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市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(3)

1 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時51分05秒
花板、月板と渡って金板に辿り着きました。ここが最後になると思います。
よろしければお付き合いください。

前々スレ(花板倉庫):
市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!
http://mseek.obi.ne.jp/kako/flower/998923252.html

前スレ(月板):
市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(2)
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/moon/1022582658/

前スレから読むのは面倒だけどこのスレからなら読んでやってもいいぞ、
という奇特な読者のためのネタバレあらすじ>>2-5

前スレからの読者でさえほとんど忘れかけているであろう主要な登場人物一覧>>6
2 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時53分31秒
<前回までのあらすじ>

2年前、モーニング娘。を脱退したものの留学にも失敗し、失意の底にいた市井。
その市井の前に現れた謎の男。
男に連れられるまま、韓国に渡った市井は再起を期し、その地でのデビューに賭ける。

だが、香港へのプロモートの途上、市井は謎の集団に拉致される。

目が覚めた市井の前に現れた男は、市井を韓国に連れ出した張本人だった。
動揺する市井。だが、さらに市井を驚かせたのは自分を拉致した集団の正体だった。
北朝鮮に拉致されたことを知り、激しい恐怖に襲われる市井。

だが、北朝鮮で初めて上演されるミュージカルのヒロインとして選抜されたことを聞き、
気を取り直して、再起を図る。
平壌での住まいには意外な先客がいた。
その名は後藤真希。
既にモーニング娘。を脱退していた後藤は、市井を助けるべく、
単身、北朝鮮に渡航していたのだった。
3 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時54分35秒
平壌で束の間の平和を楽しむ二人。だが、それも長くは続かなかった。
金正日(きむじょんいる)の官邸でのパーティに呼ばれる二人。
そこで市井は朝鮮労働党の実力者、延享黙(よんひょんもく)に襲われる。
市井を手篭めにしようと延享黙は恐るべき事実を告げる。
逆上した市井は延享黙に怪我を負わせ、その結果、強制収容所送りとなってしまう。

一方、日本では市井の失踪を不信に思う保田が行方を探していた。
鍵を握ると思われる弟のユウキと仲間のソニンはなにやら不穏な動きを...
実はソニンは北朝鮮からの亡命者を支援するグループに所属していたのだ。
もともと北朝鮮系の在日であるユウキはソニンに協力していた。

北朝鮮からの情報により、市井が収容所行きになったことを知るソニンとユウキ。
ユウキは市井を救出するため、単身、新潟港から北に渡航した。
そして、市井のいる収容所まで徒歩で進む途上、ユウキは疲労から倒れ、
北朝鮮に帰化した日本人に助けられたのだった。
4 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時55分01秒
無事に回復したユウキは再び収容所への道を進む。
だが、政情不安が急速に現実化しつつある中、主要な街道は封鎖され、
収容所のある价川(けちょん)を前に検問所の通過ができず、足止めを食らうユウキ。

途上知り合った孤児の少女を伴い、朝鮮人を装ってなんとか検問所を抜けたのも束の間、
反乱軍と誤認され背後から襲われる。少女を撃たれ逆上したユウキは銃を手に検問所へと
突っ込むが、背後を取られ万事窮す。死を覚悟した瞬間、しかし撃たれたのは敵の兵士だった。

韓国からやってきた亡命者支援グループの協力者、李梨華に助けられたユウキは
ようやく价川に到達する。しかし、价川は既に廃墟と化しており、突如、
反乱軍の攻撃を受ける二人。反乱軍の捕虜となった二人だが、
やがて李梨華は元北朝鮮人民軍の特殊部隊将校だったことが判明する。
5 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時55分36秒
折しも北朝鮮と国境を接する二つの国ではアジアで始めてのW杯を迎えていた。
矢口は番組の企画で取材のため渡韓することに。W杯の取材を終えた矢口は
いきなり飛び込んだ北朝鮮の景勝地、金剛山観光の番組収録のため、そのまま越境。
そこでサーカス団員に転進していた後藤と束の間の再会を果たす。

日本では続いて保田がモーニング娘。を脱退。北朝鮮亡命者支援活動に本腰を入れて始めた。

強制収容所に送られた市井は、過酷な労働を強いられるが、
日帝支配に立ち上がった伝説の少女、柳寛朱(ゆ・くぁんす)に風貌が似ているとの噂が立ち、
収容者達の間で次第に信望を集めていく。

既に外界では政府軍と反乱軍が壮絶な内乱を繰り広げており、
その余波が収容所内部にも及ぼうとしていた。
市井を首班として、収容者達の解放を目論む反乱軍は内部に工作員を送り、
市井らの決起を支援する。武装した市井たちは所長を血祭りにあげ、
監視兵達と壮絶な銃撃戦を繰り広げた後、正門を突破した反乱軍の侵攻により、
遂に解放を勝ち取ったのだった。
6 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時57分45秒
<主要な登場人物>

市井紗耶香…元モーニング娘。北朝鮮で強制収容所を解放
後藤真希…元モーニング娘。元在日北朝鮮人、北朝鮮最高指導者金正日の庇護を受けるが
 現在はサーカス団員に
保田圭…元モーニング娘。サブリーダー、市井を案じ、脱退。北朝鮮亡命者支援団体に加入、
 市井救出活動を続ける
矢口真里…元モーニング娘。W杯取材で韓国渡航時後、後藤と再会。保田の活動に協力
ソニン…EE JUMPリーダー、北朝鮮亡命者支援組織幹部
ユウキ…後藤真希の弟、ソニンに協力し北朝鮮に渡航。反乱軍に合流
金正日…北朝鮮最高指導者、朝鮮労働党総書記、国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官
金永南…北朝鮮最高人民会議常任委員会委員長、朝鮮労働党政治局員
延享黙…国防委員、朝鮮労働党政治局員
謎の男…市井を韓国に連れ出した張本人、実は北朝鮮の工作員
李梨華(い・いーふぁ)…市井の韓国デビュー時にバックダンサーとなる予定だった。
 実は元北朝鮮特殊部隊将校。現在は反乱軍に属し、市井の収容所解放作戦の指揮を取る。
7 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時58分08秒
私は目の前にいる人物がその人だとは未だに信じられずにいた。どういうことだ。なぜ軍服など
着ている。しかも北朝鮮人民軍の。驚いた。だが、目の前で自分達収容者を労う中隊の隊長はま
さしく李梨華()その人だった。懐かしさよりも戸惑いの方が大きくて、旧交を温めるという雰囲気で
はなかった。

「イーファオンニ…だよね」
「こらっ、李中隊殿に対して失礼だろう!」
「いや、いいんだ。この人は私の知り合いだ」

やはり…内心、あるいは否定してくれる可能性に少しだけ期待していたものの、現実は厳しかっ
た。無表情のまま右手を差しだすイーファに対して、私はどうしていいかわからず、しばらく逡巡し
ていた。だが、右手を下ろさないイーファに対して反応せざるをえず、要領を得ぬまま右手を持ち
上げていた。
8 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時58分33秒
「サヤカ…よく頑張ったね」
「…」

私はなんと答えていいかわからず、曖昧に微笑んだままその手を握り返し、ようやく話すべき言
葉を見つけた。

「どういうこと?」
「…」

今度はイーファが沈黙した。だが、これだけは曖昧なまま放っておくわけにはいかない事柄だっ
た。どう考えてもイーファは北朝鮮の工作員であるとしか思えなかったからだ。そして、自分の拉
致に関わっていたであろう事も。今更、それを責める気にはなれなかった。かといって、うやむや
に済ますつもりもない。私はただ、事実が知りたいだけだ。

「説明して…」
「サヤカ…」

イーファは少し、安堵したように表情を緩ませ、私の右手を両手で包んだ。
9 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時58分53秒
「自由革命軍第一軽歩兵旅団第三連隊第二中隊長李梨華中尉です」
「イーファ中尉…キージェ中尉みたいね」

私のジャパニーズ・ジョークは革命の志士にも受けたようだった。片頬をつりあげてニヤッと笑うイ
ーファの表情は依然と変わらなかった。

「サヤカがプロコフィエフを知っているとは思わなかったわ」
「掴みどころの無さではいい勝負ね」

心底、意外だと言わんばかりに両手を開いて肩をすくめるイーファのおおげさなジェスチャーにむ
っとしつつも、その皮肉な取り合わせはまさに、今の状況を的確に表していると思った。そう、キ
ージェ中尉とは架空の人物だ。いないはずの中尉をめぐって周囲がドタバタ騒ぐ喜劇の産物。い
ないはずのダンサー、イ・イーファを信頼し、ともに韓国でのデビューを夢見たと信じた架空の仲
間…
10 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)18時59分24秒
「怒るのも無理はないわ…ただ、現実を受けとめてほしいの」
「どういう現実?あんたたちに拉致されて、収容所にぶちこまれ、危うく死にかけたこと?」
「市井さん!」

ユウキだった。いることを忘れていた。大体、こいつも何でこんな連中とつるんでいる?私の頭は
ふたたび疑問符で埋め尽くされたが、まともな回答は得られそうになかった。

「イーファさんは拉致に関わってないんだよ」
「なんでユウキくんがそんなこと知ってんの?」
「ユウキくん、いいの…直接手を貸したわけではないけど、サヤカにとっては同じことだもの」
「…」

ユウキまでがイーファをかばうのが気に入らない。私はすっかりへそを曲げてだんまりを決め込
んだ。後ろに立ち並ぶ収容者達…いや、元収容者達は固唾を呑んでその成り行きを見守ってい
る。不思議に見えるだろう。人民軍、いや反乱軍の将校と知り合いだというだけでも驚きなのに、
なにやら剣呑な雰囲気でやり合っているのだから。
11 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時00分21秒
「ごめんなさい、サヤカ。ただ今はそのことをゆっくり説明している暇はないの」
「…」
「戦局は膠着しているわ。補給も底を尽きつつある。前線の兵士は士気が下がりつつある」
「何の話をしているの?」

私には理解できなかった。そんなことはどうでもいい。私は無事に日本に帰れればよいのだ。

「ユウキくん、あなたから説明してもらった方がよくわかるかしら?」
「市井さん…簡単にいうと僕たちは今、とても帰国できるような状態にないんだ」
「…」

私は黙って聞く姿勢をとった。ユウキの頭がおかしくなったのでなければ、これは重要な話に違い
ない。

「この国は今、内乱の状態にある。僕たちは成り行き上、政府に対抗する自由革命軍に属してい
るんだ。革命軍は北部の大半を勢力下に置いているけれど、平壌は依然として金正日がコントロ
ールしている。その意味がわかるかい?」
「あんた、誰に向かって口聞いてるのよ?また姉ちゃんにヘッドロックかまされ…」
12 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時00分53秒
その言葉を口にして思い出した。後藤はどうしている?平壌で暮らしているということは、私たち
の敵になるということじゃないか。だが、今は自分の身の振り方が先決だった。どうやらまともに
帰れそうな雰囲気はない。

「姉さんのことも後でゆっくり聞きたいけど、今は自分たちのことを心配しようよ」
「知ったような口を聞くわね。まったく誰に似たんだか」
「とにかく、高麗航空のファーストシートでゆっくりご帰還ってわけにいかないことはわかってくれた
よね」

ふん。こっちは北京からその素晴らしい航空会社のしかも専用機でフライトしたのを知らないらし
い。ま、乗り心地が最悪だったことまでは言うつもりもないが。

「それで?」
「中国の国境は中国側が人民軍を配備していて今や越境できるような状態じゃない」
「海は?」
「人民軍海軍が艦隊配備して密航船は片っ端に排除してるよ」


ふぅ…まともなルートで帰国できないのはわかった。だが、それで私にどうしろと?
13 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時01分15秒
「まさか、金正日政権を打倒するまでは帰れないとかいうんじゃないでしょうね」
「さすが察しがいい、姉さんの教育係りだけはあるね」
「そんなにヘッドロックかまされたいわけ?」
「市井さんのならね」
「嫌らしい!」

姉譲りのニヤけた表情が憎らしかった。当の本人は悪びれた風もなく、あいかわらずニヤニヤし
ている。周りは突然始まった日本語の応酬に何があったのかとハラハラして見ているようだった。
イーファも不思議そうに私たち二人の顔を交互に見比べている。

「で、サヤカは状況を理解してくれたのかしら?」
「ふん、あんたたちが金正日の豚野郎をおっ払ってくれるまでは帰れないってことだけはね」

収容所の仲間達は将軍様になんてことを言うんだ、と青くなっているがかまうものか。あのでっぷ
りと膨らんだビール腹に2、3回蹴りを入れたくらいでは収まらない。だいたいが、すべての元凶は
あの男なのだ。何の遠慮をすることがある。
14 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時01分35秒
「ふふっ、サヤカが相変わらず元気なのを見て安心したわ」
「ふん、それだけがとりえだからね」

イーファが動じる気配はない。

「それじゃ、もうひとつ。『あんたたち』じゃなくて『私たち』があのおまんこ野郎をぶっ殺すまでは帰
れない、こう訂正してもらおうかしら」
「なに…?」

その物言いに今度は部下の兵士達まで動揺したらしかった。頭では敵だと理解していても、長年、
崇拝させられてきたのだ。そう、すぐに体までその感覚を捨て去るわけにはいかないだろう。私は、
といえばイーファのとうかいなレトリックに翻弄され、まともな反応をかえせずにいた。その隙をつ
いて決定的な一撃を繰り出すイーファ中尉。

「市井紗耶香少尉、本日をもってエコー小隊長を任じます」
「な、なに?!」
「これ以降、少尉は私、李中隊長の指揮下に入ります。敬礼!」
「ハッ!」
15 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時01分54秒
恥ずかしいことに体が反応していた。掲げた右手をそそくさと下げる気まずさから意識を逸らすた
めに、私はユウキの方をキッとにらみつけた。思った通りニヤついている。後でゆっくりとヘッドロ
ックの餌食にしてやる。覚えてろ。

「心配しないで。副官に経験豊かな鄭少尉をつけるから。彼が全面的にバックアップしてくれる
わ」
「お、おい!何言ってんだよ、素人に戦争のまねができるわけないだろ?」
「あなた達は見事に収容所の連中を粉砕したじゃない。それを指揮したのはサヤカ、あなたでし
ょ?」
「それとこれとは…」
「収容所から解放されたあなた方には市井小隊長の配下に入ってもらいます。いいですね?」

有無を言わさぬ厳しい口調でイーファが命ずると、仲間たちは目を見合わせてうなずいた。私より
も状況に順応するのが早い。過酷な状況に慣れたせいか、あるいは金正日への敵意がそうさせ
るのか。私のとまどいをよそに、事態は急速に動き出そうとしていた。
16 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時02分52秒
「中隊長殿、お呼びですか?」
「鄭少尉、ごくろう。こちらが市井小隊長です」
「はっ。小隊長殿、鄭少尉であります!」

その声に降り向くとその顔は…

「市井小隊長、大丈夫ですか?副官があまりの色男なので恥じらっているようですね」
「あ、あんたたち…」

今度こそ二の句が告げなかった。あんぐりと開いた私の口はさぞ間抜けに映っていることだろう。
放心したまま私は次第に現実と虚構の境を見失っていった。まるで体から魂だけが分離してこの
場を覗いているような不確かな現実感を前に、私の思考力は完全に停止していた。その男…鄭
少尉とは…
17 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時03分09秒
「お久しぶりです、小隊長殿」

敬礼した右手の嘘臭さがすべてを物語っていた。この男こそ、私を韓国へ連れ出し、そして北朝
鮮へと拉致連行した張本人だ。鄭という
名前さえ本当かどうか疑わしい。こんな男と一緒に軍隊で行動をともにしなければならないのか
と思うと悔しさから目に涙がにじんだ。

「サヤカ、現実を見据えなさい。鄭少尉は頼りになる人よ。今度は見方なの。いい?」
「…」
「市井小隊長殿、時間がありません。小隊の隊員を紹介します。そして収容所の解放者の陸上訓
練も行わなければなりません」

私は呆然としたまま、ただうなずいていたように思う。韓軍曹、趙伍長、李通信担当兵、南上等兵
…ぼうっとして紹介される兵士達の顔を眺めるとどこかでみたような…
18 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時03分57秒
「でっ、大同江一号!」
「覚えていただき、光栄であります!」

くっくく…は、ははは…
私は大声で笑い出していた。とうとう狂い出したか。周りの皆がそう思ったに違いない。もちろん
そんなことではない。取り巻くすべてがまるでシナリオを描いたようにうまく回っている、と感じた
からだ。そして、そのシナリオで喜劇を演じる哀れな役者。いいだろう。所詮、人生などは一幕の
人間喜劇にしか過ぎないのだとすれば、私はそこでせいぜい観客を笑わせてやればよい。どうせ
一度死にかけた身。それが多少、早まるか遅くなるかの違いならば、もうひとあがきして、せいぜ
い死神のお迎えを遅らせてやる。
19 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時04分17秒
「鄭少尉、紹介ご苦労。ただ私は将校として何の訓練も経ていない。それに武器の扱いも知りま
せん。ご教授願えますか?」
「はっ…よ、喜んで」

いきなり真顔に戻ったため、本当に正気かどうか戸惑っているらしかった。無理もない。それにし
ても、考えてみれば、散々、自分を痛めつけてきたこいつの上官として、頭ごなしに叱れるわけだ。
それだけは考えただけでも胸のすくような快感を与えてくれそうだった。

「さ、それじゃ李中隊長を囲む会はこれにて解散!鄭少尉からブリーフィングを受けた後、収容所
解放者の配置。その後、再度担当の確認を行う。市井小隊はそれまで全員待機!」
「市井少尉、収容所解放者のための着替えを用意してあります。もちろんサヤカのもね。先に着
替えたらどうかしら」
「よし、では男子隊員は一旦、部屋の外に出ること。ほらっ、ユウキ!お前もだ」
20 名前:名無し娘。 投稿日:2002年10月24日(木)19時04分36秒
まったく、あつかましいことこのうえない。ユウキは早くも男性隊員の人気を獲得した収容所解放
者のうちのひとりに一蔑をくれると、名残り惜しそうに部屋を後にした。着替えを終えるとかつての
収容者で強制労働を課せられていた者達とは思えないほどの見栄えだった。馬子にも衣装とは
よく言ったもので、女性とはいえ、格好だけでも立派に戦闘員として戦いに参加できそうだった。

「アジュモニ、よく似合ってるよ」
「あんた、それより驚いたね。少尉様だって」
「アジュモニ、よしな。軍隊では上官への服従は絶対さ。市井少尉殿って呼ばなきゃ」

私はアジュモニの言葉にあらためて自分の待遇に関する不思議さについて考えた。普通ならあり
えない。イーファの説明もなんだか強引だった。何かある。きっと、何かがあるんだ。だが、その前
に与えられた役割をこなさなければならない。戦い続けなければ私が再び日本の地を踏むことは
ないのだ。気がかりなのは後藤の安否だが…それは今考えてもしかたのないことだ。私は戦場で
後藤と出くわすようなことにだけはならないように祈りつつ、ドアを開けて、着替えの終わったこと
を告げた。
21 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時13分14秒
小泉首相の北朝鮮訪問とそれにより明らかになった拉致被害者の現況は日本国民に多大な
る衝撃を与えるとともに、彼の国に対する関心を急速に集めていた。もちろん、保田たちの活動
に対する見方も180度変化した。だが、そんな表向きの変化とは関係無く、事態はさらに深刻かつ
急を要する状況へと変わりつつあった。

矢口は保田、ソニンと膝を交えて、今後の対策を詰めていた。好むと好まざるとに関わらず、矢
口自身、既にこの問題から目を逸らせないことを自覚していた。北朝鮮との国交正常化交渉再開
にあたり、拉致疑惑の解明が不可欠との世論の盛り上がりもこの問題を取り上げるためには追
い風となっている。だが、ことはそう簡単に進みそうになかった。

「まさか内戦状態に陥っているとは誰も思わないでしょ?」
「アジア大会に参加してんだよ?いけしゃあしゃあと。誰が信じる?」
「…」
22 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時13分34秒
ソニンはふぅっ、と大きく息を吐いて、既に冷めかかったコーヒーのカップに口をつけた。気を取り
直して、再び根気よく二人の説得にかかる。

「内戦といっても平壌を含む韓国寄りの地域はすべて現政府の勢力下だし、マスコミも掌握して
いる。外国にとっては何もないのと一緒だから…」
「そんな状態で、反対制側への支援を呼びかけたってバカ呼ばわりされちゃうよ」
「何か証拠はないの?」

さすがに保田は落ち着いていた。矢口と違って叩かれることには慣れているせいもあるし、そ
の発言をコントロールしようとする様々なしがらみから身を置いていることもある。立場の違いか
ら、自ずと考え方は離れてくるはずだった。

「ひとつだけある」
「なに?」
23 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時13分58秒
身を乗り出して聞こうとする二人に対し、ソニンの表情は冴えない。

「けどなぁ…」
「何よ?」
「言いなさいよ!」

ソニンはあまり気乗りしない様子で口を開いた。

「アメリカの軍事衛星なら、当然、内乱の様子は捕えてると思うんだけどねぇ…」
「軍事衛星!」
「そう…でも無理だよ」
「何でよ!」

矢口と保田が張り切れば張り切るほど、ソニンの方は冷めていくようだった。

「アメリカがそんな第一級の軍事機密をそう簡単に公表するとは思えないし…」
「…」
「それに今はイラク叩きと米国内の経済政策で手いっぱいでしょ」
「北朝鮮なんか眼中にないってことか…」

ソニンは力なくうなずいた。矢口と保田は顔を見合わせている。

「ソニンの考えはどうなの?この戦いは長引きそう?」
「難しいわ…」
24 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時14分24秒
保田の問いに対し、ソニンは表情を曇らせた。簡単に応えられる問題ではない。だが、昨日久
しぶりに入ったユウキからの報告では、戦況は一進一退。早くも平安道を境に戦線は膠着状態
に陥っていた。

「武器の補給や国際的な支援を考えると金正日が有利…ただ…」
「ただ、何よ?」

せっかちな矢口である。

「反乱軍側を名将と呼ばれた呉克烈が率いているのは大きい」
「名将なの?」
「うん、朝鮮戦争では活躍したはず…」
「でも肝心の武器や食料の確保がねぇ…」

堂々巡りだった。方針がまとまる気配はない。

「せっかく紗耶香が無事に保護されたっていうのに…」
「反乱軍の兵隊にされちゃうなんて一体どうなってんだよ…」

市井の保護を聞いて歓喜の声を上げたのも束の間、引き続き、反乱軍の兵士として朝鮮人民
のために戦うのだと聞いたときには、ひっくり返りそうになった二人である。だが、状況は二人が
考えていたほど簡単ではなかったようだ。
25 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時14分51秒
「市井さんには利用価値があるから…」
「反乱軍に頭のいいやつがいるな」
「ええ…拉致問題は、今、日本で最もホットな話題ですからね。日本の元トップアイドルが拉致さ
れていた、ってことになれば…」
「反北朝鮮感情は止められなくなるね」
「そして彼女が反乱軍とともに戦っている、ということになれば」
「金正日政権への対外的な圧力は強まらざるを得ない…」

だが、それも平壌を制圧してからの話だ。現実問題として、対外的には平壌からすべての情報
は発信されており、反乱軍側は情報戦において、著しく不利な状況にあった。

「制空権も政府側が握っているし、反乱軍側の士気が落ちるのも時間の問題…」
「このままだと負けるってこと?」
26 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時15分11秒
静かにうなずくソニンに矢口と保田は大きな息を吐いて落胆した。

「なんとかアメリカを引きずり出す方法はないかねぇ…」

矢口のつぶやきにソニンが反応した。しばらくうつむいて考え込んでいたがやがて顔を上げ、
意を決したように保田に告げる。

「圭ちゃん」
「ん…?」
「覚悟はいい?」

保田は片頬を上げてニヤリと笑った。

「やぐっちゃんも?」
「もちろんOK!」

ソニンは居ずまいを正して、保田の目を正面から見据えた。

「そうこなくっちゃ。で、何をすればいい?」
「圭ちゃん、最近、ワイドショーのコメンテータ、よく招ばれてるでしょ?」

首相の訪朝により、拉致問題が脚光を浴びると、今まで冷淡だったマスコミが掌を返したように、
こぞって保田の獲得に動き出していたのは事実だった。
27 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時15分34秒
「ああ、オウムの江川さんみたいなもんでしょ…それで?」
「注目されている今がチャンスかもしれない…」
「紗耶香のこと、言っていいの?」
「私の独断だけどね。吉と出るか凶と出るか…」

既に散々叩かれている保田だけに、多少の非難は覚悟もしているが、問題は反論に耐え得る
だけの確証を出せるか、という点に尽きた。単に市井が拉致されている可能性がある、というだ
けではマスコミが納得しないのは明らかだった。そして、米軍の情報を期待できないこともまた、
話をややこしくしている。だが、ソニンはそうした閉塞状況を打開する策がひとつだけあるという。

「アメリカを動かすには何が必要だと思う、圭ちゃん?」
「例えば…そうね、北朝鮮とイラクの繋がりとか…」

ソニンは満足そうに微笑んだ。
28 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時15分55秒
「さすが圭ちゃん」
「え?そんなネタあんの?」

思わず矢口も身を乗り出してソニンの話に聞きいる。そんな情報があれば、米国の世論を動か
すことも不可能ではないかもしれない。

「前に圭ちゃんには、平壌の協力者のこと、話したことあると思うんだけど」
「ああ、聞いたことある」
「その人がハイテク関連機器の貿易会社ってのを生業にしててね」
「ほう…」

矢口と保田は今やすっかり引き込まれていた。今まで打開不能と思われた事態に一筋の光明
が差そうとしているのだ。その目の輝きが示す期待の大きさに、ソニンは表情を引き締めた。

「これは大変なことなんだけどさ…」
「うん…」

なおも言い淀むソニンの様子に二人は余ほどの大事だとの確信を深めた。
29 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時16分14秒
「その人物は北朝鮮からイラクへのミサイル技術供与のルートをすべて取りし切っている」
「おおっ、凄いネタじゃん!」
「そんなの曝露されたらアメリカも黙ってないんじゃない?」

二人の盛り上がりに反して、ソニンは冷静さを保っていた。そして、さらに言えばその顔色は必
ずしも優れず、この事実を吐露することが、かなり辛い決断であることを印象づけた。それに気付
いた保田がソニンを質す。

「ん?どうしたの?大事なことしゃべっちゃったのはわかるけどさ…」
「そうだよ、これで紗耶香が救われることになれば、ソニンの組織の人だってわかってくれるよ」
「そうじゃないの…もし、そのことが明らかになると…」

その表情が一層、険しさを増すにつれて、二人にもソニンが何を言わんとしているのか、ようや
く察することができた。つまり…
30 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時18分02秒
「金正日に消される危険があるわけね!」

黙ってうなずくソニンの疲れ切った表情がすべてを物語っていた。確かに、北朝鮮の経済は既
に破綻同然の状況に陥っており、日本からの支援を咽喉から手が照るほど渇望している。国交
正常化交渉の再開に漕ぎ着け、後一歩で植民地支配に対する倍賞金代わりの巨額支援を引き
出すことができるという段になって、そのような事実が明るみに出た場合、すべてが水泡に帰す。
もはや日本が交渉を再開したくとも米国が許さないだろう。

「だからね…協力者の安全確保。これが、この事実を公表するに当たって、最低限、満たされな
ければならない条件なの」
「難しいね。頼みの反乱軍はまだ平壌に指一本触れられない状況なんでしょ?」
「うん…だからね、私たちが唯一できることは架空の商談をでっちあげて、日本に彼を連れ出すこ
となの」
「架空の商談?!」
31 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時18分23秒
これには二人も驚いた。話がどんどん大きくなっている。しかし、架空の商談という詐欺のよう
な語感が気にかかる。

「架空の商談っていうか…そう、おとり捜査みたいなもんね」
「しかし、ミサイルの商談なんか日本から持ちかけて怪しまれないか?」
「さすが矢口さん、鋭いわね」
「おだてたって、何も出ないぞ」

だが、そう言われてまんざら悪い気もしないのか、その表情は幾分緩んでいる。

「これがさらにややこしいところなんだけどね…」
「ん?」

二人は黙って先を促した。心無しかソニンにまたぞろ言い淀む様子が見て取れる。

「日本の某大手電機メーカなんだけどね…」

話が急にきな臭くなってきた。まさか…
32 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時18分42秒
「ミサイルの誘導に必要な目標追尾技術をね…輸出してるの」
「何ですって?!」
「それじゃあ、その協力者の存在を公表したら、困るのは北朝鮮だけでなく…」
「メーカ、いや日本として国際的な批判を浴びるのは必至」
「新たな外交問題の発生か…そりゃ躊躇するわな」

盛り上がっていただけに二人が嘆息し消沈する様は余計にその場の空気を重くした。保田は
それだけ大きな影響を背負う覚悟があるか、と問われて即答できない自分が嫌だった。だが、こ
のまま動かなければ市井はどうなるかわからない、いや、わからないというのは正しくない。それ
を考えたくないだけだ。反乱軍の鎮圧はそのまま市井の死を意味する。今更、何を考えることが
あろう。保田の気持ちはとうに決まっている。市井を救うためなら何でもやる、ということだ。
33 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時19分03秒
「やるしかないね」
「圭ちゃん?!」

矢口は戸惑っている。無理もない。いくら同期の市井を助けるためとはいえ、しがらみを背負っ
ているだけに保田のようには明快に割り切れない。

「だけど、組織の方は大丈夫なの?」
「動き出したらどうしようもないからね。後追いで諦認するだけだと思う」
「ソニンが責任取らされるんじゃ…」
「ははっ、あたしみたいなペーペーが取れる責任なんて、たかが知れてる」

ようやく三人に明るさが戻ってきたが、話はさらに重苦しい内容へと踏み込んでいく。

「協力者の確保については極秘裡に動かなきゃならない」
「ただ、日本と国交正常化しようとしてるこの時期に軍事関連の商談に乗ってくるかな?」

さすが矢口だ。一歩引いたところから見ている立場だけに、客観的な分析ができる。確かに矢
口の言う通り、向こうも馬鹿ではない。いや、相当に狡猾だと認めてかからなければならないだろ
う。
34 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時19分24秒
「うん、もちろん軍事技術の商談はこの時期、向こうも警戒するだろう」
「策は?」
「ある」

それについては、ソニンも考えていた。

「協力者が日本で調達していたのは、軍事技術そのものだけじゃない。むしろ日本での半導体調
達なんかが最近では、主な業務になってる節もある」
「半導体?」

二人は眉を潜めた。聞きなれた言葉ではあるが、今一つ、その内容を理解しているとはいえな
い。

「マイクロチップ、って言えばわかりやすいかな。日本は主要な半導体供給国である一方、世界
第二位の消費市場でもある」
「マイクロチップって…こんなちっちゃいとこに新聞何百ページ分の情報が入ります、ってやつ?」

矢口は親指と人差し指で小さな幅をつくり、チップの大きさを示した。意外に博識だ。それだけ
理解していれば話は早い。
35 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時19分42秒
「そうそう、やぐっちゃん賢い。圭ちゃんは?」
「うん、なんとなくはわかったけど…」

どうもこころもとない様子だ。ソニンは根気よく説明を続けた。半導体について詳しく理解してい
ないと、この話は進まない。

「やぐっちゃんが言った新聞うんぬん、ってやつはメモリだけど、北が今、一生懸命手配しようとし
ているチップにDSPというのがあるの」
「DSP?」
「そう、"Digital Signal Processor"の略。信号処理するプロセッサのこと」
「はぁ?なおさら、わかんないわよ!」

