グレートウォール
- 1 名前: BX-1 投稿日:2003年01月27日(月)21時19分16秒
☆☆☆グレートウォール
- 2 名前:0.0PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時20分41秒
- 夜の闇の中、それは音をたててやってくる。
少女は背後に押し寄せる波音を耳にし、動かしている手を止めた。
窓の向こうで微笑み続ける光は、今日もきらきらと彼女に降り注ぐ。
机上に佇む明かりを消して、彼女はその輝きを一身に浴びた。
あたしもそこに、あなたの隣に行けるかな。
確実に強く迫る水の気配は、ドアの向こうでピタリと止まった。
この部屋には彼女一人。
おやすみ、また明日ね。
思いを切るように彼女はカーテンをひく。そこに広がるのは漆黒の闇。
時を凍らせる程冷たい静寂が耳を突き抜け、赤く染まった鼓動とすれ違う。
この思いを乗せたら あなたの目は曇ってしまうだろうか…
真っ暗な海に溺れるように、彼女はしっかりと目を閉じた―
- 3 名前:1.1PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時22分13秒
- Chapter.1--柔らかな黄色 群青の傘
騒々しさのない学校は、日がまだ昇っていても気味の悪いものだ。
無愛想で少し湿った廊下は昼でも影に覆われていて、2月に入ったばかりの冷たい風が
何度も北側の窓を揺さぶる。その振動が校内をさらに気味の悪い空間へと誘っていた。
テスト期間中のため生徒も午前中で帰宅していて、人の気配も殆どない。僅かに残って
いる生徒もこの期間だけ図書室に住み着いている子達で、しんと静まり返った廊下には、
ドアの隙間から光りと共に楽しそうな笑い声が、少しばかりこぼれ落ちてくるぐらいだった。
空は青く澄み渡っていて、真上で輝く太陽は雲を寄せつけない力を発しているかのように
強く、鋭く光っている。
- 4 名前:1.1PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時22分52秒
- コンクリートの壁に囲まれ、特有の匂いを持った冷たい部室の中も例外なく静かだった。
部活動も休みになっている。毎回全国大会に名を連ねるような部活は一つもなく、
スポーツ関係ではほぼ無名の高校だったため、暇つぶしや友達付き合いの延長線上に
ある活動を、わざわざ大事な時間を割いてまでやる生徒はここには居なかった。
小さな窓を白く照らす光りは、時間の大まかな経過ぐらいしか認識できない。
その僅かな明かりの下で、一人の少女が机に凭れるように腰掛け、腕組みしながら
一点を見つめていた。室内とはいえ、ため息混じりで吐き出される息は白く、
少女の格好は外を歩く姿と変わらない。
眉間に力の入った表情は寒さで凍り付いてしまったように、少しも動かなかった。
目の前を見つめている―睨んでいる大きな瞳だけが、いろいろな思いを抱え揺れていた。
- 5 名前:1.1PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時24分22秒
- 三年生になり部活を引退してからも、吉澤ひとみは頻繁に後輩達の前に顔を出していた。
バレー部はこの学校の中ではちゃんと練習をしている部活で、試合にも結構勝っている。
吉澤が在籍していた時は、県大会まで出場していた。もちろんこの学校では新記録だった。
中学時代、注目選手の一人だった吉澤は強豪といわれる高校からいくつものスカウトが
あったが、彼女はどこの誘いにも乗らず、周りの反対を押しきり、運動ばかりしていた
頭で行けるこの高校を受けた。それもごく当たり前のことのように。
誰かが彼女に疑問を投げかけても、返ってくる答えは「バレーが好きだから」という
言葉だけで、始めはみんな首を傾げるばかりだった。
そのうち周囲の人達が、当てても跳ね返ってこないボールは空気が抜けてしまったんだ、
と勝手に解釈するようになると、その姿はパタリと見えなくなる。
これはごく当たり前のことだった。
- 6 名前:1.1PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時26分23秒
- テレビで昔のライバルや仲間達が戦う姿を目にしても、吉澤は羨むなんてことはなかった。
テレビに写れていいな、と思うことが少しはあったかもしれない。
しかし、そんな事よりも笑い声が溢れる体育館で、楽しそうな顔と向き合ってバレーをして
いる方が彼女にとってはずっと、ずっと魅力的な事だった。
だから、引退してからもできるだけ参加していた。推薦でなんとか大学が決まっていると
いうのも関係しているが、やっぱりバレーが好きだったのだ。
- 7 名前:1.1PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時27分21秒
- ☆
―吉澤せんぱーい、小川はインフルエンザで休んでますよ。
それを聞いた時、私はすぐに仮病だと思った。
―そっか大丈夫かな?
そう答えながらも、向こうでテーピングを手伝っていた紺野に自然と視線がいく。
その会話が聞こえていたようで、こちらを振り返った紺野の目は明らかに動揺し震えていた。
といっても、後輩の怪我の話を上の空で聞いていた私も大して変わらない表情をしていたと思う。
紺野が出ていった後、その日も今と同じように小川のロッカーの前に立ち、私は混乱していた。
それから三日が過ぎてもまだ、何の答えも見つけだせずに、誰も居ない部室で一人
こうして小川と書かれたロッカーを見つめている。
何もできずに…
- 8 名前:1.1PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時28分26秒
- 小川は病気なんかになっちゃいない―
それは確信していた。
彼女はその前の日まで、元気にスパイクを打っていたし、
帰りに寄ったマックでは一番でかいセットを食べていた。食いしん坊の紺野と同じのを
食べていたからよく覚えている。そもそも咳き込んでいる様子も全く見ていない…
もしそうだとしても、一日でそこまで悪化するものだったっかな?
前日元気だったから病気になるわけがない―なんて理由だけで決めつけているわけでは
ないし、ズル休みをしている後輩に怒り暗く湿った部室で罰を考えている、うざい先輩
になったつもりもない。まったく逆だ。
心配している、小川の事がとても心配だった。
むしろ病気で休んでくれている方がどんだけいい事か…
ずれたマフラーを首に巻き直し、寒さで赤くなった白い頬を手袋をはめた手で包みこむ。
縮こまっていた肩を起こすようにわざとらしく上下させた。
それでも、ずっしりと重くのしかかる憂鬱が消えることはなかった。
私は小川の仮病に心あたりがあった。
- 9 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時29分19秒
- ☆
―吉澤せんぱーい、小川はインフルエンザで休んでますよ。
部長の大きな声がはっきりと耳に飛び込んできた。
練習前の慌ただしく部員達のお喋りが飛び交う部室の中でも、その声は喧騒をすり抜けてくる。
それは悪意すら持っているように思えた。振り向くと入り口近くで立っている吉澤先輩と目が
合ってしまい、一瞬、時が止まったような感覚を覚える。
先輩の大きな目が何かを訴えるように私を捉えて、動きを奪っていた。
「お〜い、紺ちゃん?」
頭の上からの声にハッと顔を戻す。
副部長が手に持った紙から目を離し、不思議そうな顔で私を見ていた。
- 10 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時31分11秒
- 「え?…あっ、ごめんなさい。」
「ははは、またぼーっとしてたよ。大丈夫?」
「はい、すみません…すぐに終わらせますから…あの、足こっちに向けて貰えますか?」
しゃがみ直し、まだ少し腫れる足に気を付けながらも急いでテーピングする。
背中に感じる視線を振り払うように、何も考えないように、手だけを動かした。
「はい、できました。」
マネージャーの仕事も始めの頃はあたふたしていたけれど、最近は自分でも結構てきぱき
良くやれていると思う。マネの先輩が一人も居なかったので、ほとんど独学で学んだ。
テーピングの仕方も本を何度も見て覚えて…たぶん、完璧だ。
「おう…うん、いいね。全然動かないよ。ありがとう紺ちゃん。」
副部長はそう言って椅子から立ち上がり「カンペキ、カンペキ」と付け加える。
「あっ、先取りしちゃった?」
と悪戯な笑顔を浮かべ、少しぎこちない歩き方で去っていった。
ほんと、先取りですよ…
- 11 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時32分38秒
- べた付くはさみを綺麗に拭き取ってから、薄くなったテープと一緒にバックへもどし、
その重たいカバンを肩にかけ体育館へ向かう。
壁に斜めに貼られた安っぽい時計は、もうすでに練習の開始時刻を差していた。
いつの間にかみんな出ていった部室は、換気扇の音が気になるくらい静かになっていた。
吉澤先輩と副部長がドアの前で話し込んでいたので、私は出ていくのを一瞬躊躇い足が止まる。
しかし、壁に付いている小さな窓から這い出せるわけもなく、渋々ドアへと向かった。
私が通る事に気付いた、吉澤先輩が副部長に合図して道をあけてくれる。
「あっ、紺ちゃん。少し遅れるって言っといて。」
「…はい、わかりました。」
- 12 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時34分06秒
- パタンとドアを閉め、ずっしりと肩にくい込むバックを掛け直す。
出ていく時に副部長ごしに見えた吉澤先輩の顔は、いつもの明るい先輩には
似合わないものになっていた。
先輩の顔を曇らせたのは私のせいだ…
―ファイ・オウ!ファイ・オウ!
体育館への渡り廊下には力溢れる声が響く。
いつもの元気で大きな声はその中にはない―
私は頭を横に振る。
もう二度と聞けないのではないかという思いを、慌てて消し去った。
- 13 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時35分10秒
- まこっちゃんの異変に気付いたのは、冬が本格的に腰を下ろした12月初旬の頃だった。
始めは、ただ疲れているんだと思っていた。
その年の大会でこの学校にしては好成績を納めた事に酔いしれていた私達は、一致団結し
て端から見れば空回りとも言える練習を開始した。当初は朝練という部活動らしいものも
行っていたけれど、そのうちに誰も来なくなり私一人で体育館を独占するという事が何日
か続いただけで終わってしまった。
ある日先輩にその事を訪ねると、え?紺ちゃんまだ出てたの?と大笑いされてしまって
とても恥ずかしかったのを覚えている。
秋の気配が漂う頃には色々なメニューが音もなく、茶色に萎む葉っぱと共に自然消滅し
散っていった。それでも練習内容は以前に比べれば、俄然厳しくなっていたから、
まこっちゃんの顔に浮かんだ疲労感にもそれ程、私は違和感を感じなかった。
- 14 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月27日(月)21時36分14秒
- それにちょうど体育の授業でもマラソンという嫌なものが始まっていて、
疲れるには十分な条件が揃っていた。
寒空の下、みんな顔を赤くしながらぜぇぜぇとグランドを何週もする光景が見られる季節で
毎回、私はまこっちゃんに何度も追いこされ、その度に後ろから頭を叩かれていた。
その後にある授業はお約束通りみんなぐったりしていて、後ろの席の方の男子は悪気もなく
机に突っ伏していた。横を向くと、まこっちゃんも窓際で柔らかな日射しを受け、気持ち良
さそうに眠っている。いつも見られる暖かな光景。
教師が気にせず、黒板をカリカリと白く埋め尽くしていくのを、ノートに写しながらも
私はテスト直前に予想されるだろう、まこっちゃんの情けない表情を思い浮かべていた。
う〜ん、駅前のケーキでも奢ってもらおう。冬限定の美味しそうなのがあったし…
読みやすいように一字一字ゆっくりと、丁寧にシャーペンを動かし続ける。
その時、机に俯せたまこっちゃんの心の表情まで、思い浮かべることはできなかった。
そして結局のところ、そんな私がまこっちゃんと向かい合って美味しいケーキを頬張る、
暖かな午後の日溜まりが訪れることもなかった。
- 15 名前: BX-1 投稿日:2003年01月27日(月)21時38分39秒
- 一、ニ章まではさくさく更新で、それ以降はゆっくりペースの更新に
なるかと思います。出演予定メンバーは話の都合上、名前は出せません。
少し偏りぎみになりますが、何人かいっぱい出て来るアンリアルという
ことだけしか今の段階では…申し訳ないです。あとCP色も弱いです。
こんなよく分からない話ですが、読んで頂けたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
- 16 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時50分09秒
寒さが深まっていくにつれ、ふとした時にそれは隙間風のように私に届いた。
いつも私がぼーっとしていることを指摘し、からかってくるまこっちゃん自身が
物思いに耽るようになっていた。
仕返しするように私がその事を言うと、ヘラっとした笑顔を向け一緒にすんなと
言わんばかりに「私はちゃんと考え事してるもん、あさ美ちゃんとは違うよ」と
皮肉まじりの答えを返してくる。
確かに私は何も考えてなかったり、お弁当の素敵な味を思い浮かべたりしている
ことが多かったから何も言い返せなくて、結局いつも通り立場が逆転しまい、
会話もいつの間にか昨日見たテレビとか、違う話題に向いてしまっていた。
それだけでなく、他にも―あれ?と思うことが増えていた。
メールを送ってから返ってくるのに時間がかかったり
遅刻、早退の回数が増えて先生に注意されていたり
大好きな部活までも休むようになったり。
一番悲しかったのは、約束を忘れられ休日で賑わう街中で、
一人ぽつんと何時間も待っていたこと。
次の日に何度も謝るまこっちゃんにも、怒りというより不思議な感じがした。
- 17 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時51分03秒
- それでも私が深く追求することはなかった。
まこっちゃんは大らかで正直者だったから、いつか時がくれば話してくれると
思っていたし、見えないものに嫉妬している自分をさらけ出すのは、恥ずかしくて
情けなくて、自ら一歩前に踏み出すことができなかった。
想いが切られることを、どこかで感じていたんだと思う。
まるで、何もない空と砂だけの世界に放り出された観光客みたいに、
一面さらさらと流れる綺麗な白い砂の上で立ち尽くすみ、
後ろ向きな事ばかり考ていたのだ。
肌が焼けるとか、目に砂が入るだとか、コーヒーが飲みたいとか…
そこに広がる風景を拒絶し、そこへ自分の生活を準備万端、大きなスーツ
ケースに詰め込んで持っていく。
目の前の雨が、自分の領域に降ることを認めない彼等と同じだった。
湿った曇のただよう空から、雨が降ることを知っている彼等と。
- 18 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時51分56秒
- だから危険予測だけは、誰よりも飛び抜けていた。
一瞬の感動の後、私はその美しい景色の下に、息を潜めているだろうサソリの気配
ばかりを気にしてしまう。そして、私の足は砂丘を越えることなく帰路へと向く。
自分で付けた足跡を一歩ずつ確認して。慎重にゆっくりとその上に足を乗せるだけ。
私には自分の靴を取られてまで、踏み込もうという強い意志がなかった。
誰にするでもない言い訳を心に芽生えさせ、誤魔化しているだけで。
好きな人でもできたのかなぁ…
インスタントの種の寿命は短く、成長もあてにならない程弱い。
まこっちゃんの考え事は、本当に、そんな私とは全く違うものだった。
- 19 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時52分35秒
最後に余ったポタンを見つけ途方にくれたのは、年内最後の練習が終わり閑散と
した部室を大掃除とはいかないまでも、自己満足程度に掃除していた時のこと―
「これ、捨てちゃだめだよね…」
穴が開いてボロボロになったジャージを部屋の角にあるダンボールに
投げ込んでいく。久々に顔を出した絨毯には、まだテープのゴミや埃が
くっ付いていた。それを一つずつ剥がし、色の変わった新聞紙を捨てて、
埃や細かいゴミを帚で掃いていく。
地道な作業を黙々と一人で繰り返していたが、それほど苦痛ではなかった。
夕日が窓を赤く染め上げる頃、部室は見違えるように広くなっていた。
「うん綺麗になった。絨毯の元の色ってピンクだったんだなぁ…ん?あれ何だろ?」
ロッカーの上から何かが出ていた。屈んだ姿勢で固まった腰を叩きほぐしながら、
空いている手をそれに伸ばす。
私達がいつも使っている、一年生の分厚い歴史の教科書だった。
- 20 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時53分40秒
- 「あー、まこっちゃんのだ。でも今日部活休んだのになんでここにあるんだろう…」
今日の最後に、冬休みへの流行る気持ちを押さえ、受けていた歴史の授業。
それが終わり通信簿を貰ってから、まこっちゃんは青ざめた顔で私に
「体調悪いから休むね」と言って急いで帰っていったのに。
そうか、帰りに寄っていったんだ
ペラペラとページを捲ると、思った通り、無惨な姿に書き変えられた人物が次々と
顔を出す。まこっちゃんにとっては、歴史上の偉い人達も暇つぶしの道具にしかな
らなかったみたい。一人きりの部室に自然と笑い声が漏れていた。
「ふふふ、この人…かわいそう…眉毛繋がってるし。ふふっ、変だよもう」
ある程度捲っていると一つのページが意志を持っているかのように強制的に開く。
小さく折り畳まれた紙が、そこに挟まっていたせいだった。
- 21 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時55分06秒
- 「何これ…もしかしてラブレター?」
私はしばらくの間それと見つめあい、心の中で文字どおり葛藤していた。
だめだよ。いくら友達だからって勝手に見たら…
でも、最近様子変だし…気になる…
良心がだめだと頭の中でどんなに叫んでも、手は折り畳まれた紙を広げてしまう。
あーごめんね、まこっちゃん。ちょっとだけだから…
甘酸っぱい世界を覗き見したかっただけだった。
後ろめたい想いが細めさせる目に飛び込んできた言葉―
「へっ…」
想像していた文字はどこにも見当たらない。
そこに表れた非日常的な世界に、私は瞬きどころか呼吸の仕方まで忘れてしまう。
心臓の音だけが、動けない体を何度も強く叩くのを、他人ごとのように聞いていた。
- 22 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時56分16秒
- 私に向けられる笑顔
夜の長電話
授業中の居眠り
練習で筋肉痛になったと嬉しそうに言う愚痴
たまに垣間見える憂鬱そうな表情
返ってこないメール
空けることの多い窓際の席
犬に咬まれたと誇らしげに見せる包帯
一つ一つ思い出しながらボタンをとめていく。
役目のない、終わりを告げる最後のボタンに手を触れてから
掛け違いに気付くには、遅すぎる事実が横たわっていた。
残酷な現実を纏ってそれは目の前に広がる。
紙を持つ手の震えが止まらない。世界がぐにゃりと歪んで見えた。
目頭から溢れる熱い涙は、悲しみだけでなく、自分でも知らなかった
淀んだ感情をふつふつと沸き上がらせ、私はその焼けるような熱に包まれる。
- 23 名前:1.2PC 投稿日:2003年01月28日(火)23時59分15秒
『突然こんなことを書いててごめんね。
きっとこれを読んだら あなたは 私を軽蔑するかもしれない
ううん、それでいい。私はとても汚れているから。
あなたも気付いていたみたいだけど、その通りだよ。嘘ついちゃったね。
でもあの人が悪いわけじゃない。私が悪いの、私が我慢してればいいことだったの。
家族を壊したくなかったのに。みんなには迷惑をかけるかな…
今まで ありがとう。 最後くらい自分で決めるね。 バイバイ
P.S. 頼りないお姉ちゃんでごめんなさい。大好きだよ。どこにいてもずっとね。』
- 24 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時00分24秒
- ☆
「はぁー、うちに何ができるんだろう。」
太陽が姿を隠し一段と冷たい空気が、頬を撫でる。
私は電気を付けることもせず、毛糸に包まれた手をグッと握りしめたまま
ロッカーの冷めた感触を支えに、止まる事のない思いを巡らせていた。
あの妹に向けて書かれただろう手紙。
小川の氾濫する想いが、字を所々崩させていた。
何度も捨てようとしたらしく、クシャクシャに丸めた跡も残っていた。
その紙さえもノートを破いたような物で片方の端はちぎれていて、
それが更に言葉を重くしていた。
- 25 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時01分09秒
- その出される事のなかった、実行されることもなかった手紙―
遺書を見た時は信じられなかった。悪い冗談だと思った。
悪戯、ドッキリ…出番のない答えを、私は必死に探していた。
しかし泣き崩れている紺野を前にして、そんな言葉はすぐに足下へと消え落ちる。
壇上に残った言葉は一つ、紺野の頭を揺らすものと同じだった。
あの後、小川のロッカーの中に本をそっと置いた。もちろんその紙も挟んで。
上に置き忘れたのだから、中に入っていても気付かないだろうし
それに誰かに見られ、大騒ぎされる方が大変だと思った。
小川にとっても、目にする人にとっても。
目を真っ赤に潤ませた紺野を家に送っていく間、無言だけが二人を支配していた。
実際のところ、送るなんて言えるもんでもなかった。帰り道にどこをどう歩いたか
も覚えていない、ふらふらとあてもなく紺野の後ろを付いていっただけだ。
紺野も私も自分の世界にだけに浸っていた。内へと向く思考が神経を麻痺させて、
ヒューズが切れてしまった、目に映るものは全て色を失った世界に。
家に着いてからはベットに深く身を沈めることしかできず、
親のとても心配そうな声も聞こえなかった。
- 26 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時02分04秒
- それからの部活は酷い有り様だった。
迷惑をかけるようなボールしか上げられずに、自分がこんなに弱いものかと落ち込む。
そしてそんな悩みで苦しんでいる自分を卑下し、さらに気持ちをどんよりと曇らせる。
その繰り返しだった。
そのうち「少し筋を傷めてて」と怪我持ちの後輩と方を並べ体育館の片隅に座り、
コーチをして誤魔化すという手段に出ていた。
仮病で責められるなら私だ。
そもそも何かについて考えるということ自体、凍結していたように思う。
小川の笑顔の裏に隠された表情を見ないように、自分の目を布で覆い、
頭の後ろでしっかりと硬く結んでいた。
それでも想像力は人間が動物でない由縁、頭の中まで手を入れることはできなかった。
紺野はどうだったのだろう。
小川や紺野に対して、私は先輩として気丈に振る舞う事で頭がいっぱいだった。
腫れ物に触るような接し方をしていたか、もしかすると無視するような態度を
取っていたかもしれない。
同じクラスで同じ部活、学校生活の殆どを共に消化している紺野は
本人を前にして、どう振る舞っていたのだろうか。
- 27 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時02分36秒
- 一度、一緒に小川の自宅に電話したことがあった。携帯が切られていたからだ。
部室で目を合わせた日の夜、小川がインフルエンザにかかった次の日のこと。
練習が終わる頃にはしとしとと雨が降っていて、気分を滅入らせるには最高の
天気だった。
トゥルルルルルーと規則的に届く音を遠くに感じながら、
その音が途切れることを畏怖している自分が居たのを、よく覚えている。
落ち着きなくボロボロになった電話帳を、意味もなく触っていた感触も。
しかし、その電話は、こちらの渦巻く思いを無視するかのように
「寝ていて出れません。」
という数秒の反応だけで、あっけなく切られて終わった。
何故かその時、詐欺にあったような気分だった。
でも「騙してたんだよ、引っかかるなんて馬鹿だな。」
という恨むべき声を掛けてくれる人はいない。
横に居るのは、目を潤ませた少女一人。
あの声は妹だったと思う。
まだ少し幼さの残る声に断ち切られ、問いただす言葉は咽に引っ掛かって
出てこなかった。急に軽くなった受話器を置くと、情けない事に手の平は
汗でびっしょりと濡れていた。
- 28 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時03分42秒
- 小川はいつも笑っていて、馬鹿で、泣き虫で、
そう、ロマンチストだったな。
自分で言うのもあれだけれど、私といい勝負をしていたと思う。
もちろんバレーの腕も含めて。
「雲になりたい」だとか「世の中金じゃない」とか臭いことばかり言っていた。
そしていつもみんなに笑われる、笑いを与える。
「そんなんだから悪いんだよー」
そう言って通信簿を回されていても、小川は笑ってそれを追っかけていた。
そうだ。いつも笑いの中心にいたじゃないか…
ドン!
「くっそー」
手がじんじんと熱くなる。
叩いた手をそのままに、冷たいロッカーに答えを求めるように額を付けた。
- 29 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時07分59秒
- 見なければ良かった?
勘違いだと無視する?
悩んでいるふり?
紺野がいるから?
人目を気にしてる?
だから、行動を起こそうしてる?
結局は自分のこと?
こればっかだ…
自己嫌悪の沼にどっぷりと浸かってしまっている。
飲み込まれることもなく、足を抜く事もできない、不完全な底なし沼。
ただ、少しずつ漆黒の森が上がっていくのを見ているだけしか、私にはできない。
今日は女の子の告白の日、世間は甘い香りに包まれているっていうのに…
ここで紺野の震える背中を見た日から何も変わっていない。
小川の辛い告白を見てしまった日から。
そう、ちょうど一週間前だった。
もう一週間も経ってしまったのだ。
こうしている間にも…
ドン!
- 30 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時08分46秒
- 「ちょっと!あんた!学校の備品は大事にしなさいよ。」
一人の空間を壊す強い声に、ビクッと体が先に反応した。
声がした方に顔を向けると、開いたドアから差し込む明かりを背に誰かが立っていた。
誰?センコー?
「そんなに睨まないでよ。怪しい者じゃないから。どっちかっていうと、
こんな暗い中に居るあんたの方が怪しいわ。えっと、スイッチどこ?…あっコレか。」
白い光が突然目に刺さり、思わず目を瞑った。
コツコツと足音を響かせ、その女性が近づいて来る気配がした。
「あなた、吉澤ひとみさんね。」
- 31 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時10分27秒
- その女性は私の名前を気軽にそう呼ぶと、すぐ横で立ち止まる。
黒っぽいスーツを着て、少し釣り上がりきみの眼鏡をしていた。
その向こうに覗く大きな目は、ギロリと光り、緊張感を持っている。
誰だっけ、知り合い?いやいや、見た事ないよ。こんな人…誰?
「そうですけど、なんで私の名前を知ってるんですか?」
「だから、そんなに睨まないで、ちょっと聞きたい事があるだけだから。」
「は?何なんですか?…あと、ここ土足禁止なんですけど。」
「うっさいわね。細かい事はどうでもいいのよ。」
文句を言いながらも靴を脱ぐ、意外と丁寧な女性。
脱ぐのはいいのだけれど…
その女性は「あっ」とバランスを崩し私の腕に掴まった。とても酷い握力で。
「いたたっ…」
「あっ、ごめんごめん。この靴まだ新しくて。」
ニコッと微笑む顔はまだ威圧感を持ったままで、私の警戒は増す一方だった。
- 32 名前:1.3PC 投稿日:2003年01月29日(水)00時11分38秒
「私は保田よ。保田圭。」
靴を端に置いてから、胸ポケットから黒い手帳を覗かせる。
「へ!けいさつ?」
「事件があってね…」
保田と名乗る女性は、私の目を真剣な眼差しでじっと見つめてから、
一枚の写真を取り出した。
「吉澤さん、この子を知ってるわよね?」
そこには可愛らしい女の子が、両親に挟まれ綺麗な笑顔を見せていた。
- 33 名前:BX-1 投稿日:2003年01月29日(水)00時14分09秒
- こんな日ですが更新しました。
とにかくごめんなさい。フィクションだと自分にも言い聞かせ…
次回は、保田さんが大活躍するかもしれない第二章に突入です。
- 34 名前:名無し 投稿日:2003年01月29日(水)00時51分32秒
- うぇぇぇ〜〜!!やばい何だこの展開は!?
雰囲気を壊しちゃいけないと思ってレスを控えていたんですが
自分のちっぽけな自制心じゃ堪え切れませんでした。
これからの展開に激しく期待です。頑張って下さい。
- 35 名前:BX-1 投稿日:2003年02月01日(土)03時44分41秒
- 誤字には目をつむって、これだけ大訂正させて下さい。
>>29 そう、ちょうど一週間前だった。
もう一週間も経ってしまったのだ。
の部分は、読まないで下さい。忘れて下さい。できれば一ヶ月とかで…
年越してますし、どっちかっていうと二ヶ月近いですね。
書き換える事もできないので、こんな形になりますが、
混乱してしまった方、申し訳ないです。
- 36 名前:0.0PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時46分15秒
――乾いた地面には無数のひびが走っている。
遠く望める地平線は、細いペンで描いたように滑らかに揺れていた。
少女はその線と青い空の間に生じたわずかなズレを見つける。
誰かがカッターで切ったような空間。向こうから黒い世界がこちらを覗いていた。
もしかしたら、ここには巨人さんが住んでいるのかも。
こんな大きな世界を作ったんだから。きっと、ビルみたいに大きいのよ。
ほら、凄い足音がするでしょ?巨人さんだわ、隠れなくちゃ。
ずしん。体中に低い音が轟く。
少女はクレーターのような大きな穴に身を屈めた。
ずしん、ずしん、ずしん
足音が少女の真上で止まった。少女は頭を抱えていた手をゆっくり離し顔を上げる。
あっ…
- 37 名前:0.0PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時47分02秒
- そこには何もない。何も見えない。すべてを消してしまう黒い世界だけがあった。
あれ?巨人さんは?すぐ側に気配を感じるのに…
少女はきょろきょろと辺りを見回す。その時、自分の体が動かないことに気付いた。
絵の具をそのまま絞り出したような黄緑色の草が、彼女を軸に巻き付いていたのだ。
すると、その先の莢からきらりと光がこぼれ落ちる。ひとつふたつと闇を照らしていく。
たちまち、そこは星がきらめく宇宙になった。
少女はその星をペロリと舐める。とても甘くて少女は幸せな気分になった。
そっか、見えないと思ったわ。わたしは今、巨人さんのお腹にいるのね。
ピィーピィーピィー…
どこからか鳥の鳴き声がする。耳を澄ました彼女にすぐ別の音が流れ込んでくる。
少女が目を開けると、宙はカラカラと欠けはじめていた。
そんな――
- 38 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時50分20秒
Chapter.2--子供の消える家
銀杏の木が規則正しい間隔で並んでいる。
空に向かって背筋をピンと伸ばしたその姿は、葉を失ってもまだ強い力を誇っていた。
人が並んで3、4人は通れるぐらい広い歩道は、色とりどりの赤茶けたレンガが綺麗に
敷き詰められていて、その上を乾いた風が吹き抜けていく。
大きなゴールデンレトリバーを両手に連れたまま、立ち止まり話し込む女性達。
黄色いランドセルを輝かせバスを一人待っている、制服姿の小学生。
暖かな光は平等に降り注いでいる。
そんな生温い景色が、次々と表れては後ろに流れていくお昼過ぎ。
保田圭は傾きはじめた日射しを受け、歌を口ずさみながらハンドルを握っていた。
- 39 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時51分45秒
- 「飾りじゃないのよー わんこはー ワンワ〜ン♪」
「プッ…圭ちゃんなに?その歌?」
「えっ!あんた知らないの?明菜よ、ア・キ・ナ!」
「あー、揉めてた人でしょ?プロモーションビデオとかで。それぐらい知ってるよ」
「う〜ん、なんか違う気もするけど。間違いじゃないか…
……にしても、ここ信号多すぎなのよ!もう」
目の前で黄色から赤に変わった信号を見つめ、保田は軽く舌打ちをした。
「まーまー、イライラしてるとシワふえるよ」なんて隣で軽口を叩く後藤を一睨みして
区画整理の行き届いた坂道を見上げる。
毎日布で拭いているかのようにゴミ一つ落ちていない綺麗な道路が、まっすぐ空へと向かって
伸びている。それは歩くものに、そのまま空に飛び込めるような幻想を抱かせるほどだった。
こういうのって何故かドキドキするのよね、保田はその空を眺めながら自然に微笑んでいた。
「なんか吸い込まれそうだね」
助手席で同じように空を見つめている後藤がぽつりと呟く。
- 40 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時52分52秒
- 「ほんと。このまま行ったら飛べそうな気がするわね」
「うん。でも圭ちゃんと心中したくはないけど…あはっ」
「私だって嫌だよ。あんたとなんか、もっとかっこ良くて背は高くって…」
「不思議だねー、絶対飛べないって分かっているのに。何でそう思うんだろ?」
後藤は保田の長くなりそうなグチを察して、自分で変えた話の風向きをすぐに止める。
保田も変わった舵を気にすることなく、空しい妄想を畳んだ。
夢に溺れることもない、無難な航海だ。
「あり得ないことって分かってても、心のどこかでは信じてるのよね。ディズニーランド
みたいにフィクションを前提にした期待とはまた違う……現実の中の空想?ちがうかな、
自然現象と超上現象…う〜ん」
保田は頭の中に落ちている言葉を一つずつ拾うように声に出す。
しかし、収集しきれなくなったようで、顔を真っ青な空から横へと向けた。
「…こっちの裏側は想像したくないけどね」
- 41 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時53分29秒
手入れされた花が窓辺を彩る家、ヨーロッパの住宅をそのまま持ってきて置いたような家、
デザインに口うるさいだろう住人が住んでいるコンクリート作りの家、
古くから何世代もの人が受け継いで来た名家らしき木造の家。
どこまでも続く並木が両側に添えられ、その規則性が住宅街に作り物のような印象を与える。
どの家も大きいのは言うまでもなく、セキュリティを輝かせ存在をアピールしていた。
外には問題を絶対出さないかのように高い真っ白な塀は、乾いた光を反射させている。
前にあるサンバイザーも対応できない角度からの強烈な攻撃を受け、保田は目を閉じた。
なんで白いペンキ塗んのよ。こっちの迷惑も考えて欲しいわ。
と、まさしくお門違いな怒りを燃やしながら、保田は瞼の裏に走る糸屑のようなオレンジの
幻影を消そうと、何度も力の入った瞬きを繰り返した。
でも意外と裏に回ったら何もなかったりして、テレビの大道具みたいに…
そういえば昔そういうマンガあったわね。
- 42 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時54分14秒
- 「ねぇ亀に乗ってるおぼっちゃ…」
隣でぼーとしている後藤を見て保田は慌てて口をつぐんだ。悲しいかな年代が違う。
「ん?何?」
「いや…ここら辺って時間もゆっくり流れてるわよね。ゆとりのせいかしらねー」
保田は笑って誤魔化しながら、また、前方に広がる澄みきった空を眺めた。
「ははっ、確かにうちらはゆとりないよねぇ〜お金の!
昨日も請求書がいっぱい来てたよー。どっさり」
言った後に後悔するというのはこういう事だな、と保田は苦笑いを浮かべる。
「いいのよ。人生、金じゃないわ」
後藤ではなく自分に言い聞かせるように、強く言い切った。
横断歩道の青信号が点滅する。その間隔にもここの時間が流れているようだった。
結局、白いインクがたっぷり盛られた線を踏む人は一人もいない。
やっぱ、こういう所ってクリスマスには光の共演になるんだろうな。
保田はその眩しい光景を思い描き、アクセルを勢いよく踏み込む。
すり減ったタイヤはまだ濃いアスファルトの上で、キュッと小気味いい音をたてた。
…いや、光の戦いかな?
