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氷上の舞姫
- 1 名前:みや 投稿日:2002年10月13日(日)00時27分30秒
- 予告
少女たちは、何のために滑るというのか?
オリンピックを夢見る少女たち、トリプルアクセルに憧れる少女たち。
その中から、勝者と敗者に分かれる。
「先生、ごめんなさい。ごめんなさい」
夢に敗れKiss&Cryで泣き崩れる者がいる。
夢を追いかけ、今は亡き友のために滑る者がいる。
「みてて、みんな、見てて、尋美」
友を失った悲しみを癒してくれる存在。
「私、夢を語る3人が好きだった」
癒えない悲しみなど無い、と信じたい。
勝者はいつまでも勝者ではなく、敗者はいつまでも敗者では無い。
「世界で一番トリプルアクセルに近い女性、石川梨華、なんでしょあなたは」
さまざまな出会いが人を変えてゆく。
「うちな、見たいねん。梨華ちゃんのトリプルアクセル」
緊張の極限に追い込まれたとき助けを求めて見つめる先には友の姿があった。
「まったく、あさみは世界中どこへ行ってもあさみなんだから」
彼女たちの夢の行方、戦いの行方はいずこに!
『氷上の舞姫』 近日連載開始予定。
主演 石川梨華、戸田鈴音
共演 木村麻美、飯田圭織、里田舞 他
- 2 名前:作者 投稿日:2002年10月14日(月)23時25分27秒
- レス3より本編です
- 3 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月14日(月)23時26分26秒
- 全日本選手権最終日。
石川梨華はショートプログラムを終え、トップにつけていた。
フリーの演技は最後から2番目。
その直前の22人目まで終え、トップはショートプログラム3位の木村麻美。
2位につけていたのは、ショートプログラムで4位の新鋭、里田舞である。
最終滑走者は、ショートプログラムを終え2位の戸田鈴音。
石川のフリーの演技が始まる。
「23番。石川梨華さん。」
リンクの中央に立つ石川。
フリーの曲目、ムーンライトソナタがかかる。
コーチの飯田は心配そうに見つめていた。
- 4 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月14日(月)23時27分18秒
- 滑り出しは上々。
表現力豊かな振り付け。
見る者を魅了するスタイル。
彼女の良さが生かされたプログラムである。
「最初のジャンプ。コンビネーションジャンプ。それだけ決まれば」
飯田コーチの祈るような思い。
体を温めるための出だしの軽い振り付けの後、ポイントとなるコンビネーションジャンプ
へ移る。
石川は、ここでトリプルルッツ、トリプルトーループという、難易度の高いコンビネー
ションを入れている。
最終グループの6人に入る直前のアップで、石川が一度もジャンプを成功していなかった、
飯田の気がかりとなっていた。
- 5 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月14日(月)23時27分59秒
- 自分の演技を終えて、麻美は満足げにスタンドに座っている。
この大会は、オリンピックの選考会を兼ねていた。
フィギュアスケート女子シングルのオリンピック出場枠は2つ。
昨年、石川が世界選手権で7位に入り、確保したものだ。
残りの二人のうち、一人でも麻美よりも低い得点になれば、彼女のオリンピック出場が決まる。
しかし、この時点で麻美は、自分のオリンピック出場はほとんど期待していなかった。
- 6 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月14日(月)23時28分51秒
- 最終滑走者となる鈴音は、石川の演技は見ずに、集中のために時間を割いている。
彼女にとっては、石川の演技は自分との比較対照ではない。
鈴音にとって、石川はまだ雲の上の存在という意識がある。
自分がオリンピック出場権を争う相手は同僚の麻美だと思っていた。
- 7 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月14日(月)23時29分41秒
- 石川が助走を取り、後ろ向きになって両手を広げ、タイミングを計る。
見守る飯田と、見つめる麻美。
そして、会場の観衆達の前で石川は踏み切った。
いつもの高さがない。
さらに、軸もぶれている。
回転が足りず、着氷し損ね転倒。
すぐに立ち上がるも、コンビネーションジャンプは完全な不発に終わった。
- 8 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月15日(火)20時21分49秒
- 日本の第一人者石川は、鈴音達にとって遠い遠い存在であった。
彼女たちが初めて言葉を交わしたのは、プロに混じってのアイスショーで共演した際である。
この時、石川はすでに日本のトップスケーターであり、世界選手権などにも出場している。
それに対して、鈴音は国内でもようやく上位に顔を出してきたという程度のレベルであった。
同僚の麻美も含め、3人でのショーであったが、そのプログラムは、完全に石川用にアレンジ
された物で、鈴音、麻美の二人は石川の周りを滑る引き立て役。
彼女たち二人がこのショーに呼ばれたのは、二人の所属するフラワースケーティングクラブ
が、地元でアイスショーを何度も開いているという実績があったためであった。
- 9 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月15日(火)20時22分33秒
- 「あの、サインいただけますか?」
鈴音の、石川と会った際の最初の一声がこれであった。
石川と共演できると聞き、彼女は色紙を持参したのだ。
この時の鈴音の印象を石川はその後、こう語っている。
「ファンの方かと思いました、最初。それが、共演者だって言うから驚きましたよ。雰囲
気が、スケーターじゃないんです。演技自体は力強くて、とくにジャンプはいい物があるな
って感じましたね。そのうち、私の強力なライバルになるかもって」
- 10 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月15日(火)20時23分22秒
- この、石川の言葉どおり、鈴音、そして麻美までも、日本のトップの位置に上ってきた。
昨シーズン、石川、鈴音、麻美、と3人が出場した四大陸選手権では石川が2位、鈴音は
7位、麻美が9位。
それが、今シーズンに入り、NHK杯では、石川の2位に対して、鈴音も3位につけ、麻美も
5位に入った。
スケートカナダでは鈴音は2位となっている。
このことが、石川にとって大きなプレッシャーとなっていた。
いつか、負けるかもしれない。
- 11 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月15日(火)20時24分55秒
- 上を目指して頑張ってきた。
日本のトップになった。
そして、世界へ。
常にチャレンジャーの立場でいた彼女が、初めて追われる立場となったのである。
世界にチャレンジするには、日本のトップでいることは最低条件。
そう考えている、そう、コーチから言われている彼女にとっては、このことは大きな大き
な重圧となってのしかかっていた。
- 12 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月15日(火)20時25分37秒
- 前日のショートプログラム。
石川のスケーティング順は、3番目。
鈴音の11番目、麻美の13番目に対して、かなり早い順番である。
そのために、あまり周りに意識が向かず、それなりに自分の演技に集中できた。
その結果、ショートは一位。
しかし、鈴音、麻美の演技を見て、大きな危機感も感じていた。
さらに、フリーでは麻美の完璧な演技を目の当たりにしている。
飯田コーチに言わせれば、麻美の完璧な演技は石川の8割で上回れるのだが、石川の頭の
中では、完璧にしなきゃ、完璧にしなきゃ、そのことだけで占められていた。
- 13 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月16日(水)22時15分20秒
- 石川の転倒に、観衆はどよめく。
めずらしいな、こんなこともあるんだ、と麻美は思っていた。
飯田は、頭を抱える。
それでも、次、次で立て直してくれれば、そう信じる。
コンビネーションジャンプのおよそ20秒後に、次の3回転ジャンプ、トリプルフリップ
をプログラムに入れている。
そこから立て直せば、十分に麻美の得点は上回れる。
しかし、石川は、そこでトリプルフリップを飛ばなかった。
- 14 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月16日(水)22時16分39秒
- 「あのバカ!」
飯田が思わず、叫ぶ。
石川は、前向きに踏み切ったのだ。
フィギアスケートにおいて、前向きに振り切るジャンプは一種類しかない。
それは、アクセルジャンプである。
石川は、飯田コーチの元でトリプルアクセルの練習を積んでいた。
トリプルアクセル、またの名を三回転半ジャンプ。
しかし、それまでに成功したことは、練習段階でも一度もない。
それを、ここで、試みた。
- 15 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月16日(水)22時19分03秒
- 左足で、体重を支え、右足で反動をつけ飛び上がる。
スケーターが踏み切ってから着地するまでの時間は2秒に満たない。
その短い時間でも、実際に降りる前に、そのジャンプが成功するかどうかは、大体感じ取る
ことが出来る。
飯田は、遠目にみて、明らかに失敗ジャンプであることが分かり、着地する前に頭を抱えた。
- 16 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月16日(水)22時20分03秒
- 石川は、踏み切った瞬間に感じていた。
ダメだ。
この瞬間に、気持ちが切れた。
オリンピックは、もう無い。
自分には、無理だったのだ。
彼女は再び転倒した。
- 17 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月16日(水)22時22分01秒
- 石川は、現役時代ジャンプの名手であった飯田がコーチについているが、実際には
表現力の評価が高い選手である。
幼い頃はバレエを学んでいたということもあり、そのしなやかな演技は、世界にも
ファンが多い。
鈴音や麻美は、それをうらやましいなあ、と見ている。
フィギアスケートのフリー演技には二つの採点項目がある。
テクニカルメリットと、プレゼンテーション。
石川の場合、プレゼンテーションは、国内レベルの大会では安定して6.0満点中
5.8〜5.9をとる。
これは、転倒などがあっても、影響を受ける要素が比較的少ない。
麻美の得点は、プレゼンテーションでは5.4〜5.5。
テクニカルメリットは、5.5〜5.6といったところであった。
石川は、仮にプレゼンテーションが5.7まで落ち込んでも、テクニカルメリットは
5.3あれば、トータルでは上に出られるはずである。
- 18 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月17日(木)23時44分17秒
- そういった得点計算が出来れば、残りの演技をまとめれば、まだまだチャンスはある、
と考えられる。
しかし、石川の中では、すでに終わってしまっていた。
その後、スパイラル、レイバックスピンなど、彼女の得意パートこそしっかり決めてき
たが、ジャンプが決まらない。
転倒こそ、その後は1度ですんだものの、回転の足りないことが目立ち、満足に決まった
のはトリプルトーループとダブルアクセルのみであった。
- 19 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月17日(木)23時44分57秒
- 演技終盤、石川はあふれ出てくる涙を抑えきれなくなっていた。
飯田コーチ、ごめんなさい。
夏先生、ごめんなさい。
わたし、やっぱりだめでした。
ごめんなさい。
飯田コーチの生徒なのに、私、ダメでした。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
- 20 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月17日(木)23時45分34秒
- 石川の感情と関わりなく、曲はクライマックスを迎え、そしてラストのスクラッチスピン。
涙で顔をぬらしながら、高速回転し、次の瞬間に動きを止める。
最後に、一つステップを刻み、天を仰ぎ、彼女の演技は終わった。
拍手は、まばらであった。
- 21 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月17日(木)23時46分45秒
- 石川は、常にファンを大切にしている。
いつもは、演技終了後、リンクへ投げ入れられる花束を、みずから拾っていた。
今日は、それさえもしない。
リンクの中央で泣き崩れ、しばらくしてから、そのままリンクを後にする。
最終演技者の鈴音と、リンクの出口ですれ違った。
鈴音は、涙でぬれた石川の顔に気づくが、石川は、そこに鈴音がいることにすら気づかなかった。
- 22 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月17日(木)23時47分22秒
- Kiss&Cry。
喜びと悲しみの交錯する場所。
全ての演技者は、ここで自分の採点コールを聞くことになる。
その入り口に、飯田は待っていた。
「先生、ごめんなさい。ごめんなさい」
しゃくり上げながら、石川は飯田にすがりつく。
「わかったから、わかったから」
飯田は、石川をうながし、Kiss&Cryのいすに座らせる。
採点が終わり、彼女の得点がコールされる。
- 23 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月18日(金)23時20分39秒
- 「23番、石川梨華さんの得点」
テクニカルメリット
5.1 5.2 5.0 5.0 5.1 5.4 4.8 5.1 5.0
プレゼンテーション
5.4 5.3 5.4 5.4 5.3 5.6 5.0 5.3 5.3
順位
3 3 3 3 3 2 4 3 3
- 24 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月18日(金)23時21分13秒
- フリー演技の順位は、この時点で木村麻美、里田舞についで、3位。
総合では、麻美がトップ、ついで石川、3位に里田の順となる。
石川の演技が終了し、木村麻美の2位以内が確定。
彼女のオリンピック出場が内定した。
「おめでとう」
観客席に上がっていた麻美は、隣に座る元先輩、小林梓に声をかけられてはっとする。
石川の得点を聞いても、まだ自覚がなかったのだ。
それほどまでに、彼女にとってオリンピックという存在は遠いものであった。
石川と鈴音の二人が出るものだと思っていた。
- 25 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月18日(金)23時22分23秒
- 石川の演技が終わり、残す演技者は、戸田鈴音ただ一人。
オリンピック出場権をめぐる争いは、最後のステージを迎える。
現在、木村麻美が出場権獲得を決定している。
残るイスは一つ。
そのイスに座る可能性が残っているのは、石川、里田、そして鈴音の3人である。
鈴音がそのイスに座るためには、フリー演技で里田を上回り2位に入ればいい。
逆に、鈴音がフリーで4位以下になるとオリンピック出場権は石川の手に戻る。
里田にオリンピック出場権が移るのは、鈴音がフリーで里田と石川の間である3位に入っ
たときだけである。
この時、石川の順位点は4.5、戸田と里田は4.0で並ぶ。
しかし、フリーの順位が上の里田が逆転でオリンピック出場権を得るのだ。
- 26 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月18日(金)23時23分33秒
- 石川の得点が発表されたとき、里田の頭の中には、これらの情報が全てインプットされた。
自分に、わずかではあるがチャンスが来たのだ。
自分にはどうすることもできないけれど、それでも、かろうじてやってきたチャンス。
先輩に当たる鈴音には申し訳ないが、ある程度の失敗をして3位になって欲しいと、そう
願っていた。
- 27 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月18日(金)23時24分45秒
- 石川の演技を全く見ずに、音楽が終わったところでリンクに向かった鈴音は、涙で顔が
ぐちゃぐちゃの石川に驚かされた。
そんなに、感動しなくてもいいのに。
的はずれなことを感じている。
リンクで、軽く滑り体を温めながら、石川の得点を聞く。
思わず、電光掲示板の方を振り返った。
1位 ASAMI KIMURA
2位 RIKA ISHIKAWA
3位 MAI SATODA
ホントに? ホントに?
一瞬パニックになるが、それでもすぐに理解する。
「麻美、おめでとう」
彼女が座っているであろう方を一瞬見て、軽くつぶやく。
「見てて、みんな。見てて、尋美」
リンクの中央で演技の体勢になり、曲を待つ。
- 28 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月19日(土)23時34分26秒
- フィギアスケートは、大変金のかかるスポーツである。
個人でコーチを雇い、トレーニングを積み、各地を転戦する。
一般家庭では捻出することの出来ないような費用が必要となってくる。
しかし、当然のことながら、フィギアスケートの才能を持つ選手の家が、金持ちである
とは限らない。
そのジレンマを解消するために作られたのが、フラワースケーティングクラブであった。
複数の選手に対して一人のコーチがつく。
それにより、金銭的な負担を抑えることが出来、また身近にライバルが存在することで、
競争心が生まれてくる。
この考えを実践しようとしてきたクラブはかつても存在した。
それに対して、このクラブの最も特徴的なことは、住み込みで働きながらレッスンを受け
るので、選手は費用0で良いというところにある。
- 29 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月19日(土)23時35分02秒
- フラワースケーティングクラブに所属する選手は、全員が北海道日高にある牧場で暮らしていた。
彼女たちは早朝から、牛の世話、馬の世話をし、昼間にレッスンを受ける。
牧場近くでは、クラブ主催でアイスショーも行われ、地元の人気を集めていた。
鈴音は、そのクラブの設立当時から残る唯一のメンバーであった。
- 30 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月19日(土)23時36分29秒
- 茶色の革地の衣装。
カウボーイをイメージしている。
コレオグラファーの夏まゆみが彼女に与えたプログラムとマッチした衣装。
鈴音は、自分の演技をすることに集中していた。
オリンピックの選考会で、今、これから自分が演技をするという自覚はある。
彼女にとってオリンピックは、夢、という一言では片づけられない、とてつもなく重みの
ある物だ。
しかし、彼女はリンクの上に立ち他人と自分を比べる、ということを、順位を、得点を考
えるということを、すでに頭からはずしていた。
いい演技を、必ず見てくれていると信じている人に見せることだけを考えていた。
ラフマニノフのピアノコンツェルト2番。
曲が始まり、鈴音の演技がスタートした。
- 31 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月19日(土)23時37分23秒
- 「よくやったから、石川は、よくやったから」
飯田は、Kiss&Cryの横の、リンクがよく見える位置で、泣きやまない石川を抱きしめていた。
石川をなだめつつも、視線は鈴音の演技に向いている。
飯田は、これまで、他人の演技に、いや、他人に興味をほとんど持っていなかった。
現役時代は、考えるのは自分の演技のみ。
人と比べるよりも、自分がどれだけの演技が出来るか、自分の演技が周りにどう映るのか、
そればかり考えていた。
だから、順位に大きなこだわりはなかった。
あったのは、トリプルアクセルへのこだわり、6.0へのあこがれ。
人の演技は、参考にこそすれ、比較の対象ではない。
それぞれに、いい演技が出来ればいい、そういう気持ちで現役時代は過ごしてきた。
そんな彼女に、今日、初めて生まれた感情がある。
- 32 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月19日(土)23時37分57秒
- 失敗して欲しい。
鈴音の演技を見ながら、飯田は、それだけを思っていた。
自分の腕の中で、いまだ泣きやまない石川。
自分の持つ全てをそそぎ込んできた石川。
彼女が笑顔を取り戻すために、鈴音には失敗して欲しい。
飯田が、初めて他人に対して負の感情をもって、演技を見つめていた。
- 33 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月20日(日)23時37分46秒
- 最初のコンビネーションジャンプ、トリプルループ−トリプルループがきれいに決まる。
会場は拍手の嵐。
鈴音は、たった一人の人のために、今、演技している。
「ダメだ、鈴音さんは失敗しない」
里田は、最初のコンビネーションジャンプを見て、ぽつりとつぶやく。
里田は、フラワースケーティングクラブの最も新しいメンバーである。
彼女は、初めからこのクラブに入るつもりではなかった。
里田の家は十分に裕福である。
彼女は、選任コーチとして、かつて飯田を世界チャンピオンに導いた、和田薫を選ぼうと
していた。
しかし、そこに日本フィギュアスケート協会理事の寺田から横やりが入る。
- 34 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月20日(日)23時38分28秒
- 「里田は、田中コーチの元でレッスンを受けなさい」
里田の潜在能力に、田中が惚れた。
そして、寺田に訴えたのだ。
彼女が欲しいと。
田中にとって、打倒石川梨華が今の悲願である。
日本の女子フィギュアスケート界は、これまで、和田−飯田圭織−石川梨華、という
3人の師弟達にトップを握られてきていた。
この流れをなんとか変えたい。
その意思は、寺田の利害とも一致した。
一つのグループだけにトップに居座られるよりも、まわりのレベルが上がり、全体で競
い合った方が日本全体として競争力が付いていく。
協会の理事としてそんな考えを持つ寺田は和田に対して、里田のコーチ就任をことわり
フラワースケーティングクラブへ行くように言わせた。
和田には、見返りとして協会のポストを一つ用意した。
- 35 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月20日(日)23時40分58秒
- こんな政治的な動きを、里田本人は知るよしはない。
屈辱的であった。
自分の才能は、石川に劣るというのか!
こんな雪国で、駄馬にまじってレッスンを積めというのか!
牧場を最初に見たとき、そんなことが頭によぎったが、それでもそのまま残った。
絶対に見返してやる、それだけを支えに。
- 36 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月20日(日)23時41分59秒
- こんな田舎の選手達より、自分の方が絶対に上だと思っていた。
実際、ジャンプだけなら鈴音や麻美とも大差なく、成功率ならむしろ上回ってさえいる
しかし、実際にレッスンを受けてみると、二人は自分よりもはるかに高い表現力を持っていた。
たとえ、地元の人を相手にした小さな物であっても、ショーを連日積み重ねた結果がそこにあった。
それを見て、里田は初めて、素直にこのクラブでこの人達と頑張っていこうと感じることが出来た。
鈴音や麻美と、仲間としてやっていこうと思った。
- 37 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月20日(日)23時43分36秒
- 鈴音の演技は続く。
コンビネーションジャンプの後、トリプルルッツを決め、さらに美しいスパイラルに
観客は酔いしれる。
その演技から、麻美は鈴音の強い意志を感じていた。
自分には、触れることの出来ない、鈴音だけの世界。
一番身近にいた自分でも、決して立ち入ることの許されなかった鈴音だけの世界。
そこに、何が住んでいるのかは、よく分かっている。
自分が入っていくことが出来ないのは寂しいけれど、その世界に閉じこもりっきりになっ
ていた鈴音を、外の世界に導いたのは自分だという自負がある。
麻美が本格的にフィギアスケートの世界に飛び込んだのは、割と最近のことである。
クラブのメンバーではなく、単なる牧場の従業員であった彼女も、スケートが滑れたこと
からアイスショー用にクラブ員達と共にレッスンを受けることが何度かあった。
そのレッスンやアイスショーで彼女の才能を見込んだ田中が、彼女に本格的にスケートを
滑ることを薦めたのだ。
しかし、麻美自身は、フィギアスケートを始めた理由は、その薦めのためだけではなかった。
- 38 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月21日(月)21時51分24秒
- 鈴音に元気になって欲しい。
鈴音と一緒にいたい。
元気な鈴音と一緒にいたい。
クラブにただ一人残された鈴音を見て、麻美はそう思っていた。
鈴音のために! そう思って始めたフィギアスケートである。
勝ちたいなんて考えたことはなかった。
だから、一人でオリンピックに行ったってつまらない。
最高の演技を私にも見せて。
きっと、私のために演技しているのではないのだろうけど。
鈴音の演技を、麻美は瞬きもせずに凝視していた。
- 39 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月21日(月)21時52分41秒
- カウボーイ風の衣装に包まれた鈴音の演技は続く。
ストレートラインステップシークエンス。
直線上をステップを踏みながら、進んでいくというだけのパート。
ここが、彼女の最も得意とするパートであった。
牛を追いかける様をコミカルに表現し、観客の笑いと拍手を誘う。
単なるステップでここまでの拍手をもらえる選手は、世界中で見ても彼女一人といってもいい。
本人の意識よりも、彼女の演技は観客達から高い評価を得ている。
- 40 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月21日(月)21時53分44秒
- ようやく泣きやんだ石川は飯田の胸から離れ、その演技をぼーっと目で追っていた。
頭の中は真っ白だった。
ただ、鈴音の動きに視線を向けているだけ。
得点を予想することも、演技に感動することもなかった。
飯田は、そんな石川とリンクの上の鈴音を交互に見ている。
おそらく、だめだろう。
ここまでの演技を見るかぎり、明らかに鈴音には石川よりも高い得点がつく。
そう思っても、まだ、鈴音の失敗を期待していた。
- 41 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月21日(月)21時54分29秒
- なぜ、石川は失敗したのだろう。
飯田には分からなかった。
オリンピックの重圧と一言で言ってしまうのは簡単なこと。
しかし、これまでに世界選手権に3度出場した彼女だ。
オリンピックの出場枠を争った昨年の世界選手権でも、満足のいく演技で見事に二つ
のイスを確保してきた。
一度転倒するくらいなら分かる。
ミスは誰にでもあるものだ、それは仕方ない。
今回のような、プログラムの全編を通して、まるで演技になっていないというような
失敗は考えられないことだった。
- 42 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月21日(月)21時55分12秒
- 石川。あんたの心の中に何がいるんだ?
私は、何もしてやれないのか?
何もしてやれなかったのか?
飯田自身も自責の念を抱えながら、再び視線をリンクの上に戻した。
- 43 名前:K,XY 投稿日:2002年10月22日(火)17時42分05秒
- 銀板「ファーストブレイク」とこの「氷上の舞姫」読ませていただきました。
(あまり時間が無かったので簡単にですが…)
あまり題材にしないスポーツなので、とても読み応えがあります。
頑張ってください。
- 44 名前:作者 投稿日:2002年10月22日(火)23時12分07秒
- >>43
ありがとうございます。
フィギュアスケートは、石川さんに似合うと思うんですけどねえ。
お時間のある時にでもゆっくり読んで見てください。
- 45 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時12分57秒
- 鈴音は、会心の演技だった。
彼女が、日本選手権に初めて出場したのは3年前。
そのときは、ショートプログラム17位、フリー、21位、総合20位。
三人で出場するはずだった大会に、一人で出場した。
何もできなかった。
なぜ、私はここで滑っているのだろう?
なぜ、ひとりぼっちなのだろう?
そこから、ここまではい上がってきた。
- 46 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時13分36秒
- 4分間の演技も終盤。
観客の手拍子を受けながら、ステップを刻む。
さらに、最後のジャンプとなるダブルアクセル。
高さのあるジャンプをしっかり決める。
スクラッチスピンから、フィニッシュ。
「終わったよ。尋美。感想、聞かせてよ」
両手を広げ、気取った風に観客へ頭を下げる。
この大会で最高の拍手を受ける。
リンクの中央で笑顔を見せている鈴音へ、石川は相変わらずうつろな視線を向けていた。
- 47 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時14分19秒
- 投げ入れられる花束。
鈴音自ら抱えきれないほど拾い上げ、Kiss&Cryへ戻ってきた。
出迎える田中コーチへその一部を渡し、採点を待つ。
誰が見ても結果は明らかだった。
飯田はそれでも、まだ心のどこかで期待をしてしまっていた。
お願い! 石川を、オリンピックに出させてやって下さい。
- 48 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時16分00秒
- 「18番、戸田鈴音さんの得点」
テクニカルメリット
5.8 5.7 5.7 5.8 5.9 5.9 5.9 5.9 5.8
プレゼンテーション
5.7 5.7 5.8 5.6 5.8 5.8 5.9 5.9 5.8
順位
1 1 1 1 1 1 1 1 1
- 49 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時16分33秒
- 鈴音の優勝。
9人のジャッジ全員が1位の得点をつけた。
文句のつけようのない優勝。
「りんね!!!」
得点が電光掲示板に表示された直後、観客席から再び降りてきたあさみが声をかける。
鈴音の横では、田中コーチが両手を広げ、鈴音を呼び入れようとする。
「あさみ!!!」
鈴音は、田中コーチの横を抜け、麻美に抱きついた。
二人は、何も言わずにただただ抱き合っていた。
二人とも、顔は、涙で濡れていた。
- 50 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時17分21秒
- この光景を見て里田は思う。
私は、まだ仲間になりきれていないんだな。
涙は出てこなかった。
良かったね、とは思うけど、それだけだった。
- 51 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年10月22日(火)23時19分04秒
- 鈴音の得点が発表され、石川は再び、飯田の胸にすがりつく。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
ただただ、その言葉を繰り返す。
次第に、その言葉も出なくなり、嗚咽が漏れ聞こえ始めた。
石川を受け止め、抱きしめる飯田の目も光っていた。
- 52 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月02日(土)01時42分16秒
- 珍しい題材なので楽しみにしています。
- 53 名前:作者 投稿日:2002年11月03日(日)00時24分44秒
- >>52
ありがとうございます。
題材と、登場人物も珍しい話しになってます。
最後まで楽しんで行ってください。
- 54 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)00時26分38秒
- 負けた。
オリンピックの出場権をつかむことが出来なかった。
なんで転んだのだろう。
私はやっぱりだめな子なのかな?
今まで上手くいってたのは、運がよかっただけなのかな?
なんで私はだめなんだろう。
無表情なまま過ごした表彰式を終えそのままタクシーで帰宅した石川は、部屋のドアを
開けるとそのままベッドに倒れこんで泣いた。
いくつものなんで、どうして、を頭の中で舞わせながら、泣きつかれて石川はそのまま
眠りについてしまった。
- 55 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)00時27分26秒
- 次に目を覚ましたのは、すでに日が高く上った時間。
一人で暮らす彼女を眠りから呼び起こしたのは、電話のベルだった。
音に目を覚まさせられたものの、電話を取りに動くことはしない。
スリーコールの後、留守電のテープが動き出す。
石川は、電話の方へ目を向けることもなく、仰向けに天井を見たままメッセージを聞いた。
電話は、出版社からのものだった。
雑誌のインタビューを中止したいというもの。
オリンピック出場を前提とした仕事であったから、ごく自然な流れだろう。
その後もそんな電話が何本か入った。
今日予定していた雑誌の取材とテレビのコメント取りのどちらも中止。
それらの電話をベッドの上で何の感慨もなしに石川は聞いていた。
- 56 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)00時28分09秒
- 時計を見る。
すでにお昼を過ぎ、後少しでレッスンの予定時刻という頃だった。
大会の翌日で、軽い練習だけとは言え本来ならサボる訳になどいかない。
どうしようかな、などとベッドに横になったまま考えていると、時間は刻々と過ぎ去って行く。
レッスンの予定時刻を5分ほど過ぎた頃、石川の自宅の電話が再び鳴った。
お決まりの言葉を奏でるテープが回り始める。
ピー、という発信音の後、聞こえてきたのは飯田コーチの声だった。
- 57 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)00時28分54秒
- 「石川、家にもいないの? いるの? まあ、いいは。いるなら聞いて。とりあえず、
今日の練習は無しにしよ。かおりもさ、ちょっと疲れちゃったし、石川も疲れたまってる
でしょ。だから、今日はお休み、遊んでないでゆっくり休むんだぞー。そ・の・か・わ・
り、明日からはちゃんと練習するからな。明日の朝、来てくれるかな? いいとも!
なーんてね。それじゃーね」
飯田コーチの不思議なテンションにつられ、受話器の方へと目をやった。
- 58 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)00時30分00秒
- 「別につかれてなんかいないよ」
壁を見つめながら、一言発する。
それから起き上がり雨戸を明け窓の外を見ながら一つため息をついた。
「おでかけしよ」
口に出してから、何自分で解説してるんだろう、と思った。
一人暮らしはじめてから独り言が増えたなあ、などと考えつつ着替えをし、軽くメイクも
する。
なんだ、意外と元気じゃん私、と少しだけはれぼったくなっている目にアイシャドウを塗
りながら、鏡に映る自分を見て思った。
- 59 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)23時41分10秒
- マンションのエレベーターを降り外へと出る。
部屋の前の並木道には黄色い落ち葉が散っていた。
そらは薄曇り。
冷たい北風も弱いながら吹いている。
そんな中を、白いダッフルコートに身を包んだ石川は駅へ向かって歩く。
目的地は、特に無かった。
なんとなく、駅に向かい電車に乗る。
降りた駅は、このあたりでは最も開けた街。
別に、なにが欲しいというわけでもないけれど、暇な時はよく買いものに出る。
プロフィールの趣味の欄にはショッピングといつも書いていた。
それくらい買いものが好きな石川だったが、今日はまったく触手が動かない。
一時間歩いても、一つもお気に入りのものに出会わなかった。
- 60 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)23時41分51秒
- いつもワンパターンだから飽きたのよ、きっと。
さっきから、洋服と雑貨のお店にばかり入っていた石川は、そう決めつけて、少し休む
ために紅茶の専門店に入った。
アプリコットティを注文し一息つく。
店内の石川の目が留まる席には女子高生たちが談笑していた。
何の話をしているのだろうか?
石川は、自分と同年代のその少女たちがどんな話をしているものなのだろうか、と少し気
になりながら、ティーカップを口へと持っていく。
一人で街歩きも寂しいな、と思い携帯を取り出した。
誰かを呼び出そうかと思ったが、その当てがないことに気づく。
- 61 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)23時43分01秒
- 石川はずっとスケート中心の生活を送ってきた。
高校は一応通っているが、遠征などで休みがちである。
今日も、試合明けということもあったが、授業のある日にもかかわらず、平然と昼間に
練習を入れていた。
その上、普段から早朝に練習し、学校ではほぼ寝て過ごし、放課後はすぐにスケート場へ
直行する彼女には、学校の友達、と呼べる存在はいない。
休みに街を歩くときは、大抵一人か妹と一緒か、飯田コーチが横にいるかのいずれかだった。
今、石川には、りんねとあさみの間柄のような、仲間と呼べる存在もいなかった。
- 62 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)23時43分37秒
- 携帯のアドレスを手繰る。
出てくるのは、スケート関係の知人、シューズメーカーの担当者、美容院、整体院などなど。
スケートを離れた場面での友達の電話番号は一向に出てこない。
牧場の番号が載っている鈴音や麻美の欄をすっ飛ばし、さらにアドレスをめくる。
そんな中で、友達と呼べる数少ない人の番号があった。
- 63 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月03日(日)23時44分12秒
- あやや 090-×××-××××
仕事でこっちに来てたりしないかな。
そんなことを期待しながら掛けてみる。
「お客様が、おかけになった電話番号は、現在、電波が・・・」
ちっ、と舌打ちして“切”ボタンを押す。
もともとあまり期待していたわけではないが、それでもやはり電話に出てもらえないとさびしかった。
- 64 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月04日(月)23時29分39秒
- ティーポットには、まだアプリコットティーは残っていたが、店を後にした。
石川は、何か目新しいものないかな、と探しながら歩く。
目に付いたのは、電気量販店だった。
機械音痴なせいもあり、普段なら絶対に立ち入ることはない。
そこをあえて入ってみることにした。
- 65 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月04日(月)23時30分12秒
- 店内には、石川が期待した以上にいろいろな種類のものが並んでいた。
洗濯機、冷蔵庫、ミニコンポ、などなど、とりあえず今すぐ欲しいものではないけれど、
なんとなくこれいいな、と思いながら歩くのはそれなりに楽しい。
次に目に付いたのはテレビだった。
うちにもこんな大きいの欲しいなあ、とフラット液晶テレビに目をやる。
そこには、ついさっき石川が電話を掛けた相手が写っていた。
- 66 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月04日(月)23時30分58秒
- 「はーい、松浦亜弥でーす。今回は、キャスターという、これまでにしたことのないお仕
事をさせていただくことになったのですけど・・・」
生放送に出てれば携帯になんか出られる余裕ないなあ、と苦笑い。
松浦とは、かつてなんどか出演したバラエティ番組で競演し親しくなっていた。
メールだけでも送っておくか、と携帯を取り出すと、画面が変わった。
「さて、この亜弥ちゃんがキャスターをしてくれるオリンピックですが、続々と代表選手
が決まっています。昨日もフィギュアスケートの・・・」
切り替わった画面に映るのは、石川の姿だった。
- 67 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月04日(月)23時31分42秒
- 「優勝候補最右翼と見られていた石川選手ですが、最初のコンビネーションジャンプを・・・」
スポーツキャスターの解説が続く。
石川は携帯を左手に握り締め、画面に移る自分を凝視していた。
Kiss&Cryでの石川の表情の後、鈴音の演技に切り替わる。
最後のスピンからの決めポーズとともに、順位が示され、その後フィギュアスケート協会が
発表した代表選手の名前が表示される。
女子シングルの欄には、当然のようにりんねとあさみの名前が並び、石川の名前はなかった。
- 68 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月04日(月)23時32分28秒
- 石川は店の外へと駆け出した。
すでに薄暗くなった道を走る。
道行く人は何事かと、すれ違いざまに彼女の方を見ていた。
石川は、細い路地を曲がり、人通りのなくなったあたりで立ち止まり、そしてひざを抱えて
座り込んだ。
「出たかったよ、オリンピック」
一言そう漏らす。
24時間ぶりに涙が溢れた。
顔を覆いすすり泣く石川は、ひとりぼっちだった。
- 69 名前:M.ANZAI 投稿日:2002年11月05日(火)20時35分31秒
- 等身大の彼女の正直な気持ちが覗えるちょっと切ないシーンですね。
次からの2人の話も楽しみにしてます。
- 70 名前:作者 投稿日:2002年11月09日(土)12時00分01秒
- ANZAIさん、お久しぶりです。
りんねとあさみの話は、余所ではあまり見かけませんね。
しっかりと書いてみたので、楽しみにしていてください。
- 71 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月09日(土)12時01分41秒
- りんねは優勝し、あさみは二位に入り、二人そろってオリンピックへの出場権を手に入れ
て、里田も含めた3人は牧場へ帰ってきた。
りんねは荷物を置き、牧場の従業員達への優勝の報告もそこそこに、日本選手権のメダル
を手に出かけた。
大会などで、数日以上牧場を離れた後は必ず向かう場所である。
牧場から少し離れた高台にそのロッジはあった。
彼女の優勝を祝うかのように晴れ渡った空の下、一面の銀世界の中を歩いてゆく。
照り返しの光はまぶしいものの、12月の北海道の冷え込みは厳しい。
日高山系が一望できるそのロッジにりんねはいくつかの荷物とともにやってきた。
- 72 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月09日(土)12時02分49秒
- 「ただいま」
ドアを開け、そうつぶやくが返ってくる声はない。
誰もいないがらんとした空間は、寒さをさらに厳しく感じさせるものだった。
部屋の奥にはひとつの暖炉がある。
りんねは暖炉に火をくべ、そのそばのテーブルに備えられた花瓶の花を代えた。
「出来立てのチーズ持ってきたよ」
花瓶の横の写真に向かって語りかける。
写真には、今よりも少し幼いりんねを真ん中にした3人が写っていた。
「オリンピックがね、決まったんだ。見ててくれたかな?」
一切れのチーズをつまみながら続ける。
当然であるが、返ってくる答えはない。
- 73 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月09日(土)12時06分09秒
- 「夢、だったよね。みんなの。とうとう、叶っちゃったよ。あの石川梨華に勝ったんだよ。
すごいでしょ。梓もね、喜んでくれたんだ」
写真の中の3人は、りんねがどんなに語りかけても微笑んだまま何も答えを返さない。
ステージ衣装で、リンクの上に立っている3人が並んでいるこの写真と同じ光景は、もう、
二度と見ることはできない。
「ほら、日本選手権のメダルってこんなのなんだよ。いいでしょ、欲しいでしょ。でも、
あげない」
暖炉の火の暖かさがロッジ全体に広がり、冬の乾いた空気がさらに乾燥してゆく。
部屋の中は、火のはじける音とりんねの声がだけが響いている。
「ひろみと一緒に行きたかったな、オリンピック」
今日、ここへ来てから一番小さな声だった。
- 74 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月09日(土)12時06分50秒
- りんねはテーブルを離れ、窓の外の風景へ目をやる。
「ここは、いつ来てもきれいだね。最近さあ、舞のこと見てると、私たちがこの牧場
に来たてのころを思い出すんだ。
彼女たちは、牧場へ来てすぐのころは、つらい農作業に耐えかねてよくさぼっていた。
逃げ出す先として見つけたのがこのロッジである。
その後、牧場の仕事に慣れてからもこのロッジへはよくやってきた。
取れたてのジャガイモや、作りたてのチーズを抱えて、ここで時間のある限り他愛も
ない話をする。
誰かの誕生日を祝うのもこのロッジであった。
- 75 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月09日(土)12時07分33秒
- 「この前ね、舞が来て初めて担当になった子牛が売られていったんだ。すっごい泣いてた。
私たちのときもさあ、泣いたよね。トラックに載せられていくのが見てられなくて、逃げ出し
てさ、ここで3人で泣いたよね」
りんね達の思い出はスケート選手としてだけの物ではない。
牧場でともに作業をし、同じ宿舎で暮らした日々。
24時間、ともに過ごした日々。
そういった日々の象徴がこのロッジである。
りんねにとっての尋美は、千葉の墓石の下ではなく、いまもこのロッジにいた。
- 76 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月10日(日)21時57分33秒
- 「りんね、りんね」
突然の、自分を呼びかける声に振り返る。
「りんね、ほら、早く行かないとまた先生に怒られちゃうよ」
振り返ると、そこにいたのはひろみだった。
「ひろみ、ひろみなの?」
「寝ぼけてる? 早く行こうよ、レッスン」
かばんを抱えて外へ出るひろみに、りんねはあわててついていく。
ずんずんと丘を下り牧場に戻って行くひろみ。
りんねは、背中をついてあるいていく。
牧場まで戻ると、そこには梓と牧場の従業員が待っていた。
- 77 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月10日(日)21時58分20秒
- 「まーた、二人ともさぼりおって。だめだべ、仕事もちゃーんとせな」
「サボってたんじゃないですよー。ちょっとお昼ご飯食べてただけですー。そんな風に私
たちいじめると、有名になってもサインあげないですよ」
「せいぜい、テレビに出られるくらいにがんばりや。スケートだめだったからって、うち
でずーっと働けるとは限らないっしょ。ああ、でも、りんねちゃんは、スケートやめてうち
で働かないかい? 犬ぞりレースとか、おじさんと一緒にでようや」
「いえ、私は、スケートのが、いいです」
「ほら、おじさん、セクハラしてないで、早く車出してよー」
「なーにがセクハラなもんか。まったく、ひろみちゃんは口ばーっかし達者になりよって」
ワゴンの後部座席に、りんねを挟んで3人で仲良く座る。
午後のレッスンを受けるために、車はリンクへと向かった。
- 78 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月10日(日)21時59分14秒
- 田中コーチのレッスン。
一人一人メニューはすこしづつ異なる。
リンクの上で三人はそれぞれのメニューをこなす。
ひろみの今の課題は、トリプルジャンプ。
3回転のジャンプがまだ3種類しか飛ぶことができない。
残っているトリプルループとトリプルルッツのうち、今チャレンジしているのはループ
ジャンプ。
何度もチャレンジするが、転倒を繰り返すばかりだ。
「なんで、フリップが飛べてループが飛べないかな」
5種類の3回転ジャンプのうち、簡単と言われるトーループとサルコウ、それに、2番目
に難しいとされるフリップジャンプをひろみは跳ぶことが出来る。
そんなひろみに突っ込んでいるりんねは、最難度とされるルッツ以外の4種類を飛ぶこ
とがこの時点で出来た。
- 79 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月10日(日)22時00分11秒
- 「だって、私、トウをつかないジャンプ苦手なんだもん」
「じゃあ、ルッツ飛んでよ」
「それはご勘弁を・・・」
トウとは、スケート靴の先のことで、これで氷を蹴ってジャンプすると、高さを得ること
が出来る。
それに対して、ループジャンプのようなトウをつかないジャンプは、完全に片足の踏み切
りだけで跳ばなくてはならないので、跳躍力がない選手にとっては、一般的な難易度以上に
苦手なものになってしまう。
「りんね! ちょっと手本見せてやれ」
リンクの外から田中コーチの声がかかった。
ひろみは、りんねに向かって手を合わせている。
「お願い! りんね先生!」
「それでは、先生が手本を見せて差し上げましょう」
- 80 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月10日(日)22時01分09秒
- 両手を広げた気取ったポーズを見せてから、りんねはひろみから離れ、ちょうどジャンプ
の踏み切りがひろみの目の前になるように移動した。
ループジャンプは、実はりんねにとってもあまり得意な方ではない。
右足踏み切りのジャンプは、左足が利き足のりんねにとってやや苦手意識があった。
「いくよ」
ひろみに向かって軽く手を上げるりんね。
左手を軽く上げ、ひろみもそれに答えた。
りんねは、ひろみの方へ向かって滑りだした。
氷を蹴って加速をつける。
そして、ターンして後ろを向いた。
両手を前後に開き、後ろへ伸ばしている右手の方に首を向ける。
右足のアウトエッジに体重を乗せ軽くひざを折る。
左足で氷の表面をなぞるようにして踏み切った。
ひろみは、そんなりんねの動きにあわせるように、手足を動かしている。
飛び上がったりんねの体は、やや斜めに傾いていた。
回転を終え右足で着氷するも、バランスを崩し、左足ともつれ合って、激しく転倒した。
- 81 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月11日(月)22時51分05秒
- 次の瞬間、気がつくと、そこはロッジだった。
「ゆめ、か」
目を覚ましたりんねは残念そうにため息を一つ漏らした。
突っ伏していたテーブルから立ち上がり、外を見る。
冬至も近いこの時期、北海道の太陽は早くも山の稜線近くまで降りてきていた。
「おそくなっちゃたな、そろそろ帰らなきゃ」
そう、つぶやき視線を下に落とすと、窓際に一匹の狐がちょこんと座っていた。
- 82 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月11日(月)22時52分35秒
- 「ビット! ビットだー。おいで」
そう言って、ドアを開けるが狐は小首をかしげてりんねの方を見るばかりである。
「もう、相変わらずだなあ。ほら」
テーブルからチーズをひとかけら持ってきて、手のひらに乗せ、狐の方へと見せる。
すると、狐はゆっくりとりんねの方へとあるいてきて、チーズをくわえた。
- 83 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月11日(月)22時54分56秒
- 「ひろみ、ビットがきてくれたよ。ビット、お前も私の優勝を祝ってくれるのか?
