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青のカテゴリー4
- 1 名前:カネダ 投稿日:2002年10月21日(月)23時57分16秒
―――――――――青のカテゴリー――――――――――
前スレ http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sky/1031752598/
前々々スレと前々スレは空板の倉庫にあります。
- 2 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時04分18秒
- その告白は唐突に訪れた。
梨華の常識の範疇には当然無かった事だ。
団体戦が始まるまで残り一週間という、時期的にも考えられる話ではなかった。
梨華は漸く今になって、込み上げてくるモノを受諾した。
――――――厭だ。
膝に突っ伏していた顔を上げ、机の上に座らせていた熊のぬいぐるみを乱暴に掴む。
その空虚なガラスの瞳は、いつかの紺野の瞳を再現していた。
きっと今の自分は――いや、今までの自分はこんな瞳をしていたに違いない。
梨華はぬいぐるみの腕を掴んだまま、機械のように無機質に立ち上って電気を消し、
そのまま淡々と窓のカーテンを締め切って、僅かに差し込む月の光を遮った。
部屋の引き戸につっかえ棒を挟み、外部からの進入を断絶する。
孤独という名の閉鎖的空間が、今の梨華にはどうしても必要だった。
真っ暗闇の中、梨華は徐にベッドの前まで歩き、そこで立ち止まる。
そして一度大きく息を吸った後、頼りないベッドの足に勢いよく凭れ掛かった。
―――――ギシィ、ギシィ。
と、古いベッド全体が苦しそうに軋んだ。
――――まるで、脆弱な自分の心の悲鳴のようだ。
そう思って梨華は自嘲気味に口端を上げる。すると堰を切ったように涙が溢れ出した。
- 3 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時05分41秒
- 嗚咽が漏れないように、ぬいぐるみに顔を深く埋めて、歯を食いしばった。
こういう時だけ狭いこの部屋に居たいと思う自分が憎らしかった。
そして無力で無知な自分が殺してやりたいほど憎かった。
本当に理解し合っていたのなら、当の昔に気付いていた筈だ。
とどのつまり、自分は友達面をしていただけなんだ。
時間の流れを止めてくれと何度も神様に訴え続けた。
いや、そんなモノが存在していたらならば、こんな事態にはなる訳が無かった。
梨華は神に訴えるのを止め、悪魔を憎んだ。
この世の中に、そんな類のモノが存在するとしたら悪魔しかいない。
そんな無駄な足掻きをしている間にも、時間は平等に進んでいく。
梨華の暗涙は、止め処なく朝まで続いた。
―――――
小鳥の囀りが合図のように、梨華は腫れあがった顔を上げた。
今、自分にできる事はなんなのだろうか。――――勝つ事だ。
固い決意を胸に、梨華は腫れた容貌を隠そうともせず階段を下りる。
今日、団体戦の幕が開ける。
―――――――――――時は七日ほど遡る。
- 4 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時06分54秒
- 坂道を彩るケヤキの木の葉が、初夏の強い日差しの所為で瑪瑙色に透けている。
風が全く無く、坂を上る生徒達の、暑さに対する愚痴がはっきりと耳に届いた。
蝉の鳴き声が四方八方から聞こえてきて、いよいよ本格的に夏を感じさせる。
心持ち首を持ち上げて坂道の上の方を見ると、
重油のような鈍色の蜃気楼が、ゆらゆらと融けるように地を這っていた。
梨華が並木道を上りながら、訪れた夏の形態を
黒褐色に日焼けした健康的な肌で感じていると、
いつものように背中から吉澤に声を掛けられた。
「おはよ、今日も黒いね。」
「・・・それは元々よ。」
「いやいや、最近はもっと健康的だよ梨華ちゃん。」
へらへらした笑顔を浮かべて、吉澤は煽るように続ける。
「いいなあ、あたし日焼けできないからさぁ。すぐ赤くなっちゃうんだよね。」
「それはよかったですね。私もそんな悩み持ってみたいですよ。」
- 5 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時08分11秒
- 梨華が頬を膨らましてプイっと横を向いてそう言うと、
吉澤は、ははは、と楽しそうに笑いながら、ゴメンゴメン、と悪気が無さそうに謝る。
そんなテキト―な吉澤に対し、梨華は更に頬を膨らませる。
「もう、知らない!」
「ははは、梨華ちゃんはほんと馬鹿だなぁ。」
「・・・よく平気でそんな事言えるよね?よっすぃとのの位だよ、そんなこと言うの。」
「もしかして、気にしてる?」
「・・・ううん。もう慣れちゃった。」
梨華が開き直ってそう言うと、また吉澤は笑った。
「ははは、慣れちゃダメでしょ?ははは。」
吉澤との会話は何時もこんな感じだったが、梨華はどうしても吉澤を憎む事が出来なかった。
人を小馬鹿にするように扱うけれど、その本質は凄く勇ましい事を梨華は知っていたからだ。
吉澤は屋上での一件の時、臆することなく自分を助けに来てくれた。
今はへらへらと笑っているけれど、本当の吉澤は凄くカッコイイのだ。
梨華は他人が知らない吉澤の一面を知っている事に、一種の優越感を感じていた。
(ホントは真面目なくせに・・・・)
と、そんな事を思いながら吉澤の横顔を数秒見つめる。
すると、大事な事を思い出した。
- 6 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時09分37秒
- 「・・・そうだ、団体戦終わったらすぐ期末だよ?」
「・・・そう言えば、そんなのもあったね。」
吉澤は浮かべていた笑みを消して抑揚の無い声でそう言った。
最近極たまに見せるようになった、とても端整で冷たい吉澤の表情。
梨華はそれを見る度に、理由の無い不安に襲われる。
「よっすぃさ、最近なんかあったの?」
「え?」
「だってさ、たまに凄い冷たい顔するもん。」
「・・・・」
吉澤は口を噤み、突然、空を仰いだ。
吉澤の不可解な行動に、梨華は不安そうに首を傾げる。
「実はね、梨華ちゃん。・・・・あたし・・・」
「・・・どうしたの?」
空を仰ぎながら、吉澤は重い声色で言葉を紡ぐ。
梨華の鼓動は吉澤の口が動く度にその速度を増していく。
実はすごい暗い過去があるとか、色白を気にしているとか、
今現在誰かに恋をしているとか、・・・そんな事が梨華の脳裡をよぎる。
- 7 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時11分00秒
- 「・・・全く勉強してないんだ・・・」
「そ、それだけ?」
「うん、そんだけ。」
「なーんだ、心配して損しちゃった。よっすぃさあ、
私が毎日ジュースを奢るのがどれだけ屈辱か知らないでしょ?」
「てんで知らない。」
「ふふふ、もうすぐ教えてあげるから。」
梨華がニシシと悪戯に笑った所で、希美が後ろから二人の間に頭を突っ込んできた。
一センチも無い隙間に、団子頭の爆弾が炸裂する。
「ぶばりぼもぼはびょう」
希美がタコの口になって意味不明な言葉を発すると、梨華と吉澤は声を上げて笑う。
こんな毎日が、梨華にとっては宝物なのだ。
この坂を上るとき、いつも思う。この三人で毎日登下校できたらいいと・・
―――
- 8 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時13分53秒
- 正門の辺りで、三人は前を行く奴隷を発見した。
夏服をピリッと着こなして、傍から見れば美少女の優等生。
品良く顎を上げて、まるで自分中心に世界が回っているとでも思い込んでいるきらいがある。
奴隷松浦は、皺一つ無い『はんかちーふ』で首筋の
汗を丁寧に拭いながら、三メートルほど前方を上品に歩いていた。
「・・・・ったく、あいつはどうして高慢気取りたがるのかねぇ?」
「どれいというたちばがわかってないね。」
「ちょっと、それがあやちゃんの個性なんだからいいじゃない。」
キリッとした表情を保ちながら、威風堂々と観音開きの巨大な門扉をくぐる所で、
松浦は後方から響き渡る御主人様達の談笑する声を聞いた。
すると、松浦はスイッチが入ったように歩調を速めた。
その背中には、今までは滲んでいなかった汗がうっすら浮き出ている。
掴まったら、終わりだ。
しかし・・・・
「おい、アヤヤ!なにイイ子ぶってんだよ!」
- 9 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時16分30秒
- 吉澤の可愛くないその言葉を聞いて、松浦はピタリと歩を止める。
そしてその数秒後、松浦は躊躇なくクルリと綺麗に振り返ると、
硬い表情をしながら、ツカツカと吉澤の前までモデル歩きで歩み寄る。
松浦は馬鹿だが、他の馬鹿に比べれば、緊急事態の対処法を考える位の常識は持っていた。
ココは冷静に、他人の振りして近づくのだ。
松浦は顎を上げ、背伸びをし、吉澤のヘラヘラの顔に
自分の顔をあと一センチ、という所までグイっと近づけた。
松浦は人にモノを言う時、相手の顔に自分の顔を密接させるという癖がある。
「・・・吉澤さん。」
「あ?なんだよ?」
顔を近づけても微動だにしない吉澤が、ドコカの不躾なネーチャンのような口調でそう言うと、
松浦は辺りを気にしながら吉澤に何かゴニョゴニョ耳打ちを始めた。
「・・・私はですねぇ。一応、外聞を気にするほうなんですよ。
あと、アヤヤって言うのはですねぇ、コンコン専用の私に対する呼称なんですよ。
だからこういう公共の場ではですねぇ・・・・」
- 10 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時18分06秒
- そのくだりの所で吉澤は気味の悪い生物でも見るように松浦を軽蔑視した。
「ああ、もっと素直になれよアヤヤ。人間仮面被ると辛いぜぇ?」
「あ、あのですね。元々の私に吉澤さん達が奴隷という仮面を着けてると
思うんですけど、間違ってますかねえ?」
「うん。」
あっさりと即答された松浦は自分を失いかけた。しかし、すぐ立ち直る。
この連中とまともに相対しても無駄だ。
「まあ、いいですけど、じゃあ、お先に。」
「ククク。『お先に』ですか、待てよ。コレ持って。」
「あ、のののも持って!」
吉澤と希美は、ラケットバッグと鞄をさも当然といった表情で松浦の前にズンと差し出す。
すると松浦は、アホか?こいつら、といった表情をする。
まあ、このやりとりは毎日のお約束というか、恒例といったみたいなモノで。
厭ならばこの時間帯に登校しなければいいだけなのに、
それでもこの時間に来る松浦の意図は一体なんなのか、梨華には見当もつかなかった。
ただの馬鹿と言ってしまえばそれまでなんだが。
- 11 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時19分23秒
- 「あのぉ・・・病院紹介しましょうか?」
「・・・早く持て。」
「・・・もて。」
「・・・・・わかりましたよ。」
御主人様の命令というのは絶対であり、拒否という選択肢を選ぶと、『矯正』
が待っているという事を松浦はしっかりと了解している。
松浦は小学校の時分に誰もが一度は経験する、『鞄持ち』の要領で、
テキパキと鞄とラケットバッグを、体に無駄なく配分しだした。
美少女で優等生だった松浦は、まるで今から登山にでも行くかのような、
ズングリムックリの不恰好な身形に成り下がってしまった。
「あ、あの、机の上でいいんですよね?」
「あ、ああ。」
「う、うん。」
松浦は背中に『こなきじじい』でも背負っているかのように、
体重を前にかけて、重い足を引き摺りながら靴箱の方に消えてく。
- 12 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時21分02秒
- その松浦の不憫で健気な背中を暫し見つめた吉澤と希美は、
優しくて正しいお婆ちゃんに意味も無く反抗したような、そんな類の罪悪感を覚える。
ここまで素直に言う事を聞いてくれると、さすがに御主人様たちも
悪気という感情が湧いてきたのだ。しかし、今更引けるわけもなく・・
「しゃ、しゃーねーじゃん。ね?梨華ちゃん?」
「そ、そうだよ?ね?りかちゃん?」
二人は何故か梨華に言い訳をする。
すると梨華は肝っ玉タップリのかーちゃんのような口調で二人を叱った。
「あんた達ね、ホントいい加減にしとかないと、あやちゃん泣いちゃうよ?」
「で、でも先生があいつを奴隷にしてもいいって言ったんじゃん。」
「そ、そうだよ。それに責任は三人れんたいだよ。その中でもリーダーの
りかちゃんが一番責任重いよ。」
さすがの梨華も希美の意味不明な発言に甲高い声を上げて憤激した。
登校中の他の生徒達は、悪名高いテニス部員が殴り合いの喧嘩でも始めるのではないかと
恐れ、三人の直径三メートルの輪には入らないよう、懸念しながら門をくぐりだす。
「!!!!ゴラァ・・・辻ぃ・・・今なんつったぁ?」
「ひっ、・・・真っ黒のお化けがおこったぁぁぁ!!」
- 13 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時22分28秒
- 希美は失礼な捨て台詞を呂律の回らない口調で吐くと、
持ち前の鈍足を存分に使って校舎の中に消えていく。
梨華は逃げる希美の腕を掴もうとしたが、するりと逃げられてしまった。
そのドサクサに紛れて、ソロソロと梨華から逃げようと吉澤は企んだが、
バッチリ掴まってしまい、結局、希美の分の説教まで梨華に食らう羽目になってしまった。
「よっすぃ達はねえ!加減ってもんを知らないのよ!!!」
「ひぃぃぃ!ゴメンよ!梨華ちゃん。」
「こんな時だけ謝ってねえ!私は毎日ジュース奢ってんのよ!!・・・・」
「そ、それは関係ないじゃん・・」
「うるさい!だいたい・・・・・」
梨華は両手を腰に手を当てて、背の高い吉澤を縮こませる勢いで叱り散らす。
校内に規則正しく連なってる楡の木に止まっている蝉が、
梨華の説教の間、休むことなく鳴き続けていた。
―――――――――――――
- 14 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時23分20秒
- 昼休み、一組の三人はいつものように尽きない話題をペチャクチャ
話しながら弁当を食べていた。
このお弁当の時間も、梨華にとっては大切な一時だ。
中学時代、気を使わないで誰かと弁当を食べた事が無かった。
というか、誰かと一緒に弁当を食べるという事が滅多に無かった。
梨華がそんな事を考えながら箸を進めていると、
突然、希美の動きがおかずの卵焼きを齧った所で止まった。
「ん?どったの?のの?」
「喉に何か詰まったの?」
「・・・・・まずい。」
「ん?にゃにが?」
吉澤が口にモノをつめたまま下品に言うと、
希美はギロリと吉澤を睨みつける。
「卵焼きにきまってんじゃん!」
「うそ?メチャクチャうまそうじゃんそれ。」
「いや、コレはうこっけいの卵じゃない。・・・あれだけ言ったのに・・」
希美の御自宅は、とってもでっかかった、という事を吉澤は忘れていた。
- 15 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時24分11秒
- 「ははは、うこっけい?なんじゃそりゃ?」
「腹の虫がおさまんない。」
「いいじゃない。今日ぐらい鶏でも。」
「そうだよ。好き嫌いは良くないって、のの。」
二人から諭すようにそう言われても、希美の腹の虫は収まらなかったようだ。
「・・・・あやちゃんとこ行ってくる。」
「え?何すんの?」
「ちょっとストレスかいしょうに・・・・」
希美はそう言うと、イケナイ瞳をしながら教室を出て行った。
吉澤と梨華は思わず顔を見合わせる。
「ナンダカンダ言っても、一番性質が悪いのはののだな。」
「・・うん。イケナイ遊びを覚えちゃった子供みたいだもん。」
「ははは、上手いね梨華ちゃん。」
「もう、上手いとかそんな問題じゃないよ。・・・私もついでに
ジュース買ってくるね。」
「ああ、うん。」
- 16 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時26分04秒
- 梨華はいつものように吉澤の大好きな小岩井農場のイチゴ牛乳を買いに、
なるべく廊下の隅の方を歩いて向かう。
他の生徒に一々目を逸らされるのも、体を避けられるのも、
梨華にとっては不愉快でしかなかった。
それを極力避けるにはこうするに外はない。
階段を一段抜かしなんかして勢いよく下り、食堂前の自動販売機の前に
俯き加減に早足で向かった。
ササササ、と自分を避けていく気配を感じる。まるで、ゴキブリだ。
梨華は、買う順番を待たなくてもいい、という、特別切符を持っている。
その特権を容赦なく使い、さっさとジュースを買う。
しゃがんで自販機の口からジュースを取り出すと、忽然、背中に落ちていた日射が遮られた。
――――誰か後ろに立っている。
そう思って、梨華は恐る恐る、ゆっくりと首だけを後ろに回す。
背後には夏の強い日射を背中に浴びている所為で、
表情が濃い翳になって不鮮明な、決してココにいるはず無い人物―――。
―――吉澤が立っていた。
「・・・何してるの?よっすぃ。」
梨華は一瞬辟易したが、すぐに平静を取り戻して話し掛ける。
- 17 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時27分28秒
- 「いやね、ちょっと話があるんだよ。」
「何よ?改まって。いいけど、何?」
「ここじゃちょっと雰囲気が悪いな。図書室行かない?」
「・・・・いいけど。」
そう言って梨華は立ち上がった。
吉澤は視線をキョロキョロ動かし、辺りを気にしていた。
他人に聞かれてはいけない話なのだろうか。
梨華は少し乱れた制服の裾を正し、スカートをパンパンと軽く払うと、
改まって吉澤に話し掛ける。
「で、何なの?」
「いいから、いこ。」
そう言った後、吉澤は梨華の右手をギュっと力強く握った。
その、らしくない吉澤の行為に、梨華は少し不安を覚える。
その後、吉澤は梨華に話し掛ける事無く、
食堂の正反対の場所にある図書室に向かおうとする。
図書室に行くには、中庭を通り抜けるのが一番効率的だ。
吉澤は中庭の扉を躊躇なく開けると、梨華の手を握ったまま歩調を速めてずんずん進んだ。
- 18 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時28分45秒
- 梨華も吉澤に話し掛けることができなかった。
明らかにいつもの吉澤とは様子が違う。
表情は冷たく、握られた手の中は汗でびっしょりだった。
「ちょ、ちょっと、痛いよ・・・」
梨華が悄然とそう言うと、吉澤は我に帰ったように立ち止まった。
そこは丁度噴水の真ん前で、噴水からジョロジョロと勢いの無い水が沸いていた。
中庭の芝から特有の臭気を感じ取った梨華は、思い出したように握られていた手を解く。
蝉の声が、中庭を彩る桜の木から聞こえてきた。
春にココは桜を塗して絶景になる。それでも今はとても空虚だった。
「・・・ゴメン。それより、早く行こう。」
「・・・うん。」
それから二人はまた無言で歩き出した。
吉澤の歩調は相変わらず速く、梨華はその背中をずっと追い駆けて歩いた。
その時の吉澤の背中は、背反的な、とても両対極の印象を梨華に齎す―――
――どんな場面にも屈しない逞しさと、手を差し出せば霧散してしまうほどの脆さ。
梨華は強い吉澤を知っていたが、後者の吉澤の事を全く知らなかった。
- 19 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月22日(火)00時31分16秒
- 吉澤は反対側の中庭の扉を開けると、そのまま直進して渡り廊下に向かう。
梨華も急ぎ足で吉澤の後について行くが、心の中では逃げ出してしまいたかった。
どうしたっていい予感はしない。
いつもは幻想的で、映画の中に入ったような恍惚を覚えるのに、
この日の渡り廊下は光の贅沢さによって、無理やり綺麗になるよう
虚飾されてしまったような印象を梨華に与えた。
梨華はこの神秘的な風景に、自然に感情移入が出来なかった。
まるで、自分の知らない吉澤の本質を見てしまったかのように思えたからだ。
吉澤は図書室の扉の前で一度立ち止まったが、すぐに中に入った。
梨華はその後、続いて扉に手をかけたが、そこで動きを止めた。
この中に入ってしまえば、きっと自分は後悔するに違いない。
でも、今までの自分はずっとこういう現実から逃げてきた。
だからあの時、紺野を見捨ててしまったんだ。
(今は、違う。)
梨華は意を決して扉を開けた。
たとえ、どんなモノが待ち受けていても。・・・吉澤はアホだし。
- 20 名前:カネダ 投稿日:2002年10月22日(火)00時34分00秒
- 更新しました。
これからもこんな感じで進むと思いますが、どうか宜しくお願いします。
これからは一レスを目一杯使うように心がけます。
(今までそうしていれば、きっと四つもスレを立てなくて済みました。すいません。)
- 21 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月22日(火)01時11分59秒
- 新スレレス一着ヤッタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!
ヒサブリの石川編。
ブランクがあったにも関わらず、キャラも絡みも相変わらずで、やっぱりおもろいです。
あと2話、がんばってくださいね。
最後までついていきます。
- 22 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年10月22日(火)07時10分21秒
- 新スレ、おめでとうございます。
やっぱり、奴隷のあやゃは可愛いですね。
よっすぃ〜と梨華ちゃんも気になりますが、あやゃの奴隷っぷりに期待です。(w
これからも更新を楽しみに待っています。
- 23 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年10月22日(火)12時47分31秒
- とうとう告げるのか
高校までの12年間ってすごく大切な時期
せっかく出会えた素敵な仲間と永遠に過ごせれば、幸せな時がいつまでも続けばいいのに
というささやかな願いも大人の都合で露と消えてしまう
諦めきった表情を笑顔の下に隠してかけがいのない残された時間を吉澤は何と健気なことか
でも石川が何とかしてくれる
いや仲間が何とかしてくれるような、そんな気がする
新スレおめでとうございます
長文レスで失礼しました
カネダさんの文章にはいつも引き込まれます
吉澤みてると転校ばかりしていた中学時代のことを思い出しちゃうんですよね
彼女の切なさが伝わってくるんですよね
これからも頑張ってください
- 24 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年10月22日(火)13時12分19秒
- 新スレおめでとうございます。
あと2話ですか・・・寂しいなぁ・・・。
しかし、もう団体戦が始まるんですね。
石川は少しは成長したのだろうか・・・?
- 25 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月23日(水)20時57分20秒
- ∬:´◇`:)<つらいですね…泣いちゃった
新スレ、おめでとうございます
三連続で書き込みしちゃいました…ごめんなさい
- 26 名前:カネダ 投稿日:2002年10月24日(木)23時49分00秒
- レス有難う御座います。
こんな駄文を読んでくれて、本当に感謝です。
>>21名無し読者様。
一番レスおめでとう御座います。(w
本当に長いブランクがあったのですが、御蔭さまでどうにかなりそうです。
読者様が一人でも最後までついてきてくるのならば、死んでも完結させてみせます。
>>22ななしのよっすぃ〜様。
有難う御座います。性懲りも無く、また『空』に立ててしまいました。
当初松浦はここまで見事にやられるキャラにする予定ではなかったのですが、
ドコカで道を間違ってしまったようです。(w
>>23むぁまぁ様。
暖かいレス有難う御座います。本当に書いててよかったと深く思いました。
とうとう告げてしまいます。微妙にいしよしです。(全然関係ないのですが)
自分は一度も転校した事は無いのですが、転校していった友達は多々います。
その別れる辛さを上手く表現できれば良いなと思っています。
>>24読んでる人@ヤグヲタ様。
あと二話ですね。寂しいと言ってくれると、非常に心が痛いのです・・・
石川の成長具合はこの話の一つのポイントだと思っています。
石川は間違いなく天才ではなくて馬鹿です。その馬鹿をなんとかさせてみます。
>>25名無し読者様。
有難う御座います。新スレ立ててしまいました。
いえいえ、レスは何度貰っても嬉しいものです。本当に。
余談ですが、小川、もしかしたら出せるかもしれません。
- 27 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時50分44秒
- 思い切り力を込めて開いたのはよかったが、勢い余って扉はすぐに戻ってくる。
そして危うくそれに顔面をバタンとぶつけてしまう所だった。
(これじゃまるで一人コントじゃない。)
梨華は一度深呼吸をして、今度は慎重に扉に手をかける。
扉をゆっくり押すと、まだ新しい蝶番が小気味良くキィっと鳴った。
ソロソロと、まず片目だけを中の世界に託す。
――吉澤は天窓が落とす光の柱の中心に、腕を組んで悠然と佇んでいた。
梨華はそれを確認してからヒョイっと可愛らしく中に入り、
辺りの様子を気にしながら吉澤の眼前にゆっくりと歩み寄る。
カツン、カツン、と、一歩を進める毎に、ゴム底の上靴がまるで木靴のように音を立てた。
辺りには受付に座っているメガネの図書委員が一人と、三人特徴のない生徒が
離れた席に座って本を読んでいた。
梨華がそれを確認したのも束の間、その生徒達は、
図書室の真ん中辺りで二人が向かい合っているのを発見すると、
突然、意気投合したかのように四人ともサササっと図書室を出て行く。
この学校のテニス部員は残虐非道で、人を暴力で気絶させる程の鬼畜なのだ。
(私が何したっていうのよ?)
- 28 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時51分29秒
- これで、この空間には吉澤と二人だけになった。
幻想的な図書室に、たった二人。
そう思うと、梨華は妙な居心地の悪さを俄かに感じて、不意に視線を床に落とす。
そこに広がる白い大理石の床は、磨かれたばかりなのか、薄く濁った鏡のように、
ぼんやりとだが、はっきりと自分の姿を映し出していた。
そしてその後、ゆっくりと顔を上げて、吉澤の視線と合わない程度に視線を泳がせる。
贅沢に空白が目立つ図書室は、いるだけで悠長な気分にさせられた。
――目の前に立っている吉澤さえいなければ。
吉澤は光の柱の中心に立っていて、接着されたようにそこを動こうとしない。
その表情は光の加減の所為か、幾分柔和に見えたが、
それでもいつものへらへら顔ではなかった。
口をモゴモゴと動かすだけで開こうとしない吉澤に、
梨華はある種の覚悟を決めて、恐々と訊ねる。
「・・・いったいどうしたの?よっすぃらしくないよ・・・」
「実はさ、あたし転校するんだ。」
「へえ、そうなんだ。」
「そういうこと。」
「了解しました。」
「そんだけ。」
「なんだ、それだけなの?」
- 29 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時52分17秒
- 掛け合いは、あっという間に終わった。
二人はテンポよく、まるで定められた言葉の掛け合いをしているようだった。
そして吉澤はいつものへらへら笑いを取り戻す。
梨華は、なに笑っているんだろう、
と、その時考えたが、その直後とてつもない違和感を覚えた。
思考が一瞬ピタリと止まる。が、すぐ再起動する。
「えええと、待って、冗談だよね?」
と、目一杯広げた掌を吉澤に差し出して、微笑しながら訊ねる。
すると、吉澤も微笑しながら答えた。
「ううん。大マジ。」
「はぁ?いつ?」
「うーんとね、団体戦が終わったら。」
「・・・それじゃ期末の勝負が出来ないよ。」
「・・・・だね。」
何言ってんだ?と梨華は思った。
しかしまともに物事を考える冷静さは、その時の梨華には無かった。
だから口から出てくる言葉はとても日常的で代わり映えが無かった。
- 30 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時53分45秒
- 「じゃあ、勝ち逃げじゃない・・・」
「うん。ゴメンね。」
「・・・みんな知ってるの?」
「・・いや、先生と・・・・先生だけ。」
吉澤はウソをついた。
何故自分は矢口に先に告げた事を言うのを拒んだのか、理由がわからなかった。
その時、ほとんど無意識にそう言っていたのだ。
それだけ梨華を特別に思っていたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
だけど、こんな些細なウソをついた所でなんなのだ?
これで罰が当たって咎められるのなら、自分の人生はトコトン呪われている。
(許してくれるよね?『神様』。はい。オーケーオーケーオーケー牧場。)
吉澤は一瞬の間に自問自答を行う。
この時、吉澤自信は常に沈着冷静を保っているつもりだったが、正気ではなかった。
「・・・・なんで私に言うの?」
「だって梨華ちゃんとののは特別だよ。あたし達三人はさ。」
「特別だったら、なんで今まで黙ってたの?」
梨華はまるで自分の子供に優しく話し掛けるように、吉澤に問い詰める。
吉澤もしっかりと梨華の視線を受け止め、逸らす事無く答える。
- 31 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時54分50秒
- 「やっぱり練習に響くと思ったからさ・・・でもココまで来たら
やっぱり梨華ちゃんとののには話しとこうと思って。」
「ののは知ってるの?」
「今日中に言うつもり。まだ言ってない。」
「・・・・・何時決まったの?」
「一ヶ月くらい前かな?そん位。あたしも急だったから驚いた。」
「・・・それは、御両親の都合で?」
「ああ、ゴリョウシンの都合で。」
親の存在が出てくると、吉澤の口調は強くなった。
―――笑顔が消える。
冷静を保っていた筈なのに、親の話題が出るとどうしても線が一本キレてしまう。
吉澤は無意識の内に呼吸を整えはじめた。
――すう、はあ、すう、はあ。
すると梨華はそんな不可解な行動をはじめた吉澤に対し、
後退りをして、少し強張った表情をする。
梨華の異変に気付いた吉澤は、思い出したように、焦った口調で話し掛けた。
「あ、な、なんでもないよ。」
「・・・・うん。」
「・・・ははは、なんか息苦しいね。」
- 32 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時55分59秒
- 吉澤は梨華の前でこの忌々しい癖が出てしまった事を
激しく後悔した。こんな姿、見せるべきではないのに。
「・・・なんで、まだ三ヶ月しか経ってないのに・・・」
「あたしん家さ、父親が転勤がちなんだよね。仕事上の都合かなんかでね。
だから引越しを何度も繰り返してきたわけなんだよ今まで。
まあ、いつもの事と言っちゃえばそれだけなんだけどね。」
「そんなの私には考えられないな。引越しなんかしたら、また友達作り直さなくちゃ
いけないじゃない?そんなの辛いよ。」
「そうだね。辛い。」
「・・頼んで、引越しを取り止める事とか、無理・・・だよね?」
「無理だね。うちは、あたしが『ただいま』って言っても『おかえり』が
返ってこない家なんだ。『行ってきます』って言っても、『行ってらっしゃい』も
無い。そんな家庭に、引越しを止めて。なんて言っても無駄だよ。」
「・・・そうなんだ。」
二人の会話はドコカ抜けていた。
それは何か核心に触れるのを意図的に避けているようにも思えた。
いや、二人とも同じ感情の同じ回路に、同じように蓋をしていたのかもしれない。
とにかく、二人はその時繋がっていなかった。
- 33 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時57分04秒
- その後、梨華と吉澤は数回質疑応答を繰り返した。
何処に行くのだとか、住所は教えてだとか、やっぱり寂しいだとか・・・
梨華の淡々とした問いに対し、吉澤もサクサクと逡巡する事無く答える。
そうだねだとか、絶対教えるよだとか、あたしも寂しいだとか・・・・
どうして吉澤がココまで平然としているのか、梨華にはわからなかった。
吉澤にとって、自分はそこまで大きな存在ではないのだろうか。
それに、吉澤がいなくなるとわかっているのに、自分の心に一切の胸騒ぎが無いのを
とても不思議に思った。
(私はよっすぃのなんなんだろう・・・)
そう心の中で呟いた後、梨華はフウっと息を吐き、吉澤から視線を逸らて天井を仰ぎ見る。
不必要に天井が高い図書館は、声は勿論だが、些細な動作の音さえも拡張してよく響いた。
(風呂場みたい。)
と、そんなくだらない事を考えながら今度は視線を落とし、
大理石の床を宝石のように透かす日溜りを見る。
光の中の吉澤の周りには、露になった埃が、意思を持った粒子のように不規則に舞っていた。
梨華はその舞う埃をぼんやり見つめた後、再度吉澤に視線を合わせた。
その時吉澤は、とても不器用に頬を綻ばせていた。
「・・・ねえ、どうして笑うの?」
「だって、泣くような話じゃないじゃん。」
「笑うような話でもないよ。」
「言われてみれば、そうだね。」
- 34 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時58分06秒
- と言って吉澤は笑うのを止める。
その顔は空っぽだった。表情が無い。まるで矢口のようだった。
いや、矢口よりも虚しい。
何故なら、その大きな瞳すら意思を宿していなかったからだ。
と、突然、梨華は吉澤の手を力強く握った。
そうしなければ、この光の柱に吉澤が溶けてしまって、
ドコカ違う世界に行ってしまうような気がした。
その時梨華の踏み出した一歩が、カツーン、と図書室に大きく木霊した。
――吉澤は梨華の手を握り返さなかった。
「どうしたの?」
「いや、何となく。」
「変だね。梨華ちゃんは。」
「よっすぃにだけは言われたくないよ。」
「帰ろうか?教室に。」
「そう、だね。」
梨華は吉澤が光の柱から抜け出て、いつもの表情を取り戻したのを確認すると、
握っていた手をゆっくりと離した。
吉澤が先に出て、梨華がその後に続いた。
二人はそれからとても他愛の無い話をしながら教室に戻った。
―――――
- 35 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時58分55秒
- 突然の告白を梨華は全く驚愕せずに受け取った。
なんだ引っ越してしまうのか、と授業中に軽く落胆した程度で、
それ以上の思いは湧いてこなかった。
希美が聞いたらどんな反応をするのだろう、とも考えた。
やがて部活の時間がやってきた。
更衣室で、部員達は淡々といつものように着替える。
団体戦一週間前に伴い、漸くテニスウェアが配布された。
デザインだか素材だかが、最新だかナンダかで、体のラインを浮き彫りにするように
しっかりと密着して、まるで着ている感覚がしない、という優れものらしい。
――――如何せん、遅すぎる。
中澤の杜撰な注文の所為で、こんなギリギリまでテニスウェアが届かなかったのだ。
おまけにこのウェア、妙にイヤラシイ色をしていた。
光の加減によって淡いピンク色が浮き出て来て、まるでナニカのようだった
「うわあ、あやちゃん細いね!」
希美がテニスウェアに着替えた松浦を見て一言。
「辻さんが太いんじゃないですか?」
松浦が物珍しそうにウェアの裾を伸び縮みさせながらテキトーに一言。
- 36 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月24日(木)23時59分44秒
- 「・・・ちょっとこい。」
「あ、あの、冗談です。ジョーダ・・・」
「ジョーダンで済んだら、『お仕置き』はいらない。」
そう言って希美は松浦の後ろ襟を掴み、さっさと更衣室を出て行く。
梨華はそんな二人のやりとりをぼんやりと観察した後、紺野を探した。
いつもなら、テキパキと着替えて、今日はどうだったとか、
最近はなんだとか、楽しげに話し掛けてくるのに、今日は見当たらなかった。
「よっすぃ、紺野さん知らない?」
着替えながら梨華が吉澤に訊ねると、吉澤は、知らない、と答える。
「じゃあ、いこっか。遅刻しちゃうよ。」
「そうだね。」
二人は味気ないやりとりを終えると、一緒にテニスコートに向かった。
どういう訳か、梨華は吉澤がまるで赤の他人のように思えた。
テニスコートにも紺野はいなかった。
そして、中澤もいなかった。
梨華は肌に密接するテニスウェアの不思議な感覚を味わいながら、
コートの中央らへんで準備運動している安倍の元に向かった。
- 37 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月25日(金)00時00分51秒
- 「あの、先生と紺野さん、何処行ったかわかります?」
「うんとね、二人とも抽選会に行ったよ。団体戦の。」
「・・・そうなんですか。」
梨華は紺野がテニス部のマネージャーに抜擢されてた事をすっかり忘れていた。
―――抽選会。
もう、そんな時期まで来ているのだ。
吉澤の告白の所為で心のドコカが抜けていたけれど、
今はそんな事を考える余裕は無いじゃないか。
梨華は燦々と輝く太陽に真っ黒な顔面を向け、燃え滾る闘志を蘇らせた。
練習のメニューは相変わらずだったが、暑さはそれを維持してくれない。
ココ最近、部員達は舌を垂らし、滝のような汗を流しながら練習するのが常だった。
それでも梨華は全く変わらず、希美の体重も変わらず増え続けていた。
そして、矢口に少しだけ変化があった。
「石川、始めるよ。」
「あ、はい。」
自分から話し掛けることなど殆ど無かった矢口が、最近では梨華を誘ったり、
安倍を誘ったりするようになった。
この馬鹿でかい変化に気付かないほど、部員達は先の団体戦に向けて一心になっている。
- 38 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月25日(金)00時02分30秒
- 特に、吉澤が凄かった。
滴る汗を振り切るほどのハイペースで全てのメニューをこなし、
ハイペースで特別メニューをこなす。そんな吉澤が上達しない筈が無かった。
そして今日、梨華に一つの疑問が生まれた。
何故吉澤はすぐに引越しをしてしまうのに、ここまで懸命に練習をこなすのだろうか。
団体戦の後のシングルに出場する事は無いのに、どうしてなのだろう。
(何考えてるんだろう・・・)
この時の梨華は、吉澤の心の中などサッパリわかっていなかった。
梨華も毎日の安倍と矢口との打ち合いによって、天性の素質が開花しかけていた。
中澤はその事をかなり前から気付いていたのだが、梨華にはまだ知らせていない。
梨華には他人には無い、天性の『勘』が誕生しようとしていた。
相手がショットを打つ前から、それが何処に落ちるのかを把握する。
勿論、そんなものに法則が無いのは当たり前だが、梨華には何故か予知できた。
この『勘』が、この短期間で急激に冴えてきたのだ。
「行くよ。」
「バンバン打ってくださーい!」
返事を聞いた矢口が強烈なサーブを打つと、梨華は何とかそれを相手コートにインさせる。
そして、矢口が計ったようにストロークを打っても、梨華は根拠の無い第一歩を踏み出し、
何とか相手コートにインさせる。と、いった具合に毎日の打ち合いが行われる。
梨華は安倍の『とっておき』ですら、最近では何とか返球をする事が出来るようになった。
- 39 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月25日(金)00時04分44秒
- この、『何とか』が曲者だった。
自信のショットを返された時の焦燥のような喪失感は、相手の戦意を
無意識の内にズルリと剥ぎ取る。それを繰り返されれば、自ずとミスも目立ってくる。
梨華自身が気付かない、この決め手の無いテニスが、実は中澤にとって
最も興味深い事柄だった。コレを完成できれば、梨華は化け物になる―――
と、いってもそれはかなり先の話になるだろう。
今は矢口と安倍相手に一度か二度、返球できる程度だった。
この日は相方を失った松浦も、現時点での自分のテニスをほぼ完璧に手に入れていた。
松浦の課題は常に自分を客観視し、弱点を自分で研究する。その繰り返しだった。
そしてここに来て、漸くその研究に研究を重ねたテニスが完成しつつあった。
「あのぉ、そのぉ、安部さん。打ち合いやってくれますか?」
松浦が照れてどもりながらそう言うと、安倍は太陽のような笑顔で返事をする。
「うん。いいよ。」
梨華が矢口と打ち合いをしている間は、安倍は手首や肘の強化を丹念に行う。
そうして強化された右腕が、あの『生きる球』を生み出すのだ。
松浦は自分の実力を試したかった。
団体戦、残り一週間まで迫った今日、どこまで自分は強くなったのか。
初めて安倍と相対した時は、自分の過剰な自信だけが先行し、考える事をしなかった。
(私は馬鹿だったんですよ。安倍さん。)
松浦は安倍を敬いながら、自分のテニスをした。
――
- 40 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月25日(金)00時06分10秒
- それでもやっぱり安倍は強くて上手くて優しくて・・・
自分はまだまだなんだと再確認させられる。
だから松浦は笑った。
「やっぱり、安倍さんは強いですよぉ。私じゃお話になりません。」
「ははは、なーに言ってんの?なっちから一ゲーム取ったじゃない。
松浦はやっぱ私の言った通り、いい筋してるよ。」
「あ、安倍さん。団体戦までに私、もっと上手くなりますね。」
「ははは、頑張れ!松浦!」
「は、はい!」
と、こんな清々しい会話をしていても、松浦には現実が待ち受けている。
「おい、アヤヤ!そこに置いてあるペットボトル持ってこい!」
とおーい所から、吉澤の声が聞こえる。
「・・・・・うっせ。」
と、松浦は小さな声でささやかな反抗をするが、吉澤はスーパー地獄耳だった。
「ああああ!!!!?」
「な、なんでもないですよ!」
(何で聞こえるの?)
松浦は特大の溜息を一つ吐くと、トボトボと肩を落として現実を受け入れた。
- 41 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月25日(金)00時08分16秒
- 普段は馬鹿丸出しの希美も、日々、確実に進化している。
希美が最近妙なゲームを展開する事を、吉澤は口に出さずとも理解していた。
いつもの力押しの展開から、突然、コロッと意表を突くようなテニスをする。
希美も自分なりに精一杯の努力をしているのだ。
この暑さでもきちんと自分が決めた基礎体力作りを怠らない。
文句も言わず、黙々とダッシュを続ける希美を吉澤は尊敬さえしていた。
「ねえ、のの。どうしてそれだけ走ってんのに、太れんの?」
「・・・よっすぃ、鏡見たことある?」
「ほ?」
「よっすぃも、最近ずいぶん肥えたよ・・・」
「・・・ははは、うっそお!!!???」
「・・いいから、れんしゅうしようよ。」
「・・・・・」
このデブコンビは、今では松浦、紺野ペアにも引けを取らない
テニスを出来るようになっていた。体重などテニスに関係ないのだ。多分。
このたった七人のテニス部は淡々と着々と、日毎確実に進歩していた――――。
―――――――
- 42 名前:カネダ 投稿日:2002年10月25日(金)00時09分21秒
- あまり目立った展開はないのですが、更新しました。
- 43 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年10月25日(金)06時32分05秒
- カネダ さま
大量更新お疲れさまです。
スーパー地獄耳のよっすぃ〜と肩を落としてとぼとぼと現実を受け入れるあやゃに感動です。
ついに梨華ちゃんに伝えたよっすぃ〜ですが、悲しすぎることは現実として受け入れられずに何も感情が発生しないことがあるそうです。
よっすぃ〜と梨華ちゃんの関係もそれぐらい大切な関係なんでしょうね。
長レスすみません。
次の更新も楽しみに待っています。
- 44 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年10月25日(金)12時40分03秒
- 事が重大で衝撃的な程、受け止めきれなくて理解出来ないことがある
石川はこの時そんな状況だったんだろうな
こういうのって後からじわじわと効いて来るんですよね
- 45 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年10月25日(金)15時34分16秒
- ようやく石川に、例の天才と対等に試合が出来そうな兆しが見えてきましたね。
しかし、自分としてはやっぱり矢口の変化が気になりますね。
矢口もようやく何かを見つけかけてるんでしょうか?
- 46 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年10月25日(金)22時43分28秒
- かねだ さま
いつも更新お疲れさまです。
第九話を今回更新分まで保存しました。
http://
isweb45.infoseek.co.jp/novel/kuni0416/text/index.html
です。
ここの石川さんなみにしつこく喰らいついて保存して行きます。(w
これからも、よろしくお願いいたします。
- 47 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月26日(土)21時22分33秒
- ∬´▽`)<えっ!?まだ出してくれるんですか!!?ズワーイ!
有難うございます
石川さん、やっぱりすごいですね
辻さん、吉澤さんも!
松浦さん………フアィッ!
- 48 名前:カネダ 投稿日:2002年10月27日(日)18時11分36秒
- レス有難う御座います。
本当に励みなります。
>>43、46ななしのよっすぃ〜様。
長文有難う御座います。
松浦と吉澤の絡みは毎回、スベっているのじゃないかと不安なので、そう言ってくれると、
本当に嬉しいです。石川と吉澤、どうなるんだろうか・・・保存、お疲れ様です。
>>44むぁまぁ様。
そうですね、効いてくるんでしょうか、ボディブローのように・・・
これからの二人の微妙な心情の変化を上手く描けるか、非常に自信が無いのですが、
できるだけ期待に添えられるように頑張りたいと思います。
>>45読んでる人@ヤグヲタ様。
ホントに兆しだけですね。後藤の成長にはまだまだ足元にも及びません。この馬鹿は(w
矢口については九話の後半で何かしら、書きたいと思っています。
やっぱり、この話の中枢を担っているのは、矢口ですから。
>>47名無し読者様。
なんとか、詰め込んでみようと思います。(w
読者様の意見も自分としては出来る限りですが、取り入れたいと考えているので。
これからも読んでくれたら幸いです。
それでは続きです。
- 49 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時13分42秒
- 六時半過ぎ、中澤と紺野は県内の市民会館で行われた抽選会を無事終え、
中澤の車でその帰途についていた。
中澤は右手の人差し指と中指の間に細いタバコを挟んで、尚且つ器用に運転をしている。
時折咥えタバコにしてクルクルとハンドルを大きく回し、
助手席に座っている紺野の驚く反応を見る。それが中澤の些細な喜びらしい。
紺野はソレをされる度に祈るように俯き、そしてをその反応を見る度に中澤は笑っていた。
そんな中澤のラフな運転から気を紛らわすように、
紺野は助手席の窓を開け、一心に車外の風景を見ていた。
この時間でも太陽は依然として、その原形を留めている。
背の高いビル群の合間から、少しだけ色を赤くした大きな入道雲が覗いていた。
(綺麗な雲だなあ。しみじみ、夏だなあ・・・・運転恐いなあ・・)
と、紺野が一種の風流心に目覚めていると、運転をしている中澤から不意に頬を突付かれた。
「おい、ぼぉとしとらんで、分析とかしてくれてんのか?」
「・・・ああ、はい。」
と言って紺野は足元に置いていた手縫いの手提げ袋を、膝の上にちょこんと乗せる。
そして姿勢を正してその中から一枚のレポート用紙を取り出した。
手際よくレポート用紙を捲る紺野を見て、中澤は頬をツイっと上げるだけの笑みを浮かべる。
- 50 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時14分35秒
- 「さすがウチが見込んだだけの事はある。」
「いやあ、そんな事ないです・・・」
「で、どうや?」
「そうですね・・・・」
紺野は中澤に荒い運転をしないように釘をさしてから、レポート用紙に目を向ける。
それを了解した中澤はタバコを灰皿に押し付け、真面目な態度を繕った。
「私達の学校ははっきり言って、くじ運が良いとはお世辞にも言えません。」
「そんな事はよーく理解してるわ。」
「一回戦のS女子校は公立高校で、テニスもそれほど盛んではないです。
S高校なんて、近所ですから先生も知っていると思いますけど。」
「うん。で?勝てるやろ?」
「そうですね。負ける事はないと思います。なんせウチには実力者が
揃ってますからね。」
紺野は得意げにそう言ってから、仕切り直しをした。
「で、ココからがちょっと難関です。二回戦はR校とW大付属の勝った方と
当たるんですが、これは間違いなくW大付属が来ます。」
「やろうな。」
「私のデータでは凡そ七、三の確率で勝てると思いますが、
それでも三割という数字は大きいです。」
「あっこには三年の村田がおるな、確か。でも安倍と矢口の相手にはならんわ。」
「はい。それは間違いないです。・・・・それでここに勝ったら・・・・」
「K学か・・・・」
「間違いなく。」
- 51 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時15分16秒
- 二人は言葉を一瞬で失った。
K学園には去年のシングルで安倍を打ち破った飯田圭織と、波乱を呼び、
矢口を壊した死神市井紗耶香が控えている。それに、このK学は去年の全国大会の覇者だ。
―――常勝K学。
その触れ込みに嘘はない。揺ぎ無い優勝候補の筆頭だ。
「しかし、まさか同じブロックで当たるとはな・・・」
「・・そう、ですね。」
T女子高は第一シードのK学と同じ、Aブロックを勝ち上がらなければいけない。
それは運命と呼ぶには余りに残酷だ。
たった七人のテニス部と、去年全国を征した強豪がぶつかるのならば
勝敗は火を見るより明らかだ――――――常人の見解ならば。
「言っとくけど、ウチは負けるつもりは毛頭ないぞ。」
「・・・そう思いたいです。」
「いやいや、マジに。」
「・・・・。」
「まず、矢口と安倍はやってくれる。それにダブルス組みかって
あの辻にそれに松浦。お前も吉澤も素人じゃない。石川も、マグレがあるかもしれん。」
「そうですね。気持ちで負けちゃダメです。」
「あほか。勝つつもりって言ってるやろ。」
中澤の運転が心持ち荒くなる。
すると、紺野は中澤を宥めるように相槌を連打で打ちまくった。
- 52 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時15分56秒
- 「・・・・・わかればええんや。」
「・・・・私、死にたくないんです。・・・・今は。」
「まあ、ええわ。他になんか浮いた情報あるんか?」
「気になる事が、一つあるんです。」
「なんや?」
「先生、K学は一年生が四人も入ってますけど、これもやっぱり凄い人たち
なんですかね?半分以上、一年生ですよ。」
「あそこはな、完全に実力主義なんや。一年もオサーンも関係ない。
去年もそれくらいおったわ、一年。それに、お前ら五人やんけ。」
「そ、それはK学とうちの学校じゃ、規模が違いすぎますよ。調べたんですけど、
加護っていう子は、辻さんの元パートナーの人ですよね?」
紺野が恐々と訊ねると、中澤はキリっと目を細めた。
紺野はビクリと震えた後、掌を組んで俯く。
(神様神様神様)
「そうやけど、まさかレギュラー獲るとはな・・・で、お前はなんで俯いてんねん?」
「あ、あの、怒ってないんですか?」
「全然。」
「じゃあ、何で目ぇ細めたりするんですか・・・私てっきりまた・・・」
「それはまた味わいたいんか?ウチのドラテク。」
「ははは、な、わけないじゃないですか。本当に・・・」
「なんや?加護はシングルか?ってなわけないなぁ。だれや?ペア?」
- 53 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時16分49秒
- 中澤がそう言うと、紺野はレポート用紙をペラペラ捲り、三枚目で止めた。
その間に信号が赤になり、中澤は計ったように新しいタバコを咥え、
それから器用に火を点けた。
「ええと、高橋愛っていう子ですね。」
「・・・・知らんな。」
「それでもかなりの実力者かと。」
「そらそうやろ。」
「先生、藤本美貴さんっていう人も一年生でダブルスです。」
「へえ、藤本ねえ。お前らの学年で一番や。今んとこな。しかし、ダブルスか・・」
(何考えとんねん・・・あやっぺ)
紺野は出す人物に一々中澤が反応するのが嬉しかったのか、
徐々に饒舌になってくる。
「先生、先生、この後藤真希さんはどうなんですか?」
「あ?だれや?それ?」
「え?でもシングルで五番手ですよ?」
「・・・後藤?」
中澤は咥えタバコをして首を傾げる。そしてブツブツと何か一人で呟きだした。
紺野は中澤が思案しているようなので、一旦話し掛けるのを止め、徐に窓を開けた。
その時、辺りはもう、通学路である坂道に差し掛かろうとしていた。
夏の夕暮れ特有の世界が町を被い尽くし、その並木道には気だるそうに下校する
生徒が数人いた。暑さも収まり、ヤニ臭い車内とは相反して外の大気は
とても澄んだ心地よさを帯びていた。
- 54 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時18分05秒
- 紺野は開けた窓から顔半分だけ出し、外の空気を思いっきり吸ったあと、
ぼんやりとした口調で中澤に話し掛ける。
「凄い人なんでしょうね。K学の大将ですよ。一年生で。」
「一年?・・・マジでだれや、そいつ。」
(まさか・・・・天才とかいう奴か・・・)
「私に言われてもわかりませんよ・・・。」
「・・・ちょっと待てよ。戸田と木村でてへんのか?」
中澤がそう言うと、紺野は慣れた手つきでレポート用紙を捲る。
「無いですね。名前。」
「・・・ははは、面白くなってきたな!」
突然、ガハハハと豪快に笑い出した中澤に対し、紺野は訝しげに首を傾げる。
「あの・・・面白いですか?」
「紺野、勝てるぞ!なんかしらんが、敵さんは相当痛いアクシデントが
あったみたいや。」
「・・・はぁ。」
「で、K学は二回戦、ドコと当たんねん?」
「ちょっと待ってください・・・えーと、A女子高と、Y学館の勝った方と
当たりますね。私のデータではこの二校はK学の足元にも及ばないかと
思いますが、どうでしょう?」
紺野の問いかけに対し、中澤はニヤリと笑っただけで、返答をしなかった。
やがて車は正門をくぐり、テニスコート脇にある駐車場に差し掛かる。
そこで中澤は首をカクカクとメトロノームように左右に振りながら、
車も同じようにドカンドカンと左右に振った。
- 55 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時18分44秒
- 「キャアアアア!!」
と、紺野が悲鳴を上げたのと同時に車のタイヤも同じように悲鳴を上げる。
そして、車体が十センチほどフワリと浮かんでから、車は漸く静止した。
「どうや?無重力味わえたやろ?」
「・・・・・。」
中澤に優しく問われても、紺野は目を見開いたまま呆然としている。
中澤は軽く笑った後、ハンドルに両腕をついて寄り掛かり、紺野を横目で見ると、
改まって話し出した。
「紺野、Y学館にはな、一人、天才って呼ばれる奴がおる。」
「はぁ・・・はぁ・・・・え?」
「だから、天才がおるんや。ちょいとワケありやけどな・・・」
「て、天才?ですか。」
「ああ、矢口とは全く違うタイプやけど、間違いなくセンスはある。
K学、ひょっとしたらひょっとするぞ。」
中澤が重い口調でそう言うと、紺野は呼吸を整えてから
レポート用紙を捲りだした。
すると、その手を中澤が俄かに止める。
「そんなもんには絶対にのってへん。あれはわかる奴にしか
わからんのや。まあ、K学が消えてくれたら、願ったり叶ったりやしな。」
「そこまで強いんですか?Y学館。」
「まあ、見てのお楽しみや。」
- 56 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時19分34秒
- そう言った後、中澤は車を降り、うーん、といって大きく伸びをした。
紺野もさっさとこの暴走車から降りて、改めて外の空気を吸った。
「じゃあ、今からお前も練習や。」
「はい。頑張りますよ。」
「紺野、今、楽しいか?」
中澤に急によくわからない話題を振られて、紺野は少し逡巡する。
そして数秒後、口をお猪口にしたポケーっとした顔でポケーっと答えた。
「・・・はい。」
「ははは、そうか。ならええねん。」
突然笑い出した中澤に対し、紺野はまた首を傾げる。
「ほら、走れ!そんでさっさと残りの時間全力で練習しろ!」
「はい。それでは。」
「あ、待て、組み合わせはまだあいつらに言わんといてくれへんか?」
「どうしてですか?」
「ちょっと、調べたい事があるんや。」
「・・・・わかりました。」
紺野はペコリと中澤に頭を下げて、それから走って更衣室に向かった。
中澤は走る紺野の背中を見送ってから、ぼんやり空を見上げ、
そしてゆっくりとテニスコートに向かって歩き出した。
空がみるみる紺色になり、テニスコートにライトが点いた。
中澤はトーナメントの組み合わせをその日、公表しなかった。
―――――――――
- 57 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時20分28秒
- 坂道を半分ほど下りて、吉澤と別れてから、急に希美の態度が一変した。
梨華の制服の裾をクイっと摘み、梨華にその場で静止するよう無言で促す。
そして希美は、自分の声が聞こえなくなる位置まで松浦と紺野が
離れるのを確認してから、漸くその裾を摘んでいた指を離した。
「ねえ、梨華ちゃん・・・聞いた?」
神妙な面持ちでそう言った後、希美はゆっくりとした歩調で歩き出す。
梨華もその雰囲気から自ずと俯き加減になり、重い口調で答えた。
「うん。引っ越すらしいね。よっすぃ。」
「・・・・いやだね。」
「・・・そうだね。」
とぼとぼ歩きながら、しょんぼりした会話を紡ぐ。
「なんで私達に最初に言ったんだろうね?よっすぃだったら
でっかい声で、引越しまーす、とか叫びそうじゃない?」
「・・・うん。で、なんでみんなには喋ったらだめなんだろうね?」
「そう言えば、そんな事も言ってたね。」
「言ってた言ってた。」
吉澤は笑顔でこう言っていた。
――――みんなにはまだ言わないでくれないかな?
何か言ったら拙い事になるんだろうか。
梨華と希美はぼんやりとそんな事を考える。
- 58 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時21分46秒
- 「私達は特別だって言ってたね。」
「そのわりにはあっさり言われたよ。引っ越すんだって。
アホのくせに。」
そう言った後、希美の声が震え出した。
すると梨華は足を止めて、希美の顔を覗くように見る。
希美もそこに立ち止まった。その時、前を行く四人の背中は、
目を凝らさなければ見えないほど離れていた。
「どうしたの?のの。」
「・・・うっ、アホのくせに。いやだよ。いや!」
希美は首を横に振りながら叫んだ。
叫び声と同時に一台の車が二人のすぐ傍らを横切った。
辺りには人気が無くて、梨華はその声がずっと前を行く四人にも聞こえたのでは
ないかと杞憂した。
サワサワと、ケヤキの木の葉が不安そうに囁いた。
「のの?」
「りかちゃんは悲しくないの?いなくなっちゃうんだよ?よっすぃが?」
「それは、悲しいけど、でも全然本人が悲しそうにしてないじゃない?
だから、実感沸かないんだ。」
「ののは、今死ぬほど辛いよ。」
- 59 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時22分53秒
- それから梨華は俯いて希美に話し掛けなくなった。
希美も梨華に話し掛ける事をしなくなった。
二人で横に並び、またゆっくりと歩き出す。
希美はズルズルと鼻を啜っていて、時折零れる涙を手の甲で拭っていた。
梨華がハンカチを差し出しても、いらない、と希美は強い口調で断る。
すると梨華はそのハンカチをスカートのポケットにしまい、また俯き加減に
歩を進めた。その繰り返しが何度か行われる。
紺野と別れた松浦が下の方で梨華と希美を待っていた。
それを確認した梨華は、希美に優しい口調で話し掛ける。
「ほら、のの。泣いてたらあやちゃんにばれるよ。」
「・・・泣いてないもん。」
そう言って希美は毅然とした態度を取り繕う。
梨華はクスっと微笑した。
それから希美は見事に泣き止んだ。
「何してるんですか?二人とも。そんなゆっくり下りてきて・・・」
「ちょっとクラスの事について話してたの。ね?のの?」
「・・・・うん。」
「それで、あやちゃんは練習いい感じなの?」
「そうですねぇ、完璧です。」
「ふふ、あやちゃんらしいね。」
梨華が微笑みながらそう言うと、松浦は照れたように咳払いする。
- 60 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時23分51秒
- 「あ、あのですね、吉澤さんに言っておいてほしいことがあるんですよ?」
「ん?なに?」
「最近ちょっと酷くないですか?吉澤さん?やめてとは言いませんけど、
ちょっと緩和して欲しいですね。」
「・・・・うん。言っとくよ。」
「どうしてさっきからそんなに暗い顔してるんですか?二人とも?
辻さん全く喋ってないじゃないですか?お腹すいたんですか?」
松浦が密かに希美を元気付けようと、リスクを背負って食べ物の
話を出しても、希美は依然として悄然としている。
梨華も普段と違う希美の態度に対し、全く訝しそうにしていない。
それが気にくわない松浦はプクっと頬を膨らませた。
「なーんかいやな感じですね。内緒話ですか?止めてくださいよ。
私はそんなに信用できないですかね?ま、奴隷ですけど。」
松浦がしっかり奴隷という身分を自負している事は置いておいて、
梨華は作り笑顔で、松浦に優しく諭すような口調で話し掛けた。
「本当に何でもないよ。今日、ののも私もクラスで嫌な委員についちゃった
んだ。それだけだよ。」
「・・・・もう、いいです。」
松浦が漸く追求を諦めたのに、希美がとんでもない事を言ってしまう。
- 61 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時25分25秒
- 「あやちゃんさ、もしよっすぃがいなくなったらどうする?」
すると松浦は一瞬、アホか?こいつ?といった表情をしてから、
うーん、と言って悩みだした。
梨華は松浦に気付かれないよう声を出さず、口の動きだけで希美に注意をした。
それでも希美は全く態度を改めない。
「そうですね。清々しますね。やられっぱなしですから。」
「・・・本当に?」
「はい。ちょっとの間、ボランティアにでも参加して、人を労る事を覚えてきた方が
いいです。あの人は。」
「・・・そうだね。」
「で、一体全体なにそんな暗い顔してるんですか?二人とも。」
そう松浦に怪訝そうに問われても、二人はそのまま口を開かない。
すると松浦はまた頬を膨らませた。
「もう、いいですよ。どうせ私は除け者ですよ。社会のゴミですよ。
ドキュソですよ。嫌われ者ですよ。奴隷ですよ。・・・・」
自虐的な発言を連呼する松浦が哀れになってきたので、梨華は
そんな事ないよ、と優しい声を掛けた後、途端に態度を変えた。
「・・・そのうち、絶対言うから。今は、言えないんだ。」
「・・・わ、かりました。」
- 62 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時26分58秒
- 松浦もあまりの梨華の真摯な態度から、そう言うしかなかった。
それから松浦も陰鬱になり、三人は揃ってしょんぼりした様子で
坂を下った。
矢口に、手を振られた。
三人は精一杯の笑顔を作り、頭を下げる。
梨華はその時、ふと思った。
今の今まで、余りにも順調に前進していた。
矢口が手を振ってくれるようになった。
紺野がテニス部に入ってくれた。
希美が自分の道を見つけた。
矢口と安倍の打球を返せるようになった。
他にもたくさん成長した部分はあるが、後退だけはしなかった。
今、吉澤がいなくなろうとしている。
それは、大きな後退になるのだろうか。
「それじゃあ、私達も帰りますね。」
「・・・あ、うん。」
梨華は希美と松浦と別れ、一人で電車に乗る。カタンカタンと力無く車両が揺れる。
この時間帯、一車両には疎らに座る二、三人の乗客しかいないのが常だった。
無心のまま、ボーっと向かいの車窓に写る自分の顔を見る。
真っ黒く日焼けした、健康そのものの自分自身の顔。
中学の時分、テニスを真剣に取り組んでもいなかったのに、
引退をする時、何故涙を流せたんだろうか。ふとそんな事を思う。
―――――あれは、嘘の自分だ。
信頼できる友達もいなかったのに、周りの雰囲気に流されていただけだ。
- 63 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時28分16秒
- 特有の車内アナウンスが響き、梨華はゆっくり立ち上がった。
定期券を改札に通し、いつものように早足で家路を急いだ。
夜の九時を過ぎると、梨華の通学路は女子高生一人で歩く分には心許無くなる。
プラプラとイソイソと、線路沿いの夜の道を歩く。
吉澤との思い出を色々と考えたが、吉澤と一緒にいる事自体が当たり前すぎて、
なかなか特別な出来事が浮かんでこない。
あの事件の時、屋上に息を切らして駆け上がってきた吉澤。
あの時、吉澤はなんと言っていたっけ?忘れてしまった。
でも、とても精悍だった事は覚えている。それだけでいい。
梨華は吉澤の事を色々と考えた。色々と。
そういえば、吉澤との出会いは決して忘れていない。
テニスコートにいる安倍を柵越しに、腕を組みながら、仁王立ちで見ていた。
そして、ソフトボールが頭に直撃したのに、何事も無かったように平然としていたんだ。
その場面が鮮明に蘇った処で梨華はクスっと笑った。
その後、
「アホだなあ。」
と、独り言を漏らす。
そうこうしているうちに、ボロイ我が家の頼りない屋根が見えた。
毎日同じように練習をし、同じように家に帰る。
それだけで、とても満たされるのだ。
- 64 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時29分31秒
- 「ただいまぁ。」
「おかえり、梨華。毎日ホントに練習してるの?どっかで悪い遊びしてんじゃないの?」
疲れて帰った早々、母親に途端に詰められる。
梨華は靴を脱ぎながら溜息をつく。
「な、わけないでしょ。もうすぐ団体戦なんだから。」
「ふふふ、お風呂沸かしてるから。」
「いいよ。もうシャワーだけで。」
「そう?ならシャワー浴びてきなさい。」
梨華は適当に返事をしてから階段を駆け上がり、自分の部屋に向かう。
そして荷物を乱雑にドサドサとベッドの上に投げると、
またドタドタとシャワーを浴びる為、階段を駆け下りた。
「梨華、ちょっと来なさい。」
と、窮屈なリビングで寛いでいる、貫禄タップリの声色の父親に呼ばれた。
梨華は不貞腐れた態度をとって父親のもとに向かう。
「なに?お父さん?私、急いでるんだけど。」
「実はな、今日会社の同僚から聞いた話なんだが、最近、マンションが
安いらしいんだ。とっても買い時らしいんだ。」
「はあ?そんなの誰でも知ってる事なんじゃないの?」
「え?そうなのか?てっきり極秘情報かと思ってた・・・」
「・・・ばか。」
- 65 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年10月27日(日)18時30分38秒
- 梨華は呆れながら浴室に向かう為に立ち上がった。
そこで、ふと吉澤に言われた事を思いだした。
(あたしの家は、『ただいま』っていっても『おかえり』が返ってこない家なんだ」)
「・・・・・」
「どうした?梨華?」
「・・・え?あ、なんでもないよ。」
「家、いつか絶対に買ってやるからそう、怒るなよ・・・」
「・・そんなの、いらないよ。」
そう言って梨華は浴室に向かうが、その途中、一滴の涙が零れた。
「あ、あれ?」
それからポロポロポロポロ涙が小石のように落ちてくる。
梨華にはまったく理由がわからなかった。
心が痛いわけでもないし、体が痛いわけでもない。
でも、涙が零れるのだ。
梨華は母親や父親や姉に見つからないように急いで脱衣場に入り、
ドアをすぐ閉めた。
涙は止まなかった。
その時の梨華は何もわからなかった。何も。
――――――――――――――
- 66 名前:カネダ 投稿日:2002年10月27日(日)18時32分08秒
- 更新しました。
次の更新は私事のため、少し遅れると思います。ごめんなさい。
- 67 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年10月27日(日)20時18分58秒
- いつも、楽しみにしています。
更新お疲れさまです。
いて当たり前、なんでもない日常が無くなることってきついんですよね。
石川さんも効いてきたんですね。いつもそばにいた、親友が急にいなくなる現実に気づいて...。
自虐キャラのあやゃに笑っていたのですが、読み終えたらしんみりしてました。
続きも楽しみに待っています。
- 68 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年10月28日(月)08時11分06秒
- お疲れさまです
染みます
- 69 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年10月28日(月)13時58分23秒
- Y学館の天才って・・・レスの流れをみると、やっぱりあのコかな?