- 43 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時54分53秒
保田達には縁がないであろう土地、古都鎌倉の丘に優雅に佇んでいる家々は
富士山を一望し、羽を伸ばしながら、小高い丘から町を見下ろすように位置している。
ひやりとした風が海から運ばれるてくる別世界だった。上界という単語がピタリとはまる。
とても静かで空が近いのが、印象的で幻想的だった。
しかし、ベットタウンとしては決して便利と言える場所ではない。駅に出るにはバスに
揺られ曲がりくねった坂を下らなければならないし、その駅も小さく電車の量も多くない。
吐き気を持ったまま、モノレールで観光気分を味わい、2回以上乗り換えて仕事に行く
奇特な人も中にはいるかもしれないが、その例外を除けば、ここに住んでいるのはお抱え
運転手のいる社長など役員クラスの人間だけだろう。
何軒かは別荘として使われているらしく、全ての窓には立派なシャッターが下りたままだった。
それでもきちんと管理されている。庭の木々がお互いに背比べする必要もない程に。
- 44 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時56分22秒
保田には、そこの住人みんなが銘々、幸せを首からぶら下げて歩いているように見えた。
実際どうなのかは分からないが、表面的にはそういう風にしか見えなかった。
宣伝しなくても幸せというブランドが普及している、そんな感じがした。
幸せの色があるとしたら、水で薄められることなく、その絵の具でここはたっぷりと
色を塗られているんだろうな。保田は秋が入り込む山の景色を思い浮かべる。
まだ濃い緑の海に鮮やかな紅が点々と着いている。
まるで神様が絵の具をぽたりと落としたかのような眺め。
保田は羽を横にピンと伸ばし空を泳ぐトンビを見つめる。風に乗って優雅に舞っていた。
ここを空から見下ろすと、そういう風に見えるんだろうな。
どっちにしろ幸せな人々を前に、保田は疎外感を持たずにはいられなかった。
少なくとも、彼等は色の着いたサングラスをする必要はない。
後藤と二人、そしてこの小さな車だけがその風景から浮いていた。
自意識過剰ということを除いても。
- 45 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時57分08秒
- 「やっぱこれ、ちょっと派手すぎたかしら?」
「ははは、派手っていうか、圭ちゃんそれ…」
「何よ?」
「いや、いや、いいんじゃない。ゴージャスで…ちょっと、おもしろいけど」
「は?オモシロイ?」
「ふははは、それフサフサして…ははは」
「何笑ってんのよ!本物の毛皮だから、フサフサしてるに決まってんじゃない」
「はははは、だってだって…圭ちゃん…」
後藤は自分の腿をバシバシと笑いながら叩く。嬉しいときの後藤のくせだ。
「野獣みたいなんだもん…ぷっ」
「ひっどーい、野獣って!…そういうあんただって、ホステスみたいじゃないよ!」
「はははは…え?そう?これが一番似合うって貸してくれたんだよ、シロガネーゼって。
まー似合ってればいいじゃん…それより…ふふふ」
「私も似合うって言われて貸してもらったのよ。これ!」
保田は少しチクチクと顔にあたるその毛皮のコートを、後藤に誇らしげに見せる。
「ふっ…ははははは…もうだめー!苦しいー」
「本当に、失礼なんだから!もう。いいのよ、ここに馴染む服ならいいんだから…」
「ははは…ひーひー」
- 46 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時58分46秒
- 後藤は引きつった笑いに突入していた。すぐに引き返すのは難しい。
こうなったら放っておくしかないわ。
保田は怒ることを諦めて運転に集中する。
それでも勘違いしていたせいで、本当のところは馴染んでいない自分達の存在が、
気になって落ち着かなかった。
いつも仕事に行く時は、その土地の雰囲気に合わせて格好を変えている。
そこで仕事をしている事が周りに分からないようにしなくてはならないからだ。
今回もばっちり合わせたつもりだった。
しかし、ここは桁外れな高級住宅街。ゼロが一つ多かった。
社会から離れた老人のように、ある程度のラインを超えると人は逆行するらしい。
そこを歩く人々は、どちらかというと地味な格好を好んでしていた。
だからといって、それを差し引いたとしても、浮くことは避けられない結果だった。
レンタカーを借りられない経済状況の保田達には。
真っ赤な旧型の凹み付きミニは、この風景には溶け込まない音をあげて走り続けていた。
- 47 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)03時59分52秒
- 保田達がこんな住宅街に足を踏み入れることになったのは、
一本の奇妙な電話が始まりだった。
「保田圭さんですね?個人的に頼みたいことがあるんですが…」
男にしては少し高く乾いた声だった。その喋り方は明るく、こちらに警戒心を
抱かせないもので、保田は営業などの仕事をしているのだろうと勝手に想像していた。
いつも掛かってくる電話の相手というのは少なからず緊張していて、
日本人であっても日本語すら流暢に話せない人が多い。
「あの」とか「それで」という言葉を不自然に何度も繰り返す。
そういう時、保田はゆっくり喋るように促し安心させ、要点だけをメモしていた。
贈答品と同じだ。豪華にこれでもかとラッピングされた贈り物と。
ほとんどがいらない物でゴミとなり、大事な物がその中に埋もれている。
世間体を気にする人ほど、派手に何枚も紙を使う。大きなリボンまでつけてくる人もいた。
だからといって仕事をする保田にとっては、そんな姿に目を奪われている暇はない。
- 48 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)04時00分29秒
- やっかいなのが、相手の前でそれを開けるということ。
保田は紙を破らないように、爪でテープの端を起こしてから綺麗に剥がし、順序良く
開けていく。面倒臭いからといって、決して無感動にビリビリと破いてはならない。
そんな事をすればと、相手は出した手をさっと引っ込めてしまうだろう。
「届け先を間違えました」と丁寧な断りをいれて。
ロシア民芸品のマトリョーシカように、入れ子式に重ねられた木箱を音もたてずに、
そっと、一つずつ取っていく。そうすることで、切れ目のないとても小さな人形の表情を
伺うことができ、ようやく仕事にも取りかかれるようになる。
とても気を使う作業の繰り返しだった。
問題を抱えている人は、そのようにして自分でも気付かないうちに遠回りして来る。
そういう経験から、保田はこの男の電話を流すように聞いていた。
大した仕事じゃない、と。
だから、次の言葉が出てきた時は思わず聞き返してしまった。
- 49 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)04時01分31秒
- 「ゆ、ゆゆ誘拐ですか!?」
「そう、娘が連れ去られてしまったらしくて。困ってるんだ。
詳しい事はこっちに来てもらってから話すから。住所は…」
保田は慌てて手にしていたペンを動かす。
困ってるんだ、じゃないわよ。娘が誘拐されたっつーのにどんな親なのかしら?
保田はこの時始めて相手に嫌悪感を覚えた。
男は告げる事を告げると「それじゃ、お願いします」と、まるで他人事のように
仕事を終わらすかように電話を切った。
向こうでホっと一息ついている音まで聞こえてきそうだった。
保田は苦い表情で受話器を置きながら世の中にはいろんな人間がいるんだと、改めて
実感していた。そして翌日、自分の通帳を見て理解した。
前金として100万もの大金が保田の銀行に振り込まれていたのだ。
そうだ、金で動く人間もいるんだ。
もちろん、保田はその金には手を付けていない。咽から手が出るほど欲しい現金に。
その相手から詳しいことを何も聞いていなし、内容によっては突き返すつもりだったからだ。
それに、保田はまだ一つもフタを開けていない。
- 50 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)04時02分47秒
「あれぇ、圭ちゃん。さっきもここ通ったよ、坂下りて…ほら、またあの家あるもん」
「ほら、じゃないわよ。あんたがナビしてんでしょーが」
「そうなんだけど…運転してるのは圭ちゃんじゃん?」
「は!?それって私のせいなの?」
「んー、じゃー車のせいってことにしよう」
「じゃーって…」
「うんうん、それがいいよ。このおんぼろカーのせいだね」
トントンとダッシュボードを叩いてから、後藤は何ごともなかったように手に
している住宅地図と向き合った。
その様子を一通り反芻すると、保田は押さえる事なく怒りをぶちまけた。
「おんぼろじゃないわよ!私の可愛い愛車にケチつけ…」
「あー!けーちゃん、前!前見て!あぶなっ!!」
「あ゛ーー!」
キキィーーーーーーーー!!
- 51 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)04時04分22秒
- 閑静な住宅街に、耳をつんざく音が駆け抜ける。
すぐに、近くで窓から人が顔を出す気配がしたが、それも一瞬で消えてなくなる。
前のめりになった体を起こし、保田は恐る恐る前を覗き込んだ。
ボンネットの向こう、こっちを見て固まっていた猫は保田と視線が合うと、
ニャーと毛を逆立て逃げるように走っていった。
足は…ちゃんと動いてるね。はー
助手席でおでこを擦りながら「いったぁー何すんだよ…」と後藤は顔をしかめている。
どうやら保田の車が、一番に、この真新しい道路に黒い跡を付けたようだった。
「だからシートベルトしなさいって、いつも言ってるでしょ!」
「だって、ごとーは圭ちゃんの運転信用してるんだもん」
後藤は可愛らしい笑顔を作って、くすぐったくなるような甘い声を出した。
「それはどうも、ありがとうございます。」
保田はため息まじりに、そんな後藤に呆れた声を返す。
「いえいえ、どういたしまして。また、よろしくね圭ちゃん。エヘッ」
- 52 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月01日(土)04時05分24秒
- 「…こちらこそ、ヨ・ロ・シ・ク!」
低く凄みのある掠れた声で保田は睨みをきかせる。
後藤は口をポカーンと開け、その鋭い目をまじまじと見つめ固まっていた。
エへッじゃないわよ。まったく、あ−言えばこう言うって後藤のことね。
私に対抗するなんて百年早いのよ。久々にメンチ切っちゃったわ…
睨みつけた罪悪感からか、静かな車内を濁すように保田は少し柔らかな口調で話し掛ける。
「タイヤ減っちゃったけど、猫ひかなくて良かったわ。なんか呪われそうだしね」
「あーでも…」
後藤は睨まれたことを気にする事もなく、そう言って何かを思い出すように指で顎を撫でた。
「あれ黒猫だったよ。横切ったの」
隣で「縁起悪いね」なんて言う後藤を見て、保田は頭をひっぱたきたい衝動にかられる。
一言多いのよ、こいつは…
保田は後藤とパートナーを組んで失敗だったのではないかと、今さら実感していた。
- 53 名前:BellXs-1 投稿日:2003年02月01日(土)04時12分16秒
- >>36-52 更新しました。(訂正も>>35)
>>34名無しさん
レスありがとうございます。
嬉しすぎてアホな事を書き、自ら雰囲気を壊しそうなので
クールを装わさせていただきます。暖かく見守って下さいませ。
というか、そんな事気にしなくていいですよ。嬉しいですから。
本当にありがとう。
次回は来週中頃に更新する予定です。
- 54 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月07日(金)01時34分37秒
- 是非!続きを!
お願いします。
- 55 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時49分39秒
「それにしても、いつになったら着くの?約束の時間に遅れちゃうわよ」
「だって、この地図だとフミさん家の隣の隣の斜前なのに、フミさん家がないんだもん。
間違ってるんじゃない?これ」
後藤は地図をパタパタと振り口を尖らせる。
フミさん…まさかね。
保田は前後に車がいないのを確認し、左手をさっと後藤へと伸ばした。
「ちょっと見して!」
「はい、どうせ見てもわかんないよー」
目的の場所には保田が昨日、赤い印を付けた。
その斜前の隣の隣のフミさんって…やっぱり。
「あんた学校行ってたのよね?」
「うん、ばっちし!」
「それじゃ、授業中寝てたわね?」
「うん、ばっちし!……あっ」
「あんたに任せた私が間違ってたわ…」
「ははっ、気付くの遅いよー圭ちゃん。私地図の読めない女なんだからさー」
- 56 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時50分33秒
- 保田はハーっと大きくため息をついた。
仕事上、地図が読めないのもどうかと思うけど、漢字も読めないなんて。
こんなに馬鹿でかい土地持ってる家なんてないわよ…まったく。
交差点を右に曲がって車の速度を緩めてから、綺麗な小学校を横目に保田は自分の目で近くの
表札を一つずつ確認していく。
しかし、何軒通り過ぎても捜している名前は出てこなかった。
「あれー?ないわねぇー」
「圭ちゃん、こうなったら人に聞いた方が早いよ。聞いてくるねー」
「え?あっ!ちょっと、危ないわよ!後藤!」
「よっと…」
後藤は保田の声も耳に入れず、ロックを外しドアを開け飛び下りた。
もちろん遅いとはいえ動いている車から。保田の気苦労が減ること当分なさそうだ。
「ほんと、無茶苦茶なんだから…」
- 57 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時51分28秒
- 保田は黄色のランブをちかちか光らせ、少し高い歩道に車を寄せた。
バックミラーには、後藤が小学生が話し込んでいる様子が写っている。
外の冷たい空気も強い日射しも、長時間シートに身を沈めていた保田には
とても気持ちの良いものだった。ドアを閉め、めいいっぱい吸い込む。
解放された体を伸ばすと、体のあちこちに軽く傷みを感じた。
あートイレにも行きたいし、着いたら貸してもらうしかないわね。
ほんと早く見つけないと…あと10分しかないじゃない。
保田はごわごわとしたコートのポケットに携帯を戻す。
首や腰を少し回すと、停滞していた血液が流れ筋肉がほぐれていくのがわかった。
静かな住宅街にコツコツと響くヒールの音に反応して、二人が同時に保田を見る。
後藤が話しかけているのは小学校低学年くらいの小さな男の子で、まだ少し余裕のある
紺色の制服に身を包み、頭に校章の入った帽子を乗せていた。
私立の子かしら?このぐらいが一番かわいいのよね。
保田はヒールのピンがレンガの隙間に挟まらないよう足に神経を集中させ、
二人に近づいていった。
- 58 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時52分46秒
「おわっ、犯人が来たぞ!」
慣れない歩き方で保田が側に行くと、身構えるようにその少年が突然言い放った。
予想外の言葉に保田は足を止める。
「は?犯人?ちょっと、どういうこと?」
横に立つ後藤は腹を押さえて笑いながら、保田をちらりと見る。
マズイ…あれは悪のりする目だわ。
「ぷははは、犯人が来たー助けてー!こわーい!食われるー!!」
「大丈夫だよ、おねぇーちゃん。僕がこれで追い払ってやるからさ」
そう言った少年の手には、新品らしきリコーダーがしっかりと握られている。
「こっちに来てみろ、これでぶっ叩くからなー!」
え…何なに?この展開は?この少年の目、かなりマジよ…
疑問を感じながらも、保田は犯人が降伏するときの格好に従い両手を上げた。
保田の脳裏に昔に行った幼稚園の痛い記憶が蘇ってくる。
このぐらいの子って手加減を知らないのよ。思いっきり叩くんだから。
「ちょっと待って。何もしないから…」
不満を感じながらも、とりあえず手を上げたまま足を前に踏み出す。
「…って、何で私がこんな目に」
- 59 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時54分13秒
少年は威勢のいいものの保田が恐いらしく、鋭い目線を保田に合わせてはいるが、初めて
スケートリンクに立った子供のように、両手を前に出した姿勢で腰だけが退けていた。
保田は転ぶことなく、叩かれることもなく無事に側まで行くと、下からの攻撃的な視線を
ひしひしと受けつつ後藤を問いつめる。
「ごっちん。どういうことよ?犯人って」
「あのね、私が車から飛び下りたのを見てね、誘拐されて逃げたと思っちゃったみたい」
「で、私が犯人ってこと?」
「うん、ははっ」
「あんたねぇー、否定しなさいよ。何で私があんたを誘拐しなきゃいけないのよ。
こっちからお断りよ。もうー、しかもあんた食われるとかなんとか…」
少年は保田を見上げ、眉間にしわを思いっきり寄せていた。
睨んでるつもりなんだろうけど…可愛いわね。でも、小さい子って思い込みも激しいから。
保田はさっさと誤解を解くように、後藤に目配せをする。
後藤はしょうがないなと肩をすくめると、少年の前にしゃがむ。
なんかいちいち気に触る態度をとるわね、今日の後藤は…反抗期?
- 60 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時56分09秒
「あのね、この人は誘拐犯じゃないの。私のお友達だから大丈夫だよ」
後藤は帽子の上から少年の頭を撫でた。
少年は照れくさそうに口をもごもごさせている。
「本当?おねぇーちゃんが大丈夫っていうなら、信じるけどさ…」
少年は後藤から保田に視線を移す。その表情には、明らかにまだ疑いの色が含まれていた。
試しに保田は満面の笑みを浮かべてみるが、少年の目は曇るばかりで
後藤が大爆笑しただけだった。
「で、家分かったの?」
保田は懐きそうにない少年を無視して後藤の肩を叩く。
「ぷははははっ…え、何?あー家ね。まだ聞いてないや…」
後藤は目頭に滲んだ涙を拭いて、少年と向き合った。
「あのさ、寺田さん家って知ってる?」
「……!」
少年は口を開けて固まってしまった。
それとは反対に、頭の中では必死に何か考え事をしているようだった。
そして、子供には似つかわしくない、険しい表情で後藤と保田の顔を交互に見比べる。
後藤と保田もそんな少年の態度に顔を見合わせた。
- 61 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時56分47秒
- この子に何かまずい事でも聞いたかな?
う〜ん、ただ家の場所を聞いただけだよね…
後藤はもう一度、ゆっくりと言葉を摘んでいく。
「あのね。寺田さんの家を探してるんだけど…」
「行かない方がいいよ…」
「「え?」」
「行っちゃだめだよ!」
少年は癇癪をおこした声で首をぶんぶんと振ると、そのまま下を向いてしまった。
「どうして行っちゃだめなの?」
後藤は少年と目を合わせようと、しゃがみこんでもう一度尋ねた。
「ね、どうして?おねーちゃん達、初めて来たからわからないの」
意外と子供の扱いうまいのよね、ごっちんは…
保田はその柔らかな空気を壊さないように、その様子を静かに眺めていた。
足下のレンガと睨めっこしていた少年の目は、後藤の表情を気にするように少しだけ動く。
さっきまでの勢いはなくなり、保田にはそこに脅えというものが表れているように見えた。
- 62 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時57分53秒
- 少年は手をギュッと握りしめたまま、ぽつりぽつりと喋り出す。
「あそこは……危ないって、お母さんがいつも言ってるんだ。近づいちゃだめだって…」
「危ない?なんで?」
「みんな言ってるんだよ。あそこは…」
そう言って、キョロキョロと神経質に周囲を見渡す。傾きかけた日射しが降り注ぐ道路には
今私達の姿しか見えない。
「子供の消える家なんだ…」
「は?」
後藤と少年のやりとりを静かに見つめていた保田の口から、思わず言葉が漏れた。
その声に振り返った後藤の顔にも、疑問がはっきりと浮かんでいた。
「本当なんだよ。あそこに入った子供はみんないなくなっちゃうんだ。嘘じゃない!
黒い穴があるんだ!子供を吸い込む穴が…あの家にはあるんだよ。嘘じゃないもん!」
少年はそんな二人の態度に敏感に反応する。
悔しいのだろうか、目は涙で潤んでいた。
「違うの違うの。信じてないわけじゃないからね。ただ、びっくりしただけだから…
子供の消える家って…」
慌ててなだめる後藤の顔を少年は口を真一文字に結び、しばらく見つめていた。
そして何かを決意すると、制服の袖で隠すように涙を拭い力強く指を差した。
- 63 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)02時59分31秒
- 「あそこに黄色いお家があるでしょ。あそこを曲がってまっすぐ行ったつき当たりに
あるからさ…もう、迷うなよ」
ぶっきらぼうに言う少年の顔を後藤は嬉しそうに見つめ、その小さな指先をたどる。
大きなレモン色の家が、少し先に建っていた。
「あれね、うん…もう迷わないよ。ありがとうね」
「知らねーからな」
「ん?」
「おねぇーちゃんが…黒い穴に吸い込まれても…おれ、知らねぇーから」
そっぽを向いた少年の頭に、後藤はもう一度やさしく触れた。
「心配してくれてありがとね。気をつけるから大丈夫だよ。
それに…おねぇーちゃんこう見えても強いし!」
後藤が大げさにガッツポーズを作るのを見て、少年はふてくされながらも小さく頷いた。
「そうそう、私もいるから大丈夫だよ。少年。」
保田も二人の会話に溶け込もうと、そう言って恥ずかしそうにしている少年の頭を撫でる。
しかし、返ってきた一言でその柔らかな手が握り拳に変わった。
- 64 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時00分48秒
- 「おばちゃんは大丈夫だよ」
「ぷっ…」
こんの、くそ生意気なガキめ!!可愛いなんて撤回よ!
後藤は笑いを堪えながら、小さな少年にまで見境なく挑もうとする保田を押さえ込む。
ぷははっ、いい返しするなぁ。この子。
「ほら、圭ちゃんこんな小さい子に何まじになってんの。早く行かないと遅刻しちゃうよ。」
もう、圭ちゃんの方が危ないよ。てか、まじで野獣みたい…
後藤は、野獣と化した保田を落ち着かせる方法を模索しながら、ずるずると車の方へ
引きずっていく。
「あ!圭ちゃん、ほら。今日その格好だからだよ。毛皮なんて来てくるから…ね?」
「え…、あっそうか、そうよね。私としたことが…子供相手に本気になるわけない
じゃない…あはは」
「そうだよね。大人だからね圭ちゃんは」
「そうよ。大人よ、大人…」
冷静さを徐々に取り戻そうとしている保田を車の脇に置いてから、
後藤は少年の前に戻りしゃがみ込むと、空いている手を取った。
ポケットから出した飴玉を、その小さな手の平に乗せる。
- 65 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時01分36秒
- 「はい、これあげる。教えてくれたお礼。おいしいから食べてね」
「……でも…」
「ん?嫌い?」
「ううん。ちがくて…知らない人から物をもらっちゃいけないって…」
「お母さんが?」
「うん…」
「ぼくは名前なんて言うの?」
「えっ…あ…」
「それもお母さん?」
「……」
少年は俯いて黙り込んでしまった。
「あのね。私は真希っていうの」
「…ま、まきおねぇーちゃん?」
「そう、真希おねーちゃん」
「うん…」
「覚えてくれた?私は誰?」
「まきおねーちゃんでしょ?」
「そうだよ。ほら、もう知らない人じゃないでしょ?」
- 66 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時03分14秒
- 「…うん。知らなくないよ…」
後藤は少年の暖かい手を自分の手で包み、しっかりと飴を握らせた。
少年は膨らんだ手をじっと見つめている。
「もう、おねーちゃん行かないと。じゃぁね、バイバイ」
「うん…バイバイ、まきおねーちゃん」
後藤が立ち上がると、少年は表情を隠すように帽子を深くかぶった。
車に戻ると太陽は真っ赤に潤んでいた。
「あんたいいお姉さんになるわよ」
「うん、ありがとう。圭ちゃん」
後藤はドアを閉めると、その溢れだしそうな夕日を見つめ、少し寂しそうな表情を浮かべる。
保田はそんな様子の後藤には話しかけず、先程の少年の言葉を頭の中で呪文のように
何度も唱えていた。
子供の消える家、子供を吸い込む黒い穴、誘拐…黒い穴に?…まさかね…
普段ならただ退屈しのぎの噂話で済んでしまうのだが、保田達はこれから
誘拐事件と関わる。ゴミ箱にぽいと捨てるわけにもいかない。
- 67 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時05分11秒
- 「子供の消える家って、なんかミステリアスな響きだね」
後藤は少年にあげた飴と同じものを頬張っていた。車内に甘い香りが広がる。
「それと、子供を吸い込む黒い穴…」
「ここら辺の子供はみんな知ってるみたいだったね、圭ちゃん」
「母親から言われたって言ってたわね。親のどういう都合があるか分からないけど、
子供を脅すには十分な噂だわ。真相はどうであれ、あんまり近づきたくない家なのよ。
近所付き合い良くないのは確かね」
保田は先日の電話を思い出していた。あれでは人と親しくはなれないだろう。
「あっ、そうだ圭ちゃん。さっきの猫をひいてたら犯人扱いどころじゃなかったよ」
「え?あっ…あの猫ね。」
さっき起こしそうになった事故の事を保田はすっかり忘れていた。
「あれ、あの子のお気に入りの猫なんだって。黒い片目の猫」
「げっ、そうなの?…あの猫って片目だったっけ?」
「うん。だから名前がマサムネっていうらしいよー」
「ほー正宗か、やっぱ頭良さそうな名前付けるわね。って、あんた意味わかってないでしょ?」
「ふははっ、ばれた?」
「当たり前よ。地図記号覚えてないやつが何で歴史を覚えてるのよ」
「えへへへ、あっ…」
- 68 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時06分52秒
「おー凄いわね…」
夕日に浮かびあがる大きな輪郭が正面に現れる。
赤と黒の霧を集めたかのようなその姿は、透けてしまいそうな程儚く見えるものの、
どっしりと力強く構えていた。
「富士山っていいわよね…」
「ん?圭ちゃん山好きだったっけ?」
「だって…ただそこに座ってるだけで、皆に感動を与えられるのよ。何もしないで…
…ずるいなぁ」
「ふはははっ、なにそれ?山に嫉妬してんの?」
「そうね…綺麗な女の人と同じよ。憧れるけれど嫉妬もするっていう」
「ははは、圭ちゃんまた変なこと言ってる。女の人と山が一緒って…ふはは」
「変じゃないわよ。美しい人を見れば一瞬目を奪われるでしょ、あんたもそうよ。
よく人の視線感じない?」
「う〜ん、あんまり分からないけど、よく目は合うかな…」
「ちょっとは否定しなさいよ。もう…」
「いやー後藤は正直者だかえらね」
後藤はにんまりと微笑みながら、また飴を口に投げ入れる。
- 69 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時10分09秒
- 「それで続きは?山と女の」
「山と女って…簡略するとおかしいわね。えっと、なんだっけ?あっそうそう。
それで綺麗な人の色々な表情を見せられて、心が吸い寄せられるでしよ。
今みたいにオレンジ色の姿だったり、雪を被った姿。自然で神がかってるかと
思うほど綺麗だからね…そして誰もが彼女に近づきたいと思うのよ」
「うーん…」
「私は車で行けるとこしか行ったことはないけど、空気が違うのよ、あそこは…」
保田は一気に喋ると、淡く佇む富士山をぼんやりと見つめた。
「でもさ…」
「うん?」
声のトーンの違いに、保田は横目で後藤をうかがう。
後藤は富士山を眩しそうに見つめたまま、オレンジ色に染まっていた。
やっぱ、目を奪われるわね。嫉妬はしないけど、こんなアホには…
保田は心の中で微笑を浮かべた。こいつが妹だったら手を焼くわね。
「あそこ…富士山って、ゴミがいっぱいなんでしょ?」
「そうなのよ。前にCMでやってたわね…あ!山と女の違いあるじゃない!」
保田は新しい遊びを発見した子供のように、はしゃいだ声をあげる。
- 70 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時14分46秒
- 「どんな?」
「あのね。近づいてみて綺麗な人の家がゴミだらけだったら、大抵の人は引くでしょ?
笑顔を作っていたとしても、心ではゲッ!まじかよ!こいつ…って思うじゃない」
「うん、まぁー…」
「だけど富士山の場合は逆で、可哀想で弱々しい存在に見えるのよ。しかも掃除までして
くれちゃうのよ。ほら、ここが違うのよね。うんうん。よかったよかった。」
「……」
何が良かったんだろ?と後藤は首をかしげながらも、帰ったら事務所の掃除でもしとこう
かと素直に思った。もちろん保田がそんな皮肉を込めて言っていないのを、そこまで気が
付く人間ではないことも、後藤はよく分かっている。
それに女の場合は自分で汚してて、山は他人が汚してるっていう決定的な原因の違いが
あるんだけどな…
- 71 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時16分42秒
しかし、隣で満足そうに悟りを開いている保田の顔を見て、
後藤は自分の中だけでそれを消化した。
子供の夢は壊しちゃいけないもんね。
「ごっちん、あそこ曲がるんだよね?」
「うん、そうレモンね」
「なんか、地中海に建ってそうな家だわ、そこを曲がるってことは…これで富士山も見納めねー」
遠くから光にのって届く眺めに、保田はこれから仕事だという事を少し忘れかけていた。
「でもさ…」
後藤はどんどんと色を変える山の陰影を睨んだまま、誰にともなく呟いた。
「近づいていい事なんてないのにね。遠くで見てる方が綺麗なのに…」
保田は、別の人間が言ったような言葉が後藤の口から出てきたことに驚く。
後藤は一見クールで冷たい人間のように見えるが、確かに少しはそうだけれど
保田や親しい人に対して向けられる言葉はいつも暖かいもので、空気を凍らせる程
冷たい声を出すことはなかった。
- 72 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時20分04秒
どうしたんだろ、何か悟っちゃったのかしら?
横を向いてしまった後藤の表情は伺えない。
ころころと飴が口のなかを転がり、歯にあたる音が大きくなった気がした。
「圭ちゃんは…」
「わたし?」
「うん。圭ちゃんは大丈夫だよ。近くても遠くても変わんないから」
「あら、そう?ありがと…あれ?それって、どういうことよ!…ちょっとごっちん!」
「ふははははっ、後藤はそんなこと思ってないよ」
「今ごろ言っても遅いわよ!」
保田はなるべく大きな声で牽制する。
「ははは、ちくっちゃった…」
「うん?何よ?まだ言いたいことあるの?」
「ううん何でもないよ…」
- 73 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時23分48秒
レモンハウスの角を曲がると、真正面に大きな門がそびえ建っているのがすぐ目に入る。
さっきまでの住宅地とは雰囲気がガラリと変わり、その家に続く私道にはとても落ち着いた
空気が漂っていた。
道路脇には背筋のいい銀杏の姿はなく桜の木が並び、太い根元のねじれが年期を感じさせる。
保田はその大きな鉄の門の前に車を止めた。ここに入ってから車の中はずっと無言だった。
富士山の時とは違う、二人とも何かに飲み込まれるような奇妙な感覚に包まれていた。
本当に一度入ってしまったら、二度と帰って来れないような印象を与える頑丈な門扉が
黒グロと光っている。
あの子の言っていたことは嘘でもないわね、これじゃぁ誰も寄り付けないよ。
外の空気は太陽が沈んだせいで急に冷え込み、嫌な気配を連れて足元からぞくぞくと
這い上がってくる。
その感触と立派な門扉越しに見える古い洋館の姿が、保田の体と心を震わせた。
「子供の消える家か…」
この立派な家の裏側に今、自分達が手を触れようとしている実感が湧いてこない。
保田はかじかむ指先に白い息を吹きかけた。
- 74 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月07日(金)03時25分46秒
- どこまでも続く白い壁も高いものでそこに表札が付いているのだが、どこを見渡しても
インターホンが見当たらない。他に目につくものとしたら大きな防犯カメラくらいだった。
「ちょっと、どうやって入るのよーねぇ、ごっちん…あれ?あっ!あんた何してんの!」
「ふぇ?何って誰か呼んでこようと思って…」
後藤は星座らしき絵が刻まれた門扉を、まるでアスレチックで遊んでいるかのように
スタスタと登っていた。細かな隙間に足を置いていく後藤の姿に、ギシギシと音をたてる門に
保田は今日、何度目かの冷や汗をかいた。
「あっ、ああんた。早く下りなさいよ!壊れたらどうすんのー、
これ絶対高いアンティークものよ!」
「えっ、ヤバイ?」
「やばいわよ。大ヤバ!早く下りなさいって!」
「ちょっと、分かった分かったから、圭ちゃん足引っぱんないでよー。降りれないよ…」
後藤は物凄い形相で足を掴む保田の顔を見て、少し悪いと思いながらも軽く振り払いってから
飛び下りる。保田は尻餅をついた状態で、ポンポンと手を払っている後藤を叱るタイミングを
測っていた。
「あー鉄臭くなっちゃった」
「ちょっと、あんた…」
- 75 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月07日(金)03時28分20秒
ウォン!!
