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ダブルキャスト

1 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時03分38秒
いちごま。
2 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時05分38秒
プロローグ
3 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時08分15秒
 曇りのち、雨。

 市井ちゃんを拾った日もそんな天気だった。

 あたしはぼんやりと傘を閉じて、玄関に靴と共にそれを置いた。家の中はひっ
そりと闇を落とし、どこか空気が床に沈んでいる。足を踏み入れるたびに木の床
が音を上げた。
 腕時計に視線を落とす。もう家族は眠っている時間だろう。
 階段を上るたびにその振動で持っているビニール袋が揺れる。カサカサとそん
な僅かな音でさえ左右の壁にぶつかり合い、あたしの元に返って来る。気が遠く
なりそうな静かさ。どこか気を使って足音を極力消す事に専念する。

 階段を上りながら思い出す。

 家に戻ってくる前の路地。そこには等間隔で配置されている街灯がある。コン
ビニがある通りから抜けて、車通りも少なくなったその道は、あまりにも静かな
空間で、いつもなら左右に続くブロック塀に足音がこだまする。でも、あの日は
雨の音の方が強かった。あたしの耳にも、頭上で広げられた傘に落ちるリズムが
途切れることなく鳴り響いていた。
4 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時09分53秒
 仕事が終わって帰る時間になると、その道には人が通る事は無くなり、孤独の
時間が与えられる。辺りを照らす街灯の光で傍を通る影がノッポになったり縮ん
だり、その繰り返し以外、周りの風景は変わらない。

 その路地に入って四本目の街灯。それは一週間前ほどから電球が切れているの
か点滅を繰り返していた。白い光を上げる他のそれとは別に、弱々しいオレンジ
色に変色したその街灯の下にはポリバケツが二つ並んでいる。ゴミの日になると
朝から透明の袋が積み重なり、その上を青いネットが覆う。最近この辺にも増え
て来たカラス対策のようだ。
 特にそんな事とは関係が無いあたしには、特別にその街灯に思い入れもあるわ
けではない。電球が切れかかっている、それ以上の意味は無かった。

 湿気が強かったような気がする。冬だと言うのにいつもより暖かかったのはそ
のせいらしい。コートの首元に巻いているマフラーを、その日はいつもより緩め
にしていたのを覚えている。

 コンビニで買った傘を広げながら、下を向いて歩く。眼にはアスファルトに弾
む雨粒と、それを蹴るように進むあたしのスニーカー。何時の頃からか顔を上げ
て一人で歩く事が無くなった。街に出るときも仕事場に向かう時も、他人の目を
意識しているのかもしれないし、そこには自分の存在を消そうとしている無意識
が隠れていたのかもしれない。そんなあたしが顔を上げたのは、不意に感じた人
の気配のせいだった。
5 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時11分30秒
 二本目の街灯を過ぎ去って間際、丁度三本目との間だ。どちらの光も途切れる
境界線で、あたしは顔を上げた。

 視線の先には点滅する街灯。その下で、二つ並ぶポリバケツとは反対方向に立
ち尽くしている人の姿。あたしに背を向けるようにしていたため、顔は見えなか
ったがなぜか胸がきつく締め付けられたのを覚えている。多分、感じたのだと思
う。十数メートル離れているのにもかかわらず、僅かな匂いがあたしの元に届い
たのだと、後からそう思った。

 その人影は街灯が点滅するたびに現れたり消えたりを繰り返す。それはまるで
あたしの頭の中にある、その人の印象を目の前で表しているような気がした。

 現れたり消えたりする、その人の存在。
 あたしはずっとそれに締め付けられていた。

 その街灯の元に進む。徐々に近くなる人影は、傘もさしていないせいか全身を
濡らしていた。小さな背中、懐かしい髪型、頼りなさそうに震える肩。あたしは
そっとその人の背後に近寄ると、無言のまま傘を差し出した。
 その人はあたしの気配に気がついて振り返る。青白い肌に、印象的な唇。その
唇が三日月のような形に変わるのをあたしは視線を外す事か出来なかった。
6 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時12分48秒
 濡れるよ。

 市井ちゃんはそう言ってあたしが差し出した傘を押し戻すと、ゆっくりと一歩
だけ歩み寄ってその中に入った。数十センチ前のその顔に、あたしは自然と言葉
を口にしていた。

 ずぶ濡れだね……市井ちゃん。
 そうかな?

 早く市井ちゃんに新しい服を着せてあげようと思った。こんな濡れたままだと
きっと風邪をひいてしまう。
 あたしは当然のように市井ちゃんの手を引いて歩き出す。市井ちゃんも当然の
ように付いてきた。それはまるで捨てられた猫を拾うようだった。
7 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月27日(木)04時13分52秒
 あたしはふと我に戻る。

 目の前にはドア。ノブを握るあたしの右手。
 買い物袋には食べ物と雑誌。その雑誌には市井紗耶香と言う文字。

 もう冬だ。
 暖かい食べ物を買っておくべきだった。
 袋の中にはデザート系の甘いもの。あたしの趣味で買い込んだ事に後悔したが、
どうせこれも全て自分の胃袋の中に入るのだろうと思うと、それはそれでいいよ
うな気がした。

 ドアを開けると闇が足元から逃げてくる。冷たい空気が肺の中に入り込んで頭
を刺激した。
 市井ちゃんはいつもの位置。
 ドアから正面の、窓の下に座っている。壁に背を寄りかけて、あたしが入って
くるまで眼を閉じている。そしておもむろにその切れ長い眼を開けるんだ。
 部屋の中に入ると市井ちゃんは言った。

 お帰り、後藤。
 あたしはうん、と頷いて答える。

「ただいま、市井ちゃん」

 いつもの、変わらない言葉のやり取り。
 そんな事でさえ、あたしは嬉しくて溜まらなかった。
8 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月28日(金)02時41分14秒
しっかりした文章だなぁ。設定はリアル系かな?
期待してます
9 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時40分08秒
    1

 白い、白い空間。
 息が詰まりそうな箱の中に居るみたい。あたしはそう思いながら、差し込んで
くる日差しに眼を細めた。まるで照明を当てられているかのように正面の窓から
太陽の陽射が入り込む。視線はそれに邪魔されて、部屋の中を完全に捕らえる事
が出来そうに無かった。

 眩しいです。

 そう言おうとしてやめた。目の前の白衣を着た人物は机に向かってなにやら書
き込んでいる。視線を落とすと、まるでミミズのような字がクネクネと紙の上に
躍っているようにしか見えなかった。
 あたしが座っている椅子には背もたれが無い。円形の座席がくるくると回転す
る。子供のように右左と動かしたくなる衝動に駆られて、それを抑えたのはこの
部屋の空気のせいだった。ふざける事も許されない、そんな緊張感が微妙に空間
を支配している。真っ白の部屋の中、あたしは黙って太股の間に両手を挟めて肩
を狭めている事しか出来なかった。
10 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時41分41秒
 目の前の人物とは歩幅一歩ほどの距離を置いて、向かい合う状態にある。依然
として入り込んで来る陽射に、その人は逆光になり、あたしからは顔を見る事が
出来なかった。

「ここは……どこですか?」
 久し振りに声を出したようだ。喉の奥に何かが引っかかった感じがして、言葉
が掠れている。咳払いを一つしてから、また言い直してみた。ここはどこですか?

 ああ、と白衣の人物は机から体を起こしてあたしの方向に向きを変える。持っ
ていたボールペンをまるで学生のように指の上で一回転させてから、それを机の
上に置いた。

「最近疲れているみたいだね」
 その人の声はどこかビデオが空回っているようにはっきりとしない。低くもあ
り、まるで女性のように高くも思えた。
 あたしはぼんやりとその人の顔を見る。でもやはり逆光に邪魔されてはっきり
としない。

「大変な仕事をしているからね、疲れてしまうのは無理が無いよ。君のマネージ
ャーさんはいい人だね、とても心配していたよ」

 そうですか。
 その一言を呟いてから視線を床に落とした。蛍光灯の光が強いせいだろうか、
あまりにも眩しすぎてその床さえ白く見える。あたしはゆっくりと眼を閉じると、
馴染みのある闇が目の前に広がり、空間に漂っていた緊張感はその中に入ってこ
られないのだと気がついた。
11 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時43分07秒
 あたしは眼を閉じたまま、その人の言葉を聞く。

 ストレスとか溜まっていないかい? 苛々するとか、体がだるいとか……。そ
う言う仕事をしているのなら、ストレスが溜まったっておかしくは無いよね。で
もどこかでそれを発散させないと、大変な事になるんだよ。病気になったりもす
るんだ。だからね、そう言うことがあったら、仲間の人に話す事だっていいし、
マネージャーさんに言うことだって出来る。もし話しにくいなら私が聞いてもい
い……ああ、無理に聞き出そうとしているわけじゃないんだよ。ただね――。

 どうしてこんなにもベラベラと喋る事が出来るのだろうかと思う。この人の声
は嫌いだ。頭に響いてくる感じがする。あたしはゆっくりと眼を開けて、睨むよ
うに視線を向けた。

「ただね――」

 その瞬間、黒く覆われた顔の一部から、真っ白い歯が見えた。不意にあたしは
市井ちゃんのことを思い出す。青白い光に浴びながら、いつもの窓の下に座る彼
女は、あたしが入ってくるたびに同じような表情を作る。そしてその唇からこぼ
れるのは真っ白い歯。唇が動く瞬間を、あたしも合わせて動かしている事にきっ
と市井ちゃんは気が付いていないだろう。
12 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時43分46秒
――お帰り、後藤。

 昨日買ってきたパンは食べてくれただろうか?
 不意にそんな事を心配した。

「ただね――」

 目の前の言葉に我に戻る。
 唇がゆっくりと動いたのにあたしは気が付いた。

「人の頭は幻を作り出す事だってありえるんだよ」
 あたしは椅子から立ち上がる事が出来なかった。
13 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時44分49秒
    2

 重いスタジオの扉を開ける。眼に映ったのはセットの周りを忙しなく動くスタ
ッフ。資材が音を立てる。前方には綺麗なセットが立ち、青いライトが上から降
り注いでいる。その周りをカメラがズラリと並んでいた。
 あたしは誰にも気がつかれないようにその中に入ると、扉のすぐ横に自分の場
所を作る。できるだけ目立たないように、背中を壁に押し付けた。
 セットの上には市井ちゃんが居て、大人に囲まれながら真剣な表情を浮かべて
いた。その周りを動くスタッフがマイクを片手に声を上げる。テス、てす、マイ
クテス……。

 大人に囲まれながら、市井ちゃんの表情はコロコロと変わる。楽しそうに笑っ
たり、真剣に頷いたり、緊張で頬を強張らせたり。その一つ一つの仕草が、なぜ
だかあたしを締め付ける。多分、こうして同じ空間に居るのに話し掛けにも行か
ず、気づかれる事も恐れているのは、過剰なほど市井ちゃんを意識するあたしを
自覚していたからだろう。漠然とした恐ろしさが、胸の奥に存在していて、それ
が体の動きまで影響していた。

 市井ちゃんが再び現れてから、あたしは話し掛けたことも無いし掛けられた事
も無い。確実に距離を置き、接触を恐がっているのは自分の方だった。昔のよう
に接してくれるだろうか? 昔のように微笑みかけてくれるだろうか? そう言
った思いが不安に変わって、距離を縮める事が出来なかった。
14 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時46分28秒
 でも、もしかしたらそれでいいのかもしれない。あたしたちはもうお互いの道
を歩く事はできないのだろうと言う事には気がついていた。娘。の道には市井ち
ゃんの場所は無いし、市井ちゃんの道にはあたしたちの場所は無い。あたしたち
が距離を縮める事は、きっとお互いの足を引っ張り合う事になるのだろう。

 ため息をつく。

 そんな風に理由をつけて、自分を納得させている事を自覚しているからタチが
悪い。素直じゃないのだろうと、自分でも思った。
 居た堪れない気持ちになってあたしはスタジオから出た。左右に広がる廊下を
人の視線を気にしながら歩く。途中で時計を確認してから楽屋に戻った。

 ドアを開けると威勢のいい声が襲ってくる。楽屋の中は暖房だけではない熱気
が漂っていて、思わず一歩後退りをした。今年に入ってメンバーが増えたせいか、
話し声が止む事など滅多に無い。そんな空間があたしは今も昔も苦手だった。
 ため息を気づかれないように吐いて、その中に足を踏み入れる。長方形型の机
が真中から入り口に向かって伸びている。その周りを囲うように椅子が配置され
ていて、各々の私物がその上に乗せられている。ドアから入って左側にはメイク
ができるように鏡台と椅子が三つ配置されている。一番奥には唯一の窓にブライ
ドが落とされ、その真横にここから出てくる前にあたしが置いたパイプ椅子がそ
のままの状態であった。
 なっちとやぐっちゃんが部屋の奥にいて、鏡に向かい合うように机を挟んで座
っていていた。机の上に広がるお菓子を傍でうろうろとしながら立ち話をしてい
るメンバーたちが摘んでは離れていく。
15 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時48分34秒
 あたしは顔を下げて鏡側を移動する。奥に作っていた自分の場所に辿り付くと、
不意に息が漏れて、安心している自分に気がついた。
 椅子に座り、頭を背もたれよりも倒して壁に付ける。視線を横に向けるとブラ
インドと窓の間の隙間から、湿気に邪魔されながらも外の光景を伺うことが出来
た。

 曇り空が続く。太陽がひっそりと輝いているのが見えた。

「ごっちん」
 ふと気がつくと目の前に圭ちゃんがいた。あたしはゆっくりと首を正面に向き
なおして言う。

「何?」
「どこ行ってたの?」
「トイレ」
 嘘だけど。
「もうそろそろ着替えた方がいいね」
 圭ちゃんはそう言って腕時計に視線を落とした。カジュアルで重圧なタイプの
ものだった。
「もうそんな時間?」
「ほら」
 そう言ってつけている腕時計をあたしに見えるようにかざす圭ちゃんの表情は、
どこか無理して明るくしているように思えた。
16 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時49分37秒
 そうだね、と言って立ち上がろうとしたあたしの肩を圭ちゃんが押しとめる。
中腰の状態だったため上からの力に逆らうことなく、あたしはまたペタン、と椅
子に腰を落とす。

「ま、もうちょっと時間あるよ」
「圭ちゃんがいったんじゃん。訳わかんない」
 その言葉を聞くと、圭ちゃんは何が面白かったのかケタケタと笑った。

 あたしは視線を斜め前に移す。そこにはなっちとやぐっちゃんが座っていて、
机にファッション雑誌を広げながら話をしていた。比較的入り口側には新メンバ
ーが固まっている。それ以外のみんなは中央からやや奥側、あたしが居る椅子の
方に寄っている。

「最近疲れてる?」
 圭ちゃんの言葉を、そんなことないよ、の一言だけで済ませて、あたしの視線
は机に置かれているやぐっちゃんの右腕に注がれていた。そこには鈍く輝くシル
バーのブレスレット。鎖状のものがいくつも繋がって輪になっていた。
17 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時50分52秒
「嘘。顔に出てるからね」
「何が?」
 あたしは視線を戻して圭ちゃんを見る。圭ちゃんは微笑みの中に一瞬だけ真顔
を覗かせた。
「疲れ。顔に出てる」
「ウソ。やばい?」
「やばい」

 参ったな、とあたしは思ったがまあメイクさんがうまく誤魔化してくれるだろ
うとすぐに考え直した。

「青白いんだよ。顔色が悪いって言うの? よく事務所の人とかそんな顔で歩い
てるの見たことあるよ」
「あたしはサラリーマン?」
「OLって言うの。女の子でしょう」

 そっか。
 なんだかおかしくて笑ってみると、目の前の圭ちゃんはどこか安心したように
連れられて微笑んだ。その細くなる視線の奥には優しさが篭っている事をあたし
は知っている。色々と圭ちゃんに迷惑を掛けているのかもしれない。
18 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時52分21秒
「DVD見た? この前貸した奴」
 ぼんやりとしていたあたしに圭ちゃんが思い出したかのように言った。すぐに
ああ、とあたしは首を横に振る。

「見たけど忘れてきちゃった。今度もって来るね」
「いいよ、別に急いでないし。それより――」

 盗られるよ。

 不意にあたしたちの会話に割り込んできた声。すぐに圭ちゃんは口を閉じて、
恐る恐る視線を横に向けた。そこにはなっちと話していたやぐっちゃんの姿があ
る。やぐっちゃんは右腕を頬杖するように机に立たせると、猫が獲物を狙うよう
な視線を向けていた。

「盗られちゃうよ、圭ちゃん」
 その声はわざとらしく低くしている。昔、学芸会で見た上級生のシンデレラを
思い出した。確か、あの時のシンデレラを苛めるお姉さんも、こんな声を出して
いた。

「ちょっとやめなさいよ」
 圭ちゃんは戸惑いを隠せない様子で言う。眉間に皺が寄って、さっきまでの優
しさが跡形も無く消えうせていた。
19 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時53分35秒
「後藤に物を貸しちゃダメだよ。帰ってこないかもしれないじゃん」
 やぐっちゃんはそう言ってあたしを見る。あたしは視線を外して、右腕のブレ
スレットを見た。
 その様子をやぐっちゃんが勝ち誇ったように笑みを作ったのを視界の端で確認
する。

「やめなよ、矢口」
 圭ちゃんの声。
「あたしは圭ちゃんの事を思っていってるんだよ。後藤が前に何をしたか、圭ち
ゃんだって知ってるじゃん」

 楽屋は二つに分かれていた。入り口側と奥側。入り口側にいた新メンバーたち
はこのやり取りに気がついていない様子で、さっきと変わらないおしゃべりを続
けている。しかし比較的あたしたちの近くにいたメンバーたちは、どこか諦めと
も言えるように、その視線はバラバラに泳いでいて、口を閉じていた。やぐっち
ゃんの隣に居るなっちは雑誌をわざとらしく読んでいる。さっきから同じページ
を開いたままだった。

「後藤には前科があるんだよ。一度、人のもの盗んでるじゃん」
「矢口」
「手癖の悪さはみんな知ってるんだよ」
「やめなさい、矢口」
「今度は圭ちゃんの物盗もうとしてるん――」
「矢口!」
20 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時55分13秒
 堪らないと言った様子で圭ちゃんが声を上げた。
 それに気がついて新メンバーたちが黙る。
 圭ちゃんは険しい顔つきでやぐっちゃんを睨んでいた。

「言っていい事と悪い事あるでしょう」
「ヤグチが言ったのは言っていいことだよ」

 口元に笑みを浮かべてやぐっちゃんは言う。すぐに圭ちゃんがまた口を開きそ
うになったが、やぐっちゃんは何事も無かったかのように隣のなっちに話し掛け
ていた。

 それが合図だったかのように周りのみんなが話を始める。その様子を見ていた
新メンバーたちも連鎖するように続いた。

 タイミングをズラしたようで、圭ちゃんは口を閉じるとしばらくの間やぐっち
ゃんを睨んでいたが、肩を重く沈ませた。どうやらため息をついたようだ。

 あたしはぼんやりとそろそろ着替えなくてはいけないな、と思う。
 疲れが出ていると言う顔にも、メイクをしてもらわないと。
21 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時56分21秒
「気にすること無いからね……」
 あたしはゆっくりと立ち上がる。それを受けて圭ちゃんが一歩後退りする。
「ごっちん……?」
 あたしは圭ちゃんを見て言う。
「そろそろ着替えないと」
 その言葉を聞いて圭ちゃんは、ああ、うん、と頷いた。
「そうだね。もうそんな時間だね」

 圭ちゃんがそう言って離れていこうとする所を、あたしは思わず腕を握ってい
た。

「圭ちゃん」
「何?」

 圭ちゃんは一瞬だけ体を強張らせてから、すぐに後悔したような表情を浮かべ
る。それでもそれは一瞬で、さっきのように何事も無いように笑顔を作った。
 あたしは一瞬だけ視線をやぐっちゃんのブレスレットに移す。
22 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時57分30秒
「サングラス――」
「サングラス?」

 やぐっちゃんの腕に輝くブレスレットは、昔市井ちゃんから貰ったものだとあ
たしは知っている。

「そう、サングラス――ブルーのレンズの奴」

 そして圭ちゃんにはサングラス――。

「ああ……うん」
「まだある?」
 圭ちゃんはどうして急にそんな事を聞くのだろうというような表情を浮かべた
が、すぐに頷いた。

「当り前でしょ。家にあるよ……それがどうかした?」

 あたしは首を横に振った。
 ううん、なんでもない。そんな意味を込めて。
 釈然としないような表情で圭ちゃんは離れていく。
 あたしはすぐに衣装を着替えるために小走りをした。
23 名前:名無しさん 投稿日:2002年06月28日(金)04時59分55秒
>>8
期待に応えられるかどうかはわかりませんが、
頑張ります。
24 名前:名無し読者 投稿日:2002年06月28日(金)12時37分34秒
作者さんの新作待ってました。
マイペースで頑張ってください。
25 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時09分21秒
    ∞

 家に戻ってきてすぐ、暖房のありがたさを実感する。
 首に巻いたマフラーを解きながら居間に顔を出すと、お母さんが足を崩した状
態でテレビに視線を向けているのが見えた。ブラウン管の中にはウソっぽく笑う
あたしの顔。十五秒間の娘。の出演が終わるのを待って声を掛ける。

「ただいま」
「おかえり」
 解いたマフラーを足元に落とす。コートも脱ぎながら同じ場所に置く事は、も
はや日課になった行為だった。

「寒かった。お腹すいた」
 はいはい、とお母さんは立ち上がって台所に移動する。その動きを視線で追い
ながら、あたしもテレビを正面に畳の上に座った。テーブルにはぽつんとさっき
までお母さんが飲んでいた湯飲みにお茶が入っている。細い頼りない湯気が蛍光
灯に向かっていって、途中で力尽きていた。

 しばらく暖房の暖かさに体を解す。鼻先からジンワリと解凍されていくような
気がした。
 お母さんがテーブルに運んできたご飯を口に入れながら、視線はテレビに。そ
こにはニュース番組がやっていて、難しい顔をしたおじさんが、難しい事を喋っ
ていた。
26 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時10分26秒
「みんなは?」
「もう食べ終わったよ」
「寝てる?」
「さあ」
 さあって、そんな返事はないだろう、とぼんやりと思ったが口に出さなかった。
基本的に放任主義のこの人は、滅多な事が無い限り家族に関与しない。それは居
心地よくもあり、冷たいと感じる事もあった。

「最近疲れてない?」
 ご飯が半分ぐらいになったとき、お母さんは口を開いた。あたしはゆっくりと
視線を向ける。

「顔に出てる? 今日圭ちゃんにも言われた」
「顔色がね」
「それも言われた」
「あまり無理はしないでちょうだい」
27 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時11分45秒
 そう言ってお母さんは立ち上がり、再び台所に消える。やかんからポットにお
湯を移し替えているようで、水が蒸発する音が聞こえた。
 お母さんがあまりあたしに興味が無いことは何となく気がついていた。年頃の
女の子を心配する様子などほとんど無く、口うるさく何かを言われた記憶は、こ
こ最近なくなった。多分、お母さんは事務所の人やメンバーたちを信用している
のかもしれない。朝から晩まで時間を拘束され、周りには大人が常に居る。そん
な場所を毎日と言っていいほど行き来しているあたしが、ヘタな行動に出る時間
はないだろうと、そう思っているようだった。

 お母さんの最近の関心事は新しく建った家の事だった。綺麗なキッチン、広い
部屋……みんな口々に言う前向きな言葉と期待。その中であたしはどこか蚊帳の
外に居る。あまり興味が湧かなかった。

「部屋は片付けてるの?」
 お母さんが湯飲みにお茶を入れてあたしの目の前に置いた。すぐに残っていた
ご飯をかき込むと、それを手にとって口に入れる。舌が火傷しそうだ。

「そう言う事は早くから進めるのよ」
 あたしは曖昧に頷く。
28 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時13分07秒
 新しい家自体にあまり興味が無かったが心配事は増えた。それは引越しの準備
と称して、お母さんがあたしの部屋に興味を持ち出したのだ。まだまだ先だと言
う引越しに早くから準備をしろと口うるさくなった。それなのに片付ける様子も
ないあたしに苛々している様子で、自分が代わりにそれをしようとしているのが
わかった。いつ、部屋の中に入られるのか、気が気ではなくなってくる。

「入らないでよ、勝手に」
 あたしはそう言って残りのお茶を飲む。やはり火傷しそうだ。
 コートを掴んで立ち上がるあたしに、お母さんは呼び止めるように声を掛けた。

「部屋」
「わかってるよ」
 違くて、とお母さんは言う。
29 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時14分05秒
「部屋、いつも暗いのね」

 あたしは動きを止める。
 立ち上がった姿勢で、座っているお母さんを見下ろす形になった。
 テレビの音が軽快なリズムに変わる。どうやら宣伝に切り替わったようだ。

「どうして電気を付けないの?」

 キュッ、と喉が締まるのを感じた。
 ああ、そうか。
 あたしは気が付く。
 お母さんはあたしに苛ついていたわけではない。
 部屋を片付けないあたしに苛ついていたのではない。

「時々、話し声がする」
30 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時15分00秒
 気がつき始めているのかもしれない。

「電話だよ」
 お母さんがあたしの部屋に異変を感じ始めているんだ。

「暗い所が好きなの……」
 あたしは視線を反らすと、足元のマフラーを拾う。その動作の間、二人とも口
を開ける事は無かった。

「……居ないから」
 居間を出るとき、あたしは呟いた。

「誰も……居ないから」
 お母さんは何も言わなかった。
31 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時16分33秒
    ∞

 ドアの前に立った時、さも当り前のようにノックをしようとしていた事に気が
ついて思わず吹き出した。そんな必要は無いのに、その行為をしようとしている
自分がどこか嬉しくもある。
 ドアノブはひんやりと冷たい。無機質なステンレスが闇の廊下の中で鈍く光っ
ている。それを下に押すように捻る。カチャ、と静かな音がした。
 それを開けると青白い光が逃げてくる。不意に出来るあたしの影が後ろの壁に
張り付く。冷たい空気が流れてきたはずなのに、その光はどこか暖かさを持って
いるように感じて、あたしは胸の高鳴りをこの静かな空間に響かないようにと気
を使った。

 部屋の中に入る。市井ちゃんがいつもの窓の下に座っていた。

 お帰り、後藤。
 あたしは後ろ手でドアを閉める。

「ただいま、市井ちゃん」
 ドアから突き当たりには唯一の窓。そこから月の光と家の前にある街灯の光が
交じり合って入り込む。市井ちゃんの髪の毛や白い肌がそれに吸い込まれる様に
妖しく演出されて、あたしを見る視線に鼓動を高鳴らせてしまう。
 この部屋にはそれ以上の光は要らなかった。ただ眩しいだけの蛍光灯の光はあ
まりにも痛々しくて、あたしは嫌いだったし、市井ちゃんもきっとそうなのだと
思っていた。必要最低限の光だけが常に窓から入り込んでいれば、それだけで満
足だった。
32 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時20分45秒
 市井ちゃんの前には赤い携帯ラジオがぽつん、と置かれている。そこからは微
かな声が聞こえる。その横に買い物袋が数枚捨てられていて、昨日買ってきたパ
ンが手をつけられていない状態で置いてあった。
 あたしはゆっくりと市井ちゃんに近寄る。コートを脱いで適当に投げ捨てると、
ラジオの音が徐々に強くなってきた。それでね、市井さん――。

「パン食べてないんだ。お腹空いてない?」
 あたしはそう言ってラジオの横のパンを拾う。市井ちゃんはその行動を視線で
追っていた。休んでいた間は――。

 大丈夫だよ、空いてない。

 市井ちゃんはそう言って口元に笑みを作る。持っているパンの袋が手の上で擦
れて僅かな音を立てた。何をしていたの――。

「市井ちゃんはヤセッポだね。羨ましいよ」
 そっと市井ちゃんの隣に座る。同じように壁に背をつけた。冷え切ったその冷
たさが背筋を走り抜ける。

 後藤こそ、痩せてるよ。
「お世辞ありがとう。お腹とか、気になるの」
 目立たないよ。
「今は隠れているの。衣装とか、最近恥ずかしくなってきた」
33 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時22分19秒
 市井ちゃんはその言葉に微笑んだ。あたしはその顔を見ながらバカにされてい
るのだろうかと思ったが、不思議と苛立ちは沸き起こってこない。そっと頭を肩
に乗せるように倒すと、冷たい部屋の中に人の暖かさを頬に感じた。

 休んでいた時は、本当に休んでましたよ。モーニングの時は忙しかったんで、
やめた当初は実感が無くて……ええ、そうですね。何かオフを貰っているように
しか思えなくて――。

「肩、重い?」
 大丈夫だよ。

 あたしは自然と笑みを作っていたようだ。体から張り詰めていたものがまるで
風船がしぼんでいくように小さくなっていくのを感じた。
 ファックスが届いていますね、ええ、じゃあこれから――。
 ラジオに視線を向ける。緑色の小さな光が薄闇の中に見えた。

「生放送?」
 あたしは市井ちゃんを見上げるようにしながら聞く。

 そうみたいだね。
「ふうん」
34 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時23分33秒
 赤いラジオから男性の声と市井ちゃんの声が聞こえる。ファックスの質問に答
えているようだった。
 市井ちゃんの声はハキハキと伸びる。それを聞きながら、あたしはぼんやりと
今日スタジオで見た市井ちゃんの姿を重ねていた。コロコロ変わる、一つ一つの
表情。今、ラジオ局に居る市井ちゃんは、あたしが見たその表情のどれをしてい
るのだろうか?

 あたしはあの日のことを思い出していた。

 仕事場で、市井ちゃんが現れた日のこと。トイレから楽屋に向かう時、大人に
囲まれて歩く市井ちゃんの姿を見た。一直線の廊下を、あたしの反対側から歩い
てくる。何かを説明されていたようで、隣にいた男の人が持っていた紙を指差し
ながら質問を繰り返している。それを受ける大人の人も、真剣な表情だった。あ
たしは段々と近づいてくるその市井ちゃんの姿を見ていて、声が掛けられる距離
まで達した時に、不意に襲ってきた不安を覚えている。

 何を話したらいいのだろう?
 どんな笑顔を作ればいいのだろう?
 昔のように、市井ちゃんはあたしに接してくれるだろうか?

 当然のように顔を下げていた。横にたれる髪が視界を邪魔する。近くなる足音
と同時に強くなる鼓動。緊張、もしくは怯え。色んな感情が胸の奥をぐるぐると
回っていて、その瞬間、頭が真っ白になった。
 気がつくと市井ちゃんの姿はなくなっていた。
 思わず振り返えると、数十メートル先のエレベーターの扉が閉まる所だった。
 ぽっかりと心の中に穴が開いた
35 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時24分50秒
 曇りのち、雨。

 夕方から降り出した小雨は、あたしがテレビ局からタクシーに乗った頃には本
降りとなり、締め切られていた窓を何度も叩いていた。暖房で頭が働かなくなっ
ていたように思える。ラジオの声がビデオのように空回り、眼を閉じた瞬間に意
識が消えた。
 多分数分ほど眠っていたのだろう。目が覚めた時、ラジオからは市井ちゃんの
声が聞こえていた。
 タクシーから降りて、家に向かう路地。コンビニで買った傘が聞き馴染みのあ
るリズムを刻んでいた。

 四本目の街灯――。
 あたしが市井ちゃんを拾ったのは、そんな日だった。

――人の頭は幻を作り出す事だってありえるんだよ。
36 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時25分53秒
 それでもいいと思う。
 あたしは持っていたパンを床の上に置いて、市井ちゃんの腕を抱きしめた。細
くて今にも折れてしまいそうな、そんな腕。爪を立てて服の袖の上から皮膚にそ
の跡をつけようとする。市井ちゃんは痛いとも言わなかった。
 二人の市井ちゃんが目の前に現れてから、あたしは不快と心地よさを知った。
テレビやラジオ、光に当たる市井ちゃんからは不安と言う不快さ。部屋で、あた
しの帰りだけを持っている市井ちゃんからは安心と言う心地よさ。その二つは対
極の位置にあり、あたしはその間を行ったり来たりする。まるでヤジロベエのよ
うに気持ちはふらふらとしたまま。

 自分の気持ちを理解する事は出来ない。
 やぐっちゃんから責められた時も、あたしの気持ちはどこかに飛んでいて、ま
るで自分が他人のように思えた。
 あたしは市井ちゃんの傍に居られれば、それだけでよかった。

「市井ちゃん――」
 あたしの声が部屋に響く。ん? と視線を下げるその顔を見ているうちに、徐々
に胸の奥にしまわれていた不安が表に現れ始めた。

 市井ちゃんが傍に居ればそれでいい。
 それが例え幻であったとしても、その視線、その声、その姿、全てがあたしの
記憶の中に居る市井ちゃんそのものなのだから。
 でも――。
37 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時26分43秒
 あたしの記憶の中にある市井ちゃんは突然消えてしまう。
 じゃあねっ。
 その一言だけで消えてしまう。

 だから、この市井ちゃんもいつか消えてしまうのではないだろうか? 突然、
あたしが気付かないうちにどこかに消えてしまうのではないだろうか?
 部屋に戻ってくる時、あたしは心地よさの中にそんな不安を抱く。そしてその
不安を解消したくて、同じ言葉を口にするんだ。

「市井ちゃん――」
 青白い光を浴びて、市井ちゃんは微笑んだ。

「もうどこにも行かないよね」

 窓を通して見る夜空には、綺麗な三日月が顔を出していた。
38 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月01日(月)05時31分56秒
>>24
ワンパターンでごめんね。
この先も付き合ってやって下さい。
39 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月03日(水)05時32分09秒
    3

 コトッと音を立ててカップはテーブルの上に置かれる。テレビに視線を向ける
と音楽番組が始まっていた。保田はゆっくりとソファから立ち上がって、隣の寝
室からサングラスを持ってくる。再び居間に戻り、それをさっき置いたカップの
横に並べた。

 髪は半乾きの状態で、ソファに腰を下ろすとその振動で頬にニ三本張り付いた。
人差し指でそれを払ってから、またカップを口につける。苦いコーヒーが舌の上
で転がる。

 部屋の中には数十秒ほどの音楽がひっきりなしに変わる。ランキング形式のこ
の番組に数ヶ月前まで自分たちの曲がかかっていた。
 その曲について、矢口が後藤に言った言葉が不意に頭を過ぎる。初めて曲も出
来て、ダンスの振り付けも終わり、テレビでその曲を歌いつづけていた時期の事、
吉澤からCDを借りていた後藤に向けられた言葉。

――いいよね、いつも真中で。
 その時保田は楽屋の隅で帰りの準備をしていた。視線を向けると矢口が後藤の
後方で不機嫌に顔をしかめながらバックの中に荷物を詰め込んでいるのが見えた。

――ヤグチ達はいっつも後ろで、後藤はいつもセンター。
40 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月03日(水)05時33分20秒
 後藤の近くにいた吉澤が複雑な表情を浮かべたのを覚えている。後藤はすぐに
吉澤から借りたCDのお礼を言って部屋から出て行った。
 前方でその曲を歌っていたのは吉澤も同じで、後藤だけが責められる口実とし
ては厳しいものがあった。しかし矢口にとってはそんな事などどうでもよく、連
日のハードスケジュールから来る苛立ちと、その曲での自分の立場の不満ぶつけ
たかっただけのようだ。

 少なくとも保田自身にも不満はあった。ちゃんと歌いたいと考えていた時期が
あった。しかし激動していく本体に、その考えはいつしか現実に妥協し、流され
ている自分がいた。だから、矢口が言った言葉は後藤を傷つける事であったとし
ても、そう言う考えをもっている彼女に感心している部分もある。

 でも――。
 保田はカップの横にあるサングラスを人差し指で軽く弾きながら思う。
 でも、後藤を追い詰める言葉を吐くことには感心しない。

 ブルーのレンズのサングラス。今日、後藤に言われた言葉をなぜか思い出す。

――そう、サングラス――ブルーのレンズの奴。
 細いレンズと黒い縁。これを掛けて仕事に向かう事は無くなった。

――後藤には前科があるんだよ。一度、人のもの盗んでるじゃん。
 サングラスを手にする。レンズを服の袖で磨いてみる。目線の位置までそれを
持ってくると、正面にあるテレビが青く映った。
41 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月03日(水)05時34分47秒
 前科。

 一度、後藤は人の物を盗んだ事がある。

 その出来事は切っ掛けでしかなかったのだろうが、人の輪に入ることが苦手な
後藤が孤立を深めていった原因なのだと保田は考えていた。

 夏頃、矢口が新しく腕時計を買った。友達から安く買ったのだとか、限定品な
のだとか、そんな細かい事は忘れてしまったが、矢口が嬉しそうにそれを見せび
らかしていた事は覚えている。特に羨ましがっていたのは後藤だった。矢口と顔
を合わせるたびにその時計を見せてもらっていて、どこで買ったの? いくらし
たの? もう買えないの? そんな言葉を来る日も来る日も繰り返していた。事
件――そう言っていいのかわからないが――が起こったのはそんな時期。ライブ
が終わって、疲れた様子で控え室に帰る面々。それからシャワーや興奮を冷ます
ために各々で喋り合い、ホテルに帰ろうと仕度を始めた時だった。

――あれ? ヤグチの時計知らない?

 矢口の時計が見当たらなくなり、メンバーやスタッフ共々周辺を探し回った。
それでも結局時計は見つかることなく、矢口は悔しそうな表情で帰っていった。
しかし次の日、集合場所に来た後藤の腕に、それと一緒の時計を付けていた事実
に当然のように彼女が疑われる事になる。憤慨する矢口と周りの冷たい眼。唇を
尖らせて俯く後藤は今にも消えそうな声で、一言だけ呟いたのを、きっとあの場
で聞いものは保田しかいなかっただろう。

――これ……あたしのだもん。
42 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月03日(水)05時35分45秒
 ふう、とため息をつく。持っていたサングラスを再びテーブルに置くと、ソフ
ァの背もたれに寄りかかる。首は天井を向き、白い蛍光灯が光を発していた。
 その出来事以前からも、後藤はどこか浮いていた。素直に輪に入れない彼女と
その立場に、矢口が不快に思っていることは何となく気がついていた。それでも
その出来事があるまで、矢口も後藤とはうまく接していたし、責める事も無かっ
た。時計を盗んだ、と言う出来事は、後藤の立場を決定的なものにした。
 自分とさえ話すとき、後藤の視線は散漫になる。まるで小動物のように、常に
回りに気を払っているようだ。

 怯えているのかもしれない……。

 保田はぼんやりと蛍光灯を見ながら思った。
 メンバーにも自分にも……後藤は他人に怯えているのかもしれない。
43 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月03日(水)05時36分34秒
 常に楽屋で一人になる後藤を見るたびに、保田の気持ちが重くなる。でもすぐ
に話し掛けられないのは、自分にさえも怯えているのかもしれない、と言う考え
からだった。

 高い電子音が居間の中に響く。我に戻って視線を向けると、テレビの横にある
棚に置いていた携帯が緑色の光で点滅していた。よっこらしょ、と年寄りのよう
に呟いてからソファから立ち上がるとその携帯をとる。メールだ。

『DVD、明日持ってくからね。けーちゃん、おやすみなさい』
 後藤からだ。

 思わず苦笑いをしていた保田は、それを再び棚の上に置くと思った。
 紗耶香がいない今、あの子を守れるのは自分しかいない。

 ここ数日、同じ事を考えていた。
44 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月03日(水)08時03分02秒
文章がすごく自分的にツボだ
続きが気になる・・・
45 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月03日(水)19時59分44秒
久しぶりに良質な作品に出会った気がする。
期待しています。
46 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時21分58秒
    4

 昨日とはうって変わった青空。

 空気は透き通っていて、降り注ぐ陽射は、コートの中へも入り込んでいるよう
に思え、うっすらと汗さえ滲ませる。巻いたマフラーを取ったのは、事務所の前
に並べられた二台のワゴン車の扉が開いた時だった。

 ぞろぞろと車の中に入っていくメンバーたち。あたしはその最後尾にいて、後
ろ側のもう一台のワゴン車にやぐっちゃんが入っていくのをぼんやりと見ていた。
持っていたマフラーが風に吹かれてなびく。そっとそれを二つに折り畳むと、車
内からあたしを呼ぶか声が聞こえる。背中を押されるように右足を突き出したと
き、視界の端に小柄な女性が映ったのに気がついた。

 あたしはすぐに首を横に向ける。外の冷たい風が彼女の巻いているマフラーを
解こうとして、それを左手で治している姿が見えた。
 やぐっちゃんが乗ったもう一台のワゴン車の後ろをマネージャーに連れられて
歩く市井ちゃん。寒そうに肩をすくめて、事務所から出てくる人間に一人一人に
挨拶を向けている。あたしの心臓が跳ね上がっているのに気が付く。思わず駆け
つけたい気持ちを、胸の奥で息を潜めている不安がそれを制す。まるで門番のよ
うに、その不安は市井ちゃんと接しないように常に見張っているようだった。
47 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時23分33秒
「どうした? ごっちん」
 気がつくと前から二番目の椅子に座っている圭ちゃんが声をかけてきた。あた
しはうん、と返事をするとまた視線を元の場所に向ける。そこにはすでに市井ち
ゃんの姿は無く、事務所の扉が揺れているだけだった。

 息をつく。車内に入って運転席の後ろに位置を取った。真後ろには圭ちゃんが
いて、スモークが張られた窓の外に視線を向けていた。
 体の下からエンジン音が強くなり、車は走り出す。あたしは二枚に折られてい
るマフラーを膝の上に置き、そっと顔を下げる。

 市井ちゃんと話すことが出来ないあたしには、部屋で待っているもう一人の彼
女の存在が大切だった。その存在だけを心の支えにしていた。人に依存する、そ
れほど頼りなく、危険なものは無いと言う事を嫌と言うほど知っているはずなの
に、それでも確実に市井ちゃんが現れた前と後では心の負担は違う。

 仕事で嫌な事があったとしても、身に覚えが無い噂を書きたてられたとしても、
あたしには市井ちゃんがいる――やぐっちゃんからどんなに冷たくされても、部
屋に戻れば市井ちゃんが声を掛けてくれるんだ。

――お帰り、後藤。
 それだけであたしはどんなことがあっても頑張れるのだと思った。

「――ちん? 聞いてる?」
 不意に頭の中に入り込んできた声に我に返る。振り向くと、背もたれの天辺に
肘をついてあたしを見下ろしている圭ちゃんの姿があった。
48 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時24分57秒
「あ、ごめん……何?」
 何って、と圭ちゃんは少しの間不満な顔をしたが、すぐに頬を人差し指で掻く
と仕切り直しとばかりに言った。

「だからね、明日オフじゃん」
「うん」
「せっかく休みが出来たんだから、一緒にどこか行かない?」
「あたしと?」
「他に誰がいるのよ」

 ああ、と頷いてからあたしは視線を天井に向ける。ねずみ色の薄い布が覆われ
ていて、その中心に四角形の蛍光灯が填め込まれていた。
 そうか、明日はオフなんだ、と今更ながらに気がついたあたしは圭ちゃんと遊
ぶと言うことより、市井ちゃんと一緒にいようという考えの方が自然と頭に浮か
んだ。

「ごめん。用事があるんだ」
 そう口に出すと圭ちゃんは残念そうに表情を曇らせる。そっか、見たい映画が
あったのに――そんな彼女の言葉に、あたしは思い出して、鞄から今朝持ってき
たDVDを取り出した。
49 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時27分05秒
「忘れてた。ありがとう、圭ちゃん」
 差し出したDVDを今思い出したと言うような表情で、圭ちゃんはそれを受け
取る。表面を見てから、未見の人のようにそれを裏返して説明書きを眼で追って
いるようだ。

「圭ちゃんは渋い映画見るね」
「そう?」
「うん。いつまで立ってもヒト死なないんだもん」
「なんだよそれ」

 そう言って圭ちゃんは楽しそうに笑った。あたしはそんな顔を見ているうちに
一緒に愉快な気持ちになって、口元に笑みを作る。しかしそれと同時に胸の奥に
存在していたさっきの不安が突然顔を出したのに気がついた。

 圭ちゃんはあたしと話していて楽しいのだろうか?
 本当はみんなとお喋りをしたいのではないだろうか?

 あたしとの会話で退屈した圭ちゃんを思わず想像する。今見えるその笑顔をい
つまでも維持する事など出来るはずがない――そう言う思いから、胸に不安が侵
食していく。

 いつまでもこうして笑い続けられるだろうか――?

 視線は自然と車内の奥のほうに移動する。そこには残りのメンバーが楽しそう
に会話をしている姿が眼に映った。
 圭ちゃんは優しい人だ。それは痛いほど実感しているのはメンバーの中でもあ
たしが一番なのだと思う。こうして話し掛けてくれるのも、輪に溶け込めない自
分を同情してくれているからだろう。
50 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時28分32秒
 でも、優しさが突然消えてしまうことも、あたしは知っている。

 常に傍にいてくれて、見守り続けてくれた優しい視線――その存在が呆気なく
消えてしまったと言う事実が過去にある。あたしがどんなにまだそれが必要だっ
たのか、どんなに助けられていたのか、その事には気がついた様子もなく、その
優しい視線は消えてしまった。

――後藤も立派になったね。
 不意に部屋で待っているはずの市井ちゃんを思い出した。

――もうどこにもいかないよね。
 繰り返すその質問に、いつも的確な答えは返って来ない。

――ずっとここにいてくれるんだよね。
 同じ質問に、同じ意味の質問を重ねる。一人にしないよね、傍にいてくれるん
だよね……。
51 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時29分28秒
 月の光に照らされる市井ちゃんが、その青白い光源の中、徐々に透明になって
いくところを想像した。確かに感じていた体温も、肌の柔らかさも、その瞬間に
は全て幻だった事に気がつかされる。あたしはあの頃のように泣きじゃくりなが
ら床に足を崩し、体に残っている市井ちゃんの存在を延々と反芻する――。

 それは恐怖だった。
 初めて、一人になるということを想像して、恐くなった。

 市井ちゃんが現れる前まで一人だったくせに――また元に戻るだけだと言うの
に――。一度手に入れた物を無くす恐さに気がついてあたしは愕然とした。
 窓に視線を向ける。この瞬間さえもあたしと市井ちゃんの距離は離れ続ける。
時間はまだ午後にもなっていない。部屋に戻る事も出来ない。

 気がつくと膝に乗せていたマフラーを握っていた。決して暖房のせいではなく、
掌に感じる汗。

 市井ちゃんはいつものように部屋で待っていてくれるのだろうか?
52 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月05日(金)05時37分02秒
>>44
珍しい方ですね。
ありがとうございます。
>>45
嬉しいですけど買いかぶりだと思います。
53 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月06日(土)14時12分09秒
お早い更新感謝です。
本当は完結してから読みたいんだけど我慢できなかった。
54 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時50分41秒
   ∞

 その不安は時間が経つに連れてどんどんと大きくなっていた。

 次々とこなして行く仕事。その合間に楽屋での空間。窓の外に視線を向けて、
並ぶ灰色の景色の中に、市井ちゃんとの物理的な距離感を抱く。そびえ立つビル
郡と仕事と言う時間にあたしの動きと視線は囚われる。

 まるで拘束されているようだ。自由に外に出て、市井ちゃんがいる部屋に駆け
つけたかった。そこに存在があると言うことだけを確かめられれば、どんなに楽
になれるだろう。
 胸を突き上げる思い。不安が血管の中に入って体中を循環する。足の先から指
の先まで、黒く変色した血で埋め尽くされているような気がした。

 そんなあたしを不審に思ったのか、何度か圭ちゃんが話し掛けてきた。どうし
た? 顔色が悪いよ、具合悪い?
 その一つ一つの言葉に返す余裕がなくなってくる。ごめんの一言だけで、あた
しはトイレに向かう事を繰り返していた。

 仕事を終わらせれば帰れる。早く仕事を終わらせて、部屋に市井ちゃんがいる
のか確かめなくてはいけない。焦りだけを感じていた。

 永遠ともいえるような時間を過ごして、この日の最後の収録になる。時計の針
は今朝出てきたときからクルリと一周していた。
55 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時52分03秒
 歌の衣装に身を包んで、色とりどりに飾られたセットの上、各々にマイクを渡
される。マイクテストの意味も込めて、順番に返事を取っていく作業に、あたし
は苛々とさせられる。いつもと変わらない作業なのに、それが酷く遅く感じられ
た。まるで自分の考えを見透かされているように、帰さないと意地悪をされてい
る心境になった。

 この仕事を終わらせれば家に帰れる。
 早く終わらせれば帰られるんだ。

 リハーサルさえも邪魔に思えた。何度も繰り返してきた振り付けを一々確認し
なくてもいいのではないだろうかと思った。

「ごめんなさい」
 と声が聞こえるとリハーサルの音楽が止まる。新メンバーが振り付けを間違っ
た様子でへらへらと笑っていた。それに近づくやぐっちゃんは、声を掛けて緊張
を解そうとさせているようだった。それでもその行為自体、邪魔に思えてしょう
がなかったあたしは、苛々としてマイクを握る握力が強くなる。手にはうっすら
と汗が滲んでいた。

「ごっちん」
 その声であたしは振り返る。そこには圭ちゃんが立っていて、表情を強張らせ
ながら言った。

「顔、強張ってるよ」
「……わかってる」

 冷静になろうと、そう言う考えがなかったわけではない。ただ朝から続いた焦
りは、いつしか理性を殺し、それに気が回らなくなっていた。
56 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時53分27秒
「ちょっといいですかぁ」
 やぐっちゃんは突然そんな事を言って周りを止めた。どうやら振り付けの確認
をしているようで、周りのスタッフの動きも急に遅くなる。こうだよ、といいな
がら振り付けを確認しあうその光景を見ながら、あたしはセットから降りた。

 スタジオの隅にある机の上から、さっきまで飲んでいたジュースに口をつける。
舌の上で甘酸っぱさを感じてあたしはいくらか冷静になったらしい。ため息をつ
くと頭に強く感じた脈が納まっていくのを感じた。

 大丈夫。
 大丈夫……。

 根拠もないくせに、自分にそう言い聞かせる。部屋に戻った時、昨日と変わら
ずに市井ちゃんは居てくれる。あたしの前から消えたりなどしない。

「ごっちん」
 振り返るとさっきのように圭ちゃんの姿があって、あたしの横に並ぶように寄
ってくると、机の上のコップを手に捕った。それに口をつける圭ちゃんを見る。
また心配させているのかもしれない、と小さな罪悪感を抱いた。
57 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時54分47秒
「何を焦ってるの?」
 まるであたしの気持ちを見透かしているかのように圭ちゃんは言った。それは
誰から見ても同じような考えを抱くほど、あたしの様子はおかしかったらしいが、
この時、それに気がつくことはできなかった。

 あたしは視線を落として、手に持っているコップに注ぐ。オレンジ色の液体が
小さな波を作っていた。

 スタッフの人やあたしたちの関係者。その視線はどうやらセットの上のメンバ
ーに注がれていたらしい。集団の中にあたしたち二人だけの空間が出来て、傍に
居る圭ちゃんの存在を強く感じた。

「何でもない……」
「何でもないじゃないよ。おかしいもん。見ててわかる」
「何でもないから」

 少し強めの口調で言う。一瞬だけ圭ちゃんは口を閉じたが、すぐに気を取り直
してあたしの肩を掴んだ。
58 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時56分18秒
「最近、疲れてるんじゃないの?」
「またそれ?」

「顔色が悪いよ。ちゃんと寝てるの?」
「そんなのあたしの勝手だよ。何時寝ようが圭ちゃんには関係ない」

「関係なくはないでしょう。そんな顔でカメラの前に立つつもり?」
「メイクでいくらでも誤魔化せる」

「そんなの限度が――」
「それでダメならみんなの後ろに居る。なるべく目立たないようにする。カメラ
に映らないようにする。それでも映ったら事務所に言ってカットしてもらうとか
あたしだけ映らないように言ってもらったり、それから――」
「そう言うことじゃない」

 圭ちゃんは口調を強めた。ギュッと肩を握る手が強くなったようで、圧迫感を
覚えた。

「そう言うことじゃない」
 もう一度圭ちゃんは言う。

「あんたの体を心配してるのっ。毎日毎日そんな顔色で、楽屋の隅でぼんやりと
して……これからもっと忙しくなる。オフだって無くなって来るんだよっ。映ら
ないようにするとかそんな事より、もっと自分の体を――」
59 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時57分38秒
 あたしは捕まれている腕を乱暴に払った。
 収まったと思っていた苛々が再び脳を突き上げるように蘇る。胸から喉へ、足
の先から手の先まで、不快という感情が溢れ返る。

「わかってる」
 圭ちゃんは払われた手を落ち着きなく空中で漂わせた。
 あたしは顔を下げる。今、圭ちゃんの顔を見たら自分でも思っていないことを
口に出しそうで恐かった。

「何でもないの……何でもないから……」
 鼓動が高鳴っている。自分の感情を抑えるのがこんなにも辛いことだと言うこ
とを初めて知った。

「……何でもないって」
 圭ちゃんはそう呟いたまま口を閉じた。

 会話一つもなくなる。無言のまま、その場に立ちつづけるあたしたちは、頭の
中に一言も言葉が浮かぶ事はなく、重苦しい空気を漂わせるだけだった。だから
周りを支配する雑音は不幸中の幸い、と言えるのかもしれない。少しでもお互い
から気を逸らす事が出来そうだったから。
60 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)04時58分46秒
 帰りたかった。
 早く、市井ちゃんの元に帰りたかった。

 その時だった。

 セットの上から高い声が聞こえる。顔を上げて視線を向けると、そこにはメン
バーが笑っている姿が見える。スタッフの一人が何か冗談を言いながら、カメラ
マンに喋りかけている。それを見ているみんなが笑っている――そんな風景が映
った。
 気がつくとあたしはコップを机の上に置いていた。やぐっちゃんが当然のよう
に笑いながら、新メンバーたちとじゃれ合っている姿が見える。振り付けの確認
じゃないの? その為にリハーサルを止めたんじゃないの?

