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桜の雨、いつか

1 名前: 投稿日:2002年10月09日(水)06時27分10秒
アンリアルです。
登場人物は三人しか出てきません。
2 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時28分00秒
桜の木の下に髪の長い女の人が立っている。

白いパジャマの上に羽織ってある同色のカーティガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだとその輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。
3 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月09日(水)06時29分16秒
「後藤ー。後藤ってばー」

誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。
視界は真っ暗で心地よい身体の揺れを感じた。

ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン。
規則正しい音。

それがまた私の睡魔を誘う。
規則正しい音にゆりかごに乗ったような揺れ。
眠くならない方がおかしい。
意識が曖昧になりそうになった瞬間、また声が聞こえた。

「いつまで寝てるんだよ!起きろー!!」
耳元で怒鳴られ、ようやく私は瞼を開いた。
顔をしかめて、私が目を擦っていると
隣で膨れっ面をしている市井ちゃんの顔が見えた。

「誘った人間がなんで寝るわけ?もう、信じられないよ」
ブツブツと文句を言っているのを横目で見ながら
私はまだ目を擦っていた。

えっと…、何が起きてるんだっけ。
ん〜と、ここは…。

ぼんやりとしたまま、顔を右手に向けると
物凄いスピードで流れる風景が目に入ってきた。
4 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時30分27秒
あ、そうか。
市井ちゃんと電車に乗ってたんだった。
寝てて忘れそうになってた。

いつの間にか窓からは田舎の空気を感じる事が出来た。
きっと、目的地が近いのだろう。

「えーと、後藤の親戚の家ってもうすぐだっけ?」
「うん、多分」
「……多分?」
「いや、本当に」
意味のわからない会話をしていると
市井ちゃんは少し不服そうな顔をしながら私を一瞥して
ため息をつきつつ地図帳を開いた。
横から覗き込もうとする前に、くわっと欠伸が出た。

ダメだ。
まだ眠い…。

無理やり、瞼を開けて窓の風景を見る事にした。
季節が春という事もあって、日差しは柔らかい。
空気も優しく感じる。
普段、私達が住んでいる都会では感じる事の出来ない空気がここにはあった。
5 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時32分04秒
私と市井ちゃんは春休みを使って
私の親戚の家へ遊びに行く事にしていた。

市井ちゃんと私は中学の時に仲良くなった。
何がきっかけだったか忘れちゃったけれど
先輩後輩という関係はあまり関係なく
仲の良い同級生のような付き合いをしていた。

でも、大学生になった市井ちゃんは県外へ出てしまい
あまり会えない状態が続いていた。
私はまだ高校二年だから、ちょくちょく遊びに行く事も出来ず
市井ちゃんもバイトが忙しいからといって
休みである週末も滅多に帰ってこない。
まとまった休み…そう、春休みなんかにならないと
一緒にどこかへ行くという事が出来ない状態だった。

だから、私が今回の旅行を提案したのだ。
このままだと今までの関係(特別な関係でもなんでもないけど)が
壊れてしまうような気がして怖かった。
少しでも市井ちゃんとの距離を縮めたい。

私はずっと市井ちゃんの事が好きだった。
6 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時33分50秒
「おー、絶景ー」
電車から降りるなり、市井ちゃんは右手を上げて
敬礼のようなポーズをして辺りを見渡していた。
遅れて電車から降りた私は
「邪魔〜」とカバンで市井ちゃんの背中を軽く押した。

「なんだよ。後藤だって久し振りなんでしょ?懐かしいーとか思わないわけ?」
「あんまし記憶ないから何とも思わないね」
しらっとして私が答えると市井ちゃんは口を尖らせた。

本当に何も覚えてないんだから仕方ないじゃん。
前にここに来たのは私が十三歳の時。
お父さんが死んでその後、うちの家族がどうするか、という
話し合いを親戚達とする為にここへ来ただけ。
期間的には一週間とかそれくらいだったはず。
当時の事を訊こうとするとお母さんは露骨に嫌な顔をしていた。
お父さんが亡くなった時の事なんて思い出したくないのかもしれない。
だから、私もそれ以上は何も口にしなかった。

私はグルリと辺りを軽く見渡した。
数年前にも見たはずの風景なのに少しも懐かしいと思わない。
何一つ、記憶に残っていなかった。
あの時もこの電車に乗って来たはずなのに。
私の記憶がかなり欠落してるのかな…。
ただ、臭いだけは懐かしいと思えた。
7 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時34分44秒
臭いも記憶の一部。
視覚的に覚えてなくても嗅覚的に覚えている事はよくある。
幼稚園の砂場で同じ臭いをかいだ事がある、とか。
小学生の時の遠足で、とか。
それを思い出して、ふとした懐かしさが湧いたりする。

ただ、春の臭いというもののが私は昔から何故か苦手だった。
どうしてなのかはわからない。
何故だか、居心地が悪く感じる。
私はここにいていいのだろうか、という理由もない不安が湧き上がってくる。

ぼんやりとしていた私が気になったのか、隣で市井ちゃんが首を傾げていた。

「こんな調子で、ちゃんと親戚の家に辿りつけるんだろうね?」
市井ちゃんは疑わしそうな視線を私に送る。
失礼な。
「ちゃんとお母さんに地図書いてもらったから大丈夫だよ」
「…本当に後藤は何も覚えてないわけね」
「うん!」
私が張り切って返事をすると市井ちゃんはガックリとうな垂れた。

そりゃ、こんな事を自信満々に答えられても困るか。
8 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時35分54秒
駅を出ると視界に青と緑が広がった。
晴天な空と田んぼや山しか視界に入ってこない。
都会住まいの私達にはちょっと新鮮に映る。
人気も全くない。
そういえば、電車には私達以外のお客さんは乗っていなかった。
東京だといつもあんなに人がうじゃうじゃいるのになぁ。
それに比べてここはのどかだ。
別世界のように見える。

「うーん。気持ちいいなぁ。空気が美味い。
でも、今は気候的にバッチリだからいいけど夏になったら地獄を見そうだな」
市井ちゃんは両手を広げて気持ち良さそうに大きく身体を伸ばしている。
確かに春じゃなかったらカンカン照りな日差しを浴びて
肌がすぐに小麦色に染まりそうな感じ。
でも、今は有難い事に優しい風が吹き
心地よい日差しを感じるだけ。

やっぱ、遠出をする時は季節を考えてしないとね。

ここで立ち止まっていたら、いつまで経っても目的には到着しない。
その事に気付き、私達は歩き出した。
9 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時38分18秒
「そういや、親戚の家には誰がいるの?」
「ん〜と、伯母さんと伯父さんの二人だけ。
従兄弟はもう結婚して出ていっちゃってるから」
「ふーん。全然関係ないあたしが言って邪魔じゃないのかな…。
迷惑じゃない?」
珍しく気弱になっている市井ちゃんを見ていたらなんだか笑えて来た。
「何言ってんの。ちゃんと話してあるから安心してよ」
「ならいいんだけど…」
まだ市井ちゃんは不安そうだった。

伯父さん達に話をした時は滅多にお客さんなんて来ないからって
逆に喜ばれたんだけどなぁ。
でも、お母さんは渋い顔をしてたっけ。
なんでか知らないけど。

「おー、川だ」
市井ちゃんは視界に入る風景の一部一部が珍しく思えるらしく
感嘆の声ばかりあげている。
太陽の光に反射して水面はキラキラと輝いている。
確かに綺麗だ。

でも、私はそれどころじゃない。
景色を満足に見る余裕なんてなかった。
荷物がとてつもなく重い…。
いつの間にか市井ちゃんとの距離も少しずつ開きつつあった。
体力には自信があったんだけど。
10 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時40分41秒
「やっぱり、カバンが重いんでしょ?」
市井ちゃんは振り向いて、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

電車に乗る前から言われていたのだ。
何を入れたらそんなに大きくなるんだ、と。
ちなみに私と市井ちゃんのカバンを比較してみたら
二周りくらい大きさが違う。
同じ女なのにどうしてこんなに差が出るんだろう、と
自分でも不思議に思うくらい。

「後藤はこっち持ちなよ。あたしが持つから」
そう言って市井ちゃんは私のカバンを強引に奪い
そして、自分のカバンを私に押し付けた。
「え…。でも、市井ちゃんの方が力弱いのに」
「うっさいなー。言われた通りにしておけばいいんだよ」
「いや、でも、市井ちゃんってヘナチョコじゃん。無理しなくていいんだよ?」
「あたしを怒らせたいのか?」
「…ち、違うよぅ〜」
ムスッとしている市井ちゃんを見て私は肩をすくめた。

でも、マジでヘナチョコなのに…。
11 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時41分26秒
「後藤にはちゃんと地図を確認しながら
歩いてもらわないといけないんだから
このままでいいじゃん。
っつー事で、迷ったらただじゃ済まさないからね」
市井ちゃんはぷいっと顔を背けてズンズンと乱暴に歩き出した。

どこか、照れ隠しのようにも見える。
気のせいかな。
私はしばらく市井ちゃんのカバンを抱きかかえたまま
呆然としていたんだけど、慌てて歩き出した。

市井ちゃんのこういう不器用な優しさが昔から大好きなんだ。
12 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時42分20秒
お母さんが書いた地図はかなりアバウトでかなり不安になった。
駅からまっすぐ一本道を進んで
お地蔵さんがある分かれ道のところで右折…らしいんだけど
一向にその目印が見えてこない。

さすがに市井ちゃんも疲れてきたらしくて肩で息をしている。
額に汗が浮き出ていた。

「…マジで辿りつくんだろうな」
ゼーハー言いながら市井ちゃんは汗を拭っている。
私も地図を片手にひたすら首を傾げていた。

駅からずっと同じ風景が続いている。
ずっと田んぼ道。
別に道が分かれていたわけでもないから
まだ目印がある場所まで到達してないだけだと思うんだけど。

日は少し傾き初めて、西の空は赤く染まりつつある。
冬に比べて日が落ちるのがゆっくりにはなってきたけれど
街灯が全くないので夜になったら大変だ。
頭があまり良くない私にもそれくらいはわかる。

「もうちょっとでお地蔵さんが見えると思うよ!」
多分、という言葉はわざと飲み込んで。
少しでも市井ちゃんを安心させてあげなくちゃと思って言ってみたんだけど
まるっきり私の言葉なんて信じていないらしく、深いため息をついていた。
13 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時44分42秒
「あー…。でも、やっと建物が見えてきたね」
市井ちゃんに言われて私もようやく気がついた。
ちょっと先だけど民家らしきものが確かに見える。
「そこで道を訊いてみようよ〜。そしたらもう迷わないでしょ?」
「…やっぱり、迷ってたんだ?」
「……ち、違うよぉ〜」
私は焦りながら市井ちゃんを置いて歩き出した。

図星というのがバレバレだろうなぁ。
私ってどうして嘘がつけないんだろう。
う〜ん…。

「待てってば」
市井ちゃんはそう言って後ろから私の左手を引っ張った。
「…痛っ」
「あ、ゴメン」
顔をしかめている私を見て市井ちゃんは慌てて手を離した。
手首は赤く掴まれた跡が出来ている。

「痛みとかあるんだっけ?」
「いや、そうでもないんだけど…」
へらっと笑いながら私が答えると市井ちゃんは少しホッとした表情を浮かべていた。

私の左手は昔から少し不自由だった。
右手に比べて左手を動かす時には違和感があって少々、動かし難い。
でも、怪我した当時の事は全く覚えてない。
14 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時46分27秒
手首にある傷痕を見ても産まれた時からあったんじゃないかと思ってしまうくらい。
今ではこの不自由さに慣れてしまっていた。
全く動かせないわけでもないし、利き手じゃないからだと思うんだけど。

初めてこの傷を見る人には必ずリストカットでもしたんじゃないの?と
言われるんだけど
そんな事しそうなタイプじゃないよね、とすぐに笑われてしまう。
市井ちゃんも初めてこの傷を見た時に少し驚いていたけれど
それ以降は何も見なかったかのように接してくれていた。
でも、雨の日とかシクシクと傷が痛む時に私が顔をしかめていると
痛くないの?とかって気遣ってくれる。

まあ、大した事はないんだけど。
とりあえず、騒がれると困るので
普段からあまり他人には傷痕を見えないように心がけている。

しばらく、進んでいくと大きな洋館の入り口に辿り付いた。
遠くからだとただの民家に見えたのにそうじゃなかったらしい。
ただ、かなり老化して廃れている。
人が住んでいるようにはあまり見えない。
いや、住んでいるのかもしれないけれど。
でも、人の気配というものがしない。

…違和感を感じる。
15 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時47分49秒
何に対してそう思うのかはわからないけれど。
周りは原色が広がっているのに
ここだけ何故かセピア色に古ぼけて見えるような感じがするのは
私だけなのかな。

それにこの空気。
どこかで嗅いだ事がある臭い。
でも、思い出せない。

「…後藤?後藤ってば。どうした?」
市井ちゃんがキョトンとして私の顔を覗き込んでくる。
私は慌てて首を横に振った。
「なんでもない。それより、ここ人いるのかなぁ〜?」
「うーん。どうだろ…」
市井ちゃんは眉間にしわを寄せている。
私と同じように市井ちゃんの目にも
この建物の中に人がいるようには見えてないのかもしれない。

「とりあえず、入ってみよう。インターフォンとかないし」
「え?」
私が訊き返している間に市井ちゃんは自分の通れるスペースだけ鉄の門を開けて
勝手にズンズンと中に入って行ってしまった。
行動力があるというか、無鉄砲というか。
早く目的地に着きたいから気持ちが急いてるのかな。
16 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時50分31秒
遅れつつも市井ちゃんの後を追った。
鉄の門は錆びていて、全開にしようとしても軋む音を立てるだけで
なかなか簡単には動かない。
っていうか、通れるスペースはもう開いてるんだし
全開にする必要なんてないんだった。
手が錆びで茶色に汚れてしまったのを見て私は顔をしかめた。
ジーンズで手を擦りながら先へ進むとそこは荒れ果てた大きな庭だった。
数年くらい手入れを全くしてない感じがする。

「市井ちゃん〜…。中に入っても意味ないんじゃないかなぁ〜……」
少し前でキョロキョロしている市井ちゃんの背中に声をかけると
重そうに首を振りながら、こっちを軽く睨んできた。
「後藤がここで道を訊こうって言ったんじゃんか!」
「うっ…そりゃそうだけど」
私が言葉に詰まるのを見て市井ちゃんはへらっと表情を変えた。
どうやら、私を困らせたかっただけらしい。
「まぁ…、もしかしたら、誰かいるかもしんないし。
どうせなら、ちゃんと確認してからにしようよ」

でも、どう考えても人なんていそうにないんだけどなぁ。
17 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時52分03秒
門から洋館の入り口まで距離がかなりある。
芝生も枯れ果てて、木とかも元気がないように見えた。
季節は春なのにここだけ冬なのかも、という錯覚に陥りそう…。
でも、やっぱりそよそよと吹いている優しい風は春の特有のものだ。
春の香りもする。

「あれ?」
市井ちゃんがとぼけた声を出した。
でも、すぐに私にもわかった。

花びらだ。

桜の花びらがヒラリと数枚ほど飛んでいた。
また違和感を感じる。
こんな荒地のどこに桜が咲いてるんだろう。

市井ちゃんも気になったのか、しきりにキョロキョロと辺りを見渡している。
洋館の右手から花びらが飛んできていた。
私の方が近かったので軽く首を傾げながらそちらへ行ってみた。
門と繋がっている背の高い壁が洋館をグルリと囲っているらしい。
その壁もところどころに亀裂が入っている。
18 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時53分08秒
なんとなく緊張してしまう。
明らかに不法侵入しているわけだし
普通の建物じゃない気がするから。

建物の角を曲がってみて私は
何かを見間違えたのかと思って目を見開いて立ち尽くしてしまった。

そこには満開に咲いている大きな桜の木があった。
そして、その下には髪の長い女性が立っていた。
19 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月09日(水)06時54分31秒

つづく。
20 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月09日(水)21時34分13秒
タイトルがきれいだなあと思いつつ読みにきたら、かなり期待大な文章の
上手さに引き込まれてしまいました!しかもいちごま!!
これからちょくちょくチェックさせていただきます。更新がんばってください。
21 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時11分31秒
桜の木の下に髪の長い女の人が立っている。

水色のパジャマの上に羽織ってある白色のカーティガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだとその輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。
22 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時12分48秒
頭の中で何かが過ぎった。
それは一瞬の事で瞬きしている間に跡形もなく過ぎ去っていた。

私がポカンと硬直していると市井ちゃんが後ろから怪訝そうな声をかけてきた。
「どしたの?何かあっ……」
市井ちゃんは途中で口をつぐんだ。
どこか、目を奪われているような気がして
なんとなく胸騒ぎがした。

目の前に立っている女の人は色白で病弱そうに見える。
格好もそれっぽい。
夕方にパジャマ姿っていうのも変だし。
髪は腰の辺りまで長さがあって風でなびいている。
綺麗な髪。
顔立ちもくっきりとしていて、かなりの美人さんだ。
私達よりも背がいくらか高い。

というか、私達がずっとジロジロと見ているのに彼女は身動き一つしない。
一応、顔はこちらへ向いているけど焦点が定まっていないという感じ。
まさか、人形じゃないよね…。
23 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時14分01秒
「あのー…」
市井ちゃんが恐る恐る声をかける。
それでも、彼女は無反応だった。
いや、違う。

私を見ている。

何もされてもないし、何も言われてもないのに
何故か私は圧倒されていた。
怖いとかそういう感情を抱いたわけじゃない。
でも、それとは違う何かを感じ取っていた。

彼女の周りの空気だけ何かが違う。
温度が低いというか、なんというか…。
視線を逸らせない。
逸らしちゃいけないと何故か思った。

黙り込んだ私と最初から口を開かない彼女を交互に見比べながら
市井ちゃんは戸惑っていた。

でも、向こうが前触れもなく笑みを浮かべた。
私に向けて。
思わず、私はぎょっとした。

どうして、私にだけ…。
声をかけたのは市井ちゃんであって私は何もしてないのに。
24 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時15分33秒
私はゴクリと喉を鳴らして、気持ちを落ち着ける為に
大きく深呼吸をした。
市井ちゃんは私の様子がおかしくなった事に気付いたようで
心配そうに声をかけてきた。

「どうしたの?もしかして疲れが出てきた?」
違う…そうじゃない。
でも、まだ言葉にならない。
私はどうしてこんなに動揺してるんだろう…。

「…えっと、ここに住んでる人ですか?」
「……」
市井ちゃんが問い掛けてもまだ彼女は口元に笑みを浮かべたまま
無言で私を見ている。
「…あの?」
困り果てた市井ちゃんの声ばかりが続く。
もう一度、深呼吸して
ようやく私は口を開いた。

「……わ、私達の声は聞こえます?」
もしかして、耳に障害を持ってる人なのかな、と思って訊いてみたんだけど
アッサリと返事が返ってきた。
「聞こえてるよ」
彼女はニッコリと笑う。
市井ちゃんはそれを見てなんで?という表情を浮かべた。
自分が問い掛けた時には全く反応してくれなかったのに
私の時にはすんなり答えたから不満があるらしい。
25 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時18分15秒
「ここに住んでる人なんですか?」
さっき市井ちゃんが尋ねた言葉をもう一度繰り返してみると
彼女は少し暗い表情を浮かべて私の顔を見た。
その顔を見てドキリとした。

