インデックス / 過去ログ倉庫 / 掲示板

シフォンの風

1 名前:lou 投稿日:2002年12月23日(月)01時09分59秒
スレタイはまたしても唯川恵氏の著書より。
2 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時11分07秒
携帯電話の着信音も、それに伴う話し声も聞こえない。
ただ車輪の擦れる音が響くだけの車内で、矢口は一人、長椅子に腰掛けていた。
前の車両にも後ろの車両にも、この車両にも人影は見えない。
この電車が本当に軽井沢に向かっているのか怪しく感じる。
それほどまでに電車は静かで、風景は穏やかだった。

夏。
空全体を覆い隠すほど、少なくとも車窓から望む眺めは、入道雲の白一色だった。
それはまさに「白」としか表現のしようのない色で、
東京で見慣れた蛍光の「白」が、如何に白でないかを見せ付けられたような気になる。

一つ、電車が大きな金きり音を上げた。
それと同時に、身体が大きく左へ揺らぐ。
人がいないのをいいことに、遠心力に身を任せ体を倒すと、
座ったままでは望めなかった空の青が、窓の上部から微かに顔を覗かせた。
その白と青のコントラストが、言葉に出来ないほど鮮やかで、
矢口はしばらく横になったまま、電車の揺れを感じていた。
3 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時11分54秒
矢口が軽井沢へ足を運ぶのは、ちょうど一年ぶりだった。
一年前、家族と三泊したのが、矢口にとっての軽井沢の体験全てである。
全てと言ったって、別に大層な事をしたわけではないのだが。
定石どおり、テニスに興じ、森林浴を楽しみ、温泉にも浸かった。
一般的な方法で避暑を過ごしたといって問題はなかろう。

ただ一つ違ったこと、それは、たったの三日間で出会いと別れを経験したことだった。
いや、出会いと別れなんて大げさな言葉を使うまでもない。
例えば大きな川の本流と分流のように、必然に交わり、必然に離れる。
それは定められた時間の中でのみの自由、そして一度きりの交差。
川と同じように、流れた時が戻ることはない。
4 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時12分16秒
電車の速度が落ちだし、身体に伝う振動がゆっくりと流れ始めた。
段々と、視界に家や木々が飛び込み始めてくる。
背面の窓から差し込む木漏れ日に目を細めながら、矢口は身体を起こした。

電車の単調なアナウンスが、目的地が近いことを告げる。

声を立てずに背伸びをし、網棚の荷物を下ろした。
わざわざ網棚に載せた黒のハンドバッグの中には、一通の手紙が入っている。
重厚な筆書きで、「矢口真里様」と書かれたそれを開いたとき、
それはまさに、淀みなく流れる川に一石を投じられたような感覚を覚えた。

電車が止まり、自動ドアが開く。
矢口の眼前には、一年前と少しも変わらない風景が広がっている。

ただそれが歪んでいたのは、矢口が涙を溜め込んでいたからに他ならない。
5 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時12分55秒

彼女は清流であり激流だった。
矢口を置いて、先へ先へと行ってしまった。

歓喜の、悲哀の彼女の音は、蝉時雨が全てをかき消してしまった。
6 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時13分34秒
「真希ちゃんが住んでるの、この近くよ」

母親が荷物を置きながら、矢口に知らせるようにこぼした。
一瞬、母親の言ったことを理解できなかった矢口だったが、
視線を下げたまま、その一言だけを発し黙々と荷物を解く母親を見たとき、
自ら重石を載せ封印した記憶が、ゆっくりと解かれていくような感覚に包まれた。

「そっか…」
「そう」

矢口の吐き出した言葉とため息を掬い取るかのように、
母親の言葉はふうわりと浮かんだ。
罪悪感や世間体と言った余計な足枷も何もない、細やかな網目だけが印象に残る母親の言葉は、
軽やかに矢口の言葉の灰汁を取り除いた。

「行くなら言いな。
 地図と電話番号渡すから」

母親はそういうと、据え置きのポットから緑茶を注ぎ矢口に手渡した。
そうして、なにやらブツブツと呟きながら、洗面台のあるほうへと行ってしまった。
父親は荷物の準備もそこそこに、既に温泉へと消えてしまっている。
ホテルの一室には、事実上矢口だけが残された。

「ごっつぁん…か…」

たゆたう湯気が矢口の鼻腔をくすぐる。
しかししばらくの間、矢口は茶に口をつけることなく固まっていた。
7 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時14分37秒
後藤真希は、矢口にとって、どう形容するべきかよくわからない人物だった。
単純に事実だけを並べていくと、元は隣に住んでいた年下の幼なじみであり、
偶発的にファーストキスを体験してしまった相手であり、自ら望んで女を捧げてしまった相手である。

ならば二人は恋人か。
その問いには、矢口は即座に首を横に振るだろう。
キスこそ数え切れないほど交わしてはいるが、身体を重ねたのは一度だけである。
もちろん身体を重ねた回数が多ければいいという問題でもないが、
身体も重なっていないのに心が重なるはずはない、そう矢口は考えている。
女同士と言うことに抵抗があるわけではなかった。

しかし、一度とはいえ身体を重ねたという事実が残っている以上、
幼なじみと言う関係で平行線をたどることが出来ないのもまた確か。
幸い、身体を重ねたあとの二人によそよそしさのような物は生まれなかったけれど、
意識のどこかに相手が住み着いてしまっていることは明白だった。
8 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時15分14秒
さらに厄介なことに、それについては矢口自身が苦悩していた。
恋人ではない、と言う信号と、後藤が好きだ、と言う信号が激しく対立しているのである。
後藤の気持ちが分からない。
好き、がどんな好きかも分からない。
愛情、友情、必要な道具。
好きと言う単語は便利で、とかく色々なものに使われる。
だからこそ、矢口を悩ませた。

しかしそんな悩みも、突然の事態に霧散してしまった。
後藤一家が突然、隣から消えてしまったのである。
理由は分からなかった。
両親共に首をかしげていた。
矢口自身も首をかしげた。
ただ、その心には大きな空洞が出来、その目には大粒の涙が蓄えられていたけれど。
9 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時16分20秒
「お母さん、なんでごっつぁんがココにいるって知ってんの?」

ようやく一口茶に口をつけ、矢口が母親に問うた。
顔を洗っていたらしく、母親は顔を拭きながら洗面所から出てきて答えた。

「後藤さんところの奥さんが宿泊券送ってきてくださったのよ。
 こちらにどうぞ、ってお手紙まで添えて。
 そこに住所と電話番号が書いてあったのよ」

三年ぶりくらいね、と母親が感慨深げに目を細めるのを、
矢口はどこか他人事の様な目で見ていた。
何故突然そんな手紙が送られてきたのか、理由が分からなかった。

「…会っといた方がいいんじゃない?」

母親もどうやら、不審に思っているらしい。
矢口の方に視線を下ろし言った。

「そうだね…」

今更会って、と言う意味はある。
前述の通り、二人の関係は非常に微妙だ。
ただ、やはり気になった。

「明日、会いに行ってくるよ」

矢口が呟くと、母親も小さく頷いた。
10 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時17分03秒
翌日、空は突き抜けるほどの晴天。
矢口はまるで遠足の日のように興奮したのか、早く目が覚めてしまった。
身だしなみを整え、時計を見るとまだ七時半。
ホテルの朝食時間は始まっているが、矢口はあらかじめ両親に断りを入れていた。

「明日はひとりで食べるからいいや」

父親は顔をしかめたが、母親が何も言わずに了承したせいか、黙って了解してくれた。
二人仲良くご飯食べてきなよ、なんてチャチャの一つも入れてみたい衝動に駆られたが、
それは何とか踏みとどまった。

「ふぅ…」

じっくりと弱火で煮込まれているかのように、身体の奥のほうが段々と熱くなってくる。
それがどんな感情によるものか、矢口には分からなかった。

ただ、後藤と会うことを楽しみにしている自分には少し驚いていた。
なんだかんだと言って、やはり会いたくない気持ちも多分にあったはずだ。
そんなものを吹き飛ばしてしまう魅力が、後藤にはあるのかもしれない。
そんなことを考えながら、矢口は静かにホテルを出た。
11 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時17分48秒
二日目、と言うこともあり、軽井沢の気候にも幾分慣れていた。
東京のような暑苦しさに馴れきっていると、やはり涼しい。
森林街道を遊歩しながら、矢口は母親に渡されたメモに目を通していた。
住所も書かれてはいるが、当然見当も付かない。
頼りになるのは電話番号だけだった。

携帯を取り出したものの、幾度か番号と電源ボタンの上を指が往復する。
番号をプッシュし終わるたび、思い直したように電源ボタンに手が伸びてしまう。
ようやく通話ボタンに手が伸び、コール音が響き始めたとき、
矢口は過去にも似た体験をしたことを思い出していた。

そう、あれは三年前。
自らの決心を伝えるための後藤へのコール。
七度コールが響き渡り、受話器の向こうに聞こえたのは後藤の声。

「はい、後藤でございます」

過去への旅は、現実の声で引き戻された。
受話器の向こうには、後藤の母親がたっているらしい。
矢口は身体を強張らせながら言葉を発した。
12 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時18分43秒
「あの、お久しぶりです、矢口です」
「矢口?真里ちゃん?久しぶりね」

後藤の母親はあっけらかんとした声で笑った。
矢口は少々拍子抜けしたものの、本題に入る。

「あの、それで、久しぶりにごっつぁんに会いたいなと思ってるんですけど…」

突然空気が張り詰めた。
受話器を通して、後藤の母親の緊張が伝わってきたような気がした。
息を呑む音に、矢口の身体もいっそう強張る。

「…真希に会ってくれる?」

母親の言葉は、ひどく冷たい響きを持っていた。
全てを諦めきった様に聞こえた。

「いえ、こちらからお願いしたいくらいだわ。
 是非、真希に会ってください」

母親が頭を下げている様子が目に浮かぶ。
矢口は慌てて言葉を繋いだ。

「あの、ごっつぁんになにか…」
「ここに来て下さい」

しかし、矢口の言葉は断固として遮られた。
母親は一方的に場所を告げ、そこで待っていて欲しいと電話を切ってしまった。
13 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時19分21秒
矢口がその場所に着いたのは、電話を切ってから十五分ほどした後のことだった。
静かな公園らしく、いくつか遊戯道具が置かれている。
朝が早いせいか人影はまばらで、ただひたすらにセミの鳴き声が耳に付く。
矢口はブランコに腰掛け、しばらく空を眺めてみた。

相変わらず、空は抜けるように青い。
遥か彼方に入道雲の尻尾が見える以外は、ただただ青が支配している。
ギィ、と木製のブランコが軋む音を立てるたび、矢口の身体が軽く前後に揺れる。

こんな光景も前にあった。
電話で後藤を呼び出し、待ち合わせた近くの公園。
あの日は小雨がぱらついていたが、その中、矢口は傘も差さず後藤を待っていた。
雨など気になっていなかった。
ただ、後藤しか見えていなかった。

結局その日、後藤を呼び出した矢口は胸のうちを吐露することなく別れ、
その一週間後には後藤一家は消え去っていた。
あの時ほど後悔したのは、人生後にも先にも一度もない。
14 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時20分45秒
矢口が公園について五分ほどした後、一台の車が公園に近づいてくるのを認めた。
紺の軽自動車。
それはゆっくりと速度を落とし、公園の入り口で停車した。

「ごっつぁん…」

矢口の口から思わず声が漏れる。
自動車から降りてきたのは紛れもなく後藤だった。
三年前と変わらない栗色の長髪が、緑の中で映えた。
後藤も矢口を認めたらしく、小走りでこちらに向かってくる。
矢口はブランコを飛び降り、駆け寄った。

「ごっつぁん!」

二人の影が重なる。
矢口が後藤の胸に飛び込み、それを後藤がしっかりと支える。
視線が合うと、二人の顔に笑みが浮かんだ。

「久しぶり、元気だった?」

矢口はウズウズしていた。
会う前までの不安など吹き飛んでいた。
今はもう、次は何を話そうか、それだけが頭の中を占めていた。
15 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時21分42秒
「おっきくなったよね、それに可愛くなった」

抑えきれない言葉を次々と吐き出す。
後藤はそれに笑顔で答えた。

「すごい、なんか色っぽいし」

後藤は微笑を絶やさない。

「ねぇねぇ、矢口はどう?
 セクスィーになった?」

矢口の髪に指を差し込みながら頷く。

「えーと、えーと、あとは…」

しどろもどろになる矢口。
後藤はそれを見つめながら、ゆっくりと視線を上に向けなおした。

「逢いたかったよ」

まるで空に話し掛けるように後藤が呟いた。
矢口もそれにあわせるように、視線を上に合わせる。

「オイラもだよ…」

矢口の視線の先には、空を見上げた後藤。
視線はしばらく混じりあうことなく、ただ後藤は空を見つめ、ただ矢口は後藤を見つめた。
穏やかな時が流れた。
16 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時22分37秒
しかし、そんな時間は長く続かなかった。
公園の入り口に止められていた車から、見慣れた女性がこちらへと向かってくる。
見慣れていて当然、後藤の母親だった。

「帰るわよ、真希」

先程電話口で矢口に応対した人物とは思えないほど冷静な声で、母親は後藤に声をかけた。
涼しげな風が、冷たさに形を変えて二人の間を通り抜ける。
母親の声に後藤は振り返り、小さく頷いた。

「ごめんね、やぐっつぁん。
 ごとー、もう帰らなきゃいけないの」
「あ、そうなんだ…」

素っ気無い後藤の態度にややショックを受けながら、それでも久々の再会に矢口は気をよくしていた。
あっさりと身体を離すと、後藤が微笑む。
そして何か言おうと、口を開いた瞬間。
その時突然、セミの鳴き声が大きくなった。
17 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時22分56秒
あおうああ ぃあうぅあん
あいういあぅあ ぃああえ
18 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時23分35秒
後藤の声は雑音にかき消され、口の形だけが残った。
後藤も矢口も、突然の事に顔を上げ、公園に生えた木々をぐるりと見渡す。
そこにはただ、青々と茂った葉があるのみ。

「ほら、真希」

次に聞こえた言葉は、母親のものだった。
慌てて矢口が視線を戻すと、後藤が母親に手を引かれ、車の方へと向かっている。

「ごっつぁん、なんて言ったの?」

だんだんと離れていく距離を一度の縮めるかのように、矢口は大声で叫んだ。
母親の手に引かれながら後藤は振り返り、負けじと大声で叫ぼうと口を開きかけた。
が、思い直したように口を閉じる。
そのまま、車へと乗り込んでしまった。
19 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時23分57秒
「ごっつぁん!」

エンジンのかかった車に少しでも近づこうと、矢口が駆け出した。
が、いかんせん距離があるため、矢口が近づくまもなく車は走り出す。

「ごっつぁん!」

再び矢口が叫ぶと、車の助手席から後藤が顔を覗かせた。
満面の笑顔で、そして今度はしっかりと言った。

「バイバイ、やぐっつぁん。
 またね!」

その言葉は、矢口の見た口の形と合う言葉ではなかった。
けれど、後藤の姿に矢口は、言いようのない安心感を感じていた。
昔に見た後藤と寸分違わぬ姿。
そこに安堵を感じ、矢口は公園を後にした。
20 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時24分38秒

駅に人影はまばらだった。
涙の浮かんだ目を拭い、矢口は人を探す。
待ち合わせの時間まで後五分。
矢口は、荷物の中でひときわ大切に扱ってきた封筒を取り出した。

「一周忌法要のご連絡」

その封筒に目を通した瞬間、矢口の目にまた、じわりじわりと涙が浮かんできた。
慌てて目を擦っても、相変わらず視界は揺れている。

「真里ちゃん」

そんな矢口の背後に、一人の女性が現れた。
見慣れた、後藤の母親。
矢口は揺れる視界から無理やりに目を逸らし、後藤の母親に向かって頭を下げた。

「この度は…」
21 名前:蝉時雨 投稿日:2002年12月23日(月)01時25分03秒
涼やかな風が通り抜ける。
その風が、一年前のような冷たさを持っていると矢口は感じた。

蝉時雨は今年も降り注ぐ。
あの夏よりは静かに、ただそれでも、十分に大きな音で。
22 名前:lou 投稿日:2002年12月23日(月)01時25分37秒
おしまい
23 名前:lou 投稿日:2002年12月23日(月)01時26分58秒
というわけで挨拶遅れまして。
マイナーカプに絞った短編のみをつらつらと書かせていただきます。
よろしくお願いします。
24 名前:lou 投稿日:2002年12月23日(月)01時28分50秒
ちなみに上のは短編バトルに出そうと画策していた話です。
途中でなかだるんだので、こちらの一発目と言う事で。
25 名前:詠人 投稿日:2002年12月23日(月)15時00分56秒
切ない。すごく切なかったです。
抽象的といえばそうなのかもしれませんが
だからこそ切ないというか。
とにかく、心にくるものがありました。
26 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月26日(木)01時36分05秒
良かったです。稚拙な表現で申し訳ないですが、必ずしもはっきりとした形で
結末を迎えなくても、色々考えさせられる余韻を残してもらうのも悪くないなぁ
と思いました。
マイナーcpに絞った短編ということで、コテハンを持つ読者は少ないかもしれませんが、
需要は割と多いと思います。(自分もその1人です)
また次回作・次々回と楽しみにし続けますので、作者さん頑張ってください。
27 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月26日(木)13時14分34秒
こういう小説を見つけるととても嬉しいです。
またちょくちょく覗きにこようと思います。更新がんがってください。
28 名前:名無し読者 投稿日:2002年12月27日(金)03時49分49秒
矢口と後藤という組み合わせで、こんなにも切ない話は初めて読みました。
29 名前:lou 投稿日:2002年12月27日(金)09時08分35秒
ごめんなさい。
風邪ひきまして更新遅れます、レスのみです。
レス沢山付いてて嬉しい限りです。
>>25
切ないですか、ありがとうございます。
抽象的なのは自分の特徴なので、その辺りを上手く生かして話を書きたいと思いますので、
よろしくお願いします。
>>26
余韻は大事にしたいと思ってます。
マイナー、需要多いと嬉しいですね。
ついでに書いてくださる方がいればもっと(w
>>27
凄く嬉しいお言葉有り難うございます。
ちょくちょく覗いてやってください。
>>28
やぐごまのイメージとは少し違いますからね。
自分の中では、しっとりした二人も大好きなんですが。
30 名前:りゅ〜ば 投稿日:2003年01月03日(金)04時16分10秒
良かったです。とてもきれいでした。
やぐごまヲタになりそうでした。またこんなのを、お願いします。
31 名前:lou 投稿日:2003年01月08日(水)08時22分25秒
…ごめんなさいごめんなさい。
更新遅れて本当に申し訳ないです。
明日か明後日には更新します。
「こんなのろまな歩みのスレ見守ってられるかゴルァ!」と言う方、
あっさり見限っちゃってください。

話も趣が変わってるかもです。
赤のフリースレに一本話を載せておいたので、お口に合うかどうか…。
とにかくお待たせしてごめんなさい。
32 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時33分22秒
突然肩を叩かれて振り返ると、そこには屈託のない笑みがあった。
暗めの蛍光灯一つでがんばっている室内で、その笑顔はひときわ明るく見えた。

「今日さ、終わったら時間あるっしょ?」

比較的理解のありそうな口調で言っておきながら、目が笑っていない。
昔からそうだった、と私は心の中で軽く首を垂れた。
良くも悪くも嘘がつけていない。
それも他人ではなく、自分に。

「…吉澤と帰るかって話してたんだけどね」
「断るよね?」

間髪いれず釘を刺し、肩に乗せている手に少しばかりの力が込められた。
たかが知れているその力では、はっきり言ってマッサージにもならなかったけれど、
少なくとも冗談で言っていないという事だけは分かる。

「…ホルモン?」
「圭ちゃんじゃないんだからさぁ」

わかりきった事を聞く私に、わかりきった反応をする彼女。
こんな簡単で、それでも悪くないやり取りをするのは、ずいぶんと久しぶりな気がした。
結構な時間、私達は不協和音を奏でていたんだなぁと実感する。
そして、それもこれも全て私のせいだと言う実感も。
33 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時34分19秒
「なっちのおごりなの?
 それなら尻尾振って付いてくけど」
「何でなっちがおごんなくちゃいけないのさ。
 大体今日が何の日か忘れたのかい?」

