息混じりにつぶやいた。
帰りのホームルームの時間、進路希望調査票が配られ、クラス全員がそれを書くことになったのだ。
不況の影響で就職率が低下していることも手伝って、学校側としても、就職、進学に特に力を入れていくという一致した考えを持っているらしい。
といっても、生徒の側には、さほどの緊迫感はなく、大多数の人間が、世の中はどうにか渡っていけるものだと考えているふしがあり、進学調査票にも、深く考えず、「進学希望」と書いて出す者がほとんどだった。
梨華も深く考えることなく、「進学希望」と書いて出したのだ。
「うん」
ひとみは振り向き、真後ろに座っている梨華の顔をチラッと見て、小さく頷いた。そして、自分の隣の席で、ボケーっと空を眺めている真希の肩を揺すぶる。
「ねぇねぇ、ごっちんは?」
「ん?」
「ごっちんの進路は?」
「後藤はもう決まっているもん」
「そうなの?」
「うんっ。歌手になる。市井ちゃんと歌うんだ」
視線を一瞬ひとみに移した真希は、またすぐに、視線を空に戻した。
真希の脳裏には紗耶香と二人でセッションを組んでいる未来予想図がくっきりと描かれているに違いない。
キラキラと輝く瞳で、眩しそうに空を見上げている。
- 92 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時33分15秒
「‥‥へー‥いいねぇ」
真希の言葉に、ひとみは能天気に頷いていた。
「‥‥進学は?」
「しないよぉ。後藤、勉強嫌いだもん」
「だよね」
アハハハと声をそろえて、真希とひとみは笑い声をあげる。
‥‥揃いも揃って、この極楽トンボが!
この人達は、自分の言っていることの重大さがわかっているのだろうか?
異なる『民』と友人関係を結んでいることが、大きな危険と隣りあわせだということを、はたして自覚しているのだろうか?
梨華は苦虫を噛み潰したような顔で、恋人と親友の顔を見つめた。
- 93 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時33分46秒
「後藤ー!。何、この調査票は!!」
廊下から、圭の苛立ったような声が響き渡る。
「やばい」
真希はビクッと肩をすくませると、いかにも軽そうな通学かばんを肩にかけ、すばやく立ち上がった。
教室の窓ガラスを開け、その細い身体を滑り込ませると、「じゃあね」と声を出さずに、口の形でひとみと梨華に伝える。
教師からの呼び出しを受けることが多い真希は、窓から退室することが多い。
一階の教室の窓から飛び降りて、上履きのまま帰るのだ。
もちろん、その翌日は、綺麗に洗われた上履きを持参し、帰宅の際には履いている靴以外の靴を、別に一足持ち帰ることになる。
窓から真希の姿が見えなくなると同時に、教室のドアが横にスライドして、勢いよく、書類を抱えた圭が入ってくる。
圭は僅かに頬を高潮させ、怒りのためか、微かに身を震わせていた。
「石川っ。後藤見なかった?」
圭は教室に残っていた梨華とひとみへ、声高に詰め寄る。
「‥‥ごっちんなら、たった今帰りました」
圭の剣幕に、梨華はためらいがちに答えた。
「チッ‥‥逃げ足の速いやつ」
舌打ちをすると、圭は大きくため息をついて、天井を見上げた。
- 94 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時34分26秒
「どうしたんですかぁ?」
ひとみが緊迫した場にふさわしくない、のほほんとした声をあげる。
「あの‥‥バカ‥‥これ見てよ」
圭は両腕に抱えた書類の一番上の白紙を取り、梨華に手渡した。
「あー‥‥」
書類に目を通すと、梨華は小さな声をあげる。
「どうしたの?梨華ちゃん」
ひとみは梨華の握り締めている書類を覗き込んだ。
「‥どれどれ‥‥これ、ごっちんの進路希望じゃん‥‥なになに‥‥『希望職業 市井ちゃんとミュージシャン』‥‥って‥‥アハハハ」
ひとみは書類を読み上げると、思わず、吹き出した。
「吉澤、笑い事じゃないでしょうが」
圭は大きな目をギロッと光らせて、ひとみを睨みつける。
圭の表情を見て、ひとみは咳払いすると、慌てて真剣な顔を作った。
「‥‥だって‥‥ごっちんらしい‥‥」
「‥‥こんなの他の先生方に見せられないよ。明日、きっちり書き直させないと」
圭はひとみの手から、後藤真希の進路調査票を抜き取ると、それを持っている書類と書類の間に挟みこむ。
「‥‥確かに」
梨華は小さく呟いた。
「‥‥ごっちん‥可哀想に」
梨華の隣で、ひとみは、明日、圭にこってりと絞られるであろう真希を思い、密かに同情のため息を漏らした。
- 95 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時35分35秒
――― ―――
そのまま家に帰る気にはなれなくて、何となく立ち寄った、ひとみの家。
ひとみの部屋のベッドに身を投げ出して、梨華は小さくため息をついた。
シーツからは微かにひとみの匂いがする。
ひとみは机の脇に置いてある椅子に座り、手持ち無沙汰を解消するように、椅子に付いているキャスターを使って、クルクル回っていた。
「‥‥先生、怒ってたね」
両手を額の上に重ねるように置いて、梨華はポツリと呟いた。
左手の青い石がキラキラと輝く。
「‥‥うん。あれじゃ、ごっちん、明日、かなり絞られるね」
ひとみは回るのを止めて、ベッドに横たわる梨華を見つめた。
- 96 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時36分14秒
「‥‥ごっちんは‥‥自由すぎる。無鉄砲すぎる。‥‥無茶ばっかりして、心配ばっかりかける」
想いを吐き出すように、梨華は一気に言葉を並べ立てる。
「梨華ちゃん」
「でも‥‥」
「ん?」
「‥‥ごっちんが羨ましい。市井さんも羨ましい」
「え?」
「中澤さんも矢口さんも羨ましい」
「‥‥梨華ちゃん?」
「‥‥‥」
梨華はきゅっと唇をかみ締めて、黙り込んだ。
ひとみは急に黙り込んだ梨華を、不安げに見つめている。
あんなにも許し合って。
全てを捨てるほどに求め合って。
魂をかけて信じ合っている。
「よっすぃ〜は?」
「え?」
「もし、あたしが他の『民』だったとしても、あたしを選んでくれた?矢口さんや中澤さんみたいに、あたしを選んでくれた?」
もしも、生まれた『民』が違っていたとして‥‥。
あなたは、その真っ直ぐな瞳を私に向けてくれますか?
変わらぬ笑顔で話しかけてくれますか?
強く抱き締めてくれますか?
優しい口づけを落としてくれますか?
「‥‥そんなこと‥‥考えたこともないよ。だって‥‥梨華ちゃんは、梨華ちゃんじゃん」
ひとみは言葉を探すように黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「そうじゃなくて‥」
梨華は不満げに口を尖らせる。
- 97 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時36分53秒
突然、ひとみは立ち上がると、ベッドに横たわる梨華の上に覆いかぶさった。
「‥‥梨華ちゃん」
両膝で梨華の腰をまたぐような形で、腰を浮かしぎみにして、真剣な表情を浮かべたひとみは梨華を見下ろす。
「な、何?」
突然のひとみの行動に、梨華は戸惑いを隠せない。
間近で見るひとみの真剣な表情に、声がひっくり返ってしまう。
「眉間にしわが寄ってる」
「え!?」
梨華は恥ずかしさのあまり、頬を赤く染めると、慌てて、眉間を両手で隠した。
「何で、そう、難しく考えるのかなぁ?」
「‥‥だって」
「‥‥梨華ちゃん」
ひとみは低い声で梨華の名前を囁くと、眉間を隠している梨華の両手を顔の横に移動させた。
そして、ゆっくりと上体を傾けて、梨華の身体をきゅうっと抱きしめる。
戸惑いの表情を浮かべていた梨華も、ひとみの温もりを感じ取ると、瞳を閉じ、両手をひとみの背中に回した。
「‥‥これで、いいじゃん」
梨華の耳に、満足そうなひとみの声が届いた。
「‥‥うん」
梨華は照れたように、小さな声で呟いた。
ひとみの体温を近くで感じていると、梨華は自分でも想像できないぐらいの甘い声が出る。
ひとみの耳にも甘く響いているに違いなかった。
- 98 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時37分36秒
――― ―――
「そういえばさぁ、梨華ちゃん、進路調査票、何て書いたの?」
ベッドに二人並んで座り、肩に頭を預けている梨華の髪の毛を、ひとみは手で梳いている。
「よっすぃーのお嫁さん」
「えー!」
「なんて書くわけないでしょ。ごっちんじゃあるまいし」
わたわたと慌てているひとみの姿がおかしくて、梨華はくっくっくと肩を震わせて笑った。
「ひどいよ。梨華ちゃん」
ひとみは拗ねたように、梨華に背中を向けた。
「‥‥先生」
ひとみの背中の腺をを梨華の細い指がなぞる。
「‥‥は?」
ひとみは梨華に向き直る。
お互いの瞳と瞳がぶつかり合った。
「先生って書いたの」
「‥‥いいねー。梨華ちゃんだけに理科の先生かな?」
ひとみは、自分が言ったことに、吹き出してしまう。
「‥‥‥‥」
ひとみの寒いシャレに、梨華は無言で黙り込んだ。
「梨華ちゃんが先生だったら、あたし、めっちゃ頑張っちゃうな。いいねー、先生と生徒って。『‥‥先生』『‥‥吉澤さん』なんちって‥‥アハハッハハ‥‥」
ひとみは梨華の冷たい視線に気づくことなく、笑い続けている。
梨華は『コホン』と咳払いをひとつした。
ひとみは、笑うのを止めると、梨華のプーと膨らんでいる頬を人差し指で軽くつつく。
「‥‥もうっ‥‥」
「怒らないでよ。可愛い顔が台無しじゃん」
「‥‥まったく‥‥」
結局、ひとみに上手く誤魔化されることに、少々不満を感じながらも、梨華は再び、ひとみの肩に頭を預けた。
- 99 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時38分09秒
「‥‥よっすぃ〜は?」
「え?」
「進路希望表に何て書いたの?」
「‥‥あたしは、弁護士って書いた」
「‥‥‥えー!」
「‥‥そんな驚くこと?」
「勉強たくさんしないといけないんだよ?司法試験っていう難しいテストに合格しないといけないんだよ」
「知ってるよ。梨華ちゃんだってそうじゃん。採用試験があるでしょ?」
「‥‥そうだけど。‥‥でも‥‥何で弁護士?」
「中澤さんかっこいいじゃん。黒い服着けてさ。影をしょってるってーの?」
「中澤さんは‥‥今は‥‥何でも屋だよ?」
「あっ、そうか、じゃあ、あたしも何でも屋にしようかな」
「‥‥弁護士がいいと思う」
「そう?」
「うん。ってか、お願いだから弁護士にして」
「わかった」
梨華の言葉にひとみが力強く頷く。
ひとみの真剣な表情に、梨華は思わず笑みを漏らした。
- 100 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時38分50秒
「‥‥一緒にいようね」
突然、小さな声で、ひとみが呟いた。
「え?」
梨華が驚いたように、ひとみの顔を見つめる。
「‥‥何でもない」
ひとみは赤くなった顔を隠すように、そっぽを向いてしまった。
「今、何て言った?」
「何でもないよ」
「何でもないわけないでしょ!『一緒にいようね』なんて大事なこと、何ではっきり言わないのよ!!」
「聞こえていたじゃんかぁ」
「言いなさいよ」
「やだよ」
「ケチ」
「だって、恥ずかしいもん」
「言ってくれないと‥‥」
梨華が人の悪い微笑を浮かべる。
万人を魅了するであろう、その微笑み―――しかし、その瞳は、決して笑ってはいない。
- 101 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年08月17日(土)19時39分28秒
「な、何だよ」
ひとみはベッドの上で後ずさる。
梨華は逃げるひとみの両手首をつかみ、その頬にすばやく唇を落とした。
「‥‥っ‥‥」
梨華の唇が触れた頬を抑えて、ひとみは顔を真っ赤に染める。
ひとみの『力』の発動はなかった。
ベッド脇に置いてある水差しも、テーブルの上に置いてあるジュースの瓶も、そのままの状態で沈黙を守っている。
「うん。合格。‥‥だいぶ『力』をコントロールできるようになってきたみたいだね、よっすぃ〜」
満足そうに梨華は頷き、赤い舌を出して、ぺろりと自分の唇を舐めた。
更に、ひとみの頬が赤く染まる。
「‥‥唇でも大丈夫かな?」
梨華はゆっくりと顔を近づけると、至近距離から囁く。
「‥‥梨華ちゃん」
覚悟を決めるようにシーツを両手で握り締めると、ひとみは静かに瞳を閉じた。
- 102 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年08月17日(土)19時40分21秒
私事ですが、10月まで、すごくハードなスケジュールをこなさなくてはなりません。
その合い間をぬって、ちょこちょこ書くという日々が続きそうです。
振り返ってみれば、この『神々の印』を書きはじめてから、もう一年が経ってしまったんですね。
こんなに長くなるとは、正直、思ってもいませんでした。
多くの方に心配をかけてしまったようですが、意地でも、放棄はしません。完結させます。
体力と時間とを、つぎ込んできた作品ですし、何よりも思い入れも大きいです。
とはいえ、今は忙しすぎて、これ以上、更新速度を上げるのは至難の業です。
本当に、すいません。
温かい目で、マターリと待っていただけたら幸いです。
- 103 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月18日(日)02時38分52秒
- シャー!!!
- 104 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月19日(月)11時46分13秒
- のんびり待っております。
- 105 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年08月19日(月)18時29分39秒
- >意地でも、放棄はしません。完結させます。
この言葉のおかげで、いつまでもマータリと待っていられます。
- 106 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月21日(水)02時34分40秒
- あっちゃん太郎さんが書き続けてくださる限り、
ずーと待ってますからね。
- 107 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月23日(金)16時13分58秒
- 応援はしますけど、あまり無理はしないでくださいね!
マターリ待ってます!
- 108 名前:名無し 投稿日:2002年08月27日(火)13時56分08秒
- がんばれ〜〜!
- 109 名前:ななし 投稿日:2002年08月28日(水)00時23分28秒
- 待ってる間に、「月の美しや」読んどきます
(これで読むのは3回目!)
ガンバ!あっちゃん太郎さん!(カモンナ!)
- 110 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月31日(土)05時40分45秒
- 完結してから読もうと思ってたんですが、ついに誘惑に負けて読んでしまいました。
1年経っても全く作品の雰囲気が変化してないのが凄いです。あとここの後藤はまだ“ごま”で、かなりキャワイくてなんか嬉しくなりました。やっぱりいちごまサイコー。
いしよしもここのはかなり好きです。作者さんガンガッテ下さい。
- 111 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月31日(土)11時54分21秒
- 何時も読んでおります。
読むたびに作者さんの文才に感動しております。
また〜りとがんばってくらさい。
- 112 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時00分58秒
――― ―――
彩の診療所の正面に位置する空き地は、一面に菜の花が咲き乱れていて、鮮やかな黄色一色に染まっている。
今日は隔週に一回の『PEACE』の定休日、そして、圭織と希美のお出かけ日でもある。
お出かけ日には、たいてい、公園や原っぱで一日中ぼうっと過ごすことが多い。
あの忌まわしい事件の後から、定期的に続いているお出かけ日。
今では、亜依とその愛犬のマリーが参加することも定例となっている。
今日は、初めて、彩が参加することとなり、紗耶香と真希がお勧めした、彩の診療所の真向かいに位置する原っぱでピクニックというはこびになった。
紗耶香と真希は二人で楽譜を買いに行くと言っていたし、真里は風邪気味、裕子も急ぎの仕事が入っているということで不参加となった。
したがって、今日のピクニックには、初参加の彩、希美、圭織、亜依、犬のマリーの四人と一匹というメンバーだ。
圭織の手作りのお弁当を食べた後、希美と亜依は菜の花畑の真ん中に座り込み、慣れた手つきで、次々と、花と花を編みあげていく。
犬のマリーは空き地を飛び回る、白い小さな蝶に興味を引かれた様子だ。
二人の傍らで、マリーは自分のジャンプ力よりわずか上をひらひらと飛び回る蝶を、躍起になって追いかけている。
- 113 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時02分43秒
花を摘み摘み、亜依は一生懸命、希美に話しかける。
希美から返事が返ってくることはなかったが、それでも、希美が自分のかける言葉に、全身で反応してくれていることが感じられる。
目は口ほどにものをいう、という言葉は本当だ。
希美は嬉しい時には目がくるくると大きくなるし、悲しい時には身体を震わせて、しょぼんと小さくなってしまう。
だから、希美が悲しくならないように、亜依は一生懸命、今日も話しかけるのだ。
今日の希美は圭織が古着のはぎれで作った、赤やオレンジ色を多用した暖色のカラフルなパッチワークのリュックを背負っている。
亜依は希美の手触りのいいリュックに触れながら、はしゃぐような声をあげた。
「のののねーちゃんは、裁縫が上手やなー。ウチのは全然駄目やで。中澤さんと暮らしはじめてから、少しは家のことやっとるみたいやけど。一緒に住んでたときは、全部おかんにまかせっぱなしやったからな」
希美は思ってもいなかったことを言われたというように、目を見開いた。
それでも、姉の圭織のことを誉められたのは、嬉しかった様子だ。
満面の笑みを浮かべる。
あの事件依頼、表情が凍り付いていた希美も、真里と出会い、亜依と友達になったことを経て、次第に表情も柔らかくなり、笑顔の数も増えてきた。
「まっ、ウチもそうやけど。‥‥ののもそうやろ?」
希美は少し考えるように、眉間にしわを寄せたが、ややあって、微かに頷いた。
「やっぱりな。圭織さん、面倒見ええもんなー」
亜依は嬉しそうにカラカラと笑った。
- 114 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時03分20秒
希美より一足早く花輪を完成させた亜依は、傍らではしゃぎまわる茶色のカタマリの首に、その花輪をかけてやる。
「うん。男前や」
マリーは心なしか、誇らしげにしっぽを振った。
「ありがとう」とでも言うように、亜依の顔中を舐めまわす。
くすぐったそうに逃げる亜依を、マリーは尚も追いかける。
「‥‥ええわ‥‥ウチはええって!‥‥ののに行け!!」
顔中を舐められた亜依は、たまらず、希美を指差した。
マリーは、今度は、希美に襲いかかる。
ご主人様のお許しが出たのだ。
心ゆくまで、希美を堪能する。
希美が息も絶え絶えになって、背後の草むらに倒れこむまで、マリーの舌を駆使したラブラブ攻撃は続けられた。
- 115 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時04分03秒
「今日、久しぶりに学校の前、通ったんや。したらな、クラスの連中がな、指差しよるねん。そやから、ウチ‥‥『なんじゃ、われ』って中指立ててやったんや」
希美と並んで、草むらに横たわった亜依が、ややあって口を開く。
亜依は自嘲気味に笑った。
希美はじっと亜依の顔を見つめた。
その視線に責めるような視線を感じ取り、亜依は少し居心地が悪くなる。
希美が喧嘩腰の汚い言葉に、過敏に反応する傾向があるのは、親しくなる過程で薄々気づいていた。
「‥‥だってな、ねーちゃん、馬鹿にするんやもん。‥‥ウチだって‥‥頑張って、学校に行こうって‥‥」
亜依は悔しそうに唇をかみ締める。
手元に咲いている花を力任せに引き抜いて、手の中で握りつぶした。
- 116 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時04分55秒
希美は静かに身を起こすと、傍らに横たわる亜依の頭をそっと撫でた。
自分がいつも圭織にしてもらっているように。
これをしてもらうと、希美は、悪夢を見ていても、安心したような気分にさせられる。
圭織の手のひらは希美にとっては、魔法の手だった。
亜依は、希美の手のひらが自分の頭に降りてきた瞬間、驚いたようにビクッと身体を震わせたが、やがて、頭皮を撫でられる暖かな感触に、安心したように目を閉じて、じっとされるがままになっていた。
「‥‥そうや、うちが、ねーちゃん探したときの話、聞かせたろか」
希美に頭を撫でられながら、亜依はポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
「‥‥ねーちゃんな、おとんとおかんに、家出るーって宣言した後、部屋に軟禁されてな、んで、窓ガラス叩き割って、家を出ていったんや。‥‥そんで、中澤さんのとこに転がりこんだんやろな。おとんとおかんは、それはそれは、可哀相なぐらい落ち込んでな。‥‥毎日毎日、あてもないくせに、ねーちゃんのこと探し回ってたでぇ‥‥」
愛娘から突然の別れを切り出されたのだ。
両親の心痛は如何ほどのものだろう。
絶望的なほどの喪失感。
当時のことを思い出すと、今でもぎゅうっと胸が痛くなる。
亜依は無意識のうちに両手を胸に当てた。
- 117 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時05分33秒
「ねーちゃんのお父さんと、ウチのオカンは再婚でな。ウチとねーちゃんは血は繋がってないんやけど。‥‥でもな‥‥ウチ、ねーちゃんが大好きなんよ」
亜依は照れくさそうに舌を出して、ヘヘヘ、と笑った。
「‥‥うちは、その日から‥‥ねーちゃんが出て行った次の日から、学校なんか行かんで、毎日張り込みや。ねーちゃんを見つけるために、繁華街を張り込んでいたんや‥‥おとんとおかんの話から、ねーちゃんの相手は、ジゴロやと思っていたからな。‥‥ねーちゃんは悪い男に騙されてるって‥‥それからが、大変だったんや。‥‥誰かお節介な人が、学校にタレコミの電話をかけたらしいんや。毎日学校に行かんで、繁華街うろついてるって。んで、担任は家庭訪問に来るわ、校長に呼び出しくらうわで、ホンマに大変だったんや。‥‥ねーちゃんが、家出るとき、派手にガラス叩き割って、出て行ったもんやから、近所中、妙なうわさが尾ひれが付いて、出回ってるし。‥‥ウチは、近所のおしゃべりババァとも戦わんといけんし。‥‥まぁ、何とか、ねーちゃん見つけて、‥‥メデタシメデタシなんやけどな」
希美は静かな瞳で亜依の話に耳を傾けている。
亜依は一気に話して疲れたというように、はぁ、と大きなため息をついた。
- 118 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時06分08秒
「‥‥おとんとおかんは、ねーちゃんが許せないみたいなんや。どーしても、許せんみたいなんや。‥‥心配しとるで?‥‥ウチにいつもねーちゃんの様子とか聞いてくるで?‥‥でもアカンみたいやねん。ねーちゃんの顔見たらおかしーなってまいそうなんやて。‥‥ウチには、ようわからん。おとんとか、ねーちゃんの写真見て、夜、泣いてるんやで。でも、会えんって言うんや。‥‥ホンマ、大人の考えることは、ようわからん」
亜依は寂しそうに呟くと、傍らで舌を出して、亜依から撫でられるのを今か今かと待っている、マリーの頭を撫でる。
マリーは尻尾ちぎれんばかりに振った。
「‥‥ウチな、ねーちゃんが大好きなんや。だから、幸せになって欲しいんや‥‥誰よりも幸せになって欲しいんや」
亜依はそう呟くと、瞳を閉じた。
希美は頷くと、柔らかく笑い、大丈夫、とでもいうように、亜依の肩を軽くポンポンと叩く。
それから、大きく一回背伸びをして、再び、亜依の隣に横たわった。
- 119 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時06分50秒
――― ―――
紫外線はお肌に悪いからという、もっともらしい理由をつけ、彩と圭織は日差しを避け、原っぱが見渡せる日陰――彩の診療所の軒下に簡易の腰掛けを置いて、冷たいアイスティーを飲んで涼みながら、太陽の下、原っぱで寝そべっている子ども二人を眺めていた。
心地よい風が二人の周りを包んで、このまま会話なんてなくてもいい、そんな気分に圭織が浸っていると、傍らの彩がためらいがちに口を開く。
「‥‥ののの事なんだけど‥‥」
「うん」
「‥‥‥」
自分から切り出したくせに、彩は続く言葉を探せないでいるようだ。
眉間に眉を寄せ、手は落ち着きなく、上着のすそをいじっている。
「‥‥何、言いにくいこと?」
仕方なく、圭織は先を促す。
「‥‥あの事件のせいだよね?」
彩はぺロッと舌で唇を舐め、唾をコクッと飲み込み、思いきったように口を開いた。
「‥‥知ってるんだ」
「そりゃね。‥‥いくら『火の民』の事件ったって、あれだけショッキングな事件はね。‥‥情報規制がしかれているとはいえ‥‥色々情報は‥‥まあ、多分に、尾ひれが付いた情報だとは思うけどね」
そう言うと、チロリと彩は圭織の表情を伺う。
「‥‥‥」
圭織の表情は、特に変化は見られなかった。
「それで?」というように彩の顔を見返す。
- 120 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時07分43秒
「正直、『PEACE』でののを初めて見たとき、驚いたもん。‥‥どう見ても‥‥普通の女の子じゃない?‥‥表情が硬いのが気になったけど。‥‥とてもじゃないけど‥‥その‥‥」
彩は続く言葉を発することができない。
「‥‥殺人者には見えない?」
圭織はフッと笑うと、ズバリと核心を突く。
「‥‥うん‥‥」
彩は圭織の言葉と表情に一瞬驚き、目を見開いたが、ややあって、静かに頷いた。
「‥‥あれでも、表情は柔らかくなってきたんだよ」
「‥‥そう」
「で、希美がどうしたって?」
「‥‥あたしが言うのも、変かもしれないけど‥‥」
「うん」
「専門機関に診てもらったほうがいいと思う」
「‥‥診てもらったんだよ。昔。‥‥でも、結局、希美の方が拒否するようになって。結局、向こうのほうがさじを投げたって感じで終わったんだ。‥‥希美にしてみたら、苦痛だったと思うよ。しゃべれなくなったのに、質問されたり、描きたくもない絵を描かされたり」
圭織は大げさに肩をすくめて、ため息をついた。
- 121 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時08分36秒
「‥‥きっと、ののの準備ができてなかったんだね」
彩はストローでゆっくりとアイスティーを飲んだ。
「準備?」
「そう、トラウマを治療するための心の準備」
「‥‥トラウマ」
圭織は口の中で、ゆっくりと、かみ締めるように言葉を紡ぐ。
「トラウマ‥‥PTSDとも言われている」
「‥‥昔、希美を担当していた医者に説明を受けたことがあるよ。でも、専門用語ばっかり言われて、わけがわからなかった」
圭織は自嘲気味に笑った。
彩は音をたてて立ち上がると、腰掛の位置をずらした。
それまでは、彩と圭織は隣り合うような位置関係だったが、彩は自分の腰掛を動かし、圭織と向かい合うような形を取る。
そして、圭織と目線を合わせ、ゆっくりと言葉を発する。
「‥‥何か強いショックを受けたとき‥‥例えば、子どもがトラックに轢かれそうになったとするでしょ?その子はねー、きっと、何度も何度も、繰り返し繰り返し、その轢かれそうになった体験を話すよ。その子はねー、自分の驚いた体験を繰り返し話すことによって、自分の中でその怖かった体験を消化しているんだ。‥‥最初はね、体験した当時の強い衝撃や恐怖や怒りの感情がよみがえってきて、その感情を再び体験することになるんだけど、それを繰り返すたびに、次第にその感情が薄れていくんだ。‥‥人間はね、繰り返しを重ねることによって、その過去の体験は過去の記憶として、自分の歴史の一部として受け入れることができるようになるんだよ。‥‥圭織もそんなことない?」
首を傾げ、慈しむような口調で、彩が尋ねる。
- 122 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時09分20秒
「‥‥よく、わからない。‥‥でも、失恋したとき、人に話を聞いてもらったら落ち着くってことあるよね」
圭織は目を閉じて考えていたが、ややあって、口を開く。
「そうだね。それが一番わかりやすい例えかもね。‥‥そうやって、恐怖体験を消化していくんだ。だから、戦争体験を話すとかいうことは、もちろん悲惨な過去を後世に伝えるっていう大事な意味合いも含んでいるんだけど、それと同時に、語ることによって、自分の過去の出来事を受け入れるっていう大事な意味もあるんだよ」
彩は言葉を句切り、チラッと原っぱに寝そべる子どもに視線を向けた。
子どもの周りで、はしゃぎまわるマリーの鳴き声が聞こえる。
「‥‥それでね、過去の記憶として消化できないほどのショックを受けたとき‥‥自分の存在を否定されるような体験に出会った場合、トラウマが生じると考えられているんだ。‥‥トラウマのことを心の寄生虫だって言う人もいるよ。‥‥トラウマはね、それを思い出すと辛くって苦しくて悲しくてどうしようもなくなっちゃうから、思い出さないように、何も感じなくなるようにって、人はね、そのトラウマ体験を『瞬間冷凍』してしまうんだ。‥‥でもね、『瞬間冷凍』だから、鮮度は落ちないんだよ」
彩は言葉を選ぶように、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
- 123 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時10分06秒
「‥‥瞬間‥‥冷凍‥‥」
圭織は彩の言葉をかみ締めるように、繰り返した。
「そう、『瞬間冷凍』‥‥恐怖体験の『瞬間冷凍』だよ。‥‥何かのきっかけで、そのトラウマ体験が解凍されてしまったら、凍り付いていた記憶の一部はとても生々しい形で心の中に進入して来るんだ。これがフラッシュバックといわれているものだけどね。‥‥希美には、ない?‥‥急にパニック状態に襲われること‥‥」
彩の言葉が圭織の胸をえぐる。
思い当たることは、数え切れないほどある。
パニック状態に陥っている間、希美の脳裏では、あの事件の記憶が、まざまざと蘇っていたというのか?
圭織はグラスを握る手に力を込めた。
力の入れすぎで、指先が白くなる。
「‥‥『火の民』の印‥‥手の赤い石を怖がる。‥‥事件直後入れられていた児童自立支援施設では、ひどいパニック状態になって‥‥自分で自分を傷つけたりもしたけど。‥‥裕ちゃんが短期児童精神ケア病院に移してくれてからは、比較的落ち着いていた。‥‥今も、夜はすごくうなされる。ひどく寝汗をかいて‥‥悪夢を見てるんだ」
話しながら、圭織の表情が苦しそうに歪む。
「どんな風に、自分を傷つけてた?」
彩は言葉少なく問い続けた。
- 124 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時10分59秒
「施設に入っている間は‥‥自分の左手を刃物で切りつけたり、窓ガラスに叩きつけたり‥‥希美の左手は常に包帯が巻かれていて、傷が絶えなかった。‥‥しまいには拘束具でベッドに縛り付けられることもあった。‥‥病院では‥‥自傷はなくなった。希美は‥‥無表情で、現実感がないみたいだった。ただ、息をしてるみたいな感じ‥‥『PEACE』に戻ってきてから、やっと表情が出てきたって感じ」
震える肩を、自分で抱きしめるようにして、圭織は言葉を紡ぐ。
「‥‥悪夢の回数は?」
「毎晩のように見てるよ。‥‥このお出かけの日には、見てないみたいだけど。‥‥だから、多分、今夜はぐっすり寝てくれるんじゃないかな」
「そっか」
彩は頷くと、表情を緩めた。
「ののにとって、このお出かけは、心の解放になってるんだね」
「つまり、どういうこと?」
「ずっと続けなさいってこと」
「‥‥よかった」
ほぅ、と息を吐いて、圭織は小さく笑った。
- 125 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時11分48秒
「大事なのは、安心感を取り戻させること。ここは安全な場所で、希美は傷つけられることはない。自分は守られているという感覚を希美に持ってもらうこと。‥‥その点、『PEACE』は上出来じゃない?‥‥あたし、あんなに居心地いいトコ、他に知らないよ」
彩はそう言うと、ストローでアイスティーを勢いよく飲み干した。
「‥‥それから?」
圭織は彩に先を促す。
この人なら、何か有効なアドバイスを与えてくれるかもしれない。
そんな期待もあった。
「‥‥トラウマの治療には、三つのことが必要だと言われている。『再体験』、『解放』、そして‥‥『再統合』」
「‥‥『再体験』‥‥?」
聞きなれない言葉に、圭織は戸惑ったように首を傾げる。
「『解放』、『再統合』よ」
彩は肩をすくめ、本で読んだことなんだけどね、と前置きして、言葉を続ける。
「‥‥『再体験』ってのは、抑圧されている過去のトラウマとなった体験の記憶を、もう一度体験すること。‥‥『再体験』することによって、その時体験した感情を『解放』するわけ。 ‥‥トラウマの記憶は、次第に自分の歴史の一部だと受け入れることができるようになる。‥‥これを『再統合』っていうらしいんだけどね。‥‥カウンセラーは面接室の絶対の安心感の中で、この『再体験』をしてもらうみたいだよ」
時折、言葉を思い出すかのように、目を閉じて、彩は、懸命に説明する。
「‥‥‥」
カウンセラーという言葉に、圭織の顔が曇る。
無言で、圭織は彩の言葉を待った。
- 126 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時12分31秒
「『PEACE』の環境は素晴らしいと思うけどさ。でも、まず、日常生活でさ、トラウマの『再体験』なんて、できる機会がないじゃん。だからさ、やっぱり、専門家にお任せしたほうがいいと思うわけよ。うん」
「‥‥‥」
「‥‥この前さ、亜依ちゃんと話してたら、あの子こんなこと言ってた。『ののが、よく、ウチの学校のこと聞きたがるねん。ウチ、学校よう行かんのやけど。最近はののに話したげるためやー、思って、嫌なことあっても、もう少しガンバロって思うんや』って。‥‥ののは外の世界に興味を示しはじめている。これってさ、ののの変化の表われじゃない?‥‥ののは、ようやく、自分のことを考える力が、心の力が、蓄えられてきている。‥‥今が、大きなチャンスだよ」
彩の口調は優しく、そして、眼差しは真剣だった。
- 127 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時13分02秒
彩の話を聞きながら、圭織は過ぎ去りし日の『PEACE』の情景を思い起こしていた。
カウンターには父がいて、希美は甘えたように、父親の足元に纏わりついている。
父は困ったような、それでいて嬉しそうな表情で、オレンジジュースを入れてくれる。
それから、圭織と希美は、カウンター席で仲良く並んで、オレンジジュースを飲むんだ。
‥‥今まで、願わなかったことはない。
希美が昔のように、太陽の笑顔を取り戻してくれたら。
あの明るい笑い声が戻ってきたら。
あの、愛らしい舌足らずなしゃべりかた。
くるくるとよく動くどんぐり目玉。
食いしん坊で自己主張の激しいお腹。
再び取り戻すことができるなら。
あたしは‥‥。
でも‥‥。
彩はきゅっと唇をかみ締めた。
- 128 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時13分40秒
「‥‥彩っぺの説明はわかりやすい」
「そう?」
「‥‥うん。希美の担当医は、専門用語ばっかり使って、何を言っているかわからなかった」
「そりゃ、ひどいね」
「うん。それに‥‥希美のこと、異常だって」
「‥‥‥」
「感情を‥‥『力』をコントロールできない、異常者だって」
「‥‥圭織」
「あの子は、異常なんかじゃない!心がズタズタに傷つけられた小さな子よ!!‥‥それなのに‥‥許せなかった」
圭織は、憤りをぶつけるかのように、激しい口調になる。
大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「‥‥そんな人に、希美が心を開くはずがないじゃない。‥‥だから、治療途中で、裕ちゃんにお願いして、退院手続きを取ってもらったの」
圭織は俯きながら、涙を手の甲で拭う。
「‥‥裕ちゃんに、お願い?」
彩が小さく呟いた。
- 129 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時14分11秒
「‥‥それからは、専門家に診てもらったことはないわ」
「‥‥‥」
「知らない人に、ホイホイ診せる気もないしね‥‥まず、『民』に対して偏見を持ってない人。‥‥希美があんな事件に巻き込まれたのも、元をたどれば、『民』同士の憎しみが原因だから。‥‥偏見を持っている人に、希美を診察してもらうなんて、本末転倒だと思わない?」
「‥‥‥」
「‥‥希美はね、『火の民』からしたら、同胞殺しの大悪人。‥‥『風の民』、『水の民』からしたら、『特A』の力をいつ爆発させるかわからない化け物なのよ。」
「‥‥‥ごめん‥‥圭織の気持ちも考えずに、勝手なこと言った」
彩は自分を恥じるように俯いた。
自己嫌悪で穴があったら入りたい気分になる。
- 130 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年09月05日(木)23時14分53秒
「‥‥ち、違う‥‥あたし‥‥こんなこと言いたいわけじゃないのに」
「‥‥わかってる」
俯いたまま、苦々しい思いで、彩は頷いた。
「‥‥ごめん」
圭織は震える声で呟いた。
「圭織の気持ちはわかったよ。‥‥でもさ‥‥」
やっぱり、専門家に診てもらったほうが‥‥
そう続けようと、彩は思い切ったように顔を上げ、圭織を見て、言葉を飲み込んだ。
圭織は、無言のまま、涙を流していた。
彩は堪らず、圭織の身体を引き寄せ、抱き締めた。
圭織の嗚咽が彩の胸を震わせる。
この姉妹に幸せが訪れることを願わずにはいられなかった。
彩は無言で空を見上げた。
空はどこまでも青く澄んでいた。
- 131 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年09月05日(木)23時16分48秒
- これで、10月中旬まで、更新できないかも。
もちろん、早めの更新を心がけますが‥‥。
すいません。
- 132 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月06日(金)00時24分21秒
- 更新キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!
ののの心は動き出すんでしょうか。続き気になります。。
- 133 名前:ななし 投稿日:2002年09月06日(金)00時59分46秒
- 早かろうが遅かろうがかまいませんよ!
マターリ待ってます。
- 134 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年09月06日(金)11時54分33秒
- 石黒が何者なのか、未だに想像がつかない・・・。
次の更新までマータリと待ってます。
- 135 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)17時33分47秒
- 姉妹愛がいいです。
めちゃくちゃ感動です。
ののと加護の二人も好き
学校へふたりとも行ってないってとこも好き。
学生時代、学校嫌いだったし。
でも、加護えらいです。
- 136 名前:娘。 投稿日:2002年09月07日(土)01時13分32秒
- いつまでも待ちます
がんばってください
- 137 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時14分33秒
――― ―――
「首尾は上々のようですね」
白衣を身に着けた彩からコーヒーの入ったマグカップを受け取り、真っ白なカッターシャツに黒い細身のパンツという大人びた出で立ちの少女は、にこやかに彩に話しかけた。
「‥‥まあね」
彩は自分のマグカップを、口も付けずに机の上に置くと、床に山積みにされていた週刊誌を一冊手に取り、パラパラとめくる。
もともと、診療所に訪れる患者が、診療時間を待つ間に退屈しないようにと、彩が気を使って、定期的に購買している、ゴシップ記事満載の週刊誌だ。
自分で買っているものの、ほとんどその中身を読んだことがない。
視線が合わないまま、彩は少女と対面する形で椅子に腰掛けた。
彩の体重で古い木製の椅子がギシギシと軋んだ音を立てる。
- 138 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時15分50秒
「アンタはいつも突然来るね」
「そう言われれば、そうですね」
会話を交わしていながら、彩は決して少女を見ることはなかった。
自分の膝元の雑誌を食い入るように見ている。
しかし、彩の頭の中に、記事の内容が入ってくることはなかった。
ただ、字面を機械的に追いかけているだけだ。
「連絡ぐらいよこしなさいよ」
「『PEACE』に逃げられるんじゃないかと思いまして」
淡々とした口調でありながら、少女は彩の急所を的確に突いてくる。
「‥‥っ‥」
少女の言葉に、彩は反射的に視線を上に上げ、彩と少女の視線が交差した。
「やっと、私の顔を見てくれましたね」
少女はニッコリと微笑んだ。
「‥‥‥」
少女の微笑みに、彩は気まずそうに視線をそらした。
意味もなく、手元の雑誌のページをめくる。
「それとも‥‥本当に『PEACE』に逃げこみたいですか?」
「‥‥そんなんじゃない」
「そうですか?」
「‥‥‥」
彩は雑誌を閉じ、足元に放り投げると、苦虫をつぶしたような顔で、机の上に置きっぱなしで、すっかり冷めてしまった薄いコーヒーを咽喉奥に流し込んだ。
- 139 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時16分31秒
「最初に言ったはずですよ。‥‥情が移ると、辛くなるのは先生の方だって」
「わかってる。‥‥わかってるよ」
「そうですか。‥‥安心しました」
柔和な顎のライン、人懐っこい印象を与える垂れがちな目元。
しかし、目は少しも笑っていない。
少女はわざとらしく、胸を撫で下ろすような仕草を見せた。
「‥‥ねぇ、何故、あたしを『PEACE』に送り込んだの?」
一度はそらした視線を再び元に戻し、彩は少女に詰め寄った。
「以前お話したと思いますが」
「本音が聞きたいのよ。あんたの本音がね」
「私はいつも本音で話してますよ」
「嘘ばっかり」
「そう言われても‥‥困りましたね」
少女は本当に困った、というように、眉を下げ、肩をすくめる。
- 140 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時17分09秒
「あんたみたいな立場の人間が、腹に一物置くのはよくわかるけどね。でも、あたし達、運命共同体でしょ?」
「‥‥それに近いものはありますね」
「だったら、もうちょっと‥‥」
「何が知りたいんです?」
「‥‥どうして、中澤裕子なの?」
「‥‥逆に聞きたいですね。‥‥どうして、そんな質問をするんです?」
少女は机に肘を突いて、胸元で両手を組み合わせた。
診療所の蛍光灯の明りが反射して、少女の左手の緑の石がより一層輝きを増す。
「‥‥あたし‥‥結構、気に入ってるんだよね。あの人達」
キュッと唇をかみ締めた一瞬後、ポツリと彩が呟いた。
彩の言葉に少女は「んー」と唸った後、思案するように腕を組んだ。
しばし考えた後、少女は重たい口を開く。
「‥‥彼女を選んだ理由は、いずれわかりますよ。‥‥強いて言うなら、優秀だから、とでも言っておきます」
「‥‥っ‥‥」
少女の言葉に、彩は唇をかみ締めた。
見くびられた。
信用されていない。
そんな感情が沸き起こってくる。
- 141 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時17分58秒
「先生を信用していないわけではないんですよ。‥‥ただ、これを聞くと、先生が、暴走するかもしれませんからね。‥‥これは保険です」
「‥‥それって‥‥つまり‥‥信用してないてことでしょ」
彩は自嘲気味に呟いた。
「違いますよ。‥‥先生だって、自家用車の任意保険には入ってるでしょ?‥‥それと同じことです」
淡々と少女が答える。
「‥‥‥」
納得できない。
そんな憮然とした表情で、彩は腕を組み、椅子から立ち上がった。
「‥‥全ては、中澤裕子を手に入れてからです」
少女の子どもを諭すような口調が気に入らなくて、彩は唇を歪める。
「彼女が嫌だと言ったら?」
「言いませんよ」
自信タップリに少女が告げる。
「‥‥‥」
彩は怪訝な顔を少女に向けた。
- 142 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時18分47秒
「大丈夫。彼女は乗ってきますよ。でも‥‥そうですね‥‥万にひとつ、乗ってこない場合は‥‥少々乱暴な方法も考えなければいけませんね」
少女は瞳を不敵に輝かせる。
口元には冷たい微笑が浮かんでいた。
「‥‥乱暴って‥‥」
彩の背筋を冷たい汗が走る。
すっかり忘れていたが、この少女は、政治家さえも裏で操るような人間だった。
人間をチェスのコマのように扱う、パワーゲームを勝ち抜いてきた勝者がここにいる。
「計画に彼女は絶対に必要ですから」
「‥‥だからって」
「それとも、先生には、他にいい手がありますか?」
「‥‥‥」
「時間がありません。」
「わかってる‥‥そっちの方は、どうなの?」
彩は肩を落として、再び椅子に腰を下ろした。
- 143 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月01日(火)01時19分19秒
「裏から手を回していますが‥‥難しいかもしれませんね。今は均衡が保たれている段階ですが。‥‥もしも、表決で負けるようなことがあった場合、存在そのものを抹殺される可能性が高いですね。‥‥状況は流動的ですが」
少女の言葉に、彩の肩がビクッと大きく揺れた。
「急がないと」
「わかってる」
急がないといけない。
そうでないと‥‥あの子は‥‥。
今や、風前の灯となった親友のことを思う。
確かに、この状況を打破できるのは、中澤裕子しかいないのかもしれない。
「わかってるんだ」
彩は弱々しく呟くと、自分自身に言い聞かせるように、拳を握り締めた。
- 144 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年10月01日(火)01時24分39秒
Coccoの絵本原画展の初日に行ってきました。
彼女が発するメッセージが、とても眩しくて、痛くて、そして優しくて。
涙があふれてきました。
これから、大阪と東京でも開催されるそうなので、可能な方は、ぜひ足を運んだほうがいいと思います。
- 145 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月01日(火)14時09分13秒
- やったー!!
更新ありがとうございます。
裕ちゃん狙われてたのね(w
- 146 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年10月01日(火)20時06分30秒
- 更新、お待ちしていました!!
石黒にもいろいろ複雑な事情があるようですね。
しかし・・・中澤と矢口の小さな幸せが壊されたりしないだろうか・・・不安。
- 147 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月01日(火)22時37分02秒
- ヤタ!更新だ!
なんか、嵐の前の静けさ……のような。
やっぱ痛くなるのかなあー(汗)
- 148 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月07日(月)22時37分45秒
- お!いつのまにか更新してる。
やっぱりMyアンテナはあてにならない…
これから痛くなっていきそうな予感…期待してます。
- 149 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時41分02秒
――― ―――
真夜中の街外れの廃屋、その澱んだ空気の中、ミシミシと床板を踏む音を響かせながら、一人の女が歩いている。
一番奥の、ノブの取れかけたドアを開けると、薄暗い部屋の中、一人の女が背もたれ椅子に腰掛けていた。
暗がりの中で、女はドアの開く気配に気づき、ゆっくりと椅子を回転させ、マッチをすり、手元のランプに火を灯した。
侵入者はランプの灯かりに手をかざし、眩しそうに目を瞬かせる。
「‥‥よう‥‥」
裕子は椅子の肘掛に両手を置き、唇の端を上げて、笑顔らしきものを作った。
薄暗がりの中、裕子の鋭い視線が、彩に向けられていた。
「驚かないんだ」
ランプの灯かりに目が馴れて、彩は光を遮るために挙げた手を下ろす。
「ウチのことずっと見つめてたやろ?」
「‥‥バレてた?」
「‥‥あんな熱い視線向けられたらなぁ。誰でも気づくっちゅーねん」
「‥‥ゆーちゃん綺麗だもんね。思わず見とれちゃうよ」
「お世辞は結構や」
「お世辞じゃないよ」
「‥‥ふ‥ん‥‥」
裕子は不愉快だ、と、言わんばかりに、眉をひそめた。
- 150 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時42分26秒
「‥‥ま、ええわ、ウチに何の用かいな?」
「つれないね」
「当たり前や。二人っきりで会ってたなんて、矢口にばれたら殺されるわ」
裕子はそう言うと、クククッと声を殺して笑った後、笑顔を引き締め、
「用件を言いや」と彩を見据えた。
今回の仕事は、詳しい仕事内容を教えることなく、裕子を名指しで指名してきた。
連絡係からのそう伝えられ、裕子は、雇い主との打ち合わせに何度か使用したことのある、この廃屋を待ち合わせ場所にに選び、時間を指定したのだ。
廃屋で、彩と対面しながら、裕子の脳裏には、数週間前、真希と交わした会話がまざまざと蘇っていた。
『PEACE』のカウンターで、ひとり、呑んでいる時、不安そうな表情の真希が「紗耶香には話してくれるな」と前置きして、話しをはじめた。
『‥‥ゆーちゃん』
『何や、その情けない顔は?』
『だって‥‥だってさ‥‥』
『ん?』
『あのさ‥‥あのね‥‥』
たどたどしい話し方だったが、真希の話した内容を要約すると、「彩の診療所で、偶然にも、『PEACE』の顧客情報が書いてあるメモを発見してしまった」ということだった。
真希は、秘密を話せてすっきりしたのか、「彩っぺにも、きっと、じじょーってもんがあるんだよね」と、笑顔でのたまって、晴れ晴れとした顔で帰っていった。
それとは対照的に、裕子の表情は冴えなかった。
『PEACE』での、裕子を試しているような彩の視線。
顧客情報のメモ――もちろん裕子と真里の情報も含まれている。
これらのことを総合して、導かれる答えは――。
- 151 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時43分04秒
――― ―――
「仕事をお願いしたいんだけど」
「断る」
「‥‥どうして?」
「あんまり、ゆーちゃんを舐めんとき? どうして『PEACE』に近づいた? 何故、ウチを指名した?」
裕子は畳み掛けるように問いかける。
「‥‥それは‥‥」
彩は息を飲み込んで、言葉を濁した。
「仕事とプライベートはまったくの別物や。アンタはウチの大事な人たちに近づきすぎた。‥‥そんな人からの依頼は‥‥お断りや。‥‥それに‥‥ウチの勘がいってるんよ。『このヤマはマズイ』ってな」
「報酬の問題なら‥‥」
「ウチには守りたいもんがある。いくら金を積まれても、危険な仕事には手は出さん」
「‥‥ゆーちゃん‥」
「今夜のことは忘れて、家に帰り」
裕子はそっけなく言い放った。
- 152 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時43分47秒
「‥‥話だけでも」
「これ以上話すことはない。‥‥帰りや」
裕子の口から、自分でも信じられないほどの、冷たい声が出てくる。
突然、第三者の声が廃屋に響いた。
「‥‥困りましたね。そう意固地になられても」
彩が開けっ放しにした、部屋の入り口のドアの影から、ふっくらとした小柄な少女が姿を現した。
「‥‥明日香」
少女の姿を確認して、彩はホッとしたような表情を浮かべる。
「‥‥アンタは‥‥確か‥福田グループの‥‥」
福田明日香の登場に、裕子はさらに視線を鋭くさせた。
裕子は、彩が廃屋に入ってきたときから、上手に隠しているものの、どこかに、もう一人の気配を感じていた。
ある意味、もう一人、を燻し出すために、彩を煽っていたともいえる。
「さすがです。私のことをご存知でしたか」
明日香は、ふっと小さく笑った。
- 153 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時44分29秒
福田グループとは、政治を影で意のままに操っていると言われる『風の民』の巨大な財閥の俗称である。
福田明日香は、福田グループ総帥の孫娘にあたる。
若いながら、頭が切れ、総帥の絶対的な信頼を得て、グループ会長である実の父親を差し置いて、実質上、福田グループを動かしている、とウワサされてる。
「アンタが絡んでるとなると‥‥そりゃ、ヤバイ仕事だわな」
「ヤバイといえば、ヤバイ仕事ですが、その見返りは大きいですよ」
「言ったやろ。いくら金を積まれても‥‥」
「お金じゃありませんよ。‥‥私達が提供するのは‥‥安全ですよ」
明日香は裕子の言葉をさえぎる。
「‥‥安全?」
「一番欲しいものでしょ? 可愛い恋人と、明るい空の下、堂々とデートを楽しみたいとは思いませんか?」
明日香は裕子の瞳を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
- 154 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時45分09秒
「‥‥アンタ?‥」
明日香の落ち着き払った態度と、含みを持たせたような物言いに、裕子は得体の知れない不安と苛立ちを感じていた。
右手を伸ばして、足首に忍ばせてある護身用のナイフの存在を確かめる。
『力』を失ってからは、常にナイフを持ち歩くようにしている。
裏家業の仕事を始めてからも、何度か、このナイフに命を救われてきた。
「こんなヤクザな仕事からは足を洗って、堅気の仕事に戻りたいとは思いませんか?」
「‥‥何を言ってるんや?」
「そんな無骨な手袋なんか脱いで‥‥」
「‥‥っ‥‥」
裕子は勢いよく椅子を蹴って、立ち上がると、瞬時に明日香との間合いを詰める。
これ以上、明日香の戯言を聞く気はなかった。
今すぐに、その醜い口を力ずくで塞いでしまいたかった。
「そんなに殺気をみなぎらせて、嫌だなぁ。もっと穏やかに話しましょうよ」
裕子の動きを読んでいたかのように、明日香は華麗にステップを踏んで、裕子との距離を一定に保つ。
「はい、座って、座って」と、明日香は裕子を促して、再び腰を下ろすように促した。
裕子は、ただ、黙って、明日香を睨みつけた。
- 155 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時45分51秒
「別に、脅すつもりはないですよ。ただ、中澤さんに、この仕事を引き受けてもらわないと困るんでね。‥‥こんなこと言いたくないですが、可愛い恋人がどうなっても知りませんよ」
「‥‥矢口に指一本触れてみぃや。アンタらみんなぶち殺す」
裕子は足首に忍ばせてあるナイフを抜いた。
手に馴染み始めた、小さなナイフを握り締める。
「‥‥明日香こんなのおかしいよ」
二人の攻防を、呆気に取られて見ていた彩が、かすれた声をふりしぼった。
「先生は黙ってて下さい」
明日香は裕子と睨み合い、緊張感を保ちながら、それでも、その口調には冷静さを失ってはいない。
「黙らないよ。あたしはただなっちを助けたいだけ。そのためにゆーちゃんの助けが必要なだけだよ。」
「そのために、今、中澤さんと交渉しているんです。」
「こんなの交渉じゃない。脅しよ」
「立派な交渉です。先生は黙っていて下さい」
明日香は苛立ったように舌打ちをする。
- 156 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時46分27秒
突然、彩は、裕子と明日香の間に割って入り、裕子の身体にしがみ付く。
「ねぇ、ゆーちゃん、お願い。一生のお願いよ。なっちを助けるのに協力して。そのためだったら、あたし、何でもする」
そう言うと、彩は止めど無く涙を流し始めた。
裕子は、彩の涙を見た瞬間に、ふつふつと沸き起こっていた怒りが音もなく去っていくのを感じた。
ナイフを握る手からも力が抜けていく。
実も世もなく泣きじゃくる彩を見ていると、素直に力いっぱい抱きしめてやりたいとさえ思った。
そんな自分の心情の変化にも戸惑いを感じる。
しばらくして、彩は落ち着いた様子で、裕子の胸から顔を上げた。
照れくさいのか、裕子の視線を避け、そっぽを向く。
「顔、最悪やで、自分」
「‥‥わかってる」
涙のおかげで、化粧は見事に崩れている。
彩はゴシゴシと、手の甲で顔を擦った。
裕子はため息をつき、背もたれ椅子に再び腰を下ろした。
彩と明日香は裕子の動きを黙って見つめている。
- 157 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時47分08秒
- 「‥‥なっちって誰や?」
裕子は、椅子に腰掛け、思案するように、首をねじって、コキコキ鳴らしていたが、おもむろに口を開いた。
「安倍なつみ。‥‥石黒先生の‥‥御友人です」
「何や、含みのある言い方やな」
「石黒先生は、こう見えてもエリートだったんですよ」
「‥‥‥」
明日香の説明を受けて、裕子は彩を見やった。
「‥‥昔‥‥政府機関の研究所に所属していたことがあるんだ。『民』の枠を超えた研究所。‥‥そこには『火の民』、『水の民』、『風の民』のエリートたちが集められて、プロジェクトを組んで研究している」
「そんな話、聞いたこともないで」
裕子はチラリと明日香に目にやる。
「機密事項ですから」
さらっと事も無げに明日香は答えた。
- 158 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時47分56秒
「‥‥なっちとはそこで知り合った。あたしは『風の民』、なっちは『火の民』‥‥『民』は違っていたけどそんなの関係なかった。‥‥あたしもなっちも大学を卒業したてで、他の研究員や職員たちは、あたし達よりずっと年上が多かったから、年の近い私たちはすぐに仲良くなった。」
「‥‥それで?」
「あたしが研究所を辞めてからも、なっちとは連絡は取り合っていたんだ。でも‥‥ここ半年‥‥連絡がつかない」
「‥‥そんなん、アンタと一緒で、研究所を辞めたのかもしれんやんか」
「それはない。なっちは、あたしと違って、最先端の研究に関わっている人間だから。なっちが辞めたいって言っても、きっと、研究所が放さない。‥‥放さないよ」
彩は、そう言うと、きゅっと唇を噛んで俯いた。
「‥‥安倍なつみは何を研究していたんや?」
裕子は明日香に静かな口調で問うた。
「‥‥DNAの研究です。‥‥つまりですね。‥‥安倍なつみは『パンドラの箱』を開いてしまったんです」
「‥‥『パンドラの箱』?」
「『火の民』、『水の民』、『風の民』の根底に関わる、大発見をしたんですよ」
「‥‥めでたいことやないか」
皮肉げな口調で、裕子が呟く。
「そんなこと、誰も望んでいなかったんですよ。今の社会システムが根底から揺らぐことにもなりかねませんからね‥‥どうです?興味が沸いてきたでしょう?」
明日香が目を煌かせて、裕子の顔を覗き込む。
「‥‥‥」
裕子は、明日香から視線をそらした。
- 159 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時48分45秒
「この仕事を引き受けていただけたのならば、その見返りとして、安全をお約束いたします。悪い条件じゃないでしょう?『密猟者』の影に脅える日々に終止符を打てるのですから」
「‥‥どういうことや?」
「石黒先生の専門は外科です。腕のいい外科医ですよ。‥‥見返りとして‥‥中澤さんと矢口さんには石黒先生の移植手術を受けてもらいます」
「移植?」
「ええ、石の移植手術です。心配いりませんよ。石黒先生は以前にも、この手術を成功させた経験がおありですから。‥‥自由に『民』を選べますよ。何がいいですか?‥‥『火の民』ですか?‥‥それとも『風の民』かな?」
にこやかに笑いながら、明日香は話を先に先にと進めていく。
「‥‥ちょっと待って、話が見えてこないわ。一体、どういうこと?」
彩は焦ったような声を出す。
彩の隣で裕子も、苦虫をつぶしたような顔で、明日香を見つめている。
「先生も案外、勘が悪いですね」
明日香はため息をついた。
「何よ」
彩もむっとしたように、明日香を見る。
「今の会話の流れから、わからないんですか?‥‥私が黙っていた中澤さんと矢口さんの秘密が‥‥」
明日香は言葉を区切ると、彩と裕子の顔を見比べた。
- 160 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時49分22秒
「‥‥もしかして」
彩がかすれた声を出す。
「その、もしかして、です」
明日香の言葉を受け、裕子は無言のまま、黒い皮の手袋に手をかけ、ゆっくりとした動きで、手袋を脱ぎ始める。
手袋の下から、白い手の甲が現れた。
息をつめて、見つめる彩の目の前で、裕子は左手の甲を返して、手のひらを見せた。
「‥‥っ‥‥」
裕子の黒く妖しく輝く石を見て、彩は息を呑んだ。
裕子は彩の反応に満足したように微笑む。
「‥‥初めて見た」
彩はゆっくりと息を吐き出す。
「‥‥せやな。ウチも、自分の見たのが初めてやったわ」
裕子が自嘲気味に笑った。
「アンタは見慣れている感じやな。家の金庫にホルマリン漬けの手首が何個か入ってるんやないか?」
裕子の石を見ても、驚く様子もなく、落ち着いた様子の明日香に、皮肉げな調子で裕子が話しかける。
「ご想像にお任せしますよ」
裕子の言葉に微苦笑しながら、明日香は肩をすくめて見せた。
「やらしいやっちゃ」
裕子が吐き捨てるように呟く。
- 161 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時50分00秒
「どうして、ウチに仕事を頼むんや?ウチと矢口とを手首を合わしたら、大金になるで?」
裕子は口角を上げて、自嘲気味に言葉を紡いだ。
「中澤さんと矢口さんの左手も魅力的ですが、このままだと、安倍なつみ共々、発見された事実も抹殺されそうなんでね。‥‥腕のいい、信頼の置ける、命をかけてくれるような人材が必要なんです」
「‥‥‥」
「どうしました?」
「‥‥ウチに選択権はあるのか?」
「ない、ですね」
「‥‥‥」
裕子はぐっと息をのみ、明日香を睨みつけた。
受けるしかないのだろう。
この仕事を。
受けなければ、自分と、矢口の命はない。
そういうことだ。
- 162 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時50分59秒
「サービスを付けましょう」
明日香はいたずらっぽく瞳を煌かせた。
「サービス?」
「もしも、この仕事を引き受けてくれたのならば、もれなく、石黒先生が、飯田希美の心理治療を担当します」
「ちょっ、何、言ってんの?」
素っ頓狂な声をあげて、彩は焦ったように、明日香の襟首を掴み上げる。
彩の抵抗に、明日香は、「ちょっと失礼します」と、彩を引きつれて退室してしまった。
こういう緊迫した場面にも関わらず、裕子は明日香と彩のチームワークの悪さに、思わず笑ってしまう。
このチームは明日香がリードを取っているように見えて、その実、彩が自分の意見を通しているのではないだろうか。
何となくそんな気がしてきた。
明日香と彩、二人が提示してきた条件を考える。
断れば、命はない。
密猟者にウチらの情報を流す。
暗に、そう脅された。
受ければ、石の移植手術を受けられる。
新しい人生を、矢口と送ることができる。
希美もしゃべれるようになるかもしれない。
まぁ、全てがうまい具合にいけば‥‥やけどな。
世の中、そうそう、うまくはいかんのや。
どっちにしろ、今のウチには選択権はない。
と、なると、ベストを尽くすだけや。
未来のために。
裕子は両拳を握り締めた。
武者震いが身体を走り抜ける。
裕子の瞳に静かな闘志がみなぎってきた。
- 163 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時51分49秒
――― ―――
「何よ、聞いてないわよ」
別室に入るなり、彩は腹立ち紛れに、床を踏み鳴らした。
廃屋の薄いベニヤ板が、ミシミシと音をたてる。
「言ってないですから」
「さっきの、手術の話も聞いてなかったわよ」
「言ってないですから」
「何よ、それ!」
「敵を騙すには、まずは味方からっていいますよね?‥‥じゃ、そういう訳で」
明日香は踵を返して、裕子の待つ部屋に戻ろうとする。
そうはさせじと、彩は明日香の腕をつかんだ。
「何言ってんの!‥‥心理学なんて、専門外よ。あたしの専門は外科よ」
「でも、医者ですよね?」
「精神科医と外科医なんて、大違いじゃない」
「中澤さんに『うん』と言わせるためです」
「‥‥‥」
彩はぐっと黙り込んだ。
「‥‥何故、あの二人が『神々の印』を失った者だって、教えてくれなかったのよ!」
「‥‥だって」
「何が、だって、なの?」
「その事実を知ったら、先生が勝手に動いて手術しかねませんからね。そうなると、困るんですよ。そのための交渉なんですから」
「‥‥‥」
「しかし、うまくいきそうですね。さすが石黒先生、です」
「あたしは何もしてないわよ」
「‥‥交換条件の移植手術の存在も大きいとは思いますが、それでも、最終的に、中澤裕子の心を動かしたのは、石黒先生、あなたの『涙』ですよ」
「‥‥‥」
「中澤裕子は涙に弱い」
明日香はクスッと笑った。
- 164 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年10月18日(金)00時52分21秒
「‥‥アンタ、狙ってたでしょ?」
「いやー、先生がいいタイミングで泣いてくれて助かりましたよ」
「‥‥アンタ、ろくな死に方しないよ」
自分の涙を利用されたのが無性に悔しかった。
彩は冷たい瞳を明日香に向ける。
「そう思います」
明日香は無表情で呟き、それから、作ったような笑顔を浮かべ、
「戻りましょう。中澤さんがお待ちです」と言った。
――― ―――
戻ってきた二人に、裕子は穏やかな視線を向ける。
決断をくだした者のピーンと張りつめた落ち着きがあった。
「‥‥詳しい話を聞こうか」
裕子はそう言うと、背もたれ椅子に、身体を沈めた。
- 165 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年10月18日(金)00時54分21秒
- 更新しました。
もう、秋、ですね。
- 166 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月18日(金)03時00分43秒
- やっぱり作者さんはスゴイ(w
裕子頑張れ!!