そうか、ほら、もう一個食べるか?」
一度振り向いて写真の方へそう言った後、ドアの前に座る狐に、チーズをさらにひと
かけら差し出した。
「んっ? おまえか? いたずらしたの。そっか。そうか。もう、いたずらっ子なんだ
から。今時、人間を化かす狐なんてはやらないぞ」
先ほどの夢の光景を思い出し、狐をなじる。
「ありがとな」
一瞬間をおいてから、笑顔で頭をなでようとするも、狐はびくっと顔をそむけ、
横へとよけてしまった。
「まったく、まだなつかないか。そろそろ私のこと認めて欲しいんだけどな」
- 84 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月11日(月)22時56分08秒
- この狐に“ビット”という名前をつけたのはひろみだった。
彼女たちがまだ仲良くこのロッジで過ごしていたころ、目の前に現れた子狐がこの
ビット。
幼いながらも野生の狐であるビットは、えさは受け取るものの、決して彼女たちが触
れることを許さなかった。
そんな、子狐につけたこの名前は、かつての偉大なスケーター、カタリナ・ビットに
ちなんでいる。
その可憐さと、触れることのできない気高さからイメージした。
いつの日か、偉大なスケーターに、自分たちのことを認めてもらえるように。
この子狐“ビット”に認めてもらえば、そんな日も来るのではないか、と思っていた。
- 85 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)00時27分29秒
- その頃、牧場では3人の凱旋パーティーの準備が進んでいた。
「いいから、二人とも座っとき。今日の主役なんやからのお」
パーティーの準備を手伝おうとするあさみと里田がたしなめられる。
「そうそう、主役はおとなしくすわっとればえーの。もう、鼻高々だわ。日本の1番と2番
と4番がこの牧場におるんだからのお。オリンピック選手が二人もおるわ。今朝のせりで、
自慢しとったら、ご祝儀で高く引き取ってもらえたさ」
4番でオリンピックに関係ない里田は思わず苦笑する。
彼女にすれば、引き取られていってしまったのが、どの子牛なのかの方が気になるとこ
ろである。
- 86 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)00時28分06秒
- 「それにしても、りんねさんどこ行ったんですかね。それこそ今日の主役なのに」
「まあ、そのうち戻ってくるよ、心配しなくても」
りんねの行き先をあさみは知っている。
知っているが、口にはしたくなかった。
準備にあわただしい周りの状況の中でのんびり座っているのも気が引けて、二人は外へ散
歩に出ることにした。
日はだいぶ傾いているが、まだそれなりの明るさはある。
牧場の雪がかき分けられた緑の上を歩く。
- 87 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)00時28分56秒
- 「あさみさん、オリンピック出場、おめでとうございます」
「なんだよ急に、改まって」
「いや、ちゃんと言ってなかったなって思って」
里田にとっては、自分も出たかったオリンピックに、身近な先輩二人が出場するとい
うことになる。
おめでとうございます、という言葉が、少し弱弱しかった。
「私、今日祝ってもらう立場なんですかね?」
「こまかいこと気にしないで、おいしいもの食べればいいんじゃない」
「もうちょっと、だったけど、そのちょっとが大きいのかなあ? 4番ってメダルも何も
無いんですよね」
自分が滑った時点では、オリンピックなんて期待していなかった。
それが、あとちょっと、条件次第では自分の手に転がり込んでくるところまできていた。
一晩経って、悔しさが余計に巻き起こってきている。
- 88 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)00時29分52秒
- 「まいは、ここへ来てからすごく上手くなったと思う。りんねはどうか分からないけど、
すぐに私のことなんかは追い越して行くんだよ、きっと」
あさみのこの言葉に首を横に振ってから里田は答える。
「ここへ来てよかったと思います。最初はすごいいやだったけど、今は、あさみさんや
りんねさんが、本当にすごいスケーターなんだって分かったから。一緒に練習していれば、
自分もきっと上手くなれるって感じられるようになりました。でも、牧場の仕事は、ちょ
っとつらいけど」
あさみは、あはは、と笑い牧舎の方へかけて行った。
- 89 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)00時32分39秒
- 「乗馬するけど、まいも乗る?」
「私、乗れませんよ」
「じゃあ、みてて」
あさみは一頭の馬を引き出してきて、そのままたてがみをつかみ背中に乗ると腹を軽
くけり走り出した。
里田は、柵にもたれてあさみのことを見つめている。
馬上のあさみは、もしかしたらリンクの上よりもかっこいいのではないか、と里田の
目には映っていた。
あさみさんには、自然がよく似合う。
私には何が似合うのだろう。
あとすこし足りない何かをこれから追い求めて行くことになる里田は、夕日を背に走る
あさみを見つめていた。
- 90 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)23時25分11秒
- 馬上のあさみは、りんねのことを思っていた。
ひろみの事故、その直後にりんね一人で参加した全日本選手権での惨敗。
そして、りんねは部屋に閉じこもった。
もともとは三人部屋だった部屋に一人で過ごすりんね。
レッスンにも、牧場の仕事にも顔を出さない。
食事もほとんどとっていなかった。
田中コーチも、牧場の従業員もみな一様に心配するがどうすることも出来ずにいた。
- 91 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)23時25分52秒
- そんな状況が一週間くらい続いたある夜中、りんねの部屋の隣に眠るあさみは、物音で
目を覚ました。
誰かが階段を下りて行くのが分かる。
あさみもベッドから起きだし、階段を下りて行く。
階段下の食堂の電気をつけると、りんねが冷蔵庫前のテーブルにもたれていた。
「おなか、空いたの?」
あさみの問いかけに、りんねは首を振る。
「何も食べたくない?」
りんねはまたも首を横に振った。
「とりあえず、座って」
一瞬間を空けてから、あさみがもう一度語りかける。
りんねは、おとなしくその言葉に従い食堂のテーブルについた。
冷蔵庫から卵を取り出し、あさみはキッチンで雑炊を作った。
- 92 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)23時26分36秒
- 「あんまり、おいしくないかもしれないけど、食べて」
そう言うあさみに答えるように、りんねは無言でレンゲを口に運ぶ。
器が半分ほど空いたところで、初めてりんねが口を開く。
「ありがとう。ごちそうさま」
そう言って、席を立ち階段の方へと向かう。
あさみはあわてて声をかけた。
「あ、あのさあ、明日、私、午後お休みもらえるんだ。だから、一緒に、どこか行かない?」
背中を向けたままりんねは首を横に振り、二階へと上がっていった。
- 93 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)23時27分28秒
- 翌日の午後、あさみはフラワースケーティングクラブの田中コーチに呼び出された。
用件は、あさみのフィギュアスケートへの勧誘である。
幼い頃から遊びではやってきたスケート。
りんねたちが来てからは、アイスショーで競演するために、週1程度の頻度で、一緒にレ
ッスンを受けている。
その程度の練習量にもかかわらず、あさみは2回転のジャンプを4種類まで飛ぶことが出来た。
もちろん、この時点では日本のトップとは程遠いのだが、本格的に滑ればあるいは・・・
というのが田中コーチの誘い文句であった。
- 94 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月13日(水)23時28分23秒
- あさみ自身は、その言葉を素直に受け取れはしなかった。
クラブに残っているメンバーがたった一人になってしまったから、りんねにもう一度やる
気を出させるためのスケープゴートかもしれない、とも思っている。
でも、それでもいい、とも思った。
少し考えさせてください、と答えておいた。
- 95 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月14日(木)23時14分54秒
- その夜、食事の後、あさみはりんねの部屋を訪れた。
空いているベッドに座ろうとする。
「座らないで!」
「いや、あ、ごめん」
あさみが座ろうとしたそのベッドは、ひろみが使っていたものだった。
仕方なく、あさみは立ったまま切り出す。
「スケート、本格的にやってみないかって誘われた」
二段ベッドの下側で壁にもたれかかったままりんねは、驚いたようにあさみの方を見た。
- 96 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月14日(木)23時15分50秒
- 「どう、思う?」
あさみの方を見つめたままりんねは黙っている。
しばらく沈黙が続いた後、あさみが再び続ける。
「りんねさんは、これからどうするの?」
りんねは、ただただ首を横に振る。
「それじゃあわからないよ。ずっとここにいるの? 実家に帰るの? それともスケート
続けるの?」
「分からない! 分からないよ!」
やせ細ったからだから、今日初めて声を出したりんねに対し、あさみはさらに言葉をつなぐ。
「ここにいたって、だれも帰ってこないよ」
「帰ってくる! ひろみは、ひろみは、ここでまっていれば、きっと帰ってくる」
「帰ってこないよ」
「帰ってくるの! 帰って、くるんだよ」
最後は涙声だった。
- 97 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月14日(木)23時16分41秒
- ひざを抱えて泣きじゃくるりんねをあさみは優しく見守る。
部屋にはすすり泣くりんねの声だけが響いた。
どれくらいの時間が経っただろうか、りんねがやや落ち着いたところであさみは話
を続けた。
「やっぱり、ここにいてもひろみさんは戻ってこないよ」
ひざを抱えてうつむいたままであるが、りんねは首を横に振る。
「私、夢を語る3人が好きだった。日本一、オリンピック、私には縁のない言葉ばかり。
そんなことを夢見ることが出来る3人がうらやましかった」
ここまで言ってあさみはひろみのベッドに座る。
りんねはもう何も言わなかった。
- 98 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月14日(木)23時17分30秒
- 「ホントはもっと、3人と仲良くしたかったんだよ。でも、私は牧場の仕事が忙しいし、
3人はいつも仲良くてなんとなく入りづらいし。だから、たまに一緒に練習させてもらえる
ときはすごくうれしかった」
ひざを抱えてうつむくりんねから、再びすすり泣く声が聞こえてくる。
「りんねさんたちはさあ、リンクの上で夢を見たんでしょ。だったら、ひろみさんが戻っ
てくるとしたら、やっぱりリンクの上だと思うんだ」
鼻をすすりながら、りんねはあさみの方へと顔を向けた。
- 99 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月14日(木)23時18分15秒
- 「りんねさんが滑るのやめちゃったら、たぶんひろみさんはりんねさんの前には絶対に
出てきてくれないと思う」
死んだ人間が目の前に現れることなんてありえない。
そういったことが分からない年齢ではないが、それでもあさみはりんねのために、ひろみ
が再び姿を現すかもしれないと信じてあげたかった。
「明日、9時にリンクへ向かう車が出るから。待ってるね」
最後にそれだけ言い残してあさみが部屋を出ると、部屋には再びすすり泣くりんねの
声だけが残された。
- 100 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月15日(金)23時50分52秒
- 翌日、早朝の仕事を終え朝食をとるあさみ。
しきりに階段の方を気にするが、人が降りてくる気配は一向にしなかった。
食事を終え、自室に戻りレッスンの準備をする。
隣の部屋の様子も気にしてみるが、物音はまるでしない。
荷物を整え、再び食堂へ行く。
あさみは、りんねがもしスケートをやめるというのなら、自分も滑らないと決めていた。
りんねが続けるのなら、自分も本格的にやってみようとも。
誰かの代わりになることは出来ないかもしれないけれど、一緒に夢を見ることは出来るの
ではないか、そう思い、りんねを待っている。
時計の針は進んで行くが、階段に人影はない。
やっぱり来てくれないのかな、と少しあきらめの気持ちを持ちつつテーブルに頬杖をつく。
柱の鳩時計が9時のマーチを奏で始めた。
りんねは出てこなかった。
- 101 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月15日(金)23時51分26秒
- 私も、夢を見てみたかったんだけどな。
あさみは頬杖をついたまま一つため息をつく。
やっぱり、りんねさんは帰っちゃうのかな?
また、さびしくなるよ。
そんなことを考え始めたときだった。
ゆっくりと階段を下りてくる足音がした。
あさみがそちらへ目をやると、スケート靴を片手にリュックを背負ったりんねが降りてきた。
りんねは、階段の下で立ち止まり、二人で少しの間沈黙する。
「おはよう」
先に口を開いたのはりんねだった。
「もう、おそいよ。早く行こう。遅刻遅刻」
多少無理に明るく振舞うあさみ。
りんねも少し微笑んで、二人でドアを開け、外へ出た。
- 102 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月15日(金)23時55分21秒
- 愛馬の背中に乗りながら、あさみはまるで昨日のことのように思い出していた。
あれからいくつもの苦難を乗り越えて、りんねだけでなく、自分までもがオリンピック
に出場することが決まってしまった。
りんねは、あの日のことを覚えているだろうか?
きっと、覚えているだろう。
あの日のまま、りんねは変わっていない。
いまも、亡き人を想ってリンクの上に立つ。
そろそろ卒業してもいいんじゃないかな、そんな想いと。
でも、そうしたら、自分の前からもいなくなってしまうのではないかという不安から、
あさみはそれを口にすることが出来ずにいた。
- 103 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月15日(金)23時56分07秒
- 馬場を何周もし、陽もほとんどくれてきた頃、遠い先を歩いているりんねの姿をあさみの
視線が捉えた。
「りんねー!!」
馬の背中から大きく両手を振る。
それに軽く右手を振って返すりんね。
すると、突然馬の背中からあさみの姿が消えた。
あさみは、大きく手を振った反動で落馬し、地面にたたきつけられていた。
りんねと里田があわてて駆けつける。
「大丈夫?」
「あー、いてて。りんねみたいに上手くは乗れないなあ」
「もう、大事な体なんだからね」
「ごめん。あっ、りんねお帰り。遅かったね」
「うん、ただいま」
そう言ってりんねは手を差しのべる。
二人の手を借りあさみが立ち上がった。
- 104 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月15日(金)23時57分13秒
- 「さて、帰りますか、みんなも待ってるだろうし」
「りんねさん、どこ行ってたんですか?」
「ちょっとね」
「まあ、いいじゃない。とにかく今日は、私たちのパーティーなんだから、飲むぞー、なんて」
「飲むって、牛乳?」
「また、りんねは私のこと子ども扱いする! そういうこと言うと、おばさん扱いするぞ!」
「でも、あさみさんって、イメージが牛乳ですよね」
「なんでまいまでそういうこと言うかな」
不満顔なあさみに二人が笑い出した。
あさみの愛馬を厩舎に戻し、三人は帰って行く。
すっかり日が暮れて星が瞬きだした空の下、手をつないで戻ってくる3人を、牧場の従業員
たちは宿舎の玄関前に立ち、暖かく出迎えていた。
- 105 名前:M.ANZAI 投稿日:2002年11月17日(日)21時55分47秒
- 2人の過去、そこから浮かび上る大切な仲間の面影・・・グッと来てしまいました。
- 106 名前:作者 投稿日:2002年11月26日(火)21時07分41秒
- >>M ANZAIさん
過去編、お楽しみいただけたでしょうか?
しばらく石川さんサイドの話が続きます。
- 107 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月26日(火)21時09分21秒
- 全日本選手権から二週間、年が明けてからも、石川の精彩のなさは続いていた。
ジャンプは決まらない。
ステップのリズムは乱れる。
普段の豊かな表現力までもなりを潜めていた。
- 108 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月26日(火)21時10分44秒
- 年末年始にかけて、冬季オリンピック直前ということで多くの応援番組が組まれていた。
石川は、それらに出演することになっていたが、もちろんすべてキャンセルとなっている。
そういった番組に出演するのは、りんねでありあさみだった。
テレビ局も、最初のうちはタレント性のある石川がオリンピックにでないということで、
仕方なくりんねやあさみに軽い数秒のコメント取りを頼む程度であったのだが、りんねの
これまでの道のりにドラマ性がある、と踏んでからは一つのコーナーとして取り上げるよ
うになった。
彼女たちが出るたびに映し出される全日本選手権の光景。
彼女たちが出るたびに繰り返される「あの石川梨華に勝った・・・」という接頭語。
そういった光景を、石川は何度もテレビで見せられる。
二人の姿が頻繁に現れ、それを目にするたびに、自分は負けたのだ、ということを強く
認識させられていた。
最初は、悔しいと思った。
それが次第に、もういやだ、もうやめたい、どうせ私はだめなんだ、という気持ちに変
わって行く。
そんな石川を、飯田コーチはどうすることも出来ずにいた。
- 109 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月26日(火)21時16分41秒
- 飯田も悩んでいた。
なぜ石川はあんなひどい演技をしたのか。
その疑問は、まったく解決できない。
そんな悩みを引きづったまま今まで来てしまっている。
このままでは、石川は二度とトップに立てなくなるのではないだろうか、そんな不安も
感じ初めていた。
それ以前に、練習に集中出来ていない石川から、引退の二文字が出ることが一番怖い。
辞めたい、と相談されるのならまだいい。
相談されているうちは、コーチとして信頼されているわけで、引き止めることも出来る
だろう。
しかし、「辞めます」と言われてしまったら、自分はきっと何も出来ないだろうな、と
思っていた。
とにかく、何かきっかけが欲しかった。
リンクへ来て、ただ滑って帰って行く、そんな繰り返しを打破してくれるきっかけ。
そのきっかけを探しながら、いつものようにリンクでの練習をこなす。
- 110 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月26日(火)21時18分02秒
- 練習中、飯田は何度も指示を送る。
しかし、石川は完全にそれを右の耳から左の耳へと通過させてしまっている。
同じことの繰り返し。
次第に石川にも飯田にもストレスがたまってくる。
「なんであんたは、何度も同じこと言わせるの!」
「しょうがないじゃないですか、出来ないんですから」
「しょうがないじゃないよ。なんで今まで出来てたものが出来ないんだよ」
リンクの内と外、低い壁を挟んで二人は感情的に言葉をぶつけ合う。
- 111 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月26日(火)21時18分57秒
- 「やる気がないんなら、・・・、やる気出しなさい」
飯田は「やる気がないならやめろ」と言おうとして言えなかった。
「じゃあ、やめます」と言われるのが、何よりも怖かった。
石川は、むきになってリンク中央でトリプルアクセルの練習を始めた。
飯田は、あわててスケートシューズに履き代え、石川を止めに行く。
「今はそんなことやれって言ってるのと違うだろ。もういい、飲み物でも飲んで頭冷やしな」
左手で髪の毛をかきむしりながら、飯田はそう言った。
石川はリンクサイドまで滑っていき、おいておいたペットボトルに手を伸ばす。
そこに二人の少女が近づいてきた。
- 112 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月28日(木)23時21分36秒
- 「あの、私、すごいファンなんです。サインいただけますか?」
二人のうち、やや背が高く年齢も上と見られる少女の方が石川に声をかけてきた。
「いや、練習中なんで、ちょっと」
冷たい表情のまま言葉を返す。
石川は、こうやって自分に近づいてくる人間が苦手だった。
出来ればかかわりたくないと思っている。
目の前の二人と対話をしながら、石川の目は少し先にいる足取りのおぼつかない少女に向
けられていた。
- 113 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月28日(木)23時24分15秒
- 「そうですか。じゃあ、練習終わったらお願い出来ますか?」
「ええ、まあ、終わった後でよければ。あっ」
石川が見つめていた少女が転倒した。
なんとなく、そんな気がしたからそこに目が行っていたのだろう。
あわててそこに滑りよってゆく。
その少女が自力で立ち上がろうと試み、もう一度倒れたところへ後ろから回りこみ、わき
の下を抱えるようにして助け上げた。
「大丈夫?」
少女は石川の方を向こうとし、またもよろける。
石川は、少女の体を支えたまま、その体の前面に移動した。
「大丈夫? 痛いとことかない?」
「は、はい。だいじょうぶです。ちょっと、おしり痛いけど」
少女は、はにかみながら答える。
上目づかいで自分を見ている少女に、石川は微笑んだ。
- 114 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月28日(木)23時26分22秒
- 「もしかして、スケート初めて?」
「はい、滑ったことないです」
石川にサインをねだった二人がちょっとばつが悪そうに、石川の背後に隠れている。
「だめだよ、無茶しちゃ。ちゃんと、最初は滑れる人に手を引いてもらわないと」
「だって、二人とも、さき行っちゃうんやもん」
少女は、石川の後ろの二人を指差しながら言った。
石川は、後ろを振り向き、二人の方を見る。
「ダメじゃないですか! 滑ったことない人をほっといて滑れる人だけリンクに飛び出す
なんて。頭打ったりしたら、本当に危ないんですから」
「すいません」
二人は、うつむき加減。
答える声は小さかった。
「じゃあ、ちゃんとその子に教えてあげなね」
「はい」
石川は、二人のうち、背が低く、年齢も下だろうと思われる少女の方を見ながら言った。
軽く手を振り、去っていこうとするところへ声がかかった。
- 115 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月28日(木)23時27分35秒
- 「石川!」
「はい」
「石川。あんたがその子にすべりを教えてあげなさい」
スケート靴をはき、再びリンクに出て来た飯田コーチだった。
「私がですか?」
「そう、あんたが。元はと言えば、あんたにサインをねだりにこの二人が来ちゃったから、
この子が危ない目にあったわけだから、石川が責任取りなさい」
飯田は、石川が3人と話している模様を遠くで見ていた。
サインをねだられてそれを断るのに一苦労、というのはこれまでにも何度かあった。
またか、位に思っているところ、よく見てみると、サインをねだっているのは石川と同世
代にしても、後の二人ははるかに幼い少女だった。
しかも、そのうちの一人はまったく滑れないらしい。
これは、捜し求めていたきっかけなのではないか、と思った。
飯田は見たのだ。
倒れた少女を抱き起こした後、石川が少女に微笑むのを。
石川の笑顔を最後に見たのは、ずいぶん前のような気がした。
石川に笑顔を与えたその少女とともに時間を過ごさせれば、何かを手に入れてくれるので
はないかと期待した。
- 116 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月28日(木)23時30分10秒
- 「でも、練習が」
「今日の練習は、この子にスケートを教えること。決まり」
「コーチ、そんな」
「黙ってやる。あっ、ごめんね。協力してくれるかな? 一応この子ね、日本ではトップ
のスケーターってことになってるから。それなりに教えてあげられると思うけど」
渋る石川を飯田は押し切った。
飯田は、困惑顔の3人に向かって、協力を願う。
祈るような想いだった。
「じゃあ、サインいただけるなら」
最初に石川にサインをねだった少女が答える。
渡りに舟、といった面持ちだった。
- 117 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月28日(木)23時30分57秒
- 「よし、決まりね。石川! 丁寧に教えて差し上げるように。それと、滑れる二人は、良
かったら私がジャンプとか教えるけど、その気ある?」
「はい。よろしくお願いします。ほら、ののちゃんも、頭下げる。この人、日本一のコー
チなんだからね」
「いやあ、かおり、そんな、日本一なんてそれほどのものでもないけどなあ」
照れたように答える飯田を見て、石川はこうなったら先生は止まらないからなあ、と呆れ顔。
でも、これで良かったのかも、とも思っている。
練習に身が入っていないことは自分でも十二分に分かっていた。
練習がいやになっていた。
だから、こんなのもありかな、と感じている。
- 118 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月30日(土)22時49分18秒
- 石川は、見知らぬ人が苦手だった。
俗に言う人見知りがひどい。
本来なら、見知らぬ女の子にスケートを教える、というのは彼女にとってひどくつらい作
業であるはずである。
ところが、なぜか今はそういった感覚がなかった。
もし、教える相手が自分と同年代であったり、年上だったら、こうではなかっただろう。
いや、年下であっても、他の子であれば、また違ったかもしれない。
それが、石川はまったく抵抗なくこの見知らぬ少女と接しようとしていた。
- 119 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月30日(土)22時50分04秒
- 「お名前は?」
「加護亜依です」
「亜依ちゃんは、滑れるようになりたい?」
「はい」
「じゃあ、練習しよっか、私と」
「はい」
お姉さんっぽく、やさしく話かけていた。
石川は、この加護という少女の持つひとなつっこそうな雰囲気に惹かれていた。
教える内容はスケートにとってのまさに初歩の初歩。
まずは、氷の上に立つ。
次に歩く。
そして、滑る。
最初は、石川に頼りきりで手を離すことすら怖がった加護が、徐々に自分の力で滑るよう
になっていく。
一生懸命がんばって、それでいて笑顔も絶えない加護につられ、石川も笑みがこぼれる。
そんな様子を飯田は、辻たち二人にコーチしながら横目でちらちらと見ていた。
思惑通りに進んでいるようでほっとしている反面、自分の力で石川に笑顔を取り戻せられ
なかったことが悔しくもあった。
- 120 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月30日(土)22時50分59秒
- 「かおり先生、つじにはむずかしいです」
「そっかあ、辻ちゃんには難しいか。じゃあ、ちょっと休憩しよっか」
「はい」
飯田は二人を連れリンクから上がった。
リンクサイドのベンチに座り、3人分の飲み物を買ってこようとする。
「あっ、つじが行きます。つじがかおり先生と市井先生の分も買ってきます」
「じゃあ、お願いね。はい」
飯田は財布から百円玉を四枚取りだし、辻の手に乗せた。
百円玉を握り締めて辻は自動販売機めがけて走り出す。
自動販売機は、飲み物だけでなくお菓子やアイスの販売機もあり、それを端から見て回る
辻は、なかなか戻って来そうになかった。
- 121 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月30日(土)22時52分18秒
- 「元気な子ですね」
「ええ、元気すぎて困っちゃうくらいですよ」
「なんか、あの子を見てるとこっちまで元気になってきますよ」
飯田は、ついさっき、石川の笑顔を見るのが久しぶりだと感じていたが、今になってみて
自分が笑うのも久しぶりなのではないかと気づき始めた。
「飯田コーチと、石川さんって似てますよね」
「えっ、そうかなあ?」
飯田は突然のこのことばに首をひねる。
「うーん、なんて言うのかな、演技自体が似てるってわけじゃないんですけど、なんだ
ろう、とにかく似てるんですよ、トータルな雰囲気が」
「そうですか? 全然感じたことなかったな」
「教える者と教えられる者は、互いに認め合うと似てくるって言うじゃないですか」
「どうなんだろう」
- 122 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月30日(土)22時53分06秒
- どうなんだろう、と言いつつ、飯田は心中動揺していた。
石川が全日本選手権での失敗以来、前向きな形で練習に取り組めないのは、もしかしたら
自分の影響なのではないかと思った。
飯田自身、現役時代から小さな失敗に悩む癖があった。
優勝したとしても、演技の中で小さなミスがあれば納得出来ないたちである。
目指すは常に6.0。
思考回路がマイナスな方へマイナスな方へ流れる。
そんな自分が指導したのだから、その生徒たる石川が同じ性質を持っていてもなんら不思議
なことではないのかもしれないと思った。
- 123 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年11月30日(土)22時54分49秒
- 「そうすると、市井さんとあの二人も、そのうち似て来るんですかね」
市井は、この冬休みに入ってから加護の家庭教師をしていた。
加護の家に長期で遊びに来ている辻にも、その関係で勉強を教えている。
「はは、ちょっと考えられないですね。でも、それ以前にあの二人って似てると思いません?」
「たしかに」
二人で声を上げて笑った。
そこへ、辻が戻ってくる。
「なにわらってるんですか?」
「なんでもないよ」
「なんでもないから」
「ひどーい、教えてくれないと、ジュース上げないです」
三本のジュースを背中に隠す辻。
飯田はその辻を追いかける。
二人は市井が座っているベンチを真ん中に、追いかけっこを始めた。
3人の中には笑いが溢れていた。
- 124 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月03日(火)22時12分38秒
- 一方、石川の方も順調に加護の練習を進めていた。
加護は、すぐに氷の上で立てるようになり、ついで歩けるようになった。
その後、スムーズに滑るのには苦労していたが、それでも、リンク一周を転ばずに滑れる
ようになって、2人は休憩することにした。
「亜依ちゃん、スケート楽しい?」
「はい、滑れるようになったから楽しいです」
「そっか、滑れるようになって良かったね」
「梨華ちゃんのおかげです」
石川は、練習の最中に自分のことを梨華ちゃんと呼んでいいよ、と加護に言っていた。
わざわざこんなことを自分から言うのは、人見知りが激しい石川にとってはやはり珍し
いことである。
- 125 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月03日(火)22時14分38秒
- 「練習すごく大変なんですか?」
「うん。コーチきびしいから。私も頑張ってるつもりなんだけどさ。一回失敗しちゃうとすぐ
落ち込んじゃうほうだし。だけど、成功したときの喜びってすごく大きいし、観客の人たちも喜
んでくれるしね。それに、なによりかおりコーチが笑顔を見せてくれるのが嬉しいんだ。だから、
頑張ってやってる」
でも、そういえば、最近は頑張ってるとは言えないかもしれないと、少し後ろめたい気持ち
が生まれていた。
スケートやってきたのって、こんな気持ちでだったんだなあ、と改めて思い出す。
人に聞かれて答えることで、自分の中にあるものを再確認していた。
- 126 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月03日(火)22時15分40秒
- 「うちになんか教えてて、ええんですか?」
「亜依ちゃんは、細かいこと気にしないの。練習いいのかな? って私も思うけど、コー
チがやれっていったんだし、それに、久しぶりに私も楽しいから」
石川はそう言って微笑む。
そして、右手の缶ジュースを口へと持っていった。
一気に飲み干すと立ち上がる。
「そろそろ、始めよっか。今日中に片足で滑れるようになるよ」
「はい」
石川と加護の二人は、リンクへと戻って行った。
それから1時間くらいそれぞれに練習を続けた。
石川は、丁寧に加護に片足すべりを教える。
何度も自身で手本を見せながら。
飯田は、そんな石川を常に視界に入れつつ、辻、そして市井にジャンプとターンを指導する。
そろそろ子供たちの体力もきつくなってきたかな、と見て取った飯田は、石川たちも呼び集めた。
- 127 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時00分09秒
- 「それでは、今日の成果の発表会をします」
飯田の指示に従って、順に演技をしていく。
最初は市井。
前向きに滑ってきて片足でターンをし、その後後ろ向きに滑って行くスリーターンという技。
フィギュアスケートとしては当然初歩の初歩であるが、本当の素人としては出来るとかなり
うれしいレベル。
それを市井はきれいにこなした。
- 128 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時00分40秒
- 次は加護。
今日初めて氷の上に立った加護が、片足すべりを披露する。
「亜依ちゃん、頑張って! 絶対出来るから」
みんなの前に進む加護に石川が声をかける。
その様子を飯田は目を細めて見ていた。
加護はまず両足で助走をつけてきて、ややスピードをつけ、右足を上げる。
右足を上げてから1メートルほどのところで、よろめき、仰向けに転んでしまった。
「亜依ちゃん、出来てたよ。出来てたから。そんな、泣かないで」
加護は目に涙を浮かべていた。
一生懸命頑張ったのだろうな、いい子だな、本当に。
飯田は思っていた。
この子たちは私たちを救ってくれたのかもしれない。
遊びに来ただけのはずなのに、真剣に練習させちゃって申し訳なかったかもしれない。
でも、今日出会えて本当に良かったと。
- 129 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時01分23秒
- 最後に辻。
辻は半回転ジャンプをする。
すべてのジャンプの基礎となるこのジャンプを、辻はきれいに飛んで見せた。
さっきまでの練習では半分も出来ていなかったのに、きれいに飛んだ。
「できたー!! いいださーん!」
辻は、着地を決めた後、飯田の方に滑りよって行き抱きついた。
良かったねえ、良かったねえ、と飯田も辻を抱きしめ、頭をなでる。
それをうらやましそうに見ている加護の肩に石川は腕を回し、軽くぽんぽんと2度たたいた。
- 130 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時02分23秒
- 「さて、最後に石川! あんたやってみな」
「私ですか? 何するんですか?」
突然の飯田の言葉に、驚く石川は、声をとがらせる。
「曲かけるから、フリー演技通しでやってみろ」
石川は、飯田コーチの意図が理解できず首をひねっていたが、加護が頑張ってと声をかけ
ると、笑顔を返してリンクの中央へ向かった。
曲はもちろん、ベートーベンの月光:ムーンライトソナタ。
飯田たち4人は、リンクから上がり石川を見守った。
石川は、リンクの中央に立つと、加護のことを思っていた。
練習の間、ずっと「梨華ちゃんすごいなあ」を繰り返していた加護に、もっとすごい自分
を見てもらいたい。
プレッシャーのような物はなかった。
石川にあるのは、いい演技をしようというほど良い緊張感。
楽しかった今日という日を締めくくるのにふさわしい演技をしたい。
曲が始まる。
- 131 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時03分35秒
- 厳かな雰囲気の曲。
ピアノの音色がリンクに響く。
石川は、彼女本来のたおやかな手の動きで曲を表現する。
やや憂いを含んだ表情。
すべてが、彼女の演技を彩る。
プログラム最初のジャンプ。
祈るように見つめる飯田。
その彼女たちの目の前で、石川はトリプルルッツ−トリプルトーループのコンビネーション
をしっかりと決めた。
飯田以外の3人は思わず拍手する。
飯田は、「よし、石川!」と声を出した後、再び険しい表情で見つめていた。
- 132 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時05分04秒
- 演技は続く。
全日本選手権とは対称的だった。
ジャンプはパーフェクト。
その他の、スパイラル、ステップ、スピン、また各パートの間に入る細かい振り付けも、
手足の先まで意識された美しいもの。
辻や加護が黙って見つめるほどに、見る者を引き付ける演技。
ラストの高速スピンを終えて、両手を広げ決めポーズ。
リンクサイドの3人から、リンクで滑る一般客から大きな拍手が起こる。
石川は、それに答えるように微笑んだ。
「チャーミースマイルだ」
最高の演技をした後に彼女が見せるというチャーミースマイル。
本当に久しぶりに、石川の表情がそのスマイルで包まれていた。
- 133 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時05分50秒
- 3人は帰っていった。
帰り際、みんなまた来てね、と飯田が言うと、辻は、自分は遠くから来ているから、ここ
へ来ることは多分もうない、と告げる。
辻は、冬休みの間だけ加護のもとへ遊びに来ていた。
それを聞き飯田の目に涙が溢れそうになる。
もう来ない、と告げた辻自身も顔がゆがんでいた。
飯田は辻を抱きしめる。
それを見ながら石川は、飯田先生って素敵だな、と思った。
市井がどこからか手に入れてきた色紙に二人がサインをし、別れた。
市井と加護には、絶対また来てね、と何度も念を押した。
- 134 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月07日(土)22時08分21秒
- 「いい子たちでしたね」
「うん」
「先生、まだ泣いてるんですか?」
「別に、泣いてるわけじゃないよ」
飯田の声が少し湿っていることに石川は気づいているが、それ以上は聞かなかった。
「石川、さっきの演技、忘れるなよ」
「はい」
「あの演技が出来れば、きっと、私たちのことをまたののちゃんたちが見てくれるから」
「はい」
なぜ、自分の演技が突然上手く言ったのか、石川は理解出来ていなかった。
亜依ちゃんが幸運の女神なのかな、と石川らしく、思っていた。
- 135 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年12月09日(月)21時35分05秒
- みや様
更新お疲れさまです。
『初めての夏休み』
『みんなの冬休み』
『初めての林間学校』
そして、本作品と。一気に読んでしまいました。
ホロリとくる感動、思わず微笑んでします楽しさと、とても集中して読めました。
良質の作品に感謝です。<m(__)m>
そこでお願いなのです(初めての林間学校の方にも書かせていただきました)が、作品の保管作業をさせていただいてよろしいでしょうか?
