東京美人

1 名前: 投稿日:2002年10月27日(日)10時42分07秒
 ここに来る人は、みんな依存症だ。
 現実を受け入れられずにいる臆病者の集まり。

 話す言葉は嘘ばかり。
 自分を肯定して貰う為に。同情して貰う為に。
 そして、自分自身を、ごまかす為に。

 そして、私も、嘘をついている。
2 名前: 投稿日:2002年10月27日(日)10時47分32秒
新スレッド、立てました。
他の板に移動しようかなぁとも思ったんですが、なんとなく愛着もあって白で。
ハローランドをみている方には一目瞭然ですが、ドラマ『東京美人』が元ネタになってます。
まだテレビの方では第一話しかやってないので、どういう展開になるのかは知りませんが、同じ展開になることは有り得ないので、ageでいこうと思います。

更新はマイペース&スローペースになるかと思いますが、とりあえず週一めざします(苦笑)。
3 名前: 投稿日:2002年10月27日(日)10時48分37秒
 ドアが2回ノックされる。
「どうぞ」
次に入ってくる患者のカルテを机の上に広げながら、言葉を返す。カチャ、と小さな音を立てて、ドアが開かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、小柄な少女だった。
「……どうぞ。座って」
柔らかく微笑んで、目の前の椅子を示す。
 初診で、緊張していない患者は皆無。
 まずは穏やかな笑顔を見せ、敵ではなく理解者だと思い込ませることが大切だ。
「……」
彼女は何も言わず、私をまるで品定めするかのように見ると、小さく頭を下げ、椅子に腰掛けた。
4 名前: 投稿日:2002年10月27日(日)11時02分51秒
「えっと、『矢口真里』さん?」
こくりと彼女が頷く。
「歳は、19……。職業は学生ね。大学?」
もう一度彼女は小さく頷いた。
「……そう」
高校生どころか、中学生と言っても通用しそうな外見だ。そんなことを思いながら、自己申請である症状に目を通す。
 そのことによって、しんとした沈黙が生まれた。ぶぅぅぅぅん、と小さく換気の音が耳に届く。
 カルテの中に並んだ丸い文字は、まるで、ちょっと風邪を引いたみたいなんですけど、とでもいっているような、自然なフォームだった。
「……」
カタン、とペンを置いて、彼女と向き合う。
 彼女は、どこかつまらなさそうな顔をして、ぼんやりと床を眺めていた。
5 名前: 投稿日:2002年10月27日(日)11時03分50秒
「矢口さん」
私が声をかけると、彼女は顔をあげた。一瞬彼女と目が合った瞬間、ちょっとした違和感を感じた。
「……あなたは……」
私が口を開くと、僅かに彼女の瞳が揺らいだ。私の話を、聞こうとしている証拠だ。
 一旦口を閉じて、指先で唇を辿った。
 なにかが違う。
 この仕事について、3年になる。この世界じゃまだまだひよっこだ。けれど、そのたった3年の経験が、違和感を私に投げかけていた。
 黙り込んだ私に、彼女が少し怪訝そうに眉を潜ませる。目が「なんですか?」と素直に私に問いかけてくる。
 そこで、ようやく違和感の原因に気がついた。

「……どうしてここに来たの?」

 何も話そうとしない患者は少なくない。
 けれど、彼女には、内にこもり口を閉ざした人間に共通した空気のようなものが感じられなかったのだ。
6 名前: 投稿日:2002年10月27日(日)11時09分58秒
今回はここまでです。これからどうぞよろしくお願いします。
7 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月27日(日)20時32分13秒
待ってました!
8 名前:つなぎ服 投稿日:2002年10月27日(日)23時39分43秒
始まってますねぇ。
頑張ってください!!毎日見に来ますから!
9 名前: 投稿日:2002年10月29日(火)09時54分23秒
 いわゆる心に病を持つ人間の目には、なにか独特なものが宿る。
 少し遠くを見ているような、普通なら見えない何かを、見つめている目。

 けれど、彼女のどこにもそんな雰囲気は見て取れなかった。彼女は、目の前の私を見ていた。
 「総合病院は3丁目ですよ」とでも言いたくなる気持ちを抑えながら、代わりに溜息をつく。

「……親が行けって言うので来たんです。病院に行って薬貰ってきたら少しは安心するかなって思って」
声も、はっきりとした通る声だった。
 確かに少しくぐもった話し方ではあったが、病院で19歳の少女がハキハキと話す方が気持ちが悪い。
「……そう」
カルテにチェックされていた項目は、寝不足と微熱。
「寝不足の欄にチェックが入ってるけど、どのくらい眠れないの?」
「あー……、最近ちょっと寝付きが悪いかなぁ、ってくらいで。一応6時間くらいは寝てます」
「6時間?」
「短いですか?」
心の中で溜息をついて首を振る。
「……いいえ。微熱のほうは?」
「たまに、熱っぽいときとかがあって」
「どのくらい?」
「7度ちょいくらいです」
「期間は?」
「んー……、疲れてるときとか」
でしょうね、と、心の中で呟いた。
10 名前: 投稿日:2002年10月29日(火)09時56分19秒
 そんなものは思春期にしてみれば、珍しくもないあたりまえの話。
 それを本気で悩んでいるんだとすれば問題かもしれないが、『強いていえば』の気分でチェックした程度だろう。
 営業スマイルを張り付けている私より彼女の方が、よっぽど健康そうじゃないか。
「他になにか症状は?」
「……あー……」
なんにもなさそうだ。
 もういいですよ、と言いかけて彼女を見たとき、ふと、なにか言いにくそうに彼女が視線を漂わせていたことに気付いた。
 もう一度、彼女の方に向き直して、言葉を促す。
「……落ち着いて、ゆっくりでいいですよ」
「……はい」
唇をきゅっと結んで彼女が頷く。なんだか、高校の保険医にでもなった気分だ。……実際に経験したことはないけれど。
 ゆっくりと息をついて、彼女は口を開いた。
「……大事な人がいるんです」
「大事な人?」
「すごく、すごく好きな人がいるんです」
「……」
少し頭が痛くなった。
 わざわざそんなことで親はこの子を精神科の病院に足を運ばせたというのか。
 診察が必要なのは、この子じゃなくて、親のほうなんじゃないかと思わずにはいられなかった。
11 名前: 投稿日:2002年10月29日(火)10時00分06秒
「それは、素敵なことね」
「そう思いますか?」
彼女の言葉にゆっくりと頷く。溜息を上手に隠しながら。
「それが、女の子でも?」
「……『女の子』?」
彼女は、私が一瞬見せてしまった困惑の表情を見逃さなかった。
 そして、口元だけで小さく笑った。
「すみませんけど、もう帰っていいですか? ビタミン剤か何かいただけると嬉しいんですけど」
かたんと彼女は立ち上がった。
「……ちょ……」
私の制止など気にも留めていない様子で、彼女はドアノブを回す。
「矢口さん!」
動きを止め、彼女がゆっくり振り返る。
「恋の病は、お医者さんじゃ治せませんよね?」
止めようとした私に、彼女が向けた視線は冷たかった。
12 名前: 投稿日:2002年10月29日(火)10時07分27秒
今日の更新はここまでです。
小説はsageで書いてますが、本日の更新終了時に必ずコメント入れて、ageるようにします。
最近、めっきり寒くなりましたね。冬は好きなんで、まぁ、いいんですけど(笑)。

次回更新は、……金曜か、来週の水、木曜あたりで。(土〜火まで、大阪行って帰ってきませーん(爆))
13 名前: 投稿日:2002年10月29日(火)10時15分05秒
>7 名前 : 名無しさん
早速のレス、ありがとうございます。嬉しいです。頑張ります!

>8 名前 : つなぎ服さん
>頑張ってください!!毎日見に来ますから!
や、毎日更新は無理かと(苦笑)。
あー、でも嬉しいです。TVのドラマ見ながら、テンション高いうちにガンガン行きたいです。
14 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2002年10月29日(火)14時48分58秒
新作、お待ちしていました。
今回も面白そうですね。
ハローランドのミニドラマ以上に期待してます!
15 名前:愛読者 投稿日:2002年10月29日(火)19時30分46秒
自分が住んでる地域ではハローランドの放送が遅れているので
ドラマ「東京美人」は今日の放送で初めて見るので、設定とかは
よく分からないのですが、期待しています。
16 名前:つなぎ服 投稿日:2002年10月29日(火)23時56分35秒
大阪いいですねぇ…。
置土産に是非とも更新していってください!
毎日なんてムチャなこと言いませんから!!
17 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)17時42分52秒
「……んせい。先生」
「え?」

「僕の話、聞いてくれてますか?」
不安そうというより、不満そうな患者の声と顔。ハッとして、少し体勢を立て直し、椅子に深く腰掛ける。
「……どうぞ、続けて下さい」
そう言って、にっこり笑ってみせると、患者は「そ、そうですか?」とどもりながらも、自分の中に溜め込んだ言葉を吐き出し続けた。
 興奮した甲高い声は、私を通り過ぎて、後ろへ木霊する。

 人の話を聞いていないのはお互い様。
18 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)17時44分15秒
 この人達は、自分に依存し、自分を肯定してくれるものに依存する。
 誰でもいい、誰かに話を聞いてもらい、同意してくれるのを待っている。
 欲しいのは、解決法でも糸口でもなく、自分を認め、慰めてくれる人の形をしたものなのだ。

「先生、聞いてくれています?」
くしゃくしゃに歪んだ顔。一呼吸おいて、ゆっくり笑顔を浮かべる。
「……もちろんです。あなたの言うことは、理解出来るわ」

 ここは、現実を受け止められない、弱虫が嘘という仮面を用意して集う場所。
 そして嘘ばかりが、訳知り顔で歩き回る。
19 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)17時45分11秒
 赤茶の錆が浮き出たドアを開ける。ギィと小さく軋んだ音がした。
 ドアを開けると同時に身体に当たる風に目を細めた。白衣が風でバタバタと揺れる。
 乱れた前髪を掻き上げて、少し落ちた眼鏡を直す。凝った肩をほぐそうと、軽く回した。
 いつものように屋上で手すりに肘をかけ、パノラマの景色を眺めた。
 ポケットから携帯を出して開く。着信はない。メールボックスを開きスクロールする。
 画面に開いたのは、もう何度も見たメール。
 ソラで言えと言われれば簡単に言えるほど100文字に満たない文章は頭の中に入っていた。……実際に暗唱したりはしないけれど。
 半年前、メールで別れを告げられた。
20 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)17時46分27秒
   裕子へ  こんな形になってごめんね。
   僕が傷ついていたのと同じように、君のこと傷付けていたんだね。
   もう終わりにしよう。今までありがとう。
   さようなら。  雅彦

「……くだらないメール」
本気でそう言って、消してしまえれば楽だった。
 けれど私はまだ、心の奥底で彼からの電話を待ち続けている。

 向かい風に向かって小さく溜息をつき、携帯を白衣のポケットに入れた。
 向けられたばかりの彼女の冷たい視線が頭からこびりついて離れなかった。
「……恋の病、ね」
きっと、彼女が私に言いたかったのはそんなことじゃなかったんだろう。
 彼女は私の中にある嘘を、見破っていた。
 マニュアル通りの言葉なんて、きっと、彼女には通用しなかった。
21 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)17時59分01秒
 ちゃんと、薬を受け取っていっただろうか?
 考えた挙げ句、ぶどう糖のみのフラシボーを処方箋に記入した。
 彼女はそのことに気がつくだろうか?

 好きな人がいる、と彼女ははっきりと口にした。
 あんな風にまっすぐに、誰かを大事だと言えたなら、私は、自分の中の何かを失わずに済んでいたんだろうか。

「……矢口さん……、か……」
頭の中に、たくさんの疑問が浮かぶ。
 それは、奇妙な感覚だった。
 目を閉じて、頬にあたる風に意識を集中させる。

 ……彼女は、また来るんだろうか?
 その可能性は、あまりにも薄い気がした。
22 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)18時05分37秒
14 名前 : 読んでる人@ヤグヲタさん
前回のスレに引き続き、ありがとうございます。
どこまでご期待にお答えできるかはわかりませんが、頑張ります。

15 名前 : 愛読者さん
ハローランドは放送されていない地域もあると思うので、
ドラマを観ていなくても楽しんで貰えて、ドラマを観ている人には映像を想像して貰えるように頑張りたいと思います。
よろしくお願いします。

16 名前 : つなぎ服さん
置土産の更新です(笑)。
これから大阪に向かう準備に取りかかります(あと3時間後には出るというのに(笑))。
毎日更新、って或る意味、夢ですね。そんな作者になってみたいですが、100%無理なんで、
とりあえず、「放置?」と言われない作者目指して頑張ります(苦笑)。
23 名前: 投稿日:2002年11月02日(土)18時07分30秒
と、いう感じで、今回の更新はここまでです。
なんだか話が動かないというか、トロいというか。……たぶん、今回はだるーい感じで進めていきたいです。
それでは。
24 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月11日(月)14時44分10秒
新スレの存在今気がつきました(w
本編の東京美人もたまらないんですが・・・
やぐちゅー東京美人もたまりません。
めちゃくちゃ楽しみができました。
25 名前:リエット 投稿日:2002年11月21日(木)01時00分12秒
楽しみに待ってまーす。
26 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月03日(火)00時04分35秒
東京美人大好きです。
こっちは相手も大好きなので・・・
更新が待ちどうしくてたまりません・・・でも待っています(w
27 名前: 投稿日:2002年12月05日(木)23時00分40秒
 いつもと同じようにノックの音が響く。
「どうぞ」
いつもと同じように返事をして、ドアが開くのを待つ。
 どこかびくついたように、背中を丸めて、一人の女性が診察室へ入ってくる。
 椅子ごと女性の方へ身体を向けて、丸椅子を手で示す。
「……どうぞ。そこへ座って」
小さく頭を下げて、女性は言われるがままに丸椅子に座った。
 伸びた前髪を耳にかけながら、顔を上げたその目尻は、薄赤く腫れて、涙の痕が見えた。
28 名前: 投稿日:2002年12月05日(木)23時02分51秒
「私は彼を信じていたんです」
それで?
「彼は奥さんと別れて、私と一緒になってくれるって言ったんです」
女性の表情に、僅かに笑みが漏れる。まるで、本当に幸せだったんだと、言いたげに。
「だから私、ずっと待ってたんです。いつでも彼の迷惑にならないよう、いつも、私は」
── よくいる、『都合のいい女』。
 息を吐いて、自分が無意識のうちに溜息をついていたことに気付く。姿勢を正すように、椅子に座り直して、小さく肩を回した。
 幾度となくリピートされる話。
 いかに自分と彼が愛し合っていたか、いかに自分が彼に尽くしてきたか。
 そして、いかに自分が傷ついているか。

 言葉にして吐き出してしまうことは大切なことだ。
 その自分を正当化する言葉を肯定しながら、ゆっくりと現実へと向き合わせていく。
29 名前: 投稿日:2002年12月05日(木)23時04分35秒
「なのに、彼は……っ! あの女が悪いんです! 彼は、私のことを本当に愛していてくれたんです!」

「……嘘ばっかり」

女性の顔が歪むのが見えた気がした。
 その後に続く、ハウリングのような声と、空回りする騒音に近い雑音。
 こめかみに鈍い痛みを感じて、眼鏡を外す。きつく目を閉じて、ゆっくりと長い溜息をついた。

 ……私は、なにをしているんだろう。
30 名前: 投稿日:2002年12月05日(木)23時09分09秒
短くて申し訳ないのですが、今回はここまでです。
ハローランドの「東京美人」はさくさく話が展開しているというのに(汗)。
31 名前: 投稿日:2002年12月05日(木)23時15分15秒
>24 名前 : 名無しさん
>新スレの存在今気がつきました(w
気付いていただけて嬉しいです。
これからよろしくおねがいします。

>25 名前 : リエットさん
ありがとうございます。更新遅くてすみません。……いや、もう、ホントに(汗)。

>26 名前 : 名無し読者さん
>こっちは相手も大好きなので・・・
なっかなか相手がちゃんと出てきてくれないんで、私までやきもきしてるんですが(苦笑)、
頑張るので、よろしくお願いします。

見せ場もなにもない更新のあとでなんですが、12月は忙しく、どこまで更新できるかわかりません。
今年中に少なくともあと一回は更新したいです。
32 名前:リエット 投稿日:2002年12月11日(水)07時49分32秒
放置じゃなかった!
凄い好きっぽい展開です。
マターリまってます。
33 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時36分33秒
 小さく溜息をついて、ソファーに腰掛ける。

 白衣のポケットから、携帯を取り出して、蓋を開けた。
 液晶画面が青白く光る。
 そういえば、殆ど、私の方から電話をかけたことはなかった。アドレスをスクロールして、彼の名前で、ボタンを押す。
 一度閉じかけて、動きが止まる。
 今閉じてしまえば、ここですべてが終わってしまうような不安に囚われて、開け直す。
 まだ、画面に彼の名前が残ったままだった。
 小さく息をついて、発信ボタンを押した。
 軽く唇を噛んで、携帯を耳に当てる。
 胸の奥がきゅっと締め付けられるような緊張感で、自然に肩に力が入った。

 私はどうしたいのか。
 何を言おうとしているのか。
 自分の中で、整理はつかなかった。
 私は、彼に、何かを、言って貰いたがっていた。

 ── 私を、楽にしてくれる、言葉を。
34 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時37分03秒
 10回目のコール音が鳴り終わる前に、私は携帯を切った。
 彼は出なかった。
 気がつかなかったのか、電話に出られない状態にあったのかはわからない。
 けれど、彼の携帯には私の番号が登録されているはずだったけれど、夜になっても、次の日になっても、かけ直されることはなかった。

 その3日後、夜勤明けに彼を見かけた。
 車道を挟んだ向かいの歩道を歩いていた。
 彼と腕を組んで歩いていた女性を、私は知っていた。数回見かけた程度だったけれど、間違い無かったと思う。
 ── 彼の同僚だ。

 私は、逃げるように、俯いて、足を速めた。
 振り返ることはしなかった。出来なかった。
 あのときの電話のコール音が、私の頭のずっと奥の方で、鳴り響いていた。
35 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時37分37秒
「中澤さん」
診察室から出るときに、受付で呼び止められた。
「なにか?」
「院長が屋上にきてくれって言ってましたよ」
「……そう。ありがとう」
改まった話なのか、他愛もない話なのか。
 話されるであろう、大まかな話は予想がつく。小さく溜息をついて、屋上へ向かった。
36 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時39分51秒
 今日は、一段と風が強かった。
 ドアを開けた途端に風が吹き込んできて、足を止めた。
 屋上に出ると、一つだけ置かれたベンチに座っている院長が見えた。風に煽られる白衣のポケットに手を入れて押さえつけ、院長の方へ歩いていった。
 私がベンチの側までくるのを待って、院長は軽く煙草を持った手を挙げた。
「……よぅ。まぁ、座れ」
小さく頭を下げて、言われるままに、私は座った。
「最近、どうだ?」
「……」
煙草の煙が、風に吹かれて糸のように流れる。
「煙草、ダメだったっけ?」
「いえ。喫煙はしませんが、平気です」
「……まぁ、俺も禁煙しようとしてたんだがな、どうも上手くいかなくてな」
院長は煙草を携帯灰皿に押し込みながら、苦笑いした。
「完璧な人間なんか、いやしねえよ」
向かい風に細められた院長の目が、やけに、切なく見えた。
37 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時41分45秒
「……彼氏と別れたんだって?」
「……」
「まぁ、それくらいは俺の耳にも入ってくる。まぁ、ここは職場だし、プライベートに関して口出すつもりはないよ。精神科医だって人間だ。悩みもすれば、落ち込みもする」
まるで、カウンセリング、いや、むしろ、診察に近い話し方。
「だがな、もう半年だろう? そろそろ吹っ切ってもいいんじゃねえか?」
そして私は、本当に患者になった気分だった。
「……少し、休みをとったらどうだ?」
「え」
自然と俯いていた顔を上げる。院長は、苦笑いして、私の背中をばんばんと叩いた。
「今のお前なら直る。そしたら戻ってきたらいい」
そう言って渡されたのは、一枚の名刺。
 そこには、院長の知り合いだと聞いたことのある精神科医の名前。
「今のお前に、患者を診ることは出来ないよ」
まるで、独り言のような呟きだった。
 ベンチから立ち上がり後ろ手を上げた院長の背中を、ぼんやりと見ていた。
「しばらくしたら、こっちから連絡するから」
私はなにも言えなかった。

 私は、クビになったのだ。
38 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時44分56秒
ハローランドの「東京美人」、終わってしまいましたね。
最初から8回と分かっていても寂しいです。最後まで、楽しませて頂きました。

しかし、こっちの「東京美人」はまだ第一話辺りをうろうろしてます(苦笑)。
39 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時49分32秒
もうすぐ。もうすぐ、もうひとりの主人公をレギュラーに出来そうです。
早く出したいです。いや、もう、一度は出てるんですけど。ちゃんと、こう(苦笑)。

DVDが出る頃になっても、このスレは終了してないと思いますが、お付き合いいただけると嬉しいです。
40 名前: 投稿日:2002年12月19日(木)20時52分26秒
   32 リエットさんへ
>放置じゃなかった!