彩っぺ頑張れ!!
- 167 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月18日(金)17時32分11秒
- 福田さん、ヒドイですね
でも、なかなかやります
- 168 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月18日(金)22時13分23秒
- 明日香ファンとしてはちょっと複雑ですが・・・
やっぱ頭の切れる子というイメージなんだと言い聞かせ(w
期待してますので頑張ってください
- 169 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年10月19日(土)18時33分52秒
- 名前だけですが、やっとあのコも出てきましたね。
それも、やぐちゅーや、いちごまが「民」の枠を超えて
幸せになるカギを握っていそうな役で・・・。
- 170 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時27分43秒
――― ―――
街外れの廃屋の中、明日香の低く、冷たい声が響き渡る。
広さ八畳ほどの部屋は、針が落ちる音さえ聞こえそうな程、張り詰めた空気が漂っていた。
裕子は背もたれ椅子に腰掛け、明日香の声だけに意識を集中させる。
「現在、安倍なつみは彼女自身の研究室に軟禁されています。つまり、24時間監視の目が光っています。今の時点で彼女とコンタクトを取ることは不可能と見ていいでしょう。‥‥彼女の身柄に関する決定権は三つの民の議員から構成されている『特別委員会』に一任されています。‥‥私達としては、安倍なつみの研究は闇に葬り去るにはあまりにも惜しいので‥‥そうはさせないように、とりあえず、『特別委員会』の『風』の議員は押さえてあるんですがね。‥‥問題は『火』と『水』の議員でして。どうも乗ってこないんですよ。よっぽど、彼女の研究が表ざたになるのを恐れているようで‥‥一週間後には彼女をどうするか表決で決定されるようですが、恐らく‥‥」
明日香はお手上げだとでもいうように、両手を上に上げた。
「‥‥‥」
廃屋の汚い壁に寄りかかりながら、彩はぎりっと奥歯を噛み締め、明日香を睨みつける。
- 171 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時29分06秒
「そうなれば、中澤さんの出番です」
彩の刺すような視線に動じることなく、明日香は淡々と言葉を続けた。
「あ?」
いきなり話題を振られた裕子は、戸惑ったように、眉をひそめる。
「中澤さんは『火』の弁護士ライセンスをお持ちですよね」
「‥‥まあな。‥‥今ではもう、役にたたん代物や」
「そうでもないですよ」
「どういうことや?」
裕子は首を傾げた。
部屋の中央に立ち通しで、説明を続けていた明日香は、一息つくように、ふぅ、と大きなため息をつく。
「安倍なつみは『火の民』の科学雑誌『NATURE』に、DNAに関する研究論文をいくつか発表しています。その中には、今回の発見の手がかりともいえるヒントが書かれているようでして。‥‥とりあえず今は、一時的に、その論文が掲載されている巻は『火の民』政府の命令で回収されていますがね。『特別委員会』では、この論文自体を抹殺したいようなんですよ。‥‥というのも、『NATURE』の規定により、筆者が亡くなり、特に遺言がない場合、科学は民衆の利益に還元されるべきという、『NATURE』創設者の考えに基づき、論文は広く公開されることとなるからです。‥‥その場合、特例として、学術研究に活用するという目的であれば、論文は『火の民』だけでなく、全ての『民』が閲覧することができます」
「‥‥随分、太っ腹やね」
呆けたように、裕子が呟いた。
裕子は明日香の話のスケールの大きさに、正直、戸惑っていた。
一介の何でも屋に依頼するような仕事でないことは確かだ。
- 172 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時30分01秒
「‥‥そんなことになったら、仮に、安倍なつみを抹殺したとしても、いつ何時、第2、第3の安倍なつみが出てくるか、わからないでしょう?」
明日香はこの状況を心底楽しむように、口元に微かな笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
「安倍なつみの処分は表決待ちと言いながら、もうすでに抹殺への手続きは進んでいます。‥‥恐らく、安倍なつみ抹殺の表決が出た後、彼女のもとに弁護士が派遣されます。彼女は『火の民』ですから、『火の民』の弁護士が。‥‥全ての論文を破棄させるという遺言を書かせるために」
「‥‥そこまでして、隠したいことって、何なんや?」
「‥‥詳しいことは私にもわかりません。安倍なつみが、DNAに関する、驚くべき発見をしたということ以外は。‥‥中澤さんには‥‥その弁護士として施設内に潜入していただきます。中澤さんの補助として、石黒先生にも弁護士秘書として一緒に行動してもらいます」
「彩っぺも?」
裕子は驚きの表情で、彩を見つめる。
- 173 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時30分48秒
「‥‥ねえ、一つ、質問していい?」
苦虫を噛み潰したような顔で、明日香の話に耳を傾けていた彩が、おもむろに口を開いた。
「何ですか?」
「その‥‥『特別委員会』だっけ?‥‥そこが、派遣する弁護士も選定するんじゃないの?どうやって、ゆーちゃんをもぐりこませる気?」
「‥‥抜かりはありませんよ。これでも、弁護士会には顔が利くんです。幸いなことに、中澤裕子弁護士は、名うての弁護士でしたから」
明日香はそう言うと、同意を求めるように、裕子と目線を合わせる。
「‥‥大事なことを忘れてる。ウチは『神々の印』を失った人間やで?」
「心配無用です」
「あ?」
「対策は考えています」
「‥‥対策って‥‥」
「詳しい打ち合わせは、日時が近づいてからにしましょう。‥‥と言っても、一週間しか猶予はありませんが‥‥それまでは、可愛い恋人との逢瀬を楽しんでください」
明日香はコートの内ポケットから革張りの手帳を取り出すと、一枚破り取り、万年筆でサラサラと書き込んだ。
「私の直通電話です。何かあったら、連絡下さい」
裕子にメモを手渡すと、明日香は意味ありげに笑う。
「‥‥わかった」
裕子は微かに頷いて見せた。
「じゃ、私は、これで」
無言で壁にもたれ、自分を睨みつける彩の視線を物ともせず、明日香は姿勢を正して、優雅に会釈した。
明日香の規則正しい足音が、次第に遠ざかっていく。
- 174 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時31分25秒
「明日香のやつ‥‥他にも、何か、隠してるね」
「‥‥福田の人間や‥‥そんなもんやろ。‥‥必要なことはいつか話すはずや」
「驚いた」
「何が」
「脅されてるってのに、随分、優しいんだね」
「‥‥そうかもな。‥‥トップは孤独なもんや」
彩の言葉を受けて、裕子は苦笑いを浮かべた。
「‥‥そんなことより‥‥アンタはいいんか?」
裕子は彩の顔を覗き込む。
「何が?」
「一緒に行くって、本当か?」
「まあね‥‥親友だし。言い出しっぺだし。診療所で働いてたこともあるし。天蓋孤独だし。美人だし。性格いいし」
歌うように節をつけて、彩は言葉を羅列する。
「‥‥後半はいらんやろ」
「失礼ね。‥‥でも、なかなか、使える助手だと思うけど?」
「お手並み拝見、やな」
裕子は僅かに唇の端を上げた。
- 175 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時32分03秒
「一杯どう?」
彩はコートのポケットから高さ30センチほどの、赤い液体の入ったガラスの瓶を取り出した。
反対側のポケットから、小さなグラスを二個取り出す。
彩は無造作に、汚いシミだらけの床の上に座り、胡座をかいた。
「準備がいいな」
裕子も彩に倣って、床に腰を下ろす。
「飲まないと、やってられないでしょ」
「そら、そうや」
彩と裕子は、カチン、とグラスを合わせた。
その拍子に、僅かに酒がこぼれて、二人の指先を濡らす。
もったいない、と呟き、裕子は自分の手を口に含んだ。
彩は濡れた指先を気にする様子もなく、酒を舌の上で転がす。
酒の芳醇な香りと味が味覚を支配していく。
「‥‥残りの時間どうするの?」
彩がポツリと呟くように問うた。
「んー‥‥せやな‥‥明日香の言うたとおり、矢口とベタベタ、ラブラブにくっついとくわ」
「はいはい、ごちそーさま」
「うらやましいか?」
裕子は彩にチラリと視線を送る。
- 176 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時32分40秒
「別に。‥‥でも、嬉しいかも」
彩が弾むような声をあげた。
「あ?」
怪訝そうに裕子は彩を見やる。
「ゆーちゃんがフレンドリーになってくれて。あたしに対して、メチャクチャ警戒してたでしょ。毛を逆立ててさ」
「何や、その例えは」
憮然とした表情の裕子を見て、彩はおかしくてたまらないというように、相好をくずした。
「本当のことでしょ。‥‥まるで、なつかないノラ猫みたいだった」
「‥‥それゆーたら、アンタは獲物を狙うハゲワシや。人のことを値踏みしてたやろ」
「ハゲとは何よ!」
「それかい」
裕子の酒を飲むピッチも次第に上がっていった。
これほど、馬が合うとは、正直、思ってもいなかった。
――警戒していた時間が、もったいなかったかもしれん。
裕子は彩との酒飲み話に酔いしれていた。
- 177 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時33分16秒
「‥‥ねえ、どっちから、言い寄ったの?」
酒をチビリチビリと飲みながら、言うともなしに、彩が呟く。
「‥‥あ?」
「矢口との成り初め。どこで会ったの?どっちから口説いたの?」
「会ったのは『PEACE』‥‥‥成り初めは‥‥まあ‥‥成り行きかな」
「なにそれ。成り行きで『印』を失ったわけ?」
「いや‥‥何ちゅーか‥‥紗耶香から友達だって紹介されて、初めは可愛い子やなーって思ってたんや。‥‥けど、途中から、何や、気になりだして‥‥どうにもならなくなって‥‥」
「どうにもならなくなって?」
「気づいたら、ちゅーしてた」
「それって、口説いたって言うんじゃない?」
彩の言葉に、裕子は俯いて、首を横に振った。
「‥‥ウチは怖くなって‥‥逃げたんや」
「‥‥へえ‥」
「逃げて、逃げて‥‥でも、結局、逃げられんかった。‥‥お互いにな」
「‥‥後悔してる?」
裕子は静かに首を横に振った。
「何もかも失ったけど、後悔したことは一回もないな」
裕子は寂しげに笑う。
「‥‥‥」
裕子の表情が切なくて、彩はきゅっと唇をかみ締めた。
「矢口が居れば、それでいい」
裕子の強い視線が彩を見据える。
「‥‥良かったね。‥‥そう思える人に巡り合えて」
彩は空になった裕子のグラスに、静かに酒を注いだ。
- 178 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時34分01秒
「‥‥何や‥‥今夜はしゃべりすぎた。‥‥酔いが回ったんかいな」
「甘いけど、強い酒だから」
「そうか」
裕子は頷くと、くくくっと肩を震わせて笑い始める。
「何?変なこと言った?」
「いや‥‥矢口みたいや、と思ってな。‥‥甘くて、強くて、気がつくと芯まで酔わされる」
「へえ。そんなに好きなんだ」
「やらんで」
「いいよ。いらないから」
「何やて?矢口を馬鹿にするんか?」
裕子は酔っ払い特有のトロンとした目で、彩を睨みつけ、腕を彩の身体に絡みつかせた。
「そんなこと、一言も言ってない。‥‥まったく、この、酔っ払いが」
裕子の腕を振る払い、彩はため息をつく。
「矢口は可愛いし、気立ても良くて、すごくいい子だよ」
「せやろ」
彩の言葉に、裕子は何度も何度も頷いた。
- 179 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時34分39秒
「でも、あたしは、人のものには手を出さないよ」
「ホンマかぁ?‥‥だったらなぁ‥‥紗耶香にちょっかい出すのは止めとき」
「ああ‥‥可愛いよねー、あの二人」
自分が紗耶香に話しかけるたびに、その傍らで、頬を膨らませている真希の顔を脳裏に思い浮かべ、彩は口元を緩める。
「別に、ちょっかい出してるつもりはないよ」
「そうは見えんがな」
「そう?」
「後藤は、よく我慢してると思うわ。ウチだったら絶対許さんがな」
「どうするの?」
「決闘や!」
裕子は両手で力任せに床板を叩いた。
ベキッと音を立てて、床板が僅かにへこむ。
「‥‥この酔っ払いが‥‥」
呆れた、というように、彩は頭を抱えた。
酔っ払って怪我をされたのでは、たまったものではない。
幸いなことに、見たところ、裕子の手に怪我はない様子で、彩はホッと胸を撫で下ろした。
- 180 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時35分13秒
「‥‥二度と矢口の顔が見れんように、両目を潰したる」
「うわっ‥‥何、それ、最悪。‥‥独占欲のカタマリだね」
「‥‥冗談やがな」
空ろな瞳、どすのきいた低い声で呟く裕子の姿に、彩の背筋を冷たい汗が流れる。
「‥‥本当に、そんなつもりはないよ。‥‥ただ、似てるんだよね。紗耶香のギターが」
「‥‥あ?」
「昔の知り合いのギターに良く似ている。‥‥真っ直ぐな音で、心に響いてくる。‥‥だからかな、気になるんだ。このまま、真っ直ぐ成長して欲しい、かな」
そう言うと、彩は、グラスに入った酒を一気に飲み干した。
「その人は、どうしてるんや?」
「‥‥時々、思い出したように、手紙が来るよ」
彩の横顔が、裕子にこれ以上聞いてくれるなと語っていた。
「そうか」
酔っ払っていても、触れていい話題か、そうでないかぐらいの判断力は持ち合わせている。
裕子は頷くと、黙って、彩の空っぽになったグラスに酒をなみなみと注いだ。
- 181 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時35分53秒
――― ―――
開店前の『PEACE』のテーブル席に座り、紗耶香は何の変哲もないカセットテープを、縦にしてみたり、横にしてみたり、日に透かしてみたりしている。
真希は、隣に座っていながら、話しかけても上の空で、カセットテープをいじくりまわしている紗耶香を不満げに見つめていた。
「‥‥市井ちゃん、何、それ?」
「んー‥‥彩っぺから、もらった」
「‥‥へー」
「大切なものなんだってさ」
「‥‥‥」
「何、ふくれてるんだよ」
紗耶香は真希の不満げにふくらんだ頬を、人差し指で突付く。
「別に」
真希は不機嫌そうに紗耶香の手を払いのけた。
「多分、患者さんからもらったものじゃないかな」
払いのけられた手を、気にする様子もなく、紗耶香はテープの僅かに剥げかかっているラベルを指でなぞりながら呟いた。
カセットテープの表面のラベルには手書きで『To Doctor Isiguro From your patient』と書かれている。
- 182 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時36分33秒
紗耶香は立ち上がると、店の隅に置いてあるプレイヤーにカセットテープをセットして、再生ボタンを押した。
ややあって、『PEACE』店内に、ゆったりとしたドラムのリズムが流れ始める。
「ドラム‥‥だけ?」
真希が不思議そうに首を傾げた。
「‥‥ん」
「彩っぺにしちゃ、珍しくない?」
「‥‥うん」
紗耶香は戸惑ったような表情を浮かべ、微かに頷く。
それっきり、二人は黙り込んだ。
優しいドラムの響きが、心地よく、トクントクンという、心臓の音とシンクロしているようだ。
きっと、お母さんの胎内で聞いた音だ。
紗耶香は目を閉じて、ドラムの響きに身を任せた。
- 183 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時37分08秒
「‥‥市井ちゃん?」
気がつくと、真希が大きく目を見開いて、紗耶香の顔を覗き込んでいる。
「‥‥あ?」
「どうしたの?ぼーっとして」
「何でもない」
いつの間にか、テープは終わり、プレイヤーの再生ボタンも元に戻っていた。
紗耶香は苦笑いを浮かべながら、カセットテープを取り出す。
どういう意図で、彩が、自分にこのテープを譲ってくれたのかはわからないが、このテープを手渡してくれた時の彩の顔が忘れられない。
思いつめたような、それでいて、何か吹っ切れたような、そんな表情だった。
紗耶香はカセットテープと同時に、診療所の合鍵も預かった。
好きなときに、レコードを聴きに来ていいから、と。
しばらく旅に出るかもしれないから、と。
彩の表情は、真剣そのものだったから、それに答えるように、紗耶香も生真面目な顔で、テープと合鍵を受け取った。
- 184 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時37分45秒
「後藤は、このドラム好きだよ」
しげしげとテープを見つめる紗耶香に、躊躇いがちに、真希が声をかける。
「そう?」
「一生懸命って感じで」
「うん」
「きっと、この人、彩っぺが好きだったんじゃない?」
「何で?」
「そうじゃなかったら、ドラムだけ吹き込んだテープなんて、あげないでしょ、普通」
「そうかなぁ?」
「絶対、そう!」
「何、力説してるんだよ。変なやつ」
紗耶香はテープをカセットケースに入れると、大事にかばんに仕舞い、テーブル席に戻った。
- 185 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時38分25秒
「気持ちいい」
真希が紗耶香の肩にもたれかかる。
「こら、後藤」
「んー」
「‥‥まったく」
紗耶香はぶつぶつと文句をこぼしながらも、真希にそれを許していた。
「ねー、市井ちゃん」
「あ?」
「後藤もギター欲しいな。ねぇ、一緒に買いに行こうよ」
「無理だって。一体、どこの店に行くんだよ」
「手を繋げば大丈夫だって。やぐっちゃんが言ってたもん。左手、繋いどけば大丈夫だって」
真希は紗耶香にもたれていた身体を立て直すと、拳を握り締めて力説する。
「あー?」
「だから、市井ちゃんが店の人に、左手の赤い石を見せて、んで、市井ちゃんの右手と後藤の左手を繋いで、市井ちゃんの手で後藤の青い石を隠せば、バッチシじゃん」
真希は紗耶香の手を取り、身振りを交えて説明し始めた。
「んー」
気乗りしない、というように、紗耶香が唸り声を上げる。
「嫌なの?」
真希は不安げに紗耶香を見つめた。
- 186 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時39分21秒
「‥‥嫌っていうかさ。‥‥何か、馬鹿丸出しって感じだろ。あたし、手繋いでるカップルとか嫌いだし」
「‥‥いいじゃん」
「でもなぁ‥‥」
「市井ちゃんが行ってくれないなら、あたし、保田先生と行くからね!」
「何で、圭ちゃん?‥‥や‥‥圭ちゃん、ギター初心者だから」
「‥‥そういうことじゃないよぉ。‥‥市井ちゃんの馬鹿」
涙目になって真希は紗耶香を睨みつける。
「‥‥後藤‥‥」
紗耶香は真希の涙を見て、途方に暮れたように、オロオロと視線をさまよわせていたが、ややあって、勢いよく立ち上がった。
「‥‥まったく」
紗耶香はテーブルの上に置いてあった青いニットの帽子を取ると、真希の頭に被せる。
「何?」
真希は涙目のまま、キョトンと目を丸くして、紗耶香を見上げた。
- 187 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年11月14日(木)05時39分52秒
紗耶香は真希の問いに答えず、ズカズカと足音を響かせて、壁にかけておいた自分の黒いコートと真希の白いコートを取る。
「ほら、さっさとしろよ」
真希にコートを手渡すと、紗耶香は手早くコートを身に着けた。
「へ?」
「あたしの気の変わらないうちにな」
ぶっきらぼうに、そう呟く。
「‥‥市井ちゃん」
真希はゆっくりと椅子から立ち上がった。
「さっさとコート着けろよ。外はさみーぞ」
「ねー、店に着くまで‥‥手、繋いでもいいでしょ?」
「あ?」
「駄目?」
「‥‥いいよ」
紗耶香はためらいがちに頷く。
「あはっ」
コートを羽織り、満面の笑みを浮かべ、真希は紗耶香に駆け寄った。
- 188 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年11月14日(木)05時42分49秒
- 久しぶりの更新です。
忘れ去られないように、頑張らないと。
- 189 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月14日(木)13時42分23秒
- お待ちしてました!
- 190 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月14日(木)14時16分03秒
- 更新キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
- 191 名前:娘。 投稿日:2002年11月15日(金)01時13分26秒
- マッテタヨ
- 192 名前:nanasi 投稿日:2002年11月16日(土)21時52分15秒
- やぐちゅーもキテ(w
- 193 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時47分05秒
――― ―――
明日香に言った通り、裕子は残された時間を真里と共に過ごした。
『神々の印』を失って以来、何かに追われるように、慣れない裏稼業を必死でこなしてきた裕子が、あー、ウチしばらく仕事休むわ、と告げた時、真里は目を大きく見開いて裕子の顔を凝視した。
それから、満面の笑みを浮かべ、真里は裕子に抱きつくことで、その嬉しさを表現した。
裕子は真里に仕事を休んで自分と共に過ごすことを強要し(もちろん真里は、はなから仕事を休むつもりだったが)、二人は、一緒に料理を作ったり、手を繋いで公園を散歩したりして、ゆったりとした時間を過ごした。
裕子が時折見せる、切ない表情に心が騒ぐこともあったが、真里は、この静かな時間を満喫していた。
そんな静かな時間を経て、裕子が、久しぶりに『PEACE』に行こうや、と言い出した。
もちろん真里に依存はなかった。
実に久しぶりの『PEACE』だ。
夜の帳の中、黒ずくめの服、黒皮手袋でかたく手を繋いで歩く足取りも自然と軽くなる。
- 194 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時48分15秒
――― ―――
「矢口、ゆーちゃん、久しぶり」
二人の姿を見て、カウンターの中から圭織が弾んだ声をあげる。
「威勢がいいなー」
裕子は目を細めて、店内を見渡した。
すでに、裕子と真里以外の面々は集合していて、何やら騒がしい。
テーブル席では、真希はピカピカに輝くばかりの新しいエレキギターを得意そうにいじっている。
その隣で、紗耶香が真希にギターのコードの押さえ方を手取り足取り教えていた。
その向かいにいる、ひとみと梨華は、どうやら半強制的に音色を聞かされているようだ。
梨華は眉間にしわを寄せているし、ひとみも苦笑いを浮かべている。
「ごっちん、音、外れてない?」
「んあー、市井ちゃーん」
「後藤、手が違うって」
「ごっちん、練習あるのみ、だよ」
- 195 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時48分49秒
亜依は真里の姿を見かけた瞬間、笑顔で手を振ってくれはしたものの、その後は、テーブル席脇のフロアで、希美と二人、何時になく真剣な表情を浮かべて、ケン玉を見つめている。
希美は唇を引き締め、右手の柄を握り締めた。
「せいっ」
亜依が放つ掛け声と共に、希美が上に引き上げた赤い玉は、ケン先をわずかに外れ、カンッという鈍い音と共に、柄にくくりつけられた糸によってぶらりと吊り下げられた。
「あー、もうちょっとやったのにー」
亜依が地団駄踏んで悔しがる。
「のの、もう一回や!今度は成功するで!!」
圭と彩はカウンター席に並んで座り、冷えたビールを喉に流し込んでいる。
「あー‥‥仕事の後の酒は最高ね」
「圭ちゃん、ペースはやいよ」
「彩っぺも、飲んだ、飲んだ」
「飲んでるよ。飲んでるって!」
「あー‥‥みんな、テンション高いねー」
裕子と二人、カウンター席の隅に座って、各面々を観察していた真里は、ほぅ、と息を吐きながら呟いた。
「今日は、ゆーちゃんの要望通り、貸切です」
圭織はそう言うと、冷えたビールとオレンジジュースをテーブルの上に置く。
- 196 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時49分25秒
「裕子の?」
真里は裕子の顔を見た。
貸切にする、なんて話は聞いていない。
「ま、たまには、ええやろ?」
裕子はタバコを咥えると、ウインクで圭織に合図を送る。
小さな炎が出現する。
裕子はゆっくりと息を吸い込んで、タバコに火をつけた。
「‥‥いいけどさ」
真里は不満そうに、唇を尖らせた。
そんな真里の金色の髪の毛をクシャと撫でて、裕子はおもむろに立ち上がった。
「ゆーちゃんのおごりやで。みんな好きなだけ飲んでや」
軽い口調で裕子が告げる。
「ホンマ?」
「本当ですか?中澤さん」
「やったー。太っ腹」
「ゆーちゃん、大好き」
湧き上がる歓声に、笑顔で答え、裕子は真里に視線を移す。
「矢口はジュースな」
「‥‥どうせ、お子様だよぉ」
「誰もそんなこと言ってへんやろ?」
裕子は困ったように微笑んだ。
「‥‥‥」
真里は視線を逸らした。
裕子の優しい瞳を見ていると、言い知れぬ不安が湧き上がってくる。
「矢口?」
裕子が不思議そうに真里の顔を覗き込む。
「‥‥何でもない」
真里はごまかすようにオレンジジュースを口に含んだ。
- 197 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時49分59秒
「ゆーちゃん、やぐっちゃん」
真希が大きく手招きする。
自分の買ったばかりのギターを自慢したくて仕方がない様子だ。
「おー、今、行くわ」
裕子はビールジョッキを持って、真希のいるテーブル席に移動しようと立ち上がる。
真希の呼びかけに対し、隣の真里は微動だにしなかった。
「‥‥矢口?」
裕子は訝しげに真里を見る。
「‥‥これ、飲んでから行くよ」
真里はオレンジジュースが半分ほど残っているグラスの淵を人差し指でなぞりながら、俯き加減で答えた。
「‥‥そうか。‥‥じゃ、先、行っとく」
裕子は後ろ髪を引くような思いで立ち上がり、真希と紗耶香の元へ向かった。
真里の様子も気にかかるが、あの二人には、どうしても伝えておきたいことがある。
- 198 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時50分35秒
「‥‥市井ちゃんが選んでくれて‥‥」
裕子は真希の傍らに立って、ひとしきり、新しいエレキギターを買ったときの話を聞かされた。
このカップルのハンドルを握っているのは、どうやら、真希の方らしい。
紗耶香は後藤の尻に敷かれて喜んでいるふしがある。
「紗耶香、アンタと後藤はどこまでいってるん?」
余裕かまして、真希の新しいピカピカのギターをいじっている紗耶香に、裕子が声をかける。
「ど、ど、どこまでって?」
そのとたん、紗耶香は動揺して、目が泳ぎ始めた。
「とぼけるんやない。どこまで言うたら、どこまでか聞いてるんや」
「な、何言って」
「あのねぇ‥‥」
「後藤!」
堪らず、紗耶香が立ち上がった。
立ち上がった紗耶香の両肩を、裕子はガシッと掴む。
「ええか、紗耶香。大事なもんは、見つけたら、誰にも渡したらアカン。‥‥言ってる意味わかるよな?」
「‥‥‥」
「アンタの一番大切なもんは何や?」
「‥‥ゆーちゃんは‥‥後悔したことないの?」
紗耶香の身体も声も微かに震えていた。
「無い。一回も無いな」
きっぱりと裕子が言い放つ。
「‥‥そう」
紗耶香は何かを考えるように瞳を閉じた。
- 199 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時51分19秒
「‥‥ゆーちゃん?」
二人のやり取りを黙って見つめていた真希が、裕子におずおずと声をかける。
「後藤、アンタの宝物は何や?」
「‥‥んー、いっぱいあるよぉ」
「一つしか選べなかったらどうする?」
「あー‥‥あのねぇ‥‥んぐ」
答えようとした瞬間、裕子は、真希の口を手のひらで塞いだ。
「‥‥答えは‥‥もっと大人になってからでええんよ。焦って出すことじゃないからな」
裕子は小さく微笑んだ。
「中澤さん、今日はご機嫌ですね」
カウンター席で一人寂しくオレンジジュースを飲んでいる真里に、ひとみが、同じく、オレンジジュースを持って登場した。
「‥‥よっすぃー」
「久しぶりですね。矢口さん」
「そうだね」
「どうかしたんですか?」
「え?」
「矢口さん、元気ないから」
「‥‥そう見える?」
「見えます」
「‥‥‥」
きっぱりと言い切ったひとみに、真里は苦笑いを浮かべる。
「‥‥裕子が変」
「そうですか?」
「そう思わない?」
「いや、変、って言うか。‥‥ハイテンションだとは思いますが」
「‥‥あんな時の裕子は、必ず、何か隠し事があるときなんだ」
「‥‥矢口さん」
ひとみは困ったように肩を落とした。
- 200 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時51分56秒
「‥‥気になるなら、直接聞くのが一番じゃない?」
圭が席を外して、一人呑んでいた彩が口を挟む。
「‥‥裕子は‥‥しゃべらないって決めたら、どんなことがあっても口を割らないよ」
「‥‥‥」
彩は黙ってビールを喉に流し込んだ。
真里も無言でオレンジジュースを口に含む。
ひとみは、黙り込んだ二人に囲まれて、途方にくれた。
「石川ぁ〜、最近綺麗になったな。ゆーちゃんドキドキするわ」
「何するんですかぁ」
梨華の声にひとみが振りかえると、テーブル席に座っている裕子が梨華の腕を掴んで絡んでいた。
ひとみは立ち上がると、真里と彩に会釈をして、梨華へ足早に走り寄る。
「梨華ちゃん」
「吉澤、ウチの矢口と何してるんや。アンタのお姫様はずっと待っとったで」
走ってきたひとみに、裕子は険しい目を向ける。
「中澤さん」
「ええか、吉澤。繋いだ手は離したらアカン。絶対にな」
「はぁ‥‥」
「せやないと、ウチがチューしたる」
「中澤さん!」
ひとみは声を張り上げた。
「冗談やがな」
そう言うと、裕子は、穏やかな瞳のままに、ひとみと梨華の髪を撫でた。
- 201 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時52分30秒
「ゆーちゃん、あたしの教え子に、あんまり変なこと教えないでね」
裕子とひとみの一連のやり取りを、端から傍観していた圭が近寄ってきた。
「変なことって何やねん。好きな女から目を離すなって言ってるんや」
裕子は小さく笑う。
「ふーん」
「何や?」
「や、別に」
「圭坊」
「ん?」
「幸せになれよ」
裕子は圭の右手を取り、強く握り締めた。
「は?」
「ウチは幸せにしてやれんからな」
「‥‥熱でもあんの?」
「そんなわけあるかい」
圭の瞳は不安そうに揺らめいている。
裕子は圭のワイングラスに自分のビールジョッキをカチンと合わせる。
それから、何かもの言いたげな圭を尻目に、グビグビと喉を鳴らして、ビールを飲み干した。
- 202 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時53分30秒
「ゆーちゃん、こう見えても、『ケン玉ゆーちゃん』の異名を持ってたんやで」
裕子は膝を曲げ、身体全体の動きで玉を受け止めるようにして、玉を、大皿、小皿に乗せ、最後にケン先にはめた。
「すごい、ゆーちゃん」
圭織が歓声を、裕子に拍手を送る。
「中澤さん、かっこいい」
亜依はピョンピョンと飛びあがり、希美も目をキラキラと輝かせて裕子を見つめた。
「練習すれば、圭織も、ののも、亜依もできるようになるわ。‥‥優しく、優しく、やるんや‥‥やってみ?」
「うん」
圭織が神妙な顔で、裕子からケン玉を受け取る。
圭織がケン玉を始めると、その脇で希美と亜依が、ああでもない、こうでもない、と身振り手振りでアドバイスする。
「ケン玉も、人間も、一緒や。優しくやったら、自然と上手くいく」
裕子の言葉に、ケン玉で遊んでいる三人は素直に頷いた。
- 203 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時54分07秒
カウンター席で真里は裕子の様子をじっと見つめていた。
裕子は『PEACE』にいる人全てに積極的に絡んでいる。
「‥‥裕子は変だよ」
真里はポツリと呟いた。
「そうかもね」
真里の言葉に、彩も同意する。
「彩っぺは‥‥何か知ってるの?」
「どうして、そう思うの?」
「ゆーちゃんが、彩っぺだけに、絡まない」
「そんなの、いつものことじゃない」
「違う。いつもは、ゆーちゃんは彩っぺの視線を避けるけど、今夜は違うもん。二人して‥‥共犯者みたいに、目配せし合ってる」
真里の言葉は冷たく、そして、固い。
「‥‥共犯者って」
「そうじゃん」
「そうだけど」
「そうなんだ」
「矢口、目が怖いよ」
「何、隠してるの」
「‥‥何って」
彩は言葉に詰まって、言いよどんだ。
- 204 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時54分53秒
「‥‥浮気?」
「‥‥‥アンタね‥‥あの人を見て、どうして、そういう発想が浮かぶかね。誰がどう見てもアナタに夢中じゃない」
彩は呆れた顔で、真里の額を小突いた。
「‥‥だって」
小さく唇を噛んで、真里は俯いた。
真里の両手が膝の上で握り締められる。
皮手袋が擦れるギュッという音がした。
彩は、自分の隣に座り、見捨てられた子どものようにうな垂れている真里を見つめた。
――この子は知らないのだ。
彩の脳裏に廃屋で交わした裕子との会話が鮮やかによみがえる。
『‥‥二度と矢口の顔が見れんように、両目を潰したる』
『うぁ‥‥最悪』
『‥‥冗談やがな』
あの時の彼女の瞳は本気だった。
この少女は知らないのだ。
中澤裕子の狂おしいまでの独占欲を。
「見てなさい」
ため息をついて、彩は立ち上がった。
「え?」
彩の動きにつられるように真里は視線を上げる。
- 205 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時55分36秒
「はい、はい、注目」
パン、パン、パン、と手を三回叩いて、彩は、店内の注目を自分に向けさせた。
「何やぁ?」
「どうしたの?」
「何?」
皆、一様に、驚いたような表情を浮かべて、彩を見る。
「はい、質問があります。みんな答えてください。‥‥アナタにとって、『愛』とは?愛の定義ね」
「何や、いきなり、そんな質問」
圭織とテーブル席でビールを飲んでいた裕子が、訝しげに彩を見る。
彩の隣に座っている真里と視線が合うと、真里は気まずそうに裕子から視線を逸らせた。
「答えられないんだ」
彩が裕子を挑発する。
「そんなわけあるかい」
ムッとしたように、裕子が答えた。
- 206 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時56分09秒
「じゃあ、いいじゃん」
「‥‥こういう場合、アンタから答えるのが礼儀やろ」
「あたし?‥‥あたしは‥‥そうねぇ‥‥愛とセックスは切り離せないかな。あたしの場合はね」
「‥‥刺激の強い話やね。‥‥そうやね。心と身体は切り離せんわな」
腕組みしながら、裕子は、ウンウンと頷く。
圭と圭織も微かに頷き、紗耶香と真希は何やら囁き合っている。ひとみ、梨華は顔を真っ赤にさせて俯き、亜依は希美に状況説明をしていた。
「でしょ?」
俯き続ける真里の隣で、彩はニコニコ笑った。
「次、そこで、顔を赤くしている吉澤」
彩がひとみを指差す。
「へっ!?‥‥えっと‥‥吉澤は‥‥梨華ちゃんの笑顔が好きです」
ひとみはしどろもどろになりながら、言葉を紡いだ。
「‥‥あのなぁ吉澤、話ちゃんと聞いてたか?」
裕子が呆れたように口を挟む。
「聞いてますよ。愛についてでしょ?」
ひとみは不満げに口を尖らせた。
- 207 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時56分46秒
「次‥‥そこの咳き込んでる相棒」
彩はひとみの隣に座っている梨華を指名する。
梨華は、ひとみの口から自分の名前が出た瞬間、口に含んでいたコーラを大噴出したのだ。
ひとみはすまなそうな表情で梨華の背中をさすった。
咳き込みが収まると、梨華は涙目のまま、口を開く。
「‥‥あたし、よっすぃ〜といると、自分の居場所って感じがするんです。守って、守られているみたいな感じ。だから、離れていても、安心っていうか」
梨華はひとみの手をぎゅっと握り締めた。
「‥‥逆に、愛を知って、孤独を知ることもあるよね」
圭が静かに口を開く。
「そうなん?」
亜依はキュッと圭の上着の裾を握り締めた。
「アンタはまだ知らなくていいの。もっと子どもを楽しみなさい。急いで大人になることはないんだから」
亜依の頭に手を置いて、圭は、優しい瞳のまま、髪の毛を撫でた。
- 208 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時57分18秒
「‥‥響きあう心」
ボロンと紗耶香がギターを奏でる。
「かっこつけおって」
裕子が紗耶香の額を小突いた。
「たまにはいいじゃん」
紗耶香は大げさに額を押さえる。
「アンタの場合、たまじゃないやろ。年中かっこつけようとして失敗しとるやんけ」
「失礼な」
「市井ちゃんはかっこいいもんっ」
真希は、顔を真っ赤にして力説する。
「後藤にとっては、そうやろな」
「市井ちゃんは、暖かいんだ。だから後藤は気持ちよくって、だから、すぐに眠くなっちゃうんだ」
そう言うと、真希は紗耶香の腕に手を絡めた。
「圭織はね。許しあうことが愛だと思う。その人の良い所、悪い所、全て受け入れて、それでも、愛しいと思えたら、それが愛じゃないかな」
希美を膝の上に乗せて、圭織が穏やかな口調で話す。
希美はきゅっと圭織の手を握り締めた。
「ええこと言うなぁ。圭織。さすがやね」
裕子は目を細めて、圭織と希美を見た。
- 209 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時58分08秒
「次は‥‥矢口」
終始俯いた状態で身体を固くしていた真里の肩を、軽く叩いて、彩は合図を送る。
真里は一瞬視線を上げたものの、すぐに俯いてしまった。
「‥‥矢口は‥‥ゆーちゃんが欲しかったんだ。だから何も考えずに、突っ走った。色々な人を傷つけて‥‥だけど‥‥矢口は、欲張りだから。‥‥裕子と一緒にいても、もっと欲しい、もっと欲しいって、飢えているの。‥‥きりがないよね」
「矢口」
裕子は立ち上がり、カウンター席の真里の元へ、静かに歩む。
「‥‥本当、きりがない」
俯いている真里の顎に手をかけ、強引に自分と視線を合わせた。
真里の瞳は不安に揺れていた。
真里に対する愛しさが増す。
「アンタは‥‥本当に、可愛いなぁ」
裕子は自然に口走っていた。
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥ウチもそうや。アンタが欲しかった。だから、今まで、走って走って走りまくってきたんや。‥‥アンタと幸せになりたいんや。そのためだったら何でもする」
「‥‥裕子」
自分の名前を呟く小さな身体を、裕子は力いっぱい抱き締めた。
想いが伝わるように願いをこめて。
明日香の依頼の詳しい内容を、真里に話すつもりは、まったくなかった。
成功すれば、結果オーライ。
失敗すれば、真里とは永遠にさよならかもしれない。
それでも――。
裕子に堅く抱き締められながら、店内に視線を巡らせると、彩と目が合った。
彩はニッコリ笑って、親指を立てて見せた。
真里も笑顔で返す。
こうして――『PEACE』の夜は更けていった。
- 210 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時58分46秒
――― ―――
アパートに帰り、真里はソファーに腰を下ろすと、裕子をじっと見上げる。
「‥‥ゆーちゃん、そんな、飲まなかったね」
「明日、仕事やから」
裕子はミネラルウォーターのボトルのキャップを開け、直接口をつけて、水を喉に流し込んだ。
「ふーん、何の仕事?」
「‥‥‥引越し」
「じゃあ、夜には帰ってくるね」
「いや、遠くへの引越しやから。4、5日かかるかな」
ミネラルウォーターのボトルを持ったまま、真里の隣に腰を下ろした。
「‥‥そう」
「矢口」
真里の耳元に口を寄せる。
「ん?」
「愛してる」
艶のある声が、真里の耳元をくすぐる。
真里は一瞬、真っ赤になって、身体を震わせた。
それから、裕子の両頬をつまみ、真横に引っ張っる。
「痛い、いたふぃー」
堪らず、裕子が悲鳴をあげた。
- 211 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)17時59分23秒
「何、隠してるんだよ」
裕子の口から、『愛してる』という言葉を聞いたことはほとんどない。
「やぐふぃ」
裕子が情けない声をあげる。
「吐け、吐いてしまえ」
真里は更に力をこめて、裕子の頬を引っ張った。
裕子は悲しい目で真里を見つめ、されるがままになっている。
「‥‥何だよう。‥‥抵抗しろよぉ」
真里の手から力が抜け、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
「‥‥矢口」
「裕子の馬鹿」
「泣かんといて」
裕子は真里の頬を流れ落ちる涙をそっと指先でぬぐった。
「‥‥行っちゃヤダ」
「何で‥‥そんなこと言うんや」
「‥‥ヤダよぅ」
「‥‥すぐに帰ってくるから」
裕子はうまく笑えなかった。
引きつったような笑いを浮かべる。
- 212 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)18時00分04秒
「‥‥嘘つき」
「‥矢口」
裕子は真里の震える身体を抱き締め、唇を塞いだ。
堅く閉じられている唇を強引にこじ開ける、舌を絡める。
そのまま、ソファーに押し倒した形になる。
忘れないで。
この腕を。
この唇を。
心に刻み込んで。
長い口づけの後、空気を求めて微かに開いた唇に、ミネラルウォーターを口移しで飲ませてやる。
真里はコクコクと喉を鳴らして飲み干した。
「‥‥な‥に‥‥」
水と一緒に小さな異物を飲み込み、真里はピクリと身体を震わせた。
「大丈夫」
裕子は、真里の頬に口づけを落とす。
「‥ゆ‥‥ちゃ‥ん」
真里は縋るような瞳で裕子を見つめた。
「ごめんな」
瞼にも口づけを落とし、裕子は再び真里の唇を塞ぐ。
- 213 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)18時00分39秒
裕子の腕の中、真里の小さな身体から徐々に力が抜けていく。
裕子は真里の身体を抱き上げ、ベッドに横たえ、毛布をかけた。
明日の昼にでも、真里は目を覚ますだろう。
別れに睡眠薬を使うのは、これが二回目だった。
一度目は、母親と妹との別れに使った。
何度経験しても、身を切られるように辛い。
――でも、置いて行かれるほうが、恐らく、その何倍も辛いのだ。
ごめん。
ごめん、矢口。
裕子は心の中で何度も繰り返し謝り続けた。
自分に万が一のことがあったら、後のことは明日香に任せてある。
彼女のことだ。
自分のプライドにかけても、約束は守ってくれるだろう。
福田の力で矢口を密猟者から守ってくれるに違いない。
朝が来たら、この子を残して、危険な賭けに出かけなければならない。
吉と出るか、凶と出るか。
自分はまたこの温かい胸に戻ってくることができるのだろうか。
このまま、朝なんか来なければいい。
裕子はまんじりともせず、ベッド脇に座り、真里の金色に輝く髪を撫で続けた。
- 214 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)18時01分12秒
太陽が東の空から昇り始めた頃、裕子はシャワーを浴び、念入りにメイクを施す。
化粧は女の戦闘服だ。
鏡を覗き込むと、自分の顔が泣いているように見えた。
真っ赤な口紅を引き、裕子は、ソファーに腰を下ろす。
テーブルに白い便箋を広げ、万年筆を握り、真里への想いを綴ろうとして、躊躇して、万年筆を置く。
思い直して、万年筆を握り締める、という動作を繰り返す。
白い便箋には、裕子がつけた、万年筆の点々とした筆跡が残った。
やがて、諦めて、便箋を両手でグシャグシャに握り潰し、くずかごに放り込む。
キュッと唇を噛むと、寝室に入り、夢の中にいる真里に口付けを落とした。
真里は幼子のように無邪気な笑顔で、規則正しい寝息を立てている。
裕子はしばらく真里の顔を見て、じっと立ち尽くしていたが、やがて静かに立ち上がり、化粧ポーチから口紅を取り出した。
- 215 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2002年12月10日(火)18時01分42秒
――― ―――
真里が目を覚ましたとき、裕子の姿はなかった。
残っているのは、裕子の香水の残り香と真里の唇に薄っすら残った口紅。
鏡台に真っ赤な口紅で書かれた『愛してる』の文字だけだった。
- 216 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2002年12月10日(火)18時06分09秒
- 更新しました。
前スレに、彩となつみの過去編を書きました。
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sea/1000005471/l25
この作品に投票して下さった方、ありがとうございました。
完結に向けての励みになります。
それでは、また。
- 217 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月10日(火)19時05分52秒
- 感動しました。
中澤さんが切ないです。かなり。
無事に帰ってきてええ〜〜〜(号泣
久しぶりに小説読んで泣きました。
- 218 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月10日(火)19時15分55秒
- 更新ありがとうございます。
とうとう戦いの日が・・・
吉とでるといいなぁ〜。
裕子&彩・・・どうか無事で。
- 219 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年12月13日(金)20時16分37秒
- 中澤、無事に帰ってきてくれ〜!
矢口を独りにさせないでくれよ〜!!
- 220 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月02日(木)20時45分09秒
- 続きがきになる〜!
中澤さん無事に戻ってきてー。
- 221 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月10日(金)02時41分49秒
- あっちゃん太郎さん・・・。
とりあえず、日本酒でも注ぎましょうか・・・。
飲ませて、そして・・・。
なんて考えているのは私だけではないはず!
- 222 名前:隠れ読者 投稿日:2003年01月15日(水)17時37分44秒
- どうなってしまうのだろう・・・
いつもいつもストーリーに引き込まれてしまいます。
- 223 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月23日(木)04時27分49秒
- そろそろ禁断症状が・・・
患者に更新というお薬を与えてください。(w
- 224 名前:名無しさん 投稿日:2003年01月23日(木)05時26分40秒
- もう、何回も読み直しています。続きがすっっごくきになるよぉ〜!!
待ってますよ(*^_゜)v
- 225 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003年01月24日(金)17時56分18秒
訂正です。
>>214
裕子はしばらく真里の顔を見て、じっと立ち尽くしていたが、やがて静かに立ち上がり、化粧ポーチから口紅を取り出した。
正しくは、
裕子はしばらく真里の顔を見ていたが、やがて静かに立ち上がり、化粧ポーチから口紅を取り出した。
です。
なんで2回も立ち上がってるんだよ!!
‥‥という間違いでした。
- 226 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)17時57分57秒
――― ―――
風のない夜で、虫の声一つしない、静かな夜だった。
満月にも関わらず、月は厚い雲に隠れて、その柔らかい光を見ることはできない。
裕子は真里の眠るアパートを抜け出し、夜半過ぎには、明日香の指定した街外れの一軒屋に到着した。
裕子が一軒家に足を踏み入れると、先に来ていた彩と明日香は、持って行く荷物のチェックを念入りに行っていた。
それから、三人で、計画の打ち合わせ、最終確認を行う。
任務は、安倍なつみの奪還。
願いはひとつ、生きて帰ってくること。
――それだけだった。
- 227 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)17時58分41秒
しかし、裕子には、疑問点が一つあった。
それは研究所への潜入の方法だ。
明日香の計画では、いとも簡単に、正々堂々と研究所内部に入れることになっている。
安倍なつみは『火の民』なので、当然、遺言書作成のために呼ばれる弁護士は、なつみと同じ『火の民』であってしかるべきだ。
かつては『火の民』の弁護士として活躍していた裕子は、弁護士ライセンスは所持しているものの、『神々の印』――赤い石を失ってしまった。
弁護士秘書として潜入する予定の彩は『風の民』である。
当然、『火の民』の印である赤い石を、その手にのせているわけではない。
以前、その疑問をぶつけてみると、明日香は自信ありげにニヤリと笑い、心配いらないよ、と言った。
明日香はどうやってこの難問をクリアするつもりなのか?
実際、危険を伴うのは自分と彩なのだ。
秘策があるなら、早くそれを示して欲しい。
裕子は苛立ちに似た思いを秘めながら、薄いインスタントコーヒーを啜った。
「‥‥さて、『火の民』になってもらいましょうか」
計画の最終確認を終え、コーヒーの入っている紙コップを片手に、明日香がいたずらっぽく笑う。
「‥‥やっと、出したわね。遅いっつーの」
彩は僅かに顔をしかめと、コーヒーを飲み干し、その紙コップを右手で握りつぶした。
- 228 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)17時59分15秒
「企業秘密ですから」
明日香は空になった紙コップを床に置くと、足元に置いてあるカバンから、小さなガラスの瓶を2つ取り出した。
裕子と彩にそれぞれ手渡す。
「何や?」
裕子は明日香から受け取った瓶を、部屋の薄暗い蛍光灯の光に透かしてみた。
小さな赤い錠剤が瓶の中ほどまで入っている。
「福田グループが総力をあげて開発しました。この錠剤で一時的に『火の民』になりすますことができます。2錠ずつどうぞ」
「噂では、1ℓ飲まないと効き目がないって話だったけど」
彩が小瓶を揺らした。
カシャカシャと瓶と錠剤がこすれる音が響く。
「初期のころは確かにそうでした。でも、改良に改良を重ねて、今では液体ではなく錠剤になってます」
「‥‥つまり、どーゆーことや?」
「『石』の色を変えることができる魔法の薬ですよ。一時的に、『火の民』、『水の民』、『風の民』全てになりすますことができます。中澤さんの真っ黒な石も、この薬で『火の民』の赤い石に戻るはずです」
「ふーん」
小さく頷くと、彩は、瓶の蓋を開け、手のひらに2錠の粒を落とした。
自分の傍らで躊躇している風の裕子の手のひらにも、強引に、2錠の粒を落とさせる。
- 229 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時00分06秒
「‥‥いかにも怪しげな薬やな。‥‥‥なぁ、ホンマに大丈夫なん?」
裕子は口調に不安を滲ませながら、手の中の赤い2粒の錠剤を凝視した。
「大丈夫です。‥‥たぶん」
明日香はそう言うと、小さく笑った。
「たぶんって何や。たぶんって」
「副作用は?」
彩は手のひらの錠剤を転がして弄ぶ。
「臨床実験では、2割弱の被験者が手足の痺れを訴えているというデーターがあります」
「‥‥ウチらにこんな危険なもん飲ます気か?」
「ベストではありませんが、これがベターな方法です。」
「‥‥そうね」
彩はため息をつきながら、明日香の言葉に頷いた。
「‥‥‥」
彩の言葉を受けて、裕子は恨めしそうに手のひらに転がる、小さな赤い錠剤を見つめる。
「6時間おきに飲んでください。8時間経つと、作用が薄れ、元の石の色に戻ります」
「痺れが来たら、どうするんや」
「‥‥各自で的確に対処してください」
「‥‥ぅぅぅ‥‥」
飲み込む決心がつかず、うなり声をあげている裕子の傍らで、彩は錠剤を口に放り込み、水で流し込んだ。
「しょーもないとこで臆病なんだね。覚悟決めてぐっと飲み込みなよ」
彩は呆れたように裕子を見つめた。
「そやかて」
「まだ、始まってもいないんだよ?ここで躊躇して、どうすんの?」
「ううぅぅ」
裕子は頭を抱えて唸り声をあげる。
- 230 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時00分50秒
裕子は頭を抱えて唸り声をあげる。
それから――裕子は、彩に羽交い絞めにされ、明日香に鼻を摘まれ、涙ながらに薬を飲ませられることになった。
薬を飲んで、僅か15分ほどで、裕子の左手の漆黒の石は徐々に赤みを帯び、かつての鮮やかな赤色に。
彩の左手の緑の石も、緑から黄色、黄色から橙色、橙色から鮮やかな赤色へと、変化していった。
薬の作用とはいえ、失った『神々の印』を一時的に取り戻したのだ。
裕子は感慨深げに自分の左手の――赤い石を見つめている。
今のところ、二人とも、副作用の手足の痺れを感じることはなかった。
いずれにしろ、始まってしまったのだ。
あとに引くことは考えていなかった。
- 231 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時01分31秒
――― ―――
舗装されていない荒れた山道を、4WDが走っている。
窓には厳重に目張りがされ、外の景色をうかがうことはできなかった。
運転席と後部座席の間には敷居が作られ、互いに会話を交わすことはできない。
内部に設置されたインターフォンを使ってのみ、運転席とのやり取りが可能となっている。
政府役人が迎えに来た車は、馬鹿でかい4WD車2台。
片方には裕子の持っていく法律の専門書が山ほど。
それと、裕子と彩のトランクケースがそれぞれ一つ。
もう片方には、裕子と彩、それと『火の民』の政府役人が2人と運転手の合計五人。
正直、こんな手段を使って、移動するとは思っていなかった。
裕子のことは腕利き弁護士、という触れ込みでの潜入となるわけだから、てっきり、最高級のリムジンでのお出迎えになるものと勝手に想像していたのに。
車で15時間かけての移動だとは聞いていたが、眠りかけては、車の大きな振動で目を覚ますということを繰り返している。
こんな調子では、熟睡することなどできない。
後部座席に座り、裕子はじれたように金髪をかきあげた。
金髪碧眼は、現役で弁護士を生業としていた頃から、変わることはない、裕子のスタイルだ。
裏家業をするようになってからは、黒い服にサングラスで武装して、周りとの関わりをできるだけ遮断するように生きてきた。
今日は――弁護士らしい服装を、と――明日香が用意してくれたベージュ色のシックなスーツに身を包み、裕子は本日数十回目となるため息を漏らした。
- 232 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時02分17秒
裕子の真向かいに座る彩は、静かに目を閉じている。
茶髪を黒髪に染め、結い上げている。
黒いかっちりとしたスーツに黒ぶちめがね。
いわゆる『秘書スタイル』だ。
これなら彩を知る人物もぱっと見た感じではわからないだろう。
上手く化けたものだ。
裕子は内心舌を巻いていた。
――― ―――
やっと、目的地に着いたときは、あたりは真っ暗だった。
厳つい造りのゲートの手前で、4WD車は停車した。
高さ十メートルはあるだろうか、白い壁が目の前を埋め尽くしてある。
裕子と彩は同乗していた役人の一人は、暫くお待ちください、と二人を車内に待たせ、ゲートの中の入っていく。
暫くして、打ち合わせが済んだのだろう。
役人は、一人の中年男性と二人の警備員を伴って戻ってきた。
車から降りた裕子と彩に、中年男性は「よくおいでくださいました。主任を務めている山崎です」と右手を差し出した。
山崎は『風の民』だった。
彼の左手には緑の石が輝いている。
「中澤裕子です」
裕子は山崎の手を取り、握手をかわした。
かたいゴツゴツとした山崎の皮膚の感触が、少し不愉快だった。
「秘書の石黒です」
裕子の傍らで彩が小さく会釈した。
山崎は満足そうに目を細め頷いた。
「先生、申し訳ありませんが、一応決まりですので、確認をお願いできますか?」
「‥‥かまいませんよ」
裕子が左手を差し出すと、山崎は左手の石とスーツに付いている弁護士バッジを確認する。
彩に対しても、裕子と同じように左手の石を確認した。
- 233 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時03分52秒
「確かに、確認しました」
山崎は重々しく頷くと、裕子と彩をゲートの中に誘った。
山崎、裕子、彩の後を二人の警備員が守るようについてくる。
警備員の左手には、それぞれ、緑の石と、青い石が、外灯の光を受けてキラキラと輝いていた。
『風の民』と『水の民』だ。
研究所に裕子と彩を連れて来た政府関係者は全て『火の民』だった。
ここで初めて、他の『民』が絡んでくるようになったのだ。
伝え聞いたとおり、この人工的に作られた街では、それぞれの『民』が共存して生活しているらしい。
皮肉なものだ。
自分が夢描いていた理想の街がここにあるというのに。
それなのに―――この街はやはり理想郷ではないのだ。
裕子は微苦笑を浮かべた。
- 234 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時04分33秒
「どうぞ」
山崎が二人を応接室に招き入れた。
ソファーに腰を下ろすと、温かいコーヒーが運ばれてくる。
芳しい香りのコーヒーを一口飲むと、生き返ったような心地になった。
「長旅お疲れ様でした。所長は明日出勤します。詳しい打ち合わせは、明日にして、部屋のほうでお休みください。必要なものは係りにお知らせください」
山崎が机の上のインターフォンを押すと、先ほどコーヒーを運んできてくれた2人の少女が入ってきた。
なかなか可愛らしい顔つきの少女達だ。
左手には青い石が輝いている。
『水の民』の少女達だ。
年の頃は十代後半に入ったばかり、といったところだろうか。
肩につかない程度で髪を切りそろえてある。
白衣を身に着けているところから察するに、若いながら、この研究所で働いているのだろう。
「中澤先生担当の高橋愛です」
「石黒さん担当の小川真琴です」
少女達は真っ直ぐな瞳で、裕子と彩を見つめた。
「部屋の中では何をなさっても結構ですが、部屋を出るときは、担当者に声をかけて、一緒に行動するようにしてください」
山崎はそう言うと、失礼します、と会釈して退室して行った。
- 235 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時05分07秒
――― ―――
移動している間、話しかけられることはなかった。
四人とも無言のまま、長い廊下を通って、宿泊する部屋に案内される。
裕子と彩の部屋は隣同士に位置していた。
「ほな、おやすみ」
「また、明日」
裕子は軽く挨拶を交わして、彩と別れを告げる。
今日は、何もできない。
とりあえず、明日の情報収集を待ってから動いたほうが得策だ。
そう判断したからだ。
裕子の部屋は8畳ほどの洋室が2つ。
バス、トイレが完備されていた。
入り口近くの洋室にはテレビ、ソファー、テーブル、冷蔵庫、小さな戸棚が置いてあり、内線電話が設置されている。
奥の寝室にはセミダブルのベッドが二つ。
裕子の着替えが入っているトランクケースが一つ、ポツンとベッドの上に置かれていた。
「なかなかいい部屋やね」
裕子は部屋をぐるりと見回した。
「政府の関係者の方がよく利用なさる部屋です」
「ふーん」
裕子は小さく頷きながら、この高橋愛、という少女を観察した。
パッチリとした目にすーっと通った鼻筋。
十年後が楽しみな女の子だ。
少し訛りがあるが、それがこの子をより魅力的に見せている要因の一つだろう。
- 236 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時06分00秒
「軽食、おつまみ、飲み物は冷蔵庫のほうに用意してあります。その他にご入用のものがありましたら、言ってください」
「アンタな」
「はい」
「ビールある?」
「はい、十種類の銘柄をご用意しています。お好きなものをどうぞ」
「風呂は?」
「二十四時間、いつでも入れます」
愛は姿勢をピシッと正しながら、裕子の質問に答えていく。
「隠しカメラは?」
「へ?」
「置いてあるんやろ?」
「あ、あ、あるわけないじゃないですか!」
愛はうろたえたように視線を彷徨わせた。
「じゃあ、盗聴器」
「ありません!」
「じゃあ、探して、あったらどうする?」
「それは‥‥」
「もし見つけたら、ただじゃ置かんで?」
「えぁ‥‥」
裕子は寝室に置かれたトランクケースの中から、小型の探知機を取り出した。
愛はじっと裕子の動きを見つめている。
「‥‥ベッドが二つあるってことは、アンタもここで寝るの?」
ふと思いついたように、裕子が問いかける。
「へ!?‥‥い、いえ、私は、自分の部屋でぇ」
愛は焦ったように、手を左右にバタバタ振って否定の意思を示した。
「ふーん」
「‥あの‥‥」
裕子がカチッと探知機のスイッチを入れると、探知機の小さな針が動き出し、スピーカーからは『ピーピーピー』という耳障りな音が流れ出した。
- 237 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時06分44秒
裕子は冷蔵庫の裏、ソファーの裂け目、タンスの裏を探しはじめた。
「うん‥‥この辺りやな」
探知機の針が大きく揺れた箇所――電気スタンド――を見つめ、裕子はニヤリと笑う。
テーブルの上の電気スタンドの配線をばらしていくと、コードに紛れ込ませるような形で、タバコ一本程度の大きさの盗聴器が仕掛けられていた。
「みぃつけたぁ。みぃつけたぁ」
節を付けて、裕子が歌い出した。
「え?」
「盗聴器発見」
「あ‥‥」
呆然とした顔で、愛は裕子の手の中の盗聴器を見つめている。
「さて、どうしようかな?」
裕子は口角を上げると、盗聴器をテーブルの上に投げ出した。
ガチャリと耳障りな音が響き、愛は身体を震わせた。
「‥‥あの‥」
愛は何を言っていいかわからない、といった様子で、口をパクパクと開け閉めする。
「ん?」
裕子は腕を組んで、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「失礼しますっ」
愛はペコリと頭を下げると、脱兎のごとく逃げ出した。
一人残された裕子は盗聴器を指先で弄びながら、くすくす笑う。
- 238 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時07分17秒
隠しカメラか盗聴器を仕込んであるかもしれないという懸念はあった。
仕事柄、どんな場所に盗聴器を仕込むかということもおおよそ知っている。
盗聴器は、この部屋に一つ。
後は、恐らく、彩の部屋にも一つ。
‥‥アイツ、何か、ヘマしなけりゃいいけど。
裕子は冷蔵庫を開け、ビールを取り出し、プルトップを空けた。
プシュッという音と共に、白い泡が溢れ出す。
あの付き人は盗聴器のことも、本当に知らなかった様子だ。
あのびっくり顔を更にびっくりさせて。
まん丸目玉が大きく揺らめいていた。
明日、朝一番に所長とご対面することになっている。
敵さんがどう出てくるか。
まずはお手並み拝見といきますか。
明日のことを考えて、自然と裕子の口元に微笑が浮かぶ。
自分が、次第に戦闘モードに切り替わっていることを自覚していた。
その証拠に――ほら、こんなにワクワクしている。
- 239 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年01月24日(金)18時07分54秒
つまみの入っていると思しき戸棚の引き出しを開けると、カップラーメンからガムにいたるまで、様々な種類の食品が並んでいる。
つまみになるものを物色していると、真里の好きな、チョコレートの甘い菓子が目に止まった。
甘いものが苦手な裕子は、反対に甘いものが大好きな真里とは異なり、普段はお菓子を口にすることはほとんどない。
‥‥これ、矢口が、好きやったな。
幸せそうな顔して食べてたっけ。
裕子はほとんど無意識のうちに、チョコレートのパッケージを破り取っていた。
真里のことは圭織にお願いしておいた。
圭織は、裕子の真剣な表情を見て、何も言わなかった。
ただ黙って頷いてくれた。
‥‥もう、とっくに目を覚ました頃だろうな。
怒ってるやろうな。
それとも―――泣いてるやろか。
矢口。
必ず帰るから。
アンタの胸に必ず帰るから。
届くはずのない言葉を胸の中で呟いた。
裕子は、チョコレートを口に運ぶ。
甘いチョコレートの風味と苦いビールが口の中で融合していく。
「‥‥早く片付けて、帰ろ」
裕子はポツリと呟いた。
- 240 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003年01月24日(金)18時09分25秒
- お待たせしました。
久しぶりの更新です。
- 241 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月25日(土)00時49分22秒
- 待ってました待ってました待ってました待ってました!