無理なお願いとは承知していますが、よろしくお願いいたします。
PS:更新、楽しみに待ってます!
- 136 名前:M.ANZAI 投稿日:2002年12月12日(木)18時50分12秒
- いつかのあのシーン、再びジーンとしてしまいました。
そしてあの時には知ることの出来なかった圭織コーチと石川さんの再度から
もう一度読んでみて、目頭が熱くなる思いです。
この跡にどのような展開が用意されているのか、楽しみにお待ちしてます。
- 137 名前:作者 投稿日:2002年12月15日(日)21時54分10秒
- >>ななしのよっすぃ〜さん
あちらにも書きましたが、保存いいですよ。
昔の物は恥ずかしい・・・ という気持ちもありますが、そう言っていただけるのは有り難いことです。
大変な手間だと思いますが、サイトの運営頑張ってください。
>>M.ANZAIさん
同じシーンを使う、というのは物語として良いことか悪いことか、判断に迷うところでした。
セリフなどが、完全に固定されているので難しい、というのと、こういうのは手抜きと言うのではないか? という葛藤もありました。
この先どうなるかは、読んで見てのお楽しみということで。
- 138 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年12月16日(月)23時11分20秒
- ありがとうございます。
早速、保存作業に入りたいと思います。
まずは、『初めての夏休み』から保存させていただきました。
http://kuni0416.hp.infoseek.co.jp/text/index.html
至らない点もあると思いますが、よろしくお願いいたします。
- 139 名前:作者 投稿日:2002年12月21日(土)23時30分51秒
- >>ななしのよっすぃ〜さん
保存作業お疲れ様です。
拝見させていただきました。
一つお願いがあります。
ハンドルは、出来ればひらがなにしていただけるとうれしいです。
よろしくお願いします。
- 140 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時31分50秒
- オリンピックを半月ほど先に控えた1月中旬。
石川は、韓国釜山へと向かった。
昨年、2位に入った四大陸選手権に出場するためである。
- 141 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時33分03秒
- 石川は、加護たちとの出会いで力を取り戻したかのように見えたが、それもわずかな時間
だけのものだった。
再び一人での練習を始めるとミスを連発する。
それ以前に、とにかく集中力の欠如が目だった。
そんな状態での世界大会出場に、飯田は危機感を持っていた。
石川に対して、どうしても腫れ物に触るように振舞ってしまう。
- 142 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時33分51秒
- 四大陸選手権は、世界選手権、グランプリファイナルに続く世界的な大会ではある。
昨年石川が世界選手権で7位に入ったのも、この四大陸選手権で力を見せ、審判団のあい
だでの知名度を上げていたことがその一因でもあった。
ただ、どうしても世界大会としての格は、他の二つよりも落ちる。
オリンピックのある今年は、この大会は各国の補欠選手の集まりとなってしまった感があ
った。
現に、日本からは全日本選手権3位、4位の石川と里田がエントリーし、りんね、あさみの
二人は参加を見合わせている。
関係者の間では、日本人の久しぶりの世界大会優勝もあるのではないか、との声も出ていた。
しかし、たった一人だけ、世界のトップ選手のエントリーがあった。
昨年のこの大会でも優勝し、世界選手権は3連覇中のヒッキー・ウタダである。
ミス・パーフェクト、とも呼ばれる彼女はスケートの傍らコロンビア大学に通い、将来
の夢は弁護士と語る。
そんなヒッキーのことを石川は畏敬の念を持って見つめていた。
- 143 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時34分35秒
- 大会初日、ショートプログラム。
石川の滑走順は2番目。
点が出にくい順番ではあるが、プレッシャーはあまり感じずに済む立場になる。
優勝を目指す、という意味では不利になるが、今の石川の精神状態を考えるとラッキー
だと飯田は思っていた。
「楽しく滑っておいで。終わったらかおりが本場の焼き肉ごちそうして上げるから。あ、
でも、太っちゃダメだから、肉じゃなくてキムチメインね。韓国のキムチって、おかわり
自由なんだって。だから、いくら食べても良いからね、キムチなら」
リンクに入る直前の石川へのアドバイス。
笑いを取ろうと頑張る飯田であるが、石川の表情は和らぐことはなかった。
- 144 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時36分02秒
- 「先生、私のことあきらめてるんですね」
「なんだよ、急に。そんなこと言ってないだろ」
「だって、技術的なこと何も言わないじゃないですか」
「そんなこと・」
「いいです。行ってきます」
技術的なことはあえて言わなかった飯田。
その想いは石川へは伝わらない。
- 145 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時37分11秒
- ショートプログラムの曲目は、シューベルトのアベ・マリア。
たおやかな表現をふんだんに取り入れたプログラムである。
石川は、日本選手権直後のどん底からはわずかに回復していたが、それでも精彩を欠いて
いるとしか言いようのない演技だった。
必要な要素を失敗することなくこなすことが必要なショートプログラムでは、一つの失敗
が大きな減点へとつながる。
石川は、出だしのコンビネーションジャンプは不格好ながら成功させたが、その後のトリ
プルフリップで転倒した。
この転倒で、テクニカルメリットの得点が0.5減点される。
他の6つの要素は、それなりに決めることが出来たが、その減点が響き全体の得点は低く
抑えられた。
- 146 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時37分54秒
- 11番目に登場した里田にとって、この四大陸選手権は初めての世界大会となる。
それでも緊張はなかった。
オリンピック出場を決めた二人を目の当たりにしていた彼女。
この大会がそれほど大きな大会という認識がない。
場内も空席が目立ち、観客も全日本選手権と同じ程度しかいなかった。
ジャンプの成功率が高い彼女は、失敗が許されないショートプログラムは逆に得意
である。
8つのエレメントを確実にこなし、テクニカルメリットでは5.4〜5.6の高得点を並べ
その時点でのトップに立った。
- 147 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時40分09秒
- ショートプログラムでトップに立ったのは、最終滑走者であるヒッキー・ウタダである。
ミス・パーフェクトは、今日もパーフェクトであった。
トリプルルッツ−ダブルトーループのコンビネーション。
トリプルフリップにダブルアクセルという、ジャンプのエレメント。
スピンやスパイラルの美しさも、世界ナンバーワンの名に恥じない物であった。
テクニカルメリット、プレゼンテーション、共に5.8以上を全てマークした。
- 148 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月21日(土)23時41分59秒
- 里田は、ヒッキーに次ぐ2位、石川はジャンプの失敗が響き5位でショートプログラムを終えた。
「梨華、今晩食事でもどう?」
最終滑走者であったヒッキーが、採点を終え控え室に戻ってくるなり、衣装のまま発した
台詞がこれだった。
二人は、昨年のこの大会で親しくなっていた。
アラスカで幼い頃を過ごし、英語での会話が問題なくこなせる石川。
日本人の血筋を持ち、日本語を操ることが出来るヒッキー。
あこがれの視線を自分に向ける石川へ、表彰式の後ヒッキーの側から声をかけたのがきっ
かけである。
「ずいぶん余裕だね。試合の間だっていうのに。私や里田さんじゃ相手にならないってこと?」
「そうじゃないよ。競技会は常に真剣さ。だけど、今日は特別だから」
「特別か・・・。そうね、特別ね」
石川は冷たい表情を変えることはなかったが、それでもヒッキーの誘いを了承した。
- 149 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時37分17秒
- 二人が向かったのは、地元民おすすめの焼肉店。
競技会で世界各国をまわる選手達にとって、その国の名物料理を食べるのは唯一の楽しみ
となっている。
特にヒッキーは華やかなリンク上での姿と裏腹に、庶民的な現地の料理や文化を好んでいた。
この国の名物料理、ということになると、どうしてもこれになってしまう。
石川は、特別な日のディナーとしては不満を感じていたが、ヒッキーに逆らって他の店を
探そうと言い出すほどのパワーを持ち合わせていなかった。
- 150 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時38分24秒
- 「姫、ご不満でございますか?」
「からかわないで」
「ふくれっ面も美しゅうございますな」
「ホント、いつでも余裕でいいよねヒッキーは」
- 151 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時39分04秒
- 石川はいらだっていた。
目の前にいるのは、自分が挑んで行くべき世界のヒッキー・ウタダ。
競技会の合間にそんな選手が自分をにこやかに食事に誘っている。
今日の成績では、明日どんなに良い演技をしてもヒッキーを自力で逆転することは出来
ない。
オリンピックでの再戦は自分が出られないからあり得ない。
友人として、ヒッキーの人柄は好きだった。
この1年、リンクを離れたところでのつきあいもいろいろとあり、お高くとまってそうな
イメージは、あっさりと取り崩されていた。
しかし、自分もヒッキーも、フィギュアスケートの選手である。
対等とまではいかないまでも、もう少しで足下を脅かす存在、になれる位置にいたはずだ
った。
それが、このていたらくである。
今日は、二人にとって特別な日。
石川も、なんとか悪い流れを変えようと、ヒッキーの誘いにのってみたが、自分の置かれ
ている状況を改めて思い起こしてみると、ここに来たことを後悔していた。
- 152 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時39分51秒
- 注文は、ヒッキーが適当に頼んでいた。
従業員に英語は通じていないようだが、身振り手振りでなんとかするヒッキー。
石川は、言葉の通じない相手とコミュニケーションをとるのは得意でない。
テーブルに置かれたキムチを、黙ってかじっていた。
「まあまあまあ、乾杯しましょうよ、石川さん」
まだ、肉は運ばれてこないが、飲み物だけはすぐに二人の前に置かれた。
ウーロン茶のグラスを持つヒッキーが石川に促す。
石川が唯一自分で注文したつもりだったピーチカルピスは、なぜかブラッディーマリーに
姿を変えてテーブルに置かれていた。
もう、やだ、頭の中でつぶやきつつグラスを手に取る。
- 153 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時40分55秒
- 「二人のバースディに乾杯!」
1月19日、今日は二人の誕生日であった。
ヒッキーは20に、石川は18になる。
軽くグラスを当て、それぞれ飲み物を口に含む。
「にがい」
ブラッディーマリーを口にした石川が、眉を寄せ顔まで苦そうな表情を作り言う。
「飲み慣れてないのに大人びた物頼むからだよ。代える? こっちと」
「どうせ私はガキですよ」
「梨華姫はご機嫌斜めですか?」
「見れば分かるでしょ。昼間あんな演技しといて上機嫌でいられるほどお気楽じゃない」
とりつくしまもない石川にヒッキーが軽くため息をつきつつキムチに箸を伸ばしていると、
肉をのせた皿が運ばれてきた。
石川は、にがいといいつつも、すでにグラスを半分空けている。
- 154 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時42分20秒
- 「たべよたべよ。せっかく焼き肉の国に来たんだし、誕生日だし、食べなきゃ損よ」
「ヒッキーさあ、なんで、わざわざ今回来たの? オリンピック前にわざわざ出るような
大会じゃないでしょ。焼き肉食べにでも来たの?」
肉を次々と鉄板の上へと乗せていくヒッキーに、石川が先ほどからの冷たい表情を崩さず
に問いかける。
「うん。焼き肉食べに来た。あと、梨華に会いに」
「本気で言ってるの?」
「真面目に答えて欲しいの?」
ヒッキーは、店に入ってから初めて笑顔を消し真顔になった。
こくりと頷いて石川は空になったグラスをテーブルに置いた。
鉄板から、二人を分けるように蒸気が上がる。
「韓国の人に私の演技を見てもらいたかったから」
まじめな顔でさらっと話す。
それだけ言うと、再び鉄板の上の肉へと箸を伸ばしている。
従業員が新たに野菜の載った皿を持ってやってきた。
石川は、空のグラスを指さし、ついで指を一本立てる。
- 155 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時43分22秒
- 「気に入ったのそれ?」
「他の頼んでも、何出てくるか分からないし」
「そっか」
石川は、ため息を一つつき、それから再び箸ではなく口を動かす。
「演技を見て欲しかったってそれだけのために来たの?」
「うん。韓国って、私にとって未知の国だし、フィギュアスケートが盛んなわけでもない
じゃん。そんな国の人に、私の演技を見て欲しいから来た」
「忙しいのに? オリンピック前にわざわざそれだけのために?」
「それだけで十分じゃない? まあ、調整兼ねてるのもあるけど。梨華ちゃんはなんで来
たの?」
ヒッキーの切り返しに、石川は答えを返すことが出来なかった。
一瞬間が空き、肉の焼ける音だけが二人の耳に入る。
石川は、無造作に肉をつかみタレもつけずに口へ放り込んだ。
まだ生焼けだった。
- 156 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時45分34秒
- 「梨華ちゃんさあ、いろんなこと考えすぎじゃない? なんかさあ、今日の演技見てて、
全然集中してるように見えなかったもん」
店員が、2杯目のブラッディーマリーをテーブルへとおいていった。
石川は、ヒッキーの話を黙って聞いたまま、グラスを口へ持っていく。
「せっかくのナイスバディがもったいないぜ! あんな気の抜けた演技してたら、俺に
は一生勝てないですぜ兄貴」
「分かってるよ、そんなの」
すねたように言う石川に、ヒッキーは続ける。
「楽しみにしてたのにな、梨華の演技。あれじゃ、つまらないよ」
「余裕だね。負けることなんか無いと思ってるんだ」
「選手としては驚異だけど、観客としては梨華の演技好きだよ」
「ミス・パーフェクトさん誉めてくれてありがとう」
「分かってないよ、梨華ちゃんはやっぱり」
ヒッキーは、鉄板の上の人参を返しながら続けた。
- 157 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時46分35秒
- 「世界でいちばんトリプルアクセルに近い女性石川梨華なんでしょ、あなたは」
石川は、顔を上げヒッキーの方を見る。
「そして、私がどんなに背伸びしたって手に入れられない、その美しいプロポーションを
持ってる。その場にたたずむだけで誰もが目を向けてしまう華麗さも備わってる」
「だからなんだって言うの?」
「もったいないなってね。何悩んでるのか分からないけどさ、今年で引退するわけでも
あるまいし」
そう言うと、ヒッキーは、残りのウーロン茶を一気に流し込んだ。
「おねーさーん。ウーロン茶もう一杯。梨華ちゃんは?」
店員に向かって空のグラスをかかげ日本語で注文している。
石川は、また無言で空になったグラスを指さし、ついで人差し指を一本立てた。
- 158 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時47分22秒
- 「ずーっと、世界のトップにいる人と違って、どうせ悩みだらけですよ」
「トップに立てば悩みがない、なんて考えてるようだったら大間違いだけどね」
そう言われて、石川ははっとする。
ヒッキーの今シーズン前半はトラブル続きであった。
最初はコーチとのトラブル。
振り付けや転戦スケジュールのことから契約料金のことまで、ありとあらゆることで対立
してしまった。
コーチを解任し、現在は父親と二人で世界を転戦している。
その問題が解決したと思った矢先、今度は病気にかかった。
それは卵巣内腫瘍が出来るという、女性としては単なる病気以上に悩みを抱えてしまうで
あろうものである。
さらに悪いことに、その腫瘍の摘出手術は成功したものの、術後の治療で用いた薬の副作
用で体調を崩してしまう。
彼女がようやくリンクの上に戻ってきたのはシーズンも半ば、オリンピック予選にあたる
全米選手権のわずか2週間前のことであった。
- 159 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時48分35秒
- 「ごめん」
「別に怒っちゃいないけどさ」
ヒッキーの方を見られずに、はしでつかんだ肉をタレの小皿で泳がせながら石川がつぶや
くと、ヒッキーはそれまでよりも低いトーンで答えた。
ウーロン茶を一口含み、さらに続ける。
「まあ、しけた顔しないでよ。せっかくの誕生日なんだし。難しいお話はこれくらいにし
て、がんがん食べなきゃ。韓国よここ、韓国」
ヒッキーの言葉に素直に答えて、というわけでもなかろうが、石川はグラスのブラッデ
ィーマリーを一気に空けた。
「おっ、飲みっぷりいいねえ」
「どうなったって知らないんだから」
「姫、あまり怖いことおしゃらないでほしいものですなあ。でも、まあ、たまにはそ
れもいいかもね」
梨華の愚痴くらい聞いてあげるよ、という言葉は口にせず飲み込んだ。
石川は、店員にむけてグラスを差し出し、指を一本掲げる。
ヒッキーは、さらに骨付きカルビの皿を注文していた。
- 160 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月23日(月)22時51分13秒
- 店に入って二時間が過ぎようかというころ、ヒッキーが仕上げのシャーベットをほうばっ
ている向かいで石川は酔いつぶれ、ヒッキーに向かって絡んでいた。
「わたしだってさあ、オリンピック出たかったのよー。ヒッキーになんかなあ説教されな
くたって、わかってるんだよお。うじうじ悩んでてもしょーがねーぞいしかわー!!! な
んとかいえよ。ちきしょー。ちきしょー。 私だって、私だって・・」
泣き上戸かよ、と心の中で突っ込みつつヒッキーは、オレンジシャーベットの皿を空にする。
石川は、右手に箸を持ったままテーブルに突っ伏して眠ってしまった。
「お姫様は血のあじのカクテルを飲み、眠りについてしまいましたとさ。」
そうつぶやいて、石川がテーブルに残したグラス半分のブラッディマリーを一息に飲み
干すと、店員を呼びつけた。
「お姉さん。お会計、あと、タクシー呼んでくれる?」
日本語と英語のチャンポンで無理やり通じさせる。
「がんばれ梨華。復活待ってるよ」
その後、酔いつぶれた石川を心配して待つ飯田コーチの部屋へ送り届けた。
- 161 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年12月24日(火)22時07分00秒
- みや様
更新お疲れさまです。
スランプな梨華ちゃんは、この大会を機に脱出できるんでしょうか?
続きが気になります。楽しみに待ってます!
PS:保存ページのハンドル名、ひらがなに直しました。
これからもよろしくお願いいたします。<m(__)m>
- 162 名前:作者 投稿日:2002年12月26日(木)23時53分52秒
- >>ななしのよっすぃ〜さん
わざわざありがとうございます。
お手数おかけしました。
- 163 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月26日(木)23時57分20秒
- 翌朝、石川は飯田コーチの部屋で目を覚ました。
「おはよう石川。大丈夫?」
「んっ、んー、おはようございます。あれ? 先生? どうしたんですか?」
ピンクのネグリジェ姿で目をこすりながらベッドの中で半身起こしてから、石川は頭を
押さえる。
「頭、痛い」
「ガキのくせに、飲みすぎるからだよ。大体、試合の合間に酒飲む選手がどこにいるんだ」
「私どうしたんでしたっけ?」
「ヒッキーが送ってくれたんだよ、ここまで。ほら、薬。ウタダ家秘伝の二日酔い完治薬
だって。それ飲んだら酔い覚ましにランニングしてきな」
飯田は顔をしかめつつ薬を石川の方にほうる。
石川ははっとした風に、自分の胸元を見てネグリジェをつかんだ。
- 164 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月26日(木)23時58分04秒
- 「私、いつ着替えたんだろう? 飯田先生、私の服脱がせました?」
「何バカ言ってんの。自分で着替えたの。ウタダさんとまだ話しててドア開いてるのに、
いきなり服脱ぎだすから、あせったったらないわよ、まったく」
石川は恥ずかしそうにまくらを抱えうつむく。
「私は、食事してくるから、汗流してすっきりしたら、食べにくるんだよ。二度寝したら
だめだからね」
それだけ言い残して飯田コーチが出て行くと、石川は再び眠りにつきたい気持ちと戦いな
がら、薬を飲みウインドブレーカーに着替え、部屋を出た。
- 165 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月26日(木)23時58分53秒
- 1月の韓国は思いのほか冷え込む。
氷点下近い風が、二日酔いのだるさを忘れさせるほどに体に染み入ってきた。
石川は頭の痛さよりも、寒さに耐え切れず走り出す。
見知らぬ町の中を走る、というのはなかなか気持ちのよいもの。
冬の白さをはらんだ空気に包まれたビルの間を進んでいくと、5分もたたないうちに体は
温まり始め、体からアルコールが抜けていくのを感じとる。
薬が効いたのかな? と思いつつさらに10分ほど歩を進め、そろそろ戻ろうかと角を曲
がると、ベンチに見知った顔が石川と同じように白のウインドブレーカーを着て座っていた。
声をかけようかそれともやりすごそうか。と考えながら近づいていくと、視線が合った
のでベンチの前で立ち止まった。
- 166 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月27日(金)00時03分57秒
- 「おはようございます」
石川が声をかけると、軽く頭を下げた。
「どうしたんですか? 寒いのに座り込んじゃって」
「いや、ちょっと、休憩してました」
「そっか、じゃあ、私もう戻るから」
「あ、あの、私も行きます」
日本人が二人並んで釜山の街を走っている。
お互いに、ほとんど話はしたことがないけれどよく知っているという関係で、距離感のと
り方に戸惑っていた。
何かを話そうとすればどうしてもスケートの話になってしまう。
無言で黙々とホテルへ向かう道を走り続けた。
石川は、なんでついてくるのよ、と不満を感じている。
昨日2位に入ってるくせに、ベンチでうつむいていたことも気に入らなかった。
- 167 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月27日(金)00時05分47秒
- 里田は、実は道に迷っていた。
石川と同じホテルに宿泊している彼女は、牧場での習慣そのままに昨晩は10時ころベッド
に入ったものの、翌日のフリー演技のことが頭から離れず、ほとんど一睡もできずにいた。
早朝5時過ぎ、着替えてランニングに出かけたが、気も乗らずとぼとぼ歩いていると、ホ
テルへ戻る道を忘れてしまったのだ。
異国で道に迷い途方にくれていると、そこに石川が現れた。
「よく、眠れました?」
「あ、うん、たぶん、ぐっすり眠ったと思う」
間違えなく熟睡したはずの石川は、自分が二日酔い状態であったことを思い出し、なん
となく言葉に詰まってしまう。
白い石畳の上を走る帰りの15分の道のりで、二人が交わした言葉はたったこれだけだ
った。
ホテルに戻った石川の体からはアルコール分がすっかり抜け、だるさは消えていた。
一方の里田は、眠気と疲労と緊張がのしかかってきていた。
- 168 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年12月27日(金)22時47分42秒
- みや様
更新お疲れさままです。
二日酔いの舞姫もいいですね。
オリンピックに出れなくても、チャミースマイルの復活に期待です!
- 169 名前:作者 投稿日:2002年12月29日(日)22時39分05秒
- >>ななしのよっすぃ〜さん
試合前の二日酔いは、いくないです(笑)
サイトの方、お疲れ様です。
- 170 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時41分15秒
- 二日目のフリー演技には、昨日と比べ倍近い観客がスタンドに集まり、ようやく世界大
会らしい雰囲気を漂わせ始めていた。
石川の演技順は、終わりから5番目。
ヒッキーはラス前で、最終演技者は里田となっている。
朝のランニングの効果か、ウタダ家秘伝の薬の効果か、石川の体調は二日酔いを思わせ
る部分は無い。
前の演技者の演技が終わり、石川はリンクの上に姿を現した。
軽くリンクを一周してから、スクラッチスピンし氷の感触を確かめると、いったんリン
クサイドの飯田コーチの元へ戻ってきた。
- 171 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時43分36秒
- 飯田コーチは石川になんと声をかけるべきか悩んでいた。
技術的なことを言ってプレッシャーをかけたくない。
しかし、あまりにスケートとかけ離れたことを言うと、昨日のようにすねられてしまうこ
ともある。
コーチとしての経験が長くはない飯田にとって、選手がスランプのときにどう接するべき
なのかはいまだつかめずにいた。
自分のもとへ戻ってきた石川を前に、何も言えずにいる。
「先生、あの、いい演技、できたら、焼肉、おごってください」
石川は、飯田の顔は見ず、ややうつむいて、リンクサイドの手すりを見ながら、一つづつ
単語を区切ってそう言った。
- 172 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時46分12秒
- 「あ、うん、いいよ。うん。かおり、いくらでもおごっちゃう。うん。がんばっといで」
「はい」
飯田は、驚いて目を見開き、石川の方をしっかり見ながら、いつもよりも半音くらい高い
トーンで言葉を返すと、石川は手すりの方に視線を落としたまま、小さく返事をした。
前の演技者の採点が終わり、場内に石川の名前がコールされる。
会場の光を集める白い氷の上中央に、薄紫色の衣装を身につけた石川が滑りいった。
曲がかかり、4分間の演技が始まった。
フリーの曲は、いつものようにベートーベンの月光。
立ち上がりは、静かに、やわらかな振り付けをそつなくこなしてゆく。
最初のジャンプ。
全日本選手権では失敗した3回転−3回転のコンビネーションジャンプを、今日は難度を
下げて3回転−2回転としたもののきれいに決めてきた。
- 173 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時47分12秒
- 飯田は、石川の演技を見て何度もうなづいている。
なんとか無難にこなしてほしい。
今日は、最高の演技でなくてもいいから、最後まで、演じきってほしい。
スケートを続けていく気力を保てるような演技を。
両手を顔の前で合わせ口元に当てて見守る飯田の視線の先で、石川は今日二つ目のジャン
プ、トリプルサルコーをしっかりと飛んでいた。
リンクにたいして垂直に体の軸がのびた美しいジャンプ。
場内からの拍手を受ける。
石川の表情が久しぶりに和らいだ。
- 174 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時48分45秒
- 銀板を一杯に使って、石川の演技は続く。
デスドロップからのスピン、さらにはスパイラルも美しく決めてゆく。
いけるかも、という気持ちが石川の心の中に芽生えてきた中盤、エアポケットが広がっていた。
三つ目のジャンプであるトリプルループで、回転が足りず転倒。
観客の間からもため息が漏れる。
飯田コーチは、両手を合わせたまま見つめ続けていた。
石川はすぐに立ち上がる。
直後の四つ目のジャンプ、ダブルアクセルはしっかりと決めたものの、次のコンビネーション
ジャンプは、一つ目のジャンプの着地でバランスを崩し、二つ目のジャンプが抜けてしまう。
お願い、最後まで、しっかり。
飯田は見つめながらそれだけを願っている。
- 175 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時50分17秒
- 演技の終盤、一度失敗しているループジャンプをもう一度試みるが、今度は回転が二回に
なってしまった。
それでも、5種類の三回転ジャンプのうち、他の4種類は決めることができた。
指先の動きも滑らかに、月の光を追い求めるさまを描き出す。
ラスト、スクラッチスピンを決め4分間の演技を終えた。
- 176 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時51分57秒
- 会場からは、大きめな拍手とともに、花束が投げ入れられる。
石川は自らその一部を拾い、Kiss&Cryに戻ってきた。
「おつかれ」
「はー、疲れました。ジャンプが、ちょっと、だめでした」
「でも、よかったよ、うん、よかった」
「拍手がもらえるって気持ちいいですね。でも、もっと、もっと出来るはずなんだけど。
あー、くやしいなあ。花束もらえてうれしいけど、くやしいなあ、くやしい」
演技を終え、心拍数同様テンションも上がっている選手は、戻ってくるなりよく話す。
石川が、飯田の前でこれだけ多くの言葉を発するのは、久しぶりのことだった。
得点がコールされる。
- 177 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時52分48秒
- テクニカルメリット
5.4 5.4 5.2 5.5 5.3 5.4 5.4 5.4 5.3
プレゼンテーション
5.6 5.7 5.4 5.7 5.6 5.6 5.7 5.7 5.5
順位
1 1 1 1 1 1 1 1 1
4人を残し、現時点で石川がトップに立った。
- 178 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時53分54秒
- 続く2選手は、力なりの演技はしたもののわずかに得点が届かず、石川がトップのまま
残りの二人を迎える。
最後から2番目、ヒッキー・ウタダがリンクに上った。
万雷の拍手で迎える観客たちに両手を広げ笑顔でこたえながら、ヒッキーはリンクセン
ターに立つ。
その姿を石川は控え室のモニター越しに見ていた。
「余裕たっぷりだ」
笑顔のヒッキーを見て小声で毒づく。
残りの二人の演技の出来にかかわらず、この時点で石川の表彰台は決まっており安堵して
いる飯田コーチがそんな姿をみて、隣でわずかに微笑んでいた。
- 179 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時54分59秒
- 同じころ、最終滑走者である里田は、リンクに通じる通路でストレッチをしていた。
いい演技ができるだろうか?
失敗しないだろうか?
石川さんの得点を上回れるのか?
ショートプログラムで2位なんだから、恥ずかしい演技はできない。
どうしよう。
逆転されたくない。
勝ちたい。
石川梨華に、勝ちたい。
私にできるのだろうか?
おちつけ、おちつけ。
ストレッチをしながらも、頭は違う方向へ向かっている。
上がってくる心拍数。
今現在、誰の滑走順かわからなくなり、心配でリンクサイドへと里田は向かった。
- 180 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時55分48秒
- ヒッキーの演技は、いつもどおりすばらしいものだった。
高さのあるジャンプ、躍動感のあるステップ、ダイナミックなスパイラル。
どれをとっても世界ナンバーワンにふさわしいもの。
それを初めて目の当たりにして圧倒される里田。
「私には、できない」
おもわず言葉を漏らす。
リンクサイドのバーを持つ両手が震えていた。
ヒッキーの演技が終わり、投げ込まれた花束を拾いながら引き上げてくる。
里田は入れ違いにリンクへと入っていった。
Kiss&Cryに父親と二人ヒッキーが座ると、採点がコールされた。
- 181 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時56分53秒
- テクニカルメリット
5.8 5.8 5.9 5.9 5.7 5.9 5.9 5.8 5.8
プレゼンテーション
5.9 5.9 5.9 5.9 5.8 5.9 5.9 5.9 5.8
順位
1 1 1 1 1 1 1 1 1
審判員全員一致でヒッキーがトップにたった。
- 182 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)22時58分30秒
- 里田の演技が始まる。
石川は、モニターの中の里田を見てつぶやいた。
「なんか、硬いな」
里田は、ジュニアのカテゴリーでも世界大会に出たことはない。
初めての世界大会の最終滑走者。
現在2位。
ライバル、目標、敵、石川梨華に勝つ最大のチャンス。
- 183 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時00分22秒
- 曲がかかり演技が始まった。
表現力はもともとあるほうではない。
持ち味はジャンプのきれと正確さ。
高い得点を得るためには、思い切りの良いジャンプを見せつける以外に手段はない。
- 184 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時03分38秒
- なんか、ぱっと見の印象と裏腹に子供っぽい演技だなあ。
控え室に戻り、モニターを覗いたヒッキーの、里田に対する印象。
背筋を伸ばす、手先を伸ばす。
そういった演技の基本は当然できてはいるものの、腕、足の動かし方が直線的で、演じて
いるというよりも形をなぞらえているだけになっている。
失敗できない、という里田の強迫観念が、もともとない表現力をさらに奪っていった。
- 185 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時04分16秒
- 最初のジャンプは得意のトリプルサルコー。
長い助走を取り踏み切る。
高さは十分にあるが、体の軸が進行方向に対して横に大きくぶれている。
着地の際、体を支えきれず両足をもつれさせて転倒した。
すぐに立ち上がるが、表情がさらに硬くなっていく。
負けちゃう、負けちゃう、負けたくない、負けたくない。
頭の中にうごめく二つの言葉。
薄れる集中力。
- 186 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時05分21秒
- 二つ目のジャンプ、トリプルルッツ−トリプルトーループは、一つ目のジャンプから回転
が足りず単なるダブルルッツとなった。
負けちゃう、負けちゃう。
里田の頭に、負のイメージがこだまする。
里田は、かつて石川と対等な力を持ち争っていたことがあった。
りんねやあさみが台頭してくるさらに前。
全日本ジュニアで里田は石川と対戦していた。
そのときは、ショートプログラムで里田がトップに立ったものの、フリーで逆転され2位。
世界ジュニアへの切符を石川に奪われていた。
その後里田は足首を怪我し、トップレベルの競技会から長く離れることとなる。
石川にとっては遠い昔のひとつの思い出に過ぎないことであるが、里田にとってはエリー
トへの階段を踏み外した象徴。
石川の上に立つことが、再び自分がスポットライトを浴びるのにどうしても必要なことと
いう意識があった。
- 187 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時08分13秒
- 序盤の立て続けのジャンプの失敗。
ジャンプを武器にしてきた選手がそのジャンプを失敗してしまってはなすすべがない。
その後は冷静さを取り戻した、というよりは力が抜けた、という感じながらジャンプで転
倒することはなかったが、元来の表現力のなさが浮き彫りとなってしまう演技となった。
私は、トップにふさわしくないのだろうか?
演技を終え里田は、笑顔を見せずただただ自問自答していた。
採点が発表される。
得意のジャンプで失敗があったためテクニカルメリットも点が伸びず、結局里田は総合で
5位に終わった。
優勝はヒッキー・ウタダ。
石川は昨年と同じ2位に滑り込んだ。
- 188 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時09分44秒
- 「おめでとう」
控え室で石川がヒッキーに声をかける。
「ありがとう。梨華ちゃんも2位おめでとう」
ヒッキーは、石川の両頬に軽くキスをして、そう答えを返した。
3位の選手とも軽く肩を抱き、喜びを分かち合う。
そんな光景が繰り広げられる中へ里田が戻ってきた。
石川は声をかけようか、と一瞬思ったが、里田の方は石川を一瞥すると自分のジャージを
つかみすぐに出て行ってしまった。
- 189 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時11分12秒
- 「梨華、復活の兆しかな?」
「なんか、嫌味に聞こえる」
ヒッキーの言葉に石川は冷たく答える。
ヒッキーは、困ったようなあいまいな笑顔を浮かべた。
「ねえ、昨日の薬って何か特別なものなの?」
「なんで?」
「いや、その、あれ飲んで走ったら、気分がすっきりしたから」
お酒やアルコール、二日酔い、という言葉を避けて石川が問いかける。
「ああ、あれ、基本的にはその辺で売って普通の胃薬」
「普通のなの?」
「うん。それに、パパの愛情を込めたから、ウタダ家秘伝なの。あ、梨華ちゃんにあげた
のは、パパじゃなくて私が愛情込めといたから」
「バカにしてる?」
「いや、そんなつもりじゃないんだけどさ、秘伝の薬ってことにしといたら、良く効きそ
うじゃん。要は気分の問題ってことよ」
スケートだけじゃなくて、普段の付き合いでもヒッキーのいいようにされるのか、とため
息をつきつつも石川はそんなに悪い気はしていなかった。
- 190 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時11分50秒
- 「石川、お疲れ。何とか2位だね」
「はい、まあ、なんとか」
「焼肉どうする? 2位に入ったし、おごってあげてもいいよ」
小首をかしげて一瞬考えた石川は、飯田の目を見て答えた。
「いいです、今回は。いい演技じゃなかったし」
「そっか。じゃあ、またの機会にな」
「はい」
- 191 名前:氷上の舞姫 投稿日:2002年12月29日(日)23時13分34秒
- 大会は終わった。
オリンピックへ向けて準備を始める者。
久しぶりのチャンスを生かせず失意に落ち込む者。
少しだけ気力を取り戻した者。
それぞれが、それぞれの国へ帰っていった。
- 192 名前:M.ANZAI 投稿日:2002年12月30日(月)11時27分44秒
- 年内最後の更新お疲れ様です。
同じ場所に立ち、同じように振舞いながら、
抱えている事や目指すものの違う三者それぞれの
あり方が確かに伝わってきました。
また来年も素敵な作品の続きを読ませていただきます。
- 193 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年01月03日(金)19時21分52秒
- みや様
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
チャーミースマイルの復活、待ってます!
梨華ちゃんが、今年は楽しく滑れますように...
- 194 名前:作者 投稿日:2003年01月13日(月)23時22分06秒
- あけましておめでとうございます。
というには、大分時間が経ってしまいましたが。
本年もよろしくお願いします。
>>M.ANZAIさん
人生いろいろ、登場人物いろいろ。
ここで出て来た3者、プラス、ここでは出てなかった他の登場人物。
みんな、いろいろあります。今後どうなって行くのでしょう。
>>ななしのよっすぃ〜さん
チャーミースマイル・・・
さて、どうなることでしょう??