そーです、放置じゃないんです(苦笑)。
待っててくださって、ありがとうございます。

年内に、もう一度くらい更新できそうです。ふぁいと、おー(……気合い入ってねぇ(苦笑))。
41 名前:リエット 投稿日:2002年12月22日(日)01時13分33秒
自分も一回だけテレビのものを診たことがあります。
あちらの話も面白かった…。
主人公二人なんですね。
きっとあの人だろうな、と思いながらマターリ期待待ち。
42 名前: 投稿日:2002年12月31日(火)08時49分12秒
 次の日、紹介された病院へ行った。
 渡された薬は、説明を受けなくても知っている薬だったけれど、おとなしく説明を受けた。

 診断の結果は、鬱の初期症状。

 鬱病の精神科医なんて、とても笑えたものじゃない。
43 名前: 投稿日:2002年12月31日(火)08時50分33秒
 食事の後に、薬を飲む。
 その薬がもたらす身体の怠さを感じながら、一日の半分以上をぼんやりと窓の外を見て暮らした。
 一日のうちに、こんなにも電車がここを通っていたなんて、知らなかった。

 病院の帰り、ビデオのレンタルショップに寄った。
 窓の外を眺めているよりマシかもしれない、そう思って、新作のコメディ映画のビデオを2本借りた。
「一週間でよろしいですか?」
「はい」
会員証をバーコードに通したとき、ピーと少し長いエラー音が鳴った。店員が少し目を細めて、管理用のパソコン画面を見る。そして納得したように小さく頷いた。
「会員カード、期限が切れてますね。更新されますか?」
「……はい」
店員は一度もこちらを見ずに、マニュアルに従って手続きを済まし、私に会員証を渡した。
 勤め先はそのままだったけれど、私が病院を辞めたことなど、店員にはなんの関係もないことのようだ。
44 名前: 投稿日:2002年12月31日(火)08時51分13秒
「保証金200円追加で、合計840円になります」
千円札を置いて、160円を受け取る。
 厚いビニール性の袋に入れられたビデオを受け取りながら、私はもう1年以上もレンタルショップに来ていなかったことにようやく気付いた。
 最後に来たのは、去年の秋、雅彦と一緒にビデオを借りたときだ。
「……」
たしかあのときも、コメディを借りた。
 雅彦が観たいと言っていたけれど、2人の時間がなかなか合わなくて、結局、公開期間に間に合わなかった映画だった。
 ビデオショップを出ると、私は外に設置されている閉店時用のビデオ返却BOXに、そのまま借りたばかりのビデオを押し込んだ。
45 名前:川o・-・)ダメです… 投稿日:川o・-・)ダメです…
川o・-・)ダメです…
46 名前: 投稿日:2002年12月31日(火)08時56分57秒
今年、最後の更新です。
彼女もやっと再登場させられて、私はうれしいです。
47 名前: 投稿日:2002年12月31日(火)09時00分09秒
  >41 リエットさんへ
>主人公二人なんですね。
>きっとあの人だろうな、と思いながらマターリ期待待ち。

ありがとうございます。期待に添えるとうれしいんですけど。
とりあえず、主人公のもうひとりは、リエットさんの想像通りのひとだと思います。

あのちっこいひと。って、伏せ字にしてもあまり意味ないんですね。矢口さんです。
もうひとり、キーポイントになる人もでてくるので、そちらはまた来年に。
48 名前: 投稿日:2002年12月31日(火)09時00分39秒
それではみなさま、よいお年を。
49 名前:名無しさん 投稿日:2003年01月12日(日)03時51分51秒
(かなり遅ればせながら)明けましておめでとうございます。
今年も、作者様の作品を楽しみにしております。
期待sage。
50 名前: 投稿日:2003年01月21日(火)23時58分22秒
 彼女に再び会ったのは、病院の玄関だった。

「……こんなトコでなにやってんの?」
彼女は不思議そうな顔で私を見た。
 怪訝そうでもなく、悪意も善意もなく、ただ、素直にきょとんとした表情をしていた。
「研修とか?」
「……通院」
「はぁ? 先生、精神科医でしょ?」
「元、精神科医」
彼女がジージャンの襟を直した、パン、という音が軽く響く。
「……ふぅん。辞めたんだ」
「クビになったの」
彼女は、また、ふぅん、と曖昧な相槌を打って頷いた。
51 名前: 投稿日:2003年01月21日(火)23時58分58秒
「なに? 通院って」
多分、いつもの私なら、「関係ないでしょう?」の一言で切り捨てたはずだ。
 けれど、彼女の不躾に訊いてくるその態度に、なぜだか不快な感じはしなかった。
 私の病気のせいなのか、それとも、たとえ私が答えようと答えまいとどうでもいいとでも言いたげな雰囲気を彼女が持っていたからかなのか。
 その判断はつかなかった。
「……鬱病」
「鬱病?」
彼女は、私の口にした病名を自分に言い聞かせるように、繰り返した。
「……鬱病ねぇ」
「精神科医の鬱病なんて、笑えないでしょ」
「そぉ? 薬屋だって、医者だって、病気にかかるじゃん」
「……」
「精神科のお医者さんって、ストレス溜まりそうだよね。ココのおかしいヤツばっか相手にしてんだもん」
彼女がトントンとこめかみを叩く。
「……こっちよ」
親指で自分の胸に手を当てた。
「ココロって、ホントにそこにあんの?」
そう言って、彼女は、私の嘘に笑った。
52 名前: 投稿日:2003年01月22日(水)00時12分36秒
「……ごはんでも、食べに行く?」
「へ?」
彼女は私の言葉に、きょとんとした。
「あ」
一瞬遅れて、私も自分自身の口にした言葉に驚いた。
「……」
目がそらせないまま、沈黙が流れる。
 先に行動を起こしたのは、彼女の方だった。
 ニッとまるで子供みたいに笑って、彼女は「いーよ」と言った。
「矢口、まだ昼ご飯、食べてないんだ」
「……あ。あ、そうなの?」
「朝ご飯、遅かったから」
時間は、3時を回ったところだった。
「どっかオススメの店とかあんの?」
「……えっと。そうね、じゃあ……目黒のほうまで」
「いいよ」
ふっと笑って、彼女は歩き出した。私もそのすぐ後を追いかけた。
53 名前: 投稿日:2003年01月22日(水)00時16分34秒
  49 名無しさんへ
ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

ほんの少しだけ更新。
45のスレ、ひとつスレを飛ばして更新していたことに今更気付きました(汗)。
削除依頼だしたのですが、……ホントにすみません。
削除されるまで、飛ばしてよんでいただけると有り難いです。
54 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)12時51分34秒
「山の手線でいーの?」
顔だけで振り向いて発せられた質問に頷いた。
 彼女は、返事の代わりに小さく頷き、すぐに顔の向きを進行方向に戻した。

 まだ歩き慣れていない道を、2人で歩いていく。
 この道を通るのは、まだ2回目だった。
 彼女はどうなんだろう。
 彼女は、ずっと、私の半歩前を歩いていた。
 好奇心旺盛な子供みたいに、ほんの少しきょろきょろと、ショップのウインドゥに気を取られながら。
 時々興味を引くものに出逢えたのか、視線で追うように顔を動かしたけれど、歩くスピードは変わらない。足は迷うことなくまっすぐに駅に向かっている。
55 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)12時52分21秒
「ね」
駅の手前で、彼女は立ち止まって、私を見上げた。
「切符は? 買うの?」
「え?」
「矢口、イオカード持ってるからさ」 
「あ、大丈夫。スイカあるから」
「嘘っ、スイカ持ってんの!? 見せて見せて!」
「あ、ちょ、ちょっと待って」
パッと目を輝かせた彼女に、少し戸惑いながら、ショルダーバックから定期入れを出す。
「はい」
「へー。初めて見たぁ」
「でも発行されてから随分立つでしょ?」
「でも、そんな使うわけじゃないからさぁ。矢口、通学は地下鉄ユーザーだもん」
それなら持っていなくても不思議じゃない。私の持っている理由も、単純に通勤にJRを使っていたからだ。
「コレ、ホントに定期に入れたままで入れるの?」
「使ってみる?」
「いーの? やたっ!」
彼女は私のスイカを受け取ると、代わりにGジャンのポケットから定期入れを出し私に渡した。定期入れの表面にイオカードが差し込まれていた。
56 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)18時40分13秒
「お。おおっ?」
少し緊張した面持ちで改札を抜ける彼女の後ろ姿に苦笑して、イオカードを引き抜く。
 その時、イオカードと一緒に下に重なっていた地下鉄の定期券がずれた。
「……」
その下に隠されるように入っていたものに、私は一瞬身体を強ばらせた。慌てて定期券を元に戻し、改札を抜ける。
「ホントに定期入れにいれたままで平気なんだね。ね、鞄の中とかでも平気?」
「入れる場所によるんじゃない?」
何事もなかったように、彼女の言葉に答え、定期入れを交換する。
「ありがと」
彼女の柔らかい笑顔に、妙な罪悪感を感じた。
 鼓動が早くなっていく。
 彼女が、私の患者として口にした言葉が、私の中で蘇る。
57 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)18時40分50秒
 ── すごく、すごく好きな人がいるんです


 私に向けられた、うんざりしたような冷たい瞳。


 ── それが、女の子でも?

 定期入れの中に隠されていたのは、一枚の写真。
 顔はわからなかったけれど、見えた赤いトレーナーが残像のように私の目に残った。

 あれがきっと、彼女の、── 好きな人。

 ホームはスーツを着たサラリーマンが大半を占めていた。せわしなく書類を捲り、時折見えるはずのない携帯電話の相手に頭を下げていた。
 入って来たばかりの電車に乗りこむと、車内はわりと空いていて、ドア付近の席に腰掛けた彼女の後を追うように、肩を並べて座った。
 彼女はまるで眠るかのように、顎を引いて俯いた。
 私は、視界の端に映る彼女の膝が、電車の揺れに合わせて動くのを、ただぼんやりと見つめていた。
58 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)18時42分21秒
放置きみですみません。ひさしぶりの更新です。
ちょこっとですけど。
59 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)18時49分30秒
余談(?)ですが、今回、「イオカード」と「スイカ」がでてきますが、
関東圏の方にはご説明不要ですけど、「イオカード」というのは、関西でいう「Jスルーカード」みたいなもんです。
「スイカ」は……関西圏にあるんですかね?
イオカードは、切符の代わりに改札を通しますが、スイカはセンサーに当てて通ります。
定期としても使えますし、そのなかにチャージとしていくらか入れておくことも可能だそうです。
(ちなみに中澤先生はいれてたので、定期での路線以外でも使用できる、と)
私は使ってないんで、よくわかんないですが(苦笑)。
60 名前: 投稿日:2003年02月04日(火)18時57分02秒
この話、書いてて、よく思うんですが、
ハローランドのドラマの山咲先生、かなり遠出してませんか?
遊びにいくにも、買い物するにも、勤め先も。
……どこに住んでんですか、この人……(汗)。
61 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月04日(火)21時07分59秒
矢口の好きな人ってだれなんでしょう?
のんびり待ってるんでがんばってください。
62 名前:読むもの 投稿日:2003年02月06日(木)08時35分13秒
とても嬉しいです。
また続きも楽しみに待ってます。
63 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)21時43分37秒
 車内に流れたアナウンスに「目黒」という言葉を聞き止めて、彼女は顔をあげた。
 目黒に着いたとき、先に立ったのは彼女だった。
「……目黒じゃなかった?」
きょとんとした大きな目が、私を見つめた。
「……」
私は、立ち上がれなかった。
 アナウンスが響き、ドアが開く。
「……違ったっけ?」
彼女は照れくさそうに笑って、私の隣に座り直した。
 ドアが閉まり、電車が動き出す。
 どうして立ち上がれなかったのか、自分でわからなかった。
 小さく震える指先を隠すために、ぎゅっとシャツを握りしめる。
 身体の中に熱が籠もるような感覚。
 こめかみが痛くなって、私は目を閉じた。
64 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)21時45分03秒
 不意に、腕を捕まれて、そのことにハッとして顔をあげた。
「行くよ」
簡潔にそう呟いて、彼女は私の腕を掴んだまま、立ち上がった。
 彼女の横顔は、有無を言わさない雰囲気をもっていた。
 私は彼女に引っ張られるように、電車を降りた。
 背中で、ドアが閉まる音を聞いた。私達の横をすり抜けて、人々が電車の中に吸い込まれていく。
 そして、ホームから人が離れていき、取り残されたような静けさの中で、彼女は私の腕を放した。
 ホームに設置された看板の文字は、『渋谷』だった。
 彼女が、くるりと身体ごと振り向いて、私を見上げる。
「……もんじゃ焼きとか、パスタとかで、いい?」
「ええ」
小さく頷く。けれど、顔が上げられなかった。俯いた私に、彼女が少し眉を潜めたのが見えた。
「……ごめんなさい」

 目黒は、彼と何度も行った街だった。

 私が、彼女を連れていこうとした店も、何度も彼と一緒に行った、お気に入りの店。
 そして、別れてからずっと、行けずにいた場所。
65 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)21時52分15秒
 腕を掴んでいた手がゆっくりと解かれる。
 ゆっくりと視線を合わせたときの彼女の小さな微笑みが、きゅっと心を締め付けた。
「……ごめんなさい……」
まるで慰めるように私の腕に触れていた彼女の小さな手を見ながら、私は初めて自分の中にある傷に触れた気がした。
「……帰ろっか」
彼女の独り言のような呟きに、軽く目を伏せる。目頭に涙が滲んでいくのに気が付いて、唇を噛んで目を開けた。
「また、今度連れてってよ」
彼女はそう言って、笑った。


 彼女が昼食を取っていなかったのは、嘘だったのか、それとも本当だったのか、私には最後まで分からなかった。
 そして、彼女の連絡先も携帯番号も、何も知らないことを思い出したのは、マンションに着いた後だった。
 3日もたてば忘れられてしまいそうな他愛のない約束さえ、私には、叶えられない。
66 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)21時54分59秒
珍しく(……おーい)、早めに更新です。相変わらず短いですけど。
67 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)21時58分54秒
>61 名無しさん
>矢口の好きな人ってだれなんでしょう?
候補が2人いるんですよね……(苦笑)。
話の流れ的には、いまのところ関係ないんですけど。
そろそろちゃんとだしてあげたいです。

>62 読むものさん
>とても嬉しいです。
>また続きも楽しみに待ってます。

ありがとうございます。待っていてくださる人がおられることが、一番の励みになります。
68 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)22時00分05秒
次の更新は、……週末にはしたいです。今のとこ、ちょっとノッてもいるので。
どうぞよろしくおねがいします。
69 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月11日(火)02時10分25秒
週末を楽しみに待ってます。
70 名前:読むもの 投稿日:2003年02月11日(火)09時08分10秒
切ない……
71 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時23分13秒
 メイクを落として、タオルで水を拭う。
 まだ、水は冷たい。
 ふぅ、と、長い溜息をついて、鏡に映った自分と目を合わす。
 ほんの少し、目尻と鼻の頭が赤くなっていた。
「……」
感覚がどこか痺れていて、身体の中になにか違う物が押し込められているような気分だった。
 ゆっくり瞬きをして、深く息をつく。

 ベットに寝転がり、布団にしがみつくように丸まって、気が付いたら泣いていた。
 そして、まるで子供みたいに、泣き疲れて眠っていた。
72 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時26分15秒
 目黒は、彼と私の職場ちょうど中間地点で、仕事帰りの待ち合わせによく利用した。
 私は、代官山や恵比寿の方が好きだったけれど、彼は、どこか自然が残るあの街がお気に入りだった。

 半年ぶりにきた目黒の街はあまり変わっていなくて、そのことが、彼が隣にいないという事実を私に突きつける。
「……」
軽く唇を噛んで、足を前に踏み出す。
 こんなところで、立ち止まってるわけにはいかないのだ。
 夜ではなく午前のうちに来たことは正解だった。街灯ではなく太陽に照らされた街の風景は、幾分私の気持ちを楽にさせた。
 大通りを少し歩き、小道に入ってすぐ。
 私達にとって「いつものところ」である、地下の小さな料理店の小さな看板が見えた。
 2人で歩いていて、たまたま目に留まって入ったその店の雰囲気と料理が気に入って、特に目的のない日はそこで食事をするようになった。
73 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時26分57秒
 小さな階段を降りていく。
 ドアにかけられた、小さな「OPEN」の札も同じ。
 私はゆっくりとドアを開けた。
 店内はまだ開店したばかりのせいか、私の他に誰も客はいなかった。
 シンとした中で、小さく有線だけが流れていた。
「いらっしゃいませ」
丁寧な迎えの言葉が響く。それも、以前と変わっていなかった。
 店のテーブルにランチョンマットを並べていた店員が、背筋を伸ばして入口まで出迎えにくる。見覚えのない顔だった。
「おひとりですか?」
「あ、はい」
初めてではないのに、緊張感が身体を包んでいた。
「どうぞ」
壁際の席に案内される。
 店員の後について何歩か歩いた後、思い切って声を出した。
「あのっ……」
「はい?」
くるりを店員が振り返る。
「……あの、カウンターでもいいですか?」
女性は少し不思議そうな顔を見せたけれど、すぐに、かしこまりました、と、会釈つきで営業スマイルを浮かべた。
74 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時27分28秒
 カウンターの真ん中あたりの椅子をひいて、どうぞ、と私を促す。
 私が座ってバックを隣の席に下ろすのを待って、メニューがテーブルに広げられた。
「こちら、本日のオススメになっております」
マニュアルにそった、丁寧な口調。
「ごゆっくりどうぞ」
「……ありがとう」
水は、カウンターから出てきた。
「いらっしゃいませ」
カランと、グラスの中で氷が鳴った。
「あ、どうも」
カウンターの中のにいたのは、私の見知っているマスターだった。
「お久しぶりですね」
その言葉に、私も顔を覚えられていたことがわかった。半年振りの客の顔を覚えていたことに、少し驚いた。
「……ええ」
「何にします?」
「……えっと、じゃあ、……本日のオススメランチを」
「食後のお飲物は?」
「あ、じゃあコーヒーで」
「かしこまりました」
マスターが、柔らかい笑顔を残して、すっと奥に下がる。
 私はテーブルに肘をついて、小さく溜息をついた。
75 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時30分12秒
 彼は、この店に限らず、カウンターに座ることが好きだった。
 何故かはわからなかった。料理が目の前で作られている様子をみるのが好きだったのかもしれないし、カウンター内の店員と話すことが好きだったのかもしれない。
 私は、どちらかというと、壁際の隅や窓際の席のほうがよかった。けれど、反対するほどのことでもなかったから、彼のあとについて、いつもカウンターに座っていた。

「おまたせしました」
しばらくして、野菜のリゾットとスープが目の前に並べられた。
「いただきます」
小さく手を合わせてから、スプーンを手にする。
 一口食べて、素直においしいと思った。

 そういえば、彼は人参が苦手だった。
 初めてそれを知ったとき、子供みたい、と笑ったことを覚えている。
 人参を残していたか、それとも無理して食べていたのか、うまく思い出せなかった。
76 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時32分44秒
 マスターが私に話しかけてきたのは、私が食べ終わって、コーヒーを飲み始めた時だった。
「今日はおひとりなんですね」
「え?」
マスターの言葉に、胸がチクリと痛む。けれど、それを悟られないよう、できるだけ自然に笑ってみせた。
「……ええ」
コーヒーを飲んで、一呼吸ついてから、口を開く。
「たまには、ひとりもいいかなぁ、と思って」
虚勢を張っている自分を、もうひとりの自分が冷静に見つめているような、不自然な感覚だった。
「しばらくいらっしゃらなかったから、どうしたのかなぁって思っていたんですよ」
「ごめんなさい、仕事が忙しかったから」
マスターは、何も言わず笑った。
 彼も、あれからこの店には来ていないのだろうか。
 それとも、もう彼女を連れてきていて、マスターが知らない振りをしているだけなのか。
 私には、わからないことが多すぎる。
77 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時33分33秒
 コーヒーを飲み干した後、一口だけ水を飲んで、バックを手にした。
「……ごちそうさまでした」
席を立ったとき、マスターが言った言葉。
「また来て下さい」
「ええ」
微笑んで、小さく会釈した。

 私はまたひとつ嘘をついた。

 来たくないと思ったわけじゃなかった。ただ、もうここに来る機会はないだろうと思った。
 目黒はもともと、私にとってなじみのない街だった。
 彼と付き合うようになって、たびたび来るようになって。


 「また、今度連れてってよ」。

 彼女の言葉を思い出す。

 いつのまにか、誰かを連れてくるなんて考えるような場所になっていた。
 そのことに気付いて、苦笑した。
78 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時34分08秒
 私と彼女に、今度なんてあるんだろうか。

 ── もし、あるんだとしたら。
 私の嘘は、嘘じゃなくなるかもしれないのに。
 ……でも、嘘じゃなくなったからって、いったいなにがどうなるっていうのだろう。

 私は、ひとりだった。
 隣にも前にも、彼はいない。誰もいない。
 待っているわけでもない。待たせているわけでもない。

 ── 私は、この街で、ひとりきりだった。
79 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時36分30秒
週末にはまだ早いですが、更新しました。
80 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)21時41分12秒
 >69 名無し読者さん
>週末を楽しみに待ってます。
ありがとうございます。フライング更新してしまいました(苦笑)。

>70 読むものさん
>切ない……
この先も切ない感じが続くと思います。っていうか、続けたいので、気長にお付き合いいただけると嬉しいです。

81 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)22時04分48秒
今度の更新は、週末にもう一回できれば、と思ってます。
そろそろ矢口さんに頑張って貰いたいです(笑)。
82 名前:読むもの 投稿日:2003年02月14日(金)07時18分33秒
この雰囲気良いですね……待ってます。
83 名前: 投稿日:2003年02月15日(土)19時29分45秒
 ぼんやりと、散歩道を歩いた。
 小さな公園に入って、隅のベンチに腰掛ける。
 犬を連れた人達が通り過ぎていくのをぼんやりと見ていた。小さな子供が、危ういバランスで走りまわっているのが、視界に入っては消えた。

