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図鑑
- 1 名前:あんこ 投稿日:2002年11月17日(日)20時40分24秒
- 短いのと中くらいなのを
- 2 名前:あんこ 投稿日:2002年11月17日(日)20時41分15秒
- 『進入禁止』
- 3 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)20時41分57秒
- 部屋を出て、エレベーターまで続いた廊下を二歩だけ歩いて
左まぶたの上の空を見上げた。
薄曇りの空が少しまぶしい。
もう何日目になるんだろう。意識していたのは最初の3日間ぐらい。
日数よりも週とか、月で数えた方がはやそうだ。
それぐらい、私は家に帰っていなかった。
後ろで鍵が閉まる音が聞こえた。
ぼんやりとまた歩き出す。エレベーターまでの距離、
部屋3つ分と少々。
- 4 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)20時42分37秒
- エレベーターの箱がふわっと着地する。
マンションを出ると、いつものように止まったタクシーのドアが
いつものように開いていた。
きっとこのタクシーや、その向こうの道路、ガードレールや歩道、
レンガの上の植え込みの緑色なんかもそうだ。
こういう一切がなければ、私はきっとまた別のどこかへ行ってしまうに違いない。
ただ、今朝はそこに全部そろっているから、私は仕事場に向かうんだ。
マンションを見上げて、感謝。
後ろのシートに埋まるように座るとドアが自動で閉まり、
すぐに車はスタートする。行き先も、きっと電話を入れたときに
伝えておいてくれたんだろう。
- 5 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)20時43分11秒
- 劇場に入る。
あいかわらず周りはいそがしく、スタッフの人たちが駆け回っている。
もうミュージカルの初日からずい分経つというのに、
この状況はかわらない。
きっと最初から、どこかに無理があったんだろう。
楽屋に入る。
あいかわらず周りはダラダラして、セリフを未だに必死になって
覚えている子もいる。
本当は、私もその一人なんだけど。
- 6 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)20時43分53秒
- それから劇が始まり、終わる。今日も何カ所か間違った。
セリフを忘れた。間も悪かった気がする。
明日はがんばろう。
帰りぎわにマネージャーに引き留められた。
私の体型が気に入らないらしい。たしかに最近かなり太った。
自分でもわかっているし、なんとかしようとも思っている。
そう答えておいた。半分は嘘じゃない。
家に帰らなくなってすぐに、私は太りだした。
春先からけっこうやばかったんだけど、月がかわったここに来て
一気に。
- 7 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)20時44分28秒
- ずっと、そういうことはお母さんが管理してくれていたんだと思う。
食べる物に気を遣ってくれたり、ちょっと太ってきたよって
声をかけてくれたり。
私をずっと見ていてくれた。
今の生活に、そういうものはない。
好きなときに好きな物を、好きなだけ食べる。
夜にだって食べる。コンビニも近い。
買ってきてと言えば、すぐに買ってきてくれる人もいる。
けど、ずっと私を見てくれているはずなのに、どうして
あの人は止めてくれないんだろう。
- 8 名前: 投稿日:2002年11月17日(日)20時45分02秒
- どうして家を出たのか聞かれると、私はいつもお父さんを理由に使っていた。
そう言えば聞いた大抵の人は納得してくれたし、共感してくれた。
よくあることらしいから。
ただ、それ以外にお父さんを引き合いに出す理由は、私にはわからなかった。
だからきっと家を出た本当の理由を、私はわかっていないんだと思う。
そしてなにより、そういうことは考えたくなかったから。
エレベーターを出て、部屋まで続いた廊下を二歩だけ歩いて
右まぶたの上の空を見上げた。
薄曇りの夜空。きっと今日一日中ここに立っていても、見えたのは
こんな空ばかりだったに違いない。
- 9 名前:あんこ 投稿日:2002年11月17日(日)20時45分53秒
- 『進入禁止』 おわり
- 10 名前:あんこ 投稿日:2002年11月17日(日)20時46分38秒
- こんな感じ
これからよろしくお願いしまーす
- 11 名前:空唄 投稿日:2002年11月18日(月)02時39分53秒
- 面白いです。
中編も是非読んでみたいです。
- 12 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月18日(月)20時02分05秒
- 『進入禁止』いいタイトルですね。色々な解釈が浮かびました。
「図鑑」って事は色々な話が聞けるのかな。
自分も中くらいのも読んでみたいです。
- 13 名前:あんこ 投稿日:2002年11月22日(金)00時31分48秒
- 『さよならSTRANGER』
- 14 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時32分21秒
- 11月16日、××新聞朝刊より
元モー娘。・後藤真希さん自殺――関係者に衝撃
アイドルで元モーニング娘。の後藤真希さん(17)が15日未明、××線で線路内に
飛び込み、××駅行き列車にはねられ即死した。
××署の調べでは、後藤さんは線路上の歩道橋から落下し、意識を失ったまま
XX駅23時××分発××駅行きの列車にはねられ死亡した。列車はブレーキを
かけたが間に合わず、約100メートル走って停車した。
遺書などは見つかっておらず、家族も「変わった様子はなかった」と話していると
いう。同署は自殺の可能性が高いとみて調べているが、元モーニング娘。の自殺に
関係者は大きな衝撃を受けている。
後藤真希さんは1999年――(後略)
- 15 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時33分04秒
- ――11月17日。
窓際に立って眼下にひろがる表通りの人なみをぼんやりと、
見るともなく見つめていた。
思わずため息が出る。
格別疲れているとかそういうわけではない。
生活のペースもこの「刑事」という職業についてずい分と乱れたが、
もう慣れた。
こういうのを何と呼ぶのだろう。
気疲れ、と言っていいのだろうか。とにかく今日は有名人に会いすぎた。
なにしろ同行している署長殿でさえその名前は知っているという、
かの「モーニング娘。」が今回の聴取の相手だったのだ。
- 16 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時33分38秒
- テレビの収録が詰まっていて署まではどうしても来れない、と連絡が入った。
メンバー全員の顔と名前を把握しているから、というよくわからないな理由で
署長殿のお供をおおせつかり、二人、彼女たちが所属する事務所へと向かった。
芸能事務所と聞いて、最初どこか胡散臭い、いかがわしいイメージを
頭に浮かべたのだが、いざ来てみるとそこはなんの変哲もないオフィスだった。
応接室に通され、パイプ椅子に落ち着き、お茶を出された。
居心地は悪かった。
ただ、これから会えるであろう「モーニング娘。」を想像して、
胸は小躍りしていた。
彼女たちの元メンバーが死んだというのに勝手なものだ。
- 17 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時34分10秒
- 石川梨華。
署長殿が目をキラキラさせて聴取していた「辻ちゃん加護ちゃん」の次に
応接室に入ってきたのが彼女だった。
伏し目がちの瞳は今も少し赤く潤み、まぶたもはれぼったい。
先の「辻ちゃん加護ちゃん」や、それ以前に事情聴取をしたメンバーにしても
そうだが、彼女たちは本当に後藤真希の死を悲しんでいるようだった。
署長殿の勧めで、彼女は折りたたみ式の机をはさんだ正面の椅子に腰掛けた。
さっそく型どおりの質問をいくつかする。
後藤真希との交友関係について、事件当日の彼女の様子、なにか気がついたことは
なかったか、等々、5分程度でそれは終わった。
- 18 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時34分50秒
- ただ、彼女に対しては、これまでとは違った質問を最後に用意していた。
署長殿の目配せで、ふところから透明のビニール袋に入ったそれを取り出す。
大小のプリクラがところかまわず貼ってある。それは、後藤真希の手帳だった。
携帯電話やその他の持ち物の一切が、列車に轢かれほとんど損壊していたため、
これが唯一の遺留品といっていい。
すでに指紋の採取が済んでいるその手帳をパラパラとめくり、
あるページを開いたまま彼女の方へとそれを傾けた。
「これは後藤真希さんの遺留品の中にあった手帳です。指紋、筆跡鑑定などから
ほぼご本人の物に間違いないと思われます。
11月から日記として使われていたようなんですが、それでですね、
ここの、この部分、「R」という、おそらくはイニシャルだと思うんですが、
ある人物のことが書かれています」
- 19 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時35分45秒
- 「後藤真希さんの交友関係をこれまで調べてきたんですが、
名字もしくは名前に「R」のつく人物というのが、石川さん、あなたしかいない
んですよ。
このことについてはどうですか?」
その手帳は本来はスケジュール帳として使われるべきなのだろう、「11月」と
ページの頭に書かれた下に、碁盤の目のように30日分の小さなマスが
線で区切られている。
そこにびっしりと、小さな後藤真希の文字が書かれていた。
「これ、ごっちんの……、字です。間違いないと思います」
- 20 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時36分24秒
- 11月12日、後藤真希が死ぬ3日前のマスにこうある――。
Rからソウダンの電
話。RとKちゃんと
うまくいくといいな
正方形のマスに、文字が窮屈そうに詰め込まれていた。
「Rから相談の電話、RとKちゃんと、うまくいくといいな」
実際に声に出して読み上げてみる。
彼女がふいにこちらを見た。視線が合う。さすがにかわいかった。
- 21 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時37分02秒
- 「それたぶん私のことです。その日、ごっちんに電話かけたから」
「間違いありませんか?」
彼女がゆっくりとうなづいた。
「さし支えなければ、この「Kちゃん」という人物について――」
そう言い終える前に、彼女はさっと視線をそらせた。それはあきらかに拒絶を
意味していた。
「――あ、さし支えありますよね、やっぱり」
たしかに「同性への相談」「うまくいく」というキーワードから導き出されるのは
恋人、あるいはまだそれ未満なのかもしれないが、おそらくはそれに近い
関係にある人物なのだろう。
芸能人である彼女にとっては話したくないのも当然か。
- 22 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時37分48秒
- 中澤裕子。
石川梨華の次に入ってきたのが彼女だ。
すでに「モーニング娘。」からは脱退していたが、事務所側が気をきかせて
呼んだのだという。
まだ仕事があるそうで、順番を急きょ繰り上げての聴取となった。
型どおりの質問を終えると、彼女は机に置いたままになっていた
後藤真希の手帳へ、すっと視線を落とした。
「いいですか?」とことわりを入れてからそれを手にとり、
その表紙を見つめる。
そういえば、表紙に貼られたプリクラの中に、後藤真希と彼女が
一緒に映っている物があったような気がする。
- 23 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時38分37秒
- 表紙にそっとなでるように触れてから、手帳を開いた。
ページをめくる乾いた音だけが部屋に響く。
ふいに、彼女のほほをつたうものがあった。涙だ。
その雫は白い肌をすべり落ち、手帳のページへと落ちる。証拠物品が、と思う前に
その異様な美しさにのまれて声が出せないでいた。
「ごめんなさい」と手帳を返された。確認のためページをめくる。
ちょうど彼女の涙の落ちた位置のマスに書かれていた日記、11月13日――。
Nとデート。そのま
ま家に帰ってエッチ
朝までずっとしてた
- 24 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時39分13秒
- 「あの、この「N」って、もしかして中澤さんですか?」
思わずそうきいていた。
常識から逸脱した質問だということは十分に承知していたが、
言わずにはおれなかった。署長殿がじろりとこちらをにらむ。
しばしの沈黙ののち、彼女はどこか決心したように面を上げた。
目が合う。綺麗な人だ。
「そうです」
静かに放たれた彼女の言葉に、返す言葉を失った。
これはどういうことなのだろう?