- 195 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時22分53秒
- 帰国した石川は、すぐに練習を再開することになっていた。
石川にとって、今シーズン出場を予定している大きな大会はもうないが、オリンピックは
補欠ということになっているので、万が一ということもある。
また、シーズン後のツアーもあり、まだ氷から離れるわけにもいかなかった。
こういった時期の練習は、いまいち士気があがらないもの。
しばらく試合が無いため、練習も基礎的な物が組まれている。
それは、練習としてやや面白みに欠けると言えるものだった。
石川も、帰国後、リンクに向かう足取りは重かった。
- 196 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時23分40秒
- 四大陸選手権のフリーでは、少し自分の演技を取り戻し二位に入った。
それにより、よし、やってやるぞ、という気持ちが、たしかにその時は生まれたのだ。
表彰式で一番高いところに立つヒッキーのとなりに立ち、自分もいつか、この人に勝つんだ
という気持ち。
しかし、釜山のホテルでヒッキーに別れを告げ日本に帰る飛行機の中で我に帰ってしまう。
ヒッキーはこれからオリンピックへ行く。
自分は、地元へ帰って、基礎トレーニング。
暗い気分になってしまうのも仕方なかった。
- 197 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時24分52秒
- 帰国した翌日、石川は午前中は授業に出席し午後の遅い時間から練習をしにホームリンク
へとやってきた。
「梨華ちゃん、おそーい!」
そこには、飯田コーチと話す加護がいた。
加護と石川が会うのはあの、三人でやってきた出会いの日以来だった。
「亜依ちゃーん。ひさしぶり。一人で来たの?」
「そやで。梨華ちゃんに会いに来たのに、練習しとらんのやもん。ずーっと一人ですべっ
とっておもしろくなかったは」
加護はちょっとふくれっつらをしてみせる。
「ごめんね。学校行ってたんだ」
「そっかあ。なあ、みてみて、うち、片足滑りちゃんと出来るようになったんやで」
この前、石川に教わったものの演技披露の時に転んでしまった片足すべりをしてみせた。
- 198 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時25分33秒
- 「すごーい、ちゃんと出来てるじゃん。すごいすごい」
「飯田コーチに教わったんや」
「ねー、亜依ちゃん頑張ったんだもんねー」
飯田と加護は、二人して両手でガッツポーズを作り、小首をかしげて“ねー”とやっている。
「なんですか? それ?」
石川は、二人が何をしているのかは良く分からないものの、自分がいない間にどうやら仲
良くなったらしい、ということだけは理解した。
二人をリンクに残して、石川は更衣室で着替えをする。
基礎練いやだなあ、という気持ちは引いていた。
- 199 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時26分21秒
- 練習は、旅の疲れも考慮してメニューはやや軽め。
本来ならば、氷の上での練習の後、ウエイトトレーニングなどが待っているのだが、今日
はリンクでの練習のみ。
そんな石川を、加護は飯田の横でおとなしく見ていた。
石川は、加護の目を気にしてか練習に熱が入る。
飯田の指示に一つ一つ素直に従っていく。
軽めのメニューのはずが、すっかり熱の入った練習となっていた。
- 200 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時28分16秒
- 二時間ほどの練習をほぼ終え、石川はリンクから上がってきた。
「梨華ちゃん、お疲れ」
「ありがとう。最後まで見てたんだ」
「だって、昨日も来たんやで、ホントは。なのに昨日おらへんのやもん。今日は最後まで
見なもったいないやん」
「ごめんね。昨日韓国から帰ってきたからさ」
愛用のタオルを加護から受け取り、汗を拭きながら答える。
「あんな、テレビで見たで。その韓国の試合。夜遅うて、お母ちゃんに早く寝なさい、怒
られたけどな、梨華ちゃんの演技見たで」
四大陸選手権は、深夜の遅い時間に録画で放映されるのみだった。
- 201 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時28分51秒
- 「ありがと。一回転んじゃったけどね」
「でも、あれやろ。五位だったのを、三人抜いて二位になったんやろ。すごいやん」
「へへ、どうだ!」
腰に両手を当て、えっへんという感じで胸を張る。
「なんかな、うち、知ってる人がテレビ出るのなんて初めてでな、すごい興奮したんや。
もう、テレビ終わってからも眠れへんかったは」
「夜中にテレビに向かって騒いでたんでしょー」
「へへ、わかる?」
石川にとって、こうして自分の演技を見て喜んでくれる人を、家族やスケート関係者以
外でまじかにするのは初めてのことだった。
- 202 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時30分48秒
- 「それでな、うち、見てみたいねん」
「何を?」
「梨華ちゃんのな、トリプルアクセル」
加護は、自分の体を使って、ジャンプするまねをした。
「テレビでゆっとった。トリプルアクセルっちゅう難しいジャンプを出来るとしたら梨華
ちゃんしかおらへんって」
石川は、子供を前にしているとは思えない神妙な面持ちで加護の話を聞いている。
「だからな、うち、見てみたいねん。梨華ちゃんのトリプルアクセル。おとといの梨華ち
ゃんもすごかったし、この前ここで滑って見せてくれた梨華ちゃんもすごかったけど、多分、
そのトリプルアクセルってのを飛ぶ梨華ちゃんは、もっとすごくて、もっとかっこよくて、
もっときれいなんだと思う。だから、うち、見たいねん」
じっと石川の方を見つめて加護は語る。
その視線を、石川は正面から受け止めていた。
- 203 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時31分19秒
- 「うん。いつか、いつかね。きっと、きっと飛んでみせる」
加護がトリプルアクセルの話を始めてからずっと黙って聞いていた石川は、真剣な表情を
崩さずにそう答えた。
それだけ言うと加護は帰っていった。
石川が時計へ目をやると、短針が六の目盛りを過ぎている。
子供が外で遊んでいられる時間ではなかった。
- 204 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月13日(月)23時32分06秒
- トリプルアクセルが見たい、か。
石川の心に強く刻み込まれた加護の言葉。
「よし、明日からも頑張ってみようか」 と心の中でつぶやいてみる。
そうして、かばんを担いで更衣室へ消えて行く石川を飯田は見ていた。
飯田は、加護と石川のやり取りを思い出す。
もしかしたら、あの子は天使の子なのかもしれないな、などと飯田独特の感性で思っていた。
石川に祝福を与えてくれる天使の子。
自分は、あの子以上の何を石川に与えることが出来るのだろう?
一瞬考えてから、一つため息をついた。
考えても仕方ないか。
それだけしか結論が出なかった。
飯田にとっても、石川にとっても、もはや、簡単に答えの出せる問は、目の前には一つも
ころがっていなかった。
- 205 名前:M.ANZAI 投稿日:2003年01月14日(火)00時02分57秒
- あけましておめでとうございます。(だから遅いって!?)
今年もみや様の作品を読み続けさせていただきます。
それぞれの歩みがまた交差する様子を楽しみにしています。
- 206 名前:作者 投稿日:2003年01月19日(日)00時49分37秒
- >>M.ANZAIさん
今年もよろしくお願いします。
- 207 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時50分15秒
- オリンピックが近づいてくる。
いつもの場所でのいつもの練習。
いつものように屈託なく明るく滑るあさみ。
いつものように氷の上を華麗に飛んでいる里田。
ここまでは、変わらなかった。
変わったのは、突如増えた撮影のカメラと、りんねだった。
- 208 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時51分00秒
- 練習の合間合間に、リンクの上でも二言三言の雑談を交わす。
「あー、うまくとべなーい! まいの跳躍力分けてよ!」
「高さは十分あるじゃないですか」
「こんなんで、オリンピック出ていいのかな? ホント」
「そんなこと言うなら代わりに私に出させてくださいよー」
談笑する二人の横を、りんねがステップを刻みながら通り抜ける。
二人は、その姿を見つめる。
「しゃべってる場合じゃないね」
「そうですね」
それぞれに練習へ戻る。
あさみは、やや苦手なコンビネーションジャンプを繰り返す。
成功率は3割程度、本番で難度を下げるかどうかきわどいところ。
里田の方は、苦手な表現力を現すために、ジャンプとジャンプの間の動き。
表現力をつけるためにバレエ教室へ通うように、田中コーチには何度も言われているのだ
が、里田自身は自分はジャンプの人だから、ジャンプで勝負だから、と首を縦に振らない。
そこで、氷の上だけでもと田中コーチは細かい振り付け、手足の動きを練習させるのだが、
そうするとどうしてもあさみとの雑談が増えていた。
- 209 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時52分23秒
- りんねは、そんな二人から離れるように一人でひたすら滑っていた。
ジャンプ、スピン、スパイラル、気に入らない部分があれば、リンクサイドまで滑ってき
て田中コーチと確認する。
プログラムの完成度を上げて行く作業。
オリンピックまでの残りの時間はわずか。
大舞台で映える演技をするための、一つ一つのチェック。
一日一日、そうして過ぎて行く。
- 210 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時53分21秒
- リンクでのレッスンが終わっても、りんねだけ単独行動を取ることが増えてきた。
週に二日はバレエ教室が入り、ジムに行く日もある。
針治療、衣装の再チェック、いくつもの取材など、それ以外にも所用は多い。
あさみも、そういったことはそれなりにあるのだが、どれも頻度はりんねよりも少なかった。
この日も、りんねだけ別の車で町の整体院に行く。
あさみと里田の二人は先に牧場へ戻っていた。
- 211 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時54分19秒
- 冬の北海道の日の入りは早い。
練習を終え先に戻った二人は、りんねを待つことなく牧場の従業員達と夕食を共にする。
サーモンのバター焼きに蒸かしジャガイモ、ほうれん草炒めにコーンポタージュ。
みんな一緒のメニュー。
「りんねちゃんはまたお出かけかい?」
「今日は整体院って言ってたかな?」
「あさみはのん気だなあ。自分もオリンピック出るんだろ? 忙しくないの?」
「別に、私はいつもと変わらないよ」
「それならいいけどさ、あさみはホント変わらないから」
コーンポタージュのコーンをスプーンで探りながら、従業員達の言葉にあさみは答えている。
「なんか、実感ないんだよなあ。目標ですらなかったから。弾みで二位にはいちゃって、
ホントに私でいいんですか? ってかんじで」
「大物だよあさみは。なあ」
「そうですね。私なんかちょっと大きな大会に出ただけですごい緊張しちゃうのに」
「そんなことないよ」
あさみは、ジャガイモをはしでつかみほうばった。
- 212 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時56分13秒
- 食事が終わっても二人は食堂のテーブルでお茶を飲みながら無駄話に花を咲かせる。
牧場の仕事ともスケートとも関係のないこと。
柱の鳩時計が8時を告げる。
牧場の従業員の子供が駆け込んできた。
「あさみちゃん、トランプしよー」
「よーし、何しようか?」
「ババ抜き!」
4月から小学生になるその子は、よじ登るようにして食堂の椅子に座る。
「りんねちゃんは?」
「りんねはねえ、ちょっとお出かけしてるの」
「つまんない。りんねちゃんこのごろあそんでくれない」
「いそがしいんだよ、りんねさんは。お姉ちゃんが遊んで上げるからね」
「えー。3人でババ抜きー?」
里田がなんとかなだめようと、あさみと二人でその子を挟みこむ席に移動する。
やさしく頭をなでてやると、納得したのかおぼつかない手つきでカードを配り始めた。
- 213 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時56分55秒
- カードを配り終え、それぞれがそろった札を場に捨てていると扉が開いてりんねが入ってきた。
「お帰り。遅かったね」
「うん。ただいま」
それだけ言うと、りんねは階段を上がって行った。
「あさみちゃんから」
「ん? ああ、ごめんごめん」
階段を上がって行くりんねをあさみはぼーっとみていた。
程なくしてりんねが降りてくる。
厨房で後片付けをしている従業員と軽く言葉を交わして、トレイに皿を乗せ食堂へと戻ってきた。
- 214 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時58分33秒
- 「りんねちゃんも食べ終わったらやろーよ」
「わたしはいいよ。あさみとまいに遊んでもらいな」
「りんねは混ざれないよねえ。なにせ、ババ抜きしてるんだから、ババは入って来れないよねー」
あさみの言葉にりんねは微笑むだけで何も返さなかった。
手元の茶碗に箸を伸ばしていた。
何らかの反応を期待していたあさみは肩透かしを食い、りんねの方を見たまま固まっていた。
「あー、あさみちゃんババもってるー」
「え? ああ、 もう、見たなー」
あさみは手元に注意が行かずカードが上向きになっていた。
背中に手を回し、カードをシャッフルする。
里田の前に三枚のカードをかざした。
「さあ、どれだ」
カードを持ちながらも、あさみはちらちらとりんねの方を見ていた。
- 215 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)00時59分54秒
- りんねは、黙々と箸を動かしている。
ゲームをしているあさみ達の方を見るでもなく、ただ何となく映っているテレビを見るでもなく。
皿の上のサーモンに箸を伸ばし、スプーンでポタージュをすくい、ただ静かに。
りんねが食べ終わる頃、あさみたちのババ抜きもちょうど二ゲーム目が終了した。
ごちそうさま、と手を合わせトレーを厨房に持って行く。
そのまま、食堂を通り階段を上がって行こうとするところを呼びとめられた?
「りんねちゃんも一緒にババ抜きしよーよー」
「私はいいよ」
「やだー。いっしょにやろー」
りんねの右手をつかみ振り回す。
- 216 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)01時00分32秒
- 「あさみとまいに遊んでもらってるんでしょ。りんねおねえさんはもうお風呂入って寝るから、ね」
「やだー、あそぶのー」
そう言って、足を引っ張ろうとしている。
「こら。りんねはお風呂はいるって言ってるでしょ。邪魔しないの」
「ねっ。あさみとまいに遊んでもらいな」
「つまんない。いいよ、もう。わたしもねる」
「ごめんね」
頭をなでられて、ちょっと不満にしながらも足から手を離す。
りんねは階段を上って行った。
- 217 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)01時01分13秒
- 食堂に残された二人は、すでに冷えたお茶に手を伸ばし一息つく。
散らかっていたトランプを里田が片付け立ち上がった。
「部屋に戻りません?」
「もう、ちょっと、ここにいようよ」
「まあ、いいですけど」
少し低いトーンで里田は答えて、あさみの隣に座りなおす。
あさみは、テーブルに置かれたみかんに手を伸ばした。
「二人ともお茶飲むかい?」
「あ、おねがいします」
厨房から声がかかり、あさみが答えた。
里田も、テーブルのみかんを手に取った。
- 218 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)01時01分50秒
- 「なんかさあ、最近怖いんだ」
手元のみかんの皮をむきながらあさみがぼそぼそと語りだした。
「オリンピックで滑ることがですか?」
「それもあるけど、なんて言うかさ、りんねを見てるといろんなことが不安になって来る」
皮をむき終わったみかんをテーブルに置き、ほおづえをついた。
「最近のりんねさんって、なんか、近づきにくいですよね」
「スケート以外何も見えてないって感じだもんなあ」
「でも、オリンピックに出るってそういうことなんじゃないんですか?」
「そうなんだけど、そうなんだけどさ、なんか不安なんだよ。ああいう姿を見てると、自
分なんかが一緒に同じ舞台で滑るのは場違いな気がする」
あさみは、手元のみかんに目をやり、白い甘皮を外し始めた。
- 219 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)01時03分29秒
- 「あさみちゃん、余計なこと考えすぎなんじゃないの? 大会で良い成績上げて、代表に
選ばれたんだから、胸張ってどーんと滑って来れば良いじゃない」
お茶を持って、牧場に暮らす一人の従業員が入ってきた。
「おばちゃんはそう言うけどさ、なんかそういうことじゃなくて」
「あさみちゃんが言いたいことはなんとなく分かるよ。なんとなくだけどね。張り詰め
てるりんねちゃんが心配なんだろ」
「まあ、それもあるかなあ」
「人の心配してる場合じゃないでしょ。あさみちゃんは逆に緊張感なさ過ぎだよ」
「痛いとこつくなあ。そうなんだよね。実感もないし、緊張感もない」
「みんな期待してるんだから。オリンピックでも一番と二番になって帰ってくるんじゃ
ないかって」
「それはない! ないから!」
あさみは笑って左手を顔の前で左右に振ると、お茶に右手伸ばした。
- 220 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)01時05分29秒
- 「だって、この前の選考会だってそう言いながら一番二番になったじゃない」
「あれは、たまたまだよ。りんねはホントすごい滑りしたけど、私は、たなぼただし」
「まいちゃん、なんか言ってやってよ、この無欲な人に」
「私も見たいなあ、二人がオリンピックの表彰台に上るところ」
「ないから。りんねはともかく、私は絶対ないから」
あさみは、みかんを三切れまとめて口へと持って行った。
「頑張ってよ、あさみちゃんも。ずっと応援して来たんだからみんな」
「それは、わかってますよ」
「まいちゃんもね、頑張って。スケートだけじゃなくて、牧場のお仕事もだけど」
「耳が痛いです」
それだけ言うと、おばさんは厨房へと戻って行った。
- 221 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月19日(日)01時06分53秒
- 「プレッシャー掛けられちゃいましたね」
「りんねと一緒にされてもなあ」
ため息交じりにあさみがつぶやくと、柱の鳩時計が九時を告げた。
「でも、一緒じゃないですか」
「そうなんだけど、そうなんだけどさあ。なんでこんなに違っちゃうかなあ」
あさみはみかんの最後の一切れを口に持っていく。
毎日どんな想いでりんねは暮らしているのだろう。
私は、どうしたいのだろう。
そんなことを思いながら、お茶をすすった。
「さて、寝ますかもう遅いし」
「そうですね」
みかんの皮とお茶を持ち、二人は立ち上がる。
「おばちゃん。もう寝るね。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
厨房に湯飲みを置き、二人は階段を上がって行った。
- 222 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時02分01秒
- 一週間後後、オリンピックへ向けて牧場を出発する。
里田も、りんね、あさみについてアメリカへ行くことになった。
経験として良いだろうというのと、コーチを始めチームのメンバーが全てオリンピックへ
いくので、一人で残っても仕方ないためである。
朝食を終え、荷物の準備をする。
三人は、りんねがここへ来てからずっと暮らしている部屋に、いまは一緒に住んでいる。
部屋の中は、衣類やシューズ、いくつかの日本食などが散乱していた。
- 223 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時02分59秒
- 「あさみさん、昨日のうちに全部用意しときましょうよ」
「しょうがないだろー、昨日遅かったんだから。まあ、まだ時間あるし、なんとかなるよ」
ベッドのうえであぐらを組み、荷物を準備しながらあさみは答えた。
「何やってたんですか昨日? りんねさんだけ先帰ってきてたし。整体以外にもどこか行っ
たんですか?」
「いやあ、しばらく見てもらえないから、念入りにね。大事な体だから、これでもさ。体の
隅々まで、先生の手でじっくりと丁寧に確かめてもらったよ」
「あさみさん、なんかその表現、すごいやらしいですー」
「そういう想像する方がやらしいんだよ」
あさみは、自分の右足首を左手で回しながら、右手で手袋を里田に投げつけた。
- 224 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時04分01秒
- 「そういえば、りんねさんは? 荷物の準備は終わってるみたいですけど」
「下でお茶でも飲んでるんじゃない?」
里田の問いに、窓の外を見ながらあさみはそう答えた。
あさみの目には、黄色いダッフルコートを着て遠くを歩くりんねの姿が、白い雪に映えて
写っていた。
- 225 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時04分38秒
- 「あさみさんもそれくらい用意周到ならいいのに」
「自分だって、荷物ぐちゃぐちゃじゃない。なに、その食べ物は?」
「いいじゃないですか。絶対北海道が懐かしくなって、牧場のチーズ食べたい、とかあさみ
さん言い出すんですよ」
「まいも牧場っ子になったのか。まあ良いことだ」
「でしょー」
大きなカバンに、チーズ、ジャガイモと里田は詰め込んでいく。
服や、スケート関係の荷物よりも食べ物類の方が里田のカバンには多かった。
里田は、里田なりに二人のサポートをしようと思っていた。
りんねが、あさみが、それぞれ精一杯の滑りが出来るように。
なるべくいつもと同じ環境を、なるべく二人が望む物を、自分が用意して上げたいと思った。
りんねとあさみのように、互いに必要な存在に、自分もなりたかった。
- 226 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時05分16秒
- ばたばたとあわただしく準備を進める。
出発時間まじかになり、ようやくあさみのカバンが閉められた。
「もう、飛行機飛んじゃったらどうするんですか!」
「大丈夫だって。まだ、時間あるから。とりあえず下行こう」
「あさみさん、ちゃんとパスポート持ったんですか?」
「あっ」
「もー・・・」
扉の前で里田はカバンを置きへたり込む。
あさみは、自分の机の引き出しをあさり、目的の赤い手帳を見つけ出した。
「あさみさん」
「はい?」
「ハンカチ持った? ちりがみ持った?」
「なにさそれ」
「いや、一からチェックしなきゃいけない気がして」
「シューズと衣装とパスポートがあれば、後はなんとかなるよ」
ちょっと膨れてみせて、パスポートをカバンにしまうと、今度こそ二人は部屋を出た。
階段を降りると、おばさんが一人でお茶をのんでいた。
- 227 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時06分03秒
- 「あれ? りんねさんは?」
「いや、知らないよ。あんた達一緒じゃないの?」
「まあ、戻ってくるでしょ。そのうち」
あさみは、気もなさそうに言って、テーブル横のストーブに手をかざす。
「まい、みかんとって」
「はーい」
テーブルからみかんを取り里田はあさみに向かって放り投げた。
「ここともしばらくお別れですね」
「二週間なんてあっという間だよ」
「でも、なんか、期待と不安が一杯で、帰って来た時にはどうなってるんだろうって思い
ません?」
「私は、不安と不安で一杯だよ」
里田達に背を向けストーブに向かって座り、あさみはみかんを食べ始めた。
おばさんが二人のために厨房へお茶を用意しに行くと、玄関の扉が開いた。
- 228 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時06分33秒
- 「お帰り。寒くなかった?」
「寒いよ、そりゃあ。今二月だもん」
「早く荷物とっておいでよ。タクシー来ちゃうよ」
「うん」
どこに行ってたの? とは聞かなかった。
聞かなくても分かっていた。
りんねも、それに答えるつもりはなかった。
- 229 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時07分26秒
- 「まいのその荷物、なに?」
里田の前に置かれたスーツケースやザックを見て、りんねは目を丸くしている。
「なんか、ジャガイモとかチーズとか入ってるみたいよ」
「いいじゃないですか。りんねさんも、食べたくなったら言ってくださいね」
「考えとくよ」
「どう言う意味ですか!」
「荷物とって来るから」
「ちょっと、りんねさん、ひどいですよ」
冷たい言葉を残して階段を上っていくりんねと、椅子から立ち上がって不満そうにしてい
る里田を見て、あさみは大笑いしていた。
「まいもさ、ちょっとは旅慣れないと。世界のあっちこっちで試合があるんだから」
「海外行くのにパスポート忘れかける人に言われたくないです」
実際、りんねやあさみと比べて、里田はまだまだ試合経験が少ない。
海外への遠征は、この前の四大陸選手権で、まだ二度目だった。
- 230 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時08分16秒
- 「まあ、いいじゃない。まいちゃん。こんなこと言いながら、あさみちゃんがそのカバン
の中の半分くらいは食べるんだから」
お茶を持っておばさんが戻ってきた。
「騒がしいのが二週間もいないと、寂しくなるねえ」
「すぐ戻ってくるよ。二週間くらい、たぶん」
あさみは、お茶を受け取りひとくち口に含んだ。
玄関の扉が再び開いた。
「タクシー来ましたんで、お願いします」
「はーい」
制帽をかぶったタクシー運転手だった。
タイミングよくりんねもカバンを持って降りてきた。
- 231 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時09分01秒
- 「おまたせ」
「行きますか」
「三人とも頑張ってきなさいよ。みんな応援してるんだから」
「私が頑張ってもしょうがないんですけど」
「あんただってこれからがあるんだから。次は二人をやっつけて、自分が一番になれるよ
うに、いろいろ見てきなさいよ」
「まあ、そうですね」
三人は、それぞれに自分のカバンを持ち、玄関の扉の前に立つ。
「それじゃ、行ってきます」
「うん。頑張っといで」
「世界へ行くぞー、なんて」
「よし、あさみちゃんもその意気その意気」
里田が扉を開け、あさみ、りんねの順に外へ出て行く。
- 232 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時09分57秒
- 「あっ、りんねちゃん」
おばさんが、りんねだけを呼び止めた。
「なんですか?」
「りんねちゃん、頑張って」
「はい、分かってます」
「ずっと、みんなで応援して来た。だから、頑張って欲しいと思う。でもね、結果がだめ
でも、誰も文句言う人なんかいないから」
「分かってます」
「りんねちゃんの、りんねちゃんらしい演技をしてきなさい。スケートのことはよく分か
らないけど、私はそれが一番だと思う」
「はい。頑張ってきます」
りんねも外へ出て、タクシーへ乗りこんで行く。
「帯広空港までお願いします」
助手席に座った里田が運転手に告げる。
後部座席に座ったあさみは、トランクに荷物を入れ、乗って来るりんねの顔を見た。
- 233 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年01月25日(土)01時10分38秒
- 「おばさんと何話してたの?」
「頑張ってこいって」
「そっか」
玄関前に立つおばさんの方を見た。
車が動き出す。
おばさんは、右手を振りながら、左手で目もとをこすっていた。
牧場の敷地を車が抜けて行く。
従業員は、車を見かけると仕事の手を止め大きく手を振っていた。
あさみは窓を開け、氷点下の空気の中に身を乗りだして手を振り返す。
頑張ってこいよー、という言葉が車の中にまで聞こえて来ていた。
敷地を抜け一般道に入り、窓を閉めてシートに深く沈みこむ。
「いよいよだね」
「うん」
あさみの言葉に、りんねは深くうなづく。
それぞれに、窓の外を見つめながら夢の舞台への想いを寄せていた。
- 234 名前:M.ANZAI 投稿日:2003年01月25日(土)13時13分35秒
- ここ数日、雪に埋もれる生活をしております。
うちの近所がこんなに何日も雪で覆われるなんて何十年ぶりでしょう、
ふと「雪国だなぁ」と感慨に耽っています。
地元では今日から冬季国体が開幕です。
- 235 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年01月26日(日)07時53分32秒
- みや様、更新お疲れさまです。
いよいよ出発ですか。オリンピックでは、りんねさんとあさみさんはどんな滑りをするのでしょう?楽しみです。
でもなぜか、目を閉じて想像すると浮かんでくるのは、じゃがバターをほおばるあさみさん...。(笑)
必死にジャガイモとかバターを詰め込む里田さんが微笑ましいです。
そんな何気ない日常の幸せがオリンピックでの活躍につながることを祈ってます。
では、続きを楽しみに待ってます!
- 236 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年02月09日(日)07時33分19秒
- 更新を待ちつつ、念のため保全。
- 237 名前:作者 投稿日:2003年02月10日(月)00時43分05秒
- >>M.ANZAIさん
国体ですか。 本物のフィギュアスケートの国体はなかなか見所が合ったようで、映像を見たかったです。
>>ななしのよっすぃ〜さん
御心配おかけしてすいません。
あまり空けずに更新できるように頑張ります。
- 238 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時43分44秒
- 飯田はカバンに荷物を詰めながら、テレビに映るりんねを見ていた。
成田空港の出発ロビーで搭乗手続きをし、エスカレーターへ消えて行く姿が映し出されている。
カメラに向かって軽く手を振るあさみ。
正面を見たまま、まるでカメラを気にすることなく進んで行くりんね。
画面が切り替わり、ニューススタジオへと戻る。
コメンテーターは、頑張って欲しいですね、とお決まりの台詞を述べていた。
- 239 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時44分55秒
- 飯田もその翌日、試合へと旅立つ。
当然ながら、行き先はオリンピックではない。
彼女の行き先は青森。
冬季国体に石川が出場するためだった。
- 240 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時45分32秒
- 出場選手の中で石川は頭二つくらい抜けた存在だった。
里田でも来ていればまだ少しは違ったのかもしれないが、完全に石川一人次元が違う。
少年組のカテゴリーの最年長に位置する石川。
大人の演技を見せ付ける。
- 241 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時46分26秒
- 初日のショートプログラム。
石川の滑走順は後ろから三番目。
飯田は、会場入りしてからずっと各選手の演技を見ていた。
新しい風がフィギュアスケートの世界にも吹き込んできているのが、十代前半の選手を見
ていると分かる。
振りつけがお遊戯レベルになってしまうのは御愛嬌として、ジャンプに関してだけは光る
ものを見せていた。
会場は、選手と関係者はそこそこ入っているが、純粋な観客というのはほとんどいない。
報道関係としては、雑誌記者が数人いるのみで、テレビカメラは地元の青森テレビの物が
一台あるだけ。
- 242 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時47分06秒
- ようやく石川の出番が回ってくる。
リンクの内と外、低い壁を挟んで飯田と最後の確認をする。
「先生、何でいまさらこんな試合でてるんですか、私?」
「なんでもいいから、優勝してきなさい。それが、一番の薬になるから」
「でも、そういうレベルですら無い気がします」
「集中しないと怪我するよ。ただの練習よりいいでしょ。周りのレベルとか関係ない」
飯田は、石川の頭を両手でぐりぐりと挟みつける。
「そんなの分かってますけど」
「ここにいる、これから日本のトップに、世界に、って上ってくる人達に見せてやりな。
世界の演技ってやつを」
「それはおおげさですよ」
「おおげさじゃない! 真剣に滑ってこい」
石川に向かいそう言うと、飯田は背中を向けた。
しかたなしに石川は、リンク中央に向かう。
曲はいつものようにシューベルトのアベ・マリア。
- 243 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時47分48秒
- まずまずの演技だった。
コンビネーションジャンプはきちっと決まり、スピン、スパイラルなどの美しさも、この
レベルでは群を抜いている。
表現力もしっかりとしていた。
大きなミスはなく、飯田の目から見ても及第点はつけられる。
会場からもこの日一番の拍手が沸いていた。
得点は、全て五点台中盤。
他の選手では、五点台に乗るかどうか、というのが一番上のレベルなので当然のように
トップに立つ。
残りの選手の演技を見ることなく石川はロッカーに引き上げた。
- 244 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時48分22秒
- 石川を見送り、飯田はベンチで缶コーヒーをのんで一息ついていた。
他の出場者からの石川の演技に対する感想が聞こえてくる。
「やっぱりうまいよね、負けたとは言え」
「ここにいるのもったいない、っていうかおかしいよ」
「お手本みたいな演技だった」
うまい、お手本、褒め言葉ではあるけれど、飯田としてはあまりうれしくない言葉だった。
欲しい言葉は、もっと別のもの。
まあ、今の段階であそこまで出来れば良しとしなきゃいけないのかな。
そう、自分に言い聞かせ、プラスにプラスに考えようとする。
缶コーヒーを飲み干し、ため息をはくと、肩を突然叩かれた。
- 245 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時49分09秒
- 「よっ、飯田。まさかここで会うことになるとは思わなかったよ」
「夏先生!」
夏は、トップコレオグラファーとして、石川やりんね、といった日本のトップ選手のみな
らず、海外の選手の振り付けまでしている。
飯田も、かつて選手だった頃は多くの振り付けを夏につけてもらっていた。
「先生、なんでこんなところにいるんですか?」
あわててベンチから立ち上がり、飯田がたずねる。
「それはこっちのセリフだよ。いまさら石川が来るレベルの試合じゃなかろうに。二人に
会うのは海の向こうだと思ってたよ」
「すいません」
軽く頭を下げる飯田に対し、夏は言った。
「軽く飲みにでも行かない? 緊張感バリバリで来たわけじゃないんだろ?」
「わたしはいいですけど」
「たまには、子守を忘れてさ」
選手や大会関係者があわただしく行き来する通路で談笑している二人の元へ、石川が戻っ
てきた。
- 246 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月10日(月)00時50分18秒
- 「夏先生! お久しぶりです」
「よっ、おつかれ」
「おつかれさまです」
石川は深々と頭を下げた。
「石川、先ホテル戻ってて」
「えっ、どこか行くんですか?」
「うん、ちょっとね、夏先生と」
「どこ行くんですか?」
上目遣いに石川は二人を交互に見ている。
「子供には関係ないの」
「夏先生と大人のお話するんだから、おとなしく先帰りな」
「ずるいですよ。どっか美味しい物食べに行くんでしょー」
口をとがらせてそう言う石川を、二人は軽くあしらって遊んでいる。
「そういうことだから、飯田ちょっと借りるよ」
「ひどいですよー」
「石川は、一人でホテルのレストランで何か食べな」
そう言いながらも、結局は三人で食事に出かけた。
豊富な魚介類を詰め込んだ寄せ鍋を三人でほおばる。
夏と飯田は、青森の地酒を飲んでいたが、石川はさすがに今日は二人の手前アルコールを
口にしなかった。
三人でいる間はあまりスケートの話はしなかった。
- 247 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年02月10日(月)22時20分31秒
- みや様、更新お疲れさまです。
舞姫、梨華ちゃんヒサブリの優勝なるか?
梨華ちゃんの復活とカントリー娘。のオリンピックでの頑張りを期待しつつ、さらに、アイボンの再登場も待ってます。
では、ななしのよっすぃ〜は、更新を楽しみに待ってます!!
- 248 名前:作者 投稿日:2003年02月16日(日)00時33分21秒
- >ななしのよっすぃ〜さん
とりあえず”様”は恥ずかしいので、そろそろ御勘弁を・・・。
更新は、なるべく頑張ってします。
- 249 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時34分54秒
- ホテルに戻り石川を部屋に帰し、夏と飯田はバーで飲みなおすことにした。
「しかしあいつよくしゃべるなあ、くだらないことばかり」
「でも、久しぶりですよ。石川があんなに元気だったの」
「まあ、外面はよさそうな奴だからな」
カウンターで隣り合って座る夏の言葉に、飯田はグラスを持ち正面を向いたまま答えた。
「テンションが全然違うんですよね、私と二人で練習してる時なんかとは」
「まあ、そんなもんなんじゃないの? あのテンションで練習されても困るだろ?」
「それはそうなんですけど」
3人で食事をしている時の石川のおしゃべりは、本当に多愛もないものばかりだった。
そのお酒ちょっと飲ませてくださいよ。
デザートはせっかくだからりんごが良いなあ。
よく煮えてて鶏肉おいしい。
夏先生、今度ピアスプレゼントして上げますよ。
二人の大人を相手に、ただただしゃべり続けていた。
- 250 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時36分09秒
- 「なに、やっぱ子守は大変なわけ?」
「子守って言っちゃうのも、ちょっと石川に悪い気もするけど、そうですね。コーチとし
て初めてみるのがあいつですし」
「飯田がコーチになったんだもんな。私もずいぶん年取った気がするよ」
「そんなこと無いですよ。先生はまだまだ若いですって」
「最初に飯田を見たときは、ほんとがきだったのにな」
夏は、グラスをもてあそび氷の音を鳴らした。
「そうですね。試合か学校のテストか? なんて悩んでた時期もありましたっけ」
「まあ、あの頃から見ると、飯田もずいぶん大人になったよな」
「そうですか? あの頃の夏先生位の年齢に私もなったんですよね。でも、夏先生みたく、
立派な大人になれた気はしないな」
薄暗い店の中、バーテンダーが白い布でグラスを磨いている。
その光景を見ながら、飯田は言葉をつなぐ。
- 251 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時37分06秒
- 「わたしが、コーチなんかやってるのおかしい気もするんですよね」
テーブルに置かれた生ハムをつまんでいた夏が、左に座る飯田の方へと顔を向けた。
「なんで?」
飯田は、夏の視線に気づきながらも、バーテンダーの方へと視線を向けたまま答えた。
「全日本での負け以来、ほとんどちゃんと石川と話せてないんですよ。あいつ、今日元気
そうだったけど、それは夏先生がいたからで、なんて言うか、技術的なことは話せても、そ
うじゃない部分で、頼られてる感がないし、私も、偉そうにいろんなこと言えるほどちゃん
としてないし」
はー、とため息をついて夏はグラスを口へと持って行く。
飯田は、ようやく夏の方へと視線を向けた。
- 252 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時38分12秒
- 「偉そうなことをちゃんとした奴しか言えないんだったら、あいつにトリプルアクセル教
えられる奴、他にいなくなっちゃうぞ」
「そういうことじゃなくて」
「じゃなくてなんだよ。いまいち、飯田の言いたいことわかんないな」
夏は、グラスを磨くバーテンダーに向かって空になったグラスを掲げた。
歩み寄ってくるバーテンダーに、同じのもう一杯と告げる。
バーテンダーが去って行くのを待って、飯田が続けた。
「分からないんですよ、あいつが負けた理由が。なんで全日本であんな演技になったのか。
全然分からない。だから、どうしていいのかわからない」
「全然、何も分からないわけじゃないんだろ?」
「負けた直後よりは、今のが回復してますよ確かに。今は、良い演技をするんだっていう
意識をあいつ自身が持てれば、それなりの演技が出来るまでに回復してきてるし、そう思わ
せられれば良いんだとある程度分かってるんです」
「それだけじゃだめなのか?」
飯田はテーブルに置かれたグラスを持ち上げ、目の高さにかざす。
一回、二回、三回とグラスを回し、氷が回転するのを目で追った。
- 253 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時40分25秒
- 「何か大きな物がかかった試合で、また、ああいう演技になるかもしれない」
店にいる客は二人だけだった。
なのに、飯田の声は夏にはかすかにしか聞き取れなかった。
「私じゃなければ、私じゃないコーチなら、あんなことにはならなかったかもしれない」
飯田はグラスを口へと運んだ。
テーブルの生ハムへと、夏は手を伸ばす。
飯田のグラスが空になった。
- 254 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時42分34秒
- 「誰にも分からないだろ、そんなこと」
入り口の扉が空き、新しい客が入ってきた。
一瞬そちらへと飯田は顔を向けたが、すぐに目をはなし、バーテンダーへとグラスのお
代わりを頼んだ。
「変なはなしだけどさ、練習で選手はコーチに従うけど、コーチを雇ってるのは選手な
わけだ。だから、コーチの立場は選手の方が支配してることになる」
夏の方を飯田は見て、それからうなづいた。
「コーチに限らず、私みたいな振付師にしても、衣装のデザイナーにしても、選手の側
に決定権があるわけだ」
飯田は、バーテンダーからグラスを受け取りもう一度うなづいた。
「最終的に、私らが役に立ってるかどうかは、選手、この場合は石川か、それに判断して
もらうしかなくてさ、もう、信念もって出来ることをするしかないんじゃないか?」
うーん、と飯田はうなってテーブルに両肘をつき、両手でグラスを持つ。
グラスに反射して映っている天井のランプを見つめていた。
- 255 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時43分12秒
- 「それも分かってはいるつもりなんですけどねえ」
それだけ言ってから一つため息をついて、飯田はテーブルの生ハムに手を伸ばした。
夏も、グラスを口へと持って行く。
木のカウンターに両肘をつき、合わせた両手の上に飯田は顎を乗せる。
夏は、しっとりと濡れたコースターにグラスを置いた。
- 256 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時44分05秒
- 「いいスケーターだよな、あいつ。次にどんな振りをつけようか、見てるとわくわくして
くる。そんなやつ世界にもそうそういない。そのコーチだって言うんだから、飯田の責任重
大さはわかるけどさ、最後は、あいつ次第だろ」
バーテンダーが、グラスを持ち替え新たなグラスを磨き始めた。
カウンターの隅に置かれたいくつかのボトルが、天井の明かりを反射しラベルを光らせる。
右手にグラスを持ち、夏は言った。
「信じてみろよ、石川を。ついでに自分のことも。いい取り合わせだと思うぞ、二人」
飯田は、組んでいた手をはなし、低い背もたれに身を預け天井をあおぎ見て、大きく息
をはいた。
「先生、もうちょっと飲みます? つまみなくなっちゃいましたけど、飲むならなにか
頼みましょうよ」
「そうだな。飯田と二人で飲む機会もあまりないだろうし、閉店まで飲むか」
二人はこの後石川の話をすることはなく、ゆっくりと杯を重ね、大人の酒を深夜まで楽しんだ。
- 257 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時47分22秒
- 翌日のフリー演技。
相変わらず少ない観客の中で、石川の滑走順が回ってくる。
氷に上がった石川は、いつものようにリンクサイド壁越しに飯田コーチと最後の打ち合わ
せに来る。
自分の前に滑ってきた石川を、飯田は黙ったまま微笑んで見ていた。
「先生、なんか言ってくださいよ」
「好きなように滑っておいで」
「なんですか、それー」
石川はわざと頬を膨らませてみせる。
「石川の好きなように滑ってこいって。滑ったのを見て、厳しいチェックしてあげるから。
それが今日の指示です」
「なんか変ですよ先生」
「あー、もういいから、集中して滑ってこい!」
「はーい」
間延びした返事を残し、石川は背中を向ける。
その姿に、飯田も思わず言葉を投げかけた。
「緊張感だけ持てよ」
「分かってます」
石川は振り向いて、それだけ答えるとリンク中央へと向かった。
- 258 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月16日(日)00時48分47秒
- 演技は前日同様、まずまずといったところ。
転倒こそなかったものの、三回転のジャンプ五種類のうち、ループとフリップの二種類が二
回転になり、ルッツは一回転どまり。
表現力の方は、集中力の欠如が見られ、見る者を惹き込むといったところとはほど遠い。
それでも、他との力の差は圧倒的であり、一等群を抜いている。
演技を終えてもどってきた石川は、飯田とともに採点を待つ。
椅子に座った石川は。ポツリと一言漏らした。
「なにやってるんだろう、わたし」
力なくリンクを眺めている石川の肩を、飯田は優しく抱いた。
コールされた得点は、テクニカルメリット、プレゼンテーションともに、5.3〜5.5と楽に
トップに立てる物であった。
席を立ち、ロッカーへと引き上げる。
ぼんやりと歩きながら、石川はつぶやいた。
「つまらないですね」
かすかに聞こえたその声に、飯田は石川の方を向くと、石川は着替えてきます、といい
残し走って行った。
試合は、石川の優勝で幕を閉じた。
- 259 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年02月17日(月)20時22分53秒
- みやさん、更新お疲れさまです。
失礼して、『さん』で呼ばせていただきます。
更新は楽しみに待っていますが、ペースは、みやさんのやりやすい時にしてください。
優勝以上に、ライバルと戦えないもどかしさからでしょうか?石川さんイライラ状態です。
でも、HighになったりNegativeになったりいそがしい石川さんも可愛いです。
では、次回の更新も楽しみに待ってます!!