 ふと、足下で動かない影に気が付いた。
 小さな影は、通り過ぎることなく、私に一歩近づいた。 
「……なに泣いてんの?」
その声にハッとして、顔を上げた。
 彼女は、呆れたように苦笑混じりの溜息をついて、持っていたコンビニ袋を肩でかついだ。
「……矢口、さん」
それ以外の誰に見える?とでも言いたげに、彼女は肩をすくめてみせる。
「ひとり?」
「え? ……ええ」
「まさか、それで泣いてるんじゃないよね?」
彼女は、自分の言った冗談に笑ったけれど、そのまさかだった。
 なにも言えなくなった私に、彼女もなにも言わなかった。かわりに、ガサガサというコンビニの袋が音を立てた。 
「肉まん」
「え?」
「半分コ」
彼女は笑って、コンビニの袋の中から肉まんを取り出した。薄い紙を半分だけ捲って、器用に割ると、千切った方をくわえ、もう片方を私に差し出した。
84 名前: 投稿日:2003年02月15日(土)19時31分06秒
「やっぱ、肉まんとかあんまんとかって、熱いうちに外で食べるのが一番おいしいよね」
彼女が言ったとおりだった。
 受け取った肉まんは、指先を痺れさせた。
 彼女は、私が泣いていた訳を訊こうとはしなかった。それどころか、なにも訊こうとはしていなかった。
 手の甲で涙を拭った私に気付かなかった振りをして、肉まんを黙々と頬張っていた。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、こんなところにいるの?」
「んー」
はぐはぐと肉まんを噛んで、ゆっくり飲み込む。そして、少し首を傾げた。
「どうしてかなぁ?」
「は?」
「ガッコ行ったらさ、出るつもりだった講義が休講でさ。んで、まぁ、そのあとの講義出るつもりだから、帰るわけにもいかなくて暇つぶし」
「……大学、この近くなの?」
「そーいうわけじゃないけど」
ぺろ、と、舌を出して、親指で唇についたカスを拭う。
「……もしかして、いるんじゃないかなぁって思ったんだ」
「……え?」
「なんとなく」
タン、と、一度跳ねるように足をついて立ち上がった。私がそのことを上手く理解する前に、彼女は軽く駆けだしていった。
85 名前: 投稿日:2003年02月15日(土)19時35分34秒
「ちょ……」
ようやく物事を把握して、私が手を伸ばしかけた時に彼女はジュースの自販機の前で止まった。
「ねぇ、なにがいいー?」
背中を反らせて、彼女が私に声をかける。私はほっとして息をついた。
「……コーヒー」
「え? なに? 聞こえないよ」
立ち上がって、彼女の方へ歩き出す。
 彼女がポケットからコインを取り出す前に、後ろに立って投入口を手の平で塞いだ。
 きょとんとした目が私を見上げる。
「あなたは、なにがいいの?」
鞄から財布を出して、500円玉を一枚、投入口に入れた。自販機のランプが、一斉に赤く光る。
「ありがと」
子供みたいに笑って、彼女はオレンジジュースを押した。
「肉まんにオレンジ?」
「もー食べ終わったし、いーのっ」
「ふぅん」
なんだか、彼女の笑顔が伝染したみたいに、私も笑った。
「ジュースも半分コする?」
「あなたが選んだのがコーヒーだったらそれでもよかったけど」
私はそう言いながらコーヒーのボタンを押した。彼女はおかしそうに笑ってから、取り出し口からオレンジとコーヒーを取った。
「はい」
「ありがと」
差し出された缶をそう言って受け取ると、こっちのセリフだよ、と、彼女はまた笑った。
86 名前: 投稿日:2003年02月15日(土)19時39分11秒
更新しました。

>82 読むものさん
いつもありがとうございます。この雰囲気、最後まで保てればなぁ、と思ってます。
いつもは甘いの書いてるので、なかなか……こう(苦笑)。(CUBEのときも大変でした。楽しかったですけど)
87 名前: 投稿日:2003年02月15日(土)19時42分27秒
更新時にあげるようになってから、更新部分を隠すために、
3スレつけるようにしたのですが、コレって、どうなんでしょう?
ネタバレよけは納得いくんですけど、この話に必要なのかなぁ?とか思ったり。
邪魔、とか思ってる方、おられますか?
88 名前: 投稿日:2003年02月15日(土)19時43分11秒
とりあえず、次回の更新は来週末予定してます。では。
89 名前:読む者 投稿日:2003年02月16日(日)08時44分53秒
あ、今気が付いた……今まで平仮名になってたの(汗)
こちらではTV放送の中の良い雰囲気だけが出ているような感じです。
CUBEの時は作中の空気もありレスしませんでした。
こちらはレスつけても良いかなと思ったので、思い切って。(コテハン嫌われません?)
影さまの幾多の甘い作品も好きです。

後、私は気になりませんです<3スレ
作者様の意のままに為されてよろしいのでは。
90 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月16日(日)19時55分33秒
来週末たのしみにまってまーす。

>3スレつけるようにしたのですが、コレって、どうなんでしょう?
私も気になりませんよ。



91 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時18分08秒
 さっきまで座っていたベンチには、子供を連れた、まだ若い女性が2人座っていた。
 私達は、混んできた公園を出て、駅に向かって歩いた。
 もうそろそろ戻んなきゃ、と、彼女が言ったからだ。
 コンビニの前を通ったとき、持っていた空き缶を捨てた。
 こんな風に歩きながら缶コーヒーを飲んだのも、久しぶりだった。

「どうかした?」
彼女にそう言われて自分でも初めて気付いたけれど、あの店に続く小道の前を通ったとき少し足が止まった。
「なんでもない」
小さく首を振って笑って見せたけれど、彼女は少し冷めた目をして、軽く髪を掻き上げてから溜息をついた。
「……あのさ」
彼女の低く呟かれた声に、一瞬びくっとした。そんな反応をした自分に狼狽えながら、それでも平然を装って、私は顔をあげて口元で微笑んだ。
 そして、彼女の次の言葉を待った。
「……矢口、歩くの速かった?」
彼女が言いかけた言葉は、そんな言葉じゃなかったはずだった。
「そんなことないわよ」
私が言いたかった言葉も、そんな言葉じゃないはずだった。
92 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時19分29秒
 駅が見えたところで、私の足がまた止まった。
 彼女は、2、3歩進んだところで、私に気付いて、振り返った。
 きょとんとした目が、私を見上げる。
 私は、もう何度も、この表情を見ている気がした。
「……ココ」
「ん?」
私の独り言のような呟きを耳に留めて、まるで小犬みたいに、彼女が私のほうに駆け寄ってくる。そして、まっすぐに私を見上げた。私はその視線と目を合わせられずに、ほんの少し顔を上げた。
「目黒、彼とよく来たとこなの」
「……うん?」
「あなたを連れていこうとした店も、彼とよく行った店なの」
「店? こないだ行こうとしてたトコ?」
「そう」
どうして私はこんなところで、こんな話を、彼女に向かってしているんだろう。
 もう一人の自分が、身体の斜め上あたりで呟いていた。
 けれど、身体は口を閉じようとはしなかった。
 声は掠れることも震えることもなく、台詞を発していた。
「私、この街に一人で来たことなんて、殆どなかったの」
不意に彼女の手が伸びて、私の肩を押した。
 一瞬何が起こったのかよく分からなかったけれど、すぐに自転車が私達の横をすり抜けたことで、道を開けたんだと理解した。
93 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時20分06秒
 ふっと視線が重なって、彼女が真剣な表情をしていることに気付いた。
 私の曖昧な笑顔なんて許そうとしていないみたいに。
「……彼氏と喧嘩でもしたの?」
私は首を振った。
 喧嘩なんてしてない。
 今思うと、彼とは喧嘩らしい喧嘩はしたことがなかったような気がする。
「彼氏、どーしてんの?」
「……元気なんじゃない?」
俯いた視界に、彼女の厚底のスニーカーが見えた。スニーカーの先に、かすり傷が入っていた。
「前に、女の人と一緒に歩いてるの見たから」
「え?」
「別に不思議なことでもないでしょう? 別れたのなんて、半年も前なんだし」
落ち着けなくてそわそわした。じっとしていられずに、ずれてもいないバックを肩にかけ直す。
94 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時20分44秒
「……今でも、好きなんだ?」
苦笑混じりの、見透かしたような声だった。
「やめちゃいなよ、さっさと。次の恋でもみつけてさ、いいヒトなんか、すぐにみつかるって」
ドクン、と喉の奥で、なにかが鳴った。
「……あなたに」
鼓動が速くなる。
「……あなたになにがわかるっていうの?」
私は、── 私の身体は、なにをしようとしているんだろう?
「『やめたほうがいい』? 『いいヒトなんかすぐにみつかる』? なんでそんなことわかるのよ! 勝手なこと言わないで! どうしてそんなこと言い切れるのよ!!」
言い放ったあとで、ハッとした。意識が身体に叩き込まれるみたいに戻った。
95 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時24分25秒
更新しました。
来週末より先に更新できるかな、と思っていたんですけど、……思ったより、話がはやくまとまったので。
96 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時34分30秒
    >89 読む者さん
>こちらではTV放送の中の良い雰囲気だけが出ているような感じです。

そうですか? そう言っていただけると嬉しいんですけど。
書きながら、本物にはかなわないなぁ……とか思いながら戦ってます(苦笑)。

>CUBEの時は作中の空気もありレスしませんでした。
>こちらはレスつけても良いかなと思ったので、思い切って。(コテハン嫌われません?)

コテハンは、別に気になりません。名無しさんでも気にならないんで、個人的にどちらでもかまわないかと。
レスいただけるのが、嬉しいです。
あの、とりあえず「様」はやめてくださいね、ただの凡人なんで背中がくすぐったくなっちゃいます(笑)。



    >90 名無しさん
>>3スレつけるようにしたのですが、コレって、どうなんでしょう?
>私も気になりませんよ。

あった方がいいですか?
とりあえず、3レスつける方向でいってみようかと思います。
97 名前: 投稿日:2003年02月16日(日)23時40分49秒
更新は、来週末予定です。
今度はフライング無しです。ちょっと忙しいので。
では、このへんで。
98 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月16日(日)23時50分27秒
どうなるですかね この2人?
私的に矢口の好きな人が気になるー!!
まだ、出てこないんですか?
99 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時28分02秒
「……」
バツの悪さに思わず目を逸らせて俯く。
 こんなのはただの八つ当たりだ。
その事実は、私に泣きたくなるほどの情けなさを感じさせた。
 きゅっと唇を噛んで、目を閉じる。
 次の瞬間、私に触れたのは、彼女の両手だった。
 小さな手の平が、包み込むように私の両頬に触れていた。
 私はその感触に驚いて目を開くと、すぐそこに、彼女の笑顔があった。 
 予想に反して、彼女はどこか照れくさそうな柔らかい顔で、笑っていた。
「……ほら。今でも好きなんじゃん?」
「……」
「振られて鬱病になっちゃうくらい、好きだったんでしょ?」
彼女の言うとおりだった。
 私は、自分自身のそんな気持ちを、彼を失うまで気付けずにいた。
 正直、今の私の気持ちが「恋」と呼べるものなのかどうかはわからない。
 けれど、私は彼に囚われて続けている。
「……ごめんなさい」
「謝ることなんかないよ」
「……講義、間に合う?」
「いーよ、そんなの」
本当におかしそうに、彼女は笑った。
100 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時34分05秒
「せんせぇ、自分で思ったことない? 嘘、下手だよね」
「……自分では思ったことないけど」
少し眉を潜めてそう返してみたものの、彼女のその言葉は、私を少しほっとさせた。
 自分に付く嘘なんか、下手なほうがいい。
「私はもう、『先生』じゃないわ」
「そっか。そーだっけ。ごめん」
けれど、彼女は私の名前を訊きはしなかった。
「……また、会える?」
「さぁ?」
関わり合いを持とうとする最中に、呼び名を必要としない人はあまりいない。
 彼女は、私とはもう会わないつもりかもしれない。
 そう考えたとき、彼女はいたずらっ子のように笑った。
「嘘」
不意に手首を捕まれて、ぐい、と引っ張られる。
「ちょ、ちょっと……」
ポケットから出したのは、小さなボールペン。
 どうしてそんなものをポケットに入れてるんだろう、と思っている間に、彼女は私の手の平の上で、ボールペンを動かした。妙な堅さがくすぐったかった。
「病院と地下鉄では電源切ってるけど、留守電に入れてくれたらかけ直すから」
手の平に書かれていたのは、10ケタの数字だった。
 丸みを帯びた、くせ字。

 ……私はようやく、前に踏み出せるような気がした。
101 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時36分01秒
 マンションに帰って、最初に私がしたことは、薬を飲むことではなく、彼女にメールを打つことだった。
 なんて打てばいいのか全然思いつかなくて、何度かメール画面を消した。

 名前は覚えていた。

 「矢口真里」。

 そういえば、私も彼女のことを名前で呼んでいなかった。
 そう思って少しだけ笑った。
 手の平の上の文字を眺めてから、登録したばかりの名前を携帯の液晶画面に呼び出す。

“今日は、ありがとう。”
そこまで打って、また消した。
 なにかが心の中でひっかかる。
 私の伝えたい言葉が、文字にならない。
 携帯を手にしたまま、ごろんとベットに寝転がる。
 天井をぼんやりと眺めながら、手探りで言葉を探す。
「……『ありがとう』。『ごめんなさい』。……『また』……」
ゆっくりと目を閉じる。

 私が彼女に望んでいることはなんだったんだろう。
 少なくとも、私は、もう一度彼女に会いたがっていた。

“今度、電話します。中澤裕子”

短い文を打って、送信ボタンを押した。
102 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時40分00秒
 送信中の文字が点滅して、あつらわれたアニメーションが動く。

 私は、いつも電話を待つ側にいた。
 最初もそうだった。
 人数合わせで連れていかれた合コンの終わりに、「電話番号教えてよ」と、彼は言った。そして、「今晩、電話するよ」と、照れくさそうに笑いながら言った。
 私はその電話を待った。
 付き合うことになった後も、私は、電話を待つ側だった。
 私の方からメールをすることは数回あったけれど、電話をすることはいつもためらわれた。
 元々電話やメールは得意なほうじゃない。
 こんな時間に電話をしたら迷惑じゃないか、とか、そんなことを考えながら、結局は彼に甘えていた。
 そして、彼から連絡をもらうことで、どこか優越感に似た安心感を抱いていたのだ。

 送信が終了しました、の文字を確認して、携帯を閉じた。そのまま枕元にポンと置いた。
103 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時41分24秒

 ベットから起きあがって、薬を飲みに台所へ行く。
 冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを取り出した時、彼女が私の名前を知っているのかどうか疑問に思った。
 彼女の診察をしたとき、たしか私は名札をつけていなかった。診察室の前には、私のフルネームが書かれたプレートがつけてあったはずだけれど、彼女がそれをみていたかどうか、自信はなかった。
 彼女は、一度も私の名前を呼んでいない。

 けれど、それは杞憂に終わった。
 薬を飲んで、ベットに戻ったとき、携帯には一通のメールが届いていた。
 電車に乗る前にマナーモードにしたときのままだったので、気が付かなかったけれど、メール受信の時間からみて、返事はすぐに来ていたようだった。

 差出人は間違いなく、彼女だ。

“電話、待ってる。矢口”

たったそれだけの、簡潔なメール。
 それだけで充分だった。
104 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時43分55秒
更新しました。
だんだん進みはじめているんじゃないかと……思うんですけど、どうでしょう?(苦笑)
105 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時47分13秒
   >98 名無しさん
>私的に矢口の好きな人が気になるー!!
>まだ、出てこないんですか?

まだです。すみません、なかなか出てきません(苦笑)。
もーちょっとしたら、矢口の口から語られるのではないかと。
106 名前: 投稿日:2003年02月22日(土)19時48分18秒
今度の更新は、また来週末あたりを予定しています。
もしかしたら、明日もするかもしれませんが。
それでは。
107 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月23日(日)00時29分21秒
楽しみに待ってます。
頑張ってください。
108 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月23日(日)01時24分02秒
明日も見に来ます。
でも急かしてるわけではないので、
作者さんのペースで頑張って下さい。
109 名前: 投稿日:2003年02月23日(日)22時29分47秒
 私が彼女に電話したのは、次の日の12時半過ぎだった。
 その時間なら、昼食時で講義とは重ならないだろうと思ったからだった。
 けれど、コール音は鳴ることはなく、留守電に繋がった。またあとでかけ直そうと思って、メッセージはなにも入れずに携帯を切った。
 コーヒーでも煎れようと思って、キッチンに向かう。
「……んと」
豆の缶を開けると、コーヒーの匂いがふわりと舞う。
 なぜだか、久しぶりに嗅いだ気がした。
 手の平の10ケタの数字は、もう消えている。
 昨日浴びたシャワーに溶けるように消えていった。けれど、その手の平には、まだ少しボールペンの感触が残っている。
 コポコポという小さな音が、規則正しく響く。
 久しぶりに買い物でも行こうか、と、思った。そろそろ春物の服が並び始めている頃だ。
110 名前: 投稿日:2003年02月23日(日)22時30分39秒
 結局、私がその日、留守電にメッセージをいれることはなかった。
 私が電話した5分後に、彼女が電話をかけ直してきたのだ。

 机の上で鳴り出した携帯を慌てて掴んだ。
 初めてみた小さな液晶画面の彼女の名前。それはなんだか、新鮮な気分だった。
「……もしもし」
あまり落ち着かなくて、きゅっとTシャツを握りしめる。
“もしもし、矢口です”
「……矢口さん?」
“うん。電話、くれたっしょ?”
さっき実験が終わったんだ、と、屈託のない無邪気な声が聞こえた。
「実験?」
“うん。今、講義でやってて。普段だったら12時半くらいってもう昼食べてるくらいなんだけど、ウチのグループの実験が終わんなくて、講義、伸びちゃった”
「そう。うまくいった?」
“うん、なんとかねぇ”
携帯の向こうから聞こえる笑い声に、ほっとして肩の力が抜ける。
 どうしてこんなに緊張してたんだろう、そう思って、自分で少し笑いたくなった。
111 名前: 投稿日:2003年02月23日(日)22時31分20秒
“あのさぁ、下の名前、「ユウコ」?「ヒロコ」? どっち?”
「ユウコ」
“「ナカザワ・ユウコ」?”
「そう」


 彼女が、私のことを「裕ちゃん」と呼ぶようになって。
 私が、彼女のことを「矢口」と呼ぶようになるまで、そんなに時間はかからなかった。

 だいぶん、症状は回復していた。
 前より、彼のことを思いだして、深く落ち込むことはなくなっていた。
112 名前: 投稿日:2003年02月23日(日)22時34分06秒
短いけど、更新しました。
113 名前: 投稿日:2003年02月23日(日)22時36分43秒
>107さん、108さん
ありがとうございます。嬉しいです。
マイペースで申し訳ないんですけど、これからもよろしくお願いします。
114 名前: 投稿日:2003年02月23日(日)22時37分19秒
今度の更新は週末を予定しています。
それではまた。
115 名前:読む者 投稿日:2003年02月24日(月)08時12分12秒
イイですね〜。
「裕ちゃん」「矢口」♪
ご自分のペースで頑張ってください、楽しみに待ってます。
116 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時52分42秒
“今日、空いてる?”
「は?」
朝、家を出る前にかかってきた電話は、素直に私をきょとんとさせた。
 外からかけているのか、ザワザワと周りからの音が零れている。
“午後1時くらいから。空いてる?”
「……あ、ええ。空いてるけれど」
“よかった。水族館、行かない?”
「え?」
水族館?
“水族館、苦手?”
「そんなことはないけど」
苦手でも嫌いでもなかった。ただ、水族館に行った記憶なんて、遠い過去のものだった。
 たしか、水族館に最後に行ったのは、高校の修学旅行だ。
“じゃ、決まり。1時に渋谷のモアイ像前ね”
「モアイ像?」
“知んないの? んじゃ、ハチ公前。ハチ公はわかるよね?”
「ええ」
“んじゃ、ハチ公前。銅像の側にいてね。矢口、ちっこいから、人波に紛れちゃうからさ”
「そうね」
“少しは否定しろよ!”
そう言って笑った彼女の声は、心地よかった。
 電話を切ってから、渋谷にモアイ像なんてあるのね、と、小さく呟いた。
117 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時53分18秒
 病院の待合室で、小さく溜息をつく。
 雑音混じりの穏やかなアナウンスが、エントラスホールにまで響いていた。
 ちらりと時計をみる。
 待ち合わせの時間には余裕で間に合いそうだ。
「中澤さん」
看護婦さんに声をかけられて、立ち上がる。そのとき、私は自分が微笑んでいたことに気付いた。

 思いかえしてみると、私に対して彼女は強引な方だった。
 あれから何度かショッピングをしたり食事をしたりしたが、行く場所も昼食をとる店のセレクトも、彼女は私からの意見を求めようとしなかった。
 意見を聞こうとしないわけじゃない。ただ、求めようとしないだけだ。 
 「ここでいい?」、そう言って、私の様子を伺った。
 人の表情に敏感なのか、彼女は私の自分では言葉にしきれていない気持ちをうまくくみ取って、別の店を提案したり強引に引っ張っていったりした。
 そのことは私にとって、なによりの救いだった。

 なにがいい?
 なにがしたい?