今日が何の日、と言う言葉に、私は軽いデジャヴを覚えた。
どこかで聞いた言葉だと思ったら、午前中に矢口に聞かされていたのを思い出した。

「今日はなっちとカオの日だね」

聞かされた瞬間、私は意味が分からずに首を傾げたものだ。
そして未だに意味が分かっていない。
ただ、メンバーが二人も同じことを言う以上、今日は私と彼女の日なのだ。
そう思い込む事にした。

「なっちとカオリの日?」
「そうそう、わかってんじゃんよぉ」

彼女はさらに相好を崩した。
指折り数えて五年、彼女の嬉しそうな笑顔は少しも変わらない。
ただ、それを受け取る私の心の器がさまざまな形に変わってしまった。
角ばったり、縮んだり、膜を張ったり。
そうこうしている内にきっと、二人の日、なんて物も忘れてしまったに違いない。
またしても、そう思い込む事にした。
34 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時35分15秒
「だからさ、よっすぃーには断っといてよ。
 なんだかんだ言って三年ぶりなんだからさ」

彼女が言う。
その言葉にまた意味の分からない単語を見つけ、落ち込む。
何が三年ぶりだと言うのだろう。
頭の引き出しを一個一個開けて、丹念に探しても、その言葉に適合するものは見つからなかった。
まったく、彼女に関連するものをことごとく無くすもんだと、
ただただ恥ずかしくなった。

「わかった、言っとくわ」
「お願いねー。
 収録終わったら楽屋にいて。
 多分なっちのが終わるの遅いだろうから、帰らずに待ってるんだぞ」

彼女はおどけたように言葉を締め、収録を終え呼びに来たらしい小川の言葉に相槌を打ち始めた。
私はとりあえず携帯を取り出し、吉澤に送るメールを作りながら、
置き去りにしてきたらしい忘れ物を拾ってくる作業に没頭し始めていた。
どの辺りに忘れてきたのか見当すらついていない。
ただ、どうしても拾いにいかなければならない気がした。
35 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時36分04秒
収録が終わり、私は約束どおり楽屋で待っていた。
吉澤は結局矢口と帰っていった。
怪訝そうな顔をしていたものの、矢口に引きずられるまま帰っていったところを見ると、
何か入れ知恵されたのかもしれない。
しかし、どうでもいいことだった。

話し相手のいない楽屋は久しぶりだった。
右を見ても左を見ても人がいないなんていつ以来だろうと、柄にもなく感傷に浸る。
そもそも、仕事が終わったのに楽屋に残っている事自体がとても久しぶりだった。
楽屋にいたって何もやる事はない。
いつの頃からかそう思い始め、仕事が終わればそそくさと帰っていた。
家に帰ったってやる事なんてほとんどないにもかかわらず、だ。

待ち始めて、つまり楽屋で一人になってどれくらい立ったろうかと壁掛け時計に目をやると、
時計の針は九十度進んでいた。
もっと時間が経っていると思い込んでいたから拍子抜けしたが、
同時に、案外時間がゆっくり流れているなとも感じた。
探し物を見つける作業は遅々として進んでいなかったから、これは少しありがたかった。
36 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時36分58秒
「おまたせ」

彼女が姿を現したのは、それからさらに五分ほどが過ぎた後だった。
最近彼女が好んで身につけている白が、いつもより余計に映えて見える。
自分と比較して言うわけではないけれど、彼女はお世辞にもスタイルがいいとは言えない。
それも少しは関係しているのだろう。

「…交信中かい?」
「…捜索中かな?」
「なにさそれ?」

分かるわけがない。
目を丸くしている彼女に、何もないよ、と私は笑いかけた。
五年も歳を取ったのに今更と言う感じもあるけれど、
彼女は出会った当時より可愛く、幼くなっている様な気がする。
だからどうした、いや、どうもしない。

「それよりどこ行くのさ?
 結構おなかすいてきたよ」
「居酒屋行くべさ居酒屋。
 この前ご飯が美味しい所見つけたんだよね」
「…なっちお酒飲めないじゃん」
「ぬる燗一本くらいならいけるよ?」

驚いた。
いつの間にそんなに強くなっていたのだろう。
下手をしたら私より強いかもしれない。
37 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時37分29秒
「多分カオより強いべさ」

まるで私の心を見透かしたかのように、彼女がタイミングよく言った。
そしてそれは彼女にとって一種の爆弾投下のようなものだったのだろう。
ちらりちらりとこちらの様子を窺っている事からも知れる。
しかし無論、私がそんな挑発に乗るわけもない。

「酔っ払ったらなっちの家においとましちゃおうかなぁ」

しなを作って言ってみる。
言ってみてすぐ、明らかに自分らしくない自分に気付く。
そしてそれ以上のことを考える前に、彼女が口を開いた。

「だめさぁ。
 ウチラ二人は一つ屋根の下にいるとすぐ喧嘩しちゃうから」
38 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時38分36秒
綺麗な池に張った綺麗な一枚の氷に、小さな亀裂が一つ。
音もなく、ともすれば誰も気付かないくらいの大きさしかない傷が、私の身体に刻まれた気がした。
その切り口からはきっと、少しづつ少しづつ血が流れていくのだろう。
その色はきっと、赤黒いに違いない。

様子の変わった私の顔を、彼女が下から覗き込んできた。

「…一つ屋根の下じゃなかったら大丈夫さ」

そういう問題でもない。
ただ、面白おかしい返しをする気にはなれなかった。

「…そうだといいね」

多分、この場で発せられる言葉の中でもっとも冷酷な響きを持っているはずの言葉。
私は無意識のうちにそれを発していた。
案の定、彼女の顔色が変わる。

「…ごめん」
「何が?」

間髪いれず言葉を返す。
それも、一番やさしくない言葉を。
彼女は、ひとつ鼻を啜った。
泣いているのかと思ったけれど、泣いてはいないようだった。
39 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時39分57秒
「なっちさ、なんかカオを怒らせてばっかだね。
 あん時もさ、なっちが…」
「やめて」

精密機械でもついているかのように、私の口は冷たい言葉ばかりを正確に音にする。
私の中の何かがそうする事を望んでいるかのように。
けれど彼女は臆することなく言葉を繋げる。

「なっちが悪いんだよね。
 カオの事全然考えないで…」
「やめてっていってるでしょ!」

マリオネットみたいだと思った。
脳の信号よりも先に身体が動く。
私の中の何か…きっとそれは、言葉にすれば、彼女への嫉妬。
言葉にするのも腹立たしいほどの嫌な感情が、どこかから私の身体を操っている。

操られている私は、彼女の顎を持ち上げた。
怯えた瞳は綺麗だった、素敵だった。
そして、四年も前のそれとなんら変わっていなかった。
40 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時40分27秒
「カオリは変わったね。
 優しくなったよ。
 あの時はほっぺたひっぱたいたのにさ」

痛かったんだから。
そうつぶやいた彼女の声も、四年前となんら変わっていなかった。

「なっちはなーんも変わんないさ。
 相変わらず自分勝手でさ。
 カオリのことなんか全然考えないでさ」

彼女は磔にされているように見えた。
彼女を磔ているものはわからない。
ただ、私がその一端を担っている事はわかった。

「だからさカオ、その手はなして。
 またなっち、ひっぱたいちゃうから。
 カオリは何にもしないって分かっててもさ、絶対ひっぱたいちゃうから」

彼女がスッと目を閉じる。
その瞬間、私の記憶は過去へと放り投げられた。
積み木を積み上げるように、ゆっくりと記憶が形作られていく。

そうして一つづつ、わかってきた。
今日が、私と彼女の日であることも。
三年ぶりに、一体何をするのかも。
彼女を磔にしているものも。
41 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時41分36秒
「なっち」

私は変わった。
彼女の言葉を借りればそういうことらしい。
だったら、変わった姿で答えてあげるのが礼儀だ。
昔のように怒りに身を任せてしまっては、彼女を裏切る事になってしまう。
また四年も待つのはこりごりだ。

私の右人差し指が彼女の唇をなぞる。
四年前にはしなかった。
彼女がピクリと身を震わせる。
唇は柔らかな感触をしていた。

「ごめんね」

言葉も変えた。
信じらんないだったか、馬鹿野郎だったか、最低だったか。
なんと言ったかはっきりと思い出せないけれど、少なくとも、それらとは正反対の意味を持っている。
彼女が満足そうに小さく頷いたように見えたのは、きっと錯覚に違いない。

顎に伸ばしていた手を肩に伸ばしかえる。
彼女は相変わらず目を閉じたままだ。
本当に変わっていない。

「ごめんね」

意味もなくもう一度つぶやき、私は彼女の唇にそっと自分の唇を重ねた。
触れるだけのキスに、当時の感覚が宿る。
涙の味がしたファーストキスが鮮明に甦ってくる。
最初の大喧嘩もそういえば、今日だった。
42 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時42分17秒
「おめでとう、なっち」
「おめでとう、カオ」

ゆっくりと唇を離すと、彼女と視線が合った。
そのまま彼女に引かれる様に、言葉が口をつく。
重なった言葉はピッタリとフィットした。

「忘れてたよ、今日が八月九日だって」
「やっぱり忘れてたっしょ?」

おどけたような視線が私を縛った。
無邪気な笑顔が少し痛かったけれど、背負っていた荷物を下ろした今となってはかわいい痛みだった。

八月九日。
私と彼女の日。
43 名前:カーニバル・デイ 投稿日:2003年01月08日(水)18時42分55秒
「さぁて、かなり時間食っちまったべさ。
 早く行かないと」
「お酒飲みながらは初めてだね」
「ねぇ。
 ポロリもあったりして」
「何だよそれー」

探し物は何ですか。
見つけにくいものですか。

いえ、そうでもありませんでした。
ただちょっと、死角に入っていただけです。
見つけてしまえば、それはいとも簡単に、私の心を溶かしてくれました。

けんかもしたし、笑い合ったし、泣きあった。
そして、祝いあう日。
八月九日は、二人の日。
カーニバル・デイ。
44 名前:lou 投稿日:2003年01月08日(水)18時43分21秒
おしまい
45 名前:lou 投稿日:2003年01月08日(水)18時46分53秒
…普通に出来が悪い。
お待たせしてこれとは情けない(ノд`)・゚・
罵倒レスお待ちしております。
あと、フリースレのほうに関しても何かあれば是非。

>>30りゅ〜ばさん
ありがとうございます。
ヲタになりそうだって言葉が一番嬉しいです。
ヲタになった暁には是非書いてください。
46 名前:スレ流しと言う名のCP考察と言うかボヤキ 投稿日:2003年01月08日(水)18時54分03秒
ただ今CPの流行を走っているのは「アヤミキ」らしいですね。
リアルに仲がいいだとか、見栄えがするだとか、色々と理由はあるのでしょう。
一時期のいちごまやいしよしに迫れるのか、少しばかり興味があります。
私は同情されるほどのマイナーヲタなもので、「アヤミキ」にはちっともそそられないのですが、
それは横に置いておいて。

「かおなち」。
歴代娘。のなかでもっと長く在籍している二人です。
当然エピソードだって色々あります。
同居してた、大喧嘩した、冷戦だ、講和条約結んだだ等等、話題には事欠きません。

なのになぜ、この二人のCPがマイナーなのか。
私には不思議でしょうがありません。

(次回以降に続く。
 というか続かせてください。
 自スレなんで好き勝手することをお許し下さい)
47 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)15時54分41秒
冬枯れのイチョウを踏みしめるたび、小さな破壊音が足元で響く。
高架下に出来た雨の国境に視線を落とすと、自転車の跡が数本絡まっていた。
安倍は何とはなしにその蛇行を目で追った。
まだ新しいらしく、灰色に浮かび上がるその濃紺の濡れ跡はくっきりとしている。
左右にうねりながら進行しているその筋は、高架を過ぎると、一面の濃紺に飲み込まれていた。

かれこれ三十分は歩き詰めだった足を労おうと、安倍は高架の壁にもたれかかった。
程度の低い落書きを背にするのは少々不快だったが、そんな事を言っている場合ではない。
空色の傘をしぼめ、足の隣によりかける。
傘先のゴムから染み出した水滴が、汚れのない灰色に一つ、シミを作った。
48 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)15時55分38秒
首筋から肩にかけて、ひんやりとした感触が流れている。
典型的な横殴りの雨がもたらした被害らしい。
安倍は手にしていたバッグからハンカチを取り出すと、濡れた箇所をそっと拭った。
気休めにもならないことくらいは分かりきっている。
ハンカチで拭った程度で水気が飛ぶわけもないのだから。
ただ、ハンカチを使いたかった。
水色の地に薄桃の球と白の球がちりばめられたハンカチを、安倍は使いたかった。
誰が何と言おうと、そこには彼女の匂いが染み込んでいるのだ。

ハンカチをバッグに戻すと、安倍は外を見渡した。
目の前にあるはずの線路がけぶっているように見えるほど、雨は勢いを増していた。
普段はうるさいほどの遮断機の音も、雨のメロディが相手では分が悪い。
バイオリンやチェロやビオラの後ろで渋く仕事をするコントラバスのように、
控えめに存在を示していた。
そういえば、彼女はコントラバスが好きだといっていた。
理由は聞かなかったけれど、きっとあの重低音に惹かれたのだろう。
安倍は一人小さく頷いて、遮断機から目をそらした。
彼女と二人でクラシックを聞きにいったのはどれくらい前の事だったか、
どうしても思い出す事が出来なかった。
49 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)15時56分35秒
三十分ほど時間を過ごしただろうか。
雨は弱まり、代わりに夜の闇が緞帳を下ろした。
安倍はようやく壁から背中を起こし、進行方向を見やった。
遠くに小さく明かりが見え、少し遅れてエンジン音が響いてくる。
バイクがこちらに向かってくるらしい。
水溜りの水を跳ね上げられてはたまらないと、バイクが通り過ぎるまで待つ事にした。

通り過ぎたバイクはとても大きなものだった。
フルフェイスヘルメットをかぶったライダーの性別は分からなかったが、
あんな大きなバイクを乗りこなすのは男だろうと勝手に決め付けた。
その瞬間、身震いがした。
男なんて大嫌いだ。
安倍はバイクから逃げるようにせかせかと傘を広げ、足早に闇に降る雨の中に飛び出した。
50 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)15時57分16秒


飯田がそこに足を踏み入れた時、先客は誰一人としていなかった。
迎えてくれたのは、一昨日に降った残雪と、茶色く変色したものが目立つ花々のみ。
閑散とした空気は、けれど、その場には相応しいものだった。
手にしていた生き生きとした花々が、ひどく場違いに思えた。

日は傾き、もうすぐその明るさを拝めないところまで沈み込んでいる。
のんびりしている暇はないと、飯田は早速水道の方へと向かった。
背後に竹やぶが構えるその水道は小ぢんまりとしたもので、
飯田が幼少の頃から少しも変わった様子がない。
赤いバケツも、所々金メッキがはがれた柄杓も、拍手を送りたくなるほど長い寿命を誇っている。

単純に計算して、アイツと同い年くらいか。

そんな事が頭を掠め、飯田は慌てて首を振った。
不謹慎極まりない。
自分を戒め、少し乱暴に、水の張ったバケツをひったくった。
表面が細かく揺れ、バケツの水が涙をためた瞳のように見えた。
51 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時00分50秒
雲行きが怪しくなってきた。
一雨二雨は覚悟しなければならないと思えるほどの雲だ。
飯田はやる事だけは済ませてしまおうと、筒に弱々しく挿し込まれていた花を捨て、
新しい花を挿し込んだ。
一角だけ、ペンキを塗りたてたばかりのように色づく。
そうして線香に火をともし、石で出来た小ぶりな部屋の中心にそれを据えた。
立ちこめる煙が飯田の目の前を通り過ぎる頃、
入れ替わるように天から水が降りてきた。
慌てて数珠を取り出し、目を閉じる。
髪が濡れる感覚が気になったのは最初だけで、その後三十秒ほど、
飯田はただひたすらに、無心で祈りを捧げていた。

目を開けたとき、雨は先程までとは比較にならないほど勢いを増していた。
風も吹き始め、石小屋の中の線香の炎が揺れている。
消えそうで消えないその炎に、いつの間にか飯田は自分自身を当てはめていた。
燻ったまま、釈然としない自分の気持ち。
風が吹いても消えることなく、かといって勢いを増すわけでもないその煮え切らなさは、
当の飯田自身が一番苦しみ、腹を立てている部分である。
誰か消してくれればいい、この雨で消えてくれないか。

落ちてくる雨粒はとても大きかった。
52 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時01分48秒


頭の中にいくつか候補が上がった。
それらは全てお約束な言葉で、しかも何一つ正確な部分を言い当てていない言葉だった。

「今時純だね」
「頭に馬鹿が付くがね」
「全く最近の若いもんは…」

これから自分に浴びせられるであろう好奇の目と、的を外れた知ったか評論家の言葉を思い浮かべると、
吉澤は少しばかり躊躇しないでもなかった。
斜め上を見上げると視界に入るロープは円を作って吉澤を待ち構えており、
今更おめおめと引き返すわけには行かないのだが、
それでも、捻じ曲がった真相をでっち上げられたまま、と言うのは少々辛い。
書置きを残そうかとも思ったが、寸での所で思いとどまった。
思いとどまらせたのは、吉澤の最後の意地。

言いたいやつらには言わせておけ。

良くも悪くも、十七年間この言葉と共に過ごしてきた。
お陰でまぁ色々な事があったわけだが、別に想い出が走馬灯のように駆け巡ったりはしない。
駆け巡るほど想い出がない、何て寂しい事はないはずなのだがと軽く首を傾げたが、
それももうどうでもよくなっていた。
今更何がどうなるでもない。
53 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時04分22秒
椅子に足をかけると、靴下を履いているにも拘らず冷たさが足を伝った。
足元を見下ろすと、案外椅子は背が高いんだなと言う事を窺い知る事が出来るほど、
地面が遠くに感じた。
目の前には、誘いの手招きがある。
吉澤にもう、迷いは無かった。
十三階段を上った先にあるのは、死のみ。

先生…。
ごめんね、吉澤、汚れちゃった。

最後に浮かんだ顔は、吉澤の恩師のものだった。
思い通りに事を刻む事が出来るのならば、その顔こそが吉澤を女にしているべき顔だった。
54 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時05分39秒


「…何、してるの?」
「待ってた」

雨は既に雨の範疇を超え、滝と呼ぶのを躊躇わないほどになっていた。
安倍が差している空色の傘は、雨粒の重さに押され、目に見えない程度にひしゃげているし、
飯田の髪は顔を半分覆い尽くし、服は透け、下着がくっきりと浮かび上がっている。
二人はしばし沈黙を続け、口を開くまでには十秒ほどの空白が必要だった。

「ここ、何しに来たの?」
「…わかんない。
 一応手は合わせておいたけど、なっちに逢うのが目的だったかもしれない」

飯田の言葉は、安倍の神経を逆撫でするには充分過ぎた。
一応、も、なっちに逢うため、も安倍の反撃の対称になった。

「一応ってどういうことさ!
 よっすぃーが死んじゃったのはカオリのせいだってわかってるっしょ!」

轟音を的確に切り裂いて、安倍の言葉は飯田の耳に届いた。
胸が縛られる苦しみに耐えながら、飯田が苦々しげに頷く。
遠くで、雷の鳴る音がした。
55 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時06分41秒
「なっちが、よっすぃーの事どう思ってたかも知ってるんでしょ!」

安倍が傘を投げ捨て、飯田につかみかかった。
全体に薄暗い色の配置の中で、空色だけが妙に映えた。
非力な安倍は飯田を持ち上げる事は出来なかったものの、
水分を含み重くなった服は、引きちぎれんばかりに引っ張られていた。