「ちょ――ごっちんっ」
 あたしの足は自然とセットの上に向かっていた。徐々に近くなる照明がたかれ
た世界。スタッフの人の隙間を縫ってその上に立つ。やぐっちゃんはあたしから
向かって奥、なっちとカオリに挟まれた真中に立っていた。

 ごっちん。
 そう言って圭ちゃんが後ろから追ってきた事に、あたしは気が付いていなかっ
た。やぐっちゃんの目の前まで進むと、彼女はあたしの存在に気がついて顔を上
げた。
61 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時00分05秒
「何?」
 その表情にはさっきまでの笑顔は消えていた。

「真面目にやって、早く終わらせようよ」
 あたしの言葉でやぐっちゃんは気に障ったらしく、露骨に表情を強張らせると
小さい体を命一杯に伸ばして胸を張った。

「ふざけてるって言うの?」
「笑ってたじゃん」
「笑っちゃいけないの?」
 そうじゃないけど――。
 そう言おうとしてあたしは口を閉じる。

 気がつくと周りの人たちの視線が注がれているのに気がついた。傍にいたなっ
ちとカオリがいつの間にか距離を捕っている。セットの下から顔を強張らせた圭
ちゃんがあたしたちを見ていた。
 照明が頭上で強い光を落とす。目の前にいるやぐっちゃんの顔が急に白い光に
包まれていくように思えて、何度か強く瞬きをした。それでも目の前の景色は徐々
に霞んでいく。

「まだ時間があるの。本番でシッカリとしたダンスを――」
 そう言うやぐっちゃんの表情を見ているうちに気がつく。強張らせた頬と眉間
の皺。きつめにあたしを見上げる視線。でもその口元には薄っすらと笑みが作ら
れていた。まるでこう言うような状況になることを予想していたように、用意さ
れたセリフがその笑みを作る唇からこぼれる。
62 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時01分14秒
 不意に気がついた。

 業となんだ――。

 やぐっちゃんは業と時間を取ったりしていたのではないだろうか? あたしが
焦っていることに気がついていて、遠まわしに嫌がらせをしているのではないだ
ろうか?

 そう思うと段々と悔しくなってきて、苛立ちは嫌悪に変わっていく。目の前の
小さな体の彼女の姿を見るたびに、脳が強く脈打つのに気がついた。

 あたしは早く帰らなければいけないのに――。
 帰って市井ちゃんの存在を確認しなくてはいけないのに――。

 気がつくとあたしは両手でやぐっちゃんの体を力一杯に押していた。どん、と
鈍い音を立てて床の上に倒れる小さな体。一瞬だけ周りの空気が止まったような
気がした。

「ちょっと!」
 すぐにあたしの元に駆け寄ってきたのはセットの下で様子を伺っていた圭ちゃ
んだった。彼女はあたしの肩を強く掴んだが、乱暴にそれを払うと床の上に倒れ
ているやぐっちゃんに手を伸ばそうとする。
63 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時02分27秒
「やめなさい!」

 夢中だった。
 悔しくて、悲しくて、その思いをやぐっちゃんにぶつける事に必死だった。そ
うすれば少しでも気が晴れるかもしれない、少しでも楽になれるかも知れない、
そんな思いがあったのかもしれないし、ただ単に苛立ちをぶつけていただけなの
かもしれない。それは後になってもわかる事は無かった。

 あたしは訳のわからない言葉を叫んで、やぐっちゃんに飛び掛ろうとしていた。
しかしすぐに圭ちゃんは背中から腕を回してそれを制す。それでも気が治まらな
くて、体を乱暴に捩ってその拘束から抜けようとした。

「やめな! ごっちん! やめなさい!」
 すぐに回りのスタッフが駆けつけてきて、あたしは大人の力で押さえつけられ
た。心臓が跳ね上がっていて、息が乱れる。セットしたヘアスタイルも乱れてい
て、やぐっちゃんが握っていたマイクが床の上を転がっているのに気が付く。

 トクトクトク……。
 心臓の脈を感じる。
64 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時03分20秒
 両腕を押さえつけられてやぐっちゃんから離されていくとき、あたしはぼんや
りと照明を見ていた。どうしてこんなにもこの光は乱暴なのだろう?
 部屋の中の、月と街灯が交じり合う、あの光はあんなにも優しくて暖かいのに、
どうしてこの光はこんなにも乱暴なのだろう――?

 やぐっちゃんに再び視線を落とすと、ゆっくりと床から立ち上がり乱れた髪の
毛の隙間からあたしの様子を伺っていた。

 その口元にはさっきと変わらない笑み。

 どうやらあたしは、まんまとやぐっちゃんに嵌められたらしい。
 それは後になって気がついた。
65 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時05分27秒
    ∞

 テレビ局から出て、出口の前に止めてあったタクシーに乗り込んだとき、空は
闇が覆い、無数の星たちが宝石のように散らばっていた。その前方側には薄い雲
が流れていて、半月が顔を覆われている。それでも何分も立たないうちに、ゆっ
くりと鈍い光がアスファルトの上に落ち始めていた。
 タクシーに乗ると暖房の暖かさが体に染みる。マフラーを緩めて、コートの中
に入れていた手を膝の上に置く。乱れた髪の毛を空いた片方の手で溶かしながら、
その視線は移り変わっていく街の風景に注いだ。

 通り過ぎていく反対車線の車。ヘッドライトが空中で踊り、いくつもの残像を
作る。歩道には眼の裏を刺激するネオン。人々の姿はどこか足早で、みんなポケ
ットや袖に手を隠していた。
 タクシーが信号待ちで止まる。ブレーキの振動で体が前傾になり、それからゆ
っくりと背もたれに寄りかかる。白い布の匂いは頭の奥に入ってきて、チクチク
と針で刺すような刺激を与えた。

 最後の収録をギスギスした空気のまま終わらせると、あたしは猪の一番に楽屋
に戻り衣装から着替えた。戻ってきたメンバーたちが焦りながら帰りの用意をし
ているあたしに不思議な視線を向けるものの、何も喋りかけては来なかった。リ
ハーサルの件が尾を引いていることは誰が見ても明らかだったが、その時のあた
しにはそれがありがたかった。
 その後も反省会や、明日の事などでマネージャーから知らせがあるのだが、あ
たしはそのどれもすっぽかして、楽屋を逃げるように出た。すれ違い様に圭ちゃ
んがあたしの名前を呼んだような気がしたが、返事をする事も振り返る事もしな
かった。
66 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時06分41秒
 膝の上で両手を組む。焦りを感じて指先を動かし続ける。車内のラジオからは
市井ちゃんの声が聞こえて、それは胸の奥をきつく締め付けた。
 連日とも言えるように、ラジオからは市井ちゃんの声が聞こえる。明るく笑う
声や真剣に語ろうとする声。そのどれもが記憶の中にあるそれとシンクロする。
真剣な表情で圭ちゃんと話し合う横顔を、あたしは背伸びをするように眺めてい
た記憶。眉間に皺を寄せて演技口調で怒られた記憶。それで泣いたら何も言わず
に頭を撫でてくれた暖かい掌。

 あたしはもうラジオの中の市井ちゃんと会うことは出来ないだろうと思った。
あの時のように、市井ちゃんは自分に接してくれない。あたしとの間に出来た時
間と立場と言う溝は、昔のような関係に戻る事さえも否定する。

 あたしは変わったんだ。

 あの時の、何もわからないで、市井ちゃんの背中を追っていた時の自分ではな
い。一人で、色んな事を判断できるようになった。メンバーの中での自分の立場
や、ユニットの時の役割。あの頃のように背中を追う立場ではなく、追われる立
場へとなった。

 だから、あたしはもうあの頃のように市井ちゃんと接する事が出来ない。

 それが酷くストレスを与えていることには気がついていた。だから、もう一人
市井ちゃんがあたしの前に現れてくれたのだと思う。
67 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時07分43秒
 タクシーは走り出したかと思うと、数分もしないうちに止まる。顔を上げてフ
ロントガラスから外を見てみると、道のどこまでも続くように車が列を作り、白
い煙が夜空へと向かっていた。

 渋滞だ。
 苛々としてくる。
 胸の奥で焦りが収まらない。
 それに感化されるように体が疼くのを感じた。
 眼を閉じる。暖房と市井ちゃんの声に包まれながら、そっと胸を右手で抑える
と心臓が全力で走ったときのように跳ね上がっていた。

 わかっていた。
 部屋で待っている市井ちゃんが本物ではない事を。

 手に触ったぬくもりも、その声も、全てあたしがそう感じているだけなのだと
いう事も。

――人の頭は幻を作り出す事だってありえるんだよ。

 あたしがあの頃に戻りたいと願い、それと同時に現れた現実の市井ちゃんから
のストレス。その他にも色んな事が自分を追い詰めていて、その結果現れたもう
一人の市井ちゃん。
 依存するにはあまりにも弱々しくて、頼りなくて、常に安心する事なんて出来
ない。いつも傍に居る時も不安は常に存在してあたしを締め付けていた。

 安心したかった。
 何も締め付けることがない、そんな時間を過ごしたかった。
68 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時08分51秒
 高いクラクションの音にあたしは顔を上げた。運転手が舌打ちをして、どうや
ら事故があったみたいですね、と体を動かさないまま言った。窓の外に視線を向
けると、周りには車が動く事もなく囲んでいる事に気がついた。

 空には半月。
 薄い雲が静かに流れていく。

「いいです」
 え? と運転手が答えた。
 あたしは鞄から財布を取り出しながら言った。

「ここでいいです」
「でもまだかなりの距離が――」

 あたしは財布からお金を取り出して運転手に差し出した。彼は口を閉じると、
諦めたように息を吐いてメーターを止める。ドアが開いて外の外気が襟元から入
ってくる。緩めたマフラーを締めなおしてからお釣りを貰った。

 外に出て、車道から歩道へと車の隙間を縫って移動する。暖房で熱った体がす
ぐに冷まされて、手足の動きを鈍くする。息を吐くと、車から出る煙のように白
く空中に舞っていった。
69 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時10分04秒
 鼓動が高鳴っている。
 目の前の景色は依然として歪んでいて、あたしの横を通り過ぎていく人たちの
声は、まるで白衣の人物のように、ビデオが空回っているように思えた。

 あたしは自然と走り出していた。
 肩に掛けた鞄はその振動で上下に揺れる。瞬間的に重さを倍にして、きつく皮
膚に食い込む。少し大きめのスニーカーは走る事には不適切で、足首に力を入れ
てそれが脱げないように気を使った。

 頬を切る風。解けそうになるマフラー。体力には自信があるほうだが、走り続
けるうちに息が切れ初めて、喉の奥が乾いてくる。唾を飲み込むとうまく通り過
ぎていかない。嗚咽を感じて、唇を硬く閉ざした。
 色とりどりのネオンを浴びながら人の隙間を縫う。車道に出来る渋滞を横目に、
徐々に体が熱ってきたのに気がついた。マフラーが邪魔に思えて、信号待ちのと
きに鞄の中に詰め込む。息を切らしながら左右を見て、今にも落ちてきそうな星
の煌きに、あたしは自分自身の奥底に入り込んでいくのを感じた。
70 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時11分07秒
 人は変わり続けていくものなのかもしれない。
 でも変化を苦痛に感じるのも、自然な事なのかもしれない。

 あたしの中の変化は、孤独だった。

 市井ちゃんが居なくなって初めて気がつく孤独。楽屋でメンバー同士、グルー
プになる時、一人で部屋の隅に居ることが多くなっているのに気がついた。楽し
そうに笑うみんなを、まるで透明人間のように眺める自分。輪に入る切っ掛けを
常に頭の中で考えて、どんなセリフを口にするか、選んだ言葉を延々と反芻して、
そしてそのタイミングさえも逃してしまう。市井ちゃんが居た時は、何も考えず
にその中に入ることが出来ていたように思える。あたしが話し掛けたら、しょう
がないように笑って市井ちゃんが手招きをする――そんな時間が確かにあったこ
とを思い出す。

 一杯泣いた。
 ラジオでも楽屋でも、最後のコンサートでも……いっぱい泣いた。

 その涙が枯れた時、あたしは再び前に進む事が出来るだろうと思っていた。も
う誰にも支えられなくても大丈夫なように、二本の足で立てるのだと思っていた。
でも、みんなが思っているほど、あたしは強くなく、大人でもなかった。その事
実を自分でさえ気がつくのに時間が掛かった。
71 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時11分58秒
 額に汗が浮かぶ。心臓が跳ね上がり、息が続かない。足は重く、スニーカーを
何度かアスファルトの上に投げ出した。靴下の下の地面は氷のように冷たくて、
スニーカーは鉄のように重かった。横腹を内部から殴られているような痛みを感
じる。喉を突き上げる嗚咽。髪型をすでに気にすることはなくなり、店先の闇を
落としたガラスに映るあたしの姿は、テレビの前の形を残しては居なかった。

 何十分走り続けただろう。そんな長い間走れるとは自分でも思わなかった。
 家の前の路地、点滅する街頭を通り過ぎて少し進むと、闇を落とした家の前に
着く。ドアを乱暴に開けて、靴を脱ぐ事さえも邪魔に思えた。階段を駆け上がっ
て、二階の廊下の、一番突き当たりに来る。ドアノブを握った瞬間に、全身に溜
まっていた疲れが暴れだした。
 息をする事さえも苦しくて、まるで泣きじゃくる子供のように肩を揺らした。
ステンレスのノブはアスファルトの地面よりも冷たく、掌を痺れさせる。

 唾を飲み込む。
 言い知れない緊張感が体を覆う。まるで誰かを背負っているかのように、両肩
に重みを感じた。
72 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時12分53秒
 幻でも何でもいいから……。
 本物じゃなくてもいいから……。
 だから市井ちゃん、いつものように声を掛けてよ。

 あたしはそっとドアを開く。いつもの青白い光が足元にこぼれる。冷たい空気
の中の暖かさ。照明とは別の優しい光。
 鼓動を高鳴らせながら、あたしは顔を下に向けて部屋の中に入る。ドアを離す
と自然と閉まり、ガチャ、と静かな空間に音が響いた。

 顔を上げる。
 いつもの位置、窓の下の壁。

 しん、と物音一つしない薄暗い部屋に、あたしと市井ちゃんとの間に、窓の形
になった青白い光が張り付いている。ガラスを通して見る夜空には、丁度正面を
位置にあの半月があたしに顔を向けていた。
 市井ちゃんはあぐらをかいた状態で壁に寄りかかり、顔を少し上にして、まる
で無言の音楽を聞いているかのように眼を閉じていた。優しい光に包まれる彼女
の周りには、色んな思い出やあたしの気持ちが重なっている。それが心地よいの
か、口元には静かな笑み。
73 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時13分58秒
「……市井ちゃん」
 あたしは息を切らしながら言う。

 市井ちゃんはそっと眼を開けると、印象的な唇をゆっくりと動かした。

 お帰り、後藤。
 いつものその一言。

 心から安心して――。
 あまりにもその声が優しすぎて――。

 あたしの頬に、一粒の涙が伝った。
74 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月07日(日)05時17分48秒
>>53
更新が早いのは初めだけです。
暇な時にでも目を通してくれるとありがたいです。
75 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月08日(月)23時49分44秒
痛いなあ、後藤が……
どうか救いがありますように。
76 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月10日(水)17時08分36秒
描写が綺麗だなぁ。
読むのが勿体無いくらい。頑張って下さい。
77 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月11日(木)07時35分59秒
夜勤明けに読むにはちと辛い(w
でも読まずにはいられない
78 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時16分56秒
    5

 白い、白い空間。
 目の前の人物は感心したとばかりに椅子にのけぞると、うっすらと口元に笑み
を作る。逆光に黒く染まったその顔に、真っ白い歯がこぼれた。

 あたしは椅子に座り、以前のように太股の間に手を挟める。まるで迷子の子供
のように首をキョロキョロと動かしていると、白衣の袖を捲くって、その人はゆ
っくりとした口調で言った。

「そうだね、君は幻だという事を自覚しているんだね。でも多分、彼女は自分の
事は幻だとは思っていないよ……うん、その通り、意思がないんだと思う。君の
都合のいいように喋りかけてくれるだろうし、頭だって撫でてくれるだろう。望
めばどんな姿だって見せてくれる……そう、君が感じているのは幻だよ。感じる
ぬくもりも感触も……」
79 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時18分15秒
 白衣から出た腕は想像していたより細い。影を落とし、白い肌は半分黒くなる。
そっとその腕をもう片方の手で寒がる人のように何度か撫でると、あたしの視線
を気にしてか袖を下ろした。

「例えば――」
 あたしは顔を上げる。
 照らされる陽射がとても眩しくて、思わず眼を細めた。

「例えば事故で腕を無くした人が、その無くした腕が痛いと言う話をよく聞くこ
とがあるだろう? それは決して嘘をついているわけではなく、脳がまだ腕があ
ると勘違いしているんだ。だからね――」
 別に話を聞かなくてもいいたいことはわかっていた。あたしが強くそう望むか
ら、脳はありもしないものをあると認識している――目の前の人物はややこしい
言い方でその事を伝えた。あたしは曖昧に返事をしながら、早く帰らなくてはい
けないと思った。

 折角のオフなのに、どうしてこんな所に居るのだろう?
 そう思った。
80 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時20分33秒
 頭の中に響いてくるその人の声を聞くたびに、不快な気持ちになり、表情をわ
ざとらしく歪めてみるが、そんなあたしの無言の抗議には気がつかない様子で、
べらべらと口から難しい言葉が出てきた。
 左耳から右耳へ、その人の言葉が流れていく。しかし、最後の方だろうか、そ
の人の言葉は頭の中心で引っかかり、それはこれから先、あたしを苦しめる事に
なる。

「――だから、その幻は消えてしまうんだ」

 え? と声を出すと、その人は一瞬だけ口を閉じてからあたしの様子を伺う。
さも当り前のように言った言葉に、これだけ反応するとは考えてもいなかったよ
うだ。

 白衣の人物は少しだけ体を浮かせて椅子に座りなおす。しばらくわざとらしい
間を空けると、咳払いを一つした。
「幻は永遠ではない」
 あたしは黙ったまま逆光の顔を見る。

「君が必要ないと感じた時――必要がなくなるとき――君の意思とは関係なく、
その幻は消えるだろう」
 その言葉はあまりにも重過ぎた。
 あたしは太股に挟めていた手を、そっと左胸に当てる。トクトク、と心臓がい
つもより強く脈を打っている。

「幻は永遠ではない」
 もう一度同じ言葉を呟いて、その人は口を閉じた。

 その後も、あたしの心臓は強く、そして早く脈を打ちつづけていた。
81 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時21分49秒
    6

 起きた?

 その言葉で目の前にある市井ちゃんの顔が徐々にはっきりとしてくる。頭の中
心が未だにぼんやりとして、自分がどう言う状態になっているのかも判断できな
いのに、青白く照らされるその優しい顔を、すぐに市井ちゃんだとあたしの脳は
結びつけたようだ。

 眠っていたようだ。
 市井ちゃんの膝の上、優しく包むぬくもり。

 あたしの顔を覗き込むように視線を落とすその表情に心臓の高鳴りがゆっくり
と収まっていくのを感じた。起き上がろうか、と一瞬だけ考えてやめる。少しだ
け甘えてみたくて、そっと顔を横に向けると右腕を腰に回して抱きついてみた。

「後悔してる、あたし」
 どうして?

 市井ちゃんはそう言ってあたしの頭を優しく撫でてくれた。まるで髪の一本一
本に神経が伝っているのではないだろうかと思うほど、絡みつく市井ちゃんの指
先を感じる。
82 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時22分51秒
「今日、オフだったんだ」
 そうだね。

 回している腕に人のぬくもり。お腹に顔を埋めるようにしているため、柔らか
い感触が鼻の天辺に感じる。冷え切った部屋の中の空気に、唯一の暖房を見つけ
たような気がした。

「ずっと一緒に居ようと思っていたんだ。一杯、いっぱい、お喋りとかしようと
思っていたんだ」
 うん。

 あたしは顔を少しだけ市井ちゃんから離すと、視線を上に向けた。そこにはさ
っきと変わらない、優しい微笑を浮かべている顔が見えた。

「下らない事とか、何の意味もないこととか……好きな映画とか、好きな食べ物
とか、好きなテレビとか……好きな音楽とか……そう言うの。そう言うようなこ
といっぱい喋ろうと思っていたんだ」
 うん。

「でも寝ちゃったら、そんな事もできなくなるじゃん」
 うん。

「だから、後悔してるの。寝ちゃった事に」
 おかしいね、そう市井ちゃんは呟いてあたしの頬を触った。まるで昔のように
それを軽く抓ってから離すという行為に、言い知れない懐かしさが襲った。鼻腔
を突き上げるものを感じて、思わずまたお腹に顔を埋めると鼻を啜る。柔らかい
光が、何故だかこの時だけ乱暴に思えた。
83 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時24分09秒
 それからしばらく涙を我慢したあたしはゆっくりと体を市井ちゃんから離れて
起き上がる。床で眠っていたせいか、体のあっちこっちに痛みを感じて、疲労感
からため息をつく。市井ちゃんはそんなあたしの行動を無言のまま視線で追って
いた。

 あたしたちはいつもの場所に居たようだ。窓の下の壁。部屋の中心には四角い
形の光が張り付いている。その周辺に散らかっている買い物袋が僅かに反射して、
キラキラと光る。ぼんやりとそれに視線を向けていたあたしは、不意にあの言葉
を思い出した。

――だから、その幻は消えてしまうんだ。
 市井ちゃんに視線を向けると、右足を伸ばし、左足は折り曲げて膝を立たせて
いる。両手は糸が切れたマリオネットのよう両側に垂れ、床に届いた手首は力な
く手の甲を下に曲がっていた。

――幻は永遠ではない。
 その言葉は悪夢だった。
 市井ちゃんが居なくなったら、あたしはまた一人になる。
 市井ちゃんが消えてしまったら、あたしはずっとこの床の上で泣き続けなくて
はいけない。
84 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時25分12秒
 こんなにも不安になることは耐えられなかった。

 いつか消えてしまうと言う市井ちゃんを完全なものにしなくてはいけないのだ
と思った。そうすればあたしは安心できる、安心して市井ちゃんの声やぬくもり
を胸に、仕事や離れた場所にも行ける。帰ってきたらあたしを待っていてくれる
のだと言う、確かなものがほしかった。

 あたしはそっと市井ちゃんと向き合うように座り直す。垂れ下がっている両手
を包み込むように握り、その冷えた体温を暖めるように少しだけ強く力を入れる。
指の隙間から逃げるぬくもり。その代わりにあたしのぬくもりを、市井ちゃんは
感じていてくれているだろうか?

 一緒に居られるだけでいい。
 これからもずっと、傍いられればいい。

 だからあたしを襲う不安は消し去らなければ行けない。幻でもなんでもいい、
それがいつまでもあたしの中に存在できるように、この空間とこの時間を守らな
ければいけないのだと思った。

 あたしはその為ならどんな事でもする覚悟がある。
 この不安から逃れられるのなら、どんな事でも出来る。

 あたしは目の前の市井ちゃんを見る。薄暗い中の、その静かな空間にあたしの
息が乱れていて、それを心配するように首をかしげている。その仕草さえも消え
てしまわないようにしなくては行けない。
85 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時26分11秒
「市井ちゃん――」
 あたしが呟くと、市井ちゃんは何? と静かで落ち着きのある声で答えた。

「大丈夫だから……」
 市井ちゃんは微笑んだままあたしを見ている。

「あたし、頑張るから……」
 うん。

「市井ちゃんがずっとここに居られるように、あたし頑張るから」

 僅かだが握っている市井ちゃんの手にぬくもりが移り始めた。あたしの体温を
吸い込んで、徐々に温かみを帯びるその体。あたしはいくらでも自分をささげら
れるだろう。あたしの胸には色んな思い出があるから、いくらでも市井ちゃんに
それをささげる事が出来る。

 市井ちゃんは、あたしの言葉をわかっているのかいないのか、微笑を絶やす事
は無く、同じような返事を繰り返すだけだった。
86 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)04時32分22秒
>>75
そんな後藤を見守ってやってください。
>>76
そんなたいそうな物じゃないです。
頑張ります。
>>77
無理せず、それでも見守ってやってください。
87 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時27分52秒
    7

「サングラス?」

 保田は脱いだコートを左腕に掛けると、一歩ほど間を置いて話し掛けてきた後
藤に視線を向ける。彼女はうん、と呟いてから口元に微妙な笑みを作った。
 これ? と言いながら掛けてきたサングラスを外す保田だが、後藤が言ってい
る物はない事に気が付いていた。予想通り首を横に振る反応が返って来る。

 脱いだコートを楽屋の奥に掛けると、サングラスを鞄の中にしまった。周りに
はすでに到着しているメンバーたちが所狭しと散らばり、七色の声がその部屋の
中に響いていた。後藤は入り口のドアの前に立ち、奥に移動した保田を視線で追
っている。すぐに戻るだろうと思っているようだ。
 その考え通り保田は再び後藤の元に歩み寄る。中央に設置された机の上からス
ナック菓子を一撮みして、それを口の中に放り投げた。

「あのサングラスの事?」
「うん」
 紗耶香から貰ったサングラスの事だ、すぐに保田は気がついた。

「掛けてきてよ、明日」
「どうして?」
88 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時30分51秒
 見てみたいんだ、そのサングラスを掛ける圭ちゃんを見たいんだ、後藤は笑顔
のままそう言って保田が頷く事を待っている様子だった。しかしそれに素直に頷
けないのは、胸の奥に引っかかる違和感とも似た感情だった。どうして急にそん
な事を言うのだろう? その単純な疑問は、一昨日の後藤の態度と重なり合うと、
言い知れない思いが沸き起こる。

 目の前の後藤は、保田の心配とは余所にいつもの笑顔を作っていた。自分がこ
こに来るまでに、どれだけ後藤のことを考えていたのか、きっと彼女は気が付く
ことはない。一昨日の出来事と、矢口と顔を合わせなくては行けない後藤の気ま
ずさを延々と想像して、タクシーの中でため息だけを吐きつづけていた自分。き
っと仕事場に行き難いはずだと思い、電話を掛けようかと家で迷いながらも、結
局は通話ボタンも押す事ができなかったことも、後藤は知るはずがない。

 楽屋に入ってきた保田を、さも待っていたかのように近づいてきて、サングラ
スの事を口にする後藤。前までは彼女から話し掛けてくる事がなかったため、そ
の行動には少なからずとも驚きを感じた。しかしそれがイコール前向きに変わっ
たとはどうしても保田には思えなかった。一昨日の出来事の事ももちろんあった
が、目の前の笑顔には、無理して作り笑いをしている感が否めなかったからだ。
89 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時32分30秒
「別にいいけど……」
 保田はそう言って近くにあった椅子を手繰り寄せるように引き摺ると、背もた
れを前に後藤が見えるように座った。
 後藤は落ち着きなく両手を空中で泳がせながら保田を見下ろす形になる。時々
前髪に伸びるその手は、糸のように細い髪の毛に吸い込まれていく。

「ほんと?」
「別に掛けてくるぐらい何でもないでしょう?」

 ありがとう、そう言った時の後藤の微笑みに保田は一瞬だけ視線を囚われた。
その微笑みはさっきまでしていた作り笑いなのではなく、昔いつも見ていたよう
に、純粋に、眼を細める愛らしい顔だった。どうしてそんな事で嬉しいのだろう?
ただサングラスを掛けてくるだけだと言うのに。

 そう考えた時、不意に思い出す出来事があった。
 矢口の腕時計が盗まれた時の事。
 何故だかそれを思い出した事に後悔して、考えを頭の中から追い払う。

「じゃあ、約束だからね」
 弾む声で離れていこうとする後藤に、保田は思わず声を掛けていた。

「ちょっと待って」
 その言葉に肩を捕まれたように後藤は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

「何?」
 保田は周りに視線を向けた。
90 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時33分18秒
 新メンバーたちはまだ来ていない。楽屋の奥では矢口となっちの姿が見える。
二人で携帯を見せ合いながら何やら話しこんでいる様子だった。その他のメンバ
ーたちはスタッフやマネージャーに話し掛けているものも居れば、それぞれでカ
ップルになっているものもいた。誰も自分たち二人に視線を向けていないと言う
事はわかっていたが、それでもどこか気を使って保田は椅子から立ち上がり、後
藤のもとに歩み寄ると、声を潜めていった。

「一昨日……一体どうしたの?」
 声を潜める保田とは余所に、後藤は何の事を聞かれているのか一瞬だけわから
なかったらしく、その視線が空中で泳いでいた。しばらく黙ったまま彼女の言葉
を待つ。ああ、と思い出したのか、後藤はいった。

「大丈夫だよ。心配掛けてごめんなさい」
「……大丈夫って」
「圭ちゃんが言うように、ちょっと疲れていたんだ」
「…………」
「昨日いっぱい休んだから、もう大丈夫だよ」
91 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時34分07秒
 そう、と言葉を返すと後藤は楽屋の隅に移動していった。

 後ろ姿を見ながら、その言葉は嘘だろうと思った。
 なぜなら後藤の眼の下には隈がはっきりと現れていたから。

 まるで何かに生気を吸い取られているのではないだろうかと、怪談めいた想像
をした。生きた人間から生気を奪い去っていく妖怪。確か昔アニメで見た覚えが
あったが、それがどう言う名前だったかは忘れた。ただ徐々にやつれて行くその
アニメの中のキャラクターが特に印象に残っていて、それと同様に後藤の顔から
も疲れが目立つようになってきた。

 何かおかしい。

 ここ数日間の間で、少しずつだが後藤が変わっているように思えた。それはも
しかしたら疲れが目立ち始めているだけなのかもしれないが、漠然とした不安は
彼女を見るたびに大きくなっていて、そんな単純な事ではないような気がした。
ただ保田自身も何がおかしいのか、明白に理解しているわけではなかった。だか
ら後藤に対してどんな言葉を掛ければいいのかまったくわからない。

 その後の仕事もそんな不安を抱き続けながらこなす事になる。
 後藤はその日、保田以外とは喋る事は無かった。
92 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時35分30秒
    ∞

――気をつけたほうがいいよ。

 保田は部屋に戻ってきてその言葉を思い出した。ソファに倒れるように座り込
む。体中を暴れていた疲労がため息をつくとゆっくりと逃げ出していく。テーブ
ルには最近出したままになっているサングラス。ブルーのレンズが蛍光灯にあて
られて向こう側の景色を透き通らせていた。

 そのサングラスを手にとって掛けてみる。青い蛍光灯に青いテーブル、テレビ
も壁もカーテンさえも青に染められ、心の中にゆっくりと影が落ちていくのを感
じた。

 仕事が終わった時だった。いつものように解散した後、保田は鞄に荷物を詰め
込みながら後藤の様子を伺っていた。自分から話し掛けると言う積極的な行動を
取ったのは保田が楽屋に入ってきた、あの一回のみだけで、後はいつものように
一人で孤独を作る彼女に気軽く話し掛ける事が出来なくなっていた。予想以上に
一昨日の出来事が胸の奥に引っかかっているのに気がついて、自己嫌悪とも近い
感情が沸き起こってくる。あの時に後藤が起こした突然の行動を恐い、と感じて
いた。
93 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時37分03秒
 もしかしたら自分は他のメンバーのように、後藤に苦手意識があるのかもしれ
ない。それでも話し掛けると言う行為で、あの子を守っていると言う優越感に浸
っているだけだったのかもしれない。だから、小さな暴力的な行動に、その意識
が感化されて体が後藤に近づくたびに拒絶する。

 その考えに気がついて、自己嫌悪しているときだった。矢口が上着を羽織って
近づいてくると、ちょっといい、と声を掛けて楽屋から連れ去られる。廊下に出
るとドアの脇で矢口は小さい体を伸ばしながら保田を見上げた。

――気をつけたほうがいいよ。

 唐突にその一言。は? と声を出すと矢口は周囲に人がいないことを確かめて
言った。

――サングラス。今朝後藤が言ってたでしょ。

 どうやら今朝のやり取りを矢口は見ていたらしい。保田は一瞬だけ頷く事を躊
躇ったが、それを待つことは無く矢口は言葉を続けた。
94 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時38分17秒
――急に掛けて来いって、明らかにおかしいじゃん。
 そうかな、と答えながらも矢口と眼を合わせることが出来なかった。

――同じだよ。時計が無くなった時と。
 保田は無言のまま矢口の言葉を待った。多分、この時の矢口は自分が話す事だ
けで満足していたようだ。返事など期待していなかった。

――サングラスも盗むつもりなんだよ。
 思わず、まさか、と声を上げていた。

 いくら後藤を嫌っているからと言って、あまりにもその考えは酷すぎる。そう
口に出そうとしたが、矢口は気をつけるんだよ、と言い残して走って消えていっ
た。廊下の奥ではなっちが様子を伺っていて、どうやら一緒に帰るらしい、矢口
と合流していた。

 保田はサングラスを外した。
 それをテーブルの上に置く。
 視線をテレビに向けると、自分たちのCMが映っていた。
95 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時39分02秒
 数秒間だけ映る後藤の顔。ため息をついて背もたれに体を倒す。額に腕を乗せ
ると熱っぽさを感じた。
 矢口はきっと一昨日の出来事をまだ根に持っているのだ。突然体を押されて床
に倒された事。その仕返しとばかりに唯一後藤と話をする自分に疑心を持たせた
いのだと、そう思った。
 付けて来てよ、と言った本人がそれを盗むなんてあまりにも直接過ぎて馬鹿げ
ていると思う。そんな事をすれば誰が盗んだかなんてすぐに分かる。そんな短絡
的な行動を取るはずがない。

 しかしそう思ってみて思い出す。

 だったら時計の時はどうだっただろう?
 盗まれた次の日に付けて来ると言う行動を取った後藤。
 それはあまりにも単純過ぎないだろうか?

 そんな単純な行動を取った後藤なら、サングラスを盗む時だって同じことしな
いとは限らない――。
96 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月16日(火)18時41分54秒
「あほか」
 独り言を呟いて保田はため息をつく。

 どうやら自分は矢口の術中に填っているらしい。いつの間にか後藤に疑心を抱
いていた事に罪悪感を覚える。彼女が自分にそんな事をするはずが無いと言い聞
かせて再びサングラスに手を伸ばす。

――後藤には前科があるんだよ。一度、人のもの盗んでるじゃん。

 サングラスを手に取る前に不意に蘇るその言葉。

 前科と言う言葉に、後藤を完全に信じきれない自分がいた。
97 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月18日(木)20時39分37秒
後藤が切ないなぁ・・
保田は疑わないでやってくれ
98 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月19日(金)10時07分52秒
続き期待sage
99 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時11分03秒
   ∞

 次の日、楽屋の中に入った保田は、自分がした挨拶に何も返って来ないことに
気が付いて顔を上げた。

 メンバーは半分ほどの人数で顔を揃えている。ドアから正面の窓はブラインド
が下ろされて、その周辺に吉澤となっちが体を寄せるように部屋の中心に視線を
向けている。一体何事だろう、とその視線を辿ると、中央に置かれたテーブルに
付く矢口の傍に後藤が立っていた。

 二人は表情一つ変えずに向かい合っている。
 思わずドアを後ろ手で閉める。中の光景を誰にも見られてはいけないと思った。

「……何?」
 矢口が椅子に座りすぐ横に居る後藤を見上げながら呟いた。その口調はいつも
のように刺がある。後藤は一瞬だけ保田に視線を移してから、再びそれを元の場
所に戻す。揃った前髪を左手で摘んでから言った。
100 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時13分19秒
「……ブレスレット」
 別に喧嘩を始めようとしている訳ではなかったようだ。周りのメンバーが黙り
込み、二人の様子を伺っているのは、どうやら後藤が自分から矢口に近づき話し
掛けたことが珍しかったらしい。

「ブレスレット?」
 一体何の事を言っているのかと言うような表情で、矢口は声を上ずらせながら
いう。後藤は小さく、うん、と呟いた。

「いつもしてる奴……どうして今日は付けてこなかったの?」
 ああ、と保田は思い出す。そう言えば矢口はいつも同じブレスレットをつけて
いた。彼女の右腕に視線を向けると、確かに今日はそれがない。
 矢口は一瞬だけ自分の右腕に視線を落とす。今更ながらそれがない事に自分で
も気が付いていなかった様子で、左手でニ三度手首を擦った。

「……忘れてきただけだよ……そんなのあたしの勝手でしょう」
 そう言った矢口は保田に視線を向ける。どうやら入ってきた事に気が付いてい
なかった様子で、挨拶をしようとして口を閉じた。

 その一瞬の表情の変化を保田は見逃さなかった。
 矢口は保田の姿を見て何かを思い出した様子で、不意に口元に笑みを作ると後
藤を見上げる。
101 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時14分24秒
「また……盗むつもりじゃないの?」
 その小さな囁きは、一瞬だけ楽屋の空気を凍らせた。どうやらその場に居る全
員の頭の中に、同じ出来事が過ぎったのだと保田は思った。

 腕時計の事件。
 後藤は無表情のまま矢口を見下ろしていた。

「昨日、圭ちゃんにも同じこと言ってたでしょう。ヤグチ、聞いていたんだ。サ
ングラスを掛けて来いって……時計の時も、同じようなこと言ってたよね」
「…………」

 後藤は否定をすることもなく、矢口の言葉を黙ったまま聞いていた。周りの突
き刺さる視線が痛々しく思えて、保田は思わず二人に近寄る。

「矢口、もうやめなさい」
 矢口は保田に視線を向けてから、あからさまに皮肉を込めて言った。

「ブレスレットを盗まれそうになったんだよ。あたしは間違った事、言ってない」
「それでも言い方があるでしょう」

 保田は二人の間に入るように体を割り込ませる。押し出されるような形で後藤
が二歩三歩、と後退りした。

「それに盗むなんて誰が言ったの。ただブレスレットどうして付けて来なかった
のって聞いてきただけでしょう」
「おお、こわっ」
102 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時15分39秒
 矢口はわざとらしく肩を竦めて言った。そのふざけた態度に苛立ちが沸き起こ
ってきた保田は、声を上げようと口を開いた時、自分の袖を引っ張られる気配に
気がついて首を後ろに向けた。

 そこには後藤いて、まるで子供が心細い時のように、袖を引っ張る姿があった。

「ごっちん……」
 後藤はゆっくりと顔を上げる。

「ねえ、圭ちゃん――」
 蛍光灯にあてられて、彼女の髪が金色になる。それが掛けているサングラスの
せいか、ダークトーンに映った。
 後藤は言った。

「どうしてあのサングラス掛けてきてくれなかったの?」

 息を飲み込んだ。

 今日、保田が掛けてきたのは後藤に言われたあのサングラスではない。今朝家
を出て行くときに、それを手にしてテーブルの上に戻した事を思い出す。
103 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時16分52秒
――気をつけたほうがいいよ。
 後藤に対する猜疑心を振り払う事が、保田自身にも出来ていなかった。矢口の
言葉も前科と言う言葉も、完全に否定できない自分が居る。

 不意に恥ずかしくなった。
 偉そうに後藤を庇っていた本人が彼女を疑っている。その事を棚に上げて正義
ぶっていた自分が滑稽に思えた。
 目の前の矢口がどんな顔をしているのか、見なくても想像できる。それだけじ
ゃない、周りのメンバーたちも、自分の心の中を見ているように思えて、後藤の
言葉に返事をすることが出来なかった。

「ねえ圭ちゃん、どうして――」
 後藤は袖を引っ張りながら聞く。
 その様子はまるで子供のよう――。

「わす……忘れてきたの……」
 喉から搾り出したその言葉が掠れている。自分の動揺を気がつかれたくなくて、
もう一度言い直した。

「忘れてきたの……ごめんね」
 保田はその一言しか口に出来なかった。
104 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時18分13秒
    ∞

 仕事をいつものように終わらせて、体を疲労が埋め尽くしていくのを感じてい
ると、そんな保田に向かって矢口が近づいて話し掛けてきた。
 ダンスレッスンが終わって、控え室で帰りの準備をしている時だった。動きや
すい服から着替えた矢口が言った。

「いい?」
 すぐに後藤のことだろうということには気が付いた。彼女に視線を向けると、
部屋の隅で鞄の中からタオルを取り出している姿が見える。茶色い髪の毛を後ろ
で束ね、Tシャツから出た白い腕が疲れのせいで頼りなく震えている。

「後藤の事?」
 周りに聞こえないように声を潜めると、矢口は表情を変えないで頷いた。別に
ここでもいいけど、と後藤に視線を向けて言う彼女の腕を引いて部屋から出る。
蛍光灯が反射する廊下の上で二人は半歩ほどの間を取って向き合った。

「これから後藤、家に連れて行くんだって?」
 矢口の言葉に保田は躊躇い無く頷く。
 すぐに大きいため息をわざとらしく吐き出す。

 後藤が保田に話し掛けてきたのはテレビの収録を終わらせて、ダンスレッスン
をするスタジオに向かっている時だった。車の中で運転席の真後ろに居る後藤が
突然振り返ったかと思うと、その後ろにいた保田に向かって言った。
105 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時19分17秒
――仕事終わったら圭ちゃんの家行っていい?

 窓に肘をついて闇を落とした街の風景を見ていた保田は、その言葉に我に戻る。
後藤を見るといつものように眼を合わそうとはしていなかった。
 急にどうしたのだろう、と思ったが、保田も話したい事があったためそれを承
諾した。そのやり取りを同じ車内にいた矢口は見ていたようだ。

「サングラス、盗もうとしているんだよ」
「やめてよ」

 保田はぼんやりと廊下の奥を見る。突き当たりの階段を女性が上がっていくの
が見えた。

「サングラスだけじゃないかもしれない。家にあるもの、きっと盗まれるんだよ」
「いい加減にしなさい」

 ねえ、と矢口は保田の腕を握る。視線を落とすとダダを捏ねる子供のように眉
間に皺を寄せて掴んでいる腕をニ三度前後に揺らす。
106 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時20分55秒
「圭ちゃん分かってるの? 突然サングラスつけて来い、ブレスレットどうして
つけてこなかったの? まったくあの時と一緒なんだよ。時計の時も、後藤はい
つも同じようなこと言ってた」
「……だからってそうとは限らないでしょう」

「じゃあ何でサングラス、今日付けてこなかったの?」
「…………」

「圭ちゃんだって疑ってるんでしょう? あの子に盗まれるんじゃないかって、
疑っているんでしょう?」
「…………」

 それに何も答えない保田に、矢口は一つ息をつく。掴んでいた腕を離すと、呟
くように言った。

「だから、今日付けてこなかったんだ」
 保田は矢口から離れて部屋に戻るドアノブを握る。

「圭ちゃん」
 矢口が止めるように声をかける。
 結局、保田は一度も矢口と視線を合わせることが出来なかった。

「忘れただけ。忘れてきただけだよ」

 そう言って保田は部屋の中に戻った。矢口は後を付いて来る事はなかった。
107 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時21分46秒
 その後明日のスケジュールを確認して、メンバーそれぞれが解散していく。保
田と後藤はスタジオの前に呼んだタクシーに乗り込む。振り返ると矢口がその光
景を見ていた事に気が付いたが、運転手ガメーターをなれた手つきで切り替える
と、そんな矢口を置いてタクシーは走り出した。座席の下から伝わってくる振動
に揺られながら自分の中にある猜疑心を思い出す。隣の後藤はそんな保田の心境
を知るはずも無く、窓の外に視線を向けていた。

 家に着いて後藤を居間に案内する。適当に座って、と言うと彼女はコートを脱
いでそれを畳んでいた。テレビと暖房をつける。軽快な音楽が部屋の中に響いた。

 簡単に着替えを済ませると、保田は台所でお茶の用意をする。ポットの中のお
湯はすでに冷めていて、それをやかんに移して火をかけた。青い火がやかんを囲
う。僅かな熱が顔に届いた。

 後藤とどんな事を話そうかと考える。
 言いたいこと、話したい事は確かにあった。しかしそれを話すとき、確実に自
分の猜疑心を告白しなくてはいけないだろうと考えると憂鬱になる。それを口に
しないで、後藤の最近の行動を話すことは出来ないだろうか?

 居間の方からテレビの音が響く。お湯が沸く間の時間、なぜかそこにもどるこ
とが出来なかった保田は、やかんの笛の音が鳴って我に戻った。
 お茶を汲んで居間に戻る。
108 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時23分19秒
「お待たせ――」
 寒くない? お腹空いてない? そんな言葉を思い浮かべながら居間に戻った
保田が口を閉じたのは、そこに居る後藤の姿を見たせいだった。彼女は床にもソ
ファにも座ることなく、蛍光灯の真下に立ち尽くしている。顔を下げて横に垂れ
る髪の毛でその表情が隠され、それでもその視線は手に持っているサングラスに
注がれている事は簡単に想像できた。

 後藤はあのサングラスを手に、居間の中央で立ち尽くしていた。

 足を止めて保田はしばらくその姿に見入る。胸の奥がなぜだか縛り付けるよう
に圧迫感が襲って、それは喉から出ようとしていた。

 唾を飲み込む。
 急に矢口の言葉が頭を駆け巡る。

「……それ」
 気を取り戻して保田は言った。ゆっくりとお茶をテーブルの上に置く。後藤は
一瞬だけ視線を向けて、また手に持っているサングラスに戻した。
 テーブルを挟んで二人は立つ。しかしお互いに視線を合わせることはなかった。
109 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時24分29秒
「サングラス……それの事でしょう」
「…………」

 後藤が畳んで置いたコートの横に鞄が寄りかけるようにあった。その口が開け
られているのが見える。
 テレビはバラエティー番組に変わり、セットの上での会話にスタッフの笑い声
が響いていた。

「大事なものなんだ……そのサングラス」
 テーブルの上の湯のみが湯気を上げる。徐々に温まり始めてきた部屋を感じた。

「私の、大事なものなんだ……そのサングラスは」
「…………」
「紗耶香から貰ったものなの。あの子が居なくなる前に、この部屋で貰ったもの
なんだ」
110 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時25分11秒
 その時のことを保田は今でも鮮明に覚えていた。

 最後のコンサートが近くなってきて、訳のわからない焦りを感じていた頃、そ
れとはまったく逆に本人はすっきりとした顔をしていた。部屋に泊まる、と言う
彼女を連れてきて思い出話に花を咲かせた。裕ちゃんが恐かった、矢口と三人で
怒られた時があったよね、そんな使い古された話題を語る二人の口調は、自虐的
で傷を嘗めあっているようにも感じた。次第に気分が高揚してきた保田が、どう
してやめることを相談してくれなかったのかと声を荒上げる。もう決めた事だか
ら、もう後戻りもできない事だから、脱退する事自体はすでに責められる時期を
越えていた。しかし今でもそれを自分に相談してくれなかった事を心残りに思う。
その事を伝えると、彼女は持っていたサングラスを保田に渡した。それを掛ける
と青い風景が周りに現れる。

 落ち着かない? 青って人が落ち着く色なんだって。海とか青空とか好きなの
はだかなのかなって、最近思う。仮面を付けているようでいいでしょう? 付け
ていても落ち着く仮面だよ。
111 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時26分11秒
 その言葉の意味を今でも理解する事が出来ない。もしかしたら意味なんて無か
ったのかも知れない。それでも保田はその言葉を理解しようと、そのサングラス
をつけていた時期を思い出す。そしてそれも長くは続かなかった。

「大事なものだから……」
 遠まわしにそれを取られては困ると言う事を伝えたかった。自分がそれをつけ
て仕事に向かっていた日々。そしていつしか早い時間で流れていく、周りの環境
に戸惑い、悩み、サングラスを外した事。それは過去との決別を意味していた。
このまま後ろを見ていてはいけない、この流れに足を取られないように立ってい
なくてはいけない、だから、サングラスを外した。

 でも、決して忘れてはいけない日々がある。時々、今の自分を失いそうになる
不安に襲われた時、それを取り出して昔の事を思い出す。保田にとってそのサン
グラスはそう言う意味がある物だった。

「でもね……圭ちゃん」
 後藤が俯きながら呟く。その声は今にもテレビに掻き消されてしまいそうな
弱々しいものだった。
 ゆっくりとサングラスから視線を外し、保田を見る。耳元にかかる髪の毛を人
差し指で掻きあげ、メイクの名残が残る赤い唇が薄っすらと笑みを作った。
112 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時27分08秒
「でもね……これは圭ちゃんの物じゃないんだよ」

 思わず息を飲み込んだのは、背中に走った痺れのせいだった。鳥肌が足元から
首筋に上っていく。まるでディズニーのキャラクターのように、大げさな身震い
をしたくなった。

 茶色い髪の毛の隙間から見える後藤の顔。疲れで青白い顔色に、無理に引かれ
た口紅。サングラスを持っている手には青筋の血管が目立つ。細い指の先につけ
られたマニキュア。その一つ一つが合わさり、彼女の呟いた一言は不気味に脚色
されていた。

「……何……言ってるの?」
 唾を飲み込んで保田は呟く。
 だから、これは圭ちゃんの物じゃ……。

 後藤は再び顔を下げて呟く。しかしすぐにテレビの雑音に掻き消されて、最後
まで耳に届く事はなかった。
 不意に沸き起こってくる感情があった。目の前から確実に遠ざかっていく後藤
を感じる。自分の知らない場所へと進むその背中を頭の中に思い浮かべて、焦り
が襲ってくる。思わずテーブルを回り込むように彼女に近寄ると、その頼りない
肩を掴んでいた。

「ねぇ、どうした? 最近おかしいよ? 何があったの?」
「…………」

 何も答えない後藤がもどかしくて、思わず掴んでいる肩を揺らす。まるで人形
のようにその力に流される体。
113 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時28分18秒
「おかしい事ばっかり。矢口と喧嘩したり、反省会すっぽかしたり。あの後みん
な何て言ってたか知ってる? ワガママ、自分勝手、天狗……誰一人あんたのこ
と庇う人いなかったよ」
「…………」
「少しは弁解したらいいじゃない。何か言い返せばいいじゃない。いつも黙って
俯いて、話が流れるのを待ってる。誰とも接しなければ嫌な目にあわなくてすむ
と思ってる? 誰かが守ってくれてると思ってるの? そう考えてるならそれは
間違ってるよ」
「…………」
「私にだって限界がある。いつもあんたに付いて上げられない。だから少しは顔
を上げて――」
「付けて来てよ」
 後藤は保田の言葉を遮るように呟いた。

 思わず口を閉じた保田は、依然として顔を下げている彼女に視線を向ける。頼
りない肩に掛かる髪の毛の隙間から、僅かに口元が見える。それはさっきと同じ
ように吊り上ったまま元に戻ろうとはしない。
114 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時29分08秒
「……付けて来てよ」
「……ごっちん?」

 肩に置いていた手を包むように彼女の掌が重なる。まるで死体のように冷たい
それに思わす腕を引いた。
 後藤はゆっくりと振り返って視線を上げた。そろった前髪から、鋭くて弱々し
い黒目が向けられる。そこに映る自分の姿。
 後藤は言った。

「明日、サングラス付けてきてよ」
「…………」
「今日みたいに……忘れないで付けてきてよ」
「何……言ってるの?」
115 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時29分45秒
 肩から離した手が空中を泳ぐ。自覚していない恐怖から、一歩後退りする。後
藤の視線に喉から出る言葉が消えていった。

「見たいんだ……圭ちゃんがサングラスを付けているところ……みたいんだ」
 だからね、付けて来てよ圭ちゃん。約束したから。昨日、約束したから……だ
からね、このサングラス、付けて来てよ……。

 後藤はそれから同じような事を呟き続け、保田が頷くまでやめなかった。その
間、ずっと口元には笑みが浮かび、持っているサングラスをまるで宝物のように
大事に保田に差し出す。結局視線を一度も合わせることなく、後藤は帰っていき、
テーブルには口のつけていない湯のみが残された。

 その中のお茶はすでに冷めている。
 乾燥した空気に喉がやられないように、保田は一気にそれを飲み込んだ。
116 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時30分36秒
    ∞

 サングラスを手に取り、保田は後藤のことを思い出した。
 カーテンからは朝の陽射が入り込んでいる。テーブルには昨日のまま湯のみが
二つ、そのままの状態で置かれている。居間の中で静かに秒針を刻む時計。テレ
ビもコンポもスイッチを入れていないその空間には、刻々と確実に刻む時だけが
流れていた。
 眼を閉じると浮かぶ色んな表情の後藤。
 怒られている時も笑っている時も、泣いている時も、いつも傍に居た。時には
それを共有した時間さえもある。だから、彼女の存在は自分の中では大切なもの
だったし、これからもそう有り続けてくれる事を願う。
 手に持っていたサングラスを掛けて、保田は家を出た。
 外に広がるいつもの風景は、ブルーのフィルターが掛かっていた。
117 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)02時35分12秒
>>97
こう言う感想が一番嬉しかったりします。
見守ってやってください。
>>98
ありがとう。
118 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月20日(土)17時23分49秒
約束を守った保田に後藤はどうでるのかな。
楽しみにしてます。
119 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時05分13秒
    ∞

 圭ちゃんはね、人が良すぎるんだよ。
 サングラスをつけてきたことについて、矢口はそう言った。

 その日最後のテレビ収録の合間、スタジオの隅で紙コップに注いだジュースに
口をつけていると、さっきまでセットの上でメンバーたちとはしゃいでいた矢口
がピョン、とそこから降りてきて保田に近寄ってきた。いいの? サングラス付
けて来てさ、大事なものじゃないの? ちゃんとしまっておいた?