 その言葉に応える意志を、私はまだ持てずにいる。
 そして、その事実を彼女は片時の間、忘れさせてくれた。
118 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時54分29秒
 まだ慣れない街の人混みを掻き分けて待ち合わせ場所についたとき、彼女はもうそこにいた。
 私に気付いて、軽く手を挙げる。
「早かったね」
「そう?」
「まだ5分前だよ」
そう言って彼女は笑った。

 バイト先で貰ったんだ、そう言って、彼女が見せたチケットは八景島シーパラダイスの文字が印刷されていた。
「……八景島?」
「知らないの?」
「知ってるわよ。そうじゃなくて。これから横浜に行くつもり?」
彼女は悪びれた様子も見せずに頷いた。
119 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時55分07秒
「1時間もかかんないよ」
「……てっきり池袋かと」
「池袋だったら、最初っから池袋待ち合わせにするって。行こ」
そう言って、くるっと駅の方へ方向転換する。そして彼女は首だけで私の方に振り返った。
「早く行こ、裕ちゃん」
ドキリとした。
 それは、心臓が跳ね上がるというより、ぎゅっと掴まれた感覚だった。
 頭の奥の方で、とくんとくんと鼓動の速まる音がする。
 言葉を発しようと開いた口が渇いて、一度唾を飲み込む。そして、矢口の後頭部に、私はようやく声をかけた。
「……待ってよ、矢口」
ふっと彼女が私を見上げた。
「早く行かないと、時間、なくなっちゃうよ」
手が伸ばされて、彼女が私の腕を掴む。
 私は彼女の歩幅に合わせて、隣を歩いた。
「開園時間に合わせて行きたかったんだけどさぁ、矢口、今日の1限と2限、どーしてもサボれない講義でさぁ。やっぱ、単位落とすとマズイっしょ」
聞こえていないはずはなかった。
 彼女は、なんでもないことのように私の名前を呼び、私が平静を装いながら何とか口にした彼女の名前を、なんでもないことのように返事をした。
120 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時55分43秒
「……ねぇ」
「ん?」
ぴた、と足を止めて、彼女が振り返る。
「モアイ像って、どこにあるの?」
きょとんとした目が、しばらくしてから、おかしそうに細められた。
「見に行こっか」
「近いの?」
「すぐそこだよ」
そう言って、彼女はまた歩き始めた。
 人の波に逆らって、歩いていく。
 捕まれたままの腕を見ながら、この手を離されたら私は何処に行くんだろう、ぼんやりとそう思った。
121 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時56分22秒
更新しました。
予告より、1日遅れてしまいましたが。
122 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時58分47秒
 >115 読む者さん
>ご自分のペースで頑張ってください、楽しみに待ってます。
そういっていただけると有り難いです。

そろそろ矢口さんと中澤さんの話っぽくなってきました?(笑)
123 名前: 投稿日:2003年03月02日(日)10時59分44秒
今度の更新は、週末を予定しています。
そろそろ矢口の話もかけるかな、と思ってます。
124 名前:名無しさん 投稿日:2003年03月02日(日)15時28分22秒
中澤さんモアイ像知ら無いんですね(笑)
なんか標準語の中澤さんが不思議な感じがします。
来週末たのしみです。
125 名前:読む者 投稿日:2003年03月04日(火)07時04分17秒
段々と良い雰囲気になってきて。
どんどんと期待も高まってきますね(^^)
126 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)00時49分37秒
 平日の水族館は、すいていた。
私達以外の唯一の客ではないかと思われる、遠足で来ていた小学生が思う存分騒いでいる中を、ゆっくりとしたペースで歩いていった。
 小学生達の喧噪から逃げて、大きな水槽の前で立ち止まる。
 薄暗い照明の中で、ぼんやりと水槽を見つめていると、海の中にいるような錯覚に陥った。
 隣にいる矢口の方を向くと、矢口もぼんやりと水槽を見つめていた。
 私の視線に気付いて、矢口が「なに?」と言いたげに顔を向けた。
「疲れた?」
私は首を振った。
 ガラスの向こうで、音も立てずにすぅっと魚が横切っていく。
「おなか、すいてきちゃったな」
独り言みたいにそう口にして、時間を確認するために矢口が携帯をポケットから取り出した。
 淡いバックライトが矢口の手の中で眩しく光る。
「何時?」
「もうすぐ3時半」
思ったより、時間はたっていた。
127 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)00時50分27秒
「圏外だ」
携帯をしまうとき、また矢口は独り言みたいに、ぽつりと呟いた。
「誰か電話かけてくる予定でもあるの?」
それは、深い意味もなく口にした言葉だった。けれど、矢口の表情が、すっと固まったのを私は目にした。
「……」
無理矢理作った苦笑いを見せたかと思うと、矢口は視線を逸らせるように俯いてから、水槽の方に視線を向けて顔を上げた。
「……なっち」
その名前を、矢口は大切そうに口にした。
「なっちからの電話待ってるんだ。約束してるわけじゃないんだけど」
「……それって、矢口の好きな人?」
視線はまっすぐに水槽に向けたまま、矢口はこくんと頷いた。
「すごくかわいいんだよ」
そう言って、愛しそうに目を細めた矢口の目には、魚ではなく、今は目の前にはいない彼女を見ているような気がした。
128 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)00時51分03秒
 トントンと、スニーカーで床を叩く。鈍い音が私の身体の中に響いた。
 言おうか言うまいか迷っているように、2、3度口を開いて閉じる仕草を繰り返して、矢口はようやく話し出した。
「高3の冬休みに親にバレちゃってさ。……会わせて貰えなくなっちゃった」
矢口の横顔に、怒りや苛立ちは見えなかった。
「北海道の大学に行ったはずなんだけど、連絡先とか、なんにも教えて貰えなくて。携帯も繋がらなくて」
ただ、悲しい程の切なさだけが伝わってくる。
「矢口、北海道に行こうかとも思ったんだけど、もしかしたら、なっちの行った大学、北海道じゃないかもしんないし、……矢口まで連絡先変わっちゃったら、なっちからの連絡も受け取れなくなっちゃうからさ……」
ガラスに映った矢口の表情が、私の胸を締め付けた。
 その痛みから目を逸らすように、私は矢口から目を逸らした。
129 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)00時51分45秒
 ガラスに映った自分と目が合う。
 そこに映っているのが、まるで切り取られ、引き剥がされたもう一人の自分のような気がした。
 その向こうを、何匹もの魚が横切っていく。
 私達の存在なんか気にも留めずに、私には到底わからない理由を抱えて、ただ綺麗なラインを描いて泳いでいく。
「……気持ち悪い?」
「え?」
ハッとして矢口の方を向くと、私を見上げる視線とぶつかった。
 水槽に酔ったような顔でもしていたんだろうかと思ってから、矢口の言葉の意味に気付いた。
 小さく口元で微笑んでから、首を振る。
 どちらの意味でも答えは同じだった。気分も悪くなかったし、矢口の好きな相手が同性だろうとかまいはしなかった。
 けれど、矢口は、私が見せた一瞬の間をどう思ったのか、切なそうに微笑んだだけだった。
130 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)00時52分54秒
更新しました。相変わらず短いですけど。
131 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)00時59分43秒
>124 名無しさん
>中澤さんモアイ像知ら無いんですね(笑)
専門バカです(苦笑)。
>なんか標準語の中澤さんが不思議な感じがします。
自分の中の設定でも京都福知山出身なんで、そのうち関西弁がでてくるかもしんないです。

>125 読む者さん
>段々と良い雰囲気になってきて。
>どんどんと期待も高まってきますね(^^)
けっこう痛い方向にすすみそうな気もするんですけど、どうでしょうか?(苦笑)
132 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)01時01分43秒
読んでくださってるみなさん、ありがとうございます。

次回更新は、週末の予定です。
矢口さんの好きな人の名前もでてきたし、そろそろ矢口さんの話も出来てくるかと。
それでは今夜はこのへんで。
133 名前:読む者 投稿日:2003年03月10日(月)06時07分06秒
幾人か想像してた中で、私的に最上の組み合わせです(^^)
痛いだけでなければ痛いのも好きです。
影さんでしたら"だけ"にはならないと思われますので歓迎♪
更新お疲れさまでした。
134 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月10日(月)20時24分04秒
矢口さんの好きな人・・・・なっちかぁ〜。
やっと好きな人がわかった・・・気になって気になって(笑)
週末楽しみにしてます!!
135 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)21時55分31秒
 水族館を出た頃には、もういつもの矢口に戻っていた。
「遊園地のほう行こうよ。ジェットコースター乗ろ?」
「……それはちょっと」
「なに? そーいうのダメ?」
私が素直に頷くと、矢口はおかしそうに笑った。
「あー、でもダメそうな顔してる。観覧車とかは?」
「それも。高所恐怖症だから」
「高所恐怖症? んじゃお化け屋敷とかは?」
「……それもあんまり……」
きゃはは、と、高い声で矢口は笑った。
「矢口もお化け屋敷は苦手なんだけどさ、それじゃ裕ちゃん、遊園地ダメなんだ」
「あんまり好きじゃないわ」
納得したように、矢口が2回小さく頷いて、また笑った。
136 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)21時56分16秒
「ディズニーランドは? 仕事場から割と近かったんじゃないの?」
「仕事忙しかったし、まだ行ったことない」
「嘘ッ」
「だって行く理由もないし……」
なにがツボに入ったのか、矢口がお腹を抱えて笑い出す。
 ひとしきり笑って満足したのか、矢口は、涙目になった目尻を擦って、ごめんごめんと私の肩をポンポンと2回叩いた。
「じゃあ今度一緒に行こうよ。誘われた、っていうのは、行く理由になるっしょ?」
「……ん」

 『今度、一緒に行こう』
その言葉は、私達の間で何度も交わされた。
 けれど、その時に、いつ、という約束をすることはまずなかった。
 不意にかけた電話や、病院で偶然出くわしたときが、約束を交わす場所だった。
137 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)21時57分13秒
えーと。中途半端に更新です。
138 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)22時02分46秒
   >133 読む者さん
>幾人か想像してた中で、私的に最上の組み合わせです(^^)
そう言っていただけるとホッとします。わりとありきたりというか、パターンですけど(苦笑)

>痛いだけでなければ痛いのも好きです。
>影さんでしたら"だけ"にはならないと思われますので歓迎♪
ありがとうございます! もう、むちゃくちゃ嬉しい誉め言葉ですね。
暗闇の中で、一筋の光が見えてるような話を書きたい、ってけっこう思ってるんで。
最後まで頑張ります。


   >134 名無し読者さん
>矢口さんの好きな人・・・
はい、名前、書かないように(苦笑)。
感想は嬉しいんですけど、3スレつけて隠してる意味なくなっちゃうんで。
匂わせる感じはむしろ歓迎です(笑)。

>週末楽しみにしてます!!
ありがとうございます。ずっと楽しみにしていただけるような話、書いていきたいです。
139 名前: 投稿日:2003年03月10日(月)22時04分31秒
そろそろ、裕ちゃんにもしっかりしてもらわなきゃ話が進まないなー、と思いつつ、
ずっと鬱病かかえたままでいさせたい気もしてます(苦笑)。
それでは、週末に。
140 名前:読む者 投稿日:2003年03月11日(火)07時28分23秒
来てみるものですね(^^)嬉し。
仰るとおり、そこはかとなく漂い始めている切ない匂い……良いです♪

>暗闇の中で、一筋の光が見えてるような話を書きたい、ってけっこう思ってるんで。
少しは分かるような気がします。
暗い闇の部分が濃いからこそ、小さな光でもとても大切なんですね。

>名前
危ない危ない……(汗) tsunagiとは書きそうになってました。
141 名前: 投稿日:2003年03月15日(土)23時57分05秒
 午後に、携帯が鳴った。
 ちょうど、食後の薬を飲み終わった時だった。

 矢口かと思い、携帯を手にする。けれど、そこに映っていたディスプレイが告げた名は、違う人物だった。
 反射的に身体が強ばった。
「……」
着信音は続いた。
 緊張した自分を落ち着かせながら、私は、ボタンを押した。
 きゅっと唇を噛んで、携帯を耳に当てる。
「……もしもし」
“あ、桃花さん?”
飛び込んできた明るい声にふっと身体の力が抜けた。
「……なんだ、充代か」
“なんだ、は、ないでしょお?”
不満そうな声が続く。
 充代は、五十嵐クリニックの後輩だった。
「院長かと思ってドキドキしたじゃない」
“すみませんねぇ”
薬を飲むのに使ったコップを少し持て余して、キッチンへ移動する。肩と耳で携帯を挟んで、コップを水で濯いだ。
「で? なに?」
“調子はどーです?”
「……んー、そうね。わりといい傾向かな」
“たまには連絡してくださいよ”
「……うん、そうね」
タオルで手を拭きながら、曖昧に頷いた。
142 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)00時02分50秒
 なんとなく、胸の中でしっくりこない何かがあった。
 なんだろう、と思っているうちに、充代が“ちょっと待っててください”と、言って、少し受話器から離れた。
“ちょっと代わりますんで”
「え?」
少しして戻ってきた充代の開口一番の言葉を私が理解するまえに、急にまた声が遠くなった。空気の擦れる音が携帯のスピーカーが伝える。
「……ちょっ……」
“山咲?”
その声は、私を黙らせるに、充分だった。
“山咲”
もう一度名を呼ばれて、ようやく返事が出来た。
「……はい。お久しぶりです」
“そうだな”
間違いなく、院長の声だった。
 後でもう一度代わってくださいよ、と充代の声が後ろから小さく届いた。院長はそれを無視したのか、ジェスチャーで答えたのか、とりあえず私に向かって言葉を続けた。
“ちょっと話したいことがあるんだが、来れるか?”
「え? 医院のほうにですか?」
“ああ。電話でもいいんだがな、出来たら……”
「はい」
私はタオルをきゅっと握りしめた。
「行きます」
自然にそう口にしていた。
143 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)00時03分27秒
 すとん、と、自分の中で、何かが落ち着いたのがわかった。
 しばらく忘れていた感覚が、いつのまにか自分の中に戻っていたのに、私は気付いた。

 携帯を切ったあと、長い溜息をついて、壁にもたれる。
 軽く天井を見上げた。
「……よし」
勢いつけて、壁から離れると、着替えるためにキッチンを出た。

 『仕事』をしたい。
 そう思っている私がそこにいた。
144 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)00時04分06秒
更新しました。
145 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)00時05分54秒
   >140 読む者さん
>来てみるものですね(^^)嬉し。
>仰るとおり、そこはかとなく漂い始めている切ない匂い……良いです♪

ありがとうございます。レスついててちょっとびっくりしました。嬉しいです。
最後までこの雰囲気、保てたらいいなぁと思ってます。
146 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)00時06分57秒
次は、もしかしたら明日(もう今日?)に。
それか来週末です。
それでは。
147 名前:名無しさん 投稿日:2003年03月16日(日)01時41分13秒
あ、主人公の名前が…。
148 名前: 投稿日:2003年03月17日(月)22時03分39秒
……あ、主人公の名前が……(滝汗)。
(言われてから気付きました。147名無しさん、ありがとうございます)

「山咲→中澤」、「桃花→裕子」に変換して読んで下さい。
次回からは気を付けます。ホント、すみません。
149 名前:読む者 投稿日:2003年03月21日(金)08時31分14秒
あ、本当だ……役名になっちゃたんですね<名前
読みながら頭の中で映像を浮かべてるんで、意外と気にならなかったりする自分はどうなんだろう(汗)
矢口さん絡みのシーンだったら違和感出たかもしれないですね、っと思いましたが。
そんなシーンだったら互いに呼びあうから間違えないですね(^^;)

ともかく次回をお待ちしてます。 頑張ってください(^^)
150 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)10時12分33秒
 この駅で降りたのは、久しぶりだった。
 向かっている途中はあまり実感がなかった。まるで、昨日も、その前も、ずっと通い続けていたかのような錯覚に陥るほどだった。
 最後にこの駅を使ってから、1ヶ月半が過ぎていた。
 それでも、街は変わらない。
 そのことが、私を少しほっとさせ、同時に不安にもさせた。
 街が私を待っていてくれるような気がして、そして、私はいつまでも変われないんだと言われているような気もしたのだ。
151 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)10時13分28秒
 通い慣れた道を歩いて、クリニックに辿り着く。
 ドアに手を伸ばす。キィ、と、金属質の音が小さく響いた。
 おそるおそる顔を覗かせると、ぱっと目が合った気がした。
「裕子さん!」
気のせいじゃなかった。
 覚悟を決めて、ドアを大きく開ける。
「……お久しぶり」
私がそう言うと、充代が嬉しそうに笑った。
 充代の声を聞きつけたのか、診療室から院長が顔を覗かせた。
「おぅ、来たか。中澤」
「……はい」
笑ってみせようとしたけれど、なんとなく照れくさくて苦笑いする。
「ちょっと待っててくれ」
「はい」
そう答えて頷くと、院長は診察室に消えた。
「今一人、クランケが来てはるんですよ」
そう言って後ろから声をかけてきた充代の手には、コーヒーカップが2つ握られていた。
152 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)11時30分16秒
 待合室のソファーに並んで腰掛ける。
 そして、来客用のコップを受け取った。
「元気、してはりました?」
「……まぁね。そっちは?」
「相変わらずですわ」
もう診療時間が終了していることもあって、待合室には誰の姿もなかった。院長も最後の診察を終えたら、すぐ片付けに入るだろう。
「午前はわりと暇だったんですけどね。昨日はもっと忙しかったんですよ。もー、昼ゴハン食べられたのが5時とかで。午前中に診た人がなんか長引いてしもて、予約も入ってて。とりあえず昨日の診察で最後って人もおって。ほら、覚えてはります? 私がが受け持ってたあの16歳の……」
少し眉を潜めて苦笑いしながら話す充代の声を、少しぼんやりしながら聞いていた。
 ……ちょっとした、羨ましさを感じながら。
153 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)11時31分04秒
「……ねぇ」
「はい?」
「充代は、なんでこの仕事してるの?」
充代はきょとんとして、それから少し考えるように真面目な顔をした。
 無表情ではなく、それでいて、感情を表にださない、おだやかな表情。
 ちょっとした沈黙の後、充代がふっと笑った。
「そんなん、わかりませんよ」
まっすぐに私の目を見る視線は、いつもと同じ穏やかを保っていたが、私はその視線に囚われた。
「強いていうなら、この仕事好きなんでしょうけど。嫌なこともありますし、もっと好きなこともありますしね」
「……」
軽く唇を噛んで、小さく頷く。
「……そうね」
ゆっくりと息を吐いて、顔を少し上げた。
「……私、治ったみたい」
「え?」
充代の方を向いて、微笑んでみせる。
 それは偽物の微笑みじゃなかった。自然に頬の筋肉が動いて、笑顔を作っていた。
154 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)11時35分12秒
「……裕子さ……」
「平家ぇ」
充代の声に被さるように、院長の声が響いた。
「おっと。終わったか」
充代は立ち上ると、嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ裕子さん、また」
「ええ」
頷いて、充代の後ろ姿を見送る。
 今日、電話を貰ったときに感じた「仕事をしたい」という想いが、自分の中で形付けられていくのがわかった。
 このクリニックで、もう一度、働きたい。
 欲求や願いと言った強い色を持った想いではなかったけれど、希望という淡い色をした想いが、輪郭を見せ、色づいていくのがわかる。


 カウンターの中で院長から受け取った処方箋を持って、その内容を確認している充代の横顔が見えた。
 その横顔には見覚えがある。
 いつも仕事に真面目で、ほんわかした雰囲気の下からふっと張りつめた空気が顔を覗かせる。
 カウンターの隅から覗く充代愛用のマグカップに描かれた小さな猫が私を見つめているような気がした。
 充代が入れてくれたコーヒーは、私が入れるものより、少し苦かった。
155 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時19分14秒
 少しして、診察室から女性が出てきた。見たことのない顔だった。
 診察室の前で軽く頭を下げてから、扉を閉める。
 私の前を通り過ぎて、受付に「すみません」と、声をかけていた。

 診療室から、今度は院長が出てきた。
 ペタペタとスリッパを鳴らしながら歩いてきて、私の斜め前で止まった。
「屋上でも……、ああ、もうこの時間だと寒いな。診察室のほうでいいか?」
院長の言葉に、私は小さく頷いた。
 会計をすました患者が、帰り際に院長に、また頭を下げて、クリニックを出ていった。
「平家ぇ。俺にもコーヒー煎れてくれるか?」
ちょぉ待っててくださいねぇ、と、受付の中から声が響いた。
156 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時19分49秒
「ちょっと聞きたいことがあるんだよ」
屋上で、不躾なほど突然に、院長は切り出してきた。
「あの、前に一度お前が診た、── 矢口、って子についてなんだが」
「……矢口?」
その名前に、私は眉を潜めた。
 どうしてここで“矢口”の名前が出てくるのかわからなかった。
 たしかに、矢口は一度ここで診察を受けているから、名前が記録されてはいるが、今ここに通っているとは思えなかった。
「お前が行ってる病院の担当医とな、こないだ飲んだんだけど、そんときにちょっと小耳に挟んでな」
「……何をですか?」
院長が、私の様子を伺っているのがわかる。私はわざとあからさまに、怪訝そうな顔をした。
「いやな、あの子とお前が待合室で話してるのを見たって」
「……それが、なにか?」
157 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時20分52秒
「それが悪いってわけじゃない。そんなことを言い出すつもりなんかないんだ」
とんとん、と煙草のケースを叩いて、一本取り出す。
「煙草、いいか?」
私が頷くと、院長は窓を換気の為に5cmほど開けた。
「あの子があそこの病院に通ってるのは知ってるんだろ?」
「知ってます」
「ああ、うん。それでな、今、あの子の母親が、ウチに通ってんだ」
「……え?」
“母親”と言う言葉に、今度は私は素直に驚いた。
「ほら、さっきすれ違った人。あの人だよ」
「……あの人が?」
……あの人が、矢口のお母さん。
「……どうして」
「あの子のことが原因でな、まぁ、軽いカウンセリングみたいなもんだ」
「それなら、同じ担当医のほうが……」
「俺もそうは思うんだがな。同じ病院に通うと、あの子にバレるかもしれないからってことで、ウチに来てるんだよ」
くわえた煙草に火を付ける。開いた窓から入ってくるすきま風が、少し冷たい。
「……どっちかというとな、俺としては、お前にあの子のカウンセリングについて貰いたい気分なんだ」
158 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時46分06秒
 ── カウンセリング。