「カオリにはわかんないよ!
 カオリにはわかんないんだ!
 なっちが…」
「だから、それをわかりに来た」

一瞬だった。
雨粒の伝う安倍の顎を飯田が持ち上げ、唇を重ねるまで、三秒とかからなかった。
安倍は目を見開き、逆に飯田は目を閉じ、その体勢のまま少しばかり時間が過ぎた。
56 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時07分26秒
飯田の唇が糸を引きながら離れたのは、十秒ほどたった後だった。
見開かれた飯田の目は真っ直ぐに安倍を捉え、安倍の視線は不安げに揺れていた。
雨が二人の間を分かつ。
距離はほとんどゼロなのに、お互いが霞んでいる様に感じていた。

「何…考えてんの…」

先程の威勢のよさは霧散してしまったかのように、安倍は絞り出す声で言った。
飯田は視線をかなたに向け、安倍に対して喋っているのではないかのような調子で言った。

「アイツとは別れたよ。
 吉澤の事が全く関係してないとは言わない」

安倍が顔を上げた。
だが飯田とは視線が絡まない。
飯田は続ける。

「言っとくけど、アタシはノーマルだから。
 男に嫌気なんて全然差してない。
 ただ、吉澤には悪いことしたと思ってるよ」
57 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時08分33秒
安倍はもう、先程のように掴みかかる気力を失っていた。
わかっているのだ。
何をしたって無駄な事が。

「アタシが偉そうに言えることじゃないけど、吉澤は戻ってこない。
 なっちはそれがわかってるくせに明るく振舞って、見てらんないよ」

心なしか、雨が弱まった。
そして、飯田が安倍と視線を絡ませに来る。

「吉澤の代わりにはなれないし、なるつもりもさらさらないけど、なっちを支えるくらいは出来るから」

視線が絡み合い、飯田の言葉が安倍に届いた。
その瞬間、安倍の中でスイッチが入った。
雨は、さらに勢いを失くしてきだした。

安倍は飯田に歩み寄り、頬に手を伸ばした。
濡れた手をゆっくりと滑らせながら言う。

「ありがとうカオ。
 でも、さよなら」
58 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時09分26秒
音は甲高く響き、雨音の中を突き抜けた。
飯田は顔を背く形になり、安倍の手は宙に静止している。
驚愕の表情を飯田が安倍に向けると、安倍はにこやかな笑みを返した。

「よっすぃーのいないところに、なっちの居場所はないさ。
 カオの側にいたら、もしかしたらカオに惹かれちゃうかもしれないし。
 それだけは、絶対に駄目だから。
 どっちにとっても駄目だから…」

安倍の目が薄く輝いたことを、飯田は見逃さなかった。
ただそれが涙なのか、それとも雨粒なのか、考える事はしなかった。
そんなことよりも、もっと重要な事がある。

「なっち…」
「よっすぃーのトコには行かないよ。
 それは約束する。
 ただ、カオの側にもいれないよ」

当たりでしょ?
まるでそう言っているかのように、安倍は無邪気に微笑んだ。
この顔が吉澤を惹きつけたのか。
飯田にそれを疑う余地はなかった。
59 名前:未完成 投稿日:2003年01月11日(土)16時09分57秒
雨が上がった。
雲は風に流され、目にも留まらぬ速さで動いている。

安倍はこれからのことなど何一つ考えていない。
飯田もこれからのことなど何一つ考えていない。

ただ一つ。
安倍も飯田も胸に誓った事があった。
この出来事を忘れるわけにはいかない。
吉澤を、吉澤の死を忘れるわけにはいかない。

陽が差し込んできた。
安倍と飯田はしばし見詰め合ったまま、その場を動けないでいた。
60 名前:lou 投稿日:2003年01月11日(土)16時11分02秒
おしまい
>>47-59 未完成
61 名前:lou 投稿日:2003年01月11日(土)16時12分38秒
導入は嫌いじゃないのになぁこれ…。
ラストがもう少し何とかならんか。
62 名前:lou 投稿日:2003年01月11日(土)16時18分58秒
書いてて悲しくなったというか見苦しいので、ボヤキは終了。
何とか自分の作品で皆様にかおなちを書く気を起こさせようと努力する所存です。
触発された方、是非お願いします。
63 名前:りゅ〜ば 投稿日:2003年01月12日(日)17時40分59秒
更新お疲れ様です!
かおなちよし最高でした!というか…よっちぃ悲しいね。
louさん更新早いですね…私のほうはまだ時間がかかりそうですけど、いいですか?
それにしても、この作品に続編または解答編などあるんでしょうか?
64 名前:某いち作者 投稿日:2003年01月13日(月)18時47分10秒
書きました…。初一人称挑戦。
なれない短編で非常にお粗末な出来になってしまいました。
本当にすいません…しかもリアルならぶらぶハッピーエンドじゃなかったです…。
本気でスマソ!駄文晒しageてしまいました…恥逃げ。
65 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時07分54秒
視界に広がるのは、ただ一面の、白でありまた銀の世界。
専用バスの窓から外を眺めた辻は、これから二日間お世話になる見慣れない風景に思わず、
下ろした髪を七分ほど覆うニット帽を脱ぎ、警察の真似事をしたくなる気分に誘われた。
長い間心地よい揺れを提供され、思わず夢の世界に旅立ってどれくらい時間が経っているのだろうか。
舞い戻ってきた現実の世界は、辻が望んだ風景とは少しのずれがあった。
それでも、雪には辻にニット帽を脱がせるだけの力が有った。
66 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時09分02秒
生まれも育ちも東京の辻は、雪に馴染みが薄い。
自分の背丈を越える雪だるまを作り、赤いバケツを頭にかぶせた記憶はないし、
雪合戦と称して友人達と雪玉をぶつけ合った事もなかった。
あることと言えば、口に含んだ事くらいだろうか。
ただそれも、もう味も思い出せないほど昔の記憶だった。
67 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時09分31秒
「のの、何ぼうっとしてんの?」

辻の隣に座る加護が、窓の外を見つめる辻に声をかけた。
その声に辻が振り返ると、加護はピンクのジャンパーを斜めに身体にかけ、
小さく口を動かしながら眼を擦っている。
眠りから醒めたばかりだという事は明白だった。
68 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時10分21秒
加護も辻と同様、雪の世界を楽しみにしていた。
出発前、二人きりで話す機会を得た二人は、
東京駅から五分ほど歩いたところにある喫茶店で額を寄せ合っていた。

「ウチな、実はまだ雪って見たことがないねん」

クリームソーダに浮かんだ生クリームを匙で掬い取りながら、辻の方を見ずに加護は言った。
加護の出身は関西である。

「そうなの?」

ホットココアとチーズケーキを交互に見やり、チーズケーキに手を伸ばしながら辻が返す。
一口放り込んだ後、ケーキを咀嚼しながら、加護の言葉も同時に咀嚼しようとした。
が、関西圏の毎年の降雪量など辻に分かろうはずもない。
加護を疑う意味も、理由も、必要もない。
加護は雪を見た事がないのだ。
69 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時11分16秒
「でも、別にどうって事ないよ。
 あいぼんがどんな事考えてるかわかんないけど」
「雪降ると、嬉しかったり楽しかったりせえへんの?」

加護が首を上げて辻の眼を見た。
黒目がちの大きな瞳は何を考えているのか、辻には分からない。
そしてきっと、誰にも分からない。

「嬉しい事は嬉しいかな。
 なんかね、ウワーッて気分になる」
「なんやそれ」
「でもねぇ、遊んだり出来るほど積もらないんだよ。
 ちょっと取ったらすぐ地面が見えちゃったり」
70 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時12分24秒
湯気が立ち消えたホットココアを口につけながら、辻は加護の様子を窺った。
落胆するかもしれない、そう思っていた。
加護にはどこかしか辻に何かを期待している節があることは、短い付き合いながらも察しているつもりだった。
加護は濁った音を立ててソーダを飲みつくし、それから歯を見せて笑った。

「じゃあ、ののも楽しみなんやな」

辻はそんな加護を眼にした途端、間髪をいれずに「うん」と答えていた。
学年的には一つ下の加護には、潜在的な幼さがまだまだ幅を利かせているように辻には思えた。
無垢な笑顔、純粋な希望。
一緒になって馬鹿騒ぎをしている加護は百パーセントの加護で、
辻は八十パーセントの辻なのだ。
それは悲しい事ではないよ。
二十パーセントの辻が、心の中でそう言った。
71 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時13分04秒
「うわっ、すごいな…」

加護が控えめな声でそう漏らしたとき、辻はようやく車内が静かな事に気がついた。
よく見ると、通路を挟んで座っている小川と高橋は、背もたれに首を投げ出している。
この様子だと、車内にいる人物で起きているのは運転手くらいなものかもしれない。

「のの、雪ってすごいな…」

もう眼は覚めたのか、身を乗り出し気味にしながら加護が言った。
その声に、辻はもう一度窓へと振り返る。
相変わらず、圧倒されるほどの雪景色が茫洋と広がっている。

「ねぇ、スゴイ」

圧倒されている事を隠すような素振りはしなかった。
辻はただ見たまま、感じたままを口にしただけだ。
ただ、ニット帽をはずしていることについてだけは、触れられたくなかった。
72 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時13分48秒
バスの速度が落ち、それに伴い、車両の前方から声が聞こえてきた。

「みなさーん、そろそろ到着でーす。
 眠ってる子は起きてくださーい」

飯田の声に、加護は辻に乗りかかるようになっていた身体を席に戻した。
車内からはちらほらと呻き声の様な物も聞こえてくる。

「ほらみなさーん、外はもう雪が積もってますよー」

飯田が満を持してその言葉を口にすると、呻き声のいくつかが歓声に変わった。
それに被せる様に、加護が辻の肩を叩き、窓の外を指差した。

「のの、あれ見てみい」

加護の指差した先には、辻達の宿泊施設と思しきロッジがあった。
73 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時14分30秒
「ロッジの奥やで」

辻の視線がロッジにしか向いていなかった事に気付いたのか、加護は注釈を加えた。
少しばかり気恥ずかしくなりながら、言われたとおりロッジの奥に目をやると、
そこには雪化粧を施された木が数本立っているのが見えた。
小さな林や森のように見えなくもない。

「あれがどうしたの?」
「あそこやろ?雪合戦場」

ああ、と辻は一つ息を吐き出した。
組まれているプログラムの一つに雪合戦と言うのがあり、確かに会場は森だとか書かれていた。

「楽しみやなぁ」

心底楽しそうに弾んだ声で言った加護を、辻はあえて聞き流した。
雪合戦がかったるい訳ではない、むしろ楽しみだ。
ただ、会場を見つけただけで喜べる加護ほどまでには楽しみにしていないであろうし、
何より同調できるだけの体力が辻にはなかった。
何故だか体中が重たかった。
74 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時15分16秒
「じゃあまずは、それぞれの部屋に荷物を置きに行きましょう」

飯田の号令と共に、あらかじめ渡された鍵を手に子供達が散り散りになる。
ロッジには大きな食堂が一つと大浴場が一つあるのみで、後は全て宿泊用の部屋に当てられていた。
辻は加護と共に二回へ上がった。
201と書かれた鍵は、その番号から既に端に当たる部屋であることを連想させる。
そしてその予想は見事に当たり、二人の部屋は廊下の突き当たりにあった。

「階段から遠いなぁ」

加護が小さく愚痴を漏らしながら鍵を差し込む。
音もなく鍵が回り、待っていたかのように扉が開いた。
75 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時15分49秒
「おお」
「おお」

二人の口から同時に感嘆の声が漏れた。
部屋は想像以上に豪華だった。
ベッドはセミダブル級の物が部屋の隅に充てられており、
年季の入った窓枠にはめ込まれたガラスは雪の光をキラキラと反射させ輝いている。
型の小さくないテレビよりも先に辻の目を奪ったのは、その窓だった。
いや、正確には窓に映る景色だ。

「森目の前やん!」

加護が辻の気持ちを半分ほど代弁した。
乱反射する雪の光の先には、加護が示していた森が静かに佇んでいたのだ。

半分、と言うのは、辻がただ単に森が目の前にある事に視線を奪われた訳ではないと言う事を意味する。
辻の目を奪ったものはただ一つ。
雪のフードをかぶった木から、薄い灰色の鳥が飛び立ったその瞬間。
木がフードを脱ぐように舞い落ちる雪だった。
76 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時16分40秒

辻にとって雪は積もっているものであって、降ってくるものではなかった。

「希美、積もってるわよ、雪」

毎年冬になると、辻は一度はこの言葉を聞いた。
布団から顔を出すと、母親は決まって笑顔だった。
そうして、窓の方を指差す。

「マロンどうしてるのか、見てきたら?」

言われたとおり外に出てみると、愛すべき飼い犬は雪に物見をしているらしかった。
辻が近づいても、一向に顔を上げない。

「マローン」

呼びかけるとようやくマロンは顔を上げ、辻に飛び掛らんとする勢いで身体を前進させた。
鎖に繋がれているため、前足二本は空を切る。
辻自らがそこに飛び込むと、マロンは嬉しそうに尻尾を振りながら、肉球を辻の顔に押し当ててきた。
その肉球は雪に晒されたせいか冷たかった。
77 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時17分19秒
雪は冷たい。
雪は白い。
辻はそれらを知っていた。
雪は積もる。
辻はそれも知っていた。
雪は降る。
辻はそれを分かっていた。
タケノコの様に地面からせり出してくるはずがない事を分かっていた。
けれど、辻は雪が降ることを知らなかった。
78 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時18分23秒

「あいぼん、ののちょっと外行ってくる!」

加護の返事を待たずして、辻はドアを乱暴に明け外へと走り出していた。
階段までの道のりが少し長く感じられたが、苦痛や苛立ちを起こさせるほどではない。
一直線に階段を駆け下りると、入り口で荷物の整理らしきことをしている飯田が視界に入った。

「先生、辻ちょっと森に行ってきます!」

今度も返事を待たずして、辻は飯田の横を駆け抜けた。
しかも、部屋を飛び出したとき以上のスピードで。
きっかけは、飯田の紡いだ言葉の欠片だった。

「……雪が降る……」

前後の文脈は、接続詞すら聞き取れなかった現状では判断しようがない。
しかし辻はひたすらに無心で暗がりの中を森へと走った。
雪が降ることを、雪は降ることを、辻はどうしても知りたかった。
79 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時19分16秒
「のの!」

森まであと数メートルと言うところで、辻は背後から聞こえた声にその足を止めた。
加護が辻にも劣らないスピードで駆け寄ってくるのが見える。
呆然と見ていると、加護が息を切らせながら追いついてきた。

「なんやのの?どうしたん?」

細切れの関西弁には答えず、辻は森へと向きなおした。
先程フードを脱いだ木が一本だけ、寂しげな茶色を浮かび上がらせている。

「夕ご飯まで、あと三十分やで」

加護の言葉に、辻は自分が腕時計を忘れてきた事に気が付いた。
バッグに巻きつけたままになっているキャラクター腕時計に思いを馳せ、
辻は加護に言った。

「あいぼん、雪って降るんだよ」
80 名前:時計を忘れて森へ行こう 投稿日:2003年01月30日(木)01時19分46秒
加護からの返事はなかった。
瞳を覗き込んでも分からない加護の気持ちは、背中に気配を感じても分からない。

夕ご飯まであと三十分、と加護は言った。
だが、辻には時間が分からない。
辻は時間を計る目安を雪にしようと決めた。
三十分後に雪が降る。
雪が降ったら、三十分立った証拠だ。
雪が降らない限り、辻の中の時が進む事はない。

その時、辻の左手が暖かな空気に包まれた。
見ると、晒された辻の左手を、手袋に覆われた加護の右手が包み込んでいた。

「ウチ、知らんかったわ、雪が降るなんてな。
 なんせ、雪見たことないし」

加護はそういって小さく笑った。
辻も笑い返した。
二人は寸分たがわぬ、純粋な笑みを浮かべていた。

ただ一つ違った事。
それはいつの間にか、辻の頬に雨が降っていたことだった。
81 名前:lou 投稿日:2003年01月30日(木)01時21分12秒
おしまい
>>65-80 時計を忘れて森へ行こう
82 名前:lou 投稿日:2003年01月30日(木)01時24分52秒
間が開いて申し訳ありません。
いるのかいないのかわかりませんが更新いたしました。
そんな今回の作品はリスペクトオブ「十五の思い出」。

…。
ごめんなさいごめんなさい。・゚・(ノД`)・゚・。。
身の程知らずでごめんなさい。
83 名前:レス感謝 投稿日:2003年01月30日(木)01時29分43秒
↑のいるのかいないのかは読者の方のことです。
失礼にも程があるぞ自分…。

>>63りゅ〜ばさん
タイトルで迷わせたのかもしれませんが、アレはアレで終わりです。
更新早いですねと言っていただいた直後に二週間放置する辺り、自分のダメさ加減が窺えます。
レス有り難うございました。

>>64いち作者さん
かおなちありがとう川*‘〜‘)||人(´ー`*)
こっちのが完全に不出来で恐縮です…。
もしかしたらお詫びにもう一度なちよしを…ゲフゲフ。
レス有り難うございました。
84 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時07分04秒
全くもって情けない。
僕は自分の右手を見ながら自嘲の笑みを浮かべた。
かれこれ二分、この扉の前に立ってから、震えがやむ気配が一向に見えない。
この状況と、僕の置かれた立場を考えたら、これは緊張していると見られると思うと、
自分に対する情けなさがよりいっそう強まった。

一生に一度(人によってはゼロ、あるいは二度三度四度…とにかく延々とだ)の晴れ舞台よ、
と母親に激を飛ばされ、多少はその気になってきたものの、
結局未だに自分の中に巣食っているすわりの悪い感情が顔を出す。
こんな時はミルクたっぷりのカフェオレでも飲みたいものだけど、
あいにくタキシード姿のまま手に取れる飲み物は、
紙コップに注いでくれとでかでかと置かれたウーロン茶しかない。
これはこれで式場側のセンスは誉められる。
緊張して喉が渇いている新郎にミルクたっぷりのカフェオレを出す式場など、
その常識と歴史を疑われてもおかしくはない。
そういうわけで文句を言うわけにも行かず、仕方がなくそのウーロン茶をラッパ飲みした。
85 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時08分08秒
扉の向こうにウェディングドレスに着替えたなつみがいる。
至極当たり前のその事実が、情けなさにやるせなさの衣を付ける。
かりっと揚げて熱々のうちに頬張って消化できればどれだけ楽だろうと、
どこぞの推理作家みたいな比喩が浮かんでは消える。
情けないったらありゃしない。

そんなこんなで僕が一人わやわやとしていると、扉の向こうから物音が聞こえた。
だんだんと近づいてくるその音は、タイルを踏みしめている音だとすぐに気付く。
そしてそんな物音を立てるのは、なつみ以外にいない事もすぐに気付いた。

「何してんの、そんなトコで?」

重々しい扉が音もなく開き、なつみがそこから顔を覗かせた。
首から上は見慣れたなつみだった。
薄い化粧と、短いのにさらさらと流れる髪。
けれど首から下は、今まで見たことのないなつみだった。
86 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時08分36秒
「あ、今なっちのウェディングドレス姿に見惚れたべさ」
「見惚れてないよ…」

いたずらっぽい笑顔で言うなつみの一言は心臓のど真ん中を貫いていた。
可愛いとしか形容の仕様のないなつみに初めて綺麗と言う念を抱かせたウェディングドレスは、
最近の流行なのか深紅に染まっている。
ちょっと前に読んだ推理小説を思い出して悪寒が走った事は秘密だ。

「今何時になる?ここ時計ないんだよねぇ」

全身を衣装室から抜き出し、ウーロン茶をコップに注ぎながらなつみが聞いた。
動きにくいのが伝わってくる。

「後二十分くらいかな。
 そろそろ盛り上がってるんじゃないのか」

僕は時計を見ながら答えた。
披露宴会場では何が起こっているか、あまり想像したくない事情があった。
87 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時09分10秒
「矢口たちが盛り上がってる?」
「…多分ね…」

なつみはそれをあっさりと言ってのける。
口にしたからって実現するわけでなし、また口にしなかったからって実現しないわけではないのだから
構わないけれど、空気が読めないのはなつみの重大な欠点だ。

「いやーでも、なっちも結婚する歳になったんだねぇ」

どこか他人事のように、なつみが背筋を伸ばしながら言った。
僕はまたウーロン茶を口につけながらなつみのほうを見やる。
なつみはその僕の視線に気付いたようで、その小さな身体を体当たりするように押し当ててきた。

