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さようなら『カントリー・ロード』

1 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)00時55分06秒
 花板で「『イエスタデイ』にもう一度」
 「『カリフォルニア・ガールズ』に憧れて」を
 書いていたものです。
 新しいものを掲載するために、移転してきました。
 どうぞ、よろしくお願いします。

 前スレ 『イエスタデイ』をもう一度
 http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi?dir=flower&thp=1017764578


2 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)00時56分55秒

 さようなら『カントリー・ロード』


3 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)00時59分21秒



 新垣里沙には友だちがいない。

 朝、誰もが昨日の情報を交換し合う時間に、
 学校の廊下側一番後ろの席でこぢんまりと座っていても、
 誰も声を掛けにきてくれない。
 教室中に溢れかえる楽しげなお喋りや、
 廊下から響き聞こえる喧噪などを里沙は努めて耳に入れないように、
 ただ黙って、
 まるで炭酸の抜けたコーラのような味気ない表情で席に座り、
 早くこの苦痛な時間が過ぎないかを待つ。

 今日も特にするわけでもなく、
 里沙は片肘を付きながら、
 ぼんやりと何も書かれていない黒板を見つめていた。
 右手は手持ちぶさたのように机の上で何度も8の字を画く。

 ふざけあった同級生が里沙の机にぶつかってきた。
 ガタリと派手に音がして里沙は驚いたように相手を見つめた。
 相手の女子生徒の目はまるで異物でも見るような目を里沙の方にやり、
 それからぎこちなく「ごめん」と呟いた。
 里沙も咄嗟に何か言おうと、言葉を探した。

4 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時03分32秒

 『いいよ。大丈夫だから……』

 そう、たったのその一言を言えばいいのだ。
 里沙は堅い笑みを作って、声を出そうとした。
 だが相手は、里沙にはもう目もくれずに、
 友だちときゃっきゃと騒ぎながら行ってしまった。
 里沙は深々とため息を吐きだし、何も言わずに机を元の位置に揃え直し、
 それからその行ってしまった同級生の背を目で追った。
 それもすぐに止め、うつむくと力無く肩を落とした。

 机から理科の教科書を引き出すと、
 白紙に近いノートをぺらぺらと指先で捲る。
 どのページも中途半端に文字が止まっており、
 引きかけのアンダーラインが大切なところを強調している。
 里沙はその引きかけの線を指先で上からなぞる。
 里沙はバツ印で赤く染まったテストを思い返しながら、
 ノートに向かって息を吹きかけた。
 (忙しくてもちゃんと見直しておけばよかった)
 今更後悔をしても遅すぎるし、
 たとえ見返して、復習をしていたとしても、
 不完全で欠け落ちたこのノートでは、焼け石に水だったかもしれない。

5 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時04分39秒

 里沙は寂しげな表情でノートを閉じると、
 時間を確かめるように腕時計に目をやった。
 文字盤には変わることのない笑みを浮かべたままのミッキーの姿があり、
 その周りを忙しなく針たちが動き続けていた。
 里沙は急にこの腕時計の人気者が憎らしく思えてきて、
 外そうとしたが、何一つ変わるわけでもないし、ミッキーに罪はない。
 里沙は制服の腕裾を引っ張ると腕時計が見えないように隠した。

 教室の前のドアが開いた。
 担任の平家みちよが慌ただしそうに教室に駆け込んできて、
 息を切らしながら壁掛け時計を見た。
 それからまるで勝ち誇ったかのようにぐっと握り拳を作る。
 それを追うように始業のチャイムが鳴った。

 「っしゃあ、ギリギリセーフ!」

 この世の全ての幸福を手に入れたようにみちよは、
 鼻歌を歌いながら、教卓に荷物を下ろした。
 クラスは騒々しいみちよに呆れ顔であったが、
 誰かがふざけてした拍手に同調し始め、
 いつの間にか騒がしさが戻ってきた。
 みちよは照れたような表情をしながらも、その声援に応える。

6 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時05分42秒

 「そんじゃあ、出席取るで。ほら、席に戻りな」

 みちよは呼吸を整えながら、にこやかな表情で指示を飛ばした。
 がたがたと机や椅子が音を立て、
 やがて静けさがクラスに広がる。み
 ちよは一つ咳払いをすると、
 しっかりとしたハスキーな声でクラスメイトたちの名前を呼び上げ始めた。

 「……っと、次は…新垣」

 「はい」

 里沙は小さな声で返事をした。
 みちよは確認をするように目線を里沙の席の方へと向ける。

 「あんなぁ、おるんやったら、もっとおっきな声で返事せな。
  聞こえへんよ。それとも調子でも悪いんか?」

 「……はい。…あ、いえ」

 里沙の声がますます消沈したように小さくなる。
 みちよはため息を吐くと、出席の続きを始めた。
 里沙はこの場にいることが不釣り合いのような感じに襲われて、
 所在なさげに顔を落とした。

7 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時06分18秒

     *


8 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時07分32秒



 里沙は職員室の前で躊躇したように足を止めた。
 学校は昼休みで校舎のあちらこちらからは黄色い声が飛び交っている。

 里沙はまるで面接前のように制服のスカートを手で撫でつけ、
 二つ分けした黒髪を留めているゴムを直した。
 おそるおそる職員室に首を入れて様子をうかがってみると、
 印刷室前の机でのんびりとお茶を啜っているみちよの姿があった。
 隣には同業者の稲葉貴子が白衣姿で暇そうに雑誌を捲っていた。

 里沙は貴子がいることに一瞬気後れをしたが、
 時計に目をやると時間がない。
 仕方なさそうに里沙は職員室に入ると、
 おずおずと、みちよの方へ近寄っていく。

9 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時10分15秒

 「…あの……」

 突然の掛け声にみちよは大げさに驚き、
 それから何事かと首を後ろに向けた。
 相手が里沙であったため、
 みちよは胸を撫で下ろしながら、回転椅子を里沙の方へと向けた。
 貴子も顔を向けたが、里沙であることを知ると額に眉を寄せて、
 険しい目つきで里沙のことを見つめた。

 「な、なんや。新垣やないの。びっくりしたぁ。何? 何かあったん?」

 「あ、あの…、す、すみません。…これ」

 里沙は大事そうに手に持っていたメモ帳をみちよに見せた。
 みちよは茶碗を机に置き、僅かに濡れた机をハンカチで拭きながら、
 里沙からそれを受け取る。

 「ああぁ、そうなん。そんなら朝のうちに言ってくれればよかったのに。
  分かった。ええよ。でもな、今度は朝のうちに言ってな。
  うちも急に言われたら困るときもあるからな」

10 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時11分23秒

 「ご、ごめんなさい。朝は……」

 里沙は今朝のことを思い出しながら頭を下げた。
 出席を取り終えたみちよは、すぐに他の生徒たちに囲まれてしまった。
 里沙は行って伝えようとしたのだが、
 大勢の前ではとても言えなかった。
 みちよは言葉を切ってしまった里沙に小首をかしげながらも、
 にこやかに微笑み、それから里沙の肩を軽く叩いた。

 「ほら、早うせな。時間ないんやろ。
  うちの方から担当の先生たちには言っとくから。
  どうせろくでもない授業やしな」

 「またぁ、早退? あんた、ええ身分やね」

 もうひとつのこってりとした関西弁が割り込んできた。
 里沙はびくりと身体を震わせると、怯えた目で貴子を見た。

11 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時12分08秒

 「あっちゃん……ええやないの。
  ほら、新垣、早う行きな。気にせえへんでええから」

 「あんなぁ、みっちゃん。
  午後からのろくでもなく、つまらない授業に、
  うちの理科も含まれてるんやけど」

 「あ…っと…ほんまやね。せやったら手間が省けたわ。
  そういうことで新垣は早退するからよろしゅうな。
  なぁにそんな恐い目してるん?
  どうせそんなに力むような授業してるわけやないんやろ」

 明るい口調のみちよをじろりと見た貴子は、
 里沙に目を向け、それから鼻を鳴らした。
 里沙はますます萎縮し、肩を狭める。

12 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時14分48秒

 「補習とかで、うちのプライベート時間を取られるんは気がすすまんの。
  あんた一人に授業するんはうちの二度手間やないの。
  あんた一人が困るだけやったら別にかまわへんけどな、
  うちにまで迷惑かけてるん忘れてるんやないの?」

 「す…すみません…」

 「そんなん。あんた、いつでも暇やないの。
  そんなにぞんざいに突き放さなくたってええやない。
  新垣、稲葉センセの言葉なんて適当に聞き流しとけばええんよ。
  あんたのせいやないし、それにあんたはあんたで一生懸命やってるんやろ。
  せやったら、それも人生や。頑張りや。さ、時間やで」

 みちよが励ますように里沙の肩を軽く叩くと、にこやかに笑って見せた。
 里沙も何とか笑顔で返す。だがその顔は引きつり歪んでいた。

 「す、すみません」

 謝ってばかりで里沙は情けなくなってくる。
 貴子は苛立ったようにぷいと顔を横に背けて、
 雑誌に集中するような振りをした。

13 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時15分59秒

 「うんうん、さ、もうええから行きな。ほら」

 里沙は踵を返すと、職員室から逃げるように出入口に向かった。

 「あっちゃん、言い過ぎやで」

 後ろからみちよの声が聞こえてきた。

 「うちはああいうちゃらちゃらした中途半端な人間が嫌いなんや。
  中学生で働くことがそんなに偉いことなんかね。
  学校を早退してまで。中学生やったら働くよりも勉強やろ。
  少なくともうちはそうやって地道にやってきたんやで」

 「そりゃあ。でもな、人ん家の事情かてあるやないの」

 「あぁ、嫌だ。最近の親は派手な上っ面ばっかり気にして」

 「あの娘はあの娘なりに一生懸命やってるんやから。
  うちらがフォローしてやらなあかんときかてあるやろ」
 
 里沙はみちよと貴子のひそひそ話を背に受けながら、
 うつむきながら、急ぐように職員室を飛び出していった。



14 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月28日(月)01時16分40秒

    ***


15 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月28日(月)23時13分08秒
ずっと楽しみに待ってました、作者さんがんばってください。
16 名前:名無し読者 投稿日:2002年10月30日(水)00時09分29秒
いい感じの出だしですね。興味ひかれますわ。
期待してるんでがんがってください。
17 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)01時59分24秒

 >>15
 レス、ありがとうございます。
 そう言っていただけると、嬉しいです。
 どうぞ、今後もよろしくお願いします。

 >>16
 レス、ありがとうございます。
 何とも言えず、雑な感じの拭えないと
 自分では思ってるんですが、
 そう言っていただけると、大変嬉しいです。


18 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時00分00秒


    ***


19 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時02分25秒



 里沙は息を切らしてビルに駆け込んだ。
 出入口付近で話し合っていた男たちが何事かと、
 さっと脇に退き、里沙の方を驚いた表情で見る。
 里沙は気にも掛けずに、一息吐きながら、
 制服のスカートの裾を直すと、腕時計に目をやった。
 どうやら時間には間に合ったようだ。

 里沙はよく磨かれた御影石のフロアーを歩きながら、
 鞄の中から手鏡を取り出した。
 廊下を靴の踵が叩くたびに心地よい音が鳴り、
 それを耳に聞きながら、
 里沙はツインテイルにした漆黒の髪を手櫛で簡単に梳く。
 濃いめの眉をそっと指で撫でながら、
 鏡に向かってちょこっと微笑んでみると、
 赤く染まった頬には愛らしいえくぼができる。
 僅かに前歯が主張したそうに覗いているのが、
 普段から丁寧に磨き上げている他の歯は、真っ白く整然と並んでいる。
 里沙は鏡を鞄にしまい込むと、急ぐように歩を速める。

20 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時04分24秒

 エレベーターに乗り、四階で降りると、
 腕一杯に道具を積んだ女性がよろよろと歩いてきた。
 ずり落ちそうになったメガネは、どうにか細長い鼻に引っかかり、
 薄茶色のバンダナを頭に巻いている。
 首からはIDカードがぶら下がっており、
 「村田めぐみ」と明記され、のそっとした眠そうな顔写真が印記されていた。
 めぐみは里沙を見つけるとにこやかに挨拶をしてきた。

 「おはよう、里沙ちゃん。早く行かないと斉藤が待ってるよ」

 「あ、おはようございます」

 「今日の収録何時からだっけ?」

21 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時04分57秒

 「四時半からです。
  でも、今日はあたしの出番ちょっとだから、久しぶりに早く帰れそうです」

 「ホント。それはよかったね。
  学業とこっちとの両立、大変でしょ。
  早く帰ってゆっくり休みたいよね。
  私なんかさぁ、ここんとか連日徹夜。おかげで寝不足よ」

 めぐみは愚痴り、生あくびを噛み締めながら、
 里沙と入れ替わりにエレベーターに入っていった。
 里沙は一礼でそれを見送り、楽屋に飛び込んだ。
 自分の荷物を放り、
 いつものように部屋に掛けられた用意された衣装に着替えて、
 いそいそとメイク室へと向かった。

22 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時07分24秒

 メイクの女性は、苛々した表情で里沙を待っていた。
 ふっくらとした輪郭に、少し大きめの口が特徴的だった。
 長めの茶髪が左右均等に分けられている。
 豊満な肉体とは対照的なほっそりとした腕と足が、
 バランスよくすらりと伸びている。
 繊細な指先には丁寧にマニキュアが塗られ、
 櫛で首の辺りをしきりに叩いている。
 この斉藤瞳も里沙とは顔見知りである。

 「す、すみません」

 「遅いよ。ほら、急ぎなさい」

 里沙が謝りながら椅子に座ると、
 瞳は前掛けをばっと広げると里沙の首に回した。
 うっすらとドーランが塗られ、目張りが入れられる。
 小さな唇には薄紅が形よく引かれていき、
 髪は一度解かれると、丁寧に櫛が入れられ、
 再び二つに分けられて、
 黄緑色のプラスチック玉が付いたゴムに付け替えてくれた。
 メイクが終わると里沙はメイク室を出ながら、礼を言った。
 瞳は無愛想な顔で首を振って答えた。



23 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時08分01秒


     *


24 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時10分19秒



 里沙は衣装に皺が寄らないように、気遣いながらスタジオの方へ向かった。
 スタジオにはすでにセットが組まれ、
 幾人ものスタッフが忙しそうに走り回っている。
 何台ものカメラがその動きを確認し、怒鳴り声があちこちに響き渡っていた。

 里沙は挨拶をしながら、
 モニターをチェックしていた髭面で熊のような体躯の男に声を掛けた。

 「今日もよろしくお願いします」

 男はちらりと里沙の方を見て軽く頷いただけだった。
 いつものことなので里沙も気にすることなく、セットの方へと歩く。

 ピンク色に塗られたパネルが立ち、可愛らしい小物が並べられている。
 立体的に作られた窓にはレースのカーテンが掛けられ、
 その向こう側には作り物の青空が広がっていた。
 清潔感に溢れ、
 女の子が憧れるような、ぴかぴかしたキッチンが中央に置かれ、
 その上にコーヒーメーカーやトースターなどが、きちんと配置されていた。

25 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時12分25秒

 「おはようございます。よろしくお願いします」

 里沙はキッチンの脇で、
 スタッフと打ち合わせをしていた少女、藤本美貴に挨拶をした。
 スタッフは二言三言、美貴に言うと急ぐように立ち去ってしまった。

 「おはよう。今日もよろしくね」

 美貴は大人びた表情でにこやかに挨拶を返した。
 薄い黄色と桃色のボーダーの入ったVネックシャツに、
 ベージュのキュロットスカートを身に付けていた。
 形よい健康的な脚がすっと伸び、ブランド物のスニーカーを履いていた。

 「あ、は、はい」

 里沙は緊張した面もちで、頬を強張らせながら、返事をした。

 美貴は里沙の芸能界の先輩であり、同じ事務所に所属をしている。
 新進気鋭なアイドルとして名を馳せ、
 ブラウン管での落ち着きある誠実な立ち振る舞いに、
 段々と好感度を上げつつある。
 つい近頃も単館ものであるが『ある平家の姫の一生』という初主演の映画で、
 平家の姫役を見事に演じきり、好評を得ていた。

26 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時14分32秒

 「でも大変だよね。お互いにさ。
  学校と撮影両立させるのってさ。
  この前も中間テストあったんだけど、
  友だちのノートに頼りっぱなしで。
  でも全然駄目だったんだけどね」