自分の言葉を遮る声に「何なのよ!」と今までの怒りをぶつけるように保田は後ろを睨む。
保田を見下ろすように、黒い顔に鋭いキバを光らせた犬が呼吸を荒げていた。
「うぎゃー!」
「わー、わんこだぁー」
青黒い冊の向こう、隔たりがなければすぐにでも噛み付いてきそうな顔つきの
ドーベルマンが二匹、吠え続けている。
冊の向こうか…噛まれるかと思ったわ。
「ごっちん、これわんこなんて可愛いもんじゃないわよ」
「えー可愛いよ」
まだ静まらない鼓動を聞かれないように保田は平然と立ち上がり、コートに付いた
土埃をはらった。
急に、犬達が吠えるのをやめ家の方へと駆けていく。そして、玄関から出て来た女性に
我先にと甘えるような声を出し飛びついていた。
あんな可愛い声もだすのね…
「ね、可愛いでしょ?」
「あ…」
- 76 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月07日(金)03時31分29秒
後藤に一本取られたまま、保田は薄暗い照明の中こちらに向かって来る姿に目を細める。
その女性は、さっきまでの勢いを失いしっぽを振っている犬を連れ、保田と後藤の姿を
確かめるとにっこりと微笑んだ。
とても優しい目をしている人だなぁ。保田は初対面ではめずらしく好印象を持った。
「申し訳ありません、この犬は番犬でして。保田圭さんですね?お待ちしておりました。
今すぐに開けますので」
「あっ、はい。すみません…」
ピッという電子音の後、ゴォーと重厚な音が響きゆっくりと門が動き出す。
保田はその開けていく鉄の固まりを、何も考えずにただ眺めていた。
「ほら、圭ちゃん行こう」
後藤は保田を追いこして躊躇いもなくその空間に足を踏み入れる。
保田はその姿がどんどん進んでいくのを見て、慌ててレールをまたいだ。
- 77 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月07日(金)03時37分48秒
「あのー、車はどうすれば?」
「え?」
女性の目が、保田の背後に止めてある車へと向けられる。
保田は分かっていても少し惨めな気分になった。
鳩のフンくらい掃除しておけば良かったわ。と意味もなく気持ちを紛らわせる。
しかし、その女性は保田が想像していたどの反応に当てはまらない物腰で答えた。
「あのままで大丈夫ですよ。ここは私道ですし、誰の邪魔にもなりませんから。
さぁ行きましょう」
「はい…」
ほんと、感じいいお手伝いさんね。保田は女性の後ろ姿を追うように歩き出した。
- 78 名前:2.1PC 投稿日:2003年02月07日(金)03時39分01秒
野球の試合が出来るほど広い庭は、綺麗に刈り込まれた芝生がびっしりと生えている
のが薄暗がりの中でもわかった。土の香りも鼻につく。
真ん中にはそれを分断するように、石畳の道が玄関までまっすぐ伸びライトによって
浮かび上がっている。意外なことに照明はそこに設置されている足下からの明かり
だけらしく、正面の家以外は暗闇に溶け混んでしまっていた。
女性と後藤の脇についている犬がちらちらと後ろを見る度に、保田の足は止まりかけ
後藤達の後ろ姿は確実に小さくなっていく。
ここは…子供じゃなくても恐いわよ。
ガシャンと再び閉じる音を耳にして、保田は思わず後ろを振り返る。
門の向こうには彼女の愛車が、街灯に照らされ寂しそうに息をひそめていた。
- 79 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時46分28秒
- 55>>78 更新しました。
>>54 どもども、お待たせしました。
目を通していただき、ありがとうございます。
これからは週一程度の更新になりますが、今後ともよろしくお願いします。
- 80 名前:BX-1 投稿日:2003年02月07日(金)03時50分16秒
- >>55-78 更新だべさ(●´ー`●)
- 81 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月15日(土)01時27分56秒
- 更新待ってます。
保田&後藤コンビいいですね〜。ボケと突っ込みが分かり易くて(w
- 82 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時24分43秒
家の中に通されてからは、保田も後藤と同じように口が開きっぱなしだった。
そしてそこからはため息と感嘆だけが、途切れることなく漏れる。
門に負けじと馬鹿でかい彫刻の入った木の扉を開けると、そこは玄関と呼ぶには
広すぎる空間が広がっていた。少なくとも保田はそこだけで住めると思った。
天井は吹き抜けになっていて、白を基調とした壁が頭上高く屋根まで伸びている。
外からは4階建てくらいの家に見えるが、内部は高い天井を持つ2階建てになっていた。
玄関ホールは丸い造りで、白と灰色のタイルが滑りそうなほどピカピカと輝き、入って
正面にある階段は一階分上がった踊り場で左右に別れ、インパラの角のような形で2階へ
と続いている。その手すり一つ一つにも他と同じように、波状曲線を強調した有機的な
形象と細かな装飾が施されていた。
- 83 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時26分46秒
- 真正面にそびえる階段以外には一階の両側に一つずつ大きな扉があるだけだったが、それ
でも装飾品に埋め尽くされた玄関ホールは、シンプルとはいい難い造りになっていた。
2つの扉の上部のアーチ部分には、明度の低く薄い、どちらかといえば色あせたような
タイル画が埋込まれていて、そこにもくねくねとした植物が描かれている。
まるでヨーロッパに観光に来て、建物を見上げているような感じだった。
使われている柱や壁、全てから独特の味が滲み出ていた。
なんとも圧巻だったのが階段の踊り場から天井までを覆い尽くす大きなステンドガラス。
他の装飾品への関心も薄れてしまうほどだった。
「うっわぁー、きれー」
保田はその大きな円窓に目を奪われれいた。複雑で緻密な幾何学模様を持ち、
青と赤をベースとした極彩色で仕切られたその円窓は、美しい姿の中にも、
目にした者を離さない力を秘めている。
保田は、つばの飲み込み方も忘れそれを見上げていた。
- 84 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時28分22秒
「あれはバラ窓って言って、真ん中のキリストを中心として完璧なシンメトリー
になっているんですよ。それが永遠と無窮を表しているとも言われてます」
「へぇー」
気の抜けたような声しか出せない保田に、お手伝いさんは構わず説明を続ける。
「フランスのサンス大聖堂のガラスが有名ですよね。あのトレ−サリ−模様に
魅せられてこれを作らせたんです。大きさは全然小さいですが」
「はーサンスの…」
ちっ、まだそこまでいってないわ。例文にも出てこないし、有名なのかしら?
保田は最近勉強していたフランス語の本を思い出していた。
ジュマペールとかサバとかまだそこら辺のレベルで飽きてしまった保田には
何のイメージも湧いてこない。
「それに、この建物はゴッシック建築ではなくてアールヌーヴォーなんですけどね。
これだけは付けたかったらしくて、そこの壁を開けてはめ込んだんですよ」
「ほー、こだわりですね」
- 85 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時29分04秒
- ゴッシックって書体のことじゃなかったっけ?てことはアールなんとかっていうのは
明朝体??ハネとかトメがあるってことかな…
保田はぐるりと室内を見回す。至る所に曲線を描いた模様が目に入った。
ここまでくると、なんか笑いがこみ上げてくるわね。
お手伝いさんによると、ヨーロッパから建物を持ってきてこちらで立て直した
ということだった。ここの先代がわざわざ現地までいって捜して来たのだ。
いったい、いくらかかったんだろう?
こういうのって、建物より運搬料の方が何十倍もかかるのよ。
保田は右側にあるその先代の肖像画を見て、何か語りかけたい衝動に駆られる。
後藤がその肖像画を見て「眉毛すっごいですねぇー」と失礼な事をいっていた
のにも気付かなかったぐらいだ。
あれ?この絵、少し曲がってるわね…
完璧な家の欠陥を、人間らしい部分を見つけ、保田は笑みを浮かべる。
その視線に気付いたのか、お手伝いさんがさり気なくその肖像画を水平に直していた。
- 86 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時30分04秒
「見てー圭ちゃん!なんかすごいよー」
左手の扉を開け、応接間に通されてからも感嘆が勢いを失うことはなかった。
後藤は壁一面がすべてガラス張りになっている窓に張り付き、保田を手招きする。
そこからは緑の中にいくつか花が咲いているのが見えた。
保田は庭の様子を気にする前に、少し離れた位置からその変わった窓の造りを眺める。
下から天井までをガラスと鉄で仕切ってあって、窓というよりは出っ張ったバルコニー
をガラスで包んだような造りになっていた。
「これもゴシックとかいうのですか?」
保田はそれを見つめ腕を組んだまま、後から入ってきたお手伝いさんに尋ねた。
「いえ、これもまた別の建物から持ってきてはめ込んだんですよ。ボウ・ウィンドー
といって、19世紀末にパリ冬の庭園と呼ばれている温室を真似て造られたんです。
アパルトメントではそんな立派な物は付けられないですから、こういう出窓で贅沢を
味っていたんでしょうね」
「ほー。出窓ですか…」
アパルトメントって、アパートのことよね…
後藤は二人の会話も耳に入らないくらい中庭の景色に見入っていた。
- 87 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時30分39秒
「お庭も綺麗ですねー」
保田は苦手な分野から逃れるように後藤の隣に立ち、中庭を見渡す。
夜という認識を忘れてしまうほど量の明かりが溢れ、室内にも透明のガラスを
通し十分に入ってきていたが、部屋の電気はそれを気にすることなく付いていた。
今、電気の節電で大変なのになぁ。これじゃ、外でも本が読めるよ。
保田は後ろを振り返る。反対側にある窓の向こうには真っ暗な夜が顔を覗かせていた。
その下にぽつぽつと続く光の道の先に、小さくなった門扉の影がなんとか見えた。
そういえば、私カギ閉めてきたっけ…
「ここは、コの字型になっているんですよ。正確にはコを反転させた形ですけど…
元々は2つの建物なんです。こことあちらの建物は」
説明を始めたお手伝いさんは、中庭の左側にある渡り廊下のような部分に手を向ける。
「それをそこの一階部分と繋いで行き来できるようにしたんです」
言われて見れば、庭の向こうにある建物と今自分達のいる建物を繋いでいる廊下の壁色は
微妙に違っているのが分かった。
- 88 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時31分13秒
- 「ということは、あちらの建物への入り口はこことあそこのドアだけですか?」
保田はすぐ横にある廊下へと繋がる扉と、中庭の明かりに照らされた向こうの建物の
玄関部分を指差す。その扉も大きくて、この建物の玄関の扉と似たような形をしてい
た。外壁には草や人のレリーフが手を抜くことなくぎっしり付いている。
こっちのにも、あんな彫刻がいっぱい付いてたのかしら?暗くて見えなかったなぁ
「いえ、あちらの玄関は閉めっぱなしですよ。向こうは寝室だけなので、
外に出る必要もないですから」
「そうですか、この渡り廊下だけか…じゃぁ中庭に出るには、ぐるっと回ってこないと
行けないんですね…大変だなー」
「いえいえ、向こうのキッチンから中庭に出れるドアがあるので、大変ではないですよ」
「あっ、そうですか…ですよね。そんな面倒な造りにはしないか」
てことは、あっちがキッチンなのかな…
お手伝いさんが今入ってきた扉を指差したのを見て、保田は玄関ホール右手にあった
扉と少し曲がった肖像画を思い出していた。
で、トイレはどこなんだろ?なんかこういう所のって借り難いのよね。
- 89 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時32分21秒
- 「何か気になることでもございましたか?」
「あートイ…いやいや、あのーこの窓もはめ殺しだから、材料取りに行く時どうするん
だろーって思て。あれって、ハーブとか香草ですよね?」
保田が庭からお手伝いさんの方を向くと、彼女はぽかんとした顔で保田を見つめていた。
「あの、私の顔になんか付いてますか?」
「プッ…」
「何よ?ごっちんには聞いてないわよ」
「ん?私も圭ちゃんに答えたつもりはないんだけど。自意識過剰っていうんだよ?
そういうの」
「あんた、今日という今日はきっちり…」
「あのー、ごめんなさい。私がすぐに答えないばっかりに…」
「え?いや、あなたが謝らなくても…悪いのはこのくそガキの減らず口ですから」
保田は後藤の柔らかなほっぺたをぎゅうっとつねった。
「いったいなぁー、水弾かなくなったからって、後藤のに嫉妬されても困るしー
だから、いたいって言ってるじゃん。離してよ…おばちゃん耳まで悪いーたたたっ!…」
「ね?この口が悪いんですよ」
「みたいですね。ふふっ」
お手伝いさんの笑顔を見て、保田は後藤から手を離し頬を緩めた。
後藤は頬を擦りながらぶつぶつ聞こえない程度の文句を呟いている。
- 90 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時33分22秒
- 「あれはハーブじゃなかったですか?」
「いえ、そうですよ。誰もそんなこと気になさらないので、さすがだなーと思ってたんです。
凄いですね。お仕事柄そういう小さなことにも引っ掛かるんですか?」
「いやーちょっと気になったものですから、前に私も栽培してたんですよ。それに単に家の
間取りとか見るのが好きなだけだったりしますしね」
「そうですか…あっ、今あるのはミントとセージとタイム、それにローズマリーと…」
「いろんなのを栽培してるんですね。私はすぐに枯らしちゃったんですよ」
「あれは何ですかねぇ?」
出窓に顔をひっつけ、口元を白く曇らせながら中庭を食い入るように何かを見つめていた
後藤がコツンと指をガラスに付ける。頬はまだ少し赤かった。
お手伝いさんと一緒になって保田もガラスへと顔を近付けた。
「ん?どれよ、ごっちん。あーあれは福寿草よ。もう咲いてるのね」
「ちがうよー。花じゃなくてあっち、あっち」
後藤はガラスから指を離しコンコンと音をたてる。後藤が見ているのは庭ではなく、
光が途切れた、ちょうどコの字型の切れ目部分にあたる所だった。
- 91 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時33分59秒
- 「暗くて、わかんないわね…」
「あそこに丸い屋根見えない?なんか小屋みたいのがあるよー」
「あっ、あれですか。あれも移築したものです。物置きにする予定だったんですけど、
閉めている鍵をなくしてしまってから、そのままで、全然使ってないんですよ」
その建物に気付いたお手伝いさんが、丁寧に後藤に答えた。
「なんだ、物置きかー」
「ごっちん間借でもする気だった?」
「うーん、圭ちゃんが家賃払ってくれるならいいけど」
「何言ってんのよ。それなら私が住むわよ」
「えー!圭ちゃんには似合わないよ」
「そんなことないわ…」
「そんなことあるよ」
「ないわよ!」
「あるある」
「ない!」
―――
――
―
「あのー、コーヒー入ったので、どうぞ」
二人のやりとりに、か細い声が割り込みずらそうに入ってくる。
さっきまで横にいたお手伝いさんが御盆を抱え、ソファの近くに立っていた。
あれ?…いつの間に。仕事早いわね。
- 92 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時34分56秒
「どうも、すみません」
「お座りになっていて下さい。今、主人を呼んで来ますので」
お手伝いさんは御盆を持ったまま、渡り廊下へと繋がる扉から出ていった。
げっ、主人てことは…あの人奥さんだったんだ。お手伝いさんだと思ってたわ。
保田はここに来るまで失礼はなかったかと、自分の言動を思い返す。
しかし、出てくるのは後藤の失礼な態度ばかりだったので、諦めて
今しがたそこの扉から出て行った奥さんの後ろ姿を思い浮かべてみる。
手に大粒の宝石をしているわけでもなく、服もそれといって高級なものではなかった。
白のブラウスに無地のカーデイガンを羽織って花柄の長めのスカートをはいていたし、
その上には白いよくメイドさんがするような白いエプロンまでしていた。
髪型は肩にかかるくらいのセミロングで前髪も眉毛のあたりで綺麗に揃っていたが、
印象には残り難いがけっこうな美人さんだった。まだ二十代かな…それに指輪してたっけ?
- 93 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時36分29秒
保田は、少し固めの花らしき模様の入った高価そうなソファに腰を下ろし、
湯気のたつコーヒーに口を付けた。
あー、コーヒーまで上手いわ…この器もバカラだし。しっかり持ってないと。
保田は仕事柄、その家の靴からアクセサリー、服まで、形や色も含めて覚えるように
していたが、あまりの膨大な情報量と自分の知らぬ世界を前にして、とっくにそれを
放棄していた。
それにしても凄い家だわ。センスは別としても。
金のあるとこにはあるのねぇ…
保田はソファーの背に上体を預け、正面に見える中庭から天井へと視線を移す。
区分けされた一枚一枚にも似たような植物の平面的な図柄が描かれていた。
そのまま首を左へと向ける。ここの主人が座るであろう大きな椅子の向こう、
パチパチと音を鳴らす暖炉の脇に、賞状やらトロフィーやらがぎっしりと
並べられている棚が目に入った。
ほとんどが英語などの外国語で書かれているもので、どういうものかは分からない。
私が貰った賞状といえば…小学生の頃の皆勤賞くらいだったかな?
保田は、誰に見せることもない賞状を手にした時の喜びを思い出していた。
- 94 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時38分19秒
- そんな喜びをここの主人は何度も味わっているのか、と保田は思いつつも
他にも飾られたガラスや骨董品を見て、あまり惨めな気持ちにはならなかった。
「ちょっとごっちん、大人しく座っててよ」
部屋の大体の品定めが終わると、出窓と渡り廊下の扉の間にある四角い小さな
テーブルの前で、落ち着きなく置き物を物色している後藤が目についた。
「ん〜、圭ちゃんこれ可愛くない?クリスタルだよ、このペンギン…あっ」
後藤の手の平の上を滑るペンギンと保田は目が合う。
ペンギンはたすけて…と目を潤ませながらスローモーションで床へと引き寄せられていった。
「あ゛ーー!!」
「うぉっ…」
後藤は表情を変えることなく虫を捕まえるように両手でそれを掴んだ。
「…と、あぶなー」
へへっと笑っているその姿を見て、保田は子供を連れてガラスを買いに行く
主婦の気持ちがわかったような気がした。
「…だから、言ってんでしょ!ここに座ってなさいって!」
半分あげた腰をもう一度下ろして、空いている自分の隣を怒りも込めてバシバシと叩いた。
青ざめる景色を見て、高価なソファだということはすっかり忘れていたようだ。
- 95 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時39分29秒
- 「はーい…」
対して悪いとも思っていない後藤は肩をすくめてから、どしんとソファーに身を投げる。
横からの保田の視線が更にきつさを増したような気がした。
ガチャッ
奥さんが出て行った扉が大きな音をたてて開いた。
ここの主人らしき男が赤いスーツに身を包み入ってくる。
保田はこういう家に住んでいる男のイメージを作りあげていが
その派手な服装を見てそれが間違いだということに気付いた。
全然若いし、髪の毛金髪だ。う〜ん、でもどっかで見た顔なんだけど…
「遠いところわざわざすみません。電話した寺田です」
「いえ、こちらこそ遅くなりまして。保田探偵事務所の保田圭です」
握手した手はひんやりと冷たかった。
「よろしく。で、そちらは?」
隣で椅子に腰を下ろしたまま足をぶらぶらさせている後藤に、寺田は怪訝そうな顔を向ける。
もう、初対面でなんて格好してるのよ…
- 96 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時42分09秒
- 保田は姿勢を正すように後藤を軽く叩いた。
「助手のごとーでしゅ…」
「ほー、若い助手さんですね。」
寺田はだるそうに立ち上がり軽く頭を下げる後藤を見て驚いた顔をしている。
バカッ、飴なめたまま喋るんじゃないわよ。保田はまだ口を膨らませている
後藤の方を向き「あ・め」と口を動かしながら自分の頬を指差した。
「あー忘れてた」
ボリボリッ…ゴクン
後藤はしらじらしく音をたてて飴を咬み砕き、それを飲み込んだ。
「「……」」
こいつわざとやってるだろ…
しかし、そんな後藤の態度を一掃するように寺田は笑い出した。
「いやいやおもろいなー、後藤さん。年は?」
その絡み付くような視線を嫌った後藤がそっぽを向くのを、保田はハラハラしながら
見つめていた。
「17です」
そう答える後藤の声は低く、注意していなければ聞き逃してしまうものだった。
こいつも嫌いなのね、と保田は口元がにやけそうになるのを必死に押さえる。
- 97 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時43分11秒
- 生活の中で自分の好き嫌いが誰かと似ていると、その相手に妙に親密感を持ち好感を抱く
のはよくあることだ。自分の直感が間違えじゃないという安心感があるのかもしれない。
だからといって、保田がそんな寂しい空洞を満たす感触だけで喜んでいるわけではない。
保田は、後藤の人を見る目は抜群だと思っている。
それもその人の性格なとではなく、ただ単に好きか嫌いかという本能的な部分でのことだが、
過去の依頼の中でも、その単純な感性に助けられたことが何度かあった。
だから、今回もこういう相手の反応を予想しながらも連れて来ていた。
ただ後藤は人見知りを極めていて、この世の中を平然とした顔で歩いている人―
つまり大抵の人とはそりが会わず、面とむかって話をすることはないし、
感情をぶつけて言い争うこともない。
相手にとっては分かりにくい取っ付き難い人間の典型だった。
仕事に関係なくどんな相手にもある程度距離をつくり、目には見えない境界線を
引いてしまう。
それは保田にも言えることだが、後藤のそれは保田を遥かに上回っていた。
- 98 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時44分09秒
- 印象でも帰りに聞いてみよう、ボロボロだろうな。
保田はまだ後藤に話しかけたそうな寺田の顔を眺める。
眉毛は一昔前の細さのままで、浅黒い肌はごつごつした頬骨にはり付いている。
なんの仕事しているのかしら、少しメイクしてるのかな…猿顔だけど。
「えらい大人っぽいなー、後藤さんは」
「あー、よく言われます」
憮然とした答え方をフォローするように、保田は観察をやめて声を出した。
「あの、この子はアルバイトみたいなもんで雑用やらせてるだけですから…
仕事は私一人でやらせていただきますので」
「あぁ、別にそういうことやない、若くても仕事ができたらええんやから。
俺みたいにね、ははっ」
「はぁーすみません」
「……」
後藤は寺田の視線を無視するかのように、室内の装飾品にだけ目を向けていた。
そういえば訛ってるわね、この人。関西人なのかしら…それともただの関西弁好き?
- 99 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時46分06秒
- 御盆を手にした奥さんが入ってきた扉の音を合図に、三人そろってソファーに腰を
下ろす。大きな椅子に座った寺田の前に、香ばしい蒸気をあげるカップを置いてから
奥さんは流れるような動きで音もたてずに、保田の向かいのソファーに座った。
寺田の表情が変わったのを見て、保田は短くせき払いをしてから口を開く。
コーヒーの香りだけが、しんとした空間を変わることなくのんびりと漂っていた。
「ところで誘拐ということですが、何故警察に届けないんですか?
これは立派な刑事事件ですよ」
保田は寺田の後ろに潜む闇に気付きながらも疑問を投げかけてみる。
寺田は体を前に傾け、机の一点を見つめ手を組み合わせた。
「税金だってたっぷり払ってるからね。それが出来てたらすぐにしてるんやけど…
いろいろ事情があるんや、わかるやろ?それやから保田さんに頼んでるんや」
「ええ、まー」
「それに、もう金渡しとるんや」
「え!犯人にですか?」
「あぁ、そうや…」
- 100 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時47分04秒
- 寺田は「アレを」と奥さんに一言だけ声をかける。
奥さんもそれだけですぐに分かったようで、トロフィーの棚の引き出しの一つから
箱を取り出す。それを受け取った寺田が蓋をあけ、中から紙を保田に差し出した。
「これが脅迫状や。この後、電話がかかってきて金を渡しに行ったんや」
「お宅の…むすめは…あずかった…」
保田はその脅迫状を、はやる気持ちを押さえゆっくり読み上げる。
真っ白い紙に切り取られた新聞の文字が雑に貼られた脅迫状だった。
「警察に…連絡すれば…むすめを…殺…す…か。ありきたりですね。
あっ、これ私が手で触っちゃったらまずくないですか?」
「ええんや。警察に連絡するつもりはないからね…私達も触ってるし」
保田の向かいで奥さんも小さく首を縦に動かす。
案内された時の微笑みも消え神妙な面持ちになっていた。
「ふっるー」
「ん?何か言った後藤?」
- 101 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時48分08秒
- 隣で退屈そうな表情をしていた後藤が、保田の手元を覗き込む。
「あのね、古いって言ったの。なんか古くない?これ」
「え、脅迫状が?これまだ新しいわよ。張ってある新聞だって黄ばんでないし」
「あーちがくて、あれあれ…。あのーなんつーかさ、ダサイってこと」
「は?ダサイ?」
「そうそう、なんかねぇ…時代遅れじゃない?こーいうさ、切り抜きの脅迫状って」
「あー、そういう意味か。こういうのにも流行りすたりなんてあるのかしら?」
保田は紙を少し離して見る。二人を静観していた寺田が笑い声を上げる。
「ははは、やっぱおもろいなぁ。後藤さんは、どういうのが今流行りだと?」
「え?」
横から口を挟まれて後藤は一瞬止まるものの、視線を紙に合わせたまま答えた。
「そうですねぇ、あのー流行りというか、今どき切り張りした脅迫状ってなんか
古いなーと思って。手書きだったら、定規とかで線を引いたやつの方が旬じゃ
ないですかねぇ」
「ほー旬か。何年か前に神戸で少年が起こしたやつだね」
- 102 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時49分35秒
- 寺田は後藤から飛び出す変な言葉を拾い、満足そうに頷く。
後藤は相変わらず仏頂面だった。
「あの事件の衝撃は凄かったもんね、そういうのに敏感な年頃の子達への
影響力は確かに大きいわね…その後似た事件も起きてたし」
「だからさー、圭ちゃん。犯人は年配じゃないかと後藤は思うわけよ。
年は20代後半から40くらいかな?」
「んー。でも2、3年前に学校に雑誌とかの切り抜きの脅迫状送りつけた高校生も
いたからね。一概には言えないけど…上限が40なのはどうしてよ?」
「あのねー、これとかそれとか…新聞の切り抜きの文字が小さいの多いでしょ?
見出しとかでっかいのと半々くらいだから、そのー年寄りだと読めないからさー」
「あぁ、老眼だと小さい字は避けるってことね。うんうん、それはいい線いってるわ」
「いやー鋭いなお二人さん。ええ勉強になるわ」
組んだ手を無意識に動かしながら、寺田はニコニコとした表情を崩さず二人を見た。
- 103 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時50分38秒
- 「あっ、すみません。話がズレてしまって」
「ええんや、本物の推理を目の前で見れる機会なんてめったにないやろから。なぁ?」
寺田が奥さんに話かける。突然自分に振られた話に驚いたのか慌てて何度も頷いていた。
「こいつ、推理小説とか好きなんや」
「そうなんですか、でもそんな大したものではないですよ。可能性の一つですから」
保田は机にその脅迫状をそっと置いた。
「えっと、それで…何度も聞くようですが、なぜ警察に連絡しないんですか?私達も途中で
警察に介入されて逮捕されたくないですからね、その辺の理由をお伺いしないと」
「そうだ」
寺田は保田の話を切るように胸元からカードケースを取り出し、名刺を保田に手渡す。
寺田貿易株式会社、取締役…寺田光男。うわぁー大企業の役員じゃん。
でもこんな容姿でいいの?最近の会社は。寺田だから、ぼんぼんなのかなぁ
- 104 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時51分28秒
「おれの名刺や。肩書きだけやけどね。実際は裏の方の仕事ばかりやから…」
そう言ってひっくり返された名刺には『HPプロジェクトCEO 寺田光男(つんく)』
と書かれていた。つんくって…
「あ!寺田さんて、あのつんくさんですか?」
「そうや。最近はよくテレビに出てるからね」
「ええ、見てますよ。はじめてのプッチメイクでしたっけ?ワイドショーで
子供さんのメイクやられてますよね」
「そうそう、あれに出るようになってからよう声かけられるようになってね。
おれも人気もんや」
そっかだから見たことあるんだ…あれって社長自ら出てたのね。
「そういえば、つい先日もテレビに出てましたよね?」
「あぁ、ファッションブランドのオープニングイベントのことだね。
あれは大変やったなぁー、マスコミ集めるために話題の芸能人呼んだんや。
まー広告料考えたら安いもんやけど。インパクトが大事やから、こうガツンと…」
寺田は手ぶりを加えながら話す。
「叶姉妹も招待したかったんやけど、子供おらへんし、あの二人じゃ着れへんしね」
「それなら…」
「何や?」
喋り終えた寺田は湯気の消えたカップを手にしていた。
「いえ、なんでも…」
- 105 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時53分31秒
「公開捜査とかした方が宣伝効果としてはええってことかな?
保田さんはええ戦略家になるやろうね」
「そういうつもりじゃ…」
保田がうっかり漏らしてしまった言葉は、全部聞かなくてもニュアンスだけは
寺田に伝わってしまっていた。
怒らせちゃったかな?保田は気まずい想いを抱えたまま、ちらりと奥さんを伺う。
両手を膝の上に置いたまま寺田のカップの動きを、思いつめた表情でじっと見つめていた。
あっ、奥さん指輪してるじゃん、見逃してたのかな。
保田はそんな中でも意識を鈍らせることはなかった。
「そうやね。うちの服着た娘の写真を、毎回ええ時間に流してくれるんやからね。
しかも同情付きで」
寺田は口も付けずにカップをソーサに戻す。手の震えがカチャカチャと音をたてた。
急に緊張感に包まれた部屋で、保田達はようやく誘拐という現実と向き合っていた。
「いくらなんでも、そこまで落ちぶれてへん。おれの娘なんや、会社なんか関係ない」
「すみません…」
- 106 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時54分55秒
- 「いやいや。保田さんを責めとる訳では…」
「え?」
「そういう道を思い浮かべてしもた自分に対してなんや…」
奥歯に力が入り疲れ切った顔で、寺田は机に置かれた紙を見つめる。
「最悪なんは俺や」
何かを吹っ切るように座り直した寺田は、初めに会った時の人当たりのいい表情に
戻っていた。
「で、話を戻すけれど、警察とはあまり関わりたくないんや。おれは昔から警察官が
嫌いなんや。小さい頃、なあんもしてへんのに凄い怒られたことがあってね…
ほんでトラウマになって…大したことないと思うかもしれへんけど、あの制服が
苦手なんや。それに…」
「犯人に心当たりがある。とかですか?」
「ははっ、さすがやね。保田さんは」
- 107 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時56分17秒
- 電話の時の落ち着いた態度といい、今日のこのゆっくりとした話し方といい、
とても娘が誘拐された親には見えなかった。子供に愛情がないわけでもない。
とすれば、残る答えは一つ。
娘にさしたる危険がないということを分かっているのだ。
犯人はこの男の闇の部分を知っている人物で、寺田が知っている人間だろう。
娘に危険のない…
「で、お金を渡しても娘さんは返ってこないんですよね?」
「そうなんや」
「犯人を知っているのなら、そいつを問いただせばいいんじゃないんですか?」
「私は大企業の会社の経営者や。親父が一代で築き上げた会社でね。逆恨みしとる連中が
たくはんいるっちうわけや。せやから…」
「心当たりがありすぎて、特定はできないと?」
「あぁ…」
- 108 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時57分27秒
「あのーすみません。犬の餌の時間なので、少し失礼してもいいですか?」
今まで黙っていた奥さんが申し訳無さそうに、口を開いた。
「おお、もうそないな時間か。ええで、あげてきー」
寺田が部屋の角にある時計に目をやりそう言うと、奥さんは保田達に頭を何度か
下げてから部屋を後にする。
あんな犬が腹減らしてたら危険よね。食事前には会いたくないわ…
扉の閉じる音を聞いて、保田は少し前屈みになって寺田と向き合った。
「さて、もう嘘は付かないで下さいよ。寺田さん」
寺田は一瞬ぎょっとした顔になって、保田を見つめた。保田は固い表情で寺田を
見つめ返す。
「うそ?」
「ええ、2つ嘘をつきましたよね」
- 109 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)09時58分39秒
- 保田は合わせた視線を反らすことなく、冷めた声を出した。冗談で言っているのでは
ないことが分かったのか、寺田の顔色が変わった。
「まずは、警察に行かないのは警察が…制服が嫌いということですが」
「そうや…」
「こういう事件の場合は、私服の警官と接することぐらい御存じですよね。
ひったくりや泥棒の捜査で駆け付けるわけでもないんですから。それに誘拐の
場合、何らかの別の格好で来ると思いますよ。馬鹿じゃないんですからサイレン
回しては来ないでしよう」
「……」
保田は寺田が言い返してこないのを見て、話を続ける。
「まぁ、警察嫌いなのは本当の事でしょうね。寺田さんくらいになると見られたくない物も
いっぱいあるでしょうし、それは話されなくてもいいです。知りたいのは犯人のことです」
「犯人?」
「そうです。教えて頂けますよね。娘さんに危害を加えない犯人を…
奥さんも居なくなったことですし。途中まで言った方がいいですか?
20代後半から30代前半の女性の犯人ですね?」
- 110 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月15日(土)10時00分08秒
- 保田はニヤっと笑って見せた。
こんだけの財産を作りだすには、多少後ろ暗いこともやっているはずだし、
お金があるだけに、余計なものにまで手を出してしまうのだろう。
寺田は首を横に振り、やれやれといった表情を作った。
「…ほんま適わんなぁ。なんでわかるんや?」
「寺田さん自ら教えてくれましたから…さっき後藤のことを鋭いと言いましたよね。
普通、そんな言葉は答えを知っている人からしか出てきませんからね。簡単なことです。
それに、寺田さんは年上の女性はあまり好まれないんじゃないかと勝手に思いまして…」
「はははっ、もう堪忍。何か追い詰められた犯人の気分やわ。保田さんの言う通りやね。
もう分かっとるみたいやけど…」
寺田はふぅとため息をついてから、掠れた声で話し出した。
「そうや。犯人はおれの愛人なんや」
- 111 名前:BX-1 投稿日:2003年02月15日(土)10時10分21秒
- >>82-110 更新しました。
堅苦しい屋敷の説明とかは流してしまって下さい。ウィーンにある建物を
ボンボンと2つ並べた感じをイメージしていただければ、きっと大丈夫。
>>81 名無し読者さん
この二人が勝手に動いてくれるおかげで、この章が長くなってたりするわけで、
ありがたいやら何やら…いいコンビです。(w
- 112 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月15日(土)10時18分18秒
- 初めてリアルタイムで見ました。
つんくの愛人とは誰か?
後、これから保後が小吉紺とどうつながっていくのか?
まだまだなぞが多く楽しみです。
- 113 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月16日(日)02時06分55秒
- おまえは渡辺篤史か!と、
保田さんにツッコミを入れたくなってきました。
- 114 名前:名無し 投稿日:2003年02月16日(日)16時16分49秒
- 後藤さんと保田さん喋りたい放題ですね(w
でもそれが見辛くないのはBX-1さんの力量を感じます。
年上の女性はあまり〜の部分には笑った。
- 115 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)04時55分47秒
「そういうことやから娘の命が危ないことはない。おれを困らせたいだけなんや」
寺田は淡々とした声で言った。
やっぱり…。保田は2、3日のうちに片付きそうな仕事に、さっきまでの意気込みを失いかける。
でも、こんな仕事で大金貰えるんだから、断る理由もないわね。
後藤はその告白を気に留める様子もなく、目の前の中庭を見つめていた。
「せやから警察にも連絡でけへん。こないな大事な時期にスキャンダルはまずいねん。
ようやっと立ち上げたっちうのに…子供ブランドやから、奥はん連中の評判が悪くなると
だめなんや。せっかくのレギュラー番組も出れへんようになって…マスコミ共もどっからか
嗅ぎ付けてくるやろうな。そうなると最悪の広告になってしまうわ…最悪の…」
自嘲ぎみに口を引きつらせた寺田は、ため息のように呟いた。
「…おれも最悪の親やな…」
暖炉の熱が保田の左頬を赤く染める。
外の寒さを忘れてしまうほど部屋の中は熱くなっていた。
- 116 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)04時59分29秒
- 「その女性についていくつかお聞きしたいんですが」
少し間を置いて、保田は声の調子を変えることなく尋ねた。寺田が奥歯を噛みしめたまま
軽く頷くのを見て、バックの脇ポケットから茶色い手帳を取り出した。
「その方のお名前は?」
「名前は、中澤…中澤裕子や」
「なかざ…わ…ゆーこ…」
復唱しながらペンを動かす。火照るほど暖まった保田の手は、白い紙に綺麗な字をのせていく。
「中澤のさわは難しい方のや、あとは裕福の裕に子供の子やね、ええか?」
「はい、中澤裕子さんですね。それでは、年齢とか簡単なプロフィールも…」
保田は手帳に視線を落としたまま尋ねた。まだ名前しか書かれていない白いページに
ペンの先から黒い染みがじわじわと広がっていった。
「30くらいかな…」
さんじゅうくらいっと…ん?くらい??