「ねぇ」

何がねぇなのか。
サッパリ分からないまま曖昧に首を縦に振ると、なつみは満足そうに笑みを見せた。
その透き通った笑みは、僕には人形のようにしか見えなかった。
硝子細工のマトリョーシカのようにしか。
88 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時09分49秒

「何これ?」
「人形」
「これ人形?」
「そうだよ。
 マトリョーシカっていうの」

マトリョーシカ、の部分だけ口を蛸の様にしながらなつみは言った。
僕は雑多な部屋に似合わない透き通ったその人形を手に取りまじまじと観察してみる。
見れば見るほど奇妙なものだった。
人形の中に人形のその中にも人形でまた人形、と言った感じだろうか。

「硝子で出来てるんだよ、それ」

なつみが得意そうに言う。
見ても一目だし、触ればなおさらなのだけど、当然僕は気付いていた。

「おみやげ?これ」
「そう、カオリがロシア行ってきたの。
 そのおみやげ」
89 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時10分27秒
カオリ、と言う名前が出て、僕の顔に無意識のうちに苦笑が浮かぶ。

「ふーん、なるほどね、さすが飯田さん」
「何がさすがなの?」

なつみの問いに僕は答えなかった。
答えられるわけがないのだから。

「そんなこといいからさ、ちょっとお茶入れてきてよ、寒いから」
「なっちだってコタツ出たら寒いじゃないのさ」
「いいからいいから」

渋るなつみをお茶くみに行かせ、僕はマトリョーシカを眺めた。
七つほど重なる人形は、透明な硝子によって奥までが見渡せる。
まったく皮肉なプレゼントをしてくれたもんだ。
どことなく変わった人、と言う印象を持っていた飯田さんの鋭さに驚きながら、
せかせかと動くなつみの背中を見た。
急に鼻の頭が締め付けられるように痛んだ。
90 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時11分06秒

硝子細工のマトリョーシカ。
隠し立ての出来ない透明なそれは、なつみの比喩だ。
だれよりもなつみのことをよく知っている飯田さんならではの。

なつみと飯田さんが深い関係である事は、前から知っていた。
なつみは言葉を覚えたての九官鳥のように、喋らずにはいられない性格をしている。

「カオリはね…」
「だってカオリがさ…」
「ちょっと聞いてよ、カオリったら…」

カオリ、カオリ、カオリ。
なつみの頭の中には飯田さんが住んでいた。

ふざけるなと思う。
なつみは僕の求婚を受け入れた。
なつみは紛れもない、僕の妻になる女だ。
同性愛がどうのこうのは僕の知った事ではないし、否定的でもない。
91 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時11分44秒
ただし、だ。
人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死ぬべきだと思う。
飯田さんは、はっきりと邪魔な存在だ。

「なつみ」

紙コップをゴミ箱に放り投げたなつみに声をかけた。
なつみは不思議そうに振り返る。

「キスしよう」

広い廊下に二人きり。
なつみは薄く頬を赤らめ、それから辺りを見回し出した。
人はいない。

「もう…いきなりなんなのさ」

憎まれ口を叩きながら、なつみは目を閉じる。
そうさ。
なつみだって、僕の事が好きなんだ。
僕はゆっくりと、なつみの唇に近づいた。
92 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時12分07秒

硝子細工のマトリョーシカ。
それはあなた。
93 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時12分47秒
「あいつさ、近いうちに結婚しようって言ってくるよ」

カオリの大きな手が、私の髪を柔らかく梳く。
コトを終えたばかりの身体は湯気が立ち上るかと思うほど火照っていて、
この季節の薄ら寒さが丁度よく身体にしみこんだ。

「何で分かるの?」
「あんなやつ、ぺらっぺらじゃんか」

カオリの言った事がよくわからず沈黙していると、カオリは何も言わずに頭を撫でた。
気持ちよかった。

「結婚なんかしないよ、大体…」
「あっちは友達なんて思っちゃいないよ」

カオリはお得意の先回りを披露しニヤリとした。
私は少し不快さを表すためにベッドに潜り込む。
94 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時13分23秒
「田舎の親から催促来てるんでしょ?
 早く結婚しろって」
「まぁね」

毛布のせいでくぐもったカオリの声にこたえた。
親は暇さえあれば見合い写真を送ってくる。
娘が男に興味を持てず、身体を許した女がいる事も知らず。

「ばらしたくはないんでしょ?」
「うん」
「だったら、相手なんて誰でもいいじゃん」

ライターの石の音が聞こえた。
私は顔を出しカオリを睨みつける。

「なっちが結婚するのに、カオリは賛成なの?」

カオリが悠然と煙を吐き出した。
その煙が、私の頭のすぐ上を通り過ぎた。
カオリは、綺麗な笑顔で言った。
95 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時14分10秒
「人妻ってさ、卑猥な言葉だと思わない?
 他人のものだもんね、なんてったって。
 知ってる、なっち?
 不倫てさ、いつばれるか分からないっていう興奮のせいか知らないけど、
 デートしててもドキドキして、セックスは倍以上感じるんだって」

カオリはまだ火のついたタバコを灰皿にねじりつけ、俊敏な動きで私の首元に吸い付いた。
不意打ちに思わず声が上がる。

「だからさぁ、カオリの勝手なお願いなんだけどねこれは。
 万が一、なっちが他の男になびく前に…」
「なびかないさ」
「万が一。
 心配なんだよ?大好きな人のコトは」

カオリは唇を段々と上に這い上がらせる。
耳たぶをかまれ、秘所が潤ったのが分かった。
96 名前:硝子細工のマトリョーシカ 投稿日:2003年01月31日(金)22時14分30秒
「石橋を叩いて叩いて、ね。
 結婚するなら、あの男にして欲しいなぁ。
 あの男なら、なっちを奪われることはないから」

カオリの唇がゆっくりと私の唇に近づいてくる。
同時に、カオリの手がどこかへ伸びるのが見えた。

「カオリの、自分勝手なお願いなんだけどね」

カオリは勘違いをしてる。
カオリのお願いは、私のお願い。

「…あの人と、結婚するよ」

カオリが微笑んだのが見えた。
それを最後に、視界は砂嵐になった。
97 名前:lou 投稿日:2003年01月31日(金)22時15分29秒
おしまい
>>84-96 硝子細工のマトリョーシカ
98 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月31日(金)22時16分45秒
某スレに対抗して男×娘。にしてみました。
嘘です。
これは立派な(略 です。
99 名前:lou 投稿日:2003年01月31日(金)22時23分06秒
ところで。
レスをもらえてない身で言うのは恐縮のうえ恥ずかしい限りでさらに偉そうなのですが、
以降、罵倒レス以外はこのスレにはしないで下さい。
誉めていただくとつけ上がるというよくない体質が自分にはありますので。
「ここが悪い」「話が面白くない」「カエレ」等、何でも構わないので、
目に付いた部分があったらレスしてみてください。
非の打ち所のない作品が書けてる訳はありませんので、
作者を凹ますくらい罵倒が集まる事を期待(と言うのか)しています。

…とか言って誰も読んでなかったらそれこそピエロな罠。
100 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月31日(金)22時29分25秒
どこも悪い所がないので罵倒しろと言われても困るんですが…。
作者さん、いい作品じゃねーか!コノヤロウ!と言ってみます(W
101 名前:名無し読者 投稿日:2003年01月31日(金)23時51分05秒
なんだか尻切れとんぼのよーな気がします。
最後にもう一ひねりあったほうがよかったんじゃないでしょーか。

こんなんでよろしーですか?
102 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月01日(土)00時20分03秒
「ここが悪い」!
「話が面白くない」!
「カエレ」!!

と言うのは冗談でマジレス&超主観的レスをさせて貰うと
漢字の多さや使い所に抵抗を感じます。硬質な感じがして取っ付き難いです。
これは作者様のスタイルだと思うのでそんな事言うなら読むな!
と言われればそれまでなのでしょうが罵倒レス以外するなという魅力溢れる要望に応えてみました。
あと口幅ったいですがこの罵倒レス以外するなというシバリで読者同士の論争が
小説を無視して始ってしまうんじゃないかと勝手に危惧しています。
103 名前:lou 投稿日:2003年02月01日(土)07時24分18秒
おはやうございます。

>>100
どうも心が荒んでいてまともに受け取れない自分が悲しいですが、有り難うございます。
でも、好んでくれる方もいらっしゃるんですよね。
肝に銘じます。
>>101
「硝子細工のマトリョーシカ」に関しては確信犯な意味はありますが、
いっつもそんな感じですからね。
改善の余地アリです。
>>102
漢字は、結構好んで使ってるところがありますね自分の場合。
読みがたい…なるほど。
読者同士の論争が始まってしまうのは、個人的には悪くもないかなとも思いますが、
小説無視は悲しいものです、はい。

相も変わらず分裂症気味で倒錯しておりまして申し訳。
罵倒だけしてくれってお願いも自己中だと昨日眠る前にようやく気付いたアフォです。
気づいた事をレスしていただければ結構ですので、罵倒もいとわない
と解釈していただければこれ幸いです。
104 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時46分33秒
「のんちゃん」

紺野あさ美が辻希美を呼びに来た時、外は心なしかいつもより明るかった。
目覚まし時計の秒針の音だけが響いていた部屋では、紺野の控えめな声も、はっきりと辻の耳に届いた。

「ご飯だよ」

紺野の声に、辻はベッドにうつぶせになっていた身体を持ち上げ応じた。
紺野と視線を合わせると、紺野は普段以上に潤んだ瞳で辻を見ている。

「どうしたの紺野ちゃん?のんなんか変?」

辻は笑顔を作り問いかけたが、紺野はただ小さく身体を揺らし続けている。
そのまましばらく沈黙が続き、いくばくか時間が過ぎた後、紺野が決心したように声を出した。

「のんちゃん、あの…」
「ん?」
「…スノードロップ、咲いてたよ」
105 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時47分06秒
紺野は言い終わると、辻の反応を見ずに背を向け、部屋を出て行ってしまった。
スリッパが湿った木の廊下を走り遠ざかる音を聞きながら、辻は小さく嘆息し振り返った。
薄暗がりの空を映し出している窓、その下に置かれた机の上に置かれた一冊のノート。
辻はそれを手に取ると、さっきまでしていたように何気なくページをめくった。
いびつな字が紙いっぱいに広がっているページや写真ばかりが貼り付けられたページが、
辻の目の前を淀みなく流れる。
内容は頭に入っていない、否、正確には既に入っている。

『…スノードロップ、咲いてたよ』

ノートを手に取ったせいか、辻の脳裏に先程の紺野の言葉が甦ってきていた。
辻はノートから顔を上げ、風に吹かれカタカタと震える窓に手をやり外を眺める。
辻の部屋からは、スノードロップは見えなかった。
見えたのは名前も知らない植物がいくつかと、塀越しにあるコンビニエンスストアの立て看板のみ。
そこでふと、辻はスノードロップ以外の植物の名前を知らなかったことを思い出した。

何も知らない。
辻は自嘲気味に笑みを浮かべた。
植物の名前だけならまだしも、私は何も知らないし、知らなかった──。
106 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時48分03秒
年季が入り所々黒ずんだ廊下は、水分を多分に含んでいるせいか、
二条城の鴬張りのような耳障りな音を立てることはしない。
スリッパを履かず、洒落っ気のない白のソックスを滑らせながら、辻は食堂に向かっていた。
辻の部屋から食堂までは、在する階こそ同じものの多少の距離がある。
三回曲る角の内一つ目を曲がり終えたところで辻は一度立ち止まった。
辻の見上げる視線の先には、重苦しい茶色のドアに不釣合いなピンクの紙が張られている。
そこには紙からはみ出さんばかりの迫力で、部屋主の名前が書いてあった。

「あいぼん、あいぼん」

数度ドアをノックしたが、返事は返ってこない。
それを確認すると、辻はいともあっさりと歩みを進め始めた。
107 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時48分43秒
加護亜依は、辻が紺野と並べて大切にしている友人だった。
並べてとはいっても、加護と紺野はもともと同じカテゴリーに分類できるタイプではない。
紺野は寡黙で、温厚で、けれど一本芯が通っている。
加護は多弁で、奔放で、けれど内心にはガラス細工のように繊細な心を持っている。
そんな、下手をすれば北風と太陽のように忌み嫌いあってもおかしくはない二人を繋ぎとめているのは、
改めていうまでもなく辻と言う名のかすがいである。
108 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時49分17秒
三つ目の角を曲がり、さながら競馬場のバックストレッチのように長く続く廊下に差し掛かった時、
ようやく食堂から流れる音が辻の耳に届いた。
洗練されたクラシック音楽などとは程遠いであろう──何しろ辻はクラシックなど耳にした事はない──
その笑い声はしかし、クラシックなどよりよほどこの施設になじむと辻は思った。
笑い声はごくごく自然に、滞りなく古びた木の壁や柱に吸い込まれていく。
これがクラシックなら、壁や柱の方が耳を塞いでしまうに違いない。
すんなりと児童書にあるような耳を塞ぐ柱の絵が浮かんでしまい、辻は声を潜めたまま笑った。

「のの遅いで」
「遅かったねのんちゃん」

食堂に入るとすぐ、加護と紺野が辻の傍に走り寄って来た。
意識していたわけではないのだが、自然と紺野の事が気になってしまう。
けれど紺野は何事もなかったかのように振舞った。
もしかしたらもうさっきのことは忘れているのかもしれない。
そう思うといくらか辻の気は楽になった。
109 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時49分54秒
食堂は既に人で埋め尽くされ、おかずをもらうための列は嘆息無しでは見られないほど長く連なっている。
席は確保してある、と言う紺野の言葉に辻は頷き、三人はその長蛇の尻尾に取り付いた。

「寝てたん?」

尻尾に取り付くなり、加護が辻の瞳を覗きこみながら聞いた。
黒目がちの大きな瞳は昔から変わっていない。
辻は首を振った。

「ボーっとしてた」
「私が呼びに行ったんだけどね」

紺野が隣から口を挟む。
加護は二人の間で首を左右させた後、探偵よろしく手を顎にあてははぁんと唸った。
儀式のようなものだ。

「紺野ちゃんが呼びに来てくれた後もボーっとしとったんやな」

当たらずといえど遠からずだった。
ベッドからは起き上がったものの、ボーっとノートや外を眺めていたのは否定しようがない。
加護探偵の名推理を堪能してから、辻は少しの嘘を含んだ反撃に出た。
もちろん悪意などない、ただのイタズラ、戯言だ。
110 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時50分22秒
「あいぼんの部屋で時間食っちゃったからさ。
 どれだけ呼んでも返事しないんだもん」
「あったりまえやん。
 うちはののと違って紺野ちゃんが呼びに来てくれたときすぐにココに来たからな」

加護は得意げに胸を張る。
辻は苦笑しながら付け足した。

「あいぼんがいるいないの問題じゃなくてさ、そこで時間かかっちゃったってことだよ。
 のんはあいぼんがいると思ってたから何度もノックしたんだもん」
「別にそれはウチのせいやないやろ?」
「あいぼんのせいじゃないこともないよ。
 あいぼんがいないことがわかってたらのんそんなに時間かかんなかったんだし」
「もう、二人とも何いってるのかわかんないよ」

辻と加護の小さな諍いは紺野によって遮られる。
別に場の空気が悪くなったりするわけではないのだが、紺野の役目もまた儀式と化していた。
111 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時50分47秒
施設の夕飯は学校給食のように配布される。
三人は大きめのトレイを手に、加護の手鏡と紺野の文庫本が目印として置かれた席についていた。
四人がけのテーブルは、一つが荷物の席となっている。

「のの、レーズンパンいらんやろ」

席に着くなり、加護が辻のレーズンパンをターゲットにロックオンした。
いくつか好き嫌いのある辻は、中でもレーズンを最上級においていた。
曰く「ぐにゃってなってジワーッってなるのが嫌」。

「いいよ、あげる」
「お腹すかない?」

何の躊躇もなく加護にレーズンパンを差し出す辻に紺野が心配そうに問いかけた。

「お腹すいたら寝ちゃうよ」

辻は笑顔でかわした。
112 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時51分26秒
食事中の会話は決まって他愛のないものになる。
今日は加護が振った従姉妹デュオ歌手「やぐよし」の話題になった。

「すごいよなー、やぐよし。
 よっすぃーはカッケーし矢口さんは可愛いし。
 のの知ってる?今度の新曲」
「知らないよ、のんの部屋テレビないし」

この施設には数種類の部屋が用意されている。
テレビとラジオが備え付けの部屋、テレビのみの部屋、ラジオのみの部屋、そして何もない部屋。
部屋の振り分けは各個人が入設する際にくじ引きで決められ、以降変わることはない。
もちろん不満を言う人間は続出するが、施設長である中澤裕子は

「テレビやラジオなんなくても死にゃせえへんやん。
 どうしても内容が知りたかったら、テレビやラジオ持ってる部屋の奴に聞いたら?」

と取り付く島もない。
仕方なくテレビやラジオを持っている人間を探し出し話を聞く事になるわけだが、
すると不思議な事に、いつしか見知らぬ相手が顔見知りになり、そして知り合いへとステップアップしているのである。
施設においては、その知り合い方が最も一般的になっている。
113 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時52分29秒
「ほんなら今度泊まりにこいや。
 ビデオとったから見せたるわ。
 紺野ちゃんも一緒においで」
「うん、ありがとう」

加護が息つく間もなく喋り続け、辻と紺野はただ相槌を打つ。
加護はとうとうと「やぐよし」の魅力について語り続けるのだが、
実際テレビもラジオもない部屋を引き当てた辻と紺野は、
「やぐよし」の動いている姿どころか肉声すら聞いたことがなかった。
かろうじて加護が施設近くで買ってきた雑誌で顔を見たことがある程度である。
114 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時53分02秒
気分よさそうに演説を続ける加護から視線をそらし、辻は外に目を向けた。
紺野が確保しておく席はいつも特等席に近い。
食堂一の大窓から外を眺めていた辻は、最初の位置から少し視線をずらしたところで動きを止めた。
名前も知らない大きな木、施設に入っている人間の間では「気になる木」で通っているその木の袂、
冬の入り口に差し掛かり、土の茶と枯葉の茶が混じりあうその場所に、
弱々しくもしっかりと佇む、一本の白い花が見えた。

「…咲いてるんだ、ホントに」

辻の呟きが聞こえたのか、紺野が辻の横から窓の外を盗み見る。
途端に、紺野の顔色が変わり、息を呑む音が聞こえた。

「のんちゃん…」

心配そうな紺野を横目に見ながら、辻はヨーグルトに手を伸ばした。
加護はいつの間にか席を立っている。
大方「やぐよし」の普及にでもいっているのだろう。
115 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時53分28秒
「紺野ちゃん」
「何?」

好都合だと辻は思った。
加護の事はもちろん嫌いなんかではなく、むしろ大好きだ。
けれど、今は不要な存在だった。

「ちょっと付き合って。
 下、行こう」

紺野が再び息を呑む音が聞こえた。
悪いことをしてるのかな、という多少の罪悪感は、
旺盛な好奇心の前では何の力も持たない。
辻はヨーグルトを食べ終えるとだらりと力の抜けていた紺野の手を握り立ち上がった。

「ちょ、のんちゃん」
「ついてきて」

ごめんね、と言う言葉は飲み込んだ。
いくらか人口密度の落ちた食堂を、辻と紺野は手を繋いだまま走り抜けた。
三人がいたテーブルには、多少のぬくもりと綺麗におかずの片付いたトレイだけが残されていた。
116 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時54分14秒
二人が扉を開けると、即座に二つの影が飛びかかってきた。

「うわっ、マロンちょっとどいてー」
「メローン、ちょっと待っててね」

辻に飛び掛った中型の小柄なイヌと紺野に飛び掛った大型のイヌは、
それぞれマロンとメロンと言う呼び名を与えられている。
その昔、それこそ辻達が施設に入る前から飼われていたと言う二匹は、
立派に成長し、今では番犬の役目も兼ねるようになっていた。

