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トラップ・フォーカス
- 1 名前:物心 投稿日:2002年07月10日(水)00時39分14秒
あくまでいしよし頑固にいしよし。
いしよし一徹です。
今回もベタの匂いがぷんぷんと。
お口に合う方がいらっしゃいましたら、しばしお付き合い頂ければ幸いです。
- 2 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時40分29秒
「一人前になって帰ってくるから」
あの人はそう言った。
絶対泣かないって決めてたのに、私より少し高い所にある笑顔がぼやけた。
大好きな、大好きな人。
離れ離れになる人。
もう、手を繋いだり抱き締めたり出来ない。
欲しいと思う時に欲しい温もりをもらえない。
私が泣いたから、あの人はすっかり困ってしまった。
いい気味。もっと困ればいい。
こんなに大事なことをさっさと決めてさっさと離れていく罰。
「電話、するし」
「手紙も出すし」
だけど最後まで、一番欲しい言葉はくれなかったね。
「待ってて」って。
私を縛らない為の優しさなのかな。
でも、言って欲しかったのに。
縛って欲しかったのに。
あの人がいなくなってから1年。
ごめんね。
もう待てない。
ごめんね、お父さんお母さん。
- 3 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時41分16秒
君の行く道は、果てしなく遠い。
だのに、なーぜー。
歯を食い縛りぃ。
これ、私のテーマソング。
「よっすぃの所へ行ってきます。梨華」
メモは残した。
おめかしもした。
いざ、出撃。
愛しいあの人の元へ。
- 4 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時42分17秒
ドンッ、と強い衝撃が体を揺さぶった。
「あっ、ごめんなさいっ」
梨華は慌てて謝った。
が、背広姿の若い男は憎々しげに梨華を睨みつけ、「邪魔なんだよ」と吐き捨てた。
突っ立ってたのは悪かったけど、謝ったのに…。
それに、まるでわざとぶつかってきたみたいだった…。
梨華は逃げるようにしてその場を離れる。
しかし、ささやかな逃避行もほんの数メートル。
直ぐに立ち止まって周囲を見回す。
急ぎ足で通り過ぎる人の群れ。
めまぐるしく世界は回る。
どの顔も皆一様に表情がない。
恐い…。
意気揚揚と新幹線に飛び乗ってきたものの、日本有数の一大ターミナル駅は梨華の想像を遥かに越えて、巨大だった。
そもそも梨華の町には私鉄が一本通っているだけで乗り継ぎなんてした事がない。
困ったら人に訊けばいい。
そう軽く考えていた。
- 5 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時43分34秒
でも、と。
梨華は鞄の取っ手をきつく握り締め直す。
昨日より確実に吉澤に近付いている。
あともう少し頑張れば、吉澤に会える。
案の定、ホームは合っているものの行き先の違う電車に乗りこんだり、うっかり快速に乗ってとんでもない所まで連れて行かれたり。
ターミナル駅からたかが三十分程度の吉澤の住む街に辿り着いた時には、日が傾きかけていた。
全身を重苦しい疲れが覆っている。
が、それ以上に頭と心の疲労もピークに達していた。
それでも最後の気力を振り絞って、住所を頼りに吉澤のアパートを探す。
「…あった」
思ったよりも古くてみすぼらしい外観だった。
木造でこそないものの、かろうじて鉄筋、といった趣きだ。
2−C、は直ぐに見つかった。
『吉澤』
手書きのネームプレートがガムテープで貼ってある。
「よっすぃの字だぁ」
ただそれだけなのに無性に愛しくて、そっとプレートを撫でる。
- 6 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時44分21秒
髪を整えて大きく深呼吸。
そしてついに。
ノック、ノック。
………。
あれ。
ノック、ノックノックノック。
…そっか、そうだよね。まだ帰ってないよね。
毎日忙しくてさぁ、と吉澤は電話で愚痴をこぼしたもんね。
駅で気付くべき事に今更気付く。
気付いたところで、適当な喫茶店を探す体力はもう残っていない。
「ドアの前で待たせてもらえばいっか…」
よっすぃ驚くよね。何て言おうかな。
じゃじゃじゃじゃーん…はちょっと、変。
おそーい、って拗ねてみようかな?
それともやっぱり、にっこり笑って「おかえり」かな。
よっすぃは大きな眼をもっと大きくして、えええーっ?梨華ちゃあーんっ?って。
もしかしたら叫んじゃうかも。ご近所迷惑なのにね。
梨華は壁に寄りかかってくすりと笑う。
- 7 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時47分16秒
いつも、そうだった。
突っ走って暴走するのは、梨華。
吉澤は驚き、時には振り回されながら、梨華の暴走を受けとめる。
小さい頃から二人は何をするにもどこに行くにも一緒。
「お父さんとお母さん、どっちが好き?」という問いに「よっすぃ」と言い放って両親を、特に父親を落胆させていた。
お菓子によって懐柔させられて渋々「…お父さん……チッ」と答える事もあるにはあったが。
その後は必ず押入の中で「本当はよっすぃ本当はよっすぃ本当はよっすぃ」と唱えた。
戦利品は吉澤と半分こした。
小学校に入って他にも友達はできたけど、それでもやっぱり一番仲が良かった。
優しくて面白くてスポーツ万能の吉澤は梨華の自慢の、幼馴染、だった。
- 8 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時48分29秒
- 変化が生じたのは中学校に入った頃。
部活が別々になると自ずとそれぞれの世界ができる。
ずっと隣にいたから、遠くから眺める吉澤は妙に新鮮だった。
制服のせいかもしれない。
急に大人びて、時には声をかけることさえ躊躇われた。
以前のように素直にまとわりつけない。
何かの弾みで吉澤の体に触れると、その箇所が熱を発する。
吉澤が無防備な笑みを振りまくたびに。
吉澤がふざけて他の誰かに触れるたびに。
胸が焦げつく。飽きることなく一日に幾度も、幾度も。
相変らず吉澤は梨華にも優しかった。
が、皆と同じだけの「優しさ」では物足りなかった。
周りの友達は好きな男の子の話で夢中。
そういうものかと思って梨華も話を合わせた。
好きでもない男の子のことを好きなフリをして。
それでも気付けば視線は吉澤だけを追っていた。
「私達、親友だよね?」
梨華はよくこう訊いた。
こんな質問自体、おかしいと分かっていながら。
親友だよね、なんていちいち確認する親友などいない。
それでも訊かずにはいられなかった。
吉澤の特別な存在になりたかった。
- 9 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時49分29秒
- それなのに。
親友という言葉にも我慢できなくなっていった。
なんか違う。なんか足んない。
梨華はしょっちゅう不安定になり、苛々を家族にぶつけた。
母親は「反抗期だね」と肩を竦めた。
…そうじゃない。
本当は、わかっていた。苛立ちの理由も、何もかも。
もう認めないわけにはいかなかった。
友達が男の子に向ける「好き」と梨華が吉澤に向ける「好き」は同じだということを。
認めて、そして、隠した。
ずっと、隠していくつもりだった。
腰を下ろして座りこみ、大きな旅行用鞄に体をもたせかけて、梨華は眼を瞑る。
陽射しを吸いこんだコンクリートが生温かい。
退屈はしない。
頭の中には膨大な吉澤の笑顔や言葉や声がストックされている。
辛いとき、寂しいときはそれを引き出せばいい。
- 10 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時50分36秒
吉澤が上級生と付き合ってるって噂を聞いた中2の冬。
もう抑えられなかった。
梨華は泣きながら吉澤の家に押しかけた。
わんわん泣きながら「付き合ってるってほんと?」と必死の思いで訊いた。
「…そんなん、嘘だけど……どうして梨華ちゃん泣いてるの?」
吉澤は突然部屋に飛びこんできた梨華に唖然としながら答えた。
後で聞いたところ、吉澤は勘違いしたらしい。
梨華が噂の相手の上級生を好きで、だからショックで泣いている、と。
で…ここからが、いいところなのよねぇ。
忍び笑いが漏れる。
幾度、リフレインしたことか分からない。
幾度リフレインしても飽きることがない。
梨華の脳内再生装置はいうなればデジタル。
何度再生し直してもすり切れることはない。
どころか、微妙に脚色して桃色がかってきている。
- 11 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時51分55秒
タイヤの軋む鈍い音が割りこんできた。
ハッと顔を上げるとあたりは既に暗い。
腰のあたりが重苦しく痺れている。
「すいませんでした。送ってもらっちゃって」
電話を通さない、久し振りの声。
間違えようのない、吉澤の声。
梨華は跳ね上がってアパートの階段を駆け下りかけた。
「えぇー部屋入れてくれないのぉ」
「いや、まじで、ほんっと汚いですから」
「そんなの気にしないのにぃ」
一台のタクシー。
吉澤が外から座席に向かって身を屈めている。
そして座ったまま、吉澤の頬に手を添える人影。
梨華の方向からは顔は見えない。
だが、長い栗色の髪が夜目にも艶やかに光っている。
…吉澤の視線がふと逸れて、梨華を捉えた。
- 12 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時53分14秒
- 「……」
瞬間、吉澤に浮かんだ色。
驚愕?とは、違う……困惑。
吉澤の変化を訝しんだタクシーの女性が、梨華に気付いた。
「なぁんだ。先客?」
「……」
「かぁわいいー。やるねぇ」
「…別に、そういうんじゃないです」
「いいのいいの。言い訳はまた聞くからね。そんじゃね、おつかれさま」
女性を乗せたタクシーが走り去る。
少し離れた場所から向かい合う二人。
鼓動が痛いくらいに響いて心臓を突き破りそうだ。
走って抱きつきたい。
が、足を踏み出せない。
「…あー、どした?」
吉澤の、落ち着き払った声。
予想もしていなかった台詞。
「えっ、と…来ちゃった。ごめんね」
どうして自分は謝っているのだろう。
どうして吉澤は、喜んでくれないのだろう。
用意していた言葉も、行動も、全てが萎んでしまった。
- 13 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時54分28秒
「とにかく、入って」
「…うん、ごめん」
締めきっていた室内の空気が、ムワッと体を包む。
アパートの外観を裏切らず、殺風景な部屋が吉澤らしいと言えば吉澤らしい。
さきほど「汚いから」と言っていたのはやはり部屋に入れたくない為の口実だったのだろう。
棚に大事そうに並べられたカメラ。
吉澤の、カメラマンになるという夢。
思いついたら即行動しなくては気が済まないという点では梨華と同じだ。
学校を中退して、さっさとこっちへ出てきてしまった。
梨華には一言の相談もなく。
「ごめんねクーラーなくて。暑いよね」
「ううん。平気」
「鞄、そこ置いて」
「あっ、ありがとう」
ぎくしゃくとした、他人行儀な会話。
抱きつくどころか二人はろくに目を合わせていない。
髪が伸びて、茶色くなった。
背も少し伸びた?
…きれいになった。
- 14 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時55分19秒
「来るなら来るって言ってくれれば良かったのに」
驚かせたかった。驚いて欲しかった。
「うーん、なんか急に思い立っちゃって」
「そっかぁ。夏休みだもんねぇ」
夏休みだから、来たわけじゃない。
「うん。来年は受験だから今年がチャンスかなと思って」
「真直ぐに来れた?迷わなかった?」
迷いに迷った。ぐるぐるした。
叫び出したいくらい心細かった。
「大丈夫。駅員さんに聞いて直ぐにわかったよ」
「結構、待ったんじゃない?」
待ったし、見たくないものまで見た。
「そうでもない、かな」
「それで、いつまでいるの?」
- 15 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時56分08秒
いつまでいられるの?ではなくて、「いつまでいるの?」
そんなに迷惑だったのだろうか。
鼻の奥がツンとして慌ててハンカチで汗を拭う振りをする。
梨華にとっては、長い長い1年だった。
吉澤を想わない日はなかった。
夢を追っている吉澤。
邪魔してはいけないと思うから、電話もなるべく我慢した。
しかし我慢にも限度がある。
顔が見たい温もりが欲しいこの手でこの腕で抱き締めたい。
…それもこれも、どうやら梨華の一人よがりだったようだ。
「あたし仕事あるからあんまり案内とかしてあげられないけど…」
吉澤が申し訳なさそうに言う。
「全然気にしないで。色々調べてきたし、一人で買い物とか行こうと思ってたから」
梨華の少し大袈裟な笑い声が扇風機の風に散らされて、消える。
- 16 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時57分15秒
- 町のこと。学校のこと。共通の友人のこと。
ただ時間を埋める為だけの会話が二人の間を滑っていく。
勧められるがままにユニットバスの狭い浴槽でシャワーを浴びる。
出てきてみると、床に布団が一組用意してあった。
思わず、視線が泳ぐ。
「布団ひとつしかないからさ。あたしこれで寝るから」
吉澤が布団の隣にタオルケットを敷いた。
ジャージを丸めて枕にして、薄手の布団をかけて寝るつもりらしい。
「…あ、ごめんね」
つい数時間前に再会したばかりなのに、謝るのはこれで何回目だろう。
…正直言って、覚悟はしてきた。
念入りに体も洗ったしとっておきの下着もつけた。
だいぶ予定は狂ったものの、今はとにかくこの違和感を消し去りたかった。
吉澤との距離を縮める為なら何でもするつもりだった。
それなのに。
明日早いから、と吉澤はシャワーを浴びるとさっさと横になった。
- 17 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時58分08秒
直に隣から規則正しい寝息が聞こえてくる。
梨華はぼんやりと、天井を見詰めた。
……私、ここで何してるんだろ…。
舞いあがっちゃって勝手に押しかけちゃって。
いくら彼女だからって強引過ぎたかもしれない。
…彼女?
私、本当によっすぃの彼女?
こんな無関心に対応されて、彼女って言える?
…わからない。
よっすぃが変わっちゃったのかな。
もう私には興味なくなっちゃったのかもしれない。
梨華の脳裏に先ほどの女性の影がよぎる。
ほんの一瞬だったけれど、綺麗な人だった。
…あの人、よっすぃの頬に。
よっすぃも避けようとはしてなかった。
- 18 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月10日(水)00時58分39秒
やけに蒸す夜だった。
ガチッ、と扇風機のタイマーが切れた。
どこかでコオロギが鳴いている。
梨華は声を殺して泣き、やがて眠りに落ちた。
- 19 名前:物心 投稿日:2002年07月10日(水)00時59分30秒
初回は以上です。
前作よりは好き嫌いが別れるものになってしまうと思いますが…頑張ります。
どうぞ宜しくお願い致します。
- 20 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月10日(水)13時13分06秒
- 今、初めて読まさせていただきました。
これから、どーなるか楽しみです。
いしよし好きなんで期待してます。
頑張ってください。
- 21 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年07月10日(水)13時54分05秒
- お〜う。偶然ハケーン
つれないよすこがまたオツでいいれす。
またおいしい「いしよし」をいただけるのが楽しみです。
ということで期待sage
- 22 名前:皐月 投稿日:2002年07月10日(水)17時03分43秒
- いしよしですな。
いいです。よすぎです!
作者さんがんばって更新してくださいね!
- 23 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月10日(水)23時56分40秒
- 面白いです。面白いです。ヤパーリ面白いです。
作者さんの文章大好きです。
がんがって下さい!
…またも毎日ハラハラな日々を送りそうな予感。。(w
- 24 名前:オガマー 投稿日:2002年07月11日(木)01時27分29秒
- 面白そうですねw
断固いしよしってところがいいw
ところで、失礼な質問かもしれませんが、
作者さまは以前なにを…?(汗
- 25 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月11日(木)19時04分08秒
- >>24
愚問
- 26 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月12日(金)16時24分54秒
- 桃色がかった思い出…気になる!
早く教えてくれー。
- 27 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時20分38秒
「なるべく休みもらうようにするから」
吉澤は慌しく出掛けていった。
梨華は一人、部屋に残された。
せめて掃除でもしよう。
布団を畳んで箒で床を掃いてお風呂を磨く。
雑巾で埃を取って台所のシンクをクレンザーで洗う。
随分と丁寧に時間をかけたつもりだったが、それだけやってまだ昼前にもならない。
漫然と、座りこむ。
テレビを点けて、直ぐに消す。
色々調べてきたというのは嘘だ。
目的は吉澤に会うことだけなのだから。
本当にそれだけなのだから。
買い物に行くつもりではあったが、行くなら吉澤と一緒、の筈だった。
夕食を、作ろう。
きっと忙しくてろくなものを食べていないに違いない。
頑張ってとびきりのご馳走を作ろう。
何にしようか。
野菜たっぷりで栄養バランスがとれていて見た目もゴージャスな料理。
あれこれと思い浮かべる。
暑いからなるべくさっぱりしたものが良い。
途中から、視点を切り換える。
…私、何が作れるんだっけ。
- 28 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時21分30秒
- 駅前のスーパーで必要な物を買う。
たったそれだけの事なのに、すっかり疲れてしまった。
この街で、梨華は余所者だ。
別に不審な眼を向けられた訳でも何でもない。
例え隣人とすれ違っても気付きはしない街なのだから。
意識しすぎ。そう分かってはいるけれど。
よしっと自分に気合を入れて料理にとりかかる。
慣れない上に狭いキッチンで四苦八苦。
玉ねぎたっぷりの、ハヤシライス。
梨華が一人で作れるものといったらカレーくらいだが、カレーでは余りに安易すぎる。
そう判断して、兄弟分のハヤシライスにトライ。
トマトの酸味が少し強過ぎる気もするが、まずは上出来。
- 29 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時22分38秒
携帯が鳴った。
おたま片手に鞄を掻き回す。
「ちょっと!梨華?あんた今どこにいるのっ」
すごい剣幕で鼓膜を揺るがしたのは母親の声だった。
「…どこって…、よっすぃんち」
「どうして行くなら行くって前もって言わないのッ」
流石に悪いとは思っているから、梨華としては黙りこむより他ない。
延々と続くお小言を受け流す。
「とにかく一度帰ってらっしゃい」
「いやだ。もう来ちゃったもん」
ヒートアップしていく母親の声を無視して、ぷつりと電話を切った。
そう。来てしまった。来てしまったのだ。
冷たかろうが何だろうが、ぶち当たるしかない。
放置された小鍋が煮立ってぐつぐつ不平を漏らしている。
溜息ひとつ。
ハヤシライス製作に没頭する為に、梨華は腰をあげた。
- 30 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時23分36秒
レタスときゅうりから水分が染み出していく。
サラダにそっとラップをかけて、冷蔵庫にしまう。
時計の針は9を指している。
隣の部屋からテレビの音が漏れてくる。
毎週楽しみにしてたドラマが始まる。
画面を追うものの、内容はちっとも頭に入ってこない。
決心が、秒針と共に鈍っていく。
結局、吉澤が帰宅したのは日付が変わってからだった。
疲れ果てた様子でシャワーだけ浴びると倒れこむようにして寝てしまった。
そして、その次の日も。
梨華は暑さで傷みかけたハヤシライスを、捨てた。
- 31 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時24分24秒
「梨華ちゃん、良かったら今日、外で食事しない?」
吉澤がそう誘ってきたのは3日目のこと。
「…え?」
余りに急な誘いに、頭がうまく反応しない。
「先輩に友達来てるって言ったらさ、一緒にご飯しようって事になっちゃって」
それに梨華ちゃんあんまり外に出てないみたいだし、と付け加える。
髪が茶色くなっても、あの頃と変わらない笑顔を浮かべて。
二人きりじゃなくても、吉澤と一緒に居られるなら何でもいい。
これまでのどこか他人行儀な態度は梨華の思い過ごしだったのかもしれない。
「行く。いくいくいく」
梨華の勢いに吉澤は目を丸め、あの頃の笑顔でまた笑った。
- 32 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時26分14秒
「へぇ。幼馴染かぁ」
目の前の女性が微笑みかけた。
梨華は真直ぐに目を見れずに、俯く。
「吉澤、この子かわいすぎ!」
「かーわいいーほんっとかわいいー」
「ちょうだい?ねぇこの子ちょうだい?」
梨華の隣に座る吉澤と、二人の女性。
一人は保田と名乗る吉澤の職場の先輩。
もう一人は、ゆるくカールした艶やかの栗色の髪の。
あの夜、吉澤の頬に手を寄せていた人物。
「梨華、ちゃん。うん、ぴったり」
…嘘つき。
いい加減なこと言って。
膝の上でスカートをぎゅぅっと握り締める。
- 33 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時27分12秒
- 精一杯、お洒落をしたつもりだった。
ピンクのブラウスにフリルのついた真っ白のスカート。
ピンクのリップ。
だが。
この場で梨華は明らかに浮いていた。
保田はTシャツという軽装だったが、梨華の母親が買ってくるような投売りの品でないことは直ぐに見てとれる。
そして栗色の髪の女性も。
テーブルを照らす控え目な照明を受けて、これ以上ないくらい柔らかく笑っている。
シンプルな黒のトップ。くっきりとしたカーブを描いた睫毛。
塗っているか分からないほどの、落ち着いた口紅。
首を傾げる度に、やや鋭角な肩のラインを優しく撫でるように髪が滑る。
肘をつく仕草さえさまになっている。
少し物憂げな、大人の女性。
アヤカさん、と吉澤が紹介した。
- 34 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時28分02秒
それにひきかえ。
自分は何と子どもっぽいのだろう。
どんなに田舎臭く見えることだろう。
恥ずかしい。
出来ることなら忌々しいピンクのリップだけでも今すぐ拭い落としてしまいたい。
かわいいかわいいと連発する二人が恨めしい。
吉澤の顔を、見れない。
不可解だった吉澤の態度の理由が、ようやく解けた気がした。
こんなに綺麗で華やかな人達に囲まれているのだ。
比べるなという方が無理というもの。
心変わりするなという方が無理というもの。
前菜が運ばれてきた。
どれもこれまで味わったことのない、少し複雑な味。
吉澤がいとも軽々と香辛料やバジルの名前を口にする。
また、吉澤と自分との距離を感じる。
- 35 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時29分58秒
- 「あー、私、エスカルゴ好きなんだぁ」
保田が顔を綻ばせた。
エスカルゴ→変換→カタツムリ。
梨華は皿の上の殻をまじまじと見詰める。
引っ繰り返すと、確かにそれは、カタツムリに違いない。
梨華は好きで幾度も観た映画のワンシーンを思い出した。
初めて出されたエスカルゴの食べ方が分からなくて主人公が困ってしまう、というものだ。
ただ笑って観ていたけれど、もっとよく観察しておくべきだったかもしれない。
「梨華ちゃん、こうすればいいんだよ」
梨華の戸惑いを察したのか、吉澤がフォークでするりと中身を取り出してみせる。
取り出してみせて…当然ながら、現れたのはカタツムリだった。
これはカタツムリじゃない、エスカルゴよエスカルゴ。
自分に言い聞かせる。
そう。ただのデンデンムシムシつのだ☆ひろ。
そんなソウルフルなカタツムリなんていやしないけど。
見ると他の三人の皿からはすっかりデンデン達は退場している。
「…苦手?なら無理しなくていいよ」
保田が気遣うように言葉をかける。
「…いえ」
ごめんねデンデン。犬死にさせちゃって。
心の中でそっと手を合わせて口の中に放りこんだ。
ぐにゅ、という感触に慌てて飲み下す。
- 36 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時32分16秒
吉澤の携帯が震えた。
「なぁにぃ吉澤、私に隠れて恋人?」
「いっちょまえにやるじゃん」
揶揄にも動じず吉澤はちょっとすみません、と席を立った。
誰からだろう…。梨華は吉澤の背中を見送る。
「ねぇ、吉澤ってどんな子だった?」
待ってましたとばかりにアヤカが訊ねる。
「すごく…人気ありました。頼り甲斐あって優しくて」
「ええ?あの吉澤がぁ?」
保田とアヤカが顔を見合わせて笑った。
梨華の知らない吉澤を、この二人は知っている。
梨華が持てない吉澤との1年間を、この二人は持っている。
半ば依怙地になって飲み込んだデンデンがお腹の中で恨みのダンスを舞う。
槍だせ角だせデンデン音頭。
チクチクチクと胃と胸が痛む。
- 37 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時33分20秒
「あんたモテモテだったんだって?」
戻ってきた吉澤を保田が早速からかう。
「なぁんですか、それ。あ、梨華ちゃん何か余計な事言ったでしょ」
「え、あ…」
「こらこら」
アヤカが腕を伸ばして梨華の頭を撫でた。
「こんな可愛い子を責めないの」
長くてほっそりとした腕の白さに梨華は目を奪われる。
「ちょっとアヤカさん、あたしの立場はどうなるんですか」
「知らないよ」「知りゃしないね」
「うわっひでっ」
軽口を叩き合う三人。
微かな、疎外感。
アヤカがと保田があれこれと話しかけてくれるが、思うように受け答えが出来ない。
気の利いた台詞ひとつ言えない。
アパートとは対照的によく笑いよく喋る吉澤。
もはや悔しさすら湧かない。
吉澤の楽しそうな表情が、唯一の救いだ。
- 38 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時34分43秒
それなのに。
微妙…な感じ。
終電近い電車に揺られながら、中吊り広告に視線をあてる。
「おいしかった」
「そう?良かった」
「……」
「……」
「保田さんっていい人だね」
「仕事になると厳しいけどね」
ぽつり、ぽつりと細切れの会話。
会話が終わってしまえば二人を繋ぐ最後の糸も切れてしまいそうで、梨華は必死に話題を探す。
レストランでは陽気だった吉澤だが、二人きりになった途端に素っ気無い態度に逆戻り。
拘ってる夢をよっすぃは持ってる。
もっともっと、近付きたいのに。
これなら、離れている方がよっぽど近かったよ。
置きっぱなしだった炭酸水のように。
生温くて後味の悪い空気。
よっすぃの想いは、ほんの少し置き去りにしただけで炭酸が抜けてしまったのかな。
- 39 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時36分24秒
「うーん、なんか、夏って感じ」
駅からアパートまでの道を歩きながら唐突に吉澤が大きく伸びをする。
「蝉とかもいいけど夜の夏って、夏!って感じなんだよねぇ」
そんなことどうでもいいのにと思いながら、そうだね、と相槌を打つ。
いい加減な調子が伝わったのだろう。
吉澤はまた黙りこんだ。
数日前の、母親との会話が甦る。
…そうだよ。来ちゃったんだもん。
こんな宙ぶらりんなんて、もう嫌。
- 40 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時37分11秒
衝動的に、吉澤の腕を強く引っ張った。
ん?と吉澤が振り向く。
目を、瞑った。
永遠にも感じられる空白。
たまらず目を開けようとしたその時。
唇に、柔らかい感触が降りてきた。
柔らかいものは数秒押しつけられて、唐突に去った。
梨華は吉澤を直視できずに地面に目を落とす。
- 41 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月13日(土)00時38分03秒
何回も何十回も交わしてきた吉澤とのキス。
そして。
生まれて初めての、ただ寂しいだけのキス。
もう、帰ろう。
自分のものではないような遠い遠い意識の片隅で、最後の糸が千切れる音を、確かに聞いた。
- 42 名前:物心 投稿日:2002年07月13日(土)00時38分56秒
更新しました。
セクシー8におけるアヤカに目を奪われがちな日々。
>20 名無し読者様
ご期待に添えるか分かりませんが、張り切っていきます。
最近いしよし不足なので、書いて発散させようかと。
>21 ごまべーぐる様
またもやつれない吉澤さん。相変らず甘々が書けない作者です。
どうぞよろしゅうお願いたてまつりつつ、そちらをのぞきのぞきしてます。
- 43 名前:物心 投稿日:2002年07月13日(土)00時39分34秒
- >22 皐月様
はい。いしよしです。他にも登場しますが、基本はいしよしです。
それしか書けないんか自分、と言いたくなりますがいしよしです。
>23 名無し読者様
有り難うございます。今回は余りおふざけ無しでいこうかと思ってます。
自分の文章は余り特徴ないと思っていたのですが…嬉しいです。
ハラハラ、どうでしょう。頑張りますね。
>24 オガマー様
前世は緑板で魚やってました。ほんと、すみません。中途半端なネーミングで…。
何となく気分で、かえちゃいました。
>26 名無し読者様
もちっと待ってくださいね。でも、石川さんの脳内で桃色がかってるだけなので、
実際には大したことないかと思うのですよ、はい。
- 44 名前:オガマー 投稿日:2002年07月13日(土)01時23分11秒
- 更新されてるw
あの女性の正体が…だったなんて(笑)
しかも作者様が師匠だったなんて(まだ呼んでる
- 45 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年07月13日(土)07時53分25秒
- ミツケタ。わぁーい新作だぁ。
今回の作品もmeの心をガシッと掴みました(笑
では、更新がんばってください。
- 46 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月13日(土)16時17分29秒
- いつも気になるところで終わってるのが(・∀・)イイ!!ですね
更新の量もスピードも…
川o・-・)ノ<完璧です
今回石川さんとっても切ないですね…石川さんの苦しさが伝わってきます、はい
この先どうなっちゃうんでしょうか。期待してます。
- 47 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月14日(日)01時53分48秒
- うわあうわありかちゃんかわいそうっっ!
涙出てきそう。(T▽T)
作者さんうまいですな〜。愉しみにしてます。
- 48 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年07月14日(日)14時24分45秒
- いしかーってホントこういう役回りが似合いますよね。
可哀想だけど、読んでる側としては萌えてしまうわけで。
がんがってください。
- 49 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月15日(月)23時40分03秒
- 初めてレスします。
う〜ん、石川さんせつないですね(T_T)
この作品を読むと何故か頭の中で『木綿のハンカチーフ』が流れます(古い?)