 白くきれいに並んだ歯を見せながら美貴が楽しそうに微笑んだ。

 「そ、そうですね。私も…駄目でした」

 「でしょ。こう毎日忙しいんだもん。
  あ、別に仕事に文句がある訳じゃないよ。
  でもさ、友だちとかと遊ぶ機会も少なくなっちゃうし、
  それに山のように補習用のプリント渡されちゃうしね」

 美貴は大げさに肩をすくめて、それからちろりと舌を出した。

27 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時15分25秒

 「あ、あの…どうやって…そんな風に…」

 里沙は、
 自分とは全く違った学校生活を謳歌している美貴を羨ましく思い、
 おずおずとその「コツ」を尋ねようとした。
 と、男性スタッフがスタジオ中に聞こえるようなダミ声を上げた。
 台本を振り上げているところを見ると、もうリハーサルに入るのだろう。

 「あ、リハが始まるみたいだね。また後で」

 美貴は、ぽんぽんと里沙のなだらかな肩を叩き、
 パタパタと足音を立てながら、
 スタッフの集まる方へと走っていってしまった。

 「あ…い、いえ…」

 里沙は美貴の背に遅れた返事をしながら、
 深々とため息を吐いた。



28 名前:名無し作者 投稿日:2002年10月30日(水)02時16分02秒


    ***


29 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時44分07秒



 渋谷の街は、いつものように雑踏と騒音にまみれていた。
 秋の冷たい風がかさかさと街路樹の枝を揺すり、
 色褪せた木の葉が路上に散り積もっていく。
 日の入りが早くなってきたため太陽はすでに顔を隠し、
 ネオンサインがきらびやかに街を照らしていた。

 人の波は慌ただしげに駅の方に連なり、
 また女子高生と思われる少女たちは、
 携帯電話を片手に持ちながらけたたましい声での談笑を楽しんでいた。

 里沙は学校の校章が印刷された紺色の手提げ鞄をぶら下げながら、
 僅かな寒さから身を守ろうと肩をすくめながら歩いた。
 その表情は疲れきったように眉が落ち、
 口を開けばため息ばかりが出てくる。

30 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時45分28秒

 ブレザーのポケットに入っていた携帯電話が震えた。
 前に収録中に電子音が鳴ってしまい注意されてから、
 ずっと里沙の携帯電話はバイブにしてある。
 里沙は物憂げにそれを引き出し、
 通話相手を確認すると、再度ため息を吐いた。

 「もしもし、里沙? もう仕事終わったの」

 「うん、今から帰るところ。渋谷駅に向かって歩いてる」

 「そう、ずいぶん予定よりも遅いじゃない。
  ママ、聞いてた時間に戻ってこないから心配したのよ」

 「…ちょっと延びちゃったの」

 里沙は苛立ちながらも力無く答えた。

 「遅くなっちゃんだから、タクシーぐらい拾えばいいのに」

 「お金そんなに持ってないし、それにそんなの誰も出してくれないよ」

 「乗ってくればママが出してあげたのに。
  今度から遅くなるようだったらタクシー呼びなさい。
  何なら渋谷からタクシー乗って帰ってきなさい」

 「いいよ。電車乗っちゃえばすぐだから。
  …用事それだけだったら切るよ」

 電話の向こうでは母親が何事かまだ言葉を続けていたが、
 里沙は電話を切った。
 携帯電話をポケットに仕舞うと、大きく息を吐いた。



31 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時46分09秒


    *


32 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時48分30秒



 里沙は幼稚園に入園するよりも先に、
 芸能事務所の養成所に入っていた。

 里沙は小さいころは人懐っこく、
 物怖じしない性格でもあったため、
 ダンスや演技や発声練習などそれなりに楽しんでやってきた。
 『将来、アイドルになりたい』と言えば、
 いつも母親は自分の頭を撫でながら褒めてくれた。
 だから一生懸命練習も続けたし、
 それが夢につながるのならば苦痛もなかった。
 他の子がしていないことを自分がしているという優越感もあった。

 小学校に入る頃からは、
 エキストラからCM、そして日々のオーディションなどの芸能活動に、
 里沙は駆り出されるようになり、学校もよく早退するようになった。
 高学年になると、学校を三分の一程度は休むようになっていた。

33 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時53分08秒

 最初は友だちがあれこれと、
 電話で学校の様子などを伝えてきてくれたのだが、
 いつからかその電話を少なくなっていた。
 時折里沙が学校に顔を出すと、
 どう接していいのか分からないような困惑顔で友だちがいた。

 六年生の頃、
 舞台の仕事で、ちょっとした脇役での出演があり、
 里沙は科白を覚えるために台本を片手に学校に登校した。
 休み時間も惜しむように台本を捲っていると、
 いつの間にか自分の側に友だちがいないことに気付いた。
 ぽつんと誰もいない教室にただ一人里沙だけが座っていた。

 中学校は母親が選んだ私立に入学した。
 だが一度身に付いてしまった人との距離感は、里沙を必要以上に突き放し、
 結局元来の明るさを出すこともできなくなってしまい、
 クラスでは浮いた存在になったまま、現在にまで至っている。



34 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時53分44秒


    *


35 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)01時59分41秒



 里沙はふとゲームセンターの前で足を止めた。
 派手な電飾で覆われ、けたたましい音が店内から洩れ聞こえてくる。
 店頭には数台のプリクラが並べられ、
 その横にガチャガチャの機械がぞんざいに置かれていた。
 UFOキャッチャーのケースには、
 愛らしいぬいぐるみがひしめき合い、
 その前には数人の少女たちがきゃきゃと騒いでいた。

 里沙は腕時計を確認すると、
 少し迷ったように周囲を見渡して、それからプリクラの機械に歩み寄った。
 白い機体はあちこちがすでに傷つき、幾重にもシールが貼られていた。
 里沙は中を覗き込むと、ひょいっと台の上に立った。

 「…一人でもいい…よね」

 まるで機械に断るように里沙は呟くと、
 財布から硬貨を取り出し機械に投入した。
 フレームを選択すると肩の力を抜きながら顔を作った。
 
 カメラの前なら、笑顔でいられるのに…。
 
 身に付いた習慣を恨めしく思いながらも、里沙は笑った。
 かしゃりと機械が低い唸ると、
 里沙はビニールの暖簾を押し退けて台から降りた。
 
 ちょうど店を出ようとしていた人影とぶつかってしまった。

36 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時00分28秒

 「あっ」

 里沙はよろけ、立ち台にぶつかってしまった。
 痛打に里沙は顔をしかめる。
 相手はバランスを失ったように床に腰を落としてしまった。

 「ごっちん。大丈夫」

 里沙は痛みを堪えながら声の方を見た。
 そこにはUFOキャッチャーの前で騒いでいた少女たちが、
 里沙のぶつかった相手を気遣って何か声を掛けていた。

 「……へへ、だいじょぶだよ。ちょっと余所見してたから」

 里沙はぶつかった相手をよくよく見てみた。
 シャープな輪郭に筋の通った鼻と形のよい口が並ぶ。
 愛嬌ほどに離れた大きな目に鳶色の瞳が輝いていた。
 耳たぶには小さな光を放つピアスが揺れ、
 ほっそりと長い指先で茶色く染まった長い髪を照れたように掻いている。

 「す、すみません」

 里沙は気が付いたように謝罪の言葉を述べた。

 「ああ、だいじょぶ? ごめん、こっちもちゃんと見てなかったから」

 『ごっちん』と呼ばれた少女は、
 ひょいっと立ち上がるとスカートを叩き、
 それから肩に掛けた鞄を掛け直した。

37 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時02分39秒

 「もう、そんなにはしゃぐからぶつかっちゃうんだよ」

 がっちりとした感のある少女が、
 鞄を持つ手を後ろに組みながら、注意するように言った。
 その脇にはもう一人髪の長い愛らしい少女が首をこくこくと振る。
 その手には先ほど取ったのだろうか。
 人気キャラクターのぬいぐるみを胸に抱いていた。
 どの少女も同じセーラー服を着ているため、学校の同級生なのだろう。

 「へへ、失敗失敗。あなたは大丈夫?
  さっき何か鈍い音がしたみたいだけど」

 「だ、大丈夫です。す、すみません。
  わ、私の不注意で…。ほ、ほんとうにすみませんでした」

 里沙は慌てたように謝りながら、
 乾き上がったばかりのプリクラを受け取り口から引っぱり出して、
 乱暴に鞄に押し込むと、逃げるようにその場を離れようとした。

38 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時03分38秒

 「あ、…落としてるよ」

 甲高いアニメ声が里沙を呼び止めた。
 ぬいぐるみを抱えた少女は、腰を落として赤紫色の小さな手帳を拾った。

 「…生徒手帳……新垣里沙って、これあなたのでしょ」

 「そ、そうです。す、すみません」

 里沙は戻って生徒手帳を受け取ろうとした。
 すると転んだ少女がひょいっとそれを横取りした。
 まじまじと里沙の顔写真と名前を確認し、
 それから里沙の顔を穴が空くほどに見つめた。

 「な、何ですか…」

 何か因縁でもつけてくるのだろうか、
 と、里沙は身を小さくしながら尋ねた。
 二人も不思議そうに顔を見合わせて、
 友人の奇行に目をしばたたいている。

 「どしたの? ごっちん」

 「…………ねぇ、…もしかして…テレビとか出てたりしない?」

 里沙の胸がどくりと跳ねた。

39 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時04分35秒

 「まっさかぁ。ごっちんの思い違いじゃないの?
  梨華ちゃんは知ってる?」

 「ううん。私は見たことないけど…」

 「他人の空似かもしれないけど、
  何かさぁ、テレビで見たことあるんだよね。
  名前も見たことがある。ねぇ、本当にテレビに出てない?」

 少女は生徒手帳を閉じると、
 里沙の方に差し出しながら質問を重ねた。

 「……は‥い。出てますけど……」

 里沙は聞こえるかどうかの声で答えた。
 だがそれを耳敏く聞いた少女はぱっと顔を輝かせた。

 「やっぱり!
  ねえねえ『ミキちゃんとがんばろう!』のリサちゃんでしょ。
  そうだ、うん、見覚えあるもん」

 少女は素早く里沙の手を取ると激しく振った。
 一方の里沙はどうしたらよいのか戸惑ってしまい、
 逃げ出そうかと足を引いた。
 彼女の友人たちも状況が分からず、ぼんやりと二人の様子を眺めていた。

40 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時08分30秒

 「あ、サインしてよ。
  ええっとメモ帳は……。
  あっ、それでいいや。
  あたしの名前、後藤ね。後藤真希。
  ここら辺に名前入れてくれると嬉しいな」

 「ああん、ちょっと、ごっちん。私が取ったのに……」

 真希と名乗った少女は里沙の手を離し、
 隣に立つアニメ声の少女の手からぬいぐるみを奪い取ると、
 その腹部の白い部分を指さした。
 それから目を輝かせて里沙の方を嬉しそうに見つめた。

 「あのぉ、ごっちん? この娘って有名なの…?」

 「なぁに言ってんのよ、よっすぃー。
  教育テレビの『ミキちゃんとがんばろう!』知らないの?」

 よっすぃーなる少女は困ったように顔をしかめて、
 梨華ちゃんと呼んだ少女に目で尋ねた。
 彼女も知らなかったらしく首を横に振る。
41 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時09分46秒

 「駄目だなぁ。
  あのね、毎回ミキちゃんとその妹のリサちゃんが、
  いろんなことに挑戦していく番組なんだ。
  で、その妹やってるのがここの里沙ちゃんなんだよねぇ?
  あ、ミキちゃんはあの藤本美貴だよ」

 真希はまるで自分のことを言うかのように胸を張った。
 里沙はますます困ってしまって、
 真希から強引に胸に抱かせられたぬいぐるみを持て余しながら顔を落とした。

 「梨華ちゃん、見たことある?」

 「ううん、私、ないけど…。
  あ、でもそう言われてみると、
  なんかのCMで見たことがあるような…ないような…?」

 「んもう、夏休み中に普通見るでしょ。
  ほら、朝からテレビ点けっぱなしにしとくじゃん。
  そういうときの番組ってたいてい教育テレビでしょ。
  お昼は『笑っていいとも』だけどさ」
42 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時10分24秒

 「いや、それは分かるけどさぁ。
  普通見ないじゃん。教育テレビって。
  再放送のドラマとかアニメだったら分かるけど」

 「それに今年は夏休み中、
  保田さんが最後だからって張り切っちゃってて練習大変だったでしょ。
  午前中から夕方遅くまで。
  ごっちん、全然来なかったから知らないかもしれないけどね。
  テレビ見てる暇なんてなかったもん」

 「あ‥れ? そうだったけ? へへへ。
  ……あ、書いてくれた?
  ごめんね、こっちばっかり勝手に話しちゃってて」

 旗色が悪くなったのか真希は頭を掻きながら里沙の手元を覗き込んでくる。

43 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時11分50秒

 「わ、私、サインとかしたことなくて。
  ‥こんな感じでいいですか」

 里沙は妙に角張った筆跡で書いたサインを見せた。
 中に綿を詰め込んでいるため安定感がなく、
 文字といってもでこぼことした不格好なものであるが、
 それでも真希は喜んだように、
 里沙からぬいぐるみを受け取ると何度もそれを胸に抱いた。

 「いいよ。わぁ、うっれしいな。
  あ、よっすぃーとかも書いてもらえば。
  あ、紹介するね。こっちの娘がよっすぃー、吉澤ひとみちゃんで、
  こっちが梨華ちゃん。石川梨華ちゃんね。
  武蔵野にある私立高校の同級生なんだよ」

 「あ、あたしはいいよ。ねぇ」

 ひとみは梨華と顔を見合わせて大げさに両手を振った。

 「そう? せっかくの機会なのに…」
44 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時12分30秒

 「それじゃあ、私はもう帰りますね」

 里沙は鞄を背負い直すと、いそいそとその場を立ち去ろうとした。
 ちょっとのつもりで立ち寄ったのだ。
 急がなければまた母親が電話を掛けてくるだろう。

 「あ、ねぇ、ちょっと待ってよ。ね」

 里沙の事情など露ほども知らない真希が引き留めてきた。
 里沙は足を止めずにいられなかった。

 「せっかくだから一緒にプリクラ撮ろう。ね」

 真希の笑顔に、里沙も強張った笑顔を返した。



45 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月01日(金)02時13分03秒


    *


46 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月03日(日)06時59分34秒
新垣の話は珍しいですね、これから楽しみです。
47 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時50分33秒

 >>46
 レス、ありがとうございます。
 ちょっと気弱な新垣なんで、心配です(w
 ただ期待にそえるようには、頑張っていきたく思いますので、
 これからもよろしくお願いします。


48 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時51分04秒


    *


49 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時52分19秒



 「ただいまぁ」

 疲れ切った声と共に里沙は玄関を開けた。
 台所からは甘く香ばしいカレーの匂いが漂ってくる。
 里沙は空腹を覚えながら、ダイニングへと入っていった。
 ダイニングにはテーブルに両肘を付けて、
 両拳の上に顎を乗せた母親が座り、
 妹はソファーに横たわりながら、つまらなそうにテレビを見ていた。
 父親はまだ帰ってきていないようだ。
 テーブルの上には里沙と父親の皿だけが置かれ、
 中央の木製皿には、生野菜が山盛りになっていた。

 「遅かったじゃない」

 明らかに不満げな表情で母親が里沙を見ながら言った。
 妹は五月蠅そうにテレビのボリュームを一つ上げた。

 「しょうがないじゃん。
  撮影が順調に進まないことだってあるんだから」

 「そうじゃなくて、電話してからずいぶん経ってるのよ。
  遅くなるんならタクシー拾ってきなさいって言ったじゃない」

 「そんなこと言ったって……」

 里沙は口ごもりながら所在なさげにうつむいた。

50 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時53分06秒

 「もっと自分のことに気遣わなきゃ駄目よ。
  あんたはスターの卵なんだからね。ご飯は?」

 母親は重たげに腰を上げて、
 カレーを温めるためにガスコンロに火を点けた。

 「……お腹減ってないからいらない」

 里沙は心にも思っていないことをぼそりと呟いた。
 母親はお玉を操る手を止めて、
 眉をひそめながら、戒めるように言った。

 「駄目よ、食べなきゃ。
  ちゃんとした食生活を送ることも大事なことなのよ。
  ほら、席に座りなさい」

 「いいの! いらない」

 里沙は踵を返すと、
 ダイニングを飛び出して階段を上がった。
 下からは母親が何か言ってくる。
 それに合わせてテレビの音量も上がった。

 里沙は自分の部屋に入ると鍵を閉めて部屋に電気を灯した。
 ぼんやりとした青白い光が広がり、
 里沙は自分の鞄をベットに投げ捨てると、
 珊瑚色のカーテンを無理矢理に引いた。
 外はすっかり日が落ち、
 枯れ落ちそうな葉が風に揺すられるごとに力無い音を立てた。
 里沙は机に覆い被さるようして椅子に座った。
 今更になって一層空腹感が増してくる。