- 260 名前:作者 投稿日:2003年02月23日(日)00時27分29秒
- >>ななしのよっすぃ〜さん
マイペースで書かせてもらってます。
がんばります。
- 261 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時28分06秒
- ソルトレイクの町は、りんねたちがたどり着いた時すでにオリンピックムード一色になっていた。
華やいだ空気の中を、警備隊員が町を闊歩し独特の空気を作り出す。
冷え切った空気ではあるが、北海道に暮らす彼女達がこたえるほどの厳しさはない。
白い雲がちらほら見えるものの、天気も晴れが続き、祭りにふさわしい状況を演出していた。
- 262 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時28分50秒
- 到着の翌日、オリンピックの開会式があった。
寒い屋外に長時間いることを余儀なくされるため参加を見合わせる選手も多い。
田中コーチは、参加の是非を選手自身の判断に任せた。
あさみは、せっかくだからと式に参加することにしたものの、りんねの方はスケートに集
中したいという理由で、同じ時間に練習を入れていた。
オリンピック自体は開会式から始まるが、りんねとあさみの出場するフィギュアスケート
の女子シングルまでは、まだ10日近くある。
早めのソルトレイク入りは、じっくり調整したいというりんねの意見で決まったことだった。
開会式の時点でソルトレイク入りしている選手は、地元アメリカチームを除くと、りんね
とあさみだけだった。
- 263 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時29分58秒
- あさみは、華やかな開会式を堪能した。
まるでお上りさんのように、あちこちをきょろきょろしながら行進する。
開会式に参加している他の競技の選手は、あさみにとって知らない人達ばかりであったが、
たいして人見知りすることもなく、その場の勢いで楽しく会話をし、明るく笑いあっていた。
同じころ、りんねはソルトレイク郊外のリンクで滑っていた。
前日が移動日だったこともあり、この日の練習は比較的軽いもの。
時間を早めてあさみとともに練習することも出来たのだが、なるべく試合と同じ時間に滑
りたいという希望で、この時間になっている。
人のいない、ほとんど貸しきりに近い状態のリンク。
りんねと、それにつきあっている里田しか氷の上にはいない。
目の前に目標がなくテンションの上がらない里田は、氷の上に上がっても、自分が滑る
というよりも、りんねのすべりを見つめていることの方が多かった。
- 264 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時31分14秒
- 練習を終え、里田が部屋に帰ると九時をまわっていたが、あさみはまだ戻っていなかった。
りんねは一人部屋、里田はあさみとの二人部屋となっている。
荷物を置き、テレビを点ける。
里田も英語は苦手だが、画面に映っているのが開会式の模様だということくらいは分かった。
ちょうど、式の終わるところ。
聖火台では炎が燃え盛っている。
中継が終りCMに入った。
- 265 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時31分52秒
- 日高の彼女達の部屋にあるものよりは一回り大きなベッドにごろんと横になる。
大きなあくびを一つつくと、あくびの後のため息が部屋の中へと消えていった。
ベッドから体を起こし、テレビをもう一度点ける。
チャンネルを適当に回すが、里田の興味を引くような物はなかった。
開会式が今終わったのだから、あさみさんはまだしばらく戻って来ない。
つまらないな、どうしようかな、と思いながらテレビのチャンネルをまたいじっていると、
ふと思い立った。
テレビを消し、鍵を持って部屋を出る。
隣の部屋のインターホンを押した。
ドアの前でがそごそと音がしてから、扉が開いた。
「出張マッサージはいかがですか?」
りんねはきょとんとした顔をした後、引きつった笑いを見せた。
- 266 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時33分10秒
- 「ごめんね、なんかこきつかっちゃって」
りんねは里田を部屋に招き入れてベッドの上で横になっていた。
ベッドでうつぶせになるりんねの足を、里田がマッサージしている。
「何でも言ってくださいって。今回私そのために来たんですから」
「プロの人呼ぼうかとも思ったんだけどね。知らないアメリカ人にマッサージされるのも
ちょっと怖いし、助かったよ。ありがとう」
まくらの上で重ねた両手にほほを乗せ、目を細めているりんねに里田は語りかけた。
- 267 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時33分59秒
- 「どんな気分ですか、いま」
「ん? 気持ちいいよ」
「そうじゃなくて、オリンピックじゃないですか。もう会場まで来ちゃって、あとは試合
の日を待つだけってのはどんな気分なのかなって」
あぐらを組んで座った自分の足に、りんねの右足を乗せ、ふくらはぎを強くもんでいる。
りんねは、ほっぺたを枕に乗せたまま答えた。
「四年後の楽しみにとっておきなよ。四年後にはきっと分かるから」
「えー、そんなもったいぶらずに教えてくださいよー」
一瞬言葉の間が空き、部屋のエアコンの音が二人の間に広がる。
ほっぺたを両手からすこし持ち上げ、あごを乗せなおすと、軽く鼻で息をはいてからりん
ねは言葉を返した。
- 268 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時34分41秒
- 「よくわかんないよ、まだ」
「そういうもんなんですか?」
「なんか、とてつもなく大きなものが近づいてくる、ってのだけ感じる。あとは、よく、
わからない。こんな大きな大会はじめてだし、実感ないよ」
日本のトップにいつづけてきた石川と異なり、りんねは世界選手権にも出たことはない。
世界レベルの大会としては、昨年の四大陸選手権の七位が最高のもの。
まだ、ひとに語るほど世界を経験してはいない。
「もう何日か経てば、いろいろ見えてくるのかな」
そこまで話して、りんねは目をつぶった。
- 269 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時35分20秒
- 「まい、マッサージ上手いよね。なんか、ねむくなってきたよ」
「いいですよ、寝ちゃっても」
「このまま寝ちゃったらかぜひくよ」
「そうですね」
そう言いながらも、りんねは目をつぶったままでいる。
「疲れたまってたりとかしませんか?」
「どうだろう。大丈夫だと思うけど」
「大変ですよねー、試合がたくさんあって。私なんか、もうほとんどシーズン終わってるのに」
里田にとって、今シーズンの大きな大会は四大陸選手権で終わってしまっている。
- 270 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時36分28秒
- 「オリンピック終わったら、すぐ日本に帰って今度は世界選手権ですもんねえ。うらやま
しいですよ、大きな大会ばかり続いて」
何か返事が帰ってくるかな、と期待して里田は言葉を切るが、りんねは黙ったままだった。
ただ、ため息の音が一つした。
里田は、りんねの右足を下ろして、今度は左足のマッサージに取りかかる。
「アメリカって、あんまりご飯美味しくないんですね。なんか、脂っこいのばっかりだ
し、量が多いだけで」
愚痴のように語る里田の言葉に帰ってくる答えはない。
「やっぱり、持って来たジャガイモ達が役に立ちそうですよ。厨房借りて、調理してみよ
うかな。じゃがバター作ったらりんねさん食べてくれます?」
「まいの料理の腕も不安だけど、一個目は食べて上げるよ」
「ひどいなあ。私だってそれくらいは作れますよー」
抗議の意味で、マッサージする腕の力を今まで以上に込めてみる。
でも、りんねからは反応がなかった。
- 271 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月23日(日)00時37分28秒
- 「せっかく来たオリンピックだし、他の競技も見てみたいですよね」
「うん」
「あさみさん、開会式楽しんできましたかね」
「うん」
里田の言葉に対して、次第次第にりんねの答えが上の空になってゆく。
左足のマッサージも終え、背中に取りかかろうして里田がりんねの顔をのぞきこむ。
ため息をついて、里田はすこし微笑んだ。
背中のマッサージはやめにして、部屋に備え付けられていたガウンをりんねにかぶせ、
エアコンの設定温度を二度高める。
りんねは、気持ちよさそうに寝息を立てていた。
無防備な寝顔がなんかかわいい。
もう一度りんねの顔をのぞきこんで里田は思った。
「頑張ってくださいね。大変だと思うけど」
小さな声で、そう言葉を残し部屋を後にした。
- 272 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年02月24日(月)22時11分27秒
- みやさん、更新お疲れさまです。
オリンピックで真剣に自分の力を発揮しようとするリンネさんに惚れそうです。(笑)
あさみちゃん、遊んでないで、練習をしようYO!!
では、次回の更新も楽しみに待ってます!!
PS:里田さん作ったじゃがバター食べたいです。
- 273 名前:作者 投稿日:2003年02月25日(火)22時26分08秒
- >ななしのよっすぃ〜さん
さてさて、この先どうなることでしょう・・・。
- 274 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月25日(火)22時28分23秒
- 試合の二日前、公式練習があった。
りんねとあさみの二人は、アメリカチームの三人と同じスケジュール。
世界の女王ヒッキー・ウタダと練習を共にする。
更衣室、リンクサイドなどで、ヒッキーと目が合うこともあったが、二人はヒッキーと言
葉を交わすことはしなかった。
狭い世界なので、選手同士はすぐに打ち解け仲良くなっていく傾向があるが、二人とヒッ
キーは同じ舞台に立つ仲間同士、という意識になるにはまだほど遠かった。
- 275 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月25日(火)22時29分06秒
- それぞれが、それぞれのフリー演技の曲目に合わせて順番に滑る。
自分の番以外も、邪魔にならないようにすれば、氷の上で個々に調整をすることが出来る。
りんねの番は二番目。
集中した演技で高い完成度を見せ付ける。
自分の番が終わったあとも、ジャンプやステップの細かいチェックに余念がない。
三番目にはヒッキーが滑る。
四番目になっているあさみは、リンクの端で壁によりかかりヒッキーの演技を見ていた。
試合の時ほどの迫力は無いものの、ヒッキーの演技はやはり世界のトップであり、見る者
を惹きつける。
- 276 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月25日(火)22時30分02秒
- これは、かなわないな。
ヒッキーの演技を見て、あさみはそう思い薄く笑みを浮かべた。
続いてあさみの番。
曲目はマーク・オコーナーのファンファーレ。
昨年大会で訪れたアメリカのCDショップのカントリーミュージックコーナーで偶然見つ
けたこの曲に、なぜか運命を感じて今シーズンのプログラムに選んだ。
躍動感溢れる元気一杯な演技が持ち味であるのだが、どうにも集中を欠いていて、ジャ
ンプで二度ほど転倒した。
あさみは、自分の番が終わると早々にリンクから上がり、他の面々の練習をリンクサイ
ドで見ていた。
一番最後まで氷の上での練習を続けていたのはりんねだった。
- 277 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月25日(火)22時30分53秒
- 公式練習が終わるとチーム毎にインタビューがある。
日本チーム、というくくりでりんねとあさみは二人並んでインタビューを受けた。
全日本での成績順に、先にりんねが答え、続いてあさみが答える。
「お二人の今回の目標は?」
「とにかく自分に出来る最高の演技をしたいです。私を見てくれている人のために、私に
出来る最高の演技をすることが私の勤めだと思っています」
「目標は、そうですね、精一杯の演技をすることかな」
「順位としての目標はないのですか?」
「ないです。順位は気にしません。自分の演技をするだけです」
「とりあえず、ショートプログラムで二十四位以内に入って、フリーに進めればいいですね」
出場選手は三十人であるが、そのうち前半のショートプログラムの成績で、フリーに進める
のは上位二十四人にまで絞られる。
- 278 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月25日(火)22時32分13秒
- 「ライバル、のような存在はいますか?」
「自分自身がライバルだと思っています」
「とくにいません」
記者達の質問に、二人は淡々と答えていく。
「自分のアピールポイントはどういったところだと思っていますか?」
「特にここ、という一点はありません。トータルに演技を見てもらえるとうれしいです」
「スピードかな。牧場の仕事をしてて足腰には自信があるんで」
真剣な表情で一つ一つの質問に答えていくりんね、対照的にあさみの方は笑顔交じりに気
ままに答えを返している。
- 279 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月25日(火)22時33分13秒
- 「公式練習では、共に滑ったヒッキー選手などと言葉を交わさなかったようですが、なぜ
ですか?」
「ヒッキーは尊敬する選手ですが、練習の時にはやるべきことは別にありますので、特に
話しかけることはしませんでした」
「ヒッキーは尊敬する選手ですが、英語が苦手なので話しかけないようにしています」
報道陣に笑いが起こる。
何でも率直に答えてしまうあさみの素朴さが、会見場を明るい雰囲気にしていた。
「上位を狙う為に必要な物はなんだと思いますか?」
「わかりません。わかりませんし、あまり順位のことは気にしたくないです」
「そうですねえ、運かな。私の場合、最低限運くらいはないと上位はありえないですから」
一通り答えて会見は終わった。
世界的にはあまり注目されていない二人なので、会見時間は短いものだった。
- 280 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月28日(金)23時33分16秒
- 翌日、試合前日となるこの日に、ショートプログラムの滑走順が発表された。
あさみは、全体の3番目で、優勝候補のヒッキーの直後という得点の出にくい順番。
りんねの方は、比較的点の伸びやすいと言われる後半の、それも最後から二人目というい
いところを引いた。
試合前日の練習を終えそれぞれに自分の滑走順を確認して帰る二人。
ホテルの部屋に戻る車の中であさみがりんねに声を掛けた。
「いよいよ始まるね」
「うん」
「調子よさそうじゃない」
りんねは、背もたれに深く寄りかかり、ドライバーシートを見ながら言った。
「わかんない。いいのか悪いのか」
「わからないの?」
「うん。わからない。わからないけど、いいも悪いも関係なく、もう滑るしかないよ」
「そっか、そうだね」
あさみの方をりんねは見ようとはしない。
前を向いたまま、答えを返している。
- 281 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月28日(金)23時33分47秒
- 「いい演技できるといいね」
「うん」
「あんまり気負いすぎるなよ」
「うん」
「りんねの演技をさ、世界中に見せ付けてやりなよ」
りんねは、ひざの上においていた手を強く握った。
「私、やるよ。自分の最高の物を出す。絶対」
静かではあるが力強いりんねの言葉がタクシーの中に広がる。
あさみは、りんねの方を見たが、目に入るのはりんねの横顔だけだった。
何かを言おうとしたけれど、言葉が出て来ない。
- 282 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月28日(金)23時34分48秒
- 視線を前へと戻す。
りんねってこんなに綺麗だったんだ。
横顔を見てそんなことを思った。
あさみは、深く大きなため息を一つついた。
もっと話したいことがあるのに。
もっと言いたいことがあるのに。
隣に座っていても、それをりんねに伝えることが出来ない。
りんねのすべてが分かっているなんてことは思っていない。
でも、こんなに話せなくなったのは今までにないことだった。
いろいろなものを一緒に見て、一緒に感じて、お互いに分かっているつもりだった。
踏み込むことの出来ない世界をりんねが持っているのは分かっていても、それでも、一番
近いところに自分がいるのだと思っていた。
だけど・・・。
オリンピックへ出ることが決まってから、あさみが入り込めないりんねの世界が大きく広
がっていっていた。
- 283 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月28日(金)23時36分19秒
- もう一度あさみはりんねの方を向く。
掛けたい言葉があるけれど、口に出来ない。
オーラが出ているみたい、そう、感じた。
タクシーがホテルに到着する。
助手席に座った里田が支払いを済ませる。
あさみとりんねは先に車を降りた。
「りんね、みんなが私達を見てるんだよね、あした」
みんな、という言葉は二人にとって少しづつ意味が違う。
- 284 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年02月28日(金)23時37分32秒
- 「うん」
少し間を置いてりんねが答えた。
「私も見てるから。りんねの演技」
「他人事じゃないでしょ」
「そうだっけ?」
あさみがそう言い、いたずらっぽく舌を出して笑うと、りんねも笑った。
ソルトレイクへ来てからりんねの笑顔を見るのが初めてだったような気があさみはしていた。
- 285 名前:作者 投稿日:2003年02月28日(金)23時40分18秒
- 次回更新から、オリンピックでの試合が始まります。
更新は、何度かの分割になりますが、試合が始まったらオリンピックが終わるまでレス無しでお願いします。
対して深い意味は無いのですが、気分の問題です。
よろしくお願いします。
- 286 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時30分19秒
- 氷の上でアップしているあさみは、自分の置かれている状況が不思議で仕方なかった。
なんで、私はこんな大観衆の中にいるのだろう。
腰に手をあてて、スタンドを見回してしまう。
オリンピックに出たい、とは思っていた。
だけど、出られるなんてこれっぽっちも思っていなかった。
つい三年前までは、牧場で働く普通の女の子に過ぎなかったあさみ。
私がこんなところにいていいのだろうか?
あさみの周りを滑っているのは、すべてオリンピック選手。
あさみ自身ももちろんオリンピック選手。
見回してみて分かるのは、自分は周りがよく見えている、ということだった。
- 287 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時31分10秒
- 明らかに緊張している選手がいる。
高い集中の中に入り込んでいる選手がいる。
そこそこリラックスしている選手がいる。
あさみにはそれがすべてはっきりと見えた。
みんな、この日のためにすべてを賭けてきたのだろうな。
これからその中に混じって自分も滑るというのに、そんなことを冷静に考えていた。
首を左右に振り、集中しなきゃ、と自分に言い聞かせ氷を蹴りだす。
助走をとってダブルアクセルを飛んだ。
なんとか着氷したものの、着地がふらついていた。
アップ終了です、という放送が流れ、最初の滑走者を残しあさみをはじめ他の選手は氷から上がった。
- 288 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時32分34秒
- あさみは、自分の出番を通路でストレッチをしながら待っていた。
緊張感が沸いて来ない。
これまでに経験した一番大きな大会よりも、世間の注目度は十倍以上はあるであろうと思
われる試合。
それが頭では分かっているつもりなのに、いつもの試合よりも全然集中できない。
頑張らなきゃ、せっかくのチャンスなんだから、と何度も自分にいいきかす。
まいに悪いよな、こんな気持ちで滑ったら。
牧場のみんなにも顔見せ出来ないや。
集中集中。
一番いい演技するぞ。
自分の番が近づき、あさみはリンクサイドへと向かい歩いていった。
- 289 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時33分56秒
- 会場は沸いていた。
あさみの直前、二番目の滑走者は、地元アメリカのヒッキー・ウタダ。
ほとんどミスのない演技をみせていた。
早い順番は、後半の選手がどれだけいい演技をするか分からないので、審判団としても高
い得点を出しにくい。
それでも、ヒッキーには、テクニカルメリット、プレゼンテーションともに5.7〜5.9と好
得点を並べていた。
あさみの番がまわってくる。
ショートプログラムの曲は、白鳥の湖。
それも、ただの白鳥の湖ではなく、ポップ調にアレンジしたもの。
二分四十秒の演技時間でこの曲を表現する。
- 290 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時35分47秒
- 出だしのトリプルフリップは、なんの問題もなく決まった。
つづいて、トリプルルッツ−ダブルトーループのコンビネーションも着地がややふらつい
たもののなんとか決める。
ショートプログラムでは八つの要素を組み入れ、それをミスなくこなすことが要求される。
ジャンプは、ダブルアクセル、二回転もしくは三回転の単独ジャンプに、コンビネーション
ジャンプ一つづつ。
さらに、フライングスピンをはじめとする三種類のスピン。
そして、スパイラルとステップで合計八種類。
素人目に失敗がはっきり分かるのは、ジャンプで転倒した時くらいである。
それ以外の、スピンの回転の速さやステップに難しいテクニックが織り込んであるか、と
いった部分はほとんど分からない。
- 291 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時36分29秒
- あさみは、このショートプログラムで素人目にはほとんどミスのない演技を行なうことが出来た。
三回のジャンプで転倒は一度もない。
ステップやスピンもまあ、無難にこなせている。
あさみにとっては80点がつけられる演技だった。
ただそれでも、表現力の方は、今ひとつの感があった。
白鳥をイメージした、白く羽をつけた衣装が映えていない。
ポップなアレンジ、というのがこのプログラムの売りであったはずなのに、演技全体に彼女
のパワーが行きわたらず、見ている側に中途半端な印象を与える物となってしまった。
- 292 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時37分42秒
- 氷から上がり採点を待つ。
テクニカルメリット
4.8 5.1 5.0 5.1 4.5 4.8 4.8 4.9 5.0
プレゼンテーション
5.0 5.1 4.7 5.1 4.6 4.9 4.9 4.8 5.0
普通の点数だった。
得点を聞き、あさみは小首をひねる。
採点に不満があるわけではなかった。
得点自体は、まあ、こんなものだろうと思っている。
そんなことよりも、オリンピックで滑った、という実感が、この段階でもまだ沸いてこな
いことの方が不思議だった。
- 293 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時39分01秒
- 精一杯滑った、とか、失敗した悔しい、とか、そういった気持ちがまるで浮かんで来ない。
滑りそのもの以前に、こんな大舞台に立ったのに、何も感じない自分に不満だった。
私は、なにしにここまで来たのだろう?
三年間、りんねにくっついて練習して来た。
里田が牧場に来るまでは、ずっとりんねと二人だけだった。
りんねと二人での練習で、技術も表現力も、りんねと比べれば劣っている自分。
そんなものなんだ、と思っていた。
自分は二番手。
一番はりんね。
勝ちたい、とか、追いつきたい、とすら思ったことはない。
オリンピックや世界選手権ってものに縁があるのはりんねであって、自分にとっては遠い
世界のことだと思っていた。
それが、弾みで転がり込んで来たオリンピックの切符。
その切符は、自分にとってふさわしいものなのだろうか?
考えても考えても答えは出ない。
- 294 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月08日(土)23時39分49秒
- あさみは、控え室に戻り早々に着替えを済ませた。
明日もまだ試合がある身ではあるが、他のスケーターの滑りを見ていくことにした。
スタンドに上がり、観客席に座っている里田の元へと向かう。
「お疲れ様でした」
「どうだった、わたし?」
「リラックスしたいい滑りだったと思いますよ」
「そっか」
里田の隣に腰を下ろす。
リラックスと言えば言葉はよいが、あさみはそれを緊張感がなかった、ととらえた。
思い入れが特になければ緊張感は生まれない。
あさみには、まだ、自分よりもりんね、という意識が染み付いていた。
- 295 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時11分27秒
- 里田、あさみの目の前で繰り広げられる、世界のトップスケーター達の滑り。
得点は、あさみより良いものもあれば悪いものもある。
国によってレベルの差があるので、あさみから見て遥か上のレベルの選手もいれば、中に
は箸にも棒にもかからないような選手もいた。
残り二人となり、りんねの出番がやってきた。
氷の上に姿を現す。
「集中したいい表情ですね」
「うん」
里田の言葉に、あさみは上の空で答える。
あさみにとっては、自分のことなんかよりもずっとりんねのことの方が心配だった。
- 296 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時12分11秒
- りんねは、弾みでここに来てしまった自分とは違う。
多くの苦難を乗り越えて、いろいろなものを失い、大きな悲しみを胸にしまいこんで、
今ここに立っている。
そのすべてをあさみは見て来ていた。
あさみには、心配が二つあった。
りんねは良いすべりが出来るだろうか?
友として、仲間として、後輩として、普通にもつ心配事。
これまでを知っている、りんねのオリンピックへ対する強い想いを知っているから、さら
に心配はつのっている。
気負いすぎて失敗しないだろうか?
緊張で周りが見えなくなったりしないだろうか?
- 297 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時12分45秒
- もう一つの心配事は、同じところから生まれていたが、それとは異なるものだった。
りんねはオリンピックが終わったらどうするのだろう? どうなるのだろう?
今からりんねは、夢の舞台で滑る。
今日のショートプログラム、明日のフリー、その二つを滑り結果が出た時、その結果がど
んなものであろうとりんねの追いかけてきた夢は、ひとまずそこで終わる。
すべてが終わった時、夢から醒めた時、りんねはどうするのだろうか?
りんねはどうなるのだろうか?
- 298 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時13分56秒
- あさみは不安だった。
りんねが牧場から去って行ってしまうのではないか?
スケートをやめて自分達の前からいなくなってしまうのではないか?
考えないようにしながらも浮かんできてしまう不安だった。
そんな気持ちを胸の奥に押し込んで、あさみは一言口にする。
「頑張れ、りんね」
隣で里田もうなづいた。
- 299 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時14分51秒
- りんねのショートプログラムの曲は、ロドリーゴのアランフェス協奏曲。
自分や自分の身の回りに苦しみを与える神に怒り、悶え苦しんだ後、すべてを神にゆだね、
何が起ころうと受け入れるという覚悟を持ち、平穏を手に入れるまでを描いた曲である。
二分四十秒のショートプログラムに、りんねはその中の苦しみを与える神に怒りを表す部
分を選んだ。
怒りを表しているというにふさわしい、激しい部分の多いパートになっている。
前の滑走者の採点がコールされる間、りんねはリンクの中心で両手を胸に当て、時を待っ
ていた。
自分の心臓の高鳴る鼓動を受け止める。
ついに始まる夢の舞台。
長い間追い求めていたものが、いまここにある。
「ナンバートゥエンティーナイン、リンネ、トダ、ジャパン!」
場内にアナウンスが流れる。
滑走者がどんな選手かはわからないながらも、観衆達は、オリンピックの代表に選ばれて
ここへやってきたりんねへの敬意を拍手で表す。
りんねは、胸にあてていた手を離し、出だしのポーズをとった。
曲が始まった。
- 300 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時15分35秒
- 穏やかな出だし。
苦難を受け取る以前を表現する。
最初のコンビネーションジャンプ、トリプルルッツ−ダブルトーループの高さは出場者中
随一のものだった。
曲の雰囲気が変わる。
次々と苦難が襲い掛かってきた。
その様を、体全体で表現していく。
リンクの真ん中に大きく半円を描くサーキュラーステップ。
プログラム中盤にある、ショートプログラム最大の見せ所。
小刻みに回転を加えながら、大きな半円に沿って滑り、手足を激しく動かして怒りを示す。
しなやかさと激しさを兼ね備えたステップに、観衆から大きな拍手が送られる。
- 301 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時16分13秒
- 演技は終盤へ。
りんねの集中力は切れることは無い。
ダイナミックなスパイラルから、曲の盛り上がりに合わせてフライングスピンを織り込む。
その後、最後のジャンプとなるダブルアクセルを決めた。
滞空時間の長い、非常に優れたジャンプだった。
りんねの表情も緩む。
残りもきれいにまとめて、二分四十秒の演技が終了した。
- 302 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時16分43秒
- 演技が終わるとりんねは、思わず胸の前で両手を会わせ、天を仰ぎみた。
そして、その後、胸の前でつないだ両手の上に額をつけ目を瞑る。
数秒の間そうしてから、もう一度顔を上げて、リンクの上に意識を戻した。
観衆にあいさつをし、Kiss&Cryに引き上げて行く。
りんねにとって、これ以上はない出来だった。
満足感を表情にも表し、両手を高く振り、観衆に声援に答えた。
得点がコールされる。
- 303 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月10日(月)21時17分13秒
- テクニカルメリット
5.7 5.6 5.8 5.8 5.6 5.7 5.7 5.7 5.6
プレゼンテーション
5.5 5.8 5.9 5.6 5.6 5.7 5.6 5.6 5.5
順位
4 3 2 3 3 3 4 4 3 5
ジャッジの判定は別れたが、トータルで見てこの時点で3位に入った。
ショートプログラムを終えて一位はヒッキー・ウタダ。
二位に、中国の鮎浜咲が入り、りんねは三番手につけている。
あさみは、十二位でフリーへと進んだ。
- 304 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月12日(水)21時32分14秒
- ショートプログラムを終えたその夜、里田はなぜか眠れなかった。
同室のあさみは、普段のうるさいいびきこそ今日はかいていないが、大の字になりぐっす
り眠っているようである。
ベッドから起き上がり、座ったままあさみの寝顔を見ているとかわいいな、と思ってしま
った。
明日も試合なのは、私じゃなくてあさみさんなのにね、と眠れない自分と眠っているあさ
みと両方に少し呆れ顔。
テレビ横に備え付けてある青い電子文字のデジタル時計が、左から二番目の数字を0から1
へとかえた。
白いレースのカーテンの向こう側でわずかに光が揺れている。
窓を明け、テラスへと出た。
ホテルのプールに月明かりが照らし出され、風が作る波に三日月が揺れる。
その光景を、隣室で眠っているはずのりんねが、手すりにつかまって見ていた。
- 305 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月12日(水)21時32分52秒
- 「まい、起きてたんだ」
窓を明ける音で里田の存在に気づく。
「眠れないんですか?」
「ん? いや、なんかきれいだったから」
氷点下近い気温のテラスで、ジャージの上にホテルのガウンを羽織っているりんねは、プ
ールの方へと視線を戻して答える。
里田は、ああ、りんねさんも眠れないんだ、と思った。
「あのプールさあ、この寒いのに水張ってあるんだよね。誰も入るはずないのに。プール
もなんか寂しそう」
里田は、言葉を返すでもなくうなずくことしか出来ない。
手すりにほおづえをつき、プールを見つめていたりんねが空を見上げる。
- 306 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月12日(水)21時33分28秒
- 「星は、日高のが良く見えるよね」
空にはところどころ雲が出ていた。
雲の合間から見える星の数は少ない。
日高のような満天の星空はここにはなかった。
「寒さは同じ位なのになあ。明日は、雪かな」
空の風は強いのか、雲の動きは早い。
三日月の姿は、瞬きをしているかのように、出たり隠れたりしている。
- 307 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月12日(水)21時34分16秒
- 「そろそろねよっかな。まいも、ずっと外にいると風邪ひくよ」
りんねは、自室の窓を明けた。
「りんねさん」
「ん、なに?」
「あした、あした頑張ってください」
「もちろん」
右手で小さくガッツポーズを作り答えると、おやすみ、と一言残してりんねは部屋へと入
っていった。
- 308 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月12日(水)21時35分28秒
- もっと、他に言いたいことがたくさんあったのになあ、と里田は悔やむ。
最近のマスコミの報道で、里田はようやくりんねの昔のことについて少し知った。
その場にいたわけではないし、りんね自身も話さないから、どんな心境で過ごしていたの
かは里田にも分からない。
でも、きっといろいろな思いを抱えて生きてきたのだろうな、ということは感じられた。
明日の試合、どんな気持ちで滑るのだろう。
りんねのことを考えていると、また眠れなくなっていた。
- 309 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月16日(日)19時29分33秒
- 夢のステージ、オリンピックのフリー、最終グループ。
見回すと、そこにいるのは世界のトップスケーターばかりであった。
りんねにとって、初めての世界大会、初めての最終グループ。
ショートプログラムを終え、メダル圏内の、自力で逆転優勝も出来る三位につけている。
「最終グループの方はアップに入って下さい」
第三グループ最後の滑走者の採点が終わり、英語のアナウンスが流れる。
まわりの五人がリンクに向かったので、慌ててりんねもシューズのエッジカバーをはずし
リンクに上った。
体を温めるために、まずはゆったりとリンクを回る。
そんなりんねの目の前で、鮎浜咲が、ヒッキー・ウタダが、トリプルジャンプを繰り広げる。
- 310 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月16日(日)19時30分12秒
- 私がこんなところにいていいの?