『 ただ 都会の絵の具に 染まらないで帰って 染まらないで帰って〜♪』
- 50 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時27分47秒
- 鞄に洋服を丁寧に詰める。
どうせ大した量ではない。
直ぐに作業は終わり、まだ眠りこけている吉澤を見つめる。
「…きちんと話さなきゃ」
自然消滅は嫌だ。
きちんと告げるのだ。
さよなら、と。ありがと、と。
駄々をこねたり恨み言を零すのはやめよう。
少しは…泣いてしまうかもしれないけれど。
こんな事になるなんて、思いもしなかった。
- 51 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時28分51秒
上級生と付き合っているのかと問い詰めた日。
「…どうして梨華ちゃん泣いてるの?」
ただただ唖然としている吉澤。
周囲も公認するところだが、梨華は一旦覚悟を決めてしまえば案外、大胆だ。
こうやって話すのは最後かもしれない。
ならばいっそ、全てぶつけてしまおう。
当って砕けろスイッチ、オン。
「私、死んじゃうかも」
「……は?」
「死んじゃうかもしれない」
「え?なにいってんの?嘘でしょ?」
「…よっすぃのこと好きすぎて」
「……はあッ?」
「好き好き大好きすっごくすっごく好き」
「…ぇええっ?いや、そんな、急に」
実は自分も…なんて都合のいい展開にはならず。
吉澤は心の底から驚いてるようだった。
「私のこと、嫌い?」
「いや、嫌いじゃないけど」
「私が、薄情でろくでもない男の人に引っ掛かってぼろぼろにされた挙句に捨てられて泣いても平気?」
「え…平気じゃないけど」
「他に好きな人いる?」
「……いない、けど」
けど。
その先は聞かなくても分かってる。
- 52 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時29分41秒
- 想いをぶつけるのをずっと夢見てきたのに。
自分の一人相撲だったんだとハッキリ見せつけられればやはり辛い。
「ごめんね」
呟くようにそれだけ言うと梨華は部屋を飛び出した。
つもりだったのに、ドアの角に足の小指をぶつけて引っくり返った。
…これが失恋の痛み?
だとしたら随分ピンポイントに痛い。
吉澤が助け起こしてくれた。
「大丈夫?」
「…」
「イッタそうだね。あ、でも死んじゃうんだもんね。これくらい何でもないか」
「……」
苦笑しながら梨華をベッドに座らせる。
「ほんと、梨華ちゃんには、参るなぁ」
小指の痛みとはまた別の痛みがどんよりと全身に広がった。
「…でも、死なれても困るんで」
隣に腰をおろし、真横から梨華をのぞきこんでくる。
「面倒、みます」
頭の芯が痺れて、血液が発火する。
上擦った声で梨華は宣言した。
「よっすぃー、尽くすわ!よっすぃー」
吉澤が照れながら、ビシリと人差指を立てた。
「まかせて」
- 53 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時31分19秒
こんなに大切な思い出を、こんなに悲しい気持ちで反芻する日がくるとは。
朝起きて吉澤の寝顔を見つめる事をずっと心待ちにしていたけれど。
まさかこんな風に実現するとは。
吉澤が目を覚ませば、別れを告げなければならない。
あれは付き合って3日目の、ぎこちないファーストキス。
冬なのに、吉澤の手は汗で湿っていた。
それは梨華も同じこと。
見詰め合って、照れ臭さに噴き出して、引き寄せられた。
両腕をおそるおそる吉澤の背中にまわす。
圧迫された胸が苦しくて呼吸が荒くなる。
もう限界、の一歩手前で体が解放された。
「…あ」
微かな声が漏れてしまった。
見上げる吉澤の目が細く引き締まり、今度は息が止まるくらいきつく抱き締められた。
怒っているような眼差しと吉澤の腕にこめられた力強さが嬉しかった。
始まりは一方的で強引な展開だったけれど。
キスに慣れていくにつれて「あ…好かれてる…かも」と思う瞬間も増えていった。
たくさん、思い出もできた。
吉澤が撮った梨華の写真は数え切れない。
日記帳の「キスした日にはハートマーク」も増えた。
ここに来てからは、一度も開いていないけれど。
- 54 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時32分40秒
むくり、と吉澤が体を起こした。
枕もとの目覚まし時計と数秒間にらめっこ。
「うあああーっ」
吉澤の負け。時計の圧勝。
猛然と布団をはねのけ、横で呆気にとられている梨華にはお構いなく支度を始める。
「あ、ちょっと、よっすぃ、実はね」
「梨華ちゃんあたしのパスケース知らない?」
「…ごめんわかんない。それで、よっすぃ」
「うえーどこいったー出てこーい」
「あのねよっすぃ、急なんだけど今日で…」
「ああっ!」
「なにっ?」
吉澤がくるりと振り返った。
「今日で思い出した。梨華ちゃん今日暇だよね?」
「…あ、だからそのことでね」
「スタジオ、来ない?」
「え?」
「なんか、どうしても連れて来いって言うんだよね。あたしも全然相手してあげられなくて気になってたし。もし梨華ちゃんが良ければ、だけど」
「…そんな、私なんか行っていいものなの?」
「決まりね。あたし先行ってるから。昼頃おいでよ」
「あの、そうじゃなくて私…」
「わかってるわかってる。だから駅に着いたら電話して。迎えに行く」
- 55 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時34分26秒
- そんじゃいってきまーす、と吉澤はスニーカーを引っ掛けて飛び出して行った。
「今日、帰ろうと、思ったんだけど…」
ま、いっか。
肩から力が抜けていく。
溜息に安堵の色が混じっていることに自分でも苦笑する。
本当は、期待していた。吉澤が止めてくれることを。
まだ、ここにいたい。吉澤の側にいたい。
吉澤の彼女でいたい。
別に止めてくれた訳ではないが、とにかく今日は帰らずに済む。
何より、仕事場に行けて働いている吉澤を見れるのだ。
「なに着ていけばいいんだろ」
梨華は整理したばかりの鞄からありったけの洋服を引っ張りだした。
- 56 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時36分25秒
「ごめんね、待たせちゃって」
予想していなかった人物の登場に、一瞬体が強張る。
「アヤカさん…」
「吉澤、今ちょっと手が離せなくて。待った?」
「いえ、そんなことないです」
「迷わず来れた?」
「大丈夫です…。すみません」
「どうして?」
言葉に詰まった。
直ぐに謝ってしまう癖。
アヤカは特別な意図を持って訊き返したわけではないだろう。
だからこそ余計に意識に突き刺さる。
自己嫌悪の海に顎まで浸っている梨華に気付かず、アヤカが屈託無い笑顔を向ける。
「変な男に声かけられたりしなかった?」
「かけられませんっ」
思わず、尖った声が走った。
驚いたようにアヤカが目を見開く。
「……すみません」
でも、でも、酷いよ。
アヤカのすらりと伸びた背筋を見失わないようにしながら梨華は心の中で呟く。
声なんてかけられるわけないじゃない。
周りの人は皆お洒落で、垢抜けてて、私なんか私なんか。
アヤカさんだってすっごく綺麗で大人っぽくて。
- 57 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時38分01秒
- 若い女二人連れが鋭い一瞥をくれた。
単に通りすがりに目が合っただけかもしれない。
だが、「へーんなかっこ」と嘲られているような気がして身が縮む。
お気に入りだったピンク地にイチゴ柄のトップもデニムの膝丈のスカートも。
今は「裸よりまし」だから着ているだけ。
多分この旅行から帰ったら、二度と袖を通す事はないだろう。
アヤカは人ごみの中をスイスイと歩いていく。
一方、梨華はもう何回目かの「あっ、ごめんなさい」を繰り返す。
梨華の様子に気付いたアヤカが歩調を緩めて隣に並ぶ。
これから行くスタジオは売れっ子カメラマンが個人で構えるスタジオだという事。
保田も吉澤も、そのアシスタントとして働いている事。
特に吉澤は一番の新入りだから、夜も昼もなくこき使われている事。
アヤカは梨華にも分かるように説明しながら、梨華が通行人にぶつかりそうになる度に、さりげなく軌道修正してくれる。
- 58 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時41分27秒
- 大通りから逸れて奥へと進むと、メインストリートの騒騒しさが嘘のような閑静な一帯が広がっていた。
コンクリートの箱、と言いたくなるような建物。
エレベーターで三階にあがり『関係者以外立入り禁止』の張り紙が貼られた分厚い扉を抜ける。
薄闇に、閃光が走る。
優に1,5階分はありそうな高さの室内。
ややアップテンポの音楽が流れている。
細い螺旋状の階段を下りて邪魔にならぬようフロアの後方から撮影を見つめる。
青をバックに、テーブルに飾りつけられた小物や雑貨。
周囲に指示を出しながら盛んにシャッターを切っているのが保田や吉澤のボスであり、スタジオの持主であるカメラマンだろう。
無論、有名だと言われたところで、梨華は顔も名前も知らない。
「今日は人物撮りじゃないから見てても余り面白くないでしょ」
「あ、そんなことないです」
撮影自体にそれほど興味があるわけではない。
たった一人、見られればそれでいいのだから。
- 59 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時43分10秒
そのたった一人を、見つけた。
撮影物に霧吹きで水を軽く吹っかける。
床を伝う照明のコードを揃える。
かと思えば次の瞬間には脚立に上ってライトの具合を確かめる。
飛びまわるようにして動く吉澤は、アパートの気だるい吉澤と同一人物とは思えない。
何かヘマをしたのか、他のスタッフにぽかりと叩かれた吉澤がひょっこりと首を竦めた。
その仕草が可愛らしくて、思わず梨華の頬も緩む。
と、今度は別の方向から怒鳴られている。
「すいませんっ」
威勢のいい謝罪と共に吉澤がまた走る、走る。
…これじゃ疲れるはずだよね。
見ている方が目が回るほどよく動くのだ。
疲れる疲れるとは聞いていたが、実際にこうして目の当たりにすると、深く深く納得がいく。
- 60 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月16日(火)00時46分01秒
- 「ん?吉澤のこと気になる?」
あからさまに視線が吉澤だけを追っている事が、アヤカにばれてしまったらしい。
「えっ…それはやっぱり、友達ですから…」
「あー、それじゃもうちょっと見てる?」
「はぁ」
「私も梨華ちゃんに用があるんだよね」
「用、ですか?」
吉澤はそんな事は一言も口にしていなかった。
「実はさ、吉澤に頼んで梨華ちゃんを呼んでもらったのは私なんだ」
「…え?」
「もったいない」
「はい?」
「うん、もったいないよ、やっぱり」
悪戯を企んでいるような眼でアヤカが笑った。
- 61 名前:物心 投稿日:2002年07月16日(火)00時47分11秒
- 更新しました。
>44 オガマー様
アヤカは完全に作者の趣味です。最近好き…というか気になる存在なんです。
>45 名無しどくしゃ様
そっ、その掴んだ手を離さないように踏ん張りたいと思います。
>46 名無し読者様
有り難うございます。
ザザッとある程度書き垂らしてから区切るので、いつもどこで区切ろうかあたふたします。
- 62 名前:物心 投稿日:2002年07月16日(火)00時49分20秒
- >47 名無しさん様
初めっからこれかい…と自分でも思うんですよ。
しかし、石川さんにも強くなって頂こうかと。
>48 ごまべーぐる様
そうですねぇ。申し訳ないとは思うのですが、幸薄そう、というのはぴったりだなと。
>49 名無し読者様
おほっ?ごめんなさい。その歌は知らないのですが、歌詞はピッタリですね。
まさに、そこらへんも一つのテーマ(?)にしようかと。思っていたのです。
- 63 名前:オガマー 投稿日:2002年07月16日(火)01時27分32秒
- 更新されてるw
アヤカの発言の意味はやっぱり
期待しちゃってよいのかな(謎)
- 64 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月16日(火)02時07分28秒
- アヤカの発言は一体…気になるな。
しかし何よりも。(0^〜^0)の男前っぷりに惚れました。
(/Д\)<キャッ!
次の更新も楽しみにしてます。
- 65 名前:きゃは 投稿日:2002年07月16日(火)16時48分28秒
- もったいない
- 66 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年07月16日(火)20時15分19秒
- ヤンッ小指はイタイ(w
アヤカ…不思議だなぁ、微妙にコワイ。
- 67 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年07月17日(水)02時40分23秒
- アヤカの発言、同じく気になるナリ。
小指激突は何であんなに痛いのだろうか。
あんなちっぽけな存在なのに。
- 68 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時19分24秒
- アヤカに連れて行かれたのは荷物が乱雑に散らばっている部屋だった。
吉澤のショルダーバッグもある。
控え室兼荷物置き場といったところだろう。
「適当に座って」
言われた通り、パイプ椅子に腰掛ける。
アヤカが腰を屈めて顔をじぃっと覗きこむ。
アヤカの手が、頬に伸びてきた。
咄嗟に、顔を引く。
「うん。ちょっと平坦だけど、絶対いい」
満足そうにアヤカが頷いた。
…平坦?絶対いい?
なんだろなんだろなんだろ。
私、何をされちゃうの?
不安そうな梨華を見て、アヤカが微笑んだ。
「変身しちゃおうよ」
- 69 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時20分24秒
「おおおぉーっ」
初めに声をあげたのは保田だった。
「すごい…すっごい」
「でしょ?」
アヤカが胸を張る。
「いや〜、まさかここまでとはねぇ」
「ピンときたのよ。いけるって」
「いや〜、いや〜、ほんと、ほんとに」
「他に何かないの?きれいだよとか可愛いよとか」
さっきまで「どうしてこんな娘がここにいるんだ」と云わんばかりに梨華の存在を軽く無視していた人間達もその変貌ぶりに言葉をなくしてただただ梨華を凝視している。
変身しちゃおうよ、と囁いたアヤカが取り出したのは大きいボックス型の鞄。
幾段かに分かれ、細かく仕切られたボックスの中にはぎっしりと化粧道具やら化粧品が詰まっていた。
「あれ、吉澤に聞いてなかった?私、メイクなんだよね」
言いながらコットンで梨華のリップを拭いとる。
「リラックスリラックス!」
「眉、そろえちゃうね」
「肌きれいだねー。ファンデのノリが違うなぁやっぱり」
「ちょっと陰翳つけてちょっとアクセントつけて」
「ね、これいい香りでしょ?」
梨華が緊張しないようにあれこれと話しかけながらも、手の動きは素早く、無駄がない。
- 70 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時21分21秒
- 「ほら、見てごらん」
渡された手鏡を覗きこんだ梨華は危うく「可愛い」と口にするところだった。
さっきとは別人の自分が、そこにいた。
しっかりと巻かれた睫毛。
淡いオレンジベージュの口紅。
ファンデーションで整えられた肌。
顔全体が締まって見える。
「どうせだから、皆を驚かせちゃおうか」
そう言ってアヤカがどこからか白いワンピースを探し出してきた。
今度は素直に着る。
丈も長いし横も少しぶかぶかだ。
「それがいいの」とアヤカは満足そうに頷く。
結わいていたゴムが外される。
黒い髪がさらりと落ちた。
- 71 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時22分30秒
「よしざわぁ」と呼ぶ声に梨華はハッと顔を上げる。
他の誰より吉澤に、自分のこの姿を見て欲しい。
驚いて欲しい。
そして…繋ぎとめたい。
「なんでそんな隅っこにいんの。ちょっと見てよ梨華ちゃんを」
保田が興奮気味に吉澤を引っ張ってきた。
そっと、反応を窺う。
ニコリと吉澤が笑った。
「あぁ、可愛いんじゃないすか」
空を舞っていた意識が沼底へと突き落とされ引き摺りこまれる。
…可愛くない、と言われた方がまだましだったかもしれない。
そこらへんを散歩している近所の犬を誉めてでもいるような、気のない、社交辞令。
「…なにそれ。そんだけ?」
「え?保田さんこそ何でそんなはしゃいでるんですか」
「いやもっとさぁ、ないわけ?」
「保田さんだって、いやーいやーとかばっかり言ってましたよ」
唇の端を持ち上げるだけの、妙に意地の悪い笑みを残して吉澤が輪から抜ける。
- 72 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時23分32秒
- 一瞬にして冷えかけた空気をほぐすように保田が大袈裟に呻く。
「いつもながら、アヤカ、あんたほんと天才…」
「まぁね。今回のテーマは、透明、なんだよね」
「透明…」
「梨華ちゃんのこーう、まだ何色にも染まってないっていうの?そういう雰囲気を出してみたかったんだけど」
「わかるわかる。あたし色に染めたい、みたいな」
「梨華ちゃん、夜道とこの人には気をつけてね」
「ちょっとアヤカ…」
「ううん、寧ろ夜道のこの人に気をつけてね」
明らかに萎れてしまった梨華に気を遣ってくれているのだろう。
「おいこら保田、さぼるなや」
ややトーンの高い声に保田が飛びあがる。
「すみませんっ」
「こんなとこでくっちゃべってええ身分やないか。アヤカもなんや、今日は予定入っとらんやろ」
保田と吉澤のボスでこのスタジオの主がこちらに近寄ってきた。
何よりもまず、その金髪に目を奪われる。
「なんやこの子」
関西弁の為であろうか。きつい口調に梨華は震えあがる。
「いいでしょぉ。あげないよ」
アヤカは全く臆することなく金髪に軽口を叩く。
「あげないやないわ、ほんまに」
苦笑を返しながら、鋭い一瞥で梨華を居抜く。
目が、笑っていない。
- 73 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時26分40秒
- 「吉澤の友達の、梨華ちゃん」
「へぇ、吉澤の」
「ぴっちぴち女子高生だよ」
「…なんや含みのある言葉やな。まぁええわ。彼女、名前なんだったか、もうちょっと待っとき」
突然話しかけられて、梨華は慌て気味に頷く。
「良かったらこれに座って見てていいよ」
スタッフの一人が親切に椅子を運んできてくれた。
「あ、すみません」
ここに入ってきた時とはまた別の居心地の悪さを感じる。
チラチラと、見られているような見られていないような。
特に幾人かの男の人。
目が合うと逸らされる。
フフッとアヤカが含み笑いを漏らした。
「みんな意識しちゃって」
「はい?」
「んー何でもない。男は単純だねって話」
「…単純?」
それと自分がどう関係あるのか梨華にはさっぱり理解できない。
「梨華ちゃん可愛いから」
「…そんなことないです。でも、有り難うございました」
- 74 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時28分14秒
アヤカと会話、というよりもアヤカの問いに梨華が必要最小限を返す問答を繰り返しているうちに撮影は無事に終了したようで、後片付けが始まっている。
今日は一緒に帰れるのだろうか。
一緒に帰る気があるのだろうか。
忙しく動き回る吉澤をぼんやりと眺めていたから、アヤカに突つかれるまで名前を呼ばれている事に気付かなかった。
「すまんなぁ待たせて」
金髪がタオルで汗を拭いながら手招きしている。
「じゃ、すぐ準備してや」
準備?
「なんや、撮るんやろ」
トル?
「ん?アヤカもそのつもりやったんやろ」
日本語ワカリマセン顔の梨華に、アヤカが説明する。
「折角だから撮ってもらいなよ。こんなチャンス滅多にないよぉ」
それでもまだ日本語ワカリマセンの梨華の背中を、金髪が押す。
促されるがままに青いシートの上に立った途端、うッと小さく叫んでしまった。
ライトが、熱い。眩しい。
まともに目を開けていられない。
「まぶしいけど我慢してや」
してや、と言われても我慢できるものと我慢できないものがある。
- 75 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時29分30秒
- 「フツーでええから」
普通、普通。
だが、この状況自体がもう普通ではない。
普通ではないのに普通を装うのは普通でない。
「気楽に、気楽に」
そう言われると余計に体に力が入る。
「適当に動いて」
自慢じゃないが適当には動けない。
向こう側の人々が自分を注視している。
身の置き所のない、とはまさにこのこと。
「あー、ちょっと直すね」
アヤカが寄ってきて額に浮かぶ汗をガーゼでおさえてくれた。
「緊張してる?」
「…すみません」
「当たり前だよ初めてだしプロじゃないんだし。でも、笑った方が、かわいいかなー梨華ちゃんは」
唇を噛む。
おかしくもないのに笑えない。
そもそも頼んでもいないのに…と情けなくなってくる。
アヤカが、何でもないことのように、囁いた。
「吉澤も見てるよ」
- 76 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時31分31秒
- 「はい、それじゃお願いしまーす」
呆然としている梨華をそのままに、再びシャッターが切られる。
徐々に頭がまわりだす。
見ているのが当たり前。
吉澤にとってはそれが仕事であり、勉強でもあるのだから。
薄闇に目を凝らす。
金髪の傍に控えている吉澤。
突き刺すような、真剣な眼差し。
こんな目を向けられるのはいつ以来だろうか。
これが、最後なら。
やろう、と梨華はぐいと顔をもちあげた。
ライトの眩しさに目が慣れてきている。
せめて吉澤の記憶に、自分の姿を焼きつけておこう。
よくよく考えてみれば吉澤は酷い恋人だ。
勝手に町を出ていったくせにこっちが勝手に訪ねていけばあの態度。
周りにも梨華自身に対してもすっかり友達扱い。
別れたいなら別れたいと言えばいいものを。
勇気がないのか、梨華が切り出すのを待っているのか。
…なんか、最低じゃない。
ぎりっと吉澤を睨みつけた。
吉澤の視線が揺らぐ。
梨華の肝っ玉スイッチが、入った。
- 77 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時33分22秒
「おー、その顔ええやん」
金髪の満更お世辞とも思えぬ賞賛に、視線をカメラに戻す。
ばかばかばかばーかばか。
唱えながら、無理に笑ってみる。
形だけでも笑顔を作ってみたら、次第に本当におかしくなってきた。
よっすぃのばーか。
「なんやぁできるやん。ちょっと髪かきあげて、そう」
弱虫、意気地なし。
「歩いて振り返ってみよか」
アホンダラー。
「じゃ次、しゃがんで」
胸の内で吉澤をけなすと、不思議に、抵抗無くすんなり体が動く。
羞恥心はいつのまにかどこかに吹っ飛んでいた。
無我夢中。
もしかしたら途中からは吉澤のことすら頭になかったかもしれない。
「オッケ!これくらいにしとこか」
金髪の声で我に返った時には、汗で背中にワンピースの生地がはりついていた。
- 78 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時34分33秒
「良かったじゃん、撮ってもらえて」
「うん」
吉澤の口調に僅かな険が含まれていると思ったのは気のせいだろうか。
軽い食事をしている間も帰ってからも、吉澤はこれまでとはまた違う負のオーラを漂わせている。
「なんか気に入られてたみたいだし」
「折角だからって言ってたよ」
「そんな、町の写真屋じゃないんだから。わざわざセッティングしてさ」
「…そうなの」
「寺田さんものってたみたいだし」
「…そうかな」
「そうだよ」
「でも、嬉しかった」
「はぁ?何が?撮ってもらったのが?」
「だってプロの人にきちんと撮ってもらうなんてもう無いかもしれないじゃない」
今度ははっきりと吉澤の目許に、苛立ちの気配。
何か言いかけて、不機嫌そうに口を引き結ぶ。
- 79 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時35分45秒
- 沈黙を狙っていたかのようにタイミング良く携帯の着信音が割りこんできた。
「もしもし。あ、どうも。はい。大丈夫です」
吉澤がチラリと梨華を見て、さりげなく台所に立った。
背後から聞こえてくる吉澤のやや押し殺した声。
「いえ、そんなことないです」
「こっちこそ、急にすいませんでした」
「……心配、ですか?」
歯を食い縛る。
聞きたくない。
知りたくない。
打って変わって弾んだ声音を。その理由を。
…アホンダラー。
唱えてみるが、今度は効き目がない。
「また、電話しますから」
立ったついでにコップに麦茶を注いだ吉澤が戻ってくる。
微かに上気した頬が電話の余韻を物語る。
「ごめんね。友達からだった」
- 80 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時38分01秒
嘘つき。
喚きたかった。
少し前だったら喚いていただろう。
しかし、今はただ頷くだけ。
同時に胸の内で苦笑する。
だってよっすぃ、友達に敬語なんか使う?
誤魔化せていると思っている所が吉澤らしい。
恐らく、年上の、恋人?
まだ恋人ではないかもしれない。
だが、少なくとも友人ではない。
それくらいわか…
思考半ばで今度は梨華の携帯が鳴る。
かかってくる人物なんて一人しかいない。
画面を確認せずに通話ボタンを押す。
「もしもしッ?」
『……』
「しつこいなぁ。わかってるよもぅ」
『……』
「お母さんっ?」
『………子ども産んだ覚えはないんだけど』
「あれ……保田さん?ですか?」
吉澤がぴくりと反応した。
「すみません…。母からだと思って」
『電話したのも初めてなんだけど』
「…すみません」
保田の声は完全にいじけっこ化している。
- 81 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時40分25秒
- 「あ、よっすぃなら」
『違う違う。梨華ちゃんに用事なの』
「私にですか?」
『うん。ちょっと頼みがあるんだけど』
「はぁ…」
取り敢えず明日会えない?という保田。
時間と場所を決めて電話を切った。
「…保田さん、なんだって」
「よく分からないけど、お願いがあるんだって」
「お願いってなに」
「知らないよ」
「っていうか何で保田さん番号知ってんの」
「帰りがけに訊かれたから」
「はぁ?それじゃ訊かれたら梨華ちゃんは誰にでも教えちゃうんだ」
「…そうじゃないけど」
「そういうことじゃん。どうせ他の人にも教えたんでしょ」
「なに言ってるの?」
自然と梨華も激してくる。
売り言葉に買い言葉にはたまた売り言葉。
「よっすぃの先輩なんだよ?断れるわけないじゃない」
「なんでそこにあたしが出てくんの?教えたくて教えたんでしょ?」
「どうしてそうなるの」
「ほらやっぱり。違うって言い切れないじゃん」
「もう知らない。勝手にそう思っとけば?よっすぃには関係ない」
- 82 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月19日(金)00時42分09秒
幕を引くように、吉澤から表情が消えた。
「まぁね、そりゃそうだね」
「……」
「もう寝よっか。梨華ちゃんには明日もあるし」
カッとなって言い返そうとしたその時。
吉澤が部屋の電気を消した。
カーテンを通して微かに外灯の光がもれてくる室内。
矛先を失った怒りの炎がしつこくくすぶって、梨華の胸を焦がした。
- 83 名前:物心 投稿日:2002年07月19日(金)00時45分24秒
更新しました。
夏がくれば思い出す、遥かな尾瀬、遠い空。
ぶつけたときだけ思い出す、小さな指、足の爪。 お粗末様でした。
>63 オガマー様
蓋を開けてみればこんなもんです。すみません妙な期待を抱かせてしまって。
最新の番外編、弛みきった顔で読ませて頂いてます。
>64 名無し読者様
男っぷりがいいのに可愛らしい吉澤さんが好きでして。
いしよし好きなんですけど、最初にはまったのは吉澤さんでして。
>65 きゃは様
???なにが、でしょうか???
>66 名無しどくしゃ様
自分も書きながら全く意味無く痛かったです。ヤンッ
>67 ごまべーぐる様
ぶつけて猛烈に痛いのに、なぜか「うぅッ…自分、生きてるなぁ」としみじみ思ったりして。
なんでしょう、脳波乱れますよねあれは。
- 84 名前:物心 投稿日:2002年07月19日(金)00時46分40秒
- 訂正です。
72:梨華を居抜く→梨華を射貫く。
居抜いてどーする。すみません。
- 85 名前:青春万歳 投稿日:2002年07月19日(金)01時27分05秒
- 小説に胸キュン
作者レスに腹筋ピクン
楽しませていただいてます。
- 86 名前:オガマー 投稿日:2002年07月19日(金)02時18分22秒
- いえ、期待通りの展開ですたw
○○が切ない微妙な感じ〜♪(一応伏せてw
- 87 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年07月19日(金)12時45分14秒
- ちょとシリアスっぽいスネ。
こ、この先どうなるのか…キタイ期待。
ヤケクソぎみの梨華ちゃんが良かったでし(笑
- 88 名前:名無しさん 投稿日:2002年07月20日(土)00時48分41秒
- …この苗字からすると、あの人は○○○♂さんなんだね…。フムー
作者さん、あいかわらずセリフのキレが最高!
これに慣れちゃうとほかの娘。小説読むのに支障が出るくらい…(w
展開にもカナーリ引き込まれてます。
- 89 名前:88 投稿日:2002年07月20日(土)00時51分48秒
- あげちゃった…ごめんなさいっ。(T_T)
- 90 名前:姫子 投稿日:2002年07月20日(土)01時30分34秒
- そろそろよっすーの本心が知りたいわー。
関西弁の人が出てくると無条件でなかざーさんだと思ってしまう癖を直そう。
寺田さんだったのねー。
- 91 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月20日(土)22時53分04秒
- ムキになる石川がいいですね、特徴でてます。
あとまだ全然読めないよっすが気になるなぁ…
続き期待してます!