51 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時54分56秒

 ぼんやりと顔を腕に埋めながら里沙は、
 後藤真希という女子高生のことを思い返した。
 屈託ない笑顔でプリクラを撮った後、
 色々と芸能界のことを聞いてきた。
 ひとみが言うには真希の夢は歌手になることらしい。
 『ごっちんの歌は、上手いんだから』
 真希は照れながら、ひとみの肩をばしばしと叩いた。
 里沙は真希の笑顔に引かれるように自分の体験を語った。
 そのせいでいつの間にか時間が過ぎてしまったのである。

 聞けば三人は高校で演劇部に所属をしており、
 厳しい(三人ともかなり強調していた)練習を終えて、
 その帰りに渋谷まで遊びに出てきていたそうだ。
 最初はひとみも梨華も遠慮がちな様子であったが、
 徐々に里沙の話に興味を持ったようで、
 別れる頃には親しい口調で話しかけてくれるようになった。

52 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時56分17秒

 里沙は気怠い身体を起こして、
 鞄から四人で撮ったプリクラを引っぱり出した。
 真希は数年来の友だちのように里沙の肩に手を回し、
 後ろには所狭しとひとみが割り込み、梨華は半分顔が切れて写っている。
 里沙だけがぎこちない笑みで、真希から離れるように首を外に傾けている。

 里沙がプリクラを一枚剥がし手帳に貼っていると、
 携帯電話が鈍い音を立てながら震えた。
 里沙はいそいそとブレザーのポケットから電話を取り出してみると、
 メール着信で、
 先ほど電話番号とアドレスを交換したばかりの真希からだった。

 『今日は楽しかったよ。
  また色々話を聞かせてね。
  休みの日があったら、一緒に遊ぼうね。
  マキ』

 「……後藤さんっていい人なんだ」

 里沙は携帯を机に置くと、再びプリクラに目をやった。
 真希の満足げな表情が、
 里沙は心の内にやんわりとした暖かみを与えてくれた。



53 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月05日(火)01時56分48秒


    ***


54 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時39分28秒



 真希はほぼ毎日のようにメールやら電話やらを里沙にくれた。
 最初はそれを鬱陶しく感じたりすることもあったのだが、
 真希の芸能界に対する想いなどを聞いていると、
 里沙もいつの間にかその話に引き込まれ、
 自分の愚痴を聞いてもらったり、
 悩みなどを相談するようになっていた。

 特に里沙は、学校のことをよく真希に話した。
 自分に友だちがいないこと。
 もしかすると嫌われているのかもしれないと思っていること。

 真希は照れながらではあるが、
 からからと笑いながら、自分の経験を話してくれた。

 「あたしさ、実は中学生の頃、不登校だったんだよね」

 「えっ」

 「ろくな連中がいない中学でさ。
  上級生からは『生意気』って目は付けられるし、
  同級生は見て見ぬ振りだし。
  だから学校行くの止めちゃった。
  ほんとは高校も行かないで、
  バイトしながら、ストリートとかで歌いたかったんだけど、
  親がどうしても行けっていうからさぁ。
  嫌々行ったんだけど、
  まぁ、そのおかげで、よっすぃーとか梨華ちゃんとかと会って、
  やっと友だちができたって感じかな」
55 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時41分12秒

 「…なんか…私、浮いちゃってる感じがして…。
  …先生の中にも私のこと嫌ってる人がいるし」

 「ああ、そういうのっているよねぇ。
  人を勝手に判断して、レッテル貼るヤツ。
  こっちだって色々と悩んでるんだってのに、
  相談にものってくれないでさぁ。
  いいの、いいの。そういうのは相手にしなくてもさ」

 「……はあ」

 「ま、でも大丈夫だよ。
  里沙ちゃんが友だちを作りたいって思ってるんだもん。
  きっとみんなだって、
  里沙ちゃんから色んな話とか聞きたいんじゃないかなぁ?
  ただ、そのタイミングみたいのがつかめなくって、
  それで距離ができちゃってるんだと思うよ。
  だから里沙ちゃんからどんどん行っちゃったほうがいいんじゃないの?
  きっと誰とでも仲良くできるよ」

56 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時42分39秒

 里沙にとって真希の言葉は力強かった。
 翌日学校に行けば、
 すぐにでも友だちが作れるような気持ちになってくる。
 だが、現実にはそうもいかずに、前日の心意気はどこへやら、
 学校に登校すると、すぐに縮こまってしまい、
 じっと動かぬ銅像に変わってしまう。

 里沙は真希にメールで相談を重ねた。
 すると真希からもわざわざ丁寧にメールが送られてきた。
 時にはメールで打つのが面倒だからと電話を掛けてきてくれては、
 親身に相談に乗ってくれた。
 日々積み重なっていく真希の心遣いは、
 里沙の心にほっとしたものを与えてくれ、
 それと共に真希に対する信頼感や安堵が生まれ、
 今の里沙にとって尊敬のできる最も大切な人となりつつあった。



57 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時43分23秒


    ***


58 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時44分53秒



 里沙のように駆け出しの芸能人にとっては、
 オーディションも大切な活動である。
 先輩の美貴のように名が売れたアイドルであれば引く手数多であるが、
 里沙はまだまだ無名の新人の域を抜けない。
 教育テレビの『ミキちゃんとがんばろう!』の美貴の妹役は、
 里沙が初めて得た大役であり、
 それの役を射止めるまでの苦労は並大抵のものではなかった。

 どうにか事務所の端っこに名前を連ねている里沙には、
 養成所がオーディションの応募用紙を手渡してくれる。
 そこで勝ち残り、
 芸能人としての階段を上っていかなければならないのである。
 最近は『ミキちゃんとがんばろう!』のおかげか、
 知名度もそこそこのものになってきたようだが、
 それでもオーディションは、まだまだ里沙にとって必要な活動である。

59 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時52分12秒

 養成所付きの女マネージャーが、
 複数の芸能人の卵を見ていてくれているのだが、
 ほとんどは自分たちでやらなければならなかった。
 事務所が交通費などを捻出してくれるわけでもなく、
 そういうことは母親がやっている。
 すっかりステージママ気分の母親を見ていると、
 里沙は言いようのない苛立ちを覚えた。

 母親は習い事の一環ということで始めさせたと言っていた。
 だが最近になって、実は母親が芸能界に憧れていて、
 自分の娘はどうにかしてアイドルに育て上げたい、
 という夢を持っていたことを、父親の笑い話から知った。
 つまり母親の夢を里沙が背負ったということになる。
 それを聞いたとき里沙は、
 今まで自分で立てて、それに向かって邁進していると思ってきた夢が、
 脆い蜃気楼のようなものに変わってしまったように感じた。

 特に真希が夢を持って、
 それに向かい努力をしている姿を見てからは、
 自分が何でこんな不条理な夢を抱き、
 学校でも浮くような思いをしながら、
 芸能界に居座っているのかという考え、悩み始めた。



60 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時53分01秒


     *


61 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時53分58秒



 「ねぇ、二十日の日曜日って里沙ちゃん、暇?」

 ある晩の電話で真希が唐突に聞いてきた。

 「二十日‥ですか?」

 里沙は手元にあった手帳を引き寄せて、
 携帯電話を肩に挟み込みながらページをめくる。
 十月二十日にはバースディーケーキのシールが貼られていて、
 蛍光ペンで『十五歳の誕生日』と自分の字で書いてあった。
 その下には新春より始まる、
 連続テレビドラマのオーディション予定も書き込まれていた。

 「二十日にね、あたしの学校で文化祭があるんだ。
  でさ、前にあたしって演劇部に所属してるって言ったでしょ。
  発表があるんだよぉ。
  だからぜひとも見に来てもらいたいんだ。
  まぁ、どういうわけか主役に選ばれちゃって、
  男役とかやるもんだから、
  プロの目でどんなもんかなって見てもらいたいなって思ってね」

62 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時54分38秒

 「プ、プロだなんて、そ、そんなことないです」

 「そんなに謙遜しないでよ。
  だって芸能界で仕事してお金もらってるんだから、
  どんなに小さい仕事でもプロの仕事には変わりないよ」

 真希の朗らかな、それでもしっかりとした言葉に、
 里沙はますます敬意を払ってしまう。

 「そ、そうですね。頑張ります!」

 「あは、里沙ちゃんが頑張るんじゃなくって、
  あたしが頑張るんだけど、ね」

 「あ、そ、そうですよね」

 「それでどう? 二十日は?」

 真希の期待したような声に、里沙は思わず電話を持ち直した。
 それからしどろもどろで答える。

 「……そ、その日は…わ、私の誕生日で‥。
  そ、それで家族で出掛けるかもしれないから…いけるか…どうか……」

63 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時56分04秒

 『オーディションでその日は遊べないの』

 小学生の頃、里沙は何度もこの理由で友だちの誘いを断ってきた。
 友だちは表面上はすぐに理解してくれたように、
 『あ、そうなの? 残念だね。オーディション頑張ってね』
 という言葉を里沙に掛けてくれた。
 だがその目はどこか冷ややかで、
 他の同級生の元に戻っていくと、
 里沙の方を見ながら何かこそこそと耳を寄せ合って話していた。
 そして次からは、誘ってくれなくなった。

 本当のことを言ったらいけないんだ。
 里沙はそう思うようになった。
 だからこの状況でも里沙の口から自然と嘘がこぼれ落ちた。
 真希にだけは嫌われたくない。
 里沙の声は自然と震えた。

64 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時57分25秒

 「ええ、里沙ちゃん、二十日が誕生日なの。
  なんだよぉ。それを早く言ってよ。
  それじゃ何かプレゼントあげなきゃ。
  ねぇ、ねぇ何がいい?
  あ、でも、それじゃ家族とどっかに食べに行ったりするかぁ。
  じゃあ……。
  あ、でもさ、何だったら家族で来てくれてもいいよ」

 「え、え?」

 里沙の予想とは異なり、真希は案外としつこかった。
 里沙は戸惑ったように目をきょろきょろさせながら言葉を探す。
 自分を落ち着かせるように乾ききった厚い唇を舌で撫でた。

 「ど〜せ、高校の文化祭だから、タダだし。
  下らないとか思うかも知れないけど、でも良かったら来てよ。
  あ、下らないとかって言ったら、圭ちゃんに怒られちゃうかな。
  圭ちゃんってね、演劇部の部長なんだけど、
  そりゃあもう演劇に命を賭けてるようなものでさぁ。
  特に今回が高校生活最後の公演だから気合いが入りまくっちゃてて……」

 真希は口ではあれこれと文句などを言いながらも、
 それでも楽しそうに喋り続けた。

65 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時59分12秒

 里沙はもう一度手帳を見てみる。
 オーディションは午後の六時から、
 恵比寿のとあるスタジオで行われる。
 真希の通う高校の最寄り駅は武蔵境駅であると聞いた。
 乗り換えはあるが、三十分ぐらいで着くだろうか。

 「あ、あの……その劇って何時からですか?」

 「うん? …………ええっと一時半からかな。
  うちの学校って結構演劇凄いから、
  文化祭の目玉企画ってことで舞台の締めを取るのが通例なんだ。
  終わるのはだいたい三時くらいかな」

 時間は十分にある。

 (ママにだって遅れなければ、ばれない…よね)

 里沙は緊張をほぐすために唾を飲み下すと、
 意を決したように言った。

 「二十日……後藤さんの劇、見に行きます」

 「え、ほんと? 見に来てくれんの?
  それじゃあ、はりきってやらなきゃ。
  恥ずかしいとこなんか見せらんないからね」

 電話の向こうで真希が気合いの一声を上げたのが聞こえた。
 里沙はくすりと笑い、
 真希を傷つけることがなかったことにほっと胸を撫で下ろした。



66 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月08日(金)01時59分43秒


    ***


67 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月09日(土)12時36分57秒
あまり見ない組み合わせなのに、人間関係がリアルに思えてきます。
新垣と後藤のやり取りが妙に微笑ましくて好きです。
68 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)00時54分03秒

 >>67
 レス、ありがとうございます。
 新垣らしさ、後藤らしさが出て、
 伝わっているのならば、嬉しく思います。
 どうぞ今後もよろしくお願いします。


69 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)00時54分47秒


    ***


70 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)00時57分25秒



 音楽室の方からずれた金管楽器の音が、風に乗って聞こえてくる。
 打楽器がぱらぱらとその後に続く。
 校庭の方角からは笛が断続的に吹かれ、
 その度に大きな声援と記録を告げる声が里沙の耳に届いてきた。
 がらんとした教室は下がりつつある夕日に照らされ、
 どこか寂しげな風情がある。
 半開きになった窓からは爽やかな秋の風が忍び込み、
 純白のカーテンがそよそよと揺れた。

 里沙はシャープペンを持つ手を止め、ふっと顔を上げて、
 ゆっくりと沈んでいく夕焼けに見とれるように目をやった。
 それから教卓に目を持っていく。
 そこにはすっかりだらけきった顔で突っ伏している貴子の姿があった。
 裾の汚れた白衣は皺が寄り、だらしなく垂れ、
 半開きの口からは軽いいびきが洩れ聞こえる。
 里沙は困ったように太めの眉をひそめ、
 机の上のプリントを見る。
 そこには先ほどから里沙の頭を悩ませている、
 意味不明に等しい化学式が並んでいた。

71 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)00時59分00秒

 「どうや〜、進んでる?」

 がらりと教室のドアが開いて、みちよが顔を覗かせた。
 ぴくっと貴子は身体を震わせたが、
 それでも起きる気配はなかった。

 「あ、は、はい」

 「う〜ん、感心感心。……で、こっちは何やってるん?」

 みちよは里沙の前の机に座ると、
 貴子の方を呆れたように顎で差しながら尋ねた。
 里沙も困惑したように小首を傾げる。

 今日は久しぶりに芸能活動がなかった。
 そのため里沙は、みちよに放課後補習を入れてくれるように頼んだ。
 みちよは快く承諾してくれ、渋る貴子も連れてきてくれたのだ。
 先ほど校内放送でみちよが呼ばれ、
 その間貴子は里沙が困っている表情を嘲笑っていたが、
 いつの間にか教卓に突っ伏して眠っていた。

 「ったく、仕方ないなぁ。あっちゃん、ほら」

 「あ、いいです。私の勝手なお願いでしたから。
  それよりもこっちを教えてもらえますか?」

 里沙は空白の目立つプリントを退かして、
 国語の問題集をみちよに見せた。
 貴子に向かって軽く息を吐くと、みちよはどれどれと覗き込んできた。

72 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時01分00秒

 国語教師のみちよは、
 人柄は穏和で、年も若いためか生徒からは支持がある。
 教師同士ないでも丁重な態度に、
 仕事に対する責任感もあるためか、かなり信頼されているようだ。
 かくいう里沙もみちよにはかなりの部分助けられ、いつも感謝をしている。

 「…………で、どないなん? 最近は。
  『ミキちゃんとがんばろう!』。毎週楽しみに見てるでぇ。
  あんた、ずいぶん頑張ってるやん」

 里沙は恥ずかしさに顔を赤らめながらも、
 それを誤魔化すように必死でペンを動かした。

 「このまま中学卒業したらどうするん?
  ここの高校行くつもり? それとも高校行かへんとか…。
  うちは、このまま高校ぐらいは、
  行っといたほうがええとは思ってるんやけど…」

 里沙の通う中学校は大学までの一貫式である。
 そのため、ほとんどのクラスメートは、
 中三のこの時期になっても目の色も変えずに、
 安穏とした日々の生活を送っている者が多い。
73 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時02分29秒

 「い、いえ…、その‥別の…高校受けてみようかなって思って…。
  …行きたい高校があるんです」

 この答えにみちよは驚いたように里沙を見た。
 だがすぐにその表情も消え、どこか嬉しそうに笑った。

 「へえ? ずいぶんチャレンジャーやん。
  このまま芸能活動も続けるんやろ。
  そんじゃあ、ずいぶんとがんばらなあかんやん。
  ったく、他の怠けた連中らには新垣のこと見習ってもらいたいわ」