 その言葉が、私の心の中に、深く落ちる。
 院長は、矢口を「病気」だと、思っているということ。

「……そんなにおかしいことなんですか?」
「ん?」
「女の子が女の子を好きになるって、そんなにおかしいことなんですか?」
大きく見開かれた院長の目が、私を真っ直ぐに見た。
「……私は……」
そのあとの言葉を、私は上手く繋げなかった。薄く開いた唇をどうすることも出来ずに、視線から逃れるように、ただ俯いた。
 その視線は、矢口と初めて会った時、── 矢口が、私の患者として目の前に現れたときに私が見せた表情を再現しているかのような気がしたのだ。
 ふぅ、と、院長の煙草を吐く長い息が聞こえた。
「あの子の好きだっていう相手……。安倍なつみさんっていうらしいんだが」
その名前に身体がピクリと反応する。

 “アベナツミ”。
 ──「なっち」と、矢口が呼んでいた子。

 なつみ、で、なっち、なのか、と、心の中で呟く。
 可愛くて、北海道の大学に行くと言っていて、でも連絡が取れなくて。……矢口が待ち続ける大好きな、女の子。
159 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時49分19秒
「もういないんだよ」
「……え?」
ドクン、と心臓が鳴る。
「心中しようとしたらしいんだ」
言葉が、出なかった。息すら吐けなかった。
「アパートの一室で睡眠薬を飲んで心中しようとしたが、なつみさんだけが死んだ、そういうハナシだ」
ドクンドクンと心臓の音だけが高鳴っていって、ぎゅっと胸を締め付ける。
「……他のヤツがどう思うかはわからん。でも、俺は誰が誰を好きになってもかまわんと思うよ。こんだけ人が溢れてりゃ、そーいうヤツだっているさ」
160 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時49分51秒
「でもな、惚れた腫れたで一緒に死ぬことを選ぶなんていうのは、正常なことじゃねぇんだ」
まるで小さな苛立ちを押し込むかのように、院長は乱暴に携帯灰皿に煙草を押しつけた。
「人ってのは、どんなことがあったって、生きてナンボなんだよ」
薄く残っていた白い煙が、揺らめいて消えていった。
161 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時50分50秒
「4月頃には戻ってこれそうか?」
「え?」
「おまえの様態もきいてるよ。まぁ、今日呼んだのは、ちゃんと一度会って様子をみたかったんだ」
そう言って院長は、まっすぐ私の目を見て、満足そうに何度か頷いた。
「おまえの方でも頭ん中、整理しといてくれ。また、近いうちに連絡する」
「……はい」
院長は、目を細めて口元で笑った。
162 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時52分05秒
更新しました。
以外とクリニックの面子は書きやすいことに気付きました。
院長、ありがとう(苦笑)。
163 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時55分54秒
  149 読む者さんへ
頭の中で映像を浮かべてながら書いてるんで、院長の顔で「中澤」の方が違和感あったり。
矢口さんだったら、確かに間違えなかったかもしれないです(苦笑)。

今度は、充代さんが「裕子さん」って呼ぶのが違和感ありまくりです。
「裕子さん」より「裕ちゃん」ですよね、やっぱ。
でも、「桃花」だとやっぱ「とーかさん」なんですよね、イメージ的に。
164 名前: 投稿日:2003年03月22日(土)13時58分45秒
次回の更新は、すみませんが、かなり先になると思います。ちょっと他にやりたいことがあるので。
必ず戻ってきて完結させるので、のんびりお待ちいただけると嬉しいです。

それでは。
165 名前:読んでる人@ヤグヲタ 投稿日:2003年03月24日(月)10時10分39秒
ようやく落ち着いて小説を読める状態になり、
久しぶりにココを見たら結構話が進んでいますね。

しかし矢口は、やっぱり病気と言っていい状態だったんですね。
裕ちゃんがどうやって矢口の心を開放するのか楽しみです。
では、マータリ更新をお待ちしています♪
166 名前:読む者 投稿日:2003年03月26日(水)07時16分37秒
読む側がどうかは、人それぞれかもしれないですけど、
書く側はやっぱりそうなんでしょうね<頭の中で映像

>でも、「桃花」だとやっぱ「とーかさん」なんですよね、イメージ的に。
同意です。 「桃ちゃん」だったらちょっとイヤですねぇ(^^;)

いつまでもお待ちしてます。
167 名前:読む者 投稿日:2003年04月24日(木)06時27分04秒
深い意味はなく、急かすわけでは決してなく、ただ待っているという証に……。
168 名前:名無しさん 投稿日:2003年04月25日(金)21時31分39秒
同じく。CUBE(改)も読ませてもらってました。
そういえばCUBE2が公開ですね...
http://www.cube2.jp/
...って、東京だけ??(見れないYO...)
169 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月04日(日)23時22分41秒
保全させていただきます。
170 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時04分47秒
 病院を出ようとしたとき、充代が声をかけてきた。
「裕子さん」
受付から顔を覗かせて。
「話、終わったんですか?」
「ええ」
「……」
言葉を探すように、小さく充代の口が音を立てずに動く。
 私は微笑み混じりに息をついた。そして、充代が訊きたがっている答えを口にする。
「4月には戻ってくるから、よろしく」
充代はほっとした顔をみせると、嬉しそうに笑ってくれた。
「今度、また一緒に飲みにいきません?」
「そうね」
「いつもの店で」
「うん」
小さく手を挙げて、ドアを開けた。
「じゃ、また」
「……あ」
充代の呟きと表情が、私を引き留める。
「……こんなときに言うのもなんですけど」
そう前置きして、充代が私に告げたのは、雅彦が先月結婚したという事実だった。
171 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時05分55秒
 駅前で、少し人波をよけて携帯を手にした。
 小さな液晶に写った時刻は、4時37分。
「……」
少しためらって、携帯を襟元に抱え込む。
「今から、なんて、……おかしいか」
ふぅ、と苦笑いで溜息をついた。
 ダメもとだ、と思ってかけた電話は、2回のコール音ですぐに繋がった。
“もしもしぃ”
高い声の後ろから、ざわざわとした騒音が聞こえる。
「外? なにしてるの?」
“ん? 帰り道。電車のホーム”
「ディズニーランド、行かない?」
“へ?”
驚いてひっくり返ったような声に、思わず笑ってしまう。
172 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時06分31秒
「今から」
“今? 今から?”
「ダメ?」
“や、……ダメ、じゃないけど”
ちょっとした沈黙。
 そして、続けられたのは、吹っ切ったような明るい声。
“じゃあ、6時から入ろ?”
「6時?」
“うん。午後6時からのパスポートってあるんだよ。そっちのほうが安いから”
「ふぅん」
“じゃあ、東京駅、京葉線乗り場んとこで。いい?”
「ん。わかった」
“……っと、電車来た。切るね”
「ん」
プツッと電話が切れる。
 待ち合わせ時間決めるの忘れてたな、と思ったけれど、すぐに、まぁいいか、と思った。
 待ってても、きっとそんなたいした時間じゃない。京葉線はあまり使ったことがないけれど、ここから東京駅なら5分もあれば着くから、そんなに待たせもしないだろう。
 携帯を手に持ったまま、私はスイカで改札口を通った。
173 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時07分19秒
 京葉線の改札口で、流れていく人波を見送りながら、ぼんやり考えた。
 充代の言葉を聞いたとき、私は自分でも不思議なくらい驚かなかった。
 ショックを受けていなかったわけじゃなかったと思う。
 そこにあったのは、切ないとか悲しいというよりも、寂しいという感情。
 そして、私は心の片隅で、安堵していた。
 もう終わったんだ、と思えた。

 きっと、私はもう、人波の中で、彼のことを探したりしないだろう。

 矢口が着てきた赤いシャツは、スーツの波の中で一際目立った。
 小さな身体が、きょろきょろと私を捜す。
 すぐに私を見つけ、矢口はふわっと笑顔を見せた。
「もう、いきなりびっくりしたよ」
駆け寄ってきた、第一声。
「お待たせ。はやく行こ!」
子供ような笑顔に、つられて笑う。
 伸ばされた手を、私は素直に受け取った。
174 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時14分00秒
「なんかあった?」
矢口がそう呟いたのは、閉園間際だった。
 「ジャングルクルーズは夜の方が面白いんだよ」と言った矢口に連れられて、たった2人だけで乗った、その後だった。
 人気のない茂みに隠れた一画で、ぽつんと立てられた街灯だけが、互いの姿を照らす。
 キャラメル味のポップコーンを口の中に放り込んで、横目で私の様子を伺っていた。
「……クリニックに、行って来た」
矢口の顔が、ほんの少し、私の方に向いた。
 小さく微笑んでみせて、ひょい、と、矢口の持っていた甘いポップコーンをひとつ摘む。
「戻るの、もう一度。先生に、戻るの」
口にしたことが、私の中で、実感として形づくのがわかった。それは、心地よい感覚だった。
「……よかったじゃん」
そう言って矢口は、ポップコーンの入ったカップを乾杯するみたいに小さく挙げた。
175 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時14分47秒
 出口に向かう階段を跳ねるようにトントンと上っていく。
「彼氏とも、戻れるといいね」
「……」
階段を上がろうとした私の足が反射的に止まった。それに気付いて、矢口の足も止まる。
「……あ。ごめん。よけいなこと言った」
「ううん」
小さく、首を振る。
「結婚したんだって」
「……え?」
「自分でも、不思議だったけど、そんなにショックじゃなかったの」
困ったような真剣な視線が、同じ高さで揺れていた。
 階段ひとつぶんの高さが、初めて私と矢口を同じ目の高さにしていた。
「もう、平気」
「……裕ちゃん」
見下ろす視点ではあまり思わないけれど、こうやってみると矢口がちゃんと大人に見える。そんなことに、思わず顔がほころぶ。
「ありがと」
きゅっと両手を握りしめる。
「……矢口がいてくれて、よかった」

 ……この街で、私は独りじゃなかった。
176 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時15分36秒
「……裕ちゃん」
きゅっと手が握り返される。
 目が逸らせなかった。
 引き寄せられるままに顔を傾けて、目を閉じていた。
 矢口の顔が近づいてくるのがわかって、それだけで、まるで初めてキスするみたいに心臓が高鳴った。
 乾いた唇に唇が触れる。
 その柔らかな感触は一瞬のことで、私の中に物足りなさと寂しさを残した。
 ゆっくり目を開けると、私を真っ直ぐに見ている矢口がいた。
「……どうしよう」
「え?」
戸惑ったように、矢口が目を伏せる。
「……矢口、なっちのこと、すごく好きなのに」
「……」
「……裏切っちゃった気ぃする」
自嘲気味に、矢口の口元が上がるのが見えた。
「……矢口」
俯いた矢口の顎に手を添えて、上を向かせた。
 今にも泣き出しそうな大きな目の中に、私がいた。
「……私が悪者になる」
顔を傾けて、唇を重ねる。
 重ねるだけではなく、味わうキスを。
177 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時30分16秒
 さっきまで口の中にいれていたポップコーンのキャラメルの味がした。
 唇を離した後、背中を丸めて矢口の肩に顔を埋めた。
 何も言わず、小さな手が私の頭を抱え込む。
 矢口は、私を包み込んでしまうような身体を持ってはいなかったけれど、その腕は優しく、暖かかった。
 その温かさが、私の心を切なく締め付ける。
 気が付くと私は、泣いていた。
「……泣き虫だね」
矢口の苦笑混じりの呟きに、小さく首を振る。
「……裕ちゃんは、なんにも悪くないよ」
そう言って、矢口の苦笑する声が聞こえた。

 違うの、と言えなかった。
 悪者になることなんて、どうでもよかった。
 私を切なくさせたのは、キスの後に見せた、矢口の表情だった。
 矢口の「なっち」はもういないんだと、私は言えなかった。
 
 
 私は新しい恋をしていた。
 叶うことのない、恋だった。
178 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時32分06秒
久しぶりの更新です。
気が付けば、前回の更新から約二ヶ月……(汗)。
179 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時39分19秒
   165 名前 : 読んでる人@ヤグヲタさん
>久しぶりにココを見たら結構話が進んでいますね。
今回、けっこう、話が展開してるのではないかと自分では思ってます。

裕ちゃんがどうやって矢口の心を開放するのか……というか、出来るのかちょっと謎ですが(苦笑)。

   166 名前 : 読む者さん
お待ちいただいて、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
180 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時39分57秒
   168 名前 : 名無しさん
>CUBE(改)も読ませてもらってました。
ありがとうございます。嬉しいです。

>そういえばCUBE2が公開ですね...
観に行こう!と思って、結局行けずじまいです……。
CUBEは2より、1の方が面白いって意見の方が私の周りでは多いんですが……。
巨大CUBE、観てみたかったです。でもって、どうせなら、実物大に入ってみたいです(笑)。


   169 名前 : 名無し読者さん
>保全させていただきます。
保全、ありがとうございます。時々覗きにきて、スレが残っていることにほっとしてました。
こうして続きを書けるのも、スレが残っているおかげです。
181 名前: 投稿日:2003年05月16日(金)22時40分39秒
次回は、来週末あたりの更新を予定しています。
完結まで頑張りたいのでよろしくおねがいします。
182 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月17日(土)01時26分52秒
更新、待ってました!
183 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)19時15分04秒
更新待ってました。
やっぱり切ないですね・・・矢口さんも安倍さんのことを知ったらどうなるか。
楽しみに待ってます。
184 名前:読む者 投稿日:2003年05月18日(日)08時12分14秒
真実を知った時に彼女はどうなってしまうのでしょう。
真実を知った時の彼女にどうしてあげられるのでしょう。
……それとも……

変わらず良いです、好きだなぁ。
以前にも増して、楽しみにお待ちしています。
185 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)18時57分44秒
 私達の関係は、何も変わらなかった。
 急速に近づくことも、そして糸が切れるように離れることもなかった。
 気の向いた時間に電話をかけ、そして会った。

 もちろん、なにも変わらなかったわけじゃない。
 私がクリニック勤務に戻り忙しくなったこともあって、会うのは会社帰りが多くなった。
 緩やかに私達は、近づいていた。
 たった一度のキスは、時折私の心の隙間に落ちる。
 けれど、それだけだった。
186 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時00分14秒
 その日のメールは、矢口からだった。
「今日、一緒にゴハン食べない? おいしい釜飯屋教えてもらった」。
病院にいる間、唯一携帯の電源を入れている昼休み時を狙って届いたメールに、私はOKの返事を送った。

 飲み屋に似た雰囲気のそのお店で、矢口は少し言いにくそうに話を切りだした。
「……あのさ」
「ん?」
つまみにとった豆腐の箸を一旦止めて、矢口を見ると、ほんの少し唇を尖らせて、食べたばかりの枝豆の皮を弄んでいた。
「なに?」
「……うん」
ぽい、と枝豆の皮を皮入れに投げ捨て、ちらりと私の方を見たかと思うと矢口はすぐに視線をそらせる。
 明らかになにかを告げたがっている様子に、私は箸を置き、矢口の言葉が流れ出すのを待った。
 視線が見えない言葉を探して小さく動く。
 思ったより、沈黙は長かった。
 店員がやってきてひとつお皿を下げようとしたとき、私は「すみません」と声を掛け、蛸わさを注文した。
187 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時00分44秒
「……飲んべぇだなぁ」
クス、と小さく矢口が笑う。
「ビール、好きだもの」
「今日は飲まないの?」
「明日も仕事だからね」
「えらい」
そう言って、また矢口は笑った。
「矢口は?」
「え?」
「飲まないの?」
「まだハタチになってないもん」
「ビールは嫌い?」
「サワーとかカクテルの方が……あ」
しまったというように表情を止める。私が笑うと、矢口は悪戯っぽく苦笑いして、「いーじゃんよー」と小さく言った。
 たこわさを持ってきた店員の背中を見送った後、ようやく矢口はゆっくりと話出した。
「……ちょっとお願いがあるんだけど」
188 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時02分13秒
「なに?」
「担当医になってくんない?」
「……誰の?」
「矢口のに決まってんじゃん」
なんの? とはさすがに聞かなかった。とりあえず、水を一口飲んで、矢口の言った言葉を頭の中で繰り返した。
 私が担当医になる、と、いうことは、矢口が精神病の患者になる、と、いうことだ。
 ── 親になにか言われたのか、それとも、矢口自身がおかしいと思う何かが起こったのか。
「……いきなり、どうしかしたの?」
矢口が頬杖をついて、箸を手にする。
「……今、ドコの病院にも行ってないんだけどさ、おかーさんが、なんか、心配してて」
丁寧に言葉を紡いだ後、口がへの字になる。それを何度か繰り返される。
「……ウチのおかーさん、裕ちゃんトコの病院に通ってるっしょ?」
「……うん」
私は、黙っていたことを責められないか、頷く前に一瞬戸惑ったが、矢口が気にしている様子はなかった。
 院長のカウンセリングを受けている矢口の母親には何度か受付で会った。けれど、言葉を交わしたことはなかった。多分、彼女は私がプライベートでこうして一緒に食事をしているなんて、夢にも思っていないだろう。
189 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時02分47秒
「裕ちゃんだったら、矢口もなんとなく、気ぃ楽だし。……ダメかなぁ?」
大きな目が少し不安そうに、私を見上げた。
「……院長に聞いてみるわ。担当の割り当ては、私が決めてるわけじゃないから」
「うん」
苦笑いして、矢口は小さく頷いた。
「うあ、辛いね、コレ」
蛸わさをひとつまみして小さく舌を出す。
 私は、院長が前に言った「お前にあの子のカウンセリングについて貰いたい気分なんだ」という言葉を、ぼんやりと思い出していた。
190 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時14分06秒
 久しぶりの更新です。
 すみません、予告よりだいぶん遅れました。ホント、すみません。
191 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時15分19秒
  182 名前 : 名無しさん
>更新、待ってました!
ありがとうございます。その一言が元気の素です(笑)。

  183 名前 : 名無し読者さん
>やっぱり切ないですね・・・矢口さんも安倍さんのことを知ったらどうなるか。
中澤さんは、矢口さんと安倍さんの関係においては、今のとこ第三者でしかないんで、どうしようも出来ない切なさみたいのを書ければいいなぁと思ってます。
これからもよろしくお願いします。

  184 名前 : 読む者さん
いつもありがとうございます。
そろそろ話もクライマックスを迎えるかと思います(……多分)。
真実を知った(思い出した)とき、矢口さんがどうなるのか、中澤さんがどうするのか。
見守っていていただけると嬉しいです。
192 名前: 投稿日:2003年06月03日(火)19時16分24秒
次回の更新は、今週末か、来週の火曜あたりです。
……パソコンが壊れてなければ(調子悪いんですよ、マジで……(汗))。
193 名前:読む者 投稿日:2003年06月07日(土)07時00分12秒
ドキドキしてきました……
(本編にも……影さんのPCにも(汗))
194 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時30分04秒
 週に一度、矢口はクリニックに通うようになった。
 そこで、30分ほど、私は矢口の話を聞く。

「なに話せばいい?」
どこか照れくさそうにそう聞いてきた矢口に、
「なんでも」
と、私は答えた。
 実際のところ、なんでもよかった。
 関係ないことを話しているようでも、その人の心の奥で気になっていることが、自然と所々に顔を出す。
「なんでも?」
「ええ」
頷いた私に、矢口が最初に言った言葉。
「眼鏡すると、真面目そうに見えるね」
つん、と、矢口が自分の目を指す。
「外したほうがいい?」
眼鏡の存在が、矢口を緊張させたのだろうか。
 矢口の前で眼鏡をかけていたのは、最初に矢口が診察に来たときだけだった。
「外すと書類とか見えないんじゃないの?」
「書類見るときにかけるからかまわないわ」
「老眼鏡みたいじゃん」
そう言ってひとしきり笑ってから、
「矢口、コンタクトなんだよ? 気付いてた?」
と言って、また笑った。
195 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時31分01秒
「なっちとは、高校で会ったんだ」
1年の時同じクラスで、と、矢口は続けた。
「なっちが出席番号1番でさ、矢口が最後」
なつみさんのことを話すとき、矢口は少し遠い目をする。
「出席番号順に並んでたんだけど、矢口、背ぇちっちゃいじゃん? で、前のほうに行かされたとき、隣になったのがなっちだったの」
それは、一緒に行った水族館で、初めてなつみさんのことを聞いたときと、同じ表情。
「で、仲良くなって……、よく、なっちと圭織と矢口の3人で遊んだ」
どこか寂しげな、切ない微笑み。
「あ、圭織って言うのは、部活が一緒だった子。3人でカラオケ行ったり、遊園地行ったりしてさ」
矢口の話には、「圭織」という少女がよく登場した。
「2年の文化祭の時、3人で部室にこっそり泊まったんだ。楽しかったな。トイレとか怖くって、3人でくっついて行った。ぎゃあぎゃあ喚きながら」
 大事な友達だったということがよくわかった。
196 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時31分43秒
 矢口となつみさんが友達の関係を越えたのは、3年になってからのようだった。
 2人がなにをきっかけにそうなったのかは推測するしかなかった。
 矢口は、なつみさんと2人だけの話をするのを避けているかのように思えた。
 付き合いだしたときのこと、親にばれたときのこと、その辺りの話は、殆ど口にしなかった。
 矢口の中で、口を閉ざさせるもの。
 それが、矢口の記憶から消えているあの事件なのか、それとも、気付いているであろう私の矢口へ対する想いなのか。
 どっちにしても、私は、矢口が言葉を待ち、その中に隠れる想いの欠片を拾い集めるだけだ。
197 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時33分48秒