ありがとう作者さん 愛してるー。
- 242 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2003年01月25日(土)16時03分25秒
- 姐さんが仕事を終え、無事に矢口の元へと帰るコトを心の底から願ってます。
- 243 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月27日(月)03時09分22秒
- やたー 更新!
- 244 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月20日(木)15時56分55秒
- 保全
- 245 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月24日(月)22時38分58秒
- まだでしょうか?
いつまでも待ってます。
- 246 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月01日(土)08時57分02秒
- 待ってます・・・
- 247 名前:名無し読者。 投稿日:2003年03月01日(土)18時12分21秒
- そろそろ・・・更新して欲しいな〜と思ったり・・・
て云いながらいつまででも待ちますが(w
- 248 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時29分23秒
――― ―――
真里の夢を見た。
夢の中で真里は裕子に柔らかく笑いかけていた。
夢の中、その笑顔、それだけで、生きていけるような気がしていた。
- 249 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時30分17秒
――― ―――
『ピーピーピー』
無機的な電子音の音で、裕子はまどろみから目覚めた。
優しい夢の余韻に浸りながら、裕子は柔らかいスプリングのきいたベッドに上体を起こして、大きく背伸びをする。
おもむろに立ち上がり、グラスに水を注いでテーブルの上に置いた。
カーテンを開けて、外の景色を眺める。
ゲートから研究所への真っ直ぐな道路を中心にして、葉脈のように枝分かれした路地には商店街、遊興施設、学校、公園などが立ち並んでいる。
まさに、この、研究所を中心に形作られた街と言えるだろう。
ゲートを囲っていた高い塀は、街全体を取り囲むように設計されている。
研究所の裏は高さ500メートル程の切り立った崖になっており、また、海流が複雑で近づくものはいない。
まさに、陸の孤島だ。
早朝にも関わらす、街は活動を始め、人が行きかっていた。
窓の外を眺めていた裕子はため息をついて、左手に目をやる。
赤い石は微かに黒みがかっていた。
‥‥6時間おきに飲め‥‥か。
そろそろ薬の切れる頃だ。
ベッドの上、二つ並んだ枕の下からポーチを引き抜き、中に入っている赤いカプセルを二錠つまみ出す。
明日香から受け取った、人工的に『神々の印』を創り出す薬。
そして――8時間後には効力を失う薬。
口の中にカプセルを放り込むと、水で流し込んだ。
カプセルが食堂を通り抜ける、独特の喉ごしを味わう。
「うえ‥‥最悪」
裕子は気を取り直すかのように髪を乱暴にかきあげると、シャワーを浴びるために、浴室に向かった。
- 250 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時30分51秒
シャワーを浴びながら、頭の中を整理する。
今日は、所長とタイマンを張らなければならない。
どんな狸がでてくるのか。
久しぶりに獲物と対峙するハンターのように血が騒ぐのが自分でもわかる。
狸をどんな風に料理しようか。
そう考えた、自分に苦笑する。
‥‥やめやめ。
最終目標は『安倍なつみ』の奪還。
それ以外は切り捨てることが重要だ。
余計な考えは、思考を混乱させるだけだ。
裕子はシャワーの蛇口をひねり、熱いお湯を出した。
裕子の白い肢体が瞬く間に赤みを帯びてくる。
裕子は瞑想するように目を閉じ、じっとシャワーに身体を打たれた。
裕子がスーツに身を包み部屋から出ると、丁度、彩も、部屋から出てくるところだった。
昨日同様、彩はかっちりとした黒いスーツを身に纏い、黒ぶちメガネ、髪は結い上げている。
「おはよう」
柔らかい微笑を浮かべて、裕子は彩に歩み寄った。
「おはようございます」
彩の挨拶を受けて、裕子は彩の顎に手をかける。
「見てますよ」
「かまへん。ただの挨拶や」
そう言うと、裕子は軽く唇を触れ合わせた。
知らない人が見れば、それは、まさしく恋人同士の朝の挨拶であった。
- 251 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時31分25秒
廊下で二人の様子を見ていた愛と麻琴は顔を赤くして俯いてしまう。
その隙を狙って、彩の耳元で囁いた。
「盗聴器があったで」
「知ってる」
裕子の言葉に、彩は微笑みを浮かべ、簡潔に答える。
にこやかに笑いながら、裕子と彩は歩き出した。
その後ろから愛と麻琴が複雑な表情を浮かべてついて来る。
食堂で、トレーに料理を受け取りながら、愛と麻琴の様子を伺うと、二人とも何やら小声で耳打ちをしていた。
恐らく、裕子と彩の関係についての情報交換をしているのだろう。
‥‥まずは、計画通り。
裕子と彩は視線を合わせて、ニヤリと笑った。
コーヒーとトースト、野菜サラダという、軽めの朝食を食べる。
それから、裕子は所長と会談、彩は、裕子から頼まれた書類の作成をすることになっていた。
- 252 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時32分35秒
――― ―――
小太りの、まさしく、狸、という形容詞がぴったりくるような所長は、額ににじむ汗をハンカチで拭きながら応接室に入ってきた。
左手には『風の民』の印である、緑の石が輝いている。
裕子は、初対面の挨拶もそこそこに、昨夜部屋で発見した盗聴器を投げ出すように応接室のガラスのテーブルに投げ出して、さも不愉快だというように、眉間に皺を寄せ、けんか腰に応対する。
「‥‥二度とこのようなことがないように、私が責任を持って、対処しますから」
裕子に恐れをなしたのだろう。
所長は言い訳をすることなく、ひたすら謝り続けている。
「‥‥どうして、こんな真似を?」
「‥‥あなたを試したわけではないのです。あの部屋は、色々、政府の方々や、その他の研究所の方々が滞在するわけですから。‥‥その‥‥予防策です」
「予防策とおっしゃいますと?」
「‥‥色々、貴重な情報を持ち出しされても困りますから」
「‥‥産業スパイの防止のためだと?」
「はい」
「その割には、陳腐な盗聴器ですよね。この程度のものは探知機で簡単に探せますよ」
「ですから、予防策、だと申しているのです。あの部屋に滞在なさる方は、前もって、会話が全て筒抜けであるということを理解した上で、あの部屋を利用なさっています」
「我々には、そんな説明、一切なかったですよ」
「昨日は、パタパタして、その説明をするのをウチの部下がうっかり忘れていたようでして‥‥本当に申し訳ありません」
空調が利いている部屋にも関わらず、所長は、額にじっとりと汗を滲ませている。
- 253 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時33分27秒
裕子は所長の濡れてテカっている額に視線をやる。
‥‥嘘だな。
恐らくは、自分たちが気づかずにいたら。
恐らく、説明も何もないままに、部屋でなされた会話が筒抜けになっていたであろう。
「他に仕掛けはないんでしょうね?」
「他に‥‥とは?」
「例えば、隠しカメラとか」
「ありませんよ。これからはないように徹底させますから」
「‥‥安倍なつみにも仕掛けてるんじゃないでしょうね?」
「まさか‥‥先生の機嫌を損ねるようなことするわけないじゃないですか。私たちとしては、安倍が、研究の成果を全て研究所に帰属させる、と一筆書いてもらえたら、それでいいんです」
「そのために私を呼んだと?」
「その通りです」
所長は重々しく頷いた。
「‥‥私の依頼人は、安倍なつみさん‥‥ということになってますよね?」
「そうです」
「‥‥弁護士は依頼人の最大の利益のために働くものですよ」
裕子は皮肉げに口元を歪めた。
「安倍さんが、そう書いてくれることが、彼女の最大の利益に繋がると、私は確信していますがね」
「‥‥‥」
裕子はゆっくりと息を吐き出しながら、所長を睨みつける。
- 254 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時34分08秒
「その一点さえ彼女が了承してくれるならば、我々は、彼女の要求をできうる限り受け入れるともりです」
所長はそう言うと、他に言うべきことは何もないとでも言うように、口を噤み、目を細めた。
明日香からの情報と所長の言い分とでは、食い違う点が多々見られる。
明日香は安倍なつみの命が狙われている、と言っていたのに対し、所長は、安倍の研究内容の権利を全て放棄してくれるのならば、彼女の要求をできうる範囲で受け入れると言っている。
研究所と政府高官との間で意見が対立しているのか。
それとも、弁護士の手前、本音を明かすことを良しとしないのか。
この所長は人の良いふりをしている狸なのか。
‥‥‥それとも狸の皮を被った、猛獣なのか。
「先生、よろしくお願いします」
裕子に慇懃無礼に頭を深々と下げ、所長は、応接室を後にする。
- 255 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時34分53秒
「‥‥くそジジイ」
コーヒーカップの底に残った生温いコーヒーを飲み干し、裕子はぼやいた。
「‥‥中澤先生、聞こえてます」
所長と入れ替わりに、応接室に入ってきた愛は困惑気味に目じりを下げた。
「そら、失礼。口が滑ったわ。でも、本音やで」
「‥‥‥」
「ま、ええわ‥‥それより、安倍なつみに会いたいな」
「安倍さんは、自室にいます」
「そうか」
「‥‥中澤先生」
愛がおずおずと裕子に呼びかける。
「ん?」
「所長のことですが‥‥気を付けて下さいね」
「‥‥どういう意味や?」
「安倍さんの付き人は‥‥所長の娘さんです」
「親子でこんなトコに勤めてるん?」
「はい」
「いくつや?」
「はぁ、今年で53になるって聞いてます」
「所長のことやない。娘さんの話や」
「私と真琴の同期で、十三歳です」
「‥‥‥」
「いい子ですよ。所長に全然似てなくて。っと‥‥違った。似ているところもあるかもしれませんが、私からは似てないと思います」
「アンタ等、何年スキップしたんや?」
「え‥と‥‥十年ぐらい‥かな?」
愛は大きな目をパチパチと瞬かせた。
- 256 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時35分23秒
「‥‥そうか」
「はい」
「‥‥同期ね」
「はい」
「じゃあ、所長の文句も言えんわな」
「ええまあ。‥‥やっぱり、父親の悪口は聞いても面白くないと思うし」
「せやな。‥‥どんな父親でもな」
「はい」
神妙な顔で愛は頷いた。
「いい子やな」
裕子は微笑み、慈しむように愛の肩を軽く叩いた。
- 257 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時36分05秒
――― ―――
彩は個室にこもり、持ってきたノートパソコンのモニターを見ながら、指を動かし、キーボードを叩く。
大きな窓からは暖かい日差しが差し込んで、部屋の電気をつけなくても、十分な光が保たれている。
「ねえ」
「は、はいっ」
部屋の隅でまどろんでいた麻琴は、彩の呼びかける声に反応し、ガタガタと耳障りな音をたてて椅子から立ち上がった。
自分の慌てっぷりが恥ずかしくなったのだろう。
赤い顔で、気まずそうに彩を見た。
彩は麻琴のたてた大きな音に驚いたものの、持ち前のポーカーフェイスで「コーヒー入れてくれない?」と、キーボードの上で踊っていた手を休める。
「はいっ」
威勢のいい声と同時に、麻琴は、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。
ほどなくして、コーヒーの芳しい香りが部屋を包んだ。
マグカップに入ったコーヒーを受け取って、彩はひとこと「おいしい」と呟く。
麻琴も彩の向かいに座り、同じようにマグカップに入ったコーヒーを口に含んだ。
静かな時間が流れる。
彩も麻琴も何とはなしに、窓の外の深緑を眺めていた。
「ねぇ」
沈黙を破って、彩が口を開く。
「はい」
麻琴が彩に視線を合わせ、首を傾げた。
「‥‥安倍さんって‥‥どんな人?」
「‥‥‥」
麻琴は息を呑み、彩を凝視した。
「答えにくい質問だった?」
彩の質問に、麻琴はふるふると首を横に振る。
肩につかない程度の髪が揺れた。
それから、膝の上に両拳を握り締めて、じっと俯いたまま、微動だにしない。
- 258 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時37分06秒
彩は待った。
麻琴が口を開くまで、ひたすら黙っていた。
十数分が過ぎた頃、麻琴は、重たい口を開き始めた。
「‥‥安倍さんは‥‥先輩です」
「そうね」
彩は大きく頷いた。
「‥‥尊敬している先輩です。優しいし、抜けてるところもあるけど頼りになるし。遅刻はするけど、休んだことはないし。料理はそれなりにおいしいし。目はパッチリしてるし。優秀だし。かっこいいし。可愛いし。それなのに、それなのに、あんなに一生懸命研究する人、私は他に知りません。それなのにっ、部屋に閉じ込めてしまうなんて。ひどいと思います」
一旦喋りだすと、麻琴は、息継ぎするのを忘れたかのように勢いよく話した。
「‥‥まあまあ‥落ち着いて」
彩は宥めるように、麻琴の両肩を掴んで、軽く揺すった。
「私は落ち着いてますっ」
麻琴は僅かに語尾を荒げた。
「‥‥‥」
彩は無言で、麻琴の両肩に置いた手を離した。
「‥‥すいません」
ばつが悪そうに、麻琴は肩をすくめた。
「いや、いいけど」
「‥‥安倍さん、どうなるんですか?」
麻琴の瞳は微かに潤んでいる。
「‥‥‥」
彩は黙って首を横に振った。
「‥‥すいません。石黒さんがわかるわけないですよね」
「安倍さんのこと好き?」
「‥‥はい」
麻琴は顔を赤らめると、微かに俯きがちになりながらも、しっかりとした口調で答えた。
- 259 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時38分57秒
−―― ―――
安倍なつみの自室は研究棟から離れた一角に位置していた。
愛の道案内で、裕子はなつみの部屋へと向かう長い渡り廊下を歩いていた。
嫌がらせやな、これは‥
移動に時間かかりすぎやっちゅーねん。
まいった、まいった。
表情には出さずに、心の中でぼやく。
「ここです」
愛は廊下の奥に位置する一枚のドアの前で足を止めた。
ドア横に設置されているセンサーに左手を置いて、指紋と石を照合させる。『ピー』という電子音と共に、『カチャリ』とドアのロックの外れる音が聞こえる。
「誰ですか?」
少女の声がインターフォンから聞こえてきた。
「高橋です。開けて下さい」
「今、開けるね」
短い応答の後、再び『ガチャリ』とロックが外れる音がした。
「愛ちゃん」
分厚いドアを開けて、ツインテールの小柄な少女が顔を覗かせた。
少女の左手には『風の民』の印である、緑の石が輝いている。
- 260 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時39分27秒
「安倍さんは?」
「絵、描いてるよ。落ち着くんだって」
愛は少女の言葉に頷くと、裕子を促しながら、部屋の中に入る。
少女は愛の背後に立っている裕子の顔をじっと見つめた。
「弁護士の中澤先生だよ。安倍さんに会いたいって。取り次いでもらえるかな?」
「初めまして。弁護士の中澤裕子です」
愛の紹介に合わせて、裕子は軽く頭を下げる。
「新垣里沙です。安倍さんの付き人をしてます」
少女も裕子同様ぺこりと頭を下げた。
少女の動きに合わせて、ツインテールがヒョコヒョコ揺れる。
「ああ、あんたが」
「え?」
「いや、何でもない」
裕子は笑いながら、ひらひらと手を軽く左右に振って、否定の意を示した。
先ほど、愛が言っていた、所長の娘、か。
なるほど、愛の言っていた通り、所長と似てると思うところは見当たらない。
広いおでこが似ているといえば、似ているかもしれないな。
裕子は、里沙の顔を見ながら、そんなことを考えていた。
- 261 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時40分16秒
「‥‥でも、あれやな。えらい、厳重やね。指紋と石の照合で外側の鍵が開いて、内側からも鍵がかかってんのかい」
裕子は自分の背後にある、たった今入ってきたばっかりのドアを指差す。
「ええ、まあ」
里沙は苦笑して頷いた。
「両方、鍵を解除せんと、ドアは開かんの?」
「そうです。二重ロックになっています」
「‥‥どの部屋もこんなんかい」
「‥‥いえ‥‥安倍さんだけです」
里沙は言葉を濁した。
「‥あ?」
裕子の怪訝な視線に、里沙は何も言わず、ただ、視線を逸らした。
黙って二人の会話を聞いていた愛が、取り繕うように、裕子との会話を続ける。
「以前はそうでもなかったんですが‥‥今は‥‥所長命令で‥‥」
「‥‥ふーん」
裕子は頷くと、興味深げに室内を見渡した。
気づかれないように、スーツのポケットに忍び込ませた盗聴器探知機のスイッチを入れたが、探知機が反応することはなかった。
まずは一安心といえるだろう。
- 262 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時40分53秒
なつみの部屋は、三つの部屋とバス・トイレから構成されていた。
ドアを入ってすぐに小キッチン。
廊下側と同じく、ドアの横には、ロックを解除するためのセンサーが取り付けられている。
この部屋は、今は、付き人の里沙が使用している。
そこを通り抜けて、居間。
ソファー、テーブル、テレビなどが置かれている。
その奥が、なつみの寝室。
今、なつみは寝室で、カンバスに絵を描いているところだという。
里沙の案内で、寝室に足を踏み入れると、油絵の具の独特の臭いが鼻をつく。
裕子は思わず、顔をしかめた。
壁に沿って置かれたベッドの傍らで、カンバスを立て、椅子に座り、『カリカリ』と忙しく筆を動かしている。
カンバスには、ウサギやくまなどの動物と人間の少女が描かれていた。
裕子にはその絵が、ウサギやくまに囲まれた少女が両手をあげて助けを求めているように見えた。
背後の気配に、なつみは、ゆっくりと振り返る。
ショートカットに黒目がちの瞳が揺らめいていた。
見慣れない裕子の姿に、おびえたような表情を浮かべる。
助けを求めるように、なつみは里沙と愛の顔を見た。
- 263 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時41分42秒
「‥‥誰?」
「安倍さん、弁護士の中澤さんです」
愛はゆっくりと言葉を区切って、裕子をなつみに紹介する。
「‥‥‥」
なつみは裕子を一瞥すると、僅かに繭をひそめ、あからさまに視線を逸らした。
「中澤裕子です。よろしく」
裕子は気にする様子もなく、にこやかに笑いかけた。
「‥‥‥」
視線を逸らせたままの、なつみの身体は微かに震えていた。
両膝に置かれた拳は硬く握られていて、肩は上がり気味にこわばっている。
「‥‥安倍さん」
無言で縮こまったなつみに、理沙は、困ったように目じりを下げた。
「‥‥あと、秘書がいるんですが、今、ちょっと席を外していて。もうすぐこっちに来るとは思いますが」
裕子はなつみに歩み寄ると、視線を座っているなつみに合わすように屈みこんだ。
「‥‥‥」
なつみは、意地でも口をきくものか、というように、口をへの字に曲げている。
「こんなに嫌われるとはね‥‥困ったな」
裕子は苦笑して、髪の毛をかきあげた。
- 264 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時42分13秒
「‥‥コーヒーを頂けますか」
裕子は肩をすくめ、我関せずとばかりに、ベッドに腰を下ろし、里沙にコーヒーを要求する。
「‥‥あなたに出すコーヒーはありませんから」
なつみが口を開いた。
「やっと、喋ったな」
裕子はニヤリと笑った。
「‥‥中澤さんは――所長に呼ばれてきたんでしょう。‥‥あたしは弁護士なんか必要ありません。あなたにお話しすることなんかありませんから」
なつみは素っ気無い口調で応答する。
裕子の挑発に乗ってしまった自分が腹立たしかった。
「こんな部屋に閉じ込められて。それで満足なんか?」
「そんなわけ、ないでしょ」
「せやろ?」
「‥‥‥」
「なのに、何も、話すことはない、言うんか?」
「‥‥‥」
「‥‥無駄足ゆうことやな」
深いため息をついて、裕子は額に手をやる。
「‥‥‥」
「まあ、ええよ。秘書が来たら帰らせてもらうから」
「‥‥‥」
「中澤先生」
愛が咎めるような声を発した。
「しゃーないやん。依頼人あっての、弁護士稼業やで?依頼人も居らんのに、どないせーちゅーの」
「で、でも」
「彩が来たら帰るからな」
「‥‥‥」
彩、という言葉に、なつみは僅かに反応する。
伏せられていた瞳を一瞬上げ、裕子を一瞥したが、やがて、すぐに視線を逸らしてしまった。
- 265 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時42分44秒
――― ―――
「‥‥遅れました。すいません」
彩と麻琴がそろって、頭を下げると、
「遅い」
裕子は偉そうに胸を張って、鼻を鳴らした。
「だから、謝ってるでしょ」
彩は裕子を軽く睨む。
彩の姿を視界に入れたとたん、なつみの身体が僅かに揺らいだ。
見慣れない黒髪、黒ぶちメガネ――だけど――メガネの奥の優しい瞳は少しも変わっていない。
けれど――肝心の石の色が違う。
私の知っている彩は『風の民』――緑の石を持っていた。
信じられないようなものを見るように、なつみは彩を凝視する。
- 266 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時43分16秒
「はじめまして。中澤弁護士の秘書をしています。石黒彩と申します」
なつみの強い視線を気にする様子も見せず、彩はなつみに会釈した。
「来たばっかりで悪いがな、彩、帰るで」
「‥‥何で?」
どすの聞いた声を発しながら、彩は裕子を睨む。
「‥‥安倍さんが言うにはなー。弁護士なんかいらん。ウチ等に飲ますコーヒーなんかない。ついでに話すことも何もないそうや」
「へー‥‥って、それであっさり引き返すの?‥‥それでも弁護士?ちゃんと仕事して下さいっ」
「じゃあ、アンタが説得せい」
それっきり、裕子はだんまりを決め込む。
彩は深いため息をついた。
それから、なつみの前に進み出て、彼女の前に跪く。
二人の視線がかち合った。
「安倍さん」
「‥‥‥」
なつみの瞳は不安で揺らいでいた。
「安倍さん‥‥私たちを信用して下さい」
彩はなつみの向かいに跪くと、なつみの両手を握り締め、じっと目を見つめる。
『なっち』
口の動きだけで伝える。
「‥‥っ‥」
なつみの瞳が大きく見開かれた。
「‥‥ここで飲むコーヒーの代金は払いますから‥‥話だけでも聞いてもらえますか?」
「‥‥‥」
「なつみさん」
彩に名前を呼ばれて、ピクリとなつみの身体が反応する。
懐かしい声の響き。
- 267 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時43分50秒
「‥‥話だけなら‥‥聞いてもいいですよ」
なつみがそう言うと、部屋の隅で固唾をのんで事の成り行きを見守っていた、愛、麻琴、里沙の顔にも安堵の笑みが浮かんだ。
それから、場所を居間に移し、ソファーに腰を落ち着けて、神妙な顔つきの裕子、彩、なつみが顔をつき合わす。
裕子は大まかな今までの流れと、所長の意見をなつみに伝えた。
なつみは終始無言でじっと説明を聞いていた。
「まあ、よく考えてみてや。ウチと彩でアンタの話を所長サイドに伝えるから」
「‥‥はい」
「コーヒーご馳走さまでした」
彩はサイフから一枚の銅貨を取り出し、テーブルの上に置く。
それから、隣の裕子を肘で突付いた。
「何や、彩」
裕子は彩を見て眉をひそめる。
「先生も出してください」
「なぁ、彩」
「先生」
キッと彩は裕子を睨みつけた。
「‥‥キッチリしてんな」
ブツブツ呟きながらも、裕子は彩に習って、スーツのポケットから銅貨を取り出し、テーブルの上の銅貨に並べて置いた。
彩は二枚の銅貨を手に取り、なつみの手のひらに握らせた。
そして、なつみの両手を、自分の手で包み握りしめた。
「コーヒーの代金です」
「ええっ‥‥い、いいですよ」
なつみが慌てたように首を横に振る。
「駄目です。こういうことはキッチリしておかないと。最初の契約ですから」
彩はそう言うと、口角を上げて、不適な微笑を浮かべた。
- 268 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時44分31秒
――― ―――
裕子と彩が退室し、部屋が静かになると、なつみは目を閉じ、ソファーに身体を横たえた。
今日は、色々なことがありすぎた。
物思いに浸るなつみに気遣い、いつもより早めに里沙が帰った後、なつみは一人、彩が残していった銅貨を見つめていた。
研究室への出入りを禁止されて以来、絵を描いたり、読書をしたり、今まで研究にどっぷり漬かっていた身としては、時間が有り余って仕方がない日々。
研究の方も気がかりだったし、何より、軟禁状態の自分の身がどうなるのか、不安でたまらない日々を過ごしていた。
里沙は色々、楽しい話題を提供してはくれるけれども。
そんな話は、耳を素通りして、頭にはちっとも残らない。
そんな中、所長が弁護士を呼んだという話を、理沙から聞いた。
信用できないと、勝手に思っていたのだが。
あの、弁護士秘書。
あれは、間違いなく、彩、だった。
軟禁されてから、連絡が途絶えたままになっている親友。
――まさか、乗り込んできてくれるなんて。
本来は医者である、彩が弁護士秘書、という肩書きで、自分の目の前に現れてきてくれた。
しかも、同じ、『火の民』として。
どういう手品を使ったのか。
噂で、人工的に『神々の印』を創り出す、夢の薬が開発されつつある、という話を聞いたことがある。
その薬を使ったのだろうか?
危ない橋を渡ろうとしているのだろうか?
あの、去り際の、何か言いたげな視線。
銅貨を渡したときの、彩の様子。
- 269 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年03月04日(火)16時45分03秒
何かある。
何かヒントが。
きっと‥‥。
銅貨を手で弄っていると、普通の銅貨より、厚いような気がした。
ふとしたはずみで、銅貨の鷲のレリーフの翼端を押すと、微かな手応えがある。
銅貨に顔を近づけてみると、銅貨は表と裏に薄くではあるが裂け目ができている。
どうやら、銅貨を二枚張り合わせ、中に隠し場所を作ってあるらしい。
なつみは注意深く銅貨をスライドさせた。
銅貨を摘む両手が汗ばみ、微かに震えくる。
中には、後ろが透けて見えるほどに薄い紙が一枚入っていた。
胸の高鳴りを押さえながら、なつみは破かないよう慎重に、紙を広げていく。
そこにはびっしりと隙間なく文字が書き込まれていた。
裕子と彩が乗り込むことになった経過が簡潔に記されている。
もう一枚の銅貨をスライドさせると、同じように、一枚の紙が現れた。
それにはなつみの今後の行動に対する注意点留意点が記されている。
「‥‥あの馬鹿」
視界がぼやけてきて、鼻の奥がつーんと熱くなった。
泣き笑いの表情を浮かべる。
自分のために、危険を犯してくれた友人を、ありがとう、と力いっぱい抱きしめたい気持ちにもなるし、また、一方で、どうしてこんな無茶をしてくれるのか、と口汚くなじりたくもあった。
『なっち、あきらめないで』
彩の手紙の一文はそう書かれていた。
「‥‥わかった。‥‥なっち諦めないから」
なつみはそう呟くと、静かに目を閉じた。
- 270 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003年03月04日(火)16時45分45秒
- 更新しました。
- 271 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月04日(火)18時15分35秒
- うぉー!
更新だー!
- 272 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月04日(火)20時56分53秒
- 待ってました…
- 273 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月04日(火)21時04分28秒
- 待ってました(泣)
- 274 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月05日(水)00時12分32秒
- ずっと待ってたよ〜(^O^) これからも期待してまぁーす☆
頑張って下さい!!
- 275 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月07日(金)00時11分42秒
- キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
- 276 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月18日(火)10時41分08秒
- 更新されてたとは・・・
続きがめっちゃ気になります。
待ってまーす。
- 277 名前:277 投稿日:2003年03月30日(日)12時17分21秒
- 中澤の矢口に対する「狂おしいまでの独占欲」(204)が、いずれ『PEACE』の仲間への裏切りに暴走しないかと不安で不安で。(最初は、明日香の狙いもそこらへんかと思った)
『PEACE』と距離をおこうとしてる保田などはかえって、絶対に信頼できるという安定感があるんだけど。
- 278 名前:一読者 投稿日:2003年04月05日(土)18時49分05秒
- このスレをもう一度読み直してみたが
明日香の意図が何なのか非常に気になる。
体制側とか支配者側というのは変化を嫌うのが普通。
普通なら安倍なつみを抹殺する側にまわるはずだ。
なぜ明日香は安倍なつみを助けようとしているのか。
- 279 名前:名無し読者 投稿日:2003年04月22日(火)01時03分12秒
- この小説凄いですね。
めちゃくちゃ先が気になります!!!(w
- 280 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月08日(木)09時04分45秒
- 保全
- 281 名前:あやラヴ 投稿日:2003年05月11日(日)16時18分28秒
- 始めまして、今日読み終わったんですが続きが気になります。
頑張ってください。
- 282 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)05時27分28秒
- 保全
- 283 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月23日(金)01時11分29秒
- まだかな、まだかな…。
- 284 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月27日(火)12時39分53秒
- 学研の、おばちゃんまだかなー。
- 285 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時12分41秒
――― ―――
一通りの手続きを踏んで、なつみの部屋を退室した後、当然のように、裕子は彩の部屋の前に立つ。
「寄ってくの?」
「当たり前やん。昨夜は寂しかったやろ?」
「そんなこと、ヒトコトも言ってないから」
「言わなくても顔に書いてあるわ。なぁ?」
首だけを90度ほどひねり、裕子は、いたいけな少女に同意を求める。
「へ!?」
「‥‥え‥‥と」
案の定、愛は大きな目を丸くし、一方、麻琴は困ったように視線をさまよわせた。
裕子と彩の、朝のキスと抱擁を目の当たりにしている二人にとって、裕子と彩の隠語のような会話は、思春期の少女の想像力をいたく刺激するような内容で。
自然と――愛と麻琴の顔に、朱がさしてくる。
「何やの、赤くなって。変な想像してるんと違うかぁ?」
「それは、ゆーちゃんでしょ」
「何言うてんの、ウチはなぁ‥‥」
「食事はルームサービスでお願いするわ。‥‥ゆーちゃん‥‥中澤先生は、今夜はあたしの部屋に泊まるから」
裕子の言葉を遮り、彩は二人ににこやかに告げた。
「‥‥はい、わかりました。‥‥お疲れ様です」
彩の言葉を受け、麻琴は会釈をし、傍らで唖然としたように立ちつくしている愛を肘で突付いて、促がした。
愛も麻琴に倣って、慌てたように会釈する。
「お疲れさん」
「お疲れ様」
大人な二人は、ドアの向こうに消えていく。
- 286 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時13分42秒
「‥‥びっくりした」
愛は呆然としたようにドアを見つめている。
「うん。大人の世界って感じだった」
麻琴は愛の言葉に、感慨深そうに頷く。
「まこっちゃん。普通だね」
「そんなことないよ。びっくりしたよ。‥‥それよりさ、ここから早く移動しようよ」
「まこっちゃん?」
「‥‥いや、だってさ、声とか聞こえてきそうじゃん」
「声?」
愛はきょとんと目を丸くして、麻琴を見つめる。
愛に見つめられて、麻琴の頬がしだいに赤く染まってきた。
「‥‥何でもない。ほら、行くよ!」
麻琴は、訳がわからない、といった風の、愛の腕をつかむと、ずんずんと足音をたてながら足早に廊下を歩いていく。
- 287 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時14分18秒
――― ―――
「もう、動けん。ゆーちゃん、限界や」
部屋のドアが閉じられると、裕子はソファー上に倒れこんだ。
「限界にはまだ早いんじゃない?‥‥着替えないと、スーツしわが寄るよ」
「‥‥わかってるがな」
「‥‥自分でアイロンかけてね」
彩は盗聴器の探知機を取り出し、部屋の中を検査する。
探知機からは異常を知らせる警告音は発せられなかった。
薬を飲んでから、すでに六時間近くが経過していた。
裕子の石、彩の石ともに、まだ赤色――『火の民』のままだ。
薬の効力が切れてしまうと、石は本来の色を取り戻す。
裕子は『神々の印』を失った者――漆黒色に。
彩は『風の民』――緑色に。
彩はピルケースから錠剤を4錠取り出し、その内の2錠をミネラルウォーターと共に、裕子に手渡した。
裕子は無言で薬を流し込む。
明日香から受け取った人工的に『神々の印』を創り出す薬。
そして――8時間後には、その効力を失う薬。
- 288 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時14分51秒
「‥‥恋人同士のふりは疲れるわ」
ソファーの上の裕子がうつ伏せ状態で、くぐもった声をあげる。
恋人同士という設定のおかげで、こうして違和感なく部屋に入り浸ることができるのだが、その反面、気疲れして仕方がなかった。
「あたしじゃ不満なの?」
「そんなことあらへん。‥‥美人やし。ただ‥‥」
「好みじゃない?」
「‥‥綺麗なおねーさんは大好きやし、可愛い女の子も大好きや。ただ‥‥気がとがめるだけや」
「演技でも?」
「‥‥‥」
裕子の脳裏に浮かぶのは、ただ一人、置いてきた恋人のことだけだ。
裕子は黙り込み、唸り声をあげる。
- 289 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時15分35秒
「‥‥なかなか迫真の演技だったと思うけど。朝の抱擁の時なんか、マジでときめいたりして」
彩はソファーの肘掛に浅く腰掛け、裕子の柔らかな金髪を軽く撫で付けた。
「‥‥どーも」
裕子はくすぐったそうに首をすくる。
「あの二人も可愛かったね。真っ赤になっちゃってさ」
彩は心底おかしそうに、クスクス笑った。
「‥‥子どもには刺激が強すぎたかもな」
「いい経験になったんじゃない? 思春期にこういう閉鎖的な空間にいると、刺激も少ないしね」
「‥‥経験者は語る‥‥か?」
「残念でした。あたしはちゃんと思春期を楽しんだあとで、ここに来たの」
「‥‥そうかぁ‥‥」
「夕食まで、まだ時間あるよ。少し寝れば」
「‥‥んー」
彩の声に裕子は眠そうな声をあげ、ソファーの上でモゾモゾと身じろぎしていたが、ややあって、むくりと起き上がった。
「‥‥可愛い子やったな」
「‥‥え!?」
唐突な裕子の言葉に、着替えの途中だった彩は驚いたように振り向いた。
丁度、スーツのスカート、ブラウスを脱いで、下着姿になった所だった。
裕子にしてみれば、着替えの最中とは思いもつかずに、思いついた話題を彩に振ってみただけなのだ。
「‥‥ご、ごめん‥‥見るつもりはなかったんや。‥‥もう寝る」
ばつが悪そうに言い訳を口走ると、再び、裕子はソファーに身を沈める。
- 290 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時16分20秒
「別に減るもんじゃないし、いいよ。で、何だって?」
「大したことないから、いい」
「可愛い子が、どうのこうの言ってたよね」
気にする様子もなく、彩は手早くTシャツと短パンを身につけた。
「‥‥‥」
裕子は拗ねたように、だんまりを決め込んでいる。
裕子の様子に彩は大げさにため息をつく。
「ったく。‥‥子どもだね」
彩は裕子にゆっくりと歩み寄ると、先ほどと同じように、ソファーの肘掛に腰を下ろした。
「‥‥うっさい」
「可愛い子って誰?」
「‥‥‥」
「‥‥なっちのこと?」
「‥‥そうや」
裕子はようやく顔を上げて、彩と視線を合わせた。
――拗ねたような瞳。
本当に、こういうところは子どもだ。
大人の顔をみせたり、子どもの顔を見せたり。
矢口はこの人の、こういう所に惹かれたのだろうか。
彩は、唐突に、そう思った。
- 291 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時17分51秒
「‥‥なっちが、どうかした?」
「や、印象がな」
「うん」
「‥‥天才いうから、もっとガチガチのギシギシかと思った」
「何、その例え」
「いや、何や、天才って固そうやんか‥‥あの子は柔らかそうやなーって」
「‥‥ゆーちゃんが言うと、何か、ヤラシー感じ」
「何や、その目は。‥‥そんな意味ちゃうがな‥‥つまり‥‥全体的な印象がな‥‥」
「弁解しなくてもいいよ」
「弁解なんかしとらん。‥‥まあ‥‥確かに、身体は柔らかそうやったけど、それよりも考え方‥‥いうんかな‥‥とにかく、柔らかそうな印象を受けたんや」
「言いたいことはわかるよ。‥‥なっちは天才だから。本物のね。‥‥『何とか』と『何とか』は紙一重って言うでしょ。なっちが、良い例よ。なっちは自分の専門以外になると、とっぴもない発言をすることも多いけど。でも、知識にとらわれない、柔軟な思考回路を持っている。‥‥それが強みでもあり、弱みでもある。‥‥多分ね」
- 292 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時18分32秒
「天才ね‥‥不幸な子やな。天才ゆえに賛美され、天才ゆえに迫害される」
「お互いにね」
「‥‥あ?」
「あなたも、かつては天才と言われた時期があったんでしょ?」
彩の言葉に、裕子はしばし口を閉ざした。
訝しげな彩と視線が合うと、裕子は悲しげに微笑む。
「‥‥さぁ?‥‥もう、忘れた」
「‥‥ゆーちゃん‥」
「‥‥もっと、大切なものが‥‥あるんや」
裕子は静かな口調でそう告げると、ゆっくりとソファーから身を起こした。
「‥‥シャワー」
裕子はふらりと立ち上がり、横になったおかげで、いびつな皺のよったスーツのボタンに手をかけながら浴室に向かいながら、誰ともなしに呟く。
「‥‥‥」
彩はやるせない想いで、心なしか、震えているようにも見える裕子の背中を見送った。
- 293 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時19分06秒
――― ―――
ベッドの上にモノの部品を広げ、裕子と彩は、二人して、真剣な表情で図面を見ては、モノを弄くりまわしている。
「‥‥‥今夜中に終わるか?」
弱々しげに裕子が呟いた。
「終わるか? じゃなくて、終わらせるの!」
「‥‥はぁ‥‥」
「ゆーちゃんもボケっと見てないで」
「‥‥部品が多くて、頭がおかしくなりそうや」
「文句言わない!」
裕子の弱音を一刀両断で切り捨てると、彩は図面を睨みつける。
「‥‥明日香の用意した設計図に問題があるんやないの?」
「専門家の描いた図面よ。‥‥だから、分かりにくいのよ」
「‥‥ウチ‥‥文系やから、組み立てとか、にがてや」
「あたしも苦手よ」
「‥‥はぁ‥」
「‥‥やるしかないでしょう」
「‥‥アンタ、明日香の説明、大人しく聞いてたやんか」
「説明聞いている間は、わかっているつもりになるのよ」
「‥‥はぁ‥最悪や」
「あたしが悪者みたいに言わないでよ」
「‥‥そうやんか」
「‥‥‥」
『ゴン』
裕子の言葉に、彩は無言で、ゲンコツをひとつくれてやった。
- 294 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時19分39秒
――― ―――
「どうぞ」
いつものように、無邪気な笑顔で、里沙が朝食用のパンとコーヒーの乗ったトレイを、なつみの前に置く。
「‥‥ありがと」
「昨夜‥‥眠れなかったんです?」
「‥‥どうして?」
「目がはれてるみたいだし、それに‥‥」
里沙の視線は、なつみの傍らに山のように積まれている本に向けられている。
「‥‥まあね」
なつみは苦笑いを浮かべ、パンを手で千切り、口に運んだ。
軟禁状態になって以来、空腹を感じることはほとんどなくなってしまった。
それでも、里沙の心配そうな顔を見るのがつらくて、食べ物を無理やり口に運んでは飲み込んでいる。
案の定、なつみが僅かながら、パンを食したことで、里沙はほっとしたような表情を浮かべた。
- 295 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時20分38秒
なつみは、里沙が、所長――里沙からすると父親――となつみとの間で、常に葛藤しているのを知っていた。
なつみに憧れて、コネだ何だと陰口を叩かれながらも研究所で頑張っていた里沙が、今は、自分の父親の指示でなつみを監視しなければいけない立場におかれている。
正直、なつみには、所長が何を考えているか、わからない。
なつみは、ただ、研究してきただけだ。
自分の閃きを信じて、正しいと思う道を歩んできたつもりだった。
その結果が、このざまだ。
――何が間違っていたのか。
――何を成すべきだったのか。
そして、自分は、どこに進むべきなのか。
まったく、分からなくなってしまった。
- 296 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時21分12秒
そんな中、旧友の彩が命がけで助けに来てくれた。
はじめは、自分の目を疑ったものだ。
目の前に現れた彩は、自分の知っている彩とは、だいぶかけ離れていたから。
でも、黒ぶちメガネの奥に光る、優しい目は、昔と少しも変わっていなかった。
だから、あの、彩の傍らにいる、美人だけど、怖そうな弁護士のことも、信用してみることにした。
彩の秘密の通信文の指令の通り、行動できるように、下準備を整えた。
気がかりは――紺野のことだけだ。
「‥‥安倍さん?」
考え込んでいるなつみに、里沙が躊躇いがちに声をかける。
「‥‥何?」
「あの弁護士さん、どうですか?」
「‥‥どうって?」
「信用できそうですか?」
「‥‥信用するしかないんじゃない? 頼りにできそうなのはあの人だけみたいだし」
「‥‥‥」
なつみの言葉に、里沙の顔が歪む。
- 297 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時22分31秒
ほとんど泣き出しそうな表情だ。
「そんな顔しなさんな」
「でも‥‥」
「新垣が気にすることはないんだよ。‥‥新垣と‥‥所長は‥‥別の人間でしょ?」
「でも‥‥でも‥‥お父さんが‥‥」
「心配してくれてありがと」
「‥‥安部さん‥」
「新垣の作ったコーヒーっておいしいよね」
そう言うと、なつみは、コーヒーを一口飲んで、ふふふ、と笑った。
- 298 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時23分06秒
――― ―――
機械的に事務手続きを取っていく。
前日に、弁護士裕子から言われた通り、なつみは、自分の研究所に対する要求を書き連ねていた。
裕子は、なつみ手書きの要求書に目を通す。
「‥‥ひとつ、今すぐ自由にすること。ひとつ、研究結果は研究所には帰属しない」
裕子が、淡々となつみの要求を読み上げる。
一通り読み終わり、裕子が口を閉ざすと、その後、誰も口を開くものは居らず、部屋の中に重苦しい沈黙が立ち込めた。
「‥‥あんたなぁ‥‥こんな内容が通ると思ってんの?」
裕子は呆れたと言わんばかりに、大げさに肩をすくめた。
「‥‥思わない」
「じゃあ‥‥」
「‥‥でも、希望を伝えることは重要でしょう?」
「そうは言うてもな‥‥」
裕子の声が荒くなる。
「‥‥妥協点を探しましょう」
目つきの鋭くなった裕子を制するように、彩が口を挟んだ。
なつみと彩の視線が一瞬、絡み合う。
メガネの奥の瞳が、ふっと、柔らかくなった。
それで、なつみは確信する。
- 299 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時23分37秒
――これでいい。
このまま芝居を続ければいい。
彩からの指示はただ一つ。
自分の我を通して、要求を貫くこと。
それにより、所長に、交渉は長引くという印象を持たせる必要があった。
裕子、彩の行動規制の幅が広がりやすいように。
なぜならば――決行は、今夜だから。
数時間の攻防の末――。
「‥‥今日はここまでや。また明日」
裕子は深いため息をつき、金髪をかきあげた。
裕子の声を合図に、なつみ、彩、そして、傍に控えていた愛、麻琴、里沙も肩の力を抜いた。
朝から、半日にもわたって、交渉ごっこを演じてきたのだ。
演技とはいえ、感情も動くし、本気にもなる。
――疲れた、というのが、率直な感想だった。
「‥‥ウチは、とりあえず、この要求書を所長に提出してくるわ」
何て言われるかな、なんて、ぼやきながら、所長室に向かう裕子の後姿を、彩はただじっと見送った。
それから、約一時間、裕子は所長の愚痴を延々と聞く羽目になる。
もちろん、それと引き換えに、巧みな交渉術を駆使して、裕子と彩の部屋のある建物限定という形での夜間の出入りの自由を手に入れた。
- 300 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時24分08秒
――― ―――
内線電話の呼び出し音に、本を読みながらソファーの上でウトウトとまどろんでいた麻琴は、はじかれたように立ち上がり、受話器を掴んだ。
「はいっ」
『‥‥小川?』
「‥‥石黒さん?」
『うん、そう』
「どうしました?」
『ごめん、何してた? 今、大丈夫?』
「はい、大丈夫です。眠ろうとしていたところですけど」
『ごめん。ゆーちゃんが飲みすぎたみたいでさ。申し訳ないけど、薬持ってきてくれないかな?』
「あ、はい、わかりました。‥‥石黒さんの部屋でいいんですよね?」
『うん。お願い』
「はい。すぐ行きますんで」
受話器を置いて、愛を見ると、コントローラーを握り締め、コンピューターゲームに熱中している。
麻琴は救急箱の中から、胃腸薬を取り出し、パジャマの上から、白衣を身に着けた。
所長から、部屋から外出する際は白衣を身に着けるように厳命されている。
「愛ちゃん、ちょっと、石黒さんのトコに行ってくる」
「わかったー」
上の空の愛の返事を背中に受けながら、麻琴は彩の部屋に向かった。
- 301 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時24分39秒
――― ―――
「‥‥これでよし。‥‥ゆーちゃん?」
受話器を置くと、彩は緊張の面持ちで裕子を見る。
「こっちも、完了や」
裕子は妖艶な微笑を浮かべている。
その微笑を目の当たりにして、彩の背筋にぞくっと電流が走り抜けた。
修羅場を潜り抜けてきたもの特有の空気が、裕子の身体を包んでいる。
「ここからが本番やで」
「‥‥ゆーちゃん」
「大丈夫や。‥‥とっておきの、おまじない教えたやろ?」
「‥‥うん」
彩は緊張のあまり、小刻みに震え出す自身の手をぎゅっと握り締める。
サイは振られたのだ。
後は、精一杯やるだけだ。
彩は覚悟を決め、もうすぐ麻琴が現れるだろうドアを、祈るような気持ちで見つめた。
- 302 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時25分21秒
――― ―――
「‥‥ハァ‥石黒さん」
麻琴は全力で走ってきたらしく、ハァハァと肩で息をしていた。
「夜遅くにごめんね」
麻琴を部屋に入れながら、彩はすまなそうに謝る。
「いいえ、とんでもない。‥‥これ、薬です」
麻琴は照れたように顔を赤くた。
手にしっかりと握り締めていた、薄茶色の小さな飲み薬の瓶を彩に差し出す。
「ありがと」
「ゆーちゃん」
薬を受け取ると、彩は、開けっ放しの寝室へと続くドアにむかって声をかけた。
麻琴にとって、仕事場では「中澤先生」、プライベートゾーンでは「ゆーちゃん」と呼びかける彩が、まぶしくて仕方ない。
ドアの隙間から見える、ベッドの上の裕子らしき人影がうめき声を上げて、寝返りをうつ。
彩の呼びかけに、うめき声で反応する裕子に、「仕方ないなー」と呟きながら、ゆさゆさ揺らした。
不機嫌そうな唸り声をあげながら裕子はゆっくりと起き上がり、麻琴を睨みつける。
「そんな顔で見ないの。小川びびってるじゃん」
「‥‥うっさい」
「はい、ゆーちゃん、飲みなよ」
薬のキャップを緩めて、裕子に手渡す。
裕子は、顔をしかめながら薬を飲み干すと、再び唸り声をあげて、ベッドに倒れこんだ。
- 303 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時26分43秒
「仕方ないね。‥‥うるさいし、寝かしておこうか?」
彩はクスッと含み笑いで裕子を見ている。
「はい」
先ほど裕子から睨みつけられたこともあって、麻琴は彩の言葉に素直に頷いた。
「いい返事だね」
「いえ、あの、すいません」
「いいって。‥‥あのさ、小川って、一人部屋?」
「いいえ。愛ちゃんと一緒です」
「高橋は?」
「愛ちゃんなら、ゲームしてましたけど」
「部屋で?」
「じゃあ、一人ぼっちだ」
「はい」
「じゃあ、早く帰ったほうがいいのかな?」
「いえ、もう子どもじゃないんですから」
「大丈夫?」
「はい」
- 304 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時27分30秒
「‥‥それを聞いて安心したで」
背後から突然聞こえてきた低い声に振り向くと、何時の間に起き上がったのか、裕子がベッド脇に立ち、冷たい瞳で麻琴を見つめていた。
「‥‥中澤先生?」
裕子の様子が尋常でないと感じた麻琴は、身震いし、一歩、また一歩と後退する。
「動くなや」
裕子の低い声が、部屋の主導権を握っていた。
麻琴は、見ているだけで背筋が寒くなるような、裕子からの威圧感を感じていた。
「‥‥な、中澤先生‥‥動いて大丈夫なんですか?」
「ウチは平気や」
『カチリ』
麻琴の背中に固い、小さなカタマリが押し付けられた。
「悪いね、小川」
背後から、彩の声が聞こえる。
振り返らなくてもわかる。
それは、恐らく、目の前の裕子が自分に向けているものと同質のものだ。
何があった?
何で?