そんな二匹は、施設の中でも特に辻と紺野の二人になついていた。
多数の施設在住の人間がいる中、何故辻と紺野によくなつくのか、
施設の中では首を傾げる向きがないでもなかったが、たいした問題ではないと大きく取りざたされる事はなかった。
実際、マロンメロンの二匹は番犬には不向きだと断言できるほど人見知りをしない犬達だった。

「マロン、降りなさいマロン」

茶色い身体に茶色い尻尾を嬉しそうに振りながら寄りかかってくるマロンを、
辻はやんわりと引き離した。
紺野も同様に、体の大きな漆黒のメロンを何とか落ち着かせている。
二匹は引き剥がされると、言われてもいないのにお座りをした。
身体に染み付いてるらしい。
117 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時55分00秒
「紺野ちゃん、今のうちに行こう」

二匹の隙を見て、辻が紺野の手を取り走り出した。
どこかへいってしまうという嗅覚が働いたのか二匹も腰を上げたが、
既に鎖でつながれた領域からは辻達二人は抜け出してしまっていた。
二匹の遠吠えを聞きながら、辻達は正門の丁度真裏、「気になる木」を目指していた。
目的はもちろん、スノードロップ。
明らかに時期の早い、十二月頭に開花をしているスノードロップだった。

スノードロップ。
和名をマツユキソウと言うその花は、純白の花弁を十センチ前後の茎で支えるヒガンバナ科の一種である。
一月一日の誕生花であり、また花言葉に「希望」を持つ天使の贈り物は、
二月から三月の開花が一般的だ。

けれど今は十二月に差し掛かったばかり。
スノードロップの好む寒さもまだ足音の段階で、姿ははっきりとはしていない。
それなのに顔を出すそのスノードロップは、相当なせっかちだ。
118 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時56分33秒
「のんちゃん…」

辻に手を引かれたままただ足を動かしてきた紺野がようやく一息つきそう声を出した。
紺野が一息つくということはつまり辻の足が止まったと言う事であり、
辻は紺野の声が聞こえなかったかのように呆然と立ち尽くしている。

「のんちゃん…」

繋がっている手に力を込め、紺野がもう一度辻の名を呼んだ。
声色には不安の色が見え隠れし、いつしかカンバス全体を覆ってしまうのではないかとすら思う。

「紺野ちゃん」

辻がようやく声を出したのは、それからしばらく経ってからの事だった。
紺野が顔を上げると、辻は視線をスノードロップに縛られたまま機械のように続ける。

「なっちゃんさ、優しかったのね。
 のんが初めてココに来たとき、最初に話しかけてくれたのがなっちゃんなの」
「のんちゃん…」
「のん、お姉ちゃんいるらしいんだけどさ。
 こんなところ来るくらいだから、お姉ちゃんなんていわれてもきっと全然知らない人と大して変わらないんだよ。
 だからさ、なっちゃんはホントのお姉ちゃんみたいでさ」
「のんちゃん!」
119 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時57分06秒
怪しげな宗教のテープのようにただただ延々と喋り続ける辻に恐怖を感じ、
紺野が激しく辻の身体を前後に揺さぶった。
頭に載せたダンゴが痙攣しているかのように小刻みに揺れながら、なお辻の演説は止まらない。

「のんさぁ、何考えてたんだろうねぇ。
 なっちゃん、別に花とか好きだったわけじゃないじゃん?
 飯田先生も言ってたけどさ、どっちかっていったら花よりダンゴだよね」
「のんちゃん!」

辻が怪しげな宗教テープを流し続ける壊れたテープレコーダーだとしたら、
紺野はそれしか言葉を知らないオウムのようなものだった。
先程から何度「のんちゃん」と言う単語を繰り返した事だろう。
誰も誉めてくれる人などいない、いや、聞いてくれる人すらいない。
紺野の独演は虚しく虚空に響く。

「マロンとメロンのせいにしちゃえば簡単だよ?
 だけど、マロンとメロンはイヌで、なっちゃんとのんは人間じゃん?
 だからさ、やっぱり…」
「のんちゃん、いい加減にして!」

腹の底から絞り出したような声を上げ、紺野が辻の身体を引き寄せる。
辻の身体は人形のようにあっさりと紺野のうちに納まり、いつしかテープも切れていた。
しばしの静寂が二人を包んだ。
120 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時57分47秒
「のんちゃん、紺野、何してるの?」

どれだけか続いた静寂を破ったのは、辻でも紺野でもない第三者だった。
二人が同時に振り返ると、「まませんせい」飯田圭織とその横に二人、見慣れない女性が立っていた。
女性二人は並んで頭を下げ、辻と紺野も反射的に頭を下げる。
どこかで見たことがあるようなないような、辻も紺野も二人の顔を思い出すことが出来なかった。

「スノードロップ、見に来たの?」

飯田が苦々しげに言った言葉に二人は頷いた。
そう、と息の音だけで落胆を表し、飯田は連れ添っている二人を伴って歩いてきた。
枯葉を踏みしめる音が、辻には異世界のもののように聞こえていた。
121 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時58分18秒
「それ?」

スノードロップの前に来るなり、小柄な女性が飯田に問いかけた。
飯田は黙って頷く。
小柄な女性ともう一人、飯田ほどの身長の女性は神妙にスノードロップの前で膝を曲げ、手を合わせた。
気まぐれな風が「気になる木」に残った葉を小さく揺らす。
紺野があ、と小さく声を上げたのも丁度その時だった。

「やぐよし…?」

紺野の言葉に、辻も小さく声を上げた。
今スノードロップの前で手を合わせているのは、確かに「やぐよし」の二人に間違いなかった。
「やぐよし」の二人は手を合わせ終えると立ち上がり、辻と紺野に向けて笑みを作った。
そして小柄な方──矢口真里が言った。

「なっちのコト、詳しく聞かせてくれるかな?」
122 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時58分58秒

矢口が吉澤ひとみを連れ施設を訪れたのは、もう十年以上前のことだった。
従姉妹である矢口、吉澤それぞれの両親が相次いでこの世を去り、残された二人は自然と、
小さな孤児院「メモリー」へと預けられた。

「矢口真里ちゃんと吉澤ひとみちゃんね。
 今日からよろしくな」

経営者の娘である中澤に手を取られ、二人はこの世界へと飛び込んだ。
そこにいたのが、飯田となつみだった。
123 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時59分20秒

「のんが悪いんです」

矢口の問いに真っ先に反応したのは辻だった。
真っ先とは言っても、たっぷり三十秒は沈黙が続いていたけれど。
のんちゃん、と囁く紺野の声は聞こえないかのように辻は続けた。

「のんがなっちゃんにスノードロップをあげたから…」

そこまで言い、突然辻がしゃくりあげ始めた。
こらえていた涙がゆっくりと辻の頬を伝う。
場にはまた、沈黙が訪れた。
124 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)15時59分59秒

辻が「メモリー」に来た四年前、飯田となつみは既に「せんせい」と呼ばれる立場に立っており、
中澤は施設長に、矢口と吉澤は既に施設を出て、「やぐよし」としての活動を始めていた。

「初めまして、辻希美です」

たどたどしい口調で挨拶を済ませると、辻は施設を案内された。
案内役はなつみだった。

「辻ちゃんは、何て呼んで欲しい?
 なっちのことはなっちか、なっちゃんでもいいよ」

忘れるはずもない、なつみの辻への第一声はそれだった。
辻にとってその言葉は、上手く説明の出来るものではない。
ただ、どんな言葉よりもしっかりと胸に刻まれた事だけは確かだった。
125 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時00分30秒

「そんなの偶然ですっ!」

辻の涙がもたらした沈黙を破ったのは紺野だった。

「そんなの、偶然に決まってます!」

顔を赤く染め、紺野が叫び続ける。
そこに助け舟を出したのは矢口だった。

「たしかにね、あのなっちがそんなことで…」
「でも」

辻の口調は力強かった。
全ての責任をその小さな背中に背負っている事は明白だった。

「なっちゃんが車の前に飛び出したことは、事実です」
126 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時01分02秒

「なっちゃん、これあげる」

辻がなつみに差し出したものはスノードロップだった。

「メロンがね、抜いちゃったの。
 でも、綺麗だからなっちゃんにあげる」

スノードロップを受け取ったなつみは笑顔を辻に向けた。

「ありがとう、のの」

辻はてへてへと笑った。
127 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時02分44秒

「スノードロップの花言葉は希望」

吉澤がポツリと呟き、矢口がその後を継いだ。

「でも、贈り物にすると…」
「あなたの死を望みます」

矢口が言いよどんだ言葉を辻はさらりと言ってのけた。
何度目かの沈黙が訪れる。

「最後の一本だけど、抜くよ」

沈黙を破った飯田の声に、辻と紺野が力強く頷いた。
矢口と吉澤はお互い視線を交わしあい、小さく頷いた。
128 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時03分18秒

なつみが事故にあったのは、夏の入り口、六月頭の事だった。
施設では辻が飯田とゲームをしながら、なつみの帰りを待っていた。

「遅いね、なっちゃん」
「そうだね、何かあったのかな」

昼前に施設を出たなつみは、夕方になっても帰らなかった。
中澤と飯田が不安を露わにし出した頃、電話がなった。

「あの、孤児院メモリーさんでしょうか?」
「そうですが…」

中澤の応対は飯田の不安を確信に変えた。
受話器を置いた中澤は、飯田に向かってどなりつけるように言った。

「なっちが事故にあった。
 病院行くで!」
129 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時03分46秒

五人は長く続く廊下を歩いていた。
辻の好きな軋まない廊下は、当然今も軋んでいない。
それが無性に腹立たしかった。

「裕ちゃんは?」
「今日は用事で外出てる」

飯田と矢口の会話が響く。
吉澤は黙って後方をついてきている。
紺野はスノードロップを握り締めたまま辻の様子を窺っていた。

「ごめんね」

それに気付いた辻が紺野に声をかける。
紺野は小さく首を振った。

「のんちゃん、毎年私に謝ってる」

謝る相手が違う。
辻も紺野も、その言葉を口にする事はなかった。
130 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時04分20秒
職員室の隣に、その部屋はあった。
飯田は一瞬、その扉の前で足を止め、全員の顔を見やる。
誰も彼もが一様に緊張した顔をしていたが、後悔や同様は見られなかった。
飯田は意を決して、扉を開けた。

辻の目に最初に飛び込んできたのは、微笑んだなつみの顔だった。
辻のよく知る眩しい笑み、しかしそれは、どこか古臭さを思わせるものだった。
それはまるで、美しさを何とか残そうとした押し花のよう。

「紺野」

飯田の言葉に、紺野が歩みを進める。
なつみの笑みが間近に来たところで、紺野がポツリと漏らした。

「お姉ちゃんの…バカ…」

言いながら、花瓶にスノードロップを挿し込む。
毎年一本ずつスノードロップが加えられていく花瓶には、すでに数本の枯れた茎が刺さっていた。
それを、なつみの笑顔の目の前に置いた。
辻が古臭さを感じたその笑顔は、なつみが事故にあった当時から何も変わっていなかった。

『紺野なつみ ここに眠る
 享年 20』
131 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時04分53秒

「恨んでなんかいませんよ」

紺野が辻に向けた第一声も、辻は一生忘れる事はないだろう。
二人暮しをしていた紺野は、なつみの死後すぐに、「メモリー」に入った。

「お姉ちゃんはスノードロップの花言葉なんて知りません。
 あれは事故です」

責める口調ではなかった。
けれど辻は、その言葉に救われるほどなつみの存在を軽んじてはいなかった。
何もいえないでいる辻に、紺野は笑みを投げかけた。

「辻さん、スノードロップの花言葉は、希望なんですよ」

よろしくお願いしますね。
そういった紺野に、辻は瞳を潤わせながら、よろしくね、と返していた。
132 名前:黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜 投稿日:2003年02月20日(木)16時05分16秒

「のんちゃん」

部屋を出て、辻と紺野は二人きりになった。
行きと同じように長く続く廊下を戻る。

「お姉ちゃんはスノードロップの花言葉なんて知らないから。
 あれは事故だよ」

責める口調ではなかった。
辻も小さく笑みを返す。

「そうかな?」
「そうだよ」

スノードロップにまつわる数多の伝説の中に「天使の贈り物」と言うものがある。
早咲きのスノードロップは、なつみからの贈り物なのかもしれない。
辻はそんなことを思った。

「ねぇ紺野ちゃん?」
「なに?」
「どんな花が欲しい?」
「…のんちゃんがくれるなら、スノードロップでも嬉しいよ」
133 名前:lou 投稿日:2003年02月20日(木)16時06分41秒
おしまい
>>104-132 黒と茶の幻想 〜夏に散る花〜
134 名前:lou 投稿日:2003年02月20日(木)16時07分37秒
支離滅裂もいいところ。
無駄に長い自己保全だとでも思っていただいたほうがいいかもしれません。
鬱。
135 名前:スペシャルサンクス 投稿日:2003年02月20日(木)16時09分14秒
この話を書くに当たって読み込ませていただいた話、スレ。
ありがとうございました。

「ANGEL FACE」(第八回短編集)
「桜」(森板倉庫)
136 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月24日(月)00時26分49秒
105にあるノートというのは安倍との思い出の物なんですかね。
あと、129でののが腹を立てたのには何か理由があるんでしょうか。
雰囲気が良か(ryので、読解力不足で諦めるのが惜しい!という訳で、
ヒントを頂けたら幸いです。
137 名前:136 投稿日:2003年02月24日(月)00時33分03秒
それ以前に下げミスすみませんでした…
138 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時19分01秒
一月十八日。
計ったように雨が降っている。

久しぶりに掃除をした部屋は、脱皮でもしたのかと思うほどの変貌を遂げた。
散乱していた本は縦に積まれ、歪んだカーペットは背筋を伸ばし、
何故かベッドの裏に隠してあったポテトチップスの袋を処分した。
ゴキブリが出てこなかったのは奇跡かもしれない。
ただ、そんなことに運を使いたくはなかった。

どれだけ真剣に見つめたって、時計は頑張ってはくれない。
マイペースに時を刻み続け、私をやきもきさせる。
次の次に長針と短針が十二の上で重なるまで、私は何をしていればいいのだろう。
雨が止む事を祈ろうか、空いた小腹を満たそうか、メタリカでも聞こうか。
どれもこれもがしっくりこなくて、私はベッドに身を任せた。
窓がいっそう強く打たれ出した。
天は泣き止まないかもしれない。
139 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時19分33秒
言葉を使える。
それは人間の特権であると、常々私は思っている。
証ではなく、権利。

例えば、この世の全てが言葉を話せたら。
今私が身を預けているベッドが、すやすやと眠りこけている愛犬が、
買ったまま積読になっている古本が、それぞれ私たちとコミニュケーションを取れたとしたら。
素晴しい世界なのか狂おしい世界なのか、私にはわからない。
かろうじて思いつくことを羅列すれば、
思ったよりはうるさくなくて、思ったよりは楽しい世界で、
けれど思ったよりは気苦労が多い。
そんな、二十年は軽く寿命が縮みそうな世界には間違いはないと思う。
140 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時19分57秒
「梨華ちゃんおめでとう」
昨日の事だった。
夕方で仕事が終わり、いざ帰らんとしている私のところへ来た辻と加護が吐いたセリフがそれだった。

「何?」
辻と加護はもちろん辻と加護だった。
昔より頬がそげ、髪を下ろしたとはいえ辻は辻だし、
昔より関西訛りのイントネーションが薄れ、声が低くなっても、加護は加護だった。
おめでとうと言い、ニコニコと笑みを浮かべながらも、
別に何かを持っているでもなく手を繋いでいるだけなのも、やはり辻と加護だった。

「あさってはうちらミニモニ。の仕事だから、今日お祝いしようと思って」
辻は台本を呼んでいるかのような棒読み口調でそういい、
加護は隣で声を潜め笑っている。
やはり辻と加護は辻と加護だった。
141 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時20分34秒
「のの、やめやめ。
 さすがの梨華ちゃんでもばれちゃった」
加護はさらりと失礼な事を言う。
目論見が崩れたというのに堪えないのは、出会った時より加護が三歳歳を取ったせいだろうと思う。

「何やろうとしてたの?」
つまらなそうに頬を膨らます辻と明後日の方向を向いている加護に聞くと、
間髪をいれずに答えが返ってきた。
「びっくり箱」
古典的だ。
「ひよこが飛び出すように改造したの」

まったくもってあり得ない。
誕生日に地獄を見せようとは、少々粋が過ぎる。
私は二人に見せつけるように大きく息を吐き出した。
142 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時21分28秒
「冗談だよ梨華ちゃん。
 ちゃんとプレゼントあるって」

辻が慌てて言う。
随所に現れる辻の微笑ましい行動を見るたび、私の心臓はギリギリと捩れる様な痛みに襲われるのだけれど、
今日はそれがキリキリだった。
それだけの事で妙に誇らしげな気分になれるのは、私がわかりやすい構造だからだけではないと思う。
「のんとあいぼんでケーキ作ったの。
 楽屋のクーラーボックスに入ってるから待ってて、取ってくる」
そういうと辻は何がなんだかと言った感じで呆けていた加護を引き連れさっさと楽屋へと向かった。
私は一人取り残され、特にやる事もないままふらふらと視線を泳がせた。
五時。
辻と加護に呼び止められどれくらい経ったのか、よくわからない。
丁度その時、視線の端に、何かをぼやきながらテレビ局に走りこんでくる人を見かけた。
定番と言えば定番だけれど、まさか雨が降っているとは思っても見なかった。
143 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時21分55秒
辻と加護の作ってくれたケーキは決してサイズの小さいものではなかった。
少なくともショルダーには入らず、おかげで傘も差さずに七分間雨の中を走り抜けると、
二人が一生懸命に仕立ててくれたであろう箱の文字が波を打って滲んでいた。
私は髪を拭くより先にケーキを箱から取り出し、それを四等分に切った。
髪を滴る雫がケーキを汚さないように気を使った。

ケーキを切り終え、着替えを済ませ、ようやく髪を拭き、私はソファに沈み込んだ。
雨脚は帰りの道中のそれより勢いを増しているように感じる。
窓を叩く雨のメロディは、今日の私には不快感しかもたらさなかった。
『ざまあみろ』
そうとしか聞こえない雨音をかき消そうと、ディープパープルの力を借りた。
ディスクをセットし、四等分したケーキの一切れを残し冷蔵庫にしまう。
キッチンから戻ると、痛快なシャウト以外の音は姿をなくしていた。
満足しながらケーキを口に運ぶと、
きっとこれは辻加護の最高傑作になるだろうと瞬時に判断できた。
144 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時22分19秒
かれこれ雨が降り続けて二十時間になろうとしている。
一度十二の上で重なった長針と短針は、また追いかけっこを始めた。
しかしこれほど気楽な追いかけっこもないだろうと、私はケーキを食べながら思う。
確実に交わる二つの張りはどんな事を思いながら円を描いているのか。
そんなことは聞いてみたくもないと思う反面、興味を持っている自分がいることには気付いている。

ケーキ皿を流しにぶち込んで、私はデッキに手を伸ばした。
ランダムリピートのボタンを押す。
入っているMDがなんだったかすら覚えていない上のランダムリピートでは、
何が流れてくるのか皆目見当がつかない。
目を閉じてしばらくすると、聞き慣れたイントロが流れた。
「センチメンタル南向き」だった。
145 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時22分47秒
「梨華ちゃん、プレゼント何がいい?」

一昨日の事だった。
ハロモニの収録中、舞台裏に呼び出された私は単刀直入矢口さんにそう言われた。
「なんでもいいよ、無理じゃないものなら」
ストレートに流れる髪を揺らしながら、矢口さんはそういって笑った。
自分の発現の矛盾に気付いて笑ったわけではないだろうと考えながら、
私は思考をめぐらせた。
あまり高価なものは避けようとか、迷惑をかけるような事はやめようとか、
とかく一般的なことをだらだらと考えた後、ふと思いついたことを口にしてみた。

「それでいいの?」
矢口さんは意外そうに首を傾げた。
それはそうだろう、わざわざ誕生日プレゼントにしてもらう意味などない。
スタッフさんが走り回る中、私は小さく頷いた。