 まるで盗まれる事が決まっているかのように矢口は言った。その一つ一つの言
葉に不快な気持ちが沸き起こってくるのを保田は耐えながら、大丈夫だよ、と言
う返事を繰り返しつづける。大丈夫だよ、大事なものだよ、盗まれる事が前提に
なってるみたいじゃない。

 視線をふとセットの上に向けると、後藤がそこから降りて、首をキョロキョロ
と動かしながらスタジオの重い扉を開ける姿が見えた。気が付くと矢口も同じと
ころに視線を向けていて、扉がしまったのと同時にさっきの言葉を言った。

 圭ちゃんはね、人が良すぎるんだよ。

 それが誉め言葉ではないことはわかった。それでもありがとう、と言葉を返す
と、彼女は皮肉を込めて言う。

 どう致しまして。
120 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時06分11秒
 後藤が戻ってきたのは収録が再開される五分前。
 そしてその日の全ての仕事が終わり、事務所の一室に集まったメンバーの中の
後藤を見ながらその事を思い出していた。

 ため息をついて保田は天井を見上げる。蛍光灯が三セット配置されていて、狭
い部屋の中を照らしていた。
 そこに響くマネージャーの声。連絡事項をいつものように伝えて、各々明日の
スケジュールを確認する。メモを取るメンバーを余所に、部屋の隅にいる後藤は
ずっと鞄を抱きかかえながら肩を狭めていた。

 保田が後藤のことを信じようと思ったのは、猜疑心に揺り動かされる自分が嫌
だったからだ。彼女の事を自分しか守れないのだと、そう思っているのに、事実
として矢口の言葉に揺れる心。それを客観的に見ている自分がいて、後藤への思
いを優越感に返還している事へ嫌悪を持っていた。
 保田はただ、昔のようにみんなで笑っていたかった。苦しい事も楽しい事も共
に共有しあっていたあの頃のように、繋いだ手のぬくもりを感じたかった。しか
し何時の頃からバラバラになっていくメンバーを、流れる時間の早さから気が付
くことが出来なかった。置いていかれないようにと、自分の事しか考えていなか
った。そして気が付いた時には今のような状況になっていた。
121 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時06分59秒
「おつかれ」
 誰とでもなく言ったその言葉に我に戻る。気が付くと部屋からマネージャーが
出て行き、帰りの用意をしているメンバーが映った。保田はすぐに椅子から立ち
上がって上着を羽織る。

「圭ちゃん、この後暇だろ?」
 後ろから矢口の声が聞こえる。振り返るとすでにコートに身を包んでいる彼女
の姿があった。

「決め付けるな。どこ行くの?」
 そう言って保田はさっきまで座っていた椅子の上に置いてある鞄に手を突っ込
んで、入れていたサングラスを探す。

「石川達とご飯食べに行こうと思うんだ」
 部屋のドアの前には石川と吉澤の姿があった。二人はこっち側の様子を伺って
いる。
122 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時07分42秒
 この前雑誌を見たらさ、この近くにおいしいラーメン屋が……。
 あれ、と保田は気が付く。いくら鞄の中に手を入れて弄ってみても、サングラ
スの感触が一向にしない。思わず視線を落として中を見てみる。やはりそれは入
っていなかった。

 おかしいな、と今度は上着のポケットを探ってみる。しかしもちろん入れた覚
えが無いため、丸く潰されたコンビニのレシートを掴んだだけだった。もう一度
鞄の中を見ていると、その様子を伺っていた矢口が言った。

「無いの?」
「え?」
 顔を上げる。
 矢口はいつの間にか真顔になって保田を見ている。
 すぐに嫌な考えが頭を過ぎる。
 自然と視線は部屋の隅にいる後藤に移っていた。
 彼女はコートを羽織、首にマフラーを巻いていた。
123 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時08分39秒
「サングラス、無いの?」
 矢口が何を考えているのかすぐに分かった。まるで台本に書かれているかのよ
うに、彼女が次に口にする言葉が浮かぶ。違うの、と遮るように言おうとしたが、
その時にはすでに遅かったらしく、矢口の顔は後藤のいる方向に向いていた。

「盗まれたんだよ」
 その言葉が胸に突き刺さる。思わず声を失うほど、聞きたくなかった。
 後藤は鞄を持って保田達の横を通り過ぎようとする。それに気がついて矢口が
反射的に彼女の腕を握っていた。

「待ちなさいよ」
 後藤は一瞬だけ肩を竦めて、その視線をゆっくりと下ろした。揃った前髪から
除かせる弱々しい眼にはいつものように怯えを感じる。人と話す時の、あの怯え
だと、保田は思った。

「何?」
「後藤でしょう、圭ちゃんのサングラス盗ったの」
124 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時09分43秒
 矢口は眉間に皺を寄せながら後藤を見上げる。その口調はきつく尖り、横で聞
いている保田でさえ気が重く沈む。
 周りのメンバーたちはその三人の様子には気が付かない様子で、明るい声を上
げていた。マネージャーも出て行った部屋の中にはメンバーたちしかいない。そ
のためだろうか、開放感から表情が明るかった。

 しかし保田にはそんな事は関係ない。サングラスが無い、もしかしたら後藤が
盗ったのかもしれない。そう考えて、胸の奥に沸き起こってくる黒い物に体を拘
束される。矢口の行動を止めようとしたときには、彼女が声を荒上げて、そのや
り取りを周りのメンバーに気づかれた時だった。

「盗ってないってそんなわけないじゃん!」
 その言葉に肩を竦めたのは後藤ではなく保田の方だった。気が付くと周りの声
は止み、鋭い視線が集まっていた。

「あたし、見たんだから。後藤が収録の時、一人でスタジオから出て行くところを」
125 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時11分07秒
 保田もその光景は見ていた。矢口がサングラスを掛けてきたことについて話し
掛けてきたとき、スタジオから出て行く後藤の姿を見た。
 確かに、メンバー全員で行動をしていたのだから、鞄の中に入っているサング
ラスを盗むには一人になるしかないだろう。それに加えて、あれだけつけて来い
と催促していた事実。誰が見ても後藤が盗んだとしか思えなかった。

 しかし保田はそれを信じたくない。後藤がそんな事をするはずが無い、そう強
く思いたかった。

「待って、矢口」
 矢口は後藤を睨んだまま保田の言葉を待っている。

「トイレに行っていたのかもしれないじゃない……それに盗まれたって、決まっ
たわけじゃない」
「そんなわけ無いじゃん。だって鞄にもポケットにも入っていないじゃん」
「忘れてきたのかもしれない。ダンスレッスンした時とか、収録の時の楽屋にと
か……」
126 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時12分01秒
 そう言いながら後藤を見る。彼女は口を開く事は無く、矢口から逃れるように
首を横に向けたまま微動だにしなかった。
 どうして否定してくれないのだろう。後藤が盗んだのではないなら、きっぱり
と否定してほしかった。そう思い続ける保田とは余所に、一向に顔を合わせてく
れない後藤を見ていて焦りを感じる。もしかしたら犯人は彼女ではないかと、思
い始めている自分がいた。

「じゃあその中見せてよ」
 矢口が言った。

 その中とは後藤が持っている鞄の事らしい。すぐに行き過ぎた行動だと思い、
保田は一歩前に足を踏み出すと矢口を斜め前にして見下ろした。

「やめなさい」
「どうして?」
「やりすぎだよ」
「圭ちゃんは後藤に甘いんだよ」
 その言葉に思わず口を閉じる。
「後藤だったら何しても庇おうとする。悪い事でさえ、責めようとしないじゃん」
「悪い事って……」
127 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時12分46秒
 後藤がいつ悪い事などをしたのだろうか、と考えた瞬間に腕時計の件を思い出
した。それはもしかしたら周りに居たメンバーたちも思い出したのかもしれない、
部屋に漂っていた空気が急に重苦しいものに変わった。

 それを感じてか、矢口の口元が微かだが吊り上る。どうやら彼女は後藤を責め
る事によって快感を得ているようだ。その事実は今まで漠然としていたが、目の
前の笑みを見て保田の胸に確かに刻まれる。

「盗んでいないなら鞄の中を見せればいいんだよ。そうすれば疑いが晴れるわけ
なんだから。このままずっと疑われ続けるよりマシだと思わない?」
「でも矢口――」
「大事なものじゃないの?」
 保田の言葉を遮るように矢口は言った。
「あの、サングラス、大事なものじゃないの?」

 紗耶香から貰ったものだと言う事を矢口は知らない。ただそれを毎日のように
仕事に付けて来て、大事に扱っていた姿を見ていたようだ。常に周りに眼を配っ
ている矢口に、こんな状況だというのに感心しているもう一人の自分が居た。

 ふと我に戻ると矢口が奪うように後藤の鞄を取っていた。すぐに壁際に配置さ
れていた椅子の上にそれを置き、開けると言う許可を取らないまま中を弄り出す。
後藤からは抗議が上がらない。さっきと変わらず顔を下げているだけだった。
128 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時14分30秒
 その光景を呆然としたまま見ている周りのメンバー。小さな背中が小刻みに揺
れる。物を弄っている音がいつの間にか静かになった部屋の中に響いていた。

「ごっちん……」
 保田はすぐ目の前にいる後藤に呼びかける。彼女は一瞬だけ怯えたように肩を
竦めた。

 どうしてそんなにも怯えるのだろうか? それはサングラスを盗んだと言うこ
とだからだろうか?

 ああ、そうじゃない。
 保田は思い出す。

 後藤はもっと以前から他人に怯えていた。自分がどう言う風に見られているの
か、どう思われているのか、何時の頃から彼女はそれを強く感じ始めていたので
はないだろうか? 精一杯に背伸びをして、周りのイメージに近づこうとしてい
る事に保田は気がついていた。無理して大人っぽく、落ち着きを持ち……そんな
周りのイメージに合わせるように後藤は背伸びをつづけていた。
129 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時16分08秒
 いつの頃か、保田でさえそのイメージに染められていた。後藤だったら一人で
何でも出来る。年齢より大人な彼女なら周りの支えが無くても大丈夫。そう思っ
ていた。
 でもそれは間違っていた。
 紗耶香が居なくなる直前、よく泣いている姿を見た。
 それはどこにでも居る普通の少女の反応だったのではないだろうか?

 その事に気が付いて、保田は罪悪感に駆られた。今の後藤を作り出してしまっ
たのは、自分にも責任がある。背伸びを続ける彼女の――無理を続けている彼女
の負担に気が付いてあげなかった。だから今からでも後藤の事を信じようと、そ
う心に決めた。
 保田の態度に、少なからずとも後藤は心を開いてくれているのだと思っていた。
だから、こんな状況でも彼女の事を信じていたかった。

 でも、それは無駄だった。

 小刻みに揺れていた矢口の背中がピタリと止まる。その瞬間に嫌な予感が保田
の全身を走り抜ける。
 振り返った矢口の手にはブルーのレンズのサングラス。間違いない、保田のも
のだった。
130 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時17分25秒
「やっぱりね」
 胸をきつく圧迫感が襲う。まるで大きな手で握られているかのようだった。

 言葉を失う保田を余所に、不適な笑みを浮かべながら矢口が近寄ってくる。後
藤は相変わらず顔を下げたままだった。

「最低だね、後藤」
 周りの視線が後藤に突き刺さる。
 自分ではないはずなのに、居た堪れない気持ちになった。

「圭ちゃんのもの、何で盗めるの?」
 静かな口調だったが、その裏にはナイフの様に鋭いものを感じた。

「仲いい人から、後藤は物をヘーキで盗むんだね」
 後藤は矢口の言葉に何も返さない。
 それに調子を乗せて、矢口はメンバーに言うように声を上げた。
131 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時18分03秒
「みんなも気をつけたほうがいいよ。後藤に物とか貸したらきっと戻ってこない
から。私物とか大事なものとか――そう言うのも見せない方がいいよ。すぐに何
でもほしがって、それが手に入らないとなるとこうして盗もうとする――」
「矢口」
 保田は溜まらず口を挟む。
「もうやめて」
 矢口の鋭い視線が向けられて、思わず顔を横に向ける。張り詰めた空気の中、
胸の奥には訳のわからない感情が渦巻いていた。

「やめてって、圭ちゃん被害者じゃん。こんな事までされてまだ後藤を庇う気?」
「そう言うわけじゃない。でも――」
 後藤を見る。
 何も言わない彼女がもどかしくなった。

 こんな事があるはずが無い。昨日、あれだけ自分にとってこのサングラスは大
切なものだと聞かせたのだから、後藤がこんな事するはずがない。
132 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時18分50秒
 後藤の口から盗んでない、と言う言葉が出ればそれを信じようと思った。それ
が以下にこの状況では説得力も無ければ、頼りない言葉であったとしても、自分
には関係ない。その一言だけを聞きたかった。

 裏切られたとは思いたくなかった。
 信じていたかった。

 しかしそんな保田の気持ちとは余所に後藤は口を開いてはくれない。無言の態
度がますます彼女の立場を悪くしていた。

 僅かな静寂が訪れて、傍に居る矢口でさえ何も言わなかった。多分、後味の悪
さを感じていたのかもしれない。彼女にとってサングラスを盗もうとしたと言う
事実さえ発覚したら、保田を後藤から遠ざけられると思っていたのだろう。しか
しその反応は予想していたものではなく、誰よりも傷つき苦痛に歪んでいる表情
から、保田の気持ちを悟ったようだ。その視線がゆっくりと床に落ちていくのを
見た。

 その後味の悪さは全員感じていたようだ。誰一人動かない、緊張感が部屋を包
む。メンバーそれぞれの鼓動さえも聞こえてしまいそうな、そんな静寂を破った
のは、ドアの前にいた吉澤の言葉だった。
133 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時19分29秒
「あの……あのさ……」
 顔を上げると吉澤がぎこちない歩調で後藤に近づいてきた。その表情はどこと
なく暗い。声をかけることに迷いを感じている様子で、視線は忙しなく動き、定
まる事はなかった。

「ごっちん……あのさ……」
 顔を下げている後藤の目の前に来ると吉澤はしばらくの間口を閉じたが、決意
したように言った。

「この前貸したCD……返してくれるよね?」

 その言葉に反応したのは後藤ではなく保田の方だった。
 思わず吉澤の肩を掴んでいた。

「吉澤! あんた――」
 保田の声が部屋に響く。吉澤は驚いた様子で仰け反った。

「何でそう言うことが――」
 やめなよ、と矢口が言葉を挟む。

「やめなよ。圭ちゃん」
 矢口の声は決して大きいわけでもなかったのに、保田の勢いを止めるのには充
分だった。
134 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時20分23秒
「不安なんだよ。当然じゃん」
 矢口が無表情のまま保田を見て言った。それは周りのメンバーも同様な考えだ
ったらしい、吉澤の行動を責めるものなどいなく、むしろ当然だと言うような顔
をしていた。

 吉澤の肩を掴んでいた手を離す。やり場の無い気持ちが溢れてきて、それはさ
っきまで感じていた感情を煽った。思わず後藤に詰め寄ると、保田は声を荒上げ
る。

「何か言いなさい! 盗んでないなら、そう言いなさい! 何かの間違いだって、
誤解だって、そう言いなさいよ!」
 今度は後藤の肩を掴む。抑えていた気持ちが表に溢れ出していた。

「自分は盗ってないってそう言って! 何かの間違いだって、そう言いなさい
よ! そうしたら私はその言葉を信じるから! みんながどう思っていようと私
は信じるから! だからお願い、そう言ってよ!」
135 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時21分04秒
 必死に言葉を続ける保田を余所に、後藤は何も言葉を返さなかった。掴んでい
る両肩が頼りなく震え続けている。下げている顔から髪の毛が邪魔して表情が見
えない。

 裏切られたとは思いたくない。何かの間違いであってほしいと、こんな状況で
も思っていた。だから保田は後藤の口から、盗ってないと言う一言だけを求めて
いた。

「ねぇ! 黙ってないで何か――」
「――けてきてよ」
 唇が微かに開いて、後藤は言った。あまりにも小さすぎるその呟きだったはず
なのに、保田は口を閉じていた。

「……何?」
 昨日の嫌な感覚が背中を走り抜ける。まるで一緒だ。下げている後藤の顔から
唯一見える口元には薄っすらと笑みが浮かんでいる。

 昨日と、一緒だ――。
 後藤はゆっくりと顔を上げると言った。
136 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時21分47秒
「明日も付けてきてよ、サングラス」

 思わず頬を引っ叩いていた。
 パチン、と乾いた音が楽屋に響く。
 後藤は首を横に向け、右手を頬に当てていた。

「ねぇ! 一体どうしちゃったの!」
 保田は再び肩を握り、昨日のように前後に揺らした。

「あんた自分がやった事わかってるの? 何をしてるかわかってるの?」
 後藤は何も答えない。
 それがもどかしくて保田は声を上げ続ける。

「どうしてこんな時に笑っていられるの! 人のものを盗んで、こんなにも責め
られて! それなのにどうして笑ってなんかいられるの?」
 部屋には保田の声しか響いていなかった。
137 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時22分44秒
 周りのメンバーたちはこの光景を見て、一体どんな事を考えているのだろう
か? そう冷静に考えているもう一人の自分が居る。確実に、これから先、今ま
でより後藤は居づらくなっていくだろう。居場所を狭くしていくだろう。そのこ
とを考えると、裏切られたと言う気持ちより、後藤に対しての同情ほうが強かっ
た。

 保田の問いにそれ以上後藤は口を開かなかった。黙ったまま叩かれた頬に手を
当て、首を横に向けている。いつの間にか、こんなにも小さくなっていた彼女を
目の当たりにして、頭の熱がゆっくりと下がっていく。

「……もういい」
 口からこぼれるように保田は呟いていた。

 掴んでいた手を離す。後藤がゆっくりと顔を上げて保田を見た。青白い顔色の
中に、向けられる視線にはあの頃と何も変わっていない瞳が見えた。
138 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時23分20秒
「もういい……」
 自分には何も出来ないのだろうか?
 保田は思った。

 少なくとも、今はこんな場所から後藤を逃がして上げられることしか思いつか
ない。こんなにも痛々しい視線を向けられる、この空間から後藤を逃がしてあげ
なくてはいけない。

「……もういいから……行っていいから」

 後藤は椅子の上に置かれていた鞄を持つと、逃げるように部屋から出て行った。

 誰も彼女を呼び止めようとはしなかった。
139 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時24分11秒
    ∞

 気持ちは揺れていた。

 これほどまでにサングラスに執着する後藤がわからなかった。ただ魔が差した
わけではない、物欲に駆られているわけではない、何となくそうわかっているは
ずなのだが、自分の気持ちは他のメンバーのように彼女に対する嫌悪を抱き始め
ていた。

 家に帰ってからも、風呂に入っているときも、そして蒲団の中に潜っても後藤
のことだけを考えていた。紗耶香に連絡を捕ろうかと言う事も浮かんだが、携帯
の通話ボタンを押すことが出来なかった。

 今の後藤を見たら、紗耶香はどう思うだろう?

 人一倍、責任感の強かった彼女なのだから、きっとまた心配するかもしれない。
自分たちの事で彼女の足を引っ張るわけには行かなかった。

 あの子を守れるのは、自分しかいない。
 その思いを強める。

 次の日、保田は二つのサングラスを取り出した。一つはいつもの愛用している
もの。それは鞄の中に入れる。もう一つは後藤が執着しているブルーのレンズの
もの。それは昨日のように掛けて仕事場に向かった。
140 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時25分00秒
 仕事場で、わざとらしくそのサングラスを後藤に見せ、上着のポケットの中に
入れてハンガーに掛けた。その様子を後藤は眼を反らすことなく追っているのに
気が付いていた。

 予想通り、仕事が終わった時、上着の中に入れていたサングラスは無くなって
いた。少しの落胆が襲ってきたが、後藤は昨日とはうって変わったような表情で
楽屋を後にしたのを見て、これでいいのだと考える事にする。

 鞄に入れていた予備のサングラスを掛けて家路につく。
 空を見上げると無数の星が現れていて、まるで黒い紙の上に宝石を散らばらせ
たようだった。
 その夜空を見ながら保田は思う。

 ごめん、紗耶香。

 ため息をつく。
 白い息が上空を目指して消えていく。

「……こうするしかなかった」

 弱々しい独り言は、無数の星たちに飲み込まれていった。
141 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月24日(水)05時40分51秒
>>118
こんな話ですが、この先も付き合ってください。

ちなみにまったく関係ない話ですが、「六月の新作」に
この話が入っていないことに今更ながらに気が付きました。
もっと頑張らなきゃいけないな、と思い知らされました。
142 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月24日(水)08時06分17秒
痛みに耐えながら読んでます
143 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月24日(水)13時26分13秒
作者さんは十分頑張ってますよ。
今自分の一押し小説です。
しかし後藤・・やっちゃったのか・・・。
144 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時21分40秒
    8

「寒くない?」

 床に仰向けになって薄闇の中の白い天井を見る。中央には四角形の蛍光灯。一
本の紐がぶら下がり、それは下半分ほど窓から入り込んでいる光に照らされて絹
のようにキラキラとしている。静かで、隣に同じように体を横にしている市井ち
ゃんの息の音が聞こえる。外の風がBGMのように、それを演出していた。

 床の上で二人仰向けになる。まるで二と言う字を縦にしたように、体を並べて
いた。その手は確りと握り、互いのぬくもりを確認する。視線を少し上に向けれ
ば窓を通して月の姿を見る事が出来た。

 大丈夫だよ、そう言った市井ちゃんの顔を見る。細くて今にも折れてしまいそ
うな首が伸びて、喉がゆっくりと動き終わった所だった。

 今度は市井ちゃんとは逆の方向に視線を向ける。散らばるコンビニの袋やお菓
子の箱の向こう側に、壁際に寄せるように赤い携帯ラジオがあった。アンテナが
七分ほど伸ばされていて、それが影となり壁に張り付いている。

 その隣にはサングラスとお守りが置かれていた。
 サングラスはこちら覗くように正面になっている。ブルーのレンズが薄闇の中
にあるせいか、黒く変色しているように見える。
145 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時22分30秒
 その横には小さなお守り。
 紫色の生地に、金色の文字。タコ紐は絡まないように丸く結ってある。
 あたしは再び天井を見る。

 圭ちゃんが持っていたサングラスは市井ちゃんから貰った物だということをあ
たしは知っている。市井ちゃんが身に付けていたものを全てあたしの頭の中には
記憶されていて、それが圭ちゃんの手に渡った時、すぐに貰ったんだと言う事に
気が付いた。

 脱退が決まって、最後のコンサートに向けて時間を消費していた時期。市井ち
ゃんが身に付けていたものが他人に渡っていくのを、あたしは不安に駆られなが
ら見ていた事を思い出す。それはまるで自分の痕跡を誰かに残そうとしているよ
うに思えて、市井ちゃんが居なくなるんだという事を今更ながらに実感していた。

 圭ちゃんにはサングラス。
 あたしにはお守り。
146 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時23分21秒
 それは市井ちゃんの鞄に引っ掛けていたものだった。ジャラジャラとキーホル
ダーが垂れ下がる中に、それとは不釣合いなお守りをあたしは不思議に思った事
がある。いつの日だったか、疑問に思って聞いてみた。

――そのお守りはなあに?
 市井ちゃんはポケットからハンカチを取り出していた。

――お守りだよ。
 ぶっきらぼうな一言。でも市井ちゃんは持っていたハンカチで流れるあたしの
涙を優しく拭ってくれていた。メイクが取れないようにしないとね。

――何のお守り?
――わたしを守ってくれるお守り。
――どんな事から?
――色んな事からね。

 よし、と言って市井ちゃんがハンカチをしまった。グスン、と鼻を啜るあたし
を見て、何が面白かったのかいつもの笑顔を作った事に少しだけ腹が立った事を
覚えている。
147 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時24分07秒
――後藤も立派になったね。
 そんなあたしを見て市井ちゃんは言った。

――これからも頑張るんだよ。
 その一言にあたしはまた泣き出した。

 困り果てた市井ちゃんが鞄からそのお守りを外したのはその時で、熱っぽくな
ったあたしの掌にそれを握らせてくれた。

 あたしはゆっくりと深呼吸をするように息を吐き出す。
 白い息が光に照らされて消えていった。

 後藤は?

「え?」
 突然の市井ちゃんの声にあたしは声を出す。
148 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時24分40秒
 首を横に向けると市井ちゃんが同じようにあたしを見ていた。

 後藤は、寒くない?

 寒くないよ、そう言おうとしてやめた。すぐに頭の中で浮かんできた考えから、
思わず口元に笑みを作る。握っていた手を離してからあたしは体を起こした。

「寒いよ。凄く、寒いよ」
 そう言って隣の市井ちゃんに覆い被さるように抱きつく。柔らかい感触と暖か
い体温を全身で感じて、仕事などで蓄積されていた疲労が癒えて行くのを感じた。

「市井ちゃんはあったかいね」
 そう言うと、ゆっくりと市井ちゃんの手があたしの頭に伸びてきて、優しく撫
でてくれているのを感じた。

 圭ちゃんにはサングラス。
 あたしにはお守り。
 そして、やぐっちゃんにはブレスレット。
149 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時25分11秒
 市井ちゃんが娘。をやめていくときに、私物を渡したのはこの三つだけだ。他
のメンバーには何も上げてない、あたしは市井ちゃんを見ていたから、それを強
く確信している。

 圭ちゃんにはサングラス。
 あたしにはお守り。
 そしてやぐっちゃんにはブレスレット。

「後、一つだ」
 口からこぼれるようにあたしは呟いていた。

「市井ちゃん、後一つだよ」
 優しく包む光の中、あたしのその呟きさえも壁にぶつかり合う。

 あたしの決意とは余所に、市井ちゃんは何も言ってはくれず、撫でてくれる手
は同じテンポで動くだけだった。
150 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月29日(月)05時33分25秒
>>142-143
ありがとう。励まされます。

ちなみにこの話を紹介してくれた方、ありがとうございます。
これで新作の仲間入りが出来たとホッとしています。
ワガママなヤツですいません。
151 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月30日(火)19時00分52秒
三種の神器みたいだ(w
集めて、そしてどうするんだ後藤
152 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時40分38秒
   9

 白い、白い空間。

 太股の間にいつものように手を挟めて、自分のぬくもりを感じる。部屋は暖房
が効いているのか、外の寒さを遮断して、優しい暖かさが漂っている。それはま
るで春の木漏れ日のように、懐かしい匂いを感じさせた。
 眼を開くといつものように目の前の人物は机に向かって何やら書き込みをして
いる。どこにでも売っていそうなキャラクター物のボールペンが、まるでリズム
を刻むように紙の上で踊っていた。そう言えば、そのボールペンあたしも持って
いたなと気がついたのは後の事で、静かに漂っている緊張感から唾を飲み込んで
あたしは口を閉じたまま目の前の人物が口を開くのを待っていた。

「君はどうして――」
 しばらく待っていると、その人はボールペンを机の上に置いて椅子を半回転さ
せた。正面を向くと白い歯がこぼれて視界に入ってくる。

「君はどうして人のものを盗むの?」
 ああ、サングラスの事だ、とあたしはすぐに察しが付いた。

「人のものを盗むのは悪い事だってわかるだろう?」
 まるで小学生を諭すように一定の声の波に厳しさを含ませている。はい、そう
ですね、あたしは口を動かすと、その人は静かに頷く。
153 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時42分08秒
「じゃあどうしてあんなことをしたんだい?」
 その人は間違っている事を言っているとあたしは思った。あたしは人のものな
ど盗んでいない、あのサングラスは圭ちゃんのものではなく、元々市井ちゃんが
付けていたものであって、あたしはそれを返したに過ぎない。
 そう考えているのを悟ったのか、その人は口を閉じたままあたしを見ていた。
どうやら言葉を待っているらしい。僅かな沈黙が重く感じられた。

 あたしは不安から逃げなくてはいけなかった。
 いつか幻から覚めてしまわないように、自分自身にも、部屋で待っている市井
ちゃんにも確かな物がほしかった。

 完全にしなくてはいけない。
 不安定な市井ちゃんの存在を、あたしの手で完全なものにしなくてはいけない。
 それには全ての出来事を無かったことにしなくてはいけない。
 あたしはそう考えた。

 市井ちゃんが何かに駆られるように最後のコンサートに向けていた日々も、そ
のコンサートで強く胸を張っていた事実も、全て無かったことにすればいいのだ
と思った。そうすれば市井ちゃんは完全なものになる。消えてしまいそうな微笑
とその存在からあたしが不安に駆られる事はなくなる。
154 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時43分49秒
 独りになる事は恐かった。

 何かから逃げるように携帯を握る事も違和感があった。
 楽屋で笑顔を作って、セットの上でも笑って、バイバイ、また明日ね、そんな
言葉を毎日のように口から出す事にも違和感があった。
 苦手だったのかもしれない。悲しい時には泣いて、楽しい時には笑って、辛い
時には顔をしかめて……感情を表にする不安があった。それを受け止めてくれる
だろうか? 自分のエゴを許してくれるだろうか? そんな不安から、あたしは
感情を出す事が苦手だった。

「だからってどうして人のものを盗むの?」

 だから、全て無かったことにしなくてはいけないんです。
 市井ちゃんが脱退したと言う事実さえなくなれば、市井ちゃんは完全になって、
いつまでもあたしの傍にいてくれるんです。そうするにはサングラスやブレスレットを返さなくてはいけないんです。

 市井ちゃんが自分の痕跡を他人に残すように渡していった私物。それらはあた
しの頭の中で、イコール脱退に向けての日々、と記憶されていた。もし市井ちゃ
んがそれを渡さなかったら……そうすればあたしたち、メンバーの中で脱退した
と言う事実は消えるのではないだろうか?
155 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時44分51秒
 きっと消えるはずだ。
 だからあたしは市井ちゃんの私物を取り返して、返さなくてはいけないのだ。

「過去を無かったことにする」
 その人は呟くように言った。

 あたしは顔を一旦下げてから、太股の間に挟んでいた手を抜く。白くて骨が浮
き出た手の甲に青い筋がいくつも張りめぐされていた。

「でもそれは間違いだよ」
 ゆっくりと顔を上げる。
 窓の陽射が一層と強くなった。思わず眼を細めて、太股の上に置いていた左手
でその光を遮るように手を伸ばす。指の間が赤く染まった。

「幻は完全になんかならない」
 断定するようにその人は言った。

「完全にする事なんて出来ないんだよ」
 不意にあたしは思った。

 ここはどこだろう?
 どうしてあたしはここにいるのだろう?
156 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時46分31秒
   10

 自分の部屋に戻ってきた時、あたしは思わずドアを開いたまま立ち尽くしてい
た。仕事の疲れが沸き起こってくる感情に掻き消される。血の気が一気に引いて
きたのと同時に、お母さんに対する怒りが穴を埋めるように胸の中で強く暴れだ
した。

 部屋が片付けられている。
 思わず階段を乱暴に下りた。

 居間に顔を出すとお母さんはいつものようにテレビに視線を向けている。まる
であたしの部屋に入ったと言う罪悪感を持っていないように、手に持っていた湯
飲みに口をつけていた。

 その態度に胸の中の怒りが強くなる。

「どう言うこと」
 あたしは口調を強めて言った。
 居間の入り口に立ってお母さんを見下ろす。ニ三歩ほどの距離を置いて、怒り
を強調するように眉間に皺を寄せた。

「何が?」
 お母さんは惚けたように言った。その視線は相変わらずテレビに移されたまま
振り返ろうともしない。あたしが怒っている理由に察しがついているはずなのに、
知らない振りを続けている事に腹が立った。
157 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時47分34秒
「何がじゃないよ。何で部屋に入ったの」
「入ってないわよ」
「嘘。本が片付けられてた」
「…………」
「あたし、ああいう風に積んでないもん。朝仕事に行くまであんなになってなか
った」

 どうせすぐにばれるとお母さんは思っていたようだ、はいはい、と開き直った
ように言って、ゆっくりと首を向けた。

「片付けなさいって何度も言っていたでしょう」
「ちゃんとやるつもりだったもん」
「そう言っていつまでもやらないつもりでしょう。だから変わりに片付けてあげ
たのに」
「最低! やっぱり入ったんじゃん!」

 見られてはいけない『モノ』がある。あたしの誰にも触れさせたくない秘密。
それを無断で入ろうとした事に入り立ちが沸いてきていた。
 しかしそれと同時に不安も確かにあった。見られていないだろうか? それと
も見えなかっただろうか? お母さんが口を開くたびにいつその言葉が出てくる
のか、あたしは不安だった。
158 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時48分32秒
「部屋に入られたくなかったらちゃんと片付ければいいのよ」
「そんな時間なんてあたしには無いよ。仕事で忙しいんだから」
「オフだってあるでしょう。そう言うときにすればいいのよ」

 思わず口を閉じる。確かに部屋を片付ける時間が無かったわけではない。こう
言ういい争いのときのこの人は的確な正論を並べる。何も言い返せなくなる瞬間
があって、悔しいと言う感情が怒りを倍にする。それは今回も例外ではなかった。

 あたしは悔しくなってテーブルに置かれている湯飲みを乱暴に手で払った。短
いお母さんの悲鳴と同時に緑色の液体がこぼれる。飛ばされた湯のみが畳の上に
転がり、壁際で止まった。

「真希!」
 お母さんが声を上げる。
 それでもあたしは怯む事は無く、対抗するように声を上げていた。

「入らないでって言ったじゃん!」
 それは悲鳴とも近い声だった。それに驚いたようでお母さんが口を閉じる。ま
さかそこまで怒っていると言うことを今更ながらに実感したのかもしれない。
159 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時50分06秒
「自分でやるって言ったじゃん! ちゃんとやるって言ったじゃん!」
 何かに操られるかのようにあたしは声を上げ続けていた。

「真希……?」
「自分の事は自分でやるよ! もういつまでも子供じゃないんだよ! あたし一
人だって仕事場までいけるし、仕事だってちゃんとやってる! 後輩だってでき
たし、歌だってダンスだってちゃんと覚えられる! テレビの時だって笑う事だ
ってできるし、仕事の内容だってわかるようになってきたの! だからあたしは
もう子供じゃないの!」

 それは誰に対しての言葉だったのだろう? 後になってもこの時の感情を理解
する事は出来なかった。ただ、頭の中には確実に自分を追い詰めているストレス
みたいなものがあって、唯一安心できるはずの家でもそれに悩まされなくてはい
けないことへの苛立ちがあった。でもこの言葉はお母さんに向けるものではなか
った。
160 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時50分53秒
 悲鳴のような声を上げ続けたせいか、すっかりとお母さんは口を閉じていて、
唖然とあたしを見上げていた。服につくお茶の事など忘れ去れてしまったようだ
った。
 あたしは肩で息をする。悔しくて涙が出てくる。それでもそれを見せるのが嫌
で、必死で我慢する。

 気が付くと居間にはテレビの音が鳴り続くだけで、あたしもお母さんもしばら
く口を閉じていた。沈黙が重くて、溜まっていたはずの怒りが急に不安に姿を変
える。
 あたしはぽつりと呟いていた。

「……なにも見なかった?」
「…………」
 お母さんは何も言わなかった。まだ呆然とあたしを見上げていた。
「……何も……触ってないよね」
161 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時51分56秒
 ああ、うん、と我を取り戻してお母さんは言う。気休め程度の安心が生まれて、
今はそれに満足しなくてはいけないだろうと思った。すぐに居間から出ようとあ
たしはお母さんに背を向けたとき、うわ言のように呟かれた言葉が不意にそんな
小さな安心さえも消し飛ばしてしまう。

「匂いがした……」
 あたしは足を止める。
 背を向けたまま、言葉の続きを待った。

「香水の……匂い」
 唾を飲み込む。
 表情が見えないように体を動かさなかった。

「あなたのじゃない……別の香水の匂い」
 それがした、とお母さんは呟いた。
 あたしは居間から一歩出ると、釘をさすように言った。

「もう、入らないで」

 逃げるように階段を上った。
162 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時53分00秒
   ∞

 ドアを開けた瞬間、こぼれてきた僅かな歌声に、あたしはドキリと胸を高鳴ら
せた。
 足元からいつものように青白い光が伸びる。冷たい空気の中に、人の気配を感
じて、いつもの安らぎがゆっくりと肩を包むように降りてくる。しかし今日はそ
れとは別に、懐かしさも胸の奥から込み上げてきた。

 部屋の中に入ると市井ちゃんはいつもの位置に座り、ゆっくりと顔を上げた。
微笑むその口元は真っ白くて肩までの髪の毛がキラキラと窓から入り込む光に同
化するように輝いている。ノブから手を離して、ドアが閉まるのを待ってからあ
たしは声をかける。

「歌……今、唄っていたのは市井ちゃん?」
 お帰り、後藤。

 あたしはその言葉を無視して一歩二歩と歩く。市井ちゃんの前には携帯ラジオ
が置かれていて、ボリュームを絞られてはいたが、微かに音楽が鳴っていること
に気が付いた。

 ああ、ドリカムだ。
 市井ちゃんが大好きな歌だ。
163 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時54分08秒
 さっきのお母さんとのやり取りから生まれていたわだかまりが溶けていくのを
感じた。懐かしさの中に、言い知れない期待が生まれる。もしかしたらあたしが
求めていたように、市井ちゃんに変化が始まっているのかもしれない。今まであ
たしの言葉にしか頷かなかった市井ちゃんが、自分の意志で歌を口ずさんでいる。
それは前向きな事態として考えてもいいのではないだろうか?

 この人の歌、好きなんだ。
 市井ちゃんはあたしを見上げながら言った。

「知ってるよ。そのくらい、あたしも知ってる」
 いい歌だね。

 市井ちゃんと一歩ほどの距離を取っていた。あたしのすぐ足元には赤いラジオ。
緑色の小さなライトが光っている。拳ほどのスピーカーからは軽快なリズムの中
に力強い声がまるで音楽の一部に同化してしまったかのように、この部屋の空気
に僅かな揺らめきを感じさせる。あたしは嬉しくなって、ニ三度首を縦に動かし
た。

「続けてよ。市井ちゃんの声が聞きたいよ」
 うん。

 市井ちゃんは笑顔のまま頷いた。
164 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時55分14秒
 あたしはゆっくりと部屋の隅に置かれていたサングラスとお守りを拾う。それ
から市井ちゃんの横に腰を落とすと、薄闇の中に確かに響く鼻歌に眼を閉じた。

 あたしの考えは間違っていない。
 サングラスが手元に戻ってきたから、市井ちゃんは一歩昔のように戻ったのだ。
好きだと言う歌を知って、自然とそれを鼻歌にする。今まで過ごしてきた数日間
にはそんな行動を取る気配さえもしなかった。

――幻は完全になんかならない。

 あの言葉は間違っているのだろう。
 なぜなら確かに変わり始めている市井ちゃんが居る。その事実は変わらない。

 もう少しだ。
 後一つ揃えば、市井ちゃんは確かなものになるんだ。昔のように、あたしを独
りになんかしない。
165 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時57分32秒
 そっと隣の市井ちゃんを見る。歌を口ずさみながら、その眼は閉じられ顎を少
し上に向けてラジオから聞こえる音楽に浸っているようだった。青白く輝くその
姿はとても綺麗で、あたしの胸を高鳴らせる。それはもしかしたら部屋に漂って
いる匂いにも反応していたのかもしれない。

 あたしは市井ちゃんに昔使っていた香水を買え与えていた。

 少しでもあの頃のようになってもらいたくて、まったく同じ物を買った。それ
を付ける市井ちゃんの匂いが徐々に部屋に漂い始めている。まるでデジャヴュに
襲われるように、あたしのしまい込まれた思い出たちが部屋の中に姿を現し始め
ていた。

 あたしと市井ちゃんはそんな思い出たちに囲まれながら、一緒の時間を過ごし
ていた。それは外の世界を遮断して、確実に自分だけの空間だった。そこにいつ
までも浸っていられる事が心地よくて、朝になることに憂鬱になる。朝になると
仕事にも行かなければならないし、市井ちゃんや、この部屋からも出なくてはい
けない。できる事ならば、いつまでもここで過ごして居たかった。

 ラジオから流れていた音楽が止まり、男の人の声に切り替わった。それと同時
に隣の市井ちゃんの鼻歌がピタリと止まる。
166 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時58分29秒
「どうしたの?」
 どうしてやめるの、そんな意味を込めてあたしは言う。
 市井ちゃんはゆっくりと眼を開けると、その視線をあたしに向けた。
 ……何が?

「歌、どうしてやめるの?」
 あたしの言葉に市井ちゃんは表情を変えない。
 歌?
 なにそれ? とまるで子供が聞き返すような言い方だった。

 ああ、そうか。
 あたしは気が付く。

 まだ市井ちゃんは完全ではない。だから、鼻歌の主となる音楽が聞こえなくな
るとそれを止めてしまうんだ。その歌を口ずさんでいた事実さえも忘れて、いつ
もの市井ちゃんに戻ってしまうんだ。
167 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)09時59分11秒
 落胆はしなかった。
 ただ早くブレスレットを取り替えそう、と決意を固めただけ。

 それと同時に違う考えも浮かぶ。
 市井ちゃんがずっと歌を口ずさめるように、CDを用意しよう。ドリカムだけ
じゃない、昔の娘。やプッチの物も。きっとあたしが持っているものだけじゃ足
りない。市井ちゃんがこれまで聞いていただろう、あたしが知る限りのCDを用
意しよう。

 早速、明日買いに行こうと決めると高揚感が沸いてくるのに気が付いた。明日
仕事までの時間に何件レコード店を回れるだろうかと考えて口元に笑みが浮かぶ。
それはとても楽しい想像で、そのCDを手にした市井ちゃんの反応さえも期待を
した。

 久し振りに朝が来る事を楽しみにしている自分が居た。
168 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月31日(水)10時02分14秒
>>151
まあ似たようなものです。
169 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月31日(水)16時41分57秒
市井ちゃんが歌っていたのは何だろうと気になってしまった
170 名前:名無し娘。 投稿日:2002年07月31日(水)23時30分35秒
脱退なんて事実はなかったんだと思いたい・・・
そして後藤と娘。を繋ぐものを山のように積み上げるのかもしれない
171 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)20時55分24秒
    11

 まただ。

 矢口は携帯の履歴を見て思った。

 非通知で電話が掛かっている。丁度仕事が終わってタクシーに乗っていた時間
だろう。多分短いコールで切られたそれは、ここ数日決まった時間に掛かってき
ていた。
 携帯をベッドの上に放り投げて、自分もその上に乗る。あぐらをかいた状態で、
壁に寄りかかるとため息を一つ吐いた。

 どこかに携帯の番号が漏れているのかもしれない。思い当たる節が多すぎて、
番号交換したきり、一度も連絡を取っていない知り合いの顔が浮かんでは消えて
いき、誰が怪しいかなんて特定できそうになかった。そもそも悪戯電話なら、決
まった時間に、まるで自分の存在を知らせるように数回のコールのみで切るもの
だろうか? 興味半分で悪戯をするならば、自分が出てきたときの反応を知りた
いものではないだろうか?
 もしかしたら犯人は身近な所に居るのかもしれないな、とぼんやりと考えてみ
たが、やはりそれも誰か特定できそうに無いことを悟り、考えるのをやめた。
172 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)20時56分26秒
 倒れるようにベッドの上に横になる。仕事の疲れから、今にも瞼が閉じてしま
いそうになるのを堪える。口から出てくるのはため息ばかりで、静かな自分の部
屋の中で時間を止めていた。

 明日も早い。お風呂に入らなきゃいけないし、この前のダンスレッスンした時
の振りも覚えておきたい。年末に向かって忙しくなると言う事はマネージャーか
ら言われていたため、出来る事は早めに片付けておきたかった。

 ベッドの中に沈んでいく体を、意を決して起き上がらせる。頭を横に振って襲
ってくる眠気を追い払った。

 ゆっくりと立ち上がり、ピアスとブレスレットを外して窓の横に配置されてい
る机の上にそれを置く。すぐ脇には昨日まで読んでいたマンガの本が開いたペー
ジを背にして置いてあって、手で持ち上げると癖がついてしまったようでだらし
なく半開きのままになっていた。

 机の上に置いたブレスレットを見て思い出す。
 数日前のサングラスの件。
173 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)20時57分38秒
 後藤が保田のサングラスを盗もうとして、未遂に終わった事件。しかしその次
の日に何を思ったのか保田が同じ物をまたつけてきたことに矢口は気が付いてい
た。そして帰りには別のサングラスに変わっている事にも。楽屋から出て行く後
藤を、悲しそうな表情を浮かべて見ていた保田の表情が今でも印象に残っていて、
それと比例するように出て行った後藤の顔にはどこか浮いたものがあった。ああ、
盗まれたんだ、とその時に察したが、保田自身がそれを望んでいた事にも同時に
勘付いた。

 だから、サングラスを二つ持ってきたのだろう。
 人がいいのも程がある。

 後藤の欲を満足させるために、自分自身が傷ついて何の得があるのだろう。確
実にその出来事でプラスになったのは後藤だけではないか。

 そう考えると訳のわからない苛立ちがこみ上げてくるのを感じた。

 矢口はゆっくりとブレスレットを摘むように持ち上げてから、天井の蛍光灯に
それを翳す。鈍い輝きが眼の裏を刺激して、後藤の顔が思い浮かんだ。
 これに後藤が興味を持っていることを矢口は気が付いていた。安倍や他のメン
バーと話をしていても、楽屋の隅に居る後藤の視線を感じる時がある。何気なく
その方向を見てみると、彼女が自分の右腕につけているブレスレットを見ている
のだという事に気が付く。それはまるであの腕時計の時と同じような視線だった。
174 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)20時58分47秒
 ああ、これがほしいんだ。
 矢口はそう思っていた。
 だからこれ見よがしに業とブレスレットを付けて行っては、後藤の視線を感じ
る事に快感を得る。決して腕時計のときのような事はしない。常に肌につけて、
外す時は家以外では決してしないように心かげていた。いつしかそのブレスレッ
トは、矢口の中でアクセサリーと言う意味から遠ざかり、後藤を焦らす道具に変
わっていた。

 矢口は後藤のことが気に入らなかった。徐々に自分たちに出来てきた溝。常に
仕事面で優遇され続ける彼女と自分の立場。必死で自分をアピールしながら、グ
ループの中で求められている役割を果たしてきた。いつかもっと大きく、もっと
前に出られるように頑張ってきた。努力し続けてきて、それなりに認められてき
てはいるのだろうと感じてはいるが、ただそこにいるだけで後藤はチャンスを与
えられている。それが悔しかった。
 いつしか娘。がバラバラになっていったのも後藤のせいではないか、と矢口は
思いようになってきた。

 グループを常に愛し続けてきた自分の気持ちを、後藤が砕いていっているのだ
と、そう思えてならなかった。だから、自分がしている事は、そのグループ全員
の総意。別に悪い事をしているわけではない。
175 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)20時59分35秒
 ブレスレットを再び机の上に置いた時だった。部屋の中に軽快な音楽が流れる。
すぐにベッドの元に視線を向けると、携帯が点滅しているのに気が付いた。
 ゆっくりとそれを取って開く。液晶には保田の名前が出ている。

「もしもし」
 矢口は通話ボタンを押して言った。

「矢口?」
「どうしたの? 圭ちゃん」
 うん、ちょっとね、そう言って保田は少しの間を空けた。矢口は彼女の言葉を
待ちながらベッドの上に座る。机に視線を向けるとブレスレットが見えた。
「何してた?」
「今からお風呂入ろうかとおもってた」
「少しだけ大丈夫?」
「うん」
 保田の声色から世間話をしようとしているのではないと気が付いた。
「あの子……ごっちんの事なんだけど」
「……何?」
 もちろん、その話をしようとしている内容にも薄々気がついていた。
176 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)21時01分12秒
 保田はまた僅かな間を空ける。それは何を喋ろうかと迷っているように思えて、
話す内容を整理しないまま電話を掛けてきたのだということが窺い知れた。圭ち
ゃんのことだから、また一人で考えていたんだろう、そう思った。
 あの子、と保田は呟いてから言った。
「あの子……最近おかしくない?」
 矢口はベッドの上に仰向けになる。白い天井が視線を覆った。
「そう? いつも通りだと思うよ」
 誰とも話さず、部屋の隅にいて、時々ワガママ。何も変わってない。
「様子おかしいと思うの。この前の事だって……」
 サングラスの件だろう、と矢口は思った。
「それだって前にもあったじゃん。あの時に始まった事じゃない」
 矢口はそう言いながら首を横に向ける。締めているカーテンに僅かな隙間がで
きている事に気がついた。

「その事だけじゃないよ、矢口。その前だってあなたと喧嘩したじゃない。その
後反省会もすっぽかしたり……最近だよ、そんな行動取り始めたのは」
 そんな事もあったな、と矢口は思い出す。あからさまな焦りを顔に出していた
後藤をちょっとからかおうと思っていた事。予想以上の必死な表情で自分に向か
ってきた事。その後のメンバーの後藤への言葉はどこか心地いいものがあった。
177 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)21時02分50秒
「圭ちゃんは考えすぎなんだよ」
 矢口は言った。
「後藤のこと、考えすぎなんだよ」
 どうしてそこまで後藤のことを考えられるのだろうと、矢口は思う。娘。を壊
し始めている彼女に話し掛けるという行為さえ気に食わない。そう思っているこ
とを保田は気が付いているのか、後藤にきつく当たる矢口を咎めるようなことは
一度も無かった。

「でも矢口――」
「圭ちゃんは人が良すぎるんだよ」
 保田の言葉を遮るように矢口は言った。

「あたし、知ってるよ。サングラス、業と盗ませた事も」
「……矢口」
「見てないと思ってる? みんなの事、あたしが見てないと思ってる?」

 ため息を付いたのが聞こえた。サングラスの事を否定しようとしていたらしい
が、矢口の言葉に諦めた様子で、そんな事ないよ、と保田は口を開く。
178 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)21時03分35秒
「そんな事ないよ……矢口はいつも周りを見てる。尊敬してるよ、私は」
「……ありがとう」
「でもね、あの子のことを一番見てるのは私だよ。間違いなく、おかしくなって
る。どうおかしいのか、よくわかんないけど……でもおかしいんだ」

 そう、と答えて矢口は口を閉じた。別に後藤に興味が無い自分には関係ない。
保田が言うように、後藤の様子がおかしいのならば、それはきっと自分が追い詰
めている成果が出ているからだろう。別に娘。をやめさせようと言う気は無い。
ただ自分の視界に入らないように、いつも隅で黙っていればそれでよかった。

「ねぇ矢口――」
 保田の声に我に戻る。
 何? と聞き返すと、彼女は僅かな間を開けた。
 それは自分の言葉を確認していたのかもしれない。何があっても、その言葉通
りで居る自信を確かめたかったようだ。
 保田は言った。

「あの子を守れるのは私だけなんだ――」
179 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)21時04分38秒
 そろそろ電話を切りたいな、とぼんやりと考えた。
 疲れを明日に残さないように、早く体を休めたい。
 ゆっくりとベッドから起き上がると矢口は言った。

「……頑張ってね」
 刺々しいものが混じっていたのかもしれない、保田は口を閉じてから、遅くに
電話をしてきた事を詫びた。別にいいよ、と答えてから矢口はそれを切る。

 ベッドの上に携帯を投げ捨てて思う。

――あの子を守れるのは私だけなんだ。

 バカみたい。
180 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月21日(水)21時06分12秒
>>169-170
レスあれがとうございます。
181 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月22日(木)23時52分16秒
実際にありそうな話だ…。
矢口よ、あまり後藤を追い詰めないでくれ…
182 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時41分09秒
   ∞

 次の日、後藤は三十分の遅刻をした。

 そのせいで二本撮りの一本目を後藤抜きで収録する事になり、マネージャーが
苛々としているのをセットの上からでも矢口は気が付いていた。予想通り保田は
表情を歪めて心配をしている様子で、ごめんなさい、と小さな声で楽屋の中に入
ってきた後藤を見て、ほっと胸を撫で下ろしたようだ。

 一本目の収録が終わって、セットなどの準備をしている間の休みが入る。楽屋
に居るメンバーたちは、小さく肩を竦めて入ってきた後藤を刺々しい視線で見て
いた。それは矢口も例外ではない。連絡一つも渡さずに遅刻してくる事自体、プ
ロとして話しにならない。感情に任せて後藤を叱るマネージャーの背中を見なが
ら、当然の事だろうと考えていた。
 しかし保田だけはそう考えていない様子で、マネージャーの説教が終わってコ
ートを脱ぐ後藤の元に近寄る。何気なく会話に聞き耳を立てていると、微かだが
心配するような言葉を聞いた。

 具合悪いんじゃないの?
183 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時42分12秒
 ふとその言葉に後藤を見てみる。確かに顔色が悪く、立っているだけでもふら
ふらと今にも倒れてしまいそうなほど落ち着きが無かった。
 多分、ありがとう、大丈夫、そんな言葉を後藤は口にしたのだと思う。隣で騒
ぐ辻加護のせいで言葉を聞き逃したが、保田はホッと表情を緩めた事から予想が
出来た。
 後藤はパンパンに膨らんだ鞄を大事そうに置いてから、衣装に着替えるために
楽屋から出て行った。

 レギュラー番組の収録を終わらせて、雑誌の取材、ラジオ収録、そしてダンス
レッスン。いつものハードスケジュールを淡々とこなして行く間、保田は後藤の
体の心配をして、後藤はしきりに矢口のブレスレットに視線を向けていた。得意
になって、わざとらしくそれを見せびらかす矢口に、その都度面白いほど視線を
追う後藤の反応が返ってきて愉快になった。
 あたしは圭ちゃんとは違う。仕事でみんなの迷惑をかける後藤に気を使う事な
んてしない。

 サングラスの一件から、後藤の孤立はますます深めていた。あからさまに楽屋
にはロッカーなどが用意されるようになった。それが無い時はマネージャーに貴
重品を預ける事になっていたり、事務所に置いてきたりするメンバーが増えた。
184 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時43分26秒
 あのね、この前凄く可愛いキャラクター発見しちゃった。今日、家に来てよ。
 あのね、矢口がほしいって言っていた奴見つけたよ。上げるから家に来てよ。
 あのね――。

 仕事場で物の受け渡しは無くなり、個人同士で家など行き来する事が多くなっ
た。みんな後藤を気にしていた。

 いつしか後藤に話し掛けるものは、保田以外居なくなった。
 いい気味だと、矢口は思う。
 これから先も常に優遇され続けるだろう後藤には、これぐらいの事が待ってい
たとして罰はあたらないはずだ。

 それはダンスレッスンが終わった時だった。

 着替えるため部屋まで戻る廊下を歩いていると、不意に後ろに人の気配を感じ
て、何気なく振り返ると後藤が背中にピッタリとくっつくように居た。何? と
驚きの声を漏らす矢口を見下ろす後藤の視線は落ち着き無くキョロキョロと動い
ていて、まるで子供が大人に怒られているように見えた。
 何か話があるのだろうと、矢口は足を止める。周りのメンバーが視線を渡して
きたが、我関せず、と言った様子で廊下を歩き去っていく。保田が遅れてスタジ
オから出て、二人が立ち止まっている場所から正面の突き当たりで足を止めたの
は、その光景に気がついたからだったようだ。後藤の背中の向こう側で様子を伺
っているように立ち止まっている保田の姿が見えた。
185 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時44分13秒
「何?」
 矢口はもう一度言う。

 後藤は肩を竦めてから、恐る恐る顔を上げる。自分より十センチ以上背が高い
はずなのに、なぜか小さく感じる。それはもしかしたらいつの間にか出来た、二
人の余裕の差なのかもしれない。

「ブレスレット……」
 後藤は弱々しく呟く。冷たい廊下の上で、その声は無言の静けささえも打ち消
す事が出来なくて、今にも掻き消されてしまいそうだった。

「何? 聞こえない」
 わざとらしく口調を強めて言う。しかし後藤はその言葉に怯えた様子を見せる
ことなく、さっきと変わらない大きさで言った。

「ブレスレット……」
 向こう側に居る保田が凍えるように腕を組んでいるのが見えた。距離が離れて
いるせいか、その表情はわからなかったが、きっといつもの眉間に皺を寄せて後
藤のことを心配しているのだろうと思った。

「ブレスレット、どうして外さないの?」
 何を言っているのだろう、と矢口は思った。
 もちろんブレスレットはテレビの収録でもメイク中でも、いかなる時も外した
事は無い。それはもちろん遠まわしの嫌がらせでもあったが、こうして直接聞い
てくることにあまりの露骨さを感じた。
 矢口は左手でブレスレットを弄ると、声色を低くしていった。
186 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時45分22秒
「……盗まれるからだよ」
 そう言うような返事が返ってくることを、後藤は想像も出来ないのだろうか?
 後藤は無言のまま矢口を見下ろしていた。それが気に食わなくて、胸を命一杯
に貼る。

「圭ちゃんのサングラスも盗んだの、知ってるんだよ。最低だね、あんなに優し
くしてもらっているのに、それを裏切って何も思わないわけ?」
「…………」
「で、サングラスの次はこれ? ワガママにも程があるんじゃないの」
 矢口の言葉に後藤は何も答えない。

 その様子に苛立ちが沸いてくる。別にあからさまな反応など期待しては居なか
ったが、まったく同じような態度のまま微動だにされないと、まるで壁に喋りか
けているように思えて不快になってくる。あんたはあたしの望むような反応しか
取っちゃいけないんだ、そう言う考えが浮かんでは苛立ちに変わっていく。

「バカじゃない。外したら盗まれるのわかっているのに、外せるわけ無いじゃん」
 遠目から保田が歩み寄ろうとしているのが見えた。静かな廊下で矢口の声が聞
こえていたのだろう、面倒になるのは避けたかったため後藤に背を向けようと体
を捻る。
187 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時46分15秒
 でもね――。
 不意にその瞬間に聞こえてきた後藤の声。
 矢口は動きを止めて後藤を見る。彼女は変わらずに俯いたままだった。

「……何?」
 ゆっくりと後藤が視線を上げる。まるで病魔に侵されていく人のように、青白
い顔色の中に、不気味な笑みが口元に出来るのに気が付く。

「でもね、あれは圭ちゃんの物じゃないんだ」
 ゾクッと背中に嫌な感覚が走り抜けた。

 蛍光灯の真下に居る彼女の顔に微妙な影を作る。吊り上る口元は、メイクの名
残で薄くピンクが残っていたが、それを剥がせば顔色と変わらない、紫色のそれ
が現れる事だろう。
 矢口の表情を察してか、それとも背中だけでも後藤の雰囲気に気が付いたのだ
ろうか、途中まで歩み寄っていた保田の足が止まっていた。その表情は強張った
まま、後藤の背中に向けられている。

「何……なにそれ?」
 気を取り戻して矢口は言葉を口にする。
 たった数秒の後藤の変化に頭がついていかなかった。
188 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時49分39秒
「だから、やぐっちゃんのブレスレットも返してほしいの」
「何? なにいってんの?」

 それはやぐっちゃんのものじゃないんだ。だからね、それは返さないといけな
いの……人のものはちゃんと返さないといけないんだよ……。

 まるで念仏を唱えるかのようにぶつぶつと後藤はそんな言葉を呟いた。不意に
嫌悪が背中を伝って矢口は一歩後ず去さると、顔を上げて後藤の後ろに居る保田

を見た。何? 圭ちゃん、これは何? そんな感情を込めていた事が伝わったの
か、二人は数秒間、顔を合わせた。しかしどういった反応を取ればいいのか保田
自身もわからない様子で、足を止めたまま矢口を見ているだけだった。

――あの子……最近おかしくない?
 昨日の電話を思い出した。
 圭ちゃんが言っていたのは、この事だろうか?
 後藤の行動ではなく、この事を言っていたのだろうか?