後藤真希と中澤裕子がレズビアンの関係にあった、ということなのだろうか。
- 25 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時39分54秒
- そのことをそのまま質問すると、彼女は今度は躊躇することなくこたえた。
「はい、そうです。
そこに書いてあるとおりの関係、肉体関係ですね、ありました」
「あ、……そうですか」
間の抜けた返事に業を煮やしたのか、署長殿が横から、
「当日、11月13日でしたか、後藤さんにお会いになられているんでしたら、
そのときのことを少しお話し願えませんか?」
「あ、はい。かまいません」
そのときふと、彼女とまた目があった。
先ほどとは何かが違う。不思議な色をその瞳は見せていた。
- 26 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時40分32秒
- 「13日はちょうど、私とあの子のオフの日が重なっていて、何日か前から
一緒にどこか行こうな、っていうことになってたんです。
ファンの人たちに見つかってもなんなので、結局はそう遠出もしないで、
あの子の家に行こうっていうことになったんです」
「どこか、こう、様子におかしなところはありませんでしたか?」
「おかしなところ……、ですか。
いつもよりちょっとソワソワしてたのは思えてますけど、それ以外はたぶん、
変わりなかったと思います」
「あ、でも、ちょうど私が帰るまぎわに、何か言いたそうな顔をしてたのは
覚えてます。あれはもしかしたら……」
- 27 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時41分06秒
- 保田圭。
中澤裕子と入れ違いに応接室に入ってきた彼女は、今までの誰よりも
青ざめた顔をし、誰よりも憔悴しているように見えた。
質問をしている最中も、心ここにあらずといった様子で、
何度かこちらの問いをきき返していた。
性格のきつそうな面立ちの彼女だが、実際はしかし繊細なのかもしれない。
あるいは、彼女もまた後藤真希となんならかの「特別な関係」を
持っていたのだろうか。
頭の中で、そんな余計な詮索をしていたことに気がつき、
あわててそれをいましめる。
- 28 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時41分47秒
- 署長殿と一言二言かわしている彼女を視界にとらえながら、
ふたたび後藤真希の手帳を開いていた。
中澤裕子の涙のあとがにじんでいる。
ふとそのことに気がついたのは、そのマスの隣りを見たときだった。
「R」こと石川梨華からの電話のことが書かれた、12日のところである。
「Kちゃん、けいちゃん、か……」
つぶやくように言ったその声で、隣りの二人の会話が止まる。
止めたのは保田圭の方だった。不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
「何か?」
「あ、いえ、名前を呼ばれたのかな、と思って。
私みんなから「圭ちゃん」って呼ばれてるんです」
- 29 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時42分30秒
- 中澤裕子から後藤真希との関係を聞いていなければ、こんな発想は
出なかったかもしれない。
石川梨華の相手が、目の前にいる保田圭である、という可能性。
にらむ署長殿をよそに、そのことを彼女に問う。
やはり中澤裕子とは違い、しばらくじっと、なにか品定めでもするかの
ような目つきで、彼女はこちらを見つめていた。
「そうです。
でも、そのことと今回のことは、何の関係もないことじゃないですか」
「ええ、そうですね」
なるほど、先ほど石川梨華が相手の名前を言い渋った理由が
ようやくわかった。
- 30 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時43分00秒
- 吉澤ひとみ。
13番目、最後の事情聴取の相手が彼女だ。
応接室に入ってきた彼女は、勧められるまま正面の椅子に腰掛けると、すっと
こちらへ視線を向けてきた。
これまでの誰とも違う、不思議な感触。その瞳に、こちらの思惑すべてが
見透かされているような、そんな不安にかられる。
型どおりの会話をかわす。
やはりこれといって新しい情報を得ることはできなかった。
後藤真希とはメンバーであり良き友人である。事件当日の彼女には自殺などする
兆候は見られなかった。その他に気がついたことなど何もない。
これまでの13人、誰もがそろってそう答えた。
- 31 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時43分31秒
- ひととおりの質問を終え、一呼吸置いた。ここからが本題なのだ。
ふところにしまい直しておいた後藤真希の手帳を、取り出す。その時はじめて
彼女の視線がこちらからそれた。
ページを開き、机の上でそれを彼女の元へとすべらせる。
この手帳には主だって3人の人物が登場する。
「K」との関係を相談する「R」、後藤真希と肉体関係を持つ「N」、
そして最後のひとりは――。
開かれたページ、11月14日、後藤真希が死ぬその前日のマスに書かれた人物。
Yが家にきた。なり
ゆきでエッチした。
もうこんなのいやだ
- 32 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時44分37秒
- 「この「Y」は、吉澤さん、あなたじゃないんですか?」
「Y」、後藤真希と肉体的な関係を半ば強要するかたちで持っていた人物こそが、
今回の事件――自殺の直接的な原因となったのではないのだろうか。
後藤真希は二人の人間を愛する中で心をすり減らし、自殺した。そういうこと
なのではないだろうか。
手帳に書き込まれた日記には、その苦悩の一端をうかがい知るに十分な内容が
数多く存在していた。
後藤真希本人を含め、その周囲にレズビアンの関係が成立しているという事実。
中澤裕子、保田圭の告白がなければこの結論には至らなかっただろう。
あるいはこのレズビアンという、世間からすれば特殊と見られる関係そのものが、
後藤真希になんらかのストレスをあたえ続けていたのかもしれない。
- 33 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時45分17秒
- 断定的な口調で言った声が室内にわずかに残響する。
ようやく彼女が手帳から顔を上げた。
「はい」
薄い唇がゆっくりと開き、閉じる。視線が合う。しかし、そこに見てとれたものは
悲しみや後悔、懺悔などというこちらが用意した色ではなかった。
彼女の瞳から感じとることができた唯一の感情、それは「失望」だった。
「たしかに、私はごっちんとそういう、……エッチとかする、関係でした。でも、
私はその手帳に書かれてるみたいに、迷惑をかけてたなんて
ぜんぜん思ってもみなかったし……」
- 34 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時45分47秒
- 「14日の後藤さんの様子についてはどうですか?
さっきは、自殺するようには見えなかった、とおっしゃってましたが」
「はい。
そういうふうには見えませんでした。いつも通りっていうか……。あ、でも」
「でも?」
「やっぱり迷惑だったのかもしれません。ごっちんから「もう帰って」って
言われたのは、あの日がはじめてでした」
「もう帰って、ですか……」
*
- 35 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時46分25秒
- 窓際に立って眼下にひろがる表通りの人なみをぼんやりと、
見るともなく見つめていた。
ひとつあくびをかみ殺す。署長殿が、聴取の終了を事務所の人間へ告げに
部屋から出て行って、5分が経とうとしていた。
腕時計でそれを確認すると、応接室の出口へと足を向ける。
もう話も終わったころだろう。
ドアノブへ手をのばすと計ったようにぐるんとそれが勝手に回転した。
「あ、どうも、言ってきました」
「ごくろうさん、署長殿」
「もう、その「署長殿」っていうのやめてくださいよ、真山さぁん」
「なんで? 署長は署長だろ? 柴田純、八王子西署々長殿」
「もう……」
- 36 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時47分27秒
- 「それで、これからどうするんだよ、自殺だろ?
なあもう俺帰ってもいいだろ、ほら、あれだ、「辻ちゃん加護ちゃん」のサイン、
無理言ってもらったんだから。
お前、泣いてる子にサイン書かせるなんて普通しないよ?」
「だっ、真山さんだって中澤さんのことヘンな目で見てたじゃないですか。
レズビアンって聞いて、ヘンなこと想像してたんじゃないですか?」
「は? なにそれ? ヘンって何が? ねえヘンって何が?
ああ、やっぱもういいや、署に帰って聞くからそういうの。もういいだろ? な?
間違いなく自殺だから、な?」
「え、あー、ちょっと待ってくださいよ、真山さん。ちょっと待ってください。あの、
私、犯人、わかちゃったんですけど」
「は? ……はん、にん?」
- 37 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時48分03秒
- *
午後になって降りはじめた雨は、陽が落ちてからいっそうその雨脚を強めている。
季節はずれの「大雨・洪水警報」の発令が、各地で伝えられていることだろう。
ここのところ続いていた陽気がまるで嘘のように、大気は冷え、
街は雨音とともに冬をむかえていた。
保田圭の運転するモスグリーンのBMWワゴンは、何度も危うい蛇行を
繰り返しながら、雨の中を走る。
ときおりくすんだ街の明かりに照らし出される彼女の横顔は、文字通り鬼気迫る、
悲壮なものだった。
フロントガラスの向こうをにらみつけるように見るその彼女のまなじりには、
大粒の涙がたまっていた。
- 38 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時48分36秒
- 「圭坊、ちょっと落ち着きって!
こんな運転してたら、あんた、また事故起こすことになるで!」
助手席に座る中澤裕子がこらえきれず、悲鳴にも似た声をあげる。
しかし、保田はそんなことはお構いなしに、ハンドルに体をかぶせるようにして
運転を続けた。
その姿は、何か背後から迫るものから
必死に逃れようとしているようにも見える。
「まさか、な……」
中澤は後部シートへ振り返ると、うつむき黙り込んでいる吉澤ひとみのさらに
その向こうへと視線をやった。
ワゴンのトランクスペース。そこに横たわる、あるものへと――。
- 39 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時49分08秒
- *
保田が後藤真希からの電話を受けたのは、その日の夕刻、雨がいよいよ本降りに
なろうとしていた16時過ぎのことである。
つい先ほどまで、同じテレビ番組の収録をこなしていた後藤なのだが、収録後の
保田に予定が入っていないと人づてに聞き、それならと電話してきたのだという。
「失恋しちゃった」と泣きついてくる後藤をむげに扱うわけにもいかず、
車を駆り出して彼女の家へと向かうことにした。
なるべく大勢で来て、というリクエストだったのだが、保田がつかまえられたのは
結局、中澤と吉澤だけだった。
道すがら二人を拾い、後藤の家へと走る。仲が良いとは言えない二人を乗せた
車内は、終始静まりかえっていた。
- 40 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時49分49秒
- フロントガラスに打ちつけるようにして降る雨粒。ワイパーを一段階強いものへと
シフトさせる。後藤の自宅まではもう目と鼻の先だった。
景気づけにとかけたCDの曲が、ちょうどサビにかかり、リズミカルに転調が
なされようとしていた。その瞬間、それは突然やってきた。
雲間が紫色に照らし出され、白い閃光が夜空を駆けめぐる。雷だ。保田は思わず
顔を上空へと向けてしまっていた。
刹那、激しい衝撃が車体を襲う。体を襲う。
悲鳴をあげる間もなかった。車体の左前方のバンパーが何かにぶつかり、そのまま
それをはじき飛ばしたらしい。
歩道わきに車を止め、保田はすがるように、視線を中澤と吉澤へとおくった。
二人ともそれに何とこたえてよいのかわからず、口をつぐむ。ただ、全員の脳裏に
これが人身事故である、という漠然とした予感が、黒雲のように急速に
広がっていた。
- 41 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時50分39秒
- 中澤が傘を片手に車を降りる。
この雨のせいだろうか、車道にも歩道にもまったくひと気はない。
路上のそれを確認すると、小走りにそちらへと向かった。保田と吉澤の二人も
少し遅れてそれに続く。
三人の予感は、そのそれぞれをはるかに上回るかたちで裏切られた。
後藤真希、彼女たちをここへ呼んだ張本人が、物言わぬ姿となってそこに
横たわっていたのだ。
虚空を見つめ、大きく見開かれたその瞳に雨粒が落ちる。
打ちどころが悪かったのだろう。すでに呼吸は止まっていた。
脈をとっていた中澤が力なく首を横に振る。それをきっかけに、保田が
せきを切ったように声をあげ、泣きくずれた。
- 42 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時51分36秒
- 買い出しの帰りだったのか、あたりにはスーパーのビニール袋と、その中に
入っていたであろう食料品が、散乱していた。
カラフルな雨傘が、骨を折り変形して転がっている。
後藤の死を前に茫然自失とする二人を尻目に、中澤はそれらを拾い上げ、
BMWワゴンの後部シートへと積み込む。
「中澤さん、何してるんですか?」
ようやくその姿に気がついた吉澤が声をかけた。しかし中澤はそれを
気にもとめず、車の後ろに回り、トランクスペースのドア、テールゲートを
開いた。かけたままになっていたCDの曲が、外に流れ出す。
「あんたも手伝い」
ようやく振り返った中澤が投げてよこしたのは、空色のビニールシートだった。
- 43 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時52分09秒
- 「え……、なんで?」
「この子を、これでくるんでトランクに積み込むんや」
「は? 病院は? 救急車は?
ごっちん、まだ助かるかもしれないじゃないですか!」
「見たらわかるやろ! もうこの子は死んでる! 死んでんねん!
今さらそんなん呼んだって遅い。助からへん!」
「それでも、警察とかに連絡を――」
「黙って手伝えや!」
- 44 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時52分43秒
- 「あんたはどうか知らんけどな、私はこんなとこで人生終わらしたくない。
考えてみ? 後藤真希を殺したっていうだけで、確実に私らは世間から、
芸能界から抹殺されんねんで?」
「あんたはまだ「モーニング娘。です」って言うてられるかもしれんけどな、
私は違う! 殺される! こんなとこで人生終わらしたくない!」
「圭坊かってそうや。これからひとりで、ソロでやってこういうときに、
こんな事故起こしたってばれたら、もう終わりや。
わかるやろ、吉澤?」
- 45 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時53分23秒
- 目撃者がいない。中澤を突き動かしているのはその一点だった。
今ならまだ間に合う。すべてなかったことにできるかもしれない。
行動できるときに動き出さない人間が嫌いだ。そう、今までことあるごとに
言ってきたではないか。
自らがそれを実践しないでどうするというのだ。
黙り込んだ吉澤と呆然としたままの保田と、三人で後藤をかつぎ上げながら
中澤は呪詛のように口の中でその言葉を吐き続けていた。
「殺されてたまるか、殺されてたまるか……」
*
- 46 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時53分58秒
- 「この「Y」と「N」って誰やと思う?」
中澤は手帳から顔をあげると、後部シートの吉澤にそうきいた。バッグの中に
入っていた後藤真希の手帳である。
しかしいくら待ってみても返事がない。
業を煮やして振り返ると、それを待っていたかのように、吉澤が顔を上げ
にらみつけてきた。
「この、「Y」と「N」や。あんた後藤と仲良かったんやろ?