「えっ?くらいって」
保田は間抜けな声を出して顔を上げる。寺田はその反応を予測していたようで
小さく肩をすくめてみせた。
「恥すかしいことやけど、名前しか知らんのや。年さえ教えてくれなかったんよ…
せやけど、だいたい30くらいやったと思う」
- 117 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時02分05秒
「えっと、ということは…名前だけで他にはなにも?」
「ああ、ホステスやってたことしか…しかもその店も今は潰れとって、そこのオーナーも
檻ん中や、まー聞いたとこで何も知らんやろうな。まだ一月しか働いてなかったからね」
「では、住んでいるところも…」
「家はおれが買うてやったマンションに住んどったんや…事件が起きた後に行ってみたら、
もぬけの殻だったんやわ」
「そうですか…中澤さんが働かれてたお店の名前は?新宿ですか?」
「そうや、歌舞伎町のとこのクラブクイーンっていう店や。去年の暮れから働いとった」
横で言葉を濁しながらぼそぼそと話す寺田を、保田は値踏みするような目で見る。
知り合ってから一月でもう家をプレゼントか。住む世界が違うのね…
「中澤さんの、容姿の特徴を教えていただけませんか?」
「あぁ…、髪の色は金髪で肩より短い長さだったかな。目にはいつもカラコン付けとったな、
ブルーのを」
寺田はテーブルの角の一点を見つめている。中澤の姿を思い出しながら喋っているようだった。
綺麗な人だったのかな。まー、その方が捜しやすいんだけど。
- 118 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時04分38秒
- 「よう自分でメグライアンや言うとったなぁ、あんま似てへんけどね。あとは…なんやろ?
おれもよう知らんのや」
手帳のそのページは半分も埋まっていない。保田は軽くため息をついてからそれを眺めた。
<中澤裕子 30くらい 新宿歌舞伎町クラブクイーンのホステス 年末〜今年の一月末まで
(クラブは潰れ経営者は逮捕) 金髪、カラコン(ブルー) メグライアン似??(自称)>
「少し時間がかかるかもしれません。中澤さんの名前も本名かどうかわからないですし…」
「そうなんや」
「つかぬことをお伺いしますが、なにかケンカされたとか?」
「いやいや、全然そないなことない。いきなりで驚いたんやから」
「そうですか…」
保田は机の上に広げられたままのいびつな文章に目をやる。A4サイズのどこにでもある紙だ。
新聞の字を張っただけなのに、なんでこんなに気味が悪いんだろう。
藁人形みたいな無気味さがあるのよね。怨念っていうのかしら。
- 119 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時08分48秒
- 新聞から文字を一つずつ拾って張っていく人間の姿と金髪の女性が頭の中でなかなか結び
つかない。どちらかといえば、生活に疲れた、真っ黒な髪を後ろで一つに結った主婦とか
の方がそういう雰囲気にピタリとはまる。保田は無意識に首を傾けていた。
「あのーいつ中澤さんが犯人だとお気付きになられたんですか?電話の声とかで?あっ!
あとお金の受け渡し方法もお聞きしてなかったですね」
「そうやった。まず、この紙が送られてきてな、次の日の夜に電話があったんや。声は
変えてあったから男か女かはわからん。とにかく明日までに金を1000万用意しろとね」
「いっ1000万!?」
「そや、次の日やったから必死で書き集めてな。犯人に指定された人物に持たせたんや」
「それが、犯人が指定したのが中澤裕子さんだったんですね」
「あぁ。一応、秘書やいうことで犯人も気をつこうてくれてね。それがもう一つの脅し
やったんやろうけど。おれらは見送ることもできへんで、家でじっとしてたんや」
「では、中澤さん一人にお金を持たせたんですね?」
- 120 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時09分42秒
- 「そうなんや。いつまでたっても帰ってこないから心配してたんやわ。ほんで次の日に
マンションに行ってみると札束が一つおいてあってね、近くのメモに書いてあったんや…」
喋り続けて咽が乾いたのか、寺田は一度大きなせき払いをした。
「一月分の家賃です。ってな…きっついやろ?」
「帯びが同じ銀行のものだったんですね」
「そうや、すっかり騙されてしもうて」
寺田は湯気の消えたカップを手にする。生温くなったコーヒーを気にする様子もなく口をつけた。
「なぜお金を渡したのに、娘さんは返って来ないんでしょうか?」
「さぁ、まだ金をとるつもりなんかな。おれが慌ててんのをどっかで見て笑っとるのかも…」
寺田の動きにつられ、保田も柱時計に目をやる。
奥さんが出ていってから10分程たとうとしていた。
もう、戻ってくるかな。保田は手帳のページを一枚めくる。
う〜ん、偽名の可能性もあるしな。これはちょっとやっかいね…。
寺田と保田が二人して何かを考えだし黙り込むと、タイミングを見計らったように
奥さんが戻ってくる。
いやに大きく聞こえてくる扉の音に、保田は顔を上げることができなかった。
- 121 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時11分33秒
「それでお嬢さんが誘拐されたのはいつですか?正確な時間と場所は分かりますか?」
彼女が向かいの椅子に座るのを待ってから、保田は話し始める。
「いなくなったのは学校でや…な?」
「はい、そうです。ニ月六日に学校で…」
寺田の言葉にはきはきと答える奥さんと目が合う。保田の心がちくりと傷んだ。
「六日というと…木曜日、ちょうど一週間前ですね。誰か目撃者でもいたんですか?」
「いや、うちは家から学校まで車で送り迎えさせとるんや。その日はいつまでたっても学校から
出てこなくてね。大騒ぎになったんや…そしてその日のうちにこれがポストに入っとって」
寺田は机の上に開かれた脅迫状を顎で差した。
「それで…お金の要求の電話がかかってきたのは、いつですか?」
「えーと、誘拐された次の日や。それで土曜日に、八日に秘書に金を持たせたんやわ」
平然と答える寺田をよそに、秘書という言葉に保田は思わず奥さんに目を向けてしまう。
綺麗な姿勢で椅子に腰掛け、寺田の言葉に静かに頷いていた。
保田は気付かれないようすぐに手帳のカレンダーに目を落とした。
- 122 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時13分05秒
- 「ちょっと、整理していいですか?お嬢さんが姿を消したのが六日で、脅迫状が来たのも
その日すね…それで七日に電話が掛かってきて、電話は何時頃でしたか?」
「電話?」
「あーそれ私が受けたんです。確か…夜のお食事の支度をしていたので7時くらいだった
と思います」
言葉につまる寺田に変わり、奥さんが素早く答えた。
「夜の7時くらいですか。それから…八日にお金の受け渡しと、これの詳細はわからないん
ですよね?」
「そうなんや、昼の遊園地という指定があってね。あそこだよ、ほら…ディズニーシー
だったかな。凄い混んでたから、あっちう間に金を取られてしもたみたいでな」
「ディズニーシーですか…」
保田は奥さんから見えないように手帳に少し角度をつける。
ペンの先が紙に触れない程度離してから、ディズニーシーと空に文字を書いた。
「お金を渡してからもう四日もたってるんですね…
お嬢さんはどこの学校へ通われてるんですか?」
「横浜山手女学園や」
「あー、あそこですかー」
- 123 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時14分47秒
横浜本牧の閑静な住宅街にその学校はある。中高一環教育の名門女子高で、俗に言う
「お嬢さま学校」というところだ。小高い丘に入っていく道に、毎朝黒塗りの車の行列が
できるのでも有名だった。
あそこかー、朝と夕方に凄い渋滞するのよね。
保田も何度かその列に紛れ込んでしまったことがあった。
「でもあの学校は私立でとても警備が厳しいはずでは?身分証がない教師が入れなくて
授業ができないことがよくあると聞いたことありますし…」
「ははは、それはちょっと大げさやな、出入口には警備の人がおるから顔見りゃわかるよ。
ただ制服じゃなかったりパスのない人は追い返されるんや。金属チェックのゲートもあるし…
安全面は完璧やと思ってたんやけどなー」
「送り迎えの車はどこまで入っていけるんですか?」
「ちゃんと車寄せの入り口もあってね。大体の生徒はそこを使っとるから、そこがほとんど
正門扱いで、そこの前の駐車場で車は待つようになっとるんや。駐車場入り口の警備は厳
しいし専用のパスがないと運転手も入れんからね、ナンバーのチェックもされるんや…
乗り降りするとこにも警備員おるから、不思議なんよ。どこから連れ出したんか…」
- 124 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時16分31秒
- 「そうですか。でも歩いて帰られる生徒さんもいるんですよね?」
「せやけど、うちの子は歩いて帰るわけない。第一、電車の乗り方も知らんねん」
「え…」
それって切符も買えないってやつじゃない。
よし、見つけだしたら返す前に電車に乗せてあげよう。
会ったことのない令嬢に保田は変な使命感を持つ。
まずは切符の買い方から…あっ。
「肝心なこと忘れてました。お嬢さんの写真か何か拝見できますか?」
「せやせや、なんも話してなかったな」
脅迫状の入っていた箱から寺田は大事そうに白い封筒を取り出し、
一枚の写真を保田の前に置いた。
寺田と奥さんの間で、女の子が二匹の真っ黒な犬を抱き寄せ微笑んでいた。
「へーかわいいねー」
ずっと無関心に髪の毛をいじっていた後藤が久々に声を出した。
「ほんと可愛いわね」
保田もその少女の写真をじっと見つめる。
何なのよ、ちょっと揃い過ぎじゃない。不公平よまったく…
- 125 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時18分20秒
- 「この子が、おれの娘の愛。愛情の愛って書くんや。今16歳で一年生、
春から二年生になるんや」
寺田は二人の言葉で急に上機嫌になると、自慢げにその少女を指差した。
「愛さんですか、いい名前ですね。16歳で高校一年…
あれ?失礼ですが寺田さんておいくつでしたっけ?」
「おれは34や。愛は若い時の子供でね…」
「そうなんですか、もっとお若く見えましたから。いいですね若いお父さんで
…ご自慢でしょうね」
「いんや、そないな事ないわ…」
父親から固い表情に戻ってしまった寺田の顔を見て、保田はそれ以上聞くのをやめ写真を
手に取る。奥さんはつんくさんより若いから、きっと実の母親ではないんだろうなぁ。
そういえば、この子つんくさんにも似てないし…本当の母親はかなり美人さんだったのね。
「なるべく早う見つけてくれ。学校の方は今ちょうどテスト休みやからええねんけどね」
「ええ、わかってます。あと…これ預かってもいいですか?」
「あぁ、全部ええよ」
保田は指紋が付かないように写真の端を持ち、封筒にそっと戻すと
元から付いてた折り目通りに脅迫状をたたんだ。
あれ?2つ折り?…
- 126 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時21分05秒
- 「袋入れましょうか?」
動きの止まっている保田に奥さんが声をかける。保田は始め、何のことを言われているのか
分からずに奥さんをじっと見つめ返してしまった。
「あのーそれを入れる袋を…」
「あぁ、これですか。えっと…あ、この箱ごと持っていってもいいですかね?
これだと折れたりしないだろうし」
「ええ、どうぞ持っていって下さい。ただの空き箱ですから」
お菓子の名前の付いたアルミ箱に紙と写真を入れてから、保田は腰を上げた。
伸ばした膝が音を鳴らす。腿の裏は暖炉の熱で汗ばみ、静電気もあいなってスカートが
ピタリとくっついていた。
「あっ!あのー、最後にもう一つ質問があるんですけど」
「なんや?」
「なぜ私に仕事の依頼を?広告もなにも掲載していないですし、とても小さいとこなのに…」
「あー、噂や。ええ腕した探偵がおるっちう」
「噂ですか?」
- 127 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時22分30秒
- 「大手の法律守る探偵なんていらへんねん、警察に連絡して下さい―ちうのが落ちやからな。
そうや、報酬について言うてなかったわ。娘が助かればいくらでもええよ」
「え!?」
「何億とかは払えんけどね。警察に捕まる危険を犯してまでやってもらうんやから。
保田さんの言うだけ、それなりの額は払うよ」
「あ、ありがとうございます。いつもはこちらの言う額に難色を示す方が多いので驚いちゃっ
て。とりあえず調査費として、昨日振り込んでいただいたお金を使わせていただきます」
「おう、あれで足りるんかな?足りへんなったら言うてくれ。成功報酬は別やから」
「はい。それでは…寺田さんも何かありましたらすぐに連絡して下さい。
犯人のことでも何でも、気付かれたことがあれば」
「あぁ、よろしゅう頼むわ!」
立ち上がった寺田は、にっこりとした笑顔で保田の肩を叩く。
肩に触れた手は力強く、保田も表情を引き締めて大きく頷いた。
「そや」
- 128 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時23分53秒
- 渡り廊下へと続くドアに手をかけた寺田が、何かを思い出したようにこちらを振り向く。
しかし、その視線は保田ではなく後藤に向けられていた。
「門のとこにはセンサーが付いとってそれで分かるから、今度からは冊登らんといてな」
寺田は子供に諭すようにやわらかな笑みを浮かべる。怒っているわけではなさそうだ。
後藤は首を縦に何度か振る。口をぽかんと開け眠そうな目は赤く充血していた。
頷いてはいるが、反省の色は見えない。
「あと、今度うちの服をプレゼントするよ。そないな服より全然似合うと思うわ。
よかったら、あややと一緒にうちのモデルやってもろてもええかも…」
寺田は離れた位置から後藤を眺め「うんうん、ええな」と満足そうに頷いている。
まんざら冗談でもないようだ。
後藤が芸能人かーあり得ないけど、そうなったら探偵やめてマネージャーになろうかしら。
「ほな保田さん、よろしうお願いします」
そう言ってから寺田は左手をドアノブに置いたまま、すぐ側にある小さなテーブルの上に
右手を伸ばした。そこには色々な動物の置き物が並べられている。
- 129 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時25分39秒
- 寺田は、その中からさっき後藤が落としそうになったペンギンの置き物を持ち上げ、
くちばしの向きをくるっと変えて置くと、何ごともなかったように部屋を後にした。
「「……」」
げっ、見られてたの!?
背筋に嫌な感触が走った。すっかり目の覚めてしまった後藤と目が合う。
さすがの後藤も苦い表情を隠しきれていなかった。
なんだっけ?作者を監禁して自分の思い通りの話を書かせるやつ…あれも
置き物の角度で逃げようとした事が女にバレんのよね。それで足をバーンって…こわっ!
中庭の向こうの一階部分の明かりが一斉に付く。保田はその建物に吸い寄せられるように
窓へと近づいていった。
つんくさんの部屋は一階まるまるなの?すごいわね。てことは、上がお嬢さんの部屋か…
二階部分には黒い窓が静かに並んでいる。その上部で微笑む西洋人のレリーフが、みんな
自分を見ているような感じがして、保田は小さく身震いする。
暗闇の中、今度はドーム型の小屋をすぐに見つることができた。煌々と輝く庭からの光を
受けて、絡み付いた蔦がおぼろげな存在感をさらに強調していた。
なんかかわいそうだなぁ。保田はその小屋に同情するような視線を向けた。
「え゛っ!!」
- 130 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時27分06秒
- 「どうしたの?圭ちゃん」
突然異様な声を出し、手どころか鼻までガラスに付けて、保田は何かを凝視した状態で
固まっている。
何してるんだろう?…てか、すっごい顔になってるし、餌見つけた動物みたいだよ。
後藤は笑いを堪えながら保田に近づく、奥さんも不思議そうな顔をしていた。
「どうかなされましたか?」
奥さんの声でようやく振り向いた保田の顔は青ざめていた。
「圭ちゃん??」
保田は後藤をちらりと見てから、奥さんの方を向く。自分を落ち着かせようとしているが
声が微妙に揺れている。後藤の顔からも笑みが消えた。
「あのー、変なこと聞きますが…お子さんはお一人ですよね?愛さん一人…」
「ええ、一人っ子ですが…何か?」
意図のわからない質問に奥さんは顔をしかめる。
「いやいや、そのー気のせいかもしれないんですけど。今そこに…」
保田はガラス越しにドーム型の小屋を指差した。
「あそこから、人が…子供が出てきたのが見えて…」
- 131 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時28分49秒
- 「こども!?」
「暗いし、一瞬だったので見間違いかもしれないんですが…」
「うちは愛一人ですよ。それに番犬がいるので近くの子供達も恐がって近づきませんし…
家族の者以外には吠えますからね、見間違いではないですか?」
「そうですよね。あの犬がいるんだから…それにあの小屋は開かずの間ですもんね」
「ええっ、そうですよ。鍵を無くしてしまってから…」
「圭ちゃん幽霊でも見たんじゃないの?」
保田を小馬鹿にするように投げかけた後藤の言葉に、奥さんがビクっと反応したように見えた。
この人幽霊嫌いなのにこんな気味悪いとこ住んでんのかしら。
「幽霊だったら、ごっちん霊感強いんだから見えるんじゃないの?」
「え!?霊感強いんですか?」
「ええ、まーちょっと…」
「あの!ここで…この家に何かそういうの感じますか?」
「え…」
- 132 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時30分58秒
- 後藤は急に掴まれた自分の腕と奥さんの顔を交互に眺める。
とても脅えた表情で後藤を見つめていた。
なんだろいきなり…正直に答えればいいのかな。
保田が頷くのを見て、後藤はわざとらしくぐるっと部屋を見回した。
「う〜ん。何も感じないので大丈夫だと思いますよ」
「そっそうですか、あっ、すみません。つい…私幽霊苦手でして」
ほっと安心した顔に色がもどる。奥さんは今気が付いたように、慌てて手を離した。
「そうなんですか、私も苦手なんですよねー」
これ以上幽霊のことで奥さんを恐がらせるわけにも…でも、確かに何かを見たんだけどなぁ
保田は消化しきれない思いを抱えたまま、暗闇に目を細める。そこには静寂だけがあった。
思いをふっ切るようにくるっと反対向くと、保田は放り出された鞄と大事な箱を手にとる。
後藤はまだ窓にはり付いて外を睨んでいた。
「帰るよごっちん。忘れ物しないようにね」
「うーん…」
- 133 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時33分48秒
ゴォォーとうねりを上げて鉄の門が開く。車はその向こうでちゃんと待っていた。
ふぅー良かった、ちゃんと帰ってこれて。
肩の力が抜けて外へと足を一歩踏み出した時、下げていた保田の視線に信じられないものが
飛び込んできた。直系1メートルくらいの真っ黒な穴が口をぽっかり開けて待っていたのだ。
「ぎゃー!!」
保田は目を瞑り体を抱え込むように小さく曲げ、襲いかかるであろう力に耐えようとした。
「なにしてんの圭ちゃん?」
その声を聞いて目から力を抜くと、後藤がにやけながら保田を見下ろしていた。
「新しい遊び?それ。はやってるの?」
「あれ?あれあれ…」
保田は自分の足下を見る。真っ黒な穴はまだそこにあった。
「あー!もしかして、それ穴だと思ったとか?噂の黒い穴だっけ?」
- 134 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時35分38秒
- 膝に力の入らない保田は這ったまま右にずれ、その黒い穴を見つめる。
穴なんて開いていない、ただの円い影だった。
車の後ろにある街灯と側に立っているミラーが、保田が座り込んだ位置からは一直線に重なって
見える。月食のような位置関係だった。地球の影に保田は月のように迷いこんでいたのだ。
「あっ…」
「ミラーの影だよそれ。ふふふっ…さいこー!圭ちゃん面白すぎる。ふははは」
「あれは、この脇道から出てくる人が見えるように設置してるんですけど…どうしたんですか?」
事態を把握できていない奥さんが不思議そうな顔で尋ねる。
保田は寺田家の壁沿いに続く細い脇道に目をやった。行き止まりだと思っていたこの私道には
どうやら抜け道があったようだ。人が通れるくらいの小さな隙間が家をぐるりと取り囲んでいる
のだろう。整備されていないため雑草が風でさわさわと音をたてていた。
どうしよう…正直に、子供の消える穴だと思ったんです、エヘッ。なんて言えないしなぁ。
保田は「よいしょ」と自分に声をかけて立ち上がる。手の平に痕をつけるほど食い込んだ
アスファルトの粒を丁寧にはらい、奥さんに遅い答えを返した。
- 135 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時36分35秒
「気にしないで下さい。私、あれなんですよ。あれ…あの、穴が、そう穴が恐いんですよ。
なんていうんですか…その…穴恐怖症なんです」
「そうなんですか…」
「小さい頃に落とし穴に引っかかりましてね、それ以来恐いんです。穴が」
「大変なんですね」
奥さんの顔は信じきった様子で、保田のことを本気で心配していた。
しかし、それをぶち壊すように後藤が吹き出す。
「ぷははは、もうだめーははははっ…いでっ!」
「さっさと車乗んなさい!置いてくわよ」
保田は自分の持っているバックで後藤の頭を狙ってから、重たい鍵を取り出した。
そのジャラッという音をポケット越しに耳にしたのか、微笑んでいた奥さんの表情が
曇るのが分かった。そうだ、奥さんは愛人が犯人ってこと知らないんだ。
- 136 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時39分21秒
- 「お嬢さんは無事に見つけ出しますから…私に任せて下さい。大丈夫ですよ」
「ええ…」
保田はポケットの中で握りしめた鍵を放して、薄っぺらい紙に触れる。
「奥さんも何かありましたらお気軽に電話して下さいね。この事件についてじゃなくても
いいんで…」
「え?」
「それじゃ、もう遅いんで失礼します」
奥さんの耳元から離れ保田はそう言うと、軽くおじぎをしてポケットへとまた手を入れた。
小さな紙を胸元で持ったまま、立ち尽くす奥さんを門の前に残し、二人は車へと向かった。
「あの!」
保田がごちゃごちゃしたホルダーから車の鍵を見つけた時、大きくて太い声が耳に
飛び込んできた。え?今のって奥さんの声?あんな声出してたっけ…
耳を疑っている保田に、奥さんが寒さに身を屈めながら小走りで駆け寄って来る。
「あの、保田さん…」
思いつめた表情から白い息がしぼりだされるように立ち上る。
「娘を…娘を助けて下さい、絶対に助けてあげて下さい…」
寒いのか肩を震わせ、細い声で保田に訴えた。赤くなった手には保田の名刺がしわくちゃに
なりながらも、しっかりと握りしめられている。保田の手にも自然と力が入った。
- 137 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時41分14秒
- 「私が、絶対に…無事に助け出します」
その強い言葉に安心したのか、奥さんは数秒保田を見つめてから「お願いします」と頭を下げ、
駆け足で敷地内へと戻っていった。
「圭ちゃん」
「ん?」
「助け出そうね…」
二人ともそのままの姿勢で、その後ろ姿が屋敷の中に消えていくのを眺めている。
扉が開きその背中が光に包まれ見えなくなると、保田は小さく息を吐いて呟いた。
「うん、助け出そうね。あの奥さんのためにも…」
その言葉に、後藤は嬉しそうに微笑んだ。
保田も後藤の笑顔につられ口元を緩める。
冷たくなった車に鍵を差し込む音が、二人に妙な心地良さを与えた時だった。
「ん?」
何かの気配を感じ保田は顔を上げる。
反対側でドアが開くのを待っていた後藤も、何かを感じたらしく顔を脇道の方に向けていた。
ストレートの細い髪がふわっと風に舞う。
枯れ葉がカラカラと音をたて地面を転がっていった。
ガサッ…
突然の風に踊らされたのか、その瞬間、脇道の奥で動く影が見えた。
- 138 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時43分43秒
- 「ごっちん、ゴー!!」
保田が声を出す前から、すでに動き出していた後藤が走り出す。
置いていかれたハイヒールを拾ってから、保田はその後を追った。
こういう時に役にたつのよね、後藤は。
保田が息を切らせながら土の上を走っていくと、少し先で人が動いているのが分かる。
「ごっちん!大丈夫!?」
「うん…だいじょーぶ。捕まえたけど…」
顔が認識できる距離までそのまま走って近づいていく。
保田もいつのまにか裸足になっていた。
「あー!あんた…」
後藤の腕の中で、見覚えのある人物が暴れていた。
- 139 名前:2.2PC 投稿日:2003年02月24日(月)05時54分25秒
- >>115-138 更新しました。
>>112 名無しさん
種を蒔くのに時間がかかってますが、なんとか刈り取るつもりです。
とりあえず災害で消し飛ばすことはしないように。(w
小吉紺……。保後にもう少しおつき合い下さい。
>>113 名無し読者さん
渡辺篤史という文字をここで見るとは思ってませんでした。懐かしい。
読み直すとそうにしか読めなくなる罠。子供が居なくて残念です。(w
>>114 名無しさん
そうなんです。正直、少し飽きてきるとかなんとか。(w
力量なんて…まだまだ模写のようなもんです。
年上〜のとこは何の疑問も持たずにすらすらと書きましたよ。
ちょっと書く事に集中できず、更新が遅くなってしまいました。
もう少しテンポアップしていきたいのですが…このまま週一でお願いします。
- 140 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月27日(木)10時03分27秒
- 相当面白いです。保田&後藤の組み合わせ、どうしてもこうも笑えるんだろう(w
破天荒な後藤に振り回されるやっすーが可愛い。
- 141 名前:BX-1 投稿日:2003年03月06日(木)00時19分20秒
- >>140 名無し読者さん
二人の組み合わせには、書いてみて自分でも驚きました。ほとんどアドリブもんです。
いつの間にか、後藤の手のひらの上を転がされているヤッスー。その可愛さが伝わってて
よかったよかった。空回りしっぱなしかと思っていましたので。
言い訳はなしにして…週末に更新します。どどんと。
- 142 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時13分21秒
「あんた何してんの?こんなとこで」
薄明かりに反射して頭の部分が光る。そこにはのっぺりとした顔があった。
どうやらヘルメットが顔に被さっているらく、その姿は試合に負けてしまって肩を落としている
ようにも見えた。一昔前のニュース番組の野球コーナーで喜怒哀楽を伝えていたプラスチック人
形のように。それでも後藤に包まれたその華奢な体と小さな手だけで、誰と認識するのに時間は
かからなかった。
その動きを止めた小さな塊に、保田はからかうように言葉を投げる。
「あー!もしかして、助けにきてくれたとか?きゃーうっれしいー」
犯人扱いされたことを腹の底に抱えて言葉を選んでいるのが、観察しなくとも分かった。
それが夕方に道を尋ねた少年だと分かると、保田は心底嬉しそうに少年を見つめた。
反撃された少年は、一度家に帰ったようで制服ではなくなっていた。
そして少年の頭には、バッターボックスに立つ時に使うヘルメットが乗っかっている。
保田はくすりと笑い、足下に転がっている金属製のバットに視線を送った。
「知らないとか言ってたくせに、いいとこあんじゃない」
- 143 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時15分35秒
- 一つも打ち返してこない少年の懐めがけて、保田はためらいもせずに振りかぶる。
押し黙った少年を前にして、それはどんどんスピードを増していった。
「そのバットで守ってくれるの?凄い心強いわー。もう、怖いもんなしね」
後藤に抱きしめられた状態で少年はじっと黙っていが、保田の大人気ない攻撃に体が硬くなる。
あ、怒ってるよ。もう、圭ちゃん変なとこ根もつから…
少年の苛立ちを感じ、後藤は捕まえていた腕の力を弛めた。両側の高い壁のおかげで、
細い路地は風の格好の通り道になっていて、凍るような風が気まぐれに雑草をさわりと撫でていく。
力なく垂れ下がっていた少年の腕が、もぞもぞと動きヘルメットに触れる。
その僅かな隙間も風が見逃すことはない。後藤は温もりが逃げていくのを感じた。
反撃の反撃開始だね。
怒りと照れを隠すように口をへの字に曲げた少年の横顔を見つめ、後藤は暖まった腕を
そっと外した。
「ちっげーよ!そんなんじゃねーし。ボール、ボールを捜しに来ただけだよ」
- 144 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時16分16秒
保田にそう言い返すと、少年は重たい頭を左手で押さえながら屈み、足下に寝転んでいる
バットを拾い上げた。明るい電気の下で今この少年の顔を見たら真っ赤になっているのが
すぐに分かるだろう。少年の口は相変わらずへの字を描いていた。
素直に言えばいいのに…この子、口悪くて達者なわりにシャイなのね。
少年は地面に文字を書くように手にしたバットで土を弄っている。保田は下を向いてし
まった顔からお腹の部分へと視線を下げた。細い腰には仮面ライダーらしき変身ベルト
がまかれていた。
後藤は少年の近くで膝をついたまま、タコのように赤く膨れた横顔を覗き込む。
少年は掘り返した土の山に目を向けてはいるが、それに意識は注いでいないようだった。
落ち着きなく手が動いていても、長いまつげの下の黒目は動くことはない。
突然、少年は顔を上げた。その目が後藤を捕らえる。
弛みきった顔を直す暇もなかった。
- 145 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時17分27秒
- 「あのさ、おれ…はるかっていうんだ」
「ハルカ?」
「な、なまえだよ、おれの名前」
「なまえ?」
「まきおねーちゃんの聞いたのにおれの言ってなかっただろ?礼儀だからな。
別に心配でここに来たわけじゃねーから。勘違いすんなよ」
「あー名前かぁ。うんうん、ハルカくんね。覚えたよ!」
後藤は「ハルくんハルくん」と嬉しそうに口にしながら、また少しずれてしまった少年の
ヘルメットに手を置く。恥ずかしそうに俯いた少年の口元には笑くぼがくっきりとできていた。
「ハルちゃん!」
その穏やかな二人の空間に保田が毒を持って入り込んでくる。大人らしく振る舞う気はさら
さらないようだ。
ハルカって可愛い名前じゃない。女みたいな名前が嫌であの時ごっちんに教えなかったのね。
保田の気味の悪いくらい甘い声には、まだまだ楽しんでいる様子が伺えた。
後藤は苦い表情になる。本当に保田は少年をうち負かすつもりなのだ。
- 146 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時18分14秒
- 「ハールちゃん!」
にやけた笑顔で少年の名を呼ぶ保田の姿に、後藤は大きなため息を漏らした。
ほんと、根に持つよなぁ…だから、おばちゃんって言われちゃうんだよ。
ちょっとの間を置いて、少年は面倒臭そうに保田に顔だけを向けた。
後藤に誘われるように大きくため息をついた。
「おばちゃんには教えてねーし、気安く呼ぶんじゃねぇよ」
やっぱハルくんの方が一枚上手だよ、圭ちゃん。後藤は笑いを噛み締めながら二人を眺める。
保田の眉間に皺が走った。子供相手に必死に次の手を考えているようで、それはじんわりと
深くなっていく。そんな様子も気にとめず、少年は得意げな表情で後藤と目を合わす。
二人でにやりと笑みを浮かべあうと、まるで何かの共犯者になったような気分になれた。
「じゃあ、おれもう帰るから。バイバイ、まきおねーちゃん」
「うん、気をつけてね。バイバイ、ハルくん」
- 147 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時20分31秒
- 「あ!ちょっと待った。ハルちゃん!」
後藤にだけ挨拶をして、帰ろうと動き出した背中に保田は慌てて声をかける。少年は足を止め、
思わず大声でそう叫んでしまった保田を振り返り、睨み付けた。
「しつけーなぁ、気安く呼ぶなって言ってるだろ。おばちゃんだからもうボケてんのか?」
「なっ!ま、またおばちゃんって言ったぁー」
保田もそんな気はなかったのだが、こうなると一歩引くわけにもいかなかった。
傷付いた大人のプライドをそのままにしておくことはできないようだ。
「何度でも言ってやるよ。おばちゃん!」
「何よ!ハルちゃんに言われたくないわ!」
「それはこっちのセリフだよ、おばちゃん!」
「生意気なのよ。ハルちゃんって可愛い名前のくせして、ハールちゃん!」
「うっせーつってんだろ、おばーちゃん!」
明るさを増した少年の表情は、保田の顔色に影を落とす。
- 148 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時21分17秒
- 「ばーちゃんって。くそー受けてたつわよ。ハルーちゃん!…あれ?」
「はっ?バッカじゃねーの。何だよハルーって。新たな英語か?挨拶はハローだぜ」
少年はそう言い捨てると、人さし指を自分のこめかみにトントンとあてた。
「もう、ココもばーちゃんかよ」
「……あぁー!もうムカツクー!」
「圭ちゃん落ち着いてよ。ハルくんに何か聞きたいことがあったんでしょ?」
後藤は保田の腕を揺らした。保田の中で何かが決壊したらしい。ストッキングだけの素足を
気にすることもなく、聞き取れない声を出して地面を何度も蹴っていた。
「ね?早く聞いて返さないとお家の人も心配するだろうし」
後藤は塩を塗り込まれたプライドから、何とか意識をそらさせる。煮え切らない表情の保田
とは反対に、少年は誇らしげな態度で保田達から近づいて来るのを待っていた。その偉そう
な態度を目にとめて保田の眉毛がぴくりと反応する。後藤は再び保田の背中に軽く触れた。
「圭ちゃん、ほら」
- 149 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時22分24秒
- 感情を押し殺すように、保田は歪んだ唇を開いた。
「あのさー、あんたさっきこの家の中に入った?」
「は?」
そっけない言葉で高い壁を指した保田の親指を少年はきょとんとした表情で見つめる。
その壁の向こうに広がる空間が寺田家のものだと気付くと、少年の顔に驚きの色が走った。
「ここにおれが?入るわけねーじゃん。あんなでかい犬がいんのに…
それにどうやって登んだよ、こんなでけー壁」
拍子抜けした調子でそう答える口ぶりには、先程の輝きが戻りつつあった。
少年の片方の口元が、強さと自信を持って上がる。
「おれはまだ人生終わらせたくないからね…おばちゃんとは、ちがってさ!」
保田の眼光が鋭くなっていくのが暗い中でもわかった。ついさっき負けたばかりの試合内容
でも思い出しているか、すぐに言い返すことはなく、じっと何かに絶えているようにも見えた。
あちゃー、また火つけちゃったよ。もう放っておこう。
後藤は茶かすことも助け舟を出すこともなく、膝についた土をはらった。
- 150 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時23分57秒
「はいはい、ハルちゃんには明るい未来が待ってるんだもんねー。将来野球選手になるって
いう大きな夢があんでしょ?それでバカみたいに巨人に入って美人アナウンサーと結婚。
おぉ!なんて素敵な人生なんでしょー!いやーうらやましぃー!」
そう言って、保田は少年のGというアルファベットの付いたヘルメットをバシバシと音をたて
て叩いた。たっぷりと毒を含ませた言葉に後藤はがっくりと肩を落とす。
楽しそうに少年の頭を揺らす保田の姿には到底、大人の自然の振るまいをくみ取ることは
できなかった。
あーもう最悪、繰り返しだよ。これじゃあ。
相変わらず冷たい風が脇道を通り抜けていく。後藤は絡まる髪の毛に気を取られて、下らない
二人のやりとりにも目を配るだけになっていた。
満足げな笑みを浮かべている保田。うんざりとしつつも余裕な少年の態度。
あきれた顔をしながらも、後藤はどこかで懐かしい感覚を覚えていた。
- 151 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時25分01秒
- 「はー、これだからおばちゃんは。時代遅れなんだよ」
少年は煩わしそうに保田の手をはらうと、鼻のあたりまで落ちてしまったヘルメットのつばを
つかみ、ゆっくりとおでこの位置まで上げる。両手を腰にあてて目の前に仁王立ちする保田に
臆することもなく、少年は含みのある笑みを浮かべて保田を見返した。
「ジャイアンツは日本だけじゃないんだよ。おれはメジャーリーガーになるんだ。
ほんと、世界がせめぇーなー、おばちゃんは。巨人なんて眼中にはいってねーよ」
「何よ!せまくて結構!そんな遠くばっか見てたら、そのうち足下すくわれるわよ!」
「ちょ、ちょちょちょ圭ちゃん。子供に言う言葉じゃないでしょ。ムカつくからって
小さい子の夢を壊そうとしないでよー」
顔を近付け睨み合う二人を後藤が引き離すと、少年は「つきあってらんねぇー」と呟いてから、
くるりと背を向け、右手に握られたバットの先を地面につけたまま歩き出した。
静かな空間にその鉄の引きずられる音が響く。少しして、それはすぐに止まった。
少年が何かを思い出したように「あっ」と一つ声を上げて後藤の方を振り返ったのだ。
- 152 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時26分17秒
- 「そうだ、まきおねーちゃん」
「うん?どうしたの?」
「あの…あ、ありがとう」
「へ?」
急に出て来たお礼の言葉に戸惑う後藤の顔を見て、少年はポケットに入れていた左手を動かす。
出てきた手には小さな紙のような物が握られていた。隣の家から漏れる明かりでその紙に光りが
ちらちらと反射する。
次に小声で喋り出した少年の表情には、照れがはっきりと現れていて、
さっきまで保田を負かしていた皮肉な色は全く消えてしまっていた。
ただ、恥ずかしがりやな少年がそこに立っていた。
「甘かったけど、ちゃんと食ってやったからなー!」
そう言い捨てると、少年は身をひるがえし闇の奥へと走っていった。
ポケットへと大切そうにしまった小さな紙が、後藤が握らせた飴玉の包み紙だと気付いた時には、
少年の背中は視界から消えてしまっていた。からんころんと小石にあたりながら土の上を走るバ
ットの音だけがずっと遠くから聞こえてくる。
「食べてくれたんだ…」
- 153 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時27分17秒
- その音も消えてしまうと、少年が残した足下の土の絵を後藤はぼうっと眺めた。
長い髪が視界を遮る。今までで一番強い風が駆け抜けていくのと同時に、胸の中に勢いよく
入り込んできた何かが、水が増すような感覚で下からじわじわと咽の辺りまで浸していく。
その溢れんばかりの想いに包まれ、後藤はぱっと顔を上げ、空を見る格好をとった。
湿った眼球に月の輪郭がなめらかに映しだされる。後藤はその月の向こう側を見すかすかの
ように目を細めた。月の周りには、星がぽつぽつと散らばっている。
「あいつ、私にお礼の言葉はないのかしら?あのアメの金は必要経費で私が払ってんのに…」
文句を言う保田の言葉は暖かい。後藤はその声を耳にしてこぼれそうな想いに蓋をする。
波が引くように風が逃げていく気配を感じ、乱れた髪の毛を耳にかけた。
「まぁまぁ。おいしかったみたいだし」
「私達を助けに来るなんて100年早いのよ。ハルちゃんのくせして」
「ふはは、ハルちゃんね。でも、ごとーちょっと嬉しかったなぁ」
「私達でも恐いんだから、ハルちゃんには相当恐かったはずよね。ここって肝だめしには
最適なとこよ…」
- 154 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時28分06秒
- 「そういえば、武器もリコーダーからバットに変わってたもんね、ライダーベルトとかさ」
「でしょ?可愛いわよね。でもバーバリーの服だったわよ、あいつの私服。まったく」
「圭ちゃん、あれは親の趣味だからさ。確かにハルくんも、ちょっとおませさんだけどね」
「ほんと生意気なガキなんだから、子供のくせして口が達者というか悪いしね。でも助けに
来てくれたり、照れ屋だったり…かっこつけててもハルちゃんって女みたいな名前でさ…あ」
保田は口を開けたまま固まる。今一度、少年とのやりとりを思い返していた。
「ん?どーしたの圭ちゃん」
首を傾けた後藤の声で保田は我に返る。鼻につく潮の香りが増したような気がした。
「ううん。おー寒い!ごっちん早く車戻ろうよ」
「うん、帰ろ帰ろー。ごとーお腹へっちゃったよー」
後藤は「お先に」と寒そうに身を屈めて走っていった。その後ろ姿が離れるのを見守ってから、
保田は胸の内に仕舞いこんだ言葉をもう一度手の平にのせる。寂しさと愛しさが複雑に絡まり
あい、風化しない想いが両天秤の上で揺れていた。
――そうだ、あいつに似てるんだ。あの馬鹿に、ハルちゃんは。
- 155 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時30分17秒
吹き込む風が保田の背中を押し、重たい足を前へと促す。
とぼとぼと歩いていると、下げた視界に無惨なハイヒールの姿が入ってきた。魂を抜かれて
しまったかのような姿をしばらく見つめてから、保田はそれを拾い上げ、自分のと後藤の靴
で塞がった両手をだらりと垂らし、再び義務的に歩き出した。
肝だめしなんてしたくないか…後藤はここに来た時から思い出してたのね。
だから機嫌悪かったのか。いっぱいいっぱいで気付かなかったわ。
ごつごつとした道から、硬いコンクリートの感触に変わった時、車内で大あくびしている
後藤の表情を捉える。保田は喉元まで出かかっていた気持ちを、ぐっと飲み込んだ。
- 156 名前:2.2PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時32分01秒
すると反対に、後藤が保田の姿を見つけ笑い出した。
一呼吸ついてからドアに手をかけると、保田も自分の姿についつい失笑してしまう。
ウィンドウに映る自分の頭が、後ろからの突風を受け、髪の毛が爆発コントでもした
みたいに乱れていたのだ。
「あんた、笑いすぎよ!」
「だって…ほんとに野獣になっちゃったからーははは」
土まみれになった二人分の靴を後ろの席に投げ込むと、保田はどっかりとシートに座る。
後藤の引きつった笑い声が外に逃げ出さないように、勢いよくドアを閉めた。
- 157 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時32分50秒
「圭ちゃん、外食してから帰ろうよー」
「もちろん外食するけど…帰るなんて甘いわよ、ごっちん」
「え?どういうこと?」
高速道路に乗って少し経つと、飴で我慢できなくなった後藤の腹の虫が泣き出した。
前後に車の明かりは見えない。アクセルをめいいっぱい踏んだ車の中にあって、その声は
保田には届かなかった。エンジンの回転音に邪魔されラジオも意味のないものになっていた。
「ていうか、あんた誘拐事件なのよ。時間との勝負でもあんだから」
「だって、犯人わかってるし、危険じゃないって言ってたじゃん」
「そうだけど見つけるなら早い方がいいし、奥さんはそのこと知らないのよ。
メシなんて呑気に食ってる場合じゃないのよ…ん?」
保田ハッとする。エンジンの回転音が弱まっていく。
そうよ。そんな場合じゃないのに。
保田の頭の中に、寺田家の応接間が鮮明に広がった。
「ごっちん、さっきのテープは?」
- 158 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時37分35秒
- 「あー、家のね。ばっちり撮ったよ」
後藤は頷きながら指でグッドマークを作った。
「おし。そのテープも帰ったら聞き直しね」
「えー!ごとーけっこう眠いんだけど」
「私だって眠いわよ!夜更かしはお肌にだって悪いんだから…
そのせいで、ふけて見えちゃうのよね。職業病なのよ」
「いや、それだけじゃないと思うけど…」
後藤は、しょぼしょぼした目を擦ると不満げに呟いた。
「ん?ごっちん何?聞こえないよ」
「えっと…この後どこに行くのかなーと思って」
「あぁ、このまま新宿行くわよ」
「げっ、まじ?」
「まじよ。さっさと中澤裕子について調べないと。みんなすぐに忘れちゃうからね」
カチカチと音が鳴り、黄色い光が点滅する。
「高速使いたい放題だからすぐに着くわよ。ヨコヨコに乗ったのだって久しぶりだし。
ここ高すぎるのよ600円って、なめてるわ。さっさと民営化されないかしら」
「だねー」
気のない返事をして、後藤は外に目をやる。街灯を次々と追いこしていく中、たまに表れる
緑色の看板を見つけては声を出した。
- 159 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時38分13秒
- 「別所…かりば…プッ、狩場だって」
後藤はちらりと保田を盗み見る。前を向いたまま何かを口ずさんでいるようだった。
相変わらず車内はうるさい。
「お家に着いたのになぁー」
視線を前に戻すと、後藤はつまらなそうな声で再び読み出した。
「新ほどがや…横浜しんどー」
大きなカーブを方向が分からなくなる程ぐるりと回ると、交通量の多い道へと出る。
車内が少し静かになってから、後藤は保田に声をかけた。
「夜ごはんは?」
「え?あーご飯ね。そんなの、聞き込み経費で食うわよ」
「もしかして…そういう店で聞き込み?」
「当たり前よ。ドライブスルーに行ったってホステスの話なんて聞けないでしょ?