今回は、中澤にビビる紺野や自虐的な松浦など、笑える部分が多かったんですが、
最後の方は、なんかジーンときました。
- 70 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月28日(月)20時21分08秒
- 試合が近づくにつれてぞくぞくしてきますな(w
それにしてもY学館の天才…
これまでに登場してないメンバーを考えるとニ(ry
- 71 名前:名無し 投稿日:2002年10月28日(月)21時24分10秒
- おいらはソ(ry だと踏んでるんだが……
勝手な憶測、スンマソン
- 72 名前:カネダ 投稿日:2002年11月02日(土)00時41分32秒
- レス有難う御座います。
本当に頑張れます。
>>67ななしのよっすぃ〜様。
石川自身は気付いていないんですが、体は正直なようでした。(なんかイヤラシイですね(w)
少々、しんみりした空気が続くかもしれませんが、早いとこ
試合をさせるように努力したいと思います。
>>68むぁまぁ様。
染みてくれて有難う御座います。
これからも出来るだけ期待に応えられるように精進したいと思います。
早く試合させたい・・・
>>69読んでる人@ヤグヲタ様。
ジーンときてくれて有難う御座います。
天才という言葉、濫用しがちなんですが、この二人はどうしても戦わせたいと
書く前から考えていたのです。(恐らく思っている人だと思います(w)
>>70名無し読者様。
試合が近づいているのに、なかなか突入できない歯痒さがなんともいえず、もどかしいです(w
確かにニ(r は出してませんね。というか、忘れてたかも・・・・
メール欄のその人は、出す予定なんですが、Y学館ではないですね。
>>71名無し読者様。
ああ、ソ(r も出来れば出したいと思っています。
こんな駄文でよければ、憶測どんどんして下さい(w
読んでくれて、感謝です。
それでは、続きです。
- 73 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時43分33秒
- 吉澤が引越しを告白した次の日から五日、特に変わった事はまるで無かった。
強いて変わったといえば、吉澤がますます梨華にとって他人のように思えてきたぐらいで、
練習に対する意気込みやら、なにやらは普段と全く変わらなかった。
トーナメント表を公表されたのは大会二日前だったが、
部員達は誰一人として落胆も驚愕もしなかった。それだけ、自信と覚悟を
身に付けているのだ。誰もが妥協せず、ここまでやってきた。
部員達は一様に、今更尻込みしてどうする、と嘲るように組み合わせを笑ったほど
肝を据えていた。
団体戦開幕前日、中澤の計らいによって練習は中止になった。
丸一日を休養する事に努めさせる為であり、
その好意は無意識のうちに部員達の気持ちを鼓舞させた。
梨華がそれを聞かされたのは、紺野が昼休み、一人でポツポツと一組にやってきた時だった。
「皆さん、今日は練習、中止だって。」
と、三人が向かい合って昼食を食べている場所から少し後方で、紺野が一言。
「どうして?」
と、即座に振り向き、何故か強い口調で答えたのが吉澤だった。
梨華と希美はハトが豆鉄砲を食らったような顔をして、同時に箸を止める。
そして、威圧されたと感じた紺野は一瞬、逡巡する。
- 74 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時45分12秒
- 「え、と、先生が、今までの疲れをとるように、今日はさっさと帰って
寝ろ、みたいな事を言ってた・・・。」
「・・・そうなんだ。練習しなくてもいいのかな。」
「よっすぃは最近、張り切りすぎだよ。ちょっとは体休めた方がいいよ。」
「うん。私もずっと思ってた。」
希美と梨華に真剣にそう言われたので、吉澤は口を不機嫌そうに曲げながらも、渋々納得する。
「ま、ここまでやったんだから、負けても悔いは無いけどさ。」
「それにしても先生も気を使ってくれるんだね。なんかますます勝たなくちゃって、
思えてきたよ。」
「うん。明日私達、勝てるのかな?」
「あったりまえじゃん、こっちには安倍さんと矢口さんがいるんだよ。矢口さんが。」
希美が人差し指を立て、これ見よがしにそう言うと、吉澤と梨華も当たり前のように頷いた。
矢口と安倍の実戦を見るというのも、一年の部員にとってはとても
大きな事柄だった。あの二人の本気の実戦が、間近で見れる。
その二人の勇姿を妄想しだした希美と梨華を吉澤は確認すると、
後ろでボーっと話を聞いていた紺野を教室の後ろの黒板の辺りまでひっそり連れ出した。
- 75 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時46分40秒
- 「あ、あのどうしたの?吉澤さん?」
「あのさあ、紺野さん、あたし、まだ借り返してなかったよね?」
「あの、なんのことか、私・・・・」
「だからさあ、ほらあの時じゃん。」
と、吉澤は紺野の顔を覗くように見ながら強い口調で言った。
すると紺野は目を逸らして怯えるように俯く。
その反応を見た吉澤はハッとした。
試合が近いので無意識に気持ちが昂ぶってしまい、
どうしても口調やら動作が強くなってしまう。
(恐がらせて、どうすんだよ)
吉澤は思い出したようにヘラヘラ笑いを浮かべて、今度は優しい口調で紺野に話し掛けた。
「なーに、ショゲてんの?ほらぁ、あん時だよ。紺野さんがあたしより先に、
先輩の三人ブッ飛ばしたでしょ?そん時の借り。」
「あ、あれは自分でやった事だから。」
「はは、あたしはわかってるって。見たでしょ?メチャクチャ鋭い眼光であたしの目。
あれであたし、頭真っ白になっちゃってさ、気付いたら紺野さんがやってたんだよ。」
「・・・・・・・」
「紺野さんはあたしがヤっちゃったらテニス部が危なくなる事、わかってたんだよね。」
「・・・・・・・うん。」
「やっぱり。・・・絶対返すから。」
- 76 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時48分20秒
- 吉澤はそうキリっとした表情で言った後、自分の席にさり気なく戻る。
吉澤が去った後、紺野は胸を一撫でしながら息を大きく吐き、そして吉澤に続いて
先ほどいた位置にゆっくり戻った。
(吉澤さん、たまに鋭いんだよなぁ。)
「それでは皆さん、私は五組に戻るから。」
「うん、あやちゃんに宜しくね。」
「じゃあね。また帰りに。」
「同じく帰りに。」
紺野が帰って、またいつもの三人のペースに戻った。
しかし、この日はちょっとだけ、会話の内容に重量があった。
「K学のレギュラーにあいぼんがいるんだ。
しかも二番手だから、勝ち上がったら当たる。」
「でも昔の相方なんでしょ?関係ないじゃん。」
「ねえ、ののと、その子、どっちの方が強かったの?」
と、梨華が弁当のおかずを摘みながらぼんやりと質問すると、何故か希美は口を噤む。
吉澤と梨華は希美に視線を向けながら、怪訝そうに首を傾げる。
そして希美は何か呟きながら両掌の指を一本ずつ、確認するように折り出した。
- 77 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時49分31秒
- 「・・・・えーとね、ののの、五十勝、四十九敗かな。」
「・・・マジで?サバ読んでない?」
「・・・うん。」
「怪しいなあ。」
「怪しい。」
「・・・・・と、に、か、く!ののはあいぼんには負けない!絶対負けない!」
と、希美は拳を握り締め、立ち上がって言った。その瞳には炎が宿っている。
吉澤はその闘志漲る希美を見上げるように見た後、ブツブツと何か呟きだした。
「あたしはののの足引っ張らないかな?だって三ヶ月だよ?たったのさ。
いくら練習しても、やっぱり時間には勝てないよ。」
「いや、よっすぃはさ、ののの最高の相方だよ。だから、最後までつきあってもらうよ。」
「ははは、当たり前だよ。」
「でも・・・」
希美は喋っている途中で席に座り、そして頬杖をついた姿勢にしてから
改まって話し出した。
梨華も吉澤も希美の声に耳を傾ける。
「あいぼんはきっと昔より強くなってるよ。悔しいけど、あいぼんは
ののなんかよりもずっとセンスがあるから。」
「でも、それはののだって同じじゃんか。ののも上手くなってるよ。」
「あいぼんは勝つ為のテニスを学ぶためにK学にいって、それでレギュラーを
獲ったんだ。もしかしたら、スタイルも昔と変わってるかもしれない。」
- 78 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時51分44秒
- 希美の思考が徐々にマイナスになっていく。
すると梨華は空気を変えるように希美を優しく激励した。
「ねえ、私さ、ののと最初会った時、ののがこんなにテニスが上手いなんて
思ってなかったんだ。でも、私が想像できないくらいののは凄かったの。
それでののがテニス部に誘ってくれたからみんなと出会えたわけじゃない?
だからっていうのもおかしいけどさ、ののには自信もって欲しいんだ。
私の人生を大きく変えたんだから。ののは。」
「りかちゃん・・・」
「梨華ちゃん、いい事言ったね。顔に似合わず。」
せっかくのいい雰囲気を吉澤がブチ壊す。
「なによ!よっすぃのいい所も言おうと思ってたけど、もう言わないよ!」
「ええええ、言ってくれよぉ梨華ちゃああん。」
嘲弄するように吉澤はヘラヘラ顔を梨華に近づける。
すると梨華はギロっと吉澤を睨みつけた。
「絶対、言わない。言ってやらないんだから!」
「ははは、梨華ちゃんは変わんないよね。」
と、吉澤が屈託無く笑った処でチャイムが鳴った。
- 79 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時53分33秒
- 三人は愚痴をチラチラ零しながらダラダラとそれぞれの席につき、午後の授業に備えた。
梨華は窓際の自分の席に座った後、徐に両掌を組み、その甲の上に顎をフワリと乗せる。
そして、窓外に見える楡の木に視線を向けながら、ぼんやりと懐古した。
ココ一週間、どういうわけか、やたらと昔を顧みる事が増えた。
希美に出会えたから、吉澤と出会えて、二人がいたからテニスを続ける事が出来て、
そしてみんながいたから心の底から何度も笑う事が出来た。
この三ヶ月は、自分の人生のどの場面よりも掛け替えが無い。
もしかして、自分の人生の中で一番充実している瞬間かもしれない。
期末に向け、勉強も部活と並行して取り組んでいたが、吉澤がいなくなって
しまうのでテスト勝負が出来なくなってしまった。だから、やる気も萎えた。
梨華はぼんやりとしょんぼりと、五時間目の現代文の授業の時間全て、
窓外を綺麗に彩る、一列に連なっている楡の木を見ていた。
激しい日射で作られた楡の葉の色濃い翳が、味気ない地面を幻想的な斑模様に装飾する。
たくさんの蝉の声が、永遠の存在を立証するように、止む事無く延々と響いていた。
――――――
- 80 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時54分47秒
- 放課後、梨華は当たり前のように部活に向かおうとするが、
一階に下りた所で練習が中止だという事を思い出す。
「そう言えば、今日中止だったね。」
「あ、そうだった。」
「あぶねえ、あぶねえ」
どうも希美と吉澤も忘れていたらしく、同じような反応をした。
まだ日が落ちていないのに帰途につくのはどうにも心地が悪く、
三人は誰が言うとでもなく、気付けばテニスコートに向かっていた。
向かったのはいいとして、テニスコートには人っ子一人いなかった。
当たり前なのだが、なぜか寂寥感が湧いてくる。
すると吉澤が突然、
「負けねえぞおおおお!!!!!!」
と、叫んだ。
それを間近で聞いた梨華と希美は、テロでも起こったのか、といった風に瞠目する。
吉澤はその後一息吐いてから、コートを囲む金網に顔を勢いよく押し付けた。
そしてそのまま、中のテニスコートを凝視する。
何かを思い出すように、何かを忘れないように、吉澤はジッとコートを見据え続ける。
その固い決意の表情は、希美と梨華からは窺い知る事が出来なかった。
- 81 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時56分21秒
- 希美と梨華は不可解な吉澤を軽く笑った後、コートを外界から疎外するように
立ち並んでいるポプラの木の内の、一本の背の高いポプラの木陰に二人肩を並べて入った。
木陰に入ると、滲んでいた汗がひんやりとした冷風によって乾かされる。
希美はポプラの木に背凭れると、首に筋ができる位、顔をピンと垂直に上げた。
それが気になった梨華も、同じように顔を上げる。
「夏っていう季節はいつも楽しい事と辛い事を運んでくるんだ。」
希美はその姿勢のまま、思い出すように、意思の篭った声色でそう言った。
風が吹き、木が揺れると、菱形の葉の隙間から三条ほどの光の筋が二人の顔の上に落ちた。
梨華は日射を気持ちよさそうに、目を細めて感じた後、ゆっくりと口を開いた。
「へえ、どういう意味なの?」
「勝ったり負けたり、負けたり勝ったり、その二つがいっつも隣合わせでいる。
勝つのは嬉しいけど、いつかは絶対に負けちゃうからね。」
「私達はずっと勝ちたいね。」
「うん。・・・ののはね、矢口さんとテニスが出来るってだけでもう嬉しいけど、
よっすぃがいなくなる事は同じくらい寂しいんだ。」
と、希美は吉澤に聞こえないように声を小さくして言った。
梨華も深く頷く。
- 82 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時58分04秒
- 「楽しい事ばっかり続くわけじゃないもんね。」
「ののは、よっすぃの為に、テニスをするよ。それが、今出来るのののテニスだと思う。」
「誰かの為に何かをするとね、いつも以上の力が発揮出来るって、誰か言ってた。
だから、きっとののはいい結果出せると思うよ。」
「りかちゃんは、今どんな事考えてるの?」
「うーん、何にも考えてないな。でも、私もよっすぃの為に頑張ると思う。」
「そうだよ。全国までいって、その決勝までよっすぃを連れて行くんだ。」
「私もそう思って、明日は絶対勝ってやる。」
と、考えずに梨華は言った。
その時、吉澤がトコトコとやってきた。
「ねえ、もう松浦と紺野さん、正門で待ってるよ。」
と、吉澤は親指を立てた拳を正門の方角に向ける。
「あ、ホントだ。じゃ、帰ろっか。」
「うん。」
三人はそれからとりとめの無い話を交わしながら正門に向かう。
が、その途中で梨華は教科書を机の中に忘れていた事を思い出した。
梨華は俄かに歩を止める。
- 83 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)00時59分11秒
- 「どうしたの?りかちゃん?」
と、希美に怪訝そうに言われる。
吉澤も同じく怪訝そうに頷いている。
「私、忘れ物しちゃった、ちょっと先に返っててくれない?すぐ追いつくから。」
「ったくドジだなあ。明日は頼むよ。」
「りかちゃんは馬鹿なんだから、しっかりしてよ。」
と、希美に根拠の無い事を言われても、梨華はきまりが悪そうに相槌を打つしかない。
「じゃ、先に行っててね。」
と言って梨華は踵をクルリと返し、校舎に向かって駆け出した。
走り出すと、梨華は考える事をやめて、五感だけを世界に委ねていた。
温い風が頬を撫で付ける。熱を帯びたコンクリートの地面がゆらゆらと揺れる。
心地よい蝉の鳴き声が響き渡る。靴箱のすぐ横にある、小さい花壇を埋め尽くしている向日葵。
そこから醸されるイヤじゃない土の匂いが鼻を擽る。様々な物が世界に色を添えている。
- 84 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)01時00分47秒
- 梨華は校舎の中に入っても、走るのをやめなかった。
校内に残っている生徒の合間を縫うように、スルスルと廊下を駆け抜け、階段を駆け上がる。
そして一組の教室に勢いよく入ったと思ったら、教科書を鞄に詰め込みすぐに踵を返す。
(あ、本も返しとこうかな)
と、教室を出た刹那、思い立った梨華は一瞬躊躇しながらも、
方向を変え図書室に向かおうとする。
でも理由はそれだけじゃなかった。梨華には一つ、確かめておきたい事があったのだ。
寄り道をしても、走れば吉澤達に追いつける筈だ、と、梨華は踏んだ。
階段をトタトタと駆け降り、そのまま外に繋がる一本道の廊下を駆け抜ける。
校舎の外に出ると、光沢のある石で出来た渡り廊下が図書室まで続いている。
渡り廊下は、天気のいい日には光の橋のようになる。
それはとても神秘的で、まるで映画の中の世界のようだった。
梨華は渡り廊下に差し掛かると駆けるのを止め、
ソコだけは味わうようにゆっくりと歩くことにした。
カコッ
と、足を一歩外に出した所で、聞き慣れた音がドコカから聞こえた。
毎日聞いている気持ちのいい音。これは完璧に捉えなければ出ない音。
梨華はキョロキョロとその音源を捜す。それが誰のモノかは、既にわかっていたのだけれど。
- 85 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)01時02分29秒
- 「矢口さん、残ってたんですか?」
梨華は躊躇無く、体育館裏の外壁で壁打ちをしていた矢口に話し掛ける。
不思議とこの時、矢口がとても身近な存在に思えた。
きっと今日はココで練習をしているんだろうな、と、梨華は漠然とだがわかっていたのだ。
その予感が当たったからかどうかは定かではないが、
梨華は矢口の心の中を少しだけ、ほんの少しだけだが理解したような気がした。
矢口は梨華を確認すると壁打ちを止め、ボールを手に収めると、
抑揚の無い声色で梨華に話し掛けた。
矢口が着ていた体操着は汗でビショビショで、息も上がっていたけれど、
それでも矢口は口調も態度も淡々としていた。
「・・石川。今日は練習無いよ。」
「わかってます。でも矢口さんはココにいるだろなぁって思ってました。」
「・・・・・・」
矢口は何も言わず、また壁打ちをはじめようとする。しかし、それを梨華が遮った。
こんな事、少し前、いや、一日前でもあり得なかった。
でもこの日は、何故だか矢口が遠くに感じなかった。
- 86 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)01時03分43秒
- 「矢口さん、よかったら少し、話しませんか?」
「・・・・何を?」
「さあ、何にも考えてなかったです。」
と、キョトンとした顔で言った後、梨華は笑い出した。
矢口は梨華が楽しそうに笑っているのを見ても、何も感じなかった。
「ね、矢口さん、少しだけお願いします。なんか、今、一杯お話ししたいんです。」
「・・・いいよ。」
矢口はそう言うと、壁打ちをしていた体育館の外壁に凭れかかって座った。
梨華は、有難う御座います、と丁寧に頭を下げてから、
矢口のすぐ隣にチョコン、と、姿勢のいい体育座りを作った。
体育館が落とす大きな影が二人を被い尽くし、辺りにはシンとした静謐な空気が流れた。
「矢口さん、私、最近何にもわかんなくなっちゃったんです。
わけあって言えないんですが、どうしちゃんたんだろうなあ、私。」
「・・・そんな事、私にわかるわけないだろ。」
「矢口さんは、何をしている時が一番楽しいですか?」
- 87 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)01時04分58秒
- そう横目で矢口を見ながら言った直後、二人の背中に引っ付いている体育館が湧いた。
中ではバスケ部の練習試合が行われており、
幾分かの間隔で体育館は地鳴りのようにワァ、と、どよめいた。
それが止んでから、矢口は口を開いた。
「別に、楽しい事なんて考えた事も無い。」
「私は、テニス部のみんなといる時が一番楽しいです。もちろん矢口さんもですよ。」
「・・・・。」
そんな事を、いつかも言われた、と矢口は思った。―――吉澤だ。
「最初、会った時の事、覚えてますか?」
「・・・ああ。」
「私、あの時矢口さんに出会ってなかったら、私はきっとテニスをしてませんでした。
今考えると、それも運命だったような気がします。」
「運命?」
その時、体育館がまたどよめき、揺れた。
- 88 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)01時06分30秒
- 「はい。私の人生が、変わった瞬間です。」
「・・・・。」
「ずっと冴えなかった私の人生。矢口さんやみんなに出会って変わりました。
矢口さんにはいつも助けてもらって、私、本当に感謝してるんです。」
「別に、私は助けた覚えは無いよ。」
「でも、矢口さんは紺野さんも救ってるんですよ。いや、ののも・・みんなもです。」
「私がお前らに何かしたか?少なくとも、私はした覚えは無いよ。」
「違うんですよ。そんなんじゃないんです。矢口さん自身がそう思って無くても、
矢口さんはみんなに勇気や希望を与えてくれるんです。私、矢口さんが
優しい事もいい人だって事も、全部知ってるんですから!」
と梨華は天を仰いで言った。
その時矢口は遠い場所を儚い目で見つめていた。
その瞳の中には、何も写っていない。梨華はそれも知っていた。
高い所をみるわけでもなく、何かを侮蔑するわけでもなく、何かに憧れるわけでもなく、・・
そして、現実を見るわけでもない。何も、見ていない事を―――――。
「石川、お前が私の何を知ってるんだよ?」
「全部です。」
即答。
- 89 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月02日(土)01時08分41秒
- 「・・・・・。」
「矢口さんも絶対いつか人生が楽しいと思える瞬間に出会えますよ。
こんな私だって、人生が楽しいと思えるようになったんですから。」
「・・・・楽しいって、なんだよ。」
そう矢口が呟いた際に、また体育館がどよめいた。
その所為で、梨華は矢口が何を言ったのか、聞き取る事が出来なかった。
徐々に体育館の翳の面積が広がり、それは少しだけ梨華を焦燥させた。
「じゃあ、私、そろそろ行きます。みんな待ってると思うから。
矢口さん、私、絶対明日勝ちますね。それで勝ち上がって、
少しでも皆で一緒にテニス続けましょう。」
「・・・・・」
梨華は立ち上がると、馬鹿丁寧にまた頭を深く下げる。
「それでは今日は有難う御座いました。」
と、言って梨華は走り出した。
梨華は一度も振り返る事無く、体育館の角を颯爽と曲がる。
矢口は梨華の背中を見えなくなるまで見つめていた。
その背中さえ、見失わなければ、『楽しい』モノに出会えるかもしれない、
と、ほんの一瞬だけ矢口は思った。そしてその後、何も無かったように壁打ちを再開した。
―――――
- 90 名前:カネダ 投稿日:2002年11月02日(土)01時10分27秒
- 更新しました。
次の更新あたりで、試合させたいと思います。
- 91 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月02日(土)16時59分50秒
- 次はとうとう試合ですか・・・。
実力未知数の石川が、フツーの高校生相手にどういうテニスをするのか楽しみ。
つーか、主人公である石川のテニスをする姿を初めて見れるんですね(w
- 92 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年11月02日(土)17時37分24秒
- 更新お疲れさまです。
毎日、楽しみに待っていました。
石川さんの姿を見送る矢口さんが切ないです。
矢口さんも他のメンバーのようにテニスを楽しめるといいですね。
転向していくよっすぃ〜が、一日でも長く、一試合でも長く、一緒にテニスができることを祈っています。
では、次の更新も楽しみに待っています。
- 93 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年11月05日(火)12時35分46秒
- 石川と辻の言葉にぐっと来ました
いよいよ試合かぁ 楽しみだな
- 94 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月05日(火)20時32分59秒
- ∬∬´▽`)<ドキドキ…
- 95 名前:カネダ 投稿日:2002年11月06日(水)02時48分14秒
- レス有難う御座います。
本当に励みになります。
>>91読んでる人ヤグヲタ様。
そうですね、石川は初試合です(w
実はこれは意図的にやってきたことなんですが、如何せん、遅すぎますね(w
そして謝ります。今回の更新では試合させれませんでした。(つくづくアホです)
>>92ななしのよっすぃ〜様。
ホントにそうなればいいんですが、何分、アホ作者なのでどうなってしまうんだろう・・
楽しみしていただいているのに、更新ペースが落ち気味ですいません。
出来る限り、早い更新を心がけようと努力してるんですが・・
>>93むぁまぁ様。
実は辻のキャラには少し心入れがあります。
そう言ってくれるとホントに嬉しいです。
そして、試合できなくてゴメンなさい。(アホです)
>>94名無し読者様。
あなたはいつぞやの小川さんですか?(w
ドキドキの意味がなんというか奥ゆかしく感じます(w
もし試合に対してのドキドキなら、ごめんなさい。
それでは続きです。
- 96 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時49分03秒
- 先に帰っておいてくれ、と言っていた筈なのに、正門では吉澤達が待っていた。
何処で合流したのか、そこには普段は矢口と帰っている安倍までも居た。
梨華は漠然と待ってくれている予感はしていたのだが、
まさか矢口を除く、全員集合とは思っていなかった。
「遅せえええええ!!!」
と、梨華が正門のゴールテープをくぐった刹那に吉澤。
「ごめん!、ちょっとのんびりしすぎた。」
「石川さんて、意外と優柔不断なんですね。」
「私はそんなに長く感じなかったよ。」
「ののは微妙かな・・・」
「なっちは全然だよぉ。」
様々な意見を投げ掛けられる。
すると梨華はペコペコと日本人らしく頭を下げまくった。
そんな腰の低い梨華を揶揄しながら、部員達は楽しげに笑う。
そこには一片の邪気も無かった。
一段落した処で、坂を下りる。
まだ日が在る内に帰るのはいつ以来だろうか、とそんな事を部員達は思った。
この日はみんな離れずに、一つの体系でも作っているかのように固まって坂を下りる。
みんながみんな、気兼ねなく自分の言いたい事を主張する。
ソレを真剣に考えたり、揶揄するように笑ったり。
誰も気を使う事無く、誰も不満を抱くわけでも無く。
- 97 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時49分45秒
- 「なっちは最後の最後に団体戦に出れて嬉しいな。だってさ、今まで部員なんて
矢口しかいなかったんだから。ほんとよく辞めないで続けてくれたねぇ。」
と、安倍は太陽のような笑顔を少し色濃くなった太陽に向けながら呟く。
梨華はそんな安倍に対し、とても伸びのある、優しい声を掛けた。
安倍の笑顔は、いつだって人の心を穏和にするのだ。
「安倍さんがいたから続けられたんですよぉ。」
「石川はホント、上手いよねえ。人を喜ばすの。」
「なーに言ってるんですかぁ。本音ですよ。感謝してるんです。・・・
安倍さんは何をしている時が一番楽しいですか?」
梨華は楽しそうに笑う安倍を見て、そんな事が気になった。
「うーん、そうだなあ。今はかわいい後輩が成長するのを見てる時かな?ははは。」
「安倍さんは、凄く楽しそうに笑いますよね?」
「だって、楽しいんだもん。なっちはね、ホントに石川みたいないい子に会えて
嬉しいんだから。」
「私も安倍さんみたいな優しい先輩に出会えて嬉しいです。」
「ははは、嬉しいなぁ。明日、頑張ろうねえ。」
「安倍さんはめちゃくちゃ強いから心配してないです。
私に回るまでには勝ちが決まってたらいいな・・・」
そこで松浦をおちょっくっていた希美が加わる。
- 98 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時50分42秒
- 「りかちゃん、そんなこと考えるのはダメだよ。いつなんときでも
だれとでも勝てるように挑まなくちゃ。」
と、どっかの格闘家が言っていたような台詞に梨華はすっかり感銘を受けてしまった。
「のの、私、いつなんときでも本気で頑張るよ。」
「うん。いつなんときでもね。」
「辻もがんばんだよぉ。」
突然、安倍はドコカのおばちゃんのように希美の背中をパンと、叩いて激励する。
すると希美はテヘテヘ笑った。
「まかせてくださいよ。あしたののが練習してた成果発揮しますから。」
「はは、辻は逞しくなったぁ。なっちは嬉しいよぉ。」
どうも安倍と希美が二人で盛り上がってきたようなので、
梨華はこっそりと歩を緩めて、半歩後ろを歩いていた紺野と並んで歩く。
「ねえ、紺野さんは何してる時が一番楽しい?」
と、唐突に先ほど安倍に言った質問を投げ掛ける。
突然の質問に、紺野はお猪口のような口を作って真剣に悩みだした。
紺野がこんな風に思案する姿を見るだけで、梨華は心の底から喜悦を覚える。
あり得なかったのだ。少し前ならば。
「えっと、・・・みんなと一緒にいる時かな?」
「やっぱり?そうだよね。私もそうなんだ。最近、つくづくそう思えてきたんだ。」
- 99 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時52分00秒
- 梨華は視線を下に向けながら、何度も自分に言い聞かすように頷く。
この部の一人でも欠けたらきっと、何かが興醒めするように崩れてしまう。
(みんながいなきゃだめなんだ。)
ブツブツと呟いて沈思しだした梨華を、紺野は怪訝そうに見つめた。
「石川さん?私、何か気に障ること言った?」
「へ?・・・ううん、全然。紺野さん、頑張ろうね。団体戦。」
「うん。もちろん。」
紺野はニコリと笑って答えた。
紺野の性格は、日毎明るくなってきている。
そう思った直後、梨華の中で何かが形作られてきた。
朧気でとても漠然としているが、確かに徐々にだが明確になってきている。
忽然、前を歩く安倍と希美が大きな声で笑い出した。
梨華は楽しげに笑う二人を見て、何故かとても気分がよくなった。
「・・石川さんは、この学校の五番手なんですから、絶対負けちゃダメですよ。」
と、後ろから松浦に前振りも無く、ボーっとした声色で話し掛けられた。
松浦の表情はとても憔悴していて、その更に後ろの方で
王様のように笑っている吉澤を見れば、何をされてきたかは一目瞭然だった。
- 100 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時52分39秒
- 「あ、あやちゃん、それより、大丈夫?」
「ははは、もう慣れっ子です。ははは。」
とても虚ろな目で笑い出す松浦。
日の当たり方の所為か、こけた頬と目の下の隈が色濃く浮き彫りになっていた。
梨華はシャブ中のような松浦の絶望的な顔を見て、つられたように愛想笑いを作る。
「・・・ははは、やっぱり、責任重大だよね。『とり』は。」
「はい、勿論です。最後を勝って締めるか、負けて締めるかでは
次の試合のモチベーションにも関りますからね。ははは。」
「ね、ねえ、あやちゃん、あやちゃんは何をしている時が一番楽しい?」
梨華は紺野と同じ質問を同じように松浦に投げ掛ける。
すると、シャブを切らした松浦は唸りながら考え始めた。
「ううう、・・・・・ははは!吉澤さんと一緒にいる時ですね!」
唸っていたと思ったら、突然閃いたように笑い出す。
梨華はそんな松浦に対し、今日はいつも以上にとってもカワイソウな事を
されたんだな、と、ぼんやり思った。
「ど、どうして?」
「なんでだろお?なんでだろう?なんだでろう?なんだこりゃ?なんじゃ?こりゃ?」
「・・・あ、あやちゃん?」
「ああああああ、そこはダメです、ダメだよぉ・・・よっすぃー・・」
「・・・・・」
- 101 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時53分25秒
- 松浦に禁断症状が現れたので、梨華はさりげなくまた歩を緩めた。
これ以上は、きっと会話にならないと判断したのだ。まあ、正解だが。
そして、一番後ろを歩いていた吉澤と肩を並べる。
吉澤とは引越しを告げられた日以来、少しだけぎこちない関係になっていた。
今日、その原因が、漸くわかりかけてきた。
「やあ、梨華ちゃん。」
「やあ、よっすぃー。」
テンポよく軽く掛け合ってから、吉澤は不自然に咳払いする。
「で、梨華ちゃん、何か御用で?」
「用が無くっちゃ、話し掛けちゃダメなんだ?」
梨華は探るように、悪戯に問う。
すると吉澤は頭をくしゃくしゃ掻きながら空を仰いだ。
「なんだかなぁ。梨華ちゃんといると、ペース狂うなあ。」
「ねえ、よっすぃは何をしてる時が一番楽しい?」
梨華はさも楽し気に、何かねだる様な口調でそう訊く。
すると吉澤はさもうざったらしそうに、顎に指を当て、悩む仕種をした。
俄かに吉澤と別れる交差点が見えてきて、梨華は少し、落ち着かなくなった。
- 102 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時54分22秒
- 「そうだなあ、梨華ちゃんがいない時かな?」
「またそんな事言う。ホントはよっすぃは優しい事も強い事も私、知ってるんだよ?」
「ははは、梨華ちゃんはモノ知りだなぁ。」
(あたしは弱いよ。)
「強がってる事も、弱い事もね。」
「・・・・・。」
そこで会話が途切れ、二人だけに寂寞が生じた。
今まで雲に隠れていた太陽が忽然、顔を出したように、
一瞬で世界の雰囲気を一変する。
吉澤は核心を突かれた様に心中で動揺したが、表情には出さなかった。
それでも、ぎこちない呼吸をしだした吉澤を見て、
梨華は覚悟を決めたようにフウっと優しく息を吐く。
「よっすぃ、頑張ろうね。私、絶対負けないよ。」
「・・・うん。そうだね。もう明日なんだよね。」
(負ければ、サヨナラ、だ)
「よっすぃを、最後までつき合わせるんだから。」
「そうなればいいけどね。」
そう言って吉澤は立ち止まった。気付けば、吉澤と別れる交差点まできていた。
部員達は全員立ち止まり、一様に吉澤に笑いかけ、そしてサヨナラを言った。
吉澤はこの、サヨナラ、を、少しだけ異なったニュアンスで受け取っていた。
それを悟った梨華は、サヨナラを言わなかった。
- 103 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時55分26秒
- 「また、明日ね、よっすぃ。」
「・・・うん。また明日。」
吉澤は部員達を見えなくなるまで見送り続けた。
明日敗戦で即、転校という事もあり得ない話ではないのだ。
だから、心の目に焼き付けておきたかった。
そこには一人、足りなかったけれど、吉澤は安心していた。
その人さえいれば、きっと自分は夢を見続けていられる。
今を生きれるのだ。今を――――
吉澤は矢口の姿を思い描き、少しはにかんだ笑いを作る。
そして、夏の夕暮れに矢口の姿を重ねた。
自分なんかよりもっと不幸な彼女は、
この世界を哀しくも柔和にする夏の夕暮れに似ている。
妖精と謳われるその人の心は全く空虚なのに、
それでも人はただその存在に感動し驚嘆する。
この恍惚を促す夕陽だって、目的は何も持っていないじゃないか。
吉澤は矢口の事を考えながら暫し、沈みゆく夕陽を眺めていた。
「矢口さんは、あたしの希望ですよ。」
吉澤は夕陽に向かって囁くようにそう言うと、
いつものように心を殺し、憮然と家路に着いた。
――――――
- 104 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時56分38秒
- 「ただいまぁ。」
「あれ?梨華?今日はえらく早いじゃない?」
「練習中止になったの。だから今日は早く寝る。」
「あんまり無理するんじゃないのよ。」
母親にいろいろ念を押された後、梨華は惰性で自分の部屋に荷物を置きに行く。
ポンポンと手際よくベッドに鞄、ラケットバッグ、体操着、テニスウェア、
小物を入れた手提げ袋。そして、最後に自分自身を放り投げた。
「やることないよぉ・・・」
と古いベッドに顔を埋めながらぼやく。
今ではテニスが日常になっていて、それを欠いただけで途轍もない倦怠感に襲われた。
梨華はぶらぶらと部屋と一階を何度も行き来しながら、悪戯に時を過ごす。
ある感慨に気付いてはいたが、敢えて無視した。
試合の事も、出来るだけ考えないようにした。
今更考えてドウコウなる問題じゃない。勝てば官軍の世の中なのだ―――と、
そんないつの時代の話かわからない格言を自分に言い聞かせる。
笑って食卓を囲み、普段は決して見ない娯楽番組やドラマなんかを見る。
そして今日は久しぶりに姉とゆっくり話をした。
梨華が知らない内に姉は彼氏を作っていて、何でもテニスが上手くて
顔も整っている、完全無欠のプレイボーイらしい。
プレイボーイじゃダメだろ、と梨華が下手糞にツッコンだら、
姉はキョトンとした顔で、そっか、と言って柔らかく笑った。
- 105 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時58分20秒
- そうこうしている内に家族が就寝する時間がやってきて、梨華もプラプラと
風呂に入り、自分の部屋にゆっくり入った。・・・そこで漸く認めた。
吉澤がいなくなる事の重大さ、吉澤が異常に自分を追い込んでいた訳。
今まで、気付かなかったんじゃない―――気付きたくなかったんだ。
そんな自分は、トモダチ失格に決まっている。目を逸らしていたんだ。
「・・アホのくせに。」
―――――――――――厭だ。
―――――――――時は戻る。
「あれ?梨華?えらく早いじゃない?目も真っ赤だし。」
「ねえ、お母さん。私、少しは逞しくなった?」
台所の簾を捲って、梨華は早朝から前振りも無くそんな事を訊ねる。
すると、母親は朝食を作る手を止めて、さも訝って首を傾げた。
「何よ?急に・・・・そりゃあ、テニスやって血色はよくはなったけど・・」
「もう、私、妥協しないよ!」
「しないよって・・・しないの?」
「しない。」
「よくわかんないど、しないのね。御飯食べる?」
「うん。」
梨華は一晩泣いて、ある結論を導き出した。
自分が出来る事は、一体なんなのか。
現実から目を逸らしたって、何も生まれるわけが無い。
- 106 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)02時59分38秒
- (笑おうよ)
吉澤にいつか言われた言葉を思い出す。
笑って吉澤の為に、みんなの為に尽くす事がこの三ヶ月の答えの筈だ。
今出来る精一杯の事をやり遂げるのが、ある種の天啓ではないか。
そして、七人みんなで笑うんだ。
テニス部七人を、像が踏んでも壊れないほどの強い結束で結びつけるのだ。
もちろん、その中には矢口だっている。
吉澤の事を考えていたら、矢口の事が頭に浮かんできた。
矢口は何も知らない。だったら、教えてやるんだ。
誰一人として、孤立なんかさせない。
自棄とも無謀とも思えるその魂胆を、梨華は一晩泣いた末、導き出した。
根拠の無い自信こそ、若さの特権なのだ――――と、梨華は朝食を摂りながら
またドコカで拾った格言を自分に言い聞かせた。
念入りにラケットを手入れし、テニスシューズの紐を取り替えた。
「梨華ぁ、もし今日勝ったらおこづかい上げるよ。」
と、リビングにいる父親に頭の悪そうな激励を貰う。
その後シャワーを浴びて、テキパキと制服に着替えた。
玄関で、パン、と両頬を両掌で叩き、古めかしい気合を入れる。
「それじゃあ、行って来るね。」
「はいはい。今夜は豚カツで待ってるからね。」
「そんなの昨日じゃないと意味無いじゃない。」
「あ、そっか。」
「もう。・・・・」
- 107 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時01分22秒
- 出鼻を挫かれたような形で梨華は玄関の扉を開ける。
開幕、と言っても、高校野球の予選で行われるような大袈裟な催しは無い。
梨華の地区の場合、県内で一番規模の大きいテニスクラブを借り、
そこでサクサクと各ブロックの試合が、何校か並行してテンポよく消化されていく。
テニスコートは野球場のように大きくは無く、大規模なテニスクラブならば、
クラブ内に何十ものコートが備わっているのだ。
現地集合なので、梨華は遅刻しないように十分余裕を持って目的地に向かった。
いつものように電車を乗るところまでは一緒で、そこから高校の最寄の駅を
通り過ぎ、七つ先の大きなターミナルで一つ、電車を乗り換える。
会社員の通勤時間とモロに重なり、梨華はおしくらまんじゅうを思い切りされる
ような形で数十分、電車の中を過ごした。
クラブのある駅につく頃には、試合前なのに体力を半分ほど使ってしまった感があった。
駅から歩いて五分の所にクラブはある。
この駅は、あるテーマパークに一番近い駅で、規模が大きく、人通りも多かった。
梨華は電車で使った体力を回復する為、
駅構内にある、まだ閉まっているレコード屋の前に
二つ並んでいるベンチの内の片方に座った。
そして、徐に安いダイバーズウォッチを覘く。
「まだまだだー。」
と、嘆息を吐く様に情けない声を出す。
時間を見ると、予定よりも四十分も早く着いてしまっていた。
その事を梨華は激しく後悔する。
- 108 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時03分38秒
- 一人で見知らぬ土地をぶらつくのも気持ちが進まないし、第一、こんな時間から店など
殆ど開いていない。梨華は仕方なく、今いるベンチで時間を潰す事にした。
ムアっとした優しくない湿潤の多い構内にいるのは好ましくなかったが、
かといって一番乗りでクラブに着くのも気が引ける。
やる事の無い梨華はただ前方に視線を巡らしていた。
四方八方から規則正しく行き来するヒトを見ていると、なにやら不思議な感覚になった。
(ヒトって、動物だよね。)
と、馬鹿でもわかる事を考える。
ヒトが網羅する駅構内を見ていても、得るモノは無いと考えた梨華は、
ゲーム感覚である類のヒトだけを選りすぐる事にした。
それは直入に、今日集う各高校のテニス部員。
これだけのヒトの波から、テニス部員だけを観察する事にした。
それは敵のコンディションを探るのにも役に立つ。
・・・そんな事、高校名と顔を覚えていなければ意味無いのだが。
そうやって無意味に詮索していると、この時間でも案外テニス部員は多く、
一様に日焼けしている体育会系の集団もあれば、ひょろひょろで
いかにもお嬢様の集団のような高校も見受けられた。
大概の高校は顧問を先頭に、列を成して規則正しく歩いている。
梨華は無意識に俯いて、ふと思った。
もしかして、―――現地集合なんて自分の高校だけではないのか。
中澤が一々点呼取るのとか面倒くさくて、それで手っ取り早く現地集合なんて
論に行き着いたのではないのだろうか・・・
- 109 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時05分06秒
- 色々思案していると、目前に見知らぬ制服を着た女子高生が佇んでいるのに気付いた。
そして、どうやら自分に視線を向けている。
梨華は何故か顔を上げる事が出来なかった。まず襲われたのは、恐怖という感情。
まさか、カツあげなんて事は・・・・と、とんでもなく馬鹿な事を考える。
何処の御時世に、こんな朝っぱらからこんな幸薄そうな顔をしている健康優良児を
カツあげしなければいけないのだ。しかし、梨華に常識は通用しない。
「ねえ。」
頭上から、威圧するような口調で話し掛けられた。
梨華は俯いた姿勢のまま、硬直して狼狽する。
(私?私?何の用?お金?ないわよそんなもん。諭吉?知らないわよそんな人。)
と、ド馬鹿な事を考える。
「ちょっと、聞いてる?」
「・・・・・」
(助けて・・・)
「ああ、ゴメン。口調がきつかったかな?Hテニスクラブってどうやって行けば
いいかわかる?」
と、ワザとらしく優しい口調で訊き直された。
もしかして、この子はドコカの高校の代表の子なのか?と、
梨華は今更常人の考えに達した。そこで漸く顔を上げる。
「ゴメンなさい。ちょっと考え事してたんです。」
「あっそうなの?ゴメンね。私こんな所来た事なくてさ。実は・・・」
- 110 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時06分45秒
- 少女は梨華に向かって何か説明しだした。
梨華は真剣に耳を傾けようとしたが、
その少女のあまりに優れた容貌に、意識という意識を奪われてしまった。
柔らかいウェーブを描いている亜麻色の髪が、その子の小さな顔を引き立たせている。
スタイルも文句が無くて、凡そスポーツなんかとは無縁な印象を与える。
おまけに、自分とは似つかない美白。きっと育ちがいいんだろうなと、
梨華は独断でそう極論する。そしてカツあげなんて考えた自分を今になって罵った。
何よりも、その瞳に耽溺した。とても澄んだ光を抱いているのに、
その中には苦難や希望や自信などの、様々な色が含有している。
きっと自分には到底考えられない、たくさんの出来事を経験してるんだろう。
梨華は確信に似た感覚でそう思った。
梨華がそんな事を考えているとは露知らず、少女はまだ丁寧に何か説明していた。
いくら話し掛けても一向に反応しない梨華に対し、話を聞けよ馬鹿、
と、ツッコマないのが不思議なくらいであった。
梨華は暫し見惚れるようにその小さな顔を見つめた後、
ゆっくりと視線を落とし、半袖のブラウスの胸に着いているワッペンに目をつけた。
(夏服にもワッペンが着いてる高校なんてあるんだあ)
そんなどうでもいい事に一々感動した刹那、自分の目を疑った。
ソコには意識しなくとも、必然的に脳裡にある、ある高校名。
―――――K、HIGH、SCHOOLの文字があった。
(K、K学の代表なの?)
と、心の中で驚愕した時、やっと催促するように話し掛けられた。
- 111 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時08分11秒
- 「ねえ、聞いてんの?」
K学の生徒だから、こんなに口調が横柄なのだ。
梨華は馬鹿な結論をだし、深く納得する。
「・・・あ、す、すいません。Hテニスクラブなら、北口を出て、真直ぐ行けば、
五分くらいで着くと思います。」
急に萎縮した態度をとり、媚を売るような口調をしつつ、身振り手振りで説明する。
すると、その少女はボーっとした様子で二、三度頷き、ありがと、と素っ気無く言った。
素っ気無いけれど、怒ってはいない。
梨華はその生徒が気を乱していないのを確認すると、胸をホッと一撫でした。
そして、その少女を見送ろうとするが、少女は突然、不可解な行動をする。
「うんどこどっこいしょ。」
顔に似合わない親父臭いことを言って、梨華の隣のベンチに腰掛けた。
「はえ?」
「んあ?だってさ、まだまだ時間余裕あるじゃん。」
「そ、そうですね・・・・」
「そうそう。」
と言って少女は頬杖をつき、楽な姿勢をとった。
どうも、すぐには動かない気、満々だ。
そうなると梨華は意識するわけでもなく、姿勢を正した。
気を紛らわすように時計を見ても、まだ裕に三十分はある。
背筋をピンと伸ばしながら、梨華は死に物狂いで考えた。
この時間をどうすればいいのだ。世間話なんて、最近の出来事なんて全く知らない。
テニスの話をしたって、到底自分なんかとは格が違うに決まってる。
かと言って突然席を立つのも不自然だ。
色々と馬鹿な考えを巡らせていると、隣の少女が可愛らしい欠伸をした。
- 112 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時10分03秒
- 「ああ、眠いよおお。」
と、その少女が不明瞭に言った直後、少女の首がゴトリと下に落ちた。
(死んだ?)
そう思われてもおかしくない落ちっぷり。
そのポーズは漫画、明日のジョーの、有名な最後の一場面を髣髴とさせる。
灰になってはいなかったが。
「・・・・・」
梨華は数分だんまりした後、その生徒の顔を下から覗くように窺ってみた。
スース―と寝息をたて、気持ち良さそうに眠っている。
・・・それにしても早い。それは、ドラえもんの主人公、のび太クンと競うほどの早さだ。
気まずいから寝た振りをする、何てことも考えたが、寝息が余りにもリアルなので
梨華は即座にその考えを否定した。
(K学の人は、どこでも仮眠できるように特殊訓練されてるんだろうなあ)
と、ウルトラ馬鹿な事を考える。
梨華は気を張って、その少女を起こさないように懸念していると、
ある事に気がついた。この子、何にも持っていない。
K学は第一シードなので今日、試合が無いのは知っていたが、
それでも何にも持っていないとはどういう事なんだろうか。
と、言うか、なんで今日、ココに来たのだろうか。
梨華はブツブツと呟きながら思案しだす。
(スパイ?・・・なわけないし。実はテニス部員じゃないとか・・・)
しょーもない事をくどくど思案していると、瞬く間に時間は過ぎた。
梨華は時間を確認すると、テキパキと地面に置いてある荷物を抱え、腰を上げる。
そして意を決してテニスクラブに向かおうとするが、
件の少女が気になった。・・・・起こさなくていいのだろうか。
良心が歩を遮る。
- 113 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時11分33秒
- 「あのぉ、私、試合があるので、行きますね。」
「・・・・・」
(この人もこんなに朝早くから来てるわけだし、なんか用事があるんだよね)
「あのぉ。」
と、優しく呟いてから肩をゆっくり揺すった。
―――――無反応。
次に、少しだけ強く力を増して、揺する。
―――――無反応。
その徐々に力を増して揺する行為を数十回繰り返したが、この子はまるで無反応。
梨華は吹っ切れたようにブンブンと肩を左右に、メトロノームの針が飛び出るほどの勢い
で三分ほど振り回していると、漸く少女は目を開いた。
眠れる森の美女もビックリな熟睡っぷりに、梨華は尊敬さえする。
「・・・んあ?・・・あいぼん?」
「はぁ・・はぁ・・え?・・・ドコカで聞いたような・・・・」
「食堂?」
「あ、あの、時間大丈夫ですか?」
「へ?」
と、言ってその少女は構内にある掛け時計をぼんやり見る。
「・・・やばいね。」
「じゃあ、行きましょう。私もクラブに行かなくちゃなんないですから。」
「私より、あんたの方が、やばくない?」
「え?」
「だって、私は今日試合ないもん。」
「・・・・あああ、遅刻!」
- 114 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時12分54秒
- 梨華は我を忘れて走りだした。
起こすのにザッと五分掛かってしまい、気付けば集合時間まで後五分。
梨華が時計を凝視しながら、徐々に走るスピードを上げていると、
件の少女もモノ珍しそうに梨華を追走した。
荷物を持たない身軽な少女は、あっという間に梨華と肩を並べる。
「大丈夫だって、歩いて五分なら、走ったら一分じゃん。」
「でも余裕が欲しいんです。」
と、走りながら声を掛け合う。
すると少女は何が面白かったのか、ははは、と声を上げて笑い出した。
梨華は走りながら首を傾げる。
二人の周りの景色が幾色もの細い線のように引き伸ばされ、
そこに、同じスピードで走っている二人だけの世界が誕生した。
「ははは、あんた、面白いね。私なんてほっとけばよかったのに。」
「でも、あなたもこんな早く来てるわけだし、気になったから・・・」
「ははっやっぱ面白い。今日試合でしょ?応援するよ。」
「ホントですか?」
人ゴミをスルスルすり抜け、トップスピードになっても淡々と
している二人の会話は、普通に考えて、常軌を逸していた。
一分ほどで駅の北口を出て、そのまま直進する。
日射が加わると、既存していた湿気と猛暑は更に勢いを増した。
二人は襲い来る熱風を切り裂くように、猛スピードでアスファルトを駆け抜ける。
梨華は歩いて五分だと思っていたのだが、実際の距離は走って五分だった。
梨華のメガトン級の馬鹿さは、留まる事を知らない。
- 115 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時14分02秒
- 「全然着かないじゃん。」
と、少女は息を切らしながら言うが、梨華は全く平然としていた。
「すいません。なんか勘違いしてたみたいです。」
「はぁ・・はぁ・・・はは、面白いねえ。」
「あ、見えました。アレです。」
と梨華が目前に見えたHテニスクラブを人差し指で示すと、
少女は納得したように頷き、そこで足を止めた。
梨華は首だけを後ろに向け、走りながら声を掛ける。
「じゃあ、私行きます!!」
「はぁ・・頑張ってね!!」
「頑張りまーす!」
と、元気よく返事して、梨華は常識をブチ破るようにトップスピードで駆け抜けた。
名前も知らない、勝ち上がれば怨敵になる少女に激励され、
梨華は不思議な心持ちでテニスクラブの入り口に、時間ギリギリに到着する。
クラブの入り口である大きな藤棚をくぐり抜けると、ソコには各高校のテニス部員が
意気揚揚と試合に備え、規定の場所に立ち並んでいた。
どの高校を見ても、ソレらしい雰囲気を醸し出している。
- 116 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月06日(水)03時15分00秒
- 梨華は立ち止まるや否や、キョロキョロと自分の身内の城を探した。
「よっすぃ!」
幾十ものコートが立ち並ぶ金網の隅っこの方で、見慣れた自分の高校の一団を発見した。
一団と言っても、中澤を含めた七人しかいなかったが。
「一々遅いよ。梨華ちゃん。」
「りかちゃんは実はちこく魔だったんだね。」
「石川さんて、反省を知らないんですね。」
「私は、そんなに気にしてないよ。」
「なっちは全然だよぉ。」
「・・・・・」
「遅いぞ!石川ぁ!」
様々な罵倒的な意見を投げ掛けられるが、梨華は何故か心の底から安堵した。
自分のいるべき場所は、この人達がいなければ始まらない。
みんなの為に、自分はココにいるのだ。
- 117 名前:カネダ 投稿日:2002年11月06日(水)03時16分06秒
- 更新しました。
次の更新で、必ず試合させます。
申し訳ないです。
- 118 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年11月06日(水)12時26分43秒
- おお! とうとう出逢ったか 二人の天才がぁ!
らしいなぁ 二人とも
いよいよですね いよいよですね
わくわく
- 119 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月06日(水)15時01分16秒
- 朝、家を出るまでの石川は、随分逞しくて、なんかカッコイイですね。
でも駅での石川は馬鹿っぷりを炸裂(w
どっちかというと、馬鹿な石川の方が好きです(w
- 120 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年11月08日(金)22時37分31秒
- 更新お疲れさまです。
石川さんと後藤さん、ようやく、主人公が出会いましたね。
う〜ん、読んでいてて楽しいです。続きも楽しみです。
PS:今回分まで保存終了しました。
保存ページのURLが11月9日から変更になることになりました。
h ttp://kuni0416.hp.infoseek.co.jp/text/index.html
になります。
これからも、よろしくお願いいたします。
- 121 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月09日(土)16時06分08秒
- テニスをやっていなくても大物っぷりを発揮する後藤に笑いました。
のび太クラスの寝つきの速さって……(w
- 122 名前:カネダ 投稿日:2002年11月11日(月)22時44分02秒
- レス有難う御座います。
本当に書く意欲が湧きます。
>>118むぁまぁ様。
はい。とうとう出会ってしまいました。
特に印象的な出会いにするのはイヤだったので、普段の二人の特徴をだしたつもりです。
いよいよなんですが、まだ一試合目なんですよね。(涙
>>119読んでる人ヤグヲタ様
馬鹿な石川、実は自分もこっちの方が好きだったりします。(w
馬鹿な石川はとても描きやすくて、自分としても大助かりです(w
こんな人を馬鹿にするような話ですが、これからも読んでくれたら嬉しいです。
>>120ななしのよっすぃ〜様。
有難う御座います。自分では面白いのか楽しいのか全くわからないので
そう言って頂けると、本当に嬉しいです。
こんな駄文の保存、お疲れ様です。HPも時々お邪魔させてもらっております。
>>121名無し読者様。
のび太、気付いてくれて有難う御座います。(w
後藤はこういう面でも大物にしようと考えていました。(w
これからも読んで頂けたら嬉しいです。
それでは続きです。
- 123 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時45分32秒
- 広大なクラブ内には、AコートからFコートまでが、ぶつ切りに分けられて点在している。
それぞれのコートは距離が離れており、一つのコートからは他のコートが見えない
ようになっていて、他を気にしないで試合に集中できる、孤立した空間が出来上がっていた。
T高校が今日対戦するコートはBコートで、その辺りはクヌギの木が林立して生い茂っている。
時折、クヌギの木陰によって冷却されたそよ風が、体を包み込むように優しく吹いた。
「すいません。ちょっと人助けをしてまして。」
「お前、もう少しまともな嘘つけへんのか?」
中澤は顔を真っ赤にして、まるで噴火直前の火山のようにプンプンしている。
それを、梨華はこの猛暑の所為だと受け取った。
部員達は一様にタオルを頭から被り、激しい日射を懸念していた。
傍から見れば、それはまるでステレオタイプの泥棒集団のようであった。
「いえ、ホントなんですよ。それより暑いですね。」
「・・・・もう、すぐ試合や。うちの高校は九時から開始。」
「え?今から開会式とかないんですか?」
「アホかお前。」
梨華はまず、中澤が試合開始ギリギリに集合時間を設定していた事に驚き、
その後クラブ内のクヌギの木に凭れ掛かっている紺野の更に後方にいる、
ある人物を発見して驚いた。俄かにクラブ内の蝉の声が煩くなった気がした。
そして梨華に抑え切れない、不快な胸騒ぎが始まった。
「なんや?デッカイ口と目玉剥き出しにして・・・」
「い、いえ。なんでもないです。」
- 124 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時46分11秒
- 梨華の脳裡に様々な思い出が駆け巡った。その中には、何一つ優しい記憶は無い。
あの純粋無垢な瞳の奥には、利己と恣意と強欲の色しか含まれていない。
可愛らしい容貌にいつも振り回されていた。あの頃の自分は馬鹿だった。
二度と会いたくなかったトモダチ、そして思い出したくないシリアイ。
今日会った希望溢れる少女とは、月とスッポンだ。昔と何も、変わっていない。
「お前さっきからなにしとんねん、はよ着替えて来い。」
「・・・・はい。」
「なんか、シリアスな顔してんな。」
梨華は用意されていた備えのいい更衣室で素早くテニスウェアに着替えると、
そそくさと自陣のベンチに腰掛けていた松浦の正面に歩み寄る。
そして件の人物に顔を窺われないように、松浦に思い切り顔を近づけた。
「な、なんですか、石川さん?」
キスでもされると思ったのか、松浦は何故か頬を赤らめている。・・アホだ。
顔は近づけたが、梨華の視線はキョロキョロと左右に注意を向けていた。
「ねえ、あやちゃん、あのウェアの高校、今日対戦するところなの?」
梨華は前方にいる、件の人物と同じウェアを着ている体系のいい選手を
顎で指す。すると松浦は、そうですけど、それが何か?と、とても訝しそうに
問い掛けてきた。梨華は顔を顰めて言葉に詰まる。その、時だった。
「もしかしてえ、リカちゃぁん?」
- 125 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時47分09秒
- ブリッコも腰を抜かすほどの呂律の回らない口調。
この口調に、何度屈辱を覚えた事か。
梨華は歯を食いしばって俯く。
「やーっぱりじゃあん。リカちゃぁんじゃん。まだテニスやってたんだぁ。」
「・・・久しぶりだね。柴ちゃん。」
「ははは、相変わらず、くっろー。」
「・・・・・」
柴ちゃんと呼ばれる、柴田あゆみは、中学時代の梨華のトモダチでありシリアイだ。
梨華が中学の時分、テニス部に入ったのもこの柴田に誘われたからだ。
柴田の性格は自他共に認める、とても芳しくないものだった。
平気で人のコンプレックスを抉り、苛め紛いの人を貶める事も日常茶飯事で行う。
梨華は中学の三年間、柴田の言いなりになってきた。反抗できず、言う事は何でも聞いた。
テニス部の主将を任されたのも、この柴田が一枚噛んでいた。
「ねえ?リカちゃん何番手なの?て、言うか、リカちゃんが
レギュラーでいる時点で、全然たいしたこと無い高校決定だね。」
「・・・・・五番手だよ。」
「うっそ?じゃあ、私と同じじゃん。やったー!勝ち同然じゃん!」
梨華は中学時分、柴田には、『何一つ』勝てなかった。
テニスから始まり、学才、人望、家柄、・・・・
柴田は常に中心であり、梨華は常に柴田の駒であった。
柴田の優しい瞳の奥には、無邪気で底知れない醜悪さが含まれている。
- 126 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時47分51秒
- 梨華は柴田に殺される夢を見たことが何度かあった。
殺され方は統一されていなかったが、共通項は存在した。
柴田は必ず笑いながら、自分を刻んでいた事だ。
いつかは正夢になるのでは、なんて事を中学時代の一時期は真剣に思っていた。
梨華は何も言い返す事が出来なかった。
そして、俯いてジッと黙っていた。
常に自分を卑下し続けてきたのは、柴田に言われた数々の中傷的な言葉が原因だった。
暑さも忘れ、剥き出しの太陽の存在を消し、周りの事物から意識を閉ざした。
そして、忘れていた筈の忌まわしいフレーズが次々に蘇生した。
(リカちゃんに告白されたら、そりゃあ、気分悪いよ。)
(私は黒いのやだあ、絶対やだぁ)
(リカちゃん、テニス部の主将やってよ。私より健康そうだし。)
(あそこの公立落ちたの?はは、当たり前じゃん、身分を弁えなきゃね。)
歯向かうと、苛められる。
梨華の精神年齢はこの時、思春期を迎える直前の少女に成り下がっていた。
が、今の梨華には当時存在していなかったある事象がある。
「ちょっと、感じ悪いですね。」
二人のやりとりを黙って傍観していた松浦が、柴田にふっかけた。
俄かに梨華の精神年齢が現在に還元される。
そして、食いつかれた柴田はつい、本性を出してしまった。
- 127 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時48分47秒
- 「だれだよ?お前?」
「石川さんの奴隷です。」
「はあ?こいつの?キャハハハ、冗談は顔だ・・・」
松浦の容貌は、柴田を黙らせるほど整っていた。
ナンダカンダと言っても、松浦が美少女という事実は、誰にとっても揺ぎ無いのだ。
松浦はベンチから立ち上がり、凛とした表情で柴田に立ち向かった。
「あんたみたいな人じゃ、石川さんには勝てないよ。」
「へえ、面白いこと言うね。じゃあ、お前はどの位の実力なんだよ?