保田はとうとう逆ギレする始末だ。しかたがない、ソニンだとてDSPともなるとさすがにすべて理
解しているかどうか怪しくなってくる。保田が怒り出すのも無理はなかった。
36 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時20分26秒
「DSPってのはね、例えば、音声とか電波とか、リニア性の信号をデジタル記号に変換したものを
リアルタイムで処理してフィードバックするための信号処理専用のプロセッサなの」
「…」
「携帯電話なんかの音声処理はみんなDSP使ってんのよ」
「えっ?じゃぁ、おいらの携帯にも入ってるんだ」
「そういうこと、でその他に例えばGPSみたいな位置補足システムにも応用されてて軍事向けに
転用し易い技術なの」
「ほぉ、それでミサイルの誘導にもこのDSPが大活躍と?」
「ご名答!」

ようやく保田にもこの技術の重要性がわかってきたようだ。

「DSPではアメリカのTI社がほぼ5割近いシェアを取っていて、DSPのガリバーと呼ばれてるわ」
「じゃぁ、アメリカで買えばいいじゃん、なんで日本で買わなきゃなんないのさ?」
「アメリカはかつて共産圏への先端技術流出を極度に警戒してたわ、今はその対象がテロ支援
国家に変わっているけど基本的に北朝鮮や中国への輸出審査は今も厳しい」
「ああ、ワッセナーアレンジメントってやつね」
37 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時20分47秒
保田が、それなら知っている、とばかりに声を上げた。ソニンはうなずいて続ける。

「それにそもそも、北朝鮮から米国への渡航自体が難しいし、距離も遠いから旅費がかさむ」
「なるほど、それで比較的自由に行き来が出来て、技術流出への危機感も希薄な日本なら好きな
だけ調達できると」
「そういうこと。だから、半導体買い付けの商談なら協力者を日本に呼び寄せるいい口実になる
のよ」
「はぁ、それにしても、ややこしい話だね」

保田ならずとも頭が痛くなるような話だ。さらに細部を詰めれば商社やメーカなど、細かなアレ
ンジが必要になるだろう。そして何より…

「問題は、その協力者の安全確保だね」
「そう、それどうすんのさ?」
38 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時21分06秒
ソニンはそれについては言葉を濁した。警察や政府に保護を願い出ることができないことは、
二人には伏せておこうと思ったのだ。警察といい政府といい信用がならなかったからだ。いや、そ
れどころか、ソニンの見るところ99%の確立で強制送還するだろう。国交正常化交渉を控えた今、
金正日と事を荒立てまいとする政治的配慮が働くのは火を見るよりも明らかだった。

「ん?まぁ、日本に来られさえすれば、こっちのもんだからさ」
「そんなもんかねぇ?」
「あの拉致のやり方なんて聞いてるとそんな甘っちょろい連中じゃないような気もするけど」
「まぁまぁ。一応、心当たりはあるからさ。その辺は心配しなくてもいいよ」

ソニンは何とか言いくるめると、なおも訝しそうな目で自分を見つめる二人に告げた。
39 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時21分47秒
「さ、お腹空いたし、なんか食べに行こうよ」
「ん?もう、ごまかしたってそうは…で、ソニンのことだから本場のうまい焼肉屋、知ってんでしょう
ね?」
「そうそう、それが楽しみで今日はおいらも来たんだから」

しかたない。今日は川崎の在日が集まるコリアタウンでも一番の店に連れて行ってやろう。焼
肉には目のない二人だけに、半端な店では納得しないだろう。

「その代わり…」
「なに?」

 高いよ…と言いかけてソニンは止めた。なんといっても、自分とは稼いでる桁の違う高額納税者
だ。少なくとも保田はともかく、芸能界の最前線で活躍し続けている矢口の懐はあてにしてよいだ
ろう。

「キムチ辛いからね。覚悟してよ」
「おおっ!激辛キムチ、マンセーっ!」
「うひょぉっ、楽しみぃっ!焼肉マンセー!」
40 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時22分11秒
まったく、日本の元トップアイドルが二人して何て言葉を連呼してるんだ…ソニンはそれでも、普
通に母国の言葉を口にしてくれる二人が嬉しかった。海峡を挟んだ二つの国の関係は、普通に、
ごく普通に新しい時代を迎えようとしているのかもしれない。そう思うと、状況の苛烈さとは裏腹に、
何か満ち足りた気分でことに当たれそうな気がしてきた。 

相変わらずマンセーを叫んでる二人を引き連れて家を出ると、秋の日は既に落ち、夕闇が街を
包み始めていた。普段なら街の灯りがぽつぽつと点き始めると、余計に侘しさを感じる夕刻時。こ
んな楽しげな夕餉を迎えられるのは久しぶりだった。
41 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月05日(火)17時22分56秒
ソニンは楽しげにソウルの焼肉自慢を始めた元娘。の二人の横顔に、なにか理由もなく明るい
未来を感じた。点滅するイルミネーションの照り返しのせいだろうか…

ソニンは首を振った。違う、この二人が輝いて見えるのは理由がある。
それはきっと、自らの信じるところを突き進む強い信念、強い心だ。
そして、市井を救い出すために注がれる情熱の源は絆…

きっと絆なんだ。それはソニンには計り知れないほど強固な繋がりなのだろう。
ソニンは心強く感じると同時に、一抹の寂しさを覚えずにはいられなかった。
42 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時19分55秒
平壌の攻略はことごとく政府軍の頑強な兵力の前に粉砕され、遅々として進まな
かった。政府軍は38度線に展開していた兵力のほとんどを召喚し、首都防衛に専
念させていた。火力に勝る政府軍の固い防御の前に反乱軍側はいたずらに武器
と兵力を消耗していくばかりである。本格的な冬の訪れを前にして、士気は落ち、
事態は悪化の一途を辿っていた。中国の国境封鎖と国外からの正規の補給ルー
トを断たれたことで、持久戦に持ち込まれた場合、戦局が不利な方向へと傾くのは
明らかだった。
43 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時20分22秒
折しも日朝国交交渉再開を前に米政府からケリー国務次官補が派遣され、北朝
鮮高官との安全保障に関する首脳級会談の場で、北朝鮮がKEDO合意に反して
濃縮ウランによる核開発を進めていた事実が明らかになった。これに関し、米国は
核査察遵守違反を強硬に批判、日本でも北朝鮮の国家的犯罪としての拉致の事
実が明らかに鳴ることで、北朝鮮への批判が噴出。対北感情は硬化していた。

ここへきて、日本との国交正常化による多額の円借款を期待していた金正日の思
惑は音を立てて崩れ始めていた。唯一の救いは米国がイランを安全保障上の最
大の障害と見なしていたことである。北朝鮮に対する攻撃がすぐには行われる環
境にはないという消極的なこの一点のみが辛うじて金正日の野望を支えていたと
言ってよい。
44 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時20分40秒
すでに実質破綻状態にある経済を立て直すため、当てにしていた日本の援助は拉
致事実に対する予想外の反発により暗礁に乗り上げようとしていた。加えて勃発し
た内乱の発生はまさに内憂外患。平壌政府は青息吐息の状態にあった。金正日
は軍事ラインのいたずらな拡大を避け、外交機能とメディアの確保のため首都防
衛に専心し、反乱軍の掃討に躍起になっていた。

自由革命軍市井少尉率いるエコー小隊はアルファ、ブラボー、チャーリー、デルタ
の各小隊とともに平壌南東部の山麓に布陣していた。戦線が膠着状態になってか
ら、すでに10日ほどが経過している。ユウキは市井の指揮するエコー小隊の補給
係として、随行していた。
45 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時21分16秒
敵側は山肌に沿って展開した掩射壕からときおり散発的に弾幕を張る程度で、本
格的な攻撃を仕掛ける気配はない。守る立場からすれば、もうじき夜半は零度を
下回る寒さに覆われる。無理に押してダメージを受けるよりも敵を釘付けにして、
野営による体力低下を待てば良い。反乱軍の補給が厳しい状態にあることはすで
に政府軍の広く知るところとなっていた。

ユウキが後10日程度で食糧や燃料など主な補強物資が切れることを告げると、イ
ーファは考え込んだ。
46 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時21分36秒
「補給路の確保は?」
「平壌の北西に政府軍が張り出して補給ラインを分断しようとしています」
「西部方面軍は?」
「自陣の確保に手いっぱいのようです」
「自分でなんとかしろってことね…」

つぶやいて再び黙り込んだ。ユウキにはこの人が韓国でダンサーをやっていたとは
今だに信じられない。だが、沈思黙考する姿は紛れも無く、一個中隊を預かる指揮
官のそれであった。

「もうひとつ悪い知らせが…」
「なに?」
「平壌の金永南同志が逮捕されたそうです」
「ーー容疑は?」
47 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時22分41秒
少なからずショックだった。金永南は対外的に北朝鮮のナンバー2にあたる。極秘
裡に革命軍と通じており平壌陥落のあかつきには、政権の中心人物として新生北
朝鮮を率いる重要人物である。要人としてその動静には注意を払っていた矢先だ。
その影響は大きい。

金永南を拘束されては、例え戦いに勝ったとしても、国家として政治を切り盛りする
器は他に無い。混乱は避けられないだろう。それ以前に、金永南の逮捕により、そ
の影響下にある平壌内部の同盟者が寝返る心配があった。

「党規違反だとか…向こうも詳細を掴んでいるわけではないようですね」
「とりあえず拘束して動きを封じるつもりか……呉司令官はどうするおつもりだろ
う?」
「それなんですが、1時間後に作戦の指示が降りるのを待てと」
「そう…」
48 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時23分00秒
イーファは憂いを浮かべた横顔をユウキに向けた。肌の色が悪い。その表情は、か
なりの疲れが蓄積していることを窺わせた。しばらく無言で考え込んだ後、何か合
点がいったように独りうなずいてユウキに告げた。

「おそらく……いや、いいわ。とにかく連絡を待ちましょう」
「気になりますね」
「司令部からの連絡後、直ちに招集をかけます。各小隊長には待機するよう伝え
てください」
「了解しました」

ユウキは物問いたげな視線を投げかけたが、イーファにするりとかわされ、仕方なく
その場を去った。
49 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時23分23秒
◇◇◇

中隊長のもとに招集された私を含む各小隊長は緊張した面持ちでイーファの言葉
を待った。戦局が膠着した中で、こうして呼び出されるということが何を意味してい
るか、さすがに私もおぼろげながら理解し始めていた。副官の鄭少尉はいけすかな
い男ではあったが、軍人として優秀であることは疑いない。この男のもとで私は急
速に戦術眼を養いつつあった。いよいよ何らかの作戦が指示されるのか。小隊長
とは名ばかりの私に配下の兵士達は多少の不満はあるのだろうが、比較的従順
な態度を示していた。鄭少尉のコントロールが効いているのか。まったく、この男に
は油断がならなかった。
50 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時23分42秒
イーファが集まった面々に顔を向けた。その引き締まった表情からは何事も読み取
ることはできない。ソウルにいたときも踊りのレッスンでは厳しい表情で真剣な態度
で臨んでいたが。場所が変わるとその印象もまたさらに真剣さを帯びて感じられる
から不思議だ。そんな私の感慨に気付くことも無く、イーファは口を開き、努めて事
務的に振る舞おうとしているように思えた。

「小隊長同志諸君、ご苦労です。同志諸君もすでに知っていると思うが、戦線は膠
着し、打開の糸口はつかめない」
「……」
「敵は明らかに我々の消耗を狙っています。討って出る気の無い敵にこれ以上付
き合ういわれはない。そこで…」
51 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時24分01秒
イーファは息を継いだ。皆は息を止めて次の言葉を待つ。

「明日未明、深夜3時をもって速やかに撤退、元山の空軍基地に撤収します」
「中隊長、退却の陣容は?」
「アルファベット順にアルファ小隊が先頭、エコー小隊が殿(しんがり)ということにな
ります」
「中隊長、それは…」
52 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時24分43秒
鄭少尉が異議を唱えた。当然だろう、退却軍の最後尾はもっとも危険がともなうだ
けに通常、機知と経験に富んだベテランの指揮官が配置される。士官学校を落第
した劣等生よりもまだ始末の悪い即席の小隊長である私が指揮する部隊が下手
をうてば、中隊が全滅することだって有り得るのだ。

「幸い、敵はまだ我々の決断に気付いていません。そして、市井小隊は一番敵の
最前線に近い場所に布陣している。定石から言えばエコー小隊の殿(しんがり)は
間違っていません」
「しかし、中隊長…」
53 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時25分07秒
皆が不安げに私の方を見つめている。我ながら情けないことに、その視線の物語
るところをイーファが理解して、考え直してくれないか、などとネガティヴ極まりない
期待を抱いてしまった。適性のないことは私が一番よく、理解している。

「これは決定事項です。異議は受け付けません。各部隊は速やかに撤退の準備に
入ってください。偵察衛星に映らないよう、対戦車砲などの重火器は覆いを被せて
目立たないように」
「中隊長、工兵隊はどうします?」
「今のところ出動は考えていません。恐らく敵の追尾部隊はそれほど深追いしてこ
ないでしょう。再び攻め上がるときに備えて、退路はなるべく現状を維持します。他
に質問は?」
54 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時25分25秒
イーファはそれでも不安な表情を隠しきれない配下の将校達をぐるっと眺め回すと
大声で告げた。

「それでは解散!総員、退却準備ののち合図があるまで待機!」
「ハッ!」

敬礼して、皆が立ち去った後、鄭がすかさずイーファににじり寄った。彼としても命
がかかっている。何とか命令を翻らせようと必死なのだろう。

「おいっ!お前、何を考えている?!市井に殿(しんがり)など務まるわけがないだ
ろう!」
「少尉、口を慎しんでください。ここでは私が上官ですよ」
55 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時25分57秒
イーファは飽くまでも冷静だった。すっかり将校としての立ち居振る舞いが板につい
ている。というよりは、こちらが彼女本来の姿なのだろう。

「鄭同志、少し声を落としていただけますか?サヤカ、あなたもこっちへ」
「なんだというんだ…?」

鄭は不満を隠そうともせず、それでも形式上、イーファの指示に従ってぶつぶつと
ぼやくに留めた。私は、といえば傍観者のように成り行きを見つめているわけにも
いかず、彼女の言うがままに二人に近づいた。

「鄭少尉、殿(しんがり)はご不満の様子ですね」
「当然だ。市井にまともに戦闘の指揮が取れないことくらい、お前もわからないわけ
ではないだろう」

イーファは片頬を動かしてにたりと笑みを浮かべて応じた。
56 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時26分23秒
「よろしい。では退却の殿(しんがり)は撤回しましょう。その代わり」
「なんだ?」

鄭が不安そうに尋ねるとイーファはさらに驚くべきことを口に出した。

「貴方たちには殿(しんがり)よりもさらに、過酷な司令が下っています」
「だから、なんだというのだ?」

どうも、先程からのぞんざいな口の利き方からして鄭はもともと、イーファの上官だ
ったのだろうかという気がしてきた。ソウルでの関係を考えれば、さほど不思議では
ないが、あそこでは、もっとドライな関係を保っていたように思える。イーファもあの
時点で、鄭の指揮下にいたわけではなさそうだし、上官と部下の関係にあったとす
れば、さらに以前までさかのぼらなければならないのかもしれない。いや、なんとなく
だが、そんな気がした。
57 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時26分42秒
「平壌の金永南同志が国家保衛部により極秘裡に拘束されました」
「何?」
「何ですって?」

意外な名前を耳にして私は思わず口を出さずにはいられなかった。この国で知って
いるごくわずかな名前のうちの一つというだけでなく、金永南は既に私の中で特別
な位置を占め始めていたのだ。最高人民会議常任委員長という高官、その人が拘
束されたというのは尋常なことではなかった。

「平壌は外交カードを捨てる気か?あの男以外にこの難しい局面に対処できる者
はいないだろうに」
「そうね。ただ、その男が獅子身中の虫だとすればどうかしら?」
「バレたのか?拘束の理由は何だ?」
58 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時27分05秒
もともと政権が崩壊すれば新たな枠組みの指導者として筆頭に上げられていたの
が金永南だ。政府としても要注意人物としてマークしていたはずだが、金永南自身
がそうした野心を臆面にも出さずうまく立ちまわっていたため、あからさまに敵対視
されることはなかった。加えて鄭が言うようにこの男なくして北朝鮮外交は立ちいか
ないため、微妙なバランスの上に立ち、金正日の不興を買うことはないように思わ
れた。その金永南が拘束されたとなると、何かが動き出したとしか考えられない。そ
の何かについて今、イーファは口にしようとしていた。

「どうも平壌は日本人拉致の事実を認め、謝罪することで、日本との国交正常化に
自信を深めたらしいの」
「外交の切り札は不要ということか」
「並行してアメリカとも核を餌に対話を再開しようとしている。金永南同志の平壌に
とっての重要性は相対的に薄れつつあるわ」
「金永南同志のことはわかった。それより、別の任務とやらについてそろそろ教えて
くれ」
59 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時27分25秒
イーファは意味ありげに微笑むと、諭すような口調で鄭をなだめた。

「鄭少尉、落ち着いて。今までのは決して無駄話ではないのよ」
「では、なんだというんだ」
「そうよ。早く教えて」

からかうつもりはないのだろうが、さすがにイーファのもったいぶった態度は少々鼻
についてきた。私にまでせっつかれて、居心地が悪くなったのだろう。イーファは居
住まいを正して、話す体勢を整えた。

「ごめんなさい。焦らすつもりじゃなかったの。サヤカまで怒らせちゃまずいわね」
「いいのよ。それより早く教えて」

イーファはこくりとうなずいて二人に告げた。
60 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時27分49秒
「金正日の命で拘束された金永南同志がこの前線のすぐさきにある招待所に幽閉
されています。貴方たちには、そこから彼を救出してほしい」
「それが任務か?」
「そうです。もともとコマンドー部隊出身のあなた方には持ってこいの仕事でしょ」
「戦時下でなければな。地図や見取り図はあるのか?」

鄭はぞんざいな口調とは裏腹に急にやる気を出したようだ。イーファの言うように元
工作員としての血が騒いだのかもしれない。逆に私は急に不安になってきた。要人
救出作戦のような小数精鋭の実行部隊に私のような素人が紛れ込んでよいのだ
ろうか?
61 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時28分16秒
「イーファ?まさか、私も…」
「もちろんよ、サヤカ。あなたなくして、この作戦は成り立たないと言っても過言では
ないわ」
「…」

鄭少尉は黙ったままだ。私同様、イーファの真意を測りかねているらしい。私がい
なくては成り立たないミッションとは何なのだ?私たち二人は余計な質問をせず、
次の言葉を待った。

だが次の瞬間、イーファが明らかにした作戦には思わず問い質さざるを得なかっ
た。

「何だと?」
「何ですって?」

珍しく鄭と私の息があった。まったく、その作戦は奇想天外を通り越して単なる無
謀な計画にしか聞こえなかった。私でさえ、その杜撰な内容に気付いたくらいだか
ら、鄭などはさぞ呆れ返っていることだろう。
62 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時28分52秒
「ケンチャナヨ!細かいことは気にしない。あなたも元コマンドーのリーダーでしょ、し
ゃきっとしなさい!」
「お、お前…」

二の句が告げない、とはまさにこういう状態を言うのか。気持ちがいいほどの啖呵
を切られると、なんとなく不可能ではない、という気分になってくるから不思議だ。鄭
はまだショックを引きずっているらしいが、私は次第に前向きになりつつある自分を
感じ、何だか愉快にさえ思えてきた。

「ま、イーファオンニの命令じゃ仕方ないね。せいぜい頑張ってみるよ」
「その意気ね、サヤカ!」
「ハイハイ、それじゃあ、作戦の詳細を詰めるとしますか。イーファ、作戦図と招待
所の見取り図よろしく」
63 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月14日(木)14時29分20秒
私は内心の不安を押し隠すように意識的に明るく振る舞い、作戦の細かな段取り
の検討に入ろうとした。鄭はぶつぶついいながらも、イーファの差し出した図面を鋭
い眼光で見つめ始める。イーファは、頑張れ、という合図だろうか。軽く片目を閉じ
て、チャーミングに微笑んだ。

私にとって、本当の戦いがいよいよ始まろうとしている。
あの人を助けるために…
自分のためではなく、大事な人のために。
私は表情を引き締めて、イーファの説明に聞きいった。
64 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時48分26秒
雨は容赦なく頬を打ちつけた。風が強くなっている。山道はぬかるんで、少
し注意を怠るとすぐに足をとられてしまいそうだった。一歩一歩、足を踏み
出すのがこんなにも時間がかかることにもどかしさを感じる。それでもここ
で転んでは、さらに体力を奪われる。山中で体力を消耗することだけは避け
なければならなかった。

ようやく峠に差しかかると向こうの空に晴れ間が見える。眼下に広がる平壌
の町並みはいつもなら不愛想極まりない景色だが、今日はやけに懐かしく感
じられた。まるで暖かく自分を迎えているように見えるのが不思議だった。
65 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時48分44秒
ようやく来た…
もう少しだ。

後藤は背中の荷物を背負い直すと、もう一度気合を入れ直し、下界へと続く
道を歩み始めた。相変わらず横殴りの雨風が衰える気配はない。それでも目
標を目にするとしないとでは、力の入り具合において雲泥の差があった。後
藤の心は、もう少しで懐かしい平壌へ辿り着けるとの思いに弾んだ。
66 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時49分02秒
まだ昨日のことなのに疲れからか、もう幾日もこうして歩きつづけたような
感覚に襲われた。降って湧いたように下された通告。予想だにしなかったそ
の内容に後藤は戦慄した。党の責任担当を通じて告げられた親愛なる指導者
同志の言葉はとても信じられるものではなかった。

軍部によるクーデター(と言っていいものか、後藤には判断がつかなかった
が)が勃発。平壌以北の地はほぼ、軍の反逆分子により瞬く間に占領されて
しまったという。突然のサーカス公演中止により、何らかの政治的混乱があ
ることまでは予想していたものの、反乱など後藤の想像力の範疇を遥かに超
えていただけに、体が反応するのまでに時間がかかった。
67 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時49分20秒
急ぎ金剛山から脱出し、平壌へ戻るよう指示を受けたが、両者の勢力範囲が
微妙なだけに、途中、反乱分子に捕まってしまう可能性がないわけではない。

『平壌は…平壌は、大丈夫なのですか?』
『平壌には指一本たりとも触れさせていないと聞いています』
『指導者同志はご無事でしょうか…』
『大丈夫です。指導者同志は百戦百勝の鋼鉄の霊将でいらっしゃいますか
ら』

自信満々に応える責任担当の脳天気さが疎ましかった。戦争を直接指揮した
ことのない金正日が百戦百勝のわけがないではないか。後藤はそれには反応
せず、戦況を確認した。
68 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時49分39秒
『反乱分子が制圧したのは平安南道までという認識でよいのでしょうか?』
『そのように聞いていますが…』
『江原道はどうなっているのでしょう?』
『わかりません…はっきりした境界はないようです。江原道は場所によって
政府側と逆賊の支配区域が入り乱れているとか』
『そこまで…』

後藤は嘆息した。それでは、自分達が平壌へ到達するまでの身の安全は保証
されないではないか。

『護衛はつけていただけるのですか?』
『主だった兵士は逆賊の掃討に駆り出されておりまして…』
『期待できないのね』
『残念ながら…』

困ったことになった。それでも、座して死を待つよりは、可能性にかけて動
き出すに如くはない。そうとなれば、一刻の猶予も無い。すぐに出立しなけ
れば。
69 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時49分55秒
『車は出せますか?』
『はい…ただ…』
『何ですか?』
『ガソリンが…』
『足りないのですね』
『はい…』

申し訳なさそうに言い淀む責任担当に少しだけ同情しながらも、これは厳し
いことになりそうだと覚悟を決めた。恐らく陸軍の兵器車両を移動させるた
めに動力燃料はすべて、徴収されてしまったのだろう。それはしかたないと
して、貯蔵燃料でどこまで行けるか、はなはだこころもとなかった。
70 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時50分10秒
後藤の行動は早かった。まだ日が高いうちに家を飛び出すと、責任担当の運
転する車に乗り込む。給油タンクは満たんになっていた。考えてみれば最近、
ほとんど車で移動することはなかったのだ。途中までの行程は順調に進んだ。
特に危険なこともなく平坦な道を走るドライブは風景の退屈さを除けば快
適と言えないこともなかった。あと山ひとつ超えれば、という段になってよ
うやくガソリンが切れた。責任担当と後藤はほとんど身ひとつで車を飛び出
すと、既に暗くなりかけていた空のもと、山中へと分け入ったのだった。

途中、突然、風が強くなり、嫌な雰囲気だと思った途端、案の定、二人の頭
上に垂れ込めた暗雲は瞬く間に山全体を覆い、冷たい雨を落し始めた。雨足
はどんどん勢いを増し、山肌を流れる雨水の濁流は尾根を削り、川のような
流れをともなって二人の脚を阻んだ。ずぶ濡れになりながら、それでも気力
を振り絞って、何とか山頂を越えて平壌の街を確認することができたのだっ
た。
71 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時50分32秒
「気をつけて。滑り易いから」
「はい。真希同志もお気をつけて」

風雨のために怒鳴るように大声を上げて、互いの存在を確認した。声をかけ
てはげまし合いながら進まねば気力がなえそうになる。後藤は危なっかしい
足取りで山を降りていく党責任担当を気遣った。後藤の方が若いせいもある
が、彼女の息が上がっている状態は危険だと思った。

「少し休みましょうか。平壌はもう、すぐ目の前ですし」
「いけません。一刻も早く降りましょう。逆賊が張っているかもしれません」
「でも、大分、疲れている様子では…」
「大丈夫です。さあ、明るいうちに早く降りましょう」
72 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時50分59秒
何かに急かされたように先を急ごうとする責任担当に違和感を覚えながら
も、彼女の言うことも一理あると思った。暗雲の垂れ込める中、ただでさえ
視界が悪く、足が進まないのに、夜になってわずかな明りさえ閉ざされては、
山中から身動きが取れなくなってしまう。後藤は少しだけ立ち止まって息を
整えると、再び足場となる場所を丁寧に探りながら、一歩一歩、足を踏み出
していった。

もともとの隘路には山肌を伝う雨水が急流となって流れ、もはや道と呼べる
ものは存在しなかった。後藤と責任担当の二人は比較的水嵩の低いところを
探りながら踝(くるぶし)まで水に浸かって、ぬかるんだ地面に足を取られ
ないよう、それだけに全神経を注いだ。
73 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時51分15秒
ヒマラヤスギと思しき木々にしがみつきながら、数歩下っては立ち止まると
いう気の遠くなりそうになる作業を繰り返す。それでも山腹に差しかかると
勾配は大分、緩やかになり、二人の歩みも進んだ。全身ずぶ濡れとなって体
温を奪われながらも、スギ木立に遮られて風雨は幾分か凌ぎ易くなっていた。

「この分だと明るいうちに人のいる辺りに辿り着けそうですね」
「そうですね。あと一、二時間の間には建物が見えてくるのではないでしょ
うか」
「方角からいって、どの辺りになるのかしら?」
「親愛なる指導者同志の平壌東地区招待所が一番近いと思います。あそこな
ら、我々を快く迎えてくれますよ」
「そうだといいんだけど…」
74 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時51分33秒
なおも一時間ほど下り続けると、黙々と歩く二人の視界が次第に開けてきた。
木立の間から時折、遠いながらも平壌の街並みが見え隠れする。後少し、と
意気込んで足を進める二人の前にあっけなく、道路が現れた。

「道路にでましたよ!真希同志!」
「はい、あと少しですね」

喜びに声を震わせる朝鮮流の感情表現は未だに後藤の不得手とするところ
だったが、責任担当の漏らした歓喜の声は、微笑ましく思えた。実際、きち
んと舗装した道に、出られたことで足を進めるための労力は格段に削減され、
それに比例して気分も軽やかになった。さらに歩を進めると山間にそびえ立
つ白い建物が目に入った。その洋館建てのしょうしゃなたたずまいから、数
ある指導者同志の招待所のひとつと知れた。
75 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時51分51秒
「招待所が見えたわ!」
「急ぎましょう。そう遠くないわ」

後藤ははしゃぎ回る責任担当を横目に、落ち着いて道路と建物の方向を確認
していた。自分達が進んでいる道はすぐ先に切り立った崖を回り込むように
して左へ曲がっている。恐らく、あのカーブを曲がると建物はすぐ目に入っ
てくるだろう。後少しだ。

後藤は再び目を細めて雨粒を避け、やや俯き加減に前屈みの姿勢で一歩一歩、
しっかりと路面を捕えていった。やがて崖の縁を回り込むといきなり左手に
大きな建物が視界に入ってくる。数町ほど続く塀の先に門が見えた。さすが
の後藤も逸る心を抑えきれず、やや小走りに駈けて、門の前へと到達した。
こんな天候だというのに歩哨が入口を護っている。
76 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時52分12秒
責任担当が声をかけた。

「ご苦労様です、同志軍曹」
「あなたは?」
「自由革命軍東部方面軍作戦部連絡担当、具少尉です」

えっ?
思わず後藤が漏らした声は具の宣言によりかき消された。
今のは何だ?聞き違えたか…
後藤は耳を疑った。

「後藤真希!奢侈を好み、贅沢の限りを尽くし、人民の疲弊窮乏を招いた罪
によりお前を逮捕する!」
「具同志…」
「動くな!いずれ公正な裁判の下にその罪状を明らかにする。それまで、お
前はここで自らの犯した罪の深さを省みるのだ」
「…」
77 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時52分35秒
後藤はあまりの驚きにもはや声を上げることすらできなかった。何かの冗談
ではないか。数秒後には再び相好を崩して「冗談ですよ」と言ってくれるの
ではないか。そう思わずにいられないほど、責任担当の豹変振りはすさまじ
かった。にわかには信じられず、ただただ呆然と立ち尽くす後藤を連行する
よう告げる具の声がどこかから聞こえた。

「軍曹!この犯罪人を連行し厳重な監視の下に置きなさい。これは革命軍総
司令官、呉克烈大将閣下じきじきのご命例です」
「はっ!了解しました!」

建物の入口まで失意の雨に打たれながら、後藤は頭の中が真っ白になるのを
感じた。何が何だかわからない。もはや考えることすらおっくうで、後藤は
ただ促されるままに足を運んでいた。すべての感覚を失いつつも背中に突き
つけられた銃の感触に、後藤はようやく自分が反乱軍の手に落ちたことを悟
った。
78 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月21日(木)11時52分53秒
現実をもはや実態あるものとして捉えることのできなくなった後藤は、脅え
ることもなく、淡々と軍曹の指示に従う。力なくうな垂れて歩く自分の姿は
どこかで見た覚えがある。後藤はまるで他人事のようにそう感じた。その記
憶が浮かび上がるとともに、少しだけ自分を取り戻す。

市井ちゃん…

それはまさに、市井が目の前で連行された、あの時の姿そのものだった。市
井もこんな風に頭の中がからっぽになった状態で連行されていったのだろ
うか。後藤は自分と市井とを繋ぐよすがを見出して、縋(すが)るようにそ
の名を繰り返した。
79 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時16分21秒
『ですから、北朝鮮がイラクに武器供与を行っているという確たる証拠があるわけですよ』
『保田さん、ちなみにその証拠とは何ですか?』
『これです』

テレビ画面の中の保田は生き生きしているように見えた。フリップをかざして例の商談に
ついて説明し始めた保田の瞳はそれこそ、かつてファンを虜にして止まなかった頃の輝
きを取り戻している。自分も頑張らなければ。矢口は気を引き締めて、目の前の困難に
立ち向かおうとしていた。

「ほら、言った通りでしょ。これはきっと凄い騒ぎになると思うんだ。その関連情報を緊急
企画として取り上げれば聴取率アップ間違いないよ」
「驚いたなあ。それにしても、生放送だからねえ…ちょっとリスクが大き過ぎない?」
80 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時16分49秒
矢口は保田を援護すべく、自分の番組内で北朝鮮問題についての関連情報募集、及び
リスナーとの電話討論コーナーを企画し、今まさに番組ディレクターとの交渉に臨んでい
た。元モーニング娘。である保田が北朝鮮問題に取り組んでいることから、矢口が自分
のラジオ番組内に、今ホットな話題である拉致問題やその他の安全保障問題に関するコ
ーナーを持つ。それは保田と矢口の関係を考えれば、自然な流れと言えた。問題は情報
の査閲が行き届くかどうか。そこにあった。