恐怖のあまり、思考回路が上手く回らない。
口の中がカラカラに乾いてくる。
- 305 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時28分09秒
「‥‥どうして?」
麻琴は搾り出すように、言葉を紡いだ。
「お願いしたいことがあるんだ」
麻琴の背後から、彩の震える声が聞こえてきた。
「‥‥何を」
「安倍なつみの所に連れてって」
「‥‥安倍さん?」
「小川の石と指紋が必要なの。協力してくれたら、危害は加えない。あたしが約束する」
「‥‥嫌だと言ったら?」
自分だけならともかく、今、危うい立場にいるなつみにとってマイナスになるようなことはどうしても避けたかった。
麻琴の言葉に、彩は言葉に詰まったように黙り込む。
「‥‥アンタじゃなくても、高橋がいるな」
二人のやり取りを冷たい瞳で見つめていた裕子が口を開いた。
「‥‥っ‥‥」
麻琴が息を呑む。
「‥‥何だったら、今すぐ内線で呼ぼうか」
「卑怯者」
「‥‥何とでも言えや。‥‥さあ、どうする?」
「‥‥‥」
麻琴は唇を噛み締め、ぎっと裕子を睨みつけた。
- 306 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時28分45秒
――― ―――
麻琴はセンサーに左手を置き、石と指紋を照合させる。
解除を知らせるアラームが鳴り、ややあって、インターフォンから里沙の声が聞こえてきた。
『麻琴?‥‥どうしたの?』
「‥‥夜、遅くに‥‥ごめん。‥‥ちょっと、話があって」
『待って、今、開ける』
麻琴のたどたどしい言葉に、里沙は何か感じたらしく、急いでドアのロックを外した。
重々しい音をたてて、開いたドアの向こうには、麻琴の頭部に銃口を当て引き金に手をかけた裕子が立っていた。
裕子は怪しまれないように、麻琴と同じように、白衣を身に着けている。
「なっ!?」
「動くな」
裕子は冷たい瞳で、理沙を一蹴する。
呆気にとられ立ち尽くす里沙の脇を、すり抜けるようにして、彩が部屋の中に駆け込んだ。
彩も裕子同様、着慣れた白衣を身に着けている。
- 307 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時29分22秒
「なっち!迎えに来たよ」
「‥‥あ‥あやぁ‥‥彩っぺ‥‥」
久しぶりの抱擁に、なつみも彩も、今まで押し込めていた感情が溢れ出し、かたく抱き合うと、人目も憚らずに涙を流している。
「‥‥ほら、見てみい。麗しい再会やないか」
裕子が麻琴の耳元で囁いた。
「‥‥二人は知り合いだったんですか?」
「まあな」
麻琴の言葉に、裕子は口元を歪める。
それから、コホンと咳払いをした。
裕子の咳払いで、ハッと我に返った彩は、慌てて抱擁を解く。
「‥‥なっち、準備はいい?」
「なっち、行けない」
「ここまできて、何言ってるの!?」
「‥‥紺野を置いて行けない。なっちが居なかったら、きっと処分される」
首を左右に振り、なつみは嫌々をする。
その姿は、駄々をこねる幼子のようだった。
- 308 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時30分04秒
「紺野!? 紺野って誰?」
「‥‥なっちの研究の協力者。あの子がいないと。それに、研究データーも、全部研究室のコンピューターの中に入ってる。あれが悪用されたら」
「明日香のヤツ。‥‥そんなことヒトコトも言ってなかったじゃない」
悔しそうに彩は唇をかみ締める。
「‥‥ウチらの仕事はアンタの救出、それが最優先や。‥‥酷な話やけどな‥‥その、紺野さんとやらも、研究データも、諦めてもらおうか」
裕子は静かな声で淡々と言葉を紡ぐ。
「紺野を置いてくなんて、できない。‥‥紺野、殺されちゃうよ」
できない、できないよ、と、呟き、なつみは泣き崩れる。
「‥‥なっち」
彩は途方に暮れたように、なつみを見つめた。
里沙、麻琴も呆気にとられたように、なつみと彩のやり取りを見つめている。
裕子は麻琴の頭部に当てていた銃をショルダーホルスターに仕舞うと、カツカツと足音を響かせてなつみに近づき、強引に両肩を掴んで揺すぶった。
- 309 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時30分43秒
「‥‥しっかりせい。‥‥紺野はどこや?」
「‥‥研究室」
「研究室に行くにはどうしたらいい?」
「‥‥研究等の最上階。でも、入るには石と指紋の照合が必要だべ。‥‥なっちのデータは消去されているから‥‥」
「小川がいる」
「‥‥小川は助手だから。研究棟へのアクセスは制限されてる。‥‥無理だよ」
弱々しくなつみが答えると、彩は天を仰ぎ、裕子は悔しそうに舌打ちをした。
重苦しい空気が、部屋にたちこめていく。
「‥‥愛ちゃんならできるかも。‥‥ハッキングの腕前は、天才的だから」
麻琴がポツリと呟いた。
「‥‥高橋が?」
彩がいぶかしむような声をあげる。
「‥‥確かに、愛ちゃんならできるかもしれない」
里沙も明るい調子で、麻琴に同調する。
「‥‥試してみる価値はあるな」
裕子は重々しく呟き、腕組みをして考え込む。
- 310 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時31分16秒
「‥‥二手に分かれよう。彩は、今までの計画通り、アレを。ウチは途中で高橋を拾って、なっちと研究室へ」
「あたし一人じゃ無理だよ」
「新垣と小川を連れて行け」
「連れて行けって‥‥」
「あの子らの目、見てみい。協力したくてウズウズしてるやないか」
「でも‥‥」
「しっかり脅しながら協力させるんやで。‥‥言い逃れできるようにな。‥‥1時間後に屋上で集合や」
- 311 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時31分51秒
――― ―――
『コンコン』
「麻琴? 開いてるよー」
ドアをノックする音に、愛はうわのそらで返答する。
すっかり、ゲームの世界にのめり込んでいた。
だから、裕子となつみが自分の背後に立っても、全く気付くことはなかった。
「高橋」
耳元で聞こえた声に反応して振りかえると、いきなり、中澤弁護士と安倍なつみ先輩がいたのだ。
愛は目を大きく見開いた。
「中澤先生!?‥‥安倍さん!?」
「白衣姿もいいけど、パジャマ姿も、新鮮でいいなぁ」
裕子がにこにこ笑う。
「‥え‥‥ありがとうございます」
裕子の言葉に愛も笑顔で答える。
場にそぐわない、ゆったりとした時間が流れ始めた。
「‥‥和んでいるところ悪いんだけどさ。‥‥高橋、お願いがあるんだ」
「何ですか?」
「なっち、研究室に入りたいんだ。開けてくれない?」
「えっと‥‥」
「紺野を助けたいんだ。このままだったら、紺野、処分されちゃう」
「‥‥それは‥‥あたしに‥‥ハッキングしろ‥‥ということですか?」
「高橋、お願い」
「‥‥‥」
愛は困ったように、眉間に眉を寄せて、黙り込む。
- 312 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時32分27秒
「‥‥アカンなぁ、なっち。そんな悠長なこと言ってたら、時間がいくらあっても足らんで。‥‥こうやるんや」
裕子は白衣の影に隠れていたショルダーホルダーから銃を抜き取ると、愛の胸元に照準を定める。
「中澤先生!?」
なつみは裕子のいきなりの行動に悲鳴をあげる。
「‥‥っ‥」
愛は目を丸くして、息を呑んだ。
「高橋、よく聞きや。‥‥全部、ウチらのせいにしたらいいんや。銃を向けられて、抵抗できませんでしたってな」
「‥‥‥」
「時間がない。5分で支度せい」
裕子が重々しく言い放った。
「はいっ」
愛は勢いよく返事をすると、とりあえず、ゲームをセーブした。
- 313 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時33分16秒
――― ―――
一方、彩、麻琴、里沙は、着々と準備を進めていた。
裕子が、所長から、夜間の外出自由を勝ち取っていたことと、麻琴と里沙が人目につかないルートを選んでくれたおかげで、比較的容易に事をはこべた。
ほぼ組み立てられた状態のモノを、3人がかりで屋上まで運んだのである。
「アンタたちが働き者で助かったよ」
「はぁ」
「ゆーちゃんは非力でね。力ないから、荷物運べないし。使い物にならないの」
「そうなんですか」
「組み立ても、『あたしは文系やから』って、何もしないし」
「どうやって持ち込んだんです?」
「これのこと?‥‥聞きたい?」
「聞きたいです」
「秘密」
「えー‥‥そんなぁ‥‥」
「なーんてね。部屋を調べれば一目瞭然だと思うけど」
「えっ」
「まっ、後でのお楽しみってことでいいんじゃない?」
彩は、そう言うと、楽しそうに笑った。
- 314 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時33分52秒
――― ―――
研究室棟に入り、周りを伺う。
各研究室は、深夜にも関わらず、明かりがまばらについており、中に人がいるだろうことは想像できたが、幸いにも、エレベーターにたどり着くまで、誰にも会うことはなかった。
研究室の中に、トイレ、シャワーが完備されているため、研究員が研究室の外に出ること葉めったにないことらしい。
最上階に着くと、エレベーターが『チン』と音をたてて止まった。
なつみの部屋に設置されているものよりも一回り大きいセンサーが扉の前にデンと居座っている。
愛は機械上部のアクセスブースを取り外し、慣れた手つきで、自前のパソコンと繋ぎ合わせた。
パソコンのモニターに、0101010という数字の列が流れていく。
「アタックを開始します」
愛はモニターを睨みつけながら、キーボードを叩きはじめた。
十数分、モニターを見ながら、キーボードを狂ったように叩いていた愛が、ふっと肩の力を抜いた。
「‥‥アクセスOK」
ゆっくりと振りかえり、愛は、にっと笑いかける。
パソコンのモニターには、『check』という文字が点滅していた。
- 315 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時34分29秒
「‥‥どうやったの?」
「安倍さんのデータは、消去されているわけではなくてですね。いっとき、保留されている状態だったので、結構簡単に入り込めました」
愛のパソコンのリターンキーを押すと、石スキャン、指紋スキャンが作動し始める。
なつみは、恐る恐る、スキャンの光に左の手のひらを当てる。
承認に至るまでの時間は、僅か数秒だったが、その数秒が、恐ろしく長く感じた。
『ガコン』
入り口のロックが解除された音が響く。
モニターに『admission』の文字が点灯した。
「うっしゃ、やったで! いい子や」
裕子はクシャクシャと愛の髪の毛をかき回した。
照れくさそうに、愛は、へへへ、と舌を出して笑う。
なつみが軟禁状態になってから、ほぼ閉鎖状態だった研究室は、人の気配がなく、不気味なほどに静まりかえっていた。
「‥‥誰もいないんとちゃう?」
裕子が眉間に皺を寄せ、首を傾げた。
「そうですね」
愛は、研究室中央にでーんと居座る、巨大なコンピューターのアクセスボードに触れる。
- 316 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時35分05秒
『キュイイィイイィ』
愛が触れることによって、今まで眠りについていたコンピューターが、作動を開始する。
「眠りから覚めて、喜んでます」
「‥‥そうかぁ?」
「はい、そうです」
「‥‥高橋は、機械の言ってることがわかるんか?」
「わかります。真のハッカーはコンピューターと会話できるんです!」
「‥‥そうなん?」
「世間では、ハッカーは誤解されてるみたいですけど‥‥確かに‥‥今日は‥‥悪いことしてますけど‥‥」
「‥‥高橋は、何も、悪くない。悪いのは、ウチらや。‥‥高橋は銃で脅されて、何も抵抗できなかった。‥‥そうやろ?」
「‥‥はい」
「‥‥さて、なっちは、どこや?」
裕子は研究室内を見まわす。
が、なつみの姿は見当たらない。
「‥‥どこ行った?」
「‥‥紺野さんの所じゃないですか?」
「多分、そうやろな。ちょっと探してくるわ」
「中澤先生」
「ん?」
「あの‥‥この子が言うには‥‥研究データ、取り出せるって言ってます」
「‥‥『この子』って、このコンピューターのことか?」
「はい。‥‥どうします?」
「‥‥頼むわ」
「分かりました。任せてください」
- 317 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時35分46秒
なつみを探していた裕子は、ドア続きの隣室で、その姿を発見した。
縦1メートル、横幅2メートルはある巨大な水槽を見つめている。
「ここにいたんか」
裕子の声にも、なつみは微動だにしない。
苦笑すると、裕子はなつみと並んで、水槽の中を覗きんだ。
「‥‥っ‥‥」
裕子は息を呑んだ。
溶液らしい、半透明の液体の中に、チューブに繋がれた、全裸の少女が浮いていたからだ。
「な、何や!?」
「‥‥紺野」
なつみの言葉に、裕子は眉をひそめた。
「ウチらは、間に合わなかった、いうことか!?」
「‥‥紺野は、だいぶ前から、こんな状態だよ。もう1年になるかな」
「‥‥病気なのか?」
「紺野は健常体だよ。‥今は‥生命維持装置をつけて、半覚醒の状態」
「何のために、こんなことするんや」
「‥‥‥」
「研究のためなら、何しても、いいんか?」
「‥‥‥」
なつみはキュッと唇をかみ締めると、ギッと裕子を睨みつけた。
裕子も負けじと、なつみを睨みつける。
- 318 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時36分18秒
先に視線を逸らせたのは、なつみの方だった。
無言で水槽の右サイドにあるコントロールパネルのボタンを操作する。
水槽の溶液が抜かれるにつれ、紺野の寝かされている板が、上にせり上がってくる。
「紺野」
なつみは紺野の身体をタオルでくるみながら、声をかける。
「‥‥ん」
ぴくり、と、紺野の身体が動いた。
「紺野、なっちと行こう?」
「‥‥ん‥‥あ‥‥あべ‥さ‥ん‥」
半覚醒状態ながら、なつみの声かけに、僅かながら反応を見せる。
なつみは紺野の身体をタオルで手早く拭くと、何時の間に用意したのか、白い長袖のTシャツとズボンを着けさせる。
不本意ながら、裕子もなつみの作業を手伝う。
「‥‥行くよ。紺野」
なつみは紺野の耳元で囁き、紺野の身体を背負った。
- 319 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時36分50秒
「‥‥どうや、高橋」
裕子は、モニターを見続けている愛に話しかける。
「もう少しです。今、この子が一生懸命ダウンロードしています」
「‥‥そうか」
「書き込みも可能って言ってますよ」
「ホンマ?」
「何て書き込みます?」
「そうやな‥‥」
裕子はニヤリと笑うと、愛に耳打ちした。
- 320 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時37分35秒
――― ―――
一方、屋上では、彩、麻琴、里沙が首を長くして、四人の到着を待っていた。
「‥‥遅い」
彩はイライラしたように、長い髪をかきむしる。
「もう、約束の時間から10分は過ぎていますよね」
麻琴も心配そうに視線をさまよわせる。
「まったく。‥‥アイツらは‥‥」
「これで、脱出できるんですか?」
里沙が不思議そうにモノを撫でさする。
「たぶん」
「たぶんって‥‥」
いくらなんでも、それは無謀ってものじゃないだろうか。
麻琴と里沙は、顔を見合わせた。
「仕方ないじゃない。計画を立てたやつは別の人なんだから。‥‥あたしは別に、なっちさえ無事なら、どうでも良かったし」
開き直ったように、彩は、堂々と胸を張る。
そんなんでいいのか!?
彩の言葉に、麻琴と里沙は引きつったような笑いを浮かべる。
二人の乾いた笑いを気にする様子もなく、彩はモノの点検を始めた。
「紺野さんって大柄?」
「いえ、小柄ですけど。ちょっとぽっちゃりしてるかな」
「んー‥‥あたしと乗ったほうがいいかな?‥‥それとも、ゆーちゃん、あるいはなっち」
「‥‥ジャンケンで決めるのはどうです?」
「いいねー、その案採用」
彩は指をパチンと鳴らした。
- 321 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時38分15秒
――― ―――
研究室のドアの隙間から、裕子は廊下を伺い見る。
丁度、休憩時間に当たっているらしく、広い廊下では、警備員が準備体操をしている。
ダウンロードしたデータが入ったCD−ROMは裕子のナップザックに大事にしまわれた。
いまだ動けない紺野は、その両肩をなつみと愛で支え、ようやっと立っていられる状態だ。
「‥‥やばいな。時間がない」
裕子はイライラしたように舌打ちをする。
「動きませんね」
「困ったねぇ」
「‥‥約束の時間より、10分過ぎてます」
「‥‥仕方ないな。‥‥これ以上、彩を待たすわけにもいかんし‥‥」
「どうするの?」
「強行突破と行こうか」
裕子はショルダーホルスターから銃を引き抜く。
『カチリ』
安全装置を解除し、警備員に照準を定めた。
薄闇の中、裕子の銃は、不気味な光を放っている。
- 322 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時38分46秒
「待ってください。研究棟の端の資料室の火災警報器を鳴らします」
「できるんか?」
「お願いしてみます。3分下さい」
そう言うなり、愛は、再び、コンピューターと会話を始める。
程なくして、けたたましい警報の音が鳴り響き、リラックスしていた警備員は慌てたように走り出した。
「‥‥助かった。ありがとな」
緊張状態で、銃を警備員に向けていた裕子が、安堵のため息をつき、銃をホルスターにしまう。
「‥‥中澤先生」
「‥‥できれば、使いたくはないからな」
苦笑いを浮かべ、裕子はホルスターの上から、銃に触れた。
- 323 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時39分23秒
――― ―――
屋上待機の3人は、裕子、なつみ、愛、紺野の無事な姿に、一様に安堵のため息をもらした。
麻琴と里沙は、なつみと愛、二人に支えられてやっと立っている紺野のもとに駆け寄る。
裕子は3人後方から、ゆっくりと歩んでいた。
「‥‥悪い。遅くなった」
「‥‥何かあったの?」
「‥‥ま‥‥それは、後で、ゆっくりと」
裕子はそう告げると、大きな翼を広げたグライダーにそっと触れた。
「重かったやろ?」
「‥‥小川も新垣も働き者でね」
「そうか」
「‥‥ゆーちゃん、ありがと」
「礼を言うには、早いんとちゃう?」
「そうか、そうだね。でも、言っておこうと思って」
「‥‥わかった」
裕子は小さく笑った。
- 324 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時39分57秒
「‥‥小川、新垣、高橋‥‥ありがとう。本当にありがとう」
「お礼なんて。こんな事ぐらいしかできなくて」
「あたしも‥‥本当は、お父さんにビシッと言ってやりたかったのに」
「無事に着いたら、いつか、おごってくださいね」
「もちろん」
なつみは大きく頷いた。
「なっち‥‥あたしが紺野と乗るから、なっちはゆーちゃんと乗ってね」
「‥‥なっち、乗ったことないよ」
「あたしもないよ」
「だ、だったら」
「気にしない、気にしない」
「気にするっしょ!」
「これ、初心者にも安心設計らしいから。進みたい方角に身体を向けてね。わかった?」
「‥‥わ、わかった」
なつみは渋い顔で頷いた。
彩は満足そうに微笑むと、グライダーのハーネス――グライダーに乗る人を固定する、防寒具の役割もはたしてくれる――をチェックし始めた。
- 325 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時40分28秒
「‥‥中澤先生」
名前を呼ばれて、裕子が振り向くと、神妙な顔の麻琴がいた。
「小川?」
裕子は首を傾げて麻琴を見る。
「その銃で、私を撃ってください」
「‥‥何、言ってるんや?」
「安倍さんが脱出したことがわかったら、大騒ぎになります。研究所を引っくり返すぐらいの。それに、いくら脅されていたとはいえ、無傷の協力者がいたとなっては‥‥」
「‥‥だから、撃て、言うんか?」
「はい」
「そんな必要あらへん。アンタらは脅されたんや」
「でも‥‥」
「これは‥‥必要ない」
裕子がホルスターの上から、銃に触れる。
人を殺すためだけに作られた、哀れな造形品。
もう二度と握るつもりはなかった。
- 326 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時41分07秒
『バン』
乾いた銃声が響いた。
ポタポタと鮮血が麻琴の顔にかかる。
「っく‥‥」
麻琴の目の前で、裕子が崩れ落ちた。
「そっちの子、大丈夫か?」
屋上の入り口ドアから、銃を構えた警備員が麻琴に向かって声をかける。
先ほどの警備員だった。
警報機の誤作動の後、色々な所を見まわることにしたらしい。
そして――発砲に至る。
- 327 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時41分55秒
麻琴は返答できず、ただただ、鮮血を流す、裕子を見つめていた。
「ゆーちゃん」
銃声に、倒れた裕子のもとに彩が走り寄る。
「大丈夫や。このくらい。‥‥かすっただけや」
「応援を呼んだ。騒いでも無駄だぞ」
警備員が声を枯らして、怒鳴り声をあげた。
「なっち、火を!」
彩の声と同時に、警備員の制服に火がつく。
なつみの『力』が発動されたのだ。
「うわああぁぁ」
一瞬、パニックに陥った警備員は、制服の火を消すために、床に身体をこすり付け、必死の形相でのた打ち回る。
「ゆーちゃん、我慢してよ」
うめき声をあげる裕子の服をナイフで切り裂き、傷口を確認する。
右肩を打ち抜かれていた。
弾は貫通しているが、出血がひどい。
- 328 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時42分29秒
「なっち」
裕子のショルダーホルスターを切断し、銃ごと、なつみに手渡した。
「用心して。それから、紺野をハーネスに固定して。何時でも飛びたてるように」
「‥‥わかった」
「‥‥無事に脱出できたときに乾杯しようと思って持ってきたんだけどね。こういう風に役立つとはね」
自らのナップザックから、ウイスキーのボトルを取り出す。
タオルを裕子の口に咥えさせ、ウイスキーを口に含むと、裕子の銃傷に向けて、霧吹きのように噴出した。
「くぁぁっぁ‥‥」
裕子が苦悶に顔を歪め、身体を仰け反らせる。
「我慢して、矢口に会いたいでしょ」
彩の言葉に、裕子は力なく頷いた。
シャツを細長く切り裂いて、包帯代わりに傷口にまく。
「なっち、ごめん。状況が変わった。あたしとゆーちゃんが一緒に乗る。なっちは紺野と一緒に乗って」
裕子のナップザックをなつみに手渡し、彩は険しい表情を浮かべた。
「わかった」
すでにヘルメットを装着しているなつみは、無言で頷き、自らの身体をハーネスに固定する。
- 329 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年05月29日(木)20時43分09秒
彩は裕子の身体を抱き上げ、ヘルメットを装着させ、ハーネスに固定する。
出血がひどいため、体温の低下が心配だった。
早めに、輸血をしなければならない。
裕子の身体は予想以上に軽くて。
蒼白になった顔を見るにつけ、彩は悲観的な気持ちに陥ってしまう。
それを誤魔化すため、傷口の止血帯を確認した。
「なっち、準備はいい?」
「いいよ」
「じゃ、行くよ。あたしが先に飛ぶから、あたしの真似して。わかった?」
「わかった」
彩の言葉に、緊張した面持ちでなつみが頷く。
警備員が呼んだ応援が到着する前に、できるだけ逃走距離を稼いでおかなければならない。
だからこそ、探索されにくい闇夜を選んだのだ。
「小川、高橋、新垣、ありがとう。後片付け、お願いね」
「任せて下さい」
「バイバイ」
彩は思いきり助走をつけて、屋上を蹴り上げ、風に身を任せた。
風を操って、浮かび上がる。
次いで、なつみも風に乗った。
視界の先には、漆黒の闇が広がっていた。
- 330 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003年05月29日(木)20時44分37秒
- 待っててくれた人、ありがとうございます。
ようやっと、更新することができました。
これからもよろしくお願いします。
- 331 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月29日(木)23時26分35秒
- 更新キター!
- 332 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月30日(金)03時54分15秒
- 更新お疲れ様です。
待っててよかった〜☆
- 333 名前:277 投稿日:2003年05月30日(金)18時20分52秒
- お帰りなさいませ!!
で、『更新おつかれさまです』。
う、うれしい…↑の言葉を使えて、むちゃくちゃうれしい…。最高だ!!
作者さんにご不幸でも…なんて縁起でもないこと考えてましてん。
おお、一気に動き出したじゃないっすか。どきどき。みんな、戦え!
- 334 名前:娘。 投稿日:2003年06月02日(月)00時07分23秒
- キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!
- 335 名前:つかさ 投稿日:2003年06月02日(月)00時15分14秒
- 姐さん、ちゃんと生きて(もぅ無事に、と書けないのがちょい哀しい 苦笑)
矢口さんのとこに戻って・・・・っつ〜か、彩っぺ、姐さん死なせたら
矢口さんにぶっ殺されるよ?と思わず脅しかけてみたくなる・・・(笑)
- 336 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時16分10秒
――― ―――
早朝、人影もまばらな通りを、風で乱れる髪を気にする様子も無く、息も絶え絶えになりながらも、必死の形相で走り抜ける真里がいた。
「‥‥ハァ‥‥ハァ‥ハァ」
死に物狂いで走り続けて。
真里はようやく街外れの彩の診療所にたどり着いた。
乱れる息を整えながら、ドア横の呼び鈴に震える指先を伸ばす。
『プー』という無機質な音が響いた。
裕子がいなくなって以来、心配のあまりなかなか寝つけなくなっていた真里は、明け方近くまでベッドの中でまんじりともせず過ごし、ようやくまどろみはじめた頃、アパートのドアをノックする音に起こされた。
誰かと思い、ドアの中央に位置する小さなのぞき窓から覗くと、圭織が申し訳なさそうな顔で立っていた。
ドアを開けた真里に、圭織は、彩からの伝言だと前置きして、言った。
今すぐ彩の診療所まで行け、そこに怪我をした裕子がいるから、と。
圭織の言葉を聞いて、パジャマにいつもの黒いマントを引っ掛けただけで、真里はアパートを飛び出してきた。
後ろから、圭織が何か言うのが聞こえたけど、そんなのにかまっていられなかった。
- 337 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時16分47秒
彩はドアの隙間から顔を覗かせ、真里の顔を確認すると、すぐに診療所の中に入れてくれた。
「どういうこと? 彩っぺも裕子の一件に絡んでるの? 裕子は? 裕子の仕事って?」
真里は矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「矢口、声が大きいよ」
白衣姿の彩は唇に人差し指を当て、言外に静かにという意思表示を見せるが、真里には彩のその仕草さえ目に入らない様子だ。
掴みかからないばかりの勢いで、彩に詰め寄る。
「裕子はどこ?」
「‥‥矢口」
「裕子は?」
「‥‥落ち着けってのが無理かもしれないけど、落ち着いて聞いてね」
「何? 裕子に何かあったの?」
一向に聞く耳を持たない真里を目の当たりにして、彩は小さく苦笑した。
彩は静かに真里の身体を抱き締めると、安心させるように背中を軽く叩いた。
「大丈夫だから‥‥ちょっと落ち着こう」
真里の耳元で囁く。
しばらくして、真里が少し落ち着いたのを確認すると、彩は抱擁を解き、隣室に真里を招き入れた。
- 338 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時17分38秒
ドアの手前に白い衝立が立てられていて、その向こうにあるベッドの様子を伺うことはできない。
「‥‥今、眠っているから静かにね」
「‥‥う、うん‥」
彩は衝立つい立の向こうのベッドに、そわそわと落ち着かない様子の真里をいざなった。
真っ白なベッドの上に、白いパジャマ姿の裕子が横たわっていた。
「‥ゆ‥うこ‥‥ゆーちゃん」
真里が会いたくて、会いたくて、堪らなかった人が、そこにいた。
真里は静かに裕子の傍に歩み寄る。
掛布に使われている白いシーツが裕子の呼吸に合わせて、微かに上下に動いていた。
青白い頬にそっと触れてみる。
微かに冷たい頬は、何度も触れたなじみのある感覚で、いくぶん真里を安心させた。
「‥‥右肩をやられてね。出血がひどくて‥‥正直、危なかったよ。‥‥今は、落ち着いている」
包帯を巻かれ、しっかりと固定された裕子の左肩を、彩が指し示す。
「‥‥死なないよね?」
不安げに問う真里を安心させるように頷くと、彩は、裕子のずれていたかけ布団を直してやった。
「‥‥うわごとで、ずっと、矢口の名前呼んでたよ」
「‥‥‥」
「そろそろ、麻酔から覚めることだと思うけど」
「‥‥ん‥」
真里はこくりと頷き、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
気を利かせたのか、何かあったら呼んで、と言い残し、彩は隣の部屋に消えた。
- 339 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時18分28秒
思えば、こんな風に、裕子の寝顔を見たのは久しぶりのような気がする。
日々の生活に追われて―――ゆとりを無くしていたのは、いったい誰なのか。
裕子の乾いた唇を、真里はゆっくりと人差し指でなぞる。
置き去りにされたと気づいたときには、本当に、許せなくて。
ずっと、どんな言葉でなじってやろうかと考えていたけれど。
それでも――こうして、傍にいると、そんなことは、もうどうでもよくって。
自分が如何にこの人を愛しているか思い知らされる。
早く目を覚まして。
そして――矢口に笑いかけてよ。
そうじゃないと、矢口は‥‥。
診療所の窓からふわりと風が入ってきて、裕子の金髪を揺らした。
綺麗だな、とぼんやり見つめていると、裕子の長いまつげがかすかに瞬きをする。
眩しそうに、数回瞬きを繰り返し、焦点の合わない瞳が真里をとらえた。
真里の視界が、ぐらぐらゆれ始める。
- 340 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時19分10秒
「‥‥や‥ぐち」
「ゆーちゃん」
「‥っつ‥‥」
感極まった真里が抱きつくと、怪我をした右肩に響いたらしく、裕子の顔が苦痛に歪んだ。
「‥ご、ごめん‥ごめんなさい」
「やぐちぃ」
裕子は真里に向かって、自由に動かせる左手を差し出した。
左手に載せた石は黒々と輝いている。
真里は裕子の左手を両手で包みこむと、横たわる裕子の額に、覆い被さるようにして、自分の額を合わせる。
「‥‥しょっぱい」
真里の頬を流れる涙をひとなめして、裕子が呟いた。
「‥‥当たり前だ、ばか」
「‥‥会いたかった」
「‥‥ふえーん‥‥ばかぁ」
「矢口ぃ」
「‥‥グス‥‥心配させんなよ」
「‥‥会いたかった‥‥矢口‥‥」
真里はそのまま顔をずらして、何か言いかける裕子の唇を塞いだ。
- 341 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時19分47秒
――― ―――
『PEACE』のカウンター、注文したっきり、圭が手をつけないままのグラスが汗をかき、水滴がコースターをゆっくりと濡らしていく。
グラスの中の氷が『カチン』と音をたてて割れた。
「‥‥矢口は?」
「血相変えて飛んで行ったよ」
「‥‥ふーん」
圭織の言葉に、圭は小さく頷き、水割りを口に含んだ。
「行かないの?」
「無事なんでしょ?‥‥それに‥‥今頃は、矢口が、たっぷりお説教してる頃だと思うし。二人っきりの所、邪魔したくないし」
圭の言葉を受けて、圭織は楽しそうに、ふふふ、と笑った。
- 342 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時20分18秒
「‥‥何がおかしいの?」
「さっき、吉澤も同じこと言ってたから」
「‥‥来てたんだ」
「うん。もう、帰ったけどね。圭ちゃんと一足違いって感じかな。石川と仲良く手繋いで帰っていったよ。後藤と紗耶香もいたんだけど、ゆーちゃんの怪我の話を聞いてから、どうも、後藤の様子がおかしくなってね。ひとりごと呟いてるから、紗耶香が話聞くって連れ出しちゃった」
その時の情景を思い浮かべて、圭織は再び、ふふふ、と笑った。
あの『水の民』カップルも、『火』と『水』のカップルも、見ているだけで微笑ましい気持ちにさせてくれる。
「‥‥‥」
紗耶香と真希の話題に、圭の顔が微かに歪んだ。
グラスを持つ手にも無意識に力が入る。
「圭ちゃん」
「‥‥何」
「眉間に皺よってる‥‥年なのかねー」
「‥‥失礼ね。アンタと1つしか違わないっつーの」
圭はため息をつき、それから、気を紛らわすようにグラスの氷を口に含んで、カリッと噛み砕いた。
- 343 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時20分49秒
――― ―――
「‥‥中澤さん大丈夫かなぁ」
ひとみと仲良く並んで『PEACE』から家に帰る道すがら、梨華は独り言のように呟いた。
「大丈夫でしょう」
相変わらず梨華ちゃんは心配症だなぁ、と、内心思いながらも、ひとみは真面目な顔を作って頷いて見せる。
「ごっちんの様子もおかしかったね」
梨華の心配は多肢に及ぶようだ。
形のいい眉を、僅かに歪めて悩んでいる。
「‥‥ごっちんがおかしいのは、いつもの事じゃん」
「そうだけど」
「でしょ。市井さんがきっとうまくやってるよ」
ひとみは、梨華を安心させるように、笑いながら、足元の石ころを思いっきり蹴った。
石は、見事なカーブを描いて、歩道脇の草むらに消えていく。
「‥‥‥」
梨華は立ち止まり、ただ黙って、消えた石ころの先にある、草むらを見つめた。
「梨華ちゃん?」
梨華が歩みを止めた為、頭二つ分ほど、先を歩いていたひとみは訝しげに後ろを振り向いた。
- 344 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時21分22秒
梨華は躊躇うように口を開けたり閉めたりしていたが、ひとみが促すように、じっと待っていたことも手伝い、ややあって、重たい口を開く。
「‥‥あの二人見てると‥‥」
「‥‥あの二人って? ごっちんと市井さん?」
「‥‥うん。‥‥それと‥‥中澤さんと矢口さん」
「どうしたの?」
「何か、悪いような気がして」
「悪い?」
「うん。‥‥私の好きな人は同じ『民』だから。‥‥そりゃ、よっすぃーの気持ちがうまく分からなくて、悩んだりすることはあるけど。‥‥そんなの‥‥多分‥‥比較にならないよね」
「‥‥梨華ちゃん」
「ごっちん、何も考えてないみたいだけど、でも、きっと、考えてると思うんだよね」
「‥‥それは、ごっちんの問題。梨華ちゃんが悩むことじゃないよ」
「‥‥そうなんだけどさ‥‥」
「もう、梨華ちゃんはっ」
ひとみは、でも、でも、と言葉を濁す梨華の両肩を、焦れたように引き寄せると、顔と顔を突き合わせて、正面から梨華の瞳を覗き込んだ。
- 345 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時22分09秒
「‥‥そりゃ‥‥もし、梨華ちゃんとウチが別の『民』でさぁ、んで、運命的に出会ったら、それはそれで、すごいロマンチックだと思うけどさ。でも、ウチらは、ラッキーなことに同じ『民』、おまけに、幼馴染で、もう、すごい、ラッキーな星の下に生まれたわけで」
「‥‥うん」
「何て言うのかなぁ。‥‥何って言ったらいいんだろう。‥‥うまく言えないけどさ。‥‥ねぇ、梨華ちゃん。梨華ちゃんが『水の民』だから、梨華ちゃんを好きになったわけじゃないよ。梨華ちゃんが梨華ちゃんだから、好きになったんだからね」
「‥‥ん‥ありがと」
梨華は照れくさそうに、頬を染め、小さく呟いた。
「‥‥どういたしまして‥‥」
照れくささが伝染して、梨華の両肩を掴む手にも力が入り、何だか汗ばんでくる。
「‥‥って、違う。‥‥あたしが言いたいのは‥‥だから、きっと、中澤さんは矢口さんじゃなきゃいけなかったんだ。ごっちんだって、きっと、‥‥わからないけど‥‥市井さんじゃないと駄目だって思っているんじゃないかなぁ。‥‥保田先生だって、なんだかんだ言って、きっと本当は分かってるんだよ。‥‥だから苦い顔しながら、それでも『PEACE』に来るじゃん」
「‥‥そう‥だね」
「だから、幸せにならないと」
ひとみは照れくさそうに笑うと、梨華の額に自分の額を、コツンと合わせた。
- 346 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時22分44秒
――― ―――
『PEACE』から真希を連れ出した紗耶香は、待ち合わせによく使っている公園のベンチに真希を座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。
「‥‥どうしよう‥‥後藤のせいだ。‥‥きっと、彩っぺにやられたんだよ。‥‥どうしよう‥‥」
真希は顔を青白くさせ、ブツブツと独り言を呟いている。
辛うじて、彩っぺにやられた、という単語を聞き取った紗耶香は、とりあえずその点から攻めてみることにした。
「はぁ?‥‥何、言ってるんだよ。彩っぺがゆーちゃんを助けたって話だよ」
「じゃあ、きっと、ロボトミー手術とかされてるんだよ。‥‥どうしよう‥‥後藤がゆーちゃんに相談したから‥‥」
「‥‥ロボトミー手術が何だって?‥‥っていうか、ゆーちゃんに何を相談したんだよ」
「‥‥‥」
しまった、という表情で、真希は、口をへの字に結んだ。
「何、だんまりこいてるんだ」
「‥‥だって‥‥」
「早く吐け」
「‥‥‥」
「後藤」
口を開こうとしない真希に焦れたように、紗耶香は、真希の頬の柔らかい肉を両手で掴みあげ、引っ張ったり戻したりする。
- 347 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時23分28秒
「‥‥ううぅ‥‥」
「コラ、何か言えよ」
偉そうな紗耶香の顔を見ているうちに、真希は次第に腹が立ってきた。
元はといえば、彩の診療所に遊びに行ったときに、紗耶香が真希のことをほったらかしにしたのが原因なのだ。
レコードを聴きまくる紗耶香を尻目に、『市井ちゃんがそのつもりならいいもんねー』と彩の部屋を探索した(不法侵入ともいう)結果として、真希は、彩の秘密(真希は彩のことを何らかのスパイだと思っている)の資料を盗み見る羽目に陥ったのだ。
裕子に相談したのだって、『彩っぺがスパイってことを、市井ちゃんが知ったら、きっと悲しむ』という理由で、口の堅い、裕子を相談相手として選んだという経緯がある。
‥‥市井ちゃんが悪い。
どう考えても市井ちゃんが悪い。
ゆーちゃんが彩っぺにヤラレタのも、市井ちゃんが悪い。
やぐっちゃんが泣いたのも、市井ちゃんが悪い。
鈍感な市井ちゃんが悪い。
後藤は‥‥悪くないもん。
‥‥市井ちゃんのばか。
そういう結論を出すと、急に涙がにじんできた。
「‥‥うぅぅ‥‥市井ちゃんのバカー」
真希は、紗耶香の肩に顔を埋め、グシグシと鼻をすすった。
「‥‥何で、そうなるんだよ‥‥」
――その後、本格的に泣き始めた真希をなだめすかして、紗耶香が話を聞きだしたのは、それから約二時間後だった。
- 348 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時24分01秒
――― ―――
ベッド脇の椅子に腰掛けた真里は、裕子の金髪を手で梳いてやる。
裕子は気持ちよさげに目を細めた。
「‥‥正直、やばいかもって思ったわ。でもアンタの顔が浮かんでな。最後に見た顔が泣き顔やもんなー。んで、絶対帰ろうって思ったんや」
「‥‥ばか」
「‥‥ごめん」
「許さないから‥‥一生、許さないから」
「‥‥じゃあ、ずっと、矢口にあやまり続けないといけんなぁ」
「‥‥置いていくなよぅ」
「うん‥‥置いていかんよ」
「‥‥ばかぁ」
裕子は、真里の腕を掴んで引き寄せると、可愛い小言を言う唇を塞いだ。
唇が離れた後も、真里はうっとりとした表情を浮かべ、裕子の怪我をしていない左肩に頭を預ける。
- 349 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時24分37秒
「‥‥ウチが居ない間、どうしてた?圭織の所にいたんか?」
「ううん。‥‥圭織のトコには行かなかった。ていうか、仕組まれていたみたいで面白くなくって」
「ん?」
「‥‥圭織は知ってたんでしょ?ゆーちゃんの仕事」
「そんなわけあるかい。ウチは、ただ、矢口の様子を見てくれって言ってただけや」
「目が覚めたら、圭織が傍にいて。‥‥矢口は‥‥洗面所で、裕子のメッセージを見つけた。だから‥‥」
「‥‥ごめん」
「何で、あんな書き置き残すのさ。矢口、もう会えないんじゃないかって‥‥」
「‥‥ごめん」
「‥‥ばかぁ。いつもは、あんなこと言わないくせに」
「そやな‥‥照れくさくてな。でもなぁ、ああ、死ぬかもしれんって思ったときな、矢口に言っといたら良かったって思ったんや。直接言っておかんといかんって」
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥愛してる」
「‥‥や、矢口も、矢口も愛してるよっ」
顔を赤く染め、真里は裕子の首筋に顔を埋めた。
「うん。ありがとなぁ」
裕子は照れくさそうに微笑んだ。
- 350 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時25分18秒
「‥‥あのね‥‥ゆーちゃん」
「ん?」
「ゆーちゃんが居ない間ね、矢口、友達の所に行ってたんだ」
「‥‥友達?‥」
「学生時代の友達で。‥‥この前、道で偶然会ったんだよね。それからは、よく、占いしてる場所に来てくれてさ。‥‥ほら、矢口、学校いきなり辞めちゃったから、びっくりしたみたいでさ。仲良かった友達のコトとか教えてくれたりしてさ」
「‥‥ふーん‥」
「‥‥矢口、ゆーちゃんが居なくなること、みんな知ってて、矢口だけ知らないのかと思って、なんだか、腹が立って、『PEACE』には行かなかったんだ。‥‥矢口の勘違いだったね。圭織に謝らないと。‥‥今日だって、朝早く、アパートまで、知らせに来てくれたのに、矢口、何も言わずに走って来ちゃった」
「‥‥圭織はわかってると思うで」
「‥‥うん」
「‥‥なぁ‥‥学校の友達って?」
「‥‥うん‥‥Mっていうんだけど」
「‥‥M‥‥ミドルネームか‥‥」
「うん‥‥でも、すごくいい人だよ。美人だし」
「‥‥‥」
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥矢口‥‥あんた‥‥‥アカン。‥‥ゆーちゃん‥‥ものすごく嫌なこと言ってしまいそうや」
真里を腕に抱きながら、裕子は眉間に皺を寄せる。
- 351 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時25分58秒
ミドルネームを持つことと、ミドルネームを名乗ることとは、大きな違いがある。
ミドルネームを持つことは、上流階級の証。
ミドルネームを名乗ることは、過激民族主義者だという一種の意思表示でもある。
『PEACE』の前マスターであり、圭織と希美の父親である飯田守を殺害した『火の民』過激民族主義組織『レッド』も、その構成員のほとんどがミドルネームを名乗っている。
真里の友人の所属する『風の民』過激民族主義組織『グリーン』も、『水の民』過激民族主義組織『ブルー』も、そういう構成になっていることは想像に難くない。
ミドルネームを名乗るということは、そういうことだ。
「じゃあ、何も、言わないで」
真里は身体を強張らせ、裕子の腕の中から抜け出ると、きつい瞳で裕子を睨みつけた。
「‥‥矢口」
「聞きたくない」
「‥‥‥」
「だって、ずっと仲良しだったんだもん!」
「‥‥それは‥‥矢口が『風の民』だからやろ?」
「‥‥いい人だもん‥‥っ‥く‥」
真里の口から、弱々しい弁明と嗚咽が漏れる。
- 352 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003年06月20日(金)23時26分39秒
「‥矢口‥‥泣かんといて」
「‥‥くっ‥‥ひくっ‥‥」
裕子は動かすことのできる左手を伸ばし、真里の肩を引き寄せる。
真里は小さな身体を震わせて、嗚咽を必死に飲み込んでいた。
「‥‥そやな、矢口にとっては、大事な友達やもんな。‥‥ゆーちゃん‥‥矢口のこと泣かしてばっかりやなぁ‥‥ごめん‥‥」
裕子は、真里の髪に口付ながら、謝罪の言葉を囁き続ける。
真里の涙がゆっくりと裕子の白いパジャマにしみこんでいく。
裕子の言葉が真実の一片を言っていることは、感覚として分かっていた。
真里とM、二人の道は大きく分かれてしまった。
学生時代の二人に戻ることはできない。
いや、彼女は学生代からミドルネームを名乗っていた。――ということは――彼女はその頃から、すでに『風の民』至上主義の思考の持ち主だったということだ。
――ただ、真里は気づかなかっただけだ。
ぬくぬくと暖かい日常の中で、うまい具合にぼやかされて生活してきた。
社会の矛盾に。
目の前の差別にも。
――変わってしまったのは、真里の方だ。
『民』の異なる、信頼できる友人と出会ったから。
『民』の垣根を越えて、中澤裕子を愛してしまったから。
真里とM――二人の道は大きくかけ離れてしまった。
裕子の優しいアルトの声が、謝罪の言葉と共に真里の名前を、繰り返し繰り返し囁き続けている。
裕子の声を心地よく聴きながら、真里はこのひと時、裕子の温かい腕の中で、泣くことにした。
- 353 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003年06月20日(金)23時34分13秒
- 更新しました。
分類板で、この話を紹介してくれた方、ありがとうございます。
下に貼ってあるリンクをクリックしたくなるような、ありがたい紹介文でした。
「月の美しいや」の紹介文もありがとうございました。
来月で、この話も2年目です。
自分でも、よく続いたなぁ、と感心したり、まだ終わらないのか、と反省したり、ですが。
終わりが見えているような気はしています。
- 354 名前:277 投稿日:2003年06月21日(土)01時58分57秒
- 更新お疲れさまです。
分類板で本作(および「月の美しや」)をご紹介させていただきました。作者様にお喜びいただけてこんなに嬉しいことはありません。
ひとまず落ち着いて、そして……といった雰囲気ですね。
今回の、吉澤と石川の同族カップルの気持ち、ある意味一番せつないかも。吉澤が石川を慰める言葉に胸をうたれました。
読んでいて盛り上がって盛り上がって、ちっとも終息感なんてなくって、なんか平気でもう二年は続きそう(続いてほしい)なんて、勝手な気持ちになってしまいます。すみません。
次回更新、楽しみにお待ちしております。
- 355 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月23日(月)00時19分57秒
- 更新お疲れ様でした。
ひとまずほっと一息ですが、全ての民が一緒に幸せに暮らせる日は
くるのかな・・・。
来るといいな・・・。
これからも目が離せません。
お体に気をつけてくださいね。
- 356 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)12時50分15秒
- わー更新きてたーー!お疲れ様です。本当に楽しみにしていますので
自分のペースで頑張ってくださいね。付いていきますから最後まで!
- 357 名前:名無し君 投稿日:2003年07月02日(水)01時13分38秒
- こんなに更新されてたとは・・・
嬉しい悲鳴です(w
のんびり更新をお待ちしております(w
- 358 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月29日(火)21時19分57秒
- 保全
- 359 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月06日(水)23時46分34秒
- そろそろ更新期待しております。
- 360 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月14日(木)12時22分35秒
- 姐さんが助かってよかった〜。
最初から読み直して、又感動しました(w
- 361 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時16分36秒
- 保全
- 362 名前:名無し読者。 投稿日:2003年09月08日(月)19時12分21秒
- とりあえず、嵐は過ぎ去ったようですね〜。
この巨大掲示板の中でも・・・
萌部分は別として・・・小説として読み応えがあり過ぎです。
時間がどんだけかっかってもいいので・・・素晴らしい文章で、最後まで完結お願いします。
- 363 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)19時42分53秒
- >>362
ageレスはやめましょう
- 364 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時43分51秒
- ochiしときます…
>362
期待しちゃうから…
- 365 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/20(土) 21:13
- そろそろ再開を・・・
- 366 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:28
-
――― ―――
「‥‥したっけ‥」
したっけ、したっけ、したっけ‥‥。
したっけ‥‥それに続く言葉が出てこない。
心の中で呪文のように繰り返す言葉。
なつみはその他の言葉を忘れたかのように、寒さと緊張のため身体を震わせながら、その言葉を反芻する。
目の前で銃弾に倒れた裕子の状態が、彩が応急処置をしたものの、かなり危険な状態にあることは誰の目にも明らかだった。
なつみは前方に微かに光る、彩のグライダーの端に付けられた誘導灯を、縋るような想いで見つめる。
- 367 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:29
-
研究所の屋上からグライダーで脱出して、虚空に飛び立ったは良いけれど、なつみは紺野を抱えて不安でいっぱいだった。
何しろ、グライダーに乗るのは生まれて初めてなのだ。
彩が『風の民』で、風を操ることが出来るということを考慮に入れても、不安材料が多すぎた。
ハーネスで守られているとはいえ、やはり上空は気温が低い。
なつみの傍らには、半分意識のない、朦朧状態の紺野がハーネスの中、微かに震えている。
それに――脱出直前の、裕子を治療する余裕のない彩の表情――あんな顔ははじめて見た。
今まで、大抵の患者に対して、冷静沈着に対応していたはずの彩があんなに取り乱して。
気のせいか、前を飛行している彩のグライダーが揺らいでいるように見える。
- 368 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:31
-
彩にしても、不安を感じているのは、なつみと同様だった。
いや、それ以上かもしれない。
傍らの裕子の表情はすでに蒼白だったし、呼吸音が次第に小さくなっていることも気がかりだった。
何よりも、上空は気温が低い。
ハーネスで保護されているとはいえ、今の裕子にとっては、それが致命傷になりかねない。
彩は舌打ちすると、グライダーを握る手に力を込めた。
- 369 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:32
-
早く。
早く。
でないと、裕子が。
裕子の命が、命の火が消えてしまう。
一刻も早く手当てをしなければ。
早く。
早く。
神様――お願いします。
どうか――風の神メントル、火の神エウマイオス、水の神メネラオス‥‥誰でもいいです。
この勇敢な、優しい人を救ってください。
お願いします。
彩は生まれて初めて、心の底から祈った。
- 370 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:33
-
――― ―――
正味五時間ほど、漆黒の空を飛び続けていると、前方に赤い明かりが点滅しているのが目に入ってきた。
彩のグライダーがその明かりに引き寄せられるようにゆっくりと降りていく。
彩は風を操り、自分の後方を飛ぶ、なつみと紺野のグライダーも同様に降下させる。
やがて、明かりの正体が見えてきた。
彩のグライダーの誘導灯に気づいたのだろう。
赤く点滅する信号灯が消え、まばゆいばかりの明かりが灯った。
暗い海面に、白い大きな船が浮かび上がる。
彩はグライダーを巧みに操り、慎重に船の甲板に降り立った。
彩に続いて、なつみのグライダーも着陸する。
- 371 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:34
-
甲板の周辺に待機していた、船員達が一斉に駆けつけ、グライダーからなつみと紺野を降ろしてくれた。
看護士らしい白衣の青年がなつみに声をかける。
「お名前は? 言えますか?」
「‥‥安部‥‥安部なつみ」
「お怪我は?」
「なっちは‥大丈夫」
「そうですか。では、こちらへ」
看護士は毛布をなつみの身体に巻きつけると、甲板脇の椅子に誘導し、体温と血圧を計り始める。
厚手の毛布が、なつみの冷えきった身体が少しずつ体温を取り戻していく。
保護された安心感と、緊張から開放された虚脱感のため、なつみは放心状態で、慌しい甲板の動きを見つめていた。
- 372 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:35
-
甲板を挟んで丁度反対側のデッキでは、別の看護士がぐったりと横たわった紺野に対して、なつみと同様に、体温と脈拍、血圧を計っているのが見えた。
紺野は意識ははっきりしているものの、疲れきって身動きできない、といった様子だった。
一方、彩は、甲板で、船医に指示を出しながら、顔面蒼白な裕子に、緊急処置を施していた。
紺野‥‥疲れたんだべ。
ゆっくり休むといいさぁ。
‥‥すごいな‥‥彩っぺ。
自分もすごく疲れているはずなのに。
あんなにてきぱきと指示を出して。
中澤さん‥‥大丈夫だべか‥‥。
あんなに出血して‥‥。
ピクリとも動かなくて‥‥まるで‥‥まるで‥‥人形みたいだべ‥‥。
なっち‥‥悪い夢でも見てるみたいだ‥‥。
なつみは身動きひとつせず、甲板の喧騒を、ただただ見つめていた。
「はじめまして、安倍なつみさん」
突然、背後から声をかけられ、なつみは驚きのあまり、椅子の上で身体を大きく揺らした。
ドクドクと脈打つ心臓の鼓動を押さえながら、非難がましい目で背後を振りかえる。
ショートカットのふっくらした少女と目が合い、なつみの表情が、驚きから安堵の表情に変わる。
- 373 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:36
-
白いネルシャツにブルージーンズといったシンプルな少女の服装は、船員や医師、看護士といった職種を判別できる服装を身に着けている者が大多数を占める甲板においては、異質な存在であったが、なつみに、そのようなことを気にかけるゆとりは無かった。
「‥‥びっくりするっしょ」
「‥‥すいません」
「‥‥別にいいけど」
「そうですか」
無表情だった少女が微かに微笑んだ。
「中澤さん、大丈夫かな」
「ここの医者で駄目だったら、どこに行っても駄目でしょうね」
「‥‥そんな言い方ない‥‥」
少女の口調に、むっとしたなつみは、キツイ目で少女を睨みつけた。
「ここにいても私たちは邪魔なだけです。‥‥中澤さんのことは、石黒さんに任せて‥‥大丈夫、スタッフの腕は確かですよ」
なつみの様子を気にする様子もなく、少女は淡々と言葉を続け、強引ともいえる強さで、なつみの手を取った。
「‥‥うん」
冷えきったなつみの手を、少女は慈しむようにしっかりと握り締める。
冷たい口調とは裏腹に、少女の手のひらは温かくて、なつみは、この時初めて、生きて脱出できたことが実感できた。
少女の冷たい突き放したような言い方には、納得いかないものがあったが、なつみは少女に手を取られ、甲板脇の狭い階段を下り、船室に案内してもらう。
優しい檸檬色で統一された船室は、狭いながらも、快適な空間を演出していた。
- 374 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:37
-
「‥‥お風呂」
ぼそっと、なつみが呟いた。
「シャワーしかないですけど、いいですか?」
「うん」
「‥‥こちらへどうぞ」
「うん」
短い言葉で用件を伝えると、なつみは、極度の疲労で動かない足を引きずるようにして、浴室の中に入る。
熱いシャワーを頭から浴びると、次第に朦朧としていた意識も覚醒してくる。
‥‥なっち、お礼も言わなかったべさ。
せっかく、親切に案内してくれたのに。
出たら、まず、お礼を言わないと‥‥。
えっと‥‥何て言おうかな。
なつみはシャンプーの泡を流しながら、お礼の言葉を、ぶつぶつと呟き始めた。
シャワー室から出ると、脱衣所に、なつみの為の着替え――下着類とTシャツ、ショートパンツが用意されていた。
今まで身に着けていた物は、片付けられたのか見当たらない。
なつみはため息をつくと、用意された服を身に着けた。
- 375 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:38
-
なつみの姿を見ると、少女は微かに微笑んだ。
「‥‥服」
「勝手ながら準備させてもらいました」
「ありがとう。‥‥それと、案内してくれてありがとう」
なつみに礼を言われて、少女は戸惑ったように目を泳がせたが、そんな自分の様子を誤魔化すように咳払いをひとつすると、
「‥‥服は、クリーニングに出してあります。明日の朝には出来あがると思います。お腹すいていますか?」
「ううん。すいてない」
「そうですか。‥‥それから‥‥生姜湯を用意しました」
少女が指差したベッド脇の机には、ホカホカ湯気をたてているマグカップが置かれている。
なつみはベッドに腰掛け、マグカップを両手に持って、熱い生姜湯を口に含んだ。
熱い生姜湯が、身体に染み渡り、疲れを取ってくれる。
「ありがとう」
「‥‥もう、寝たほうがいいですよ」
なつみの言葉に、少女は照れたように目を伏せ、ぶっきらぼう言う。
- 376 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:39
-
「そうだね。そうする」
なつみは大人しくベッドに横たわった。
「お願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「なっちが眠るまで、傍にいて欲しいんだけど」
「‥‥‥」
「‥‥なっち、怖がりでさ。‥‥いや、無理なら‥‥」
「いいですよ」
少女は椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
温かいベッドの中、なつみは目を閉じる。
すると――優しいアルトの歌声が聞こえてきた。
目を開けてみると、少女がなつみを見つめながら、口ずさんでいる。
すごく、上手。
優しい歌声。
こんないい声、聞いたことないよ。
なつみは、少女の唄う子守唄に耳を傾ける。
誰かが傍にいてくれる。
そのことが、なつみを安心させ、睡魔を呼び寄せた。
心底、疲れきっていた。
色々なことがありすぎた。
何も考えたくなかった。
今、死の淵を彷徨っているであろう裕子のことも――。
紺野のことも――。
なつみの意識が途切れる間際に、おやすみなさい、という少女の声が聞こえたような気がした。
――それが、安倍なつみと福田明日香の最初の出会いだった。
- 377 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:40
-
――― ―――
研究所職員が中澤弁護士とその秘書の部屋を捜索した結果、大量の本が発見された。
検閲無しで持ち込まれた、その法律専門書は中身が綺麗にくりぬかれ、中が空洞になっていた。
研究所は、これらの件を総合して、恐らくは、安倍なつみの誘拐に使用されたグライダーは巧妙に分解され、専門書の中に埋め込まれて研究所内に持ち込まれた後、再び組み立てられた、という結論に達した。
研究所のホストコンピューターに何者かが侵入し、「姫は頂いた! なっち天使!!」という書きこみがなされた、という報告書が提出された。
上層部は、安倍なつみ、紺野あさ美は不慮の事故で死亡、と発表した。
研究員に関しては、証拠不十分ということで、表立った処分は行なわれなかった。
- 378 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:41
-
彩や、その他の医者や看護士の必死の治療の結果、裕子は命を取りとめた。
なつみとしては、裕子に色々礼を言いたいのは山々だったが、要安静ということで、会うことはかなわなかった。
紺野は、若さのおかげだろうか。
一日たつと、すっかり元気になった。
三日後、船がひっそりと、街外れの寂れた港に到着するまで、なつみは、部屋に案内してくれた少女に会うことはなかった。
不思議に思い、船員たちに尋ねてみたが、皆一様に困惑の表情を浮かべて、知らないと答えるだけだった。
船を下りる時に目を凝らして捜してみたが、船員の中に少女の姿はなかった。
あれは、あの少女は、自分が見た幻だったのか、となつみが思い始めた頃、ただ一人、彩だけが、その少女の話に反応した。
彩はなつみの話を真剣な表情で聞いた後、
「‥‥来てたんだ」
と、不機嫌そうな唸り声をあげた。
- 379 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:42
-
「知ってるの?」
「知ってるも何も‥‥」
「誰なの?」
「‥‥いずれわかるよ」
「また会える?」
「確実にね」
「そっか。ならいい」
「‥‥どして?」
「あの子ね、なっちに、子守唄、歌ってくれたの。‥‥お礼言えなかったから」
「子守唄ぁ!?」
「‥‥綺麗な声だったよ」
「‥‥あいつがぁ!?」
「うん。綺麗な声だったよ」
「あたしには、そんな話、信じられないね」
彩はそう言うと、不機嫌そうに、コーヒーを一口飲んだ。
- 380 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003/09/22(月) 01:43
- 久しぶりの更新です。
保全していた方々、ありがとう。
- 381 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:45
-
――― ―――
裕子が彩の診療所に入院してから、すでに2週間が経過していた。
真里は連日通いつめ、甲斐甲斐しく裕子の世話を焼いている。
とはいうものの、裕子は、真里が泊りがけで看護することはかたくなに拒んでいた。
矢口の負担が大きすぎる、というのが、裕子の言い分だ。
何で、そんなこと言うのさ、と、真里は不満顔だったが、裕子は頑としてきかなかった。
駆け落ち同然で、同棲生活をスタートさせた二人だったが、こんなに水入らずの日々を過ごしたことは、かつてなかった。
裕子の仕事は深夜に及ぶことが多かったし、何よりも不規則だった。
ましてや、『神々の印』を失っている今、店で買い物をすることもままならない。
しかし、彩の診療所には、日常生活に必要なものは全てそろっていたし、真里はちょっとした新婚生活のような気持ちを味わっていた。
元々、裕子は甘えるのが苦手で、酒の力を借りなければ、真里に積極的に甘えてくることはない。
自分で出来ることは自分で。
それが、裕子のポリシーとなっていた。
その裕子が、右肩を打たれ、片腕が使えない今、自分の補助を必要としている。
そのことが、真里を、どこかで、幸福にさせていた。
- 382 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:46
-
ベッドのリクライニングを上げ、上半身を起こした状態の裕子に、真里は、ベッド脇の丸椅子に腰掛け、赤いりんごを片手に、ニコニコと笑いかけた。
「ゆーちゃん」
「ん?」
「りんご食べる?」
「うん」
「じゃ、矢口、剥くね」
「大丈夫かぁ? 手、気をつけんと」
「わかってるって。矢口、こう見えても上手いんだぞ」
そうは言うものの、真里のナイフを持つ手つきはかなり怪しい。
裕子ははらはらとしながら、真里がりんごを剥く様を見つめていた。
「‥‥っ‥‥痛ったー‥‥」
案の定、ナイフが滑り、ザックリと真里の人差し指を切った。
たちまち鮮血が流れ出す。
真里は自分の流す赤い血に、びっくりしたように固まっている。
「言わんこっちゃない‥‥貸し」
裕子は真里の人差し指を、口に含んだ。
血液独特の鉄の匂いと味が口内に広がる。
ひとしきり舐めた後、裕子の口内から真里の小さな指が姿を現した。
長い間しゃぶられた指は、裕子の唾液でつやつやと濡れていたが、出血は収まっている。
「絆創膏貼っとき」
「‥‥うん」
頬を紅く染め、俯き加減で、真里はのろのろと立ち上がり、薬品棚の引き出しから、消毒液と絆創膏を取り出し、器用に自分で貼りつけた。
- 383 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:47
-
「‥‥りんごに血がついちゃったね」
真里はばつが悪そうに、わずかに血のついた剥きかけのりんごに目を向ける。
「矢口のやし、かまわんよ」
「‥‥洗う」
真里はそう呟くと、すっと立ちあがり、部屋を横切り、洗い場でりんごを洗う。
それから、無言で、随分と長い時間をかけ、丁寧に残りの皮を剥き、食べやすいように薄く切って皿に並べ、裕子に差し出した。
「矢口は?食べんの?」
真里がりんごに刺してくれたフォークを片手に、裕子が首を傾げる。
「‥‥矢口は、いい」
「おいしいのに」
「‥‥‥」
真里は目を伏せると、黙って立ちあがり、使ったナイフを棚に片付ける。
真里の動きを、もの言いたげに見ていた裕子は、再び椅子に腰を下ろした真里の手を取り、強引に引き寄せる。
小さな身体がバランスを崩して、裕子の元に引き寄せられる。
真里の身体が裕子の身体にぶつかり、衝撃が裕子の身体を揺らした。
「何す‥‥裕子?」
「‥‥っ‥」
予想したよりも大きな痛みが裕子の右肩を襲う。
- 384 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:48
-
抗議の声をあげようと口を開きかけた真里の視線が、右肩の包帯を押さえ、苦痛に顔をしかめる裕子に注がれる。
「‥‥ゆーちゃん‥大丈夫?」
「痛い」
「当たり前だよ。ったく。子供かよ」
起き上がろうと身じろぎする真里の身体を、裕子は片腕でぎゅうっと押さえ込んだ。
「‥‥なぁ、何拗ねてるん?」
真里の耳元で優しく囁く。
裕子の吐息に、真里の身体がピクリと微かに動いた。
「‥‥拗ねてなんかないよ」
「拗ねてるやん」
「拗ねてないって!」
「何や、素直やないなぁ」
「どうせ、素直じゃないさ」
裕子の腕の中、ジタバタともがく。
「‥っ‥ちょ‥痛いがな」
裕子は真里を抱き締める腕の力を弱めることなく、大げさに顔をしかめた。
「ご、ごめん」
「大丈夫やて。‥‥それより、どした?」
裕子の優しい眼差しに、真里は耐えきれないというように、目を伏せる。
「‥‥だって‥‥」
「ん?」
「せっかく、かっこいいとこ見せようと思ったのにさ‥‥あんな、ヘマしちゃうしさ」
悔しそうに、真里はきゅっと唇をかみ締めた。
- 385 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:49
-
「‥‥矢口は、かっこいいよ」
「‥‥嘘ばっか」
「嘘ちゃうって」
「矢口の、自分に正直なとこ、むっちゃかっこいいで。‥‥ウチは、何度、アンタに救われたかわからん」
「‥‥‥」
「アンタに会うまでのウチは‥‥アンタがウチを変えたんや。‥‥アンタがいたから、ウチは助かった。生きてココにいる。そう思ってる」
「‥‥‥」
真里の瞳に涙が溢れ、頬を濡らした。
「アンタが死神を追っ払ってくれたんや」
裕子は真里の涙を唇で拭うと、真里に微笑みかける。
「‥‥矢口のこと抱きしめたい。いっぱいチューしたい。頬擦りしたい」
「‥‥ゆー‥ちゃん‥」
「押し倒したい。首筋を舐めたい。可愛い声が聞きたい」
低い声で囁くと、真里の紅く染まった耳たぶを口に含んで軽く吸い上げた。
「‥‥あっ‥」
裕子の腕の中で、真里が小さな叫び声をあげる。
- 386 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:50
-
「‥‥可愛い声‥‥ゾクゾクする」
「やめ‥」
「嫌なん?」
唇を頬に滑らせながら、囁く。
「彩っぺが‥‥」
「今日は、往診で、遅くなるって言ってた」
「‥‥傷、傷開いたらどうするんだよ」
「‥‥心配いらんよ。‥‥それより‥‥矢口が欲しい」
裕子の熱い視線が真里を捉えた。
「‥‥ゆうこ」
真里の身体が興奮のため、小刻みに震え出す。
すべすべした頬に手を当て、上を向かせると、裕子は真里の唇を塞いだ。
「ずっとこうしたかった。‥‥いいニオイ」
裕子は真里の首筋に唇を当てた。
真里の頬がピンク色に染まり、裕子の舌の動きに合わせて、身もだえする。
「‥‥はぁ‥‥ゆ‥うこ」
「‥‥矢口」
シャツをはだけさせ、隙間から覗く、硬くなった乳首を舐める。
ピクンッと真里の身体が大きく揺れた。
- 387 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:51
-
「‥‥可愛い‥‥矢口」
「‥もっとぉ‥ゆうこ」
「矢口‥‥触って」
「‥‥え?」
「‥ゆーちゃん、片腕しか使えんもん。‥‥やから、矢口が自分で触って‥な?」
「‥‥や‥だ‥‥」
「そんなこと言って‥‥矢口がツライやろ?」
「‥何言って」
「震えてる」
裕子は自己主張している真里の乳首を、人差し指と中指でつまんで引っ張りあげる。
「‥‥んっ‥ゆーちゃんっ」
真里の身体が大きく揺れた。
「‥‥矢口の手は、ゆーちゃんの手と一緒や。‥‥ゆーちゃんが触ってるんやで」
裕子の手が真里の小さな手に重ねられた。
「最初は胸や。‥‥ゆっくりと優しく‥」
重ねた手を、後押しするように、真里の胸へと導いてやる。
次いで、もう一方の手も。
「あぁ‥‥ん」
おずおずと、真里の指が自らの乳房の愛撫を開始する。
羞恥の為、真里の両目は固く閉じられたままだ。
「尖ってる乳首を挟んで‥‥気持ちいいやろ?」
「‥‥ん‥‥」
裕子の唇が、真里の指ごと、乳首を舐めた。
- 388 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:52
-
「あっ‥‥」
真里の腰がゆっくりと上下に揺れ、裕子の身体に押し当てられる。
「‥‥可愛いなぁ」
「‥‥ばか‥‥そんなこと‥言う‥なよ」
「ホントのことやもん。矢口めっちゃ好き」
「‥やあぁ‥‥」
最初は躊躇いがちだった真里の指も、裕子の言葉に励まされて次第に大胆になる。
「‥‥もっと感じて」
自由になった裕子の指が、真里の湿った布に触れた。
布越しにクリトリスに触れた真里の身体は、ピクッと大きく揺れる。
「矢口のもっと触ってって言ってる」
「そんなこと‥‥言ってない」
ゆっくりゆっくりと秘裂の溝に沿うように指を行き来させる。
何度も何度も撫でるように丁寧に。
- 389 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:53
-
「‥‥濡れてる」
「‥‥やだぁ」
布から染み出た愛液が裕子の指を少しずつ湿らせていく。
濡れた下着を何度もなぞっていくと、布地に真里の愛しい形が浮かび上がってくる。
濡れた中心のすぐ上に、ぷっくりと膨れたクリトリスが現れた。
ちょんちょんと、指先が触れるか、触れないかの微妙な刺激をくわえると、真里は腰を押し出し、裕子の指先に股間を擦り付けるような動きを繰り返す。
真里の秘めやかな性器の形がはっきりわかるようになると、裕子は下着の隙間から指を刺しこみ、直接触れた。
「‥‥ふぁ‥‥」
腰を引くように、真里の身体がピクリと動く。
「あん‥‥いやぁ」
逃げる真里の身体を押さえつけ、真里の唇を塞いだ。
可愛い、可愛くて堪らない
「あぁ‥‥んんっ‥‥」
身体を押さえつけられた真里は、首をふるふると振る。
真里の瞳から涙が溢れ出す。
それは快楽のためのもの。
裕子の上に跨り、自らの手で乳房を愛撫し、腰を淫らにくねらせる真里はとても美しかった。
- 390 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2003/09/22(月) 01:54
-
「‥‥何で泣くん?」
「‥‥あぁ‥ん‥ゆーちゃ‥」
裕子は真里の涙を舌で舐め取る。
布の隙間から刺し込んだ指で、真里の身体を貫いた。
「‥‥ふぁ‥」
真里がふるふると首を振り、腰を激しく揺する。
愛液と裕子の指の織り成す音が大きくなった。
「ふぁ‥あぁぁっ‥‥」
悲鳴をあげると、真里は首を仰け反らせ、両足で裕子の身体を締め付ながら痙攣した後、ガクリと全身の力を抜いた。
「‥‥矢口」
崩れ落ちた真里の半裸の身体を、裕子は満ち足りた想いで抱き締めた。
- 391 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2003/09/22(月) 01:56
- まぁ、内容が内容だけに、sage更新で。
- 392 名前:やぐちゅー中毒者セーラム 投稿日:2003/09/22(月) 02:14
- 復活おめでとうございます。
これからも楽しみに待ってます
- 393 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2003/09/22(月) 10:52
- 更新待っていました!!