 沸き起こった嫌悪が強くなった。
189 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時50分29秒
 気が付くと守るように左手でブレスレットを掴んでいた矢口は、必死に頭の中
で言葉を思い浮かべる。唾を飲み込んで、口からこぼれるように嘘をついていた。

「気に……気に入ってるから」
 もう一歩後ろに下がる。それは意識した行動ではなかった。

「気に入ってるから……外したくないの」
 後藤は無言のまま矢口を見ていた。
 別に睨んでいたわけでも、怒っているわけでもない。それとはまるっきり逆、
後藤の顔には表情が無かった。まるでマネキンのように、頬の筋肉も黒いビー玉
のような眼も、一切動く事は無かった。

 唾を飲み込んでいた。嫌悪は漠然とした感情に変わっている。それはもしかし
たら恐怖に近いのかもしれない。しかしそれに気がつくことは無く、ただ今は後
藤から離れたいという思いの方が強かった。

 後藤……。

 後ろから保田が呟いたのが合図だったかのように、体が自然と楽屋に向かって
走り出していた。左右の廊下に自分の足音が響き、後ろから呼び止めるような声
はしなかった。

 初めてこの時の感情が恐怖だと気がつかされたのは後になってからだった。
 それは優位な立場にいた矢口のプライドを傷つける感情だった。
190 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月23日(金)01時57分18秒
>>181
レスありがとう。

まあどうでもいい事なのですが、
書いている奴は矢口が嫌いなわけではありません。
191 名前:オムらいっすぅ 投稿日:2002年08月23日(金)10時26分36秒
初レスです。
あぅ痛い…どうなっちゃうんでしょう?
誰かごっちんを救って!
192 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月23日(金)13時15分42秒
作者さん矢口嫌いかと思ってました(w
キャラ的に適役ですもんな
193 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時15分50秒
    ∞

 家に戻ってきて、保田から電話が来たのは丁度日付が変わったときだった。
 携帯には決まった時間に掛かる、非通知の履歴。それを削除しながら、実害に
及ばない限り、何らかの対策を立てる必要は無いだろうと考えていた。

「もしもし」
 ベッドの上に座り、壁に背をつける。右手首には鈍く輝くブレスレット。

「ごめんね、こんな遅くに」
「いいよ、別に」
 眼を閉じるとそのまま眠ってしまいそうだった。体に溜まった疲労を逃がすよ
うにため息をついて、矢口は保田の言葉を待った。言いたいことは予想できてい
る。後藤のことだ、それ以外に今二人に話す事は無いだろうと、そう思っていた。
予想通り、電話から後藤の名前を聞く。

「あの子のバック見た?」
「今日の? それが何かした?」
 後藤のことを気にしている事を悟られるのが恥ずかしくて、出来るだけ平然を
装う自分が居た。
194 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時17分20秒
「今日、帰りにあの子に話し掛けてみた。バックの中に一杯物を詰めているみた
いだったから、それは何? て聞いてみた」
 矢口は思い出す。そう言えば遅刻して楽屋に入ってきた後藤の鞄には、何かが
詰め込まれたようにパンパンに膨らんでいた。

「CDだった。あの鞄に入りきらないぐらい、一杯CDを買っていたみたい。多
分、遅刻してきたのはそのせいだと思う。色んな店の袋があったから」
「CD? そんなに買ってどうするつもりなの?」
「それは教えてくれなかった。でもあの子の表情、どこか嬉しそうで、買ったCD
眺めていたから……」
 ふうん、と矢口は返事を打つ。
「自分で聴くって事無いよね……」
「そうだと思う。ドリカムと洋楽とか……聴くだけでも一日で足りないはず」

 なるほど、圭ちゃんが言うように後藤はおかしい、矢口はそう思いながら右腕
に巻かれているブレスレットを見る。これが自分のものではないという、後藤の
言葉をなぜか思い出した。

「明日、午後から仕事だから――」
 保田の声にふと我に戻る。

「だから明日、あの子の家に行ってみようと思うの」
 明日って言うか今日だけどね、そう言おうとしてやめた。時計の長針は一の文
字を指していた。
195 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時18分15秒
「そう、あたしは早いから、もう寝かせてもらうね」
 矢口がそう言うと、保田はごめんね、と謝る。

「何かわかったら知らせるから……じゃあお休みなさい」
 そう言って電話は切られた。
 携帯を閉じてから、それを脇に置く。ベッドから立ち上がり、数センチだけ開
いているカーテンを締め切った。

 別に知らせなくてもいいのに。

 自分は圭ちゃんのように後藤のこと考えているわけではない、だから、別に大
量のCDを買ったとしても、それは他人事でしかない。
 しかしそう思いつつも、仕事場からタクシーで家に帰る間、自然と後藤のこと
を考えている自分が居た。それは決して意識しているわけでもなく、まるでそれ
を考えるのが当り前のように脳が勝手に働いていた。
 ブレスレットを外す。ジャラジャラと掌で転がしながら、不意に後藤の言葉を
思い出した。
196 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時19分08秒
――だから、やぐっちゃんのブレスレットも返してほしいの。
 返すってどう言うことだろうか?
 どうして後藤にこれを返さなくてはいけないのだろうか?

 返すならば貰った紗耶香の方であって、後藤には関係ない。それに一度も本人
から返してくれとは言われていない。それなのにどうして関係も無い後藤にそん
な事を言われなくてはいけないのだろう?

「おかしい、か」
 そう呟いてからきっとそれが全てなのだろうと思った。
 だからあまり後藤と関りをもつのをやめようと思った。

 でもそれは甘い考えだった。
 後からそれを思い知らされる。
197 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時19分59秒
    ∞

 午後にプッチの面々と合流して、早くもテレビの特番に顔を出す季節になって
きた。楽屋の中は暖房で暖められて、窓に水滴が浮く。それに遮られて、曇り空
の外を見る事が出来なかった。

 初めに姿を現したのは保田だった。二つに分かれた楽屋を行き来して、どうや
ら矢口を探していたらしく、ドアを開けた時、挨拶よりも先に名前を呼ばれた。

「おはよ」
 同じ楽屋に居るメンバーから挨拶をされて、それに気がついたように返す。す
ぐに自分に話し掛けてくるのだろうということを察して、隣で膝を崩していた安
倍に、ごめん、と謝りながら立ち上がった。

 ドアの前で靴を履いて、廊下に出る。数人のスタッフが横を通り過ぎて、物珍
しいものでも見るかのように視線を向けてくる。矢口は『モーニング娘。様・1』
と楽屋の前に貼られた紙を捲るように手で触ってから、険しい表情を浮かべてい
る保田を見上げた。
 後藤のことだろう、すぐに察しが着く。
 昨日の電話で後藤の家に行くと話していたため、何らかの事を知ったのかもし
れない。それを律儀に自分に報告しようとしているようだ。
198 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時20分51秒
「ここで大丈夫?」
 矢口は視線を周りに向けながら言った。
 うん、と頷いてから保田は口を開く。

「時間も無いからね……ごっちんはもう来たの?」
「まだみたい。吉澤も来てないからね……そろそろ来るんじゃない?」
 そっか、と保田は消えそうな声で呟いた。

 矢口はため息をついて早く楽屋に戻りたいと思っていた。どうして自分が後藤
の話を聞かなければならないのだろうかと考える。それは多分、保田の策略もあ
ったのかもしれない。彼女と同じように後藤のことを考えることによって、きつ
くあたることをやめさせられないだろうかと、そう考えているように思えた。そ
れは気に障る事だったとしても、矢口は保田に付き合うことを決めていた。この
先も良い関係を築いていたい為、少しぐらい話を聞いてもいいだろう。

「ここに来る前に、あの子の家に行ってみたの」
「昨日言ってたからね……で、後藤とは会えたの?」
 保田は首を横に振る。
「居なかった。出かけてるみたいだったから……別に会うなら仕事場でも会える
しね」
「じゃあどうして家になんか行ったの?」
199 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時21分40秒
 矢口の後ろからスタッフが歩いてきたようだ。保田はそれに気がついて口を閉
じる。近づいてくる足音が自分たちの横を通り過ぎていくと、今度は矢口がその
スタッフの背中が消えるのを待った。

「で、何で行ったの?」
 人がいなくなったのを見計らって矢口は言う。
 保田はうん、と頷いてから言った。

「サングラス……あの子の部屋にそれがあるのか確かめたかったから」
「…………」
「矢口はどう思っているのかわからないけど、私はただあれが欲しかったからっ
て盗んだようには思えない。みんなから白い目で見られてまで執着して……腕時
計みたいに、ただ欲しかったって言う動機じゃないような気がするの」

 それは薄々矢口も気が付いていた。同じようにブレスレットに関心を寄せてい
る後藤と話した昨日の事を思い出せば、保田の言葉は素直に頷ける。ただ、この
場で同意する言葉も態度も出さなかった矢口は、後藤への態度を変える事への躊
躇いがあった。訳のわからないプライドを傷つけられるような気がしていた。
200 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時22分33秒
「でも結局家に居なかったから上がる事は出来なかったけど」
 保田は残念そうに顔をしかめる。矢口は黙ったまま言葉を待った。
「その代わり、あの子のお母さんと少し話をする事が出来たの。様子がおかしい、
疲れているのかもしれない、そう言ったら、ごっちんのお母さんもその事には気
が付いていたみたい」
「さすが母親だね」
 何気なく呟いた言葉に保田は一瞬だけ口を閉じた。どうやら皮肉が混じってい
るとでも思ったらしい。しかしすぐに彼女は気を取り直して言葉を続ける。

「部屋に違和感があるって……様子がおかしいのは、ごっちんの部屋に何かがあ
るんじゃないかって、そう思っているみたい。部屋に入ることを異常なほど嫌が
ったり、ちょっとした物を触っただけでも入られた事に気が付くんだって……だ
から、なかなか部屋に上がる事が出来ないって言ってた」

 年頃の女の子だ、部屋に上がられるのは嫌だろう。矢口だってそうだ。一度仕
事から帰って来たら父親が部屋を片付けていた時がある。それに気がついて大喧
嘩をした。後藤のその行動だって、矢口にはおかしいとは思えなかった。
201 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時23分32秒
「でも、どうしても気になったみたいで一度だけ部屋に入ったらしいの。何か見
つけられるかもしれないってそう思ったみたいで……でも別にそこまで必死に隠
すようなものは見当たらなかったって、そう言ってた」
「じゃあお母さんの考えすぎだよ。部屋に入られるの、嫌だって気持ち、ヤグチ
にもわかるからね……それだけでしょう」
 それで会話を終わらせたつもりだった。いい加減、延々と後藤の話をされるの
にも限度がある。そう思いながら楽屋に戻ろうとドアノブを握る。

「でも矢口――」
 しかしそれを遮るように保田は口を開いた。

「でも、おかしいのは間違いないよ。部屋から時々話し声がするって」
「電話でしょう」
「それだけじゃない。電気がいつも点けられていないみたい。いつも真っ暗にし
てるって……」
「寝ているんじゃないの。後藤、疲れているんでしょう」
「だったら誰と話すの?」
「…………」
「電気も点けていない部屋で、誰と電話するの?」
「……そんなの知らないよ」
「ここ最近らしい。部屋にそう言う異常があるのって……もしかしたら後藤がお
かしくなり始めた理由もそこにあるのかもしれない」
202 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時24分42秒
 ため息をついて矢口は保田を見上げる。
 そんな話をして、圭ちゃんはあたしに何を求めているのだろう?
 そう思うと理不尽とも言えるような怒りが沸き起こってきた。

 それは昨日から、ずっと後藤の事が頭から離れていない事実に朝から矢口が
苛々していた事も理由の一つになったかもしれない。考えないようにしよう、名
前を口に出す事さえもしないようにしよう、そう言った努力を目の前の保田がこ
とごとく壊していく。

「だったら直接、後藤に聞きなよ」
 口調に刺々しいものが混じっている事は理解できた。それでもそれを抑えるの
も邪魔になって、後藤の話をされる事に自分が不快だということを知ってくれれ
ばいいと思った。

「……矢口」
「そんな裏でこそこそしているよりも、後藤に直接聞いたほうが手っ取り早いん
じゃないの?」
「でも矢口――」
203 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時25分26秒
 グタグダと愚痴のようなものが返ってきそうなことを悟った矢口は保田を押し
のけて廊下を歩く。ごめん、トイレ、そう言うと保田は微妙な表情を浮かべたま
ま口を閉じて後を追おうとはしなかった。
 どうせ楽屋に居ても保田が居る。それなら仕事が始まるまで、少しでも時間を
潰そうとそう思った。

 迷路のような廊下を歩き続けて、すれ違うスタッフに愛想笑いで挨拶をする。
こう言う事は体が覚えているようで、その時の感情など関係ないのだな、と客観
的に考えている自分が居た。

 左手側に続く窓に視線を止める。何となく露を手で払うと、まるで車のワイパ
ーを掛けたように一部分だけ向こう側の景色が現れた。そこにはどこまでも続く
ビル郡と、その下に通っている車道。裸になった街路樹が寒そうに風に吹かれて
揺れていて、その脇を通る車が白い煙を上げる。空にはどこまでも続く重く垂れ
こめた雲が覆い、太陽の陽射さえも遮っていた。

 手についた水滴を空中で払い、階段脇のトイレの中に入る。丁度洗面台の前に
一人の女性がいて、鏡越しに矢口に気がつくと軽く会釈をした。それに返すと、
その人は水道を止めて外に出て行く。鏡の前に立った矢口は、いつもの癖で髪型
を手で弄り直していた。
204 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時26分16秒
 トイレの中には他に人は居ないようだった。急に静けさを感じて、ため息をつ
く。きつめに漂っている芳香剤が肺の中に入っていくような気がして首をニ三回
横に降った。

 右腕のブレスレットに視線を落とす。
 また訳のわからない苛立ちが蘇ってきた。

 自分の中で後藤のことを考える時間が多くなっていることが悔しかった。今ま
で確実に彼女と接する時も余裕を持てていた。しかし徐々にそれが消費されてい
き、保田の話を聞くたびに漠然とした不安が大きくなってくる。昨日の病的に笑
みを作る後藤の表情を忘れる事が出来なかった。
 ギィ、と鈍い音を立ててトイレの扉が開く。何気なく鏡を通して視線を向ける
と、矢口は入ってきた人物に思わず息を飲み込んだ。

「ここだったんだ、やぐっちゃん」
 後藤……。
 矢口はゆっくりと振り返る。
205 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時27分26秒
 二三歩ほどの距離を開けて二人は向き合う。後藤はコートを着たまま、鞄を肩
に掛けて、首に巻いたマフラーさえも解いていなかった。どうやら今ここに到着
したばかりなのだろう。

「圭ちゃんがやぐっちゃんはトイレだって言ってから」
 何か用? そんな言葉さえも喉の奥から出てこなかった。思わず咳払いをして
から彼女を見上げる。どうやら自分を探しに追ってきたらしい。

「な……何?」

 平然を装ったつもりだったが、驚きから喉が働かなかったようだ。ゆっくりと
唾を飲み込んで、いつものように余裕を持って接しようと頭の中で言い聞かせる。
しかしそれは焦りだけを生んで、掛ける言葉の一つも思い浮かばなかった。
 後藤は一瞬だけ矢口の右腕に視線を移した。すぐにブレスレットを見ている、
と気が付いて思わず子供のようにそれを後ろに隠した。

「やぐっちゃんに上げたいものがあるんだ」
 後藤はそう言いながら肩に掛けている鞄を漁り始めた。
206 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時28分12秒
 今日の後藤の声色はいつもより明るかった。それは鞄を漁るその表情からも明
らかで、純粋な子供のそれと同じようなものだと、ぼんやりと考える。しかしそ
の一方では一体何を取り出すのだろうと、警戒をしている自分も確かに居た。
 後藤は掌ぐらいの紙袋を取り出した。白くてどこかの店のロゴが入っている。
それを口元に笑みを浮かべたまま矢口に差し出す。

「何……何これ?」
 困惑気味にそれを受け取りながら矢口は聞く。

「開けてみて」
 後藤は表情を変えないまま言った。

 言われた通りに矢口は口を閉じているテープを剥がして袋を開ける。それを掌
の上で逆さまにして、中の物を落とすように取り出した。

 あれ、と思う。

 掌にはシルバーの鎖状なっているブレスレットが落ちてくる。それはさっきま
で見ていた物とまったく一緒だった。
 一瞬だけどうして自分のブレスレットがこの中に入っているのだろうかと考え
た。しかしすぐにそうじゃないと気が付く。これはまったく一緒の物だ。自分が
点けているブレスレットと同じ物だ。

 顔を上げて後藤を見る。
 その真意がわからなくて、口をパクパクとさせるだけで言葉は出てこなかった。
207 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時28分57秒
「一生懸命探したんだ」
 後藤は言った。
 不意に嫌な感覚が背筋を走るのに気が付いた。
 それは昨日とまったく同じような感覚――。

「同じ物だよ。今日朝から色んなお店に行ったの。遅刻しちゃうかもって思った
けど、やっと見つけた」
「何……どう言うこと?」
 困惑しながら矢口は聞く。
 同じ物を買って、それをどうして自分に渡すのかわからなかった。

 後藤は口元の笑みを消すと、きょとんと矢口を見た。どうしてそんな言葉が返
ってくるのか理解できない様子で、自分の考えている事が矢口にも通じていない
事に不思議に思っているようだった。

「だってやぐっちゃん――」

――あの子……最近おかしくない?

「そのブレスレット気に入っているって言ったじゃん」
 不意に昨日の会話を思い出した。後藤から逃げる直前についた自分の嘘。それ
を間に受けて後藤は言っているようだった。
208 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時30分03秒
「……何……それ」
「だからね、やぐっちゃん」
 矢口の呟きを掻き消して後藤は言葉を重ねる。

「だから、やぐっちゃんが付けているのをあたしに頂戴」
 カチカチ、と音がなっているのに気が付いた。視線を落とすと自分の掌が揺れ
ていて、その上にあるブレスレットが擦りあっているようだった。

「……なに言ってるの」
 自然と口から漏れてくる言葉。

「だってやぐっちゃんはそれを気に入ってるんでしょう? 同じ物だよ。だから
今付けてるの、あたしに頂戴」

 交換するために、後藤はわざわざ同じ物を買ったということだろうか? まっ
たく一緒の物を、まったく一緒の物と交換しようとしているのだろうか? そん
な馬鹿げたことがあるのだろうか、と考える。そんな事をして一体何の意味があ
るのだろうか?
 後藤の表情は矢口がどうして躊躇っているのかわからない様子で、首を少しだ
け横に傾けていた。それは子供が不思議な物を見たときのように、無表情の中に
疑問が混じっていた。
209 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時30分46秒
 背中を走り抜けたさっきの痺れが全身を駆け巡る。
 目の前の後藤への感情が恐怖だという事に気がつかされた。

「何……何それ……バカみたい……」
 口から出てくる自分の意志とは関係ない言葉。それは確実に胸の奥の不安を増
長させていく。

 気が付くと手に持っていたブレスレットを後藤に投げつけていた。
 チャリン、と音を立ててタイルの床に落ちるブレスレット。後藤は無表情のま
ま、足元に転がるそれに視線を落とす。

「おか……おかしいんじゃない……おかしいよ、あんた……」
「でもやぐっちゃんが――」
「そう言う意味で言ったんじゃない!」
 駆られる恐怖から矢口は声を上げていた。
210 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時31分37秒
「大切なものだから誰にも上げたくないの! 例え同じ物だとしても交換なんて
しない!」
「…………」
「それぐらい……普通……わかるじゃん……」

 後藤は視線を落としたまま顔を上げようとはしなかった。その態度はいつもの
それに戻っていたが、矢口の中で余裕は生まれる事は無かった。逃げるように後
藤の体を押しのけると、トイレの扉を開く。蛍光灯が反射する廊下の輝きに一瞬
だけ眼を細めた。

 早く後藤から離れよう。
 早くみんなのいる所に戻ろう。

 そう思いながら廊下に足を踏み入れる。扉から手を離すと、それは自然と閉じ
ようとしていた。
 一瞬だけ振り返ると、その閉じる扉の間から、下唇を噛んで落ちたブレスレッ
トを拾う後藤の姿が見えた。

 でも次の瞬間には扉は閉ざされていた。
211 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月24日(土)06時37分59秒
>>191
初レスありがとうございます。
>>192
本当にそう思われていたのかとショックを受けてしました。
もう立ち直れません。
嘘です。
212 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月25日(日)01時41分21秒
うぬ。続き期待。
213 名前:192 投稿日:2002年08月25日(日)13時11分29秒
レスの2行目まで読んだ時死ぬほど焦りましたが3行目で安心しました。
連続更新お疲れ様です。
214 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)05時58分23秒
   12

 ラジオの中の市井ちゃんがいつもの声で、近々あるライブの告知をしていた。
ライブ会場で、バンドを引き連れて行なうというそれに、あたしは自然と携帯の
中の日付を確認して、頭の中でその日も仕事だということを知り少しだけ落胆す
る。

 自然とため息をつくと、ふと隣から視線を感じて首を向ける。そこには市井ち
ゃんが不思議そうな顔であたしを見ていて、薄闇の中にひっそりと見えるその二
つの眼は僅かな微光を吸い込んで鈍く輝いていた。
 あたしは携帯ラジオを止める。すぐにその脇に置いてあるラジカセのスイッチ
を入れて、床に散乱するCDの中から一枚適当に選ぶ。

「これでいい?」
 あたしがそう聞くと、市井ちゃんは静かに頷いた。

 CDをセットして再生ボタンを押す。一瞬の無音の状態から、優しくイントロ
が始まる。それにあわせてギターが重なり合うように続き、力強いボーカルの声。
ゆっくりと市井ちゃんに視線を向けると、その音楽に浸るように眼を閉じて壁に
背を寄りかけている姿が見えた。
215 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)05時59分15秒
 市井ちゃんはあたしが買え与えたCDを聴いていた。仕事から部屋に戻ってく
ると、音楽が心地よい光と共にこぼれて来ていた。ひっそりと今まで静けさだけ
が敷き詰められていた空間に、心地よいメロディーが入り込むようになった。

 徐々に、昔のようになってきているんだと思った。

 あの頃のように、優しくあたしを見守ってくれた市井ちゃんに近づいている、
そう確信していた。

 だからあたしは市井ちゃんのために尽くしていた。

 少し伸びた髪も切って、服はあの頃好きだといっていたブランドの物。覚えて
いる限りの市井ちゃんが身に付けていただろうアクセサリー。それらをあたしは
探し回ってきては買い与えた。全てを身に付けた目の前にいる姿は、あの頃とま
ったく代わり映えの無いものになっている。
216 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時00分12秒
 後、一つなんだ。
 あたしは右手に握っていたブレスレットを見ながら思う。
 早く、やぐっちゃんのブレスレットを奪い返さないといけない。

 こんなにも色んなものを買え与えたりしているのに、大事な物だけがぽっかり
と穴を空けている。だから、いつもでも市井ちゃんはあの頃のように戻ってくれ
ない。不安を優しく包んでくれる事もしてくれない。
 あたしは部屋を包む音楽の中、言い知れない焦りを感じていた。
 それに気がついたのか、隣にいる市井ちゃんが掠れるような声を出す。

 後藤……。
 あたしは顔を上げて市井ちゃんを見る。

「何?」
 市井ちゃんは優しく微笑を浮かべたまま言った。

 わたしもこんな唄えたらいいな。
217 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時01分06秒
 しばらくその言葉の意味がわからなかった。しかし市井ちゃんの微笑を見てい
るうちに、それは喜ばしい言葉だということに気が付いた。
 あたしはうん、と頷いた。

「聞かせてよ……市井ちゃんのうた」
 市井ちゃんは変わらない微笑であたしを見ている。

「市井ちゃんのうたが聞きたいよ」
 あたしは甘えるように市井ちゃんの肩に腕を回して体を預けた。すぐにそれを
受けてとめるように重なる掌。冷たい空気の中に確実に感じられるぬくもりに、
あたしの胸の奥にある不安や疲れが段々と小さくなっていくのを感じる。

 いつまでもこうしていたいから――。
 だから早くブレスレットを奪い返さなきゃ。
 あたしは強くそう思った。
218 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時02分18秒
    13

 不快な気分で目覚ましを止めた。
 いつの間にか眠っていたようだが、頭がまったく冴えない。体には鉛を飲み込
んだように重さを感じて、ぼさぼさの頭を手でかき上げながら、体を起こした。
すぐにパジャマを縫って部屋の冷たい空気が皮膚を刺激する。蒲団の中のぬくも
りに未練を感じながら、矢口は陽射で明るくなったカーテンに視線を向けた。

 眠った気がしない。それは深夜まで延々と後藤のことを考えていたのが原因だ
と言う事はわかっていた。考えないようにしても浮かぶ昨日の出来事に、疲れて
いるはずの脳が活発に動き、閉じられた瞼も自然と開いていた。深夜の暗闇の中
で、息を潜めている不安が形となって存在していたような気がしていた。それは
リアルに人の気配を放ち、落ち着かない気分で寝返りを打ち続けて、意識が遠の
くのを目覚し時計の秒針を聴きながら待つだけの時間を過ごしていた。

 多分そんなに長い時間寝ていたわけではない。それは体に残る不快な気分が証
拠だろう。それでも二度寝の誘惑を振り払って蒲団から抜け出た。
219 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時03分10秒
 居間には矢口の母親がいた。妹や父親はすでに学校や会社に向かった後のよう
だ。テレビのワイドショーは後半に差し掛かっているようだった。

 疲れを確実に残している矢口に母親が心配しているようだったが、それに一々
返す言葉も面倒くさくて、洗面台で顔を洗って歯磨きをする。いつもの仕事に向
かう準備をしながら、仕事場で顔を合わせなくてはいけない後藤に憂鬱になった。

 自分は前までのように、優位な立場で後藤と接しられるだろうか?
 自信は無かった。

 パジャマから着替えて、メイクをする。いつもの習慣でブレスレットを付けて
玄関で靴を履いた。
 行ってらっしゃい、と母親の声にうん、と返事をしながら矢口は家のドアを開
けた。
 外の冷たい空気が暖房で暖められた家の中に入ってくる。瞬間的な風がセット
をした髪を触って逃げていく。差し込む太陽の陽射に眼を細めた時、それを狙っ
ていたかのように頭上から何かが落ちてきた。
220 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時04分00秒
 ドアを閉めて落ちてきたものに視線を落とす。それは大学ノートを破って、握
りつぶされたように何かが丸めて包んであるようだった。
 不意に首を上に向ける。どこから落ちてきたのだろうかと不思議に思って見る
と玄関のドアの真上に細い糸が垂れているのに気が付き、どうやらそこからだと
思った。

 ドアを開けると落ちてくる仕掛けになっていたようだ。
 しばらくその場に立ち続けて、その何かを包んでいる大学ノートの切れ端を眺
める。こう言うことには感が働くのだろうか、嫌な予感がして、それと同時に気
味の悪さが背中をゆっくりと包むように降りて来た。

 無視しようか……?
 気味が悪いなら無視して仕事場に向かうべきだ。
 しかしどうしようもないほど好奇心が存在している事も否定できなかった。

 結局、その好奇心に負けて矢口はその紙くずを拾った。柔らかい感触がする。
確実に何かが丸められている事を確信した。
 周囲を見渡してみる。そこには誰の姿も見ることは無く、家の前を通る近所の
おばさんも居なかった。
221 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時04分41秒
 冷たい風が吹く。
 ゆっくりと掌の上でそれを開いてみた。

 その瞬間、現れた物体を頭が的確に判断できない。訳がわからない思いで、矢
口は少しだけ顔を近づける。

 死んでるの……?
 これは死んでるの……?
 不意に背筋を這う痺れ。

 瞬間的にそれを投げ捨てて、喉を痺れさせるほど悲鳴を上げた。
 玄関に当たって転がるそれは、投げ捨てた衝撃から包んでいた紙から飛び出し、
霜が降りた土の上でその姿をあらわにした。

 鳥の死体だった。
222 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月27日(火)06時17分03秒
>>212
ういっす。
>>213
ごめんね。

まあなんていうか、話の中の打ち間違いはしょうがないって思いますが
レスの打ち間違いは恥ずかしい。
書いている奴はそんな人間です。
ユウキが苦手な心の狭い奴です。
223 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時18分59秒
    ∞

 嫌がらせだと言う事はわかっていた。

 こう言う仕事をしているのだから、意識していなくても自然と敵を作る。訳の
わからない噂を立てられては、一般の人から抗議の手紙をもらう事は日常茶飯事
で、事務所で止められて決して自分たちまでの元には届かないそれが、どこで調
べたのか直接家の郵便受けにいられていたこともある。

 しかし鳥の死体なんて物は今まで無かった。

 目の前にいる保田は眉間に皺を寄せて、手に持っているスナック菓子を掴んだ
ままそれを口に入れることさえも忘れているようだった。机の一番端に付いた矢
口と保田は、騒ぎ声に包まれる楽屋の中で二人の空間を作っていた。

「何それ? 大丈夫だったの?」
 何が大丈夫なのかわからなかったが、矢口は椅子に仰け反ると白い天井を見て
頷いた。
224 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時19分59秒
「悪戯にしては度が過ぎてる。事務所の人とかに知らせた方がいいよ」
「そのつもり」
 楽屋のドアが開いては色んな人間が出入りする。周りを忙しなく動くメンバー
や関係者たちは矢口たちの存在に気が付かないように誰一人話し掛けてくるもの
はいなかった。それに安心してか、今朝の出来事を楽屋と言う場所で保田に話を
した。どうせ誰にも聞かれていないと思っていた。

「心当たりとかないの?」
 ふと天井から視線を戻すと、まだスナック菓子を摘んでいる保田が真剣な表情
で矢口を見ていた。一瞬だけその言葉に頷きそうになってやめた。

 まるでその会話のタイミングを見計らったように楽屋の隅にいた後藤が立ち上
がったのが、視界の端に見えたからだ。口を硬く閉ざした矢口に気がついたのか、
保田の視線は自然と後藤の方に向く。
 彼女は何事も無かったかのように楽屋から出て行く。トイレにでも向かったの
だろうと考えながら、矢口の頭にはここ数日掛かってくる非通知の着信を思い出
していた。
225 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時21分13秒
 それはまるで自分の存在を知らせるかのように、ひっそりと履歴に残っている
足跡。同じ時間に、毎日掛かってくるその存在の事を重大ではないと思っていた
理由に、目の前での後藤の問題があったからかもしれない。そんな悪戯電話に構
っていられるほど余裕がなくなり始めていた。

「何か心当たりがあるの?」
 保田がもう一度言う。
 矢口は釈然としない気分で首を横に降った。
 もしかしたら後藤だろうか、と考えている自分がいた。

 悪戯電話と鳥の死体を置いた人物が一緒だと考えるなら、その可能性も無いわ
けではない。家を知っていて、電話番号まで知っているとなると、電話帳に載っ
ている人の半数は消去できる。もちろん住所なんていくらでも調べられると言う
事は知っていたが、こんな嫌がらせをするような心当たりを考えると、どうして
も後藤の顔が浮かんだ。

 後藤はあたしを恨んでいるのではないだろうか?
 恨まれていてもおかしくないのではないだろうか?

 しかし鳥を殺して、ノートに包むという行為を女の子が出来るのだろうか? 
もし自分だったらそんな気持ち悪い事などしたくない。
 でも後藤なら――。
 どこかおかしくなっているあの子なら――。
226 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時22分25秒
「今日ね――」
 ふと目の前の声に我に戻った。
 何? と聞くと、保田はさっき後藤が出て行ったドアを見ながら言った。

「今日、仕事が終わったら、あの子の後をつけようと思うの」
「尾行?」
「そうとも言う」
「やめなよ。趣味悪い」
「でも何かわかるかもしれない」
「…………」
「後藤が何をしているのか、わかるかもしれない」
 矢口はため息をついて机の上のスナック菓子を摘んだ。それを口の中に放り投
げる。

「何でもいいから、知りたいの」
 保田はそんな矢口の仕草を視線で追いながら言った。
 手についた粉を払いながら、そう、と頷いた。

「そう……頑張ってね」
 どうやら探偵ごっこに保田は填っているらしい。
 皮肉交じりにそう思った。
227 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時23分14秒
 そのままいつものように時間は流れていく。テレビやラジオ、雑誌の取材とス
ケジュールをこなしている間、矢口の視線はどうしても後藤の元に向かっていた。
立場上センターにいることが多い彼女の後ろ姿を見る。照明がたかれたセットの
上で、薄い栗毛はきらきらと光に反射していた。

 矢口は娘。という居場所を愛していた。

 それは安倍や中澤達が作り上げてきた土台に、後から入ってきた立場だと言う
事はわかっていたが、そんな彼女たちとも苦楽を共にして、後輩も増えていくう
ちに、徐々にその居場所は自分たちが作り上げてきたものだという、プライドが
芽生えていた。こう言う業界で、常に不安が漂っている世界に足を踏み入れて、
それでも一人ではなくみんながいるという安心感。この先も唄い続けるために、
娘。と言う場所を守らなければいけない。
228 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時24分03秒
 極端な言い方さえもすると、それは自分の行動一つで決まるという事も考えた。
街には色んな雑誌がはびこり、努力を続けるメンバーたちの足を引っ張るような
記事が並ぶ。有名税だよ、と言う言葉にだけは妥協したくなくて、少しでもそう
言ったところなどテレビやラジオでは見せてはいけないと思っていた。だから、
後藤のことでさえ、表では自然のように振舞っているつもりだった。

 ふとその時、後藤がゆっくりと振り返ったのに気が付いた。
 数秒間だけ視線が合う。
 思わずそれを反らして、胸から沸き起こってくる不安を感じた。

 鳥の死体や悪戯電話の犯人は、後藤ではないだろうか?
 今までの仕返しを自分は受けているのではないだろうか?
 もし、そうだとしたら、この事を事務所に教えていいものなのだろうか?

 暗い場所からゆっくりと足首を捕まれていることを感じた。
 それは徐々に矢口を闇の世界に引きずり込もうとしていた。
229 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時25分11秒
    ∞

 言葉通り、保田は後藤の後をつけてタクシーに乗り込んだ。
 矢口はその光景を黙って後ろから見ていて、ため息を吐く。澄み渡る冬の星空
に白い息は上空を目指して消えていく。目の前でヘッドライトを躍らせながら通
る車を視線で追い、遠ざかっていく二台のタクシーを感じた。

 矢口が家に戻ったのは時計の針が十二時を指しているときだった。まだ起きて
いる母親と妹に、自分が留守だった間何も無かったかと聞くと、大丈夫、と言う
返事が返ってきた。鳥の死体が家の前に置かれていた事を家族は知っていて、学
校から帰ってきた妹は母親からその話を聞いたようだ。気持ち悪いね、と言う言
葉を残して自分の部屋に消えていった。

 父親はこう言う日に限って留守にしている。女だけの家に不安を覚えつつも、
メイクを落として風呂に入り、夜食を摘んでいつものように自分の部屋に戻った。
携帯にはいつもの非通知が足跡を残していて、まるで習慣になっているかのよう
にそれを消す。ベッドの上でマンガの本を読みながら、保田からの連絡を待って
いた。

 タクシーに乗り込むとき、彼女は何かがあったら知らせると言い残して去って
いった。別にいいよ、と言う言葉は空中を空しく漂い、排気ガスと共に消えてい
ってしまう。自分はあの二人に巻き込まれているのかもしれないと悟ったのはそ
の時だった。
230 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時26分38秒
 携帯が音を上げて、矢口は思わず肩を竦めた。持っていた本を横に置き、枕も
とに投げ捨てられていた携帯に手を伸ばす。どうやら着信音からメールだという
事に気が付いた。

 圭ちゃんからかな、と思いつつ、液晶を覗き込む。そこに打たれている、下ら
ない言葉にさっきまで感じていた不安が解き放たれていくのを感じた。

「……あほ裕子」
 中澤からだった。

 どうやら仕事が終わった後に飲みに出かけていたらしい。酔いに任せて打たれ
たその文章に、自然と笑みを作っていた。
 しばらくの間、この酔っ払いの相手をしているのも悪くない、と矢口は考えて
返信をした。数分もしないうちにまたメールが返って来る。
 ヤグチも愛してるよ、と送った後言い知れない寂しさが襲ってきた。

 ふと我に戻って部屋を見渡す。静かな空間に、暖房の音だけがやけに大きく聞
こえた。
 数週間前に中澤と話したことが頭を過ぎる。出来るだけその事を考えないよう
にしようとすると、人間の頭は都合よく意識してしまう働きになっているらしく、
後藤や保田に巻き込まれてその出来事を忘れていたことを今更ながらに思い出し
た。巻き込まれたといっても、こう言うメリットがあるのか、と皮肉に感じた。
231 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時27分26秒
 携帯が音を上げた。
 ふと我に戻ると液晶に『保田圭』の文字。

 思わずベッドから起き上がると、通話ボタンを押す指を一瞬だけ躊躇っている
自分がいた。
 また後藤のことを考えなくてはいけないだろと思うと、中澤とのメールで高揚
していた気分に陰が射すのを感じる。しょうがない、と諦めてボタンを押した。

「もしもし」
「矢口?」
「何かあった?」
 車から出て外を歩いているのだろうか、保田の声の奥に風が砂嵐のように聞こ
えた。

「見失っちゃったみたい」
「今どの辺にいるの?」
 矢口の言葉にわかんない、と言う言葉が返ってきた。その情けない返事に思わ
ずはあ? と声を出すと、取り次ぐように保田は言った。

「住宅街にいるの。そんなところでタクシーに乗って追ったら目立つと思ったか
ら降りたんだけど、道が入り組んでて、すぐに見失っちゃった」
「待って。後藤は家に帰ってないって事?」
「そうみたい」
「そこに何があるの?」
「わからない」
232 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時28分52秒
 まあそうだろうな、と思いつつも矢口は保田の言葉を待った。どうやら目の前
には診療所みたいな精神病院があるらしく、その前で電話を掛けているというこ
とを伝えた。後藤を探しに歩き回っていると、そこに行き着いたらしく周りには
電気を落としている家が軒を連ねていて、精神病院から道の突き当たりに進むよ
うに足を伸ばすと小さな公園があると言う。後藤が何かを目当てに来たと言う事
はあまり考えられない、と保田は言った。

「あの子がこんな所に何か用があるなんて思えない」
「近くに友達の家とかあるんじゃないの?」
「でもこんな時間よ。非常識だと思わない?」

 確かに一軒家が軒を連ねているとなると家族で住んでいるという事だろう。一
人暮らしならいざ知れず、さすがに芸能人がこんな時間に迷惑を掛けるのは非常
識かもしれない。

「もうちょっとこの辺を歩いてみるけど、多分見付からないと思う」
「だろうね」
「だから、明日もう一度仕事前に来てみようと思うの。明るい時なら今よりも探
しやすいだろうし」
233 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時30分18秒
 保田のスケジュールを思い出す。確か後藤と一緒の入り時間だったような気が
する。それならばもし後藤がその周辺に居たとして、どこかで泊まったと考える
なら、明日仕事に行く彼女を見つける可能性が高い。

 しかしそう思っても矢口はどこか保田を一歩下がった所から見ていた。後藤の
ことで必死になるのはわかるけど、そこまでする必要はあるのだろうか?

 圭ちゃんは必死なんだ。

 それが何に向けられているのかは知らない。後藤を通して、保田には別のもの
が見えているのかもしれない。
 頑張ってね、と言葉を返してから矢口は電話を切った。

 あたしは、後藤の何に怯えているのだろうか?
 それは異物を違和感と思う事と似ているのかもしれない。いつものメンバーた
ちの中で、後藤がいつの間にかそこから外れて、別世界の生き物になっているこ
とを知ったからだ。それはまるで幽霊のように、矢口たちの現実と、後藤の世界
で別れてしまっている。自分はもしかしたらその後藤の世界に引きずり込まれよ
うとしているのではないだろうかという、恐怖があった。

 引き込まれたもう戻れない。
 後藤と接する時、そんな恐怖を感じる。
234 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時31分52秒
 不意に携帯がまた高い音を上げた。

 矢口は我に戻り液晶を見る。また保田からだろうかと思ったが、そこに点滅す
る文字に思わず息を飲み込んだ。

 非通知。

 すぐに毎日掛かってくるあの悪戯電話を思い出した。今までは履歴に足跡を残
すだけだったが、こうして目の前で掛かってきたことに驚きと同時に恐怖を感じ
た。

 もしかしたら鳥の死体を置いた人物かもしれない。
 唾を飲み込んでいる自分に気が付いた。
 体の底から沸き起こってくる緊張から手が微かに震えていた。
 深呼吸をしてから、矢口は決心して通話ボタンを押した。

「もしもし」
 受話器を耳につけながら言う。
 数秒の間が空き、相手からは言葉の一つも返って来ない。

「誰ですか?」
 もう一度言う。
 しかし予想通り相手からは返事は来なかった。
 矢口はため息をついて、わざとらしく口調を強めた。
235 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時33分51秒
「あなたでしょう? いつも電話してくるの。誰からこの番号教えてもらったの
か知らないけどすっごい迷惑」
 無言の相手に喋ると言う行為に、さっきまでの緊張が怒りに変わり始めていた。
反応が返ってこないと気分は大きくなるらしく、演技だった口調も徐々に気持ち
が篭るようになった。

「鳥の死体を置いたのもあなたでしょ? どう言うつもりか知らないけど、そん
な事続けるなら警察に知らせるから」
 そう言って電話を切る。

 すぐに設定を変えて、非通知は全て弾くようにした。これでもう非通知では掛
けられないだろうと思うと、安心している自分に気が付く。
 警察に知らせるといったのだから、もう鳥の死体なんて置かないだろうし、こ
の電話にも掛けてこられないだろう。まさか番号を通知してくる度胸など無いだ
ろうと思った。

 ベッドに横になる。
 白い天井に蛍光灯の影が張り付いている。
 急に静けさが襲ってきて、一階のテレビの音が小さく入り込んできた。隣の部
屋から妹が出て行ったようだ。階段を下りている。それと同時に家の電話がなり、
母親の応対する声が聞こえた。
236 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時34分42秒
 携帯を再び握ると、電話中にメールが入っていたらしい、それを受信すると、
三通のうち、全てが中澤だった。

 やぐちぃ。
 裕ちゃんを無視したらあかんよ。
 あかん、返事くれないと裕ちゃん寂しすぎて死んでしまうわ。

 その気の抜けた文章に思わず笑顔になっていた。視線を横に移動させて、時計
を見ると一時半を射している。きっとまだ飲みつづけているのだろうと思うと、
その姿が頭に浮かんで微笑ましくなった。
 文章を作って送信する。
 すぐに返事が返ってくるだろうと思ったが、何分しても携帯は音を上げなかっ
た。寝てしまっているのかもしれないと思い、少しだけ落胆した。

 一階ではまだ電話が鳴っていた。父親が寂しくて連絡を取ろうとしているのか
もしれない、と思い矢口はおもむろに欠伸をした。
 自分もそろそろ眠ろう。明日に疲れを残したくない。
 そう思いつつ蒲団を捲った時、嫌な感覚が胸の奥から沸き起こってきた事に気
が付いた。

 こんな時間に電話?
 動きを止めて矢口の視線はもう一度目覚まし時計へ。一時三十八分。
 保田の話ではないが、こんな時間に家に電話を掛ける事は非常識ではないだろ
うか?
 それもベルはさっきからひっきりなしに止まないようだ。
237 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時35分54秒
 まさか、と言う考えが浮かんだ。体は自然とベッドの上から降りていて、部屋
を出るドアノブに手を掛けていた。それを開けると小さかったベル音が耳に直接
入り込んできた。階段を乱暴に下りると、すぐ右手にある居間から母親の声が聞
こえてきた。

 いい加減にしてください。誰ですか?

 居間に顔を出す。正面のテレビの横に置かれている電話の前で、妹が表情を強
張らせながら応対している母親を見ていた。

「どうしたの?」
 と聞くと、妹は無言電話がさっきから鳴り止まない、と教えてくれた。
 すぐに自分の直感が合っていた事を思い知らされる。矢口の携帯に掛けられな
くなった相手は、今度は自宅の電話に嫌がらせを始めたんだ。
 そう思いながら受話器を置く母親の背中を見る。テレビの音に混じって、重苦
しい緊張感が漂っている事に気が付いた。
 電話がまた鳴る。母親はそれに出てまた声を上げていた。

 お姉ちゃん、と妹が歩み寄ってくる。突然の異常に戸惑いを隠せない様子だっ
た。大丈夫、と言う言葉一つ頭に浮かばない。誰よりも戸惑いを隠せなかったの
は矢口のほうだった。
 無言電話や鳥の死体だけではなく、家族にまで迷惑を掛け続ける相手の真意が
わからなかった。
238 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時36分45秒
 その時後ろから玄関のインターホンが鳴った。

 電話の応対していた母親が振り返る。傍まで歩み寄っていた妹が一瞬だけ足を
止めてから、お父さん、と呟いて矢口の横を通り過ぎていく。
 父親がこんな時間に帰ってくるわけが無い。
 不意にそんな考えが頭を過ぎり、矢口は横を通り過ぎていった妹の背中を無意
識のうちに追っていて、その肩を掴んでいた。

「開けちゃダメ!」
 どうして、と言った表情で妹は振り返ったが、すぐに矢口が考えている事を察
したらしい、恐怖に顔を強張らせて玄関から一歩二歩と後退りした。

 真里、と今度は居間から名前を呼ばれて、矢口は小走りで戻った。受話器を掴
んだままの母親が、誰なの、とインターホンの相手を聞いてきた。
 矢口は首を横に振る。その行為だけで母親はわかってくれたらしい。
 電話は何度も切っても掛かってきていた。玄関のインターホンも連続して押さ
れ続けている。騒音に響く居間の中央で矢口は呆然と立ち尽くしていた。
239 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時37分34秒
 これは……なんなの?
 グルグルと視界が回る。
 これは……一体なに?