- 92 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時09分47秒
「ありゃー、ひどい顔」
保田の第一声。
そんなにひどいだろうかと眼の下の膨らみをそっと押える。
元々、眠りは浅いほうだ。
どうにか寝ついたのは、明け方近く。
だが、吉澤が準備をする物音にまた眼が覚めてしまった。
喧嘩の気まずさを引きずったまま保田に会うのは気が進まなかったが、吉澤の先輩だと思えば無碍にもできない。
教えたくて教えたんでしょ、という吉澤の台詞が甦る。
そんな意地悪を言う人じゃなかったのに。
昨日は単純に腹立たしいだけだったが、一夜明けて残ったのは寂莫とした空隙。
「今日はお仕事、ないんですか?」
「うん。ひっさしぶりのお休み。呼び出してごめんね」
「いえ、私も暇でしたから」
そうは言うものの、どうも落ち着かない。
ある駅前で待ち合わせをしてから保田に連れて行かれたのは大きな通り沿いのオープンカフェ。
直ぐ傍を通行人が行き交うのも落ち着かなければウェイターの態度も落ち着かない。
物腰が丁寧なのにもほどがある。
- 93 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時12分17秒
「ひしゃたいですか」
保田が切り出した「用事」は、想像もしていなかったことだった。
「そう、被写体。手っ取り早く言えばモデル」
規模は小さく歴史も浅いが新進のカメラマンを輩出している写真コンテスト。
毎年保田も応募しているが今年は人物に挑戦してみたい。
その被写体になって欲しい、と。そういうことらしい。
「無理です、私なんて」
「大丈夫だって。広告じゃないんだから軽い気持ちで」
「だからって…そんな」
「この子しかいないって思ったんだよね。いいもの撮れるって確信したの」
熱っぽい調子で保田が身を乗り出す。
梨華は返答に詰まって視線を落とした。
「あ、それ…」
テーブルの上に乗せられた紙袋から写真集がのぞいている。
「知ってますよ。たまにテレビ出てる人ですよね」
自身もモデルになれそうな、若い女性カメラマン。
ニュースでインタビューを受けているのを見たことがある。
年齢は保田と大して変わらないだろう。
- 94 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時13分16秒
「ああ、うん、まぁ」
保田がさりげなく写真集を袋に押し戻した。
やけに歯切れの悪い口調。
「すごく綺麗な人ですよね、写真のことは全然分からないけど」
保田の反応は気になったが、被写体になる話を押しきられても困るので、梨華は必死に言葉を継いだ。
「……裏切り者よ」
ぼそりと保田が吐き出した。
「え…」
言葉を失う。
澄んだ眼と、短い髪の毛。
伸ばさないのですかと訊かれて「撮る時に長いと邪魔なんです」と、確かそんな風に答えていた。
ストイックな雰囲気が印象的だった。
ほんの少しだけ吉澤に似ている気もした。
だから、覚えていた。
あのカメラマンは保田の知り合いなのだろうか。
裏切り者。
並の知り合いに捧げる言葉ではあるまい。
- 95 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時15分32秒
「それで、いつまでこっちにいられるの?」
空気を断ち切るように、保田が訊ねた。
「えーと、実は決めてないんです」
「ずっと吉澤の家に?」
「はい。でも…ちょっと迷惑がられてる、かな」
相談しようという意図があったわけではない。
ただ、なぜか抵抗なく、するりと言葉が滑り落ちた。
「よっすぃ疲れてるみたいだし、そろそろ帰ろうかな、って思ってたんです」
「そうなんだ」
「お仕事忙しくて遊べないし話もできないし」
「確かに忙しいは忙しいね」
「あ、でもよっすぃは全然悪くないんですよ。電話もしないで私が押しかけちゃったんです」
「そっか」
淡々と、保田は相槌を打つ。
…ああ、私、寂しかったんだ。
誰かに聞いてもらいたかったんだ。
- 96 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時16分58秒
「…あのさぁ、もし、だけど。吉澤の所に居辛くなったら、うちにおいで」
「あ、そんなつもりじゃ」
「まぁそれはそれで梨華ちゃんのことだから遠慮しちゃうだろうけど、話し相手がいたら私も嬉しいし、友達よく泊めてるから全く問題無し」
吉澤の部屋より広いしね、と付け足す。
優しさが、眼に沁みる。
ゆらりと目の前の保田がぼやける。
「うわっ。ちょっ、ええー?」
保田の慌てっぷりがおかしくて、笑ってみた。
うまく笑えたから今度は声を出して笑ってみた。
「…笑いながら泣くなんて意外に器用なことするじゃない」
周囲を気にしながら恨めしそうにおしぼりを差しだす。
「保田さん、それでさっき鼻かんでませんでした?」
「いいのよいいのよ」
「私がよくないんですけど」
もう何年も、こんな風に人と話していなかったように思える。
- 97 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時18分11秒
- 「で、吉澤のことなんだけど」
「はい」
「私の知ってる吉澤は明るくて頑張り屋で、いつも笑っててさ。人に嫌な顔を見せたりしないし」
「そういう人だと、思います」
「だからって辛くないわけないと思うんだよね。きつい仕事だし人間関係も色々あるし、一人になりたい時もある…っていうのかな、多分、今はそういう時期なのかもしれない」
「…はい」
それだけじゃないんです、とは言えなかった。
吉澤は梨華を幼馴染として紹介しているのだから。
ここで笑いに紛らわせて、
「私が邪魔になっちゃったみたいなんです」
と言えたらどれだけ楽になることだろう。
「だけどさ、何かあったら遠慮せずうちにおいで。何ならアヤカも呼ぶし。うちは気がねとか一切要らないから。寝る時は一人だったのに朝起きたら三人になってる事もあるし」
「朝起きたら、三人…」
なぜか頭に浮かんだのは三人の保田が並んで寝ているの図。
ポケットの中のビスケットじゃあるまいし…。
頭を振って保田三人前を追いだす。
- 98 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時21分44秒
- 「ありがとうございます。嬉しいです」
保田の優しさが素直に嬉しい。
そしてそれとはまた別に。
被写体になってほしいという申し出は、そう悪くないかもしれない。
吉澤のそばにいたい。
だが、そばにいると辛い。
家に戻る時が別れる時。
別れたくない。
まだどこかで、奇跡を望んでいる。
…保田の被写体になれば。
ここにいる理由が、できる。
「それじゃ何かあったらお電話してもいいですか」
真直ぐに保田を見つめた。
逆光でもあたったのか、保田は幾度か目を瞬かせ、それでも柔らかく微笑んだ。
- 99 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時22分50秒
その日は珍しく吉澤の帰りが早かった。
保田とすっかり話しこんで戻ってみると、アパートの灯りがともっている。
なぜか少しだけ、後ろめたい気持ちになる。
「ただいま」
「…おかえり」
昨夜の喧嘩をまだ引きずっているのだろうか。
吉澤の声音が重い。
「ご飯は」
「保田さんと食べてきちゃった」
「お風呂は」
「……入ってきてるわけないじゃない」
「あ、そ」
吉澤の物言いにむっとしながら手早くシャワーを浴びる。
苛立ち任せにがしがしと髪を洗い、体を洗う。
もう何かあるかもなんて期待は抱いていない。
だから、ユニットバスのドアの向こうに突っ立っている吉澤と眼が合った瞬間、思わず「ひっ」と息をのんだ。
「なに怯えてんの」
「なっ、そんなところにいたら誰だって吃驚するよっ」
「それだけ?」
「……ねぇ、何が言いたいの?」
そんな暗い眼差しで。
あの頃には決して見せなかった眼差しで。
「別に、何も」
背を向けた吉澤の腕を咄嗟に掴む。
「別に、じゃないでしょう」
掴んだ箇所から緊迫が微電流のように流れ込んでくる。
自分が、どうにか平衡を保っていた何かを揺らしてしまった事に気付く。
倒壊寸前。
もう後戻りは出来ない。
- 100 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時23分48秒
「保田さんと食事したこと怒ってるの?」
「…んなわけないじゃん」
「そうだよね。私がどこで誰と何してようが関係ないんだもんね」
「…」
「もう興味もないんでしょ」
「…」
「本当は早く帰って欲しいって思ってるんでしょ」
「…あのさ、あたし疲れてるんだよね。そういう話は」
「私だって疲れたよッ」
私を止めて。
「ここに来てからずっと不機嫌な顔されてろくに話もしてくれなくて、それなのに他の人といるときは普通に明るくてっ」
止めてよ、よっすぃ。お願い。
「他に好きな人できたんでしょ?私は要らなくなっちゃったんでしょ?気付いてないとでも思ってたの?」
ねぇ、知ってた?
「はっきり言えばいいじゃない。別れたいって。もう好きじゃないって」
私達、まともに向かい合うのは喧嘩してる時だけ、だね。
「言ってよッ」
さよならって。
私、意地悪だから自分からさよならなんて言えないもん。
「……来なきゃよかったよ」
- 101 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時25分49秒
吉澤の腕を、解放した。
垂らされた前髪の奥に何が灯っているのか、梨華にはわからない。
「私、ここ出ていくね」
「……いつ」
「今から」
「…行くとこないくせに」
「保田さんの所に行く」
「なッ……」
「心配しないで。迷惑かけないように気をつけるから」
吉澤の横をすり抜ける。
ハンガーにかけてあった洋服を乱暴に畳む。
携帯の充電器のコンセントを抜く。
部屋から少しづつ自分の痕跡を消していく。
もう止めて欲しいとも思わなかった。
何も答えないことが吉澤の答え。
止めてもらったとしても、二人の間に何が残るだろう?
また、同じような気まずい時間と空気?
保田に会いたいと思った。
何も考えずにすむ、日常の空気に浸りたかった。
昼間のように笑いたかった。
- 102 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時26分54秒
急いで詰めこんだ為にぱんぱんに膨らんだ鞄を抱える。
吉澤は止めようともせず、かと言ってどこうともせず、ただ同じ場所に同じ姿勢で突っ立っている。
この体を思いっきり抱き締める事ができたらどんなにいいだろう。
背中に縋りつけたらどんなにいいだろう。
逃げたいと思いながらも噴き出すこの想いは何だろう。
圧倒的な誘惑に梨華の動きがほんの一瞬だけ、停止する。
「…それじゃね。色々ありがとう」
勢いを増した夜の熱気が、夏の深まりを告げている。
シャワーを浴びたばかりの肌を上塗りするように汗が浮かぶ。
ドアを閉め、鍵をかける。
預かっていた合鍵。
出て行く時になってもなお、決定的な言葉を口にしなかった自分が情けない。
- 103 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月22日(月)21時28分43秒
ティッシュに鍵を丁寧にくるみ、階下に設置してあるポストに落とす。
コン、という鈍い音が、終わりのゴングなのだろうか。
もう疲れ果てて涙も出ない。
皮膚にまとわりつく湿気に足をとられて、よろける。
吉澤にKOされたのか。
それとも自分で自分にタオルを投げたのか。
惰性だけで体を前に運びながら、物憂く携帯を引っ張りだす。
コール3回。
「もしもし。石川梨華です。夜遅くにすみません。あの……今日、泊めて頂けませんか?」
- 104 名前:物心 投稿日:2002年07月22日(月)21時29分45秒
ちょび更新しました。
>85 青春万歳様
なんと素晴らしく直球のHN(?)でしょう。
青春万歳。青春に乾杯。青春に完敗。しまった。ネガティブ石川が乗り移った。
>86 オガマー様
伏字のところがわからない…。ナンダロナンダロオロオロオタオタ。
えーっとえーっとえーっと、あはははははは(笑とけ笑とけ)
>87 名無しどくしゃ様
有り難うございます。あくまでちょっとだけ、で、シリアスになりきれない。
なんか、書いてて照れちゃうんです。ヨワムシー。
- 105 名前:物心 投稿日:2002年07月22日(月)21時30分23秒
- >88&89 名無しさん様
金髪で関西弁の人が他にもいると気付いた時には既に遅し。
想像にまかせちゃおうかな…なんて逃げ腰になってみたりしてました。
それから、age、sageはそんなに拘ってないんです。
自分であげるのも気恥ずかしいんでsageよう、程度のものなんです。
こちらこそすみません、紛らわしくて。
>90 姫子様
いえいえ。寧ろ自分が、関西弁の人は中澤さんの可能性が強いという事を認識すべきでした。
えーいここで叫んでしまえ。寺田さんでーす寺田さんでーす。
>91 名無し読者様
またもや二人が遠のいてしまいました。特徴出てますか?嬉しいです。
本気スイッチ入った石川さんは書いてて楽しいんです。
- 106 名前:オガマー 投稿日:2002年07月22日(月)21時46分34秒
- 伏字は、梨華たんじゃない方の方だと思われ…
と、僕はよんでいるのですか。
切ないー、たぶんなぁー、ヨシはああゆう理由で…
勝手に想像w
- 107 名前:j 投稿日:2002年07月23日(火)00時18分07秒
- 前の作品も好きで、本作もずっとROMしています。
しっかし、07月22日更新分は・・・すごいっす。
思わず唸ってしまいました。文才がある人っていいなぁ。
暑い日が続きそうですが、お体に気をつけて、
がんばってください。
- 108 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月23日(火)01時03分38秒
- 同じく、すごいっす…
が第一声(w
ほんとに話の中に自然と引き込まれると言うか…作者さんの文章は本当に大好きです。
ほんと切ないですねぇ…
続きも期待しております。がんがってくださいね。
- 109 名前:ten 投稿日:2002年07月23日(火)02時45分48秒
- 同じく同じく、すごいっす…
前作もずっと読ませていただいてました。
前作とはまた違った、引き締まった感じの(上手く表せませんが)文章が
すごく好きです。
がんがってください。としか言えないのですが…
この先も楽しみにしています。
- 110 名前:クロイツ 投稿日:2002年07月23日(火)10時08分44秒
- はじめましてー!最初からイッキに読んでしまいました☆
本当はROMってるだけにしよーと思っていたのですが・・・
「保田三人前」の文字を見て、書き込まずにはいられなくなってしまいました。
本当に本当に面白いです!更新、楽しみにしてますね!!
- 111 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年07月23日(火)10時15分21秒
- アララついに…なんか、ふたりの疲れがこちらにも伝わってきました。
作者様のコダワリ(?)みたいな所がイイんだなぁ。
他にはまったく無い感じがイイんデス。
- 112 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時01分04秒
「すみません、は、ナシだよ」
保田がよく冷えたお茶を運んできた。
「…はい」
二人して同時にお茶を啜る。
「なんだか……愉快な味ですね」
「ああ、どくだみ茶。体にいいんだ」
またもやひとしきり愉快などくだみ茶を啜る。
「首を突っ込む気はないけど」
保田がテーブルの上にコップを置いた。
「仲直りはちゃんとしなきゃね」
「…どうして…」
「喧嘩したってわかるのかって?」
「…はい」
「だって、これ」
梨華の髪先を指で弾く。
「まだ、濡れてる」
「……」
「言い合いになって飛び出してきた。違う?」
夜に濡れた髪で泊めてくれと頼みこんでくる人間のたどった経過くらい、保田ならずとも容易に想像がつく。
「…言い合いにもなりませんでした。私が一方的に怒って、それで」
「飛び出してきた、と」
「…はい、す」
「ストップ!だから、すみませんはナシだってば」
- 113 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時03分00秒
来て良かった、と思った。
泡立った心が少しづつ落ち着きを取り戻していく。
「夏休みの間だったら、うちにはいつまでいたっていいよ」
感謝の気持ちをどう伝えていいのか分からない。
梨華は黙って、頭を下げた。
「でも、仲直りしてから帰ろうね」
「……」
「大切な幼馴染なんでしょ?」
幼馴染。
恋人とは言えなくなった今、やはり幼馴染に戻るのだろうか。
それとも最早、幼馴染というポジションすら失ってしまったのだろうか。
同級生?ご近所さん?……元彼女?
これからは自分の中で吉澤をどう位置付ければいいのだろう。
吉澤の家よりフワフワした布団で、冷房の効いた部屋で、吉澤のアパートより数段快適な筈なのに、いざ横になると思いが乱れる。
…よっすぃ、何してるのかな。
鍵には気付いたかな。
ポストに入れるなんてちょっと無用心だったかもしれない。
梨華のその日最後の思考は、保田さん寝るときネグリジェなんだ…、で途切れた。
- 114 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時04分08秒
1,2,3,4,5,6。
6か…。
そっか、6か。6ってことは6本か…。
うまく開かない瞼の奥から夢うつつに確認する。
私と、保田さんと、もう一人で6本だから合ってるな…。
…合ってるかな?
うん、合ってるよね…。
しかし、どうもしっくりこない。
何かが根本的におかしい気がしないでもない。
ありったけの意志の力でもって頭を働かせようとする。
吉澤のアパートを飛び出して保田の所に転がりこんだ。
お茶を飲んで喋ってそのうち眠くなって。
そこまでは、いい。そこからも、何ら不審な点はない。
だが、今は何かがおかしい。
そう。寝る時は、二人だったはずなのに。
足が、6本。
…ポケットの中の保田さん?
頭がまわらない割にはどうしようもない事が浮かぶ。
ぽんと叩いたら保田がふたつ。
やはり、有り得ない。
と、なれば。
- 115 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時07分28秒
- 半身を起こす。
頭がふたつ。
保田の頭と、保田ではない頭。
さも当たり前のように、マットに寝ている保田と布団に寝ている梨華の間に割り込んでいる。
枕に顔の横半分を埋め実に安らかな寝息。
いや、枕ではない。
「私の鞄…」
膨らみ具合が丁度良かったのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
起きぬけだろうがなんだろうが、この状況にあって考えることはひとつだけ。
……誰?
「おーはーよーう」
保田が身をおこす。必然的に真ん中の人物に視線がいく。
「…あぁ」
気のない風に呻くと、再び保田の頭部が枕に沈んだ。
「あっ、保田さん、保田さん」
ここで二度寝されてはかなわない。
声を潜めて必死に呼びかける。
「なに」
梨華のもの問いたげな視線をようやく保田も理解したらしい。
「…あぁ、これ?」
足で不審人物の背中を突つく。
「気にしないで。猫みたいなもんだから」
「はぁ…」
- 116 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時09分44秒
- 熟睡しているのをいいことに、図体のでかい猫をこっそりと観察する。
足を折り曲げ、丸くなっていてもその際立ったスタイルの良さは隠せない。
猫は猫でもそこいらで喧嘩しているタマとかブチとかいった猫ではない。
かと言って、高級感たっぷりのペルシャやシャム、でもない。
「梨華ちゃん今日は予定ないんだよね?」
今日じゃなくとも予定はない。
帰る、という以外の予定は。
「そんじゃ今夜はぱっとやろうよ。アヤカも呼んでさ」
にこやかに微笑みながら保田が猫人間の鼻をつまんだ。
猫人間の眉間に皺が寄り、やがてパカッと口が開く。
「台所は適当に使っていいから。予備の鍵、後で渡すね」
言いながら、もう片方の手で猫人間の口をしっかりと塞いだ。
「一応買い置きは色々あるけど」
猫人間の瞼が開いた。
じたばたともがき苦しみだす。
「おつまみとかはこっちで買ってくるから。何か嫌いなものある?」
- 117 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時10分54秒
- 猫人間のこめかみに赤い筋が浮いたところで、ようやく保田は手を離した。
ガホッ、と、のっぴきならぬ呻き声と共に、猫人間が命の酸素を思う存分吸いこむ。
「…ひとっ…ごろしぃ」
「住居不法侵入」
冷たく突き放す保田。
「ちゃん…と、鍵使って、入った…」
「窃盗」
梨華はただ呆然と保田と猫人間の命がけのやり取りを見物する。
「誰、この子」
ようやく生き心地がついたのか、猫人間がまじまじと梨華を凝視した。
「うちの吉澤、あんた会ったことあるでしょ。あの吉澤の幼馴染の、梨華ちゃん」
「ふぅん」
大して興味がありそうにも見えない。
「驚かせてごめんね梨華ちゃん。この犯罪者は、ご」
保田がいいかけたところで、猫人間がすっくり立ち上がった。
「ねぇ、圭ちゃん」
フッ、と鼻で笑う。
「同じ写真集ばっか買ってないで、枕買ってよ」
保田の頬に赤味がさす。
「この鞄、寝心地悪くて首が痛くなった」
「……」
「おまけに趣味悪いから嫌な夢見た」
「……」「…」
私の鞄です、なんてもう言い出せない。
梨華はしょんぼりと悪夢を呼ぶ鞄に視線を落とした。
- 118 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時11分59秒
「ふぅん、それからどうしたの?」
「どうしたもこうしたも、追い出したわよ。あ、どもどもども」
追い出したのは保田であり、追い出されたのは猫人間であり、最後の「どもどもども」はグラスになみなみとワインを注いだアヤカに向けられている。
「まぁでも、いつものことじゃん」
「だから毎回怒ってるけど」
「いくら口では怒ってみせたって、本当は怒ってないってわかってるんだよ」
アヤカと保田がビールとワイン、梨華はオレンジジュース。
二人のグラスに揺れる濃厚な赤が、大人の証。
果汁10%未満の安っぽいオレンジ色が、縮められない距離の証。
「あいつもせめて連絡してから来りゃいいのに。ほんっとに気紛れな奴」
「んーまぁ、あの子にとってはここが隠れ家みたいなものだから」
「それにしたって勝手に合鍵まで作ってさ」
「元はと言えば、甘やかした圭ちゃんが悪い」
「だってあのまま放っておいたら…」
「放っておいたら何だっていうの?」
「…随分冷たいじゃん」
アヤカが梨華の方を少し気にしてトーンを落とした。
「あのねぇ、どうにかしてあげたいって気持ちはわかるけど、度を過ぎるとあの子の為によくないよ。優しくされるのって、癖になるから」
- 119 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時14分12秒
優しくされるのは、癖になる。
そうかもしれない。
自分に向けられた言葉ではないが、胸に突き刺さる。
吉澤の優しさに、知らないうちに溺れきっていたのかもしれない。
責めれば謝ってくれる。
拗ねればやんわりとご機嫌をとってくれる。
泣けば静かに慰めてくれる。
『会いたいよぉ』
『うーん、ごめんね』
『もう、よっすぃのバカ』
『うん。ごめん』
決まり事のように、電話をする度に繰り返されるやり取り。
ただこれだけの会話も、吉澤にとっては負担だったかもしれない。
肩に寄りかかってくる梨華の重みに嫌気が差したのかもしれない。
そして自分はと言えば、こうして保田に頼っている。
- 120 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時15分12秒
どちらにせよ、自分が聞いていい話でもなさそうだ。
梨華は、部屋の中央にかかっているコルクボードを眺めた。
保田が撮ったらしき写真が一面に貼られている。
その中の一枚に眼を吸い寄せられる。
昼間からもう何度も何度も見ているのに、やはり見てしまう。
スタジオの、風景。
吉澤がふざけてアヤカの手を掴み噛みつこうとしている。
アヤカの顔は切れていて窺えないが、その手は安心しきったように吉澤に委ねられている。
「気になる?」
「…はい」
「あらら、素直だね」
だって保田さんだから、とは、流石に照れ臭くて言えなかった。
「アヤカさんは?」
「お酒買いに行った」
「…まだ飲むんですか?」
「飲みます。駄目ですか」
「…いえ、別に、そんなことは」
まさか酔ってる?
困惑を気取られぬようにボードの前から離れようとした梨華の掌に、何かが乗せられた。
「ほい、これ」
何の変哲も無い茶色の封筒。
「吉澤から」
- 121 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時16分07秒
- 余りの不意打ちに、ぼんやりと封筒を眺める。
脳が「ヨシザワ」を「吉澤」と解析するまでに数秒。
破るようにして封筒を開ける。
「え…」
手紙どころかメモの一枚も添えられてはいない。
ただ、ひとつだけ。
奥の奥に、小さいけれど確かな重みを持つ塊。
ポストに落としてきた筈の、アパートの合鍵。
「あの…何か、言ってました?」
「ううん。これ梨華ちゃんに渡しておいて下さい、ってそれだけ」
「そうですか…」
「吉澤も後悔してるんじゃないかな」
「…」
「電話してみる?」
首を振った。
吉澤の意図が分からなかった。
帰ってこい、ということだろうか。
それとも単に、念の為持っておけということだろうか。
温度を持たない鍵からは何も見えてこない。
吉澤の優しさも、後悔も、同情も、なにひとつ。
もう、期待するのは嫌だった。
- 122 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時17分04秒
「おっまったっせー、って、あれ…?」
場違いにご陽気な声と共にアヤカが戻ってきた。
「あれ?あれあれあれあれ?」
「何よあんた、あれあれあれあれと」
「もしかして圭ちゃん…」
「…なに」
「今、梨華ちゃん口説いてた?」
「……アヤカ、覚悟の上のセリフでしょうね」
酔っていた。二人は単なる、しかし確実なる酔っ払いだった。
そして悪乗り合戦が始まる。
保田が飛ぶ。アヤカが跳ねる。
保田が投げる。アヤカが避ける。
保田が空ける。アヤカが乾す。
保田が吐く。梨華がさする。
しまいにはアヤカも吐きだして、梨華はキリキリ舞い。
「あー、もう当分酒は見たくない」
「わたしも…。元はと言えばアヤカが変な事言うから」
宴のあとは常に虚しい。
- 123 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時19分11秒
ところが。
「ほらねー、同伴出勤」
翌々日、保田にくっついてスタジオに足を踏み入れた途端、高らかにアヤカが叫んだ。
「…なんだよ保田、どういうことだよ保田」
「なんでお前が先輩の俺を差し置いて」
「どうしてお前が石川さんと」
あながち冗談とも思えぬ口ぶりで、スタジオの男連中が保田に詰め寄る。
「あの、ちょっと事情があって私の方から保田さんの家にお邪魔して…」
梨華がおずおずと弁解する。
「先輩!梨華ちゃんに妙な真似したらこの保田が黙ってませんから」
ビシリと保田が決める。
俺も保田として生を享ければ良かった…などと本末転倒の嘆きを洩らしつつ、スタッフが散っていく。
「おー、石川、やったっけ」
書類を手にした寺田が話しかけてきた。
「早かったなぁ」
「あの、この前は本当に有り難うございました」
「いやいや、こっちこそええもん撮らせてもろて。あ、写真な、後でゆっくり見せたるから、ちょっとそこらで待っといて」
- 124 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時20分32秒
言われた通り、邪魔にならぬよう隅に寄りながら目線だけで吉澤を探す。
いた。
相変らず身軽に動きまわっている。
先輩が何か冗談を言ったのか、手を叩いて笑っている。
そこには一片の翳りも見つけられない。
やっぱり、早く来なければ良かった。
梨華は予想以上に打撃を受けている自分に気付く。
撮った写真を見に来るようにと寺田から指定された時間の3時間前。
保田の出勤時間に合わせて一緒についていった。
自分一人では迷ってしまう、という理由もあるにはあるが。
ここに来てから吉澤によって受けた傷が切り傷なら、あの日の傷は擦り傷。
じわりじわりと血が滲み、しつこく鈍い痛みが体を重くする。
もう大丈夫、と思って傷口に触れると、固まりかけていたかさぶたがずるりと剥ける。
剥けたら痛いと分かりきっているのに、やはり触れずにはいられない。
- 125 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時24分16秒
これ以上吉澤を見つめていると傷口が化膿してしまいそうだ。
梨華は隅の作業台らしき大きな机を眺めるともなく眺める。
所狭しと並んでいる色彩豊かな雑貨類。
それぞれに番号札が付いているのは何の為だろう。
ふと、端っこにちんまりと納まっている一対のカップが目にとまった。
淡いクリーム色。
カップとソーサーの縁には群青色のラインが二本づつ入っている。
高そう。でも、可愛い…。
少し、手を触れてみた。
冷たくて滑らかな感触。
手に持ってみた。
重過ぎず軽過ぎず、しっくりと手に馴染む。
こんなカップで紅茶など飲んだ朝は、何かいい事がありそうな、そんな気がしてくる。
うっとりとカップに見惚れていた梨華は、直ぐ傍に吉澤が近付いてきた事に全く気がつかなかった。
「…あー、梨華ちゃん、ごめん、それ今から使うから…」
遠慮がちに声をかける吉澤。
梨華の心臓が、ドッッックンと特大の一拍を打つと同時に、手のほうがお留守になった。
そして。
- 126 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時26分01秒
あッ、と思った時には、カップは宙に浮いていた。
陶器の割れる硬質な破壊音が高らかに響いた。
その場にいる全ての人間の視線が一斉に集結する。
「……あっ…私……」
血管が一気に収縮する。
謝らなければ、と思うのに、唇が乾涸びて動かない。
「…あの……」
「バカヤローッ」
鼓膜が突き破れそうな怒声が飛んできた。
膝が震える。
涙が滲む。
「……すみま…」
「スミマセンッ」
凛と張った声が梨華に覆い被さった。
「吉澤ぁぁっ、おまえかッ」
「ハイッ!すみませんっ!」
「すみませんですむかバカ野郎がッ」
「弁償しますっ!すみませんっ!」
ようやく、我に返った。
「ちがっ…ちがう」
「スミマセンッ」
また、かぶさる。
「今日の撮りどーすんだッバカヤロウッ」
「すみませんっ!」
「吉澤っ、おまえショップとクライアントんとこ行って土下座してこいッ」
「ハイッ!」
- 127 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時27分30秒
……どうして…。
割ったのは私なのにどうしてよっすぃが謝るの。
どうして庇ったりするの。
何度も、何度も何度も吉澤は頭を下げ続ける。
梨華はもう一歩も動けず、ただ膝を震わせて立ち竦む。
首から下は燃えるように熱いのに、頭の芯が凍りついている。
吉澤がひざまずいて欠片を拾い集める。
幾人かがバラバラと駆けよって来て、後始末を手伝う。
どうして、どうして、どうして。
わかんない。わかんない。わかんない。
「ほら、危ないからちょっと離れてよう」
肩に置かれた腕に夢中で飛びついた。
梨華の必死の形相に、保田が怪訝そうに眉をしかめる。
「どうしたの?」
「ちがうんですっ!ちがうのにっ」
うまく言葉にならない。
早く誤解を解きたいのに。
- 128 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時30分57秒
「…あっち行こう、ね」
口調は柔らかいが有無を言わさぬ力強さでスタジオの外へ連れて行かれる。
「ちがうんです…」
「だから、何が違うの?」
「よっすぃじゃないんです」
「何が?」
「割ったの、私なんです。よっすぃじゃないんです、違うのに、よっすぃ、私がやったのに、あんなに怒られて、どうして」
喉に何かが詰まっているように、息苦しい。
うまく呼吸ができない。
パンッ、と腕に熱い衝撃が走った。
「…少し落ち着いて」
しかし、直後に保田が口にした言葉は、梨華の望んだものではなかった。
「このままに、しておこう」
「でもッ」
「全くの部外者が撮影に立ち会ってたっていうのも表向きちょっと問題あるし。それに吉澤がそうしたくてやったことなら」
「そんなのイヤですっ。私、寺田さんに言います、それで」
「無駄だよ。やめな」
「どうしてッ?」
「梨華ちゃんが反対の立場だったらどうする?」
- 129 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年07月27日(土)00時32分38秒
そんなの詭弁だよ…。
よっすぃが私と同じ立場だったら名乗り出るに決まってるもん。
人に罪を被せたまま黙ってるような真似しないもん。
ぐるぐると渦巻く抵抗は、音として発する前に別の思考の渦に巻き取られていく。
落下地点の見えない、スパイラル。
「だから今回は、吉澤に甘えな。ね?」
「…イヤです…イヤだ…」
「吉澤の気持ちもわかってやって」
「……イヤだよぉ…」
涙が噴きだす。
保田のTシャツの袖を握り締める。
梨華の姿を隠すように保田が包みこんでくれる。
「イヤだよぉ…イヤだよぉ」
嗚咽しながら、梨華は駄々っ子のようにただ首を振り続けた。
- 130 名前:物心 投稿日:2002年07月27日(土)00時34分21秒
更新しました。
きゃー登場人物が増えていくー。
>106 オガマー様
きっとその想像は合っているのではないかと。
何の根拠もありませんがそう思ってみたりみなかったり。
>107 j様
いえいえいえいえいえ。とんでもなく有り難うございます。
何でもいいからいしよし祭りでも降れば、暑さも吹っ飛ぶんですが。
日照りはまだ続くのか…。
>108 名無し読者様
引き込まれて沈んでいく…と思ったら子ども用プールだった、なんて事にならぬよう、
現在必死に掘り下げているところです。宜しかったらお見届け下さい。
- 131 名前:物心 投稿日:2002年07月27日(土)00時35分40秒
- >109 ten 様
文章は前作より余分なものを省こうと意識してます。
なのでそう言って頂けると、嬉しさ満開です。
>110 クロイツ様
>「保田三人前」の文字を見て、書き込まずにはいられなくなってしまいました。
作者が思うに、それは保田大明神の呪いですね。
例え呪いでも、有りがたいお言葉、しっかと受けとめさせて頂きました。
>111 名無しどくしゃ様
なるほど。自分の文章を客観的に観るのは難しいですね。
こうしないように気をつけよう程度の消極的な拘りならあるかもしれません。
基本的には「おもしろきゃ何でもいいやオッペケペー」という感じではありますが。
- 132 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年07月27日(土)00時44分26秒
- よっすぃー(涙)優しさにまぢ泣き。
いろんなモヤモヤがあったのに…強いなぁ。
>「おもしろきゃ何でもいいやオッペケペー」
爆笑しますた。でも同感です。
- 133 名前:名無し読者 投稿日:2002年07月27日(土)02時17分24秒
- よっすぃー優しいなぁ。
鍵を返した意味はやっぱり…?