「情報が必ずしも正確でなくていいと思うんだ。出所はすべて圭ちゃんサイドなんだからさ」
「そういうわけにもいかないんだよ。媒体としてはさ」

情報の真偽に関わるリスクはすべて保田側…つまりソニンが幹部を務める北朝鮮難民
支援団体が負うということについては、事前に取り決めてあった。ディレクターが嫌がって
いるのは、むしろ関係官庁による圧力だろう。番組責任者として行政指導を受けるような
失態を犯すことに及び腰になるのは当然とも言えた。
81 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時17分46秒
「石田さん、ノーリスク・ノーゲインだよ。リスクを取らなきゃ高いリターンなんて期待できな
いってジャック・ウェルチも言ってるんだから」
「ま、経営の神様の言うことはひとまず置いといて。どうしたもんかね。確かに聴取率のア
ップは間違いないだろうけど」
「ほら、毎分見てよ、石田さん。圭ちゃん出てから視聴率、鰻昇りだよ」

局内のモニターはオンスクリーンで瞬時の視聴率を表示するようになっている。保田の
登場。そして例の武器供与問題の提示、と画面左上に表示される毎分の視聴率は保田
が登場する以前の倍以上に跳ね上がっていた。

「これは凄いねえ…」
「やろうよ!ANNSの木曜日はひとあじ違うってことになれば箔もつくしさ」
「編成局長と相談して…」
「ああっ、もう!そんなのディレクターの権限で十分決められるでしょ」
82 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時18分06秒
相変わらずの優柔不断にいらいらしながらも矢口は手応えを感じていた。この男が悩ん
でいるときは大概、既に企画の内容にまで踏み込んでいることが多い。そこで何らかの
障害が生じないかどうかを懸念しているのだ。要するに石田とは石橋を叩いて渡らない
タイプだった。

『ですから、極秘裡に開発された濃縮ウランによる核技術は既にイラクはおろかシリア、
リビアなどのアラブ周辺国家にも供与された可能性を捨てきれないわけです』
『それはあくまでも可能性としてですね』
『はい。ですが、我々の独自調査によれば、その可能性は非常に高いことが判明しています』

まさに保田の真骨頂だった。司会者はおろか、スタジオに詰めかけた観客もすっかり、その
雰囲気に呑まれている。矢口と石田も画面から伝わってくる緊迫感に思わず視線を奪われた。
83 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時18分30秒
『保田さんは、これに対して米国がどう反応すると思いますか?』
『イラクが国連による核関連施設への査察を認めましたから、この作業が軌道に乗れば、
すぐに北朝鮮への対応が開始されると思いますね』
『米国の北朝鮮への対応は二次的な関心に留まっているとの見方もありますが』
『そうも言っていられない状況にあると思いますね』
『というと?』

いいぞ、圭ちゃん…
矢口は固唾を飲んで次の瞬間を見守った。石田も熱い視線を画面に送っている。

『北朝鮮で内乱が起こっている可能性があります』
『内乱…ですか?』
『はい。亡命者からの証言や現地の協力者による情報を総合するとそうとしか考えられ
ない状況なのです』
『それは驚きましたね…例えばどんな情報が?』
『例えばですね…』
84 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時18分52秒
今度は異なるフリップをかざしながら、保田が個々の事例について説明していく。スタジ
オの緊迫感が手に取るように伝わってきた。石田は食い入るように画面を見つめている。

「やぐっちゃん…」
「ん?」
「保田さん…すごいね」
「そうでしょ、圭ちゃん頑張ってんだから!」
「うん…」

石田は心底、感心しているようだった。矢口としても保田が評価されるのは嬉しい。街頭
演説で罵声を浴びていた当時の反応とは隔世の感を覚える。とにかく、これで企画は通りそうだ。
保田の迫真のコメンーテータぶりのおかげと言えなくもない。

「じゃ、早速、企画詰めようか?」
「うん、そうだね。じゃ、構成作家呼んできて」
「うぃっす。石田さん、何か飲む?おごったげる」
「え? 何か気持ち悪いけど…それじゃ、ウーロン茶お願い」
「了解。行ってきまぁす」
85 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月28日(木)14時19分18秒
矢口は足取りも軽やかに廊下へ出ると、近くにいたADに構成作家を連れてくるよう頼み、
自販機へと駈けていった。明日の朝刊は北朝鮮の武器供与疑惑が新聞の一面を飾るだろう。
いよいよ、動き出した。矢口は何だかわくわくしている自分を発見して不思議に思った。

圭ちゃんの病気が伝染ったかな…

それも悪くない。紗耶香の救出に自分が少しでも役立てるのならば。矢口はウーロン茶
の缶を自販機から取り出すと、ほてった頬に当てて、その冷んやりとした感覚を楽しんだ。
よし。気合を入れ直すと、矢口は再び元気よく、廊下を走り去った。
86 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月24日(火)16時07分17秒
年末無理でも、年明けたら更新されますように…と
87 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月25日(水)22時54分59秒
メリクリ〜♪
88 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時56分16秒
久しぶりのスカートがしっくりこず、やけに落ち着かなかった。軍服のパンツに慣れ
たせいだろうか。どうも足元がすうすうしてこころもとない。

「ふっ、『馬子にも衣装』と言うんだったか?日本のことわざで」
「何よ、似合わないとでも言うわけ?」

剣呑な雰囲気を和らげるためか、大同江一号が執り成すように発言する。

「いえ、サヤカ小隊長殿はそのような格好も大変、お似合いです」
「あら、鄭少尉より話のわかる男性がここにいたわ」
「ふん、胡麻を摺ったって楽な任務に変わるわけではないぞ」

鄭はつまらなそうに言い捨てると、前方に目を凝らした。

「あれか?」
「はっ、外観からしてあの建物に間違いないと思われます」
89 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時56分35秒
いよいよ着いたか。私は初陣に臨む少年兵のように緊張し、頬が紅潮するのを感じ
た。実際、これが初めての本格的な作戦行動と言ってよい。小隊長として散発的に
威嚇のための銃撃を指示した程度の実績では、いかに副官の鄭がうまく治めようと
も、隊員の士気が落ちるのは如何ともし難かった。この作戦をうまく遂行したときこそ、
即席の士官ながら、部下も見直してくれるかもしれない。淡い期待ではあったが、同
じ死線を潜らなければ、やはり仲間としては認めてもらえないような気がしていた。

「市井、いいか。臆するな。向こうは踊り子の顔なんかいちいち覚えてはおらん。
堂々としていれば絶対にばれん」
「誰が臆病風に吹かされたって?眠たいこと言ってると張り倒すわよ!」
「ふっ、その意気だ。ぬかるなよ」
「あんたもね」
90 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時57分08秒
車が止まった。歩哨が近づいてくる。口では強いことを言ったものの、心臓が破裂し
そうなほどドキドキしている。やはり私は小心者だ。

「通行証を拝見します」

若い衛兵だった。

「こちらが例の?」
「そうだ。連絡は既に入っているはずだが」

若い日本人の女性が珍しいのか、しげしげと私の顔を眺める兵士の視線は好奇に
満ちており、それほど不快ではない。鄭のそれとなく背後に金正日を仄めかすぞん
ざいな口ぶりがおかしかった。私の顔に視線をとどめたまま、兵士は通るよう告げ
た。

「突き当たり、奥の建物で止めてください。党責任書記がお迎えするはずです」
「荷物があるんだが」
「ああ、部屋付きの護衛兵がいますから、大丈夫ですよ」
「了解した」
91 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時57分37秒
鄭の言葉が終わるまでに車は再び始動し、ゆっくり奥へと向かった。兵士の言う通り
に進むと、奥の突き当たりに招待所の威圧するような白が眼前に広がってきた。
玄関前に突き出た屋根の下で車を止めると、鄭が睨むような強い視線で降りるよ
う告げた。

「気を抜くな。時間は限られている」
「わかってるよ……イッテクル」

最後の言葉はやや、上ずって聞こえた。緊張しているのかもしれない。待機して
いた兵士の一人が機敏な動作で運転席から降りて、玄関を叩いた。既にゲートの
衛兵から連絡が入っていたと見え、間を措かず民間人らしき人間がドアを開けて
飛び出してきた。

「お待ちしておりました、真希同志」
「お世話になります」
「さあ、どうぞこちらへ。長旅でお疲れでしょう。すぐにお部屋へご案内します」
92 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時58分01秒
担当書記は慇懃な態度で私を迎えた。疑っている様子ではない。後藤の顔がそれ
ほど知られていないのは幸いだった。

「荷物はどうしたらよいでしよう?」
「護衛のものに運ばせましょう。こちらに滞在の間、真希同志を御守りするもの
たちです」

担当書記は内ポケットから銀色の小さい金属片を取り出すと、口に含んだ。ピィ
ーッと、高い周波数の音が鳴り響くと思わず体がこわばる。人に緊張を強いる音
だ。決して心地よい音ではない。だが、戦場では有用なのだろう。すぐに二人の
兵士が扉から飛び出してきた。

「真希同志がお着きだ。お部屋まで荷物をお運びしろ」
「ハッ」

きびきびとした動作で車から私の大きな荷物を運び出す。感心、感心。丁寧に扱
ってくれよ。大事な荷物だ。書記は私に視線を戻して、建物の中に入るよう促し
た。
93 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時58分19秒
「さあ、どうぞお入りください。前線から大分、離れているとはいえ、戦時下で
すのでご不自由かとは思いますが」
「いいえ。このようにお迎えいただいて恐縮ですわ」
「勿体無いお言葉です。真希同志をしっかりと御守りしなければ将軍様に顔向け
できません」

その辺りが本音か。まあ、正直と言えないこともない。
それにしても豪奢な建物だ。ロビーの吹き抜けは天井が見えないくらい高い。き
らびやかに光るガラス細工のシャンデリアは、天から降りてきたかのような厳粛
さで、その灯りの下、照らされる人間に畏怖の念を与える。金正日独特の計算な
のだろう。
94 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時58分39秒
「お部屋は三階になります。ところで金剛山の方に滞在されていたとか。あちら
の状況はいかがでしたか?」
「観光事業も当初のような賑わいはなくなりましたから…内戦がなくても、休業
は時間の問題だったかもしれません」
「そうですか、それは残念。なにしろ外貨は喉から手が出るほどほしいところで
すから…おい、気をつけて運んでくれよ。大事なお荷物だ」

見かけよりも重たい荷物にバランスを崩しそうになる兵士達が気になったか。
危ない、危ない。これ以上、突っ込まれるとボロが出るところだった。兵士達に
は感謝しなければなるまい。
二回を過ぎて、三階までの階段を上りきると右手に曲がろうとする。何か気配を
感じて、左手を振り返ると、兵士が二人、部屋の前で直立している。
95 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時58分59秒
「どなたかご滞在ですか?」
「あ、ええ…と、党中央の幹部が視察に来ておりまして…」
「あのような厳重な護衛が付くところを見ると、相当な高位の方ですね。ご挨拶
に伺わなければ」
「あ、いえ。それには及びません。さ、こちらがお部屋です、どうぞ」

慌てる様子が微笑ましかった。怪しまれるような護衛など付けなければよいのに。
話を逸らすように部屋の扉をサッと開けて招き入れる。中を覗くと、その内装の
豪華さに驚いた。

「うわあ。すごい部屋ですね」
「旧ソ連邦のブレジネフ同志書記長もお泊りになった由緒あるお部屋ですから」

私の驚き様に気をよくしたのか、先ほどまでの慌てぶりもどこへやら。得意満面
の笑みを浮かべて自慢する書記の様子に、この人は、きっといい人なんだなと、
ふと思った。
ドサッという音が聞こえて目を向けると、私の荷物が運び降ろされたところだっ
た。
96 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)22時59分31秒
「こらっ、慎重に運べと言っただろう、お荷物を傷つけたらどうするんだ」
「ケンチャナヨ。気にしないで下さい。丈夫な中身ですから」
「恐れ入ります。お前ら、真希同志が優しいお方で命拾いしたな」

大げさな。だが、当人達にとってはまったく、大げさではなかったらしい。心底、
安堵した、といった様子で私に敬礼する兵士達の視線が痛い。この国はやはり、
おかしい。私は改めて任務の重要さに思い至った。

「ではゆっくりお休みください。お食事の用意ができたらお呼びします」
「恐れ入ります。案内、ご苦労様でした」
「失礼します。お前達は真希同志ご滞在中、しっかりと御守りするんだぞ」
「ハッ、命に代えても御守りします!」
97 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)23時00分16秒
いやあ。それはなんだな。ちょっと気分が良かったり。ナイトに護られるお姫様
の気分。もう少しだけ堪能したい気持ちを押さえ込んでにこやかに微笑む。

「よろしくお願いします」
「ハッ!」

敬礼して退出する二人の兵士にはなんとなく後ろめたい気分を残しつつ、後に続
く書記の背中を押すように扉を閉めた。さて、頑張るか。ここまでは予定通り。
書記が階下に達した頃合を見計らって、行動開始しなければ。深呼吸して数字を
数える。
1…2…3…
どれくらい時間が経っただろう。もう、いいだろうか。ドアに耳を寄せて外の様
子を窺う。静まり返った様子からは書記がいる気配は窺えない。二人の兵士はま
じめに直立していると見える。
作戦開始。気合を入れるために、軽く深呼吸をして宣言。

「さあ、始めるよ」
98 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)23時00分39秒
カチャ、という音とともにドアが開き、二人の兵士の顔が覗いた。

「ごめんなさい!車に忘れ物なの、急いで取りにいかなきゃ!」
「それには及びません。車を止めてきます。真希同志はここでお待ちください」
「あ、でも書記さんに断らなきゃ」
「私どもが責任を持って追いかけますのでご安心いただけますよう。いくぞ」
「おうっ」

二人の兵士が飛び出していくのを確認して、ようやく一息ついた。まずは成功。
さて、次、いきますか。

「ヨボセヨーッ!ごめんなさい、大変なの!ちょっと来て!」
99 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)23時00分57秒
ドアから顔を出して廊下の向こう側にいる兵士達を呼び寄せる。怪訝そうな顔つ
きで、ふらふらとこちらに寄ってくる兵士達を急かす。

「早く!お願い!」

切迫した様子が伝わったのか、走ってくる二人を部屋に招き入れる。
そして…

「うわっ」
「ぐ、ぐ…」

入ってきた途端、いきなり寝てしまった失礼な二人に遅まきながら挨拶した。

「ありがとう。ちょっと眠っててね」

私は再び顔を覗かせて、誰もいないことを確認すると後ろ手で静かにドアを締め、
廊下を反対側へと向かった。
100 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月09日(木)23時08分08秒
>>86-87名無し読者さん

ありがとうございます。
読んでいただけているなんて(泣

昨年の12月から仕事の関係で大きな変化がありまして…
少し(どころではないですね)更新ペースが遅くなるかもしれませんが
(1回/2週くらいかな)年度末(3月末)までにはなんとか完結したく(汗
あと少し(かな?)、お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
101 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時29分22秒
車を呼びとめて二人の兵士が招待所の持ち場に戻ろうとすると、やはり大きな
荷物を運ぶ二人組の兵士にバッタリ出くわした。

「おい、その荷物は…」
「ああ、真希同志がこいつはいらないとおっしゃるんでな」
「忘れ物をしたとおっしゃられたんで車を止めてきたばかりなんだが…」
「こいつを片付けるよう言い忘れたんだろう。重いんでな、失礼するよ」

腑に落ちぬ点は残るものの真希同志の名を出されては疑うわけにもいかない。
疑わしげな視線を走らせつつも横を通り抜ける二人組を眺めるのみである。

「なんだか変だな」
「ああ、真希同志に確認しなければ。だいたい、あいつらいつのまに上がり込
んでいたんだ」

二人の兵士はお互いに納得していないことを確認すると、なんだか悪い予感が
してじっとしていられない。急げ。どちらともなしにつぶやくと、走る様にし
て階段を駈け上がる。自分達の持ち場へ一直線。叩くようにしてノックするが
返事はない。すわ、一大事とドアノブを回せば鍵はかかっていない。
102 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時29分43秒
「いかん、真希同志の御無事を確認しなければ」
「ああ、突っ込むぞ」

二人の間に緊張感が走る。配備されたまま使ったことの無いトカレフを握る掌
に汗がにじむ。どくどくと跳ねるように踊る心臓の鼓動を聞きながら、タイミ
ングをはかる。
1……2……3……!
それ!今だ!
バタンとドアを開くと同時に姿勢を低くして部屋に転がり込む。敵はどこだ?

だが、つっ伏して部屋の中、左右を見回しても敵の姿は見えない。
隠れているのか……
なおも緊張を解かずに二人の兵士がそのしかいの奥に認めたもの……
それは……

手脚を縛られ、猿轡を噛まされた金永南付きの護衛兵二人だった。

103 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時30分09秒
◇◇◇

「おい、いつまで寝ているつもりだ。起きろ」

言われなくても、そのつもりだ。ガタガタと音を立ててトランクの蓋を開ける
と閉塞感から解放された。感慨に耽る暇はない。続けて同じトランクに入り込
んでいた金永南の手を取って身を起こすのを助ける。

「狭いところを我慢いただき恐縮です」
「いや、助けてもらっただけでもありがたい。感謝しますよ」
「光栄です。人民最高会議常任委員長閣下」

鄭は早速、ごまを摺っている。まったく如才ないやつだ。だが、金永南はやん
わりとその役職を否定した。

「いや、それは既に平壌を発つ以前に解任されているし、新しい国家で私が果
たす職務の名前もまだ決まってはいないよ」

狭苦しい装甲車両の中で「新しい国家」という響きはやけに重たく感じられた。
そのための救出作戦である。まずは作戦成功の喜びに素直に浸りたいが、状況
がそれを許さない。
104 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時30分32秒
「そうですな。閣下にはフル回転していただかなければならないでしょう。ま
ずこの国、いや朝鮮半島北部の状況について対外的に認知してもらうために閣
下のお力が必要です」
「平壌を離れていては難しいことではあるが」
「通信施設の確保については呉総司令官が尽力しておられます」
「あの男もよく働くな。まるで水を得た魚のようだ」
「戦場でしか生きられない男の見本のようですな」

鄭の軽口が場の雰囲気をいくらか和らげた。乱世とはいえ、旧態の秩序が骨身
にしみ込んだ下級兵士達に、ついこの間まで実質、共和国のナンバー2であった
要人と席を同じくしているのだ。緊張するなという方が無理な注文だった。

「それにしてもあまりに展開が早すぎて何がどうなったのかまったくわかりま
せん。一体、どのようにして潜入できたのですか?」
「なあに、こいつが恐れ多くも親愛なる指導者同志の御寵愛される後藤真希同
志に化けたって筋書きでさあ」
「なんとまた大胆な」
「本物だったらもう少し優雅な御案内もできたのですがね。おい、失礼はなか
っただろうな」
105 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時31分04秒
あんたの態度が十分失礼だと、悪態をつきたい衝動に駆られつつもそこは金永
南のいる手前、必死で我慢。まったく、この人がいて命拾いしたな、おい。心
の中で毒づくのも虚しい。だが私の殺気を察知したか、鄭の言葉使いが若干、
和らいだ。

「冗談はさておいて。こんなやつですが、今ではいっぱしの士官です。金永南
同志、何かお言葉を」
「おお、そうだった。市井サヤカ小隊長同志、このたびの武勲、大変見事であ
りました。お礼を言います」
「光栄です……」

私は不覚にも胸が一杯になった。いや、そんな一杯になるほどの胸もないくせ
に、などと茶化さないでほしい。久しぶりに人の役に立っているという実感は、
それこそ私が生きていること、生きていることの意味を切実に感じさせてくれ
たのだから。
106 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時31分50秒
この数ヶ月、幾度か死線を潜って来たが、その度に何故そこまでして生きる
のか、自問したまま答えの得られないフラストレーションだけが募った。その
たまりにたまった心の鬱屈が一気に吐き出される開放感。金永南の言葉はそれ
ほど私の心を晴やかに掃き清めてくれた。

「それにしても……」

まだ何か……
金永南の何か言いたそうな様子に私は顔を上げた。

「話しには聞いていたが立派な兵士になったものだ。その精悍な顔つきでよく
疑われなかったものだな」
「……」

さすがの鄭も沈黙してしまった。
そんなにワタシハオンナノコラシクナイデスカ……

「い、いや……奇麗になったなどと…私に言わせるのかね…」

意気消沈した私の様子にまずいと思ったのか、慌てて金永南は言葉尻を繕おう
とする。その様子は微笑ましいといえなくもない。今さっき私が負った些細な
心の傷を差し引いても。
107 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時32分07秒
て、照れてるのかな…いや、そんなはずは……
なんだろう…心にかかっていた靄が晴れるように爽かな風が吹いた気がした。
心無しか鄭が笑いを堪えて苦しそうな表情を浮かべているような気がする……
なんだよ!ひょっとして、私、今、すごいみっともない顔してる?そんな嬉し
そうな顔しちゃった?まあ、いいや。嬉しいのは本当だもの。

だが、感慨に耽る時間はそう長くは続かなかった。
突然、激しい衝撃とともに視界が揺れた。低音域の乾いた金属音がぐわんと腹
の底に響く。来た!装甲車両後部への着弾が確認されるや否や金永南と運転手
を除く全員がAK74を手に配置に着いた。要人の脱出に気付いた人民軍が奪還の
ために追ってくるだろうことは計算済みだ。
108 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月16日(木)15時32分29秒
「案外早かったわね」
「ああ、せっかくの再会だ。もう少し、しみじみと語り会わせてやりたかった
んだがな」
「――知ってたのね…」
「早いとこ撃退して続きをやるさ」

ったく、この男だけは…
まあ、いい。今は目の前の敵を掃討することに専心するのみ。敵はジープの上
から散発的にライフルを打ち込んで来るだけだ。輸送車とはいえ、装甲9mmの
こちらに実質的な損害を与えることはできそうになかった。加えて旧式のジー
プでは輸送車両とはいえ最高速90km/hで走る敵を追走しつつ銃撃を仕掛けるの
は難しい。

山間部に入るとその走行性能に一層の差が出始めた。次第に銃を発射する間隔
が開いてくる。最後にその銃口が花火のようにパンと弾けた。その姿が次第に
小さくなっていく様を眺めていると、自分が戦場にいるというよりは、ジオラ
マを走る模型でも眺めているような非現実的感覚を催させる。そのせいだろう
か。再び安全圏である自陣に戻るまで、車内で口を開くものはなかった。
109 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時06分04秒
許可を得て独房の並んだ一画へと続く石畳の廊下に立つと、なんとも言えぬ暗い
雰囲気に心がささくれだった。日中から日が差さないためか、ひんやりとした空
気が肌に痛い。屋外とそれほど気温差がないようにさえ感じられる。

こんなところで後藤は……
入口で看守に告げられた番号の部屋の前に立つと、なんだか恐くなって声を掛け
るのが憚られた。
何を話したものか。後藤は自分を憎んでいるだろうか。このような状況から救う
ことさえできない自分を恨んでいるだろうか。

いけない。私は逃げていた。後藤から責められるのが恐いのだ、きっと。だが、
話さなければなるまい。しばらくはこのような拘禁状態が続くことを。金正日の
愛情が本物であるならば、後藤は戦略上、有効なカードとなるはずだった。

コン、コン……

気を取り直して格子窓のついた鉄の扉を叩く。その冷たさに触れた手の甲の感触
が心を萎縮させる。
後藤が返事を返す気配はない。もう一度扉を叩くとともに、声を掛けた。緊張か
らか乾いた喉が絞り出した声はかすれがちで、なんだか自分の声ではないような
気がした。
110 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時06分28秒
「後藤……後藤……?」
「………」
「――いるんだろ、後藤?」

今度は気配を感じた。私の声がわからなくなるほど離れていた時間は長くはない
と思うものの、彼我の差に鑑みればその立場の違いは、何十年の時を経たよりも
遠く二人の間を分かつ。後藤の逡巡がやはり、彼女もこの途方もない距離感をど
うしたものか戸惑っているように思えた。

「後藤……市井だよ、市井紗耶香だよ」
「――市井ちゃん?」
「ごめん、寝てた?」
「ん?ううん。来てくれると思ってた」

久しぶりに聞く後藤の声からは特に健康を害しているような兆候は見うけられな
かった。

「寒くない?食事はきちんと取ってる?暇だったら本でも…」
「うんん。いいんだよ、市井ちゃん。食事は三食きちんと配給してもらってるし
毛布もある。日中は考えごとをして過ごすから退屈することもない」
「後藤……」

その穏やかな様子からは虚勢の色や、あえて私を安心させるため嘘をついている
ようには感じられなかった。それよりも私を驚かせたのは、その落ち着き払った
態度だった。淡々と現実を受け入れている後藤の姿はまだ17歳の少女とは到底信
じられないほどの精神的な熟成を感じさせた。
111 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時07分00秒
「今まで走るばっかりで、きちんと物事を考える時間ってなかったから。いろん
なことをね、ゆっくり考えてるから、ホント、退屈することはないよ」
「そうか…それなら安心だけど」
「うん」

だが、その時間で後藤は何を考えている?敵味方、という立場で考えるならば、
後藤は敵に捕われた捕虜なのだ。恐くはないのか。私がいるからと、安心してい
るのか……

「ごめん。今日はちょっと言いにくいことを伝えに来た」
「ん?」

聞き返す声の調子にも不安を示す色は感じられない。これから伝える内容を聞い
てからも、まだ、そのままでいられるのか。恐い。嫌われるのはいやだ。
だが……
格子越しに床に座りながら私を見上げる後藤と視線が合った。その無垢な表情。
何の疑いも抱いてはいまい。買い被り過ぎだ。私には何の力もない。一小隊を預
かるとはいえ、軍の決定を翻すほどの力は何もない。許してくれ、後藤……私は
無力だ。

「後藤、正直に言うよ。革命軍の幹部はお前のこと、金正日の寵愛を受けている
有力な第二夫人だと思ってる」
「そう……」
「言いにくいんだけど、つまり、その……」
112 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時07分21秒
「人質としての価値、ってことかな?指導者同志がどれだけ私のことを大事にし
ているか。知りたいのはそういうこと?」
「後藤……」

いろいろなことを考えている、というのは誇張でもなんでもなかった。冷静至極
な分析に私の方が狼狽を隠せない。

「いいんだよ、市井ちゃん。市井ちゃんには市井ちゃんの立場があるし。でも、
言いたくないことは言わないから。私だって人間だもん」
「言いたくないことまで言う必要はないよ。ただ、個人的に金正日がいくら寵愛
しているとはいえ、後藤のために権力を投げ出すとも考え難いけど」
「そうだね。そこまではあの人もしないと思う」
「後藤はどう思ってるんだ、あの男について」

少しだけ、逡巡する様子がうかがえた。その思いは複雑なのか。わからない。言
葉を探しているのかもしれない。後藤は言葉を選ぶ。いや、大事にすると言った
らいいか。それだけコミュニケーションというものに希望を抱いている証拠だろ
う。そこが私と彼女の差……なのかもしれない。

「どうって……一国の為政者として?それとも――」
「いろんな意味でさ」
113 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時07分50秒
そう……いろんな意味で。この国の歪みはすべてあの男に起因しているといって
も過言ではない。この評価だけはどう過大に見積もっても変えようがない。だが、
一個の人間として見た場合、また違う側面もあるかもしれない。それが知りたい。

「市井ちゃん、ウリナラ――共和国が世界中から非難されてるのは私も知ってる。
確かに拉致は悪いことだし、餓死者が出るほど経済を悪化させた責任も重いと思
う……けどね」
「けど?」
「……」

私は後藤の言葉を待った。まさかこの国の在り方についてまで後藤が考えていた
とは思いも寄らなかったから。だが、一時期とはいえ、あの男の肉声を聞いた数
少ない証言者として、後藤のこれから話す内容は国際政治の力学を解明する上で
非常に重要なものとなる可能性がある。私は少しだけ居住まいを正した。

「市井ちゃん、小国だからって他国に蹂躙されていいことはないよね?」
「へっ?あ、ああ。もちろん、そうだろう」
「共和国は貧しい国だよ。国土は山野に覆われて米はできない。南に韓国、北に
中国、ロシア。大国に囲まれる小国に生き延びるための選択肢は多くない」
114 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時08分13秒
思ってもみないところを突かれて私は狼狽した。後藤はまた何を言い出したのか。

「アメリカの将軍がね、共和国はハリネズミみたいだって言ったことがある。う
まいこと言うよね。ハリネズミみたいにトンガってないと、いつ大国に踏み潰さ
れちゃうかわかんないんだよ」

ハリネズミどころか、最近ではサソリ…って呼ばれてるらしいけど。一撃必殺の
尻尾で刺す。死んでもまだ刺すって。口に出かけた言葉を飲み込んで先を促した。

「アメリカは正義の名前のもとに韓国や日本に軍隊を駐留させてるよ。これって、
その国が本当に自主独立してることになるの?」
「私は嫌だけど――でも、必要なんだろ?日本は憲法で軍隊持てないことになっ
てるし」
「ウリナラだって嫌なんだよ。小国が自衛のために核を持つのはいけないことな
の?」

驚いた。何の話だ。っていうか、後藤、いつのまにそんな詳しくなったんだ?

「よくわかんないよ。後藤は一日中そんなこと考えてんのか?」
「いろんなことだよ。ごとーは頭悪いからいろんなこと考えないとわかんないん
だよ」
115 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時08分33秒
「後藤は頭悪くないよ。私よりよっぽど頭いいと思う」
「うんん。違うよ。ごとーはやっぱりわかってないんだ。だから今、こうやって
ゆっくり考えることができる環境は、しょーじき悪くないと思ってる」

それが永遠に続いてもか……
声には出せなかったが、表情で伝わったのだろう。後藤は悲しそうに眉根を寄せ
た。

「市井ちゃん、最近、やっとわかったんだ」
「何だい?」
「ごとーは何で北に渡ってきたのか」
「それは……」

私のためじゃないのか――とは聞けずに、無言で続きを促す。

「もちろん、市井ちゃんを助けたい気持ちは強かったし、それが一番だと思う。
でもね、それだけじゃなかったみたい」
「うん、私もそれだけじゃないと思ってた」
「へへ、やっぱ市井ちゃんにはわかっちゃうね」
「教育係だからな」

後藤はもう一度嬉しそうにへへっと口許を緩め、それから少しぼんやりとした表
情で視線を泳がせた。

「なんていうのかな。うちって在日じゃない?だからかもしれないけど、祖国に
対する思い入れって逆にハンパじゃないんだよね」
「それは、北朝鮮に対する愛着が強いって意味か?」
116 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時08分51秒
「うん。いつも住んでるとこが祖国だったらさ、そんなことほとんど意識しない
と思うんだ。むしろ、そんなこと考えてたら息苦しいっていうか」
「よくわかるよ」

それはよくわかる。私たちにとって祖国なんて空気みたいなもんだ。何もしなく
てもそこにあるものを意識する人は稀だろう。

「でもさ、幸か不幸かうちは在日で。離れてると意識しちゃうんだね、そこが本
来自分の属する世界だと思うとさ」
「美化してしまうということか?理想の国というか」
「んん、いちおー悪い情報も知ってたから理想化してたってことはないと思う。
ただ、日本で生活する自分の足下が定まらないっていうか、何かふらふらする感
じ?そういうものはあった」

どこか居場所の定まらない感じ――か。

「それは娘。にいるときも?」
「そうだね。唄って踊って、それでいろんな人が喜んでくれるのは素直に嬉しか
った。けど……」
「けど?」
117 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時09分06秒
違和感は――あったんだろうな。それは私も感じていた。結果として、私の方が
先に娘。を去ることになってしまったけど、後藤がいつまでもあの世界に安住す
ることはないだろうという予感めいたものはあった。それがどういう背景による
ものか、あの時点で考えるほどの余裕はなかったけれども。

「自分は自分のいるべき場所ではないところで何をやっているんだろう、って思
ってたかも」
「いるべき場所は北朝鮮だったのか?」
「んん、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただ、やっぱり自分が
足を降ろすべき地面はここなんだって今は思う」
「後藤……」

わからない。自分が日本人として、その国籍を疑うことなどなかったせいかもし
れない。私にはわからない問題なのだろう。だが、後藤の吹っ切れたような晴れ
やかな顔を見るに連れ、私の中で増していくこの漠とした感じは何だ?