 全ての音が歪んで聞こえた。

 母親と妹は父親に助けを呼んで居間の隅で体を寄せ合いながら恐怖に耐えてい
た。その光景をぼんやりと見ていた矢口の頭に後藤の顔が浮かんだ。

 まさか後藤が……?
 後をつけていた保田の言葉を思い出す。

 圭ちゃんは付けられていることを気が付かれたのではないだろうか?
 だから後藤はわざと住宅街などと言う所に逃げ込んだのではないだろうか?
 それだったら後藤の行動に説明がつく。
 後藤はあたしに嫌がらせするためにココに来る途中に、圭ちゃんから付けられ
ていることを知った。だから住宅街に逃げ込んで、姿を消し、そして頃合を見て
あたしの家に来た。
240 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時38分09秒
 無言電話も鳥の死体も全て後藤がしたなら……。
 インターホンが鳴り続ける。ドアを開けたらそこには後藤が居るのではないだ
ろうか?

 きっとそうだ。
 きっと全て後藤がしているんだ。
 あたしへの仕返しに、こんな事をしているんだ。

 玄関に移動しようとしていた矢口を、すぐ後ろから母親が呼び止めた。振り返
ると夢遊病のように歩き始めた矢口のことを心配している姿があった。

 ああ、と思った。
 シッカリしなきゃ。
 父親も居ないこの家で、今頼られているのは自分なのだ。
 だからシッカリしなきゃいけない。

 しかしその思いとは逆に、矢口はその場に立ち尽くしたまま何も出来なかった。
自分の身の回りに起きている出来事が幻のようにハッキリしていなかった。
 結局父親が帰ってくるまで、その嫌がらせは続けられた。
241 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時39分36秒
   14

 白い、白い空間。

 眼を擦ると差し込む陽射が眩しくて、あたしはまた顔を下げた。いつものぬく
もりが肩から包み込むように体に感じる。暖房なのだろうとわかっていたが、そ
れはリアルに人のそれと同じだった。

「気が付いたかい?」
 その声もいつもの物。
 どうやらあたしは長い間ここにいたらしいと言うのを、その言葉で悟った。顔
を上げて眩しさを感じるのが嫌だったため、あたしは小さく頷いて返事をする。
ギィ、と目の前の椅子が音を立てて、どうやら向かい合うように半回転させたの
だなと思った。

 市井ちゃんは元に戻っているんです。
 自然と口からこぼれるようにあたしは呟いていた。

 目の前の人物は何も言わずにその言葉の続きを待っているようだった。

 完全にはならない、いつか消えてしまう、その言葉は嘘です。あなたはあたし
と市井ちゃんの事知らない。だからそんな事言えるんです。
242 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時40分42秒
 市井ちゃんの歌声を思い出した。部屋に響く音楽に合わせるその声。喉が微か
に震えて、印象的な唇が動く。透き通るほど白い肌にあたしが吸い込まれそうな
感覚に陥るのは、きっとその歌声に反応している胸の高鳴りを実感しているから
だ。

 歌を……歌を口ずさむようになったんです。あたしがサングラスとお守りを市
井ちゃんに返したから、そうなったんです。それ以外にも昔の使っていた香水や
大好きだったブランドの服……好きだったCDも……全部昔の市井ちゃんが使っ
ていた同じ物を用意したんです。

 太股の上で組んだ手を動かす。市井ちゃんの事を喋るたびに心の高鳴りを抑え
る事が出来なくて、いつしかあたしの口調は興奮を感じさせるようになっていた
のかも知れない。目の前の人物は口を閉じたまま、その話を聞いていた。

 市井ちゃんは昔のように戻ってる。それは完全になるって事になんです。あた
しの前から消えないように、そうなるんです。そうすればあたしたちはいつも一
緒に居られる。市井ちゃんの声や体温を感じる事が出来るんです。だからもっと、
あたしはもっと市井ちゃんが望むような事をしなければいけない。だからやぐっ
ちゃんのブレスレットも――。
243 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時41分41秒
 ……持たせてはいけない。
 あたしは目の前の人物に言葉を被さられて口を閉じた。

 決して強い言い方訳ではなかったのに、その言葉はなぜか胸の中に入り込んで、
あたしの気持ちを抉った。

 幻に自我を持たせてはいけない。

 そんな事ない。
 そんなわけが無い。

 あたしのやっている事を否定するその言葉に、ただ首を横に振り続ける。そん
な言葉など信じなくてもいいのだという思いが胸の中で生まれた。

 この人は嘘つきだから……。
 嘘をついてあたしを苦しめるだけだから……。
 だからそんな言葉、信じなくてもいいんだ。
244 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時42分35秒
   15

 緩い坂道。

 どこまでも続く一本道は、穏やかなカーブに遮られてその向こう側を遮断する。
空には澄み渡る青空が続くものの、冬の陽射は弱々しくて、あたしはマフラーを
緩める事が出来なかった。
 横を自転車に乗った主婦らしき人が通り過ぎていく。それに続いて小学生ぐら
いの女の子が子供用の自転車で後を追う。通り過ぎる瞬間にその女の子と眼が合
ったが、あたしの存在に気が付く様子などなく、微かな風を頬に感じさせて坂道
を上っていった。

 周りには色んな色の屋根が軒を連ねている。この緩やかな坂道を降りた所には
小さな公園がある。小さなブランコが二つ風に揺れて、入り口付近に寂れたベン
チ。その横には街灯がそれを見下ろすように立っていて、多分その一本だけで夜
の公園を照らす事が出来るのだろう。

 携帯を取り出して時間を確かめる。
 家に帰って仕事に向かわなくてはいけない。
 ぼんやりとそんな事を考えながらその道を歩いていた時だった。
245 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時43分31秒
「ごっちん?」
 後ろから聞き馴染みのある声が聞こえてきて、あたしは一瞬だけ振り返るのを
躊躇った。外で声を掛けられると条件反射的に身構えてしまう。それは今回も例
外ではなかったようだ。
 それでもその声の主はあたしに近づいてきているようで、小走りで駆け寄って
くる足音が聞こえた。
 振り返ると太陽を背に圭ちゃんの姿があった。

「圭ちゃん……」
 あたしは足を止めて近づいてくる圭ちゃんを見る。暖かそうな上着を着ている
圭ちゃんは、ニ三歩ほどの距離を置いて足を止めた。

「どうしたの? こんな所で……」
「それはこっちが聞きたいよ。あんたこそ、こんな所でなにやってるの?」
 圭ちゃんの肩が荒々しく揺れていた。多分近所を走り回ったのかもしれない、
こんなに寒いというのに、その額には薄っすらと汗さえ滲ませていた。
 ああ、多分あたしを探していたんだな、と察しかついて、それと同時に呆れ果
てている自分が居た。

 圭ちゃんはあたしを心配しているようだった。それはサングラスを取った後の
メンバーの態度が変わっていった中、唯一そのままの状態を維持して気を使われ
ている事を感じていた。時々圭ちゃんに視線を向けると、どこか悲しそうな表情
であたしを見ている。数秒間だけ顔を合わせると、心配させないようにと思って
いるのか、それともそこには別の感情があるのか、すぐに無理な笑顔を作る。そ
んな事をあの日以降繰り返し続けていた。
246 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時44分40秒
「今……」
 圭ちゃんはそう言って一瞬だけ振り返った。それからまたあたしに視線を戻す
と、躊躇いがちに口を開いては閉じると言う行為を繰り返しつづける。言い難い
事でもあるのだろうかと思ったが、あたしは黙ってその言葉が出てくるのを待つ
ことにした。

「今……病院の方から」
 圭ちゃんはそこまで言ってから一度口を閉じる。しかしすぐに決意したように
顔を上げた。

「病院の方から歩いてこなかった?」
 あたしは黙ったまま圭ちゃんを見ていた。
 冷たい風が足元を走り抜けて、枯れた草が渦を描くように舞い上がる。圭ちゃ
んの後ろにある太陽を横切るように二羽の鳥が飛び去っていき、左右にある電線
に止まっていた別の鳥がそれに釣られるように声を上げた。

「精神病院でしょ? あんたそこに通ってるの?」
 逆光になる圭ちゃんの顔。影が闇を作り、二つの瞳が鈍く輝く。あたしはその
姿をあの人物と重ねていた。
 無言のあたしにそれが返事だと思ったらしい圭ちゃんは、しばらくの間口を閉
じて次の言葉を捜していたようだが、こぼれるように出てきたのはさっきと変わ
らないものだった。
247 名前:名無しさん 投稿日:2002年08月30日(金)18時45分27秒
「いつ……いつから行ってるの?」
「…………」
「マネージャーは……事務所は知ってるの?」
「…………」
「どう言うことであんな所に――」

 あたしは背を向けて歩き出していた。
 別に今、圭ちゃんに話すことなど無いと思ったから。

「ごっちん! ちょっと」
 後ろから圭ちゃんの声が聞こえた。

 黙っていてもついてくるんだろうな、とそう考えている冷静な自分がいて、振
り返ってからあたしは言った。

「圭ちゃん、遅刻しちゃうよ」

 二三歩駆け寄る気配を見せた圭ちゃんの脚が止まる。その表情は強張ったまま
解かれることは無かった。

 あたしは青空を見ながら再び歩き出した。
 また、今日と言う日が始まるんだ。

 電線で声を上げていた鳥が、何かに導かれるように一斉に飛び出した。
248 名前:オムらいっすぅ 投稿日:2002年08月31日(土)19時17分02秒
そんな、自分で心が狭いなんて言ってはいけませんよ。
まぁだからと言って、自分で心が広い、
寛大だとか言う人も決して良い訳ではないのですが。
ぽじてぶにいきましょう、ぽじてぶに(w

続きも期待してます。頑張って下さい〜
249 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月04日(水)07時06分25秒
    ∞

 市井ちゃんの変化は目に見えてわかるようになってきた。

 仕事と部屋を往復する日々を続けているうちに、ドアを開けると必ずと言って
いいほど音楽が青白い光と共にこぼれてくる。昔と一緒の匂いを空間に漂わせな
がら、あたしを見ては口元に笑みを浮かべる。

 お帰り、後藤。

 いつものその一言を言うと、また歌を口ずさむ。音楽が終わると、自分の意志
でCDを取り替えるようになった。

 カレンダーが捲れて、今年最後の一枚になる。草原を雪が覆い、裸になった弱々
しい木々の横に鹿の親子が映っている。お母さんがどこかからもらってきたと言
うカレンダーをあたしは部屋の中に張っていた。それを目の前に、市井ちゃんが
ライブをするという日付に赤丸をつける。手帳に書かれたスケジュールと睨めっ
こをいくらしたとしても、そこに行くことは出来ないだろうと思った。

 その日、あたしはいつものように仕事から戻ってくると、音楽が鳴る部屋に入
った。市井ちゃんはいつもの位置に座っていた。

 コートを脱いであたしはその隣に腰を落とす。仕事から溜まった疲労を吐き出
すようにため息をつくと、鼻歌を歌っていた市井ちゃんが急に口を閉じて首を横
に向けた。その黒々とした瞳にあたしの顔が魚眼レンズのように映る。どこまで
も吸い込まれていきそうな感覚に、自然と自分の腕は市井ちゃんの背中に回って
いた。
250 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月04日(水)07時07分16秒
 後藤は見た目よりも子供だね。
 呟くように市井ちゃんは言った。

 無理して背伸びを続けていたらダメだよ。
 その声はとても優しくて、背中に回した腕の力を自然と強めていた。

 市井ちゃんは時々アドバイスをくれるようになった。特に仕事のことを話した
ことは無かったが、その一つ一つの助言は昔いつも聞かされていた物とまったく
一緒だった。演技って言うのは自分の中にあると……だからね、現場に入ったら
挨拶を……わたしたちの事だけを考えちゃいけない、その周りにいるスタッフさ
んたちや――。
 わたしはその言葉を聞くたびにまるであの頃に戻っていったような錯覚に陥る。
そこには何もわからずに市井ちゃんの背中を追い、言われることに真剣に頷いた
りもするが、半分はすぐに頭の中から忘れ去れてしまう自分。確実に守られてい
ると感じていた。それがとても嬉しかった。
 市井ちゃんの掌があたしの髪の毛に吸い込まれていく。少し冷えた部屋の空気
に冷たくなったそれはぼんやりと熱を持った額に心地よかった。

 後藤はまだ子供なんだから、無理しちゃダメだよ。

 お母さんと喧嘩した時、その言葉を自分で否定したにもかかわらず、今はなぜ
かすんなりと受け入れているあたしがいた。多分、あまりにもその声が優しすぎ
たのかもしれない。何を言われてもあたしの心はスポンジのように吸収する。

 あたしはこの時間だけ、『後藤真希』に戻れるのだと知った。
251 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月04日(水)07時08分06秒
   ∞

 やぐっちゃんの疲労は誰でも気が付くほど酷くなっていた。
 それは楽屋で圭ちゃんに話し掛けられているとき、賑わう周りから一人外れて
物思いに更けるようにテーブルに肘を付いていたやぐっちゃんは、ニ三度名前を
呼ばれても返事をする事は無かった。

「ねぇ、矢口ってば」
 圭ちゃんが堪り兼ねたように声を上げる。それにやっとで我に戻った彼女は、
何事も無かったかのように顔を向けていた。

 初めは些細なことだった。

 タンポポの面々がその日は午後から仕事だというのに、プッチの現場に時間通
り現れた彼女は、どうしたの、と声を掛けた圭ちゃんに、間違っちゃった、と照
れ笑いを浮かべながら言った。どうやらタンポポとプッチのスケジュールを勘違
いしていたのだと知り、まだまだ時間があるのだから帰って体を休めた方がいい
という意見にやぐっちゃんは頑固に首を横に振り続けた。
252 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月04日(水)07時08分54秒
 邪魔しないから、見学させてよ。

 まあたまにはそんな日もあっていいだろうと、マネージャーは思ったらしく、
仕事に支障をきたさない程度に合流する事を認めてくれた。

 しかしやぐっちゃんの行動がおかしくなり始めたのは、その日を境にしてから
だった。

 現場に誰よりも早く現れたり、みんなの輪に外れる事を嫌がる様子で、休憩中
も一人になることは無かった。それだけではなく、仕事が終わると必ずと言って
いいほどメンバーを誘ってどこかに行こうとしていた。初めのうちはそれに着い
て行っていたみんなも、年末を控えて忙しくなり始めるとそれを断るようになる。
早く家に帰って体を休めたかったようだ。それはもちろんやぐっちゃんも同じで、
確実に疲れているはずなのに、家に帰る事を躊躇っている様子だった。事務所に
泊まることもあれば、友達と遊びに行くこともあるらしい。一体いつ休んでいる
のだろうかと思ってみたが、どうやらそんな時間をやぐっちゃんは取っては居な
かったようだ。
253 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月04日(水)07時09分34秒
 あれだけ頻繁に出していた携帯も鞄から取り出す事はなくなった。時々他人の
着信音に怯える気配さえも見せるようになっていた。

 多分、その怯えが蓄積されつづけているのかもしれない、ただでさえ忙しい季
節に疲れを解消しようとはしない彼女は眼に見えて余裕がなくなっていっている
ようだった。それはメンバーにも薄々気がつかれていた。
 やぐっちゃんに話し掛けている圭ちゃん。あたしはいつもの位置で一人座りな
がら、その右手首に輝くブレスレットに視線を囚われていた。

 早く、あれを奪い返さなきゃ。

 そんな事を考えていたあたしとやぐっちゃんの視線が一瞬だけ重なった。でも
前までのように視線を反らしたのはあたしではなく、彼女の方だった。

 それから一度もやぐっちゃんはあたしを見ようとはしなかった。
254 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月04日(水)07時13分53秒
>>248
(  ´D`)ノ<はげまされてしまったのれす。(テヘテヘ
255 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月04日(水)14時47分01秒
先が全く読めない展開に読んでてドキドキです
256 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月04日(水)18時52分47秒
ののヲタだったんすか!!
と言ってみるテスト。
前は後藤が心配だったが今は矢口が心配だ・・・
257 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時45分42秒
    ∞

 辛いだけの楽屋を抜けて、あたしは一人廊下を歩いていた。

 窓から見える外の風景はすでに冬が包み始めている事を実感して、空を遮るビ
ル郡は薄っすらと夕闇に染められ始めていた。
 暖房は効いているのだろうか? こんな季節なのに半袖を着せられているあた
しの両腕に薄っすらと鳥肌が立ち始めている。肘を掴むように腕を合わせると、
すれ違う人たちと視線が合わないように顔を下げながら、目的の場所まで歩きつ
づけた。

 重い扉の前であたしは立ち止まる。周りをキョロキョロと見てから、まるで入
ってはいけない場所に子供が立ち入るように、恐る恐るその扉を開けた。

 眼に映ったのはいつか見たような光景。
 スタッフの人や色んな関係者。あたしが居る場所から突き当りには光が降りる
セットがあり、その周りをカメラが囲う。
 市井ちゃんはセットの上で誰かと談笑している様子だった。多分、ディレクター
さんかもしれない。時々忙しそうに駆け回るスタッフに指示を与えていた。
258 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時46分57秒
 あたしは市井ちゃんが見えるように壁際を歩き、スタジオの隅で足を止めた。
光も人も入り込まないように、自分だけの場所を作る。遠くに見える光景から一
時も目を外す事は無く、弱々しいため息がスタジオに響く音に掻き消された。

 あたしは何をしているのだろう……?
 時々そう思うことがある。

 ラジオやテレビに映る市井ちゃんを見ながら、ただ辛く顔を下げる事しか出来
ないあたしは、そう言う感情が襲ってくるとわかっているはずなのに、こうして
市井ちゃんを遠目で見ることをやめることが出来ない。
 重く圧し掛かる錘は、徐々に胸の奥に蓄積されて行き、あたしを縛り付けてい
く。それは他人と関る事さえも影響している様子で、人と話すことさえも邪魔に
思えた。

 あたしを解放できるのは、もう一人の市井ちゃんだけだ。
 部屋で待っていてくれる市井ちゃんと過ごす時間だけが、あたしを自由に、そ
してあたしらしく戻れるのだと思った。
259 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時47分57秒
 それなら何であたしはここに来たんだろう?
 矛盾の中で答えを見つけることが出来ないあたしは、徐々に追い詰められてい
くように不安に襲われた。自己嫌悪するたびに、それは泥沼に足を踏み入れたよ
うに体を静めていくだけ。自分の中で歯止めを掛けることがいつの間にか出来な
くなっていた。

 顔を下げる。
 闇を残しただけの床が視線に入る。
 響き渡る騒音の中で、微かに市井ちゃんが笑っている声が聞こえた。

 あたしは居た堪れなくなってスタジオの扉に向かって歩き出す。楽屋に居たっ
て、ここに居たって苦しいのは変わらなかった。

 スタジオの扉に手を掛けた時、あたしは反射的に振り返った。
 市井ちゃんの姿を眼に焼き付けようと思っていたのかもしれない。
 しかしあたしはそこに映った光景に思わず体を硬直させた。
260 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時49分11秒
 仕事に戻っていったのか市井ちゃんの側にいたディレクターさんの姿が無くな
っていて、眩しい光が降り注ぐセットの上でぽつん、と一人になった彼女はマイ
クを両手で掴みながら辺りを見渡していた。

 そしてその視線にあたしを見つけたようだ。

 しばらくの間動きを止めた市井ちゃんは、すぐに嬉しそうに微笑んで手を振っ
た。それがあたしに向けられている事はその視線から言って間違いなかった。

 後藤、とその口が動いたような気がした。

 扉から手を離していたあたしはしばらくそれに反応を取ることが出来なかった。
でもじわじわと足から氷が溶けて行くように、嬉しさが体に染み込んでくる。気
が付いた時、あたしも市井ちゃんのように頭の上で手を振っていた。
 さっきまでの矛盾はこの時あたしの中には無かった。
 締め付ける感情もどこかに消されてしまっていた。
 嬉しくて手を振り続けるあたしに、市井ちゃんが近寄る気配を見せた。
 一歩ほどだろうか、足を動かした所で市井ちゃんはさっきのディレクターさん
に呼び止められた。どうやら準備が出来たらしい、カメラを指差しながら何かの
説明を聞かされていた。
261 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時50分19秒
 少しだけ残念だと言う気持ちはあったが、邪魔をしては悪いとすぐに思い直し
た。あたしは市井ちゃんに背を向けて、スタジオの扉を開けた。

 スタジオから楽屋に戻る廊下を歩きながら、あたしの胸は高揚感にかき立てら
れていた。気が付くと寒いと思っていたはずなのに腕の鳥肌は消えていて、薄っ
すらと汗さえ滲んでいた。

 今日の仕事は頑張れそうだ。
 そう思いながら、口元に笑みを浮かべた。

 向こう側から小柄な女性が歩いて来たのはその時だった。あたしは窓の外の風
景を見ながら楽屋へと進む。嬉しさからすれ違う人に顔を下げる事は無かった。

 向こう側の女性に挨拶をしようと窓から視線を離す。
 当然のようにその女性の顔を見た。
 次の瞬間、あたしの足は止まっていた。

 向こう側から歩いてきた女性が横を通り過ぎていく。あたしは口を開く事さえ
も出来ず、僅かな空気の流れを感じていた。

 背中を這うように嫌な感覚が走り抜けたのは、それからしばらく経ってからだ
った。
262 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時51分19秒
「……市井……ちゃん?」

 口からこぼれるようにそう呟いていた。
 それからすぐにあたしは振り返る。
 その先には誰もいなかった。
 ただ廊下が長く続くだけ。

 さっきの人は市井ちゃんではなかっただろうか? 小柄な体に優しそうな雰囲
気を詰め込んで、あたしの横を通り過ぎていった人。

「……市井ちゃん?」
 不安が走り抜けた。

 どう言うことに対して不安を抱いたのか、まったくわからない。正体不明のそ
れに操られるように、あたしの足はさっきのスタジオに向かって走り出していた。

 そこに行き着く廊下にも、さっきすれ違った市井ちゃんを見ることは無かった。
急に頭の中がぼんやりとして来て、目の前の光景が歪み始めていた。まるで水の
中を浮かぶように、あたしは浮遊感に包まれる。

 スタジオの前の扉に着き、当然のようにそれを開ける。
 でもそこには市井ちゃんの姿を見ることは出来なかった。

 市井ちゃんの姿だけではない、そこには忙しそうに走り回るスタッフ、気さく
に話し掛けていたディレクターさん、光を降り注ぐ照明もそれを受け止めるセッ
トも無かった。

 全て、空っぽだった。
263 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時52分30秒
   16

 仕事から戻ってきて保田は携帯を片手にソファに腰を下ろしていた。
 部屋にはテレビの音が鳴り、テーブルにはさっき入れた紅茶が入ったカップが
置かれている。部屋の隅の棚に置かれているコンポがデジタルの数字で時間を表
していた。
 日常が歪み始めている。確実に自分たちは他のメンバーと別の場所を歩き始め
ているのではないだろうかと言う不安に襲われた。
 後藤を引き金に、自分も矢口も歪んだ世界に足を踏み入れ始めているのかもし
れない。

 矢口が嫌がらせに合っていると言う事は、保田と一部の関係者にしか知らされ
ていなかった。それは本人の頼みで、メンバーやその他の人物に漏れないように
口を閉じてくれと言うことだった。鳥の死体の件から立て続けに襲う矢口の周り
の変化を聞かされるたびに、保田は警察に知らせた方が良いと何度も言った。も
ちろん事務所の人間もそれを望んでいるようだった。

 しかしそれを頑固として否定する矢口は、娘。のこれからの事を考えているら
しい。週刊誌やゴシップ雑誌にその手の情報から、想像を飛躍させてありもしな
い事を記事に書かれるのを恐れているようだった。娘。のことを考えている矢口
らしい、と感心する部分もあるが、眼に見えて疲労を溜め込んでいくその姿を見
ているうちに、そんな心配など二の次なのでないだろうかと思うようになった。
何度か説得をしても、矢口はやはり首を横に振らない。何か隠し事をする子供の
ようだと感じる時があった。
264 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時53分18秒
 それに加えて後藤が精神病院に通っているのかもしれないという事実。彼女の
これまでの態度を見ていると、それも不思議ではないかもしれないと納得してい
る自分が居た。

 ため息をついて保田はテーブルの上のカップを取る。茶色い液体を喉に流し込
んでから、コンポの時計を確認した。

 十一時二十八分。
 矢口はもう家に戻っているはずだろう。

 携帯のリダイアルから番号を選ぶと、通話ボタンを押した。ニ三秒の電子音か
らコールに鳴り変わる。しかしなかなか電話に彼女が出る気配がしない。一度留
守電に切り替わり、再び、また掛け直す。今度は三回ほどのコールで矢口の声が
聞こえた。

「……もしもし」
 どこか覇気がない、疲れたような声。
 保田は自然と言葉を出すタイミングを遅らせた。
265 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時54分05秒
「……圭ちゃん?」
「ごめん、矢口……今大丈夫?」
「うん……大丈夫」

 何を話そうかと考えた時、当然のように後藤の顔が浮かんだ。あの日、緩やか
な坂道を歩いていく彼女を思い出す。
 冬の陽射に染められた髪の毛と、顎まで隠れるように深く巻いたマフラー。い
つものコートに、手を袖で隠して少しだけ肩を竦めていた。眼の色にはどこかい
つもと違う、力強いものを感じたのは、仕事場以外の彼女を見たことがなかった
からなのかもしれない。

 楽屋に居る後藤はいつも小さかった。

「まだはっきりとしたことじゃないんだけど……」
 保田が口火を切ると、それだけで矢口は後藤のことだと気が付いたらしい。受
話器の向こうで興味がないような顔をしている彼女の姿を思い浮かべてしまった。
266 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時54分54秒
「あの日……後藤の後をつけていった日の事ね……精神病院があるっていったじ
ゃない」
「うん、覚えてる」

「もしかしたらそこに後藤は通っているのかもしれない」
「…………」

「もちろんまだ事務所の人とかに聞いたわけじゃないし、後藤の口から確認した
わけじゃないんだけど……でも、最近のあの子の行動を考えると、そうあっても
不思議じゃないような気がするの」
「…………」

「多分、そう言う病院に行っているなら、事務所に内緒って訳じゃないと思うし
……今度聞いてみようと思うんだけど……」
「ビョーイン、か」

 矢口は保田の言葉を確認するように呟いた。それにどんな意味があったのか、
この時の保田にはわからなかったが、それがどこか非難めいていると思い、そん
なところに通っている後藤をフォローするように言葉を見繕っていた。
267 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時55分46秒
「あのね……疲れているんだと思う。こんなに忙しいし、これまでに色んな事あ
ったから……ここに来て、それが一気に爆発したっておかしくないだろうし……」
「でもそれはみんな同じだよ」
「……そうだけど」
「……もう後藤だってシッカリしなきゃいけない立場なんだよ」

 それは後輩が出来て、後藤がもう甘えていられる立場ではないという意味が篭
っているのだと保田は思った。しかしそれに素直に頷けないのは、歳より大人だ
とこれまで決め付けてきたイメージが間違っていると知っていたからだ。
 保田は口からこぼれるように呟いていた。

「……でもまだ子供だよ」
「…………」
「……全然、子供だよ」

 矢口は保田の言葉に何も返さなかった。
 気まずい間が空く。
 すぐに保田は話題を変えるように口を開いた。

「そっちの方は大丈夫なの?」
 それだけで矢口は何のことを言っているのか悟ったらしく、弱々しい返事が聞
こえた。
268 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時56分33秒
「まだ悪戯電話とか来るの?」
「……まあね」
「まあねって……やっぱり警察とかに知らせたほうがいいよ。このままいつまで
も事務所の人に送り迎えされるのだって限度があるだろうし」

 矢口には仕事場の行きと帰りに事務所の人間が付く事になっていた。それは即
席のボディーガードでしかないのだろうが、それでも一人よりは気分的にも楽に
なるだろう。遅刻しなくてすむよ、と初めのうちはいつもの笑顔を作りながら言
っていた彼女も、段々とそう言う状況に自分が追い込まれているのだということ
を実感し始めると、その顔からも余裕がなくなっていた。
 そんな生活を続けると、もちろん家族だって黙ってはいられない。当然のよう
に警察に駆け込もうとしたようだが、それも矢口が涙ながら止めたようだ。

 あたしの立場も考えてよ! 大事になんかしたくないの!

 送り迎えをしている事務所の人間から、矢口が父親に向かってそう叫んでいた
という事を聞かされた。それほどまでに警察を拒む理由がわからなかった。

「圭ちゃん……あのね……」
 ふと我に戻ると、躊躇いがちに矢口の言葉が聞こえた。
「もしかしたら……犯人……」
 そこまで言って矢口は何でもない、と言葉を切る。
 保田はその後の言葉をあえて聞かなかった。
269 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時57分45秒
 こんな状況で長電話をさせることに罪悪感を覚えた保田は、明日も早いから、
と切り出す。

「あ、まって」
 すぐに電話を切られると思った矢口が遮るように言った。保田は口を閉じて彼
女の言葉を待つ。

「お願い……もう少しだけ……話していようよ」
「矢口……」

 電話を切ることに怯えているようだった。
 それは一人になることを恐がっているのだろうと思った。
 これほどまでに追い詰められているのだという事を今更ながらに実感する。

 保田はテーブルの上のカップを手に持つと、テレビの画面で切り替わっていく
映像をしばらくの間見た。

 私たちはそこで生きている。
 でもそこから抜け出した時、一人の人間として、こんなにも不安に怯えながら
生きている。一人じゃどうしようも出来なくて、常に弱い部分を見せられる相手
を探して、そしてその人との関係に依存していく。
270 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時58分22秒
 矢口にとって私はそう言う人物なのかもしれない。
 逆に私にとって矢口がそう言う人物であると同じように――。

 保田はカップをテーブルの上に戻すと、しばらく空中に視線を泳がせる。それ
から思い出したかのように、口を開いた。

「もうクリスマスの季節だね――」
 テレビには表参道がイルミネーションで飾られている映像が流れていた。

「きっと私たちは今年も仕事だね」
 電話の向こうから、ありがとう、と言う小さな声が聞こえた。
 それから彼女は明るい声を作り直して言う。

「今年は一緒にテレビでも見よっか? 圭ちゃん」
 あほ、と保田は返す。

「そんな悲観的な予定は今から立てたくないよ」
 キャハハ、と笑い声が聞こえた。
271 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)05時59分31秒
   17

「ねぇ、同じ歌を聞いて飽きないの?」

 冷えた空気の中、あたしは市井ちゃんに包まれるように抱かれていた。後ろに
はあたしの肩から胸に伸びる二本の細い腕。それに寄りかかるように背中をくっ
付ける。まるで子供を膝の上に置く母親のように、市井ちゃんの優しい表情を見
上げていた。
 部屋に漂う香水の匂い。窓の外は雲に半分顔を覆われている月が見えて、いつ
もの青白い光を降り注いでいた。

 そんな事ないよ。いい歌だと思わない?
「思うけどさ……」

 だからってさっきから同じ曲をリピート。さすがに飽きてきたと感じ始めてい
た。しかしそれでも市井ちゃんは満足そうにあたしの後ろで微笑み続けている。
 部屋に散らかるコンビニの袋や雑誌。それに混じって大量のCD。どうやらそ
の中からその日でお気に入りの曲が変わるらしく、今聞いている歌も明日になっ
たら別のものに変わるのだろうと思った。

「ちょこラブ聴こうよ」
 嫌だよ。
「なんで?」
 今日はこの歌がいい。
272 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時00分32秒
 頑固な所が市井ちゃんらしい、となぜか納得している自分が居た。
 それでも悪戯心に火がついたあたしは市井ちゃんの腕から逃れると、目の前の
ラジカセを止めた。

 こら、後藤。

 CDの山から見慣れたジャケットを取り出すと、あたしは市井ちゃんに見せる
ように掲げた。

「今日はちょこラブの日」
 どんな日だよ。
「いいの」

 あたしは勝手にCDを取り替えて再生ボタンを押した。市井ちゃんの顔を覗き
見ると、諦めたように苦笑いをしていた。
 軽快な、聴き馴染みのあるイントロが流れる。満足げにあたしは笑顔を作ると、
市井ちゃんは手まねをしてあたしを呼び寄せる。
 まるで子犬のように尻尾があったら嬉しそうに振っていただろう。そんな気持
ちであたしは市井ちゃんの元に這うように寄ると、おでこ目掛けて弱々しい拳が
飛んできた。
273 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時01分16秒
「イタっ」
 勝手に取り替えた罰。
「なんでよ」
 不満げにあたしは眉を寄せた。それを見ていた市井ちゃんがまた表情を崩す。

 バカ、と言って市井ちゃんはあたしの背中に腕を回した。優しいぬくもりから
あたしが芽生えた不満は木っ端微塵に消し飛ばされて、それに身を委ねるように
全身の力を抜くと、ゆっくりと眼を閉じた。

 市井ちゃんや圭ちゃん、それにあたしの声が響く、心地いい空間。あの頃、毎
日が楽しくて、新鮮で、緊張したり怒られたり、そんな繰り返しの中、こうして
CDと言う形がある物が目の前に現れて……。一位を取ったことに素直に喜びを
感じられた。

 もう、あの頃には戻れないのかな?
 そう思うともどかしさで胸が苦しくなった。
274 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時02分10秒
 あたしにはその頃の忘れられない思い出があった。それは圭ちゃんと市井ちゃ
んと三人で、下らないお喋りの中の、本来なら消化されるだけの会話。でもその
話は何故だかあたしの胸の奥でずっと引っかかったまま、いつか叶えられればい
いという夢になっていた。

 きっともう圭ちゃんも市井ちゃんも忘れてしまっただろう。
 いつもの会話の延長線上に描いた絵空事だった。
 でも、それを思い出すことさえ、きっと許されないのだろう。

 あたしには色んな罪があるから。

 変わり続けて、いつの間にか昔を思い出すことさえも許されなくなっている。
だからこんなにも胸が苦しくなって、それは体を締め付けるんだ。
 それは多分、誰にでもある感情だっただろう。しかしこの時のあたしには、全
ての感情は市井ちゃんと過ごす時間以外はマイナスのもので、それは全て罰なの
だと思っていた。今日のスタジオから忽然と消えてしまった市井ちゃんも、すれ
違った市井ちゃんも、こうして幸福を感じているあたしへの罰なのだろう。

 でもあたしはそうして行くしかなかった。
 少なくとも、今傍にいる市井ちゃんと過ごす時間だけが、体も心も休められる
時間だった。
275 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時03分45秒
 後藤。
 市井ちゃんが呟いた。

 あたしは顔を上げて、何? と聞く。
 すぐ目の前にある市井ちゃんの顔が悪戯っぽく崩れていく。

 少し、太ったね。
「ひどい!」
 ケタケタと市井ちゃんが笑った。

「誰のせいだと思ってるの? 市井ちゃんのせいだよ」
 どうして?

 あたしはゆっくりと市井ちゃんから離れると、不快だと表情を歪めながら言っ
た。

「市井ちゃんがあたしの買ってきた物をほとんど食べてくれないからだよ。だか
ら残ったら勿体無いって変わりにあたしが食べてるんじゃん」
 あはは、と市井ちゃんは笑った。
 あたしは少しだけ腹が立って口調を強める。

「ごとーはこれでもアイドルだよ。太ったらいけないの。ヘソとか出さなきゃい
けないんだよ。そう言うこと、市井ちゃんわかってる?」
276 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時04分37秒
 ごめんね、とすぐに市井ちゃんは謝ってあたしの頭をポンポン、と叩いた。ま
るで子ども扱いだと思ったが、それは不快にはならなかった。もしかしたらあた
しはちっともあの頃から成長できていないのかもしれない。辻や加護の前でお姉
さん振るより、こうして甘えていた方が気持ち的に楽だった。

「バカ」
 とあたしは呟いて市井ちゃんの胸に顔を埋める。ごめんね、と言って優しい掌
があたしの頭を包んでくれた。

 まだ満足できない。
 例えあたしにどんな罰が降りて来ても、あたしはまだ満足できない。

 もっともっと市井ちゃんをあの頃のように近づけたい。まだ心の奥に潜む、あ
たしの不安を完全に消し去らなくてはならない。
 だからあのブレスレットを奪い返さなくてはならないんだ。
277 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時05分07秒
 月の光が強くなった。
 顔を上に向けると、姿を隠していた月が完全に顔を出していた。それは黄金の
ように輝いて、外の外気を混じらせては部屋の中に入り込んで来る。空はどこま
でも澄み渡っていて、散らばる星たちが一つ一つ自分たちの存在を知らしめるよ
うに輝いていた。

 ふと気が付くと市井ちゃんも顔を上げて窓の外を見ていた。
 細く伸びる首のラインから顎にかけて真っ白な肌が柔らかそうだと思った。外
の光景を見る市井ちゃんの表情はどこか懐かしさに囚われたように、望郷の念に
駆られているようだった。

 市井ちゃんは呟いた。

 外に……出てみたいな。

 あたしはその言葉になにも返さなかった。
278 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月06日(金)06時12分56秒
>>255
こう言うレスを読むとホッとします。ありがとう。

>>256
バレタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!
279 名前:  投稿日:2002年09月07日(土)23時48分58秒
今この小説が一番先が気になってます。
280 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時29分14秒
    18

 寒さが身にしみてきた。

 テレビ局からダンスレッスンをするスタジオに向かう為の車に乗り込むとき、
保田は夕暮れの空を見ながらそんな事を考えた。闇の時間が長くなっている。今
にも沈みそうな太陽と比例するように月や星の姿がぼんやりと見える。薄い雲が
静かに流れ、冷たい風が足元を走り抜けていた。

 車に乗り込んでその車内を見る。
 一番後ろに保田は位置を取り、運転席の真後ろには後藤の背中。それはいつの
間にか小さく縮められて、その存在さえも消えてしまうのではないだろうかと思
った。後ろからはもう一台の車が後を付いてきている。そこには矢口が乗ってい
て、彼女は後藤と一緒になることを嫌がっていた。

 そのままスタジオに着いて控え室で動きやすい服に着替える。矢口はなっちと
なにやら話をしながら部屋から出て行った。後藤はその様子を黙ったまま伺って
いて、保田が視線を向けている事にさえ気がついていないようだった。
281 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時30分21秒
 仕事が終わった後のダンスレッスンは異常なほど体に堪える。忙しくなってい
る時期に、疲労を完全に消化できない上に、ハードスケジュールは自分たちを待
ってくれない。途中の小休憩も、誰かと雑談と言うわけにも行かなかった。それ
は矢口も一緒だったようだ。体を動かすたびに苦痛の表情を浮かべている。汗で
剥がれたメイクの下には、青白い皮膚が彼女の疲労を物語っていた。
 それでも若いメンバーは元気があるようだ。休憩中も、楽屋に居る時のように
楽しそうな声を上げながらフロアの中を動き回っていた。
 保田はその光景を壁に背をつけながら見る。苦笑いしている自分が居た。

「……歳かな」
 中澤に聞かれたら怒られる、と思いつつもそれをどこかで期待していた。
 後藤や矢口のことを考えない時間が一瞬だけでも訪れたことに安堵していた。

 しかしすぐに視線はそこにたどり着くのが当り前のように後藤の元に移ってい
た。彼女は髪を後ろに結い上げて、窓際で立ちながらそこに映る景色を見ていた。
 ライトから窓が鏡のようになっている。その向こう側は闇が訪れていて、後藤
の顔が保田の居る位置からでも確認できた。唇を少しだけ尖らせて、その瞳はど
こか遠くを見ている。あまりにも夜のネオンが明るすぎて星たちが姿を消してい
る空を通して、彼女は別の何かを見ているようだった。
282 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時31分08秒
 後藤は病院に通っているのかと、マネージャーに聞こうと思ったのは、そんな
姿を見たときだった。

 ダンスレッスンが終わった後、控え室に戻っていくメンバーを余所に、保田は
マネージャーを呼び止めていた。ガラン、とした空間の中に二人は一歩ほどの間
を開けて話す。
 保田は後藤が最近おかしいという事を説明した。その後にあの日、後を付けた
こと。そこには精神病院があって、そこから彼女が出てきたようだと。
 正面を位置に鏡張りの壁がある。期待していない言葉がマネージャーの口から
出てくるのを聞きながら、ふと視線を移した先に、そこに映る自分の姿を発見し
た。

 ああ、矢口や後藤だけじゃない。
 私も疲れてるんだな……。
 時計は十時を回っていて、静かな秒針が刻々と時間を流していた。

 結局マネージャーからは何も聞き出せなかった。何も知らないという言葉を素
直に信じきれない自分が居る。その出来事が本当だったとしたら、それをメンバ
ーに教えるのは適切ではない、と判断したっておかしくないだろうと感じた。

 マネージャーと別れた後、保田は控え室に戻る廊下を歩く。
 もし、後藤が病院に通っていたとして、私は何ができるのだろうか?

 これまでの自分の行動がただの自己満足でしかないということを、白い蛍光灯
の下で思い知らされた。
283 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時31分47秒
 後藤を一人にさせないようにしていたことも、サングラスを業と盗ませさせた
ことも、それにどんな意味があるのだろうか? その時で適切な行動だと思って
いた。後藤の家に行って母親と話したことも、仕事が終わって後をつけたことも、
そうする事によって自分は何か出来るのではないだろうかと、それを探し続けて
いた。

 でも結局状況はただこじれて行くだけだ。病院に通っているなら、そこで何か
しらの治療をされているのだろう。素人の自分が後藤の病気を治すことなんてで
きるはずがない。

 そう思いながら控え室のドアを開けた。

「あんたでしょう!」
 不意にドアの隙間から勢いよく矢口の叫び声が聞こえた。

 保田は思わず肩を竦めてから、すぐに我に戻りドアを開けて部屋の中に入る。
そこには中央のテーブルの上に置いた鞄を指差しながら後藤を見上げている矢口
の姿があって、他のメンバーはまるで二人を囲うように壁際に寄っていた。
284 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時32分45秒
「……何?」
 保田は誰となく呟く。しかしそれは矢口の叫び声に掻き消されて、誰も返事を
してくれなかった。

 すぐに異常事態だと気がつく。
 これまで接触を拒み続けていた矢口が後藤の目の前にいて、対立するように向
き合っている。矢口の表情はまるで追い詰められた動物が最後の抵抗をする様に
必死の形相だった。

「他に誰がいるって言うの! 鞄の中を勝手に弄るの、あんたしかいないでしょ
う!」
 半歩ほどの間を開けて後藤が矢口を見下ろしている。その表情はまるで変化な
く、薄い唇を軽く閉じて、まるでテレビを見ているように、すぐ近くにいる相手
を遠い場所に感じているようだった。矢口はその視線に追い詰められていってい
るようだ。言葉を叫ぶたびに、それから開放されようとしているが、むしろその
逆で、徐々に追い詰められている事に気がついていない。
285 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時33分47秒
「人の物を盗むなんてあんたしかいないじゃん! 勝手に鞄の中を弄って今度は
何を盗もうとしたわけ?」
 後から聞いた話によると、この時矢口はタオルを取り出そうとして、鞄の中が
弄られているのに気が着いたらしい。すぐに傍にいた後藤を呼び寄せて、こうし
て声を上げていたようだ。

 矢口の姿は痛々しかった。後藤に罵声を浴びせながら、自分も追い詰められて
いる事に気が着いていない。昨日の電話は結局一晩中続き、明るく見繕う彼女の
言葉の節々に不安を感じた。そう言った感情を後藤にぶつけているようにしか見
えなかった。

「気持ち悪いんだよ! いつも部屋の隅にいて、なに考えてるのかわかんない! 
ずっと人の物を盗む機会を伺ってるんじゃないの? 今日は誰の物を盗もうか、
それをずっと考えてるんじゃないの? 自分が気持ち悪がられてるって自覚して
るの!」

 さすがに言いすぎだと保田は一歩足を踏み出す。矢口、と右手を伸ばして言い
かけたとき、それを阻むように声を出したのは安倍だった。

「矢口――」
 恐る恐る、と言った様子で安倍が歩み寄りながら声を掛ける。それに口を閉ざ
した矢口は険しい表情を変えないまま首を横に向けた。
286 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時34分56秒
「これ――」
 安倍の手にはタオルが握られていた。それを差し出しながら、彼女は自分に集
まる視線に戸惑いを隠せない様子だった。

「ダンスレッスンが始まる前、貸してくれるって言ってたじゃん……だから、勝
手に鞄の中から取っちゃったんだけど……」

 あ、と気が付いたように矢口の表情が変わった。

 そう言えばダンスレッスンのフロアに向かう時に二人一緒だったことを保田は
思い出す。その時にタオルを忘れてきたという安倍に、矢口が二枚持って来たら
貸すよ、と言うような内容のことを話していたようだ。それを矢口は忘れていて、
鞄の中を後藤が勝手に漁っていたと思い込んでいたようだ。

 言い知れない空気が部屋の中に漂う。
 矢口は顔を下げたまま、後藤を見ようとはしていなかった。
287 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時36分02秒
「ごめん矢口……何か……」
 安倍が戸惑いながら謝っている。その視線は一瞬だけ後藤の元に移ったが、す
ぐに矢口同様、冷たい床の上に落とされた。

 後藤はさっきとまるで変わらない様子で矢口を見ていた。それはまるでビデオ
を一時停止したように、つま先から髪の先まで、微動だにしなかった。
 拳を黙って作る矢口は、突然差し出されたタオルを乱暴に奪うと、逃げるよう
にドアに向かって走り出した。

「矢口」
 ドアの前の保田に気がつき、彼女は一瞬だけ顔を上げる。しかし数秒もしない
うちにノブを捻って出て行った。

 遠くなる足音。
 誰も矢口の後を追うものはいなかった。
 保田はため息をつくと、部屋を照らしている蛍光灯を見る。

「……もう限界だよ」
 それは自分でさえも聞き取る事が出来ないほど、冷たい空気に掻き消されてい
った。
288 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時36分56秒
   ∞

 タクシーに矢口と共に乗り込む。
 運転手に行き先を告げると、保田は座席に沈んでいく体を感じて、僅かな安堵
からため息をついた。

 矢口の家まで送る役目を、今日は保田が引き受ける事にした。事務所側にとっ
ても、もちろん矢口の方でも、一人にさせなければその役を誰が引き受けても良
かったようだ。
 車が走り出してゆっくりと眼を閉じる。ラジオからは自分たちの曲が掛かって
いて、ダンスレッスンでも聞いていたため、仕事とプライベートの切り替えを阻
んでいるように思えた。
 結局口から出てくるのはため息ばかりで、体にズッシリと圧し掛かる疲労を何
とか誤魔化そうとしているだけだった。

 矢口が控え室から飛び出していった後、誰一人口を開くものはいなかった。自
然と各々帰りの準備をする音だけが部屋の中に鳴り響くだけで、それはマネージ
ャーが入ってくるままで続けられていた。明日の連絡事項を伝えるため、メンバ
ーを集めようとしていたマネージャーが、矢口の姿が見えないことに気がつき、
どうしたんだと、疑問を投げかけたがもちろん、それに誰一人答えようとはしな
い。保田は矢口を探してくるために部屋から出た。
289 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時37分42秒
 すぐにその姿は見付かった。
 トイレで鏡を前にその小さな背中を揺らしていた。保田が入ってきたことを鏡
越しに気が付いたようだが、それでも口を開く事もなかったし、すすり泣く事も
隠そうとはしなかった。保田はぼんやりと矢口の後ろに立ち尽くしているだけで、
その背中を見守る事しか出来なかった。

 しばらく経って矢口が顔を上げる。手に持っていたタオルで眼を拭うと言った。

 いこっか、圭ちゃん。
 保田は頷いてから言った。

 今日は私が送らせて。

「圭ちゃん」
 矢口の言葉に我に戻る。思わず背もたれから背中を浮かせるとすぐ横にいる矢
口を見た。彼女は窓の外に視線を向けたままだった。

「……どうした?」
290 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時38分29秒
 タクシーが止まる。フロントガラスから交差点を渡っていく人の波。青い信号
が点滅を始めると、茶色い髪の女の子二人が駆け足で走り出していた。保田はぼ
んやりとそんな光景を見ながら、自分たちはどんどん違う場所に足を踏み入れて
いるのだな、と言う事を実感する。

「後藤……あの後なんか言ってた?」
「ううん……何にも」
「……そっか」

 再びタクシーは走り出す。ラジオの中から時報が聞こえて、自然と自分の腕時
計に視線を落としていた。

 十一時。
 明日何時集合だっけ、と保田は何となく考える。この体に残った疲れは、それ
まで解消する事はできるのだろうか?