悪いけど、私は一度も負けた事ないんだ。こいつには。」
「今と昔を一緒にするのも気に入らない。人は、常に進化するんだよ。」
松浦が毅然と柴田を睨みつけると、柴田は嘲弄するように松浦に顔を近づける。
「ふふふ、おもしろーい。まあせいぜい、頑張ってよ。あ、リカちゃん、
私、負けたら土下座してあげるよ。その代わり、私が勝ったらわかってるよね?」
松浦に顔を接近させつつ、梨華を睥睨する。
沈黙が数秒生まれ、密接している三人の呼吸音が無碍に交錯した。
蝉の声が直接梨華の頭に轟き、その轟音は目を柴田から逸らすよう、梨華に催促した。
柴田が『ジョーダン』という概念を知らない事を、梨華は熟知していたのだ。
体が反応する。
「・・・・・・」
「石川さん、一言言ったらいいんですよ。こんな人、石川さんの相手になりませんよ。」
「ま、結果が出てからまたゆーっくりとね。」
- 128 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時49分37秒
- 柴田は梨華と松浦を交互に丹念に睨みつけると、鼻で笑って
自陣に戻って行った。
そこで漸く梨華は悄然と口を開いた。
「・・・あやちゃん、有難う。」
「・・・・しっかりして下さいよホントに。ま、絶対勝てると思いますけど。」
「・・・でもね、柴ちゃんはホントに強いんだよ。」
「石川さんは安倍さんと矢口さんの打球を返せる位、上達してるんですよ?それに・・」
松浦は人差し指をピンと立てて、言葉を止めた。
梨華は潤んだ瞳を晒し、情けなく首を傾げる。
「石川さんは、いい人ですから。」
「・・・・」
「いい人が、悪い人に負けたら、おかしいじゃないですか。正義は勝ちます。」
「あやちゃん。」
「さ、行きましょ。みんなもう出来上がってますよ。」
この頃、柴田が所属しているS高校の練習時間は終わっていて、
T高校の練習時間もとっくに過ぎていた。
中澤が集合時間を試合の直前に設定していたため、部員達は全員、
事前の練習を行う事が出来なかった。
柴田との諍いが終わった直後、中澤から怒号のような声色で集合が掛かった。
部員達は中澤の前に迅速に集合し、試合前の最後の指示を授かる。
「お前ら、なんでウチが練習させなかったか、わかるか?」
- 129 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時50分58秒
- 中澤は開口一番、腰に手を当てながら、意味深な口調でそう言った。
部員達はそれぞれ理由を考える。すると、安倍がピョコンと可愛らしく手を上げた。
「はい、先生!」
「はい、安倍。なんや?」
「なっち的には、先生の、ただのケアレスミスだと思います。」
「な、・・・・・」
(鋭い。こんな鈍くさい奴が・・)
安倍が核心を突くが、中澤は見事にスルーしてみせる。
中澤は昨日、他の教師と飲みに行く約束をしていて、今日の日程については
大部分がおざなりのままやって来ていた。
「ア、アホか。お前らやったらあんな各下の連中に、練習なんかいらんと判断したんや。」
「うそくさーい。」
「黙れ、安倍!お前ら、誰か一敗でもしてみろ、退部させたるからな。」
(これくらい言っとけば、ええかな。)
と、こんなくだらない理由で、部員達は全勝という名の枷を着ける事を余儀なくされた。
しかし、意外にも効果は上々だったようで・・・
「おっし!のの、いっちょ二セット連取狙おうよ。」
「あたりまえだよ。」
吉澤と希美ペアも気合を入れ直し、
「コンコン、今日の私、ちょっと冷静さ欠くかもしれないけど、本気出すよ。」
「アヤヤが本気出せば一人でも勝てると思うよ。」
紺野がボォーっとした表情でそう言うと、松浦は身を捩じらせて照れる。
- 130 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時51分43秒
- 「またまたコンコン。私にはコンコンがいなきゃ、始まらないんだから。」
「私もアヤヤ無しじゃもう生きていけないよ。」
紺野が松浦を掌で転がし、
「なっちは最初から勝つつもりだからねえ。」
と、安倍が太陽のような笑顔を浮かべつつも、秘めたる闘志を露にした。
矢口は相変わらず、無表情で淡々としているが、それでも団体戦を一番
待ち望んでいたのは他でもない、矢口だった。その瞳にはある種の挑戦の色が含まれている。
矢口は他の部員と比べて、明らかに悄然としている梨華を一瞥した後、
用意されていたベンチにゆっくりと腰掛ける。
そして持参していたスポーツドリンクを、コートを見ながら口に含んだ。
その時、重なって今日の試合の審判から徴集を受けた。
T高校とS高校の部員達が平行になるように向かい合い、
対面の人物を強い視線で見た後に、主将が号令を掛け、頭を下げる。
審判に促され、一試合目の松浦、紺野ペアと相手のペア以外の部員がコートを後にする。
俄かに緊迫した空気が辺りを包み、それを感じた松浦はフウっと、深呼吸した。
そして、外にいる柴田をキリっと睨み付けた。
(見てなさいよ)
T高校対S高校、今、その戦いの火蓋が切られる。
- 131 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時52分51秒
- 紺野はコートに入ると、夏の日射が徐々に厳しくなってきたのを確認し、
ウェアの腰にぶら提げていたツバの短いサンバイザーを被った。
松浦は普段と変わらず、沈着な態度を作っている。
ゆらゆらと揺れるコートに審判の声が響き渡り、第一試合が始まった。
中澤の予想は的中し、試合展開は極めて一方的だった。
ごく一般的な公立高校のテニス部が、元々松浦クラスの選手相手に敵う筈が無いのだ。
S高校のペアは二人とも三年だったが、体の作りから見てもまともに練習していないのは
一目瞭然で、紺野の松浦に対する先ほどの発言はそれを根拠にしていた。
この程度の相手ならば、松浦一人で相手をしても勝てるというのは、まんざら嘘ではない。
技術、体力、チームワーク、何をとっても松浦、紺野ペアを凌ぐ物はなかった。
松浦のサーヴィスエースで全ポイント奪ったゲームもあれば、
紺野が日頃、他高校の選手相手に試したかった、ドロップショットの変則系も
見事に成功した。
それでも一年のペアに面白いようにやられるのが気に入らなかったのか、
相手も経験という名の意地を垣間見せる場面が幾度かあった。
が、やはり意志も弱く、結果は松浦、紺野ペアの圧勝に終わった。
実力は経験を寄せ付けず、この類の世界はそれが何よりもモノを言うのだ。
試合後、自陣のベンチに座った松浦は、
汗を丁寧に拭った後、S高校サイドをしたり顔で見る。
すると十数人のS高校サイドで一際目立つ、大きく口を開けた唖然の表情が一つ。
- 132 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時53分52秒
- ―――――柴田だった。
柴田は過度に松浦の実力を見くびっていただけでなく、その上、ある事に驚愕していた。
あの松浦が一番手のダブルスだとしたら、五番手の梨華の力量は一体、どれほどのものなのか。
柴田の懐疑が晴れないまま、二番手の希美、吉澤ペアがコートに入った。
太陽は更に角度を上げ、日射は一際きつくなった。
コートに入った直後、吉澤は直截、希美に一声掛ける。
「勝つから。」
すると希美はププっと笑った。
「あったりまえじゃん!」
希美と吉澤の試合が今、始まろうという時、俄かに辺りが騒々しくなってきた。
二人がコート内で体を軽く解している途中、ワイワイガヤガヤ、黒山の人だかりが
できあがっていた。吉澤は我を忘れて困惑する。
「な、なんなの?この人だかり?まさか、あたしらの試合見にきた・・・なわけないか。」
「さあ、知らないよ。それより、集中しよう。」
「あ、ああ。」
「緊張ってガラじゃないくせに・・・・」
- 133 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時54分50秒
- 試合慣れしている希美が、情緒不安定になっている吉澤を諭す。
人のざわめきは優しく吹く木陰のそよ風を掻き消し、二人に圧迫した空気を齎した。
それでも希美は自分の仕事はきちんとこなした。
一方、吉澤は初試合という事もあってか、思うようなテニスができずにいた。
おまけにこの人だかり。
相手の実力は先ほどのペアと大して変わらず、希美と吉澤には問題の無い相手だった。
それでも緊張は実力を覆い隠し、吉澤は無下なミス連発してしまう。
ダブルフォールトは勿論、アウトを連発し、相手が得たポイントの殆どは
吉澤のミスが原因だった。その中で、希美は面白いテニスをした。
まず、得意のサーブを決めるのは序の口で、相手のサーヴィスゲームでも、
『重い』ストロークをここぞとばかりに決めた。そこまでは希美の先天的な能力だ。
それから、この三ヶ月で得た物を発揮した。――――『足』だ。
瞬発力を高めた希美の足が生み出したのは、切れと重みを増した尖った鉛のような打球。
それは凡そ並みの人間じゃ、対応できない。
しかも、足が生み出したのはそれだけじゃない。
希美はネット際だけでなく、積極的にロブ気味の打球の処理や、
吉澤サイドの打球のフォローにも努めた。縦横無尽にコートを走り回り、
まさに、一人で二人を相手していた。
観客の一部の者は無敵のツインズの片割れの進化に、抑え切れない高揚を覚えた。
しかし、大多数の観客の目的は、希美ではなかった。
- 134 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時55分49秒
- 希美、吉澤ペアは二セットは連取できたのだが、吉澤に多大な課題が残った。
試合中の冷静さ、丁寧さ、非情さ、そして、相方を補う役目。
吉澤が苦渋の表情でコートを去っても、誰も吉澤に優しい言葉を掛ける事をしなかった。
ただ中澤の一言、
「吉澤、次は無いと思えよ。」
その一言だけだった。
吉澤は歯軋りした後、絞ったような声を出す。
「はい。申し訳、ありませんでした。」
吉澤が幾ら自分を叱咤しても、時の流れは留まる事はない。
勝ち上がるにつれ、対戦相手のレベルが上がるのは必然なのだ。
吉澤はベンチに悄然と座り、頭にタオルを被せ、そして項垂れた。
自分の粗末を何度も思い出し、反芻し、そして二度としないと強く誓った。
(こんなんじゃ、あっという間だよ。)
そして、三番手、安倍の試合が始まる。
安倍は自分に、ある事を課して、試合に挑むつもりだった。
(サーヴィスゲームは、ラブでとる)
- 135 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時56分39秒
- ある時までの安倍は、競争心がまるでない一人の無垢な少女だった。
テニス部に入部した特別な理由は無く、青春の一ページをテニスという
華やかなスポーツに使うのも悪くない、と目的も無く考えていただけだった。
それが、中澤に言われた事をこなすだけで、面白いように打球を操れるようになった。
そして、徐々に自分がこの世界で通用する事がわかってきた。
矢口に届こうなんて考えた事はないが、それでも試合に勝つことが途轍もなく嬉しかった。
自分のサーブが、面白いように決まる。
――――去年のシングルス準々決勝。
その時までは闘争心なぞ、まるで無かったのだ。
K学主将飯田圭織に、矢口以外で初めてリターンエースを決められた。
一度だけではない、飯田の完成された静謐なフォームは、安倍の『とっておき』を
嘲笑うかのように何度もリターンした。
それで、自分の中で完成していた『自信』と『確信』が、音を立てて崩れ落ちた。
自分が見据えていた視野の狭さに広がる不安を覚え、そして無力という現実が舞い降りた。
――――――世界は広い。
安倍はその時、初めてテニスに目標を持った。――――飯田に勝ちたい。
安倍は他人に隠していたが、安倍のテニスのゴールの一つはソコにあった。
それまで、決して負ける訳にはいかないのだ。
第三試合、安倍が勝った時点でT高校の二回戦進出は確定となる。
安倍は試合開始直前、自陣サイドに向かって、これ以上は無いほどの笑顔を向けた。
向けられた部員達はわけもわからず首を傾げ、そして一様に微笑み返した。
燦然とした安倍を後押しするかのように、太陽は燦々と輝き続ける。
- 136 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時57分52秒
- 安倍のサーヴィスからゲームが始まり、第一ゲームは当然の如く全ポンイントをラブを奪う。
第二ゲーム、相手のサーブを安倍は全てリターンエースで返した。
その時点で、S校サイドからは希望とう名の覇気が消滅した。
矢口の陰に隠れていた安倍の実力は、全国レベルでもおつりが来る位なのだ。
安倍はこの試合、笑顔を絶やす事無くテニスをした。
そして、第一セット奪った後すぐに、呼吸も荒れたままコートの外にいる矢口に話し掛けた。
「ねえねえ、矢口、試合楽しいよ。」
「・・・・・そう。」
「うん!矢口も、次、頑張ってね。」
「・・うん。」
一言、二言しか交わさなかったが、
安倍は矢口に自分の伝えたかった事を、全て伝える事ができたと確信した。
第二セットも安倍は一ゲームも奪われる事無く、自分の課題をきちんとクリアし、
そして満足げにコートを後にした。
その瞬間、コートを揺れ動かすような歓声が沸き起こった。
一度始まった歓声は止む所を知らない。
T高校の勝ちは確定し、S高校の選手達は落胆をするわけでもなく、興醒めしたようだった。
それでも棄権する事なく、S高校は続行を望んだ。
三年の部員にとってはこれが最後の団体戦で、少しでも微笑ましい思い出が欲しいのだ。
- 137 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)22時59分34秒
- 中澤は、徐にベンチに座っていた矢口に近寄った。
中澤が矢口の真正面に立った所為で、矢口は中澤の陰にすっぽりと隠れ、
外の観客からはその表情が窺えなくなった。
「矢口、出る必要、無いぞ。」
「・・・出ます。出てみたいんです。」
「この観客、全部お前を見に来てるもんや。気分悪いやろ?」
「全く、関係ないです。」
「・・・・場合によっては止めるからな。」
「はい。」
中澤は矢口の事が心配でならなかった。去年の再来が、あるかもしれない。
それがどうしても心に引っ掛かったのだ。
しかし、中澤の懸念に反し、矢口は何事も無かったように立ち上がり、
鷹揚とコートに入った後、左右を一瞥して、何か思い出すように空を見上げた。
その時、また一段と歓声が大きくなった。
観客は去年見失ってしまった妖精が、自分の住処に帰ってきたのを
間近で目撃したことに、陶酔したように高揚したのだ。
矢口は正面を向くと、何の変化を見せる事も無くネットに寄り、
明らかに困惑してる相手の選手に手を差し出した。
「こ、これ、全部あなたに対してなの?」
怯えたように、相手の選手は矢口に問い掛けると、
「・・・・そんな事、知らないよ。」
矢口は抑揚の無い声で返した。
- 138 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)23時00分42秒
- 試合開始の声が掛かり、矢口のサーヴィスからゲームは始まった。
そして、矢口がサーブの体制に入ろうとしたその刹那、
妖精の復活劇を待ち望んだ輩は、忽然、何かの合図があったように歓声を止めた。
一様に息を飲み、一瞬の静寂が生まれる。
風までも止み、蝉の鳴き声だけがコートに響き続けた。
あらゆる現象が、矢口の為に作用するかのように、世界の流れが歪む。
そして、矢口が小気味のいい音を奏でたサーブを見事にライン際に決め、
最初のポイントを奪うと、観客は感嘆に似た叫び声を揃ってあげた。
――――妖精が、復活した。
矢口はまるでタイムスリップでもしたように、去年と全く同じスタイルを
観客に披露した。相手の選手は文字通りの魔法にかかったように、
自失したフォームで矢口に相対していた。その瞳はとても虚ろだった。
試合展開など語るまでも無く矢口の独壇場だった。
観客はこの矢口の活躍を一年間、待ち望んでいた――――と言えば嘘になる。
中澤はコート外で矢口の試合を諦観するように見ながら、
隣で悄然とベンチに座っている梨華に話し掛けた。
「石川、人間がヒューマニズム発揮するのは、どんな時と思う?」
次の柴田戦の展開しか頭に無かった梨華は、ヒューマニズムという言葉が
てっきりテニス用語か何かと勘違いしてしまった。
- 139 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)23時01分39秒
- 「・・・それ、サーブの種類ですか?」
「あっ、そっか。お前、馬鹿やったな。忘れとったわ。」
「ああ、あの、人情か何かのことですよね?」
「・・・・それでええわ。」
中澤は梨華の隣に腰掛け、鬱陶しそうに太陽を睨んだ後、
白いブラウスの胸ポケットから細いタバコを一本取り出す。
それを使い、コートを囲むように観戦してる観客を、円を書くように指した。
「お前、赤の他人が死ぬよりも、どっかの子犬が野垂れ死んでるの
見るほうが可哀相と思うやろ?」
「・・・多分。」
「人間ちゅーのは同類に対してよりも、違う生き物に対してのほうが
ヒューマニズムを発揮するんや。例えばテレビで餓死しかけてる国の子見るよりも、
虐待されてる子犬見るほうが心が痛むやろ?」
「言われてみればそうかもしれないです。」
「同じや、あいつら全員、矢口の事、人間とは思ってへん。全く違う類のもん
やと思って矢口の事を見とる。だから異常に騒いどるんや・・・・
この一年ほど、だれも矢口の事なんて話題にださんかったくせに、
いざ、復活するとなるとこれや。ホンマ、都合がイイでこいつら。」
そう言うと、中澤は観客を軽蔑するように見渡しながら、不味そうにタバコをふかした。
梨華は中澤の言った事を頭に置いて、試合中の矢口を見てみた。
――――カワイソウ。
考慮するまでも無く、そう思った。
- 140 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)23時03分43秒
- 無表情で活躍するその姿は、動物園の檻の中で芸をしているナニカのように見えたのだ。
この山のような観客達は、矢口の表面以外、何も知らない。
それが、梨華にはどうしようもなく悔しかった。
「矢口さんは、なんでテニス続けてるんでしょうか?」
「あいつにはテニスしかないからや。あいつが帰ってきたのはテニスしかなかったからや。」
「そんな事、無いです。絶対、そんな事無い。」
梨華は自分に言い聞かすように言った。
すると中澤は大きな溜息を吐く。
この時、中澤はある確信をしていた。矢口に光を齎すのは、梨華に違いない、と。
この三ヶ月での矢口の変化の端緒は、紛れも無く梨華だった。
「お前、矢口の事好きか?」
「はい。それはもちろんです。」
「だったら、なんとかしてやれ。お前らしか、矢口を人間には戻せへんぞ。」
「・・・・・・」
「次の試合、絶対に勝て。全員勝って、K学の奴らに見せ付けてやれ。」
そう言うと中澤は向かい側の金網の後ろで、人ごみの隙間から覘くように
矢口の試合を観戦していた三人の少女に目を向けた。
「あ、あの子。今日、会った子です。」
「ん?お前、K学に知り合いなんておったんか?」
「いや、偶然、道を聞かれたんです。」
「どれや?」
「あの、栗毛の綺麗な子です。」
- 141 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)23時05分05秒
- と言って、梨華は今朝会った少女を視線で示す。
すると、中澤は不意に首を傾げた。
「あれ?どっかで見たような・・・・・」
「そりゃあ、K学の代表なんですから、先生が知っててもおかしくないですよ。」
「・・・うーん、まあええわ。それより、その隣のちっちゃい下品そうな団子頭おるやろ?」
梨華は目を凝らしてその方向を見る。
そこには希美と同じくらいの身長で、黒目が眩しい、団子頭が似合う少女が
ジュース片手に、喜怒哀楽を表に出しながら試合を観戦していた。
その時、矢口が第一セットを完封で奪った。かかった時間は僅か、三十分だった。
「あーあの、ちょっとののに似てる子ですか?」
「そうそう。あいつ、辻の元相方や。」
「え?じゃあ、ののに知らせないと・・・・」
「お前一々鈍いな。あいつが訳ありな事くらい知ってるやろ?」
「・・・そうでしたね。でも、かわいいなあ。」
「・・どうもお前らの事、観察しに来た見たいやな。」
そう言って中澤はタバコを深く吸った。
梨華はどういう訳か、今朝会った少女の方ばかりを見ていた。
あの少女は、何か他人のような気がしなかった。
「頑張ります。次の試合。矢口さんのために。」
- 142 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)23時07分12秒
- 梨華は向こう側の少女を見つめながらそう言った。
その時、少女は屈託無く笑っていた。
「はあ?どういう意味やねん?それ?」
「・・・意味なんて無いです。」
それから第二セットが始まり、妖精のように華麗に舞う矢口は、
相手に何もさせないまま、いや、何もしようとさせないまま完勝した。
矢口がセットポイントを奪うと、観客はこれ見よがしに沸いた。
観客は一興を終え、まるで上質なオペラを楽しんだかのような表情で
クラブを後にしていく。そこには、あの少女も交じっていた。
やはり矢口が目当てだったのだろうか、梨華は落胆するようにそう思った。
柴田との試合を控えていた梨華はこの時、先ほどまで自分を支配していた不安や
怯えといった、否定的な思考が面白いように消え去っていた。
頭の中に白いペンキが雪崩れ込み、そして、明るい感情がソコを埋め尽くしたのだ。
それを梨華はあの少女の仕業だと思った。根拠は無いが、そうに違いないと梨華は思った。
あの希望溢れる瞳の中には、誰にも縛られる事の無い『自由』が含有されている。
そう考えたら、柴田に怯えている自分自身が、とても滑稽に思えてきた。
- 143 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月11日(月)23時08分22秒
- 梨華に向かって、部員達はそれぞれ特徴的な激励をした。
皮肉めいた吉澤の一言や、馬鹿にしたような希美の一言。
紺野と松浦が揃って熱く語りかけるように声を掛けると、
安倍は相変わらずの、太陽のような笑顔を浮かべ、梨華の背中を押した。
そして、コートの出入り口で矢口が帰ってくるのを待った。
「矢口さん、見えていてください。楽しんできますから。」
出入り口での擦れ違い際、矢口に向かって、梨華はさも楽しげに声を掛けた。
「・・・・勝てよ。」
矢口は梨華の光り輝く瞳を一瞥すると、悠然とコートを後にする。
「・・・はい!」
最高の激励を貰った後、梨華は意を決してコートに入った。
対面で自分を睨みつける、二度と会いたくなかったトモダチに、
梨華は屈する事無く、毅然と立ち向かおうとしていた。
- 144 名前:カネダ 投稿日:2002年11月11日(月)23時09分17秒
- 更新しました。
- 145 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月11日(月)23時39分53秒
- ついに始まりましたね。
もうひたすらに惹きこまれております・・石のゲーム、どうなるんでしょうか。
柴ちゃん、ここぞという位の悪役キャラですね(w
次回更新も楽しみにしています。
- 146 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年11月12日(火)12時36分51秒
- とうとう出てきたな柴田
試合を間直のコードで観戦しているような感覚に囚われてしまったようです
さて次は石川か・・・ 凄く楽しみです
- 147 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月12日(火)13時44分14秒
- 柴田の悪役ぶりは、たまらんものがありますね(w
次の石川の試合が楽しみ〜!
- 148 名前:小説ヲタ 投稿日:2002年11月12日(火)20時18分32秒
- おもしろい!!
松浦の株がめっちゃ上がった!
普段松浦に全然興味ないけど、ここの松浦は最高!
- 149 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月12日(火)23時17分58秒
- ∬´▽`)ウワーイ柴田さん私より性格悪(ry
いよいよ石川さんの試合ですね…ドキドキ
- 150 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年11月13日(水)06時59分41秒
- 更新お疲れさまです。
いよいよ試合ですね。
あやゃもあいかわらず可愛いし!
へこむ、よっすぃ〜も良いでね。
よっすぃ〜には、試合のたびに成長して欲しいですね。
試合のシーンも変わらず楽しく読んでいます。
「・・・・勝てよ。」
感情を持たないはずの矢口さんのセリフ、かっこいいですね。
次の試合では、矢口さんも『妖精』から『人間』になれそうですかね?
石川さんと柴田さんの試合も楽しみです。
コンプレックスの固まりのうような石川さんの活躍に期待です。
では、次の更新も楽しみに待っています。
- 151 名前:石凸 投稿日:2002年11月15日(金)03時43分15秒
- こんな小説を待ってました。個人的には「朝がまたくる」以来のヒットです。
- 152 名前:カネダ 投稿日:2002年11月16日(土)04時15分35秒
- レス有難う御座います。
本当に励みになります。
>>145名無し読者様。
漸く試合までもってこれました。
柴田には是非一度、悪役をやらせてみたかったんです。(w
>>146むぁまぁ様。
柴田、とうとう出てきました(w
石川戦もサクサクと勢いでいってみたいと思います。
>>147読んでる人@ヤグヲタ様。
柴田、好評でよかったです。(w
石川戦、ここまで引っ張ってきて、期待に添えられない内容だったら申し訳ないです。
>>148小説ヲタ様。
有難う御座います。自分では全く面白いかどうかわからないので、
そう言って頂けると嬉しいです。松浦、貢献しているようでよかったです。(w
>>149名無し読者様。
面白いコメント、有難う御座います。そう言えば、小川のキャラもそうでしたね。(w
試合、期待に応えられるか不安ですが、勢いでいきたいと思います。
>>150ななしのよっすぃ〜様。
長レス、有難う御座います。松浦、吉澤ともに、気に入ってもらっているようで嬉しいです。
矢口はまだ目立った展開が無いのですが、バカの石川が何とかしてくれると思います。(w
>>151石凸様。
有難う御座います。そう言ってくれるとほんとに嬉しいです。
萌えどころも何も無い話ですが、これからも読んでくれたら嬉しいです。
それでは続きです。
- 153 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時16分30秒
- ネット隔てて握手する際、柴田が可愛らしい笑顔を梨華に向けてきた。
「ふふ、リカちゃんさ、センス無いのによく続けてるよねぇ。エライよ。」
「・・・この試合、負けれないんだ。柴ちゃんには、負けれない。」
「うるせえよ。身分を弁えろって。」
柴田は笑顔をプツリと消し、嫌味な面構えを作ってそう言い放った。
梨華はそれでも臆する事無くバックラインまで戻ると、
燦々と輝く太陽に手を翳し、その後、コートをシューズのつま先でコツコツと叩いた。
硬く、そして弾力性の強いハードコートは、高校のアンツーカーコートとは
ボールの跳ね方も、変化の仕方もまるで違う。
利点としては、このコートは足が使いやすい。
梨華は足を引き摺るように、コートに何度か靴底を擦りつける。
(引っ付くんだ。底が。)
ぼんやりとコートの感覚を確かめていると、審判から声が掛かかった。
柴田からのサーブで始まるのだが、柴田はなかなかサーブを打とうとしない。
それを怪訝に思った梨華は柴田の表情をソロリと窺ってみた。
目が合うと、柴田はキャハっと、憤りを促す憎たらしい笑みを浮かべた。
満足したのか、柴田は漸くサーブの構えに入った。
梨華も気持ちを引き締め、改めてサーブに備え直した。別段、心境に変化は無かった。
(私にはみんながいるんだよ。)
- 154 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時17分29秒
- 柴田は得意げな表情で、球を高らかに上げると、当時の梨華がどうしても
返す事が出来なかったフラットサーブを打ってきた。
それは梨華のセンターライン付近の甘い位置に落ち、スピードがやや速い、
という以外は特に何の変哲も無いモノだった。
だから、梨華は当たり前のようにリターンして見せた。
「はあ?」
柴田は梨華の位置まで声量で思わずそう漏らした。
柴田の余裕の仮面に一つ、亀裂が走る。
それでも柴田は動揺する事無く、梨華のレシーブに対し、強烈なストロークを打った。
梨華はそのストロークを打たれる前に、見極めた。
柴田の足の位置、少し下がった腕のフォーム、そして面構え。
いかにも力んだその表情では繊細なボレーはあり得ない。
恐らく、力任せのストロークだろう。
梨華は無心のまま、思うがまま、恐らく打球がやって来るであろう
位置に一歩目を差し出した。そして案の定、雑なストロークがソコにやって来る。
(やっぱり)
梨華はゆっくり溜めを作り、丁寧にフォアのボレーを打った。
そこで一つ、『ずれ』た。
柴田が次の動作に入る前に、梨華はボレーを返したのだ。
思考よりも一つ、速い展開に、柴田は対応する事が出来ない。
ただ立ち竦み、打球の軌道を目で追うことしか出来なかった。
- 155 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時18分16秒
- 「フィフティーンラブ!」
蝉の鳴き声の合間を縫うように、審判の声がコートの隅々まで響き渡る。
声の余韻が完全に消えてから、柴田は梨華を睨み付けた。
(ちょーしのってんじゃねーよ、クロンボ)
この時コートの体感温度計は三十五℃を超えていて、
ソコで何もせず、立っているだけでも汗が吹き出てくるほどの暑さだった。
柴田は滴り落ちる額の汗を左手のリストバンドでゆっくり拭う。
観客がいなくなった御蔭で、時折だが、木陰で生まれた気持ちのいい横風がコートに届いた。
風が止んでから、柴田はサーブの構えに入る。
柴田が次に打ったのはトップスピンサーブだった。
パターンを幾度か変え、梨華を揺さぶろうとしたのだが、如何せん技術が貧弱すぎる。
回転を変えようが何しようが、梨華は至って冷静だった。
確実に中心を捉え、インさせる。ただ、それだけに徹した。
(繰り返し、繰り返し)
梨華がストロークを打って一歩ネットに詰めると、柴田も合わせるように
半歩前に出た。ネットに接近すると、相手からの攻撃の範囲が狭くなるという利潤がある。
しかし、それは同時に後ろを明け渡してしまうというリスクも含まれている。
それでも梨華は躊躇無く柴田のストロークをもう一度返すと、ダッシュでネットに詰めた。
- 156 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時18分51秒
- 梨華は試合の最中、柴田のテニスの力量を無謀にも測ろうと試みた。
打球の切れ、フィジカルの強さ、意外性・・・様々な要素を脳内で分析する。
その結果、梨華は柴田を『強く』ない選手だと判断した。
松浦よりも打球のバリエーションが少なければ、矢口や安倍のような
打球は勿論、持っていない。
(こんな打球なら、何時間だって打ち返せる。)
深い事を考えずに、梨華は培ってきた技術だけを柴田に試し続けた。
まともにやっても埒が開かないと判断した柴田は、ロブを打ったり、
クロスを打ったりして、梨華のミスを誘おうと右往左往する。
しかし、それは殆どが無駄に終わった。
何処に打球を決めようが、梨華は打球を捉え、リターンしてくる。
ラリーに持ち込んだとしても、根負けするのは決まって柴田だった。
柴田の本質は『性悪短気』、梨華の本質は『馬鹿』。
馬鹿の一つ覚えほど恐ろしい物は無い。
梨華は自分で決定打を打とうとする事無く、ただ、返球をし続けた。
その結果、気がついてみれば第一セット、第六ゲームまで、梨華は
柴田から四ゲームを奪っていた。と、言うよりは献上されていた。
序盤の二ゲームは柴田の強引な展開によって辛くも奪われたものの、
それからは全く危なげない展開で梨華はポイントを柴田のミスにより、淡々と重ねていった。
- 157 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時20分20秒
- 「はは、やっぱりウチの思った通りの展開やな。」
コートの外のベンチで悠然と梨華の試合を観戦していた中澤が突然、笑い出した。
その隣で座って観戦していた吉澤も、一旦自身への叱責を忘れ、喜悦を露にしていた。
「梨華ちゃん、凄いですね。あたし、正直、ココまでとは思ってませんでした。」
「吉澤、どんな人間やってな、長所はあるんや。
あいつの長所は馬鹿と、体力と、勘と、踏み込み。この四つや。」
中澤はそう言うとハンカチで首筋の汗を拭い、そしてそのハンカチを自分の頭の上に置いた。
「ははっ馬鹿は長所なんですか?」
吉澤が笑って問い掛けると、中澤は口端をクイっと上げて、意味深な笑みを浮かべた。
「おお、馬鹿は強いぞ。この世で才能に勝てるとしたら、馬鹿さしかない。」
「興味深いですね。」
「同じ事を続けられるとな、人は慣れる以前に拒絶反応が出てくるんや。
石川、さっきからスマッシュもクロスもなんも打ってへんやろ?」
「そう言えば・・・あれ、ワザとなんですか?」
「いや、ただ、教えてへんだけや。」
そう中澤が言った直後、梨華が第七ゲームを奪った。
梨華はその馬鹿テニスだけで、第一セットを奪う、目前まで来ていた。
堅実に日射がきつくなり、柴田は滝のような汗をかいていた。
肩で息をしながら、何度も何度も汗を拭う柴田を見て、
恐らく持久力をつける練習を怠っていた所為だろう、と、梨華は冷静に推測する。
- 158 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時21分36秒
- 「相手の奴、もう頭ん中、沸騰寸前やと思うわ。思考停止しとるな、ありゃ。」
柴田に序盤よりもミスが目立つようになってきた。
奪われ、奪い返しの展開から、徐々に梨華の一方的な展開に発展する。
柴田の相手を力で押し殺すテニスは姿を隠し、今では集中力を欠き、
自滅への道、まっしぐらとなっていた。
「梨華ちゃんは、淡々としてますね。」
「おお、ウチもまさかココまで落ち着いて試合するとは、思ってへんかったなぁ。」
「このままいけば、梨華ちゃんの圧勝じゃないですか?」
「圧勝か・・いや、もっとおもろい光景見れるかもよ。」
中澤がクククと悪戯に笑った後、第八ゲームが始まった。
柴田は第三ゲームの後半から、何故かサーブは決まってスライスサーブを打つようになった。
梨華は無意識のままそれを考慮し、レシーブだけは普段よりも切れのいい、
ポイントを奪えるレシーブを打っていた。つまり、リターンエースを狙っていた。
梨華は柴田の情けないスライスサーブをここぞとばかりにライン際に返す事に
成功した。理由は単純に、柴田の単純なサーブの形を、梨華は完全に把握していた、
それだけだった。
暑さから来た疲弊の所為で、柴田は常人未満のテニスをする事を余儀なくされていた。
梨華のねちっこいテニスに光明を見出せず、力で突破口を開こうとしたツケが回ってきたのだ。
序盤から全力で飛ばした柴田はゲームを自分が支配している錯覚に陥り、
シーソーゲームをしているつもりが、気付けば大概のポイントを梨華に持っていかれていた。
- 159 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時22分31秒
- 第八ゲーム、ここまで五=二と試合を有利に進めてきた梨華は、
これを取れば第一セットを柴田から奪うことになる。
中学時分、こんな事態はあり得なかった、柴田にとっては夢想だにしなかったことだ。
柴田はここに来て漸く自分が第三ゲームの後半あたりから、
スライスサーブしか打っていなかったことに気付いた。
しかし気付いた所で、どうする訳でもなく、柴田は第九ゲームの最初のサーブを
やはり、スライスの回転で打った。
・・・諦めたのだ。第一セット、柴田は梨華に譲る事を熟慮の末、決断した。
第一セットの中盤になり、梨華のレシーブには切れが帯び始めていた。
転じて柴田はラケットを振る度に、打球に一つ、力がなくなっていた。
この暑さ、そして序盤での猛撃。それは、柴田の闘志さえ奪っていた。
梨華は第一セットのセットポイントを迎えると、
柴田から何の抵抗もなくそのポイントを奪った。
何もかもが予定調和の如く、梨華が思い描いていた理想の試合運びだった。
セット間の休憩時間、梨華は無心のままベンチにチョコンと腰掛けると、
後方にいた安倍に、首だけを振り向かせて話し掛けた。
取り敢えず、誰かに話し掛けなければ、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「安倍さん、私、取ったんですか?」
茫然とした表情でそう言った梨華に、安倍は笑顔を提供した。
- 160 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時23分23秒
- 「はは、石川は自分のテニスちゃんとしてるから、当然だって。」
「・・・・なんだか、わかんないんです。見えるんです。打球が。
どういう訳か、見えるんです。」
梨華は思い出すように一言一言、そして、確かめるようにそう言った。
「石川はさ、気付いてないんだよ。上手くなってるのに。
だから、取って当然。上手い方が試合を征すのは、太陽が昇るのと同じくらい
当然の事だよ。」
と、安倍は太陽のような笑顔を浮かべてそう言った。
梨華もつられたように頬だけを緩めたギコチナイ笑顔を作る。
そして整理するように息を吐くと、顔を正面に向け、対面にいる柴田を窺ってみた。
―――肩で息を吐き、青ざめた顔色のまま、ドリンクを我が物顔でがぶりついている。
その姿は、梨華の記憶から、畏怖の象徴だった頃の柴田の姿を霧散させた。
あれだけ脆弱な姿を晒している相手に、自分は『死』すら、連想していたのだ。
「梨華ちゃん、すごいじゃん。」
吉澤がすぐ後ろの金網に顔を押し込めて、梨華の頭上からそう言ってきた。
梨華は後ろ斜め上に首を回す。
吉澤の御蔭で人一人を覆い隠す位の小さな、そして大きな日陰が出来た。
喧しい蝉の声も心持ち、遮られたような気がした。
- 161 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時24分25秒
- 「よっすぃ、私、勝つよ。勝って、みんなと並ぶから。」
「んー、並ぶっていう表現はちょっとちがうなあ・・・・
こう、何て言うか、ああ、ココまで出てるんだけどね。」
そう言うと、吉澤はひょうきんな表情を作って、自分の喉を両人差し指で指す。
すると梨華は、ふふっ、と軽く無邪気に笑った。
吉澤の御蔭で、また心の枷が一つ外れたような気がした。
「よっすぃは、やっぱり明るい顔の方が似合うよ。」
「ははっどうも。梨華ちゃん、取り敢えず、頑張ろうよ。」
「うん!」
返事をした直後に、第二セット開始の合図が審判から届いた。
気温を上げる世界に激発するように、梨華の胸中にある種の欲望が産声を上げた。
(勝ちたい)
第二セット、第一ゲーム、梨華のサーヴィスからゲームは始まった。
梨華はこの三ヶ月の間、殆どサーブ練習をしていなかった。
大概のプレイヤーが好むサーヴィスゲームを、梨華は特異に毛嫌いしていた。
(とにかく、インさせる。)
梨華は、回転も加減も頭から消し、サーブの時だけは異常に意識してラケットを振った。
インしたのを確認してから頭の中の雑念を消し、それからはリターンする事に徹する。
柴田は取り敢えずT高テニス部員の誰よりも劣る存在なのだ。
だから、何も恐れる事はないのだ。
- 162 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時25分16秒
- 柴田は人が変わったように、スタイルを完全に第一セットとは別モノにした。
梨華に合わせたのだ。
ポイントを取ろうとしても取れない。ならば、梨華がミスをするのを待てばいい。
ただ返すだけのテニスなら、冗談じゃない、自分だって容易に出来る。
(せこいテニスしやがって)
柴田とて、伊達に一年で五番手を担っていないのだ。
柴田と梨華の、果てのない打ち合いが始まった。
「はははっ、やっぱりウチの思ったとおりの展開や。」
先ほどと同じように、中澤は声を出し、余裕の表情で笑う。
しかし隣で座っている吉澤は、納得がいっていないという風に首を捻った。
「この展開、梨華ちゃんには拙くないですか?」
「なんでやねん?」
「だって、技術なら相手の方が上じゃないですか。」
「第二セット、石川に合わせる事にしたんや。つまり、今は石川と同じや。」
中澤はそう言うと、何か確信しているように虚ろな目をキラリと輝かせる。
「でも、第一セットは自分のテニスが梨華ちゃんに通じなかった。
それなら、今の展開は仕方のない事なんじゃないんですか?」
「それがアホや言うてんねん。石川と根競べするっつー事はな、
地球一周できる位のスタミナが無いとあかんちゅー事や。
それにな、このハードコートがまた効果を高めとる。このコートやったら
イレギュラーバウンドとかの不可抗力やアクシデントが殆ど無い。
つまり、安全に返球したいだけが売りの石川には、最も都合がいいコートや。」
- 163 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時26分39秒
- 何度目かの打ち合いの後、徐々に柴田のラケットの振りが鈍くなってきた。
口で息を吐き、その疲弊は如実に現れている。
一転、梨華は平然とラケットを振り続けていた。
「名付けて、バキュームカー戦法!」
中澤が腕を組み、得意げに梨華のテニスを見ながらそう言うと、
吉澤は、はははっと高く笑って、ソレを問う。
「なんですか?それ?」
「体力を吸い取って吸い取って吸い取りまくる作戦。」
(まあ、弱点もあるけどな・・・・)
「あの、『カー』はいるんですか?なんか汚いな・・・」
「当たり前やろ。必須や。・・・・もうすぐ終わるなあ、この試合。」
梨華からのミスを誘う作戦が、気付いてみれば柴田がミスというミスをしでかしていた。
ミイラ取りがミイラになる。
体力という動力源を奪われた柴田は、本当にミイラのように干からびてしまった。
時間のかかる梨華のテニスは、太陽が燦々と強く輝くほどその効果を増す。
―――第三ゲームにそれは起こった。
太陽がほぼ真上に来ていて、コート内の体感温度計が、四十℃を示していた時だった。
梨華が当たり前のように返すだけのテニスを続けていると、柴田は試合中にも関らず、
膝をペタンと力無く、崩れるようについてしまった。
―――――完全なガス欠。
その直後、立ち上がる気力さえ消滅していた柴田は、無念の棄権を審判に告げた。
- 164 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時27分36秒
- なんとも呆気ない幕切れに、部員達は最初、事態を上手く飲み込む事が出来なかった。
S高校の顧問は既に負けが決まっていた所為か、それほど柴田に叱咤するような素振りは
見せなかった。試合中でのガス欠による棄権など、不甲斐無いなんて表現で収まるもの
では無い。この結果は、プライドの蹂躙に値する。
「石川さん!!」
最初に松浦が嬉々とした表情を満面に浮かべ、コートに駆け込んできた。
その後に続いて他の部員達も雪崩れ込んでくる。
「あやちゃん、勝ったの?私・・・」
まだ漠然としか勝利を認識していなかった梨華は、漫然とした声色でそう言う。
すると、松浦は勢いよく梨華に抱きついて答えた。
「当たり前じゃないですか!絶対石川さんは勝つと思ってましたよ!」
「でも、まだ、実感湧かないよ・・・」
それから追ってやってきた皆に賞賛されまくる。完璧だとか、カッコイイとか、
バキュームだとか、しないよだとか、するよだとか・・・・
そして暫くし、一段落した所で、松浦が改まったように咳払いを一つする。
「さ、石川さん、あの人に土下座してもらいましょう。約束ですから。」
松浦は楽しげに、滑舌よくそう言うと、梨華に腕をスルリと絡めた。
そして梨華を引っ張りながら、対面のコートの中で蹲っている柴田に威風堂々と歩み寄った。
近づいてくる二人を、柴田は傷ついた猫が力無く威嚇するように睨みつけた。
- 165 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時28分50秒
- 「ほら、約束だよ。約束も守れなくなったら、人間失格だよ。」
松浦は蹲っている柴田の目前まで歩み寄ると、子供を叱るように言い放った。
すると、柴田は顔だけを上げて、直立している松浦を、キリっと鋭く睨み付けた。
「・・・・うるさい・・・やるよ。土下座くらい、」
はぁはぁと苦しそうに息を吐きながら、柴田はそれでも土下座の体制に入ろうとする。
松浦と梨華に見下ろされながら、改めて膝をつき、
両手をつけ、頭を下げようとした、その時だった。
「いいよ。柴ちゃん。」
梨華が柴田の土下座を制した。
その意外な行動に、松浦は唖然とした表情で梨華の顔を覘き見る。
そして、柴田も訳がわからなそうに梨華を見上げた。
「もう、いいんだ。私今、楽しいからさ、それで十分だよ。」
梨華はサラリと言うと、踵を返し、出入り口に向かって快活に歩き出した。
取り残された柴田と松浦は茫然とした表情で、見惚れるように数秒、梨華の背中を見つめる。
「あ、ああ、石川さん!」
数秒呆れ果てた後、松浦は釈然としないまま、走って梨華の元に向かった。
そして梨華をコートの中央付近で捕まえると、諭すように詰め寄った。
- 166 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時30分15秒
- 「なんでですか?約束じゃないですか?」
「いいんだ、もう。今、すっごい楽しいから。矢口さんに言わなきゃ。」
「矢口さん?」
「うん。あやちゃんも、有難うね。あやちゃんの御蔭で頑張れたよ。」
そう言うと梨華はピタリと歩を止め、突然、思い出すように空を仰いだ。
不可解な行動をする梨華に、松浦は一々調子を狂わされているようだった。
空に瞬く真夏の光線を、気持ちよく浴びるように梨華は目を閉じる。
強い日射は瞼の中の世界を真っ赤に染め、木陰で作られた冷気は梨華と松浦を包み込んだ。
松浦は風で少し乱れた髪を手で簡単に整え、改めて空を見上げている梨華に首を傾げる。
梨華は暫し目を閉じていると、遊離するような感覚に一瞬、捕らわれた。
そして、テニスの存在が不可思議な意味を帯びて降って来た。
「あやちゃん?やっぱり、テニスは楽しいよね?」
「・・・・そりゃ、楽しいですけど・・・」
「じゃ、いこっか。」
梨華はニコリと松浦に微笑みかけると、気持ち良さそうにコートを後にした。
「ち、ちょっと、石川さん!・・・・・・もう。ま、そんな所が好きなんですけどね。」
松浦は後半部分をはにかみながら、囁くような小さい声で言った後、
意味不明な梨華を追い駆けるように、楽しげにコートを後にした。
コートに一人、取り残された柴田は二人のコントのようなやりとりを
後方から終始眺めた後、自分の頭をクシャクシャと掻きながら立ち上がった。
- 167 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時31分00秒
- 「・・・ふざけんなよ。」
この時、柴田の心もまた、梨華の意味不明色に装飾されていた。
チンプンカンプンのまま、柴田の記憶から、過去の情けない梨華の存在が消去された。
日射がきつくて、まだ頭がガンガンしたが、すぅっと心は晴れた気がした。
柴田は俯いて一つコートに微笑み掛けると、態度を改めて自陣の輪の中に戻っていった。
梨華はコートから出ると、そのままベンチで座っていた矢口の前まで歩み寄った。
矢口はゆっくり顔を上げて梨華の輝いている表情を見る。その瞳は試合前よりも
一段、光が増していた。
「矢口さん、私、確信しました。テニスは面白いし、楽しいです。」
二人の事を全く知らない傍観者がこんな事を聞いたら、きっと鼻で笑うだろう。
「・・いい試合だったよ。お前らしい。」
「ありがとうございます。矢口さんの御蔭ですよ。」
「私は何もしてないよ。」
「でも、してるんです。」
そこで二人の会話は途切れたけれど、その時二人の間に、
ある種の紐帯のようなモノが生まれていた。
その事に二人は気付いていなかったが、気付く必要なんてまるで無かった。
――――――
- 168 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時32分45秒
- コート内の簡易休憩施設で、中澤が今日の反省云々を語り終えると、
例の如く現地解散となった。
冷房が効いている涼しい施設内の窓から少し目を凝らすと、Dコートでの試合が観戦できた。
梨華はすぐに帰るのも気が向かなかったので、誰かを誘って広大なクラブ内の施設を
把握するついでに、幾つかの試合を観戦しようとぼんやり考える。
安倍と矢口は中澤の話が終えると、有無を言わさぬ速さでクラブを後にしてしまった。
紺野と松浦も然して他の学校の実力というものに興味が無いのか、
さっさと帰宅するような会話をしていた。
吉澤と希美はタブーな会話を施設内全体に響くような大声で紡いでいた。
「だからさぁ、ミッキーマウスはバイトだって!」
「いや、アレは違うよ。ちゃんとした仕事でやってんだよ。月給で。」
「バカだなあ、夏なんて二人以上はいるに決まってんじゃんか。」
「よっすぃはバイトに任せられるの?もし、経営するとして。だって象徴だよ?ランドの。」
「そうだけど・・・・」
梨華は本当に仕方が無く、二人を誘う事にした。
二人の間にスッと割って入り、二人に交互に顔を向ける。
「ね、ねえ、そんなダークな会話してる暇あったら、ちょっとテニス観戦しない?」
「あ?ダーク?」
不機嫌そうに吉澤は梨華にダークな声をかける。
「ダークはりかちゃんの顔だって。」
- 169 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時33分34秒
- 希美にとても気分がダークになる事を言われる。
だから梨華もダークな声色で言い返した。
「あんたら誘った私がバカだった。もういいよ。一人で行くよ。」
梨華がプンスカ頬を膨らませて施設を出て行こうとすると、
希美と吉澤は顔を見合わせて、結局梨華について行くことにした。
ナンダカンダで、三馬鹿トリオは健在だった。
梨華は取り敢えず最寄のDコートに向かうことに決めた。
向かっている途中、キャラに反し、結構後を引き摺るタイプの吉澤は、
今日の試合での自分の醜態を梨華と希美にコレでもかという位、問い掛けてくる。
「ねえ、なんで二人とも落ち着いてられんの?絶対練習どおりいかないって。」
「ののはもう慣れてるもん。試合の空気。よっすぃはデビュー戦でしょ?
そりゃあ緊張しても仕方ないよ。でも、つぎもあんなんだったら
ののでも補いきれないよ。しっかりしてね、アホなんだから。」
背の低い希美が肩を落とし、悄然としている吉澤の頭を目一杯背伸びをして撫でた。
すると、吉澤はコトリと首を落とし、返事をする。
梨華は二人のやりとりを見てから口を開き、今朝あったK学の少女の事、
そしてその少女が矢口の試合を観戦していて、その姿を見ていたら
不意に心がとても軽くなった事の旨を簡単に二人に説明した。
- 170 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時36分08秒
- 「へえ、梨華ちゃんはそういう趣味だったんだね。」
「よっすぃ・・・話、ちゃんと聞いてた?」
「りかちゃんは女好きかぁ。男におぼれるタイプだと思ってたけどなあ。」
「のの?男におぼれるの意味わかってんの?」
バカな二人は梨華の話を適当に流していただけだった。
梨華がそんな二人に落胆していると、間も無く
Dコートの観覧席着き、腰を下ろした。
時刻は正午を越していて、日射は一層厳しくなるばかりだった。
観戦している観客はとても少なくて、数えるほどしかいなかった。
試合の方も終盤で、五番手の選手が二人、ちみちみと点を取り合って
ぎこちないテニスを観客達に晒していた。
Y学館対A女子高。二つとも全く三人の意識には無い高校名だった。
スコアは二勝二敗とシーソーゲームを展開していて、この五番手の結果で勝敗が決まる。
「ヘタクソだね。この二つのどっちかが次、K学とあたるんでしょ?
かってもほとんどいみ無いね。」
希美はイスの肘掛で頬杖を作り、つまらなそうにそう言った。
吉澤はよくわかっていなかったが、希美が言うのだから間違いないと思った。
しかし、梨華だけは違った。
「あの、Y学館の選手、・・・なんか違うよ。」
梨華はY学館の五番手の選手、ショートカットで墨で塗ったような黒髪、
少しポッチャリとしているが、それでも体はテニスの為に出来上がっているようだった。
そして、何よりもつまらなそうにテニスをしている。
「え?なにが?」
- 171 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時37分39秒
- 希美が興味が無さそうにぼんやりと呟く。
吉澤はあまりにつまらない展開から、眠りに落ちていた。
試合は至って平凡で、Y学館の選手が若干、A女子高の選手よりも有利に試合を進めている
位で、何の特徴も無く、面白味も無かった。
「よくわからないけど、この感じ・・・あの人は、違う。」
梨華はこの時、ある感慨を再燃させていた。
そう、忘れもしない。雨の入学式、矢口と初めて会った時覚えた感覚――――
――――――世界が違う。
梨華はこの時、根拠も無く、それでいて頭の中はそのフレーズで埋め尽くされていた。
試合の方は、第一セットをY学館の選手が辛うじて六=四で取り、
丁度今、第二セットを六=三で取った所だった。
試合に勝利しても、その表情はピクリとも変化しなかった。
含み笑いを浮かべているようでもなく、無表情な訳でもない。
しかしそこには、梨華にしか理解できぬ、ただならぬ雰囲気が醸し出されていた。
Y学館の勝利、一回戦突破で、部員達は揃って安堵の表情を浮かべていた。
件の選手以外は――――――
試合後、三人はプラプラとクラブ内を軽く見回っ後、取り留めの無い会話を
紡ぎながら家路に着いた。これで、吉澤とまだ別れなくて済む。
梨華は二人と別れた後、改めてそう思い、浮かれた心持ちで足取りを速めた。
柴田に勝った事、みんなが揃って勝った事、そしてあの少女に出会えた事――
しかし、最後まで脳裡にこびり付いていたのは、あのY学館の選手の無気味な表情だった。
――――――――――――
- 172 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月16日(土)04時40分02秒
- 更新しますた。
誤字脱字や、ペースの低下など、いろいろと申し訳ないです。
- 173 名前:カネダ 投稿日:2002年11月16日(土)04時41分24秒
- 名前欄、やってしまいましたが、これはただのミスなので、九話ではないです。
- 174 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月16日(土)18時06分37秒
- ま、まさかY学館の選手って…(ゴクリ
娘。にハマるきっかけになった人かもしれないので、今から胸がドッキドキです。
でも、K学には勝ってほすぃ(w
- 175 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月16日(土)18時31分16秒
- 三馬鹿最高です。この三人の会話は、心和むアフォで大好き
でもお気に入りはK学トリオだったり
- 176 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月16日(土)22時41分07秒
- >>175に同志ハケーン!!
何だかんだ言って、天才の活躍が1番読んでて胸がスカッとするのれす。
それぞれのキャラがしっかりしていて、どんなエピソードも面白いけど。
- 177 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年11月17日(日)01時30分12秒
- 更新お疲れさまです。
中澤先生の育てている選手は、個性派ですね。
プレイスタイルでは、あやゃと梨華ちゃんが好きです!
ここの石川さんは特に大好きなプレイスタイルです。
これで、ライジング打ちでフォアやクロスに打ち分けられればもっとすごい選手になりますね。
さらに、ストロークだけでなくボレーやスマッシュを覚えたら...。
怖いくらい強い選手になりそうです。
試合が進んでいますが、大好きなよっすぃ〜の活躍もお願いします!
PS:ようやく更新に保存が追いつきました。
BGMをつけて見ました。
2曲しかないですが選択できるようにしました。
どんな曲が一番、ここのイメージに合うんでしょうね?
よかったら、教えてください。
http://kuni0416.hp.infoseek.co.jp/text/
- 178 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月17日(日)19時12分57秒
- 後藤は石川の試合は見ていなかったんでしょうかね。
K学トリオがその後何をしているのか気になります。
もしや、Y女子の試合を3馬鹿達と一緒に見ていたのやも…!?
- 179 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月17日(日)21時21分59秒
- なるほど、石川のテニスはこーゆースタイルでしたか。
でも現時点では、後々対峙するであろう天才には通用しない気が・・・。
中澤も何か気になるコトを言ってたし・・・。
次の更新あたりからK学サイトになるんでしょうかね?
一番気になるのは、矢口の復活を知った市井の反応・・・。
- 180 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年11月19日(火)12時37分30秒
- 「馬鹿は強いぞ」・・・名文句だす!
石川やったなぁ うんうん
第一戦勝利 自分のことのように嬉しいな
Y学館の少女 来たかな(ボソッ
- 181 名前:カネダ 投稿日:2002年11月20日(水)02時33分46秒
- レス本当に有難う御座います。
本当に励みになります。
>>174名無し読者様。
きっと正解だと思いますというか、絶対ですね。(w
詳しく出すのは後藤編になると思いますが、それでも読んで頂けたら嬉しいです。
>>175名無し読者様。
メール欄、有難う御座います。ホント、更新量だけが取り柄なのこの話なのに悔しい限りです。
K学トリオは書いていて不安なんですが、そう言ってくれると助かります(w
>>176名無し読者様。
有難う御座います。恐縮です。
天才の活躍、もう少し先になりそうですが、それでも読んで頂けたら嬉しいです。
>>177ななしのよっすぃ〜様。
そうなんですよね。石川はいろいろと覚えさせたいんですが、なんせバカですから(w
ココに合う曲ですか、・・・・バカっぽいので(w
>>178名無し読者様。
K学トリオが何をしていたかは後藤編でじっくり書きたいと考えているのですが、
もう少し先になるかもしれません。更新が遅くなりがちで申し訳ないです。
>>179読んでる人@ヤグヲタ様。
石川はバカの一つ覚えテニスをさせたいと思っていました。(w
K学サイドはもう少し先になります、すいません。
自分もその場面に一番力を入れたいと考えています。
>>180むぁまぁ様。
一回戦、こんな内容になりましたが、勝ってくれました。
Y学館の選手、後藤編でその正体が明らかに!ってもう明らかですが(w
それでは続きです。
- 182 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時35分49秒
- 梨華は翌日、とても清々しく目を覚ました。
体は重石を一つ除去したように軽く感じ、心の中も否定的な感情が一片も無かった。
不思議と試合の疲れという疲れが全く無くて、梨華は上機嫌でベッドから下りる。
そして、日課の朝練の為にテキパキと手際よく準備をする。
まず最初にぬいぐるみにオハヨウを。
その後パジャマを脱ぎ捨て、Tシャツとピンクのスウェットパンツに着替える。
手鏡を覘き、軽く寝癖が目立っている箇所にピンを止める。
そして軽く体のストレッチをしたら、勢いよく階段を下りた。
台所の母親に挨拶をし、ラケットを取るためにリビングへ向かう。
そして、例の如くリビングで新聞を読んでいた父親を発見すると、
馬鹿を軽蔑するように睨み付けた。
「おおい、梨華ぁ。そんな怒ること無いだろう?あれは効くんだよ。」
父親は昨日、もし試合に勝ったらお小遣いを上げるという口約をしていた。
勝つ筈が無いと思ったのか、ただの激励のつもりだったのか知らないが、
父親が勝利を片手に帰ってきた梨華に渡したお小遣いはそれはもう、甚だくだらなかった。
―――――――五円。
梨華が受け取った褒美の金額だ。
梨華は犬が誉められたくてお手をするように、掌を父親の前に期待を込めて差し出した。
―――ソコに落とされた五円玉。
受け取った梨華は最初、何が始まったのかサッパリわからなかった。
儀式の余興だろうか?それとも五円、十円、五十円と、金額が徐々にアップするのだろうか?
しかし、五円を手渡した直後、父親が言った一言が梨華の浮かれた妄想を消滅させる。
―――――――梨華に御縁(五円)がありますように。
- 183 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時37分12秒
- 冗談だと受け取った梨華は気を取り直して父親に金をねだったが、
父親は大マジだったようで。
本当に真顔で五円について説いてくる父親に対し、梨華は呆れ返ったように激憤した。
それから梨華は父親に一切話し掛けなくなった。
「話し掛けないでよ。バカがうつるから。」
梨華は父親からプイっと目を逸らし、リビングに置いているラケットを掴むと
さっさと朝練に出かけてしまった。
「ごめんって、言っているだろうが!わからずや!父親に馬鹿とはなんだ!まずそれだ!」
父親は誰もいない玄関に向かって情けなく吠えた。
先天性の梨華の馬鹿さは、完全に父親からの遺伝だった。
――――――――――
梨華は授業中も部活中も心が踊って、時折思い出し笑いに似た感覚ではにかんでしまう。
目を瞑ると、試合後、皆が駆け寄ってきて自分を褒め称える光景がフラッシュバックする。
そして、その光景が頭によぎる度に梨華はニヤリと無気味な笑みを浮かべていた。
一転して、他の部員達はまるで昨日、何も無かったかのように、
気を引き締めて練習に取り組んでいた。
吉澤は試合での感覚を掴むため、松浦、紺野ペアを誘って、実戦さながらの練習試合を
何度も何度も繰り返しおこなった。
希美も吉澤の練習に付き合った後は相変わらずの基礎体力作りで、その妥協が無い
練習メニューは中澤さえも黙らせていた。
梨華も安倍と矢口の打球を返す練習を変わらずこなし、ある完成形に向かって順調に
前に進んでいるようだったが、一つ、釈然としない事柄があった。
- 184 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時38分03秒
- 「あの、先生、スマッシュを狙える時は、打ってもいいですか?」
「あかん。」
当然、肯定的な返事が返って来ると予感していた梨華は、中澤の即座の一言返事に、
意表を突かれたように情けない声を出してしまう。
「ほへ?何でですか?」
「理由なんて知らんでいい。お前は今やっている事だけを続けろ。
昨日勝てたのは、その御蔭や。」
「・・・・わかりました。」
(先生の言う事は絶対だ。)
梨華は心の中でそう言い聞かせたが、それでもやはり本心は釈然としなかった。
―――休憩時間。
梨華と同じように怪訝に思っていた紺野も、中澤に同じような質問をしようと考えていた。
中澤はテニスコートを照らす日射から逃れるように、二つあるベンチの内、
ポプラの木によって陰が出来ている方のベンチに腰掛けていた。
紺野は中澤の隣に恐縮そうに腰掛けてから、丁寧に問い掛けた。
「先生、石川さんはテクニックもつけたらそれこそ凄い選手になりますよね?」
「・・・いや、それはかなり後の事やな。」
中澤は最初口をもごもご動かしてから、浮かない顔で答える。
「どうしてですか?もう、矢口さんの打球を返すほど上達してるじゃないですか?」
「お前は餅みたいな気持ちのいい頬っぺたしている割には、よく判ってないな。
お前くらいの『見る目』ある奴ならわかるやろ?あいつ、体力こそずば抜けてるけど、
テニスの才能があるといわれたらそれは『否』や。だから、能力を身に付けるには
相当な時間が掛かると思う。
来年、いや、再来年くらいちゃうかな、あいつが花開くとしたら。」
- 185 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時40分06秒
- 紺野は中澤の語りをポオっとした表情で聞き入ってから、
そうですね。と、仕方が無さそうに返事をした。
「今は、現状維持って事ですか?」
「まあ、そうやな。こんな期間に下手な欲出すと、あいつは全く凡庸に
なってしまうからな。今のテニスが、今現在のあいつのピークやわ。
ステップアップには時間がかかんねん。」
中澤はそう言って諦めたように溜息を吐き、
ノースリーブのシャツの胸ポケットからタバコを取り出して、気持ち良さそうに吸った。
紺野は風が全く無い所為で、なかなか姿を消そうとしないタバコの煙を数秒見つめた後、
思い出したように中澤に話し掛ける。
「才能って、難しいですよね。本人には一体なんの才能があるのかなんて、
わからないじゃないですか?勿論、何も無いかもしれないし・・・・」
過去に天才と謳われた中澤は、紺野の言っている事を理解するのが容易だった。
欲しくても得る事が出来ない、潜在的な能力―――天賦の才―――
それが齎すモノは、一概に幸福とは限らない。
中澤は伸ばしていた足をゆっくり組むと、改まったように話し出した。
「そうやなぁ、でもな、コレだけはハッキリしてるぞ。才能があるからって、
その世界で絶対に通用するとは限らん。才能を伸ばす為に努力をし、
超一流の力を付け備えたって、絶対に成功するとは限らん。言ってる意味わかるか?」
「・・・・とても漠然となら。」
- 186 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時41分12秒
- 「つまりな、端的に言えば才能なんてしょーも無いって事や。
考えてみろや?この世界、いろんなことが満ち溢れてるやろ?
人付き合いからスポーツから音楽から科学から・・そんないっぱいあるカテゴリーの中で、
才能の為に一つの事に縛られるなんて、全くおもろないやないか。
テニスの才能があったって、それ以外の事を評価されなかったら、むかつくやないか。」
中澤はコートの隅の方のベンチに腰掛け、
無表情でラケットのグリップを丁寧に磨いている矢口を見ながらそう言った。
すると、紺野は納得したように、前方を見ながら何度か頷いた。
「そうですね。そう考えたら、才能を知ることなんて、
くだらない事なのかもしれないですね。」
「そうそう。テニスの天才と言われた奴がいるとして、
そいつはひょんな事から教師になってしまったとする。
でも、そっちの方が本人は気に入ってしまうなんて事、あるかもしれんやろ?