酒飲めないんだから、あんたは野菜スティックでも食ってなさい」
「げー!まーじーかーよー」
「まーじーよー。ハードスケジュールだからね。その後テープチェックして、明日は山女よ」
「え!学校にも行くの?」
- 160 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時39分31秒
- 「そうよ、こういう機会がないと行けな…じゃなくて、愛さんが消えた状況も見てみたいしね。
あの警備の厳しい学校から金髪の三十近い女が、嫌がる生徒を引っぱって出ていくなんてで
きるのかしら?髪は黒にしたとしても、無理があるわよ」
「変装しても生徒は無理な年齢だし、先生も入るのチェックされるって言ってたもんね」
「そうなのよ。学内で誘拐するのは無理ね、その中澤裕子さんには」
保田の人さし指がハンドルを叩きだした。後藤はその動きを見つめる。
「…てことは共犯がいるってこと?」
指の動きが止める。保田は深く頷いた。
「しかもそれが生徒や教師、その学校にいても不自然でない人だったら最高ね。愛さんを外に
怪しまれることなく連れだせることができる人物。そっちを絞る線もあるわね」
「そっか、歩いて帰る門から出ればいいんだもんね。警備の人もどの生徒が通ったなんて気に
してないだろうし。反応するのは制服着てない人だけだろうね…あ!そしたらうちらもダメ
じゃん、明日。どうやって入るの?」
「ふふふふ、秘策があるのよ、とっておきの」
- 161 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時41分06秒
- あー、もしかしてもしかしてー。またあの手使うとか?」
そう言って後藤は警察官の敬礼のポーズをとった。しかし保田は首を横に振る。
「ちら見せだけでしか、あの手帳は使えないからだめよ。それに、学校とかは自治権があるから、
そんなもん警備員に見せたら余計ややこしくなるわ」
「なんだー、いつもの手かと思ったのにな」
腕を組んだ後藤の顔を、オレンジの光りが駆け抜ける。
長いトンネルの中は外よりも明るかった。
「ごっちん。今は何の時期だと思う?みんな追い込みかけている時なのよ、今」
「追い込み?」
「そう、私達には遠い昔のことだけどね。入試があるでしょ。説明会とか資料配付とかやって
れば、中学生は構内に入りやすいはずよ」
「そうなの?あ…なんか、ごとー嫌な予感がする」
トンネルの黒い出口が見えてきた。保田は笑みを浮かべている。
「ルーズはだめよね、やっぱ。ハイソで清く正しく美しく!どうせならセーラーとかがいいなぁ」
「…予感的中かも」
- 162 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時42分53秒
- すっかりやるき満々の保田をよそに後藤は横の流れる景色を眺めた。切り立った崖や防音壁に
囲まれて街の明かりは見えない。後ろからは月がついて来る。
今のうちに寝とこうかな。
シートを少し倒し目を瞑った体に、道路のつなぎ目をこえる振動が定期的に響いた。
「あー!」
妄想中だったはずの保田の声に、後藤はビクッと体を起こした。
「どーしたの?」
保田の顔は血の気が引いて青白い。
少し崩れたファンデーションの上にうっすらと汗が滲んでいる。
「忘れてたわ、重要なことを」
「重要なこと?」
「そう、とんでもなく重要なこと…私は」
- 163 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時48分16秒
「ずっとトイレに行きたかったのよー!」
「へ?」
そう叫びにも似た声を出すと、保田はアクセルを更に踏みこみ速度を上げた。
車線を何度も跨ぐたびに、体が大きな力で引っぱられ横に揺れる。車は隙間を縫って速度を
あげていった。後藤がメーターを見ると、それは120のラインに迫っていた。それでも止ま
る気配はない。
車が悲鳴を上げるようにカタカタと揺れ出し、その振動が後藤の体にも伝わってきた。
「ちょっと圭ちゃん、危ないよー!」
保田は引きつった表情で固まったまま、ハンドルを離すまいと前だけを見つめている。
今彼女に伝わるものはパーキングの緑色の看板だけだった。
「おわー、どっち?どっち!?」
「は?何が?」
後藤も叫びに近い声で保田に返事をした。くねくねと曲がる道を乗り切ったと想ったら、
目の前に急激に横を向いたトンネルが表れる。後藤は車をしっかりと掴み目を瞑った。
- 164 名前:2.3PC 投稿日:2003年03月08日(土)22時50分17秒
- 「第三と湾岸どっちよ!?どっちにトイレがあんのよー!」
短いトンネルを無事に抜け出したらしく、目を開けた後藤の前では道が二手に分かれていた。
どっちって、ごとーに分かるわけないじゃん。
「えーっと、右!みぎみぎ!」
後藤は広い道の方を選んだ。パニックになっている保田は、何かを指してあげないと動けない。
元々、車の運転も下手で、保田は免許を取るのにも相当な時間と金をかけていた。
私だって、まだ人生終わらしたくないよ。圭ちゃん。
後方からクラクションがけたたましく鳴り響く。
合流地点が近づいて来るのを確かめると、他の車が出現しないことを願いながら、
後藤は急いでシートベルトに手をかけた。
- 165 名前:2.3xPC 投稿日:2003年03月08日(土)22時53分07秒
- ☆
保田達を乗せた車の気配が遠ざかると、住宅街は死んだような静寂にのみ込まれる。
いつも通りの空気が隙間なく染み渡り、寒さは刻々と増していっていた。
この時間、外を歩く人の姿はまったくと言っていいほどない。エアコンのモーター音だけが、
ここに人が居ることを示し、時おり迷い込む人々の気を紛らわせていた。
その世界に白い蒸気が2つ規則的に立ち上っている。
お腹を満たした犬達は、呼吸を静かに繰り返し、吠えることなくただ鉄の扉を見上げている。
その上で揺れる人影を―
犬を門の下に残し後藤よりも軽快な動きで門扉を登ったその人物は、ミラーのくっきりとした
円い影に狙いを定めると、その中へそっと飛び下りた。トンと小さな音がその空間にささり、
道路に立ちこめている凍った空気に亀裂を走らせる。
- 166 名前:2.3xPC 投稿日:2003年03月08日(土)22時53分41秒
- しかし、その針音は数秒ももたずに倒れてしまう。
その人物を待っていたかのように、脇道からの強い風が闇夜に晒された耳に吹きつけた。
固い地面にささる針はない。冷えきった突風が、何ごともなかったかのように時を動かし始める。
道の両脇で桜の枝がしなやかに揺れた。
「捕まえられるかな…」
ぽつりと呟いたその人物は、目を閉じて、じっとその場に立ち尽くす。
ポケットに突っ込んだ両手はそのままに顎を上げ、変わらぬ風の声を聞いていた。
周囲からこぼれる落ちる明かりに浮かび上がるその姿は、厳かなものでも、怪しいものでもない。
ごく普通の格好だった。巻かれたマフラーが風にはためく。
どちらとも判断しにくい服を着ていても、その背格好から女性であることが分かった。
服装は渋谷や代官山を歩く若者と何ら変わりはない。変わったことといえば、自分の背丈の2倍以
上ある門を軽々と飛び越えたことぐらいだが、それを見ていたのは四つの真っ黒な瞳だけだった。
犬は白い息を吐くことしかできない。
- 167 名前:2.3xPC 投稿日:2003年03月08日(土)22時55分06秒
- 突風が髪の形を崩しても、そのピシッとした姿勢が崩れることはなかった。
くぐもったうねりが頭蓋骨に反響するのも気にせずに、彼女はその影の中心に足を置いている。
むしろ、その表情は気持ち良さを感じているようにも見える。
そのオーラに根負けしたのか、風がぷつりと途切れた。
瞼をゆっくりと開いた彼女の視界を、黒い空が迎える。平面的な月のぼうっとした光りと、
まばらな星を眺めながら彼女は耳に指をあてた。無意識の行動なのか、何度も通った道を行く
ように、彼女の手はポケットから耳までスムーズに流れる。
赤くなった耳たぶに光る銀色の輪。
冷えきった目的地に着くと、その形を確かめるように指の腹に冷たい感触を刻み込んだ。
それから、穴の上で綺麗にターンをきめ、夜空に貼り付いた月に背を見せた。
彼女の前にはまだ星が並んでいる。耳から指を離し、鉄で繋がった星をすっと撫でた。
その隙間から犬のきょとんとした顔を2つ認めると、自分の一挙手一等足を逃さず見つづけて
いた2匹に、お礼代わりにと軽くウィンクをした。犬はまだきょとんとしている。
- 168 名前:2.3xPC 投稿日:2003年03月08日(土)22時56分00秒
- 彼女はそれには構わず、鉄に触れていた手を、勢いよく自分の額に添えた。
指の先まで力が行き届いた右手は、一時期映画で流行った敬礼のポーズを作っている。
左手は上着のポケットにだらしなく入れられたままだった。
表情もそれと同じくアンバランスなものであった。
顔には険しい色が走っているのだが、口の端だけニヤリと上がっている。
その挑発的で攻撃性を含んだ表情を目にして、犬達は身を震わせる。
しかし、一点を射止めた強い瞳は犬達には目もくれずに、
物々しく設置されている防犯カメラだけをじっと見つめていた。
その様子を見ていた犬達の耳が揃って後ろへと向く。遠く家の方で主人の声を聞いたような
気がしたのだ。前に立つ人物に相手にされていないことが分かったのか、犬達は顔も家へと向けた。
しかし、扉が開き暖かな光が漏れる気配は少しもなく、辺りは静かなままだった。
数秒見つめてから、犬達は門の向こうで怪しく微笑んでいる観察対象者へと顔を戻す。
そして、再び身を震わせることになった。
- 169 名前:2.3xPC 投稿日:2003年03月08日(土)22時57分01秒
- そこには何もなくなっていた。警戒すべき気配も消えてしまっている。
後ろに残した耳もそば立て、犬達は周囲をキョロキョロと見回すが、視界で揺れるものはなく
風の通り抜ける音と草の声しか聞こえてこない。そこにはもう、普段通りの風が流れていた。
片方の犬が門扉に近づき臭いを嗅ぎはじめるのを見て、もう一匹の犬も湿った地面に鼻をつける。
少し調べたところで2匹は同時に動きを止めた。
先程まで人が立っていた円い影に残り香が漂っていた。
それは黒い穴の中心で白い煙りをかすかに立ち上らせ、足下を流れるゆったりとした空気を
細々と吸い込み、残りの短い命をチリチリと赤く燃やしている。
軽く踏みつぶされた煙草の吸いがらが、息も絶え絶え転がっていた。
- 170 名前:2.3xPC 投稿日:2003年03月08日(土)22時57分59秒
- それを嘲笑うかのように、冷たい風が右から左へと吹き抜けていく。
強さを増して真っ赤に燃え上がったのも束の間、最後の声もたちまち静寂にのまれていった。
紙屑となった煙草が、白いすじを黒い空間に残し、砂埃にまかれ闇へと転がっていくのを
見届けると、犬達は興味を失い、どちらともなく刈り込まれた芝の上を歩き出した。
不自然な静寂が広がる。
当たり前のように変わらぬ空気が送りこまれ、変われぬ家々に腰を下ろしていった。
まだ、寒さが和らぐ足音は聞こえてこない。
犬達はしっぽを揺らし、石畳の明かりに群がる蛾を追いかけはじめた。
- 171 名前:BX-1 投稿日:2003年03月08日(土)23時00分58秒
- >>142-170 更新しました。
次回からようやく第三章。更新量か更新速度を気持ち落とさせて下さい。
ストックも何もないので、ニ週間程空くかと思います。
- 172 名前:0.0PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時12分58秒
――ピィーピィーピィー
彼女は目を覚ました。外から鳥のさえずりが聞こえる。
寝る前と同じ部屋。何も変わらない静かな部屋。
光りのカーテンをきらきらと舞う白いほこりが眩しい。
夢か。口の中がまだ甘い…
彼女は白く吐き出される息を見て、今日も自分の中に籠る熱を感じた。
まだ、私は生きてる。
頬を伝い彼女を照らす雫は朝の光を受けて輝き、冷たい床に色を落とした―
- 173 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時15分14秒
Chapter.3―Boil&Clear
あたりに人の気配はなく、窓に切り取られた明かりが斜に廊下を照らしている。
外よりも冷え込んだ空気が、建物全体を満たしているようだった。ゴミ一つ落ちていな
い休日の校舎に2つの足音が響き、その密閉された空間をかき乱す。
セーラー服姿の少女が、軽快なリズムで廊下を元気良く走っていく。スピードがついて
くると床に接している靴下を利用し磨かれた床を滑って、スキーのジャンプ選手のように
両手でポーズを作って止まる。少女は楽しそうにそれを何度も繰り返し前に進んでいた。
その滑る音も静かな校内にはよく響く。4回くらい滑り靴下も汚れてきた頃、ある教室の
前で少女は足を止め、後ろを振り返った。
「圭ちゃん!ここだよー!」
反響して届いた声に、後をついていく影がぐらりと揺れた。
「頭いたいっつってんのに。大声出さないでよ、もう―」
- 174 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時17分09秒
ちょうど入試面接の時期だったらしく、山手女学園の校内に入るのは簡単だった。厳し
いといわれている警備も、後藤のセーラー服と数分の記帳でなんなく通ることができた。
面接会場へ向かう緊張した制服の流れからそれて、まだ新しそうな校舎の中に入る。
誰かに止められることも、見つかることもなかった。
黒のスーツに眼鏡をかけて髪をアップにしてきた保田は、どこからどう見ても意地悪そう
な教師にしか見えなかった。アルコールの抜けきっていない付き添い教師と後藤の二人の
姿は、これから大切な面接を受ける中学生達には、奇妙な印象を与えていたかもしれない。
あきらかに後藤を哀れみの目で見る子もいたし、中には保田に丁寧な挨拶をする子までいた。
その大きな声に保田の顔が歪んだのは言うもでもない。
そしてその態度に萎縮した生徒は、今ごろ大事な面接を受けている。運が悪いで済ますのは
可哀想だけれど、運が悪いとしかいいようがない。二日酔いで頭痛に悩まされている保田に、
他人を思いやる余裕なんて一滴も残っていなかったのだ。
- 175 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時17分54秒
- 教室の中も綺麗に掃除されていた。座席数の少なさとその机や椅子が木製でないのに、
保田は少々面喰らったが、黒板に残された日直の名前や壁にはられた大きな地図などを
目にすると、だんだんと表情が弛んでいった。
懐かしいなぁ。全然違う学校だけど、教室の臭いはどこも同じみたい。
保田は教卓から離れると、並んだ机に手を順番に触れながら後ろへと歩いていく。
その先に白いセーラー服を着た後藤の背中が見える。
くっそー、私も制服がよかったのに。あいつら後藤にだけ貸しやがって…
妬ましい目つきで見つめていたセーラー服が、ひとつのロッカーの前で動きを止めた。
「ごっちん、あった?」
「うん。ここ、ここ」
後藤が指差したロッカーには、寺田愛と書かれたシールが貼られている。
ロッカーの前にくると、保田はそのシールを確かめるように撫でた。
「ここで間違いないわね。あれ?鍵ついてるじゃない」
力任せに鍵をいじっても、カチリという音は聞こえてこない。
保田はそれから手を離し、小さくため息をついた。
隣で鍵を覗き込んでいた後藤は顔をしかめると、目の前の空気を手で払った。
「う゛。圭ちゃん、ほんと酒くさいからー」
- 176 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時19分52秒
- 「しょうがないじゃない、情報聞きだすためなんだから。飲むのも仕事よ、仕事」
まだ表情の険しい後藤に、保田はそう言ってたっぷり息を吹きかける。
後藤はすぐに鼻をつまみ息を止めた。
「ほとんど、収穫なしだったじゃん。なかざーゆーこの」
「次行く時まで、思い出しといてくれるって言ってたもん。タカシちゃん」
「…ふーん」
後藤の鼻声に、保田は余計に馬鹿にされてる気分になる。
「あんた、タカシちゃんの事信用してないわね。オカマだからって…差別よ!」
「は?そんな事言ってないに。差別してんのは、そういうのにこだわる圭ちゃんの方でしょ」
「何言っちゃってんのよ。私は差別なんてしてないわよ!
オカマバーには何度も行ってんだから、常連よ!そんじょそこら…あ゛」
一瞬止まった保田は、頭を押さえながら「痛い痛い」と呟いて、近くの椅子に逃げるように
座った。後藤はにやけた表情で保田を覗きむ。
「ほぅ、何度もねぇー。圭ちゃんあの店の常連だったんだねぇ、どおりで仲がいいと…」
- 177 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時20分44秒
- 「うっさいわね!そんなことはどうでもいいのよ。今大事なのは鍵をどう開けるかでしょ!
あんた、いい方法考えなさいよ!あたた…」
自分の声が頭に響いたらしく、保田は手で後藤を追い払うと、ぐったりと机おでこをつける。
後藤は言われるままに、少し考えるポーズをとってから、机に伏せた保田の耳もとに近づいた。
「はーい!答えわかりました!保田先生!」
机に額を押し付けたまま、ガクっとうなだれる保田。後藤はしてやったりの様子で話を続ける。
「これ自分で決めれるダイヤル式の鍵だからさ、けっこう単純に開くかもよ。愛ちゃんの
誕生日はいつだっけ?」
保田はその体勢のまま足下に置いた鞄を力なく指差した。
後藤はその中から茶色い手帳を取り出す。
「寺田愛、A型。えっと1986年9月14日生まれか。914じゃ一個足りないや…西暦だったら
四つでちょうどなんだけどな。19…8…」
最後のダイヤルを6に合わせた時、静かな教室にカチッという音が響いた。寝ていた保田も
それを耳にして顔を上げる。
「え!それで開いたの?ごっちん」
「うん。なんか開いちゃったみたい」
- 178 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時21分35秒
- ロッカーの中はすっきりと片付いていた。後藤が中身をぽんぽんと机に放りなげていく。
ジャージなどが入った袋。英和や古典の辞書。分厚い資料。教科書。新品のノート。
全部出しても、小さな机にのっかる程度の量しかなかった。
「これだけ?」
「うん、もうからっぽだよ」
保田はその机を眺め、少しがっかりしていた。そこに寺田愛という人物のぬくもりや個性を
感じられる物が全くなかったからだ。お嬢様に対するイメージが崩れることはなかったが、
逆にそのことが余計に寂しく感じられたし、これから助けようとしている彼女に対して何か
親しみのようなものを持つことができなかった。
「なんか完璧だねぇ。さっき廊下にあった成績表も2位だったし」
「え?そんなのあったっけ?」
「うん。でかでかと貼ってあったよ。圭ちゃん下ばっか向いてたからねー」
成績も優秀なのか、文句の付けどころがないわね。
隣の机に腰かけた後藤は「なんか足んない、なんか足んない」と変なメロディを口ずさみ
ながら教科書をパラパラとめくっている。
保田は腕を組んで空っぽになったロッカーを眺めた。
「ほんと、何かが足りないわね」
- 179 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時22分50秒
- 「すっごいきれいなロッカーだよね。ごとーのなんて、開けたらドサーだったもん」
「それ自慢になってないから。それにごっちんの場合は、汚いジャージとかゴミとか、
マンガでいっぱいなんでしょ…あっ」
「ん?」
保田は後藤を指差し、何か思いついた様子で目を見開く。その声は興奮していた。
「そうよ!マンガよマンガ。マンガがないなんておかしくない?」
「確かに。マンガは必需品だよね。授業のねー」
「いや、授業ではいらないけど…普通さ、貸し借りとかするでしょ?クラスで何冊かは回し
読みするじゃない」
「うん、したねぇ」
保田は昨日会った父親の寺田を思い出していた。赤い派手なスーツに染められた髪の毛。
そういうのを禁止する親には見えなかった。意外と保守的なのかな。
- 180 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時25分20秒
- 「それともこの子は友達いなかったとか、マンガ嫌いとか?この学校のチェックが厳しいの
かしら…」
「いや、そーでもないよ。ここの人マンガだらけだし」
そう言った後藤は他のロッカーの中身を指差していた。整然とした寺田愛のロッカーを見た後
だからか、思わず「汚なっ」と声を漏らしてしまう。その乱れたジャージの隙間からぎっしり
と積まれた少女マンガが苦しそうに顔を覗かせていた。
「ベルバラかー、私どこまで読んだっけ…。あれ?ちょっと待った。なんでここ開いてるの?」
「なんかねぇ、適当に回してたら開いちゃったの」
笑っている後藤の手から鍵を奪い取ると、保田はすぐにそのロッカーを閉じて鍵をつけた。
「まったく、あんたは。プライバシーってもんが」
「いいじゃん。マンガ読めるってわかったんだし」
後藤のへらっとした笑顔を見た保田は言い返すのをあきらめ、意識を机の上へと向けた。
- 181 名前:3.1PC 投稿日:2003年03月26日(水)02時27分55秒
- 「マンガでなくても小説とか化粧品とか。学校に関係ないものがないのよね、ここには」
保田は寺田愛の荷物を元に戻そうと手に取る。浮かない様子でロッカーに辞書を置こうとし
ていた保田の動きがピタリと止まった。その表情がぱっと明るくなるのが後藤にもわかった。
「ごっちん、まだ入ってるわよ」
「え?全部出したよ」
後藤の顔の前に、保田は手を差し出す。指先で何かが光っていた。
「なにそれ、糸?ピアノ線とか?…どっちにしろゴミじゃん」
「そうね。ゴミといえばゴミだけど」
含み笑いを浮かべる保田に、後藤は不満の声を上げる。
「だけど何さ」
「だけど、これは―」
保田は指先に光る物体をゆっくりと回し、それを眺め愛しそうに声を出した。
「――青春よ」
「へ!せいしゅん?」
裏返った後藤の声は教室を通りぬけ、静けさを取り戻しつつあった校舎全体に響き渡った。
- 182 名前:BX-1 投稿日:2003年03月26日(水)02時33分19秒
>>172-181 更新しました。
少ない上に、またお前らかよって感じですが。(w
- 183 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時04分58秒
☆
泥だんごなんか食べて、お腹が痛くならないのかな?
土の中には色んな種類の細菌がいて、スプーン1杯の中に数十億個の微生物が棲んでいる
という。特に子供の遊ぶ砂場には、犬猫のフンがまぎれていて食中毒になる危険な細菌が
いっぱいいるらしい。そのことを放送していた母親向けのテレビで、砂場が悪者のような
扱いを受けていたことを思い出し、私はなんともいえない不快感に再び包まれた。
私が小さい頃遊んでいた砂場には、動物のフンなんて普通に転がってたのに。
お母さんには「手を洗いなさい」と毎日のように言われていたけれど、その意味を理解し
てなかった私にとって、その行為はとても面倒臭いことでしかなかった。たまにサボって
「洗ったよ」と嘘の返事をしていた事は、小さな罪悪感と共に胸の内にずっとしまってある。
- 184 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時06分04秒
- だから、汚い手でおやつを食べるなんてことは何度もあったはずだし、今だって手洗いを
毎日しているとは言いきれない。大げさに言えば、それでも食中毒にならずに健康に育った。
もう18才だ。あと少しで高校も卒業して、花の女子大生にだってなれる。
そこは泥だらけの手を背伸びして洗ってた私には、想像できなかった場所。
そういえば、フンそのものを友達に投げつけられたこともあったなぁ。
幼稚園の中でもリーダー格だった子。私が乗った吊り橋をギシギシと揺らす笑顔。
その時は友達だと思っていたけれど、今考えればそれはイジメだったと思う。
私がそれから逃げ回るのを楽しそうに追いかけてきたあの子の顔は、何年たっても忘れられない。
今だったら、絶対投げかえしてやるのに―
- 185 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時07分54秒
薄く色付いた空には、ちぎれた雲がのんびりと漂っている。
長い坂道を登りきると、冬の風が挨拶をするように一度だけひやりと吹き抜けた。それは額に
うっすらと浮かんだ汗を撫でて、暖まった熱までも奪いさっていく。すぐにくしゃみの気配を
感じたのに、押さえることができないで連発してしまった私の横を、制服を着た同年代らしき
少年が追いこしていった。
寒さで赤くなっていた頬が、カーっと熱くなっていくのが自分でもわかった。
あー、恥ずかしい。絶対今の人笑ってたよ。
なんでこういう時に限って、変なクシャミになっちゃうんだろう。もう…
円く型押しされた坂道を振り返ると小さくなった駅や建物の向こうに、
午後の乾いた光りを反射させる海が見える。
観光地と繋がっているとは思えない色の海。息があがるほどきつい真っ白な坂。
丘の上からその眩しい光景を眺め、私は下から運ばれてくる潮の香りを深く吸い込んだ。
- 186 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時10分02秒
- こうして眺めてみると、自分の足がこの急な勾配を登ってきたのが信じられない。
上から見下ろす坂の表情は駅を出た時とは全く違うものに見えるし、何故かものすごく長く
感じられた。この強い日射しの中、眠い頭を乗せて自分が歩いてきたとは思えなかった。
しかも三年間も。
15分程かかる通学路が大して苦にならないのは、考え事しながら歩いているせいもあると思う。
嫌な行事のグチだとかテレビドラマの話、下らない妄想などから始まるそれは、伝言ゲームの
ように15分の間に色々な所へ飛んでいってしまう。
そして今日は泥だんご。
丘の上に登った時には、何故か泥だんごのことを熱心に考えていた。
さわやかな風を正面からうけ、ぼんやりとした水平線を眺める。
すっきりした気分で、絡まった伝言ゲームを巻き戻した。
- 187 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時12分25秒
えっと、イジメっ子のことは忘れて、何で泥だんごになったんだっけ?
そうそう、マヤが食べてたんだ。舞台での演技でお団子を食べるシーンがあって…
それが他の役者さん達のいやがらせで、泥だんごにすり替えられちゃったんだ。
マヤはそれが土の固まりだって気付いたのに、ムシャムシャと美味しそうに食べてさ。
凄いよなぁ、私だったら絶対できないよ。
そういえば、それを見て女優さんになる夢をあきらめたっけ。あのマンガを読んでから、
テレビドラマを見てても裏側を想像するようになっちゃったし、でも芸能界って絶対
イジメとかあるんだろうな、イジメ…。イジメっ子なんて大っ嫌い…
- 188 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時15分24秒
- あーだめだめ、マヤのことを考えてたんだから。
紅天女の演技のとこまで読んで…他にいいとこいっぱいあったはずなのに、
何で泥だんごの所だけはっきりと覚えてんだろう?