 しばらくの間二人とも無言のままだった。何を話していいのか、保田はわから
なくて、少なくとも自分が傍にいる間だけ、矢口が安心できる事だけを祈ってい
た。
 窓の景色も変わり、矢口の家まで近づいてきた時、彼女は口からこぼれるよう
に呟いていた。
291 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時39分25秒
「……後藤かもしれない」
 保田は首を横に向けて聞く。

「何が?」
 矢口はゆっくりと窓から視線を外して保田を見た。その眼の奥には、何かを決
意したような力強いものが潜んでいるように感じた。

「嫌がらせの犯人……後藤かもしれない」
 冗談を言っているようにも、そんな事が許される空気でもなかった。保田はし
ばらくその言葉を頭の中で反芻して、あまり驚いていない自分に気が付いた。

「あまり驚かないんだね」
「驚いてるよ」
「そっか、圭ちゃんもそう思っていたんだ」

 否定はしなかった。ただ何となくその可能性も考えていた時もある。しかしす
ぐにそれはあまりにも行きすぎた想像だと思い、頭の隅に追いやった。あの後藤
が、そんな事するはずない、と信じていた。
 矢口は太股の上で手を組むと、顔を下に向けて言った。
292 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時40分23秒
「あたし……恨まれているんだ」
「……矢口」
「今まで酷い事、一杯してきた。今日だってそう……あたしは恨まれているんだ」
「……そんな事ないよ」
「断言できる?」
「…………」
「後藤があたしを恨んでいないって、圭ちゃんは断言できる?」
「そりゃ……」

 そこまで言って保田は口を閉じた。すぐに矢口がやっぱりね、と諦めたように
呟いたのが微かに耳に入ってきた。

 自分は後藤ではない。彼女がどんな気持ちでいるかなんてわかるはずがない。
それはここ最近の後藤の行動から、自分は何一つわかっていないんだと言うこと
を思い知らされた保田の考えだった。
 きっと前なら後藤のことを一番誰よりも分かっていると信じていた。しかしそ
の自信はここ最近の出来事によって喪失していた。
293 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時41分03秒
「前に後藤が取り見乱した事、覚えてる?」
 DVDを返してもらった日だ。テレビ収録のリハーサル中に矢口を突然突き飛
ばした事。保田はその時の事を思い出して、無言のまま頷いた。

「あの日、後藤焦っているみたいだった。移動中も楽屋にいるときも、仕事中も
……早く仕事を終わらせようと焦っているんだなって、あたし気が付いていた」

 それは保田も同様だった。あの日の後藤の焦りは、誰が見ても明らかだった。

「だから焦らしてやろうって思った。後藤がどんな反応取るのか楽しみで、そう
してやろうって思ったの……でも予想以上にあの子の反応が大きくて、少し驚い
た」
「…………」
「今思えば、あれから始まっていたように思う。……後藤があたしに刃向かった
のって、あの時が初めてだった」

 そう言えばそうだった、と保田は思った。それまでの後藤は矢口になにを言わ
れても無表情で、まるでその時だけ自分を自分ではなくしているように感じてい
た。それが矢口と後藤の立場だったし、決定的な落差でもあったように思える。
自分からは滅多に矢口に話し掛けることもなかったはずなのに、その日を境に彼
女はブレスレットについて矢口に聞くようになったのだ。
294 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時41分57秒
「そんなあたしに……後藤は恨んでいるんだよ」
「やめてよ、矢口」
「犯人は……後藤だよ」
 矢口は断定するように呟いた。

 ため息をつく。窓は曇り始めていて、暖房で体が熱っている事に気が付く。薄
っすらと額に汗を感じて、それを手の甲で拭うと保田は言った。

「それが……警察に話さない理由?」
 その言葉に矢口は頷きもしなかったが、無言の返事として保田は受け取った。
 矢口は太股の上に置いていた両手を自分の顔に当てた。ただでさえ小さな彼女
が、この時一層それを強く感じさせた。

「あたし……どうしていいのかわからない」
「…………」
「こんな事、もし公になったら娘。はどうなるの? メンバーはどう思うの? 折
角ここまでカンバって来たのに、同じメンバーが同じメンバーを脅迫していたな
んて、そんな事で警察沙汰になったら、娘。はどうなるの?」
「……矢口」
「今までの努力を無駄になんかしたくない。もっと長く――ずっとずっとあたし
は歌っていたいから……だからこんな事で警察になんかいけないよ」
295 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時42分53秒
 それは矢口の娘。と言う場所に対しての姿勢だった。自分の事だけではなく、
何かを判断する時に常に娘。という場所が頭の中にある。保田はそう言った矢口
の姿勢を尊敬していた。

 ただ、その姿勢は今回彼女を追い詰めるものになっていたようだ。ただでさえ
嫌がらせを受け続け、それだけでも苦痛だと言うのに、その上犯人は後藤かも知
れないと言う思いから、警察に行くことが出来ない。かといってこのまま黙って
はいられない状況になっている。その間で矢口は延々と一人で苦しんでいたよう
だ。

 保田は矢口の背中を擦ってやる事しか出来なかった。
 それだけの苦しみがあったことに、その行動は何の慰めにもなってやれなかっ
たかもしれない。しかしこうして矢口の背中を擦ってやる事しか、今の自分には
出来なかった。

「大丈夫だよ……」
 ラジオから流れる音楽を聞きながら保田は言った。

「後藤がそんな事するはずないから……だから大丈夫だよ」
 その言葉に、矢口が安心した気配はなかった。

 矢口の疑心を打ち砕く事も出来なかった。
296 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月10日(火)05時44分20秒
>>279
ありがとう。
297 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時30分31秒
   19

 携帯に電話が掛かってきたのは部屋に戻ってきてベッドに体を沈ませている時
だった。矢口は条件反射的に体を強張らせると、ゆっくりとそこから起き上がっ
て机の上にある携帯を取る。開くと液晶には知らない番号が通知されていた。

 保田に送られて家に戻ってくると父親が、今日は大丈夫だったか? と聞いて
きた。それがもはや挨拶のようになっていることに、なぜか違和感が沸き起こっ
てきて曖昧に頷くとそのまま階段を上った。暗い部屋の中でしばらくベッドに横
になっていたが、不意に一人だと言う孤独からその感情は恐怖へと変わり、結局
明かりをつけてCDを掛けた。しかしその軽快な音楽が鳴る空間でも、頭の中で
は後藤のことばかりを考えていて、気持ちが晴れる事は無かった。ラジカセが自
動的に止まり、携帯が鳴るまで眼を閉じていた。

 矢口は恐る恐る通話ボタンを押すと、携帯を耳に当てる。もしもし、と声をか
けてもやはり向こう側からは何も返事はなかった。
 非通知を着信拒否にしても番号を通知して無言電話は続けられていた。通知さ
れたそれを着信拒否に設定しても違う番号にすぐに変わり、またそれを設定して
もまた変わり……まるでイタチごっこのようになり、すでに諦めが入り始めてい
た。
298 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時31分16秒
「もしもし」
 部屋の中央に立ち尽くしながら矢口は言う。この電話の向こう側は後藤かもし
れないと思うと、訳のわからない苛立ちが込み上げてきた。

「後藤? 後藤なんでしょう?」
 もちろん相手からは返事は来ない。それでも矢口は言った。

「何でこんな事するの? 今日の仕返し? こんな事するより、あの時直接言え
ばよかったじゃん。後からこんな事して、インケンだと思わないの?」

 相手が後藤ならば自分で解決しなくては行けない。他の第三者が介入して、公
になんて出来なかった。それは事務所にも同様だ。大人の手が入ることによって、
状況がこじれて行くのは予想が出来た。

「ねえ、何か言いなさいよ。黙ってないで、何か言ったらいいじゃん」

 この向こう側で後藤はどんな顔をしているのだろうと考えると腹が立って来た。
電話越しという間接的な状況ならば、身に危険が及ぶ事もないし、気持ち的にも
楽だった。その為だろうか、その怒りは湧き起こっていた恐怖を掻き消して、矢
口の口を開かせていた。
299 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時31分53秒
「あたしを恨んでいるなら、正面から来なさいよ! こんな事卑怯じゃん!」

 そうだ、後藤は前からそうだった。常に優遇されて、前に出て行けて、自分は
それを後ろから見て卑怯だと感じていたのだ。そんな後藤を守るように紗耶香の
存在がいて、そしてそれが居なくなったら今度は事務所に守られる。その上を後
藤は歩いてきた。それが卑怯だと感じていた。

「後藤はいつもそうだ。いつも誰かに守られてる。紗耶香に圭ちゃん……ただそ
こに居るだけでチャンスも人の気持ちも与えられる。それがどれだけ贅沢な事な
のかって言うこと、あんた全然わかっていないでしょう?」
 それがわかっていないから、自分はあんなにも後藤を嫌っていたのだ。

「あたしは必死でそれを勝ち取ってきたの。負けるのが嫌だったから、必死で頑
張り続けてた。そうやって手にしたものを、あんたは簡単に与えられて、それが
当り前だって言う顔をして、紗耶香や圭ちゃんに守れてた。あんなに頑張り続け
てきたあたしがバカみたいに感じるぐらい、あんたはそれを手にしてきた」
300 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時32分35秒
 悔しかった、と言う言葉を飲み込んだ。これまでの感情をただのねたみ、と言
う言葉で片付けられたくない。それは屈折を乗り越えてきた矢口のプライドでも
あった。
 喋り続けても電話の向こうからは返事が返って来ない。苛立ちが膨れ上がり、
矢口は声を上げていた。

「何か言いなさいよ!」
 その時だった。

 ガチャン、とすぐ横の窓ガラスが割れた。思わず携帯を落とした矢口は、そこ
から吹き込む風で揺らめくカーテンに視線を向ける。足元には拳ほどの石が転が
り、その周辺にはガラスの破片が散らばっていた。

 何? と一瞬だけ頭がついていかない。
 しかし足元に転がっている石を見ているうちにそれが投げられたのだと言うこ
とに気が付いた。矢口は短い悲鳴を上げた後、咄嗟のうちに揺らめくカーテンを
捲っていた。

 そこには大きな穴があいた窓がある。その向こうに続く闇の中の景色。家の前
の道を走り抜けていく人影があった。
 思わず鍵を外して窓を開けた。身を乗り出すように人影を探す。それは手前の
道を曲がっていってその姿を消していた。
301 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時33分25秒
「……後藤?」
 確認は出来なかった。確かにその姿を見たわけではなかった。しかし今の矢口
にはこんな行動をするのは後藤以外には考えられなかった。

 冷たい外の空気を感じる。走り抜けていく風が矢口の髪を触って逃げていった。
 どうした? 何があった?
 後ろから父親の声が聞こえる。すぐに体を引いて振り返ると、ドアを開けた父
親が、床に散らばるガラスの破片を見て言葉を失っていた。

「お父さん……」
 父親の後ろには母親の姿もあった。母親は床に転がる石を見たようだ、短い悲
鳴を上げてから、よろめくように後退りした。
 唖然としていた父親の顔が見る見るうちに変わっていくのに矢口は気が付いた。
警察を呼ぶ、と声を荒上げて部屋から出て行こうとするところを、叫ぶように止
めていた。

「ダメ!」
 矢口は父親のもとに走り寄る。

「警察はダメなの! 知らせられないの!」
 まだそんな事言っているのか、と父親が言った後に後ろにいた母親が矢口を制
するように腕を伸ばしてきた。すぐにそれを振り払うと矢口は声を上げる。
302 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時33分59秒
「ダメなの! 警察はダメなの! こんな事、公になったら色んな人に迷惑を掛
けちゃうから!」
 だからってもう黙って入られないだろ、と言う言葉に矢口は必死で首を横に振
り続ける。

 あたしは娘。を守らなければ行けない。あたしの大事な場所を、いつまでも続
くように守らなければ行けない。今、そうできるのはあたししか居ないんだ。

 そう言う思いから矢口は叫び続けた。
 お願いだから、もうしばらく黙っていて。もう少しだけ我慢して欲しいの。で
も父親は頑なとして矢口の言葉を認めようとはしなかった。結局、矢口と父親の
言い分の間を取って事務所には知らせことにした。後の判断はそこに任せる事に
なった。

 父親と母親が階段を下りていき、一人になった部屋で立ち尽くす。
 風に揺らめき続けているカーテンを見ているうちに、後藤は本気なんだと言う
ことを実感して、これまでにない恐怖が圧し掛かってきた。

 気が付くと矢口は携帯を握り、保田に電話を掛けていた。
303 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時35分35秒
   ∞

「矢口……私」

 ドアがノックされた後、落ち着きのある声が聞こえてきて、矢口は顔を上げた。
返事を待たずにドアが開く。恐る恐る、と言った様子で部屋に入ってきた保田は、
ベッドの隅で体育座りをしている矢口を見て、何か言いかけた口を閉じた。

「圭ちゃん……」
 保田は散らばったガラスの破片を見る。その後に掌ぐらいの石を発見したのか、
眉をしかめてから、ひどい、と自分に言い聞かせるように呟いていた。

「圭ちゃん……」
 矢口はもう一度言う。すぐに保田が近づいてきて、隣に腰を下ろした。僅かな
振動から、膝を抱えた状態のまま倒れそうになるのを、右手を伸ばして堪えると
顔を上げて言った。

「来るの……遅い」
「これでも急いだんだよ。タクシー代、倍になっちゃった」
304 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時36分14秒
 苦笑いして空気を明るくしようとしていたのかもしれない、しかし矢口が表情
を変えないことに気が付くと、彼女はすぐに顔を強張らせた。
 時計は十二時をすでに回っていた。体に残る疲れはズッシリと内側に閉じこも
り、不安や恐怖を倍にしているようだった。保田はため息をつくと、散らばるガ
ラスの破片や石を見ている。こう言う状況で、何を言っていいのかわからなかっ
た様子だ。しかし矢口にはそこに彼女が居てくれると言う事だけで充分だった。
父親と警察に知らせる事について争い続け、それと同時に確実になった身の危険
の恐怖に耐え切れなくなっていた。

 保田の姿を見て、矢口の緊張の糸が切れた。

「矢口……」
 保田は矢口の見て呟いた。すぐに気が付いたように鞄からハンカチを取り出す
と、そっと身を乗り出してそれを顔に当てる。頬に当たる生地の感触に、やっと
で自分が泣いていた事に気が付いた矢口は、ありがとうと言ってそのハンカチを
受け取る。
305 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時37分05秒
「圭ちゃん……恐いよ」
 涙を拭きながら矢口は呟いた。
「あたし……どうしたらいいの?」
 保田はしばらくの間黙って口を閉じていたが、決意したように一つ息を吐き出
すと言った。

「警察に知らせよう」
「出来ないよ、そんな事」
「もうそんな事言ってられない」
「後藤だよ。間違いない、後藤が犯人なんだよ」
「あの子がこんな事するはずがない、犯人は別に居るんだよ」

 まだ後藤のことを信じようとしているのかと、矢口は苛立ちを抑える事が出来
なかった。

「あたし見たの、窓が割られた時、走っていく人影を」
「それが後藤だったって言うの?」
「後藤だよ、それ以外に誰が居るの?」
 そんなわけない、と保田は呟いた。
306 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時38分09秒
 その変わらない態度に苛立ちが大きくなってくる。矢口は持っていたハンカチ
を保田に投げつけると声を上げていた。

「圭ちゃんはまだ後藤を庇うの!」
 保田はその声に驚いた様子で一瞬だけ肩を竦めた。

「アイツが今まで何してきたかわかってるでしょう! 圭ちゃんの大事なサング
ラスだって盗んだんだよ!」
「それと今回のことは関係ない」
「関係ないって、そんなわけないじゃん!」

 どうして圭ちゃんはあたしの気持ちをわかってくれないのだろう? あたしは
これだけ圭ちゃんのこと頼りにしているのに。
 そう思うと自分の気持ちが伝わらないと言うもどかしさに流した涙が再び溢れ
てきた。その姿を見ていた保田が気まずいように顔を背ける。そんな仕草さえも
矢口は癇に障った。
307 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時38分45秒
「圭ちゃんはどっちの味方なの!」
「味方って……」
「あたしと後藤のどっちの味方なのさ!」
「そんな……私は……」

 そう言って口を閉じた保田がもどかしくて、矢口はベッドから降りる。机の上
の携帯を拾うとそれを保田の隣に投げた。ベッドがクッションになって弾むそれ
を見ていた彼女は、その行動の真意がわからなかったようだ、すぐに視線を目の
前で立っている矢口に向けた。

「圭ちゃんは結局あたしがどれだけ恐かったかって、わかっていないんだよ!」
「矢口……」
「毎日悪戯電話が来て、自宅にも来て、インターホン鳴らされたり、鳥の死体置か
れたり……犯人は後藤かもしれないって、だから警察にも知らせられないで……
親を抑えていたあたしの気持ちをわかってないんだよ!」
 ごめん、と保田は苦痛の表情を浮かべて顔を下げた。
「ごめん……矢口」

 不意に保田の姿が小さく見えた。丸まった背中を見ているうちに、ああなんで
こんな事いったんだろう、と言うような後悔が襲ってくる。こんな八つ当たり、
圭ちゃんにしても意味がないのに……。
308 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時39分33秒
 それでも高揚した気分から謝る事が出来ない。気まずさだけを感じて、矢口は
保田から視線を外した。
 しばらく沈黙が続く。
 目覚し時計の秒針だけが聞こえて、重苦しい空気を作り出してしまった事に後
悔した。

「私は……」
 その時、沈黙を破るように保田が呟いた。

「私は……誰の気持ちわかって上げられてない」
 保田はさっきの体制を崩すことなく、背中を丸めて顔を下げていた。矢口はゆ
っくりと机から椅子を引くとそれに腰を掛ける。

「こんなにも一緒に時間を過ごしているのに……私は誰の事もわかっていない。
家族や友達以上に時間を過ごしているのに……」
「…………」
「後藤のこともそう……矢口だってそう……紗耶香の時だって、あんな事考えて
いたなんて気が付かなかった……私は……誰とも心を交わせていないのかもしれ
ない」

 ああ、と矢口は気が付く。それが後藤に執着する理由だったんだ。
 保田は後藤を通して、誰かと心を重ねたかったのかもしれない。そうする事で、
みんなを自分のように思えると考えていたのかもしれない。

 保田も、孤独を感じていたのだ。
 頬に伝う涙を拭くと、矢口は言った。
309 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時40分13秒
「もう……いいよ……」
「矢口……」
「もうやめろよう……」

 自分たちはこんなにも弱い人間だったんだと言うことを知った。結局メンバー
同士で、どこかが欠けた心の隙間を埋め合っていたんだ。そうする事によって、
誰かを必要だと感じられるだろうし、逆に必要とされているんだと言う、確証を
作っていたんだ。
 矢口は椅子の上で膝を立てると、そこに額を乗せて顔を下げた。

「バカみたい……」
 その呟きはとても小さすぎて、自分の耳にさえも聞こえなかった。

 その時、部屋の静寂を打ち砕くかのように高い電子音が鳴り響いた。矢口は条
件反射的に体を強張らせる。思わず口から悲鳴が出てくるのを堪えると、保田が
大丈夫、と声をかけた。
310 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時41分30秒
「大丈夫、私のだから」
 保田はそう言って鞄から携帯を取り出していた。矢口はホッと息をつくと背も
たれに体重を逃がす。今、一人ではないことを幸福だと思った。

「……後藤」
 保田の呟きが耳に入ってきた。矢口はすぐに首を向ける。そこには液晶を見て
いる彼女の姿があった。

 矢口は自然と椅子から立ち上がっていた。沸き起こる感情が渦となって胸でグ
ルグルと回っている。そんな様子に気がついた保田が安心させるように言った。

「ここに来る前に連絡していたの。多分、様子を知りたいんだと思う」
「喋ったの?」
 ううん、と保田は首を横に振る。
「ただあまりにも心配だったから、電話をしただけ」

 でもこんな時に後藤に連絡する事なんてないじゃないか、と理不尽な怒りがこ
み上げてくる。しかしそんな矢口の気持ちには気が付かない様子で、保田は通話
ボタンを押して携帯を耳に当てていた。
311 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時42分12秒
「もしもし……ああ、うん……」
 保田が話している横に立ち尽くす。その電話の向こう側に後藤が居ると思うと、
苛立ちが怒りに変わった。

 こんな事をして、のこのこと様子を知るために電話をする。その態度が気に入
らなかった。
 矢口は一歩二歩と保田の元に近寄る。すぐに彼女は気配に気がついて顔を上げ
た。
 何か言わないと気がすまない。そんな感情から矢口は保田の携帯を奪おうと、
手を伸ばした。

 しかしそれを途中で止めたのは、彼女の隣に横たわっている、さっき投げた自
分の携帯が音を上げたからだ。体が電子音に反応して、一歩後退りする。それか
らどうして、と言う疑問が頭の中に湧いてきた。

 後藤は圭ちゃんと話しているのに――。
 どうしてあたしの携帯が鳴るの?

 気が付くと保田が口を閉じて矢口を見ていた。すぐに我に戻って、携帯をベッ
ドの上から拾う。液晶を見てみると、さっきの無言電話の番号が点滅していた。
312 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時42分51秒
 唾を飲み込む。
 思わず保田を見た。

「矢口……」
 どうして?
 矢口は思う。
 後藤は圭ちゃんと話しているのに――。

 頭の中がグルグルと回っている。まるで自分を中心に、部屋の風景が歪んでい
くような気がした。自分の名前を呟く保田の声は空回っていて、鳴り響く電子音
さえも壊れたレコードのようだ。

「ごっちんじゃないんだよ」
 保田が呟いた。

 それは当然の結論だった。
 しかし矢口はそれを認めたくない。後藤への恐怖はいつの間にか矢口の中では
大きくなっていた。それから逃れるようにその気持ちを誰かに向けることで、精
神のバランスを取っていた矢口には、保田が呟いた言葉はそれを崩すだけの事で
しかない。

 首を横に振り続けた。
 あたしは確かに人影を見たんだ。家の前を走って逃げていく、後藤の姿を見た
んだ。
313 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時43分30秒
「矢口、あの子じゃないんだよ」
「そんな事ない!」
 気が付くとヒステリーを起こしたように、矢口は声を上げていた。

「そんなわけない! 後藤が犯人だよ!」
「でもこうしてごっちんは電話を――」

 そんな事いくらでもできる。携帯が複数あったら、話しながらでも電話を掛け
ることができるじゃないか。
 矢口は首を横に振り続ける。
 保田は電話を切ってから立ち上がった。

「これで警察に行けるよ。後藤じゃなかったんだから」
 そう言う保田の顔はどこか安堵している。それが腹ただしくなってきて、何と
かして後藤が犯人だと言うことを示さなければいけないのだと思った。

「矢口、だから――」
 保田はそう言って矢口に手を伸ばす。思わずそれを振り払うと矢口は声を上げ
た。
314 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時44分29秒
「騙されているんだ! 圭ちゃんは騙されているんだよ!」
「騙されてるって……何言ってるの? 矢口」

 そうだ、後藤は保田が傍に居ることを知っていて、自分から疑いを反らす為に
電話をしてきたんだ。それに保田はまんまと引っかかったに違いない。

 後藤を見つけなきゃ。
 きっとまだこの近くにいるに違いない。
 どこかから、保田が家に入っていくところを見ていたに違いない。

 気が付くと矢口は部屋から出ようと走り出していた。すぐに異常を感じたのか、
保田がその腕を握っていた。

「矢口! どこ行く気!」
「後藤を捕まえるんだよ! まだアイツはこの近くにいるんだ!」
「こんな時に外に出るのは危険だよ!」
「後藤を捕まえて自分が犯人だって言わせてやるんだ!」
「矢口! あんた何言ってるのかわかってるの?」
「後藤を捕まえれば圭ちゃんは信じてくれるでしょう! アイツを捕まえれば庇
ってなんかいられないでしょう!」
「落ち着いて! 矢口! 落ち着きなさい!」
315 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月11日(水)05時45分08秒
 体を捩ったり腕を振り回したりしながら保田の拘束から抜け出そうとしたが、
矢口の腕を掴む力は強くてそれを振りほどく事は出来なかった。
 騒ぎを聞きつけて父親と母親が階段を上がってきた。ドアを開いて二人の姿を
見た両親は、一瞬だけ呆気に取られていたが、矢口が異常なほど取り乱している
事に気が付いて、すぐに保田の加勢をしてくれた。

 三人がかりの力を振りほどく事は、矢口の小さな体では無理だった。
 離して、と叫び続けるうちに、喉が掠れて来て、眼からは再び涙が溢れてきた。

 どうして誰もあたしのことをわかってくれないのだろう?
 どうして後藤だけ守られ続けるのだろう?

 体を拘束する力を必死になって抜け出そうとしていた矢口は、そう思いながら、
後藤への感情を強めて行った。まるで錯乱するかのように後藤の名前を叫び続け、
気が狂うほど頭を振る。全ての世界が歪んでいて、自分を押さえつけようとして
いる力は矢口をその世界から開放することを阻んでいる。
 涙も声も全て絞り出した。歪んだ世界から抜け出したくて、必死で体を動かし
た。その内に小さな体の限界を迎え、興奮は収まらなかったが、矢口は糸の切れ
たマリオネットのように床に座り込んでいた。

「ええ……わかりました……今から連れて行きます」
 気が付くと保田が事務所に連絡を取っていた。
 呼び出されたタクシーに乗せられて、矢口は事務所へと連れて行かれた。
316 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時26分32秒
   ∞

「これ、睡眠薬でしょう」
 目の前の机に置かれた一粒の錠剤。その横には水が入ったコップが置かれてい
る。パイプ椅子に座りながら、斜め後ろに立っている保田に向かって矢口は言っ
た。

 保田はため息をつくと会議室を見渡して、数分前に錠剤と水を運んできてくれ
た事務所の人間が置いていった毛布を拾った。

「それを飲んで、今日はゆっくりと眠りなさい」
 矢口の異常に保田は事務所に連絡を取った。どうやらこのまま家にいるより、
少しでも大人がいる場所に連れて行きたかったようだ。明日も仕事はあるのだか
ら、朝移動しなくてもすむと、保田は矢口に言い聞かせてタクシーに乗り込んだ。
そのまま事務所に連れて来られて、二人を迎えた人間は、あまりにも矢口の衰弱
に驚き隠せなかったようだ。その時一人で歩けないほど、矢口の体には力が残っ
ていなかった。

 それでも空いている会議室を開放してもらい、ジュースや食べ物を食べている
うちに矢口は少しずつ落ち着いて行った。そのまま一人でシャワーを浴びるぐら
い、体力は回復していて、髪をドライヤーで乾かした後、会議室に戻ってくると
電話を片手に保田が話している姿を見た。
 誰にかけていたの? と聞くと裕ちゃん、と言う返事が返ってきた。こう言う
場合は知らせないわけにはいかないじゃん、と彼女は呟くように言った。
317 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時27分07秒
「飲みたくない」
 矢口は錠剤を人差し指で弾くと、まるで拗ねた子供のように言った。

「どうして?」
「眠りたくない」
「明日も……って言うかもう今日ね……仕事があるんだよ」
「寝なくても大丈夫」
「なわけないでしょう」

 確かに体は疲れ果てていた。きっとこのままでは明日の仕事に支障を来たすだ
ろうと言うことも予想がついた。しかしこのまま眠ってしまう事に、漠然とした
恐怖にも襲われていた。眠っている間に、保田は居なくなってしまうのではない
だろうか? それだけではない、あたしの周りにあるもの全てが掬い上げた水の
ように、消えてしまうのではないだろうか?

 保田がゆっくりと毛布を掛けた。矢口はその端を握り、怯える子供のように顔
を下げた。
318 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時27分50秒
「誰も……あたしのこと信じてくれない」
「矢口……」

 体が震えている。それは恐怖からだったのかもしれないし、ただ単に疲れてい
ただけなのかもしれない。震えの振動は机に移り、その上に置かれているコップ
の中の水が僅かな波紋を立てていた。

「あたしの言うこと……誰も信じてくれない」
 事務所の人間は有無も言わずに警察に連絡をしたようだ。今頃自宅に向かって、
家族とでも話しているのかもしれない。保田はこうするべきだったんだ、とその
時は衰弱していた矢口に向かって言った。矢口はただ首を横に振ることしか出来
なかった。

「犯人は後藤なのに……どうして信じてくれないの?」
「…………」
319 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時28分30秒
 保田はその問いに無視して矢口の斜め前の椅子に座った。長方形型の机は、入
り口から奥まで伸びる作りになっている。矢口が座っているのは一番奥の上座で、
その斜め前に保田が腰を下ろしていた。彼女はため息をつきながらさっき弾いた
錠剤を拾っていた。

「少し落ち着きなさい……矢口の家と後藤の家は離れているのよ。普通に考えた
って往復するだけでも大変よ」
「後藤ならやるよ」
「さっき電話が来た時、後藤は家に居るって言ってた。もし矢口の窓ガラスを割
って、そこから家に戻ったとしたら、途中で引き返してきた私より早く帰れるは
ずが無い」
 矢口は首を横に振る。

「後藤が言っているのは嘘だよ。アイツはあの時家の近くにいたんだ。だから圭
ちゃんがあたしの部屋に入っていったのを見て、電話を掛けたんだ」
「矢口……」
320 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時29分20秒
 自分は間違っていない。あの時見た人影は後藤だった。
 確かではなかったその時の印象が、段々と確実になっていっている。それは記
憶を作り直しているだけだったのかもしれないが、この時の矢口にはその光景だ
けが事実で、自分の考えだけが真実だと思っていた。

 不意に睡魔が襲ってきた。どうやら睡眠薬を飲まなくても眠れそうだ。しかし
矢口は首を横に振ってそれを振り払う。保田が呼んだと言う中澤なら自分の言葉
を信じてくれるかもしれない、そうしたら今よりももっと楽になれるかもしれな
い。自分の周りから味方が居なくなっているような気がした。徐々に矢口から離
れて、それは後藤の元に移っているような気がしていた。

 暖房の熱と毛布のぬくもりが心地よくて、瞼が重くなる。斜め前では言葉を探
している保田がテーブルを人差し指で叩いていて、トントン、と同じリズムで刻
むそれにさらに眠気が煽られる。

 震える腕でコップに手を伸ばすと、それを一口だけ口をつける。生ぬるくなっ
た水はただ気持ち悪さだけを与えた。
 その時廊下からこの会議室に近寄ってくる足音が聞こえた。それは目の前で止
まるとドアをノックする。
321 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時30分15秒
「……裕ちゃん?」
 矢口が呟くと、それと同時に保田が椅子から立ち上がった。

 ドアが開く。矢口もゆっくりと立ち上がろうとしたが、そこに現れた人物を見
て思わず息を飲み込んだ。

「こんな遅くにごめんね、後藤」
 保田がそう呟くと、会議室に足を踏み入れた後藤は首を横にニ三度降った。

 訳がわからなく矢口はただ保田を見る。彼女はしばらく後藤に視線を向けてい
たが、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

「……どう言うこと? 圭ちゃん」
 喉が震えている。胃がグルグルと回っているような気がして、それは吐き気と
なって矢口を煽る。今にもさっき食べたものを戻しそうになった。

「……直接話した方が良いと思って」
 後藤に視線を向ける。彼女はコートにマフラーを巻き、その服装はいつもと一
緒だった。長く垂れた薄い栗毛が蛍光灯に反射して眩しくなる。一本一本がまる
で糸のように彼女の僅かな動きに一々反応しているように動いていた。

「話せって……何を……」
 自分でも聞き取れない声で呟いた。
322 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時31分02秒
 今、一番会いたくない相手を前に、何を話せというのだろうか?
 保田への怒りが沸いてきた。

 彼女の取る行動全てが矢口を追い詰めていく。こんなにも疲労しきった今、後
藤の顔を見たくなかったし、声さえも聞きたくなかった。そう言った矢口の気持
ちを保田は考えてもくれなかったようだ。
 何が誰の気持ちもわかって上げられないだ。わかろうとしていないだけじゃな
いか。だから誰とも分かり合えることも無いし、分かり合えた事も無いんだ。

「このまま引き摺っていたらダメだと思うんだ。矢口、それはあなたの為にもな
らない」
「……かってない」
「……矢口?」
「圭ちゃんは何もわかってないんだよ!」

 どん、とテーブルを叩くと、その振動でコップが倒れた。液体がテーブルの上
に広がり、それが床に滴り落ちる。鼓動が高鳴って、すぐに息が切れた。どうし
たらこんな状況で後藤を呼ぶ事ができるのだろうか?
 全てが鬱陶しくて、矢口は会議室から出ようと椅子から立ち上がりドアに向か
って歩き出す。後藤が一歩だけ横にずれてその進路を開けていた。
323 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時31分50秒
「矢口」
 後ろから保田の声が聞こえる。それさえも邪魔に思えた。

 後藤の横を通り過ぎて会議室から出ようとドアノブを握った時だった。ただ立
ち尽くしていた後藤が弱々しい声で言った。

「……大丈夫? やぐっちゃん」
 その言葉は今の矢口に火を着けるのには充分だった。

 思わずドアから離れると後藤の元により、その体を力一杯押していた。しかし
すでに力が入らなくなっている体には彼女を倒す力は無かったようだ。一歩二歩
と後退りをするだけですぐに体制を整えていた。

「あんた頭おかしいんじゃないの!」
 矢口は声を上げていた。

「自分がやっているくせに、どんな神経したらそんな事言えるわけ!」
 それは静かな会議室に響き渡る。すぐに近寄る気配を見せた保田が視界の端に
映ったが、矢口には関係なかった。
324 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時32分32秒
「バレてないと思っているわけ? あんな嫌がらせをして、どうしたらあたしの
目の前に現れる事ができるのよ!」

 後藤は何も言わない。ただ顔を下げて矢口の言葉を聞いているだけだった。
 その態度にまた怒りが込み上げてくる。それはこれまで溜め込んでいた感情が
爆発していたのかもしれない。離れた場所で矢口、と保田が止めるのを無視して、
声を張り上げ続ける。

「気持ち悪いって言ったよね? いつも楽屋の隅にいて、あたしのこといつも見
てるでしょう? 楽しんでたんじゃないの? 昨日は一杯悪戯電話したから、あ
たしが参っているんじゃないかって、そんな風に楽屋の隅で一人で考えていたん
じゃないの? インケンなんだよ! それが気持ち悪いんだよ!」
「矢口! やめなさい!」
 保田が止めるように言葉を挟んだが無視した。

 何を言っても後藤は顔を下げたままで、反応を見せない。垂れ下がる髪の毛の
隙間からは口元だけが見えていて、それは硬く閉じられたままだった。
325 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時33分22秒
 まるで壁に話しているようだ。
 沸き起こっていた苛立ちに、この時矢口は操られていた。

「頭おかしいんだよ! 後藤、ビョーイン行ってるらしいじゃん! 頭がおかし
くなったからでしょう? そんなところに行ってるくせに、全然アンタのビョー
キ、治る気配無いじゃん! もう手遅れなんじゃないの?」
「矢口! あんた――」

「頭おかしいから平気で人の物も盗めるし、あんな嫌がらせだって出来るんでし
ょう? フツーの人だったら毎日顔を合わせる相手にそんな事出来ないよ! 後
藤は異常だから、何も感じないんだ!」
「矢口! 何言ってるのかわかってるの?」

 保田がそう声を上げながら近寄ってくる。しかし矢口の口は閉じる事は無かっ
た。右手を自分の心臓に当てると、軽く叩きながら言う。

「アンタは、ココのどこかが欠けてるんだよ」

 後藤がゆっくりと顔を上げた。いつもの青白い顔色の中に、弱々しい瞳が向け
られる。

「後藤のココ、欠陥品なんだよ」

 パチン、と乾いた音が鳴った。
 矢口の頬に熱が篭る。
326 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月15日(日)03時34分10秒
「いい加減にしなさい!」
 気が着くと矢口のすぐ横に保田がいて、右手を振り下ろした後だった。頬にジ
ンワリと熱が篭り、思わず掌を当てる。さっきまで矢口を操っていた苛立ちが跡
形も無く消えうせていて、頭の中が真っ白になっていた。

 ゆっくりと顔を後藤に向ける。向けられていた弱々しい瞳の中に自分の姿を見
つけた。それは酷く淀んでいるような気がして、不意にさっきまで口からこぼれ
ていた言葉への罪悪感が沸いてきた。

「頭、おかしくなったのは矢口のほうだよ」
 保田の言葉が胸の奥を刺激した。

 いつの間にか涙が止まらなくて、それを後藤に見られていることが悔しくなっ
た。居た堪れなくなって、矢口はすぐ横のドアを開けて会議室から飛び出してい
た。

 保田はすでに矢口を呼び止めようとはしなかった。
327 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月15日(日)08時14分55秒
あぁ矢口・・・
328 名前:( `.∀´)ダメよ 投稿日:( `.∀´)ダメよ
( `.∀´)ダメよ
329 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月16日(月)22時09分16秒
二人とも救われて欲しいよ…
330 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時15分22秒
   ∞

 廊下に出ると騒ぎを聞きつけたようだ、事務所の人間が何かあったのかと聞い
てきたが、止まることの無い矢口の涙を見ると口を閉じた。何も言わないまま、
逃げるように階段脇のトイレに駆け込む。電気も消えているその場所は、入り込
む光の隙間も作られていないためか、眼を閉じた時のような闇だけがあった。

 手探りに洗面台の前に来る。水を出すと静かな空間に音が鳴り響いた。
 その場にしゃがみ込み、右手を口に覆うように当てた。涙の嗚咽を誤魔化そう
と口を閉じてもすぐに息苦しさを感じて、肩が上下に揺れる。出した水の音が無
ければ、きっと矢口のすすり泣く声はトイレの外まで聞こえていただろう。

 落ち着こうと深呼吸をする。未だに眼からは涙が止まらない。自分はいつの間
にこんなに泣き虫になったのだろうかと考えたが、それはすぐに今までの溜めて
いた感情が溢れているのだと悟った。
 その感情には不安、恐怖、自己嫌悪、それらが一緒くたになって、涙として外
に出ようとしていた。

 色んな事が頭の中に浮かんだ。細かい事から、大きな事まで、これまで生きて
来た中の、印象に残っている出来事がまるで走馬灯のように走り抜けて、自分は
死ぬのだろうかと大げさに思ってみた。
 そうなってもおかしくない。
 あたしは自分の感情に押し殺されるんだ。
331 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時16分00秒
 そう考えると不思議な事に冷静になっていく自分を感じた。眼を開けるといつ
の間にか闇に慣れているようで、おぼろげだが床のタイルが浮かんで見えた。そ
れから手探りで洗面台の輪郭を探る。ゆっくりと立ち上がると、入り込む隙間も
無いと思っていたはずなのに、出しっぱなしの水が僅かな微光を吸い込んでキラ
キラと輝いていた。

 顔を上げると暗闇の中に自分の顔が見える。あまりにも曖昧に形しかわからな
いもう一人の自分に手を伸ばす。冷たい感触が人差し指と中指に伝わり、僅かな
湿気から皮膚が鏡に吸い付いたようだ、自分の輪郭をなぞるように動かすと、キ
キ、と言う音が生まれた。

 水道の蛇口を捻る。水の音が止む。
 しばらく無音の闇の中に体を沈めて行くと、胸の奥にぽっかりと穴が開いてい
ることに気がついた。

――頭、おかしくなったのは矢口のほうだよ。
 さっきの保田の言葉を思い出す。
 後藤ではなく、あたしがおかしいのだろうか?
332 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時16分46秒
 後藤の瞳の中に映った自分の姿。まるで死んだ獲物をまだ傷つけるように、自
分の言葉に溺れている顔があった。それは剥がれたメイクや体調の悪さからでは
ない、確実に汚れた自分がそこに存在していた。

 あたしはいつから後藤を責め始めていたのだろうか?
 前の曲が出来て、それを宣伝していた時からだろうか?
 それとも腕時計の一件からだろうか?
 いいや、違う。
 矢口は首をニ三度、横に降った。

 もっと前だ。もっと前からあたしは後藤が嫌いだったんだ。あたしが手に入れ
たいものを、簡単に掴んで、持っていたものでさえ奪われていった焦り。それは
いつからだろう?

 そう考えた時、右腕につけていたブレスレットに気が付いた。

 ああ、この時からだ。
 この時から、あたしは後藤の存在を疎ましくなり始めていたんだ――。
333 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時17分32秒
 頭痛を感じた。思わずコメカミに指を当てる。疲れが限界に来ているのかもし
れない、立ち眩みさえ襲ってきた。
 ゆっくりとトイレから出る。廊下に落ちる蛍光灯の光が眩しくて、眼の裏を刺
激した。それはどうやらさっきの頭痛をさらに煽ったようだ、一瞬だけ目の前の
光景がカメラのフラッシュを焚かれたように真っ白になり、それは残像として視
界の中に残った。ふらふらと壁に手を当てながら歩こうとする。しかし思うよう
に足が着いていかなくて、このまま倒れてしまいそうな気持ちを何とか奮い立た
せた。

 どこに戻ればいいのだろうか?

 保田が居る会議室にはきっとまだ後藤が残っているだろう。かと言って事務所
の人間が居る所には行きたくない。彼らは矢口の気持ちも考えないで警察に今回
の件を知らせた人間だ、それはイコール自分の味方ではない、と言う思いがあっ
た。

 一人にはなりたくなかった。
 こんな気持ちのまま、眠る事など出来ないと思った。
 じゃあたしはどこに戻れば――。
334 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時18分19秒
 その瞬間、背中を何かが走り抜ける感覚がした。
 咄嗟のうちに矢口は振り返る。

 そこにはさっき出て行ったトイレの横にある階段に向かって横切っていく人影
が一瞬だけが見えた。

「後藤……」
 間違いない、今回は間違いなく後藤だった。

 矢口は壁から手を離すと、踵を返して道を戻る。すぐにトイレの脇を通り過ぎ
て、階段にたどり着いた。息を吐いて視線を落とす。そこには徐々に闇を深くさ
せている穴のような空間があるだけで、後藤の姿は見当たらなかった。

 矢口はしばらくの間立ち尽くす。
 矢口が引き戻った時間は数秒程度。その間に階段を音も立てずに下っていく事
なんか出来るはずが無い。

 唾を飲み込む。
 また頭痛が酷くなってきた。
 崩れるようにしゃがみ込むと、コメカミに指を当てたまま眼を閉じた。
335 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時18分58秒
 おかしくなっているのは、自分だ。

 保田の言葉通り、自分はおかしくなっている。それはきっとここ数日後藤のこ
とだけを考え続けていたせいなのかもしれない。いつしか矢口の思考のほとんど
を後藤が占めて行って、それに追い詰められていった結果が今の状況なのだ。

 そもそも、階段を降りる後藤など見たのだろうか?
 そこに人は居たのだろうか?

 自信が無くなった。

 気が着けば廊下には矢口以外、人の姿は無い。こんなにも静まり返った空間な
らば、いくら頭痛を感じていたとしても、音や気配に気がつく。それなのにさっ
き見た後藤はそれさえも感じさせなかった。

 窓ガラスが割られた時、家の前から逃げていく人影。
 あれは本当に後藤だっただろうか?
 それよりも自分は本当に人影など見たのだろうか?
336 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時19分32秒
 そう考えると全てが夢のように、不確かな世界に入り込んでいった感覚に襲わ
れた。この廊下は? この階段は? ここは本当に事務所なのだろうか? 会議
室には圭ちゃんが居るのだろうか? そもそも後藤はさっき本当に居たのだろう
か? あたしが叫び続けていたのは別の人物だったのではないだろうか?

 世界が捩れて行く。
 自分の存在さえ、リアルではなかった。
 あたしの存在は、どこにあるのだろう?

 光に包まれている時だろうか? カメラの前で笑っている時だろうか? それ
ともメンバーと話している時? なっちとどうでもいいような話をしている時? 
それより、あたしは本当にモーニング娘。の一員なのだろうか? オーディショ
ンは確かに受けたのだろうか? CDジャケットにはあたしは乗っていたのだろ
うか?

 コメカミに当てていた手を離す。それと同時に眼を開けた。視界の端に蛍光灯
の光を反射させたブレスレットが映り、不意に呼び起こされる記憶があった。
337 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時20分29秒
 それは梅雨の時期だった。楽屋に入ったとき、いつもより早めに来てしまった
為、一番乗りだろうな、と言う予想を裏切るように、入り口に背を向け椅子に座
っている紗耶香を見つけた。あれ、一番乗りだと思ったのに、と言った自分の言
葉が聞こえなかったのだろうか、その背中は動く事は無く、机の上に置いていた
彼女の指先がリズムをとるように動いていた。

――紗耶香。
 少し強めに矢口は言った。気が着くと耳にはイヤホンがつけられていて、机の
上にはMDが置かれていた。どうやら音楽を聞いているということを知って、悪
戯心からそのMDを勝手に止めた。

――あ、矢口。
――気づくの遅い。
――壊れちゃったのかと思ったよ。
――あほ。

 いつもと変わらない微笑を作る紗耶香の顔を見ているうちに、不意に数日後、
もう楽屋には居なくなるんだという事に気がつき、寂しさが襲ってきた。何聞い
ていたの? と尋ねると、紗耶香はドリカム、と答えた。
338 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時21分04秒
――あたしたちの歌を聞きなよ。
――いつも聞いてるじゃん。
――もう聞けなくなるんだよ。
――なんだそれ?

 寂しさが苛立ちに変わっていた。皮肉を言うことで、もしかしたら脱退すると
いう事を取りやめてくれるかもしれないという、小さな希望があった。もちろん
そんな望みなど叶うわけも無いことはわかっていたが、小さな希望を見つけては、
それを都合よく大きくさせるのは人間が自然にする事のようで、この時の矢口も
それは例外ではなかった。

――聞けるよ。
 紗耶香はそう言って耳からイヤホンを外した。

――矢口の歌は、きっといつまでも聞ける。
 何かを悟ったように紗耶香は言った。
339 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時21分51秒
 それはまるでこの先の未来を見てきたような言い方だった。訳のわからない苛
立ちはこの時に爆発して、思わず声を上げた事を覚えている。それでもその言葉
は必死に頭の中で見繕ったもので、確かに記憶にあるのは、紗耶香は逃げるんだ、
と言うセリフだった。
 それを聞いた紗耶香が顔をしかめて口を閉じた。矢口は不意に罪悪感に駆られ
て、それでも言ってしまった言葉に素直に謝る事が出来なかった。

――あたしも……逃げたいよ。
――矢口。
――時々、そう思うときがある。

 本気で考えているわけではなかった。矢口は娘。という場所を愛していたし、
守っているという自負もある。しかし何が起きるかわからないのがこの世界で、
不安は常に胸の奥に存在していた。それから逃れるように、メンバーとミーティ
ングしたり、注意しあったりしていた。でもそれは結局、自己満足でしかない。
不安は確かにその間だけ忘れる事は出来るが、決して消えることは無く、自分の
予想外の時に不意に沸き起こってくる。その繰り返しを延々と続けている事に疲
れを感じる時があった。時々、何もかも捨てて逃げてしまいたくなる衝動に駆ら
れる。
340 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時22分59秒
 ブレスレットを貰ったのはその時だった。

――わたしの事、覚えていて。
 それを差し出したときの紗耶香のセリフだった。

――矢口……わたしの事を覚えていて……。
 その言葉には、もしかしたら別の意味があったのではないだろうかと、後にな
ってから気が付いた。でもそれはこの先もわかることなく、矢口に残されたのは
ブレスレットだけだった。

 矢口はゆっくりと立ち上がった。体の重さを逃がすように壁に手を当てる。ぶ
ら下がるブレスレットを見ていて、安堵している自分に気が付いた。

 ああ、あたしは確かに存在しているんだ。
 だから、このブレスレットを持っている。

 ただのアクセサリー、後藤を焦らす道具でしかなかったブレスレットが、こん
な時に自分にとって大きな意味のある持ち物だった事を知った。過ごしていく時
間は確実に霞んでいくが、確かに歩いてきた道だと言うことを実感するために、
こうして思い出がある物は変わらない姿のまま。それはどんな言葉を凌駕するほ
ど、矢口の自信に繋がっている。
341 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時23分36秒
――だから、やぐっちゃんのブレスレットも返してほしいの。
 不意に後藤の言葉を思い出した。

 後藤は、どうしてこれに執着しているのだろうか?
 これを紗耶香から貰ったものだと、後藤は知っているのだろうか?
 そう考えた瞬間、電流みたいなものが走り抜けていく感覚に襲われた。

「……違う」

 矢口の小さな声は目の前の階段に吸い込まれる。その先の闇の中に視線を向け
て、自分が考えていた間違いに気が付いた。

 恨まれていたわけじゃない……。
 後藤はブレスレットを狙っていたのではないだろうか?

 それはいつの間にか書き換えられていた事実だった。矢口の目の前で起きる
数々の嫌がらせを前に、犯人が後藤ならその動機は自分に対する恨みだと思い込
んでいた。ブレスレットを盗むためだけに、わざわざこんな手の込んだ事をする
とは思えなかったからだ。悪戯電話や鳥の死体、家族にまで及ぶ迷惑をするほど、
動機としてはあまりにも弱すぎると感じた。だから自然と恨み、と言うもっとも
らしい理由をつけて曖昧だったものに答えを填め込んでいた。
342 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時25分32秒
 でも、後藤の関心はずっとこのブレスレットに向けられていたとしたら――?
 鼓動が高鳴り始めていた。
 全身に鳥肌が立つように自分の考えに飲み込まれていく。

 もっと冷静に考えればよかったのではないだろうか? 悪戯電話の予兆は、保
田のサングラスが盗まれる以前から始まっていた。後藤の関心がブレスレットだ
けだとして、その為だけにこの嫌がらせを計画していたと考えるならば、おかし
い出来事がある。

 それは同じブレスレットを買って、交換をしようとした事。

 後藤が犯人ならば、その時すでに計画は始まっていた事になる。それなら同じ
物を買って交換をすると言う行為など無駄になるのではないだろうか?

 つまり嫌がらせの犯人と後藤は別――。
 それが事実だとすると、後藤はどうやってブレスレットを盗むつもりだったの
だろうか?

 不意にここ数日間の後藤を思い出す。いつも楽屋の隅にいて、矢口の様子を伺
うだけ。話し掛けることも接触を取ることも無く、ただ見られていた。
343 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時26分34秒
 後藤は矢口が嫌がらせに合っている事を知っていたのではないだろうか?
 保田が喋ったとは思えないし、思いたくない。事務所の人間が言ったとは考え
られない。それならばどこで知ったのだろうか?
 そう考えてすぐに気が付いた。

 楽屋だ。

 鳥の死体の話を、矢口は楽屋でしたのだ。騒がしい中ならば、だれも自分たち
の話など聞いているはずが無いと思っていた。それを後藤は聞いていたのではな
いだろうか? それならば後藤の狙いが見当つく。

 疲れを蓄積していく矢口のことを、メンバーはわかっていた。何かに焦るよう
に仕事が終わっても遊びに誘う行動は目に付いていただろう。みんなはその陰に
ある理由を知ることは出来ないが、鳥の一件を聞いていた後藤ならば、そんな矢
口の行動の真意に気が付くかもしれない。事実、気が付いていたんだ。

 後藤が何も行動を取らずに矢口の様子を伺っていたのは、疲労が限界に来るの
を待っていたのではないだろうか? 矢口がブレスレットに構う余裕を無くし、
それを奪う機会を伺っていたとしたら――?
344 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時27分20秒
 不意に別の恐怖が矢口を襲った。
 目の前の階段に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥る。

 それは闇の洞穴だ。
 鼓動が高鳴り、確実に身の危険を感じた。

 つまり後藤が狙っている機会は――今。
 今、この時ではないだろうか?