「でも、ここって人住んでるようには見えないんだけど…」
横から市井ちゃんがとぼけた声を出した。
わざと場を明るくさせようとしているらしい。
「ううん。圭織はここに住んでるよ。
ちょっと病院暮らしして空けてたからボロボロになってるけど」
彼女がようやく市井ちゃんの言葉に反応した。

なるほど。
だから、こんなに人が住んでる感じがしなかったのか。

市井ちゃんはホッとした表情になっていた。
やっと会話らしい会話が出来たからかもしれない。

「圭織っていう名前なの?
あ、あたしは市井紗耶香。で、これが後藤真希」
「…これっていう紹介の仕方はやめてよ」
私が不服そうな顔をすると市井ちゃんはニヤニヤと笑っていた。
そんな私達をじっと見つめている彼女。
怒っているように見えて少し怖い…。
26 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時22分07秒
「えっと…貴方の名前は?」
なんで、自己紹介をする事になったんだろう、と思いながら
私が訊くと彼女は何故か怪訝そうな表情を浮かべた。

圭織っていう名前しか知らないんだから訊いてもおかしくないじゃん…。

「…圭織。飯田圭織」
「へー、可愛い名前だね。
…あ。可愛いって言うのは失礼かな」
自分でツッコミを入れながら市井ちゃんは頭を掻いている。

それから市井ちゃんは圭織という名の彼女から色々な話を訊き出していた。

圭織はこの洋館に一人で住んでいるらしい。
両親は数年前に亡くなったとか。
だから、建物が荒れ放題になっているらしい。
そこまで気にする余裕もないとかで。
普通に考えても一人でこんなに大きな所に住むには管理が大変だろうし
昔から病弱でしばらく病院に入院していたというのも原因らしい。
でも、一人で暮らすには何かと不便なので
自分の世話をしてもらう為に親戚の人が一週間に一回は見に来るんだとか。

「へー。じゃあ、結構淋しいんじゃない?」
市井ちゃんは基本的にズバズバと物を言う。
ちょっとは躊躇えばいいのに。
でも、圭織は嫌な顔一つもせずに笑顔を浮かべていた。
27 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時23分29秒
「産まれた時からだから慣れちゃった。
こうやって大人数で話す方がドキドキしちゃうし」
「大人数ねぇ…」
市井ちゃんは戸惑いながら曖昧に頷いた。

たったの三人なのに圭織にとっては大人数なのか…。
小さい頃から家の外へあまり出られず
しかも、病院暮らしをしていたというのだから仕方ないのかな…。

「このまま、立ち話もなんだから中に入らない?」
さっきまでの態度が嘘だったかのように圭織は笑顔を浮かべている。
というか、本当に最初のアレは何だったんだろう…。
今では人が変わったように見える。

結局、私達は建物の中に入れてもらった。
玄関は少し埃っぽい。
病弱だって言ってたけど、大丈夫なのかな。
余計身体の調子が悪くなりそうな感じがする…。
全体的に空気が澱んでるような…。

市井ちゃんも同じような事を思っていたのか
少し咳き込んでいた。
28 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時25分51秒
玄関の側に階段が見えた。
外から見た感じでは二階建てくらいの高さだったから納得出来る。
そして、進んでみるとかなり広いリビングらしき場所に入った。
らしき…というのは、なんとなくあまり使われない印象を受けたから…。
ここも埃っぽい。
一体、ここでどうやって生活してるんだろう。

「ちょっと換気していいかな?」
「どうぞ」
圭織の返事を聞いてから市井ちゃんは口元に手を当てて
窓辺に近寄った。
さっきの桜の木が見える。
窓を開けたら花びらが入って来ちゃうかな、と思っていたら
市井ちゃんが「…あれ?」と首を傾げた。

「どうしたの?」
私が近づくと、市井ちゃんは窓に手をかけたまま
困惑した表情を浮かべて振り向いた。
「窓が開かないんだよ」
「ん〜?ちょっと、代わってみて」
市井ちゃんの代わりに力の強い私が開けようとしたのだけど
これがなかなか開かない。
よく見てみると錆びついていた門みたいに窓枠の辺りが変色している。
29 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時26分55秒
「ねぇ…普段、窓開けたりしてないの?」
私が尋ねると圭織は肩をすくめて曖昧に微笑んだ。
「いつもは二階の部屋にいるからさ。
一階の窓とかって滅多に開けないんだよね」
「…はぁ」
私は覇気のない返事を返す事しか出来なかった。

とりあえず、強引に窓を動かすとなんとか開いた。
ようやく新鮮な空気が吸えたような気がする。

「しばらく換気しとこうね」
私が言うと圭織は「そうだね」とニッコリ微笑んだ。

さっきからずっと思ってたんだけど
なんだか儚げな笑みを浮かべる人だなぁ。
無表情になると怖いんだけど…。

「あ、そうだ。あたし達、道に迷ってるんだった」
市井ちゃんが突然、思い出したように呟いた。
「そうそう〜。忘れるところだった」
「…忘れるなよ」
市井ちゃんが呆れた顔をして、私がへらっと笑っていると
それを見ていた圭織は目を細めた。

「二人は仲良しさんだね」
「そうかなー?そうでもないよね。普通だもん」
市井ちゃんが素で言っているのを見てガックリ来た。
30 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時29分04秒
昔からそうだ。
私の気持ちになんて全然気付いてくれないというのが市井ちゃんという人。
基本的に鈍感なんだ。
それなのに自分の気持ちには真っ直ぐで。
今までどれだけ私が嫌な想いをしてきたか。

運が悪い事に市井ちゃんはモテるし。
女子高だったから女の子からの告白は珍しくもなかったし。
いや、そういう意味では運がいいのか。
同性である私がもし告白しても受け入れてくれるという可能性があるから。

私が知る限り、今まで市井ちゃんは誰かと付き合ったという事はない。
告白されて振ったという話なら何度も聞いた事があるけど。
それに誰かの事が好きだという話も聞いた事がない。

直接そういう話をするのが怖いから訊いてないだけなんだけど。

圭織から私の親戚の家の詳しい場所を訊いて
私たちは玄関へ出てきた。
31 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時30分28秒
「ゴメンね。もっと話したかったんだけど」
市井ちゃんは申し訳なさそうに圭織に頭を下げた。
「ううん。こっちこそ、アリガトウ。
また遊びに来てよ。今度はちゃんとお茶も出すし」
ニコニコと笑いながら圭織は答えて
それから、私の方を見た。

「後藤もね。圭織、待ってるからさ」
「あ、うん」
私は曖昧に頷いた。

なんだか、変な感じがする。
私と市井ちゃんに対する態度がなんとなく違うっていうか…。
気のせいなのかな。
32 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時32分44秒
「うわー。あっという間に暗くなってきてるじゃん」
圭織の家から出るなり、市井ちゃんは頭を抱えた。

ここに入る前はまだ日が暮れ始めたという状態だったのに
今ではほとんど夕日が落ちている。
あんなに暖かく感じた風も今では肌寒く感じた。

「なんとかなるでしょ。すぐ、この先にお地蔵さんあるらしいし」
私は能天気に答えながら市井ちゃんの背中を押す。
しかし、市井ちゃんはされるがままの状態でいた。
「どうしたの?」
「圭織ってすげー美人だったね」
「……そうだね」
答えててなんとなく嫌な予感がした。
今までこんな状態になっている市井ちゃんなんて見た事がないから。

「あんなとこに一人で暮らしてるっていうのもスゴイけど。
なんか、神秘的っていうか、普通の人にはないオーラっていうものを持ってるね」
「……そうだね」
ニコニコとしている市井ちゃんを見てますます私は顔をしかめる。
市井ちゃんがこんなに他人に興味を持つなんて…。
33 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時40分19秒
「やっぱ、淋しいんだろうなー。明日、また行ってみない?」
「……」
私は素直に頷く事が出来ず、足元にあった小石を蹴飛ばした。

コロコロと小石が転がる音だけが聞こえる。
周りは暗いのでどこへ転がっていったのかは確認出来なかった。
まるで今の市井ちゃんの気持ちみたい…。
私が触れようとしても、本人は気付かずにどこかへ行ってしまう。

黙り込んでいる私を見て、市井ちゃんは首を傾げた。
「何?後藤の苦手なタイプだった?」
「…いや、違うけど」
私は仕方なく、かぶりを振った。
正直に言えるわけないじゃん…。

「でもさー、圭織はあたしより後藤の事を気にしてるって感じしたけど。
なんでだろうね?」
「知らないよ…」
私が素っ気無く答えると市井ちゃんは何かを感じたらしく
口をつぐんだ。
どうせ、私の機嫌が悪くなった理由なんて気付いてないんだろうけど。

鈍感だから。
34 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月11日(金)02時41分05秒

つづく
35 名前: 投稿日:2002年10月11日(金)02時45分17秒
>>20さん
初レスありがとうございます。
タイトルは松たか子の曲です。
36 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月11日(金)20時08分46秒
とっても面白いです。
こういう作品は大好きなのでうれしい限りです。
取り敢えず今は後藤さんの過去が気になりまくりです。
そしてこのまま(?)いちごまであって欲しいなんて・・・思ったりして・・・

次回の更新を楽しみに待っているので
作者さん、頑張って下さい。
37 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時32分19秒
それから間もなくして親戚の家に辿り付いた。
実はそれまで伯父さんや伯母さんの顔を思い出せていなかった私は
実際に会ってみてようやく思い出した。
小さい頃の記憶ってほとんど残ってないもんなんだなぁ、とか思ったりして。
私だけかもしんないけど。

道に迷った事を言うと、電話してくれればよかったのに、とボヤかれてしまった。
約束の時間よりも随分と到着が遅れてしまった私達を心配していたらしい。
すっかり、携帯の存在を忘れてしまっていた私と市井ちゃんは
顔を見合わせて苦笑いをした。

晩御飯を作ってもらうと市井ちゃんは地元の新鮮な魚料理に感動してた。
私はあまり食べられないんだけど、それでも出された料理はどれも美味しかった。
偏食家って事をわかってくれてたから、私用に料理が分けてあって嬉しかった。

畳の部屋に布団を並べていると市井ちゃんが
髪をガシガシと乱暴にタオルで拭きながら戻って来た。
「いやー、いい湯だったー」
ご満悦って顔をしている市井ちゃんを見てたら笑えて来た。
38 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時33分34秒
「なんか、おっさんくさいセリフだね」
「うっさいなー。後藤も入ってきたら?今、丁度いい温度だよ」
「そだね〜。じゃ、行ってこようかな」
立ち上がって自分のカバンを手に取りながら
私はため息をついた。
なんとなく、気分が重い。

また圭織に会いに行く事になっちゃうんだろうなぁ…。
一週間くらいこっちにいる予定だし
田舎過ぎて遊び場がなくてする事ないし。
市井ちゃんって言い出したら必ず実行するタイプだからなぁ…。

そもそも、ここへ来ようと思ったのは
市井ちゃんと二人っきりになりたいと思ったからで
私のそんな気持ちになんて市井ちゃんは気付きもしないんだ。

チラリと後ろにいる市井ちゃんの方を見てみると窓のサッシに片肘をついて
ぼんやりと外を見ていた。
私の目には満天の星空に目を奪われているのではなく
圭織の事を思い出しているように見えた。

今までこんな顔をしている市井ちゃんなんて見た事ない…。
圭織を初めて見た時もそうだ。
あの時も心を奪われているような表情を浮かべていた。
39 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時34分34秒
嫌だ…。
市井ちゃんが誰かの事を思ってこんな顔をするところなんて見たくない。

これ以上、圭織に近寄らない方がいいような気がする。
市井ちゃんがこれ以上、圭織に惹かれないようにする為には。

でも、私は素直に自分の気持ちを口にする事が出来ない。
意気地なしだから。

どこか心の中にモヤモヤとしたものがある。
圭織への嫉妬というわけじゃない。
でも、それが何なのかわからない。
この気持ちを現す名前がわからない。

名前がわからない感情。
それを日々持て余している。

ここに来る前からそれを感じてはいたけれど
今ではもっとそれを強く感じるようになってしまった。
春の臭いを感じた時と同じような不安が
私を飲み込んでいる。

その日、私はなかなか寝付けなかった。
40 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時35分57秒
夢を見た。

桜の木の下に髪の長い女の人が立っている。

ピンクのパジャマの上に羽織ってある白色のカーティガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだとその輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

…圭織?

私はいつの間にか少し離れた所で圭織を見ていた。
昨日の記憶が夢に出てきたのかな。
どうして、圭織が出て来る夢を見てるんだろう。
どちらかと言えば見たくないのに。
圭織が嫌いなわけじゃないんだけど…。

圭織は私の姿に気付き、またあの儚そうな笑みを浮かべた。

「…後藤は紗耶香の事が好きなんだね?」
突然、言われて私はドキッとした。
41 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時36分53秒
圭織は私の事を苗字で呼び
市井ちゃんの事を名前で呼ぶ。
それは、会った時からだ。
でも、どうして呼び方が違うんだろう。

「そうだよ。後藤は市井ちゃんが好き」
私は真剣な表情をして馬鹿正直に答えていた。

圭織に市井ちゃんはあげない。
その意思表示をちゃんとしておきたいと思った。

圭織は口元に笑みを浮かべたまま、目を細めた。
どこか面白がっているような、そんな表情。
それを見て私は何となく不安になった。

「……どうして、そんな事を訊くの?」
躊躇いがちに尋ねると圭織は何でもないように答えた。
「ちゃんと確認しておきたかったから」

どういう意味だろう。
相変わらず、圭織は笑顔のまま。

ずっと笑顔のまま。
42 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時38分37秒
布団から起き上がると頭がかなり重く感じた。
どちらかといえば眠りは深い方なのに
今日はいつもと違う。
何となく、身体もダルイ。

こんな想いをする為にここへ来たわけじゃないのに…。

窓を外を見てみると今日もいい天気だった。
それなのに私の心の中は大荒れ状態。
どんよりとした雲が私の心の中を覆い尽くしている。

「わっ。なんだ、その顔!?」
先に起きて髪に櫛を通していた市井ちゃんが私の顔を見て驚いている。
寝ぼけてて、何でそう言われているのかがわからない。
傍に置いてあったカバンを引き寄せて手鏡で確認してみると目が腫れていた。
自分でもぎょっとした。
泣いたわけでもないのにどうしてこんな事になってるんだろう…。

あ…そうか。
あの夢のせいだ。
43 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月13日(日)02時39分39秒
昨日あった事と内容が混じってたから現実的過ぎて夜中に目が覚めてしまった。
それから、ちゃんと眠る事が出来なかったんだ。
おかげで寝不足だし、昨日より不安が増している。

夢は夢であって、現実じゃない。
それはわかってるんだけど…。
もしかして、今ある不安が夢になって出てきたのかもしれない。

「体調悪いの?」
市井ちゃんが私の顔を覗き込んでくる。
私は慌てて首を振った。
「そっか。でも、寝不足って顔してるね。
後藤にしちゃ、珍しいー」
「……」
一体、誰のせいだと思ってんのさ…。
ムスッとしている私を見て市井ちゃんは苦笑いを浮かべ
立ち上がった。
「タオル濡らしてくるよ。冷やしたらちょっとはマシになるでしょ」
市井ちゃんはそう言って、タオルを片手に部屋を出て行ってしまった。

こういう市井ちゃんの優しい所は大好き。
でも、鈍感な市井ちゃんは嫌い。

絶対、戻ってきたら圭織の所へ行こうって言い出すのはわかってるんだから…。
44 名前: 投稿日:2002年10月13日(日)02時42分05秒
>>36さん
有難うございます。
いちごまはどうでしょう。
誰かさんが鈍いので。
45 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時11分38秒
「いらっしゃい。本当に来てくれたんだ」
圭織は私達の顔を見るなり、笑みを零した。
私はこっそりとため息をつき、隣で市井ちゃんはニコニコとしている。
両極端な態度の私達を見ても圭織は何とも思わないらしく
中に入るように促していた。

昨日と一緒で建物の中は埃っぽい。
よくこんな所で生活出来るなぁ、と妙な感心をしてしまう。
昨日、開けた窓が開きっぱなしになっているのに気付き
私は首を傾げた。

「もしかして、この窓…昨日からずっと開けっ放しなの?」
市井ちゃんも気付いたらしく、指を指している。
「あ、うん。動かないからそのままにしてたの」
圭織はアッサリと答えていたけど。
無用心過ぎる…。
「一人暮らしなんだから気をつけないとダメだよ」
市井ちゃんは心配そうに呟いた。
それを見て私の胸はズキズキと痛んだ。
46 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時12分40秒
普段から市井ちゃんは誰にでも優しいから
その度に私はイライラしてたりするんだけど。
それは嫉妬みたいなもので。
今回はその程度のものなんかじゃない。
言葉では言い表せないくらいのものだった。

私がそんな事を思ってるのに
市井ちゃんはとんでもない事を言い出した。

「うちら一週間くらいこっちにいる予定だから
その間にこの建物の掃除をしてあげるよ」
「え?いや、そんなの別にいいよ」
圭織は少し驚いて手を横に振っている。

そうだ、そうだ。
断っちゃえ。
っていうか、うちらって…。
勝手に私を含めないでよ。

私が呆気に取られている間にも市井ちゃんは話を続けている。

「だってさー、こんなに大きい所に一人で住んでると掃除も満足に出来ないでしょ?
圭織は身体弱いんだし、親戚の人が来るって言っても一週間に一回なわけだし。
ちゃんと掃除しないと余計に身体悪くなっちゃうよ。
あたしも後藤も暇だしさ、遠慮しないで」
市井ちゃんは人のいい笑顔を浮かべて圭織を説得している。
47 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時13分42秒
心配する気持ちもわかる。
それだけ、ここの空気は悪過ぎるから。
っていうか、だからどうして私の意志は無視なの…。

「でも、後藤が困ったような顔してるよ?」
その言葉を聞いて私はいつの間にか俯き加減になっていた顔を上げた。
圭織は私の態度が面白いらしく、クスクスと笑っている。
全部、見抜かれてる…。

どこかで、この笑顔を見た気がする。
…そうだ。
夢の中で見たんだ。

『…後藤は紗耶香の事が好きなんだね?』

夢の中でこんな事を言っていた。
夢は夢。
そう思ってたんだけど…。
でも、目の前にいる圭織も全てを知り尽くしたような顔に見える。
確かに私の態度って傍から見たらわかりやすいんだろうけど。
周りからよく言われるくらいだし。
わかってくれないのは市井ちゃんくらいだ。
48 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時14分39秒
ずっと黙り込んでいる私を見て市井ちゃんは怪訝そうな顔をしている。
やっぱり、何にも気付いてない…。

「圭織はどうなの?」
私は逆に圭織に尋ねてみる事にした。
彼女の考えている事が全くわからないから。
圭織は相変わらず、笑顔を浮かべている。
「そうだなー。紗耶香の言う事も一理あるんだよね。
なかなか掃除出来ないし。
こう見えても満足に身体を動かす事が出来ないからさ。
でも、会って間もない人にそこまでは…ねぇ」
「そういえば、圭織って何かの病気なの?」
私が尋ねると圭織は口をつぐみ、表情を無くした。

