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ダブルキャスト 2

1 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時08分47秒
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sea/1025118218/

同じ海版の後半です。
2 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時10分51秒
   28

 後藤に会うことになるのだろうと思うと、保田は憂鬱になった。

 何度か来た事のある道をタクシーで通り、昼下がりの冷たい光が窓から入り込
んでくる。それに暖められた膝の上に置いていた両手をそっと胸に当てると、鼓
動が若干早くなっていた。
 タクシーを降りて、後藤の家まで歩く。掛けているサングラスを外して鞄の中
に入れる。賑わう通りを抜けて、後藤の家はすぐにあった。

 後藤と疎遠の状態が続いて、その間、保田は喋りかけたことも無ければ掛けら
れたこともない。まるで小学生のように、お互いに意識している相手に喋りかけ
られないような気まずさがあった。それでも矢口の要求を否定しなかったのは、
まだどこかで彼女に対する未練みたいなものがあったからなのかもしれない。き
っぱりと人を嫌いになれるほど、保田は器用ではなかった。

 玄関の横にあるインターホンを押す。チャイムの音がドアの向こう側から漏れ
てくる。僅かな間があってから、廊下を進む足音が聞こえてきた。

 今回、保田が後藤の家に訪れると言う事にアポを取っていない。もしそんな物
を取れば、後藤が何らかの細工をして部屋にある証拠を消してしまうかもしれな
いし、第一保田が家に訪ねることを拒むだろうと言う理由があった。矢口はベッ
ドの上で後藤の部屋に入ったら、何でもいいから眼に焼き付けてきてと、そのア
ポを取らない理由と共に保田に言った。
 責任重大ね、と言う言葉を、保田は自嘲気味に吐く事しか出来なかった。
3 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時12分15秒
「保田さん」
 ドアが開いて出てきたのは後藤の母親だった。保田は軽く頭を下げると、急に
すいません、と謝る。

「ごっちん……真希さんは居ますか?」
 保田の言葉に母親は首を横に振った。
「今日オフだから、朝から出かけているみたい。わざわざ尋ねてもらったのにご
めんね」
「いいえ」
 そうか出かけているのか、と保田はどこかホッとする。
 それからすぐに後藤が出かけた理由が気になった。

 もしかしたら矢口が言うように貢いでいる相手に会いに行っているのかもしれ
ない。矢口は部屋の中にその人物が隠れているのだと言っていたが、保田は未だ
にその推測を信じる事が出来ない。それならばこうしてオフに時間が出来たとき
に会っていると考える方が納得出来るのだが……。
 まぁそれを調べるのも自分の役目か、と保田は思い直した。

「あの……上がってもいいですか?」
 後藤の母親は一瞬だけ迷ったような顔をしたが、保田が後藤の変化について協
力をしてもらっているせいか、拒む事はなかった。どうやら今日、尋ねてきたの
もその事なのだろうと、後藤の母親は悟っているのかもしれない。
4 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時13分30秒
「いつも無理言ってすいません」
 家の中に上がると保田は言った。後藤のお母さんは苦笑いするだけで何も言っ
てくれなかった。
 すぐに帰りますから、と言う事を説明して、保田は後藤の部屋に入ることを告
げる。母親はあからさまな否定はしなかったが、肯定もしてくれなかった。多分、
黙認、と言う言葉が合っているのかもしれない、そのまま居間に姿を消した。

 保田は玄関から突き当たりにある階段を上る。メシメシ、と床がキツク音を上
げる。昼下がりの光が黄ばみ始めた壁に下りてきて、そこに自分の影が張り付い
ていた。後藤の部屋の場所は知っている。何度か遊びに行ったこともある。その
時はまだ紗耶香がメンバーとして居たな、と言う事を何となく思い出した。

 ドアの前に立つ。
 そっとノブに手を掛けた時、言い知れない不安が襲ってきた。

 もし、この中に本当に後藤以外の人間が居たとしたら……?

 ありえない、そんな事があるはずが無い、ここに来るまでの間に何度も頭の中
で結論付けていたはずなのに、いざこうしてドアノブを握った瞬間に、もしかし
たらという可能性に飲み込まれていく自分を感じた。
5 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時14分37秒
 もしこの中に――。
 コトンッ。

 物音が聞こえた。
 保田は咄嗟のうちにノブから手を離す。思わず一歩後ろに仰け反ると、締め切
られているドアを見上げた。

「……何?」
 今の音は何?
 それは部屋の中から聴こえたようだ。後藤は居ないはずではなかったのだろう
か? 居ないからこうして上げてもらえたのではないのだろうか?

 保田は唾を飲み込むと、右手を心臓に当てて深呼吸をする。
 空耳かもしれない。もしくは後藤がすでに帰ってきているのかもしれない。こ
の中に知らない他人がいる可能性よりも、そっちの方が確率は高いはずだ。

 矢口の言葉が頭の中を駆け巡っていた。
 確かに今まで調べてきた後藤のおかしい出来事に付いて、それをパズルのピー
スの様に組み合わせていくならば、きっと矢口が言っていたような形になること
が自然なのかもしれない。しかし保田にはそれは現実から離れすぎているとしか
思えなかった。

 だから、確認しなきゃ。
 そのために来たんだから。
6 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時15分55秒
 決意を固めて再びドアノブを握る。気のせいか、掌に薄っすらと汗をかいてい
た様で、心臓の高鳴りはいくら深呼吸をしたところで収まる事は無かった。

 一呼吸を置く。
 そしてドアを開けた。

 冬の冷たい光が漏れてくる。徐々に広がる視界。ドアはギギッときつそうに音
を立てて隙間を広げていく。

 ふあり、と保田を包む匂いがあった。
 あ、と思わず声を上げる。

 この匂い――。
 この匂い、私、知っている――。

 部屋の光景は、床一杯に散らかった雑誌やマンガの本。右手側にはベッドがあ
り、シーツが乱れている。壁にはキャラクター物のポスターやカレンダーが貼ら
れている。ドアから突き当りには窓があり、そこから少し離れた場所には机があ
った。
 机の上は小物が散らかっている。そこには倒れている写真立てがあった。保田
は散らかっている床に足場を探しながら進むと、その写真立てに手を掛けた。
 窓に掛かっているカーテンが揺れていた。冷たい風が保田の横を通り抜けてい
く。写真立てを元の場所に戻すと、それは時々煽られるカーテンに当たって倒れ
てしまう。
7 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時17分05秒
「……これか」
 さっきの物音の正体はこれだったに違いない。

 いくらかホッと胸を撫で下ろすと、その中に入っている写真を見る。そこには
後藤を真中にして、両端に保田と紗耶香が居た。三人の笑顔は無邪気そのもので、
まるで卒業アルバムを開いた時に似た懐かしさに駆られた。
 確かプッチモニで全国を巡業していた時に撮った物だ。その頃よく三人で下ら
ない話をして盛り上がっていた。
 保田にはその頃の忘れられない思い出があった。それは下らないお喋りの中の、
本来なら消化されるだけの会話。でもその話は何故だか胸の奥でずっと引っかか
ったまま、いつか叶えられればいいという夢になっていた。
 きっと後藤も紗耶香も忘れてしまっているだろう。
 あの頃いつもしていた、下らない夢物語の一つに過ぎなかったのだから。

 写真立てを倒した状態のまま机の上に置く。揺らめくカーテンの隙間から外の
景色を見る。青空が続いていて、白い雲が疎らに散らばっていた。
 机の上に視線を戻すと、そこに香水のビンが置かれていた。そっと手に取ると
三分の一ほどしか使われていない。蓋を外して顔を近づけてみる。予想通り、そ
の匂いは部屋に漂っているものと同じだった。
 紗耶香がつけていたものだ……。

 保田の記憶の中でその頃が呼び起こされる。それはまるで白昼夢のように、全
身がその記憶に飲み込まれていくような気がした。
 頭を横に振る。
 必死で自分を見失わないようにした。
 こんな場所で後藤は何を思いながら時間を過ごしているのだろうか?
8 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時18分00秒
 眼を閉じた瞬間にさえも、今まで自分が過ごしてきた事が夢のように思えてし
まう。もしかしたらあの頃のまま、時間は動いてはいなくて、今こうして存在し
ている自分は偽者なのではないだろうかと、不安になった。
 矢口が言っていた。後藤に階段から突き落とされる前に、不意に自分の存在が
不確かなものになったと。今の自分も、過去の自分も、もしかしたら偽者なので
はいなだろうか? 蜃気楼のように簡単に消えてしまうのではないだろうかと。
 今、こうして保田が後藤の部屋の中で頭を振っている瞬間でさえも、モーニン
グ娘と言うもう一人の自分は、テレビや雑誌に顔を出している。色んな形になっ
た自分たちが散らばっていて、もしかしたらその中の一つでしかないのではない
だろうかと思った。

 そんな事さえも思わせてしまうような雰囲気が、この部屋の中にはあった。そ
れは写真立ての中の思い出だったり、部屋に確実に漂う香りだったり、後藤の存
在を感じる散乱した本だったりする。その一つ一つに囲まれながら、後藤は何を
思っているのだろうか?

 その時、保田は顔を上げた。
 すぐに首を横に向ける。視線の先には収納型のクローゼットがあり、その扉が
閉じられていた。
9 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時19分04秒
 唾を飲み込む。背中を窓に付けていた。
 誰か……居る……?

 人の視線を感じた。それは部屋の中に入ってくる保田を今までずっと監視して
いたかのように、ひっそりと存在を消して、まるで獲物を狙う獣のようだった。
そんな視線を、収納型のクローゼットの中からした。

 そこに……誰か居る……。
 矢口の仮説が現実味を帯びて来た瞬間だった。

 しばらくの間そこで立ち止まっていた保田だったが、いつまでもこうしてはい
られないと決意を固める。もし、そこに誰かが居たとして、襲ってきても一階に
は後藤のお母さんが居る。きっと大声を上げれば駆けつけてくれるだろう。

 確かめなくちゃ。
 そこに誰が居るのか、確かめなくちゃいけない。

 一歩二歩とそのクローゼットに移動する。足の下の雑誌が音を上げる。凸凹と
した感触が伝わる。鼓動が高鳴り、何度も唾を飲み込んだ。窓から入り込んで来
る冷たい空気が、緊張から浮き出た冷汗を冷まして行く。

 クローゼットに手を伸ばす。
 ゆっくりと手に力を込める。
 心臓が高鳴り、嗚咽が喉から漏れそうになった。
 決意してクローゼットを開けた。
10 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時20分05秒
 開けた瞬間、保田を襲ったのは埃っぽい空気だった。鼻腔を突き上げるものを
感じて、思わず咳払いをする。それからその視線をクローゼットの中に向けた。
 その中は上段と下段に分かれていて、上段には汚れた服や帽子、それにマンガ
の本が乱雑に詰め込まれていた。すぐに視線は下段に向かう。収納箱が二段積み
重なり、それ以外のものは入っていない。右手側にはぽっかりと人が入れそうな
空間が開いていた。

 誰も居ない……。

 気が抜けていく。やっぱり矢口が言っていたことは正しかったわけではなかっ
たんだと、安心している自分が居た。まさか自分の部屋に人を隠して、その人物
にお金を貢いでいたなんて、そんな事があるわけが無い。
 安堵から苦笑いをしていた。ゆっくりと視線を上げてクローゼットを閉めよう
としたとき、不意に背後に人の気配がした。

 咄嗟に振り返る。
 ドアの前に人の姿があった。
 紗耶香……。

 心臓が跳ね上がるぐらいの驚きが沸いてくる。しかしすぐにそうじゃないと我
に戻った。
 そこに居たのは後藤だった。コンビニの袋をぶら下げて、呆然と立ち尽くしな
がら保田の姿を見ている。いつものコートを着て、マフラーは締めていない。青
白くなった顔色と紫色の唇が衰弱していく人間のそれを感じさせた。
11 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時21分08秒
「ご……ごっちん……」
 口から漏れるように呟いていた。それが合図だったかのように、立ち尽くして
いた後藤は我に戻ったかのように表情を変える。それからコンビニの袋を投げ出
すと、保田の元に走りより、まるで見られたくないものを隠すかのようにクロー
ゼットの扉を閉めた。

 その勢いに保田は一歩仰け反る。空中になびいた彼女の髪の毛が一瞬だけ顔を
掠めた。それはこの部屋と同様の香水の匂いがした。
 扉を閉めてから僅かな間が空く。投げ捨てられた袋からは菓子パンとペッドボ
トルのお茶が転がっていた。
 すぐ目の前で後藤の背中が揺れている。保田はどうする事も出来なくて、強く
感じる香水の匂いが脳の中心を激しく刺激しているような気分に襲われる。決し
て似通っているはずではないのに、その背中が紗耶香のそれと重なって見えた。

「……見たの? ……圭ちゃん」
 後藤が呟く。しかしその意味に気が付くのに、保田はしばらく時間が必要だっ
た。

「……見た?」
 後藤がもう一度聞く。
 保田は首を横に振った。
 自分は一体何を見たのだろうか?
12 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時23分15秒
 後藤がここまで慌てて隠すようなものは、そのクローゼットの中には無かった
ように思える。それはこの部屋の中に入ってからも同様だ。不自然なものを見た
わけではない。
 無言の保田を後藤はそれが返事だと解釈したらしい。背中を小刻みに揺らしな
がら今にも消えてしまいそうな声で呟いた。

「……何しに来たの?」
 その言葉の裏には確実に苛立ちが込められている事に気が着いた。保田は無断
で上がっているという罪悪感から口を開く事が出来ない。

「……何しに来たのさ……圭ちゃん」
 違うの、と言いかけた。しかしそれは喉を通る事は無く、この状況でどんな言
い訳をしたところで無駄なのではないだろうかと言う諦めの気持ちが沸いてくる。

 私は一体何をしているのだろうか――?

 同じメンバーの周辺を、まるで探偵にでもなったかのように調べて、それに飽
き足らずにこうして部屋まで漁っている。これが本当に仲間に対して行動なのだ
ろうか?
 そう思った時だった。背中を向けていた後藤がクルリと振り返ると、そのキツ
メの視線を保田に向けて声を上げた。

「何しに来たの! 圭ちゃん!」
 それは部屋中に響き渡り、きっと一階に居る彼女の母親にさえも聞こえていた
だろう。保田は反射的に肩を竦めた。
13 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時25分12秒
「勝手に人の部屋に入って、勝手に部屋漁って! 何してるの? こんな事、例
え圭ちゃんでもしちゃ行けない事でしょう!」
 後藤の気迫に押されて思わず一歩後退りする。


「最低! 非常識だよ! 突然に人の家訪ねてきて、勝手に人の部屋に入ってき
て! その上こんな所まで開けて! 何考えてるの? 悪い事だって言うこと、
わかってるの?」

 確かに後藤が言っている事はあっている。いくら矢口に言われたからといって、
彼女の母親に断ったからといって、決してこんな事をしてはいけない。それは自
分が逆の立場になったと考えても、きっと今の後藤と同じような反応を取るだろ
う。

 しかし一方では別の感情があったのも確かだ。
 誰のためにこんな事をしているの?
 誰のために矢口と二人で延々と後藤の話をしていたの?

 様子がおかしくなって、それを仕事にも影響を与えて、周りに迷惑を掛けてい
るあなたのためじゃないの? あなたのために、私たちはこんな行動を取ってい
るんじゃないの?

 それは徐々に胸の奥で強くなってきた。
 まるで悲鳴のように叫びつづける後藤を前に、保田は下唇を噛む。気が付くと
服の袖を握っていた。
14 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時27分15秒
「圭ちゃん、最低だよ!」
 その言葉が合図だった。
 閉じていた唇が開く。

「……だったらあんたはどうなのさ……?」
 その僅かな呟きは後藤の耳に入ったようだ。興奮気味に声を張り上げていた彼
女は一瞬だけ口を閉じた。

「だったらあんたはどうなのさ!」
 それを見計らったかのように保田は声を上げていた。

「人の物を勝手に盗んで! その為に人を傷つけて! それは非常識だって言え
ないの? 最低な行為だって言えないの?」

 後藤の表情が変わる。
 保田は口にしたくない言葉を吐いているという自己嫌悪に駆られながらも、そ
れを止める事が出来なかった。

「サングラスもブレスレットも、私たちがどんなに大切なものかって言うことを
あなたは知っていながらそれを盗んだのよ! 矢口を階段から突き落として、入
院させるまでの怪我を負わせてまでそれを盗んだのよ! そんな事をしたあなた
がそう言うことを言う資格があるの?」
15 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時28分04秒
 後藤の顔が下がる。聞き取れないような声で何かを呟いている。それはまるで
念仏のように思えて、保田は胸の奥の不安を強くさせた。

「何を隠しているの? どうしてサングラスやブレスレットなんか盗んだりした
の? あなた自分がおかしくなっているってわかってる? メンバーや色んな人
に迷惑を掛けているって言うこと、自覚してるの? 何が原因でそんな事に――」

「もうほっといて!」
 ほとんど悲鳴のように後藤は叫んだ。

「もうあたしの事はほっといてよ!」

 多分、それは後藤の本心だったのかもしれない。金切り声の中に、悲痛な物が
混じっているように感じて保田は口を閉じていた。

「もう優しい言葉も掛けてくれないくせに! 優しい笑顔も向けてくれないくせ
に! 今更こんな事して、泥棒みたいにこそこそ……もうあたしのことはいい
の! あたしは一人で平気なの!」
「……ごっちん」
16 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時28分57秒
「誰にも頼らない! 誰にも何も期待しない! あたしは今のままで居られたら、
何もいらないの! それだけなの! それなのに圭ちゃんはそれを壊そうとす
る! あたしの大事なものを壊そうとする! そんなの迷惑なの!」
「何を……言ってるの?」

「あたしは一人で大丈夫なの! 誰にも話し掛けられなくても大丈夫なの! 一
緒に笑え合えなくても、ふざけ合えなくても、手を繋いだりお喋りをしたり、緊
張しあったり……そんなのも要らない! あたしは一人で大丈夫だからそんなの
要らない!」

 その言葉に保田は何も言い返すことが出来なかった。
 それはメンバーだけではなく、全ての人間を拒絶している言葉だと思った。

 何をしたら、ここまで落ちていくのだろうか……?
 何を隠していたらここまで思えるのだろうか……?

「……帰って」
「……ごっちん」
「帰ってよ!」

 それから押し出されるように保田は部屋から追い出された。
 廊下に出た瞬間、乱暴にドアが閉じられる。振り返って何か言葉を掛けようと
思ったが頭の中にこの状況での適切なそれが浮かばなかった。
17 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時29分55秒
 ため息をつく。階段を下りようとすると、後藤の母親が心配そうな表情で保田
を見上げていた。すいませんでした、と謝ると、こっちの方も悪いから、と気を
使われた。
 とにかく後藤と話をする事は無理だろうと悟ると、後は帰るしかなかった。重
い鉛を飲み込んだように体が動かなく、靴を履く事さえも酷く疲れていた。ドア
を開けて外に出た瞬間、冷たい空気が体を縛り付けた。

 一歩二歩と家から離れる。冷たい太陽の光を浴びながら、不意に空を見上げる
と頭の上を一羽の鳥が横切っていった。
 それを思わず視線で追う。その鳥は後藤の家の向こう側まで飛んでいき、屋根
に邪魔されてそれ以上見る事は出来なかった。

 ふと保田は視線を止める。
 そこには後藤の部屋の窓が見えた。
 半分開けられている窓からカーテンがなびいている。そのすぐ横に人が立って
いる姿が見えた。
18 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時30分33秒
 あ、と思う。
 まるで自分を見下ろすかのように立っている人影。それは懐かしい姿をしてい
た。
「……紗耶香」

 太陽の光が反射する。思わず眩しさから眼を閉じた。
 それから一二秒ほどしてから再び眼を開ける。
 窓には誰も立っていなかった。

 ああ、毒されているんだ。
 保田はそう思うとコメカミに人差し指を当てて首をニ三度横に降った。
 あの部屋の匂いに、毒されているんだ。
 指先に脳に向かっていく脈を感じた。

 酷く疲れた体には、自分の存在を誇示するかのように輝いている太陽の光が鬱
陶しく感じた。
19 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時32分22秒
   29

 眼を閉じて、いつものように眠りに付こうとしていた時だった。
 矢口は暗闇の病室の中で体を静め、微かに音を立てる時計の秒針に包まれてい
た。同じテンポで響くそれに、徐々に意識を持って行かれる。体を気遣いながら、
体制を整えていた。

 小さな物音がしたのはそれからすぐにしてだった。
 今に聞き逃しそうな小さな音。それはきっと静まり返った病室内じゃなければ
掻き消されていただろう。矢口はゆっくりと眼を開ける。
 目覚し時計の針が蛍光に光っている。傾きから大体の時間を悟ると、その視線
をドアに向けた。

 物音は矢口の病室前から聞こえた。ドア一つ挟んだすぐ目の前だ。
 こんな時間に誰かが来たのだろうか?
 そう思って思いついたのは中澤の顔だった。

 面会時間は等に過ぎているが、中澤は気分の赴くまま見舞いにやってくる。看
護婦に見付からないように忍び込んだり、頼み込んだり、注意されたり……あり
がたいとは感じているが、さすがに芸能人がそう言った非常識な行動に出るのは
まずいのではないだろうか?
 それでも素直に嬉しいと感じる自分が居る。中澤の顔を見ると何もかも忘れて
ホッとしてしまう。
 矢口はゆっくりと起き上がる。それからドアの向こうに居るであろう人物に向
かって声を掛けてみた。
20 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時33分25秒
「裕ちゃん?」
 しかしそこからは何の返事も返ってこない。もう一度呼びかけてみたが、その
向こう側からはうんともすんとも言わなかった。
 さっきの物音は空耳だろうか?
 あんなに小さかったのだ、確かにその可能性のほうが高いだろう。しかし矢口
はなぜかそのドアの向こう側が気になり、棚に寄りかけている松葉杖を掴んでベ
ッドから抜け出ていた。

 別に空耳ならばそれでいい。また戻って眠りに付くだけだ。体はある程度回復
している。部屋を往復するぐらい、苦ではない。
 ドアの元に来るとそっと右手を伸ばしてノブを握った。カーテンの隙間から入
り込む月の光で、目の前の壁には自分の姿が映し出されている。青白くて、どこ
か冷たい光の中、矢口はカチャリとそれを開けた。
 目の前に広がったのは左右に伸びる廊下だった。いくつも填め込まれている窓
から僅かな微光が入り込んでいる。ぼんやりとだけ、周りを確認する事が出来た。
 左右の廊下の向こう側は洞窟のように黒く闇が降りている。人の姿は感じられ
る事も見ることも出来なく、そこには誰もいないということがわかった。

 息を吐く。白く闇の中に消えていった。
 やっぱり空耳だったのかと、矢口はベッドに引き返そうとした時、それは視線
に飛び込んできた。
21 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時34分26秒
 ドアの前にまるで捨てられたかのように小さな紙袋を見つけた。それは掌サイ
ズで床の上に置かれている。
 もう一度左右を見る。誰もいない。

 それからゆっくりと屈んでそれを取ると、矢口はすぐに中に何が入っているの
か察しがついた。
 掌の上に落とすように紙袋を逆さまにした。ジャラ、と金属が擦れる音を立て
て現れたそれは、僅かに入り込んでいる月の微光に反応するように輝いた。

 ブレスレットだ。
 矢口は顔を上げる。

 松葉杖を付いて咄嗟のうちに廊下に出ようとしたが、すぐに諦めて動きを止め
た。
22 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時35分01秒
「……後藤」
 あの約束していたブレスレットだ。後藤が交換するために買ってきたブレスレ
ットだ。
 どうしてこんな時間に持ってきたのだろうか? どうして言葉一つ掛けてくれ
なかったのだろうか?

 まだ後藤はあたしの事を恐がっているのかもしれない。
 そう自嘲して、矢口は病室に戻った。
 ドアを閉めて、それに寄りかかる。正面の突き当たりの窓から一筋の月光が伸
びていた。それは矢口の顔に張り付いて、眼の裏に残光を残す。

 そっとブレスレットを右腕に付けると、馴染みの質感が手首を包む。
 それを伸びている月の光の中に掲げた。
 幻想的な光に矢口の右腕が彩られていた。
23 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時37分26秒
    30

 買い物袋がいつもより重くて、あたしは消えた街灯の下で足を止めた。

 白い息が暗闇に吸い込まれていく。冷たい風に耳が痛くて、袋を地面に置くと
手で覆うようにそれを暖めた。散らばる星たちが黒いキャンバスの上を一杯に輝
いている。胸の奥に言い知れない感情が芽生えた。

 袋を持ち上げて再び歩き出す。
 路地の風景の中に、家の屋根が見え始めていた。

 圭ちゃんがあたしの部屋に訪れてきたのは探り以外考えられない。これまで周
辺を調べまわり、きっとどこかで部屋の中に何があるのか、気が付いたに違いな
い。それを調べるために今日、姿を現したんだ。
 そう思うと確実に追い詰められた自分を悟った。

 家のドアを開ける。ひっそりと闇を落とし、冷たい空気がどこまでも続いてい
る。靴を脱いで階段を上る。静かな空間に、あたしの足音が響いていた。

 圭ちゃんは気が付いたのだろうか? あたしの部屋を調べまわり、市井ちゃん
の痕跡を見つけたのだろうか? 明日、仕事であった時、どんな事を言われるの
だろうか?
24 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時38分29秒
 そう思うと来る崩壊に向けて憂鬱になった。

 階段を上りきる。突き当たりの部屋に向かう。カンヌキを外してドアを開ける。
青白い光と香水の匂い。漂う空気は何も変わらなかった。

 でもその中に市井ちゃんの姿は無かった。

 わたしは買い物袋を床に落とす。小走りで正面の窓まで近寄ると、そこに鍵が
掛かっていることを確認した。
 市井ちゃんは怪我をしている。再びこの窓から飛び降りる事は無いだろうと考
えていたが、もしかしたらと言う可能性は常に胸の中で存在していて、あたしを
不安にさせていた。それだけではなく、部屋を空けなくてはいけない時、その都
度に市井ちゃんが抜け出さないか、どこかに落ち度は無いか、そればかりを考え
て、それは強迫観念としてあたしを追い詰める材料の一つになっていた。

 市井ちゃんを拾ってから、あたしは安心をした日が無い。
 いつか消えてしまうのではないだろうか? いつか逃げ出してしまうのではな
いだろうか? いつか誰かにバレる時が来るのではないだろうか? そう言った
思いに常に支配されていた。
25 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時39分21秒
 窓ガラスが息で曇った。逆光から鏡のようになっている表面に、あたしの姿が
映し出される。いつもの覇気のない、世間で言われる『やる気の無い』あたしが
そこに居た。

 ゆっくりと振り返る。散らかる床一面のゴミを正面に、ドアの脇には収納型の
クローゼットがある。それは扉を堅く閉じていた。
 あたしはゆっくりとそこに向かう。何枚かのゴミを踏みつけた。

 ドアには鍵が掛かり、窓も開けられていない。市井ちゃんは部屋から出て行っ
たわけではない。だったら姿を隠せる場所はそこにしかなかった。
 クローゼットの扉に手を掛けた。ゆっくりとそれを開くと、木の匂いに包まれ
た空気が逃げるようにあたしを通り過ぎていく。

 市井ちゃんは下段に居た。
 壁に寄りかかるように座り込み、まるで自分の存在を殺すかのように膝を抱え
て眠っていた。

 あたしはゆっくりと膝を折ると、市井ちゃんの目線に合わせた。安らかな寝顔
が愛しくて、そっと右手を伸ばす。月明かりが背中から降り注ぎ、真っ青に照ら
されたその唇に人差し指が触れた。
26 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時40分36秒
「市井ちゃん……」
 あたしはそっと呼びかけてみる。閉じられていた眼が微かに動いて、その指を
引っ込めた。

 きっと圭ちゃんがあたしの部屋に来ていた時も、こうして市井ちゃんはこの中
で眠っていたに違いない。こんなにも狭い場所で、膝を抱えていたんだ。

 市井ちゃんがゆっくりと眼を開けた。
 おぼつかない視線が空中を泳ぎ、左手で眼を擦る。寝起き特有の反応を一通り
した市井ちゃんは、その視線にあたしを捕らえたようだ。数秒だけ動きを止めた。
 あたしは笑顔を作った。そこに市井ちゃんが居るだけで満足だった。
 だから、どうしてこんな所に入っていたのかと言うことも考えてはいなかった。

「市井ちゃん……寒いでしょう?」
 病的なほど白い肌になっている市井ちゃんを見ながらあたしは呟いた。

「温かい飲み物……買って来たよ」
 黒い瞳の中に映るあたし。印象的な唇は閉じられたまま、前髪が彼女の表情を
隠そうとしている。

「もう……そんな所に居なくてもいいんだよ」
 あたしはその肌に触りたくて、ゆっくりと再び右手を伸ばす。
27 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時41分31秒
「だから……一緒に飲もうよ……」
 しかしあたしの伸ばした手を市井ちゃんは握り返してはくれなかった。
 まるで怯える子供のように、体を引いてその手から逃れようとする。ピタリと
壁に背中をつけて、怯える視線をあたしに向けた。

「市井……ちゃん?」
 その反応がわからなくてあたしは呟く。

「どうしたの? 市井ちゃん……どうしたの?」
 あたしは右手を伸ばす。その指先に市井ちゃんの感触を感じた時だった。まる
で追い詰められた動物が最後の抵抗をするかのように、その手を乱暴に引っかか
れた。
 イタッ、とあたしは声を上げて手を引っ込める。ジンワリと痺れが腕から脳に
伝っていく。手の甲を左手で覆うように当て、市井ちゃんを見た。

 市井ちゃんは怯えていた。
 ああ、と気が付いた。

 恐がられているんだ……あたし……。
28 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時42分30秒
 市井ちゃんはあたしを恐がっている。だからこのクローゼットの中に隠れたん
だ。見付からないように、また暴力を降られないように、自分を守るためこの中
に隠れたのだろう。

 胸が痛くなった。
 苦しくなった。

 顔を下げる。市井ちゃんの視線が痛々しかった。
 左手を手の甲から外すと、そこには一直線の赤い線が出来ていた。それにそっ
と口づける。唇に冷たい感触があった。

 時が止まったかと錯覚させるほど、あたしも市井ちゃんも動く事も口を開く事
もしなかった。時間にしてそんなに長かったわけではない。きっといつもお喋り
をして、急に出来た空白の時間程度だったはずだ。でもその頃と違ってその静寂
に、心は落ち着く事は無く、ただ何かを受け入れたように締め上げられるような
窮屈を感じていた。

 市井ちゃんは自我を持った。
 その結果、あたしに怯えた。
29 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時43分18秒
 あたしが何より嫌だったのが、市井ちゃんを無くす事だと思っていた。一度訪
れた喪失感を再び味合う事が恐怖だった。
 でもそれは違っていた――。
 顔を上げると相変わらず怯えている市井ちゃんがいた。今までそんな表情など
見たことも無かったのに、それがあたしに向けられている事が酷く辛かった。

「そんな……顔しないで」
 呟いた声が震えている。別に泣いているわけでもないはずなのに。

「そんな……顔しなくてもいいんだよ……」
 だから、そんな眼であたしを見ないで。

 どのくらいあたしはそれから黙り続けていたのだろう。買って来た飲み物はす
でに冷めていて、薄い雲に月の顔が隠されていた。何度も吐き出した息が闇の中
に飲み込まれ、波のように引いては襲ってくる辛さに耐えていた。頭の中には何
が悪かったのだろうかという後悔ばかりが浮かんで、それはあたし自身の存在を
否定する結果になっていた。