 そこで一度みちよは言葉を切ると、
 急に真面目な顔に戻って里沙を見つめた。

 「そんで、そのことはちゃんとお母さんに言ってあるんやろうな?」

 里沙はみちよから逃れるように視線を外した。
 教卓で眠っている貴子が激しく鼻を鳴らした。

 「…その様子やとまだなんやな」

 みちよは片肘を付き、軽く息を吐いた。

 「す、すみません。まだ‥ママには……」

 「ま、そんなことやろうと思ったけどな。
  うちは、あんたの人生やから、
  好きなようにやったらええと思ってるんやけど。
  せやけど……」

 みちよは言いづらそうに言葉を濁し、里沙の方をちらちらと見る。

74 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時04分22秒

 分かっている。
 みちよは里沙の母親が苦手なのだ。
 一学期の中間テスト後の三者面談で、
 みちよのちょっとした提言を聞いた里沙の母親が、
 怒りだしてしまったのだ。

 『そんなことはあなたみたいな学校の先生に、
  言われなくても分かっている!』

 さすがに温厚のみちよも気に障ったようで、
 売り言葉に買い言葉、
 我を忘れたように激しく反論をした。
 後は騒ぎを聞きつけた他の教師たちが来るまで喧々囂々の罵りが続いた。
 その間、里沙は激昂する二人の大人の間で挟まれ、
 身を小さくして、黙ったままだった。

 「言いづらいかもしれへんけど、早めに言ったほうがええで。
  あんた、受験したいんやろ。
  せやったら後悔しないようにせな。
  何やったら、うちから言おうか?」

 みちよはあの時のことを思い出したように苦笑をしながら言った。
 里沙としてはますます肩身の狭くなる思いである。

 「…い、いえ、大丈夫です。自分で言えます」

75 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時06分01秒

 「そうか? しっかし、びっくりやなぁ。
  あんたも色々なこと、ちゃんと考えてるんや。
  まぁ、あんまり根を詰めすぎずに頑張りや。
  うちでよかったらいつでも力になるから。
  …あっちのもな」

 みちよはくすくす笑いながら貴子を指した。

 「でも、私、稲葉先生には、
  あんまり…好かれてないみたいですから……」

 「そんなことあらへんよ。
  ああ見えて稲葉センセ、あんたこと結構心配してるし。
  まぁ、しいて言えば嫉妬…かな?」

 「嫉妬…ですか?」

 「そ。あのな、絶対にうちが言ったこと、
  あっちゃんに聞いたりしたらあかんよ」

 みちよが里沙の耳元に口寄せてきて囁いた。

 「あのな、ああ見えてな。
  昔、芸能人になりたいって思ってたんよ。あっちゃん」

 「ふぇ?」

 里沙は唐突のみちよの言葉に間の抜けた声を出してしまった。
 するとますます可笑しげにみちよは言葉を続けた。
 里沙は、涎を垂らしながら幸せそうな顔をしている貴子に、
 意外そうに目をやった。

76 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時07分41秒

 「びっくりやろ。あ、新垣とは別の路線やで。
  お笑いの方向でな。
  でもな、親が猛反対してな、
  結局大学出て、今の仕事に就いたってわけや」

 「お、お笑い…?」

 里沙は、ハリセンを持ってパシパシと貴子が、
 誰かの頭を叩いている姿を空想してみた。
 厳格で険しい表情の貴子なのに、
 何故かその姿が容易に想像できてしまうのが不思議である。

 「そんな感じやから、ま、多めに見てやってよ。
  きついけどな、あれがあっちゃん流の心配の仕方なんやから」

 悪戯っ子のようにみちよは席を立ち上がって、
 貴子に近寄るとその頬を抓った。

 「……い、いたたたた」

 貴子が掠れた悲鳴を上げながら、目を覚まし、
 頬を握ったみちよの手を払った。

 「ほら、補習中にあんたが寝ててどうするん?
  新垣が困ってるやないの」

 「あ、みっちゃん。……って」

 寝ぼけ眼で赤く染まった頬を撫でながら、
 ぼんやりとしていた貴子は、
 はっとしたように自分の頭に手をやった。
 まさぐるように自分の頭を何度も確認している。
 それからほっとしたように貴子は安堵したように胸を撫で下ろした。

77 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時08分38秒

 「どないしたん?」

 「え、あ、何かアフロになって奇声上げてる夢を見た…」

 気の抜けたような貴子は涎の残る口端を紺色のスーツで拭いながら言った。

 里沙の脳裏にアフロになった貴子の姿が思い描かれる。
 何だか似合いすぎていて、
 しかも手にマイクなんか持ち合わせて
 (小指が当然のごとく、ぴんと立って)、
 シャウトしている姿だった。
 ぷっと里沙は思わず吹き出してしまった。
 誘発されるようにみちよも声高に笑い出した。

 「な、何、二人して笑ってるねん。
  だ、大体、な、なんで新垣がここにおるん?」

 「あんなぁ、あっちゃん。
  何寝ぼけてるん? ここ学校やよ」

 取り乱した貴子は思い出したように、
 焦りながら里沙からプリントを取り上げて、
 ぶつぶつといちゃもんをつけ始める。
 それが滑稽に見えて、ますます里沙とみちよは笑い声を上げた。



78 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月10日(日)01時09分23秒


    ***


79 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時41分18秒



 里沙は自分が晴れ女であることを確信している。
 大事な行事や仕事の時には絶対に雨降りだったことはない。
 十月二十日、つまり自分の誕生日で、
 真希の学校の文化祭の日も、
 前日までの細やかな秋雨はすっかりと鳴りをひそめ、
 雲一つない空色が広がっている。
 柔らかな陽の光は拡散し、
 校門までに続く銀杏の木を照らしていた。
 黄色く染まった赤子の手のような葉は、
 緩やかな風に誘われるように身をそよがせていた。

 校門には力作の門が組み上げられていたが、
 雨に濡れたためか表面に張り付けた模造紙が、
 力無くぺらぺらと剥がれかけていた。
 校門からは一直線に露天が並び、
 ソースの焦げる匂いや賑やかな騒ぎ声で包まれていた。
 普段の静やかな学舎とは違った華やかさがあった。
 どこもかしこも学生の若々しい活力に溢れていた。

80 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時42分38秒

 里沙はきょろきょろと辺りを見渡しながら、
 会場である体育館を目指した。
 黄色いトレーナーとチェックの入ったミニスカートに、
 黄緑色のジャケットを着込んでいる。
 髪はいつものように振り分け髪にし、
 唇には色つきのリップクリームを引いてきた。
 里沙は他人の足を踏まないように注意深く進む。

 母親には今日はみちよが特別に補習をしてくれると嘘を吐いて出てきた。
 母親はみちよの名を聞いていい顔はしなかったが、
 それでもにオーディションの時間だけは守るようにと注意をしただけだった。
 里沙は別の言葉も期待したのだが、
 母親は選んだ衣装を丁寧にたたんでボストンバックに入れ、
 『頑張ってね』と里沙を送り出した。

 「…今日、誕生日なのに……」

 思い返した里沙は今更ながらであるが、ぼそりと呟いた。



81 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時43分18秒


    *


82 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時44分44秒



 体育館は里沙の中学校のものよりも大きかった。
 白塗りの壁は鈍く光り、
 窓には黒いカーテンが引かれていて中の様子は分からなかった。
 手作りの立て看板が出入口前に立てられ、
 そこには『青いヴァイオリン弾き』とペンキで誇張して書かれていた。

 体育館の中は密閉状態でむっとした空気が立ちこめていた。
 パイプ椅子が会場一杯に並べられ、
 すでに多くの人たちが座っていて騒がしい。
 パタパタと団扇で扇ぐ音が響き、時々重たげなため息が聞こえてくる。

 里沙はできるだけ前の方でと思って、
 二列目の左端にちょこりと座った。
 自然と汗が流れてきて、里沙はそれをハンカチで拭うと、
 暑そうにジャケットを脱いで椅子に掛けた。
 時計を見ると一時十五分を過ぎた所である。

 「あのぉ、ここの隣り、いいですか?」

 唐突に声を掛けられて里沙は、
 思わずハンカチを握りしめながら、はっと顔を上げた。
 この学校の生徒なのだろう。
 セーラー服を着たセミロングの少女が、
 朗らかな笑みを浮かべて立っていた。

83 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時48分20秒

 「あ、は、はい」

 里沙は腰を浮かせて、少女の入りやすいように前を開ける。
 すると少女はくるりと後ろを向いて手招きをしながら、

 「お〜い、亜弥ちゃ〜ん。こっちだいじょぶだって」

 と、言った。
 すると同じセーラー服の可愛らしい少女が、
 にこにこと寄ってきた。
 その後ろから青いワンピースに白いカーディガンを着けた、
 大人びた爽やかな女性が付くようにやってくる。
 その女性に隠れるようにもう一組、
 姉妹かと思われるような長身の女性と、
 両手に山ほどの食品を抱えた少女が仲良く並ぶ。

 「あれ? 矢口さんはどっか行ったんですか?」

 「何かトイレ行くとか言って、
  戻ってきてないんだけど…。方向音痴だからねぇ」

 カーディガンの女性は、
 長身の女性と顔を見合わせながら苦笑し、首を振った。

 「ほら、そんなことより小川、さっさと入っちゃいな。
  その娘がずっとそうしてくれてるんだからさ」

 長身の女性は気怠そうに、
 最初に声を掛けてきた少女の肩を軽く押す。

84 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時50分09秒

 少女はむっとしたように唇を尖らせたが、
 「ののちゃん、お先にどうぞ」と、
 両手の塞がった少女を先に無理矢理押し込み、
 自分もその後ろに続いた。
 長身の女性が軽く舌打ちをした。

 里沙は気恥ずかしそうにうつむいた。
 隣り一つが開き、その向こう側に騒がしい一団が座った。
 里沙は右半身に華やかな女の雰囲気を感じながら、
 自分が一人で居ることが急に恥ずかしいことのように思えてきた。
 里沙はもじもじと身を揺すり、居心地悪そうに椅子に座り直す。
 時計にちらちらと目をやり、
 早くこの体育館の照明が落ちないかと待ち望む。

 「あ、矢口さ〜ん。こっちですよぉ」

 その声につられるように小柄な女性が走ってきた。
 履いたスリッパがぱたぱたと心地よく床を叩く。

 「ごめん、ごめん。ちょっと迷っちゃってさぁ。
  あ‥っと、ごめんなさいね。
  …ええっ! なっちの隣りぃ?
  あややの隣りが良かったのに〜」

 矢口なる女性は里沙の膝を遠慮なく押しどけながら、
 隣りの開いた席の前で文句を言った。

85 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時51分17秒

 「なにぃ?」

 なっちと呼ばれた女性は強引に矢口嬢を席に座らせると、
 ふざけたようにその亜麻色の頭を叩いた。
 思った以上にいい音がして、館内に響き渡る。

 「イタッ、な、何だよ。
  なっちとはいつも一緒にいるんだからつまんないだろ。
  それよりもあややみたいな可愛い娘の隣りが矢口はいいんだもん。
  圭織、ねぇ、変わって」

 「もう、静かにしなよ。ほら、隣りの人に迷惑でしょ。
  ごめんね。この娘、うるさいでしょ」

 人懐っこそうななっちさんは、里沙の方をちらりと見ながら、
 丁寧に謝罪の言葉を述べた。
 里沙は思わず身を小さくしながら答えた。

 「い、いえ…」

 「だってぇ〜」

 矢口嬢は不服そうであったが、
 ちょうどよく体育館の照明がぱっと消える。
 一瞬、ざわめきが広がるが、
 スピーカーを通して聞こえてくる音楽に体育館は静かになっていく。
 里沙はまだぶつぶつと文句を言う矢口嬢から身を離すようにしながら、
 ゆっくりと上がっていく緞帳の方を見た。



86 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時52分20秒


    *


87 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時54分51秒



 真希は舞台の上では輝いていた。
 女性であるにも関わらず、
 舞台に立つ男子生徒よりもよっぽど男性だった。
 里沙は見とれるように真希の姿を追い続けた。
 はっきりと力強く響き渡る声、
 きびきびとした身のこなし、
 そして圧倒的な存在感。


 貧しいバイオリン弾きは、
 毎日、誰から代金を貰うわけでもなく街頭に立ち、
 ただ静かに曲を引き続ける。
 その顔はまるで難しいことでも考えるように常に険しく、
 悩むような表情である。
 彼の友だちは彼の身を案じ、
 路上の人々は彼をからかい、
 ある高貴な姫君は彼に興味を持ち、
 ある街角の孤児の娘は彼に恋をしる。
 だが彼はまるで俗世から離れたように、日々バイオリンを弾き続ける。

 ある暑い夏の日、彼は路上に倒れてしまう。
 それを通りすがったある敬虔な老婆に助けられ、
 彼は静かに告白を始める。

88 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時56分22秒

 昔、ある令嬢に恋をして、
 それに破れると嫉妬のあまり部屋に忍び込み、
 安らかに眠る彼女を殺害した、と。
 後悔はしていない。
 だがその日から、脳内にまるで仕込まれたように、
 曲が勝手に浮かび上がり、手が自然とバイオリンを求めるのだ、と。
 後悔はしていない。
 だけどこんなにも悲しいのはどうしてだろう。

 バイオリン弾きは苦悶の表情で老婆に問いかける。
 老婆は優しく答える。

 『きっと道に迷っているだけだよ。
  ランプも持たずに歩きだして、
  知らぬ間に永劫に続く無限路に迷い込んでしまっただけ。
  だけど心配は要らないよ。
  なぜならあんたが望めば、すぐにでも道は見つかるはずだから』

 老婆の言葉に、
 彼の目からは今まで決して流れ出てこなかった熱い涙が溢れ出し、
 そして険しい表情から解放されていく。


89 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時58分13秒

 そんなあらすじだった。
 里沙は興奮し舞台に釘付けになっていたが、
 気付くと隣りの女性がぐちゅぐちゅと鼻を啜っていた。

 舞台が跳ねると役者たちが揃って舞台に並んだ。
 割れんばかりの拍手に包まれながら、
 しなやかに一礼をすると緞帳がゆっくりと下りる。
 その影に隠れていく真希が爽やかな笑顔で、
 隣りのひとみや梨華と嬉しそうに声を掛け合っているのを、
 里沙は、激しく手を叩きながら見た。



90 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時58分51秒


    *


91 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)01時59分48秒



 校庭の方からフォークダンスの音楽が聞こえてきた。
 暗幕が取り除かれ始め、
 緩やかな斜光が線を描きながら床を照らし、
 開け放たれた窓からは秋の涼やかな風がやんわりと吹き込んできた。
 校内放送が流れ、一般からもフォークダンス参加を呼びかけている。

 里沙はすっかり根の生えてしまった腰をどうにか持ち上げると、
 所在ないようにその場に立ちつくした。
 ふと時計に目をやると、すでに三時を越えており、
 早く学校を去らなければならなかったのだが、
 一向にその気持ちにならない。
 言葉にしたくとも言葉にならない感動が、
 里沙の全身に電撃のように走り回り、
 それに放電したように里沙は、ぼんやりと舞台の方を見つめ続けた。
 里沙の胸に今あるのは真希に会いたいという想いだった。

92 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時02分24秒

 舞台袖にあるドアが開き、衣装姿の役者たちが姿を現した。
 どの顔も公演を成功させた喜びと安堵感からか、
 にこやかな笑みがこぼれ、
 お互いに肩を叩き合って談笑をしていた。
 その中には髪を後ろで一つに纏め、
 薄汚れた青いチョッキやズボンを身につけた真希もいた。
 里沙は真希の姿を認めると、
 嬉しくなって駆け寄ろうと二三歩足を踏み出したが、
 すぐに立ち止まってしまった。

 (私が行って、
  つたない言葉で感想を述べるのは、
  場の雰囲気を崩して、迷惑かも知れない…)

 「おお〜い、加護。紺野」

 先ほどまでぼろぼろと涙をこぼしていた隣の席の矢口嬢が、
 手を口元に添えて手を振っている。
 その声に気付いたように役者群から、
 二人の少女が駆け抜けてきた。
 その二人をわっと包むように感想の応酬が始まった。
 里沙はそれを羨ましげに見ていると、
 ぽんと里沙の肩が叩かれた。

93 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時03分33秒

 「ちゃ〜んと来てくれたんだね」

 里沙が首を回すと、
 無邪気な笑顔を浮かべた真希が、
 額に汗を光らせながら立っていた。
 里沙は気が動転したように何か言おうと言葉を探したが、
 混乱してしまって身振りだけ激しくしてしまった。
 真希は軽く小首を傾げたが、
 爽やかな表情は変わらず、肩に下げたタオルで頬を拭った。