テニスに束縛されるよりも、いろんな事を経験できる教師の方が、才能が無くても
楽しんでる奴が、一人くらいこの世にはいる可能性は十分あるって事や。」
そう言った後に中澤はとても楽しげに、ははは、と高く笑った。
紺野はソレを中澤自身の事だとわかっていたのだが、敢えて何も触れなかった。
中澤の言っている事は間違っていないし、何よりとても説得力があった。
「そうですね。おかしくないです。全然。」
「だからな、究極的に、楽しんだもん勝ちや。この世は。
つまらんかったら、すぐにリタイヤして次のもん探せばいい。紺野、テニスは楽しいか?」
- 187 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時42分38秒
- 中澤は紺野に抽選会の帰りにした質問と、同じ質問をもう一度した。
「はい、とっても楽しいです。」
「はは、じゃあもっと楽しむ為に上手くなれ。それから、
何でも試みる心を忘れたらあかんぞ?環境なんていつ変わるかわからんからな。」
(そう、楽しまなきゃあかんねん。矢口・・・・)
「はい。」
中澤は短くなったタバコをベンチの隅に置いていた簡易灰皿の中にギュッと押し付けると、
さてと、と、言って立ち上がり、休憩の終わりを部員達に大声で知らせた。
紺野も満足したように立ち上がり、中澤にペコリと丁寧に頭を下げてから
自分の練習に戻った。
俄かに葉の色を濃くしたポプラの葉が、横風の所為でワサワサと大きく囁く。
それが合図のように、中澤は空を見上げてみた。
そこに広がった抜けるような青空はまるで、一時代を忘れるように透き通っていた。
中澤は教師になれた事、澱みの無い部員達と出会えた事をこの空に感謝した。
――――
夏はなかなか太陽の存在を消すことは許さない。
部員達は夏の太陽に呼応するように、燦然と懸命に練習をこなした。
この日、練習が終わったのは夜の九時を越えた頃だった。
帰り道、矢口と安倍の背中を追うように、一年の部員達は距離を置いて
いつものように他愛の無い会話をしながら帰途についていた。
希美と梨華と紺野が三人横一列に並んで歩いていた。
- 188 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時44分23秒
- 「ねえ紺野さん、Y学館って高校知ってる?」
梨華は三人でとりとめの無い会話を紡いでいる途中、
不意に昨日のあの無気味な表情をしている選手の事を思い出した。
テニスをしたいからする、勝つと嬉しいから試合をする。
そんな当たり前の感情が完全に欠けているような感があった。
それは矢口に共通するものがある。
でも何か、もっと無限大の奥行きのようなモノを梨華はあの選手から感じ取っていた。
隠しているような、温存しているような、とにかく、昨日の試合はあの選手の本質では無い。
梨華は根拠のは無いが、そう確信していた。
「うん。次、K学と当たる高校だよね。」
「そうそう。実力のある選手とかっているのかな?県で上の方までいったとか・・・」
「全然いないよ。確か創立したのもつい最近だし、
有名な選手は全くいない筈・・なんだけど・・・・」
喋っている途中で紺野は口篭った。梨華と希美は怪訝そうに首を傾げる。
「なんだけど?」
「うん。なんかね、先生が言うにはY学館には天才がいるらしいんだ。
K学、ひょっとしたら、ひょっとするぞぉって言ってた。」
紺野が突然、中澤のモノマネをした。
梨華と希美はその意外な紺野の行動に、一瞬言葉を失ってしまった。
「・・そ、そうなんだ。」
「・・へ、へえ、興味深いなあ。」
- 189 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時45分44秒
- と、梨華と希美の声が、ある種、辟易するように不安定になる。
すると紺野は漸く自分のした事を思い出したのか、夜中でもはっきりとわかるほど
顔を赤らめた。そして、心持ち俯き加減になる。
「う、うん。でも、K学が勝つのは間違いないと思うよ。」
「そうだよね。K学なんて、優勝候補筆頭だもんね。」
「K学と当たるという事は、あいぼんと当たるんだ・・・」
それから三人の会話はK学一辺倒になった。
そのすぐ後ろでは、吉澤が松浦を大切そうに拘束していた。
そう、大切そうに。
「ねえ、アヤヤ、ひとみのわがまま、聞いてくれる?」
吉澤が珍しく、松浦に好意的な声色で話し掛ける。
松浦の首に手を回し、それは一見、不良女子高生がとある優等生を恐喝しているような
スタイルだったが、吉澤の口調は至って優しく、それでいて純粋だった。
だから、松浦は余計に恐怖した。
「あ、あの、矯正ですか?今日は拙いんです。お願いします。」
何故、今日拙いのかわからないが、松浦はこの日は抵抗する事無く、
アッサリと吉澤に屈して許しを懇願した。――『こういう日』の方が、危険なのだ。
すると吉澤は、ああ違うよアヤヤ、と頭をクシャクシャ掻きながら
煩わしそうに矯正を否定する。だから、松浦は更に恐怖に戦いた。
- 190 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時47分33秒
- 「・・・今日、私、何されるんですか?」
「馬鹿だなぁ。なんもしないって。ねえ、ちょっと教えて欲しいんだけどさあ、
バックハンドのスピンって、どうやってかけんの?」
それを聞いた松浦の目が、月明かりを帯びた訳でもなく、キラーンと妖しく光り輝いた。
質問した後、吉澤は少し恥ずかしそうに頭をポリポリ掻く。
「それって、もしかして、お願いですか?」
松浦の口調が、若干、意地悪くなる。
吉澤は希美のようにテヘテヘと笑うと、うん、と、可愛らしく、アホ丸出しに返事をした。
すると松浦の口調が更に意地悪くなった。
「ほお、ほお。お願いですか。珍しいですねえ。バックハンドのスピンですかぁ。
アレはコツがいるんですよねえ。勿論、私は完全にそのコツを知ってますけどねぇ。」
「ね、アヤヤ。ゴシュジン様にその秘儀、一つ伝授してくれないかなぁ?」
「ええ?でも私、吉澤さんに色々されましたからねぇ、イロイロと。」
「じゃあさ、ジュース奢るよ。なんなら、一つお願い聞いてやるからさあ。」
「お願い?」
暗に、一人の復讐鬼が生まれようとしていた。
「・・・・・・うん、一つだけなら。」
(やな予感が・・・・)
「じゃあ・・・・」
- 191 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時49分57秒
- 吉澤は自分が思わず発してしまった失言を、核爆発級に後悔した。
もし、ここで奴隷撤廃、或いは立場逆転などを要求されたら、それこそ
今までパラダイスのようだった毎日は終わってしまう。
と言っても、本当に終わってしまうのは大会で負けた時だ。
ここは、一つ、松浦の要求を飲んでやろうと吉澤は潔く決意した。
この部でバックハンドの回転を器用に扱い、尚且つ極めているのは矢口と松浦だけだった。
「・・・・頭下げてください。」
暫し為を作った後、松浦はピン、と人差し指を立て、吉澤に顔を接近させて力強く言った。
そして吉澤は確信した。
(こいつも相当バカだ。)
「わかった、頭を下げればいいんだよね?」
「はい。それはもう、深々と。」
吉澤は松浦の一メートルほど前に早足で出ると、
クルリと振り返って、丁寧にお辞儀をした。
「アヤヤ、お願いします!」
人気の無い夜の並木道に、柔道部の号令さながらの大声が響き渡る。
すると、松浦は何か崇高な美音の余韻に浸るようにゆっくりと目を閉じた。
(ああ、この響き・・・)
声の反響がすぅーっと小気味良く通り過ぎてから、松浦はゆっくりと目を開ける。
なんとそこには自分に対し頭を下げている吉澤の律儀な姿が――。
松浦はそんな吉澤を見て、優越感に浸りながら、とても満足そうにほくそえんだ。
(ああ、気持ちいい〜幸せ〜)
- 192 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時51分37秒
- 「じゃ、いいですよ。まあ、ゆっくりと明日か・・・・」
「さて、付き合ってもらおうかな。」
松浦が言い終える前に、吉澤は抑揚のない、冷めた声で口を挟む。
すると松浦は、このアホは何言ってんだ、という表情をする。
やがて吉澤と別れる交差点に近づき、少し前を歩いていた三人は振り返って
吉澤に挨拶をした。勿論、吉澤の隣にいる松浦もした。
「なに言ってんだ、お前は今からあたしと練習だろうが。」
「あのー、熱でもあるんですか?」
「それはお前だろ。今から早速やるんだよ。」
「えええ?もう九時半ですよぉ!?」
「うん。別に、お前友達いないし、暇だろ?」
吉澤がサラリと酷い事を言ってのけると、
さすがの松浦も頭にきたのか、プイっと不機嫌そうにそっぽを向いた。
「いろいろとあるんですよ!私にだって!」
「いや、ないね。ある訳がない。」
「なんでそんな事、吉澤さんにわかるんですか?」
「ゴシュジン様だから。」
「そ、そんな・・・・」
「あたしの言う事は絶対だ。さ、行くぞ。」
吉澤は松浦の首をグイっと掴むと、さっさと交差点を曲がる。
有無も言わされぬまま、松浦は未知の土地へと歩を進める事になった。
夜の十時を超え、辺りは死んだように静まり返った閑静な住宅街。
一本の道路を挟んで、左右には平行して家々が立ち並んでいる。
足音が一々大きく響き、松浦は歩を進める度に心細くなった。
- 193 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時53分06秒
- 「あ、あの、今から何処行くんですか?」
「公園。」
「公園で、何するんですか?」
「んなの、ストロークの練習に決まってんじゃん。」
吉澤はさも当然といった声色で答える。
松浦にとって、夜の公園とはタブーな世界だった。
イカガワシイ催しや、平気で絡みあうカップルなどが溢れている場所。
夜の公園を歩いていて突然、男集団に襲われる、なんて話もよく聞く。
とてもじゃないが、綺麗な世界には想定できなかった。
「イヤですよ!公園でなんて!」
「だーいじょうぶだって。ここら辺は治安いいからさ。多分。」
「多分って、なんですか・・・・」
「お前は黙ってついてきたらいいんだよ。」
「それより、今から練習して、どうするつもりなんですか?」
「四日後までに、完成させる。」
そう吉澤が当然のように言った所で、ピタリと松浦が立ち止まった。
吉澤は面倒くさそうに首だけで振り向く。
「無理ですよ。次の試合までなんて。間に合う訳無いです。」
「間に合わせるんだよ。」
「どうしてそんなに焦るんですか?テニスって言うのは地道に積み上げる
スポーツなんですよ?無理に決まってるじゃないですか。よりによって、
バックハンドの回転なんて。私だって、何ヶ月も掛かったんですよ。」
松浦は強気で諭すように、いや、突き放すように言い放った。
それでも吉澤は動じず、きちんと体も松浦の方に向けると、殊に凛とした表情を作った。
その揺ぎ無い雰囲気に、松浦は一瞬、辟易する。
- 194 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月20日(水)02時55分06秒
- 「でも、やらなきゃだめだ。あたしには、時間が無いんだよ。
それで、頼れるのはお前しかいないんだ。」
「時間が無いって・・・どういう事ですか?」
「・・・・・・深い意味は無いよ。ただ、ののの足、引っ張りたくないんだ。
この大会、少しでも勝ち上がりたんだよ。」
「・・・はっきり言っときますけど、無理だと思いますよ。」
「やるだけ、やるよ。だから、付き合ってほしい。」
吉澤は松浦に一歩近づき、真摯な態度を作ってそう言った。
しかし、松浦はすぐに返事をする事が出来ない。
数秒、無音空間が生まれ、松浦は居心地の悪さを感じてキョロキョロと辺りを見渡す。
そして、もう一度改めて吉澤の顔を見てみるが、
その決意に満ちた表情には何の変化も無かった。
そんな凛とした吉澤に凝然と見つめられていると、松浦はいつの間にか、
『イヤ』というを言葉を忘れてしまっていた。
「・・・仕方ないですね。でも、終電までには帰りますからね。」
「ははは、あたしだってそこまでしないよ。」
「・・ホント吉澤さんは訳わかんないですよ。だいたい・・・・」
「お前、声がでかい。ご近所の事を考えろ。」
「そうやってすぐにですねえ・・・・」
ぐちぐちと松浦の愚痴が始まったが、そこに不平の色は一切無かった。
松浦の中で吉澤という存在は、いつかの帰り道に思ったように、
昔のくだらなかった日常を忘れさせてくれた当人に相違なかった。
吉澤のいない自分自身は、きっとあり得ないだろうな、と、松浦は隣を偉そうに歩く
吉澤を横目で見ながら、ぼんやりとそう思った。
そして、二人の秘密特訓さながらの課外練習が始まった。
―――――――――
- 195 名前:カネダ 投稿日:2002年11月20日(水)02時56分45秒
- 更新しました。
次で二回戦やらせます。
- 196 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月20日(水)10時52分35秒
- 石川家はなんか「ちゃんと家族している」って感じでいいですね。
バカだけど・・・(w
石川家のような父と娘の会話は、吉澤家や矢口家では絶対に成り立たないんでしょうね・・・。
- 197 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年11月20日(水)12時23分54秒
- 吉澤がんばれよ
松浦頼むぜ
今のオレにはこれしか云えない
- 198 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月20日(水)14時46分19秒
- よしあやマンセー。たまらん(w
- 199 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年11月20日(水)22時14分32秒
- 更新お疲れさまです。
いま、BGMにあやゃの曲を追加しようと知り合いに頼んでます。
音楽の才能無いので(笑)
でも、よっすぃ〜とあやゃの絡みは大好きです。
よっすぃ〜の矯正を恐れつつ離れられないあやゃ最高です!
(0^〜^)>>「アヤヤ、お願いします!」
从‘ 。‘从 >>松浦はそんな吉澤を見て、優越感に浸りながら、とても満足そうにほくそえんだ。
>>(ああ、気持ちいい〜幸せ〜)
ここにあやゃの心情が現れてますかね?
試合でのよっすぃ〜とあやゃの活躍期待して待ってます。
- 200 名前:石凸 投稿日:2002年11月21日(木)03時54分35秒
- いやあ松浦イイなあ。松浦ってTVで10秒ぐらいしか見たことなかったけど
こんなキャラの子なんですか?藤本はなんとなーく分かるような気がするけど。
- 201 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月21日(木)21時58分50秒
- 一番好きな小説です!
テニスに興味が湧きました。
- 202 名前:4489 投稿日:2002年11月21日(木)22時14分47秒
- ベストコンビをこの作品から選ぶとしたら、間違い無く、よっすぃーとあややでしょう。
松浦のよっすぃーとの別れを見てみたい。
- 203 名前:4489 投稿日:2002年11月21日(木)22時16分28秒
- すみません。ageてしまいました。
- 204 名前:カネダ 投稿日:2002年11月26日(火)02時27分30秒
- レス有難う御座います。
大変励みになります。
>>196読んでる人@ヤグヲタ様。
そうですね、石川編ではそれぞれの家庭の事情を入れることを
一つのテーマとして入れてました。吉澤や矢口に比べると石川は幸せなんです。
>>197むぁまぁ様。
松浦、しっかりと吉澤に教えることが出来たのか?それを
今回の更新で描きたいと思います。そう言ってくれるだけで嬉しいです(w
>>198名無し読者様。
有難う御座います。本来、吉澤と松浦がここまでいいコンビになってくれるなんて
夢にも思いませんでした。自分も二人のやりとりは楽しく書いています(w
>>199ななしよよっすぃ〜様。
そうですね。そこに松浦の本音?というか心情を書きました。わかり辛くてすいません。
二人の絡み気に入ってくれて嬉しいです(w
>>200石凸様。
本当にこんなキャラだったら・・・一生ついていきます(w
藤本もあんなキャラでは決して無いと思いますが、そうだったら上と同じくついていきます(w
>>201名無しさん様。
有難う御座います。とても恐縮です。テニスは自分も大好きなスポーツですので、
好きになっていただけると、この話を書いてて良かったとつくづく思います。
>>202-203 4489様。
吉澤と松浦ですか、自分には全然考えもしなかった組み合わせです。
そう言えば、主人公の石(略
後、age、sageについては特に拘っていないので、気にしないで下さい。
それでは続きです。
- 205 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時29分03秒
- 四日後、梨華は大会初日と同じようにHテニスクラブに、時間に余裕を持って向かった。
勿論、前回のような墓穴を掘るわけにはいかいないので、ちゃんと考慮し、
この日は集合の十分前にきちんと到着した。
大会は滞りなく、順調に試合を消化していった。
雨が降って日程がずれる事も無ければ、選手の怪我などのアクシデントも全く無い。
今日から二回戦が始まるのだが、何故か梨華には不安や危惧といった感情が一切無かった。
前回の柴田戦での完璧な勝利が、心を浮かれさせ、間違った確信を齎していたのだ。
今日の対戦校は一回戦でR高に勝利したW大付属で、その実力は一回戦のS高校の比ではない。
毎年ベストエイトには名を連ねる揺ぎ無い優勝候補の一角である。
梨華は更衣室でウェアに着替えると、意気揚揚と今日、試合行うAコートに向かった。
Aコートはクラブの入り口から最も近い位置に存在していて、
その周りは閑散として人気は無いが、綺麗に装飾された小さな公園に似た広場がある。
この日は風が強く吹き、初日の夏の暑さは完全に影を潜めていた。
天候は殊に勝敗を大きく左右する。
風の存在や気温。日の向きなどを考慮に入れることは選手としては常識なのだ。
中澤もこの日は一回戦とは違い、威厳のある雰囲気を醸し出していた。
相手の高校の面構え、体つき、雰囲気、様々な事柄を見ている内に
いつの間にやら気を張っていたのだ。そして一人の光る選手を見つけた。
W大付属の練習時間、レベルの高い連中の中に、一際目立つ、一人の両手打ちの選手。
中澤はその選手を見つけて突然、表情を強張らせた。
(上手い・・・)
- 206 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時29分58秒
- 淡々としたストロークを打つが、微妙に毎回、回転を変えている。
何よりも、あのバックハンドのドライブ。
あのクラスの打球を打てる選手は、全国クラスでなければ存在しない。
組み合わせにもよるが、矢口、安倍以外の部員が当たれば、相当に拙い。
T高が事前練習を行う前に、中澤は冷めた様子で部員達にこう説明した。
「今日は三勝二敗でいい。とにかく、勝ちに拘れ。特にダブルス組み、
お前らのうち、どっちかが勝ってくれたらそれでいい。」
えらく自信の無いその発言に、部員達は不安の色が隠せなかった。
「先生、もっと、全勝してこいやー、とか、言ってくれないんですか?」
吉澤が中澤に問い掛けると、中澤は素っ気無く答えた。
「無理やな、全勝は。とにかく、全力でいけ。」
T高校が事前練習を済ますと、両高校のレギュラーがコートで平行になるように並び、
初日と同じように挨拶をする。
そして一回戦のダブルスのペア以外の部員がコートを後にした。
気温は二十七℃、風は時折強く吹いたが、そんな事は松浦、紺野ペアにはお構い無しだ。
吉澤の課外練習に付き合っている所為でお疲れの松浦も、試合直前になると気を引き締めた。
紺野は相変わらずのようで、開始の合図が宣言される前に松浦にこう言った。
- 207 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時30分41秒
- 「アヤヤ、勝てるよ。普通にやれば。」
「じゃあ、普通にテニスするよ。」
「うん、次のK学戦の為の、通過点でしかないからね。」
それぞれが位置に付いた所で、第一試合が始まった。
相手のペアは実力こそ、そこそこだが、試合の展開が至って単調だった。
サーブは決まってスピンかスライスサーブ。
力で押し込むサーブで得点を得ようとは決してしてこない。
パッシングやドロップショットで相手を揺さぶるような事も一切してこない。
堅実で単調なテニスを延々と練習してきたのが、素人目から見ても明らかだった。
それならば面白くさせてやると意気込んだのは紺野だった。
紺野は第一セットの第一ゲームでなんとドロップショットを三回も決めた。
ダブルスの試合でドロップショットをこれ見よがしに打つなんて殆ど無意味のように
思われたが、コレが案外、堅実なテニスをする連中には効くのだ。
一度打ってきたら二度目は無い。そう考える裏を読み、紺野はバカみたいにドロップショット
を連発した。
第一ゲームを奪い、流れを掴むと、そこまで点取り屋だった紺野が影を潜める。
そこで相手の連中は更に困惑する。それまで紺野の背を押していただけの松浦が
満を持して躍動しだしたのだ。松浦はサーヴィスゲームを当然のように奪い、
オーソドックスで無駄の無い自身のテニスを思う存分発揮した。
そして、二人は阿吽の呼吸で攻撃パターンを目まぐるしく変化させた。
決定打に持ち込む為に焦ったテニスをしてみれば、途端にラリーで心理戦に持ち込んだりする。
- 208 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時31分40秒
- 奇抜な展開で二人が交互に点取り屋になるテニスで四ゲームを連取し、まず安全圏に入る。
一セットのうちの無傷で四ゲームを連取するというのは、セット奪取の安全圏に当たる。
紺野、松浦ペアからはプレッシャーが無くなり、反対に相手のペアからは焦燥が始まり、
そして絶望が見え隠れする。その分岐点である四ゲーム差。
松浦、紺野ペアは予定通りに六=二で第一セットを奪うと、
第二セットは更に不可思議な展開に持ち込んだ。
人が変わったように、全く平坦なテニス一辺倒に徹したのだ。
仕掛けるわけでもない、かといって何かを狙うわけでもない。
紺野が相手ペアに仕掛けた最高の罠―――――
それは第一セットを通じて行ってきた、細工で固めたテニスを脳裡に植え付ける事。
まんまと猜疑心に満たされた相手ペアを料理す事など、流れを掴んだ二人ならば容易だった。
――――
T高はまず、一試合目を取り、幸先のいいスタートをきった。
「吉澤さん、バックハンドは出来るだけ使わない方がいいですよ。吉澤さんの
フォアハンドは私から見ても結構切れてますから。練習の事なんて忘れていいんですから。」
試合後、松浦は休む間も無く吉澤を捕まえて声を掛けた。
すでに希美はコートに入っていて、ネット付近で揚々と準備運動をしている。
第一試合で掴んだいい流れをそのまま持続し、吉澤もそれに続こうと意気込んでいた。
その出鼻を松浦が挫く。
「相手は素人じゃないし、二試合目の勝敗は大きいです。だから試験的に試合を
するなんて絶対にダメですよ。ちゃんと辻さんに返球を集める事に徹してください。」
- 209 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時37分15秒
- 何故か相手のペアの一人は昨年の県のシングルスでベスト16まで勝ち上がった村田めぐみ。
松浦はその事も兼ねて吉澤に力強く忠告した。
しかし、吉澤から返って来た答えは松浦の懸念を大いに裏切った。
「バカ。実戦で使えなくて何の意味があるんだよ?」
「・・・だから、別に今じゃなくていいじゃないですか?」
「もし、ののが不調だったらどうするんだよ?あたしばっかり狙われたらどうするんだよ?
あたしだって練習してきたんだ。あたしは明日の為に試合をするなんてイヤだ。」
「・・・どうしてそう、素直じゃないんですか?」
「素直な生活してないからだよ。」
吉澤は半ば屁理屈を展開する子供のように一々松浦に返答した。
そこで審判から吉澤に催促が掛かり、松浦を突き放すような形で
吉澤はコートに入った。
「四日間、上手くスピンがかかったのは数えるほどしかないのに・・・」
松浦はコートで意気込む吉澤に対し、小さな声でそう呟いた。
松浦の心配を他所に、審判の声が響き渡って、希美のサーヴィスから第二試合が始まった。
希美は次の、勝ち上がってくるであろう、K学の事しか頭になかった。
目の前の相手はただの通過点。だから負けることは勿論、苦戦する事も許されない。
加護が見ているかもしれないのだ。希美は不必要に自身の心を鼓舞させた。
(絶対勝つ)
心の中で言い聞かせ、そしてサーブの体制に入った。
一方、吉澤の頭の中にはこの試合を勝利することしか頭になかった。
(前の試合みたいに焦っちゃだめだよ。)
試合直前に希美にそう言われて、吉澤は試合開始の直後自分の心境を探ってみる。
- 210 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時38分29秒
- 心音は意識しなければ気付かないほど落ち着いていて、吹き出すほど、安定している。
周りには矢口目当ての観客が大勢いたが、自分の事を見てないと思えば
なにも感じる事はない。何より、体が嘘のように軽い。
それは前の試合の猛暑とはうって変わった、この心地のいい大気の御蔭だと思った。
「のの、いけるよ!」
試合が始まって、希美がサーヴィスエースを奪った後、吉澤は希美に声を掛けた。
その後バックラインの方に首だけを向け、次のサーブの体制に入ろうとしている
希美に対してニヤリと余裕の笑みなんかを見せてみたりする。
しかしその余裕の笑みは、徐々に徐々に翳を消すことになるのだが――
第一セット、まずゲームの奪い合いの展開が始まり、希美、吉澤ペアは
四=三と試合こそ有利に進めてきたが、第四ゲーム辺りから希美と吉澤の息がさっぱり
合わなくなってきていた。そして第七ゲーム後のコートチェンジの時、
吉澤は希美に募っていた不満を露にした。
「なんであたしの返球に手ぇ出すの?」
「よっすぃはバックハンド苦手でしょ?だからだよ。」
「でもののがミスしてんのはそこでしょ?あたしに任せてみてよ。」
「・・・ダメ。勝ちたいなら、ののに任せて。」
「あたしだって、練習してんだって!」
- 211 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時39分10秒
- 吉澤は思わず座っていたベンチから立ち上がり、希美を見下ろして叫んだ。
すると、普段は温厚な希美も堪らず立ち上がって、そして吉澤を睨み付けた。
「よっすぃと違って、ののはもう何年もテニスやってんだよ!」
二人の口調の険が頂点に達した時、中澤が二人のすぐ後ろの場所まで歩み寄ってくる。
そして金網を乱暴に掴み、二人を交互に睨みつけてから中澤は吠えた。
「お前ら!!次は無いって言ったやろうが!!!!」
ざわめきに満ちていた観客たちも、その怒号によって一瞬で言葉を失う。
緊迫した空気が辺りを支配し、希美と吉澤は二人で一度顔を見合わせてから
恐々と後ろの中澤に体を向けた。
「吉澤、前みたいな無様なテニスしてみろ?二度とテニス出来ない体にすんぞ?
辻、お前は吉澤を引っ張るだけでなく、ちゃんと引き立てるのも仕事と言う事忘れんな。」
「・・・すいません。」
「・・・はい。気をつけます。」
審判の声がかかって、二人がそれぞれの位置につこうとしたその刹那、
「ダブルスは息や。お前ら、大切な事忘れてるぞ。」
中澤は呆れたように冷めた口調でそう言って、自陣のベンチに戻っていった。
それから漸く観客はざわめきを取り戻し、そして大気の流れも緊張から弛緩していく。
ベンチに待機していた部員たちも、そこでホッと胸を一撫でした。
- 212 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時40分10秒
- 「・・・よっすぃ、信じていいんだよね?」
「・・うん。練習したんだ。松浦と。あいつの苦労を無駄にしたくない。」
「じゃあ、次からは気をつける。」
「ゴメン、のの、あたしも我侭だった。」
第八ゲームは村田のサーヴィスから始まる。
先のゲームで希美は村田の特徴のあるサーブをかなり苦手にしていた。
村田のサーブはほぼ無回転で打つ、切れのあるフラットサーブが主だったが、
極稀に打ってくる、スピードを殺したスライスサーブがあった。
それが一番の曲者で、フラットサーブと交えて使われると、どうにも体が上手く反応しないのだ。
そして吉澤はまだ村田のサーブに対してまともに返す事が出来ないでいた。
吉澤はサーブに備える前に、心に馬鹿げた質問をしてみた。
(テニス続けたいか?みんなと一緒にいたいか?みんなの力になりたいか?)
余りにも馬鹿げているのに気付いて、吉澤は笑ってその答えを誤魔化した。
吉澤は本来の心持ちに戻り、体も万全の状態である事を再確認した。
しかし、このゲームは村田のサーブが吉澤を圧倒すると誰もが考える場面だった。
村田はメルヘンチックで柔和な表情からは考えられないような怜悧な思考を持っている。
首を二度振って、手首の感覚を確かめてから村田はサーブの体制に入った。
吉澤の能力は希美に比べてかなり劣り、まともなサーブを打てば、容易にリターンされる
事は無い、と村田は考えていた。風は無く、体力も十分に残っている。
村田はフラットサーブのみで吉澤を料理する事に決めた。
でも、この時の吉澤は神がかったように体が冴えていた。
(テニス続けたいか?)
- 213 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時41分06秒
- 村田のセンターライン付近に打ったフラットサーブを、吉澤はフォアハンドで
ボレー気味に返した。それだけでも誰もが瞠目したのだが、そこから更に
吉澤は光だした。持ち前の瞬発力で、あっと言うまにネットに詰める。
村田がバックラインから強烈なストロークを打ってくると、
吉澤は苦手としているバックハンドのストロークできちんと返球した。
「よっすぃすごいじゃん!」
と、希美に試合中に声を掛けられ、吉澤は照れたように笑いながらも
ポジション取りをしっかりと行い、村田の相方のミスを誘った。
「あたしだって、点取れるんだって。」
それは驕りではなかった。
吉澤は確かに上達しているし、運動能力は部の中でも秀逸だった。
何より、決意の格が違う。続いて希美が次の村田のフラットサーブをリターンする。
希美がリターンしたのを確認すると、吉澤は例のように前にダッシュした。
吉澤の動きは試合慣れしてない所為で、単調で浅はかなモノになってしまう。
そこを希美がしっかりとフォローしてやればいいのだ。
吉澤が先ほどと同じようにネットに詰めると、それを予めよんだ村田の相方は
吉澤の足元を狙ってパッシングを打った。まんまと後ろに抜けていく打球。
しかし、後ろにはしっかりと希美が待機していた。
希美は嘲笑うかのようにクロスにストロークを放つが、村田は持ち前の
よみの深さで何とかラケットの先で打球を捉えた。が、甘かった。
- 214 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時41分36秒
- 希美の渾身のストロークは、村田の細い手首をあり得ない方向へとひん曲げる。
無理な体勢で返球できるほど、無敵のツインズの片割れの打球は甘くない。
ポイントは30=0になる。
その次のサーブで村田は考えを改め、得意のスピードを殺したスライスサーブを打った。
これには反応できまい、と、村田が思った直後、綺麗に吉澤によって放たれたレシーブ
が返ってくる。そして、自身のスライブサーブへの過信が、村田にあり得ない展開を齎す。
村田は吉澤のレシーブを上手く捕らえることが出来ず、ネットに引っ掛けてしまったのだ。
―――痛恨のリターンエース。
希美、吉澤ペアは無傷で第八ゲーム、マッチポイントへと辿り着いた。
その後は実に呆気なかった。
不安定になった精神の所為で、村田はダブルフォールトを晒してしまった。
第八ゲームを吉澤、希美ペアは苦もなく奪った。
流れを掴んだ吉澤、希美ペアはそのまま六=三で第一セットを取る。
見ている者は流れのままに次のセットも吉澤、希美ペアが取ると確信したが、
テニスの神様はそこまで新参の吉澤、そしてこの試合を通過点にしかすぎないと
考えている希美には優しくなかった。
セット間の休憩時間、村田は中澤が目を付けた、ある選手に声を掛けられていた。
「あんた、私にやられた時と、同じ事やってるじゃん。」
「・・・うるさい。次は取る。」
「あんな連中にもし負けたら、それこそ一生ダブルス抜け出せないよ?」
- 215 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時42分52秒
- 俯瞰するように、村田を見下ろす。
すると、村田は天を睨むように見上げた。
「・・・・・勝つ。絶対に。」
村田から、先ほどまでに無かった闘志が湧き出した。
負けられない、枷のようなダブルスの道。村田は、この選手とバカみたいな
条件をかけて練習試合をしてしまった。――負けた方が部を辞める――
当時の村田は『ノッ』ていた。強豪揃いのこの県内で、組み合わせも良かった所為もあるが、
ベスト16まで勝ち上がった。そこに突如として現れた一人の留学生。
名も無いその選手を、村田は鼻で笑って蹴散らそうと思った。
しかし、結果は惨敗だった。まともにテニスすらさせてもらえなかった。
推薦でこの高校に入学した村田には後ろが無く、屈辱の土下座をして退部を免除してもらった。
しかし、その代わりに自ら進んでダブルスを志願するという条件をつけられた。
この日から村田はエースの座を譲り渡し、そしてその選手の言いなりになってきた。
第二セット、その選手の発言によって村田が変わった。
村田はそれまでサーブや切れある打球で攻めていた戦法を変え、
貪欲にライジングショットを狙う事に努めてきたのだ。
綺麗なテニスをして勝てたらそれに越した事はない。
だが、件の選手が見ている前で敗北を期する事は、
村田にとって冒してはいけないエース回帰への道の断絶に値する。
鮮やかに散るよりも、醜悪とも言える貪欲なテニスで、泥濘の底から執拗に勝ちを掴み取る。
村田は変わった。
- 216 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時43分42秒
- 少しでも甘い球をアプローチすると、
ハイエナのように飛びついて確実にコートに突き刺す。
それまで村田の引き立て役にしかすぎなかった相方も、
村田の変わったスタイルに合わせてきた。
二人とも、ネットにびっちりと詰めて、パッシングやロブの隙を与えない。
少しでも甘い球を打てば、問答無用のスマッシュが返ってくる。
この展開は不器用な希美や吉澤には面白くなかった。
希美も吉澤も、相手の頭上を越すような上手いロブを打つことを苦手としている。
希美が力任せのストロークを打っても、ネット際での返球ならば容易だ。
希美も吉澤も、テクニックが必要なパッシングや裏をかくテニスをする事もできない。
第二セット、この二人の隙を見出そうと試行錯誤するが、結局見出せず、
三=六で持っていかれてしまった。
第二セット後、二人は不甲斐無さそうに肩を落としながらベンチに戻る。
そして徐に近寄ってきた梨華や安倍、紺野に松浦に励まされた。
しかし、どうしても光明を見出せない二人はそれに笑顔で答える事が出来ない。
「吉澤さんのテニス、イイ感じですよ。頑張ってください!」
吉澤がベンチで項垂れていると、先ほど激励に来た松浦がもう一度やって来て、
なにやら一所懸命、背中を後押してきた。一所懸命。
そんな松浦の健気な姿を見ていると、吉澤はとても自分が憎らしくなってきた。
夜中付き合せたり、日頃は弄したりして、えばり散らしている松浦に自分は何をした?
バックハンドのスピンの練習、全然上手くいかなくても松浦は呆れたりは決してしなかった。
- 217 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時44分15秒
- 「いい感じ?嘘付け。なんもしてないよ。あたしは。」
「何言ってるんですか?あのリターンは凄かったです。あの調子で・・・・」
「お前、声がでかい。」
「・・・・すいません。」
「バーカ。黙って見とけ。絶対、バックハンドのスピンでポイント取るから。」
「・・期待してます。」
吉澤は第二セット後、初めて笑った。
風が強くなってきて、季節は夏だというのに、初秋を感じさせるような気候になってきた。
汗を存分にかいた二人には、少し、肌寒い感じもした。
空にはチラチラと色の黒い雲が、クラブ内から見える山の稜線の頂の所まで迫ってきている。
相手の二人も息を整えながら、ウィンドブレーカーを肩に羽織って寒さを軽減していた。
体が冷えてきた吉澤も催促されたように体を動かし始め、
それにつられて希美も同じように体を温め出した。
「のの、思ったんだけどさ、奴隷の前で恥はかけないでしょ?」
「そうだね。それは情けないね。」
「いっちょ、勝とうよ。」
「うん。」
二人の軽いやりとりの後、第三セット開始の合図が響き渡り、それぞれがコートに入った。
村田の形相は何かに怯えるように、常に強張ったように引きつっている。
第一セットでの温厚な気配はもはや皆無だ。
- 218 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時45分38秒
- 村田の相方からのサーヴィスで第三セットは始まった。
相方の方もスピードのあるサーブを上手く決めてくるし、伊達にW大付属のレギュラーではない。
しかし、希美のリターンは並の選手ならば返す事が出来ないほど、重く、鈍い。
先ほどのゲームを反省し、希美は殊にレシーブに力を入れた。
甘いサーブならば、容赦なくブッ叩く。
希美が計ったようにリターンエースを二つ決めて圧倒的な力の差を見せ付けると、
吉澤も相手の打ち損じを誘って、第一ゲームを難なく奪った。
そして第二ゲームは吉澤のサーブだ。
吉澤は強いバネを潜在的に所有している。それは遺憾なくサーブでも発揮していた。
体を撓り、弓の弦のようにピンと反る。
そして臨界点に達したら、ブンっと解放するように、流れるように腕を振った。
そこから生まれる高速のフラットサーブ。
完全な形であれば、並大抵の選手では返す事は出来ない。
それを吉澤はこの日、何度か決めていた。
そして今も、レシーバーの村田に対して、吉澤はファーストサーブを完璧に決めた。
しかし、村田の執念は吉澤の臨界点の一つ上を行っていた。
村田は吉澤のフラットサーブを押され気味ではあるが、しっかりとリターンしたのだ。
その後、村田は勝ち誇ったようにネットに詰めた。例の展開が始まる。
鉄壁のように立ちはだかる二つの壁が出来上がる。
希美は考えた。
気転の利く展開に、加護ならばどうやって持っていくのだろう。
- 219 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時46分09秒
- いつも加護には負い目を感じていた。自分が想像すらしない事をいつも平気でやってのける。
目の前に大きな壁があったって、加護はどうしたって打開したじゃないか。
加護と比べられるのが怖かった。加護に見捨てられるのが怖かった。
加護は、いつもコートを素早く走り回って、後ろから自分を援護してくれた。
(足・・・・)
足だ。
加護の武器は特異なテニスだと見られがちだが、その根底はあの敏捷な足。
吉澤の足ならば、加護の足よりも、一段階速い。
吉澤は常にサーヴィスラインの内側で動いていた。
後ろに下がるのは相手に攻撃範囲を増やす事になり、お世辞にも得策とは言えない。
が、ココは一つ、博打だ。
第二ゲーム、村田のスマッシュが決まって15=0になる。
その直後、希美がサーブの体制に入ろうとしていた吉澤の元に早足で歩み寄った。
順調に流れていた試合が一時、中断する。
吉澤は試合を止めてしまった事に対し、審判に向かって、すいません、
とバツが悪そうに言うと、焦ったような表情で歩み寄ってきた希美に話し掛けた。
「なんだよ?のの、試合中だよ?」
「ねえ、耳かして。」
希美が背伸びをして、何かを包み込むような手の形を作り、それ越しに吉澤に耳打ちする。
「よっすぃさあ、常にバックライン付近で、ボレーとストロークだけ狙ってくれない?」
すると吉澤は大袈裟に驚くような反応をする。
- 220 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時46分59秒
- 「なんで?そんな事したら、相手の思うつぼじゃんか。」
「いいから。これは作戦なんだ。よっすぃには走って欲しいんだ。」
「走る?」
「バックハンド、練習したんでしょ?だったら、両サイド、まんべんなく走り回って、
できるだけ打球を拾って欲しいんだ。」
そこで審判にゲームを始めるよう、催促される。
二人は揃って審判、その後相手のペアにすまなそう頭を下げた。
「お願い。信じてるから。」
「・・・わかった。」
吉澤が渋々承諾した所で、希美は急いで左サイドのネット際に戻った。
そして、吉澤は希美に言われた事を反芻しながらサーブの体制に入った。
(走る。走る。・・・・・・)
平凡なスライスサーブだがライン際に決め、村田の相方の足を一瞬だが堰き止める。
そして村田の相方は焦った。
すぐにネットに詰めなくては、これまでの展開に持っていくことが出来ない。
何より、吉澤は先ほどからサーブを打った後は条件反射的にダッシュで前に出てきた。
それを考慮し、村田の相方はロブを上げて吉澤の頭の上を抜こうと考えた。
――が、吉澤はバックラインの位置から全く動いていなかった。
絶好のロブが、甘い絶好球に変わり、それに反応した吉澤は難なく村田の前に
スマッシュを決めた。15=15。
が、これは希美の思惑ではなく舞い降りた唯の幸運。
本当のゲームはこれから始まる。
- 221 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時48分22秒
- 吉澤は次にフラットサーブを抑え気味に打ち、確実にインさせると
やはり先ほどと同じようにバックライン沿いに居着いた。
それを確認した村田とその相方は容赦なく吉澤に向かって厳しいストロークを浴びせる。
左右に振り、希美にボールを触れさせないように懸念しながら吉澤を左右に揺さぶる。
が、吉澤は持ち前のダッシュで何度も決定打とも言える打球を返球した。
バックハンドも、ただ返球するだけならば何とかインさせる位の技術はつけていた。
吉澤を揺さぶっているうちに、村田の相方が打球を捉えそこない、希美の頭上に
絶好球を打ち上げてしまった。希美はそれを待ち構えていたかのようにスマッシュを決める。
30=15。ここで、村田ペアは吉澤を揺さぶる事を止め、戦法を元に戻し
もう一度、鉄壁を作った。希美の望む展開になる。
その後の展開は至極一方的な流れになった。
偶然か必然か、吉澤は何度も相手の頭上を見事に、超えるロブショットを決めた。
左右に揺らされる事によって稀に打ち損じ気味になり、
その打球が見事ロブのような形になって二人の頭上を高く抜く。
きちんとしたポジションを取っている相手ならば唯一無二の絶好球。
しかし、ネットにピタリと詰めている相手にはそうはならない。
村田ペアの後方には、ガラガラの空隙が広大に広がっている。
的が馬鹿でかい的当てのようなモノだ。頭を『超え』さえすれば、点は入る。
希美、吉澤ペアはそのまま二ゲームを連取した。
- 222 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時48分58秒
- 第四ゲーム、勝敗への分岐点に達する。
―――離すか、詰められるか。
第三ゲームのコートチェンジの間、希美はここに来て、
過度な運動をしていた吉澤に感嘆したような声を掛けた。
「よっすぃ、大丈夫?のの、ちょっと感動してるんだけど。」
吉澤は大きく肩で息をし、過呼吸の合間の僅かな隙間を見つけて声を出そうとする。
ボタリ、ボタリと、顔中から噴出した粒の汗が輪郭を伝い、顎に到達して落ちた。
目もやや垂れ気味になり、傍から見たらそれは戦意喪失のように写ったが、
瞳のソレからは一片の曇りも無い、揺ぎ無い闘志が湧き立っていた。
「・・・・はは・・・大・・丈夫・だって。・・・まだ・まだ。」
「・・・あの二人も相当疲れてる。次がこの試合の勝敗の分かれ目だと思うんだ。
だから、よっすぃにはきついかもしれないけど、まだ走って欲しい。」
「・ののは・・容赦・・ないな・・はは。・・・オー・・ケー。」
「うん!それでこそアホだよ!」
希美に根拠不明な事を言われるが、吉澤は取り敢えず笑ってそれに答えた。
コートチェンジをして、先のゲームでの追い風が、向かい風に変わった。
スピードも殺される。ラリーに持ち込むと不利になる。
しかし、打球を押し戻される向かい風は、あるショットを打つのには殊に有効だ。
吉澤は、ある決意を固めた。
(松浦・・)
- 223 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時49分43秒
- 黒い雲は稜線を超えて過ぎ去ってしまったが、お土産にバカみたいなきつい風を残していった。
空は徐々に水色じみてきて、疎らに散らばるちぎった様な雲がチラチラと頭上に浮かんでいた。
快晴の空の下、風だけは顕著に吹き渡っていた。
審判の声が掛かり、運命の第四ゲームが始まった。
希美のサーブから試合は始まるが、受けるのは今まで
数度、渾身のサーブを返してきた村田である。
第四ゲームの最初のポイント、これは大きなポイントになる。
ゲームの流れの奪取、相手に心の動揺を促進し、そして自分達が快くなる為に――。
希美は自身のサーブをまともに返せるのは矢口だけだと踏んでいる。
そう、村田がいくらリターンに成功したとしても、それは力の無い、
展開的には有利に進めれる甘い球なのだ。
だから、希美は自分のサーブに自信を持った。
(返せるもんなら、返してみろ!)
希美は力んだフォームでファーストサーブにフラットサーブを放つ。
が、力の入りすぎたサーブはネットを越える事無く、ネットのド真ん中に突き刺さってしまった。
フォールトを晒した後の、セカンドサーブ。
希美はやはりフラットサーブを打った。
(信じろ。自分を)
それは完璧に決まり、村田のレシーブを強引に制した。
希美のサーヴィスエースで、15=0となる。
そして、希美はやはりフラットサーブを躊躇無く打った。
村田の相方は希美の凶暴とさえ呼べるその打球に、触れることさえ拒んだ。
二度続けてサーヴィスエースを決め、30=0となる。
- 224 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時51分10秒
- その時、希美は至極、落ち着いていた。
そして、次のサーブを打つ前に、左斜め前にいる、吉澤の背中を窺ってみる。
数分前まで大きく上下していたその肩は、今はもう緩やかな漣の様に柔らかだった。
それを確認した後、希美はやはりフラットサーブを打つが、フォールトしてしまう。
続いてセカンドサーブもフォールとしてしまい、ダブルフォールトを晒してしまった。
30=15。それでも希美は何も無かったようにサーブの体制に入る。
異常に落ち着いてサーブに入ろうとする希美に、観戦している部員達や観客は、
まるで赤の他人のテニスを見ているような錯覚に陥っていた。
希美は冷静に、やはりフラットサーブを決め、村田の相方のレシーブを封じた。
40=15。そして、マッチポイント、いや、この勝負を決するポイントの目前まで到達した。
そこで、今まで村田の強張っていた気配に、まるで鬼が宿ったような怒気が生じ始めた。
希美が村田の射抜くような視線を見ていると、負けられない、負けられない、と、
そんな言葉が心に直接訴えかけてくるような感覚を覚える。
しかし、この時の希美の心境もまた、村田に勝る物があった。
この試合を通過点にしかすぎないと考えていた自身への叱咤。
そして、相手に敬意を表して、テニスする事を漸く誓う。
その翳りの無い心持ちは、希美をいい具合に昂ぶらせ、そして落ち着かせていた。
希美は村田の意思を察した後、
この試合の決定打になる筈のフラットサーブを打った。その刹那だった―――
- 225 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時52分23秒
- ――――ゴオオっと、轟音を立てて通り抜けた向かい風―――――
希美の渾身のフラットサーブは、突然吹いた向かい風によってその威力を半減させられた。
村田はニヤリと笑ってソレを綺麗に叩く。
まだ冷静な心持ちを持続している希美はもう一度、決定打になるだろう
渾身のストロークをクロスに打つが、村田の相方が素早く反応し、ネット際での
ライジングのような形で返す。打球は希美の足元を抜き、後方の彼方へ飛んで――。
その時、吉澤の影がバックライン添うように、高速で駆け抜けた。
回復した吉澤の、躊躇無い、懸命な走り―――――
そして捉えた形はバックハンド。
形は至極不細工だった。ボレーでもないしストロークとも呼べない。
それでも、吉澤は松浦に言われた事を何度も反芻し、手首を思い出すように捻った。
吉澤がバックハンドで返した打球は、村田の目前に、絶好の位置に舞い降りてきた。
村田は先に対面の空隙を把握し、それから落ち着いてその打球を叩こうとする。だが――
それは、村田の目の前でストン、と命令に忠実に従うように落下した。
今まで吉澤が打球に切れのある回転をかけて来る事など、村田の予測範囲に無かった。
村田はその強烈なスピンがかかった打球を捉える事が出来ず、ネットに引っ掛けてしまう。
そして希美、吉澤ペアが、無傷で四ゲームを連取する。この時点で、勝敗は決まった。
- 226 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時52分59秒
- それから村田ペアは幾度か盛り返すが、やはり四ゲーム差は重く、
六=四で希美、吉澤ペアが第三セットを奪取する。
総力を使ってもぎ取った勝利に、吉澤と希美はバカみたいな叫び声を上げた。
暫し喜びを分かち合った後、ネット越しに、二人は村田と握手をする。
村田の表情は試合前のそれに戻っていて、二人にある種の安堵を齎した。
「・・・強いね。私はまだまだだ。」
「ありがとうございました。また、いつか試合したいです。」
希美が照れたように言った後、まだ疲弊を隠せない吉澤も笑顔で村田に挨拶をする。
「・・・ありがとうございました。今日の事は、忘れないです。」
「あなた、なかなかいい動きしてるわよ。これからも頑張ってね。」
村田はサラっと言うと、顧問の教師に頭を下げ、所在無さげにベンチの隅に座った。
それから村田の相方にも挨拶をすると、吉澤も希美も、嬉々とした表情を浮べて自陣に戻った。
「ようやったな。ゆっくり休め今は。」
中澤は二人に優しい声を掛けると、さっさと気持ちを切り替えて次に試合を控える
安倍を激励しに行った。
それから梨華が二人の元に近づいて、目に星を鏤めながら試合の感想を昂然と語った。
矢口は凝然と帰ってきた二人を眺めた後、視線をコートの方にゆっくり戻した。
それでも二人は矢口に何か誉め言葉を貰ったような気がした。
なぜなら矢口の瞳の中には、紛れも無い、
ある種の喜悦の要素が混じっていると感じたからだ。
- 227 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年11月26日(火)02時53分38秒
- その後に紺野がやってきて丁寧に二人を幅の広いベンチに誘導すると、
それから紺野は嬉々として二人に快活な声をかけた。
やがて紺野が席を外すと、二人はベンチに座って疲れを癒しつつ、
先の勝利の余韻にゆっくりと浸ろうとした。が、吉澤は大切な事を忘れていた。
ドコカに席を外していた松浦がやって来た。
「二人とも、凄いです。まさかあんな展開になるとは思いませんでした。」
「あやちゃんの後に続こうと思っただけだよ。」
「おい。」
吉澤は思い出したように、ベンチに偉そうに座り直してから、鷹揚と偉そうな声を出す。
「なんでしょう?」
「だから言っただろ?四日で完成させるって。」
吉澤がそう言った後、松浦は意味深な笑みを浮べ、悪戯な口調で問い掛けた。
「マグレかも、しれないじゃないですか?」
「バーカ。コツわかったんだよ。」
「ま、結果オーライだからいいんじゃないですか?」
「・・・素直じゃないなー。お前は素直にあたしをたててたらいいんだって。」
「ふふ、でも吉澤さんの事、少しは見直しましたよ。」
「そう、そう初めからそう言え。」
吉澤はとても楽しげに笑った。
松浦もとても楽しげに笑った。
希美は二人のやりとりを訝しそうに聞き入っていた。
「あやちゃんさ、なんかよっすぃと仲良さげじゃない?」
「そ、そんな、私奴隷ですよ?」
「じゃあ、ジュース買ってきて。」
「・・・・・・。」
希美が実は一番松浦に対してえげつない事をしている事に、
部員達は誰一人気付いていなかった。
そして、第三試合の安倍の試合が始まる――――
- 228 名前:カネダ 投稿日:2002年11月26日(火)02時55分24秒
- 更新しました。
遅筆になりつつある今日この頃、本当にすいません。
もしかしたらまた、少し遅れるかもしれないです。
- 229 名前:LVR 投稿日:2002年11月26日(火)08時52分20秒
- 以前から何度も読もう読もうと思っていまして、今日一気に読んでみました。
気付けば朝です。
主役だけじゃなく、それぞれのキャラに物語があって、とても面白いです。
Y学館の天才は、自分の大好きなあの人かな、と今からドキドキ(w
- 230 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年11月26日(火)14時28分32秒
- ネタバレになってしまいそうなので多くを語れませんが・・・
よしののコンビの試合、いろいろなドラマが詰まっていて面白かったです。
しかし、W大付属の留学生って誰なんだろう・・・?
- 231 名前:4489 投稿日:2002年11月26日(火)17時39分34秒
- 更新、楽しみにしていました。
今回は主人公の出番はほとんど無かったけど、よっすぃー大活躍でしたね。
次のなっちの試合も期待しています。
- 232 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月26日(火)22時43分31秒
- ∬´▽`)吉澤さんカコイー!やっぱり華のある人はいいですね…
W大付属の…あの人かな…ドキドキ
- 233 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月26日(火)23時55分41秒
- >>231
前回の反省活かして、sageようよ。
>作者様
吉澤カッケー! あぁ、俺は藤本派なのに吉澤に転んでしまいそうです…
- 234 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年11月27日(水)12時14分43秒
- やったな吉澤
辻や松浦とのやりとりがいい
シングルの3人頼んます
- 235 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月27日(水)20時37分28秒
- やっぱりおもしろいですね
K学派の自分としてはK学の出番も楽しみです
それでは,これからも頑張ってください
- 236 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年11月29日(金)06時52分12秒
- カネダさま
更新、お疲れさままです。
あやゃとよっすぃ〜、いい感じですね。
なんか、主人と奴隷から一歩進みましたか?
それでも、辻さんは無邪気にひどいことしそうだし(w
シングルの試合も楽しみです。
では、次の更新を待ってます。頑張ってください。
- 237 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月01日(日)14時49分06秒
- 作者さん、凄すぎます。
テニスやってる自分から見ても、試合の臨場感が凄くよく伝わってきます。
自分は吉ヲタなので、あややとの奴隷関係が凄く面白いです。
次の更新も期待してます。
- 238 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月01日(日)19時06分59秒
- シングルスの一本目で、なっちが勝ったら
残りの試合はやんないんぢゃないかとちっと不安(笑
- 239 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月02日(月)22時32分45秒
- すみません少し気になったもので、
>>224
>マッチポイント、いや、この勝負を決するポイントの目前まで到達した。
マッチポイントは、その試合の勝敗が決するポイントのことをいいます。
第1セットや第2セットを決するポイントのことはセットポイントといいます。
話が面白いだけに、細かいところが気になってしまうもので。
- 240 名前:カネダ 投稿日:2002年12月03日(火)03時14分43秒
- レス有難う御座います。
大変励みになります。
また間違いをおかしてしまいました。
ルールも完全に把握していない分際で、テニスの話を書いている事を許していただけたら
幸いなのですが、何分、二度目です。本当にすいませんでした。
指摘は>>239さんのおっしゃっている通りです。
本当にすいません、出来るだけ注意は払っているのですが、
こんな根本の部分を勘違いというか、間違って覚えていたのは
許されない事なかもしれませんが、それでもどうか許してください。
重ね重ね、大変失礼な事をしました。
- 241 名前:カネダ 投稿日:2002年12月03日(火)03時29分55秒
- >>229LVR様。
すいません。こんな長い話を一気に読んでいただいて・・・
本当に有難う御座います。予想されている選手は完全に合っていると思います。(w
これからも期待に添えられるように頑張りますのでよろしくお願いします。
>>230読んでる人@ヤグヲタ様。
有難う御座います。試合の方は何とか頭に描きながら書いているのですが、
しっかりと伝わっているのか不安なので、そう言って頂けると本当に嬉しいです。
留学生、この更新でバリバリ活躍させます。
>>231 4489様。
楽しみにして頂いているのに遅れてしまってすいません。
前回の更新に限り、主役交代ということで(w
安倍の試合、短いんですが楽しんでいただければ嬉しいです。
>>232名無し読者様。
いえいえ、小川さんにも華はありますよ・・・
吉澤は活躍させました。頑張っていたので。(w
留学生は、恐らく正解かと。
>>233名無し読者様。
吉澤をカッコよく書くのは難しので、そう言っていただいて嬉しいです。
藤本も、この話の中ではかなり特徴ある性格してますが、よろしくお願いします(w
age sageは自分は気にしていないので、読者さまにお任せします。
>>234むぁまぁ様。
有難う御座います。吉澤と辻、やってくれました。
松浦もいい具合に描けたと思います。
シングル三人、一気にいきたいと思います。
- 242 名前:カネダ 投稿日:2002年12月03日(火)03時41分17秒
- >>235名無し読者様。
有難う御座います。自分では全くわからないので、そう言って頂けると嬉しいです。
K学、大分長い事出せないでいましたが、次回からは漸くいけそうです。
期待に応えられるように頑張ります。
>>236ななしのよっすぃ〜様。
吉澤と松浦、なんかちょっといい雰囲気になってしまったので、
辻にぶち壊してもらいました(w
シングルも一気にいきたいと思います。期待に応えられるように頑張ります。
>>237名無し読者様。
有難う御座います。テニスをしていらっしゃる方にそう言ってもらえるのは
書き手としては凄い嬉しい事です。ルールを完全に把握していないなど、
アホな作者でありますが、これからも読んでいただけたら嬉しいです。
>>238名無し読者様。
安倍はこの話の中で、自分の中ではかなり思い入れの深い人物の一人です。
シングル三試合きちんとやりますのでご安心ください(w
これからも読んでいただけたら嬉しいです。
>>239名無し読者様。
すいません。申し訳ありません。一度ならず、二度も間違った表現をしてしまいました。
ご指摘、有難う御座います。人様のサイトで書かせてもらっているので、
書き直すことは出来ないのですが、本当に有難う御座いました。
なるべく気をつけているのですが、本当にアホです。すいませんでした。
それでは続きです。
- 243 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時44分41秒
- 天候は徐々に夏の気配を帯びてきて、コートに入った安倍に共鳴したかのように
太陽も燦々と輝きだす。そして、気温もソレに比例するように上がりだした。
ネットを隔て、安倍は相手の選手にニッコリ笑いかけて握手をし、クルリと振り返って
バックラインにつくと、一回戦の時と同じように部員達の方に笑顔を振り撒いた。
安倍はソコまで肝の据わった選手ではない。笑って緊張を緩和して、それで試合に臨むのだ。
経験が豊富なようで、様々な種類のショットを持っているだけの選手。と、
練習時間、安倍は相手の選手に対してそう独断する。
スタイルは松浦に似ているが、レベルは幾段も低い。
テクニックもそこそこで、力もあるとは言えない。
だが、一つだけ興味深い事柄があった。その選手の体躯である。
K学の飯田とほぼ同じ位の長身なのだ。
その長身から放たれるサーブは、仮想飯田戦と考えれば大きな糧になるかもしれない。
勿論、質は比べるまでも無いが。
審判の声が響き渡り、第三試合が始まった。
相手の選手からのサーヴィスで、安倍は意識してその姿を飯田と重ねた。
打点が高いのが飯田のサーブの最大の武器なのだが、そのサーブにはもう一つ
大きな特徴がある。足をピタリと平行に並べて、上半身だけで放つのだ。
その撓りの効いた静謐なサーブは、九割を軽く越す成功率と高い威力を持っている。
- 244 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時45分25秒
- が、この選手は飯田とは似ても似つかないフォームで、高い打点を利用するだけの
力任せのサーブが主だった。鋭角的には刺さってくるのだが、切れが無い。
第一ゲーム、安倍は淡々と相手を翻弄した。レシーブには回転をかけなかった。
フォアハンドの打球にだけ、確かめるように回転をかける事に努めた。
安倍は試合前に、必ず試合展開を頭に描く。
それは、どんな格下の選手相手でも怠った事はない。
安倍のテニスはボールに意思を含有させる事が本質だが、根底は堅実な思考にある。
第一ゲームを奪うと、第二ゲームはサーブで圧倒し、第三ゲームもフォアハンドを意識した。
この試合を取れば、次はY学館かK学の勝ちあがった方と当たる。
安倍は第一セット、全くミス無しで、ラブゲームを二つ含む、無傷で奪った。
休憩する必要が無いほど、体は疲労を感じていない。
足を解しながらベンチに腰かけ、タオルで顔の汗をサラっと拭うと、
水分を補給する事も無く、第二セットの開始の合図を粛然と待った。
ベンチに座っていると左斜め上から、熱い日射が、差し込んでくる。
安倍は左目を申し訳ない程度に窄めて、そして燦々と輝く太陽に視線をやった。
(安倍さんは泣いちゃダメです)
何故か、いつか梨華に言われた言葉が脳裡をよぎった。
思えば出来のいい後輩が入ってきてくれたからこそ、今自分はココにいるんだな。
安倍は固まっていた筈の覇気を、もう一度心に植付け、そして部員達の為に勝とうと思った。
- 245 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時47分04秒
- 第二セット、安倍は不必要にネットプレーをする事を努めた。
鈍足で、体力はお世辞にも秀でているとは言えない。
――――――鈍くさい。
中澤に口癖のように頻繁に言われる。
自分からあの『とっておき』を奪ったら何が残るだろう?
安倍の笑顔の奥には、常に惰弱な心が潜んでいる。
三年間テニスに打ち込んできたから、周りの環境から隔絶する事が出来た。
テニス部が抱えていた問題を、無視する事が出来た。
それが三年になって、後輩達は僅か三ヶ月で、改善とはいかないが、解決の道を切り開いた。
自分からテニスを取ったら、何が残るだろう?
後輩達に何を示せるだろう?
安倍は集中した。
なるべく足を使わないネット際でのプレーを馬鹿の一つ覚えのようにした。
飯田には一筋縄では勝てない。鈍くさい思考で色々と考えた。
相手の選手の長身から繰り出されるライジング気味のショットを、安倍は必ず返した。
この選手の甘いスマッシュ位の威力のストロークを飯田は打ってくると、安倍は記憶している。
実戦でなるべく今後のプラスになる事をする。笑顔で、一所懸命に。
安倍は第二セットも破竹の勢いでゲームを連取していった。
「お前ら、安倍のすごい所はな、常に考えながらゲームやってる所やねん。」
- 246 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時47分39秒
- 中澤は金網の真ん前に立って試合を観戦していた。
腕を組みながら、安倍の試合をまるで我が子が活躍する様を見るように眺める。
そして後ろでベンチに座りながら応援している部員達に、諭すように中澤は続けた。
「こんだけ実力差があって、試合も一方的やけどな、あいつはそこから一つでも
何か得ようと、試行錯誤してんねん。」
中澤の自慢の部員は、中澤の思惑よりも格段によく成長してくれた。
安倍がいなければ、今の中澤もいない。
そして部長である、誇れる安倍を模範にして、部員達は更に向上しようと決心した。
安倍は五ゲームを連取し、そして第六ゲームも危なげなく取ろうとしていた。
マッチポイントになって、安倍は恐らく最後のサーブになるサーブを打つ前に
部員達の方に思い出したように笑顔を向けた。安倍の笑顔は決して安くない。
安倍の笑顔は人を幸せにするんだと、確か梨華が言っていた。
その本当の意味に、部員達は漸く気付いたような気がした。
安倍がサーヴィスエースを決め、第三試合を取った。
この時点で、T高校の三回戦進出が決まる。
しかし、観戦に来ていた客の本当の目的は、勝ちを決めた次の試合だった。
矢口は安倍の試合が終わった直後、泰然と立ち上がった。
ラケットバックから手入れの込んだラケットを取り出し、コートに向かう。
コートの出入り口で、安倍と擦れ違う。
- 247 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時48分24秒
- 「ははは。矢口、もう勝ち決まっちゃったけど、頑張ってね。」
「うん。」
「ねえ、なっちってさあ、あの子達にとって、いい先輩なのかなあ?」
安倍は自陣のベンチに腰掛けている部員達に視線を向け、そんな事を矢口に訊いた。
すると、矢口は足を止めた。
「・・・なっちはさ、太陽みたいなもんなんだよ。いや、あいつらも。
だから、何も心配しなくていいと思う。」
矢口は抑揚の無い声でそう言うと、安倍の答えを待たずにコートに入った。
安倍は即座に振り向いて、矢口の背中に何か声を掛けようとした。
が、言葉が何も出てこなかった。矢口の背中は、余りにも小さすぎた。
矢口がコートに姿を現すと、観客席から割れんばかりの歓声が待ち侘びたように轟いた。
地鳴りのように響き、広場で体を休めていた人々も何事かとAコートを見やった。
その歓声の中、矢口は何事もなかったように悠然とネットに歩み寄ると、
習慣のように相手に無表情で握手をし、そしてバックラインにゆっくり戻った。
矢口の心は、依然として求める物を知らなかった。
- 248 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時49分18秒
- 試合の方は言うまでも無く、矢口の圧勝だった。
観客の感嘆の声と、賞賛の嵐の中、妖精は華麗に舞い続けた。
―――矢口は相手に心中を悟られないように、自分の表情を殺すんだよ。
梨華が矢口の試合をベンチに座って観戦してると、
わかりきったような声色のそんな言葉が届いた。
喧噪や歓声を通り抜け、透徹された揺ぎ無い確信を得たその言葉。
嘘だ。
梨華は突然泣きたくなった。余りにも不憫なのだ。活躍するその姿が。
無表情で、歓声の中、舞う。
その姿が。
矢口の試合を観戦し終え、陶然と帰っていく観客達。
矢口も、まるで試合などしてなかったように自陣に向かって歩いてくる。
そして梨華は一回戦の時と同じように、コートの出入り口で矢口と擦れ違った。
「矢口さん、テニスは楽しいんですよ。」
「・・・・・」
「それを、私が教えてあげます。」
「・・・どういう意味だよ?」
「楽しいものに、意味なんていらないんです。」
梨華はある確信と、ある決意を胸に抱き、そしてコートに凛と入った。
柴田に勝った日以来、何故かとても自信がついた。
テニスに対しても、自分自身に対しても。
自分のテニスが通用する。そして、勝つ事は最高の喜悦というのもわかった。
- 249 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時50分01秒
- しかし、相手の選手の表情をチラリと一瞥した時、梨華の確信にピキリと亀裂が入る。
圧倒的な自信に満ちたその表情。
まるで、負ける事を知らないような顔をしている。
自分が先ほどまで感じていたある種の優越感が、まるで子供だましのように思えてきた。
「よろしくね。」
「よ、よろしくお願いします。」
ネットを隔てて握手をするが、相手の選手は信じられないような力を込めてきた。
梨華は思わず顔を顰めて、そして恐々とその表情を窺う。
恐いものが無い。いや、違う。後ろが全く無い、前しか見ていない。
そんな印象を梨華はその選手から受け取った。
「ソン・ソニンか。紺野、どういう経歴かわかるか?」
中澤は隣で座っていた紺野に興味深そうに訊いた。
すると、紺野は持っていた手提げ袋から、例のレポート用紙を手早く取り出した。
紺野は手馴れた手つきでペラペラページを捲ると、何枚目かのレポート用紙の隅の方に
視線を落とし、悄然とした声を出した。
「三年生で、韓国の人ですね。今年からW大付属に留学してきたみたいです。」
「そんな事はわかってるわ。経歴とかなんかないんか?」
「それだけしか書いてないんですよ。でも相当の実力者かも。」
「お前、見たらわかるやろ?相当どころじゃないぞ。」
- 250 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時50分43秒
- 第一セットの第一ゲーム。
梨華からのサーヴィスで試合は始まる。
時刻は正午に差し掛かる所で、気温は漸く夏のソレを取り戻していた。
音をたてて強く吹いていた風は嘘のようにピタリと止み、
コートには蝉の声だけがミンミンと響いていた。
梨華はフウっと息を吐いて、心を落ち着かせてから、トスを緩やかに上げた。
(私だって、三ヶ月ずっとテニス漬けでやってきたんだ)
先ほど亀裂の入った自信を強制的に修復し、梨華は毅然とサーブを打った。
そして梨華は心持ち、前に足を踏み出す。
自分の信じた場所に体を反応させるのだ。
安倍や矢口級の打球は凡そ、返っては来ない。―――その筈だった。
目に見えてぶれるボール、惜しみないテクニックを息吹かせた自信の一打。
その強烈なスピンの掛かったレシーブに、梨華は対処する事が出来なかった。
(なに?あの球・・・)
梨華の貧弱なサーブなど、ソニンにとっては赤子が手を捻るようなもので。
ソニンは梨華のサーブに対し、面白いようにリターンエースを決めまくった。
特徴のある両手打ちのストロークを存分に使い、試合慣れしている躊躇ない攻め。
第一ゲーム、瞬く間にポイントを連取され、梨華はラブでゲームを取られてしまった。
梨華は茫然と立ち竦んだ。レベルが違う。矢口が『絶対』で、
安倍が自分が到達できる終着駅だと思っていた。
矢口の打球を返した。安倍の打球を返した。そして、柴田に勝った。
それがどうした?