これからの展開に期待期待。。ハゲシク期待。
作者さんがんがってくださいね。本当におもしろいです。
- 134 名前:88&89 投稿日:2002年07月27日(土)02時21分09秒
- 何回くりかえしてもしょうがない問い。作者さんあなた何者なんですか。マッタク巧い。
>150 ではあたたかい言葉感謝ッス。
心情的には常にageたい推したい気持ちて。ことでこれからも。
- 135 名前:青春惨敗 投稿日:2002年07月27日(土)02時25分10秒
- 吉澤を信じたい。
ものすごく胸が痛いんですが、
この痛みが取り除かれる日は来るんでしょうか。
- 136 名前:クロイツ 投稿日:2002年07月27日(土)18時57分58秒
- 保田大明神の呪いだとわかっても、やっぱり書き込まずにはいられません!
今回も、素敵でした!!ヨッスィーの気持ちがわからなくて、私も梨華ちゃんと一緒に切なくなりました。
そして、飛んで投げて空けて吐く保田さんに、心を奪われた私。
続きがすご〜く楽しみです!!
ヨッスィーと梨華ちゃんの行く末もすっごくすっごく気になりますが、それと同じくらい、これから先の保田さんの活躍が気になります。
- 137 名前:よすこ大好き読者。 投稿日:2002年07月31日(水)19時59分48秒
- ここまで一気に読みました!!
ぶっきらぼうな、吉もいいですね。
続き楽しみにしています。
- 138 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)13時52分23秒
澱んでいた室内の空気が揺れる。
「お邪魔します…」
そっと、囁いてみる。
答えてくれる部屋の主はいないとわかっているのに、暑さのせいばかりではない汗がこめかみを伝う。
この部屋を出て行ったのは、いつのことだろう?
もう何ヶ月も何年も前のような錯覚。
窓を開け放ちたいのをぐっと我慢する。
置きっぱなしのカップ。
敷きっぱなしの布団。
無造作に脱ぎ捨てられたTシャツ。
カップを洗う。
布団を軽く畳む。
それだけでもうやる事がなくなった。
意味なく辺りを見回してから、おそるおそるTシャツに手を伸ばす。
胸に抱き締めて、顔を埋める。
朝にはここにおさまっていたであろう吉澤の体の代りに脱け殻を。
だがそれも、本物の温もりを知ってしまった後では虚しいだけ。
この後に及んで未練がましい自分の行為に顔を赤らめる。
梨華は卓袱台に封筒を置き、逃げるように部屋を後にした。
- 139 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)13時53分28秒
「で、渡してきた?」
「…はい」
「……そっか」
ほんの少しの嘘。
カップの代金を保田に調べてもらい、念の為にその金額に2をかけた。
吉澤に渡してくれるように頼んだが、保田はその場で断った。
「迷惑をかけたと思ってるなら直接自分で渡すのが礼儀」
弁解の余地のない、正論。
頷いてみせたものの、会う気はなかった。
どんな顔をすればいいのか、わからない。
ごめんね、か、ありがとう、か。
…名乗りでなかった自分を、吉澤は軽蔑しているだろう。
結局、吉澤が留守にしている昼間を狙った。
流石に、お金の入った封筒をポストに入れておくわけにはいかない。
保田は「渡した」という梨華の嘘を嘘と見抜いているだろう。
吉澤に訊けば一発でばれてしまう、梨華の嘘。
だが保田は、それ以上は何も言わなかった。
「あの、保田さん」
「ん?」
「私、明日帰ります」
「…うん」
「それで、撮って頂くって話ですけど、やっぱり…」
「わかってる。断れると思ってた」
「…すみません」
「昨日だったらね、頑張って説得したと思うけど」
「本当に色々とお世話になってしまって」
「気にしないで、って言っても気にするか、梨華ちゃんは」
- 140 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)13時54分36秒
- 保田の数々の好意に、どうしたら応えられるだろう。
ただ後輩の友人というだけでここまで親切にしてくれた保田。
せめて保田には、本当のこと、二人が恋人だったという事を知っておいて欲しかった気もする。
だが、それは梨華の一方的な押しつけ。エゴ。
事実を話すことが常に誠実とは限らない。
せめて。
帰ったら、手紙を出そう。
精一杯、感謝の気持ちをこめて。
「新幹線の切符は?夏休みだから取れないんじゃない?」
「駄目だったら、鈍行乗り継いで帰ります」
「吉澤は知ってるの?」
梨華は横に首を振る。
「いいの?」
…いいの?
本当に、これでいいの?
「はい、いいんです」
梨華の返事に、保田が小さく息を吐いた。
「そっか…」
「はい」
- 141 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)13時56分21秒
インターホンが鳴った。
続けてドゴンドゴンとドアを叩きつける音がする。
「なんだよなんだよ」
保田が呆れ気味に玄関へ向かう。
「圭ちゃんっ、あたし、あたしっ」
「えー?アヤカぁ?なんなの急に」
「いいから開けてっ」
アヤカの声は、やけに張りつめている。
「あ、梨華ちゃんこんばんは」
部屋に入ってくるとお座なりの挨拶をして冷蔵庫に突進し、梨華が飲み残したオレンジジュースを一気に呷る。
常に笑顔を絶やさないアヤカの顔が今は焦燥に歪んでいる。
「どうしたんだよ、アヤカ」
口の端からこぼれた液体をぐいと手の甲で拭うと、アヤカが言い放った。
「圭ちゃん、あいつ、消えたよ」
「はぁ?」
「いなくなっちゃった」
「え?あいつって?誰?後藤?」
「違う」
梨華の背筋に嫌な予感が走る。
まさか。
「あいつじゃわかんないよ。誰よ」
「…紗耶香」
あぁ、良かった。
咄嗟に梨華の頭に浮かんだのはその一言。
吉澤ではなかった。良かった。
しかし、直ぐに後ろめたい気分になる。
- 142 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)13時58分53秒
- アヤカの頬から顎にかけて汗ではりついた髪が、そのただならぬ事態を示している。
「消えたって…どういう…」
「消えたものは消えたの!スケジュールも全部すっぽかして!」
「…」
「まさかとは思うけど、圭ちゃんとこには来てないよね」
「…」
仮面のような保田の顔。
感情の処理機能がうまく作動しない、そんな顔。
「圭ちゃんッ」
アヤカの鋭い呼び掛けに保田が我に返る。
「…来て、ないよ。来てないけど、なんで…」
「わからない」
「…」
「どこにもいない。連絡もつかない」
「…圭ちゃん、もしかしたらあの子のところ…」
「それは、ない」
小さく、だが、はっきりと保田が断定する。
「そう…。とにかく、圭ちゃんの所にも連絡があるかもしれない。もしあったら私にも1本電話入れるように言って」
アヤカは慌しく立ち去りかける。
- 143 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時00分22秒
- 「アヤカ!」
「なに?」
「…どうしてここに来たの?」
「え?なにいって」
「電話すれば済むことなのに、わざわざ来たの、どうして」
「……」
「私が嘘つくと思った?」
保田の問いかけに、アヤカが肩を竦めた。
「単に近かったからちょっと寄っただけ。でも、それもあるかもね」
「……」
「私が圭ちゃんだとして、紗耶香が匿ってって頼んできたら隠すし庇うよ」
「…紗耶香が、来るわけない」
梨華が初めて聞く、保田の苦しそうな声音。
アヤカは保田を一瞥すると、何も言わずにドアの向こう側に消えて。
ひょこりとまた顔だけ覗かせる。
「あ、すっかり忘れてたけど」
何か大きな塊をつまみあげ、玄関の中に押し入れる。
「これ、外に落ちてたよ」
保田と梨華が、同時に息をのんだ。
- 144 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時02分04秒
「吉澤!」
ドアが閉まる。
スニーカーの先に目を落としたまま突っ立っている吉澤。
「…あんた……なに」
「…」
「用があるから来たんでしょ」
ほんっとにどいつもこいつも、と大仰に保田が溜息をつく。
「黙ってないで言いたいことがあるなら自分の口で言いなさい」
「…あの…」
「うん」
「あの、これ、梨華ちゃんに返そうと思って」
吉澤がもそもそとジーンズのポケットから取り出したのは、梨華が昼間、置いていった封筒。
「だってあんた」
「あの、お金なら大丈夫ですから」
「大丈夫ってどう大丈夫なのよ。あれっぽっちの給料で。大体」
「でも!……でも、大丈夫ですから」
突き出された封筒を、保田が見下ろす。
梨華は部屋の奥から二人のやり取りを息を詰めて見守る。
近付くことも、ましてや話しかける勇気も今の梨華にはない。
「…吉澤」
「はい」
「あんた、返す相手間違えてない?」
「……」
「まぁ私が受け取っておいてもいいけどね。梨華ちゃん明日帰るっていうし」
瞬間、吉澤がハッと顔を上げ、また俯く。
- 145 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時06分38秒
「ねぇ、梨華ちゃん」
保田が振りかえった。
「悪いけど、今日は泊めてあげられない」
「えっ…」
「さっきの聞いてたでしょ。私、これから出掛けなくちゃいけないから。今夜帰ってこれるかわからないし」
「……」
「最後の日なのに申し訳ないけど」
優しくて、力強い掌が肩に乗せられる。
たった数日の短い時間の中で、幾度も救われた温もり。
いっそのこと縋って頼り切ってしまいたい誘惑に駆られた掌。
「吉澤、わかったよね?」
目許に沈黙をためた吉澤が、保田を見つめる。
先に表情を緩めたのは保田の方だった。
- 146 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時07分26秒
「泊めてあげられないのって、もうひとつ理由があるんだよね」
梨華に用意を促しながら保田が続けた。
「実はさ…、この部屋、出るの」
「…ゴキブリですか?」
「ううん、これ」と言って、胸の前で手を折り曲げてみせる。
「ええっ?」
「例の猫、あいつ後藤っていうんだけど、泊まった時にさぁ、夜中に苦しくて目が覚めたんだって。金縛りってやつ?」
「…やだ…」
気付かなかったとはいえ、その隣で寝ていたかと思うといい気分ではない。
「ほそぉ〜い手足が、体を覆うように絡みついてきて、うらめしそぉ〜に呻くんだって」
「イヤッこわいッ」
「…よっすぃ〜…って」
- 147 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時08分32秒
クッ、と吉澤が噴き出すと同時に、梨華の頬が燃えあがる。
「と、いうわけなんで。吉澤、除霊をお願いします」
最後はおどけた調子で締め括ると、保田は梨華の両肩をそっと吉澤の方に押し出した。
吉澤のアパートに着くまで、電車の中も駅からの道も、会話はなかった。
…すっかりこういうのにも慣れちゃったな、と梨華は自嘲気味に1歩遅れてついていく。
言わなければならない言葉は山ほどあるけれど。
駅に着いたら、電車を下りたら、アパートに着いたら、と少しずつ先延ばしにしている。
すっかりお馴染みになった、背中。
そんな場合ではないのに、見惚れてしまう。
これだけ好きになれる人に、これからの人生で出会えるのだろうか。
出会える、と人は言うかもしれない。
そしてそれは真実かもしれない。
でも今は。
何年後に出会うかもしれない恋人より、今ここで、吉澤に触れたい。
「着いたよ」
見ればわかるのに、吉澤が振り返った。
「うん」
ドアを開けて梨華を先に入れる。
今日2回目の「お邪魔します」だと、そんな事が少しだけ可笑しい。
- 148 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時09分56秒
「おかえりぃ」
「あ、ただいま」と反射的に答えて、梨華は首を傾げた。
吉澤の声ではない。しかも誰もいない筈の室内から。
真後ろの吉澤を仰ぐ。
頬から顎にかけての輪郭が、緊張で強張っている。
吉澤が後ろ手でそっとドアを開け、梨華を外に出す為に体を入れ換えようとしたその時。
「おかえりってば」
のっそりと出てきたのは。
「ああーっ!」
猫人間。
「なっ、なんでなんでごっちんがここにいるのッ?」
吉澤が叫ぶ。
「だめ?」
「いやッ、駄目とかじゃなくてさっ」
「良かった」
「良くもないけどさ!吃驚するじゃん泥棒かと思ったし!」
「泥棒じゃないよぉ。良かったね。あ、梨華ちゃんどうもこんばんは」
「…こんばんは」
勝手にあがりこんでいる事よりも、吉澤とも知り合いだった事よりも、自分の名前を覚えていた事に驚く。
「お茶でもどうぞ」
「ごっちん!」
「暑かったでしょぉ。あがってあがって」
「…ごっちん…」
「そんなゴッチンゴッチン言わないでさ、梨華ちゃん困ってるじゃん。あ、今日泊めてね」
「……」
- 149 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時11分32秒
後藤が手早く作ったパスタは美味しかった。
麺の茹で加減も、ホワイトソースとのバランスも丁度いい。
梨華は廃棄処理となった酸っぱいハヤシライスを思い浮かべる。
良かった、よっすぃがあれを食べなくて。
マイナスの出来事の中にも救いは必ず隠されているようだ。
不満というより釈然としない表情だった吉澤も、黙々とパスタを口に運んでいる。
後藤はそれほど喋るタチでもないらしく、卓袱台を支配するのは、沈黙。
吉澤との沈黙には慣れていても、こうした沈黙はまた別物だ。
「あの、お店みたいに美味しいです」
「ありがと」
終わった。
「あの、隠し味とかあるんですか?」
「んー、別に」
終わった。
ツー、トン、ツー、トン、ツー、トントン。
モールス信号のような会話に梨華の焦りが増幅する。
何に気を悪くしているのか梨華にはわからない。
だけど。
…よっすぃの知り合いなのに、黙ってないで何か言ってよ!
と視線で吉澤に懇願するが、当の吉澤は知らん顔。
後藤もそれを気にする風ではなく、梨華が一人で空回っている。
- 150 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時13分36秒
- なんとかしてよ!
梨華の心の叫びがようやく届いたのか、吉澤が静かにフォークを置いた。
「あのさぁ、さっき保田さんところ行ってたまたま聞いちゃったんだけど」
「うん」
「なんか、いなくなっちゃったらしいよ…市井さん」
「あぁ、知ってる」
後藤がさらりと返してのける。
「知ってるって…それじゃなんで」
「だったらどうしろって?あたしも探せって?」
「……」
- 151 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時14分22秒
- 話が見えない。
保田と、後藤と、保田が持っていた写真集のカメラマン。
アヤカと保田は紗耶香、と。
吉澤は市井さん、と呼ぶ人物。
繋がりが、それもスッキリしない繋がりがあるらしい事まではわかるが、そこから先は梨華には入りこめない領域。
「余計なこと言ってごめん」
吉澤が黙っていたのは気を悪くしてではなく、言おうか言うまいか迷っていたのだろう。
スッキリ謝る吉澤に後藤は口の端だけで微笑んでみせた。
素直な吉澤。素っ気無い後藤。
それでも通じ合っているらしい二人。
胸にたちこめる湿気のような重苦しい雲。
もしかしたら吉澤の想い人は。
必死に記憶を手繰る。
だが、吉澤は確かに敬語で話していた。
となるとあの電話の相手は、後藤ではなさそうだ。
…もう、関係ないことだけど。
- 152 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時16分14秒
「よっすぃ、寝ちゃった?」
「……ううん」
吉澤を真ん中にして不揃いな川の字を描く。
「あのね、あ、お願い、そのままで聞いて」
体を向けようとした吉澤を制す。
最後の夜は後藤によって思わぬ形になってしまったが、これはこれで良かったのかもしれない。
「あのね、ありがとう。と、ごめんね」
闇のせいか、素直に言葉が滑り落ちた。
「…別にあたしは、何も」
「うん。私が言いたくて言ってるの」
「……梨華ちゃん、あたしさ」
「よっすぃが幼馴染で良かった」
そう、良かった、ちゃんと言えて。
幼馴染って意味、伝わったよね?
ややあって、ズズッと鼻を啜り上げる音が梨華の胸を揺らした。
息を止めて涙を堪えているのだろう。
時々漏れる荒い息遣いを、軽い咳で誤魔化している。
- 153 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時18分58秒
- 泣かないで、よっすぃ。私なら大丈夫だから。
苦しそうに呼吸を詰まらせる吉澤の背中が波打っている。
梨華は手を伸ばして、そっと指の先をあてた。
「泣かないで」
人差し指と中指の先を背筋に沿って這わせる。
「ねぇ、泣かないで」
髪を梳くようにして頭を撫でる。
不思議に、躊躇いはない。
昔は吉澤にこうしてもらうのが大好きだった。
落ち着くのに、微かに甘いものがピリピリと足のつま先まで走る。
あの感触が好きだった。
うっとりとして吉澤を見上げると、なぜか目を逸らされるのが常だったけれど。
- 154 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時20分21秒
- 吉澤の髪の中に指が潜る。
ゆっくり、ゆっくりと滑らせる。
その繰り返し。
いつのまにか梨華は目を瞑っていた。
全神経が、痛いくらいに指の先に集中している。
覚えておこう。
今夜のことを。
焼きつけておこう。
その微かに震える背中を。
染みこませておこう。
柔らかい髪の感触を。
いつのまにか吉澤の震えはとまり、呼吸も元に戻ってきている。
もう少したてば、寝息にかわるだろう。
せめて寝るまで、本当は朝まで、心の奥底ではこれからもずっと。
こうして吉澤の髪に触れていたい。
梨華は触れた時と同じように、そっと手を外した。
どこかで自分に歯止めをかけなければ。
これからは、一人なのだから。
急に寂しくなった指先を持て余し、タオルケットの上に腕を乱暴に投げ出した。
- 155 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時23分07秒
静かな朝だった。
吉澤の目が腫れている。
梨華の目も腫れている。
なぜか後藤の目も腫れている。
誰も何も喋らないし、誰もそれを取り繕おうとはしない。
吉澤と梨華は淡々と朝の準備をすすめ、後藤は寝っ転がってぼんやりと天井を眺めている。
「駅まで送るから」
「いいよ。仕事あるんでしょう」
「…んなん、だいじょう」
「大丈夫じゃないでしょ」
「じゃあ、一緒に出るから」
ここに来てからの吉澤らしくもなく、頑固に食らいついてくる。
ふふっと笑って、梨華は首を横に振る。
「お願い。一人で帰らせて」
「……」
ただひたすら呆けている後藤に声をかける。
「あの、後藤さん、後藤さん?」
「……あ、なに?」
「私、これで帰りますので」
「あー、そーなんだ」
相変らずと言えば相変らず、興味がなさそうだ。
それでも体を起こした、かと思いきや、四つん這いになってずるずると玄関まで体を引きずってくる。
- 156 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時24分09秒
- 「…それじゃ、よっすぃ、元気でね」
「……」
「また、いつかね」
吉澤の唇が折れ曲がる。
その顔はまるでお菓子を買ってもらえなかった子どものようだ。
それで十分だと、思った。
自分だって最後くらいはびしっと決めたい。
足掻いて責めて飛び出して。
だからこそ、最後くらいは。
違う。
足掻いて責めて飛び出したからこそ。
こうして笑顔で別れられる。
無意味に思えた全てが、無意味なんかじゃなかった。
後悔? している。
未練? 100%。
- 157 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月04日(日)14時26分14秒
出勤時間にあたるのだろう。
梨華を追い抜こうとしたサラリーマンが、ぎょっと目を剥いた。
無理もない。
一分の隙もなくグレーのスーツを着こなした女性が、歩きながら痛ましそうにちらちらと梨華の方を見遣っている。
あのサラリーマンは午前中いっぱい、泣きながら笑っていた少女の事を考えるかもしれない。
スーツの女性にも同じように辛い出来事が過去にあって、それを思い出しているのかもしれない。
よそよそしかった街に、少しだけ温もりを感じた。
悪いことばかりじゃない。
梨華は鼻水を拭いながら、駅までの距離を1歩1歩、確実に縮めていった。
- 158 名前:物心 投稿日:2002年08月04日(日)14時28分41秒
更新しました。
少し間があいてしまい、申し訳ございません。
>132 名無しどくしゃ様
前回の吉澤が庇う場面は、お恥ずかしながら自分でも結構好きなんです。
人の為に頭を下げ、罵られる優しさって中々できないものじゃないかなぁ、と。
>133 名無し読者様
吉澤の気持ちは…もうしばらく隠しつつ溢しつつしてみたいと思ってます。
「おもしろい」は自分にとって最上の言葉です。有り難うございます。
>134 88&89様
キッパリと、ただの妄想人間です。それ以外の何者でもありませぬ。
しかしながら、レスはキッパリと嬉しいです。ただの単純人間でもあります。
- 159 名前:物心 投稿日:2002年08月04日(日)14時29分38秒
- >135 青春惨敗様
うわっ…惨敗してる…。くそー何かいいのないかな。
青春、青春、うー…思いつかない。悔しいです。
>136 クロイツ様
大人のキーパーソンを出そうとすると、やはり保田さんになりますね。
展開を保田さんに頼り過ぎないように、でもって保田さんも活躍できるように頑張ります。
>137 よすこ大好き読者。様
自分の書く吉澤はどうしてもぶっきらぼうになってしまいます。
そして実は、内心ではぐるぐるぐるぐる余計な事を考えている、と。
前作も多分、石川視点で書けばこれに近いものになるのかな、と。
- 160 名前:オガマー 投稿日:2002年08月04日(日)18時29分52秒
- (T_T)
どーなるんですかぁー!!
更新まっとります。
- 161 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月04日(日)19時33分51秒
- 。・゚・(ノД`)・゚・。梨華ちゃ〜ん
全然先が読めないのぉ。
- 162 名前:j 投稿日:2002年08月04日(日)21時26分39秒
- 相変わらず、絶好調ですね。
もう、情景がリアルに浮かんできます。
保田の部屋、吉澤の部屋への道なり、
アヤカの服装、後藤のパスタ・・・。
執筆、頑張って下さい。
- 163 名前:青春参拝 投稿日:2002年08月04日(日)23時36分32秒
- 惨敗は縁起悪かった…。
さらに胸が痛い、こうなったら神頼み!
- 164 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月04日(日)23時55分40秒
- 初レス失礼します。
前からずっと読ませていただいてました。
おもしろい、を超えて、スゴイ!の連続です。
今回の石川の葛藤と決断もすごく読ませる感じでイイ!です。
次も楽しみにしてます〜。
- 165 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月05日(月)01時19分49秒
- 切なすぎて死にそう。
くやしいくらい更新たのしみ。
- 166 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時18分27秒
お盆休みはもう少し先なのに。
ターミナル駅の窓口で素っ気無く満席を告げられ、今更ながら自分の認識の甘さを憂う。
保田に言った通り、乗り継ぎでの帰り道になりそうだった。
せめて座れるうちに座っておこうと運良く空いたホームのベンチに腰を下ろす。
お母さん、怒ってるだろうなぁ…。
一方的に電話を切ってからは一度もかかってこない。
帰宅してから交わされるであろう厄介なやり取りを考えると重苦しい気分になる。
せめて、今から帰ると連絡を入れておいたほうが心証が良くなるかもしれない。
携帯を取り出そうと鞄を探って、覚えの無い感触に手が止まる。
いつ滑りこませたものか。
吉澤の手に渡った筈の、お金の入った封筒。
まともに返しても梨華が受け取らないと思ったのだろう。
もはや意地っ張りの域に達した吉澤の優しさに、少し呆れてしまう。
- 167 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時19分19秒
- 「あっ、すみません」
封筒を仕舞おうとしたら鞄が横にずれて、隣の女性の膝にぶつかってしまった。
「いえ」
僅かに首を傾げて小さく返すと、お隣さんは再び視線を手元の雑誌に戻す。
あれ…。
横顔に妙な居心地の悪さを覚える。
…どこかで…?
その手元を盗み見た時、カチリと記憶の金庫が開いた。
…よっすぃも揃えていた、カメラ雑誌。
電車が滑りこんでくる。
彼女が腰を上げた。
梨華とは反対方向。
逡巡する。
どうする。これから帰るのに。でも。
心が定まらぬまま荷物を抱えて立ちあがる。
しかし、彼女は電車には乗りこまず、ゆっくりとした足取りで階段を下りる。
地下構内の人ごみに潜られてしまうと見失ってしまうかもしれない。
梨華は距離を詰め、一定の間隔をおいてその背中を追う。
保田さん。
心の中で呼び掛ける。思いがけなく恩返しのチャンスが転がりこんできたのだ。
やり遂げてみせます、保田さん!
梨華の闘争心スイッチが、またもやONになった。
- 168 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時21分45秒
- どこへ行くのだろう。
なぜ乗りもしない電車のホームにいたのだろう。
人にぶつからないように注意しながらも目は離さない。
また別のホームの階段を上る。そしてまた下りる。
…何の為に?
再び地下の構内を歩いていた彼女が、急に右に折れる。
敵はトイレね!
梨華も迷わず右に折れ、トイレに足を踏み入れた。
瞬間、鋭い閃光を浴びて悲鳴をあげた。
カメラを手に、仁王立ちしている彼女。
その目は不審と怒りと緊張で尖っている。
「なんでつけてくんの。誰に頼まれたの」
…保田さん…ごめんなさい…敵は、手強かったです。
悄然と肩を落とす梨華に、彼女は追い打ちをかける。
「とにかく、この中にあんたの姿はおさめたから。場合によっちゃ、このフィルム警察に渡すよ」
さきほどの閃光はカメラの、フラッシュ。
…保田さん…助けて下さい…。
「何とか言ったら」
「…あの、違ったらごめんなさい。でも、市井さん、ですよね?…」
「……そうだけど、なに?」
梨華は素早く計算をめぐらせる。
保田さん。まだ闘いは終わってません。
- 169 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時22分59秒
-
「ファンです!」
「は?…」
「あの、良かったら少しお話したいなって」
「…悪いんだけど」
「ずっと憧れてたんです!写真集も持ってます!お願いします!」
これでもかこれでもかと嘘が口をついて出る。
「いや、でも」
「お話してくれなければ…」
「…ければ?」
「死にます!」
「はァァッ?!」
死ぬ気などさらっさらないが、梨華も必死だ。
その真剣な視線に気圧されるように、市井の目が泳ぐ。
内心ではやばい奴につかまってしまったと冷汗をかいていることだろう。
「それで?」
構内のコーヒーショップに移動して向かい合う。
真正面から改めて見るとテレビよりも一段とシャープで端整な顔立ち。
「ニュースでインタビューを見て、それから写真集買って…感動しました」
事実だ。前半だけ。
「ふぅん」
市井に苦い笑いが滲む。
「それで、どれに感動したの?」
「え…」
「写真集、感動したんでしょ?」
「…えーと…あれです、あの…」
実際には見てもいない写真集。今度は梨華の背に嫌な汗が浮かぶ。
「…あの、5ページ目のやつとか…」
「へぇ、あれ」
アレ?って、どれ?