 巻いたマフラーを解く。
 あたしそれを掴んで再び市井ちゃんに腕を伸ばした。
 市井ちゃんは悲鳴にならない声を、まるで動物のように何度も上げるだけでさ
っきのような抵抗はしなかった。
 あたしは自分のマフラーを市井ちゃんに巻いてあげた。彼女は怯えた表情を崩
さなかった。
30 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時44分14秒
 一呼吸を置く。
 覚悟なんて付いているわけが無い。
 この時のあたしはただ、市井ちゃんの視線から逃れたかっただけだ。

「無理だね……もう」
 トクトクと心臓が脈を打つ。なぜかそれが強く感じた。

「もう……限界だね……」
 あたしはゆっくりと立ち上がると、後ろを向いて窓を正面にした。

「ドア……開いてるから」
 薄い雲が月の光に輝いている。それは縁の部分を黄金にして、どこまでも透き
通っているように感じた。

「……ドア……開いているから……」
 市井ちゃんが動く気配がした。あたしはそっと眼を閉じる。足音が引きつって
いるのがわかり、そんな彼女に同情していた。

 ギギ、とドアが開く。
 ギギ、とそれが閉まる。

 眼を閉じた闇の中で一人になり、遠のいていく足音を感じていた。
 首元から冷たい空気が入り込んでいた。それは体全体を締め付けて、反射的に
自分を包むように両肘を掴む。眼を開けるとさっきの雲がすでに流されていて、
正面に半月が顔を出していた。
31 名前:名無しさん 投稿日:2002年10月29日(火)08時44分53秒
 ゆっくりと振り返る。
 開いたままクローゼット。完全に閉まりきっていないドア。

 不意にあたしは突き上げてくる感情に任せて走り出していた。ドアを開けて、
闇の中の廊下を出る。階段の元まで移動した時、その視線の先には冷たい廊下し
かないことを悟り、足を止めた。

「市井……ちゃん……」
 その僅かな呟きが廊下に飲み込まれ、耳鳴りのような静けさが襲ってくる。心
の中にはぽっかりと穴が出来ていて、それは違和感としたまま残り続けている。
 再び部屋に戻る。半開きのドアを開けると、ギギ、と音を立てた。

 視線に広がる光景。
 散らかるゴミ、赤いラジオ、お守りにサングラス、それにブレスレット。窓の
下にはいつも居た存在が居ない。どこまでも続く闇の風景を窓は映し出していた。

 それはまるで夢の後。
 あたしと市井ちゃんの夢の後……。

 涙は出てこなかった。
32 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月08日(金)18時07分08秒
ああ、後藤はどうなっちゃうんだろ?ドキドキしながら更新待ちます。頑張って。
33 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月09日(土)00時58分05秒
更新が待ちどうしいっす
34 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月10日(日)23時37分34秒
この小説が更新されなくなったらマジで泣く…
35 名前:読者 投稿日:2002年11月19日(火)00時26分01秒
本気で待ち遠しいですがな
36 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月19日(火)18時55分46秒
作者様お忙しいとは思いますが頑張ってくらはい
37 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時33分48秒
   31

 ジャラ、と掌の上でブレスレットを転がす。

 真上にある太陽の光が反射して、キラキラと光るのを眺めながら、金網に背を
預けた矢口はゆっくりと顔を上に向けてどこまでも続く青空を眺めた。
 病院の屋上には矢口以外の人は見当たらなかった。白いシーツが何枚も干され
ていて、時折吹く風にパタパタとなびく。金網の柵の向こう側は三十センチほど
の余裕をあけて目が回るような落差が存在している。そこから見下ろす街並みは、
人は米粒のようになり、車はまるでオモチャのようだった。

 掌の上のブレスレット。
 これは紗耶香から貰ったものではない。
 同じ物。後藤が買ってきたまったく同じ物。

 紗耶香から貰ったという付加価値があるとすれば、今手に持っているのはイミ
テーションなのだろうかと矢口は思う。まったく変わらないものなのに、意味合
いだけがイミテーション。
 それをそっと右腕につける。パチン、と止め具を填めた。
 思い出す出来事があった。前に紗耶香から電話を貰っていた時期があったこと。
忙しすぎて徐々に構えなくなっていたため、その関係は自然と消滅してしまった
が、今頃になって何故だか頭の中に浮かんできた。
38 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時34分54秒
――おかしいんだ……矢口……わたしの頭、おかしいんだ。

 ため息をつく。
 冷たい風が走り抜けて思わず身震いをした。
 こんな薄着だと風邪を引いてしまうかもしれない。
 健康管理だけはシッカリとしなきゃな、と思いながら、すぐ横に立てかけてい
た松葉杖を握った。

――紗耶香、何言ってるのかわかんないよ。言葉になってないよ、さっきから。

 もうそろそろ雪が降りそうだ。
 そう遠くないうちに降りそうだ。
39 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時35分29秒
   32

 後藤の変化に気が付いていたのは保田だけだった。

 それはとても微妙な変化だったようで、メンバーは誰一人と後藤を気遣うもの
は居なかった。楽屋に入って挨拶をする。その後に隅に座ってひたすらMDを聞
き、仕事が始まるまでの時間を潰す。それはいつもの行動だったが、保田には木
の屑の刺が指に刺さった時のように、微かな違和感を胸に抱いていた。

 どこがおかしいとは明確にはわからなかった。ただ雰囲気がいつもと違う。ど
こか周りの眼を恐れているようだ。
 今までの後藤も確かにそんな様子を見せていた時もある。しかし今と決定的に
違うのは、後藤の後ろ盾がなくなってしまったかのように、それは迷子の子供の
見せる不安だった。

 仕事中も後藤の顔からは笑顔が消え、出来るだけ自分が映らないようにしてい
るのがわかった。メンバーに迷惑を掛けないように、休憩中も一人になり、台本
を開くその姿はどこか痛々しいものがある。
 しかしそう感じていても保田は後藤に声を掛けることは出来なかった。あの部
屋での一件以来、挨拶さえも交わしていない。心のどこかではまだ後藤を気に掛
けている部分がある。だからこうして微妙な変化も自分だから気が付いたのだろ
う。でも一方では気まずさみたいなものもあったのも確かで、後藤を前にして、
頭の中で喋る言葉さえも見付からなかった。
40 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時36分09秒
 そんな保田が後藤に声を掛けたのは、部屋での一件から三日たった時だった。

 その時、いつものように仕事を終わらせて、事務所に戻った面々は、その部屋
の一室に集まり連絡事項を聞いていた。決まりきったような言葉が並べられ、リ
ーダーの解散、と言う言葉でそれぞれが部屋を出て行く。保田もいつものように
帰りの仕度をして、上着に袖を通していた。

 携帯に着信が入っている事に気が付いたのはその時だった。鞄の中から携帯を
取り出して、履歴を確認する。非通知、となっているのを確かめると、その相手
は矢口だろうと予想がついた。
 病院にいる彼女は携帯を持ち歩く事が出来ない。その為、設置されている公衆
電話からよく保田に電話を掛けてきていた。明日、また掛かってくるだろうと思
いながら席を立ったとき、その頃にはメンバー全員が部屋を後にしていた。

 ドアに向かって歩く。電気のスイッチを切ろうと手を伸ばした時、ふと背後に
人の気配がして振り返った。
41 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時36分53秒
 そこには後藤の姿があった。

 後藤は壁際にパイプ椅子を立て、そこに座りながら顔を下げていた。注意しな
くては気が付かないほど、彼女は自分自身を殺していた。

 しばらく保田はドアの前に立ち尽くしていた。
 背中を丸めている後藤を見ていた。

 彼女が顔を上げたのは、いつまでも消えない電気に気が付いたからだろう。ゆ
っくりと体を起こす動作さえも、まるでマリオネットのようにぎこちなかった。

 十秒ほどお互いに視線を合わせた。
 その間、その部屋の中には音というものが排除され、気が遠くなりそうな耳鳴
りが空中を漂っていた。
42 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時37分25秒
「……帰らないの?」
 保田は呟くように言った。
 それから数秒の間を空けて後藤が言った。

「……帰りたくないの」

 蛍光灯のせいではない、後藤の顔色には覇気がなかった。
 しばらく沈黙が続く。パイプ椅子に座っている後藤はゆっくりと顔を下げると、
背中を丸めてさっきの体制に戻っていた。
 保田は踵を返すと、スイッチに掛けていた手を外してそれをノブに移動させる。
カチャ、と静かな空間に音が響き、二人は無言のまま別れた。

 今の後藤は自分が知っている頃の彼女ではない。そんな後藤に掛ける言葉も見
付からなかった。

 廊下に出るとドアが閉まる。突き上げるような空気が胸を締め付けた。
43 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時38分07秒
 それから家に戻ってくると、保田は楽な格好に着替えて夜食を取る。テレビは
着けっぱなしのまま、それは眼にも耳にも入って来なかった。
 ソファに体を預けてため息をつく。酷く疲れているのは年末のスケジュールの
せいなのか、後藤のせいなのか分からなかった。
 矢口から電話が掛かってきたのはそれからしばらくしてからだった。
 携帯の液晶に矢口の名前を見た保田は通話ボタンを押して耳に当てる。風の音
をバックに、今にも凍えてしまいそうな彼女の声が聞こえた。

「寒い! 死にそう!」
 どうやら屋上から電話をしているようだ。こんな時間にそんな所に居たら寒い
のは当り前だと思いながらも、どこかホッと息を吐き出している自分に気がつい
た。少しだけ、心の重荷を忘れた瞬間だったのかもしれない。
 矢口は後藤の様子を知りたがっているようだ。今日の仕事での彼女の事を聞か
れた。保田は包み隠さずに全てを話した。今更矢口に隠し事をすることも無いと
思ったからだ。

「圭ちゃんはね……」
 保田の話を聞き終わった矢口が呟いた。

「圭ちゃんはね、不器用すぎるんだよ」
 どう言うこと? と保田は聞き返す。
44 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時38分55秒
「言葉通り。……不器用なんだよ」
 不意に後藤の姿を思い出した。
 それと同時に昔、紗耶香が言っていた言葉も思い出した。

――素直じゃないんだよ。……不器用とも言うのかもね。

 何でそんな言葉を思い出したのだろうかと、保田は視線を空中に泳がせて考え
る。それでも頭の中に靄がかかってしまったかのように、確実に姿を現している
答えを見ることが出来なかった。

「シッカリしろよ、圭ちゃん」
 矢口はそう言い残して電話を切った。

 蒲団に入ったのは深夜二時を回った頃だった。

 暗闇の中で眼を閉じる。徐々に温まり始めていた蒲団を感じて、疲れのせいも
あったようだ、眠気はすぐに襲ってきた。
 刻々と時を刻む時計。
 そのリズムに煽られるように意識が遠のいていく。
45 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時39分51秒
 夢を見た。

 仕事に追われてただ必死にそれについて行く自分。あまりにも忙しすぎたせい
か、周りを見る余裕も無くて、がむしゃらに走り続けた自分。
 気が付くと周りには誰も居なかった。

 眼を覚まして歯磨きをしている時、さっきの夢は悪夢だったのかそうじゃなか
ったのかと考えた。でもどちらとも合っているように思えた。
 悪夢で悪夢じゃない夢。

 家を出て、集合場所にたどり着く。そこにはすでに数人のメンバーが見えた。
冬の空の下で延々と人が集まるのを待つ。時間が経つにつれて次々と顔を現すメ
ンバーの中で、後藤の姿だけ無かった。
 また遅刻? と誰かが言ったのを聞いた。顔を上げてその声の元を辿るが、そ
こには複数のメンバーが固まっていたため、誰が言ったのか判断がつかない。仕
事の時間までまだ余裕があった。車に乗り込むメンバーを余所に、保田はただそ
の場に立ち尽くしたまま、矢口の言葉を思い出していた。

――シッカリしろよ、圭ちゃん。

 マネージャーが後藤を探しに行くと言い出し始めたとき、集合時間は当に過ぎ
ていた。保田はため息を吐くと、マネージャーに心当たりがあるから、自分が行
ってくるということを告げた。もちろんマネージャーは反対したが、それを押し
切る形で、保田は強引にタクシーに乗っていた。
46 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時40分34秒
 後藤が仕事に現れなく、それを探しに行った保田まで遅刻をしてしまったら、
取り返しの付かない事になってしまう事はわかっていた。ただでさえ矢口が居な
いのだ。メンバーが三人も穴をあけられない。
 後藤を連れて直接仕事場まで向かえば、僅かな遅刻ですむだろうと保田は計算
した。タクシーは渋滞に巻き込まれる事も無く、目的地まで辿り付いた。

 そこは事務所だった。
 保田は小走りでその扉を潜り、エレベーターに乗り、廊下を昨日の部屋まで進
んだ。
 ドアの前に来た時、言い知れない気持ちが沸き起こってきた。
 それを喉から漏れないように唾を飲み込んで、そっとノブを握る。カチャと音
がすると、ドアは隙間を広げていった。
 部屋の中には外の陽射が充満していた。白い壁が眩しく感じる。正面の窓から
は青々とした空が映っていて、それは高いビルに遮られながら凸凹とした形にな
っている。

 天井には蛍光灯が白く輝いていた。スイッチに手を伸ばすとオンになったまま、
消された気配はない。保田の視線は恐る恐る、昨日後藤が居た場所に移って行く。
47 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時41分31秒
 彼女の姿は変わらない状態のまま、そこに存在していた。
 部屋を充満する外の光に包まれながらも、髪の毛の隙間から見える顔色は昨日
より一層と酷くなっている。背中を丸めたまま、顔を昨日のように下げていた。

 保田はしばらくその場に立ち尽くしたまま、声も出さなかった。
 胸の奥に沸いていた感情が罪悪感だと気がついたからだ。

 私は後藤を一人にさせたまま背中を向けてしまったんだ――。
 昨日、無理にでも家に帰しておけば良かったのだろうか?
 保田の存在に気が付いたようだ、後藤がゆっくりと体を起こした。

「……圭ちゃん」
 その視線に保田を捕らえると、今にも消えてしまいそうな声でそう呟いた。
 保田は下唇を噛む。
 入り口に立ったまま、彼女に近づく事が出来なかった。

「……もう……仕事の時間?」
 その言葉にゆっくりと首を縦に動かすと、保田は喉を絞り上げるように言った。
48 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時42分05秒
「……眠ってないのね、あなた」
 後藤はその言葉に弱々しく微笑んだ。
 顔の筋肉が引きつっているように、ぎこちない微笑だった。

「……眠りたくないの」

 一歩だけ足を踏み出す。
 保田はゆっくりと後藤の元に歩み寄り、その前で足を止めるとそっと手を差し
伸べた。
 後藤はしばらく不思議そうな顔で保田を見ていた。
 窓の外に一瞬だけ視線を向けると、ビルの間を縫って一羽の鳥が飛び去ってい
くのが見えた。
 保田は口を開く。

「……遅刻するよ」
 後藤の掌は凍えるように冷たかった。
49 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時42分57秒
  33

 白い、白い空間。
 向き合うあたしとその人。

 沈黙が続いて、白い箱の中は無音。入り込む正面の窓の陽射はいつもの暖かさ
が無い。それは冬の風と同じように、突き上げてくる冷たさだけだった。

 あたしはそっと肩を竦める。
 心持ち暖かくなったような気がする。
 顔を上げると目の前の人物は口を閉じたままあたしを見ている。まるで人形の
ように微動だにしない。物も光も全てが静止した視界には、それはまるでビデオ
を一時停止したような風景と同じだった。

 あたしは不安になる。
 ここはどこだろう……?

 あたしは胸を抑える。
 この人は誰だろう……?

 延々と頭の中でその事だけを思い続けた。ここはどこ、この人は誰、念仏のよ
うに繰り返し続けていると、いつの間にか頭の中心が白く空白を作り始める。そ
の事以外のことは考えられなくなって、胸に生まれている不安が足の先から指の
隅々まで侵食していき、体を操ろうとしているのがわかった。あたしはそれに抵
抗することなく、椅子から立ち上がり、当然のように目の前の人物に向かって手
を伸ばした。

 あなたは誰……?
50 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時43分39秒
   34

 眼を開ける。
 視線に飛び込んだのは真っ白い天井。それは窓から入り込んでいる朝日によっ
てオレンジに染められて、その中心には、やや長方形の蛍光灯が突き出していた。

 息を吐く。
 白いそれが天井に向かって消えた。

 それから顔を横に向ける。眼に映ったのは床一面に散乱しているゴミ。無気力
の部屋の光景に自嘲気味に笑ってみてから、また再び視線を戻した。

 あたしは一体いつ、仕事場から戻ったのだろうか?
 昨日は一体どんな仕事をしたのだろうか?

 それを考えようとすると、頭の中心がぽっかりと穴をあけているようにその部
分だけ思い出す事が出来なかった。
 床の上に横になっていたせいか、体の節々が悲鳴を上げている。間接を曲げる
たびに痺れのような痛みが込み上げて来る。足のつま先が部屋の寒さから麻痺を
しているようだ。気が付くと頬の感覚も無い。自分が笑っているのか、それとも
泣いているのか、どんな表情をしているのかわからなかった。
 手をそっと上げる。その甲には青白い血管が浮き出ていた。
 それを裏返して掌を見る。白くて冷え切った中に、指先に残っている感覚があ
った。
51 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時44分22秒
 最近、あの白い部屋の夢をよく見る。
 その中ではあたしはいつも無言だった。

 ただ眩しいぐらいの箱の中で時間が流れていくのを待つだけ。目の前の人はあ
たしに向かって言葉を掛けることもなくなった。ただ二人向き合うだけで時間を
消費するだけだった。

 でも、あの白い部屋の出来事も夢なのだろうか……?
 夢ならばどうして指先に人を触った時の感覚が残っているのだろうか……?

 あたしはそう思いながら、そっと上げていた指先を下ろして唇をなぞった。指
先にはざらざらとした感触。唇には氷のように冷たい温度。息を吐き出すと、僅
かなぬくもりが手を包んだ。

 それを下ろしてあたしは眼を閉じる。
 瞼の裏が赤く染まっている。どうやら部屋の中に入り込んでいる朝日のせいの
ようだ。
 眠りには着かないように気を使いながら、赤い闇の中に浮かぶ市井ちゃんの顔
を頭の中に焼き付ける。少しだけ胸が暖かくなったような気がした。
52 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時44分59秒
 あたしはあの頃の約束を思い出していた。
 多分、約束なんて言えるほど確かなものではない。いつもの、ふざけあった中
に出てきた会話。
 それはプッチモニで全国を回っていた時、あたしはまだ慣れていない仕事に必
死だった。多分、市井ちゃんも圭ちゃんも、初めてのユニットと言う事があって、
気合も入っていたし、愛着を深めていたようだ。
 移動中の車の中だった。一杯の人が自分たちのCDを買ってくれるといいね、
と言う話をしていた。あんなに頑張って来たのだから、あたしたちの努力が人に
伝わってくれると嬉しい。

 その中の会話だった。
 プッチモニの野望として、三人でライブをしよう。大きな会場じゃなくてもい
いから、色んな人の前で、三人でステージに立つのだと。すぐにあたしたちはそ
う出来ればいいね、と言うような会話をした。それから移動時間の間、夢物語で
盛り上がった。
 もう圭ちゃんも市井ちゃんも忘れてしまっているだろう。
 あたしだけがこんな夢にすがり付いているだけ。何だか女々しいと思いながら
も、その話をきっぱりと忘れる事が出来なかった。
53 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時46分18秒
 眼を開ける。
 それから再び顔を横に向けて散らかる床に視線を向けた。

 ゴミの中に赤いラジオが見える。アンテナが伸ばされたまま、それは窓の方向
に向けられていた。
 きっとそれを付ければ市井ちゃんの声を聞くことが出来るだろう。あの雨の日
にテレビ局で見た市井ちゃんの声だ。あたしの存在に気が付く素振も無く、関係
者に囲まれながら通り過ぎていった存在。あたしの中で何かが壊れた瞬間だった
ような気がする。

 きっとあたしはマトモではない。やぐっちゃんが言うように、頭がおかしいん
だ。でも、それを後悔した事は無かった。それによってあたしは市井ちゃんとの
時間を手に入れた。それは夢のように不確かなもので、心地いい瞬間でもあった。

 隙間が空いている。
 あたしは自分の胸に手を置いた。

 ココに隙間が空いている。
54 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時47分05秒
 一度手に入れた物を無くした後悔。衝撃。喪失感。それは徐々にあたしの体を
食い尽くしていき、内部に隙間を広げていく。何も感じられなくなったら楽だろ
う、と思う部分と、そうなってしまったら、市井ちゃんとの思い出によって生ま
れるぬくもりも感じる事が出来なくなってしまうのだろう、と言う思いが比例す
るように続いていく。それが辛かった。

 体を起こす。下敷きにしていたビニールが音を上げる。起き上がる反動で足元
にあった空き缶を蹴ってしまい、それはコロコロと転がりながらドアに当たって
止まる。背中に痛みを感じる。体が錆付いたドアのようにギギッと音を上げてい
るように思えた。疲労は全身を侵食しているようだ。背中に当たる朝日がじんわ
りと熱を持っている。それでも依然として息は白くて、薄暗い部屋の中を漂って
は消えていく。僅かに残っている市井ちゃんの香水の匂い。いつか買った雑誌。
その雑誌には『市井紗耶香』の文字。あんなに必死になって集めたはずの市井ち
ゃんの私物がそれらと一緒にゴミの中に散らばっている。あたしはいつまでも思
い出の中に居たくて、部屋を片付ける事が出来なかった。
55 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時47分55秒
 ゆっくりと振り返る。
 視線は窓の下の壁。

 市井ちゃんの指定席。

 あたしはその横でいつも市井ちゃんの肩に頭を乗せていた。
 もっと色んな事を喋りたかった。
 もっと一杯、市井ちゃんの言葉を聞きたかった。

 あたしはゆっくりと立ち上がって、その窓に歩み寄ると腰を下ろした。壁に背
を寄りかけて視線を正面に移動させる。そこにはラジカセを打ち付けて出来た凹
みがあるドア。市井ちゃんはいつもここからあたしが入ってくるのを見ていたの
だと思った。

――お帰り、後藤。
 あたしはゆっくりと顔を上げる。

「ただいま、市井ちゃん」

 その呟きはとても弱々しくて、無音のはずの部屋の中に吸い込まれていった。
 あたしは苦笑いするとオレンジ色に染まった天井を見た。
 この部屋にはあまりにも市井ちゃんの面影が多すぎる。
 あまりにも市井ちゃんとの時間が刻まれすぎている。
 あたしは自分でも聞き取れないような声で呟いた。

「……ちょっとだけ……寒いね」
 あたしは自分のぬくもりを逃がさないように、体を縮めた。
56 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時48分50秒
   35

 後藤は確実に限界に近づいているようだった。

 昨日の仕事終わり、彼女は焦点が合わない眼で保田の横を通り過ぎると、まる
で夢遊病のようにタクシーに乗っていった。保田はその背中を見送りながら、言
い知れない危機感を抱いていた。

 それはヒビの入ったコップのように思える。触る事も持ち上げる事も恐れて、
ふとした瞬間に割れてしまってもおかしくない。後藤にはそんな雰囲気があって、
そのヒビは確実に広げているようだった。

 今日、仕事場に現れた後藤を見て保田は息を飲んだ。その顔色は真っ白で、唇
は紫色になっていた。近寄ると紗耶香の香水の匂い。服にも髪にも、過剰なほど
それをつけてきたようだった。
 彼女は衣装に着替えてからもコートを脱がなかった。楽屋の中は暖房で暖かい
はずなのに、それを羽織ながら時々震える。椅子に座りながら、耳にはいつもの
MD。マネージャーが心配して話し掛けても、すぐには気が付かなかった。
 熱を測ると、僅かに高いだけだった。このハードスケジュールの中、そのぐら
いの熱だけでは仕事を休む事は出来ない。市販の薬を飲んだだけで、後藤はカメ
ラの前に立つことになった。
57 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時49分46秒
 その収録を終わらせて、保田はトイレの鏡の前に立っていた。ここ最近、心か
ら笑った事が無い。何も考えられなくなるぐらい、誰かと笑いあってみたかった。

 鏡に映る自分。そっと蛇口を捻って水を止める。突き上げるような静かさの中
に、芳香剤の香りが漂っている。蛍光灯の光がタイルの壁に反射していた。

 矢口はまだ後藤の秘密を探る事を諦めてはいないようだ。後藤の部屋には矢口
が言っているような仮説を裏付けるものが無い、と知らせても、それは彼女にと
って一つの可能性が否定されただけの意味でしかなかったようで、病室の中で色
んな事を考えているようだった。
 矢口は保田に後藤の支えになることを望んでいるようだった。取り返しのつか
ないことになる前に、あの子を支えてあげないといけないんだと。矢口にもプラ
イドはあるらしい、保田が優しいのね、と言うと、それをあからさまに否定した。

 自分のためでもあるんだよ。あたしが帰る場所がなくなったら困るじゃん。
 そう言う素直じゃない所も、保田は好きだった。

 ギギ、と背後から音がして、視線を鏡に向ける。それを通してドアから人が入
ってくるのが見えた。
 保田はゆっくりと振り返る。
 入ってきた人物は保田の姿を見ると足を止めた。
58 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時50分22秒
「……圭ちゃん」
 後藤は今にも消え入りそうな声で呟いた。
 保田はゆっくりと視線を外す。胸に込み上げて来る感情があった。
 私は矢口の言うように、この子の支えにはなれない。

 一度生まれた嫌悪を拭う事が出来ない。矢口が言っているように、自分もそう
ありたいと思う。今の後藤を見ていて、何とかしてあげたいとも思う。ただ一度
生まれた嫌悪は確実に胸の奥で存在していて、それを隠したまま彼女に接する事
が出来なかった。

 罪悪感に駆られる。
 自分しか後藤を支える事が出来ない。
 そう知っているはずなのに、それが出来ない自分がもどかしくもあった。

 保田は視線を下げたまま後藤の横を移動する。彼女は少しだけ体を横に移して
進路をあけた。その間二人は無言のまま、僅かな足音が壁に響くだけだった。

 ドアに手を掛けた時だった。
 拳ほどの隙間が出来たとき、すぐ背後から後藤の声が聞こえた。
59 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時50分53秒
「……あたし」
 保田は動きを止める。数十センチ後ろにいるであろう後藤の気配を探っていた。

「……あたし……嘘つきなんだ」
「…………」
「……嘘ばっかり吐いてる」

 視線を横に向けると鏡に二人の姿が映っていた。すぐ後ろに居る後藤は顔を下
げたまま、背中を丸めている。
 保田は何も言うことが出来ないまま、ただ顔を下げる。後藤の声を聞くだけで
胸の奥が苦しくなった。

「……あたし……ホントは独りぼっちが恐いんだ……」
「…………」
「この前言ったこともウソで……本当はいつも怖がってる」

 この前とは後藤の部屋に忍び込んだときのことだろう。保田はあの時の会話を
思い出した。
 一人で大丈夫、メンバーとふざけあう事もいらない、と言った彼女の言葉。集
団の中の孤独を続けていくうちに、その言葉を言い聞かせる事で、鎧を纏ってい
たのではないだろうか?
 初めからそんな言葉など信じていない。そう伝えたかったが、保田の喉は言葉
を遮るように蓋をしていた。
 後藤は一瞬だけ噴出すように笑った。それが自嘲だという事に保田は気が付い
た。
60 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時51分26秒
「……圭ちゃん」
「…………」
「……あたし……カッコ悪いね」
「…………」
「……カッコ悪いね……あたし」

 それから後藤は押し黙った。
 保田はため息をつく。胸を重くする感情を消し去りたかった。
 ゆっくりとドアに力を入れると保田は言った。

「……カッコ悪いのは、私も一緒だよ」
 その一言だけを残して保田はトイレを出た。
 後ろを振り返っても後藤が追ってくる気配はなかった。

 それから楽屋に戻る廊下で、後藤のことを考えた。
 あの部屋に忍び込む前までの彼女はどこか張り詰めたものを感じさせた。まる
でゴムを伸ばしきったように、いつ切れてしまってもおかしくない。それはヒビ
の入ったコップと同じかもしれない。

 でも保田は気が付いた。
 そのヒビの入ったコップはもう割れていたのだと言う事に。
 割れた後の後藤が、今の状態なのだと思った。
61 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時51分59秒
 楽屋のドアを開ける。保田の気持ちとは裏腹にその中からは威勢のいい声が飛
び出してきて、一瞬だけ気圧される。それから暖房の熱気が体を包み始め、衣装
の半袖から出た腕がゆっくりと暖められていく感覚がした。
 メンバーたちは立ちながら話をしていた。長机の上にはお菓子の袋が開けられ
たまま、中身があっちこっちに散乱している。テーブルに腰を落ち着けているな
っちとカオリは冷静そうに本を読んでいた。
 視線を楽屋の奥に移動させると、そこには一つだけパイプ椅子が置かれていた。
すぐに後藤が座っていたという事を思い出す。その足元には鞄が寄り掛けるよう
に置いてあり、椅子の上にはMDがポツン、と投げ出されていた。

 保田は自分の鞄から携帯を取り出すと、そこに着信がない事を確かめた。それ
からポケットにそれを入れると、再び視線は後藤のパイプ椅子に向かう。

 一人になるのが恐いという、後藤の独りぼっちの居場所。

 あまりにもみんなが慣れすぎてしまって、そこに椅子があることに違和感を覚
えない。保田さえも、それが当り前のように思えていた。

 ついさっきの後藤の言葉を思い出す。
 それからその椅子を見ると、胸に沸き起こってくる思いが生まれた。
62 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時52分53秒
 ああ、私はずっと後藤を独りにさせていたんだ。
 ずっと前から私は後藤の支えにもなれていなかったんだ。
 だからこの椅子はいつも独りぼっち……。

 ゆっくりとその椅子に向かって歩く。イヤホンのケーブルが無造作に絡まって
いた。

 不意に後藤がいつも何を聞いているのか気になった。独りの時間を潰すための
後藤の道具。部屋には音楽を聞くその道具も無いはずなのに、これだけは鞄の中
にしまいこまれていたのだろう。
 椅子の前に来ると、それを手にした。イヤホンを片方だけ耳に填めて、リモコ
ンを手繰り寄せる。右手の中にそれを掴むと、再生ボタンを押した。

 部屋はいつも通りに賑わっていた。
 辻と加護のはしゃぐ声が背中から聞こえていた。
 ブラインドが下ろされた窓はきっと水滴が浮かんで、外さえも見ることが出来
ないだろうと思った。
 私たちはこの狭い箱の中に隔離されている。
63 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時55分27秒
 視線をリモコンに落とした。
 もう一度再生ボタンを押した。
 しかしイヤホンからは音楽がなることは無かった。
 不意に気が付く。リモコンの液晶には何も表示されていない。
 嫌な予感がした。

 咄嗟に本体を手にすると、スイッチをスライドさせて蓋を開く。手の中にその
衝撃が僅かに残る。視線の先のMDには、ディスクが差し込まれていなかった。

 しばらく呆気に取られる。
 眼を擦って再び視線を落としても、その中には何も入っていなかった。

 背中に痺れが走る。
 気が付くと片耳に填めていたイヤホンが取れていた。

 後藤は――。
 唾を飲み込む。
 急に部屋の中の声が歪んでいるように思えた。

 後藤はずっと何を聞いていたの?
64 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時56分27秒
 楽屋の中や移動中に一人になった彼女を思い出す。その都度後藤は必ずといっ
ていいほどMDを聞いていた。独りぼっちの気分を紛らすように、填めたイヤホ
ンの姿を良く見た。

 でも、そのイヤホンからは音がしていなかった。
 だったら、後藤は今まで何を聞いていたのだろうか?