「オッケー、任せといて」
矢口さんは自信満々に胸を叩いた。
146 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時23分09秒
ふと思い立って時計を見ると、一月十八日は残り一時間を切っていた。
前に時計を見てから十時間以上経っているが、その間何をしていたかよく覚えていないけれど、
眠っていたのか、少しぼやける視界をはっきりさせようと目を擦る。
頭の上ではまた、「センチメンタル南向き」が流れていた。

私は起き上がって窓の外を眺めてみた。
雨はまだ降り続いていた。
必死になって何かを洗い流しているようにも見える。
目の前にあるカラオケボックスの看板が、けぶっていてよく見えなかった。

「センチメンタル南向き」が終わって、また「センチメンタル南向き」が流れ始めたのと時を同じくして、
机の上に放ってあった携帯が「センチメンタル南向き」を鳴らした。
ディスプレイを見るまでもない、私の携帯がその音を立てたら、
電話の向こう側にいるのはこの世に一人だけだ。

「おーす、起きてた?」
矢口さんはいつもより低い声でそう切り出した。
147 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時23分46秒
「ちょっと早いね」

私がデッキの音量を絞っていると、矢口さんがそういった。
主語も何もないけれど、その言葉の意味が私には伝わった。
視界の端に入った時計を見ると、いつのまにかカウントダウンが始まっていた。
「いやさ、オイラ柄にもなく緊張しちゃって…」
本当に緊張しているらしく声が上ずる矢口さんがそういうのを聞いて、
私は思わず笑い出してしまった。
なんだよぉ、と矢口さんが呟いたのが聞こえたとき、電話の向こうで何かが鳴る音がした。
目覚まし時計みたいなものかもしれない。
うわわっ、と小さな呟きが聞こえ、それからすぐにその音が止んだ。
148 名前:リカ 投稿日:2003年02月24日(月)12時24分35秒
「…時間間違えないようにさ」
言い訳がましく聞こえなかったのは私が単純だからに違いない。
矢口さんのそわそわが伝わってくるような短い間をおいて、矢口さんの声がこちらに飛んできた。

「…えーと、ハッピーバースデー…」

私はその声を他人事のように遠くで聞きながら、外を眺めた。
相変わらず窓が濡れているせいで看板は歪んで見えたけれど、
雨は止んだらしかった。
頭の上で流れ続ける「センチメンタル南向き」を聞いて、
デッキに入っているMDの収録曲が「センチメンタル南向き」一曲だけだったのもようやく思い出した。

「…リカ」

十八歳の誕生日と、十八歳にもらった一番好きな人からのプレゼントは、
お墓まで持っていけると確信した。
頭の上では丁度、「センチメンタル南向き」のイントロが流れ始めた。
149 名前:lou 投稿日:2003年02月24日(月)12時27分32秒
おしまい
>>138-148 リカ

本作におけるスペシャルサンクス
「インスタントマジック」(黄板『いしやぐ聖誕祭』スレ内)
150 名前:lou 投稿日:2003年02月24日(月)12時30分23秒
「いしやぐ〜」スレに遅ればせながら乗っけさせてもらおうかと書いたものの、
出来上がりがあまりにどうって事ないので埋める意味も込めてこちらへ。

以下余談ですが、最近のかおなちとチャミラブの恋人ぶりは素敵過ぎますね。
この調子なら「かおなち聖誕祭」の盛況も夢ではないと思うのですが。
誰かお願いします。
151 名前:lou 投稿日:2003年02月24日(月)12時39分36秒
>>136
まず、agesageはどっちでも結構です。
わざわざお気遣いどうもです。

ノートに関しては、一応幼き日に綴っていた日記と言うつもりで書いていました。
初めに考えていた話が日記をメインとしていた話だったので。
自分らしく説明不足で申し訳。

辻が腹を立てた理由は、「静かだったから」と言う感じでしょうか。
飯田と矢口喋ってるやん!と言われたら困ってしまうのですが、
その辺りはフィーリングで…ごめんなさいごめんなさい(ノд`)・゚・

こんなところで説明してるようじゃダメですね、精進します。
レス有り難うございました。
152 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時02分27秒
「大丈夫?」

頭の上に響く声を聞きながら、飯田は舌を打った。
少し目線を上げると視界に捕らえられる目覚まし時計は午後の九時を回っており、
予定通りならば、その声は二時間以上前に聞くものはずだった。

「何かあったの?」

質問には答えず、逆に質問を返した。
頭の上で吉澤が一瞬戸惑った仕草を見せたのを、飯田は流れる長い髪から見た気がした。
きっと今、細く白い人差し指で、視線を泳がせながら頬を掻いているに違いない。
厭らしく声を上げて笑ってやりたくなったけれど、それは何とか思いとどまった。

「…ちょっと、中学の時と同級生と会っちゃってさ」

吉澤の暗く淀んだ声が、布団を通り抜け飯田の耳に届いた。
言い訳がましいその響きは、飯田の腹の奥底に溜まっている正体不明の嫌悪感を増加させるに充分すぎた。
ともすればいつでも口を出てきそうだ。
それを抑えるためにも、飯田は一つ寝返りを打った。
153 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時02分59秒
「お粥とか作ろうか?」

吉澤の声は少しばかりの明るさを取り戻していた。
何が吉澤を明るくさせたのか飯田には分からなかったが、それが不快な事である事に間違いはなかった。

「いい」

ぶっきらぼうにそう答え、布団から手だけを出し、その手を二度三度と前後させた。
その動作の意味に気付いたのか、布団越しに一つのため息と小さな足音が聞こえ、
それからしばらくして、人の気配とぬくもりが部屋から無くなった。
飯田は泣いた。
枕に顔を突っ込んだまま泣いた。
声を立てずに泣いた。
涙も流さずに泣いた。
間違いなく泣いていた。
154 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時03分26秒
吉澤の不貞は、おそらく早期から飯田には筒抜けになっていた。
外見的には特に不自然なところがあったわけではなかったが、
いかんせん吉澤は隠し事をするには不向きすぎる性格をしていた。

「大学の研究で遅くなるから」

何気なかったセリフに緊張と困惑が浮かぶのを、飯田が見逃すはずは無い。
週二で受けていた講義が突然週四に増えるはずも無い。
不自然は自然、と言えるまでには不自然でなく、けれどその姿は確実に不自然だった。

隣で眠っていても、吉澤が隣にいない錯覚。
慣れきった週二の予定で作ってしまったおかずが、食す人のいないまま冷めるのを待つ時間。
口づけを交わすとき、小さく舌に走る痛み。
全てが、吉澤の裏切りを肯定ばかりしていた。
心のどこかに小枝にぶら下がって引っかかっていた取り越し苦労の期待は、
あっさりと風に吹かれて飛び去ってしまっていた。
155 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時03分57秒
吉澤が「講義」の夜、飯田には考えることしか出来なかった。
考える事には事欠かない。
相手が誰か、どんな風貌をしているか、喋り方はどうか、身長は、体重は。
吉澤のどこを気に入ったのだろう、ボーイッシュな外見か、サッパリした性格か。
深い仲になったきっかけはなんだったのだろうと考え、
新歓コンパの酒の席が咄嗟に浮かび、吐き気を催した事もあった。

その考えは飯田自身について及ぶ事も珍しくなかった。
何が悪かったのだろう、吉澤が自分の元を離れてしまったのは何故だろう。
三ヶ月少しの付き合いでもう飽きが来てしまったのだろうか、
自分では気付いていない何かが、酷く吉澤を不快にさせたのだろうか。
考えはひたすらに堂々巡りを繰り返し、そのたびに胃に負担をかけた。
胃に穴が空けば吉澤は戻ってきてくれるかもしれない、
そんなことを考えたのも、一度や二度ではなかった。

その結果が今日の風邪に繋がってしまったのだ。
けれど、高い熱を出しても、いがいがと荒れた声を出しても、
吉澤の視界の端にちらつく影を消し去る事は出来ていないようだった。
自分が視界の端に追いやられる事すら、遠くない未来のように思えた。
156 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時05分04秒
「カオリさん」

しばらく寒々しかった部屋に、ぬくもりが宿った。
吉澤が腰掛けたらしく、ベッドのスプリングが軋み体が少し沈み込む。
汗ばんだ体が気持ち悪かった。

「安倍さんが、明日会いたいって」

コーヒーでも飲んでいるのか、スプーンがカップを叩く音と共に吉澤が切り出した。
安倍さん。
飯田と同じ部に在籍する安倍なつみの事だと言うのはすぐに想像がついた。
そしてそれが、宣戦布告に間違いないということも。

「カル・デ・サックに八時。
 風邪治せよって言ってた」

布団の方は見ていないのかもしれない。
吉澤の声は逃げるように遠くに聞こえていた。

「ん」

肯定とも否定ともつかない言葉を、肯定とも否定ともつかない寝返りで表した。
が、無論飯田は顔をあわせるつもりだった。
中学、高校、大学と、図ったように同じ道を歩いてきた安倍は、
誰よりも大事な親友に間違いない。
けれど、それと吉澤では話が違う。
例えどんな理由があろうと、吉澤を奪われるつもりなど毛頭無かった。
157 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時06分15秒
「ねぇカオリさん」

煮え立ち始めた頭に冷や水をぶっ掛けるように、低く落ち着いた声で吉澤が言った。
そして飯田が頭からかぶっていた布団を剥ぎ取った。

「風邪、治すんだよね?
 明日のために」
「…うん」

飯田の視界は、熱によるめまいのせいかぼんやりと揺らいでいた。
それでも、吉澤の手が胸元に伸びてきた事を確認するのは容易に可能だった。

「汗、かいたほうが、早く風邪治るよね」

一息で吐き出す息の量が増えたのか、言葉をぶつぶつと切りながら吉澤が問いかけた。
その合間にも、手は悩ましげに飯田の身体を舐め回している。
飯田はその問いに答えず、代わりに自らの頭を吉澤の首元に埋めた。

「…しよっか」

飯田のそれを肯定と受け取った吉澤は、そう言葉を切って、自らの唇を飯田の唇と重ねた。
ゆっくりと絡み合う舌の熱を感じながら、飯田は安倍のことを考えていた。
158 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時06分40秒
安倍が待ち合わせに指定した行きつけのバーには、クローズドの看板が下がっていた。
街全体が示し合わせたように明るさを発散させている中、
飯田を飲み込んでいるその一角だけが深い海底のそこのように暗く沈んでいる。
次にしていい行動がすぐには見つからず、飯田が呆然と立ち尽くしていると、背後から声をかけられた。

「風邪治った?」

安倍の無邪気な、そのせいか時として耳障りな声が聞こえた。
振り返ると、屈託のない笑みを浮かべた安倍が立っていた。
三月に入りたての夜はまだ少し肌寒さを漂わせているけれど、
安倍の服装は実際に感じる以上の肌寒さを引き連れてきているように見える。
コートも引っ掛けず、薄手の長袖一枚の安倍は、さむさむと口を動かしながら続けた。

「歩くべさ」

笑顔を携えながら言う安倍を見て、ようやく飯田は気付いた。
159 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時07分10秒
まるで泡の中に入っているみたいだ、と飯田は妙なたとえを思いついていた。
明るく騒がしい街の中で、飯田と安倍の二人だけが妙に浮いている。
暗く静かな膜に周りを覆われているかのようだった。
会話もないまま、足音も喧騒に飲み込まれながら、飯田は先を行く安倍の後を必死についていっていた。
行く先は分からない。

「ごめんねぇ、騙しちゃって」

しばらく歩いていたら突然、安倍が歩みを止め飯田のほうへと向き直った。
丁度隣をタクシーが駆け抜けた瞬間だった。
安倍の瞳は空っぽなのかただ黒さを強調しているだけに見え、
それは闇に溶け込んで飯田を不思議な世界へとつれて行こうとした。

「休みだって知ってたんだ」
「うん」

安倍はバーで話す気などこれっぽっちも持っていなかったのだろう。
すっかり嵌められた自分に苦笑しながら、安倍が止まった場所の、
きっとこれから行こうとしている場所へ、安倍より先に促した。

「座ろうよ」
「そだね」

小さな驚きを隠そうともせず、安倍は飯田の指が示した場所へと歩き出した。
160 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時08分32秒
古びたベンチは赤のペンキが剥げ、生々しい錆の濁った茶色をさらけ出している。
弱い外灯の光はムーディーな雰囲気を醸し出していたが、
カップルでもなんでもない二人にはただただ場違いでしかない。
安倍も、

「なんかうちらがカップルみたいだぁね」

等とのんきな事を言っている始末だ。
これから起こるであろう修羅場など考えてもいないのかもしれない。
張っていた糸がぷつりと切れたように、飯田の体の力も抜けてしまった。

「何でそんなチカラ抜けるようなコト言うかなぁ」
「んん?」

色々と細かい問題が有るとはいえ、その言葉は二人が親友だからこそ出た言葉だった。
修羅場などとは程遠い、ゆったりとぬるま湯のような空気が漂っていた。

「そりゃあ、今から余計なチカラ使って取っ組み合わなきゃいけないかもしれないからさ、
 温存しといた方がいいっしょ?」

微笑を絶やさず言った安倍のセリフは、ぬるま湯を瞬時に刺す様な冷や水へと変える言葉だった。
161 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時09分18秒
「…本気なんだ、吉澤のこと?」
「そーだね…好き、うん、好きかな」

どことなく曖昧な言葉だったのは、吉澤への気持ちが理解できていないせいなのか。
確かめるように、安倍は言葉を紡いだ。

「どこが好きかって言われるとちょっと困っちゃうんだけど…。
 かわいいトコとか、うん、全部好きかな」

安倍の視線が飯田の方を捉えた。
カオリはどうなの?
そう問われている気がして、慌ててまくし立てた。

「カオリだって、吉澤のコト好きだよ全部。
 大体、カオリが今吉澤と付き合ってるんだからね!」

なんて見苦しい。
言い終わってすぐに、飯田は顔に火がついたのかと思わせるほど頬を紅潮させた。
安倍は小さく笑いながら、カオリ必死だべ、などと言っている。
こんな子供っぽいところが吉澤を飽きさせた原因か。
飯田は自らの醜態を恥じ、そして反省した。
162 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時10分01秒
「だから、いくらなっちの頼みとはいえ無理だからね。
 たとえ吉澤がなっちのが好きだって言っても…」
「そんな慌てるコトないべさ、ちょっと話聞いてよ」

反省した二秒後に同じ過ちを繰り返してしまい、飯田の顔にまた灯が灯る。
安倍はけたけたと笑いながら、視線を外灯のほうに向けながら言った。

「なっちはさ、共存したいなぁとか考えてたの」
「はぁ?」

飯田は夜の闇には似つかわしくない素っ頓狂な声を上げた。
虫をも殺さぬような笑顔を持っている安倍が共存と言う言葉を口にするのは珍しくもなんともない。
ただ、ココは大学の大教室でもなければ論文発表の場になった実験室でもない。
共存、という「正」の小結クラスの言葉を持ち出してくるのは場違いも甚だしい。
「修羅場」「嫉妬」「怨恨」と言った「邪」のG1ジョッキーたちの中で、
これでもかと言うほどに浮いたそれにかかる言葉を安倍は続けた。

「だって、なっちとカオリは友達でしょ。
 で、よっすぃはカオリの恋人で、でもなっちはよっすぃの事が好きになっちゃって。
 だったら、平和主義で共存だべ」
163 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時10分28秒
突っ込みどころ山の如しな安倍の言葉に、飯田はしばし呆然とした。
これが冗談ならばまだ話は簡単だけれど、あいにく安倍は真剣な表情をしている。
図工で作ってきた自らの手を模した粘土細工を、誉めてくれと自慢げに見せ付ける小学生のような目で見られては、
飯田も洒落た事を言うわけにはいかなくなった。

「それは…なんか、いいアイデアだね」
「だべ?」

安倍は満足そうに微笑む。
飯田は肯定してしまったことを後悔しながら、一つの疑問を投げかけた。

「じゃあ、吉澤にはこの旨話さなくちゃいけないよね?」
「そだね」
「…カオリが言うの?」
「そりゃそうでしょ」

飯田は再び唖然とした。
いくらなんでも、そういおうとした飯田の口を塞ぐように安倍が立ち上がった。

「お願いね、カオリ。
 これからもよろしく!」

爽やかな言葉と笑顔だけを残して、安倍は飯田の横をそそくさと通り過ぎていってしまった。
後には飯田と、肌寒さだけが残された。
164 名前:マジックミラー 投稿日:2003年03月03日(月)15時10分59秒
「カオリさん、何のために安倍さんに会いにいったのよ?」

その翌日、全く納得していないながらに、飯田はそのことを吉澤に告げた。
吉澤は呆れ、そういったのである。
休みのせいか、どこかへ外出するらしく髪などとかしている。

「いや、なんかさ、よくわかんないうちになっちに丸め込まれちゃって…」
「ふーん…まぁいいけどね」

吉澤が髪をとかしながら鏡越しに微笑んだ。
小悪魔のような笑みに、飯田の身体は細かく震えた。

「ウチ、飯田さんのほうが安倍さんよりちょっと好きだしね」

疲れそうな休日になりそうだ。
飯田は小さく息を吐き出した。
165 名前:lou 投稿日:2003年03月03日(月)15時11分43秒
おしまい
>>152-164 マジックミラー
166 名前:lou 投稿日:2003年03月03日(月)15時12分58秒
某氏、完結おめでとうございます。
167 名前:lou 投稿日:2003年03月03日(月)15時13分50秒
花粉症でつらいとは言え、この出来では言い訳出来ません。
精進します。
168 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時31分23秒


大学のキャンパスを出てしばらく歩くと、ぽつんと一つ、桜の木がある。
薄桃の花びらを控えめにそよぐ風に乗せて揺らし、
薫り立つ春の匂いを、汚れた空気を浄化するように撒き散らすその花が散っていた。

桜が死んでいく。
なぜか私はそう思った。
169 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時32分01秒


四月の終わりが近づいた月曜、午後の授業をとっていなかった私は、
昼食をとった学食を出て、当ても無く歩みを進めていた。
前日に湿らせる程度に降った雨の跡が、道路のあちこちに濃紺となって点在している。
雨の残り香が春の薫りに溶け込んで、見慣れた風景に一種幻想的なスパイスとなっていた。

風とも言えない程度の風が髪を撫で通り過ぎていく。
都会の喧騒からは一歩外れたところにあるキャンパスに通っているせいで、
このところめっきり体調がよくなっていた。
東京に出てきてはや五年、呪文のような単語詰め込み授業を繰り返していた高校生活とは別世界のような大学生活。
北海道に比べたら申し訳程度の緑でも、北海道に比べたら埃が目に見えるような空気でも、
私の疲れ切った身体は十二分に癒えた。
東京に来てから片時も手放せなかった胃薬を卒業できた事が、何よりの証拠だった。

露に濡れた深緑の葉に肩が触れないよう気を使いながら、私は駐車場に止めてあった車に乗り込んだ。
窓ガラスが光を反射して目を焼こうとする。
手を翳しながらドアを開くと、生温い空気が弾かれたように流れ出してきた。
170 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時32分32秒
車に乗り込んでからもしばらく、何をするでもなくぼんやりとしていた。
したいことややりたい事がないわけではない。
今日渡されたばかりのプリントに目を通しておかなければならないし、
ひいきの小説家が出した新刊をまだ手に入れていないから、それを買いにも行かなければいけない。
ただなんとなく、アパートや書店に向かう気になれなかった。
それは、急に暖かくなった春のせいかもしれない。
建物の中に入ることがどこか気分が悪かった。

する事もやりたい事もあるのに何も出来ない、と妙な手持ち無沙汰の状態に陥ってしまい、
私は仕方なく車を発進させた。
ひじが触れたのかウインドウが機械的な音を立てて開き、
僅かに開いた隙間から、歩いていた時に感じたものとは少し違う風が吹き込んできた。

お墓に行こう。
そう思ったのは、信号待ちをしている途中で霊柩車を見たからだった。
親から受け継がれていた慣習である親指を隠す、と言う行動を実行に移しながら、
不意に、後藤がこの世を去ったのも今くらいの時期だったことを思い出していた。
171 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時33分59秒
────

桜が舞う中を、私は異様なほどに黒い喪服を着て歩いていた。
照りつける日の光からは気が早いと思いつつも夏の影を感じ、
緩やかに弛緩した空気の中には時折、ぴんと張り詰めた冬の面影が垣間見える、そんな日だった。