ヤバイ事訊いちゃったかな。
あまり触れられたくなかった話題だったのかも…。
49 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時15分38秒
「あ、そうだ!掃除道具ってどこにあるの?」
私が内心焦っていると市井ちゃんが気を利かせてわざと明るい声を出した。
「…え?ああ、あっちだよ」
圭織は我に返って、廊下の方を指差した。
そちらを見てみるとロッカーみたいなものが確認出来た。

「でも、本当にいいよ。大変だろうし」
「いいから、いいから。さー、後藤!行くぞー」
市井ちゃんは私の手を取り、強引に廊下へと連れて行こうとする。

私の意志をちょっとは訊こうとしてよ。
本当に強引過ぎる…。

ため息をつきつつ、チラリと振り返ってみると
圭織が少し沈んだ表情をしてこちらを見ていた。
50 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時16分24秒
一階にはリビング、キッチン、お風呂、客間が数室ある。
その一つ一つがとんでもなく広い。
外から見た時も思ったけど、大きい家なんだなぁ、と改めて思っちゃうくらい。
っていうか、私はウンザリしていた。
自分の部屋の掃除すらあまりしないというのに
何が哀しくて恋敵になりそうな人の家を掃除しなくちゃいけないのだろう。

市井ちゃんは精力的に動き回っている。
元々、綺麗好きだから掃除という行為自体が大好きなんだろうなぁ。
圭織の為に何かをしたいっていう気持ちもよくわかるんだけど…。
だから、ここに来るのは嫌だったんだよ…。
まあ、自分の気持ちを素直に言えない私が悪いんだろうけどさ…。

圭織はというと。
病弱だから、という理由で指示をする役を市井ちゃんが言い渡し
窓辺でぼんやりしていた。
51 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時17分42秒
風でサラサラと揺れる髪。
綺麗な横顔。
色白な肌にパッチリとした瞳。
身長も高いし、細身だし、まるでモデルさんみたい。
猫背なのが少しもったいないかな。

普通に生活していたら絶対モテそう。
まあ、すでに心を奪われてる人が一人いるわけだけど…。
…ダメだ。
今は余計な事を考えないようにしよう。
これ以上、ヘコみたくないし。

それにしても汚いなぁ。
とりあえず、市井ちゃんと二人で一階の掃除をしているんだけど
埃だらけだし、くもの巣とかもある。
いくら掃除をサボってたって言っても、これは酷過ぎる。
あー、あと庭も何とかしないとなぁ。
そういえば、あんなに荒れ放題な状態で
どうして、桜の木だけは元気なんだろう。

「ねぇ、圭織。どうして、そこの桜だけ咲いてるの?」
私が声をかけると圭織はキョトンとしていた。
52 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時18分53秒
市井ちゃんの事もあって、本当なら圭織の事を避けたいと思うはずなのに
何故か私は普通に話し掛けてしまう。
人として悪い所を感じないからかもしれない。
圭織が悪いわけじゃないんだし。
どちらかといえば、市井ちゃんが悪いんだし。
本当に悪いのは自分自身なんだろうけど。

「他の木とかは元気ないじゃん?」
私が不思議そうにしていると圭織も首を傾げた。
「別に桜の木だけ、ちゃんと世話してたわけでもないんだけどね。
生命力が他の木よりも強いのかもね。よくは知らないけど」
「ふ〜ん。不思議なもんだねぇ〜」
軽く頷きながら私は窓の外に見える木を眺めた。

今日もまたハラハラと花びらを落としている。
その様は幻想的でとても綺麗。
でも、満開になって結構立つのか
花びらは地面にかなり散乱していて、そこだけ白く染まっていた。

これを掃除するのも面倒だなぁ…。
まあ、家の中を掃除してからじゃないと無理だろうけど。
53 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時19分57秒
花びらで出来た白い絨毯を見ていたら
何かが頭をかすめた。
なんだっけ…。
気のせいかな…。

何となく視線を感じてふと顔を動かすと
圭織がずっと私の顔を見ていた。

「…何?」
「いや、なんでもない」
圭織は何かを誤魔化すようにして笑った。

昨日はコロコロと表情を変えていたけど今日はどちらかと言えば笑顔が多い。
二人でこうして横に並んでいると何故か私は居心地の悪さを感じた。
なんでだろう。

「そうだ。ちょっと一緒についてきて」
圭織はどこかへ向かって歩き出した。

この場に市井ちゃんはいない。
きっと他の部屋を掃除してるんだろうけど。
市井ちゃんに何も言わなくていいのかなぁ…。
54 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時21分32秒
私は戸惑いながらも圭織の後をついて廊下へ出た。
ギシギシと床が軋む。
思いきり踏みつけたら床が抜けそうな感じがする。

圭織はそのまま階段を上り始めた。
また奇妙な音が足元から聞こえてくる。
この建物、本当に大丈夫なんだろうか。
老朽化が激しい気がする。
階段の手すりにも埃が溜まっていた。

圭織は階段を上ったすぐ傍にある部屋に入り
私もそれに続いた。
どうやら、ここが圭織の部屋らしいんだけど…。
ここもあまり綺麗とはとてもじゃないけど言えない。
自分の部屋もほとんど片付けしてないから
綺麗とは言えないけどそういう汚さとは少し種類が違う。
本当に身体悪くしそうな感じ。

「ここも換気しよう」
私は思わず、窓辺へ進んでいた。

新鮮な空気が欲しい…。
一階の窓とは違ってここは簡単に開いた。
大きく深呼吸するとやっと落ち着いた。
55 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時24分13秒
窓の下にはあの桜の木が見える。
丁度、真上の位置にこの部屋はあるのか。
私は振り返って部屋の中を見てみた。
ベッドと机、本棚といった誰の部屋にもあるような家具が並んでいる。
でも、見慣れないものも沢山あった。

「圭織って絵を描く人なの?」
イーゼルとか沢山のキャンバスが床に置いてあるのを見て
私が問い掛けると圭織は無言で私を見返した。
別に変な事を訊いてないと思うんだけど…。
圭織は小さくため息をついて、何かを手に取った。
それは少し古臭く見えるスケッチブックだった。
机の上には他にも二冊くらい乗っている。

「これ、見て」
言われるがままに私は圭織からスケッチブックを受け取った。
パラパラと捲っていくとここから見える風景や
この建物の絵、庭に咲いていたと思われる花なんかが
沢山描いてある。
それは、淡い水彩で塗られたものやスケッチだけのものがあったりと
まとまりがなかった。
56 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時25分06秒
「あれ?」
私はスケッチブックの最後の方で手を止めた。
そこには数字とアルファベットの羅列があった。
「何?」
「圭織も数字当てやってたんだ?」
「ああ…それ。昔、流行ってたんだ」
そう言って圭織はニコリと笑った。

数字当てとは、お互いが指定した四つの数字を当て合いする
ちょっとしたゲームの事。
っていうか、数字当てなんか、うちの学校でだけ流行ってるものかと思ってた。
考える事は皆同じってわけか。

それにしても、私に絵を見せてどうしようって言うんだろう…。
私は絵心なんてものを持っているわけでもないし
圭織もそんなものを期待しているわけでもないはずだ。

私は首を捻りながらずっとスケッチブックを見つめていた。
圭織の絵は上手いと思う。
私は素人だからちゃんとした技術的な事とかっていうのはよくわからない。
でも、絵が好きだという気持ちは絵を見ていて伝わってくる。

…あれ?

何故か自分の中に違和感が出てきた。
ページを捲っていくごとにその思いは確実に増して行く。
何かがおかしい気がする。
57 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時26分06秒
「…この絵を見てどう思った?」
圭織は真剣な表情で尋ねて来た。
それだけ絵を真面目に描いてるって事なのかな。
もしかしたら画家志望だったりするのかも。
「後藤は絵の事はよくわかんないからちゃんとした事言えないけど…。
圭織は絵が好きなんだなって気持ちはよくわかったよ」
「…それだけ?」
「え…、え〜と……」
感想を訊かれるのは苦手だ。
私は改めて絵に目を落とした。
他に言う事は…。

あ、そうか。
さっき、感じた違和感の正体がわかった。
私が目にしたものと圭織が描いた絵とでは
建物の新しさが違うんだ。
絵の中にある建物や庭なんかは真新しさを感じる。
でも、実際には荒れ果てているからおかしいと思ったんだ。

「これは何年前に描いた絵なの?最近のじゃないよね?」
「…うん。そうだね」
圭織はそう言って視線を逸らした。
それを見て私は首を傾げた。

そういえば、机の上に置いてあるパレットとかも
しばらく使われていないような気がする。
絵が描けないくらい最近、身体の調子が悪かったりするのかな…。
58 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時26分53秒
「……やっぱりか」
ボソッと圭織が呟いた。

何がやっぱりなんだろう。
私が戸惑っていると圭織は窓の外を見ながら
小さなため息をついていた。
何を考えているのかさっぱりわからない。
私の方こそため息をつきたいくらいだ。

「何かおかしい事言ったかな?」
「いや、何でもない。
絵が古くて変だと思っただろうけど
これは入院する前に描いてた絵だからね」
圭織はスケッチブックを私の手から取り、軽く撫でた。

一体、何なんだろう。
古い絵を見せて、感想訊いて、最後にはガッカリ?
わけわかんないよ…。

「…ふと思ったんだけど」
私が顔を上げると圭織は視線を外に向けたまま言葉を繋いだ。
「紗耶香は圭織の事が好きなのかな?」
「……え?」
私は唖然としてしまった。
59 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時27分58秒
確かに市井ちゃんも私に劣らないくらい見ててわかりやすい態度を取る人だけど。
どうして、わざわざ私にそんな事を言うんだろう…。
私の気持ちを知っていてわざと言っているような気がする。
あと、私を混乱させている原因がもう一つ。

『…後藤は紗耶香の事が好きなんだね?』

夢の中ではこう言われたけど、現実では逆の事を言われてる。
夢なんか気にする必要なんてないんだけど
何となく気になってしまう。

「自意識過剰だって思ってるんでしょ?」
何も答えない私を見て、圭織はおどけて言った。
「…そうじゃないけど。ちなみに圭織は…市井ちゃんの事をどう思ってるの?」
「うん。好きだよ」
「……え?」
思ってもみなかった返答が返って来たので私は心底驚いてしまった。
何気ない質問のつもりだったのに。
それにどちらかと言えば、私に気があるのかと思ってた。
昨日、市井ちゃんも言ってたくらいだし。
60 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月15日(火)02時28分44秒
圭織は笑みを浮かべたまま、右手を伸ばして私の頬を軽く撫でた。
ギョッとして硬直してしまう。
圭織はそのままで顔を近づけてきた。

綺麗な顔…。
こうして間近で見てみるとそれがよくわかる。
背中に流れていた髪が前にサラリと流れた。
ぼんやりしている間に顔がどんどん近づいてきている事に
気付いて、ようやく私は我に返った。
でも、全く動けない。
金縛りにあったかのように身動き一つ出来ない。

逃げないと…。
っていうか、何?
どういう事?

混乱していると右耳に吐息を感じた。

「…後藤の大切なものを奪ってあげる」
61 名前: 投稿日:2002年10月15日(火)02時29分21秒

つづく。

62 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月17日(木)02時18分28秒
「おい、こら!何をサボってんだよ!!」
市井ちゃんが私に向かって怒鳴っている声が聞こえた。
どうやら、一階にいない私達を探していたらしい。

圭織は何事もなかったかのようにスッと身を引いた。
相変わらず、私の身体は硬直したまま。
頭の中も真っ白になっていて何も反応出来なくなっていた。

…後藤の大切なものを奪う?

大切なものって…。
私はブリキの玩具みたいにぎこちなく首を動かした。
そこには市井ちゃんがいた。
私の顔を見て片眉を上げている。

「顔色悪いじゃん。どうしたの?」
「……」
私が何も答えないでいると横から圭織が口を開いた。
「掃除で疲れちゃったんだって。休憩にしようよ」
「そっか。んじゃ、そうしよっか」
市井ちゃんは何も気付かないらしく、階段を降りながら
「勝手に台所を使わせてもらうよー」と呑気な声を出していた。
ギシギシと階段の軋む音が小さくなっていく。
63 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月17日(木)02時20分26秒
また部屋には圭織と私だけになった。
市井ちゃんがいなくなっただけで
グッと部屋の温度が下がったような気がする。
太陽が雲で隠れてしまったのか
先ほどまで入っていた窓の外からの光がなくなっていた。
昼過ぎだというのに部屋の中が暗い。

「……さっきの…どういう意味なの?」
私が恐る恐る尋ねると圭織はクスクス笑い出した。
「どういう意味って言葉の通りだよ。
それとも、本当にわかんないの?」
「……」
私はぐっと言葉に詰まった。

やっぱり、市井ちゃんの事だ。
私が市井ちゃんを好きな事を知ってて…。

睨んでいる私の顔を見て圭織は大笑いし始めた。
笑い声が静かな部屋に響き渡る。
きっと、一階にいる市井ちゃんにも聞こえてるんじゃないかな…。

昨日から笑顔の圭織を何度か見てきたけれど
こんなに大笑いしている姿は初めて見る。
私は呆気に取られていた。
その姿が面白く見えるらしく、圭織の笑いはいつまで経っても止まらない。
64 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月17日(木)02時22分30秒
一瞬、気が狂ったのかと思った。
圭織は気が済むまで笑って一息ついた。
満足そうに口元を上げている。

「圭織ねぇ、後藤の事が気に入らないんだよね。
だから、嫌がらせしてあげる」
「…な、なんで」
あまりのショックに言葉を失ってしまう。

会ってまだ二日しか経ってないのに
どうして、ここまで憎まれなくちゃいけないの…。
私が何をしたって言うんだろう…。
それに今の言い方だと…。

「じゃあ、市井ちゃんの事を好きって言うのも…」
「友達としては好きだよ。でも、それ以上なわけないじゃん。
同性を簡単に好きになるわけないでしょ」
冷ややかな口調で、それでも笑顔なままの圭織の言葉を聞いて
私は唇をキツク噛んだ。

私の気持ちも、市井ちゃんの気持ちも全てわかってて
圭織はそれを利用して遊ぼうとしてるんだ。
65 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月17日(木)02時25分05秒
「市井ちゃんを傷つけたりしたら絶対に許さないから…」
歯を食いしばりながら、私は呟いた。

自分の事はいい。
でも、市井ちゃんの気持ちを弄ぶのは許せない。

「勝手に言ってなよ。圭織は圭織のやりたいようにするから」
意地悪そうな笑みを浮かべて、圭織は歩き出した。
台所にいる市井ちゃんの所へ行こうとしてるらしい。

「大体、どうしてそこまで後藤の事を嫌うのさ…?」
圭織の背中に言葉を投げかけるとピタリと足を止めた。
周りの空気の温度がまた下がったような気がする。

私は緊張していた。
無意識に生唾を飲み込み、何度も瞬きを繰り返してしまう。
そして、圭織はゆっくりと振り返った。

「…嘘つきが大嫌いだから」
さっきまであった笑みはすっかり消えていた。
66 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月17日(木)02時25分56秒

つづく。

67 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月18日(金)19時58分20秒
謎が・・・

この感じ好きです。
そして、いちごまになればいいなぁと思いつつ
読ませていただきました。

作者さん、頑張って下さい。
68 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月19日(土)02時47分28秒
「一体、どうしたっての?突然、何も言わずに帰っちゃうんだもん」
市井ちゃんは困惑した表情で呟いた。
何も聞こえてないふりをして私は窓に肘をついて
ぼんやりとしていた。

あれから、私は台所にいた市井ちゃんに何も言わず
勝手に一人で家に戻ってきていた。
市井ちゃんと圭織を二人っきりにするのは嫌だったけど
なんだか圭織の事が物凄く怖く思えて早く逃げ出したかった。
自分の事だけで精一杯だった。

帰り間際に見た圭織の表情。
冷ややかに見えた目。
何もかもが怖かった。
今まで誰かにあんな顔で見られた事なんてない。

大体、圭織はどうしてあそこまで私の事を憎んでいるんだろう。
69 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月19日(土)02時48分51秒
『嘘つきが大嫌い』

彼女はそう言ってたけれど。
私は彼女の前で嘘をついた覚えなんてない。
それに会って二日しか経っていないのに
嘘つき呼ばわりされるのも納得がいかない。
彼女と会話したのは数回くらいで
内容的にも嘘なんてつく必要がないものばかりだったのに。

「…あれから、ずっと掃除してたの?」
私が帰ってきた時にはまだ日が射していたというのに
今ではもう真っ暗になっている。
市井ちゃんは今帰って来たばかりで、ずっと圭織の所にいた。
「誰かさんが帰っちゃったからその代わりにする事増えちゃったんだもん」
市井ちゃんは冗談とも嫌味とも取れる言葉を言った。

明るく言ってるから冗談で言ったつもりなんだろうけど。
ハッキリ言って今の私に余裕なんてない。
市井ちゃんのあまりの鈍感さにイライラする。
私は唇をキツク噛んだ。

「後藤は行きたくなかったのに…」
「…は?」
市井ちゃんはキョトンとしている。
70 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月19日(土)02時50分51秒
「だってさ、この旅行は普段あんまし二人で会えないから
一緒にいれるようにって事でこうして来たわけでしょ?
それなのに、どうして圭織の家の掃除をしてるわけさ!?
目的が変わってるじゃんか!」
睨みつけて私が怒鳴ると市井ちゃんは驚いていた。
私が怒る事なんて滅多にないので驚くのも仕方がないと思う。

今まで喧嘩らしい、喧嘩なんてした事なんてなかったし
それっぽいものをした時はほとんど市井ちゃんがすぐに折れて
私も簡単に機嫌を直していた。
でも、今回はそういうわけにはいかない。

「いや、でも、後藤だって圭織が可哀想だと思うでしょ?
一人ぼっちであんなにデカイ所に住んでてさ…」
弱りきった口調で市井ちゃんは言い訳を始めた。
それがまた私の機嫌を損なわせる。
「言わせてもらうけどね。
一時的な同情で優しくするのはどうかと思うよ。
後藤達は一週間しかこっちにいられないんだし」
「…そりゃ、そうだけど」
市井ちゃんは口ごもった。
私が言う事がもっともだと思ったんだろう。
71 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月19日(土)02時52分57秒
圭織の事が心配なのはわかるけど
私より会って間もない圭織の方が大事っていう
態度を取ってる市井ちゃんが気に入らない。
あ〜、もう。
イライラする。

「大体さ、市井ちゃんは後藤の事、どう思ってるわけ?」
「はぁ?」
市井ちゃんは素っ頓狂な声を出した。
話が急に変わったのでついていけないという表情を浮かべている。
「友達としてしか見てないんでしょ?」
「…変な質問しないでよ。
っていうか、他にどう見ろっていうの?」
「……」
アッサリと答える市井ちゃんを私は恨めしそうに見てしまった。

正直過ぎる。
やっぱり、そうなんだ…。

「じゃあ、圭織の事はどうなの?」
「…え?」
私の目には市井ちゃんが微妙に表情を変えたように見えた。

正直過ぎる。
やっぱり、そうなんだ…。

もう、嫌だ。
返事を聞かずに私がいきなり立ち上がると
市井ちゃんは驚いていた。

「もう、いいよ!圭織のとこには市井ちゃんだけが行ってよね!
後藤はもう行かないから!!」
言い逃げするように私は部屋から出た。
72 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月19日(土)02時54分46秒
伯母さんに先にお風呂に入ると言って
私は頭を冷やす為にシャワーの水を頭から浴びていた。