 そう考えて首を横に振った。
 そうじゃない、今日だけかもしれない。後藤が今までずっと空のMDを耳にし
ていたと考えるよりも、今日だけディスクを忘れてしまったと考える方が自然か
もしれない。

 しかしそれは強く違和感として胸の奥に残った。
 後藤に近づくと感じる紗耶香の香水。
 思い出が閉じ込められた部屋。

 後藤の変化は自分たちが気付くもっと以前から始まっていたのではないだろう
か? こうしてMDを聞き出してから、後藤には架空の音楽が聞こえていたので
はないだろうか?
 今の後藤の状態は、なるべくしてなってしまったのでないだろうか? それは
保田たちがどんなに手を差し伸べても、予め決められた道を歩くように、その先
には暗い洞穴があった。そんな後藤に自分たちがどんな事が出来るというのだろ
う?
65 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時57分05秒
 不意に携帯の音がして保田は我に戻った。
 MDを椅子の上に置いてから、ポケットに入れておいた携帯を取り出す。液晶
を見ると公衆電話からのようで、番号は通知されていなかった。
 矢口だと保田は気が付く。
 賑わうメンバーの間を抜けながらドアを開けると廊下に出る。辺りを見回して、
人が多くない事を悟ると通話ボタンを押した。

「もしもし、矢口?」
「圭ちゃん」

 矢口はどこか焦っているようで、間髪いれずに言葉を被せてきた。
 一体どうしたのだろうかと保田は耳に携帯を強く押し当てる。矢口は挨拶も疎
らに唐突に言った。

「もしかして圭ちゃんのサングラス、紗耶香から貰った物じゃない?」
 どうして喋ってもいないのにその事を知っているのだろうか?
66 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時58分44秒
    36

 無理にでも市井ちゃんを閉じ込めておけばよかったのかもしれない。
 あたしは鏡に映る自分の姿を見ながら思った。

 無理にでも市井ちゃんを閉じ込めておけば、あたしはまだ帰る事に喜びを感じ
られた。眠る事に幸せを感じられた。独りで楽屋にいたとしても、あの声を聞け
ればいつまでも頑張れると思っていた。

 それなのに今のあたしは何なのだろうか?

 鏡に映る自分の顔。それはメイクで隠し切れないほど疲れが目立ち、顔色が悪
かった。真っ赤な口紅を引いたはずなのに、その下にある紫色の皮膚は自分の存
在を知らしめようと表に出ようとしている。

 体の中にぽっかりと穴が開いている。
 そこには別の人物がいつでも入れるスペースを作っているように思えた。

 排気口のフィンが回る。出しっぱなしの水がキラキラと光る。鏡に映るあたし
の髪が蛍光灯に反射して茶色く現れている。独りぼっちの空間は、ただ追い詰め
る時間になっていた。
67 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)04時59分22秒
 あたしはもうメンバーの輪の中に入ることも出来ない。圭ちゃんからも優しい
言葉を掛けられない。それは今までしてきた、自分の行いへの罰なのだろう。
 圭ちゃんを裏切って、やぐっちゃんを傷つけて、メンバーに迷惑を掛け続けた。
それだけではなく、幻に意志をもたせ、自分の思い通りにはめ込もうと暴力さえ
も降った。あの日、クローゼットの中から見せた市井ちゃんの怯えた眼差しは、
あたしの胸を抉るのに充分すぎる罰だった。

 全て市井ちゃんのためだと思っていた。サングラスを盗んだ事もブレスレット
を奪った事も……髪を切ってあげたこともCDを用意した事も、香水やブランド
の服を買ってきたことも、全て市井ちゃんのためだと思っていた。

 それなのに、どうしてあたしは一人になってしまったのだろうか?

 もう自嘲する以外、顔の表情を作る事が出来なかった。自ら進んだ道の後悔を
することしかあたしには出来なかった。
 蛇口を止めてゆっくりとドアに向かう。頭の中心が重い。どうやら微熱がある
らしい。コートを着ているのにもかかわらず寒さが取れない。
68 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時00分01秒
 ギギ、とドアが開く。
 廊下に広がる蛍光灯の光が眼の裏を刺激して、頭痛を生んだ。視界がぼやけて
いる。歩こうとしているのに足が動かない。市井ちゃんの顔が浮かんだ。
 廊下に出る。楽屋の方向はどっちだっけ、と思い出そうとする。しかしすぐに
頭が締め付けるように痛くなって何も考える事が出来なかった。

 目の前の光景が真っ白に見えた。

 左右に広がる廊下の片方に人が立っている。あたしは体の向きを変えて眼を凝
らした。
 真っ白い廊下の奥には人が立っていた。それはあの白い部屋にいる人だ。真っ
白い白衣をパタパタとなびかせて、黙ったままあたしを見ていた。キーン、と耳
鳴りがした。脳が締め付けられる。あたしは両耳を塞ぐとその場にしゃがみ込ん
だ。

 どれくらいの時間そうしていたのか、あたしは後になってからもわからない。
ただその間、傍を通る人たちが不思議な視線であたしを見ていたことは何となく
覚えていた。

 次に眼を開けたとき、廊下は元に戻っていた。ゆっくりと立ち上がると足元が
おぼつかなくて反対側の壁に寄りかかった。息を吐き出すと体の中の何かが逃げ
ていってしまうように思えて、徐々に自分を自分と定めている何かが消費されて
いく。
69 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時01分02秒
 早く、楽屋に戻らなくちゃ。
 また遅れてみんなに迷惑を掛けられない。

 おぼつかない足取りで廊下を進む。壁に手を当てていないと、今にも倒れてし
まいそうな気がして、その足取りはぎこちない物だったに違いない。

 ふと正面の奥から人の声がした。
 足音が複数近づいてくる。
 あたしはゆっくりと顔を上げた。

 胸の奥が熱くなる。
 視界が再びぼやけて行く。
 でも、その人物が霞む事は無かった。

 正面から歩いてくるのは市井ちゃんだった。数人のスタッフなどに囲まれて歩
いている。何かを説明されているようで、必死になって頷いている。市井ちゃん
の体を包む綺麗な衣装。真っ白なニットが眩しくて思わず眼を細めた。
70 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時01分39秒
 それはあの雨の日に見た光景。
 全てが一緒。

 胸の奥に沸き起こってくる不安、戸惑い、その他の感情。
 まるで一緒。あの日と一緒。

 市井ちゃんが近づいてくる。胸の奥が高鳴る。足が震えているのは緊張からだ
った。壁に当てていた手に薄っすらと汗が滲んでいた。

 鼓動が早くなる。
 唾を飲み込むがそれはうまく喉を通っていかない。
 市井ちゃんが近くなる。
 周りの人たちの声が大きくなる。

 気づいて。
 市井ちゃん。
 あたしに気づいて。

 眼を閉じた。
 全ての世界が闇となった。

 空白が出来る。
 近づいてくる足音だけを感じる。
 空白は闇だった。
71 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時02分18秒
 眼を開ける。その瞬間、その集団はあたしの横を何事も無かったかのように通
り過ぎていき、仕事の説明をしている男の人の言葉に、頷く市井ちゃんの微かな
声が混じっていた。あたしに残されたのは横を通り過ぎていった空気の歪みだけ。
それは僅かな風となって体を包む。

 トクトクトク、と鼓動がまだ高鳴っている。
 それは胸の奥に渦巻いていた感情を喉から突き上げる事を煽っていた。

 あたしは振り返る。

 パチン、と自分の中で何かが弾けた。
 体は自然と市井ちゃんの背中を目掛けて走り出していた。
72 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時02分49秒
    37

「勘だよ。確かな確信があったわけじゃない」

 サングラスが紗耶香から貰ったものだと言うと、電話の向こうの矢口はやっぱ
りね、と呟き冷静さを取り戻していた。訳のわからない保田は、一体どう言うこ
とかと聞くとその言葉が返ってきた。

「後藤から同じブレスレットを貰ったの。それを着けていて、やっぱりこの疑問
を無視するわけには行かないって思ったの」
「……疑問?」
「そう。どうしてサングラスやブレスレットを盗んだのかって言う疑問」

 確かに盗んだという事実に隠されて、保田はその疑問を真剣に考えた事は無か
った。動機が物欲だけとは思えなかったが、どうしてもその疑問を考えた時、一
番もっともらしい回答だったのも確かだ。

「ただ欲しかったからっていうのは、やっぱり違うと思った」
 保田の考えている事を見透かしたかのように矢口は言った。

 そうね、と呟きながら保田は携帯電話片手に向こう側の壁に歩み寄ると背を着
けて矢口の言葉を待った。
73 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時04分06秒
「その何か違うって言うのも、確かな証拠が無いんだけど……でも接していて違
和感があった。それは圭ちゃんも同じでしょう?」
「そうね。みんなの前で貶されて、矢口を傷つけてまで欲しがったんだから、そ
んな理由じゃないと思う」
 うん、と電話の向こう側で矢口が頷いた。それからしばらく間を空ける。どう
やら喋る事を頭の中で整理していたようだ。

「あのね」
 矢口は言った。

「あのね、共通点を探してみたの。後藤がその二つを盗む理由に、何かあるんじ
ゃないかって。同じブランドとかそう言うのを考えてた。でもあたし、圭ちゃん
のサングラス印象に残ってないし、すぐに断念しようと思った。ただのブルーの
レンズだったしとか思い出せないもん」
「……そうね」
「で、そんな時ふと思った。だったらあたしのブレスレットはどうして狙われた
んだろうかって。別にこうして今でも買えるんだから、貴重なものじゃないでし
ょう? お金さえ出せば誰でも手に入る。じゃあのブレスレットにどんな特別な
価値があるんだろうって考えた時、紗耶香の事思い出した。あのブレスレット、
紗耶香から貰ったものなの」
「え?」
 保田は思わず声を上げた。
74 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時04分43秒
 その話は初耳だった。今まで当り前すぎて矢口も口に出す事はしなかったのだ
ろう。保田は電話を持つ手を変えると、胸の奥に沸き起こってくる気分を押さえ
つけながら言った。

「私のも……紗耶香から貰ったものだ」
「そう。ブレスレットを紗耶香から貰った物だって思い出した時、もしかしたら
サングラスもそうじゃないかって思った。それ以外に二つを結ぶ共通点なんか思
い当たらなかったから」
「どう言うこと? 後藤は何のために――」
「わからない。でも、その二つを盗んだって言う事は、紗耶香のことが関係して
いるんじゃないかな? 後藤はその為にあんな事までしてサングラスやブレスレ
ットを盗んだ」

 なぜかシックリとくる考えだと思った。物欲の為にあんなに必死になって盗む
より、紗耶香の何かが関係していると考えればあの部屋の空間も納得がいく。

 昔の思い出や紗耶香の香水。
 それらに紗耶香から貰ったサングラスやブレスレット。
 後藤の周辺の疑問は、紗耶香という糸を通して繋がっていく。
75 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時05分30秒
「思い出した事があったの」
 矢口の声は落ち着いていた。
 保田は我に戻って耳を傾ける。

「ここ最近、ずっと思い出してた。前に、紗耶香から電話を貰っていた時期があ
るの。多分、色々と不安だったんだと思う。紗耶香から出る言葉は全て弱音で、
口調にも不安が混じってた。段々話す言葉もおかしくなっていって、不気味に感
じていた事があるの」

 保田は口を挟まなかった。
 その代わり眼を閉じて瞼の裏に焼ついている紗耶香の顔を思い出していた。

「段々紗耶香からの電話が鬱陶しくなっていって、仕事も忙しくなって、それに
構えなくなっていった……今はもう電話もメールもしてない。きっと頑張ってい
るアイツの迷惑になるだろうしさ……」
 そうね、と保田は頷く。
 矢口の言葉は二人の希望でもあったのかもしれない。

 とにかく、後藤の裏に紗耶香が絡んでいるとすれば、もう迷惑だからと言う遠
慮をしているわけには行かなかった。それは矢口も同様で、そのラインに重点を
置いて調べようということになった。
76 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時06分10秒
「私も暇が出来たら連絡を取ってみる」
「お願いね、圭ちゃん」

 頷いて電話を切るタイミングを探していた時、その悲鳴は廊下を走り抜けた。
 保田は顔を上げる。
 悲鳴がした方向に視線を向けた。

「圭ちゃん? 何? 今の声、何?」
 電話の向こうから矢口の声が聞こえた。保田は混乱する自分を落ち着けるよう
に電話に向かって言った。

「わからない。とにかく後で知らせるから」
「ちょっと! 今の声、後藤じゃ――」

 そのまま電話を切った。
 視線の先は二手に分かれている。真っ直ぐにはエレベーターがあるロビー、右
手に別れるところには保田が出てきたトイレがある。さっきの悲鳴は矢口が言い
かけたように後藤のものだと気が付いていた。それならば彼女がたった今いたの
は右に折れる廊下だ。

 体が自然と走り出していた。
 胸の奥に不安が込み上げている。
77 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時07分05秒
 後藤の悲鳴はその間続き、それはどうやら言葉を叫んでいるようだった。しか
し子供のように高く響かせるその声は、もはや耳に日本語として入らない。動物
が鳴いているようにしか思えなかった。

 角を曲がると正面の向こう側に後藤の姿が小さく映った。その周囲には通り過
ぎようとしていたのか、人の姿がちらほらとあり、それは時間が経つに連れて多
くなった。
 保田の背中から数人の人間が走り抜けていった。まるでその人たちは野次馬の
ように叫び声を上げている後藤から距離を取ると、足を止めて様子を伺っている。
そんな野次馬たちが騒ぎを聞きつけて数を増やしていく。

 保田はしばらく唖然としたまま、その場から動く事が出来なかった。

 野次馬たちの隙間から見える後藤は、叫び声を上げながら前へと歩こうとして
いる。しかし足元が覚束ないせいですぐに倒れてしまい、なかなか歩く事が出来
ない。それでも後藤は何度でも立ち上がろうとする。その繰り返しを延々と続け
て、彼女は等々立ち上がることが出来なくなった。
 それでも叫び声は止むことは無かった。後藤は歩けない事を悟ると、今度は床
を這うように移動する。その周辺にいる人たちは好奇の眼差しを投げかけていた。
78 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時07分53秒
 あまりの痛々しい光景に保田は顔を下げた。
 後藤は周りの視線など気が付かないように、未だに声を上げて床を這っている。

 こんなにも人は落ちていくのだろうか……?
 こんなにも人は痛々しくなれるのだろうか……?

 拳を握っていた。後藤が今、取り乱してしまっているのは、彼女との距離を開
けてしまった自分のせいなのではないだろうかと言う、後悔が背中に圧し掛かる。
矢口から支えになれ、と言われてもそう出来ない自分。後藤を前にして、前のよ
うに話し掛けられなくなってしまった自分。胸の奥に複雑に入り乱れている感情
が、どうしてもそれを阻んでいた。

 顔を上げる。

 野次馬が増えて、後藤の姿が見えなくなっている。依然と周りに響く叫び声。
保田はその瞬間に、市井ちゃん、と言う言葉を聞いた。

 なぜだか眼から一粒、涙がこぼれた。

 市井ちゃん。
 耳を凝らすと確かに後藤はそう叫んでいる。
 あなたの視線の先には何が見えているの……?
79 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時08分31秒
 そう思っている時だった。保田の後ろから通り過ぎていく野次馬の言葉を偶然
耳にする。それは男が二人、後藤真希らしいぜ、と興味だけを抱いて走り去って
いく姿だった。保田はその背中を見ているうちに、足は自然と動き出していた。
 その男二人を追い抜く。野次馬が出来ている人を掻き分けて、そのさきに居る
後藤の元に駆け寄る。その間耳には数々の言葉が聞こえる。なんだあれ、おかし
くなったんじゃないの、うわ、恐えぇ。
 乱暴に人を掻き分けて後藤の姿は目の前に映った。その姿は依然として床の上
に体を這うように移動させて、声を上げながら涙を流していた。

 セットした髪もメイクも剥がれてしまっている。着ている衣装は皺だらけにな
り、喉を振り絞る彼女の声は所々掠れていた。

「……ごっちん」
 保田は呟く。
 後藤は溢れる涙を床の上に落としていた。

「ごっちん!」
 保田はそう叫ぶと後藤の元に掛けより、その背中からお腹に腕を回す。
80 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時09分03秒
「どうしたの! あんた! 一体どうしたの!」
 保田の問いかけに後藤は答える事は無かった。まるで動きを拘束している保田
を邪魔者のように、その回されている腕を弱々しい力で叩かれる。その間市井ち
ゃん、と叫ぶ後藤は、真っ直ぐに視線を伸ばしたまま決して反らそうとはしなか
った。

「落ち着きなさい! ごっちん……後藤、落ち着きなさい!」
 後藤はまだ前に進もうとする。体を捩ったり、保田の胸を押したりしながら、
溢れる涙を止めることなく声を張り続けていた。

「あたしに気付いてよ!」
 その言葉ははっきりと保田の耳に入る。
 何故だか胸を強く締め付けられた。

「あたしを一人にしないでよ!」

 楽屋の中にある椅子を思い出した。
 メンバーから離れて、壁際に置かれた一つだけの椅子。そこに座る彼女の存在
を、当り前になりすぎてしまったメンバーも自分も違和感を抱かない。お喋りに
夢中になりすぎると、仕事が始まるまで後藤の存在を忘れる事がよくあった。
81 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時10分44秒
 あたしに気付いてよ。
 あたしを一人にしないでよ。
 市井ちゃん、ねぇ、市井ちゃんってば。

 後藤の体を掴んでいる腕に力が入った。保田は罪悪感から思わず彼女の背中に
顔を埋める。その間、確実に周りの人々の視線が突き刺さっていたはずなのに、
この時、そんな事はどうでも良くなっていた。
 胸の苦しみから保田は嗚咽を漏らした。それは涙となって後藤の背中に吸い込
まれる。どうして私は……と自己嫌悪が頭の中で形となって現れる。それは酷く
汚れたもう一人の自分としての姿に変わっていた。

 こそこそと周囲から声が漏れる。
 騒ぎを聞きつけてメンバーが近づいてきていた事を、この時の保田は気が付く
事が無かった。

「市井ちゃん!」
 後藤の叫びに保田は声を張り上げる。

「シッカリしなさい! 後藤!」
 弱々しい後藤の抵抗は止まない。

「紗耶香はいないの!」
 保田は夢中で声を上げていた。

「ここには紗耶香はいないの!」
 ピタリと後藤の動きが止まったのはその言葉を言ったときだった。まるで我に
戻ったかのように彼女は叫ぶ事も抵抗する事も止めた。
82 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時11分22秒
「あなたは何を見てるの? 何を聞いているの? 私たちと同じ場所に居るの?
私たちと同じ物を見ているの? 声も人もその存在も、あなたは私たちと同じ物
を感じているの?」
「…………」

 後藤は無言のままだった。ただゆっくりと額を床につけると、蹲るように背中
を震わせている。保田はその体を抱きしめながら言った。

「もういいよ……もういいんだよ……」
「…………」
「もう充分苦しんだよ……あなたは充分苦しんだ……」
「…………」
「だから……もういいよ……」

 周りが静かになった。
 すぐ後ろにはメンバーたちが居たようだった。

 こんなにも人が溢れているというのに、生まれた静寂は、たった二人の人間を
中心として回っていた。
 後藤は保田の言葉に何も返さなかった。
 ただ蹲って、背中を震わせながら、同じ言葉を呟いていた。

「市井ちゃんは……あたしから逃げたんだ……」
 その呟きが後藤の本当の意味での悲鳴だった事に、保田は気が付かなかった。
83 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時12分39秒
   38

 受話器を置いて矢口はため息を着いた。

 賑わうロビーが近くにあるせいか、人々の声が廊下に響いている。時々忙し
そうに横を通り過ぎていく看護婦が矢口の姿を見ると会釈した。
 テレホンカードが戻ってくる。それを抜くと団扇のようにペラペラと扇いでか
ら、さっきの悲鳴を思い出していた。

 あの声は間違いなく後藤のものだった。突然鳴り響いた声。保田の戸惑いから
言っても間違いないだろう。
 後藤は限界に来ているのかもしれない。保田が話す彼女の様子は日に日に悪く
なっていっているようだった。
 保田の葛藤を矢口は理解できないわけではない。信じ続けていた気持ちを裏切
られ、仲間まで怪我をさせてしまっている。今までの後藤に対する気持ちを見限
るには充分な要素だったはずだ。しかし、それを割り切れない保田の苦悩は、電
話で話している言葉の節々に感じられた。

 保田しか、今の後藤を支える事が出来ないだろう。自分がこうして病院にいる
以上、何も出来ないのは確かだったし、何よりもう一度顔を合わせたとき、素直
に彼女に接する事が出来るのか不安だった。だから、こうして後藤の秘密を探っ
ているのかもしれない。
84 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時13分23秒
 ポケットから携帯電話を取り出した。それから電話帳を呼び起こして、そこに
紗耶香の番号を見つける。もう長い間押していない番号。今更掛けて、一体どん
なことを話せばいいのだろうか?
 罪悪感があった。自分を頼りに電話を掛けてくれたはずの紗耶香を、鬱陶しい
と思い、大して相手をしなかった。そんな自分が今更この番号を押すことは都合
が良すぎるのではないだろうか?
 それでも自分は紗耶香に連絡を取らなければいけない。ブレスレットとサング
ラスの共通点に気が付いた以上、それを蔑ろにするわけには行かなかった。

 公衆電話にカードを再び入れると、思い切って番号を押した。
 電話が繋がる数秒の電子音。
 必死に頭の中で言葉を捜している自分がいた。
 しかし電話は繋がらなかった。

 どうやら公衆電話からは繋がらない設定になっているらしい。いくらか安心し
ている自分に気が付いて、矢口は苦笑いした。
 ガチャリ、と受話器を置くと再びテレホンカードが戻ってくる。もう一度それ
をさっきのようにペラペラと仰ぎながら考えた。
85 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時14分05秒
 このまま外に出て携帯で掛け直すか。それとも保田と相談してから連絡を取る
か。一人で動く事に言い知れない不安があったのも確かだ。どこかいけないこと
をしているのではないだろうかと言う、後ろめたさもあった。

 再びため息をつくと、携帯の液晶に視線を落とす。
 そこには紗耶香の番号が二つ明記されていた。

「……自宅」
 自宅ならば公衆電話からも繋がるかもしれない。運がよければ紗耶香が出る事
だってありえる。

 テレホンカードの度数が少なくなっているのを気にしつつも、矢口はそれを挿
入して番号を押していた。
 数秒の電子音から、コールに変わる。緊張が胸の奥に沸き起こってきて、何と
か自分を落ち着かせようとした。後藤の秘密を知るには、必ずこれが手掛かりに
なるはずだと言い聞かせた。

「はい、もしもし」
 年配の女性の声が聞こえた。
 あ、と矢口は声を出してから、すぐに我に戻る。どうやら母親が出たらしい。
86 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時14分45秒
「や、矢口です。お久し振りです」
 時々部屋に遊びに行ったこともあった為、紗耶香の母親とは何度か顔を合わせ
たことがある。しかしすぐに矢口とだけでは紗耶香の母親は顔が浮かばなかった
ようだが、数秒間、間を開けると、ああ、と言う声が聞こえた。

「ああ、どうも。お久し振りです」
「あ、はい。突然すいません」
「いいえ。いつもテレビでみてますよ」
「あ、どうも有難うございます」

 それから取りとめの無い会話をした。どうやらニュースなどで矢口が怪我をし
た事を知っているらしく、心配するような言葉を掛けられた。大丈夫です、と言
うと安心したような声が漏れていた。
 久し振りに聞くモーニング娘の声に、紗耶香の母親はどこか興奮しているよう
だった。色々と質問をされて、それに答えているうちに、カードの度数が切れそ
うになっていた。

 早く話を切り出そう。
 でもなんて言ったらいいのだろうか、と考えている時、気になるような言葉が
受話器の向こうから聞こえた。
87 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時15分18秒
「紗耶香がお世話になってます。本当に色々と有難うね」
「え?」

 一瞬、何のことを言われているのかわからなかった。お世話になっているとは、
誰の事だろうか?
 矢口の戸惑いに紗耶香の母親は気が付いたのだろうか、僅かな間が空くと、さ
っきとは明らかに口調を変えて言った。

「……矢口さんの方でお世話になっているんじゃないの?」
 矢口は受話器を持つ手を変えると、訳がわからない思いで首を横に振った。

「あの……どう言うことですか?」
 変ねぇ、と呟くような声が聞こえる。
 それから再び静寂が訪れる。矢口は言い知れない感情を必死で押さえつけなが
ら、言葉を待った。

「あの子……忙しくなるからって家を出て行って……」
「出て行った? 紗耶香は今、家にいないんですか?」
「ええ、友達の所に泊まるとか、そういうようなことを言っていたように思いま
す。この電話も、てっきりそれなんだって思ったんですけど……」
88 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時15分50秒
 ああ、だからさっきから電話を紗耶香に変わる気配が無かったのか。
 矢口は下唇を噛むとゆっくりと口を開いた。

「紗耶香から、連絡とかはあるんですか?」
 いいえ、と言う言葉が聞こえた。

「多分、忙しくて連絡できないんじゃないかと……」
 それから唾を飲み込むと、再び口を開く。

「紗耶香には……連絡が取れるんですか?」
 再び間が空いた。
 カードの度数が限界に来ていた。電子音がバックからうるさいぐらいに響いて
いる。それを聞きながら、背中を這う痺れみたいなものを矢口は感じていた。

「いいえ……それが携帯には繋がらないんです……」
 ピー、と警告音が強くなった。
 それからしばらくして、通話は途切れた。
89 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時16分21秒
 矢口は途切れままの受話器を耳に当てる事しか出来なく、呆然とその場に立っ
ていた。

 暖房のせいなのか薄っすらと汗をかいている。近くのロビーからは変わらない
人々の声。パタパタと走り回るスリッパの音。慣れた筈の病院の匂いがなぜか強
く鼻につく。目の前の公衆電話は矢口のテレホンカードを吐き出していた。

 ゆっくりと受話器を戻す。
 それからテレホンカードを抜いた。
 それを掌で握り締めながら矢口は思った。

 一体、何が起こっているの……?
90 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時16分56秒
   38

 白い、白い空間。

 あたしの正面には眩しいぐらいに陽射が入り込む窓。それからただ左右に広が
る白い壁。天井には蛍光灯が三セット。それに照らされて床も真っ白。目の前に
は机があり、その上には色んな本が散乱している。キャラクター物のボールペン
は、あたしが持っているものとまるで一緒だった。

 二つの椅子。その一つにあたしが座り、向かい合うようにいつもの人物。真っ
白い白衣を着て、袖から見える白い腕。顔は陽射が逆光になっているため黒く覆
われている。時々動く唇からは、真っ白い歯が漏れるだけだった。

 全てが真っ白。
 まるで宙に浮いている感覚に襲われる。

 部屋の中には僅かな緊張感。向かい合うあたしたちはそれに惹きつけられるよ
うに視線を外す事は無かった。

 ギギ、と椅子が音を上げた。
 どうやら目の前の人物が体制を整えたようだ。古くなった回転椅子は、僅かな
体重移動にも過剰に反応していた。
 あたしは太股の間に手を挟めながらその人を見ていた。
91 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時18分02秒
「……自分がしたいことを抑えるのはストレスが溜まる」
 目の前の人物が言う。この人の声が嫌いな理由がこの時、ようやくあたしはわ
かったような気がした。

「君はしたいことをすればいい。もうこれ以上自分を抑えていたらダメだよ」
 あたしは無言のままその人を見ていた。

 この人物が現れた時と比べて、今ではその人の体は細くなっていた。元々白い
肌が病魔に冒されていくように青白くなり、言葉の節々に空気が抜ける音がした。
あたしがそうであると同じように、この人の体も衰弱していた。

 その人は言った。

「君がしたいことは初めから決まっていたはずだよ」
 あたしは僅かな間を開ける。

 それはほんの数秒程度だったはずだ。それでもその間、その人の全てがわかっ
たように思えて、時間が引き伸ばされていったように感じた。
92 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時18分32秒
 あたしは言った。

「あなたは誰ですか?」
 その時、いつも窓から入り込んでいた陽射がゆっくりと引いていった。それは
まるで雲に太陽が隠されていくように、薄暗い影を広げていく。

 その人の顔がはっきりと視界に写る。
 ああ、やっぱり、と納得している自分がいた。

 その人は言った。

「私は君だよ」

 そこには自分の顔をした人間がいた。
 ああ、やっぱりそうなんだ、と思った。

 あたしがこの人の声が嫌いなのは、自分とまったく一緒の声だからなんだ。
 だから、この人自身の事も嫌いだったんだ。
93 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時19分11秒
   40

 眼を開けるとそこには見慣れた自分の部屋の光景。

 蒲団の中に沈む体を起こしてため息をつく。首をニ三度横に振ると、体の芯に
残っている疲れが暴れだし、吐き気となって込み上げてきた。
 部屋の中は冷たい。香水の香りが漂い、散らかる床に視線を落とす。息を吐く
と白いそれが空間の中で消えていた。
 自分の姿を見ると、コートを着たままだった。入り込む朝日から、長い間眠っ
ていたのだという事を思い知らされる。昨日、あれから途中で帰らされて、その
ままベッドの上で眠っていたようだ。

 トクトク、と鼓動が高鳴っていた。
 胸を締め付ける思いから、あたしはため息を吐き出す。
 部屋には時計の秒針の音。その単調なリズムがゆっくりと自分の胸の奥をさら
け出させて行く。

――君がしたいことは初めから決まっていたはずだよ。
 あの言葉を思い出した。

 あの人物の夢は市井ちゃんが現れたのと同時に始まっていた。白い部屋の中で
向かい合う自分自身。感情的なあたしと冷静なあたし。もう一人の自分の言う事
は全て正しくて、あたしはそれに操られるように行動してきた。時には反発さえ
して、それは結果として築き上げてきた世界の崩壊を導いた。
 あたしに忠告をする立場だったはずの彼女が、あたしに行動を求めた。それは
このまま壊れていく事を望んでいないのだと思った。
 あの人は結局あたしだから、あたしが壊れるのを望んでいない。
94 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時19分42秒
 視線を壁に移すと、カレンダーに赤丸が書かれていた。それは市井ちゃんのラ
イブの日だ。そして、それが今日だった。
 昨日のあたしの行動から、事務所の人たちは一日の休暇をくれた。このハード
スケジュールの中、次のオフまでは当分休めないはずだったが、急にぽっかりと
出来た時間に戸惑いを隠せない自分がいた。

 膝を突いてカレンダーを触る。
 その赤丸をゆっくりと指でなぞりながら、またもう一人の自分の言葉を思い出
していた。

――君がしたいことは初めから決まっていたはずだよ。
 そう、初めから決まっていたんだ。
 あたしを不安にさせるもの、追い詰めるもの。それは初めからあたしの胸の中
で存在していた。こんな簡単な結論に、どうして今まで気が付かなかったのだろ
うか?
95 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時20分24秒
 市井ちゃんは一人で充分なんだ。