- 251 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時51分44秒
- 梨華は、今、目の前にいる二回戦の選手にすら、勝てる気がしなかった。
T高の面々は、梨華はソニンの実力を知らなすぎた。
ソン・ソニンは本来、高校生の器に収まる選手ではないのだ。
ソニンはこの試合に勝てると梨華の最初のサーブを見て、確信した。
思えば、団体戦などはなから眼中にない、あるのはシングル全国制覇のみ。
韓国ジュニアのナショナルチームを外された時、復帰の為の選択肢は二つしかなかった。
日本を制する事、もしくはもう一度一から出直しだ。
ソニンは後者を拒んだ。あの血の滲むような練習の日々に戻る事を拒んだ。
日本。甘えた国だとソニンは認識している。
こんな国でトップになることなど容易な事―――の筈だったが、先ほどの矢口と安倍の試合。
あれは自分の目を疑った。あんな選手が日本にいる事など、概念になかった。
だから、ソニンは目覚めた。この試合、後に戦うであろう矢口と安倍に見せ付ける。
第二ゲーム、ソニンのサーブは極めて単純だった。
全て強烈で、切れのあるトップスピンサーブ。梨華は打球を目で追う事しか出来なかった。
余りにも、レベルが違いすぎる。
梨華はコートチェンジでソニンと擦れ違う際、顔を合わせる事が出来なかった。
何故か、申し訳ないという気持ちで一杯になった。
第三ゲームも第四ゲームも、ポイントを一つも取る事をなく奪われる。
ポイントを一つ取られる度に劣等感と絶望感に襲われる。
何がテニスは楽しい、だ。何がテニスは面白い、だ。
怖くて仕方がないじゃないか。
- 252 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時52分24秒
- ソニンは一度も梨華と視線を合わそうとしなかった。
サーブを決める度に矢口と安倍が座っているベンチを一瞥し、不敵に笑みを浮かべる。
梨華はそれを見て、自分なんて眼中にないんだなと、落胆するような、
安堵するような、とても不思議な感覚に包まれた。
初めから負けると決まっている試合なのだ。早くこの場から去りたかった。
この試合を落としても、三回戦進出は決まっているのだから。
ゲームは極めて一方的で、梨華は何とか打球を捉える所までは行くのだが、
その後のソニンのテクニックに弄ばれるという流れだった。
第五ゲームを取られて、梨華はふと矢口の方を窺ってみた。
矢口は安倍の隣に泰然と座っていて、一方的に安倍から話し掛けられていた。
別段、いつもと変わらない光景だ。しかし、違う事柄がたった一つだけある。
相変わらずの無表情だが、射抜くような視線を自分に向けていた。
「ねえ、矢口さあ、石川の対戦相手の子、上手いと思う?」
安倍が能天気な声で矢口に話し掛ける。
先ほどから何度も話し掛けているが、矢口はウンとかスンとかしか言わない。
しかし、この問いの返答に、矢口はしっかりと自分の言葉を出した。
「そうだね、大して上手いとは思わない。」
安倍は本当にこのセリフを矢口が喋ったのかと、
確かめるように矢口の顔を一瞥してから、嬉々とした声を出した。
- 253 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時53分03秒
- 「・・・でも、五ゲーム取ったよ。石川から。」
「石川はまだ実力を出してないよ。」
「うん、そうだね。それにあの選手、フォアのハイボレーめちゃ苦手にしてるよ。」
「それに、クロス打つのもね。」
矢口が見ている。
そんな事は当たり前のことで、特に意識するような事じゃなかった。
でも、自分は矢口に言ったのだ。テニスは楽しいと。
それを矢口が見ている。そして今更、梨華は全力を出していない事に、
テニスを楽しんでいない事に気付いた。
六ゲーム、ソニンは強烈なスライスをかけた切れのあるサーブを打った。
梨華は体制を崩しながらもそれをバックハンドで拾った。
なかなかのレシーブを打ち、すぐさま体制を整える。
ソニンはそれでも冷静で、梨華の位置からでは凡そ届かない、
センターライン付近の場所にストレートを打つ。が、梨華はソレもまた拾った。
それからソニンは、細微だが、打ち方に粗が出てきた。
梨華は左サイドのサーヴィスライン付近まで前進し、
そしてソニンの足に意識を集中させた。梨華が見つけ出した一縷の勝機。
それは、ソニンはショットを打つ方向に、注意しなければわからないほどだが、
軸足のつま先を向ける悪癖を持っていることだ。
クロスに打たれても、ストレートに打たれても、逆クロスを打たれても・・
方向だけは打たれる前に把握できる。そこから、どこまで粘れるか――。
- 254 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時56分22秒
- 梨華の動きが急に良くなった事に、ソニンは焦りというよりも、
苛立ちのような不快を感じていた。
きついスピンをかけた勢いのある打球を打てば、五分前までは凡そ返してこなかった。
それが、どうして急に捉えられ始めたんだ?ソニンは静かに舌打ちをする。
梨華は何とか自分のテニスをし、数分間の打ち合いまでには持ち込めたのだが、
やはりソニンは一枚も二枚も上手だった。
梨華がただ返球することしか狙っていない事に気付き、ソニンは梨華を揺さぶり始めた。
0=30になった後、ソニンはドロップショットをこの試合で始めて打った。
勿論、梨華は予測の範囲になかったので、それを拾う事は出来ない。0=40。
ラブを保たれたまま、ボロボロにやられる。しかし、梨華は確実に手応えを感じていた。
(クロスの時、若干だけど、腰が上がる。)
ソニンは躊躇なく、トスを高々とあげて、強烈なフラットサーブを打った。
これで決めようと思った。梨華のテニスに付き合うのは一々癪に障るからだ。
しかし、微妙な位置でアウトしてしまった。ソニンは無意識に舌打ちをする。
続いてセカンドサーブ、ソニンは仕方がなくトップスピンを打った。
何度か打たれて、梨華は完璧ではないが、ソニンのトップスピンの特徴は掴んでいた。
懸命にリターンし、そしてセンターライン付近に移動する。
ソニンは勝ち急ぎ、無理な体勢からクロスを打った。
腰をひん曲げるように、回転させてフォアハンドで打つ。
が、それはバックラインを超えて大きくアウトしてしまった。
- 255 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時57分12秒
- これで15=40になり、梨華はそれだけでこのゲームを取ったような心持ちになった。
一方、ソニンの同じようにこのゲーム、いや、この試合全ての内容を梨華に捧げたような
最悪な気分になった。たった一度ミスをしただけで、どうしてココまで頭に来るのか。
ソニンはこの時はまだ気付いていなかった。
そのたった一回のミスが、梨華の怒涛の反撃の予兆だという事に。
ソニンは次のフラットサーブを意地なのか、ライン際に完璧に決めた。
さすがの梨華もこの打球には対応する事が出来なかった。第一セット、ソニンが取る。
これでソニンは無傷で第一セットを奪取する。しかし、何故か優越感も喜悦もない。
要所だけ梨華に持っていかれたような、そんな後味の悪い濁った心境だった。
梨華は情けない試合内容だが、確実に手応えは感じていた。
強烈な回転を持っていて、力もあり、意外性もある。でも、ソニンには粗も多いことに気付いた。
第一セットを終え、それぞれが備えられているベンチに腰掛ける。
気温は三十度を超え、日差しも刺すようにきつくなってきた。
空気は相変わらず停滞し、湿気と相まって、うだる様な暑さがコートを包んでいた。
まるでサウナだな、と梨華は思ったが、体の方は全くへこたれていない。
第二セットも、いや、何セットでもやれる感じがした。
ベンチで休憩していると、安倍が金網越しのすぐ後ろにやってきた。
梨華は申し訳無さそうに安倍に渋い顔を作る。
- 256 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時58分17秒
- 「すいません。全然ダメです。」
「なぁに言ってんのさ、六ゲームはよかったよ。」
「私、忘れてました。テニスは楽しいって、矢口さんに教えること。」
「矢口に教える?」
「はい。矢口さんはテニスが楽しい事知らないんですよ。だから。」
梨華は流すような視線を安倍に向けて、然も当然といったように答えた。
すると、安倍は数秒神妙な面持ちになり、そしてニッコリと満面の笑みを浮べた。
「そっか。矢口はテニス楽しんでないんだ。・・・でもね、石川の試合は
楽しそうに見てるよ。」
安倍は笑顔のまま矢口に視線を向けた。
梨華も誘われるように矢口の方を見る。
「・・・本当ですか?」
「うん。石川はまだ実力を出してないって、矢口言ってたよ。なっちもそう思うんだ。
ねえ、諦めちゃダメだよ。諦めるのは誰でも出来るんだから。」
「すいません。途中まで、投げ出してました。あの人、強いですから。」
そう言って梨華は力無く笑った。しかし、すぐに表情を引き締める。
「でも、見つけました。穴というか、弱点というか。」
「ホントに?自分でもわかったんだ?」
「えっ?安倍さんもわかってたんですか?」
「うん。フォアのハイボレーと、クロスの時、精度がかなり落ちる、でしょ?」
「クロスは何となくでわかったんですが、フォアのボレーは全然気付いてなかった。・・・・」
梨華はソニンに気付かれないように、顔を俯き加減にして、視線だけをソニンに向けた。
- 257 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時58分55秒
- 「じゃあさ、石川の見つけた穴って、ドコなのさ?」
「ええとですね、足です。あの人、決まって打つ方向に軸足のつま先を
向けるんですよ。本当に、少しですけど。」
「へえ、そりゃあ、なっちも気付かなかったなあ。うん。石川はいい目してるよ。」
安倍は優しく微笑んだ。すると、梨華も照れたように笑う。
その直後に矢口以外の部員達が揃ってやってきた。
予想よりも落胆していない様子の梨華に、部員達は慰める事も忘れ、
快活な激励を浴びせた。安倍は入れ替わりのような形で、座っていたベンチに戻った。
「ねえ、矢口、あの選手さあ、足に癖あるんだって。」
「・・・・癖?」
「うん。石川が言うにはね、軸足の向きと打つ方向が一緒なんだって。」
「・・言われてみればそうかもしれない。」
「石川はいい選手になるねえ。気付かないよ、足の特徴まで。
ショットに目を張り過ぎたかな?」
「うん。あいつはいい選手になる。」
そのやりとりの後、審判から第二セットの合図が響きわたった。
梨華もソニンも、両者とも毅然としてコートに入る。
「ねえ、矢口、テニス楽しい?」
安倍はサーブの体制に入ろうとしている梨華の背中を見て言った。
すると、矢口は少しだが、間を作ってこう言った。
- 258 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)03時59分39秒
- 「・・・わからない。でも、あいつは楽しんでるよね。いや、みんなも。」
梨華はサーブには全く欲を出さなかった。
ライン際などを狙っても、自分の情けないサーブにインさせる精度はない。
回転をかけようとしても、三度に一度はフォールトするのが常だった。
だから、サーブを打った後の展開を大事にした。
注意深く、足元を凝視する。
(ストレート)
梨華はセンターラインに向かってダッシュした。
ソニンは梨華のサーブを完璧に捉え、ストレートに返したのだが、何故かそこに梨華がいた。
梨華はソニンの強烈な打球をそれでもラケットの中心で捉え、
コートの隅めがけて返球する。しかし、ソニンはそれをバックハンドのスピンで返した。
「これや。」
中澤はそれを見て思わず感嘆の声を漏らした。切れも、高さも完璧だ。
バックライン目前まではまだ裕に一メートルの高度はあるのに、
そこから叩きつけたように落ちる。梨華も、まさか決まるとは思わなかった。
第一ゲームの最初のポイントをソニンに取られる。が、梨華はそれで余計に落ちついた。
ソニンはそれまで使わなかった手の内を、徐々に出してきている。いや、
出さざる終えないようになってきている。と、梨華は肯定的に考えた。
続いても梨華はやはり緩いサーブを打ち、安全にインさせるとソニンは
軽い打ち損じのようなレシーブを打つ。梨華はそれをフォアのストロークで
丁寧に、少しだがソニンの体がずれるように角度を変えて打つと、
ソニンはその打球をアプローチショットで返し、ネットに詰めた。
慌ただしいソニンの攻め、運動量が自ずと増えている。
- 259 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時00分15秒
- 梨華はソニンのその攻めに対して漠然とだが、『妙』だと思った。
第一セットは確かに自分も終盤まで覇気が無かった。しかし、それでもソニンの攻めには
妥協が無かった筈だ。それが、第二セットになってやけに慌ただしくなった。
全く違う攻め方で勝とうとしているのか、それとも・・・・
梨華は色々と詮索を試みながら、ソニンの巧みなネットプレーに、
食らいつくように対処した。
が、がら空きのコートにエースを決められ、ポイントを取られる。
ソニンは確かに強いが、梨華には何か釈然としない要素があった。
梨華はその後ダブルフォールトを晒してポイントを失うと、
ソニンにまた得意のバックハンドのスピンを決められ、第一ゲームを失ってしまう。
そして第二ゲーム、ソニンのサーヴィス。
ソニンはファーストサーブをフラットサーブで打ってきた。が、大きくアウトする。
そしてセカンドサーブも続けてフラットサーブを打ってきた。
その時、ソニンはなにやら焦っている、と梨華は確信した。
ソニンは意図的なのか、フラットサーブを打つ比率が間違いなく高くなっていた。
無理やりサーヴィスエースを狙っているように梨華は感じたのだ。
自分は矢口の強烈なサーブを嫌というほど味わっている。
最初は微妙に違う球速や特徴の所為で、なかなかフラットサーブを完全に捉える事が
出来ないでいたが、第二セットまで来るともう目も慣れ、しっかりと捉える事が出来た。
矢口よりもスピードも切れも落ちる。そしてその打球には間違いなく焦燥が込められていた。
- 260 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時01分18秒
- 梨華は拭っても拭いきれない、粘液のようなテニスをする事を心がけた。
相手を無理やり付き合わせて、ゲームを長引かせるのだ。
気温は時間が経つ毎に上昇し、快晴の空からは躊躇無い、厳しい日射が届けられた。
梨華が執拗に食らいつくテニスをしていると、第三ゲームでソニンに異変が生じ始めた。
目が血走り、ショットの精度が落ち、玉の汗を額に浮かべ、白いウェアは
夥しい汗で重苦しい鼠色に変わっていた。
そう、ソニンがナショナルチームを落ちた原因はそこにある。
特に夏の試合、中盤から終盤にかけて、ソニンはどうしても勝ち急ぐ傾向があった。
スタミナを消費する事によって生まれる無意識の内の焦燥。
ソレは徐々に思考全体に蔓延り、やがては冷静さを欠いた
がさつなテニスを晒してしまう事の発端になった。
梨華が何より驚いたのは、その事をソニン自身は全く気付いていないという事だ。
三ゲーム連取されたが、ココからが勝負だと梨華は思った。
間違いなく勝機はある。第四ゲーム、梨華のサーヴィス。
梨華はやはり緩いサーブを打つと、相手の軸足をしっかり凝視し、
それから少しだけ前進した。ソニンは力任せの大ぶりのレシーブを打って、
梨華を圧しようとする。しかし、梨華は屈する事無く、綺麗な形のストロークで返した。
いくら重い打球でも、ラケットの中心で捉えればなんとかなる。
梨華はロブ気味になりながらも何とか返球し、そしてもう一歩前に詰めた。
ソニンの足を見て、落下点を予測する。
(クロス)
- 261 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時04分19秒
- 梨華は右サイドに向けてダッシュする。
ソニンは予測通り、緩くて安全にインさせる感じだが、クロスに打ってきた。
梨華は体をピンと横一文字になるように伸ばし、それを誰もいない右サイド
にボレーで返した。まさかの返球にソニンは対処する事が出来なかった。
梨華が、初めてポイントらしいポイントを奪う。15=0。
その直後だった。ソニンがなにやら獣が悶えるように吠えた。
コートに一瞬緊張が走り、梨華は空気が突然なくなって、
強制的に呼吸を止められたような錯覚に陥った。
ソニンはそれから頭を何度か振った後、この試合で初めて梨華と視線を合わせた。
いや、合わせたというより睨み付けたという表現の方が正しい。
少し傾いた日光がソニンの顔面を満遍なく照らし、瞳に厭な光沢が生まれていた。
しかし、梨華は目を逸らさなかった。寧ろ睨み返してやった。
自分だって妥協無い練習をこなしてきたのだ、何も逸らすような怠慢な事はしていない。
ソニンはとかく苛立っていた。ついさっきまでド素人のような梨華に、
何故まんまと決まる筈だったクロスをリターンされなくてはいけないのだ。
それにこの気温での激しい運動で、梨華は涼しげな表情をしている。気に食わない。
ソニンはこの時、根拠の無い莫大な劣等感を梨華に感じていた。
梨華はまた同じようにバカみたいなサーブを打って、そしてレシーブに備えた。
ソニンは力の無い、誘い球のようなレシーブを打って梨華に容易にストロークを打たせる。
そして、梨華が切れのあるフォアのストロークを打つと、ソニンはスライスをかけた
ストロークでそれを返し、そしてネットに詰めた。
- 262 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時05分11秒
- それからはソニンは例の如くネットプレーを努めるようになった。
ネットに詰められる事を梨華は心良く思っていなかった。
どうしても相手の攻撃パターンが広がるからだ。
しかし、ソニンはお世辞にもネットプレーに秀でているとは言えない凡ミスを連発した。
梨華が何のフェイントもかけていないのに、むざむざ釣られる様にボレーを打って、
サイドラインを大きくアウトしたり、梨華が不慣れなロブを上げてソニンにとっては
絶好球な筈なのに、スマッシュをバカみたいに失敗したり。
梨華は第四ゲームを取ったのだが、その殆どのポイントはソニンの自滅からだった。
これで梨華は初めてソニンから一ゲームを取る。
ソニンは第四ゲームを終えた後、自分を鼓舞するように、叱咤するように頬をパチンと
強く叩き、その後、空を数秒見つめながら深呼吸をした。
第五ゲーム。ソニンは梨華を睨みつけながらサーブの体制に入る。
そしてやはり焦りの篭ったフラットサーブを打った。
微妙な場所だが、ラインを超えたと判断して審判はフォールトを告げる。
するとソニンはチッと、梨華まで届くような大きな舌打ちをし、
今度は得意のトップスピンを打った。が、それをネットに引っ掛けてしまう。
ソニンが犯したこの試合、初めてのダブルフォールト。
その時、ソニンの中の何かが音を立てて切れた。
ソニンは続けざまにダブルフォールとをし、梨華は無傷でポイントを献上される。
- 263 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時06分35秒
- 「これが、今の石川の完成形やな。」
中澤は意味深な笑みを浮かべ、隣に座っていた紺野に話し掛ける。
すると、紺野も嬉々としたように大きく二度頷いた。
「相手のミスを誘うテニスですね。」
「そうそう。まんまとドツボに嵌ってくれてるわ、あの韓国人。でも・・・」
「でも?」
「一筋縄じゃいかんやろな。そこまで程度の低い選手じゃないわ。」
「・・・・・」
梨華はサーブに備えながらソニンを煽るようにラケットをクルリクルリと二度回す。
そうやって、僅かずつソニンの憤りを促していた。
ソニンはそれを見て、顔を真っ赤に紅潮させ、そしてスライスサーブを打った。
続けざまに慌ただしく、顔を顰めながらネットダッシュする。
ソニンのスライスの回転は人並以上だが、それでもT高校の面子が持っている技術に
比べればやはり若干劣っている。梨華はしっかりと捉えてリターンした。
ソニンはそのレシーブを走りながら誰もいない右サイドにボレーで返す。
確実な手応え、凡そ返す事はできない、完璧な場所。ソニンにとってはその筈だった。
しかし、梨華は驚異的な伸びを見せて、ギリギリだがフォアのボレーで力無く返した。
はっきり決定打だと思っていた筈の攻撃が返されるほど、頭に来るモノは無い。
梨華は第五ゲームをまさかのラブで取った。
- 264 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時08分12秒
- 三=二となって、流れが面白いように梨華に傾いた。
世界を味方にする矢口は、いつもこんな気分を味わっているのだろうか。
梨華は優越感からそんな事をぼんやり思った。一方、ソニンはとかく苛立っていた。
矢口や安倍、いや、他の全ての事象など頭に無くなっていた。
あるのは、この高温の中飄々としている梨華の姿だけだった。
第六ゲーム、梨華の勘がさえ渡り、ジュースになりながらもソニンのミスを誘って奪い、
三=三とすると、続けて第七ゲームも梨華は辛くも取った。四=三になる。
ソニンは苛立ちを通り越し、いつしか茫然と、悄然とした表情をするようになった。
生きる目標を失った、亡者の瞳を拵えて。
一方、梨華の方はゲームを進めるにつれて目覚しい動きを見せるようになった。
安倍が教えてくれたソニンの不得意なフォアのハイボレー、そしてクロスを
打たせるように努め、ミスを誘導するテニスを一貫した。
第八ゲーム、梨華はこなれた様にサーブを打ち、ソニンのつま先を凝視する。
予測通りのソニンの返球をボレーで返し、ソニンのフォアサイドに打球を集める。
安倍が言ったとおりに、ソニンはフォアのハイボレーを三度に一度はネットに引っ掛けた。
徐々に広がる勝ちへの道程。梨華は自分の作るゲームに震える位の手応えを感じていた。
第八ゲームも梨華が取り、そして五=三となった。
まさか、一セット取られるのか?ソニンは自分の心にそう呟いた。
そして、ソニンがそこで漸く正気に戻った。
- 265 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時11分26秒
- コートチェンジの間、梨華とソニンは審判台を挟んで二つ並べられている
ベンチにそれぞれ腰掛ける。梨華は悠然と少し吹き出た汗を拭い、そして
湿ったラケットのグリップを拭った。
一転して、ソニンはタオルを頭にだらしなく被り、そしてダラリと肩を落として
項垂れていた。―――わけではなかった。タオルに隠されたソニンの表情は
嵐の後の空のように晴れ渡っていた。セットを取られる目前に来て、やっと思い出したのだ。
韓国でのナショナルチームに到達するまでの過酷な過程。
そして、まさかの落選による挫折、日本での回帰の機会。
何の為にココにいるのだ。勝って、日本を制し、そして胸を張って祖国に帰る為だ。
第九ゲーム、ソニンはトップスピンサーブを打ってあっさりとサーヴィスエースを決める。
梨華は、別に何もボーっとしていた訳ではない。ただ単に、そのサーブが見えなかったのだ。
突然目前から落ちるトップスピンサーブ。次にソニンはフラットサーブを打ち、
そしてやはりサーヴィスエースを決めた。梨華に傾いた流れが、遮断された瞬間だった。
ソニンから焦燥が消え、雑念が消えた。目的を思い出したのだ。
ソニンはあっさりとラブで第九ゲームを奪う。五=四。
第十ゲーム、それでも梨華は、まだまだいけると思っていた。
これまで通じてきた戦法が突然、通じなくなるなんて理不尽な事はない筈だ。
梨華はサーブを打つと、しっかりとソニンのつま先を見つめ、返球を予測した。
(ストレート)
- 266 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時13分35秒
- 梨華は正面を向きながら、横歩きでセンターラインに素早く移動する。
が、ソニンが打ったのは例のバックハンドのスピン。
落下点は予測できたが、対応する事が出来なかった。
それからソニンは極めて丁寧にテニスをやりだした。序盤の妥協の無いテニスとも違う。
そして、中盤乱れて勝ち急いだテニスとも違う。全く丁寧なテニス。
梨華をしっかりと相手として認識し、そして自分の得意なバックハンドを多用した。
返球をする事に努めていた梨華も、ソニンの光りだしたテクニックにはどうしても
対応する事が出来なかった。
「こうなったら石川は無理やな。あいつの弱点は決定打が無い事と、それに
レベルの高いテクニックを持ってる奴には返球オンリーは通じないということや。
これはもう時間かけて改善するしかない、どうしようもない事やけど、
ようがんばったで、あのクラスの奴から五ゲーム取ったんや。三ヶ月で。」
梨華の健闘は目覚しくもあり、そして自分の限界を見せ付けられた結果にもなった。
ゼロ=六、五=七。これだけ見ても、梨華は随分と頑張った。何も恥じる事はない。
「有難う御座いました。なんか、とても楽しかったです。」
梨華はネットを隔てて握手する際、ソニンに笑いかけ、快活な声をかけた。
すると、ソニンは梨華に突然、頭を下げた。
「ゴメン。本当に、それしか言えない。」
「え?どうしててですか?」
- 267 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時14分15秒
- 梨華は突然深々と頭を下げたソニンに対して、狼狽するように首を何度か傾げた。
「いろいろとね。理由は聞かないでよ。あなたとはまたいつか試合する気がするから。
それと、あそこに座ってる二人にも言っておいてくれない?私は絶対に勝つって。」
ソニンはニコニコと笑っている安倍と、変わらない無表情の矢口の方に
視線を向けてそう言った。梨華も二人を見やり、そして笑顔で返事をした。
「はい。」
試合はT高校が勝って、そして三回戦に進出した。
梨華は満足げな表情で自陣に引き返し、そして軽く部員達と中澤に謝った。
でも、勿論批判的な言葉が帰ってくる訳が無く―――――。
「りかちゃんにしてはよくやった。感動した!」
「まあまあいいんじゃない?あたしは普通に梨華ちゃん見直したよ。」
「石川さんは、練習真面目にやってましたからね。」
「私も凄い感動したよ。」
「ははは、なっちが思ったとおり、石川はいい選手になるよ!」
優しく励ましてくれた。
梨華は皆に照れたように返事をし、そしてラケットをラケットバックにしまうと、
笑顔を作って、清々しく矢口のもとに向かった。
空は晴れ渡っていて、梨華の心の中も晴れ渡っていたけれど―――。
- 268 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時14分50秒
- 「矢口さん、すいません。負けちゃいましたけど、凄く楽しかったです。」
「・・いい試合だったよ。」
「凄く楽しんでるの伝わりましたか?」
「・・そうだね。楽しそうだった。」
「よかったあ。嬉しいです矢口さんもきっとわかりますよこの気持ち。なのに・・」
梨華の口調が篭り出した。そして、それは徐々に嗚咽へと変化していった。
矢口は梨華の方を無感情で見つめていたが、どういう訳が胸が熱くなった気がした。
「悔しいんです。・・・勝てる・わけない・のに。なのに・・・」
梨華の心の中は悔しさの念で満たされていた。勝てるわけが無いと、
わかっているのに、どうしてもその思いは消えない。
矢口は梨華が泣く様をジッと見つめていたが、
やがて今までは考えた事も無い言葉を心の奥隅から見つけ出した。
「やっぱり、お前とは出会えてよかったよ。」
「・・・え?」
「私も、何かを見つけれる気がした。」
- 269 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月03日(火)04時16分08秒
- 矢口がそう言った後に梨華の嗚咽に気付いた部員達が心配そうに駆け寄ってきた。
夏の日差しは燦々と凝縮し、梨華を中心に出来た塊を直接照らしているようだった。
この中にいるだけで、矢口は安堵している事を知らない。
誰も、欠けた部分を補い合っている事を知らない。
永久に人の心の中などを覘く事は出来ないけれど、そんな必要は一切無いのだ。
吉澤は突然、違う世界に向かう事を逸らさず受け入れて、今を大切にした。
紺野は絶望の淵から初めて生きれる場所を見つけた。
松浦は利己の中に住んでいた自我の間違いに気付いた。
希美は憧憬の道から自分の道を導いた。
安倍は示すべき道を後輩達に惜しみの無い笑顔で照らした。
矢口は今になって、漸く自分の意味に気付こうとしている。
そして、梨華は皆に出会って人生の喜悦に気付いた。
中澤はそんな部員達を誇りに思う。そして自分の歩んできた道は正しいと確信した。
三回戦、T高校はK学園かY学館の勝者と当たる。
それは心を揺れ動かす、運命の一戦になる。
それぞれの『青』が、交錯する――――
――――――――――――
- 270 名前:カネダ 投稿日:2002年12月03日(火)04時28分19秒
- 更新しました。
私情で恐縮ですが、更新ペースが一週間に一度位に落ちると思われます。
それでも更新量はこのままの量を保つ事を心掛けますので、これからも
よろしくお願いします。
余談ですが、投票してくださった方々、有難う御座います。
始めた頃は誰も読んでくれないのではないかと懸念する毎日でした。
皆様の票は、完結への期待として勝手に解釈することにします。
必ず完結する事を約束しますので、これからも読んでくれたら幸いです。
- 271 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年12月03日(火)08時10分54秒
- 石川もはじめて負ける悔しさを味わったのだな
でもこれが次の試合への糧となればいいと思う
>作者様
更新お疲れ様です
もう冬なのに灼熱のコートに居るような感覚を思い起こす情景描写がいつも素晴らしいです
これからも頑張って下さい
- 272 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月03日(火)10時55分14秒
- 更新ご苦労様です。
いつも楽しく読ませて頂いています。
三回戦はいよいよ・・ですね。
楽しみにしていますー。
>>271
・・・なぜ、ネタばれをするんですか?
- 273 名前:4489 投稿日:2002年12月03日(火)14時36分01秒
- 更新お疲れです。
いつまでも待つつもりです。
もう一人の主人公のチームの試合も楽しみです。
- 274 名前:石凸 投稿日:2002年12月04日(水)04時57分46秒
- 269の所で小説読んで久しぶりにじーんと来ました。こんなんじゃ
ラス前あたりでヤバイな自分。
- 275 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月04日(水)13時12分31秒
- 更新お疲れ様です。
自分はテニスは観るだけなんですが、この小説を読んでいると、無性にラケットを
振りたくなってくる・・そんな感じです。
269のくだりでは自分もググっと来ました。バラバラな個性なのにいつの間にか
まとまっているような、不思議な結束感ですね。
テニス小説ではあるけれど、この小説を読んでいると、何か人生についても
考えてしまいます。
- 276 名前:川o・-・)ダメです… 投稿日:川o・-・)ダメです…
- 川o・-・)ダメです…
- 276 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年12月05日(木)21時38分15秒
- ヤグヲタの自分としては、やっぱり気になるのは矢口のコト。
その矢口も、ようやくソレを掴めそうな気配ですね。
恐らく対峙するであろう市井との試合で、
矢口はいったい何を見るんだろう・・・今からドキドキです。
次はK学園vsY学館ですね。
Y学館の天才のコトも気になるけど、藤本保田の即席チームがどんなテニスをするのか
楽しみです。
- 277 名前:カネダ 投稿日:2002年12月10日(火)04時34分27秒
- レス有難う御座います。
大変励みになります。
>>271むぁまぁ様。
そうですね、やはり負けを知らなければ人は強くなれないです。
描写力など自分は皆無ですが、そう言っていただけると本当に嬉しいです。
これからも頑張ります。
>>272名無し読者様。
有難う御座います。楽しく読んでくれる人がいる限り、完結させます。
三回戦は・・・そうですね。まだ結構先になるかもしれないけれど、辿り着かせます。
頑張りますので、これからも読んでやってください。
>>273 4489様。
有難う御座います。更新を待っていただくのは非常に申し訳ないのですが、
年末に向けて、やはり落ちてしまいます。すいません。
精一杯頑張ります。
>>274石凸様。
有難う御座います。この話でジーンとして頂けるなんて、
なんだか申し訳ない気分です。でも、嬉しいですね。
これからも、精進しますので、どうか読んでやってください。
>>275名無し読者様。
有難う御座います。いろいろと書いていて不安なんですが、
そう言って頂けると本当に嬉しいです。
バラバラな連中を上手く結束できたか、本当に不安でした(w
>>276読んでる人@ヤグヲタ様。
矢口にも漸く光明が見えてきたところですね。
試合に持っていくまで、少し時間がかかるかもしれませんが、
必ずやらせて見せます。保田、藤本ペアの頑張りも是非見てください(w
それでは続きです。後藤です。
- 278 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時36分22秒
- (好きな事を続けるのって、難しいんだよ)
合宿の翌日、部員達に休みは無く、真希も予定通り遅刻しつつもちゃんと授業に
出席していた。予定と異なる事と言えば、この日はどうしても眠れなかった。
机に突っ伏し、目を閉じると決まって里田に言われた様々な言葉が浮かんでくるのだ。
(後藤は未来を選べる)
真希は顔を上げて浮上してきたその言葉を、頭を振って追い出そうとした。
すると、
「ゴルァ!後藤!何やっとるんだ!授業中に!」
まだ若い日本史の教諭に怒鳴られた。
「・・・す、すいません!」
「たまに出席して、奇跡的に今日はちゃんと授業聞いてると思ったら、頭の運動か?」
そう教諭が言った処で、クラス全体から笑い声が沸き起こった。
真希は顔を紅潮させて俯く。
そして上目遣いで、右斜め前の教卓から三番目の席に座っている加護の方を窺ってみた。
加護は肩を揺らしてクスクスと、手で口を抑え、笑いを堪えながらも漏らしていた。
それを見ていると、真希はなんだかとても嬉しくなった。
(未来を選べる・・)
加護は十年後、いったいどんな事をしているのだろう?
六時間目が終わるまで、残り十分。真希は加護の未来に費やそうと思った。
あれだけテニスが達者なんだから、テニスの選手になっていたらそれに越した事は
無いが、どうしても加護がラケットを振っている姿が浮かんでこない。
色々な未来像を想像してみるが、何故かしっくりくるモノが一つも見つからなかった。
(あいぼんは器用だからなんでも出来そうだな)
そう、思った所でチャイムが鳴った。
―――
- 279 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時37分16秒
- 真希は更衣室でウェアに着替える途中、何時の間にか着替え終わっていた
加護に色々と話し掛けられた。
「ごっちん、珍しく寝てなかったなあ。昨日は良く眠れたん?」
「いや、なんか色々考え事してたんだ。」
「へえ、そりゃあ珍しいなぁ。よかったら、ウチにも聞かせてや。」
「ヤダ。」
「・・・・・・・」
「教えてやんない。」
「・・・・歪んできたなぁ。うんうん。成長した。」
加護は顔を引きつらせて絞ったような声を出す。
すると真希はしてやったりのような笑顔を浮かべてウソ、ウソと軽く
加護の肩をポンと叩いた。そして着替え終わる。
「あいぼんさあ、将来とか考えてる?」
高校一年生の夏にそんな事を考える輩は一部しかいないだろうが、
真希はこの時、どうしても未来の事が気にかかった。
自分は将来何をしているのか、そして友人達はしっかりと自分の道を見つけて
いるのだろうか。里田の退部で、やけに現実というフレーズが怖くなった。
- 280 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時37分49秒
「そんなん、今は全然考えてないけど、出来るだけ自分のやりたい事
やれてたらいいなあって思う位かなあ。」
「やりたい事かぁ。」
「うん。テニスとかスポーツと関係ない分野の事に興味持つかもしれへんし、
もしからしたら、男に溺れるかも知れへんし。」
真希は爆笑した。
着替えていた他の部員は何事かと、真希の方に視線を向ける。
加護もわたわたと、他人事なのに狼狽した。
「ははは、男に溺れんだぁ。あいぼん。」
「うん、溺死する位に。」
「そうなったら、最高だね。」
そこに着替え終えた高橋が加わって、三人で未来の事を話しながらコートに向かう。
高橋は意外にも将来については楽観的に考えていて、なんとかなるやろ、
と、福井弁のあっけらかんな声を出して、その話題をオトしてしまった。
―――
- 281 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時38分23秒
- 夏はいよいよ本格的になり、十面あるコートの隅の方は、陽炎の所為で霞んで見えた。
日射は絶えず躊躇無く、そして優しくない。立っているだけで自然と汗が噴き出てくる位だ。
それでもこの時期にはどの部活動も大会を控えており、
運動場からは合宿以前よりも活発な、怒号のような号令が響いていた。
それぞれの部の覇気が、ピークを迎えている。
真希は特に意識せず、勝ち組のコートに入って漫然と準備運動していると、
ある異変に気付いた。負け組の部員の人数が、合宿前より著しく少ないのだ。
いつもは夏に関係なく負け組のコートからは熱気が迫ってくるのに、やけに寂寞としている。
怪訝に思った真希は、対面で素振りをしていた飯田の元に歩み寄り、
そしてこの現状について伺おうと思った。
「一体、・・どうしちゃったんです?これ?」
真希は気味の悪い物を見たように、負け組のコートに眉根を下げた顔を向ける。
すると、飯田はフウっと優しい溜息を吐いてから、諭すように真希に話し出した。
「・・・合宿が終わったら、もう入れ替え戦って、殆どやったこと無いんだ。
だから、大多数の三年と一部の二年の部員達はもう、
諦めちゃって、いつもこの時期大幅に辞めるんだよ。」
飯田はどこか力無く、そして何か寂しげだった。
真希は無意識に俯き加減になり、そしてしょんぼりした声を掛ける。
- 282 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時39分16秒
- 「そうなんですか。」
「まあ、その分私らが頑張んなきゃダメって事だよ。ゴトー。」
「・・・はい。」
複雑な心境のまま、真希は準備運動を再開する。
諦めてはいけない、なんて、安直な言葉を掛けるのはとても失礼な事なんだろう。
自分が今出来る事は、精一杯練習をし、上手くなって試合に勝つことなんだろう。
真希は釈然としない答えを自分に言い聞かせた。
やがて石黒がコートにやってくると、間髪いれずに勝ち組の部員にだけ集合を掛けた。
「団体戦の組み合わせが決まった。お前らは・・・」
実に呆気ない説明だった。まず勝ち上がってくるであろう高校名を名指しし、
そして付け足す言葉は決まって、『問題ない。』だった。
その発表が終った後、隣で説明を聞いていた市井の表情に、
なにやら落ち着きの色が無くなっていた。
不思議に思った真希は、まだ石黒がこれからの予定などを説明しているのに
も関らず、ボソボソと、石黒に視線を向けながら市井に囁き声を掛けた。
「どうしたの?」
市井は突然話し掛けられたからか、一瞬ビクッとした後、
真希を一瞥して、なんだよ、と煩わしそうに応対した。
- 283 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時40分00秒
- 「いや、何か落ち着き無いからさ。」
「お前には関係ないよ。」
「なんだよ、それ。」
石黒が全ての事柄を言い終えると、最後に、と言って負け組にいた
小川を呼び出した。すると真希はよりによって何故小川なんだと、嫌な顔をした。
小川と真希は今でも芳しくない関係のままだった。
「里田が抜けて、代わりに今日から一軍に入る小川だ。」
里田の代わりに小川だと?小川はテニスの上手さも強さも、里田とは凡そ比べ物にならない。
そう思った真希はあからさまに不平の色を浮べる。
それでも文句など言える訳が無い真希は、口をもごもごさせて苛立ちを緩和するしかなかった。
石黒が解散を告げて、部員達がそれぞれ自分のメニューに取り掛かろうと
した時に、市井が石黒の元に駆け寄った。真希はランニングに向かう為にコートの
出入り口に向かったが、らしくない市井の行動を見てその足を止めた。
市井は悄然とした様子で、石黒に何かを確かめるように訊いていた。
時折小さく頷いたり、頭を力無く振ってみたり。
とにかく、その動作の一つ一つが市井らしくない、力の無いモノだった。
真希は加護に催促されて仕方なくランニングに出かけるが、
真希の心の中には薄くも無く濃くも無い、はっきりとしない靄が広がっていた。
- 284 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時40分44秒
- 市井とは合宿の初日からマンツーマンでの練習を終えていた。
だから、真希がゆっくりと市井と話を出来る時間は休憩時間か、
練習を終了した後の更衣室くらいだった。
開幕まで残り一週間になって、メニューの方は合宿以前よりも些か楽なモノが増えた。
恐らく試合間近なので、石黒が怪我を懸念してる為だと思うが、その御蔭で部員達は
心持ちも以前とは比較的に落ち着いて、雰囲気も良くなっていた。
特に保田、藤本ペア。
このペアの阿吽の呼吸といったら、加護、高橋ペアなど群を抜いて凄まじかった。
「ねえ、保田さん。コーンスープとか、お好きですか?」
「え?それは本当にお前の言葉か?」
「私以外の、誰が保田さんにコーンスープの話題を振るんですか?」
「・・・・まあ、好きだよ。」
保田と藤本は休憩時間、いつに無くまともな話題を紡ごうとしていた。かに見えた。
「そうなんですか。私も好きなんですよ。」
「へえ、お前にしたら、まとまじゃないか。」
「フフフ。まともって、失礼な。私はいつもまともですよ。」
「・・・・・・」
「美味しい作り方?知りたくないですか?」
- 285 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時41分37秒
- 藤本が優しい笑みを浮べながらそう言うと、二人の座っていたベンチは
俄かに雲の陰に覆われ、穏和な空気に包まれた。
天は二人を優しく見守っているようであった。
「へえ、知りたい、知りたい。教えてよ?」
「わかりました。まずですね・・・・・」
「ふんふん。」
「モロコシワタロウを3袋用意するんです。」
文字通り雲行きが怪しくなってきた。
保田は、諦めたようにフッと笑った。
「それで、砕くんですよ。まず。粉にするんです。」
「・・・・・・」
「そしてカップに移して、お湯を入れたら出来上がり。」
「・・・・・ありがとう。」
「どういたしまして。」
一方その頃、真希は浮かない顔をして、一人コートの隅で腕を組み、
何か思案しているように金網に凭れ掛かっていた市井に話し掛けようとしていた。
当り障りの無い、適当な話をするだけで良いと思っていたが、市井の様子を見て考えは変わった。
市井の周りには、誰もいなかった。
- 286 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時42分20秒
- 「なーに考えてんの?」
真希は雲のように、とても軽いバカみたいな声を掛けた。
すると市井は俯き加減だった顔を少し上げ、そして真希に微笑みかけた。
「別に、大した事じゃないよ。」
「大した事じゃないくせにそんなに考え込むんだ?」
「ははっそういう性格なんだよ。」
市井が空を見ながら笑った後、真希は市井の隣の金網に凭れ掛かった。
「で、先生と何話してたの?」
「・・・・お前の初戦の相手、はっきり言って相当強いぞ。」
「初戦?ああ、団体戦の。」
「うん。相手は去年のシングルス一回戦で矢口から五ゲームを奪った化け物だ。
後にも先にも、まともにやって矢口から五ゲーム取ったのはそいつだけだ。」
「・・・そうなんだ。でも、そんな事じゃないでしょ?あんたが考えてるの。」
真希が素っ気無くそう言うと、市井は一度、キョトンとした表情をして、
それから、ははっ、と力無く笑った。真希は笑わなかった。
「お前は何でもわかるんだな。・・・・矢口が、復帰するらしい。」
「矢口って、・・・あの矢口さん?」
「それ以外に誰がいるんだよ。」
- 287 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時43分13秒
- 市井は金網に凭れ掛かったままズルズルズル、とその場に座って、溜息を吐いた。
真希はそんな市井をジッと見下ろした。
「そうなんだ。テニス続けてるんだね。」
「・・・これでいよいよ私は潮時だ。」
「なんでよ?」
そう不服そうに言って、真希もドスンとコートに座った。
市井は前を向いたまま、何か思い出しているようだった。
「考えてみろよ?私があいつの前にもう一度立てるなんて思うか?
神様が私に辞めろって言ってるんだよ。」
「神様なんていないよ。」
真希は即答する。
市井は数秒、思案するように口を噤んだが、それでも揺ぎ無い声を出した。
「それでも、私はもう、潮時だよ。」
「誰がそんなの決めるんだよ?あんたテニス続けたいんでしょ?
だったら続けたらいいじゃん。誰も辞めろなんていってないじゃん。」
子供が無理な意見を通そうとするように、真希の口調は幼く、不貞腐れていた。
- 288 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時43分48秒
- 「私は何の為に生まれてきたんだろう?テニスの才能も無いのに
テニスに希望を抱いて、やっちゃいけない事して。
なのにこんな強豪のチームでエースをやってるんだ。まるでピエロだよ。
矢口が帰ってきたのは当然の事なんだ。だから私がココで退くのも当然だ。」
「バカじゃないの?あんた十分この部じゃ一番強いじゃん。間違いなんて
誰でもするじゃん。自分が一番不幸みたいな言い方すんなよ。」
真希は体育座りをしていた両膝に額を突っ伏して、大きな溜息を吐いた。
市井と真希から離れた、二つ跨いだコートのベンチで加護と高橋が、ははは
と、ここまで聞こえるような楽しげな笑い声を上げた。市井はその様子を
数秒見つめて、それから声を出した。
「お前は、私みたいになっちゃいけない。お前は人を自然と幸福にするんだよ。
だから、私の近くにいちゃいけないんだ。」
そう思慮深げに言って市井はゆっくり立ち上がり、出入り口の方へ歩いて行った。
真希は引き止めようと思ったが、市井は振り返らずにさっさといってしまう。
市井の背中は特に普段と変わらなかったが、真希にはとても哀しげに写った。
人を幸福にするとか、不幸にするとか、そんな事は真希にはどうでもよかった。
生まれた理由とか、才能なんてモノもどうでもよかった。
ただ、絶望という虚無を纏っているカワイソウな市井を、失いたくなかった。
市井の周りには、誰もいなかったからだ。
―――――――
- 289 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時44分37秒
- 部員達はメニューを一ずつ、真剣に自分の力にする為にこなしていく。
するとまだ宵の口でもないのに石黒から集合がかかり、
レギュラーメンバーだけ、何故か練習が早めに打ち上げられた。
一週間かけて疲れを徐々に取っていく、とだけ石黒は理由を説明した。
真希は最初、茫然とその説明の意図を考えていたが、取り敢えず練習が
早く終わったのを素直に喜ぶ事にした。
まだまだ練習する気があったからか、それとも体が慣れてしまっていた為か、
何故か日が完全に落ちない内にラケットを置く事に、虚無感を感じた。
まだ時刻は七時過ぎで、空も群青色にはなっていたが、太陽は残っていた。
雲は影のように黒く写り、それはいくつかの光源を無に飲み込んでいるようだった。
真希は加護と高橋と三人で仲良くコートを後にしようと歩を進めてると、後方から
まだ練習をしていた小川に呼び止められた。真希は反射的に臨戦態勢に入る。
そして加護と高橋に、先に行って着替えておいてくれ、と言い残すと、
その場でクルリと振り返り小川を待った。
走ってやって来た小川の顔は、妙にはにかんでいた。
「・・・・あのさ。」
「なんだよ?」
- 290 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時45分23秒
- 真希は険のある声で威圧するように小川を睨み付ける。
すると小川は首をブンブン二度大きく振った。
「ねえ、もうやめない?もう一緒の一軍なんだしさ?今までは私が悪いって
事で、許してくれない?仲良くやろうよ。」
ヘラヘラと、小川は安い笑みを浮べながらそう言った。
真希はその妙にヘラヘラ笑っている処が気に食わない。
「別に、仲良くするって言うのはいいけどさ・・・」
「うん。仲良くしようよ!やったよ、私さ、正直上がるなんて
無理と思ってたんだ。ラッキーだったぁ、里田さん辞めてくれて。」
「・・・・ラッキー?」
「これで市井さんにも、堂々と話せるし、ホント嬉しいよぉ。」
「堂々と?」
その時、真希の憤りは俄かに限界を超えようとしていた。
小川のヘラヘラとした安い、機嫌を取るような笑い。
そしてその安直で、中身の無い発言。何より、市井と里田の事が癪に障った。
「お前に里田さんと市井ちゃんの何がわかんだよ?」
「え?」
「もう話し掛けてくんなって。つまんないよ、お前。」
- 291 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時46分04秒
- 真希は小川の返事も聞かずに踵を返して、テニスコートを後にする。
無性に腹が立った。人の人生をよく知りもしないで、薄ら笑いを浮べる。
市井と、『堂々』話せると言った。何の為に小川はテニスをしてるんだろう。
先ほどのやりとりを忘れるように真希は走って更衣室に向かい、
ベトつく汗ばんだテニスウェアを乱暴に脱いだ。
このウェアの意味の重さを、小川は知らない。
夢が破れる悔しさを、小川は知らない。
真希の心の中は、荒むように、やりきれないように、不安定だった。
――――――――
正門では加護と高橋がなにやら楽しげに会話していた。
真希はその姿を見つけると、満面の笑みを浮べて二人の元に駆け寄る。
二人の顔は辺りが薄暗かった所為か、笑顔の中になにやら空虚な翳があった。
「ごめん。待った?」
「遅いで、ごっちん。何か奢れや?」
「奢って奢って!」
「・・・・・・・・・」
真希が暫く二人を睨みつけてると、
加護が、嘘やって、と慰めるように真希の肩をポンと叩いた。
- 292 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時46分39秒
- 「嘘は嫌いだ。」
「ははは、本気にせえへんわ。普通。」
「ごっちんは冗談通じないねえ。」
そんなやりとりを終えた後、三人は横一列になって帰路についた。
辺りが紺色の世界は何故か三人の心境を若干、物悲しくさせた。
「はあ、もう三ヶ月経ったんだねえ。」
「経ったなあ、なんかぎっしり詰まった三ヶ月やった。」
「そうだねえ、この三ヶ月間、どうだった?ごっちん。」
高橋に優しく問い掛けられて、真希は黒い雲を見ながら優しい声で話し出した。
「いやあ、さ。私この三ヶ月、凄く長く感じたんだよね。
高校生になる前までよりも、人生が全部凝縮されてるというか、なんというか・・・」
「わかるなあ、ウチもめっちゃ変わったもん。ごっちんや愛ちゃんに会って。」
「うん。変わったね。」
三人はそれぞれの三ヶ月を思い出しながら、暗くなってきた畦道を歩く。
夏は日が落ちる時間こそ遅いが、一度暗くなりだしたらアッと言う間に闇に包まれる。
三人が少し思案して口を閉じてる内に、世界は真っ暗になっていた。
月明かりが無い、優しくない、闇だった。どこかで、蝉が鳴いていた。
- 293 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時47分23秒
- 「ねえ、あいぼんもさ、愛ちゃんもさ、私よりも幸せになってよね。」
突然の真希の意味不明な発言に、加護も高橋も訳がわからなそうに首を傾げた。
「ごっちんはなあ、ウチらに無いもん持ってんねん。だから、ウチらは
ごっちんの活躍見るのが一番幸せやねん。」
「うん。そうそう、ごっちんを見てるのが一番スカッとする。」
「・・・・バカだねえ。二人とも。」
真希がそう言ってから、また三人は思案するように口を噤んだ。
黙りこくったまま、畦道をザクザクと歩く。
会話が無い事を真希はとても不安がったが、いつの間にやらそんな事は忘れていた。
沈黙の中でも、気まずい空気が流れているわけじゃない。
真希はまるで、心の中で二人と会話を紡いでいるような感覚に陥った。
するといつしか、加護と別れる曲がり角まで来ていた。
「じゃあ、また明日。」
「うん、バイバイ。あいぼん。」
「じゃあね。」
加護と別れてから、真希は少しだけ高橋と話をしたが、
やはり先ほどと同じように、二人は思案するように黙って歩いた。
- 294 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月10日(火)04時48分09秒
- 普段、高橋と二人でこの死んだような道を歩くのは、少し気まずかった。
しかし、今日は何も感じない。寧ろ、心地よかった。
心の中で繋がっていると言うとおかしな表現だが、真希はそう思った。
「じゃあ、ごっちんお疲れ様。」
「うん。また明日ね。愛ちゃん。」
真希は屈託無い笑顔を高橋に向けた。
夜空には先ほどまでは無かった、不細工な形の月が出ていた。
まるで、誰かの泣き顔のようだった。
そう思うと、昔、市井の存在と月とを重ねた日の事を真希は思い出した。
そしてクスリと笑った。
たった三ヶ月で、世界が変わるなんて、考えもしなかった。
テニスをする事なんて、考えもしなかった。
加護や高橋や市井や・・そんな真剣に生きてきた人間に自分が関るなんて考えもしなかった。
真希は月を見ながら、人生の不思議さに心を奪われる。
人は変わるなんて言葉は俗過ぎて、大嫌いだったのに、それを今、真希は実感している。
(人は変われるんだ)
その言葉を市井に言いたかった。
――――――――
- 295 名前:カネダ 投稿日:2002年12月10日(火)04時49分38秒
- 更新しました。
- 296 名前:名無し娘。 投稿日:2002年12月10日(火)06時29分36秒
- なんかごっちんが切ないなあ・・・
誰よりごっちんにこそ幸せになってもらいたいものですが・・・
- 297 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年12月10日(火)13時32分54秒
- 市井・・・覇気が無いというか、なんというか・・・。
市井にやる気を起こさせるカギを握ってるのは、やっぱり後藤かな?それとも矢口?
とにかく、市井には「また矢口と勝負するんだ」という気持ちを持ってもらいたいです。
- 298 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年12月11日(水)08時24分01秒
- 市井が呪縛から開放される日は矢口と対峙する最中、いや後かもしれない
そしたら後藤も幸せになれるかもしれないね
- 299 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月11日(水)23時36分22秒
- キタキタキタキタ━━━━━(;´▽`; ∬≡∬;´▽`;)━━━━━!!!!
∬;´▽`;)ありがとうございます!もう思い残す事はありません…
後藤さんの試合、市井さんの試合…楽しみにしてます。
ガンバッテクダサイ!!
- 300 名前:カネダ 投稿日:2002年12月16日(月)22時12分05秒
- レス有難う御座います。
本当に本当に励みになります。
>>296名無し娘。様。
少し、後藤は複雑な状態になりつつあります。
後藤には自分も幸せになってもらいたいです。
これからも読んでいただけたら嬉しいです。
>>297読んでる人@ヤグヲタ様。
市井も後藤も、なにやら矢口の復活で微妙な状態になってしまいました。
二人とも、覇気を取り戻して頑張ってくれたらいいのですが・・・
これからも読んでいただければ嬉しいです。
>>298むぁまぁ様。
矢口の復活は市井と矢口、お互いに悪い影響を与えてしまったようです。
後藤もまだ複雑な状態からは抜け出せないようで。
これからも読んでいただければ嬉しいです。
>>299名無し読者様。
ほ、本当にこんなんでよかったのでしょうか?
小川はまだ登場させるかもしれないので、これからも読んでくれたら嬉しいです。
しかし、すいません・・・こんな扱いにしてしまって。
それでは続きです。
- 301 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時12分44秒
- 練習は日毎楽になり、真希はマンネリズムにも似た感覚に陥る。
どこか生活も漠然となり、やる気や覇気といった試合や練習をする上で、
真希は最も大切な要素を欠いてしまっていた。
その最大の理由は、市井にあった。
発表があった次の日の休憩時間、真希は市井にこう切り出した。
この日の空はどんよりと鼠色が支配していた。風は、妙に生温かった。
「ねえ、私さあ、この三ヶ月で嘘みたいに人生楽しくなったんだよ。
だからさ、あんたも変わりなよ。あんただったら、絶対変われるよ。」
市井の肩を両手で掴み、嬉々とした表情と声色で真希は一息で言った。
しかし、市井は真希の目を逸らし、力無くそっぽを向いた。
そのツマラナイ反応に、真希は思わず肩を掴んでいた手を離す。
「・・・私の事なんか、気にしてる暇あったら練習しろよ。」
市井は目を逸らしたまま、自棄じみた声を出す。
その声には市井らしい明晰さも、言葉の説得力も、何も存在しなかった。
俄かに通り過ぎた生温い横風が、市井の髪の毛を雑然と乱した。
- 302 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時13分23秒
- 「そんなに矢口さんの事が気になるの?」
「なんでだよ?」
「だって昨日の反応見たら、矢口さん以外に考えられないじゃん。
あんたが塞ぎこんでる原因。」
「そんなことより、お前は初戦の事だけ考えてろよ。
はっきり言って、相当強い。」
「どっちの高校と当たるかまだわかんないじゃん。」
「わかるよ。」
漸く、市井が真希と視線を合わせた。
その弱弱しい視線は、いつか見た、市井の寂寥感を形にしていた。
「何でよ?」
「Y学館、私が一年の時、一度だけ練習試合をした事がある。
相手は福田明日香。私と同じ、二年だ。」
「・・・それで、勝ったの?」
「勝ったよ。2=1で。でも、私はあいつに遊ばれてただけだ。」
「遊ばれる?」
「本気でやられてたら、勝てなかったよ。」
市井は舌打ちをしながら、吐き捨てるように言った。
どうして市井はこう、自虐的に物事を考えてしまうのか?
真希は段々と、憤りに似た感情を覚え始める。
- 303 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時14分05秒
- 「あんたね、自分の実力を過小評価しすぎなんだよ。
こんな強豪高校の二年でエースって言う事、忘れんなよ。」
「・・・私の代わりはどこにでもいる。でも、お前の代わりはいないよ。
あの矢口だって、お前には敵わなくなる。お前は私の希望だよ。」
市井は毅然と真希を見つめてきた。
しかし、真希はその射抜くような視線を逸らした。
市井の希望になるほど自分を誇る事も出来ないし、それ相応の事もしてないからだ。
「私なんて、大した人間じゃない。あんたの方がよっぽど誇れるよ。私は。
テニスずっと好きで、それでこの高校に来て、それでエースやってる。
ずーっと凄いじゃん。私なんかより。」
「・・・・」
市井は何も答えず、ただ俯いた。
「だから、さ、元気出してよ。」
真希は誰に言うのでも無く、コートに向かって、悄然とそう言った。
空の色は真希と市井の心中を察したかのように更に暗色に濁り、
無言で音の無い世界は、二人から言葉を乱暴に奪っていった。
俯いたまま、ただ向かい合う二人の周りには、誰もいなかった。
――
- 304 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時14分41秒
- それから、真希はまともに市井と話す事をしなくなった。
別に関係が悪くなった訳ではないし、軋轢が生じた訳でもなかった。
ただ漠然と、二人は無意識のまま応対しなくなっていた。
加護や高橋もその事を怪訝に思っていたが、二人とも直前の団体戦の事で
頭が一杯で、真希に理由を深く問う事もしなかった。
市井さんと何かあったの?と、帰り道に軽く高橋が訊いた事があったが、
真希は、別に何も無いよ、と然も平然と答えたので、それ以上干渉しなかった。
日毎に真希は練習に対しても、何に対しても怠惰になっていき、
石黒には何度も怒鳴られ、珍しく飯田や保田にまで注意を受ける日もあった。
それでも真希は茫然と、すいません、を繰り返すだけだった。
周りの事象全てが、何か虚無感を伴っている気がした。
笑う加護にも、ラケットを振る高橋にも、何もかもが虚無で満たされているような気がした。
人は何の為に生きるのだろうか?
そして自分自身、一体何に向かって進んでいるのだろうか?