「安心してるのかもしれない。少なくとも自分が何かの役に立つってことがわか
っただけでも」
「それが金正日のためでもか?」
118 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時09分28秒
「市井ちゃん……指導者同志のために何かができるならそれは祖国のために何か
ができるってこと。私はそう思ってる。少なくとも指導者同志の政策はすべて国
民のためという最前提に立っている。これだけは間違いないよ」

凛とした声の響きに迷いは窺えない。強い信念。その声の調子には後藤の揺ぎ無
い自信が漲っていた。

「後藤、私にはそうは思えないよ。考え直す気はないのか?お前がその気になれ
ば上層部だって、別の考えはあるんだ」
「生きて虜囚の辱めは受けず、だよ。市井ちゃん」
「そうか……」

それ以上の留保は逆に後藤の信念を汚すように思えて躊躇われた。それ以上交わ
す言葉も見つからず、私は別れの言葉を告げた。

「後藤、考え直したらいつでもいい。言ってくれ。私でも、ユウキにでも。どう
せいつも来てるんだろ?」
「そうでもない。あいつはあいつで忙しいみたいだから。それに私の気持ちは変
わらないし」
「そうか。また来る。何か欲しいものがあったら遠慮なく言ってくれ。すぐに届
けさせる。それじゃ」
「うん。市井ちゃんも無理しないでね」
119 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時09分44秒
最後の言葉は肩越しに私の耳に届いた。結局最後まで、後藤は迷いひとつ見せな
かった。まったくどちらが窮地に立たされているのかわからないような会話だっ
た。そう考えるとひどく寂しくなる。後藤だけがどんどん先を進んでいるように
感じられて。教育係が聞いて呆れる。まったく、いいざまだ。教えられてるのは
私の方じゃないか……

収容所の守衛に声を掛け面会が終了したことを報告すると、待たせていた軍用ジ
ープの後部座席に乗り込み、宿舎に戻るよう運転手に告げた。満足に舗装されず
でこぼことした道を進む車の決して心地よいとは言えない揺れが、いっときだけ
でもこの寂しさを忘れさせてくれるような気がして、このときだけは歓迎したい
気分だった。少なくとも宿舎に戻るまでは。

ジープを降りてお尻を擦りながら座席の固さと運転の荒さに悪態を吐いたときに
は、そんな想いなど記憶の彼方に跳んでいた。
120 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時10分18秒
◇◇◇

夕闇の広がりつつある中、ランプひとつを囲んで二人の男が何やら深刻そうに話
し込んでいた。

「まずいことになりました。ロシアはともかく、中国は静観すると見ていたので
すが」
「金正日を侮ってはいけない。大方、政変後の国境問題でもほのめかせたのだろ
う。チベットや台湾問題だけでも頭が痛いのに現状、平穏な朝鮮族自治区までが
紛争の火種になってはかなわんからな。その程度は想像に難くないことだ」

政府人民軍に対する中国の後方支援を憂えているのは革命軍の軍事総司令官呉克
烈。冷静にそれを受けとめているのはつい先頃、金正日による軟禁状態から解放
されたばかりの金永南。今や革命軍を傘下におく反政府勢力の実質的代表である。

「国境の警備を固める程度であれば問題はなかったのですが……」
「火力支援は頭の痛い問題だな。それだけは比較的優位にあったはずなのだろ
う?」
「はい。戦車、ミサイル、戦闘機など人民軍の最精鋭部隊を取り込んだはずでし
たので」
「目算が狂ったか」
「不覚の至りで」
121 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時10分36秒
金永南はただでさえ細い目をさらに細めて遠くの方に視線を投げた。人民軍の兵
員数が大幅に勝っていることを考えると、さらに火力においてこちらと互角以上
の装備を得た時点で勝ち目はない。

「戦局はどうだ」
「押されています。前線はずるずると後退して一時は平壌近郊まで迫ったものの、
再び价川(けちょん)付近まで押し返された状態でして」
「なし崩し的に人民軍内部の崩壊が進むかと思ったが。延享黙のやつ、やりおる
わい」

正直な感想であった。人品骨柄の卑しさは如何ともし難いものの、こと軍隊の統
率に掛けて当代一級の手腕であることは認めざるを得なかった。しかし、そうや
すやすと延享黙にしてやられるつもりはない。外交戦での遅れは外交で返す。金
永南にはこの劣性を巻き返すための策がある。

「中ロが静観していれば他国の助けを求めるまでもなかったのだが」
「では?」

呉克烈はキラリと目を光らせた。

「そうだ。期は熟した。米側の感触は悪くない。日本に派遣した宣伝要員がよい
働きをしている。ただ……」
「ただ?」
122 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時11分00秒
「米国はイラクに傾き過ぎている。国務長官ラムズフェルドは金正日への牽制と
して、二正面同時展開は十分、可能だと語っているが……」
「現実問題として、まず不可能でしょうな」
「うむ」

それが問題だった。朝鮮半島は米本土から遠く、大陸間弾道ミサイルの射程はせ
いぜい太平洋上のハワイまで届けば上出来。米国にとって本来的な意味で北朝鮮
は脅威足り得ず、攻撃したとて得られるものは何もない。一方で中東は石油利権
が絡む。石油メジャーを政権の経済的な後ろだてとするブッシュ政権にとって、
どちらがより重要かは火を見るよりも明らかだった。

「せめてもの救いははEU各国がイラクへの攻撃については否定的だということ
です。今のところイラク側が従順に査察に協力していますからな」
「ああ。だがブッシュは単独の攻撃も辞さないとしている。石油メジャーにとっ
てはフセインからあの豊富な油田の利権を取り上げる絶好の機会だからな。そう
簡単にはあきらめまい」
「そうなると、やはり世論を動かすしか……」
「うむ。だが、あれを前にしてはさすがにそうも落ち着いてはいられないはずだ」
123 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時11分15秒
金永南はそこで表情を引き締めた。これから話す情報はある意味、自分達にとっ
ても脅威となりうる。だが、一方で米国を動かすほどの重みがあるのだ。呉克烈
は真剣な面持ちで金永南が口を開くのを待ち構えた。

「人民軍の大陸間弾道ミサイルは既に米本土まで到達可能な射程距離を確保して
いる。実験が行われていないため、可能性での議論しかできないのだが、コンピ
ュータ上のシミュレーションでは既に検証済みとされている」
「いざとなったら金正日は……」
「そうだ。核で米国に脅しをかけるやもしれん。それだけは朝鮮民族の誇りにか
けても阻止しなければ」

金永南は拳をギュッと握り締めてその決意のほどを示した。

「あの男。日本に滞在中の趙大佐がそのデータを携行しているはずだ。やつをワ
シントンに派遣して安全補償担当大統領補佐官に面会させるのだ」
「わかりました。急ぎ、連絡を取りましょう」
「頼んだぞ」
「ハッ。では失礼します」
124 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月23日(木)13時11分47秒
呉克烈は立ち上がり、敬礼のポーズを取ると踵を返し足早に部屋を去った。後に
残された金永南はランプの火を消すとゆっくりと立ち上がり、仮眠を取るために
自室へと向かった。これからがまさに正念場だ。薄暗がりの中、その顔に浮かん
だ表情は何としてもこの状況を乗り越えるのだという強い決意を映し出していた。
(そのためには……)
金永南はしばし立ち止まり、虚空に視線を泳がせた。
(あの少女に委ねねばならないのか……)
数秒の逡巡の後、何事もなかったかのように立ち去った彼が残した規則正しい足
音はその強い意志を伝えるかのごとく、無人の廊下に固く響き渡った。
125 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時12分13秒
◇◇◇

例の任務から帰還後どうも落ち着かない。会う人会う人がみな、私の顔を見るな
り「ほお」とか「はあ」とか驚いてるのか呆れてるのかわからない反応を返す。
中には「ふむ」とか「んん?」とか、19歳の乙女の面前で考え込む剛の者もいて
失礼なことこの上ない。
(一体、何だってんだ?)
収容所から一緒で今やその特技を生かし、部隊の各炊事班を束ねる軍曹に任じら
れたアジュモニなどは、私の顔を見るなり抱きついてまくしたてる。

「アイゴー、市井同志!あんたはやっぱり、何か違うと思ってたよ」
「何のことよ?」
「だてに柳寛順に似てるだけじゃなかったんだね」
「だから、何のこと?」
「有名な降倭の武将と名前が同じだって。滅多にある名前じゃないらしいって噂
で持ちきりだよ。やっぱり市井同志には何か神懸かったところがあると思ってた
よ!」
「はあ?」

一体、誰がそんな噂を流したものか……
だが、その疑問は一冊の本を手にやってきたイーファによって氷解した。ページ
を繰りながら、さも感心したように私の顔を覗き込む仕種が何だかわざとらしい。
126 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時12分34秒
「ほお」
「何だってのよ」
「偶然なのかねえ。ま、読んでみたら。これ」

問題の記述があるページを開いたまま渡された本の上にはハングルがびっしりと
詰まっていた。読めないことはないが、できれば敬遠したい気分だ。ソウルに着
いて半年間くらいは毎日、語学学校から出されるハングルの宿題に辞書と首っ引
きで取り組んでいた。そのお陰か、今ではハングルの簡単な本程度は読めるよう
になったけれども、この本に関して言えば私の能力には余る。要するに読めなか
った。

「何の本かわからないんだけど――どこに載ってるの?」
「ここ」

イーファが指し示した箇所を見ると、朝鮮の書物にしては珍しく漢字が。

『沙也可』

なんだかくすぐったくなる様な読み方の固有名詞だが、これは一体……

「サヤカ……ってこれ、私の名前?」
「違うよ。何百年前の本だと思ってるの、これ?」
「え、そんな古い本なの?」
「そう。しかも驚いたことにその『サヤカ』は約400年前に日本から渡ってきた
倭人だ」
127 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時13分12秒
倭人って……私は『沙也可』の記述がある部分の前後を眺めて、意味の掴めそう
なところを拾い読みした。眺めることしばし。つまりこの「サヤカ」なる人物は
豊臣秀吉が朝鮮に攻め入ったとき、その自らの野蛮なるを悔い、「儒教の国」たる
朝鮮に兵三千人を率いて投降したと、そういうことらしい。

「へえー、すごい偶然もあるもんだね。しかし、これ本当なの?小説か何かじゃ
なくて」
「ちゃんとした史書だよ。『慕夏堂文集』といってね。投降した『沙也可』自身が
書いたとされている。まあ、それは怪しいけどね。実際は子孫が書いたんじゃな
いかって話だけど」

「しかしなんだって、こんな」と、言いかけてハタと気づいた。また誰か、胡乱
臭いことを企んでいる?イーファを睨みつけて問いただす。

「やっぱりこれ、つくったんじゃないの?『沙也可』なんて武士の名前にしては
変だもん」
「ふー。疑い深いねー、こっちの紗耶香は。大丈夫、ホント。日本の作家シバリ
ョータローも*『街道をゆく』っていう本で『沙也可』のことについて書いてる。
これでも信じない?」
128 名前:注釈 投稿日:2003年01月24日(金)15時13分39秒
*「街道をゆく」:その巻ニ「韓のくに紀行」において「沙也可」に関する記述が
詳しい。
129 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時14分09秒
司馬遼太郎が?実物を読んでみないとなんともいえないが、私でも知ってる有名
な作家の名をわざわざ持ち出すところを見ると、本当なのだろうか。しかし俄か
には信じ難い話だ。第一『沙也可』なんて、やっぱり女の子の名前だよ。

「リョータローは名前について『沙也可(サヤカ)』でなくて本当は『沙也門(サ
エモン)』だったんじゃないかって推理してるね。『可』と『門』を書き違うこと
は充分考えられるって」
「えらく詳しいわね」
「だって凄いじゃない!その昔、突然攻め込んできたイルボンの野蛮人の中に、
投降してウリナラのために戦った高潔な武者がいたなんて。その名前が紗耶香と
一緒だなんて、もう偶然だとは思えないわ!」
「ホントならね」
「もう!紗耶香は冷めてるんだから」

騒ぐだけ騒ぐとイーファは、私の連れない態度に機嫌を損ねて肩を竦めながら、
私とは反対方向に行ってしまった。まったく人騒がせにもほどがある。気を取り
直して、足を踏み出したそうとした瞬間、

「紗耶香!」

呼び止められて振り向いた。
130 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時14分31秒
「何?」
「大事なこと忘れてた」

イーファはすまなそうに告げる。

「――呉司令官がお呼びだったんだ……」
「いつ?」
「――10時までに作戦本部に集まるようにって……」

左手の袖をめくって時刻を確認。

「――過ぎてんじゃん……」
「ごめん……」

既に10時15分だった。

「やべー!急がなきゃ!」
「行こ!私も謝る!」

当たり前だ、と言いたいところ。ぐっと我慢して走った。司令官は時間に煩い。
っていうか、軍隊で遅刻は懲罰ものだ。下手するとトイレ掃除……うわぁーっ!
私は奥歯を噛んで叫んだ。

「加速そーちっ!」
「?」

不思議そうに見つめるイーファ。無理もないか。サイボーグ009なんか知ってた
ら逆に気味が悪い。
131 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時14分50秒
とにかく、走りに走って、作戦本部に到着したときには、既に小隊の主だった隊
員が集められていた。何かある……私は、ぜえぜえと、大げさに息を吐く。いか
にも走って来ましたと言わんばかりの姿でアピールするとイーファとともに空い
ていた末席に腰をおろして並んだ。

「待ちかねたぞ、市井少尉」
「ハッ、申し訳ありません!」

ばつの悪さを隠すためにピシッと指先を伸ばして敬礼。目は怒ってない。それど
ころか、少し呆れたように笑っている。よかったあ……男子トイレの掃除だけは
何とか免れた……

「来てもらったのは他でもない。同志の昇進についてだ」

どっと隊員たちがどよめいた。私はポカンとしたまま次の言葉を待つ。聞いてな
いよ、そんなこと……

「今回の任務遂行の手腕、まことに見事であった。その功績により、准将に任ず
る」

おおっ!今度は腹の底から響くような男性の野太い声がその場の空気を震わせた。
私はあっと言いかけてポカーンと口を広げたまま、言葉が出て来ない。なにしろ
何階級跳んだのかさえ定かではないのだ。頭の中は真っ白だった。
132 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時15分11秒
「驚くのも無理はない。六階級特進だからな。こんなことは人民軍の長い歴史に
おいてもかつてなかったことだ。生まれたときから元帥を約束されていた一人を
除いてはな」

その一人が金正日であることは言を見るまでもない。改めてそのいびつな世襲制
度により政権を維持する金王朝の打倒以外に、北朝鮮人民を救い出す方策はない
ことに思い至る。だが、それと私の非常識な昇進とは話が別だ。ようやくショッ
クから解放されると、私は呉司令官に相対して反論した。

「司令官殿、お言葉ですが常軌を逸した昇進は隊の規律を乱します」
「うむ。わからんでもない。だが、これは金永南自由革命政府代表同志の意向で
もある」

なんだと?金永南……あの人がなぜ?

「それに私も賛成した」
「なぜです?」

私は食いつかんばかりの勢いで糾した。まったくもって理解できない。それでは
私が、私が……

「勘違いするな。女をモノにするために六階級も特進させるほど、俺もまだ落ち
ぶれちゃいない。もちろん金永南代表同志もだ」
「ではなぜ?」
「まあ、座れ」
133 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時15分48秒
赤面した。興奮の余り、思わず立ち上がっていたらしい。傍でイーファがニタニ
タと厭らしい表情を顔全面に張り付かせている。

「さすがに部下を統率する能力のないやつに人を導くべき役職を与えることはな
い。今回の任務遂行は私も評価しているのだ」
「しかし……」
「話は最後まで聞け。だが、それだけでないのは同志も想像している通りだ。と
きに……」

そう言って、呉司令官は一冊の本を取り出した。あっ、あれは……

「こんな本があることを知っているか?」
「!」
「知っているようだな。なら話は早い。市井同志、お前はどうにも不思議なやつ
だ。抗日独立の女傑、柳寛順に似ているかと思えば今度は名前が振るっている。
*壬辰倭乱の際、イルボンのサムライのくせに投降してウリナラのために戦った武
将、『沙也可』と同じ読みだというのだからな」
134 名前:注釈 投稿日:2003年01月24日(金)15時16分15秒
*壬辰倭乱:文禄・慶長の役(1592-1597)豊臣秀吉による李氏朝鮮侵略。双方に
とって何の益もない戦いで食糧難から投降する兵(朝鮮側では「降倭」と呼称)
が続出。「沙也可」は加藤清正配下の肥後(熊本)の地侍、阿蘇宮越後守ではない
かと言われている。
135 名前:注釈 投稿日:2003年01月24日(金)15時16分39秒
やはりそうか。どうもこれは只で済みそうな雰囲気ではない。なんだか握った掌
が汗をかいて湿ってきたのがわかる。

「まったく、イルボンの小娘の癖に、ウリナラのために戦うお前というやつが不
思議でならなかった。だが、俺はこいつを知って天啓を得た気がした。お前が軍
を率いて金正日の圧制からウリナラの人民を解放する。これはもう決まっていた
ことだ。つまり……」

この老獪な司令官は場の効果を盛り上げようと言うのか。わざともったいぶって
注意を引きつけ、芝居がかった表情で……吐き出すように告げた。

「天命だ!」

おおっ!再びその場がどよめいた。隊員たちはすっかり司令官の言葉に酔わされ
ている。呉克烈はその機を逃さず畳み掛けた。

「知っての通り、戦局は大変厳しい局面に差し掛かっている。よもやと思われた
中国の参戦により前線はズルズルと後退し、このままでは現勢力範囲の重要な基
地をことごとく失ってしまう危機に晒されている」

司令官の表情が引き締まったことで、どよめいていた兵達の瞳も再び真剣さを帯
びた。実際、我々は押されている。それだけは紛れもない事実だった。
136 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時17分07秒
「だが、我々には市井准将がいるではないか。悪名高い价川思想強化所から罪無
き収容者達を解放し、また先ごろは敵陣に単身乗り込み、金永南代表同志を救出
した。市井准将は我々にとって勝利の女神なのだ。そうは思わんか?」

おおっ!と再び兵達が歓声を上げる。やられた。それが目的か。つまり……

「市井准将はまさに我々にとってのジャンヌ・ダルク。英仏100年戦争で危機的
状況にあったフランスを救い出した神の少女なのだ」

無宗教が建前の社会主義統治下での長い伝統にも関わらず、神の概念が未だに有
効であるのは意外だった。司令官の演説は巧緻を極め、兵達の中には感極まって
涙ぐむものさえいる。

「見たまえ、諸君。この容貌を」

呉克烈の視線が私に向けられると、兵達が一斉に私の顔を見つめた。恥ずかしい。

「この意志の強さを表す眉毛の凛々しさはどうだ。まさに抗日独立の烈士、柳寛
順の生まれ変わりと見まごうばかりではないか」
137 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時17分26秒
おおっ!男性特有の倍音を伴って地の底から湧きあがるような低い声の響きが、
ぞわぞわと私の体全身を震わせる。娘。時代に多くの男性から見つめられた経験
はあるものの、一個の集団と捉えてしまえばそれほど気になるものではない。だ
が、今、私を見つめている兵士達から浴びせられている視線のシャワーは毎日顔
を合わせている個の総体。激しい羞恥心に、火を噴出しそうなほどの熱さで顔が
火照るのを感じた。

「諸君、我々には市井准将がついているのだ、勝利は約束されている。この厳し
い戦況を精神力で乗り切ろうではないか!」

おおおっ!一番大きな歓声を呼び起こして兵達はその場から散開した。残された
私は、司令官を睨みつける。

「呉司令官殿!ひどいです、こんな見世物みたいな扱いをするなんて!」
「すまない市井准将同志」
「えっ……」

意外に素直な司令官の態度に私は気勢を削がれた。
138 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時17分57秒
「詳しく説明していなかったが、我々革命軍の職制に『准将』という階級はない
のだ」
「えっ?」
「いやなかった、というべきだろう。同志のためにわざわざ作ったのだからな」

どうりで聞き覚えのないはずだ。いくら素人とはいえ、数ヶ月も軍の中で暮らし
ていれば職制くらい覚えるものだ。だが、その言葉の響きは嫌いじゃない。むし
ろ、好きだとさえ思った。

「皆に説明した通り、君は今や我々の精神的支柱なのだ。正直に言おう。当初は
イルボンの支援を得るために好都合だと考えていた」

まあ、そんなとこだろう。それくらいは私も理解していた。

「だが、偶然とはいえ、君の存在はあまりにも歴史の中に符合し過ぎている。そ
の数奇な運命といい、容貌といい――」

司令官は言葉を溜めて私の肩を軽く叩いた。
139 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時18分15秒
「――今では私自身、君が勝利の女神であることを強く確信しているのだ」
「司令官殿?」
「おかしいかね。だが、君は神の存在とは何だと思う?」
「……」

私は応えられなかった。いや、応えるべき神の概念など私の中にはない。

「信じるか信じないか。それだけだ。信じる者にとって神は真実であり、実在す
る。神とはそういうものだ。そして、私にとって市井准将、同志の存在はまさに
確信なのだ」

そこまで言われては、断るわけにもいかない。だが准将といえば旅団級の大部隊
を指揮することも……
140 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月24日(金)15時18分40秒
「案ずることはない。准将という階級は同志のために制定したと言っただろう。
指揮系統は今まで通りとする。君は現場の『精神的支柱』だと言っただろう。君
は前線の陣頭に立って、現場の兵士を鼓舞する役割だと思ってくれ」

なるほど。それなら、直接、隊員の命を預かる今までの小隊長よりむしろ気楽で
さえあるかもしれない。望むところだ。

「配属は追って知らせよう。それまでは李梨華大尉に付いて現状の戦局をじっく
りと分析してくれ」
「はっ。了解しました」

先ほどまでの戸惑いはどこへやら。軍人らしくシャキッと背筋を伸ばして颯爽と
去る司令官殿の背中に向かい、私は指先をピンと伸ばして敬礼した。
141 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時45分48秒
◇◇◇

ソニンは軽く咳払いして何かを振り払おうとしていた。それが久しぶりに連絡を
取るユウキに対する照れなのか、それとも相変わらず進展のない現状に対する苛
立ちなのか本人にもわからない。とにかくユウキの声を聞けるのは久しぶりだっ
た。

「おすっ」
「おお、元気そうだな」
「おかげさまで」

良かった。とりあえず、こうしてまたユウキの声が聞けただけでも。ソニンは、
ほっと胸を撫で降ろした。連絡係である彼が危険な最前線にいるわけでなくても、
そこは戦場である。あるいは…という疑念を抱きつつ毎回コールを待つのは嫌な
ものだ。

「元山(ウォンサン)はどう?大分、寒さも厳しくなってきたんじゃない?」
「寒いよ、死にそう。僕らはまだ軍隊にいるから暖房なんかも手配してもらえる
けど、民間人の生活は悲惨だよ。せっかくの温床(オンドル)に使う薪さえ調達
できない。山の枯れ枝は使い切って、後はもう薪に適さない生木ばっかりで」
「そう、やっぱり一刻も早く金正日に引導を渡すべきだわ。あの忌まわしき取り
巻きの連中とともにね」
142 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時46分07秒
吐き捨てるような口調の激しさがソニン自身、意外だった。あの憎らしいばかり
に落ち着いていると言われたソニンではない。だが、一瞬見せかけた心の揺らぎ
は次の瞬間、再び鉄の鎧の内側に閉ざされた。

「お姉ちゃんは見つかった?」
「それが……」

どうやら見つかったらしい。だが、あまり好ましくない方向で。言葉を詰まらせ
るユウキの様子に深刻さがうかがえてソニンは身構えた。

「どうしたの?」
「真希ちゃん、平壌で政府首脳に近い位置にいただろ。平壌政府との関係を疑わ
れて逮捕されちゃって……今、捕虜の扱いで収容所に拘禁されてる」
「まあ……」

市井がようやく強制収容所から解放されたと思ったら今度は後藤。万事うまく行
かないときはこんなものか。それにしても、反政府軍に捉えられるとは後藤もよ
ほどついていない。市井やユウキとの関係を考えればそのような扱いを受ける謂
れはなさそうだが、踊り子として平壌で後藤がどのような立場にいたのかソニン
にはうかがい知る余地もない。
143 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時46分25秒
「姉ちゃんは何て言ってんの?」
「本人は淡々としている。抗議するわけでもないし」

認めているのか?それでは、革命軍側もおいそれとは釈放できまい。重苦しい空
気。それを伝える電波もまた空気を介して届いてくる。ユウキの方から耐えかね
たように話題を変えてきた。

「そろそろ今日の本題に入らなきゃ。趙大佐は元気にしてる?」
「え?あ、ああ。元気だよ。保田さんといいコンビでね。日本じゃ結構な有名人
よ」

趙大佐とは北朝鮮の兵器開発に関する核心を知るとされる例の情報提供者である。
顔を隠してはいるものの、連日、その名前がワイドショーのテロップで流れるに
つれ、認知度は日ごとに増していった。ただ、その名前が本名かどうか、彼らに
もわからない。

「日本ではこちらのことは正確に伝わっているのかな?」
「断片的にはね。ただ、最近は趙さんの命を狙った傷害未遂事件なんかもあって
露出は控えてる」
「やっぱり工作員が動いたんだね」
「連中にとっても情報戦は死活問題だから」
「ところで」

電池の残量を気にしてかユウキが話題を変えた。
144 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時46分42秒
「話というのは他でもない。趙さんにアメリカに飛んでもらわなきゃいけなくな
った」
「いよいよね」
「うん。中国がどうも武器供給を始めたらしくてね。革命軍は劣勢だよ。悔しい
けどアメリカに介入してもらわなければ戦線を維持することさえできそうにな
い」
「それでいつ?」

ある程度覚悟はしていたのか、すんなりと話の流れをソニンは受け入れている。

「すぐにでも。飛行機の手配が必要になる。あと現地でのコーディネータも」
「彼女の出番ね」
「ああ、久しぶりだね。元気にしてるかな」
「元気そうよ相変わらず。ハワイを経由か……ま、この時期だからフライトは問
題ないでしょ」

いよいよ歴史が動き出す。ソニンはそんな予感に何か言い現すことのできない心
の高揚を感じ、大声で叫び出したい衝動に駆られた。
145 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時47分00秒
「早速、趙さんと保田さんに連絡するわ。忙しくなるわね」
「ああ、頼むよ。こっちは市井さんを将軍にすることでなんとか士気をあげよう
としてるけど……」
「市井さんが将軍!」
「うん。でも、その話しはまた今度ね。じゃ」
「あ、ちょっと!」

肝心の話を聞く前に切られてしまい、ソニンは腹だたしそうに受話器を見つめた。
(――次回の連絡待ちか……)
無造作に受話器を置いて、気持ちを切り替える。これから忙しくなることを考え
るといつまでも小僧に腹を立てている場合ではない。時間は限られているのだ。
ソニンはやらねばならないことを頭の中でリストアップすると、再び受話器を取
り上げて保田の携帯番号をダイヤルした。
146 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時47分22秒
◇◇◇

危なかった。助かったのは偶然といってもよいかもしれない。それでも咄嗟にか
わすことができたのは彼の軍人としての鍛錬の賜物なのだろう。普段はのらりく
らりとしてつかみ所のない茫洋とした雰囲気を漂わせておきながら危機に際して
の行動は鋭くかつ的確であった。

凄い、と想ったのはあの状況の中で自分の身だけでなく保田の安全まで気遣う余
裕のあったことだ。すっかりパニックに陥り、どうしてよいのかオロオロしてい
る保田に傷口を縛り、警察、病院に連絡を入れるよう支持できるあの冷静さ。彼
の対処がなかったら、自分などは今ごろ死んでいたのではないかと思うと当分、
趙には頭が上がりそうに無い。

気づくとベッドの上に趙が起き上がっている。

「ごめんなさい。起こしちゃいました?」
「いや。せっかく美人に看護してもらってるんだからね。嘘寝でもしようかと思
ってたところさ」
「気分はよさそうですね。そんな心にもないことを言える余裕が出てきたところ
をみると」
147 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時47分41秒
「なーに本気さ。俺はこの任務が終わったら、圭ちゃんとゆっくりデートするの
だけが楽しみで働いてるんだ」
「あっはっは。そんな嬉しいこと言ってくれるの趙さんだけよ」

笑って取り合わない保田に対し、趙は首を竦めて不満げだ。まんざら冗談だけで
はない様子に保田は急に気恥ずかしくなって、話題をすりかえる。

「元山(ウォンサン)が動きました。ワシントンに飛んでもらいます。ライス安
全保障担当大統領補佐官に直接ねじ込むように、との指示が降りました」
「あの女傑かい?事前にネゴが必要だね。それは向こうの同志に頼むとしよう。
で、ルートは?」
「ハワイを経由します。私がホノルルまでで同行、向こうで我々の同志ダニエル
に引き継ぎます。現地での生活は彼女がコーディネイトしますから」
「前に言っていた、威勢のいい姉ちゃんかい?」
「ええ。米国本土にはまだ趙さんのお世話をお願いできるほど信頼できる仲間が
いないので」
148 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時47分59秒
そこが頭の痛いところだった。上院議員を通したロピー活動はそこそこ行ってい
るものの、やはり地の利を生かした細やかなコミュニケーションの不備は微妙な
齟齬を生み出す。こと北朝鮮問題に関して米議会に対するロビーイングが機能し
ているとは言い難い状況にあった。

そうした中、英語圏在住の仲間としてダニエルは貴重な存在だった。ココナッツ
娘。を脱退し、学業に専念すると言う建前で帰国してしまったダニエル。その彼
女を説き伏せたのは保田の功績だった。米国本土から離れたハワイ州の在住とは
いえ米国市民であるダニエルの強力があるとなしでは、対米活動における自由度
が大きく異なる。

「あ、それからね。元山政府の仮の名称が決まったって。高麗(こりょ)民主主
義共和国」
「ほう、それは興味深いね」
「ですね。北の民であることを意識した呼称だと思います」
「うむ。あるいは『コリア』と呼ばれることを意図したのかもしれない。北の誇
りを保ちつつもひとつのコリアであることを目指すという静かなメッセージが込
められているような気がするよ。なかなかに思慮遠謀の持ち主だね。これを考え
た人物は」
149 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時48分17秒
保田の推測に同意し、さらに深い意図を読み取る趙。さすがに北の命運を左右す
るほどの情報を預かる人間ではある。保田は感心した。自分ではそこまで見通す
背景も知識も無い。それだけにこの男を狙っていつまた刺客が現れるとも知れな
い。否、必ず来る。彼がワシントンへ飛ぶと知ったら、それこそ形振り(なりふ
り)構わぬ方法で阻止しようとしてくるだろう。

「大丈夫でしょうか……」
「何がかね?」

憂いを含んだ自分の口調に対し、相変わらず飄々とした所作を失わない趙に保田
は苦笑した。

「趙さんのことですよ。平壌の工作員が黙ってアメリカまで見送ってくれるはず
がない」
「自分の身は自分で守るさ」
「けれど、向こうは組織で動いています。一対一なら趙さんに適う人はいないか
もしれないけど、組織的に襲われたら防ぎようがない」
「公安に知らせるかね?」

意地の悪い質問だった。そんなことができるわけもない。公安は保田ら活動家を
マークしている側だ。保田は嘆息した。
150 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時48分36秒
「とにかく出来うる限り、隠密で行動しなければなりませんね」
「それが懸命だろう。我々は招かれざる客なんだよ」
「金正日政権による拉致事件も風化してきた感がありますからね」
「平和な証拠さ。結構なことじゃないか。世界がこういう社会ばかりならさぞか
し平和だろう。日本人はもっと自信を持って平和ぼけるべきさ」