立ったままで頭上からザバザバと頭を叩きつけるような強い勢いで
流れてくる冷たい水に私は俯いて瞼を閉じた状態で、ずっと耐えていた。
お風呂のお湯が熱いから水を入れて冷ますという風に簡単に
冷静になれるわけでもなく
私は長い時間をかけてずっと水を浴びていた。

混乱し過ぎて余計な事まで言ってしまった…。
市井ちゃんの気持ちなんてわかりきってた事なのに。
どうして、あんな事を訊いちゃったんだろう。
それに、圭織の所へ市井ちゃんを近づけるのは危険だとわかっているのに。
止めなくちゃいけないのに。
こんなに気まずい状況を自分から作り出しちゃうなんて
なんてバカなんだろう。

重いため息を一つついて、私は顔を上げた。
目を開けていられないくらいの水圧を顔に受けながら
思いきり、頬を両手で叩いてみても
シャワーの音でその音は響かなかった。
73 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月19日(土)02時55分47秒
もう一度ため息をついてシャワーの蛇口を捻り、水を止めた。
すっかり身体は冷え切っていた。
でも、まだ頭の中は生温い感じ。
早く冷静にならないといけないのに…。

このままじゃ、風邪を引いてしまう、と思って
私は湯船に入る事にした。
伯父さんが熱いお風呂が好きという事もあって
かなりの熱湯だった。
案の定、グツグツと頭の中が茹ってくる。

瞼を閉じると圭織の冷たい目が浮かんでくる。
暖かい湯船に入っているのに、身体中にブルッと震えが来た。
怖い…。
目に強さがあるから余計にそう思えるのかもしれない。

きっと、明日も市井ちゃんは圭織の所へ行くと言うだろう。
私の事なんて気にせずに。

私はどうすればいいんだろう…。
74 名前: 投稿日:2002年10月19日(土)02時59分06秒
>>67さん
レス、有難うございます。
いちごまはどうなる事やら。
75 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月19日(土)14時44分36秒
テストも終わり、PCが解禁になったので
さっそく来て見たらかなり更新されてる〜♪

徐々に深いところへ行きそうですね
次回の更新も楽しみにしています。
76 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時38分34秒
新しい朝が来た。
今日は少し天気が悪い。
昨日まで感じる事が出来た優しくて暖かい窓からの日差しを
感じる事が出来なかった。

私が起きた時にはすでに市井ちゃんは姿を消していた。
思ってた通り、圭織の所へ行ってしまったらしい。
私を起こさずに一人で行ってしまったのは
市井ちゃんなりに気を遣っての事なのかもしれないけど。
そんなの全然、嬉しくないし。

昨日、喧嘩らしきものをして以来
私の方が市井ちゃんを避けてしまって
全くと言っていい程、口をきいていない。
お風呂からあがった後、晩御飯を食べている時に
黙り込んでいた私を伯母さん達は気遣い
面白くもない世間話を無理やりして、場を盛り上げようとしてくれていた。
気持ちは嬉しかったけど、笑顔を作ったり、口を開く余裕なんて
私にはなかった。
市井ちゃんはというと、私の態度の変化に困り果てているという感じで
しきりに首を傾げていた。
77 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時39分48秒
結局、決定的な言葉を言わない限り
市井ちゃんは私の気持ちには全く気付いてくれない。
鈍感もここまで来たら怒りを通り越して、何も言えなくなってしまう。

顔を洗って鏡を見たら今日も寝不足っぽい疲れた顔をしていて
自分でもガックリした。
別に夢を見たわけでもないのに
あまり眠れなかった。

私を残して市井ちゃんがどこかへ行ってしまった事について
伯母さん達は不思議そうにしていたけれど
私は曖昧な笑顔を作って、適当に誤魔化した。
何となく、圭織の名前を口にするのが嫌だった。

家にずっといると伯母さん達に気を遣わせてしまうし
こっちもなんとなく居心地が悪いので散歩に行く事にした。

外に出てみるとやっぱり曇っている。
気温も昨日より低いらしく、ちょっと肌寒く感じた。
どんよりとした鉛色の雲が広がっていて
まるで今の自分の心の中を見ているような気がしてしまってウンザリしてしまう。

一昨日は伯父さんの家に着くまでに散々迷ってしまったけれど
ある程度、近所の道は覚えた。
といっても、辺り一面田んぼだらけなんだけど。
78 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時40分28秒
のんびりとした歩調で歩く。
ところどころ花が咲いていて色鮮やかに見える。
都会じゃこんな風景見られない。
何となく、心が落ち着いてきて
私は自然と笑みを作っていた。

見慣れた花があったので立ち止まって一本だけ拝借してみた。
どこにでもある黄色いタンポポ。
こういうのを見るとなんだかホッとする。
タンポポで好き、嫌い〜とかの占いをやったら花びらが多くてキリがなさそう。

クルクルと回しながら鼻歌を歌っていると
ちょっとだけ気分がよくなってきた。
人の心を和ましてくれる花っていうのは偉大だなぁ…。
って、私が単純なだけなのかもしんないけど。

いつの間にか私は圭織の家まで来ていた。
道を覚えたのはここの道だけで
他の道がわからないから…。
門の外から中の様子を窺おうと自分の身を隠すようにして
首を伸ばした。
79 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時41分28秒
窓の辺りで市井ちゃんが一生懸命掃除している姿が見える。
私があんなに文句を言っても市井ちゃんの意思は変わらない。
気持ちは変わらない。

…悔しい。

どうして、こんなに上手くいかないんだろう。
何の為に二人でこんな田舎にやって来たのかわからなくなってきた…。

圭織の姿は見えない。
何となくホッとした。
というか、私は何をやってるんだろう。
こんな所まで来てコソコソして。
帰ろうかな…。

私が門の傍の壁にもたれて重いため息をついていると
視界に何かが流れていった。

花びらだ。

こんな所にまで桜の花びらは数枚ほど飛んで来ていた。
綺麗だけどあっという間に桜の時期は終わる。
あの桜の木はすでに満開状態だったから
あと数日くらいで全て散ってしまうだろう。

何だかもったいない気がする。
お花見とかしてみたかったなぁ。
もう遅いだろうけど。
ここでするわけにもいかないし…。
80 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時42分29秒
ふと背後で人の気配を感じた。
振り向いてみると門ごしに圭織の姿が見えた。
思わず私は顔をしかめて「ゲッ」と声を漏らしてしまった。
でも、圭織は腕を組んで笑みを浮かべていた。

「紗耶香の事が心配で来ちゃった?」
圭織は薄く笑っている。
バレバレなんだよ、と今にも続けそうな感じ。
「…別にそんなんじゃないよ」
「ふーん」
圭織が目を細めて軽く頷いているのを見ていたら
言い訳しているのが無意味に思えた。

ずっと圭織に押され気味なのは私が年下だからなのか
身長が大きいから圧倒されているのか、どっちなんだろう。
それとも、まだ何か別の理由があったりするのかな。
自分で気付いてないだけで
でも、本能的にそれに気付いているというか…。

少しでも対等な関係にならないと圭織の思い通りになってしまう。
このままじゃダメだ。
私達がここにいられる期限はあと四日しかないけど、あまり関係ない。
市井ちゃんの性格からしたらその期限も曖昧になるような気がする。
マメな性格をしているから休みじゃなくても
好きな相手の為になら自分の時間を割いてでも会いに行きそうで。

私の時にはそんな事してくれなかったけど…。
81 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時43分19秒
それに圭織にはよくわからない所が多過ぎる。
不思議なオーラを持っているというのもあるけれど。
市井ちゃんはそこらへんに惚れちゃったんだろうけど…。
私にはどこか不安定に見える。
病人だからという不安定さじゃなくて
彼女が元々持っているという感じの不安定さ。

彼女の事を少しでも知れば私にも勝ち目があるんじゃないだろうか。
勝ち目という言い方は正確じゃないけれど
どうして、私の事を毛嫌いしているのか、とかの理由を知る事が出来れば
何かが変わるかもしれない。

今よりももっといい方向に。

「…圭織に訊きたい事があるんだけど」
「何?中に入らないの?」
「ここでいい」
私は口を引き締めて、首を振った。
圭織は私を見てるだけで楽しいらしく、ずっと笑顔を浮かべている。

この笑顔はどういう意味なんだろう。
この笑顔の仮面の裏には何があるんだろう。

「昨日、嘘つきは大嫌いって言ってたよね?
後藤は圭織に嘘なんてついてないと思うんだけど
どうして、あんな事言ったの?」
82 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時44分50秒
言われてずっと気にかかっていた言葉。
ちゃんとした説明を聞きたかった。
私だって嘘をついたり、つかれたりする事は嫌いだ。
だから、そういう扱いされるのはかなり不愉快だった。

圭織はまた薄笑いを浮かべていた。
まるで何もわかっていないね、と言わんばかりに。

「自分の胸に手をあててごらん。
きっと、心当たりがあるはずだから」
「……」
私はムッとした。

…自分で気づけって事か。
意味深な事ばかり言って
ハッキリとした事は何一つ言わない。
これも嫌がらせの一種なのかな…。
でも、私には全くわからない。
心当たりなんてないのに…。

圭織はまたクスクスと笑っている。
バカにされているようでムカつく。

「全然、わかんないんだね。
ちょっと、ガッカリした。
後藤は自分が見たものを全てだと思うから何も気付かないんだよ。
それで自分の考えが正しいと思うのは間違ってる」
「…はぁ?」
「ま、どうでもいいけどね」
ふいっと顔を背けて圭織は天を仰いだ。
つられて私も顔を上げる。
83 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月20日(日)21時45分53秒
さっきよりも天気が崩れてきていた。
鉛色の雲が私達のすぐ傍まで迫ってきているように見えて
妙な威圧感を感じる。
左手に違和感が出てきた。
天気が悪いと目で確認したら、連鎖的に傷が痛み始めたらしい。

少し顔をしかめて右手で抑えていると
圭織が不思議そうに私の手を見た。

「どうしたの?それ…」
「さっき、見つけたの」
左手にはさっき摘んだタンポポがある。
「いや、違うよ。手に傷があるじゃん…」
右手で隠しきれてなかったらしい。
結構、大きな傷なので圭織の目に入ったようだ。
「なんでもない。ついでにコレあげる」
私は誤魔化すようにしてタンポポを圭織に押しつけた。

何となく、傷の事は触れたくなかった。
これ以上、弱みを握らせたくなかった。
リストカットするような弱い人間だと勘違いされたくなかったから。
実際、そんな事はしてないんだけどいちいち説明するのも面倒だった。

圭織は手にしたタンポポを鼻に近づけ
そして、私の方を無言で見ていた。

ポツポツと雨が降って来た。
地面に水玉模様が描かれていく。

私はそれをぼんやりと見ていた。
84 名前: 投稿日:2002年10月20日(日)21時47分38秒
>>75さん
有難うございます。
今後ものんびりしたペースで続くと思います。
85 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)01時56分53秒
窓の外は大雨になっている。
私は家に戻ってぼんやりと雨の音を聞いていた。

ザー、ザー、ザー。
勢いよく雨は降り続ける。
明日も雨なのかな。

「っくしゅん!」
「…なんで、後藤が風邪ひいてんのさ?」
私が豪快にクシャミをしていると
ずぶ濡れになった市井ちゃんが姿を現した。
どうやら、傘も差さずに帰ってきたらしい。
伯母さんが慌ててバスタオルを持って来た。

「紗耶香ちゃん、早くお風呂に入りなさいね」
「あ、スミマセン。なんか、あちこち床がビショビショになっちゃって…」
市井ちゃんは申し訳なさそうに頭を下げている。
私はその様子を無言で眺めていた。

傘くらい圭織から借りてきたらよかったのに。
っていうか、圭織ってば気が利かないなぁ。
86 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)01時58分32秒
「真希ちゃんも、ちゃんと薬飲んで早く寝なさい」
「…は〜い」
私は素直に返事をした。

確かにちょっと熱っぽい。
ここのところ、睡眠不足だったし
免疫力が低下してるのかも。
伯母さんがいなくなってから私は布団で寝る為に
ノロノロと窓から移動した。
その間も市井ちゃんは渡されたバスタオルを片手に
部屋の入り口の所に立ってずっと私を見下ろしている。

「…何?」
視線が気になって私が無表情で訊くと
市井ちゃんは軽く息を吐いた。
ちょっと疲れた表情を浮かべている。
「今日来たんだってね」
「え?」
「圭織から聞いた。来たんなら顔見せりゃいいのに…」
「……」
私は無言で布団に入った。

自分で思うのもなんだけど
これじゃあ、反抗期の子供みたいだ。
87 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)01時59分38秒
でも、気がついたらあそこにいただけであって
別に行こうと思って行ったわけじゃないし。

「タンポポ、貰って嬉しそうにしてたよ」
「……」
あれは別に意味はなかったんだけどなぁ。
っていうか、圭織も本当は嬉しいなんて思ってないと思うんだけど。

市井ちゃんはバスタオルを肩にかけながらため息をついた。

「あと、圭織に傷見られたらしいね。結構、気にしてたよ」
「…なんで?」
やっと私が反応らしい反応を返したので
市井ちゃんは少しホッと軽く息をついた。
「だって、何も知らないでその傷見たら普通は勘違いするじゃん。
後藤が何も説明してくれなかったから驚いたって言ってたよ」
「ふ〜ん」
「ふーん、って…。色々、訊かれてあたしが答える羽目になったんだから…」
私の態度が気に入らなかったのか、市井ちゃんは顔をしかめた。
88 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)02時01分10秒
きっと説明に困ったんだろうな。
私ですら自分自身の事がよくわかってないのに
市井ちゃんにちゃんとした説明なんて出来るわけがない。
っていうか、圭織もそんなに気にする必要ないだろうに。
やっぱり、何を考えているのかがよくわからない。

「どうして、ちゃんと説明しなかったのさ?」
「逆になんでわざわざ説明しないといけないの?」
私が言い返すと市井ちゃんは呆れたといった表情になった。
「…あのなぁ。こっちに来てから後藤ってば、何か変だよ。
それに圭織の何が気に入らないわけ?」
どちらかと言えば逆だよ。
私が気に入らないわけじゃない。
圭織が私を気に入らないって言ってるくらいなんだから。

私だって圭織が変な事を言わなければこんな嫌な想いせずに済んでたのに。

「……市井ちゃんは何もわかってないんだよ」
私が弱々しく呟くとそれが癪に障ったらしく
市井ちゃんはムッとしていた。
「何も話してくれないんだからわかるわけないじゃん」
「何でもかんでも市井ちゃんに話せるわけないでしょ。
いつまでも後藤の事子供扱いするのは止めてよね」
私は顔を背けて声を荒げた。
89 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)02時03分27秒
ダメだ…。
こんな態度を取りたいわけじゃないのに。
こんな事を言いたいわけじゃないのに…。
勝手に口が動いてしまう。
チラリと市井ちゃんの方を横目で見てみると
案の定、怒ってしまったらしく
表情が険しくなっていた。

「もう知らん。勝手にしろ!」
市井ちゃんは乱暴な足取りで廊下へ出て行ってしまった。
きっと、お風呂へ向かったんだろう。
私は頭から勢いよく掛け布団を被った。

泣くもんか…。
これじゃあ、圭織の思うツボだ。
そんなの絶対に嫌だもん。

ザー、ザー、ザー。

布団を被っていても雨の音がよく聞こえる。
まるで私の心の中みたい。

土砂降りだ。
90 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)02時04分30秒
今日も眠りが浅く、小さな物音でも目が覚めてしまった。

どこかで陽気な音が流れている。
物凄く耳障り。
携帯の着信音だ。
隣で寝ていた市井ちゃんがゴソゴソとカバンの中を探っている音が聞こえる。
っていうか、夜中は音消ししといてよね…。

私はゆっくりと瞼を開いた。
部屋の中は微妙に明るい。
コッソリと枕元に置いていた自分の携帯で
時間を確認してみると朝というにはまだ早い時間だった。
外はまだ雨が降っている。

「…もしもし。…あぁ、どうしたんですか?こんな時間に」
市井ちゃんの声は微妙に明るくなった。

知り合いからかな。
っていうか、こんな時間に電話してこないでよ。
迷惑な…。

「こっちは自然がいっぱいあっていいですよ。
来てよかったって思いますもん」

旅行中って事を相手に伝えてたのかな。
…私は誰にも言ってないのに。
これだから、市井ちゃんの鈍感なところって嫌いだ。
91 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)02時05分34秒
私が寝たふりをしたまま、内心ムカムカしている間にも
市井ちゃんは明るい声で、会話を続けている。
私を起こさないように気を遣っているのか、徐々に声のトーンを落としていく。
でも、突然大きな声を出した。

「へ?何言ってるんですか?」
市井ちゃんは驚いている。
どうしたんだろう。
「そんな事あるわけないですよ。だって、ちゃんとこの目で確認したし…」
顔を見なくても声だけで困惑しているのがよくわかる。
相手から説明を受けているみたいだけど
「そんな」とか「嘘だ」とか呟いていた。

何を話してるんだろう。
誰と話してるんだろう。

「…わかりました。じゃ、また電話します」
市井ちゃんはため息交じりで電話を切っていた。

敬語を使ってるって事は友達じゃないはず。
じゃあ、相手は一体誰なんだろう。
私の知らない市井ちゃんを見てしまったような気がして
嫌な気分になった。
92 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)02時06分57秒
市井ちゃんは携帯を握り締めたまま、放心状態になっていた。
虚空を見つめている。
しばらくして、我に返ったのか
重いため息をついて携帯をカバンへ放り投げた。
寝直そうとしたらしく、布団へ入ろうとしていた市井ちゃんと
それをずっと見ていた私の視線がぶつかった。

「……あ。起こしちゃった?」
市井ちゃんは私の顔を見て顔を歪めた。
電話を聞かれたくなかった、と顔に書いてある。
私は何も言わずに寝返りをうって
市井ちゃんに背を向けた。

「ゴメン。こんな時間に電話かかってくると思ってなかったから
マナーモードにしてなかったんだ。
バイト先からシフト表が書き換えられてたって連絡があってさ。
一週間丸々休みにしてたのに予定が変わってるらしくて…。
もしかしたら、早く戻らなくちゃいけないかもしれない」
いつもに増して市井ちゃんは饒舌になっている。

寝る前まで市井ちゃんも怒ってたくせに。
あっという間に態度が元通りになられても困るよ。
93 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月23日(水)02時09分15秒
それにしても、市井ちゃんの言葉が
なんだか、言い訳がましく聞こえるのは気のせいだろうか。
私が起き上がると市井ちゃんは少し驚いていた。

「市井ちゃん、何か嘘ついてない?」
「…え?」
市井ちゃんはポカンとしていた。
わざとらしく見える。

市井ちゃんがつく嘘くらい見破れる…。
これは何かを隠してる顔だ。
でも、どうせ何も本当の事なんて言ってくれない。

「…後藤は今すぐにでも帰っていいんだよ」
「いや、それは……」
市井ちゃんは困惑している。
そんなに圭織と離れるのが嫌なんだ…。

私は市井ちゃんを一瞬だけ睨んで
乱暴に布団を被った。

「もう寝る!起こさないでよ!!」
「……ゴメン」
市井ちゃんの困り果てた声が聞こえた。

市井ちゃんを置いて先に帰ってやる。
こんな所もういたくない。
94 名前: 投稿日:2002年10月23日(水)02時09分47秒

つづく。

95 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月23日(水)18時34分22秒
面白くて続きが気になります。
楽しみにしてますので頑張って下さい。
96 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月25日(金)21時43分20秒
毎回更新楽しみにしています。
作者さん、頑張って下さい。
97 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時00分12秒
朝になったのに窓の外からはまだ雨音が聞こえてくる。
むしろ、酷くなった。
窓を叩きつけるような激しい雨が降っていた。

この状態で帰るのは面倒だなぁ…。
っていうか、頭が割れるように痛い…。
喉に重みを感じるし…。

どうやら、風邪をひいたらしい…。

瞼を開けるのもおっくうだ。
熱が高いのか、かなり重い。

仕方ないので私はそのまま寝る事にした。
本当はもう帰りたかったんだけど…。
98 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時01分03秒
頭の中にある色んな記憶がグルグルグルグル回る。
走馬灯ってわけじゃなくて、色んな映像が入り乱れている。
気持ちが悪い。
頭がパンクしそうだ。

グチャグチャに攪拌された記憶の中から
何かがぼんやりと浮き上がってきた。

桜の木の下に髪の長い女の人が立っている。

白いパジャマの上に羽織ってある同色のカーティガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだとその輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。
99 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時02分21秒
圭織はこちらへ向いてにっこり笑った。

「何、ぼーっとしてんの?」
「…え?いや……」
私は狼狽しながら高い声を上げた。

ん〜?
高い声?