帰ったらきちんと確認しよう…まさか人間のヌードなんてことないよね…。
- 170 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時26分42秒
- 「ウソ」
市井が鼻でふふんとせせら笑った。
「え?」
「顔でしょ?」
「はい?」
「みんなそうなんだよねぇ。ろくに写真も見ないでさ、ファンです、とかいって」
確かに市井は大抵の人間が羨む容貌の持ち主だが、当の本人にあっさりとそれを認められるとなぜか反発したくなる。
「そうです。嘘です。ごめんなさい」
梨華が否定すると思ったのだろう。
市井は肩透かしを食らったように目を見開く。
「私、保田さんの知り合いで、石川梨華っていいます」
「…」
「昨日から皆で市井さんのこと探してたんです、けど…」
保田さん。任せて下さい。逃しはしません。
「その途中で事故にあったんです…後藤さんが」
まさに、本能。
保田と後藤とアヤカ。
市井と三人の関係はまだ朧にもつかめないが、咄嗟に出てきた名前は、後藤。
血の気を失っていく市井を眺めながら、梨華は自分の勝利を確信した。
- 171 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時27分57秒
「つまり、騙したんだ」
突き刺すような視線に、身を縮める。
「バカッ」
アヤカが思い切り市井の頭を叩いた。
昨夜は殆ど寝ていないのだろう。
目の縁に疲労が色濃く浮かんでいるが、それもまた色っぽい、などと妙な感心をしてしまう。
「わかってるでしょ。いくら売れっ子だからって一度信用をなくしたらもう…」
言い募って、市井がまともに話を聞いていない事を見て取り、不機嫌に押し黙る。
後藤が事故に遭ったと嘘をつき、病院に連絡を入れる振りをして保田に電話をした。
現場を離れられない保田の代りにアヤカが駅に着いたのは1時間も経つ頃。
怪しみだした市井を引きとめていた梨華は、すっかり気力を使い果たしている。
僅かなりとも保田の役に立てただろう。
が、流石に市井に対しては気が咎める。
「…私、そろそろ…」
この気まずい場から一刻も早く立ち去りたい。
「え、石川さん、逃げるわけ」
威圧感たっぷりの市井の睨みに、語尾を濁す。
- 172 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時30分14秒
「…圭ちゃん、何か言ってた?」
アヤカと目を合わせずに市井が訊いた。
「別に、何も」
「……後藤は?」
今度はじろりと一瞥しただけでアヤカは答えない。
「…あの、後藤さんなら昨日は、よっ…吉澤さんのアパートに泊まりました。…元気なかったみたいですけど」
「ふーん。無事で良かった」
市井の皮肉にまたしゅんとなる。
沈黙合戦に入ったアヤカに観念したのか、遂に市井が肩を竦めてみせた。
「…わかった。戻るよ、戻るからさ」
「当たり前よ!」
「ひとつ、お願いがあるんだけど」
「…勝手に逃げといて…」
「その子、貸して」
他人を魅了してやまないであろう清々しい笑顔そのままに、市井の指先は真直ぐに一点に向けられている。
「…梨華ちゃんを?どうして?」
「どうしても。必要だから」
アヤカが考えこむ。
私、帰るんです。
失恋ほやほや1年生なんです。
「梨華ちゃん…迷惑かけてばっかりで申し訳ないけど」
上目遣いでアヤカが拝む。
「お願い、できない?」
「でも…」
「ダメ?」
「…いえ」
アヤカさんに悩殺されてどうするの、私…。
保田さん。…囚われの身となりました。
- 173 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時35分17秒
こういうの、何て言うんだっけ。
そうだ、たらいまわしだ。たらいまわし。
なんか違うかな?でもまぁいいか…似たようなものだもん。
「えへへへ…」
陰鬱な笑いが漏れる。
「それ、恐いからやめてくんない?」
市井が顔を顰める。
「もっとさぁ、爽やかにできない?スカッと、爽やかに」
梨華にしてみればこの状況でスカッと爽やかな人間がいたら会ってご挨拶申し上げたいくらいだ。
お役に立とうと頑張って後をつけて嬉々として連絡して。
挙句の果てが、物のように取引されて。
バカを見るとはまさにこの事ではないか。
- 174 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時36分15秒
- 何を言おうと虚ろなままの梨華を、市井は持て余し始めているのだろう。
さきほどからシャッターを切る手が止まっている。
人通りは少ないとはいえ、真っ昼間に、しかも公園で写真を撮られるなんて気恥ずかしくてたまらない。
おまけに着慣れぬキャミソールの肩のあたりがすぅすぅして落ち着かない。
「大体、何で私が…」
梨華の意志とは全く無関係に、市井にレンタルされてからもう3日。
市井は謝罪行脚と事後処理、つけとして回ってきた仕事に忙殺されつつ、ほんの僅かな隙をみては梨華を呼び出す。
することはただひとつ。
写真を撮る、撮る、そしてまた撮る。
どうして私なんですか。
私じゃなきゃいけないんですか。
保田の懇願がなければ、とっくに実家に逃げ帰っているところだ。
「巻きこんじゃってごめんね」
呼び出されては疲れて帰ってくる梨華に、保田は何度も謝る。
事実、疲れる。
昔の人間が「写真を撮られると魂を吸い取られる」と脅えたのもわかる気がする。
市井は恐いくらいの気迫でシャッターを切り続ける。
レンズを向けられている間は一瞬たりとも気を抜けない。
が、集中力にも限度というものがある。
- 175 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時38分09秒
「ほいっ」
市井が梨華の膝にお茶の缶を立てた。
「ぬるい…」
「来る時に買ってきたから。贅沢言っちゃいけません」
それでも喉の乾きには耐えられず、ぐいっとお茶を流しこむ。
シャッターを切る音。
「へへっ。撮ってやった」
「…別にいいですけど」
申し訳程度の貧弱な木陰に腰を下ろそうとすると、市井がさりげなくタオルを敷いてくれた。
「あ…すみません」
服が汚れれば市井も困るのだが、こういう唐突な気配りに少しだけ落ち着かなくなる。
よっすぃだったら。
暑さにやられて自制心がうまく働かなくなっているのか、ぼんやりと吉澤の事を想う。
「あぢぃぃ」とか何とか叫びながらドスーンと座りこむだろう。
色は白いが、お日様がよく似合った。
まだ付き合っている頃。
梨華は吉澤の首筋に顔を埋めては囁いたものだった。
「干したてぽかぽかのお布団みたい」
吉澤は笑って「毛布?タオルケット?敷布団?」と聞く。
夏は「タオルケット」、冬は「毛布」。
そしてそのまま折り重なるように倒れれば「敷布団」。
とはいえ、二人は結局、決定的な線は越えなかったけれど。
- 176 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時39分26秒
「ねぇ」
「なんですか」
「石川さんと吉澤って幼馴染なんでしょ。どうして黙ってなきゃいけないの」
梨華が保田と市井に出した条件はただひとつ。
「よっすぃには内緒にしておいて下さい」
だって格好悪すぎる。
折角びしっと決めて去って行ったのに、まだ保田の家に泊まってます、とは。
「答えたら私の質問にも答えてくれますか」
「質問の内容を聞いてから考える」
「…ずるい」
「そういう事言うかな。えーと事故にあったのは誰だっけ…」
「わかりました!言います!言えばいいんでしょ!」
「なにキレてんの」
「振られたんです!」
「誰が?誰に?」
「私が!よっすぃに!」
「ありゃー」
言ってしまった。うっかりと。乗せられて。
保田にさえ言わなかった事実を。
「もっと他に、ないんですか」
市井のとぼけた反応に、胃の中のお茶が益々HOTになる。
「他にどう言えっつーのよ。どうせ慰めたら怒るんでしょ」
- 177 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時41分21秒
「…今度はこっちの番です」
「なんでそんなに恐い顔してるわけ?撮っちゃうよ?」
「どうしてですか。どうして私なんですか」
噛みつくように迫る。
「どうしてって…撮りたいからに決まってんじゃん」
「そんなのおかしいですっ!私より綺麗な人なんて沢山いるじゃないですかっ」
「いや、いるけどさぁ…」
市井は木陰からはみだした自分の肩を、掌で覆う。
そして、予想外の解答。
「知ってたんだよね、石川さんのこと」
「え?」
「寺田さんとこで写真見せてもらって、会ってみたいと思った」
「あ…」
スタジオで撮ってもらった写真。梨華自身もまだ見ていない。
どころか、すっかりその存在を忘れていた。
「印象違って驚いたけど。写真ではなんていうの、挑発的って感じだったけど」
「チョーハツテキ…」
まぁ、あの時は怒ってたから…と思い返しながらも、『挑発的』という言葉が照れ臭い。
「まさかそっちからつけてくるとはねぇ」
「あれは偶然…」
言いかけて、気付く。
確かにあの時、市井は一度も「誰」とは尋ねなかった。「なんで」と言っただけだ。
- 178 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時42分34秒
保田が話してくれた大まかな関係。
市井は寺田のスタジオのスタッフだった。
アヤカもフリーのヘアメイクだが、保田と市井とは気が合い、よく一緒に遊んだ。
市井は独立してフリーになった。
ほぼ入れ替わるようにして吉澤が入ってきた。
勿論、それで十分だ。
それ以上のことを聞く権利は梨華にはない。
どうして保田は市井に会おうとしないのか、とか。
会おうとしないくせに家に泊め、頭を下げてまで、市井の我侭を聞いてくれるよう梨華に頼むのはなぜか、とか。
「裏切り者」とはどういう意味か、とか。
ほんの僅かな時間を割いてまで市井が梨華を撮るのはなぜなのか、とか。
市井は仕事からどうして逃げ出そうとしたのか、とか。
それから。
「後藤さんのことですけど」
「あ、悪い。後藤の話はやめて」
なぜ後藤は夜になるとあちこちの家に忍びこみ、寝るだけ寝て朝になると帰っていくのか、とか。
- 179 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時44分42秒
「ねーねー、そこの振られた人」
「…」
「まだ、あれかな?吉澤を忘れられないのかな?」
「…答えたくありません」
別れても大丈夫、そう思った。
宙ぶらりんの方が辛いから、そう思った。
だけど。
いざ別れてみると、その余りの喪失感に驚いた。
例え空虚なものであっても「彼女」の肩書きを失った事は大きかった。
形だけでもいい。どうして繋がっておけなかったのか。
どうして見ない振りを、気付かない振りを出来なかったのか。
ああする他なかった、と痛いくらいにわかっていても、それでも。
- 180 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月08日(木)22時45分48秒
「そんならさぁ、あたしと付き合わない?」
「……は?」
そしてまたもや不意打ちに。
「うははっ。撮っちゃった、間抜けな顔」
「…怒りますよ?」
「いいねぇ。怒ってるのも、撮りたいなぁ」
薄い唇を歪めるような笑い方に、ほんの一瞬、吉澤の姿が重なる。
陽射しを背負った焦げ茶の髪の毛がうっすらと透けて。
黒目がちの瞳が悪戯っぽく瞬く。
キレイ、と不覚にもそう思った。
高揚感を伴わない分、それはすんなりと胸の深いところへ染みてきた。
- 181 名前:物心 投稿日:2002年08月08日(木)22時47分29秒
更新しました。
よっすぃー出番ナシ。
>160 オガマー様
寧ろ教えてください。もう、どこへ向かっているんだこの話は。
どうなるのかわからんわからんわからん。失礼。取り乱しました。
>161 名無しどくしゃ様
まだ次回すら決まってないのぉ…と、不安になるような事を明かしてみる。
…頑張ります。
>162 j 様
また「偶然シチュエーション」に頼ってしまいました。
不調です。ダメダ…これじゃ。気合入れ直します。
- 182 名前:物心 投稿日:2002年08月08日(木)22時48分35秒
- >163 青春参拝様
くっ…。辞書はどこだ辞書は。ページをめくってみるものの、思いつかない…。
作者としても、神頼み綱渡り的更新となって参りました。
>164 名無し読者様
初めまして!レス有り難うございます。
ご期待を裏切っているのではないかと。ドキドキです。
>165 名無し読者様
有り難うございます。今回はまったりとした感じです。次回は未定です。
見限らずにお付き合い頂ければ幸いです。
- 183 名前:オガマー 投稿日:2002年08月08日(木)23時09分10秒
- 確かにわからんー。
なので、ますます面白い(w
がんがってください。
楽しみにしてますw
- 184 名前:j 投稿日:2002年08月08日(木)23時52分16秒
- ついに、役者がそろったかな?
いよいよ、これからですねぇ・・。
大変でしょうが、頑張って下さい。
つい調子に乗って、書いていますが、
感想レス、(あり・なし)どっちがいいですか?
- 185 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月09日(金)03時22分25秒
- この先どうなっちゃうんだーーー、めっちゃ気になります。
ちょこちょこっと出てくる、いしよしが付き合ってた頃の回想シーンが甘くてとても好きです。
でも現実のこの痛いシーンももーっと好きでーす(w
でも今回はけっこうまったりしてましたね。
もー要するに、どれもこれも全部好きです。
どこまでも付き合いますぞ(w
- 186 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月09日(金)08時35分30秒
- アリャついに市井ちゃんが出てきたドキドキ
梨華ちゃん波乱続きで大変ねぇ(w
作者様がんばってください。更新楽しみに待ってます。
- 187 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時48分29秒
「失恋した時は忙しくするのが一番。あたしがいてラッキーだったね、石川さん」
勝手な台詞を置き土産に、市井は再び仕事に舞い戻って行った。
悔しいけれど、認めざるを得ない。
思い出の詰まり具合なら、実家の方が遥かに密度が高い。
きっと何を見ても吉澤を思いだし、友達と遊ぶ気にもなれずにぐじぐじと啜り泣くうちに夏休みが終わるだろう。
だからといって、市井に礼を言う気にもなれないが。
- 188 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時49分38秒
夕方、保田から今日は帰れないという連絡が入った。
コンビニで一人分の夕食を買って部屋に帰ると、カーテンを開け放した室内に、後藤がぽつんと座りこんでいた。
「来てたんですか」
「…」
「あ、今日は保田さんお仕事で帰ってこれないってさっき電話がありました」
「…」
後藤に麦茶でも出そうとして、振り返る。
差しこんでくる夕陽が後藤の髪を赫く燃え立たせている。
何か様子がおかしい。
「後藤さん?」
いつものだるそうな後藤、ではない。
「……後藤さん?」
微かに声が震えた。
後藤は何も言わずに梨華を凝視している。
刺すような?
違う。
燃えるような?
それも違う。
道端に落ちている小石でも観察しているような。
奥底に秘めているものを見透かせない、冷徹な眼差し。
怖い。
だが、鉤を飲みこんでしまった魚のように、目を背けたいと心がもがけばもがくほど、視線が体内に食い込む。
- 189 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時50分48秒
唐突に後藤が立ち上がり、キッチンに足を踏み入れる。
筋肉繊維の最後の一本にいたるまで、全く無駄のない動き。
さながら獲物を狙う捕食者。
梨華の踵が冷蔵庫にぶつかった。
逃避行はそこでおしまい。
無造作に腕が伸ばされる。
手の甲が、スッと梨華の頬を撫でる。
「…ッ」
息の根を止める場所を探してでもいるような、感情の欠片すら通わない触れ方。
後藤の押し殺した呟きが漏れた。
「なんで、あんたなの」
冷たい感触が顎に滑ったその時。
うぃ〜ん、と冷蔵庫が唸り声をあげ始めた。
どうやら扉が完全に閉まっていなかったらしい。
何とも間延びした緩やかな音に、後藤の眼が鎮まっていく。
…よくわからないけど、助かった。
何事も無かったかのように後藤が背を向け、玄関に向かう。
呪縛が解けたのは、靴音が完全に消えて、たっぷり五分は経過してからだった。
- 190 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時52分09秒
幾度も鍵をかけ直す。
チェーンをかけ、保田の予定が変更になって帰ってくるかもしれないと、チェーンを外す。
その時はその時、とまたチェーンをかける。
じっとしていられない。
ついさっきまでの後藤は、保田と吉澤の知り合いで、ふっと気ままに姿を現す、それだけの人間だった。
本当に、それだけの。
もし、もしも。
あそこで後藤の指が首にかかったとしても。
きっと抗うことすら放棄して、後藤の眼を見つめながら身体を凍りつかせていただろう。
怖いのは、後藤が再び戻ってくることではない。
チェーンをかけてもその姿が消えてもなお、体に絡みつく後藤の視線と一人で向き合うこと。
梨華は携帯電話に飛びついて、コールボタンを押したところで。
我に返った。
辛いこと、嫌なことがあると直ぐに電話してしまう癖。
無意識のうちに繰り返していた一連の動き。
指にしみついた、吉澤の記憶。
携帯を放り投げ、自分もその場にへたりこんだ。
電話に出ない梨華を心配したアヤカが様子を見にきた時、梨華は電気も点けずに暗い室内に座りこんでいた。
- 191 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時55分20秒
「落ち着いた?」
アヤカの柔らかい声音が、血管に沁みわたる。
「…はい」
「これ、食べられそう?」
いつのまにか、梨華が買ってきた冷やし中華がお皿に見た目麗しく盛りつけてある。
「ちょっと今は…」
「ドレッシングに隠し味つけてみたの。お願い、味見してみて?」
食べて、ではなく、味見してみて、というアヤカの心遣いに応えるべく、梨華は箸を取る。
しばらくは無心で食べた。
機械的に咀嚼しているうちに、頭も落ち着いてくる。
「そっか、後藤が…」
アヤカには「帰ったら後藤がいて、機嫌が悪いみたいだった」とだけ話した。
勿論、それだけで梨華がこれほど怯えるわけがない、とアヤカは承知しているだろう。
「ねぇ梨華ちゃん、紗耶香の撮影に付き合ってること、誰かに言った?」
梨華は首を横に振る。
「そうだよね…」
やはり原因は市井なのだろうか。
「知られちゃいけないんですか?」
「うーん、いけないって事はないんだけど、ね」
アヤカはドレッシングを小指の先につけて舐めると、ちょっと酸っぱかったかな?と首を傾げる。
- 192 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時57分19秒
- 「後藤はね、紗耶香のライフワークだったの」
「え?」
意味がよくわからない。
「あの2人はずっと一緒のはずだったってこと」
梨華にも分かるように、言葉を選びながらアヤカが説明する。
市井のライフワーク。
特定の人間をずっと撮り続けること。
青年期、中年期、高年期。
1週間に1枚、或いは1ヶ月に1枚。
「ある人間の人生の記録を写真で表現するんだって。写真が切り取るのはほんの一瞬。だけど一瞬を断続的に撮り続けて並べれば、その人の人生が見えてくるはずだって」
「だけど…」
梨華の疑問を察したのだろう。
「圭ちゃんも私も、最初聞いた時は笑ったよ。気の長い話だねーって。だって撮る方だって同じように年とっていくんだから。でも、いいんだって。だからライフワークなんだって」
「はぁ…」
気が長すぎて、梨華にはピンとこない話だ。
「冗談だと思ってたらね、紗耶香がある日、こいつに決めた!って連れてきたのが」
「…後藤さん」
「そう。あとで後藤に聞いたら、街で突然声かけられたんだって。お茶でも飲みませんかって」
それじゃまるで、というより丸っきりナンパだ。
ついていく後藤も後藤だと梨華は思う。
- 193 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時58分28秒
- 「しばらくは順調だった。後藤はいちーちゃんいちーちゃんってすっかり懐いてたし。紗耶香もうっさいうっさい言うんだけど、ね、あの調子で」
市井の照れ半分の態度は想像がつく。
「プライベートで写真を撮る時間は殆ど、後藤に費やしてた」
当時を思い出しているのだろう。
アヤカの微笑が柔らかみを増す。
恐らく、アヤカと保田にとっても、最上級に楽しかった頃。
「紗耶香は撮った分をファイルにまとめてた。それを見た寺田さんがすっかり後藤を気に入ってね。本格的にモデルやらないかって持ちかけたの。後藤は直ぐに断ったって。いちーちゃんに撮ってもらわなきゃ意味がないって」
「なんか、いいですね、それ」
市井の撮った後藤を見たいと思った。
きっといい顔をしていることだろう。
眠たそうで、それでいて安心しきったような顔。
ふくれてみたり、おどけたり。
実際には見たこともない表情が浮かぶような気がする。
レンズではなく、レンズの先の市井を真直ぐに見つめている後藤が。
- 194 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)22時59分38秒
- 「よほど気に入ったのね。寺田さんは諦めなかったし、結局、後藤は話を受けた」
「え…」
「しばらくして、紗耶香が独立してフリーになった。技術はともかく、年齢と経験からしたら有り得ない異例の大出世、かな」
言葉の裏に隠されている何かを理解するのに、数秒かかった。
「…それじゃ市井さんは」
「わからない。でも圭ちゃんは紗耶香が後藤を売ったって思いこんでる」
「売った…」
「言葉は悪いけどね」
確かに、タイミングは合いすぎている。
何らかの取引が交わされたのではと疑いたくもなる。
「それだけならいいんだけど」
必死に話についていこうとする梨華に構わず、アヤカは淡々と続ける。
「紗耶香は、後藤を撮るのをやめた。あれから2人は一度も会ってないと思う」
- 195 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)23時01分10秒
「あの子、綺麗でしょ」
アヤカが寂しそうに笑った。
「でも前はもっと綺麗だった。今は変な風に凄味だけついちゃったけど」
泊まっていくというアヤカの申し出を断り、布団に腹這いになる。
アヤカの話と後藤や市井の態度を組み合わせてみる。
後藤は市井を慕っていた。
これは間違いないだろう。
でも、今は?
自分に置き換えてみる。
もし吉澤の為になるのだったら。
吉澤に頼まれずとも引き受けるだろう。
だけど。
もし吉澤がもう自分を撮ってくれなくなったら?
接点が、途切れてしまったら。
「利用された」
そう思うかもしれない。
いや、それよりも。
「捨てられた」と。
憎むかもしれない。
利用されたことより捨てられたことに。
恐らく、後藤も同じだろう。
信頼しきっていただけ、反動は大きいはず。
憎みきれたら楽になる。
憎みきれないから厄介だ。
自分を捨てた市井が、梨華を、別の人間を撮っていると聞けば理性も失う。
- 196 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)23時02分43秒
市井はどうなのだろう。
あの屈託無い笑顔の底に何が隠されているのか。
炎天下の中、あれだけの気迫でシャッターを切る市井は何を忘れようと、追い出そうとしているのか。
拘っていないなら、後藤の話題だって普通にできるだろう。
だが、市井は「後藤の話はやめて」と言った。
これ以上の証拠がどこにある?
きっと、誤解だよ。
保田さん。
私、やってみます。
さっきまでの恐怖は向こう岸に流れていった。
それどころか、今は後藤に親近感すら覚えている。
梨華を追い詰めた後藤だが、比較にならないくらい、追い詰められている後藤。
憎みきれず、前にも進めず。
勢いよくタオルケットを胸までひきあげ、お腹をガードする。
闘いに備えて体調管理。
頭に浮かぶいい加減な計画と飽くなき闘志。
期待されてもいないのに、めらめらと燃えあがる妙な責任感。
人がそれを「お節介」と呼ぶとしても。
- 197 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)23時04分14秒
「なんか…今日はやけに協力的だったじゃん」
「えーそんなことないです」
ハッピーポーズをくれてやりながら、これまでにないスマイルを拵える。
「…とにかく時間ないんだ。話があるなら」
用事があるから午前中しか空いていないと朝から電話してきたのはどっちよ。
文句を言いかけて、ぐっと堪える。
撮るだけ撮ってさっさと引き揚げようとする市井をやっとの思いで喫茶店まで連れてきたのだ。
忍耐、忍従。
「市井さんっ」
「…なにさ」
「お願いがあるんです」
アイスティの氷を噛み砕き、身を乗り出した。
梨華の描いた筋立てはこうだ。
誤解が生じたまま離れ離れの2人。
そこへ謎の女登場。
あろうことか市井を誘惑する。
困惑する市井。
市井と謎の女が付き合っているという噂。
もはや平静ではいられない後藤。
そして再び出会う2人。
「もういちーちゃんなんて知らないっ」
「ちょっ、待てっ、後藤っ」
市井が後藤を追い駆ける。
梨華の脳内ではなぜか市井の方が足が速い。
「誤解だよ…実は」
「いちーちゃん…」
抱き合う2人のシルエット。
暗転。
- 198 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)23時06分05秒
…完璧。
単純だろうが何だろうが、完璧。
漫画でもドラマでも、大抵これでうまくいっている。
要は2人の背中をほんの少し押してあげること。
そして言わずもがな。
謎の女を演ずるのは梨華に他ならない。
「…だから、なに」
「あの…昨日言いましたよね。付き合わないかって」
「…んん、まぁ…言ったけどさ、あれは」
困ったようにストローを齧る。
冗談だった、と言いたいのは、わかっている。
「お願いします!私と付き合ってる振りをして下さい!」
「うはぁあっ?」
「夏休みの間だけでいいんです」
「……」
「一生のお願いです」
「…さては…そういうこと…」
「はい?」
もうばれたのだろうか。
「悪いけどさぁ、そんな事しても効果ないよ」
「えーと、でも、やってみないことには」
「それで気が済むなら別にあたしはいいけど…」
「…いいんですか」
「いいよ」
「…いいんですよね」
「だぁから、いいってば。無駄だと思うけど。吉澤もバカじゃないから」
- 199 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月11日(日)23時07分03秒
…あぁ。
ようやく市井の勘違いが飲みこめた。
市井と付き合い、それを吉澤の耳に入れて嫉妬を誘うという計画。
若しくは、もうあなたなんて好きじゃない、という強がり。
どちらかを、又はその両方を梨華が目論んでいる、と。
市井の勘違いは寧ろ歓迎すべきこと。
梨華が黙っているので、市井は確信を深めたようだ。
「ところで市井さん」
「ん?」
「付き合ってる人、いませんよね?」
「……初めにそれ聞けよ」
- 200 名前:物心 投稿日:2002年08月11日(日)23時08分20秒
ちょび更新しました。
吉澤はまだか吉澤は。
>183 オガマー様
レス有り難うございます&完結おめでとうございます。
甘い2人はやっぱええですわいな。栄養補給させてもらってます。
>184 j 様
感想はとても嬉しいですし本当に励みになります。お気遣い頂きまして有り難うございます。
役者は揃いました。もう増えません、というより増やせません。
>185 名無し読者様
温かいお言葉…。今回更新分はいしよし0%ですみませんすみません。
吉澤さんを忘れているわけではありません。なんせ吉ヲタですから。
>186 名無しどくしゃ様
いつもレス有り難うございます。今度は石川さんが波乱を起こすのか?起こさないのか?
石川さんの在るところに波乱有り、でございます。
- 201 名前:オガマー 投稿日:2002年08月12日(月)00時07分42秒
- うへー
あんなヘボへボ駄文を読んで頂けてたんですか…うへぇ〜…
今後の展開に期待w
- 202 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月12日(月)10時22分34秒
- 梨華ちゃんカナリ積極的に…
どうなるんだろうどうなるんだろう…よっすぃー。
- 203 名前:88 89 134 投稿日:2002年08月12日(月)12時25分45秒
- 切り方が… イイですなぁ。ますます転がる文章〜すとーりーに大期待、の夏。
- 204 名前:よすこ大好き読者。 投稿日:2002年08月14日(水)16時15分04秒
- 吉はいったい何をしとるのか??
続きが楽しみです。
- 205 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時06分43秒
淡いピンクの光沢が踊っている。
誘惑に負けてそっと指先で触れてみる。
「あー、ダメだよまだ乾いてないから」
慌てて手を引っ込めるが、既に遅し。
指の痕がついて、光沢がよじれてしまった。
アヤカがふーっと息を吹きかける。
「はい、反対の手は自分でやってみて」
見よう見真似で慎重に筆を滑らせる。
虹を引くように、爪がピンクに染まる。
「マニキュアを塗る時はね、好きな人の事を考えながら塗るとうまくいくの」
「好きな人…」
「いるんでしょ?」
手元が、狂った。
爪から大きくはみ出した溶液をアヤカがコットンで丁寧に拭う。
「だって急にお化粧教えて欲しいなんて言うから。誰か見せたい人がいるんだろうなって」
躊躇して、俯く。
見せたい人はいる。いや、いた。
奥に閉じ込めていた感情が外に出ようとしてぐぐっと胃を押し上げる。
昔の恋人が今好き…かもしれない相手にこうしてお化粧の指南を受けるというのも皮肉なものだ。
- 206 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時07分48秒
- 「へーぇ、どんな人か聞いてもいい?もしかして私の知ってる人?」
折角の休みだというのにカメラやレンズのお手入れに余念がない保田も流石に興味はあるようだ。
「…はい」
「ええーッ、そうなんだぁ。その人、かっこいい?」
吉澤だったら即答だが市井は…やはり、悔しいけれど頷かざるを得ない。
「私らが知っててかっこいい人かぁ…うーん」
アヤカと保田が顔を見合わせて首をひねる。
「照れ屋でぶっきらぼうだけど本当はすごく優しいんです」
付け足して、吉澤を思い浮かべている自分に気付く。
「毎日会ってるうちに、何かいいなって…」
ハッと保田が顔をあげた。
「…もしかして」
「はい」
保田の顔にみるみるうちに影が差す。
「……」
「…梨華ちゃん、この前話したと思うけど」
「わかってますアヤカさん」
力強く頷く。
ごめんなさい。保田さん、アヤカさん。
少しの間、嘘をつかせて下さい。
「でも私、市井さんに好きって言いました」
- 207 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時08分52秒
私、相当嫌な女と思われているんだろうな…。
だけどきっと最後はわかってくれる。
その時まで、頑張ろう!
私がやらなきゃ誰がやる!