 その瞬間、背中に人の気配を感じた。それは音も無く、まるで空気のように突
然現れ、矢口の心臓を強く圧迫する。全身に走り抜けた恐怖から、思わず振り返
ろうとするが、体がまるで石になってしまったように硬直したまま動かない。や
めて、と言う言葉を喉から振り絞ろうとした時、背中に掌が当たる感触がした。

「ごと――」
「ごめんね、やぐっちゃん」

 呟くように、耳元で後藤の声が聞こえた瞬間、背中は強く押されていた。

 矢口の体はまるで人形のように軽く空中に浮いた。抵抗する力はこの時にはす
でに残ってはいなく、悲鳴を上げることしか出来なかった。

 闇の洞穴に、矢口の体は吸い込まれていった。
345 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月20日(金)04時31分21秒
>>327
>>329
レスありがとう。
暖かく見守ってやって下さい。
346 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時09分55秒
   ∞

 サイレンの音が遠くから聞こえた。

 それと同時に周りが賑やかになっている。ぼんやりとした意識の中で、慌しい
人の声が自分の上を飛び交い、何度も名前を呼ばれた。
 暗闇だった視界がゆっくりと光を吸い込んで景色を映り出していく。階段の踊
り場で倒れているらしい、と言うことに気が付くと、今度は全身を暴れまわる激
痛に思わず小さな悲鳴を上げた。

「気が付いたぞ!」
 と叫んだのは矢口の横で膝を着き、さっきから名前を呼び続けていた事務所の
人間だった。大丈夫だ、今、救急車が来たからな、と安心させるように言葉を続
ける。

 しかし矢口にはそれに頷く余裕は無かった。全身を駆け巡る痛みに耐えようと
歯を食いしばる事しか出来ない。まるで子供のように涙が滲んで、呼吸を荒くさ
せる。背中から腕、足のつま先から太股まで、まるでどこを酷くやられているの
か自分でもわからないほど、神経は痛みと言う信号を脳に送り続けていた。
347 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時10分40秒
「矢口!」
 保田の声が聞こえた。自然と体はそれに反応して、矢口は弱々しく顔を上げる。
そこには階段の上で足を止めている彼女の姿があって、一瞬だけ眼が合うと、ま
るで何かに操られるかのように降りてきて矢口のすぐ横で膝をついた。

「矢口! 大丈夫?」
 保田はそう言って矢口の肩に手を掛けた。
「イタ!」
 それと同時に痛みが体を走り抜ける。保田はその声に驚いて手を引いた。
「……痛い」
「矢口……」
「痛い……痛いよ……」

 保田の表情が眼に見えて変わる。何も出来ない自分を悟ったのか、悔しそうに
下唇を噛んでいた。
 こちらです、と慌しく階段を上ってくる無数の足音。階段を駆け上がってきた
白い服に身を包んだ複数の男たちは、矢口の傍で足を止めるとタンカを床に置い
た。動く事も困難な矢口の体にその男たちが近寄ってくる。一人は上半身を抱え、
もう一人は両足を掴んだ。息を揃えて矢口の体はまるで人形のように軽く持ち上
がる。それと同時に痛みが走り回ってきて、悲痛な声が自然と口から漏れていた。
348 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時11分25秒
「矢口!」
 タンカが持ち上がる。保田がすぐに声を上げた。
 不安定な体のバランスに、自然とそれを整えるために力を入れる。しかしすぐ
に暴れまわっている痛みはまるでこのまま矢口が運ばれていく事を阻むように、
数倍にもなって跳ね上がった。

 どうして……どうしてこんな事になっちゃったんだろう?
 働かなくなり始めた頭にそんな疑問が浮かぶ。

 あたしはどうして――。
 不意にその時、矢口の視線に後藤の姿が映った。

 彼女は階段の一番上から矢口を見下ろす位置に居る。しかしその表情は下げら
れている顔のため見ることが出来ない。まるで視界を邪魔するかのように目の前
を横切る事務所の人間。冷たい階段の空間には、叫び声が止むことは無く、それ
は矢口が運ばれた後も続くことになる。
349 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時12分00秒
「……後藤」
 痛みに耐えながら左手でブレスレット覆う。金属の質感が痛みの中で微かに心
地よかった。

 渡すものか。
 矢口は思った。

 このブレスレットを渡すものか。
 気が付くと階段の上に居る後藤に向かって声を上げていた。

「絶対渡さない」

 騒がしい周りの雑音に掻き消される事は無く、その言葉はどうやら後藤に届い
たようだ。彼女は一瞬だけ肩を竦めると、まるで何かに怯える子供のようにゆっ
くりと顔を上げた。

 その後藤の表情を見て、矢口は思わず息を飲み込んでいた。
 そこにあったのは矢口が想像していた後藤ではなかった。

 彼女の表情は、悲しそうだった。
350 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時13分07秒
   ∞

 静かな闇の中に、矢口は体を横にしていた。
 意識が遠のいて、ぼんやりとした映像の世界に陥っていく。そこには何気なか
った日常の断片を切り取り、また再構成してまったく違う出来事を作り出してい
る。匂いも物を触った感覚もリアルで、現実と夢の境はその時無かった。

 矢口が眼を覚ましたのは、廊下から聞こえる微かな足音に気が付いた時だった。
それは徐々に自分が居る病室に向かっているようだが、まだ覚醒しきれない脳は
危機感を抱く事も無かった。

 矢口の視界に映ったのは薄闇の病室の風景だった。
 自分の左手側にはカーテンが閉められた窓がある。月の光が強いのかもしれな
い、薄っすらとベージュの生地が青白く染まっている。そこから二歩ほど間を開
けて矢口が眠っているベッド。頭の脇には簡単に物を置ける棚があり、そこには
空の花瓶が一つだけあった。右足には大げさなぐらい包帯が巻かれている。どう
やらギブスのようだ。感覚が麻痺をして、まるで上半身と下半身を切り離してし
まったのではないだろうかと思った。気が付くと頭にも左腕にも包帯が巻かれて
いる。大げさに頬にガーゼが貼り付けられていて、薬品の匂いが鼻から入り込ん
で、覚醒していない脳に刺激を与える。

 息を吐くと条件反射的に体を起こそうとした。しかしすぐに襲ってきた痛みか
らそれを阻まれる。まるで誰かに押さえつけられているかのように、白いベッド
の上、蒲団の中に体を沈ませていく。
351 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時14分13秒
 足音が止まった。
 それはどうやら矢口の病室前のようだ。
 これも……夢だろうか?
 矢口はぼんやりと考える。

 さっきまであった全ての出来事が急にリアルではなくなった。窓ガラスを割ら
れた事も、後藤に罵声を浴びせた事も、階段から突き落とされた事も、思い出そ
うとするたびに、まるで薄いベールが頭の中で揺らめき、その向こう側にある現
実を不確かなものにしていく。それは今、こうして病室で横になっている自分が
信じられなかったからだ。
 昨日までダンスレッスンで体を動かしていたのに。カメラの前で笑っていたの
に。たった数時間後にはギブスや包帯を巻かれて、ベッドの上で眠っている事な
ど想像できるはずが無い。

 ドアが開いた。
 ギギィ、と窮屈そうな音が病室を走り抜ける。
 おぼろげな意識の中、徐々に頭が働き始めてく。
 視線をドアの方向に向ける。
352 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時14分53秒
 そこには闇で身を包んだ人物が、一瞬だけ立ち止まってからゆっくりと矢口の
ベッドを回り込むように歩いてくる姿がある。長い髪をなびかせて、一瞬だけカ
ーテンの隙間からこぼれた光でその口元が現れる。青白い唇が僅かに開き、白い
歯がこぼれている。頬は病的なほど白い。薄い糸のような髪の毛が黒く汚されて
いた。

 誰……?
 そう声に出そうとしても、それは喉を通り過ぎていかない。

 誰?
 その人影が窓の前に立つ。カーテンの生地の隙間を縫って存在する僅かな光に、
その人物の顔が現れる。そこには今、一番見たくない顔があった。

 後藤……。

 後藤はゆっくりと蒲団の中に隠れている矢口の右腕を取り出した。他の部分と
は違って、そこだけ包帯は巻かれていない。どうやら無意識のうちにブレスレッ
トを守った形で階段から落ちていたようだ、それと同時に右腕も守られていたの
だろう。
 後藤は無言のまま矢口の右腕を持ち上げ、手首に輝くブレスレットに視線を向
けていた。垂れ下がる髪の毛の隙間から見える、彼女の表情が次第に矢口の意識
をはっきりとさせていく。
353 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時15分34秒
 盗まれる……。
 矢口は思った。

 ブレスレットを盗まれる……。
 後藤はゆっくりとブレスレットに手を掛けた。パチン、と留め金が外れる音。
スルスルと右腕から離れていく金属の質感。無意識に蒲団の中に隠れていた左手
を伸ばして矢口はブレスレットを掴んでいた。

 渡さない……。
 絶対渡すものか……。

 左手を動かした事により体が悲鳴を上げる。電気のような痺れがまるでポンプ
で吸い上げたように頭に響いていく。それでも左手でブレスレットの端を掴み、
右手で後藤の手首を掴んだ。彼女は驚きの表情を見せ、その視線を矢口の顔に渡
した。

 後藤と眼が合う。
 矢口は視線を反らさなかった。

 この時、自分はどんな表情をしていたのだろうかと後になって考えた事がある。
しかしそれは決して鏡の前やテレビに映る用意された物ではなかっただろう。言
葉にならない感情が胸の奥で渦巻いていて、それに操られるように矢口の体は動
いていた。それはきっと表情を作る、顔の筋肉も同様だったはずだ。
354 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時16分16秒
 しばらく無言の争いが続いた。
 後藤はまるで子供がダダを捏ねるように全身を使ってブレスレットを引っ張っ
ている。それに引き摺られるように矢口の体が蒲団からずれて行く。体の痛みが
跳ね上がって、口から出て行くのは声にならない悲鳴だった。
 しかしそれでも決して矢口はブレスレットを離そうとはしなかった。
 それがこんな体になった状況でも出来る、唯一の矢口の抵抗だった。
 後藤が小さな声を上げながらブレスレットを引っ張りつづける。静かな病室内
で、二人の物音だけが響いていた。

「……やぐっちゃん」
 そのやり取りを続けるうち、口から漏れるように後藤が呟いていた。

「お願い……返して……」
 その声は微かに震えていた。顔を下げるようにしていたため表情が見えない。
しかし何となく矢口の頭の中には、後藤がどんな顔をしているのか予想が出来た。

 後藤は、きっと悲しそうな顔をしているんだ。
 タンカで運ばれていく時に見た後藤の表情。
 それは今まで見たことが無かったほど、苦痛に歪んでいた。
355 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時17分38秒
「お願い……やぐっちゃん……」

 後藤……。

 後藤の手首を掴んでいた右手の甲に水滴が落ちた。
 それは薄闇の中で何かに反応するようにキラキラと光る。

「お願い……返して……返してください……」
 それは涙だった。
 後藤の眼から落ちた一粒の涙だ。

 不意に体の力が抜けていくような気がした。するり、とブレスレットを離すと、
その反動で後藤の体が仰け反り、しりもちを付くように床に倒れた。すぐ背中に
は壁があり、そこに寄りかかるように彼女は座り込む。
356 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時18分15秒
「お願い……返して……返してください……」

 後藤は奪ったブレスレットを両手で包むように握りながら、そこに額を当てる
ように顔を下げていた。同じ言葉をまるで何かに駆られるように呟きつづける後
藤を見ているうちに、矢口は思った。

 後藤ってこんなにも小さかったっけ……?
 自分より十センチ以上背の高い後藤が、こんなにも小さく感じた事は無かった。
それは何かに削られていくように、徐々にそうなっていったのかもしれない。そ
れはあまりにも小さな変化で、眼に見えて気が付くことは無かった。

 ああ、そうか。
 矢口はやっとでわかった。

 保田が後藤のことが変だと言い始めていた頃の事、彼女はもしかしたらいち早
く、後藤が削られていくのに気が付いていたのかもしれない。それはきっと存在
自身を無くしていく作業だったのかもしれない。後藤は一日を生きるために、何
かを削りながら過ごしてきたんだ。

 いつの間にか、こんなに小さくなっていた。
357 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月21日(土)06時18分54秒
 後藤は同じ言葉を呟き続けながら、その場所で顔を下げていた。
 時々鼻を啜る音が部屋に響く。矢口は首を横に向けながら、その姿を焼き付け
ようとした。今度、また後藤に変化があった時、気づけるように、今の彼女の姿
を覚えておこうと思っていた。

 それでもゆっくりと矢口の瞼は重くなっていく。入り込む月の光があまりにも
心地よかったのかもしれない、傍に居る後藤に怯える感情はいつの間にか消えう
せていた。

 眠ろう……。
 今はただ眠ろう……。

 再び矢口は夢の中に意識を溶け込ませていった。
358 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時45分05秒
    20

 空は薄っすらと明るくなり始めていた。

 電球を切らした街灯の下であたしは顔を上げて、頬を切るような冷たい風に思
わず肩を竦める。透き通った空気がマフラーの隙間から入り込んで、縛り付けら
れるような寒さを感じた。
 街灯の下で二つ並べられているポリバケツ。青のネットの下にはすでにゴミが
出されていて、それを狙うかのように電線に止まっていたカラスが声を上げてい
た。それは耳の奥に入り込んで頭の裏側を刺激する。疲れた体にはそれが耐えら
れないようだ、ここ数日決まって感じる目眩から、あたしは額に手を押し当てな
がら緩い坂道を登っていく。

 家に着くと靴を脱いで階段を上った。白い両脇の壁にあたしの影が張り付く。
それはまるで無声映画のように滑稽な動きをしていた。
 階段を上りきると、静まり返った廊下を歩く。一番奥に移動すると、いつもの
ようにドアノブを握った。
 廊下に漂う空気にステンレスが冷やされていたのかもしれない、冷たい感触が
掌から背中に走り抜けて、身震いをすると、ポケットに入れていたブレスレット
が擦りあったようだ、ジャリ、と小さな音がした。
359 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時45分57秒
 あたしの顔を見ていたやぐっちゃんを思い出す。
 寒さが一層と体を締め付けた。

 ドアを開ける。
 漂ういつもの匂い。
 市井ちゃんの香水の匂い。
 ふあり、とあたしの体が浮くような浮遊感。何もかも忘れさせてくれるような、
安堵を感じる。

 薄暗い部屋の中、窓からは薄っすらと外の光が入り込んでいるようだ。いつも
の月光は、今は朝日のそれと変わろうとしている。窓の向こう側の景色には、軒
を並べる家の屋根から今にも日が昇ろうとしていた。
 部屋の床にはCDが散乱している。雑誌やお菓子の袋、片付ける事も忘れたそ
の場所は、まるであたしと市井ちゃんの存在の証だ。

 でも、その存在は部屋の中に無かった。

 あたしはドアの前に立ちながら部屋を見渡す。いつもの窓の下、もはや指定席
になっている場所に、市井ちゃんの姿は無い。その目の前に置かれているラジカ
セからは音楽が流れていて、同じ曲がリピートに設定されていた。
360 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時46分43秒
「……市井ちゃん?」
 ドアの横にあるクローゼットを開けてみた。もちろんそこには何も無い。再び
それを閉めてから、あたしは部屋の中心に移動して、周りを見渡す。

「市井ちゃん……」
 散乱するお菓子の袋を踏みつける。ビニールの音が鳴った。

 自然と体は動いていて、部屋を出るドアノブを握っていた。
 あたしを呼び止めるように、部屋の中に響いていた曲が再びリピートされた所
だった。

 その曲はちょこラブだった。

 部屋を出て、階段を乱暴に下りる。靴を履いて、再び外に出ると冷たい空気が
あたしの体を襲うように駆け抜けていった。

 家の前に出て、左右を見る。そこには一本道がどこまでも続き、等間隔で街灯
が配置されているだけだった。あたしは緩やかな坂道を降りるように走り出す。
路地のブロック塀に足音がこだまして、吐き出す息は白く舞い上がっていく。ポ
ケットに入れていたブレスレットがその衝撃で上下に揺れている。落としてしま
う事を恐れて、あたしはそれを取り出すと右手で確りと握りながら辺りを走り回
った。
361 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時47分48秒
 市井ちゃんの姿はすぐに見付かった。
 家の近所にある公園の中で、ぼんやりと立ち尽くしている背中があった。肩ま
での髪が吹き付ける風になびいて、薄っすらと明るくなった冬の光に薄く茶色に
なっている。あたしは公園の入り口でしばらくその姿に見入った。

――外に……出てみたいな。
 昨日の市井ちゃんの言葉を思い出した。

 あたしの胸を強く縛り付ける感覚が生まれる。
 息を整えると右手に握っているブレスレットに気がついた。あたしはそれに視
線を落とすと、沸き起こってくる嗚咽を感じる。

 ああ、あたしは――。
 自然と市井ちゃんの背中に向かって歩いていた。彼女は足音であたしの存在に
気が付いたようだ、ゆっくりと振り返ると何事も無かったかのようにいつもの笑
みを口元に作った。

 お帰り、後藤。
 その言葉に、急にあたしは市井ちゃんの前に存在している事を恥ずかしく思っ
た。

 静かな風が公園の端にあるブランコを揺らす。その動きと比例するように錆び
た音が響いて、狭い公園の中で存在を知らしめていた。
362 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時48分48秒
 あたしは人を傷つけた。
 圭ちゃんもやぐっちゃんも、傷つけたんだ。
 それなのに市井ちゃんは何も知らないで、いつもの言葉を掛けてくれる。こん
なにも罪を背負ったあたしに、変わらず接してくれる。

 あたしは何て女なのだろう……。
 市井ちゃんも、みんなのようにあたしを嫌っていいんだよ……。

 そう思うと悲しくて、涙が溢れて来た。市井ちゃんの前で膝を落とし、それで
もその存在が逃げてしまわないように服の裾を握る。顔を見ていることも辛かっ
たあたしは視線を下げた。

 こうするしかなかった。
 あたしはバカだから、こう言う方法でしかブレスレットを奪い返す方法が浮か
ばなかった。それは自分にとって正しい行動だと思っていたし、それ自体は今で
も間違っていないと思う。でも、やぐっちゃんをあんな姿にしてしまった事に、
罪悪感があった。
363 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時49分36秒
 きっと痛かっただろう。あたしが想像できないぐらい、痛かっただろう。包帯
を全身に巻いて、綺麗なやぐっちゃんの顔をあたしは汚したんだ。いつもの元気
のいい、みんなを引っ張って行ってくれる存在をあたしは傷つけたんだ。

 涙が一粒地面に落ちた。
 それは冷たい地面の中にすぐに吸い込まれていく。

 しょうがないじゃん……。
 こうするしかなかったんだから……。

 自分の行動をあたしは正当化しようとしていたことに気が付いた。そう言う考
えが浮かんでいる事自体に自己嫌悪する。その感情は連鎖するように、あたしの
存在全てを疑問にして、虚無感を胸に生ませた。

 風が吹く。耳の先が痛くなった。
364 名前:名無しさん 投稿日:2002年09月26日(木)02時50分16秒
「市井ちゃん……」

――後藤のココ、欠陥品なんだよ。

「あたし……狂ってるのかな?」
 右手に持っていたブレスレットが地面に落ちる。赤い光が真横から伸びてきて、
あたしの影を長くしていく。

「あたしの心……壊れちゃったのかな?」

 あたしの言葉に、市井ちゃんは何も返してくれなかった。
 ゆっくりと顔を上げると、そこにはいつもの笑顔。まるであたしの言葉を無か
ったかのように、変わらない表情だけがあった。

 あたしはその日、カンヌキ状の鍵を買ってきた。
 市井ちゃんを閉じ込めるために、ドアにそれを付けた。
365 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月01日(火)17時22分22秒
切ないよぅ。
でも気になって仕方がない…。
作者さん、頑張って!
366 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時00分26秒
   21

 どうしてあんな嘘をついたのだろう?
 矢口はベッドの上で白い天井を見ながらそう思った。

 テレビのボリームを下げ、開け放たれたカーテンの向こうにある窓からは外の
陽射が入り込んでいる。暖房のせいか、湿気が酷くてそこを通して見えるはずの
風景が阻まれてはいたが、薄っすらと見える空は青くて、どうやら晴れているら
しい事を知った。個室のドアは閉められたまま、つい十分ほど前に帰っていった
友人たちの顔が何故だか頭の中に残っていない。興味本位でどこからか聞きつけ
た患者が何度もドアの前を通っているらしいと言っていたが、そんな事さえもど
うでも良かった。

 昨日、一日中眠っていた矢口は意識だけはハッキリと回復していた。体に負っ
た怪我もそんなに酷くは無という事だったが、しばらくの安静は必要らしく、入
院生活を強いられることになった。この年末に自分が娘。から抜ける事に罪悪感
が沸いてきたが、それと同時にしばらく休めるのだという安堵とも似た感情があ
ったのも確かだ。
367 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時01分52秒
 警察が来たのは昨日の夕方だった。
 後藤にブレスレットを奪われてから眠りに入った矢口を、様子を見に来たマネ
ージャーが起こした。マネージャーの後ろには二人の背広を着た男の人たちが立
っていて、嫌でも威圧感が圧し掛かってくる顔だった。

 初めは嫌がらせの件の事だろうかと思った。事実、口に出されたのはそのこと
だった。

 犯人が捕まったらしい。十代後半の女の子だった。矢口の家の周りを歩いてい
る所を職務質問され、鞄の中から複数の携帯が出て来て、その履歴には矢口の携
帯や家の電話番号が残っていたため、身柄を拘束したらしい。
 動機は逆恨み。その女の子は訳のわからないことを言っているらしく、どうや
らどこかで出た雑誌の記事の事らしいが、その子は本気にそれを受け取ってしま
ったらしい。その腹いせに嫌がらせを始めた。
 警察の人間は苦笑いしながら、不運だね、と言っていた。隣にいたマネージャ
ーがそれに愛想笑いをしていた。矢口はずっと顔を背けたまま、湿気に包まれて
いた窓を見ていた。

 しかし警察の人間はその事だけでは帰らなかった。本題は別の所にあったらし
い。それは矢口が階段から落ちた事に付いてだった。
 警察の人間は現場にも行って、周りから事情も聞いたらしい。あの日、特に下
に降りる用事が無かったはずの矢口が階段から落ちた事を不審に思っているよう
だった。その数分前にトイレに駆けつけた矢口の姿は目撃されている。冷静さを
失っていた事はわかるが、人気もなかったあの時に、どうして階段から落ちたの
か気になると言われた。
368 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時03分30秒
 後藤の顔が浮かんだ。表情が微妙に変わったことに警察の人間は気がついたの
か、正直に話して下さい、と念を押された。

 矢口は一度もその警察の人間と眼を合わせなかった。それは横にいたマネージ
ャーにも同様だった。その日、見舞いに来てくれた全ての人間の顔を、矢口は直
視する事が出来なかった。

 あたし、あの時疲れていたんです。色々あったから、疲れていたんです。少し、
メンバーと喧嘩をしてしまい、取り乱してしまった。トイレから出たとき、急に
立ち眩みがしたんです。多分、メンバーと喧嘩をしたときに叫びすぎたのが原因
だと思います。それで、足を踏み外したんです。

 警察の人間も、マネージャーも黙って矢口の話を聞いていた。病室のドアの向
こう側から、僅かに人の声だけがしていた。

 君はどうして階段になんか向かったんだい? 立ち眩みといえ、そこに近づか
なければ足を踏み外す事も無かったろう?

 よく覚えていません。でも多分、喧嘩をしてしまって後悔していたんだと思い
ます。きっと戻りたくなくて、別の所に行こうとしていたのだと思います。……
すいません、疲れていて……今でも頭がハッキリとしないんです。自分でも、ド
ジな事をしたなって、後悔しています。
369 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時04分38秒
 警察の人間は深くは聞いてこなかった。それはマネージャーや事務所の人間も
同様だった。矢口が足を踏み外して起こった事故。その件について、それ以上の
結果は無かった。

 どうしてあんな嘘をついたのだろう?
 矢口は再び思った。

 首を横に向けるとボリュームを絞られたテレビがある。ブラウン管に映る人間
の顔を見ながらため息を付いた。
 もちろん、そう言う証言をしなければいけなかっただろう、と言う事はわかっ
ていた。まさか後藤が犯人だと言って、警察に捕まらせるわけにも行かない。そ
れは矢口が嫌がらせの犯人が彼女だと誤解していた時と同じ感情で、そう言った
後の娘。の事を考えると事実を話すわけには行かなかった。

 でも、それだけではない事に矢口は気が着いていた。

 その感情がどう言った物なのか、矢口は朝から考え続けていて、見舞いに来る
友達の話す内容も頭の中に残っていない。暇を持て余しすぎていたせいか、自然
と矢口の思考は過去の出来事に遡っていった。
370 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時05分34秒
 後藤が加入した当時、一番初めに声を掛けたのは自分ではなかっただろうか?
芯の強そうな、度胸の据わった子だった。見た目よりも大人っぽくて、傍に居る
自分が恥ずかしくなった。金髪にしよう、と思ったのもそのせいだったような気
がする。
 歳より大人で、芯の強い子。そう言った矢口の考えを否定したのは紗耶香だっ
た。ああ見えて、まだ子供だよ。十四歳の、女の子だよ。
 あの頃は素直に笑いあっていたような気がする。多分、後藤自身も周りに溶け
込むように努力していたのだと思う。矢口はそんな彼女を、両手を広げて受け入
れようとしていたのだ。

 いつからこうなっちゃったんだろう?
 ため息ばかりをついていた。

 しばらく昔のことだけを思い出しながらテレビを見ていた。時々映る娘。の十
五秒の出演を見ていても、視線は自然と後藤の顔に向けていた。横になるだけの
時間を過ごしていた矢口が次第に眠気に襲われ始めたのは、日が暮れる頃だった。
しかしそのまま眠りに付く事を阻むかのように、矢口は体をベッドから起こす事
になる。

 自分の病室の前から言い争う声が聞こえたからだ。
371 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時07分53秒
 まだ体を動かす度に痛みが起こる。それでもベッドの横にある松葉杖を付いて
矢口は立ち上がろうとしていた。しかし襲ってくる痛みは手加減をしてくれない。
まるで間接の節々が悲鳴を上げるかのように、矢口の喉からそれが漏れてくる。
眼には薄っすらと涙が浮かんで、それを拭う余裕さえも無い。何とか立ち上がる
が、ギブスをつけている右足を庇うように左足を動かそうとすると、それも思う
ようには行かなかった。それでも外に出ようとしたわけは、その言い争う声が保
田のものだという事に気が付いていたからだ。
 痛みに耐えながらドアの前まで進む。その保田の声がはっきりと耳に入ってき
た。

 あんた本気で言ってるの? 自分が何を言っているのかわかっているんでしょ
うね!

 ドアを開ける。そこには保田の姿があった。視線を周りに向けると何事かと顔
を出している患者と足を止めて様子を伺っている看護士の姿が見える。矢口は保
田を止めようと声を出そうとするが、彼女の視線の先に肩を竦めている後藤の姿
を見て思わず口を閉じた。

「何をしたかわかってるの? あんたがしたことがどれだけ酷いことかって言う
こと、わかってるの!」
 後藤の手には花が握られていた。彼女は目の前にいる保田を一度も見ることは
無く、何かに怯えるように顔を下げていた。

「あんたなにか言――」
「圭ちゃん」
372 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時09分20秒
 矢口は保田の言葉を遮るように言った。その言葉で彼女は口を閉じてこちらに
視線を向ける。このとき初めて冷静になったようで、周りに人が居ることに気が
付いたようだ。気まずい顔をしてから彼女は顔を下げた。

「後藤……」
 矢口の言葉に、後藤は肩を竦めた。それは怯えから来る反応のようだ。
 とりあえずこの場を何とかしなければいけないと矢口は考える。保田の興奮の
理由は後藤にあることは察しがついた。このまま二人を一緒にさせていても、ま
たいつ保田が声をあげるかわからない。

 周りの視線が突き刺さる。
 矢口はため息をつくと、ごめん、と後藤に向かっていっていた。

「ごめん、後藤……今日は帰ってくれるかな」
 後藤は顔を下げたまま、微かに頷いた。
373 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時09分56秒
「……うん」
 小さな呟き。それはどこか震えているようだ。
「あの……あのね、やぐっちゃん」
 矢口は松葉杖に体重を逃がしながら聞く。

「……何?」
 後藤はゆっくりと顔を上げると、虚ろな瞳で矢口を見た。

「……また、来るね」
 矢口はしばらく後藤の顔を見ていた。
 それから軽く首を縦に動かす。

「……そう」
 それから後藤はまるで逃げるように走ってその場から姿を消した。

 残された保田を周りの眼から逃がすように病室に招き入れる。
 酷く体が痛かった。
374 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時10分58秒
   ∞

 保田は後藤と共に見舞いに来たわけではなかったようだ。

 仕事が終わって別々に分かれた二人は、別々に見舞いに来たらしい。そこを偶
然、病院前で再び出合った二人は、病室に来るまでの間、話をしながら歩いてい
たようだ。そこで、保田は後藤の口から矢口を階段から突き落としたのは自分だ
という事を聞かされたようだ。初めは何を言っているのかわからなかったという。
事務所の人間から事故だったと聞かされた後では、後藤の言葉は素直に信じきれ
ないものだっただろう。しかしあの日、保田は矢口の悲鳴を聞きつけたとき、後
藤の姿が無かったことに気が付いている。

 矢口はその話を聞きながらベッドに横になっていた。横に居る保田は初めの内
は窓から外の風景を見ていたが、ため息と共にカーテンを閉めてパイプ椅子の上
に腰を下ろしていた。静まり返る病室内の空気は酷く重くて、それと同時に微か
に漂っている薬品の匂いがさらにそれを煽っているように矢口には感じた。

「その可能性を考えていなかったわけじゃなかった」
 保田は膝の上に肘を置くと、まるで屈むような体制のまま椅子に座りながら言
った。その視線は冷たい床の上に落とされている。どうやら頭の中で自分の考え
を整理しながら喋っているのだと矢口は気が付いた。
375 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時12分15秒
「私は完全に後藤を信じきれていたわけじゃない。心の奥では、もしかんしたら
って言う可能性を常に考えてた。それは嫌がらせの件の時だってそうだし、サン
グラスを盗まれた時だってそうだった」

 保田はため息をついて体を起こした。背もたれに体を預けると、その顔は白い
天井に向けられる。蛍光灯に照らされる彼女の顔に微妙に影を作っていた。

「だから、あの日、矢口の悲鳴が聞こえて駆けつけたとき、階段の前で壁に背を
付けている後藤を見た瞬間に、もしかしたらって頭に浮かんだ。……もしかした
ら後藤が矢口を突き落としたんじゃないかって」

 矢口は保田の言葉に口を挟まなかった。蒲団の上に出された右腕に視線を向け
て、そこに前まであったはずのブレスレットの面影を探していた。自然と右手首
を擦っていた。

「でもマネージャーから事故だって聞かされて、安心した。嫌がらせの犯人も捕
まったって聞かされていたし、もう私たちには不安になる要素はなくなったんだ
って、そう思いたかった。でも……あの子は……」
 保田はそこまで言って口を閉じた。矢口はゆっくりと首を傾けて彼女の姿を見
る。下唇を噛んで、眉間に皺を寄せていた。
376 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時14分36秒
 後藤はどうして自分が犯人だという事を保田に喋ったのだろうか?
 矢口はそう思いながら、逃げるように走っていった彼女の姿を思い出した。

 事故だという形で決着がついて、後藤が喋らなければ犯人だという事を知られ
なくてすむ。ただでさえ立場を失い始めている彼女に、これ以上自分を追い込む
事実を他人に知られることは、何よりも恐れている事ではないのだろうか?
 もしかしたら矢口が喋ってしまうのではないだろうかと思っていたのかもしれ
ない。事故だと証言して、後藤を庇った形になった矢口には、また大きな弱みを
握られた事になる。ただでさえ腕時計やブレスレット、それに保田のサングラス
を盗んだ事を知っている矢口に、これ以上弱みを握らせたくなかったと考えたの
かもしれない。それならば自分の口で言った方が潔い。

 しかしそれでもどこか釈然としない物が残る。後藤がそこまで計算に入れて保
田にその事を喋ったとは思えなかった。

「罪悪感……」
 矢口が口からこぼれるように呟くと、傍にいた保田が顔を上げた。

「どう言うこと?」
 矢口は無言のまま首を横に降った。
 保田は何か言おうと口を開いた様子だったが、すぐにそれを止めてまた顔を下
げた。二人の間には再び静寂が訪れる。
377 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時16分07秒
 カラカラ、と廊下を走り抜ける車輪の音が聞こえた。自然と視線は時計に移っ
ていて、夕食の時間に近づいている事に気が付く。矢口は重い空気を変えるよう
に口を開いた。

「病院のご飯は美味しくないね」
 静かな空間に矢口の声が響く。蛍光灯に反射して壁が白く照らされ、保田の影
が長く後ろのカーテンに伸びていた。

「昨日なんかお粥みたいな――」
「もうわからないんだ」

 矢口の言葉を遮るように保田は呟いた。視線を向けるとさっきと変わらない状
態のまま、彼女は顔を下げている。

「圭ちゃん……」
「あの子のこと……もう分からない」
「…………」
「ずっと信じていても……私の気持ちは裏切られ続けてる……あの子に私の気持
ちは届いてない」
「…………」
378 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時17分16秒
 矢口はその言葉に何も返さなかった。ただ頭の中には後藤の顔だけが浮かんで
いて、何かに怯えるように表情を歪めている姿が印象に残っていた。
 保田がゆっくりと顔を下げると、蒲団の上に出されている矢口の腕に視線を向
けた。すぐに何を言いたいのか悟って、咄嗟に左手で手首を抑えた。

「ブレスレット……どうしたの?」
 その口調は静かだった。
 矢口は僅かな間を空けると言った。

「上げちゃったよ。隣のファンだって言うチビッコに」
「後藤にでしょう」
「…………」
「盗られたんでしょう?」
「…………」

 保田はゆっくりと立ち上がった。腕時計に視線を向けた彼女は、重い物を吐き
出すかのようにため息をつくと、帰るね、と呟いた。
379 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時18分10秒
「暇になったら来るから」
「暇じゃなくても来てよ」
 考えておく、と保田は言って床に置いていた鞄を掴む。矢口は痛みに耐えなが
ら体を起こすと、ベッドを回り込むようにドアに向かって歩く保田の背中を見て
いた。

 不意に胸の奥に引っかかっている物が突き上げてくる。それは漠然とした感情
だった。

「後藤」
 気が付くと矢口は口を開けていた。

 保田の背中が止まる。ゆっくりと振り返った彼女の顔には表情などなかった。
矢口は何故引き止めたのかと後悔しながら、視線を外す。

「……後藤、元気?」
 口から出てきた自分の言葉に苦笑いした。あたしは一体何がいいたいのだろ
う?
 僅かな間足を止めていた保田は、さあ、と呟く。
380 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時18分58秒
「わからない……いつもと変わらないよ」
「……そっか」
 矢口が呟くと、でも、と保田は言葉を見繕った。

「でも……少し焦ってるみたい」
「焦ってる?」
 矢口は再び保田を見る。彼女はすでにドアノブに手を付けたままの状態だった。
「いつかみたいに……何かに焦ってるみたい」

 ああ、あの時の事だと矢口は思い出す。収録中に後藤が取り乱した時のことだ。
それまで何かに駆られるように落ち着き無く、あからさまに後藤は焦りを顔に出
していた。どうやら、その時のように、再び余裕がなくなっているようだった。
 矢口は涙を見せた後藤の事を思い出した。月明かり照らされて、矢口のブレス
レットを掴んだまま座り込んだ彼女の震える声。

――お願い……返して……返して下さい。
381 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時19分49秒
「もしかしたら――」
 自然と矢口の口は開いていた。

「もしかしたら、あたしたちが思っているより、後藤はギリギリの場所に立って
いるのかもしれない」
「…………」
 保田は矢口の言葉に何も返すことなく、病室から出て行った。

 一人取り残された矢口は、ため息をつくと再びベッドの上に横になる。
 額に右腕を乗せて、心地いい重さを感じる。ゆっくりと眼を閉じると、苦笑い
している自分が居た。

「何言ってるんだろ、あたし」
 一人の病室は不快になるほど静かだった。
382 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月08日(火)19時23分56秒
>>365
ありがとう。
何とか頑張ってます。
383 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月15日(火)00時39分12秒
今日見つけて一気に読ませてもらいました。
読解力がないせいか、最初の方は「えらい、難しいなぁ、???」と。
でも読み進めるうち、「痛さ」にずっぽしはまっちゃって。
後藤もさることながら、矢口の動きに注目し、次回更新を期待しております。
384 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時45分12秒
   22

 部屋に戻る事に、こんなにも憂鬱な気分になったことは無い。

 あたしはいつものコンビニで買い物を済ませると、市井ちゃんが居る部屋に帰
ってきた。階段を上る足音が辺りに響き、冷たい空気がまるで足を掬うかのよう
に床に敷き詰められている。微かに入り込んで来る青白い光の中で、ビニールの
擦れる音だけが廊下に響いていた。

 それは昨日の事だった。

 仕事を終わらせ、部屋に取り付けた鍵を外して中に足を踏み入れると、いつも
決まって掛けてくれる言葉を、市井ちゃんは言ってはくれなかった。不思議に思
いながらあたしはドアを閉める。部屋には音楽が鳴り響いてはいたが、そのラジ
カセの前に足を抱きかかえている市井ちゃんからは、いつもの様子を感じさせな
い。
385 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時45分51秒
 どうしたの?

 あたしは異変に気が付いて声を掛ける。市井ちゃんは顔を上げることもせず、
その言葉にも何も返してはくれなかった。
 床に散らばるゴミ袋を踏みつけながら、あたしはその日あった出来事を喋った。
もちろん普段口にする内容ではなかったが、市井ちゃんから何らかの返事を期待
して、どうでもいいような仕事の事を細かく喋った。
 しかし市井ちゃんからは何も返って来ない。さすがにおかしいと思ったあたし
は、コートを脱ぎ捨てると、足を抱いている市井ちゃんの横に座る。部屋を漂う
いつもの香水の匂いが何故だか気を重くした。

 どうしたの? 市井ちゃん。
 具合悪いの?
 お腹とかすいてる?
 喉は渇いてない?
 それとも寒いの?
386 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時46分36秒
 音楽が止まったのはその時だった。ラジカセの液晶を見てみると、リピート設
定をしていない。静まり返った部屋の空気の中、胸の奥に不安が芽生えてくる。
それはこの部屋の中に居て、確実に薄れてきた感情だった。市井ちゃんの変化を
目の当たりにしていくうちに、初めの頃に持っていた不安と言う感情が小さくな
っている事を感じていたあたしに、再びそれで悩まされるのだろうかと言う、予
感めいた物が頭を過ぎる。

 市井ちゃんがゆっくりと顔を上げた。
 月明かりに照らされるその白い肌は、過剰なほどあたしの心を刺激する。印象
的な唇と切れ長い眼の奥にある瞳。市井ちゃんが息をはいたことに気がつくと、
その黒い瞳があたしに向けられた。

 外に出たいよ……後藤。

 あたしはしばらく反応を取ることが出来なかった。
 頭の中で市井ちゃんの言葉を反芻して、その意味を考えていた。
 気が付くと苦笑いしていて、首を横に振っていた。

 ダメだよ。外に出ちゃ、ダメなんだよ。
387 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時47分31秒
 まるで子供にでも言い聞かせるような喋り方だったことに気が付く。それは多
分、無意識であたしは市井ちゃんをそう思っていたことが態度に出たのかもしれ
ない。人ではなく、物。あたしだけの物。そう考えていた事を、その時初めて思
い知らされた。
 市井ちゃんの体はこんなにも軽いんだという事を、その日あたしは知った。そ
れはまるで何も入っていないダンボールのように、空っぽの重さだった。だから、
そんな市井ちゃんの力があたしに叶うはずが無い。
 気が付くと市井ちゃんはドアの下で座り込んで顔を下げていた。あたしはその
小さな背中を見下ろしていた。息が上がっているのは、市井ちゃんと争ったから
だ。ドアから外に出ようとした彼女を強引に押さえつけたからだ。

 市井ちゃんは顔を下げたまま何度も呟いていた。
 同じ言葉を、何度も呟いていた。

 外に……外に出してよ……後藤。

 あたしは我に返る。
 部屋のドアの前。鍵が下ろされ、それを人差し指一本で外す。こんな簡単に外
させる物に、市井ちゃんは自由を奪われている。どこか感慨深いものを感じなが
らノブに手を掛けるとあたしは息を吐いた。
388 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時48分15秒
 昨日のお詫びに色んなものを買ってきた。甘い食べ物とか暖かい飲み物とか、
市井ちゃんはきっと食べてはくれないのだろうが、それでもあたしにはこう言う
ことしか出来ない。
 でもきっと市井ちゃんならあたしの気持ちをわかってくれるだろう。こんなに
も全てを捧げているのだ、どんな所にも気が付いてくれた市井ちゃんなら、こん
な事でしか謝る事が出来ないあたしの気持ちを知ってくれる。
 そう思いながらドアを開けた。

「ただいま……」
 そう言いながらあたしは顔を上げる。しかし一瞬だけ眩しさを感じて、眼を閉
じてしまったのは、正面の窓からまるでタイミングを狙ったかのように月の光が
突き刺さるように入り込んできたからだ。それはあまりにも暴力的で、裏切られ
た気分にもなった。
 でもそんな事ではあたしがドアの前に立ち尽くしていた理由にはならなかった。

「市井ちゃん……」
 口からこぼれるように出てきた言葉。それは散らかった部屋の中に吸い込まれ
て、まるで全ての物に囲まれるように、部屋の中央に居る市井ちゃんには届かな
かったようだ。

 あたしは足を踏み入れる。しかしすぐにパキッ、と何かが割れる音がして視線
を床に落とした。足の下には一枚のCDがあった。ケースが踏みつけた圧力で割
れてしまったようで、まるで雷が走るようにヒビが一直線に引かれた。
389 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時49分25秒
 CDが床に一面に散乱していた。まるでばら蒔かれたかのように、部屋の隅々
まで転がるケース。中には中身が飛び出したものや半分に割れているものもあっ
た。それは強い月の光に反射して、弱々しく輝いている。

 散乱していたのはCDだけではなかった。
 部屋にあったあらゆる物、コンビニの袋も食べ残されたお菓子の残骸も、足の
踏み場も無いくらいに床一面に広がっている。その中にはサングラスやお守り、
それにブレスレットも見当たった。

 すぐ横のドアを見る。そこには大きな凹みがあった。足元に落ちている壊れた
ラジカセを見て、どうやらこれを打ち付けたのだろうというに気が付いた。割れ
る液晶部分にはセットした時間はもう刻まれる事は無いのだろうと思った。
 ドアにはラジカセを打ちつけた凹みだけではなかった。まるでナイフで削った
かのようにノブの周りに無数に引っ掻いた跡があった。それは市井ちゃんが何と
かして外に出ようとした痕跡だったのだろう、その引っ掻き傷には赤い血のよう
な物が付着していた。

 あたしはコンビニの袋を足元に置くと、部屋の外に出て再び鍵を下ろした。寒
い夜空の下、再びさっきのコンビニまで戻り、救急道具を買ってきた。
 部屋に戻るとその中の様子は変わったところは無かった。散乱する物を無感情
のまま踏みつけながら、部屋の中央で子猫のように丸まって横になっている市井
ちゃんの元に歩み寄った。
390 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時50分07秒
 市井ちゃんは眠っていた。
 まるで疲れた子供のように、安らかな寝顔だった。

 あたしはそっと市井ちゃんの手を掴むと、買ってきた救急道具で手当てをした。
綺麗だった市井ちゃんの手の中に、傷が出来てしまったことを残念だと思った。

――幻に自我を持たせてはいけない。

 月明かりに照らされて、眠っている市井ちゃんを手当てしながら、そんな言葉
をあたしは思い出していた。

 市井ちゃんの手当てが終わると、あたしは部屋にある全てのCDを処分した。
 この部屋に二度と音楽が響くことは無いのだろうと思った。
391 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月15日(火)03時59分53秒
>>383
どの辺が難しかったのか気になります。
レスありがとうございます。
392 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時17分56秒
   ∞

 嫌な予感だけがしていた。
 それは虫の知らせといっていいのかもしれない。この先のあたしと市井ちゃん
の未来を思い描いては、今までのように心地いい時間ではなくなっている。それ
は訪れようとしている崩壊を感じていたからなのかもしれない。
 一分も一秒も市井ちゃんから離れたく無かった。だからあたしは傷だらけの市
井ちゃんの手を握って、ずっとその寝顔を見ていた。朝が来て、仕事の時間にな
るまで、いつまでも一緒にいようと考えていた。

 楽屋の中に入るとメンバーの鋭い視線が飛んできた。理由はわかっている。ギ
リギリまで市井ちゃんに付きっきりで、あたしは集合時間に遅れてしまったから
だ。凍えるような冬の空気の下、一睡もしていない疲労感があたしに圧し掛かっ
ていて、それと同時に部屋にいる市井ちゃんの事を考えて憂鬱になる。このまま
あたしが帰ってくるまで、大人しくしていてくれるだろうか?

 顔を上げると表情を強張らせている圭ちゃんが立っていた。周りに視線を向け
るとメンバーたちはすでに衣装に着替えて、あたしに視線を向けていた。ドアか
らすぐ目の前の椅子には一着分の衣装が掛けられている。どうやらそれはあたし
の分だという事に気が付く。
393 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時18分55秒
「あんた今、何時だと思ってるの?」
 圭ちゃんが腰に手を当てて言った。それは今までのように暖かさが篭っていな
い。まるで鋭い刃物のように、あたしの胸に突き刺さった。
 あたしは顔を下げて何も言わなかった。胸の奥には重い感情が渦巻いていて、
ごめんなさい、の一言も出てこないと思ったから。

「もうリハーサル終わっちゃったんだよ。あんた一人を待つだけで、どれだけ周
りに迷惑を掛けてるのかわかってるの?」
 楽屋の空気は重かった。それはやぐっちゃんが居なくなったことにも原因はあ
ったのだろう。ここ最近起こる出来事は、メンバー内に黒い影を射していた。

「弛んでるんじゃないの? プライベートで何があるのかは知らないけど、それ
を仕事に持ち込まないでよ」

 圭ちゃんの注意は途切れる事は無かった。今までどんな事があってもあたしを
庇ってくれたその存在がいつの間にか消えていることを思い知らされる。あたし
は何も言い返すことが出来なくて、肩を狭めて顔を下げるだけ。確実に冷たい視
線を浴び続け、ただ苦しいだけの空間に居ることを何故だか疑問に思った。
394 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時19分49秒
 誰もあたしを必要としていない場所にいて、何の意味があるのだろう?

 みんなから嫌われて、テレビでも笑う事が出来ないあたしなんか必要なはずが
無い。それならばいつまでも市井ちゃんと一緒に居た方がいい。いつまた部屋か
ら出ようとするかわからない不安を抱きかかえたまま、仕事などできる筈が無い。

 圭ちゃんの注意を聞きながら、あたしの視線は椅子に掛けられている衣装に向
かった。それは露出の激しい、派手な衣装だった。

 こんな物を着て、あたしは踊るんだ。
 こんな物を着る為に市井ちゃんから離れてまで仕事に向かったんだ。
 何故だかバカらしくなった。

 あたしは下げていた手を拳にすると、ゆっくりと圭ちゃんの顔を見た。圭ちゃ
んは変わらない表情のまま、あたしを見ていた。

「あんた本当にわかってるの? 矢口が居なくなって、この大事な季節にまた一
人抜けられたら、どれだけ大変かって、わかってるの?」
「…………」
「あんた一人遅刻するだけで、大勢の人に迷惑を掛けるんだからね。こんな事繰
り返し続けたら、モーニング娘は嫌なグループだって思われちゃうかもしれない
んだよ」
「…………」
395 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時20分48秒
 何も答えないあたしに、圭ちゃんはため息をついた。それから時計に視線を向
けると、椅子に掛けられている衣装を掴んでそれを差し出す。

「早く着替えなさい。まだ言いたいことはあるけど、これ以上みんなを待たせる
わけには――」
「着ない」
「……え?」
 圭ちゃんは一瞬だけ口を閉じると、あたしを見て言った。
「何? あんた――」
「そんな衣装なんて着たくない」

 あたしの言葉を聞いて、周りで視線を向けていたメンバーたちが戸惑いの表情
を浮かべた。しばらく呆気に取られていた圭ちゃんは、すぐに表情を戻すと鋭い
視線を向けてくる。あたしは胸の中で渦を巻いている不安と、確実に感じる体調
の悪さに操られていたのだと思う。後から考えても、その時のあたしは余裕が無
かった。

「こんな衣装なんて着たくない。カメラの前でヘラヘラ笑いたくない。楽しくも
無いのに、笑ったりしたくない」
「あんた何言ってるのかわかってるの?」
「テレビにも出ない。そんな服なんか着て踊りたくない。思ってもいない事を口
に出して、嘘つくのも嫌。それから――」
「いい加減にしなさい!」
396 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時22分14秒
 圭ちゃんが声を張り上げた。周りのメンバーがそれに驚いて肩を竦めたようだ。
しかしあたしはそれに反抗するように圭ちゃんを見上げると、作った拳に力を入
れて対抗するように声を上げていた。

「バカみたい! こんな事してみんなバカみたい! 何でこんな事するために朝
早くから起きて、決められた時間に集合して、クタクタになるまで踊らされて、
帰っても疲れて何も出来ないのに、その次の日には同じような事を繰り返して!
みんなバカみたい! 自分の大切な事も出来ないのに、何が楽しくて笑ってなん
かいられるの?」
「後藤!」
「それに――」
 あたしは圭ちゃんが止めるのを無視して叫ぶことをやめなかった。

「あたしにはやらなきゃいけないことが一杯あるの! 仕事とかそう言うのより
大切な事があるの! それなのにこんなバカみたいな事をするためにわざわざそ
れをやめてまで――」

 パシン、と乾いた音が楽屋に鳴り響いた。
 気が付くとあたしの顔は横を向いていて、頬に熱が篭っていた。思わず拳を作
っていた手を当てる。痛いということもあったが、それよりも胸が苦しくて、喉
を突き上げる嗚咽を感じた。
397 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時23分04秒
 視線を元に戻すと手を振り下ろした圭ちゃんの姿があった。圭ちゃんはすぐに
その振り下ろした手を下げて、持っていた衣装に視線を落とした。

 楽屋の空気が凍り付いていた。誰も動く事も口を開ける事も無かった。みんな
あたしたちのやり取りに呆気に取られたまま、その場に立つことしか出来なかっ
たようだ。

 圭ちゃんはしばらく下唇を噛んでいた。まるで沸き起こる感情を口から出さな
いように我慢しているかのように思えて、辛そうだった。
 僅かな静寂を打ち破るかのように、圭ちゃんは呟いた。

「わからないよ……もうあんたの事、わからない」
「…………」
 あたしは頬の熱を感じながら圭ちゃんに視線を向ける。

「どんどん離れてく……私が知っている後藤真希って言う子が、どんどん離れて
いく……」
 その口調は静かだったが、その一つ一つの言葉はまるでナイフの様にあたしの
胸を傷つけた。

「私しか守れない……私だけには笑顔を向けてくれる。素直で、不器用で、でも
そんな笑顔を私だけには向けてくれる……だから私はあなたのことを知ろうとし
たの。知らなければいけないと思っていたのに……」
398 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時24分49秒
 悲しくなった。あたしは圭ちゃんの顔を見るのも辛くて、顔を下げる。そのタ
イミングで右の眼から溜まっていた涙が、重力に逆らう事も無く、一粒床の上に
落ちた。

「もう無理だよ……私にはもう無理だ……もうあなたは私の手には負えない……
私は何も出来ない……」

 圭ちゃんの声が震えているような気がした。あたしのせいで泣かせているのだ
ろうかと思うと、罪悪感が沸き起こってきたが、閉じた口はこみ上げてくる嗚咽
を抑える事が精一杯で、何も言葉を掛けることが出来なかった。
 ゆっくりと顔を上げると、圭ちゃんは視線を外した。それから手で口を抑える
と、持っていた衣装をあたしに投げつけた。
399 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時25分29秒
 パサッ、と足もとに落ちる衣装。
 それと同時にあたしの横を移動する圭ちゃん。

「もう勝手にしなよ」
 そんな一言だけを残して圭ちゃんは楽屋から逃げるように消えていった。

 あたしはしばらくその場に立ち尽くすことしか出来なくて、足元に落ちている
衣装に視線を落としていた。

――もう勝手にしなよ。

 ああ、もう圭ちゃんとは笑い合う事ができないのだろうな。
 そう悟ると、自然と涙が溢れてきた。
 それは酷く残酷な事実となった。
400 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時26分53秒
   23

 面会時間ギリギリに現れた保田の姿を見て、矢口はいつものように笑顔を作っ
た。もうちょっと早い時間に来てよ、と皮肉の一つでも言おうと口を開いたが、
ドアの前で立ち尽くしたまま、表情一つ崩さない保田を見て、出かかった言葉を
飲み込んだ。

「……何か……あった?」
 矢口がそう聞くと、保田はため息みたいなものをついてゆっくりと歩み寄って
きた。カーテンが引かれた窓の前に置かれたパイプ椅子に腰を掛けた保田は、何
も持ってこなくてごめん、と謝ってから鞄をベッドの横にある棚に置いた。

 カーテンを通してだが、外が闇に包まれている事を矢口は知っている。丁度夕
方ぐらいに来た事務所の人間が、矢口の体の調子を聞いて、そんなに酷くないこ
とを知ると早々に復帰の話をした。窓の外はすでに太陽が沈み、星の姿も見受け
られていた。閉められたカーテンのから、矢口は不意にそんな事を思い出した。

「お見舞いに来るなら、果物とかそう言うの持って来るでしょ? フツーさ」
 少しばかり明るく言ってみた。保田は苦笑いして言葉を返す。
「天下のモー娘。が来てくれるだけでもありがたいと思いなさい」
「なんだそれ?」
 そう言って矢口は笑ってみたが、目の前の保田は顔を下げただけで笑顔一つ作
ろうとはしなかった。
401 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時28分24秒
 矢口はため息をつくと、付きっ放しになっているテレビを消す。静かな空間が
生まれた。
 しばらくの間、二人とも口を開かなかった。矢口は黙ったまま保田の言葉を待
っていようと思っていたし、彼女の方ではこれから喋ることを頭の中で整理して
いたようだ。まるで時が止まったかのような錯覚さえ落ち入りそうになる、そん
な時間を繋ぎ止めてくれたのは、病室の向こう側から聞こえる僅かな声や足音の
おかげだった。面会時間が終わりに近づいているせいだろう、近くの病室から立
ち去っていく人間のお別れの言葉らしきものが聞こえていた。
 矢口がゆっくりと時計に視線を延ばしたとき、まるでタイミングを見計らった
かのように保田が口を開いた。

「今日ね――」
 保田は今日、仕事であった出来事を話した。後藤が遅刻をしてきた事、それを
保田か叱った事、喧嘩をしてしまった事。途切れ途切れ言葉を紡いで行くのを聞
いているうちに、矢口は小さく背中を丸めている後藤の姿を思い浮かべた。
402 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時30分05秒
 後藤は何を見ているのだろう?
 弱々しく向けられる瞳の奥には、そこに映る風景を通して、別の何かを見てい
るように思えてならなかった。自分を支えてくれる何かを背中に感じながら、後
藤は自分や保田と接していたのかもしれない。
 おぼろげだが、矢口にはそう思えてならなかった。

「もう私には何も出来ない」
 ふと我に戻ると保田が顔をしかめてそう呟いた後だった。矢口はしばらくの間
その顔を見上げながら、どうやら保田が後藤に見切りを着けた瞬間なのだという
事を悟った。

 それは前までの矢口には歓迎できる要素だった。後藤を追い詰めるためにメン
バーから孤立させるには、その傍に居る保田の存在が邪魔だった。紗耶香がやめ
た後に、すぐにその代わりを演じようとする保田にも腹が立っていた。しかし彼
女自身を疎ましく思うことは一度も無かった。矢口には保田がどれだけ人がいい
のかと言う事を知っているのだから、後藤を庇う事でさえも、どこか諦めのよう
に感じていた。

 しかし今は何故だか保田の言葉を素直に喜べない自分が居る。
 矢口はため息をつくと、白い天井に視線を移して呟いた。
403 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時31分06秒
「あたし、人が良すぎる圭ちゃん、嫌いじゃなかったよ」
「…………」
 保田はその言葉に何も返さなかった。

 病室に近づいてくる足音を感じたのは、二人とも口を閉じて静寂を作っている
ときだった。それはあまりにも弱々しくて、本来ならドア一枚挟んでいるのだ、
決して自分たちの耳には届いてこないはずだった。しかし、あまりにも二人の間
の時間が緩やかに流れ、それによって生まれた無音の世界は、まるで現実を繋ぎ
止めるかのようにそんな小さな音さえも入り込もうとしていた。
 矢口は近づいてくる足音を聞いて、直感的に後藤だと気が付いた。
 それは保田も同様だったらしい、すぐに気まずい顔をすると、慌てた様子で椅
子から立ち上がり、棚に置いた鞄を取ろうとしていた。

「まだ帰る事ないじゃん」
 そんな行動を止めるように矢口は言った。すぐに保田が何か言葉を返そうと口
を開きかけたが、それを阻むように病室のドアがノックされる。
 矢口はしばらくの間保田を見ていたが、彼女は諦めたように顔を下げると再び
椅子に腰を下ろした。
404 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時32分05秒
「どうぞ」
 と言って弱々しく病室のドアが開けられる。視線を向けると昨日の花を持って、
挙動不審に顔を動かしながら後藤が入ってきた。お邪魔します、と言う言葉が面
白くて、矢口は自然と笑みを作ったが、入ってきた後藤はそこに保田の姿を見つ
けたようだ、すぐに足が止まった。
 二人は一瞬だけ視線を合わせたが、すぐにそれは反らされる。後藤の表情はま
るで自嘲するように、その時痛々しい笑みが口元に浮かんでは消えた。

「どうぞ」
 矢口はドアの前に立ち尽くしている後藤に向かって言った。彼女はすぐに顔を
上げると、椅子に座って顔を背けている保田に気を使いながら歩み寄ってきた。

「これ……」
 後藤はそう言って花を矢口に差し出す。それを受け取りながら、病室の花瓶に
視線を向ける。そこにはすでに入りきれない花束が生けられていた。

「入りきらないよ」
 矢口が皮肉っぽく言うと、後藤は一々過剰に反応した。
「……ごめんなさい」
「いいよ、別に」
405 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時34分05秒
 矢口はそう言って花を保田に渡した。彼女は一瞬だけ困った顔をしたが、それ
を受け取ると、棚の上に置いてある花瓶にそれを生ける。後藤はその背中に視線
を向けていたが、すぐに言葉を見繕うように言った。

「すぐ……すぐに帰るから……あたし」
「やめてよ。気を使うなら圭ちゃんじゃなくて、あたしでしょう?」
「……そうだね」
「誰のお見舞いに来てるのさ」
「……ごめん」

 ため息をつく。
 病室には重苦しい空気が流れて、それを吸い込む肺がまるで鉛のように重くな
っているような気がした。後藤と保田に間を挟まれた形になった矢口は、いい迷
惑だ、と皮肉のように思いながらため息をついた。
 保田は後藤に背を向けるように花を生けている。矢口を挟んで向かい合う後藤
は、ずっと顔を下げたまま口を開けようとはしなかった。

 ふあり、と花の匂いが届いてくる。矢口は正面の何も無い壁を見据えた。

「あの時、後藤にとってやっと訪れたチャンスだったんでしょう?」
 気が付くと矢口は口を開いていた。
 後藤は黙ったまま顔を上げた。
406 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時34分45秒
「あたしが嫌がらせに合っていた事を、後藤は知っていた。それによって疲れて
いくあたしを間近で見ていた」
 保田の忙しくなく動いていた背中が止まっていた。どうやら矢口の言葉を聞い
ていたようだ。誰もそれに口を挟むことなく、続きを待っているようだった。

「圭ちゃんみたく、あたしが簡単にブレスレットを離さない事に気が付いて、後
藤は実力行使に出ようと考えた。それで、徐々に疲れていくあたしを見て、それ
が限界に来るのをひたすら待っていた。……あの日、それが訪れたあたしが一人
になり、周りに誰も居なかった事務所の廊下は、後藤にとってこれ以上無いチャ
ンスだった」
「…………」
 矢口は苦笑いして右腕を額の上に乗せた。

「もう少し早くそれに気がついていればよかった。……悔しいなぁ……気が付か
なかったわけじゃないんだよ」
「…………」
「ただそれが遅かっただけ。もう少し早く気が付いていれば、ブレスレット取ら
れないですんだのに」
407 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時35分38秒
 矢口、と呟いて保田が振り返った。矢口はその言葉を無視して隣にいる後藤に
視線を向けた。彼女は相変わらず覇気の無い顔をしていて、心細さを感じる子供
のように鞄を握っていた。

 今の後藤を見ていると、保田のサングラスも自分のブレスレットに関しても、
それを盗むために人を傷つけた事を本意に思っていないことが窺い知れた。後悔
と罪悪感を直接に受け止めて、それに縛られている彼女を感じる事が出来る。そ
れはあまりにも純粋過ぎていたのかも知れない。全てを拒否する事も理由を付け
て軽減する事も、後藤にはできなかったようだ。
 だから、こうして見舞いにも来ているのだろう。
 そう考えて矢口は気が付いた。

――大丈夫? やぐっちゃん。

 あの日、事務所で聞いた言葉。もしかしたらそれは後藤の本音だったのかもし
れない。
408 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時36分44秒
「ブレスレット……」
 矢口は呟く。
 後藤は返してくれ、と言われると思ったようだ、一瞬だけ体を強張らせた。
 矢口は首を横に振る。違うよ、とそんな意味を込めたつもりだった。

「前に……同じ物を買ってきてくれたよね……元々あたしにくれる物だったんで
しょう?」
「…………」
「それ、あたしにくれるかな?」
「……やぐっちゃん」
 ふっ、と矢口は笑みを作った。
「気に入っていたんだ……本当に、あれを気に入っていたんだ……」

 しばらくその言葉を聞いた後藤は反応を取ることに苦労していたようだ。それ
でも徐々にその言葉の意味に気が付いたのかもしれない、弱々しく頷いた。
「……今度、来る時に持ってくるね」
409 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時37分34秒
 矢口はそれに返事はしなかった。
 後藤は帰るね、と呟くように言うとドアに向かって歩いていく。矢口はその背
中を見ながら思わず声を掛けていた。

「後藤」
 後藤はノブを握った所だった。ゆっくりと振り返る彼女を見ながら、矢口は罪
悪感に駆られるように、しばらく唇を堅く閉ざした。

「時計……」
 ゆっくりと口にする言葉。
 後藤は黙ったまま、その表情を変えない。

「腕時計……あれ、本当は――」
 そう言った瞬間に保田の視線に気が付いた。すぐに首を横に振ると、何でもな
い、と矢口は言葉を途切れさせる。

「……ブレスレット、お願いね」
 後藤は小さく頷くと、ドアを開けて病室から出て行った。
 矢口はため息をつくと、再び蒲団の中に体を沈ませていく。たった数分しか話
していないにも関らず、異常なほど疲労を感じていた。
410 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月16日(水)15時38分31秒
「矢口……」
 気が付くと隣にいる保田が怪訝な顔をして矢口を見下ろしていた。

「圭ちゃん……」
 矢口は白い天井を見上げる。心細い夜がまた始まるのだと思った。

「後藤の周りを調べてみよう」
「…………」
「あの子は何か隠してる」
「…………」
「あたしたちは、それを知らなきゃいけないんだよ」
「……矢口」

 自分たちは被害者なのかもしれない。後藤に大事なものを盗まれた被害者だ。
しかし、もしかしたらその以前から薄闇の世界は自分たちを囲んでいたのかもし
れない。今回、被害者になって初めてそれに気が付かされた。

 後藤の秘密を知れば、そこから抜け出せるのではないだろうか? いつかのよ
うに幸せだとみんなで感じられるのではないだろうか?