趙の奇妙な理屈が保田にはおかしかった。平和ぼけを責める声なら聞いたことが
ある。だが、「自信を持って平和ぼけろ」とは実におかしな表現だった。

「それはともかく、ワシントンで大統領補佐官に会うまでは気が抜けませんね」
「ああ、その通りだ。大使館ルートは公安の網にかかる恐れがある。幸い君らの
先達が地道に開拓してくれた在日米軍ルートがある。そちらからワシントンに連
絡を取ってもらおう」
「やはり餅は餅屋ということですか?」
「軍人は民間人が軍事にでしゃばることを嫌うからね。外務省と防衛庁も仲はよ
くないだろうが、ご多分に漏れず国務省と国防総省も犬猿の仲でね。つけ入る隙
はどこにでも転がっているもんさ」

保田はそれには答えず、肩を竦めて今後のスケジュールを告げた。
151 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時48分56秒
「フライトは複数押さえておきました。すべて偽名です。直前までどれに搭乗す
るかは明らかにしないようにします」
「えらくまた慎重だね」
「便を特定できなければ狙われている場合、向こうの戦力も分散されますから」
「同時テロ以降、セキュリティはただでさえ厳しくなっているんだ。機上で何ら
かの破壊活動を行える可能性は極めて低いのではないかね?」
「アラブ人以外の人種、とりわけ日本人に対しては心理的にどうしてもセキュリ
ティが甘くなりがちです。隙はどこにでも転がっていると見なければ」

立場が逆転したようなやりとりだった。本来なら趙の方が自らの経験から慎重で
あるべきだ。だが、保田にはわかっていた。趙は自分を試している。ともに命を
賭けて行動するに足る仲間であるか。それを試している。

「そうかい。それなら、そちらは任せたよ」
152 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時49分14秒
しばらく逡巡した後、趙の口から漏れた気のない返事が保田の緊張を解いた。ど
うやら合格したらしい。保田は早速、細々(こまごま)としたスケジュールの確
認と、現地で接触すべきキーパーソンの説得方法について仔細に検討を始めた。
ホワイトハウス内部だけでなく、米国を動かすには様々な人物の支援が必要だ。
中でも軍事産業を後ろ盾とする防衛族と称される族議員達は有力な候補だろう。

「クリントンからブッシュに替わって防衛産業界隈もまた息を吹き返したとか」
「必ずしもそうとはいえないようだけどね。まあビルの時代よりましなのは確か
だよ」
「兵器産業が潤うことは本来、好ましくないんでしょうけど……」
「毒をもって毒を制すればいいのさ。特に金正日のような猛毒にはね」
153 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時49分31秒
あながち冗談と笑い捨てて置けないところが恐ろしかった。自分達はその猛毒を
直接注入する毒針のような工作員達に命を狙われているのだ。保田はふと心細く
なった。気づけば窓の外は既に闇に包まれている。

「早く内戦が終わるといいですね」
「ああ。ま、それまではぼちぼちやるさ」

趙はまたしても気のない返事を寄越すと、時間が遅くなったことを理由に保田を
家に帰した。不満げに頬を膨らませるその表情に、趙は、昔、好きだった女の面
影を思い出し、やるせなくなった。
154 名前:名無し娘。 投稿日:2003年01月31日(金)21時49分45秒
女は彼と同じ部隊に所属するコマンドーだった。最初の任務で南に渡ったとき、
初仕事を前に功を急いだ彼はつい痕跡の消去を怠った。そのため当時の韓国安全
企画部に追跡を許し、コンビを組んでいたあの女とともに追い詰められた。あの
とき女が自分の耳元で囁いた言葉が今でも脳裏に甦る。

『趙同志、同胞同士が殺し合うこんな内戦は早く終わればいいのにね』

その言葉を置き去るようにして敵に突っ込んでいった女。自らを犠牲にして彼を
逃したあの女……20年近い歳月を経た今でも、蜂の巣のような死に様で自分を救
ったあの女の強さには適わないと趙は思う。そして、あのとき以来、彼は祖国、
いや金正日に対して盲目的に服従することを止めた。少なくとも心のうちでは。

保田を部屋から追い出し、一人残された病室のベッドに転がって天井を眺める。
その目には、だが昔の女ではなく、保田の不安げな瞳だけが映っていた。
155 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時31分11秒
◇◇◇

日航機76便は常夏の島を目指す観光客でごった返していた。早くも解放気分に浸って声高
にはしゃぐ若者たち。大きな声で肩を軽く叩きにがらさっそく会話に花を咲かせる中年余
女性の集団。グループでいると気が大きくなるだろうか。甲高い響きががやけに耳障りだ。
苛立たしくさえある。

――なんだろう、自分らしくない。保田は思った。とても気分の浮き立つようなフライト
ではないことを差し引いても過剰な反応であることは否めない。こんなときなのに奇妙な
寂しさを感じている自分が嫌だった。さらに気分が滅入ってくる。いけない。保田は雑念
を振り払うように目をギュッと閉じると注意深く周りに耳を澄ませた。それらの哄笑に混
じっておかしなイントネーションの日本語が聞こえてこないか確認する。

気づくと関西弁でがなり立てているように聞こえた中年婦人たちの言葉は日本語ではなか
った。破裂音の子音が攻撃的に聞こえるその言語。韓国語、あるいは朝鮮語……。保田は
嫌な予感にとらわれた。
156 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時31分53秒
(まさかね……)
背後の方向から聞こえてくるその甲高い喋り声の主を確認しようと振り返ろうと腰を上げ
た瞬間、隣の趙に呼び止められる。

「ストップ。振り返らないで」
「どうしてですか?」

保田は上げかけた腰を空に浮かせたまま中腰の状態で、顔を前に向けたまま趙に尋ねた。

「もしやつらが『作業員』なら、こちらが気づいたことを悟らせてはいけない」
「しかし、位置の確認を……」
「大丈夫。おばちゃん連中だ。婦人会の旅行か何かだろう。気にすることはない」
「おばちゃんの『作業員』はいないんですか?」

趙は言葉に詰まった。女が生きていれば自分と同年代。おばちゃんと言えないこともない。
だが、趙の口から出た言葉はその存在を否定した。

「いない、と思う。少なくとも自分の知る限りでは」
「念のため、機会を見て確認します。何かあってからでは遅いですから」
157 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時32分18秒
保田はようやく腰を下ろすと隣の通路側の席に座る趙の横顔を窺う。相変わらず無表情を
装ってはいるが、どこかいつもの冷静さを失っているように感じられた。彼が来日してか
らずっと帯同しているだけに保田は些細な表情の変化で趙が何を考えているのか読み取れ
るようになりつつある。だが、今のこの表情は何だろう。それが自分を苛立たせている原
因だとは気づかずに、保田は窓の外へと視線を移した。

主翼を構成するジェラルミンの銀板が既に機体の周囲を包み始めた夜の闇にぼんやりと薄
白く浮かび上がる。何度目のハワイだろう。思えば仕事以外で訪れたことのない常夏の島。
保田は高級リゾートホテルでヴァカンスをエンジョイする自分の姿を想像してみた。見渡
す限りの白い砂浜。デッキチェアに横たわり、お気に入りのカクテルを横に目を閉じて波
の音に耳を澄ませる……悪くない。趙を送り、ダニエルに渡した後は特に用事もない。

(レフアは元気にしてるかな……)

懐かしい知己を訪ねようか。一仕事終えた後のささやかな楽しみとして自分に許してもよ
いような気がする。だが……
158 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時32分48秒
酷寒の地で内戦の陣頭に立つ市井、幽閉されている後藤。旧
友の窮状を思うと甘い夢想は消し飛ぶ。彼女達を救うために全力を尽くさなければ一生、
自分を責めつづけなければならない。わかりきっていたことだ。結局、保田とはそういう
女だった。

客室乗務員が忙しく立ち回ってシートベルトの着用と電子機器の電源を落すよう告げてい
る。もうじき離陸するらしい。窓の外では色とりどりの誘導灯がちかちかと瞬いている。
高速で回転するエンジンの高音を耳にしたときにはすでに、景色が動き出していた。滑走
路の乾いた路面が次第に遠ざかっていく。目に飛び込んでくる闇が視界の中で澱んだのを
意識した瞬間、体がふわっと宙に浮いた。世界が傾く。奇妙な浮揚感といびつな重力を体
に感じた状態が数秒続いた後、機は大きく回転した。もう戻ることはできな。賽は投げら
れた。だが、この期に及んで保田の心は落ち着かない。

すべてはうまく行っているように見える。なのに何かがおかしい……その違和感の正体が
わからず、保田は窓の外を眺め、きらびやかに瞬く東京の夜景に毒づいた。
159 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時33分00秒
◇◇◇

不安感を抱えたまま、日航機は無事、ホノルルに到着した。事前に米国務省に依頼してい
たため入国審査は外交官や航空会社クルーの窓口で迅速に行われた。保田自身は何の問題
もないが、趙の国籍が米国と国交を持たない北朝鮮籍であるためだ。ここまでは順調に進
んだ。だが、イミグラントを抜け、手荷物を受け取る段になって、問題が起こった。荷物
搬出のベルトコンベアが動いていないのだ。

「あら、せっかく早く出てこられたのに」
「まあ、ぼちぼち待つさ」

飛行中、ほとんどの時間を寝て過ごしていた趙と異なり、妙に落ち着かずまともに寝つけ
なかった保田は疲労の色を隠せない。イミグラントを抜けて最悪の事態は避けられたはず
なのに、なぜだろう、この胸騒ぎは……保田はむしろ何か嫌な気分の強まったことに言い
知れぬ不安感を拭えずにいた。

そうこうしているうちにも後続の旅客がどんどん集荷所に集まってくる。機内でそのうる
さいお喋りに辟易させられた韓国人中年婦人の集団が現れるといきなり賑やかになった。
たちまちベルトコンベアの最前に陣取る彼女らの図々しさに保田は眉を顰(ひそ)める。
160 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時33分17秒
「おばちゃんはどこの国でも変わらないわね」
「ははは、そういう自分もいずれはおばちゃんになる。母は強し、さ」

趙はあくまでも呑気である。とりあえず一番やっかいな入国審査を意外にも問題なく切り
抜けたことでリラックスしているのかもしれない。好事魔多し。こういうときが危ないん
だ。保田は自分に言い聞かせるようにして気を引き締めた。前方では、自分たちの荷物を
見つけたのか、例のおばちゃん達が騒いでいる。

「あれっ?」

ふと、目を向けると見覚えのあるスーツケースだ。カートの上に載せられたまま放置され
ている。ベルトコンベアから荷物を下ろしたものの間違えたらしい。お互いに罵るような
激しい口調で言い争うと、当の荷物はほったらかしで再び前列に戻っていった。

「あれ、趙さんのじゃないですか?」
「あ、ほんとだ。」
「まったく、人騒がせな連中だわ」

自分だけは決して、ああはなるまいと心に固く誓いつつ、保田は打ち捨てられたようにポ
ツンと残されたカート上の荷物に手を掛けた。
161 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時33分37秒
「さあ、行きましょう」

ハワイまでで帰る予定の保田の荷物は少ないため、機内に持ち込んでいた。趙のスーツケ
ースが乗せられたカートの取っ手を掴むと早速、税関に向かう。ここを抜ければダニエル
が待っているだろう。

「圭ちゃん、俺が持つよ。レディファーストの国だろう?」
「怪我してる目上の人にそんなことさせられませんよ。私は儒教の国の女ですから心配し
ないで」

趙は恥ずかしげにカートに手を掛けるが保田は渡さない。意外に頑なな保田の態度に困惑
しつつも諦めて苦笑する。

「まだそんなおじいちゃんではないんだけどな」
「そういう問題ではないんです。それより油断は禁物です。不振な人物は今のところ見当
たりませんが」

その心配だけは無用だった。のんびりとした雰囲気を装ってはいるものの、趙が間断なく
周囲に目を配っていることは少し訓練された者ならすぐにわかることだ。その触角に何か
が引っかかっている。保田には気取られないようにしているが、内心、それがわからない
もどかしさが次第に焦燥感を募らせている。
162 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時33分50秒
税関の係官は先ほど入国審査で渡された書類を見せると小さくうなずき、無言で通るよう
促した。せめてここで荷物がチェックされれば、あるいは彼を落ち着かなくさせている違
和感の正体がわかったかもしれない。だが、アメリカはあっけないほど簡単に彼を迎え入
れた。

税関を抜けると到着ロビーの喧騒が二人を包んだ。出迎えの人物はすぐにわかった。ダニ
エルの大きな体が全身で歓迎を表明している。

「ダニエォ!」
「ケイ!」

久しぶりの再会に心は踊る。抱き合って再会を喜ぶと保田がダニエルに近況を尋ねた。英
語で勉強の成果を披露する保田に、ダニエルの目が驚きに見開かれる。趙もその流暢とは
言えないまでも淀みなく流れる言葉に感心した。なるほど、侮れないわけだ。趙は自分が
保田のどこにひかれているのか、改めて理解できたような気がした。その向上心と実行力、
そしてそれを支える強い意志。あるいは自ら米国本土まで乗り込むつもりであったのかも
しれない。
163 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時34分06秒
「ユー、ミスタチョー?アローハ!」
「ア、アローハ……」

自分にまで抱きついてくるアメリカ娘の陽気さに面食らいながらも、趙は悪くないと思っ
た。保田はいい仲間に恵まれている。この子となら慣れない米国の地での活動をうまく乗
り切れるだろう。カートを押して建物の外へと向かう保田にダニエルが慌てて駈けよった。

「ヘイ、イッツトゥービッグフォユー!アーィルキャリー」
「ノォゥサンキュ、イッツマイワーク」

抵抗する保田だが、体の大きさ以上に力の差は歴然。あっという間にスーツケースを取り
上げられては取りつく島もない。

「カマーフタミィ、マイカーニィアヒィア!」

荷物を持ってずんずん進むダニエルを見て、呆れたように後ろを振り向き肩をすくめる保
田。すっかり勢いに押されて出遅れた趙を待ち、再び前を向こうとする。

だが――
164 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時35分01秒
振り向こうとした瞬間、轟音が耳をつんざき、視界が回転した。いや、何かを感じる暇さ
えなかった。痛み、耳なり、視界を塞ぐ涙。すべての感覚は後から襲ってきた。何か恐ろ
しく強い力により地べたに叩きつけられたらしい。記憶の断続。何があった?激しい痛み
の感覚が四肢に戻ってくるに連れ保田は自分の置かれた状況を理解し始めた。

「ち、趙さん!どこっ?!」
「け、圭ちゃん……無事か?」
「よかった――」

ほっとしたのも束の間、濛々(もうもう)と立ち込めるこの煙、自分達をぼろ布のように
宙に舞い上げた激しい風圧――爆弾による攻撃としか思えなかった。そして、その黒煙が
立ち上がる方向は……

「――ダニエル、ダニエルは?!」
「いけない!圭ちゃん!見ちゃだめだ!」

濛々(もうもう)と立ちこもる煙から視界が晴れていくにつれ、保田の心臓が打つ鼓動は
早まる。ゆっくりとその煙柱の中心へと顔を向けていく。まさか、まさかダニエルは……
165 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時35分18秒
「だめだ!見ちゃいけない!」

覆い被さるように自分の視界を趙の掌が塞ぐ直前、保田が捉えた視界の片隅にそれはあっ
た。それが何かわかるまで数秒の間が空いた。いや、脳がその信号の映像としての結像処
理を拒んだのかもしれない。保田は叫ばずにはいられなかった。

「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

鋭く甲高い音が響いた。それが何か理解したとき、保田は自身の理性を解体し獣のような
咆哮に乗せて解放せざるを得なかった。保田が見たもの。それはスーツケースの取っ手を
握った腕の断片だった。
166 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時35分37秒
◇◇◇

目を開くとまぶしい光が視界を圧した。白い、真っ白な天井。どこだろう?なぜここにい
る?一瞬、保田は自分が白い海原に一人、漂っているような強烈な心細さに慄然とした 。
自分の足下が定まらないことによる相対世界の認識不全。叫びたい衝動にかられて喉をぐ
っと鳴らす。自分を呼ぶ声が聞こえた。世界が戻ってきた。

「圭ちゃん、起きたのかい?」
「ここは――どこ?あなたは……」
「圭ちゃん、しっかりしろ。ここは病院だ」

病院?なぜ病院に――と自問しかけて、保田は胸苦しさを覚えた。次第に記憶がよみがえ
ってくる。保田はハッとして周囲を見回した。

「ダニエル?ダニエルは?」
「圭ちゃん……」
「大怪我だわ。腕が……腕がもげてたもの。ね、ダニエルは――」
「圭ちゃん」

趙が肩を抱いた。
167 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時35分53秒
「落ち着いて聞いてくれ」
「どこ?ダニエルはどこ?ねえ、どこなの?」
「圭ちゃん、落ち着くんだ」
「どこ?わかった集中治療室ね!大怪我だったもの、はやく、はやくお見舞いしなきゃ!
大変だわ!」
「圭ちゃん!」

趙に一喝されると保田はがっくりと肩を落とし、ぶるぶると体を震わせた。くしゃくしゃ
に歪めた顔が現実を直視しようとする理性とそれを信じたくない心の葛藤の激しさを示し
ていた。三日月型に湾曲した双眸からは今にも涙がこぼれそうだ。

「プラスチック爆弾だったそうだ。俺のミスだ」
「ひ、ひがうわ、っく、ひ、わ、わたひがに、にもつをひぇっくひなかった、っく、から」
「違う。プロである俺の責任だ。あんたは何も悪くない」
168 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時36分09秒
趙は唇を噛み締めた。その言葉に偽りはない。悔やんでも悔やみきれなかった。無関係―
―と言い切れるか微妙だが――の民間人を巻き込んだあげく、危機に対する備えを怠って
死に至らしめたこと。軍人として決して許されざる失態だ。趙の誇りは著しく傷つけられ
た。そして保田。責任感の強い彼女を悲嘆に暮れさせ、苦しめていることに言いようのな
い胸苦しさを感じる。それら、すべての鬱屈は激しい怒りとなって北朝鮮の工作員、いや
金正日その人へと向けられた。

「圭ちゃん……彼女の死を無駄にしないためにも、ワシントンへ渡るんだ。そして金正日
をぶっ潰す」
「ワシン、トン……?」
「そうだ。俺と同行してくれ。自国の市民がテロで殺されたんだ。世論が黙っちゃいない。
参戦を促す大きなチャンスだ」
「で、でも……」
「彼女の仇を取るんだ。今はそれだけを考えろ」
169 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月10日(月)13時36分44秒
趙は相変わらず涙ぐんで背を丸める保田の背中を優しくさすった。そして、その弱々しい
稜線を描く撫で肩をかき抱こうとして――できなかった。誰にともなく、独り言でもつぶ
やくようにぽつぽつと語り出す。

「ホノルル市警に行ってくる。北のテロリストに関して俺が知る限りのことを伝えてくる
つもりだ。それまでゆっくり考えてくれ。どうしたら彼女の死に報いることができるか」
「い、いかないで……ひ、ひとりにしないで」

保田は頬に涙を滴らせながら懇願するように趙を見上げた。

「すぐに戻る。あんたを一人にはしないさ」
「趙さん……」

趙は抱き締めたい衝動を必死で抑え込むと、その瞳が宿す強い呪縛の力から逃れようとで
もするように視線を断ちきった。
今にも口をついて出そうな言葉を呑み込んで拳をぐっと握る。立ち上がり、ドアに向かう
と保田の言葉を待たず、病室を出た。南国の陽光が廊下に差し込んで白く反射している。
病院には似つかわしくないほどの明るさに趙は一瞬、眉を顰(ひそ)めた。気を取り直し
て歩を進める。窓の外に目を向けると青々と茂るシュロの葉が碧色に光っていた。
170 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時50分35秒
◇◇◇

矢口は気付かれない様にソニンの横顔をそっと覗いて見た。相変わらず厳しい表情を崩し
ていない。だが、先程よりは大分、人を寄せつけないほどの隔絶した雰囲気は薄れてきた。
これ以上、無言でいることに耐えられそうにない。矢口は思い切って声を掛けた。

「――もうすぐ、だね」
「……」

返事は返さないものの、こちらを振り返るソニン。相変わらず表情は優れないが、幾分、
気を持ち直したようでもある。頃合よしと見た矢口はさらに畳みかけた。

「圭ちゃん、すごいよね。すごい視聴率高いんでしょ、この番組?」
「うん。CNNの看板番組だからね。あたしもまさか保田さんがラリー・キング・ライヴ
に出演できるとは思わなかった」
「ニュース・ステーションで久米さんと対話するような感じ?」

ソニンは、んん、とくぐもった声を漏らすと上を見上げて考え、自分に言い聞かせるよう
にゆっくりと応えた。

「どっちかっていうとニュース23の筑紫さん、かな。硬派だし」

まもなく保田の出演するCNNのトークショーが始まろうとしている。ケーブルTVに加
入している矢口の家でソニンと二人はその開始を今や遅しと待ち構えていた。
171 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時50分53秒
「でもすごいね、ケヴィン・スペイシーとか有名な俳優さんもたくさん出演する番組なん
でしょ?」
「うん。あと、そのとき凄い話題になってる人とか。保田さんは今や時の人だから」
「でも圭ちゃん、英語しゃべれるんだっけ?」
「通訳通すんじゃない?韓国語はかなり練習してたみたいだけど英語はねえ……」

そうこうしているうちにも重厚なニュース番組らしいテーマ曲がTVから流れ、二人は居
住まいを正した。画面に眼鏡を掛け、ウッディ・アレンの目つきを鋭くしたような中年男
性が登場した。ホストのラリー・キングである。

『さて、みなさん。今日はみなさんにとって、おそらく忘れられない日となるでしょう。
これから本日のゲスト、ミズ・ケイ・ヤスダが語る内容はおそらく、大方のアメリカ人に
とって未知の領域であるはずです。極東アジアの政治変動が世界にとっていかに大きな脅
威であるか、ミズ・ヤスダが今日、その事実を我々の眼前に突きつけようとしています。
それでは早速、迎えましょう。ハロー、ミズ・ヤスーダ』
172 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時51分47秒
カメラが切り変わった。"Kei Yasuda , Vice-Representative,”Aid the North Korean
Refugees,” an NGO, ex-member of Japanese girl-pop group,"Morning-Musume."英字幕
テロップとともに保田の顔が大映しになる。その瞳はTVを見ているであろう視聴者に挑
むように大きく見開かれ、並々ならぬ強い意志を感じさせる。

『ハイ、ラリー。お招きいただいて光栄です』
『さっそくですが、あなたのジョブは?』
『北朝鮮からの難民支援活動を行っています』
『そう。そしてあなたが今回、訪米した目的は?』
『北朝鮮の内戦について米国市民のみなさんに正しい情報をお伝えすること、そして、金
正日が世界にとっていかに危険な存在であるかをお知らせするためです』
『よろしい。まずはあなたがつい先週、まさしく自分の目の前で確認したばかりの事件に
ついて教えていただきましょう』
『はい、まず…』
173 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時52分06秒
保田は語り出した。画面を食い入るようにみつめる二人は驚きのあまり声もでない。その
落ち着き払った態度にすっかり魅せられているのだろうか。保田は英語で堂々と渡り合っ
ていた。

「――圭ちゃん、自分でしゃべってるよね?」
「うん、同時通訳が保田さんの英語を日本語に訳してる……」

保田は要領よく事件の経過をまとめていた。淀みなく流れるような説明に真剣な顔でうな
ずくホスト。絶妙のタイミングで相槌を打つ。

『――そのとき突然、大きな力で吹き飛ばされました……しばらくして置き上がって気付
くと彼女の腕が転がっているのが確認できました。私は直観的に、彼女は亡くなったと思
いました』
『そう。そして彼女の国籍は……』
『アメリカ人です』

ホストのラリーは次の言葉を繰り出すまでに少し間を開けた。視聴者がその意味を理解す
るのに充分な時間だっただろう。金正日の魔手は決して、同胞や隣国にだけ向けられてい
るわけではないことを。さすがにラリー・キングである。事実、画面を前にしている二人
の日本人は、その迫力に押され言葉もない。
174 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時52分23秒
『あなたは北朝鮮が米国を含めた国々を無差別にテロの対象とする可能性についてどのよ
うに考えますか?』
『あくまで私見ですが――その可能性は低くないと思います』
『その根拠は?』
『ダニエルは――亡くなった我々の仲間ですが、彼女は北朝鮮からの難民を支援する我々
ネットワークの一員でした。今後、米国市民がそのような活動に関与する度合いが高まれ
ば、その可能性は益々高まるものと思われます』
『そのような危険な国に対し、世界はどのように対処すべきでしょう?』
『まずは正確な情報を得ることです。金正日は多額の資金を導入して巧妙なプロパガンダ
を世界各国で展開しています。そのような茶番に付き合ってはいけない』
『正しい情報はどこから得られますか?』
『日に日に北を脱出する人々の数は増え続けています。中には政府の中枢に近い人もいる。
それらの証言を総合すれば、かの国に関してかなり事実に近い理解が得られる』
175 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時52分51秒
『そして、それらの証言を総合した結果として、北朝鮮が内乱状態にある、というのです
ね?』
『そうです。けれども戦いが長期化するに及んで、抵抗勢力は不利な状況に追い込まれて
いる。彼らを支援し、ともに戦うことは、つまり世界の脅威と戦うことと同義になるので
す』
『あなたは米国に何を望んでいるのですか?』
『米国市民が真に正義を求めるなら、行うべきことは理解していると思いますが』
『核心に迫ってきました。ここで一旦、CMに移ります』

TVの前の二人は思わずほぉっとため息を漏らした。

「圭ちゃんすげぇっ!」
「保田さん、かっこいい!」

矢口はともかく、保田と接する機会の多かったソニンでさえ予想だにしていなかった。
CNNのトークショーに出られるだけでも相当な宣伝効果があるとは思っていたが、加え
て保田のこの堂々とした態度。米国の視聴者へのインパクトは十分だろう。特に通訳を通
さずにホストと直にやり合ったことで、話した内容の迫力がより直裁的に画面を通して伝
わったようにソニンには思える。
176 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時53分04秒
「これは反響あると思うよ」
「わかる?」
「うん。この後、視聴者からの質問を電話で受けるからさ。ある程度反応がわかるよ」

CMから画面が切り替わってラリー・キングの顔が大映しになる。続いて保田の顔。

『視聴者からの質問を受け付けます。最初の方――』

画面にテロップで「ミルピタス、カリフォルニア州、30歳」と流れる。電話越しに、男性
にしてはやや高い声が保田に語りかける。

『ハロー、ケイ』
『ハロー』
『あなたは日本のガールポップグループに所属していたそうですね』
『ハイ』
『政治的なメッセージを表現するようなグループですか?私はそこに大変な興味を抱いた
んです』
『必ずしも政治的ではありませんが、日本の人々をはげまそうというメッセージは常に意
識していました』
177 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時53分16秒
『例えば?』
『御存じのように日本の経済は停滞していますが、私たちは”Love machines”という歌で”
日本の未来は世界がうらやむ”というフレーズを歌詞に入れました』
『それはやや滑稽に聞こえますね』
『ええ、否定しません。ただ、そうありたいと願い、実際に行動しようというメッセージ
は伝わったと思います』
『ありがとう。その歌をぜひ聞いてみたいね』
『ぜひ聞いてください。そして感想を聞かせてください』

「ね、見た!ね、ラブマだよ!ラブマ!カオリとかごっつぁんに連絡しなくちゃ――」

矢口は言いかけてシュンと縮こまった。後藤の境遇に思い至ったのだろうか、瞬時にして
目から輝きが失せる。だが、ソニンは慰めるでもなく、平然と言い放った。

「伝えようよ、後藤さんにさ。圭ちゃん、頑張ってるから、アメリカ参戦の可能性、高く
なったじゃん。だから、頑張れって」
「そ、そうだね……大丈夫、きっと大丈夫」
178 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月12日(水)19時53分32秒
矢口は自分に言い聞かせるように何度も強くうなずいた。空元気なのかもしれない。だが、
それでもいいと、ソニンは思った。アメリカが参戦するか否かは保田の頑張りだけでは何
ともできない高度に政治的な問題だ。だが、保田が今、語ったばかりではないか、
『そうありたいと願い、実際に行動しようというメッセージ』
(たしかに受け取ったよ、保田さん……)
再び画面を食い入るように見つめる矢口の横顔。その頬がわずかに日照っているのを見て、
ソニンは矢口の内に秘めた熱い想いを確信した。

再びTVに目を向けると画面の中では、次の視聴者がスパイスガールズとモーニング娘。
の関係について質問していた。スパイスの元メンバー、ビクトリアがマンチェスター・ユ
ナイテッドのデイビッド・ベッカムと結婚したことに触れたとき、少しだけはにかむよう
に頬を赤らめた保田の表情が素敵だと、ソニンは思った。
179 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時56分32秒
国家安全補償担当大統領補佐官コンドリーザ・ライスは機嫌が悪かった。だが、下りのス
ロープに入ってキャピトルヒルが前方に見えてきても怒りはまだ収まらなかった。慎重に
ハンドルを切りながらも、何かの拍子についクラクションを鳴らしてしまいそうだ。

朝から気に入らないことばかりだった。朝食にモカを切らしていたのが、まずはけちのつ
き始めだ。ぼんやりとした頭をシャキッとさせるため寝起きには絶対に必要なものだ。代
わりに入れたブレンドの味はまったくなっていなかった。このまずいコーヒーが、日本で
「アメリカン」の名を冠して飲まれているのを知ったとき、ライスは憤激のあまり抗議し
たものだ。

だが、何といっても気に入らないのは隣のバカ犬――トーマスとかいったっけ、バカ犬に
はもったいない名だ!――が出掛けにいつもの倍くらいの勢いで吠えかかってきたことだ。
まったく!イラクへの先制攻撃が決まったら先陣の栄誉はまっ先にトーマス伍長にくれて
やる。敵のT-72戦車を前にして、だらしなく尻尾を丸める姿が目に浮かぶ。まったく、な
ってない!心の中で毒づくと、幾分憂さは晴れたような気がした。
180 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時56分49秒
だが、そもそも彼女をいらだたせているのは、そのような些事ではない。それは自分でも
よく理解していた。これから始まる公聴会――これ以外にありえなかった。

九分九厘、確実と思われていたイラクへの武力行使。政権当初から官邸が暖めてきた最大
の腹案が今、フランスでもロシアでもない一人の民間人、一人の日本人のために覆されよ
うとしている。いや正しくない。正確には一人の日本人女性だ。

この件に関して、彼女は自分の日本人観を少し修正せざるを得ないと感じていた。ラリー・
キングと堂々と渡り合い、そして彼女自身の仇敵、サイドワインダー・ジム――へびのよ
うにしつこいあのジム・レーラーとも論陣を張ったあの女性、ケイ・ヤスダ。北朝鮮の軍
事力は恐れるに足りないと主張するジムを見事に論破したときには内心、彼女も喝采を送
ったくらいだ。
181 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時57分06秒
往々にして日本人はともすれば感情に引き摺られて肝心の論点をぼかしてしまうきらいが
ある。かつて彼女が日本の士官学校、防衛大学校で教壇に立ったとき、学生達は議論の仕
方をまるで知らなかった。日本の教育システムのなせる技なのだろうが、あれでは予定調
和以外の何事も起こり得ない。そう思ったものだ。

だが、あの日本人だけは違う。ライスは強く惹かれるものを感じた。それは男の世界であ
る軍事の分野に女の身でありながら、単身、打って出た自分に重ねているからかもしれな
い。あの瞳。燃えるような輝きを放つあの瞳だ。ライスはこれからあの日本人女性と公聴
会で相対することを楽しみに思う自分に気付き苦笑した。