真希がそんな事をぼんやり考えていると、時間だけが経っていた。
―――――――
開幕前日の練習は太陽が半分以上も残っている内に終わった。
帰り道。細長く伸びた影を引き摺るように、三人は歩を進める。
ゲコゲコ、コロコロ、リーリーと河原からはコオロギやら、鈴虫やら、
カエルの鳴き声やらが届けられ、反対側の塀を隔てた雑木林からは、
幾種類もの蝉の鳴き声が延々と提供された。
畦道には喧しい、それでいて郷愁を感じさせる雰囲気が自ずと完成していた。
- 305 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時15分11秒
- 真希は夕陽に向かって、漫然と歩を進める。
加護と高橋は真希より一歩前を並んで歩いていて、
何かくだらない事を紡ぎながら空に向かって大きく笑っていた。
その揺れる背中が、妙に羨ましかった。
自分から話し掛けもしないくせに、覚える孤独感に嫌悪する。
なら話し掛ければいいだろう、と、心の声が訴えても、真希はその声に耳を傾けない。
真希が、二人の友達に自分なんて相応しくない、とぼんやり思った時、
「なあ、明日学校休みで、練習も休みやん。だからさあ、一回戦の試合見に行かへん?」
俯き加減の真希の顔を覗くように、加護が下から真希に声を掛けた。
加護の明るくて優しい声に、真希は無意識の内に頬を緩ませる。
加護は意味のわからない薄ら笑いを浮べた真希に対し、怪訝そうに首を傾げた。
「・・・・・・・」
「聞いてんの?」
「・・・・うん。いいよ、どうせする事もないし。」
真希はだらしない声を出した。
「よっしゃ、愛ちゃんも行くやろ?」
身を翻し、加護は素早く高橋の肩に手をポン、と置いた。
- 306 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時16分02秒
- 「うん、いいよ。やっぱり色んな高校の試合見て気持ち引き締めないとね。」
「じゃあ、決まりやな。」
加護はそうテンポよく言った後、チラリと真希の顔を一瞥して、それから
不自然に前を見ながら声を出した。
「なあ、ごっちん最近なんか思い詰めてるみたいやけど、なんでもウチらに相談してな。
ウチなあ、市井さんと約束してん。ごっちんとはずっと親友やって。
だからなあ、なんちゅーか、上手く言えへんけど、ごっちんは一人じゃないって事や。」
「・・・約束?」
「うん、合宿でな。だから、ウチはどんな事があってもごっちんとは親友や。」
加護は言い終わった後、鼻をこすって、照れ隠しするように咳払いをした。
すると、高橋も思い出したように、焦ったように、真希に同じような旨の事を言った。
「・・・・二人ともさぁ、バカだよねぇ。」
真希は泣きたくなったが、泣かなかった。
何故泣きたくなったのか、理由がわからなかった。
真希はこの不思議な感情に、理由なんていらないと思った。
「うん、バカやで。」
「バカバカ。」
「うん、サイコーだよ。二人とも。」
- 307 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時16分34秒
- 真希はそう言った後、夕陽に向かって微笑みかけた。
今まで胸に突っかかっていたのが、ポロリと取れたような気がした。
漠然として、言葉として浮かんでこないが、とにかく気分が良くなった。
そして真希は、市井はこういう気分を相当長い間味わってないんだな、と確信した。
様々な鳴き声が、やけに心地よく感じた。
「じゃあ、明日九時にHテニスクラブの前で、待ち合わせで。」
加護が別れ際、笑顔でそう言うと高橋は、うん、と大きな声で返事をしたが、
Hテニスクラブを知らない真希は返事をする事が出来なかった。
「待って、Hテニスクラブって何処にあんの?」
「え?ごっちん知らんのか?あっこやん、N駅下りて、真直ぐ行った所。」
「N駅?ああ、あの遊園地の。」
「そうそう。そこ下りたらすぐわかるわ。じゃあ、遅刻厳禁やで。」
「・・・・・それは自信ない。」
「厳禁!」
加護は馬鹿でかい声でそう言うと、真希の返事も聞かずに去っていった。
真希は加護の背中に顰めた悪戯顔を向ける。
すると高橋はフフフっと優しく笑い出した。
- 308 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時17分05秒
- 「あいぼん強引だなぁ。禿のくせに。」
「なんか、やっとごっちんらしくなってきたね。」
「はあ?どういう意味?」
二人は会話を紡ぎながら、洒落た通りに繋がる曲がり角を曲がる。
この時間、まだ向かい合って平行に並んでいる、幾つかの店舗は明かりを灯していて、
夕陽に交じって、オレンジ色の明かりがガラス張りの店舗の中から幻想的に漏れていた。
「なんか、お店が開いてるの見たの、凄い久しぶりじゃない?」
高橋が物珍しそうに、左右に広がる店舗に目配せしながら言った。
店舗の前には若者や、老人、家族連れの父親らしき人まで、共通点が無い、
様々な人たちで賑わっていた。
無国籍の雑貨店、リーズナブルな値段のイタリアンレストラン、それに小奇麗な洋服店・・・
並んでいる店舗にも共通点は無かったが、ただ、そこにいる人達は皆一様に
幸福そうな笑顔を漏らしている。
まるで、童話に出てくる自由の世界のようだ、と真希は思った。
「・・・そうだね、言われてみれば。ここで人を見るのも久しぶり。」
「ははは、そうだね。」
「ちょっと見ていく?」
- 309 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時17分40秒
- 真希は並びの三店舗目にある、無国籍の雑貨店の入り口の前で立ち止まった。
ショーケースには、あからさまに質の悪そうな髑髏の置物や、
陶器でできた摩訶不思議なキャラクターなど、様々なモノが並べられていた。
「いいねえ、入ってみようか。」
二人は雑貨店に興味津々の様子で入店する。
引き扉を開けると、甘いお香の匂いが二人の鼻を歓迎するように擽った。
床は頼りない板張りで、歩く度にギシギシと不安な音を立てる。
狭い店内には二組のカップルと、一人の若いキャミソールを来た女性がいた。
冷房がよく効いていて、明るいレゲエ音楽が低い音量で店内を包んでいた。
真希と高橋はあっちそっちの棚に手を伸ばし、可愛いだの恐いだの、
極普通の女子高生らしい、楽しげな会話を紡ぐ。
「ねえ、これあいぼんそっくりじゃない?」
高橋がベトナム製の、約二十センチ程の背丈の木人形を真希に差し出す。
「ははは、似てるねえ。」
「うん、そっくりだよ。買っていこうかな・・・」
「はは、もったいないよ、お金。」
「じゃあ、こっちは?」
- 310 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時18分11秒
- 高橋はドイツ製の、薄い紐のようなブレスレットを差し出してきた。
・・綺麗だった。角度によって、様々な色に変化する。化学繊維ではないのに。
その光彩は真希の好奇心を揺さぶるには、十分すぎる程の魅力を秘めている。
真希は思わず手に取って目前まで近づけ、それを吟味するようにまじまじと見た。
「いいねえ、可愛い。欲しいな。」
「いいよね?三人分買おうか?」
高橋に催促され、真希は思わず頷いてしまった。
この日は、というか大概の日、真希の財布の中はとても寂しいのだ。
真希はその場の空気よりも、値段を気にしてしまう自分を軽く卑下する。
「え、えっと、値段は?」
「一個四百円。」
「・・・・買えるね。うん。」
えらく深刻気に返事をした真希を不思議に思いながらも、高橋はさっさと
そのブレスレットを三つ持ってレジの方へと歩いて行った。
「ええ?私も払うよ!」
「いいから、いいから、私、仕送り結構もらってるし。」
高橋は首だけ振り向いて、返事をする。
真希は、はぁ、と落胆のような溜息を吐いた後、手に持っていたそのブレスレット
を泰然と凝視した。計ったように音楽が途切れ、店内は空調が発する機会音に支配される。
その時、真希は市井の事を考えていた。このブレスレット、市井にもきっと似合う。
- 311 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時19分12秒
- 「ごっちん、はい。」
背後から高橋が買い終えたブレスレットを差し出してきた。
真希は、本当にいいの?と、恐縮そうに高橋に訊いてみたが、高橋は
満面の笑みを浮べて、当たり前だよ、と優しく真希の肩に手を置いた。
「お金なら払うよ?悪いよ、あいぼんの分まで。」
「何言ってんの。これは私からのお礼だよ。ごっちんはいつも私と一緒にいてくれるし、
一緒に帰ってくれるし、それに、私にテニスの面白さを再確認させてくれたんだから。」
「・・・愛ちゃん。」
「友達はさあ、遠慮なんかしたらダメなんだよ。うん。ごっちんは私の親友だし。」
「じゃあ、今度は私が何かプレゼントするよ。」
「ははは、うん。楽しみに待ってるね。・・・・そろそろ出よっか?」
「そうだね。」
店を出ると、夕陽は影を潜めていて、夕方と夜との境に僅かに存在する、
夏特有の群青色の世界が広がっていた。
ポツポツと、並んでいる店舗のシャッターが下り始める時間帯でもあった。
二人は揃って新鮮な外の空気を思いっきり吸った後、快活な足取りで帰路に着く。
と、言っても高橋の家はココから歩いて、何分もしない所にあるのだが。
「じゃあね。また明日、Hテニスクラブで。」
「うん。愛ちゃん今日は本当にありがとうね。私、人から物貰った事なんて
一回も無いからさ、凄く嬉しかった。」
「はは、いいよいいよ。ごっちんにはいろいろとお世話になってるしね。」
「・・・・・ホント、ありがとう。」
- 312 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時19分50秒
- 念を押すように何度も真希は高橋に礼を言った。
勿論、ブレスレットを買って貰った事だけではなく、三ヶ月間、
自分と一緒にいてくれた事も含めて、真希は改めて殊勝な高橋に感謝した。
高橋と別れた後、真希は思い出したように先ほど訪れた雑貨店に走って向かった。
半分ほどシャッターが閉まりかけていたが、店主に頼み込んで、何とか中に入れてもらった。
音楽も冷房も止まった店内は、殊に真希を心細くさせる。
歩く度に軋む床が、真希の寂寥感を更に煽った。
真希は焦った様子で先ほどのブレスレットが置いてある棚に直行すると、
ブレスレットを人差し指と親指で優しく摘んで取り、
申し訳なさそうに肩を縮めてレジに持っていった。
「すいません。なんかもう閉店の時間なのに・・・」
「気にしないでいいよ。四百円ね。」
熊のような体躯の店主は外見に似合わず優しい声を持った人で、
その穏和な雰囲気に真希は幾分か好感を持った。
「ありがとう御座いました。」
ペコリと頭を下げ、真希は何故かいそいそと店を出る。
外に出ると、イタリアンレストラン以外の全ての店のシャッターが下りていた。
明かりが無くなった通りは、いつもと変わらない、見慣れた世界だった。
真希は購入した、厚紙で包装された市井の為のブレスレットを固く握り締め、家路を急いだ。
――――――――――――
- 313 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時20分27秒
- 翌日、真希は至極すっきりと目を覚ました。
ここまで寝覚めの良い日は久しぶりで、真希はスクっと布団から立ち上がると、
身軽に腰を左右に二度ほど大きく捻った。
そのまま幾種類かのストレッチを軽くこなすと、真希は枕許に置いてあった市井の為に
買ったブレスレットを手に取った。昨日、強く握ってしまった所為で、
包装はクシャリと歪み、萎びた花のように形は不細工になっていた。
「ああ、台無しだよ。」
ブツブツと独り言を呟きながら、キュッと包装を伸ばす。
そのついでに時計を見てみると、まだ時刻は七時にも達していなかった。
それでも家に人の気配は無く、真希が襖を開けてリビングに顔を出しても、
そこにはいつものようにラップに包まれた朝ご飯がポツンとテーブルの上に
置いてあるだけだった。それを確認するや否や、電車が無機質に通り過ぎた。
誰もいない家、力無く置き去りにされた朝食、電車の音・・・・
毎日味わっている感覚のはずなのに、この日は何故かいつも以上に哀しかった。
真希はハンガーに掛けていた制服にサラっと着替え、朝食をものの数分で食べ終える。
制服姿で遠出するのもおかしいとは幾らか思ったが、とにかく真希はこの家から
早く去りたかった。どういう訳か、市井の心の中を覗いているような気がした。
――
- 314 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時21分16秒
- 外は朝っぱらから嘘のような猛暑で、空は雲一つない快晴だった。
カンカンカンと安い鉄板の階段を駆け下りて、路地に出る。
出会い頭に、恐らく水着を忍ばせているだろう
薄っぺらいナップサックを例外なく背負った、無邪気な小学生集団と出くわした。
その褐色に日焼けをした健康的な肌を見ていると、
毎日太陽の下で練習しているのに、真っ白な肌を保ち続ける加護が信じれなくなる。
そんな事を思っている真希の肌も他の部員達に比べれば断然白い方なのだが。
駅は歩いて何分もかからない場所にある。
通学路とは反対側の道を真直ぐ行けば、家を揺らす根源の忌まわしい私鉄は目の前だ。
駅に着くと、スカートの左ポケットに入れてあったハンカチで額、首筋の汗をサラッと拭う。
その後右ポケットに入れていた財布をひょいと取り、頭上にある路線図を睨みながら
目的地の駅までの道程を現在地から指でなぞってみる。
「うわ、八駅もある。」
ぶつくさと不平をぼやきながら、高価な五百円玉でおつり無しの片道切符を買う。
真希は電車に乗る事など滅多に無かったので、幾分不安げに構内を見渡しながら
やって来た急行列車に流れるままに乗り込んだ。
座席はピッタリと埋まっていて、仕方なく立ち乗りを強いられた
真希は扉の脇の手摺に指をからめ、その少し白く濁った車窓から
普段は見ない、自分の町が流れていくさまをぼんやりと見つめる事にした。
(うわ、家あった・・・)
- 315 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月16日(月)22時22分19秒
- 最初は空いていた車内も、一駅停車する毎に山のような人が一斉に乗り込んで来た所為で、
身動きが取れないほどの密閉された世界になっていく。
それを繰り返す事三回、所要時間三十分、ようやっと目的地のN駅に着いた。
着いたのはいいものの、真希はHテニスクラブへの道程がさっぱりわからない。
お世辞にも土地勘など無い真希は、改札を抜けると暫し呆然と立ち尽くしてしまった。
(何処を抜ければいいんだったけ・・)
辺りを見渡すと夥しく行き来する区別のつかない人の群。
漂う暑気の隙間からは粘っこい湿気の波と、表現しがたいイヤな臭気に襲われる。
この不愉快な世界を平然と行き交う人々には意思があるのだろうか?
真希は流れに逆らうように立ち止まったまま、ふとそんな事を考えた。
そのまま目的も無く目を泳がしていると、ある一点に強烈な違和感を覚えた。
しかし、視線を戻してみてもその場所が今一つ掴めない。
どこだっけ?
と、真希は大切な物を置き去りにしてしまったような
不思議な感覚に捉われながらもう一度先ほど感じた、
デジャブのような違和感を覚えた場所を双眸で嗜めるように探る。
(あの子だ・・・)
そうして見つけたある一点には、今朝擦れ違った小学生集団に負けず劣らずの
健康的な肌色を携えた少女が、まだ開店していないレコード店の前に備わっている
二つのベンチの一方で、ラケットバックを抱えながら悄然と座っていた。
- 316 名前:カネダ 投稿日:2002年12月16日(月)22時24分23秒
- 更新しました。
次の更新は、諸事情のため、もしかするとクリスマスを跨いでしまうかも
しれません。重ね重ね申し訳ないです。こんなアホ作者ですが、見捨てないで
読んでいただけたら嬉しいです。
- 317 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月17日(火)00時15分37秒
- 何故か後藤のシーンは切なくなることが多いです。
この懐かしい感覚は何だろう…。
試合が楽しみです。是非K学には頑張ってもらいたいものですね。
- 318 名前:きいろ 投稿日:2002年12月17日(火)18時21分22秒
や・やっと・・追いつきました・・・。
こんなに、小説を読んで爽やかになるのは初めてです。
二人の『天才』の対決を楽しみにしています!!
- 319 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年12月18日(水)12時27分46秒
- 心の翳りはいつ晴れるのだろうか
また二人は出逢ったのですね
- 320 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年12月18日(水)14時08分12秒
- 次は、後藤視点での二人の出会いですね。
石川はバカっぷりを炸裂させていたけど(w
後藤は石川に対してどう思うんだろう・・・。
続き楽しみ〜♪
- 321 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年12月21日(土)07時10分17秒
- ヒサブリです。
保存順調にさせていただいております。
いつも楽しく読ませていただいております。
後藤さん視点での石川さんとの出会い。
後藤さんは石川さんに何を感じたんだろう?
天才と馬鹿はどっちが勝つのか、また、市井さん・矢口さんの対決は?さらに、辻・加護初対決の結果は?
まだ、後藤さん編の1回戦が終わって無いのに、気が早い、ななしのよっすぃ〜でした。
では、更新を楽しみに待ってます!
- 322 名前:カネダ 投稿日:2002年12月26日(木)04時46分28秒
- レス有難う御座います。
本当に励みになります。
>>317名無し読者様。
後藤のサイドは確かにそういう面があると思います。
K学の公式戦はまだやってないので、早くさせたいと思ってるのですが、
もう少し掛かるかも・・・すいません。
K学、頑張らせるので、これからもよろしくお願いします。
>>318きいろ様。
ああ、なんと言うか、お疲れ様です。そして有難う御座います。
こんな長いのを読んでくれて・・・本当に感謝です。
期待を裏切らないように精一杯頑張ります。
>>319むぁまぁ様。
また出会ってしまいました。
石川のサイドとはまた違った雰囲気を出したいと思っているのですが、
自分の力量ではちょっと無理があった感があります・・・
心の翳り、晴れるきっかけは意外に石川かもしれないです(w
>>320読んでる人@ヤグヲタ様。
石川サイドでは、バカ丸出しを表現したいと思ってました(w
後藤が石川に対してどう思うか、読んでいただけると、わかると思いますが、
案外、バカと思ってるかもしれません(w
>>321ななしのよっすぃ〜様。
お久しぶりです。てっきり見捨てられたのかと。と言うのは冗談です(w
そうですね、自分もそれぞれの対戦を早く書きたいと思っているのですが、
最近少し、生活が慌ただしくなってしまいまして・・言い訳がましくてすいません。
必ず到達して見せます。
それでは続きです。
- 323 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時48分17秒
- 真希は促されるようにその少女の元に歩を進めた。
(ラケット持ってるし、どっかの代表の子だよね・・)
赤の他人に話し掛ける事に対して、抵抗が無いと言えば嘘のように聞こえるが、
この時、真希はまるで幼馴染でも見つけたような心持ちになっていた。
根拠も何も無いが、真希は不思議とその少女に対して親近感を抱いていたのだ。
人ごみを掻き分け、俯きながら溜息を吐いている少女の前に到達する。
そして真希は躊躇無く、その少女に対して上から声を落とした。
「ねえ。」
少しきつい声色だったが、真希自身は至極自然に話し掛けたつもりだった。
しかし、少女はそうは受け取らなかったようで。
真希が話し掛けた後、少女はビクっと一瞬体を硬直させ、
俯いたままなにやら小刻みに震え出した。
「ちょっと、聞いてる?」
(口調きつかったかな・・・・)
「・・・・・」
「ああ、ゴメン。口調きつかったかな?Hテニスクラブってどうやって行けば
いいかわかる?」
- 324 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時49分31秒
- 真希は精一杯の努力をして、優しい声を投げ掛ける。
すると漸く安堵したのか、俯いていた少女はゆっくりと顔を上げてくれた。
間近で見ると少女の容貌は、健康的な褐色の肌がよく似合っていて、とても可愛らしかった。
「ごめんなさい。少し考え事をしてたんです。」
甲高いアニメ声で、あからさまな言い訳をする少女。
真希は更に好感を持った。
そして、こんな人ごみの中、一人俯いている事がどうしようもなく相応しくないと思った。
「あっそうなの?ゴメンね。私こんな所来た事なくてさ。友達と
待ち合わせしてるんだけど、全然行き方わかんなくって・・・
それで、ああええと、制服着てるし、ラケット持ってるから行き方知ってる
んじゃないかなー、と思って尋ねてみたって訳。全然怪しい人じゃないから安心してよ。」
「・・・・・・」
真希が自分なりに精一杯わかりやすく事情を説明しても、その少女は
真希の瞳を恍惚するように見つめるだけで、相槌も一言の返事もしようとしない。
真希は怪訝に思って首を傾げると、いつ少女が反応してくれるのかを待つように
見下ろしたまま、暫くだんまりを決めてみた。
すると、少女は一々面白い行動をした。惚けた顔で感心するように口を開けてみたり、
真希の体全体を舐め回すように視線を泳がせ、胸の辺りで突然瞠目してみたり。
(ダメだコリャ)
少女の不可解な行動を見て返答を諦めた真希は、少し不機嫌そうに返事を催促した。
「ねえ、聞いてんの?」
「あ、・・・す、すいません。Hテニスクラブなら、北口を出て、真直ぐ行けば、
すぐ着くと思います。」
- 325 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時50分22秒
- 焦ったように話し出した少女に対し、真希は色々な感情が湧いてきた。
少し馬鹿っぽく見えるが、その澄んだ瞳には人生の逡巡の色が一切無かった。
何らかの揺ぎ無い決意をしている。自分に自身を持っているのだろう。
真希はその少女から俄かにそんな印象を抱く。そして何より、他人のような気がしなかった。
「ありがと。」
真希はぼんやりとその少女の歩んできた人生を想像しながら、呆けたような
声色で返事をする。するとその少女は頬を綻ばせて、安堵したように胸に手を置いた。
真希も何故か肩の荷が下りたような気がした。
やりとりが一段落すると、真希を尋常ではない眠気が襲った。
暑気と湿気と人ごみが奏でる喧噪が、突如として子守唄に変化する。
得意ではない早起きをしてしまったツケが、今になって回ってきたのだ。
真希は眠気を誤魔化すように、駅構内にある掛け時計を見やった。
(まだ、三十分はある・・・・)
「うんとこどっこいしょ。」
さり気なく、少女の隣の空いてるベンチに腰掛ける。
ベンチに座ると、睡魔は更に貪欲になり、真希に襲いかかった。
眠気まなこで隣の少女の様子を窺ってみると
「はえ?」
- 326 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時51分12秒
- 綺麗な容貌からは夢想だにしない、とびっきりのアホ面を頂いた。
真希は思わず吹き出しそうになったが、甚大な眠気の御蔭で何とか堪える事が出来た。
今日初めて会った子が加護や高橋のように、ウケを狙っておかしな顔を作るなんて
到底思えない。笑う事は失礼に当たるんだろうと真希は考えた。
「んあ?だってさ、まだまだ時間余裕あるじゃん。」
「そ、そうですね。」
馬鹿な顔を作ってみたと思えば、突然姿勢を正して畏まったりする。
今時の普通の女子高生はこんなもんなんだ、と、真希は間違った解釈をした。
「そうそう。」
真希は興味深そうにそう返事をすると、ベンチの肘掛に肘を付いて楽な姿勢をとった。
そして横目で少女をさりげなく窺ってみると、少女はまた不可解な行動をしだした。
背筋をピンと伸ばし、視線をキョロキョロと高速で動かし、時折下唇を右手で
隠すように摘んでみたり、溜息を吐いてバツの悪そうな顔をしたり。
(面白いなあ、この子)
真希は少女の様々な仕種から笑いを堪えていると、ついに意識が朦朧としてきた。
少女の顔が二つに割れ、そして霞んでいく。真希はバカでかい欠伸をした。
すると、首が鉛のように重くなる感覚に陥った。
「ああ、眠いよおお。」
- 327 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時52分09秒
- 真希はなけなしの声を振り絞ってそう言うと、目の前が真っ暗になり、
喧しかった筈の喧噪が、徐々に徐々に木霊を残して、鼓膜から彼方に遠退いていった。
―――――
頭が揺れている。
真希はそう感じて薄っすら目を開けようとするが、瞼が馬鹿みたいに重い。
この感覚は嫌というほど味わっている。――加護だ。
という事は、今は昼休みなんだろうか。真希は朦朧としながら、無意識に声を発する。
「・・・んあ?・・・あいぼん?」
「はぁ・・はぁ・・え?・・・ドコカで聞いたような・・・・」
加護はいつからこんなに可愛らしい声色に変化したんだろう。
何故か息が上がっているし、いつもの加護らしくない。
真希は目を瞑ったまま声を出す。
「食堂?」
「あ、あの、時間とか大丈夫ですか?」
そう訊ねられた所で、真希の意識は覚醒した。
「へ?」
(そうだ、駅だココ)
少女の心配そうな表情を半開きの目で確認した後、真希は構内の掛け時計に目を向ける。
寝汗をかいていたのか、背中の中心辺りがやけに不快に感じだ。
- 328 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時52分57秒
- 「・・・やばいね。」
「じゃあ、行きましょう。私もクラブに行かなくちゃなんないですから。」
「私より、あんたの方が、やばくない?」
(あ、あんたなんて言っちゃった・・・)
「え?」
「だって、私は今日試合無いもん。」
真希があっけらかんな声色でそう言うと、少女はキョトンと表情を固める。
その数秒後、唇がわなわなと怯えるように震え出した。
真希はボーっとした様子で少女を見つめる。
「・・・・あああ、遅刻!」
少女は突然叫び声を上げると、北口の方に向かって一目散に走り出した。
せっかく起こした真希の方を顧みもしないで、無我夢中で人ゴミの中を走り抜けていく。
――面白い。
真希はそう思って、見失わないように少女を追う事にした。
少女は人ごみを器用にすり抜けて走っているが、かさばった荷物の所為で思うように
走れていないようだ。だから、身軽な真希はアッと言う間に追いつく事が出来た。
「大丈夫だって、歩いて五分なら、走ったら一分じゃん。」
「でも、余裕が欲しいんです。」
- 329 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時53分56秒
- 前方を見て走りながら、少女は眉根を下げて悄然とそう言った。
表情を七変化させる少女に、真希はとうとう堪えきれなくなって声を上げて笑ってしまった。
こんな珍しくて面白い娘はそうそういない。
真希が笑っていると、少女は首を傾げ、怪訝そうに真希を見つめてきた。
その時、真希はこの少女に、ただならぬ希望を抱いていた。
根拠も無く、漠然としているが、こんな少女がこの世にはいなければいけないと思った。
「ははは、あんた、面白いね。私なんてほっとけばよかったのに。」
「でも、あなたもこんな早くに来てるわけだし、気になったから・・・」
どうしてこんな赤の他人の事を気にしてくれるのだろう?
「ははっ、やっぱ面白い。今日試合でしょ?応援するよ。」
「ホントですか?」
少女は嬉々とした声色でそう言った。
二人は会話を順調に紡いでいるが、走っている速度は信じられない位速く、
傍から見たら、それはもう、常軌を逸していた。
それから二人は前を向き、暫く走る事に意識を集中させた。
構内の北口を抜けて、人の群集が空いて来た所で二人は更にスピードをあげる。
しかし真希はこの暑さ、湿気、全速力、これらの相乗効果でさすがにバテてきた。
そこでふと疑問に思った。
(歩いて五分じゃなかったっけ?)
- 330 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時54分28秒
- 「全然着かないじゃん。」
と、息を切らしながら言った後、横目で少女を窺う。
そこで真希は自分の目を疑った。
ここまで全速力で駆け抜けて来たのに、少女は全く平然とした様子をしている。
それどころか、汗一つかいていない。まるで、今の今まで何もしてなかったようでさえある。
「すいません。なんか勘違いしてたみたいです。」
前方を向きながら、少女は当然の様にそう言った。
真希はバテバテになりながらも、込み上げてきた笑いを堪える事が出来ない。
お人よしの健康的で華奢な少女は、尋常じゃないスタミナの持ち主だった。
「はぁ・・・はぁ・・・はは、面白いねえ。」
「あ、見えました。アレです。」
と、少女は前方に小さく見えるHテニスクラブらしき大きな建造物を指差す。
その時には真希の体力は限界に来ていた。
ガス欠になった真希は夏の日射に屈するように、膝に手をついて立ち止まった。
一方少女は真希の事など気にもしないように駆けて行った、かに見えたが、
首だけを振り向いて、大きな声を真希に浴びせた。
「じゃあ、私行きます!!」
- 331 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時55分09秒
- 真希は何故だが、ある種の感動をその少女に覚えた。
それは昨日高橋にプレゼントを貰った感覚と酷似していた。
だから、本当は声なんて出るはずが無いくらいバテているのに、
精一杯の激励の言葉を掛けることが出来た。
「はぁ・・頑張ってね!!」
「頑張りまーす!」
少女は呑気な声で答えてくれた。
そして真希は、敵わないな、といった具合にその場にしゃがみこんだ。
そうやって息を整えている間、真希は四方から好奇な視線を感じたが、
そんな事は気にもならなかった。
走り去る少女の背中を見ていると、とても心が軽くなって心持ちが良くなった。
世界には面白い人間がたくさんいる。そして皆希望を持って生きている。
真希はそんな事をその少女から感じ、苦笑するように頬を緩ませて、乾いた下唇を噛んだ。
――
真希は暫しその場で休憩した後、落ち着いてきた所で立ち上がり、
ぼんやりと空に輝く太陽に視線をやってみた。
(光ってるねえ)
馬鹿みたいな事を考える。
そしてその後、少女から高校名を訊かなかった事を思い出して深く後悔した。
- 332 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時55分48秒
- 通りを行き来する人達はみな、一様につまらなそうな顔をして駅へ町へと散らばって行く。
そこでただ立ち止まっている自分に真希は激しく違和感を抱いたが、
少女の事を思い出したら、そんな事がとても馬鹿げているように思えてきた。
真希はそれから快活にHテニスクラブへと歩を進めた。
着いた時には時間は九時を超えていて、真希はする筈の無い遅刻をしてしまう。
でも、自分らしいな。と、肯定的な解釈をした。
クラブに入ると、藤棚を抜けた所で年よりも子供っぽいTシャツと半パンを履いた加護と、
年よりも大人っぽい、タイトな黒のノースリーブのシャツに、スリムなスカートを
着こなしている高橋が、ワザとらしく顔を顰めて待っていた。
真希は悪気が無さそうに、殊に大袈裟に二人にゴメン顔を作った。
「・・・まあ、ええわ。ごっちんやったらしゃあないわ。」
「・・・うん。しゃあないね。」
「ゴメンね。今度から気をつける。」
真希は二人に一回ずつ頭をペコリと下げる。
「ごっちん、それなあ、いいように言ったら個性っていうねん。
でもな、普通はなめんとんのかって言うねん。よお覚えてといてな」
「よお、覚えときます。」
真希が申し訳なそうにそう言うと、加護は先ほどまでとは態度を一転し、
無気味な含み笑いを浮べた。真希は訳がわからず首を傾げる。
- 333 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時56分53秒
- 「なあなあごっちん、遅刻とかはどうでもいいねんけどな、ウチ、愛ちゃんから
愛のプレゼント貰っちゃってん。」
「・・・へえ、取り敢えずつまんないけど、よかったじゃん。」
「いいやろ?ほら、これ。」
加護は肩に掛けていたピンクのミニショルダーバッグから昨日のブレスレットを取り出し、
真希に誇示するように見せ付けた。
「うわあ、凄い綺麗じゃん。」
「へへへ、やろ?やっぱり日頃の行いがいいからかなぁ?」
「まあ、私も貰ったんだけどね。」
「へえ、そりゃあよかったなぁって・・・・はあ?」
加護が先ほどの少女もビックリなアホ面を晒した所で、堪えきれなくなった高橋が
笑い出した。加護は眉根を寄せて高橋に詰め寄る。
「どういうことなん?」
「二人にプレゼントしたんだよ。日頃お世話になってるからね。」
「ウチらアイアイコンビやからじゃなしに?」
「うん。」
「ははは、あいぼん。そんな狡い考えしてるから勘違いするんだよ。」
「ええもん。」
加護が落胆するように肩を落とすと、真希と高橋はもう一度大きく笑った。
「じゃあ、行こっか。」
- 334 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時57分45秒
- 三人が揃う少し前から試合はそれぞれ始まっていて、意識して耳を澄ませてみると、
四方八方からパコーンポコーンと、小気味のいい音が聞こえた。
怒号のように応援をけたたましく行っている高校もあれば、粛々と観察するように
ジッと仲間の試合を見守っている高校もある。
三人がクラブ内を漫然と歩いていると、対戦表をジッと見ていた高橋が口を開いた。
「ねえ、まず、どの高校見る?今の時間ならY学館とA女子高の試合見れるよ?」
「うーん、相手の高校詮索すんのあんまり好かんねんなあ。それより・・・」
加護と高橋がどの高校を観戦しようかとブツブツ口論していると、面倒臭がりの
真希は気だるそうに、左方に林立するクヌギの木の隙間から覗き見えるコートを指差した。
「あの一番近いコートは?取り敢えず、あっついしどっか座ろうよ。」
蒼穹から降り注ぐ夏の日射は絶えずクラブ内を満遍なく照らし、
気温は毎分毎に上昇しているような感さえあった。
しっかりと後をついて来る影は、その色の濃さを太陽に見せ付けるかのように増していった。
「そうやな、まず休憩したいもんな。じゃあ、行こっか。」
「そうだね、賛成。」
「早く行こう。私、ココまで来るのに体力使っちゃったんだから。」
真希が先頭を切って歩き、聳え立っているクヌギの木の地区を通り抜けた。
すると、ソコに広がった光景に三人は驚愕した。
- 335 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時58分17秒
- たかが高校生のテニスを観戦に来たというには些か多すぎる程の観客が、
コートの周りを隙間も空けずに、密接に取り囲んでいた。
「なんやねん、これ。どこの高校の試合や?」
「待って、Bコートだよね?えーと、T高校対S高校だよ。」
「めちゃ上手い人でもいるのかな?」
三人は黒山の人だかりの一番後方から、興味深そうに言葉を紡ぐ。
背の低い三人では、この位置から試合を見る事が出来なかった。
観客の背中は一様に、これから始まる興を待ち惚けているように揺れていた。
まだ目的の選手が試合をしていないのだろう、とぼんやり真希は思った。
「まてよ、T高言うたら、矢口さんの高校や。って事はののもいる。」
加護は深刻そうな顔をして、らしくない落ち着きの無い声色でそう言った。
加護が昔のパートナーと喧嘩別れをしたという事を真希は今、思い出した。
妖精の矢口か死神の市井か。当時絶対的な存在だった両者を巡り、二人の価値観が
激しく拮抗したのだ。加護は変わったが、相方の方は今、何を信じているのだろうか?
真希がそんな事を思いながら加護の深刻そうな横顔を見つめていると、
加護の瞳が何かを見つけたように瞠目した。真希もつられるようにその方向に視線を向けた。
「のの・・・」
「辻さんだ。」
「え?」
- 336 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時58分58秒
- 加護と高橋は申し訳無い程度の隙間から試合を見る事が出来たようで、
そこで今現在試合をしているのは加護の元パートナーだという事が二人の様子から伺えた。
真希も何とか試合を見ようと、黒山の人だかりから空隙を見つける事に努める。
密接した人の体から発せられる熱気と夏の気温との相乗効果で、
ソコはサウナのように蒸し暑かった。
これだけの暑さでも、人々は一向にその場所を動こうとしない。
「ちょっと、すいません。」
真希は前方の背の高い男に声をかけ、狭い場所を譲ってもらった。
そこからコートの中が僅かだが、覗く事が出来た。
コートには、加護にとてもよく似ている頭に団子を二つ載せた少女と、
端正な顔をしていてスタイルの良い背の高い娘のペアが、泰然と試合を進行していた。
と、言っても団子頭のペアの背の高い娘は、一人相撲をしているようにも思えた。
こちらに背中を向けているペアの方は漠然とだが、両者とも加護のパートナーでは無いと
真希は思った。放っている雰囲気、そしてテクニックが団子頭の娘と比べて、
圧倒的に格下だったからだ。
三人はそれから言葉を殺して試合の方に意識を集中させた。
真希は試合を見つめながら、チラリチラリと加護の方も窺った。
団子頭の娘が点を取り、活躍する度に加護は目を輝かせていた。
そして気の所為かも知れないが、加護の双眸に涙が滲み出ているような気がした。
- 337 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)04時59分43秒
- 「あいぼん?どったの?」
隣で観戦している高橋に怪訝そうに訊ねられ、加護は少し狼狽したように応対する。
「ん?いや、なんでもないわ。それにしても、のの。上手くなったなぁ。」
加護は元パートナーの勇敢な姿を、認めるのではなく、尊敬するように眺めていた。
加護の言う通り、コートの中にいる四人の中で、団子頭の娘だけが群を抜いて
他の選手を上回っていた。テクニックも、力量も、精神面でさえも。
端整な容貌の娘がミスをする度に優しく声をかけ、そしてその娘をサポートするように
コートの中を素早く駆け回った。―――上手い。
真希は単純に、その娘の試合運びからその言葉しか浮かんでこなかった。
あれほどの実力があるのなら、K学の勝ち組の中でも十分に通用する。
「辻さん、スタイル変わったね。」
「うん、ちゃんと基礎体力つけたんやろうなあ。テクニックもウチとやってた時とは
比べもんにならへん位、上達してるわ。もう、ウチなんか追い抜かされたみたいやな。」
「何言ってるんだよ。あいぼんだって、この三ヶ月で凄い上達したと思うよ。」
「いや、ののは自分の信じた事続けたから、あれだけ上手くなったんやと思う。
ウチは結局、市井さんを否定しとったんや。だから・・・」
「違うって。あいぼんはテニス好きなんだから、それでいいんだよ。
それ以外に上手くなる理由も、上達する早さも関係ないよ。」
- 338 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)05時00分14秒
- 高橋は凛とした表情で、試合を見つめながら言った。
ごめん。と、加護も自責するように悄然と高橋にそう言うと、
視線を試合に戻して、しっかりと元パートナーの活躍を胸に刻みつける様に観戦した。
試合の方は団子頭の娘の一人舞台で、一人で二人を圧倒していた。
一セットも落とす事無く、貫禄を見せ付けるようにT高校のペアが勝利した。
「凄いねえ、あんなのがウジャウジャいるのかな?T高校って。」
試合後、真希が興味本位で二人に向かってそう言うと、高橋は満更でもない
といった表情を作って、真剣な声色で話し出した。
「そうだね。T高校には取り敢えず二人凄い選手がいるんだ。去年の県ベストエイト
の安倍さん。知っての通りの矢口さん。それにさっきの辻さんも凄いし、
他の選手も見てみないとわからないけど、相当上手い気はするね。」
「そうなんだぁ。私らと当たるのって、どこらへんなの?」
真希が訊ねると、加護が答えた。
「この試合にT高が勝ったとして、次も勝ったら当たるな。三回戦や。当たるとしたら。」
「すぐじゃん。」
「そうだね、当たるとしたら三回戦。・・・いや、当たるだろうね。」
- 339 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)05時01分50秒
- 高橋はコートに視線を向け、T高サイドから入ってきた選手に視線を向けて言った。
その視線の先には去年、飯田と名勝負を繰り広げた――笑顔の安倍なつみの姿があった。
――
安倍の試合展開は、先ほどの感嘆させられる内容のテニスをした辻希美を更に凌ぐモノだった。
観戦していた三人は言葉を失い、乾いた口の中にある僅かな唾を何度も飲み込んだ。
第一セットの第一ゲーム。全てはそれに尽きた。
サーブに、まるで生き物のような意思を持った回転をかけて、相手を翻弄する。
どうなってるんだ?非科学的な安倍のサーブに、真希は疑問符を浮べるばかりだった。
サーヴィスラインの内側をピョンピョン兎のように跳ね回ったと思えば、
無軌道にブレて、ガットの中心を嘲笑うかのように逸らす。
「あんな打球・・返せる人、いるの?」
真希が呆然とそんな言葉を口出すと、加護が得意げに答えた。
「飯田さんや。飯田さんは去年、この回転を攻略したんや。」
「・・はは、飯田さん凄いね。つくづく世界が違うって思う。」
「でも、矢口さんと市井さんは、その二人よりもずっと上のレベルの人なんだよ。」
高橋が辛辣の色を少し含めてそう言った所で、
安倍が第一ゲームをアッサリ全てサーヴィスエースで取った。
この時点で、先の二試合を取っていたT高校は二回戦に進むだろうと
観戦している誰もが確信した。
- 340 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)05時03分04秒
- 予想通り安倍がアッと言う間に二セットを奪うと、それまで小さな歓声しか漏らさなかった
観客達が一斉に沸き始めた。これはT高校の勝利を祝っているのではない。
お目当ての選手が登場するのだ。
高橋も加護も、真希さえもラケットを振る姿を見なければ信じられなかった。
市井にやられた時の矢口のその様は、尋常ではなかったからだ。
「ほんまに、矢口さん試合すんのかな?」
「待って、来たよ。」
「あれが、矢口さん・・・」
矢口の登場と共に、観客達の驚嘆はピークに達した。
張り裂けるような地鳴りと不調和に轟く歓声。
相手に魔法をかけるという、その妖精の復活劇を、これだけの人々が今まで待ち望んで
いたのだろうか?しかし真希にとってはそんな事はどうでも良かった。
矢口の存在は、市井の存在を暗示する。
これだけの人が矢口を支持するのであれば、その分市井は非議されるという事だ。
真希はこの矢口に対する歓声が、市井に対する罵声に変わるのが容易に想像できた。
夏の日射が俄かに意地悪くなったような気がした。
「前行って見ようや。」
- 341 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2002年12月26日(木)05時04分41秒
- 加護は慌てたようにそう言うと、二人の返事も聞かずに、
器用に体を密接している人だかりの中に滑り込ませていく。
真希も高橋も覚悟を決め、よし、と声を出すと、呼吸を止めて前方に押し進んだ。
三人が人の合間を縫っている間に、歓声は一々轟いた。
矢口が、テニスをしている。
ただ、ただ、体をすり減らすように歩を前に進めていると、
三人はコートを満遍なく見渡せる場所まで、辛くも辿り着く事が出来た。
そしてそこで、安倍の試合とは全く異なる、異様な感覚を抱いた。
相手の選手を確かに魔法をかけるように魅了しているが、それだけではない。
テクニックがあるとか、精神が強いとか、バランスだとか、オーソドックスとか、
そんな言葉がとても滑稽に思えるような、圧倒的な『何か』を矢口は持っていた。
「す、凄い。矢口さん、完璧に元のスタイル取り戻してるわ。」
「初めて生で見たけど・・・何かの、コンサートに来たみたいだ・・・」
「・・・・・・」
矢口の試合に恍惚する三人の中で、真希だけは否定できない、ある感情を覚えていた。
初めて市井と対峙した時、形容できない恐怖のようなモノの中に僅かに混じっていた感情。
―――カワイソウ。
真希はコートを華麗に舞う矢口から、何故かそんな感情を受け取っていた。
- 342 名前:カネダ 投稿日:2002年12月26日(木)05時05分45秒
- 更新しました。
更新、遅れがちで申し訳無いです。
- 343 名前:むぁまぁ 投稿日:2002年12月26日(木)08時18分11秒
- 後藤サイドのストーリは好きですよ
上手く言えないですけど
しかし思いっきり勘違いしてしまった
あのレスは本来もっとあとですべきものですね・・・
- 344 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月26日(木)12時53分43秒
- 自分も後藤サイドの話・・・というか後藤視点は微妙にボケてて好きです(w
お互い違うものを感じながら、全く性格・態度の違う2人(後藤・石川)に
笑いました。
- 345 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2002年12月26日(木)23時10分10秒
- 更新お疲れさまです。
( ^▽^)と( ´ Д `)の対戦楽しみです。
結果を見通しさらに結果すら変えられるとっておきを持つ後藤さん。
人の倍以上のスタミナを持つ石川さん。
対戦の日が楽しみです。
でも、その前に3回戦まで勝ち進まないと行けないですよね!
では、続きも楽しみに待ってます。
- 346 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年12月30日(月)14時01分58秒
- 後藤視点でも石川はやっぱりバカでしたね(w
しかし、やっぱり後藤は人を見る目が違いますね。
石川も市井を見たとき、普通の人とは違った感情を受け取るのかな?
- 347 名前:カネダ 投稿日:2003年01月02日(木)05時42分13秒
- レス有難う御座います。
大変励みになります。
>>343むぁまぁ様。
有難う御座います。後藤サイドは最近テンション下がりっ放しで不安になってました。
いえいえ、全然、そんな事無いです。
自分としてはレスを貰えるだけで幸せなのです。
>>344名無し読者様。
有難う御座います。後藤の視線は確かにボケてる気がします(w
この二人の出会いが醍醐味の筈だったんですが、片方がバカすぎたみたいで(w
これからも後藤はボケて頑張ってもらいます。
>>345ななしのよっすぃ〜様。
後藤と石川の特徴は出せたのですが、どうしても石川はバカっぷりが
目立ってしまいますね(w
対戦の日、いつになるんだろう・・なるべく早くやらせたいです。
>>346読んでる人@ヤグヲタ様。
石川を後藤から見たらあんな感じだったようで(w
後藤は神がかりな感受性を持ってますね。さすが天才です。
石川と市井の遭遇も書きたいシーンの一つです。
それでは続きです。
- 348 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時43分28秒
- 矢口は大歓声の中、終始無表情で相手を操っていた。
サーヴィスエースを決めても喜悦を表現しないし、リターンエースを
決めてもその顔が破顔する事は無かった。
ゲームを淡々と圧倒的に進めているが、何故かS高校の選手に不満の色が無い。
寧ろ、楽しんでいるようでさえある。
「矢口さんと試合をした相手は決まってこう言うんや。
こんな心地のいい試合はした事が無い、って。」
「・・・矢口さんの相手をした人か。
でも、矢口さん本人は全然楽しそうじゃないよね。」
真希が試合を眺めながら嘲るようにそう言うと、加護は理解できない、
といった風に首を傾げた。高橋は試合に夢中になっていて二人の会話を聞いていなかった。
「ちゃうちゃう、あれは矢口さんがそういうスタイルやからそう見えんねん。」
「なに寝惚けた事言ってんだよ。あれの、どこが楽しんでるんだよ?」
「・・・・・・テニスを楽しむ、か。」
「私には何も伝わらないね。カワイソウって思うよ。だって、何の為に
テニスやってんのかわかんないじゃん。目的が無いんだよ。あの人には。」
「目的もなしに、あれほど上手くなるなんて思えへんけどな。」
加護は不満げに渋い顔を作る。
「それでも、私には何にもわかんないね。あの人からは何も伝わらないよ。」
「・・・・・・」
- 349 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時44分19秒
- それから二人は声を殺して試合を観戦する事に努めた。
加護は何か思い詰めたように、思案する仕種を幾度か見せたが、
それでも矢口の復活を、活躍を喜んでいるように見えた。
真希は複雑な心境になっていた。
市井の言っていた事が、どうにも納得できない。
――矢口の妙技は自分の表情を殺して、相手に自分の心中を悟られないようにする。
確か市井はそう言っていたが、真希は目の前の矢口を見てやはりそれは間違っていると思った。
矢口がそこまで自分をコントロール出来る人間にはどうしても思えなかった。
寧ろ、言いたい事も言えない鳥篭の中の九官鳥のように見えた。意思が無い。
そして矢口が点を取るたびに湧き上がるこの観衆に対して、
真希は段々と憤りを覚えていた。
自分も矢口の事など何も知らないが、この観衆の驚嘆は偽りであると自信を持って
言う事が出来る。だから、真希はうざったらしそうに前で騒いでいる人垣を睨みつけた。
(なに沸いてんだよ)
不満げに真希が舌打ちをして、視線を少しずらした時だった。
―――――あの子だ。
T高校のサイドの奥の方のベンチで、今朝遭遇した少女が座っているのが見えた。
真希は思わず満面に花を咲かせたような、嬉々とした色を浮べた。
「ねえねえ、あいぼん、今日さあ、面白い子に会ったんだ!」
「え?なんやねん、急に。」
「ほらほら、あそこあそこ、あの金髪で腕組んでる人の隣に座ってる子。」
- 350 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時44分57秒
- 真希がその方向に指を指すと、加護は目を細めてそこに視線を向ける。
「で、その子がどうしたん?」
「え?面白かったからさ。ただ単に。」
「・・・意味わからん。で、その子はT高の代表やったってオチか?」
「あ・・・そう言えば、そうだね。あそこに座ってるもんね。」
(矢口さんとおんなじ高校だったんだ・・)
「はあ、なんやねん・・・一体。」
真希は暫し試合そっちのけで、件の少女に注意を向ける。
しかし、少女は何か浮かばれないように下を向いていた。
そう言えば朝、ベンチで一人座っていた時もあんな感じだったな。と真希は思った。
そしてその隣に座っている、白いブラウスにタイトなスカートを履いて、
我が物顔でタバコをふかしている、虚ろな目をした女に目を向けた。
(どっかで会ったっけ)
真希は記憶の糸を必死で手繰り寄せようとするが、どうしても明晰とした形にならない。
気になった真希は加護に訊いてみた。
「あいぼんさあ、あの子の隣に座ってる人いるじゃん。」
「おるねえ。ありゃ元ヤンキーの確率、ざっと九割五分八厘やな。」
「ははは、打率よすぎるって。」
「んで、それがどうしたん?」
「あ、そうそう、知ってる?」
「んな訳ないやん。ウチ、ヤンキーとセールスマンはお断りやもん。」
「・・じゃあ、いいや。なんでもない。」
- 351 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時45分38秒
- 加護と真希の物覚えの悪さは置いといて、この観衆の中のサウナの中、
立ち見というのもえらく厳しくなってきた。立っているだけで汗が吹き出る。
太陽は毎秒、その輝きを誇示するように世界を照らしていた。
臭気と暑気が入り混じって、まるでそこはカオスと化す。
「・・・ねえ、矢口さんの試合終わったら、どっかで休もうよ。」
「・・そうやな。さすがにしんどいわ。」
二人がそんな会話を紡いでいる間も、高橋は研究対象を観察するように、
ブツブツ何か呟きながら試合に集中していた。
「・・あのステップ・・アガシ・禿。ストローク綺麗だなあ。さすが妖精。
おっ、どうしてあの角度から入るんだろう・・・また取った・・・」
「愛ちゃん、これ終わったら、どっか休憩しに行こうや。」
「・・サーブ凄いなあ。あんなの何時になったら打てるんだろう。勉強勉強。
しかし、復活してくれて感謝だなあ。凄いよ。うん。凄い。」
「おい!聞いてんのか?」
加護が幾ら話し掛けても、高橋は取り付かれたように試合に見入っている。
真希はやれやれ、といった風な肩を竦めた仕種をし、諦めたように試合を注視した。
この暑さでも、矢口のその顔には苦悶の皺一つ浮かんでいない。
まるで、未来の精密機械が時代遅れのニンゲン相手に泰然と試合をしているようだ。
昔流行った、ターミネ―ターという映画。それとよく似てるな、と真希は思った。
その力量は桁が違う。
どんな理由があるにせよ、やはり矢口真里とは次元が違う存在なんだと真希は思った。
- 352 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時46分10秒
- 矢口の試合はこの馬鹿みたいな数の観衆全員を例外なく陶酔させていた。
妖精というふれこみの証明には十分の試合内容。
しかし、真希の慧眼はそれ以上のナニかを捉えていた。
矢口の心の奥に秘められた、『ナニ』か。
試合は矢口の圧勝に終わった。
「じゃあ、どっか行こうよ。クーラー効いてるところ。」
試合後、真希は矢口の試合を見終え、雪崩のように踵を返す人の波に揉まれる中、
悠然と自陣のコートに戻っていく矢口の背中を見ながらそう言った。
するとその視線の一つ先に、件の少女がラケットを握り締め、
コートに向かって歩いてくるのが窺えた。T高校のトリを務めるのだ。
少女は矢口との擦れ違い際、何か一言二言を交わしていた。
―――思い詰めた表情で。
それが妙に気になった真希は、首だけを後ろに向けて立ち止まった。
何故あんなに陰鬱な面持ちをしているのだろう?
矢口の勝利を喜んでいるのではないのだろうか?
「ほら、ごっちん、足止めてると流されるで!」
「・・・・あ、うん。」
加護に腕を掴まれて、真希は視線を前に戻した。
人の流れに添うように、Bコートを後にする。
- 353 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時47分13秒
- それから三人はクラブ内にある、簡潔な作りの施設に歩を進めた。
歩きながら漫然と会話を交わす中、真希の心中には
少女と矢口がどんな内容の言葉を交わしたのか、
その事だけが、輪廻するように渦巻いていた。
―――
一階のホールは足音を空まで響かせるようにただっ広く、天井は吹き抜けになっていて
顔を上げると二階に幾つかある簡易食堂の窓が見えた。
冷房は寒すぎる事も無く、かと言って温い感覚を齎すほどでも無く、
気持ちのいい加減でホールの隅々まで効いていた。
一階の内壁は所々が厚いガラス張りになっていて、外の様子を判然と見渡す事が出来た。
かなりの数の客が休憩やら何やらをしていて、騒々しい喧噪が一々木霊していた。
三人は施設に入るや否や、すぐに自動販売機でスポーツドリンクを買って、
不規則に幾つか並べられている、プラスチックの安い丸テーブルを囲んでいる
樫の木の座椅子に腰掛けた。隣にはどこかの代表の父母兄弟だろうか?
家族四人で楽しそうに矢口真里の事を話題に盛り上がっていた。
窓際の真希の席には、夏の陽光が惜しみなく日溜りを作っていて、
真希の顔半分は晒されたようにジリジリと照らされていた。
「ああ、生き返るね。」
「ここええ場所やなあ。かくれんぼ余裕で出来るで。」
「矢口さん凄かったねえ。」
- 354 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時47分54秒
- 三人はそれぞれ、全く違う事柄を同時に一声に上げる。
一瞬の沈黙の直後、加護と高橋は顔を見合わせ、どの話題で落ち着こうかと目配せした。
しかし、マイペースな真希は、そんなのどうでもいいよ、といった具合に
だらしなくホールの窓外に見えるコートを指差した。
「あそこは何処の高校が試合やってんの?」
気だるそうな声を出して、高橋の方に視線だけを向ける。
至極マイペースな真希に高橋は拍子抜けしたように苦笑いして、
持っていたトートバッグから対戦票を取り出した。
「えーっと、Y学館対A女子高だね。次の私達の相手だよ。どっちかが。」
「ふーんそうなんだ。Y学館には凄い人がいるらしいねえ。」
真希が興味無さそうに間延びした声でそう言うと、加護と高橋は顔を見合わせて
心当たりが全く無い、といった感じの、眉根を寄せた難しい表情をした。
「え?どの人なの?Y学館って、去年うちの高校と練習試合したらしいけど、
ろくにテニスも出来なくて散々だったって聞いたよ。保田さんに。」
「ウチも飯田さんに聞いたけど、たいした高校じゃないと思うけどな。」
「そんなん知らないよ。市井ちゃんが言ってたんだから。」
真希は雑然とした声色でそう言うと、勢いよく残りのドリンクを飲んだ。
- 355 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時48分28秒
- 「市井さんが言ってたって事は、ホンマなんかな。冗談なんて言うと思えへんし。」
「それはそうだね。ごっちんその人の名前とか聞いた?」
「えーと、なんだったかな・銀杏・・いや違うな。福・・・何とかだと思う。」
「なんやねん・・・銀杏って。」
「いや、わかんないけど、急に頭に浮かんだ。」
「福・・福田さん?」
高橋が対戦票を覗きながら、自信の無さそうな声色で真希に訊くと、
真希は持っていた空き缶を指でコン、と鳴らして、それだよ、と言った。
「福田明日香さん。二年生だね。目立った経歴は一切無いよ。」
「へー、でも市井ちゃんは遊ばれたって言ってたよ。私は遊ばれただけだ、って、
つまんない顔してね。最近ネガティブになってるから、
なんでもそういう風に考える癖がついたのかもしれないけど。」
「市井さんが遊ばれる?あり得へんな。」
「私も信じられない。」
「まーどうでもいいけどね。」
真希が然もどうでもよさそうにそう言った後、暫し沈黙が生まれた。
その間に真希は照らされた顔半分を冷却する為、照らされた頬をテーブルにピタリとつけた。
ヒンヤリと気持ちがよかった。カラカラの喉に水分をゆっくり流したような至上の感覚。
加護は飲み終わったドリンクの缶で、ゴミ箱にスマッシュをかましていた。
一人で、イン!と叫び声を上げて、一人でのりツッコミをしていた。虚しかった。
高橋は何か思案しながら、窓外に見えるコートをジッと眺めていた。
- 356 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時48分59秒
- 高橋は何か思案しながら、窓外に見えるコートをジッと眺めていた。
高橋がこんな顔をするという事は、何か行動を起こそうと企んでいるのだ。
真希はこの三ヶ月で高橋のそんな癖を見つけていた。だから、嫌な予感がした。
(何処も行きたくないなー)
加護が席に戻ってきた所で、窓外を思案するように眺めていた高橋が口を開いた。
「ねえ、さっきごっちんが言ってた人、見に行かない?」
怖い物見たさから来るような、好奇心に富んだ声が真希と加護に届く。
やっぱりな、と思って真希は顔を正面からテーブルに突っ伏した。
するとナニかを拭いたばかりの雑巾のような、芳しくない臭いが鼻孔を突いた。
こういう外見が綺麗な公共の施設のダスター等に限って、
年に一度位しか取り替えないのが常なのだ。
真希は突っ伏したまま顰めっ面を作った。
「ええ、ウチ嫌いやもん。相手の戦力分析みたいなん。」
「やだー。私はずっとココにいたい。」
真希は突っ伏したまま、くぐもった声を出す。
加護と真希が意見を出しても、こうなった高橋は止められない。
「でも、やっぱり気になるよ。市井さんが絶賛する人なんだよ?」
- 357 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時49分41秒
- 高橋は加護を制するように前のめりになって声を出した。
そうするとさすがの加護も渋々だが、引くしかなかった。
「・・・・しゃーないな。じゃあ、見に行こか。その人。」
「うん!ごっちんも行こ!」
「・・・・・うーん。」
「それはオーケーと受け取っていいの?」
「うーん。うん?」
真希はうつ伏せのまま、もごもごと逃れるように呻き声に似た声を出す。
「ごっちん、いこいこ。さっさと行ってさっさと帰って来ようや。」
「そうそう。すぐ戻ってきたらいいんだよ。」
「・・・・もー、仕方ないな。すぐに戻ってくるよ?」
「うん!私もその人だけしか興味ないしね。」
「・・・わかった。」
真希も漸く折れ、そして三人は立ち上がり、そして施設を後にする。
施設の自動ドアが開いた瞬間に、ムアッとした夥しい熱気に包まれた。
地球もそろそろダメだな。と、真希は深刻に考えた。
目を爛々と輝かせながら高橋は率先して先頭を歩いている。
少しでも気になる選手がいたら抑制が効かなくなるのだ。
高橋は有能で素晴らしい選手であり、特異なテニスヲタクでもある。
- 358 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時50分19秒
- 時刻は昼に届く少し前で、太陽は外にいる者の真上で憎たらしい位、燦々と輝いていた。
見える景色の所々がゆらゆらと力無く揺れていて、
この異常な気温の高さを如実に表していた。そして、蝉が喧しかった。
ルンルン、とそんな効果音が聞こえてきそうな高橋の快活な足取り。
その背中を見るでもなく、俯き加減になりながら少し後ろを歩く真希。
加護は口笛を吹きながら後頭部で腕を組み、チラチラ左右を気にしながら平然と歩いている。
会話は殆どしなかった。
コートまでの距離は近いのに、
まるで、今までずっと日に晒されてきたような圧迫感と倦怠感が真希に襲い掛かる。
激しすぎる日光は、それだけで気力体力を研磨機のようにジリジリと削り取るのだ。
真希はこの日差しの中、どうして加護が日焼けをしないのか改めて疑問に思った。
手を一杯伸ばせば、眼前にくっきり広がる陽炎を掴めそうな気さえするのに。
―――――
三人がY学館が試合をしている、Dコートに着いた時、試合の方は四番手の選手が
丁度試合を始める所だった。Bコートとはうって変わり、観客の数は数えるほどしか
いなかった。試合の方は二勝一敗でY学館が辛くも有利に試合を進めていた。
- 359 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時50分54秒
- 三人はガラ空きのベンチに腰掛け、漫然と試合を観戦する。
そこには日光を遮るような木陰も建物も何も無かった。直で脳天を照らされる。
せめて日よけに使えるハンカチくらい持ってきたらよかったと真希は激しく後悔した。
高橋は対戦票を頭に乗せて日差しを遮っている。
加護までも、ミニショルダーバックから取り出した可愛い柄のタオルで
頭を覆っていた。・・この禿。と、真希は加護を横目で恨めしそうに睨み付けた。
試合は大変つまらなかった。
地区予選の一回戦に相応しい、ていたらくな展開。
パコーン、ポコーンと放物線を描いた優しい球が行き来している。
真希でさえこれなら勝てる、と思うくらいのレベルの低いテニス。
「ねえ、つまんないからあいぼんの昔のパートナーの話聞かせてよ。
どっちが強かった、とか。どっちの方がもてた、とか。何でもいいから
この暑さ忘れさせてよー。」
真希が間延びした声で加護にそうお願いすると、加護は一つ、つまらなそうに欠伸を
して、それから目をクシクシ擦って話し出した。高橋は例の福田明日香を目を凝らして
探している。
- 360 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時51分37秒
- 「とりあえず、ウチは九十九回ののと試合やって、五十回勝ったってのは覚えてる。」
「ずいぶん細かいねー。よく覚えてるよ。勝ち越しじゃん。」
「ウチの記憶回路は天下一品やからな。」
「辻さんだっけ?かわいいよね。もてそうだなー。」
「いやいや、ウチの方が人気あったし。」
「嘘くせー。」
「・・・マジで。」
気だるい声でつまらない会話をちみちみ紡ぐ。
試合の方はY学館の四番手の選手が第一セットを落とした所だった。
高橋は相変わらず待機している選手のいずれかに視線を向けていた。
そして加護と真希の会話は特に意識する事無く、流れのまま身内の話になっていた。
「・・・小川ってさ、何で勝ち組に上がって来れたんだろう?」
「それは里田さんが辞めたからやろ。
でも、里田さんなんで辞めたんやろ?勝ち組にいるだけで一流大学に行けるのに。
きっと初めてやで。勝ち組におって辞めた人。」
「人には、いろいろ道があるんだよ。里田さんは夢があるんだ。勉強でしか掴めない夢。」
「夢?テニス選手とかや無しに?」
「うん。だから、私は里田さんの事を尊敬するよ。今の状態に妥協しなかったんだ。
私には出来ないからね。そんなの。」」
真希は前屈みに座り直し膝で頬杖をついた。
視線はコートを通り越して、その先の街路に定めていた。
蜃気楼になってユラユラ揺れる、不安定な道。
- 361 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時52分13秒
- 「そうそう。小川さん、最近すごい頑張ってるで。見る見る上達してるし。
小川さんは市井さんの前ではそれ以上に張り切んねん。あんなん、見てて微笑ましいわ。
先生も、将来性買ったから小川さんを勝ち組に上げたんやと思うね。」
「・・・・・頑張ってる、か。」
真希が思い詰めた表情で、誰に言うでもなくそう呟いた時、試合の方が終わった。
Y学館の四番手の選手が破れ、これで二勝二敗になった。
シーソーゲーム。次の試合で決まる。そこで福田明日香だ。福田明日香。
「さあて、次だね。」
「見してもらうで。市井さんを弄んだ腕前を。」
「どうでもいいけどねー。」
福田は淡々とした面持ちでコートに登場した。
特徴の無いショートカットに、少しポッチャリとした体躯。
外見では凡そ実力者なんて雰囲気は出ていない。
しかし、表情には特徴があった。
矢口のような無表情ではないが、明らかに落ち着き払った泰然の様。
勝たなければいけない、負けてはいけない。そんな責任なんて一切感じていないようだった。
「・・見てみなきゃわかんないね。」
- 362 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時53分01秒
- 高橋がそう言ってから三人は真剣な表情になり口を噤んだ。
五感以上のモノを使って、福田の試合を観戦するよう心掛ける。
市井クラスの選手なら、その実力は一目瞭然の筈なのだが。
試合は福田からのサーヴィス。
どんなサーブを打つのだろう?フォームなどに特徴は無かった。
そして、打球にも特徴は無かった。つまり平凡。
期待外れの展開に、加護は思わず素っ頓狂な声を出した。
「はぁ?なんやねん、全然大した事無いやん。」
加護は首を二三度振って項垂れた。
真希と高橋はまだナニかを隠していると信じて疑わないように、
その眼力を弛める事をしない。
何度かラリーをやって、福田が最初のポイントを落とした。
A女子高の五番手の選手も上手いとはお世辞にも言えない実力。
予想に反して、ゲームは酷く均衡した展開になっていった。
取って取られて、取られて取って。レベルの低い、シーソーゲーム。
「やっぱり、市井さんの冗談なのかな?」
高橋は消沈とした声を出して項垂れるように俯き、大きな溜息をつく。
真希はまだ福田の力量を見定めていた。ただの勘だか、『ナニ』かを隠している気がした。
福田は起伏ない表情をしているが、相手を嘲笑っている感じがする。
- 363 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時53分38秒
- 「あの人、相手の事バカにしてるんじゃない?そんな感じがする。」
「・・え?それは無いんちゃうか。この局面で余裕はかませへんよ。」
「あいぼんに禿同。」
「禿言うな、猿。」
「猿言うな、禿。」
高橋と加護は殴り合いの喧嘩を始めたが、
真希はそんな事を気にする様子も無く、淡々と試合を注視した。
『ナニ』かが引っ掛かるのだ、『ナニ』かが。
ゲームの方は7=5と、辛くも第一セットを福田が取った。
福田は審判台下のベンチで淡々と汗を拭き、ドリンクを持ってきた先輩の選手だろうか?
その人物に丁寧に頭を下げていた。その淡々とした仕種がどうも鼻につく。
第二セットが始まっても、福田のテニスには何の変化も訪れなかった。
しかし、試合は絶対福田が勝利する気がした。そう絶対。鳥が空を飛ぶように。
「なんだろうね。この晴れない試合は。」
高橋が加護のラッキーパンチを貰って、口から血を垂らした状態で思わず出したその言葉。
―――晴れない試合。
この試合を形容するならば、まさにその言葉がピッタリくる。
靄がかかっているのだ。なんらかの。
- 364 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時54分12秒
- 第二セットを2=1で、福田が有利に試合を進めていた後の、第四ゲームだった。
福田が打った極普通のボレーに、真希は強烈な違和感を覚えた。
なんだ?何か、ずれた。
そのボレーに相手の選手は対応する事が出来なかったようで、
自分を叱咤するように首を傾げていた。
「なんだ?今の。」
「え?どうしたん?ごっちん?」
加護はそう訊ねた後、思い出したように頭に被せていたタオルで鼻を押さえた。
高橋の芸術的なエルボーを貰ったようで、加護は鼻からの出血が止まらないらしい。
「なんか、ずれたよね?」
「・・・ヅラちゃうわ。ゴマキ。」
「いや、そっちのじゃなくて。あのボレーだよ。」
普段の真希ならゴマキと呼ばれた瞬間に鉄拳制裁をお見舞いする所だが、
試合に夢中でそれどころではなかった。
「え?私は全然そんなのわかんなかったよ。」
高橋も気付いていないようで、真希はただの錯覚だったのかと思い始めた。
ゲームはやはり均衡していて、第四ゲームを福田が落とした。2=2。
- 365 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時55分22秒
- 「なあ、帰らへん?明日朝から練習やし。」
「・・・そうだね。ちょっと、しんどくなってきた。」
「それはお前らが殴り合いの喧嘩なんかしてるからだろ!」
真希のツッコミは二人を更に意気消沈させたようで、
「はあ、今日はへこんだ。ええやん?もう矢口さんも見たし。帰ろ?」
「ごっちん、体調整えないとダメだし、帰ろ?」
「・・・・・・じゃあ、この五ゲーム見たらね。」
第五ゲーム、福田からのサーヴィスだった。
特徴は一切無い、凡庸なサーブ。それを福田はフォールトした。
やはりさっきの感覚はただの錯覚だったのだろうか。
真希が溜息をついた、その後のセカンドサーブ。
福田は先ほどと同じフォームでやはり同じサーブを打った。
――――ずれた。
先ほど感じたあの違和感と同じだ。
「ほら!ずれたよ!」
「だからヅラちゃうわ!!」
「あいぼん、認めようよ。そういうのはインフォームドコンセントだよ。」
「猿、意味わかってへんやろ?」
「・・・・うん。」
- 366 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時56分29秒
- すっかり見る気が萎えた高橋と加護は置いておいて、そのサーブで福田はエースを奪った。
しかし、それからは今までと全く同じ展開が続き、取って取られての繰り返し。
それは決して接戦ではなかった。市井の言った言葉を、真希は漸く理解しかけた。
結局、第五ゲームは相手の選手がジュースになりながら奪った。
「おっ、終わった。じゃあ、帰ろっか。ごっちんええやんな?」
「・・・・うん。」
(遊ばれる、か。)
「明日は朝からだねー。メニューは楽になったけど、さすがに堪えるね。」
「ええやん。テニス楽しいし。」
加護が赤くなった鼻をスルっと、市井の真似をして人差し指で擦ると、
高橋はニコッと笑って、楽しげに答えた。
「そうだね。」
ゲームの方は全くのシーソーゲームが展開していたが、
真希はY学館が上がってくると確信した。
福田明日香。六日後には対峙している相手。
勝てるのだろうか?そんな愚問を真希は自問した。
「ごっちん、ウチら全勝いけるで。これくらいの相手やったら。」
「・・・・・だね。みんなで勝つっきゃないね。」
真希は笑って答えた。
――
- 367 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月02日(木)05時58分01秒
- 空に依然として太陽は健在していて、惜しみない日射を世界に落としてた。
真希は帰途で今日試合を見た矢口、福田、そして駅で出会った少女。
その三人の事ばかりを考えていた。
三人ともいずれきっと何らかの形で自分と邂逅する。
それはテニスでかもしれないし、それ以外の事かもしれない。
そんな枠を超えた出会いの予感がして、真希は疑わなかった。
その中で、あの少女とは友達になりたいと思った。
たった数分で自分を幸せにした不思議少女。
あの走り去っていった姿は目を瞑れば容易に蘇ってくる。躍動する背中。
手を伸ばしても届かない、決して陽炎なんかじゃない現実の背中。
そんな少女が矢口と同じ世界にいると思うと、何故かとてもおかしかった。
真希はアパートの階段を音を殺して上がり、
そして鍵穴に鍵を突っ込んで頼りないドアを開けた。
すると、とっくに慣れた筈の静寂が迎えてくれた。
今日はじめて、太陽が恋しくなった。
―――――――――――
- 368 名前:カネダ 投稿日:2003年01月02日(木)06時00分48秒
- 更新しました。
あけましておめでとう御座います。今年も見捨てないで頂ければ幸いです。
諸事情により、更に更新ペースが遅れるかもしれません。
出来る限り頑張りたいと思います。本当に申し訳無いです。
- 369 名前:きいろ 投稿日:2003年01月02日(木)09時34分42秒
- 更新乙です。
後藤視点での、石川の試合を見てみてみたかったですけどね〜。
福田明日香・・。その隠された才能(?)を真希は見抜くことができたのか?