甘いやぐちゅーも良いですが、なちふくの今後も気になりますね〜。
続きも楽しみにしてます!
- 394 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/25(木) 14:33
- 待ってましたよ〜
今回はのっけから甘いシーンで悶えました(w
この二人はホントに幸せになって欲しいです。
今後どういう展開になるのか予想もつきませんが
楽しみに待ってます。
- 395 名前:名無し 投稿日:2003/09/26(金) 07:51
- この仕事を受けた時の成功の報酬・・・・。
明日香は約束を守るのか?
彩っぺは・・・・・。
ドキドキしてます。
- 396 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/28(日) 20:58
- この幸せが長く続いて欲しい〜〜〜。
続き楽しみにお待ちしています。
- 397 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/13(月) 18:12
- まさにかっぱえびせん。
読み出したら止まらない〜。。。(w
- 398 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/06(木) 23:19
- hozen
- 399 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/03(水) 10:54
- 保全
- 400 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/20(土) 18:06
- 保全
- 401 名前:sage 投稿日:2004/01/06(火) 10:28
- 保全
- 402 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/12(月) 16:48
- そろそろ更新してください
- 403 名前:名無し 投稿日:2004/01/19(月) 00:09
- 明日は矢口さんの誕生日です。
4ヵ月・・・生存報告だけでも・・・・・お願いします。
- 404 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/29(木) 03:12
- 読ませて頂きました。
『PEACE』の面々には文字通り平和が戻ったようですが、
身一つで逃げ出してきた安部と紺野のその後が気になります。
また、安部が発見した事実は何だったのでしょうか?
あっちゃん太郎さんが甲板に降り立つ日を心待ちにしています。
- 405 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:13
-
――― ―――
全てが幻想だった。
『民』なんてものは幻想に過ぎなかったんだよ。
本来は、スペクトラム――連続性で考えるべきだったんだ。
だって――私たちは――99.9%同じなんだから。
- 406 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:13
-
――― ―――
彩の診療室は、緊張感に満ちていた。
裕子と彩は並んで座り、テーブルを挟んで、二人に対峙するかのように明日香となつみがいる。
テーブルに頬杖をついている裕子は、不快さを隠そうともしない。
眉をしかめ、口元を歪めて、そっぽを向いている。
意地でも顔を見せてやるものか、裕子の端正な横顔が、そう物語っていた。
裕子の傍らにいる彩は、裕子の怒りの大きさを肌で感じながら、明日香に対する複雑な感情をもてあましていた。
親友であるなつみのピンチを助けてくれた恩義を明日香に感じているのと、それと同時に、一方では、明日香が何を考えているかわからない不気味さとが相まって、何も言えないでいる。
明日香はあえて気にする様子もなく、持参したワインボトルとグラスを取り出し、なれた手つきでコルクをあけ、グラスの用意をする。
明日香の傍らのなつみは、厳しい表情で、グラスに注がれる瑠璃色の液体を見つめていた。
「安倍さんの救出を見事に達成した石黒先生と中澤さんに乾杯」
「‥‥‥」
明日香がグラスを掲げたが、それに答える者はいなかった。
壁を睨んでいた裕子が、その視線を明日香に向ける。
- 407 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:14
-
「‥‥明日香‥‥後は、好きにやっていい。もう、ウチらに構うな、そう言った筈やけど?」
「確かに、そうおっしゃっていましたね」
「なら‥‥」
「わかりましたとは一言もいってませんよ」
「‥お前」
「そんな恐い声出さないで下さい。怪我もまだ完治してないんでしょ?」
「‥‥‥」
「中澤さんに気に入ってもらえるように秘蔵のワインを持参したんですから」
「‥‥あんたなぁ‥‥」
「他にも、ご招待してる人がいるんです」
明日香は立ち上がり、診察室のドアを静かに開ける。
ドアに耳を当てて、聞き耳を当てていたのだろう。
カタマリが勢いよく転がり込んでくる。
- 408 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:15
-
「‥‥わー‥痛い、痛いよぅ」
「‥‥ったー、いてー、重い、重い」
「市井ちゃん、大丈夫?」
部屋になだれ込んだカタマリが口々にわめきたてる。
「‥っ‥矢口、紗耶香‥‥後藤!?」
裕子が立ち上がると、床に抱きついていた真里が、がばっと身を起こし、裕子に抱きついた。
「‥‥ゆーちゃん」
「矢口、大丈夫か?何か、変なことされなかったか?」
真里をかばうように背中にやりながら、裕子は明日香を睨みつけた。
「私を何だと思ってるんですか?」
「言われるだけのことはしてきたやろ」
「‥‥関係者各位を招待したんです」
「‥‥約束が違う」
「矢口さんには知る権利があります。いずれは手術を受けてもらうことになりますから」
「‥‥ゆ、裕子?‥‥手術?‥‥何のこと?」
裕子の背中の真里が、ぎゅっと裕子の上着を握り締める。
「‥‥矢口」
「ゆーちゃんが怪我したのと、何か関係があるの?」
困ったように振り返った裕子の目に、涙で潤んだ瞳で見上げる真里の姿が入ってくる。
「大有りです」
「明日香!」
堪らず、裕子は怪我のしていない左手で明日香の胸倉を掴みかかる。
裕子の黒手袋がキュっと音をたてた。
- 409 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:15
-
「いずれは説明しなければならないことです」
明日香は静かな目で裕子を見つめ返す。
「‥‥初めから、こうするつもりやったんやな」
「今さら、抜けるなんて無理ですよ。中澤さん。あなたはもうすでにどっぷり首までつかってます」
明日香の言葉に、裕子は明日香の胸倉を掴んでいた腕の力を抜いた。
「‥‥ゆーちゃん」
背後から小さな、優しい手が、裕子の服をおずおずと握り締める。
裕子は明日香を睨みつけたまま、暖かな真里の手に、自らの手を重ねた。
それだけで、力が沸いてくるような気がする。
裕子は真里の手を包み込むように握る。
「‥‥紗耶香と後藤には関係ないやろ」
「そうでもないんですよ」
「‥‥何?」
「おおありなんです」
「‥‥どういう‥‥」
「その件については、安倍先生がご説明してくださるでしょう。安倍さんの説明が一段落着いたところで、矢口さんや、その他の方々の今後について相談するというのはどうでしょうか」
「‥‥‥」
裕子は眉間に眉を寄せて考え込む。
明日香の含みを持った物言いも気に入らなかったし、何よりも、自分の弱みを握られているようで落ち着かなかった。
これ以上、自分たちをどう扱うつもりなのか。
敵か、味方か、それとも――。
裕子は、確かな情報がない今、ここは大人しく引き下がる方が得策だと判断を下した。
真里を伴い、裕子はドアに一番近い位置に椅子を移動し、腰を下ろす。
- 410 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:16
-
「‥‥異議なしのようですね。‥‥それでは、安倍さん、あなたのなさっている研究について、簡単に説明していただけますか?」
明日香の言葉に、なつみは弾かれたように立ち上がった。
しかし、すぐにふらふらとバランスを崩してしまう。
「なっち、あんた、弱いくせにがぶ飲みするから」
彩が呆れたように言葉を挟む。
明日香と裕子が対峙している間、なつみは思いつめたような顔で、グラスに注がれたワインを飲み干していたのだ。
「だ、大丈夫っしょ」
「‥‥大丈夫って、ちっとも大丈夫じゃないでしょうが!‥‥せめて座んなさい。座って話をしなさい」
彩は強引になつみを椅子に引き戻した。
なつみも大人しく彩の言うとおりに、椅子に腰を下ろす。
「‥‥な、な、なっちは、が、学生時代、ず、ずっと線虫のゲノム解読の研究していたんだ。んで、大学を卒業して、け、研究所で、今度はヒトのゲ、ゲ、ノムにか、関わったんだ」
極度の焦りと緊張、それに酔いも加わって、呂律が回らない。
「‥‥‥」
「‥‥ゲ、ゲ、ノム?」
「‥‥吐きそーなネーミングだな」
「市井ちゃん下品だよ」
聞き覚えのない単語に、裕子は眉をひそめ、その傍らの集団は、それぞれ思い思いの反応を返す。
真里は、無言の裕子の耳元で、「ねぇねぇねぇ、ゲノムって何?ゆーちゃん、ちゃんと説明してよ。矢口にもわかるようにぃ」と両手で裕子の上着の袖を揺すり、紗耶香と真希は、お互いに顔を見合わせている。
「‥‥ちゃんと説明してくれ」
裕子は真里を制しながら、なつみに助けを求める。
ゲノムという言葉自体には聞き覚えがあったが、他者に説明できるほどの知識があるわけではない。
- 411 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:17
-
「正式名称は、ゲノム、よ」
見かねた彩が、即座に助け舟を出す。
「ゲノムはDNAから出来ていて。‥‥簡単に言うと、設計図ね」
「‥‥設計図?」
真里が眉間に皺を寄せる。
「‥‥人間だけじゃなく‥‥犬や猫、もっと細かく言うと、ゴキブリなんかの生物の身体を、互いに作用し合う化合物がいっぱい詰まった複雑な装置みたいなものって仮定したとして。――ゲノムは、その装置の設計図ってことになるわけ」
真里、紗耶香、真希の眉間の皺が、一層深く刻まれていく。
「ゲノムに描かれた設計図の通り動くように指示するのが、遺伝子ってわけ。遺伝子の指令で作られるのがタンパク質になる。‥‥わかった?」
「‥‥わかるような、わからないような」
真里が言葉を濁す。
「お二人さんは?」
「‥‥‥わかんない」
「以下同文」
真希と紗耶香の眉は、情けないほどに下がっている。
「ゆーちゃんは?」
「‥‥この3人には、ウチが後で、説明できるところは説明する。‥‥せやから、先に進んでくれんか?」
「‥‥OK‥‥じゃあ、なっち‥‥」
彩は頷くと、傍らのなつみの肩を叩いた。
なつみは、唾を飲み込み、呼吸を整えた後、ゆっくりと言葉を選ぶように語り始めた。
- 412 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:17
-
「‥‥3年以内にヒトゲノムを解読するって指令が出て。みんな、そのプロジェクトのことを――ヒトゲノム計画って言ってた。‥‥そのプロジェクトは、政府から、多額の研究費が下りていて、なっち達は、昼夜問わず働かされたよ」
「‥‥へぇ‥」
「‥‥詳しい経緯は何も説明されなかった。当時は何もわからなかった。ただ、急げ、急げって‥‥」
なつみは当時のことを思い出したのか、辛そうに瞼を伏せ、唇を噛み締めた。
なつみの言葉を受け、明日香が付け加える。
「‥‥そのことについては、私から説明させていただきます。‥‥公表されていない事実ですが‥‥市井さんや後藤さんのように、『力』を生まれつき持たない子どもの出生率が上がっているんです。これは『火の民』、『水の民』、『風の民』、全てに共通する難問です。現在の所、1000人に2〜3人の割合で誕生しています。ここにいらっしゃる、市井さん、後藤さんが、それに当たります。そして、その人口比は‥‥これから、さらに上昇を続けるでしょう。」
- 413 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:18
-
「‥‥っ‥‥」
紗耶香は身を強張らせた。
「‥‥市井ちゃん‥」
不安げに、真希は、傍らの紗耶香の手を握る。
訳のわからない話だと思っていたら、いきなり自分たちの名前が出てきたのだ。
不安にならないほうがおかしい。
‥‥後藤
チラリと傍らを見ると、真希は微かだが身を震わせていた。
不安なのは――きっと、同じだ。
紗耶香は、真希の手を握り締め、明日香を正面から見据える。
握り締めた手のひらから、温かなものが流れ込んでくるような気がしていた。
「‥‥それで、政府機関は焦ったわけです。『民』を区別していたはずの枠組みが根底から揺るがされかねませんからね。それを打開するために、非公式ながら、『民』の枠組みを取り払っての、ゲノムプロジェクトが立ち上がったんです。23本の染色体、32億の塩基、そして、約3万1000個の遺伝子。すなわち、ゲノム――生物体を構成する細胞染色体――の全塩基配列を決定し、そこに含まれる遺伝子情報の解読を目的としたプロジェクトが。ま、早い話、『力』を決定付ける遺伝子を解読しろ、ってことですけどね。」
明日香は、肩をすくめると、グラスに注がれたワインを飲み干した。
赤い液体が明日香の喉もとに吸い込まれるように消えていく。
- 414 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:19
-
「‥‥うまくいけば、『特A』クラスの子どもたちを、エリートを選択的に創り出すことができる。――政府要人にとっては渡りに船の話だったんです。『特A』の『力』の持ち主は、遺伝要素が大きいといわれてはいますが、確実ではない。現に、『特A』能力保持者同士の子どもでも親の能力を受け継いでいない子もいます。‥‥かと思えば、中澤さんや『PEACE』のお嬢さんのように、どうしてこんなところに『特A』能力者が、と首を傾げるような現象がおきています。‥‥この研究がうまくいけば、確実に自分の子どもを『特A』能力保持者としてこの世に誕生させることができるかもしれない。‥‥そのために、各分野の天才と言われる人材が集められたんです。‥‥必死になるのもわかるでしょう?」
明日香は自嘲するように、不自然に口角を吊り上げた。
「‥‥そんなん‥‥わかりたくないわ。‥‥胸糞悪い」
裕子が低い声で唸る。
裕子が本気で怒っているときに出す声だ。
「‥‥ゆーちゃん」
真里は不安げに裕子の上着の裾を握り締める。
明日香は、裕子の怒りのオーラを受けて、どこか満足そうに頷くと、持参したアタッシュケースを指差した。
「‥‥十数年にわたる研究の結果が、この中のディスクに収められています」
「‥‥‥」
部屋にいる全員の視線が、銀色の鈍い光を発する、アタッシュケースに注がれる。
- 415 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:19
-
酒の影響で、どこか、焦点の合わない目で、アタッシュケースをぼんやりと眺めていた、なつみが、とつとつと語り始めた。
「‥‥ヒトゲノム計画だけどね。‥‥塩基配列を解読したんだべ。‥‥何年もかかって、解析して‥‥結局‥‥『民』の間で違いは見られなかったべさ。‥‥全てのニンゲンは塩基配列の99.9%が同じなんだ。‥‥本当に、まったく、笑っちゃうぐらい、同じなんだ。ゲノムはね、あははは、少なくとも、99.9%はチキュウの誰と比べても、まったく同じなんだ。兄弟なんかで比べたら、もっと高くなっちゃうね。‥‥100%超えるかも」
「‥‥いや、超えんやろ」
「‥‥違いなんて、そんな程度だよ。‥‥違いなんてないんだよ。『民』なんてものは幻想だった。すべては幻想だったんだ。」
裕子の言葉を気にする様子もなく、なつみは、自嘲を浮かべながら、幻想、幻想、と呟いている。
- 416 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:20
-
「ねー、市井ちゃん、意味わかる?」
真希が首を傾げながら、傍らの紗耶香に尋ねる。
「‥‥何となくは」
紗耶香は首を傾げながら、何とも曖昧に、頷いた。
自分と、真希が、何やら、関連しているらしいこと。
それは、どうやら、政府レベルの大きな話であること。
明日香って子は、訳のわからない子だ、ということ。
裕子が、ものすごく怒っていること。
その裕子を、真里が、はらはらしながら、見つめていること。
なつみが、ものすごく、後悔していること。
彩は、やっぱり、医者で、専門語を、よく知っていた、ということ。
それから――真希を守らなきゃ、と思ってしまった、ということ。
そんなこと、コイツには、口が裂けても言わないけど――。
「‥‥市井ちゃん?‥‥何か、顔、赤いよ?‥‥どうかした?」
「‥‥何でもないよ」
「心配になっちゃった、とか?」
「‥‥んな、わけ、ないだろ」
「大丈夫だよ。ごとーが一緒じゃん」
「‥‥後藤」
「市井ちゃんは、ごとーが、守ってあげる」
「‥‥ぱか」
「ぱかって何さ」
「ばかより可愛いだろ?」
「市井ちゃんの、ぱか」
真希は、嬉しそうに、笑った。
- 417 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:20
-
斜め45度の角度、ワイングラス越しに、なつみと裕子は対峙する。
「‥‥アンタとウチとで99.9%同じってことか?」
「そうだべさ」
「ウチと矢口でも、99.9%一緒ってことか?」
「そうだべさ」
「コイツと矢口も?」
裕子の細い指が、なつみの傍らのすました顔の明日香を指差す。
「そうだべさ」
「そんなん、うそや!」
「本当だべさ!」
間髪入れずの応答の間、むきになって答えていたなつみが、むせて咳きこむ。
彩は裕子を呆れたように一瞥し、なつみの背中をさすった。
「‥‥なっち‥‥落ち着いて」
なつみは、呼吸を整え、ワインで喉を湿らせると、再び口を開いた。
「‥‥私たちは、残りの『0.1%』で個性を出してるっしょ。‥‥ゲノムはDNAからできてて、それは、うーんと、細かく言うと、30億の塩基からできてるんだけど。‥‥うーん、それは、えっと、‥‥目の色とか、髪の色とか、身体の大きさだけじゃなくて、‥‥例えば、病気のかかりやすさ、とかにも関係してくるべさ。‥‥さっきも言ったけど、人間の、少なくとも、99.9%は、この地球にいる、どこの誰と比べても、まったく同じなんだ。‥‥それなら‥‥0.1パーセントの違いで、争っているウチらって、何なんだろうね?」
なつみの静かな声が、診療室に響きわたる。
- 418 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:21
-
「‥‥正真正銘のアホばっかり‥ってことになるな」
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥『民』の力を決定する染色体があるべさ。それは‥‥2つあって、『神々の印』染色体って呼ばれてる。‥‥『神々の印』染色体は、他の染色体より小さいんだ。‥‥昔は、同じ大きさだったって考えられてるけど。‥‥同じだったはずの染色体が、退化して今の形になったって考えられてる。‥‥大体、20000年前に変異が起こったって。‥‥だんだん退化していった。‥‥20000万年前と比べると、大きさは半分にまで小さくなっているって。‥‥多分、あと、10000年もしたら、なくなるんじゃないかって言われてるべさ。‥‥ある日、変化が起こったべさ。突然変異が。‥‥遺伝子の変化は諸刃の剣だから。ゲノム配列が変化すると多様性が生まれる。そのおかげで、環境の変化に適応しやすくなるべさ。‥‥でも、逆に言えば「突然変異」が病気の原因になるってことも考えられる。‥‥それはある酵素がきっかけとなったんだけど。‥‥判別染色体と共に、無力な人類は『力』を手に入れることとなった。‥‥でも、科学技術を手に入れた人類は、もう、『力』を必要としなくなった。‥‥そして、その酵素は、『力』の衰えと共にと引き換えに、染色体の退化を引き起こした。『神々の印』染色体は――今では、残り22対44本の常染色体の半分の大きさしかない。‥‥染色体の退化のスピードは年々速まっているんだ」
「‥‥‥」
なつみの言葉に、皆が一様に黙り込んだ。
部屋の中に、ぞっとするような静けさが広がる。
- 419 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:22
-
「‥‥多分、これは、なっちの推測なんだけど‥‥始まりは集落が出来はじめた頃だと思う」
「‥‥縄文時代ぐらい?」
彩が合いの手を入れると、なつみは、僅かに微笑んだ。
「よくわかんないけど、それくらい。‥‥今は、自然科学が発達して、生活もだいぶ機械に頼るようになったでしょ。でも、ひとむかし前までは、『力』を使って、色々なことをしていたんだよね。‥‥例えば、本来、『農作』民族の『火の民』は、火を使って、森を焼き払って、耕して、畑を作ったり。『漁業』民族の『水の民』は、水を使って、海で魚をとったり、貝をとったり。『狩猟』民族の『風の民』は、風を使って、風向きをよんだりして、動物をとっていた。‥‥そうでしょ?」
「‥‥そうね」
「昔の村は、今と違って、横のつながり、縦のつながりは、とっても強かったって思うんだよね。だって、そこの村で、生活するためには、厳しい掟があったはずだから。村にとって、子どもが一人前に育っていくことが、村の安定と秩序に関わる大事なことだったはずっしょ。それには『力』と『民』という枠組みが必要だった。‥‥そのことが‥‥『民』が別れた始まりだと思う。」
なつみはそう言うと、きゅっと、唇を引き締めた。
「つまり‥‥よその所に、自分の所の女を取られないように守ったちゅーことか?、せっかく、後生大事に、村で協力して育てた娘や息子を他の村にやれるかっちゅー話なわけか?隣村に女や男をとられんために、『力』を理由にして、『民』って区別を作ったっていうんか?‥‥言いたいことはわかるがな、科学者としては、説得力に欠ける説明とは思わんか?‥‥染色体が退化している説明にしたって、まだ、自然破壊がどうのこうの、環境ホルモンがどうのこうの、言う方が、すっきり説明できるんやないの?」
- 420 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:22
-
「『神々の印』染色体が退化しはじめた時期と、産業革命の時期は重なってるべさ。‥‥それは見事なほどに。‥‥中澤さんのように、環境ホルモンの影響から、説明することもできるべさ。‥‥でも、なっちは、なっちは思ったんだ。‥‥初めてゲノムをこの目で見たときに。‥‥ああ、綺麗だなぁ、って。‥‥こんなに綺麗なものがあるんだぁ、って。‥‥だから、だから、きっと、これは、かみさまが創ったんだ、って。‥‥もともと組み込まれたプログラムが作動しただけなんだ、って」
「‥‥組み込まれたプログラム?」
「『神々の印』染色体は、それぞれの『民』が持つ『力』と同じ、かみさまからのプレゼントだ、って。必要なくなったから、消えていくだけなんだ。かみさまの意思なんだ、って思った」
「‥‥神の意思?‥‥科学者がいう言葉とは思えんな。‥‥あんた、宗教家か、哲学家にでもなったらどうや‥‥とてもじゃないけど、ついていけんわ。‥‥‥『民』同士の争いで、どんだけの人が傷ついたり、憎みあったりしてるかわかるか?‥‥神? そんなん糞食らえ!」
裕子が声を荒げ、皮肉げに告げる。
「‥‥だって、したら、説明できるっしょ?」
「‥‥できるか!? 納得できると思うか!? 政府の連中が!?」
「‥‥‥」
裕子の言葉に、なつみは何も言えずに、黙り込む。
- 421 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:23
- 明日香が立ち上がり、場をとりなすように、言葉をつむぐ。
「‥‥集落を作っている間は、都合がよかったんですよ。同じ『民』同士結束を強めて、自分のテリトリーを守るには。‥‥でも、しかし、‥‥経済が発達し、機械化が行われる中で、ひとつ、問題点が起きてきたんです。人間は便利な道具を生み出し続け、産業革命が起こった。‥‥その結果、互いの『民』は高度経済成長を向かえ、お互いに無視し合うことは、事実上不可能になりました。その結果のひとつとして、中澤先生の偉業のひとつの『商法四三九条〔商人の義務〕』改正となったわけです。‥‥そういう風に考えると、安倍さんの言うように、状況に応じて姿を変化させる遺伝子プログラム――『神々の印』遺伝子は、まさに、神の意思、と言えるかもしれませんね」
そう言うと、明日香は、真っ直ぐに裕子を見つめた。
「失うときには必ず何かを得ます。望む望まないに関わらず。あなたも『印』を失う代わりに『欲しいもの』を手に入れたでしょ。それと同じです」
「‥‥!‥」
「染色体の変異が始まった時期が約2000年前。産業革命が起こったのも同じく2000年前。二つの時期がぴったり重なるというのも面白いでしょ。‥‥まるで『神』の見えざる手に導かれているような気がしませんか?」
「‥‥明日香‥‥アンタの狙いは何や?」
「人聞きの悪い言い方はよしてくださいよ」
「‥‥‥」
ふてぶてしい明日香の態度に、裕子は、不快だと言わんばかりに、露骨に顔をしかめた。
- 422 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:23
-
「そうだなぁ。野望とでも言ってください」
「アンタの野望は?」
「‥‥前にも話したじゃないですか。‥‥この落ち込んだ景気を回復するには、『民』同士いがみ合っている場合じゃないってね。‥‥残された選択は、このまま手をこまねいて静かに朽ちていくか。‥‥それとも、新しい関係を構築していくか。この2つしか在りません。‥‥私は後者の道を望みます。‥‥そして‥‥『民』同士の交流が進んでいくとして、主導権を握るのは、我々、福田グループです。‥‥いうなれば、これは、投資ですよ」
「‥‥投資‥か‥」
裕子が明日香の言葉を反芻する。
「‥‥紺野さんがいますよね」
話の流れが変わった。
明日香が故意に変えたのだ。
「紺野がどうかしたんか?」
「どういう子だかわかりますか?」
「知らん」
「彼女は‥‥『神々を失った者』同士の間に出来た子供なんですよ。彼女のようなケースは珍しいんですよ。‥‥あんなに大きくなるまで無事でいたケースはね。元々、『印』を失った人たちは、めったに子供を作りませんし。仮に作ったとしても、親子共々『密猟者』に殺されるのが約半分。残り半分は、闇ルートで売買されて行方知れずになることがほとんどですから」
「‥‥哀れやな」
「確かに、不幸な出来事です。しかし、失うものがあれば、得るものもある」
「‥‥どういうことや?‥」
裕子の目が、鋭く、光った。
なつみが、おもむろに口を開いた。
- 423 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:24
-
「‥‥紺野は『神々の印』染色体を持っていないべさ。‥‥22対44の染色体を持つ、新人類。‥‥ヒトゲノム計画の途中で偶然発見されたんだ。‥‥それからは、基礎研究を行うという名目のもとに、生命維持装置につながれた実験体だった。‥‥なっちは‥‥なっちは、それが、どうしても許せなかった。‥‥ニンゲンの身体の違い、考え方の違いが、『民』の違いから予測できるって考え方は、ゲノム地図から、まるごと間違いだったってことがわかったべさ。‥‥地球上にある人間は、ことごとく99.9%まで同じべさ。‥‥『同じ民』の中での違いが『他の民』との違いよりも大きいことが多いっしょ。‥‥発表しようとしたら、なっちは、軟禁状態になったべさ。紺野からも引き離されたっしょ。‥‥詳しくは解明されていないけど‥‥紺野の特徴は‥‥その認知にある。‥‥彼女には‥‥恵まれた才能を持っているんだ」
なつみの言葉には重みがあった。部屋にいる全ての人が押し黙り、なつみの言葉に耳を傾けている。
「‥‥その才能を失いたくない‥‥そう思ってはいけないと言うの?」
「‥‥いや‥当然や‥‥」
裕子は静かに立ち上がり、敬意を表すように、なつみに対して頭を垂れた。
- 424 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:24
-
――― ―――
「‥‥どうしたんですか? 石黒先生? 顔が恐いですよ」
「あたしは、他の人みたいに単純じゃなくってね」
「‥‥‥」
「アンタの言うことを鵜呑みにする気はサラサラないし。第一信頼性に欠けるんだよね。アンタの話は」
彩はニヤリと笑い、明日香の顔を覗き込んだ。
先ほどから、何だかんだと、言いがかりをつけて、彩は明日香の帰るのを引き止めている。
なつみは、緊張が解けたのと、酔いがあいまって、早めに就寝してしまった。
紗耶香と真希も、何となく、いい雰囲気になって、仲良く帰っていった。
裕子は、どうして話してくれなかったの、と真里に責められ、ヘコヘコとコメツキバッタのように謝っていたが、それでも、最後は裕子の怪我している右肩をいたわるように、真里が寄り添い、帰っていった。
診療所に残っているのは、彩と明日香の二人だけだ。
「‥‥どのあたりがですか?」
「全部」
「それは困りましたね」
「全然困ってない顔じゃん」
「‥‥ばれましたか‥」
「‥‥大体、企業ってのは、利潤を追求することが目的でしょ? こんな、危ない橋渡ってまで、理想を追求する企業なんてありえないね。‥‥本来なら、アンタたちこそが、紺野やなっちを抹殺する側に回るはず」
「‥‥‥‥」
「‥‥何を考えているの?」
彩の言葉に、明日香は、珍しくも言葉に詰まったように黙り込んだ。
- 425 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/01/31(土) 16:25
-
ややあって、明日香が、口を開いた。
「‥‥石黒先生」
「な、何よ」
「‥‥先生は‥‥前世を信じますか?」
「‥‥は?」
「前世の存在を信じていますか?」
「‥‥もし、仮に、前世があったとして、あたしが誰かの生まれ変わりだったとしても‥‥私とは別の人間よ。関係ないわ」
「‥‥石黒先生らしい意見ですね」
明日香は自嘲するように、小さく笑った。
「何で、そんなこと‥‥話を逸らさないで、あたしの質問に‥‥」
「‥‥私は‥‥私のやりたいように動きます。‥‥それだけです」
そう言い残すと、唖然とする彩を部屋に残し、明日香は、アタッシュケースを指先が白くなるほどに強く握り締めながら、部屋を後にする。
カツンカツンという靴音が、夜の闇へ消えていった。
- 426 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/01/31(土) 16:26
-
更新しました。
保全してくれた方に感謝します。
ありがとうございました。
これからは――もっと間をあけずに、更新したいと――思います。
- 427 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/01(日) 01:29
- 更新お待ちしてました〜。
これからどうなっていくのか・・・楽しみであったり・・・心配であったり(w
- 428 名前:太平 洋sage 投稿日:2004/02/02(月) 00:03
- 神々の印、最初からここまで一気に読みました。風の民、火の民、水の民。その違いって、現実の民族の違いのような気がします。
明日香の考えも気になるし、各カップルの行方も気になります。それにしても真矢の出現は驚きました。今後の展開楽しみにしてます。
- 429 名前:太平 洋sage 投稿日:2004/02/02(月) 00:04
- すんません、sageの方法がわからなかったのでageてしまいました。
- 430 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/03(火) 05:03
- メール欄にsage
- 431 名前:太平 洋 投稿日:2004/02/04(水) 02:09
- これでイイのでしょうか?
- 432 名前:太平 洋 投稿日:2004/02/04(水) 02:12
- よかった。名無し飼育さん、さんくすです。
あっちゃん太郎さん、物語、更新まってます。
- 433 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/05(木) 18:21
- 更新きてたー!!お疲れ様でございます作者様。
イヤーすごいですな。また楽しみに待ちたいと思います
- 434 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/06(金) 03:51
- うーむ、やはりまだまだ一山二山ありそうで。
福田は底を見せませんね。魅力的です。
これからどうなっていくんだろう。
- 435 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 12:25
- サイエンス色が強まってきましたね。
こういう話好きです。
- 436 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:47
-
――― ―――
彩の診療所から、裕子と真里は、二人の生活の場である小さなアパートに向かっていた。
いつもなら、裕子と真里、二人ともが、そろって黒い服を身に着けているために、二人が並んで歩いても、その姿は闇にまぎれてしまうのだが、今日は、裕子の左肩の白い包帯が黒いコートの隙間から垣間見えて、それが月明かりの下、一層目を引く。
「‥‥ったく、あんま、心配かけんなよ」
並んで歩く傍らで、真里は拗ねたように呟いた。
「うん」
口元を緩めながら、それでも、神妙な顔を作り、裕子は頷く。
「ほっといたら、無茶ばっかすんだから」
「うん」
「‥‥ほんとに、わかってんの?」
頷くだけの裕子に、業を煮やしたように、真里は少しばかり声を尖らせた。
「わかってるって」
裕子はニヤリと意地に悪い笑みを浮かべ、右手で真里を引き寄せ、そのまま抱きしめる。
- 437 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:48
-
「何すんの」
「矢口、可愛い」
真里の非難の声をきれいに無視して、裕子は真里の耳元で甘く囁いた。
裕子の意識して作った低い声色と熱い吐息を受け、真里はぶるっと身体を震わせる。
「‥‥何すんだ。離せよ」
口では離せと言いながら、裕子の左肩の怪我を気にして、真里は、抵抗するのを躊躇っている。
それをいいことに、裕子は、真里の耳たぶを口に含み、吸い上げた。
「‥‥っ‥やめろ、こんなとこで‥っ‥」
「いいやん。矢口の愛を感じたんやから」
「‥‥よくない‥‥。離れろっ」
「‥っ‥」
真里が大きく身動ぎすると、裕子は眉を寄せ、僅かに顔を歪めた。
「‥‥ご、ごめん」
「‥‥怪我人に対して、その態度は何やねん」
低い声で裕子が呟く。
「だって、ゆーちゃんが‥‥」
「ゆーちゃんが、何や?」
「こんな所で‥‥」
「ココじゃなかったら、いいんやね。よし、わかった、早く帰ろう」
ニヤリと裕子が、先ほどと同じ、意地の悪い笑みを浮かべた。
「そんなこと、一言も言ってないっ」
裕子の笑みに心臓を撃ち抜かれ、どきどきと脈打つ胸を抑えながら、果敢に、真里は反論する。
このまま主導権を握られるのは癪に障る。
「‥‥矢口が冷たい」
「何言って‥‥」
裕子は拗ねたように、足元の石ころを蹴り上げた。
裕子の蹴った石は、思いのほか転がり続け、道を向こうの通行人に当たって止まった。
裕子が謝罪の言葉を口にする前に、その通行人が口を開いた。
「‥‥矢口」
- 438 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:50
-
通行人の言葉を受け、真里と裕子は顔を見合わせる。
こんな場所で、こんな時間に、知人に会う確立は極めて低い。
しかも、真里は、家族と友人を、言うなれば、棄てた身だった。
裕子と真里に緊張が走る。
通行人の顔は、夜の闇に隠れて、窺うことはできない。
通行人は、身構える真里と裕子を気にする様子もなく、月明かりの下にその身を晒した。
浮かび上がった顔を見て、真里は小さく息を呑んだ。
「‥‥M」
呟く真里の声には、知らず知らずのうちに、緊張が含まれていた。
この前会ったときとは、状況が違う。
あの時は一人だったが、今は、裕子が一緒なのだ。
しかも、裕子は今怪我をしていて、万全ではない。
どこから見られていたかは定かではないが、恐らくは、裕子が自分を抱きしめているところを見られたに違いない。
もしも、裕子のことを尋ねられたら、どう説明すればいいのか?
かつて、裕子は『火の民』の中で、一際目立った存在だった。
『風の民』過激民族主義極右集団『グリーン』が、裕子のことを知っている可能性も否定できない。
- 439 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:50
-
真里の背中に冷や汗が流れる。
――この場をどうやって切り抜けるか。
真里の焦りをよそに、Mはゆっくりと道を渡り、二人にいる場所へ近づいてくる。
今日は、一人のようだ。
前に会ったときのように、部下を引き連れているわけではない。
しかし、『グリーン』の構成メンバーであることを示す、緑色のTシャツを着けている。
正直、会いたくなかった。
かつての友人をそういう風に感じる自分自身にも閉口していたが、そう感じるのだから仕方がない。
やがて、Mはおだやかな微笑を浮かべ、真里の前に立った。
Mを目の当たりにしたものの、言葉もなく立ちすくむ真里に、複雑な心境を感じ取ったのか、裕子が動いた。
真里を庇うように、真里とMの間に立つ。
Mは不愉快そうに眉をひそめた。
裕子とMが対峙する。
- 440 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:51
-
「‥‥誰?」
「‥‥人にモノを尋ねるときは、自分から名乗るのが礼儀やろ?」
「‥‥‥」
Mの目が細まり、値踏みするように、裕子を上から下までジロジロと見た。
二人の険悪な雰囲気を感じ取り、真里は慌てて、裕子の背後から身を乗り出す。
「や、矢口の友達の、な、なか、中山さん。‥‥同じ、占い、仲間なんだ。‥‥ね、ねっ」
裕子のコートの裾を引っ張りながら、自分の話に合わせろという合図を送る。
「‥‥中山や。‥‥よろしくな」
チロリと、真里を一瞥し、裕子はMに軽く頭を下げ、会釈した。
「こ、こっちは、矢口の、学生時代の友達で、Mっていうの」
真里の説明にMも、軽く頭を下げた。
「‥‥仲、良かったん?」
裕子が真里の耳元で囁く。
「え?‥‥うん」
「ええ、とても」
躊躇いがちに頷く真里の声と挑戦的に響くMの声が被った。
小さな声で問うたのが、どうやらMの耳にも聞こえていたらしい。
Mは裕子を気にする様子もなく、そのまま、真里に話しかける。
「‥‥矢口、遊びにおいでって言ったのに、来てくれないね」
「‥‥あ‥‥ごめん。‥‥いろいろと、忙しくって」
「中山さんと遊ぶのに、忙しかったんだ」
「そ、そんなこと、ないけど」
「ふうん」
Mは、真里の金髪の髪を撫でつけた。
真里の視界に、小さな笑みを浮かべるMと、その横で顔を歪める裕子が入ってくる。
- 441 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:52
-
「矢口さぁ、綺麗になったよね」
「そ、そう?」
「うん、とても、綺麗になった」
「‥‥M?」
「‥‥名前で呼んでいいよ。矢口は特別。‥‥そうだ、これから、下の名前で呼ぶね。‥‥真里って。‥‥いいでしょ?」
「‥‥別に、いいけど」
「やった。嬉しい」
Mは目を細めて笑った。
めったに笑顔を見せない友人は、愛想が悪いと周りから思われていたが、学生時代、真里と友人のIの前でだけは、その笑顔を惜しみなく振りまいてくれた。
真里は、一瞬、昔に戻ったような錯覚を覚える。
「‥‥M」
「名前で呼んでいいって言ったじゃん。‥‥それとも、あたしの名前、忘れちゃった?」
Mがいたずらっぽく、瞳を瞬かせる。
真里は、ふるふると、首を横に振った。
忘れるわけがない。
例え、一度も、使ったことがない呼び名だとしても。
しかし、この友人は、ミドルネームを使うのを好んでいたはずだ。
その想いが、真里を躊躇わせた。
真里の表情から、考えを読み取ったのだろう、Mは口元を緩ませて、
「いいよ。矢口は、特別だから」
と再度、念を押した。
- 442 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:52
-
「‥‥美貴」
おずおずと、真里が名前を口にすると、
「‥‥矢口にそう呼ばれると、何か、新鮮」
とM――美貴は、口元を綻ばせた。
「‥‥おっと、もう時間だ。‥‥じゃあ、矢口、また遊びに来てよ。待ってるから」
挑発するように裕子に対してふてぶてしく笑いかけ、真里の手をかたく握り締めた後、美貴は何度も振り向きながら、夜の街並みの中へと去っていった。
美貴の姿が見えなくなるまで、ずっと沈黙を守っていた裕子が、重い口を開く。
「‥‥あいつに近づいたら、アカン」
「‥‥うん」
「危険や」
「‥‥うん、わかってる」
「あの子は‥『グリーン』で‥」
「わかってるって。‥‥ゆーちゃんの口から、友達の悪口なんて聞きたくない。‥‥わかってる。‥‥心配しなくてもいいよ」
小さな肩を一層小さく縮こまらせながら、消え入りそうな声で、真里が呟く。
- 443 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:52
-
「‥‥違う」
「ゆーちゃん?」
「そんなんじゃない」
裕子は真里の身体を、幾分強引に引き寄せ、腕の中に収める。
真里の首筋に鼻を埋めながら、言葉にならないうめき声を発する。
「‥‥ゆーちゃん?」
「ただ‥‥ウチは‥‥」
それっきり、裕子は、言葉もなく、真里を抱きしめる腕に力を込めた。
自分を抱きしめるその腕が、微かに震えているのに気づき、真里は静かに裕子の背中に腕を回した。
- 444 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:53
-
――― ―――
カチャカチャとキーボードを叩く音が、木霊する。
「絶対、どっかで見た顔なんだよな。‥‥あんな、目つきの悪いやつ、あんま、いないって‥‥」
ぶつぶつ独り言を言いながら、細かく指先を動かしながら、M――美貴・M・藤本は、カーソルを操る。
手が忙しく動き回る中、美貴の左手の緑の石が、ルームライトに反射してキラキラと輝いた。
『風の民』過激民族主義極右集団『グリーン』支部の事務所には、コンピューターの端末が置いてあって、必要な情報は、『グリーン』本部へアクセスすれば簡単に調べることができる。
程なくして、忙しく動いていた美貴の右手の動きがぴたりと止まった。
じっとディスプレイの画面を見つめている。
探していた人物のファイルは、思ったとおり、やはり存在した。
「‥‥やっぱり‥‥中山、じゃなかったか‥‥。‥‥中澤裕子‥‥」
目を細め、食い入るように、画面に羅列された、裕子の輝かしい経歴を読みあげる。
- 445 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:53
-
「‥‥『火の民』の中流階級に生まれる。生後まもなく『特A』の能力保持者と判明。政府の指導により『特A能力保持者育成所』、通称『特保』への措置が決定する。法学を専攻し、『特保』を優秀な成績で卒業。司法試験をトップで合格。研修期間を経た後、A法律事務所にて弁護士としての活動を開始する。主に、刑事事件を担当。殺人事件や強盗などの凶悪事件の弁護を得意とした。民事裁判を担当し、『商法』の改正に成功し、名を上げる。その後、法律事務所を辞め、表舞台からは姿を消す。しかし、民事事件で担当した、ショットバー『PEACE』に中澤裕子らしき人物が足しげく通っているという情報もあるが、確かなことはつかめていない」
美貴はファイルを読み上げると、フン、と鼻を鳴らした。
- 446 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:54
-
ファイルのランクは三つの段階に分かれている。
レベル1 危険人物、制裁せよ。
レベル2 要注意人物、警告せよ。
レベル3 注意人物、監視せよ。
裕子は、この三つの段階では、レベル3、注意人物、監視せよ、に当たる。
ファイルに載っている人物を発見、あるいは捕獲した場合には、『グリーン』本部への報告が義務付けられ、本部の指示のもとに動かなければならない。
『火の民』過激民族主義極右集団『レッド』が引き起こした、『PEACE』の焼き討ち事件以来、『グリーン』本部は、各支部をまとめ、統率することに尽力を注いだ。
その結果、どんな細かい情報も、組織に報告することが義務付けられている。
あの事件以来、過激民族主義者の行き過ぎた制裁は、世論の批判の対象になった。
今では、その批判の嵐は収まりつつあるものの、それでも、一支部の暴走は、組織の解体にも繋がる事態になりかねない。
行き過ぎた制裁は、かえって、自分たちの身を危うくする。
それが、大きな犠牲を払って学んだ教訓だった。
「‥‥本部に報告か‥‥」
美貴はキーボードを叩き、『注意人物発見。中澤裕子。火の民』と打ち込んだ。
- 447 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:55
-
‥‥でも‥‥。
美貴の脳裏に、小さな、愛しい女の子の絵が浮かぶ。
可愛い子だった。
いつも笑っていた。
くるくると変わる表情。
とても可愛いと思っていた。
あんな風に、突然いなくなるなんて、想像もしていなかった、あの頃。
いなくなってから、初めて自分の気持ちに気づいたんだ。
それなのに。
それなのに――。
なぜ、真里の隣に、あの女がいるのか?
『火の民』のあいつが。
『注意人物』である、中澤裕子が。
真里を抱きしめていた、あの女。
あの時は、愛想笑いを浮かべるので精一杯だった。
あの場面を思い出すだけで、嫉妬で、頭がおかしくなりそうだった。
あの女――中澤裕子。
中澤裕子に、何故、真里が絡んでいる?
『火の民』の中澤裕子と、『風の民』の真里の接点は?
何故、真里は、中澤裕子の本名を隠したのか?
「‥‥あー、くっそー‥‥」
美貴は髪を掻きむしる。
「‥‥全然、訳、わかんねー」
- 448 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:56
-
グリーン支部の美貴の机の引き出しの中には、高校時代の美貴と真里とIの3人の写真が入っている。
制服姿の自分と真里、それと、高校を卒業してすぐに結婚した友人のIが、笑顔で写っている写真だ。
あの頃の自分は、コンプレックスのカタマリで――。
家柄に縛られまいとして、自分で縛り付けていた。
Mと名乗りながらも、Mの名を憎んでもいた。
ミドルネームに示される上流階級の家柄の格付けは、Aから始まりZで終わる。
Mは13番目にあたる。
ちょうど真ん中にあたり家柄。
家柄にかこつけてエリート意識を持つこともできず、かといって、家柄など関係ないと、開き直ることもできなかった。
それでいながら、ミドルネームを名乗り、ミドルネームを持つ友人と付き合うようにしていた。
Iを友人に選んだのも、彼女が、自分よりも家柄が上だったからだ。
彼女と付き合うことで、自分の家柄も上がるような錯覚を覚えていた。
Iは、高校を卒業すると、すぐに、格上の家柄の男性と結婚してしまった。
今では、幸せな上流階級の若奥さんにおさまっている。
自分にはとてもできない芸当だった。
だからこそ、家柄ではなく、実力でのし上がっていくことが可能な『グリーン』に加入することを決意したのだ。
- 449 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:56
-
ミドルネームを持たない友人は、真里が初めてだった。
あの、輝く笑顔を、無視することができなかった。
自分から、真里に近づいて、友人となった。
自分を通して、真里とIは親しくなっていき、仲良し3人組ができあがった。
思えば、あの頃から、きっと、自分は真里が好きだったのだ。
それをごまかすかのように、真里と、Iと、3人で、他愛もない男の子の話やファッションに花を咲かせていたっけ。
美貴は回想を振り切るように、頭を軽く振った。
マウスのカーソルを下に持っていき、画像をクリックする。
弁護士時代の裕子の写真がディスプレイの一面に現れる。
盗撮したのだろう。
打ち合わせの最中だろうか、赤い原色のスーツをビシッと着こなした裕子がコーヒーカップを片手に、同僚らしき男性と談笑している様子が映し出されている。
左手には、神々の印である、赤い石が輝いている。
燃える金色の髪と、強い意志を示す青い瞳が、裕子の生命力と魅力を十分に引き出している。
- 450 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:57
-
「‥‥弁護士から占い師に転向したってわけ?」
瞳を閉じ、先ほど見た、現在の中澤裕子の姿を思い浮かべる。
金髪、碧眼は変わらないとしても――。
黒いコート、白い包帯、黒い手袋――そのファッションは大きく変化している。
赤から黒へ――。
服装の変化は、何を示している?
真っ黒の服装。
おかしい。
美貴のアンテナに何かが引っかかった。
パソコン画面の中澤裕子と、中山と名乗った中澤裕子とでは、何かが、決定的に、違っている。
「‥‥手袋だ」
中澤裕子は、黒い、皮手袋をしていた。
黒いコートに黒い手袋――白い包帯で巻かれた右肩とは対照的に。
――そして――。
矢口真里も――。
- 451 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/13(金) 17:57
-
「‥‥真里」
やっと、やっと、見つけたのに。
いきなり消えてしまった、可愛い子。
二人に共通する、黒い手袋。
これの意味するものは――。
美貴は、パソコンのディスプレイを睨みつけた。
本部に通告する義務がある。
でも――。
美貴は躊躇っていた。
ディスプレイには、先ほど打ち込んだ『注意人物発見。中澤裕子。火の民』の文字が点灯している。
後は、送信ボタンをクリックすれば、自分の義務は果たしたことになる。
しかし――。
美貴は、送信ボタンを押すことができなかった。
唇を噛み締め、両拳を力任せに、机へと打ちつけた。
不思議と痛みは感じなかった。
気が付くと、両眼から涙が溢れ出し、頬を濡らしていた。
美貴の唇からは嗚咽が漏れる。
静かな、満月の夜、だった。
- 452 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/02/13(金) 17:58
- 更新しました。
- 453 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/14(土) 00:23
- ここにもやぐみきの波が…
- 454 名前:エヌ・エム 投稿日:2004/02/14(土) 02:24
- 更新お疲れ様!
Mって藤本だったんですネ。
ビックリしました!
これからどうなるのか…?
楽しみデス。
- 455 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/14(土) 07:51
- >>454
ネタバレはやめよう。
- 456 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/14(土) 08:17
- >453.454 だから ネタばれしないように。
- 457 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/14(土) 08:17
- >453.454 だから ネタばれしないように。
- 458 名前:太平 洋 投稿日:2004/02/15(日) 00:44
- >456.457 ネタバレも何も作者自らが明らかにしてるので問題ないと思いますが・・・
Mはこれから葛藤に苦しむことになるでしょう、彩が同じ風の民としてMにからんでくる予感。
つづきが楽しみです。
- 459 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/15(日) 01:35
- >>458
作者が本文で明らかにすることと
読者が感想レスで明らかにすることは全然違うよ。
問題ないかどうかよくよく考えてみないと。
更新のたび、う〜んって考えさせられる話しですね。
続きも楽しみに待ってます。
- 460 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/15(日) 22:35
- そうそう、本文より先に感想レスで知っちゃうと
がっかりするってこともあるしね。
いやー、息するのをやめて読んでしまうほどだ。
続き、心よりお待ちしております。
しかし裕ちゃんはやっぱりイイ!!
- 461 名前:太平 洋 投稿日:2004/02/19(木) 00:52
- >459,460さん、
ナルホドね。感想を書く場合は元ネタに気付いていても気付かないフリで入ることが大切なんですね。
ところで作者さん、そろそろ更新して欲しいと思ってます。
- 462 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/19(木) 02:35
- ↑
またお前か!
なに言ってんだこいつ
- 463 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/19(木) 04:29
- >>462
殺伐としてくるから…ね?