やっかいな敵であることに変わりはなかった。彼女がマスコミに出現してから外交委員だ
けでなく、一般の上院議員からさえ北朝鮮に関する問い合わせが増え続けている。

「金正日が従順なサダムより危険でないという証拠は?」
「米国本土を射程圏内にとらえるテポドン2の開発を終えているというのは本当かね?」
182 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時57分26秒
ばかばかしい。だが一笑に付すこともできなかった。CIA長官、あの間抜けなテネットが
その事実を発表してしまっていた。まったくタイミングを考えないバカ野郎だ。いや、や
つにとっては絶妙のタイミングと言えるかもしれない。

0911事件の際、モサドから事前に情報を掴んで置きながら何の対処もできなかった愚鈍な
テミット。その汚名を晴らす絶好のチャンスなのだから。ライスの失敗はそのままテネッ
トの成功に繋がる。ここキャピトルヒルもやはり魑魅魍魎の巣窟だった。

だが今は眼前の敵である。公聴会ではっきりとさせるのだ。今、米国にとって一番の脅威
は何といっても砂漠の独裁者サダム・フセインであることを。何者であれ、彼女の進む道
を阻む者は容赦なく排除する。それが莫大なエネルギーを石油に依存する産業立国アメリ
カ合衆国の愛国者としてのライスの務めなのだ。

国務長官のパウエルはイラクへの米英単独攻撃に対して慎重ではあるものの、イラクの石
油権益を確保するという国家の最優先事項に関しては合意済みだ。戦略的に意味のない北
朝鮮への攻撃に賛同するはずがない。
183 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時57分55秒
この点、単純な愛国者であり、軍需産業を後ろ盾とする国防副長官のウォルフウィッツは
難物だった。何しろ連中は戦端を開けるならどの地域が対象であれ大歓迎という貪欲ぶり
だ。加えてウォルフウィッツは根っからのヒューマニストときている。あの日本女性が北
朝鮮国民の置かれている惨状を訴えたら、民主主義の擁護者を認ずるあの男ではどう転ぶ
かわからない。

国防総省のトップ、ラムズフェルドはもう少し話のわかる男だが、ウォルフウィッツだけ
は要注意だった。悪いことに今回の公聴会は注目されている。やつが世論を味方につける
ようなことになったら始末におえない。

ライスはウォルフィッツへの牽制として、外交委員会委員長のルーガーに前もって寝回し
する時間を取れなかったことを悔やんだ。しかたがない。ウォルフウィッツはラムズフェ
ルドとパウエルに抑えてもらうとしよう。彼らのサポートがある限り、イラクへの先制攻
撃という絶対方針が揺るぐことはない。大丈夫だ。
184 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時58分04秒
噛むようにそう言い聞かせると、ようやく渋滞を抜けてキャピトルヒルの敷地に滑り込ん
だ。車をいつもの駐車場に止めて降りると早足に公聴会の開かれる上院側の建物へと向か
う。執務室への階段を登りながら彼女は振り返った。

ここへ来るまでにどれだけの時間と労力を払ってきたことか。0911事件への憎悪から、当
初はあれだけテロリストを支援する国家群への武力行使を支持した国民の熱が、ここへき
て大分、冷めてきていることを実感していた。実際、世論調査では軍隊の導入に反対する
国民も少なくない。
185 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時58分19秒
向かい風の中でもライスは自分の理論の正しさに絶大な自信を置いていた。石油を擁する
中東情勢の安定は軍事・経済両面において何にも増して重要だ。そのためにはフセインの
ような反米的な独裁者は何を措いても排除すべき存在だった。そのフセインが独裁の後ろ
盾とする軍事力をほぼ壊滅に至らしめる千載一隅のチャンスなのだ。その後継者となる傀
儡の候補はすでにピックアップしている。この機会を逃すなどという愚考は聡明なライス
にはまったく考えられないことだった。

コツコツとヒールの音を廊下に響かせて足早に歩く。いつものように執務室の椅子に腰を
下ろしたときには既に猫のような目をした東洋人女性のことなどすっかり頭の中から消え
失せていた。
186 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時58分49秒
◇◇◇

「では、北朝鮮がほぼ確実に核を保持していると、長官はそうおっしゃるんですね?」
「先程も申し上げたようにその確立は『かなり高い』と見ております」
「国務省の見解はわかりました。そしてCIAのテネット長官が先日、発表したところによ
れば、北朝鮮が開発した二段階の着脱式ロケットブースにより航続距離を飛躍的に伸ばし
たテポドン2の開発が既に完了していると」
「テネット長官、事実ですか?」

外交委員長のルーガーは苦りきった顔でテネットに答弁を促した。開始当初からの民主党
議員による厳しい質問攻めに彼は辟易していた。なんだ、この異様な雰囲気は?まるでパ
ールハーバーに奇襲を受けたような勢いじゃないか。国務長官も大統領補佐官もこのよう
な事態を想定せず、何の対策をも打っていなかったという事実に対し、ルーガーは深い憤
りを覚えていた。そして、この間抜けなテネットときたら……

「はい、事実です。我々はテポドン2と呼ばれている新型のミサイルに関する詳細資料を
入手し、そのスペックから我が国西海岸への到達は十分可能と判断しました」
187 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時58分59秒
ルーガーは得意げに語るテネットの横っ面を張り倒したい誘惑と必死に戦わねばならな
かった。

「その資料というやつの入手経路について伺いたいものだね」
「ごもっともです、ヘルムズ議員。それに関しては参考人として、日本のNGO職員を招
致しております」

民主党議員の質問に対し、テネットは傍らに座る日本人女性を紹介すると見学席のギャラ
リーがどよめいた。注目されている。CNNで放送されたあの日本人のインタビューは大き
な反響を呼んでいたらしい。ルーガーは一般市民から注目されている人物の証言が議事に
与える影響を図りかねた。ウォルフウィッツの差し金か……。ルーガーはパウエルとライ
スの表情をちらっと盗み見た。冷静に状況を見つめる二人の様子には何も変化は窺えない。

「ミズ・ケイ・ヤスダ、あなたの職業は?」
「北朝鮮難民の支援団体の副代表です」
「あなたがこれから語る内容に嘘偽りのないことを誓いますか?」
「誓います」
188 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時59分16秒
落ち着いた口調だった。女性である。それに若い。だが、ルーガーが人物を評価するに際
して若さや性別は判断基準になりえなかった。彼はもう一度ライスの表情を確認した。女
性に対する偏見などここキャピトルヒルでは不利益以外の何ものももたらさない。

「あなたが中央情報局に提供した資料はどのような経路で入手されたのですか?」
「亡命した北朝鮮人民軍の技官から入手したものです」
「信憑性は?」「実際に彼らが調達していた電子部品の内容や技官の証言したシミュレーシ
ョンソフトウェア技術の高さからも検証可能だと思います」

実験は行われたのか?ルーガーは興味を惹かれた。正直、北朝鮮のミサイル打ち上げ技術
など取るに足りないと考えていたのだが、その射程距離が6,000kmを超えるとなると話は
別だ。一気にSMD(戦略ミサイル防衛)構想が再浮上する可能性がある。いや、その前に
北朝鮮への武力行使だ。どちらにしても防衛産業界には願ったりかなったりの話には違い
ない。

「それよりもミズ・ヤスダがCNNで語った内容について詳しく知りたい」
「ヘルムズ議員、どうぞ」
189 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時59分34秒
来たか……。ルーガーはラムズフェルドの横顔を見やった。ペンタゴンはどこまで掴んで
いる?まさかラングレーの田舎モノに遅れを取っているわけではあるまい?だがテネット
の自信満々な様子が気に掛かる。民主党議員であり、元上院外交委員会の委員長を務めた
ヘルムズが保田に質問した。

「あなたは北朝鮮が内戦に突入していると発言しましたね?」
「はい、その通りです」
「根拠は?」
「そちらに座っている方が恐らく空から撮影した写真をお持ちだと思いますが」

ルーガーは回答を促す前に並んで座る国防総省のラムズフェルド長官とウォルフウィッツ
副長官の表情を盗み見た。なるほど……。苦虫を噛み潰したような長官に対し、副長官の
満足そうな笑顔が対照的だった。ウォルフウィッツが止めていたに違いない。彼の指示に
より、質問者であるヘルムズ民主党議員に衛星からの撮影写真が手渡された。
190 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)20時59分52秒
「――これは何を写したものかね?」
「長官――お答えください」
「いや、副長官が答えるだろう」

ラムズフェルドは気の無い様子で副長官にマイクを譲った。ウォルフウィッツが意気揚々
と説明する。

「この点々とした白いものがご確認いただけますか?」
「何だね、それは?」
「おそらく戦車と思われます」
「しかし、その数は……?」
「はい、我々も当初は軍事演習と考えておりました。しかし、演習にしては数が多い」
「北朝鮮の軍事演習は経済危機が顕在化した97年頃からほとんど行われていないのでは
なかったかね?」

さすがに元外交委員長殿だ。要点を衝いてくる。ルーガーは感心した。
191 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時00分09秒
「おっしゃる通りです。我々も訝しく思いました。なにしろ戦車の台数が半端ではありま
せん。そして、その地形をご覧下さい――真ん中辺りの彎曲した線ですが――谷を挟んで
二つの勢力が対峙しています」
「演習にしては確かに大規模過ぎるし陣形の取り方がいかにも不細工だな。別の時間に撮
った写真は?」
「約24時間後に撮影したものです。こちらがそうです」
「むぅ……」

ウォルフウィッツがその写真を示すとヘルムズは黙りこくってしまった。一日後の同じ場
所にはまだ無数の戦車、あるいは戦闘車両らしき物体が所狭しと並んでいたのである。ウ
ォルフウィッツが説明した。

「――戦闘による残骸……と思われます」
「北朝鮮とは演習で装備を犠牲にしても構わないほど鷹揚な国であったかね?」
「いえ。ここ数年は弾薬、燃料を惜しんで演習を中止していたほどです。演習で実機を破
壊するなど……ありえないことです」
「ということは……」
「――ミズ・ヤスダの言う通り、内戦が勃発していると考えて間違いないでしょう」
192 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時00分28秒
おおっ、と議場全体がどよめいた。事前にある程度の内容は伝え聞いていた上院外交委員
長であるルーガーでさえ驚いているのだ。一般市民の驚きようがいかほどのものであるか、
容易に想像がつく。この後が問題だ。他の国であれば内戦への干渉などありえない話しだ。

だが、今、自分たちが話題にしているのは普通の国ではない。大統領自らが「悪の枢軸国」
と名指しで非難し、核爆弾の開発を九割方完了し、米国本土に到達可能なミサイル発射技
術を手中にしようとしている国での話なのだ。ウォルフウィッツはどう展開するつもり
だ?ルーガーはいよいよ警戒を強めた。

「内戦の存在を確認した今、我々には一刻の猶予も許されないと考えるべきでしょう」
「ウォルフウィッツ副長官、どういうことかね?」

ルーガーは牽制した。

「独裁者、金王朝に対する反乱の狼煙が上がったのです。だが、政府軍の力は、兵員数、
火力、補給において反乱軍を圧倒している。反乱軍の命運はいまや風前の灯火です。彼の
地にようやく芽生えようとしている民主主義の目を我々は積んでもよいとおっしゃる
か?」
193 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時00分47秒
「だが、我々がベトナムで学んだことは何だったのだ?内戦への介入こそが民主主義を妨
げるものではないのかね?」

反戦主義を掲げるヘルムズは巧妙な修辞を送った。だが、ウォルフウィッツが意に介した
様子はない。

「ベトナムとは違います。我々は『赤』への恐怖が生み出した妄想と戦うわけではありま
せん。我々の敵は、人民を飢えさせつつも軍備を増強しテロを支援する『民主主義の敵』
なのです」
「だが、我々は反乱の首謀者すら知らずにいる」
「それについてはこちらのNGOの女性から説明していただきましょう」

ウォルフウィッツは保田を立たせた。わずかに目配せし、軽くうなずくと立ち上がり、背
筋を伸ばして顔をあげ、その強い眼光で居並ぶ安全保障担当の重鎮たちを睨み据えた。

「おそらく今ごろ日本と中国の外国公館に民主政権樹立の宣言が配られていることと思い
ます」

保田の澱みない英語に聴衆は聞き入っている。
194 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時01分10秒
「朝鮮民主主義人民共和国の人民最高会議常任委員長、前委員長である金永南氏を首班と
する高麗民主主義共和国政府が江原道元山(うぉんさん)に樹立されたことについての宣
言です」

おおっ、と国務省筋の間から声があがった。あの金永南か。事前に知らされていたはずの
国務長官パウエルも感慨深げな顔をしている。ルーガーもあの男なら知っていた。少なく
とも金正日よりは話のわかる男だ。ルーガーは戦局についての説明を促した。それを受け
て保田はさらに続ける。

「北朝鮮人民軍幹部であった呉克烈大将が総司令官として高麗軍を率いています。高麗軍
は当初、北朝鮮政府に叛旗を翻した人民軍兵士を中心に元山で挙兵。その後破竹の勢いで
北部を制圧。さらに進軍し、一時は平壌近郊まで攻め入りましたが、38度線に展開してい
た人民軍主力が戻り押し返しました。その後戦線は膠着し両軍とも一進一退。ご覧いただ
いた衛星写真はおそらくこの時期のものと思われます」
195 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時01分23秒
パウエルがラムズフェルドに何か耳打ちした。国防長官は即座に答えている。第7艦隊の
状況についてでも確認したのだろう。二正面作戦を匂わすためのフロックが役に立つか…
…ルーガーは高麗とかいう耳慣れない名を戴く反乱軍政府の幸運に驚いた。

「しかし、年が明けてから急速に戦局が動きました。突然、火力を増強した人民軍が猛攻
を開始し高麗軍は劣勢に陥ったのです。現在、太白山脈麓の陽徳(やんどく)付近まで戦
線を押し戻され、高麗政府の拠点である元山(うぉんさん)まで数10kmという近さに接近
しているという状況です」
「なるほど、よくわかった。しかし、一時は膠着した戦線の均衡が急激に崩れるというこ
とは……」
「武器供与した支援国家があると考えるのが妥当では?」
「ミズ・ヤスダ、それはどこの国かね?」
「可能性として言及するに過ぎませんが」
「構わん」
「おそらく中国……」
「中国だって?!」
196 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時01分41秒
議場がどよめいた。潜在的な脅威として中国を牽制する政策を取っているブッシュ政権だ
けに中国と表立って対立するのはまずい。誰もが頭を抱えた瞬間だった。ルーガーも慌て
た。この場を収拾するためにどうするべきか、よいアイデアが浮かばない。だが、再び口
を開いた保田に議場の全員の目が向けられた。

「中国はおそらく、開発されてしまった核をコントロールするためには金正日の方が御し
易いと踏んだのでしょう。だが、それは間違っている。中国の過ちを正すことができるの
はあなた方、民主主義の擁護者たるアメリカ合衆国以外にはありえないのです」
「バカな!中国を相手に第2次朝鮮戦争でもおっ始めようというのか?」
「そうは言っていません。中国を対話のテーブルに着かせることができるのは合衆国だけ
だと言っているのです」
「論外だ!我々に内政干渉の汚名を着せるつもりか?!」
「私の話を聞きなさい!」

バン!と保田が机を叩いた。驚いて立ち上がりかけた議員達も腰をおろす。

「ここにいるあなた方は皆、越し抜けですか?世界の脅威になろうとしている男に立ち向
かった者がいる。その事実に目を向けなさい!」
197 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時01分58秒
保田の迫力に議場は静まり返った。

「すでに卑劣な金正日のテロによってあなた方の国民が貴重な命を落としています。彼女
は私の友人でした。アメリカ人である彼女が金正日のテロにより命を落としたのですよ?
これでもあなた方は中国に気を使う余り、なおも蛮行を繰り返す金正日を放置するおつも
りですか?!」
「確かにテロ支援国家と我々は徹底的に戦うつもりだ、だが……」
「ルーガー委員長!あなたの友人がテロに巻き込まれたと想像してください?いかがです
か?それでもあなたは不介入の立場でいられますか?」
「うむ、それは……」

ルーガーはいきなり自分に発言を振られて口篭もった。

「それだけではありません。北朝鮮には日本から拉致された人々が大勢いる。その中に私
の友人もいるのです」
「……」
「彼女も反乱軍に参加し、ともに戦っています」
「彼女――ということは、女性なのかね?」
「はい、19歳の女性。かつての私の同僚です」
「なんと!」
198 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時02分14秒
議場がざわめいた。日本人の女の子が反乱軍に加わってるだって?日本政府は何をしてい
るんだ?ざわざわとした私語の間をぬって保田の声が議場に響いた。

「私の祖国、日本は貧しい国です――政治・軍事的に、という意味ですが――同胞を助け
たいと思っても政府は指一本動かすことができない。でも、あなた方は違う。民主主義の
擁護者として、ならず者に一泡吹かせてやることが可能なのです」

保田は一瞬、間を置いて、議場を眺め渡した。そして高らかに問いかけた。

「こうしている間にも民主主義の敵に立ち向かった勇気ある青年の命が一人、また一人と
奪われていきます。アメリカ人が真に自由を愛し、民主主義を愛する国民なら、何をなす
べきかおわかりでしょう。ご自分の胸に手をあててよくお聞きください」

保田は形のよい胸に手を当てて目を瞑った。

「もし、あなたがお子さんを、家族をお持ちなら考えてください。彼らに胸を張って説明
できる行為は何であるかを」

議場は静まり返った。保田が一礼して席に座ると傍聴席からパラパラと拍手が沸き起こっ
た。次第に拍手は音量を増し、割れんばかりの大きさとなって保田を戸惑わせた。
199 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時02分45秒
ルーガーは、はっとしたように立ち上がると議事の進行を止めた。

「静粛に!議事はこれにて終了します。本件については午後からの本会議において結論の
出されることを望みます。以上」

ルーガーに閉会を告げられた傍聴席の観客たちはそそくさと立ち上がり出口へと向かった。
さて、今日の立役者はどうする?と見ると、ウォルフウィッツが保田の肩を抱きながら議
場を出て行くところだった。
(そうか……)
ルーガーはやっと気づいた。
(副長官殿にはかなわんな……)
肩を竦め、手元の書類を整理すると、ルーガー自身も議場を退席した。
200 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時02分55秒
◇◇◇

「素晴らしい演説だった。あんなに心動かされたのはキング牧師以来だ」
「"I have a dream"ですね。でも、そんなにお年でしたっけ?」
「失礼な。そんな古い話ではないよ」

ウォルフウィッツは保田と連れ立って議場を去り、執務室に招き入れた。ドアを閉めて部
屋に入ると、座っていた趙が立ち上がった。

「ああ、そのままで。あなたにも聞かせたかったね、ケイの名演説を」
「大げさですよ。でもよい方向に動いてくれるといいんですが」
「その点に関しては信頼してくれ。民主党の議員が動けば、派兵は問題ない。ひとつ障害
があるとすれば……」
「中国ですか?」
「うむ……」

ウォルフウィッツは口を濁した。確かに中国は厄介な相手だが、連中とてあのならず者に
はてこずっているに違いない。歩み寄る余地はあるはずだ。彼はそのためにパウエルが払
わねばならない労力を思うと同情せざるを得なかった。
201 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時03分25秒
「それにしても、ライス女史ではなく、私を訪ねたのは正解でしたな。ミスタ・チョー?」
「何だって?」

英語のわからない趙は保田に尋ねた。

「ライス大統領補佐官でなく、彼を訪ねたのは正しかったと言ってます」
「そうか。感謝していると伝えてくれ」

保田はウォルフウィッツの顔を見上げた。

「感謝していると言ってます。ライス女史がシェブロンの重役であったことをすっかり失
念してましたから」
「彼女はアフガンを叩くことでカスピ海沿岸の天然ガス権益を確保したんだ。もう充分さ」
「イラクの権益はフランスとロシアが漁夫の利を得る形になるんでしょうか?」
「ケイ、あなたが心配することではないよ。それより友人が拉致されたまま反乱軍に加わ
っているというのは本当かね?」
「ええ……」
「どうしてまた拉致されたのだろう?」
「金正日のミュージカルか何かに出演させるためと聞いています」
「彼女も歌手だったのかね?」

保田は視線を外して俯いた。
202 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時03分34秒
「はい。二人とも私と同じ舞台に立った仲間でした」
「二人だって?もう一人いるのかい?」
「ええ。一人は拉致され、もう一人は自ら飛び込んで行きました。彼女の身代わりとなる
ために。けど、そのまま彼女達は……」

消沈する保田を励ますようにウォルフウィッツはわざと明るく振舞った。

「大丈夫さ。我々が参戦すればすぐに片がつく。そうなれば……」

保田の肩をぽんと叩く。

「また、同じステージで歌えるさ」
「そうだといいんですが……」
「大丈夫。なにしろ、この私が……」
「?」

いたずらっぽい笑顔を浮かべる軍人の顔を保田は不思議そうに見つめた。

「あなたの歌を聞きたくってしかたがないんだからね」
「副長官……」
203 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月19日(水)21時03分52秒
「さ、本来ならランチとしゃれ込みたいところだが、午後からもう一仕事ある。ピザは大
丈夫かね?」
「はい、喜んで。趙さん、昼食、ピザでいい?」
「ああ」
「よし決まりだ。ヘイ、マリー!ピザの出前を頼む」

ウォルフウィッツの注文に対し、フンと鼻をならし不服そうに答える秘書を見て、保田は
噴出しそうになった。そのサラツとした金髪といい、小柄な体格、生意気そうな表情。ど
れをとっても矢口を彷彿とさせたからだ。どこか憎めない。
(矢口、頑張れよ……)
そう心の中でつぶやいたのがまずかった。結局、プッと噴出してしまい怪訝そうな表情を
浮かべる矢口、いやマリーに目配せをする。相手はそれが気に入ったのか、片頬を吊り上
げてニヤリと微笑んで部屋を出ていった。
204 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時41分51秒
◇◇◇

もはや退却は不可避だった。中国による火力の増強により人民軍は各戦線に対し大攻勢を
仕掛けていた。私自らが前線を掛け回って兵士を鼓舞できたのも最初の三日ほど。以降は
敵の張るすさまじい弾幕に遮られ、陣地の間を自由に動くことすら阻まれた。

私の預かる東部方面軍第3機甲師団は壊走寸前の状態でなお、前線に留まっていた。ここ
を破られたら一気に元山の臨時政府まで到達されてしまう。高麗共和国を宣言した臨時政
府も劣勢を挽回すべく、ロシアの仲介による中国の人民軍への支援凍結説得を働きかける
などの外交努力を精力的に進めていたが、はかばかしい成果は得られていなかった。頼み
の綱は趙大佐による米国への参戦要求工作だけだが、こちらはまだ端緒に着いたばかり。
しかも移動途中にハワイの民間人を巻き添えにしてしまったという。
205 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時42分16秒
かかる状況の中、高麗共和国軍統合参謀本部は戦線の拡大は兵力を分散しいたずらに消耗
するのみとの結論を下した。外交努力による事態の打開が図られるまでは、元山を中心と
する北部地域の専守防衛に切り替えるのだ。撤退にあたって最前線で敵と対峠する我が師
団は総司令官呉克烈から厳命を受けていた。

『全軍の撤退を敵に悟られぬよう、最後に残る部隊は最後尾の部隊が陽徳(やんどく)に
撤収するまで持ち応えること』

何のことはない。捨て石だった。戦場の常とは言え、その過酷な現実に直面し、決断を先
延ばしに延ばしていた。本部からは毎日のように決行を催促してくる。私は困り果ててい
た。
206 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時42分42秒
「ちょっと、大丈夫?顔色悪いわよ。寝てないんじゃないの?」
「イーファ……」
「いくら常勝の市井師団だって今回だけは……ね。考えてもしかたないわ。」
「なんとか全員を無事、帰還させる手はないかな?」
「向こうの機動性を考えると……。T-72戦車をあんなに保有しているとは思わなかった。
こっちの主力のT-34とじゃお話しにならない。それより、少しでも早く退却を始めないと
いたずらに損失が広がるばかりだわ」
「わかってるよ。けど……」

何で私がこんな過酷な決断を下さなければならないのだろう。もういやだ。何もかも放り
出して逃げられればどんなに気が楽か。だが、逃げたところで少しも楽にならないだろう
ことは判りきっていた。その責任を結局は誰かが負わなければならない。将校というのは
その重荷を背負うためだけに存在するのではないか、そんな風に思えることがあった。そ
して、実際に私が果たしている役目もそれくらいしかない。実戦はほとんど部下の連隊長
以下が仕切っている。私の出る幕などなかったのだ。
207 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時43分22秒
「少し寝なさい。まずは気持ちを落ち着けて。それから考えたらいい」
「イーファ……ありがとう」

本当に。心底ありがたいと思った。彼女がいなければとっくにプレッシャーに押し潰され
ていただろう。偵察中隊長として随行してくれていたのは不幸中の幸いだった。彼女の言
う通り、疲れているのかもしれない。決断を下せないのは心が疲弊している証拠だ。
「少し、寝よう。それからちゃんと決めるよ」
「その方がいいよ」

そう言って彼女は去っていった。さて、私も寝ようと野営宿所に戻ろうとしたところで、
鄭小隊長に呼びとめられた。

「市井准将殿、話しがある」
「何の用かしら?」

鄭が相手だと口調がどうしてもぞんざいになる。それだけ気を許しているということなの
だろうけど。

「残務部隊のことだ」

ハッとした。まさか鄭は……。
208 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時43分38秒
「決めかねているようだな。俺たちがやろう」
「ちょっと、鄭中尉?」
「遠慮するな。誰かが引き受けねばならんのだ」
「早まらないで。退却するにしたって、もっと損失を少なく出来る方法があるかもしれな
いし……」
「詭弁はよせ。殿(しんがり)の犠牲なしに退却など出来んことはお前もわかっているだ
ろう」
「でも、でも……」

私は幼子のように繰り返すことしかできなかった。殿(しんがり)を引き受けてくれるこ
とは正直言って助かる。だが、同時に鄭の隊を残すことに踏み切れないでいるのもまた確
かだった。私は余りにも鄭とその部下たちに親し過ぎる。生きて帰れる可能性はほとんど
ない任務だ。良心の呵責なしに彼らを置いて残すことなどできそうになかった。

「しっかりしろ。お前は一個師団を預かる将校なんだぞ」
「わかった。殿(しんがり)は鄭中尉の小隊に任せよう。ただし私も残る。それでいいだ
ろ」
「何を言ってるんだ?」

鄭は呆れたと言わんばかりに目を見開いた。まったく相手にされていない。
209 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時43分54秒
「そんなことを上が許す訳はないだろう。お前は市井であって市井個人ではないんだ」
「わかってるよ。そんなことは」
「いいや、わかってないな」

主従が逆転したみたいだ。というか、この関係が一番、落ち着く。「准将殿」なんて呼ばれ
た日には腰の座りが悪くていけない。

「もし、この戦争に勝ったとしても、日本人を戦闘で死なせてしまったことがバレたらヤ
バいんだよ」
「……」
「それ以前にお前は常勝将軍だ。お前の指揮した戦いはすべて勝利を収めている。『勝利の
女神』なんだよ、お前は」
「偶然でしょ。私のせいじゃない」
「お前のおかげだよ。少なくとも前線の兵士はそう思っている。お前は陣頭に立つだろう。
兵士はみな、お前に認めてもらいたくて張り切るんだ」
「指揮官ならあたりまえでしょう?」
「それがあたりまえじゃない。できない奴は大勢いるよ。特に人民軍で出世し過ぎたやつ
はそうだ。高麗軍で頭角を現した者は別だが」

私は鄭の顔を正視できなかった。これ以上彼と話すことに耐えられそうにない。
210 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時44分42秒
「どうすれば……いいんだよ……?」
「退却の実行計画を建てろ。後は俺たちがなんとかする」
「本当にいいの?」
「お前が案ずることではない。24時間以内に発令しろ。元山は疑心暗記に陥っている」
「えっ?どういうこと?」
「寝返るのではないかということさ。退却を指示されてからどれだけ経ったと思っている
んだ。それにお前は部下の信望もあつい。元山にいる人民軍上がりの将校たちにはお前の
ことを快く思っていない者も少なくないはずだ」

何ということだ。考えもしなかった。妬まれるほどの活躍をしたわけでもないのに。下手
をすれば反逆者として処罰されかねないわけだ。私は背筋を冷たいものが駈け上がるのを
感じた。

「いいな。明日中には指示を出せ。若い連中には気持ちを整理する時間も必要だ」
「鄭中尉……」
「疲れてるようだな。これで心置きなく眠れるだろう」

そう言い捨てて、立ち去る鄭の後ろ姿が大きく見えた。
211 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時44分58秒
やがてそれがぼんやりと霞んで見えなくなって、私は泣いていることに気付いた。疲れて
いた。眠かった。何も考えず、ただ深い眠りの水底に沈みたかった。だが、ベッドに入っ
ても寝付くことはなかった。一晩中、私はただ涙流れるまま、心を引き裂かれるような痛
みに耐え続けなければならなかった。

明け方になってようやくまどろみかけたとき、後藤の声が聞こえたような気がした。それ
が何を訴えているのか考えているうちに知らずと深い眠りの沼底にずるずると引き込まれ
ていた。束の間の睡眠。

まだ夜が明け切らないうちに起床ラッパの甲高い響きが私を叩き起こす。ベッドの上に置
き上がったときにはすでに後藤が何を訴えていたのか忘れていた。だが、おぼろげな記憶
は何かとても大切なことを言っていたというような曖昧な感覚だけを残す。落ち着かなか
った。
212 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時45分14秒
私はベッドから降りると机に向かい、退却計画を一気に書き上げた。伝令を呼んで撤退す
る旨を各連隊長に伝えるよう告げると心にぽっかりと穴が空いたような空虚な感覚だけが
残った。

午前のうちのうちに先発隊が退却を始め、鄭中尉の小隊は最後の戦いに向けて準備を始め
た。私は最後まで残ることを主張したが、誰も真剣には取り合わなかった。イーファもた
だ肩をすくめて悲しそうに首を横に振るだけだった。先に出発する部隊がせめてもの心遣
いのつもりか鄭小隊のために対戦車ミサイルの予備や機関銃の弾奏を残していった。言葉
少なに笑顔で先発隊を見送る隊員の表情には死地に残るというような気負いや悲愴感は見
られなかった。

午後になってとうとう、退却する最後尾の小隊だけが残った。装甲兵員輸送車が入口を開
けて私が乗り込むのを待つ。師団長として最後の言葉を掛けなければならなかった。鄭中
尉以下、韓軍曹、趙伍長、李通信担当兵、南上等兵など知った顔が並ぶともう私は言葉が
出ない。
213 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時45分33秒
「市井師団長殿、御武運をお祈りします」
「この場は我々にお任せください」
「市井准将いる限り、高麗軍は無敵です。どうかご無事で」

鄭の部下たちが次々に言葉をかけてくる。鄭自身は無言で私を見つめていた。何か言わな
ければならない、何か……。

「――しょ、諸君の健闘を祈る。どうか最後まであきらめないで、生き残ることだけを考
えて……」
「准将殿!」

鄭が遮った。

「我々は全員、あなたが無事、元山に退却できることだけを考えて最後の最後まで粘りま
す。我々の命に代えて退却が無事に完了するまで死力を尽くして闘います」
「鄭中尉……」
「さ、師団長殿がご出発になる。しっかりとお見送りしろ、全員敬礼!」

隊員がみな敬礼のポーズを取って見送ろうとしている中、私は輸送車両に乗り込まざるを
得なかった。

最後まで残った私が搭乗するとタラップが上げられた。
214 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時45分47秒
ハッチから上半身を覗かせたまま振り向いて直立姿勢をとる。右手を掲げて鋭角に曲げ伸
ばした指先を右のこめかみに当てた。車両がゆっくりと動き出す。私はしっかりと彼らの
姿を目に焼きつけようと目を凝らした。車両がスピードを増すに連れ、彼らの姿がどんど
ん小さくなっていく。

それでも私は直立姿勢を保ち、後方を凝視し続けた。視界がぼやけ、後ろに置き去りにさ
れていく風景が歪んで見える。涙があふれ、時折、谷底に差し込む日差しが白く光るほか
は何も判別できない。石灰色の世界が流れる。それでもまだ、私は腕を掲げ続けた。下ろ
した途端に彼らへの不義理を果たしてしまうような、そんな気がして。

同乗していた小隊長が見かねて私に声を掛けた。ようやく降ろした右肩は石のようにカチ
カチに固まって、しばらくは動かすことができそうにない。その痛みさえもが名残惜しく、
私は元山に到着するまで、胸の奥からこみ上げてくる慟哭と戦わざるを得なかった。
215 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時46分20秒
◇◇◇

「――おい……ナム、ナム上等兵……」
「は、はい……軍曹殿……」
「まだ、生きていたか……」
「――そのようです……」

もっとも、あと1分後に聞かれて同じ答えを返せるかどうか甚だ心もとなかった。そんな
ことを考えるのさえ億劫で南は再び目を閉じた。敵の激しい砲撃により味方の大半がすで
に吹き飛ばされて行方が知れない。横に広がった陣形はずたずたに切り裂かれいていた。
猛攻を防ぐだけで精一杯だった。

永遠にも思える長い時間、南はただ銃を撃ち、弾がなくなれば銃を持ち替えてひたすら撃
ち続けた。幸い、銃弾を撃ち尽くしたために手に取った対戦車砲RPG7がおもしろいように
敵の戦車に命中した。体勢を立て直すために一時退却したそのわずかな間だけ、ようやく
小休止を取ることができた。だが、まぐれがそう何回も続く保証はどこにもない。敵が自
分達の人数に気づき、何倍もの兵員を投入してきたらひとたまりもない。
216 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時46分36秒
「なあ、ナム上等兵は…師団長殿の踊り子時代、を知ってるんだろう?」
「えっ?ああ、はい……」

こんなときに何を言い出すんだろう?南は訝しく思った。指一本動かすことさえ億劫なほ
ど披露困憊し切っているというのに。韓軍曹はまだ余裕があるのか?だが南は韓軍曹の様
子にどこか普通でないものを感じた。

「俺も師団長殿が、歌って、踊ってるところ、見たかった、なあ……」
「――私も踊っているところを見たわけではありませんよ。ホテルに泊まっていた師団長
殿を任務により捕捉しただけですから……」

そんなことか……。だが自分とて大同江一号として、鄭中尉の作戦を執行しただけだ。む
しろ市井の真に魅力的な姿に接したのはともに行動した高麗軍での作戦においてであった。
南は生死をともにするうちに市井は本当に神性を帯びた少女なのではないかと、半ば呆れ
ながらも信じつつある自分が不思議だった。

(俺だけではなかったということだ……)
217 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時46分52秒
南は強面の韓軍曹が市井に思いを寄せていることを知って、少しおかしくなった。何か言
い返してくるかと思ったが、返事はない。死地にあって、そのような胸中の女々しい想い
を吐露してしまったことを悔やんでいるのか。この人は死ぬまでそんなことは言いそうに
ないと思っていたが。そう、死ぬまで……。南はハッとして目を開き、すぐ傍にいるはず
の韓の姿を探した。

「ハ、ハン軍曹!」

韓は土嚢の上に覆い被さるようにして倒れていた。背中に赤い染みが広がっている。

「き、救護班!早く!ハン軍曹が撃たれた!」

南はそう言うが早く、韓の横に屈みこみ、手首をとって脈を確かめた。まだ温かい……。
だが、脈動はほとんど感じられない。

ダメか……。いや、頑張れ、生きろ軍曹。
師団長殿が歌って踊る姿を見たいんだろ……。
もう少し……頼む……。
218 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時47分07秒
南は縋(すが)るような気持ちで韓の脈を取りつづけた。

――ん?これは……生きている!