何か知らんか?」
それを無視して中澤が質問を繰り返す。口調は柔らかかったが、その目は
射抜くように吉澤の瞳はとらえていた。
すっと視線を車外にそらした吉澤に、わざとらしくため息をつくと、中澤は
今度は運転席の方へ体を向けた。
- 47 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時54分35秒
- 「なあ圭坊、あんたは知らん? 後藤がエッチしてる相手、「Y」と「N」って
いうらしいねんけど?」
ちょうど信号が赤にかわり、保田が助手席へ向く。先ほどからすればずい分と
落ち着いてきている。
「……それ、Yの方はたぶん、ジャニーズジュニアのほら、前にごっちんと
噂になった子じゃないかな。名前は山――」
言葉をさえぎるように、背後で吉澤が舌打ちするのが聞こえた。
わかりやすいその反応に中澤がほくそ笑む。
「Nの方は?」
「そっちもジャニーズの、今は嵐ってグループなのかな、
前に噂になった子のことだと思う」
- 48 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時55分19秒
- 「ふーん、じゃあこの「R」と「K」っていうのはなんやろ?
Rから相談の電話、RとK、ちゃんとうまくいくといいな、やって。
アールなぁ……」
手帳を閉じ、それで手のひらをパンパンと叩く。
「石川梨華、梨華で「R」、……かな?
Kの方は、誰やろ? ケイケイケイ、圭坊、もしかしてあんたか?
この「K」って」
「私、そんな趣味ないよ」
「そやろなぁ……」
信号が青にかわる。
保田がまた運転に専念するのを見てあきらめたのか、中澤もフロントガラスの
向こうへと視線をやった。雨は未だに降り続いている。
- 49 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時56分12秒
- 「それ、KAT-TUNっていうグループに入ってる人のことですよ」
後ろからの意外な発言に中澤がまた振り返る。
立てひじをついて窓の外を眺めている吉澤の横顔。そこにわずかな苛立ちと、
嫉妬を嗅ぎつけた。
「詳しいやんか、吉澤」
「べつに……」
「まあ、別にどうでもいいんやけどな、こんなもん」
また手帳で手のひらをはたこうとして、それを止める。
「使えんことは、……ないか。YとN、YとNか、……YとNねえ」
- 50 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時56分54秒
- 「吉澤、あんた後藤と撮ったプリクラ持ってるやろ? 圭坊もや。
持ってる分、全部かして」
そう言うと中澤は、自身のバッグの中からも後藤真希と撮ったプリクラを
いそがしく取り出した。
それを新品同然の手帳にところかまわず貼り付けはじめる。なるべく
雑然とした様子になるように。
そして最後に、表紙のもっとも目立つ位置に、中澤と後藤が顔を
よせ合っているものを貼り付けた。
「これでまあ、なんとかなりそうやな」
言葉とは裏腹に、そのできに中澤は満足げに笑った。
- 51 名前: 投稿日:2002年11月22日(金)00時57分25秒
- 保田と吉澤が、歩道橋から後藤真希を投げ捨てる。
中澤は傘を手にそのかたわらに立ち、ぼんやりと手すりの向こうにその塊が
消えるのを眺めていた。
これでさいは投げられた。あとは中澤たち自身にかかっている。
すでに、車内で思いついた、手帳の内容を曲解させるトリックは
保田と吉澤に話してある。
うまく二人が演じてくれるのを祈るばかりだ。
吉澤は最後まで不服そうだったが、そのときはそのときで、今日のこのことを
ネタにしてゆすればいい。
なにしろ彼女は、この瞬間、後藤真希を殺した「実行犯」なのだから。
列車が通過するのを待たずに、三人は歩道橋から姿を消した。
それが、11月15日、未明に起こった出来事である。
- 52 名前:あんこ 投稿日:2002年11月22日(金)00時58分03秒
- 『さよならSTRANGER』 おわり
- 53 名前:あんこ 投稿日:2002年11月22日(金)00時58分47秒
- この話し、記事とケイゾクのパロディの部分は
かなりてきとうです
>>11
ヽ(´ー`)ノワーイ
>>12
意味は単に、こういうネタに過敏なひとは――という感じ
- 54 名前:リエット 投稿日:2002年11月22日(金)02時05分26秒
- 面白いー。
ケイゾク部分は思わずにやりとしてしまいました。
- 55 名前:名無し娘。 投稿日:2002年11月22日(金)21時38分05秒
- あのセリフを聞くまでは、短編集で「俺×娘。」が書けなかった思いをここでぶつけているのかと思った。
あと自分が意外とジャニーズの事を知っていたのにも驚いた。
- 56 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月07日(火)22時50分28秒
- 面白かったです。
更新待ってます。
- 57 名前:あんこ 投稿日:2003年01月13日(月)17時44分16秒
- 次の話しは、赤川次郎の「三毛猫ホームズの推理」っていう本の
ネタバレをしてます
ご注意ください
- 58 名前:あんこ 投稿日:2003年01月13日(月)17時44分49秒
- 『dialog in the dark』
- 59 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時45分23秒
- ━━━━━━━━━━━━━━━━━━
完全に閉ざされた密室の中のふたり
頭を潰された死体
彼女は誰に、どうやって殺されたのか?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
- 60 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時46分03秒
- 首すじから後頭部にかけて、弾けるような痛みが走った。
ドクドクと脈打つように、嫌なリズムが頭の芯のほうまで響いてくる。
無意識のうちにしたのだろう、私はその部分に両手をあて、
頭全体をかかえるような姿勢でいた。
恐る恐る手を頭からはがしてみる。
こすり合わせた指先の感触でわかった。出血はない。
ただ、髪が汗をふくんでじっとりと濡れている。
そこでようやく私は、痛みのせいでぎゅっと閉じたままだった目をひらいた。
まぶたの力を緩めゆっくりとほどく。
確かに私は目をひらいた――はずだった。
- 61 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時46分37秒
- けれどそこには何もなかった。
何もない。光さえもない、ただの漆黒の深い闇が
視界のすべて、なにもかもを塗りつぶしていた。
まばたきを何度繰り返してみても状況は一向にかわらなかった。
私を包む一切が、その先の距離さえ判断のつかない暗闇へとかわっていた。
何もない空間に放り出されたような感覚――。
痛みも忘れて思わず手をのばした。地面を確認する。ペタペタと、冷たい感触が
手のひらにしっかりとあった。
- 62 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時47分11秒
- 私はそのまま、両手をついたへばりつくような姿勢のまま、
必死に目をこらした。
じっと目が暗闇に慣れるのを待つ。待つ、待つ……。
後頭部のうずくような痛み、呼吸音、胸の鼓動がしだいにはやまる。
耳元から汗がひとすじ、ゆっくりとしたたり落ちた。
どれぐらいが経っただろう。
五分、十分。あるいは、三十秒も経っていなかったのかもしれない。
しかし結局その暗闇が濃度をかえることはなかった。
まったくの黒だ。
目の前に手をかざしてみても、視覚的にそれをとらえることはできない。
- 63 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時47分48秒
- 体を起こした。
後頭部にまだかなりの痛みが残っている。舌打ち。また片手で頭を押さえて、
地べたにへたり込んだ。脱力感が襲ってきていた。
ふいにそのとき、聞き覚えのある声がした。
顔を上げ、黒で塗りつぶされた空間へと視線をさまよわせる。
視覚を奪われて、それ以外の感覚が鋭くなっていたせいかもしれない。
次の声は確実に聞き取ることができた。
「あの、誰か、誰かいるんですか?」
そう、この声は――、
*
- 64 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時48分18秒
- 「紺野? その声、紺野だよね?」
「あ、はい! そうです紺野です」
「よかった……。
ねえ、そっちひとり? なんか頭打っちゃったみたいでさ、
私、ちょっと動けないんだよ」
「あ、あの大丈夫ですか? 私は、その、ぜんぜん大丈夫ですけど――」
「ひとり?」
「え? あ、すいません。ひとりです、なんか、まっ暗で……」
「こっち来れる? ちょっと私動けないんだ」
「あ、はい、行ってみます。あの吉澤さん、声、出しておいてもらえますか?
それに向かって行きますから」
「わかった、気をつけてね」
- 65 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時49分07秒
- 「――あの〜、聞こえますかぁ?」
「はいはい、聞こえてるよー、こっちこっち」
「どっちですかぁ〜?」
「こっちこっち、こっちだって」
「ちょっと反響してわかりづらいんですよね……。あっ、いったたた――」
「どうかした? 大丈夫?」
「あー、えっと大丈夫です、なんかつまづいちゃって。けっこういろいろ
散らばってるんですよね。なんだろ、これ? ガラス、……かな」
「ガラスって、ちょっとまじで気をつけなよ」
「はい。
わ、パリパリいってる……」
- 66 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時49分39秒
- 「ねえ紺野聞こえてるー?」
「はーい、あの、聞こえてます。たぶんもうちょっとで……」
「うん、けっこう近くで声、聞こえてるよ」
「あの、吉澤さん手を、その、のばしてもらえますか?」
「わかった」
「えっと、こっちかな……」
「あっ」
「あ、手、今当たりましたよね!」
「うん、そうそうこっちこっち……。ほら、手、つなげた。ちょっとひっぱるよ」
「はい、っとと、すいません」
- 67 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時50分18秒
- 「なんかさ、ほんとにまっ暗だよねぇ。あ、いいよ、隣り座って。
ここ、ガラスとか落ちてないから」
「すいません。
でもほんとにまっ暗で、なんなんでしょうね」
「ね。私さ、こう、手を目の前にしても見えないのなんてはじめてだよ」
「はい、あの、私もはじめてです」
「あ、そうだ、吉澤さん頭、頭打ったのっていうのは……」
「まだけっこうね、痛いんだよ。ズキズキする。この後頭部のとこなんだけど……。
って言っても見えないよね?」
「あ、はあ……」
「さわるとけっこう……、あー、やっぱりコブみたいになってる」
- 68 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時50分51秒
- 「冷やした方がいいんだろうけど、そういうの持ってないからさ。紺野持ってる?」
「あ、はい。いえ、あの、……すいません」
「いやいいよべつに。それよりさ、光るモノ何か持ってない?
私、なんかジャージで運動靴はいてるんだよね。ぜんぜん何も持ってなくて」
「え? あの、私もジャージですよ。だから、まっ暗で動けなくて……」
「まじで?」
「はい、まじで」
「――え?」
- 69 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時51分27秒
- 「あの、ごめん紺野、ちょっと待った、
えっと、なんで私ジャージ着てたんだっけ? ――あれ?」
「あの、吉澤さん?」
「ちょっと待ってちょっと待って。なんでだろ。なんで私ジャージ着てるんだろ?
その前にここってどこだっけ? 私なんの仕事でここに来たんだっけ?」
「えーっと、おかしいな、まじで思い出せないんだけど。ここどこだっけ?
なんでジャージなの? ねえ紺野わかる?」
「え、あの……」
「なんで今まで気がつかなかったんだろ、ぜんぜん覚えてない。ぜんぜん覚えてない!
ぜんぜん覚えてないんだよ、なんかもう、全部」
「朝起きたときのこととかは覚えてるんだよ。
ごはん食べて、そのあと、車で送ってもらって……。そのあと、なんだっけ?
あー、もうダメだ、そこから思い出せない」
- 70 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時52分09秒
- 「頭打ったせいかなぁ? やっばいなぁ、入院とかしなきゃダメかなぁ……。
あーもう、そんなことになったらまたみんなに迷惑かかるよ、くそっ!」
「吉澤さん、あの、ちょっとその、落ち着いて――」
「え、なに?