大平 洋さんも自治FAQもっかい読んでおくれやす。
元ネタってのは俺には分からないけど、
この場合マズかったのは、Mの正体を感想でバラしちゃったからかと。
みんながみんな2ちゃんブラウザ使ってるわけでもないし、
映画とかだって見る前にストーリーバラされちゃったら嫌だしね。
更新の催促ももうちょっとだけ考えるとよかったのかなと。
せっかくの良作、マターリ見守りましょうや。
- 464 名前:463 投稿日:2004/02/19(木) 04:29
- 失礼…
太平 洋 さんでしたね。
- 465 名前:太平 洋 投稿日:2004/02/19(木) 23:52
- >463さん、おっしゃりたいことは理解できます。先ほど(461)の書き方が悪かったようで誤解を生んでしまったようです。すみません。これからもマターリと待ち続けます。
- 466 名前:名無し 投稿日:2004/02/22(日) 00:44
- 何度読んでもおもしろいです。
これからどうなるか予想もつかず・・・・
楽しみに待ってます。
- 467 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:05
-
――― ―――
ショットバー『PEACE』のカウンターで、裕子は、一人、ビールジョッキを傾けていた。
右肩には、白い包帯が巻かれ、痛々しい。
裕子の表情は暗く、カウンターの中にいる圭織でさえも、話しかけるのを躊躇うような落ち込みようだ。
静かなジャズが流れる店内に、裕子がジョッキを傾けるたびにおこる、ガラスと木材とが擦れる微かな音がアクセントを添えていた。
圭織はあえて何も聞かず、黙々とグラスを拭いている。
もうすぐ、圭が来る時間だった。
静かな時間が流れ、やがて、ドアが開き、圭が入ってきた。
猫のように、しなやかに身を翻して入ってくる。
古ぼけたドアが、ギギイイーと、耳障りな音をたてた。
裕子は、音に反応して振り向いたものの、圭の姿を見ると、落胆したように肩をすくめ、再びビールを喉に運ぶ。
- 468 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:07
-
「何よ、失礼ね。そんなにガッカリすることないじゃない」
「ガッカリなんて、してへん」
「それの、どこが、ガッカリしてないって言うの?」
裕子の隣の席に腰を下ろすと、圭はカウンターの中の圭織にビールを注文する。
「‥‥冴えない顔。‥‥矢口とケンカでもした?」
圭織からジョッキグラスを受け取りながら、圭は軽口をたたいた。
「‥‥うっさい」
力なく呟くと、裕子は、カウンターのテーブルに投げ出したままの、すこしばかり形がいびつに歪んだタバコの箱に手を伸ばす。
左手だけで器用に細見のタバコを一本抜き取り、苦虫を潰した顔のまま、口に咥え、タバコ箱の隣にある白銀色の鈍い光を放つジッポを取ろうと手を伸ばす。
と、圭の手が、すばやくジッポを取り、火をともした。
「当たり、か。珍しいね」
圭の言葉を受け、裕子は微かに眉をひそめ、圭の差し出すジッポにタバコを近づける。
無言でゆっくりと息を吸い込んだ。
「一本もらうよ」
圭は、投げ出したままの、タバコの箱に手を伸ばす。
「ああ」
不機嫌そうに口元を歪めたまま、裕子が頷く。
何もかもが億劫で仕方がなかった。
- 469 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:07
-
「メンソール吸ってんの?」
「ああ」
「前は、もっとキツイの吸ってなかった?」
「‥‥変えたんや」
「ふうん」
「‥‥圭織、ビール」
圭織は、ジョッキのビールを差し出しながら、ちょっとペースが速いんじゃない、と裕子をたしなめた。
それを、裕子は、うっさい、のひと言で片付けた。
「で、その、不機嫌の原因は何?」
ズバリ、直球勝負の圭の言葉に、裕子はため息をついた。
圭は、いつもこうだった。
普段は立ち入ってこないのに、肝心なところはキッチリと突いてくる。
ややあって、裕子はため息をつき、気が進まない様子で話しはじめた。
- 470 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:08
-
「‥‥矢口の友達と会ってな」
「ふうん」
「‥‥‥‥あれは‥‥おとついの夜や。明日香のヤローに呼び出されて。彩の診療所からアパートに戻るまでの帰り道で。‥‥声をかけられたんや」
「二人でいるところに?」
「そうや」
「オトコノコ? オンナノコ?」
「オンナや。目つきの悪いオンナ。‥‥ソイツ、緑色のTシャツ着けててな」
「ふうん」
「‥‥『グリーン』の大物やて」
裕子の言葉に、圭はしばし言葉を失った。
真里とは長い付き合いだが、そんな友人がいるという話は聞いたことがない。
圭の反応に、裕子は、そうだろ、そうだろ、というように頷いた。
「‥‥そんな危険なヤツと、矢口が、知り合いなの?」
「学生時代は、そうでもなかったそうや。‥‥矢口とは、3週間前に再会してて、その時、ソイツと一緒に『グリーン』の事務所にも遊びに行ったらしいわ」
「何で、そんな、危険なこと‥‥」
圭は顔を曇らせる。
- 471 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:09
-
「そう思うやろ? だから、言ったんや。何で、そんな危険なことしたんやって。‥‥そしたら、ゆーちゃんに言われたくないって言われてな。‥‥それがな‥‥ウチが、仕事で、出てる間のできごとみたいやねん」
「その肩の怪我のヤツね」
「‥‥そうや」
失敗したわ、もっと、考えて話すればよかった。
そう呟くと、裕子は、悔やむように、唇を噛み締めた。
「‥‥ソイツには、もう会うな、言うたんや。そしたら、矢口、怒ってまってな。‥‥自分は好き勝手するくせに、って、言うんや」
裕子はタバコを灰皿でもみ消し、新しいタバコを口に咥える。
圭は無言のまま、ライターで裕子のタバコに火をつけた。
「‥‥それ以来、話にならん」
「‥‥矢口は?」
「‥‥ぶすっと膨れて、仕事に行った」
- 472 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:09
-
圭はしばし考えていたが、ややあって、口を開いた。
「‥‥希望的観測を言うと、向こうから、放っておいてくれるかも」
「それは、無いな」
「言い切れるの?」
「間違いない。‥‥アイツは矢口に惚れてるからな」
「何を、根拠に‥‥」
「ウチのこと、モノスゴイ目で、睨んどった」
「‥‥それだけで‥‥」
「これ見よがしに、ウチのことを挑発しおった」
裕子が低い声を出す。
圭と会話するうちに、裕子の眠っていた怒りと焦燥感が蘇ってきたのだろう。
裕子の瞳に力が宿る。
「‥‥あのガキ、矢口にちょっかい出したら、ただじゃおかん」
「‥‥『グリーン』相手にケンカする気?」
圭が呆れた口調で尋ねると、裕子は黙り込んだ。
- 473 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:10
-
「ちょっと、止めてよ」
「‥‥わかってる」
圭の焦った口調に、裕子は頷いた。
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥心配しなくても、ウチは、勝つ見込みのあるケンカしかせんよ。‥‥守りたいものもあるしな。‥‥それに‥‥矢口を泣かすわけにはいかん」
「‥‥なら、いいけど」
圭はビールを喉に流し込む。
少しぬるくなって、苦味が増していた。
ややあって、裕子がいたずらっぽく尋ねる。
目が意地悪く光っていた。
「‥‥圭坊は、どうなん?」
「どうって?」
「浮いた話の一つもないんか?」
「‥‥ゆーちゃん、それ、セクハラ」
「何でやねん。純粋に好奇心から聞いてるだけやん」
「‥‥どーでもいいよ、あたしのことは」
興味ない、というように、圭は会話を打ち切った。
それっきり、裕子に構わずに、ビールを一気に喉に流し込む。
「‥‥どーでもいいって、あんた‥‥」
圭の隣で裕子が寂しげに呟いた。
- 474 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:10
-
――― ―――
にぎやかな話し声と共に、『PEACE』のドアが開いた。
「「「‥‥あ‥‥」」」
カウンターで飲んでいる圭の姿を認めると、来訪者はばつが悪そうに顔を見合わせる。
「‥‥課題はしたの?」
「‥‥えーっと」
「ウチらは終わりました」
梨華が口を濁す中、ひとみははきはきと答え、真希は居心地悪そうに身をすくめた。
その様子を見て、圭の顔が曇る。
真希の勉強嫌いは昔からだが、それでも、与えられた課題には比較的真面目に取り組んでいた。
それが、近頃は、目に見えて、勉学への意欲が低下している。
「‥‥後藤」
「‥‥これから、するもん」
拗ねたように、真希は口を尖らせる。
「石川、自分でさせるのよ」
真希の提出した課題の答えが、梨華の課題提出の内容と一言一句、同じ場合があるのを、何度か見たことがあった。
- 475 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:11
-
「一度しか言わないから、耳の穴かっぽじって、よく聞きなさい。‥‥アンタには、生まれつきのハンデがあるんだから。人よりも強くならなきゃ。そのためにはどうすればいいか考えなさい」
圭は静かな口調で告げる。
「‥‥ちゃんと、考えてるもん」
真希は唇を尖らせた。
「アンタが考えているとしても、考えてないように見えるから、言ってるんじゃない。それに、ちゃんと、って何? 具体的に言えばどういうこと?」
「‥‥後藤だって、考えてるよ。‥‥考えて、がーって、おかしくなるぐらい考えてるもん」
「それが、甘えって言うの。‥‥考えても答えが出なきゃ、意味がないじゃない」
圭は苛立ったように続けて言った。
「‥‥『PEACE』がいつまでもあるっていう保障はどこにもないのよ。もしも、圭織が病気か何かで倒れたらどうするの? 『PEACE』が無くなったら、アンタの居場所はどこにあるの?」
圭の厳しい口調に、真希の瞳が潤んでくる。
圭の言う正論に対して反論できない悔しさと、反論できない自分に対する怒りとが相まって、真希は身を震わせた。
- 476 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:12
-
「‥‥悔しかったら、あたしが感動するような歌を歌ってみなさいよ」
「‥‥せ、せんせい、‥んか、き、きらいだ」
やっと、それだけ口にすると、真希は『PEACE』のドアに体当たりするように、表に飛び出して行った。
「‥っ‥ごっちんっ」
ひとみは慌てたように真希の後を追いかける。
「先生、今のは、ひどいと思います」
梨華は悲しそうに圭を見つめ、ひとみの後を追う。
圭は、教え子の去っていったドアを見つめ、ため息をついた。
「‥‥圭織、例えに出してごめんね」
「いや、あたしは構わないけど。だって、本当のことだし」
圭織は、ひょいと肩をすくめた。
「でも、ひと言言わせてもらえば、言いすぎだと思う」
「そうやなぁ」
裕子は目を伏せて、ビールを一口飲む。
- 477 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:12
-
「さっきも言ったけど、『PEACE』がいつまでもあるって、保障はどこにもない。厳しいことを言う人も必要なのよ。‥‥フォローは‥‥ゆーちゃん、してくれる?」
「‥‥ああ」
小さく頷くと、裕子はもの言いたげな瞳で、圭を見つめた。
「‥‥何?」
「しっかり、後藤のこと、見てるんやな」
「何のこと?」
「公園で歌ってることも知ってたやん。‥‥こっそり、後でもつけたんか?」
「‥‥担任だもの」
「圭坊だから、やろ」
「‥‥心配だもんなぁ。‥‥ウチが圭坊の立場でも、そうすると思うわ」
「‥‥‥‥」
裕子の言葉に、圭は深々とため息をつき、カウンターに両腕をついて、髪の毛をかきむしった。
- 478 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:13
-
「‥‥止めないんか?」
壁にかかった古いポスターをぼんやりと眺めながら、裕子はタバコを燻らせる。
「止めたって無理でしょうが。‥‥矢口の時で身をもって思い知ったしね。‥‥止められないなら‥‥少しでも、いい方向に。‥‥そう考えて、何が悪いの?」
頭を両腕で抱え込んでしまった圭の表情は、うかがうことができないが、その声は微かに震えていた。
――圭の言っていることは正しい。
紗耶香と真希、あの二人が、いくら強く惹かれあっていたとしても、所詮は『民』という大きな壁が立ちはだかっている。
――止めたい。
――止められない。
誰もがジレンマに陥るに違いない。
「‥‥悪くなんかあらへんよ」
裕子は目を伏せ、持っていたタバコの火を灰皿でもみ消す。
- 479 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:13
-
「‥‥だって‥‥」
「ん?」
「矢口は、オオカミに恋したけど。‥‥あの二人は、お互い、コイヌ同士じゃない。危なっかしいったらありゃしない」
圭の辛らつな言葉をうけ、裕子は口元を歪めた。
「‥‥オオカミって‥‥。まあ、ええわ。‥‥コイヌだって、噛み付くと痛いで」
「運が悪ければ、踏みつけられて、棄てられて‥‥それで終わりよ。‥‥それじゃ、困るのよ。‥‥コイヌのままじゃ、ね。‥‥そうでしょう?」
顔を上げると、圭は、裕子を縋るような目で見つめた。
その瞳は微かに潤んでいる。
「‥‥まあな」
「そのためよ」
「‥‥‥」
裕子は小さくため息をつき、新しいタバコを咥えた。
圭織がカウンターの中から手を伸ばして、ライターで火をつける。
- 480 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/02/27(金) 01:14
-
「‥‥あの二人‥‥アンタと矢口と同じ」
低い声で、圭は呟いた。
裕子は無言のまま、圭の顔を見つめる。
「‥‥あの時と同じよ。‥‥あたしには止められない‥‥止めたくても、止められないの」
圭は瞼を閉じ、唇を噛み締めた。
「‥‥あたしは、また、傍観者に過ぎなくなる」
「‥‥あんな‥‥圭坊‥‥」
「‥‥自分でも止められないんでしょ?」
裕子の言葉は、圭の静かな声色に遮られる。
圭と裕子の視線が交差した。
圭の愛憐の眼差しが、裕子に向けられる。
「‥‥ああ」
視線を逸らさずに、裕子は小さく頷いた。
圭は裕子から視線を外し、空のビールジョッキを見つめた。
「‥‥なら、無理にでも、オオカミに成長してもらわないと」
「‥‥オオカミ‥か‥‥」
裕子は皮肉げに口元を歪め、タバコの煙を吐き出した。
- 481 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/02/27(金) 01:15
- 更新しました。
- 482 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/28(土) 02:20
- 待ってました。
又・・・「グリーン」という嵐がやぐちゅーに直撃ですね〜。
- 483 名前:名無し 投稿日:2004/02/28(土) 07:02
- これからレッドがどういう関り方をするのかも・・・ちょっと心配です。
- 484 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/29(日) 00:47
- おおお!更新待ってました!!
裕ちゃんは大人の女って感じですね。
いろいろなことが心配で胸がつぶれそうです。
これからも楽しみにお待ちしております。
- 485 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/12(金) 21:39
- 続きがめさめさ楽しみです
- 486 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:04
-
――― ―――
『PEACE』を飛び出した真希の背中を追ったひとみだったが、全力疾走の真希にかなうはずもなく、その姿を簡単に見失ってしまった。
仕方なく、思いつくままに、真希の行きそうな場所――公園、駄菓子屋、学校、昔遊んだ廃品工場などを回ってみたが、全てが空振りで、ひとみは、それこそこの世の終わりのようにどんよりと曇った眼で、とぼとぼと家に向かって歩いていた。
- 487 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:05
-
梨華ちゃんに何て言おう。
『ごめん、梨華ちゃん』
これしかないな。
素直に謝ろう。
梨華ちゃんは、優しいから、きっと『ひとみちゃん、頑張ったね』って、抱きしめてくれるだろう。
うん、きっと、そうだ。
市井さんにも言い訳しなくっちゃ。
『ごっちんを捕まえられませんでした』って。
市井さんは、男前だから、きっと八つ当たりはしないだろう。
それから‥‥
頭の中で、今後のシュミレーションを組み立てていると、歩道脇の川原で見覚えのある背中を発見した。
川原の中央付近で、両膝を抱えしょんぼりと肩を落とし、小さくなっている幼馴染がいる。
川原には一面に緑の草が茂っていて、ひとみが歩みを進めるたびに、サクサクと草を踏みしめる心地よい音する。
- 488 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:06
-
「ごっちん」
一歩、また一歩と、近づきながら、ひとみが声をかけると、真希はピクリと身体を揺らしたものの、視線は流れる川から動こうとはしない。
ひょっとしたら泣いてるのかもしれない。
ひとみは、真希の心もち後ろ隣にゆっくりと腰を下ろした。
川の流れるサワサワという音が、二人の心の熱を少しづつ冷ましてくれる。
「‥‥嫌いだって言っちゃった」
川の流れを見つめながら、ぽつりと真希が言った。
ひとみは、真希の言葉に黙って頷く。
「‥‥逃げ出して来ちゃった」
真希は自分の足元を凝視している。
まるで、そこから何か生まれてくるかのように。
ひとみは「ふうん」と呟くと、無造作に足元に転がっている小石を拾い、石に付いている泥を手の指でこそぎ落とした。
スベスベとした川原特有の赤黒い石が姿を現す。
- 489 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:07
-
「‥‥先生、冷たいもん」
「‥‥そんなことないよ。‥‥後藤、先生のこと嫌いじゃないし」
「‥‥そうなの?」
ひとみは意外だ、というように、目を見開いた。
「そうだよ。嫌いだと思ってた?」
「嫌いっていうか。‥‥苦手だと思ってた」
「どっちかっていうとー、好きな方かも。一番好きなのは、市井ちゃんだけどねっ」
後ろを振り向き、真希は白い歯を覗かせた。
「はいはい」
笑顔を見せた真希に、ひとみの顔も自然とほころぶ。
ひとみは、へへへ、と舌を出して笑い、勢いよく立ち上がった。
自分をぽかんと見上げる真希に、ひとみはニヤリと笑みを浮かべ、先ほど磨き上げた小石を手のひらで転がす。
- 490 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:09
-
「‥‥先生、冷たいもん」
「‥‥そんなことないよ。‥‥後藤、先生のこと嫌いじゃないし」
「‥‥そうなの?」
ひとみは意外だ、というように、目を見開いた。
「そうだよ。嫌いだと思ってた?」
「嫌いっていうか。‥‥苦手だと思ってた」
「どっちかっていうとー、好きな方かも。一番好きなのは、市井ちゃんだけどねっ」
後ろを振り向き、真希は白い歯を覗かせた。
「はいはい」
笑顔を見せた真希に、ひとみの顔も自然とほころぶ。
ひとみは、へへへ、と舌を出して笑い、勢いよく立ち上がった。
自分をぽかんと見上げる真希に、ひとみはニヤリと笑みを浮かべ、先ほど磨き上げた小石を手のひらで転がす。
- 491 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:10
-
「見てなよ、ごっちん。向こう岸まで届かしてやるから」
「‥‥マジで言ってる?」
「マジでマジで」
ひとみが歌うように節をつける。
川向こうの川岸までは、ゆうに50メートルはある。
力とタイミングがうまく合わないかぎり、まずは無理だろう。
ひとみは、大きく両手を振りかざし、渾身の力をこの一石に込めて思いっきり投げた。
―――投げた後、バランスを崩して、前につんのめり倒れこんだ。
それでも、目で自分の飛ばした石の行方を追いかける。
石は、大きな放物線を描き、ポチャンと音をたてて、川のちょうど中ほどに落ちた。
「‥‥あー、惜しかったね。よっすぃー」
目で石の行方を追っていた真希は、間が抜けたような声を出す。
- 492 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:11
-
「何の!まだまだっ」
「よっすぃー、高く上げすぎ」
「じゃあ、ごっちん、投げてみなよ」
「うっし、見てな」
「うひゃひゃ、ごっちん、どこに投げてんだよ。コントロール悪すぎ」
「うっさい。よっすいーに言われたくないっ」
むきになって、二人で、飽きもせず、石投げをしているうちに、あたりは段々と夕暮れ色に染まってくる。
川原の土手の向こうに沈む残照に、真希とひとみの頬が照らされ、色を変えた。
- 493 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:11
-
「‥‥キスしたいな」
石投げに疲れ、再び川原に腰を下ろした真希が、夕日をぼんやりと見つめ、風に囁いた。
新しい小石を拾おうと身を屈めていたひとみは、ぎょっとしたように、真希を見つめる。
「市井ちゃんとキスしたいな」
ひとみの動揺をよそに、真希は眩しそうに目を細めた。
長いまつげが影を落とす。
「ふ、ふーん」
キスという言葉に、ひとみの視線が自然と真希の唇に向かう。
夕日に照らされた真希の唇が、濡れたように紅く光った。
少し厚みのある真希の唇にひとみの視線は釘付けになる。
そのことに気づいたひとみは、慌ててその場に腰を下ろした。
「どんな感じなんだろう?」
真希がひとみを見上げる。
「‥‥さ、さあ?」
ひとみは動揺を悟られないように、ゆっくりと、その場に腰を下ろした。
- 494 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:12
-
「‥‥梨華ちゃんは?」
「‥えっ、あっ、さぁ?」
「ね、梨華ちゃんのキスってどんな感じ?」
「えっ、な、何、言ってんの!」
「教えてくれたっていいじゃん」
「やだ」
「ケチ」
「‥‥人に聞く前に自分はどうなのさ」
「‥‥‥」
ひとみの言葉に、真希はきゅっと唇をかみ締め、黙り込んだ。
僅かに肩が強張り、真希の手は無意識のうちに握り締められる。
- 495 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:12
-
「‥‥ごっちん?」
真希の様子を訝しく思ったひとみが、首を傾げる。
「‥‥したことない」
真希は食いしばっていた歯を何とかこじ開け、搾り出すように小さな声を出した。
「‥‥は?」
「市井ちゃんと、キスしたことない」
「‥‥そうなの?」
「うん」
真希は笑顔を作ろうとして、失敗した。
不自然に頬骨が上がるだけの、無様なものになる。
見ているひとみのほうが辛くなる真希の笑顔だった。
ひとみは何も言えず、ただ口をつぐんだ。
- 496 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:13
-
気を取り直すように、真希が言葉を紡いだ。
「‥‥よっすぃーの初チューはいつ?」
「え?」
「‥‥そうか、答えが一致してないと、後でケンカになっちゃうね。大丈夫、誰にも言わないから。梨華ちゃんにも言わないから」
真希がひとみの耳元で囁いた。
「そんなことない。一緒だから。梨華ちゃんと一緒だから」
真希の言葉に、ひとみは慌てふためいて立ち上がる。
「そんなに大声出さなくても聞こえてるよ」
握り拳を固めながら力説していたひとみは、真希の落ち着いた口調に、はっと我に返り、すごすごと腰を下ろした。
「で、いつ?」
「‥‥‥」
懲りない真希が改めて尋ねると、ひとみはモゴモゴと口の中で何やら呟いた。
「聞こえないよ」
「‥‥1年前だよっ」
顔を赤くしたひとみが、自棄になったように叫んだ。
「‥‥そうなの」
意外だというように、真希が目を見開いた。
真希としては、幼い頃から惹かれ合っていたひとみと梨華のことだ。
正直、二人の関係は、もっと進んでいるものと思っていた。
「‥‥うん」
ひとみは頬を染め、恥ずかしそうに頷いた。
- 497 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:13
-
「‥‥キスって、どんな感じ?」
「‥‥わかんない」
「わかんないって?」
「‥‥だって‥‥頭の中真っ白になって‥‥水道管ぶち抜いちゃって、お父さんに怒られるわ、お母さんに泣かれるわ、大変だったんだから」
「え?‥‥あの日なの?」
「え? あの日って?」
「パトカーとか救急車とか消防車とか、いっぱい来て大変だったじゃない。ほら、近所中水浸しになって」
「‥‥‥」
真希に尋ねられるままに、ファーストキスのエピソードを披露する羽目になってしまったひとみは、何も言えず、ただ顔を赤くした。
「‥‥よっすぃ〜も大変だね」
「‥‥‥」
「最近は、そんな騒ぎないね」
「‥‥それなりに、精進してるから」
「‥‥そっか」
真希は立ち上がると、お尻に付いた草を左手で払った。
左手の青い石が、残照に反射して、蒼い光線を発している。
ひとみは目を細めた。
- 498 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:14
-
目の前に立つ真希の背中が小さく見える。
大丈夫だよ。
そう言ってあげられたら、どんなにいいだろう。
真希にそう言ってあげたら、この胸に渦巻くやるせない気持ちも、少しは軽くなるだろうか。
「‥‥そんな顔することないじゃん」
「え?」
気が付くと、真希が苦笑いを浮かべながら、ひとみを見つめていた。
「‥‥よっすぃ〜は優しいね」
「‥‥‥」
「じゃ、あたし、帰るね」
真希がくるりと踵をかえす。
「一緒に帰るよ」
「ごめん。‥‥一人になりたいんだ」
慌てて立ち上がるひとみを制するように、真希が固い声を出した。
ひとみはぐっと言葉に詰まる。
「‥‥宿題、しなきゃいけないし」
「‥‥そっか」
「‥‥うん。また、明日ね」
「うん‥‥またね」
ひとみの言葉に軽く頷くと、真希は後を振り向くことなく、ずんずんと歩みを進める。
ひとみは黙って、次第に小さくなる真希の背中を見つめていた。
- 499 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:15
-
――― ―――
どのくらいの時間がたっただろうか。
気が付くと、夕日がもうすぐ地平線に沈もうとしていた。
真希の背中が見えなくなって、その後は、ずっと沈む夕日を睨んでいた。
でも、その夕日も沈もうとしている。
ひとみは、ゆっくりと立ち上がり、それから、ため息をついた。
「‥‥よっすぃ〜」
背後から優しい声が聞こえた。
「梨華ちゃん」
慌てて振り返ると、梨華がひとみに微笑みかけていた。
「やっと見つけた」
「‥‥‥」
「何してるの?」
「‥‥夕日がきれいだなーって」
ひとみの言葉に、梨華は沈みゆく太陽を見つめ、目を細めた。
「‥‥探したよ」
「うん」
「どこにもいなくて心配したんだから」
「うん、ごめん」
俯くひとみに、梨華は困ったように眉を寄せた。
- 500 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:15
-
「‥‥謝って欲しいんじゃなくて‥‥よっすぃ〜‥‥」
「‥‥んー‥‥」
「‥‥ごめんね」
「‥‥何のこと?」
「もっと、早く、ココに来ればよかったね」
梨華が寂しげに微笑んだ。
「‥‥どうして?」
「‥‥何となく」
今のよっすぃ〜見てたら、そうしてあげたかったなぁって思って。
梨華がそう言うと、
「‥‥まいったなぁ」
小さな呟きと共に、ひとみが梨華の肩に頭を預けた。
「‥‥よっすぃー」
「‥‥‥」
ひとみの背中にゆっくりと、梨華の手が回される。
梨華に抱きしめられても、胸に微かに残る罪悪感は消えなかった。
梨華と一緒にいても、何故か、悲しかった。
- 501 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/06(火) 22:16
-
きっと、ごっちんの悲しみとシンクロしてるんだ。
だからこんなに胸が痛むんだろう。
「‥‥よっすぃ〜」
自分を呼ぶ声に、ひとみが顔を上げると、梨華も何故か泣きそうな顔をしていた。
先に泣かれると、泣けなくなるから。
だから、梨華ちゃんが先に泣いてくれればいいのに。
そしたら、あたしは――。
「‥‥泣かないで」
梨華の両手がひとみの頬に添えられ、その時初めて、ひとみは自分が涙を流していることに気が付いた。
涙を堪えるために、きゅっと唇を噛み締めると、梨華は仕方がないなというような苦笑を浮かべ、ひとみの頭を抱え、胸に抱きしめた。
梨華の暖かい胸に包まれ、ひとみはうっとりと瞼を閉じた。
- 502 名前:あっちゃん 投稿日:2004/04/06(火) 22:18
- 久しぶりにやってしまいました。二重投稿。
カッコ悪く更新しました。
- 503 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/04/06(火) 22:19
- 本当に、今日は、ミスが多い一日です。
正直、凹むなぁ。
- 504 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/07(水) 12:38
- 作者様 更新乙です
なんだか物悲しい(;´д⊂ヽ
- 505 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:44
-
――― ―――
「お茶でもいかがですか?‥‥ちょうどお客さんもいないみたいだし」
聞きなれた声に真里が顔を上げると、紗耶香が紅茶の缶を両手に、ニコニコと笑っていた。
「‥‥どうせ、矢口は、いんちき占いだし。お客さんなんていないよ」
営業用の黒いマントを身につけた真里は、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「‥‥またまた、いつになくネガティブモードだね」
落ちかけていた黒いギターケースを肩にかけなおし、紗耶香は苦笑いを浮かべた。
「‥‥ゆーちゃんと喧嘩したんだって?」
「‥‥誰から聞いたの?」
真里が硬い声を出す。
紗耶香はふっと微笑むと、冷えた紅茶の缶を一つ、「ほいっ」というかけ声と共に真里に手渡し、来客用の椅子に腰を下ろした。
街路樹の木陰に設置した小さなテーブルと2つの椅子とタロット、これが、真里の商売道具の全てだった。
- 506 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:45
-
「圭ちゃんに聞いた。この前、ゆーちゃん、さんざん飲んで酔っ払って、圭ちゃん大変だったらしいよ」
プルトップに、人差し指を引っ掛け、紗耶香は、カシュ、という音をたてて自分の缶を開けた。
「‥‥ふーん」
そわそわと身体を揺らし、皮手袋の両手で、冷えた紅茶の缶を弄びながら、真里は浮かない顔で頷く。
「その様子じゃ、まだ仲直りしてないな」
紗耶香は紅茶を、喉を鳴らし、おいしそうに飲む。
冷たい紅茶が、身体の隅々まで浸透して、生き返ったような心地になった。
「‥‥だって‥‥自分は好き勝手するくせに‥‥矢口がいつもどんな気持ちで仕事に送り出してるのか知りもしないで。‥‥ただでさえ、あたしたちは危険がいっぱいなのに」
真里は唇をきゅっと噛み締め、手の中の缶を握り締めた。
「‥‥うーん」
真里の言葉に、紗耶香は困ったように眉を下げる。
- 507 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:47
-
確かに、真里と裕子の生活は、危険と隣り合わせだ。
二人は互いを得るために多くのものを失った。
異なる『民』と愛し合う代償――左手のひらに輝く『神々の印』と『力』。
『神々の印』を失った者の左手の石は、漆黒の宝玉として、闇ルートで高値で取引されている。
『力』を失い、漆黒の宝玉を狙う『密猟者』に怯える日々。
「‥‥矢口はよくやってるよ。本当、尊敬するよ」
そう言って、紗耶香は、にっと笑った。
「‥‥紗耶香」
紗耶香につられたように、真里も笑みを漏らす。
「紅茶、ぬるくなっちゃうよ」
笑いながら、紗耶香が、真里の握り締めていた缶を指差した。
真里の体温で、だいぶ温められている。
「ああ、うん、ありがと」
少し焦りながら缶を開け、真里が紅茶を飲むのを、紗耶香は優しい眼差しで見つめていた。
- 508 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:47
-
「‥‥紗耶香、痩せた?」
「ん?‥‥ああ、少しね」
真里の問いかけに、紗耶香は、面食らったように目を丸くした。
「‥‥最近、なんか夢見が悪くってさ」
ばつが悪そうに小さく笑う。
「‥‥ふーん」
真里はじぃっと紗耶香を見つめた。
紗耶香は真里の視線に、落ち着かない様子で、もじもじと身体を揺らしていたが、ややあって、ポツリと呟く。
「‥‥わからないんだ」
「‥‥何が?」
「‥‥あたしは、わからないよ。わからないんだ」
真里の問いに、紗耶香は俯き、空になった紅茶缶をひたすらこねくり回す自分の手をじっと見つめた。
「‥‥何が、わからないの?」
真里は飲んでいた缶をテーブルの上に置き、紗耶香の手の中から、空の缶を奪い取る。
紗耶香はのろのろと視線を上げた。
- 509 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:48
-
「何がわからないのかって?‥‥自分でもわからないよ。自分が何がわかって、何がわからないかもわからないよ」
紗耶香の両拳が、テーブルを叩く。
「‥‥紗耶香」
「‥‥あたしには、何もない。‥‥『力』もなければ、頭も良くないし、お金もないし。運だって悪い。‥‥なのに‥‥なのに、何で、アイツは、あたしをあんな目で見るんだろう?‥‥あたしは何もできないのにっ」
激昂したように叫ぶと、紗耶香は立ち上がり、頭をかきむしった。
「‥‥紗耶香はごっちんに何かしてあげたいの?」
真里が落ち着いた声色に、紗耶香ははっと我に返る。
「‥‥そうじゃない。そうじゃないよ」
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、紗耶香は両手で頭を抱えて、うめき声をあげた。
「じゃあ‥‥何?」
「‥‥あたしは‥‥多分、怖いんだ。何もないのに怖いんだ。失うものなんか何もないはずなのに怖いんだ。‥‥違う。自信がないのかな。あたしは‥‥弱っちい、情けないやつなんだよ」
紗耶香の声は、僅かに震えている。
- 510 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:48
-
「それでいて、こんな弱音吐いてる姿をアイツに見られたくないんだ。どうにかしてる。‥‥もう、わかんない。わかんないよ」
「‥‥紗耶香」
「逃げたい」
「‥‥逃げられると思う?」
「‥‥わかんない」
そう言うと、紗耶香は顔を上げる。
瞳は潤み、口元は悲しげに歪んでいた。
「‥‥怖いのはわかるよ。‥‥あたしもそうだったから」
真里は手を伸ばし、紗耶香の手に自分の手を重ねる。
手袋越しでも、気持が伝わることを願いながら。
「‥‥矢口」
「‥‥考えたよ。それこそ、頭がおかしくなりそうなくらい。‥‥でも‥‥逃げられなかった。‥‥裕子からも‥‥自分の心からも。‥‥考えたんだ。もしも明日死ぬんだったら、どうしようって。死ぬんだったら、裕子の傍で死のうって」
真里は、ひと言ひと言、かみ締めるように言葉を紡ぐ。
- 511 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:49
-
「‥‥紗耶香はどうしたい?」
真里は紗耶香の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「‥‥あたしは‥‥」
紗耶香は躊躇いながら口を開き、
「‥‥わからないよ。‥‥自分でもわからないんだ。‥‥後藤に近づきたいのか‥‥それとも逃げ出したいのか」
と、目を伏せた。
真希に逢うごとに、自分の制御ができなくなる。
真希を独り占めしたい気持ち。
それと共に増幅する、失うものへの恐怖心。
自分の心に向き合うことが恐ろしくて仕方がない。
「‥‥そう」
紗耶香の言葉に、真里は小さく頷いた。
紗耶香の言ってることは、紗耶香にとっては紛れもない真実。
紗耶香と真希が直面しなければならない真実。
答えを出せるのは、紗耶香と真希だけだ。
紗耶香はため息をつき、気を取り直すように、街路樹を見上げた。
木漏れ日に眩しそうに目を細める。
- 512 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:50
-
「‥‥彩っぺの友達にバンドやってる人がいてね。ドラマーなんだけど」
紗耶香の視線は街路樹に注がれたままだ。
真里も紗耶香と同じように街路樹を見上げた。
かつて、真里の手に輝いていた『神々の印』と同じ緑に輝いている。
「うん」
緑を眩しそうに見上げ、真里は小さく頷いた。
「前、そのバンドの曲を聞かせてくれたんだ」
「へえ」
「いいね、いいねって言ったら。彩っぺが、じゃあ紹介してあげるよって。友達に、あたしのデモテープを送ってくれたんだ。‥‥そしたら、ぜひ会いたい。来てくれって返事がきて」
「それで、それで?」
思ってもみなかったいい話に、真里はきらきらと輝く期待の眼差しと共に、紗耶香を見つめる。
紗耶香の瞳は、相も変わらず、街路樹に向けられていた。
「‥‥ルナの街なんだけど」
「‥‥遠いじゃん。彩っぺも、どこでそんなバンド野郎と知り合ったんだよ」
真里は微かに眉をひそめた。
芸術の都と言われるルナの街は、陸続きとはいえ、かなり遠い。
「‥‥いい機会だから、行ってこようかと思ってる」
「ああ、そうなんだー、って、はぁ!? 」
真里が素っ頓狂な声に、紗耶香は苦笑いを浮かべる。
- 513 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:51
-
「‥‥もし良かったら、バンドに入らないかって言われてるんだ」
「ルナで?」
「‥‥うん」
「後藤に、話した?」
「‥‥誰かに話すのは、矢口が初めてだよ」
「‥‥怖いのは‥‥よくわかるけど、ちゃんと話した方がいいよ‥」
「‥‥うん‥‥わかってる」
紗耶香は俯き、自らの左手のひらにある『神々の印』――赤い石にそっと触れた。
真希の左手のひらには、紗耶香とは異なる色の石が輝いている――『水の民』の青い石が。
真里は、紗耶香が切ない瞳で自らの石をうつしているのを見て、落ち着かなくなる。
疎遠になってからも、何ら変わらず心の底に存在する面影が、静かに色付きはじめた。
裕子に会いたくて仕方がなかった。
今すぐ抱きしめたかった。
- 514 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 01:51
-
「‥‥紗耶香のおかげで、なんか、吹っ切れた」
「え?」
「裕子に会いたいよ」
「‥‥‥」
真里の正直な言葉に、紗耶香はあっけにとられたようだったが、慌てて立ち上がり、自分の使った椅子をたたむ。
「ありがと」
真里は、自分も小さなテーブルと椅子を手早く折りたたみ、細いチェーンで街路樹に巻きつけ、小さな南京錠を「カチリ」とかけた。
「うまく仲直りできるといいね」
「‥‥うん‥‥紗耶香もね」
「‥‥うちは、別に、喧嘩してないから」
「うちだって、ラブラブなんですぅ」
先ほどの深刻な会話を、一時忘れたかのように、小突き合いながら冗談を言い合う。
――この時、二人は気づかなかった。
離れた樹の影から二人を見つめる瞳に。
- 515 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/04/12(月) 01:52
- 更新しました。
- 516 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:48
-
――― ―――
「何て顔してんのさ」
「いや‥‥だって‥‥なぁ?」
玄関先には、エプロン姿の真里。
裕子の当惑した顔に、真里は苦笑いを浮かべた。
- 517 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:49
-
――― ―――
真里と気まずくなって以来、連日のように『PEACE』で飲んだくれていた裕子は、カウンターに座るなり、「今日は帰って」と圭織に素気無く言われた。
『早く帰ってきて。待ってる』って、矢口が。
圭織の口が、真里の伝言を伝える。
「ああ、そうか。って、ええー!」
圭織の言葉に軽く頷いたものの、裕子は素っ頓狂な声をあげて立ち上がる。
「ゆーちゃん、うるさい」
「ホンマにホンマに矢口が?」
カウンターに上がらんばかりの勢いで圭織に詰め寄る。
「ホンマにホンマに矢口が、言ってたよ。よかったね、ゆーちゃん。ここで飲んだくれていたかいがあったてもんだよ」
圭織がしたり顔で言った。
- 518 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:49
-
伝言を託した時の真里の様子が気になり、圭織に尋ねると、「帰ってからのお楽しみでしょ」の一点張り。
真里と仲直りできるかもしれないという甘い期待と、それに相反する、何か決定的な別れの言葉を言われるのではないかという不安とを、同時に抱きながら、裕子はアパートに向かった。
小さなアパートの小さな部屋の前にたどり着くと、ドアの向こうから、いい匂いがする。
温かい食べ物の匂いだ。
とたんに、裕子のお腹が、ぐぎゅうー、と鳴った。
自分の部屋から、食べ物の匂いがするなんて、実に久しぶりだった。
はやる気持ちを抑えて、ドアを二回ノックする。
鍵を持ってはいるが、今は、無性に真里に出迎えて欲しかった。
『はい』
扉越しに、真里の、少し警戒するような硬い声が聞こえる。
「‥‥ウチやけど」
「ち、ちょっと待って」
真里の焦ったような声と、バタバタと何か片付けるような音がして――。
それから、ドアが開かれた。
- 519 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:50
-
――― ―――
「‥‥似合わない?」
「めっちゃ似合う」
微かに首を傾げ、必殺の上目遣いで問う真里に、裕子の目じりは下がり続ける。
ふふふ、と笑みを漏らし、真里はくるりと玄関先で回って見せた。
白いフリルの付いたエプロンの裾がふわりと広がり、それが、真里の少女らしさをいっそう強調している。
「ゆーちゃん、お腹すいてるよね」
「‥‥すいてるけど」
タイミングよく、裕子のお腹が、ぐぎゅうー、と音をたてる。
裕子が顔を赤くし、真里は、弾かれたように笑みを漏らした。
「じゃ、ご飯食べよ」
「‥‥矢口が作ったん?」
「うん。久しぶりに頑張っちゃった」
包丁がうまく扱えなくて、自分でもひやひやする場面はいくつもあったが、シチューという切って煮込むだけの簡単な料理とはいえ、久しぶりに、料理らしい料理を作った。
真里は大きく頷き、エプロンのフリルを人差し指で摘んでピッと伸ばし、自慢げに胸を張る。
「そら、楽しみやな」
真里の愛らしい仕草に、裕子は目を細めた。
- 520 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:50
-
食卓には、真里が摘んできたのだろう、可憐な白い花が飾られていた。
花を見て、裕子は言葉を失い、その場から動けなくなる。
以前ならば、花屋で花を買うことこそないものの、何かしら野の花が飾られていたものだ。
そして気づく。
――自分たちの生活が、いかに潤いを失っていたのかを。
「裕子?‥‥座ってていいよ。疲れてるんだろ」
動こうとしない裕子の様子に、真里が訝しげな声を出す。
真里の言葉に、裕子は首を横に振った。
「‥‥ウチも手伝う。何すればいい?」
「え?‥‥あ、じゃあ、これ」
手伝うと言った裕子に、少しばかり驚いた真里だったが、すぐに裕子におたまを渡し、その場を譲る。
裕子はおたまを片手に、湯気を立てている小さな鍋をのぞき込んだ。
「裕子の嫌いなものは入ってないよ」
「嫌いなものなんてないよ」
「えー‥‥あるだろうが‥‥」
「矢口の作ったものは、全部、好きや」
裕子がきっぱりと言いきると、
「調子いいんだから」と、真里は顔を赤くした。
- 521 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:51
-
久しぶりの二人っきりの食卓は、愛の溢れたものになった。
「おいしい?」と問うと、「うまい」の返答。
真里が微笑みかければ、裕子も微笑み返す。
圭織からせしめた、赤ワインで喉元を潤し、二人ともほんのり桃色になる。
食事の後は、裕子が食器に洗剤をつけ、真里が洗剤を流す。
分担作業を、好きな相手とやるのは、すごく気持がいい。
自然と、鼻歌が飛び出し、真里のソプラノと裕子のアルトの声がはもる。
片づけを全て終わると、仲良く並んでソファーに腰掛けた。
そういう何気ないことも、実に久しぶりだった。
裕子は夕食の残りのワインを、真里は温かい紅茶を、それぞれ飲む。
「‥‥今日はどうしたん?」
「たまにはいいだろ?」
「うん」
空のワイングラスをテーブルに戻し、裕子は傍らの真里の頬に小さなキスを落とす。
くすぐったそうに首をすくめ、真里は裕子の胸に頭を擦り付けた。
久しぶりに裕子の匂いに包まれる。
- 522 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:52
-
「‥‥今日ね」
「うん」
「紗耶香が会いに来てた」
「矢口に?」
「うん。何か、大変そうだった」
「‥‥あいつらも青春してるからな」
神妙な顔の真里に、感じるところがあったのだろう、裕子はぼやくように呟いた。
裕子の腕の中、真里は深々とため息をつく。
「‥‥矢口?」
「‥‥どうすればいいのかな?」
「矢口はどうしたいん?」
「‥‥わがままだってわかってるけど、あの二人に別れて欲しくない」
紗耶香と真希――二人の人生を左右する重大な決断に口出しするつもりは毛頭ない。
しかし、この真里の言葉は、正直な気持ちだった。
紗耶香と真希、二人の寄り添う姿を見るのが好きだった。
- 523 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:52
-
「そうやな。‥‥ウチもそう思うわ」
真里の額に唇を落とし、裕子は静かな声で語りかける。
「ゆーちゃん」
「‥‥でも‥‥ウチらと同じようにせいとは言えん」
「‥‥う‥っく‥」
溢れ出す涙を堪えようと、真里は必死に唇をかみ締めた。
「‥‥そんな顔せんといて」
裕子の人差し指が、零れ落ちた涙を拭う。
どうして――そのままでいられないのか。
いつまで――苦しめばいいのだろう。
この悲しみが、消えるときはくるのだろうか。
- 524 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:53
-
「愛してる」
何度もそう囁きながら、裕子は真里の頬に小さなキスを落とした。
真里の涙がおさまるまで、裕子は口づけをくり返す。
真里が落ち着いてくると、裕子は仕上げに首筋にきつく吸い付き、痕を残した。
真里が甘い吐息を漏らす。
満足げな顔で、裕子は真里の表情を伺った。
「‥‥矢口は?」
「‥‥うん」
裕子の腕の中、上気した頬、潤んだ瞳で、小さく頷く。
「うんって、それだけかい」
裕子の拗ねたような口調に、真里は潤んだ瞳のまま、ふふふ、と笑った。
- 525 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:54
-
「‥‥今日、紗耶香と会ったって言ったでしょ」
「うん」
「色々話しててー、思い出したの」
「何を?」
「ゆーちゃんが欲しくて欲しくて堪らなかった頃のこと。裕子が必死で逃げ回っていた頃のこと」
「いや、あれは、だって、ほら‥‥」
真里の拗ねた口ぶりと身に覚えのあるエピソードに、裕子の背中に冷や汗がにじむ。
抱きしめていた真里を開放し、両手を上げ下げし、裕子は身振り手振りで弁明を始めた。
「裕子、冷たかったよね。目も合わせてくれないし」
「そんなことないって。いや、あるけど。そやなくて、あれは、ほら、なんて言うの‥‥」
慌てふためいて必死で弁解する裕子を見ているのも、それはそれで楽しかったが、真里にはそれ以上に、裕子にどうしても言っておきたいことがあった。
- 526 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:54
-
「一目ぼれだったんだよ」
「え?」
ぽけっと、裕子が口をあける。
「裕子に一目ぼれだった」
「一緒に暮らし始めて、初めはそれでとても幸せだったのに。だんだん余裕ってーの?無くなってきて。だから、喧嘩するんだよ、多分。裕子は大切な人なのに‥‥だから、ごめんなさい。‥‥」
そう言うと、姿勢を正し、真里は裕子に頭を下げた。
真里の発言と行動に、呆気にとられている裕子を、不安そうな瞳で見つめる。
ややあって、裕子は静かな声で呟いた。
「‥‥アンタには、本当にかなわんなぁ」
「アンタに謝られると、ここが痛いわ」
そう言って、裕子は自分の胸を両手で押える。
「‥‥謝るんは、ウチの方や‥‥ごめん。ごめんなさい」
今度は、裕子が真里に深々と頭を下げた。
「‥っ‥ゆーちゃんっ、別に、謝って欲しいわけじゃなくて‥‥」
「わかってる。ウチが謝りたいんや。それから、ありがとう。‥‥ウチを愛してくれて、ありがとう」
焦ったように言葉を紡ぐ真里に、裕子は小さく頷いた。
- 527 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:55
-
「‥‥ゆーちゃん」
「仲直り、やな?」
「うん」
「‥‥泣き虫」
「‥う‥」
ほっとして泣き出した真里を、裕子は腕の中に閉じ込める。
小さな身体が、小刻みに震えていた。
今日は泣かせてばっかりやな。
裕子は苦笑を漏らす。
「‥‥なぁ、矢口」
「‥‥ん?」
裕子の声に、真里はゆっくりと頭を上げた。
- 528 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:56
-
「初めて、抱いた日のこと覚えてるか?」
「‥‥あたしが?」
「ちゃうわ!」
裕子は顔を赤くする。
「‥‥覚えてるに決まってんじゃん」
「‥‥あの時、お互いに手紙書いたの覚えてるか?」
「‥‥ああ、裕子が、遺言とか、ムードのないこと言い出して」
「結局、手紙になったからいいやん。いわば、ラブラブレターやで」
「それがどうかした?」
「あれ、いつ読めるん?」
「え?」
「きっと矢口は可愛いこと書いてあるやろなー」
裕子の言葉に、今度は、真里が顔を赤くした。
「赤くなった。かわいー」
「‥‥知らない。書いたことも、もう忘れた」
「なあなあ、いつ読む?」
初めて迎えた朝、互いに書きあった手紙は、蝋で封をして、圭織に預けてある。
- 529 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/04/12(月) 23:56
-
「読ませないよ。バカ」
「そういう憎まれ口たたくのは、この口か?」
「‥‥ゆ‥うこ」
人差し指が真里の唇を這う。
指は、そのままゆっくりと真里に侵入し、口内を愛撫する。
「舐めて」
温かな茶色の瞳に絡めとられて、真里は身動きができなくなった。
「ほら、舌出して」
おずおずと、ピンク色の真里の舌が、裕子の細い指を這いまわる。
「矢口の舌、気持いいなぁ」
「‥‥エロ」
軽く指に歯をたてると、裕子は、僅かに眉をひそめた。
「‥‥矢口にだけや」
耳元で甘く囁き、真里をソファーに押し倒す。
裕子の唇がゆっくりと降りてきた。
真里の両腕が裕子の首にまわり、その身体を強く引き寄せる。
互いに深く求め合う。
舌と舌が絡み合う感触に、身体が震えた。
「‥‥ゆ‥うこ」
裕子の背中にしがみつき、襲いくる強烈な快感に耐えるかのように、真里はかたく目を閉じた。
- 530 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/04/12(月) 23:57
- 更新しました。
- 531 名前:名無し読者 投稿日:2004/04/13(火) 02:16
- やぐちゅーキタ〜!!(w
- 532 名前:名無し読者 投稿日:2004/04/24(土) 00:52
- 更新キテタ。おつかれさまです。やぐちゅーいいですねまた次回
おまちしております
- 533 名前:名無し読者 投稿日:2004/05/23(日) 00:39
- そろそろ続きが・・・。読みたいでーす。(w
- 534 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:38
-
――― ―――
壁にかかっている年代物の時計の揺れる振り子を眺め、紗耶香はこっそりとため息をついた。
丁度、マスターの圭織は買い物に出かけていて、目下、ショットバー『PEACE』には、紗耶香と、学校帰りの制服の真希の二人っきりだ。
真希は、椅子をテーブルの上に上げ床にモップをかける紗耶香の後を追いながら、手伝うでもなく、肩で切りそろえた黒髪に人差し指を巻きつけては、「んー」と口を開き、また閉じるということを繰り返している。
「‥‥さっきから何だよ。言いたいことあるなら、言えよ」
モップがけの手を止め、紗耶香は真希に向き直った。
「‥‥んー‥‥」
真希は困ったように眉を下げて笑う。
「あのな‥‥」
ため息をつくと、紗耶香はモップを壁に立てかけた。
「さっきから、金魚みたいに、開いたり閉じたりしてる口は、これか、この口か」
真希の両頬をつねり、思いっきり真横にひっぱる。
「いひゃい、いひゃいよ」
真希の口から情けない声が飛び出した。
- 535 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:39
-
「ひどいよ。市井ちゃん」
紗耶香が手を離すと、涙目で、真希が睨みつけてくる。
「‥‥ほら」
紗耶香はテーブルから椅子を下ろし、真希に座るように促す。
「‥‥で、どした?」
真希の隣に腰掛け、紗耶香は俯いてしまった真希の顔を覗き込む。
紗耶香の言葉に、ためらうように瞬きを繰り返していたが、やがて真希は姿勢を正し、
視線を紗耶香に合わせた。
「‥‥うん‥‥あのね‥‥この前の、あの、彩っぺのとこで、集まったじゃない」
真希は言葉を選ぶかのように、ゆっくりと話しはじめた。
「ああ、あの難しい話、聞かされたときな」
右手を顎に当て、神妙な顔で頷く。
真希が何か大切なことを伝えようとしていることは容易に想像がついた。
- 536 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:40
-
「‥‥あの後ね、後藤、トイレ行ってくるって、戻ったでしょ。‥‥そしたら、診察室のドアが少し開いてたの。誰かいるのかなぁ。やぐっちゃん達だったら、途中まで一緒に帰ったほうがいいかもと思って。声かけようとして、ドアを覗いたの‥‥そしたら‥‥」
「‥‥そしたら?」
紗耶香が優しい声色で真希を促す。
「‥‥そしたら‥‥やぐっちゃんとゆーちゃんキスしてたの。いつもみたいに『PEACE』でふざけてする感じのキスじゃなくて。本物の恋人同士のキス。‥‥見ていてどきどきした。」
覗き見た状況を説明しているうちに、まざまざとその時の情景が瞼に浮かんできて、真希は頬を染めた。
病室の白いベットの上、裕子の上に真里が覆いかぶさり、腕を裕子の首に巻きつけ、その髪をかきむしっていた。
「‥‥へー」
たっぷりと間をあけて、紗耶香が相槌を打つ。
そのまま、真希の顔を見ることなく立ち上がり、壁に立てかけたモップを掴んで床拭きを再開する。
「‥‥それだけ?」
「何て言って欲しいんだよ」
「‥‥市井ちゃんって、ずるいよね」
「‥‥‥」
「ずるい女だ」
真希は唇をかみ締め、俯いた。
真希の言葉にも、紗耶香は黙々とモップをかけ続ける。
- 537 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:40
-
「‥‥そんな歌あったよね」
真希は引きつった笑みを浮かべて立ち上がった。
紗耶香のモップを強引に奪い取り、モップをマイクに見立てて歌い始める。
バイバイありがとうさようなら
愛しい恋人よ
アンタちょっといい女だったよ
だけどずるい女
歌いながらモップを振り回していると、モップの先端がカウンターの端に置いてあった紗耶香の黒いナップザックの肩ひもを引っ掛け、ナップザックは派手な音をたてて床に落下した。
中に入っていた楽譜や本が床の上にばら撒かれる。
- 538 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:41
-
「ご、ごめんなさい」
妙なハイテンションで歌い踊っていた真希は、我に返り、慌てて床に落ちた紗耶香の私物を拾い始める。
楽譜にまじって見覚えのない本が多数あった。
『ルナの街ガイドブック』『ルナここが魅力』『まるごとルナ』『ルナ ココが知りたい!』等など。
カバンから転がり落ちたものは、全てルナの街のガイドブックや地図ばかりだった。
「‥‥っ‥‥」
紗耶香は顔をしかめた。
「‥‥市井ちゃん‥‥これ、何?」
拾い上げた本を胸に抱きしめ、真希は震える声で尋ねる。
「‥‥ちょっと行こうと思ってさ」
「‥‥ルナに?」
「うん」
「‥‥いつ行くの?」
「‥‥一ヵ月後」
「‥‥いつ帰ってくるの?」
音楽と芸術の都といわれるルナの街。
ルナの街は遠い。
飛行機を使っても10時間あまり。
電車だと乗り継いで6日はかかる。
「‥‥当分帰ってくる予定はないよ」
紗耶香は口ごもり、真希の視線を避けるように足元を見つめる。
「‥‥どーゆーこと?」
「‥‥ルナの街のバンドに誘われてるんだ」
「そんなこと聞いてない!どーゆーこと!」
いきりたった真希は、胸に抱きしめたままだった本を、床にたたきつけた。
その音に、紗耶香はビクッと身体をすくませる。
- 539 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:42
-
「‥‥彩っぺの知り合いで‥‥」
「彩っぺ、彩っぺ、うるさいよ」
真希は力任せにテーブルに拳を打ちつけた。
「彩っぺのことなんてどうでもいーじゃん。いつもいつも市井ちゃんはそうだ。勝手に決めて勝手に動いて。あたしの気持考えたことある? ないでしょ! 優しくしたと思ったら、突き放したり。もう、意味わかんないよ。わかんない」
言葉を発する真希の瞳から涙が溢れ出す。
激情にかられ打ちつける拳も、まったく痛みを感じなかった。
「市井ちゃんが何考えてるかわかんないよ!」
「‥‥後藤」
「あたしに何も言わないで行くつもりだったの?」
縋るような真希の瞳に捕らえられ、紗耶香は言葉を返すことができなかった。
自分のことを想い、恋焦れ、涙を流す美しい少女に、惹かれないわけがない。
昔の自分なら、きっと、抱きしめていただろう。
劣情にかられて、口づけていたかもしれない。
- 540 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:42
-
「‥‥泣くなよ」
紗耶香は辛うじて、慰めの言葉を口にする。
「‥‥っ‥市井ちゃんの‥せ‥いだ」
「‥‥ごめん」
「‥‥あやま‥らないでよ。‥‥んぐ‥‥終わりみ‥たい‥じゃん」
「‥‥後藤を泣かせると思って言えなかった」
「‥‥聞きたくないっ」
尚も真希は、テーブルに拳を打ちつけ続ける。
真希の両拳は赤く鬱血の色を濃くした。
「後藤っ」
紗耶香の両手が、真希の拳を包みこむ。
「離してっ」
紗耶香の手を振り払おうと、真希は激しく身をよじった。
そうはさせまいと、紗耶香が強く真希の手を握り締める。
- 541 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:43
-
「‥‥言いたかったけど、怖くて言えなかったんだ」
「‥‥何が、怖いの?」
「‥‥全部」
紗耶香は自嘲するように小さく笑う。
音楽に対する情熱と――真希に対する感情と。
両天秤にかけているような、ずるい自分が、嫌で嫌で仕方がなかった。
真希を切り捨てることも――真希を欲することも――どちらも選べず、音楽に逃げている自分がいる。
何故、気づいてしまったのだろう。
気づかなければ、幸せなコドモでいられたのに。
例え『力』がなくとも『神々の印』の持つ意味を深く考えることもなく、真っ直ぐに前を向いて、明日はきっといいことがあると、曇りのない眼で宣言することができたのに。
出会った頃は、真希のことは、可愛い妹分だった。
圭が二人の出会いに、強い警戒心を抱いていることに気が付いてはいたが、単に、考えすぎだと思っていたのに。
それが気が付くと――可愛い妹は瞬く間に成長し、今では情熱的な眼差しを自分に向けるようになっている。
そして――真希に触れたくて触れたくてたまらない自分がいる。
でも――。
- 542 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:44
-
至近距離から見詰め合う。
先に、目を逸らしたのは、紗耶香だった。
「‥‥弱虫」
真希は鬱血した手のひらを、そっと紗耶香の頬に当てた。
紗耶香からキスを求めてきたことはない。
一度した口づけも、真希が強引に奪ったものだ。
だから――真希は、あれがちゃんとした紗耶香とのキスだとは、どうしても思えなかった。
紗耶香が答えてくれないと、相思相愛のキスとはいえない。
視線を合わそうとしない紗耶香に焦れたように、真希は紗耶香の顎を掴み唇を重ねる。
紗耶香の薄い唇を挟み込み、きつく吸い付く。
「‥‥ん‥んぅ‥‥」
見開いた瞳の中に、近すぎて焦点の合わない真希がいた。
触れ合った唇の柔らかさに腰が抜けそうになる。
いつの間にか舌を絡みとられ、紗耶香の頭の中は真っ白になった。
- 543 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/05/31(月) 21:44
-
気が付くと、紗耶香も夢中になって真希の唇を貪っていた。
唇から柔らかな頬に舌を滑らせ、震える指で制服の第一ボタンを外す。
テーブルに身を横たえた真希の白い首筋を強く吸いついた。
紗耶香がもたらす甘い刺激に、真希がのけぞった瞬間、テーブルの上の水差しが床に落ち、大きな音をたてる。
はっと我に返った紗耶香が、真希から身を離した。
「‥‥市井ちゃん」
はだけた制服の襟を押さえながら、真希が身を起こす。
「‥‥何で抵抗しないんだよ」
「‥‥市井ちゃん」
「抵抗しろよ。‥‥頼むから」
弱々しく呟くと、紗耶香は床に座り込み頭を抱えた。
「‥‥市井ちゃん」
紗耶香の背中に顔をうずめる。
床の上では、割れた水差しのカケラが鈍い光を発していた。
二人っきりの『PEACE』で、時を刻むカチカチという音が、やけに大きく響いていた。
- 544 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/05/31(月) 21:46
- 更新しました。
間があいてしまって、かなり反省しました。
- 545 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/01(火) 09:41
- 更新お疲れ様です。
二人の切ない感じが、すごくよかったです。
あっちゃん太郎さんのペースでこれからもがんばってください。
応援してます。
- 546 名前:ひで 投稿日:2004/06/05(土) 02:52
- 更新お疲れ様です。
いちごま…
せつない…
好きデス。
- 547 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/23(水) 09:16
- おもしろいです
がんばって
- 548 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/01(日) 01:40
- 待ってます
- 549 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:50
-
――― ―――
「コトを急がないといけないようです」
明日香が唐突に言葉を発した。
明日香が何の脈絡もなく、いきなり本題を話し始めるのは、何も今が初めてではなかった。
この女は、人の都合などお構いなしに次々と自分の要求を出し、強引に話をすすめていく傾向がある。
裕子の傷の診察中だというのに、まったくお構いなしだ。
当初は、そんな明日香のやり方にことごとく反発していた裕子も、慣れた様子で、彩と向かい合って座った丸椅子の上から、「何を?」と聞き返した。
「先方がこちらの動きをかぎつけたようです。‥‥近頃、『レッド』や『グリーン』、『ブルー』の面々がきな臭い動きをしてるんですよ」
裕子の右肩に包帯を巻いていた彩が、眉をひそめ、明日香を見た。
重傷だった裕子の傷も回復に向かい、なつみの表情にも生来の明るさが戻ってきたところなのだ。
面倒事はまっぴらだった。
- 550 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:51
-
「安倍を拉致ったのが、ウチってばれたってことか?」
「いやそこまでの情報は流れていないようですが。‥‥問題の焦点が安倍なつみから紺野あさ美に移ったようです」
「‥‥紺野?‥‥何のことや?」
裕子は首を傾げ、素肌に巻かれた真新しい包帯の上から、黒い上着を羽織る。
「元々、先方は安倍先生を抹殺する予定でしたから、いなくなっても、大した損害にはならないと踏んだんでしょう。しかし、紺野を失ったことは大きな痛手だと。‥‥紺野を利用する気満々だったってことでしょうね」
「‥‥アンタだってそう変わらんやろ」
裕子の辛辣な言葉に、明日香は僅かに口角をあげた。
「‥‥いずれにしろ、これで研究所を統括していた『火の民』は『風の民』『水の民』に大きな貸しができてしまいました。安部なつみと紺野あさ美、両名とも奪われてしまったわけですから。‥‥恐らく躍起になって紺野を奪い返しにかかるでしょうね」
「‥‥紺野は何者や?」
「‥‥この前説明したじゃないですか」
「あんな説明でわかるかい。‥‥何や『才能』があるんだったけ?」
「安倍さんはそういう説明をなさっていましたね。正確には、遺伝子が1つないんですが。‥‥その他にも‥‥あなたって人は、本当に、何も気づいてないんですね」
明日香は呆れたようにため息をついた。
- 551 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:52
-
「‥‥どういう意味や」
むっとしたように、裕子は眉間に皺を寄せる。
「石黒先生は、もう、気づいてらっしゃいますよね」
「‥‥まあね」
明日香の言葉に、彩は僅かに頷いた。
「何のことや」
「紺野に何回会いましたか?」
「んー‥‥4回ってトコかな」
「‥‥紺野は何の『民』だと思いますか?」
「そんなん‥‥」
言いかけて、裕子は、言葉に詰まった。
確か、初めて、研究所の水槽で見たときは‥‥。
そして、この前、見たときは‥‥。
「‥‥あれ?」
裕子が素っ頓狂な声をあげる。
「やっと、気づきましたか」
「‥‥あ?‥‥アイツ‥‥」
思い返してみれば、裕子の記憶の中にある紺野あさ美の左手のひらの『石』は、全て異なる輝きを有していた。
時と場所を変え、赤に、青に、緑に、光を放っていた。
- 552 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:52
-
「ど、どういうことや!」
信じられない、というような裕子の表情に、明日香は苦笑いを浮かべる。
「あなたって人は、本当に、矢口さんしか見えていないんですね」
「うっさい」
早く説明せんかい。
裕子は苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。
「‥‥紺野の左手のひらの石は、意志の力でその色を変化させるんです。‥‥そのことを、安倍さんは紺野の認知が特殊だという風に説明なさっていましたね。‥‥紺野の『力』に関しては、現在のところ確認されていません。‥‥ですが、政府は躍起になっているんです。もしも‥‥紺野が『石』の変化により、三つの民全ての力を使うことができたら‥‥」
「‥‥‥」
「まあ、安倍さんの説が正しければ、(『力』自体、退化しているわけですから)ニュータイプの紺野が『力』を持っているわけがないんですが」
「‥‥安倍さんには悪いがな。あんな説、説得力に欠けるわ」
裕子が、ふんと鼻をならす。
- 553 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:53
-
「あの説を手っ取り早く、簡単に、ひと言で言うと、『神々の印』と『力』とは何の関係もない、いうことやろ?‥‥じゃあ、聞くがな。ウチが『力』を失ったのは何でや? 矢口は?」
「‥‥中澤さんは『力』を失ったわけではありませんよ」
「‥‥何やて?」
「『力』を失ったわけではありません」
「何人もいますよ。『神々の印』を失ったものの、『力』を保持している方々が」
「‥‥どーゆーことや‥」
低い唸り声で、裕子が呟いた。
「‥‥恐らくは『暗示』でしょうね。自己催眠とでもいいましょうか。安倍さんのおっしゃる通り『印』が単に『民族』の結束を強めるために利用されてきたのなら――そのシステムからはみ出そうとするものには、ペナルティが必要です。――今よりも科学技術が発達していない時代、『力』を使って狩猟、漁業、農業をしていた人々にとっては、『力』を失うことは即ち生きる手段を失うことですから――それはとても恐ろしいことだったでしょうね」
「‥‥『暗示』やて‥‥?」
「そうです」
「そんなわけない。現にウチは『力』を失って‥‥ずっと、ものごころが付いてからずっと感じてた『力』の存在が感じられへん」
裕子は思わず立ち上がり、明日香を睨みつける。
自分の置かれている状況を『暗示』などという言葉で片付けるつもりなど毛頭なかった。
- 554 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:53
-
「‥‥中澤先生、あなたはとても人がいい。正直な方だ。人間の肯定的な側面に目を向けようと努力なさっている」
明日香の強い眼光がふっと緩み、優しい色に変わった。
「‥‥なんや、気持悪い」
気抜けしたように裕子は椅子に腰を下ろす。
「そういう方は、概して、『暗示』にかかりやすいんですよ」
「‥‥‥」
褒められたのか、貶されたのか、判別がつけられなかったのと、思いもよらなかった明日香の優しい眼差しに、戸惑ったように裕子は黙り込んだ。
「‥‥あなたを危険極まりない仕事にかりだしたのも、ひょっとしたら、『力』が蘇るきっかけができればと思ったんですがね。肩を打ち抜かれても覚醒しないようじゃあ、随分と強い『暗示』にかかっているようですね」
ひょいと明日香は肩をすくめた。
「‥‥‥」
裕子は黙って明日香を見つめた。
- 555 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:54
-
「‥‥まあ、にわかには信じられないかもしれませんが、『力』はあなたの中にあります。いつか、蘇るかもしれませんね」
「‥‥『力』が戻ったら、戻ったで、またウチを利用するんやろ」
「随分、信用されてないんですね、私は。‥‥まあ、無理もありませんが。‥‥そうですね。利用しようとするかもしれません。‥‥その時になってみないとわかりませんが。‥‥でも、少なくとも今は、『神々の印』を失い、『密猟者』に追われる立場のあなた達のことを気にかけていることは確かです」
「‥‥‥」
裕子は何も言えず、銃で打ち抜かれた右肩の傷をさすった。
「そういえば、そろそろ、手術のこと、考えないといけませんね」
思い出した、というように、明日香は手のひらをポンっと叩いた。
「‥‥ああ」
「矢口さんと話を詰めていますか?」
「いや、全然‥‥」
そう言うと、裕子はしばしば考え込む。
- 556 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:54
-
「‥‥聞いときたいんやけど、移植した『石』は変化せんのか?‥‥つまり‥‥」
ややあって、裕子は、顔を赤くして、モゴモゴと言葉を濁す。
「再び『印』を失うことはないのか? ということですね」
「そうや」
「それはありませんよ。一度反応が起きていますから」
だから、性交渉をしても何ら差し支えはありませんよ。
明日香が言葉を続ける。
「‥‥そ、そうか‥」
明日香の言葉に、裕子は、ほぅと息を吐き出した。
「‥‥そういえば、先日の説明では、『石』の変化についての説明はなかったですね」
「解明されているんかい」
「それは、そうですよ」
明日香は小さく頷いた。
- 557 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:55
-
――― ―――
診察室の隣の部屋には、安倍なつみが待機していた。
今日、裕子の傷の診察があることは、前々からわかっていたことで。
だから――そもそも明日香は、はじめから、今日、ココで、なつみに、『石』の変化について説明させるつもりだったのだろう。
明日香の手際のよさは、毎度のことではあったが、裕子は、明日香の手のひらで踊らされているような気がして、面白くなかった。
「‥‥全部、計画通りってか」
裕子の呟きに、
「人の心は計画通りにはいきません」
明日香は小さく呟いた。
「‥‥あ?」
「何でもありません」
明日香は笑って何も答えなかった。
- 558 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:55
-
「‥‥『石』の変化は、酵素の働きによって引き起こされるんです。この酵素は『力』とは何の関連性も見出せませんでした。‥‥もともと『火の民』、『水の民』、『風の民』は酵素の鍵穴も少しづつ形が違っていて、体質特性が少しずつ異なります。でも‥‥不思議なことに、お互いの鍵穴にぴったりと一致する補酵素を持っているんです。この補酵素は、他の『民』と交わることがなければ、活動することはありません。異なる『民』同士の接触が引き金になって、酵素と補酵素の結合が始まります。‥‥それから、体質特性が変化していきます。内分泌に関わることだから、変化は徐々に起こって自覚しにくいから、『石』の変化が急激なだけ、体質特性の変化に気づく人はほとんどいないと思うけど」
なつみが、ホワイトボードに図を書いて説明する。
「体質特性?」
彩が聞き返した。
「『火の民』は他の『民』と比べて、皮膚の熱耐性が高い。『風の民』は嗅覚が鋭い。『水の民』は酸素効率が高い。そういう話は、聞いたことがあるでしょう?」
「世間一般ではよく言われてるけど‥‥」
彩はそう言って、首を傾げた。
実際に、検証して、実証されたという話は聞いたことがなかった。
- 559 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:56
-
「体質特性の違いは、酵素の働きによるんです。‥‥『神々の印』を失った者は、簡単に言うと、酵素の働きで、他の『民』の持つ体質特性を得ると共に、生来持って生まれた『石』の色が変化してしまった人たちです」
「‥‥具体的に説明してよ」
彩は、なつみの説明が書き込まれたホワイトボードを、食い入るように見つめた。
「‥‥例えば、性交渉によって、体液に含まれている補酵素が、他の『民』の体内に吸収された後は、酵素と基質と結びついて生成物が作られます。このときに作られた生成物が体質特性を生み出して、さらに『石』の反射率を変化させます。‥‥それによって、『石』が生来持っていた色から『黒』に変化して‥‥俗にいう『神々の印を失った者』‥‥に、なる、というわけ‥です」
なつみの説明は、なおも続く。
「一度結合した酵素と補酵素は簡単には外れない。福田グループによって開発された薬も、研究所に中澤先生と彩っぺが潜入したときに使われた薬は、酵素の働きを一時的に弱めることしかできない。効果も8時間という限界がある」
そう言うと、なつみは目を伏せた。
- 560 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:56
-
「‥‥『石』の移植は、だから、画期的といえば、ものすごく画期的なんです。ただ、神経が集中しているところだけに、腕のいい外科医が必要ですが」
なつみの言葉をうけ、明日香が補足説明をする。
「紺野の『石』の色が変わるのは、どういう仕組みなんや」
腕組みをしながら、なつみの説明を黙って聞いていた裕子が、口を開く。
「‥‥紺野の場合は、ちょっと特殊です。一度結合した酵素と補酵素は本来離れにくい性質を持っているのに、紺野はそれを自分の意思でコントロールすることができるんです」
「そんじゃ、その時々によって、体質特性が変化できるってことか?」
「そうです」
なつみが小さく頷いた。
- 561 名前:印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/08(日) 22:57
-
「‥‥ウチは‥‥」
「中澤さんが生来持つ皮膚の熱耐性と『風の民』の嗅覚の鋭さを身に付けているはずですよ。‥‥それは矢口さんも一緒です」
なつみが裕子の冷えた指先を両手で包み込む。
「‥‥全然そんな気せんで」
微かに震える声で、裕子が言葉を紡ぐ。
「変化は、体内でゆっくりと起こっていますから、自覚症状はないと思います。‥‥ですが‥‥意識してみると、変化が感じ取れるかもしれません」
なつみの言葉は温かかった。
裕子の心にじんわりと染み込んでいく。
「中澤先生は何の『民』を選びますか? 元通り『火の民』でも結構ですし、矢口さんと同じ『風の民』でもいいですよ。それともいっそ『水の民』になりますか?」
「‥‥‥」
明日香の問いに答えられず、裕子は黙り込んだ。
情報が多すぎて、頭が混乱していた。
矢口にどう伝えたらいいのか。
自分たちは本当に幸せになれるのか。
わからなかった。
「‥‥大切なことだから、よく考えて。矢口とも相談して」
彩は心配そうに裕子を見つめた。
「‥‥わかってる」
裕子は小さく頷いた。
- 562 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/08/08(日) 22:58
- 更新しました。
- 563 名前:名無し読者 投稿日:2004/08/08(日) 23:44
- 待ってました!