それにどうして圭織と二人っきりで
こんな所にいるんだろう。

「やっぱり、たまには外に出ないとダメだね」
風を受けて圭織の髪がサラリと流れる。
相変わらず、綺麗な髪。
私はそれを見上げていた。

あれ?
おかしい…。
いつもより私の目線が低い。

「そうだよ〜。
圭織は自分の部屋にこもって絵ばっか描いてるから
ちっとも身体がよくなんないんだよ」
勝手に私の口は動く。
何故か楽しそうな口調。
「うん。これからはちゃんとするよ」
へへへ、と今まで私が見た事のないあどけない笑みを圭織は浮かべた。
ちょっと、驚きだった。
100 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時04分12秒
っていうか…。
私、なんでこんな会話してんの…。
おかしい。
おかし過ぎる。

内心、混乱している間にも私は圭織と親しげに会話を続けていた。

今思ってる事が口から出ない。
違う言葉が勝手に出ている。
まるで自分じゃないみたいだ。

ふと、私は視線を窓に向けた。

パチンと何かが弾けた。

窓に映る私の姿は幼く、背も低い。
中学生の頃くらいに見える。
だから、目線が低かったんだ…。

これは夢じゃない。
私の失われた記憶。

そう、私は圭織と会った事がある…。
お父さんが死んだ時にこっちへやって来た時に
私は彼女と出逢っていた。

「後藤はあと二日で帰っちゃうんだっけ?」
「…うん」
私は圭織の手を握った。
二人共、しんみりして黙り込む。

…ダメだ。
これ以上は思い出しちゃいけない。
思い出したくない。

ぐにゃりと記憶が捻じ曲がり、視界が真っ赤に染まった。
101 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時05分28秒
私はハッと意識を取り戻した。

おでこには濡れタオルが置いてある。
触ってみると生温く感じた。
自分の頬を両手で抑えてみるとまだ火照っている。
まだ微熱があるらしい。

頭の中に小さな私と圭織の映像が残っている。

…夢?
いや、違う…あれは……私の記憶。
でも…おかしい。
だって、圭織は…。

片手でおでこを抑えながら混乱していると
伯母さんが部屋の入り口からひょっこり姿を現した。

「あら?真希ちゃん、気がついた?」
「うん。丁度、今ね…」
私が起き上がりながら答えると
伯母さんは少し安心した表情を浮かべた。

窓の外を見てみるといつの間にか日が暮れていた。
雨はあがっていたものの
どんよりとした雲が広がっている。
いつでもまた降り始めそうなそんな天気だった。

どれくらい眠ってたんだろう…。
朝に一度目が覚めて、それから…。
102 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時07分41秒
「おトイレ行きたくない?
熱がちっとも下がらなくて丸一日ずっと寝てたから心配してたのよ」
「丸一日!?」
私は素直に驚いた。
そりゃ、あんだけ降ってた雨も上がってるはずだよ…。
「何回かお薬飲ましたりしたんだけど、この様子だと覚えてないのね。
意識が朦朧としてたのかもしれないわねぇ…」
伯母さんはクスリと笑った。
「…そういえば、市井ちゃんは?」
この部屋には市井ちゃんの姿はない。
「そうそう。紗耶香ちゃんもものすごく心配してたのよ。
そのタオル、ずっとマメに冷やしてくれてね。
ずっと面倒みててくれてたんだから…」
「……」
それを聞いて私の目に涙が浮かんだ。

いくら私が責めても市井ちゃんは何事もなかったかのように
気遣ってくれてたんだとわかって、なんだか自分が情けなくなった。
自分の心の狭さが嫌になった。

「それで市井ちゃんは今どこにいるの?」
「それがねぇ…」
伯母さんは頬に手を当てて少し首を傾げた。
どうしたんだろう。
「雨がやんだから、ちょっと出て来ますって言ってねぇ。
数時間前に出かけちゃったのよ。
あの子、いつもどこへ行ってるのかしら…」
今日もまた行っちゃったってわけか…。
103 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月26日(土)21時09分47秒
「…圭織のとこへ行ったんだと思うよ」
私が諦めたように苦笑いを浮かべていると伯母さんの顔が強張った。
「圭織って…もしかして、飯田さんとこのお嬢さん?」
「うん。どうしたの?」
私はキョトンとしている間にも伯母さんの顔色が変わっていく。
何故か、青ざめていた。

同姓同名の人なんてこんな狭い土地にいないと思うけど。
っていうか…。
どうして、伯母さんの様子がおかしくなったんだろう。

「…いや、何でもないんだよ」
伯母さんは何かを誤魔化すようにして
ぎこちない笑みを浮かながら立ち上がった。
「伯母さん」
私が背中越しに声をかけても伯母さんは振り返ろうとはせずに
「お粥作って来るから、寝てなさいね」と言って
そそくさと部屋を出て行ってしまった。

その日、市井ちゃんは帰って来なかった。
104 名前: 投稿日:2002年10月26日(土)21時13分06秒
>>95さん
>>96さん

有難うございます。
これから少し更新が遅くなるかもしれませんが
話の半分は超えたのでしばしお待ちを。
105 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月26日(土)21時55分23秒
更新お疲れ様です。

この作品は好きなので
どんなに更新が遅くなろうとも待ってるので
作者さんのペースで頑張って下さい。
106 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月30日(水)01時36分19秒
ザー、ザー、ザー。

また雨が降り始めたらしく
窓の外から激しい音が聞こえてくる。
伯母さんと伯父さんは帰って来ない市井ちゃんを心配して
雨の中、近くを探しに出て行ってしまった。
私も一緒に行きたかったんだけど
熱が引くまでは絶対に動いちゃダメだと言われて
今は何も出来ずに布団の中にいる。
日付が変わっているというのに市井ちゃんは何も連絡を寄越さずにいた。

市井ちゃん…。
一体、何してるんだろう。
一体、何があったんだろう。

私はいてもたってもいられなくなり
部屋の中をウロウロしていた。
まだ微熱があるらしくて、身体がフワフワとする。

そうだ。携帯!

枕元に置いてあった携帯を手に取り
私は市井ちゃんに電話をかけてみた。
呼び出し音が延々と続く。
じれったい想いを抱きながら私は辛抱強く
電話が繋がるのを待った。
107 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月30日(水)01時37分36秒
携帯の傍にいないのかな…。
それとも鳴ってる事に気付いてないのかな…。

私が不安になっているとプツッと回線が繋がった音が聞こえた。

「…市井ちゃん!」
私が勢いよく声をかけても何も返って来ない。
いつもならすぐに返答が返って来るはずなのに。
「……市井ちゃん?ねぇ…ちゃんと返事してよ!ねぇってば!!」
携帯を両手で持ち、必死で問い掛けると
クスッという笑い声が電話越しに聞こえた。

市井ちゃんじゃない。
これは…。

「…………圭織?」

またクスクスと笑い声が返ってきた。
その声を聞いてカチンと来た。
笑ってないで何とか言ってよ。

「市井ちゃんはどこにいるの?
そこにいるんじゃないの?
一緒じゃないの?」
「そんなに沢山一気に言わないで。
紗耶香ならここにいるよ」
楽しそうな口調で圭織は告げた。
108 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月30日(水)01時39分09秒
…やっぱり、いるんじゃん。
市井ちゃんってば、一体何やってんの。

「…じゃあ、市井ちゃんに代わってよ」
「それは出来ない」
「…なっ……なんで」
私の声は震えていた。

そういえば…。
市井ちゃんの携帯に圭織が出たというのもおかしい話だ。
どうして、市井ちゃんは電話に出てくれなかったの?
いや…出られなかった?

「市井ちゃんに何をしたの!?」
私が怒鳴ると圭織はまた笑った。
「大声出さなくても聞こえるよ。
紗耶香は今眠ってる。もう、夜中だしね…」
「…嘘ついてるでしょ?」
「さぁ?」
「……っ」
頭に血が上った。
熱のせいか、クラクラする。

私がいくら怒鳴っても圭織の態度は変わらない。
どこか楽しんでいるように聞こえる。
109 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年10月30日(水)01時40分48秒
私は立ち上がって足をもつれさせながらも部屋を出た。
このままじゃ、埒があかない。
直接、会いに行ってやる。

「今からそっちに行くから逃げないでよ!」
「ふふふ…。別に逃げるつもりもないよ。
でも、今のままじゃ、会えないと思うけど」

今のままじゃ、会えない?
どういう意味?

尋ねようとした瞬間、電話に気を取られていた為か
私は「わっ!」っと大声をあげて階段を踏み外してしまった。
そして、物凄い大きな音を立てて腰から数段ほど落ちた。

身体のあちこちをぶつけた痛みで頭の中がクラクラする。
丁度、伯母さんが帰ってきたらしく、玄関の方から
「真希ちゃん!」という驚いている声が聞こえた。
頭を撃ったわけじゃないのに、腰の痛みで私の意識は朦朧としていた。

「早く、後藤も思い出して…」

握り締めていた携帯から圭織の声が聞えてきたのを最後に
私の意識は途絶えた。
110 名前: 投稿日:2002年10月30日(水)01時41分49秒
>>105さん
有難うございます。
今回、量が少ないですが・・・。
111 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月30日(水)01時43分58秒
いったい市井ちゃんに何が…。
112 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月06日(水)01時00分25秒
あれは私が十三歳の頃。

私は親戚の家に一週間ほど滞在していた。
年が離れていたお姉ちゃん達は家で留守番をしていた。
お父さんが死んでお母さん一人だけで姉妹の多い家系を支える事が出来るのか
ずっと心配していた伯父さん達に呼ばれたというのが親戚の家に行った理由だった。
大人の話し合いに子供である私が入り込めるわけもなく。
というより、何の話をしているのかもよくわかっておらず
ずっと、庭で弟と遊んでいた。

花の香りが立ち込めている。
優しい日差しに優しい風。
季節は今と同じで春だった。

弟は気がついたらどこかへ行ってしまっていたという事が多い
落ち着きのない性格をしていて
それは当時から全く変わっていなくて
その頃の私もよく一人にされてしまい
する事がなくて、よく散歩に出かけていた。
産まれた時から都会暮らしの私の目には
見るもの全てが新鮮に映って見えて刺激的だった。
113 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月06日(水)01時01分49秒
お母さん達に遠くへ行かないようにとキツク言われていたのにも拘らず
私は無意識に色々と足を伸ばしていた。
好奇心が旺盛だった。

こっちに来て、二日目くらいだったと思う。
圭織の家を偶然見つけたのは。
伯父さんの家よりも駅に近い場所にある圭織の家の存在を
私がこの時まで全く知らなかったのは
車で迎えに来てもらって車の中で爆睡していた為だった。
だから、それまでは親戚の伯父さんの家の周りでばかり遊んでいた。

初めて見た時、凄く綺麗な家だと思った。
そして、私の中の好奇心がまたフツフツと芽生えてきた。

中は一体どうなってるんだろう。
こんなに大きな家に住んでいる人ってどんな人なんだろう。

さすがにお姫様が住んでるとまでは思わない。
中学生で、そこまで夢見がちな少女だとある意味、怖いだろう。
でも、何故だか凄く気になったのだ。
114 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月06日(水)01時03分06秒
門をコッソリと開けて、中に入った。
現在では荒れ果てていた芝生もこの時は緑の絨毯を敷き詰めたように
丁寧に整えられていた。
そして、同じように花びらがヒラリと舞っていた。
私はその花びらにつられるようにして足を進めた。
そして、立ち止まり、息を飲んだ。

桜の木の下に髪の長い女の人が立っている。

白いパジャマの上に羽織ってある同色のカーディガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだとその輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。

誰かに目を奪われるという事を私は初めて経験した。
しかも、同性に。
115 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月06日(水)01時04分07秒
私がポカンと立ち尽くしていると、圭織は私の存在に気付いて
笑みを見せた。

「迷子?」
「…え?ああ、うん……」
私は我に返っておどおどと頷いた。
圭織はずっと笑みを浮かべていた。
「ここらへんで見かけない子だね。
私は飯田圭織。貴方は?」
「…後藤真希」
ボソッと答えた。
私はずっと圭織から視線を外せずにいた。

儚そうな笑みを浮かべる人。
周りに清んだ空気を感じさせる人。

私の周りにはいないタイプの人で
どういう人なんだろう、という興味が湧いた。
きっと高校生くらいだろう。
中学生から見て高校生は十分大人だ。
そう思ったらドキドキした。
116 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月06日(水)01時05分07秒
「ここに住んでる人?」
「そうだよ」
圭織は空を見上げた。
その間にも桜の花びらがヒラリと振ってくる。
圭織の髪にも数枚ほど落ちていた。
私は手を伸ばして一枚手に取ってみた。
圭織は何も言わずにただ微笑んでいる。

「綺麗だね」
手にある花びらを見つめながら私が呟くと
圭織はニコッと笑い、急に私に背を向けてしゃがみ込んだ。
身体の調子でも悪くなったのかな、と私が少し困惑していると
圭織はまた急に立ち上がって勢いよく、両手を広げた。

パッと沢山の花びらが舞う。

私の視界が桃色に染まり
花吹雪の向こうには得意げに笑う圭織の顔がチラチラと見え隠れしていた。

「こうした方がもっと綺麗でしょ?」
「……そうだね。うん、綺麗だ」
私には今の自分の視界に映っている全ての物が綺麗に映って見えた。

私と圭織の初めての出会いはこんな感じだった。
117 名前: 投稿日:2002年11月06日(水)01時07分04秒
>>111さん
スミマセン。
話は過去に飛びました。
118 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時47分45秒
それから私は毎日のように圭織の家に遊びに行っていた。
相変わらず、弟はすぐにいなくなるし、大人の話はよくわからない。
だから、丁度いいタイミングで遊び相手を見つけた、と
私はウキウキしながら出向いていた。
圭織もずっと一人で淋しい想いをしていたらしく
私を出迎えてくれる顔はいつも満面の笑みを浮かべていた。

圭織の家はかなり大きかった。
こんなに大きい家なんて私は今まで見た事がないので
中がどうなっているのか興味があった。
ある日、その事を告げると圭織は笑顔で部屋案内をしてくれた。

「圭織はママ達が死んじゃって今では一人ぼっちなんだ」
圭織は歩きながらポツリと呟いた。
「…そうなんだ。後藤もお父さんが死んじゃって
それでお母さん達が話し合いする為にこっちに来たんだよ。
ちょっとの間だけど」
「そっか。なんか、似てるね。うちらって」
ニコッと笑う圭織に私も笑顔で返した。
119 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時49分25秒
周りに同世代の友達がいなかったというのもそうだけど
小さい頃から身体が弱くて外へ誰かと遊びに行くという事が出来なかった圭織。
そして、一時的とはいえ、一人でする事がなく暇を持て余していた私。
二人が仲良くするなるには本当に時間なんて関係なかった。

私はお父さんだけだけど親を亡くしているという
境遇が似ているところも私達二人の絆を強くしたんだと思う。

圭織の家の中を全て見終わると、圭織は外へ出た。
天気が良くて日差しが気持ちいい。
私がぼんやりしている間に圭織は姿を消していた。
さっきまでそこにいたはずなのに、と私はキョロキョロと首を振っていると
角の辺りから圭織がヒョッコリ顔を出して手招きをした。

「こっちだよ。まだ見せるとこがあるんだ」
「?」
首を捻りながら私はついて行った。

桜の木を通り過ぎて建物の裏手にまわると小さな小屋があった。
圭織はそのまま中に入って行く。
中は暗い。
しかも、入ってすぐ階段になっていた。
120 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時51分31秒
「…地下室があるの?」
「そう。あんまし、こういうのってないでしょ?
珍しいかなーと思って」
圭織は振り向きながら得意げに笑った。
確かに地下室なんて見たことない。
「って、言っても、中は倉庫で面白いものは何もないんだけどね」
階段を降り終わり、圭織は暗闇の中で階段からの灯りを頼りに
天井にぶら下がっている豆電球のスイッチを捻った。
チカチカと点滅して灯りが付くと地下室の中がよく見えた。

案外、狭い。
ほとんど物置状態だった。
あるのはダンボール箱、ロッカー、机と色々なものが
ゴチャゴチャと置いてある。
天井は低く、圭織の頭スレスレくらいの高さなので
男の人なんかは少し不便なんじゃないかなぁ、と思った。

「ここももうあまり使ってないんだよね」
圭織は懐かしむように壁を撫でた。
「倉庫なんだから、あんまし使わないのは当たり前なんじゃないの?」
「それはそうなんだけどね。小さい頃によくイタズラしては
パパにお仕置きとしてここに入れられてたからさ」
「……そっか」
私は少ししんみりして呟くと圭織は苦笑いしながら口を開いた。
121 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時53分15秒
「圭織は身体弱いのに酷いと思わない?
まぁ、パパも気を遣ったみたいで数時間くらいしか
入れられてなかったけどね」
「…冬とか寒そうだよね」
「うん。だから、冬は大人しくしてた」
圭織のおどけた笑い声が地下室の中で響いた。

お仕置きされた場所である地下室。
普通ならあまり思い出したくない場所なのかもしれない。
でも、圭織にとってはそれでも亡くなったお父さんとの大切な思い出の場所。

一人ぼっちな圭織。

私の前では気丈に笑みを作っていたけれど
本当はすごく淋しかったのではないだろうか。

圭織の為に出来る事って何だろう。
一緒にいられる間だけでも圭織が楽しいと思える時間を作る事じゃないだろうか。
何の力も持たない私にはそれくらいの事しか出来ない。

こっちにいる間は出来るだけ長く一緒にいようと思った。
122 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時55分20秒
地下室から戻り、圭織の部屋に戻ると
私達はまったりとした時を過ごしていた。