次の更新が待ち遠しいです!
- 370 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年01月03日(金)13時29分41秒
- カネダさま
新年明けましておめでとうございます。
更新お疲れさまです。
本年もよろしくお願いいたします。
後藤さんと福田さんの対決が先に見られるんでしょうか?
後藤さんの才能が生かされるのか?それとも完敗するのか?楽しみです。
それぞれとのライバル同士の対戦は早く見たいような見たくないような複雑な心境です。
最近は、ななしのよっすぃ〜を名乗っているのにすっかり松浦さんを応援しています。(笑)
なので、あやゃの活躍も希望です!
- 371 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月05日(日)00時26分26秒
- テニスを誰より楽しんでいる後藤と、人を見下したテニスをする福田………
………
後藤、絶対負けるなぁ〜!!(w
- 372 名前:カネダ 投稿日:2003年01月06日(月)00時54分56秒
- レス有難う御座います。
本当に励みになります。
>>369きいろ様
そうですね、後藤が石川の試合を見てどう感じるかは興味深い部分だと思います。
それは最後に取っておこうと思って、こんな感じにしてしまいました。(w
福田はかなりの強豪にするつもりなので、これからも読んでくれれば嬉しいです。
>>370ななしのよっすぃ〜様。
福田対後藤は九話の中で行うつもりです。
ライバル同士の対戦、・・・・自分も些か複雑な心境です。(w
松浦もしっかり書きたいと思ってます。これからも読んでくれれば嬉しいです。
>>371名無し読者様。
後藤対福田。交わらない二人の天才。とか言うのを、どっかの掲示板で見た気がしたので
こんな組み合わせにしてみました。(w
二人の試合は、この話の内容を凝縮するくらい濃いものにしたいと思ってます。
それからメール欄、有難う御座います。頑張ります。
それでは続きです。
- 373 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)00時56分13秒
- 試合の二日前の、総仕上げとも言える練習が終わった後、石黒からレギュラーのメンバーに
集合がかかった。夕暮れ時で、石黒の容姿は強い西日の逆光を受けてシルエットになっていた。
その陰影は光の線に縁取りされて、額に嵌った黒い銅像みたいだった。
空間に切り取られた石黒の影の体。
前に座る真希らのレギュラーメンバーは西日を体全体で正面から受けていた。
真希の亜麻色の髪の毛は真っ赤な炎に彩られたように赤く染まり、
隣で座る加護や高橋の容貌は立体的に作られた芸術作品のように美しかった。
そんな世界が作る幻想の中、市井だけはつまらなそうに下を向いていた。
「明日は体調を整えてしっかり休むように。練習は休みだ。」
さっぱりとしたいつもの石黒の無表情な声が届く。
予想通りK学園の対戦校はY学館に決まった。五番手福田が接戦の末の辛勝で勝ち取った二回戦。
―――辛勝。
そんな事を真希は一切信じていなかったが、他の部員達はY学館なんて高校は眼中に無い様子だ。
もちろん、市井を除いて。
真希は試合を観戦した翌日、珍しく市井と話をした。三日ぶりだった。真希から話し掛けた。
福田の試合を見た感想を言ったら市井はぶっきらぼうにこう言った。
『あいつは時間を止める事が出来るんだよ。』
あんまりにもぶっきらぼうだったので、真希は少し怒った口調でこう言い返した。
『なんか隠してたのはわかったけど、あんたよりも弱い事はわかったよ。』
- 374 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)00時56分56秒
- すると市井は力無く笑った。そんな事はあり得ない、と言って。
真希は最近の市井のデカダンスにウンザリしていたが、そこは耐えて励ました。
『私はあんたが好きなんだよ。だからそんな落ち込まないでよ。
矢口さんの試合も見たよ。矢口さんはもう何でもないみたいだった。
だからさ、あんたもこれからはしっかりしたらいいじゃん。
そんな姿見たくないよ。そんなへこんだ姿。仕方ないじゃん過去の事は。』
励ましても、市井は口を噤んで何も言わなかった。そうだな、とか頑張るよ、とか、
真希はそんな言葉でいいから市井の溌剌とした言葉が聞きたかった。
都合が悪くなったり、心無い事を言われてもちょっと前の市井なら説得力のある声で
応対してくれたのに、ここ最近の市井は糸が切れた木偶みたいになってしまった。
だから真希は怒って踵を返した。
真希は市井が引き止めてくれると思った。ちょっと待てよ、とかおい、とかそんな感じの言葉で。
でも市井は電池が切れて止まってしまったロボットみたいに止まって動かなかった。
それから今まで真希は市井と口をきいていない。
買ったブレスレットはその日に渡そうと思っていたのに。
「試合当日は一時に正門に集合。試合はもちろん全勝が必須だ。
格下相手に無様な試合をしないことを祈る。以上。」
- 375 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)00時57分45秒
- そう言って石黒はまだ練習をしている負け組と、勝ち組の残りの部員の元に歩いて行った。
雑談を交わしながら、レギュラーメンバーは更衣室へと消えていく。
市井は一人でトボトボと帰っていった。
「ごっちん、行こうや。」
加護に促されて真希も更衣室に向かった。
真希のウェアのポケットの中にはブレスレットが入っていた。何日か前から。
真希はお守りのようなつもりで市井にブレスレットを渡そうと思っていたのだが、
いつの間にかその機会を失ってしまった。
明日は練習が無いし最近は市井と会話をしていない。
出来れば試合前に渡したいと思っていたが、段々どうでもよくなってきた。
「いよいよ明後日だね。なんか緊張してきたなー。」
更衣室で着替えをしながら、ぼんやりした口調でそう言った高橋の右手には
件のブレスレットが輝いていた。
リストバンドの下に着けていたそのブレスレットは三人の友情の証であり、宝物だった。
真希と加護も同じように、右手のリストバンドの下にブレスレットをしていた。
「緊張なんかなんもないねー。」
間延びした声でそう言った真希に加護は、嘘付け、と茶々を入れてきたが
真希本人は本当に緊張などしていなかった。
それどころか、試合なんてどうでもいいと思っていた。
- 376 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)00時58分22秒
- 「じゃあ、校門らへんで待ってるで、ウチら。」
加護と高橋は恐ろしく着替えるのが早く、真希がまだウェアを脱ぎきっていない
うちにしっかりと帰宅の準備を終えていた。
二人がいなくなった更衣室はえらく殺風景になった。
――人はその雰囲気で世界の彩りを変える事が出来る。
真希は昔、誰かに聞いたそんなクサイ言葉を思い出した。
(二人は随分明るい色なんだね。きっと。)
そうぼんやり思った後に、それが父親に聞いた言葉だというのを思い出した。
すると何故かわからないが、泣きたくなった。
市井だって明るい色をしてる筈だ。何故か突然そう思った。
「ねえ、ゴトー、ちょっといいかな?」
スカートのファスナーを上げた刹那、真希は飯田に話し掛けられた。
飯田はパチパチと何度か瞬きしながら、口端を上げて優しい笑顔を作っている。
そう、作っている。
「いいですよ。」
真希もニッカリ花が咲いたみたいな満面の笑みを作った。造花。
飯田は真希の隣のロッカーに凭れかけ、ふう、と一呼吸置いてから話し出した。
その間に真希はブラウスの裾を直した。更衣室は虚構を帯びた。
- 377 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)00時59分06秒
- 「ねえ、最近さ、紗耶香元気ないじゃない?」
「そうみたいですねー。嫌な事でもあったんですかね?」
「あれ?ゴトーも原因知らないんだ?」
「知らないですよぉ。」
そう言って真希は大きく笑った。
「そうかぁ。どうしたんだろう。心当たりとかない?」
飯田は眉根を下げた心配そうな顔を作ってそう言った。作って。
「無いですねぇー。うん。全く無いです。」
真希はワザと思案するように首を傾げて、慎重に言葉を出した。
「あっ、飯田さん、私、あいぼんと愛ちゃんが待ってるからそろそろ失礼します。」
「ああ、ゴメンね。時間とらせて。」
「全然いいですよ。あ、そうそう。飯田さん・・・」
「ん?どうした?」
飯田は可愛い顔をした。
「そういうのは、自分で訊いてみるのが、一番いいと思います。」
- 378 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)00時59分43秒
- 真希も可愛い顔を作ってそう言った。とても可愛い顔が出来たな、と真希は思った。
飯田は、そうだね、と力無く言って視線を下に落とした。
真希は、それじゃあ失礼します、と言って駆け足で更衣室を出て行った。
そして更衣室はまた殺風景になった。
「ゴメン。また遅れた。」
「ごっちん、ワザとやろ?ワザとウチら待たせて快感味わってるんやろ?
実はとっくに着替え終わってて、巨人の星の『星あきこ』みたいに
電柱の影からウチらが待ってる姿見てほくそえんでるんやろ?」
「違うよ。話してたんだよ。飯田さんと。」
夕陽が低くなって、少し薄暗くなった世界には加護の色が似合った。
「飯田さん?」
高橋が首を傾げて興味深そうに訊いてきた。
真希はもったいぶって、歩き始めて暫くしてから口を開いた。
「飯田さんがね、あいぼん禿てるよね。って。」
「・・・・飯田さん・・・・」
加護が真剣にへこみ出したので真希は笑って、嘘だよ、と言った。
それから他愛の無い話をして楽しげに歩いていたら夏特有の紺色の世界が訪れた。
この中間色は、高橋によく似合う色だ、と真希はぼんやり思った。
話題は加護のネタの話になって、それから団体戦の意気込みの話になって、
そして三人が出会った日の話になった。
- 379 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時00分20秒
- 「じゃあ、また明日という事で。」
加護がバイバイと手を振ると、加護の手首に着けていたブレスレットが色々な色に変化した。
虹色よりも、もっと多彩で、もっと奥が深くて、もっと入り組んだ彩色。
どこかで同じような色を見た事がある。と、真希は加護に手を振りながら考えた。
でも、どうしても思い出せなかった。
曲がり角を曲がると、店舗は揃って一つも開いていなかった。
「ああ、店閉まっちゃってるね。」
「あと一歩遅かったみたいだね。」
通りにはイタリアンレストランが残した甘い匂いの余韻だけが残っていた。
何日か前、たった一度だけその存在を露にしたこの通りは、まるで童話の世界みたいだった。
童話の中でしか存在し得ない不思議な通り。
意図的に訪れたらその姿を隠してしまう、子供だけにしか姿を見せない店舗。
「ねえ、子供にしか見えないお化けとかいう設定の日本映画、なんだか覚えてる?」
「・・・・トトロ?」
「ああ、それだ。なんかココそれに似てると思わない?」
「ええと、どこらへんが?」
「だからさ、なんだろう。いつも閉まってる所。」
真希が考えに考えてそう言ったら、高橋は大きな声で、訳わかんない、と言って
笑い出した。真希は真剣に答えたつもりだったので、釈然としなかった。
- 380 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時00分53秒
- 「でも、こんな時間に閉めちゃったら儲からなさそうだよね?」
「だから、きっと特別な時にしか入る事が出来ない不思議な店なんだよ。」
「ごっちんはロマンチストだなー。」
「それ、飯田さんにも言われた。」
「でもこんな話はありそうじゃない?森で道に迷った少女が、おなかペコペコになって
凄い苦しそうに明かりを探してるの。あてもなく歩き回って、気づけば同じ場所に戻ってる。」
「ふんふん。」
高橋の口調は童話を語る教育テレビのお姉さんみたいに優しくなっていた。
真希はその話に熱心に耳を傾ける子供のように、相槌を大きく打つ。
「それでも少女は歩き続けて、あてもなく森を彷徨う。
思い出すのはお母さんの暖かい御飯のことばかり。」
「それでそれで?」
「限界がやってきて、少女はペタンとその場にへたり込んでしまう。」
「やばいじゃん?」
「すると、どこかで嗅いだ、懐かしい香がどこからか鼻を擽るの。
力を振り絞って顔を上げると、さっきまでどこまでも森のはずだったのに、
一面には幻想的に扉を開けたたくさんのお店が広がっている。少女は精一杯の力で
立ち上がり、一番近くのお店に足を進める。すると、そこには優しいおばあさんがいて、
少女に美味しいスープを一杯ご馳走してあげる。少女は美味しそうにそれを食べて、
最高の幸福を得るの。」
- 381 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時01分23秒
- 「日本人が見習いたい感覚だね。」
「おばあさんは家の帰り方まで少女に教えてあげるの。
少女は涙を流しながらお礼を言って、それで家に帰って、お母さんにその話をするの。
でも信じてもらえない。
次の日に少女はその事を証明しようとお母さんを連れて森に入る。」
「で?どうなるの?」
「お店があった場所には、昔どこかの部族が住んでいた古い家屋があるだけで、
昨日光り輝いていた家々は無くなっている。もうぼろぼろになって、
蔓やツタなんかで覆われた家屋だけしかない。それで少女はビックリするの。」
「へえ、結局その子はスープを食べた事を信じてもらえないってオチかー。」
真希が納得したようにそう言うと、高橋は無邪気に笑った。
「違うよ。そんな風に考えたら、食べ物が美味しく感じそうじゃない?」
高橋の思考もどうかしていたが、真希は深く関心したように頷いた。
「じゃあさ、本当に幻想の世界に連れてってあげるよ。」
真希はニッコリ笑って高橋にそう言った。嫣然とした、本当の笑顔。
先ほどまでの食べ物の話は何処にいったんだ、
とツッコンでしまいたい衝動に駆られる、一般人では繋がらないこんな会話も、
高橋ならば何故か繋がってしまう。
- 382 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時02分03秒
- 「本当に?」
「うん。私について来ればわかるよ。」
そう言って、真希は例の夜景が見える丘に高橋を誘った。
高橋は好奇心と期待の入り混じった少女の瞳を宿して、真希の後を
子犬のようについて行った。
「本当に幻想?」
高橋は訳のわからない質問を時たま真希の背中に投げ掛けた。
すると真希は後ろ向きで歩いて、見てのお楽しみ、と、意地悪い声で高橋をじらした。
そんなやりとりを何回か繰り返した後、丘陵へ続く雑草生い茂る坂道へと差し掛かった。
夏の気候は草木にとって、最高のフルコースだ。
前に来た時よりも乱雑に生えた雑草は、倍ぐらいの高さに成長していた。
そして、樹木は夜なのにその葉の光沢をまだ失っていなかった。生きている。
「凄い道だね。トトロ出てきそう。」
「ははは、何度か来てるけど、さすがに私もまだ出会ってないな、トトロには。」
真希は昔、高橋と二人でいると、気まずいと思う事があった。
それはあの静寂の通りの悪戯だったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
二人口を噤んで、足のつま先を見て、アスファルトに響く足音を注意して誤魔化した日。
- 383 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時02分49秒
- 「着いたよ。」
「・・・・スンゲぇ。」
加護をココに連れてきた時の加護の第一声、何だったかな?
真希は恍惚とした表情をしている高橋の横顔を見てそんな事を考えた。しかし思い出せない。
それでも加護がそうであったように、高橋もしっかりと瞳に宝石を塗していた。
――瞳の綺麗な人に、悪い人はいない。
これは、昔、母親に聞いた言葉だ。真希はクスッと笑った。
「ここで座って見るのが、一番いいんだ。」
真希は優しく高橋の手を取った。指の第二間接から先の、心許無い部分だけ。
高橋は頷いて、その手を指先だけで握り返した。
そして真希は高橋を優しく崖の方へエスコートした。絢爛なパーティーでの一コマのように。
二人は並んで座り、足を崖の向こう側へ放り投げた。冷たい風が吹いた。
目の前は光の世界だった。この色は誰に似合うんだろう?真希はそんな事をその時考えた。
「うーん、十分幻想だね。」
「そう、幻想。」
夏に見る夜景は、春とはまた違った趣を帯びていた。
夏の澄んだ大気は光の乱反射を無限飽和まで導き、何処までも光を広げ続ける。
首を少し捻るだけでその光彩は一変した。様々な形の光達。万華鏡みたいだった。
二人は自ずと言葉を失い、暫く夜景に意識を委ねた。
ジーっと見ていると、真希は加護のブレスレットが見せた虹よりも深い色彩を思い出した。
あれはどこかで見た事がある。いや、今も見てるかもしれない。真希はそう思った。
- 384 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時03分40秒
- 「ごっちんはさー、凄いよねえ。いろんな事が常識離れしてるよ。」
暫くして、高橋が溶けたような声色で話し出した。
「それは誉め言葉?」
「勿論。」
「常識離れねぇ。どこらへんが?」
「才能に、感性に、魅力。」
「そんなん、愛ちゃんだって十分備わってるじゃん。」
真希は言った後、ニャハハ、と笑った。変な声が出た。
「私はそんなの全然無いよ。ねえ、ごっちんってさ、
自分よりもテニス上手い人みたら、悔しいとかって思わない?」
「上手い人ねえ。みんな上手いじゃん、私より。全然そんな事思わないね。」
「私はさ、すごい悔しいんだ。私は人並み以上に練習してる筈のに、何でこの人は
私よりも上手なんだろう?って。」
「うーん、どうなんだろう?私は楽しければそれでいいって感じの人間だから、
よくわかんないかな。」
真希は本当に高橋が思ってる事を理解できなかった。
テニスをまともに始めて三ヶ月、わかる訳が無い。
でも、それでも高橋と肩を並べている。いつかの罪悪感が真希の心の隅っこを突付いた。
- 385 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時04分39秒
- 「でもね、ごっちんと出会ってわかったんだ。後、矢口さんにも。
本当にずば抜けた存在の人を見るとね、そんな感情は無くなっちゃうんだ。
そんなウジウジした感情よりも、その人の近くにいるってだけで幸せに思えてくるんだ。」
「私は、そんなずば抜けてないよ。」
「私の今の一番の楽しみは、ごっちんがどこまで大きな存在になるかなって考える事。
それでごっちんは私の友達だって、みんなに自慢する事。ごっちんはこの夜景みたいな存在。」
「夜景。」
夜景。真希は心の中で復唱した。
「うん。どこまでも広がり続ける存在。無限の存在。」
「愛ちゃんもまた、随分ロマンチストだね。」
この夜景は、真希の色だ。
「ここは幻想だからね。」
「納得。」
そう言った後、真希と高橋は揃って大きな声で笑った。
それからまた導かれるように夜景を見つめた。
高橋と出会えてよかったと、真希は思った。
――――――
- 386 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月06日(月)01時05分17秒
- 真希が家に着いた頃には、時刻は夜の十時を超えていた。
自分の部屋の安い蛍光灯をつけると、汚い明かりが部屋を包んで眩しかった。
そこで真希は徐に自分の右手に輝くブレスレットに目をやった。
こんな汚い明かりを浴びても、ブレスレットは綺麗にその光彩を保っている。
真希は蛍光灯に右手を翳してみた。するとブレスレットは影になって、暗色に光った。
色々な色。光を当てても、光を遮っても、それが放つ色彩の魅力は変わらない。
「人生。」
ポツっと真希が漏らした言葉。
その様々な色彩は、人の人生のように感じられた。
真希は暫く翳したブレスレットに目をやった。すると、市井の事が頭に浮かんできた。
そしてその次に矢口真里、あの少女・・・・・今まで出会った様々な人が頭をよぎった。
「人生。」
真希は今度は抑揚の無い声でそう言った。知恵の輪がスルリと解けた様な感覚を覚えた。
真希は『自分はどこに向かってるのだろう?』と、考えた事があった。
市井は『自分は何の為に生まれてきたんだろう?』と、真希に訊ねた事があった。
今考えると、その二つの疑問は本当に馬鹿げているように真希は思えた。
「人生。」
真希は最後に透き通った声でそう言った。
世界の仕組みが明瞭になったような気がした。
――――――――
- 387 名前:カネダ 投稿日:2003年01月06日(月)01時06分13秒
- 切りのいい所まで更新しました。
次で試合させたいと思います。
- 388 名前:LVR 投稿日:2003年01月06日(月)06時08分53秒
- 今回の更新を通しての色の話。また、丘での描写がとても綺麗でした。
夜景を見ながらの高橋の言葉は、いつか後藤が迷ったときに、
高橋の言葉を思い出すんだろうな、と思えるくらいに強い言葉に感じられました。
- 389 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年01月06日(月)08時20分48秒
- あけおめです
新年早々からの更新お疲れ様です
相変わらず風景描写が素敵ですね
後藤バージョンのマターリ感がたまらなく好きなのです
- 390 名前:きいろ 投稿日:2003年01月06日(月)09時53分34秒
高橋と後藤の会話が、なんとなく心に染みました。
作者様の作品を読んでると自然に引き込まれる感覚に陥ります。
次は試合ですか。
楽しみに待ってます。
- 391 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年01月07日(火)16時43分13秒
- カネダさま
更新、お疲れさまです。
いよいよ、後藤さんも試合ですね。
タイプの違う天才2人。どっちが勝つんでしょう?楽しみです。
愛ちゃんもいい味出してますね。ここで愛ちゃんを見てから、本物も可愛く見えるかえら不思議です。(笑)
では、試合を楽しみに待ってます!
- 392 名前:カネダ 投稿日:2003年01月12日(日)04時16分16秒
- レス有難う御座います。
本当に励みになります。
>>388LVR様。
有難う御座います。丘の場面は普段よりも意識して描いているので、
そう言って頂けると、本当に嬉しいです。
高橋の言葉にも今回気を配りました。後藤にいい影響を与えたと思います。
>>389むぁまぁ様。
あけましておめでとうございます。頑張って更新していきたいと思ってます。
後藤編と石川編は個人的に雰囲気を全く変えてるつもりなので、
そんな後藤編を気に入っていただけて嬉しいです。
>>390きいろ様
有難う御座います。引き込むのはきっとこの駄作者の魔力です(w
後藤と高橋の会話には気を使ったので、そう言って頂けると嬉しいです。
次で試合をやらせたいと思います。見てやって頂ければ嬉しいです。
>>391ななしのよっすぃ〜様。
二人の天才の試合までは行かないんですが、その直前までは行きたいと思います。
高橋は描くの難しいんですが、そう言って頂けると、書いてて良かったと思います。(w
内容の濃い試合にしたいと思ってるので、次の更新まで待って頂ければ幸いです。
それでは続きです。
- 393 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時17分17秒
- 試合当日、天候は癪に障るくらい不安定だった。
空が低く、黒い雲と白い雲が境界線を作って分かれている。
それはまるで出来の良い、ショートケーキの断面図みたいだった。
雨が降りそうと言えば今にも降ってきそうだし、降らなそうと言えば今日一日は持つ。
癪に障る天気だ。
真希は集合時間の一時に間に合うように家から一定のペースで走っていた。
毎日の習慣となっている、学校までのランニング。
これは真希の基礎体力の上昇に大きな貢献をしているのだが、真希自身は気付いていない。
走りながら、色々な事を思い出していた。
石黒の訪問から突然変異したように、テニスの世界へと転進した自身の人生。
加護との出会い、市井との出会い、高橋との出会い。
勝ち組へと進む道程、勝ち組にいることの意味、挫折の裏の成功。
合宿、里田の夢の選択・・・・この三ヶ月は余りにも濃縮しすぎていた。
畦道へと差し掛かる。
――――矢口真里。
妖精と呼ばれる彼女に、人生を翻弄するように左右される部員達。
大きすぎるモノの存在は、自ずと妥協と挫折を人の心に植え付けていく。
「だからなんだってんだよ。」
- 394 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時18分17秒
- 走りながら、真希は愚痴った。
自分の道を他人に委ねる事はカッコ悪い事だ。
自分の道を他人に左右されるなんて恥ずかしい事だ。
だってそうじゃないか?うん。そうだ。真希は自問自答する。
人生とはこのブレスレットのように幾色にも変化する。
どの色だって間違いの色はない。どの色だって希望に満ち溢れている。
真希は右手に輝くブレスレットを見やりながら、そんな事を考えた。
「あら?なに、そんな渋い顔で突っ走ってるの?」
沈思しながら走っていたら、何時の間にかペースは大幅に上がっていたようで、
真希は気付かない間に追い抜かしていた藤本の途切れるような声を聞き逃しかけていた。
まあ、藤本なんだからそのまま無視して走り去ってもいいと真希は思ったのだが、
これも何かの縁だと思って立ち止まった。ペースを上げた所為で時間にも余裕が出来ていた。
立ち止まると、一気に疲弊が形になって真希に襲い掛かった。
息が上がり、汗が体中から吹き出る。
藤本は息を切らして膝に手をついてる真希の目前まで来ると、計ったように嘲笑を浮べた。
「ふふふ、あなたって、一々、自己管理できない人ね。」
「試合前に上手い棒齧ってるお前だけには言われたくない。」
この蒸し暑い気候の中、藤本はバリバリとスナック菓子を齧り散らしていた。
見ているこっちが喉が渇いてきそうな食べっぷり。
真希は思わず藤本から目を逸らした。
- 395 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時18分48秒
- 「今日は退屈な試合になりそうね。」
「退屈?・・・それより何か飲まなくて大丈夫なの?メチャメチャ喉渇きそうじゃん。」
「試合前に水分なんて摂ったら、お腹爆発しちゃうわよ。」
「・・・・・・」
(そんなもん食うよりはマシだろ・・)
藤本は真希に向けていた視線を前に戻し、泰然とスーパーモデルさながらに歩き始めた。
高慢を声高に宣言するような、苛つく歩き方。
真希は、やれやれ、といった風の溜息をついてから、追い駆けるように藤本の隣に並んだ。
「ねえ、わかってると思うけど、負けるなんて無様なことしないでよ?」
「さあねえ、試合なんてやってみないとわかんないじゃん。」
「あなたは仮にも私に勝った人間なんだから、負けられたら困るのよ。」
「なんちゅー単純計算だよ。相手なんて相性とかあるじゃん?」
真希が、そうだろこの妖怪。といった口調で藤本に訊ねたら、
藤本は妖怪さながらの笑顔を浮かべた。グフフフフ。
「バカねえ、長年テニスやってるとね、わかるのよ。それぞれの段階みたいなモノが。」
「段階?」
「そう。例えば、矢口真里。彼女は私達の中の頂点に立ってる存在。
今のところ、誰も彼女には敵わない。彼女の復帰は、個人的には嬉しいわ。」
「なんでよ?ライバル減ったからよかったとか思ってたんじゃないの?」
「あの人に勝って、初めて、次の段階に進めるのよ。あと、あなたにもね。」
「私?」
「・・・鈍いわね。」
- 396 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時19分38秒
- 藤本は不貞腐れたような仕種をして、麦チョコを頬張りだした。
包装を開けて、口に中のチョコを全部注ぎ込んで、ハムスターのように両頬に蓄える。
そういうプロセスを辿って、漸く至福そうにチョコを噛み砕き始める。
――アホだ。でも、今更ツッコンでも無駄だと思って真希は何も言わなかった。
「取り敢えず、あなたが本気を出せば、並大抵の選手じゃ敵わないって事よ。
この力のピラミッドの頂点に今、一番近い所にいるのはあなたなんだから。」
藤本の言っている事の意味など一先ず置いておいて、
どうして頬を目一杯膨らませているのに、滑舌の良い声が出るのかがわからない。
妖怪だから喉で声を出していないのだろうか?
真希はその理由を訊いてみたい衝動に駆られたが、あえてその事には触れなかった。
放置が一番だと考えたのだ。相手にするとつけあがる。
「・・・そんな難しい話、よくわかんないけど、私は頑張るだけだよ。
去って行った人の為、挫折した人の為、そしてみんなの為に。」
「みんなの為?」
「だって団体戦でしょ?当たり前じゃん。」
「つくづく甘いのね。まあ、あなたのそういう甘い所、嫌いじゃないけどね。」
それは誉め言葉なのだろうか?真希は取り敢えず肯定的に受け取った。
そして藤本が見据えている場所が、至極真摯だと言う事もわかった。
存在自体がふざけているように見えるが、テニスに対してはこいつは妥協していない。
真希はその部分だけ、藤本に好感を持っていた。
- 397 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時20分24秒
- 「ねえ、あんた緊張とかしてる?」
「緊張?悪いけど、格下相手にそんなの感じてる余裕無いわね。」
「私もさ、全然緊張なんかしてないんだよね。楽しみとも思わないし・・・」
「でも、T高校とならいい緊張感を持てると思うわ。」
――――T高校。
二回戦で、優勝候補の一角として君臨していたW大付属を四勝一敗という好成績で
下したブラックフォース。矢口真里と安倍なつみという二本柱だけではなく、
その脇を固める選手も決して低いレベルではない。
あの無敵のツインズ片割れの辻希美だっている。
「T高校。矢口さんのトコだね。」
(あの子もいるんだよねえ。)
「矢口さんの相手は、市井さんなのよね。」
「・・・組み合わせでは、そうなるね。」
「潮時ね。市井さん。」
「・・・・・・・」
藤本の残酷な発言に対し、真希は何も言い返さなかった。いや、言い返せなかった。
市井は誰かに敗れた時点で引退するという決意をしている。
皮肉にも、今日の試合にK学が勝てば市井は矢口と当たる事になる。
もし市井のテニス人生を誰かの手で終わらせるのであれば、最も相応しい人物だ。
だからと言って、矢口が絶対に勝つとは限らない。
市井の実力は本物だし、人間同士の戦いに『絶対』など存在しない。
真希は市井をある意味、尊敬していた。
- 398 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時21分11秒
- そう、市井は尊敬に値する人物だ。誰がなんと言おうが市井は尊敬に値する。
自分をココまで導いてくれたのは他でもない、市井だ。
市井の背中を見据えていたからココまで来れたんだ。真希は自分に言い聞かせた。
「・・・・矢口さんが、勝つとは限らないじゃん。」
「あなた、私がさっき言った事わかってないの?元々市井さんなんて、
矢口さんと肩並べれるレベルの人じゃないのよ。まともにやったら、
百回試合しても、一回も勝てないわ。」
――まとも。
市井はもし矢口と対峙したら、一体どうするつもりなのだろう?、
まさか、また同じ事を繰り返すかもしれない。
そして、市井と対峙した矢口は一体どんな反応を見せるのだろう?
一度その全てを壊した張本人を前に、矢口は何を思うのだろう?
「・・・・取りあえず、今日の試合に集中しようよ。」
「集中なんてしなくても、楽勝よ。」
「そうだといいけどね。」
正門の前には合宿の時と同じく、テニス部専用の小型バスが停車していた。
たかが高校生に、贅沢極まりないこの待遇。真希はウンザリした。
車中には既に加護や高橋は着席しており、後部の方には勝ち組の補欠部員達が座っていた。
市井は前から三番目の席に悄然と座って、つまらなそうに視線を窓外に放り出していた。
だから真希もつまらなそうに市井の横顔を見下ろした。どうだ、こっちの方がつまんなそうだろ?
と、問い掛けるように。
- 399 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時21分50秒
- 「ほら、早くつめてよ。」
「え?私、あんたの隣に座るの?」
「嫌なの?」
「絶対嫌。」
真希が平板な声でそう言うと、藤本はニタァ、と妖怪チックな笑みを浮べた。
「早くつめてよ。」
「人の話聞いてんの?」
「早く。」
問答無用に藤本は真希を両手で、市井の席とは対称に位置する、窓際の席に押し込めた。
真希は、なにすんだよ!とか言いながら必死で抵抗したが、藤本の華奢な体からは
想像できないバカ力に、歯が立たなかった。
「お前は、保田さんと座れよ。」
真希がプクっと頬を膨らませて不服そうにそう言うと、藤本は辺りをキョロキョロしてから
真希の耳にそっと口を近づけてきた。耳打ち。真希はその藤本の行為に寒気がした。
「保田さん、わかるでしょ?」
「・・・何が?」
心なしか、真希も声を小さくする。
「あの人、一緒にいててもつまんないのよ。」
「陰口堂々と言ってんだ・・・」
「陰口じゃないわよ。不満よ。」
- 400 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時22分54秒
- 屁理屈をこく妖怪。
「なんて言うのかな、私が話し掛けても一々溜息しかつかないのよね。」
「保田さんの気持ちは死ぬほどわかる。」
「つまりね、間を端折るとね、私はシングルスがいいのよ。」
端折り過ぎて、全く言ってる事に一貫性が無い。
「・・・よくわかんないけど、実力で勝ち取れば良いじゃん。シングル。」
「そんな事、時間の問題よ。」
「その前に、お前の性格にも随分問題あると思うんだけどね。」
「・・・どんな?」
「言わなきゃわかんないのか・・・・」
「・・・・ベビースターとんこつ味、食べる?」
「・・そういう所だよ。」
バスは快調に目的地に向けて走っていた。戦に向かう、ビップなテニス部専用バス。
車内はある一角を除いて、楽観的な雰囲気に包まれていた。
笑う加護高橋。齧る藤本。それを侮蔑視する真希。
窓外のドコカを焦点の合ってない目で眺めている飯田。
三キロのダンベルを手首で上下させている鼻息の荒い保田。
バラエティ豊かなこの昨年度王者の面々が醸し出す明るい雰囲気の中で、
市井の周りにだけは黒よりも濃い色の暗色が漂っていた。
一人だけ別次元に迷い込んでしまった悲劇の主人公よろしく――――
――――――
- 401 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時23分49秒
- K学が今日試合をするコートはFコートで、クラブの入り口から最も遠い場所にある。
石黒が先頭に立ち、部員達は縦一列を作ってクラブ内の通路を悠然と進む。
すると、クラブ内にいる他校の代表の選手は勿論、
K学の事を知らなかった、地元の観客までもがその列に視線を注ぎ始めた。
桁外れな威厳と自信に満ち溢れた、K学の連中のその表情から醸し出す雰囲気。
強い引力を持っているナニカのように、K学の一列は人を惹きつけた。
今年のK学は一度も他校と練習試合を行わなかった。
別に隠していた訳じゃない。市井が原因だった。
市井がいると言う時点で、どこも試合を組んでくれなかったのだ。
その結果として、K学の今年の実力は他校からすれば一切闇の中にあった。
去年よりも素晴らしいチームを作り上げたのか、それとも・・・
他校からすれば、その興味は尽きない。
K学の面々がコート入りをすると、様々な高校がその実力見たさに人だかりを作り始めた。
殺風景だったコート外の景色は一気に喧しさを帯びて、息苦しくなった。
しかし、それは部員達に対するプレッシャーにはならなかった様で、
「いやあ、燃えてきたでぇ。」
「うん。これだけの人の前で、恥はかけないよね。」
「いっちょ、がんばろか、愛ちゃん。」
「だね。」
加護、高橋ペアをはじめ、誰もがその意気込みを再認識する好結果になった。
真希は人が見ていようが関係ない様子で、体中に四方からの視線を感じながらも、
ジッとある一点を見つめていた。―――福田を。
- 402 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時24分20秒
- Y学館の連中はK学よりも先に到着していて、既にテニスウェアに着替えており、
軽い準備運動を行っていた。K学のレギュラーの部員達は更衣室に向かう。
真希はもう一度、福田に一瞥をくれた後、更衣室に向かった。
まずY学館の事前練習が始まった。
K学の面々はそれぞれの対戦相手に注意を向ける。
軽い練習を窺うだけでも、相手選手が持っている『実力』と言うのを垣間見る事は容易だ。
特にレベルの高い選手、指導者ならば。
飯田は三分ほど相手の動きを見ただけで自身のラケットの手入れを始めた。
相手にならないと踏んで見限ったのだ。それは飯田だけではなかった。
藤本、保田ペアも数分だけ分析するように練習を覗いた後は、それぞれ他の事柄に興味を移した。
市井は初めからY学館の練習を見ていなかった。ベンチに項垂れるように座り、
地面の一点を射抜くように、視線を落としていた。
加護と高橋は楽しげに、対戦相手のペアの特徴などを言い合っていた。
あの人はサーブ綺麗やけど下手糞やな、とか、バックハンド散々だね、とか。
二人も数分練習を観察した後は興味を失い、取り留めの無い話を交わし始めた。
しかし、真希だけは違った。
以前に福田から感じた違和感をしっかりと形にする為に、穴が空くほど福田の
一挙一動に注意を向けた。どんな些細な動作でも、諦観するように眼力を弛めず見極める。
・・しかし幾ら集中的に眺めても、あの違和感を感じることは無かった。
つまらなそうにラケットを振っては、つまらなそうに汗を拭き、
つまらなそうにドリンクを飲めば、つまらなそうに体を動かす。
何となくだが福田は今日の天候のソレに似ていた。
- 403 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時24分54秒
- 黒いモノと白いモノに分かれていて、そのどちらが本物の姿かはわからない。
もしからしたら、そのどちらでもないかもしれない。
奥にある扉を開けると、また同じ扉があった、それが延々と続くような―――
癪に障る存在だ。
真希は福田を見つめていた目付きで空を睨んだ。
その時、ある事を思い出した。
(白と黒・・・マジンガ―Zのあしゅら男爵じゃん。)
時間はアッと言う間に過ぎた。三十分の事前練習は終わり、次に交替でK学が
コートに入った。外の喧噪が一層煩くなる。
真希は小川と組んでサーブ練習を始めた。これは石黒の指示ではなかった。
真希が志願したのだ。加護が言っていていた言葉――頑張っている。
指名された小川は当惑して、訳がわからないといった表情をしていた。
「なんで、私なの?話し掛けてくんなって、言ったのそっちでしょ?」
小川は真希と目を合わそうとしなかった。
真希は少し上目遣いで、小川の本質を見極めるようにジッとその逸れた双眸を見ていた。
「気が変わったんだよ。・・・市井ちゃんの事、好きなんだよね?」
「・・・目標にはしてるよ。」
「あと、テニス好きなんだよね?」
「・・・それは・・まあ。」
「じゃあ、いいじゃん。受けてくれない?サーブ。」
「私で・・・いいの?」
「うん。私だって、・・・なんて言ったらいいんだろ・・・その、悪かったし。」
首筋をポリポリ掻いて、恥ずかしそうに真希がそう言うと、小川はやっと真希と目を合わせた。
二人は暫く視線を合わせただけで、何も会話を紡がなかったが、
それでもお互いを少しは理解したようだった。少しだけでも、それは大きな事だった。
- 404 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時25分33秒
- 合宿を終えて、部員達の実力はそれぞれ目に見えて上達していた。
加護は持久力をつけてきたし、高橋は特異なステップを覚えて展開の幅を広げた。
藤本、保田ペアもナンダカンダ言って、息の合った面白いペアだった。
二人ともその隙の無いスタイルで、一切の無駄を省いた堅実なテニスをする。
飯田は自身の確立したスタイルを更に強固なモノにしていた。
持ち前の長身を生かした大きなテニスをしながら、繊細なプレーもしっかりこなす。
もちろん、市井だって確実に成長していた。誰が何と言おうがこの部のエースは
市井であり、K学一の実力者には相違ないのだ。
K学園の事前練習が終わって、真希がコートの外で軽くストレッチをしていた時だった。
福田が、真希を見つめてきた。つまらなそうに。本当につまらなそうに。
あんた、激しくつまんないね。と、そんな心の声が直接真希の心に届いたような気がした。
真希は福田をなるべく感情を殺して見つめ返した。
あなたにつまらないなんて言われる筋合いはありません。と、抑揚の無い声で
下衆をあしらう様に。すると福田はすぐに視線を真希から外し、その後に
ベンチで俯いていた市井に目をやった。今度は、あれ?まだ生きてたんだね。
と、つまらなさそうに、嘲るように。そして真希はカチンときた。
「ちょっと、なに見下してんだよ!」
真希は反対側の敵陣にいる、福田に向かって叫んだ。
他の連中にとっては、何故真希が突然大声を出したのかわからないようだった。
しかし福田はそれが即座に自分の事だとわかったようで、一呼吸置いてから真希を見つめてきた。
今度はつまらなそうに、あしらう様に。
「どうしたの?ゴトー?」
- 405 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時26分14秒
- 飯田が真希を鎮めるように、真希の肩を後ろから掴んだ。
真希は飯田に止められても怯まなかった。最高の悪意を込めて福田を睨み返し、
お前なんかに絶対負けないよ、このあしゅら男爵。と、心の中で叫んだ。
でも、あしゅら男爵も怯まなかったようで、やれるもんならやってみてよ、と
つまらなそうに真希を侮蔑視した。
「すいません。飯田さん・・・」
「何?あっちの連中になんかされたの?」
「いや、気の所為だったみたいです。すいません。」
真希は飯田に頭を下げた後、Y学館のベンチに向けても頭を下げた。
福田の視線を感じたが、敢えて無視した。ココで熱くなっても仕方が無い、
やるなら試合でやってやる。真希は今日初めて闘志を抱いた。
―――
第一試合。
藤本、保田ペアが漫然とコートに入った。
二人とも、早く試合がしたくてうずうずしていた。
身内との練習試合は死ぬほど重ねたが、他校との試合は二人とも約、五ヶ月ぶりだった。
「ねえ、藤本。私はお前の実力信じてるから、悪いけど、構ってられないわよ。」
「フフフ、保田さん、それはこっちのセリフですよ。」
「・・・お前はふざけてるけど、私的には後藤よりも期待してるんだからね。」
「保田さん、その期待、しっかり応えて見せます。」
「後々ウチの部支えていくのはお前らなんだから、今から恥晒すんじゃないよ!」
「アイアイサー。」
- 406 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時27分05秒
- 二人の並々ならぬ気合に、Y学館のペアは戦々恐々と、萎縮しきっていた。
一匹の蛇と、一体の妖怪に睨まれたカワイソウなY学館のペア。
オルウウァ!保田が叫ぶ。シャラアア!保田が叫ぶ。トッタアア!保田が叫ぶ。
一方的に保田が叫ぶ展開。そして藤本は踏みにじるようにエースを決めまくった。
試合の方は見るまでもなく、藤本、保田ペアの圧勝だった。
試合後、相手のペアは半べそをかいて自陣に戻っていった。
観客は最初のこの試合を見て、今年も常勝K学は健在だと確信した。
――
加護、高橋の心臓は、試合直前になって破裂しそうなほど暴れ散らしていた。
藤本と保田の試合を見て、K学代表という前提の事実を改めて認識したのだ。
無様な試合は出来ない。負けなんて選択肢には無い。――常勝。
「ウチら、K学の代表やってんな・・・・」
「なんか、そうみたいだね。」
「凄い凄いプレッシャー感じるわ。シャアがアムロに感じた位の。」
「しゃあ?」
「いや、こっちの話や。しかし、手の震えが止まらんで。」
「・・・ダメだ、ヤバイかも。」
高橋がそう言った後、二人は目配せする訳でもなく同時に真希の方に視線を向けた。
二人には共通点が多いが、その中で、お互いに訊ねるわけでもなく形成されていた
一つの事柄―――――
- 407 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時28分28秒
- 「そうや、ウチらごっちんの進化見るんが今の楽しみやったな。」
「・・・そうだね。ごっちんは、天才だからね。」
「・・そんなら、少しでもごっちんに勇気付けるような試合しないとあかんな。」
「だね。」
二人は改めて真希を見た。真希は二人に向けてガッツポーズをしていた。
二人にとって、真希はある種のアイデンティティだった。
真希がいなければきっと勝ち組に上がる事は出来なかったし、
ココに今立っている事も無い。二人はテニスの新参者の真希に希望を抱いていた。
そう思うと、バカみたいに緊張が解けた。パンパンに膨らんだ風船の空気を抜くみたいに。
真希は希望であり、理由だった。
観客やテニス関係者にとって、二人の試合の感心事はたくさんあった。
まず、無敵のツインズの加護が、新しいパートナーとどういったテニスをするのか。
そして、高橋という無名の新人のその実力。一年でK学のレギュラーを獲ったその真意。
蓋を開けてみれば、観客は嘆息をつきっぱなしだった。
加護が見せるパラドックステニスは以前よりも更に奥行きが深くなっていて、
ある種、手品めいた技まで披露した。
そして高橋もその加護に見劣りしないテニスをした。
意地悪いほどのオーソドックスでバランスのいいテニスをして、相手に絶望感を抱かせる。
持っている自慢のサーブは見る者を唖然とさせるほど素晴らしいものだった。
二人はキチンと相互作用をしていて、尚且つ、自分のテニスをしている。
悪い部分を完全に補い合って、その名を知らしめたかつての加護と辻。
- 408 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時29分11秒
- しかし、今の加護と高橋はそうではなかった。
二人はお互いを意識する事無く、お互いを高めあっていた。無意識の中での相乗。
結果は圧勝。先ほどの藤本、保田ペアの試合を忘れさせるほど完璧な内容。
二人は紛れも無く実力者であり、K学代表であり、最高のペアだった。
二試合を続けて取って、そこで部長飯田の登場。
それはY学館サイドに最高の絶望感を齎した。
――――飯田圭織。
その名を知らない者は、この界隈では存在しない。
矢口や市井で話題を事欠いていたが、飯田もその実力は高校生レベルではない。
飯田は物静かなテニスをする。目立たないし、抑揚が無い。
――強い事は誰にだってわかる。
確かに強いが、飯田のテニスは素人目からしたら、面白くは無かった。
しかし飯田には、わかる者にはわかる、圧倒的な魅力があった。
その静謐で流れるようなラケット捌きは一見、極平凡に見える。
まさにお手本通りに寸分の狂い無く、球の中心を捉える。
そんな当たり前のテニスをすると言うのは殊に難しいという事を、
ある一定以上のレベルの選手は知っている。
お手本通りを完成すれば、飯田の場所までいける。特別な技術はいらない。
目指すのならば、計り知れない能力を持っている矢口よりも、
なんら自分達と変わりない事を積み上げてきた飯田の方が、遥かに現実的だ。
だから、飯田の事を目標にしている低学年の選手は多かった。
飯田のテニスは見る者に可能性を与えるのだ。
- 409 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時29分57秒
- 飯田はコートに入る前に、市井の所へ向かった。
市井は悄然とベンチに座っていて、まるで、何かに怯えている猫のようだった。
――何に怯える?
「ねえ、紗耶香さ、私で決めちゃうかもしれないけど、いいかな?」
「・・・圭織に勝てる奴なんてそうそういないよ。」
「それはこっちのセリフだよ。」
飯田は口端を上げただけの小さな笑顔を作った。
市井は顔を上げなかった。俯いたまま、確かめるように声を出した。
その声の中は、絶対的な何かに怯えているようだった。
――何に怯える?
「私は、何時の間にか臆病になってた。・・うん。後藤に会ってからだ。
後藤の近くにいると、私は普通の女子高生に戻ってたんだ。うん。
張ってた糸が、緩んで、それで、私は普通に笑ったり、普通にテニスをやってたんだ。
後藤はさ、幸せにするんだよ。私を。いや、みんなを。でも私のは錯覚だ。
私は罪を償おうとしてたくせに、矢口の事を忘れてたんだ。だから、ダメだ・・」
市井の話の内容は支離滅裂としていて、飯田は何が言いたいのか、上手く理解する
事が出来なかった。ただ、明晰としているのは、『久しぶり』に話してみた
市井は酷く脆くなっていたという事だ。
そして、復帰した矢口が原因で、
市井がココまで臆病になっているわけではない事も漠然とだがわかった。
原因は・・・
- 410 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時30分38秒
- 「後藤?」
「・・・私は、あいつに会って、心の中ではまだテニスを続けたいと思ってたんだよ。
この大会で決着をつけようと思ってたのに、ダメだ私は。何も反省してない。」
「紗耶香・・・テニス辞める気だったの?」
飯田は泣きじゃくる子供を優しく諭すような、最高に不安げな声を出した。
「・・・それは、当然だよ。私はやっちゃいけないことしたんだ。」
市井は地面を見つめながら、自分自身に語りかけるように言った。
「・・・・・・・」
そこで飯田に審判から催促がかかった。
結局飯田は市井に何も告げずにコートに入った。
市井もそれから口を噤んでずっと下を向いたままの姿勢で止まった。
市井はわかっていた。これから何が起こるのか。
それは飯田がポイントを奪う度に近づいてくる。
飯田はサクサクとゲームを進めていた。気付けば、第一セットを取っていた。
市井は現実を認めたくなかった。現実は、自分を受けて入れてくれはしないからだ。
「はい。」
この声を聞く度に、一々希望を抱いてしまう。
市井はずっと下げていた頭を徐に上げた。
涙が出そうになった。
- 411 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時31分14秒
- 「・・・なんだよ?」
そう言ってから、市井はまただらしなく頭を下げた。
すると、真希は憤慨したように、乱暴に市井の手を掴んだ。
「これ、お守りだよ。」
そう言って、真希は玩具を落としてしまった子供の手に、
ソレを拾って優しく手渡してやる母親よろしく、市井の掌に件のブレスレットを握らせた。
市井は落としていた視線の前までその手を持って行き、そして
つぼみが時間をかけて開花するみたいに、ゆっくりとその手を開いた。
中には見た事も無い、それなのに心を揺さぶる彩色をしているブレスレットがあった。
いや、これはドコカで見た事がある、ずっと前に、忘れた色だ。と、市井は思った。
「なんだよ?これ?」
「だから、お守りだって。私も愛ちゃんもあいぼんも持ってるんだ。」
「・・・いらないよ。」
「うるさい。別に金とろうなんて思ってないよ。あんたには色々とお世話になったし、
そのお礼みたいなもんだ。そうそう、友達は遠慮なんかしちゃダメだ。
って、愛ちゃんが言ってた。だから、それをあんたは受け取らないといけない。」
問答無用に、真希は市井を言い包める。
すると、市井は何も言い返さなくなった。真希はどうだ、まいったか、といった表情をする。
市井は顔を上げた。そして真希を見つめた。真希の顔を見ると、自分にも
凄い魅力があって、何か特別な力があるんじゃないのか?と思えてくる。
だから、市井はソレを何度も心の中で否定しながら、真希に礼を言った。
- 412 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時31分56秒
- 「・・・ありがとう。」
「わかればいいんだ。じゃあ、リストバンドの下でいいからそれして、
次の試合勝ってよ。その色はねえ、人生の色だ。
あんたの色だって、ちゃんと含まれてるんだ。」
市井は右手首にブレスレットを結んで。その上からリストバンドを被せた。
「バカだな。お前。」
「おっ、久しぶりに聞いた。そのセリフ。」
「・・・ははっ・・」
市井が人差し指を鼻に当てて、軽く笑おうとしたその刹那。
コートの外の、あらゆる所から、罵声が生まれた。
死神!のうのうとテニスやってんじゃねえよ。市井よくもまあ、テニス続けれるよな。
死神、死神、死神・・・・・
飯田が勝利したその直後だった。
K学は三回戦に進出が決定して、T高校と当たる事が決定した。
市井はガクガクと震え出した。悟れ、これが現実だ。
「こ、こんなの、気にする事ないよ。」
明らかに動揺した真希の声は、逆に市井の何かを吹っ切れさせた。
「ああ。私は、わかってたからな。こうなる事。承知の上で、臨むんだ。」
- 413 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時32分37秒
- 市井は意を決して立ち上がった。
そして、毅然とコートに向かおうとする。・・しかし、
市井がコートに入ろうとした所で、審判がなにやら石黒を呼び出した。
中にはY学館の顧問もいて、なにやら三人、渋い顔を作って論議を始めた。
数分経って、石黒が市井の元にやってきた。
「市井、ラケットしまえ。」
「・・・なんで、ですか?」
「お前の不戦勝だ。相手の代表がお前との試合を拒否した。
でも、五番手の選手は試合をやりたいらしい。
だから、取り敢えず、お前の出番は無い。」
「そんな・・・・」
不戦勝のコールが出た所で、観客からの罵声は更に勢いを増した。
市井は抉られていた。そう、体の隅々を、形の悪い無数のスプーンが抉り取る。
体を抉って、神経を抉って、精神を抉って、心理を抉る。
市井は、意思を捨てようとした。自分の居場所は既に無かったのだ。
市井は呆れている真希の元に向かって、終わろうと思った。全て。
「後藤。私は、ダメだ。」
意思を失った、市井の虚無の声を聞いた真希は、
「一回しか言わない。あんたはトモダチだ。私にテニスを教えてくれた先輩だ。
だから、私はあんたの味方だ。世界中の人間があんたを否定しても、
私だけは肯定してあげる。いいじゃん?私みたいな可愛い子があんたの
味方なんだ。だから、何も気にする事はないんだ。うん。何も無い。
あんたは間違ってないし、悪くも無い。私はあんたの事が好きだし。」
世界を敵にした。
- 414 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時33分07秒
- 「・・後藤。」
「それに、あんたが本当にテニスが強いって事も証明してあげるよ。
福田さんだっけ?あんた言ったよね、『本気でやられてら勝てなかった』って。
じゃあさ、あんたに勝ったこと無い私が、あの人に勝ったら、あんたも
あの人に勝てるって事じゃん。そうでしょ?証明してあげるよ。」
真希は既にコートの中に入って、悠然と腕を組んでいる福田を睨みつけてそう言った。
福田はこの市井に対する罵声のシャワーを、気持ち良く浴びているようだった。
ほら、早く来なさいよ、つまんない顔してないで。そんな目をしていた。
真希は市井に凛とした表情を向けると、振り向いて躊躇無くコートに入った。
コートに入ってから、真希は一度も福田から目を逸らさなかった。
観客の罵声が止んで、コートには一瞬、真空の中にいるような静寂が完成した。
音を遮断し、全てを遮断する絶対的な静寂。その中に福田はいた。
福田と真希との間には、張り詰めた緊張の糸が幾十にも張り巡らされていた。
福田が真希の力を試す為に、用意したカラクリ。
ソレに不用意に触れると、バラバラと体が切断される。神経が切られる。
真希は息を殺して、その糸をスルリ、スルリと大胆にすり抜けた。
福田は他人とは何か違う、言うなれば、自分と同じ匂いがする。
認めたくなかったが、一目見たときから真希はそう思っていた。
- 415 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年01月12日(日)04時33分47秒
- 福田の真ん前まで辿り着いた時、真希は酷く疲弊していた。
福田が放つ張り詰めた雰囲気の泥濘を通り抜ける為に、激しく神経を使った。
そんな真希を見た福田は良くココまで来れたねえ、誉めてあげる。そんな目をしていた。
真希は手を差し出した。福田も感心したようにその手を握る。
「私は、あんたには負けない。」
「・・・楽しみ。」
福田が始めて見せた無骨な笑み。
その時、また真希は福田と視線を交わした。そして伝える。本気で来い、と。
すると、福田は初めて活き活きした瞳をして、いいわよ、と答えた。
真希は自分の欲求を飲んでくれた福田に取り敢えず感謝した。
その後、
「絶対勝つ。」
言葉で伝え、バックラインに戻った。
試合が始まる。
―――
- 416 名前:カネダ 投稿日:2003年01月12日(日)04時34分33秒
- 更新しました。
- 417 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年01月12日(日)09時32分31秒
- 大量更新お疲れさまです。
市井さんの暗闇にもアイボンや愛ちゃんの心の葛藤を癒したように明るい希望を後藤さんが与え、矢口さんとはテニスを楽しんで試合をして欲しいですね。
市井さんだけが知る、相手のレベルに合わせる明日香さんの本当の実力が、後藤さんによってはじめて明かされるんでしょうか?
あやや&コンコンとミキティ&保田大明神の試合も希望です!
気が早いですね。
更新が待ち遠しく楽しみです。
- 418 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月12日(日)11時28分08秒
- 明日香… 本当はきっといい子なんだよ…
明日香好きの者としては複雑な心境だが(w
二人の対決は見ものですね。頑張ってください。
- 419 名前:きいろ 投稿日:2003年01月12日(日)12時19分59秒
ついにきましたね。後藤と福田の試合が・・・
まだわからない福田の実力・それに市井と約束した真希の試合展開、
とても楽しみにしています。
市井は、真希に支えられてここにいるって感じですかね。
真希の言葉に、行動に、市井が救われているのは確かでしょう。
次の死神市井×妖精矢口の試合も、どうなるのか楽しみです!
更新お疲れ様でした。
- 420 名前:新米 投稿日:2003年01月12日(日)12時23分43秒
ちょっと、お尋ねしたい事があります・・・。
ーーーーーーーーーーーーーーー ←これを、作者様のようにつなげるのは
どうしたらいいのでしょうか??
面倒でしたら、結構ですので、良かったら教えて頂きたいです。
感想レスです。
福田と真希の試合、すごく楽しみにしています。
これからも、影ながらですがカネダ様を応援させて頂きます。
- 421 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2003年01月12日(日)16時23分24秒
- う〜ん、後藤の目には相変わらず藤本は妖怪に見えるんですね(w
しかし市井は、かなり可哀相な状態になってますね。
後藤の励まし、そして後藤の試合を見たあとに市井は覇気(?)を
取り戻すことができるんでしょうか?
そんなコトを含めて、次の後藤vs福田はかなり楽しみです。
あと、前から思っていたんですが、
後藤は人の観察眼に長けていたり、人の心の声が聞こえたりしているようですが、
もしかしてニュータイプなんですか?(w
(激しく冗談なので、コレに対してのレスは不要です(w)
- 422 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月12日(日)16時38分10秒
- 死神と呼ばれた昔の市井は、具体的には一体どんなテニスをしたんでしょうか?