- 564 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:50
-
――― ―――
街外れの路地裏、机と椅子を並べただけの真里の城に、美貴がやってきた。
占いと書かれた小さな提灯が風に揺れている。
美貴は、『グリーン』のトレードマークの緑色のTシャツ姿だ。
「矢口」
快活に声をかけ、真里と向かい合った椅子に腰を下ろす。
「‥‥美貴」
「元気そうだね」
「‥‥うん」
真里は、はにかんだように笑い、その笑顔を眩しそうに美貴が見つめた。
「‥‥Iは元気?」
真里は、気になっていた、友人の名前をあげる。
「Iは、学校を卒業してすぐに結婚して、名前も、Aになっているよ」
「‥‥そ、そうなんだ」
イニシャルを名乗るということは、上流階級の証。
その中でも、Aは、頂点を意味する称号。
結婚して名前が変わったということは、A夫人になった、ということだ。
- 565 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:50
-
「同級生の中でも一番の出世頭じゃないかな」
美貴が顎に手をあて、首を傾げ、思いを巡らすように言った。
「そ、そうなんだ。頑張ってるんだね」
「‥‥頑張ってるっていうか、流されてるっていうか‥‥」
真里の言葉に苦笑を漏らし、美貴は小さく呟いた。
「え?」
真里が怪訝な顔を向ける。
「‥‥何でもない」
美貴は小さく首を横に振った。
そして――。
「矢口」
一転して、真剣な声色で言葉を紡ぐ。
「な、何」
美貴の鋭い眼光に、真里はたじろいだ。
「中山さん、だっけ」
美貴は、ゆっくりと言葉を発する。
- 566 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:51
-
真里は、美貴の言った『中山さん』について、反芻する。
そして、『中山さん』とは、裕子と美貴が遭遇した際、とっさに、自分が出した裕子の偽名だという事実に思い当たると、急に、汗がどっと噴き出してきた。
「‥‥ああ、あの人‥」
しどろもどろで、何とか言葉を発する。
「単刀直入に言うけど。調べさせてもらった」
「‥‥な、何のこと言ってるのか‥」
美貴の口から一体どんな言葉が飛び出すのか、真里は神に縋るような気持で、美貴の薄紅色の唇を見つめた。
「有名人なんだね」
「‥‥‥」
調べさせてもらった、と美貴は言った。
美貴が『グリーン』の幹部である以上、『グリーン』の持っているデーターベースを使って調べたことはほぼ間違いない。
美貴がどこまで裕子と自分の情報を把握しているのか。
確かめなければならない。
真里は、ぐっと唇をかみ締め、美貴を睨みつけた。
- 567 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:51
-
「そう、威嚇しないでもいいよ」
真里のきつい視線を受け、美貴は苦笑を漏らす。
小さな身体を小刻みに震わせながら、それでも、視線は真っ直ぐに向かってくる。
潔いその姿勢に、より愛しさが増してくる。
腕を伸ばし、両手で、真里を抱きしめる。
真里は一瞬、硬直したものの、大人しく、美貴の腕の中に納まった。
「矢口に悪いようにはしない。矢口は美貴にとって、とても大事な人だから。‥‥震えてるね。大丈夫、怯えなくてもいいよ。このことを知ってるのは、美貴だけだから」
「‥‥美貴」
くぐもった真里の声が、耳に心地よかった。
真里を抱きしめている美貴の腕が緩み、それと同時に、美貴の唇が真里のそれと重なった。
「‥っ‥‥」
熱い唇が、強く、真里の唇に吸い付く。
奪いつくされるような口づけ、だった。
頬を固定され、腰が引き寄せられる。
口づけから解放され、真里は路肩に崩れ落ちた。
「‥‥どうして」
「美貴が、守ってあげる」
「‥‥何を」
「守ってあげる。ずっと守ってあげるよ。そんな格好しなくてもすむように」
美貴は腰をかがめると、座り込んだままの真里の金色の髪を一総手に取り口づける。
- 568 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:52
-
「矢口は、騙されてるんだよ。中澤裕子に」
「‥‥っ‥」
裕子のフルネームが出てきたことに愕然とする。
騙されている、という言葉が、真里の誇りを大いに傷つけた。
真里は、キッと美貴を睨みつける。
「裕子は、あたしを、騙したりしない」
差し伸べられた美貴の手を振り払い、立ち上がる。
「‥‥矢口」
美貴の瞳が傷ついたように揺れた。
「裕子は‥‥」
「‥‥こんな目に合わされて、よく、そんなこと言えるね」
美貴の整った口元が、皮肉げに歪む。
「‥‥‥」
「何で、矢口が、『印』を隠して生活しなきゃいけないの。どうして、親、妹を捨てたの。全部アイツのせいでしょうが」
真里の両肩をつかんで、力任せに揺さぶる。
真里は渾身の力を振り絞り、身をよじって、美貴の手から何とか逃れる。
「‥‥違う。‥‥矢口は、全部、自分で決めた」
言葉にしながら、涙が溢れてきた。
美貴から逃れて、裕子の元にたどり着かなければ――。
涙で濡れた瞳で美貴を睨みながら、背後の気配を伺う。
- 569 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:52
-
真里の涙を見た美貴は、顔を曇らせ、「ごめん」と呟いた。
泣かせるつもりはなかった。ごめん。
そう言って、美貴は頭を下げた。
「‥‥今日は、帰る。‥‥でも、諦めないから」
何度も何度も自分の非礼を詫びた後、美貴は去っていった。
諦めない、と美貴は言った。
自分は、『グリーン』の手の中に落ちたのも同然ではないだろうか。
真里は、見えない不安に怯え、震える肩を抱きしめた。
- 570 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:53
-
――― ―――
所変わって―――街外れの彩の診療室である。
普段はそれなりに賑わいをみせる診療室だが、外にかけられた『臨時休業』の札が全てを物語っているように、今は、彩と紗耶香の二人っきりだ。
「‥‥で、どうするの?」
書類に目を通していた彩が、顔を上げ、向かいに座る紗耶香をねめつける。
「行くよ」
「いいの?」
「いいよ」
「‥‥本当に?」
「本当に」
紗耶香は、真っ直ぐな瞳で頷く。
真っ黒なショートカットがサラサラと揺れた。
- 571 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:53
-
「ハンパな気持で行くんじゃないんだよ」
「そりゃ、そうだろうけどさ」
「何だよー。もともと、あのバンドを紹介したのは、彩っぺだろー」
紗耶香は不満そうに唇を尖らせた。
「‥‥そうなんだけどさー‥‥何かねー‥‥」
彩が言いよどむ。
音楽と芸術の都といわれるルナの街。
そこで活動する、知り合いのバンドマンに紗耶香を紹介したのは、確かに自分だけれど――。
「何だよぉ」
「アンタと後藤のツーショットが美しくてね。離れ離れにするのが惜しくなっちゃった」
「はぁ!? 何だよ、それ」
紗耶香は素っ頓狂な声をあげた。
「‥‥わからないかなー」
「わかんない」
彩のため息交じりの呟きに、紗耶香はきっぱりと言い放った。
- 572 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:54
-
「‥‥ガキ」
「どうせ、ガキです」
拗ねたように、紗耶香が呟いた。
彩の瞳が優しい色に変わる。
この子たちは、自分たちの美しさに気づいていないのだ。
真っ直ぐな美しさ。
魂が共鳴するような輝きを――。
「‥‥早く会いすぎたのが、アンタ達の不幸ね」
「‥‥‥」
「‥‥ま、向こうで、2、3年、修行してきな。そのうち嫌でも大人になるだろ」
「その言い草、気に入らないな」
「‥‥あと2、3年もすりゃ、後藤は、すごい美人になるだろうね。‥‥それこそ、道行く誰もが振り返るような」
「‥‥‥」
紗耶香がムッとしたように、彩を睨む。
「その時になって、泣くはめにならないように、気をつけな」
「そんなこと、言われなくったって、わかってる。‥‥あたしだって、諦めるつもりなんかないから」
「その言葉、忘れるんじゃないよ」
彩は、ニカッと笑い、紗耶香の背中を叩いた。
- 573 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:54
-
――― ―――
「おう、矢口、早か‥‥」
アパートのドアを開けた裕子の胸に、真里がしがみつく。
真里の勢いに、裕子はフローリングに倒れこんでしまったが、真里は、裕子の胸から顔を上げようとしない。
「‥‥矢口?」
訝しげに、裕子は真里の顔を覗き込む。
鼻腔をくすぐる、真里の甘い香りの中に、嗅ぎなれない、香水の香りがした。
カッと頭の中に血が上る。
「‥‥アイツか」
低い唸り声が出た。
真里の身体がピクリと跳ねる。
「アイツに何かされたんか?」
裕子の問いに、真里は首を横に振る。
「‥‥どうしよう」
涙声で真里が呟く。
「‥‥どした?」
「裕子のこと、調べられたみたい」
真里は、本格的に泣き出した。
- 574 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/10(火) 00:55
-
「ちょ、落ち着き。順を追って話して、な?」
裕子は真里の背中を落ち着くように撫でてやる。
真里の涙がおさまるまで、耳元で「大丈夫やから」と囁き続けた。
やがて、真里は言葉に詰まりながらも、ポツリポツリと美貴との会話を話しはじめ、裕子も黙って聞いていた。
真里の話が終わると、裕子は、ほう、と大きな息を吐き出した。
胸の中には、美貴に対する言いようのない怒りが渦巻いてはいたが、今は、真里が無事に帰ってきたことに感謝していた。
「‥‥矢口」
真里を腕に強く抱きしめる。
「‥‥ゆーちゃん」
「矢口が無事でよかった」
ぽつりと呟き、裕子は、真里の胸に頬を埋めた。
- 575 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/08/10(火) 00:55
- 更新しました。
完結に向けて、気合を入れなおさねば。
- 576 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/10(火) 22:52
- うわー、思わぬ設定思わぬ展開、の一方で旅立ちもありつつキナくさい気配も…
どうなっちゃうんだ
- 577 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/11(水) 00:58
- ぅわ〜
もどかしいっ
更新待ってました
どうかみんなを幸せにしてやって
- 578 名前:ひで 投稿日:2004/08/11(水) 18:55
- 更新お疲れさま!
待ってましたよ〜!
どうなっていくのか気になりますネ。
市井ちゃん…。
- 579 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:30
-
――― ―――
――抱きしめた温もり、熱い唇。
どうして、手を離してしまったのだろう?
泣いて抵抗されたとしても――あのまま強引に奪ってしまえばよかった。
――アイツ――中澤裕子の手の届かないところに閉じ込めて――。
そしたら――。
いつか、自分にも、あの輝く笑顔を向けてくれるだろうか?
- 580 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:31
-
――― ―――
真里と別れ、帰途に着く。
『グリーン』支部守衛が、美貴の姿を見つけるや否や駆け寄ってくる。
自分が不在の間に何かあったのかと身構える美貴に、守衛は小声で何事かを囁いた。
「わかった」
短い返事を残し、美貴は足早に階上の自室に向かう。
途中、給湯室にいる部下にお茶を持ってきてくれるように頼んだ。
部屋に入る前に、呼吸を整え、気合を入れる。
この前会ったときは、いきなり怒り出して帰ってしまった。
今回は、どういうつもりで来たのだろう。
彼女が自分を訪ねてくる意図がわからなかった。
飼っている犬に仔犬が生まれただの、昨夜食べたビーフシチューが絶品だっただの、日常の些細な出来事を逐一報告してくる。
民間人が、こうも頻繁に『グリーン』支部に出入りしているとなると、支部のトップである部隊長が何か言ってくるだろうと踏んでいたが、一向に何も言ってこない。
上流階級のA夫人が相手だと、何も言えないのか。
幼馴染でもある友人は、勝手に人の部屋に入り込んで、お茶を飲んでいることもざらである。
- 581 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:31
-
「おかえりー」
美貴が自室のドアを開けると、自分の部屋に居るかのように、ソファーの上で雑誌を読んでいたAが顔をあげた。
「‥‥ただいま」
友人のくつろいでいる姿に脱力感を覚える。
「ずっと待ってたんだよ」
「‥‥そうなんだ」
美貴はあいまいに相槌を打ち、Aの隣に腰掛けた。
『コンコン』と控えめなノックの音。
「失礼します」と声がして、先ほど部下に頼んでおいたお茶が運ばれてくる。
Aのお気に入りの、白地に桃色の花の描かれた洒落たデザインの紅茶ポットに紅茶カップ。
それに、ハート型のチョコクッキーが添えられている。
Aはお茶の登場に歓声をあげ、いそいそと、ポットからカップに紅茶を注いだ。
美貴も、クッキーを口の中に放り込み、モギュモギュと味わう。
いつもの他愛もないお喋りタイムが始まるはずだった。
しかし、Aは注いだお茶に手をつけることもなく、すっと立ち上がり、怪訝な顔をしている美貴を無視して、書類の積まれた机の上から、一冊の分厚い本を手に取った。
その本を見た瞬間、美貴の顔色が変わった。
- 582 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:32
-
「矢口、見つかったんだね」
本のページとページの間に挟んであった、十数枚の写真を手に取る。
「何で‥」
「いつもはない本が、机の上にあったら、普通気になるでしょ?」
Aは、写真を片手に、にっこりと微笑んだ。
部下に命令することもできずに、自分で隠し撮りした写真だ。
ギターケースを肩にかけている『水の民』の少女と親しげに談笑する真里。
真剣な表情で、客を占っている真里。
暗い夜道、少し怯えながらアパートの向かう真里。
中澤裕子に眩しい笑顔を向けている真里。
全ての写真に真里が写っている。
慌てて立ち上がり、Aから写真を奪い取る。
弾みで、カップの紅茶がテーブルにこぼれてしまったが、気にしなかった。
- 583 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:33
-
「昔から、矢口に夢中だもんね」
Aは皮肉げに口元を歪めた。
「‥‥どういう意味よ」
「そのままの意味」
「‥‥‥」
「矢口は元気だった?」
「‥‥まあね」
「拾ったの?」
「拾った?」
Aの話の意図が見えずに、美貴は首を傾げた。
「‥‥それとも、もう、他の誰かが拾っていた?」
「‥‥っ‥」
Aの言葉の意味することがわかり、美貴の顔が真っ青になる。
写真を見れば、真里が誰を愛しているのか、一目瞭然だった。
何も言い返せずに、Aを睨みつける。
- 584 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:33
-
「美貴たん」
美貴のことを『美貴たん』と呼ぶのは、ただ一人、幼馴染のAだけだ。
甘ったるい声で呼ぶ。
「‥‥あたしのことは、ほっといて」
「ほっとけないなぁ」
「あたしにことなんか構わずに、もっとすることがいくらでもあるんじゃないの?上流階級の若奥様としては」
「‥‥ないよ」
美貴の言葉に、Aは暗い顔で俯く。
しまった、しくじったか、という思いが、美貴の胸中を掠めた。
自分が何気なく口にした言葉が、亜弥の心の琴線を激しくかき鳴らすことがあることを自覚している。
今度もそれなのだろうか。
前回のように怒り出してしまうのだろうか。
美貴は背筋を伸ばし、身構えた。
予想に反して、Aは美貴を見つめ、ふっと寂しそうに笑った。
- 585 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:34
-
「‥‥A?」
「ミドルネームなんかで呼ばないで。‥‥名前で呼んでよ」
「‥‥え‥」
「昔から、二人っきりだと、名前で呼び合ってたでしょ」
「‥‥そうだけど‥」
今は、立場が違う、と言いかけると、
「美貴たん、美貴たん、美貴たん、美貴たん、美貴たん、美貴たん、美貴たん、美貴たん」
何度も何度も甘い声で、自分の名前が連呼された。
こんなに嬉しそうに自分の名前を呼ぶ人を、見たことがない、と思った。
「‥‥亜弥ちゃん」
美貴が久しぶりに名前を口にすると、A――亜弥は、本当に嬉しそうに笑った。
「美貴たん、人形の家ってお話知ってる?」
亜弥の話は、いつも唐突だ。
仲直りして、ソファーに戻ったとたんに、別のチャンネルに切り替わる。
美貴も慣れたもので、慌てることなく話を合わせた。
「人形の家?」
「知らないの?」
「知ってるよ」
「‥‥あの主人公さぁ、ノーラは、最後に出て行くじゃない。‥‥どこに行ったと思う?」
「さぁ?‥‥考えたこともないけど」
「どうして、考えないの」
亜弥はいらだったように声を荒げた。
どんぐり目玉が三角につり上がっている。
- 586 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:34
-
「‥‥だって、ああ、出て行くんだ。っていうか、もっと早く出て行けよって思ったから」
ぬるくなりかけた紅茶を口に含む。
「‥‥美貴たんにとっては、そうかもね」
「あ?」
「『グリーン』支部のNo2だもんね」
亜弥は拗ねたように唇を尖らせた。
「出世頭じゃない?」
「‥‥まあね」
お前だってそうだろ、と言いたくなるのを、ぐっと我慢する。
「結構、自由に、好き勝手できる?」
「それほどの力はないよ」
「でも、それなりには、できるんだ」
「まあ、それなりにはね」
「だから、矢口のことも探せたの?」
「まあね‥‥って、違う、違うよ」
一度は頷きかけた頭を慌てて左右に振る。
「何が、違うの」
亜弥はムッとしたように、どんぐり目玉を三角にする。
「矢口のことは、今は、関係ないでしょ」
「関係あるよ」
「どう、関係するのさ」
「矢口は、自由になったんだよ」
亜弥の言葉に、美貴は口をきゅっと引き結んだ。
- 587 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:35
-
「結婚なんて、しなけりゃよかった」
亜弥は吐き捨てるように叫んだ。
「‥‥‥」
美貴の瞳が不安げに揺れる。
亜弥が、結婚について、感情に露にしたことは今までなかったから。
何か、決定的なことが、彼女の口から飛び出しそうで、それが恐ろしかった。
「‥‥あたしね、もっと、我慢できるものだと思ってた。」
一旦叫んだものの、気持ちが落ち着いてきたのか、その後は淡々と言葉を紡ぐ。
「パパもママも割り切りなさいって言ってたし。‥‥だって、あたしが生まれる前から、結婚するって決まってたんだよ。笑っちゃうよね。‥‥ママが言ったの。お前より旦那のほうが早く死ぬから。我慢して。そしたら、残りの人生、自由に生きられるって。その方がお前のためだって」
「だから、結婚したの?」
「‥‥それだけじゃないよ。‥‥パパはAの家柄が必要だった。Aには、ウチの財力が必要だった。だから、結婚は、絶対に必要だった。‥‥あたしが、逃げたとしても‥‥必要な結婚は、下に引き継がれる。‥‥妹を、あんな、じいさんと結婚させるわけにはいかないじゃない」
亜弥は自嘲するように笑った。
- 588 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:35
-
「‥‥ウチのだんな様は、多分、すごくいい人、なんじゃないかな。‥‥欲しいものは何でも買ってくれるし。そんなに、干渉しないし。‥‥息子さんもね。パパと同い年なんだけど。‥‥自分の娘と同じぐらいの年齢のあたしを、一応、『おかあさん』って立ててくれるから」
亜弥は喉が渇いたのだろう、紅茶を口に含んで、舌を湿らせる。
「‥‥あたし、知らなかったんだ。‥‥我慢できるって、ずっと、思ってた。ママも若い頃に好きな人がいて、それでも、パパと結婚して幸せだって、言ってたから。‥‥でも‥‥でもね‥‥好きでもない人に抱かれるのが、こんなに苦痛だなんて。‥‥夜はね、あたし、人形になるの。‥‥夜、ベッドでね、上にのってきたら、スイッチが入るの。‥‥なんか、漂ってる感じっていうの?‥‥でもね、人形もね、身体は、ちゃんと、感じるんだ。‥‥ちゃんと濡れるし、声も出るよ」
「やめてよ!」
亜弥の自虐的な告白に、美貴は堪らず立ち上がり、耳をふさいだ。
- 589 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:35
-
「‥‥そんな、話、何で今さらするの」
「‥‥さぁ‥‥多分、美貴たんに、聞いて欲しかったから」
亜弥は、美貴の手を取り、再び自分の隣に美貴を引き戻す。
美貴の胸のもたれ、亜弥は瞳を閉じた。
「‥‥あたしに、どうしろって、言うの?」
「‥‥何も」
亜弥は小さく笑った。
「‥‥美貴たん、温かい」
美貴の胸に頬を擦り付ける。
美貴の両手が戸惑いがちに、亜弥の背中に回された。
「‥‥そんな顔しないで。‥‥美貴たんを、困らせる気はないよ」
亜弥は小さな声で呟いた。
- 590 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:36
-
――― ―――
亜弥のいない部屋。
もうすっかり日も暮れてしまったが、美貴は部屋の明かりもつけず、窓辺にたたずんでいた。
あれから――亜弥はずいぶん泣いた後、念入りにメイクを直し、得意の作り笑顔を貼り付けて帰っていった。
亜弥は――あの、愚かで、優しい女は、翼を自ら手折ってしまった。
誰よりも輝ける翼を持っていたはずなのに。
彼女の身体も人生も、その吐息さえ、家柄と金に縛られてしまった。
- 591 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:37
-
テーブルの上のペーパーウェイトを手に取る。
去年の美貴の誕生日に亜弥がくれたものだ。
純銀製のソレは、天使が両膝を抱えてうずくまっているデザインで、大きさも重さも手ごろで、貰って以来、ずっと愛用している。
美貴の瞳には、亜弥と天使が重なって見えた。
――ごめんね、亜弥ちゃん。
あたしにできるのは、アンタの生き様を見届けることだけ。
翼の折れた天使が、地上で、足掻き、のたうちまわる様を――。
あたしは――そうはならない。
何ものにも縛られたりしない。
欲しいものは手に入れる。
そのためには――。
中澤裕子――あたしの予想が正しければ、彼女はすでに『力』を失っている。
全てを焼き尽くすといわれたほどの『力』を。
- 592 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/08/11(水) 21:37
-
「‥‥矢口」
握り締めた天使に、そっと口づける。
矢口を救わなければ。
『風の民』には『風の民』が一番なんだ。
あの輝ける子が、このままでいいはずがない。
あたしなら、『グリーン』支部No2のあたしなら、孤立無援のあの子に隠れ家を提供してやることもできる。
誰にも危害が加えられないように、守ってやることもできる。
そのためには、何でもする。
成り上がってやる。
手の中の天使を、机の上に座らせると、美貴はカップのそこに残る冷えた紅茶を飲みほした。
- 593 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/08/11(水) 21:38
- 更新しました。
- 594 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/12(木) 22:22
- 更新お疲れ様です。
ついにあの方が出てきましたか・・・。
果たしてどうなっていくのか気になりますね。
- 595 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/08/12(木) 23:41
- まさかあの人までが登場とは・・・
てっきりイニシャルだけの脇キャラだと思ってましたが
正体が分かった時、鳥肌が立ちました。
これからどういう展開になるのか全く読めませんw
続き期待してます
- 596 名前:ひで 投稿日:2004/08/15(日) 04:07
- 更新お疲れさま!
まさかあの人だとは思いもしませんでした。
いやー、ビックリです。
- 597 名前:みかん 投稿日:2004/08/15(日) 09:05
- Aせつない・・
- 598 名前:*O 投稿日:2004/08/15(日) 15:10
- 続き気になる・・・。
更新がんばってください。
- 599 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/13(月) 18:38
- 待ってます
- 600 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/09/23(木) 02:42
- 600
- 601 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 00:59
-
――― ―――
「ごめん‥‥もう一回言ってくれる?」
「せやから‥‥元に戻してくれって言ってるんや。‥‥ウチは火の民に、矢口は風の民に」
「‥‥何を考えているのか、理解に苦しむわ」
眉間に皺を深く刻み、彩はこめかみに手を当てる。
「‥‥‥」
彩のしかめっ面に、裕子と真里は何も言えず黙り込んだ。
今日は、午後から休診にして、彩の診療所で、石の移植手術についての話し合いをしていた。
「‥‥どういうことか、説明してちょうだい」
「‥‥矢口から言い出したんだよ」
そう言うと、真里は氷がすっかり解けてしまい、ぬるくなってしまった麦茶をコクリと飲んで喉を湿らせる。
「ゆーちゃんは、どっちでもいいって言ったんだ。火の民でも、風の民でも、水の民でも、矢口の選択に任せるって。‥‥でも、矢口は違うと思ったんだよ」
「何が、違うの?」
「何て言うか‥‥うまく言えないけど。違う民だから、じゃあ、同じにしちゃえって、それは違うと思ったから。同じ民なら意味がないんだよ。同じ民以外は、ここで一緒に生きる仲間って考えない人たちにとっては」
真里はゆっくりと考えながら言葉を紡いだ。
過激民族主義組織――『レッド』や『グリーン』や『ブルー』でなくとも、この世界の多くの人たちは、自分の属する『民』の世界で生きている。
他の民を知らない故の、不安と脅威に怯えながら。
- 602 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:00
-
「違う民同士でも、理解し合えるって、わからせたいんだ。だって、あたしたちは、本当に好き合ってるもの!」
『グリーン』に入ったM――美貴も、きっとわかってくれる。
わからせてみせる。
「あたしは、負けない」
「矢口が、元に戻れば、それをわからせることができるの?」
「‥‥それは、わからないけど。でも、やりたいんだ」
真里はぐっと拳を握り締めた。
まったく、誰かさんがいらんことしてくれてな。
あのMのやろう‥‥。
ブツブツと裕子は愚痴をこぼす。
「‥‥矢口の決意表明はわかったけど‥‥即答はできないよ。‥‥明日香が嫌がるかもしれないから。なんと言っても、スポンサーなんだし‥‥一応、相談してみる」
「ありがとう」
「よろしく頼むわ」
真里と裕子はそろって頭を下げる。
頷きながら、彩は視線を窓に向けた。
楽しそうに走り回る犬の吠え声と子どものはしゃぐ声が聞こえる。
希美と亜依が、犬のマリーと走り回っていた。
- 603 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:00
-
「‥‥元気やなぁ」
感慨深そうに、裕子が感想をもらす。
「矢口、お腹すいちゃったよー」
真里は大げさにお腹をさすって、空腹だとアピールする。
「圭織が特製サンドイッチ持ってくるって言ってたよ」
「まじでっ」
真里は立ち上がり、
「ゆーちゃん、先行くよー」
と声をかけ、小走りでドアから出て行く。
真里の後姿を見送った裕子は、黙って、上着の胸ポケットからタバコの箱を取り出し、一本抜いて口にくわえ、傍らの彩に「吸うか?」と勧めた。
無言でタバコをくわえた彩に、ライターの火をかざして、一緒に火を灯す。
「‥‥どーする気」
煙を吐き出しながら、彩は、窓の向こうで、圭織に話しかけている真里――恐らくは、サンドイッチをねだっているのであろう――を見つめた。
「しゃーないやろ。あーなったら、てこでも動かん」
裕子は目を細め、窓の外の真里を愛しげに見つめる。
「はぁ‥‥明日香がなんて言うかな」
「案外、面白がるかもしれんで」
くくくっと裕子は、小さく肩を揺らして笑った。
- 604 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:01
-
「‥‥もっと要領よく生きなさいよ」
呆れた、というように、彩はため息をつく。
「アンタだって、人のことは言えんやろ。貧乏くじ引きまくってるくせに」
裕子はタバコの灰を、灰皿に擦りつけた。
「‥‥前に、『レッド』『グリーン』『ブルー』が、きな臭い動きをしてるって、明日香が言ってたでしょ」
「ああ」
「ここも目つけられてるかも。」
「‥‥何かあったんか?」
一瞬、動きを止め、裕子は鋭い眼差しで彩を見やった。
「患者さんで、『グリーン』のメンバーを見かけた人がいる」
「間違いないん?」
「あんな目立つTシャツ間違えるわけがないじゃん」
「せやな」
目を伏せ、裕子はため息をつく。
「思い当たる節がありそうね」
「まあな」
美貴のことが気がかりだった。
真里に拒絶された美貴がどういう手を打ってくるか。
裕子はタバコを燻らせながら、窓の外――暖かな日差しの中、明るい笑い声をたてる真里を見つめた。
- 605 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:01
-
―― ―――
本来は、圭織と希美の月一回の恒例のお出かけ会が、今回は大所帯でのピクニックとなった。
昼ごはん――圭織の特製サンドイッチは、瞬く間に、それぞれのお腹の中におさまり、ある者は、食後の一杯を、ある者は、ひと時の団欒を、それぞれに楽しんでいる。
普段ならば、紗耶香の隣を陣取る真希も、今日に限っては紗耶香に近づこうとしない。
付かず離れずの距離を保っている。
紗耶香は芝生に腰を下ろしたまま、つまらなそうに、手近に生えている背の高い雑草を引きちぎった。
「‥‥アイツ、拗ねてんの。近づいてこねーよ」
紗耶香は、その引きちぎった雑草を口にくわえる。
草の青臭い味がしたが、かまわずに奥歯でかみ締める。
「寂しがりやですからねー。ごっちんは」
「可愛いねー。近づいて来ないけど、チラチラ紗耶香のこと見てるよ。気になるんじゃない?」
真里が紗耶香の肩ごしに、真希の姿を見て、くすくす笑う。
近づいてはこないものの、常に、紗耶香のことは気にしている様子がありありと窺える。
「‥‥おもしろがってるだろ」
「だって、おもしろいもん」
「もう、いいよっ」
紗耶香はくわえていた雑草を地面に叩きつけると、そっぽを向いてしまった。
- 606 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:02
-
紗耶香の様子に、真里は肩をすくめる。
少し苛めすぎたかもしれない。
謝ろうと紗耶香の肩に手をかけた真里に、梨華が問いかけた。
「ごっちんは、いつまで、このままだと思いますか?」
梨華の質問に、真里はしばし頭を傾げる。
「‥‥そうだなー。オイラの隣にいる男前が、待っててくださいって頭を下げるまでかなー」
「矢口さんが、ごっちんなら、待ちますか?」
「オイラ?‥‥オイラだったら、逆に、追いかけるかなー。逃げる裕子を追いかけるよ」
きっぱりと、追いかけると断言した真里に、紗耶香の肩が微かに反応した。
肩の動きを確認した真里は、紗耶香の肩から手をはなす。
「梨華ちゃんはどうなのさ?」
にっこりと梨華に微笑みかける。
「私は‥‥どうでしょう。‥‥その時にならないと、わからないです。‥‥ほら、私たちって、お互いの気持に保証がないじゃないですか」
「保証?」
「信じるしかないっていうか」
「ああ」
「私とよっすぃ〜は、同じ『民』で、何の障害もなくって‥‥矢口さんの『印』みたいに、目に見える形での証がないわけですから」
「梨華ちゃん‥‥オイラ達、何も好きで、『神々の印』をなくしたわけじゃないんだよ?」
真里が苦笑する。
「あっ‥‥すいません。あの、そういうつもりじゃなくて‥‥」
梨華は焦ったように、両手を忙しくパタパタと振り回した。
眉毛が八の字に下がり、ほとんど泣き出しそうな面持ちだ。
「眉毛下がってるぞ」
真里は梨華の額を軽く小突き、笑って立ち上がる。
- 607 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:02
-
「矢口さん」
芝生に腰を下ろした梨華は、立ち上がった真里を見上げる形になる。
「梨華ちゃん、オイラ達に負い目なんか感じる必要はないよ」
梨華は黙って、真里を見つめている。
そっぽを向いていた紗耶香もいつのまにか、真里を見つめていた。
「梨華ちゃん考えすぎ。梨華ちゃんはよっすぃ〜が好き。それでいいじゃない。恋愛の形なんて、人それぞれでしょ。梨華ちゃん、人を好きになるのに、負い目なんか感じる必要はないよ。人を気遣う優しさは梨華ちゃんのいいところだけど、それとこれとは別だから。」
真里の言葉に、梨華はキュッと唇をかみ締めた。
紗耶香も考えるところがあったのだろう、考え込んでいる。
離れた広っぱで、ひとみが希美、亜依と一緒にフリスビーをしている。
「よく晴れたねー」
空を見上げて、真里は大きく背伸びをした。
- 608 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:03
-
――― ―――
少し離れた芝生の上で梨華が真里や紗耶香と話をしている姿をじっと眺める。
何を話しているのかわからないが、真剣な話をしているようだ。
梨華の眉毛が八の字になっている。
ひとみの隣にいる真希も、気になる様子で、紗耶香をじっと見つめている。
「さびしくなるね」
「んあ!?」
いきなり話しかけられ、びっくりしたように、真希はひとみに向き直った。
「市井さん」
「‥‥別に、さびしくないもん」
ひとみの言葉に、真希は頬を膨らませる。
「いじっぱりやな。ごっちんは」
「‥‥あいぼんに言われたくない」
「ののかて、そう思うやろ?」
亜衣の問いに、希美はコクリと頷いた。
「人気バンドに入るんやろ。すげーなー。いちーさんカッコいいもんな。向こうでもモテモテやろーな」
「‥‥別に、関係ない」
吐き棄てるように呟くと、真希は亜依の持っているリールを、いささか乱暴に取り上げる。
真希の行動に、亜依は苦笑いを浮かべた。
「おいで、マリー」
亜衣の飼い犬、柴犬マリーのリールを取ると、真希は後ろも見ずに駆け出して行ってしまった。
- 609 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:04
-
「あーあー、行っちゃった」
小さくなっていく真希の後姿を見つめながら、ひとみがポツリと呟いた。
「いじっぱりやな」
「お前が苛めるからだろー。ってか、いいのか? マリー連れて行っちゃったぞ」
「食後の散歩やろ。かまへんって。それより、よっすぃ〜、腹ごなしにフリスビーやろー。2対1で」
亜依と希美VSひとみのフリスビー対決が始まった。
「‥‥っ‥このやろー」
「よっすぃ〜、しっかり捕らんかい」
「お前が、変なトコに飛ばすからだろー」
「そんなことあらへん。ののはこれぐらい捕れるで」
「のの! そこ笑うところじゃないから」
「捕れんからって、ののに当たらんといてや」
それから――。
運動神経抜群な希美と、頭脳プレイの亜依に挟まれ、ひとみは飼い犬よろしく、ひたすらフリスビーを追いかける羽目になる。
- 610 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:04
-
――― ―――
食事の後、圭織は折りたたみ式のテーブルを出して、ビールやら、カクテルやら、つまみやらを次々と登場させて、皆をもてなしていた。
にぎやかなフリスビー対決を眺めながら、裕子はちびりちびりとビールを飲む。
「アイツら、卒業できるんか?」
「‥‥なんとかするんじゃない?」
圭はタバコを燻らせながら呟いた。
「無責任やなー」
裕子はケラケラ笑った。
「アイツらに言ってよ」
「正直、どうなん?」
「石川と吉澤は大丈夫。‥‥問題は‥‥後藤が、どれだけやる気をだすか‥‥。紗耶香がいなくなるのが、どう転ぶか、わかんないからね。今は何とも言えないわ」
「ふむ。まっ、何とかなるやろー」
圭が新しいタバコを咥えると、圭織が『力』により、小さな炎を出した。
「ありがと」
タバコに火を灯し、ゆっくりと息を吐き出した。
- 611 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:04
-
「‥‥のの元気そうだね」
圭は、ひたすらフリスビーを追いかける子どもを見て、目を細めた。
「よく笑うようになったね」
彩も相槌を打つ。
「そういや、ののの治療はどうなったんや」
裕子はビールジョッキを片手に、彩ににじり寄る。
「‥‥知り合いの精神科医に相談してみたけど‥‥なかなか良い助言がもらえなくて‥‥」
彩はため息をついた。
テーブル越しに、会話を聞いていた圭織の顔が歪む。
「‥‥ののは治るの?」
「へ?」
「ののは治るの?」
圭織の問いに、彩は、しばし黙り込む。
ややあって、口を開いた。
「‥‥あたしは、精神の分野は専門外だし。かといって、専門家に見てもらうにしても、本人が拒否的だから。‥‥少なくとも、この3年間にののは大きく変わった。表情が出てきて笑うようになったし、何よりも心を開くようになった。‥‥圭織は、何を望むの?」
「希美が、希美らしく、生きること。‥‥それだけが、あたしの、望み」
圭織は、大きな瞳を潤ませる。
「それなら‥‥いつか、希美が、治療を受けたいと、自分から思える時が来るまで、傍に居てあげることが一番だと思うよ」
彩の言葉に、耐え切れず、圭織の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「‥‥なるようにしかならんのや」
ビールを流し込みながら、裕子はボソッと呟いた。
- 612 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:05
-
――― ―――
『恋愛の形なんて、人それぞれでしょ。人を好きになるのに、負い目なんか感じる必要はないよ』
『オイラの隣にいる男前が、待っててくださいって頭を下げるまでかなー』
『オイラだったら、逆に、追いかけるかなー。逃げる裕子を追いかけるよ』
さっき真里と梨華に言われた言葉が頭をはなれなかった。
「ちくしょー」
呟きながら、足元の石ころを蹴り飛ばす。
石ころが消えた茂みがガサガサ動き、茶色のカタマリが紗耶香に向かって突っ込んでくる。
「わっ‥‥な、なんだよっ」
茶色のカタマリは、紗耶香の足の周りで尻尾を振り、はしゃいでいる。
「‥‥マリー、早すぎるよ。そんなに走ったら‥‥」
やや遅れて、茂みの中から真希が姿を現した。
紗耶香の姿を見て、はっとしたように息を止める。
- 613 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:05
-
「‥‥後藤」
「‥‥市井ちゃん」
暫し見詰め合う二人を現実に引き戻したのは、マリーの鳴き声だった。
「ワンワン」と紗耶香に身体をすり寄せる。
「‥‥逃げられたのか?」
屈みこんでマリーを撫でてやる。
茶色の毛が手の動きに合わせて左右に動く。
「う、うん。急に走り出しちゃって」
「そっか」
紗耶香がグリグリとマリーを撫でた。
ズボンが汚れることも構わずに、真希は紗耶香の隣に腰を下ろす。
近づけなかったのが、嘘みたいに、自然に座ることができた。
これもマリーのおかげかもしれない。
真希は、マリーを撫でる紗耶香の横顔をじっと見つめた。
「‥‥市井ちゃんは、寂しくないの? 全然知らない所に行っても、平気なの?」
マリーを撫でる手を止め、紗耶香は真希を見た。
「平気だよ」
「‥‥そう」
きっぱりと言い切った紗耶香の言葉に、真希の瞳は傷ついた色を浮かべている。
- 614 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:06
-
「‥‥あたしさ、かっこ悪いとこ見せたくないやつがいるんだ。ソイツの前で胸はってたいんだ」
「‥‥グスッ‥‥」
膝を抱え、真希の瞳が潤み始める。
泣いちゃ駄目だ。
心に言い聞かせるが、一度、こみ上げてきたものは、なかなか元には戻せない。
「‥‥後藤さ、あの曲覚えてる?彩っぺのところで聞いた。『イマジン』」
「‥グスッ‥‥覚えてるよ」
真希は鼻をすすりあげた。
「あの曲を歌いたいんだ。今は難しいかもしれないけど。だから――」
言葉を区切り、紗耶香は真希の手を取る。
真希の左手のひらの青い石が、日光にキラキラと反射する。
紗耶香は、汗ばんだ手を握り締め、想いを声に出した。
「――後藤も来いよ。ちゃんと学校卒業してさ。――来ないなら、迎えにいくから」
「‥‥グスッ‥‥」
‥‥ズルイよ、市井ちゃん。
そんなこと言われたら、後藤、何も言えなくなるじゃん。
一度は堪えた大きな波を、今度は抑えることができなかった。
真希の瞳から、涙が零れ落ちる。
言葉にならず、真希はただ頷いた。
- 615 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:06
-
――― ―――
「‥‥よかったー」
裕子の傍らで、ちびちびと、圭織に作ってもらった甘い桜色のカクテルを舐めていた真里が、ほっとしたように息をはいた。
裕子が、真里の視線をたどると、その先には、紗耶香と真希が仲むつまじく日向ぼっこをしている。
「あの二人、仲直りしたんやな」
「うん。矢口ほっとしたよ」
「昼間から、ビールってのもおつなもんやね」
「ゆーちゃん、飲みすぎ」
「ええやん。こーゆーのも久しぶりなんやから」
裕子は真里の手を取ると、無骨な皮手袋の上から、口づける。
「もう‥‥」
真里は頬を紅く染めた。
このまま、時が流れればいい。
憎しみも悲しみも、流がれてしまえばいい。
彩は仕事が残っているからと、早々に引き上げた。
梨華はフリスビー対決に敗れたひとみの肩を揉んでやり、その隣で亜依は「ヒューヒュー」とひやかしている。希美は疲れてしまったのか、マリーと一緒に木陰のベンチに横になっていた。
- 616 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/09/24(金) 01:07
-
圭織は、焼酎のレモン湯割りを静かに飲んでいる。
「どうしたの、しんみりしちゃって」
「‥‥美しいなーと思って」
「変なの」
「圭ちゃんはそうは思わない? 美しすぎるよね」
「‥‥わからないでもないけど」
圭はぐるりと周りを見渡した。
裕子と真里。
紗耶香と真希。
梨華とひとみ。
――美しい恋人たち。
亜依と希美。
傷ついた心を抱え、健気に生きる少女。
みんな、必死に生きている。
圭織はキュッと唇をかみ締め、目頭を押さえた。
涙が溢れて、止まらなかった。
「圭織!? どうしたの?」
「‥‥わからない‥‥わからないけど‥‥」
圭織は微かに身体を震わせ、静かに涙を流し続けた。
圭はオロオロと成すすべもなく、圭織の涙を見つめていた。
- 617 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/09/24(金) 01:08
- 更新しました。
- 618 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/24(金) 04:53
- オツカレ。
さすがだね。
- 619 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/24(金) 22:01
- 更新お疲れ様です。
ううむ、どうなってしまうのでしょう。
それぞれの行方が気になります。
- 620 名前:ひで 投稿日:2004/09/25(土) 01:53
- 更新お疲れさま。
仲直り出来てよかったデス。。。
続き楽しみにしてます!
- 621 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/26(日) 22:57
- サイコウデス
- 622 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:24
-
――― ―――
このまま、時が流れればいい。
悲しみも憎しみも流れてしまえばいい。
いつだったか、泣きそうな顔でぽつりと呟いたな。
ウチは何も言えんと、黙ってアンタを抱きしめたんや。
- 623 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:25
-
――― ―――
少し肌寒さを感じて、目を覚ました。
窓に目を向けても、カーテンの隙間から明るい光を感じないので、おそらくまだ夜中なのだろう。
真里はもぞもぞと右手を伸ばし、足元に追いやられた掛布を引き寄せる。
隣からは、裕子の規則正しい寝息が聞こえた。
隣に身体を寄せると、耳元に寝息がかかって、くすぐったかった。
このまま、時が流れればいい。
悲しみも憎しみも流れてしまえばいい。
「‥‥ゆーちゃん‥」
耳元で囁き、真里は目を閉じた。
明日は――いや、もうすでに今日か。
今日の午後6時には――『PEACE』で紗耶香の激励会という名の飲み会が開かれることになっている。
色々なことが変わっていく。
旅立つ者もいれば、残る者もいる。
- 624 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:26
-
――自分たちも大きく変わろうとしている。
彩による石の移植手術――。
裕子は『火の民』の赤い石を。
真里は『風の民』の緑の石を。
それぞれが生来の色の石を希望した。
手術の後に何が残るのか――。
このことに対して、当初は、反対するかと思われた明日香も、意外なほどあっさりと了承した。
「しかたありませんね」
口ではそう言いつつも、明日香の口元には笑みが浮かんでいた。
- 625 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:26
-
真里は裕子の左手を取った。
漆黒の石が冴え冴えと輝いている。
自分にも同じ色の石が輝いているけれど――やはり――裕子の石は特別綺麗な気がする。
『ほら、私たちって、お互いの気持に保証がないじゃないですか』
『オイラ達、何も好きで、『神々の印』をなくしたわけじゃないんだよ?』
ピクニックで、梨華に対して咄嗟にそう返答したけれど。
心のどこかでは、梨華の言う通りだと思っている自分がいることも確かだ。
この石の輝きこそが――究極の愛の証ともいえる。
真里は裕子の石に口づけた。
ちゅ、と強めに吸い付いても、裕子は身動き一つせず、今だ深い眠りの中にいる。
「‥‥バーカ」
憎まれ口をたたきつつ、真里は裕子の毛布に潜りこんだ。
裕子の胸に顔を押し付ける。
裕子の匂いに包まれて、やがて、真里のもとに優しい睡魔がやってきた。
- 626 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:27
-
――― ―――
朝から、真里は、圭織からもらった、小麦粉や卵、ミルクなどを使って、バウンドケーキに挑戦していた。
ピンクのエプロンでちょこちょこと忙しく動き回る。
「矢口、ちょい」
傍らで、そんな真里の姿をにやけながら眺めていた裕子が、真里を手招きした。
「何?」
「クリーム付いてる」
鼻の先についたクリームを、裕子に舐め取られ、真里は顔を赤くする。
「もうっ、邪魔、あっち行ってて」
「手伝ってるだけや」
裕子の手が真里の胸元に伸びる。
「ちょっ、どこ、触ってるんだよぅ」
「んー‥‥着替え」
「はぁ!?」
「裸エプロンしよ?」
裕子は可愛らしく首を傾げた。
「アホっ。何考えてるんだーっ」
真里は手にしていた泡だて器を頭上に振り上げる。
「いいやん」
振り上げた腕をとられ、裕子の青い瞳に捕まり、動けなくなる。
- 627 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:28
-
ズルイよ、ゆーちゃん。
そういう瞳で見られたら‥‥。
真里はコクリと喉を鳴らした。
動けなくなった真里を見て、裕子は満足そうに笑みを浮かべる。
「‥‥いい子やね」
裕子の優しい唇が、真里の唇に押しつけられた。
角度を変えながら、強く吸う。
真里の手から泡だて器が滑り落ち、床に落ちる、カランという音が響いた。
立っていられなくなり、真里は裕子の背中に腕を回し、しがみつく。
「好きや、矢口」
「‥‥ゆーちゃ‥‥」
裕子は、唇を強く吸う。
アンタが欲しいから。
身体が欲しいんや。
時折漏れる真里の甘い声に、欲情していた。
「‥‥もう、止まれん」
低い声で呟くと、裕子は、真里のエプロンに手をかけた。
- 628 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:28
-
――― ―――
色々なことがあって、真里の驚異的な努力で、何とか、午後5時までにバウンドケーキが焼き上がった。
薄水色の包装紙にブルーのリボンで綺麗にラッピングする。
「アンタが持つと、えらい大きく見えるなー」
ケーキのことだ。
「うっさい」
裕子はタバコを咥え、ケーキの箱を両手で抱える真里を、にやけた顔で見ていた。
「少し急いでよ。遅刻しちゃうよ」
「そうやなぁ」
「全部、ゆーちゃんが悪いんだからね」
「何で‥‥ウチが‥‥」
真里にギロリと睨まれて、裕子の声が尻すぼみに小さくなった。
やぶへびだと言わんばかりに、裕子は肩をすくめる。
「早くってば」
ケーキが型崩れしないようにと、気を使いつつ、歩みを速める。
「はいはい、お姫様」
肩をすくめ、裕子は真里の背中を追いかけた。
- 629 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:29
-
――― ―――
『PEACE』の建物が見えはじめたのは、約束の午後6時を30分ばかり過ぎた頃だった。
裕子は、ふと足を止める。
「どうしたの?」
真里は訝しげに、裕子を振り返った。
「‥‥‥」
裕子は無言で真里を抱き寄せ、辺りの気配を窺がう。
何もかもが微妙に違っていた。
いつもの柔らかい空気が消えうせ、その代わりに、何やらピリピリと焼けつくような気配が辺りを支配している。
――まるで――あの時のような――。
飯田守――飯田圭織と希美の父で、『PEACE』の初代マスターが死んだ夜のような――。
過激民族主義組織『レッド』の焼き討ちで『PEACE』の燃えた夜――。
真里は、裕子の厳しい表情に、怯えたように辺りを見渡す。
真里の目には、それはいつもと変わらない平凡な風景に見えた。
「‥‥出て来いや」
裕子が低いどすの利いた声を出す。
反応はなかった。
しかし、裕子はなおも、睨み続けている。
- 630 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:29
-
先に動いたのは先方だった。
「‥‥っ‥」
刃のような『風』が、裕子の頬をかすり、一筋の血が滲んだ。
「裕子っ」
真里の瞳が驚愕に慄く。
裕子は尚も前方を睨んだまま、すばやく、足首に潜ませてあるナイフを抜き取った。
「‥‥お久しぶりです。中澤裕子さん」
『PEACE』の古ぼけた建物の影から、グリーンのTシャツに身を包んだM――美貴がゆっくりと姿を現した。
「‥‥美貴」
「久しぶり。矢口」
呆然と立ちつくす真里に、美貴はニコリと微笑んだ。
「実は、折り入って、話がありまして」
「‥‥アンタと話す事なんて、あったかな?」
「あなたがなくても、こちらにはあるんです」
パチリと、美貴が指を鳴らすと、建物の影から、20名ほどの『グリーン』のメンバーと、彼らに引きずられるように、ロープで拘束された圭織、希美、紗耶香、真希、圭、梨華、ひとみ、亜依が姿を現した。
「来ちゃ駄目」
「ゆーちゃん」
「やぐっちゃん」
「離せよ」
「逃げて」
皆が一斉に口を開く。
と、『グリーン』の若者に小突かれ、黙るように無言の圧力をかけられた。
激しく抵抗した紗耶香は、地面に這いつくばるように抑え込まれている。
『グリーン』のメンバーは、皆、十代の若者に見える。
美貴の部下なのだろう。
- 631 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:30
-
「やめてよっ」
真里の悲壮な声。
綺麗にラッピングされた箱が、真里の手から滑り落ちる。
箱が地面落ちる、ドサっという、鈍い音が聞こえた。
「‥‥貴様」
裕子が低い唸り声をあげる。
「矢口、こっちにおいで。‥‥この人たちに怪我させたくなかったらね」
「美貴っ」
真里は蒼白な顔で、美貴を見つめた。
「大丈夫だよ。矢口を傷つけたりしない」
「卑怯者。‥‥ちゃんと勝負せんかい!」
裕子の双眸が怒りで燃えていた。
「勝負? 何の勝負です?」
「‥‥矢口が‥‥矢口が欲しいんやろ。‥‥こんな小細工使わんと、一人でちゃんとぶつからんかい」
「‥‥黙れ」
美貴の操る『風』が、裕子の両肩を切り裂いた。
上着が破れ、血が噴出し、手にしていたナイフを落としてしまう。
「‥‥くっ‥‥」
痛みに裕子の顔が歪んだ。
「ゆーちゃんっ」
真里は悲鳴を上げ、自らの上着を包帯状に細長く破り、裕子の肩に巻きつけ、手早く縛る。
赤く染まった裕子の肩に、目の前が真っ暗になった。
- 632 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:31
-
「矢口、おいで」
美貴は真里に手を差しのべ、微笑んだ。
「‥‥美貴」
真里は不安げに、美貴と裕子を交互に見る。
――裕子を、皆を、守るには――。
ふらふらとよろめきながら、美貴に向かって、足を踏み出した真里を裕子の悲痛な声が引き止める。
「アカン。行くな、矢口」
「黙れ」
声とほぼ同時に、『風』が裕子の両膝を切り裂いた。
「‥‥っ‥」
声もなく、裕子は地面に崩れ落ちる。
地面に裕子の赤い血が吸い込まれていく。
「裕子っ」
「おいで」
美貴の言葉と同時に、風の流れが変わる。
裕子の元に駆け寄ろうとした真里の身体を、美貴の『風』が捕らえ、美貴の元へと運ぶ。
「嫌だっ。ゆーちゃん」
真里は悲鳴を上げ、裕子に向かい両腕を伸ばす。
美貴は、暴れる真里の身体をしっかりと両手で閉じ込めた。
- 633 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:31
-
「‥‥矢口を離せ」
裕子は、渾身の力を振り絞って立ち上がる。
パックリと開いた傷口からは、真っ赤な鮮血がダラダラと流れ落ちた。
「あなたに何ができますか。『力』を失ったあなたに。矢口を守れますか」
美貴は冷ややかな笑みを浮かべた。
欲しかったものは、今、腕の中にある。
裕子は風の渦に包み込まれた。
小型の竜巻のようなソレは、美貴の『力』によって作り出されたものだ。
渦の中で、ともすれば崩れ落ちそうになる身体を支え、歯を食いしばる。
裕子は美貴を睨みつけた。
「抜けれませんよ。私を倒さないかぎりは」
「‥‥ふざけんな」
渦の中から、美貴に向かって腕を伸ばす。
「‥‥うぐ‥ぁぁ‥」
渦を取り巻く『風』に裕子の手袋が裂け、中の肉が切り裂かれる。
血にまみれた隙間から垣間見える石の色は――漆黒。
裕子は肉が切り裂かれる苦痛に顔を歪めた。
裕子の漆黒の石を目の当たりにしたとたん、『グリーン』のメンバーの顔色が変わった。
「『神々の印』を失った者だ」
「裏切り者」
口々にそういった呟きが漏れる。
- 634 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:32
-
「ゆーちゃんっ。やめて。やめてよっ」
美貴の腕の中、真里は必死の想いで、裕子に腕を伸ばした。
「――裕子っ」
渦の向こうの裕子の身体が崩れ落ちた。
真里の中で何かがはじけた。
――これほど『力』を欲したことはなかった。
身体の中から、何かが沸き起こってくる。
この懐かしい感じ‥‥。
気が付くと、『風』が一緒だった。
失ったと思った『風』が。
「‥‥痛っ‥」
美貴が顔をしかめた。
真里の『風』が美貴の腕を切り裂いたのだ。
美貴の腕に20センチほどの切り傷を作っていた。
血が滴り落ちる。
真里を閉じ込めていた美貴の腕が緩んだ。
あらん限りの力を振り絞って美貴の腕から逃れると、真里は躊躇いもせず、裕子を切り裂く渦の中に飛び込んでいった。
真里が渦の中に手を伸ばすと、『風』に、真里の手袋も切り裂かれ、石が現れた。――漆黒の石が。
不思議なことに、『風』は真里の身体を傷つけることはなかった。
美貴が『力』を緩め、『風』の渦が消滅する。
「許さない」
真里は血で真っ赤に染まり、立ち上がることもできず這いつくばる裕子を、背後にかばうように立ち、美貴を睨みつけた。
『力』を失い、神々の印を失ったものが、今、現に、目の前で力を行使している。
前代未聞の出来事に、今まで事の成り行きを静観していた『グリーン』のメンバーにも動揺が走る。
- 635 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:32
-
「‥‥どういうことだよ」
「かっけー」
「すごいね。やぐっちゃん」
「‥‥ねーちゃん」
「‥‥怖い」
「矢口の『力』って、なくなったんじゃないの?」
皆が口々に言葉を発する中、希美は顔を蒼白にして震えている。
この状況は、『レッド』による『PEACE』焼き討ち事件に余りにも酷似していた。
あの時も、こんな風に、狂気に満ちた夜だった。
圭織は、震える希美に身体を寄せた。
腕が自由になるのなら、今すぐ抱きしめてやりたかった。
「退いて。‥‥わかってるでしょ。裕子は‥‥裕子が、本気になったら、アンタたちなんか、一瞬で灰になるんだから」
真里は震えながら、言葉を紡いだ。
失ったはずの『力』が、今、自分の中にある。
裕子にも自分と同じように『力』が蘇るかはどうかはわからないが、相手が裕子の過去の経歴を知っているならば、十分に通用するはずのハッタリだった。
中澤裕子が『特A』の『力』の持ち主ということは、あまりにも有名な事実だった。
裕子の『力』が『PEACE』焼き討ち事件の収束に関与していることも広く知られていた。
- 636 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:33
-
やはり――あなたは――その人を選ぶのですか?