 「ありがとね。どうだった?
  ほら、あそこの人、
  老婆やってた圭ちゃんが書いてきたオリジナルなんだけど面白かった?」

 「あ、は、はい! か、感動しました。
  と、特に後藤さんが、凄かったです」

 「ほんと?
  そう里沙ちゃんに言ってもらえると嬉しいなぁ」

 「わ、私なんか全然駄目で…。
  後藤さんの方が全然凄かったです」

 「そうかなぁ。
  あ、ねぇ、里沙ちゃん、これから大丈夫?」

 真希は圭ちゃんと呼んだ生徒を手招きしながら里沙に尋ねた。

94 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時04分16秒

 「はい?」

 「あのさ、これから打ち上げするんだ。
  それで里沙ちゃんもどうかなって。
  あ、圭ちゃん。この娘知ってる?」

 真希の横に並んだ圭ちゃんこと保田圭は老女のメイクで、
 芝居が終わったにもかかわらず腰を曲げて、
 訝しげに里沙の方をじろりと見た。

 「知ってるって…。
  あんたねぇ、知るわけないじゃない。
  それよりも早くメイク落としたいんだけど…」

 「この娘、新垣里沙ちゃん。
  ほら前に言ったじゃん。
  渋谷で芸能人と会ったって。
  何かさ、すっごく感動してくれたみたいよ」

 真希の言葉に圭も少し表情が和らいだ。

95 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時06分09秒

 「本当に?
  それはよかったわ。
  ま、後藤がずいぶん頑張ってたしね。
  脚本もよかったでしょ?」

 「あ、は、はい、とても面白かったです。
  脚本もよかったですし」

 里沙は普段の癖でついつい丁寧に腰を曲げて礼をする。
 するとますます圭は鼻を膨らませて嬉しそうに口元を緩めた。

 「ねえねえ、この娘もさ、打ち上げ呼んでいいでしょ。
  色々話とか聞けるし」

 「あ、あの…私は…」

 里沙は断ろうとしたが、二人とも里沙の話を聞いていない。

96 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時06分48秒

 「そうねぇ。
  観客から直接感想が聞けるなんて貴重な体験だし、
  それに相手がプロなら色々指摘してくれそうだし。
  いいんじゃない。
  ただし、会費は自分持ちよ」

 圭はやけに上手なウィンクをすると
 (老婆メイクのためか里沙にはそれが恐ろしいものに見えた)、
 メイクを落とすために部室の方へと行ってしまった。

 「じゃあさ、これからちょっと片づけとかあるから。
  校門の所で待っててよ」

 「で、でも、私……」

 里沙は用事があることを真希に伝えようとしたが、
 真希は一方的に喋ると、
 まだ囲まれていた二人の部員を呼んで、
 慌ただしそうに部室の方へと走っていってしまった。

97 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時07分55秒

 「あ……」

 完全に機会を逸してしまった里沙は、
 困惑したように立ちすくんでしまった。

 里沙はもう一度時計を見る。
 三時十三分。
 オーディションまではまだ二時間以上もある。
 里沙は様々とシュミレーションをしてみる。
 普段のオーディションでは大体一時間半前には会場に入って、
 コンセントレーションを高めてから望む。
 だが今回は連続テレビドラマのレギュラーという、
 自分には不相応な話であり、
 下手な鉄砲、数撃てばのつもりで、
 母親が勝手に応募したものだ。

 里沙はまだ真希と一緒にいたかった。
 受験しようと思っているこの学校について色々聞きたかったし、
 それに真希の溢れ出るばかりの活発さにまだ触れていたかった。

 (どうせ…私なんか落ちるんだし…。
  遅れないように行けばバレるわけない…。
  三十分ぐらい……)

 里沙は自分を満足させる結果を導き出すことができ、
 どこか嬉しそうに微笑んだ。



98 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月14日(木)02時08分35秒


    ***


99 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月14日(木)15時49分03秒
続きが気になる・・・
頑張ってください☆
100 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月14日(木)22時07分26秒
前作とリンクしている部分が多くてついついニヤリ☆
飯田さんと小川さんのやり取りには心が和みました(w
アンリアルな話なんですが、心情面だけで考えると、今作の主役である新垣さんが
1番リアルに感じます。内向的っぽいところとか…
更新が楽しみな話です。頑張ってください。
101 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時05分55秒

 >>99
 レス、ありがとうございます。
 そう言っていただいてありがたく思います。
 これかもよろしくお願いします。

 >>100
 レス、ありがとうございます。
 ヒール新垣と言われている中、
 こんな内気な新垣で大丈夫だろうかと思って書きました。
 現実の新垣っぽいと言っていただけて、とても嬉しく思います。
 これからも頑張らせていただきます。


102 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時06分41秒


   ***


103 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時07分59秒



 「今日も熱演、見せてくれました。
  あんなにお婆ちゃんが似合う高校生はいない。
  まるで色褪せ枯れ往く木の葉のような保田さんが、
  いつものようにトップで歌ってくれるのは『つぐない』!
  ああ、誰が歌ってるのかは分かんないけど渋すぎるイントロ!
  さぁ、張り切ってその美声を今日も存分に奮って下さい」

 「枯れ往く木の葉って、石川、あんたねぇ」

 ぶつぶつと文句を言いながらも圭はマイクを手に取ると、
 さっそく拳を回し始めた。
 全身から力を込めて発声をする圭の声は、
 低くともよく通るしっかりとしたものであり、
 里沙は感心したように圭を見た。

 「出たよ、チャーミー石川。相変わらずテンション高いねぇ」

 ひとみが隣りに座る真希にこそこそと呟いて、
 くくっと喉を鳴らしながら小さく笑った。
 真希も慣れているのか、
 異様なほどに張り切っている梨華を見ながら苦笑をした。

104 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時10分23秒

 「里沙ちゃん、びっくりしたでしょ。
  梨華ちゃん、時々変なテンションになっちゃうんだよね
  そんであの状態をあたしら、チャーミーって呼んでるんだ」

 真希が里沙に耳打ちをしてくれて、
 それからにこりと笑った。
 部外者である里沙は真希の隣りで身体を小さくしながら、
 黙ってオレンジジュースを啜っていたが、
 慌てたようにこくこくと首を振った。

 武蔵境駅前にあるカラオケボックスでの打ち上げであった。
 部員たちが集まっての打ち上げで肩身の狭いものかと思っていたら、
 全員で六人しか参加をしていない。
 真希が言うには、圭があまりにもマイナーな曲を熱唱するため、
 その濃さにほとんどの部員が敬遠してしまうそうだ。
 里沙にとっては見知った顔が多かったため、
 ひとまずほっとできている。

105 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時12分59秒

 里沙は時計にちらりと目をやる。
 四時三十分。
 里沙は軽く息を吐くと、
 お菓子をつまみながら曲を選んでいる真希の横顔を盗み見た。
 まだ一度も真希と会話らしい会話をしていない。
 それなのに時間は過ぎていき、
 もうそろそろ出なければならない時間である。
 とにかく里沙は何か話しかけようと思いながら、
 モジモジと落ちつきなく指先を動かした。
 舞台では、
 からかうようなことを言っていたひとみのテンションも最高潮らしく、
 梨華と二人でマイクを握って、
 『男と女のラブゲーム』をイチャイチャしながら歌っていた。
 調子に乗ったようにひとみと梨華は、
 抱擁し合う過剰なサービスを披露している。

106 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時14分25秒

 里沙は何気なく向かいの席に座る二人組に目をやった。
 どちらも真希の後輩らしく一人は紺野あさ美と名乗り、
 大人しめで、前髪を気にするようにさわりながら、
 ぼんやりとお菓子に手を伸ばしていた。
 もう一人はずいぶんと騒々しい。
 方言から関西出身らしく、
 ハイテンションで場を盛り上げようとふざけている。
 里沙の目が、その少女−加護亜依と合った。
 すると相手はぷいと里沙の方へ不快な表情を向け、
 それからすぐに選曲本で顔を隠してしまった。

 「どうかした?」

 真希が気のない手拍子をしながら、不思議そうに里沙に尋ねた。

 「あ、いえ…」

 里沙は困惑したように身体を小さくして、
 それからオレンジジュースを啜り上げた。



107 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時15分06秒


    *


108 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時16分50秒



 次の曲が流れ始めると、
 真希は「あ、あたしのだ」とマイクを取った。
 歌い慣れた歌詞なのか英語であるにも関わらず、
 躊躇無くイントロから高音で入っていく。
 里沙にもテレビかどこかで聞いた覚えのある曲だった。
 真希は歌いながら席を立つと、
 ゆっくりとステージの方へと向かう。
 真希の声はとても芯のあるものだった。
 聞くものを引きつけるように力強く、
 里沙は全身に電気が走り抜けるほどに痺れてしまった。

 里沙はタイトルを見逃してしまったことを後悔して、
 先ほどまで真希が捲っていた本をちらりと横から覗き見る。
 だが、その本は突然閉じられた。
 里沙は呆気に取られたように見上げると、
 そこには憮然とした表情の亜依がいた。
 亜依はコップをテーブルに置くと、ソファーに鷹揚に寄り掛かった。

109 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時19分34秒

 「で? あんた、一体、後藤さんの何なわけ?」

 「はい?」

 里沙はうっとりとしたように歌っている真希と、
 隣りで鋭い目つきで、
 里沙をじろじろと舐め回すように見る亜依とを交互に見た。
 それから困ったように肩をすくめる。

 「何や、ずいぶん後藤さんに気に入られてるやないの。
  聞いたところ……中坊みたいやけど」

 「い、いえ……、私は…別に…」

 「加護。何、そこでやってるの?
  その娘、いじめてるんじゃないの?」

 圭がからかうように亜依に声を掛けてくると、
 亜依はひらひらと手を振ってから、

 「そんなことありませんよ。
  うちはただ、この娘と仲良くしたいだけですから」

 先ほどまでの態度とはまるっきり違った慇懃な態度であった。
 圭は「ふ〜ん」という表情をして、
 隣にいるあさ美に、しきりに歌うようにと強要の続きを再開した。
 圭の視線が亜依からの外れると、
 亜依の表情はまた硬いものに変わり、
 里沙を下から上へじっくりと舐めるように見た。

110 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時21分38秒

 「後藤さんってうちの憧れの先輩なんよ。
  それなのにさっきから見てれば、
  二人でずっと一緒にいて。
  あんた、うちの学校の人間やないのに」

 亜依は悔しそうにコーラを啜ると、
 里沙に詰め寄ってきた。
 その迫力に里沙は押されそうになり、
 助けを求めるようにひとみを見たが、
 ひとみと梨華は楽しそうに談笑をしており、里沙の視線に気付いていない。

 「まぁ、めっちゃかわいくって、優秀なうちが、
  あんたみたいな娘と張り合う必要もないんやけど、
  参考程度にあんたが、
  どうしてあんなに後藤さんと仲良くしてるんか聞いといてあげるわ。
  後藤さんと結構メールのやり取りしてる?」

 「はい。…してますけど」
 
 「くわっ。
  …うちなんか、まだ後藤さんのメールアドレス知らんのに。
  ええなぁ。じゃあ、じゃあ、電話とか。
  もしかして五分以上してたりとか」

 亜依が突然に奇声を上げたことに、
 里沙は驚きながらも、かぶりを振った。

 「……相談事とかしたときなんかは……結構時間とか忘れたりとか」
111 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時22分52秒

 「何やて!
  うちなんか、恐れ多くて相談なんてしたこともあらへんのに。
  しかもうちが電話するといつも三分以内やで。
  カップ麺だってできない時間や。
  うちも時間忘れて後藤さんと電話してみたいわ」

 亜依は頭を抱え込んでしまった。
 里沙はどう亜依に接したらいいのか分からずにおろおろとしながら、
 亜依の肩を軽く触れた。
 すると亜依はのっそりと顔を上げて、
 力尽きたように弱々しい目で里沙を見た。

 「なぁ、何でそんなに後藤さんと仲良うできるの?
  うちにもその秘訣教えてくれへん。
  うちな、後藤さんに電話しても何話してええんか分かんないんよ。
  『どしたの、加護』
  『あ、いえ、今日もなんか凄く好かったんでお疲れさまでした』
  『うん、疲れてるよ。これから寝るところだから。
   それじゃね。お休み』
  『あ……お休み…なさい』
   ってな具合やで」

 「秘訣って、私はただ……」

 里沙は真希の方をちらりと見やる。
 ちょうど歌い終わった真希は、
 満足したようにマイクを口元から離し、
 頬を赤らめながらぺこりと一礼をした。

112 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時24分01秒

 「後藤さん、最高!
  うち、聞き惚れてました」

 先ほどまでの落胆ぶりはどこへやら、
 勢いづいたように亜依が盛大な拍手を真希に送る。
 里沙は亜依の変わり身の早さに思わず吹き出してしまった。

 「何? やっぱり可笑しかったかな?」

 真希は照れ笑いを浮かべながら、
 お尻で亜依を押し退けながら、里沙の隣りに軽やかに座った。
 亜依が当然のように膨れっ面になる。
 それから自分のジンジャエールで喉を潤すと、
 里沙と視線を合わせた。
 里沙は思わずどうしてよいか分からずに、
 慌てたように真希から目を離した。

 「あ、あの、……すごく、上手でした」

 「あ、ねぇ、後藤さん。
  さっき歌ったの、あれ、『カントリー・ロード』ですよね。
  確か『耳をすませば』で使われてて。
  うち、ジブリ作品好きなんですよぉ」

 「そうよ。オリビア・ニュートンジョーンが原曲を歌ってるの。
  カバーだけどね。訳した詞もいいけど、
  あたしには、こっちのほうがピンとくるんだよね」

 真希は髪を丁寧にかき上げると、にこりと微笑んだ。
 すっきりとしたその笑顔に、里沙は思わず見とれた。

113 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時25分22秒

 「さ、ほら、里沙ちゃんも歌いなよ。
  まだ全然歌ってないでしょ。
  ほっとくと圭ちゃんが知らない歌ばっかり歌っちゃうんだから。
  里沙ちゃんも遠慮しないで」

 「あ、わ、私…そろそろ……」

 里沙は時計をちらりと見てから、腰を上げようとした。

 「え、でも……。
  あ、そっか。今日里沙ちゃんの誕生日だったんだっけ」

 真希は指を鳴らすと、
 あさ美の背を押し、強引に舞台に上げようとしていた圭に声を掛けた。

 「圭ちゃん。あのさぁ、今日、里沙ちゃん。誕生日だったんだよ」

 「あ、あ‥の。いいですから。私…」

 だが真希はなだめるように里沙を再び席に座らせると、
 リモコンを手元の寄せ、それから忙しく番号を入力し始めた。
 隣りの亜依はすっかり気が滅入ったようにぶつぶつと何かを呟きながら、
 里沙の方を心底羨ましげに横目で睨み付けてた。
 それから里沙のジャケットに入った携帯電話を勝手に取り出して、
 それをつまらなそうに弄り始める。

114 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時28分49秒

 流れ始めた曲が中断され、
 割り込むように『ハッピー・バースディー』が流れだす。
 真希は里沙の手を取ると、そっと舞台の方に押し出した。
 里沙は驚き戸惑いながらも、
 押されるままに舞台の方へとつまずきながら出る。
 伴奏に合わせるように手拍子が鳴り始める。

 こんな大勢の人に誕生日を祝われるのはいつぶりだろうか。
 里沙は感激に自然と流れ落ちようとする涙を
 ぐっと堪えながら、無理矢理に笑ってみせた。

 「あ、あら? 電話やないの?」

 亜依の弄っていた里沙の携帯電話が震え始めて、
 亜依はびっくりしたようにそれをお手玉しながら、里沙の方に突き出す。
 里沙はその着信相手を見て、すっと血の気が引いていくのが分かり、
 慌てたように腕時計に目をやった。
 ちょうど『ハッピー・バースディー』が拍手によって終わったところだった。



115 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月16日(土)02時29分22秒


    ***


116 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月16日(土)22時46分57秒
なんか新垣がかわいいなぁ…
新垣メインの話って少ないのですが、その分良作が多いと思います。
もちろんこの話も!……かなりツボはまってます。
117 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月19日(火)00時27分21秒
更新が待ち遠しいです。
新垣が好きになりそうな話ですね。というより、応援したくなる(w
118 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時25分56秒

 >>116
 レス、ありがとうございます。
 ツボが刺激できて嬉しく思います(w
 書いている自分では分かりませんが、
 かわいいと言われて当人も嬉しいのでは(w