ねえ紺野、まじで光るモノとか何か持ってない? はやくここ出ないとさ。
それに今日の仕事だってそうだよ、何の仕事だっけ? 絶対遅れてるよね?」
「吉澤さん!」
「な、なによ……」
「本当にちょっと落ち着いてください、ちゃんと、ゆっくり、話してください。
聞いてますから」
- 71 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時52分42秒
- 「だから言ってるじゃん、光るモノなんか持ってないかって――」
「ゆっくり、落ち着いて。
こういう状況であせっちゃうと逆に危ないんです。まずは深呼吸して、
気持ちを落ち着けて」
「いいですか? 一緒にはい、吸って〜、吐いて〜。もう一回、
吸って〜、吐いて〜」
「ねえ、もう落ち着いたから光るモ――」
「吸って〜、吐いて〜。ほら吉澤さんも、吸って〜、吐いて〜」
「吸って〜、吐いて〜。光るモノは持ってません。吸って〜、吐いて〜。
ケータイは、いつもはバッグに入れてるんですけど、そのバッグもありません。
吸って〜、吐いて〜」
- 72 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時53分21秒
- 「いいですか? 私もなんです。頭は打ってないんですけど、
気がついたらまっ暗で、ジャージでここにいて。
記憶もなんだかぼうっとしてて」
「吉澤さんが舌打ちした音が聞こえたとき、
はじめて、あ、向こうに誰かいるんだ、って気がついたんです。
それで声をかけてみたんですよ」
「はい、最後に大きく、吸って〜、吐いて〜。
わかりました?」
「え? あ……、うん。わかった」
「じつは最初、けっこうあせってたんですよね。
でも吉澤さんがあたふたしてくれたおかげで、逆になんか落ち着いたっていうか」
「……紺野、あんたけっこう言うね」
「エヘヘへへ」
- 73 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時53分51秒
- 「ねえ、それで落ち着いたのはいいけど、これからどうするつもりなのよ?
このままでいいってことはないでしょ?」
「そうですねぇ……。
それじゃ、まずはここがどこなのかっていうことから、調査してみませんか?」
「ちょーさ?」
「はい、今どういう状況なのかっていうのを調べてみないと」
「調査、調べるねえ……。それでどうするの? まっ暗じゃん」
「え? ……そうだなぁ、えっと、たとえば壁にそって歩いてみる、とか。
これだとほら、闇くもにやるよりはずっといいんじゃないですか?」
- 74 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時54分32秒
- 「歩くの?」
「あ、そっか、吉澤さん頭が痛いんでしたよね。じゃあダメか……」
「いや、べつにいいけどさ。ガマンできなくはないから。
壁にそって歩くだけでいいの?」
「あ、はい。それでだいたいわかると思うんですよね、部屋のかたち。
それにほら、部屋の明かりのスイッチも見つけないと」
「あ、ここって部屋だったんだ」
「……え、なんだと思ってたんですか? ほら、床がちゃんとしてるじゃないですか。
それにさっき声を出したとき、こう、反響しましたよね。
あれってまわりに壁があるからするんですよ」
「そうなの?」
- 75 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時55分08秒
- 「そうですよ。じゃあ、とりあえず壁を探さないと。
私が来たのがあっちからで、けっこう歩いた気がするんですよね」
「うん」
「きっとあそこからここまでの直線がこの部屋――この部屋を長方形だとすると、
その長い方の辺ときっと平行なんですよ。歩いてるとき壁にぶつからなかったから。
それで――」
「わかんない」
「あ、わかんないですか?」
「うん」
「じゃあいいです、とりあえず、私が来たのとは逆の方向に歩いてみませんか?
たぶんそんなに大きな部屋じゃないはずですから」
「なんだ、けっきょく闇くもに歩くんじゃん」
- 76 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時55分41秒
- 「壁にぶつかるまでですよ、ぶつかるまで。あ、立てますか?」
「だいじょうぶ――っとと、ごめん」
「いえ、あの、頭、やっぱりまだ痛いですか?」
「今はなんかフラフラする感じかなぁ。まあ、歩くぐらいなら大丈夫だと思うよ」
「じゃあゆっくり行きましょう」
「うん、ゆっくりね」
「吉澤さん、あの……、手、つなぎませんか?」
「恐いの?」
「え、違いますよ! ほら、さっきも言いましたけど、
いろいろ床に散らばってるんです。ガラスとか。こけたらたいへんじゃないですか。
それに、はぐれるかもしれないし……」
- 77 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時56分11秒
- 「まあ何でもいいんだけどね、はい、手」
「あ、……どうも」
「あとこれさ、手をこう、前に出しといた方がいいよね?
ぶつかるといけないから」
「そうですね、じゃあお願いします」
「あのさ、さっき紺野が言ってたことなんだけど、なんでこっちの方向に
歩いたらいいって思ったわけ?」
「え? あ、でもそれ説明しようとしたとき、
吉澤さん「わかんない」って言ってたじゃないですか、即座に」
「あのときはね。今はほら、なんだかヒマだしさ。聞いておこうかなー、と思って」
- 78 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時56分42秒
- 「あれは――あの、ぜんぜん思いつきなんですけど、
今、完全にまっ暗じゃないですか。それって光りが外から入ってきてないって
ことですよね?」
「こういうふうに完全に外の光りを入れない部屋って、
たぶん地下に作るとかしないと無理じゃないかなって思うんです。
地下に作るんだったら、ビルのワンフロアを全部使っても、そう大きな部屋には
なりませんよね」
「そこを歩いて、私、壁に一回もぶつからなかったんです。
まっ暗だったから実際の距離とかはわからなんですけど、けっこう歩いた気が
するんですよ
それに、吉澤さんが声をかけてくれてたから、ほとんど真っ直ぐに歩いてたと
思うんです。なのに壁にぶつからなかった」
- 79 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時57分14秒
- 「だから、最初に私がいた位置と、吉澤さんがいた位置は
部屋の端と端だったんじゃないかなって思いついたんですよね。でもこれ、部屋が
そんなに大きくないってことが絶対の条件なんですけどね。
どうですか、わかりました?」
「あー、いや、あんまりよくわかんないや」
「やっぱり」
「――っと、紺野ストップ」
「え?」
「壁、ついたみたい」
- 80 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時57分45秒
- 「これ、さわった感じは……、ふつうの、コンクリートの壁ですね。床と同じ。
やっぱりここ、地下なのかな」
「それで紺野、ここからどうするんだっけ? たしか壁づたいに歩くんだよね?」
「そうです。
えっとじゃあ、吉澤さんは左手を壁について、こう、時計回りに行ってください。
私は右へ時計と反対回りに行きますから。うまくいけば向こうの、
正面の壁のところでまた会えると思います」
「左に行けばいいのね」
「はい。そのとき、だいたいでいいですから、角で曲がるごとに何歩ぐらい歩いたか
数えておいてください。それで部屋の大きさが計算できると思います」
「わかった」
- 81 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時58分15秒
- 「あ、あとそれと、途中でドアとか出口があったら教えてくださいね。
部屋の明かりのスイッチがたぶん近くにあるはずですから。それを見つけられたら
何歩あるいたかなんて、数える必要ないんですけど」
「じゃあ、吉澤さんお願いしますね。足元とか注意してください、
ガラスとかけっこう落ちてますから」
「オッケイ」
「……それであの、よーいドンとか、そういうかけ声いりますか?」
「いち、にい、さ……、え、なに? なんか言った?」
「あ、や、なんでもないです。向こうで会いましょう!」
「おー!」
- 82 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時58分46秒
- 「十七、じゅうは――あ、壁か。右に折れる、と。
ねえこんのー、こっちさ、角についたんだけど、そっちはどんな感じー?」
「あ、はーい! えっと、こっちもちょうど今、角の、曲がり角のところにいまーす」
「まじで? 紺野けっこう歩くのはやいね」
「えーっと、あの、それたぶん最初にいた出発点が、こっちの壁よりだっただけだと
思いますよー」
「あ、そっか……、なるほど」
「それじゃ吉澤さん、気をつけてくださいねー」
「紺野もね〜」
- 83 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)17時59分30秒
- 「――じゅうご、二十六、二十七、と。
ここまでずっと窓はなし、か。やっぱ紺野が言ってたとおり、ここって
地下なのかなぁ……、地下ねえ……。地下地下、地下室かあ……、ふむ」
「こんのー、そっち大丈夫ー?」
「大丈夫でーす」
- 84 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時00分08秒
- 「――壁に、タッチ。これで三十五歩目、かな?」
「あのー、吉澤さーん、どーですかぁ? ドア、ありましたぁ?」
「今ちょうど角のとこなんだけどさー、こっちにはなかったよ。
そっちは?」
「えっとまだ途中なんですけど、今のところないですねぇ」
「そっか、じゃあこっちの壁にあるのかな……」
「あの、吉澤さん、明かりのスイッチ入れるとき前もって言ってくださいね。
突然明るくなったらきっと、目、悪くなると思うんです」
「オッケイ」
- 85 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時00分40秒
- 「――二十七、にじゅうは、え、え? わっ!」
「きゃっ!」
「ったた……。なに? 誰? 紺野?」
「たた、吉澤さんですか?」
「そうだよ。ってて、もう、いるならいるって言ってよ。まっ暗なんだから」
「あの、……すいません」
「べつにいいけどさぁ……。
けど、やっぱり最初に何か合図とか決めとけばよかったね、ぶつかんないように」
「そうですねぇ。あ、吉澤さん立てますか?」
「大丈夫――っとと、頭の痛いのもさ、けっこう良くなってきた感じだから。
紺野の方こそ、どこか切ってない? ガラスとかあるんでしょ?」
- 86 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時01分25秒
- 「あー、えっと、たぶん大丈夫だと思います。どこも、……痛くないし。
それよりあの、ドアは、どのあたりにあったんですか? どうしてすぐに明かり、
点けなかったんです?」
「え、なにそれ……。
こっちにドアなんてなかったんだけど――」
「――ちょっとまって紺野、それっておかしくない?
部屋なのに、ドアがないって」
「はい」
「じゃあ私たちどうやってこの部屋に入って来たんだよ」
「わかりません。
でも、私たちが現にここにいるんですから、きっとどこかに出入り口が
あるはずなんですよ、たぶん」
- 87 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時01分55秒
- 「あのさ紺野、ちゃんと、こう、手を壁について歩いた?」
「はい、ずっと。
吉澤さんもそうやってたんですよね?」
「うん、だってそうしないと壁ぎわ歩けないじゃん」
「へんですよね」
「へんだよね」
「あの、もう一回、最初にいた場所までもどってみませんか?
今度は歩いた数を数えるんじゃなくて、壁を注意して触るようにして」
「ドアを探す?」
「はい」
- 88 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時02分30秒
- 「じゃあ何か合図決めとこうよ、ぶつかんないようにさ」
「山川とかですか?」
「え、なにそれ、わかんない。
それで合図なんだけどさ、最初に紺野がしたみたいに、壁についてない方の
手を前に出しとこうよ。
そうすれば、手が当たるだけで体ごとぶつかるってことはないから」
「あー、はい。……そうですね」
「それじゃあ、向こうでね。ドア見つけたら言うから」
「わかりました」
- 89 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時03分09秒
- 「――と、壁かぁ。これを左に曲がって、も、ドアがないぞ、と。
ねえこんのー、そっちどう?」
「あ、はい、やっぱりないです。ないみたいです、ドア」
「こっちもねー、ぜんぜん見つからない。
でもなんでだろ、ドアがないって。……私たちってどこから入ってきたんだろ」
- 90 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時03分45秒
- 「――かーべ、と。けっきょくこっちにはなかったんじゃん。もう。
こういうのって、意外と出発したところの真後ろにあったりするんだよねー。
まあいいか」
「あのー、吉澤さーん。今から最初にいた壁に行きますから、手を、
前に出しておいてくださいねー」
「オッケイ、わかったー」
「わかった――のはいいけど、このまま紺野とぶつかっちゃうと、
ドアがないってことになるんだよねぇ」
「あの、吉澤さん。やっぱりドア、ありませんでした?」
「うん、なかった。
壁の継ぎ目みたいなのはね、こう、所々にあったんだけど。ドアはね」
- 91 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時04分34秒
- 「こっちもです」
「そっちもかぁ……。
ほんとになんなんだろうね、この部屋。ドアがない。出口がない。
じゃあ私たちどうやってここに入ったんだっつーの」
「わかりません、まだ」
「まだ、ね……。あ、そろそろぶつかりそうかな。
紺野なるべくゆっくり歩いてね」
「あ、はーい」
- 92 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時05分19秒
- 「――タッチ、っと。はい紺野お疲れー。
それで結局わかったのって、壁にドアがついてないってことだけじゃん」
「お疲れ様でーす。
あ、でも部屋のかたちはなんとなく予想ができるじゃないですか。
最初からそれが目的だったんだし。明かりのスイッチを見つけられなかったのは
ちょっと残念ですけど」
「ちょっと、って……。まあいいや、一回座ろうよ。ぐるぐる歩いてさ
けっこう疲れたから」
「あ、そうですね。
そうだ吉澤さん、頭の傷。大丈夫なんですか?」
「え? ああ、触ると痛いけど、まあ、大丈夫なんじゃないの」
「そんな、他人事みたいに……」
- 93 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時06分10秒
- 「で、紺野さんはどう考えてるわけ? この部屋について」
「この部屋ですか?