「何かしない〜?」
どうやら、圭織の家にはテレビゲームや
テーブルゲームの類が存在しないらしい。
別に話を続けるというのもいいのだけれど
何かの遊びとかした方が圭織も喜ぶと思ったのだ。

「んーと。じゃあ、後藤の学校で流行ってる遊びとかってある?」
「う〜ん…。じゃあ、数字当てしようか?」
「数字当てって何?」
「えっとねぇ…何か書くものある?」
私が説明しやすいように圭織に書くものと要求すると
スケッチブックを手渡された。
絵を描く人なのかな、と思いつつ、私はゲームの説明を始めた。

「最初にそれぞれが何でもいいから0から9までの数字を使って
相手に当ててもらう数字を四つ決めるんだ。
例えば、私は2468…とかね。
この後藤の決めた数字と並びを圭織が当てるってわけ。
で、適当に数字を言い合って相手からヒントを貰いながら
四つの数字を予想していくの」
「ヒントっていうのは?」
123 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時57分54秒
「圭織が最初に1234って言ったとするでしょ?
そしたら2と4は場所が違うけど合ってるじゃない?」
私はそう言いながらスケッチブックにわかりやすいように
合っている数字に丸をつけた。

「場所が合ってる時はA、場所が違う時はBを使うの。
つまり、この時は場所が違うけど後藤が決めた数字が二つ含まれてるから
2Bってヒントを後藤が圭織にあげるわけ」
「ふーん…」
圭織は口元に手をあてながら頷いた。
「1357って言った場合は何も合ってないから0って事ね。
2437の場合は2と4の場所があってるから2A。
2041の場合は1A1B。
交互にヒントを出し合いながら
どっちが先に相手の数字を当てる事が出来るかっていうのを競うゲームなの。
この説明でわかるかな〜?」
「なんとなく…。これ、誰が考えたの?」
「後藤だよ。授業中の暇潰しに友達とよくやってるんだ。
結構、頭の体操になるよ」
笑いながら私が言うと圭織は感心していた。
124 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)01時59分55秒
私の説明でわかるかな、と思ってやっていたんだけど
圭織は頭の回転が早いらしく、後半からは教えた側の人間である私が
何度も負かされる羽目になってしまった。

「あ〜、もう!なんでまた後藤の負けなのさ〜!!」
私が紙を放り投げて頭を抱えていると圭織は大笑いしていた。
それを見て私も笑った。

楽しんでくれるなら、それでいい。
そう思った。
125 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)02時00分48秒
次の日、圭織は私の絵を描かせて欲しいと言って来た。
正直、ビックリした。
あまり外へ遊びにいけないという理由からかは知らないけれど
圭織は絵を描くのを趣味としていて
普段は外の風景とかを描いていたらしく、それに飽きてきていたらしい。
スケッチブックを持っていた理由もこれでようやくわかった。
とりあえず、特に断る理由もないので私はそれを了承した。

「初めて人間の絵を描くなぁ」
圭織はどこかウキウキとしながらスケッチブックを広げていた。
私はそれを窓際であぐらをかいて見ていた。

この部屋はフローリングで机や椅子も置いてあったけれど
いつもベッドの上で絵を描くからと言って
圭織はベッドに入ったままだった。

「ねぇ〜。モデルって何すればいいの?」
「じっとしてたらいいだけだよ」
「じっと、…ねぇ〜?」
つまんない、と私は唇を尖らせていると圭織は苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、普段後藤が何をやってるか教えてよ」
「何をやってるか?って言われてもなぁ〜…」
私は眉間にシワを寄せて考え込んでしまった。
別に特別な事なんてしていない。
126 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)02時03分24秒
「逆に訊いていい?圭織はずっと学校へ行ってないの?」
「うん。お医者さんからあまり動き回らないようにって
小さい頃から言われてるからね」
「って事は、友達とかは…」
「後藤が初めてだね」
圭織は照れたように笑った。
少し嬉しかった。
でも、少し哀しかった。

圭織が一人ぼっちだと言う事を改めて知ったから。

「でも、一人だとする事に困るね」
私はズバズバと思いやりのない言葉を口にしていた。
でも、圭織は苦笑いを浮かべただけで怒りはせずに
サラサラと鉛筆を動かしていた。
「そうだね。だから、こうやって絵を描いてばっかいるんだ。
勉強とかしてないから自己流だけど、面白いよ」
「ふ〜ん。でも、後藤は圭織の描く絵、好きだよ」
今まで描いたものを色々と見せてもらったけれど
お世辞ではなく、本当にいいと思った。

「…へへ、アリガト」
圭織は照れたようにして笑った。

ゲームをした時に感じたのは私よりも大人っぽい人という事。
でも、こうして話していて感じたのは子供っぽい人という事。
127 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月10日(日)02時07分11秒
私が話す何気ない話でも圭織はいつも嬉しそうに
リアクションを返してくれるので
やっぱり大人なのか、子供なのかよくわからなかった。
ただ、年齢の差を感じさせないのは圭織のこういう所にあったのかもしれない。

いつの間にかウトウトしていたらしく
私の瞼は落ちていた。
窓にもたれていた身体がズリズリと崩れて
本格的に昼寝をしてしまったらしい。
窓の外からの暖かい日差しを背に受けていたので
それが眠りを誘ったようだ。

「…ゴメン。寝てたみたい」
ゴシゴシと目を擦りながら私が瞼を開くと
そこにはスケッチブックを抱え込むようにして
うつ伏せに倒れている圭織の姿があった。

「圭織?」
私はボソッと口を開いた。
もしかして、私と同じように昼寝をしてしまっているのかと思ったのだけど
それは違っていた。
モノクロであるはずのスケッチブックに色が混じっている。

真っ赤な色が。
128 名前: 投稿日:2002年11月10日(日)02時08分38秒

つづく。
129 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時37分44秒
圭織は身動き一つしない。
それを見て逆に私の顔色は真っ青になった。

「…か、圭織!?」
四足で恐る恐る近づく。
それでも、圭織は動かない。

肩に触れるとひんやりしていてドキッとした。
うつ伏せになっていた圭織の身体を正そうとしたら
思いきり、私に身体が寄りかかってきて
体重を支えきれなかった私はベッドの上で
圭織に押し倒される形になってしまった。

やっぱり、身体が冷えているように感じてしまい
私は一人オロオロとしていた。

「……う、うぅん…」
くぐもった声が耳元で聞こえた。
「圭織…?大丈夫?」
ゴクリと喉を鳴らしながら私は圭織の背中を優しく撫でた。
でも、手は震えていた。
「あ…。ゴメン……後藤の服が汚れちゃったね」
圭織は苦笑いを浮かべ、ゆっくりと身体を離した。
130 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時41分37秒
確かに言われた通り、服の肩の辺りが血で染まっていた。
でも、私の服についた血なんかよりも
圭織の口元に残っている血の跡の方が見てて怖くなった。
そして、血の気が引いた圭織の顔はいつもに増して真っ白で
私は不安になった。

「本当に大丈夫なの?血を吐くなんてよっぽどだよ。
身体悪いんなら病院へ行くべきだよ!」
病院に行けば治る、という幼稚な考えしか頭になかった私は
圭織の両肩を持ち、必死になって訴えた。
でも、圭織はフルフルと首を振った。
「ダメなんだよ。圭織の病気は
どんなスゴイお医者さんに診て貰っても治らないの」
「……嘘ばっか」
辛気臭い空気を作るのは苦手なので私は無理やり笑顔を作った。
でも、声は震えていた。

血を吐くという事は死期が近いという事。
私の頭の中ではそうなる。
圭織が目の前からいなくなるという事が信じられなかったし
信じたくなかった。

でも、圭織は否定してくれなかった。
ずっと弱々しい笑みを浮かべていただけ。

圭織の笑みが私の目には儚そうな笑みに見えていたのはこのせいだったのだ。
131 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時43分15秒
「姉ちゃん、いつもどこ行ってんの?」
私が家に帰るなり、弟が訊いてきた。
逆にこちらが訊きたいくらいだ。
いつも勝手に姿を消しているのは弟の方なのだから。
結局、私は何も答えずに階段を上った。

あれからずっと圭織の白い顔と口元に残っていた血の赤い色が忘れられない。
瞼を閉じるとすぐに浮かび上がってくる。
私はブルリと身体を震わせた。

それに圭織に言われた言葉がずっと頭にこびりついて離れない。

『十八歳の誕生日までもたないって言われてるんだ』

医師は病院に入院した方がいいと薦めたらしいけど
圭織はどうせ死ぬのなら家でのんびりと暮らしたいと申し出たらしい。
親は既に死んでいたので親戚達も圭織の意思を尊重して
口うるさくしてこないとか。
ただ、一週間に一度、様子を見に来るくらいで
マメに世話をしてくれるわけでもないらしい。
親戚と言っても結局は他人の子としか見てないのかもしれない。
132 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時44分01秒
季節は春。
そして、圭織の誕生日は夏。
という事はあと数ヶ月の命という事になる。

会ったばかりだったというのにこの時の私にとって圭織の存在は大きかった。
きっと自分でも気付かないところで彼女に惹かれてたんだと思う。
どうにもならないのだろうか、と私は一人っきりの部屋で
頭を抱え込んで考えていた。

私はあと数日でここからいなくなってしまう。
そして、圭織はまた一人ぼっちになってしまう。

その頃の私は今よりも、もっと子供で。
一人で生きていく事もままならないちっぽけな存在。
そんな私が圭織の為に一体、何が出来るというのだろう。

子供なりに私は一生懸命考えてみたけれど
やはり何もいい案など思いつきはしなかった。
酷く悔しかった。
やるせなかった。
133 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時45分50秒
翌日、結局、何も出来ないという事を思い知ったまま
私は重い足どりで圭織の家を訪ねた。

門をくぐって、建物の中に入ろうとした時
桜の花びらが目に付いた。
初めてここに来た時よりも沢山舞っている。
もうそろそろ桜の季節も終わりなのかもしれない、と思ったら
不安の波に襲われた。

桜の季節が終わるという事は春が終わるという事。
そして、夏が来る。
圭織の誕生日は確実に近づいている。
圭織の死期も。

私は軽く頭を振った。
いや、まだ桜は元気だ。
そうに違いない。
自分に言い聞かせるように、そして、目で確認すれば安心出来るはずだと信じて
私は踵を返し、桜の木のある方へ歩き出して、ふと足を止めた。

初めて会った時と同じように
圭織が桜の木の下に立っていた。
134 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時48分16秒
白いパジャマの上に羽織ってある同色のカーディガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだと輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。
私には圭織が天使に見えた。
私を置いて天に昇っていくんじゃないかと思った。

胸の鼓動が大きくなる。
ここにちゃんと圭織はいるのに
いつか本当に消えてなくなってしまうかもしれない、という不安で
私の心の中は支配されていた。

圭織は私に気付いたらしく、ニッコリと笑っている。
「何、ぼーっとしてんの?」
「…え?いや……」
私は狼狽しながら高い声を上げた。

「やっぱり、たまには外に出ないとダメだね」
風を受けて圭織の髪がサラリと流れる。
相変わらず、綺麗な髪。

私は肩くらいまでしか髪はのびていなくて
圭織の髪を見ていたら自分ものばしてみようかな、と思ったくらいだ。
でも、もしかしたら、いつかは圭織の髪の長さを追い越してしまう。
その事に気付いて私はわざと視線を逸らした。
135 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時51分55秒
「そうだよ〜。
圭織は自分の部屋にこもって絵ばっか描いてるから
ちっとも身体がよくなんないんだよ」
気分が落ち込んでいるのを見破られないようにわざと楽しそうな口調で喋った。
言いながらも血を吐いた圭織の姿が目に焼きついて離れない。

真っ白い顔に口元には赤い跡。
白と赤がこんなに怖いものだとは思わなかった。

「うん。これからはちゃんとするよ」
へへへ、とあどけない笑みを圭織は浮かべた。
きっとこの笑顔も長くはもたない。
私はずっとマイナス思考でいた。

圭織は死ぬ。
助からない。
二度と会う事は出来ない。

何気ない会話を続けながらも頭の中では想像もしたくない事ばかり
考えていた。
136 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時53分59秒
「後藤はあと二日で帰っちゃうんだっけ?」
圭織は遠くを見つめながら呟いた。
その姿は少しだけ淋しそうだった。
「…うん」
私は圭織の手を握った。
手を繋いだのは初めてだった。
二人共、しんみりして黙り込む。

「後藤、ちょっと頼まれてくれないかな…」
「え?」
圭織の顔を見てみると真剣だった。
何かを決意したような表情。
私は何となく嫌な予感がした。

圭織は手を離し、窓の辺りに立て掛けておいたスケッチブックを手に取った。
まだ絵を描きたいというのだろうか、と私が思っていると
スケッチブックに挟んでいた何かを取り出した。
それは当時の私にはわからなかったけれど
油絵で使われるペインティングナイフだった。
137 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月17日(日)02時54分37秒
「…何、これ?」
少し緊張しながら私が問い掛けると圭織はナイフを
自分の目の前にやりながら口を開いた。
「油絵で使う道具。パパも絵をやっててね…ちょっと、拝借しちゃった」
「…へぇ〜」
これでどうやって絵を描くんだろう、と思いつつ
私がぎこちなく頷くと圭織はナイフを少しかざして
太陽の光でキラキラと眩い光を反射させた。

「果物ナイフっぽく見えるかもしれないけど
刃がないから殺傷力はないんだよね」
「……殺傷力?」
私は戸惑っていた。
一体、圭織は何をやろうとしているのだろう。

圭織と目が合って私の心臓は大きく跳ねた。

「後藤、圭織を殺してくれない?」
138 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)02時56分51秒

つづく。
139 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時08分06秒
「…な、何を……言って……」
私は冷静さを失っていた。

当たり前だ。
圭織は私に自分を殺せと頼んできたのだから。

圭織はどこか諦めたような笑みを浮かべて私を見下ろしている。

「運命は変えられない。圭織の寿命はあと数ヶ月。
しかも、一人っきりで死んじゃうの…。
それなら、私の知ってる人に最後を看取ってもらえた方が
幸せなんじゃないかな、って思ったの。
こんな勝手なお願いしても後藤は嫌な想いするだけなんだろうけどね」
「……そ、そんな。諦めちゃダメだよ!
どこかにいいお医者さんがいるかもしんないじゃんか!!」
根拠なんて何もないけれど、私は必死で叫んだ。
足がガタガタ震えていた。
それでも、圭織の表情は何も変わらなかった。

「何度も言うようだけど、もう無理なんだよ。
それに自分の身体の事は自分が一番よくわかってる。
きっと、誕生日までもたない…」
「でも!」
「…後藤はここに来てる事を誰にも言ってないんでしょ?」
140 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時11分04秒
「……う、うん」
圭織の家に遊びに来ているという事は誰にも話していない。
「なら、大丈夫。誰にもバレないから。
それに普段誰もここには来ないから見つかるのは随分後だと思うし。
夏場になって発見されるって事もないと思う。
親戚の人は一週間後に来るから」
「そういう問題じゃないよ!
嫌だよ…。後藤はそんな事したくない!!」
私は瞼をぎゅっと閉じて、いやいや首を振った。
「…やっぱ嫌だよね」
圭織は苦笑いを浮かべていた。

人を殺す行為もそれはもちろん嫌だ。
しかも、圭織を…だなんて。

でも…。

「……どうしようもないの?」
「うん。どうしようもないから、こうやって頼んでるんだよ」
「…圭織は本当に……それでいいの?」
震える声で私が尋ねると圭織は満面の笑みを浮かべた。
「うん。後藤の手にかかって死ねるなんて
これ以上ないくらい嬉しい事だから…」

どうして、こんなに怖い言葉を嬉しそうに言えるんだろう。
圭織は狂っているのかな…、と私は呆然としてしまっていた。
141 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時13分07秒
「……ど、どうしてそこまで……」
「だって、圭織の初めて出来た友達だもん。
初めて出来た信頼出来る人だもん。初めての…」
そう言って圭織は顔を歪めた。
そして、私が口を開こうとする前に抱き締めてきた。

震える身体。

私の身体が震えているのか
それとも、圭織の身体が震えているのか
よくわからなかった。

会って数日くらいの付き合いだと言うのに
圭織がここまで私の事を想ってくれている事が嬉しかった。
嬉しくて、哀しかった。

どうして、私達は普通に出会えなかったんだろう。
圭織の身体が健康体ならば、私達は幸せになれたのに。
きっと、親友なれたのに。
そう思うと涙がポロリと零れた。
142 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時18分09秒
涙で歪んだ視界の中で桜の花びらが舞い降りていったのに気付き
ここはさっきまで夢の世界だったんだと思った。
桜が作り出した桃色の幻想的な世界。

目を閉じてそんな事を思っていると
瞼の裏に血を吐いた時の圭織が浮かび上がって来た。
そうだ。
白と赤の二色を混ぜると桃色になる。

私がいたはずの桃色の世界は
白と赤の量が変化してバランスが崩れてしまったんだ。
幻想的な世界は崩壊してしまった。

もうこの辛い現実しかない。

圭織の肩にもたれさせていた頭を上げた。
圭織の頬も濡れていた。
私は無理やり笑顔を作り
震える手で圭織の手の中にあったナイフを手に取ると
ピクリと圭織の手が震えた。

運命からは逃げられない。
圭織の寿命はあと僅か…。

私はゴクリと喉を鳴らそうとした。
でも、緊張で喉がカラカラに渇いていた。
143 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時19分45秒
「…圭織が望むんなら……後藤は何でもしてあげる…」
好きだからこそ、何でもしてあげる。
そう続けようとした瞬間、圭織は身を離した。
嬉しそうな表情を浮かべているのを見て
私は唇を強く噛んで顔を歪めた。

私はこんな事で圭織を喜ばしたかったんじゃない。
ずっと一緒に楽しい時間を過ごしていきたかっただけなのに。

私は震える両手でナイフを握り直した。

「…終わったらすぐに逃げてね。
後藤がやったってバレないように」
「……」
私は何も答えなかった。
自分がその後どうするべきなのか、すでに決めていたから。
圭織はそっと私の手を両手で包み込んだ。

「一つだけ、約束して欲しいんだけど…いいかな?」
圭織は真剣な表情で私の目を覗き込んできた。
その視線から逃れられない。
「………何?」
ポツリと呟くと圭織は私の手を握っていた手に力を込めた。

「圭織の事、忘れないでね」
144 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時20分47秒
これは圭織の遺言。

忘れるわけなんてない。
忘れられるわけがない。

私はそう言おうとしたけれど
口から出てきた言葉は微妙に違う言葉だった。

「…約束は守るよ」
またポロリと涙が零れた。
圭織は嬉しそうだった。
「本当にアリガトウ。
圭織は後藤の事、大好きだったよ…」
そう言って、圭織は軽く私の唇に触れた。

自分の唇で。

触れていたのは一瞬だったけれど
圭織の唇はヒンヤリとして冷たかった。

突然の事に私が目を開けたまま、固まっていると
圭織はそのまま私の手を取ったまま、強引に自分の胸にナイフを突きつけた。
殺傷力はないと言っていたけれど
強く刺せば、十分役目を果たすものだった。
145 名前:夢のしずく 投稿日:2002年11月20日(水)07時22分28秒
酷いよ、圭織。
私はまだ何も言ってない。
自分の気持ちを圭織に伝えてないのに。