 あたしを追い詰める市井ちゃんなんて要らない。あたしに話し掛けてくれない
市井ちゃんなんて要らない。光の中で立ち、色んなスタッフの人に囲まれる市井
ちゃんなんてあたしの中では何の意味も無い。
 仕事が終わって、部屋に帰ってきたときに、あたしを迎えてくれる市井ちゃん
だけが全てで、それだけがあたしの中で必要なんだ。
 光の中に立つ市井ちゃんが居なくなれば、あたしだけの市井ちゃんは帰ってく
るに違いない。またあの心地いい時間が戻ってくるに違いない。
 幻でもなんでもいい。それがあたしだけに笑顔を向けてくれるのなら、そっち
が本物なのだ。

 部屋は異常なほど冷え込んでいた。
 張り詰める空気にあたしは下唇を噛んでいた。

 迷いはもう無かった。
 それはすでに決められていた事なのだから。

 その日、外の曇り空からは、今年初めての雪が降り出していた。
96 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時23分23秒
   41

 冷え込みがきつくなっている。
 空にはどこまでも続くかのように黒い雲が覆い、高くそびえ立っているビル郡
が競い合うように太陽の姿を探しているようだった。まだ早い時間から病院を出
た矢口は、会社に向かうサラリーマンやOLの雑踏の中に自分の姿を紛らわせた。
サングラスも帽子も深めに被り、地味な格好にしてきた。それでも松葉杖を付い
ている事に違和感があるようで、何人かの視線を感じた。

 雪が降り出したのは電車に揺られている時だった。
 移り変わる風景をただ眺めて、近くにいる親子の会話を何となく聞いていた。
その時間になると通勤通学ラッシュは終わっていて、車内の中は疎らにしか人が
居なかった。
 それも目的地に近づいていくと一人一人と駅に降りていく。無邪気に笑う男の
子を母親が相手をしながら、時折お菓子を上げている光景を横目に、穏やかな時
間が流れている事に気が付いた。
 その穏やかな時間を打ち切るように、近くにいた親子が降りていく。矢口はそ
っとその男の子に視線を向けると、一瞬だけ視線が合い、不思議な顔をされた。
いつもテレビで見せている笑顔を作り、小さく手を振る。男の子は何も返すこと
なく、母親の足に捕まり電車を降りていった。
97 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時24分04秒
 サングラスがいけなかったのかな、とぼんやりと思いながらそれを外す。窓の
外の風景はこの時、灰色の空間から裸になった木々が目立つ場所になっていた。
 鞄から携帯を取り出す。メールを作ると、それを保田に向かって送った。
 きっと今頃仕事をしているはずだ。返事は遅くなるだろう。
 電車を降りると雪が一粒、鼻に当たった。息を吐くとどこまでも白くて、電車
の中で暖められていた体が一気に冷まされて行く。マフラーをきつめに締めた。
それから再びサングラスを掛けて松葉杖をつく。

 アスファルトに落ちる雪はすぐに溶けて、僅かに灰色を黒く染めている。駅前
だというのに大して賑わっていないこの町に足を踏み入れ、懐かしい思いが胸を
突き上げる。


 まさか、一人でここに来るとは思わなかったな。
 タクシーを拾って乗り込む。ポケットから四つに折り畳まれているメモを取り
出すと、それを広げてそこに書かれている住所を伝えた。運転手は愛想の無い返
事をしただけで、すぐにアクセルを踏み込んだ。

 移り変わる風景に視線を向ける。
 アパートや団地が多く、道路にはゴムボールを持っている女の子がタクシーを
通り過ぎるのを道の端で待っている姿があった。
98 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時25分05秒
 紗耶香の町。
 矢口は思った。
 紗耶香が育った町。

 最後に来た時の事を矢口はあんまり印象に残っていなかった。それはその間に
あった色んな出来事に足を取られるように沈められて行った自分が居たからだ。
保田は自分を保とうと必死だったのを矢口は知っている。しかし自分はその流れ
に身を任せていた。
 タクシーが止まり、外に出た時、あまりの寒さに思わず肩を竦めた。降り続く
雪が強くなっている。コートに落ちるそれはなかなか溶けようとはしなくなって
いた。
 道路には薄っすらと雪が敷き詰められている。茶色い足跡がいくつも交差して
いる。
 紗耶香の家の前に着くとインターホンを押した。すぐに昨日聞いた声がした。
紗耶香の母親だ。庭先には犬の小屋があり、その中には何も居なかった。

「矢口さん」
 矢口は頭を下げた。
 昨日、公衆電話が切れた後、携帯で連絡していたせいだろう、紗耶香の母親は
大して驚く事も無く、矢口を家に招きいれた。
99 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時25分52秒
 自分たちの見えないところで、何かが確実に起こっている。その思いは矢口の
中で確信へと変わり、それを調べるには直接紗耶香の家に向かうべきだと思った。
彼女が自分に電話をしてくれた時期の事も、そこで何を考えていたのかも、それ
を知らなければベールに包まれている真相を見ることが出来ない。紗耶香の母親
は矢口の訪問を不思議に思う様子はなく、家を訪れる事を躊躇いも無く承諾して
くれた。
 松葉杖をつきながら居間に案内された。テレビに向かい合うようにソファが配
置されているため、そこにゆっくりと腰を掛ける。ギブスをしている足を気遣い
ながらだったが、その動作にもすでに慣れていた。

 暖かいお茶を出されて、それに口をつけたとき、体がジンワリと温められてい
くように思えてありがたかった。紗耶香の母親と取りとめの無い会話をしてから、
矢口は話を切り出した。
100 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時26分34秒
「紗耶香と連絡が取れなくなってどれぐらい経つんですか?」
 紗耶香の母親はしばらく考えながら、お茶に口をつけた。
「……三週間ぐらいかしら」
「そんなに?」
「ええ、それまでも友達の所にお世話になっていた事もあったから、こう言う事
は一度や二度の出来事じゃないんですよ」

 実際、紗耶香とは連絡を取らなくなってしまっていたのだから、空白期間のこ
とは知らない。母親がこうして驚いていない所を見ると、確かに珍しい事ではな
いのかもしれない。何より紗耶香が言っていた「忙しくなる」と言う言葉に母親
は安心しているようだった。
 矢口は少しの間考えながら、電話の事を思い出す。紗耶香の様子がおかしかっ
た事。それは後藤の出来事と直接繋がりがあるのだろうか?

「電話を貰っていた事があるんです」
 矢口はお茶に口をつけると視線をテレビに向けて言った。そこには丁度自分た
ちの十五秒のCMが流れていた。
101 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時27分12秒
「紗耶香が……不安だってそんなことを言ってました。急にぽっかりと空いた時
間に戸惑っているって……」
「そうですか」
「あたしもこうして入院して、ぽっかりと出来た時間に戸惑って言う気持ち、わ
からなくも無いんです。それまで忙しかったから、急にすることが無くなってど
うしたらいいんだろうって……」

 でも矢口にはすぐにやるべき事が出来た。そして紗耶香と決定的に違うのは、
自分は帰る場所があるのだという心強さだった。
 紗耶香の母親はしばらく何かを考えているようだった。それはどこかで羞恥心
みたいなものが壁を作っていたのかもしれない、その陰にある事実を他人に隠そ
うとしているように思えて、矢口は自ら口を開いた。

「紗耶香の様子、おかしく無かったですか?」
「…………」
「あたし、電話していたからわかるんです。紗耶香、言っていることが支離滅裂
になることがよくあった……」
102 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時27分49秒
 自分の子供がおかしいと言われて、気分を悪くしない母親は居ないだろう。矢
口は無礼を承知で言った言葉の重さを感じた。それはもしかしたらこの家庭にも、
自分たちが惑わされたように捩れて行った時間があるのではないだろうか、と言
う考えから生まれた。

 後藤がおかしくなって、矢口や保田が今の状況になっていったように、この家
庭にも、紗耶香がおかしくなって捩れた時間がある。
 なぜだかそう思えてならなかった。
 しかしそんな矢口の言葉を紗耶香の母親は否定した。

「確かにそう言う部分はあったと思います。家族には口にしませんでしたけど、
どこか焦っているような時がありましたから……でも言葉が支離滅裂になるよう
なことは無かった」

 矢口はテレビから視線を外して紗耶香の母親の顔を見た。彼女はすぐに視線を
そらしてお茶に口をつけていた。

「本当ですか?」
「ええ」
103 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時28分22秒
 嘘を付いているようには思えなかった。でも、決して本当の事を言っていると
も思えない。この人は何かを隠しているのではないだろうかという疑心を胸に強
く抱いた。

 矢口は再び考えを巡らせる。
 後藤が自分自身を削ってまでブレスレットやサングラスを盗んだ。その二つに
共通している事は、間違いなく、紗耶香からの贈り物だという事。それを集める
事によって、後藤は何らかの目的を果たそうとしていたのではないだろうか? 
それは姿を消した紗耶香にも関係があるはずだ。
 矢口はゆっくりと立ち上がる。無言のまま紗耶香の母親が視線を向けてきた。

「……紗耶香の部屋が見たいんです」
「……でも」
「紗耶香がどう言う気持ちであたしに電話を掛けてくれたのか、それを知りたい
んです」
「…………」
「あたしは……それを知らなくちゃいけないんだと思います」

 もし、あの時、自分が紗耶香の話を辛抱強く聞いていたら今とは違う結果にな
っていたのではないだろうかという後悔があった。あんなにも濃い時間を一緒に
過ごしてきた仲間だというのに、自分は話を聞くことも鬱陶しく思ってしまった。
後藤の秘密への使命感と共に、矢口は紗耶香に対してそんな感情を抱いていた。

 松葉杖を付いたまま紗耶香の母親を見下ろす。矢口の決意は揺るがないのだと
いう事に気が付いてくれたのだろうか、ため息と共に紗耶香の母親が立ち上がっ
た。
104 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時28分57秒
「わかりました」
「ありがとうございます」

 居間を抜けて紗耶香の母親を先頭にしながらその部屋まで進む。床に付く松葉
杖の音が辺りに響く以外、二人は物音も声も出さなかった。どこか前を歩く紗耶
香の母親の足取りが重い。それは部屋の中を他人に見せるという事への躊躇いが
混じっているのだろうかと、矢口は思うと、言い知れない不安が込み上げてきた。

 紗耶香の部屋には何があるのだろうか?
 そこには後藤が取ってきた行動の真相が隠されているのだろうか?

 開けてはいけない箱に手を掛けたような気分だと矢口は思う。パンドラの箱の
ように、その中には自分たちが見てはいけないものがあるのではないだろうかと
さえ考えた。
 階段を上って、紗耶香の部屋の前まで案内される。紗耶香の母親はドアの斜め
前に立ち止まると、それを開ける事は無く、その役目を矢口へと譲った。矢口は
無言のまま前に出る。ドアノブに手を置いた時、さっきまで渦巻いていた感情が
急に激しく波を立てた。
105 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時31分04秒
 それに煽られるように、蘇る記憶。

――おかしいんだ……矢口……わたしの頭、おかしいんだ。
 それは紗耶香との電話の会話。

――恐いの……矢口……凄く恐いの。
 不安に駆られる彼女の声。

――心が落ち着かないの……いつもドキドキしてる。
 矢口はそっとノブを捻った。

――こんなにもわたし……弱かったんだ。
 力を入れるとドアがゆっくりと開いていく。

 広がる視界。徐々に映し出される紗耶香の部屋。ドアがギギッと音を上げ、弱々
しい光が足元に漏れてくる。冷たい空気が逃げ出すように矢口を襲う。他人の部
屋独特の匂いが、それに混じっていた。
106 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時31分50秒
 その中は空っぽだった。

 矢口は唖然とドアの前に立ち尽くした。
 部屋の中はベッドだけ。窓にはカーテンも掛けられていない。壁はどこまでも
真っ白で、床は僅かに埃が浮いていた。
 その部屋は真っ白だった。生活感の匂いもしなかった。まるで空き家のように、
張り詰めている空気が床に敷き詰められている。部屋全体を覆う、違和感。それ
は意思を持ち、矢口の事をよそ者として見ているような気がした。

「全て……捨ててしまったんです」
 そんな矢口に構うことなく、斜め後ろに居る紗耶香の母親が呟いた。

「徐々に……一つずつ、捨てていったんです」
 矢口は一歩だけ足を踏み入れる。白い壁を見渡しながら、ドアのすぐ横に写真
が画鋲で貼り付けられているのに気が付いた。それは入り口側からでは死角にな
るようで、足を踏み入れなければ気付く事が無かっただろう。

 その写真は、あの武道館の打ち上げ時のものだった。そこにはメンバーみんな
が紗耶香を囲み、笑顔を作りながら写っている。紗耶香の横には後藤がいて、そ
の手にはお守りが握られていた。そこに写る矢口は右腕にブレスレットを付けて
いる。

 ベッドとその写真以外、何も無いはずなのに、何故だか紗耶香の苦痛が矢口に
は感じた。それは空気となって漂っているのか、それとも壁にその感情が刻み込
まれていたのかわからない。しかしそれは確実に矢口の胸の奥に入り込んできた。
107 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時32分59秒
 あたしたちは狂った世界に居るのかもしれない。
 みんなと歩いていたはずなのに、ボタンを掛け違うように微妙な変化は、徐々
に自分たちを違う道へと誘導していた。そこには苦しみに悶えて、楽になりたい
なのだと声を上げている仲間が居る。この世界から抜け出したいのだと、声を上
げている自分の姿もある。でも、自分たちは手を取り合って協力する事は出来な
い。協力する術を知らない。

 ずっと独りのまま……。
 独りで叫び続けるだけ……。

 ゆっくりと部屋の中央に歩み寄る。窓からは雪が落ちる風景が続き、昼の光が
その中に薄っすらと漂っている。ただ真っ白な空間を感じながら、紗耶香はどう
言う気持ちだったのだろうかと考えた。
 後藤がおかしくなってしまったように、紗耶香もそうなっていたのは間違いな
い。電話の会話が支離滅裂になっていったことも、部屋の全てを捨ててしまった
事も、きっとその証拠になるはずだ。
 そんな様子がおかしくなった紗耶香と連絡を取る事が出来ない状況にある。一
体、彼女はどこに姿を消したのだろうか……?
108 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時34分03秒
 そう考えた時、矢口の頭にあの精神病院の建物が映像となって浮かんだ。
 モーニング娘、と聞いて表情を変えた受付の人間。

 その建物の中には、もしかしたら人が暮らせる部屋もあるのではないだろうか?
 それに気が付いた時、矢口はあの時、受付の人間が表情を変えた理由がわかった。

 そこには後藤ではなく、紗耶香が居るのではないだろうか?
 あの驚きは、後藤がそこに通っているという事を隠しているものではなく、紗
耶香が何らかの形で関係しているという驚きではなかったのではないだろうか?
 矢口が尋ねる事によって、あの受付の人間はモーニング娘と言う名前から紗耶
香の事を思い出した。まだ一般的にはその名前の方が、印象が強いのだから、そ
う連想してもおかしくは無い。

 矢口は唾を飲み込むと松葉杖を掴んでいる手に力を込めていた。
 あの病院に……?

 背中を這うような痺れが襲ってくる。
 あの病院に何かが隠されている……。
 それは確かな確信へと変わっていた。

 矢口は焦るように紗耶香の部屋を後にしていた。後ろから彼女の母親が声をか
けていたが耳には入らない。今はただ、確かめなくてはいけないのだという気持
ちの方が強かった。

 そして、矢口はある考えを導き出した。
109 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時35分36秒
  ∞

 タクシーに乗りながら、矢口は考えていた。
 どうしてあんな大金が無くなっていたのか? そのお金で何を買ったのか? 
保田と共に考えた結論は後藤が誰かに貢いでいるのではないかというものだった。
しかし後藤の部屋に行った保田は、そこに誰も居るような気配もなかったし、見
られて困るというものも無かった、と言った。後藤が遊びに出かけている風にも、
時間もない事から考えて、その相手は部屋の中にいるものだと矢口は考えていた。
しかし保田の証言はそれを正面から否定するものだった。
 ならば後藤のお金は何に消えているのか? 一度無視した疑問をもう一度矢口
は考える事になった。

 タクシーは精神病院に向かっていた。道路にはすでに雪が積もり始めている。
ぐちゃぐちゃになりながらも、車が通るとそれは水しぶきのようになって周囲に
跳ねていた。

 後藤は、紗耶香に貢いでいたのだ。
 それが矢口の出した結論だった。

 彼女が、仕事が終わってから向かうのが精神病院と家だけ。その精神病院には
貢ぐような相手は居ないと思っていた。事実そこには女の人しか居ないし、矢口
の考えは間違っていないと思う。でも、そこに紗耶香が居たとしたら話は別だ。
110 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時36分33秒
 紗耶香から貰ったサングラスやブレスレットを盗むまで、後藤は未だに彼女に
対しての気持ちは消えていない。大事な人だという気持ちはまだ残っているのだ
ろう。
 あの病院に通っていたのは後藤ではない。彼女はあの病院に居る紗耶香に会い
に行っていたのではないだろうか?
 後藤の様子がおかしくなって、その近辺を歩いている姿を見た保田が、そこに
彼女が通っているのだと勘違いしてしまっていたのではないだろうか?
 お金を貢ぐ事もそれならば出来る。家ではなく、精神病院に相手が居るならば、
そこに行けばいいだけなのだ。

 病院が紗耶香を隠しているのだろうか……?
 いくらなんでも家族が連絡を取れないのはおかしい。あの病院自体に、何かが
隠されていると考えたっておかしくは無い。
 タクシーが精神病院に近づいている事を感じると、矢口は緊張から手に汗を握
った。確実に、何かに近づいている感触があった。そしてそれは自分たちがこれ
から歩いていく道には必要なものなのだと確信していた。

 あたしも圭ちゃんも心から笑い合えるときが来る。
 だから、全てを知らなくてはいけないのだ。
111 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時37分10秒
 タクシーが精神病院の前で止まった。お金を渡して外に出る。雪は強く、大き
くなっていた。足を踏み出すとぐちゃ、と水が跳ねる。氷の粒のような雪が辺り
を覆っていて、矢口は冷たい風に体を前傾にしながら進む。松葉杖をつく事も慣
れてしまっている自分が居る。
 診療所のような建物の前に来ると、看板を通り過ぎて三段の階段を上る。ガラ
スの扉が目の前に現れ、薄暗い玄関が透けて見えた。

 矢口はゆっくりとそれを開ける。
 すでに躊躇いは無かった。
 この中に紗耶香が居る。
 それはいつの間にか矢口の中で確信に変わっていた。

 後藤を苦しめていた紗耶香が居る。自分たちが泥沼に填っていき、もがき苦し
んでいた元凶がこの中に居るのだ。ようやく、たどり着いたのだという思いが矢
口を動かしていた。
 扉を開けて玄関に入る。右手にはもう一枚のガラスのドアがある。そこから中
を見ると、待合室になっていて、黒い椅子が配置され、十四型のテレビが診察室
のドアの横に置かれている。石油ストーブが部屋の真中に配置されている。中は
真っ赤に炎を上げていた。
112 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時38分05秒
 その中に入る。ストーブに暖められた空気が矢口を包む。それと共に病院の独
特の匂い。蛍光灯が一つだけのその部屋は、全てを照らす事が出来なくて、薄暗
い空間を作っていた。
 右手には小窓があった。そこには受付の人間が座っている。矢口がゆっくりと
近寄ると、そこに居る受付の女の人が徐に顔を上げた。

 すぐに誰が来たのかわかったようだ。驚きの表情を浮かべた。
 矢口はサングラスを外すと、その受付の人間に言った。

「……紗耶香はどこですか?」
 受付の人間の動きが止まった。
 その様子を見て矢口は確信する。
 間違いない、ここに紗耶香は居るんだ。

「そんな人は来ていませんよ、矢口さん」
 受付の人間は冷静を装うと静かな口調で言った。矢口は体重を逃がすように
その小窓の前に立て付けられている机に肘をつくと言った。

「紗耶香はここに居るんですね」
「そう言う事は言えません」
「ここに、後藤ではなく、紗耶香が居るんじゃないんですか?」
「ですからそう言う事はお答えできません」
「後藤はここにいる紗耶香に会いに来ているんじゃないんですか?」
「ですから何度聞かれても、そういう事は――」
「あなたたちが紗耶香を隠しているんでしょう!」
113 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時38分58秒
 溜まらず矢口は声を張り上げていた。静まり返っていた待合室の中にそれが響
き渡る。目の前で受付の人間が驚いたように肩を竦めた。

「ねぇ紗耶香はどこにいるの!」
 矢口はそう言うと、松葉杖から手を離して小窓の向こう側の人間に手を伸ばす。
それに驚いた彼女は椅子から立ち上がろうとしたが、その時腕の部分をすでに掴
んでいて、矢口の体は吸い込まれるように机の上に乗りかかった。

「矢口さん!」
 受付の人間が声を上げる。
 それでも矢口はそれを離さなかった。

 こんな所で引き返せない。あたしはもう引き返せない場所まで来てしまったの
だ。だから、この手は離せない。

 肩の部分が小窓に当たった。受付の人間が矢口の手を離そうともがく。体が左
右に揺れて、ギブスをしている足に激痛が走った。声にならない悲鳴を上げる。
浮いた片方の足で転がった松葉杖を蹴ってしまう。
114 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時39分55秒
「紗耶香は! 紗耶香はどこにいるのよ!」
「いい加減にしてください!」

 受付の人間がそう声を上げて体重を後ろに逃すように力を入れた。矢口の体は
小窓に吸い込まれて、肩で引っかかっていたガラスがその力で割れた。
 ガラスの破片が腕に落ちる。手の甲に電気が走るような痛みを感じた瞬間、あ
っという間に血が溢れてきた。
 痛みから腕を握っていた手を離すと、矢口の体重を支えていたものが無くなり、
小窓から転げ落ちるように床の上に倒れた。

 右肩を下に、矢口は冷たい床の上に倒れる。衝撃が首から足へと伝わる。ギブ
スをしていた片足には金槌で殴られたような鈍い痛みが走った。
 うめき声が待合室の中に漏れる。思わず足に手を当てようと動かした時、ガラ
スで切った手の甲から血が飛び散ってそれは矢口の頬に落ちた。じんわりと熱を
感じる。それは暖房などで暖められた人工的なものじゃない。人の直接的なぬく
もりだと矢口は思った。
115 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時40分58秒
 顔を上げる。松葉杖は配置されている黒い椅子の足で動きを止めて転がってい
た。矢口は足の痛みに耐えながら、床を這うように移動すると、それを握って床
に付きたてた。

 紗耶香に会わなきゃ。
 紗耶香に会わなきゃ、あたしたちはこの世界から抜け出せない。
 だから紗耶香に会わなきゃ。

 その思いだけで立ち上がる。手の甲の血は床に滴り落ちるほど溢れていた。
 ゆっくりと振り返る。斜め前のテレビの横には診察室に向かうドアがある。な
ぜだか紗耶香はその向こう側に居るのではないだろうかと言う考えが生まれて、
矢口はゆっくりと歩き出していた。
 受付の人間がそのドアから出てきたのはその時たった。矢口の手の甲の血を見
ると、驚いた顔をして近づいてくる。しかしそれは診察室に矢口を入れないよう
に阻んでいるのだと何故だか思った。

「矢口さん」
 そう言って矢口の元に駆けつけた受付の人間を余った手で押す。体を一瞬だけ
よろめかせるものの、大した力が加わっていないせいかすぐに体制を整えていた。

「紗耶香に会わせて!」
「いい加減にしてください! ここをどこだと思っているんですか!」
116 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時42分04秒
 そんな事は関係ない。診察室のドアの前を阻むように立ち続けるその存在が鬱
陶しくて、矢口は強引に前へと進む。しかしすぐに肩をつかまれて動きを拘束さ
れた。

「離して!」
 矢口はそう声を上げながら掴まれた方の腕を回す。しかしまるで張り付いてし
まったかのように、受付の人間はそれを離すことは無かった。

「矢口さん! やめて下さい!」
「紗耶香に会わせて!」
「矢口さん!」

 受付の人間ともみ合いになる。肩を掴まれただけではなく、その人は矢口の体
に腕を回して前へと進む事を阻んだ。それに対抗するように体を捩ったり、腕を
振り上げてその人の胸を押してみても、松葉杖をついている矢口の方が圧倒的に
不利だった。立つ事さえもバランスを取らなくてはいけない上に、もみ合いをす
るほど、そんなに器用な運動神経は持っていない。足を掬われるように、矢口は
背中から床に転ぶ事になった。

 松葉杖が宙を浮く。矢口の体を掴んでいた受付の人間を巻き添えにする形で、
二人は床の上に倒れた。
117 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時42分44秒
 怪我をしている矢口を気遣ったのか、その受付の人間は咄嗟に床に掌を付く。
下敷きにしないようにと気を使ったようだが、それは不安定に体重を乗せる事に
なってしまったようだ、手首を捻った彼女は矢口の横に倒れるとそれを抑えたま
ま苦痛の声を漏らした。

 背中から倒れた矢口は一瞬だけ息をすることが出来なかった。頭の中がぼんや
りとしているのは、その衝撃の時、頭を打ってしまったせいだろう。しばらく白
い天井を見ていることしか出来なかった。

 花を持ってきてくれた後藤の姿が何故だか浮かんだ。

 全てに怯えて、自分の罰を正面から受け止めてしまった彼女。紗耶香はそんな
後藤を眼にしていたはずなのに、どうして助ける事も出来なかったのだろうか?

 どうしてあの時のように守ってあげなかったのだろう?
 どうしてあの時のように受け止めてあげなかったのだろう?

 素直に笑えなくなって、人に怯えて、背中を丸めてしまった姿を見ていたはず
なのに、どうしてそうしてあげなかったのだろう?

 そう思った時、気が付いた。
 それは自分も同じか。
118 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時43分19秒
 自分だけじゃない、保田も同様だ。確実に弱々しく自分を削っていく後藤を感
じていたはずなのに、自分たちは手を差し伸べる事も出来なかった。
 あたしも、同じ罰を背負わなければいけないのかもしれない。
 保田も紗耶香も、全ての人間がそれを背負わなければいけないのかもしれない。

 矢口はゆっくりと起き上がった。手の甲の血は止まらない。それは床に飛び散
るほど次々と溢れている。どうやら深く切ってしまったらしい。そっとそれに口
をつけると自分の血の味を確認した。
 松葉杖はすぐ横にあった。ゆっくりと立ち上がり、ニ三歩足を引き摺りながら
歩いてそれを拾う。振り返ると後ろでは手首を抑えている受付の人間が居た。
 松葉杖を付きながら診察室に向かう。その中に、きっと自分たちが求めていた
ものがあるに違いないと思った。

 ドアをゆっくりと開く。後ろで矢口さん、と声が聞こえたが無視をした。
 それを開くと一層と薬品の匂いが強くなった。紗耶香の部屋と同じように真っ
白だという第一印象を持ち、視線には徐々に部屋の中の様子が映し出されていく。
壁には色んな張り紙。一番奥にはベッドがあり、その横には薬品の入った棚。窓
は全てブラインドが下ろされて、天井に六本の蛍光灯が辺りを照らすだけだった。

 医者らしき女性がいた。その人は冷静に椅子に座りながら矢口を見ていた。
 唾を飲み込むとその女性を見据えていった。
119 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時43分55秒
「……紗耶香はどこにいるの?」
 その女性は徐に腕時計に視線を落とし、ため息みたいなものをついた。それか
ら再び矢口に視線を向ける。

 僅かな間が空く。
 それはとても重苦しくて、胃袋の中に鉛があるように思えた。
 静寂の中で聞こえる時計の秒針。
 ストーブの炎の揺らめきさえも聞こえた。
 その女性は徐に口を開けると呟くように言った。

「市井さんは、もうここには来ていませんよ」
 矢口は黙ったままその女性を見ていることしか出来なかった。
120 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時46分26秒
  42

 闇の中のネオン。
 白い雪がそれに照らされる。

 氷の粒のようだったそれは、徐々に重さを軽くしていき、僅かな風に舞い上が
るように空中を漂う。人工的なライトが散らばり、真っ白い雪はキラキラと輝き
ながら地面に落ちていく。灰色のコンクリートはいつの間にかその色に染められ
て、窓から流れる風景の中に居る人々は、みんな肩に雪を積もらせていた。
 タクシーの中は暖房で暖められている。テレビ局からそれに乗り込むまでに当
たった雪が溶け出して、車内の中に僅かに湿気を篭らせている。保田は張り付く
前髪を人差し指と親指で摘むように治すと、再び視線を窓の外に向けた。

 保田は後藤の家に向かっていた。
 タクシーは渋滞に捕まりながら、後藤との家までの距離を縮めていていく。言
い知れない焦りが掌の汗として浮き出している。そっとそれを両手で擦るように
拭うと矢口からのメールを思い出した。
121 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時47分21秒
 矢口からメールが届いたのは、昼前の事だった。
 いつも通りに仕事に追われていた保田は、それを夕方になってから見ることに
なる。液晶にはたったの一行の文。

『紗耶香の家に行って来る』
 とだけ書かれていた。

 矢口は後藤がおかしくなり始めた理由に、紗耶香が関係しているのではないか
と確信しているようだった。それはメールの文章からも伝わってきて、保田に妙
な期待感を抱かせた。
 昨日の矢口の電話以降、保田も紗耶香に連絡を取ろうとした。しかしそれは繋
がる事は無く、自分の知らないところで何かが起こっているのではないだろうか
と言う不信感が沸き起こってきていた。それに煽るように後藤が大勢の前で取り
乱したと言う事実。その場に駆けつけてきたメンバーたちは唖然とその光景を見
ているだけで、後藤がスタッフに取り押さえられて、強制的に家に送られた後も、
みんなの口からその出来事が出ることは無かった。まるで触れてはいけない物の
ように、タブーとされたようだ。
 そんな出来事があって、保田は早く後藤の秘密を知らなければいけないという
思いを強めていた。今の泥沼に填ったような状態から抜け出す、唯一の希望とさ
え思えていた。
122 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時48分11秒
 だから、矢口が行動を起こしたと言う事実は、少なからず保田に期待感を抱か
せる事になる。
 保田はメールの文章から早速矢口に電話をした。
 何か進展があったのではないだろうかと、逸る気持ちを抑える事が出来なかっ
た。しかし、電話に出た矢口の態度は、そんな保田を裏切るものだった。

 もう……こんな事はやめた方がいいんだよ。
 予想外の一言。
 呆気に取られたまま、保田は口を開く事が出来なかった。

 後藤のこと……ほっといてやろう。……そうしてあげようよ。

 昨日とは百八十度逆の態度とその言葉。保田は携帯を片手に、廊下に足早に過
ぎ去っていくスタッフを感じながら、一体どう言う事なのかと聞いた。どうして
突然そんな事を言うのだと。

 触っちゃいけないものがあるんだよ。あたしたちはそれに触っちゃいけない。

 意味がわからなかった。矢口は一体何の事を言っているのだろうかと思った。
しかしすぐに気が付いた。もしかしたら紗耶香の家に行って、重大な何かを知っ
てしまったのではないだろうか? それは態度を変えてしまうほどの大きな事実
だったのではないだろうか?
 そのことを伝えると矢口は急に黙った。どうやらタクシーに乗っているらしい
彼女の後ろには、ラジオの音が漏れていて、その中に自分たちの曲が鳴っていた。
それを保田は電話越しに聞きながら、自分の考えが間違っていない事を確信する。
123 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時48分46秒
 矢口は何かを知ってしまった。
 それは今までの態度を変えてしまうほどの重大な事。

 それが何なのか保田は聞いた。しかし矢口は決してそれを喋ろうとはしなかっ
た。ただ、もうやめた方がいいんだ、と言う言葉を呟くだけで、その口調には自
分たちが取ってきた行動の後悔が込められているような気がした。
 電話は唐突に切られた。しつこいぐらいに追求する保田を矢口が、溜まらない
と言った様子で切った形になった。もちろんすぐに掛け直してみたが、その頃に
は電源が落とされていたようで、無機質なアナウンスが虚しく響くだけだった。

 保田には仕事が残されていた。その為、その場から抜け出す事は出来なく、矢
口が入院している病院にも駆けつける事は無理だった。もちろん仕事が終わった
後に向かっても、その頃には面会時間が終わっているために、彼女と話をするに
は明日以降でなくてはいけない。そんな時間を、保田は待つことが出来なかった。
124 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時49分25秒
 仕事中も矢口が何を知ってしまったのか、それだけを考えていた。
 紗耶香の家に行って、そこに何が隠されていたのだろうか?