後藤──後藤真希は自殺だった。
だった、とは言っても又聞きだから、断定してしまうのは多少の語弊があるけれど、
後藤の親が事実を捻じ曲げて伝えてきたと思うのには無理があった。
多少なりとも交流のあった私は、後藤の家のことをよく知っているつもりだった。

「この度は…」

後藤のお母さんは玄関先に立って、弔問に来る人一人一人に丁寧に頭を下げていた。
ハンカチを目元に添えながら、人形のようにその行動のみを繰り返している。
私は一つ身体に力を入れ、曲がっていたであろう背筋を伸ばし、後藤の家の前に向かった。
172 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時34分34秒
「この度は…カオリちゃん?」
「…どうも」

後藤のお母さんは顔を上げ、少し無理をしながら笑みを作った。
後藤によく受け継がれていたらしい白い肌には、いつの間にかくっきりと目立つ皺が走っている。
それだけの事で、鼻の奥がつん、と痛んだ。

「お線香、あげさせてもらいますね」

事務的にならないよう、私は少し苦労しながら言った。
気持ちとは裏腹に、私には口調が素っ気無くなってしまう悪癖があった。
お互い知り合った仲とはいえ、あまりにも平坦な喋りは避けなければならない。
お母さんはそんな私の気持ちを知ってか知らずか、少し無理の少ない笑みに切り替え頭を下げた。
173 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時34分54秒
焼香場所は庭に設けられていた。
大きくはない庭は人で溢れ、身動きするのにも気を使う。
私は萎縮しながら、焼香の列に並んだ。
嗅ぎ慣れない割には妙な心地よさに引きずり込んでくれる線香の匂いが漂ってくる。
列の前方ですすり泣く声が聞こえ、私はいっそう身を小さくした。

泣いた事がなかった。
感動のドラマの最終回を見たって、厳かな卒業式の場でだって、
気持ちだけが先走り、頬を涙が伝う事はなかった。
泣こう泣こう、いや、泣きたい泣きたいと思えば思うほど、見せ付けるように瞳は乾いた。
それは、脳が私に語りかけているかのようにも思えた。
泣く事は理屈じゃないんだよ、と。
174 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時35分25秒


「カオリ」

下から声をかけられ、視線を下げると後藤と目が合った。
東京にしては比較的街灯の少ない土地柄のせいか、夜は当たり前のように暗い。
後藤は目立たない茶色のセーターを着込んで、寒そうに自らを抱き立っていた。

「見に来たの?」
「そー。
 カオリも見に来たの?」
「そー」

会話もそこそこに、後藤が軽やかに走ってきた。
静けさの中に草を踏みしめる音が聞こえる。
私は視線をもう一度空に向けなおした。
空は待っていてくれたらしく、特別に強い光は見当たらなかった。
175 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時35分56秒
「寒いねぇ」

いつの間にか後藤が隣にやってきてそういった。
私は身体を起こし、少し横に移動させる。
空いたスペースに後藤が腰を下ろした。

「冷たいじゃん」
「当たり前じゃん」
「そっかじゃん」

自分で言って面白かったらしく、後藤が小さく笑った。
私は呆れながら、背中をいためないよう気をつけながら寝そべった。
ひんやりとした感触に思わず体が震え、それを見咎めた後藤がまた笑った。
176 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時36分25秒
獅子座流星群。
何十年だか何百年だかぶりの地球大接近とかで盛り上がっていた世間に漏れることなく、
私も興味を抱いていた。
もっともそれは私が元から天体に興味を抱いていたから、と言う部分も大きい。
そしてそれ以上に、要は流れ星だよね、と仄かな期待を持っていた部分が大きかった。

東京に出てきて、何より驚いたのは夜の明るさだった。
人工的な明かりに彩られ、それに伴って、夜の静けさも喧騒の波に押し流される。
星や月だなどの騒ぎではない。
大げさではなしに、眠るのに苦労した時期すらあった。

ようやく東京の明かりに慣れた頃、私は大学生活のため都心から少し離れた今のアパートに移り住む事になった。
そこには懐かしい静かな夜があり、星の見える暗い夜があった。
177 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時36分57秒
「どれくらいここにいた?」

後藤が訊いてきた。
手のひらを袖に飲み込ませ、それを口元にあてほーっと息を吐き出している。
零れた息が白く変わり、中空へと舞い上がった。

「三十分くらい、早く目が覚めちゃったから」
「寒くなかった?」
「寒かったに決ってるじゃん」

後藤の当たり前の質問に笑いながら、私はポケットから使い捨てカイロを取り出して見せた。
冬の真夜中に外に出てくる、という半ば常軌を逸した行動をするのに、
準備の一つや二つは当然してある。
いまだ熱を持ったそれを後藤に差し出すと、後藤は小さく首を振った。

「いらないの?」
「うん」

そういうと後藤はナップサックを探り始め、お返しでもするかのように何かを差し出してきた。
鈍く銀色に光るそれは一瞬で何か分かったけれど、後藤が何故それを差し出したかはすぐにはぴんと来なかった。

「コーヒー、飲む?」

はにかみながら、後藤は魔法瓶の蓋を取り私に差し出してきた。
178 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時37分23秒
コーヒーを注がれたそれを手に取った私は身体を起こし、空への注意を怠らないようにしながら、
コーヒーに口をつけた。
温かな液体が体中に駆け巡り、凍りかけていた神経を柔らかくほぐしていく。
苦味の弱いコーヒーは突き進むように身体の中に取り込まれ、
蓋はあっという間に空になってしまった。

「もう一杯?」

紙コップでコーヒーを飲んでいた後藤が魔法瓶を翳して訊いてくる。
私は黙って首を横に振り、それから「ありがとう」と蓋を返した。
「どーいたしまして」と蓋をはめ込みながら、後藤が独り言のようにいった。

「何お願いしよっかな」
179 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時37分53秒
流れ星に願いを叶えてもらうには、見えている間に三回願いをしなければならない。
初めて親に聞かされたとき、なんて簡単なんだろうと思ったものだった。
たった三回願うだけで思い通りのものが手に入る。
小学生らしい純な不純を胸にしまいながら、日夜ベランダに立ち流れ星を探したことがあった。
空気の澄んだ冬、親は一週間も続ければ一つくらいは見つかるよと言い、
意気込んだ私は一丁前に双眼鏡なぞ持ち出して夜空とにらめっこを続けた。

一週間ばかりたった日のことだった。
双眼鏡に加え毛布をも駆り出し、総動員の態勢で空を眺めていた私の前に、
ようやく流れ星がその姿を現した。

私はしばし言葉を失った。
光の帯を引きながら眼前を通り過ぎていく流れ星。
願い事を、などと考える暇すら与えられず、気がついたときには、
流れ星はその残像を幻影として残しているにとどまった。
180 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時38分26秒
「すごい早口で言わないと間に合わないよ」
「ねぇ」

後藤はのんきに相槌を打つ。
いつもいつもぼーっとしているような彼女に早口で願いを言うなんて芸当が出来るのか甚だ疑問ながら、
そんな野暮な事を口にするはずもない。
同じように寝そべっているらしく、ぷくりと膨れた頬を睨みながら、私は訊いた。

「何お願いすんの?」
「んぁ?秘密だよぉ」
「…そりゃそうだね」

星の瞬きが強くなり始めたのに気付き、私が身体を上げると同時に、隣の後藤も起き上がった。
目を合わせると、後藤が柔らかく笑う。

「アメンボ赤いなあいうえお、だね」

そういって、視線を空に戻した。
私も口の中で、後藤の言葉を繰り返した。
181 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時38分54秒


お墓の近くの花屋さんで花を買い、それを包んでもらっている間、私は店内を物色していた。
花屋さんの言葉を借りれば、「最近は花にも季節がなくなってきた」らしく、
スイセンやらヒガンバナやらヒャクニチソウやらが整然と並んでいる。
もっとも私は植物にはとんと無知で、どの季節にどの花が咲くのかよくわからない。
マリーゴールドの黄色に目を奪われながら白いチューリップの花弁を指で弾いていると、
お客様、と言う声が聞こえ、私はレジカウンターに向かった。

「若い子にしては珍しいね、なんでもない時期にお墓参りなんて。
 お彼岸だってお墓に来ない奴だっているのに」

恰幅のいい、人のよさそうなおばさんが、人差し指一本でレジを打ちながら心底感心したようにいった。
その言葉に、私は気付かれないよう身をすくめる。
お彼岸のお墓参りには、東京に出てきてからは一度も行っていなかった。

「二千円ね。
 消費税はおまけしといてあげるよ」

おばさんの好意に、意味もなく裏切りを感じ、私はそそくさと店を立ち去ってしまった。
182 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時39分45秒
砂利を敷いた駐車場に車を止め、降りてみると、少しばかり雲行きが怪しくなってきていた。
折り畳み傘を常備していない私は、雨に降られると困ると思い、急いでお墓に向かう。
途中の水道でバケツに水を張り、勺を一本拝借して、墓石の前に付いたころには風も吹き始めていた。

『後藤家之墓』

建立されてどれほどになるのかは定かではないそのお墓は、
後藤のお母さんの手入れが行き届いているのか、綺麗な状態で建っていた。
墓石の周りには散った桜の葉が配置され、地味な鼠色に少しばかりの明るさを加えている。
買ってきた花を備えようと花挿しを見た瞬間、私はあれと思った。
183 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時40分05秒
花挿しには元気な花が挿されていた。
一つとして枯れていない新しい花々は、一瞬年月の進行について私を戸惑わせた。
まるで後藤の死が昨日の事のような錯覚の後、けれどやはりあれは一年前のことだと考え直す。
そんな間違いがありえるはずがないからだ。

ならば何故新しい花が挿してあるのか?
後藤のお母さんが挿したとは思えなかった。
後藤の命日は明日だ。
私のような単なる知り合いならともかく、唯一の後藤の家族であるあのお母さんが、
気まぐれで命日の前日にお墓を参るはずなどない。

そこまで考えて、私は結論に達した。
後藤のお母さんではない誰かが花を挿した。
わざわざ新しい花を買ってきてまでお墓に参るほど、後藤と親しい人が来たのだ。
私は一旦花を足元に置き、先んじて挿されていた花をまじまじと見やった。
強い風に、紫の小さな花が細かく震えていた。
184 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時40分38秒
────

「ごとーって友達いないんだよねぇ」

シャープペンシルをくるくる回しながら、後藤は何気なくいった。
「明日晴れるといいよねぇ」となんら変わらない響きを持ったそれは、
あまりにも自然に私の中に入ってきた。

「…それに、カオリは一体どんな言葉を返せばいいんだろうねぇ」
「あはっ、そうだよねぇ」

悪気のない笑顔で後藤は質問を返してきた。

「ねぇ、カオリにはどれくらい友達がいる?」
185 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時41分00秒
何気ない質問に、けれど私は言葉を詰まらせる。
元来正直なせいか、融通が利かないのは決して美点とはいえなかった。
後藤に対する気遣いをしたものだろうか、それとも少し誇張して言ってみるものだろうか、
そんなことを考えながら、口をつくのは結局正直なところなのである。

「カオリも四、五人かな」

言ってから後悔する。
なんとも中途半端な数字だ。

「おおー、じゃあごとー入れたら片手で数えらんなくなるねー」
「…入っちゃってるんだなこれが」
「おおーう」

なんともつかない声を上げて、後藤がベッドにひっくり返った。
186 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時42分10秒


私が後藤と知り合ったきっかけは平凡なもので、
私の登録していた家庭教師センターに後藤のお母さんから電話がかかってきたのである。
多少平凡でないことと言えば、登録後三日と経たないうちに派遣に呼ばれた事だろうか。

「うちの子たっての希望で、大学生の女性をお願いしたいんですけども…」

そういわれたらしく、なぜか異常に大学生女性の登録の少ないセンターは、私に白羽の矢を立てたのである。
あまりのスピードに驚きはしたものの、経済的な問題から、
そして大学生女性を希望したのが女の子と言うことにも少々の興味を抱き、面接に行く事になった。
187 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時42分50秒
面接に向かった先にあったのは小料理屋だった。
こじんまりとしていながら品格のある佇まいをしていたその暖簾の先では、
一人の女性が軒先の掃除をしていた。
午後二時と言う時間は日照りが強く、女性は何度か額の上で腕を往復させている。
私が近づくと、女性は視線だけを先に向け、それから慌てたように頭をあげた。

「あの、どちら様で…」
「あ、私、センターから派遣されて面接に来ました…」

そこまで言うと、女性は気がついたのか、

「家庭教師の先生ですね、上がってください。
 真希を呼んで来ますから」

やはり女性はお母さんだったらしく、私を居間に促すと、二階に向かってなにやら大声を張り上げた。
188 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時43分37秒
「どうぞ」
「あ、すみません」

少女が降りてくるより先に、お母さんが冷茶を手にして居間に現れた。
勧められた冷茶を口に運び、その喉越しになぜかほっとしながら、私は少女が来るのを待った。
しばらくすると足音と共に、襖からぴょこりと顔が覗いた。

「真希、こっち来なさい」

お母さんがたしなめたところを見ると、この子が家庭教師を依頼した後藤真希と言う子だろうと分かった。

「初めまして」
「初めまして」

私の挨拶に挨拶を返すと、後藤は恥ずかしそうに笑った。
189 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時44分10秒
「早速だけれど、希望は週四日でいいのね?」
「うん」
「こら」
「そうです」

家庭教師を希望する子には、センターの方にあらかじめ簡単な資料を送ってもらうことになっている。
それを見ながら話を進める。

「国語と英語ね…。
 一時間ずつの二時間」
「うん…そうです」

お母さんと視線を交えながら、舌を出して笑う後藤。
真面目に聞きなさい、とたしなめられしぶしぶとこちらに顔を向ける。
190 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時44分36秒
「…よし、大体のことはいいかな。
 何か質問はある?」
「先生の名前は?」

即座に質問を返され、私はうっと詰まった。
肝心なことを言い忘れていた。

「…ごめんね、忘れてた。
 私は飯田圭織、よろしくね」
「いーだ先生…」

後藤は呟くように口の中でそう繰り返すと、はっと顔を上げ笑みを作った。

「よろしくおねがいします」
191 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時45分18秒


あの時後藤が呟いた『いーだ先生』と言う呼び名には、もう埃がかぶってしまっていた。
後藤が気さくなのか私がお人よしなのか、家庭教師を始めて二週間と経たない内に、
後藤は私を『カオリ』と呼ぶようになった。
姉を見つけた妹のように、どこか甘えを含んだその声は、
私の体から余計なものを吸い出していってしまうようにも感じた。
その余計なものがなんなのか、私は往々にして分からないのだけれど。

「カオリ、交信中?」

不安げな声が耳に入って振り返ると、後藤がベッドから身体を起こして私を見つめていた。
栗色の長い髪が風もないのに揺れている。

「ああ、大丈夫、ちょっと考え事」
「ふうん」

ちっとも私の言葉を信用していないように見える。
私がそれに注意を与えようとすると、後藤は再びベッドに身体を沈み込ませながらいった。

「…ねぇカオリ、死んだものは星になるのかなぁ」
192 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年03月20日(木)00時45分58秒
あまりに突然の話題転換に頭がついていかなかった部分も確かにあった。
けれど、『死』と言う言葉が私に与えた衝撃が思考を中断させたのが正解だろう。
二、三度瞬きを繰り返し、それから思い出したように慌てて私は後藤に問うた。

「何、急に」
「いやぁー…」

言い訳を探しているようにしか見えない後藤の仕草が気にかかった。
頭の中を嫌な想像が駆け巡ろうとした瞬間、後藤は身体を起こし笑顔を向けた。

「ごとーさ、鳥飼ってたんだ」
「鳥?」
「そー、インコだよインコ。
 せきせーインコ」

生憎と鳥にも無知だった私には、すぐにセキセイインコを思い浮かべる事は出来なかった。
緑に黄色が混じったあれだろうか、などと思考を巡らせながら、もっと根本の部分に気付く。

「どこで?」

後藤の家には鳥を飼っている形跡はない。
言い方から察するに、学校で共同で飼っているというわけでもなさそうだ。
後藤はやはり聞かれたか、とでも言うようにいたずらっぽい微笑を浮かべ、

「ナイショ」

とだけ言った。
193 名前:lou ◆tc95wOkI 投稿日:2003年03月20日(木)00時48分03秒
>>168-192 空飛ぶ馬(途中)
194 名前:lou ◆tc95wOkI 投稿日:2003年03月20日(木)00時48分31秒
トリップカケー。
195 名前:lou ◆tc95wOkI 投稿日:2003年03月20日(木)00時50分19秒
厨な理由でトリップをつけてみる気まぐれ。
怒られたら外します。
ちょっと長い話になってるので、自己保全も兼ねて途中までうp。
196 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時47分35秒


車に乗り込んでから、私はしばらく何をするでもなくぼぉっとしていた。
花はバケツを一つ借用し、そこに水を張って挿し込んである。
しばらくは持つだろうと安心しながら、その一方で後藤と親しかった人と言うのが気にかかっていた。

何を言われるか想像がつかないが、今の今まで、私は誰よりも後藤を知っている自負があった。
さすがにお母さんにも劣らないとまでは思わないけれど、
血の繋がっていない赤の他人に、私以上に後藤を知っている人などいるはずがないと思っていた。

「思い込みだよね」

思わず言葉になって口の外に出る。
幸せな思い込みだ。
恥ずかしいようなばかばかしいような気分になって、私はキーを回した。
エンジンが唸るような声を上げた。
197 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時48分10秒
行く当てのなかった私は、車が少ないのをいいことに低速で走りながら、何をしようか考えていた。
相変わらず建物の中に閉じこもる気にはなれなかったし、かといって日光浴と言う陽気でもない。
さてどうしようかと思っているところに、携帯が鳴った。
聴きなれた音楽を耳にしながらディスプレイを見ると、なかなかに懐かしい名前が浮かんでいた。

「おっす、カオリ」

電話口の向こうの矢口──矢口真里はその特徴的な声で私の名を呼んだ。

矢口は私の二つ下で、大学においても家庭教師センターにおいても後輩に当たる。
誰が見ても二つしか違わないとは思えないといわれるほど私と矢口の風貌は対照的で、
『オイラは未だに中学生料金で電車に乗ってる』とは矢口自身の弁だ。
快活な性格を持ち心の底から楽しそうに笑う矢口には友人が多く、
決して親しくないわけではない私も、声を聞くのは久しぶりだった。
198 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時48分34秒
「久しぶりだねー」
「そーだよ、カオリがセンターやめちゃってからだから…半年振りくらい?」
「んなに経ってるわけねーだろ」

キャハハハと向こう側で笑い声が聞こえる。
実際に私がセンターをやめたのは二ヶ月前だった。

「何で急に電話してきたのよ?
 お姉さんが恋しくなった?」
「そーなんだよねー、最近アイツ冷たくてさー。
 カオリにこうやさしーくね」
「カオリ今手ぶらだよ、矢口くらいならスッポリ収まるけど」
「おお、じゃあどっかで待ち合わせしようぜぇ」

バカ話に花が咲く。
矢口と話すといつもこうだ。
本題に入るのが極端に遅く、いつの間にかバカ話が本題になっていることも珍しくない。
もっともそれを矢口の責任にするのはお門違いと言うのが情けない部分ではあるのだけれど。
199 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時49分20秒
「あんまりバカな事言ってる場合じゃないや。
 オイラ今センターにいるんだよね」

矢口の言葉にもあまり驚きはしなかった。
センターでバカ話など矢口にはなんでもない。
これ以上は矢口の名誉に関わるので明言は避けるが。

「でさ、実はカオリに逢いたいって人がいるんだよ」

矢口の言葉は素直に意外だった。

「カオリに逢いたいって?」
「そう、センターに電話がかかってきたらしくて、そんでヤグチが呼ばれたってわけ」

矢口はなぜか一人称を『オイラ』『ヤグチ』と使い分けている。
そのあたりの詳しい事情は私にはよくわからない。
彼女自身も分かっているのかどうか分からない。
200 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時50分22秒
「今から電話番号言うから控えて。
 電話して欲しいって言ってたんだってさ」