自然にどうにかなる、という考えは梨華の頭にはない。
事実、どうにもなっていないしどうにかなりそうな気配もないのだから。
あとひと押し、ふた押しすれば。
市井が梨華を撮っているとどこかから聞きこんできた後藤のことだ。
市井の話題には耳ざとくなっているに違いない。
当然、混乱するだろう。
あとはいかにうまく、後藤と市井を引き会わせるか。
もはや後藤は梨華のいる保田の家には泊まりに来ない。
どうにかして自然に二人を会わせなければならない。
- 208 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時13分03秒
ああでもないこうでもないと考えながら、市井との待ち合わせ場所に赴く。
梨華が暇だと知っている市井は、実に気安く呼び出す。
呼び出される度に腹が立って「すっぽかしてやる」と思うのだが、結局は時間通りに待ち合わせ場所に着いてしまう。
限られた人間が持つ、独特の空気。
「ぃよっ」と片手を上げてやってくる市井を見ると、なぜだか「まぁいいよね」という気分になってしまう。
「まさか今日はここで撮るわけじゃないですよね?」
連れられて入ったのは、ビルの地下にある定食屋。
昼時を過ぎているので店内は比較的空いている。
「この店はだね、素晴らしいんだよ石川君」
「はぁ」
「安くて早くて長居できる。でも」
「でも?」
市井は胸を張って宣言する。
「まずい」
エアコンの冷風に背中を撫でられて、汗が急速に引いていく。
「何でも奢るよ。色々迷惑かけてるからさ」
珍しく殊勝な事を言いながらも市井の視線は扉に張りついている。
「そろそろだと思うんだよな…」
「なにがですか?」
「んー?いや、この店、スタジオの連中が昼飯食べにくるから。多分、今日も来ると思うんだよね」
「…え?」
「だからさ、張ってるわけよ、吉澤を」
- 209 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時14分33秒
ぱくぱくと口を開閉する。
言葉が出てこない。
泳ぐように席を立つ。
「なんだよなんだよ、逃げるのかよ」
手首を掴まれる。
「何の為にあたしに頭下げたのさ。見返してやるんだろぉ」
梨華はふるふるふるふるふるふると首を横に振る。
違う違う違う違う。
違うんです市井さん。
「で、何にする?あたしと同じでいいよね」
さっさと注文を済ませて満面の笑みで梨華を観察している市井は、どこからどう見ても、明らかに。
「…市井さん、楽しそうですね」
「ええーなに言ってるの愛しのマイ・ハニー」
楽しんでいた。
- 210 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時16分05秒
考えるのよ、そう、冷静になって。落ち着いて。
どうにかしてこの場を逃げ出さなきゃ。
頭痛腹痛生理痛。
チャンスはあるはず。
まずは大きく深呼吸。
「おっ、来たぞっ」
大きく吸った息を吐き出さないうちに、無情にも、試合開始のゴング。
市井がにやっと口の端をあげ、テーブルの上で梨華の右手を握った。
梨華の席からは扉は見えない。
店員の「いらっしゃいませ」という能天気な声が背中に突き刺さる。
市井の手を振りほどこうとするが、がっちりと押えつけられている。
「おおーっ、吉澤じゃーん」
わざとらしく市井が大声を張り上げる。
梨華は振り向く事もできず、ただコップの水滴を見詰める。
靴音が、近くなる。
「どうも…」
優しい、懐かしいがどこか戸惑いを含んだ声に、耳朶がかっと熱くなる。
「吉澤、ひとり?」
「あ……いえ。もう一人来るんですけど」
「ここ座んなよ。いいよね?梨華」
市井を睨みつける。
呼び捨てにしていいと許可した覚えはない。
しかし、梨華の無言の抗議を市井はどこ吹く風そこ吹く風とばかりに無視して。
「そんな遠慮しないで。ね?梨華」
「でも、ほんとに、お構いなく…」
- 211 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時17分51秒
「いいじゃん、そこにしようよ」
唐突に後方から降ってきた、もうひとつの。
聞き覚えのある声。
市井から余裕スマイルが掻き消えた。
「後藤…」
Tシャツの胸の部分をつまんでハタハタと扇ぎながら、後藤がゆっくりと近付いてきた。
こんな所で、こんなに早く。
展開に心と頭がついていけない。
吉澤と仲が良いらしい後藤が、吉澤の行き付けの店で昼食を一緒にとっても何の不思議はない。
しかし、そうはいっても、まさか。
市井も同じ気持ちだろう。
まさか。今日に限って。
- 212 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時19分42秒
- 張り詰めた何かが空気を裂いていく。
が、それはほんの、瞬きひとつ分の間。
「ひさしぶりぃ。元気だったぁ?」
呆気ないほど突き抜けた、後藤の挨拶。
「おーう、元気元気」
次に立ち直ったのは、市井。
吉澤がほっとしたように表情を緩める。
さっさと隣のテーブルをくっつけ、後藤が四人席を拵える。
少し迷ってから、吉澤は市井の横に腰を下ろした。
「後藤、おまえちょっと太ったんじゃない?」
「えーそーかな」
街で同級生にでも出くわしたような、表面的な会話。
「どうせまただらだらと寝てるんだろ」
「まぁねー。よく寝てよく食べてるかなぁ」
「相変らずだなぁ」
当り障りのない言葉の奥から互いの年月を探りだす、微妙な駆け引き。
吉澤の視線が、気遣わしそうに二人の間を往復する。
- 213 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時20分37秒
じきに注文した料理が運ばれてくる。
味などさっぱりわからない。
ただ、瞬間と瞬間を繋ぐ為だけに口の中に固形物を運ぶ。
「あれ、後藤、それ嫌いじゃなかったっけ」
「あー、食べられるようになった」
「ふーん」
二人の過去に話が寄りそうになるたび、吉澤と梨華の対角ラインに緊張が走る。
さながら高圧電線。
過去に触れるべからず。
「この色、可愛いねぇ。梨華ちゃんに合ってる」
後藤が目敏く梨華のマニキュアに気付いた。
吉澤でも市井でもなく、後藤に誉められたのはこの状況にあっては皮肉でしかない。
「なぁーに口説いてんだよ」
「可愛いって言っただけじゃん。…いちーちゃんじゃあるまいし」
さらりと言い放つ後藤。
「えへへへ…」
「あははは…」
無意味な梨華と吉澤の笑いが重なって…散る。
- 214 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時25分17秒
- 「あ、よっすぃそれ要らないでしょ。ちょーだいちょーだい」
皿の端に寄せられている惣菜を後藤がさらう。
その余りにも自然な動きに、梨華の胸がちくりと痛む。
昔は。
梨華ちゃんこれ食べてよ、と苦手な物があると吉澤はホイホイと梨華の皿に乗せていった。
好きな物も苦手な物も分け合った。
「もーらいっ」
隙をついて、市井が梨華の皿に箸を伸ばしてきた。
咄嗟に、自分の箸でしっかと肉を押えつける。
「…ケチ」
「最後にとってあるんです」
「うわー、せこーい」
「人のとるよりましです」
フッ、と後藤が笑う。
驚いて横を見ると、市井と梨華のやり取りを面白そうに眺めている。
- 215 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時27分04秒
あれ…どうして…?
ここにきてようやく、梨華の根拠なき確信が崩れ始める。
嫉妬、焦燥、未練。
予想していた反応は、その態度からも表情からも窺えない。
思い違いだったのだろうか?
それでは、あの夜の後藤は?
短期間のうちに市井を吹っ切れるような何かが起こったのか?
市井に勘違いされてまで練った小細工は全て無駄だったのか?
ゴールと思って全力疾走してきたその果てはゴールでもなんでもなく、スタート地点に舞い戻っただけなのだろうか?
…そもそも、レース自体が最初から存在していなかったのか?
混乱して頭の纏まらない梨華の視線が、ある一点を、捉えた。
あぁ、やっぱり。
ゴールは、ゴールだよね。
- 216 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時29分23秒
「じゃあ、あたし達はそろそろ」
おもむろに吉澤が腰を浮かす。
えーもう?と言いつつ後藤も従う。
「それじゃ」「また」「うん」「失礼します」
また、の次に続く言葉を誰も口にしようとはしない。
また会おう。また今度。
梨華が吉澤のアパートを出た日、最後に投げかけた言葉は。
また、いつかね。
市井と後藤の「また、いつか」は実現するだろう。
いや、させてみせる。
吉澤と自分の「また、いつか」は?
「いやー、なんつうか、驚いた」
2人の姿が扉の向こうに消えるのを確認して、市井は一息に水を飲み干した。
「それでどうだった、吉澤は。ちゃんと見て…ん?なに?」
黙ったまま、これを見ろと促して。
後藤の膳を横にずらす。
市井の眉間に深い皺が寄り、やがて苦い笑みに変わっていく。
鋭い切先を形作っている残骸。
あの細い腕のどこにそんな力が。
8等分に、めちゃくちゃに折られた、後藤の割り箸。
- 217 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時30分44秒
「憎まれてるなぁ、あたし」
ぼそりと市井が呟く。
「違います。市井さんだって違うってわかってるんでしょう」
「…絡むねぇ、石川さん」
「誤魔化さないで下さい。どうして?どうして後藤さんを避けるんですか」
「圭ちゃん、いや、アヤカだなぁ。喋ったのは」
「そんなことはどうでもいいんです!」
梨華の剣幕に、市井は目を見開く。
「市井さんが撮りたいのは後藤さんなんでしょう?私じゃないでしょう?何か、理由があるんですよね?」
詰め寄るうちになぜか哀願口調になってしまう。
「…お子ちゃまにはわから」
「どうせ私は子どもです!ガキです!お洒落じゃなくて鈍臭くて料理も下手で、だからよっすぃにも振られちゃうような、どうしようもない子どもです!」
「…いや、そこまでは」
「でも、真剣です!はぐらかさないで下さい!」
- 218 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月15日(木)23時33分10秒
意志に反して熱いものがこみあげ、瞼では押えきれなくなる。
これじゃまるで子ども。またバカにされると堪えようとするも、逆効果。
自制不能。
ぼやけた視界の向こうで、市井が慌ててタオルを引っ張りだそうとした時。
少し湿った掌に、腕を掴まれた。
驚いて見上げたその先には。
「ちょっと梨華ちゃんに話があるんですけど、お借りしてもいいですか」
去った筈の吉澤が、市井を睨みつけていた。
- 219 名前:物心 投稿日:2002年08月15日(木)23時35分19秒
少しですが更新しました。
ちょっぴりで申し訳ございません。
>201 オガマー様
溶けちゃう溶けちゃう読んでる方も一緒に溶けちゃうー。
続編、期待しております。レスのお礼になってなくてすみません。
>202 名無しどくしゃ様
石川さんは妙なところで積極的です。負けず嫌いです。責任感が強いのです。
あくまで、妙なところで。
>203 88 89 134 様
転がった果てにお池にはまってさぁ大変、にならぬよう…頑張ります。
どっかからどじょうが出てきてこんにちはとアイデアをくれないかなぁ。
>204 よすこ大好き読者。様
何をしていたんでしょう。吉澤さんやっとこさ出て参りました。
余りのいしよし不足に、展開がいちごまに傾きつつある今日この頃です。
- 220 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月15日(木)23時56分34秒
- ドキドキドキドキ・・・・
もうドキドキハラハラさせられまくりな展開ですね。
いちごまの方も気になります。
あと石川と市井の絡みの部分がとっても好きです。
次回…どうなるんだろう…よっすぃー…マジで気になる…
- 221 名前:オガマー 投稿日:2002年08月16日(金)00時24分33秒
- キターーーーー
きてないかもしれないけどキター(何
ドキドキしますぅーw
- 222 名前:じゃない 投稿日:2002年08月16日(金)01時04分56秒
- 毎回切り方が上手ですな。。
- 223 名前:j 投稿日:2002年08月16日(金)07時23分42秒
- ほんと、読者にとっては「ここで切るんか?」状態。
執筆、大変でしょうが、頑張って下さい。
- 224 名前:クロイツ 投稿日:2002年08月16日(金)17時05分18秒
- いやーーーー!!!気になるーーーーー!!!
先がめっちゃ気になります〜〜〜〜〜!!!
頑張ってくださいね!!更新、楽しみにしてまっす♪
- 225 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年08月17日(土)00時22分24秒
- 本当に先が読めない…。
いや、お見事です。
いちいし(でいいのか?)も密かにスキ。
- 226 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時18分13秒
「駄目って言ったら?」
市井の返事に、吉澤が顔を強張らせる。
「それでも」
掴まれた腕に力が入る。
「連れて行きます」
走ってきたせいだろうか。
吉澤は肩で息を整えている。
「痛い…」
小さく訴えるが、ちらりと一瞥しただけで梨華を引っ張るようにして店の外へ出す。
背中が怒っている。
久し振りに会った。
久し振りに吉澤の方から触れてくれた。
本当なら嬉しいはずだが、何を言われるのかわからない不安から萎縮してしまってそれどころではない。
ビルの非常階段まで来て、ようやく解放された。
吉澤のスニーカーの先が梨華に向き直る。
- 227 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時20分26秒
- 「あー、ごめん」
消え入りそうな、吉澤の声。
「え…」
腕を掴んだことか、連れ出したことか、それとも。
ごめん、をどう受け取っていいのかわからない。
「あのさ、あの、さ」
うまく切り出せないのがもどかしいのだろう。
吉澤は汗をTシャツで拭ったり髪をかきあげたりと落ち着かない。
滅多に見せない、弱々しい表情。
よっすぃもこんな顔するんだ。
こんな顔、今までよっすぃは余り見せなかった。
…見せられなかった?
「やめたほうがいいよ」
「えっ?」
「だからさ……市井さん。やめなよ」
「そんなこと言われても…」
「好きになったって、無理だって。やばいって。まじで」
「…どうして?」
「どうしても」
「なにそれ」
「…なら言うけどさ、梨華ちゃんは知らないだろうけど市井さんには」
「後藤さん、でしょ?」
「…」
「知ってるよ」
冷静に言いきる梨華に、今度は吉澤の視線が泳ぐ。
「だったらなんで」
「いけないの?」
「……」
「相手に好きな人がいるってわかってて、それでも好きになったらいけないの?」
よっすぃを好きでいることさえ、許してもらえないの?
- 228 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時22分14秒
「…だって泣いてたじゃん」
「あれは」
「泣かされてたじゃん!」
キュッ、とスニーカーがタイルに擦れる音が、吉澤の苛立ちを伝える。
「泣かされた訳じゃないよ」
自分で勝手に泣いてしまっただけだ。
市井は悪くない。
「でも泣いてた。なんで?どこがいいわけ?市井さんなんてやめときなって。今ならまだ」
最後まで聞かずに、首を振った。
「引き返せない」
吉澤の眼が凍りつく。
割り箸の残骸。ギザギザに尖った切先。
きっとその先端は今、後藤の胸に深く突き刺さり、臓を抉っているだろう。
引き返せない。
途中で投げ出すことなんて出来ない。
「でも、ありがとう。心配してくれて」
「……幼馴染じゃん」
…やっと、やっと言ってくれたね。
待ってたよ。
「よっすぃ」
「うん」
「それ聞けて良かった」
「…ん。じゃ、あたし、戻るから」
優しくて、優しすぎるのが珠に傷。
かっこよくて、お日様みたいで、でもちょっと弱虫で。
ずっと一緒で。
もうどこが好きかもよくわからないほど好きで。
- 229 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時23分24秒
「よっすぃ!!」
叫んでいた。
吉澤が驚いて振り返る。
何を言おうとしたのだろう。
何を言いたかったのだろう。
見つめあった。これまでにないくらい、真直ぐに。
もっと前からこうして眼差しを合わせていれば良かったのかもしれない。
でも現実の自分は。
失うことばかり恐れて。
次の言葉を待つ吉澤。
いつまで経っても口を開かない梨華。
「ねぇ、梨華ちゃん」
眼だけで吉澤が微笑んだ。
「綺麗になったね」
- 230 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時25分23秒
元通りにしたって後藤の心が元通りになるわけではないのに。
市井は木ぎれを並べて2本の棒に戻そうとあれこれ弄っている。
「おかえり」
「…何してるんですか」
「これさぁ、すごくない?普通、こんな短いの折れなくない?」
「市井さん」
「んー」
「ちゃんと振られてきました」
市井の手が止まる。
「そっか。でかした」
腰に両手をあてて、えっへんと威張ってみせる。
「なんだつまらん。泣かないの?」
「フフン。あんまり甘く見てもらっちゃ困りますよ」
泣いたりはしない。
冷たくされては泣いて、人に頼って。
そんなのはもうおしまいにするのだ。
前に進むのだ。
取り敢えず今は、意地でも笑顔を張りつけておこう、と。
- 231 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時26分46秒
「後藤のことだけど」
木ぎれを一箇所に寄せ集めた市井が、背筋を伸ばす。
「あたし、後藤の代りに石川さんを撮る、撮ってる。これってひどいかな」
余計なものを一切省いた、市井らしい懺悔。
しばらく考えてから、梨華も率直に言葉を返す。
「私がもし市井さんを好きだったら、ひどいと思いますけど」
それで十分に伝わった。
「とかいって、惚れるなよ」
「有り得ません」
「えー、吉澤よりあたしの方がいいと思うけどぉ」
吉澤という名前を耳にするだけで、今は痛みを覚える。
だけど。
「よっすぃは、最ッ高です!」
綺麗になったね。
吉澤の一言。
今更、なんなのよ!
なんでそんなこと、最後の最後で言うのよ!
混乱した。切なかった。腹立たしかった。
…嬉しかった。
忘れることなどできない。
忘れなくていい。
ぜんぶひっくるめて、自分の気持ちを認めてあげよう。
まずはそこから、先に進もう。
「バッカじゃん。もう、おてあげ」
市井が呆れたように万歳をしてみせた。
- 232 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時28分33秒
食事は梨華の担当だ。
外食の多い保田にせめてバランスのとれた食事をと梨華は奮闘する。
が、経験は正直だ。
保田がマイ醤油を脇に隠し持っているのを見た時、おかず一口に対してご飯をめいっぱい詰めこんでいるのを見た時、梨華は自分が情けなくてたまらなくなる。
それでも保田は「ありがとう」を欠かさない。
「家で食べることに意味がある」と言ってくれる。
待っててくださいね、保田さん!
何と言っても今日の夕食はひと味ふた味違う。
梨華はデパートの袋をしっかりと握り締め直す。
神々しいまでの、重み。
国産和牛ステーキ肉。
特売品などではない。
デパ地下の食肉店で鼻息荒く買ったモーモー様だ。
- 233 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時30分21秒
- これを保田とアヤカと梨華の三人で、牛に大地に感謝しながら美味しく頂こう、と張り切っていたのに。
意気揚揚と戻ってみると、アヤカの姿がない。
梨華が出かけてまもなく帰ったという。
「いーじゃん。アヤカの分も食べちゃおうよ」
「でもぉ」
いくら梨華がステーキ大好きといっても、1,5人前を平らげる自信はない。
しかし保田は上機嫌で、アイラブミートアイラブビーフと怪しげな英語を振り回している。
ワインをほんの少しグラスに注いでもらい、大人の真似事。
さっと塩胡椒をふって焼いただけのステーキは、それだけで立派なご馳走となった。
自然と、舌の滑りも良くなる。
保田の相槌上手も手伝い、オチも終わりも見えない話をだらだらと続ける。
豪勢な失恋晩餐会。
- 234 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時32分29秒
「アヤカとも話したんだけど、反省したんだ。悪かったなって」
ワインで唇を湿らせ、保田が改まった調子で切り出す。
「紗耶香のこと。つまんないこっちの事情なんて押しつけちゃってさ。好きなものは好きって、理屈じゃないもんね」
「保田さん…」
「応援してる、って言っても何も出来ないけど。なんでかわかんないけど、梨華ちゃんには幸せになってほしいなぁって、思っちゃうわけですよ、お姉さん達は。うんうん」
おどけてはいるがその真情は余すことなく梨華の胸に響く。
良かったね、よっすぃ。
こんな素敵な人たちに囲まれて。
- 235 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時33分37秒
- 「そんなに私、頼りないですかぁ?」
照れ臭くなって、梨華もついふざけた声音を作ってしまう。
「うーん、頼りないっていうか、色々と下手そうだなっていうか、危ういっていうか、無用心っていうか…」
言葉を探しあぐねる保田。
「でも、意外だったかなぁ。梨華ちゃんはてっきり吉澤のことを好きなんだと思ってたから」
「……よっすぃは、幼馴染です」
「そうだよね。うん、ごめんごめん」
「今日、偶然よっすぃに会いましたよ」
偶然、に力をこめる。
迷ったけれど、後藤が一緒だった事は言わなかった。
隠す意味などないけれど、保田に余計な心配はかけたくない。
そうだったんだ、と言い掛けて保田は気まずそうに口篭もる。
「…あー、ごめんね。実はさ、梨華ちゃんがまだこっちにいるって言っちゃったんだよね吉澤に」
どうりで梨華を見ても吉澤が驚かなかったわけだ。
「いいんです」
そんなこと。
今となっては。
「あっ、梨華ちゃんのじゃない?」
くぐもった携帯の振動を保田が耳聡く聞きつける。
- 236 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時35分58秒
非通知着信に一瞬ためらったが、通話ボタンを押す。
「もしもーし」
『…もしもーしじゃないわよっ。梨華っ』
「お母さん…」
不意をつかれた。
吉澤のアパートで、帰って来いと迫る母親に啖呵を切ってから、一度も電話をしていなかった。
『どういうつもりなの。あんたお盆どうするの。お父さんも心配して…』
「お母さん、ごめんね」
あんなに鬱陶しかった母親の声。
何だか無性に懐かしくて、涙が出そうになる。
素直な梨華に拍子抜けしたのだろう。
嘆息ひとつ。
そして鼓膜を揺さぶる声は、柔らかかった。
『ほんとよ。散々心配かけて』
「今ね、よっすぃの先輩のおうちに」
『それは知ってるけど、ちゃんと食べてる?』
「うん」
『元気なのね』
「…うん」
『それならいいけど』
- 237 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時37分46秒
「あれ?」
『なに』
「お母さんによっすぃの家を出たって言ったっけ?」
受話器の向こう側で、母親が、あぁ、と笑う。
『ひとみちゃんがね、毎日電話くれてたからね』
「えっ?」
『だって連絡ないんだもの。ひとみちゃんに聞くしかないでしょ。そしたら、心配ですか?って言って毎日電話くれてね。相変らずしっかりしてて優しいね、あの子は』
「…それ、知らない」
『余計なことしてって嫌がるだろうから黙ってて下さいって、あんたのこと気遣ってくれて。大体、昔っからひとみちゃんに迷惑ばっかりかけて、いい加減に…』
母親の声が遠のく。
記憶が、フラッシュバックする。
「こっちこそ、急にすいませんでした」
「……心配、ですか?」
「また、電話しますから」
「ごめんね。友達からだった」
吉澤の、電話の、相手。
それは。
- 238 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月18日(日)22時39分33秒
『…梨華、聞いてるの?梨華?』
「お母さんッ」
『なによ、吃驚するじゃない』
「……おそいよぉ」
ヒステリックな笑い声に、食器を運んでいた保田が振り向く。
『なんで笑うの。ちょっと、ねぇ、やっぱり何かあったんじゃ』
「だぁいじょーぶ。ぜんぜん!なんでもないから!」
安心させたいのに、引き攣った笑いがとめどなく喉を突きあげる。
遅い。遅いよ、お母さん。
もう遅かったよ。
- 239 名前:物心 投稿日:2002年08月18日(日)22時41分51秒
ちょび更新が続いております。
>220 名無し読者様
作者もハラハラしております。大丈夫なんでしょうかこの話は。
いちごま、好きです。主食はいわずもがないしよしですが。
>221 オガマー様
無事きましたか?それともキタと見せかけてきませんでしたか?
後者ですね、恐らく。よっすぃ、風と共に去りぬ。
>222 じゃない様
題名を変えたいなと悩み中です。
『暴走特急』もしくは『暴走キング』もしくは『暴走という名の電車に乗って』もしくは。
- 240 名前:物心 投稿日:2002年08月18日(日)22時43分46秒
- >223 j 様
あっ。凄まれちった。いつもレス有り難うございます。
予告が本編より10倍面白い…という結果にならぬよう、作者と共にお祈り下さい。
>224 クロイツ様
レス有り難うございます。もしや青で新作書かれてませんか?(違ったらごめんなさい。)
楽しみにしてます!
>225 ごまべーぐる様
いちいし、密かな人気でしょうか。話の先は、あの、余り予想しなくても…。エヘエヘ。
自分との闘いとなって参りました。
そして逃避する。他の板へ。海へ。そして読む。読み返す。そして寝る。こんな感じです。
- 241 名前:しゃんぶらー 投稿日:2002年08月18日(日)22時49分45秒
- あぁ、、切ない切な過ぎるよぉ。よすぃがんばれぇ。
作者さんもがんばれぇ。
- 242 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月19日(月)00時38分48秒
- 。・゚・(ノД`)・゚・。 あうあうあうあーーー!!!!!よっちぃーーーー!!!!
- 243 名前:よすこ大好き読者。 投稿日:2002年08月19日(月)00時39分08秒
- >デパ地下の食肉店で鼻息荒く買ったモーモー様
が、かなりツボでした。(wそこから先が笑って読めなかったぐらい。。。
でも、その後がなんて、切ないんでしょう。ガンガッテください。
- 244 名前:吉澤ひと休み 投稿日:2002年08月19日(月)00時45分52秒
- め、名作の予感!
文の作りといい、流れといい、NO文句です!
がんがって下さい!
( ^▽^)<梨華、がんばる!ファイ!
( ´ Д `)<・・・・・・・ケッ
(0;^〜^)<ど、どうしよう・・・・ オロオロ
- 245 名前:88 89 134 203 投稿日:2002年08月19日(月)02時17分17秒
- せっ、せつねぇえええーーー! 石川、い`ーー! (T▽T)<…。
- 246 名前:オガマー 投稿日:2002年08月19日(月)06時58分32秒
- キタと言えばキタっスねぇ〜(何
ドキッとしちゃいました。ヨシィの一言にw
今は切ない気持ちです…
- 247 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月19日(月)10時26分51秒
- よっすぃー(ナミダ
なんて優しいんだ…感動だよ
相変わらず小ネタも面白いくてイイ!です
- 248 名前:クロイツ 投稿日:2002年08月19日(月)17時35分43秒
- 素敵・・・素敵すぎるわ、ヨッスィー!!マジ惚れそうです!!
梨華ちゃんも可愛くて可愛くて・・・もう、先が楽しみで眠れなさそうですよぅ!!
がんばってくださいね!!
P.S.はい、青板で書いてるのは私です☆読んで下さったんですか!?うれしいです♪
- 249 名前:名無し読者 投稿日:2002年08月21日(水)00時11分15秒
- それにしても、こんな秀逸な作品が見れるなんて幸せなことだよ。。
いしよしの秀逸小説集めて単行本にして売り出して欲しいものだ。
物心さんの作品は当確だね。
- 250 名前:ホッピー ◆hoppyFIM 投稿日:2002年08月21日(水)02時38分06秒
- 今日、一気に読ませていただきました。
お も し ろ い …
泣けてしまいますた (Oノ〜`O)グシ
- 251 名前:皐月 投稿日:2002年08月21日(水)20時59分27秒
- う・・・吉澤ー!!!!
アンタって人は・・・いいひとすぎっ!もー泣けてきました。。。
更新楽しみに待ってます!
がんばってくださいね!
- 252 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時43分29秒
ぼんやりと洗濯機の水に手を浸す。
まわるまわる水流に指先が攫われる。
市井からの連絡はあの日から途絶えたままだ。
忙しいのか。世間と同じくお盆休みでもとっているのか。
気紛れに、それでもほぼ毎日かかってきていた呼び出しコール。
腹を立てていた筈なのに、無くなると妙に不安で調子が狂う。
もう自分は必要ないのだろうか?
それならそうと言ってくれればいいのに。
帰ろうと思えば、帰れる。
しかし、保田がお盆にも実家に帰らないのをいいことに、梨華はずるずると居座っている。
アヤカと買い物に行った。
保田とアヤカと公園で花火をした。
なぜか肝試しもした。
保田の怯えっぷりがおかしくて笑い転げた。
ビデオを何本も観た。
アヤカが声をたてずに泣く姿に見惚れた。
楽しかった。よく笑った。
だが、何かが決定的に、欠けていた。
- 253 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時44分58秒
指に、布がからまる。
よっすぃと最後に会った時に着ていたスカートだ…と思った途端に、胸が疼く。
笑ってしまうくらい皮肉なタイミング。
先に進もう!と決心した直後に知った事実。
揺らいだ。
いや、揺らいでいる。今も。
振られた事には間違いない。
他に好きな人がいるのという梨華の問いを吉澤は否定しなかった。
…肯定もしなかった?
冷たかった。素っ気無かった。
…庇ってくれた。
お金を返しに来てくれた。保田に託せばそれで済むのに。
…あの夜、泣いてくれた。
- 254 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時45分33秒
- ぐるぐるぐるぐる。
記憶が映像が、互いに絡みあって回り続ける。
認めないわけにはいかない。
複雑に入り組んだ思考の隙間から、希望が、微かではあっても、忍びこんでいることを。
希望という代物に幾度も裏切られて、痛い目にあってきたのに。
必死に押えこもうとする。
追い出そうとする。
意識を逸らそうと、洗いあがった洗濯物を景気良くはたく。
家では母親に任せきりの家事も、人の家でやるとなるとなぜか心が浮き立つ。
お役に立っている、という実感のせいかもしれない。
鼻歌なんぞ歌ってみる。
音程が外れた。
悔しくなってもう一度歌ってみる。
惜しい。さっきよりは良くなった気がする。
もう一度、もう一度。同じフレーズを際限なくリフレイン。
鼻歌ひとつでも、負けはしない。
もうやめて!と携帯が悲鳴をあげた、ように梨華には聞こえた。
- 255 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時46分48秒
「あ、梨華ちゃん?」
仕事中なのだろう。周囲をはばかるように押し殺した声。
「保田さんですか?」
なぜか梨華もお付き合いして声を潜める。
「急で悪いんだけど、ちょっと頼まれてくれない?」
「いいですよ。なんですか?」
「ちょっと吉澤のアパートを見てきて欲しいんだよね」
「はぁ?」
本当に、急で、しかも悪い。
「どうも風邪らしいんだけど、もう3日も休んでるんだよ。電話の声が普通じゃなくてさ。立てこんでてスタジオの連中も体空きそうになくて」
「でも…」
「あの子が休むなんてよっぽどだと思う。ね、お願いできない?」
お願いね、の『お願いできない?』
頼んだよ、の『お願いできない?』
二人を単なる幼馴染と思っている保田にしてみれば、梨華に頼むのはごくごく当然。
断る理由が、ない。
- 256 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時48分21秒
- 上の空で残りの洗濯物を干し、むやみやたらと動き回る。
バッグにタオルをしこたま詰めこんで、タオルくらい吉澤のアパートにもある、と気付いて元の場所に戻す。
迷惑がられたら?追い返されたら?拒絶されたら?