 「じゃあまた、矢口さん」
ドアの開く音に続いて、充代の声が響いた。
 その声に、受付にいた私はそっと椅子を立った。
 そこにいたのは、矢口の母親だった。
 受付にいた私に気付いて、軽く頭を下げた。私も軽く会釈を返す。
 会計をしている彼女の後ろを通り、私は平家の方へ向かった。
「どうしはりました?」
ちらりと彼女に注意を払ってから、きょとんとした充代に「ちょっといい?」と耳打ちした。
「ええですよ」
にっこりと笑って、充代は診察室に私を向かい入れた。
198 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時34分14秒
「充代が担当になったの?」
コーヒーメーカーで保温されていたコーヒーをマグカップに注ぎ、充代が私に差し出した。
「そういうわけやないです。院長が忙しい時とか、時々」
「……そう」
ありがと、と小さく呟いて、コーヒーを受け取る。
「で、どうしました? なんか相談でも?」
「……ああ、うん……」
頷いて、コーヒーを口にする。
 熱いコーヒーが喉を伝って、なんとなく落ち着いた。
「矢口さんのことなんだけど」
「娘さんのほうですか?」
「そう」
充代が、少し首を傾げた。目が、「で?」と話を促している。
 充代が持っている、独特の安堵できる話しやすい雰囲気。それはこの仕事において、彼女のなによりの強みだ。
199 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時34分49秒
「あの子は、病院に通うべきだと思う?」
「……裕子さんは、どう思いますん?」
ふぅ、とコーヒーを冷ます息の音がした。
「……わからない」
生活に支障なく生きているのなら、そのまま忘れさせておけばいいんじゃないかという思いと、すべてを思い出し受け止めるべきではないかという想いが交差する。
 自分に嘘をついて生きていくことは、正しいことではないかもしれないけれど、嘘は時に自分を守る。
「……もし、矢口さんが、自分だけが生き残ったことを思い出したら……」
私は、矢口がなつみさんの後を追うことが怖いのだ。
 不意に、充代が不思議そうに目を大きくしていたのに気付いて、私は言葉を止めた。
「充代?」
「裕子さん、なんか誤解してはりません?」
「誤解?」
「なつみさんが心中しようとした相手は、矢口さんやないですよ?」
「……え?」
息が、詰まった。
200 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時35分27秒
「お母さんの方の話では、矢口さん、その事件を聞いて、わんわん泣いて、どうしようもなくなったって。パニック状態ってヤツです」
「……相手の子は? 亡くなったの?」
「や、助かったらしいですよ。その事件のあと、すぐにどこかに引っ越さはったけど、行方までは。……名前はたしか、飯田……」
「……『圭織』、さん?」
それは、矢口の口から何度も出てきたあの同級生の名前。
 私の予想に反せず、充代は「そうそう」と頷いた。
「矢口さん、連れていかれた病院で『私のせいだ、私のせいだ』って、何度も口にしたらしいですけど、それがどういうことなのか、よくわからないんだそうです。なんとか落ち着いて、話が聞けるようになったとき、もう、どうして自分が病院にいるのかも覚えてへんかったって。事件に関する何かを、今でも記憶の底に閉じこめてるんでしょうね」
201 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時36分07秒
 ── 矢口が、口を閉ざしていた理由。
 それは、記憶を失ったせいだけじゃない。矢口が、元々体験していないことだからだ。
 矢口の記憶が、どこまで本当なのか。
  一緒に北海道の大学に行くと約束していたこと。付き合っていたことが、親にばれたこと。
 それよりまえに、本当に2人は付き合っていたのか?
 頭が痛み出す。
「……」
「ショックで一時的な記憶喪失になることは、そんなに珍しいことやないし、自己防衛機能がやってることやし、そんな悪いことやないと思いますよ」
充代は落ち着いた声で言葉を続けた。
「でも、ごまかして平気で生きていられるような想いやないんでしょう?」
矢口がついた嘘。
 それは、矢口自身についた嘘。そして、私についた嘘。
「ひずみは確実に広がっていってますよ、きっと」
一瞬、充代の表情が真剣なものに変わる。それは、医者としての充代の表情だ。
 私は、矢口の真実と嘘を見分けなければいけない。そうしなければ、ここから抜けだせはしない。
202 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時37分19秒
更新しました。
ちょっと更新予告より遅れてしまいましたが。いつもよりちょっと長めです。
203 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時38分45秒
  >193 名前 : 読む者さん
>ドキドキしてきました……
>(本編にも……影さんのPCにも(汗))
いつもありがとうございます。PC、なんとか動いててくれてます(苦笑)。
204 名前: 投稿日:2003年06月11日(水)22時39分47秒
次回の更新は、来週の火曜あたりで。
展開、ちょっと急ぎすぎてますか?
205 名前:名無し読者 投稿日:2003年06月12日(木)01時46分41秒
私的にはいいテンポです>展開
とりあえず、PCのほうががんばってくれてるようでよかったですね。
更新がちょっと遅れたのでドキドキでした。
206 名前:読む者 投稿日:2003年06月12日(木)08時36分03秒
下に同じくです<展開
きっとそうなるべき流れなのではないかなと。
次回も頑張ってください、楽しみに待たせていただきます。
207 名前:名無し読者 投稿日:2003年06月14日(土)21時19分53秒
ちょっと意外な展開でした、まさか飯田さんとは・・・
矢口さん・中澤さんがどうなっていくのか気になります。
更新待ってます。
208 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)21時46分27秒
 部屋に入ると、物珍しそうな顔で、矢口はあたりを見回した。
「適当に座ってて」
「あ、うん」
私の言葉に返事をして、クッションの側に座る。けれど、視線は、部屋を動き回っていた。
「コーヒーでいい?」
「あ、うん」
こくんと頷いた矢口を確認してから、キッチンへ向かう。
 コーヒーメーカーをセットして、小さな食器棚からマグカップをふたつ取り出した。
209 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)22時13分23秒
 部屋に誰かを入れるのは久しぶりだった。

 診察を受けに来ていた矢口が、別れ際に「一緒にゴハン食べに行かない?」と言ったのが、一応のきっかけだった。
「明日の講義、午後からだから、お酒入っても大丈夫だよ」
と、子供みたいに笑って。
「給料日前だから、あんまり余裕ないんだけど」
「お医者さんって、金持ちなんじゃないの?」
「お医者さんによると思うけど」
「……ふぅん」
少しつまらなさそうな顔をした矢口に、私がした、ひとつの提案。
「……家に来る?」
え? ときょとんとした顔をして。
 その後に矢口は「いいの?」と嬉しそうに笑った。

 元々、自分の部屋に誰かを入れるのは、テリトリーを侵されるようで、そんなに好きじゃなかったけれど、その時に見た笑顔は、乗り気にはなれない気分を帳消しにするのに充分だった。
210 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)22時16分32秒
 コーヒーをマグカップに注ぎかけたところで手を止める。
 リビングを覗くと、テレビの上に置いてあった硝子細工の猫を手にしている矢口の背中が見えた。
「珍しい?」
私の声に振り向くと、矢口は猫を戻して、苦笑いした。
「……あ。うん。矢口、実家だからさ。一人暮らしの家って珍しい」
「コーヒーにミルクと砂糖入れる?」
「砂糖だけ」
「ん」
わかった、と小さく呟いて、私はキッチンへ戻る。
 コーヒーも紅茶も砂糖抜きで飲むので、家では殆ど砂糖が減らない。去年実家から置くって貰ったティーセットのスティックタイプの砂糖を、平気かしら、と思いながら軽く振る。
 矢口がコーヒーを飲むところを、殆ど見たことがなかったことに、今更気付いた。
 ウーロン茶か、オレンジジュース。
 生憎、私の家には、どちらもなかった。
 コンコンと、小さく壁を叩く音がした。
「そっち行っていい?」
振り向くと、小さな手だけが見えた。
「どうぞ」
「お邪魔します」
ぺこりとお辞儀したその姿が、少し芝居じみていて、少し笑えた。
211 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)22時27分50秒
 薄く張ったコーヒーの中に、砂糖を落とす。白い砂糖がすうっと茶色に染まる様子を、矢口も覗き込むように見ていた。
 私がスプーンでかき混ぜていると、隣でぽつりと呟くのが聞こえた。
「電車が見えるんだね」
「え?」
きょとんとして顔を上げた私と、同じように顔を上げた矢口の視線がぶつかる。
「窓から」
「あ、そうね」
コーヒーを入れながら、頷いた。
「うるさくない?」
「そう? うるさかった?」
「ううん。そんなに気にならなかったけど、深夜とかだと気にならない?」
「終電すぎたら、あの路線は静かだから」
「そっか」
自分の分のコーヒーも入れて、ポットをコーヒーメーカーに戻す。
「ありがと」
矢口は、スプーンを持って、もう一度コーヒーをかき混ぜた。
 カチンと、小さな音が小気味よく響いた。
 マグカップを持って、ふぅ、と矢口が息を吹きかけて冷ます。
 キッチンで並んでコーヒーを飲むなんて変な感じ、と思いながらも、私は壁にもたれて身体を落ち着かせた。
212 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)22時59分14秒
 オレンジに近いキッチンの照明が、2人の影を結ぶ。
 ちらりと見た矢口の横顔は、ふと大人びて見えた。
 少し伏せた視線の先は、揺らいでいるコーヒーの水面を指していたが、それを見ていないことは、すぐにわかった。
 こういう表情をしているとき、決まって矢口は、なつみさんのことを考えている。
「……お腹すいた?」
私がかけた声に、矢口は顔を上げ、目を細めて笑った。
「まだ平気」
その笑顔につられるように、私も笑った。
 私の声が、ちゃんと矢口に届いていることに、私は安心した。
213 名前:マコト 投稿日:2003年06月17日(火)23時10分29秒
こちらでは初めましてですね(^_^)
頑張ってください!!
214 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)23時25分27秒
「……死なないでね」
ぽつりと呟いた私の言葉に、矢口がきょとんとした目を向けた。
「死なないよ?」
「なつみさんがいなくても?」
「なんでなっちがいなくなるのさ」
「……うん、そうね」
笑ってみせた私に、今度は矢口がつられるように笑った。
「なに言ってんだよ、もぉ。ホントに精神科医かぁ? 『死なないで』なんて台詞、そのへんの高校生だって吐くよ?」
本当にその通りだった。

 死なないで、なんて言葉は、なんの救いにもならない。
 誰かに必要とされることで、人は生きていける。
 けれど、自分が必要としている人がいるのならば、その他大勢の言葉なんて、なんの役にも立たない。

 真実を矢口に告げることが正しいことなのかどうか、私はまだわからないでいる。
 というよりも、私には自信がなかった。
 矢口を引き留めるだけの、自信はなかった。
215 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)23時27分31秒
 コーヒーに口をつけようとしたとき、不意に手首が掴まれ、私のマグカップを持つ手が揺れた。

 ── え?

 咄嗟にバランスを取ろうとしたが、熱い滴が手の甲に2、3滴飛んだ。
「……あつっ」
思わず小さく声をあげる。
 驚いて横を向くと、そこには私の手首を掴んで、驚いた表情のまま固まっている矢口の顔があった。
「……」
矢口の着ていた長袖Tシャツに茶色い小さなシミが飛んでいる。そして、私の手首を掴んでいる手とは逆の袖には、肘の辺りまで、茶色いシミが広がっていた。
「矢口、コーヒーが……」
「……あっ、ごめん」
ハッと我を取り戻した矢口が、ゆっくり私から手を離す。
 けれど、自分の腕にコーヒーがかかっていることなど、気付いてもいないようだった。
216 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)23時31分04秒
 少し虚ろな目が、私を見つめる。
 下ろした手が、力無く垂れ下がっていた。
 私は、自分の分のマグカップを冷蔵庫の上に置いて、矢口の手からマグカップを取り上げた。
「腕、出して」
矢口が行動を起こす前に腕を掴み、水道の蛇口を開いてTシャツごと腕を水の中へ入れる。
 シンクに落ちる水が、少しの間、茶色味を帯びた。
 ザーッと水の音が響く。
 一緒に濡れる手の平が冷たくなってきたあたりで、水を止めた。

 私がタオルでその箇所を拭き終わっても、矢口は一言も口にしなかった。
「熱くなかった?」
そう聞いた私に、小さく微笑んで頷いただけだった。

 矢口が掴んだ私の手首に、薄く赤い指の痕と、僅かな痛みが残っていた。
217 名前: 投稿日:2003年06月18日(水)00時12分11秒
 替えのシャツは、やっぱり少し大きかったらしく、矢口は軽く袖を捲っていた。
 その腕が赤くなっていなかったことにほっとする。

「……ごめんね」
私がシャツとタオルを渡したとき、矢口はそう、ぽつりと呟いた。
「気にしてない」
それだけ言って、私はまるで子供にするみたいにポンポンと2回、矢口の頭を軽く叩いた。

 矢口の中で、何かが少しズレ初めている気がした。
 多分、矢口自身も、気付き始めているんじゃないかと思った。

「……なんか、ヤだったんだ」
「なにが?」
「……よくわかんないんだけど、裕ちゃんが飲もうとしたとき……、……なんでかな……」
怖かったんだ、と小さく消え入りそうな声で、矢口は呟いた。
 そっと腕が伸びてきて、きゅっと私の腕を掴んだ。
 こつんと肩に、もたれかかるように額が押しつけられる。
「……死なないで」
掠れた声で、そう聞こえた気がした。
218 名前: 投稿日:2003年06月18日(水)00時26分13秒
更新しました。
そろそろ終わりが見えてきたかなぁ、と思います。
219 名前: 投稿日:2003年06月18日(水)00時35分01秒
   205 名前 : 名無し読者さん
>とりあえず、PCのほうががんばってくれてるようでよかったですね。

PCの不調はどうも、マザーボードの電池切れが原因だったようです(……150円ですんでよかった……)。
更新が遅れてしまったのは、私の不調でした(苦笑)。
なんとか体調も戻ってきたんで、がんばります。


   206 名前 : 読む者さん
>きっとそうなるべき流れなのではないかなと。
>次回も頑張ってください、楽しみに待たせていただきます。

ありがとうございます。そう言っていただけるとほっとしますね。
最後まで頑張るので、次回も待っていていただけると嬉しいです。
220 名前: 投稿日:2003年06月18日(水)00時35分54秒
   207 名前 : 名無し読者さん
>ちょっと意外な展開でした、まさか飯田さんとは・・・
意外でした? 意外と思っていただけたのは嬉しいです。
実は、飯田さんと後藤さん、どっちにしようかずっと迷ってたんですけど、この展開は最初から決めてました。

>矢口さん・中澤さんがどうなっていくのか気になります。

答えももーすぐ出てくるとおもいます。最後までよろしくお願いします。

   213 名前 : マコトさん
>こちらでは初めましてですね(^_^)
>頑張ってください!!

がんばります!
向こうでもお世話になってます。こっちもよろしくお願いします。
221 名前: 投稿日:2003年06月18日(水)00時41分00秒
次回の更新は、……ちょっと未定で。
遅くて、来週末。早くて、明日? (もう今日か(苦笑))
がんばります。はいっ。
222 名前:読む者 投稿日:2003年06月18日(水)01時58分36秒
はぅ、胸が痛い……。 既に泣きそうです。
続きが気になって仕方がないのに、終わらないで欲しいと思うとは。
明日も来ます(苦笑) ってか毎日でも来ます(爆)

前回上げてしまってたのね(汗)気を付けます。
223 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時43分17秒
 お風呂から上がると、窓の外を眺めている矢口の背中が目に入った。
 窓ガラスに映った矢口と目が合って、矢口はガラス越しに小さく微笑んでみせた。
「……風邪引くわよ?」
へいき、と、ガラスに映った矢口の唇が動いた。
 髪をタオルで拭きながら、矢口の隣まで歩く。
「……けっこう、暗いんだね」
そう言った矢口の手に、何かが握られているのに気付いた。
 その形に、見覚えがあった。
 矢口の手の中にあったものは、定期入れだった。
 偶然目にした、赤い残像がフラッシュバックする。
「……裕ちゃん?」
「……あっ……。な、なに?」
「……なんかぼーっとしてたから」
「……あ、うん……。……ごめんなさい」
「なんで謝ってんの?」
矢口はおかしそうに笑って、また視線を外へと戻した。
 そして、ゆっくりとした溜息と一緒に、定期入れの中のカードをそっと引き抜いた。
 そのカードの下から現れたのは、一枚の写真。
「……」
ドクン、と心臓が鳴った。
224 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時43分52秒
 少し俯いて、その写真に視線を落としている矢口の表情は、うまく見えない。
 ただ、静かな息づかいが聞こえてくるだけだった。
 私は、矢口となつみさんが写っているのだと思っていた。けれど、そこに写っていたのは、私の知らない2人だった。
 まだあどけない笑顔で写っていたのは、赤いトレーナーを着た背の高い女の子と、白いシャツの幼い顔をした女の子。
「こっちが、なっち」
トン、と指先が白いシャツの方を指す。
「……かわいい人ね」
「うん」
矢口が小さく笑う。
「こっちは、……圭織さん?」
矢口の反応を伺いながら訊いた私の言葉に、矢口はゆっくりと頷いた。
「……なっちの写真なんだ」
「……うん」
「貰ったんだ、形見に」
私はそこで、一瞬言葉を失った。
 矢口の表情は、冷たいほどに、落ち着いていた。
225 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時44分29秒
「……なっちに、誰か好きな人がいるってことは知ってた」
自嘲気味に、唇が微笑みを作る。
「高校卒業したら、一緒に北海道の大学に行って、一緒に暮らすんだって」
声は、一度そこで途切れた。
 うなだれるように頭を下げた矢口の肩は、小さく震えていた。
「……矢口」
ぎゅっときつく握りしめられた拳を、解くように手を掴む。
「……でも、……そのまえに、親にばれて、反対されて、……なっちは……」
矢口の指先が冷たくなっていくのが、手のひらから伝わってきた。
 ドクンドクンと心臓の音が高鳴っていく。
「……矢口……、なっちの付き合ってる人が、圭織だって聞いて、喜んであげられなかった……」
ぽたっと、矢口の手の甲に滴が落ちた。
226 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時46分23秒
 今までのすべてが堰切れたように、矢口の目からぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。
「矢口、なっちが女の子を好きだって聞いて、……びっくりしたんだ、だって、そんなの、考えたこともなかったっ……!」
ぽたぽたと矢口の手の甲だけでなく、私の手、そして写真の上に丸い跡を付けていった。
「なんにも考えずに『そんなの変だよ』って、『気持ち悪いよ』って……!!」


 2人の起こした事件を聞いて、矢口が「私のせいだ」と叫んだ理由。
 矢口が、自分の記憶を違えてまで、直視出来なかった真実。

 ── これは、矢口の懺悔だ。

「矢口だけでも、なっちの気持ち、認めてあげていたら、あんなことにならなかった……!」
崩れ落ちるように膝をついた矢口を慌てて抱き留めた。
227 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時49分39秒
「大事な、友達だったんだ……っ、幸せになって欲しかったのにっ……!!」
抱きよせた肩は、固く、痙攣のように震えていた。
「……なっち……!」
悲痛なまでに彼女の名前を叫ぶ。

 もういいから、と叫んでしまいたかった。
 もう忘れていいの、と言ってしまいたかった。
 けれど、精神科医としての私が、喉まででかかったそれを押しとどめた。 

 ずっと、矢口の記憶をゆがめてきた、矢口の中の罪。
 これは、矢口が、やっと吐き出せた思いだ。

 小さな肩に背負った重い十字架を、私には解き放せない。
 矢口を救えるのは、許しを告げられるのは、彼女だけだ。

 ……けれど、彼女は、もういない。


 ゆっくりと抱き寄せて、小さな子供をあやすように背中を叩く。
「……なっ……ち……ぃ……」
引きつった嗚咽が小さく響いていた。
 私は、矢口の小さな背中を何度もさすりながら、床に落ちた定期入れの写真を見つめていた。
 写真の中で、2人は、幸せそうに笑っていた。
228 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時50分09秒
 次の日、目が覚めると、部屋に矢口の姿はなかった。
 テーブルの上に「ガッコに遅れるから行きます またね ヤグチ」と、油性ペンで走り書きされた缶ジュースが残されていた。
 私が告げる前に、矢口は真実を思い出した。
 私は、矢口の背負ってしまった重い十字架を、一緒に背負ってあげたかったけれど、それは叶わなかった。


 その日を境に、矢口は、私の前から消えた。

 未開封のまま残された、メッセージ付きの缶ジュースの底に書かれた小さな丸い文字に、私が気付いたのは、それから2週間も経ってからだった。

 「今までありがと。バイバイ」。

 冷蔵庫の薄暗い光の中で見つけた、半分つぶれかけの文字を、何度も読んだ。
 滲み出す涙を、じっと堪えて、ゆっくりと息をついた。
 ありがと、と言って貰える何かを、私は矢口にいつあげることが出来たのだろう?
 私は矢口に、何をしてあげられたんだろう?