 後藤の家に行こうと決めたのは、沸き起こってくる感情を抑える事が出来なか
ったからだ。今、後藤に会わなければいけないという、強迫観念みたいなものも
背中を後押しした。

 保田はため息をつく。それに窓ガラスが曇った。
 ゆっくりと顔を下に向けて眼を閉じる。車内の中のラジオと、座席の下のエン
ジン音だけがその闇の中に存在していた。

 始まりは何だったのだろう?
 後藤がサングラスに興味を持ち始めたときだろうか?
 収録中に矢口に暴力を振ってしまったときだろうか?
 それとも、矢口の腕時計を盗んだ時だろうか?

 後藤の様子がおかしくなり始めた時期の事を思い出そうとしたが、それがいつ
からなのか保田にはわからなかった。自分たちがいつの間にか薄闇の中に迷い込
んでいたように、後藤にもはっきりとその状態になった瞬間があったわけではな
いのだろう。世界の何かがスライドしていくように、それは気が付いた時に起こ
っていた。自分たちも知らないうちに、いつの間にかスイッチを押されていたの
だろう。
125 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時50分35秒
 泥沼の中の希望。
 淀んで濁り始めた水の中、自分たちが見えるのは一筋の光だけ。それはもしか
したら幻なのかもしれない。蜃気楼のように不確かな存在なのかもしれない。都
合のいい答えを作り出して、それにすがっているだけなのかも知れない。それで
も、その泥沼の中から抜け出すには、それを目印に進んでいくしかなかった。

 あの子を守れるのは私だけ……。
 保田はそう思うと苦笑いした。

 何て自分勝手な自惚れだろう。

 自分の事で精一杯なくせに、他人なんか守れるはずが無い。もかしたらその言
葉を頼りに、私は自分を守っていただけなのではないだろうか?
 私は、あの子を利用していただけなのではないだろうか?

 そんな事を思いながら、眼を閉じているといつの間にか後藤の家に着いたよう
で、タクシーが止まった。ブレーキから体が前傾になり、ゆっくりと顔を上げる。
フロントガラスからは後藤の家が見えていた。
 お金を払って外に出る。タクシーが黒い煙を上げながら保田から離れていった。
126 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時51分17秒
 雪はまだ降り続いていた。地面にはそれが靴の底の高さまで積もっていた。道
路には無数の足跡と車のタイヤの跡がついている。白い部分を歩く保田の靴の裏
に、雪が踏みしめられる感覚が響いてきた。
 後藤の家の前に来ると、インターホンを押す。袖から出した人差し指は一瞬の
うちに凍り付いたように冷たくなり、暖房で暖められていた体はすでにぬくもり
を逃がしていた。寒さから息を吐き出す。耳の先が千切れるのではないだろうか
と思うほど痛かった。
 はい、と声がしてドアの向こう側から足音がする。それは徐々に近づいてくる
と、カチャリ、とノブが回って後藤の母親が姿を現した。

「……夜分にすいません」
「保田さん……」

 後藤の母親はそこに保田が居ることに一瞬だけ驚いたが、すぐに見舞いに来た
のだろうと思ったようだ。凍える保田を気遣うように、家の中に招いてくれた。
 玄関の中に入ると暖かい空気に体が素直に反応した。背筋を走る鳥肌が通り過
ぎていくと、保田は目の前の母親に頭を下げて家の中に上がりこんだ。

「寒かったでしょう」
「雪が降ってましたから。明日には積もるかもしれません」
「もうそんな季節ね」
「……そうですね」
127 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時52分10秒
 後藤はどうやら自分の部屋に居るようだ。彼女の母親が呼んで来ようかと気を
使ってくれたが、保田は首を横に振って自分が部屋に行くといった。

「散らかっている部屋だから、気分を悪くしないでね」
「大丈夫です」

 数日前に訪れているのだから、後藤の部屋が散らかっているのは承知だった。
しかしそれでも母親としての責任があるのだろう、そんな散らかっている部屋に
友達を上げることになることを申し訳なく思っているようだ。
 階段を後藤の母親を先頭にして上る。

「この前はすいませんね」
 この前とは後藤の部屋に探りを入れた時だろう。保田は首を横に振っていいえ、
と言った。

「部屋に入るといつもあんな感じで怒るんです」
「年頃ですからね」
「年頃にしては部屋が散らかり過ぎてますよね」
 保田は苦笑いした。

「私の部屋も同じですよ」
 でも、と後藤の母親は言葉を見繕う。そこには日頃溜まった感情があるのだろ
う、愚痴のように言った。
128 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時52分59秒
「引越しが近いんです。落ち着いたらしようと思っているんですけど、それまで
に部屋を片付けろって言っているんです。でもずっとあのままで……」
「引っ越すんですか?」
「ええ」

 それは初耳だ。もしかしたら彼女が後藤の部屋に興味を持ち、異常を感じ始め
たのはそう言う理由があったからなのではないだろうかと思った。
 そんな事を考えながら後藤の部屋の前に来る。彼女の母親がドアをニ三回ノッ
クして、真希、と呼びかけた。しかし返事は返ってくることは無く、廊下に無言
の静けさだけが漂う。

 もしかしたら眠っているのだろうか?
 昨日、あんなにも取り乱した後なのだ、それでも不思議ではないだろう。ノッ
クをして呼び続けている彼女の母親は、ふと不審に思ったのかドアノブを握って
いた。保田はすぐに気を使うように言う。

「眠っているなら無理に起こさなくても……」
 しかしその言葉を全て言う前にドアは開けられていた。
 その隙間から闇が逃げてくる。自然と視線を部屋の中に投げかけた保田は、ベ
ッドに人の気配がない事に気が付いた。

「……真希?」
 そう言って後藤の母親が部屋の電気を入れる。点滅する光の中で、保田を襲っ
たのはまるで空気のように漂う、あの香水の香りだった。
 蛍光灯が白い光を下ろす。闇が逃げた部屋の中は全てがこの前来た時と一緒で、
保田は胸の奥に何かが引っかかる。それは頭の中で異物を感じるように、違和感
として残った。
129 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時53分49秒
「……真希?」
 後藤の母親が部屋の中に入って、ベッドの蒲団を剥ぐ。しかしそこには人の姿
は無かった。

「……居ないんですか?」
 保田はドアの前に立ったまま、ベッドに視線を落としている彼女の母親に聞い
た。しかし返事が帰ってくることは無く、彼女は呆気に取られたまま、誰も居な
いベッドを見ているだけだった。

 どこかに出かけてしまっているのだろうか? 軽くコンビニに買い物に行った
のかもしれない。しかし保田の考えとは余所に、後藤の母親は呆気に取られたま
ま、その表情を見る見るうちに凍らせていった。

「……どうか……したんですか?」
 その表情を見ていて保田は不安に駆られる。思わず部屋の中に一歩足を踏み入
れた時、そのタイミングで後藤の母親が呟いた。

「……今日……ご飯を作ろうとして……」
 は? と保田は足を止める。いきなり何を言い出すのだろうかと、訳がわから
なかった。

「野菜を切ろうと思ったんです。それでいつものように包丁を取り出そうとした
んですけど……足りなくて」
「……足りない?」
「ええ……数が足りなかったんです」
「……あの……何を言っているのか、よくわからないんですけど……」
「その時は特に気にしなかったんです。おかしい話ですけど、気にならなかった
んです……」
「……あの……それと一体何が――」
130 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時54分30秒
 そう言った時に後藤の母親が言いたい事に気が付いた。
 包丁が足りない。
 そして後藤が部屋に居ない。
 まさか……。

 後藤の母親がゆっくりと保田の元に顔を向けた。その顔色は真っ青になってい
る。どうやら保田が気付いた事は合っていたようだ。

「真希が……持っていったんじゃ……」
 ゾクゾク、と背筋に鳥肌が立った。
 思わず唾を飲み込む。

 二人の間に沈黙が訪れて、それは重い空気を生んだ。無言のままの保田を後藤
の母親は問いかけの返事だと思ったらしい、凍り付いていた表情が戸惑いを含ん
だ複雑なものに変わっていた。

「真希……」
 後藤の母親がふらふらと部屋を歩きながら窓のカーテンを開ける。もちろんそ
んな所に後藤が居るはずが無い。それから再び踵を返してドアの横のクローゼッ
トに手を掛けていた。保田は呆気に取られたままその行動を見ていることしか出
来なく、後藤の母親が混乱しているのだと気が付いた時、体は自然とその背中を
抱いていた。
131 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時55分13秒
「シッカリしてください!」
 保田は声を上げる。

「まだごっちんが包丁を持っていったとは決まったわけじゃない!」
 そう声を上げると後藤の母親は体を翻して保田を見る。そして声を上げた。

「だったら誰が持っていったんですか!」
 思わず口を閉じた。

 僅かな静寂が訪れると、後藤の母親は我に戻ったらしい、すいません、と呟く
ように保田に謝った。すぐに大丈夫です、と言葉を返すと保田は言った。

「とにかく……あの子を探さなくちゃ……」
「でもどこに行ったのか……」
「私たちだけでは人が足り無すぎる……警察……いや、事務所に連絡を取りまし
ょう。そこで警察に知らせるのか、相談した方がいい」
「……そうですね」
 保田は後藤の母親の肩に手を置くと言った。

「大丈夫です……きっと大丈夫ですから」
 後藤の母親はそれに頷く事は無く、部屋から出ると一階の電話から事務所に連
絡を取りに行った。
132 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時56分06秒
 部屋の中で一人になった保田は、突然襲ってきた不安に思わずその場にしゃが
み込んだ。後藤の母親が言っていることが本当だったとして、その目的は一体何
なのだろうか?
 もしかしたら目的など無いのかもしれない。おかしくなった後藤が包丁を持っ
て夜の街を歩いていると言う事実は、何より強い危機感を保田に抱かせた。
 昨日の取り乱した後藤を思い出す。追い詰められて、限界を超えてしまった後
藤が刃物を持っているということだけで充分に危ない。錯乱状態のまま、街を歩
いている人々にそれを向ける事だって有りえる。そうなったら後藤だけではない、
モーニング娘と言う存在自体が危険に晒される事だろう。

 一刻も早く後藤を見つけ出さないといけない。
 取り返しのつかないことになる前に、後藤を捕まえなくてはいけない。

 しかしこの街の中で、たった一人の人間を探すのは困難だ。後藤がどこに向か
ったのかと言うことさえも、保田には見当がつかなかった。

 そうだ、自分は初めから、後藤の事を分かってはいなかった。

 年齢より大人だと決め付けて、みんなの期待を背負った彼女が必死になってい
る姿を眺めていただけ。仲間と言う存在がいるのにもかかわらず、自分はその負
担を軽減する事もしなかった。後藤がおかしくなってからも、どこかで直接彼女
に向かい合う事を恐れていたのではないだろうか?
133 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時57分03秒
 後藤が包丁を持ち出したのだろう。それは間違いない。姿を消した彼女と無く
なった包丁のことを考えれば、それは自然と生まれる答えだ。何を考えてそんな
事をしたのかはわからない。後藤には自分たちが見えない何かを見ているのかも
しれない。それに操られるように、彼女は行動を起こした。

 ゆっくりと顔を上げて窓の外を見る。蛍光灯の光からガラスが鏡に変わり、床
にしゃがみ込んでいる保田の姿を映し出していた。魚眼レンズのように広がる部
屋の中の光景。床一面に散らかる雑誌。壁にはキャラクター物のポスターやカレ
ンダー。机には倒れたままの写真立てと香水のビン。後藤の母親が手を掛けたク
ローゼットは拳ほどの隙間で開かれている。

 また違和感が沸いてきた。
 保田はゆっくりと立ち上がる。
 何かがおかしい。
 この部屋はどこかおかしい。

 カレンダーに視線を向けると、赤丸で今日の日付が囲まれていた。この赤丸は
一体何の意味があるのだろうかと考えて、すぐに思いつく。

 そっか、今日は特別な日か。
 あんな状態になってまで、後藤はその事を忘れていなかったのだろう。
134 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時57分40秒
 保田は再び部屋を見渡す。この前来た時と何も変わらない。それなのに、言い
知れない思いはなぜか胸の奥で強く存在していた。
 冷え切った空気の中には静寂が漂っている。それに混じるように香水の匂い。
開け放たれたままのドアからは、一階で事務所に連絡をしている後藤の母親の声
が漏れてきていた。保田はベッドに歩み寄ると、そっとそこに腰を下ろして両手
で顔を覆った。

 私はただ待つことしか出来ないのだろうか……?
 事務所の人間が来るのを待つしかないのだろうか……?

 同じ時間を過ごして、苦楽を共にして、家族より多く一緒にいるというのに、
こんな状況下では何もできない事を思い知らされる。無力感に打ちのめされて、
もどかしい思いが全身を侵していた。
 矢口が嫌がらせにあっている時も、自分は無力だった。窓ガラスが割られて、
ベッドで体を縮めている彼女を前に、どんな言葉を掛ければいいのかわからなく
て、ただ傍についてあげることしか出来なかった自分。必死に犯人は後藤ではな
いと、言い聞かせる事で精一杯になり、矢口の事も考えて上げられなかった。

 私は誰の事もわかっていないんだ……。
 私は表面的な部分でしかみんなと触れ合っていない……。
 その思いは強く保田を縛り付けた。
135 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時58分24秒
 携帯の電子音が部屋に響き渡ったのはその時だった。
 咄嗟に顔を上げてポケットにしまっていた携帯を取り出す。もしかしたら矢口
が電話をしてきたのではないだろうかと頭の中で浮かんだが、液晶に表示されて
いる名前を見て思わず息を飲んだ。

『後藤真希』

 呆気に取られたまま、通話ボタンを押す指が震えていた。
 しかしすぐに我に戻る。ボタンを押すと、始めに飛び込んできたのは後ろの方
で車が何台も走り去る音だった。

「ごっちん!」
 保田は声を上げる。
 しかしすぐには電話の向こうからは返事がしなかった。

「今どこにいるの? どこから電話を掛けているの?」
 後藤からの言葉を待たずに保田は声を上げる。一刻も早く彼女を捕まえなくて
はいけないという思いに駆られていた。
 携帯からは風の音が混じって、僅かに息を吐き出す後藤を感じた。この寒空の
下で彼女はきっと肩を狭めながら、必死に寒さと戦っているのかもしれない。そ
う思うと、なぜかきつく保田の体を縛り付ける。
136 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時59分14秒
「圭ちゃん……」
 後藤が呟いた。
 保田は口を閉じる。

 おかしくなって、昨日のように錯乱状態のまま部屋を抜け出したのではないだ
ろうかと言う保田の考えは、その一言で打ち消された。
 後藤の口調はしっかりとしている。
 それはいつもの彼女を思い起こさせた。

「今……何してる? 仕事はもう終わった?」
 しばらくそれに返す事が出来なくて、保田は唾を飲み込むだけだった。

「ごめんね。今日……休んじゃってごめんね」
「そう言われたんでしょう。だったら仕方ないじゃない」
「でもごめんね……またみんなに迷惑を掛けちゃったね」
「……そんな事、ないよ」

 ふっ、と電話の中で後藤が息を吐いた。自嘲する時のそれと一緒で、保田は電
話を持つ手を返るとゆっくりと立ち上がった。
137 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)05時59分54秒
「今……あなたの部屋に居るの。仕事が終わって話をしに来たの」
「……そっか」
「……少しは片付けなさい。散らかりすぎよ」
「忙しくてそんな暇なかったよ」
「オフとかあったでしょう」
「お母さんと一緒のこと言うんだね、圭ちゃんは」

 保田は黙ったまま蛍光灯のスイッチを消した。部屋は完全な闇に包まれる。し
かし僅かだがカーテンが開けられた窓からは光が差し込んでいるようで、今まで
鏡になって見えなかった外の風景を伺う事が出来た。

 まだ雪は降っている。
 静かに、風に吹かれながら地面に落ちている。

「圭ちゃんはお母さんみたい」
「…………」
「お母さんと一緒のこと言うんだもん……だからお母さんみたい」
「……ごっちん」
138 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時01分07秒
 包丁を持って後藤は何をしようとしているのだろうか、と疑問に思った。錯乱
しているわけでもない、しっかりと会話の疎通がある。そんな彼女が包丁を持っ
て、この闇の中を歩いている。何か目的があるとしか思えなかった。
 しかしそれを直接聞くことがこの時の保田には出来なかった。どうして急に電
話を掛けてきたのだろうかと言う疑問は、漠然とした不安に変わる。それは後藤
の口調に何かを吹っ切った感情が混じっているのに気が付いたからなのかもしれ
ない。

「圭ちゃん……今までごめんね」
 唐突に一言。
 保田が感じていた不安が姿を見せる。

 それはもしかしたら、もう後藤と話せなくなるのではないだろうかと言う予感
だった。

 保田はその予感に呆然と立ち尽くしていた。
 後藤に返事を返す事が出来なかった。

「いっぱい、迷惑掛けちゃってごめんね」
 暗闇の中で唯一の光。窓の向こう側は部屋と同じように闇が続く。ただ一つ違
うのは、何者にも染められていない、純白な雪が落ちている事だった。
 保田は口を開いた。

「……そう思うなら早く帰ってきなさい」
 数秒の沈黙が空く。
 電話からは風の音だけが聞こえていた。
139 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時01分39秒
「やぐっちゃんにも……謝っておいて欲しいんだ」
「…………」
「ごとーが謝っていたよって……伝えて欲しいんだ」
「…………」
「あのバカって、二人で文句でも言っていてよ」
「…………」
「そしたらあたし、それで充分だから……」
「…………」
「あたしは幸せだったって……思えるから……」

 保田は首を横に振る。胸の奥で沸き起こってくる感情をそうする事で紛らわせ
ていたつもりだった。しかしそれは嗚咽となって確実に喉から漏れようとしてい
る。きっとそれは電話越しの後藤に気付かれてしまうだろうと思うと、妙な羞恥
心から唇を堅く閉ざしていた。
140 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時02分24秒
 しんしんと雪が降り続く。
 冷え切った空気が体を縛り付ける。
 微かに漂う香水の匂い。

 この時、保田の世界では、後藤と自分しか存在していなく、それは時間を止め
て二人の距離感を無くしていた。

 眼を閉じれば後藤の姿が浮かんでくる。

 コートを着て、降り続く雪を肩や頭に積もらせて、眼まで下ろした髪の毛が顔
に張り付いている。右手で携帯を耳に当てて、きっと寒そうに肩を竦めて白い息
を吐いているに違いない。

「凄い……雪だよ、圭ちゃん」
 後藤はどこまでも続く空に手を伸ばす。

「白くて……とても綺麗なんだ……」
 きっとその口元には笑みが浮かんでいる。それはその言葉通りに、真っ白い雪
が純粋に嬉しくて自然と沸き起こってきたものに違いない。後藤はきっとその場
で一回転した。片手を広げて、降り続く雪を掌で感じながら、周りの風景を回し
た。地面の雪がその勢いに削られる。その下からは湿気が篭ったアスファルトが
顔を出したに違いない。
141 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時03分02秒
「でも……ちょっぴり寒いや……」
 保田は眼を開けた。
 それから口から漏れるように言った。

「……ばか」
 その言葉を聞くと後藤は息を吐き出すように笑った。

「あはっ」

 膝から崩れていくように保田は床に座り込んだ。散乱する雑誌を下敷きに、自
分の体を支えるように手をつける。込み上げてきた嗚咽は喉を通り過ぎて、詰ま
った息が口から漏れていた。

「……自分で言いなさい」
 保田は呟いていた。
「……矢口には……自分で言いなさい」
「……圭ちゃん」
「そうしたらあんたが望むように二人で悪口言ってあげる。あのバカって、そう
言ってあげる……だから、矢口には自分から言いなさい」
 やっぱ圭ちゃんはキビシイね、と後藤が呟いた。保田は込み上げてきた感情の
正体に気が付いた。
142 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時03分39秒
 こんな会話をしたのは久し振りだ。前までなら飽きるほどしていたこんな遣り
取りも、いつの間にか自分たちは出来なくなっていた。捩れ始めた周囲に戸惑い、
混乱して、こんな些細な会話も出来なくなっていた事実に後悔していた。そして
今、どうしてそれができているのか、それに気がついてやるせなさから嗚咽が漏
れているのだろう。

 後藤を止める事は出来ないんだ……。
 後藤の決意を私では止められない……。

 それが何をしようとしているのか保田にはわからなかった。でも包丁を持って
いるのならば推測はできる。それは嫌な想像だったとしても、決して間違っては
いないだろうと確信さえも沸いていた。
 私たちは危機に曝されるだろう。
 でもそれは初めから決められていた。
 後藤がそうするのは初めから決められていて、それに従っているだけなのだろ
う。その間いくら保田たちが手を差し伸べたり声を掛けたりした所で、後藤の歩
く道を反らす事は出来ない。走り出した電車のように、終点に向かうだけ。
143 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時04分22秒
「あたし……忘れられない思い出があるの……」
 後藤は呟くように言った。
「忘れられない……夢物語がある……」
 保田は黙って携帯を耳に押し当てる事しか出来なかった。

「昔ね、市井ちゃんと三人で、プッチモニの単独ライブをやろうって……そんな
話をしていた時があったんだよ……きっと圭ちゃんは忘れちゃっただろうけど…
…あたしだけが女々しく覚えていただけなんだけど……でもあたしその話、凄く
大好きで……その話をしている時、ワクワクしてた」

 保田もその話は覚えていた。
 プッチモニで全国を巡業している移動中の中の会話だ。それはその瞬間だけに
生まれて消化されるだけの夢物語だった。しかし後藤と同じように、それを忘れ
られなかった自分がいる。後藤と同じように時々思い出したりしている自分が居
る。保田は強く込み上げて来る嗚咽を抑えようと口を閉じた。

「何か……ワクワクするの……その話していた時、その光景を思い浮かべて、ワ
クワクしてた……本当にそうなったら、きっと幸せだと思う。……幸せだと思っ
ていたんだ」
144 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時04分53秒
 後藤も同じようにその事を覚えていた事を嬉しく思う。些細な会話を自分と後
藤が覚えているのならば、きっと紗耶香も同じなのではないだろうか? 三人と
も口に出さなかったが、それを胸に秘めていたのではないだろうか?

「……出来る……いつか出来るよ」
 保田はその一言を呟くのがやっとだった。
 後藤は僅かな間を開けると、消え入りそうな声でそうだね、とだけ呟いた。
 それから静寂が再び二人の元に下りてくる。頭の中にはどんな言葉も浮かんで
こない。床に視線を落としているだけの保田は、口を閉じているだけで、電話の
向こう側から感じる後藤の存在をいつまでも手の中に入れていたと思っていた。
このまま、何事もなく明日を迎えたかった。

 でも彼女の方では別の決意があったようだ。
 微かに後藤が笑った。
145 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時05分23秒
「色々……ごめんなさい」
「…………」
「いっぱい、みんな傷つけちゃった」
「…………」
「だから……いっぱい、ごめんなさい」
「……もういいから」
 保田は呟く。

「もういいから……いっぱい傷ついちゃったのはアンタの方だよ」
「……圭ちゃん」
「そんなに傷だらけになるまで……私は……」
 嗚咽が漏れてきて保田は口を閉じた。息をすることも困難で、気が付くと涙が
一粒本の上に落ちていた。それは僅かに入り込んで来る、雪の光に照らされて輝
く。暗闇の中の輝きだった。
146 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時06分03秒
「……泣かないで……圭ちゃん」
「…………」
「……泣かないで」
「…………」

 後藤は一息を置くとゆっくりと言った。

「あたしいっぱい迷惑掛けちゃったけど……圭ちゃんのこと大好きだよ」
「…………」
「自分勝手だけど……圭ちゃんの笑顔大好きだ」
「…………」
「凄く恐いけど……怒った圭ちゃんも好きだよ」
「…………」

「だからね、いっぱい、ありがとう」
「……後藤」

「……いっぱい……いっぱい、ありがとう」

 保田は掌で口を覆った。
 涙は止まる事がなく溢れている。漏れてくる嗚咽を響かないようにと気を使っ
ていたが、それも限界を超えていた。
147 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時06分33秒
 ああ、どうして気が付かなかったんだろう……。
 私の中にはこうして後藤の事が溢れている。
 表面的でしか触れ合えなかったなんて、私の自分勝手な思い込みだったんだ。

 後藤の言葉は保田を認めてくれていたものだった。後藤の中に、自分が確実に
存在していた事を知って、嬉しさと共に罪悪感も沸いてくる。
 もっとしっかり……あの子を見ていればよかった……。
 こんな自分が存在していたのならば、もっとしっかりと後藤の事を考えて、強
く頼りになる存在でいてあげたかった。結局自分は弱い存在なのだと思った。

「あたし、嘘ついちゃった」
 後藤が言った。

「ちょっぴりなんて嘘。本当は凄く寒いや」
「…………」
「凄く寒いから……圭ちゃん風邪ひいちゃダメだよ」
「……待って」
「これからも頑張ってね……」
「待って……ちょっと待って」
「バイバイ……圭ちゃん」
「ごと――」
148 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時07分13秒
 ぷつんと電話が切れた。
 保田はしばらく呆然としたまま、光る液晶を見ていた。数秒たってそれが消え
る。暗闇の中で座り込んでいた足に僅かな痺れを感じる。訪れた静寂は、体重を
逃がそうと体制を変えると、擦れ合う本の音を部屋に響かせた。
 我に戻ったのはそれからすぐにしてからだった。
 リダイアルから番号を選ぶ。通話ボタンを押して携帯を耳に押し当てたが、電
源が落とされた後だった。
 悔しくなってそれを投げつける。散乱している雑誌の上を滑るように移動した
それは、窓際の壁に当たると動きを止めた。

 涙がまだ止まらない。
 空虚な気分が胸の奥にぽっかりと穴をあけているように思えた。
 このままじゃいけない。
 このまま全てを終わらせてはいけない。

 保田はゆっくりと立ち上がると、蛍光灯のスイッチを入れる。点滅する光が眩
しくて、眼を細めた瞬間、沸き起こっていた違和感の正体に気が付いた。
 光と闇の交差。一瞬だけ映し出される部屋の光景。点滅する全ての空間の前に
保田は呆然と立ち尽くした。

 この部屋はどこかおかしい……。
 この前来た時と何も変わっていないのに、どこかおかしい……。
149 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時07分54秒
 当り前じゃないか、と保田は思うとコメカミに人差し指を当てて眼を閉じた。
指先にはポンプのように血を送る脈を感じる。徐々に頭の中で不確かだったもの
が形になっていく映像が浮かんだ。

 何も変わってないから……おかしいんじゃないか……。

 倒れたままの写真立ても、香水のビンの位置も方角も、全て保田が来た時とま
るで一緒。それに触れた気配さえも感じない。カーテンとベッドだけが使われて
いる形跡があり、それ以外は全て一緒だった。
 部屋の中で多く時間を過ごしていた彼女が、部屋にあるものを触らない。倒れ
たままの写真立ても直さない。こんなにも部屋に漂っている香水の匂い。それさ
えも使っていないのだろうか?
 そんなわけがない。保田が部屋を探った後も、後藤からは香水の匂いがした。
彼女は確実にそれを降り掛けていたのだ。

 それなのに、どうして机の上の香水は、量も位置も変わっていない?
 一つの考えが頭に浮かんだ。

 保田はゆっくりと拳ほどの隙間を空けているクローゼットに向かうと、取っ手
に手を掛けてそれを開いた。
 もちろん中も変わっている様子はない。上段には汚れた服や帽子、それにマン
ガの本などが押し込められている。下段には収納箱が二段積み重なっている。人
一人分が入れるスペースが開いているのも変わっていない。
150 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時08分31秒
 保田は首を横に振った。
 頭の中で蘇る記憶があった。
 ああ、後藤はこれを見られたくなかったんだ……。
 そう気がついた瞬間、さっきの後藤の母親との会話を思い出した。

 ゆっくりとそれを閉めると、さっき投げ出した携帯を拾う。それをポケットに
入れながらカレンダーに視線を向けた。
 もしかしたらこの赤丸は、自分が思っていた意味とは違うのではないだろう
か? 別の意味が込められているのではないだろうか?

 自分はなんて勘違いをしていたのだろう。
 後藤がこの部屋にいたなんて、どうして思っていたのだろう?