――同胞を捨てて。
――裏切り者と罵られても。
「‥‥矢口」
美貴は、ぐっと唇をかみ締めた。
「‥‥ゆーちゃん」
真里の背後で、裕子が身動ぎした。
「‥‥心配すんな。かすり傷や。‥‥唾でもつけといたら治るって」
「‥‥ウソばっか」
裕子の全身は、赤に彩られている。
どこが傷口で、どこがそうではないのか、まったくわからなかった。
真里の瞳が涙で滲む。
「‥‥アイツら何とかせんとな」
肩で息をしながら、裕子はゆっくりと状態を起こした。
「‥‥ゆーちゃん」
「大丈夫や。ゆーちゃんに任しとき。‥‥ちょい、肩かして」
真里の肩を借りて、裕子は歯を食いしばり立ち上がった。
上着の胸ポケットから、血で濡れ、赤く染まったタバコを抜き取り、口に咥える。
血液特有の鼻に付く匂いで、吐きそうになったが、無理にニヤニヤ笑いを顔に貼り付けた。
- 637 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:33
-
「おい、そこのチンピラ」
手近にいる、気の弱そうな『グリーン』の若者を呼びつける。
「火つけんかい」
「何だと」
若者は、怯えたように裕子を見つつも、威嚇するように顎を突き出した。
「いいんか?ウチは『特A』の『力』を持ってるで‥‥ウチが、自分で、火つけるときは、アンタら全員燃える時やで?‥‥それが嫌なら‥‥退けや」
裕子は、にぃっと口角を上げて笑う。
若者はズボンのポケットを探り、形の崩れたマッチ箱を裕子に投げてよこした。
裕子は片手でキャッチすると、真里に箱を手渡した。
真里がマッチ棒を擦り、小さな火が灯る。
裕子は大きく息を吸い、うまそうにタバコの煙を吐き出した。
真里は、美貴を睨み続けている。
怒りに身体を小刻みに震わせ、小さな身体で裕子を支えながら。
あたしは、あなたを、ただ幸せにしたかっただけなのに。
そして、自分も幸せになりたかっただけなのに。
美貴は唇を噛んだ。
結局、自分のやったことは、中澤裕子と矢口真里の絆の深さを確認しただけにすぎない。
- 638 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:34
-
「‥‥今頃、怖気づいたんですか」
黙り込み動こうとしない美貴に、痺れを切らしたように一人の若者が詰め寄る。
切り込み隊長の異名をとる、血気盛んな若者だった。
「‥‥‥」
「納得いきません。上層部に何と報告するつもりですか。裏切り者を二人も見逃したとあっては‥‥」
「黙れ」
「嫌です。皆、そう思ってます」
「『神々の印』を失った者が、二人ですよ。コイツらを連れて行くだけで、どれだけ手柄になるか、考えてもみて下さい。‥‥伝説の『中澤裕子』ですか。‥‥大体、そんなもの、都市伝説の一つですよ。尾ひれが付いて、話が大きくなってるだけだ」
興奮してきたのだろう、唾を飛ばしながら、切り込み隊長の声は、次第に大きくなる。
「第一、『力』なんて‥‥あるわけ」
「‥‥何なら試してみるか? 丸焼きになりたいならな」
裕子が口を挟む。
長期戦になるのは何としても避けたかった。
大量の出血で、立っているのもやっとの状態だった。
それを悟られないように、笑みを浮かべる。
「‥‥どっちでもかまわんよ。‥‥ちょうど久しぶりに暴れたい気分にもなってきたしな」
裕子の眼光にぞっと鳥肌が立ち、切り込み隊長は、ぐっと息を呑んだ。
- 639 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:34
-
「‥‥退却」
美貴が押し殺したような声で、『グリーン』のメンバーに告げる。
手柄を立てるためとはいえ、真里を巻き込むような事態だけは何としても避けたかった。
『グリーン』のメンバーを巻き込んで、『神々の印』を失った者を取り逃がすという失態。
責任問題に発展することは確実だろうが、それでも――。
美貴は、裕子と真里に背を向けた。
真里は、肩を貸している裕子の身体が、細かく震えているのには気づいていた。
裕子は苦しそうに肩で息をしている。
「‥‥俺が、試してやるぜ。本当に『特A』の『力』の持ち主かどうか!」
退却する『グリーン』の一団から放たれた『風』の刃が、裕子の心臓めがけ襲いかかる。
切り込み隊長が放った、『風』の刀だ。
- 640 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/14(木) 16:35
-
何も考えられなかった。
覆いかぶさるように真里は、裕子の身体を抱きしめる。
「ゆーちゃ‥‥」
『バスッ』と、鈍い音が耳に入ってきて、身体がいうことを聞かなくなった。
不思議と、痛みは感じなかった。
気が付くと、真里は裕子の腕に抱かれていた。
手を伸ばして触れたいと願うのに、腕が重くて動かなかった。
名前を呼びたいと願うのに、声を出すことができなかった。
涙で歪んだ視界で、真里は裕子の顔を見つめた。
裕子が何か叫んでいたが、真里の耳には聞きとれなかった。
瞼がひどく重たかった。
最後に見た、裕子の顔は、悲しみに歪んでいた。
- 641 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/10/14(木) 16:37
- 更新しました。
- 642 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/10/14(木) 16:38
- 隠し。
- 643 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/10/14(木) 16:39
- 隠し。
- 644 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/14(木) 19:08
- !!?
更新お疲れ様です。
- 645 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/14(木) 20:56
- だめだぁ
と、思っている自分がいますが。違っていてほしい・・・
- 646 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/14(木) 23:02
- がんばれ!!!!!!!!!!!!!
- 647 名前:ひで 投稿日:2004/10/16(土) 19:39
- す、すごい…としか言いようがないですネ。
頑張って下さい。。。
- 648 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/16(土) 20:09
- 更新お疲れ様です。下手に感想がかけない・・・。
- 649 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:37
-
腕の中で、力を失っていく小さな身体を抱きしめる。
「矢口っ。矢口っ。しっかりせい」
傷口からはどくどくと赤い血が吹き出し、裕子の身体が真里の血に染まる。
真里は裕子を庇い、切り込み隊長の放った『風』の刀に、背中を切り裂かれた。
力なく息を吐きながら、真里は何かを呟くように、僅かに口元を動かした。
「矢口、矢口、今、病院連れて行くから。しっかりするんやで」
裕子は自分に言い聞かせるように叫んだ。
ヒューヒューという呼吸音を途切れ途切れに出し、指先を裕子に向かって微かに動かした。
「大丈夫や。ゆーちゃんが、今、病院に‥‥」
祈るように呟き、抱きしめる腕に力を込めた。
真里の瞳から涙が一筋流れ落ちた。
やがて、真里の瞳が力を失い、瞼が静かに下りた。
- 650 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:38
-
裕子の身体が震えた。
――真里の命の火が消えたのだと。
その時――世界が色をなくした。
真里の血が。
黒く染まっていた。
「‥‥っ‥矢口、矢口、矢口、矢口ぃ」
馬鹿の一つ覚えのように、連呼する。
ドウシテ、コンナトコロニイル?
ナゼ、イキテイル?
ナゼ、ウチハ、イキテイル?
ドウシテ?
‥‥ドウシテ?
裕子の中で『何か』――ずっと、奥底で眠っていたもの――が爆発した。
気が付くと、『力』を発動していた。
裕子の頭上には、直径20メートル程の巨大な火の玉ができていた。
- 651 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:39
-
ドウシテ、イマサラ、チカラガ‥‥。
マリハ、メヲサマサナイ。
ドウシテ?
‥‥ドウシテ?
急にこみ上げてきて、裕子は、事切れた真里を抱きしめながら、ヒステリックに笑い始めた。
『力』をコントロールすることは不可能だった。
箍が外れるというのは、こういうことをいうのだろう。
怒りと悲しみに任せて、巨大な火の玉から次々と小さな火の玉が生まれ、地上に降り注ぐ。
『PEACE』の建物も、火の玉の襲撃を受け、白い煙を上げはじめた。
『グリーン』のメンバーも散り散りに逃げ始めている。
パニックに陥った人々と、頭上の巨大な火の玉。
まさしくそれは――6年前の『PEACE』焼き討ち事件の再現だった。
- 652 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:40
-
――― ―――
「俺が試してやるぜ」
切り込み隊長の声に振り返る。
美貴は、唖然と、真里が倒れるのを見ていた。
裕子に覆いかぶさり、スローモーションのようにゆっくりと真里が崩れ落ちる。
真里の背中から鮮血が噴出していた。
「――やめてください」
部下にそう止められるまで、美貴は、気がつくと切り込み隊長を、自分の『風』で切り刻んでいた。
切り込み隊長の異名を持つ部下は、鮮血を滲ませ、肩で息をしながら、同じ『グリーン』メンバーに抱きかかえられるようにして、やっと立ち上がった。
辺り一面、物が焼ける匂いで充満していた。
頭上には巨大な火の玉が浮かんでいる。
「このままでは、丸焼けです」
「‥‥矢口」
火の玉の真下には、真里を抱えた裕子が、ヒステリックに笑い続けている。
美貴は呆然と、その情景を見つめていた。
「‥‥早くっ。撤退します」
部下の一人に襟首を掴まれ、引きずられるように、美貴はその場を後にした。
- 653 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:40
-
――― ―――
真里を抱きしめる裕子の頭上には、巨大な火の玉ができている。
その火の玉から、次々と小さな火の玉が降り注ぎ、辺りの建物に火がつき始めていた。
『PEACE』の建物にも煙が立ち昇りはじめ、見張っていた『グリーン』のメンバーも、炎の勢いに飲まれて、逃げ出してしまった。
すぐ近くの建物にも火が引火して、燃え始めている。
「このっ。このっ」
「外れろっ」
紗耶香と真希は焦ったように、手足を動かして、拘束しているロープを緩めようと躍起になっている。
圭と梨華とひとみは、巨大な火の玉の真下、血で赤く染まり高笑いを続ける裕子を、蒼白な顔で見つめていた。
希美は怯えきって、圭織の胸にもたれて震えている。
亜依は『風』の『力』でロープを断ち切る。
今までは、『グリーン』のメンバーが目を見張っていたために、『力』を使うことができなかった。
次々と、亜依『風』が、皆のロープを断ち切っていく。
最後に圭のロープを断ち切った時に、遠くから聞きなれた犬の鳴き声が聞こえてきた。
「マリーだ」
亜依がぱっと顔を輝かせる。
「‥‥どうなってるの!」
柴犬マリーと共に、白衣姿の彩が現れた。
- 654 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:41
-
紗耶香の送別会の準備をしている中、『PEACE』に乗り込んできた『グリーン』メンバーに次々と拘束されている中、亜依がマリーを裏口から外へと逃がしたのだ。
マリーは皆の危機を知らせるために、彩の診療所まで走った。
診療所のドアを掻き毟る音と、悲壮な犬の鳴き声に、彩は『PEACE』で何か起こったに違いないと、医療道具一式を持って駆けつけたというわけだ。
「‥‥まずいわね」
炎の中の裕子を見つめ、彩は唇をかみ締めた。
「やぐっちゃん、意識がないみたい」
真希は青い顔で呟いた。
「意識がないだけならまだいいけど。‥‥ゆーちゃんの様子見るかぎりじゃ‥‥矢口は‥‥」
「‥‥そんな!」
真希は拳を握り締め、燃え盛る炎の中の裕子と真里を見つめた。
「ねーちゃんっ」
「危ないっ」
「離して。ねーたんがねーちゃんがっ」
「止めろって」
炎の中の真里に向かって走り出そうとする亜依を、紗耶香が必死で引き止める。
- 655 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:42
-
「水を呼ぶわよ」
圭は燃えさかる炎と裕子の作り出す火の玉を睨み、梨華とひとみに声をかける。
「はいっ」
「‥って、どうやってですか?」
「その辺の、地下走ってる水道管、ぶち壊すわよ」
「‥‥いいんですか?」
「この際、しょうがないわよ。早く」
「わ、わかりました」
梨華とひとみは、目を閉じて意識を集中させる。
地下の水のありかをを確かめるためだ。
圭のいう通り、地下には、かなり大きな水道管が走っている。
これを地上に噴出させることができたら。
「3人で、意識を集中させるよ」
「「はい」」
ひとみが『力』を使って、『水』の圧力を捻じ曲げ、地上へと導く。
梨華と圭は、ひとみの『力』に自分の『力』をシンクロさせた。
『水』は水道管を突き破り、地表から勢いよく吹き出した。
大きな水柱が地表から現れ、炎はその勢いを小さくする。
「‥‥ふぅ」
「‥っ‥やったー」
ひとみと梨華は歓声をあげる。
「‥‥いつまで持つか、だね。焼け石に水じゃなきゃいいけど‥‥『PEACE』の火を消すよ」
圭はひとみと梨華に声をかけ、意識を『力』に集中させ、『水』を辺りの建物に浴びせ始めた。
- 656 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:43
-
彩は、圭織の胸に顔を埋め、震えている希美を見つめた。
「のの」
彩の声かけに、希美はピクリと身体を揺らした。
「のの‥‥ゆーちゃんを止めて。アンタしかいない」
「‥‥こんな時に何いってんの」
圭織は、希美を抱き締める腕の力を強くする。
「こんな時だから言ってんの。ののしかいないんだから。よく見て」
彩の言葉に、希美は激しく首を横に振り、圭織にしがみつく。
「よく見るの!」
彩は強引に圭織と希美を引き離し、希美の両頬を挟んで、裕子のいる方角に向ける。
「ののが怯えてるのがわからないの!」
「圭織は黙ってな!」
振り返り、圭織を怒鳴りつける。
「‥‥よく聞いて‥…ゆーちゃんは怒りと悲しみで自分を失っている。‥‥あれは6年前のアンタよ。ゆーちゃんを救えるのは、アンタしかいない。あの『特A』の『力』に対抗できるのは、アンタしかいないんだから」
彩は希美の両肩を掴み、怯えているその目を覗き込んだ。
「だからって‥‥」
「ゆーちゃんを救ってあげて」
圭織の言葉を遮り、彩は言い募った。
- 657 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:43
-
裕子は、真里の亡骸を抱きしめたまま、高笑いを続けている。
彩の言葉に、希美は震えながら裕子を見た。
「‥‥中澤さん‥泣いてるのれす」
「‥‥のの、声‥‥」
圭織が呟く。
6年ぶりに聞く希美の声は、6年前の記憶の通り、どこか舌足らずな印象を受けた。
希美は、ゆっくりと立ち上がった。
「ののは‥‥ののは‥‥」
ののは、矢口さんが好きなのです。
ののは、中澤さんも好きなのれす。
二人とも、大好きなのです。
「‥‥やめるのれす!‥‥悲しくてもやめるのれす」
炎の中の裕子に向かって、叫ぶ。
「‥‥彩っぺ‥‥無茶だよ」
弱々しげに圭織が呟いた。
「‥‥我慢して。‥‥これは賭けよ。‥‥ののにカタルシスが起こるかもしれない」
「‥‥カタルシス?」
「6年前の自分を救うのよ」
そう言うと、彩はじっと希美を見つめた。
- 658 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:44
-
希美の叫びもむなしく、裕子は怒りと悲しみに任せて、巨大な火の玉を更に大きくしていく。
その姿は、まさしく6年前の希美――自分の姿だった。
怒りと悲しみと絶望と恐れに、我を忘れ、気が付くと『力』を発動して33人もの人間を焼き殺していた。
裕子の顔は赤く濡れ、瞳は狂気の色に染まっていた。
その頬を濡らすものは、涙なのか、血なのか判別することはできなかった。
あれは――あれは――のの、です。
お父さんが燃やされて、黒いカタマリになったのを見て――。
許せなくて。
悲しくて。
恐ろしくて。
だから、ののは――。
希美は念じた。
『力』が欲しいと。
『力』を暴走させる裕子が悲しかった。
裕子と6年前の自分が、ぴったりと重なった。
――同じことを繰り返さない――希美の瞳に決意がみなぎる。
- 659 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/10/21(木) 15:44
-
口をへの字に結び、目を閉じて、希美は意識を集中させた。
眠っていた『力』が静かに目覚め始める。
祈りを込め、自分の持ってる『力』の全てをシールドに変えて、空に放った。
6年前、裕子が希美の暴走を止めた時に使ったのと同じ手法だ。
希美のシールドが裕子の炎を包み込もうとする。
それに負けじと、裕子の炎が更に勢いを増して揺らめいた。
希美の額に、ジリジリと汗が浮かんでくる。
それは、我慢比べだった。
拮抗した『力』と『力』がぶつかり合う。
やがて、希美のシールドが裕子の炎を完全に包み込み、炎を包み込んだ希美のシールドは、その大きさを徐々に小さくしていく。
そして、最後には炎を消滅させた。
裕子は真里を抱きしめたまま、静かに地面に崩れ落ちた。
体力限界まで『力』を使い果たしたのと、出血からくるショック状態におちいっていた。
- 660 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/10/21(木) 15:45
- 更新しました。
- 661 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/10/21(木) 15:46
- 次回。
- 662 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/10/21(木) 15:46
- 完結(予定)。
- 663 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/21(木) 20:05
- うぉ〜うぉ〜うぉ〜!!
ドキドキドキ!!!
- 664 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/22(金) 00:23
- ああああああ…!!
次回更新、
待ち遠しいけれど、
終わってしまうのが寂しい。。
- 665 名前:名無し読者 投稿日:2004/10/22(金) 00:48
- ・・・・・素直に読むのがきつかったです・・・・・。
裕ちゃん・・・・矢口さん・・・・。
- 666 名前:ひで 投稿日:2004/10/23(土) 01:38
- すごい、すごいよ!!
涙が出そうになりました。
次回楽しみだけど、終わってしまうのが少し寂しいデス。。。
頑張って下さいネ。
- 667 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/11(木) 05:14
- お疲れ様です。ついに終わってしまうのですね。
ものすごく好きな作品でしたから寂しいです。
次回待ってます
- 668 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:00
-
――― ―――
「くそっくそっくそっ」
力任せに、焼け焦げた木材を蹴り上げる。
細かい砂埃が風に舞い上がった。
「あいつら全員ぶっ殺してやる」
怒りに身体を震わせ、紗耶香は尚も木片を蹴り続ける。
紗耶香、真希、圭、ひとみ、梨華、圭織、希美の7人は、2時間にわたる警察の長い事情聴取からやっと解放された。
夜も遅かったこともあり、ひとみ、梨華、真希は、担任の圭が責任を持って預かる旨の連絡を入れ、自宅まで送り届ける。
疲れ果てた身体を引きずるようにして、紗耶香と圭織と希美の三人が『PEACE』に戻ってきたのは、午前2時をまわっていた。
明日香が警察に事前に根回ししてくれたこともあり、個別に事情聴取を受けたものの、答えに窮するような質問は皆無だった。
大物政治家がバックについている過激民族主義組織がらみの犯罪は、往々にして、きちんとした取調べが行われることはまずない。
火災現場に多量の血痕が残っていることについても言及されることはなかった。
皆、事前の打ち合わせの通り、『PEACE』にいる時に『グリーン』のメンバーに拘束され、気が付いたら火が燃え広がっていました。出火原因はわかりません。『水の民』3人で消火にあたるため、やむ負えず水道管を破裂させました、という旨の説明を繰り返した。
公式発表はまだだったが、放火・犯人不明で決着がつくだろうということだった。
見るも無残に焼け焦げた『PEACE』には、警察の現場検証の名残の『KEEP OUT』のテープが辺りに貼られていた。
地面には赤黒い血痕の跡が生々しく残り、焼け残った建物の木片が散乱し、ブロックは黒く焦げている。
- 669 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:01
-
「ちくしょう。アイツ等、よくも矢口とゆーちゃんを」
紗耶香は口汚く罵りながら、尚も、焦げた木片やら、石ころやらを、蹴り続けている。
希美は、人が変わったような紗耶香を見て、硬直し立ちすくんだ。
「紗耶香」
圭織が紗耶香の肩をに手を置くと、
「‥‥んだよ」
子猫が毛を逆立てるように、振り向きざま、紗耶香は圭織の手を振り解いた。
「紗耶香」
圭織は名前を呼ぶなり、紗耶香の頬を叩く。
「しっかりしなさい。‥‥お願いだから」
静かな圭織の声に、紗耶香はぐっと唇をかみ締めた。
逆立っていた気持が、圭織の涙をみて、急激に萎えてくる。
「‥‥んだよ」
俯き、自分の足元を見つめる。
紗耶香の口から、押し殺した嗚咽が漏れた。
真里と『PEACE』――失ったものは、あまりにも大きかった。
- 670 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:01
-
――― ―――
裕子が意識を失った後――裕子の『力』を封じた希美は、極度の緊張から解放され安心したのだろう、へなへなとその場にしゃがみこみ、駆けつけてた圭織の胸で息をついた。
彩は警察の介入を遅らせるよう、明日香に連絡を取った。
真里と裕子の左手に載せた漆黒の石を、人目に触れさせることは何としても避けなければならなかった。
『神々の印』を失った者の存在を明らかにするわけにはいかない。
彩からの連絡を受けた明日香は、警察の介入を2時間遅らせることを確約し、真里と裕子の身体を、彩の診療所まで運ぶためのヘリを手配してくれた。
ヘリが到着すると、隊員が担架に乗った裕子と真里の身体を収容する。
彩と亜依も一緒に乗り込んだ。
亜依は、動かない真里の身体にしがみついて、泣き叫んでいた。
悪い夢を見ているようだと、その場にいる誰もが思っていた。
- 671 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:02
-
――― ―――
夢を見た。
真里の後ろ姿。
追いかけても追いかけても、
その距離が縮まることはない。
必死であがいて、
声の限りに、その名を叫んだ――。
- 672 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:02
-
――― ―――
身動きすると、身体の節々が痛かった。
目を開くと、見覚えのある壁のしみ、薬品の匂い、ゆれる白いカーテンレース。
彩の診療室だとわかった。
腕には、点滴の針が差し込まれている。
「‥‥気づいた?」
白衣の彩が、覗き込んだ。
「‥‥何で」
包帯に覆われた両の拳を握り締める。
痛みが現実だと知らせてくれた。
真里はもういない。
「‥‥何で」
「死にたかった?」
「‥‥‥」
「ゆーちゃん、5日も意識なかったんだよ。もう死んでしまうかと思った」
「‥‥5日‥」
「覚えてる?」
「‥‥‥」
裕子は黙り込んだ。
焼けつくような怒りと悲しみ。
たったひとつの光を失ってしまった。
今は生きている意味さえつかめない。
「‥‥何で、生きてるんやろ?」
裕子の呟きに、彩は黙って目を伏せる。
- 673 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:02
-
「‥‥矢口は?」
「‥‥矢口は、今、ご両親のところ」
「‥‥両親」
「亜依がご両親を連れてきて‥‥それから、皆で送ったの。‥‥矢口ね、綺麗な死に顔だったよ」
死に顔という言葉に、裕子は身体を硬直させた。
あらためて言葉に出されると、覚悟をしなければならなくなる。
真里の死を受け入れなければならなくなる。
それは耐え難い痛みだった。
裕子は血が滲むほど、唇をかみ締めた。
唇の間から、低い嗚咽が漏れる。
「‥‥矢口に、逢いに行こう」
彩の言葉に激しく首を横に振った。
真里の死を受け入れることなど、できるわけがなかった。
駄々っ子のように、裕子はかたくなに首を振り続けた。
- 674 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:03
-
――― ―――
一晩泣き明かし、裕子はやっと、真里の家に行くことに同意した。
亜依の案内で、彩に車椅子を押してもらいながら、真里の自宅に向かう。
全身包帯だらけの裕子は、黒い喪服に身を包み、彩が話しかけても、それに反応することはなく、無表情で黙り込みんでいた。
裕子は、今まで一度も真里の家を訪ねたことがなかった。
お互い家族の話を無意識のうちに避けていたところがある。
閑静な住宅街に真里の生家はあった。
亜依は家までの道のりを案内したものの、自分から家に招き入れる事には抵抗があったのだろう、遠慮がちに彩の後にまわった。
彩がインターフォンを押すと、喪服姿の小柄な女性が出迎えてくれた。
車椅子ごと家の中にあげてもらう。
- 675 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:04
-
居間のソファーに腰を下ろし新聞を読んでいた父親は、裕子の顔を見ると、眉間の皺を更に深くした。
額に刻み込まれた皺の深さは、父親の悲しみを物語っている。
ガサガサと大きな音を立てて新聞紙をたたみ、裕子の傍らを大股で横切った。
「お父さん」
母親の咎めるような声に、父親は一度立ち止まったが、振り返ることなく居間を出て行った。
亜依は泣き出しそうな顔で、母親と父親のやり取りを見つめている。
「‥‥すいません。いつもはあんなことないんですが」
申し訳なさそうに、母親は頭を下げた。
「‥‥私こそ申し訳ありません」
そう言うと、背後にいた彩の差し伸べた手を振り払い、裕子は車椅子からズリ降りた。
降りたと同時に、身体中に痛みが走り、彩が眉をひそめたのが視界に入ったが、かまわずに地べたに頭をつける。
- 676 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:04
-
「‥‥手を上げてください。お身体の具合は大丈夫なんですか?」
「‥‥申し訳ありません」
「手を上げてください。‥‥あの子も‥‥あの子も逢いたがっているでしょうし」
母親の言葉に、裕子はゆっくりと頭を上げた。
小さなテーブルに真っ白なテーブルクロスが敷かれ、その上には、制服姿の真里がピースサインをしている写真が飾られている。
白い薔薇がシンプルな白い陶器の花瓶に生けられていた。
裕子と写真の中の真里が見つめあう。
少しあどけなさが残る笑顔は、まだ裕子と出遭う前の真里だろう。
裕子は、写真に手を合わせた。
亜依が熱いお茶を運んでくる。
母親は静かな瞳で、写真を見つめた。
「本当に優しいいい子だった。‥‥もう、ご存知かもしれませんが、私とあの子は血がつながってないんです。‥‥あの子が小学校4年生の時に、あの子の父親と再婚して。真里の父親‥‥あの人も、亜依のことを可愛がってくれて。本当の親子だって思えたんです‥‥いい子は長生きしないんですね。‥‥どうぞ」
裕子にお茶を勧めながら、母親は続けた。
- 677 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:05
-
「‥‥あの子の守った命、大切にしてくださいね。‥‥あの子の守った命、簡単に捨てたら許しませんからね」
裕子は唇を噛み、手をぎゅうっと握り締める。
包帯の巻かれた傷口に痛みがはしったがどうでもよかった。
――真里は自分が殺したようなものだ――。
もっと口汚くののしってくれたらいい――人殺しだと――。
そしたら――ウチは――。
「‥‥本当は、‥‥貴方のこと許せないし。‥‥なじりたいですけど。‥‥でも‥‥あの子が命をかけて守った貴方だから。‥‥本当は、少しほっとしてるのかもしれない。毎日新聞を読むのが怖かったんです。新聞の片隅に『神々の印』を失った者が『密猟者』に狩られた、という記事が載ったら、ひょっとしたら、あの子じゃないか。あの子は大丈夫だろうかって‥‥」
そう言うと、母親は静かに涙を流した。
傍で母親の話を聞いている亜依もすすり泣いている。
「‥‥もう二度と会いたくありません。ここにいらっしゃるのもこれが最後にして下さい」
母親の重い言葉に、裕子は何も言えず深々と頭を下げた。
- 678 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:06
-
「‥‥中澤さん」
帰り際、玄関先まで送ってくれた亜依が、複雑な表情で頭を下げる。
「‥‥ごめんな‥‥本当にごめん」
亜依は黙って首を横に振った。
「‥‥今日はありがとう」
彩の言葉に、亜依は小さく頷いた。
裕子の車椅子がゆっくりと角を曲がるまで、亜依はその小さく見える後姿を見送った。
- 679 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:06
-
裕子の暴走による死者は皆無だった。
あらかじめ『グリーン』が『PEACE』の面々以外の人物を退去させていたこと。
裕子の暴走時には、すでに『グリーン』には退去命令が出されていたこと。
圭、梨華、ひとみたち『水の民』による水道管破裂による消火活動。
裕子自身が大量の出血のために、早い段階で希美が裕子の『力』を抑えることができたことがあげられるだろう。
両足のアキレス腱断絶、左上腕部複雑骨折、あばら骨が2本骨折。
身体のいたるところに深さ1センチにも及ぶ切り傷があり、計100針以上身体を縫った。
大量出血から命を危ぶまれた裕子は、5日間意識不明の重体だった。
あの最悪の時を振り返り、彩は、両足の健が切れている裕子があの時よく立ち上がれたものだと、感心したように言った。
明日香の援助で『PEACE』が再びオープンしたのは、事件から半年後のことだ。
紗耶香はルナの街への出発を延期し、真希は学校を休んで、それぞれ圭織をサポートした。
圭、ひとみ、梨華は放課後、時々『PEACE』の片づけの手伝いに来てくれる。
真里が命を落とした広場には、毎日、色とりどりの花が飾られている。
一輪の真っ赤な薔薇やカスミソウの花束。
皆、真里の死を悼み、思い思いに花を手向ける。
月日が流れても、花の絶えることはなかった。
- 680 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:07
-
――― ―――
ベッドに横たわり、無気力な瞳で窓の外を見つめるのが裕子の日課となった。
彩が提案したリハビリのメニューにも関心を示さず、放っておくと、一日中誰とも関わりを持とうとしない。
それでも毎日毎日、希美と亜依が、時には一緒に、時には単独で彩の診療所に顔を覗かせ、裕子に付き合う。
今日も希美と亜依は裕子の病室に一緒にやってきた。
途中で買ったのだろう、紙袋いっぱいに赤いりんごを持ってきていた。
希美が慣れない手つきでりんごの皮をむく。
厚ぼったいりんごの皮が、下に置いた皿の上に積まれていく。
「もったいない。自分えらい厚いで」
亜依が皿りんご皮をつまみ、希美をからかった。
「うるさいのれす」
希美は一心不乱に果物ナイフを動かしている。
- 681 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:07
-
「‥‥あんたら、何で来てくれるん?」
裕子は、希美の指の動きを見つめながら、呟いた。
「何でって?」
亜依がきょとんと裕子を見つめた。
「‥‥ウチといて面白いか? 面白くないやろ」
「‥‥どうしたん?」
けんか腰の裕子の物言いに、亜依は戸惑いの表情を浮かべる。
「矢口は、ウチが殺したようなもんやで」
裕子が自嘲気味に呟いた。
裕子の言葉に希美と亜依の身体が硬直する。
「‥‥何で」
ガタンと大きな音を立てて、亜依が立ち上がる。
はずみで椅子が後に倒れた。
「何で、そんなこと言うん!」
そう言うなり、怒りにまかせて、裕子の頬を思いっきり叩く。
「‥っ‥」
小気味のいい音が、狭い部屋に響いた。
- 682 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:08
-
「‥‥あいぼん」
「いくら中澤さんでも、言っていいことと悪いことがあるで!‥‥ねーちゃんのこと侮辱すんなや!ねーちゃんが、どんな気持で‥‥アンタ‥‥わかって‥‥‥このアホゥ!」
涙に濡れた瞳で、裕子を睨みつけた。
言葉を紡ぐうちに、何を言っているのか訳がわからなくなってくる。
怒りと悲しみがどっと押し寄せてきた。
亜依は踵を返し、部屋を飛び出した。
「あいぼん!」
希美が、亜依の後を追いかける。
一人病室に残された裕子は、ジンジンと熱を持つ頬を手でなぞった。
『‥‥ねーちゃんのこと侮辱すんなや!』
『‥‥このアホゥ!』
胸が痛かった。
「‥‥ホンマ‥‥アホやなぁ」
裕子は小さく呟いた。
- 683 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:08
-
診療所脇の木の傍で、亜依はおえーっと泣いていた。
希美は黙って、亜依が落ち着くまで傍に立っていた。
「‥‥あいぼん」
希美の声かけに、亜依は顔を上げ、照れくさそうに涙を拭う。
「‥‥何や、あの女、むかつくわー」
「‥‥でも‥‥」
「でも、何や?」
「‥‥ののも、同じこと考えていた。‥‥父さんが死んだとき‥‥のののせいだって」
「‥‥のの」
「中澤さん、きっと、あいぼんのこと心配してるよ」
「‥‥」
希美の言葉に、亜依は不愉快そうに眉をしかめた。
「それに‥‥あいぼんが戻らないと、のの一人でりんごをむかないといけなくなるのれす」
「りんごかいっ」
「あいぼん」
「わかってる」
亜依は頷いた。
- 684 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:09
-
裕子の個室に、不貞腐れた様子で、希美と一緒に亜依が入ってくる。
「ほら」と希美に促され、亜依は渋々口を開いた。
「‥‥あのー」
「圭織に聞いたんやけどな。矢口の墓なぁ、見晴らしのいい所にあるんやて?」
亜依の言葉にかぶせるように、裕子が口を開いた。
先日、圭織が来たとき、「矢口の墓に行った」という話をしていた。
見晴らしのいい高台にあった、と。
いい風が吹いていた、と。
「‥‥うん」
「海の見える、高台にあるんやて?」
「うん」
「‥‥今度、案内してや」
「うん」
裕子の言葉に涙をこらえて頷いた。
りんごは裕子がむいてあった。
綺麗に皮を剥かれ、八等分に切られたりんごを三人で食べる。
甘酸っぱい果肉が口いっぱいに広がって、何だか切なかった。
- 685 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:09
-
――― ―――
裕子は、石の移植手術を拒んだ。
「何の意味があるんや?」
「少なくとも、命の危険は減ると思うけど」
「命?」
「そう」
「‥‥命、ね」
「そう、命よ」
彩の言葉に、しばし考え、裕子はため息をついた。
「‥‥彩、悪いな。やっぱり、手術はせんよ」
「‥‥どうして」
「‥‥これだけなんや。これ見てると矢口が傍にいるような気がするんや。ウチにはこれしかないんや。せやから‥‥」
裕子は目を伏せた。
「‥‥ゆーちゃん」
「‥‥結局、『神々の印』って何なんやろね?」
「‥‥」
「安倍さんが言ってたことも、ウチには、ようわからん」
「ゆーちゃん」
「ん」
「くさいこと言っていい?」
「‥‥ええよ」
「‥‥人生は素晴らしい。それが、例え、どんな悲惨な人生であったとしても。その人が精一杯生きた証だから。‥‥だから、人生は美しいのよ」
彩の言葉に、裕子は泣き笑いの表情を浮かべた。
- 686 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:10
-
彩は、静かに部屋を出た。
閉じたドアの向こうから、裕子のすすり泣く声が漏れてくる。
ドアにもたれながら、彩は天を仰ぎ、目を閉じた。
怪我が完全に回復したら、裕子は退院する。
真里と暮らしたアパートに一人で戻る。
二人の思い出の詰まった部屋で一人取り残される。
ただ一人『神々の印』を失った者として。
思い出から逃れることも出来ず、ただ一人、裕子は何を想うのだろうか。
安倍なつみは『神々の印』で『民』を分けることに、科学的な根拠はないと言い切った。
近いうちに彼女が発表するであろう論文は、世界を大きく変えるだろう。
――思い起こせば、彩自身、随分変わった――『PEACE』の仲間と出会ってから。
きっと、世界は、少しずつ変わっていく――ゆっくりとゆっくりと。
- 687 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:10
-
――― ―――
「駄目」
ずり落ちたメガネを指先で引き上げながら、圭は冷たく言い放った。
人気のない放課後の廊下は、シンと静まり返っている。
会話の声がやけに大きく聞こえた。
「何で、どうして、ごっちんは良くて、ウチらは駄目なんですか!」
「そうです。あたし達も手伝いに行きたいです」
ひとみと梨華は尚も言い募る。
「何度言っても、駄目なものは駄目」
「何故ですか!」
「後藤に関しては、もう何も言わない事にした」
「えー」
ひとみは抗議の声を上げ、梨華は黙り込んだ。
「うるさい。‥‥矢口の死を見ても、アイツは紗耶香といることを選んだ。‥‥そういうこと。‥‥アンタ達は、アンタ達の道を探しなさい」
「‥‥道、ですか」
梨華が首を傾げる。
「どう生きたい?」
「そんなこと‥‥」
「‥‥この世の矛盾をどうにかしたいならね、手っ取り早い方法を知ってるわよ」
「‥‥何ですか」
「偉くなることよ」
「‥‥何ですか、それは」
「大学に行きなさい」
「‥‥それで、どうにかなるんですか?‥‥そうは思えない!」
ひとみが圭と梨華の会話に割って入る。
- 688 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:11
-
「‥‥ひとみちゃん」
「吉澤、人間には、向き不向きってのがあるの。‥‥後藤は、もう止められない。だから、あたしも止めない。‥‥アンタも、早く、自分の道を見つけなさい」
圭はそれだけ言うと、踵を返し、足早に去っていく。
ひとみと梨華は、何も言えず、圭の後姿を見送った。
- 689 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:11
-
――― ―――
真里の一年忌に、紗耶香が帰ってきた。
彩の紹介してくれたバンドの、サブメンバーとして、ギターを弾いている。
作曲の仕方を教えてもらったり、可愛がられているようだ。
裕子は怪我からの長いリハビリを終えた。
『PEACE』に懐かしい顔が揃う。
『PEACE』の焼け跡から見つかった、真里がいつも座っていた椅子は、約半分が炭になっていたが、残った部分を修復し、誰も座ることのできない真里専用の椅子として、『PEACE』のカウンター席に置いてある。
裕子は、真里の椅子の右隣に腰掛け、ビールを飲んでいる。
- 690 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:12
-
「ゆーちゃん」
カウンターからひょこっと、紗耶香が顔を出す。
「‥‥どや? 調子は?」
「うまくやってるよ。みんな優しいし、色々教えてもらってる」
「そうか」
「そっちはどうなの?」
「ウチか?‥‥ウチは、仕事して、飲んで、寝て。‥‥毎日毎日同じことの繰り返し」
裕子は自嘲気味に小さく笑い、ビールを飲んだ。
「ゆーちゃん‥‥手袋してないんだね」
「‥‥ああ」
口元を歪め、左手の漆黒の石を紗耶香に見せつける。
「紗耶香からも言ってやってよ。この人、何度言っても聞かないの。いくら『特A』の『力』持ってても‥‥」
裕子の隣の彩が口を挟んだ。
「彩、うっさい」
「うるさいって‥‥」
「結局、残ったのは、これだけや」
裕子は、左手の黒い石を指でなぞる。
「‥‥これだけが、ウチの生きている証や」
裕子の言葉に、彩と紗耶香は何も言えず、黙り込んだ。
気まずい雰囲気の中、何も知らない圭織が、厨房の中から裕子に声をかける。
- 691 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:12
-
「ゆーちゃん、悪いけど、そこにあるグリーンのグラスとってくれる?」
裕子の傍らには、先ほど、圭織が磨いていた赤と緑の色違いのグラスが2つ並んで置いてある。
「‥‥ああ」
裕子は、ゆっくりと、グラスを圭織に手渡した。
「違う。その隣のやつ」
「ああ、すまん」
裕子は小さく息を漏らし、手にしたグラスを置き、その隣のグラスを圭織に手渡した。
「ありがと」
短く礼を言い、圭織は忙しげに厨房に戻る。
裕子はため息をついて、ビールを喉に流し込んだ。
「‥‥いつから?」
「あ?」
「色がわからないんでしょ?」
彩の視線は厳しい。
「‥‥何の、話や」
「とぼけないで」
「さっきのことか? 少し、間違えただけやろーが。酔っ払って訳がわからなくなるのは往々にしてあることやろ?」
「‥‥いつになく饒舌だね」
「‥‥‥」
裕子が言葉に詰まり、黙り込んだ。
- 692 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:13
-
「いつから?」
「‥‥さぁ?」
「ゆーちゃん」
「‥‥いつからかなぁ?‥‥気が付いたら、こうなってた」
本当は、いつから、色をなくしたか知っていた。
あの時から――真里という光を失った時から――この世界は、色を失くした。
「‥‥色だけ?」
「‥‥最近は、味覚もないな。‥‥何食べても、ゴム噛んでる感じや。‥‥皆には秘密やで」
裕子は片目をつぶり、人差し指を唇に当てる。
「‥‥病院に‥‥」
彩の言葉に、裕子は自嘲気味に笑い、首を横に振った。
「‥‥ウチは、半分死んだようなもんや。‥‥死人が病院に行っても、しゃーないやろ?」
そう言うと、裕子はビールを喉に流し込んだ。
- 693 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:13
-
中澤裕子
『火の民』。『特A』の『力』を持つ。最愛の人、『風の民』矢口真里がこの世を去ってからは、約1年にわたるリハビリの後、漆黒に輝く石を左手に載せたまま、『神々の印』を失った者として、弁護士活動を再開する。彼女を狩ろうとする『密猟者』達を『特A』の『力』で焼き殺し、『密猟者ハンター』の異名を持つ。34歳の冬、左手首が切断された遺体が発見された。真里の死から、実に、3年後のことだった。
石黒彩
『風の民』。外科医師。腕前をかわれ、大病院からスカウトされることが多々あったが、全て断わり、細々と小さな診療所で生計を立てる。非合法に『神々の印』を失った者たちの石の移植手術を多数行う。移植第一号にあたるドラマーとは、長い間の文通を経て、32歳で結婚し、一男二女に恵まれる。『福田グループ』総帥の主治医。『火の民』安倍なつみのよき理解者として、影で彼女の研究を支えた。
- 694 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:16
-
――― ―――
紗耶香と真希は並んで、食器を洗っていた。
真希が洗剤をつけて、紗耶香がゆすいでいる。
「‥‥市井ちゃん」
「ん?」
「後藤、今度卒業できそうだよ。‥‥そしたら、市井ちゃん追いかけるからね。楽しみに待っててよ」
事件後、真希は学校にほとんど登校せず、紗耶香と共に『PEACE』再建に向けて、圭織を助けた。その結果、ひとみや梨華と一緒に卒業することはできなかった。
「そっか、よく頑張ったな。後藤」
「へへへ」
真希は、くすぐったそうに肩をすくめ、得意げに笑った。
- 695 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:17
-
市井紗耶香
後藤真希と共に音楽ユニット『いちごま』を結成。――歌は『民』を越える――を合言葉に音楽活動を展開する。自身の『民』を明らかにせず、左手の石を黒皮手袋で覆い、ギターを奏でる。生涯一ヶ所に留まることはなく、各地を放浪し、名曲『イマジン』を歌い継ぐ。そのメッセージ性の高い歌詞とギターの音色は、『民』を越え高い支持を受けた。28歳の誕生日ライブ終了直後暗殺される。
後藤真希
セクシーなダンスと甘い歌声が持ち味。自身の『民』を明らかにせず、左手の石を黒皮手袋で隠し、歌い踊る。先にバンド活動をしていた市井紗耶香の後を追うように音楽活動を始め、音楽ユニット『いちごま』を結成する。彼女の歌声と市井紗耶香のギターが織り成すハーモニーは熱狂的なファンを生んだ。過激民族主義組織『ブルー』により、市井紗耶香と共に暗殺される。
- 696 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:18
-
――― ―――
「のんちゃん、ケーキ持って行って」
圭織が冷蔵庫から、白いクリームと赤いイチゴのショートケーキを取り出す。
朝から、圭織と希美と亜依の3人がかりで作り上げた自慢の一品だ。
圭織は、明日香からの無償の資金援助を断わった。
必ず返済すると言い張った圭織に対して、明日香は、無利息で資金を援助してもらっている。
「へいっ」
元気よく返事した希美の周りを、犬のマリーが嬉しそうにグルグル回る。
尻尾がふりふり揺れていた。
希美は、通信制の高校に通っている。
多少舌足らずな印象を与えるが、その強い眼差しは、少女から大人の女性への成長過程にある。
「大きいから気を付けてね」
「おいしそうなのれす」
「ののは食いしん坊やな」
亜依は『風の民』高校に合格した。
両親には内緒で、ちょくちょく『PEACE』に顔を出している。
「あいぼんに言われたくないのれす」
希美はべーっと舌を出した。
- 697 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:18
-
飯田圭織
『火の民』。ショットバー『PEACE』のマスター。『PEACE』は幾度となく過激民族主義組織からの妨害を受け、焼き討ちにあうこともあったが、その都度懲りることなく再建した。33歳の時、5歳年下の婿を迎えた。4人の女の子に恵まれる。子どもの名は、裕子、真里、紗耶香、真希とそれぞれ名付けられた。
飯田希美
『火の民』。『特A』の『力』を持つ。矢口真里の死んだ後は、生涯その『力』を行使することはなかった。通信信制の高校を卒業した後、大学は臨床心理学部に進学。卒業後はPTSD(心的外傷後ストレス障害)研究所に就職。心理臨床家として活躍する。同僚の心理士と28歳で結婚。一男に恵まれた。主に子どものPTSDに関してのスペシャリストと言われ、多数の論文を発表する。『風の民』矢口亜依とは無地の親友。
矢口亜依
『風の民』。矢口真里の義妹。中学時代は不登校。『水の民』高校に進学してからは、吹奏楽部に所属し、トランペットを吹く。大学は経済学部に進学し、卒業後は国税庁に就職。国税査察官(通称マルサの女)として活躍。大物政治家の脱税疑惑のため、家宅捜索に入った折、金庫の中から、闇コレクションの『神々の印』を失った者の左手のホルマリン漬けを多数押収。その中から中澤裕子の左手を発見する。
- 698 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:19
-
――― ―――
「やすらせんせい」
梨華が隣の圭にしなだれかかれる。
亜依と希美の悪戯で、カクテルをしこたま飲まされてしまった。
「石川、アンタ、いい加減にしなさいよ。卒業したら、先生っていうの止めなさいって言ったでしょー」
「いいじゃないれすかー。そつぎょうしたら、おさらばなんて、つめたいれすよ」
「吉澤、アンタの相棒何とかしなさい」
隣のテーブルで、我関せずと、ショートケーキをほおばっていたひとみにお鉢が回ってきた。
口の中の甘いクリームを急いで飲み込み、口をシャツの裾で拭いながら、立ち上がる。
「ほら、梨華ちゃん、しっかりして」
「ひとみちゃーん」
梨華はフラフラと立ち上がり、ひとみに抱きつく。
「‥‥アンタも苦労するわね」
圭はタバコを燻らせ、苦笑した。
梨華とひとみは、難関とされる『水の民』大学の教育学部と経済学部にそれぞれ合格し、この春から同棲生活を始めた。
圭は、『PEACE』常連さんの紹介で、『火の民』と『風の民』の高校教師たちと文通を始めた。
思いのほかうまくいっている様子だ。
少しずつではあるが、確実に輪が広がっている。
- 699 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:21
- 保田圭織
『水の民』。高等部の社会科教員として働くかたわら、教育エッセイ『やっすー的教育』を執筆し、著書は一躍ベストセラーとなった。多くの男性から求愛されたが、「ごめんなさい」のひと言で断わり続ける。32歳で突然教員を退職し、それからは教育論を執筆するかたわら、三つの民合同の学校設立に向けての社会活動を開始する。39歳の夏、飛行機墜落事故で死亡。
石川梨華
『水の民』。22歳で幼馴染の吉澤ひとみと学生結婚をする。教育学部卒業後は母校の『水の民』高等学校に就職。国語科教員になる。恩師にあたる保田圭の死後は、その跡を継ぐ形で、教員のかたわら三つの民合同の学校設立に向けての社会活動を開始する。悲願である三つの民合同の学校が創立されたのは、活動開始から数えて11年後のことであった。三つの民合同学校の初代校長に就任し、教え子たちに、若くして命を落とした友人のことを語った。
吉澤ひとみ
『水の民』。21歳で幼馴染の石川梨華と同性結婚をする。法政学部卒業後、二度目の挑戦で司法試験に合格。検察官となる。人工授精により、一男一女を出産。『水の民』地検特別捜査部に所属。政治家による汚職事件や、企業犯罪・多額の脱税事件など、政治・経済の影に隠れた巨悪を摘発する。『風の民』国税査察官、矢口亜依らと共に『火の民』、『水の民』、『風の民』に跨る大物政治家の脱税疑惑を暴いた。
- 700 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:21
-
――― ―――
『PEACE』を影から支援する福田明日香という人物は、口ではかなり辛辣なことを言うが、一度見込んだ人間を見切ることはない。
強力なリーダーシップで、福田グループを掌握している。
安倍なつみに関しても同様で、明日香の鶴の一声により、なつみのための研究施設が建設され、そこには最新式の設備が整えられている。
なつみは、半年ほど研究室にこもったきり、何の動きも見せていない。
明日香のワンマン企業とはいえ、福田グループの株主に対する、それなりの説明責任がある。
- 701 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:22
-
明日香は、久しぶりに、なつみの研究室に足を伸ばした。
丁度、なつみは研究室の友人たちとテーブルを囲み、食後のお茶を飲んでいる所だった。
明日香を見て、目を真ん丸くしたなつみに、やんわりと話しかける。
「食事中に失礼します」
「明日香も一緒にどう?」
「ありがとうございます」
「珍しいね。明日香がココに来てくれるなんて」
「ええ、今日は折り入って話があって来ました」
「なんだべ」
「そろそろ論文の1つや2つ書いていただけますか」
「うーん‥‥でも、まだ、形になってないんだよね」
「形になるのはいつですか?」
「ピコーンってひらめかないんだよねぇ」
「‥‥いつまでもあなたがひらめくのを待ってるわけにはいかないんですよ」
「‥‥んー‥‥」
「なっち」
「明日香はいい人だもん」
唇を尖らせて、なつみは拗ねたように呟いた。
まさかそういう切り返しがくると予想だにしていなかった明日香は、言葉に詰まり黙ってしまう。
顔を赤くして、あー、と小さな声で呟き、
「‥‥いい人とか、悪い人とか、そんなことは問題じゃないんです」
と、ムッとしたように言った。
- 702 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:22
-
明日香が帰った後、
「‥‥安倍さん」
と、あさ美がおずおずと声をかける。
「大丈夫。明日香はいい人だから」
安倍なつみは、自信たっぷりに笑った。
「どう思う? 愛ちゃん」
「明日香さんって、ちょっと怖そう」
「えー、でも、安倍さんには特別優しいですよね」
麻琴、愛、里沙は、明日香談義に花を咲かせている。
なつみは、その様子を楽しそうに眺めながら、甘いミルクティーをコクリと喉を鳴らせて飲んだ。
- 703 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:22
-
福田明日香
『風の民』。若干25歳にして『風の民』最大の財閥、福田グループの総帥となる。『風の民』だけでなく『火の民』、『水の民』にも大きな影響力を持ち、政治界にも強いコネクションがある。『火の民』安倍なつみのために、多額の研究費を援助した。この時期DNAに関する研究は飛躍的に進歩したが、その裏には福田明日香の安部なつみに対する偏愛があったと囁かれる。
安倍なつみ
『火の民』。福田明日香の庇護の下、DNAに関する研究を続け、科学雑誌『NATURE』に『民族意識とDNAについての科学的考察』という論文を発表し、話題の人となる。安倍なつみの論文は、科学界だけでなく、神学界、政治界、経済界などに大きな衝撃を与えた。『民』を区別することに科学的な根拠はない。進化の流れの中で『力』はやがて消えていくだろうという、その独自の世界観と価値観に、賛同の声、誹謗中傷が入り乱れた。
- 704 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:23
-
紺野あさ美
『民』は不明。状況により、自由に石の色を変えることができる。福田明日香の援助で、経済学部の博士号を取得。卒業後は福田グループに就職し、福田グループ若き総帥の懐刀といわれる。35歳にして、民間人としては初の『三つの民』合同経済担当大臣となり、『民』同士の経済交流の発展に尽力を注いだ。
高橋愛
『風の民』。研究所における安倍なつみの逃亡事件により、責任は課せられなかったものの、窓際に追いやられ、事務作業に従事していたところを、福田グループに引き抜かれる。福田グループ『分子科学研究所』の計算科学研究部主任。限られた資源のなかで、生産と消費の上に成り立つ物質文明を健全に保持するため、物質循環の原理についての研究に従事する。特技は『ハッキング』。
小川麻琴
『風の民』。高橋愛と同じく、研究所における安倍なつみの逃亡事件により、責任は課せられなかったものの、窓際に追いやられ、事務作業に従事していたところを、福田グループに引き抜かれる。福田グループ『分子科学研究所』で研究設備開発部主任。超高速分光法を用いた化学反応観測システムを開発し、『フェルトム・マコ秒化学反応システム』と命名。分子線装置と結合させて気相中の化学反応過程を観測することを可能にした。特技『似てないモノマネ』。
新垣里沙
『火の民』。研究所の所長だった父親は、安倍なつみの逃亡事件の責任を取る形で、依願退職する。父親と一緒に研究所を去り、大学に戻って研究員として働いていたところを、福田グループに引き抜かれる。安倍なつみの助手として、影ながら彼女の研究を支えた。特技は『眉毛ビーム』。『眉毛ビーム』を発射すると、あの福田明日香でさえも撃退することができたという。
- 705 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:24
-
――― ―――
圭は、翌朝が早いからと、先に帰った。
彩も亜依を家まで送らなければならないからと、早々と退散した。
ひとみはベロベロに酔った梨華を背中におぶって、ひやかされながら帰って行った。
はしゃいで疲れた希美は、早々に二階の自室に引き上げている。
時刻は、午前1時をまわっていた。
「市井ちゃん、帰ろー」
床のモップかけを終えた真希が、裕子の隣でチビチビと焼酎を舐めている紗耶香に声をかける。
紗耶香は「ああ」と頷き、傍らの裕子を見やる。
「‥‥ゆーちゃんは?」
「ウチは、もう少し、飲む」
「わかった。‥‥気をつけてよ」
「‥‥ああ」
裕子の肩を軽く叩き、紗耶香は勢いよく椅子から立ち上がった。
「またね、圭織」
「おつかれさま」
圭織は頷き、裕子のことは心配するな、というようにウインクする。
- 706 名前:神々の印〜強く儚い者たち〜 投稿日:2004/11/30(火) 00:24
-
外に出ると、冷たい風が、頬をかすった。
「市井ちゃん、すごい星だよー」
「降ってきそうだなー」
何か思い出したのか、真希は不意にクスクス笑い出した。
「うん?」
「まだ、やぐっちゃんもいた頃さ、皆でパーティしたじゃん」
「ああ」
「圭ちゃんがおっかなくって。二人でコソコソ隠れたりして。ケーキ焼いたでしょ」
「そうだった」
「あの時も、こんな風に、満天の星でさー」
真希は懐かしむように、目を細め、天を見上げた。
「ねえ、もし死んだらさー」
「‥‥‥」
「何か残るかな?」
紗耶香は答えなかった。
――そんなこと、きっと、誰にもわからない――。
ただ黙って、真希が見つめている満天の星を見上げた。
真希も、疑問を口にしたものの、その答えを求めているわけでもなさそうだった。
「へくち」
くしゃみをした真希が鼻をこすり、へへへっと、照れくさそうに紗耶香に笑いかけた。
〜FIN〜
- 707 名前:あっちゃん太郎 投稿日:2004/11/30(火) 00:25
-
これにて「神々の印」本編は完結です。
2001年から始まった長い物語は、やっと着地点を見つけることができました。
この3年4ヶ月の間に、世界は刻々と色を変え、そしてまた私も変わりました。
この物語を読んでくれた方々、そしてこの場を提供してくれた顎さんに感謝します。
この後、しばしの期間をおいて、数本の番外短編を載せる予定です。
もう少しお付き合いいただければ幸いです。
娘。たちに幸あらんことを願って――。
あっちゃん太郎
- 708 名前:名無し飼育さん。。。 投稿日:2004/11/30(火) 00:35
- 連載当初から読み続けていました。
伝えたいことはたくさんありますが、
まずは一言だけ言わせてもらいます
完結ありがとう。おつかれさまでした。
- 709 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/30(火) 01:56
- 長い長い物語をずっと見つめ続けることが出来て幸せでした。
ありがとう。
あなたの小説に出逢えて良かった。
- 710 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/30(火) 14:08
- おつかれです
- 711 名前:名無し読者 投稿日:2004/12/01(水) 02:09
- 涙が止まんないです。
死ぬことを許されない生の中で中澤さんは何を見つめていたのでしょうか・・・・。
- 712 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/01(水) 22:23
- まじで感動しました。
ありがとうございました。
- 713 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/03(金) 00:39
- 脱稿お疲れさまでした
約二年前、初めて飼育に来たときに過去ログで夢中になってこの作品を読ませて頂きました
この度完結ということでなんだか胸がいっぱいになりました
素敵な作品に巡り会えて本当に良かったです
有り難う御座いました
- 714 名前:ひで 投稿日:2004/12/04(土) 15:11
- 完結お疲れ様でした。
本当に素晴らしい作品でした。
ありがとうございました。
- 715 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/15(水) 23:56
- 脱稿お疲れさまでした!
1スレから改めて読み直して改めて感動しました。重い話でしたがこの小説に巡り合えて良かったです。
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