そう想いながら、周りが飛んでいるから自分も飛んでみる。
得意のトリプルサルコー。
回転が足りずに転倒した。
その横を、イモイモ・アベナチーが、スパイラルで通り抜ける。
なんて大きいのだろう、みんな。
自分でもスパイラルをやってみる。
全然きれいじゃないや。
腰に手を当てて立ちつくす。
レイバックスピンを終えて動きを止めたミカ・トッドと目が合う。
見下ろされている感じがした。
大きさが全然違った。
りんねの方から視線をはずす。
- 311 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月16日(日)19時30分52秒
- もう一度ジャンプを試みる。
トリプルループ−トリプルループのコンビネーション。
転倒はしなかったけれど、最初の着地が乱れて、コンビネーションは出来なかった。
横では、ダブルアクセルをコーユー・ワザカナーが決めている。
妖艶、とも表される演技をする大ベテランでかつての世界チャンピオン。
なんで、この人よりも上の順位で今いるのだろう。
こんなところまで来てしまった。
村の子供達にアイスショーを見せていた日々が遠い昔のようだ。
昔のことを思い出す。
オリンピックは夢に見た舞台なはず。
この夢を見て、三人で練習していた。
夢の舞台に、今自分一人で立っている。
- 312 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月16日(日)19時31分24秒
- 「絶対、オリンピックに出ようね」
「でも、三人じゃ出られないよ」
「順番でさ、最初は私で、四年後に梓、最後にりんねが出るの」
「それじゃあ、そのころわたしもうおばちゃんだよ」
「だったら、世界選手権でいい成績を上げて、三人分の出場枠を取ってくればいいんだよ」
「そのまえに、全日本で勝たないと」
「長い道のりだなあ」
- 313 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月16日(日)19時31分57秒
- 長い道のりを経て、りんねはここまでやってきた。
そんなことを思い出す。
世界のトップ五人の迫力に圧倒されながら、リンク中央で両手を合わせた。
「ちからを、ください。ひろみ。ちからを、わたしに」
返ってくる答えはない。
今までもそうだった。
それでも、見ていてくれてるはずと信じてきた。
それを力にやってきた。
今日は、違う。
夢を叶えようとしている自分。
夢を見るだけで人生を終わらせてしまったひろみ。
問いかけても返ってくることのない答え。
改めて思い知らされる。
ひろみは、遠くへ行ってしまったんだ。
私の手の届かない、とおいとおい世界へ。
経験したことのない重圧を受け、根拠のない自信が失われた。
死んでしまった人間は助けてくれない。
当たり前のことに気づいてしまう。
- 314 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月16日(日)19時32分38秒
- 激しい孤独感に襲われた。
ひとりぼっちになってしまった。
もう、私はひとりぼっちなんだ。
ひろみが別の世界に旅立ち、梓も出ていった。
農作業にもトレーニングにも出ずに、部屋に閉じこもっていたあの頃と同じ感情に覆われる。
意識が消えていきそうな恐怖に我に返る。
ふと、見上げると、 そこには、よく知っている顔が二つあった。
- 315 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月22日(土)00時16分08秒
- 演技を終えたあさみと、一人の観客としてやってきた里田は二人並んで観客席に座っていた。
十五番目の滑走者として登場したあさみは、二度の転倒もあり得点が伸びず、ショートプ
ログラムの上位六人を残したこの時点で九位に終わっていた。
「あさみさん、お疲れさま」
「もう、全然ダメだったよ」
「とりあえず、なにか食べます?」
里田は、牧場で取れたジャガイモやトウモロコシをホテルで調理して持ってきていた。
「こうなったらやけ食いしてやるか」
左手にジャガイモを持ち、右手でチーズを塗る。
チーズを塗ったジャガイモをくわえながら、里田の方へ右手を伸ばした。
「何ですか?」
「トウモロコシもちょうだい」
里田はトウモロコシをあさみに渡し、自分も一本取る。
左手にジャガイモを持ったまま、あさみはトウモロコシを口にした。
リンクを見下ろすと、りんねが二人を見ていた。
- 316 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月22日(土)00時17分59秒
- トウモロコシを片手に里田が手を振る。
あさみもそれに気づいて、慌ててジャガイモを口に入れ手を振ろうとすると、のどが詰ま
りむせかえった。
咳き込む拍子に、トウモロコシも落としてしまう。
隣に座る観客にソーリーソーリー言いながら拾い上げ、もう一度手を振りなおした。
そんな光景を一部始終見ていたりんねはリンクの中央で思わず吹き出す。
まったく、あさみは世界中どこへ行ってもあさみなんだから。
わたしも終わったら、ジャガイモ食べよ。
- 317 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月22日(土)00時18分45秒
- 会場を見回す。
お客さんこんなにたくさんいたんだ。
昨日よりも多いみたい。
さすが、世界一フィギュアスケートが人気ある国ってことか。
自分の周りを滑っている五人のスケーターにも目をやった。
ミカさんって、結構ちっちゃいんだ。
イモイモさんは気品がある感じだけど、野暮ったさがあるとこがわたしと似てるかも。
ワザカナーさんは、お話ししたら恐そうだなー。
鮎浜とヒッキーは、迫力あるなあ、世界の頂点って感じだよ。
- 318 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月22日(土)00時19分27秒
- そんなことを感じつつ、再び滑り出した。
最大の武器とも言えるステップを刻む。
夏先生につけてもらった自慢の振り付け。
会場から拍手が起こった。
自分へ向けての拍手らしいことを感じ取る。
みんな、見ててね。
あさみ、まい、わたし、精一杯やるからさ。
ひろみ、いるんでしょ、信じてるから。
わたし、夢の舞台に今立ってるんだ。
最後まで見ててね。
観客の皆さん、無名の北海道娘。に拍手ありがとう。
私は日本代表の戸田鈴音です。
練習時間終了を告げるアナウンスが入る。
最終グループ一番目の滑走者であるイモイモ・アベナチーを残し、他の五人はリンクから
引き上げてゆく。
銀板の女王の座を賭けた六人の戦いが始まった。
- 319 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時15分36秒
- りんねは、控え室に戻りイモイモ・アベナチーの演技をモニターで見ていた。
最終演技者となる彼女が氷の上に立つまでにはまだ三十分以上の時間がある。
自分でも意外なほどに落ち着きを取り戻していた。
全日本レベルの大会と同じ程度の緊張感。
まわりには、田中コーチ以外日本人はいないけれど、もう気後れすることもない。
あさみが世界のどこへ行ってもあさみなように、私も、世界のどこであっても自分の演技をする。
世界一とか、メダルとか、もう、いいんだ。
最高の舞台で、自分の最高の演技をすれば、それでいい。
画面を見ながらも、頭の中は自分の演技のことで一杯になっていた。
- 320 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時16分28秒
- イモイモ・アベナチーの演技は、着実で切れのあるものだった。
大舞台に慣れており、大きなミスはない。
途中、ジャンプで回転不足になる場面が一度あったが、全体としては高得点が期待できる
演技であった。
りんねは、アベナチーの得点が発表される前に控え室を離れ、軽いジョッグを始めた。
「うーん、敵は手ごわいな」
観客席に座るあさみは、相変わらずジャガイモを口に運びながら演技を見ていた。
ショートプログラム四位のアベナチーは、りんねがメダルを獲得するための最大のライバ
ルである。
ゴージャスなイメージのある鮎浜や、ミス・パーフェクトと称されるヒッキーと並び、野
暮ったさの見える素朴な雰囲気のアベナチーは、アメリカでも人気があった。
彼女が演技を終えると、観客席ではリンクサイドに近づいて花束を投げ入れようと大移動
が起こる。
そうして投げ入れられた花束を拾いながら、アベナチーは、Kiss&Cryへと引き上げた。
得点は、テクニカルメリット、プレゼンテーション共に5.6〜5.8と高得点並んだ。
- 321 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時17分08秒
- 石川は、テレビの向こう側で繰り広げられる世界最高の舞台を静かに見つめていた。
悔しがるでもなく、賞賛するでもなく、ただただ穏やかな心地で。
テーブルの上に置かれた、冷め始めたアップルティを口に運びながらも、視線は画面から
はずさない。
彼女の部屋は、エアコンも消されひんやりとした空気に覆われていた。
- 322 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時17分42秒
- 自らデザインしたという艶やかな衣装を身につけた鮎浜咲が二番手として登場する。
事実上、鮎浜vsヒッキーの二強の戦いと言われている金メダル争い。
最高の舞台に立つ六人の中の、さらに高い位置に存在する彼女。
フリーではカルメンに乗せた派手で躍動感溢れる演技を見せつける。
- 323 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時18分28秒
- あんな人たちと、りんねさんは並んで演技をするのか。
そんなりんねさんと、自分はいっしょに練習をしているのか。
一月前、四大陸選手権フリーでの自分のふがいなさを思い出し、里田は肩を落とす。
その隣であさみは、右手に持つジャガイモのことも忘れ演技に魅入っていた。
- 324 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時19分23秒
- りんねは、通路の端に座りストレッチを始める。
視線の先にはヒッキーがいた。
一瞬、心臓の鼓動が早まる。
ヒッキーは、りんねを一瞥すると立ち上がり去っていった。
眼中になしかよ、と毒づいていると、りんねのいる通路の奥にまで聞こえる大きな拍手が
起こった。
- 325 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時19分59秒
- 鮎浜は最高の演技を見せた。
振り付け、衣装、演技力、ジャンプ、すべてが融合した、鮎浜咲の存在のすべてを魅力と
して表した最高の演技。
足のつま先、手の指先、衣装の一枚のしわから、髪の毛の先に至るまで、一つの存在とな
り鮎浜咲を映えさせていた。
会場全体のスタンディングオベーション。
世界が揺れていた。
スタンディングオベーションの渦の中に、あさみもいた。
自分が、同じ競技会で同じ選手として滑っていたことは頭の中に何も残っていなかった。
ただの観客の一人として鮎浜の演技に酔いしれ拍手を送っていた。
鮎浜の得点は、テクニカルメリットでは5人が5.9、プレゼンテーションでは7人が5.9を付けた。
- 326 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時21分10秒
- りんねは、リンクに通じる通路の片隅で音楽を聞きながらストレッチを続ける。
時折、ため息をつきながら。
鮎浜に続き、コーユー・ワザカナー、ミカ・トッドが氷の上へと上がって行く。
立ち上がり、目を瞑って自分の演技を思い浮かべるりんね。
氷の上に絵を描く。
数万を数える大観衆の前での演技。
胸に手をあてる。
出来る。私なら出来る。
みんなに見てもらう演技。
ここは、夢の舞台。
私達の夢の舞台。
- 327 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時22分05秒
- 二人を残して、トップは鮎浜咲。
二位にイモイモ・アベナチーが付ける。
三番手はコーユー・ワザカナー。
二十三番目、ヒッキー・ウタダが舞台に上がる。
いつものように、両手を広げ観衆の声にこたえながらリンク中央に向かう。
そんなヒッキーを、真夜中の日本で石川はテレビ越しに見つめている。
「笑顔がちょっと引きつってる」
すでに冷たくなったアップルティを口へと持って行く。
ほんのわずかなヒッキーのいつもとの違い。
いつものヒッキーに翻弄されている石川だから気づいた、ヒッキーのいつもとの違い。
カップをテーブルに置き、ソファの上にひざを抱えて一人石川はブラウン管を見つめていた。
- 328 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時22分37秒
- 「やっぱりすごいね。世界一は」
演技の始まる前からの大観衆による拍手に、その観衆の真ん中にいるあさみが寂しげにつぶやいた。
あさみの時は、演技の始まる前も、演技終了後も、観客の反応は薄かった。
無欲でここまで来たあさみを刺激する観衆の興奮。
その渦の中、ヒッキーのフリーの曲目、シエラザードが流れる。
- 329 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月25日(火)23時23分13秒
- ただひとり、この世界の中でその興奮の渦から外れているのがりんねだった。
静かに出番を待つ。
誰もいなくなった通路でジャンプのイメージ、スピンのイメージを繰り返し頭に描く。
日本を背負う気なんか無かった。
でも、日本を代表しているんだ、というプライドを持ってここにいる。
奇妙な静けさ。
五分後には、最終滑走者としてステージに上がるりんね。
薄明るい蛍光灯だけが照らす白い壁の通路に立つ彼女の周りには誰もいない。
演技の曲も届いてこなかった。
最後に確認する。
自分には出来る。
きっと出来る。
みんな、見ていてくれる。
胸に両手を当て、目を瞑り呼び掛けた。
「ひろみ。行ってくるよ。夢の舞台へ」
スケートシューズをもち、光溢れる氷の舞台へと向かった。
- 330 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月27日(木)23時29分16秒
- リンクでは、信じられない光景が描かれていた。
観客席から悲鳴ともため息ともつかない声が漏れる。
演技中盤、二分を過ぎた頃、トリプルフリップでバランスを崩し、ヒッキーは左手を氷に
ついていた。
さらに、次のジャンプ、トリプルルッツでは転倒してしまう。
会場のどよめきは、演技が終わるまで続いた。
ヒッキーが試合で転倒したのは四年ぶりのことだった。
以前転倒したのは、四年前のオリンピック。
それ以来のこと。
演技を終え、観衆への挨拶を終えると、軽くうつむき左手を額にあてたままリンクサイド
へと戻ってくる。
氷の上は、花で埋まっていた。
ヒッキーは、父親に付き添われKiss&Cryに座る。
それと入れ替わるように、氷の舞台へとりんねが舞い降りた。
- 331 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月27日(木)23時33分42秒
- 花束を拾って歩く子供達の間を縫って、りんねは氷の感触を確かめながら滑る。
軽くステップを刻み、スピンをする。
会場は、依然としてざわめきが収まらない。
そんななかで、ヒッキーの得点がコールされる。
テクニカルメリット
5.7 5.7 5.7 5.6 5.8 5.8 5.6 5.6 5.7
プレゼンテーション
5.8 5.8 5.8 5.9 5.6 5.8 5.7 5.7 5.8
順位
2 2 2 2 2 2 2 2 2
得点がコールされ順位が電光掲示板に表示されると、観衆達のどよめきはさらに大きくな
った。
アメリカで開かれるオリンピックで、世界のトップに君臨し続けたアメリカ選手が敗れて
しまった。
それも、ウインタースポーツの花形、フィギュアスケートの女子シングル。
演技自体にミスがあったことが明らかであっても、その事実を受け入れがたい想いで誰も
がいる。
ブーイング、ため息、拍手、それらが入り乱れて騒然とした雰囲気が、会場を包む。
りんねは、静かに待っていた。
リンクの中央、軽く滑りサークルを描きながら、観衆が静まり演技するにふさわしい状況
になるのを。
- 332 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月27日(木)23時34分43秒
- 私を見て。
私の演技を見て。
いろいろなことがあったけれど、私は、この日を向かえた。
怖い。
こんなに人がいる前で滑るのは初めてだ。
あさみはこわくなかったのかなあ?
田中先生、今までありがとう。
あずさ、私、頑張ってここまで来たよ。
夏先生、先生の振り付け最高だよ。
牧場のみんな、テレビで見ててくれるかな。
ビット、帰ったらまたチーズ持って行くから、今度は頭なでさせてよね。
まい、 もっと早くいっしょに滑れたら良かったよね。
あさみ、いままで本当にありがとう。あさみがいなかったら、私はきっとここにはいない。
ううん、もしかしたら、この世にもいなかったかもしれない。
- 333 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月27日(木)23時36分22秒
- 私の名前は戸田鈴音。
日本の北海道日高から来ました。
長い道のりを経て、ここまでたどり着きました。
精一杯の演技をするので私のことを見てください。
- 334 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月27日(木)23時38分20秒
- 腰に手を当て、天井を仰ぎ見る。
リンクの上にたたずむりんねの姿が、会場の空気を支配した。
氷の上を静けさが広がっていく。
会場のざわめきを覆い尽くすりんねの存在感。
再び静寂が訪れた。
ひろみ、ずっと一緒だよ。
ラフマニノフのピアノコンツェルト二番がかかる。
りんねの夢のステージが、今、始まった。
- 335 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時04分55秒
- 数万の観衆の視線を一身に受け、りんねは滑りだす。
リンク中央からの滑り出し。
軽やかなステップを刻み、リズムに乗った演技を見せる。
長い助走から最初のコンビネーションジャンプ。
トリプルループ−トリプルループが決まると、会場から拍手が起こった。
「よし」
観客席に座るあさみは両手を握り合わせ、祈るように胸の前で合わせたまま、ジャンプが
決まった瞬間にそうつぶやいて力を込めている。
前のめりにすわり、身を乗りだした体勢で。
隣に座る里田も、同じようにりんねを見つめていた。
- 336 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時05分38秒
- 序盤はゆったりとしたテンポ。
しっとりとした、大人の世界を柔らかに描き出す。
次第次第にリンクがりんねの支配下に収められてゆく。
音楽、振りつけ、衣装、それにりんねの技術と存在感。
それらが、一つの結晶を織り成し、芸術を形作る。
頭の中には、何もなかった。
気負いも、力みも、プレッシャーも、何もない。
順位も得点も、まったく頭になかった。
ジャンプを失敗した時の対処なども、何も考えていない。
ただ、無心だった。
無心で滑っていた。
- 337 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時06分20秒
- 中盤、得意のステップパートへと移る。
ストレートラインステップシークエンス。
時に走り、時に止まり、コミカルな振りもつけ、リンク中央を横切って行く。
自然と生じてくる拍手をうけ、さらにテンポを上げ、軽やかにステップを刻む。
観客から笑みが漏れ、空気が暖かくなる。
会場のすべてのライトがりんね一人を照らしているかのような存在感。
高い技術に裏打ちされた滑りが、りんねの表現力をさらに彩っていた。
- 338 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時06分59秒
- 後半は、さらにスピードを上げ躍動感溢れるパートが続く。
天使が大きな羽を広げたかのようなダイナミックなスパイラル。
天からの祝福を受けとめるかのようなレイバックスピン。
一つ一つ決まるごとに、歓声が沸き上がる。
ジャンプも、高さがあるすばらしいものだった。
五種類すべてをしっかりと決めてくる。
見る者の思考を奪い、酔いしれさせ、別の世界へと連れて行く演技。
観客席に座るあさみや里田でさえ、心配することを忘れ、ただただ魅入っていた。
仲間の滑りであるとか、メダルがかかっているとか、そんな発想はすべて消えている。
吸い寄せられるように、りんねの姿をひたすらに目で追っていた。
- 339 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時07分29秒
- 残り三十秒、ラストのパート。
大観衆の手拍子を受けて最後のステップパート。
リンク中央から、細かい振りをまじえながらステップを刻んでいき、前を向く。
右足で反動をつけ踏み切り、ダブルアクセルを決めた。
さらに、大きな半円を描き、もういちどダブルアクセル。
高く、大きく、迫力のあるジャンプが観衆達にさらなる興奮を与える。
着地までしっかりと決まり、りんねの表情が満ち足りたものへと変化していった。
100カラットのダイヤが、その内部から光を散乱しているような高速のスクラッチスピン
で四分間の演技を締めくくった。
- 340 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時08分34秒
- 曲が終り、りんねが動きを止めた瞬間、会場のすべての人間が立ち上がった。
世界一目の肥えたアメリカの観衆達が、天まで突き抜けそうな拍手と歓声を上げている。
りんねは、演技を終えた直後にリンクの中央に両手で顔を覆いかがみこんだ。
肩を震わせ、鼻をすすりながら。
演技を終えても、まだ、りんねの思考は止まったままだった。
りんねの頭の中は、無限に沸きあがってくる制御出来ない感情がすべてになっていた。
あさみと里田は、すべての観客と同様にその場に立ち、拍手を送っていた。
そこに出て来る言葉は何もない。
演技に心を飲みこまれ、心拍数は上がり、全身に鳥肌を浮かべている。
- 341 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時09分29秒
- 拍手と歓声は収まらない。
数え切れない、拾いきれないほどの花束がリンクへと投げ入れられる。
花束の用意をしていなかった観客も、おみやげとするつもりだったオリンピックのマスコ
ット人形など、演技者を称える為に手持ちの品を次々とリンクへ投げ込んでいった。
小間使いの少女達が、一つ一つそれを追いかけて回収していく。
りんねはようやく立ち上がった。
左手を胸に当て足をクロスさせて軽くひざを折り、リンクの四方それぞれの観客に向か
って、ゆっくりと挨拶をしていく。
その動作の間も、あふれ出て来る涙はとめどなく流れ続けた。
- 342 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時10分14秒
- 自分の足元まで飛んできた幾つかの花束を拾い上げながら、りんねはKiss&Cryへと戻っていく。
席に着くと、小間使いの少女達が集めた花束を次々とりんねのふところへと渡していった。
隣に座る田中コーチが、よくやった、よくやったとしきりに言っているのに、りんねは答
えようとするがまったく言葉にならない。
花束を抱えたまま、両手で顔を覆い言葉にならない言葉を紡ぎだしていた。
採点結果がコールされる。
最終滑走者りんねの得点がコールされる。
- 343 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時11分54秒
- テクニカルメリット
5.5 5.8 5.9 5.4 5.5 5.3 5.7 5.4 5.9
プレゼンテーション
5.5 5.9 5.9 5.3 5.6 5.3 5.7 5.3 5.9
順位
4 2 1 5 4 5 2 5 1
このりんねの得点を受けて、最終結果が確定した。
電光掲示板に掲示される。
- 344 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時12分50秒
- 1位 鮎浜咲
2位 ヒッキー・ウタダ
3位 イモイモ・アベナチー
4位 戸田鈴音
5位 コーユー・ワザカナー
6位 ミカ・トッド
- 345 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時14分06秒
- りんねの得点がコールされ始めると同時に、スタジアムに満ちていた拍手と歓声が、
怒号とブーイングへと変わった。
フリーだけで見るとりんねの得点は4位。
日本とアメリカの審判員は1位をつけたが、中国、フランス、ウクライナなど4位5位を
つけたレフリーが5人にも達した為、鮎浜、ヒッキー、さらにアベナチーの下という順位
になってしまった。
観客達は、誰もこの採点に納得しなかった。
「なんで! なんでだよー!」
怒号とブーイングで我に帰ったあさみと里田。
大きな声でなんでと叫ぶ里田と対称的に、あさみはぺたんと椅子に座りこみ、かすか
につぶやいた。
「知名度だよ。知名度無いんだよ、わたしらには」
背もたれに深く腰掛け、両足の間に手をだらりと下げてあさみは天をあおいだ。
天井につるされたライトが、あさみにはよく見えていた。
「そんな、そんなのって、あんまりです」
あさみの言葉を聞き、里田は弱弱しく声を震わせながらこう言うと、頬に涙をつたらせた。
- 346 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時14分54秒
- 演技に感動しのめりこんで行くのは観衆だけであって、審判団はそういったことが無い。
冷静に見つめていて、これまでの実績を知っていると、逆にそれをベースに採点してしま
うので、知名度の無い選手は不利になることがある。
こういった採点競技では、よく起こること。
里田よりは経験が豊富なあさみには、それがよく分かっていた。
会場を埋め尽くすブーイングを余所に、自分の採点を聞き終えたりんねは、大量の花束を
抱えてKiss&Cryをあとにした。
涙はまだ溢れ続けていたが、演技を終えて少し時間が経ち、自分の意思で考えることが出
来る程度には冷静さを取り戻していた。
- 347 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時15分34秒
- ひろみ、全部終わったよ。
ありがとう。
みんな、ありがとう。
全部、終わったよ。
終わっちゃったよ。
- 348 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時16分17秒
- 光溢れるステージから立ち去り、薄明るい蛍光灯だけが照らす控え室に入る。
どこにでもある青い長椅子にりんねは座りこみ、花束を横に置いた。
終わっちゃったよ。
うつむいて、また涙を溢れさせる。
両手で、顔を拭った。
最高の演技が出来たよね。
涙を溢れさせたまま顔を上げ、りんねは微笑んだ。
りんね達の夢の舞台、オリンピックは終わった。
- 349 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年03月31日(月)22時16分52秒
――――――――――――――――――――――――――――
- 350 名前:作者 投稿日:2003年03月31日(月)22時17分32秒
- オリンピック終了です。
レスなしご協力ありがとうございました。
返レスでネタバレしそうな予感があったので、いっそのこと孤独な更新にしてしまおうと思いました。
ネタバレするわけにはいかない場面だったので。
基本的には、感想レスは歓迎するほうなので、何かあれば御自由にどうぞ。
- 351 名前:作者 投稿日:2003年03月31日(月)22時18分38秒
- とりあえず、ここで大体前半終了、といったところです。
最初に考えていたよりも大分長くなりました。
きりが良いので、このへんで新スレを立てようかとも考えています。
後半の見込み分量が分かってから決めますが。
今後とも、どうぞお付き合いください。
- 352 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年04月03日(木)21時21分10秒
- みやさん、更新お疲れさまです。
そして、リンネさん、おつかれささま&入賞おめでとう!
ここでも、疑惑の判定がありましたか。でも、知名度が判定に入るのも仕方ないことかもしれません。
人が目で見ている以上は…。
氷上の舞姫は、梨華ちゃんなのか?そてともリンネさんなのか。続き、楽しみに待ってます!
- 353 名前:作者 投稿日:2003年04月26日(土)22時13分18秒
- 再開します。
レス制限、容量制限共に緩和されたようなので、このスレで続けます。
後半の始まりです。
>ななしのよっすぃ〜さん
フィギュアスケートの採点って難しいんですよねえ。
最近、ルールが変ったりしてますけど、なかなか不評なようです。
ちなみに、この話しの中では、すべて昨シーズン(2001-2002)のルールを使用しています。
採点者の中から数人を選び出す今シーズンのルールは採用しておりません。
- 354 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時15分19秒
- りんね、あさみ、里田、三人は帰国した。
夢を果たしたもの、何も出来なかったもの、初めて世界を見つめたもの。
三者三様な経験を得て、祭りは終わる。
- 355 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時16分56秒
- 成田空港で彼女を迎える声はおおむね暖かいものだった。
悲劇のヒロイン。
りんねに与えられた代名詞。
オリンピックでの結果は、その印象をさらに深くするものだった。
すべてを投げうって、パーフェクトを超える演技をして、それでもメダルには届かなかった。
りんねの、その境遇と、演技と、与えられた結果が、否応なく見るものの目を引きつけた。
世間の注目を一身に浴びる存在へとりんねはなっていた。
- 356 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時18分10秒
- あさみは違った。
同じオリンピック選手として、同じ飛行機で、隣同士の席で帰国したあさみ。
空港で、カメラや一般客の前に出て行く際に、りんねと離れて歩くことを求められた。
入国ロビーへ向かう動く歩道の上を、りんねの背中を見ながら歩いた。
集まるカメラが、りんねを写す。
あさみに向けられるカメラは、一つもなかった。
- 357 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時19分44秒
- その日のうちに日高まで帰る。
二週間ぶりの牧場へ、車の中でねむりこけたまま三人は帰りついた。
タクシーが着いたのを見て、宿舎から従業員達が出てくる。
三人は、車を降りた。
玄関からは、ばらばらと靴を突っかけて、従業員達が次々に出てくる。
「ただいま」
最初に口を開いたのは、あさみだった。
「みんなお疲れ様。おかえり」
食事係のおばさんが、出発の時に見送ったのと同じように、暖かく出迎えていた。
「ただいま」
「ただいま」
おばさんの声が、北海道を感じさせてくれた。
帰って来たんだなあ、という安心感が三人を包みこむ。
りんねも里田も、笑みを浮かべていた。
「おかえり。今晩はお鍋だよ。ほら、寒いからはやく中に入りな」
お家に帰るまでが修学旅行です、という言葉がある。
それは、修学旅行に限らない。
家に帰りつくまでは、緊張感がなんとなく消えなかった。
彼女達の家、牧場に帰ってきて、おばさんの顔を見て、本当の安心感が戻ってきた。
- 358 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時21分46秒
- 二階の自室に戻った彼女達は、荷物を置き、それぞれのベッドに座りこむ。
ソルトレイクから日高まで17時間の長旅。
帰りついた部屋は暖かかった。
「終わったー!」
ベッドに座っていたあさみは、そう言って大の字に横になる。
りんねも里田もそのまま横になる。
夕食までの短い仮眠にそのまま三人は入った。
静かな、心地よい寝息が、戦いの終りを告げていた。
- 359 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時23分52秒
- 日が暮れて、最初に目覚めたのはあさみだった。
白い毛糸のハイネックのセーターを着たままベッドに入っているりんね、
里田は、紺のコートを身に着け、ベッドの上でそのまま眠っている。
あさみはベッドから起き上がり、隣で心地よさそうに寝息を立てているりんねの寝顔を見
て微笑んだ後、カーテンを明けた。
窓の外では、暗闇の中に小雪が降りはじめていた。
- 360 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時25分59秒
- あさみは、ベッドに座ったまま窓の外を見つめた。
雪の落ちる音が聞こえてきそうな静寂のなかに、やさしい二つの寝息だけが聞こえる。
静かだった。
安らかな時が流れる中で、あさみは、落ちてくる雪を見つめながら時折振り返り、りんね
と里田の方を見る。
帰って来ちゃったんだよね。
あさみは、小さく息をはく。
カーテンを閉めて、ベッドの上に仰向けになった。
目を瞑ると、浮かんでくるのはりんねの演技だった。
ラフマニノフのピアノコンツェルトが聞こえる。
会場の歓声が聞こえる。
- 361 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時28分34秒
- 目を開いた。
起き上がり隣を見る。
りんねはまだ眠っていた。
眠ってるところは、普通の可愛い女の子ってだけなのにな。
思わず笑みが浮かぶ。
それから大きく息をはいた。
目を開いても聞こえてくる歓声。
自分が、それを得ることはなかった。
おわっちゃったんだよなあ。
また、思った。
- 362 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時29分26秒
- ノックの音が二回した。
ドアが静かに開かれ、廊下の明かりが部屋に差しこんだ。
「あれ、あさみちゃんは起きてるのかい?」
「おきてますよー」
部屋の一番奥から、あさみは手を振りながら笑顔で答える。
「ご飯なんだけど、どうする? まだ寝てる?」
「二人起こしてすぐ行く」
「じゃあ、待ってるから」
「はーい」
おばさんが、電気をつけて去って行く。
あさみは、二人を起こしにかかった。
「起きろー!!! ご飯だぞー!!!」
大きな声を出して二人の布団を引っ張り上げる。
りんねは、目をこすりながら起き上がった。
里田の方は、あさみが引っ張る布団の上で、むにゃむにゃといいながらうらめしそうに
あさみを見つめている。
- 363 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月26日(土)22時32分02秒
- 「まい 起きろ! ご飯だ!」
「寝かせてください」
「ダメ! 今本格的に寝たら、時差ぼけが余計辛いの。起きる!」
あさみがそう言って布団から手を離すと、里田はぐるぐるとその布団を自分の体に巻きつ
け顔を覆った。
「まい、おきよ。みんな待ってるから。久しぶりにまいと一緒にご飯食べたいって待って
るからさ」
「五分したら行きます」
りんねの言葉にも里田は背を向けて答える。
あさみとりんねは顔を見合わせた。
小さくうなづき合う。
「起きろー!」
二人は、里田のベッドに上がり、足の裏と腰のあたりをくすぐる。
里田は、丸くなって抵抗しようとするが、もう、二人のなすがままだった。
はしゃぐ二人ともがく里田の華やかな声が響く。
彼女達の日常が、日高の牧場に帰ってきた。
- 364 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年04月27日(日)16時21分43秒
- みやさん、更新お疲れさまです。
3人とも無事に北海道に帰れて良かったです。
悲劇のヒロイン、オリンピックや世界選手権が終わるとフィギアスケートに限らず結構いますよね。
どんな種目でも世界1を決める大会に出場できだけですごい思いますけどね。
もう一人の主役、石川さんにも、勝つための演技ではなく、自分が一番楽しみえる演技ができる日を期待しつつ、更新を楽しみに待ってます!!
- 365 名前:作者 投稿日:2003年04月29日(火)21時48分42秒
- >ななしのよっすぃ〜さん
日本のスポーツマスコミって(略 ですからねえ。
オリンピックの前後にいろんな人を祭り上げて(略
石川さんは、ここ百レス位存在感薄れてますが、そろそろ出てくる予定です。
- 366 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時49分36秒
- 日常が始まった。
帰国翌日から、りんね達は牧場の作業にも復帰する。
久しぶりの屋外での作業は、寒さがつきささってくる。
体を動かさずにいられなかった。
「あさみさん元気ですねー朝から」
「寒いんだよー。もうー」
敷き藁をリアカーに積み上げる。
せっせと次々に積み上げて行くあさみ、それと比べて里田はすこし要領がわるい。
早朝の低い太陽の差しこむ光が、牧場を照らす。
そんな中を、りんねはたたずんでいた。
「りんね」
あさみが声をかけた。
「ん?」
「終わったよ。行こう」
振り向いたりんねに、あさみはリアカーへと歩を進めながら答えた。
里田も並ぶ。
「あ、ごめん」
「ちゃんと働け」
手の甲であさみがりんねの頭をこつんと叩く。
りんねは、薄い笑顔を見せた。
- 367 名前:∬´◇`∬<ダメダモン… 投稿日:∬´◇`∬<ダメダモン…
- ∬´◇`∬<ダメダモン…
- 368 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時51分45秒
- 三人でリアカーを押して牧舎へと向かう。
作業服を着た彼女達に、オリンピック選手を思わせるものは見られない。
それでも、彼女達は間違いなくフィギュアスケーターであり、二人はオリンピック選手で、
一人は世界の舞台でスタンディングオベーションを受けて帰って来たばかりだった。
「頑張らなきゃね」
あさみはりんねの方を見て言う。
りんねは、ただ、笑うだけだった。
- 369 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時52分36秒
- オリンピックが終り、次の試合は四週間後の世界選手権になる。
日本の代表になっているのは、オリンピックと同じでりんねとあさみの二人。
シーズンはまだ終わらない。
ただ、それが目標となるかどうかは、各選手で異なってくる。
オリンピックのある年は世界選手権を欠場する選手もいる。
それでも今年は、トップ選手の欠場は今のところ伝えられてはいなかった。
- 370 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時53分16秒
- 久しぶりに地元のホームリンクで滑ってみて、里田は違和感を感じていた。
何が違うのだろう。
自分の練習メニューは特別にかわらない。
久しぶりだから、氷の感触が違うのかとも思った。
でも、そういうことじゃなかった。
空気が違った。
辺りを取り巻く緊迫感。
ソルトレイクへ向かう前、その緊迫感は突き刺さるような冷たさを持った鋭いものだった。
それが、いまは小さな炎がリンクの上にある。
最初、分からなかったその違い。
練習を続ける中で、やがて、その違いがどこにあるのか気づいた。
- 371 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時53分57秒
- 大きな大会を終えた直後、長時間の移動の翌日、練習メニューは軽いもの。
りんねは早々にリンクから上がっていく。
里田が、いつものメニューの八割程度で練習を終え、シューズを脱いでリンクから上がると、
りんねはすでに着替えも終え、リンクサイドのベンチに座っていた。
「おつかれ」
「あ、ありがとうございます」
りんねが、手に持っていた飲みかけのペットボトルを里田に渡す。
里田は、ペットボトルを口へは持っていかず手に持ったままりんねの隣に座った。
「早いですね、今日」
「うん」
氷の上ではあさみが舞っている。
帰国直後だというのに通常時並の練習をこなしていた。
苦手のトリプルルッツを繰り返す。
転倒するたびに立ち上がる。
腰に手を当て、右足首をクルクル回しながらイメージを焼きなおし、何度も練習を繰り返す。
- 372 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時56分04秒
- 「あさみさん元気ですね。疲れとかないのかな」
「疲れがあるから跳べてないんじゃないかなあ」
里田は立ち上がる。
受け取ったペットボトルはベンチにおいた。
「着替えてきます」
里田の言葉に、りんねは軽く手を上げて答えた。
視線はぼんやりとリンクの上のあさみに向けたままだった。
- 373 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時57分34秒
- その夜、食事が終わった後、オリンピックのビデオを見ようと従業員達が言い出した。
前日は帰国直後ということで、三人の疲れに気を使って、結局あまり話しをしていない。
オリンピックでの彼女達の話しを、みんなは聞きたがった。
最初に画面に映ったのはあさみ。
フリー演技が映されている。
「どんな気分だったのさ」
従業員達のあさみへの問いかけ。
あさみは、自分の滑りを見つめたまま答えた。
「拍手少ないなあ、なんてね、結構冷静に思ってた」
自分の中でも決して良い出来ではなかった演技。
それを、改めて自分の外側から映した映像で見直す。
- 374 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)21時59分12秒
- 「あー、全然回転足りてないや。踏み切りのバランスがもう悪いよね」
「緊張したりしてた?」
「ううん。あんまり。落ち着いてたよ。出来はひどいけどさ」
そう言っている間に、画面ではあさみの二度目の転倒を映し出していた。
「でも、世界で十五位だよ。転んでも十五番入るんだから、すごいじゃないの、十分」
あさみは首を横に振った。
「すごいもの見せつけられちゃったから目の前で。自分が何番、とかいうよりも、すごい
スケーターがたくさんいるんだ、ってのをホントに実感させられたよ」
あさみは、隣に座るりんねを見て続けた。
「一番すごい人は、そのなかでも一番近くにいたんだけどさ」
画面を見つめていて、あさみが自分を見ていることに気づかないりんねは、何も答え
なかった。
- 375 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)22時00分22秒
- あさみの演技の後、映像は最終グループの六人の演技へと続いていく。
牧場の従業員は、ビデオを早送りしてりんねの演技にまで飛ばそうとしたが、あさみが押
し留めた。
世界のトップの演技を食い入る様に見つめている。
りんねと里田は、グラスの牛乳を時折口に運びながら見ていた。
りんねの姿が写り、牧場の従業員達も興味を取り戻す。
「いやあ、こん時、もうどきどきしてなあ、ここで見とったんやけど、なんか、もう、お
ちつかんと、わさわさしとったのに、りんねちゃんは、自分が滑るのにおちついとるなあ」
ヒッキーの採点を待ち、観衆のどよめきの中、リンク中央で腰に手を当てたままサークル
を描いているりんねの姿が写っている。
従業員の言葉に、りんねはあいまいに笑みを返した。
- 376 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)22時01分50秒
- 「実際どんなもんなの? メダルが、優勝が、ってすごい物が懸かった中で一番
最後に滑るのって」
「あんまり覚えて無いんだよね。自分がどう思ったかとか、どうしたのかって」
テーブルに頬杖をついた。
すばらしく出来が良かったことは覚えている。
でも、それがどんなすべりだったのかの記憶は無い。
りんねは、フリー演技でリンクに上がってから演技を終えてKiss & Cryに座る
までの記憶が、ほとんど消えていた。
初めて客観的に見る、オリンピックでの自分の演技。
滑り出してからしばらく見たところで、りんねが一言発した。
「すごい」
自分の演技を見ている気がしなかった。
画面に映っているのが自分だという実感がなかった。
- 377 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)22時02分59秒
- 「なにひとごとみたいに言ってるんだよー。鳥肌立つほどすごかったんだから」
あさみの言葉に里田もうなづく。
そう言われても、りんねは自分のこととは到底思えなかった。
「どうやったらこんなステップ刻めるの? この手の動きはどうやったら表現出来るの?
すごいよ。すごすぎるよ」
自分の姿をじっと見つめているりんねの隣で、あさみが興奮気味にまくし立てていた。
「絶対優勝だ、って大騒ぎだったんだけどねえ。いや、四番でも十分すごいんだけどさ。
なんでかなあってね」
いいわけがましい言葉を付け足しながらおばさんが問いかける。
「運とか、いろいろあるから。採点者との相性とか。鮎浜さんやヒッキーさんももちろ
んすごかったし」
りんねは、淡々と答えた。
りんね自身は、改めて自分の滑りを見て、こんなすごい滑りが出来たことに十分に満足
していた。
驚きすらあった。
これ以上、のものを望むことはありえないと思った。
- 378 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)22時04分20秒
- 「小さなメダルだけもらったんだよね」
「うん」
フィギュアスケートは、ショートプログラムとフリー演技の二つで競われる。
前半のショートプログラムの上位三人には、その時点で、それを表するメダルが送られていた。
「オリンピックのメダルとは違うけどね」
デザイン的にはほぼ同じだけど、大きさがやや小ぶりな上、金でも銀でも銅でもない小さなメダル。
りんねがオリンピックで手にした小さいけれど貴重な勲章。
「写真取ろうよ。あのメダルつけてさ、みんなで」
あさみの言葉にみんな同調する。
りんねは、二階の自室にメダルを取りに上がった。
- 379 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)22時04分59秒
- 「四年後は、まいちゃんも頑張らないとね」
「うーん、そうなんですけど、りんねさんのあんなすごい演技見せられちゃうと、もう絶対
勝てないような気がしちゃいますよ」
里田にとっては、世界との距離を感じさせられた大会だった。
全日本で自分よりも上の成績だったあさみですら十五位。
最終グループは、誰の演技をとっても雲の上のようなもの。
あれも足りない、これも足りない、課題が山積みなことを実感させられた。
- 380 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年04月29日(火)22時06分16秒
- りんねがメダルを持って降りてくる。
みんなが、そんなりんねを取り囲んだ。
メダルを手にとって、それぞれに眺める。
そんな光景を、あさみは椅子に座ったまま見つめていた。
りんねに、追いつきたいな、と思った。
メダルを首に掛けたりんねを真ん中に、牧場の一同がならぶ。
オートータイマーのカメラをセットして、数秒間の笑顔を保って、写真に写った。
りんねとあさみのビデオ鑑賞会はお開き。
でも、あさみだけは、食堂に残った。
自分の滑り、りんねの滑り、さらに、印象に残った鮎浜の滑り、それを繰り返し繰り返し見ていた。
- 381 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時22分55秒
- すべてはテレビの向こう側だった。
光溢れる舞台、世界最高のレベル、割れんばかりの拍手。
石川は、70Wの電球だけが照らす自分の部屋でそれを見ることしかできなかった。
ヒッキーが、りんねが、スポットライトを浴びているまったく同じ時を、石川は1Kのアパ
ートで一人過ごしていた。
最終グループのフリーの演技が行なわれたのは、日本時間の真夜中。
テーブルに置いたアップルティを時折口に含みながら、自分のいないステージを石川は見
つめた。
ソファによりかかり、ずっと静かに見つめていた石川が身を乗りだしたのは、最終滑走者
りんねの演技の時だった。
アップルティのカップを手に持ったまま動けなくなる。
解説者や司会者の、視聴者を煽り立てるような言葉は耳に入らない。
ただただ、じっと映像を見つめたまま、演技が終わるまで動けずにいた。
涙にむせびながら、リンクを引き上げて行くりんねを映し出すテレビを石川は消した。
電気も消しベッドに入る。
目を瞑っても眠ることなんて出来なかった。
りんねの滑りがいつまでも消えていかなかった。
- 382 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時24分08秒
- 石川の暮らしは、平穏だった。
家とリンクを中心に、ダンス教室やジムのオプションが入るだけで、日々変らない暮らし。
紙一重の違いでオリンピックと引き換えに与えられた物は、そんな平凡な何も無い暮らし
だった。
オリンピック期間中も何も変らない平穏な生活を送っていた石川にも、一つの区切りが訪
れる。
高校三年生の彼女は、三月に入り卒業式を迎えた。
学校よりもスケートが中心の生活を続けてきたとはいえ、卒業は一つの区切りであること
は間違いない。
同じクラスの普通の子達も、大学へ、短大へ、専門学校へ、それぞれの進路へ散っていく。
地元に残るもの、東京へ出るもの、地方へ出て行くもの、さまざま。
石川自身も、四月からは東京の大学へ進み、この土地をはなれていく。
スケート中心の生活は変らないし、飯田がコーチであることも変らないが、それでも、何
がしかの感慨は石川にも生まれていた。
- 383 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時25分06秒
- 久しぶりの学校。
一月の卒業試験以来三年生は授業が無かったため、丸一ヶ月以上ぶりの登校になる。
高校生最後の日。
薄茶色のブレザー風制服を身に着け登校した石川は、窓際から三番目の一番後ろの机に
座り、ぼんやりとしていた。
教室に入ってくる生徒たちと、たまに挨拶を交わすくらいで、静かに過ごす。
受験結果を報告し合ったりしてはしゃぎあっているクラスメイト達を見つめていた。
私も、スケートやってなかったらあの中に入れたのかなあ?