 それが出来るのは自分たち、二人だけだと矢口は思った。
 被害者になった、あたしたちだけだ。

 でもそれはただ後藤を追い詰めるだけと言う事を後になって思い知らされた。
 後藤の小さな世界を、踏み荒らすだけの行為だった。
411 名前:383 投稿日:2002年10月16日(水)23時10分46秒
「むずかしいなぁ」発言の者です。
この小説までは、比較的甘めの文のテンポの軽い小説を主に読んでたんで、
硬質というか、ここまでしっかりした文章に慣れてなかっただけです。
気分を害されたならスミマセン。

それにしても、後藤の闇はまだまだ深そうですね。
矢口の心境の変化。・・・・・・吉と出るのか、凶と出るのか。
次回も楽しみにしてます。
412 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)14時58分59秒
   24

 圭ちゃんとの関係が気薄になり始めていた。

 いつもだったら楽屋に一人で座るあたしに話し掛けてくれたはずなのに、今は
挨拶さえもしてくれない。賑わう空間の中で圭ちゃんの姿を見るが、その視線は
あたしに向けられる事は無かった。
 集団の中の孤独には慣れているつもりだった。こうして隅に座り、仕事が始ま
るまで顔を下げていれば誰にも迷惑を掛けることも無いし、掛けられることも無
い。MDを聞きながら部屋で待っているであろう市井ちゃんのことを想像するだ
けで、前までのあたしはそれに耐えることが出来た。
 しかし今は市井ちゃんの変化に戸惑い始めている自分がいる。それは部屋から
離れると大きくあたしの思考を奪った。

 圭ちゃんは掛かってくる携帯に忙しそうに出ていた。それはどうやらやぐっち
ゃんらしいということに、あたしは気が付いていた。
413 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時00分16秒
 変化は徐々に感じていた。

 やぐっちゃんの見舞いに行った次の日に、家に戻ってくるとお母さんの反応が
おかしい事に気が付いた。どこかよそよそしい。まるで秘密でも隠しているかの
ように、あたしに接していた。
 でもその理由はすぐにわかった。

 仕事を終わらせて、家に戻ってくると居間の電話で誰かと話しているお母さん
の姿を見た。あたしはなぜか声を掛けることも出来なくて、きつく締められたマ
フラーを解きながらその話を聞いていた。

 ええ、そうなんです。確かに言われた通り、大金が使われていて……でもそん
な何かを買っている気配は無いんですよ……ええ、そうです……多分、カードか
ら引き落としたんだと思います……。

 お母さんの手には通帳が握られていた。それはどうやらあたしのものだと言う
ことに気が付いた。一体、何をしているのか信じられない思いでそれを見ていた
あたしは、すぐに我に戻って声を上げていた。
414 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時01分02秒
 どういうこと! 何であたしの通帳を勝手にみるわけ!

 声に驚いてお母さんは電話を切った。いけない事をしていると言う罪悪感があ
ったらしい、お母さんは一瞬だけ口を閉じたがすぐに気を取り戻していった。

 あんたこんなお金、一体何に使ったの!

 後ろめたい気持ちはあたしにもあった。だから、その言葉に何も言い返せない
自分が居た。
 あたしはお母さんの手から通帳を奪って自分の部屋に駆け込んだ。

 それが始まりだった。

 あたしの周りで違和感に気が付く事が多くなった。仕事が終わって帰りのタク
シーに乗るとき、誰かに見られている気がしてならない。家に戻る道を歩いてい
ても、それは同様だった。お母さんはあたしの目を盗んで誰かに電話を頻繁に掛
けるようになっていた。それと同時に、自分の部屋が漁られているのにあたしは
気が付いていた。まるで何かを探すかのように、部屋のものが弄られている。多
分、お母さんはあたしに気が付かれないように触った物など元に戻しているのだ
ろうが、部屋の変化はすぐにわかる。問い詰めても明らかな白を切られるため、
いつしか諦めの気持ちが湧いてくるようになった。
415 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時01分55秒
 お母さんの電話の相手が誰なのか、それは意外に簡単にわかることになる。ご
飯を食べ終わって、自分の部屋にいるとき、ふとトイレに行くためドアを開けた
瞬間、一階から電話をしているお母さんの声が聞こえた。恐る恐る、自分の気配
を消して階段を下りると、その声は大きくなって、直接盗み聞きする事が出来た。

 相手は圭ちゃんだったようだ。

 どうやら頻繁に電話をしていたのは、あたしの部屋に何か異常がないか、使い
込んだお金で何を買っているのか、それを調べていたようだ。
 電話の相手が圭ちゃんだと知って、あたしは不意に思い出した。
 仕事が終わってタクシーに乗るとき、人の視線を感じて振り返えると、そこに
はメンバーと話しながら事務所から出てくる圭ちゃんがいた。どうやら視線の正
体は、それだったらしい。

 あたしの事を調べているんだ。
 そう考えるのに、時間は要らなかった。

 圭ちゃんはあたしの秘密を知ろうとしているんだ。
 お金の事も、部屋の事も、それは市井ちゃんに繋がる事だった。ブランド物の
服やCD、香水と言った物。それに毎日コンビニで買ってくる飲食物。それらは
全て市井ちゃんに捧げていた。圭ちゃんはどこかでそれに気がついて、お母さん
に協力を仰いだに違いない。
416 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時02分45秒
 その事実は、確実にあたしを追い詰めた。
 不安定な市井ちゃんの存在が、誰かに知られた瞬間に無くなるのではないだろ
うかと、そう確信していた。あたしは微妙なバランスの状態を維持して、それは
結果として市井ちゃんを生んだのだと思う。しかしそれが崩れた瞬間に、市井ち
ゃんが消えてしまうのではないだろうかと言う思いは、次第に確信へと変わって
いく。

 市井ちゃんは自我を持ち始めた。
 それはきっと三つの私物を取り返したからだ。
 しかしその変化はあたしが望んでいたものではなかった。
 
外に出たがる市井ちゃんと、それを知ろうとする圭ちゃん。あたしはその間に挟
まれながら、どうする事も出来なくて、大切にしていた自分の世界にヒビが入っ
ていくのを感じていた。
 何とかしなきゃ、と言う思いは空回りを始めて、それは焦りと言う感情だけを
生んでいた。
417 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時03分59秒
    ∞

 部屋の窓から外を見る。

 薄い雲が流れて、折角の満月が顔を隠されている。家の前の街灯は相変わらず
白い光を発し、静かな空間はまるで時を止めたかのように音さえも静まらせてい
た。
 あたしの隣では市井ちゃんが座り込んでいた。部屋には音楽が鳴る事は無く、
前までのように携帯ラジオがDJの軽快なお喋りを流すだけだった。散らばるゴ
ミの数々の中に、市井ちゃんがCDを探している姿を何度か見たことがある。ま
るで何かの中毒者が取り乱すように、床に手を当ててそれを探していた。

 あたしは隣で座り込んでいる市井ちゃんを見下ろしてから、再び視線を窓の外
に向ける。家の前の道を、迷子の子供のようにキョロキョロと首を動かしながら
歩いている人影があった。

 圭ちゃんだ。
 圭ちゃんは何かを探すかのように家の前を何度も往復を繰り返していた。
 着けられたんだ、とあたしはすぐに思った。
418 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時05分04秒
 仕事からいつものコンビニでタクシーを降り、この部屋に歩いてくる路地で、
確かに人の気配はした。しかし闇に包まれているその路地では、街灯の光はあま
りにも弱々しすぎて、振り返ったとしても人影を見ることは出来なかった。しか
し圭ちゃんはきっと充分に距離を空けていたのかもしれない、あたしに気が付か
れることなく、この付近まで尾行してきたのだろう。
 家の前の道を通り過ぎていく圭ちゃんを見ながら、焦りは確実に強くなってき
た。

 いつかあたしの秘密を知られるのではないだろうか?

 圭ちゃんの行動を見ていると、それは確実に市井ちゃんへと近づいているよう
に思えてならない。それはイコールあたしの世界の崩壊だ。
 市井ちゃんと一緒に居られるだけでいい、一緒に過ごす時間だけ、嫌なことを
忘れ去られればいい。――そう言った思いを圭ちゃんは壊そうとしているとしか
思えてならなかった。

 あたしが望んでいるのは、そんなにもワガママな事なのだろうか?
 一緒に居たいと言う気持ちは、持ってはいけない物なのだろうか?

 気が付くとあたしは右手に拳を作り、ジンワリと汗を握っていた。
 圭ちゃんの姿が見えなくなって、あたしは安堵から息を吐き出した。調べられ
ていると知ってから、穏やかな気持ちになれたことは無い。
419 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時05分58秒
 ガサッ、とビニールの音が聞こえた。
 あたしは咄嗟に視線を向ける。そこにはすぐ隣で立ち上がった市井ちゃんの姿
があった。

「……市井ちゃん?」
 市井ちゃんはあたしの問いかけに何も答えない。黙ったまま顔を下げ、その唇
を堅く閉ざしている。

 不意に不安が沸き起こる。
 思わず手を伸ばそうとした時、それは乱暴に払われた。

 手の甲がヒリヒリと熱が篭る。あたしは訳のわからない気持ちで、顔を下げて
いる市井ちゃんを見ることしか出来なかった。
 鼓動が高鳴っている。薄闇の静寂の中、それが聞こえるのではないだろうかと、
あたしは払われた手を胸に当てた。

 市井ちゃんが行動を起こしたのはその瞬間だった。

 突然顔を上げた市井ちゃんは、命一杯力を込めてあたしの体を押した。もちろ
ん大した力ではなかったが、不意を付かれたのと驚きから、あたしは床の上に体
を倒した。その勢いでゴミが辺りに散乱する。倒れた拍子に右肘に空き缶が当た
ったようだ、コロコロとそれは壁際まで転がっていた。
420 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時06分44秒
 あたしは訳のわからない気持ちで床の冷たさを感じる。市井ちゃんがあたしに
暴力を降った、と頭が付いていかなかった。
 次に聞こえたのはドタドタと市井ちゃんがドアに向かって走る音だった。あた
しは咄嗟に立ち上がる。しかしその頃にはすでに市井ちゃんの手はノブに掛けら
れていた。
 まるでタックルをするかのように半腰の状態で市井ちゃんに飛び掛る。あたし
の手は市井ちゃんの足首を掴んだ。

「市井ちゃん!」
 声を上げる。しかし市井ちゃんはドアから出ようと、あたしが掴んだ足を降っ
た。すぐにその勢いに手が離れる。床にうつ伏せの状態のまま、あたしは市井ち
ゃんを見上げる。

 ドアが拳分開かれた。ギギッ、と鈍い音がする。あたしは体を起こすと、部屋
から出ようとする市井ちゃんに抱きつくように背中からお腹に掛けて腕を回した。
 市井ちゃんがそれを振りほどくように体を捩る。しかし大した力ではない。し
っかりと絡まったあたしの腕を引き離す事は出来なかった。
 体重を掛けるようにあたしはドアから市井ちゃんを引き離す。バタバタと子供
が暴れるように腕を回していたが、あたしの力に逆らう事は出来なかった。必死
に抱きつきながら一歩二歩と後退りする。徐々にドアから離れていくと、市井ち
ゃんは部屋から出ることを諦めたのか、暴れる事をやめた。
421 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時07分26秒
 その時あたしは散らばるゴミを踏みつけたようだ。ビニールが擦れた音がする
と、それに足をとられて、市井ちゃんを抱きかかえた状態のままあたしは背中か
ら床に落ちた。

 市井ちゃんの体重と、受身を取れなかった為、その衝撃は背中から腹部を突き
上げるように襲ってきた。あたしはうめき声を上げて、市井ちゃんから手を離す。
息をする事が出来なくてゴミの上を転がる。痛みから眼に涙が滲んだ。

 気が付くと市井ちゃんはすでに立ち上がっていた。
 痛みに囚われているあたしを見下ろしていた。

「……市井ちゃん」
 あたしは何かにすがるように右腕を市井ちゃんに向けて伸ばす。しかしそれが
握り締められる事は無かった。

 市井ちゃんがゆっくりとあたしに背を向ける。そして再びドアに向かって歩き
出した。あたしは咳き込みながら、その姿を見ていた。
 ドアノブに手を掛けた時だった。市井ちゃんの動きが止まった。しばらくの間
何かを考えるかのようにその場に立ち尽くしていた彼女は、ゆっくりと振り返る
と眉間に皺を寄せながらあたしの元に戻ってきた。
422 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時08分09秒
 後藤……大丈夫? 痛い?

 どうやら市井ちゃんはあたしを気に掛けたようだ。そこには優しい言葉が並べ
られたが、あたしの胸は弾む事は無い。ゆっくりと立ち上がると、咳き込みなが
ら市井ちゃんの目の前に立った。

 後藤……ごめんね……乱暴して――。

 市井ちゃんの言葉が途切れる。それはあたしが市井ちゃんを押し飛ばしたから
だ。まるで風船のように空中に体を浮かせて、その小さな体は床の上に倒れた。
 あたしはその倒れた市井ちゃんの上に圧し掛かる。お腹を跨ぐように両脇に膝
をついて、頼りない骨のような市井ちゃんの両腕を取り押さえるように握った。
 市井ちゃんが痛みからなのか、それとも別の何かがあったからなのか、首を横
に向けて目の前にいるあたしを見ようとはしなかった。その様子が再び胸の奥の
不安に火をつける。

「あたしには何もないの!」
 気が付くとあたしは声を上げていた。
423 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時08分50秒
「あたしにはもう何もないの! 市井ちゃん以外、何も無い! あたしには市井
ちゃんしかいない! だから、市井ちゃんもあたしだけなの!」
 その声は静かな部屋の中に響いた。まるで何かに共鳴するかのように、下敷き
にしたゴミ袋が擦れる。眼の端に、窓の外に見える満月があった。

「市井ちゃんもあたしだけなの! あたしが市井ちゃんしかいないように、市井
ちゃんもそうじゃなきゃダメなの! だからこんなにあたし頑張ってきたんだ
よ! 一杯一杯、市井ちゃんに喜んでもらおうと、頑張ってきたんだよ! それ
なのにどうしてあたしから離れようとするの!」

 気が付くと涙が一粒、市井ちゃんの白い首筋に落ちた。それはゆっくりと重力
に釣られて床の上に落ちていく。あたしは世界の終わりと言う不安から逃れたく
て、市井ちゃんにその思いをぶつけていた。でもそんな気持ちをきっと市井ちゃ
んは気が付いてくれていない。一向にその視線は向けられる事は無かった。

 不意に暴力を降ってしまったと言う罪悪感が襲ってくる。数々の感情が胸の奥
で渦巻いていて、それを対処する術を知らないあたしは顔を市井ちゃんの胸の中
に埋める事しか出来なかった。

「……ずっと一緒にいてよ……あたしを独りにしないでよ」

 その言葉に、市井ちゃんからの返事はなかった。
424 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月17日(木)15時15分10秒
>>411
ただ単純に気になっただけです。
レス貰えて悪い気分になる人は居ないと思います。
425 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)15時18分39秒
    25

 後藤の様子がおかしい事はメンバー全員が周知の事実だったが、敢えて誰もそ
れに触れなかったのは、仕事中は至って正常だったからだ。保田はスタジオ内に
響く自分たちの曲を聞きながらセットの上に立ち、囲むように向けられるカメラ
を見た。

 ハローモーニングの収録中、メンバー全員でカラオケをフレーズずつ交代で唄
うと言う企画の最中だった。保田の順番が終わったのはついさっきの事で、ステ
ージに出来る列の最後尾にいた。なっちがカメラにサービスしながら唄っていて、
その後ろに裕ちゃん、辻、後藤と並んでいた。
 激しく鳴り響くカラオケを聞きながら、保田の視線は後藤の背中に向けられる。
それはまるでマネキンのように微動だにせず、周りのメンバーに背中を押される
ように一歩二歩と歩いていた。

 後藤の周辺を調べようと言った矢口の言葉を思い出す。それまで確かに尾行や
後藤の母親に話を聞くような行動はしていたが、それは自分の気を紛らわせる行
為でしかなく、矢口のように考えがあったわけではなかった。
426 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)15時19分28秒
 矢口は後藤が何を隠しているのか、それを知ろうとしていた。
 彼女の考えによると、後藤がおかしくなったのは、何らかの秘密を隠している
せいだろうと言った。サングラスやブレスレットを盗んだ事も、それに関係して
いるのではないだろうかと。
 後藤に関りを持つ事をやめようと考えていた保田には、その矢口の言葉に救わ
れた気分だった。それはどこかでまだ後藤を突き放す事が出来ない、自分が居る
事に気が付いていたからだ。矢口に言われる通りに行動しているだけ、と理由を
付けることによって、沸き起こってくる気持ちに折り合いを着ける事が出来た。

 矢口はあの病室の中で、ずっと後藤のことを考えていたのかもしれない。後藤
のお金の動きを推測して、それを確かめるように保田に言ったのは彼女だった。
理由を聞くと、大量のCD、矢口が持っていた同じ型のブレスレット。決して安
い買い物ではないはずだと教えてくれた。事実、その通りだった。

 後藤の様子がおかしい事に気が付いていた彼女の母親は、保田の頼みにすぐに
協力してくれた。通帳を見てみると、確かに大金が使い込まれているらしい。し
かしそれは異常な金額だった。CDやブレスレットだけではそこまで使い込むの
は無理だろうと、矢口は思ったらしく、後藤の部屋にその買った物が何なのか、
それを調べようと言い出す。今回も、母親に頼む事になった。
427 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)15時20分50秒
 しかしおかしい事が起きる。後藤が買ったものが見当たらないと言われた。彼
女の部屋はいつも通り、散らかっているだけで、どこも不審な所が無かったらし
い。すぐにおかしいと保田は思った。後藤の身形には変化が無い。自分を着飾る
物を買っていないと考えると、それは部屋に置いておくものなのではないだろう
かと思った。例えば小物やCDと言った物。そういう事にお金は消えているので
はないだろうか? しかし母親から聞かされる言葉は首を捻るものばかりだった。

 後藤の部屋にはあんなに買い込んだCDさえも無くなっているらしい。それだ
けではなく、ラジカセや音楽を聞く道具が無くなっていると言われた。
 保田と矢口は首を捻った。さすがにそれはおかしい。後藤は一体何にお金を使
っていると言うのだろうか?

 保田はそれから仕事終わりの後藤の後をつけたりもした。もちろん罪悪感はあ
ったが、この時にはすでに彼女が何かを隠していると確信していたため、妙な使
命感がそれを打ち消してくれた。しかし後藤が行く先は自分の自宅と、あの精神
病院がある住宅街だけ。どこかで遊んでいると言うことも無いようだった。
 体を動かせるほど回復した矢口が、保田の報告を聞いて、今度その病院に行っ
て来る、と言い出したのは昨日の事だった。安静にしてなくていいの、と言う言
葉に矢口は退屈で死にそう、と笑いながら答えた。

 きっと矢口は今頃そこに行っているのかもしれない。
 照明が当たるセットの上で保田はそんな事を考えていた。
428 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)15時21分32秒
 その時、ゴトッと鈍い音がスタジオに響いた。
 保田は我に戻ってその音がした方向に顔を向ける。どうやらマイクを落とした
らしい、辻がそれを拾っている姿が見えた。

 マイクを拾い終わった辻は後藤にそれを差し出す。しかし彼女は呆然と立って
いるだけでそれを受け取ろうとはしなかった。どうやらさっきのマイクを落とし
たのも、渡そうとした辻を無視した形になったかららしい。
 辻が不思議そうな顔で後藤を見ている。どうしてマイクを受け取らないのだろ
うと不安になったようだ、困惑気味にその視線は辺りに向けられた。

 カラオケが止まったのはその時だった。それに我を取り戻した後藤は今更なが
らにマイクが差し出されていた事に気がついたようだ。
 収録が一時中断する。ざわざわとスタッフが騒がしくなった。マネージャーと
中澤が後藤の元に歩み寄る。小さな声で、ごめんなさい、と言う声が聞こえた。
 戸惑いを隠せないメンバーを余所に、保田はどこか覚めた視線を送っていた。
それはまるで動物を観察するように、後藤の仕草を見ていた。

 後藤はどうやら自分のせいで収録を止めてしまったことに気が付いたようだ。
迷子の子供のように不安そうに顔を動かしながら、近づいてくるマネージャーと
中澤に怯えの反応を見せた。
429 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)15時22分57秒
 微かだが、後藤を咎めるような声が聞こえた。どうしたん? 具合わるいんと
ちゃうか? それは決して強い言い方ではなく、どこか安心させようと優しさが
篭っていた。苛立ちを見せていたマネージャーを宥めながら中澤は後藤の肩に手
を置こうとした。

 しかしそれが途中で止まったのは、後藤の眼から涙が一粒落ちたからだろう。
それは遠目から見ていた保田にも気が付いた。
 まるで流れる事が決められていたかのように、後藤の眼から一粒の涙が落ちる。
それは本人でさえ気が付いていなかったようで、どうして自分が泣いているのか
わからなかったようだ。

 もちろんキツイ事を言ったと自覚も事実も無い中澤は困惑気味に後藤に視線を
向けていた。どの言葉で泣かせてしまったのだろうかと、口をパクパクさせてい
るのが見えた。
 後藤はすいません、と呟いて涙を拭く。しかしそれは止まることなく、再び大
粒の涙がこぼれた。

 すいません……ごめんなさい……後藤はそんな言葉を呟いて涙を抑えようとし
ていたようだ。自分は怒られていないということを自覚していたようだ、これ以
上迷惑を掛けては行けないと言う思いからの言葉のように思えた。
 メイクの女性がテッシュを片手に駆け寄ってくる。それを受け取りながら、後
藤は止まらない涙を拭きながら、苦笑いをしていた。しかしその余裕も徐々に薄
れていく。
430 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)15時24分29秒
 涙は止まる様子を見せることなく、それは徐々に酷くなっていく。後藤はいつ
の間にか肩で息をしていて、何度も嗚咽を漏らしていた。それでも彼女はどうし
て自分がこう言う状態になっているのかわからなかったようだ。

 さすがに異常を感じたのか中澤がマネージャーと何かを話している。それから
スタッフの人を集めてしばらく休憩を入れようかと相談しているようだった。そ
んな様子を不安そうにテッシュで涙を拭きながら見ていた後藤は、その時にはま
るで泣きじゃくる子供のように顔中涙で濡らしていた。

 周りのメンバーがざわざわと騒ぎ始める。後藤の明らかな異常に、戸惑いを隠
せなかったようだ。
 後藤は相談しているスタッフの輪に向けて、何か言おうと口を開いたが、言葉
を発する事も出来なく、次の瞬間には崩れ落ちるように床の上に座り込んでいた。

 すぐに駆けつけるスタッフ。腕を掴んで起こそうとするが、後藤の足は力が入
らないらしく、またペタン、と座り込んでしまう。さすがにここまで来ると彼女
自身もどうする事が出来ないと思ったらしい、その困惑気味の視線が空中を泳ぐ
と、そこに保田の姿を捕らえたようだ。

 助けを求めるような視線を向けられた。
 たっぷりと十秒はあっただろうか、二人は視線を合わせていたが、保田は無言
のままそれを外した。

 後藤の元に駆けつける気は無かった。
 それを感じたのだろうか、保田が視線を反らした次の瞬間から、まるで子供よ
うにスタジオ中に声を響かせて、後藤は泣いた。

 誰も彼女を慰められない。
 その日、後藤は収録に参加する事が出来なかった。
431 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月20日(日)02時09分40秒
それでも保田は後藤を救って欲しい
432 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月20日(日)06時46分28秒
後藤さんは鬱病ですか?
日航逆噴射事故の機長がこれに似た症状だった様な。
433 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時07分47秒
   26

 後藤は何かを隠している。
 ほとんど勘とも近い思いで、保田に周辺を調べさせた事は悪いと思っていたが、
次々と舞い込んでくる後藤の情報を聞いているうちに、その考えは確信へと変わ
り、今の矢口が体を起こす気力に繋がっていた。きっといつまでもベッドの上で
横になっていたら、復帰する事さえ憂鬱になっていた。それだけ走り続けていた
矢口にとって、急に出来た休養は、今まで張り詰めてきた緊張感を解くには充分
だった。

 しかし後藤の事を調べるうちに、靄の掛かった世界が徐々に晴れて行くように、
視界の向こう側にぼんやりと立っている真実に向かっていく快感の方が強くなっ
た。そこに辿り付いた時、自分も保田も変われるのではないだろうかと言う期待
があった。

 矢口が入院してからメンバーは暇を見つけては顔を出してくれた。しかし元々
忙しい彼女たちだ、これから先のスケジュールを考えると、自分の体を休める事
で精一杯になるだろう。面会時間に仕事が終わる事も稀で、その様子を聞くには、
無理をして駆けつけてくれる保田と、面会時間が終わっても強引に姿を現す中澤
しか居なかった。花を持ってきてくれた日以降、後藤も姿を見せなくなった。
434 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時09分48秒
 矢口の怪我は大げさなものではなかったようだ。ギブスを着けている右足は依
然として動かす事も困難だったが、他の部分に限っては前と変わらない状態まで
回復していた。気分が向いたら病院を散歩して、公衆電話から保田に電話をした
りしていた。だから、後藤が通っているかもしれないという精神病院に向かうの
も、矢口にとってその延長線上の出来事でしかなかった。メイクをして、服を着
て、サングラスを着けてタクシーに乗り、松葉杖を付いて移動する。時間を持て
余しすぎている矢口には苦にならなかった。

 その病院での出来事を思い出す。松葉杖をついて入ってきた矢口に、受付の人
間は外科ではないことを伝えてきた。もちろんそんな事は承知している。矢口は
周りに他の患者がいないことを確認して、自分の素性を明かした。後藤がそこに
通っているのなら、隠しているだけ無駄だろうと判断したからだ。初めのうちは
訳がわからないような顔をしていた受付の人間も、矢口がモーニング娘の、と口
に出すと、あからさまな驚いた反応を取った。それは芸能人が来た驚きではなく、
モーニング娘、と言う言葉に反応していたように矢口は病室に戻ってきたから感
じていた。

 保田が顔を出したのは、面会時間ギリギリになってからだった。
435 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時10分36秒
 いつもなら電話で済ませる用事を、今日は矢口が無理を言って呼んだ。精神病
院に行ったことを知っている保田には、そこで何かあったのかもしれないという、
期待と不安が表情の中に見え隠れしていた。
 保田はいつものようにパイプ椅子に腰を掛けると、鞄を床に置いた。ベッドの
脇にある棚には、見舞い品で一杯になっていて、それをどこにも置く事が出来な
かったからだ。

「随分人が来ているみたいね」
「こう見えても芸能人だよ。嘗めてもらっちゃ困るよ」
 ふふ、と軽く笑うと保田は周囲を見渡して声を潜ませた。

「で、何かあったの?」
 別に誰も居ないのだから声を潜ませる必要は無かったが、電話で話す癖がつい
ているのだろう、彼女はいつも周囲に気を配っていた。

「あたし、暇なんだ」
「は?」
 いきなり何を言い出すのかと、保田は疑問の声を上げた。予想通りの反応に思
わず苦笑いをした矢口は、そのまま言葉を続ける。

「だから、後藤のことを考えていたの。頭良くないけど、ずっとその事だけを考
えてたら、いつの間にか何でもわかったような気がして……お金の事、あれに根
拠があったわけじゃないの。ただ漠然とあのブレスレットそんなに安いものじゃ
ないって知ってから、そんな物をどうして交換だけのために買えたんだろうって
不思議に思った」
436 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時11分42秒
 保田は矢口から大体の事情を聞かされていた。同じ物を同じ物と交換しようと
していた後藤の話を聞いたときの彼女は、眉間に皺を寄せる以外の反応を取らな
かった。それは精神病院に通っているほど、後藤がどこかおかしくなり始めてい
る事を前提として知っているからだろう。

「そうしたらCDの事も思い出して……そんなお金、後藤はここ最近で使った事
になる。だったら他にも使っていてもおかしくないって思ったから……」

 そうね、と保田は呟いた。
 それから後藤の事でも思い出しているのだろうか、その視線を静かな病室内に
泳がせた。

「その考えは当たっていたでしょう? 後藤は大金を使い込んでいる。……だっ
たら、それは何に使ったんだろう?」
「アクセサリーとか服とか、派手になっていないからそう言ったものじゃない。
かといって、あの子の部屋にはそれらしいものもない。あんなに買ったCDもラ
ジカセも無くなっているって、ごっちんのお母さん言っていたから」

「わかってる。仕事が終わってから遊びに行っているわけでもない。それは圭ち
ゃんが尾行してくれたから、確かだよね」
「うん。あの子はそのまま家に帰るか、時々病院がある住宅街に行くだけだった。
もちろんそのままずっと張っていたわけじゃないから、その後の行動は知らない
けど……でも遊んでいる風には見えない」
「圭ちゃんが一番近くにいるからね。あたしはその言葉を信じるよ」
 ありがとう、と保田は言った。
437 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時12分26秒
 矢口は自分の考えを整理しようと僅かな間を空けた。
 その静寂が訪れた空間で、保田は何かを感じたのかもしれない。泳がせていた
視線を矢口に戻すと、不安に駆られる子供のように唇を堅く閉ざしたまま言葉の
続きを待っていた。
 暖房から熱った体を冷ますように、矢口は蒲団の中に入っていた両腕を外に出
す。お腹の上でそれを組み合わせると、呟くように言った。

「自分のために何かを買っているわけでも、遊んでいるわけでもない。それなの
に先月の終わりから今月に入ってからの短い間に、後藤は大金を使い込んでいる。
……後藤がお金を使っているわけではなく、別の人がそれを使っているとしたら、
シックリ来ると思わない?」
「……なにそれ?」

 保田が呟いた。
 矢口は首を傾けて彼女を見る。視線は反らさなかった。

「言葉通りだよ。後藤じゃなくて、別の人がお金を使っている」
「……盗まれたって事?」
 矢口は首を横に振ってその言葉を否定した。
「違うと思う。もしそうだったら警察に知らせていてもおかしくないし……盗ま
れたんじゃなくて、後藤はそのお金を誰か別の人に渡す……つまり貢いでいるん
じゃないかな」
438 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時13分15秒
 貢と言う言葉に保田は露骨に嫌悪を顔に表した。それは言葉自体のイメージが
あるからだろう。矢口もその反応には同様の思いが込み上げて来る。
 でも、と言いかけた保田はすぐに口を閉じた。どうやら何も言葉が浮かんでこ
なかったようだ。矢口の考えを否定しようとするが、それを覆せるほどの別の考
えが浮かんでこない様子で、納得はしたくないものの、それを受け入れなくては
いけないと彼女は悟ったようだ。
 渋々と言った様子で保田は言った。

「信じたくないけど……でももしそれが本当だとして、一体誰にそんな事をして
いるの?」
 矢口は再び首を横に振った。

「そこまではわからないよ。後藤の交友関係に詳しいわけじゃないもん、あたし」
「そりゃそうだけど……」
 保田はまだ納得していない様子で顔を下げた。

 それからしばらくの間二人とも口を閉じる。保田は思いのほか後藤は誰かに貢
いでいるのではないだろうかと言う仮説にショックを受けているようだ。それは
イコール男だという考えがあったせいだろう。悪い男に騙されて、女は何もかも
貢いでしまう。まるでワイドショーの特集にでもありそうな展開を、保田は瞬時
に思い浮かべただろうし、矢口も同様だった。
 その仮説が正しいのならば、後藤は騙されているに違いない。
 そんな事を矢口が考えていると、あ、と保田は思い出したように顔を上げた。
439 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時14分07秒
「矢口、でもそれはおかしいよ」
 矢口は無言のまま保田を見た。
「もし、後藤が誰かに貢いでいたとして、一体いつそんな時間があるって言うの?
朝から仕事があって、夜はそのまま家に帰っているんだよ。遊んでいる気配はな
いってさっき私が言ったばかりじゃん」

「でもずっと張っていた訳じゃないんでしょう? そう言う時間が無いって確か
められないじゃん」
 そう言うと保田は表情を曇らせて、矢口を恨めしそうに見た。
「私の言葉、信じてくれるんじゃなかったの?」
 矢口はその言葉に苦笑いする。
 すぐにごめん、と謝った。
「信じているよ。ちょっとイジワル言ってみただけ。……でも圭ちゃん、後藤は
確かに家に帰るだけだったけど、本当はそれだけじゃなかったはずでしょう? 
後藤は仕事が終わった後、ある場所に行っているはずだよ」
 その言葉に保田は気が付いたようで、あ、と眼を見開いた。
「……病院」
「ビンゴ」

 それからやっとで矢口が今日、精神病院に行ってきた訳に気が付いたようで、
彼女は興奮を抑えきれないように椅子から立ち上がろうとした。
 それを手で制した矢口は口を開く。
440 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時15分07秒
「落ち着いてよ、圭ちゃん」
「で、どうだったの?」
「だから落ち着いてって」
 矢口の言葉に渋々と言ったように彼女は再び椅子に座る。それから一呼吸を置
いて顔を上げた。矢口はその様子を見ながら言った。

「結論から言うと、何も無かった」
「……何も無かった?」

「うん。後藤が本当にそこに通っているかって言うことも聞き出せなかったし、
その病院自体におかしい所があるようにも見えなかったんだけど……つまり後藤
の貢いでいる相手がそこにいるようには思えなかった」
「それは矢口の主観でしょう? 後藤が誰と気が合うかなんて、矢口にわかるは
ずが無いじゃん」

 でもねぇ、と矢口は呟く。
 それからあの精神病院のことを思い出した。
441 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時15分57秒
「でも、あの病院には、女の人しか居ないんだよ」
「え?」

 保田は意表を衝かれたように、唖然と口を開いたまま閉じようとはしなかった。

「病院の先生も看護婦さんも、みんな女の人。後藤がそう言うヒトなら何の問題
は無いんだろうけど……」
 保田はただ矢口を見ていることしか出来なかったようだ。その言葉にも何の反
応も見せなかった。
 矢口は咳払いを一つしてから、とにかく、と言葉を見繕う。

「とにかくあたしが言いたいのは、後藤の貢いでいるような相手は、精神病院に
は見当たらないって言うこと」
 そこまで言うと保田はやっと我に戻ったようだ。そうね、と頷いた。
「じゃあ後藤の相手はどこに居るのかって言うことだけど……ねぇ、圭ちゃんは
覚えてる? 前に後藤のお母さんに話を聞きに行った事」

 それはまだブレスレットを盗まれる前の事、保田だけが後藤の様子がおかしい
事に気が付いて、その周辺に探りを入れ始めた時だ。後藤に会いに行って、結局
母親と会話しただけで帰ってきた、と言うような話を廊下で矢口にした。
442 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時17分31秒
「うん、覚えているよ」
「あの時、後藤の様子がおかしいって言ってた。部屋で誰かと話しているような
気がする、いつも電気が付けられない、部屋に入られる事を異常なほど嫌がる。
……後藤のお母さんはそう言う風に圭ちゃんに言ったんだよね?」
「うん」
「人の話し声がして、電気が消されて、部屋に入られることを嫌がって……後藤
が仕事が終わった後に行くのは精神病院か、自宅に帰るかだけ。その病院には相
手が居ない。じゃあ残るのは……」
「……家?」

 保田は矢口の言葉に導かれるように呟いていた。それから数秒間があって、自
分が言った事に驚いた彼女は、すぐに混乱が生じたようだ、困惑の表情を浮かべ、
それでも口からこぼれるのは言葉にならない声だけだった。

「え? いや、でも矢口……そんな……」
「それしか考えられないよ。話し声がするのは、事実として人が居るから。部屋
に入られることを嫌がったのは人が居ることを知られたくないから。……電気を
消した理由は色々あるんだろうけど、もしかしたら寝ていると思わせたかったの
かもしれない。でもそこに人が居たとしたら、後藤はどこにも立ち寄らずにその
人にお金を貢ぐ事が出来るんだよ」
「待って。ちょっと待ってよ、矢口」
443 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時18分22秒
 保田はこれ以上の情報は頭に入りきらないと言わんばかりに左手で矢口を制す
ると、残った指先でコメカミを抑えていた。どうやら必死にその言葉を理解しよ
うとしているようだ、その眼は閉じられたまま、数秒間だけ動きを止めた。
 それから彼女は再び顔を上げる。

「でもお母さんはあの子の部屋に入ったけど、何も無かったって」
「隠れていたのかもしれない。もしくはその時は居なかったのかもしれない。夜
な夜な後藤の部屋に訪れていたって考える方が自然だけど……でもそれなら部屋
に入られることを異常なほど嫌がる理由にはならない。だから、そこには常に人
が居るって事になると思う」
「後藤が居ない間も、そこで人が生活をしてるって事?」

 矢口は無言のまま頷いた。
 すぐに、保田は椅子に仰け反った。

「そんなバカな……そんな事ってありえない」
「ありえなくは無いでしょう? 家族と疎遠の状態なら、それに気がつかない母
親だってこの世の中には居たっておかしくない。いつだか、何年も自分の部屋に
人を監禁していたニュースだってあるじゃん」
「それと今回の事が同じなんて思えない。ごっちんのお母さんが部屋に入ったの
はその一度だけじゃないんだよ。私たちがお金を何に使ったのか調べさせた時、
何度も部屋に入ってる。それなのにそこに人が居るって事に気が付かない方がお
かしいよ」
「だから、今日、圭ちゃんを呼んだんだよ」
444 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時19分19秒
 矢口の言葉に保田の動きが止まった。
 どう言うことなのか意味がわからないように、不安な瞳が向けられる。

「どう言うこと? ……矢口」
 矢口は保田から視線を外さなかった。

 そう、今日保田を呼んだのはこの話をするだけではない。矢口がこの考えに辿
り着いた時、どうしても不可解な点が見付かった。それはやはり保田が言うよう
に母親が何度も部屋に入っているのに人が居ることに気が付かないのはおかしい。
そして何よりサングラスやブレスレットを盗んだ理由がわからなかった。
 もちろん矢口自身、見知らぬ他人が一つ屋根の下にいて、それに気がつかない
家族など信じられるわけではなかった。しかし今までの情報から導き出される結
論は、それ以外には無いように思えた。
 矢口にも自分の考えに違和感があった。
 だから、それを確かめさせるために保田を呼んだ。
445 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時20分03秒
「明日、圭ちゃんオフなんだよね?」
 その言葉に保田は小さく頷く。
 矢口は一呼吸を置くと、ゆっくりと保田の顔を見て、決して視線は外さないよ
うにした。それに何を言われるのか気が付いたようで、彼女は待って、と小さく
呟いたが、それを無視して矢口は口を開く。

「だったら明日、後藤の家に行って来てよ」
「……矢口」
「圭ちゃんの眼で確かめてきてよ」

 微笑を浮かべた矢口の表情を、きっと保田は悪夢の思いで見つめていただろう。
 それからすぐにして保田の返事を待たず、面会時間の終わりを告げる看護婦が
病室に現れた。
446 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時22分02秒
   27

 体を締め付けていたのは冬の空気だった。

 透き通るほど冷たい空気は、体や胸の奥を縛り付けて夜空の中に色んな思いを
連れ去っていく。首に巻いたマフラーだけでは決してそれを阻む事は出来なくて、
自分自身の存在を確かめるように両腕を体に巻きつかせる。舞い上がる白い息が
僅かに熱を持っていた。

 空には無数の星が現れていた。いつもの路地を歩きながら、片手にはコンビニ
の袋をぶら下げ、あたしは固く唇を閉ざす。寒さから頬が千切れるほど痛かった。
 家に戻ってきて静かな階段を上がる。一段一段踏みしめるたび、靴下から確実
に床の冷たさを感じた。
 廊下を進んで部屋の前に来る。ドアに掛けられているカンヌキに視線を落とし
て、あたしはコンビニ袋を持ち直した。ビニールの擦れる音がして、それは無音
の箱の中で唯一の音だった。

 市井ちゃんに暴力を降ってしまったことに罪悪感があった。でも一方ではそん
な感情を抱く自分がおかしいという事もわかっていた。幻の存在に罪の意識を感
じる必要なんて無い。
 でもそれは市井ちゃんの存在を擬人化していたあたしには当然の感情だったの
かもしれない。
 あたしの中では、その存在こそが市井ちゃんで、それ以上の理由は要らなかっ
た。
447 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時22分50秒
 鍵を外してドアを開ける。いつもの香水の匂いが溢れてくる。眼を閉じてその
部屋の空気を吸い込んだ瞬間から、築き上げてきた自分の城の中に入るのだとい
う心構えみたいなものが当然のようにあたしの中で湧いてくる。それは外の世界
ではない。あたしだけの世界だ。

 風が走り抜けた。髪が後ろになびく。冷たい空気が突き上げるように全身を襲
う。条件反射的に肩を竦めた。
 眼を開けると正面の窓が開いていた。その向こう側を映し出す風景は、暗闇の
中にあるいくつもの屋根。風の音が耳に入り込むと、その部屋の中の違和感は明
確に頭の中に映し出される。

 買い物袋が足元に落ちた。中に入っていたペットボトルのジュースが二つ、床
の上を転がる。入り込む月の光は真中から縦長にあたしの足元まで伸びていて、
その近くを転がったペットボトルがその光に包まれる。

 辺りに散乱するゴミを踏みつけながら、あたしは開いている窓に向かった。そ
こから顔を出して地面を見下ろすと、ブロック塀と家の壁の間にある僅かな細さ
の通路が見えた。月の光も街灯の光も入り込まない、その僅かな空間は、まるで
夜の川のように、黒い淵が続いているように思えた。
448 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時23分42秒
 この部屋から出るには、ドアを開けるか窓からのどちらかしかない。あたしの
部屋から地面に行くには足を掛ける窪みも無いため、直接飛び降りなければなら
なかっただろう。この高さから、それも裸足の状態でそんな事をするはずがない
とあたしは思っていた。

 でも、市井ちゃんは飛び降りたんだ……。
 あたしはそう思うと自然と部屋から出ていた。玄関先で靴を履くことも邪魔に
思えて、突っ掛ける状態のまま外に飛び出す。巻いているマフラーが肩からずれ
てきて、それを締め直しながら静かな夜空の下、白い息を吐き出した。
 前に市井ちゃんが部屋を抜け出した時に居た公園に向かってみた。小さい広さ
しかないその場所は、一本の街灯のみで光を広げている。ブランコが不気味に揺
れていたのは、時々吹く風のせいだったようだ。その場所に市井ちゃんが居ない
ことはすぐにわかった。

 あたしはそれから宛ても無く近所を走り回った。
 透き通る闇の中で、徐々に胸を突き上げてくるものを感じる。それは後悔と言
うあたしへの罰だった。
449 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時24分16秒
 幻に自我を持たせてはいけない。そう、あの人は言った。いつもの口調で、ま
るで何もかも見透かしているかのように、そう言ったのだ。でもあたしはそれを
信じなかった。その言葉は、あたしの行為を否定するだけだと思っていたから。
 市井ちゃんに自我を持たせる事によって、その存在は確かな物になっていく。
いつ消えてしまうかわからない、不安定な存在から完全なものになる。その変化
は確かに起こっていたし、それはあたしの胸を弾ませる時間だった。
 曲に乗せて唄い始めた市井ちゃん。疲れたあたしに向かってアドバイスをくれ
た市井ちゃん。どうでもいいような会話であたしを楽しませてくれた市井ちゃん。
それはあの雨の日に拾ってきた時と見違えるほどの変化だった。だから、あたし
は市井ちゃんにのめり込んで行ったのだ。

 靴が脱げた。その反動で足を掬われる。冷たいアスファルトの上であたしは子
供のように転んだ。掌を擦り剥いたようで電気が走るような痛みを感じる。締め
直したはずのマフラーが解けて首に掛かっている状態になっていた。
 ゆっくりと立ち上がる。振り向くと一足の靴が転がっていた。

 周りには街灯以外、何も無い。細い路地の中、走り続けていたため心臓の高鳴
りが辺りのブロック塀に響いてしまうような気がした。
 立ち上がって後ろの靴の元に戻る。今度はちゃんと踵まで入れて、緩くなって
いた靴紐を結び直した。
450 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時25分20秒
 あまりにも静かだった。あたしの呼吸の音が嫌に耳につく。人工的なライトが
白く影を引き伸ばす。気が付くと鼻を啜っていて、それは喉の奥から沸き起こっ
てきた感情を抑えようとした行為だったことに気が付く。

 どうして満足出来なかったんだろう?

 帰ってきたらお帰りと言ってくれて、二人で肩を寄せ合い好きな音楽を聞いて
いて、下らない事で笑いあって……どうしてあたしはそれで満足しなかったのだ
ろうか?

 市井ちゃんと過ごす時間に貪欲になっていたのかもしれない。心地いい時間だ
けではなく、その本人の気持ちさえもあたしは欲しがったんだ。あの頃に置いて
いかれたあたしを救って上げるように、市井ちゃんの気持ちも欲しがっていたん
だ。
 あたしの望む通りに自我を持った市井ちゃんが、外に興味が出てきたのは当然
の事だった。娘。から外に出たように、いつまでも同じ場所に留まらないという
事をあたしは知っていたはずなのに。

 体を締め付けていたのは冷たい空気だけではなかったようだ。今更ながら自分
は再び置いていかれるのではないだろうかという焦りと不安が、ゆっくりと肩を
包むのに気がついていたからだ。
 いくつも通り過ぎる街灯を見上げながら、その向こう側にある無数の星を感じ
る。薄い雲がゆっくりと流れていた。
 掌の痛みを感じながら再びあたしの足が走り出すことは無かった。ただ夢遊病
患者のように歩き続けるだけで、感情に押し潰された自分がいただけだった。
451 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時26分22秒
 市井ちゃんを見つけたのはそれからしてしばらく経った時だった。宛ても無く
歩き続けたあたしは、いつの間にかあの雨の日に市井ちゃんを拾った街灯の下に
きていた。
 電球も切れてしまったその街灯の下で、市井ちゃんは右足を抑えながら座り込
んでいた。その丸くなった背中が胸を締め付ける。肩までの髪が弱々しい風にな
びいて、数メートル向こう側の街灯の光を全身で受け止めていた。

 ゆっくりと市井ちゃんに近づく。気配であたしの存在に気が付いているはずな
のに顔を上げようとはしない。好きだというブランドのパーカーを着ているその
存在を感じた瞬間、胸の中で何かが弾けたのに気が付いた。

「市井ちゃん……」
 もう限界なのだろうか……?

「こんな所にいちゃ……風邪ひくよ」
 もうあたしの世界は崩れるだけなのだろうか……?

 何も答えない市井ちゃんの腕を自分の肩に回して、あたしたちはゆっくりと立
ち上がる。幸い家からそんなに離れてはいない。苦労しなくても市井ちゃんを部
屋に連れ戻す事が出来た。

 いつもの部屋で、いつもの場所で、あたしは市井ちゃんの足を手当てした。い
つもの香水の香りは開けられていた窓から逃げてしまって、その代わり穴を埋め
るように湿布の突き上げるような匂いがした。

 その日、市井ちゃんはあたしに一言も喋ってはくれなかった。
452 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月21日(月)06時32分46秒
>>431
一緒に見守ってやって下さい。

>>432
まじっすか?
453 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月24日(木)12時50分06秒
作者さんが醸し出すこの独特の雰囲気がとても好きです
454 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月25日(金)22時49分49秒

更新してください!お願いします・・・
気になってしょうがありません!!
455 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月29日(火)08時55分54秒
>>453
どんな雰囲気になっているのか書いている奴は
わかりませんが、ありがとうございます。
>>454
更新遅くてごめんなさい。
またーり待ってもらえるとありがたいです。

http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sea/1035846527/
新スレ立てました。
多分これで完結するはずです。
いつの間にか矢口以外、脱退メンバー(予定も含む)たちの話に
なってしまいました。
こんな話ですが、もうしばらく付き合ってもらえるとありがたいです。

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