 >>117
 レス、ありがとうございます。
 どうぞ新垣を応援してあげて下さい。
 芸能界ってやっぱり厳しい所だと思いますし…


119 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時26分30秒


    ***


120 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時27分32秒



 里沙は家の前で躊躇したように足を止めた。
 玄関先には煌々と温かな光が灯り、
 寒空の下をとぼとぼと歩いてきた里沙を誘惑しているようだ。
 決して遅い時間ではないのだが、
 晩秋の空にはすっかり星々が散らばっていた。
 里沙はうつむき加減で二三分その場に立っていたが、
 やがて静かにドアへと近づき、そのノブを握った。

 静かに開ける予定が、
 ドアに取り付けられたベルによって脆くも崩れ去り、
 里沙は仕方ないように小声で帰宅を知らせる挨拶をした。
 里沙は眼前に伸びる二階への木造階段を駆け上がりたかった。
 しかしリビングから母親の押し殺した
 「こっちに来なさい」という声にそれを阻まれた。

121 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時28分36秒

 里沙は肩を落としながらリビンクに入る。
 普段の日曜日、
 この時間ならばリビンクでテレビの音がしているはずなのだが、
 今日は何の音もしない。
 ソファーでいつもならば寝転がっているはずの妹の姿はなく、
 代わりに眉をひそめた母親が両手を丁寧に膝上に添えて座ってた。
 母親は里沙が入ってきたのを確認すると、
 目でその場に座るように示した。
 空色のカーペットの上に里沙はのろのろと正座をする。
 しばらく二人の間に沈黙が流れた。
 里沙は目線をできるだけカーペットの集中させ、何か言葉を探した。
 こういう空気を破るには、
 自分から早々に謝ってしまうのがいいのかもしれない。

 「……あっ‥のね」

 「今日のオーディションはどうだったの?
  ちゃんと間に合ったのね?」

 母親は里沙を遮るように問いかけてきた。
 里沙は出しかけた言葉を飲み込み、
 ぎゅっと両手に力を込めて、こくりと首を縦に振った。

122 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時29分47秒

 オーディションには辛くも間に合った。
 だが、その内容は最悪のものだった。
 集中する時間どころか、息を落ち着ける時間も取れなかった。
 動揺と焦りのために、ほとんどしどろもどろ状態だった。
 ほとんどの面接官は険しい表情であったが、
 中には余りのひどさに哀れみの目で里沙のことを見ている者もいたほどだ。

 「どういうことだか説明してくれるわね? ママに」

 母親の声はあくまで静かだった。
 だが里沙は知っている。母親が自分に激昂しているということを。
 現にその目は里沙を険しく見据えている。
 里沙は下唇を噛みながら、眉を寄せて、
 むすっとしたようにその視線から逃げるようにカーペットを睨んだ。

 「ちゃんとオーディションに行ったのかどうか、
  マネージャーさんに確認の電話をしたら、まだ会場に来てないって聞いて。
  あなたの電話は電源を切っていてつながらない。
  それで心配になって、平家先生の自宅に電話をしてみたら、
  今日は補習なんかしてないっておっしゃって。
  どういうことなの? 一体どこに行ってたの!」

123 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時31分02秒

 「……いいでしょ。…どこだって」

 里沙は掠れながらも声を出した。

 「よくないわよ。
  そのせいでママ、マネージャーさんにさんざん嫌みを言われたのよ。
  『遅刻が厳禁であることは、よく教えているつもりですが、
   もし今日、オーディションをドタキャンするようなことにでもなれば、
   新垣さんには遅かれ早かれ、仕事が無くなりますよ』って。
  嘘なんか言って、そんなことになったらあなたの夢だって叶わないのよ」

 (私の夢じゃなくて、ママの夢じゃない)

 里沙は非難の目を母親に向けた。

 どれほどその夢に振り回されてきただろう。
 今の私はアイドルになんか全然憧れてなんかないのに。
 ただ友だちが欲しくって、その友だちと遊びに行ったり、
 一緒に勉強したりとかしたいだけなのに。
 そんなことも分かってくれなくて、ママは私に夢を押しつける。

 里沙は、太股の上で揃えた両手を強く握りしめた。
 悔しかった。
 ここで全部心の内を吐露してしまえば、どれほどに楽だろうか。

124 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時32分04秒

 「……一回ぐらい…いいじゃない」

 里沙はふっとそんな言葉を洩らした。
 母親は言葉を止めてから、まじまじと目の前に座る里沙を見る。
 僅かにつり上がった右目は、
 里沙の言葉に戸惑っているようにも見える。

 「里沙。あなたももう分かってるでしょ。
  仕事で時間は大事だってことぐらい。
  今回はたまたまオーディションで、
  それも時間に間に合ったからよかったけど、
  今度そんな気持ちで仕事に遅れたらどうするの?」

 「…ドラマの…オーディションなんか……私には無理だもん」

 「そんなのやってみなければ分からないでしょ。
  あなたが勝手に結論出してどうするのよ。
  ママと約束したでしょ。将来はアイドルになるって」

 「そんなの! ……そんなの…ママの……」

 消え入るような声で里沙はぼそぼそと呟いた。
 最後は声にもならなかった。
 里沙はそのままうつむく。

125 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時33分06秒

 ちょうどその時、
 室内の険悪な空気を打ち破るように、
 里沙の携帯電話が震えだした。
 里沙ははっと顔を上げて、
 母親の方を確認するとこくりと首を振ったので、
 里沙はストラップの輪に指を掛けて携帯電話を引っぱり出す。
 相手は真希だった。
 びっくりした里沙はアンテナを上げる手ももどかしく、耳に当てた。

 『もしもし、あ、里沙ちゃん』

 真希のいつもの気怠そうでいて、柔らかい声で話しかけてくる。

 『ごめんね。何か用事があったみたいで。
  誕生日だって前もって言ってくれてたのにねぇ。
  何かさぁ、あたしが無理に誘っちゃって、
  迷惑かかってないかなぁって思っちゃってさ。
  あ、今、大丈夫だった?』

 里沙は話し口に手を添えて小声で答えようとしたが、
 それよりも早く母親が里沙の手から携帯を取り上げた。
 里沙は驚きに声を出すことも忘れて、母親を見やる。

126 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時34分12秒

 「もしもし。あの、里沙の母ですが、どちら様でしょうか?
  …………後藤さん? はぁ、高校生の?
  あの、失礼ですが、里沙とはどういう知り合いで。
  …………ああ、里沙のことを番組で見て下さって。
  ……はい、それはありがとうございます」

 慇懃な態度で母親は受け答えをしている。
 おそらく電話の向こうの真希は、
 突然に声質が変わったことで戸惑っているだろう。
 里沙は、ぼんやりと母親の口の動きをじっと見つめた。

 「ところで、今日、うちの里沙が…。
  …ああ、今日、後藤さんの学校の文化祭に行っていたんですね。
  ……いえ、今日は大切なオーディションがあったため。
  ……あ、いえ、ちゃんと間に合いました。
  はい。それでですね。
  今後もうちの里沙とお付き合いして頂くのは構わないんですが、
  なにぶん忙しい娘ですので、できれば私に知らせてからということに……」

127 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時36分23秒

 里沙の目つきが変わった。
 怒りが胸を押し潰さんばかりに沸き上がり、
 里沙は無意識のうちに、母親の手の携帯電話に飛びかかった。
 里沙の猛攻に母親も抵抗するように、
 手に力を入れるが、結局は里沙の手に携帯電話が渡った。
 里沙はすぐに耳に当てるも、
 不通音だけが耳にザラザラする感触だけを与えた。
 里沙は目を剥いて母親を見る。
 乱れた髪を丁寧に直しながらも、
 雰囲気の変わった里沙をどこか怯えるように見ている。

 「…どうして!」

 里沙は涙に言葉を詰まらせながら、激しい語調で噛みついた。
 里沙の言葉に、母親も威厳を取り戻したのか、厳しい目で睨む。

128 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時37分28秒

 「決まってるでしょ。
  今後、同じようなことがあったら困るからよ。
  そのぐらいのことはあなたにも分かるでしょ。
  あなたの夢がかかってるのよ」

 里沙は肩を震わせた。
 ママは私のことなんか全然見てくれてない。
 自分勝手なことばっかり言って、
 私に夢っていう重たい荷物ばっかり背負わせようとする。

 涙が紅潮した頬を通り抜けていく。
 それは母親に対する怒りだけではなかった。
 母親に誉めてもらいたくて始めただけだったのに。
 それなのにその相手は全然自分のことを見ていてくれなかった。
 里沙は締め付けられるような悲しみに、母親をきつく睨み付けた。

 拳をぎゅっと握りしめる。
 そして母親の制止も聞かずに、
 リビングを飛び出、自分の部屋へと階段を駆け上がった。



129 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時38分06秒


    *


130 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時39分06秒



 里沙は自分の部屋の鍵を掛けると、
 汗ばんだ手に握りしめたままだった携帯電話を開く。
 リダイヤルで真希の番号を呼ぶ。
 二度のコールの後、電話が繋がった。

 「もしもし、新垣です」

 里沙は半泣きの声を必死に押さえながら言った。

 『…もしもし、里沙ちゃん? 大丈夫?』

 真希はひそめるような声で聞いてきた。

 「ごめんなさい。ママが勝手に……」

 『ううん、あたしのことは気にしないでよ。
  あたしが強引に誘っちゃったとこみたいのがあるからさ。
  …でもウソはよくないぞ、ウソは』

 「…はい。……ごめんなさい」

131 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時40分12秒

 『あ、うそうそ。冗談だからそんなに気にしないでよ。
  でも、やっぱり一言は欲しかったなぁ。
  遠慮なんかしないでさ』

 真希はできるだけ明るい口調で話しかけてきてくれる。
 里沙は小さく返事をした。
 ドアにもたれ掛かるようにしながら、里沙は力無く息を吐く。
 真希の声を聞けて、張りつめていた緊張感が解けていくのを感じ、
 今更になって僅かに膝が震えだした。
 ようやく止まり掛けていた涙が再びこぼれ落ち、里沙は鼻を啜り上げた。

 「……ごめんなさい」

 里沙はもう一度、謝罪の言葉を述べた。

 一間、真希との会話が止まり、
 それから真希が何か大切なことを伝えるかのように、
 言葉を選びながら言いだした。

 『…あたしの方がごめんね。
  あたしさ、すっかり忘れてたよ。里沙ちゃんが芸能人だってこと。
  何か毎日電話で話とかしてて、
  可愛い妹みたいな感じだなぁって思ってたけど、
  里沙ちゃんは学校行って、
  しかも仕事までして、全然あたしなんかよりも忙しいんだよね』

132 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時41分51秒

 「そんなことないです。私なんかまだまだだし」

 『ごめん。あたしさ、自分勝手なところがあって、
  それが原因でうっとうしがられたりしてたんだけど。
  里沙ちゃんのこと考えてなかったね。
  今回は里沙ちゃんのことを邪魔しないですんだけど、
  もしかするとこれからどんなことで
  里沙ちゃんの仕事の邪魔をしちゃうか分からない。
  ほら、あたしって結構ぼんやりしてて忘れっぽいんだ。
  だから…もう、あたし、里沙ちゃんの邪魔をしないよ』

 「どういうことですか?」

 里沙はその意図する所はよく分からなかったが、
 だが真希が何か重大な決意を秘めて喋っていることは分かる。
 そしてそれが里沙にとって良い話ではないということも。

 『あたし、もう里沙ちゃんのこと無理に誘ったりすること止めるね』

 真希が言った。

133 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時43分06秒

 里沙は急激に足から力が抜けていくのを知り、
 壁に背を擦り寄せながら、
 薄黄緑色のカーペットの上にぺたりと座り込んだ。

 「そ、ご、後藤さん。
  わ、私、別の迷惑とかそんなこと考えたことなんかなくて…。
  それよりも後藤さんにいっぱい色々なこと教えてもらいたくて」

 里沙が悲痛の声を上げながら、電話越しの真希に訴えた。
 真希はくすりと笑った。

 『あたしが里沙ちゃんに教えてあげられることなんかないよ。
  むしろあたしの方がいっぱい里沙ちゃんから教えてもらった。
  だからね、これは別に里沙ちゃんが、
  ウソ吐いたから嫌いになったとかじゃないんだよ。
  ただ、やっぱり里沙ちゃんの夢を邪魔しちゃいけないよ。
  …それに、あたしも……』

 真希はそこで言葉を止めて、
 しばらくのお互いの間に沈黙が流れた。
 里沙は何かを言おうと思っても、
 科白が喉に詰まり、言いたいことが出てこない。

 『……今日はごめんね。でもさ、お互いに頑張ろうよ』

 「わ、私は……」

134 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時43分58秒

 『それじゃあ、もう切るね。おやすみ』

 里沙の最後の言葉は真希によって一方的に遮られた。
 不通音が里沙に耳に突き刺さる。
 里沙は茫然とした表情で携帯電話を耳から離すと、
 力の抜けきった様子で床にごろりと転がった。
 涙は止め処なく頬を伝い、里沙はしゃくり上げる。
 カーペットに涙と鼻水が落ち、そこに染みを作っていく。
 泣くことも止めようとしても、嗚咽が止まらない。
 里沙は瞼を閉じて、何も考えないようにする。
 何もかもが煩わしく、何もかもを忘れたかった。
 だが考えれば考えるほど頭が混乱して、
 言いようのない苛立ちが沸き上がってくる。

 急に空腹感が生じる。
 カラオケでお菓子をいくつか遠慮がちに摘んだ程度で、
 満足な夕食も取っていない。
 だが一階に行って、何かを食べたいとは思わなかった。
 里沙は胎児のように身を丸めて、その空腹さえも忘れるように努力をする。

135 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時44分48秒

 里沙の耳に静かに擦るような足音が聞こえた。
 里沙はのろのろと身体を起こすと、
 力のこもらない手でドアノブを回した。

 薄暗い廊下に、一枚の皿があった。
 純白のクリームに覆われ、
 苺が可愛らしく乗せられたショートケーキである。
 チョコレート板の上には、
 ホワイトチョコレートで
 『里沙ちゃん、15歳の誕生日おめでとう』と書かれていた。
 その脇には丁寧に包装され、リボンが結ばれた紙袋があった。

 「…あ、今日…誕生日」

 真希たちが『ハッピー・バースディー』を歌ってくれたことが、
 遙か昔のことのように感じる。
 里沙はそっとその皿を引き寄せる。

 「…お母さん…。…忘れて…なかったんだ…」

 プレートを手に取り、口に含む。
 甘い優しい味が口内に広がり、里沙は再びしゃくり上げた。



136 名前:名無し作者 投稿日:2002年11月20日(水)01時45分47秒


    ***


137 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月20日(水)20時37分38秒
大人になる一歩手前、誰もが通る道を体現しているかのような新垣。
何だか昔を思い出して目頭が熱くなりました…
138 名前:読者 投稿日:2002年11月22日(金)22時30分23秒
密かに楽しみにしてます。
更新を心待ちにしてますので…
139 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月17日(火)02時53分32秒
更新期待sage
140 名前:リエット 投稿日:2002年12月28日(土)03時54分04秒
待ってまーす
141 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月07日(火)00時49分50秒

 長い間更新が滞ってしまい、すみませんでした。
 後半を大幅に手入れしなくてはと思っていながら、
 元来が遅筆のため、またパソコンの破損などがあり、
 すっかり遅くなってしまいました。
 何とか今週末までには更新をしたいと思っています。
 

 >>137
 レス、ありがとうございます。
 苦労しているだけに、
 そう言っていただけるのはとても嬉しく思います。
 これからもよろしくお願いします。

 >>138
 レス、ありがとうございます。
 長くお待たせしてしまいまして、申し訳ありませんでした。

 >>139
 レスありがとうございます。
 期待に添えるように頑張らせていただきます。

 >>140
 リエットさん、レスありがとうございます。
 長くお待たせしてしまいまして、どうもすみませんでした。

142 名前:シンデレラに… 投稿日:2003年01月08日(水)19時04分15秒
頑張ってくださいね。応援してます。
新垣はどのように成長していくのでしょう。
143 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月13日(月)02時10分28秒

 >>142
 レス、ありがとうございます。
 ようやくですが、再開ができます。
 どうぞ、今後もよろしくお願いします。

144 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月13日(月)02時11分17秒


     ***


145 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月13日(月)02時12分25秒



 秋の夕暮れは赤々と沈む太陽に照らされどこまでも広く、
 整然と並ぶ白雲は鰯雲と呼ぶに相応しいものだった。
 そのくせ冷たさを含みだした風が、
 どうにかくっついている枯れ葉を揺らし、
 ひゅうひゅうと低い唸り声をあげるのを聞くと、
 寂しさも静かに込み寄せてくる。

 駅に向かう人はどこか急ぎ足で、
 風にさらされた頬は硬く強張ったものが多かった。
 里沙はその群に紛れながら、ひっそりと駅の構内へと入っていった。

 あの日から真希は、本当に一度も自分から連絡を取ってこなかった。
 時折、里沙が送ったメールに、
 一二行程度の返事をくれるぐらいで、
 電話をしても留守番電話につながってしまった。

 そのせいか最近の里沙は全くといっていいほど元気がなかった。
 先ほども学校でみちよから受験ことでハッパを掛けられたばかりである。

146 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月13日(月)02時13分31秒

 『今のままじゃ、あんたの行きたい高校に行くことができへんよ』

 みちよの口調は険しいものであったが、
 その目はどこか里沙の心を労るようにも感じられた。
 おそらく母親とのこと、
 芸能活動についてのことも尋ねたかったのかもしれない。
 だが、みちよはただ軽く里沙の肩を叩いて、励ましただけだった。

 仕事の現場でも最近は全く良いところがなかった。
 NGばかりを出して、監督に怒鳴られっぱなしだった。
 美貴が柔らかな調子で里沙に悩みがないかと聞いてきてくれるが、
 周囲の重々しい失望のため息に包まれながら、
 里沙は頭を下げて謝るしかできなかった。

 そんな日々を重ねていく中で、
 今の里沙に足りないと思う部分に向いていくのは、
 自然の流れであったのかもしれない。
 里沙はもやもやとしたこの気持ちを打ち砕くために、
 真希に直接会いに行くことを決意したのだ。



147 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月13日(月)02時14分07秒


     ***


148 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月17日(金)00時15分04秒
再開されてる!待ってましたよ〜。
新垣嬢がようやく自分の意志で動き出して、それがとても微笑ましいというか…
新メン追加で娘。本体の事情は変動の期に差し掛かってきましたが、現実でも
色々彼女なりに悩むところはあるのだろうなぁとしみじみ考えてしまいました。
149 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時30分09秒

 >>148
 レス、ありがとうございます。
 お待たせしてしまって申し訳ありません。
 風邪を引いてしまいダウンをしていました。
 そのため新メンのオーディションも見ていない…。
 いったいこれからどうなってしまうんでしょうね?