 部屋の電気がいつも消されていると言う、後藤の母親の言葉を思い出した。そ
れを聞いた矢口は、数ある疑問のうちの一つにして、その答えを家族に寝ている
と思わせたかったといった。

 そう、もちろんその意味もあっただろう。
 でも別の意味も存在していたんだ……。

 後藤はこの部屋には居なかった。
 だから電気が付けられることもなかったのだ。
151 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時09分15秒
    43

 外の雪はまだ降り止まないようだ。
 病室の前には中庭があって、そこには街灯が一つだけ配置されている。近くの
建物の光やその街灯が交じり合って、カーテンは明るく染められていた。その光
に染められているカーテンには降り続く雪のシルエットが途切れる事はない。静
かに、それでも確実に地面は白く染められている事だろう。
 もしかしたら、明日外を見れば白一色の景色が見られるかもしれない。
 矢口はそう思うと、僅かに冷えた空気を誤魔化すように、蒲団を肩まで持ち上
げた。

 眼を閉じても眠る事は出来なかった。
 今日は遠出までしたのだから、体は確実に疲れているはずなのに、なぜか脳が
強く脈打ち、眠気をどこかに消し飛ばしてしまう。怪我を気遣いながら、そっと
体を横に向けると閉じていた眼を開けた。
 そこには闇の中に鈍く輝く床がある。その向こう側にはまるで開く事もないよ
うに、ずっしりと威圧感があるドア。ステンレスの取っ手がカーテンの隙間から
漏れてくる光に照らされているようだ。僅かな反射が壁に映し出されていた。
152 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時10分27秒
 ため息をつくとあの精神病院での出来事を思い出した。
 取り乱す矢口とは余所に冷静な女医。
 目的の事を聞かないと帰らないだろうと悟ったようで、これから来る患者の事
も考えて、矢口を診察室に入れた。丸い椅子に腰を掛けた矢口は、女医と向かい
合うように座った。そこから出てくる言葉は、予想通り、紗耶香の事だった。

 紗耶香は一時期、その病院に通っていた事があるらしい。どうやら家族にも友
人にもその事は話していなかったようで、一人でその病院を見つけたようだ。
 女医は言った。紗耶香は自分がおかしくなっている事を冷静に判断できていた。
その理由も、自分を取り巻くプレッシャーだと言うこともわかっていたようだ。
娘を脱退してから、何もしない日々を続けて、それは無言のプレッシャーになっ
て彼女を襲っていた。使命感とも強迫観念とも似たような感情を四六時中感じて
いた紗耶香は次第に追い詰められていく自分を感じていたようだ。

 矢口に電話をしていたのはその時期だろう。始めは受け答えできていた彼女も、
徐々に日を追う毎に会話の疎通性を無くして行った。
153 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時11分45秒
 紗耶香に付きまとう強迫観念を取り払わなくてはいけないと、女医は言った。
その為に色々とケアもしてきたらしいが、それは一向に効果を見せる事はなかっ
た。それも当り前だ。テレビにはモーニング娘が常に映っている。どこのチャン
ネルを捻っても必ずといっていいほどCMが流れている。それを目にしている紗
耶香が、強迫観念を取り払えるはずがない。
 部屋の私物を捨て始めたのは矢口と連絡を取らなくなって、しばらくしてから
だった。テレビも見ることを辞め、徐々に部屋の中の思い出を捨てていく。その
時の紗耶香には、モーニング娘を連想させるものを見ることは得策ではなかった
ようだ。ただ、思い出を捨てると言う作業に彼女は大きく躊躇いがあったようだ。
時には沈んだ様子で病院に来たこともあれば、涙を流しながらその思い出を女医
の目の前で捨てた事もあったらしい。そんな事を続けていくうちに、思い出は何
もなくなってしまったようだ。

 それがあの紗耶香の部屋の正体だったのだと、その話を聞きながら矢口は思っ
た。

 でも、紗耶香には捨てられない思い出があった。
 それはたった一枚の写真。
 そこには二年間の彼女の全てがあった。
 最後まで、紗耶香はそれを捨てられなかったんだ……。
154 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時12分44秒
 思い出を捨てていくと言う作業は、紗耶香に暗い影を落としていった。一つの
ものを捨てるたびに、彼女の中の何かが一つ無くなっていくようだと女医は言っ
た。だから、この方法も得策ではないと、伝えたそうだが、紗耶香はそれを辞め
ることはしなかったようだ。

 女医はその時のことを振り返っていった。
 それは自分自身を無くしていく作業だったのだと。

 強迫観念を取り払うには、自分自身さえも無くして行けばいいのだと、紗耶香
は思っていたのではないだろうかと言った。確かにそうすればそれは無くなるの
だろうが、自分自身を見失っては意味が無い。
 どうして止めなかったんですか、と言った矢口の言葉を女医は首を横に振るだ
けだった。
 女医は止めた。しかし何かに呪われるように、紗耶香はその行為を繰り返して
いた。そうする事で、目の前の強迫観念を忘れる事が出来たからだろう。しかし
それは刹那的なものでしかなかった。再び沸き起こるその感情に、紗耶香は逃げ
るように思い出を捨てていく。その繰り返しを延々と続けていた。
 女医が激しく止めるようになってからは、紗耶香は時々しか顔を見せなくなっ
たらしい。そしてそれは間隔を広げていき、今では姿も現さないと言う。
155 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時14分06秒
 だから、ここには市井さんはいません。
 矢口はその時すでに口を挟む事が出来なかった。

 後藤真希さんもここには来ていません。
 その女医が嘘を言っているようにも思えなかった。

 矢口はその病院を出ながら、その話を繰り返し頭の中で再生していた。そして
今までのことも合わせて、矢口は結論に辿り付いた。
 保田から連絡を貰った時、矢口はもうこの件から手を引こうと決めていた。き
っと自分たちは自己満足で動いていたに過ぎない。
 保田は直接後藤に話し掛ける事が出来る。心配して上げられることが出来る。
でも矢口は病院でベッドの上で体を倒しているだけと言う日々。そしてきっと彼
女を前にしても、素直になれない自分が居るだろうと言う予感。それは焦りとな
って矢口の胸に刻まれていたのだ。その感情から逃げるように、こんな事を始め
た。
 後藤の為に動いているんだと言う自己満足。それが結果として彼女を追い詰め
ていたのだと言うことを悟ると、自分に残された道は、この件から手を引く事だ
けだった。
156 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時14分41秒
 保田は納得していないようだ。
 今までずっと後藤の傍にいた彼女なら当り前だろう。

「ごめんね……圭ちゃん」
 矢口は暗闇の中で呟くと、自嘲気味に笑ってから再び眼を閉じた。

 今は眠ろう。
 明日、雪が一面に広がる景色を見ながら、これからのことを考えよう。

 しかし矢口は眠りに付くことが出来なかった。
 言い知れない感情は意識だけを煽る。眼を閉じては開いての繰り返しを続ける。
ため息は自然と口から漏れていた。
 そんな矢口の耳に、病室に近づいてくる足音が入ってきた。
 それは徐々に近づいてくると、自分の病室の前で止まる。こんな時間に看護婦
が来るとは思えず、不審に思いながらもゆっくりと体を起こした。
 僅かな間があってからドアがノックされる。
 矢口はそれに返事をした。
157 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時15分30秒
「……はい」
 また僅かな間が空く。
 それからゆっくりとその人物は扉を開けて姿を現した。
 矢口はその姿を見て苦笑いする。暗闇の中で蛍光灯のスイッチに向かって人差
し指を向けると、その人物はそれだけで何をして欲しいのか察しがついたようで、
そのスイッチに手を掛けて蛍光灯を点けた。

 光の中で姿を現すその人物。
 矢口は苦笑いを浮かべながら言った。

「あたし寝ようと思っていたんだよ――裕ちゃん」
 そこには矢口と同じように苦笑いしている中澤の姿があった。
158 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時16分33秒
    44

 会場の外はあたしの足跡が一列に続いている。近づくとライブの音が微かに耳
に入り込んできてそっとコートの裏入れていた包丁の感触を確かめた。
 鼓動が早くなっている。包丁の柄を持つ手には、こんなにも寒いと言うのに汗
が浮かんでいるようだ。体全身がガタガタと震えだして、肩や頭に積もらせた雪
がパラパラと落ちる。

 階段を上って会場の中に入る。しんと静まり返った通路とその奥には閉ざされ
た扉。激しく響く音楽は、まるであたしが居る空間とは遮断されているかのよう
に、遠い場所のように思えた。
 ポケットに入れていた携帯を取り出す。時間も表示されていない液晶。もっと
圭ちゃんの声を聞いておけば良かったな、とどこか冷静な思いでそれを再びしま
うと、ゆっくりと扉に向かって歩いた。

 あたしは別に今のままで充分だった。頭がおかしいのかもしれない。マトモで
もないのかもしれない。でもそれは結果として市井ちゃんとの時間を与えてくれ
た。望んでいたものを手に入れたのだ。
 一杯、色んな人を傷つけてきた。
 大好きな圭ちゃんのことも裏切った。
 罪悪感と市井ちゃんとの時間を守ろうとしていた自分の気持ちに挟まれながら、
あたしはどうする事も出来なく、ただ人を傷つける。それがあたしにとって最良
の道だと思っていたし、市井ちゃんとの時間を約束してくれるものだと確信して
いた。
159 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時17分06秒
 でもそれは間違っていたんだ……。
 本当はもっと早く気が付くべきだった。あたしの中の市井ちゃんが居れば、本
物なんかいらないのだと言うことに。そうすれば不安や焦り、嫉妬や嫌悪、それ
らが交じり合って苦しむ事も無い。あたしの中の市井ちゃんはあの頃のまま、ず
っと変わらないで居てくれる。それだけで、満足だった。

 あたしは市井ちゃんを取り戻さなければいけない。
 もう一度、今度はこんな結果にならないようにやり直さなければいけない。
 それには今、光に包まれて唄っている市井ちゃんが邪魔なのだ。
 市井ちゃんは一人で充分だから。だからあたしを苦しめるだけの市井ちゃんは
要らない。

 コートの中の包丁を堅く握った。
 唾を飲み込んで決意を固める。
 扉の前に来るとそっとそれに手を掛けて押すように開けた。
160 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時17分56秒
 その瞬間耳に飛び込んできたのは鼓膜を刺激するほどの音楽。数々の人の壁。
市井ちゃんの声に混じる歓声。気圧されるほどの熱気……。

 体が震えた。
 自分の決意が揺るがないように包丁を握り直す。

 顔を上げると拳を振り上げている人々の間に、微かにステージ上の市井ちゃん
の姿が見えた。ブルーのライトが降り注ぐ。ステージ上をマイク片手に動き回る。
左右に設置されているスピーカーからはその声を会場中に響かせていた。

 トクトクトク、と沸き起こるものを感じる。
 素直に嬉しさから体が反応しようとしている。
 あたしはそれを押し留めるように何度も首を横に振った。
 あたしの市井ちゃんは一人だ……。
 市井ちゃんは一人で充分なんだ……。
 コートから包丁を取り出した。
161 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時18分32秒
 あたしは決意すると、人々の隙間を縫って市井ちゃんの元に歩いた。顔を下げ
て、足元だけを見る。でも決して決意は揺るがない。これから先の未来は手の中
にある。あたしの手の中に、これからの未来があるんだ。
 体を押されたり足を踏まれたり、息が塞がるほどの圧迫感に絶えながら最前列
まで来る。青い柵の向こう側に市井ちゃんの姿があった。
 あたしは無我夢中でその柵をよじ登る。沸き起こる歓声を背中に、片手に持っ
た包丁は決して放さなかった。

 ステージ上の市井ちゃんに目掛けて、あたしは走り出した。
162 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時22分32秒
   45

 敷き詰められた雪を切り裂くように、タクシーは走っていた。
 包み込むように闇が景色を覆い、そのアクセサリーのように街灯に光る雪。移
り過ぎて行く風景に視線を向けながら、保田は逸る気持ちを抑える事が出来なか
った。

 タクシーの暖房に暖められる体。ラジオから聞こえる声。膝の上で組んでいる
両手が震えている。後藤が今何をしているのか、と気になりながらも、自分が向
かっているのは今まで求めていた真相だった。
 後藤の母親が事務所に連絡を取ると、すぐに会社の人間を上げて後藤の捜索が
始まったらしい。家には何人かの社員。その人たちは後藤の母親に警察には知ら
せないでおこうと言う判断を知らせたと言うことだ。
 それは妥当な判断だっただろう。モーニング娘のメンバーが、この無数に広が
る闇の中を包丁持って出歩いたと言う事実は、それだけで世間を賑わすには充分
だった。その事から芋づる式に最近の変化などが知られる恐れもある。テレビ局
など人が多いところで、後藤が取り乱したのは一度だけではないのだ。
 社員の人は必ず後藤を見つけると母親を安心させたらしい。そんな確信も頼り
も無い言葉に、この時の自分たちはそれに頼るしかなかった。
163 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時23分19秒
 保田がその事を知ったのはたった数分前だった。事務所の人間が訪れる前に後
藤の家を飛び出した保田は、タクシーに乗り込み、目的の場所までの移動中に携
帯電話からそのことを聞いた。
 タクシーはコンビニがある通りから外れて、狭い路地に入る。数本の街灯の内
一本だけが電球を切らしている。この道は、あの精神病院に行く時によく通った。
徐々にそれが近づいている事を感じた。
 タクシーをしばらく路地を走らせたところで止め、お金を渡して降りる。降り
続く雪を前に、保田は立ち止まった。

 路地の向こう側にはあの病院がある。
 後藤の後をつけていたとき、嫌と言うほど眼にしている建物。
 決意を固めるとゆっくりと歩き出した。

 道には一度出来た足跡の上に、再び雪が積もり、僅かな窪みが至る所にあった。
静かで張り詰めた空気を感じる。不気味に光を下ろす街灯は、目印のように向こ
う側まで続いていた。
 空には星が見えない。きっと雲が覆っているせいだろう。寒さから袖に手を隠
して顔を下げながら歩く。ギシギシ、と雪を踏みしめる音だけが聞こえた。
164 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時24分32秒
 目的の建物が近くなる。
 顔を上げると軒を連ねている家の屋根との間に、小さくそれが見えた。不気味
な恐怖が体を包む。それは緊張から生まれた幻だったのかもしれない。何も怯え
る必要がないというのに、胸の高鳴りが収まらなかった。

 矢口が訪れたと言う精神病院。貢いで居る相手がいるのではないだろうかと考
えて、そこには女の人だけしか居なかったと言う事実。それでも後藤はこの道を通って居たことは確かだ。
 目的の建物の前にたどり着く。顔を上げてそれを見ると、明かりは付いていな
く、不気味に聳え立っている。まるでこの中に人が入ること自体を拒むかのよう
に、それは意思を持って結界を張っているように思えた。

 後藤しか……ここには入れないのだろうか……?
 そんな事を考えながらノブを握る。

 鍵は掛かっていなかった。ゆっくりとそれを開けると尖った空気が保田を襲っ
た。静まり返った廊下。視界に写る階段。ドアを閉めると玄関でしばらく立ち尽
くしながら自分を落ち着かせようと首を横に振った。
 これは不法侵入になるのかもしれない。
 どうか誰にも見付からないように、と信じてもいない神に祈って保田は靴を脱
いだ。
165 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時25分33秒
 廊下はひっそりとしている。人の気配さえも感じない。高鳴る鼓動を抑えなが
ら、暗闇の中の廊下を進み、階段を上った。
 僅かな光がどこから漏れているのかもしれない。壁に保田の影が映り、それは
自分と同じ動きで階段を上っていく。
 再び廊下に辿り付くと、保田は視線を辺りに向けた。
 部屋が数個ある。階段を上ってすぐにドアが一つ。それから奥に向かってなん
個かのそれがあった。一番奥から斜め前にあるのはトイレだろうか。部屋を作れ
るスペースが無いことはわかった。

 保田は一つずつの部屋を開けていこうと考えていたが、ふと視線を向けた一番
奥のドアに異変を見つけた。
 ゆっくりと歩み寄る。それは僅かに入り込んでいる微光に鈍い輝きを持ってい
た。
 ドアの前に来てそれが何なのかわかった。カンヌキ状の鍵だ。それが取り付け
てあった。
166 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時26分11秒
 ここ……?

 保田は再び周囲を見る。こんな物を取り付けてあるドアはこの一枚だけだった。
暗闇の中で確信を深めていくと、ゆっくりと息を吐いて決意を固める。ここに来
るまでの間に考えていた自分の推測が確かな物へと変わり始めていた。
 ドアノブを握る。それはこの空気の中で冷え切ってしまっているようで、僅か
な冷たさを掌に感じる。それから唾を飲み込んで、それを下に引くように回した。
 カチャ、と静まり返った廊下の中に響く。
 徐々にそれを開けると、足元から光が逃げるように差し込んでくる。それと同
時にあの匂い。紗耶香の香水の匂い――。

 ドアを開けて広がる光景は、正面の奥の窓から光がこぼれ、それは窓の形とな
って部屋の中央に張り付いている。どうやら建物の前にある街灯の光らしい、不
気味な雰囲気を醸し出していた。
 床には一面にゴミが散らかっていた。コンビニの袋や空き缶、パンの食べ残し
……脚の踏み場も無いほどにそれらが埋め尽くしてあり、その光景はまるで後藤
の部屋と一緒だった。
 しかしそんなゴミも何故だか窓の傍には一つも落ちていない。まるで誰かの指
定席のように、そこだけぽっかりと空間を空けていた。
167 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時26分49秒
 ゆっくりと足を踏み入れる。ビニールを足の下にして、それが擦れる音がする。
視線を床に落とすと、近くにゴシップ雑誌が置かれていた。

 どうしてこんな物を……。
 ただ気分が悪くなるような雑誌を後藤が買っている理由がすぐにはわからなく、
保田は眉間に皺を寄せたが、そこに書かれている名前を見て合点が付いた。
 表紙に小さく『市井紗耶香』と言うような文字。後藤はそれを見つけて手に取
ったのかもしれない。

 再び顔を上げて周囲を見る。壁にはカレンダーが寂しく一枚張られているだけ。
その他には何も無い。
 保田はゆっくりとそのカレンダーに近づくと、後藤の部屋で見たように、同じ
日付に赤丸がつけられている事を確認した。
 後藤の部屋にはポスターなどが貼られていたが、もちろんそう言ったものなど
はここには見当たらない。唯一のカレンダーも、草原が雪を覆い、裸になった木々
の横に鹿の親子が映っているという、貰い物でよく見られるものだった。

 ため息をつく。この時、すでに保田の考えは確信へと変わっていた。

 振り返って閉められたドアを見る。そこには何か重いものでもぶつけたのだろ
うか、内側に大きな凹みが見られた。保田は再び歩き出すと、ドアの横にあるク
ローゼットに手を掛けた。その位置は後藤の部屋とまったく一緒だと思いながら
も、どこか沸き起こってくる緊張感を抑える事が出来ない。
168 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時27分36秒
 もしかしたらここに居るのだろうか……?
 後藤の部屋に探りを入れたときのことを思い出した。今、その時と同じように
こうして取っ手に手を掛けている。もちろん違う場所だと頭の中ではわかってい
たが、それとはまったく別の部分で、あの時の緊張を思い出している自分が居た。

 息を飲み込んで決心すると、一気にそれを開けた。

 開けた瞬間、保田を襲ったのは木の匂いに包まれた空気だった。
 後藤の部屋のクローゼットは埃っぽかった。その違いに、自分はまったく別の
場所に来ているのだと言う事を思い知らされる。
 クローゼットの中は空っぽだった。そこには人など見当たらなかった。
 ホッと息をつくと保田は振り返って部屋の全景を見た。
 そこには後藤の生活の匂いが感じられた。
 彼女の部屋では決して感じなかった匂いが、ここにはある。
 それは保田の考えが合っていると言う、証拠だった。

 後藤が居たのはここなんだ……。
 彼女が時間を過ごしていた空間はこの部屋なんだ……。

 散らかったゴミの中に、ポツリと赤い携帯ラジオが置かれていた。保田はビニ
ールを踏みつけながら、そこまで辿り付くと、ゆっくりとスイッチを入れる。
 部屋の中には雑音だけが鳴り響いた。
 ラジオを見てみると、周波数はどこにも合わせられていなかった。
169 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時28分10秒
「……アイツ」
 下唇を噛む。やるせなさが胸を圧迫した。

 後藤は仕事が終わると、自分の家に戻り、母親と会話をして、ご飯を食べて、
それから自分の部屋に戻る。そしてきっとベッドの上で延々と時間が過ぎるのを
待っていたのだ。時には携帯で電話をすることもあっただろう、もしかしたら沈
黙に耐え兼ねて、独り言を呟いていたのかもしれない。電気は点けられることも
無く、家族が寝静まるのを待っていた。
 家族が寝静まると、家を抜け出した後藤は、今保田の居る部屋に向かう。きっ
とここで朝まで時間を過ごしていたのかもしれない。

 後藤が疲れていった理由がわかった。
 彼女は夜の時間を過ごしていたのだ。
 だから、滅多に眠る事も出来なかったのだろう。
170 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時29分04秒
 保田が今居る場所は、後藤の新築の家だった。

 まだ引越しをしていないこの家は、実質的に空き家同然だった。後藤が誰にも
知られずに、自分だけの時間を過ごす場所には打って付けだ。
 この空き家の近くには、あの精神病院がある。閑静な住宅街の異物のように、
その建物は存在していた。

 初めて後藤の後を尾行した時の事を思い出す。
 彼女はあの時、直接この空き家に向かったのだ。後藤を見失った保田は周囲を
迷い歩くうちに、精神病院を見つけた。住宅街にひっそりと建つその存在が印象
に残っていたのかもしれない、次の日、その付近で後藤の姿を見つけたとき、て
っきりそこから出て来たものだと思い込んでしまった。
 後藤の様子がおかしくなっていた事、こんな住宅街に何の用があるのだろうか
と言う疑問、そしてその疑問を解く鍵として精神病院という存在。保田が勘違い
してもおかしくは無かった。

 散乱するゴミの中に香水のビンを見つけた。
 それをゆっくりと拾うと、中が半分ほどになっているのを確認する。
171 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時29分36秒
 香水は、二つあったのだ。
 一つはこの部屋と後藤を包むために。
 もう一つは、暗闇の中で家族が寝静まる時間を待つ間にその存在を感じる為。

 気が付くとその傍に、サングラス、ブレスレット、お守りを見つけた。
 後藤が必死になって保田達から奪ったもの。
 それを拾って抱きしめると、膝から崩れ落ちるように保田は座り込んだ。

「こんな……こんな事って……」
 カーテンも無い窓からは、常に外の光が入り込んでいた。
172 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時30分46秒
   46

 中澤はゆっくりと矢口の元にベッドを回り込むように歩み寄ると、設置されて
いるパイプ椅子に座った。暗闇に眼が慣れていたせいだろう、突然の蛍光灯の光
に軽い目眩に襲われる。矢口は瞬きを何度もした。

「ほんまに寝ようとしていたん?」
 中澤はバックを床に置くと矢口に向かって言った。
「当り前じゃん。規則のいい生活をしてるんだよ、ヤグチは」
「なんやそれ」
 中澤はうっすらと笑うと、その細められている視線の中に矢口を入れていたよ
うだ。どこか安心していく自分に気が付いて、自然と釣られるように矢口も笑み
を浮かべていた。

「面会時間、とっくに終わってるよ。また怒られるんじゃないの?」
「特別に入れてもらったんや。矢口が知らない間に、看護婦さんと仲良くなった
んやで」
「知ってるよ。廊下で会うと挨拶されるもん」
 ほんまに? と言う言葉に矢口は頷いた。
173 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時31分40秒
「裕ちゃんは病院の人に迷惑ばっかり掛けるから、ヤグチは肩身が狭いよ」
「あほか。矢口の為にこうして忙しい中、来てあげてるんやないの」
「ヤグチはそんな事頼んでないもん」
「裕ちゃんの顔見れなくて寂しいんやろ? 素直になってみ」
「裕ちゃんの頭は都合のいい事しか浮かばないんだね」
「なんやと?」

 そう言って中澤は怒るまねをしてから口元に笑みを浮かべた。それに釣られて
矢口も微笑む。でもそれは長くは続かなかった。 
 どこか心から笑えない。それは彼女がただ単にこんなお喋りをするために見舞
いに来たわけではないのだろうと気が付いていたからだ。いつものように話は続
く事は無く、時々沈黙が顔を現す。その都度にお互いの腹の内を探っているよう
な駆け引きがあり、矢口は何度もため息を付いた。
 静まり返った病室内の中、中澤は着ている上着を脱ごうとはしなかった。それ
は長い時間滞在する気がないと言うことを現しているようだ。矢口は横に向けて
いた顔をそっと正面にして、白い天井を見上げた。

 時計の秒針の音が響く。
 訪れた沈黙を矢口は破った。

「……積もるかな」
 その言葉に中澤は後ろのカーテンを見る。そっとそれを端の部分だけを捲ると、
そうやなぁ、と呟いた。
174 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時32分38秒
「明日には雪の世界になってるで」
「どんな世界なのか良くわかんないよ」
「一面真っ白ってゆう意味」
「……そっか。楽しみだな」

 再び静寂が訪れる。
 矢口はそっと眼を閉じると、中澤が言う雪の世界と言うのを思い浮かべた。き
っとこの灰色のコンクリートを染めてくれて、道路には樹氷が綺麗な街路樹が並
ぶ。太陽の光に反射する雪は、眩しいぐらいに輝いて、一面を白く彩ってくれる
だろう。

 新雪に足を踏み入れる感覚を呼び起こす。
 靴の下で圧縮される雪。
 早く、この怪我が治ればいいなと思った。

「来年も……矢口は忙しくなるんやろうなあ」
 首を横に向けて中澤を見る。彼女は空中に視線を泳がせたまま、遠いどこかを
見ていた。

「だろうね。事務所の人が怪我の事、しつこいぐらいに聞いてくるもん」
「頼りにされてるんや。ありがたいことやで」
「でもこれ以上忙しくなったら、ヤグチまた入院するよ」
「その時はウチが介抱したるって」
「遠慮しておく」
「あほ」
175 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時33分33秒
 中澤の言葉に矢口は笑った。遠い視線をしていた彼女の口元にも笑みが浮かん
でいる。一瞬だけ弾んだ空気にどこか安心しながらも、それも長くは続かないだ
ろうと思った。事実、数秒後には中澤の笑みは消えていた。
 笑い声が止んだ病室内。中澤はゆっくりと再び振り返ってカーテンに視線を向
けると、呟くようにいった。

「ごっちんが行きそうなところってどこやろ?」
 矢口は黙ったまま中澤の言葉を待った。

「家から居なくなったみたいなんや……」
 ため息をつく。後藤の顔が浮かんだ。

 もう自分たちでは手が付けられないところまで、彼女を追い詰めていた事を知
った。それは今更ほっといてあげようと言う考えさえ甘すぎたのかもしれない。
 中澤はどうやら矢口が、後藤の行きそうな場所の心当たりがあるのではないか
と思ってやってきたようだ。もしかしたら保田と共に密かに動いていた事を彼女
は知っていたのかもしれない、直接は聞いてはこなかったが、中澤はどこか思い
詰めた表情でカーテンを捲って降り続く雪を見ていた。
176 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時34分06秒
「……ごめん、わかんない」
「……そうやろうな」
「みんな探してるの?」
「事務所の人間はほとんど出払っているみたいやで」
「……昨日の事もあるから?」
「……知ってたんか」

 後藤が上げた悲鳴を矢口は聞いている。保田からは詳しい話を聞いたわけでは
無かったが、何が起こったのか、後藤の秘密を知った矢口には想像が出来た。
 中澤はカーテンから手を離すと、視線はそのままにして言った。

「ウチがもっとシッカリせなあかんのにな」
「……裕ちゃん」
「自分の事で精一杯や」
177 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時35分01秒
 しょうがないよ、と言う言葉を飲み込んだ。
 今、どんな言葉を掛けたとしてもそれは気遣いでしかなく、きっとこの部屋を
出た瞬間に忘れ去られるものだろう。中澤の複雑な心境を察しながらも、その立
場になって考えられない自分がもどかしくもあった。

 モーニング娘と言う空間がおかしくなり始めている事を中澤も気が付いている
ようだ。後藤の様子を目の当たりにしている彼女は、それによって戸惑い始めて
いるメンバーを感じているらしい。自分が確りしっかりとしなくてはいけないと
いう思いは空回りを始めて、結局矢口達に口を出す事は一度もしなかった。
 中澤はゆっくりと視線を戻すと、ベッドに横になっている矢口を見た。それか
ら自嘲気味に笑うと言った。

「リーダーなのに何も出来んかったな、ウチ」
 矢口は首を横に降った。

「……そんな事無いよ」
 そう言って矢口は中澤と視線を合わせる。
「裕ちゃんは、立派なリーダーだよ」
「…………」
「……少なくともヤグチには」
178 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時35分40秒
 その言葉に照れたのか、中澤はあほ、と呟いて顔を下げた。矢口は苦笑いをす
ると再び天井に視線を向ける。白い蛍光灯に、いつの間にか眼が慣れていたよう
だ。

 その話を聞かされたのは、メンバー内では矢口だけだった。
 中澤が思い詰めたような顔で、矢口にだけした話。それを聞いた矢口は当然の
ようにショックを受けたが、どこかでそれを自分にだけ話してくれたことを嬉し
く思う部分もあった。
 複雑な感情のまま、仕事や後藤のことに追われて、その事も頭の片隅に追いや
られていたが、中澤と対面するとそれは突然と顔を出す。

「……来年、か」
 矢口は呟いた。

「そうやな……来年や」

 中澤がそれに釣られるように呟いた。
 来年の春、中澤はモーニング娘を脱退する事になっていた。
179 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時36分28秒
   47

 耳に響く爆音。
 体の底に響く人々の歓声。
 降り注ぐ青い光。

 無我夢中で柵に足を掛けて、飛び降りるようにステージとの間のわずかな通路
に飛び降りる。警備の人が数人驚いた顔をしたのが見えたが、あたしはそんな事
には構わずに、片手に包丁を握ってステージに肘を乗せる。どよめく声が背中を
押す。なにか訳のわからない言葉を叫んで近づいてくる警備の人。それよりも早
く、あたしは両足を床から離して転がるようにステージに上がった。

 回る視界。天井にはいくつ物照明がぶら下がっている。観客の顔は唖然とした
まま、何かのイベントでも思っているのか、さっきより大きな歓声を上げている。
市井ちゃんの後ろにはバンドの人たち。いくつものコードが蛇のように床に散乱
していた。
 体が痺れている。突き上げるように鼓動が高鳴り、喉の奥から嗚咽が漏れる。
息が上がり、立ち上がる頃にはあたしの頭の中は空っぽになり、この会場に来る
前にした決意だけが体を動かしていた。
 首を横に向ける。市井ちゃんの姿が数メートル先にある。降り注ぐ照明を吸収
してそこにはあたしがみたことも無い市井ちゃんの姿が存在していた。
180 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時37分17秒
 包丁を握り締める。中腰の状態で市井ちゃんを見た。

 間違っていない。あたしは間違った事をしているわけじゃない。
 そのことだけが空っぽになった頭の中だけにあった。

 立ち上がる。冷え切っていたはずの体はいつの間にか熱気が篭っているようだ。
コートの中で背中にジンワリと汗が浮かんでいるのを感じた。
 あたしは走り出す。
 市井ちゃん目掛けて包丁を振り上げた。
 その瞬間見た市井ちゃんの表情には笑みが浮かんでいる。その場に立ち尽くし
ながら、ただあたしを見ていた。

 心の中に躊躇いが生まれた。
 必死に押し殺していたはずのその感情が、迷いとなってあたしの体を包む。視
界がぼやけて、コメカミを締め付けるような痛みを感じた。それは徐々に走り出
していた両足の感覚を奪って、不思議な浮遊感を生む。
 市井ちゃんのすぐ前に来た時、そんな浮遊感のせいかもしれない、あたしは蛇
の様なコードに足を取られて、体を転がすように倒れた。
 その反動のせいか持っていた包丁が自分の頬を掠る。僅かな痛みが体を走る。
市井ちゃんの横を転がるように倒れたあたしは、反射的に包丁を手放していた。
181 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時38分11秒
 耳鳴りがしていた。
 まるで大きな空調のように、お腹のそこに響く音だった。

 ステージの上に体を横にしたあたしは、溜まっていた疲れからなかなか起き上
がることが出来なかった。まるで床に吸い付けられるように、体が沈んでいくよ
うな気がする。眼を閉じたら、このまま眠りについてもおかしくは無かった。
 ゆっくりと掌を床につける。それに体重を乗せるように体を起こす。頭を何度
も横に振って、このままじゃいけないのだと、周りを包む爆音に消されながらあ
たしは呟き続けた。

 このままじゃいけない。このままじゃ市井ちゃんは戻ってこない。だからこの
ままじゃいけないんだ……。

 あたしは手放した包丁を探した。それはどうやら転んだ時の反動も加わって、
ステージ上を滑るように移動していたらしく、ステージ脇の傍にポツンとあった。
 這うようにその場に移動する。誰にもそれを奪われてはいけないのだと思って
いた。

 包丁の元に辿り付き、それに手を置いた瞬間、あたしは人の気配に気がついた。
そっと顔を上げると、舞台袖に立つ、もう一人の自分がポケットに手を突っ込ん
で立っていた。
 あたしは包丁を握りながら顔を上げる。もう一人の自分は無表情のままあたし
を見下ろしていた。
182 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時39分18秒
 これまでの色んな事が頭の中に浮かんだ。市井ちゃんを拾った日の事。雨がア
スファルトに弾けていた事。細くて今にも折れてしまいそうなその体を両手で包
んだ事。あの部屋にはあたしの思い出が溢れていた。色んな音楽が漂い、心を落
ち着かせる匂いがあって、そして市井ちゃんが居た。そこに閉じ篭っていればい
つまでもあたしはそれらに囲まれながら時間を過ごす事が出来た。いつまでも思
い出は裏切る事は無かった。