思い浮かべてみる、今と違う自分、今と違う人生。
授業中にメールを送りあって、かったるいなあ、なんて言いながら学校で暮らす。
学校帰りにカラオケに行って、週一位でアルバイトをし、週末にはバイトや学校の先生の
ぐちや、憧れの男の子の話しをファーストフードのお店で友達とする。
三年生になったら予備校に通い、進路で悩んで、勉強の出来る子にちょっと嫉妬したり
して・・・。
- 384 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時26分25秒
- もう一人の石川梨華は、どんな暮らしを送って行くのだろう。
スケートを選んでいなかったら、そんな暮らしをいまごろしていたのだろうか?
でも、そんな暮らしを選んだ石川梨華はここにはいない。
ここにいるのは、スケートを選んで、もがき苦しんでいる石川梨華だけ。
あの中に入ってみたかったなあ。
小さく息を一つはいて、石川は机に突っ伏した。
目を瞑っていても、クラスメイト達の嬌声は石川の耳にも入っていた。
- 385 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時27分02秒
- ホームルームが終り、卒業式の会場となる体育館へ。
主役となる三年生は、体育館へと通じる廊下で入場の順番待ち。
特に誰かと話すでもなく、手持ち無沙汰な石川は窓の外を眺める。
窓の外には、風に揺れるネットが張られた、土のテニスコートが広がっている。
朝の光が照らすテニスコート脇のベンチに、ラケットが一つ寂しそうに置かれていた。
- 386 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時28分34秒
- 部活とかやっちゃったりしてたかなあ、私だったら。
のんびり暮らすのもいいけれど、自分の性格からすると、きっと、何か頑張っちゃったん
だろうな、なんて、他人事のように思い、微笑する。
廊下を覆う華やかな雰囲気に溶けきらず、一人だけ違う景色の中にいた。
石川のクラスの担任がやってきて、もうすぐ入場だからしっかり二列に並べ、と言いなが
ら、列の後ろへと歩いて行く。
この先生とも今日でお別れなんだなあ、と思った。
特別に深い付き合いがあったわけでもない。
ひとより少しだけ漢字テストの追試が多かったくらいのもの。
冬場は試合の関係で授業を休むことも多かったけれど、特別に問題児ということもなく、
かといって、特別に優等生ということもなく、学校の中での石川はそれほど目立つことのな
い生徒だった。
- 387 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時29分52秒
- 在校生達の拍手に迎えられて、体育館へと入場して行く。
整然と、といった雰囲気は無く、列も乱れがちになりながら、それぞれの席へとついていく。
石川は、中央からやや右手の後ろから四列目。
暖房のない体育館のひんやりとした空気が、すこしだけ別れの雰囲気を演出してくれている。
卒業生の全員が席に着くと、教頭先生の司会で、卒業式が始まった。
初めに、校歌斉唱。
だけど、石川は校歌さえも満足に歌えない。
中高一貫で学ぶ生徒が多いこの学校へ、石川は高校から入学して来た。
ソフトボール、バスケットボール、駅伝などで、全国の強豪と知られているこの学校は、
石川のフィギュアスケーターとしての活動にも理解を示してくれている。
そのかわり、石川は学校の中での活動に関わることがほとんどなかった。
バスケやソフトボールの試合にクラスメイトと応援に行き、試合の合間合間に校歌を歌
う、というような経験が、石川にはなかった。
- 388 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月02日(金)23時32分06秒
- 卒業証書が授与され、来賓の祝辞、校長の挨拶と続いて行く。
ぼんやりと、人ごとのように石川はその流れの中にいた。
在校生からの送辞へとプログラムはうつる。
部活動が盛んな学校らしく、先輩と後輩のつながりは非常に強い。
送辞の中でもそういった情景が、次々と描かれている。
その言葉を聞き、石川の周りの卒業生達は、次々と涙の中にくれていく。
この送辞に対する答辞も、さらに別れの寂しさを募らせるものだった。
卒業生だけでなく、在校生達も、去って行く先輩達との思い出に涙をこぼす。
その世界の中に入れない石川は、涙を流せない自分の高校生としての三年間が寂しかった。
式が終り、拍手に送られて体育館から卒業生が退場して行く。
石川は、自分のことを思ってくれてる子はいないんだろうな、と在校生の方を見ながら思った。
そう思う石川自身も、名前を思い浮かべられる後輩はいない。
一人って、さみしいなあ、と石川は感じていた。
- 389 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時01分42秒
- 教室に戻り、最後の時間を過ごす。
クラス委員が持って来た卒業アルバムが、みんなに配られた。
私の写真だー、とか、この顔、変、とか騒ぐクラスメイト達。
石川は、自分の席に座りアルバムをめくっていく。
一年生の夏の林間学校には参加したものの、二年生の修学旅行は試合直前だったために参加していない。
笑顔で映っている自分の写真は、あまりなかった。
「石川さん」
突然肩を叩かれた。
石川が振り向くと、卒業アルバムを抱えた子達がいた。
「石川さんも書いてよ、何か」
きょとん、とした顔で石川はその子を見つめてしまう。
- 390 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時03分41秒
- 「私が?」
「うん」
アルバムを持って来た子達も微笑み返す。
「ほら、最後だし」
「うん」
渡されたマジックを手に取り、アルバムの最後の空白になっていたページを開く。
そこには、クラスメイト達の思い思いの言葉がつづられていた。
いつまでも友達でいようね。
ずっと忘れないよ。
楽しかったね。
ありきたりな言葉かもしれない。
でも、そんなありきたりな言葉で飾られた卒業アルバムは、すごく大事な物に見えた。
- 391 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時05分02秒
- 「ほら、はやくー」
「あ、ごめん」
促されて石川は、マジックのキャップをはずすと、すこし考えてから、石川もありきたり
な言葉を書き綴った。
これからもお互い頑張っていこうね 石川梨華
「石川さんらしいや」
「そうかなあ?」
「うん。らしいよ。私にも書かせてよ」
そう言って、石川のアルバムを開き、思い出の足跡を記していく。
石川も、それぞれの持つアルバムに、言葉をのせる。
そんな風にして過ごす、別れの日。
まじめな顔をして、言葉を綴っているところを、写真に収めていくものもいる。
「いしかわさーん」
よばれて、ふと顔を上げたところを、デジタルカメラに収められた。
「ちょ、ちょっと、今のなし」
「住所決まったら教えてねー、送るから」
「まって、今のなし!」
石川の言葉もむなしく、デジカメちゃんは石川たちに背を向け、別のグループにカメラ
を向けていた。
- 392 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時06分43秒
- 喧騒のたえない教室の中に、春の光が差しこんでいる。
学校でしか見かけない学習机が並んだ部屋は、ストーブも点いていないのに、外の気温と
比べて格段に暖かい。
それぞれの道を選び、いくつもの別れ道への起点に立つ彼女達の旅立ちの日。
窓の外では、梅のつぼみがほころびはじめていた。
「いしかわさーん」
クラスメイトのアルバムへの書き込みを終えてほっと一息ついているところに、廊下から
の入り口から声が掛かった。
「いしかわりかさーん。後輩からのおよびだしでございまーす」
教室中の注目が石川に集まる。
ぽかんと口を空けて一瞬の間があいたあと、石川は立ち上がった。
冷やかすような声を受け、照れたような笑みを浮かべながら石川は、少々乱雑に並んでい
る机の間を抜け廊下へ。
そこには、石川と同じ制服を見につけた少女が三人立っていた。
- 393 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時07分43秒
- 「石川さん、この子達がお話があるそうですよ」
含み笑いをしながらそう説明する。
石川は、自分を呼び出した三人と向かい合った。
「とりあえず、屋上でもいこっか」
ドアからのぞくクラスメイト達の目を気にして、石川は促した。
卒業式に後輩からのおよびだし。
この学校では毎年見かける光景だった。
去年も一昨年も、クラスメイト達が誰かを呼び出す為にドキドキしながら計画を立ててい
たのを見ている。
呼び出されるのはたいていバスケ部やソフトボール部のレギュラー選手達。
誰が何人に呼び出されるか、なんて賭けもあったりする。
どちらにしても、ひとごとだと思ってた。
- 394 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時08分36秒
- 「えっと、お話ってなにかな?」
屋上には、石川達以外にも何人か同じような状況と思われる生徒達がいた。
梅の香りがほんのりとかようような風がふきぬける。
石川の髪がさらさらと揺れていた。
「あ、あの、卒業おめでとうございます」
両脇の子に肩を小突かれ、真ん中の子がおずおずと花束を差し出した。
白いカサブランカがはかなげに石川の胸に抱かれる。
「ありがとう」
「先輩に似合うと思って。本当は、誕生花を選ぼうと思ったんですけど、見つからな
かったから」
うつむきながら言う。
カサブランカ、花言葉は“雄大な愛”、“威厳”、“高貴”
石川の誕生日、1月19日の誕生花は、マツの花で、花言葉は“同情”“かわいそう”、
別れの日に送るのに似合う花ではない。
- 395 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時10分25秒
- 「この子、ずっと先輩のこと見てたんですよ」
左側に立つ子が、真ん中の子の肩を抱き、そういった。
「ほら、お願いがあるんでしょ」
右の子も、真ん中の子の顔をのぞきこんで言う。
石川は、何度となく持っている花束を持ち替える。
片手で髪をかきあげたりもした。
あまりに慣れていない状況で、落ちつけない。
自分のファン、と言う人はスケートの世界でいくらでもいて、リンクの上で花束を受け
取ることは何度もあったが、こう、面と向かってということは経験がなかった。
「先輩のこと、あの、ずっと、見てました。きれいな人だな。あんな風に私もなりたいなって」
じっと自分を見つめて語り出したその子の言葉を、石川の方がドキドキしながら聞いていた。
- 396 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時12分44秒
- 「私、知らなかったんです。石川先輩がスケートやってるって」
「えっ?」
「ホントにびっくりしました。その、なんて言うか、すごいなって。きれいなだけじゃな
いんだって」
思わず声を上げた。
フィギュアスケーター石川梨華のファンだと思っていた。
たまたま、自分のファンが学校の中にいたのだと思っていた。
でも、違った。
「ずっと、お話してみたいと思ってたんです。でも、先輩がスケートのすごい選手だって
聞いて、なんか、その、ますます遠い存在に見えて、すごいな、すごいなって、見てるしか
出来ませんでした」
「すごくないよ。ぜんぜん。ぜんぜんすごくなんかない」
花束を抱えたまま、石川は弱弱しくつぶやいた。
心の底からの本音だった。
- 397 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時13分49秒
- 「そんなことないです。先輩はすごいと思います」
「石川先輩が見たくて、スケートの試合も見に行ったんだよねー」
隣の子にそう言われ、はにかんだように笑う姿を見て、石川も微笑んだ。
「見に来てくれたんだ。いつ?」
「あ、あのー・・・ 予選の、あの、オリンピックの予選の」
「そっか・・・」
お互い、ばつがわるくなって俯いた。
「でも、先輩負けちゃったけど、でも、素敵だったと思います。普段の先輩も、スケート
してる先輩もどっちも素敵だと思いました」
「ありがとう」
涙目になって話す後輩を見ながら、石川は微笑んだ。
抱えているカサブランカよりも美しく咲いた笑顔だった。
「それで、あの」
それだけ言ってまた俯いた少女に、両脇の子が肩で肩を小突く。
- 398 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時15分25秒
- 「あの、先輩の、先輩の、制服のボタン下さい」
憧れの先輩からボタンをもらう。
ずっと忘れないように。
すこしでも近づけるように。
自分が、スケーターとして以外で、そういう風に見られているなんて、石川は考えたこ
とがなかった。
「ちょっと持ってて」
カサブランカの花束を、付き添いでいる隣の子に預け、石川は自分の制服の上着のボタ
ンに手を掛けた。
ちらっと一度、目の前の少女の方を見てから、右手に力を込める。
黒い平らなボタンを、手のひらに乗せて石川は少女に差し出した。
- 399 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時16分34秒
- 「いいんですか?」
「うん。ありがとう。なんか、うれしかった」
「ありがとうございます。大事にします。ずっとずっと大事にします」
何度も頭を下げる姿を見て、石川はまた微笑んだ。
うれしかった。
ただ素直に、うれしいと感じていた。
「先輩。ずっと、これからも頑張ってください。スケート頑張ってください。応援してます」
「ありがとう」
石川は屋上を後にした。
高校生最後の日に、初めて、高校生らしい経験をした。
階段を降りながら少女のことを思い起こす。
- 400 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月06日(火)23時19分03秒
- ずっと見ていたと言ってくれた。
普段の自分も素敵だと言ってくれた。
あんなひどい滑りの時に見に来たのに、リンクの上での姿が素敵だと言ってくれた。
ずっと応援してます、と言ってくれた。
石川の目はうっすらと涙が光っている。
高校へ通って良かったなと思った。
これからも、頑張って行こうと思った。
- 401 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月10日(土)19時13分47秒
- すっごくイイです!
期待して待ってますよー!
- 402 名前:作者 投稿日:2003年05月11日(日)21時59分27秒
- >>401
ありがとー。
これくらいのペースでさくさくいきたいと思ってるので、待っててください。
- 403 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時02分09秒
- りんね達は、世界選手権へ向けての練習に本格的に入った。
基本的には、オリンピックからかわらない。
シーズンの終盤を迎えているので、各選手のプログラムもおおむね熟成されてきている。
- 404 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時03分04秒
- 氷の上は、オリンピック前とは様変わりしていた。
あさみが、しきりにりんねと会話を交わす。
スピンでの手の動かし方、ステップの刻み方、ジャンプの踏み切り、気になる点をチェッ
クし、教えを請う。
あさみにとってりんねは、田中コーチよりも近くにいて、何よりも信頼できる師でもある。
一方で、りんねの方は、自分自身の練習には熱が入らなかった。
プログラム自体はもう完成している。
最高の演技もした。
世界選手権は、オリンピックよりも上の舞台、ではない。
- 405 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時04分12秒
- リンクの上での練習が終わると、二人は里田を置いてバレエのレッスンへと向かった。
体の柔らかさも、動きのしなやかさも、りんねの方が断然上の域にある。
あさみは、どちらかというとバレエのレッスンはあまり好きではなかった。
体は固く、他の生徒達と比べてもレッスンについて行くのがやっとという感じがある。
あさみにとってはリンクを動き回っているほうがずっと楽しいことだった。
これまでは、コーチが言うからしかたなしに来ていた。
それが、すこし変わってきた。
「あさみ、元気だね」
バレエの帰り、車の中でりんねは言った。
「うん。ちょっとね、頑張らなきゃなって」
あさみは、両手で小さな握りこぶしをしてみせ、そう答えた。
その様子を見て、りんねは微笑む。
- 406 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時05分30秒
- 「やる気出してるの、見てて分かるよ」
「私さあ、今までなんとなくスケートやってきたんだよね」
「なんとなく?」
「うん」
田中コーチに誘われて、その気になって初めたスケート。
その始まりも、スケートが滑りたいという気持ちよりも、りんねを救いたい、そんな気持
ちだった。
りんねとくっついて滑っていることが楽しかった。
だから、目標はほとんどなかった。
「こんなおおごとになると思ってなかったんだよ。オリンピック出たいって思ってたけど
さあ、なんて言うか、お金持ちになりたいとか、月に行きたい、とかと同じレベルでさあ、
あんまりちゃんと価値が分かってなかったんだよね」
あさみにとっては、すべてが日常の延長だった。
夢は見るもので、追いかけるものじゃない世界の中にいた。
突然渡された夢の結晶は、特別なものとは思えずにいた。
- 407 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時07分38秒
- 「価値?」
「うん」
「あさみにとって、オリンピックは大したものじゃなかった?」
りんねはあさみの方を見て問いかける。
「なんだかわからないうちに終わっちゃったよ。でも、自分が終わってから分かった。み
んなの演技を見てすごさが分かった。一番、その価値みたいなものを私に感じさせたのはり
んねだよ」
車の外、暗くなりはじめた雪原へ目をやりながらあさみは語る。
一つ階段を上ったあさみの想い。
「わたし?」
「そう」
二人で顔を見合わせる。
あさみはすぐに視線を外して外を見た。
- 408 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時08分44秒
- 「すごかったよりんね。自覚ないでしょ。ホントすごかったんだから。フィギュアスケート
ってここまですごいんだって、オリンピックってこんなにすごいんだって、ホント思った。り
んねだけじゃない、あそこに最後に出てきた人達はみんなすごかった」
あさみの脳裏に焼きついた最終グループ滑走者達の演技。
今も耳に残る、観衆達が生み出した会場を覆う歓声。
あさみ自身はその舞台で何も出来なかったけれど、その舞台に参加したことが、大きな意
味を持っていた。
「オリンピックってすごいんだね。それって当たり前のことなのかもしれないけどさ、終
わってみて初めて分かったよ。なんで大事なことって終わってから気づくんだろう。わたし
さ、すごいもったいなかったなって思う。いい加減ってわけじゃないけど、もっとちゃんと
した気持ちで試合に臨めばよかったなって思った」
シートに深く沈みこんで、あさみは深くため息をついた。
あさみの言葉に、りんねはなにも答えなかった。
- 409 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時09分57秒
- 「だからさ、世界選手権は、ホントに頑張ろうと思うんだ。せっかく代表に選んでもらっ
たんだし。オリンピックと違って来年も再来年もあるけど、でも、まいもいるし、梨華ちゃ
んも復活してくるだろうし、りんねと違って、私はまた出られるとは限らないからさ」
「そんなことないよ。あさみは、これからもいろんな大会に出ていくよきっと」
「まあ、どっちにしても、頑張るって決めたんだ。もっといい演技したい、りんねに追い
つきたいって思ったから」
これまで、具体的に目指すものがなかったあさみに出来た、スケーターとしての目標。
目指す人は隣にいる。
「待っててとは言わない。だけど、追いかけていけばきっと追いつける道にいて。どこか、
変な道に進んで、見えないところへは行かないでほしい」
あさみとりんねの目が合う。
りんね方から視線を外した。
返事はしなかった。
- 410 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月11日(日)22時10分30秒
- 車が牧場に着いた。
それぞれの側のドアを開け車を降りる。
「大事な物は後から気づくってのがよく分かったよ。りんねも気をつけな。いまどうでも
いいことが、意外と後になって大事だったんだ、とか思うんだよきっと」
車を挟んで、あさみはりんねに向かってそう言うと宿舎に向かって歩いて行った。
りんねは、その姿をすこし見つめてから後に続いて宿舎へと入って行った。
- 411 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月14日(水)22時10分40秒
- 翌日、日本に帰ってきてから四日目、りんねはロッジへ向かった。
これまで、日高に帰ってからロッジへ向かうまでこんなに長い時間を空けたことはなかった。
三月に入ったものの、北海道はまだまだ雪深い。
それでも、陽が高くなると表面から溶け初め、雪解け水が小川を作る。
かき氷のようになった雪を踏みしめて、りんねは丘を上っていった。
バッグには、小さなメダルを詰めて。
- 412 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月14日(水)22時11分23秒
- ロッジの横に立てかけてあるスコップで、ドア前の雪をかきわける。
黄色いジャンパーコートの背に太陽を浴びていた。
扉の開くスペースを作り、スコップを置く。
ドアを開けると、樹の匂いがつーんとしてきた。
このロッジは、時が動かない。
ずっとずっと、昔のまま時が止まっている。
- 413 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月14日(水)22時12分03秒
- 部屋に入ったりんねは、掃除を始めた。
テーブルを拭き、床を掃く。
テーブルに置かれた三人の写っている写真を両手に持ちじっと見つめてから、額縁とガラ
スを丁寧に磨いた。
部屋を一通り掃除し、暖炉に火をくべた。
テーブルに置かれた写真に正対するように椅子に座る。
バックから、魔法ビンを取り出しお茶を注いだ。
自分の分と、もう一つ。
それから、小さなメダルも取り出してテーブルに置いた。
- 414 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月14日(水)22時13分08秒
- りんねは、両手をぺたっとテーブルにつけて、合わせた手のひらの上にあごを乗せた。
ため息を一つついた。
手を伸ばし、写真立てをつかんで、顔の前に持って来た。
「ひろみー。おわっちゃったよ」
りんねは、しばらく写真を見つめた。
体を起こし、両手で写真立てをしっかりと持つ。
大きく息をはていからつぶやいた。
「これから、どうしようかなー」
椅子から立ち上がった。
無造作に小さなメダルを持ち、窓際へと向かう。
窓の外では、葉を落とした寒々しい木の枝が、微風に揺れていた。
- 415 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月14日(水)22時13分49秒
- 「ビットは今日は来ないか」
りんねは、部屋の中をふらふらと歩く。
手に持ったメダルを目の前でぶらぶらと揺らし初めた。
「意外と軽いんだよねこれ。本物は、もっとちゃんと重たいのかな?」
そう言って、写真の方へ顔を向けた。
暖炉で、火のはじける音がする。
りんねは、メダルをテーブルにおいて暖炉の方へ手をかざす。
「これから、どうしよう」
答えは、どこからも帰ってくることはなかった。
- 416 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月17日(土)12時39分15秒
- 更新お疲れ様です!
目標を見失ったりんねの今後と梨華ちゃんの復活劇
期待してます!
がんばってください
- 417 名前:作者 投稿日:2003年05月17日(土)22時16分39秒
- >>416
二人の行く末は、まだまだ続きます。
後半は、まだまだ始まったばかり!?
- 418 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時20分10秒
- 数日が過ぎた。
すっかり戻ってきた日本での日常。
でも、それは、今までの日常と同じことをしていても、同じ光景には見られない。
りんねは、いつも薄い笑みを浮かべるようになった。
リンクの上でミスをしても、あさみと話しをしていても、牧場での作業でも。
話しかけられると、あいまいに笑みを浮かべて、ほとんどなにも答えない。
一人でいる時間が、また、増えていた。
オリンピック前の、誰も寄せ付けない感じは、もうない。
背中に、力がなかった。
- 419 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時22分15秒
- 同じリンクの上にいて、あさみはそんなりんねに気づいてはいた。
でも、特にどうするということもない。
リンクの上ではあさみ自身も以前より口数が減っている。
あさみは、今日もジャンプで転倒を繰り返していた。
やる気とはうらはらに、調子はあまりよくない。
トリプルルッツを試みては、右足での着地がしっかり決まらずに転倒し、立ち上がって腰
に手を当ては、右足首をくるくるまわす。
そんなことを、もう七、八回は続けている。
「あさみ、ちょっと休憩しろ」
リンクの外から田中コーチの声が飛ぶ。
あさみは、背中越しにその声を受け、大きなため息を一つついて、両手で頭を抱えた。
髪の毛をかきむしりながら、リンクから上がった。
- 420 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時24分02秒
- リンクの上には二人の姿がある。
里田はジャンプとジャンプの間の、振りつけパートの手の動かし方を、コーチにこと細か
に指示されている。
子供の演技だなあ、とあさみの目にも映った。
りんねの方は、所在なさげにリンクを軽く滑りながら、時折ジャンプを入れる。
きれいだなあ。
気の無いジャンプでも、さらっとこなし着地を決める。
あさみは、それを見てため息を一つはいた。
「まい、ちょっとやすんでいいぞ」
「はーい」
振りつけ練習から開放された里田は、リンク出口へと滑ってくる。
その途中で、トリプルルッツを飛び、しっかりと着地を決めた後、にっこりと微笑んだ。
- 421 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時27分41秒
- 「おつかれ」
上がってきた里田に、あさみが声を掛ける。
里田は、笑顔で答えた。
「もう、つらいですよー。もっと動き回りたい」
「まいは、ホントジャンプ好きだねー」
「気持ちいいじゃないですか、高く跳べると」
「跳べればねー。それで、着地が決まれば」
りんねを見ながら言った。
一般客の姿もちらほら見られるリンクの上にで、無表情にりんねがジャンプを跳んでいる。
田中コーチがそのそばで、りんねの姿を見守っていた。
「私もまいみたいに跳べたらなあ」
ぽんぽんと、ベンチの自分の隣のスペースを両手で叩く。
里田は、そこに座った。
- 422 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時35分07秒
- 「あさみさん、着地を怖がってません? なんとなくだけど」
「うーん・・・」
あさみは座ったまま足を伸ばし、そこに目をやった。
「疲れてるんじゃないですか?」
「そうも言ってらんないよー。後三週間で、あの人との差をなんとかしなきゃなんないんだから」
「すごかったですもんねえ」
二人してりんねを見た。
田中コーチから何か指示を受けているのが見える。
りんねは、コーチの方を見てはいるが、何か答えるでもなく、おとなしかった。
「あーーー、どうしたらいいんだー」
手に持ったスケートシューズを足の間でぶらぶらさせながら、あさみは、苛立ちの声を上げる。
- 423 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時37分02秒
- 「そんなにあわてなくたって大丈夫ですよー。いつも飛べてたじゃないですか。疲れてる
だけですって」
「後三週間しかないんだよー。ジャンプだけならいいけど、ステップもスピンもあるし、
細かい振りも煮詰めてかなきゃいけないし」
「どうしたんですか? 急に。無理することないですよ。今年ダメならまた来年もあり
ますって」
あさみは、チラッと里田の方に目をやって、すぐに視線を足元の靴に戻した。
わかってないな、と言おうと思ったけど、言わなかった。
来年も、自分が出られるとは限らない。
先のことなんか、知らない。
一年後には里田に抜かれているかもしれない、石川に勝てなくなるかもしれない。
伸びてきたジュニアの選手達に抜かれているかもしれない。
来年になっても、自分が代表に選ばれるという自信なんか、とてもなかった。
- 424 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月17日(土)22時39分58秒
- あさみに初めて点いた炎。
その炎は、先々まで見据えた、省エネな燃え方などできない。
自分の身をも焦がすような、熱い気持ち。
あさみは、まだ、その熱をコントロールするすべを知らなかった。
「さて、そろそろ戻りますか」
「はーい」
「次こそしっかり着地決めるぞー」
そそくさとシューズを履き、リンクに上がった。
- 425 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月17日(土)23時10分47秒
- 更新お疲れ様です
梨華ちゃんはどうなってるんでしょうか?
すごく気になります。せっかちですいません
更新待ってマース
- 426 名前:作者 投稿日:2003年05月19日(月)22時34分54秒
- >>425
石川さんは、多分、もうすこししたら出てきます。
あと数回、北海道のシーンが続くので、しばらくお待ちください。
- 427 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時36分01秒
- すこし冷えた体を温めるために、リンクを広く一周する。
その間に、りんねが氷から上がっていった。
それを見送るあさみは、おいつくんだ、絶対、という気持ちを新たにする。
田中コーチから、里田に声がかかった。
あさみは、一人になる。
- 428 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時37分51秒
- リンク中央に向かった。
十分に助走の取れる広い場所。
自分の跳ぶ姿をイメージする。
着地、着地、怖がらない、大丈夫、下りられる、大丈夫、絶対大丈夫。
自分に必死に言いきかせた。
ふー、と一つ息を吐く。
跳ぶのはトリプルルッツ。
三回転のジャンプの中で一番難しいとされるもの。
オリンピックでも、フリー演技でこのジャンプを失敗、転倒している。
あさみの苦手のジャンプだった。
長いシーズンの疲れが三月に入るとたまって来ている。
本人が大丈夫と思っていても、予想以上の負荷がかかっていることもある。
気持ちだけで、なんとかならないこともある。
強い想いが、マイナスに働くこともある。
- 429 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時39分34秒
- あさみは、助走をスタートさせた。
着地、着地、そう念じながら。
加速をつけてから、後ろを向く。
両手でバランスを取り、左足にしっかりと力を込める。
すこし前に重心を移して、右足を後方に伸ばした。
腰を落とし、右足のトウをつく。
同時に、左足で氷を強く蹴り上げた。
一回、二回、腕を胸の前でクロスさせたまま、回転する。
着地、着地、念じながら、下りてくる。
左足を後ろに伸ばし、右足を氷についた。
全体重と、高さの衝撃と、回転の反動が、すべて右足一本にかかってくる。
あさみは、そのまま崩れ落ちた。
- 430 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時40分28秒
- リンクに、あさみの絶叫が響き渡った。
氷の上に倒れたまま右足首を両手で押さえる。
あまりの痛みに、声が抑えられない。
耐えられなかった。
立ち上がろう、などと思うこともなかった。
リンクの上でのたうちまわるあさみは、悲痛な声をあげつづけた。
最初にあさみの元へ駆けつけたのは里田だった。
大丈夫ですか? と声を掛けるが、あさみからの答えはない。
リンクの上を転げまわるあさみのことを、里田はおろおろしながら見ていることしか出来
なかった。
- 431 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時41分55秒
- やがて、すこし痛みが落ち着いたのかあさみが動きを止めた。
右足首を抑えたまま、氷の上に横たわっている。
そこへ、田中コーチとりんねが滑ってきた。
りんねが、すぐにあさみのスケート靴の紐をゆるめる。
そっと、ゆっくりと靴を脱がせた。
足首は蒼く腫れ上がっていた。
あさみの白く透き通るような美しい肌が、そこだけ汚れていた。
もはや、くるぶしの区別もつかない状態。
見ているだけで痛かった。
「まい! ぼけっとしてないで、手伝って!」
あさみの前に立ちつくしていた里田は、りんねに一喝されて正気にかえる。
二人であさみの両脇を抱えて、リンクの外まで連れ出していく。
- 432 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時44分02秒
- 田中コーチが、コールドスプレーで応急手当をする。
スプレーの冷たさが、腫れた痛みをすこし和らげるが、回復する様子はない。
ベンチに座り、うなだれてじっと自分の足首を見つめたまま、あさみは、病院へ行く車が
玄関へまわってくるのを待っていた。
「だめだ」
一言つぶやいた。
りんねと里田は、なにも言えなかった。
- 433 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月19日(月)22時45分09秒
- やがて玄関先まで車が来る。
里田とりんねがあさみの両脇を支えて、玄関まで向かう。
大して体重があるわけでもない小柄なあさみが、ずっしりと重かった。
支える二人は、荒い息になりながらも、なにも言わない。
あさみもなにも言わない。
重たい静けさが、車まで続いた。
ようやくたどり着いた玄関口で、ワゴンに乗りこんで行く時あさみが一言だけ言った。
「ありがとう」
二人が返事を返すまもなく、ドアが締められた。
- 434 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月20日(火)22時43分37秒
- あぁー!あさみはどうなっちゃたんですか!
まさかまさか・・・・まさかの展開に驚いています!
一刻も早く続きが読みたいです。
更新お待ちしております。
- 435 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年05月24日(土)06時09分19秒
- みやさん、更新お疲れさまです。
ここしばらくだまって読みふけいました。
目標を見つけ努力しはじめた矢先の怪我。
<「だめだ」と「ありがとう」
短い一言のなかに万感の想いがあるように感じられました。
あさみちゃんの脱落で梨華ちゃんの復活!?
氷上の舞姫。だれの頭上に栄冠は輝くのでしょう?
滑る楽しみを思い出しつつある梨華ちゃんか。それとも、オリンピックで見せたりんねさんの実力か。
世界選手権が楽しみです。
では、続きを楽しみに待ってます!!
- 436 名前:作者 投稿日:2003年05月24日(土)22時24分00秒
- >>434
まさかの展開。
続きは、作者のみぞ知る。
なんとなく神の気分を味わいつつ、ちょっと更新を止めて引っ張りたい気分になったりします。
うそです。ちゃんと、更新はします。
>>435
世界選手権は、いつになることやら・・・。
あさみさん、どうなっちゃうんですかねー?
作者は知ってるんですけどね(笑)
- 437 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時25分14秒
- りんねと里田は、練習を終えるとあさみを見舞いに病院へと向かった。
病室のドアを二人が開けて入ると、先に声を掛けたのはあさみの方だった。
「はは、やっちゃったよ」
ベッドから体を起こし、あさみが笑顔で二人を招きいれた。
「全治二ヶ月だって。世界選手権がパー」
おどけて両手を広げるあさみ。
りんねと里田は、ドアの前に立ち二人で顔を見あせている。
目を真っ赤に腫らしたあさみが、いつもと同じように笑顔をふりまいていた。
- 438 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時26分22秒
- 「なんだよ、気が利かないな。お見舞いに来るならメロンの一つくらい持ってきてよ」
オーバーアクションなあさみを見ながら、りんねは扉を閉め、ベッドの横に歩み寄った。
「退院はすぐできるんだって?」
「うん、基本的には検査入院だって。杖つけば歩けるし、今夜はここにとまるけど、明日
の午後には帰るよ」
「そっか、心配して損した。まい、帰ろ」
「え、もう帰っちゃうんですか?」
「りんねは冷たいなあ」
「あさみと違って、うちらは明日も早いもん。帰ってはやくおいしい夕飯食べなきゃ」
「いいもん、私は明日ぐっすり昼まで寝てやるから」
あさみは、起こしていた体をベッドに戻す。
枕に頭を乗せ、布団を顔の近くまでかぶった。
「じゃね、あさみ。また明日」
「うん」
これだけの会話で、りんねと里田は部屋を出て行った。
- 439 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時29分52秒
- 「りんねさん」
廊下に出て。里田が少し強い口調でりんねに問いかけると、一言だけ答えが返ってきた。
「一人にしてあげよ」
里田は、視線を落とし小さくうなづいた。
- 440 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時31分41秒
- 小さな診療所、切れかかった蛍光灯に照らされる待合室で、すれちがいざま看護婦さんに
頭を下げる。
二人は、茶色いナイロン地で背もたれのない長いすに座った。
無言の時間が続く。
あさみの怪我について、コーチが話を聞いている診療室のドアの方を里田はちらちらと見る。
りんねは、腕を足の上に置き、視線を落として肌色のタイルで出来た床を見つめていた。
立ち上がり、玄関横にある自動販売機にりんねは向かった。
エアコンから暖風が送り出され、モーターの音が待合室に響いている。
その姿を里田は視線で追っていた。
缶が販売機の中を落ちてくる音が二度した。
- 441 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時33分02秒
- 「どっちがいい?」
コーンスープと、おしるこの缶を一つづつもち、りんねは里田の前に戻ってきた。
「じゃあ、おしるこで」
「高くつくぞ」
「ごちそうさまです」
缶を手渡し、りんねは再び里田の隣に座る。
二人とも、両手で缶をこするようにして、温まっていた。
待合室にいた、一人の患者が受付で支払いを済ませ診療所を出て行く。
部屋には二人だけが残された。
- 442 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時34分07秒
- 「あさみ、悔しかったんだね」
不意にりんねがつぶやくと、里田は小さくうなづいた。
「なんで、急にあんなに頑張りだしたんだろう」
視線を床に落とし、プルトップを開け、口へと持って行く。
「なんでって・・・」
そのあとは言葉に出てこなかった。
「分からないわけじゃないんだけどさ。でも、なんでだろうって。あさみの夢ってなんだろう」
顔を上げ、正面の白い壁の方を向く。
焦点はそこに定まっていないように里田には見えた。
- 443 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月24日(土)22時35分34秒
- 「ゆめって何なんだろうね」
問いかけられて里田も考える。
夢って何なのだろう。
自分の夢は?
夢をかなえたりんねさんのこれからの夢は?