南はパン、パンと韓の頬を張った。

「ハン軍曹!起きて!起きて下さい。おーい、救護班、こっちだ!」

だが返事はない。焦れる南の耳に荒い息遣いが聞こえてくる。背筋を冷たいものが駆け上
がった。ぞっとして恐る恐る下に目を向けると韓が荒い息を吐きながら、自分の顔を見つ
めている。

「ハン軍曹!良かった、気づかれましたか!」
「――ナム、救護班は、こな、い…みな、さっきの砲撃で、やら、れた……」
「しゃべらないで、ハン軍曹。傷に障ります」
「お、れは…もう………ナム……」
「何ですか?お気をたしかに」

そう言いつつも、南はもう半ば諦めている自分に気づいた。この弱々しい口調。穏やかな
表情。韓はこんな大人しい性格ではなかった。あるいは死を覚悟しているのか……。
219 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時47分22秒
「市井、師団長殿、は、もう、安全なところ、まで退却、され、ただろう、か……」
「ハン軍曹……大丈夫ですよ、市井准将は」
「それより鄭中尉は?」
「――お、お前が、RPG7にロケット弾を充填した、とき、援護射撃の最中」
「えっ?」
「敵、の銃弾に額を……」
「ちょ、鄭中尉がやられた……」

南は頭の中が真っ白になった。自分を援護するために鄭中尉は……。南は鄭の下で対南工
作に励んだ日々を思い出した。駈け出しの頃、韓国情報部との銃撃戦で脅える南を張り倒
し、叱咤した鄭。金大中が韓国大統領に就任してからは脱北要人の監視や処分に奔走する
日々が続いた。そのほとんどの時間を鄭と過ごした南にとって、鄭を失った喪失感は南を
追憶の彼方へと逃避させた。呆然として視線の焦点が定まらない南の様子に韓は掛ける言
葉もない。
220 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時47分38秒
突然、激しい衝撃を感じた。轟音が響き、鼓膜を震わせる。感傷に浸る南は再び現実に引
き戻された。砲撃か?南は体を伏せて塹壕の隙間から前方を確認した。双眼鏡を持つ手が
震える。戦車が3…、4…、5台。しかも旧式のT-34ではなく見たこともない形だ。T-72
よりも新しいT-90シリーズだろうか。どっちにしても最悪の相手であることは確かだった。

「敵襲か?」
「はい。戦車が5台。最新機種です。銃火器照応帳には載っていない」
「T-90か……」
「そうかもしれません。いや、もっと最新のものかも」

南は韓と会話を続けながら機敏に行動した。味方でまともに動けるのは自分だけらしいと
悟ったからだ。手始めにRPG7を手に取った。あの戦車の砲弾射程距離はどれくらいだろ
う?鄭が最後に装填したというひし形の弾頭を持つミサイルの角端が鈍く光る。

届いてくれよ。祈りにも似た気持ちでスコープを覗いた。こちらに一番近い戦車に照準を
合わせる。動かないでいてくれることを願いつつ点火。ノズルから火炎を放射しながら勢
いよくミサイルが飛び出した。
221 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時47分55秒
弾道が奇麗な放物線を描いて対象に直撃した。やった!だが、次の瞬間、爆煙の中から姿
を現した戦車はほぼ無傷でその姿を現し、砲頭をこちらに向けた。

「ハン軍曹!伏せて!」

叫びながら自分も地面に倒れ込んだ。すさまじい砲撃の威力。積まれていた土嚢が吹き飛
ばされ、伏せている南の体は危うく土の中に埋もれてしまうところだった。地べたにはい
つくばって次の砲撃を待つ。終わりだ。RPG7が効かなかった。何という装甲の厚さだ。も
はや南たちに抵抗するすべは残されていなかった。いや、だが、本当に?南は考えた。あ
れなら……。誘導型地対空ミサイルSA-7。あれならどうだろう?「ハン軍曹!SA-7は?あ
れはどうしました?」
「――ナム……弾薬庫にある、はず、だ」
「軍曹!ご無事ですか?」

だが南が弾薬庫に向かって歩を進めようとした瞬間、再び激しい衝撃とともに体が地面に
叩きつけられた。再び土くれの中に顔を突っ込んで息もできないほどの苦しさに必死で耐
える。すさまじい爆音が聞こえる。近い。近かった。もう少しで吹き飛ばされていた。南
は今まで体験したことのない恐怖に脚がすくむのを感じた。
222 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時48分22秒
体が震える。寒さと恐怖は一体となって南の心臓を鷲掴みにした。一歩踏み出す度に奥歯
がガチガチと音を立てた。まるでしゃれこうべが笑ってるみたいだ。南は精一杯、死の恐
れと戦いながら、せめて一矢を報いるためにSA-7の長細い筐体を掴んで発射するための台
座となる場所を探した。

ふと南は何か気配を感じた。音がする。上を見上げた。そこには甲高い金属音を立てなが
ら飛行する編隊が複数の白い筋を残していた。攻撃機か?!万事窮した。もはやこれまで
だ。南は自分の中で急速に戦意が失われていくのを感じた。呆然とその様子を眺めている
と、先頭の機体から何かが落とされた。来る!南はとっさに頭を抱えて屈み込んだ。激し
い爆音とともに爆風で金属片が飛び込んでくる。

しくじったのか?南は自分の強運を意識した。だが、運だけでいつまで生き長らえること
ができるか……攻撃機すべてが爆弾の投下に失敗するとは思えなかった。もう一発。今度
はもう少し遠い。南は頭を抱えながらも段々と冷静になってきた自分が不思議だった。
223 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月27日(木)13時48分45秒
何が起きてる……?南は顔を上げて韓の姿を探した。軍曹は半分土の下に体を埋めながら、
それでも上体を起こして、何が起こっているのか把握しようとしていた。

「ハン軍曹、何でしょう?」
「攻撃機か……」

二人は沈黙し、だんだん大きくなる金属音に上空から近づいてくる攻撃機の機体を確認し
た。敵、味方ともに空軍の主力とするスホーイではない。

「我が空軍の主力は元山周辺地域の制空権確保で手いっぱいのはずだ……」
「まさか……」
「中国か?いや、だが……」

その戸惑いは次に炎を上げたのが敵戦車であることで確信に変わった。

「国連軍だ!ナム!助かったぞ!」

南は呆然として、歓喜のお叫びを上げる韓の様子をただ見つめるしかなかった。戦車をす
べて破壊され、なすすべのない敵の歩兵は散りじりに散会して壊走していた。その成果に
満足したのか、飛行編隊は悠々と上空を旋回した後、ゆっくりと機首を南に向けて山の向
こうに消えていった。
224 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)21時56分19秒
◇◇◇

縦列で行進する我が師団を平壌市民は歓喜の声で迎えた。陽光の下、自分の乗るジープの
ポンネットが白く光る。いつのまに作ったのか、朝鮮半島の形をあしらった統一旗を振る
気の早い市民に、私は手を振って応えた。さすがに金父子の過酷な統治を潜り抜けてきた
したたかな連中だけに、権力者の交替には機敏に対応する。気まぐれな市民の信頼を繋ぐ
ためには、何をさておいても治安の回復がまずは最優先で行うべき課題であった。

かつて人工的な機能美を誇った街並みも人民軍首都防衛軍と高麗軍と国連軍との激しい市
街戦により、著しく損傷していた。幸いというべきか、悪運が強いというべきか。金日成
広場に屹立する「偉大な首領様」の巨像。逸早く新政権への忠誠を示そうと先走った市民
が破壊しようとしたが、未然に防ぐことができた。TV局のカメラが回っている前で盛大に
壊す市民の姿が必要だったのだ。ベルリンの壁を打ち崩す市民、取り壊されるレーニン像。
それらのシーンと並んで、今後、おそらく世界中で何万回も繰り返し放送されるであろう
映像は、金王朝崩壊の象徴として絶対に記録に残しておかなければならなかった。
225 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)21時56分37秒
終わった……
いや、正確にはまだ地方に残って抵抗する人民軍の残党を掃討しなければならないし、今
後、近いうちに顕在化するであろう、高麗新政府内での権力闘争も心に重くのしかかる。
悩みの種が尽きることはないのだ。だが、私にとって、それらは些事でしかなかった。戦
争の勝敗が決した今、私の日本への帰国を阻むいかなる障害もないはずだ。

いや、その前に収容されている後藤の解放だ。金正日政権が崩壊し、本人が逃亡してしま
った今、彼女には何の政治的価値もないはずだった。つまり拘束しておくだけの理由がな
い、ということだ。これだけは何を置いてもまず、金永南に交渉しなければならないと思
っていた。

「サヤカ、もうちょっとにこやかに。ねっ」
「えっ?最高の笑顔じゃん」
「みんな解放の英雄『サヤカ』の姿が目当てなんだから。もっと愛想振りまかないと」
「ごめんだね。もう偶像崇拝はやめたんだろ」
226 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)21時58分54秒
隣に座るイーファの言葉に反応はしてみたものの、自分では飽くまでもニコニコとこれ以
上はないくらいのさわやかな笑顔を振りまいていたつもりだ。もちろん、イーファもひき
つったような笑顔を浮かべているが、ぎこちなさがうかがえる。いかにも作り笑いです、
といった雰囲気が顔全体に貼りついている。この辺は私に分がありそうだ。短いとはいえ、
娘。で経験を積んでいる分、一日の長がある。

「それにしてもさ。こっちにもあの人たち、居座る気かね?」
「あの人たち?」
「アメリカさんさ」
「さあ……」

イーファは明言を避けたが、おそらくそうなるであろうことは確かだった。守るべき38
度線がなくなった今、脅威のデッドラインは東に移動したはずだ。21世紀に入って米国と
唯一対抗しうる勢力としての潜在的脅威、中国。その国と直接、国境を接する高麗は最前
線基地として、地政学上、どうあっても抑えておかねばならぬはずだった。
227 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)21時59分11秒
「ねえ、イーファ……」
「何?」
「――んん、何でもない。ごめん」

私は言おうとした言葉を呑み込んだ。

「なあに?変なサヤカ。フフ」

作り笑いでないチャーミングな笑顔が浮かんだ。そう。その方がいい。私はなんとなく日
本への帰国について話すのがためらわれた。まだその時期ではない。まだ……。その魅力
的な微笑みを見せられたあとでは、そう思わざるを得なかった。

パレードは知らないうちに栄光通りから勝利通りへと入っていた。沿道では相も変わらず
手を振る人が歓声で私たちを迎えていた。その向こう、大同江は冬の鋭角的な日差しを反
射してキラキラと光を散乱させている。私は後藤と散歩した道はどこだったっけ、と振り
返ったが、沿道の人混みでうまく見つけることができなかった。後藤……。やはり日本へ
の帰国話は当分、切り出せそうになかった。
228 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)21時59分26秒
◇◇◇

金正日の行方は杳(よう)として知れなかった。一体、どのような逃げ道を用意していた
ものか。たしかに豆満江を越えていけばあるいは可能かもしれないが、渡河での越境は比
較的水温の上がる春から夏にかけて集中するのが常だ。慢性的な運動不足で厳冬の過酷な
条件のもと、凍てつくような水に入って河を渡ることができたとは考えられなかった。

もっとも彼の周囲は早くから金が逃亡を企てていることを察知していたらしい。南浦(な
むぽ)から船で中国の遼島半島へ渡ろうとして韓国海軍に逮捕された側近の何某によれば、
平壌が包囲された段階ですでにスイス銀行の口座から全金額を引出して現金に換えるよう
指示を出していたことが判明している。その他にケイマン諸島などの資産を管理している
腹心の外交官にもそれらを処理するよう通達していたという。
229 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)21時59分43秒
米軍はAT&Tを通じて北朝鮮からの国際電話はすべて傍受していたが、金の流れが最終的に
どこへ行きついたのか、電話での内容だけではわからなかったということだ。よほど以前
から周到に用意していたのでなければこうはいかない。金正日というのはつまり、常に仮
想敵の襲撃に備え、いざというときには即座に逃げ出せる体制を体系的に整えていたとい
うことになる。余程の臆病者か、あるいは先手先手を打つ卓越した棋士のような先見の持
ち主か。いずれにしても彼が猜疑心に満ちた孤独な男であったことは間違いない。

鄭中尉亡き後、金正日の探索にあたる特殊部隊を率いる才覚を持った士官はイーファしか
残っていなかった。内戦が終結し、軍に留まる異義を失ったユウキは除隊し、日本に帰国
するため、挨拶のためにイーファのもとを訪れていた。

「お世話になったね、イーファ」
「こちらこそ。あなたも大変なことに巻き込まれちゃったわよね」
「僕はいいんだけど……」
「お姉さんね?」

こくりとうなずくユウキの姿がしおらしかった。自分がもう10歳くらい若かったら、目の
前のこの少年に熱をあげていたかもしれない。
230 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時00分12秒
だが、現実にイーファはユウキより一回り以上年を取っていたし、十代の若者のナイーブ
なハートを相手にできるほど自分はもう恋愛に対してタフではないと感じていた。そう、
夢見る頃は過ぎたのだ。鄭の死は思っていた以上に大きなダメージを与えていた。イーフ
ァは苦い思いを振り切るようにユウキの姉を脳裏に思い描いた。

「当面、解放は難しそうね。なにせ金正日の行方を知っていそうな身内はお姉さんしかい
ないから……」
「そう、やっぱり……」

さして落胆した様子もないところを見るとあらかじめそう応えるであろうことは予想して
いたか。だがその表情が冴えないことには変わりない。イーファはこの少年がふたたび笑
顔を取り戻すにはどうしたらよいだろうと考えた。なんのかのと理由をつけつつ、結局の
ところイーファはユウキが好きだったのだ。

「それにしてもサヤカは凄い人気だそうね」
「うん、それはもう。早速、利にさとい連中が台湾あたりからモーニング娘。やプッチモ
ニのテープを仕入れては法外な値段で富裕層に売りつけてるみたい」
231 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時00分21秒
「日本のTVやレコード会社も放って置かないわね」
「そうだね。市井さん本人もそれを望んでいるだろうし」

そうなのだ。イーファは自分で話を振っておきながら、さらに寂しくなるような話題しか
出せないことに軽い苛立ちを覚えた。ただ、市井の場合は准将という高い地位についてい
るだけに、ユウキのように簡単に退官というわけにはいかないのだが。

「日本のワイドショー、だっけ?毎日サヤカの話題で持ちきりらしいじゃない」
「うん、モーニング娘。復帰待望論なんてのも出てきたらしいよ」
「あら、天下のモー娘。がそんなことする必要ないでしょ?」
「それが、姉さんとか矢口さんが辞めて大分、人気は下降気味だったらしくて。保田さん
の活躍で再び脚光を浴びてるっぽい話は聞くけど」
「そう……」

意外だった。イーファの知っているモーニング娘。はまさに国民的アイドルと呼ぶにふさ
わしい存在だった。市井があの中の一員だと知ったときには軽い羨望の念さえ抱いたもの
だが。
232 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時00分42秒
「とにかく、一回、日本に帰国して姉さんの解放を日本政府に訴えてみる」
「そう……。外交圧力が一番、効くかもね。特に日本の復興開発基金には大きな期待を寄
せているようだし」
「うん。そのつもりで。じゃ、多分、また来るから」
「必ず来なさいよ」
「ハハ。来ちゃうだろうね。それじゃ」
「気をつけてね」

最後は笑いながら手を振って出て行った。それが逆に寂しさを感じさせる。今度会うとき
は、本当に心の底からの笑うユウキの姿が見られればいい。だが、一方で拘禁中の後藤に
対して行わなければならない一連の尋問について、呉克烈から一任されていることにイー
ファは胸苦しさを感じずにはいられなかった。
233 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時00分58秒
だが、今までの経緯から後藤が金正日の立ち回り先を知っているようには思えない。だが、
金正日の愛人だったという偏った情報だけが市民の間で流布されている。後藤に対する謝
った世論の形成は金永南の判断に影響を与えそうで危険だった。

金正日の行方がわからない場合、内戦の責任を負わせるだけの大物がいない。主だった軍
人や党の高級幹部はみな、戦場で倒れ、あるいは平壌解放のどさくさに紛れて殺され、残
っていなかった。金正日に対する市民の怒りの矛先は誰に対して向けられるのだろう……。

イーファは静かに首を横に振った。ユウキと別れた直後にそんなことは考えたくなかった。
234 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時01分14秒
◇◇◇

『――まったく理不尽な話ですね』
『ええ、拉致して踊り子にさせられた挙句、監禁されて金正日の愛妾呼ばわりですからね』
『この件については、外交ルートからも交渉中と聞いていますが、現地との回線が繋がっ
たようです。中野さん?平壌の中野さん?現地の反応はいかがですか?』
『はい。日本を始め各国から後藤真希さん解放の嘆願署名が続々と集まってまして、新政
府の外交担当相―日本でいう外務大臣ですねーは対応に苦慮している模様です』
『市民の反応はいかがですか?』
『はい。市民の間では、金正日憎しの感情が日に日に高まってきてまして、その怒りの矛
先が唯一、新政府が身柄を確保している金家の身内であると見なされている後藤さんに向
けられている、とこういう状況ですね』
『はあっ、現地の状況は厳しいですね』
『はい。この件に関してはですね、海外から後藤さん解放の声が高まるのに比例して、そ
れに対する反発も強まるというプチナショナリズムのような負の循環に――』
235 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時01分33秒
プチッと音がして画面が消えた。ソニンはTVのリモコンをテーブルに投げ出して、ソファ
に沈み込んだ。ワイドショーは連日、市井の凛々しい軍服姿や拘禁される後藤の救出に奔
走する人々のコメントを垂れ流している。ソニンはいい加減、似たようなコメントしかで
きないアナウンサーやコメンテイターの単調さに辟易していた。それにしても現地の雰囲
気は最悪だった。言論を抑圧されていた反動からか、政策に関する何事に対しても口を出
さねば気がすまないような一種の集団ヒステリー状態を連想させた。市民の負のエネルギ
ーが捌け口となる対象を求めている……。ソニンは恐ろしくなった。

だが不甲斐ないのは外務省、いや日本の政府だ。彼らは何をしている?日本人が確たる理
由もなく拘禁され、謂れのない罪で戦時裁判に掛けられようとしているのに。やはりあれ
が障害になっているのか……。ソニンは今さらながら悔やんだ。ユウキには何の問題もな
かっただけに油断していたのかもしれない。
236 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時02分01秒
後藤真希。後藤家の家族で、彼女だけが帰化申請を行っていなかった。つまり、日本人で
はないということだ。ユウキも知らなかったらしい。そうなると政府にとって後藤を助け
る名分はなくなる。あの弱腰ではそもそも大きな進展は期待できそうになかったが。ソニ
ンは考えた。ここはやはり、米国による圧力しかないだろう。ソニンは受話器を外し、リ
ダイアルボタンを押した。

『イエス、ヤスーダ』
「保田さん、あたし。ソニン」
『おお、ソニン元気?』

受話器からは保田の元気そうな声が流れてきた。

「矢口さんも元気してる?」
『ああ、ちょっとへばってるかな。何しろマスコミ出ずっぱりだから』
「人気者みたいね」
『子供みたいで可愛いんだろね』

いきなり渡米してセンセーションを巻き起こした保田。その保田の現地での活躍を取材す
るために、矢口が渡米したのがつい先週。
237 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時02分09秒
日本では、市井や後藤が拉致されて内戦に巻き込まれていたことが明るみに出て、世間を
騒然とさせた渦中のことである。米国でも、もちろん北朝鮮における内戦及び高麗共和国
の樹立宣言は大いに世間を騒がせてはいたが、それよりも実のところメディアの関心は保
田個人に向けられていたと言っても過言ではない。

その保田を取材に来た元同僚であり、日本のエンターテイナーである矢口をもまた、米の
マスメディアは新鮮な驚きをもって迎えた。日本のメディアはこんな小学生のような娘を
シリアスな報道記者として働かせているのか?少なからぬ誤解が介在していたわけだが、
そこは細かいことを気にしないヤンキー気質。矢口は保田とともに瞬く間にメディアの寵
児に祭り上げられてしまっていた。

「頭の回転も速いしね」
『そう。こっち来てまだ1週間も経ってないのに、もう簡単な英語はわかるみたいでさ。
私の立場ないじゃん、て感じ』
「いやあ、保田さんの域に達するのは無理でしょ」
『またまたあ。誉めたって何も出ないよ』
「ふふっ、それよりね……」

ソニンは後藤の解放に関して、現地のヒステリックな反応が障害になりそうなことを保田
に伝えた。
238 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時02分25秒
『やれやれ。民主主義に慣れてない市民は怖いね。力を得たものの制御できない……か』
「金正日が見つかれば何の問題もないんだけど」
『――どうだろね。難しいんじゃないかな、どのみち、ろくな死に方はしないと思うけど』
「保田さん……」

冷たく突き放した言い方にソニンは落胆した。金正日、あるいはそれに準じた金王朝の成
員が見つからねば、後藤は危ない。さすがに高麗政府も法治国家となっただけに軍事裁判
抜きで後藤を死刑に処すわけにはいかないが。それでも、世論が裁判に大きな影響を与え
ることは十分考えられる。それを阻止するためには、やはり世論の力が必要だ。彼らに知
らしめてやらねばなるまい。世界は後藤の釈放をこそ望んでいることを。

『大丈夫。私にまかせて。何せ今、こっちはプチモー娘。ブームでさ。紗耶香とか後藤に
ついても関心高いのよ。署名運動、うまくいくと思うよ』
「そうだといいんだけど……ところで、保田さん?」
『ん?』
「趙さんとは……?」
「……」
239 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時03分06秒
気まずい沈黙が続いた。やはりうまくいっていないのか?自分のせいではないものの、胸
が痛む。さきほどまでの保田の明るい様子が無理に装っていたものだとわかると余計に辛
い。

『――さっきね……ダレス(国際空港)から発ったところ。一応、送ってきたんだ』
「保田さん……」
『もう、自分の役目は果たしたし、早く生まれ変わった祖国を見たいって……』
「そう……でも、また帰ればすぐに会えるよ」
『いいの……私、当分、こっちで活動しなくちゃならないし』
「……」
『正直言ってほっとしてるところもあるの。あの人、私がこっちで暫定的に事務所開設し
たり、メディアに露出したりするのあまり良く思ってなかったみたいだから』

ソニンは保田が精一杯強がっているのがわかるだけに、何も声をかけられなかった。どち
らが悪いのでもない。育った文化が違い過ぎた。それだけのことなのだろう。だが、今の
保田に、そんな風に言えるわけもない。ソニンはただ、保田の胸中を思い、さらに哀しく
なった。
240 名前:名無し娘。 投稿日:2003年02月28日(金)22時03分15秒
「保田さん。後藤さんのことだけ考えよう。市井さんもそのうち日本に帰れるだろうし、
ね」
『うん……ありがと。とにかく、署名運動、頑張るから』
「よろしく。それじゃ、また」

ソニンは受話器を置いた手が僅かに震えるのを見て拳をギュッと握った。切ない……。な
んて切ない恋をしているのだろう、保田は。恋だけじゃない。保田はあまりにも他者のた
めに生き過ぎている。市井のため、後藤のため。保田自身の幸せはどうなるの?頬を伝う
熱い雫。ソニンは保田のために一筋の涙を流した。彼女はもっと自分のために生きていい。
その献身的な行為が報われる日は来るのだろうか。涙に滲む窓の外の夕景に見入りながら、
ソニンはふと、自分もまた寂しい女であることに気づき、苦笑した。
(そっか……)
自己憐憫という言葉を思い出し、ふっと疲れた笑みを浮かべる。
(寂しいのはアタシだ……)
ソニンは、ユウキが早く帰ってくればいいと思った。窓越しに映る冬枯れの木立は心の寒
寒とした様を見せつけられるようで嫌だった。春はまだ遠い。そう思うと、余計に心を暖
めてくれるはずの仲間の存在が恋しかった。
241 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時46分15秒
◇◇◇

私は金永南のオフィスで秘書に彼の都合を確認してもらっていた。今日こそは後藤の件で
もう少し確実な言質がほしい。最近、頻発する市民の抗議活動は次第にエスカレートして
一部では暴動の様相さえていしている。彼らの気持ちはわからないでもないが、後藤を刑
死させたところで得られるものは何もないのだ。必要なのは国際社会の成員として、これ
からこの国が果たさねばならない責務を政府が誠意をもって国民に説明することだろう。

それにしても金永南は多忙だった。待たされている間に秘書がいろいろなことを私に尋ね
る。官吏らしくなく、おもしろい男だった。

「日本でもレコードを出せそうなんですか?すごいなあ。僕、絶対、買いますからね」
「ありがとう。ところで金永南代表の来客はそろそろお帰りかしら?」
「あ、ちょっと待ってくださいね」

秘書はようやくその饒舌な口を閉じて、内線の番号をダイアルした。

「もしもし、ハイ、市井紗耶香准将がお待ちですが――ハイ、わかりました。准将閣下、
お入りください」
「ありがとう」
242 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時46分31秒
私はようやく、男のくせにやたらとしゃべり好きな秘書との雑談を切り上げ、高麗政府代
表である金永南執務室へと招じ入れられた。金永南は大きな机に向かって視線を落し、何
かの書類に目を通している最中だった。それにしてもタフな人だ。ほとんど寝ていないの
ではないだろうか。高麗政府代表の仕事は山のようにたまっており、そして今もまた、山
のような仕事が舞い込んでくる。内戦が終結を見てから、歯車が一斉に回り出したような
目まぐるしさで官邸は業務に忙殺されていた。たまりかねて秘書を採用したのだが、旧政
権の中枢にいたものは荒方、放逐されていた。残っていた人材には野を下っていた者も多
く、やや癖があるのが難だった。考えようによっては、個性的といえないこともないが、
緊急の難題を処理するための吏才として軽いという印象は否めなかった。

「金永南代表閣下、お忙しいところ恐縮です。それにしても彼はよくしゃべる」
「いい男なんだがね。それにああ見えて切れ者だ。彼がいてくれなければ懸案事項の半分
も片付かん。時代は変わったのだよ。もはや金正日の顔色をうかがってびくびくする必要
はない。多少の反動は大目に見なければ」
243 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時46分51秒
金永南は鷹揚だった。日に日に一国の宰相としての風格を身につけつつあるように思える。
内戦後のごたごたとした処理を片付けたときには、激動の時代を行き抜いた屈指の指導者
として、米欧の列強とも互角に渡り合うに違いない。私は頼もしく思うと同時にいちまつ
の寂しさを覚えた。

「今日、うかがったのは他でもありません。後藤の件で」
「市井准将」

金永南の声がやや固いトーンを帯びた。やっかいな問題が増えた、という顔をしている。
実際、分刻みのスケジュールで動いている今の彼にとって後藤の問題はすぐに結論を出す
ことができないという点で、なるべくなら後回しにしたい問題であろうことは容易に理解
できた。

「今日はかなり現実的なお話を申し上げに参りました」
「ありがたい話ではなさそうだね」
「立場をはっきりさせたくなる、という点では私に感謝したくなるかもしれませんよ」
「さて、未来のスターと話ができて光栄なんだが、私には片付けないと未来もへったくれ
ねないような難題を抱えていてね」
「お察しします。話というのは他でもない。日米での後藤釈放嘆願運動の状況についてで
すよ」
「ふう。わかった。手短かに頼むよ」
244 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時47分07秒
金永南はようやく私の話に耳を傾ける気になったようだ。まったく、はぐらかしていれば
そのうち飽きらめて腰をあげるとでも思ったのだろうか。いつまでも子供扱いとは腹立た
しい限りだ。とにかく。私は説明した。日米両国で合わせて後藤釈放のための署名運動が
活発化していること。そして、やはり日米両政府が後藤の釈放を高麗復興支援基金支出の
前提と考え始めている気配が濃厚であること。私が説明するまでもなく、金永南はその重
要性に気付いていた。米国はともかく、日本による数千億円規模の円借款は荒廃した高麗
の生活基盤や産業のインフラを整える上で絶対に必要不可欠だ。彼は思わず唸り声を漏ら
した。