- 423 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月13日(月)03時03分02秒
- 後藤戦、激しく楽しみです。
明日香の実力の程はまだ明らかにされていませんが、後藤の底力もまだ未知数な
気がするんですよね…
市井の登場の後だけに、一層後藤に肩入れしたい気持ちでいっぱいです(w
- 424 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月14日(火)01時01分25秒
- ∬*´▽`)………
レススウガヤバイミタイナンデコンゴヒカエマスガズットオウエンシテマス
- 425 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年01月14日(火)08時35分10秒
- おお妖怪藤本も健在だな
しかし後藤と福田の戦いはホント楽しみだ
p.s. 後藤もある意味妖怪だと思う。。。
- 426 名前:川o・-・)ダメです… 投稿日:川o・-・)ダメです…
- 川o・-・)ダメです…
- 427 名前:カネダ 投稿日:2003年01月20日(月)00時43分15秒
- レス有難う御座います。
本当に励みなります。
>>417ななしのよっすぃ〜様。
この試合が終われば、とうとう対峙させる事が出来ます。・・長かった・・・
福田は謎に包まれていますが、後藤がきっとその能力を明らかにさせます。
自分も早く二人の試合を書きたいのですが、遅れてしまいそうです。
本当に申し訳ありません。
>>418名無し読者様。
福田は柴田のような悪役じゃないですね(w 謎めいてますが、本質はきっと・・・・
福田好きなのに、こんなキャラにしてしまって、申し訳無いです。
対決を楽しみにして下さってるのに、遅れることも本当にすいません。
>>419きいろ様。
後藤対福田は本当に力を入れて、全霊を持って書きたいと思っています。
その後のそれぞれの試合も同じく力を入れたいです。これだけアホみたいに
長引かせた分、締めはしっかりしようと思ってます。
そして、楽しみに待っていて下さっているのに、更新が遅れることを深くお詫びします。
>>420新米様。
自分の場合は、ーーーーーーーを幾つか並べて、変換キーで全ダッシュを選択し、
それで変換すれば、繋がると思います。こんな感じで―――――
自分もいろんな事で悩んだ事がありました。これからも頑張って下さい。って、
言える様な大した人間じゃないですね、すいません。読んでくれて有難う御座います。
- 428 名前:カネダ 投稿日:2003年01月20日(月)00時49分20秒
- >>421読んでる人@ヤグヲタ様。
後藤対福田にはなんらかのドラマを入れたいと思ってました。
後藤の影響で、市井が光明を見たのは間違いないですね。
ニュータイプ・・・自分あんまりガ(ry詳しくないのですが、その素質はあるかも(w
そして、更新が遅れることを深くお詫びします。申し訳無いです。
>>422名無し読者様。
市井の基本のスタイルは大体オードックスで、ネットプレーを得意とするという
設定なんですが、本編でも少し触った程度しか書いてないです。説明不足で
申し訳ありません。一年前の市井はテニスのテクニックなど使わないで、相手の
心理を壊す・・・非現実的なテニスで全国覇者になった、という設定です。
説明下手糞で本当にすいません。更新が遅れることも申し訳無いです。
>>423名無し読者様。
後藤の力はまだまだ、成長段階ですので、この試合でまた一皮剥けるかもしれません。
福田も只者じゃないことは確かで、いい試合をさせるつもりです。
後藤は市井の分まで・・と言っては変ですが、間違いなく市井の存在の影響は大きいです。
そして、楽しみにして頂いているのに、更新が遅れることを深くお詫びします。
- 429 名前:カネダ 投稿日:2003年01月20日(月)00時51分10秒
- >>424名無し読者様。
もしかして・・いつぞやの小川さんですか?(w
レス数確かにピンチですが、恐らく一回の更新でこの試合を終わらせると思うので、
気にしてもらわなくても大丈夫だと思います(w
この試合終わったら、新スレを立てると思うので、その時はまた読んでやって下さい。
>>425むぁまぁ様。
妖怪藤本は絶好調のようで(w
後藤対福田は自分の貧弱な文章力全部を使って、なるべくいい試合にしたいと思っています。
後藤妖怪・・・・・確かにそうですね(w
そして、楽しみにして頂いているのに、更新が遅れる事を深くお詫びします。
諸事情により、次の更新がかなり遅れそうです。
なるべく早く更新したいと思っているのですが、恐らく二月の中旬位になると思います。
更新速度と量だけが取り柄のこの話です。遺憾ですが、見捨てないで頂ければ幸いわいです。
必ず完結しますので、これからもよろしくお願いします。本当に申し訳ありません。
- 430 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年01月20日(月)12時27分47秒
- 諒解しますた
巡回コースですので定期的に保全しときますのでゆっくりやって下さい
- 431 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年01月29日(水)12時35分51秒
- やばやば 保全
- 432 名前:名無し通りすがり 投稿日:2003年02月02日(日)00時16分09秒
- 月代わり保全
- 433 名前:むぁまあ 投稿日:2003年02月03日(月)08時06分36秒
- 保全なりよ
- 434 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年02月12日(水)12時13分23秒
- 春はもうすぐ・・・
- 435 名前:カネダ 投稿日:2003年02月14日(金)03時35分15秒
- 更新遅れて申し訳ありませんでした。
一気に終わらせるつもりでしたが、生存証明の為、途中まで更新します。
>>430-434様。
保全、感謝です。本来は自分でしなければいけないのに。有難う御座いました。
- 436 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時36分40秒
- 真希は深呼吸を一度大きくして、ガットに五指の第一間接を挟み、
それをキュッと一握りした後、先ほど市井に罵声を浴びせた輩を睨み付けた。
左右に首をゆっくり回し、双方、約二秒ほど睨みつける。すると、呆けた顔をしていた
無知な観客達は、目上の者に威圧されたみたいに辟易した。
福田は観客を平気で敵に回す真希のそんな様子を見て、
先ほどと同じような笑みをもう一度見せた。
決して媚らず、自分の意思で行動する真希に、福田は快感を期待したのだ。
(ふふ、楽しませてよ)
尻込みした情けない観客達は一瞬の間の後、我に帰ったように真希に怒声を浴びせた。
内容は甚だ下劣なモノだったが、真希は気にせず福田に視線を向けた。
空の雲が動き、白と黒とに分かれていた雲は一つになり、鈍色になった。
生温い、弛んだ風が吹いた。それなのに空気は凝固したように引き締まる。
これは福田の仕業だ、福田の世界に取り込まれかけている。真希は改めて自己を確かめた。
(落ち着け、相手はただの人間だ。)
そんなバカみたいな事を自身に言い聞かせる。
ただ、真希にはどうしてもそんな空元気のような後押しが必要だった。
福田から醸し出される未知の雰囲気が、真希の隆盛した覇気を自ずと奪っていたからだ。
真希からのサーヴィスで試合は始まる。
真希は合宿での日々の事を思い出して、サーブの体制に入った。
足腰が自分でもわかるくらいに強くなった。それに、サーブはある程度の
『コツ』を掴んでいた。口で説明してもわからないが、正解、と声高に
宣言できるような、打球を正確に隅に決める術を真希は体で覚えていた。
- 437 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時38分20秒
- 真希のファーストサーブは恐ろしく完全にサーヴィスラインの隅を抉った。
福田はその極めて上質なフラットサーブをただ見送った。
だが真希は喜ばない。完璧なサーブを食らった筈の福田は、何故か至極平然としていた。
(なんか、むかつくね)
福田は何か謎めいていた。ステップを踏んで、タイミングを計っているのかと
思いきや、真希がサーブの体制に入ると、そのステップを止めて突然、
投げ出したようにラケットを下に垂らす。こんなのは相手を馬鹿にした、嘲弄だ。
なんのテクニックでもない。福田はナニかを隠しているか、待っている。
こんな人を苛立たせるだけの小細工だけで、市井を弄べる訳が無い。
時期を見計らっているのだ、なんらかの。真希は慎重になった。
真希は続けざまにサーブを決めた。ポンポンと二つ立て続けに。
それでも福田は表情を強張らせるわけでもなく、顰めるわけでもなく。
先ほど見せた微笑は嘘の様に引いて、元のつまらなない視線を真希に向けた。
なんだ、こんなもんなんだ。激しくつまんないね。そんなに風に真希は受け取った。
真希がラブゲームで取った後の二ゲーム目、福田のサーヴィス。
真希は内心かなりいらいらしていた。福田は本気で自分と相対するどころか、
試合そのものを全くしていない。自分のテニスをまるで、目の前で傍観されてる気分だ。
福田がサーブの体制に入った時も、真希は福田からの本気のサーブを期待して
いなかった。どうせ、舐めたような緩いサーブを打ってくるんだろう。
- 438 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時39分01秒
- 福田は自分との勝負をどういう訳か、棄てたのだ。
それは幻滅かもしれないし諦めかもしれない。とにかく、福田は勝負を棄てたのだ。
と、真希が思った矢先だった。
福田が打ったサーブに、真希は反応する事が出来なかった。
別段、速度がある訳でもなく、回転が切れているという訳でもない。
球がラケットにぶつかる瞬間まで、真希ははっきりと球の軌道を見据えていた。
なのに、・・・消えた。ラケットに触れた瞬間、打球は視角から消えた。
(何が起こったんだよ)
真希は佇んだまま、数秒呆気に捉われた。
手品?そんな言葉が脳裡をよぎった。
思い出したように福田に視線を向けると、福田は口端を申し訳無い程度上げただけの、
小さな笑みを漏らしていた。噴出さないように慎重に笑わないとね。と、そんな感じに。
市井は真希が呆然としている様子を見て、バツが悪そうな顔をした。
他の部員達は福田のサーヴィスエースを真希のただの不注意の所為だと思っている。
真希は合宿前後の時分から、サーヴィスエースというモノを許した事が無かった。
K学のレギュラーが放つ強烈なサーブでさえも、真希はずば抜けた反射神経で拾い、
必ずレシーブを決めた。それを、名も無い弱小高校の一部員の平凡なサーブ如きで
覆される訳が無い。これは、真希のただのケアレスミスだ。と、誰もが思った次のサーブ。
真希はまたしても福田にサーヴィスエースを決められた。それも、一歩も動く事無く。
- 439 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時39分56秒
- 「ごっちん、集中して!」
と、最初に声を上げたのは高橋だった。
それから、加護、飯田、保田、小川の順番で真希に檄を飛ばした。
すると真希は思い出したように自陣に首を向けて、焦点の合わない目で一つ頷いた。
檄に答える訳でもない、ただのぶっきらぼうな相槌。
真希はどういう訳か、宙に浮いているような不安定な感じを覚えていた。
何が起こっているのか、わからなかった。
心と体が二つに両断されたような、未知の世界に足を踏み入れてしまったような・・・
真希はそんな訳のわからない意識の中で、ふと市井の方に視線をやった。
市井は最近は見せなくなった、自信に満ちた凛とした表情を取り戻していた。
そうだ、市井はこんな顔が一番しっくり来る。真希は無気力に微笑んだ。
福田はこんな市井を弄んだんだ。こんな、尊敬に値する市井を。
真希は簡潔な脳内トリップを終え、怒りと決意を持って福田に視線を戻した。
(絶対に負けてやらない。)
福田からは笑みが消えていた。そのやる気の無い表情には、落胆と叱咤の色が含まれていた。
そして真希は一種の畏怖を覚えた。
市井は心の中ではこの試合、真希は負けてもいいと思っていた。
『敗北』という事柄は成長する為にはとても重要な要素の一つだ。
ココで負けを経験するのは未来の為になる。福田に負けるのは仕方のない事だ。
それを糧にして、明日に繋げればいい。今の真希は、余りにも世界を知らな過ぎる。
(福田は時間を操れる。あれを攻略できたのは矢口だけだ)
と、考えつつも、市井は真希の才気の可能性を否定したくなかった。
- 440 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時40分53秒
- 天啓を受けた真希が、このままむざむざ負けるとは、どうしても思いたくなかった。
それに真希はいつも常識を覆してきたじゃないか。
市井の心は期待と諦念を交互に彷徨い、揺れていた。
福田のサーブがまた決まった。真希はまたしても動けなかった。
考えても答えなんか出てくる訳が無い。どうしてもわからない。
こんな摂理を超えた現象が、許される訳が無い。
福田は真希に対処の余地を与える事無く、アッと言う間に0=40まで持っていった。
真希はこのゲームを捨てた。
残り一回の福田のサーブで、その摩訶不思議を見極める事に努めようと思った。
眼力を最大まで高め、ただ一点、福田がトスを上げる球にだけ集中する。
全意識を集中する。福田はゆっくりと高らかにトスを上げた。球はまだ消えない。
ラケットにガットが当たるその瞬間だ。そこを見る。呼吸を止める。
ガットに球が吸い込まれた。―――消えた。
(何処に消えたんだよ・・・・)
真希はまだ福田のラケットに視線を向けていた。
その時、打球が真希の足元を駆け抜けた。
福田はラブで取られた次のゲームをラブで取り返した。
カラクリが、まだ見えなかった。
- 441 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時42分27秒
- 試合は妙な展開で幕をあけた。互いの実力が拮抗していないのに互角の展開。
K学サイドの連中は市井を除き、不可解な真希の連続ミスに、
釈然としない表情を一様に浮べている。
Y学館サイドの連中は一転して、福田の試合展開にただ驚嘆していた。
別段、取り柄も実力もないはずの福田が、K学の五番手相手にラブで一ゲームを取ったのだ。
それだけで十分すぎるくらいの功績だった。
第二ゲームを終え、真希は完全に福田には敵わないと感じ始めていた。
あのカラクリが解けなければ、自分は万が一にも福田には勝てないと思った。
ただ、稀に試合中に襲われるあの解放感さえ訪れれば、自分にもチャンスはあるかもしれない。
自分でもわからない自身の体の特殊な能力。あの感覚さえ来たら・・・・
そう真剣に考えた刹那、真希はプッとふきだした。
自分で自分の未知の力に期待し、依存していると考えたら、妙に虚しくなった。
(私は二重人格かよ)
真希は『自分』の実力で勝とうと思った。
第三ゲーム、真希は得意のフラットサーブを打つ事を止めた。
福田と打ち合って、そこであのカラクリのヒントを見出そうと考えたのだ。
何か大きな特徴を見逃しているのかもしれないし、打ち合う事で、慣れてくるかもしれない。
自分のサーヴィスゲームだからと言って、サーブに頼る事は止める。
真希はトップスピンの出来損ないのサーブを打った。余りにも遅い、超絶好球。
さすがの福田もこんなふざけたサーブは返してきた。余りにも情けないレシーブで。
そこからはバカみたいなストロークの打ち合いになった。
- 442 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時43分26秒
- 小学生レベルと言っても頷けるような、バカみたいなストロークを二人で打ち合う。
先までのゲーム展開からは信じられない展開。練習でもしているのか?
いくら甘い球を打っても仕掛けてこない福田を見限って、何度めかのラリーの後、
真希は強烈なクロスを打った。あっさり決まる。一向に福田の意図が掴めなかった。
それから真希は順調にポイントを重ねていった。
福田は第二ゲームに見せたサーブ以来、一切あのカラクリを使わなくなった。
だから真希も福田の思考を探る事を止めた。
こうなったら、福田が何を考えているかなんてどうでもいい。
ただ、自分の出来る最高のテニスをして、勝ってやる。
そう意気込んで、真希は順調にゲームポイントを重ねていった。
第一セット、5=1となった後の第七ゲーム。
そこから福田のテニスが急変した。
真希は切れのいいフラットサーブを揚々と、打った。
福田はどういう訳か、少し切れのいいサーブを打てば素人みたいなミスを晒す。
回転のいいトップスピンサーブを打てば見事にネットに引っ掛けるし、
切れのいいフラットサーブを打てば、時にはラケットを振ろうとさえしなかった。
福田の魂胆なんてしったこっちゃないが、勝たせてもらえるのなら、勝たせてもらう。
真希は福田を気だるそうに蔑視した後、強烈なフラットサーブをセンターラインぎりぎり
の隅に決めた――しかし。
- 443 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時44分45秒
- 福田は今まで見せなかった力強いバックハンドでそれをリターンした。
それだけじゃなく、福田はリターンした後、即座にダッシュで前進した。
真希はその福田の変容に一瞬、狼狽したが、すぐに気を引き締めた。
ここら辺りで、何か仕掛けてくるとは思っていた。
(いままでのゲームはハンデって訳だ。なめんなよ)
真希は福田のレシーブを軽くバックハンドで返し、福田の動きに注意を払った。
福田は真希の返球をフォアのボレーで返すと、ピッタリとネットに張り付いた。
(ネットプレーの対処は市井ちゃんと死ぬほどやってんだよ)
真希は福田の位置をしっかりと見据えて、クロスを打った。
余程の反射神経と動体視力が備わっていなければ、凡そ触る事も出来ない完璧なクロス。
しかし、福田はピンと腕を伸ばした体制の、フォアのボレーをクロスに打ってきた。
完全に逆をつかれた真希はソレに反応出来なかった。福田の覇気のある一撃が決まる。
ポイントを奪われて、真希は、やっと福田の実力の一端を見ることが出来た。と、思った。
福田は『普通』にやっても、十分に強い。だが、真希は落胆しなかった。
その程度の実力なら、K学には腐るほどいる。ましてや、市井とは比べるまでもない。
(早くあの手品見せろよ)
真希は改めて気を引き締めた。
真希は次のサーヴィスで回転が効いたトップスピンをコート隅に打ち、
福田の体制が崩れた所を見計らって、強烈なストロークを福田のバックサイドに打った。
上手い真希の攻撃に、石黒さえも思わず頷いていた。
- 444 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時45分31秒
- 福田はすぐに体制を整え、両手打ちのバックハンドのストロークでソレを返すと、
腰を落とし、真希の動作を射抜くように見つめてきた。
その強い視線は、まるでこの先に起こる未来を見据えているかのようだった。
真希は腰を据えた福田の重いストロークの返球から、ラリーになると予想して
心持ち、ネットに前進した。根競べで負ける気はしないが、『何か』臭う。
予想通り何度かラリーが続いた後、福田が仕掛けてきた。ドロップショットだ。
勢いを殺した、一流のショット。
真希は完全に虚をつかれたが、心持ちネットに寄っていた甲斐もあり、
持ち前の反射神経でそれを掬うようにして拾った。
が、福田はその先の展開をしっかりと見越していたようで、真希の必死の返球に対し、
誰もいないコートに見せ付けるようなスマッシュを決めた。
真希は、やられたが面白くなってきた、と思った。
まだまだこれからだ、とも思っていた。一方の福田はただ幻滅していた。
真希が0=30とされた後の次に打ったのはフラットサーブ。
これも難しい場所に見事に決めて、福田のレシーブの勢いを完全に殺す事に成功した。
真希はこのゲームで第一セットを終わらせようと思っていた。
ゲームポイントを五=二にされた所で痛くも痒くもないが、
ここまでポイントを連続で重ねて一つ返されるのも何となく心地が悪い。
だから、ラケットをバカみたいに大きく振った。打球に重さと勢いを存分につける為だ。
しかし福田はそんな真希のストロークを事も無げに返してきた。高くバウンドする打球に
合わせる様にボレーを打つ。真希は舌打ちをして、また大ぶりのバックハンドでソレを返した。
- 445 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時46分34秒
- それでも福田は全く動じない。
まるで、その重いストロークを待ってました言わんばかりの表情をしている。
福田は軽いフェイントを混ぜて、技ありのスピンをかけたストロークを打ってきた。
その返球を真希はフォアのボレーで返そうとするが、捉えそこなってしまい、
打球はロブ気味に力無く浮いてしまった。
福田はその打球に対し、無表情で強烈なクロスを打った。真希は動く事も出来ない。
互角のように見えるやりとりだが、福田は真希を完全に圧倒していた。
それに真希は気付いていない。この場でその事に気付いているのは市井だけだった。
真希は心なしか、疲れを感じ始めていた。福田と打ち合うと何故か疲れる。
それなのに、全く報われない。疲れ『損』だ。
真希はリストバンドでしきりに額の汗を拭うと、福田の様子を窺った。
まるで、平然としている。
(掌で踊らされてる気分だ)
と、真希は冗談半分で思ったが、その通りだった。
その後、真希は完璧なスマッシュと切れのいいサーブを決め、ポイントを30=40まで
盛り返すが、福田はそんな事は初めからわかっていたという顔をしている。
悪寒が走った。冷や汗が出てきた。こういう展開を自分はドコカで見ている。
そうだ、福田の一回戦での試合だ。福田は取っては取られてのシーソーゲームを展開していた。
あれは、故意だったのか?だとしても、福田に何のメリットがある?
自問してみても、答えなんか出る訳もなく。
普通に勝とうとしない福田明日香という人間に、真希は絶望さえも覚え始めていた。
- 446 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時47分51秒
- 第七ゲームの終わりは実に呆気なかった。
真希の、回転が十分効いたトップスピンサーブに福田はリターンエースをあっさり決めた。
例の、カラクリだ。ラケットを振りぬいているのに、何故か球が届かない。
目標を失って真っ白になった真希の自我が目覚めたのは、審判の声が高く響いた後だった。
このゲームを失った真希は、もっと大きなモノを失った気がしていた。
ピンと張った糸が切れたように、膨らませた風船を解放するように・・
真希のやる気は完全に途切れ、萎縮してしまった。
福田に遊ばれている。と、気付いたのはこの時だった。
今まで取ったゲーム。そして、決めたポイント。
全ては福田のシナリオに書かれていたんだ。自分はそれを忠実に行っただけ。
「後藤、お前は私とは違うんだ。そこで勝負を捨てたら私の二の舞になる!」
市井の声が歓声を綺麗にスルリと擦り抜けて、ピンポイントで直接真希の耳に届いた。
(市井ちゃん)
市井も、こんな気持ちで福田と試合したんだ。
人を馬鹿にして、弄んで、それが楽しくて、テニスをやってるのか?
真希は福田を睨み付けた。それは怒りからでなく、福田の意図を確かめる為に。
一体何の為に、こんな行為をするのか。それを真希は知りたかった。
福田は、つまんないね。激しく恐ろしくつまんないね。といった顔をしている。
それでも、福田の双眸の奥にある本質は、間違いなく憤りの色だった。
福田は真希に期待していたのだ。あの、矢口真里と同レベルのやりとりを。
ただスリルと勝つ喜びが欲しいのに、それを誰も与えてくれない。
福田は猛烈に怒っていた。真希はこの時はまだ、そこまで感じ取る事は出来なかった。
- 447 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時48分47秒
- 五=二とされてから、福田はギリギリの攻防を仕立て上げてゲームを取り返していった。
真希を圧倒的に抑えつける事を決してしない。
幾度かポイントを故意に取らせて、それから計ったようにゲームを取る。
福田は恐ろしく強かった。それは、人を、ゲームを操れるほどだ。
結局、気付いた頃には第一セット、五=五まで福田に盛り返されていた。
Y学館サイドはバカ騒ぎを起こしている。
K学サイドは言葉を失っていた。
特に、藤本は第七ゲーム以降、下唇を噛んだまま、凝然と真希を睨みつけていた。
第十ゲームが終った後のコートチェンジ。
福田は擦れ違い際、真希にこんな言葉を掛けた。
「激しく恐ろしく全くもってつまんないね。」
「・・・・・」
真希は言い返すことが出来ない。それどころか、目を合わす事も出来なかった。
ベンチに座って、福田はサラリと汗を拭う。息は乱れていない。
真希はその様子をぼんやりベンチに座って見ていた。
福田はこれまで完璧なゲームをしている。体力を調整しながら、上手くゲームを進めている。
僅かな雲間から射す残酷な日射が、
ベンチに座っている真希の情けなさを露にするかのように照り続ける。
間断なく響く歓声が、真希から時間の感覚を奪っていた。
それでも、酷く自分が疲弊している事がわかった。
疲れた。こんな疲れる試合は今までした事がない。
そう言えば、三ヶ月しかまともにテニスやってないじゃないか。
敵う訳がない。そう思ったが、
「でもさ、負けたくないんだよ。」
真希は誰に言う訳でもなく、呟いていた。
- 448 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時50分30秒
- 第十一ゲーム。
(あいつ、隙がないんだよ。弱点が、ない。)
そんな事を考えて、真希はトスを上げた。
真希は試合を続けるにつれ、相手の癖や特徴を掴む、天賦の才があった。
それでも、福田からは一向にそれらが見えてこない。
バランスがいいとか、強いとかじゃない。
出口のない迷路。白でも黒でもない。答えの無い問題だ。福田は。
一々、癪に障る。
真希はいつからか、力任せにラケットを振るようになっていた。
こんな相手からはごり押しでミスを誘うしかない。
そう無意識の内に決め込んでいたのだ。
しかし、元々真希は別段、膂力がある選手ではない。
力任せに打ったサーブは、恐ろしく切れを失った、情け無いモノだった。
福田はとにかく落胆した。真希から醸される自分と酷似した雰囲気。
それに一瞬でも期待した自分を卑下した。
この程度の連中とはやり飽きた。自分が求めているのは、ただの快楽。
勝つか負けるかの瀬戸際に存在する、あの、スリルという名の快楽。
福田は真希のサーブを事も無げに返すと、陰鬱な表情でこのゲームを締めた。
五=六となって、福田が逆転する。真希は泣きたくなった。勝てる訳無いじゃないか。
と、思った直後だった。・・・真希の視界がノイズに包まれた。
目の前のキャンパスに砂嵐が蔓延り、事象を感じる五感の機能を失う。
その砂嵐が、一瞬、何かの形を作った。矢口の、見せた事の無い笑顔だった。
(矢口さん?)
そう心中で呟いた後、また視界がノイズに包まれた。世界から色が無くなった。
―――そして真希は考える事を止めた。
- 449 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時51分59秒
- 第十二ゲーム。
福田はこのセットを取る為に、例のカラクリのサーブを打った。
――――一人時間差。
言葉ではわかり辛いが、バレーボールで言う、クイックのようなモノだ。
それを福田はテニスで実践する。ラケットを振る時、球がガットにインパクトする瞬間。
その瞬間に、福田は一瞬だけ肘の軌道を止める。まさに神業と言っても過言ではない。
インパクトするのが、その所為でずれる。
サーブのスピードというのは、傍から見るよりも実際はかなり速い。
男子のプロならば、時速200キロを越すフラットサーブを打つ選手なんてのもいる。
福田のフラットサーブは決して速くは無いが、勿論ソレを吟味して返す余裕は無い。
しっかりタイミングを計らなければ、上手くリターンは出来ない。
それを、ずらされる。ソレに合わせる事が出来たのはただ一人―――妖精、矢口だけだ。
案の定、タイミングを外した真希のレシーブはネットに吸い込まれた。0=15。
福田は落胆の溜息を吐いた後、もう一度、件のサーブを打った。
真希は――――
真希の様子がどうもおかしい。
その異変に最初に気付いたのは加護だった。
真希は先程まで刻んでいたステップを止めている。
そして、力無く上下していた肩が、ピタリとその動きを止めている。
腰を落とした体制のまま、沈黙している。おかしい。
その背中は、まるでナニカの抜け殻のようにさえ見える。気配が無い。
もう真希はゲームを諦めてしまったんじゃないか?とも加護は思った。
しかし、加護の予感は幸い、外れた。
- 450 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時53分31秒
- 福田がサーブを放った刹那、真希が、微動した。
サッと体を半分後ろに引いて、アッパーハンド気味のレシーブを打った。
その動作は空気に溶け込むように自然で、水の流れのように滑らかだった。
「あっ・・・」
加護が声を漏らした時、真希のレシーブは福田の目の前に届いていた。
カラクリを返した、二人目の選手。福田は驚く訳でもなく、喜悦した。
今の真希の表情は、かつて自分を限界まで快楽に導いたその人物そのものだ。
まさか、こんな所で拝めるとは思っていなかった。今年のシングルスまで、我慢していたのに。
福田は微笑しながら、真希の返球をスピンをかけたストロークで返した。
ゆら。
真希の体が漂うように揺れて、次の瞬間には技ありのドロップショットを打っていた。
完璧に勢いを殺し、バックスピンをかけ、ネット際に落とす。
福田は意表をつかれた。真希は、一分前とは技術も何もかも別人になっている。
結局、福田は返球を諦めた。追うだけ無駄だと判断したのだ。15=15。
「ごっちん、矢口さんと同じテニスしてる・・・いつかと同じや。」
加護は口をぽかんと開けて、我ここにあらずと言った口調で呟いた。
高橋も見惚れたように頷く。
「あれだよね、小川さんとの打ち合いの時だよね。」
「なんやろな。一体、ごっちんって何者なんやろな?」
「うーん。凄い娘。」
「なんつうか、無限大やな。」
- 451 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時54分09秒
- 真希は考える事を忘れていた。
というよりも、四肢に指令を与える方法を忘れていた。
視界には福田とネットと審判とライン。それ以外が写らなかった。
福田が動くと、自分の意思ではないのに自分の体が勝手に反応する。
心が空っぽになっていた。哀しくもないし、嬉しくもないし、苦しくもない。
ただ、写る福田だけを無感情で見るしかなかった。
福田はサーブのスピードを上げた。
スピードをあげて、さらにタイミングをずらす。
自分の限界をぶつけれる相手が欲しかった。価値の無い勝ちは無意味だった。
テニスに求めるモノ、いや、人生に求めるモノ。それを得る為に。
―――真希は返した。最高の打球をいとも簡単に返す。
それに応えるように福田も徐々に躍動し始めた。
福田は今までとは段違いなショットを打つようになった。
難しい場所へのアプローチ、切れのいい回転をかけたストローク、
鋭いボレー等で何度か真希に仕掛けるが、それでも真希は無駄の無い動きで対応する。
福田は『矢口は相手に魔法をかける』という文句を、否定しなかった。
矢口と試合すると、確かに脳を優しく刺激するような甘い恍惚を覚えるからだ。
今だって、同じような感覚が始まっている。心地よい緊張感、脳裡にちらつく絶望感。
真希は・・・矢口そのものだ。
真希と福田のラリーは一分もの間、続けられた。
まず、誰もが福田の技術に驚いていた。
Y学館の他の選手は、自分達と同じ練習をしていた、別段取り柄のなかった福田が、
どうしてこんなテニスをしているのだろう?いつの間にこんなに上手くなったんだろう?
何か、裏切られたような、騙されたような気持ちになっていた。
- 452 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時55分15秒
- K学の選手は福田の実力を見て、改めて己の洞察力の低さを咎めていた。
福田という選手は、自分が認めた相手以外にはその実力を披露しないんだ。
そのラリーの後、真希が徐々に福田を左右に揺さぶって、
最後は目の覚めるようなストレートをセンターラインの上に決めた。30=15。
福田の呼吸が乱れていた。しかし、その口は楽しげに引きあがっている。
真希はまだ自分に何が起こっているのかわからなかった。
何も考えられない。考えようとすると、頭が壊れるような気がする。
矢口もこんな真っ白の世界でテニスをしているんだろうか?
そんな事を考えようとしたら、また視界が縮減された。
福田は自分の出来る、最高のテニスを心掛けた。
一つ一つのプレーに、切れるほどの集中を向ける。
サーブではポイントを奪えなくなった。なら、次はどうすればいい?
福田は三回打つストロークの内、一回は例のカラクリを混ぜた。
それでも真希は事も無げに返してくる。例の妖精の動きで。
どうして同じプレイスタイルの選手がいるんだ?福田は思考を巡らせた。
矢口のテニスは、模倣しようと思って、模倣できるモノじゃない。
天性の才能。そして、必要ない事柄をすべて淘汰して初めて完成できるテニスだ。
どうしてコピーできる?
思案している福田を他所に、真希が人間業とは思えない逆クロスを決めて、
福田を追い詰めた。40=15。
福田はまだ笑っていた。楽しい。こんなやりとりを心待ちにしていたんだ。
その嬉々と表情にはそう書いてあった。福田のこんな楽しげな表情は見たことが無い。
福田は、まだその時は笑う余裕があったのだ。
- 453 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)03時57分51秒
- ――ずれを生むこのカラクリショットを、福田は特別苦労する事無く習得した。
中学一年のクラブ見学。試しに振ってみる?と優しく一つ上の先輩から誘われた。
テニスの経験は無かった。初めて握ったグリップは湿っていて、馴染まなかった。
でも、伝わってきた。頂まで続く道が見えた。これは運命なんだと感じた。
何気なくラケットを振った。すると、打球は綺麗な弧を描いてコートに吸い込まれた。
この時、福田は一旦躊躇してラケットの軌道を止めた。が、腕はそのまま流れた。
ずれた。自分でもはっきりわかる位、打球が到達するのがずれた。
でも、誰もその事に気付いていない。もしかして、当たり前の技術なのだろうか?
と、その時は思った。
本当は経験あるんじゃないの?先輩に茶化された。首を振った。
どこまでも見据える事が出来た。目の前に続く道を。自分は他人とは違う――。
リターンエース。
真希は、福田の魂のサーブにあっさりリターンエースを決めた。
福田の足の位置を見越しての、タイミングをずらした一撃。
特別な技術が無くても、相手の呼吸を乱す事は出来るのだ。
それは、自分の技術に酔っている人間ほど容易い。
しかし、真希はそんな事を一切考えずにラケットを振っていた。
無意識ではないが、無意識に限り無く近い状態でラケットを振った。
だから楽しくないし、面白くない。ポイントを奪っても、それは本当につまらない。
自信のサーブにまさかの一撃を食らわされた福田は、味わっていた快感を奪われた。
ゲームポイント六=六。
- 454 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)04時00分10秒
- 真希の本来の意識はまだ戻らなかった。
限定された世界。限り無く無意識での攻防。そして、感情の駆逐。
この条件の中で真希はゲームを進行していた。
サーブにしたってそうだ。自分が瞠目してしまうようなのをこの体は放つ。
誰かに体を乗っ取られたようだ。本当に自分が打っているのかさえわからない。
時間が経つにつれ、喧噪や歓声が響かなくなった。静寂に近い環境が生まれる。
誰もが息を飲んでいた。この試合、所々で二人の技術が目まぐるしく変化している。
試合中に選手が目に見えて上達するなんて話はよく耳に挟む。
だが、この試合の二人はそうじゃない。変化してるのだ、人そのものが。
風がきつくなってきた。横殴りの突風が、断続的に吹く。この不安定な空の所為だ。
第十三ゲーム。
真希はサーヴィスエースを二回連続で決めた。福田は動けなかった。
あれ?なんで私は圧倒されてるの?そんな表情をしていた。
こんな試合展開を望んでいたんじゃないのか?福田は自分に問い掛けた。
その答えを導く前に、極上の切れを帯びたスライスサーブがコート隅に落ち、外に逃げていった。
福田は必死でそれを拾った。顔を歪めて、それはもう必死の形相で。
必死のテニス。これから先の福田のテニスを形容するらなばその言葉が一番相応しい。
真希は無表情で福田を制した。福田が前進してきたのを見計らってロブを上げた。
コートを右往左往する福田。感情を表に曝け出すその様は、滑稽でさえある。
が、しかし、一つ一つの打球に魂を吹き込んでいる。入魂。
ポイントが40=0となった所で、福田がまた変化した。
両手打ちに変えて、馬鹿丁寧なテニスをし始めた。
- 455 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)04時01分25秒
- 真希が仕掛けても福田は一切仕掛けない。真希のテクニックに翻弄されても福田は
縋るように返球する。しかし・・・真希には及ばない。
無情にも、このゲームを真希はラブで取った。ゲームポイント七=六。
そして、漸く福田は先ほどの自問の答えを導き出した。
答えは・・・
「負けたくない・・・」
それだけだった。緊張感も快感もいらない。死んでも勝ちたい。
『思い』は結果を左右しない。しかし、福田はただ、勝ちたいと思い続けた。
第十四ゲーム。
このゲームはこのセットのターニングポイントだ。福田は意気込んだ。
ここで食らいつけば、まだ可能性はある。根拠はない。でも可能性はある筈だ。
福田のサーブがセンターライン付近の絶妙な位置に決まる。細工無しの一打。
真希は返した。流れるように綺麗なフォームのレシーブ。
福田はただ集中した。何としてでも取る。このゲームを。
真希の風を計算したスライスのストロークが決まる。手を伸ばしても、届かない。
福田の思いは届かない。真希は依然として何も考える事が出来なかった。
信念があっても、感情が無くても、力は覆らない。求められるのは力だけだ。
真希は続けざまにポイントを奪った。40=0。福田はそれでも諦めない。
雲が二つに割れて、西日が差した。時は夕刻になっている。
斜陽によって浮き彫りになった福田の表情は、真希の心を僅かに震わせた。
どこまでも凛としている。先ほどまで釈然としなかった福田の印象は微塵も無い。
- 456 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月14日(金)04時02分33秒
- 真希は虚ろな瞳でその容貌を見つめた。未だに意識と無意識の狭間に真希は、いる。
どうして何も考える事が出来ないんだろう?と、考える事すら出来ない。
生まれた時から選択肢を奪われた人間は、きっとこうなるんだろうな。
と、辛うじて心の中で呟いた。
福田が、トスを上げる前にテニスボールを目前まで持っていき、何か囁いた。
そして瞳を閉じ、表情を殺してトスを上げる。
どういう訳か、心が澄んだ。このサーブが決まるかなんてわからない。
でも一矢、いや、妥協したくない。今まで自分がやってきたテニスは、最低だ!
福田が放ったサーブはサーヴィスラインの隅を綺麗に抉った。
完全なサーブ。もう少しスピードがあれば、手も出せなかっただろう。
だが、真希は平然と返した。ココまで来ると、福田は笑うしかなかった。
この娘は凄い。あれを返されたら、もう通用しない。上には上がいる。
だから、笑いが込み上げてくる。福田は声を上げて笑いながらストロークを打った。
真希はバックハンドのボレーでそれを返した。そしてネットに詰める。
福田は諦めていない。攻略法があるかどうかなんて知ったこっちゃない。
だけども、諦める事だけは絶対にしない。気転を利かしたロブを打つ。
すると真希は、飛んだ。ジャンプして、その球をコートに突き刺した。
ジャンピングスマッシュ。第一セットを、真希が取る。福田は笑った。
―――
- 457 名前:カネダ 投稿日:2003年02月14日(金)04時03分17秒
- 更新しました。改めて、遅れてしまって申し訳無いです。
- 458 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月14日(金)11時01分55秒
- 後藤と試合すると皆テニスの楽しさを再認識できるんだなあ・・・すごいよ天才。
矢口との対戦(がもし実現するなら)楽しみです!
しかし、VS福田戦はめちゃくちゃ緊張感ありますね。誰より天才なのは作者さんだ。
- 459 名前:きいろ 投稿日:2003年02月14日(金)15時50分58秒
- ハラハラドキドキの展開ですな。
この小説は本当に目が離せません!!
深いところまで言ったらネタバレしそうなので言いませんが、いつも楽しませてもらってます。
これからもがむばってください。
- 460 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年02月14日(金)22時39分21秒
- カネダさま、更新お疲れさまです。
緊張感のある試合、天才は天才を知る。二人の天才の対決の結末楽しみです。
天才を倒すのは、馬鹿みたいにテニスを楽しむ、そして、まわりに笑顔を振りまく梨華ちゃんしか有り得ないと思っています。(笑)
では、次の更新も楽しみに待ってます。
- 461 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月15日(土)01時15分18秒
- やっぱりここのごっちんはカッケーっすね。
ワンダホーだ。ミラコーだ。
- 462 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年02月15日(土)08時24分36秒
- いやいやだた呆然
凄い試合だ
続きが楽しみです
- 463 名前:川o・-・)ダメです… 投稿日:川o・-・)ダメです…
- 川o・-・)ダメです…
- 464 名前:カネダ 投稿日:2003年02月26日(水)05時37分07秒
- レス有難うございます。
本当に励みなります。
>>458名無し読者様。
後藤にはなにやら訳のわからない魅力があるみたいですね。(w
矢口との試合・・・それは本編ではしないかも・・・・
福田との試合は自分の限界をだして書いたつもりなので、そう言ってくれると最高です。
>>459きいろ様
目が離せない展開にしておいて、更新が遅れていることを深くお詫びします。
楽しんで頂いているのに、不甲斐無いばかりです。本当に有難う御座います。
>>460ななしのよっすぃ〜様。
そういや馬鹿石川との試合が近づいてますね(w
天才対決の結末、一気に行くつもりなので読んでいただけたら嬉しいです。
>>461名無し読者様
有難う御座います。ここの後藤はミラクルを連発しています(w
続きはワンダホーな展開になるかわからないですが、読んでいただけたら嬉しいです。
>>462むぁまぁ様。
有難う御座います。この試合には気合を入れました。
続き楽しみにしていただいているのに、遅れてしまってすいません。一気に行きます。
それでは続きです。
- 465 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時38分59秒
- 第一セット終了後、真希は審判台横のベンチに誘われるように腰掛けた。
トクントクンと鼓動の音が耳に小気味よく響き、意識がジワリと回復していく。
何かを考える事が出来る。陽が傾いている。疲弊は幾分マシになっている。
「はっ・・あっ。」
真希は声にならない声を出すと、自分のウエアの胸倉をギュッと握った。
そして両掌を目前まで持っていき、しっかりと自分の意思で指が動くかどうかを確かめた。
漸く、戻った。さっきまでの自分は自分じゃない。
「後藤、お前はホントに凄いよ。」
何時の間にか市井が目の前に立っていた。西日を横から受けた顔は端整で綺麗だった。
市井は口端を優しく上げて、誉めてくれている。誰に?
「ダメだよ。私、私じゃないんだ。途中から、わけわかんなくなったんだ。」
真希の言葉を市井は疑わない。
「うん。お前の体、一回詳しく調べてもらったらどうだ?」
はははっと笑いながらそんな事を言われたので、真希も自然と笑顔になった。
市井が笑うのは素晴らしい事だ。心が温まる。
「なんだろう・・・全然面白くないんだ。ポイント取っても何しても。
あんなテニスはもう二度としたくない。」
「何にしても、お前は福田から一セット取ったんだ。終盤は圧倒してたし。凄いよ。」
「・・・ねえ、福田さんがたまに打つ、あの、ずれるショットなんなの?」
神妙な面持ちで、真希は訊ねる。
- 466 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時39分53秒
- 「福田は天才だよ。正直、あれを打たれたら、私じゃどうしようもない。
でも、お前は返したじゃないか。何も不安になる事は無いよ。」
市井の言葉はズシリと真希の心に響いた。どうして市井の言葉はこんなに重いんだろうか。
「いや、『私』じゃ返せないんだ。何て言うか・・もう頭の中ごちゃごちゃなんだけど。」
「ははっ。楽しんでこい。負けたっていい。お前が出来る最高のテニスしてこいよ。」
「・・・うーん。でも、負けたくない。だから勝つよ、
なんとかして。あんたより弱いしね・・・・多分。」
「ははっ多分は余計だ。」
市井と入れ替わりに加護と高橋が激励に来てくれた。その後に飯田と保田。
そして小川が一声かけてくれた後に藤本が来た。藤本はなにやら、怒っていた。
腕を組んで、首を斜め下に傾け、上目使いで睨みながら真希に訊ねる。
「あなた、ふざけてるの?」
「何がだよ?」
「・・・どうしてあんなテニスが出来るのよ?中盤はバカみたいにミス連発するし。」
「お前はあの人の強さ知らないんだよ。見てたらわかるでしょ?」
「確かに、途中からは別人みたいに上手くなってたけど・・・」
「何ていうかな・・勝つよ。自分の力で。」
「はあ?」
審判から声がかかって、真希はベンチから腰を上げる。
どうしても、自分の力であのショットを返したい。どうしても。
ふと、対面にいる福田の様子を窺ってみた。
「あれ?」
- 467 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時42分10秒
- 何やら、福田を纏っていた靄が晴れている。
真希は怪訝に思った。自分が一セットを取った事に関係してるのだろうか?
福田の変貌が、凄かった。判然とした表情していて、何よりも楽しそうだ。
意識があるうちは下らなそうにテニスをする福田の掌で踊らされてたのに。
真希は何やら、悔しかった。どうして悔しいんだろう。理由がわからない。
(絶対に、自力で勝つ)
とにかく、改めてそう思った。
第二セット。第一ゲーム。福田からのサーヴィス。
晴れた福田は、ボールを幾度かコートにバウンドさせてから、揚々とトスを上げた。
一つ一つの動作が機敏で別人のようだ。真希は唇を一文字に結んで構えた。
切れのいい、トップスピンのサーブが来る。
捉え損なって、ネットに引っ掛ける。切れが凄まじい。これが、福田の実力なのだ。
福田は次に、例のカラクリのサーブを打った。真希は捉える事が出来ない。
全力をぶつけられている。強い、なんてもんじゃない。
福田は真希の情けなさを見ても、先のように落胆などはしなかった。
真希の素質、いや、能力は自分とは桁違いなのだろうと思っていた。
火山のように、何時、噴火するのか・・・福田は真希を段々理解し始めている。
潜在能力は未知数で普段、ソレは姿を隠している。本人でさえ、収拾がつかない。
だが、見くびると、噛まれる。終始全力をぶつけなければ、やられる。
張り詰めた意識で、福田は入魂のサーブを打つ。真希はまたしても捉える事が出来なかった。
- 468 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時43分09秒
- 第一セット終盤の真希の姿を目に焼き付けてた観客達にとっては、想像も出来ないような展開。
先ほどまでの矢口を髣髴とさせるテニスをしていた真希はどこにいったんだ。
疑問符を頭に浮べながら、観客達は声を潜め、試合展開に没入する。
福田はカラクリのサーブを打った。ワンテンポ遅れて、球は到達する。
真希は動くことすら出来なかった。ラブで福田が第一ゲームを取る。
この試合で目を引く事柄が一つある。
それは、第一セット中盤を除いてどちからかが一方的な展開でゲームを取っているという事だ。
それをわかっていた石黒は釈然としなかった。お互い、遊んでいるとは思えない。
――天才。
忽然と、石黒の脳裡に中澤の幻影がよぎった。
天才同士が相対した場合には、こんな展開になるのかもしれない。
石黒は根拠もなくそう思った。
天才と謳われる選手は、大抵、何十年に一人しか出現しない。
実際、中澤以来、天才と呼ぶに相応しいのはここ数年では矢口だけだった。
それが、今年になってその可能性を持ってる人間に二人出会った。
真希と福田。福田に関しては、今、目の前の事象でしか判断できないが、
それでも福田が本物だという事は間違いない。
真希に関して言えば、矢口を大きく上回る可能性をもっている。
二人の天才が今、対峙している。果たして結果は・・・
第二ゲーム。真希のサーヴィス。
(楽しんでこいよ)
福田に第一ゲームを取られた後、市井に先ほど言われた事を真希は何度も反芻した。
もしかして、自分はとても大きな事を忘れていたのかもしれない。
- 469 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時45分23秒
- (ごっちんはテニス好きで楽しいんやろ?)
加護にいつか問われた質問に、当時の真希は即答していた。
元々、何のためにココにいるのか?
真希はトスを上げる前に、大きく深呼吸して、肩を何度か揺さぶり、脱力した。
(負けたっていい。楽しむ。)
――真希の時間が訪れたのは、この直後だ。
真希は何度か球をバウンドさせた後、バネを使ってフラットサーブを打った。
久しぶりに、自分でもわかるくらいスカッとガットの中心で捉える事が出来た。
福田はリターンしてきたが、それでもその打球は力の無いもので、
真希は思い切りのいいクロスを誰もいないコートに打ち込んだ。15=0。
「え?」
こんな簡単に、福田から自分はポイントを奪ったのか?真希はそんな顔をしている。
やけに気が楽になった。体が幾分、軽くなった気もする。
福田を窺ってみると、らしくない狼狽の色が見受けられた。
その時真希は漸く手応えを感じ取った。本気の福田からポイントを取ったんだ。
嬉々とした感情を抑えて、先程と同じようなサーブを心掛ける。
真希はフワリと優しいトスを上げ、無心で気楽に腕を振った。が、ラインを超えフォールト。
(ああ、結構いい感じのコース突いてたのに・・・まっいっか)
もう一度同じ動作を繰り返し、今度はコースを甘く狙い、確実にインさせた。
そこから、福田の視線を確認しながらコートを横歩きする。
福田はセンターラインすぐ横にレシーブを返し、次の真希のストロークに対して
ドロップショットを打ってきた。・・・しかし、真希は読んでいた。
福田はドロップショットを打ってくるという確信が、何故か真希にはあった。
- 470 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時46分19秒
- 打球を拾った真希はお返しと言わんばかりに、ネットの前にポツンと落ちるような
力を抜いた軽い球を打った。福田はソレに追いつくことが出来ず、
ボールは福田の目前でコロコロと力無くコートを彷徨っていた。30=0。
試合の流れを掴んだ真希は、絶対的な時間を手に入れていた。
理屈では説明できないような勘ともいえる直観。その数値がこの時の真希は並外れていた。
次も真希はサーブを難しい場所に決め、試合の展開を有利に進める。
一つ先の展開が信号とともに直接脳に伝わってくるような感覚。
福田が何をするのかが、手に取るようにわかる。
(今ならあのカラクリだって・・・)
そう心中で呟いた後、真希は切れのいいバックハンドを打った。
そして福田は仕掛けてきた。フォアのボレーを打つ際に、腕を一瞬止める。
ずれが生じたショット。例のカラクリショット。真希は反応した。返せると思った。
だが、ほんの、0.1テンポ合わせるのが遅れた。ネットに引っ掛ける。30=15。
心なしか、福田はアップアップな様子だった。
もはや、例のカラクリショット以外には武器が無くなったという様な印象さえある。
一方の真希はココに来て、茫洋なテニスをやり始めていた。
高橋や加護の言う、無限大のテニス。この時から真希のソレは見え隠れしていた。
伸び伸びとしたテニスを、精一杯楽しむ。
真希は試合展開を有利に進める。
真希の一つ一つの打球に強い伸びが生じ始めた。
体を大きく使い、無駄な力を省く。
そうするだけで、真希は当初の何倍もの力を発揮していた。
撓りを利かせたバックハンド、軽々としたステップワーク。
- 471 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時47分12秒
- 福田を、徐々に徐々に圧倒し始める。
どうしてこの短期間でこうまで福田を圧倒できるのか?
潜在能力の一端を垣間見せただけで、ここまで真希は通用する。
ゲームカウントは二=三。内容は誰が見ても真希の方が上回っている。しかし。
あの、ずれを生じるカラクリショット。
これだけは攻略できないでいた。福田の命ともいえるショットだ。
ただ、福田は確実にポイントを取りたい時以外、
そのショットを連続する事をしなかった。
腕に、莫大な負担がかかるからだ。
瞬間的に腕の高速の軌道を止めるというのは、ヒトにとって生易しい事柄じゃない。
もともと一回打つだけでも、かなりの負担がかかる。
それでも。それでも福田は打ち続けた。
波に乗った真希を止めるには打つしかないからだ。
ゲームカウント二=四。二=五。福田が生まれて初めて見せた、意地だ。
腕に痺れが生じている。もう、肘を深くは曲げられなくなった。
それでも、打つ。
後、一ゲーム取れば、この試合を巻き返せる。
福田の額には脂汗がびっしりこびり付いていた。
五ゲームを取られた後、真希には例の感覚が忍び寄っていた。
この日はいつもみたく速成ではなく、ジリジリと、段階を一つずつ踏んで、
逐次、降りてくる。真希はある種の覚悟をし始めた。
体が浮いたように軽くなり、不可能を感じなくなる。あの、感覚。
それが、近づいてくる。真希は誘われたように空を見上げた。
- 472 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時48分17秒
- 神など信じていないが、一種の啓示を空に感じたような気がした。
空は、ただ晴れていた。西日はきつくなり、疎らに散らばる薄雲に命を宿していた。
第八ゲーム。真希のサーヴィス。それは計ったように訪れた。
(きた・・・あの、感覚)
だけど真希は認めたくなかった。福田には自力で勝ちたい。
こんな訳のわからない現象に導かれて勝ったとして、何になる?
真希はトスを上げる手を止め、胸倉をギュッと掴んで目を閉じた。
(くるなくるなくるなくるな)
意思を無視して、本能なのか、天恵なのか。
無情にも真希に、あの感覚が舞い降りた。
第八ゲーム。
真希の打ったファーストサーブ。
ふわっと二センチほどジャンプし、前のめりになって、ラケットを振り下ろす。
ソレを味わった事のある藤本、市井さえもその凄まじさに瞠目した。
サーヴィスラインの隅を高速で抉り、抵抗の余地を与えない。
福田が何事かと後ろを見た時には、審判の声が高らかに響いていた。
真希はポイントをアッと言う間に連取して、ラブで第八ゲームを奪う。三=五。
この試合のラブゲームの多さはそれこそ異常だった。
両者とも圧倒的に抑え付ける力があるにも拘わらず、一方的な試合にならない。
ただ、こうなった真希は別問題だ。怒涛の展開が幕をあける。
第九ゲーム、福田のサーヴィス。
福田は真希の変貌は予期していた筈だった。
いつか、噴火するのだろう。いつか、その潜在能力が目覚めるだろうと覚悟していた。
- 473 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時49分06秒
- 筈なのに・・・カラクリのサーブをいとも簡単に返される。
腕を犠牲にして打つ、魂のサーブが、いとも簡単に。
だからといって、福田は打つのを止めなかった。
福田の命とも言える、矜持しているこのショットに、不可能を認めなかった。
あの日、ラケットを始めて握った日、どこまでも続く道が見えたのだ。
それなのに、認めて堪るか。福田は軋む腕を苛めて、更に打ち続けた。
――だが、真希は悉く返した。
真希は躍動する体を抑え切れないのか、時折クルリと回ってみたりもした。
ひょうきんなフォームで目の覚めるようなショットを打ったり、
どこで学んだのかもわからないようなテクニックを見せたりする。
試合をしているというより、遊んでいるといった表現の方が、
この感覚に包まれている真希を説明するには正しい感がある。
新しい遊びを見つけて、それを無心で無邪気に遊ぶ子供。
そこには理由が無い。理由など要らない。ただ、楽しいのだ。
真希はゲームポイントを四=五、五=五、六=五と、瞬く間に逆転した。
それは第一セットで見せた福田の追い込みによく似ている。
もし、今の福田を第一セット時の真希に重ねるなら、ここから
福田の巻き返しが始まる筈だ。
第十二ゲーム。真希のサーヴィス。
あの感覚は、まだ継続していた。
心音がバクバクと小気味よく響き、体は羽が生えたように軽い。
そして、不可能を感じない。何事も、思い通りに行く。根拠の無い自信、確信。
堪えきれなくなった真希は、福田の方を見てニヤリと笑った。嘲りじゃない。
- 474 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時49分55秒
- ただあんまりにも楽しくて、笑いを堪える事が出来ないのだ。
しかし、真希の笑みの意味を、福田はそうは受け取らなかった。
最後通告を突きつけられたと思った。もうあんたはおしまいだよ。バイバイ。
福田はそう受け取っていた。
真希は福田を一瞥した後、ゆっくりとトスを上げ、口元を弛ませながら腕を振る。
撓りを利かせた、風を切るような鋭い振り。
勢いよく振り下ろした反動で真希は前につんのめってしまった。
あわてて体制を整える。
打球は福田の目前で大きくバウンドし、勢いを落とさぬまま福田の顔面に向かった。
福田は辛うじてラケットを出した。だが、それだけだった。
顔の前に差し出したガットに弾かれた打球は、そのままあさっての方向に
ぶっ飛んでいった。15=0。真希の勝利が一歩近づいた。
福田は泣きたくなってきた。
自分の力不足に泣きたくなったのではない。
矢口にしか返されなかったショットを返されたから泣きたくなったのでもない。
真希があんまりにも楽しそうにテニスをしているから泣きたくなったのだ。
真希のサーブがまた決まる。福田は必死にラケットを振ったが、レシーブは
力無くネットに吸い込まれた。30=0。
福田の潤んだ双眸から、一つ、滴が零れた。真希は含み笑いを浮べている。
笑う真希、泣く福田。傍観していた市井はその二人から全く同じ印象を受け取っていた。
二人ともテニスが心から好きなのだ。だから笑うし、泣く事ができる。
(二人の天才か)
- 475 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時50分26秒
- 真希はラケットを下げ、目を瞑り、大きく深呼吸した。
空気がいやに新鮮に感じた。それはこの理解不能な感覚の所為かもしれないし、
そうじゃないかもしれない。やる事なす事全てが心地よかった。
真希は、右手を力無く震わせている福田を改めて見る。
福田は全力で真希に向かった。
なのに真希は自力では福田のカラクリを攻略する事が出来ないでいる。
このまま真希が勝ったとして、意味があるのか。
審判に催促されて、真希はサーブの体制に入った。体が解放されている。
今なら誤差を殆ど生まず、狙った場所にサーブを叩き込む事だって出来る気がした。
センターラインに乗せてやろうか?それともラインの隅を抉ろうか?
真希はゆっくりとトスを上げ、センターラインの上に
直角に落ちるトップスピンサーブを乗せた。ハードコートは打球を良く弾く。
高く弾んだサーブは気付けばもう、福田の顔の位置まで昇っていた。
苦し紛れに福田は横殴りのレシーブを打ち、なんとか、返球する。
真希はその打球を強烈なバックハンドで振り抜いた。
打球は恐ろしいほど回転を帯び、高速ながらもバックライン直前でしっかり減速し、
落下する。福田は必死で食らいついた。なんとかフォアのハイボレーを合わせる。
しかし、福田は驚愕した。顔を上げて、真希の方を見た時だ。
ネットに張り付いている真希がいた。まるで、この返球を予期していたみたいに。
真希は誰もいないコートにクロスを決めた。反応の余地を与えない、
高速のライジングショット。40=0。誰もが真希の勝利を確信した瞬間だった。
- 476 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時51分25秒
- マッチポイントに到達した直後だった。真希に異変が起こった。
圧倒的な虚脱感、絶望感・・・ありとあらゆる覇気が萎縮していく。
何かが、途切れた。
「後藤!」
それに最初に気付いたのは市井だった。懸念した声をかける。
合宿時分、藤本に勝った後、真希は倒れた。あの感覚の反動の所為だ。
福田も何か、様子がおかしいと感じ始めた。
真希は膝から崩れた、正座の体制になって、頭を力無く前に垂らす。
石黒が例外的なタイムを取って、真希の元に駆け寄る。
他の部員達も心配そうにその様子をコート外から窺っていた。
真希は意識を失ってはいなかった。焦点の合わない目をコートに向け、
確かめるように呼吸をしていた。
「後藤!大丈夫か?」
石黒が真希の顔を覗き込むように見つめ、そう叫ぶ。
真希は口を半開きにして、大丈夫です、と力無く答えた。声が震えていた。
―――棄権
その単語が石黒の頭に浮かぶ。この状態で続けたとして、
真希にどんな弊害が起こるかわからない。
元々勝っても負けても、三回戦進出には関係のない試合だ。
続ける意味は無い。そう判断して、石黒は審判台に座ってる審判に声をかけようとした。
「・・・待って、ください。出来ます。出来ますよ。」
真希が縋るように石黒の腕を掴んだ。握力はほとんど無かった。
「先の事を考えろ。こんな試合、やる意味だってないんだ。」
「ダメ、ですよ。福田さんから、返すんだ。」
- 477 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時52分05秒
- 訥々と真希は石黒に訴える。何度も何度も、返すんだ、と訴え続けた。
石黒にはわからなかった。真希は唯一この部で勝ちに固執しない部員だった。
「どうしても勝ちたいのか?」
「はい。勝って、証明、するんですよ。福田さんより市井ちゃんの方が強いって。」
「市井?」
「はい。だから、続けます。それであの打球を返して、勝ちます。」
「・・・・わかったよ。じゃあ勝ってこい。」
石黒は審判に続行の旨を伝え、真希を立ち上がらせてからコートを出て行く。
真希に感化された訳じゃない。市井という言葉が引っ掛かった。
真希は自分の為にテニスをしていない。石黒は大学当時の自分自身を思い出した。
中澤がテニスを出来なくなった。
テニスが楽しくて仕方なかった筈なのに、中澤の事故を知った時から何かが変わったのだ。
勝つ喜びを自分だけで味わったって、哀しいだけだった。
石黒は判然としない記憶を思い出しながら、真希に計り知れない期待を抱いた。
なかなか思い通りにならない体を酷使して、真希はサーブの体制に入った。
体が重い。腕を振るのもままならない。それでも真希はサーブを打った。
しかし、フォールト。ガットに当てただけの打球は、ネットまでにも届かなかった。
(ちくしょー)
下品な言葉を心中で叫び、もう一度サーブを打つ。
が、打球はネットに吸い込まれた。ダブルフォールト。40=15。
観客はざわめきだした。真希が、また別人のように変わっている。
- 478 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時54分05秒
- しかし、K学サイドと福田だけは動揺しなかった。
真希はあくまで全力を尽くしているし、K学の面々は真希の事情をまがりなりにも知っている。
福田は神経を研ぎ澄ませた。どんな打球がきたって、本気で対処するだけだ。
膝に手をついて、真希はまた呼吸を整えた。馬鹿みたいな疲労を感じた。
(市井ちゃん)
ダブルフォールト。ポイントは40=30になった。
真希は限界を感じていた。こんな状態では勝てないだろうな、とも思った。
だけども負けたくない。何よりも、市井の為に負けたくない。
力を振り絞った。最後だ。このサーブで最後。これを入れて、そして、勝つ。
真希は自分に言い聞かせた。これが最後だ。
力無いサーブを何とかインさせる。福田は痺れる腕で最高のリターンをした。
真希はボレーで返し、一歩前進する。福田はフォアのストロークを打った。
何度か単調なラリーを繰り替えし、真希はアプローチショットを打ってネットにつめた。
福田は真希が仕掛けてきたのを見計らって、例のカラクリのボレーを打った。
ワンテンポ遅れて、球は到達する。真希は・・見えた。球の軌道が、流れる軌道の中で、
タイミングがわかった。パズルを完成させたような、知恵の輪を解いたような、一瞬の閃き。
真希は無心でラケットを振る。
しっかりと捉えた打球は福田のバックサイドの難しい場所に落ちた。
しかし、福田は形のいいバックハンドでしっかりと返球した。
最後の力。こういう表現は綺麗過ぎて味気ない。
体全体から捻り出した、残りカスのような力で真希はラケットを振り下ろした。
スマッシュ。決して、いい形とは言えないスマッシュ。
- 479 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時54分39秒
- 福田はそれに対し、必死にボレーを合わせた。
打球はロブのようにふわりと浮かび、真希の頭上を嘲笑うかのように超えていく。
もう真希にはそれを追う力さえ残っていない。ただ、後ろを向いて、見送るだけだ。
ふわりふわりふわり。
ポテンと落ちたところは、バックラインを超えるかの微妙な場所。
静寂が、コート全体を包んだ。
「アウト!!」
静寂を切り裂いてそう審判された瞬間、真希はペタリと仰向けに倒れた。
ゲームセット。セットポイント2=0で真希の勝利。
歓声が轟いた。誰もが真希に惹かれていた。訳のわからない魅力が真希にはある。
勿論、そんな事を本人はしったこっちゃない。
K学のメンバー皆が仰向けの真希の周りに円を書くように集まってきた。
よくやったよとか、最高だよとか、ゴマキは訳わからんわとか。
その中でも少し気障ったらしく聞こえたこの言葉だけは、真希は一生忘れない。
「お前に出会えてよかったよ。」
市井だった。真希は何度か言われた事があった気がしたが、この時のソレは格別だった。
真希は目を瞑って、その言葉の余韻に浸った。口元は自然と笑っていた。
―――
- 480 名前:九話、サヨナラのはじまり、二人の天才 投稿日:2003年02月26日(水)05時55分43秒
- 試合後暫くしてから、真希は福田と握手をした。
「ありがとうね。今日から私は変わろうと思う。」
「変わる?ですか?」
「うん。あなたみたいな人に勝ってみたいと思ったからね。
こんな楽しいテニスは久しぶりだよ。また、いつか試合したいね。」
「はい。私も本当に楽しかったです。相手が福田さんじゃなかったら、
こうは思わなかったかもしれません。」
「ふふ。ありがとう。テニスは楽しいね。あなたみたいな人がいると思うと、
これから先はもっと楽しみだよ。」
福田は真希と再戦を誓ってからコートを後にした。福田はまだまだ強くなるだろう。
真希は空を見上げる。空は相変わらず晴れていた。
色んな感情が交錯して、真希は今何をしたいかが微妙にわからない。
部員達は例外なく笑顔を真希に向けていた。あの藤本さえも、楽しめたわよ、
なんて余裕ぶった事を言って真希に微笑を向けている。
真希は思った。みんなの笑顔を見る為に自分はテニスをしているのかもしれない、と。
明日の事なんて、誰にもわからない。
市井がテニスと決別する日が近づいているのかもしれない。
みんなといつか別れる日が来るかもしれない。誰かと喧嘩をするかもしれない。
雨が降るかもしれない。悲しくて泣いているのかもしれない。
それでも、真希は明日に希望を抱く。
明日もこんな風に笑ってもらう為に。
――――――――――――――――
- 481 名前:カネダ 投稿日:2003年02月26日(水)05時58分47秒
- 更新しました。
このスレで完結するなんてことをほざいていた自分を許してください。
次のスレできっと完結してみせます。もう、絶対という単語は使いません・・・
余談ですが、次で最終話です。
新スレはストックがある程度溜まってから立てようと考えているので、
少し遅れるかもしれません。予め、すいません。
- 482 名前:むぁまぁ 投稿日:2003年02月26日(水)08時01分48秒
- 素晴らしい!
その一言に尽きるね、うん
いよいよ最終話ですか
長く読みたいんでなるべくゆっくりとお願いしますです
- 483 名前:きいろ 投稿日:2003年02月26日(水)21時15分43秒
- 更新お疲れ様でした。
全力を尽くして意味のある勝利を得た後藤は、
これからもどんどん成長してゆくでしょう。
人の成長してゆく姿は、読んでいてとても面白いです。
さて、もう一人の天才の方の成長も見てみたいものですね。
いつも楽しく読ませていただいています。
これからも頑張ってください!!
- 484 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年02月26日(水)23時50分59秒
- カネダさま、更新お疲れさまです。
毎日、のぞいてましたYO。
次回は新スレですね!楽しみに待ってます!!
- 485 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月27日(木)10時12分07秒
- やっぱり後藤編おもしろいっす。時々顔を見せる藤本がとても気になってしょうがない(w
1つの試合を通して随分成長した石川と後藤の再対面、楽しみです。
- 486 名前:名無しさん 投稿日:2003年03月02日(日)00時26分08秒
- 遅ればせながら9話脱稿お疲れ様です。
後藤vs福田戦、今での話の中で1番良かったです。とても楽しませてもらいました。
何だかんだ言って結束力の強いK学(飯田・保田・藤本・加護・高橋・市井)全員
が好きです。作者さんありがとう。
- 487 名前:カミヤ 投稿日:2003年03月07日(金)19時29分24秒
- 何度も読み返しては、涙ぐんでしまいます。一生の宝物になりそうな小説です。
自分も、T女のような部活動の顧問をしていたので、あの頃がよみがえります。
作者さん、ありがとう。これからも、書き続けてくれることを祈っています。
- 488 名前:チップ 投稿日:2003年03月14日(金)19時10分37秒
- 私はなんて馬鹿だったんだろう・・・
テニスよくわかんないし長いの読む時間ないなぁと今まで読まなかったコトを
呪いたいぐらい面白いです!ドップリはまってしまいました。
昔体罰アリの厳しい部活で次第にスポーツそのものを楽しむコトが出来なくなった自分は
もしあの頃にこの話を読んでたら何か変わってたのかもなぁなんて思いました。
しかも調子に乗ってテニスしたいなぁとまで・・・
石川編も後藤編も面白くって純粋にテニスを好いてる様子に感動で爆笑で号泣です。
うまくいえませんけど鳥肌立ちました、これからも頑張って下さい。
- 489 名前:川o・-・)ダメです… 投稿日:川o・-・)ダメです…
- 川o・-・)ダメです…
- 490 名前:カネダ 投稿日:2003年03月24日(月)04時27分13秒
- レス有難う御座います。
本当に励みなる限りです。
そして遅れてしまってすいません・・・
>>482むぁまぁ様
有難う御座います。
対福田戦には少し、力みすぎた感もあるんですが、そう言ってもらえて
嬉しいです。ゆっくりという言葉に甘えすぎましたね・・・もう一ヶ月も
経ってしまいました・・・申し訳ない限りです。
>>483きいろ様
意味のある勝利、確かにその通りですね。
後藤はこの一戦を通じて確実に一つ、大きくなりました。
もう一方の主役の馬鹿も成長していればいいのですが・・・
かなり遅れてしまって申し訳ない限りです。
>>484ななしのよっすぃ〜様
ま、毎日・・・
す、すいません。最近は遅れがちになってしまっています・・・
言い訳はしません。ただ、有難う御座います。本当に・・・
必ず完結して見せますので、最後まで読んでくれたらありがたいです。
>>485名無し読者様。
有難う御座います。
いよいよ二人は対峙するのですが、長かったですね・・・それはもうアホみたいに。
藤本には最後まで頑張ってもらうつもりですので、また見てくれたら嬉しいです(w
- 491 名前:カネダ 投稿日:2003年03月24日(月)04時48分25秒
- >>486名無し読者様
後藤、福田戦はちょっと力入れすぎましたね。そう言ってくれて本当に嬉しいです。
リアルで交わらない二人をどのように絡ませるかは頭を捻りました・・・
K学の連中は自分も気に入っています。本当は両校戦わせたくなかったり・・・
>>487カミヤ様
おお、顧問をやってらしたんですか。
宝物なんてとんでもない・・・
馬鹿な頭使って、必死で書いてるだけなんですが、本当に感謝です。
必ず完結しますので、これからもよければ是非読んで下さい。
>>488チップ様
なんとうか、こんな長いのを読んでくれて有難う御座います。
そうですよね・・・環境によって部活動ってのは
良いようにも悪いようにも人の価値観さえ変えますよね・・・
この話読んでテニスに興味もってもらえて、本当に嬉しい限りです。
- 492 名前:カネダ 投稿日:2003年03月24日(月)05時27分19秒
- 新スレ立てました。
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sky/1048449780/です。
次で最終話なので、これからも読んでくれれば嬉しいです。
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