逸る体と、怖気づく心。
心配でたまらないけれど。
どこかで喜んでもいる。
…よっすぃ、こうしてる間に、もしかしたら…。
室内にばったりとうつ伏せている吉澤の姿が脳裏をよぎる。
梨華は飛びあがって鞄を引っ掴み、外に走り出た。
サンダルで駅まで全力疾走をかまし、ホームの階段を二段とばし。
駆けこみ乗車はおやめ下さいというアナウンスを軽く無視して閉まりかけた扉に突進。
アパートに着いた時には髪はザンバラ。胸の谷間に幾筋も汗の滴が流れていくのがわかる。
そのままの勢いをかってノック。返事はない。
「…よっすぃ、いるの?」
おそるおそる声もかけてみるが、室内からは何の物音もしない。
薬でも買いに行ったのか、それとも病院に行ったのかもしれない。
一気に力が抜ける。どこかでほっとしてもいる。
しかし。
…うつ伏せになった吉澤。
波の満ち引きの如く、また不安が押し寄せる。
- 257 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時49分45秒
- 安否を確認できないままでは去り難い。
裏に回って窓から中を窺えないだろうかとアパートの周囲をうろつく。
怪しい者ではございません。
心の中でそう呟きながらうろつく姿はしっかり怪しい。
どこかで時間を潰して、出直そう。
決心して建物に背を向けて、硬直した。
階段の下から冷え切った視線を送る人影。
両手に提げたビニール袋から、氷や果物が透けて見える。
「あんた、何やってんの」
氷点下の声音に、無残な割り箸の残骸を思い出す。
「なに。なんの用」
「…あ、あの、よっすぃが」
「あんた、どういうつもり」
遮られて、口を噤んだ。
割り箸を圧し折った怒りそのままに、後藤の全身からは激しい苛立ちが湯気のように立ち昇っている。
「なに考えてんの?信じらんない」
1歩たりとも動いていないのに、徐々に後藤が迫ってくるような錯覚。
「市井ちゃんは知ってんの?それともなに、別れた彼女が手を離れたら急に惜しくなった?可愛い顔して、随分欲張りだね」
ぐぅっと喉が詰まる。
後藤は何も知らないのだ。仕方が、ない。
- 258 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時51分27秒
- ない!と言い聞かせる。
が。
「私はよっすぃの幼馴染だもん!心配して何がいけないの!」
言い返していた。
「よっすぃはどうなのよ!ただの風邪なの?お医者さんに診てもらったの?どうなの!」
ズイズイと後藤に迫る。
思わぬ反撃に一瞬呆気に取られていた後藤だが、直ぐに立ち直って鉄の鎧を身に纏う。
「さぁね。あんたには関係ない。さっさと帰ってよ」
見下ろすようにして睨み返される。
負けないから。そんな、睨んだりしても恐くないんだから!
弱気を振り払い、口を引き結ぶ。
「悪いけど、にらめっこしてる暇ないから。とにかく、絶対あんたには会わせない」
言い放ち、鍵を取り出して室内に吸いこまれていく後藤を梨華はただ見ているしかない。
…別にいいじゃない。これで。
看病してくれる人がいたんだから。
あー良かった。良かった良かった。
…なによ、後藤さん、よっすぃの彼女みたいに。
人でなしみたいな言い方して。
落胆は、徐々に後藤への怒りにすりかわる。
どういうつもりって後藤さんこそどういうつもり。
関係ないって、後藤さんだって私とよっすぃの間には関係ないじゃない!
- 259 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時54分02秒
怒りをじっくり煮込んでいた為に、梨華は背後から足音が近付いてきたのにも気付かなかった。
肩を突然叩かれ、裏返った悲鳴が迸る。
「…うるっ……さ…」
「後藤さん…?」
至近距離で後藤が息を弾ませている。
追いかけてきてまで文句を言われるのだろうか。
本能的に身構える。
「…あんたのことは、嫌いだけど…」
息を整えながらも、後藤が言い澱む。
「…嫌いだけど、あたしより多分、あんたが看た方が治るかもしんない」
「え…」
「よっすぃ何にも食べてくれなくて、何が好きとかわかんないし。……幼馴染なんでしょ」
「…そんなにひどいの?」
「熱が下がんない」
「薬は?」
「解熱剤のませようとするんだけど、飲んでくれない」
「……いいの?」
- 260 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時54分46秒
- 悔しそうに後藤が俯く。
内心では歯痒くて情けなくてたまらないのだろう。
最も頼りたくない人間に頼らざるを得ないのだから。
プライドの高そうな後藤にしてみれば、相当の覚悟で追いかけてきたに違いない。
「…あたしは明日の朝、また来るから」
「うん。…わかった」
「言っとくけど、あんたのことは、本気で嫌いだから」
土産がわりに捨て台詞を残し、後藤は駅に向かってしっかと歩き出す。
人にものを頼んだ人間の背中ではない。
梨華に施しでも授けたような、威厳に満ちた背中。
そんなことはどうでもいい。
今、吉澤の元に居られるならば、土下座だってしてみせる。
- 261 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時57分43秒
浅く、速い呼吸。刷いた様に赤く上気した肌。
時々痙攣するように震える瞼。
「よっすぃ」と呼びかけてもぴくりとも反応を返さない。
額に手をあてる。思わず引っ込めるほど、熱い。
それなのに、余り汗をかいていない。
病院に連れて行った方がいいのかもしれない。
だが、どこへ。保険証は。
それにタクシーを呼んでも吉澤が下まで動けるかどうか。
氷水に浸したタオルで顔を、首を拭う。
タオルは直ぐに生温くなる。
ハッ、ハッと駆けているような苦しそうな息遣いに梨華の方が泣きたくなる。
全身で、闘っているのだ。
無意識のうちにだろう、Tシャツの胸元を引っ張る。
目を落として気付く。
下着を外していない。胸を締め付けられて苦しいのだろう。
躊躇している場合ではないと自分を叱りつける。
意を決して両腕をTシャツの中に潜らせる。
布地が熱をためこんで、額より何倍も熱く感じる。
「ごめんね」
背中を僅かに浮かせ、手探りでどうにかこうにかホックを外す。
気のせいか、吉澤の目元が微かに安らぐ。
- 262 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)21時58分52秒
数時間もすると梨華にも多少の余裕がうまれる。
後藤が作ったらしいおかゆは全く手つかず。
試しに味見してみると、ちょうどいい塩加減で美味しい。
それだけのことが少しだけ悔しい。
薬瓶は開いているが、水を湛えたコップに口をつけられた形跡はない。
卓袱台の上に散らばったカメラのパンフレット。
メモ用紙にごちゃごちゃと書き殴られた数字。
ぼんやり眺めるうちに、吉澤が計算して何を弾きだそうとしていたのかが見えてくる。
つまり、1ヶ月の生活費をどれくらい切り詰めれば、このパンフレットのカメラが買えるか、と。
…カップのお金、受け取らなかったくせに。無理しちゃって。
- 263 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時00分25秒
けふっ、という嫌な咳に、注意が吉澤に戻る。
吉澤の瞼がうっすらと開いた。
「よっすぃ、わかる?よっすぃ」
焦点の定まりきらぬ眼が、梨華を捉える。
「…あぁ」
なんだ、梨華ちゃんかとでもいうように呻くと、再び目を瞑る。
実際、梨華を「見た」というだけで、梨華を「認識した」わけではないだろう。
「よっすぃ、何か食べられない?」
酷とわかっていても、体を軽く揺さぶる。
随分長いこと何も口にしていないはずだ。
せめて水分だけでも補給しなければ脱水症状を起こしてしまう。
よいしょと吉澤の頭をもたげて膝の上に乗せ、コップを口にあてる。
「飲んで、ね?」
コップを傾けるが、空しく口の端から流れ落ちる。
鼻をつまむ。
吉澤の口が大きく開く。コップを傾ける。
が、結果は同じ。
「お願い、飲んでよぉ」
喉を通過することなくこぼれて梨華の膝を濡らす。
無我夢中だった。
水を飲ませる。その一念しか梨華の頭にはなかった。
よっすぃ、ごめんね。事故と思って、許してね。
- 264 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時01分31秒
頭を下ろし、コップの水を自分の口の中にためる。
鼻をつまむ。
再び口が開いたところで、屈みこんでぴたりと唇を合わせる。
口内の水をゆっくり落としていく。
吉澤がもがく。
合わさった唇の隙間から、少し温度をあげた水が溢れてはこぼれる。
それでも体を押さえつけて、水を注ぎ込む。
こくり、と吉澤の喉が鳴った。
ようやく、ひと口、飲み下したのだ。
二度、三度と無心に繰り返す。
次第にこぼれるより喉を通る量が上回っていく。
これ、どうしよう…。
途方にくれた。
吉澤のTシャツは、じっとりと水を含んで色を濃くしている。
このままにしておけば、体が冷えてしまう。
だが、吉澤に着替える力が残っているわけがない。
- 265 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時02分18秒
…フェアじゃないよね。
梨華はひとり、照れる。
何がフェアじゃないかといえば、意識のない人間の……服を脱がせるなんて。
方向性として大いにずれているが、梨華にとっては深刻な問題だ。
頭を捻る。
が、どんなに捻ったところで脱がさずに着替えさせる方法など思いつくはずもなく。
梨華の葛藤。
見なければいい。
だが目隠ししては着替えさせられない。
最大のジレンマ。
遂に、すっくと立ち上がる。
替えのTシャツを引っ張りだし、お目当ての物をテレビの上に見つける。
大きく深呼吸し、軽く柔軟体操をして気持ちを静める。
準備万端。
よっすぃ、ごめんね。事故と思って、許してね。
- 266 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時03分51秒
梨華の結論。
生で見なければいい。
「見てない見てない」と唱えながら上体を力いっぱい引き上げる。
背後から抱きとめる形で、Tシャツを捲っていく。
脱力しきった人間の重み。
薄闇の中でサングラスをかけて悪戦苦闘する。
却ってその方がやらしいのでは、という考えは梨華にはない。
自分の機転に大満足。
これで安心とばかりに作業に励む。
思ったより重労働のせいか、直に感じる体温のせいか、額に汗が滲む。
出来るものなら熱を全て吸いとってあげたい。
かわってあげたい。
見かけより体の弱い吉澤が熱を出すことはこれまでにもあった。
しかし、互いに実家なればこそ、お見舞には行けても看病は出来ない。
彼女なのに!
看病したい、と密かに不満だった。
やっと叶った願望。
それがこんなに切ないものだとは。
大切な相手が苦しそうにしているのに、何も出来ない。
かわってあげられない。
「頑張って、よっすぃ。大丈夫だから、頑張って」
支離滅裂な言葉。
届かないと知っていてもかけずにはいられない。
自分の為に。
- 267 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時07分42秒
水はどうにか飲んだものの、固形物は一切受けつけようとしない。
りんごをすりおろしたものを無理に口に入れようとしても吐き出してしまう。
最後には梨華も諦めて、額を冷やすことに専念する。
冷やしながら、飽くことなく寝顔を見つめる。
灯りを眩しがるので電気は点けていない。
吉澤の白い肌が、闇をも溶かす。
一分一秒が、惜しい。
触れたい。
唇を合わせたのに。しっかりと抱きしめたのに。
なぜか『ただ触れるだけ』となると躊躇いが生じる。
額にかかった前髪を払ってあげたい。
わかっている。
髪に触れてしまえば頬に、首筋に、唇に。
一旦負けてしまえば、誘惑に果てはないことを。
- 268 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時09分13秒
- 隣室から場違いに明るいテレビの嬌声が漏れる。
画像を伴わなければただひたすら騒々しいだけ。神経に障るだけ。
隣人が熱で苦しんでるのに!と壁を蹴っ飛ばしてやりたい。
時折、窓を大きく開け放って空気を入れ換える。
昼間汚された大気が夜の深まりと共に清らかに生まれかわっていく。
街が、火照った体を休め、緩やかな寝息を立てているようだと梨華は思う。
呼応するように、吉澤の息も次第に穏やかなものに変わる。
倒れこむくらいほっとすると同時に、どこかで寂しいと感じてしまうのは、明けていく夜への感傷というものかもしれなかった。
- 269 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時10分32秒
「どう?」
朝を待ち構えていたかのようにやってきた後藤がおはよう抜きで訊ねた。
尤も、挨拶など期待していたわけではないが。
「昨日よりは熱も下がったみたい」
「ふぅん」
素っ気無いが、呼吸が穏やかになっている吉澤を見ると流石に胸を撫で下ろしたようだ。
「あ、氷とりんご、もらっちゃった」
「別にいいけど、よっすぃ何か食べたの?」
「ううん……お水だけ」
何となく目を逸らし、赤面する。
「ねぇ」
「はいっ」
「…昨日とシャツ替わってる」
大慌てで弁解する。
「だ、だってだって濡れちゃったから」
「濡れた?」
「ああぁあああ汗で汗で」
本当は水だけれど。
焦ってつかなくてもいい嘘をついてしまった自分に自己嫌悪。
「わかってるよ。バカじゃない?」
ふふふん、と後藤が鼻で笑った。
「…ちゃんと、サングラスしたもん」
頬を膨らませて聞こえないように付け足す。
「はぁ?意味わかんない」
しっかり聞こえていた。
これ以上後藤といると、エッサホイサと墓穴を掘り下げていくようなものだ。
最後に一度だけ吉澤に触れたいが、後藤を前にそれも躊躇われる。
「それじゃ、あとはお願いします」
- 270 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時11分24秒
そーいやさ、と後藤が体ごと向き直った。
「あんた本当に市井ちゃんのこと知らないの?」
「え…だって連絡ないし…。忙しいのかなって」
「…その反対なんだけど。まぁいいや。気になるんだったら電話してみれば」
後藤なりの、感謝の証なのだろう。
持ってきた体温計をぶんぶん振っている後藤が、少しだけ可笑しい。
「まだいたの」
…あくまで、少しだけ。
「…後藤さん」
「なに」
「看病させてくれて、ありがとう」
梨華は深く、頭を下げた。
- 271 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月22日(木)22時12分25秒
徹夜あけの体を朝の日差しがちくちくと突つく。
殆ど座りっぱなしだったせいで膝が覚束ない。
手で庇を作って陽光を遮る。
自分の掌が視界に入った拍子に、生々しく甦った。
どこまでも沈んでいきそうな柔らかい肌の感触。
弾みで当ってしまった吉澤の胸の…。
梨華は飛びあがって、来た時と同じように一目散に駅へと駆け出した。
- 272 名前:物心 投稿日:2002年08月22日(木)22時13分20秒
更新しました。書いてみたかった「看病編」。
ベム、ベロ、ベタ。ベッタベタ。 …ハヤクニンゲンニナリターイ
> 241 しゃんぶらー様
こういうすれ違いネタが大好きなもので。
笑いながら書いてます。…感じ悪くてごめんなさい。
>242 名無し読者様
こちらの吉澤さん遂に風邪でダウン。踏んだり蹴ったり…脱がされたり。
>243 よすこ大好き読者。様
暗いなかにも明るさを忘れず。というのはカッコツケです。
文章に困ると小ネタを入れてみる。これが正解です。
>244 吉澤ひと休み様
迷作珍作暴作です。ストーリーを作者が御せなくなりつつあります。
- 273 名前:物心 投稿日:2002年08月22日(木)22時15分11秒
- >245 88 89 134 203様
「ややっ。野球をしているよ。ひとみよ、フレーフレー……さん」
「88 89 134 20 ……3 」 遊んでみるも、失敗。
>246 オガマー様
キタと言えばきましたか。つまりキタと言うほどのものはキテない、と。
全くもってその通りでございやす。いつくるのかもわからない、と。テヘテヘ。
>247 名無しどくしゃ様
余り小ネタはいれませーんとか宣言したのに、すっかり破ってます。
こーう、入れないと気持ちが悪いというかスッキリしないというか…。
>248 クロイツ様
有り難うございます。そちらの吉澤さんも素っ気無いようですね。
まったく吉澤め!なに考えてるんだ!………ごめんなさいごめんなさい。
- 274 名前:物心 投稿日:2002年08月22日(木)22時17分55秒
- >249 名無し読者様
まだ途中なのでスッ転ぶかもわかりませんが…。当確が滑るのもよくある話でして。
楽しみに読んで頂けるのもまた幸せなことです。本当に嬉しく、感謝しております。
>250 ホッピー ◆hoppyFIM 様
いつもお世話になっております。(←勝手に)
あんまり明るい話でなくてすみません。ただ、暗いだけの話にもしたくないなと思っているので、
これからもお付き合い頂ければ嬉しいです。
>251 皐月様
ありがとうございます。
何だかごちゃごちゃとした話になってきましたが、頑張ります。
本日の懺悔
>245 88 89 134 203様
ごめんなさい。遊んでみたらずれちゃいました。もうしませんしません。
- 275 名前:j 投稿日:2002年08月23日(金)00時10分13秒
- 残暑お見舞い申し上げます。
毎回レスつけるのも、何かなと思い自粛しようかと
・・・思ったけれど、書かずにいられません。
梨華曰く「事故」のくちづけのシーン・・不覚にも
うるっ・・ときてしまいました。
執筆、頑張ってください。応援しています。
- 276 名前:しゃんぶらー 投稿日:2002年08月23日(金)01時29分13秒
- うぅぅ。不謹慎にも切な萌え。ウワァァン
- 277 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年08月23日(金)01時51分05秒
- 日本で137番目くらいの看病モノマニアにはタマンナイ更新ですた。
ごま、気ィ、つええけどカワイイなぁ。
(+ ` Д ´)=3
- 278 名前:オガマー 投稿日:2002年08月23日(金)07時47分55秒
- 息もつかせぬ…?看病編(何
思わず力入ってしまいました
梨華たんのずれてる葛藤に藁w
- 279 名前:クロイツ 投稿日:2002年08月23日(金)10時24分18秒
- うう・・・梨華ちゃんの奮闘振りに、思わず涙が出てしまいます・・・。
梨華ちゃんにヨッスィーを託したごっちんにも、思わず涙が・・・。
「事故だと思って・・・」の梨華ちゃん・・・そんなアナタが大好きだぁぁぁ!!!
続き、すごい楽しみです!!
P.S.保田さんの驚いた顔・・・私も見たいです。
- 280 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月23日(金)10時31分26秒
- 看病編イイ!すごく気に入りました。
こっちまで熱が出そうになりましたぽ(笑
あと…サングラスに大ウケ
- 281 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)21時58分01秒
翌日、激震は前触れもなくやってきた。
「ねぇ、これなんだけど…」
その日の保田は様子がおかしかった。
帰宅してから梨華に何か話しかけたそうにしては、やめる。
テレビも点けずにじっと考え込んでいる。
ようやく意を決したように一枚の紙切れを取り出したのは、夕食を終えてからだった。
B5サイズの白黒のフライヤー。
上部に大きく『ふたり展』と見出しが打ってある。
「えー、なんですかこれ。次の世代のカメラマンを生み出すのはあなたたちです!だって。何かお笑い番組みたーい」
「いや、それはいいんだけど」
「二人の若きカメラマンによる対決。えー、バトルまで同じ。こういうのパクリっていうんじゃないですかぁ?」
「…梨華ちゃん下の写真見て」
中央にわざと陰翳を薄く加工してある二枚の写真が並んでいる。
やや険を含ませた表情で睨んでいるのは確かに後藤その人に違いない。
「ああーっ、これ、後藤さんでしょ?!すごいっ、きれいっ」
「梨華ちゃん…」
「隣の人もきれいですけどやっぱり…って…あれ…」
- 282 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)21時59分37秒
半分重なるようにして並ぶもう一枚の写真。
白黒の上に、前髪が目に覆い被さっているので顔の全体像がはっきりしない。
だが、非常に、どこかで、見慣れたようなそうでもないような。
「…保田さん、自惚れかもしれないんですけど…」
「うん」
「後藤さんの隣の写真、私に見えるんですけど」
「間違いなく、梨華ちゃんだよね」
重々しく、保田が頷いた。
いつもの角を曲がったらライオンがいた。
こういう時、人はどうするだろう。
トイレのドアを開けたら熊が座っていた。
こういう時、人は何を考えるだろう。
冷静に状況を把握できるのは、よほど肝の座った人間に違いない。
恐らく大抵の人間は、「ライオンって思ったより大きいな」とか「便座壊れるじゃん」とか、どうでもいいことが先ず浮かぶ。
案外「あ、失礼」とあっさりドアを閉めてしまうかもしれない。
パニックに陥るのは、それから。
- 283 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時01分24秒
「本当だ。私だ、これ」
梨華はいたってのんびりと納得する。
「って、えええええーーーーっ?」
ようやく、恐慌が襲いかかってきた。
「やっぱり知らなかったんだ」
保田が嘆息する。
知らない、とか知ってる、とかそういう次元ではなく。
「なななななんですかこれッッ」
手が震えて、ビリッと端を破ってしまった。
手品の様にさりげなく、保田がポケットから同じものをもう一枚取り出す。
「ふたり展。二人の若きカメラマンによる対決。えーと、開催日は今日から一週間後だね。協力はTスタジオ。カメラマンは」
保田からチラシをひったくる。
市井紗耶香/吉澤ひとみ
ビリッッ
今度は派手に破けた。
すかさず、保田がもう一枚取り出す。
「こんなことするのはなぁ…」
「だだだだれですかっ。こんなイタズラっ」
「…いたずらだったらいいんだけど。梨華ちゃん、本当に何も聞いてないんだよね?」
知るも知らぬもあふ坂の関。蝉丸。
「だから、こんなことするのは、多分…」
- 284 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時02分40秒
「寺田さんッ!」
「どういうことですかッ」
梨華と吉澤の声が仲良くひっくりかえる。
「どうもこうも…」
困ったな、とでもいうように寺田がすっとぼける。
「騒ぐほどのことやないやろ。たまにはこういうのもええんちゃうかなと思って」
「あたし何にも聞いてませんよっ」
吉澤が詰め寄る。
スタジオのスタッフが何事かとちらちら様子を窺っている。
「まぁまぁそう熱くならんと、事務室で話そか」
頭の中は複雑な混乱模様を描いている。
が、お陰で横にいる吉澤の事をあれこれ考える余裕がないのが救いと言えば救いかもしれない。
「コーヒー?ん?飲めん?まだまだガキやな吉澤も」
紙コップに注いだコーヒーを、寺田は取り澄まして啜っている。
梨華の前にもカップが置かれたが、口にする気にはなれない。
「…寺田さん、これ、どういうことですか」
吉澤がフライヤーを突き出す。
…よっすぃも知らなかったんだ。
意外、というより本人が知らない個展など聞いたことがない。
- 285 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時05分27秒
- 「たいしたことないやろ。どうせ上の共同スペースや。せいぜい、スタジオの連中と知り合いが見に来るくらいやし。ま、勉強と思ってやな」
スタジオの階上には展示会や個展の為の有料スペースが設けてある。
軽い審査を受けてお金を払いさえすれば部外の人間でも利用できる。
「でも来週なんて…それにあたしなんかが」
「おい、吉澤」
笑みを含んでいた寺田の眼が、引き締まる。
「明日持って来いと言われればどうにでもして持っていくのがプロいうもんやろ。違うか。時間が足りんのやったら、寝るな。現像も自分でやれ。迷ってないで、やれ。まずやれ。愚痴はやってから言え」
勝手に決めておいて、まずやれ、なんて。
随分一方的な言い方!と梨華は憤慨せずにはいられない。
だが、寺田は和らいだ調子で付け足す。
「上の人間のことは気にするな。お前はこの1年、小遣いみたいな給料でよう頑張ってきたのを皆、知っとる。それになぁ、言いだしっぺは俺やなくて…」
タイミング良く、か悪くか、事務室のドアが開け放たれた。
「そうや、こいつがどうしても吉澤をいうてな」
寺田がボールペンの先で、闖入者を指す。
いつものように、市井が笑った。
- 286 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時06分51秒
- 「ハローハロー」
この微妙な空気にそぐわぬおちゃらけた挨拶。
「なんや、遅いやんか。もう少しで吉澤に絞め殺される思うたわ」
「すみません。フライヤー置いてもらえるよう色んな所回ってたもんで」
「ま、そんじゃ詳しいことは市井に聞きや」
寺田は紙コップを捻り潰すと鼻歌まじりに部屋を出て行く。
「いや〜ん梨華ちゃんそんなに睨んじゃ。寂しかったからって」
市井は梨華の肩に腕を回し、顔を覗きこむ。
吉澤が気まずそうに視線を逸らす。
「…やめて下さい」
後藤がいなければ、市井を好きな振りなど何の意味もない。
「いーじゃん、あたしと梨華ちゃんの仲じゃん」
「なに言ってるんですか。私と市井さんは別に」
「そういう冷たいこと言うんだ。この口が」
口がと言いつつ、市井は梨華の顎をつまむ。
気のせいか顔もさっきより接近している。
さりげないつもりだろうが全くもって不自然に、吉澤が咳払いをする。
が、市井は構わず更に顔を寄せる。
…やだ、なんかやばい…。
体を背けようとした時、間の悪い人間がもう一人、飛びこんできた。
- 287 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時10分05秒
「おー来た来た」
ぽかんとしている吉澤と梨華をよそに、市井が出迎える。
まさか吉澤と梨華が揃っているとは予想していなかったのだろう。
後藤も怪訝の色をありありと浮かべる。
「とにかく、揃ったね。まぁ座って座って」
状況を把握しているのは、市井ただ一人。
「そういうわけで」
どういうわけだ!
尖った視線が一斉に市井に集中する。
後藤は、市井の近くに座る事を拒否して部屋の隅にどっかりと腰掛けている。
定食屋での忍耐をここへ持ちこむ気は毛頭ないらしい。
市井の説明は簡潔でありながら、三人を更に深い混乱へと陥れる。
市井と吉澤が撮る。
梨華と後藤はそれぞれの被写体。
観た人により良かった方に投票してもらう。
公正を期する為にどちらがどちらの作品かは明かさない。
勿論、投票の多かった方の勝ち。
「まぁ勝ったから何が貰えるわけでもないけど」
- 288 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時11分27秒
- 「…でも、対決なんてそんなの、おかしくないですか」
流石に市井には遠慮があるのだろう。
おずおずと吉澤が反論する。
「コンクールだって順位はつける。人様に見せる限りは評価されるのが当たり前。甘いこと言っちゃいかんよ吉澤君」
「けど、市井さんとあたしなんて…」
吉澤の言わんとすることは梨華にも察せられる。
カメラマンとしてある程度のキャリアを築き、知名度もあり経験も深い市井と、アシスタントを始めて間もない吉澤。
現時点では力の差は歴然としているように思える。
「やろうよ、よっすぃ」
ぶっきら棒だがいやに力のこもった声。
「ごっちん…」
「大丈夫。今の市井ちゃんなら勝てるって」
今の?
棘のある一言に、梨華は引っ掛かる。
今の市井、とはどういうことだろう。
だが、梨華の疑問は、市井の次の宣言で軽く吹っ飛んでいった。
「ばーか。あたしが後藤を撮るんだよ」
- 289 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時13分14秒
たっぷり数秒は、あった。
後藤が深く、驚くほど長く、息を吸った。
梨華は身構える。
吉澤も身構える。
雷光が炸裂したあと、身を震わせながら雷鳴を待つのにも似た、緊迫感。
ぅぅぅぅ……唸り声が床を這った。
「……ん、うぅう、んな…」
後藤が発した音は、意味をなさずに音として霧散する。
「なんだよ後藤。文句あるならちゃんと言え」
市井が正面から後藤を見据える。
「…ごっち」
たまらず言いかけた吉澤の声は、椅子が派手に引っくり返る音に掻き消される。
「勝手なこと言うなッ!さんざん、さんざん無視しといてッ」
遂に、後藤の口から悲鳴のような叫びが迸る。
「悪かった」
腹減った、に置き換えても違和感はないだろう。
何ともあっさりと、市井が言ってのけた。
後藤の喉が大きく上下する。
「後藤も仕事してないけどプロはプロだからな。モデル料は払うよ」
「いらないよっ!」
「あ、そ。ラッキー」
これで話は決まったも同じ。
まずは鮮やかなまでの、市井の先制点。
技に屈した後藤は、怒りに激しく眼を燃えあがらせる。
それでも効果がないとわかると腹立ち紛れに手近なファイルを床に叩き落し、荒々しく退場していった。
- 290 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時16分50秒
- 「…なんであたしなんですか」
後藤の足音が完全に聞こえなくなったところで、なおも吉澤が食い下がる。
「うーん、なんでかなぁ」
「なんでかなって、そんな、理由もなく…」
「吉澤の悪いところはさぁ」
市井はのんびりと散らばったファイルや書類を拾い上げる。
「あれこれ考え過ぎるところだよね。寺田さん言ってなかった?まずやってみろって」
「…でも」
「それともなに、梨華ちゃんじゃ不満とか?」
ズキリと心臓が激しい一拍を打つ。
市井と後藤、ということは必然的に吉澤と自分という組み合わせになる。
本当は吉澤も後藤の方が良いに違いない。
そうに決まっている。
顔、スタイル、何よりも人を圧倒する独特の雰囲気。
- 291 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時17分34秒
- 「そうじゃないです」
即座に吉澤は否定したが、梨華の気持ちは晴れない。
本人を前にして、傷つけるような事を言う吉澤ではないことを、誰より一番よく知っているから。
いや、知っているつもりだから。
…知っているつもりだったから?
出来ることなら吉澤に写真を撮って欲しいと、ずっと願っていた。
保田に頼まれた時も、市井に撮られている時も。
これがよっすぃだったら、とどれほど思ったことだろう。
だが、こんな事を、こんな形を望んでいたわけではない。
すっかり肩を落としている梨華を横目に、市井がにやりと笑う。
「まさか吉澤…梨華ちゃん脱がせようとか考えてないよな?」
「イイッイチイサンっ!」
吉澤が上擦った声で抗議する。
「うそうそ。そんじゃ打ち合わせはまた今度。今日はかいさーん。吉澤は仕事に戻れー」
- 292 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時20分00秒
カイサーン、で事務室を追い出された梨華と吉澤は、黙り込んだまま狭い廊下を歩く。
「あのさ、絶対、ないから」
スタジオの扉の前で、唐突に吉澤が向き直る。
「えっ」
「ほら、市井さんが言ったこと。あんなこと、しないから」
「…あぁ、気にしてないよ」
私だって、脱がせたといえば脱がせたし。
…事故だけど!仕方なかったんだけど!