何故か私の頭の中は冷静だった。
でも、身体は正直で硬直したままだった。
ぎこちなく顔を上げるとそこには圭織の幸せそうな笑みがあった。
しかし、それは一瞬の事。

私が瞬きをした瞬間に圭織の姿は目の前から消え
桜の花びらで出来た絨毯の上にもう一つの花が咲いていた。

白いパジャマに赤い花が咲く。
それは徐々に大きな花びらを作っていった。

私はずっとそれから目が逸らせなかった。

初めて見た綺麗な花。
一度だけしか咲く事が出来ない花。
二度と見ることは出来ない花。

そして…。


それは初恋という名の花。
146 名前: 投稿日:2002年11月20日(水)07時23分11秒

つづく。

147 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)20時34分24秒
めちゃくちゃ引き込まれます。映像が目の前に浮かびます。
キレイだなぁ……2人とも。
続きが気になりまくります。更新がんばってください!
148 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時32分12秒
真っ赤に咲いた花…。
そうだ、そうだったんだ…。

「真希ちゃん!?目が覚めた?」
伯母さんの声が聞こえる。
私はいつの間にか薄目を開けていたらしい。
そして、いつの間にか布団の中に戻っている。

…何をしてたんだっけ。
なんで布団で寝てるんだろ。

市井ちゃんの携帯に電話したら圭織が出て…。
そして、その後に圭織の家に行こうとして…。

階段から落ちたんだ。

のんびりしてる場合じゃない。
行かなくちゃ…。

私は勢いよく起き上がった。
身体の節々が悲鳴を上げている。
特に腰には激痛が走って私は顔を歪めた。
149 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時33分36秒
「まだ起きちゃダメよ。熱も下がってないんだから!」
伯母さんは私を再び寝かそうと両肩を押さえた。
「市井ちゃんは!?まだ帰って来てないんでしょ!
あれからどれくらい時間が経ったの!?」
私が真剣な表情で尋ねると伯母さんは驚いていた。
「紗耶香ちゃんは…戻って来てない。
あれから二時間経ったんだけど…。
うちの人もまだ探してるわ」
伯母さんの返答を聞いて私は焦りを覚えた。

二時間も経ってただなんて…。
早くしないと圭織が何をするかわからない…。

「伯母さん、懐中電灯ってある?」
「…何を急に。玄関の所に置いてあるけど」
伯母さんは目をパチクリさせている。
私はそれを無視して布団を剥いで立ち上がった。
「市井ちゃんを探してくる!」
「真希ちゃん!ダメだって言ってるでしょう!!」
「居場所ならわかってるんだよ。圭織のところだもん!」
「…あ、あそこには誰も住んでないのよ!?」
伯母さんは顔色を変えている。
声も震えていた。

「それでも…行かなくちゃいけないの…」
私は服を着替えながら重く呟いた。
150 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時35分26秒
わかってる。
あそこには誰もいない。
いないはずだった…。

「それに、さっき真希ちゃんに言われてうちの人が見に行ったけど
本当に誰もいなかったんだから」
「……」
伯母さんの声を聞きながら私は黙々と着替えた。

他の人にわかるわけがない。
圭織達の居場所なんて。
私にしかわからないんだから。

着替え終わって私が廊下に出ようとしたら
伯母さんに腕を掴まれた。
「真希ちゃんのお母さんからもあの家に近づけるのだけは止めてって
言われてるのよ」
「…お母さんが?」
私は虚を衝かれた。
こんな時にお母さんの名前が出てくるとは思わなかったから。

「そうよ。お母さんはずっと真希ちゃんがこっちに来る事を止めてたの。
直接言われたりもしたでしょう?
どうしてもって言うから渋々了承したけど、私達に飯田家には
絶対に近づけないようにって念を押してたんだから…」
伯母さんの顔は真剣だった。
151 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時37分16秒
確かに何度も言われた。
行くのはダメだって。
でも、どうして…。
お母さんは何も知らないと思っていたのに。
いや…もしかしたら、何となく気付いていたのかもしれない。

圭織と私の事を。
私が何をしたのかを。

それでも、私は行かなくちゃいけない。
圭織との約束を守らなくちゃいけない。
二度と約束を破らないように。
そして、市井ちゃんを助ける為に。

「ゴメンね。伯母さん」
私はそれだけ言って強引に手を振り払い
部屋を飛び出した。

伯母さんの叫ぶ声を背に受けながら。
152 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時38分53秒
外に出ると真っ暗だった。
田舎の夜はこんなにも暗い。
雨は上がっていたけれど曇り空が広がっているのか
星や月は全く見えない。
本当の暗闇だった。

手にしていた懐中電灯をつけて私は走り出した。
ぬかるんでいる地面の踏み心地が悪く、気持ちが悪い。
コンクリートというものがここには存在していないので
ジーンズの裾に泥がピチャピチャと跳ねてすぐにドロドロになった。
見えないからどうでもいいけど。

圭織の家までの道のりがとても遠く感じた。
いつもなら十分くらいで着くのに今日はそれ以上に感じた。

「っわ!」
足元をちゃんと見てなかったせいか、私は石か何かに躓いて
転んでしまった。
顔は大丈夫だったけど身体は泥にまみれになった。
腰にまた激痛が走る。
153 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時40分21秒
私は一体何をやってるんだろう…。
こんなに惨めな姿になって…。

転がった懐中電灯しか明かりがない中で
私は孤独を感じていた。
前も横も真っ暗で何も見えない。
暗闇に吸い込まれて自分の姿がなくなってしまうんじゃないかと思った。
このまま私がここから消えても誰も気付かないかもしれない、などと
無意味な事を考えている自分に気付き、プルプルと頭を振った。

頭の中が混乱していて何を考えているのかがわからない。

どうしてこんな事になったんだろう。
泥を握り締めて、私は歯を食いしばった。
情けなくて涙が出そうになる。

市井ちゃんを巻き込むつもりなんてなかったのに。
でも、私が悪いんだ。

全ては約束を破った罰。
154 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時42分44秒
門をくぐり、迷わず桜の木の方を目指した。
ここ数日の雨のせいか、桜はすでに散っていた。
あんなに華やかだった花達は跡形もなく
消え去っている。
その姿にはぎゅっと胸を締め付けるものがあった。

十三歳の頃の私がこれを見たら、どう思っただろう…。
実際には見てはいないけれど。

私は更に足を進めた。
そこには前と変わらず、地下へと続く階段のある小屋があった。
階段を降りる前に私は大きく深呼吸をした。
ずっと走ってきたので息が上がっていて
簡単には整わない。

いや、走ってきただけじゃない。
緊張しているんだ。

きっと、圭織はここにいる。
市井ちゃんも。

もう一度、大きく深呼吸をして私は階段を降り始めた。
一段一段、降りる度に胸の鼓動が大きくなっていく。
ゴクリと喉を鳴らした。

一番下はぼんやりと明かりが漏れている。
やっぱり、ここにいるんだ。

自然と懐中電灯を握っている手に力が入った。
155 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時45分55秒
「…遅かったね」
私の姿を確認したのか、圭織が声をかけてきた。
毎日のように聞いていたはずなのに
どこか懐かしく聞こえる声。
私はギュッと瞼を閉じた。

まずは落ち着こう…。
冷静になって、それから考えよう。

しばらくして、ゆっくりと目を開けると
そこは前に見た時と変わらない地下室だった。
いや、ここも埃っぽくて空気が澱んでいる。
少し、かび臭く感じた。
天井にぶら下がっている豆電球は電気が通っていないのか
点灯していない。
誰も住んでいない場所なんだから当たり前なんだろうけど。
ただ、弱々しい光が見えた。
代わりに机の上にろうそくが立ててあって
その隣には花瓶代わりのコップにタンポポが入れられている。

私があげたタンポポ。

圭織は喜んでいたと市井ちゃんから聞いていたけれど
その時、私は嘘だと思ってた。
でも、本当に大事にしてくれていたんだ。
あの時、私は何気なくあげただけなのに…。
156 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時47分17秒
机の正面の壁にあるダンボールの上に市井ちゃんは座っていた。
瞼を閉じて。
ろうそくの炎が揺れてる度に市井ちゃんの顔がチラチラと照らされる。
圭織は少し離れた壁に背を当てて立っていた。

「泥だらけだね。遅かったのは泥遊びでもしてたからなの?」
圭織は私の身体を舐めるようにして眺めながらおどけて呟いた。
私はそれには答えずにじっと圭織の顔を見ていた。
圭織の顔もろうそくの炎でチラチラと照らされていた。
少し不思議な気分だった。

私が黙り込んでいるので圭織は肩をひょいっと上げた。
これ以上の無駄話は止めたようだ。

「ここがわかったって事は全部思い出してくれたのかな?」
「……市井ちゃんは大丈夫なの?」
私は圭織の問いには答えずに息苦しく呟いた。
部屋の中の空気が薄いのか、呼吸が荒くなってしまう。
それが圭織の気に障ったのか、少し顔を歪めた。

「寝てるだけだよ。何もしてない」
圭織の返答を聞いて私はホッとした。

市井ちゃんは無事だ。
よかった。
でも…。
157 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時49分06秒
「市井ちゃんの気持ちを知ってるくせに…。
どうして、こんな事したの?
何も関係ないのに…酷いよ」
私が少し哀しそうに呟くと圭織はため息をついた。
「後藤はずっと勘違いしてるみたいだけど。
紗耶香は圭織の事なんて何とも思ってないよ」

何とも思ってない?
嘘だ。
市井ちゃんは圭織の事が好きなんだよ。
私にはわかる。

「嘘だ。だって、後藤にはわかるもん。
市井ちゃんが圭織を見る目は他の人と違ってた…」
「わかってないね。紗耶香は圭織に同情してただけ。
病弱な圭織が可哀想だってね。
全部、嘘だったのに。
圭織がついた嘘を信じて同情してくれてただけ。
弱い人間には優しいんだろうね、紗耶香って」
チラリと市井ちゃんの方を見ながら圭織は呟く。
私は呆然としていた。

同情?
市井ちゃんは圭織に同情してただけなの?
158 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時50分46秒
「…ちょっと待ってよ。
だ、だって、圭織も言ってたじゃん。
圭織の事好きなのかなって…」
「ああ、あれ。あれは後藤の気持ちがわかってたから
ちょっと利用しただけ」
しらっと答える圭織に私はガックリした。
バカにしてる…。

『後藤は自分が見たものを全てだと思うから何も気付かないんだよ』

圭織は前にこう言った。
あの時から全てわかってて…。

「全部、後藤が悪いんだよ。圭織の事を忘れちゃってるから…」
「……」
私は唇を噛んだ。

その事を言われると正直、辛い。
忘れたくて忘れてたんじゃないのに。

「紗耶香もね。最初は何も知らなかったの」
「…どういう事?」
159 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時52分20秒
「なんかね、後藤のお母さんから連絡があったらしくてね。
それで過去に圭織と後藤が何をしたかって事を知ったんだってさ。
こうやって会ってるのに何を言ってるんだろうって最初は思ったらしいよ」
チラリと市井ちゃんを横目で見ながら圭織は口元に笑みを浮かべた。
でも、目は笑っていなかった。

そういえば、夜中に電話がかかってきた事がある。
あの時、市井ちゃんはバイト先からだって言ってたけど。
あれは私のお母さんからの電話だったんだ…。

「まあね。そりゃ、信じないよね。圭織が死んでるだなんて」
圭織は決定的な言葉をいとも簡単に呟いた。
一瞬だけ目の前が白くなった。

死んでる…。
わかってたつもりでも
本人から改めて言われるとかなり堪えた。

圭織は私が何を黙り込んだのも
気にしてないようで、話を続けていた。
160 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時53分21秒
「それで直接、紗耶香は確認しに来たってわけ。
邪魔だから眠ってもらってるけど」
「……じゃ、邪魔って」
私は目を見開いた。
「だって、後藤に何をする気だ?ってうるさいんだもん。
本気で後藤の事を心配してるから鬱陶しくなってさ。
だから、眠ってもらったの」
圭織はため息交じりで呟いた。

市井ちゃん…。
後藤の事をそんなにも心配してくれてたんだ。
それなのに…ゴメンね。
全く信じてあげられてなかった。
何もかも…。

「圭織は…幽霊なんだね……」
私がポツリと呟くと圭織は目を細めて笑みを浮かべた。
「そうだよ」

見た感じでは全くわからない。
私達との違いなんて。
それでも、彼女が生きているわけがない。
死んでると本人も言ったくらいだし。
しかも、私がこの手で殺したんだから…。
161 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時54分27秒
「後藤は約束を破った。
圭織はそれがショックで、そして…許せなかった」

確かにあの時に約束した。

『忘れないでね』

そう言われた。
でも、私は…。

「最初はどうして圭織は幽霊になってるんだろう…って自分でも戸惑ったよ。
だって、未練なんてなかったはずだから。
だから、ずっとここに留まってる理由がわからなくて
その事ばかり考えてた…」
圭織は目を細めてろうそくの炎を見つめながら独り言のように呟いている。

「でも、やっとわかったの。
圭織は後藤に会いたかった。
会って確認したかった。
ちゃんと約束を守ってくれてるかどうかを」
「……」
私は俯いて唇を噛んだ。

私は約束を破った。
自分でもそれはわかってる…。

「会えた時は本当に嬉しかったよ。
圭織はずっとここで後藤を待ってたから」
162 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時56分10秒
ああ、だから…最初の時に私ばかり見てたんだ。
どうして、市井ちゃんをほとんど無視した状態で
私ばかり見てるんだろう、って不思議に思ったんだけれど。

「でも、後藤は約束を…圭織の事をスッカリ忘れてた」
急に圭織の声のトーンが下がった。
ふと俯いていた顔を上げて圭織の顔を見てみたら
ゾクッとするくらい、怖い顔をしていた。

「だから、嫌がらせをしようと思った。
なんとしても後藤に圭織の事を思い出してもらう為にね…」

ゴメンナサイ、と簡単に謝れたらどれだけ楽だろう。
でも、そんな事は出来ない。
そんな安っぽい言葉なんて私は口にしたくはないし
圭織も必要としていない。

私が何も言えずに黙り込んでいると
隣から声が聞こえた。

「…後藤が圭織の事を覚えてなかったのには理由があるんだよ」
市井ちゃんはいつの間にか目を覚ましていた。
ただ、頭が痛むのか、片手で押さえて顔をしかめている。
163 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月22日(金)05時56分54秒
市井ちゃんの方が辛いはずなのに
何故か私は眩暈を感じていた。
今から言われる言葉が何なのかわかっていたから。

「理由って何?」
圭織は冷たい表情で市井ちゃんを見下ろしている。
「市井ちゃん…言わないで」
私が震える声で言うと市井ちゃんは軽く首を横に振った。
「ダメだよ。このままじゃ、圭織だって納得しないし
後藤が悪く言われるのも…あたしは嫌だよ」
「…それでも、言わないで」
私は顔を歪めて呟いた。

言い訳はしたくない。
圭織が怒るのはもっともだし
自分でも憎まれて仕方ないと思っているから。
それに事実を知ったところで何も変わらない。
結果はどうやっても変えられない。

圭織を裏切った事に変わりはないから…。
164 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)05時58分46秒
>>147さん
有難うございます。
あともう少しで終わります。
最後までお付き合いして下さると嬉しいです。
165 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月26日(火)00時30分27秒
めちゃくちゃ気になるところで切れてる!
あともう少しで謎が解けるのは嬉しいが、終わるのは寂しい・・・
166 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)01時06分57秒
「二人だけで会話しないくれる?
どういう事なのか、ハッキリ説明してよ」
圭織は少し苛ついて市井ちゃんに詰め寄った。
市井ちゃんは座ったままの状態で圭織を見上げた。
「その前に確認させて」
その目は真剣そのものだった。

「後藤が十三歳の時にここで圭織と出逢った。
そして、圭織は後藤に自分を殺すように頼んだ。
ここまでは圭織から聞いたよ。
そして、再会したはずの後藤は圭織の事なんて忘れてた。
でも、これには理由があるんだよ」
「だから、それが何なのか訊いてるんじゃん」
圭織はイライラしながら吐き捨てた。
それを見て市井ちゃんは苦笑いを浮かべた。

「まあ、待ってよ。
勘違いされちゃ、困る話なんだから正確に話をしないとね。
あたしは最初、何も知らなかった。
圭織と後藤が過去にどうしてたなんて知らなかったし
圭織が幽霊だなんてわかるわけないし
最初に言われたとしても信じられるわけがなかったと思う」
「……」
圭織は市井ちゃんを睨みながら話を聞いていた。
167 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)01時09分42秒
「でも、後藤のお母さんからの電話で圭織への認識が全て変わった。
圭織と後藤の過去をお母さんは一部しか知らない。
だから、あたしにもよくわかってない。
とりあえず、お母さんが言ってたのは
後藤は圭織の家で…自殺を図ったって事だけ……」
市井ちゃんが重い口調で話している間
ずっと私はうな垂れて瞼を閉じていた。

「……ちょ、ちょっと、待ってよ。今…何って言ったの?」
戸惑い気味な圭織の声が聞こえた。

「何度も言わせないでよ。自殺を図ったんだよ…。
それが原因で記憶がなくなってたんだ」
不機嫌そうに市井ちゃんが呟いている。
「後藤の左手首にある傷はその時のものらしいんだ…。
あたしだってビックリしたよ。
どうして、そんな事したのかなんて後藤本人しかわからないし
でも、本人は何も覚えてないって言ってたし…」
「……嘘だ」
瞼を開けて見てみると圭織は表情を無くしていた。
168 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)01時12分07秒
信じられないのも仕方ないと思う。
圭織は何も知らないはずだから。
私は圭織が死んでから後を追うつもりだったから。
でも、それは失敗した…。

私はまた瞼を閉じた。

真っ赤な映像が浮き上がってくる。

右手に握ったペインティングナイフを左手に何度もつきたてて。
痛みは不思議と全く感じなくて。
だから、何度も何度も同じ事を繰り返して。
その度に私の腕からは血が溢れ出して。
涙も枯れてしまうくらい沢山溢れ出して。
それらは桜の花びらで出来た絨毯に模様を作っていた。

圭織のところへ行かなくちゃ…。
二度と一人ぼっちにならないように
私も早く行かなくちゃ…。

そんな事ばかり考えていた。

私の記憶はここで途切れていて
その後の事は覚えていない。
169 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)01時22分42秒
「後藤のお母さんが圭織の家に行く事を嫌がってたのは
後藤の記憶が戻らないようにする為だったんだって。
また変な気を起こさないように…って」
市井ちゃんはチラリと私を見ながらため息をつく。
私はわざとその視線に気付いていないふりをした。

市井ちゃんの話はまだ続いていた。

お母さんはあの日、帰りの遅い私を探していた。
そして、圭織の家で倒れている私を見つけた。
圭織の横に寄り添うようにして血を流している私を見て
何があったのか、なんとなく理解したらしい。
圭織は死んでいたけど、私がまだ生きている事を確認したお母さんは
ナイフの指紋を消して、圭織に握らせた後
地面に流れていた私の血を処理して私を連れ去ったらしい。