 矢口に、会いたかった。
 ただ、無性に会いたかった。
229 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時50分59秒
更新しました。
ホントは19日にしたかったんですけど、間に合いませんでした。とほほ。
230 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時54分51秒
   222 名前 : 読む者さん
>はぅ、胸が痛い……。 既に泣きそうです。
まだちょっと痛い展開続いてます。
今日ももしかして見に来てくださってるんでしょうか?
いつもありがとうございます。
話を完結させたときというのは、ほっとすると同時に寂しくなってしまうんですけど、
とりあえず今は終わったときのことは考えずに書いていこうと思っているので、
できましたら最後までよろしくお願いします。
231 名前: 投稿日:2003年06月20日(金)22時55分40秒
次回更新は、来週末か、その次の火曜あたりを予定してます。
では。
232 名前:読む者 投稿日:2003年06月21日(土)06時43分17秒
はい、ごめんなさい、来てしまいました(汗)
そして……ダメです、ちと泣いてしまいました。
そうなるのか……でも…うむぅ(涙)
次回も楽しみにしております。
けして急かす気などはございませんので、ご無理為さらずに頑張ってください。
233 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時37分23秒
 いつもと同じようにノックの音が響く。
「どうぞ」
いつもと同じように返事をして、ドアが開くのを待つ。
 ぺこりと頭を下げて、少年が診察室に入ってきた。
「こんにちは」
私がそう言うと、何度か小さくその場で足踏みをして、もう一度頭を下げた。
 彼は今日で3回目の診察だ。
 少し、診察に慣れてきたように思う。
「こんにちは」
もう一度言うと、少年は、小さな細い声で「こんにちは」と返してきた。
 ぎゅっと握りしめたその手には、少年の心の支えである、古いミニカー。
234 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時37分59秒
 仕事は変わらず忙しかった。
 そんな日常の中で、ふと矢口のことを思い出す。

 診察が終わり、少し息を付いたその瞬間。
 休憩時間、コーヒーの最初の一口を飲んだ時。
 夜、ベットの中で、眠りにつく前。

 張りつめていた糸がふっと緩んだとき、矢口の姿が浮かんだ。
235 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時38分43秒
 あれから何度か、矢口の携帯を鳴らした。
 けれど、決まって無機質なアナウンスに、電源が切れているか圏外であると、丁寧な口調で告げられた。

 充代を通して、矢口の母親から矢口が家にも帰っていないことを知り、大学にも行っていない事を知った。
 診察を終えたばかりの矢口の母親を呼び止めたことがあった。
「……あの、少しお時間いただけますか」
彼女は、驚いたような、少し戸惑った顔を見せたが、すぐに小さな笑顔を見せて頷いた。
236 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時39分43秒
 責められることは覚悟していた。
 患者が行方不明になるなんて、全然誉められたことじゃない。
 けれど、頭を下げた私に、彼女は逆に「ご迷惑おかけしました」と小さく呟いただけだった。
「元気でいてくれるといいんですけど」
そう言って、彼女は寂しそうに笑った。

 矢口の行きそうなところや、なつみさんのことを聞いた。
 けれど、心当たりはもうすべてあたった後で、もちろん矢口は見つからなかった。
 なにか心当たりがないかと聞かれ、私は北海道を挙げた。
 すでにそのとき、北海道はリストに入っていた。飯田さんと安倍さんの出身が北海道だったことを、私はそのときに知った。
 警察にも届けたが、未だ音沙汰はないらしい。
 無理もなかった。
 矢口はただの行方不明者で、警察が汗だくになって探し求める加害者でも被害者でもないのだ。
237 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時40分17秒
 私に矢口は救えなかった。

 そんなことはわかっていた。
 あの時、私に出来ることは何もなかった。

 けれど、私は悔しくて泣いた。
 矢口と一緒に眠ったベットで、矢口を想った。

 そうして、せわしない日常は過ぎていった。
238 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時41分14秒
予定より遅れてしまいましたが更新です。
あんまり話がすすんでません。
239 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時43分58秒
   232 名前 : 読む者さん
そんな感じなんです。まだけっこうせつないんですけど、読んでいただけると嬉しいです。
240 名前: 投稿日:2003年07月03日(木)22時45分24秒
次回は、来週末あたりを予定してます。ちょっと間があいてしまうかもしれませんが。

祝! 東京美人DVD化!!
よかった……。ホントに、流れちゃうかと思った……(苦笑)。
241 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月04日(金)12時55分11秒
矢口どこ行ったんでしょ……
裕ちゃん切ないな…
できるならハッピーエンドになってくれればと思います。
242 名前:読む者 投稿日:2003年07月06日(日)06時03分29秒
はぁ……色々書きたい、でもそれは邪魔になってしまいそうですからね(苦笑)
ただ、この世界に流れる空気、変わらず好きです。
期待しつつお待ちしています、頑張ってください。
243 名前: 投稿日:2003年07月27日(日)07時29分24秒
「裕子さん、裕子さん」
今日一日の診察が終わった後、カルテを整理していた私に、充代が声をかけてきた。
 キーボードを打つ手を止めて、ドアの方を見る。
「今日、飲みにいきません?」
そろそろ、おいしい時期でしょ? と、ビールを飲む振りをする。
「んー……、そうね……」
最近、あまり飲みに行っていない。
 明日は休みなことだしと思い、OKの返事をしようとした私の携帯が不意に鳴った。
 白衣のポケットの中から、携帯を取り出して開ける。
 目に映ったその液晶画面の文字に、一瞬息が止まった。
244 名前: 投稿日:2003年07月27日(日)07時31分44秒
 私の様子に気付いて、充代が首を傾げる。
「裕子さん? どうしはりました?」
けれど、それに応える余裕はなかった。急いで受信ボタンを押そうとして、指が震える。
 携帯を耳に当てると、僅かに雑音が聞こえた。
「……や、ぐち……?」
── 瞬時に乾いた喉から、ようやく絞り出した名前。
 それは、ずっと待っていたコール。
 
“中澤さんですか?”
けれど、それは矢口の声ではなかった。
245 名前: 投稿日:2003年07月27日(日)07時32分54秒
 若い、女性の声。
 聞いたことのない声だった。
“もしもし?”
黙り込んでしまった私に、“聞こえてますか?”と言葉が続く。
「……はい。聞こえてます」
私は自分を落ち着かせる為に、ゆっくりと息を吐いた。
 確かに液晶画面に表示されたのは、矢口の名前だった。

 この人は誰なんだろう?
 ── どうしてこの人が、矢口の携帯からかけてきているんだろう?

 当然の疑問が頭に浮かぶ。 
 私が矢口の名前を口にしたことで、充代も険しい表情で、私を見つめていた。

 最初の疑問はすぐに解けた。
 電話の向こうの彼女は、落ち着いた声で、はっきりとこう告げた。
“はじめまして。飯田と申します”
246 名前: 投稿日:2003年07月27日(日)07時34分50秒
一ヶ月近く放置してしまいました、すみません。
どうもうまくまとまらなくて……。
今回かなり短いんですが、一応更新しました。
247 名前: 投稿日:2003年07月27日(日)07時44分46秒
> 241 名無しさん
>できるならハッピーエンドになってくれればと思います。
まぁ、……私が書いてるんで、ハッピーエンドになるんじゃないかなぁ、と(いいのかな、そんなコト言って(苦笑))。

> 242 読む者さん
>はぁ……色々書きたい、でもそれは邪魔になってしまいそうですからね(苦笑)
書いてるものとしては、もう色々聞きたいんですけど(笑)。
いつもありがとうございます。もーちょっとです、がんばります!
248 名前: 投稿日:2003年07月27日(日)07時45分57秒
次回更新は、うまく話がまとめられたら今夜に。
または来週の火曜の夜を予定しています。

では。
249 名前:読む者 投稿日:2003年07月28日(月)06時28分55秒
更新ありがとうございますっ。
長くはないですけど大きな一歩のようで、点と点しか見えなかった部分が繋がりつつ……。

>書いてるものとしては、もう色々聞きたいんですけど(笑)。
さようですか、完結の際には何処か(?)で感想を書こうかと思います(笑)

上手くまとまらないのも分かりますので、ご無理でない程度に。
いつまでもお待ちしています♪
250 名前:∬´◇`∬<ダメダモン… 投稿日:∬´◇`∬<ダメダモン…
∬´◇`∬<ダメダモン…
251 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時23分33秒
 電話を切った後、私はしばらくそのまま立ちすくんでいた。
「どぉしはりました?」
充代の声に、意識がようやく戻る。
「……あ、ごめんなさい」
「や、私は別にぼーっとされようがかまいませんけど。……電話、誰からやったんですか?」
「……飯田さん」
「飯田さん?」
充代は知らない苗字に素直にきょとんとする。
「矢口の……友達」
252 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時24分08秒
 北海道で矢口に会った、と、彼女は言った。
 そして、携帯を忘れていったんだ、と。
 矢口は彼女に、自分の連絡先を告げなかった。
 アドレスもメールもすべて消されていた矢口の携帯の中に、残されていた唯一の情報は一件の着信履歴。
 それが、私の番号だった。

 彼女は多くは語らなかった。
 簡潔に、事務的に言葉を繋いだ。
 そして、最後に一言、「矢口あったら『来てくれてありがとう』って、伝えておいてください」。そうゆっくりと呟いた。
 それが、短い電話の会話の仲で、唯一、彼女の感情の見えた台詞だった。
253 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時24分45秒
「……充代」
「はい?」
「……私に、まだ、出来ることがあるのかもしれない」
とくんと、心臓が鳴った。
「……出来ること、ですか?」
言葉を確認するように、充代が丁寧に繰り返す。
「うん」
私は、ゆっくり頷いた。
 あの日が、矢口と私の最後の日じゃないのかもしれない。
 せわしない日常の中で、ゆっくり薄れていく矢口を、私は取り戻せるのかもしれない。
254 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時25分16秒
「ごめんね。飲みは、今日はパス」
充代は苦笑いして、小さく何度か頷いてくれた。
「裕子さん」
「ん?」
「私、思うんですけど。なかなか見つけられないだけで、いつでも誰にでも、何かひとつは出来る事ってきっとあるんですよ」
「……」
「裕子さんにしか出来んこと、やってきてください」
そう言って、充代は柔らかく微笑んだ。
「……私は、患者じゃないわよ?」
肩をすくめて苦笑いすると、充代はおかしそうに笑った。
「知ってますよ、そんなん」
そして、気ぃつけて、と、小さく付け足した。
255 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時25分59秒
 北海道に行こうと思った。

 今夜、最終の飛行機には、まだ充分間に合う。
 もう、北海道にはいないかもしれない、と、思わなかったわけじゃない。
 けれど、少しでも可能性があるのなら、それでいいと思った。
 矢口が見つからなくても、飯田さんに会いに行こう。そして、なつみさんに。

 そう思いながら、足早に帰宅したマンションの前で、私は小さな姿を見つけた。
256 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時42分09秒
 頭で考えるまえに、足が止まった。
 一瞬、幻覚をみているのかと思った。
 エントランスの植え込みの前で、少し居心地悪そうに壁にもたれたり、1、2歩、歩いたりを繰り返しているそのシルエットは、いつも心の隙間にあった姿。
「……」
ぎゅっと鞄のヒモを握りしめる。
 彼女が、私に気付いたのがわかった。ふっと合った目が一瞬逸されて、今度は真っ直ぐにこっちを向く。
 そして、少し照れくさそうに笑った。
「……矢口」
その名前を口にした瞬間、世界が現実味を帯びた。
257 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時42分48秒
 ── 矢口だ。

 矢口の笑顔は、まるでつい先週も会っていたかのように自然だった。
 そのことが、私から緊張感を奪う。
 多分、私にはもっと、言うべき言葉が他にあったんだと思う。けれど、私の口からついて出たのは、ちょっとした憎まれ口。
「……こんなトコでうろついてたら、不審者に思われるわよ?」
「あー、うん。さっきもおばさんにじろじろ見られた」
薄手のジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、矢口は苦笑いした。
「裕ちゃん」
「何?」
ふっと矢口の目の中に影が生まれて、そのことにドキリとする。
「……元気だった?」
見上げてきた大きな目に、涙がこみ上げた。きゅっと唇を結んで、涙を堪える。
258 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時44分00秒
 時間は、確実に過ぎていた。
 私が、矢口のいない世界でせわしない日常を送っていた間、矢口は、矢口の時間を過ごしていた。
 穏やかな表情が、ほんの少し大人びた気がした。
 耳にかけていたので、最初気付かなかったが、髪も幾分伸びている。
 前髪が風に揺れて、矢口の右目を隠す。
「……こっちの台詞でしょう?」
前髪をどけようと手を伸ばす。矢口は、一瞬驚いたように目を大きくした。
 前髪に触れた瞬間、抱きしめたくなってそのまま抱き寄せる。
 帰ってきたのは慌てた様子の大きな声だった。
「あ、わっ、わっ! 待って、待って! 昨日、お風呂入ってないんだよぅ!」
あの夜、肩を振るわせて泣いていた時と同じ小さな身体。
 あの時と違うのは、腕の中で、ジタバタ暴れていること。
「お風呂入ってないの?」
苦笑いして腕を解くと、矢口は拗ねたように頷いた。
「服も洗ってないしさぁ」
中のシャツを軽く引っ張りながらブツブツ言って、また照れくさそうに笑ったかと思うと、矢口は「ただいま」と、ゆっくりと呟いた。
「……おかえりなさい」
自分の声が、すとんと心の奥で落ち着く。
 口にしてから分かった。それが私の言いたかった言葉だった。
259 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時45分05秒
更新しました。
260 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時46分54秒
  読む者さんへ
いつもありがとうございます。

>完結の際には何処か(?)で感想を書こうかと思います(笑)
そう言っていただけると嬉しいですね。完結までがんばります。

261 名前: 投稿日:2003年08月03日(日)21時50分15秒
次回更新は、……ちょっと不明です。スミマセン。
ではまた。
262 名前:読む者 投稿日:2003年08月08日(金)02時34分06秒
ふぃ〜……え〜…………ん〜。
(ネタバレ警報発令中)
ダメだ、ゆっくり、楽しみに、イイ子で待ってますm(__)m
263 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時22分23秒
 矢口にバスルームを貸して、服を洗濯機に入れた。
 洗濯機の回る音と、シャワーの音が響くキッチンで、コーヒーを煎れる。
 マグカップを2つ用意してから、アイスにした方がいいかな、と、独り言を呟く。それから、お腹がすいてるんじゃないかと思って、冷蔵庫を開けた。
 たいしたものは入っていなかったけれど、軽食くらいはなんとかなりそうだ。
 ふと、冷蔵庫の片隅の缶ジュースを思い出す。
 あの朝からずっと、冷蔵庫の中に置いたままの缶。
 その缶に手を伸ばそうとしたとき、シャワーの音が止まったのに気付いた。
 私は、冷蔵庫を閉めて身体をあげた。
264 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時35分19秒
 シャワーを終えた矢口は、幾分すっきりした顔をしていた。
 その顔になんとなくほっとする。
「コーヒー、アイスとホットどっちがいい?」
そう訊いた私に、矢口は「ちょっと待って」と、言った。
「はい」
すっと伸ばされた握り拳がくるっと回転して、パッと大きく開かれる。
 その手のひらに乗っていたのは、小さな紙製の楕円形のケースだった。
「……?」
きょとんとした私に、矢口がへへっと少し照れくさそうに笑う。
「おみやげ」
「おみやげ?」
うん、と頷いてから、矢口は自分の耳朶を軽く引っ張ってみせた。
「裕ちゃん、1コもしてないでしょ?」
「え?」
「けっこうピアス穴、あるのにさ」
ケースを開けて、その中身を矢口が手の平に落とす。
「……気付いてたの?」
「気付いてないとでも思ってた?」
薄いラシャ紙に包まれたそれを開いて、矢口はもう一度私に向けた。
 そして、私の反応を見る。
 私は矢口がピアス穴の跡に気付いていたことに驚いて、少し呆然としていた。
265 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時35分49秒
「……硝子細工好きなのかなぁ、って思ったんだけど、そうでもなかった?」
「え?」
「ほら、硝子のさ、猫持ってたじゃん」
そんなことを覚えていた矢口に驚く。
「猫のデザインのもあったんだけど、イマイチだったからこっちにしちゃった」
しずくの形をした、小さな青い硝子のピアス。
「つけてもいい?」
「……あ」
伸びてきた手に、一瞬戸惑って身体を惹く。
 動きを止めた矢口に、私は姿勢を正して一呼吸付いてから、髪を耳にかけた。
「……うん。いいよ」
矢口は嬉しそうに笑って、私の肩にそっと手を置いた。
「じっとしててね」
矢口が私の耳朶を軽く指でなぞる。
「ふさがっちゃってるかなぁ?」
「……いいよ、開けちゃって」
「うわ、怖いこと言うなぁ」
なんだか、くすぐったい気分だった。
 照れくさくて、頬の筋肉が緩む。肩が緊張して、指先が熱かった。
266 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時37分26秒
 ピアス穴は、大学の時にあけた。
 どうしてピアスをしなくなったんだっけ、と考えてみる。
 ── そうだ。
 雅彦が「お医者さんって、ピアスとかしないほうがいいんじゃないの?」と何気なく言ったことだ。
 それは、特に重みのある言葉じゃなかったのかもしれないし、単にピアスをする女があまり好きじゃなかっただけかもしれない。どっちにしても、それがきっかけで、私はしばらくピアスを外した。
 一旦付けなくなると、付けないことが自然になって、そのままやめてしまったのだ。
267 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時38分20秒
 矢口の表情に少し真剣味が帯びる。そのすぐあとに軽い痛みが首筋を伝わって背中を走った。
「ご、ごめん、痛かった?」
私が一瞬顔をしかめたのに気が付いて、矢口が少し心配そうに眉を潜めた。
「やっぱふさがっちゃってるね」
「開けていい」
「え?」
不安そうな顔が、私の顔を覗き込む。
「……痛くない?」
「平気」
ふさがったとはいえ、一度は開けた穴だから、再び開けるのはそんなに痛くないはずだ。
「……じっとしててね」
顔が近づいてきて、ぺろ、と舌が耳朶をなぞる。
「……んっ」
「消毒」
その後に、痺れるような痛みが、また走った。
「……」
「……平気?」
「うん」
耳朶が少し熱かったけれど、大した痛みはなかった。
「血、ちょっとでちゃってるよ」
「平気」
しばらく心配そうに、私の耳を見ていた矢口も、ふっと表情を緩めて視線を落とした。
268 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時39分11秒
 久しぶりにつけたピアスは、少し重く感じられた。
 そのどこかくすぐったい重みにも、私はすぐに慣れるだろう。
 自分で軽く押さえると、ほんの少し指先に血がついた。その血を舐めようとする前に、矢口の手が、私の手を掴んだ。
「……好きになってもいい?」
ゆっくりとした呟きに、背中が一瞬ピリッと痺れた。
「もう、遅いけど」
自嘲気味に笑って、軽く握られた矢口の手が少し震えていた。
「……もう、好きになっちゃってる」
私にその手が振り解けるはずがなかった。
「……好きだよ」
小さな呟きが、聞こえた。
「……うん」
返した頷きが矢口に聞こえたかどうかはわからなかったけれど。
 私はそっと矢口の唇に自分の唇を重ねた。
269 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時39分47秒
 触れるだけのキスをした後、しばらく俯いたまま、互いに視線を合わせなかった。
 ドキドキと心臓が鳴った。
 まるで子供みたいだ、と思った。
 くい、と、腕を引っ張られて、こつんと額が肩口にぶつかる。
「ねぇ」
至近距離で、まるで小犬のように私を見上げてくる。
「抱きしめたくならない?」
「え?」
「シャワーも浴びたしさ」
いたずらっ子のような笑顔を見せて、矢口の腕が腰に回り、ぎゅっと私を抱きしめた。
 もたれてきた心地よい重みと、暖かい体温に、私はほっとした。
「……圭織に、会ったんだ」
腕の中で、小さく矢口はそう呟いた。
「なっちのお墓参りに行って、そこで圭織に会ったんだ」
ぼんやりとした目でそう言って、矢口はゆっくりと目を閉じた。
270 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時40分29秒
久しぶりに更新しました。
271 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時42分46秒
今夜はここまでにしようかとも思ったのですが、ENDマークまでいこうと思います。
272 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時44分05秒
  >262 読む者さん
>ダメだ、ゆっくり、楽しみに、イイ子で待ってますm(__)m

いつもありがとうございます。
できましたら、最後までどうぞよろしくおねがいします。
273 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時46分42秒
 空は、嫌になるくらい青く透き通っていて、涼しい風が吹いていた。
 なっちが好きだった花を買って、墓地に向かった。
 思っていたより広いその場所に、一瞬戸惑ったが、なっちのお墓を見つけるのに時間はかからなかった。
 それよりも前に、懐かしい後ろ姿を見つけた。
 矢口に気付いた圭織は、驚いたように目を見開くと、ゆっくり表情を笑顔に変えた。
274 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時54分16秒
 お墓に手を合わせた後、ごめん、と、絞り出すように声を出した矢口に、圭織は微笑んで首を降った。
「あのときなっちを止めなきゃいけなかったのは、圭織だよ」
やわらかく包み込むような視線で、圭織はお墓を見つめた。
「あのとき、もし矢口がなっちのこと応援してくれたって、きっと圭織となっちは同じ道を選んでいたんだと思う。……遅かれ早かれ、一緒に死のうとしてた」
圭織の表情には、矢口に対する戒めも、自嘲も、見えなかった。ただ、遠い思い出話を語るような、穏やかさだけがそこにあった。
「仕方ないよね。圭織達が圭織達自身を認めてあげてなかったんだもん」
撫でるように、軽く墓石に手を添える。
 その手が触れるそれは冷たい石なのに、まるで本当にそこに、なっちがいるような感覚に陥った。
275 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時55分58秒
「あのときは、なっちがそうしたいんだったらいいかって思ったけど、ちゃんと言ってあげたらよかったって後悔してる。圭織は、なっちがいたらそれで幸せになれるんだよ、って。だから、圭織がなっちのこと、幸せにしてあげるよ、って……」
不意に瞳の中に見え隠れした寂しさに気付いて、きゅっと唇を噛んだ。
「……圭織は」
「ん?」
「圭織は、なっちがいなくても、……幸せになれる?」
「……いるよ?」
圭織はそっと胸に手を当てた。そして、矢口に柔らかく微笑む。
「なっちは、圭織の心の中にいるよ」