「うーむ。困ったものだ。日米の経済的支援は何がどうあっても必要なものだ。が、しか
し……」
「金正日の行方はまだわからないのですか?」
「うむ。五里霧中といったところだ。皆目見当もつかない。一方で国民の怒りは捌け口を
失って、新政権への怒りに転嫁されようとしている。このままでは政情不安に陥りかねな
いのだ」
245 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時47分29秒
「正しい情報が入手できないから判断できないのでは?一刻も早く報道の自由化を」
「ばかな。TVやラジオの自由放送は既に開始されている。だが、彼らは信じられんのだよ。
半世紀もの間、嘘に塗り固められ虚飾に満ちた放送を聞かされてきたのだからね」

その気持ちは理解できないでもない。長い間ずっと騙され続けてきたのだ。疑心暗鬼に陥
るのも無理はなかった。またぞろ、政府に都合のよいことばかりをならべて真実を隠され
ているのではないか?放送局を増やしたものの、金正日政権によって、チューニングを固
定されたラジオやTVでは国営放送一局かしか選択できないのだ。TVもラジオも市民にと
ってまだ信頼に足る媒体とはなっていなかった。
当面、市民の知識欲を満たす役目を果たしているのは新聞であった。こちらは紙の媒体と
いうこともあり、既に平壌だけでも数誌が凌ぎを削っている。そしてどの紙面もが金正日
ファミリーとそれにおもねることで特権階級にのしあがっていた旧労働党幹部の悪行を暴
き立てていた。
246 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時47分42秒
中でも過激なことで知られる中央時報は金正日という独裁者の死をもって
しか旧北朝鮮2千万人の負った傷は癒せず、真の民衆革命は成就しないとあおりたて、大
衆の支持を集めていた。そして、金正日が見つからないのならば、彼の愛した妾をこそ、
血祭りにあげるべきだ。そう同誌は主張していた。そこで言及されている妾こそ、誰あろ
う、後藤真希その人だ。

当初は乱暴な意見としてさほどの注目を集めなかった。だが、高麗軍による平壌解放後も
一向に暮らし向きが上向く気配のない中で高麗政権への不満は高まる一方だった。内戦後
の混乱から物流が機能せず、旧体制下を上回るインフレにより平壌市民の生活は窮乏を極
めていた。旧政権下では少なくとも首都である平壌が飢えることだけはなかったため、人々
は自由にものが言える環境を喜びつつも、経済的な困窮をもたらした金正日憎しの思いを
募らせていった。そんな中で、格好の標的となったのが後藤である。
247 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時47分59秒
金正日の愛妾として国民が飢える一方で、豪奢な生活を送り、結果として国家の財政を破
綻させた元凶。彼女が所有するドレスは一万着、靴は数千足。そんな誹謗中傷がまことし
やかに噂されていた。それをあおったのが中央時報だった。

「それにしても、新聞のあの論調はひどすぎます。まるで日本の三流スポーツ紙みたい」
「検閲を無くした反動だろう。しばらくは野放図な状態が続くかもしれない」
「いつまでもあのままでは困ります。そのうち、金正日の正体は後藤真希だったなどとい
いかねません」
「名誉毀損の疑いがもたれる報道にはきちんとした対応を取るつもりだ。仮にも民主主義
をひょうぼうする国となったのだから」

私は信じていいのだろうかと思った。正直にいって中央時報の主張は度が過ぎている。む
しろ悪質とさえ言えた。このまま放置しておけばさらにエスカレートするであろうことは
確実だった。

「とにかく、あの新聞をまず何とかしてください。でないと、仮に後藤が釈放されても狂
信者に殺されてしまいかねない勢いであおりたてています」
「うむ。対処しよう」
「そして、釈放の事実を全世界に向かって発信するのです」
「……」
248 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時48分16秒
金永南の沈黙が未だ釈放は難しいことを物語っていた。だが、日米からの圧力が少しずつ
高麗政府の態度を軟化させているのもまた事実だった。暴走する市民を制御できず後藤を
死に至らしめれば、国際社会に恥をさらし、復旧のための支援すら危うくなる。市民の怒
りの正統性について政府が斟酌すればするほど泥沼のようにこの問題にはまり込んでいく。
私には金永南自身、この問題を早く解決して先に進みたいと考えていることがよくわかる。
つりま、彼はきっかけを待っているのだ。迷っている彼の背中を押してあげればよい。

「とにかく、欧米ではメディアが大々的に後藤の件について取りあげています。彼女に何
かあれば、世論が復興開発支援基金への税金の投入にノーを突きつけるのは必至。きちん
とした裁判の手続きにより速やかに後藤を釈放することで大方の問題はは解決します」
「うむ……」

金永南は考え込んでいるようだった。悩んでいる振りをしているが、その実、何か譲歩を
ねらっているようにも見えて油断がならない。
249 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時48分35秒
「ところで市井准将」
「はい」
「なんでも日韓両国から歌手契約の依頼がきているそうじゃないか」
「え?どうしてご存じなんですか?」
「私の情報網を甘く見てもらっては困る」

私はうろたえた。この人がそんな話を持ち出すとは……。少し赤面した。知られて恥ずか
しい話ではないけれど。けど……。私のことを、少しでも知りたいと思う気持ちがあるの
であれば、それはとても嬉しいこと。とても。だが、今はそんなことで心を浮き立たせて
いる場合じゃない。

「日本に帰りたいだろうね。君には苦労をかけた。あと少し我慢してくれないか。この国
の打ちひしがれた国民が自らの国を立て直す気力を取り戻すまで」
「もちろん。最後まで見届けるつもりですよ。この国がどこへ向かって行くのかをね」

金永南は満足そうにうなずいた。

「飢えにあえぐ人民を金正日の魔手から救い出した英雄、サヤカ。その名が再びこの国の
史書に刻まれることになる。もし君が歌手として働くのなら、日韓どちらの国からでもか
まわない。この国の人々に向けて歌ってくれ。サヤカはこの国の行く末を見守っていると
な」
「代表閣下……」
250 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時48分53秒
思わずしんみりしてしまった。まだしばらく、私がこの国を離れることはできそうになか
ったが、それでも別れのときは少しずつ近づいているのだ。そう考えると、寂しいような
去り難いような複雑な気持ちが押し寄せてくる。こういうのは何度経験しても苦手だ。

「ところで」

私は無理矢理、話題を替えた。

「今日は後藤への面会許可、いただけますか?」

前回の面会申請は却下された。まだ平壌の全域を解放したわけではなく、局所的に市街戦
を繰り広げていた時期だけに無理もない。大分、治安の収まってきた今なら問題はないは
ずだ。私は彼女に会わなければならない、という何か切迫した気分に駆られていた。

「かまわないだろう。通常の申請手続きを踏めば」
「わかりました。ではまた近いうちに」
「ああ」

私は礼を告げ、きびすを返してドアへと向かった。
251 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時49分11秒
「市井准将」
「はい?」

呼びとめられて振り向くと、金永南の思い詰めたような視線が私を捕らえた。

「やはり、軍を去る気持ちに変わりはないかね?」
「はい」
「そうか……」

下がっていいと手ぶりで伝える金永南に敬礼すると再びドアに向かい部屋を出た。ドアを
閉めるときにちらっと見えた彼の横顔に刻まれた深い皺に気付いた。今まで年齢をあまり
意識したことはなかったが、どこか疲れを感じさせるその様子に私は少なからず罪悪感を
覚えた。

「あ、もうお済みですか?」
「ええ。お邪魔しました」
「レコード出すときは教えてくださいね。絶対、買いますから」
「ありがと。それでは失礼します」

秘書は書類を片付けながら社交辞令を忘れなかった。如才ないところもあるのだな。私は、
妙なところに感心した。出世するのは意外とこういう人間なのかもしれない。軽く手を振
ってオフィスを出るとその足で拘置所に向かった。後藤と面会するためだ。オフィスの入
ったビルから外へ出ると陽光がまぶしく、思わず手を掲げた。
252 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時49分42秒
◇◇◇

後藤との接見は容疑者の取調室のようなところで行われた。スチールの机。その上に乗せ
られた簡易ライト。ニ脚のパイプ椅子。窓はドアの対角の壁に唯一つ。平均的な身長の成
人男子でも外が見えないくらい高い位置に穿たれた窓には鉄格子が嵌められていた。要す
るに逃げ道はない、ということだ。採光の少ない殺風景な部屋の様子は寒寒として、それ
だけで容疑者の気持ちを萎えさせるだろう。こんなところで私と会わなければならない後
藤が不憫でならなかった。

後藤は拘置所の係官とともに入ってきた。私は背凭れに掛けていた肘を戻し、立ち上がっ
て迎えた。

「市井ちゃん!……あ、いや、市井准将閣下って呼んだほうがいいのかな?」

後藤は元気そうだった。心なしか以前に面会したときよりも視線がしっかりしているよう
に思える。顔色は良好で、精神的に安定している様子が窺われた。肌のつやもよく、充分
に睡眠を取っているようだ。そして何よりも、表情が豊かだった。後藤ははちきれんばか
りの笑顔で私を迎えてくれた。私の肩書きを気にする仕種が愛くるしい。
253 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時50分03秒
「閣下とかって言うの止めてよ。私達はいつだって、いちいとごとーだよ」
「へへっ。本当は市井准将閣下って呼びたかったんだ。だって格好いいじゃん。遅くなっ
たけど、おめでとー」
「止せよ。ほら、何、つっ立ってんのさ?座んなよ」

私はわざと乱暴な口調で後藤に座るよう告げた。係官はドアの前で無表情のまま直立して
いる。監視、というほどのものでもないのだろうが、妙に気恥ずかしくて、なかなか舌が
滑らかに回らない。日本語での会話を咎められることはないだろうか?気になってちらち
らと顔色を窺うものの、一点を見つめたまま変わらない表情は感情を表さない。

私は視線を後藤に向けてその瞳を見つめた。

「後藤……」
「何?」

後藤は微笑を湛えたまま答えた。

「――金正日の行方はわからないそうだ」
「うん。知ってる」
「……」
「いろいろと用意周到な人だったから」

屈託のない表情で明るく応じる後藤。私は質さずにはいられなかった。
254 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時50分23秒
「後藤、どこか心当たりはないのか?スイスとか、中国とか」
「市井ちゃん……」
「知ってるかどうかわかんないけど……」
「なーに?」
「市民の金正日に対する怒りは大変なものだ」
「んん。それは聞いてるよ」
「それだけじゃない」
「?」

少し首を傾げて不思議そうな顔で私を見つめる。その無垢な表情に向って私は告げなけれ
ばならないのか。

「金一族の誰もが雲隠れしてしまった今……」
「私が嫌われてる?」

問い返す表情の確かさに私はハッとした。相変わらず柔らかい笑みを絶やさない目許の涼
しさ。そこに私は何か犯しがたいもの、強靭な意志の存在を感じたのだ。

「――知ってたのか?」
「うん。その話は聞いてるし、親愛なる指導者同志の代わりに私を特別法廷で裁判にかけ
ることも検討してるって」
「何だって?!」

私は思わず立ち上がった。バタン!勢いをつけたせいでパイプ椅子が後ろに倒れる。

「そんな話は聞いてない!」
「――市井ちゃん……ちょっと落ち着いて」
「これが落ち着いて」
「市井ちゃん!」
255 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時50分42秒
後藤が凛とした声で一喝した。私はうろたえたことへの恥ずかしさをどうにかして取り繕
いたかった。だが、後藤の動じない様子を前に、ただひたすら自分の矮小さが浮き彫りに
されたようで、ひどく落ち着かず、どこか心の奥がささくれ立つのを感じた。

「市井ちゃん、座ってよ」
「……」

係官がつつっと駆け寄って椅子を立て直す。私は言われるがままにゆっくりと腰を下ろし
た。

「後藤、だめだ。そんなの。絶対、認めちゃだめだ」
「市井ちゃん、大丈夫だよ。私、何も悪いことしてないもん」
「当たり前だ。そもそも裁判にかけようってこと自体が間違ってる」

少し興奮し過ぎたようだ。ハァハァと息が上がる。本当に。血がさあっと引いていく音が
聞こえそうなほど。それくらい、私は怒りに我を忘れていた。

「絶対、絶対、認めちゃだめだぞ。それに弁護人を要求することも忘れるな。仮にも高麗
はこれから民主国家に生まれ変わるんだから」
「そんな怒んなくっていいよー。変な市井ちゃん」
「怒らずにいられるかよー?」
「でも、それだけ市民の怒りは激しいってことなんでしょ?」
「ひとごとみたいに言うなよー、自分が槍玉に上がってんだぞ」
256 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時51分01秒
後藤は少し俯いて目を伏せた。

「それだけ政府も苦しいってことなんだよね」
「金正日を逃したのは完全に失態だった。ごとー、本当に知らないのかよー」
「知らないよ。知ってたとしても言わないと思うけど」
「おいおい、わかってんのかー?自分の命がかかってん――」

後藤は急に顔を上げて、私の声を遮るようにわざと大きな声ではしゃいだ。

「それよりさ、市井ちゃん、日本だけじゃなくて韓国からもCDリリースのお誘いが来てる
んだって?」

必死で私を宥めようとしているだろう。ふーっ。立場が逆転している。あるいは、獄中で
思索にふけっている間に本当に悟ってしまったのか?私は目を閉じて首を横に振った。そ
うかもしれない。だが、後藤が危機的状況にあっても動じない強さを身に付けたことは素
直に嬉しかった。私は肩から力が抜け落ちるのを感じた。

「ふー。後藤にゃかなわんな。そうさ、韓国からもオファーが来てる」
「格好いいじゃん!でも市井ちゃんは日本に帰りたいんでしょ?」
「うん、最初はそのつもりだったんだ。けどさ」
「けど?」
257 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時51分19秒
私は少しだけ、精気を取り戻した。やっぱり自分の未来について語れるのは嬉しい。そし
て、自分のことのように聞いてくれる後藤の瞳が輝くのを見るのも。

「今回の件で、いろいろと思うところがあってね。何の因果か知らないけど、こうやって
北朝鮮に連れてこられて、戦争に巻き込まれたけど、なんとか生き残ることができた」
「うん」
「で、その中で北朝鮮がどれだけひどい状況にあったのか見ることができた。実際に内戦
の被害で街はボロボロだ。そんな中で北朝鮮は消滅し、高麗になった」
「そうだね。新しい国なんだよね」
「うん。国土はまだまだ荒廃してるけど、みんな新しい国をつくろうって希望がある。未
来があるんだよ、以前と違ってね」
「そうだね……」

後藤はそこで初めて遠い目をした。未来。将来。希望。どれも今の後藤には重過ぎる言葉
だろう。でも、私は感じた。祖国の前途に灯った明るい光を後藤が信じていることを。こ
の国には未来がある。それを今、一番、喜んでいるのはむしろ後藤の方であることを。
258 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時53分47秒
「だから、本当はここで、この国で歌手として国づくりに参加したい。そんな気になって
きたんだ」

後藤の目が見開かれ、それから強い光を帯びた。

「わぁっ、それすごいよ、市井ちゃん!」
「うん。ただ、今のこの国は歌を歌えるような状態にない」
「そっかぁ……」
「だからせめて韓国で韓国語、朝鮮語の歌でリリースすればこの国の人たちにも私の声が
届くかなー、なんて」
「いいね、それ」
「でも日本にも帰りたいんだよなー」
「どっちだよー、もー」
259 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時54分03秒
ちょっと怒った振りをして頬を膨らます後藤の仕種がなんだかとてもかけがいのないよう
に思えて急に悲しくなった。

「後藤……」
「なによ?」
「ぷっ、怒んなよー」
「市井ちゃんきらい」
「ごとー」
「嘘だよ」
「おいおい」

なんだか慌ててる自分が滑稽だった。私はでも、嬉しかった。こんなやりとりをまた交わ
せたことが。そして、後藤の前向きな姿勢が感じられて。

「また歌いたいよな。後藤とさ」
「うん。圭ちゃんも一緒にね」
「ああ、初代プッチモニの貫禄を見せてやるよ」
「あはっ、ホントだね。うちら最強だもんね」
「そうさ。プッチモニは永遠にこの三人なんだ」
「朝鮮語でプッチモニ……歌いたい、ね」
260 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月10日(月)14時54分23秒
後藤の視線が再び遠くに向けられた。長い睫毛が揺れる。その舌で潤んだ瞳が何を見つめ
ているのか、私には判断がつかなかった。三人それぞれが、違う形で関わってきた韓国、
高麗。その二つの国の母語で歌うことができたら……。それが単なる夢想に過ぎないとし
ても、その瞬間、後藤と私はたしかにその夢を共有していた。

だが、夢の時間は長くは続かなかった。接見時間終了。係官は時計を眺めながら早く退出
するように後藤に告げた。まだ、いいじゃないかと、言いかけて口を閉じた。後藤に迷惑
をかけてはいけない。辛うじて残る理性が歯止めをかけた。

後藤は係官に付き添われて淡々と引き上げていった。背筋を伸ばして静かに歩むその様子に、私は後藤が希望を捨てていないことを祈った。あの淡々とした様子が諦観によるもの
でないことを。だが、静かに廊下を歩むその足音が次第に消えていくにつれ、先ほど後藤
と交わしたはずの会話が果たして現実に存在したのか判然としないような、どこか茫洋と
した感覚に捕われた。後藤の存在自体が徐々に不確かさを増しているように思え、その感
覚に物狂おしいほどの寂しさを覚え身悶えした。
261 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時11分49秒
◇◇◇

「何これ?」

矢口の質問に保田はにやりと微笑んだ。テーブルの上には流線型の黒い装置が乗せられて
いる。まるでステルス戦闘機のようなその外観は矢口の興味を引いた。

「これね。ヴォイスポイントって言って、遠距離間での電話会議に使う装置なの」
「で、これで日本のソニンやきたちょ…もとい、高麗の紗耶香と一緒に会議かできるって
こと?」
「そうよ。ホントはTV会議にしたかったんだけど、高麗のインフラがまだ整備されていな
いから」
「へえー、文明の利器だねー」
「ああ。せっかく紗耶香が電話に出られるようになったんだから、みんなで話したいじゃ
ない?」
「すっごい久しぶりだよね」
「うん……」

保田は市井と交わしたチャットでの会話を断片的に思い出していた。ちょうど後藤の脱退
について知らせた辺りで連絡が途切れていたはずだ。あの後、後藤の行方が心配になって
いろいろと首を突っ込んでいる間にこんなことになってしまっていた。それが必ずしも悪
い結末ばかりではなかったことに保田は心から感謝した。
262 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時12分18秒
保田は運命の不思議さを感じた。肝心の後藤が未だに拘束されていることを除けば、事態
はそう悪い方向にばかりは向かわなかったわけだ。もちろん、後藤の釈放が実現する前に
全てが終わったかのように考えてしまうのは早計だが。

「ごっつぁんも早く解放されるといいのにねー」
「うん」

自分の考えを呼んでいたかのような矢口の言葉に保田は苦笑した。まったく、そのとおり
だ。だが、勝算がないわけでない。保田らの運動により、米国での後藤真希嘆願運動は盛
り上がりを見せている。既に50万件に近い署名を得ており、さらに増えそうな気配だ。集
まった署名は国連を通じて近いうちに高麗政府代表に手渡されるだろう。同時にマスコミ
への露出を通じて、ことあるごとに後藤釈放をアピールしている。人権意識の高い米国の
市民の世論が高まれば、政府としても高麗民主共和国の復興資金の投入に慎重にならざる
を得ない。

市民の意向とは別に、政府側には後藤の釈放を政治的問題として交渉の俎上に乗せたい理
由があった。米国の戦略上、地政学的に高麗が重要な位置を占めるとはいえ、復興のため
の資金負担についてはできるだけ軽減したいというのが本音だった。
263 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時12分36秒
後藤の長期拘留は人道的見地から問題があるとして、それが解決されなければ経済的支援
はありえないとする米政府の立場も高麗政府への直接的なプレッシャーとなる。それらの
諸条件を重ね合わすと、高麗に選択する余地はほとんど残されていない。保田が後藤の釈
放について比較的楽観視している理由はそこにあった。

ヴォイスポイントのコール音が聞こえた。会議への参加者はここへ電話をかけてくること
になっている。矢口が保田の顔を覗き込んだ。

「どっちだろう?」
「出ればわかるよ。ハイ、保田です」
『保田さん?ソニンです。市井さんはもう来てる?』「ハロー、ソニン。紗耶香はまだよ」
「ソニンちゃん、おつかれー」
『あ、矢口さん、お久しぶり』

長距離電話に加えて、装置を通るためかくぐもった上に高音域で割れるような音が聞き取
りづらかった。あるいはソニンも緊張しているのだろうか。

「日本の方はどう?」
『すごいよ。ファンからの協力依頼が殺到して断る方が大変なくらい』
「ヲタはキモいけど、こういうときはパワーあるよね」
「矢口、言い過ぎ。ファンは大事にしなきゃ。で、どれくらい署名は集まりそう?」
『百万件くらいいくんじゃ――』
264 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時13分08秒
そのとき、呼び出しの電子音が鳴り出してソニンの声を遮った。来た!保田は指が震えそ
うになるのを必死で抑えて、ゆっくりと回線接続のボタンを押した。

『ヨボセヨー!』
「……さ、紗耶香?」
『もしもーし、聞こえますかー?市井だよー』
「紗耶香!」『市井さん!』

三人の声が重なった。

『わっかんないよー、誰?圭ちゃん?』
「紗耶香!矢口だよ!紗耶香元気!」
「ちょっと、矢口、そんなに近づかなくても聞こえるから。ほら、唾飛ばさない!」
『ぷぷっ、やぐちぃー、相変わらずだねー』
「紗耶香元気そうね。心配して損しちゃった」
『冷たいなー、圭ちゃん。ところで、韓国の下宿、どうなったか知らない?』
「紗耶香あんた久しぶりなんだから、もうちょっとロマンのある会話はないの?」
『ええー、だってハイトビール入れっぱなしなんだもん。帰ったら、呑みたくってさ』
「あんた、まだ未成年でしょ?」
「いいじゃん、いいじゃん。いつ韓国行けるの?っていうか、日本にはまだ帰れないの?」
『日本はまだ、ちょっと難しいねー。もともと国交なかったし、っていうか外務省のやつ
ふざけててさー、ちょっとー、聞いてるー?』
265 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時13分30秒
保田は安心したと同時に少々呆れかえってもいた。これが仮にも平壌を解放に導いた将軍
の台詞だろうか。それよりも保田は忘れていた。もう一人の参加者を。

「ソ、ソニンいる?」
『――い、いちいさん?』
『あ、ソニンさん?ユウキから話は聞いてます。なんかお世話になっちゃったみたいで』
「そうだよー、ソニンはすっごい頑張ったんだから!」
「矢口はいいから、ちょっと黙ってて。」
「なんだよー、いいじゃんよー」
「ソニン、こっちは構わないから。紗耶香と話して、ね」『り、了解。市井さん、まずはおめでとうございます』
『あ、こちらこそ、このたびはお世話になりまして』

ぷっ、と保田は噴き出した。なんとまあ可愛らしい会話だろう。初めて会話する者同士と
はいえ、そのあまりにも紋切り型な挨拶に保田は思わず破顔せざるを得なかった。特にソ
ニンの緊張ぶりは可哀想になるくらいで、矢口もにやにやとその様子に聞き耳を立てなが
ら表情を綻ばせていた。

『ええっと……ちょっと気になることがあって。市井さんはまったく問題ないと思うんだ
けど、後藤さんの国籍のことで』
『ん、なに?』
266 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時13分47秒
市井はソニンの意外な発言に戸惑った様子だった。聞いている保田と矢口も次にソニンが
告げるであろう言葉に集中する。
『後藤さん、帰化してなかったんですよ。だから、法的な身分としては「外国人」のまま。
つまりその、日本政府としては……』
『なに?ごとーが日本人じゃないから助けられないってこと?なにそれ、ひっどーい!』
『市井さんは何か聞いていないんですか?』
『あのやろー、聞いてないよー。なんで、そんな大事なこと……』

保田は慌てて矢口と顔を見合わせ、小声で確認する。

(矢口、何か問題あると思う?)
(んん、多分ない。署名運動とこっちのマスコミ煽るしかないよね)
(私もそう思う)

保田は二人の会話を遮った。

「ちょっとごめん。後藤の国籍は問題ないでしょ?もともと日本の外務省なんかあてにし
てなかったし」
『いや、外務省は動いてるのよ。問題は後藤さんが北朝鮮籍だったことで、内政問題化し
ようとしていることなの』
「どういうこと?」

保田と矢口は禅問答のようなソニンとのやり取りに眉を顰めた。
267 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時14分05秒
『まず後藤さんの身分が問題だわ。彼女はいったいどういう理由で拘束されているのか?』
「内戦で敵側に捕まったんだから、捕虜じゃないの?」
『そう。戦時中の拘束だから戦時捕虜と考えるのが妥当。ただ、対戦相手が消滅してしま
った今となっては、捕虜としての身分が保証されるか非常に曖昧だと思うの。捕虜であれ
ば、ジュネーブ条約に基づいて相手国に送還されなければならない。けどその相手国はも
はや存在しない』
「わかったようなわからんような……」
「矢口、茶化さないで」
『むしろ犯罪容疑者として拘束されているのであれば、まだ理解しやすい。例えば後藤さ
んに関して言えば、国家の財政を私的に流用した背任容疑とか』
「ごっつぁんがそんなことするわけないじゃん!」
「矢口、静かに!ソニン、続けて」
『怒らないでね。わかりやすく説明するための例え話だから』

市井は集中して聞いているのか、声を発しない。

『でね、私、感心したんだけど。外務省の連中、後藤さんが犯罪者として拘束されている
という前提でウィーン条約を論拠に彼女の引渡しを要求しようとしてたのね』
「何、ウィーン条約って?」
268 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時14分19秒
「国家間での国外における自国の犯罪者引渡しなどに関する国際条約よ。北朝鮮は批准し
てなかったと思うけどね」
『そうなの。ただ、高麗は国際社会と協調っていう基本方針で、主要な国際条約について
はいずれ批准する予定だから、それを楯にされると弱いのね』

市井は相変わらず黙ったままだ。

『ところが、後藤さんの国籍が日本じゃなかったでしょ、外務省としても、打つ手がなく
なっちゃったというわけ』
『なるほどね』
「紗耶香どうなのよ?そっちの様子は。TVで見た限りじゃかなり険悪な雰囲気だったけ
ど」
『ん?剣呑、剣呑。物流がうまく機能してなくってね。以前だったら田舎で餓死者が何十
万人も出るよう状況でさえ平壌だけは絶対に飢えることなんてなかったのに、物資が市民
に行き渡らないから、もう暴発寸前って感じ』
「で?後藤に対する世間の反応はどうなのよ?」
『んんー、芳しくないねー。っつーかそーとーやばい。肝心の金正日がとんずらしちまっ
たもんだから、怒りの矛先は後藤に向かっていると。いわゆるスケープゴートだよね』
269 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時14分51秒
「紗耶香、えらくまた難しい言葉知ってんじゃん」
『やぐちー、こう見えても俺は将軍さまだからなー。ばかにしちゃいけないよ』

矢口が絡むとどうも話が脱線していけない。保田は矢口の脇腹を小突くと、市井に向かっ
て尋ねた。

「紗耶香どうなの?もし、後藤がこのまま諸外国の圧力で釈放されたとして、高麗市民は
納得するのかしら?」
『んんっと……難しいだろうね。反米・反日運動なんてのも起こしかねないね』
「そっか……あまり、あからさまに圧力かけるのも考え物だね」
『そーいうこと。なにしろまー、50年以上、むちゃくちゃな体制下で抑圧されてきた市民
だからー、まーここはひとつよしなに』
「もう、あんたがふざけてたんじゃ話が進まないでしょ?戦争でちょっとは大人になった
かと思えば、全然、変わってないんだから」
「圭ちゃん、怒んなよー。おいらは嬉しいよ、紗耶香が変わってなくてさー」
『おお、やぐちはやっぱり心の友だー。圭ちゃんも怒ってばっかだと、おばちゃんって言
われるよー』
270 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時15分25秒
「うるさいわね!もう、おばちゃんって言われてるわよ!」
「ああ、紗耶香、言ってはいかんことをー」
「うるさい!とにかく、後藤を助けられるのはあんただけなんだから、ふざけてたら承知
しないわよ!」

その言葉にはさすがに市井も鼻白んだようだった。

『ふざけてなんかないよー。ま、その件はまたソニンさんとゆっくり話すから』

そう保田らに返し、市井はソニンに告げた。

『しばらく平壌を離れるから、今度は、ええっと…一週間後くらいでどう?』
『ええ、構いません。連絡、お待ちしてます』

平壌を離れると聞いて矢口が放っておかなかった。

「紗耶香、何よー?日本に帰れるの?」
『日本はまだ難しいって言ったじゃん。ソウルに戻るんだよ』
「あら、やっぱりそっちでデビューするの?」
「どういうことよ?」

話が呑みこめていない矢口は保田に問い質した。

「日本からもオファーはあるんだけどさ。事務所はたいせーさんとユニット組むんだーな
んて盛り上がってるけど。結局、紗耶香は韓国でデビューする道を選ぶと。そーいうこと
なんでしょ?」
271 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時15分44秒
『そーそー。韓国語でね、歌うことに意味があるんだよ。何ていうかなー、せっかくこっ
ちで大事な役どころについてるわけだしさー、韓国語っていうか朝鮮語で歌うことで「が
んばろー!」ってメッセージできたらいいなー、と』
「なるほどね。紗耶香も一応はいろいろ考えてるんだ」
『失礼なー、思いっきり考えてるよ!』
「ハイハイ。じゃ、今度はソニンともうちっと実のある話をして頂戴よ」
『オッケー!じゃソニンさん、また今度ね!』
『ハイ、連絡、お待ちしてますんで』

ソニンがまだしゃべり終えないうちに市井は告げた。

『そんじゃー諸君、またなー。レコード出たら買えよー』
「誰が買うか!」
「キャハハハ、買う、買う!安心しろー、紗耶香!」
『市井さん、さよなら』
『さらばだー』
272 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月19日(水)14時16分24秒
そう言って市井が回線を切ると、途端になんだか寂しい雰囲気が辺りを支配した。市井に続いてソニンも『さよなら』と言って受話器を置くと、保田と矢口は互いに目線を交わし
て、うなずき合った。

「紗耶香、変わってなかったね……」
「うん……」

少し涙ぐんで俯く矢口の肩を抱きながら、保田が口を開いた。

「ご飯……いこっか?」
「うん……」
「イタ飯でいい?こないだいいとこ教えてもらったんだ」
「うん。それでいい」
「元気出しなさい。すぐに、また会えるよ」
「そうだね……えへへ」

やっぱり矢口は笑顔の方がいい。保田は矢口の腰をぎゅっとかき抱くと、押し出すように
して執務室を出て、部屋の電気を消した。二人が廊下を出口の方に向かって歩き始めた後、
部屋の中には、ヴォイスポイントの黒い筐体がただひとつ、ぽつんと残された。ほのかに赤く点灯するLEDの遠慮がちな光だけがわずかにその痕跡を留めるほかは、先程までの喧
騒が嘘のように、辺りは再び静寂に包まれた。
273 名前:業務連絡 投稿日:2003年03月19日(水)14時21分15秒
作者より

スレに収まりきらなかった……
目測を誤りました(汗

あと数回の更新で終わるのであまり好ましくはないですが、次回はスレを立てたいと思います。
あと少し、お付き合いいただければ幸いです。
274 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月19日(水)18時37分50秒
OK
ラストスパートがんばれ!
275 名前:和尚 投稿日:2003年03月19日(水)22時23分52秒
勿論、お付き合いします!!
276 名前:業務連絡 投稿日:2003年03月31日(月)17時10分22秒
新スレ立てました。完結です。
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/gold/1049096397/l50

>>274名無し読者さん
いつもありがとうございます。無事完結できたのもあなたのお陰です。
どうか最後まで見届けてください。お願いします。

>>275和尚さん
はじめまして。レスありがとうございました。
こんな長いものを読んでいただき感謝しています。

取り急ぎご連絡と御礼まで。

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