えっと、今私たちが背中にしてる壁、面ですね、吉澤さんの十八歩と私の十歩を
足して二十八歩。でも私と吉澤さんの歩幅には差があるから――」
「わかんない」
「あ、わかんないですか。
そうですね、だいたい20メートルかける15メートルぐらいの大きさの
長方形の部屋です」
「小学校の体育館ぐらい?」
「え? ……あの、そこまで広くないですよ。いつもダンスレッスンしてる部屋と
同じだと思います、サイズ的に」
「なるほど」
- 94 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時06分53秒
- 「それで、もう吉澤さんもわかってると思いますけど、ドアがないです。
四方、まわりの壁ですね、どこにもドアが取りつけられてません」
「それぐらいわかるよ。
だからそこが不思議だって言ってるわけ。私たちどうやってこの部屋に
入ったんだろう、ってさ」
「方法は、あるにはありますよ」
「え、あるの?」
「はい、さっきここにもどる途中に考えてたんですよ。例えばほら、部屋の真ん中に
ハシゴが上から下がってるとか。
壁ぎわじゃないところに階段がついてるとか、いろいろあります」
「へえ……」
- 95 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時07分36秒
- 「でも、もしそういう部屋だったとすると、また別に、どうしてそんな変な作りの
部屋に私たちがいるのか、っていう新しい問題が出てきちゃうんですよね」
「……あ、そっか。そうだよね、普段ぜんぜんそんなとこ行かないし」
「はい」
「それで、紺野はやっぱりここ、地下室だって思ってるの?」
「たぶん、そうだと思います」
「じゃあ次は、ここがどこの地下室か、ってことだよね?」
「――え、あの、
吉澤さんは私の考え、信じてくれるんですか? まるごと全部」
- 96 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時08分18秒
- 「うん」
「だって、ここが地下室かどうかなんて、結局、みんな私の憶測じゃないですか。
もし違ってたらどうするんですか?」
「オクソクって、紺野難しいこと言うね。
私は別に言うことを鵜呑みにしてるワケじゃないよ。いろいろ考えてみて、
紺野が言ってるみたいな可能性が一番高いって思ったから、信じただけ」
「ほんとですか?」
「ほんとですよ」
「あの……、ありがとうございます」
「いえいえ。
それでこれからどうするの? もう少しいろいろ調査してみる?」
「そうですねえ……。出口を探したいんですけど、こうまっ暗だとへたに動くと
危ないし」
- 97 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時08分56秒
- 「え、なんで? さっきまで思い切り動き回ってたじゃん」
「あれは、壁に触りながらだったからですよ。
何のささえもなしで歩くと、けっこうバランスくずしたりするんですよ。
最初に私が吉澤さんの所まで歩いたときも、何回か転びかけたんです」
「それにガラスも散らばってる、と」
「はい」
「じゃあすることないじゃん」
「ないですね」
- 98 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時09分42秒
- 「しょうがないですよ。とりあえず今は、じっとこうして座って
誰か助けに来てくれるのを待つことぐらいしかできないと思います」
「待つ、ねえ……」
「少なくとも私たちがいないっていうことは、メンバー、あとマネージャーさんも
すぐにわかると思うんです。
あとは、私たちがここにいるっていうことを、ちゃんと把握してくれてるかって
ことなんですけど……」
「なんで私たちここにいるんだろうね」
「ジャージに運動靴、その他の持ち物は何も持っていない。
やっぱり何かの仕事なんだと思います」
「だろうね。
ダンスレッスンとかなのかな」
- 99 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時10分13秒
- 「私と吉澤さんっていうことは、「モーニング娘。」の曲ってことになりますよね」
「紺野はタンポポだし、私はプッチモニだし。
ほかにユニットの仕事なんてなかったよね?」
「はい」
「それとも他の、ほら、なんか体使ったテレビの収録なのかな?」
「かもしれません」
「でもへんだよね。自分で言うのもなんだけど、家出るときまでは覚えてるのに
それが何の仕事だったかわからないのって、なんかおかしいよ」
- 100 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時10分49秒
- 「何も覚えてないんですか?」
「うん。
なんて言うのかな、忘れたっていうより、覚えてるところに
霧がかかってるみたいな感じでさ。ぼーっとしてるの」
紺野は?」
「そんな感じですね、私も。
覚えてるんだけど思い出せない、っていう」
「へんだよね」
「へんですよね」
- 101 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時11分19秒
- 「――ぜんぜん話かわるんだけどさ、いいかな?」
「はい」
「ここって静かだよね、なんか。
さっきも、歩いてるときね、離れてるのに紺野の声、聞こえたもん」
「そういえばそうですよね。静かですね」
「やっぱり地下だからなのかな?」
「たぶんそうだと思います」
「そっかぁ……。
でも、なんかこんなに静かなのって久しぶりだな、最近けっこう忙しくて、
ガチャガチャしてばっかりだったからさ」
- 102 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時11分54秒
- 「ねえ紺野、何か相談事とかない?」
「は? 相談、ですか?」
「うん。だって私たちだけになるのって、滅多にないじゃん。だからちょっと
先輩づらしてみようかなーって思って。
それに、ずっと何もしないで待ってるのもヒマだしさ」
「えっと……。今は特にないですけど」
「ほんとに?
恋とかしてないの、恋とか」
「あ、そっち方面の相談なんですか……」
- 103 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時12分33秒
- 「学校共学でしょ、クラスに好きな人とかいるの?」
「クラス、ですか? 最近ちょっと学校に通えてないから、そういうのも
あんまり……。
あ、けどそれが相談事って言えば相談事になるかもしれませんね。
うまく仕事と学校をやりくりする方法とか、ありますか?」
「サボればいいじゃん、義務教育なんだし。黙ってても卒業できるよ」
「はあ……」
「他になんかないの? こう、恋愛関係でさ」
「あの、恋愛関係はちょっと……。
高校進学はどうなるのかなー、とか麻琴ちゃんと話すことはありますけど」
- 104 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時13分12秒
- 「紺野ってさ、そういうことばっかり考えてるの? いつも」
「吉澤さんこそ、いつもそういうことばっかり考えてるんですか?」
「いっつもじゃないよ」
「私も、いつもじゃないです」
- 105 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時13分57秒
- 「――あの、吉澤さんちょっといいですか?」
「なに、相談事?」
「あ、いえ違います。その、何か……、へんな臭いしませんか?」
「あー、ごめん。私すんごい汗かいてたからそれかも」
「いえあの、そういうニオイじゃなくて。
もっと、なんていうか、嫌な臭いがするんです」
「嫌な臭い?」
「血とかそういう……」
「え、血?
でもさっき触った感じだと、頭、切れてなかったと思うんだけどなあ」
- 106 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時14分34秒
- 「そういうことじゃなくて。あの、ほんとにこう、生臭いっていうか。
息がつまるような感じ、しませんか?」
「……するって言われれば、まあ、そういう気もするけど。
でもそれで臭いがしたら、どうなのよ?」
「あの吉澤さん、へんなこと言うようですけど、この部屋にいるの、
私たちだけだと思いますか?」
「思います」
「え、あのどうしてそう?」
「だって、他に誰かいるんだったら、あれだけバタバタしてたんだから気がつく
はずでしょ?
気がついたら、声をかけるとかなんかこっちにアプローチしてくるはずじゃん。
最初に紺野がしたみたいにさ」
「はあ、それは、……そうですよね」
- 107 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時15分15秒
- 「なんか不吉なこと言いたそうだね、紺野」
「別にそういうわけじゃないんですけど……。
ほら、まっ暗で目が見えてないと、他の感覚が鋭くなるって言うじゃないですか、
それでなのかもしれないし……」
「あ、でも実際に血の臭いなんてかいだことはないですよ。
ただ映画とかドラマとか、あと、小説とかにも、息がつまるような感じって
書いてあったし。
たぶんそれってこんな感じなのかなあ、と」
- 108 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時15分57秒
- 「血の臭いねえ……。
臭いは――しなくはない、か。それでこの臭いがもし血だったとして、
紺野さんはどうしたいわけ?」
「どうしたいって、それは……」
「臭いがするぐらいの血だよ? 絶対ただごとじゃないと思うんだけど?」
「えっと、臭いはたぶんこの部屋が密閉されていて、そこにゆっくり
充満したんじゃないかと思うんです。
だからそんなになくても、時間さえあれば」
「でも血がそこらへんにあるってことは事実でしょ? 事件だよ」
「そうなりますね」
- 109 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時16分33秒
- 「マネージャーに言われなかった? プライベートの行動は十分気をつけろって。
言われてるよね?」
「それはあの、……はい」
「あれって別にいろんな写真を撮られるなとか、そういうことだけじゃなくて
こういうとき余計なことするなっていう意味もあるんだよ」
「はい、あのでも――」
「でも?」
「私たちがここにいるっていう状況自体が、事件だと思うんです。だからその、
もう遅いっていうか……」
「それでもダメ。血とかそういうのって、ほんとに事件じゃん。関わっちゃダメ。
それにじっとしてろって言ったの紺野だよ」
「はい、それはそうなんですけど……。
――血を流してるのが、メンバーの誰かっていう可能性もあるんです」
「は?」
- 110 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時17分05秒
- 「だからさっきの質問も、この部屋にいるのが私たちだけじゃなくて
他のメンバーの誰かがいるかもしれないっていう意味で……」
「その子がケガしてるって?」
「はい」
「やばいじゃん」
「だから、やばいんです」
- 111 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時17分45秒
- 「――ちょっと待ってちょっと待って、意味わかんない。血を出してるのって
人間なわけ? 動物とかそういうのじゃなくて?
ちょっとちゃんと、わかるように話してよ」
「あの、これあくまでも、そういう可能性があるっていうだけの話しですよ?」
「いいから話して」
「私たちだけでいるのが滅多にないって、吉澤さんさっき言いましたよね。
ユニットもぜんぜん違うし、シャッフルユニットのときもそうです。
二人だけで仕事をする機会って、今までありませんでしたよね?」
「なのにその私たちが一緒にいる。二人きりで。
そっちの方がなんか不自然だと思いませんか?」
「不自然?」
「そうです。私たちが一緒にいるのに他に誰もいないっていう状態が、です。
だって私たちが一緒に仕事をするときって、「モーニング娘。」本体の、
みんなでする仕事のときだけじゃないですか」
- 112 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時18分24秒
- 「……だから、他のメンバーもいるはずだ、って言いたいわけ?」
「はい」
「まじで?」
「可能性は、あると思います」
「それじゃ――調べに行くしかないじゃん」
「そうなりますね」
- 113 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時19分03秒
- 「――えっとじゃあ、手をつないでください吉澤さん。一人で歩くと
平衡感覚を、バランスを崩すかもしれないですから」
「オッケイ」
「どうします? 私、先に行きましょうか?」
「え、ああいいよ、私が行く。紺野はついてきて」
「はい」
「それでその、どのあたりにいるかわかってるの?
やっぱり声出して名前とか呼んだ方がいいのかな?」
「名前を呼ぶって、あの――」
「あ、そっかわかんないよね名前。誰がいるのかもわかってないんだし」
「はい、……そうですね」
- 114 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時19分38秒
- 「でも、さっき壁ぎわをぐるっと回ったとき、誰かいるような気配は
全然しなかったからさ、きっと壁ぎわにはいないと思うよ」
「はい、それに最初に私がいた位置から吉澤さんがいた位置までにも
いないとはずです。
相手が動いてなければ、の話ですけど」
「あーそっか、そうだよね。動いちゃうとダメか」
「でも一応は、そこにはいなかったと仮定して、
まずはそれ以外のところから調べてみましょう」
「わかった」
- 115 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時20分08秒
- 「今だいたい最初にいた位置にいますから、吉澤さんが回った壁ぎわの方へ
少し移動して、そこから正面の壁に向かって行きましょう。
スペースはそっちの方が広いはずです」
「よくわかんないけど、紺野がそれでいいならそれでいいよ」
「それでいいんです」
「これ、つま先でさぐるような感じでいいよね、場合が場合だし。
蹴っちゃったらごめんなさいで」
「はい。あ、でも吉澤さん、転ばないようにしてくださいね」
「ガラスとか落ちてるからね」
「はい」
- 116 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時20分41秒
- 「――紺野、ちょっと聞いてもらっていい?」
「なんですか」
「考えたんだけど、どうしてここにいるのか思い出せないのって
やっぱりへんじゃない?」
「へんですよ」
「血とかそういうこと聞いてるとさ、これもなんか、わざととういうふうに
されたんじゃないのかなって思うんだけど?」
「記憶をどうにかされた、とか」
「そうそれ」
「でも記憶をどうこうするのは、きっと難しいと思いますよ。
二人の記憶を同じぐらい奪うっていう」
「無理かな?」
「ちょっと無理だと思います。
思いますし、そうすることに意味っていうか、理由がないと思うんです」
「理由、……ねぇ」
- 117 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時21分18秒
- 「――と、壁だ。
どうしようか紺野、ちょっと横にずらして、折り返しで来た道もどってみる?」
「いえあの、今度は私が回った壁の方に行ってみませんか?