 圭織は、誰よりも綺麗に見えた。
276 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時57分10秒
 じっとしたまま、しばらく沈黙が流れた。
 もしかして眠ってしまったんだろうか、と思いかけたとき、矢口は閉じたときと同じように、ゆっくり目を開く。
 そして、私に預けていた身体を少し離して、大きな目を私に向けた。
「圭織に車で空港まで送って貰って、裕ちゃんに電話しようと思ったんだけど、携帯なくしちゃって、番号わかんなくてさ。……直接会いにきちゃった」
「……矢口の携帯、車に落ちてたから、飯田さん、送ってくれるって」
「え? そうなの? 圭織と話したの?」
「うん。今日、少し。……矢口に、『来てくれてありがとう』って、伝えといてって」
「……そっか」
小さく息をついて、矢口は笑った。
277 名前: 投稿日:2003年08月22日(金)23時58分03秒
「……ねぇ、裕ちゃんが矢口に言ったこと覚えてる?」
「私が言ったこと?」
「うん。ホントは北海道で死のうと思ってたんだ」
無意識に、ぎゅっと抱きしめる腕の力が強くなる。矢口の口から出た「死」という言葉が、私を不安がらせた。
「でも、裕ちゃんが言った『死なないでね』って言葉が、頭の中から消えなくて」
「……」
「なんかもう、呪いかと思った」
「呪いって……」
くすくすと笑い声が聞こえた。つられて、私も笑った。
 「ありがと」と、小さな呟きが聞こえた。
278 名前: 投稿日:2003年08月23日(土)00時01分54秒
「あ」
「なに?」
冷蔵庫を物色していた矢口が、メッセージ入りの缶ジュースに気付く。
「コレ、飲んじゃっていい?」
「え?」
「ダメ?」
「……いいけど」
「ん?」
「お腹壊さない?」
「え、未開封だし、大丈夫でしょ?」
「ならいいけど」
私が出したOKの返事と同時に、プシュと缶の空く音がした。
279 名前: 投稿日:2003年08月23日(土)00時02分47秒
 悪くなってないか心配だったのも確かだったけれど、その缶に書かれていた文字も、私を躊躇させた原因のひとつだった。
 けれどそれも、目の前の矢口を見ていたらどうでもよくなった。
 私が欲しがっていたのは、言葉の残像ではなく、現実の矢口。
 飲み干したジュースの空き缶を一瞥して、矢口はゴミ箱に放り込んだ。ほんの少し、恥ずかしそうに苦笑いして。


 きっと、誰もが何かに依存している。
 そして、誰もが嘘を重ねていく。

 この世界で生きていく為に。
 ちいさな真実を、抱きしめて。 


「今度、一緒に映画でも行こうよ」
矢口の言葉に、私は「そうね」と答えて、頷いた。


 END.
280 名前: 投稿日:2003年08月23日(土)00時07分11秒
完結しました。
281 名前: 投稿日:2003年08月23日(土)00時09分31秒
読んで下さっていた皆様、トロい更新を根気よく待っていて下さった皆様、
ありがとうございました。
282 名前: 投稿日:2003年08月23日(土)00時10分34秒
一応、またプロットを練ってはいるので、そのうちお会いできると嬉しいです。
283 名前:名無し 投稿日:2003年08月24日(日)00時20分39秒
完結おめでとうございます。
そして、ちょっといつもとは違う(自分の思い込みかも)やぐちゅーをありがとうございました。
次回からも大期待しております。
284 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月24日(日)14時05分43秒
完結お疲れ様でした。
話が淡々としてる感じで好きでした。
裕子さん幸せになってよかったな〜なんて思い、次回作も楽しみにしてます。
285 名前:読む者 投稿日:2003年09月03日(水)05時16分48秒
連載終了お疲れさまでした。
最終更新分読後、一度読み返してみました。
良いですね、最後まで変わることのないしっかりとした世界の空気が。
また次作が始められるのを楽しみに待っています。
286 名前:GET ALONG WITH YOU 投稿日:2003年09月05日(金)01時49分22秒
 時々、寂しい目をして遠くを見てる。
 そんなとき、きっと心に描いているのはたったひとりのこと。

 私は、矢口は、もしかしたら矢口自身も気付いていなかったのかもしれないけれど、なつみさんのことが好きだったんじゃないかと思っている。


 夏の終わりに、「忙しいからしばらく会えないと思う」と、矢口が言った。その後に「時間が空いたらメールするからね」と付け加えて。
 実際、メールは時折届いた。
 仕事中携帯の電源を切っている私は、ちょっとした休憩時間にロビーでメールチェックをするのが癖になった。
 『只今、講義中〜』
 写メールで送られてきた、ノートに書かれた落書きに少し笑った。
287 名前: 投稿日:2003年09月05日(金)02時04分53秒
>283 名無しさん
>完結おめでとうございます。
>ちょっといつもとは違う(自分の思い込みかも)やぐちゅーをありがとうございました。

完結して、やっぱりほっとしてます。
ちょっといつもと違うって思っていただけるのは、嬉しいですね。(マンネリになること多いので)

>284 名無しさん
>話が淡々としてる感じで好きでした。
>裕子さん幸せになってよかったな〜なんて思い、次回作も楽しみにしてます。

ありがとうございます。
淡々としたイメージを保つのにけっこう苦労しました。成功してました?(苦笑)
やっぱり裕子さんには幸せになっていただきませんと(笑)。


>285 読む者さん

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
書き込み、ホントに力になりました。
288 名前: 投稿日:2003年09月05日(金)02時05分33秒
完結したときに書いていたプロットとは違うんですが、「東京美人」をちょこっと続けさせて貰うので、よろしくおねがいします。
とりあえず、今夜は触りだけです。
次回更新は、ちょっと未定なんですけど、来週の火曜あたりで。
289 名前: 投稿日:2003年09月08日(月)19時29分38秒
“文化祭、来ない?”
不意に矢口がそう言った。久しぶりの電話だった。
「文化祭?」
確認するように繰り返す。
“うん、今度の土日月”
そうか、と、素直に思った。文化祭の時期なんて、すっかり忘れていた。しばらく会えなかった理由がはっきりしたことに、私は少しほっとした。 
「矢口はなにかするの?」
“1日目ね。夕方にライブすんの”
「ライブ?」
“うん。2曲だけね”
「歌うの?」
“うん。一応ツインボーカル。矢口、コーラスの方が多いんだけど”
矢口が歌っていたなんて、初めて知った。
290 名前: 投稿日:2003年09月08日(月)19時30分22秒
“高校の友達がフォークソング同好会入っててさ、助っ人頼まれたんだ”
「そう」
“準備は殆ど前日に終わっちゃうから、当日は矢口も時間空いてるし、一緒に回らない?”
「……あ」
言い淀んだ私に、矢口の声が少し不安に濁る。
“なんか用事あった? 病院、土曜は12時までじゃなかったっけ?”
「その後、少し仕事が入ってて……。3時頃には終わると思うんだけど」
“3時かぁ……”
「仕事、片づいたらすぐ連絡するわ」
“うん”
ふと、流れた沈黙の後に、戸惑いがちに呟かれた言葉は、私にくすぐったい嬉しさをくれた。
“……これから裕ちゃんち、行ってもいい?”
291 名前: 投稿日:2003年09月08日(月)19時50分15秒
短いけど更新しました。
292 名前:読む者 投稿日:2003/09/15(月) 08:01
良さそうで……期待してしまいますね。
またお待ちしています、頑張ってください。
293 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/05(日) 22:51
待ってます。
294 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:03
「ごめんね、いきなり押し掛けて」
矢口は開口一番、そう言った。
 少し、痩せた気がした。
 それから、少し、髪が短くなっていた。
「別にかまわないわよ、一人だし」
私がそう言うと、矢口は微妙な表情で微笑んだ。
 言うべき言葉がみつからない、そんな表情。
 私が、どうして矢口がそんな表情を浮かべたのか見当もつけられないうちに、矢口は「一人暮らしも悪くなさそうだね」と、見慣れた屈託のない笑顔を見せた。
295 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:27
 矢口が来る時間に合わせて、煎れておいたコーヒーを出す。
「ありがと」
矢口は一口コーヒーを飲みこむと、ふぅ、と大きく息をついて椅子の背にもたれた。
「……泊まってって、いいよね?」
口をへの字に曲げて、捨てられた小犬みたいに大きな目で見上げてくる。
 いったいどこで、そんな表情を覚えるのかしら、とぼんやりと思った。
 「泊めて」とお願いされるより、「泊まっていく」と押し切られるより、私には、なにより効力がありそうだ。
「終電で来てどうやって帰るつもりだったの?」
私がそう言うと、矢口はへへっと嬉しそうに笑った。
296 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:27
「よかった、明日木曜で」
木曜は、クリニックの定休日だ。矢口もそれを知っていて来たのだろう。
「明日、講義は?」
「朝イチのひとつあるんだけど、サボる」
「大丈夫なの?」
「平気。単位、余裕のヤツだし」
「講義は出来るだけちゃんと出て置いたほうがいいわよ?」
「えー……、裕ちゃん、真面目に出てた?」
「まぁまぁ」
「やっぱサボってたんじゃん!」
がーっと叫びながら、矢口の顔は笑っていた。
「……どこか行く?」
余裕で微笑んでみせているけど、気を抜くと手が震えそうだった。
 矢口は、私が内心こんなにドキドキしていることを、知らない。

 オトナのふりをして、余裕をみせて。
 でも、本当はこんなに、心を動かされてる。
297 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:27
「ご飯は? 食べてきたの?」
「うん、ガッコで食べた。練習終わった後に友達と一緒に」

 『友達。』

 大学生が使う言葉として、なんの珍しさも持たない言葉が、不意に心に引っかかった。
 電話で文化祭の件を聞いたときと同じだ。
 なつみさんと飯田さん以外の、矢口の友達の話を聞いたのは、今日が初めてだった。
 さっきの電話で聞いたときと同じ、少し時間が経てば忘れてしまうような些細な擦り傷。

 私の知らない矢口がいる。
 私の知らない矢口の世界がある。

 そんなあたりまえのことに寂しさを感じて、胸が痛む。
298 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:28
 ……これは嫉妬だ。
 私にだって友達がいないわけじゃない。矢口にすべてを話しているわけではない。
 これは、理不尽に働く、独占欲に近い嫉妬だ。

 自分の中の葛藤と見つめていた私に、いつのまにか矢口が距離を縮めていた。
「裕ちゃん、髪、伸びたね」
「え?」
先刻より、ずっと近い位置にある目に、一瞬焦点が狂って、反射的に幾度か瞬きをした。
 それに気付いて、矢口はくすりと笑った。
 何故か見透かされたような気がして、少し赤くなる。
 そのことは私を戸惑わせたが、矢口は気付いてないのか、気付かない振りをしたのか、反応を示さなかった。
 何事もなかったように、会話を続ける。
「髪、伸ばしてるの?」
すっと軽く毛先に指が触れる。髪は解けるように、矢口の指先を滑り降りていった。
「……似合わない?」
矢口は小さく笑って、「そんなことないよ」と口にした。
 そして腕を伸ばして、髪を耳にかける。幾筋かの髪は止まらずに落ちていったけれど、矢口は照れくさそうに笑った。
 その笑顔の意味が一瞬分からなかったけれど、すぐに、今、矢口から貰ったピアスをつけていたことを思い出した。
 そして私は、ほんの少し矢口の頬が赤くなったことに気付いた。
299 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:32
 些細なことに揺さぶられて、独占欲が感情を交差させる。
 寂しさと嬉しさを、複雑に、あるいはなによりもわかりやすく交差させていく。

 届かない願いが切なくとも、届いた願いが喜びをもたらすとも、その先にあるものは大きく違ったとしても、出発点は、同じなのだ。
 欲しいと思った、ただ願った、それだけ。
 きっかけは、心に送られる小さな欠片が、熱いか冷たいか、ただそれだけの違いなのだ。
300 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:33
「……髪、切った?」
「え? あー、うん、先週。ちょっと切りすぎちゃった」
「そう?」
「うん、なんか」
矢口は、照れくさそうに苦笑いしながら、後ろ髪をさする。
「大丈夫、似合ってる」
「そっかなぁ? ホント?」
矢口はしきりに髪を触りながら、複雑な顔をしていたけれど、私は素直に似合っていると思っていた。
 矢口の笑顔に、少し明るめの色とショートカットは似合っていた。

 矢口の笑顔に、心が熱くなる。
 そして、それは多分、お互い様。
 自惚れじゃないかもしれないと、今は思えた。

 些細な出来事が互いを幸せにする好循環。
 そう、だから多分、人は恋をするのだ。
301 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:34
更新しました。
放置気味ですみません。
302 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:36
  >292 :読む者さん
今回は難産になりそうです。(毎回、って気もしますが)
のんびり付き合っていただけると嬉しいです。

  >293 :名無し読者さん
ありがとうございます。
煮詰まっていた時の励みになりました。
303 名前: 投稿日:2003/10/18(土) 00:37
次回は、ちょっと未定です。
待っていていただけると嬉しいです。
304 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/18(土) 14:09
更新キター
305 名前:名無し毒者 投稿日:2003/10/20(月) 14:15
すき。
306 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/26(日) 00:22
更新されてる!!
なんか二人とも初々しい感じがします。
307 名前:読む者 投稿日:2003/11/14(金) 05:31
ゆっくり待つです(^^)
308 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/06(土) 15:06
保全
309 名前: 投稿日:2003/12/08(月) 22:54
 冬になると、矢口の精神は少し不安定になった。
 ── それはたぶん、なつみさんの命日が近づくからだ。

 去年、なつみさんの命日の朝、矢口はじっとベランダから朝日を見つめていた。
 まるで、祈るように。
 それは、どこか神聖で、とても声をかけられるような雰囲気ではなくて、私はキッチンにコーヒーを入れに行った。
 心に残るのは、見てはいけない、矢口だけの空間を覗き見てしまったような、小さな罪悪感。
 矢口が戻ってきたとき暖かいものが欲しくなるだろうと思って、コーヒーを煎れポットにお湯を沸かしたつもりだったけれそ、それはあの空間から逃げるための口実だった。
310 名前: 投稿日:2003/12/08(月) 22:56
 コーヒーを煎れ終わっても、矢口はじっとベランダに佇んでいた。
 動きの早い朝日は、もう円形の姿を空にすべて表していた。
 思い切って、コン、とガラス戸を叩く。
 決して大きな音ではなかったと思うけれど、矢口はすぐに気付いて、振り向いた。
「裕ちゃん」と、声は聞こえなかったけれど、ゆっくり唇が動いたのがわかった。その柔らかな表情にほっとして、私はガラス戸を開けた。
 ひやっとした朝の空気が流れ込む。
「風邪、引くわよ?」
「平気」
小さく微笑んで、矢口が部屋の中に入ってくる。
「コーヒーとココアと、どっちがいい?」
ガラス戸を閉めながらそう聞くと、矢口は「うん」と、返事にならない言葉を返し、私の背中に顔を埋めた。
311 名前: 投稿日:2003/12/08(月) 22:56
 軽く腰に添えられた手が、シャツ越しにでも矢口の手の冷たさを伝えてくる。
 ふぅ、と矢口の溜息が聞こえた。
 腕を腰に回して、しがみつくように身体を寄せてくる。
「……矢口?」
髪も、身体も、冷え切っているのがわかった。
「……あー……、コーヒーが、いいかなぁ……」
そっと冷たくなった手に、自分の手を重ねて、「うん」と私は小さく頷いた。

 私達がコーヒーを飲んだのは、それから、随分経った後だった。
312 名前: 投稿日:2003/12/08(月) 22:57
短いですが、更新しました。
313 名前: 投稿日:2003/12/08(月) 23:02
304 :名無し読者さん
今でも更新お待ちいただけてるのでしょうか?(苦笑)
いつも遅くてすみません。

305 :名無し毒者さん
>すき。
……なんか、照れますね(笑)。ありがとうございます。

306 :名無し読者さん
>なんか二人とも初々しい感じがします。
自分的に、「東京美人」が2人が出逢う話で、これからが2人の物語、なんて気分で書いてます。
初々しい、と言っていただけるのは、とても嬉しいです。

307 :読む者さん
>ゆっくり待つです(^^)
その言葉、とても嬉しかったです。

308 :名無し読者さん、保全ありがとうございます。
314 名前: 投稿日:2003/12/08(月) 23:04
ちょっと迷っているので、次回更新がいつになるかはっきりしません。
(うまく行けば、それなりに更新できるかもしれないんですけど)
放置気味になると思うのですが、投げ出したりはしないので、気長にお待ちいただけると嬉しいです。
315 名前:ミニマム矢口。 投稿日:2003/12/10(水) 00:10
矢中、更新だぁ。何だか切ないモードですね。

作者サン自己ペース更新で♪
気長に待ってます。
316 名前:読む者 投稿日:2003/12/11(木) 06:26
長くはないかもしれませんが、内容は濃密なものを感じます。
その言葉だけで待てます(^^)
317 名前:名無し毒者 投稿日:2003/12/23(火) 19:27
ラブ。
318 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/27(土) 10:47
いいっすねぇ
319 名前:読む者 投稿日:2004/01/19(月) 06:33
あけましておめでとうございますm(__)m
320 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/15(日) 11:54
保全
321 名前:読む者 投稿日:2004/03/28(日) 06:41
段々と良い陽気になってきましたね(^^)
322 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/01(土) 01:58
323 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:50
 テレビでは、昔の映画をやっていた。
 私が生まれていないくらい、前の映画だった。
 時折ちらつくその画面を、矢口は頭にタオルを乗せたまま、じっと見つめていた。
 ぼんやりしているのか、真剣に観ているのか、いまいち判断ができないような表情だったので、声はかけずに目の前にそっとマグカップを置いた。
 コン、という小さな音に気付いて矢口は私の方を向き、マグカップの存在に気付き、「ありがと」と呟いた。
「……ちゃんと髪乾かさないと、風邪引くわよ」
「あー、うん。大丈夫。短いと乾くのも早いしさ」
矢口は笑ったけれど、タオルの隙間から覗く髪は、まだ湿っているのが一目瞭然だった。
「ドライヤー使う?」
「ああ、うん、もうちょっと後でね」
そう言って、矢口はテレビに視線を戻した。
 画面ではヒロインが手で顔を覆って、泣いていた。
324 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:54
「あ、そうだ。これ」
矢口が財布の中から出したのは、小さなチケットだった。
「忘れないウチに渡しとくね」
カラー印刷で、ちゃんとミシン目も入っている。あまり良く覚えていないけれど、私達の時は、厚めの色紙に白黒印刷だった気がする。
「仕事終わるの、3時頃だったよね? 来るの4時くらいになっちゃう?」
「……あ、うん、そうね、多分……」
私が頷くと、矢口は少し困ったように微笑んだ。
「矢口、もしかしたら、迎えにいけないかもしんない。ライブ、4時半からなんだよ。控え室、入っちゃってるかも」
「そう」
「……ステージ、わかりやすいからさ、来てよ、まっすぐ」
「うん、わかった」
私が頷くと、矢口は今度は嬉しそうに笑った。
325 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:55
 少しお酒を飲んで。
 少し部屋を暖めて。
 並んでベットに入ったのは、2時過ぎだった。

 眠そうに目を擦ってから、矢口は少し照れくさそうに笑った。
「明日、渋谷行こうよ。買い物してさ、ゴハン食べて、ブラブラしてさ」
渋谷に行って、買い物をして、ゴハンを食べて、ブラブラして。
 たいした計画じゃないけれど、矢口と一緒に渋谷を歩くのは、とても楽しそうに思えた。
「そうね」
私が頷くと、また矢口は笑った。
326 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:55
 大概、矢口の方が先に眠りについた。
 カーテン越しに零れてくる外の灯りに淡く浮かび上がる、矢口の寝顔が好きだった。
 頬に薄く落ちる睫の影や、僅かに上下する肩や、薄く開かれた唇。無防備な、穏やかな寝顔に、私は安らぎを得る。
 それでも、決まって、頭の隙間に寂しさが紛れ込んでいた。
 すぐそばに聞こえる呼吸音や、パジャマ越しに感じる体温が、私を幾分安心させてくれはしたけれど、自分の中心から滲み出てくるような寂しさは、確実にそこに存在している。
 その寂しさの正体に、私は多分、気付いている。
 それでも、私は矢口の寝顔が好きだった。
 朝になれば離れてしまうだろう、繋いだ手を、軽く握り直して、私もゆっくり眠りに落ちる。
327 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:56
短いですが、保全も兼ねて更新しました。
328 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:58
かなり長く放置していてすみません。
保全してくださった皆様、ありがとうございます。
329 名前: 投稿日:2004/05/18(火) 12:59
最後の方はかなり固まっているんですけど、中間がまだあやふやなままで……。
手探り状態だったりするんですが、週2くらいで更新していこうと思ってます。
330 名前:読む者 投稿日:2004/05/20(木) 08:15
おおぅっ♪ おかえりなさいませ。
いつまでも待ってますので、書ける時に書いてくだされば(^^)
331 名前:名無し読者 投稿日:2004/05/20(木) 16:34
更新待ってました!続きが楽しみです。
332 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/21(金) 13:31
もうだめぽ。
と思っていましたが、作者さんがご健在でウレシイです。
333 名前:読む者 投稿日:2004/06/27(日) 07:57
期待♪
334 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/31(火) 11:22
お待ちしております
335 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/29(水) 13:12
待ちますよ
336 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/09(土) 23:59
待ってるで
337 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/06(土) 10:52
待ちます
338 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/17(金) 14:08
待ってます
339 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/02(水) 12:46
待ってます

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