圭織の自殺だけだったとみせる為に。

その後、警察では現場が少し荒れているのが気になったらしいけれど
病を患っているという苦悩に耐えられなくなって
自殺してしまったのだろう、という事で処理されたらしい。
私が記憶を失っているのもお母さんとしてはホッとしたらしいけれど…。
170 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)01時26分54秒
「お母さんはずっと悩んでたらしいよ。
自分がした事は間違ってたんじゃないか、って。
いくら後藤を守る為だったとは言え、現場を荒らしてるんだからね。
お父さんが亡くなったばっかりだったから必死だったって言ってた」
市井ちゃんの言葉が胸に突き刺さる。
「…お母さん」
私はぎゅっと唇を噛んだ。

あの時の私は圭織の事しか考えてなくて。
考えられなくて。
自分の家族の事を考える余裕なんて全くなかった。
残される側の辛さなんてお父さんが死んだ時に思い知ったはずなのに。

ちゃんと周りの事を考えられなかったのは
幼かったからという理由だけじゃない。
それだけ、あの時の私は真剣で
それだけ、あの時の私は必死だった。

「というわけなんだけど。これで納得した?」
市井ちゃんは圭織を一瞥して、ため息をついた。
圭織は硬直したままでいた。
171 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)02時53分53秒
「それだけ当時の後藤は真剣だったんだよ。
圭織は何も知らなかったのかもしれないけど、これで気が済んだ?
記憶がなくなってたんだから
圭織の事を忘れちゃってても仕方なかったんだよ」
「うるさいっ!」
圭織は突然、大声で叫び、頭を抱えた。

「うるさい!うるさい!!」
気が触れたように頭を振って、取り乱している圭織を見て
私は呆然としていた。
それは市井ちゃんも同じようで、口をポカンと開けている。
しかし、すぐに表情を変えた。

「ぅわっ!」
市井ちゃんの身体が宙に浮き、そのまま凄い勢いで壁に叩きつけられた。
その衝撃で机の上にあったろうそくが倒れた。
傍にあったタンポポが入っていたコップも音をたてて割れてしまった。
床には色んなものが散乱していたので油を撒いたようにあちこちに火が回り始め
タンポポもあっという間に燃えた。

「……い、市井ちゃん!」
私は顔色を変えて叫んだ。
172 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)02時55分35秒
市井ちゃんは床に倒れてピクリとも動かない。
火を避けながら傍に寄って見てみると、市井ちゃんは気を失っていた。
顔をぺちぺち叩いても気がつかない。

ああ…どうしよう。
このままじゃ…。

先に火の元を消した方がいいと思った時には遅かった。
すでに私の手に負える状態ではなくなっている。
パチパチッと音をたてながらすごい勢いでダンボールや燃えやすいものへ
火が移っていく。
さっきまで薄暗かった地下室も今では眩しいくらいになっていた。
奥が一番燃えている。
でも、階段の方へはまだ火の気が襲ってきていない。

今のうちに逃げるべきだ。
でも、身体が上手く動かない。
腰を痛めているせいか、市井ちゃんを担いで立ち上がろうとしても
激痛が走ってすぐにしゃがみ込んでしまう。
私がモタモタしてる間にも火の勢いはますます大きくなっていく。

このままじゃ、出口まで火が回っちゃう…。

私が脂汗をかきながら圭織の方を見てみると
しゃがみ込んだまま、頭を押さえていた。
173 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)02時58分30秒
「か、圭織!早く外に出なくちゃ…。
市井ちゃんを運ぶの手伝って!!」
私が叫ぶと圭織はピクリと反応した。
そして、ボソボソと何かを呟いた。
バチバチと音をたてて燃えている火のせいでよく聞こえない。

「何?」
私が訊き直しても圭織はそのまま顔を伏せていた。
しかし、口だけは動いた。
「…今の後藤は圭織と紗耶香…どっちが好きなの?」
「……え?」
私は戸惑っていた。

正直、わからない。
あの時は本気だった…。
でも、私は…。

私が黙り込んでいると圭織は立ち上がり
疲れたようにため息をついた。
そして、私の顔をじっと見つめてきた。
ここでのんびり話をしている場合じゃないとわかっているのに
私の身体は動かない。
圭織から目が逸らせられない。
174 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時00分55秒
「後藤は紗耶香の事が大好きなんだね」
「……」
私は何も言えずにいた。
圭織はそれを見て、ふっと笑い
私の方へ近づいてきた。
辺りが燃えているのに構わず
そして、迷わず歩いて来る。
危ない、と言おうとして私は口をつぐんだ。

圭織は火をすり抜けていた。
いや、圭織の身体が透けていた。

私は改めて圭織が幽霊なのだと思い知って
身体の力が抜けてしまった。
圭織は私の目の前に立ち、手を取って立たせた。
そして、ニコッと笑った。

さっきは透けていたのに、今では触れる事が出来るのは何故なんだろう。
幽霊の仕組みなんてサッパリわからない。
それに、急に態度が変わったのは何故なんだろう…。
さっきまであんなに取り乱していたのに。

私が呆然としているのに圭織はずっと笑みを浮かべていた。
175 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時01分51秒
その顔を見て私は心の中でじわっと何かが溢れ出てくるのを感じた。
あの頃の圭織と何も変わらないような笑み。
圭織はこんな風に優しい笑みを浮かべる人だった。

こうしてる間にも火の勢いは強くなっていくのに
部屋中に煙も立ち込めているのに
私は何も言えないままで圭織から目を逸らせずにいた。
時が止まっているような感じがしていた。

「いつの間にか背が伸びたね。髪もかなり伸びて…」
圭織はそう言いながら私の髪を軽く撫でた。
「それに、いつの間にか同じ年になっちゃった」
「……あ」
私が口を開けると圭織はおどけて肩をヒョイッと上げた。

そうだ…。
初めて出逢った時は私が十三歳で圭織が十七歳だった。
今の私は十七歳…。

でも、圭織は変わらず十七歳のまま…。
176 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時03分02秒
圭織は私の両肩に手を置き、何かを言おうとして
俯いてしまった。
触れられているはずの肩はヒンヤリと冷たい。

体温なんてないってわかってる。
けど、あの時の圭織の体温も冷たかったから。
違和感なんて全くなかった。

火のせいで部屋の温度が上がっているはずなのに
圭織の傍にいると涼しく感じる。

「きっと、後藤は圭織の年をあっという間に追い越しちゃうんだね。だって…」
圭織は少し淋しそうに顔を上げて言葉を続けた。
「後藤は生きてるから。生きてくから…」
「……圭織。後藤は……」
私はいつの間にか涙を浮かべていた。

部屋中を覆い尽くしている真っ黒い煙が目に染みたのか
自分から出た涙なのかはわからないけれど。

「圭織が望むなら何でもしてあげるって後藤はあの時に言ったよね…。
それは今でも変わらないよ……」
私が真剣に言うと圭織は嬉しそうな笑みを浮かべた。
177 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時04分18秒
あの時の約束。
圭織の事を忘れないという約束は故意じゃなかったと言っても破ってしまった。
でも、圭織の為に何でもしてあげるっていう気持ちは変わらない。

私の気持ちは…。

私はそっと背伸びをして圭織の唇に触れた。
ほんの一瞬。
あの時と一緒でやっぱり冷たかった。

圭織は少し驚いて、すぐに笑みを浮かべると両手を私の目の前に差し出した。

「……え?」
私は呆気に取られたまま、フラフラと圭織から離れた。
圭織に軽く肩を押されたからだった。

炎はメラメラと辺りを埋め尽くしている。

「同情なんていらないよ」
圭織は笑顔で呟いた。
違う、と言おうとした瞬間、煙が私の顔を覆った。
涙目になってゲホゲホとむせているとまた圭織の声が聞こえて来た。
178 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時19分15秒
「圭織は後藤に後を追ってだなんて頼んでない。
あの時も今も。
ただ、圭織の事を忘れずに生きていって欲しかっただけ…」
黒い煙に見え隠れしている圭織の顔には相変わらず笑みがあって
そして、一筋の涙が伝っていた。

「圭織!」
煙で見えなくなっていく圭織に向かって私は叫んだ。
その瞬間、誰かに腕を掴まれた。
「後藤!逃げるよ!!」
市井ちゃんだった。
いつの間にか目が覚めていたらしい。
私はまた圭織の方へ向いた。
何も見えない。
後ろで市井ちゃんが咳き込んでいる声が聞こえる。

嫌だよ。
こんな別れ方…。
これじゃあ、あの時と一緒じゃん。
私は何も言ってないのに…。

「圭織!返事してよ!!
まだ話は終わってないよ!!」
泣きながら私が炎に向かって行こうとするのを市井ちゃんが
後ろから強引に押さえ込んだ。
179 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時20分26秒
「バカッ!死にたいの!?」
「それでもいいから離して!」
私は無理やり市井ちゃんから離れようとした。
いつもなら弱いはずの市井ちゃんの力が今日に限ってものすごく強い。
身体が全く動かない。

「離してよ!」
ボロボロ泣きながら大声で叫ぶと
市井ちゃんは手を離した。
でも、すぐに私の肩を取り、無理やり自分と向き合うように
振り向かせて思いきり私の頬をぶった。

私はぶたれた頬を抑えようともせずに
市井ちゃんを睨みつけようとして表情が固まった。
今まで見た事もない顔がそこにはあった。

市井ちゃんが本気で怒っている顔を初めて私は見た。

「こんな所で後藤を死なせられるわけないでしょ!
それでも抵抗するって言うんなら無理やり連れ出してやる!!」
市井ちゃんは怒鳴りながら私の身体を抱き抱えた。
力なんてないくせにフラフラしながら階段を上る。
180 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月27日(水)03時21分39秒
背後で激しい音を立てて、物が倒れる音が聞こえた。
私はすでに抵抗する気も失せていた。
ただ、市井ちゃんの首元に腕を回して
大声で泣いていた。

階段を上ってあと一段で外という所で
聞き逃してしまいそうなくらいの小さな声が聞こえた気がした。

「こんな再会の仕方だったけど会えて嬉しかったよ。アリガトウ…」

あの時も圭織は同じ言葉を言った。
圭織のアリガトウという言葉は諦めの言葉。
そんな言葉いらない。
言って欲しくなかった。

アリガトウなんて言わないで…。

私はまた泣いた。
181 名前: 投稿日:2002年11月27日(水)03時24分55秒
>>165さん
ベタでスミマセン。
今回多めに更新したので次で終わります。
182 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時19分02秒
それから二日経った。
今日は私達が予定していた旅行の最終日だった。

「一週間、お世話になりました」
玄関で市井ちゃんは伯母さんと伯父さんに頭を下げている。
私は隣でぼんやりそれを眺めていた。
「また来てくれたら嬉しいけど…」
伯母さんは頬に手をあてて曖昧な笑みを浮かべていた。
ここに来ると私が圭織の事を思い出すと思っているのかもしれない。

「また来ます」
私は笑みを作って言った。
皆、戸惑っていた。

ここでは色々な事があり過ぎた。
過去でも現在でも。
でも、私は後悔なんてしていない。

市井ちゃんはまた伯母さんの方へ頭を下げて
そして、自分の荷物を手に取り、歩き出した。
私もそれに続く。

数日前の豪雨が嘘だったかのような雲一つない青空が広がっていた。
ただ、もうあの春の臭いはしない。
もう桜の季節も終わってしまっていた。
183 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時20分17秒
「後藤…身体の調子はどう?」
歩きながら市井ちゃんが声をかけてきた。

私はあれからまた高熱を出してしまい
しかも、腰の打ち身が酷く
ずっと寝込んでしまった。
そして、市井ちゃんはマメに介護してくれた。
本当なら有難いと思うはずなんだけれど
どうしてだか、私は素直に喜べなかった。
一人にして欲しい、と思っていたからかもしれない。

「身体はもう大丈夫だよ。色々と心配かけてゴメンね」
「いや、別にいいんだけど…」
市井ちゃんは頭を掻きながら私から視線を外した。
二人共、何も言わずに黙々と歩く。

ここに来る前と今では私達の関係は何か変わってしまったのかもしれない。
何が変わったのかはよくわからないけれど。
何となくそんな気がする。

「……あ」
市井ちゃんのポツリと呟いた声で私も気がついた。
圭織の家の前まで私達はいつの間にか来ていた。
駅までの帰り道の途中にあるのだから
当然、ここを通らなくてはいけなかったのだろうけど。

「…燃えちゃったね」
「そうだね」
私達は淡々と呟いた。
184 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時23分27秒
圭織の家は全焼していた。
地下室から出火した火は勢いが激しく
あっという間にこの家を飲み込んでしまったらしい。
雨が止んでいたのも、消防車の到着が遅れたのも
運が悪かった。

真っ黒に崩れ落ち、姿を変えてしまった建物。
ここにはもう何もない。
今まで見てきたものが全て幻だったのではないかと
錯覚してしまいそうになる。

「あれ?」
見間違いだと思った。
こんな状態であるわけがないと思った。
それでも、私の視界にはあるはずのないものが残っている。
私はそれに誘われるかのように歩き出した。

「ちょっと、後藤!入っちゃダメだよ!」
門の辺りにある立ち入り禁止のテープを見て市井ちゃんが顔色を変えている。
でも、私が心配だったのか、すぐに追いかけてきた。
そして、市井ちゃんも見つけたらしく、驚いている。

「…なんで残ってるんだ、この木」
185 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時24分42秒
桜の木は何故か残っていた。
建物のすぐ傍にあって、あっという間に燃え移りそうなものなのに。
この桜の木だけは残っていた。

何事もなかったかのように。

ただ、やはり全て花びらは落ちていた。
白い絨毯も真っ黒に変わり果てていた。
あの沢山の花びら達はどこへ行ってしまったのだろう。

この木は来年もちゃんと花を咲かす事が出来るのだろうか。
出来る事なら、そうであって欲しい…。

「奇跡だね」
私が呟くと市井ちゃんも不思議そうに顔を上げて木を眺めていた。

「後藤…。あたしさぁ……」
「何?」
私が振り向くと市井ちゃんは視線を動かさず
木を眺めながら続けた。
「今まで後藤の何を見てきたんだろうね」
「……」
「なーんにも知らなかったよ。
怪我の事も。圭織の事も。後藤の気持ちも」
「後藤の気持ち?」
「うん。後藤の気持ち」
市井ちゃんはやっと私の方を見た。
少し頬が赤くなっている。
186 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時27分17秒
「あの時、圭織との会話を少し聞いたんだ」
「あぁ……」
私は曖昧に頷いた。

市井ちゃんの事が好きだという話をしていた時の事を
言っているんだとは思うけれど…。
やっぱり、今まで市井ちゃんは全く気付いてくれてなかったんだね。

「あたしは今まで後藤の事をそんな風に見た事がなかったんだよね」
「うん。それはわかってた」
私が即答すると市井ちゃんは一瞬キョトンとして、すぐに苦笑いを浮かべた。
「でも、あの時…火の中で圭織の方へ行こうとする後藤を見て
絶対、そっちに行かせたくないって思った…。
自分でもなんでかわからない。
死なせたくなかっただけなのかもしれないけれど。
もしかしたら…あの時、あたしは圭織に嫉妬していたのかもしれない…」
「……」
私が黙り込んでいると市井ちゃんは目を瞑って軽く首を振った。
何かを振り払うかのように。

「まあ、いいか。こんな話したってしょうがないや。
電車の時間に遅れちゃうからさ。そろそろ帰ろうよ」
「……そうだね」
私は笑って返した。

市井ちゃん。
ずっと鈍感だったのに。
今頃になって鋭くなるのは反則だよ…。
187 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時28分53秒
それから、何年か経って私はまた圭織の家を訪ねた。

十三歳の頃に来た時のように。
十七歳の頃に来た時のように。
春の暖かい日差しと優しい風がそこにはあった。

でも、圭織の家には空き地になっていた。
門の外からでもわかる。
綺麗に整えられていた。
最後に見た焼けて真っ黒になっていた柱とかは綺麗に無くなっていて
私は少し淋しくなった。

成長期が止まったのか、私の身長は圭織を越す事はなかったけれど
髪の長さは同じくらいになっていて
年齢もいくらか上になっていた。

それだけ時が流れてしまった。

私は門をくぐり、ある場所を目指した。
遠目からでもわかる。
桜の木はまだまだ元気に咲いていた。

あの時と同じように満開に咲き乱れている桜。
花びらが小雨のようにヒラリと落ちる。
188 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時31分04秒
私はあの時から
ここに初めて来た時から
狂ってしまっていたのかもしれない。

それに気付かないふりをする為に自ら記憶を封印していた。
でも、そうすると彼女が哀しむから。
私も自分に正直に生きなくてはならない。

例え、それが間違った生き方なのだとしても。

一瞬だけ風が強くなって花吹雪になった。
私は自分に向かってきた花びらを避けるように
手を顔の前に広げ、目を瞑った。

そして、目を開けた時には自然と口元に笑みを浮かべていた。
189 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時32分08秒
桜の木の下に髪の長い女の人が立っている。

水色のパジャマの上に羽織ってある白色のカーディガンは
風でふわりと広がっている。
遠くからだとその輪郭がぼやけて見えて
私の目には彼女の背に翼が生えているように見えた。

ハラハラと桜の花びらが舞い降りる。
サラサラと彼女の髪が揺れる。

そこには、この世のものとは思えない美しさがあった。

圭織はこちらに振り向いてニコリと笑った。

あの時からずっと変わらない姿で。
あの時からずっと変わらない笑顔で。
190 名前:桜の雨、いつか 投稿日:2002年11月29日(金)02時32分57秒

終わり。
191 名前: 投稿日:2002年11月29日(金)02時33分48秒
・・・ゲ。
sage忘れた。
192 名前: 投稿日:2002年11月29日(金)02時35分40秒
ラスト隠し。

語る事があまりないのであとがきは特にないです。
読んでくれた方々、レスくれた方々。
有難うございました。
193 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月29日(金)11時12分24秒
趣があって、小説世界にトリップできる感じが
好きでした。脱稿、お疲れ様です。
おもしろいものを、ありがとうございました。
194 名前:名無し読者。 投稿日:2002年11月30日(土)00時05分28秒
綺麗な文章を堪能したなぁ。
胸にスーっと染み入る感じです。
いいもの読ませて貰いました。お疲れ様です。
195 名前:名無しさん 投稿日:2002年12月02日(月)03時16分55秒
幻想的な世界観が素晴らしかったです。
こんな作品を提供してくださり、ありがとうございました。
安易にCPな展開にならず、特に飯田さんの使い方が絶妙にヒットしました。(個人的に)
脱稿お疲れ様です、また次回作を発表されるのを楽しみにしています。
196 名前: 投稿日:2002年12月08日(日)05時51分51秒
すっかりレスが遅くなってしまいました。
申し訳ないです。

>>193 さん
有難うございます。
アンリアルな小説なのでそう言っていただけると
本当に嬉しいです。

>>194 さん
有難うございます。
文章についてはまだまだ未熟なので・・・。
そう言ってもらえて大変嬉しいです。

>>195 さん
有難うございます。
こういうラストはもしかしたら嫌われるタイプかな、と
思っていたのでそう言ってもらえてホッとしました。
197 名前:名無しさん 投稿日:2003年01月17日(金)15時20分48秒
今日始めて読ませていただきました。
こんないい作品に今まで気づかなかったとは・・。
今更で申し上げございませんが、こんな良い作品、読ませて頂き
ありがとうございました。

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