やっぱり私、回ってるとき歩数を数えるのに夢中になってて、まわりのこと
把握できてなかった気がするんです」
「そうなの?
それじゃこのまま右に曲がって、壁ぞいをちょっと歩けばいいよね?」
「あ、はい。吉澤さんの歩幅で……、だいたい十歩ぐらい行ったところで
右に折れてください」
「オッケイ」
- 118 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時21分52秒
- 「――はち、九、十、と。このへんでいい?」
「はい」
「右に折れる、と。
ここから壁ないから紺野、手、またつなぐんでしょ?」
「そうです。
……とと、あ、すいません。はい、大丈夫です」
「このへんちょっとガラスがすごいからさ、紺野、転ばないようにね」
「はい」
- 119 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時22分34秒
- 「――あのさ、なんか嫌な予感してきたんだけど」
「はい?」
「いや予感っていうか、臭い、なんかちょっときつくなってきた感じ
しない?」
「そういば、……しますね」
「ねえ先にきいとくけど、動物かなんかと人間と、紺野はどっちの確率が
高いと思ってる?」
「血を流してるとしたら、ですか?」
「そう」
「普通に考えたら動物です圧倒的に。
それも、動物の本体があるとかそういうことじゃなくて、その、血だけが
あるっていう」
「それはそれで、なんか嫌だね」
「人間がいるよりはましですよ、部屋に充満するぐらいの血を出してたら
たぶん……」
「死んでる?」
「はい」
- 120 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時23分05秒
- 「あー、今嫌な音聞こえた」
「……しましたね、音」
「ベチャっていった」
「……はい」
「ねえこれってやっぱり血なのかな? 踏んづけてるの」
「たぶん……。
いちおう確認してみますか、指で触ってみて?」
「いや!
いやいいよ、そんなの、べつにやんなくても……」
- 121 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時23分35秒
- 「紺野ぉ、なんか本体ある感じだよこれ。なんかある。
けっこう……、重いのが」
「え? あのどこですか?」
「こっちこっち。ちょっと引っ張るよ……、っとと。
ほら、ここ」
「あっ、わっ! え、ほんとに?」
「ほんとに、ってあんた、自分で言ってたじゃん。本体あるかもって」
「それは……、そうなんでですけど。
でも実際にこうやってあるとは思ってなかったし……」
- 122 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時24分23秒
- 「べつにどうでもいいんだけどさ。でもこれ生き物だったら絶対……、
死んでるよね」
「はい、あ、……死んでますよね」
「ぜんぜん動かないし」
「それにこれ、かなり重くて、大きくないですか?」
「うん」
「あの、調べてみてもいいですか、ちょっと触るぐらいですから」
「少しならいいけど……、でも、紺野あんた恐くないの?
なんにせよこれ死体だよ?」
「ちょっと、恐いです。でも、本当に恐いっていうのは、きっと何も知らない
状態だと思うんです。
このまま、何もしないまま放っておいたら、私たちの方が
おかしくなるかもしれないから……」
- 123 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時24分54秒
- 「えっと、まずは深呼吸をして、と。
吉澤さんいったん手は離しますね。倒れるといけないからどこか血のない
ところでしゃがんでいてください」
「わかった」
「血がかなり広がってましたから、かなり大きい生き物だっていう気は
してたんですよね。
でも、だったら種類が限られてくるから……、たとえば犬、はちょっと
小さすぎるかな」
「ブツブツ言ってないで、はやく済ましちゃいなよ」
「……すいません」
- 124 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時25分31秒
- 「じゃあちょっと触ってみますね。
これは、毛かな? けっこう毛足が長い、馬のたてがみみたいな感じで、
濡れてます。
これがたぶん、血、かな……」
「え、なに、馬なの?
なんでもいいけど、あんまり余計なとこ触らないでよ」
「ねえ、紺野」
「ねえ、紺野ってば」
「おーい、紺野ぉ、聞こえてる?」
「……はい、聞こえてます」
- 125 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時26分04秒
- 「聞こえてるなら返事ぐらいしなよ。なに、どうかした?」
「あ、いえあの、はい。こ、これ、……この人、服、着てるんです。
人間みたいなんです、これぇ!」
「ニンゲン?」
「はい、あのだから、死体なんです。これ人間の死体なんです!」
「――紺野ちょっと、こっちに来て。声のする方、わかるよね?」
「あの……」
「いいからちょっと来て!」
「はい!」
「こっち、そう、手を出して」
「あ、はい……」
- 126 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時26分45秒
- 「ちょっ――あんたこれ手についてるの、血じゃないの?」
「これはその、調べたときについたんですけど……」
「もう、ちょっといいから、一回ここに座りな」
「あの――」
「言ったじゃん、余計なことするなって。
それでなくても私たちがいないってだけで迷惑かけてるのに、
こんな、人が死んでるとかそういうのに関わったら、どれだけ迷惑かけると
思ってんの?」
「それは……、はい、すいません」
「私たちが――「モーニング娘。」が死体と一緒にいるってだけで、どれだけ
印象が悪くなるかわかるよね? みんなに迷惑かけるか、わかるよね?
なのに手は血だらけにしてる、死体にはべたべた触ったあとがある、ってもう
最悪じゃん」
「……ごめんなさい」
- 127 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時27分15秒
- 「もう謝ってどうなるって段階じゃないよ、絶対新聞に載るし、雑誌にも載る。
あー、クソッ! なんでこんなワケわかんないことになるんだよ!」
「吉澤さ――」
「あんたのせいだからね!
全部あんたが悪いんだから。余計なことばっかりして、最初からずっと
座っておけばこんなことにはならなかったのに」
「ごめんなさい……」
「あんたが謝ったってしょうがないって言ってんじゃん。聞いてんの?
けどもういいよ、どうしようもないから。
とりあえず近くの壁ぎわに座って、誰か助けに来てくれるのを待つ。
一切動かないで、じっと助けを待つ。
それでいいよね?」
「あ、……はい」
「ほら、手、出しな」
「……でも血が」
「別にいいよ、私は袖口つかむから。そこまで血とかついてないんでしょ?」
「たぶん」
「じゃあはい、手かして」
- 128 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時27分57秒
- 「――手の汚れ、それ壁にこすりつけるとかなんとかして、
きれいにしといた方がいいよ」
「あ、はい」
「それとさっきのさ、ちょっと言い過ぎたから、その、ごめん」
「いえあの、そんな……」
「けどマジな話し、覚悟しといた方がいいよ、ここ出てからのこと。
いろいろたいへんだと思う」
「それは、……そうですよね」
「人とか死んじゃってるし。
事務所がどうこうしたって、もう無理なんじゃないかな。
ちゃんとマネージャーの言うこと聞いときなよ」
「はい」
- 129 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時28分34秒
- 「それで、ちょっとへんなこときくけどさ紺野」
「なんですか?」
「あそこにあったのって、ホントに人間だったんだよね?」
「え、どういう意味……」
「たとえば、あれが人形だったとか、そういうことってない?
全然見えない中で、ちょこっと触っただけなんだよね? だから
そういうこと、ない?」
「えっと、間違いなく、……人間だったと思います」
「まじで?」
「まじです。
あの、肌とか髪の毛とか触った感じが、もう「人間」って感じでした」
「人間、って感じ?」
「はい「人間」っていう……」
- 130 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時29分04秒
- 「あの、くわしく話しましょうか?」
「くわしく調べたの?」
「あ、……すいません」
「まあ、もういいよ済んだことだし。まずはちょっとそこに座ろうよ。
話しはきくからさ」
「すいません。
えっとまず最初に触ったのが髪で、サラサラしてて、肩か胸元のあたりまで
長さはあったと思います。
だから女の、女性だと思います」
「それで、その髪が半分――違うもっとかな、血で、濡れてました。
血だったと思います。臭いとかそういうので、間違いなく」
- 131 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時29分35秒
- 「それから腕をさがして、脈をとろうとしたんですけど、こう、ヒジの関節が
固まってきてて。たぶん死後硬直だと思います。
脈もありませんでした」
「死後硬直って、アゴからはじまって腕、足っていうふうに上から下に
固まっていくんです。
固まりはじめるのが死後二時間から三時間、全身が固まるまで八時間ぐらい
かかります。死後十五時間で一番固くなって、三十時間ぐらい経つと今度は
だんだんやわらかくなっていくんです」
「だからあの死体は、死んでから三時間ぐらい経ったもので――」
「紺野あんたよく知ってるね、そういうの」
「あ、これ「名探偵コナン」っていう漫画で読んだんですよ。死後硬直の
お話しがあって。
だからほとんど受け売りなんです」
「それ私も読んだことあるよ。弟が持っててさ、借りた。
けど死後硬直がどうのっていうのは、おぼえてないなぁ……」
- 132 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時30分12秒
- 「あの、いいですか?
それでえっと、服を、そう、服を着てたんです。
触った感じでしかわからないんですけど、あれたぶん、私たちと同じ
素材の、ジャージだったなんじゃないかって思うんです。だから――」
「だから?」
「他のメンバーの誰かっていう可能性が……」
「あるの?」
「はい」
「さっき言った通りです。私と吉澤さんだけでする仕事っていうのが
ちょっと考えにくいし、それに、メンバーでもない部外者が私たちと
同じジャージを着てるっていうのは、やっぱりおかしいと思うんです」
- 133 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時30分45秒
- 「あと、これはちょっと「死体が誰か」っていう問題ではないんですけど……」
「まだ何かあんの?」
「はい」
「たぶん死んでる人、この女の人は、殺されたんじゃないかな、と……。
あの、ぜんぜん勘っていうか、推測なんです。けど――」
「紺野あんたちょっと漫画読み過ぎじゃない? コナン君のさ」
「あ、でも」
「考えてみなよ。部屋の中に死体がある。部屋の中にいるのは私たち二人だけ。
で、今のところ出入り口は見つかってない。
この状況で、「殺された」って言うんなら、やったのって――」
「私と吉澤さんのどちらか、
としか考えられないんですよね」
- 134 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時31分32秒
- 「そんなのありえないよ、私やってないし」
「私もやってません」
「じゃああの人は殺されてません。はい、この話し終了」
「え、あの待ってください。もし殺されたんじゃないとしたら、
事故か自殺か、ですよね?
でもちょっと考えられないんですよ、あんなに血が広がるまで出るような
死に方っていうのが」
「ねえ紺野、「死に方」とかって、あんたまさかそういうのまで調べたんじゃ――」
「……すいません」
「もう、まじで知らないからね。弁護とかしないから」
「……はい」
- 135 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時32分07秒
- 「けどさ、あんたよくそういうのできるね。
気持ち悪くないの? 血とか。人が死んでるんだよ?」
「それは……、そうなんですけど。
たぶん目が見えてないっていうのが大きいんだと思います。実際、頭の中で
想像して、思い描きながらだから、あんまりリアルに感じないいっていうか……」
「まあどっちでもいいや、私は弁護しないから」
「あ、……はい」
「それで、話しをもどすんですけど」
「は、もどすの?」
「だめですか?」
「いや別にもうどうでもいいんだけど……。けど、私は殺してないし、
紺野が殺したとも思ってない。それだけは言っとくから」
「はい」
- 136 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時32分48秒
- 「死因は――死んだ理由ですね、はじめはあれだけ血が出てるんですから、
どこか主要な血管が切れた失血死かと思ってたんですけど」
「シッケツシ?」
「えっとあの、血が出すぎると死んじゃうっていう……」
「あー、わかったわかった、シッケツシね。シッケツシ」
「傷はありました。肩から首にかけていくつか。
血はたぶんそこから出たんじゃないかと思います」
「じゃあシッケツシじゃん」
「いえあの違うんです。私も最初そうかなって思ったんですけど、
頭の、あれは後頭部なのかな、後ろのところがへこんでて……」
「あんたそこ触ったの?」
「はい。
だから、頭蓋骨陥没による脳挫傷。これってふつう、こういう室内での事故とか
自殺だと起こるはずがない死に方なんです」
- 137 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時33分38秒
- 「紺野が触ったとかそういうのはもう無視するけどさ、今まで言ったのが全部
ホントだったとしたら、……どういうことになるの?」
「あの人は、二時間から三時間前に、誰かに頭を殴られるかなにかして殺された、
っていう……」
「事件じゃん」
「はい、事件なんです。
それも、たぶん一番疑われるのは私と、吉澤さん……」
「それってやばいよね?」
「かなり、やばいです」
- 138 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時34分09秒
- 「え、じゃあどうしよ、逃げる?」
「逃げるってあの、ここから出られないじゃないですか。
それにもう指紋がいろんなところにベタベタついてると思うし」
「それじゃどうすればいいんだよ!」
「単純ですよ。吉澤さんも私も人なんか殺してない。だったら、他の誰かが
殺したんです。
誰かまだ、犯人がこの部屋の中にいるんですよ」
「ねえ、そっちの方がやばくない?」
「あ、……そうですね」
「私たちが襲われたりとか、しないかな?」
「それは……、たぶん大丈夫だと思います。まっ暗なのはみんな同じですから。
この状況で正確に位置を把握して攻撃するっていうのは無理です。不可能です」
「じゃあまっ暗なうちは安全ってことでいいのね?」
「はい。ただ――」
- 139 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時34分49秒
- 「ただ、ってなによ紺野。なんかまた不吉なこと言うつもり?