……事故とはいえ。
脱がせたには違いない。
「そうだよね。いきなり、おかしいよね市井さん」
…私、おかしいのかな。
サングラスすればいいってものじゃなかったのかな?
吉澤はなぜかスタジオに入っていこうとせず、ぐずぐずとスニーカーの先で床を擦っている。
そんな吉澤に梨華も別れを切り出せず、ぐずぐずとバッグを右手に左手に持ち替えてみる。
「梨華ちゃん」
遂に吉澤が口を開く。
「…ごめんね。妙なことに巻きこんじゃって」
「そんな、よっすぃは、全然」
取り敢えずは首を振るが、梨華にももう誰が誰をどう巻き込んだかなんて、わからない。
市井が梨華を巻き込んだのか。
梨華のお節介が吉澤を巻き込んだのか。
- 293 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時24分13秒
大元までたぐれば、梨華がここへ来た事自体が元凶とも言える。
これで市井と後藤が昔の様に心を通わせればいいが、そううまくいくとも思えない。
市井の突然の行動の真意が、計れない。
眉根を寄せて考えこんでいる梨華を見詰めていた吉澤が、再び口を開く。
「本当はさ、梨華ちゃん。本当は市井さんに…」
「え?」
「…ううん、いいや。何でもない。また連絡するから」
軽く手をあげて、吉澤は今度こそスタジオの中に吸い込まれていった。
そのまま帰るつもりだったのを思い直して、そっと事務室のドアを開ける。
市井は、まだ居た。
「おう、忘れ物?なわけないか」
多少冷静さを取り戻して久し振りに見る市井は。
「少し、痩せましたね」
「そ?苦労の絶えないお年頃だから」
「…連絡ないと思ったらこんな事企んでたんですね」
精一杯の皮肉をこめる。
- 294 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時27分00秒
「でも急にどうしたんですか?私とよっすぃのことだったら、もう」
「まさか。たかが石川さんの叶わぬ恋の為にこんな手のこんだことしません」
…だいぶ気に障る台詞ではあるが、ここはひとつ聞き逃しておく。
「だったら」
「自分の為。誰でも良かったわけじゃないよ。吉澤を見込んで寺田さんに頼みこんだ。ここまで黙ってたのは、ばらしたら断られて逃げられるから。特に石川さんと、後藤に」
正解だろう。
特に、後藤は。
「さっき、後藤さんが言ってましたよね。今の市井ちゃんならって。あれってどういう意味なんですか」
思い切って梨華は疑問をぶつけてみる。
市井の顔面に、ほんの一瞬、暗い風が吹きぬけていく。
- 295 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時28分06秒
- 「質問です。目の前で吉澤がビルの屋上からぶらさがってます。石川さんの片手には吉澤の手、もう片手にはカメラがあります。はい、どうしますか」
梨華の問いには答えず、逆に突拍子もない問いを市井が投げかけてくる。
答えるまでもない。
「両手でよっすぃを掴みます」
どう考えたって他に選択肢などない。
まさか、市井は相手の手を振り払って落下していくのを写真におさめるとでもいうのだろうか。
梨華の「鬼畜…」という表情を読み取った市井が苦笑する。
「そうじゃない。そうじゃないけどさ、写真家なら、一瞬迷うと思う。どうにかして片手でレンズ向けてこの表情を撮れないかな、って」
梨華の背筋を薄ら寒いものが撫であげていく。
- 296 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月26日(月)22時30分18秒
- 「いや、これはあくまで究極論だから。それくらいの、なんつうのかな。意気込み、違うな。なんかこう、切羽詰ったものがないと、カメラマンなんてやってらんないと思うわけよ」
例え究極論だとしても、市井の話は梨華が理解できる範囲を遥かに超えている。
吉澤も、保田も、同じなのだろうか。
必死に助けを請う梨華を前に、ほんの一瞬でも逡巡を見せるのだろうか。
「でも、今のあたしはさ、カメラおっぽりだして両手で相手を引き上げる、と思う」
市井がぽつりと呟いた。
やりきれないほど寂しい笑顔が、かすめた。
- 297 名前:物心 投稿日:2002年08月26日(月)22時31分58秒
ちょびちょび更新しました。
ラスト2回です。しかし相変らず、予定は未定。
>275 j 様
いつも丁寧なレスを有り難うございます。とても励みになります。
しかしながらひどい混迷模様に作者が陥っております。話も終盤なのに、ラビリンス。
>276 しゃんぶらー様
萌えて頂いて、何よりです。甘いの書けないんです。これでも甘いほうだったんです。
どこがどう甘いんだ、と。自分でも情けないのですが。
>277 ごまべーぐる様
ごまかいっ、という突っ込みは一応入れさせて頂くとして。
日本で137番目という事は、地球規模で全国展開してるんですね。グローバル!
- 298 名前:物心 投稿日:2002年08月26日(月)22時32分32秒
- >278 オガマー様
石川さんのせいで落ち着きに欠けた看病編になってしまいました。
石川さんのせいで石川さんのせいで石川さんのせいで。責任転嫁万歳。
>279 クロイツ様
なるほど。看病編ではなく「奮闘編」かもしれません。
因みに、保田さんは案外恐がり屋さんなのではと勝手に想像しております。
>230 名無しどくしゃ様
気に入っていただけましたか。有り難うございます。
書いてみたいというただそれだけで無理やり入れてしまいました。
- 299 名前:しゃんぶらー 投稿日:2002年08月27日(火)00時59分11秒
- がんばってください。ラスト2回でどんな波瀾が待っているのだろう。。(ドキドキ
- 300 名前:オガマー 投稿日:2002年08月27日(火)01時49分19秒
- ぉぉ、やはりラストが近いのですねw
やはり作者さまには圧倒させられます…
ラストまでがんがってくださいね!
- 301 名前:クロイツ 投稿日:2002年08月27日(火)21時27分29秒
- っくぁぁぁぁぁぁ!!良いです!今回も超ナイスです!!
もー、心を打たれまくって打たれまくって、泣きそうです!!
幸せになってほしい、と心から思いました。
切ない〜…でも素晴らしい!!
しかも何気に保田さんが!何枚も何枚も取り出す保田さんが!!
私のハートをがっちり掴んで放しません♪んもー大好きケメ子!!
- 302 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月28日(水)23時08分33秒
- キターッ!!次が気になって仕方が無い。
あと2回ですか…寂しい。
でも、楽しみにしてます。頑張ってください。
- 303 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年08月29日(木)21時45分03秒
- いよいよですね。
市井ちゃんの例え、クリエィティブな仕事に携わる人間が必ずぶつかる壁ですよね。
芥川の『地獄変』みたいだなぁ、と思って読みますた。
- 304 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時34分23秒
外の深い闇もここまでは流れこんでこない。
「バックペーパーなし?」
「白ホリでいきます」
「フレーミングは?」
「ポラで確認しました」
保田と吉澤の押え気味の会話だけが淡々と行き交う。
深夜のスタジオ。
梨華は手持ち無沙汰のままきびきびと動く二人を眺める。
吉澤が白ホリと呼んでいた、背景となる白い床、白い壁。
初めてスタジオに来た日に借りた、白いワンピース。
素足を床に晒すと、気にしている肌の黒さが際立って、落ち着かない。
「こんな感じで撮るからね」
ポラロイドで写したものを吉澤が見せてくれる。
こんな感じ、と言われても梨華にはどんな感じだかよくわからない。
明らかに強張っている自分の表情が気になるだけだ。
- 305 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時36分44秒
- 「本当にいいの?」
私なんかで。
含みをもたせて上目遣いに訊く。
「だぁいじょうぶ。これは確認用だから、ちゃんと撮れば大丈夫だから」
鈍感な吉澤に含みなど通じやしない。
梨華の気を引き立たせようとグッと親指を立てる吉澤の横で保田が呆れたように溜息をつく。
保田に通じてもこれまた意味がない。
「梨華ちゃん、何があってもレンズ見ててね」
三脚に固定したカメラのファインダーを吉澤が覗きこむ。
何があっても?
ビックリドッキリな仕掛けでもあるのだろうか。
「少し胸張って。うん、足を軽く交差して」
「チャージOK」
一回ごとに、数秒のチャージを要するストロボのバッテリーを保田が確かめる。
- 306 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時37分57秒
- 呼吸を止めてじっとレンズを見詰めていると、吉澤が顔をあげて苦笑する。
「そんなに固まらないで。肩の力抜いて」
「バカ。あんたがリラックスさせなさいよ」
「あぁ、はい。そんじゃ梨華ちゃん、リラックスして」
「…ほんとバカ」
気を許してあっている親分子分のようだ。
「えーと、ちょっと笑ってみて」
吉澤の注文に保田が笑いだす。
「益々バカだね。笑えって言って笑えるかって。ねぇ、梨華ちゃん」
「…うるさいです。なんか梨華ちゃんだと調子狂っちゃって」
「ふぅん。そんじゃあたしが梨華ちゃんと替わろうか?」
「お断りします」
計算なのか素なのか、保田のお陰で微かに空気がほぐれる。
有り難いことに、この前よりライトは熱くない。
ただ、背景の白が光を照り返す分だけ余計に眩しい。
白い洪水の中に身を浸していると、現実感が薄れていく。
吉澤の黒いTシャツの輪郭が、ともすると闇に紛れそうになる。
- 307 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時39分16秒
- 「それじゃ、いくよ」
吉澤がカメラに身を沈める。
その動作はまるで飛びこみ台でスタートを待つ水泳選手のようだ。
タイミングを計っている背筋が、緊張をはらむ。
ストロボ。
閃光が走り、世界が弾ける。
キーン、と微かに耳鳴りがする。
「チャージOK」
保田が冷静に確認を入れる。
フラッシュの衝撃が、市井の寂しい笑顔を呼び戻す。
『今のあたしはさ、カメラおっぽりだして両手で相手を引き上げる』
それの何がいけないのだろうか。
意味を十分には図りかねて、梨華は黙って市井を見返した。
『恐くなっちゃったんだ。わかる?わかんないよね』
梨華にとっては、たかが写真。
わかりっこない。
写真にそれほどまでに入れこむ気持ちも、人間も。
市井も保田も、吉澤も。
『後藤は最高だったよ。もうあんな奴には出会えないと思う』
相槌など求めていないのだろう。
ぽつぽつと、市井は言葉を吐き出す。
『でも、撮れなくなった』
- 308 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時41分06秒
「いくよ、こっち見て」
ストロボ。
瞬間、目を瞑ってしまった。
「チャージOK」
「もう少し首を伸ばして」
ストロボ。
「チャージOK」
保田でもアヤカでもなく。
どうして市井は自分に打ち明けたりしたのだろう。
たまたまそこに居たから。
それだけの理由なのかもしれない。
打ち明ける、とは言えない。
殆ど一方的に、言葉を吐き出すだけ。
『撮ってて楽しかった。ガツンと手応えあってさ』
『こっちの望むことを言わなくてもわかってくれてさ』
『でもそのうち、恐くなった』
『こういう風に撮ってやろうって計算して撮るでしょ。そんで現像してみるとさ』
『頭ん中にあったのと違うんだよね。もっと、出来がいいでやんの』
『現像するのが恐くて。頭に描いた絵の方が負ける、負けてる』
恐い、恐いと幾度も市井は繰り返した。
でも結果としていい写真なら、それでいいじゃないですか、と梨華は言う。
『一回なら偶然で済む。五回までなら幸運で済む。毎回だったら』
市井の苦々しい微笑に息をのんだ。
『こっちが潰れる』
- 309 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時42分05秒
「…梨華ちゃん、どうした?」
ふと顔を上げると、吉澤が困惑したような表情を浮かべている。
「あ、ごめんなさい」
「熱いだろうけど、ごめんね。もう少し集中して」
心ここにあらずというのをすっかり見抜かれてしまっていたようだ。
保田も心配そうな視線を向けている。
「真っ直ぐに、こっちを見てくれればいいから」
俯いてファインダーを覗く吉澤の声は、ややくぐもり、静まり返ったスタジオの壁に柔らかく反響する。
真っ直ぐにレンズを。
真っ直ぐに吉澤を。
だが、白い壁と床が妙な浮遊感を誘う。
どこからが床でどこからが壁なのか。
どこからが背景でどこからが自分なのか。
次第に境界線が曖昧になってくる。
- 310 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時44分05秒
そして、油断の隙をつき、また市井が現れる。
『シャッターを切る指に迷いがでてきた。寺田さんもそれに気付いた』
『あいつから離れないと、撮れなくなると思った』
だから後藤さんを突き放したんですか。梨華が訊ねる。
『フリーになる話は前から出てた。まぁ早くても数年後って予定だったけど』
『寺田さんは後藤の才能も見抜いた。利害の一致ってやつ?』
『でも駄目だね、一度迷いが出ちゃうと。仕事でも、一発で決めらんなくなった』
『撮ってる方が駄目かもなんて迷いながら撮ってもいいものできるわけないじゃん?』
『もうぜーんぶいやんなっちゃってさ』
それで、逃げたりしたんですか?
『たまに、ない?もうどうでもいいやって気分になること』
『疲れたとかじゃなくて、体の力が抜けて、自分がスッカラカンになっちゃうこと』
- 311 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時45分20秒
どうして後藤さんに、言わなかったんですか?
『どう言やぁいいのさ。後藤といると撮れなくなるから離れて、って?』
『いやぁ恨んだねぇ、後藤のこと』
『後悔もした。何であの時、声かけちゃったんだろって。ひどい話だけど』
せめて保田さんかアヤカさんに。
『ダァーメだよあのお節介二人組は。絶対、後藤に言うもん』
『それにいくら言い訳したって、どうにもなんない』
『色んな、タイミングってあると思うから』
「……かちゃん、梨華ちゃん」
ふっと我に返る。
長いことストロボが焚かれないことに気付く。
またやってしまった。
「ごめん!ごめんなさい!」
「なんか気になることがあるみたいだね」
「違うの。ぼーっとしちゃっただけだから。もう大丈夫だから」
「少し休む?」
首を振る。
仕事が終わってから特別にスタジオを使わせてもらっているのだ。
今日で決めなければ、次はない。
全くのボランティアで吉澤の助手をかってでた保田にも申し訳ない。
- 312 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時46分33秒
黙って梨華を見詰めていた吉澤が、おもむろに口を開く。
「…梨華ちゃん、そのままで、聞いて」
言葉を切ってリストバンドで汗を拭う。
黒いシンプルなリストバンドは吉澤によく似合っている。
…あのリストバンド、欲しいな。
よっすぃ、くれないかな。
頭がうまく回っていない証拠。
別れた恋人のリストバンドを貰って、どうするというのだ。
未練の種を蒔くようなもの。
「あの日、梨華ちゃんがアパートの前にいるのを見た時さ」
あの日?アパートの前?
急に、何を言い出すのだろう?
撮影を続けないのだろうか。
それともすっかり呆れてしまったのだろうか。
困惑に、急速に市井の面影が引いていく。
- 313 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時48分34秒
「嬉しかった」
「……」
「でも、困った」
「……」
「抱き締めたかった。でも、我慢した」
「…待って急にそんな」
「梨華ちゃんが出て行った時、引き止めたかった。電話したかった」
突然、溢れだした吉澤の言葉。
「保田さんちに泊まってるのも嫌だった。お金なんて…渡さないで欲しかった」
ストロボ。
不意打ちの閃光。
「……チャージ、OK」
注意を向ける為の演出?
ただ、それだけの?
道具としての言葉?
それなら、要らない。
静まりかえっている湖を波立たせないで。
そっとしておいて。
「…そんな」
言いかけるのを吉澤が制する。
「黙ってて。ここだけ見て」
「……」
「焦ってた。スタジオマンっていっても雑用ばっかりだし、怒られてばっかりだし。忙しくて自分の写真撮る余裕ないし」
「……」
「幻滅されてるんじゃないかってすごい不安で」
吉澤の言葉のひとつひとつに、全身が呑まれていく。
ライトの余熱のせいか、白に埋もれた妙な感覚のせいか、血管が暴れ出しそうになるくらい息苦しい。
吉澤が再び、ファインダーに向かう。
自然に、梨華はレンズを、違う、レンズの向こうの吉澤を見詰める。
「恐かった」
- 314 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時49分58秒
ストロボ。
「…チャージOK」
保田の声が遠く聞こえる。
「呆れた顔されるんじゃないかって、恐くて」
「…そんなこと」
あるわけもないのに。
初めてスタジオに見学に行った時。
確かに怒鳴られて小突かれてはいたけれど。
格好良かった。別世界の人間のように思えた。
市井も吉澤も皆、何をそんなに恐がっているのだろう。
それに…自分も。
吉澤を失うことが、恐くて仕方なかった。
見た目ばかり気にしていた。
アヤカも保田も後藤も、周りにばっかり目がいって。
センスも悪くて子どもっぽい自分は絶対、吉澤には似合わないと。
勝手に思いこんで落ちこんで。
それぞれが、感情とプライドの柱の周りをぐるぐると回っていた。
「それに、梨華ちゃんに甘えたら駄目になっちゃいそうだったから」
- 315 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時51分05秒
ストロボ。
焦点がぶれる。
それでも必死に、一点を凝視する。
「梨華ちゃんは優しいから。甘えさせてくれるの、わかってたから」
そこから先は、聞かなくても。
梨華も同じだったから。
吉澤は優しい。優しいからこそ。
優しさは、時に諸刃の剣。
吉澤が優しいと知っているからこそ、恐くて、ぶつかれなかった。
「甘えられなかった」
あの素っ気無い態度も、何もかも。
吉澤自身の、ぎりぎりの踏ん張りだった。
このラインを少しでも越えてしまえば、流されてしまう。
安易な優しさに、その場しのぎの甘えに負けてしまわない為の。
反対を押し切って飛び出してきた吉澤の不安や焦燥をわかってあげられなかった。
やりたい事があっていいな、単純にそう考えていた。
「梨華ちゃん、ごめんね」
- 316 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時53分02秒
ストロボ。
ごめんね、よっすぃ。
ごめんね。ごめんね。
胸の内で吉澤に呼びかける。
ごめんね。ごめんね。
自分のことばっかりで、ちゃんと見てあげられなくて、ごめんね。
…あぁ、また泣いちゃってごめんね。
折角、撮ってもらってるのにね。
いつのまにか、保田は姿を消していた。
「撮影終了です。お疲れ様でした」
深々と吉澤が頭を下げて。
「熱かったでしょ?ほら、黒は光を集めちゃうから」
にやりと笑った。
「焦げてない?あ、もう焦げてるか」
何事もなかったかのように。
だけど、しきりに充血した眼を隠そうと前髪をいじりながら。
リストバンドを外して、梨華の瞼にそっと押し当てる。
「…ごめん。汗、拭いたやつだけど」
えふっ、と、涙が鼻腔に引っ掛かりながら梨華も笑う。
そんなことまで謝らなくていいのに。
- 317 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時54分18秒
「まだ始発ないから、休んでて」
「よっすぃは?」
「後片付けあるから」
「…私も手伝う」
ひらひらと吉澤が手を振ってみせる。
「いーっていーって。機材、重いし危ないから」
確かに、また何かを壊しても弁償できない。
却って梨華がいると邪魔になるだろう。
立ち去りかけた梨華を不意に吉澤が呼び止める。
「あー、そういえばさ、梨華ちゃん、うちに忘れ物してったよ」
忘れ物?
何か忘れただろうか。
看病をした日だろうか。
全く憶えがない。
「屋上にあるんだ。少ししたら飲み物持ってくから」
屋上があるなんて初めて知った。
箱型のビルで天井があれば、必然的に屋上もあるわけだが。
「屋上のどこらへん?」
「えーと、どこだったっけ。まぁ、探してよ」
探す物もわからず場所もわからないのでは、何とも頼りない話。
しかし、忙しそうな吉澤をそれ以上煩わすのも申し訳ないので、とぼとぼと非常階段をのぼる。
- 318 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時58分18秒
- 頑丈な鉄の扉に体重を乗せて開けると、朝に、包みこまれた。
ふぅぅぅーっ、と思いきり息を吸って体内の空気を入れ換える。
できたての酸素。
生まれたての一日。
夜中のうちに雨が降ったのだろうか。
コンクリートが所々、濡れている。
それほど広くない屋上をぶらぶらと歩き回る。
お世辞にも綺麗とは誉められない。
端にはダンボールや機材がごちゃごちゃと固まっている。
手摺は錆びて、赤茶けた下地を生々しく露出している。
どうにかましな部分を見つけ、ワンピースが密着しないように腕だけで寄りかかる。
ふと、針の先ほどの、しかし鋭い光が目を貫いたような気がして、辺りを見回す。
何もない。
撮影のフラッシュがまだ網膜に残っているのかもしれない。
頭を振って、ぼんやりと街を眺める。
剥き出しの肩を、秋の気配を密やかに含んだ風が撫でていく。
夏もあと少し。
市井と吉澤の写真を見たその足で、帰るつもりだ。
そうすれば。
夏が、終わる。
- 319 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月30日(金)23時59分23秒
まただ。
今度は注意深く周囲を確認する。
そして、見つけた。
手摺のちょうど中央らへん。
紐にぶらさがった小さな謎の物体が朝日を鋭く反射している。
こっちにおいで。
ゆらゆらと揺れて手招きをしている。
数歩進んで、予感がよぎった。
次の一歩で、口を覆った。
手摺に括りつけられた紐の先で銀色の光を放っているのは。
鍵。
震える掌を伸ばして、手に乗せてみた。
間違いない。
散々振り回された。
切ない想いで幾度も握り締めては手放してきた。
吉澤のアパートの、鍵。
両手で包みこんで、額に押しつける。
喉元に溢れてくるものを必死に押えこむ。
歯を食いしばって必死に塞き止める。
- 320 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月31日(土)00時01分23秒
錆びついた扉が、誰かの侵入を知らせた。
「梨華ちゃん」
急いで涙を拭う。呼吸を整える。
「見つかった?忘れ物」
吉澤は汚れなど全く意に介さず手摺に背中を凭せ掛けて。
答えを待たずに、頭の天辺に冷たい缶をトスンと乗せられた。
「はい、お礼」
「…ちょっと、安くない?」
もう片手に自分のジュースを持った吉澤が首を傾けて笑う。
「じゃ、何か欲しいもの考えといてよ」
静脈が透けそうなほど、青白く澄んだ肌。
陶器のようで、指を滑らせてみたくなる。
眼の下に薄く浮いている隈さえ、愛しい。
「…梨華ちゃん寒くない?」
「大丈夫」
「うそだ」
「どうして?」
「鳥肌たってるよ鳥肌」
「…トリトリ言わないで」
次の瞬間、温かくて懐かしい感触が体を覆う。
「ちょっ…」
温かいのは吉澤の体温。
懐かしいのは背後から梨華を抱きすくめている吉澤の感触。
梨華の肩に顔を埋め、ふんふんふんと鼻を鳴らす。
「…なに、してるの?」
声が、震える。
「今だけ。少しだけだから」
吉澤の息が首にかかる。
切ないくらいくすぐったくて、肩をすぼめる。
「梨華ちゃんだなぁと思って」
そしてまた、ふんふんふふん。
- 321 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月31日(土)00時02分45秒
そういえば。
吉澤の癖をまたひとつ思い出す。
…よっすぃ、何でも匂いを嗅いじゃうんだから。
何か正体不明の物を見ると、おもむろに鼻先に持っていく。
やめなよ!と幾度も注意するのだが、これが一番確実なんだぁと譲らない。
しまいには梨華も諦めるどころか、時々同じ仕草をしてしまっている自分に気付く始末。
でもね。
もうこうやって思い出に頼るのはおしまい。
過去に逃げるのもおしまい。
思い出は大切だけど、それは何年も何十年も経って、いつか。
いつかよっすぃの存在自体が思い出になったら。
痛みを伴わずによっすぃのことを思い出せるようになったら。
…そんな日がくるのかどうか、自信がないけれど。
でも、きっとくるから。大丈夫だから。
そうしたら、思う存分、浸ろう。
その時、隣にいる人に笑顔で話そう。
若かったんだよって。
- 322 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月31日(土)00時03分42秒
さよう、然らば、愛しい貴方。
「さっきの、お礼の話だけど」
「ん?あぁ、何にするか決めた?」
向き直り、握っていた鍵を示す。
「これちょうだい。記念に」
記念、という言葉を僅かに強く発音する。
吉澤の視線が、梨華の言葉の奥にある何かを探ろうと、さまよう。
こめかみにぐっと力をこめ、自分を映し出している大きな瞳を見据える。
温もりが、去っていく。
「…いいけど。何の記念?」
「うーん、考えてなかった」
「なにそれ。記念になんないじゃん」
口の端を歪める、吉澤独特の笑い方。
「大丈夫。これ使ってこっそり忍びこんだりしないから」
「ごっちんみたいに?」
「最近もまだ来てる?」
「何だか知らないけど、いるよ」
「でも後藤さんのご飯美味しいよね」
「お菓子に凝っちゃってて、帰ると部屋の中が甘ったる〜い匂いでいっぱいなんだよ」
そして。
他愛もない会話。
- 323 名前:トラップ・フォーカス 投稿日:2002年08月31日(土)00時04分44秒
保田やアヤカと過ごした夏の記念。
ついでに市井にも知り合えた夏の記念。
ついでのついでに後藤にも。
あとはね、よっすぃ。
この夏、私が確かによっすぃと過ごした、記念。
身を引くんじゃない。
犠牲になるのでもない。
恋人は失った。
でも、恋人の夢にはほんの少し近づけた気がする。
夏の終わりも、そう悪いものでもないかもしれない。
- 324 名前:物心 投稿日:2002年08月31日(土)00時06分14秒
更新しました。
迷走のまま突っ走ることにしました。
次回でラストです。
>299 しゃんぶらー様
レス有り難うございます。でも、それほど大した波瀾はなさそうです。ドキドキ。
>300 オガマー様
開き直ってラストまで強引にもっていきます。ちから技です。
>301 クロイツ様
なぜか脇役が人気をさらっていってしまう、という現象が起こりがちです。
特に保田さんが。うーむ…主役二人に問題があるのか。
>302 名無しどくしゃ様
はい。何が何でも次回で終わらせてやる所存であります。意気込みであります。
長いこと有り難うございました。(まだだけど)
>303 ごまべーぐる様
えへへ…書き終わったら、読み直してみます。
どんな話だったかすらも覚えてないです。不勉強の至りです。
- 325 名前:オガマー 投稿日:2002年08月31日(土)01時17分17秒
- なんで梨華ちゃんって物事の一番大切な部分をいつも見逃してしまうんだろう…
おっちょこちょいですね(w
次がラストかな?
あー、どうしよ。ドキドキしてきたw
- 326 名前:88 89 134 203 245 投稿日:2002年08月31日(土)03時04分22秒
- 迷走ですって?泣きました。会社にいるのにさ。もうどうなってもいいや明日の仕事とか…(うそです)
萌え〜とかなんとかの世界を遠く通りこして、ココロが震えちまってます。
震えながらラスト待ってます。震えて眠ります。
アホウな名前欄すら拾ってくださった作者さんに感動して自分もがんばってみたんですけどね
88 89 134 203 245 → 88 8913 42032 45
「パパ 吐く意味 渋を散布 死語」? ズルしてしかも意味不明という結果に
でも自分のようにビョーキの人間は(^〜^0)を連想するというコジツケ逃げ…
ごめんなさいごめんなさい m(_ _)m
- 327 名前:j 投稿日:2002年08月31日(土)07時21分13秒
- 夏休み、終わっちゃいますねぇ・・・。
- 328 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2002年08月31日(土)09時06分17秒
- しんみりですねぇ……。梨華ちゃん…寂しいよ。悲しいぽ。
ラスト期待してマス。更新、楽しみにしてます。
- 329 名前:ナナシー 投稿日:2002年08月31日(土)10時30分45秒
- これほど、夏が終わるのが寂しいと思ったことはありません・・・
梨華ちゃーん・゜・(ノД`)・゜・
- 330 名前:クロイツ 投稿日:2002年08月31日(土)12時46分36秒
- うわぁぁぁぁぁぁぁん!!!
切ないよ〜!切ないよ〜〜〜!!!
現在、マジで泣いてます。
梨華ちゃぁぁぁぁぁぁんっ!!
市井さんの思いも切ないけど…梨華ちゃんが…っ!!
あああ、先が楽しみ過ぎる!!
- 331 名前:肩身 投稿日:2002年08月31日(土)15時43分29秒
- 胸がいたいです。
吉澤さん辛かったんですね。
切ないです。
…物心さまは優しい方だと信じてます。
(軽く、希望を匂わせました。)
- 332 名前:名無し読者 投稿日:2002年09月04日(水)11時43分01秒
- まだかなぁ〜・・・なんて言ってみたり。続きが気になって気になってしかたないす。
- 333 名前:ホッピー ◆hoppyFIM 投稿日:2002年09月05日(木)21時17分18秒
- (Oノ〜`O) ウウ…
- 334 名前:読者 投稿日:2002年09月06日(金)07時59分43秒
- >332
この時間がよいのです(笑)
何度も読み返したり、色々想像したり…
切なくて、切なくて、、、
梨華ちゃん−よっすぃはもちろんだけど
市井さん−ごっちんも幸せになってほしいにぁ〜
- 335 名前:ごまべーぐる 投稿日:2002年09月07日(土)12時24分25秒
- 夏の終わりというのは、いつも切ないもの。
いしかーさんたちには、今年の夏は色んな意味で特別な夏になるんでしょうね。
ラスト、寂しいですが、マターリ待ちます。
- 336 名前:物心 投稿日:2002年09月07日(土)16時19分22秒
突然ですが、容量内に収まるかどうか甚だ心もとないので、お引越しします。
移転先はこちらです。
緑板
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/green/1031383016/
宜しくお願い致します。
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