150 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時30分48秒


     ***


151 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時31分29秒



 校門は先日訪れた時とは違い、
 立て看板などはすっかり姿を消し、学校独特の静かさが漂っていた。
 校門の脇には前には気付かなかったが守衛室があり、
 厳つい顔付きの制服を着た初老の男性が、
 制服の異なる里沙のことを睨め付けていた。
 里沙は中をちらりと見て、
 それから時計を確認すると、門にもたれかかった。
 もう間もなく授業が終わるだろう。
 ここで待っていればいつかは必ず真希に会えるはずだ。

 里沙は母親の編んでくれたマフラーを巻き直すと、
 紺色のコートのポケットに手を入れた。
 スカートから出た生膝は赤く染まり、寒さに肌が震える。
 それから暇を紛らわすように綿のように千切れた雲を数え始めた。
 それを邪魔するようにカラスが横切っていく。

 やがて校舎の方から賑やかな黄色い声が聞こえてくる。
 里沙は雲から目を離すと、
 すっかり冷え切った頬をポケットから出した手で二度三度擦った。

152 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時32分16秒

 制服の一団はどんどん里沙の前を通り過ぎていく。
 時々、里沙の制服を見てこそこそと話す女子高生などもいたが、
 里沙は気にすることなく待ち続けた。
 ジャージ姿の集団が校門から掛け声を出しながら走っていくのを見て、

 里沙は真希が部活かもしれないという考えた。
 すると、部室にまで行った方がいいのだろうか。
 里沙が何度か校門の中を覗いたり、
 顔を引っ込めたりしていると、急に肩に手が置かれた。

 「こんな所で何やってんの?」

 びくりとして里沙が横を向くと、
 そこには圭が不思議そうに小首を傾げて立っていた。
 その後ろには同じような表情で見たことのない美少女が立っている。
 流れるような長髪に、スカートからすらりと覗く足。
 スタイルも良く格好良かった。
 里沙は思わず圭と見比べてしまい、
 それから思い出したように、慌てて腰を二つに折った。

 「あ……この前は」

 圭は苦笑をしながら、

 「そんなに恐縮しないでよ。こっちも楽しかったしさ」

 と言った。

153 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時33分30秒

 「それで今日はこんな所で何の用事?」

 「あの…後藤さんに」

 「ごっちん? ああ、たぶん…学校には来てないと思うけど…」

 圭の返答に里沙はえっと表情を固めた。

 「圭ちゃん。……この娘、誰?」

 美少女は恐る恐ると二人の間に入ってきた。
 里沙と目が合い、彼女が会釈をしてきたため、
 里沙もバカ丁寧なほどに一礼をした。

 「あ、アヤカのこと忘れてた。
  ごめん、ごめん。ちょっとした知り合い。
  先に行っていいよ。あたしもすぐに行くからさ」

 圭は邪魔者を追い払うように手を振ると、
 アヤカと呼ばれた少女はぶすりとした不服そうな表情で、
 その場を離れて行った。

 「あの、後藤さん…病気か何かなんですか?」

 里沙の問いに、圭は吹き出した。

 「あの頑丈者がそう簡単にへたばるわけないじゃない。サボりよ。サボり」

 「サボり‥?」

 「まぁ、何ていうのかなぁ。
  『我が道を行く』って感じじゃない、あの娘って。
  元々中学でも不登校だったらしいから、今更って感じなんだけどね。
  それよりも何でこんな所にいるわけ?」

154 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時35分32秒

 「い、いえ、ち、近くのスタジオで収録あったもので…」

 近くにスタジオなんかあったっけ、と首を傾げる圭に、
 畳み掛けるように里沙は言葉を重ねた。

 「あの……後藤さんに会って、
  …お礼を…言いたいんですけど。先日の」

 「あ? う〜ん、それはちょっと難しいかな。
  学校サボって、バイトに勤しんでるそうだからね。
  まぁ、俗に言う勤労少女になっちゃったわけよ。
  ったくさ、せっかく名誉ある我が校の演劇部を任せようと思ってたのに」

 「そう…ですか」

 ここで待っていれば、真希と運良く出会った振りをして、
 それをきっかけに中を修繕する出来ると幼稚な想像を膨らませていたが、
 それが砕けて里沙は肩を落とした。

 「あらら、何か気落ちしてるみたいだけど、
  そんなに大事な用があるわけ?」

 里沙の表情を見とった圭が腰に手を当て、柔らかな顔つきで聞いてきた。

 「そう言うわけではないんですけど……ただ、すごくお世話になったから」

 里沙はもじもじと下をうつむきながら答えた。
 圭が不思議そうに覗き込み、それから軽く息を吐いた。

155 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時36分22秒

 「ふ〜ん。
  ま、どんな用件があるかは知らないけど、そんな顔見ちゃうとなぁ。
  紙か何か持ってる?」

 里沙がペンと紙を差し出すと、
 圭はちょっと思い出すようにしながら、紙に何かを書き始めた。

 「あんまり教えないように釘を刺されてるんだ。
  調子に乗ったよっすぃーとか石川が、
  からかいに来るだろうからって言われててね。はい」

 圭が差し戻した紙を見ると、
 そこには簡略化された地図と場所が書かれていた。
 里沙はまじまじと地図を見てから、圭の方へ視線を上げた。

 「……これ」

 「そこがごっちんのバイト先ね。
  ‥っと、もう行かなきゃ。あ、そういえばこの前見たわよ。
  あなたが出てる番組。なかなか可愛らしいじゃない。
  ま、色々と大変だろうけど、頑張りなさいよ」

 圭は時計を見やると、器用にウインクをして、悠々と行ってしまった。
 慌てたように里沙は小さくお礼の言葉を述べると、
 圭の書いてくれたメモを大事そうに胸に抱いた。



156 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時36分57秒


     ***


157 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時37分33秒



 里沙はガラス窓の向こう側で丁寧にお辞儀を繰り返している真希の姿を見た。
 臙脂のストライプの入った襟付きシャツに、
 グレーのタイトスカートを穿き、
 M字のロゴの入ったサンバイザーを被っている。
 カウンターではつらつと笑顔を振りまいている。

 里沙は久しぶりにその姿を見て、店内に入ることを躊躇った。
 真希の姿を見ることができただけで満足であることと、
 その仕事の邪魔をするわけにはいかないと言い訳を考えて、
 名残惜しそうにその場から立ち去ろうとした。

 と、窓の向こう側の真希と里沙の視線が合った。
 真希も気付いたようで、
 僅かに驚いたように口をぽかりと開けたが、
 すぐに元の表情に戻り、それから愛用よく客と接し始めた。

 里沙は逃げ出すことも出来なくなってしまい、
 顔を赤らめながらその場に立ちすくんでしまった。
 里沙は寒風の中で引くに引けず、所在なさげに再び真希と視線を交わした。
 するとほんの一瞬をついたように、真希が小さく手招きをした。
 里沙は最初、自分の見間違いかと思ったが、
 もう一度真希が微かに手で招く。

158 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時38分08秒

 (…どうしよう。怒られる……)

 里沙は体を震わせたが、どのみち姿を見られたのだ。
 ならば後は野となれ山となれである。
 それに今日、この機会を待ち望んでここまで来たのだ。
 里沙は意を決したように、
 それでも体を小さくしつつ、入り口をくぐった。

 「いらっしゃいませぇ」

 店員たちが里沙を声で迎えてくれる。
 自分でも挙動不審者だと思ってしまうほどに、
 里沙はもじもじしながら立ちすくんでしまった。
 店内では有線放送が流れているが、
 それに負けず劣らずの学校帰りの生徒たちが大声を上げながら、
 席を占領していた。
 カウンター前にも列ができあがっており、
 待ち侘びるように前の方を覗き込んだりしている。

 里沙は真希のいる列を避けようと思ったが、
 真希が仕事をしながらも、
 里沙のことをちらりちらりと目で追っているのが分かる。
 里沙は胸の鼓動を抑えるように、
 ブレザーの裾をぎゅっと握りしめると、真希の立つ列に並んだ。

159 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時38分42秒

 「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」

 お決まりの科白を真希はにこりと微笑みながら言った。
 里沙はどもりながら、
 真希の視線から逃げようと必死にメニューと睨めっこをした。

 「あ、あの…ハ、ハンバーガーを…」

 「ハンバーガーを単品で?
  他にご注文は? …店内でお召し上がりですか?」

 「あ、…いえ」

 「それでは代金の方が61円になります。少々お待ち下さい」

 真希は背後の店員に声を掛けると、
 自分の胸ポケットから紙を取り出して、何事か書き始めた。
 里沙はその様子が気になりながらも、
 ポケットから財布を取り出して、百円玉を転がす。
 それから気付いたように一円玉もおずおずと置く。

 すぐにハンバーガーが運ばれ、真希はその手を止めると、
 袋にそれと紙ナプキンを入れた。
 そしてその口を丁寧に折り、それから里沙へと差し出した。

 「四百円のお返しになります。どうもありがとうございました」

 真希は深々とお辞儀をした。
 里沙は逃げるようにその場を立ち去る。

160 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時39分23秒

 暖房の入った店を出ると冷ややかな風が里沙の頬を撫でていく。
 胸に温かな包みを抱えながら、里沙は駅の方へと歩く。

 台本があるような会話の応酬と表情。

 (やっぱり、こなければよかった)

 里沙は情けないように顔をしかめながら、
 空を見上げながら思った。
 ゆっくりと暮れゆく空には、
 弱々しい光を放つ一番星が輝き始めていた。

 里沙は力の抜けたようなため息を吐き出すと、
 手に持つ包みの口を開けた。
 大きすぎる紙袋に小さなハンバーガーが寂しげに入っている。
 と、ナプキンとハンバーガーの間に何か別の紙が挟まっていた。
 里沙はそれを引っぱり出してみる。
 どうやら先ほどの真希の走り書きであるようだ。

 『もうすぐバイトが終わるから、向かいのビルの一階で待ってて』

 丸みを帯びた文字で乱暴にそう書かれていた。



161 名前:名無し作者 投稿日:2003年01月28日(火)01時40分09秒


     *


162 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月28日(火)05時40分37秒
更新乙です。体には気をつけて。

しかし、現実はほんのちょっと、そう一週間ほど目を離したすきにどんどん先に進んじゃいますねぇ。
163 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月28日(火)16時22分49秒
更新乙です。
ごっちん、おつり間違えてるよっっ!
164 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月29日(水)22時16分35秒
体調を崩されていたんですか。どうも大変でしたね。
もしや、このまま更新ないのではないかと心配していたのですが、また無事に再開
されてとても嬉しいです。
芸能人なのに基本的に小心者な新垣がとてもリアルで共感できます。
くれぐれも作者さんのペースで無理をしないよう、がんばってください。
165 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月22日(土)16時49分32秒
保全
166 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時04分23秒


       *


167 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時05分19秒



 「ごめんね。ちょっと遅くなっちゃった」

 包みを抱えた真希が急ぎ足で里沙に駆け寄ってきた。
 里沙は慌てたように腰を浮かし、それからぺこりと頭を下げた。
 真希は制服から、ストライプの入ったフード付きの黄色いトレーナーに、
 色褪せをしたブルージーンズを穿いている。
 急いで仕度をしてきたらしく、
 ぼさぼさになった長い髪を手で無理矢理に撫でつけながら、
 寒そうに肩をすくめている。

 「はい」

 真希が包みを開けると、紙コップを差し出した。
 温もりが里沙の手に伝わり、
 プラスチックの蓋を外すと仄かに香ばしいコーヒーの匂いが溢れ出した。
 真希も自分の分の紙コップを取り出すと、
 手を温めるように軽く握っている。

 ビルの一階にはレストラン街になっているようで、
 デートの締めくくりに来た恋人たちや家族連れの姿がよく見られた。
 2人は階段近くのベンチにそっと座っている。
 観葉植物が長い葉を垂らしながら、
 出入口の自動ドアが開閉するたびに揺れた。
168 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時06分32秒

 「あれ? かき混ぜ棒が入ってない」

 真希が紙袋をあさりながら、舌打ちをした。

 「んもう、ちゃんと確認しろって、
  いっつもあたしには言ってるくせに」

 真希はぶつくさ言いながらシロップとミルクをぞんざいに中に入れた。
 コーヒーなど洒落た飲み物を一度も飲んだことのない里沙は、
 不慣れな手付きで真希の真似をする。
 ちろりと口を縁につけると、褐色の液体が舌を焼き、
 里沙はその未知の味に顔をしかめた。
 そして遠慮がちにベンチの上に紙コップを置いた。

 「びっくりしちゃったよ。いきなり里沙ちゃんが来るからさ。
  ったく、圭ちゃんは。
  『誰にも言わないように』って釘を差しといたのに」

 真希は息を吹きかけながらコーヒーを一口飲むと、
 熱さから舌をべっと出した。

 「…す、すみません」

 「あ、別に里沙ちゃんが、謝ることじゃないよ。
  口止めしておいた圭ちゃんが勝手に言っちゃったんだからさ」

169 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時07分22秒

 「…私が無理に聞いちゃったから…。
  保田さんを責めないで…下さい…」

 里沙はもじもじしたように言葉を濁した。
 真希はぽかりと口を開けたが、すぐにおかしそうに笑い、両手を振った。

 「大丈夫だよ。
  別に、圭ちゃんのこと本気で怒ってるわけじゃないから。
  それに来てくれた里沙ちゃんのことだって責めてるわけじゃないよ。
  冷やかしにきたわけじゃないでしょ。この勤労少女を?」

 「は、はい」

 里沙は上擦った声で返事をした。
 変な風に声が掠れてしまい、それが真希の笑いを誘う。
 里沙も照れたように笑い、
 それから高揚する気分を抑えながら、そっと椅子に座り直した。

 「それで?
  冷やかしじゃないとしたら、何か用事があるから来たんでしょ?」

 真希がコーヒーを一啜りしながら尋ねた。
 逆光として差し込む終わりの光線に真希が眩しそうに目を細める。
 里沙はその横顔に惹かれながら、こくりと首を縦に振った。



170 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時08分38秒


       *


171 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時09分16秒

 大きなガラス窓の外を幾台もの車が通り抜けていく。
 ビル群には点々と窓明かりが灯り、
 東京湾沿いの高い電塔は点滅灯を光らせながら、
 どっしりと構えている。
 人工砂浜には水鳥たちが冷たい風に乗りながら旋回し、
 水面は不格好に身をくゆらせながら海岸に向かって打ち寄せていた。