……ねえ聞いてる?」
「――あ、はい、聞いてます。そうですよね、まっ暗な状態は安全なはず
なんですよね」
「なにそれ?
自分で言ったんじゃん、正確に攻撃できないって」
「そうなんです。そうなんですけど……、
じゃあどうして――どうしてじゃないか、どうやってあの人は殺されたんだと
思いますか?」
「頭殴られたんでしょ? それもさっき言った」
- 140 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時35分46秒
- 「はい。じゃあどうやって、そこに、その位置に頭があるって、犯人には
わかったんでしょうか?
このまっ暗な状況で、です」
「暗いとこでも見える、なんかそういう装置とか使った、とか」
「いえあの、もっと単純に、
あの人が殺された段階では、この部屋は暗くなかった、っていう……」
「あー、そっか。なるほどね」
「順番を言うと、殺された人と犯人がこの部屋に来る。犯人が頭部を殴って殺す。
部屋がなんらかの理由でまっ暗になる。
まっ暗になる前に、もしかしたら犯人はこの部屋から出て行ったのかもしれません」
「だといいね。
でもさ、それって私たちはどの時点でこの部屋に入ったわけ?
人が殺されるのぼーっと見てたとか?」
「それは……、わかりません。
そのときの記憶が私にも吉澤さんにもない――ないんですよね?」
「うん」
- 141 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時36分30秒
- 「ただ、そのときの記憶がないっていう事実それ自体に、きっとなにか重要な
意味っていうか、証拠みたいなものがあるような気がするんです」
「記憶がなくなるような、出来事?」
「はい。
誰が、何が私たちの記憶を奪ったのか、です」
「――紺野さ、いい加減考えるのやめたら? さっきからずっとぶつぶつ言ってるの
それちょっときもいよ」
「……え、あ、すいません。
でも考えてないとなんか不安になるっていうか」
「犯人わかりそう?」
「それは……、たぶん絶対にわからないと思います。
犯人っていう人物像を特定する材料がまったくないですし、本当にこれが
殺人事件なのか、っていうことさえわからないですから」
「じゃあなんで?」
- 142 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時37分10秒
- 「なんていうか、落ち着ける結末をさがしてるんですよね。
今ある情報の、その全部、なにもかものつじつまが合って、私と吉澤さんが
死体と一緒に発見されても何の問題もないっていう、そういう結末を」
「それでどんな感じなの、わかってる範囲でさ」
「はい、えっとさっきも言いましたけど、犯行自体は二時間から三時間前、頭を何かで
殴られたんだと思います。その時点ではこの部屋は明かりはまだ点いていました。
ただ、そのとき私と吉澤さんがこの部屋にいたのかどうかはわかりません」
「でも「いた」って考えた方がいいのかな。記憶を奪うような衝撃的な出来事が
あったったとすると、それって視覚的な、えっと目で見視覚的な部分が大きいと
思うんですよね。
私が死体に触れたのとは逆で。目の前で殺人があった、だからその記憶を
心の奥にしまっておこうとした。そこで何らかの理由で部屋の明かりが消えた。
と、これならスジがとおる、かな」
- 143 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時37分51秒
- 「けどそうなると私たちって事件の目撃者になるわけですよね。それに、犯人がまだ
この部屋にいるっていうことにもなるし……。あ、でも犯人はだいたいこの部屋の
位置関係とかわかってるはずだから、出ようと思えば出れるか……。
でもやっぱりちょっと、違うなあ……」
「あのさ、ここから出れたら、ちょっとぐらいなら弁護したげてもいいよ」
「え?」
「だからあんまり根を詰めないようにしなよ、知恵熱でるから」
「出るんですか、吉澤さん?」
「たまにね」
- 144 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時38分33秒
- 「――ねえ、ちょっと聞いていい?」
「なんですか?」
「紺野って推理小説とか読む?」
「小説はあんまり。漫画はけっこう読むんですけど……」
「そっか……、
ねえ、いちおうきくけどさ、赤川次郎って知ってる?」
「名前は聞いたことありますよ。えっと、三毛猫ホームズ、でしたっけ?」
「そうそれ。なんだ、知ってるんじゃん。
それでその三毛猫ホームズのシリーズの中にね、部屋の中で転落死する
っていう話しがあるんだけど」
「部屋の中で転落死、ですか?」
「うん。
タネあかしすると、部屋をクレーンで吊って端から端に人が落ちてくっていう
ヘンな話しなんだけど、これって使えないかな?」
「クレーンで吊り上げるんですか? この部屋を?」
「そ」
- 145 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時39分10秒
- 「……あの、結論から言うとですね、たぶん不可能だと思います」
「えー、なんでさ。
頭を殴ったんじゃなくて、ゴーンって落ちてぶつけた。
なんか良さそうじゃん」
「えっと、その「ゴーン」っていうのがまず問題だと思います。
部屋を吊り上げるのも相当な音がするでしょうし、致命傷になるぐらいの落下を
したとしたら、それが地面――この場合は壁ですか、とにかくぶつかったときの音は
かなり大きいはずです」
「うん」
「ここがまわりに何もない、それだけの音がしても誰も異変を感じないところだったら
まだしも、私と吉澤さんが仕事で行ける範囲にそんな場所ないと思うんです」
- 146 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時39分41秒
- 「埼玉にあるよ、何にもない場所とか……」
「次にふたつ目です。
私と吉澤さんと死体のあった場所の位置関係です。死体は部屋のほとんど中央に近い
位置にありました。
私と吉澤さんも離れていましたけど、中央付近。
もし吊り上げて落下したとしたら、少なくとも私たちと死体は同じ壁ぎわにいるはず
なんです」
「じゃあ、一回吊り上げて元にもどして、そこに私たちが来た、とか」
「それもちょっと考えにくいです。
クレーンで吊ってもどした部屋に、私と吉澤さんが入る理由がありません」
「うーん……」
- 147 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時40分21秒
- 「――あっ」
「なに? どうかした紺野」
「あのすいません、ちょっと黙って」
「え? なになに、なによ。
まさか犯人の足音が聞こえたとか言い出すんじゃないでしょうね?」
「いえあの違います、なんかこう、事件が全部、わかったような気がして……」
「は? まじで? すごいじゃん、教えてよ!」
「あのだからすいません、まだ考えがまとまってないので静かに、その」
「あ、……ごめん」
「えっと、……そう、問題はこの部屋だったんですよ。ドアも、窓もない部屋」
「部屋?」
「はい。それから、さっき吉澤さんが言った、吊り上げるっていう発想です」
- 148 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時41分04秒
- 「不可能ですって言ったじゃん紺野」
「あ、はい。あれは不可能です。ただ、建物自体をどうこうするっていうポイントは、
たぶん正解だったと思うんです」
「建物自体をどうこう、ってなにそれ?」
「あの、おかしいと思いませんか? この、床と壁の触感が同じっていうの」
「ショッカンってまた難しいことを……」
「えっと、触った感じです。材質っていうのかな、軽くノックした感じがほら、
まったく同じ」
「あ、ホントだ。でもそれが?」
「吉澤さん、この部屋に一番多く散らばってた物ってなんだが覚えてますか?」
「え、なにクイズ?
わかんない。死体、とかじゃないよね」
- 149 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時41分42秒
- 「違います、ガラスです」
「ガラスって……、まあ、たくさんあったけどさ」
「それって何のガラスだと思います?」
「またクイズ?
何のガラスって、花びんとかかな……」
「部屋の四つの壁には窓がありませんでした。でも本当にこの部屋、
窓がなかったんでしょうか?」
「窓……、
って、あんたまさかそれ!」
「はい、たぶんその「まさか」です。あのガラスは「窓ガラス」だったんです」
「じゃあなに? 私たちが今座ってる床って……」
「たぶん、窓際の壁、なんだと思います」
- 150 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時42分24秒
- 「部屋を縦に吊り上げて転落死、これはさっきも言ったようにありえません。
じゃあ、もし窓のある壁を下敷きにするように90度回転したとしたら。
もっと正確に言うと、回転したんじゃななく、この建物自体が横倒しに倒れたと
したら」
「倒れた?」
「ビルを想像してみてください。
ちょうど中央、両側を部屋にはさまれた一室は、窓が四つの壁のうちひとつにしか
ありません。入り口のドアは窓の反対側の壁です」
「そのビルが、窓を下敷きになるように倒れたとしたら。
窓のある壁が床に、ドアのある壁は天井になるんです。だから、
この部屋のどの壁にもドアがなかった」
「下敷きになるように倒れるってあんた――」
「たぶん地震かなにかが起こったんだと思います。それもかなり大規模な。
その信じられない衝撃で、私と吉澤さんは記憶を失った。
明かりを点ける電流ももちろんストップしたはずです」
- 151 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時42分55秒
- 「でもそうだったとしても、死体とは関係ないじゃん。
あの人、誰かに頭を殴られたんでしょ?」
「頭は殴られたんです。この部屋の窓ガラスに。倒れてくるこの建物からの一撃を
あの人はくらったんです。首の傷はそのときについた」
「それじゃあの人って……」
「はい、あの人はそのとき、「建物の外」にいたんです」
「たまたまこの建物の外にいたあの人――名前もわからないんですけど、地震で
倒れてくるその下敷きになって、窓を突き破ってこの部屋に入ってきたんです。
突き破ったときに頭蓋骨が陥没、割れたガラスで首のまわりが切れたんだと思います」
- 152 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時43分29秒
- 「音は?
ビルが倒れたんだったらすごい音がするはずじゃん、クレーンで吊るとかよりも
ずっと大きい音が」
「したんだと思います。ただ、ビルが倒壊する規模の地震だとすると、周りの人が
どうこうっていうレベルじゃもうないんです」
「なんていうか……、大地震なんて、ちょっと簡単には信じらんない」
「でも、吉澤さんのクレーン作戦よりは、まだちゃんとスジがとおってると
思いますよ?」
「それはまあ、……そうだよね」
「それにこれだと、犯人の存在が消えてなくなるんです。
だから安心できるじゃないですか」
「安心、ねえ……」
- 153 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時44分01秒
- 「じゃあもうそれでいいや。
大きな地震が起きて、全部事故だった。でもそしたらさ、私たち今やばくない?
この部屋、倒れたビルの下にあるってことでしょ?」
「あ、はい。けっこうやばい状態だと思います。
私たちが待ってる「助け」っていうのも、本当の意味での「救助」っていう
ことになりますから」
「やばいよね」
「やばいです、でも、やっぱりここでじっとして、救助を待ってるしかないと
思います。出口のドアが今は、あの、天井になってるわけですから」
「じっとしてなきゃいけないことにかわりはない、か」
「はい」
「じゃあ私ちょっと寝るから、紺野も眠くなったら私の肩に
もたれかかっていいからね」
「え、あの、寝るんですか?」
「寝るんですよ。
だからちょっと、肩かして」
「あ……、はい」
- 154 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時44分32秒
- 「――ねえ、紺野起きてる? ねえってば」
「あ、はい、起きました、……けど。
なんですか?」
「なんか、音、聞こえない?」
「音ですか?」
「……あ、しますね、音。何の音かなこれ」
「ガリガリってさ、削ってる感じ。
これって救助の人じゃないかな? ねえ救助のほら、消防署とかの人がさ
ビルの壁を削ってるの」
「あ、はい、たぶんそうです。そうだと思います」
- 155 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時45分17秒
- 「じゃあやっぱり紺野が言ってたとおりなのかな。大地震とかって、
部屋の外どうなってるんだろ」
「ねえ紺野、外、どうなってるのかな」
「紺野?