矢口の言う番号をメモに控えながら、私はなんとなくまだ見ぬ相手を想像してみようとした。
けれど何も浮かんでこない。
性別や年齢すら知らないのだから無理からぬ事だった。

「そんじゃあね、すぐかけてみなよ」
「わかった」

矢口の声が途切れ、思い出したように車の中に静寂が戻ってくる。
そうして、今まで運転しながら電話をしていた事に気付き、遅ればせながら一つため息をついた。
201 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時50分50秒
結局大学の駐車場へと戻ってきた私は、車を止めるなり、控えた番号をプッシュし始めた。
無意識のうちに開けた窓から、ゆるりと風が流れ込んでくる。
せわしなく動く手をなめるように取り巻き、髪に絡みつくように吹く風。
雨の匂いを背負っているそれを遮断すると同時に、コール音が響き始めた。

一度、二度、三度。

「もしもし?」

電話口に出たのは、女性だった。
柔らかな、触れば跳ね返ってくるような、温かな柔らかみを持った声だった。

「もしもし?飯田ですけれども…」

私の声は少し冷たく、酷く不器用に背筋を伸ばしていた。
対照的な二つの声は、まるで明かりを見失ってしまった船のように、手探りで言葉を探していた
202 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時51分24秒
先に明かりを見つけたのは向こう側だった。
手元にライトがあるのを忘れていたかのように、彼女はさも普通に切り出した。

「後藤さん…後藤真希さん、知ってますよね?」

彼女の言葉に、私はほとんど驚きを感じなかった。
彼女の声が柔らかかったせいもあるかもしれないけれど、
私に連絡をとるためにわざわざセンターに電話をする人など、後藤繋がりの人しかありえない。

「ええ、知ってます」

私が答えると、電話口の向こうにいる相手は一瞬躊躇しながら、はっきりと言った。

「…お逢いしたいんですが、よろしいでしょうか?
 後藤さんのことで、お話があるんですけれど…」
「構いません。
 私も逢いたいと思いましたし」
203 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時51分56秒
相変わらず事務的に聞こえそうな不躾な声だったろう。
彼女の息を呑む音が聞こえ、それから少し間があって、向こうから待ち合わせ場所を指定して来た。
幸いにも近くだった事もあり、私がすぐに行く旨を伝えると、
彼女はほっとしたようにわかりました、と言い電話を切った。

切れた電話を眺めながら、私はもう一度相手を想像しようとしてみた。
柔らかく、高くも低くも無い声は、ある種の幼さを感じさせた。
それは後藤にも似た幼さで、けれど言葉の端々から後藤にはなかった礼節が窺えた。
しっかり者だろうという事は分かる。
けれどそれだけだった。
身なりやらなんやらはイメージすら浮かんでこない。
それは、私が後藤を知らなかったことを端的に表しているようにも思えた。
後藤が気を許す女性は、一体どんな人なのだろう。

そんなことばかり考えていても仕方が無いので、私は車のエンジンをかけた。
空気のせいか少し湿った唸り声をエンジンがあげる。
待ち合わせ場所は私も知った喫茶店だった。
十分も走れば着いてしまう。
私はうっすらと手に汗がにじんでいる事に苦笑しながら、車を走らせた。
204 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時52分22秒
喫茶店は混んでいた。
窓際の席にいる、と言う彼女の言葉から、学生服が横行する店の中を円を描くように歩いていると
一人の女性と目が合った。

小柄な女性だった。
茶の混じったショートカットに、清楚な白の上着を着込んでいる。
顔立ちは幼く、目が合うと同時に浮かんだ笑顔は、即座に年下を思い起こさせた。

「飯田さん、ですね?
 安倍なつみと言います」

安倍なつみと名乗った彼女は、ぎこちなく頭を下げた。
私はしばらく呆然として、会釈を返す事が出来なかった。

彼女には足が無かった。
正確には片足が無かった、だ。
銀色の杖を身体に立てかけ、机の陰に隠れようとしている左足の太ももから先には、
短く白い包帯が巻かれているだけだった。
205 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時53分00秒
「気になりますよね」

安倍さんは私の視線に気付いたらしく、いとおしげに包帯を撫でながら言った。
私は押し黙っている。
こういう時になんと言っていいのか、わからなかったからだった。

「気にしないで、と言っても無理でしょうけれど、大した事ではないですから」

大した事でないはずが無い。
けれど安倍さんの柔らかな声で言われると、本当に大したことが無いように思えてくるから不思議なものだ。
とにかくいつまでも突っ立っているわけにもいかず、私は安倍さんの向かいに腰を下ろした。
足元と言うか腰元が、妙に不自然だった。
206 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時53分35秒
──

「ごっちんはなっちの患者さんだったの」

安倍さんは初めに、自分のことはなっちと呼ぶように言った。
子供の頃からのクセで、いつの間にか自分のことをそう呼ぶようになっていたとも。
私も全く同じ言葉を返した。

「患者って事は、お医者さん?看護婦さん?」
「どっちでもない」

なっちの言葉には懐かしいイントネーションが含まれていた。
なっちもそれを感じ取ったのか、特に私に問う事はしなかった。
歳は二十二だと言った。
私は同い年だね、と笑いかけた。
207 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時55分20秒
「どっちでもない?」
「うん、まぁ患者さんってのは大げさだね。
 なっちは、ごっちんの話を聞いてあげてたんだよ」

ごっちん、と言う渾名は、後藤によく似合っていると思った。
名付け親はなっちなのだろうか、きっとそうだろう。

「ナントカってヤツだね」
「はは、ナントカね。
 別にセラピストって訳じゃないよ、ただの暇人」

私が言おうとした単語がセラピストなのかどうかはいまいちよくわからなかったけれど、
聞き覚えのある響きだった事は間違いなかった。
なっちがレモンティーを口に含むのを見て、私もミルクティーに手を伸ばす。

「まぁでも、ごっちんは親戚だからね」

何故だか、ミルクティーの味がよくわからなかった。
208 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時55分55秒


「ねぇなっち」
「何?」
「…死んじゃった人は、星になるんだよね?」
「…よく憶えてたねぇ、いつ話したっけ?」
「ごとーが幼稚園の頃だから、十年以上前だねー」
「そっか、そんなになるんだねぇ」
「どーりでおばさんになっちゃって?」
「うるさいよ」

「でもさ、よく考えたらあの時のなっちって小学生?だよね?」
「んと…そーだね、五年生か六年生くらいだね」
「ムチャクチャ言う小学生だよねー」
「小学生だからムチャクチャ言ったんだべ」
「あー」
「…」

「でもムチャクチャとも言い切れないべさ、
 死んじゃった人が星にならない保証なんてないもん」
「燃えちゃうじゃん」
「身体はね」
「あー、魂とかいうんだー」
「何よ、悪い?」
「現実主義者のなつみさんにしては珍しいなぁってねぇ」
「誰が現実主義者だべ」
209 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時57分46秒
「でもそーだよねー、魂とかどこいっちゃうんだろーねー」
「不思議だよねー」
「ピヨオはどうなっちゃったのかなぁ」
「そのピヨオって言い方やめるべさ、可愛くない」
「えー、いいじゃんピヨオ」
「ちゃんとティーヌって名前があるんだからさぁ」
「おかしーよそれ、フランス料理みたい」
「それはテリーヌ…?」
「あはは、ごとーにもわかんないや」

「…ピヨオは星になったのかなぁ」
「ピヨオじゃないけど、どうだろうねぇ。
 もしかしたらウチラの頭の上で瞬いてるかもねぇ」
「そんな早くになっちゃうんだ?」
「もっと時間かかるかな?」
「いや、わかんない。
 けど、そんなに早いんだ…」
「わかんないよ、なっち星になったことないし」
「そりゃそうだよねー」
210 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時58分10秒
「星にも友達とかあるのかなぁ」
「そりゃあるっしょ、一人ぼっちじゃティーヌがかわいそうじゃん」
「そうだけど、でも無かったら?」
「だからぁ、あるんだよ。
 星座とか北斗七星なんてさ、仲良しグループが手繋いでるんじゃない?」
「おお、なるほどぉ」
「あとはそうだなぁ…流れ星は鬼ごっことか」
「あー、そだねぇ」

「ピヨオ、星になってるといいねぇ」
「いいねぇ、ピヨオじゃないけど」
「手振ったら気付くかな?」
「だめっしょ、ごっちん相手にされてなかったじゃん」
「むぅ」
「なっちが手振ったら来てくれるかもしれないね、流れ星になって」
「鬼ごっこの最中に?」
「あ、そっか。
 鬼ごっこ抜けてきちゃダメだよね」

「ピヨオ、見つけたいねぇ」
「そうだね、ピヨオじゃないけどね」
211 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)03時59分34秒


「ふぁ」

あ、とは、の間のような音を立てて、後藤が空を呆然と見上げたのは、
外に出てどれくらい経ってからの事だったのだろう。
思わず顔を上げて後藤の視線の先に自分の視線を合わせると、そこには丁度、
流れ星の残した帯が浮かんでいた。
清潔と汚濁の中間やや汚濁よりの空に残った光の帯は、
紙やすりの表面のように美しくざらついているように見えた。
神秘的、とまでに厳かな光では決してなく、けれど自然に視界に焼きつくような、
不思議な力を備えているようだった。

「あれ、獅子座りゅーせーぐんだよね?」

幾分興奮気味の後藤の問いに軽く頷きだけを返し、
私は口の中で「アメンボ赤いなあいうえお」を復唱した。
空全体を埋め尽くす流星の大河、そこに思いを込めた小石を投げ込む。
願い事が脳から消え去らないよう、「歌手歌手歌手」とも繰り返した。
準備は整った。

「後藤、来るよ?」
「アメンボ…うん」

後藤のほうも準備万端らしい。
いつに無い真剣なまなざしで空を睨みつけている。
212 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時00分21秒
流星の雨が降り出したのは、それから間もなくしての事だった。
一瞬、私には何がなんだかわからなかった。
スポットライトを浴びたかのように突然明るくなった空。
そしてそれぞれ様々な速度で流れていく星、いや光のライン。
魅了、ただその言葉だけが私を包み込んだ。
願い事など、いつの間にか揮発してしまっていた。

後藤の声が耳に飛び込んできたのはその時だった。

「トモダチ…」

決して大きな声ではない、夜の静寂の中だからこそ耳に届いたであろうその言葉は、
たった四つの音だけを発してそれきり途切れてしまった。
見ると、後藤は抜け殻のようになったまま空を眺めていた。
それは魅了と言うより、催眠と言ったほうが近いかもしれない。
後藤はまるで、星に操られているかのように私には見えた。
213 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時01分08秒
長いような短いようなショーが終わり、私達二人は岩に腰を下ろしていた。
結局二人とも願い事を言えなかった。
私は完全に魅了されてしまい、後藤は、
「忘れちゃったんだよね、あまりに凄くてさ」
と、さして残念でもなさそうに笑った。

「まぁ、大したお願いでもなかったんだけどね」
「あ、カオリも」

あくまで何気ない後藤の態度。
けれど私には、四つの音が気にかかっていた。

トモダチ、と聞こえた。
友達がなんなのだろう?

「てきとーにお金ー!とか叫んどけばよかったなぁ」

しかしあっけらかんとした後藤を見ていると、なにやら考えるのがバカらしくなってくる。
私は笑って後藤を見た。
後藤はどう思ったのか、恥ずかしそうに首をすくめ、そして笑った。
214 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時02分14秒


「私がカオリに逢いたい、って思ったのは、この手紙を読んだからなの」

そういってなっちはハンドバッグから一枚の便箋を取り出した。
薄桃色のそれには、浮き上がるような水色の文字で安倍なつみさまと書かれている。
筆跡など見るまでもなく、後藤からのものだと解った。

「今朝ポストに入ってた、不思議だね」
「今朝?」
「そう、きっとカオリの家にも入ってるんじゃないかな。
 大方お母さんに頼んでたか、それともお母さんがあとから見つけたのか、そんなトコだろうね」

なっちは慈しむような目で便箋を一瞥したあと、開けてといった風に右手を差し出した。
そして、これはなっちへの手紙じゃ、と言いかけた私に言葉を被せるように続けた。

「中身が入れ替わってるみたいなの。
 これきっと、ううん、絶対カオリに宛てた手紙なの」

そういったなっちの目に、悲哀とも取れる光が浮かんでいたのを私は見逃さなかった。
私がよそを向けばすぐにでも涙を流しそうな不安定な瞳。
せき立てられるように私は便箋を手に取り、封を切った。
一度開けられているせいかそれはたやすく口を開け、中から少し茶けた紙が顔を覗かせた。
215 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時02分45秒
「Dear カオリ(たった一人の友達へ)

 ヤッホー、元気ですか?
 ごとーはきっと元気とか元気じゃないとか、そういう問題じゃないと思います。
 あ、でもきっと元気だから元気だってことにしておいて下さい。
 なんせ生まれてから一回も病気した事ないんだからね。
 あ、カオリの家庭教師を一回サボったのは…えと…ごめんなさい…。

 えーと、それはともかく、お葬式には来てくれましたか?
 ごとーってどんな写真が使われてた?
 それが気になってしょうがないんだよね。
 まぁきっと中学か高校に入学したときの写真なんだろうけど。
 仏頂面してたらやだなぁ、と思ってね。
 あ、仏頂面って漢字あってるよね?この前やったばっかだもん。
216 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時03分09秒
 …なんか変なことばっかり書いてゴメンネ。
 そろそろ本題に入ります。
 
 えと、ありがとう、カオリ。
 ごとーと仲良くしてくれて。

 いつだったかに話したよね。
 ごとー、友達いないって。
 あれ、ホントだよ?

 でも、カオリはごとーの事友達だって言ってくれたよね。
 ごとーはカオリの事好きだったけど、でもそれを聞くまで友達だって思ってなかったの。
 だって、友達ってのは両思いになって始めて成立するものだもんね。
 だから、あの時はホントに嬉しかったんだよ、初めて、ごとーが好きになった人が、
 ごとーの事好きって言ってくれたんだから。
217 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時03分50秒
 んと、なんかあんまり書くことが無いなぁ…。
 言いたいこと、って言うか書きたいことはいっぱいあるんだけど、どうしていいかわかんないや。
 だから、とりあえず書かなきゃいけないことだけ先に書いちゃいます。

 まず、セキセイインコは親戚の家で飼ってるの。
 名前はピヨオ、かわいいでしょ?ごとーが名付け親なの。
 緑と黄色が綺麗だよ、カオリにも見せてあげたかったな。

 もう一つ。
 ごとーが、死んじゃおうとしてることにはもちろん理由があるけど、
 カオリには何にも関係ないから。
 今更(のはずだけど)になってこんな事言いやがって、って思うかもしれないけど、
 でも言わないわけにはいかなかったの、なんでかな。
 へへ、よくわかんないや。
218 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時04分18秒
 …ついに書くことがなくなってきました。
 あんまり長くならなかったなぁなんて、今読み返しながら思ってます。
 やっぱりごとーこういうの得意じゃないね。

 だから最後に一言だけ、最後に言いたかったことだけを書きます。

 ごめんね。
 カオリを裏切って、カオリから逃げたごとーを許してください。
 嫌いにならないで下さい。

                           From ごとー」
219 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時04分43秒


そのあと私はどうやって家に帰ってきたのか、サッパリ憶えていない。
ハンマーで打ち抜かれた達磨落としの積み木のように、その一部分だけの記憶が抜け落ちているようだった。

家に帰るなり、私は郵便受けを覗き込んだ。
けれどそこには淡い色をした便箋どころか、通信販売のビラ一枚入ってはいなかった。
220 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時05分16秒


「ごっちんは、友達になろうとしたんじゃないかな」

なっちの声に顔を上げると、なっちが歪んでいた。
池に浮かんだ波紋のように、規則的でしかし不規則な歪みは一瞬何か分からなかった。
けれど程なくして、私は事実に突き当たった。
何の事はない、私が泣いていたのだ。

「友達…?」

情けなく声がしゃがれている。
泣くと言うのはこんなものなのか。
苦しく辛く、そして不愉快だ。
思考が案外冷静でいられるのは悪くないけれど。

「ティーヌ…うちで飼ってたセキセイインコとさ」
「…どういうこと?」
「ティーヌは星になって、どっかで誰かと手を繋いだり、鬼ごっこをしてる。
 だからごっちんも…それに混ざりたかったのかもしれないな、って」
221 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時05分45秒


翌日の朝、開いた郵便受けには、新聞と一緒に水色の便箋が投げ込まれていた。
裏返すと、浮き出てくるような薄桃の文字で、飯田圭織様と書かれていた。
私は早速部屋に戻り、封切られていない便箋を慎重に破り、中から手紙を取り出した。
一文目はこうなっていた。

「Dear なっち(たった一人の恩人へ)」
222 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時06分06秒


「友達に、なりたかった…」
「…なっちの想像だけどね」

なっちは窺うようにこちらをちらりと見やり、それから嘆息して視線をグラスに落とした。
私はと言えば、何も考えられなかった。
星と友達になりたい、それをばかげた考えだと笑うつもりは毛頭ない。
ただその事実だけをペンライトのように握り締め、
私は後藤と言う名の深くて広い洞窟を探検しているようだった。

そして探検の成果か、一つの考えが思い浮かんだ。
あの時、一緒に獅子座流星群を見た時、後藤が言いかけた言葉は、

「友達にして」

だったのではないか、と。
223 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時06分37秒


「えと、いきなりだけど、なっちには謝らなくちゃいけないことがいっぱいあるね。
 足のこととか、勉強のこととか、その他色々…。
 本当にごめんなさい。

 …とか言って。
 なっちにはもうばれちゃってるよね。
 ごとーがもう一つ謝らなきゃいけないことがあること。
 だって、なっちはごとーのことなんでも知ってるもんね。

 …ごめんなさいなっち、怒らないで下さい。
 ううん、怒ってもいい、ただ、嫌いにならないで下さい。
 
 勝手に死んじゃって、ごめんなさい。

 …………

                   From ごとー」
224 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時07分11秒


「…なっちは、ごっちんのこと何にも知らなかった」

私が指で涙を拭っていると、なっちが低い声でそういった。
その響きは怒り、それも明らかに自分に対しての怒りに満ちていた。

「ごっちんが一人ぼっちでいることを知らなかった。
 死ぬまで思いつめてたなんて知らなかった」

なっちの瞳にも涙が浮かび始めた。

「…なーんも知らなかった…。
 いっぱいいっぱいお話したのに、全然聞いてなかった」
「なっち…」
「ダメだね、なっち、ホントに…。
 ごめんね、ごっちん…」

なっちは声を立てずに泣いた。
なっちは表情を崩さずに泣いた。
ただ頬を流れる一筋の雫、それがなによりも、なっちの気持ちを如実に表しているような気がした。
225 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時07分41秒


手紙を読み終えた私は、着替えを始めた。
たんすを漁り、奥の奥から引っ張り出した喪服を身につける。

今日は、後藤の命日だ。

黒い地味目のハンドバッグを一つ抱え、そこに数珠と線香、それに宛先の違う手紙を入れた。
突き抜けるような快晴の光が、窓ガラスに反射してキラキラとプリズムを作り出す。
その光のせいで、思わず泣きそうになってしまった。

約束しているわけではない。
あの足で、なっちがお墓まで来ることが出来るのか、正直なところよくわからない。
けれど、きっと逢える気がしていた。
そして、逢わなければならない気がしていた。

外に出てみると、優しい風が髪を撫でた。
明るい空に星は見えない。
けれど、私には見えた気がした。
見慣れた甘えた笑顔を満面に広げ、私たちでは名も知らないような星達と手を取り、
無邪気に笑っている後藤の姿が。

「頑張れよ」

私はそう呟いていた。
226 名前:lou ◆tc95wOkI 投稿日:2003年04月01日(火)04時09分32秒
おしまい
>>168-192 >>196-225 空飛ぶ馬
227 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時11分57秒
川*‘〜‘)||人(´ー`*)

228 名前:空飛ぶ馬 投稿日:2003年04月01日(火)04時12分12秒
川*‘〜‘)||人(´ー`*)

Converted by dat2html.pl 1.0