 「……私、…後藤さんに会いたくなって…」

 里沙は言った。
 見知らぬ人がこの言葉を聞けば、
 怪しい詮索さえもされてしまいかねない科白であるが、
 里沙の口からはストレートに思っていることが口から言葉として出てきた。

 「…私、ここのところ何をやっても全然駄目で。
  仕事でも失敗ばっかりしてるし、
  学校でも相変わらず友だちができないし。それに進路だって…。
  誰かに不安を聞いてもらいたくって。
  でも…。だから、後藤さんに…」

 里沙は言葉を継いだ。
 声は僅かに高鳴り、頬の辺りがぽっと赤く染まっていくのを感じる。
 言葉にすることでさえもどかしい想いを里沙は必死になって伝えようとした。

172 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時09分47秒

 「あたしなんか相談役には合ってないような気がするんだけど」

 真希は苦笑をしながら、紙コップに口を寄せた。
 口ではそう言っていながらも、
 その目は真剣であり、里沙に対しての言葉を探っているようだった。
 里沙は間を持たすように、
 自分の内に在するわだかまりのようなものを言葉として紡ぐ。

 「ずっと、私、アイドルになるつもりで一生懸命やってきました。
  でも最近気付いたんです。
  それって本当に私の夢だったのかって。
  うちのママもずうっと芸能人に憧れてて、
  でも自分じゃ成れなくって、だから私に一生懸命になってて。
  それで私もその気になっちゃってて」

 里沙はそこで息を吸う。
 もしかすると真希が自分の愚痴なんか聞きたくないのではないかと、
 その表情を伺うが、
 真希はぼんやりと窓ガラスから外の風景を見たままである。

 「……最近、私、普通の女の子がよかったなって思ったりするんです。
  普通に学校行って…。そしたら友だちだってちゃんと……」

173 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時10分28秒

 「……それで?」

 真希が遮るように言った。
 決して強い口調ではなかったが、
 どこか苛立ったような、とげのある調子であった。
 里沙は真希の顔に視線を移し、怯えたように言葉を探したが、
 今までさらさらと流れ出てきた言葉が急に詰まり、
 困惑したようにおどおどと口元を動かした。

 「前も言ったけど、里沙ちゃんは仕事をしてお金を貰ってるんだよ。
  みんなが里沙ちゃんのことをプロだって認めてるから、
  ちゃんとそれに見合ったお金が出てる。
  だから新垣里沙は夢とか何だとかいってる場合じゃなくて、
  今は全力でその期待に応えないといけないんじゃないのかなぁ」

 真希は空になった紙コップを弄りながら、里沙の方を向いた。
 真希の視線が、里沙とぶつかる。
 里沙はまるで叱られている子どものように、
 その視線から逃げようと顔を下げた。

174 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時11分55秒

 「ねぇ、里沙ちゃん。
  あたしだって里沙ちゃんの気持ち分かるよ。
  友だちがいないのって何か自分だけ取り残されちゃった感じがするもん。
  でもね、それは里沙ちゃんが芸能人だからじゃないよ。
  里沙ちゃんの方が壁を作っちゃってるんじゃないの?
  自分は他の人とは違うんだからって。

 「それにね、里沙ちゃんは、
  ただ里沙ちゃんのお母さんの夢を引き継いでるんじゃないよ。
  里沙ちゃん自身が、
  与えられた選択肢の中から、自分でその道を選んで、
  そして自分で行動してるんだよ。
  だって本当に嫌だったら、自分でお母さんに言えるはずだよ。
  自分はこうしたいんだぁって。
  あたしは、その道が自分で違うと思ったら方向転換をするね」

 「で、でも、それじゃ、他の人に迷惑がかかるし……。
  それにママだって……」

 「それが言い訳。
  だっていい加減な気持ちでやってられたら、
  そっちの方が迷惑でしょ。
  むしろ里沙ちゃんが辞めたら喜ぶ子なんていっぱいいると思うよ。
  芸能界に憧れてる子だって多いだろうし、
  それこそ里沙ちゃんの代わりだって…」
175 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時12分29秒

 真希はそこまで言うと、むっと口を真一文字に閉じ、
 一瞬険しい表情をしたあと、ふっと目元を緩めた。

 「ごめん。ちょっと言い過ぎたね。
  駄目なんだよなぁ。
  こういうところ直さなきゃって思ってるんだけど」

 弁解するように言う。
 それから真希が里沙に対して微笑んで見せたが、
 里沙は厳しい言葉を浴びせられ、すっかり力無く肩を下ろした。

 しばらく沈黙が二人の間を支配する。
 里沙はどうすることも、何を言うこともできずに、
 細い指先のささくれをぼんやりと見つめた。

 と、里沙は軽やかな鼻歌を耳に聞いた。
 はっとして隣りの真希を再び見る。
 曲はあのカラオケボックスで歌った『カントリー・ロード』だった。

 「あたしさ、アメリカに行こうと思ってるんだ」

 真希はワンフレーズ歌い終わると、唐突に言った。
 まさに寝耳に水の告白で、里沙は言葉を失った。
 里沙はぽっかりと口を半開きにしたまま真希を眺めた。
 どうしてこんな場違いな地名が急に出てきたのだろう。
 里沙は喘ぐようにどうにか声を出した。

176 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時13分04秒

 「……アメ…リカ…ですか?」

 「うん、そう。アメリカにね、歌の勉強しに行こうって思って。
  だから今そのためにバイトして資金稼いでるんだ」

 そこまで言ってから真希が照れたように頭をかいた。

 「あたしの小さいころからの夢なんだ。
  歌手になるっていうのが」

 里沙はこくりと首を振る。それから不安そうに聞いた。

 「でも…今すぐに、っていうわけじゃないんですよね?」

 「そりゃね。
  でも、来年の春には行きたいなって思ってるんだ。学校も辞めてさ」

 「来年の…春」

 里沙の全身を気怠い脱力感が襲う。

 「これ、まだ家族以外に言ってないことなんだ。
  よっすぃーとか梨華ちゃんにも言ってないんだよ。
  だから里沙ちゃんが家族以外で一番最初。
  何せ里沙ちゃんのおかげで踏ん切りがついたんだもん」

 真希の顔は実に晴れやかで、
 少女らしい希望に満ち足りた表情をしている。
 眼は力強く輝き、自らの意思に溢れている。

177 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時13分38秒

 「里沙ちゃんに会って、色んな話して、
  それで頑張ってる里沙ちゃんの姿見て、
  あたしも夢に向かってやってやろうって一念発起をしたの。
  うちは基本的に放任主義なんだけど、さすがに親に反対されちゃってさ。
  でも、自分で決めたことだから、
  資金から何から全部自分でやってやるって、啖呵切っちゃった」

 真希は悪戯が見つかった子どものようにちろりと舌を出す。
 その姿は、普段の物静かな印象とは、また違った真希の魅力を見せた。

 里沙は隣にいる真希を崇高に近い眼差しを向けた。
 不思議なほどに先ほど生まれ出た不快な思いは消散し、
 里沙は興奮したように体を震わした。
 それと同時に里沙は、
 真希に『里沙ちゃんのおかげ』などと言われたことが信じられなかった。

 「わ、私なんかが?」

178 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時14分22秒

 「『私なんか』って言うのは止めようよ。
  ね。里沙ちゃんはもっと自信を持って大丈夫なんだよ。
  きっと、里沙ちゃんのことを必要としてる人もいっぱいいるんだよ。
  それに里沙ちゃんが気付いてないだけ。
  あたしだって、その恩恵に与ったんだしね。
  じゃなきゃ、あたしだってこんな思い切った決断なんかしないよ」

 真希はにこりと微笑んだ。

 「案外小心者だからね。あたしは。
  だから里沙ちゃんには感謝一杯だよ。
  だってさぁ、純粋に夢追いかけてますなんての、
  そうそう言ったりなんかできないじゃん。
  馬鹿にされちゃうんじゃないかなって思っちゃっうし。
  でも里沙ちゃんみたいに頑張ってる娘見てたら、
  『こりゃあ、あたし、
   夢だなんて格好付けて思ってたけど何の行動もしてなかったな』
  って考えちゃってね」

 「わ、私、そんなつもりで頑張ってたわけじゃなくて…」

 真希が里沙の言葉を遮るように、ぴんと里沙の鼻を突いた。
 呆気にとられたように里沙は真希の顔を目を瞬きながら見つめた。

179 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時14分56秒

 「テレビとか見てたら分かるよ。
  どんなに言い訳したって、どんなに人のせいにしたって、
  好きじゃなきゃ、
  あんなに一生懸命で可愛らしい顔なんかできないよ」

 里沙はかっと顔が熱くなるのを感じる。

 「もしさ、あたしがちゃんと夢を叶えて、
  歌手になれたとして日本に戻ってきたら、
  いつか里沙ちゃんと一緒にテレビに映りたいな」

 真希はからかうように里沙の額を軽く指で押した。
 里沙は驚いて真希を見上げたが、遅れながらも勢い込んで返事をした。
 それを見て真希が可笑しそうにくすりと笑った。



180 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時15分36秒


      ***


181 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時16分16秒



 里沙の首に見慣れたライトブルーの前掛けがまわされる。
 眼前の鏡台には、色々なメイク道具が揃えられ、
 里沙の背後に立った斉藤瞳が、髪止めを解き、
 広がった里沙の髪を丁寧に櫛で梳かしつけている。

 「何かいいことがあった?」

 瞳が櫛を鏡台に置くと、パフで里沙の顔を叩きながら尋ねてきた。
 里沙は驚いたように目を泳がせた。

 「え、別に、そんなことありませんよ」

 「そういう割にはずいぶんと表情がよくなったじゃない。
  前はずいぶんと辛気くさい顔してたけど、
  最近はぐっといい顔になってるからさ」

 「そ、そうですか? 私は別に…」

182 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時17分10秒

 「あたしを誰だと思ってるの?
  顔見ればその人の人柄とか分かるのよ。
  隠してどうする。ははぁん。誰ぞに『ほの字』でしょ」

 里沙は、鏡に映った自分の頬がぱっと赤く染まっていくのを見て、
 慌てたように咳き込んだ。
 一方の瞳は我が意を射たりという表情で髪を優しく二つ分けにしながら、

 「最近の子っていうのは早熟だって聞いてたけどね。
  やっぱり同業の子? それとも学校の同級生かぁ?」

 しつこく質問を繰り返す瞳から逃げるように、
 里沙はメイクが終わると、
 すぐにメイク室を飛び出して、スタジオに向かった。
 里沙は廊下を歩きながら、ふとほくそ笑んでしまった。

 (あれほどイヤだったって思ってたのになぁ)

 今、自分を支えているのは真希といつか仕事をしたいという不純な想いだ。
 真希が母親からやらされているという印象しか持てなかった仕事を、
 夢という形に変えてくれた。
 そしてそれは母親が用意した道と思い込んでいて見えていなかった、
 自分の道を歩き始めたのだ。

183 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時17分42秒

 里沙はスタジオの入り口で思い切り息を吸い込む。
 いつもの匂いだ。これが私の仕事場だ。

 「おはようございます」

 里沙は挨拶をしながら、スタジオを横切っていく。
 普段よりも張った声にスタッフは何事かと里沙を見て、
 微妙に強張った笑顔で返事をしてくれる。

 「おはようございます」

 「あ、おはよ」

 壁越しでパイプ椅子に座りながら、
 忙しくコップに飲み物を注ぐめぐみと話をしている美貴を見付けて、
 里沙は挨拶を交わした。
 美貴は紙コップに口をつけながら、柔らかな笑みを浮かべた。
 めぐみは元気に満ちた里沙に戸惑いながら、
 だぶだぶの裾に隠れた手でメガネを押し上げた。

 「何か今日は元気だね? ははぁん、何かいいことあったでしょ」

 美貴にも瞳と同じことを言われた。
 里沙は照れながら、両手を振って否定をする。
 それから冗談めかして言う。

184 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時18分23秒

 「いつもと同じです。
  でもちょっとだけ機嫌はいいかもしれないです」

 「顔つきが違うもん。今日はやる気満々だね」

 美貴も触発されたように、
 うんと背伸びをして、それから健康的な白い歯を見せた。

 「何か飲む? いつものジュースでいい?」

 めぐみがペットボトルに手を伸ばしながら聞いてきた。

 「あ、それじゃ、コーヒー、頂いていいですか?」

 「へ、コーヒー?
  あ、うん。いいけど…。
  里沙ちゃん、コーヒーなんか飲んだことあったっけ?」

 「だから言ったじゃないですか。
  今日はちょっと大人の気分なんですよ」

 めぐみはそんな里沙を可笑しそうに見ながら、
 褐色のコーヒーを紙コップに注いだ。
 里沙はそれに口を付けるが、相変わらずの苦さに顔を歪めた。
 それを美貴とめぐみは顔を見合わせて笑いあった。

185 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時19分23秒

 「それじゃあ、リハに入りま−す」

 セットの方からADの声が聞こえてきた。
 その声に弾かれるように里沙は紙コップをテーブルに置くと、
 お腹から声を張り上げて返事をした。

 「はい! 今日もよろしくお願いします!」

 驚いたように里沙の方を見るスタッフたちに元気に一礼をすると、
 屈託のない顔で微笑んだ。

       終 

186 名前:名無し作者 投稿日:2003年03月02日(日)02時26分50秒


 >>162
 レス、ありがとうございます。
 最近はなかなか情報収集に時間が割けず、
 娘の動向がよく分からずです(w

 >>163
 レス、ありがとうございます。
 本当に!
 後でエンゲル君で調べられて、
 怒られたんでしょうね、きっと(w

 >>164
 レス、ありがとうございます。
 お言葉に甘えすぎてしまい、更新が大遅れ。
 本当に申し訳ありませんでした。

 >>165
 保全ありがとうございます。

187 名前:あとがき−1 投稿日:2003年03月02日(日)02時44分55秒

 本当に長くかかってしまいました。
 新垣の誕生日、十月に合わせて作った話だったのに、
 気がつけば三月!
 でもどうにかこうにか終わらすことができました。
 これも一重に読んでくださる方々のおかげです。
 本当にありがとうございました。

 さて、『イエスタデイ』から約一年ほど経ちました。
 先日懐かしく、
 書き始めのきっかけにもなった『四月物語』を再鑑賞しました。
 やっぱり原作は全然イイ!
 見ていない方はどうぞ一見してみてください。

188 名前:あとがき−2 投稿日:2003年03月02日(日)02時45分50秒

 『イエスタデイ』を書いている間、
 実は小川、新垣の話は基盤ができていました。
 あまりこの目立っていなかった二人で、一丁花火を上げてやるかと
 どうにかこうにかここまで終わらすことができました。
 もう一人の五期メンバー、
 高橋については何も考えていませんでした(高橋ファンの方スミマセン)
 ここまできたからには、どうせならという考えもあり、
 何度かプロットを立ててみたりもしましたが、しっくりせず、
 また私自身の身辺の忙しさもあり、
 ここで一端筆を置かせていただくことにします。

 板を貸してくださった管理人さん、ここまで読んで下された方々、
 本当に長い間ありがとうございました。

  
189 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月02日(日)16時52分21秒
作者さん、お疲れ様でした。
待ってた甲斐がありました。
190 名前:シンデレラに… 投稿日:2003年03月02日(日)20時15分50秒
お疲れ様です。
新垣は自分の道を歩き始めたんですね。良かった良かった。
191 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月02日(日)22時21分09秒
脱稿お疲れ様でした。
正直、新垣主役という時点で敬遠しがちなんですが、「イエスタデイ〜」の作者さん
だという不純な動悸で読み始めました。
結果、中学生くらいの思春期の女の子の1番リアルな部分を感じました。
終わった時点で解決している問題はないのですが、この先きっと新垣は乗り切って
いけるんだろうな、とか後藤も将来はきっと……というような希望を持って、
清清しい気持ちで読み終えることができました。
自分の中で、新垣主役作品の中ではナンバー1です。
とても素晴らしい作品、ありがとうございました。
新垣と後藤のやり取り、本当に勇気づけられます。お疲れさまでした。
192 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月05日(水)23時55分43秒
脱稿乙です。

『イエスタデイ』から読んでました。
新垣にスポットの当たってる小説初めてでした。
非常によかったです。
最近、俺の新垣評が変わってくるぐらいに(笑

余裕ができたら高橋編もお願いします
193 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月06日(木)10時27分25秒
脱稿お疲れ様
3作とも良作

高橋愛に限らず新ネタ出来たらまた掲載して下さい
194 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月31日(月)19時29分18秒
とてもよかったです。時間ができたらぜひ高橋も書いてください。

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