 でもそれを裏切ってしまったのは、あたしの方だ。
 圭ちゃんの気持ちを裏切って、やぐっちゃんを傷つけた。メンバーに迷惑を掛
けて、色んな人を困らせた。

 貪欲になっていたあたしの気持ちは満足する事は無かった。外の生活の苦痛を
あの部屋で解消されて、それだけでは飽き足らずに理想は高くなっていく。通り
過ぎた時間は決して戻ってはこないと、冷静になればわかるはずだったのに、本
気でそれを取り戻そうとしていた。

 もう一人の自分は、あたしの良心だったのかも知れない。
 冷静にあたしを見ていた、もう一人の自分。
183 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時40分04秒
 目の前にいる彼女は口を開く事は無かった。ただ冷徹な視線であたしを見てい
るだけ。それにどんな意味が込められているのかわからないし、知りたいとも思
わなかった。今までそうしてきたように、あたしは彼女の言うことを聞くことは
出来ないのだと思っていた。

 包丁を握って立ち上がる。
 振り返るとあたしを見ている市井ちゃんが居た。

「……どうなっても知らないよ」
 背中からあたしの声。
 首を横に振ってその言葉を頭の中から追い払った。

「……全部、幻なんだよ」
 その声が背中を押した。

 あたしは再び走り出すと、市井ちゃんに包丁を向ける。徐々に近くなるその存
在。光の中で微笑を浮かべているその存在。

 声にならない悲鳴をあたしは上げていた。
 そして包丁を振り下ろした瞬間、あたしの視界に飛び込んでくる物。
 それはあの時、市井ちゃんの首に巻いた、あたしのマフラー。
 さっきのもう一人の自分の言葉を思い出した。

 これまでの色んな事が鮮明に頭を過ぎった。
184 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時40分37秒
 ああ、あたしは――。

 包丁を振り下ろした。それは市井ちゃんの左腕を切り裂いて、手の中に嫌な感
触が伝わった。あたしは我に戻って足を止めると、走ってきた勢いに任せて市井
ちゃんの体に抱きついた。

「……後藤」
 耳元で聞こえる優しい声。

 ああ、あたしはなんて事を……。
 包丁を手放した。カチン、と音が辺りに響いた。

 市井ちゃんの左腕は服を切り裂いて、真っ赤な血を流していた。それはポタポ
タと床に落ちる。
 気が付くと辺りは静まり返っていた。降り注ぐ照明も無く、薄闇だけがあたし
たちを覆っている。ステージ上にはバンドの人たちも居ない。あんなに床を張り
巡らせていたコードも無い。歓声を上げていた観客も、その前で警備していた人
も、熱気も、体に響く爆音も、全て無かった。
185 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時41分36秒
 そこに居たのはあたしと市井ちゃんだけ。
 二人だけ、ステージの上に立っていた。

 あたしは全身に感じる市井ちゃんの体温から、全てを悟った。
 あたしが仕事場で見ていた市井ちゃんは幻だったんだ。ラジオの声も全て、幻
だったんだ……。

 何て事をしてしまっていたのだろう。
 あたしは本物の市井ちゃんを監禁していたんだ。
186 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時42分17秒
    47

 この部屋の中に、紗耶香は居たのだ。

 保田は薄闇の中、そっと窓際に歩くとその向こう側に続く景色を見る。軒を連
ねている屋根には、真っ白な雪が積もっていた。
 見下ろすと家の前に街灯が一つだけある。その光はこの部屋まで入り込んでき
て、薄っすらと室内を照らす。きっと空が晴れているのならば、月光のもそれに
混じっているのかもしれない。青白い光に照らされて、後藤と紗耶香の時間はこ
の中に閉じ込められていた。

 クローゼットを開けて出てきたのは、紗耶香の服だった。
 後藤が取り乱してまで保田に見せたくなかったものがそれだった事に気がつい
たとき、頭の中で色んな疑問が繋がっていく事を感じた。それはまるで絡まった
糸を解くようなものだったのかもしれない、保田は後藤の部屋の中で頭の中に浮
かんだ考えに愕然とした。
 後藤は確かに紗耶香に貢いでいた。それは床に散らばる飲食物だったり、新し
い服だったりしたのだろう。大量に買い込んだCDも今思えば紗耶香の趣味に沿
っていた。
 自分たちは確かに後藤のお金の使い道をそのように推測した。自分で使ってい
るようには思えなかったからだ。そして仕事が終わった後に彼女が立ち寄る場所
が精神病院と自分の家だった事から考えて、その貢いで居る相手はその二つのど
ちらかにいるのではないかと思った。
187 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時43分00秒
 精神病院には女の人しか居ない。後藤が貢ぐような相手が居ないのは確かだ。
そして残るは家。後藤の部屋にその相手がいるはずだと結論付けた。
 でもそこにはそう言った人物も居なかったし、裏付けるような物も無かった。
自分たちの仮説はそこで打ち砕かれた。
 しかし、精神病院でもなく、家でもない場所にその人物が居たとしたら、後藤
の部屋に誰も居ないことが納得できる。この空き家は精神病院と距離的に近かっ
た。後藤は病院に行っていたのではなく、この空き家に来ていたのだ。

 クローゼットを開けた時、どうして汚れ物がそのまま押し込められているのだ
ろうかと疑問に思った。もしかしたら何らかの理由があって洗濯が出来ないので
はないだろうかと考えて、保田の記憶に呼び起こされる映像が浮かんだ。

 その服を着ていた紗耶香の姿。

 そしてまるで同じ物が隠すようにクローゼットの中にしまいこまれている事実。
間違いない、これは紗耶香のものだ、そう考えた時、保田は後藤が貢いでいる相
手が彼女なのではないだろうかと思った。ブレスレットやサングラス、香水や部
屋の中の思い出。後藤の背中には常に紗耶香の存在を感じる事ができる。それな
らば、お金の使い道を彼女に貢ぐ事だってありえるのではないだろうか?

 後藤の母親との会話から新築の家と言うのがすぐに浮かんだ。そこに後藤は紗
耶香と共に時間を過ごしているのではないだろうか、と考えた。

 事実、保田の考えは全て当たっていた。
 こうして部屋の中で立ち、後藤の生活感を感じる。それはここに人が居たと言
う何よりの証拠だと保田は思った。
188 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時43分45秒
 後藤が自分の部屋に入られることを異常に嫌がったのは、その服を見られる事
に不安を感じていたからではないだろうか? それが紗耶香のものだと気が付か
れて、自分だけの世界が崩壊する事を恐れていたのではないだろうか?

 後藤はずっと怯えていた。

 メンバーの視線に、矢口の言動に、人との触れ合いに……そして家に戻ったと
しても、その不安に締め付けられていた彼女が徐々に自分を壊していったのは当
然のように思う。
 もしかしたら後藤が唯一、安心を感じられたのはこの部屋での時間だけだった
のかもしれない。保田達はその秘密を暴こうとして、彼女を結果として追い詰め
てしまったことになる。だから、それに気がついた矢口は、この件から手を引こ
うと言い出したのだろう。

 私たちの気持ちも裏目に出ていたんだ……。
 そう思うと罪悪感が体を包んだ。

 後藤の時間はあの日から動いていなかった。紗耶香と過ごす事によって、それ
を止めていたのだ。だから動き出したメンバーとの溝が開き、それがますますこ
の部屋へと依存していく行為へと繋がっていたのかもしれない。

 どうして気が付かなかったんだろう……。
 保田は顔を下げると掌の中にある、サングラスに視線を落とした。
 あの子は変わっていなかったのに、どうしてそれに気がついて上げられなかっ
たんだろう……?
189 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時44分18秒
 時間を止めた後藤。サングラスを外す事でそれを動かした保田。
 速い勢いで流れていく周囲に必死になって自分を保ち続けていた自分。横を見
ればメンバーたちも自分たちの事で精一杯になり、他人になんか構えなかった。
それでも目指す場所は一緒だと言い聞かせてひたすら歩き続けた。

 でも振り返ったら後藤は立ち尽くしていたのだ。
 流れの中に身を飛び込ますことが出来なかったのだ。

 それに気づいて上げられたら、自分は後藤の手を取って二人でその時間を歩け
たのではないだろうか? 自分の世界に閉じ篭ったまま、そこから抜け出せない
ような状況にまで追い詰めなかったのではないだろうか……?
 私は誰を守ろうとしていたのだろう。
 紗耶香を失った後藤を守ろうとしていたのではないだろうか?

 後悔が溢れてきた。何もできなかったのではないだろうかと言う、無力感は全
身を伝い、ぽっかりと穴だけを作る。ただそれを埋めてたくてサングラスを握り
締めても、軋むレンズの音が響くだけでやり場の無い気持ちは宛ても無く薄闇の
空間を漂うだけだった。
190 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時44分56秒
 雪が降り続く。
 ひらひらと風に乗って舞う白い粉。

 黒く覆っていた雲に、薄っすらと月の光を見つけた。それはあまりにも弱々し
すぎて、決して地面までは落ちて来ない。ただ黒い空を透かすように輝いている
だけだった。

 不意に保田は沸き起こってくる感情に気がついた。

 ゆっくり振り返ると散乱しているゴミやラジオ、ブレスレットにお守りがざわ
ざわと騒ぎ始めたような気がした。
 それは漂っている後藤の空気に反応していたのかもしれない。主を失った思い
出たちは、その僅かな存在に反応しているようだった。

 そっと眼を閉じる。
 共鳴する部屋全体に、保田も飲み込まれていくような気がした。
191 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時45分33秒
 そこには後藤の気持ちが漂っている。幸せだと感じて、不安だと怯えて、嬉し
い出来事に心を弾ませ、そして大事な人を失った悲しみ。それはきっとこの部屋
の中で後藤が感じていた気持ちだったのだろう。この時の保田は、彼女の一部を
共有した気分になった。

――だからね、いっぱい、ありがとう。
 後藤の声が聞こえたような気がした。

――いっぱい……いっぱい、ありがとう。

 ああ、後藤の中には私がいたんだ。
 保田はそのことを思い出すと、ゆっくりと床に座り込んだ。

 こんなにも無力で、頼りなくても、あの子の中に私は存在している。ありがと
う、と言う言葉を掛けてくれた。何も出来ないで、戸惑っていただけなのに、あ
りがとう、と言ってくれたのだ。その事が嬉しかった。
192 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時46分14秒
 そっと手に持ったサングラスを抱いた。
 何も出来なかったのは事実だ。
 でも何もしないと決めたわけじゃない。

 こんなに頼りなくて、無力な自分だけど、まだ、後藤と共に歩く事はできるの
ではないだろうか? まだ笑いあう事ができるのではないだろうか?
 ありがとう、と言う言葉を頼りに、私はあの子の手を握りたい。そうしなくて
はいけないんだ。

 その思いを保田は胸の中で何度も確かめた。そしてそれがどんな事があっても
揺るがないように、再び後藤の気持ちに触れた。

 それは刺々しく、触れると今にも折れてしまいそうな、ガラスのナイフのよう
だった。
193 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時46分58秒
    48

「裕ちゃん、ごめんね」
 しばらくの沈黙を破るように矢口は呟いた。
 中澤は下げていた顔を上げると、不思議な視線で仰向けになっている矢口を見
る。それからしばらくして、その言葉の意味を聞いてきた。

「今日だよ。大事な日なのにさ、あたし入院してたし……」
 その言葉で中澤は、ああ、と言いたいことを悟ったらしく、別にええよ、と膝
の上で両手を組みながら呟いた。

「別にええよ。そんな体なら、しゃあないもん。新曲、みんな張り切ってるんや
で。みんな気に入ってる……」

 今日、十二月十三日はモーニング娘の新曲が発売される日だった。それに合わ
せるように前後に過密なスケジュールとダンスレッスンを組まされて、年末でた
だでさえ忙しいと言うのに、疲労は解消される事無く、常にメンバー内で蓄積さ
れていたようだ。
 その期間に怪我を負い、そのハードスケジュールから離れてしまったと言う罪
悪感。メンバーが一生懸命になって仕事をしている姿は室内のテレビで見ていた
せいか、その感情は常に矢口の中で存在していた。
194 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時47分28秒
「乾杯ベイベーってゆうところ、メンバーの中で流行ってるみたいやで……紙コ
ップ片手に、みんなそうゆって乾杯してるんや」
「そっか、じゃあ復帰したらヤグチもそれに混ぜてもらおう」
「復帰おめでとー、乾杯ベイベーって?」
「うん」

 そうやな、と中澤は微笑む。矢口は少しだけ首を横に向けて、その表情を視線
の中に入れる。来年の春には脱退すると言う彼女。まだ先のような気もするし、
それは間近に近づいているような感じもする。正直、現実感が無く、いつまでも
みんなを支えてくれた中澤がいなくなるということに実感が湧かなかった。

 中澤の気持ちに矢口は気が付いていた。

 後藤が居なくなったと連絡を貰った彼女は、すぐに矢口の元に駆けつけた。ど
うやら心当たりがあるのではないかと思っていたらしい。しかしその理由も半分
は、常に胸の奥で存在していた罪悪感に駆られていたからだろう。矢口を前にし
て、それに気づいた彼女は、心当たりが無いという言葉を聞いても帰る気配を見
せなかった。
 脱退をするという事実は、中澤からも余裕を奪っていたようだ。だから、矢口
と後藤との間に入ることが出来なかったようだ。
195 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時48分09秒
「新メンバーもこれから大きくなる」
 中澤は呟いた。

「辻や加護はあのままでうるさいし、来年には矢口と新しいユニットがあるやろ。
吉澤にはプッチがある。石川は大人しい奴やけど、ああみえても弄ると面白いん
や。……四人ともシッカリと成長してる」
「……そうだね」
「みんなそれぞれでシッカリしてる。ウチが言える事やないんやろうけど……何
も心配してない」
「……裕ちゃん」

 言葉を切った中澤は一瞬だけ矢口に向かって何かを呟こうとしたが、それを直
前で飲み込んで、顔を下げて自嘲した。その姿がどこか痛々しくて、矢口は蒲団
の中から右腕を出すと、中澤に向かって伸ばした。
 中澤は顔を上げると、ゆっくりとその手を握り返す。暖かいぬくもりが掌を包
んだ。

「ウチが居なくなっても大丈夫や」
「…………」
「……大丈夫や」
「……裕ちゃん」
196 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時48分52秒
 僅かに握り締めた手が震えているような気がした。それはこう言う事態になっ
てしまったのは、自分のせいなのではないだろうかと、リーダーの責任に縛り付
けられた彼女の弱さだったのかもしれない。
 矢口は少しだけ強くその手を握った。

「……矢口」
「まだまだ心配なことだらけだよ。裕ちゃんが居なくなって、大丈夫だって、あ
たし胸張っていえないもん。辻と加護をどうやって大人しくさせればいいのか、
あたしわからない。みんなが不安になっているとき、どうやったら安心させられ
るのか、あたしわからない……裕ちゃんは、そこに居るだけでみんなを安心させ
られる。裕ちゃんの一言で、頑張ろうって気合入るんだよ」
「…………」

「だから裕ちゃんはめちゃくちゃ偉大なリーダーだよ」
「……矢口」
「……って少なくともあたしは思ってる。他のみんなの事は知らないけど」
「最後のだけ余計や」

 あはは、と矢口は笑った。それに釣られて中澤も笑った。
 この先の事はわからない。それなのに来年の春のことなんて考えられるわけが
無い。後藤の事でリーダーとして落ち込んでいる中澤が、この瞬間にだけでもそ
の重荷から逃れられるなら、今はそれでいいような気がする。
197 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時49分23秒
 矢口は思い出した。
 前の曲でそれを理由に後藤を責めたこと。
 新メンバーを押し出すというその曲で、矢口達はサポート的な役割を与えられ
た。加護の唄いだしから後藤へと繋がるその構成を後ろから見ていて、徐々に不
満が溜まっていった自分。その以前の曲も後藤がセンターに立ち、いつの間にか
追い抜かれてしまったのではないだろうかと言う劣等感。嫌悪しか後藤に対して
抱いていなかった矢口は、あからさまな皮肉を言ったことがある。

――いいよね、いつも真中で。
――ヤグチ達はいっつも後ろで、後藤はいつもセンター。

 その時の後藤はどんな表情をしていたのか、もう忘れてしまっている。少なく
とも言い返しては来なかったはずだ。

 後藤はいつもそうだった。
 矢口が何をしても、何を言っても、後藤は反論も弁解もしようとはしなかった。
リハーサル中に矢口に食って掛かった時はすでに、後藤は紗耶香と関係を持って
いただろう。サングラスに興味が出たとき、すでに色んな物を紗耶香に捧げてい
たはずだ。
 後藤の行動は全て紗耶香が関係している。サングラスを盗んだ事も、ブレスレ
ットを奪ったことも、罪悪感に駆られながらそれでも行動してきた彼女は、一度
も自分の気持ちを曝け出すことは無かった。
198 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時50分29秒
 ベッドの横にある棚。その上の花瓶。
 その中はすでに空っぽになり、後藤が持ってきてくれた花も無かった。
 それでも矢口はそれを持ってきた彼女の姿を、眼を閉じれば思い浮かべる事が
できる。全てに怯えたその様子は、今まで自分がしてきた行為への罪悪感を生ま
せた。

 この雪が降り続く空の下で、後藤は何をしているのだろう……?
 その隣には紗耶香がいるのだろうか……?

「……頑張ろう」
 矢口は口から漏れるように呟いていた。
「……矢口」
 中澤が呟く。

 矢口は視線を繋いでいる手に向けた。
 こんな状態になっても、こうして他人のぬくもりを感じる事ができる。後藤に
酷いことして来た自分にさえそれを感じられるのだ、きっとあの子も同じに違い
ない。
199 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時51分01秒
「裕ちゃん……頑張ろう、あたしたち」
 しばらくの間を開けて中澤は頷いた。

「……そうやな」
 これから先の事はわからない。もしかしたら大きな壁が立ちはだかっているの
かもしれない。でも自分たちは決して一人ではない。お互いの存在を感じられた
ら、それだけで心強いものが胸を満たしてくれる。それだけで充分だ。

 矢口は繋いでいる手を見て思った。
 後藤ともこうして手を繋いだら、きっとお互いのぬくもりを感じられるはずだ。
色んな感情もプライドも、その時だけ忘れて、一人の人間として向き合えるはず
だ。それは昔のように無邪気な彼女を感じることができる、唯一の行為なのかも
しれない。

 今度後藤に会ったら、挨拶よりも先に手を差し伸べよう。
 きっと彼女はそれを握り返してくれるはずだ。
200 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時51分58秒
    49

 もしかしたらあたしはその事実に気付いていたのかもしれない。
 頭のどこかで、胸の奥底で、それに気がついていたんだ。だからもう一人のあ
たしが常に警告し続けて、それを疎ましく思いながら拒絶していたんだ。

 あたしには市井ちゃんとの時間が全てだったから、それを手放すわけには行か
なかった。もう一人のあたしがどんな事を言おうとも、それを聞くわけには行か
なかった。
 市井ちゃんが居なくなってから、あたしは常にその存在を頭の中に思い描いて
いた。辛い事があったら、もしここに彼女が居てくれたら、と言う可能性を思い
浮かべて現実から逃避していた。でもそれにも限界がある。徐々に周囲から離れ
ていき、孤独はいつの間にか幻を生んだ。

 それがあの日に見た市井ちゃんだ。
 廊下の向こう側から歩いてきて、あたしの横を通り過ぎていった市井ちゃん。
もし復帰をしたらこう言う風に色んな人に囲まれて歩くのではないだろうかと言
う、妄想が姿を現した瞬間だった。
 そしてそれと同時に街灯の下で立ち尽くしているもう一人の市井ちゃんを見つ
けた。あたしはそれを幻だと思い込んで、あの部屋に連れて帰ったのだ。

 考えてみれば幻なのに服が汚れているはずが無い。ドアを凹ませたり、怪我を
したり、そんな事があるはずが無い。あたしはどこかでそれを知っていながら、
その現実から眼を反らす為に、本物の市井ちゃんこそが幻なのだと思い込んで居
たんだ。
201 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時52分34秒
 静まり返るホール。舞台袖に居たはずのもう一人の自分の姿は無い。狭いステ
ージ上に居るあたしたちは、丁度その中央にいて、闇の中の客席を前に体を寄り
添っていた。足元にはさっき落とした包丁。その周辺に数滴の市井ちゃんの血。
それは着ている服に染み込んで、徐々に肘の辺りを真っ黒にしていく。あの時、
巻いてあげたマフラーを市井ちゃんは巻いていた。それはすっかりと雪を浴びた
せいだろうか、湿気がこもり僅かにだけ、あの香水の匂いを抱いていた。あたし
は体重を寄り掛けるように体を預け、両腕を左右に浮かせながら、沸いてきた罪
悪感に打ちのめされていた。

 耳元でゆっくりと市井ちゃんが顔を上げた音が聞こえた。そっと横目でそれを
伺うと、その表情は依然として変わらない。口元の笑みは無くなり、まるで空っ
ぽになったみたいに、それは人形のようだった。
202 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時53分24秒
「……音、どうして止まっちゃったのかな?」
 呟くように市井ちゃんは言った。
 あたしは下唇を噛みながら眼を閉じる。

「……みんな……どうして居なくなっちゃったのかな?」
 首を横に振る。
 そこには耳鳴りだけが漂う静寂があった。
 市井ちゃんはあの部屋であたしと同じ幻を見ていたんだ……。

 あたしが見たものを市井ちゃんは見て、あたしが聞いたものを市井ちゃんは聞
いて、あたしが感じた気持ちを、市井ちゃんも感じていた。
 それは電気が伝っていくように、あたしに降り注いだ全ての感情を、密着して
いた体を通すように、きっと市井ちゃんに伝わっていたのだろう。だからこうし
てライブをしている幻の中に、あたしたち二人は包まれていたんだ。

 胸が苦しくなってきた。それは酷く罪悪感に縛られていたせいなのだと思う。
その圧迫した気持ちを逃がすように、喉の奥から嗚咽が漏れて、それは肩を大き
く震わせた。

 あたしは……なんて事をしていたのだろう……。
 そっと左右に浮かせていた手を市井ちゃんの肩に掛ける。マフラーに包まれた
その肩は、骨が薄っすらと浮かんでいるようで、今にも砕けてしまいそうな不安
が掌に感じる。
203 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時54分06秒
 あたしは漏れてくる嗚咽と共に言った。

「ごめんね……市井ちゃん……」
 顔を下げる。冷たい床が視線一杯に広がる。市井ちゃんの足元を見ながら、あ
たしは口を開いた。

「あたしのせいだ……全部……あたしのせいだ……」
「……後藤?」

「あたし、ワガママで嫌な奴なんだ……みんなに迷惑掛ける、嫌な奴なんだ……」

「…………」

「あたし、ワガママだから……市井ちゃんとまだ一緒に居たかったの……あたし
ワガママだから……まだまだいっぱい大切な時間を過ごしたかったの……」
「…………」

「ごめんなさい……市井ちゃん」
「…………」

「ごめんなさい……」
204 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時56分01秒
 あたしがそう望んだから、市井ちゃんが現れた。あたしがそう望んだから、市
井ちゃんの自由を奪った。それはどんな暴力を振るったって、守り抜こうとした
ワガママな世界。苦痛から逃げるために、常に存在しておかなければいけなかっ
た世界。あたしは感情の捌け口のように、市井ちゃんをそこに巻き込んでしまっ
た。外部との接触も断たせ、自分だけの都合のいい存在に作り変えようとしてい
た。

 あたしは一人の人間の自由を奪っていたんだ……。
 それがどんなに酷い事なのか、考えなくてもわかった。

 市井ちゃんが一歩だけ後ろに下がってあたしと距離を取った。ゆっくりと顔を
上げると、周りに視線を向けている彼女がいて、それは今更ながら自分が見てい
たものが幻だと知るように、戸惑いの表情を浮かべていた。

「……市井ちゃん」
 あたしは不安になる。
205 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時56分40秒
 あたしが与えた自我ではない、元々の市井ちゃんの自我目覚めようとしていた
のを感じて、それはこれまでの生活が水のように掴めない時間だったと知った人
間の取る行動を想像していた。
 市井ちゃんはぎこちない足取りで一歩一歩周りに体を向ける。そこにたった今
あったはずの照明も歓声も音楽も無いことを実感していく。それは水を吸い込む
布のように、じわじわと体を浸透していっているようだ。

 あたしは一歩だけ足を踏み出そうとした。その瞬間、すぐ下にあった包丁を蹴
ってしまい、それはくるくると回転しながら市井ちゃんの真後ろで止まった。
 包む静寂。交差するあたしたちの息。闇は徐々に気持ちを煽る。誰も居ない客
席がこれは現実だと教えているように思えた。
 市井ちゃんはその客席を正面にして立ち止まる。あたしはその横顔を見ながら
不安から手を胸に当てた。

 これが……現実なんだよ……。
 これがあたしたちの世界の外側なんだよ……。
206 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時57分40秒
 悲鳴のような叫び声を市井ちゃんは上げていた。それはもはや声にはなってい
なかったのかもしれない。まるで黒板を削っていくように、脳の中心を刺激する
ような高い騒音だった。
 胸に当てていた手を離して、口を覆った。嗚咽が収まらなくて、その市井ちゃ
んの叫び声が胸の奥を苦しくさせる。闇をどこまで切り裂くようにその声はホー
目の中を響き渡った。
 それは市井ちゃんの胸の中で渦巻いていた感情だったのかもしれない。その感
情はしばらくの間止まる事はなく、空っぽな空間に響き、あたしはあまりの辛さ
に耳を抑えながらしゃがみ込んだ。それでも指の隙間を縫って叫び声は聞こえて
くる。漂っている冷たい空気が一気に鋭い刃物に変わったような気がして、あた
しの体も心も切り裂いていった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、市井ちゃん。

 あたしはその言葉を呟き続けた。そうする事でしか、この痛々しい空気から逃
れる術を知らなかった。
 再び静寂が訪れたのに気が付いた時、あたしは耳に当てていた手を離して、ゆ
っくりと顔を上に向けていた。視線の先には息を上げている市井ちゃんが居る。
髪の毛は乱れ、傷つけてしまった左腕の袖は真っ黒に染まっていた。
 市井ちゃんは体の向きも視線も固定したまま、呟いた。
207 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)06時59分39秒
「後藤……」
 その表情は遠い何かを追っているようだ。その先は空っぽになった客席ではな
い、確実に市井ちゃんしか見えないものなのだと、なぜかこの時のあたしはそう
感じていた。

 鼓動が高鳴っている。
 市井ちゃんの口が開く事に怯えている自分が居る。
 それは漠然とし過ぎた予感。
 肌に空気の痺れを感じるように、背中や首筋を這う感覚。それは不安が見せる
予感だった。
 市井ちゃんは視線をそのままに言った。

「……本当のわたしはどこにいるの?」

 静まり過ぎた静寂と空気。痺れだけを感じる床の冷たさ。闇の中には入り組ん
だ様々な感情。

 気が付くとあたしの頬を涙が伝っていた。
 その一言に打ちのめされた自分が居た。
208 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時00分18秒
 あたしは自由を奪っただけじゃなかったんだ……。
 それはもう一つの罪だった。

 あたしは自分を満足させるために、市井ちゃんに理想を求めていた。それはあ
の頃のように優しく包み込んでくれるぬくもりと存在。過ぎ去った時間は戻らな
いというのに、昔の姿を理想として、あたしはそれを求め続けてきた。
 こんなにも悲痛な悲鳴を上げている市井ちゃんが居たと言うのに、それを無視
したあたしの行動。確実にそこには彼女が居たと言うのに、理想をはめ込もうと
した暴力。
 不安から逃れたかったわけじゃない。あたしは理想の姿をただ求めていただけ。
いつか消えてしまわないようにしなくてはいけない、と言う自分を騙すような動
機の元に平然と本物の市井ちゃんの感情を殺して、填め込もうとしたエゴ。市井
ちゃんが呟いたその一言は、そう言った自分の感情を曝け出すには充分なほど、
胸の中に響いた。

 顔を下げる。
 涙が一粒、床の上に落ちた。

 その周辺に黒く固まった市井ちゃんの血液。空気を吐くと嗚咽が漏れて、あた
しは何も言うことが出来なかった。
 罪悪感に苛まれて、それは自己嫌悪だけを生む。涙は止まることも無く溢れて
きて、溜まっていた疲労が体中を暴れまわる。償う事が出来ない罪の重さが徐々
に大きくなっているのを感じていた。
209 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時01分04秒
 暗闇の中にはあたしの嗚咽だけが漏れている。それ以外は二人には広すぎる箱
の中、大きく過ぎる静寂が漂っている。この暗闇の中に自分を溶け込ませて、姿
を消してしまったらどんなに楽になれるだろう、と考えていた時、その音は小さ
く耳の中に入ってきた。

 ポタッポタッ。

 あたしは視線をゆっくりと延ばす。

 ポタ……ポタッ。

 市井ちゃんのスニーカーが見えた。その足元には数滴の血。それはまるで緩め
た蛇口のように、止まることも無く水滴が落ちる。それは真っ白なスニーカーを
汚して、星のロゴの周りに黒い小さな模様が現れている。

 何……?
 あたしはゆっくりと市井ちゃんを見上げる。

 何……?
 市井ちゃんは無表情のまま左腕を見ている。右手にはあたしが蹴り飛ばしてし
まった包丁。その尖った刃は、傷付いた市井ちゃんの腕に当てられていた。

 あたしはゆっくりと立ち上がる。
210 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時01分41秒
「市井ちゃん……」
 口から漏れるように呟く。
 市井ちゃんは包丁で自分の傷を抉っていた。

「何……何してるの……」
 その光景に頭がついていけなくて喉が震えている。腕からは血が溢れ返り、そ
れは手首を通って指先に伝わり、雫となって床に落ちている。市井ちゃんは表情
一つ変えないで、その自虐を繰り返していた。

「いち……市井ちゃん! 何してるの!」
 あたしは我に戻って市井ちゃんの元に走り寄る。すぐにその包丁を掴んでいる
腕を握ると、その行為を止めさせるために力を入れて引いた。しかし市井ちゃん
は決してそれを離そうとはしない。あたしの顔を見ると表情を歪めて、血だらけ
になった左腕を胸に当てられてから体を押された。

 力は無かった。
 こんなにも傷付いた腕にはそれは残されていない。
 でもあたしが思わず後退りしてしまったのは、その指先に溜まった血が一粒顔
に当たったからだ。
 冷え切った頬に感じるぬくもり。反射的に手の甲を宛てて拭う。そこには絵の
具を引き伸ばしたかのように、真っ赤な線が走っていた。
 市井ちゃんから一歩離れて我に戻る。
 視線を向けると包丁の刃が市井ちゃん自身の首筋を狙うかのように振り上げら
れていた。
211 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時02分28秒
 体は自然と動いていた。

 あたしは抱きつくように右腕を彼女の首に回してその包丁の刃の下敷きになっ
た。
 自分の喉からこんなにも声があがるのだろうかと思うほどの悲鳴が辺りに響く。
それと同時に感じたことも無いほどの痛み。突き刺さった包丁の刃は、あたしの
右腕の肉を切り裂き、骨に突き当てられていた。