あんたなに、立ち上がって」
「あの、ちょっと調べておきたいことがあるんです。人がくる前に。
人が、救助の人がきたらもう、死体を調べられないから」
「ちょっ、紺野待ってよ、待ってってば!」
「すいません、すぐにもどりますから!」
*
- 156 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時45分47秒
- 右手の中にあった感触がふいになくなる。
部屋の外から聞こえるガリガリという音は、すでに耳障りなほどに大きく、
すべてがかき消される。
聴覚を失った私は、もう何度目になるのか、パニック状態に陥っていた。
もちろん、紺野の手、紺野という存在を見失ったこともある。
しかしそれ以外にも何か、漠然とした不安が、私を急かしていた。
壁に手をつき立ち上がる。
音は部屋中に反響していた。しかし集中してその出どころをさぐってみると、
最初に紺野が調べていた壁の向こう側から聞こえてくる。
ここからは少し距離がある。
私は壁についた手を離せないまま躊躇した。
- 157 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時46分27秒
- 頭の中でイメージするガラスの破片。その川を支えもなく転ばずに
私はわたりきれるのだろうか。
握りしめたもう一方の手がじっとりと汗ばむ。
そのときある光景が、連続して脳裏に浮かび上がってきた。
止めることなどできない。
せきを切ったようにそれは頭の中を埋め尽くしていく。
そして私はようやく、すべてを理解することができた。
何もかも、すべてを――。
- 158 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時47分15秒
- 「紺野!」
思わずそう叫んでみたが返事はない。
死体を調べてくると、一人行ってしまった紺野。
彼女は何の支えもなしに、この暗闇の中、ガラスの川をわたることが
できたのだろうか。
答えは「ノー」だ。
では彼女はガラスの中、傷を負い、のたうっているのだろうか。
しかしその答えもまた「ノー」。
ガラスは確実に存在するが、彼女はそれで傷つくことはない。
彼女に天性のバランス感覚があるなどという話しは聞いたことがない。
だとすると、残された可能性はひとつだ。
- 159 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時47分54秒
- 紺野にとってこの部屋、この空間が暗闇ではなかったとしたら。
言い換えれば、この部屋を暗闇だと認識しているのが私だけだったとしたら。
すべてのつじつまが合うのではないだろうか。
彼女自身が言っていたとおり、問題はこの部屋にあったのだ。
この部屋が暗闇であるということ、それを成立させていたのは、
私の視覚がないという事実と、そのことに同調する紺野の発言だけだった。
もし彼女が私にあわせて返事をしていただけだとしたら。
この部屋が暗闇であるという事実はあっさりとくつがえされてしまう。
たんに私が視覚を失っているだけ、という状況へと。
- 160 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時48分40秒
- では私はいつ視覚を失ったのか。
簡単だ。後頭部をおさえて意識をとりもどしたあのとき、あの痛みで
私は視覚と、そして記憶を失った。
後頭部を殴られて、失ったのだ。
もちろん、紺野が記憶をなくしたと言っていたのはでたらめだろう。
私に話しをあわせただけだ。
なぜ彼女はそんなことをしたのか。
記憶喪失のふりをし、この部屋を暗闇にさせた。
- 161 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時49分10秒
- その答えも容易にわかる。
彼女にはつじつまの合う結末が必要だった。
死体と一緒に発見されても疑われることのない結末が。
そしてその結末を補強するための証言者という立場、役柄を、
私はあてがわれたのだろう。
しかしその配役は、私が視覚と記憶を失っていたからこそ、
急きょまわってきたというだけで、当初、私にキャスティングされていた役は
被害者――。
本来なら二体あるべき死体の一方が、私だったのだ。
- 162 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時49分53秒
- 女性を殺し、私の頭を殴りつけた犯人は紺野。
それが私の得た結論だった。
軽いめまいをおぼえながらも、私は壁づたいにゆっくりと歩き出した。
音のする方向へと。
指先にざらざらとした感触。
しかし数歩もあるかないうちに、壁の向こうの音はやんでしまった。
立ち止まる。次の瞬間、視界そのすべてが白い光りに埋め尽くされた。
眼球の裏を焼かれるような鋭い痛み。
ぎゅっと閉じた目の前に手をかざす。
- 163 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時50分32秒
- 声が聞こえた。男の人の声。
指の間を覗き込むように目をうっすらと開く。しかし、私は視覚を
失っているはずなのだ。見えるはずがない。
けれど私の目がその視界を得た瞬間、つい先ほどたどり着いた結論は
もろくも崩れ去った。
おぼろげに浮かぶ光景。暗闇を四角く切りとった白い輝きの中に、
こちらへ声をかけてくる人の姿がそこに確かにあった。
私の目はずっと見えていたのだ。
- 164 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時51分08秒
- 壁から手を離すと、おぼつかない足取りで彼らの方へと向かう。
混乱の度合いは頂点に達し、もう何も考えることができない。
いつの間にか、白のヘルメットとオレンジ色の制服姿の――これは
レスキュー隊員か、男性が目の前に立っていた。
両肩を抱きかかえられる。
体中の力が抜けていく。「助かった」という安堵感があふれ出してきた。
- 165 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時51分50秒
- そしてようやく、私は後ろを振り返った。
私の目は見えている。
アスファルトの打ちっ放しの空間、想像していたよりもはるかに低い天井。
砕けたガラスの破片や、折りたたみ式の椅子、机が雑然と散らばっている。
――そのとき、頭の中でなにかが音を立ててうごめいた。
部屋の中央にある血だまり、そこから床一面、なにかを引きずったような
赤黒い血の跡がある。
――ああ、違うんだ。
- 166 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時52分20秒
- そしてその蛇がのたうったような血痕の終りに、壁にもたれかかるようにして
一体の死体があった。ジャージ姿に運動靴の。
――ようやく気がついた。
それ以外に、この部屋には何もなかった。
誰も、いなかった。
- 167 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時53分02秒
- 耳の奥で声が聞こえる。
『あの、誰か、誰かいるんですか?』
『あ、そうだ、吉澤さん頭、頭打ったのっていうのは……』
『本当にちょっと落ち着いてください、ちゃんと、ゆっくり、話してください。
聞いてますから』
『吸って〜、吐いて〜。ほら吉澤さんも、吸って〜、吐いて〜』
『吉澤さん、あの……、手、つなぎませんか?』
『吉澤さんこそ、いつもそういうことばっかり考えてるんですか?』
『なんていうか、落ち着ける結末をさがしてるんですよね……』
そう、
あれはみんな、「私」の声だ――、
- 168 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時53分33秒
- *
指示が出たのか、掘削機が後退して少し離れた位置でエンジンを止めた。
崩落した天井部分のコンクリートはすでにそのほとんどが取り除かれている。
残りは手作業でも十分だと判断したのだろう。
レスキュー隊員が数人、シャベルを片手に、本来なら地下一階の通用路にあたる
その瓦礫のくぼみへと身を躍らせた。
心なしかその横顔は、いつも以上に鋭い緊張をはらんでいた。
一報があったのは正午過ぎのことである。
都内某所にある雑居ビルの一階部分が沈下した、とのこと。
建物の老朽化が原因か、あるいはなんらかの事件なのか、報道をはじめ関係者各位に
緊張がはしった。
- 169 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時54分23秒
- そしてそのビルに「モーニング娘。」のメンバー数名が閉じこめられているという
知らせが入るとともに、それは一気にピークに達する。
陣頭指揮をとる大隊長は恨めしそうに上空をあおいだ。
ヘリコプターが3台、おそらくどこかのテレビ局のものだろう、旋回している。
失敗は許されないのだ。
ビル一階部分は天井が落ち、そのまま地下一階を三分の一ほど
押しつぶすかたちで沈下している。
「モーニング娘。」のメンバーがいるとされているのはその地下一階、
通常彼女たちがダンスレッスンに用いている一室だという。
建物の外周を縁取るようにしてある通用路の壁を外側から掘削機で切り崩し、
そのまま崩落した天井と床部分を取り除いた。
残りの、直接部屋に接している部分からは手作業となる。
細心の注意をはらって作業は行われ、すでに最初の一報から三時間が
経とうとしていた。
- 170 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時54分57秒
- ほどなくしてドアが発見される。
地下のフロアは大小あわせて合計で4室、ダンスレッスンに使われていたのは
そのうちで最も大きい部屋だ。
倒れた壁面に隠れるようにしてあったそのドアを目の前に、レスキュー隊員は
一度、お互いの顔を見やった。
中で彼女たちの一人でももし死者がいれば、かたちはどうあれすべて自分たちの
責任になる。責任にされるのだ。
年配の、ベテランの域に達した隊員がゆっくりとドアへと向かう。
袖口に貼り付けた写真を確認する。
「吉澤ひとみ」と「紺野あさ美」、まだハタチにも満たない少女だ。
- 171 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時55分30秒
- 「生きていてくれよ……」
つぶやくようにそう言って、ドアノブを引いた。
壁自体にも歪みがきているらしく、ギリギリと音を立て、ドアは思いのほか
ゆっくりと開いた。
断線しているのか部屋の明かりは完全に消えている。
そして、目の前に少女が一人、こちらへ手をかざして立っていた。
安堵感が胸のあたりでじんわりと広がる。
「おい、キミ、大丈夫か?」
まぶしいのか、彼女はなかなか手をどかそうとしない。
思わず両肩をつかんだ。
「おい大丈夫か? ケガは、ケガはないのか?」
- 172 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時56分04秒
- 少女がようやく手をどけた。
ぼんやりとした、大きな目がこちらを見ていた。
視線がすれ違う。
一瞬ではあるがその目を見て、隊員は言いしれぬ不安に襲われ、
かける言葉を失った。
すでに彼女は背後を振り返ってしまっている。今の表情はわからない。
あの目は何だったのだろう。
濁った、まるで生気のない目だった。
- 173 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時56分40秒
- 次の瞬間、がくんと両手の中で彼女の力が抜けた。
あわててそれを支えながら、顔をこちらに向かせる。
おびえたような顔つきでこちらを見て、何ごとかを伝えようとしてか、
唇をわなつかせている。
しかしその口からは何の声も聞こえてこない。まるで、ノドを酷使して
潰したかのように、ヒューヒューと呼吸音だけがむなしく繰り返される。
「大丈夫、もう何も言わなくていい、助かったんだ!」
袖口の写真でもう一度、顔を確認した。
「助かったんだよ。キミは紺野、紺野あさ美ちゃんだね?」
*
- 174 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時57分23秒
- 「ねえ、聞こえてる?」
「ねえ、聞こえてる?」
「ねえ、聞こえてるんでしょ?」
「……はい」
「そう、じゃあはじめるわね」
「……はい」
- 175 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時58分07秒
- 「どうしてあんなことしたの? 話してくれる?」
「……わかりません」
「吉澤ひとみさんのことが、憎かった?」
「……わかりません」
「そう……。
でもあなたは吉澤ひとみさんを殺したのよ」
- 176 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時58分40秒
- 「報告書によると……、凶器はガラスの花びん。あの部屋にあったものね。
それであなたは殴りつけたの、彼女を、後ろから」
「……わかりません」
「ビルの事故があったのはたぶんそのあとね。一番最初にしたあなたの推理、
あれでよかったの、正解だったのよ」
「……わかりません」
「でもどうしてあなたは、そんなことしたの? それにそのあと吉澤ひとみさんの
遺体を引きずり回すなんてことしたの?」
「……わかりません」
- 177 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時59分22秒
- 「そう……、
でも私はわかってるわ。だって、私はあなただから。
私は紺野あさ美、あなた自身なんだから」
「あなたはきっと吉澤さんがうらやましかったのよね? 吉澤さんになりたかった。
そうでしょ?
吉澤さんはいつも怠惰で、怠けていて。それなのに、みんなからは信頼されている。
認められている。あなたとは大違いね」
「今日だってそう、ダンスレッスンで居残りを言われたのはたった二人だけ。
一生懸命練習してたあなたと、適当に手を抜いていた吉澤さん。
言われてもヘラヘラ笑ってたわよね、あの人。それをあなたは汗だくになって
見ていた」
- 178 名前: 投稿日:2003年01月13日(月)18時59分57秒
- 「ねえ、うらやましかったんでしょ?
ヘラヘラ笑っていられることが、笑うことが許されている彼女のキャラクターが。
うらやましかったのよね?」
「あなたは吉澤さんになりたかったのよ。だから邪魔だった。
彼女がいたら、ずっとあなたは彼女になれないから。
だから、殺したの」
「そうよね?」
「そんなの……」
「なに?」
「そんなのあんたに言われなくたってわかってるわよ!」
「だったら最初からそう言えばいいのに……、バカな子ね。
でもよかったじゃない、あなた、彼女になれたんだから――」
- 179 名前:あんこ 投稿日:2003年01月13日(月)19時00分40秒
- 『dialog in the dark』 おわり
- 180 名前:あんこ 投稿日:2003年01月13日(月)19時01分22秒
- 吉澤→上田、紺野→山田でトリックぽいのを書きたかったんだけど
なんかこんな感じになりました
あと、「dialog in the dark」っていうのは実際にそういうイベントが
あるそうです
完全にまっ暗な部屋で、30分ぐらいすごすっていうので
視覚障害者の人が中でいろいろ、お茶を出したりサービスするらしいです
>>54
ヽ(´ー`)ノワーイ
>>55
次、できれば「俺×娘。」書きます
>>56
はい、更新したよ
- 181 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月13日(月)22時02分39秒
- 暗闇のなかの二人の会話がすげ〜怖かったス…
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