そういえば、あれって完結したのかな?帰ったら琴音に聞いてみよう。
でも、その前にマンガ返さないと。いきなり朝から「返して」だもんなぁ。
そのせいで急に学校来ることになっちゃったんだよ、もう。
妹のを勝手にまた貸ししてた私もいけないんだけどさ。バレたらすっごい怒りそう…
はー、早くマンガ取って帰ろう。この坂を登るのもあとは卒業式だけだと思ってたのに。
もう一度大きく深呼吸する。
あと少ししか見る事のできない眺めを見渡してから、私はすぐ後ろにある校門をくぐった。
- 189 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時16分44秒
校内はしんと静まり返っていた。自分の足音だけが何倍にも増幅されて校舎に反響する。
職員室のある古いレンガ造りの建物を遠くから眺めると、自分がそこにいるかのような
緊張感がこみ上げてきた。
今頃、面接受けてるのかな。私はカチンコチンで上手く喋れなかったんだよね。
明かりの付いている教室を見上げて「がんばれ」と心の中で叫んだ時、冷たいビル風が
校舎の隙間から私めがけて吹き付けてきた。
静かな校内に足音よりも大きなクシャミの音がこだまする。
それが自分のものだわかった瞬間、私はくるりと背を向けて反対側へ走り出した。
最悪…よくお姉ちゃんに親父臭いって言われるやつじゃん。しかもこんな所で。
- 190 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時19分12秒
- 校門にいる警備員から隠れるように校舎の影に入り、早まる心拍数と上がった息を落ち着
かせる。鼻の奥の流れに気付いて、急いでポケットからハンカチを取り出し鼻に当てた。
私もついに花粉症になっちゃったのかな…コップの水が溢れちゃったんだ、きっと。
前にテレビでやってたコップに水を注ぐイメージと、一回かかると治らないと言っていた
医者の他人事のような低い声が頭に浮かぶ。
はぁー。くしゃみが所構わず出るようになるなんて、ほんと最悪だよ。
ため息まじりに俯く。見覚えのある紙が足下の地面に転がって、かさかさと音をたてていた。
強くなっていく風とともに揺れる姿を見て、私は急いでしゃがみ込みそれを手で押さえた。
ハンカチをとった時にポケットから落ちちゃったのかな?
砂をはらって紙をひろげる。そこにはバランスの良い綺麗な文字が並んでいた。
- 191 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時21分00秒
『 石川先輩へ
合格おめでとうございます。希望の大学に受かったという話を聞きました。
本当におめでとうございます。私も早く卒業したいです。
テニス部のロッカーのことで、伝えておきたいことがあって手紙を書きました。
実は、2月に入ってからインフルエンザにかかってしまい、今入院しています。
先生によると治療に長い日数がかかるとの事で、すぐに退院というわけにもいきません。
そうなると、先輩の卒業に間に合わないかもしれないので、あのロッカーの鍵を同封して
おきました。中身は、先輩の荷物を片付ける時に一緒に処分してしまって下さい。
こんな形で最後の最後まで迷惑かけてすみません。荷物はそんなに高価なものはないので
大丈夫です。あと、先輩にお借りしていたマンガもそこに入っています。
部員でもない私に親切にしてくれて、本当に嬉しかった。石川先輩はいい先輩です。
もっと自信を持っていいと思います。可愛いし、きっと大学に言ったらモテモテですよ。
またテニスしましょう。それまでに腕を磨いといで下さいね。
愛 』
- 192 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時23分27秒
- 腕を磨いとけ、か。
ふふっと笑い声が自然にこぼれた。
それは丁度一週間前に家のポストに入っていた手紙。自慢の後輩からの手紙だった。
私は笑みを浮かべたまま視線を上げ、ネット越しにテニスコートを眺めた。
寺田愛の姿に気付いたのは、梅雨があけたばかりの生温い季節。蒸した風が街に押しかけ、
蝉達があちこちで騒ぎ出した頃だった。そして、私にとっては部長としての最後の夏。
青い空の下、苛立つ私の視野が狭かっだけで、きっと愛ちゃんはもっと前からそこにいた
んだと思う。
入学した当初から、そこの柱に寄り掛かって緑色のコートを見ていたんだろうな。
輝く中にも寂しそうな眼差しをもって―
- 193 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時25分48秒
柱の横に立っている愛ちゃんの姿を、今でもはっきりと思い浮かべることができる。
凛とした姿勢と落ち着いた表情。一年生ながらも堂々とした態度で、入った時から
周りの生徒には一目置かれる、ちょっと近寄り難い存在だった。
そのせいか、私も彼女が誰かと親しくお喋りしているところを見たことはなかった。
同級生の誰もが彼女のピンとした姿に圧倒され、一歩引いているように見えた。
それには先生達の接し方にも問題があったと思う。彼女の後ろ立てを見据えた接し方に。
この学校は、中学校からエスカレーター式に上がるミッション系のお嬢様学校で、
全体の8割以上の生徒は何かしらどっかの会社の役員の娘だった。学校にかかる金額を
考えれば、それは当たり前のことだったのかもしれない。
ミッションスクールといっても、本当に信仰心を持ったクリスチャンはあまりいない。
礼拝堂で牧師の声を聞く時も、体育館で学長の話を聞く時も、ほとんどの生徒はみんな
似たような表情を浮かべていたし、その列の中いた私も、同じような顔をして早く時が
過ぎることばかり考えていた。
- 194 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時26分56秒
- 親の熱心な進めもあって、高校から入学した私についていける話題は少なかった。
引越し好きの妙な両親のせいで、小さい頃から転校ばかりさせられていたから、深い関係を
築き上げる方法なんてわからなかったし、中学からそのまま上がってきた子ばかりの環境で
は、自然と友達ができるようになる、なんていう最後の安易な望みも叶うことはなかった。
楽しいとはいえない高校生活。それでも親戚などに私の通っている学校の事を、まるで自分の
事のように自慢するパパの顔を見ていたら、行きたくないなんて、転校したいなんて、とても
じゃないけど口にはできなかった。
場所が変わってもずっと続けていたテニス。
それに打ち込むことで、なんとか過ごしてきた3年間だった。
- 195 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時29分33秒
- 私みたいに一人で行動する生徒はたくさんいたけれど、愛ちゃんの存在感はその中でも
ひときわ目立っていた。彼女の父親がこの学校の経営に強大な影響力を持っているのを
みんな知っていたから。
それに莫大な資金をここに寄付している親は、いくら金持ちといっても他にはいなかっ
たし、その寄付によって新しい校舎も建てられたという噂も、すぐにみんなの耳に入る
環境だった。
といっても、彼女の父親がやっているハロプロというブランドは私達の身近な憧れだった
から、それを囲んで輪を作るなんてことは簡単なことだったはず。現にその化粧品を学校
帰りに使っている生徒はいっぱいいたし、それだけは抜き打ちチェックでもいつの間にか
暗黙の了解事になっていて、先生に没収されることはなかった。
それでも一人でいたのは愛ちゃん自信の意思の結果だったんだと思う。
それは目に見えないオーラとなって彼女の周りに独特の雰囲気を作り上げ、彼女のかわいい
容姿と重なり合うことによって、寺田愛という人物に対する憧れをも密かに生み出していた。
通りすぎる彼女に上がる黄色い声に、私も年下ながら羨ましく思ったことがあった。
- 196 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時30分28秒
- その反面、嫉妬の眼差しも存在する。
どちらの理由からかはわからないけれど、彼女の上履きはいつも真っ白で眩しかった。
どちらにせよ、彼女に話しかけるのは容易なことじゃない。
繰り返しで退屈しきった学生達の日常生活。その閉鎖的な世界に舞い降りた不思議な少女。
常に注目を浴びながらも平然と過ごすその姿に目を奪われないことはなかったし、
彼女を見る私の心の中にも、表向きとは別にどろどろしたものが流れていた。
同じように一人でいるのに、私は毎朝長い長い坂を必死に登り、汗だくになって学校に着く。
電車を乗り継いで帰る家は普通の造りで、狭いリビングで食卓を囲む。二段ベットの下で妹の
騒音に耐えながら目をつむり、母親の怒鳴り声で朝を迎える。
そしてまた、満員電車に揺られ坂を登る。
そんな私の横を、彼女は黒塗りの車に座り悠然と追いこしていく。
何でこうも違うんだろう?
比べること自体バカげてるとわかっていても、生まれた環境を妬まずにはいられなかった。
同じように一人でいるのに―
- 197 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時32分54秒
- あの頃、愛ちゃんは冷たい人だと思ってたんだよね。
花柄のハンカチと手紙をポケットにしまい、テニスコートを横目に歩き出す。
正面に見える一階建てのコンクリート造りの建物。一列に等間隔で並んだドア。
その中の一つのドアの前にできた黄色い山を見て、私はため息をついた。
もう、またしまい忘れてるよ。何度も言ってるのに。
小走りで部室へと近づいていく途中、テニスボールが一つ溝に転がっているのを見つけて、
私はまた小さく息を吐く。「しょうがないなー」と呟いてからボールを手にとった。
私がここでへまをしなかったら、愛ちゃんと喋ることはなかったんだよなぁ。
- 198 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時34分44秒
- 部室の横に設置されている分厚いコンクリートの壁めがけて、思いっきり手を振り上げた。
気持ちのいい音を鳴らして跳ね返ってくるボール。投げた勢いでバランスを崩しながらも
それを両手でしっかり受け止めて、もう一度その四角い壁を見つめた。
何度も音を鳴らし、たくさんの生徒の思いを受け止め続けたせいで、真ん中だけ色のあせ
てしまった水色の壁。
始めて愛ちゃんと喋ったのもここだった。愛ちゃんのイメージががらっと変わった場所。
私がここで転ばなければ、いつまでも彼女に対する偏見を持ったまま卒業して、彼女の事も
時間とともに自然と忘れていったはずだった。
そう、あの時に転んでなかったら――
- 199 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時36分14秒
ここで壁と向かい合っていた愛ちゃんの後ろ姿を見つけた時には、何か見てはいけない
ものを見てしまったような感覚に包まれ、一瞬身動きができなかったのをよく覚えてる。
普段は騒々しい声が飛び交うこの建物もテスト前には誰も寄り付かないために、その時も
閑散とした風景が広がっていた。入部している動機が推薦資料の一行を埋めるためという
ことを、平気で口にするような人ばかりの集まりだったから、それは当たり前のことで、
その景色は私が入る前から変わってないようだった。
みんなとは逆に、密かにその静かな環境を気にっていた私は、部長だからといってそれを
変える気なんて少しもなかった。そこは、部長という押し付けられた仕事も気にしないで
テニスをできる場所だったから、テスト勉強の時間を削られることも、壁を相手にすると
いうことも全然苦にならい、テストの事を除けば最高に楽しい二週間だった。
- 200 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時38分31秒
- それでも三年生になると、受験の差し迫ったプレッシャーから逃げられなかった私は、
ボールを打たずにまっすぐ家に帰るようになっていた。
三日くらいたった頃、自分で貼った受験生という少しかっこいい響きのあるレッテルにも
飽きてしまい、「ストレスを溜めるのはよくない」なんていうありきたりの理由を頭の中
で繰り返しながら、誰もいない部室へと向った。
青い壁の前に立っていた彼女。その手に握られている物がラケットだとわかった時、
私は慌てて部室に隠れようとしていた。
Tシャツを着た肩がせわしなく上下している。
いつもストレートに下ろしている黒髪が後ろで結ばれている。
それを目にしただけで何故かよくないこと見てしまった気分だった。
ちらりと見えた横顔にも寺田愛のイメージが一つも当てはまらない。
- 201 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時40分19秒
- きらきらと輝いた目。高揚した頬。汗ではりついた前髪。
私がその姿を見たことを彼女に知られてはいけないという強い意識だけが、
頭の中で警報を鳴らし始め、私は自然と後ずさりしていた。
音をたてないように片足ずつゆっくりと。後ろに何かあるのかも確かめずに。
きゃっ!
体がふわりと浮き、青い空が視界に入ったかと思うとお尻に鈍い痛みが走った。一瞬何が
起きたかわからずに、からっぽの頭で、ただ空が青いことだけを思っていた。
顔を起こし、足元に倒れたカゴとあちこちに散らばっていく黄色いボールを目にした時、
ようやく自分のしでかしてしまった事を理解した。それと同時にコンクリートについた
両肘がひりひりと痛みだす。
- 202 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時42分49秒
- 「大丈夫ですか?」
そう声をかけて私の前にしゃがみこんだ彼女の顔を見て、さっきまでの記憶が一気に蘇り
もっと重大な失敗に気付くことができた。
体の痛みも忘れて「大丈夫、大丈夫」と、壊れたロボットみたいに呟きながら立ち上がる
私に彼女はにこっと微笑むと、まき散らしてしまったテニスボールを拾いだした。黄色い
海に埋もれたままの私は、状況をのみ込めずにしばらくぼーっとその姿を眺めていた。
あの寺田愛が私に笑いかけた?テニスボールをせっせと拾ってる?うそ…
目をごしごし擦ってもその状況は変わらないし、腕を捻って見えた肘はどんどん赤くなって
いく。その痛みを再認識して、私は急いでボールを拾いだした。動揺を押さえるように転が
っているボールをひたすら集めた。最後のボールをカゴに投げ入れると、向かい合った彼女
は手をパンパンと払い、また私に笑いかけた。
彼女が肘の傷の具合を聞いてくるのにも、私は固まった姿勢で「大丈夫、大丈夫」と頷く事
しかできなかった。そんな片言しか話せない私を見て彼女は声を出して笑った。
2つ下の後輩に混乱させられて、もう私には何が何だかわからなくなっていた。
- 203 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時44分26秒
- 次の日からに、私は壁を相手にすることなくテニスを楽しむようになった。
ネットを挟んで反対側に立っている愛ちゃんを初めて前にした時は、変な気分だった。
緊張しているけど現実味のない世界。しかし、それも彼女の手から放たれた重たいサーブの
感触によって一瞬で消え去る。
対角線上で輝く笑顔。スピンのかかった鋭いボールに、右に左に、前に後ろに、走らされる。
生き生きと弾むボールの手ごたえに私は時間も忘れていた。この学校に入ってから、こうし
て誰かと向かい合ってテニスをする喜びが麻痺していたのかもしれない。
ボールが緑色のコートを跳ねる。
その音はテスト期間中も鳴り続けた。
愛ちゃんは、はっきりいって私なんか相手にならないほど上手かった。
ラリーが続くように手を抜いてくれているのも分かっていたし、彼女も
そのことを隠そうとはしなかった。
――石川先輩いつになったら勝ってくれるんですか?
そう言う彼女の笑顔に、私は口を尖らせる。年下だなんて意識してなかった。
――卒業するまでに絶対勝つからね!
- 204 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時45分29秒
- 彼女が誰もいない時間に一人で壁打ちをしていた理由は、この学校ではよくあることだった。
中学生までテニス部に所属していたみたいで、後で部の後輩にさりげなく話を聞きだしたと
ころ、彼女は相当な実力者だったらしい。
テニスの未来が開けていた彼女と、それを望んでいない父親。
もちろん勝つのは後者で、高校に上がると部活動は一切禁止され、学校と家とを往復する
毎日になったという。私はその話をぽつぽつと喋る愛ちゃんの横顔を見て、相づちをうち
ながらも頭の片隅では今までの自分を恥じていた。
私とは全然違う、それは当たり前の事だった。私は今まで何を見ていたんだろう。
同じなんかじゃなかった。
私達がテニスをしている姿をいつも見ていて羨ましかった―
と漏らす彼女の言葉が、私の胸に深くつき刺さった。
- 205 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時49分12秒
- 期末テストが終わると愛ちゃんの姿はコートからなくなり、
その上では今まで通り部員達が声を上げる。
その遊びと区別ない態度を見ていると無性に腹がたって、悔しくてしょうがなかった。
でも、私がその事を注意したとしても、真面目に受け止めてくれる子はいないというのは
わかっていたし、愛ちゃんの話を説教の材料にするわけにもいかなかった。
それは、私だけの物にしておきたかったから。
二週間、毎日いろんな事を話した。
たまに彼女の話を聞きながらも「あーほんとうに寺田愛と話をしてるんだなぁ」と、不思議
な感覚にとらわれることがあったけど、それも学校内での彼女とここにいる愛ちゃんは別人
なんだと思うと、どうってことはなかった。
実際、校内ですれ違う時、彼女とこっそり笑い合うことを除けば、その大人っぽく堂々とし
た態度は以前と変わっていなかった。きっと自分と仲良くしてしまった後で、私に向けられ
る奇異な視線に、愛ちゃんは気を使っていたんだと思う。
私達がボールを打ち合い会話をしていることに気付く生徒は、一人もいなかった。
- 206 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時51分07秒
- 愛ちゃんが子供のように笑うことも、全然大人っぽくないことも、
興奮すると早口になることも、本当はとても恐がりなことも。
私以外に知っている生徒は一人としていなかったはず。
日の落ちた部室前で待っていた愛ちゃんの背中を、忍び足で叩いた時のあの、びっくりした
顔は忘れられない。幼い子供みたいに脅えきった表情。
私の下手だと言われている脅かしに引っ掛かったのは、後にも先にも愛ちゃんただ一人だっ
たから、余計に脚色されたそれは輝かしい実績として、私の中にいつまでも残っていた。
いつの間にか、テスト前の学校がとても楽しみになっていた。それは愛ちゃんも同じだった
みたいで、後期のテスト期間中は早朝からテニスコートでボールを追いかけることもあった。
テスト近くにならないと、学校の自習室や図書館で勉強していく―という理由をつけて遅く
まで学校に残ることができないらしい。
それに他の生徒に見られないという条件も揃ってたから、入学した当初からこの二週間に
目を付けていたと言っていた。だから前期の中間試験の時に、私の壁打ちする姿を見て、
がっくりしたということも笑いながら話してくれた。
- 207 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時53分58秒
愛ちゃん大丈夫かな?そうだ、今度お見舞いに行こう。綺麗なお花いっぱい買って。
ずっと握っていたボールをカゴに入れ、部室のドアの前に立つ。学校指定の使いにくい鞄に
手を入れると、部室の鍵と一緒に手紙に入っていたロッカーの鍵もつかんでいた。
細くて小さな鍵。この頼りない鍵を渡した時の嬉しそうな愛ちゃんの顔。
――え?いいんですか?私、部員でもないのにロッカーもらっても…
私はにっこり笑みを浮かべながら、大きく頷く。
――いいのいいの。これぐらい部長の特権を使わないとね。私が2つ使ってても文句言う子な
んていないし誰も気付かないよ。はい受け取って。これで大事なラケットもしまえるじゃん。
喜びを隠しきれない表情で、手にした鍵を何度も見つめる。
――ありがとうございます、石川先輩。
私は偉そうに腰に手をあてる。
――おう、苦しゅうない。愛ちゃんを、私の立派な後輩として認めてやるぞ!
冗談ぽい口調でも、それは本当にそう思って言った言葉だった。
- 208 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時56分16秒
- 生徒には教室内のロッカーが割り当てられていたけれど、みんなの視線が飛び交うその場所
に大きなラケットケースをしまっておくのは、いつも注目を浴びている愛ちゃんしてみれば、
とても危険な事だった。
体育で走った100Mのタイムがその日のうちに伝わってくる学校だったから、それを誰かに
見られたりしたら、たちまちその噂は学校中に広がっていたはず。いくつかの嫌味を乗せて。
寺田愛はまだテニスに未練があるんだってさ―
そんな噂も、学内での別人の彼女だったら気にすることなく、ラケットを持ってて何が悪い?
という態度で過ごせていたと思う。でも彼女は、その噂が先生から親に伝わることを恐れてい
たようで、中学の校舎から移ってきてもしばらくは、隣の敷地にある中学校の使われていない
物置きにラケットを隠して続けていた。
- 209 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)01時57分25秒
- あの時だけだなぁ。部長をやっててよかったと思ったのは。
赤い札にテニスと記された鍵を、円いドアノブの中心に差し込んで右に回す。誰もいない空間に
ガチっと音がなった。その時、どこかで物音がしたような気がして辺りを見回すけれど、並んだ
他のドアはどれも開かなかった。
気のせいかな?なんか気味悪い…
恐怖心を削ぐように勢い良くドアを開くと、中からいろんな臭いが空気の固まりとなって一気に
押し寄せてくる。香水やスプレーなどと湿気や汗のカビ臭さが混じった香り。むせかえるような
臭いに、私は思わず咳き込んだ。
もう、掃除もしてないんじゃないの。
- 210 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)02時00分53秒
- 正面の窓にカーテンが引かれていたせいで室内は真っ暗だった。物を踏まないように
注意して、左手にあるスイッチへと手を伸ばす。
しかし、そこに硬いプラスチックの感触はなかった。指先には柔らかな感触。
それは弾力があって、ちょうど自分の頬を指でつく感触と似ていた。
そう、人間のほっぺたみたいな感じ…。え?人!?
背筋にひやりとした寒気が走る。
まさか、強盗?どうしよう、痴漢とかだったら…
暴れるように胸を叩きだす心臓の音が、耳元で聞こえる。
震える指に力を入れ、硬直した顔をゆっくりと左へと向けた。
確に私の人差し指は、人間の頬の上にあった。
- 211 名前:3.2PC 投稿日:2003年04月05日(土)02時02分39秒
- 「きゃぁーーーっ……」
叫び声を上げた私の口は、すぐに後ろから伸びてきた手に塞がれてしまう。
ドアノブをつかんで回すけど、こういう時に限ってうまく回せない。すぐに強い力で室内
に引きずり戻された。必死で手と足を振り回していた私に、唯一の逃げ道であったドアの
鍵の閉まる音聞こえてくる。心臓が口から飛び出しそうだった。
どうしよう、私死んじゃうのかな…そんなの嫌、こんなとこで絶対嫌だ。
愛ちゃんにだってまだ勝ってないし、あのイジメっ子にも仕返ししてないもん。
急に怒りが体に湧いてくる。大事に作ったものを簡単に捨てたイジメっ子。
何故か場違いなその憎たらしい顔が、頭をかすめた。
なんで、私がこんな目に合わなきゃいけないのよ!
私は声を出すのをやめ、目の前の手に思いっきり噛み付いた。
- 212 名前:BX-1 投稿日:2003年04月05日(土)02時07分04秒
- >>183-211 更新しました。
- 213 名前:BX-1 投稿日:2003年04月05日(土)02時09分39秒
- 多すぎ(w
- 214 名前:BX-1 投稿日:2003年04月05日(土)02時10分26秒
- あげ。
- 215 名前:ふぉるて 投稿日:2003年04月19日(土)01時12分26秒
- 楽しみにまってます!
- 216 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時17分36秒
☆
「ごめんなさい」
荷物のごった返した床に、石川は居心地悪そうに座っていた。正座した足がしびれだす。
重心を移動しながら、石川は前で顔をしかめている人物に何度も頭を下げた。
その人物は、弱々しい声にもちらっと視線を送っただけで、何の反応もぜずに消毒液を
自分の手にふきかけた。石川はしゅんと肩を落とし、伏せた目をその手に向ける。
そこには自分の歯形がくっきりと赤く刻まれていた。
少し血も滲んでるみたい。悪いことしちゃったなぁ…
申し訳ない気持ちで、そのてきぱきとした動きを大人しく見守っているかたわら、
石川はもう一つの鋭い視線に脅えていた。
- 217 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時18分44秒
- ドアを塞ぐように入り口近くの壁にもたれ掛かり、無表情に腕を組んで動かない少女。
どこかの学校のセーラー服を着ているけれど、その冷めた表情にはミスマッチで、逆に
不気味さを演出していた。
同い年くらいなのかな、どこの学校だろ?
石川は盗み見るようにその少女の様子を伺う。少女はどこか遠くを見るような眼差しで
天井を見つめていた。それにも関わらず、ここに座った時からずっと、少女の方からの
視線を石川は感じ取っていた。こちらを見ているわけではないのだが、石川にはその何
も映していない無反応な黒い瞳が、常に自分を捉えているような気がしてならなかった。
年上かもしれない、それにけっこうかわいくない?
そんな事を思いながら、まじまじと観察していた石川と少女の視線がからみ合う。
触れてしまえば、今にも噛み付いてきそうな冷たい目。
石川は瞬時に動きを奪われていた。
絶対なんか怒ってるよね…あ、さっきほっぺさしたからかな。
少女は石川をしばらく見つめた後、何ごともなかったかのようにまた天井でちかちかと
音をたてている蛍光灯に目をもどす。石川のこめかみに汗の嫌な感触が走った。
- 218 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時19分53秒
「ちょっと、絆創膏もないの?テニス部のくせして」
「ご、ごめんなさい」
正面には今にも泣き出しそうな声を発する女生徒。
二メートルくらいの微妙な距離をとって座っている。
「なってないわね」と愚痴りながら、保田は救急と書かれた木箱を閉じた。
いったー、噛み付かれるとは思わなかったわ。
保田は消毒液をかわかすように腕を振り、手の甲に息を吹きかける。
いきなり口を塞いだ私も悪かったんだけど。あんな力がこの子にあるなんて。
膝に両手を添えて座っている生徒は、獲物に狙われている小動物のように震えていた。
保田の値踏みするような視線に女生徒は顔を上げ、もう何度となく繰り返された言葉を
口にする。
「本当にごめんなさい。痴漢とかと勘違いしちゃって…」
- 219 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時20分27秒
- 痴漢って…失礼な。
その響きに保田が眉間に皺をよせると、少女はますます小さくなった。
胸の前で寄り添うように組まれた小さな手、その上で目は潤んでいるように見える。
あー、私こういう女の子って苦手なのよね。ごっちんなんてもっと…
そういえば、痴漢ってとこでごっちんの笑い声が聞こえてきてもいいのに―
さりげなく後藤に目を向ける。後藤はドアに寄り掛かり、つまらなそうに天井を眺めて
いた。その他人を牽制するように作られた表情に、保田は「あらら始まっちゃった」と
心の中で苦笑した。
後藤の人見知りは同年代に接するとぐんと力を増す。後藤自身は気付いていないけれど、
行動を共にするようになって、すぐに保田はそのことに気が付いていた。
自分の境遇と相手の揃った環境とを、無意識のうちに比べてしまっているんだろうか。
そのやりきれない気持ちに蓋をするかのように、高校生を相手にすると後藤は全く口を
開かなくなってしまう。そして、それは今に始まったことではなかった。
ごっちんは放っておこう。あれじゃ、喋りそうにないや。
- 220 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時21分12秒
- 保田は再びその生徒と向き合った。
相変わらず、少女の周りには女々しい雰囲気が漂っている。
はー、この子はさっさと帰らせよう。
ゴホンとせき払いした保田に、びくっと少女は敏感に反応した。
「で、あなたテニス部員なの?」
「ちっ違います。あ、そんなことないです。今は、あの、その部員ですけど部長が…」
「ちょっと落ち着いて喋ってよ。何言ってるかわかんないから」
甲高い声で言葉を発する少女に、保田は頭をかかえる。
この声も苦手だわ…いてて。
保田の頭に忘れかけていた頭痛が蘇ってきていた。
「あの、私去年まで部長だったんですけど引退したんです。だから、元テニス部員なん
です。もうすぐ卒業するので、ここで見たことは言わないですから、絶対秘密にして
おきますから…ここのランクを下げないで下さい。お願いします」
「ランク?…あぁー星のことね」
たんを切って喋り出した少女のパワーに少し戸惑いながらも、
この子ってけっこう単純なのかも、と保田は思っていた。
あんな嘘を信じちゃうなんて。
保田はこみあげてくる笑いをかみ殺すのに必死になる。
思いついた私も私だけど――
- 221 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時22分02秒
少女を捕まえた後。
初めは、自分の手に噛み付いてきた少女にガミガミと文句を言っていたものの、
少し落ち着いてからふと投げかけられた質問に、保田は戸惑いを隠せなかった。
「あのーあなた方はどなたですか?先生じゃないですよね」
そう、怒るべきは少女の方で、ここでは保田達の方が不審者だった。
もしも後藤が制服を着てなくて、彼女達が覆面のような物を被っていれば、少女は
悲鳴を上げ助けを呼びにいっていたかもしれない。先生といっても面識はない。
保田は動揺を消すような笑みを浮かべることしかできなかった。
そして、不自然な間を埋めるのにとっさに思い浮かんだ言葉を声に出していた。
「実は、私達は調査員なんです。
横浜エリアにある学校のテニス部の調査を、極秘裏にしている者です」
それは少女の疑問に満ちた顔色をさらに深めた。保田も自分で言っておきながら
「何だそりゃ…」と自問せずにはいられなかった。それでも保田は嘘の上塗りを続ける。
共犯の可能性のあるこの学校の生徒に、高橋愛の名前や、まして自分の素性をバラすわけ
にはいかなかった。
- 222 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時22分58秒
- 「実は、学校案内と同じで部活動案内というものがあるんです。それはもちろん書店で
も販売していません。ごく僅かな部数しか作っていないし、それは自分の生徒の進路
を心配する中学校にしか配付してないものなんです。だから、あなたがその存在を知
らないのは当然のことなんですよ」
次から次へと出てくる嘘を保田は止めることはできない。自分でも途中からやけくそに
なっていっているのに気付いていた。
「公正な審査をするために、この調査も学校には知らせてません。厳選な審査で格付け
を決めていかなくてはなりませんし、不正を見逃すわけにもいきませんから…なので、
ここで今日、私達を見た事は内緒にしておいてくれませんか?」
事務的できっぱりした保田の口調に少女は信じきった様子で頷いた。
保田は平静を装いながらも、内心ガッツポーズを決めていた。
「もしかして、三ツ星とかつけるやつですか?」
少女の変な質問にも、保田は柔軟に対応する。
「そうよ、私達はミシュランのエージェントなの」
保田は笑いを押さえるように、低い声でそう答えた。
- 223 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時25分53秒
でも、この子で良かったわ。そんな部活動の内情調査なんかを、ミシュランがやるわけ
ないじゃない。てか、そんな本ないわよ。
保田は自分の事をミシュランの人間だと思い、目を輝かせている少女を馬鹿にしながら
も、少し楽しんでそれらしい嘘をどんどん付け足していっていたのだった。
もう、今ではすっかり信じ切っている。
そして、彼女はランク付けのお願いまでしてきていた。
「わかってるわ。いきなり口を押さえた私も悪かったし、ランキングはきちんと公正に
やるから、下がったとしてもあんたのせいじゃないから」
「そうですか、よかった…あっ、でも絆創膏とかないし部屋汚いから」
「まー三ツ星は無理ね」
その言葉に少女はがっくりと肩を下げる。
保田はにやけた顔をなんとか引き締めて声をかけた。
「私達はもう少し調べることがあるから、あなたにここにいられると困るのよ。
荷物かなんか取りに来たの?」
「あっ、はい。荷物を取りに…すぐ帰りますから」
- 224 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時27分09秒
- バタバタと慌ただしく立ち上がったと思ったら、すぐによろける少女。
どうやら足がしびれてしまっているようで、恥ずかしそうに顔を赤らめている。
失笑しながら、保田は後を振り返った。さっきの所から一歩も動いていない後藤。
保田の視線を感じているようだったが、目を合わせる気配はなかった。
する事もない保田は、石川がロッカーの荷物を取り出す様子を背後から覗き込んでいた。
「あーこれガラスの仮面じゃない」
そう言って、一番上に積まれていた一冊を手にとりパラパラと捲る。
「これって何巻まで今出てる…ん?」
少女は動きを止め、ロッカーの中を困った表情で見つめていた。
「どうしたの?」
「いえ、あのーラケットとかどうしようかなーって思って」
「ラケット?あーこれね」
保田は断わりもなくラケットケースを取り出し、いつものくせで丹念に見つめていた。
「なんか高そうだわ、これ。大学行ったらやらないの?えーと、あいさん?…えっ」
ラケットケースに刺繍された文字を読んだ保田は、自分の声に目を見開いた。
黒いケースに「Ai.Terada」と、白い糸がしっかり縫い込まれている。
アイ・テラダ…寺田愛のことよね。は?どういうこと?
- 225 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時28分12秒
- あまりにも簡単に出てきたその名前に、保田と後藤は顔を見合わせた。
「あのー違います。それ私のじゃないんで…私は石川っていうんです。石川梨華」
いきなり堅くなった保田の表情に、石川はなぜか自己紹介していた。
「なぜ石川さんが愛さんのロッカーを開けてるの?」
保田に不審そうな眼差しを向けられ、石川は言葉に詰まる。
ずっと興味なさそうに離れたところに立っていた後藤が、二人に近づく。
それが余計に石川を慌てさせた。
どうしよう、私が他人のロッカーを開けて盗んでるって思われたら…
私のせいで星つかなくなっちゃうよ。あの子恐いそうだし。
どうやって説明すれば、あっ!そうだ――
石川はポケットから紙を抜き、まだ訝しげな表情をしている保田にそれを差し出した。
「あの、私これを愛ちゃんから貰って…片付けるように頼まれたんです」
普段とおりの声を出そうとしたのに、裏返りそうな声になっている。
保田がその手紙に目を通し終わるのを、石川は息を呑んでじっと見守った。
- 226 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時29分47秒
「インフルエンザね…」
読み終えた保田はぼそっとそう呟いて、紙を隣にいる後藤へと渡す。
眼鏡の向こうの目には、先程までの厳しさはなくなっていて、何か別の事を考えこんで
いるようだ。とりあえず自分に向けられていた疑いが晴れて、石川はほっと胸をなで下
ろした。
「あなた…えっと、石川さんは愛さんと仲良かったの?」
「ええ、はい。良かったですよ」
「そう、どんな子だったの?」
ミシュランの調査員が何の関係もない、テニス部員でもない寺田愛の事を尋ねてくるの
にも、石川はあまり疑問を持たずに、今までの出来事を喋り出していた。
寺田愛の間違ったイメージ。そして、石川の前での本当の彼女の姿。
本当はいつも見せびらかしたかった誰にも言えなかったことを、気兼ねなく言葉にでき
るということに、石川はすっかり魅了されていたようだ。
とんだ邪魔ものが入ったと思ってたけど、すごい収穫だわ。
保田は熱っぽく喋る石川に耳を傾けながら、寺田愛の情報の部分だけを素早く頭に残し
整理していった。それとともに、一枚の写真と整頓されたロッカーから得ていた彼女の
イメージがもろくも崩れ落ちる。
- 227 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時30分51秒
- 寺田から預かった写真の中の子供らしい笑顔から、学校の中での冷めた表情を繋げるの
は難しかったが、それよりも、この石川という少女に接していた彼女の態度を聞いて、
保田は少しほっとしていた。
「それじゃー、このマンガ以外は全部その寺田愛さんの物なのね?」
「はい、そうです」
石川はやけにはっきりとした口調で答える。
話し終えたその顔には充実感が色濃く出ていた。
「そう…なら、後は処分しておくから、石川さんは帰ってもいいわよ」
「え?」
その言葉に、石川は面喰らったようだった。それまでの表情が一瞬にして強ばる。
「早く帰らないと暗くなっちゃうわよ。あっ、マンガ入れる袋いるわねー」
保田はなるべく無関心を装ってそう答えながら、ちらかった室内から適当な袋を捜そう
と腰をかがめた。
「あ、袋は持ってきてますから大丈夫です」
持ってるならさっさと出しなさいよ。
ゆっくり鞄をあける石川に保田のイライラが募る。
本当はすぐにでも、寺田愛のロッカーを隅々まで調べつくしたかったのだ。
- 228 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時31分53秒
「ふー、やっと帰ったわね」
「帰ったっていうか、圭ちゃんが追い返したって感じだったけどね」
「だって、あの子。あーでもしないといつまでも帰らなかったわよ」
石川が家から持ってきた紙袋も、持ち上げた瞬間にマンガの重みで底がぬけてしまった。
保田は爆発しそうな苛立ちをなんとか笑顔で押さえながら、石川に丁寧に対応していた。
それでも、なかなか帰らない石川に最後の方は半分キレかけていたため、実際はその表
情で石川が逃げたといっても過言ではなかった。
「でも、そのおかげでコレ忘れていってくれて良かったねぇ」
後藤の手には、石川宛に届いた手紙が握られている。
彼女の話によると、この手紙が届いたのは一週間前の金曜日ということだった。
もちろん彼女の記憶が間違っているという可能性もあるけれど、家族全員で外食した日
の帰りという条件がついていたので、保田はそれを正確なものとして扱うことにした。
- 229 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時33分30秒
- きっと、誘拐されてから出したのね。
消印はなかったと彼女は言っていたから、無理を言って犯人に届けさせたのかもしれない。
しかも、七日は誘拐されたすぐ次の日。
愛さんってそういう所きっちりしてる子なのかな。自分が誘拐されてるっていうのに…
「ねー、ごとーっていい仕事するよねー」
「はいはい、そうね。忘れたっていうか、ごっちんが恐くて言い出せなかったのかもよ?