 カラン、とそれが再び床の上に落ちる。あたしは包丁が刺さった右腕を抑えな
がら蹲り、指の間から溢れてくる血を感じていた。
 全身を痛みが襲う。悲鳴を上げた喉が僅かに痙攣しているようで、その裏側が
カラカラに乾いていた。すぐに傷を抑えていた手が真っ赤に染まる。コートはあ

っという間にそれが染み込んで、大きな染みを作り出していた。

 下唇を噛んで痛みを我慢する。
 必死に首を横に振りながらその痛みを紛らそうとした。
 市井ちゃんが再び動き始めた気配を感じたのはその時だった。あたしは顔を上
げると、彼女は再び落とした包丁に手を掛けようと屈んでいる瞬間だった。

 渡しちゃ行けない。
 市井ちゃんにこれを渡しちゃ行けない。
212 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時03分08秒
 あたしはすぐに落ちている包丁を見つけると、全身で覆うようにそこに倒れた。
 市井ちゃんの手があたしの背中にかかる。お腹の下にある包丁を取ろうとして
いるようだ。それでもあたしは必死にそれを守りきろうとした。今、市井ちゃん
にこれを渡しちゃいけないのだという思いが、理由も無く全身を動かしていた。

 体を揺すられる。その後に肩を掴まれて強引に起こそうとされた。それでもあ
たしは全身に力を込めて、体の下にある包丁を守る。腕の痛みは一向に引くどこ
ろか激しくなっていく。体全身を覆っていた疲労や具合の悪さはそれに拍車を掛
けて数倍にも酷くなる。
 今にも気が飛んでいきそうな意識を必死に繋ぎ止める。これを渡してしてしま
ったら、市井ちゃんは再び自分自身を傷つけてしまうかもしれない。それだけは
どうしても嫌だった。

 体を強く横から押された。あたしはその反対側に力を入れる。しかし市井ちゃ
んはそれを見越したかのように、体を掴むとあたしが力を入れた側に引いた。不
意を付かれてまるで亀のようにあたしはコロンと倒れる。体の下にあった包丁が
姿を現してしまった。
 市井ちゃんがあたしを跨ぐように足を出すと、体を屈めてそれを拾おうとした。
あたしは咄嗟に足を出してその包丁を蹴った。
213 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時03分46秒
 床の上を回転しながらそれが滑っていく。市井ちゃんはバランスを崩して倒れ
た。

 あたしたちの無言の遣り取りがホールに響いている。静けさだけが漂うその空
間には、どこまでも物音が響いては消えていく。二人の息が上がっていて、それ
は直接にお互いを感じられるものだった。
 あたしは腕を抑えながら立ち上がる。痛みがその衝撃で跳ね上がって、叫び声
に近いものを喉から搾り出していた。

 市井ちゃんがそれに気がついて顔を上げた。あたしはふらふらとよろめきなが
ら移動した包丁の元に歩み寄る。
 市井ちゃんの横を通り過ぎようとしたとき、足を掴まれてあたしは動きを止め
た。振り返ると垂れ下がる前髪の中から鈍い光を宿した瞳が向けられている。彼
女は苦痛に歪む表情であたしを見上げていた。

 ああ、とその時、気が付いた。
 市井ちゃんは痛みを感じたかったんだと。
 痛みを感じる事で、自分を確かめたかったんだ……。
214 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時04分29秒
 きっと存在を感じられないのかもしれない。自分が自分であると言う、不確か
なものでその存在を確認しているあたしたちは、不意にそれに疑問を感じた時、
不思議な浮遊感と共にリアルに自分を感じられなくなる。市井ちゃんはそれを確
かめるために自虐をして、痛みと言う感覚を味わいたかったのかもしれない。

 足を何度も振った。市井ちゃんはそれでも手を離すことは無かった。早く包丁
を奪わなければ行けない。これ以上あたしが大好きな市井ちゃんに傷を増やす事
なんて出来ない。
 ガクン、と体重を支えていたもう片方の膝が折れたのはその瞬間だった。気が
付くと市井ちゃんの手は両足に伸びていて、それを力任せに引かれていた。

 あたしの体が崩れ落ちる。右肩を下に床に倒れた。
 傷が悲鳴を上げる。下唇を噛んで喉から出る声を押し殺した。

 気が付くと息が上がって、体にジンワリと汗が浮かんでいた。交差するあたし
たちのと呼吸。白く舞い上がる息。決して広いはずではないホールの中で二人の
存在はあまりにも小さかった。
 市井ちゃんがあたしの上に圧し掛かるように体を起こす。視線は包丁に向いて
いる。
215 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時05分22秒
「市井ちゃん!」
 声を上げた時、彼女の巻いているマフラーが顔を掠める。あたしは歯を食いし
ばると市井ちゃんの両脇に腕を滑り込ませて、抱きつくように背中にそれを絡ま
せた。それから力を込めて体を回転させるように体重を移動させる。傷口が開く
感覚がしたが、その瞬間には関係なかった。
 市井ちゃんの体が横に倒れる。あたしは瞬間的に彼女の上に圧し掛かると、両
手首を掴んだ。

 押し倒された市井ちゃんと、その上に圧し掛かるあたし。二人の体は密着して、
荒くなった息が交差した。
 両膝を市井ちゃんのお腹の横に立てる。両手首を床に密着させるように上から
押し付ける。体を捩ったりして、その拘束から抜け出そうとしていた彼女も、身
動きが出来ない状態だと悟ると、それも徐々に弱めていった。
 あたしは声を上げていた。

「市井ちゃん! 嫌だよ、こんなの!」
 その声はホールの中に響き渡る。

「こんなの嫌だよ! あたし!」
216 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時05分53秒
 息が白く舞い上がる。張り詰めた空気がどこまでも続く。冷たい床の上に背中
を付ける市井ちゃんは、視線の先に天井を映し出していたようだ。そこには照明
が吊るされていない事を再び悟ると、静かに涙を一粒だけ落とした。それはとて
も綺麗であたしは息を飲む。表情一つ変えないその顔から、彼女の気持ちが流れ
た事に気が付いた。

「後藤……わたしは」
 市井ちゃんが唇を最小限に動かして呟く。

「わたしは……空っぽなんだよ」
「市井ちゃん……」
「隙間だけが空いてる……空っぽなんだよ」

 それは市井ちゃんを無くしたときの、あたしの喪失感と同じようなものだった
のかもしれない。その感覚に体を囚われて、彼女は自分の存在も感じる事が出来
なかったようだ。

「わたしは全部捨てちゃったから……思い出もみんな……捨てちゃったから……
だから空っぽなんだよ……」
217 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時10分11秒
 市井ちゃんはあたしと視線を合わせようとはしなかった。あたしの背中にある
天井を見続けるだけで、その全てが虚ろだという事に気が付く。

「わたしは自分を捨てていったから、わたしの中にはぽっかりと空間が空いてい
て、それを別の何かが埋めていったの……それはわたしじゃない、他の何か。そ
れが体の中でずっとわたしを演じていたんだ……」

 まるで口から漏れるように市井ちゃんは呟く。その中には何の感情も混じって
いないように思えて、空っぽだという言葉の重さを実感した。

「わたしは後藤が望むように立派じゃないんだよ……優しくも無い……強くも無
いし、シッカリもしてない。もしかしたらずっと空っぽのままだったのかもしれ
ない。娘に入ってやっと中身が出来てきたのかもしれない」

 息をするのが苦しくなった。あたしの感情が確実に市井ちゃんを締め付けてい
たことを知って、それは鉛のように体の中を重くする。手首を掴んでいる手が震
えて、それは徐々に全身に浸透していく。すぐ背後に蓄積されていた疲労感が再
び暴れだし、右腕の痛みがそれを跳ね上がらせる。口を開く事が出来なかった。

「ずっとふあふあ浮いているみたいだった……娘に入る前もやめた後も……ずっ
と全てがおぼろげだった。……やっと出来たわたし自身って言うものを捨てない
と……おかしくなっちゃうと思ってた……捨てないと、何もかも掌からこぼれて
行ってしまう……恐かったの……」
「市井ちゃん……」
 市井ちゃんはあたしに視線を向けた。それから自嘲して笑顔を消した。

「ごめんね……こんなわたしで……ごめんね……」
218 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時11分55秒
 再び沈黙が肩から舞い降りるようにあたしたちを包む。荒くなった息が交差し
て、眼が霞むのを必死で首を横に振りながら振り解こうとする。頭の内側が殴ら
れるような痛みを感じながら、あたしは嗚咽を一つ空中に吐いた。

 同じ。あたしと市井ちゃんは同じなんだ。
 ずっと中身が無くて、それを虚構の何かで埋めていた。そうする事で安心して
いく自分を感じていたし、常に背中にある不安を忘れる事が出来た。ずっと何か
が足りなくて、それを埋めたかった。

 それはみんな同じなのかもしれない。
 圭ちゃんもやぐっちゃんも……もしかしたら同じだったのかもしれない。あた
しは目の前の事に夢中になりすぎて、周りを見ることなんて出来なかった。

 ゆっくりと市井ちゃん手首から手を離した。彼女はすでに抵抗する事は無く、
涙を流しながら下唇を噛んでいるあたしを見ていた。
 涙を拭う事が出来なかった。右腕にはすでに感覚がなくなっていて、それはぶ
らりと垂れ下がるだけ。あたしはそっと傷口を残った掌で覆いながら、首を横に
振り続けた。
219 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時13分48秒
「後藤……」
 市井ちゃんがそんなあたしを見ながら呟いた。
 その掌がゆっくりとあたしの頬に触れる。それは氷のように冷たくて、馴染み
のぬくもりを持っていなかった。それでもあたしはその掌に顔を預けるように傾
ける。溢れる涙で皮膚が吸い付いているようだった。

「……あたし、市井ちゃんの苦しみ……何も知らない」
 口から漏れるように出てきたその呟きは、ゆっくりと闇の中に届く。

「……どんなことを考えていたのか……何も知らない」
 市井ちゃんは無言のままあたしの頬に手を当てていた。

「でもね、市井ちゃんがここにいるのはわかる」
「……後藤」

「幻なんかじゃない、あたしが思い浮かべた幻想なんかじゃない、本物の市井ち
ゃんだって、こうして体温が教えてくれてる」
「…………」

「だから市井ちゃんはここにいるの」
「…………」

「ここに……いるんだよ」
220 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時14分49秒
 傷口から手を離して、市井ちゃんの掌にそれを重ねた。冷え切った体を温める
ように、指の隙間に自分の指を絡ませる。広い箱の中であたしたちは互いの存在
を知ろうとしていたのかもしれない。

「あたし……いっぱい酷いことして来た……」
 白い息が宙を舞う。市井ちゃんの視線はずっと離れないまま、薄闇の中で鈍く
輝いていた。

「市井ちゃんに……いっぱい酷いことして来た……」
「…………」

「市井ちゃんは市井ちゃんだって……あたし知っていたのに……それなのに酷い
ことして来た」
「…………」

「あたしの中の市井ちゃんは変わらない……どんなに自分で否定しても……あた
し知ってるもん……本物の市井ちゃんは暖かくて、優しくて、あたしを落ち着か
せてくれるって、知ってる」
「…………」

「それなのに……あたし……なんてこと……」
221 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時15分51秒
 ゆっくりと顔を下げた。市井ちゃんの手が離れて、あたしは胸の中にその顔を
埋めた。布の質感が鼻先に伝わり、それは涙で徐々に湿気を含む。あまりの静寂
に、眼を閉じた瞬間に鼓動の音が聞こえた。
 あたしは悔しくて繋いでいる市井ちゃんの手に力を加えた。聞こえる鼓動に煽
られるように、胸の奥が熱くなってくる。

「こんなにも大好きなのに……こんなにも市井ちゃんの事、大好きなのに……」

 最低な事、してきちゃったね。

 市井ちゃんのもう片方の手がゆっくりとあたしの頭を包んだ。それがどう言う
意味を持っていたのか、まったくわからないまま、いつもそうされていたように、
胸の奥は確実に安心している。あたしはそんな安らぎを感じる事さえもしちゃい
けないのではないだろうかと、自虐した。

 その空間は二人だけの世界だった。
 誰も居ない、あたしたちを惑わす幻想も無い。あの雨の日から初めて、本当の
意味で向かい合えていたのかもしれない。こんなにも掌は汚れてしまっているの
にその向き合えた事を嬉しく思う自分が居る。確実に、安心する心がある。

 あたしはまだワガママだ……。
 きっとまたみんなに迷惑を掛け続けるだろう……。
 それでもあたしは、こうして市井ちゃんと向き合いたいと思った。

「市井ちゃん……」
 あたしは胸の中に顔を埋めながら言った。
222 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時16分33秒
「市井ちゃんが自分を感じられなくなったら、あたしが名前を呼んであげる。自
分の事がわからなくなったら、あたしが教えてあげる。……四六時中、ずっと市
井ちゃんって呼ぶよ……今度は間違わないから……市井ちゃんのこと、今度は間
違わないから……」
「…………」

「いっぱい酷いことして来たあたしじゃダメかもしれない。いっぱい人を傷つけ
てきたあたしじゃ、そんな事をする資格も無いのかもしれない……」
「…………」

「あたしはまだまだ傷付かなくちゃいけない。市井ちゃんって、そう呼べるとき
まで、あたし、まだまだ傷付かなくちゃいけない」
「…………」

「まだみんなにしてきた罰、あたし受けていないもん……」
「…………」

「今度はあたしが傷つけられる番だよ……」
「…………」
223 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時17分07秒
 あたしの頭を覆っていた手にゆっくりと力が加わっているのに気が付いた。そ
れは抱き包むように優しい圧迫感だと思った。あたしは込み上げてくる感情を抑
える事が出来なくて、まるで子供のように声を上げて泣いた。
 それはホールの中に響き、僅かに光が入り込む隙間を作っていたようだ。こん
なにも暗い場所だというのに、なぜか周りを包む光の暖かさを感じた。きっとそ
れはあの部屋を包んでいた月光だったのかもしれない。青白く彩る無数の感情の
中を縫うように差し込んでいた、あたしたちだけの光だ。

 市井ちゃんがゆっくりと手を離すと、あたしの頭を掴んで起き上がらせた。涙
で酷い顔になっているであろうあたしの顔を見て、市井ちゃんはそっと頬に手を
当てる。伝わる指先の中に僅かにだけぬくもりが宿っていたのを感じた。

 市井ちゃんが起き上がる。あたしは横に体重を逃がして下敷きにしていた体か
ら離れた。床の上に手をつくと突き上げてくるような冷たさが脳を刺激する。体
中を覆っていた疲労感が生む眠気を一瞬だけ解いてくれた。

 市井ちゃんはあたしのすぐ前に座ったまま、闇の中の客席に視線を向けていた。
それからゆっくりともはや感覚がなくなったあたしの腕を掴んだ。
224 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時18分17秒
「……市井ちゃん」

 トクトク、と胸が高鳴る。
 市井ちゃんは血で真っ黒になったコートの裾に、そっと口を着けた。

 頭が真っ白になる。感覚がなくなっていると思っていたその腕に、僅かにだけ
柔らかい感触がした。
 あたしはその光景を見ていることしか出来なかった。罪悪感や後悔、入り混じ
っていた感情が小さくなっていくような気がした。

 下唇を噛む。
 すぐ目の前にある市井ちゃんを見ていた。

 それはとても長い口づけだった。

 長い、長い口づけ。

 顔を上げた市井ちゃんの口の周りにはあたしの血が付着していた。それはまる
で血を啜った後の吸血鬼のように、とても綺麗だと思った。
 市井ちゃんは無表情のまま言った。

「……これ以上、傷付いてどうするの?」

 あたしは市井ちゃんに抱きついて、また子供のように声を上げて泣いた。
 泣き続けた。
225 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時19分32秒
    50

 椅子から立ち上がった中澤は、そろそろ帰るわ、と一言だけ呟いて、床に置い
ていた鞄を掴んだ。それからベッドを回り込むように再びドアに向かって歩く彼
女の後姿を見ながら、体に感じる眠気を矢口は感じていた。
 再びこの病室が闇になったとき、きっと降り続く雪のシルエットがカーテンに
映し出される事だろう。それから耳鳴りだけを響かせる静寂が訪れて、徐々にベ
ッドに吸い込まれていく体を感じるはずだ。

 中澤の背中を見送っていた矢口は、ここ数週間のことを思い出していた。
 あんなにも時間が早く流れていると感じていたのに、なぜかその間だけ遠い昔
のように感じる。

 そう思うと、なぜだか笑みが浮かんできた。
 決して楽しい時間を過ごしたはずじゃないのに……。

 中澤の背中が止まったのは、ドアを開ける直前だった。彼女は何かを思い出し
たように立ち止まると、ゆっくりと振り返って矢口に向かって言った。

「そう言えば、まだあの事、謝ってへんの?」
 そう言って中澤は部屋の電気のスイッチに手を掛ける。
 矢口が釈然としない顔をしているのを見ると、中澤は苦笑いしながら言った。
226 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時20分05秒
「腕時計のことや」
 ああ、と矢口は思い出す。
 夏頃に矢口がしていた腕時計が紛失して、その次の日に後藤がまったく一緒の
物をつけてきたことだ。矢口はそんな彼女を見て、当然のように攻め立てた。

「あれ、矢口のものやなかったんやろ」
 中澤の言葉に矢口は頷いた。

「矢口の奴、ウチの部屋にあったもんなぁ」
 後から中澤の部屋に矢口の腕時計があったことを知った。前日、遊びに行って
忘れてきてしまった事を、その時気が付いていなかった。

「謝るよ」
 矢口は言った。

 あの時は気まずさから後藤に話し掛ける事も、謝ることも矢口のプライドが邪
魔をしていた。でも今なら素直にそれができるような気がする。

「今度アイツにあったら謝る」
 そう言うと中澤は満足したかのように笑みを浮かべて電気のスイッチを消した。

「また今度来るわ」
「……すぐに戻るよ、あたし」
227 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時21分52秒
 その言葉と共にドアが開いて中澤が出て行った。
 闇になった病室に、徐々に眼が慣れていくのを感じる。そっと首を横に向けて
カーテンを見ると、予想通り雪のシルエットが浮かんでいた。

 今度、後藤に会える時はいつだろう。
 その時は素直に謝ろう。

 腕時計のことだけではなく、全ての事を謝ろう。
 矢口はそう思うとそっと眼を閉じた。
228 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時22分52秒
   51

 タクシーを降りた時、会場には足跡が続いていた。
 それは後藤の物と、彼女を発見した事務所の人間のものだということを保田は
すぐに気がつく。体を縛り付けるような寒さを堪えながら、ゆっくりとその足跡
を辿るように歩き続けた。

 その建物は不気味に聳え立っている。まるで自分の存在を消すかのように、闇
の中の風景と同化しようとしていた。それは後藤と同じだと保田は思う。彼女も
周りの風景に自分を同化させるように、押し黙り背中を丸めていた。自分たちは
カメレオンのように姿を消してしまった彼女を見つけることが出来なかった。
 ガラスの扉は開いていた。上半身が入るぐらいの大きさでそれが割られている。
冷たい風に吹かれながら、保田はゆっくりとその中に足を踏み入れた。

 後藤が見付かったと連絡が入ってから、保田はすぐにタクシーで目的の場所ま
でやってきた。そこは決して大きくないライブハウスで、自分たちが二度とそう
言う場所で仕事をすることは無いだろうということが頭に浮かぶ。
 真っ直ぐに闇の中で扉が見えた。きっとその向こうは会場になっているのだろ
う、その扉の前で一人の事務所の人間が忙しそうに電話を掛けていた。

 どうやら連絡が取れて真っ先に駆けつけたのは保田だけだったようだ。周りに
はその人間以外、人の気配を感じなかった。
 事務所の人間に一礼する。すぐに携帯電話を耳に当てていた彼は険しい表情で
扉を見た。
229 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時23分28秒
 すぐに何が言いたいのかわかった。
 後藤がその中に居るという事だろう。

 保田はゆっくりと歩き、電話をしている人間の横を通り過ぎると、その扉に手
を掛けた。
 静まり返る空間。振り返ると扉の向こう側に雪が降り続く景色。

 力を入れて扉を開ける。
 背後から照らされていた夜の光がゆっくりとその隙間に入り込んでいく。尖っ
た空気に包まれて、寒さよりもきつい物が保田の体を縛った。
 中に入ると人がいない客席。保田は辺りを見渡しながら、一歩ずつ歩く。物音
一つしない、静寂の中に、その存在は体を密着させて居た。

 前方のステージ。
 暗く影を落としている中に、人の形がぼんやりと見える。保田は胸の高鳴りを
感じながらゆっくりと歩み寄った。

 徐々に視界がはっきりとしていく。おぼろげたった人影も、確かなものになっ
ていく。現れ始めるその姿を見て、保田は呆然としながら立ち止まった。

 ステージのすぐ前だった。その上には二人が無言のまま存在している。
 紗耶香が足を崩すように床に座り、それを膝枕にするように後藤が体を横にし
ている。二人は無言のまま、すぐ近くに居る保田の事も気がついていないようだ
った。

 紗耶香が後藤の頭を撫でている。後藤は眼を閉じて動く事も無かった。そんな
彼女を見ている紗耶香の表情は、まるでペットを見守るかのように、目の前の存
在を遠いものにしてしまった視線をしていた。
230 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時24分03秒
 保田はしばらく口を開く事が出来なかった。
 ただその場に立ち尽くしたまま、二人を見ていることしか出来ない。

 真っ黒な血を全身に着けて、二人の体も顔も汚れてしまっている。その周りに
は飛び散るように黒い血痕があり、その一つ一つが結界になっているかのように、
誰も近づけさせはしなかった。

 薄闇の中で、何故か保田は光を見ているような気がした。
 そこには二人を包むかのように、青白い光がその場所だけにある。それは優し
くもあり、冷たくも感じた。

「……紗耶香」
 口から漏れるように保田は呟く。それは決して大きくは無かったはずなのに、
辺りに響いたような気がした。

 数秒の間が空く。
 眠っている後藤から視線を離すと、紗耶香はゆっくりと顔を上げた。

 その顔には白い彼女の肌を隠すように、黒い血がべっとりと塗られている。表
情を隠すようなその血の奥に、鈍く輝く瞳は確実に保田の存在を取らえていた。

 紗耶香は呟いた。
231 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時25分15秒
「……圭ちゃん」
 保田は黙ったまま彼女の言葉を待つ。

「雪……積もるかな?」
 闇の中に照らされる結晶を踏みしめるように、救急車が会場の前に止まったの
は、それからしばらくしてからだった。
232 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時26分03秒

   エピローグ
233 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時27分13秒
 歩いてきた道を過ごした時間とするならば、その時期の事はあたしを捉えて離
さなかった魅力的な物だった。
 でもその先にもその人との時間は続いていく。
 歩いてきた道だけではなく、これから先もそんな魅力的な時間が確実に増えて
いくのだ。
 それはとても幸せな事だと思った。
234 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時27分55秒
   ∞

 子供たちが目の前ではしゃいでいる。
 傍を通るスタッフの人たちが微笑ましい表情を浮かべては通り過ぎていく。セ
ットの向こう側から聞こえる会場の声。床には色んなコードが伸びている。

 あたしは小さく深呼吸をした。
 でも緊張は少しも晴れない。

 一人で唄うのはいくら経験しても慣れない。横にメンバーが居ないというだけ
で不安になる。どんな事を話せばいいのかわからなくなって、司会の人の言葉も
上手く返せる自信が無い。
 目の前の子供たちはそんなあたしに気がつく素振も見せずに笑い合っている。
多分、数あるイベントの一つとしか思っていないのかもしれない、緊張のかけら
も見受けられなかった。
 テレビ収録のセット裏、あたしは出番を待つためにソワソワとしていた。会場
には色んなお客さんが居る。いつものファンの人たちを前にするのとは違った緊
張感があった。
235 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時28分30秒
 全身ピンクの衣装を身に付けたあたしを見て、やぐっちゃんが言ったのは『カ
ワイイ』という一言だった。あたしの周りで一緒に踊る子供たちも見て、お姉さ
んになったんだね、と感慨深そうに呟いたのがなぜか印象に残っている。こんな
短いスカートに戸惑いを覚えたものの、周りではしゃぐ子供たちをどこか微笑ま
しく見ている自分に気が付く。

 どうやらあたしもお姉さんになったらしい。
 緊張の中でそんな事を思うと、苦笑いしている自分がいた。

 唄い終わった人たちが満足そうな表情を浮かべて戻ってくる。あたしは挨拶を
しながら確実に近づいてくる自分の出番に緊張を膨らませていた。
 後藤さん、と呼ばれて返事をする。スタッフの人が手を差し伸べ、会場に続く
道を案内した。周りの子供たちはまだはしゃぐのをやめない。そんな彼女たちを
少し羨ましく思う。
 階段の前に来る。顔を上げると光に照らされて真っ白な会場の風景が見えた。
心臓の高鳴りを抑えるようにあたしは胸に手を当てて、再び深呼吸をした。
236 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時29分12秒
 周りには色んな人が忙しそうに歩いている。

 交差する人々。あたしの後ろで出る合図を待っている子供たちはこそこそと話
を始めていた。

 あたしは何気なく顔を横に向けた。
 そこには控え室へと続く通路が長く伸びている。

 無数の人たちがその先を見ることを阻むように横切っていく中、あたしは小さ
くなった人影に視線を止めた。

 それは小柄で髪を金色にした女性だった。
 彼女は遠く向こう側から一人で立ち、正面を見据えていた。

 その視線の先にはあたしが居る。
 そしてあたしの視線の先にも彼女が居た。
237 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時29分55秒
 時間を忘れてあたしはその姿に見入っていた。胸の中には緊張とは別のものが
生まれる。それはジンワリと熱を持って体の体温を上げる。

「……市井ちゃん」
 その声は彼女に届く筈が無い。周りにはセットの向こう側で歓声を上げている
人々がいて、忙しそうに走り回るスタッフの人たちの物音が響いていた。だから、
遠く向こう側に居る彼女には、どんなに喉を絞り上げたとしても、あたしの声は
聞こえることは無いだろう。

 僅かにだけ、彼女が笑ったような気がした。
 それからバイバイ、と軽く手を振る。

 あたしの体は自然と動いていて、それに答えるように、胸の前で小さく手を振
っていた。

「後藤さん」
 スタッフの人の声に我に戻る。

 視線を向けると出番までもうすぐだという事を知らせてくれた。合図があって
階段を上り、無数の人の前に出る。光に包まれながら、あたしはマイクを手にし
て音楽に包まれるのだ。

 再び緊張が込み上げてきた。
 視線を彼女が居た場所に戻す。
 でもそこにはもう誰も居なかった。
238 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時30分42秒
 トクトク、と胸が高鳴る。
 切ない気持ちになった。

 あたしはゆっくりと顔を上に向けて、高い天井を見上げた。
 眼を閉じてみる。

 あたしを包むように周りの音が激しくなったような気がした。それは確実に全
身に浸透して、少しだけ足が震えてしまう。思わず苦笑いをするとぽっかりと穴
をあけている自分の中身に気が付いた。

 焦らなくてもいいよね。
 ちょっとずつでもいいね。
 胸に手を当てる。早い鼓動が掌に感じる。
 ココを埋めるのは少しずつでいい。

 気が付くとスカートを引っ張られる感覚がして、そっと視線を落とすと、一人
の女の子が不思議そうな顔であたしを見ていた。
239 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時32分19秒
「……どうしたの?」
 あたしは声を掛ける。
 でもその女の子は何も言わなかった。

 しばらくの間、あたしはその女の子を見ていた。
 女の子はスカートの裾を離さなかった。
 周りを包む音。ざわめく歓声。さっきまではしゃいでいた子供たちの顔に、い
つの間にか不安の色が見えるようになっていた。

 そっと掴まれている小さな手に、あたしの掌を重ねた。
 女の子は表情一つ変えないであたしを見上げている。

 あたしはその女の子に向かって、そっと微笑みかけた。



(――終了)
240 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時33分40秒
.
241 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時35分21秒
.
242 名前:名無しさん 投稿日:2002年11月20日(水)07時48分29秒
無事に終わりました。
最後まで読んでくれた方、お疲れ様です。
書いている奴的には待たせているという責任感など無く、レスでその事実
を知りました。ごめんなさい。

正直、この話は書くのが辛かったりしました。
なので、レスをくれた方々には感謝してます。励まされました。
愛想の無かったレスの返事は、不器用な人間なんだと納得してやってください。

ちなみに読んだ感想などをくれると、書いていたものとしては報われます。
最後に、こんな長い話に付き合ってくれた方に感謝しています。
ありがとうございました。

243 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月20日(水)18時45分24秒
あまりに凄すぎてうまく言葉に出来ません。最初から最後までこの緊張感を持続する筆力は並大抵ではないと思います。
こんなにも素晴らしい小説を読ませて頂いたことに感謝!!
そしてお疲れ様でした。
244 名前:読者 投稿日:2002年11月20日(水)19時32分47秒
一気に更新されているのを知って、めちゃくちゃ興奮しました!で、一気に
読みました。今、読み終わったばかりで正直うまいこと言葉が見つかりませんが、
こんな作品を読めて嬉しいです。
「この2人」でなければ為し得ない作品というのはあると思いますが、この小説
がまさにそれに当たると思います。本当に良かった……
作者さんありがとうございます。そしてお疲れ様でした。名作です。
245 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月20日(水)21時39分49秒
今日一気読みしました。
本当に、この作品を書いてくれた作者さんに感謝です。
いい作品です。
お疲れ様でした。
246 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月20日(水)23時49分55秒
すげかったです。読ませて頂いてありがとうございました。
247 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月21日(木)20時42分54秒
良かったです。本当に良かった。いちごまをもっと好きになりました。
248 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月21日(木)20時57分28秒
中澤さんがキーパーソンですね。
やられたぁ!!って感じです。

ご苦労さまでした。
249 名前:名無し読者 投稿日:2002年11月22日(金)15時23分46秒
終わってしまわれましたか……
最後まで読むことができてよかったです。感動しました。
いちごまの良さを再確認です。単なる恋愛ものではない作品、久々に楽しませて
いただきました。
250 名前:名無し娘。 投稿日:2002年12月01日(日)08時49分03秒
最後までドキドキしながら読みました。
後藤の時間が動き出しただけでなく、これから幸せな時間を送れそうな
予感が出来て良かったです。
保田や矢口の強さや弱さも物語に引き込まれる一因でした。
ここで描かれなかったメンバーとの絡みが見たいというのは贅沢なのでしょうね。
ありがとうございました。
251 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月04日(土)11時19分54秒
作者さん、もう書かれないのかな…
252 名前:読者。 投稿日:2003年02月07日(金)05時22分00秒
一気に読みました。
読んでいて辛くて辛くて、泣きました。
まだ頭の中がぐらんぐらんで平衡感覚が無い位に。
色んなものから逃げて、傷つけて、傷ついて、どうしようもなくなって、
だけど生は、時間は、終わらない……
辛い物語だけれど終盤で救われました。
多謝。またお会い出来ることを願っています。
253 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月25日(火)00時46分22秒
非常に遅いレスで申し訳ないのですが、完結お疲れ様でした。
作品全体のシリアスな感じ、緊迫した雰囲気に引き込まれました。
幻の正体も、この展開になるとは思っていませんでした。

次回作を書かれるのか分かりませんが、もしあるのでしたらがんばって下さい。

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