両手で握り締めたおしるこの缶を見つめながら考える。
「さて、帰ろうっか」
診療室から田中コーチが出て来たのを見てりんねが言った。
里田にも、りんねにも、何も答えは出なかった。
- 444 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時26分28秒
- 夜中、あさみはベッドを抜け出した。
ギブスで固められた右足を、ベッドの上に吊るされていたロープから外し、まだ慣れない
松葉杖をついて部屋を出た。
廊下は暗く、非常口を示す緑色のパネルだけがその中で煌々と光っている。
あさみは、よろめきながらも一歩一歩廊下を歩いていった。
短い廊下を抜けると、フロントがある。
そこには、一台の公衆電話があった。
その電話を見つめながらあさみは進む。
- 445 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時29分08秒
- 小さな診療院に入院患者はあさみ一人だけ。
宿直の医師も一人しかいない。
静けさが覆いつくす診療院の中、あさみの松葉杖の音だけが聞こえてくる。
不規則に音をさせながら、あさみは電話の前にたどり着いた。
両脇に松葉杖を抱えたまま受話器をじっと見つめる。
真夜中、たった一人の診療所のなかで、非常灯の明かりだけがあさみの姿を浮かび上がらせ
ていた。
あさみの呼吸音が聞こえる。
気持ちの高振りを抑える。
じっと目を瞑り、受話器をとった。
- 446 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時29分50秒
- 財布から百円玉を取り出し、電話の横に並べる。
手帳を開き、目的の相手の番号を探った。
光がほとんど手帳に当たらない中、目を凝らし名前をさがす。
見つけ出した目的の名前に、あさみは大きく息をはいた。
プッシュボタンの0の上に指を置いて、また指を離す。
それを二三度繰り返してから、あさみは目的の電話番号をプッシュしはじめた。
耳に当てた受話器から呼び出し音が聞こえる。
二回鳴ったところで、あさみは電話を切った。
- 447 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時30分50秒
- 受話器をフックに掛け電話台に手をつき、その上に頭を置く。
暗闇の中に、コインが釣銭として落ちて来る音が響いていた。
リノリウムの床が不気味に光っている。
何度かまばたきをしながらその床を眺めた。
やがて、あさみは顔を起こし再び電話と向かい合った。
同じ番号をプッシュする。
今度は受話器を置くことなくじっと耳に当てたまま相手を待った。
- 448 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時32分24秒
- 「ん? もしもし」
「もしもし、あさみですー。ねてたー?」
「んー、ベッドの中だけど、さっきもちょっと携帯鳴ってて、そんとき起きたかな」
「ごめんねー、夜中に。おひさしぶりー」
乾いた空気の中にあさみの声が響き渡っている。
「どうしたの? 急に」
「んー、あのさー、調子どう?」
「いや、まあ、ふつうだよ」
あさみの電話の相手は石川だった。
石川はあさみとは対称的に不機嫌そうな暗い声で話す。
「そっかあ。じゃあさあ、世界選手権出ない?」
「えっ? 聞こえない。もう一回」
石川の返事にあさみは一度言葉を詰まらせるが、それでも、もう一度同じことを言った。
- 449 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時33分13秒
- 「世界選手権に、梨華ちゃん出ない?」
「私? え? なんで? 怪我でもしたの?」
右手の松葉杖でリノリウムの床をコツコツ叩きながらあさみは答える。
「んーとねえ、まあ、無理すれば出られなくもないんだけどねー。今回は念のために見送
っとこうかなーって」
「そうなんだ」
「うん。ちょっとね、右足首やっちゃって。まあ、世界選手権は来年も再来年も毎年ある
しねー。無理することもないかってね」
小さな笑い声をまじえながらあさみは話す。
そんなあさみの言葉に対する石川の反応は薄かった。
電話が、遠い遠い距離を隔てている。
あさみは100円玉を電話に継ぎ足した。
- 450 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時33分54秒
- 「だから、頼むよー。りんねと二人でいい成績上げてさ、来年の出場権三つ取ってきて」
翌年の出場枠は、その年の代表選手の成績で決まる。
二人の順位の合計が二十二以内なら、翌年の出場権を三つ得ることが出来る。
「それで、来年は、りんねとまいと三人で出るから。お願いね」
「うん」
まだ寝起きの状態で答えを返す石川。
自分が来年は出られない、と言われていることには気づいていない。
あさみだけが、一人冴えた頭でほとんどしゃべり続けていた。
「いま、公衆電話なんだ。もうすぐなくなっちゃいそうだから切るね」
「うん」
「それじゃ、頑張ってねー。おやすみー」
「おやすみ」
石川が電話を切った。
あさみは、受話器を耳に当てたまましばらくたたずんでいた。
- 451 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時34分39秒
- 大きく一つ息をはく。
電話の横には、百円玉が二枚残っていた。
フックに受話器を置いた。
薄暗い中で電話を見つめていると、脇に挟んでいた松葉杖が倒れた。
もう一方の杖を支えに、倒れた松葉杖を拾おうとすると、バランスを崩し倒れ、持ってい
た杖が派手な音を立てて転がった。
床を這いつくばってあさみは松葉杖を手繰る。
- 452 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時35分43秒
- 廊下の奥の扉が開いた。
話し声と物音で目覚めた宿直医が廊下を歩いて近づいてくる。
「木村さん! なにやってるんですか夜中に」
暗いフロントでうごめいている影を見つけ、医師が声を投げつけた。
倒れこんだままもがいているあさみのもとへ駆けつける。
うつぶせになり右手で松葉杖をつかんだあさみは、それを支えに立ち上がろうと試みている。
駆けつけた医師が、あさみの両脇を抱え、立ち上がらせようとした。
- 453 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年05月28日(水)00時36分59秒
- 「歩ける。一人で歩ける。歩けるんだよー」
「落ち着いて。落ち着いてください」
抱え上げられながら、あさみは叫んだ。
腕を振って、医師を振り払おうとする。
上体の力が強いあさみが振りまわすと、医師ともども倒れこんだ。
あさみは、そのまま、自らの手で松葉杖をつかみ立ち上がろうとする。
「おちついて。木村さん。落ち着いてください」
医師は立ち上がり、あさみを助け起こそうとする。
あさみの方は、それを無視して、自分の力で立ち上がろうとしていた。
「歩ける。一人で歩ける! 滑ることだって、跳ぶことだって、全部出来るの。滑れるん
だよ。私は、滑れるんだよ」
最後は、弱弱しい声だった。
床に倒れこんだまま涙を流すあさみを、医師はどうすることも出来なかった。
- 454 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時01分58秒
- あさみから電話をもらった翌日のことだった。
練習のためにリンクを訪れた石川は、いつものように飯田に簡単な挨拶をして着替えに向
かおうとすると呼び止められた。
「石川、世界選手権の話は聞いた?」
「はい。聞きました」
飯田にはスケート連盟から、あさみの怪我による代表辞退の話が伝わっていた。
白いコートに身を包んだままの石川に向かい、やや離れた位置にいた飯田は告げる。
「あと、三週間あるから、気持ちをもう一回盛り上げて。今シーズンの最後のチャンスだ
から。石川も大分調子戻ってきたと思うからさあ、プログラムを煮詰めてやっていこう。今
日から、ちょっとメニュー変えるから」
それだけ言うと、もう行っていいよ、とばかりに軽く右手を上げた。
- 455 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時02分59秒
- 石川は足を止め飯田の言葉を聞いていた。
一瞬考えてから、更衣室へと向かうのをやめ、飯田の方に近づいていく。
立ち止まり、足元へと荷物を置いてから、すっと顔を上げ飯田をじっと見る。
一呼吸の間をおいてから、こう切り出した。
- 456 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時03分34秒
「先生、世界選手権でトリプルアクセルを跳ばせてください」
- 457 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時04分31秒
- 飯田は、眉を寄せて石川の顔を見る。
「今シーズンはまだ無理だよ。プログラムに入れるには早い。一夏トレーニングして、筋力
アップして、練習で跳べるようになってからじゃないと、プログラムには入れられない」
冷静な答えを返す飯田に対し、石川は引くことなくさらに訴える。
「先生! 私、跳びたいんです。どうしても跳びたいんです」
石川は、飯田の顔をじっと見据えて言った。
スケートリンクの人の行き交うロビーにもかかわらず、あたりはばからず石川は力強く訴えた。
- 458 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時05分40秒
- 「なに、急にあせってるんだよ。大丈夫だって。トリプルアクセルがなくても石川なら
今でもトップと十分に戦えるよ。技術的にも、表現力の面でも。オリンピックの鮎浜とか
りんねちゃんとかの演技で刺激を受けるのは分かるけど、今シーズンのプログラムは今の
ままで行こう」
「そうじゃないんです」
落ち着いた口調で石川を諭すように語る飯田に対し、石川は自分の感情をぶつけていく。
「オリンピックの鮎浜はすごかった。りんねちゃんも、本当にすごかった。真夜中にあの
演技を見て、朝まで眠れなかったです。その場に、その中にいられない自分が悲しかった。
そういう意味では、すごい刺激を受けたのだと思う。だけど、トリプルアクセルが跳びたい
のは、それとはまた違うんです」
身長差のせいですこし見上げるような形になる石川。
彼女は、激しく身振り手振りを交えながら、自分の思いを言葉へと変えていく。
- 459 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時07分05秒
- 「国体で夏先生に言われて、自分の演技が終わった後他の選手の演技二、三人だけだけど
見てみました。スピンやステップの技術はなってないし、振りは全然子供っぽいし、競技会
で同じレベルで試合すると、得点はどうやったって私のが上になって勝負にはならない。だ
けど、ジャンプだけはみんなすごかった」
十代前半の選手達が新しい波を起こしていた。
彼女達は、通称クルクルキッズと呼ばれている。
競技経験の浅さから、オールラウンドな能力は備わっていないが、ジャンプの技術に限っ
て言えば、石川達トップレベルに匹敵する物を持っている。
三回転のジャンプ五種類は当たり前のようにこなし、コンビネーションでも三回転−三回
転を普通に入れてくる。
世界で誰も飛んでいない三回転−三回転−三回転のコンビネーションや、四回転に来期に
はチャレンジしようとしている選手もいると言う。
他のことはさっぱりだけど、クルクルまわるジャンプだけの技術が突出していることから
クルクルキッズと呼ばれている、そんな、まだ幼い選手達の演技が、石川に火をつけていた。
- 460 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時08分39秒
- 「相手にすることない。ジャンプが同等でも他はお話にならないんだから。もちろん、何
年かすれば伸びてくるだろうし、馬鹿にしてちゃいけないけど、でも、あせることじゃない
だろ、いま。跳ばせないとも、跳べないとも言ってないんだから。石川はトリプルアクセル
を跳べるようになるよ。ただ、それは今じゃないってだけで」
飯田は、小さな子供へと教え諭すように石川へと言い聞かせていく。
それでも石川は、あさみと電話で話した後に生まれた自分の決意を押し通す為に、一歩
も引くことはしない。
「今じゃなきゃいけないんです。あの子達が跳んでからじゃダメなんです」
「なんでだよ」
「先生の、先生の次に、トリプルアクセルを跳ぶのは、私じゃなきゃいけないんです」
- 461 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時09分29秒
- 石川の甲高い声が飯田に伝わってくる。
これまでに、トリプルアクセルを跳んだ女子選手は世界でただ一人、飯田圭織しかいない。
彼女に続く者は、この十年の間に一人もいなかった。
先生に続くのは自分なんだ、という石川の強い気持ち。
しばらく黙り込んでじっと石川を見ていた飯田が、再び口を開いた。
「どうしても跳びたいのか?」
- 462 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時10分31秒
- ゆっくりとした重たい口調で語る飯田は、まだ、決めあぐねていた。
今の石川の力からして、たった三週間でトリプルアクセルを跳ぶのは、まず不可能だと思った。
それでも、石川の言葉ですこしづつすこしづつ、心を動かされる。
石川が話しているのを聞いて、飯田は別のことを考えていた。
この子が、こんなに必死に自分の意思を語るのは、初めて見るのかもしれない。
自分の前で、必死に思いのたけを語る石川を、飯田は目を細めながら見ていた。
いままで、私の方からばかりいろいろな注文をつけすぎてきたのかもしれないなあ。
そんなことを思う。
半年ほど前のこと。
アメリカでテロ事件が起きた。
飛行機危なくて乗れないな、オリンピック危ないかもな、と飯田が言うと、石川は即座に答えた。
「死んでもいいから、オリンピックに行きます」
もともと、意思の強い子だったんだったな。
それを、私の方からばかりいろいろな要求を出してたのかもしれない。
この子の気持ちに、賭けてみようか。
後一押し、とばかりに語り続ける石川を見ながら、飯田は心を決めた。
- 463 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時11分37秒
- 「どうしても跳びたいんです。みんなに見て欲しいんです。先生にも、亜依ちゃんたちにも」
石川が言葉を切ると、飯田は小さくうなづいた。
二人の間に、一瞬の空白が空く。
「先生?」
「分かった」
「いいんですか?」
喜色満面の笑みを浮かべる石川につられ、飯田も頬をゆるます。
- 464 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時12分58秒
- 「時間はないけどやってみよう。ただし、何度も言ってるけど」
「分かってます。フィギュアはジャンプだけじゃない、ですよね」
飯田の言葉を押さえての石川の即当に、鼻で笑ってから言った。
「ホントに分かってるのか、いしかわー」
「分かってますよー」
「ほんとかよ」
石川の額を飯田は軽く小突いた。
頭を押され、一歩後ろに下がった石川はへらへらと笑っている。
「じゃあ、今日からすこしメニュー変えるから。あと、バレエの日を減らして、ジムにも
っと通うこと。分かった?」
「ジムですかー。はーい。わかりましたー」
石川は不満そうな声ながらも笑顔でそう答えて、その場でジャンプして一回転して見せた。
「もう、いいから。さっさと着替えてこい」
「はーい」
右手で頭を抱えながら言う飯田に答えて石川は笑みを浮かべたまま更衣室へと向かった。
- 465 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月01日(日)22時15分41秒
- 無理だろうな。
石川の背中を見送りながら飯田は思う。
でも、無理でもいいとも思った。
いつかは、石川はトリプルアクセルを跳ぶ。
それを望む石川は正しいのだから、自分がサポートしてやらなくて誰がやるんだ。
世界選手権は、来年も再来年もずっとある。
目指すものを見つけたのなら、すぐにかなうことはなくても、その想いを持続させてやろ
うと思った。
その想いが、目の前の結果にもつながるかもしれないと思った。
リンクサイドのベンチに座りなおして飯田はつぶやく。
「まだまだだな、わたしも」
そう言いながら、飯田の表情も和らいでいた。
- 466 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)22時33分18秒
- 更新乙です!
ついに石川編ですね!まってました!
トリプルアクセル!!期待してます!
楽しみに更新待ってます!
- 467 名前:作者 投稿日:2003年06月04日(水)23時14分20秒
- >>466
言われてみると、ずいぶん長い間りんねサイドの話しになってましたね。
この先は、もうちょっと石川さんにウエートを置いたかんじになって行くと思います。
- 468 名前:作者 投稿日:2003年06月04日(水)23時19分08秒
- 世界選手権がまじかに近づき石川の練習もヒートアップしていく。
それでも、トリプルアクセルが跳べる気配は一向になかった。
「もっと腕を締める。 こう組んで、こう」
氷の上で、飯田コーチ自ら石川に手取り足取り教え込んでいく。
自分でも跳ぶかたちを見せながら。
「踏み切る時の、右足の引きが小さいんだよ。だから高さが出ない」
神妙に話しを聞き、石川は踏み切り時の足の動きを何度も試す。
飯田は、それを見守りながら、またリンクサイドへと離れていく。
- 469 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時20分31秒
- 石川は繰り返し繰り返しジャンプを試みるが一度として成功することはなかった。
回転がたりず転倒を繰り返す。
やがて、踏み切った直後にトライをあきらめ、一回転半や二回転半で氷の上に降りてきて
しまうようになった。
「石川、終りにしよう」
再びリンク中央の石川の元へ滑りよって飯田は言った。
石川は、首を横に振る。
「頭冷やせ。とりあえずちょっと休憩だ」
「はい」
石川の答える声は、とても弱弱しかった。
- 470 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時21分22秒
- 世界選手権の開幕まで一週間を切った。
石川と飯田の間には約束がある。
練習で一度でも跳べたら世界選手権のフリープログラムへトリプルアクセルを入れる。
一度も跳べなかったら、きっぱりとあきらめて来シーズンまで見送る。
石川に焦燥感がつのってくる。
「ほら」
「すいません」
リンクから上がりベンチへ座っている石川へ、アクエリアスのペットボトルを飯田が手渡す。
飯田は、石川の隣へと座った。
「おじょうちゃん、なにあせってるのでちゅか?」
石川の顔を飯田が覗きこみ、両方のほっぺたに人差し指を当てながら言う。
石川は目をそらし、ペットボトルのふたを空け、口へ持っていってから言った。
- 471 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時22分37秒
- 「先生、気持ち悪い」
「なんだよー、かおりだってたまには石川みたいにぶりっ子したっていいじゃん」
「そのぶりっ子って言い方がもうおばさんくさいですよ」
石川は、タオルで顔を拭い、もう一度ペットボトルを口へと持っていく。
「石川さあ、かおりは、そんなにあせらなくてもいいと思うんだけどなあ」
「そんなこと言われても無理ですよ。後一週間しかないんですもん」
「もう、そこからして違うんだけどさ、まあ、それは追いとくとしても、あせたって跳べ
ないもんは跳べないんだから。あせればあせるだけ遠くなるよ」
- 472 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時23分53秒
- 右手でペットボトルの口を持ち、石川はそれを足の間でくるくると回している。
一つため息をついた。
見つめる先には、親子の三人連れが滑っていた。
「跳べないかも、とか、ダメだ、とか思うな。跳ぶことだけ考えろ。常に跳ぶイメージを
頭の中に植えつける。助走から踏み切り、跳んでいる時の姿勢、着地。目を瞑って頭の中に
イメージする」
- 473 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時24分54秒
- 石川は両足のふとももの上にひじをつき、ペットボトルを握ったまま両手を合わせてその上に額を乗せた。
目を瞑り、自分の姿を思い浮かべる。
石川の頭の中に仮想空間が描かれる。
テレビで見つめていたソルトレイクのリンクのリンクの上に石川の姿があらわれた。
月光のメロディが石川の頭の中に響き始める。
場面は、演技序盤、二つ目のジャンプに向かうところ。
静かな演技の中にトリプルアクセルを織り込む。
長い助走を取った。
左足に体重を預け、右足を引く。
左足のひざを少し折り腕も引く。
右足を前へと蹴り出し腕も抱え上げた。
氷を左足で蹴り、飛び上がる。
一回、二回、胸の前で腕をクロスさせたまま回転する。
三回、氷が近づいてくる。
さらに半回転を加えて着氷、といかずイメージの中の石川も転倒した。
- 474 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時26分06秒
- 「石川?」
「ダメでした。頭の中でもころんじゃいました」
「下りれそうな気はした?」
「回転は足りてました」
実際の練習では着地以前に回転自体が足りていないことが多い。
イメージの世界の石川の方が先行していた。
「跳ぶんだ! っていう意識でイメージを繰り返す。練習を繰り返す。余計なことは考
えない」
飯田の言葉を聞きながら、石川はリンクの上の親子連れを見つめていた。
滑れなくて、転んで泣いているあの子も、お父さんとお母さんに守られて、すべりを教え
てもらって、滑れるようになるのかな?
ペットボトルをまた口へと運んだ。
- 475 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時27分06秒
- 「さて、続きといきますか」
「はい」
二人は立ち上がる。
「次はステップ行こう。後半の方のストレートライン。いつもへばって手抜きになる部分な」
「えー。アクセルの続きじゃないんですか?」
「言ってるだろー。ジャンプだけじゃダメだって」
「分かってますけどー。今の話しの続きで、なんでステップに行くんですか?」
「いいから、はやく、やる」
「はーい」
ちょっと低めの不満そうな声を出す石川をリンクの上へと送り出す。
飯田もスケートシューズを履きなおし、自分もリンクへと入っていった。
- 476 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月04日(水)23時29分49秒
- あいつ、ステップ好きなはずなんだけどなあ。
リンクサイドで寄りかかりながら石川の姿を見つめる。
それだけ、アクセルに本気ってことかな?
世界選手権でトリプルアクセルを跳びたい! と言い出した日から、石川は飯田の言葉に
従ってジムへと通う頻度が上がった。
これまでは、バレエ三にジム一、の割合だったものが、このところ、逆の割合になっている。
飯田の昔のビデオも、石川はせがんで手に入れて自宅で見ている。
女子選手のトリプルアクセルのたったひとつのお手本。
石川がトリプルアクセルを跳べるかどうかは分からないけど、飯田は、石川に挑戦させ
て良かったかな、と思っていた。
石川の滑り全体に、力強さがよみがえって来ていた。
- 477 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時26分07秒
- 翌日、やはり同じように同じ場所で二人は練習を行なう。
そして、同じように石川は転び続ける。
昨日と同じように不機嫌になり、昨日と同じように集中を切らし、昨日と同じように休憩に入った。
「ほら」
「すいません」
リンクから上がりベンチに座っている石川へ、ポカリスエットのペットボトルを飯田が手渡す。
飯田は石川の隣に座った。
- 478 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月07日(土)23時27分11秒
- 「おじょうちゃん、なにあせってるのでちゅか?」
石川の顔を飯田が覗きこみ、両方のほっぺたに人差し指を当てながら言う。
石川は目をそらし、ペットボトルのふたを空け、口へ持っていってから言った。
「先生・・・」
それだけ言って石川はため息をついた。
「そんな、そこまで嫌そうな顔しなくたっていいだろー」
「だって、昨日とまったく同じなんですもん」
「悪かったなあ」
「先生見てたら、自分もなんか、全然何にも進歩してないなあって悲しくなってきちゃいましたよ」
石川はペットボトルのふたを閉め、手に持ったままリンクを眺めている。
- 479 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時28分02秒
- 「そうでもないと思うけどな」
「えっ?」
「昨日とはあんまり変わんないけど、一ヶ月前とかと比べると、ずいぶん違うんじゃないの?」
飯田はそれだけ言ってベンチから立ち上がる。
両手を広げて大きく伸びをした。
そんな飯田の背中を、石川は座ったまま見つめている。
飯田は振り向いて、一瞬石川の方へ視線を向けた直後、目を細めて石川の後ろはるか遠くを見た。
そして、大きく手を振った。
- 480 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時28分58秒
- 「亜依ちゃーん」
石川も振り向く。
二人の元へ黄色いハーフコートを着て青いリュックを背負った小柄な女の子が駆けてきた。
「りかちゃーん」
「最近来なかったじゃーん。どうしてたの?」
「んー、テストがな、いそがしかったん」
石川の元へ駆け込んできた少女は加護だった。
週一くらいのペースで、クラスの友達とであったり、一人であったり、家庭教師の市井と
であったりと、リンクへ遊びに来ていた加護だったが、ここ三週間ほどは姿を見せていなか
った。
「テストはどうだったの?」
「ん? んー、まあまあってとこかな」
「ホントにー?」
「ホントさー」
えへへ、って感じの笑顔を加護が見せる。
石川もつられて口元をゆるめる。
- 481 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時29分30秒
- 「さて、石川はそろそろ続きと行きますか」
「はーい」
「後半のステップの部分ね」
「はい」
石川はリンクへと降りていく。
加護がにこやかに右手で手を振ると、石川は右手の親指と人差し指の二本を立て、チャオー!
と一言残してリンクに上がった。
- 482 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時30分34秒
- 「亜依ちゃん今日は滑るの?」
「今日は一人だし、いいや」
「いいんだ」
「うん。だって、高いんやもん。滑ると」
見てるだけならただだけど、氷の上に上がるには1000円、貸し靴料金は300円、中
学生のお小遣いだと、ちょっと厳しい金額。
友達と来る時はお母さんにせがんだり、市井先生にはおごってもらったりと、加護
もちゃかりとしている。
「なんか、梨華ちゃんきれいになった気がする」
リンクサイドのベンチで飯田の隣に座る加護が、ステップを刻む石川を見て言う。
「きれいになった?」
「うん。梨華ちゃん、前から可愛かったけどー、なんか、この前会った時より、き
れいになった気がする。なんでやろ」
「石川ね、亜依ちゃんにトリプルアクセル見せるんだって頑張ってるんだよ」
加護が前にここに遊びに来たのは、ちょうど石川がトリプルアクセルを跳ぶと言い
出した前の日だった。
- 483 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時31分44秒
- 「世界選手権でるんでしょ。すごいよねー。テレビで毎日やってんで。石川のリベンジ!
とかって」
握りこぶしを作って加護が飯田に笑いかけている。
今度の世界選手権は日本で行なわれるということもあり、毎日ゴールデンタイムで放映
されることになっていた。
フィギュアスケートのような、野球やサッカーと比べてあまりメジャーでない競技とし
てはあまりないこと。
テレビ局も、そこに不安を感じてか数多くのCMをながしている。
そこに登場してくるのは、上位進出が期待される女子シングルが主で、悲劇のヒロイン
りんねと復活を期す石川の二人の対決と世界への挑戦、という構図を作らされていた。
「見たいなー、梨華ちゃんのトリプルアクセル」
氷の上でステップを刻む石川の姿を加護は見つめていた。
- 484 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時32分35秒
- 「亜依ちゃんは、石川の演技が見たいんだ」
「うん。見たい」
加護の顔を見つめながら飯田はすこし考える。
この子に頼ってもいいのだろうか?
一瞬のためらいの後、飯田は切り出した。
「亜依ちゃんさあ、世界選手権見に来ない?」
「え? うちが? うちがか?」
「そう。石川が滑るとこ、見に来ない? 会場は長野だから、ここからちょっと遠いんだ
けど、試合のチケットも、宿とかもこっちで手配するから、見に来ない?」
「行きたい! 行きたいけど、うわー、どうしたらええん? おかあちゃん、おかあちゃ
ん一緒に行ってくるかなあ?」
頭をかきむしって加護は考える。
そんな光景を微笑みながら飯田は見つめていた。
- 485 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月07日(土)23時33分14秒
- 「亜依ちゃんが来たいって言うなら、私からお母さんにお話してもいいよ」
「うーん、やっぱ、うちからおかあちゃんに言う」
「大丈夫?」
「たぶん大丈夫」
加護はそう言って天使の笑顔を見せた。
- 486 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)19時10分17秒
- 更新お疲れ様です。
石川の復活期待してます。
世界選手権・・がんばってください!
- 487 名前:作者 投稿日:2003年06月11日(水)22時12分27秒
- >>486
石川さん、どうなっていくんんでしょう?
世界選手権はもうしばらくお待ちください。
- 488 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時02分14秒
- 二日後、加護は市井と二人でリンクへとやってきた。
赤のダッフルコートから伸びた市井の左手を、加護はしっかりと握っている。
「梨華ちゃーん、うち、梨華ちゃんの試合見に行くで」
「ホントに? ホントに見に来てくれるの?」
「うん。最後の日だけやけどな。市井先生が一緒に来てくれることになってん」
そう言って、加護は右側にいる市井の顔を下から覗きこむ。
- 489 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時03分16秒
- 「亜依ちゃん、私にお母さんと交渉させたんですよ。この前の期末テストの点数をだしにして」
「亜依ちゃんテスト出来たんだ?」
飯田が腰をすこしかがめて加護の目線の高さにあわせる。
「ちょっとだけやけど。市井先生のおかげで。ね」
「亜依ちゃんがんばったもんねー」
市井は加護の頭に手を乗せる。
加護の成績は、二学期末が最下位近かったので、良くなったとは言っても、実はまだ平均
点には足りていなかったりする。
それでも、進歩したことにはかわりなく、加護の母親はご褒美として市井と同伴ならとい
う条件付で、長野行きを認めていた。
- 490 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時04分09秒
- 「すいませんねえ、市井先生にまで来ていただいて」
「そんな、とんでもないですよ。一度生で見てみたかったですから。便乗させてもらえて
ラッキーって感じです」
「チケットとか、宿の手配とかは、全部こちらでするんで」
「はい、よろしくおねがいします。ほら」
市井が加護の背中を軽く叩く。
「おねがいします」
加護が首だけ曲げて頭を下げた。
- 491 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時04分55秒
- 「よーし、石川! 練習始めるぞー」
「はーい」
石川はリンクへと降りていく。
「亜依ちゃん、シューズ借りてきて」
「はいー」
「あっ、今日は私がおごって上げるよ」
「いや、いいですよ。そんな」
今日はおごると言う飯田に、市井はためらいを見せる。
「お金ないからリンクに来れない、とか言われちゃうと寂しいからさ。長野まで見に来て
くれるお礼に、今日は私がおごっちゃう」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
加護が、飯田からお金を受け取り、フロントへと駆けて行った。
- 492 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時05分36秒
- 飯田はリンクサイドまで降りていく。
市井も、それについて行った。
「石川さんの調子はどうなんですか?」
二人は、ゆったりと一般客にまじってリンクを滑りアップをしている石川を眺めている。
「大分よくなってきたかな」
「トリプルアクセル跳ぼうとしてるって聞きましたけど、いけそうなんですか?」
飯田はほおづえをついている。
市井の質問にも、石川の姿を見つめながら答えた。
「たぶん、無理だと思う」
予想していたのと違う答えが返ってきて、市井は飯田の方を向いた。
- 493 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時06分26秒
- 「もしかしたらってことはあるかもしれないけど、多分無理」
「無理だと分かってても、やらせてるんですか?」
二人の目の前を石川が通り過ぎる。
市井の方に石川が手を振り、市井もそれに答えた。
「ジャンプって分かりやすいんですよ。なんか、テレビでもトリプルアクセルトリプル
アクセル言ってて、フィギュアスケートも石川も、アクセルだけじゃないのにな、なんて
思いますけど」
世界選手権を前に、石川について語られるのは二つ。
オリンピックへ出られなかった屈辱を晴らすことと、そのためにトリプルアクセルへ挑
んでいる、ということ。
短いスポットCMだから仕方ないとはいえ、飯田にとっては不満がのこる取り上げられ方
になっている。
- 494 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時07分42秒
- 「選手にとっても分かりやすいんですよねー。表現力がどう、とか言いだすと難しいけど、
ジャンプって跳べるか跳べないかだから、頑張るぞーって気になって。アクセルだけにのめり
こませると危ないけど、そうじゃなければ格好の目標になっていいんですよ」
飯田は、目を細めて石川を見つめていた。
「トリプルアクセル、世界選手権で見たいんですけどねえやっぱり。だめですか?」
「あいつのことだから、もしかしたら跳んじゃうかもしれないけど、でも、多分無理だろう
なあ。あきらめたわけじゃないですけど」
「だめですか?」
「最善を尽くします」
- 495 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時08分24秒
- 飯田は、市井の方を向き、左手を胸に当て右手を体にクロスさせて、中世貴族風に頭を下げる。
そのおどけたしぐさに市井は笑い出した。
「せんせーい。靴かりてきましたー」
「ありがとう」
両手に靴を抱えて加護が戻ってきた。
二人でそそくさと靴を履き替えリンクへと入っていく。
そんな光景を飯田はやさしく見守った。
二人の力を、石川に分けてください。
- 496 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時09分12秒
- 飯田の見つめる先では、市井と加護が手をつなぎ、プチアイスダンスを踊りながらリンク
を滑っていく。
その後ろから石川が近づき、二人の背中を軽く突き飛ばしてから、飯田の方へと戻ってきた。
よろめいた加護は、振り向いて石川の方に、何するんだよー、と叫んでいる。
「石川は遊んでる場合じゃないだろー」
「はーい」
「緊張感持て」
飯田は石川の顔を両手で押さえ、じっと見つめる。
「最初はコンビネーションジャンプからな」
「はい」
- 497 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月11日(水)23時11分15秒
- 新たな力を得て、石川の挑戦は続く。
結果は出ないかもしれない。
それでも、信じてチャレンジし続ける。
今シーズン最後の試合、世界選手権がまもなく始まる。
石川の、飯田の、輝けるステージへ、もう一度輝けるステージへ、という想い。
それプラス、新しい想いを手にした石川のフィギュアスケーターとしての、表現者として
の夢を賭ける日々。
実を結ぶかどうか、試される時がもう、目の前に迫っていた。
- 498 名前:名無しくん 投稿日:2003年06月14日(土)21時57分32秒
- 更新お疲れ様です!
石川は飛べるのか!すっごく気になります。大舞台で
どのような展開が訪れるのか・・・期待しつつ更新お待ちしております。
がんばってください!
- 499 名前:作者 投稿日:2003年06月23日(月)22時12分58秒
- >>498
どのような展開。
うーん、まだ秘密。
もうすぐ世界選手権です。
- 500 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時14分08秒
- りんねは一人上京した。
田中コーチの指示で。
世界選手権までの残りの時間はあまりない。
これまでに、海外への遠征も何度もあるりんねだったが、実は、一人で泊まりで出かけた
ことはなかった。
試合の遠征の時は田中コーチがいたし、大抵はあさみと一緒の遠征で、二人部屋に泊まる。
一泊二日の予定ではあったが、一人で飛行機に乗ることだけでもちょっとした冒険だった。
- 501 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時15分14秒
- 夕方近い時間に羽田空港に降り立ったりんねは、まず、モノレールの乗り場へたどり着く
までに一苦労。
空港内を右往左往した後、ようやく、ひたすら下へ下りて行けばいいことが分かり、地下へ。
たどり着いた地下の乗り場でも、モノレールと京浜急行の区別がなかなかつかずに、切符
を買うのに手間取った。
いつもなら、一緒にいるコーチなり誰かが要領よくやってしまうことが、一人だといちい
ち手間取る。
モノレールに乗り、着いた浜松町駅からの乗り換えも、東京の複雑な路線網に戸惑い、券
売機前に呆然とたちつくした。
宿にチェックインだけ済ませ、りんねはすぐに、信濃町にある明治神宮スケート場へと向かった。
明治神宮スケート場は、東京地区のフィギュアスケートの中心になっている。
一般客への開放時間が終了する六時にあわせて、りんねはここで待ち合わせをしていた。
- 502 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時16分09秒
- スケート場にりんねがたどり着いたのは五時過ぎ。
ホテルからの距離感がさっぱり分からず、慌てて出て来たところ一時間も早く着いてしま
った。
大学は春休み真っ盛り、中学高校でも期末テストは終わっている時期とあって、平日でも
一般客がそこそこいる。
りんねのいつも滑っている日高のリンクと比べると、人の密度が各段に高い。
そんな中で滑る気には、すぐにはなれなかった。
- 503 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時17分10秒
- 荷物を抱えたままリンク脇に座り、氷の上を眺める。
一般客に混じり、ノービスと呼ばれる最も年齢の低いカテゴリーに属する小学生達が練
習をしている。
技術はまだまだ、振りつけは子供、でも、転んでも怒られても、頑張って滑っている。
中には、うまく滑れない苛立ちで氷を刃で蹴り飛ばし、先生達に氷の穴埋めを命じられ
ている子もいたりした。
あれ、つらいんだよなあ。
幼い少女が氷の上に座りこんでいる姿を見て微笑む。
シューズのエッジで氷を蹴ると溝が出来る。
そのままにしておくとひっかかり転倒しやすくなって危険なので、そこに水を流し込み、
冷やして穴埋めをする。
周りが滑っているリンクの真ん中で、そんな作業をするのはやるせない。
りんねにも、結構そんな経験もあった。
- 504 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時18分14秒
- 六時が近づき、ここをホームリンクとするジュニアやシニアの選手達が入ってくる。
ベンチに座るりんねの姿を見て、挨拶をしにくる者もいた。
元々、りんねは年下の選手達からの人気は高い。
それが、オリンピックであれだけの活躍をした今、憧れから、崇拝に近い念をもってりん
ねを見つめる子達もいた。
顔見知りで、挨拶しにくる子にはにこやかに挨拶を返し、まったく知らない子で握手して
ください、と来る子にもやさしく握手をして上げる。
そんな風にしながら、りんねも着替えを済ませリンクサイドでアップをはじめた。
りんねは、遠巻きに見つめられ、落ちつかないままにストレッチをしている。
やがて、りんねの待ち人がようやくやってきた。
- 505 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時18分53秒
- 「おまたせ。絶対迷って遅刻すると思ったのに、よく時間どおりに来たね」
「どうもおひさしぶりです」
「オリンピック四位、おめでとう、でいいのかな?」
「ありがとうございます。先生の振りつけのおかげです」
待ち合わせの相手は、コレオグラファーの夏まゆみだった。
「で、すぐやるんだろ?」
「ええ、まあ。でも、いつも、こんな混んだ中でみんな滑ってるんですか?」
「うん。東京や名古屋だと大体こんなもんだよ」
へー、といった感じでリンクを改めて見つめた。
一般客の多くは帰りはじめ、ノービスの小学生達が上がってくるのと入れ替わりに、ジュ
ニアやシニアの選手達が氷に入っていく。
十二、三人がリンクの上で、お互いの距離感を計りながら滑っている。
「じゃあ、ちょっと滑ったら、すぐお願いします」
そう言って、リンクへと上がっていった。
- 506 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時19分47秒
- りんねがここへ来た目的。
それは、夏先生に演技の振りつけのチェックをしてもらうことだった。
オリンピックですでに詰めてある振りつけ、シーズン最後の世界選手権とはいえ、なにを
いまさら、とりんねは思わないでもない。
ここへ来たのは、完全に田中コーチの指示だった。
リンクを大周りで二周したあと、中に入り軽くステップを刻み、ダブルアクセルを二つ跳
んだ後、スクラッチスピンを一つ。
それだけしてから、リンクサイドに戻ってきた。
「じゃあ、先生お願いします」
「O.K」
六時からの貸しきり時間の最初に、りんねのフリー演技をやらせてもらうことになっていた。
他の選手達は一旦氷から上がる。
オリンピックで四位に入ったりんねの演技をまじかで、しかも無料で見られる絶好の機会。
帰りかけていた一般人や、ノービスの小学生達も集まってきた。
- 507 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時20分37秒
- 「りんね、O.K?」
「はい」
リンク中央でりんねが手を上げて答える。
ジャージとトレーナーという、ラフな練習着ながら、いくばくかの緊張感はそこに現れている。
フリーの演目、ラフマニノフのピアノコンツェルト二番。
曲がかかり、りんねの演技が始まった。
りんねの滑りを夏は腕組をしてじっと見ていた。
リンクの上での動きに合わせ首を左右に動かすくらいで、あとは静かにりんねを見つめている。
まわりの選手や一般客達は、ジャンプやステップなど、要所要所で拍手をしている。
隣同士で、すごい、とか、きれい、などとささやき合うものもいた。
- 508 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時21分40秒
- 演技自体は、可も無く不可も無くといったところ。
最初のコンビネーションジャンプの二つ目が二回転になったり、後半のトリプルフリップ
が一回転になったりしたが、振り付けをチェックしてもらう、という今日のテーマにはとく
に関係がない。
四分間の演技を終え、りんねがリンクサイドに戻ってくると大きな拍手が起こった。
「どうでした?」
「うーん、もうちょっと滑るんだろ? 待ってるから、感想はその後にゆっくり話すよ」
「はあ」
気の抜けた返事を返し、りんねはもう一度リンクへ戻った。
一時間ほど通常練習に近いメニューをこなし、リンクから上がったりんねは、夏の元へ
戻ってきた。
- 509 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月23日(月)22時23分37秒
- 「おつかれ」
「すいません、長い間お待たせしちゃって」
「いや、退屈しなかったし気にするな。それより、着替えて来いよ。食事おごってやるから」
「ホントですか?」
「おい! 滑る時より目が輝いてるぞ」
夏は、軽くりんねを叩くまねをした。
「じゃあ、着替えてきますね」
「あせらなくていいからな」
「はーい」
夏のような有名なコレオグラファーは、スケート関係者に知り合いが多い。
ここでも、各選手のコーチと懇談したり、振りをつけているジュニアの選手と話したりと、
退屈することはない。
りんねが着替えを終えて戻ってきても、すぐに出発できないくらいだった。
- 510 名前:作者 投稿日:2003年06月29日(日)22時22分32秒
- 移転しました。
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/snow/1056891266/
雪板への移転です。
新スレ立ての緊張で、ちょっとペースが落ちてましたが、またペースを戻す予定です。
これからもよろしくお願いします。
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