返してくれって…あんたかなり恐い顔してたから」
「んー、まーそれも私の作戦だったんだって。大成功だねー!」
今までの沈黙を取り戻すかのように、後藤はへらっとした笑顔でそう答えた。
そういうことに、しといてやるか。
保田はそれに深くつっこむことなく、手紙を受け取る。
「よくやったよ、ごっちん。グッジョブ!」
親指を立てると、後藤は照れくさそうに笑った。
- 230 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時37分58秒
- 寺田愛のロッカーは、教室のものに比べる依然にひどく散らかっていた。
保田は慎重に中身を出していく。その横で後藤がそれを受け取り、この部室で拝借した
ダンボールに入れていった。
ラケットに、ジャージ、シューズ。
どれも使い込んであるのが一目でわかる。
「へー、愛さんって宝塚好きだったのね」
「いっぱい雑誌があるねぇ。花組、雪組って幼稚園みたい。私月組だったんだよー」
「そんな事聞いてないわよ」
「あははは、見て見てすっごい化粧じゃない?これハネとかついてるよ」
「舞台用だからね。ほら、広げてないでしまっていってよ。終わらなくなるから」
「うーん。…でも、これ圭ちゃん似合わなそう。ぷはは」
- 231 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時39分36秒
- その言葉に保田は手を止めて、身を乗り出す。
「何よ!どれ?…綺麗なピンクの衣装じゃない。ラインダンスなんて楽勝よ」
「網タイツだよーははは」
「私の美脚を見たことないから、そんなこと言えるのよ。エステだって毎週…」
「マッサージでしょ?」
「エステっていうのよ」
「ふーん、そういうことにしといてあげるよ。おばーちゃん達がいっぱいのエステねー」
「うっさいわね。口ばっか動かしてないで…どんどん詰めなさいよ」
保田はげらげら声を上げて笑う後藤を見て、石川を帰らせなければよかったと思っていた。
- 232 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時40分11秒
「これで最後か…」
テニスに関する本や雑誌も全部よけると、一番奥からボロボロの年期の入った箱が表れる。
保田は隠れるように潜んでいたそれにゆっくりと手を伸ばした。
持った感触と伝わる振動に、保田は目を輝かせる。
「早く開けてよ、圭ちゃん」
「わかってるわよ」
あちこち押しつぶされて歪んだフタを外す。外見の汚れからは想像できない真っ白な紙が
目に飛び込んでくる。それは一枚だけじゃなく、大量におさめられているようだった。
「手紙みたいね。誰からかかな?」
「圭ちゃん、早く読んでよ」
「わかってるって」
待切れずに手元を覗き込んでくる後藤を制して、保田はその文字に目を走らせた。
「おっす、元気かい?うちの学校はやっとテストが終わったよー。
今回も全然できなかった…。すっげーやばそう。て、いつもいってるね。
みんなにもバカバカ言われてるし…そっちはテニスできた?
その親切な先輩はもう受験なんだよね。大丈夫なのかな?私は勉強もしないでバレー
ばっかりやってたからバカになっちゃったんだよね。好きだからしかたないんだけど―」
- 233 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時40分53秒
- 内容はほとんど普段の生活の近況報告だった。少なくとも誘拐に結びつくような言葉は
どこにも見当たらない。保田はため息まじりに全部読み上げてから、次の手紙を広げる。
後藤もそれを見て箱の中をあさりだした。二人で分担して目を通す。
「全部同じ子とのやりとりみたいね。秘密の文通っていったとこかな?」
「そうだねぇ、この秘密のロッカーに隠してるし。
あの親父、娘のものとか絶対チェックしそうだもんね」
「親に見られたくないのかな?こんな友達との手紙でも…あと、これ全部」
唸るように出てくる保田の低い声に、後藤が口を挟んだ。
「名前がないよねぇ」
「先に言わないでよ」
そう言ってひらひらと手紙をかざす後藤から、保田はそれをぱっと奪い取った。
「だって、圭ちゃんもったいぶるからさー」
「そんなことないわよ」
保田は十数枚ある手紙全部に大雑把に目を通した。
予想通り、そこに差出人の名前はなかった。
- 234 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時42分47秒
- 「差出人だけじゃなくて、文章中にも名前が出てこないのよね。そっちは、とか主語を
はぶいたりしてあって、まるで使う事をわざと避けてるみたい」
保田の中で、もやもやとした物が膨らんでいく。
誰かに見つかった時のことを考えたかのように、徹底して書かれていない名前。
もしかして、この文通相手が――
「それに、まだ謎があるよ」
後藤の声に保田は一旦、絡まりだした糸から手を離した。
「まだ何か引っ掛かるの?ごっちん」
「うん、かなり引っ掛かるねぇ」
にやけながら腕を組む後藤の言葉に、保田は苦笑いを浮かべる。
「もったいぶらないで教えてよ」
「しょーがないなー」
後藤はにこっと笑い、畳まれ投げ出されていた椅子を組み立てて、そこに座った。
バケツのようなな入れ物をひっくり返し、向かい合わせに置いて保田を手招きする。
どうやら後藤にしては、めずらしく話が長くなるらしい。
それにしても随分な扱いじゃない。
保田は後藤に仕立てあげられた粗末な椅子に、あからさまに嫌な顔を見せた。
- 235 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時43分49秒
- 「んー、これ敷けば痛くないよ。ほら、こうやって丸めれば、痔にもならないし」
「そういう問題でもないんだけど…」
悪気のない、むしろ保田に気を使った後藤の笑顔。
誰のものか分からない丸められたジャージの上に、保田は大人しく腰を下ろした。
「はい、座ったわよ。ごっちんの疑問は何?」
「まずは、封筒がないことかな」
「封筒?」
「そう、手紙送る時にいれるでしょ?」
「うーん。こうも取れるわね」
保田は何回か相づちをうってから、ゆっくりと口を開いた。
「わざと、なくした」
「わざと?」
「そう、つまりは捨てたってこと。こんだけ徹底して名前を使ってないのよ。
事細かく住所や番地まで書かれた封筒があったら、元も子もないでしょうが」
「あーそっか。消印とかもついてるもんねぇー」
満足そうに後藤は大きく頷く。それとは反対に保田の表情は厳しくなった。
考えていることを口にしていく度に、保田はさっき自分の胸の中に浮かんだ考えが、
どんどん重みを増していくのを感じていた。
- 236 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時44分54秒
- この文通相手が中澤裕子とつながっていて、導いたとしたらどうだろう?
これだけの量をやりとりしているということは、会っていないとしても、特に友達の
少なかった寺田愛にしてみれば、まっさきに名前のあがる存在だったたはずだった。
それは手紙の中のくだけた内容からもみてとれし、面識のあるような事も書いてあった。
実際に封筒もない。
寺田愛本人が捨てたということであれば、その文通相手の指事に従っていたという可能
性もある。怪しまれないように、どう上手くコントロールしていたのかはわからないが、
それを考えれば、どこかに連れていくことなんて簡単な事ではないだろうか?
抑制された生活。常に気をはった精神状態。彼女自身の意思がそうさせたなら…
どこかへ遊びに行こうと連れ出すことなんて、学校を抜け出すことなんて、
簡単な事ではないだろうか?
保田は確信に近い考えをつかもうとしていた。
- 237 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時46分34秒
- 「ごっちん、次の疑問は?」
「えっとねー。あーそうそう、これ。これは何の写真なのかな?」
「ん?」
一枚の写真。それは何かの試合の一場面を切り取ったものだった。
試合に勝った後なのか、点数をとった時なのか、一人の少女を中心に体育館らしき室内
のに歓喜の輪が広がっている。
「何これ?試合の隠し取りとか?これってネットあるし、ボールはバレーのよね、あっ」
保田はそれに気付くと、顔を上げ後藤を睨んだ。
「ごっちん。これこの中に入ってたの?」
「うん、底の方に入ってた」
「もっと、早く言いなさいよ!これに文通相手が映ってるかもしれないじゃない」
「だってわからなかったんだもん。そっかー、バレーボールだねぇ、これ。
やっばい、手紙とつながってるじゃんか」
「そうよ、この文通相手の唯一わかってることは、バレーボール部に所属している高校
生ってことだけなのよ。手紙だから嘘の可能性もあるけど」
あれ?でも…
その写真によって、固まりかけていた保田の考えにズレが生じ始める。
- 238 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時47分55秒
- ここまで徹底して名前を書いてないのに、なんで写真を送ってきたんだろう?
信頼を得るために、写真を送らなければいけない状況だったのだろうか。
それともただの考え過ぎ?今どき古いけど純粋な文通相手?
封筒がないのは邪魔だから捨てたという単純な理由だけかもしれない。
それでも手紙の文章に相手の名前を書かないのには、どうしても作為的なものを
感じてしまう。
後藤も同じことで頭を満たしているらしく、濃い沈黙が二人を覆う。
たくさんの手紙と一枚の写真。矛盾した行動。
いや…そうか、だからあんな手紙を。
食い入るように写真に合わせていた保田の目に明かりが灯る。
わざわざ誘拐された次の日に石川に届けられた手紙。いくら人の良い犯人でも、
そんなことに手を貸すとは思えない。脅迫電話をかけたり、やることはいっぱい
あったはずだ。それなのにこの手紙が投函されたということは――
- 239 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時51分06秒
- ゆっくりと加速していく考えに手を貸すように、後藤が呟いた。
「ラケット捨てられなくてよかったね」
保田もその声に頷く。
そうよ…
『中身は、先輩の荷物を片付ける時に一緒に処分してしまって下さい――』
手紙には確かにそう書いてあった。
『――荷物はそんなに高価なものはないので大丈夫です』
高価なものではないとしても、大事にしていたラケット。
「そうよ。隠してまで持っていた大切なラケットを、本人が捨てるわけないじゃない」
あれは石川を心配した高橋が出した手紙ではなく、この写真が見つかる事を恐れた
犯人がよこしたものと考えた方がスムーズだ。
事件がおきている事さえ知らない石川を、証拠隠滅に使うなんて…
保田は興奮した様子で写真を見つめる。喜びで体をいっぱいにして飛び跳ねる少女達。
その背景にもたくさんの人が映ってはいるけれど、観客やベンチの選手らしく、顔の判断が
できるほど大きくはなかった。これははずしていいだろう。
やはり注目すべきはこのコートに立っている選手達だ。
- 240 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時51分53秒
- 紺色のユニホームに袖を通した少女。声を上げ輝く笑顔。
歓声がここまで聞こえてきそうなほど熱気に包まれている。
絵に書いたような青春の1ページ…この中に共犯者が?
「圭ちゃん、もう一個あるんだけど」
「何よ?今いそがしいの」
写真から目を離さない保田の生返事に、後藤は少し間を置いてから何事かを呟く。
後藤の口から出てきた言葉よりも、その急にさめた口調に保田は我に返る。
え?ごっちん、今なんて言った?
保田は顔を上げ、きょとんとした様子で後藤を見つめる。
その表情はいつになく真剣だった。
「ごめん、聞こえなかった。何て言ったの?」
目を合わせていた後藤の視線が自分から外れた。
その睨むような目に保田はとまどいを隠せない。
そして後藤の口から発せられた次の一言が、保田の息を詰まらせた。
「圭ちゃんの後ろに、人がいるのは何で?」
「は!?何言って…」
- 241 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時53分52秒
- 嘘っ。
そう言われると背後に確かに人の気配を感じた。ぞくっとした嫌な感触が全身を敏感にする。
考え事してて全然気付かなかったわ。
先日、寺田家で感じた恐怖が腹の奥底に蘇ってきていた。
もしかして、あの子供の幽霊を連れてきちゃったのかしら?
その気配はいつまでも消えることはない。保田は何度も後藤の視線を確認する。
それは間違いなく保田の右側を通って後ろへと続いていた。
荒い呼吸音も耳に入ってくる。
ん?ちょっと待った。幽霊って酸素必要だっけ?
思いきって後ろを振り返った保田の向こうに立っていたのは、幽霊でもなんでもなかった。
保田のひきつった表情に、細い体をせばめているのは、追い返していたと思っていた少女だった。
「脅かしちゃって、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんですけど」
「べっ別に驚いてなんかないわよ。つーか、なんであんたまだここにいるのよ」
「あのー、ラケットとか愛ちゃん大切にしてたから、やっぱり私が預かっておこうかと
思って、駅まで行ったんですけど戻ってきちゃいました」
- 242 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時56分55秒
- 心臓はまだ激しく高鳴っている。
不安そうにしている石川に、保田は荷物の入ったダンボールを指差した。
「そこにあるから。なんならシューズとかも持っていっていいわよ」
「あ、はい。すみません」
石川がラケットを手にするのを見守ってから、恨みがましい目つきで後藤の前に座り直す。
こいつ、人を恐がらせやがって。
保田のピタリと向けられた視線にも、後藤はしらばっくれた態度をとっていた。
そんな後藤への仕返しを、保田が考えている時だった。
「あ!これどうしたんですか?」
間近で発せられた聞き慣れない高い声に、保田は思わずのけぞる。
すぐ隣でラケットを抱えた石川が、保田の手にある写真を覗き込んでいた。
しまった。見られた――
保田が自分を見つめたまま固まっているのを、石川を不思議そうな顔で眺める。
どうしよう…本日2回目のピンチ。もう嘘なんてつけないわよ。
- 243 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)05時59分23秒
- あ、そういえば、これが愛さんの物だってこの子が知ってるはずないわよね。
秘密のロッカーに入ってたんだから。なんだー、焦って損したわ。
保田は慌てた様子を取り繕うように、柔らかく微笑んでみせた。
しかし、その笑みもすぐに消える事になる。
じっくりと写真を見つめていた石川の言葉によって。
「あー!これよっすぃーじゃん」
「え?よっしー?」
「しーじゃなくて、すぃーです。よっすぃー」
「はぁ、よっすぃーていうのはどの子?」
石川は写真の真ん中に指を置いた。ショートの黒髪の少女。
確かにこの写真では、その少女が主役に見える。
少し日本人離れした顔だちが、保田に新たな疑問を浮かべさせた。
よっすぃーって外人さんなのかしら。シモーヌ・ド・ヨッスィーとか?
- 244 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時01分48秒
- 「石川さんは、このよっすぃーって子と友達なの?」
「えっ、友達というか…」
急に暗い表情になる石川に、保田は首を傾げた。
「友達じゃないけど、知ってるぐらいの人ってこと?」
「ええ…」
「それじゃ、携帯の番号も知らないのね?」
「ええ…」
歯切れの悪い石川の態度に苛立ちながらも、保田は丁寧な言葉をぶつける。
「それでも、この子の学校ぐらいわかるでしよ?」
「あっ、はい。わかります。朝校です」
「何年生?」
「3年生です」
「他に知ってることは?」
「えっと、バレーが凄い上手くて、このバレー部でもエースなんですよ。それに対して
強い学校でもなかったのに、よっすぃーが入ってから試合にも勝つようになって」
「けっこう詳しいのね」
保田はいつまでも終わりそうにない石川の言葉を遮るように呟いた。
- 245 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時05分35秒
- 「え?いや、その…よっすぃーは有名でしたから」
「有名だった?」
「ええ。中学校の時なんて、強化指定の選手にも選ばれてたんです。いろんな所から
スカウトがくるくらい上手かったんです。バレー部のエースで人気者で、他の学校にも
ファンの子がいっぱいいたんですよ」
「てことは、この写真は…」
「きっと何かの試合を、誰かが撮ったものだと思います。けっこう出回ってますから」
「ねぇねぇ、このよっすぃーって、文通とかの申し込みとか多いって聞く?」
急におばさんくさい口調で保田は石川に近づく。
「文通ですか?うーん、昔はあったみたいだけど、どうですかね。今はみんなメール
ですから。メアド聞いてる子とかはいるんじゃないですか?」
「あははは、そうよね、今はメール交換の時代よね、ははは」
文通って発想したのは私じゃないわよ。あんたのお友達の愛さんがやってんのよ。
保田は笑いながら意味もなく心の奥で毒づいていた。
- 246 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時09分02秒
- 「まぁ、そういう子に憧れる年頃なのね」
「うちは女子高ですからね。これここに落ちてたんですよね?
この部にもよっすぃーのファンがいたなんて…誰だろう?」
懐かしそうな眼差しを向ける石川を、自然と保田は観察していた。
この子も、このよっすぃーのファンだったのかな?
寺田愛とその少女が文通していることは、石川は知らないようだった。
この子で決まりね。愛さんは宝塚も好きみたいだし、このよっすぃーって子に憧れ
てたのかもしれない。
それにそんな人からの誘いがあれば、自ら学校を出ていくのにも問題はないし…
でも、こんな高校生が事件に加担するには、それなりの理由があって欲しいな。
保田はその少女の輝く笑顔を目にとめながら、石川に自分の願望をぶつけた。
「それで、今はどうなの?過去形ということはケガでもしたとか?」
- 247 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時09分54秒
- ケガによる挫折で荒れた生活を送る少女。そこで偶然中澤裕子に知り合う。
ちょっとベタすぎるかな。
そんな保田の思いに石川は首を振った。
「違うんです。突然、朝校に進学しちゃったんです。スカウト全部けって」
そう言いながら、石川は写真へと目を落とす。
「それでも、その学校で楽しそうにバレーやってて、何でなんでしょうね?」
「まぁ、色々思うことがあったんじゃない。この子の名前はなんて言うの?」
何だ、バレー続けてるのか。
石川の感慨深い思いを切るように、保田は自然な動きで写真をポケットに入れた。
「吉澤です。吉澤ひとみ」
「ハーフでもないのか…」
「え?」
「いや、何でもないわ。朝校って朝ヶ丘高校よね?国1沿いの」
「そうです」
後ろで後藤が手紙を箱にしまい、鞄に滑りこませたのを確認してから、保田は立ち上がった。
「この時間混んでそう…はー、ごっちん行くわよ」
- 248 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時11分25秒
- 「あの!もしかして、今からよっすぃーに会いに行くんですか?」
歩き出す保田の手を石川がつかむ。
ちょっと、いたいって。そこ、あんたがさっき噛み付いたとこでしょーが…
ピリッとした傷みに保田の口調は乱暴になった。
「だったら何よ!」
「私も連れてって下さい!」
「は?」
「私も一緒に連れてって下さい」
「何で、あんたを…」
先を歩いていた後藤もあからさまに嫌そうな顔をしていた。
二人の拒絶するような表情にめげることなく、石川は声をはった。
「連れてってくれなかったら、あなた達のことバラしますよ」
保田は手の痛みも忘れ、その目と見つめあう。
この子、実は鋭い?もしかして初めっからバレてた?
今までの弱々しい態度とは一変した強い目。保田は自分の浅はかさを後悔していた。
- 249 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時14分54秒
- 「わかったわ、連れてってあげるから、手を離してくれない?」
「あっ、ごめんなさい」
今謝る姿に少し前まで見せていた力強さはない。
何なの?この子。
保田は自然と睨んでいた。
「大丈夫ですよ。信じて下さい。石川、約束したことは守りますよ」
そう言って、石川はにこっと笑った。
「備品のカゴ壊したことは、内緒にしておきますから。心配しないで下さい」
石川はそれだけ言い残すとさっさと部室を出ていった。外から弾んだ声が届く。
「早く出ちゃって下さーい。部室の鍵しめますよー」
保田と後藤、そしていつのまにか椅子にされ、保田の尻にしかれた状態で
その寿命をまっとうしたカゴ。その三つが静かな空間に取り残される。
「何よ…バラすって、これのこと?」
呆然とする保田の耳に、後藤の笑い声が聞こえたような気がした。
- 250 名前:3.3PC 投稿日:2003年04月25日(金)06時16分23秒
- >>216-249 更新しました。
- 251 名前:BX-1 投稿日:2003年04月25日(金)06時23分37秒
- >>215 ふぉるてさん
お待たせしました。けっこう空いてしまいましたね。
あまり頻繁に更新はできませんが、ゆっくりペースでお付き合いください。
- 252 名前:BX-1 投稿日:2003年04月25日(金)06時24分22秒
- ☆
- 253 名前:名無し 投稿日:2003年04月25日(金)22時27分25秒
- 人見知りごっちんに萌え。
- 254 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時16分01秒
☆
久しぶりに口にしたフライドポテトの油っぽさと食感に動きが止まる。
こんな物を食べてたなんて、売ってたなんて。
昔バイトしていた時代を懐かしむ余裕もなく、保田はウーロン茶で残りを流し込んだ。
午後6時をまわっても、店内のあちこちに目立つ、制服姿の学生が帰る気配はない。
携帯を手に大声で笑いあう少女。とりあえず広げられた教科書。化粧品と大きな鏡。
最近のヒット曲が途切れずにかかり、我がもの顔の学生がごった返す店内で、保田は
向かいで携帯をいじっている少女をじっと観察していた。
吉澤ひとみ。
写真の中の少女だと言われればそうだが、違うといえば違う風にも見える。髪は目の
覚めるような金色で長く、髪をかけ外に露になった耳にはごついシルバーピアスが何
個もぶら下がり、彼女のとんがった雰囲気に迫をつけていた。
- 255 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時18分01秒
- そして、保田が思わず写真と見比べてしまったのが、そのふてぶてしい態度。
さっきから保田が投げかける質問にも、全部「知らない」の一点張りで、ニコリと愛
想笑いを浮かべることさえなかった。すっとぼけた受け答えに、保田は苛立っていた。
こいつ、意外と手ごわいわね。警察ってことにも動揺しなかったし。
部室で試した吉澤の反応も、保田が満足するようなものではなかった。
「知らないじゃないでしょ。あなた、寺田愛さんと文通してたじゃない」
「ぶんつー?」
すっとんきょうな声は吉澤のものではなく、その隣でさっきから保田と吉澤のやりと
りを不思議そうな顔で眺めていた石川のものだった。保田は右ひじで後藤をつつく。
ごっちん、この女すこし黙らせといてよ。
その思いが届いたのか、後藤に向けられた視線に石川は肩をすくめ、口を押さえた。
- 256 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時19分21秒
- 「さっきから寺田愛、寺田愛って言ってますけど、誰ですか?
そんな名前聞いたこともないですよ」
面倒くさそうな表情で、吉澤は自分は関係ないと言わんばかりに反論する。
しかし、吉澤が携帯に視線を送る回数が増えていることに、保田は気づいていた。
中澤裕子に、連絡でもしたのかしら。
その動きに注意しながら、保田は強い調子で尋ねた。
「そうかしら、横浜の山手女学園は知ってるわよね?」
「あーあのバカ女ね。おじょーさまばっかの、知ってますよ」
「バカ女って!」
怒りの声を上げる石川の制服が、そこのものだと知っているのだろうか。
吉澤は悪びれもせず答えた。山手女学園は、お嬢様学校で金さえあれば入れるという
認識が強かったため、他の公立高校の生徒には、確かに、そのようなありがたくない
あだ名で呼ばれていた。
- 257 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時20分18秒
- 後藤がごほんとせき払いし石川を俯かせてから、保田は有無を言わせぬ形相で迫る。
「吉澤さん、あなたと寺田愛さんが知り合いだったっていう証拠もあるのよ」
「……」
「それ見たらあなたも話さざるおえないと思うけど、素直に話しといた方が身のためよ」
「ちょっとトイレ行ってきます」
「あ!ちょっとー!」
するりと吉澤はその質問をかわすと、さっさとトイレに向かってしまった。
もう一押ししたいところだったが、トイレに行く人間を無理に止めることもできない。
保田は椅子の背にもたれ、吉澤が座っていた席を険しい表情で見つめた。
トレーには、食べかけのホットケーキとドリンクにおもちゃ。
子供が頼むセットを注文した吉澤のギャップに、驚き微笑んでいる場合ではない。
あいつ、連絡しに行ったわね。
そこに置かれていた携帯電話はなくなっていた。
- 258 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時21分33秒
☆
やばい、どうしよう。
運良く、トイレに先客はいなかった。
吉澤はドアの鍵をしっかり閉め、トイレの蓋を下ろしその上に座った。すぐに電波の
入りを確認すると、携帯のメモリを呼び出し耳にあてる。
早くしないと、間に合わないよ。
その願いもむなしく、電話は繋がる前に切れた。ディスプレイの電波の本数を増やす
ために吉澤は立ち上がり、アンテナを伸ばして狭いトイレを歩き回る。
ドア近くにいいポイントを見つけると、その壁に寄りかかり、もう一度ボタンを押した。
お願い、つながって。
- 259 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時22分10秒
すっきりした顔で吉澤が席へ戻ると、そこに保田という刑事と連れの女子高生の姿は
なく、山女の制服を着た少女が一人、ちょこんと座りポテトを食べていた。
吉澤が戻ってきたのに気づくと、少女は手を止め、肩を強ばらせる。
バカ女って言ったのが、まずかったかな。
それでも吉澤は少女には話しかけずに、椅子にどかりと座りストローを加えた。
「あのっ、保田さんは電話をかけてて…
もう一人の子は、たぶん何か買いにいったんだと思います」
ここにいない二人の状況をわざわざ説明してくるる少女を、吉澤は一瞥しただけで、
返事もせず窓の外に目を向けた。
繁華街には人が止まることなく流れている。
仕事帰りのサラリーマン、誰かに声をかけようと歩き回る日焼けした男。
地べたにお尻をつけお喋りに興じる女子高生。
二階からその景色を眺め、吉澤は深くため息をついた。
- 260 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時23分43秒
- 「あの、吉澤さん」
微かに震えた声に振り返ると、少女が必死な顔で自分に話しかけていた。
バカ女の制服を着た彼女は、寺田愛の友達なんだろうか。
吉澤は無愛想な表情で、少女の次の言葉を待った。
「私のこと覚えていますか?」
「へ?」
予想と違う質問に吉澤は気の抜けた声をだす。少女の顔色はすぐに曇った。
その目は少し睨んでいるようだった。
「そっか、やっぱ覚えてないよね…」
暗い声を出す少女の顔を見つめ、吉澤は固まっていた。
そういえば誰なんだ?刑事なわけないし。
この世の終わりみたいな顔をした彼女を、無視するわけにもいず、
吉澤はとりあえず言葉を返した。
「えっと、どっかで会ったっけ?」
「うん。会ったっていうか…昔、幼稚園のころ、同じマンションに住んでたんだけど
覚えてないよね?」
「え、まじで?」
「うん、少しの間だったけど、同じグループで一緒に通ってたの」
「うっそ…」
- 261 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時24分39秒
- 薄れた記憶をたどっても、この少女に確答する名前は浮かんでこなかった。
幼稚園っていっても、ほとんど忘れてるからなぁ。中学の記憶でさえやばいのに。
「よく幼稚園のアスレチックのつり橋で遊んでたのも、覚えてない?」
「つりばし?」
少女の切実な口ぶりに、吉澤は罪悪感を覚えていた。
天上を見上げ、唸りながら考え込む吉澤を、少女は不安そうな目で見つめる。
「あー、つりばしで遊んでたのは覚えてるけど…うーん」
「そっか、やっぱ忘れてるよね」
その寂しそうな目を見て、吉澤は声を上げた。
「あ!もしかして、あの子?」
「え、思い出した?」
「うんうん。あれでしょ、トイレに閉じ込められてずっと泣いてた子だ」
「あー…そんなこともあったかな?」
「そっかー、あの泣き虫だった子かぁ」
懐かしそうに少女を見つめる吉澤、それ以外の記憶は蘇ってこないようだった。
「それは思い出さなくてよかったのに…」
少女は小さな声でぽつりと呟いた。
- 262 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時25分39秒
- 幼稚園の遊び場や先生の話で一通り盛り上がると、すぐに話すこともなくなってしまった。
少女は落ち着かない様子でドリンクに何度も口をつける。さり気なく名前を聞き出すのに
成功した吉澤はそれで満足したのか、途切れた会話をそのままに、頬杖をついて視線を外
に向けた。
ガラス越しに、階段近くで電話をかけている保田と目が合った。
一瞬にして吉澤の緊張が増す。強い意思を持った目。
部室で会った時は刑事だということに驚いていたが、吉澤は協力するのを拒まなかった。
知らない部分を見れるという魅力もあったし、それに夕飯を奢ってくれるという、保田の
申し出を断る理由なんて見つけられなかった。
だが、ここに来て急変した態度に、自分に向けられる疑いの眼差しに、
吉澤は戸惑うばかりで、途中からはだんだん腹が立ってきていた。
- 263 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時26分12秒
- 寺田愛なんて知らないのに。
隣の少女と同じように、忘れたということもあるかもしれないが、同い年ならともかく、
吉澤に年下の、しかも他校の友達なんてほとんどいなかった。
ハッピーセットについていたおもちゃのビニールを破る。
小さな子に人気のテレビアニメのロボットだった。おまけにしてはよく出来た作りだと
いつも感心する。赤と白と黒のプラスチック。
吉澤は隣の石川から発せられる暗い雰囲気に気付かないふりをして、変身前の飛行機の
動く部分を捜しながら、気まずい時間をつぶしていた。
突然、トレーの上で自分の携帯がガタガタと音をたてる。
吉澤は慌ててそれを手に取り開いた。ディスプレイにはメールのマーク。
今届いたばかりの返信メールを読み、吉澤はほっと一息ついた。
- 264 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時29分43秒
-
――――――――――――――――――――――――
03/02/14 18:09
‐お母さん‐
頼まれたビデオ録画しといたよ。
6時からの「超ロボット生命体トランスフォーマー」
12chでいいのよね?始めの部分少しきれてるけど
夕飯もいらないのね。
気をつけて早く帰ってくるのよー! 母より
――――――――――――――――――――――――
- 265 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時30分22秒
☆
やっぱり、忘れてた…
勢いで保田の後にくっついてきてみたものの、石川は何もできずに遠くから吉澤を見つめ
ていた。実際に吉澤の姿を見た時には、その金髪と女の子らしい姿に驚いたが、その大き
な目と白い肌は、記憶の中の吉澤とあまり変わっていなかった。
単純に再会を喜んでいた石川だが、彼女に挨拶した吉澤の態度と眼差しは、完璧に初対面
の人物に接するものだった。
この店がいいと吉澤が言った時、石川は吉澤とその看板を自然と睨んでいた。
赤い看板に黄色い文字でM。嫌な思い出が石川の脳裏に浮かんでいたが、吉澤は何も気に
する様子なく、その中へ入っていった。それを見て、吉澤が自分のことをすっかり忘れて
しまっていることに、石川は確信を持った。
- 266 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時31分25秒
- 話せる機会もなく、ただハンバーガーを食べていた石川は、突然訪れた二人きりのチャン
スに、吉澤の機嫌の悪さなんて考えずに、思い切ってそのことを尋ねた。
返ってくる答えをあらかじめ予想していたとしても、そのあっさりとした態度に、石川は
ショックを隠しきれなかった。
今日たまたま思い出した、イジメっ子。
そのことで、石川は運命的なものを感じていた。偶然なんかじゃないと。
しかし、そのずっと文句を言ってやりたかった相手、吉澤が隣にいるというのにその本人
は石川をイジメていたことも、同じマンションに住んでいたことも忘れてしまっていた。
石川は怒るというより、寂しい気分だった。
自分は忘れたくても、今までずっと忘れられなかったことを、反省すべき相手がすっかり
覚えていないのだ。これでは文句の一つも言えない。
- 267 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時40分38秒
- 幼稚園もそうだけど…中学も一年生の時だけ一緒だったのに。
吉澤がセットについていたおもちゃで遊んでいるのを横目に、石川は視線を落とした。
机の下には、ラッピングされた箱が無造作に押し込んである紙袋がたてかけてあった。
吉澤が学校からぶら下げてきていた袋。
石川の表情は、それを見つけてさらに険しくなった。
それに、さっきから何の話をしてるんだろう。
保田に対する冷たい態度に、いつ保田が怒り出すかと石川は他人事ながらびくびくして
いた。石川の記憶にある吉澤は、いつも明るい表情でみんなに接していたし、ちょっと
横暴でも、そのあけっぴろげた性格はみんなからも慕われていた。
相手の気持ちを逆なでするような態度の吉澤を見るのは、初めてだった。
- 268 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時41分39秒
- ピタリと吉澤の動きが止まる。つられて石川が顔を上げると、電話を終えた保田が
こっちに歩いてきているのが目に入った。保田は椅子に座るとすぐに鞄から何かを
取り出し、自分のトレーが濡れていないことを確かめ、そこに並べた。
好奇心いっぱいの表情で石川も乗り出し、それを覗き込む。
さっき部室で見た吉澤の写真と、便箋のようなものが何通かあった。
「これ、ここに写っているの。吉澤さん、あなたよね?」
「はぁ…そうですけど」
「何の写真かわかる?」
「たぶん、去年の県大会の時のだと思います」
「え?去年のなの?あなた髪伸びるの早いのね」
まだ続きそうな尋問に吉澤の口調は投げやりだった。突然出てきた自分の写真には
慣れているのか、驚いた様子は少しもない。
「受験終わったから金髪にしたの?」
「そんなことあなたに関係ないじゃないですか。この写真がどうかしたんですか?」
- 269 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時42分19秒
- 保田の脈略のない質問に、吉澤の横顔はあきらかに怒っていた。
その時、トレーいっぱいにハンバーガーやら、アップルパイをのせた後藤が戻ってくる。
息の詰まりそうな空気が、少しだけやわらいだ。
「どうしたもこうしたもないわよ!
これ寺田愛さんが持っていたのよ。とても大事そうに」
保田の剣幕に押されることなく、吉澤は薄く笑った。
「何がおかしいのよ!」
「だって、そんなの私の知ったこっちゃないですよ。その人が勝手に持ってただけでしょ?
いい迷惑ですよ。それにその愛さんが何だっていうんですか?いい加減にして下さいよ」
吉澤は口元を歪め、吐き捨てるように言った。
石川は混乱した頭で必死に状況を整理する。
え?これって愛ちゃんの写真だったんだ。愛ちゃんがよっすぃーのファン?
なになに…どういうことなの?
- 270 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時42分57秒
- 「迷惑って…あんた、それ貰った子たちには言わない方がいいわよ」
保田は吉澤の足下へちらりと視線を送る。
それが紙袋に入ったチョコレートの事をしめしているのだと分かり、石川は心の中で
大きく頷いていた。
そうよ、よっすぃー。相手の気持ちも少しぐらい考えてよ。どんなに傷付いたか…
吉澤は少しも悪いとは思っていないようで、保田の警告には答える気配はない。
「さっき言ったわよね、事件があったって」
「あぁー。そういえば部室でそんなこと言ってましたね」
保田は周囲を見回してから、机に肘をついて吉澤に近づく。
ぎょっとした表情の吉澤に、保田は周りに聞こえないよう声をひそめた。
「その寺田愛さん。実は、行方不明なのよ」
「「え!?」」
石川と吉澤の声が綺麗にハモる。二人の止まった表情に、一息ついてから保田は続けた。
「それで、色々調べてたらあなたの写真と手紙が愛さんのロッカーから出てきたの。
これで、あなたに事細かく聞く説明はいいかしら?」
- 271 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時43分46秒
- 保田が束になった紙をとんとんと指で示した。吉澤がそれに手を伸ばし、
あせった様子で読みはじめるのを、石川はただ眺めていた。
どういうこと?愛ちゃんが行方不明って、インフルエンザじゃなかったの?
手紙を一枚読みおえただけで、吉澤はそれ以上読もうとはしなかった。
その態度に、保田はにやりと確信の笑みを浮かべた。
「もう、言い訳はできないわよ」
「言い訳?私がその愛さんの行方不明に関係してるって言いたいみたいですね」
しかし、吉澤はひるむことなく、むしろ安心した顔つきでそう答えた。
「そうよ、まだ認めないつもり?」
「認めないも何も、愛さんなんて知らないし、手紙だって出したことないですよ」
「何言ってんのよ、名前は書いていないとしても、これは立派な証…」
「これ、私が書いた手紙じゃないですから」
保田の言葉が終わらないうちに、吉澤が笑いながら呟いた。
- 272 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時44分33秒
- 「え?」
「この手紙。確かに小学生の頃は文通とかしてましたけど、今はしてないし」
「そんな、しらばっくれたって…」
「それに、この字。私の字じゃないですから」
そう言って吉澤はバックをあさる。分厚い手帳を取り出して保田の前に広げた。
そこには、細かい字でぎっしりと予定が書きこまれている。
吉澤は椅子に深く座り直すと、得意げに保田を見返した。
「なんなら筆跡鑑定でもなんでもして下さい。それ、やぶって持っていってもいいですよ」
保田が手帳と手紙を並べ、その文字を見比べている。
隣で後藤もアップルパイを頬張りながらそれを見ていた。
筆跡鑑定って…あれよね。よく刑事ドラマとかに出てくるやつ。
聞き慣れない事件用語に首をひねりながら、石川もそっとその字を盗み見ていた。
- 273 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時45分34秒
- 「ほんとだ、全然ちがうじゃん」
横から呟く石川に、保田から鋭い視線が飛んでくる。
手紙の内容や吉澤の予定を読み取るのをあきらめ、石川はそそくさと席に座り直した。
「圭ちゃん。ちがうみたいだね」
どうにかして同じ形を捜してやろうと手帳を捲る保田に、後藤が声をかける。
保田は浮かない表情で、手帳を吉澤に返した。
「悪かったわ。疑ったりして」
「いえ、わかってもらえれば」
さっきまでの喧騒が嘘のように静まり返った空間で、3人ともそれぞれ思いは
違うけれど、一様に納得した表情をしていた。
石川一人だけが、その流れから置いていかれていた。
ちょっと待って、どういうこと?
よっすぃーの疑いが晴れたってことでいいのかな。
そもそも、よっすぃーと愛ちゃんの行方不明に何の関係があるんだろう。
ていうか、ミシュランの人が何で愛ちゃんのこと調べてるの?
この人達いったい何の話をしてたの?
- 274 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時46分50秒
- しかし、その事を尋ねられる雰囲気ではなかった。
保田は自分の思惑の違いに少しムッとしていたし、吉澤はそっぽを向いている。
会話に参加しているのか、よくわからない後藤は、何事もなかったかのように
ポテトで口を膨らませている。石川はその3人の様子をちらちらと観察していた。
「吉澤さん、時間取らしてしまって申し訳なかったわ。ごっちん行くわよ」
腕時計に目をやってから、保田が立ち上がる。
「えー!まだ全部食べてないのにー」
突然、席を立つことを宣告された後藤は、不満げに訴える。そのふてくされた顔を
見て、石川はこの子やっぱかわいいじゃん、と関係のないを思っていた。
「さっきタカシちゃんから電話あったのよ、何か思い出したらしいから
店開く前に訪ねるわよ。残りは車で食べなさい」
- 275 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時47分51秒
- 立たせようと後藤の椅子を引っぱった保田は、「そうだ」とポケットをあさり、
小さな紙を吉澤と、一瞬ためらいながらも石川の前にも置いた。
「何か気がついたことあったら、ここに電話ちょうだい」
それだけ言い残すと後藤を連れ、保田は足音をカツカツと鳴らしながら階段を下りて
いった。残された二人は、その背中から手にした紙に目を落とす。
それは保田の名詞だった。
「「え!探偵!?」」
またもや二人の声がハモった。一瞬顔を見合わせるものの、気まずそうに視線を名刺に戻す。
お互いに聞こえない程度の声で、二人はぼそっと呟いた。
「ミシュランじゃ…」
「刑事じゃなかったんだ…」
- 276 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時49分19秒
☆
「愛ちゃんのこと、本当に知らないの?」
保田が帰った後、吉澤が先程までの会話を頭の中で反芻していると、石川が少した
めらいながらも聞いてきた。ぶりかえされる質問に、吉澤は乱暴に前髪を掻きあげる。
「は?さっき言ったでしょ、知らないって、しつこいなー。
それに、何であなたにそんなこと、答えないといけないんですか?」
「あなたって…他人みたいな言い方しないでよ!」
吉澤の突き放した口調に触発されるように、石川は高い声をさらに高くする。
その急変した態度に吉澤はぽかんと口を開けた。
「なによ!謝りもしないのね」
「ていうか、意味わかんないんだけど。何で謝らないといけないの?」
「ひどい!本当に忘れてるなんて!」
「だから、思い出したでしょ。トイレに閉じ込められてたって、幼稚園のトイ…」
「トイレトイレ言わないでよ!ひどいのはよっすぃーじゃん!私、もう帰る!」
「え、ちょっと…」
石川はそう叫ぶと、顔を真っ赤にして逃げるように階段へと消えていった。
周りの客が興味深そうに、吉澤と飛び出していった石川を見比べている。
- 277 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時50分00秒
- 何か悪いことしたっけ?何でいきなり怒られたの?
別れの挨拶をする間もなく出ていった石川の姿を、窓の下に見つけ、手を振る。
石川は手を振り返してくることはなく、プイっとわざとらしく顔をそらすと、
道行く人にぶつかりながら、一目散に走っていった。
「プッ、なんなんだあの子?あっち駅じゃないのになぁ」
すっかり冷めたホットケーキに、シロップをたっぷりつけて味わう。
舌が痒くなるような甘みに、ずっと強ばっていた吉澤の頬も弛んだ。
吉澤は綺麗に全部たいらげてから、ベタつく手をふき保田の名刺に触れた。
「探偵さんか…小川のこと相談してみようかな」
名刺をポケットに入れ、代わりにおまけの赤い飛行機のおもちゃを手にする。
トレーの上にしかれた薄い宣伝用紙を見つめ、吉澤は心の中で舌打ちした。
もう、グラップとホットロッド終わっちゃったんだ。毎週来ようと思ってたのに。
- 278 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時51分32秒
- 前に、ここの店に来たのは部活帰りで、小川と紺野が一緒だった。
その時、この週ごとに変わるおもちゃの予告を見つけ、「毎週くるぞ」と宣言して
小川達に呆れられていたのを、その笑顔とともに思い出す。
すっかり忘れてたよ。君のこと。
がちゃがちゃと動かして飛行機をロボットの形に仕上げ、
吉澤は真剣な眼差しで、出てきた四角い顔を見つめる。
「スタースクリーム、お前は強いんだよなぁ?」
返事をするようにロボットの拳を高く上げ、吉澤は語りかけるように呟いた。
「一緒に助けようぜ」
- 279 名前:3.4PC 投稿日:2003年05月04日(日)02時53分36秒
- >>254-278 更新しました。
- 280 名前:BX-1 投稿日:2003年05月04日(日)02時55分53秒
- >>253 名無しさん
レスありがとう。自分のことのように嬉しかったり。(w
- 281 名前:3.5PC(extra) 投稿日:2003年05月04日(日)02時58分59秒
- http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/messe/1047733892/l50
この前の短編企画に参加しました。
次回更新まで少し時間が空くので、その代わりにというか、読んで頂ければ嬉しいです。
石川の中学時代の悲しみが、わかるかもしれません。(w
- 282 名前:名無し 投稿日:2003年05月04日(日)16時31分23秒
- おぉーー!!面白い展開になってきたー!!
徐々に色んな物が繋がり始めましたね。
そして吉澤さんを含めお母さん最高!
- 283 名前:0.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時31分08秒
月明かりの中、少女は白く立ちはだかる霧を引きちぎりながら駆けぬける。
ついさっき、いつまでもグルグルと回り続けることに疲れ、手を離した。
つかんでいた木はみるみるうちに枯れ、色も失った。
振り返る必要なんてない。
止まり方を知らない彼女は、不器用に坂を転げ落ちる。
突然降り注いだ眩い光に射抜かれ、彼女は思わず目をそらした――
- 284 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時37分03秒
Chapter.4--カルデアの割れた空
遠くからその建物を見つけた瞬間、きっとあれだろうな、と思っていた。
引き寄せられるように足を進め、壁の汚れやまきつく蔦を目にした時には、絶対にこれ
だという確信めいたものを持ったし、なぜかこれであって欲しいとまで願っていた。
えんじ色のレンガ造りに風が吹けばガタガタと音をたてそうな窓、外れた雨受けの筒は
ぶらぶらと揺れている。その壁に貼られた青い番地のプレートと名刺を見比べてから、
吉澤はひびの入ったガラス戸を開け、ほこりっぽく薄暗い階段を上っていった。
古い三階建ての雑居ビル。
一階はどこかの店の倉庫になっているようで、ダンボールが階段にまで溢れ出していた。
安っぽい看板を掲げた金融のテナントが二階に入っている。吉澤は荒っぽい声が飛ぶド
アの前を足早に通り過ぎ、一気に三階へと駆け上った。
誰かが蹴飛ばしたような凹みが付いたスチールのドア。その横には空になったラーメン
皿が重ねられていて、まだ食べ終わったばかりなのか、いい匂いがあたりに漂っていた。
吉澤は保田探偵事務所と書かれた表札を見つめ、大きく深呼吸した。
- 285 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時37分41秒
- 「どうぞ」
昨日、セーラー服を着てハンバーガーを頬張っていた少女に案内され、吉澤は革張りの
ソファーに腰を下ろした。入ってすぐ左手にあった応接間セットは、組み合わせて作ら
れた物のようで、色や装飾が微妙に違っている。テーブルを挟んで反対側に置いてある
ソファーは表面の皮が破け、黄色いスポンジが見えていた。
そこにあった毛布を抱え込むと、少女は部屋の隅にある仕切りの向こうに消えていった。
二面の仕切りで囲われたスペース。すぐに、そこからテレビの音が漏れだす。
後藤とかいってたっけ。アルバイトなのかな?
無愛想に出されたお茶をすすり、吉澤は昼間でも薄暗い部屋を見回した。窓には重々し
いカーテンがひかれ、入ってくる光を拒んでいるようにみえる。だだっ広い部屋には、
視界を遮る壁はなく、むき出しの柱がニ本あるだけだった。その一本を角にして仕切り
板を直角に並べる。後藤がいる空間はそうして部屋のようになっていた。
- 286 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時40分05秒
- 冷蔵庫やシンクは吉澤からも丸見えだった。
その部分にだけ敷きつめられ色あせた床タイル、電気のスイッチやドアノブ、窓際に置
かれたオイルヒーター。全てが古く薄汚れているが、後から付けられたカーテンやポス
ター、絨毯と絡み合うと、どことなくオシャレな感じに仕上がっていて、その一つ一つ
が吉澤の心を躍らせていた。
すげー。テレビドラマの探偵そのものだよ。
赤を基調にした部屋。その奥にある保田のものと思われる大きなデスクには、資料や本
が山積みになって周りの床にまではみだしていた。そこと吉澤が座っているソファー以
外の場所は、よくわからない人形やカラフルなおもちゃで埋めつくされていて、三輪車
や古いテレビもホコリをかぶっている。天井からは飛行機の模型や、田舎で見るような
錆び付いた看板がぶら下がり、どれが何なのか分からないほど、とにかくごちゃごちゃ
していた。吉澤の後ろには、どうやってここまで上げたのだろうか、白いベスパと交通
標識が家具の一部のように置かれていた。
これ、探偵が乗ってるバイクだ。後はかっけー主人公がいれば…
- 287 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時41分02秒
- 奥のデスクの向こう、物置きの目隠しだと思っていたカーテンが揺れ、そこから強い光
が差し込んでくる。ほこりがきらめく逆光の光の中、吉澤をそこから一瞥すると、保田
は少しだるそうにこちらへ歩いてきた。壁だと思っていた向こうには保田の部屋があっ
たらしい。保田の顔は、昼ににつかわしくない疲れきったもので、その歩き方と眉間に
よった皺が保田の不調さをはっきりと示していた。
「吉澤さん。こんな昼間っからどうしたの?学校は?」
「今日は土曜だから、休みですけど…」
「そっか、今は週休二日の時代なのよね」
そうぼやきながらソファーに雪崩れこむ。
吉澤の訪問を喜んではいるようには見えなかった。
なんか、話せる雰囲気じゃないかも。
「ごっちんーお茶ー!」と叫ぶ保田を伺いながら吉澤は、ここまできて、どう話を切り
出そうかと悩んでいた。
「はぁー。次から次へと…名刺貰ったからって、すぐに挨拶しにこなくたっていいのよ」
「え?」
「あの子よ、あの石川とかいう…昨日吉澤さんの隣に座ってた子わかる?」
「あぁ、はい」
「あの子も今朝ここに来たのよ、しかも朝の8時に。信じられないわ」
確かに保田の目の下の隈は、睡眠不足のように見えた。
- 288 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時41分48秒
- 「何か大事な用があったんじゃないんですか?」
「違うわよ、仕事の話ならまだ許せたけど…忘れもんよ。昨日車に忘れもんしていって。
朝っぱらから、高い声で叫ぶもんだから頭いたくって」
「そうなんですか」
「そういえば、あんたたち知り合いだったの?」
石川と同じ学校だったことも、自分が彼女にした酷いことも、保田は何も聞いていないの
だろう。大して興味もなさそうに保田は吉澤を見た。
「ええ、あの…昔、同じクラスだったんです。中学の時に」
「そうなの。そのわりには、よそよそしかったわね」
吉澤は曖昧な笑い声を出し、膝の上で抱えていた紙袋をそっと横に下ろした。
「で、何の用かな?私もタダで話を聞いてあげられるほど暇人じゃないからね」
保田は足を組み直し、じっと吉澤の目を見つめる。その表情には、さっきまでの気だる
さはなくなっていて、その小さな動きだけでも吉澤は威圧感をうけた。しかし、それも
一瞬のことで、次に運ばれてきたお茶をすすった時には、すっかりおばさん臭い口調に
戻っていた。
「う、 ぬっるー。なんなのよもう。ちょっと待ってて」
「あっ、はい」
- 289 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時42分36秒
- 「ごっちん、テレビうっさいのよ。もう少し音さげなさい!」
仕切りの向こうを怒鳴なりつけ、保田が湯気のたつお茶を手にして帰ってくる。
その間にも、吉澤はうまい言葉を見つけられなかった。
「愛さんのこと思い出した、とかじゃないわよね?」
保田は挑発するような笑みを浮かべた。冗談とも本気ともとれる口調だった。
「え?違いますよ。そのことじゃなくて」
「なんだ、違うの」
「すみません。全然関係ないことなんですけど、私の友達、後輩のことで…」
「後輩?」
「はい、ちょっと気になることがあって、そのー」
「バレー部の後輩とか?」
「そうです、バレー部の後輩です。それで、その子が最近ずっと休んでてですね…」
「無断欠席なの?」
「いえ、違うんですけど。ちゃんと連絡は貰ってるんですよ」
しどろもどろになりながら喋る吉澤をせかすことなく、保田は軽く方向づけをしながら
相づちを打つ。
「そう。それじゃ、吉澤さんはその後輩の何が気になるのかしら?」
「それが、実は…」
吉澤が考えていた言葉を半分も使わないうちに、話は終わっていた。気にかかる事を
全て話し終え、吉澤はお茶をすすった。それはすっかり冷たくなっていた。
- 290 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時43分25秒
- 「その手紙は今持ってるの?」
「いえ、すぐにロッカーに戻しましたから」
「そっか…その小川さんは、まだ学校にも来てないし、親しい友達にも連絡はないのね?」
「ええ、全然ないんです」
紺野の顔を思い浮かべながら、そう答えた。彼女には今日ここに来ることは教えなかった。
期待はずれな対応にがっかりさせたくなかったし、自分一人でどうにかしたいと思っていた。
先輩としてのプライドでポケットをいっぱいにして、重い足取りでここまで来ていた。
「その手紙を読んで、吉澤さんは何がおきたと思ったの?」
「え?」
「小川さんの身に何が起きていると思った?」
「何がって…」
「わかってるから、ここに一人で来たんじゃないの?その原因を突きつめたいんでしょ?」
「いや、そういうんじゃなくて…私は小川のことが心配で」
「まーいいわ。私は今の話を聞いて、こう思ったわ――」
吉澤に視線を合わせたまま、保田は淡々とした口調で続けた。
- 291 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時45分23秒
- 「――虐待」
沈黙が降りた。
ためらいもなく出てきた言葉は、吉澤の動きを止めるのには十分だった。
「それで、あの人っていうのは父親のことね。しょっちゅう怪我してたんでしょ?
バレーのじゃない。手紙の中の文章なんてそのまんまよ。私も昔そうゆう子と関わっ
たことあるんだけど、そういうのって必ず隠そうとするのよ。自分だけが我慢すれば
家族は幸せだって思いこんで、外には出てこない。一種の完全犯罪ね」
「そんな…」
「吉澤さんだって、そう思ったんでしょ?」
保田はさらりと言ってのける。それは図星だった。吉澤もその手紙と紺野の話を合わせ
て考えた時から、その言葉がずっと頭の中に浮かんでいた。どうにかして否定したかっ
た言葉だけに、保田に面と向かって言われると辛かった。
その時、静かな室内にやけに耳に付く鈴の音が響いた。
- 292 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時45分57秒
- 「やばっ、後藤!」
保田の声とともにテレビの音が消えた。保田は入り口のドアノブに飛びつくと中から鍵
をかけ、吉澤の腕をとった。
「吉澤、こっち来い!」
吉澤を仕切りの向こうに押しやると、保田は木刀のような物を手にして、再び入り口の
ドアの横に立つ。入ってくるものを待ち伏せしている姿に、吉澤は一緒に隙間からそれ
を除いている後藤を見た。口を開こうとする吉澤を制するように、後藤は人差し指を唇
にあてて、しゃべるなと伝えてくる。
階段を上がる足音が近づいてくるのがはっきりとわかった。扉の前で音が止まる。
保田の顔に緊張の色が走った。
ドンドンドン!
スチールのドアがそれにあわせて揺れる。吉澤は息を呑んで事が過ぎるのを待った。
- 293 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時47分07秒
- 「ちょっとー!圭ちゃん?後藤?おるんやろー!」
関西弁の声の女。それを耳にした保田から力が抜けるのがわかった。
「圭ちゃん、おらへんのー?」
「いま…」
吉澤が口を開きかけた瞬間、後藤の手がそれを塞いだ。ものすごい力に、吉澤は昨日
保田と初めて会った時のことを思い出していた。
この人たち、すげー力強い…
「まったくもう、はよー家賃はらえよー!」
数分ねばってから、女性は捨て台詞を吐いて階段を降りていった。鈴がもう一度鳴ると
吉澤はようやく新鮮な空気を吸い込むことができた。
「あ、ごめん」
顔を真っ赤にして転がっている吉澤に、後藤はすぐに謝る。
「はー、死ぬかと思った」
大げさに口をぱくぱくさせ変な顔で転がっている吉澤を見て、後藤はフッと笑いかける。
しかし、吉澤と目が合うと、すぐに元の表情をつくろった。
仕切りに囲まれていた場所は、小さな部屋になっていて、テレビにコンポ、レコードも
置いてある。床には毛足の長いラグがしかれ、その肌触りはとても気持ちよかった。
- 294 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時49分04秒
- 「今の人でなくてよかったの?」
「ここの大家だからいいのよ」
後藤に話しかけたつもりが、保田に返事をもらう。
さっき、笑ってたのは気のせいかも。
テレビをつけ横になっている後藤の背中を見つめ、吉澤は小さくため息をついた。
「大家さんなんですか?」
「そう、大家さん。家賃のとりたてにきたのよ」
「あー、そういうことですか」
本当に金ないんだな、と吉澤は保田を哀れんだ目で見つめる。
電気もつけないでカーテンを閉め切っている理由は、探偵らしい雰囲気を出すものでは
なく、もっと単純なものだったようだ。
- 295 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時49分51秒
- 「あれ、さっきの鈴は何ですか?」
「あー、あれは猫に鈴つけてんのと一緒よ。ここの事務所に誰かが近づくとなるように
なってんの」
「え、すっげーハイテクだ!」
感動している吉澤を横目に、保田は鼻で笑った。
「ローテクよ。三階まで上がってくる床に小細工してあるの。ある段を踏むと、ヒモが
引っぱられて鈴がなる。簡単なしかけよ」
「へー、大家さん対策ですか」
「違うわよ。ま、それでも役にはたってるけどね、こういう仕事だからいろいろ気をつ
けないといけなくて…。まだ昨日の夜中につけたばっかなのに、もう3回鳴ってるわよ」
「命狙われたりするんですか?」
「飛躍しすぎだけど、そんなとこかしら。さっ、さっきの話の続きするわよ」
すたすたとソファーに戻る保田の後を吉澤は追いかけた。
- 296 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時50分42秒
- 「あの、保田さんにお願いがあるんです」
仕切りなおすように吉澤は手を組み合わせ、保田を見つめた。
「お願い?」
「はい。明日、小川の家に行こうと思ってるんですけど、
その、一緒に行ってくれませんか?」
「一緒に?私が?」
「はい、私だけだと、すぐに追い返されちゃうんじゃないかと思って」
そう口にしながらも吉澤は、違う、と心の中で呟いていた。
どこかで、別の声が自分を責めていた。
違う、そんな理由じゃない。一人で行くのが怖い。現実を一人で受け止められない。
自分が心細いだけでしょ?
それを見透かしたかのように、保田は深く座り直した。
「あのね、私が探偵だからって追い返されないなんて保証はないし。逆に、家にも入れ
てもらえないんじゃないかしら」
「でも…」
「それに、私は刑事でも児童相談所の役員でもないのよ。ましてや心理学者でもないし。
そんな家庭内の問題に首をつっこむほどバカじゃないわ。その小川って子だって助け
てほしいなんて思ってるのかしら?あんまりあなたも他人の家の問題に首をつっこま
ない方がいいわよ。学生のあんたにできることなんて、何もないのは自分でもわかっ
てんでしょ?」
- 297 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時51分44秒
- 保田の厳しい言葉が、当たり前のことを言っていることはわかっている。確かに自分が
乗り込んだところで、何もできないと思う。できることと言えば、自分の苛立ちを解消
するために小川の親父をぶん殴ることぐらいだ。
どこまでも子供な対応。
わかっている、何もできないなんて。
わかっているから、吉澤は言葉に詰まった。
「もし、良心が傷つくなら児童相談所にたれこむことね。それに、あんたに私を雇える
金払えんの?学割なんて甘いもんないし。こっちも忙しいのよ」
「忙しいならけっこうです!」
その投げやりな態度に、吉澤は怒りを露に、自分でかすかに期待して提案したことも切
り捨てた。甘いお願いだとはわかっていた。こんな人間に頼った自分がバカだった。
「ありがとうございました。貴重なお時間をどうも」
保田を睨み、そう付け加えて吉澤は部屋を後にする。
「もう二度とこねーよ」
足下にあったラーメン皿に悪態をつき、階段を乱暴に下りていった。
- 298 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時52分56秒
☆
「圭ちゃん」
「なに?」
「んー。何でもないかなー」
「そう」
お客用の湯のみを下げ、後藤はさっきまで吉澤が座っていた所に毛布ごと移動してきた。
後藤の言いたいことはわかっている。最後に鳴った鈴の音が耳鳴りのように、頭の奥に
残っていた。
ずるずるとソファーに寝そべり、保田は天井を見上げ、大きく息を吐く。疲れと寝不足
が一気に襲い掛かってくる。鉛みたいに重たくなった身体がソファーに沈みこみ、一体
化しそうな感覚にとらわれた。
「あー!もう、八方ふさがりよ!」
それを消し飛ばすように大きな声を出す。
寺田愛の事件が暗礁に乗り上げ、保田は苛立っていた。そこに飛び込んで来た二人目の
訪問者に、大人気ない対応をしてしまった自分にも腹をたてていた。
- 299 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時54分16秒
- 「ごっちん、私って悪者かしら?」
「え?うーん、顔は悪代官顔だけど…」
毛布の隙間から顔を覗かせた後藤は、いたずらそうな笑みをこぼした。
いつもはすぐに怒鳴り返すその声も、今の保田には暖かい言葉だった。
「何それ、よりによって何で代官なのよ。古すぎ」
「ははは、でも、圭ちゃんはヒーローになれると思うよ」
「なれる?私が?」
「うん。まだなれる」
言い切った後藤の声が、何度もリフレインする。
「まずは、赤いシャツでも着ようかな」
天井に貼られたポスターを眺め、保田は明るい口調で呟く。
今でも語り継がれる俳優が、保田の背中を押すように力強く微笑んでいた。
- 300 名前:4.1PC 投稿日:2003年05月24日(土)03時56分29秒
- >>283-299 更新しました。
少し読みかえしてみて、誤字脱字の多さに慌ててウィンドウ閉じました。
本当に読みにくくてすみません。脳内修正よろしくお願いします。名詞とか…最悪ですね。
今後なるべくチェックして、気をつけていきたいと思います。
- 301 名前:BX-1 投稿日:2003年05月24日(土)03時59分19秒
- >>282 名無しさん
ようやく繋がりました。ここまで来るのにちょっと時間かけすぎてしまい
反省しています。(すべては保田と後藤のせいなんで…)
これからは淡々と着実に。暴走お母さんには出番を控えてもらうつもりです。(w
- 302 名前:BX-1 投稿日:2003年05月24日(土)04時00分37秒
- ☆
- 303 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)06時27分35秒
- いつもすごい力量だなーと思って読ませてもらってます。
差し支えなければ、今までに書かれたものを教えてもらえませんか?
- 304 名前:名無し 投稿日:2003年05月24日(土)19時35分17秒
- 赤シャツの人も色んなことに首つっこんでましたね(w
徐々に触れられていく事実にワクワクしています。
- 305 名前:さしみ 投稿日:2003年05月27日(火)02時35分46秒
- 大家さんは、関西弁で裕ちゃんじゃない方だから、
○家さんですよね。
大家さんと○家さんをかけたんですか。
- 306 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)16時57分37秒
☆
休日の穏やかな朝の空は、吉澤の心とは正反対に隅々まで晴れ渡っていた。
似たような格好をした住宅街。
多くの家のガレージは、もうすでに空っぽだった。隣を歩く紺野の顔は腫れぼったく、
疲れきった自分の顔とあまり相違はない。眠れなかったのが自分だけではないことに、
吉澤は少しほっとしていた。
「紺野、それ駅前のケーキ屋のやつ?」
「あっ、はい。手ぶらなのもあれなんで」
紺野の手元で、うぐいす色の上品な箱が揺れている。
そんなことに気をまわす余裕もなかった自分を情けなく思うのと同時に、吉澤は紺野を
連れてきてよかったな、とも思っていた。
「わざわざ行ったの?学校に用事あったとか?」
「いえ。私あの辺に住んでるで、通り道なんです」
「あーそっか。紺野はチャリ通だったね――」
- 307 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)16時59分50秒
――そうか、あれは紺野のママチャリだったんだよな。
大きなバックを抱え、薄暗い坂を降りていく集団。
それを後ろから、消え入りそうな悲鳴が追いこしていく。
部活帰りの吉澤やバレー部の仲間は、いつもその声を楽しそうに聞いていた。
「おつかれさまでーす!」
元気良く挨拶をして過ぎ去っていく小川、その後ろで目をつむっている紺野。
学校からのびる細い坂の急な勾配を、カゴに荷物をめいっぱい乗せた自転車が一気にか
け降りていく。小川のハンドルさばきは不安定で、紺野が叫びたくなる気持ちもわから
なくはなかった。
いつも小川が前に乗ってたから…
何でも楽しくて、何にでも笑えた時間。
どことなく生温かった世界が、今では遠い昔のことのように思えた――
- 308 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時02分04秒
「そこのケーキうまいよね。そういえば、部活の差し入れでもよく食べたなぁ」
「私、あそこの全部好きなんですよ。まこっちゃんの大好きなかぼちゃケーキと新作が
あったんで、ついいっぱい買ってきちゃいました」
小川の名前を抵抗なく出した紺野は、人様にあげるケーキに期待を膨らましているのか、
幸せそうな表情をしていた。
もしかして、ただのお見舞いだと思ってないか?
ぼーっとした外見とは裏腹に、けっこう鋭い子だと思っていたが、それは買い被りだっ
たのかもしれない。これから起こることを考えると、吉澤の肩の荷はさらに重くなった。
- 309 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時04分13秒
- 小川の家は、横浜から10分ほど電車に揺られた所にある。どちらかというと川崎の方に
近く、電車の窓からは毒々しい煙りを吐き出す煙突も見えた。早めに着いた駅で紺野を
待っている間だけは、気張っていた吉澤の肩の力も少しぬけていたが、小川の家へと歩
き出した瞬間、そのやすらぎは自分で作りだしていた物だということに気付かされた。
小さな女の子が道路に飛び出してくる。その後から、20代前半くらいのまだ若い夫婦が
女の子の名前を呼んで、その小さな手をとり、玄関で見送るおばあちゃんらしき女性に
手をふった。真ん中に挟まれた女の子は手をつないでいるというより、ぶら下がってい
るといった状態で、キャッキャッと楽しそうな声を出して飛び跳ねるように歩いていた。
これから行楽地へでかけていくのだろう。微笑ましい休日の光景。
しかし、その弾んだ表情は、今の吉澤には目をそらしたいものでしかない。自分だけが
ここの景色からポツンと置いてきぼりにされているような気分になった。
- 310 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時05分37秒
- 「着きましたよ」
紺野が見つめる家は、ごく普通の二階建ての一軒家。隣家との違いが屋根の色ぐらいで、
場所を覚えるには、角から何軒目と記憶しといた方が良さそうだった。茶色い柵と家と
の間にあるわずかなスペースには木や花が植えられていて、小さな庭を作っている。他
の家ではそこで犬がうろうろしていることが多かったので、吉澤は自然と犬の気配を捜
していたが、小川の家に犬のシールは貼られていなかった。
門の前で足を止め、二階部分を見上げる。通りから見える窓には全てカーテンがひかれ
ているみたいで、中の様子を伺うことはできない。どちらとも動くことができず、何分
かそうして立っていた。吉澤の行動を待っている紺野とは違って、吉澤は目の前にある
プラスチックのインターホンを睨むように見つめていた。
全神経がそれと指先だけに集中する。
だから、後ろから近づく足音には全く気付かなかった。
- 311 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時08分36秒
- 「いつまでお見合いしてるつもり?」
嫌味ったらしい口調は一日で変わるものではない。吉澤が今一番見たくない顔がそこに
あった。昨日とはうって変わって、綺麗に化粧がのった顔は妙に元気で、きっちりした
パンツスーツを着こなしている。その姿はやり手のキャリアウーマンに見えなくもなか
ったが、胸元にのぞく赤いブラウスがそれを少し違ったものに変えていた。
「な!なんで、ここにいるんですか?何でこの場所が…」
「なめてもらっちゃ困るわー。こう見えても腕いいのよ」
慌てる吉澤に、保田は自慢げに腕を曲げてみせた。
「それに、あんたにも用があってね」
「よう?」
「そう。ついでだから、少し付き合ってあげてもいいわよ」
にやっと笑う保田。その肩ごし、二十メートルくらい向こうにある小さな公園。木々の
隙間から見えるブランコで、見覚えのある茶色い髪が揺れている。すぐ脇には保田の愛
車が赤いボディを輝かせ止まっていた。
- 312 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時10分28秒
- あんなに目立つのに、何で気付かなかったんだろう。
自分が極度の緊張状態にあったことを再認識し、吉澤はまたしても自己嫌悪の言葉を心
で呟いた。複雑な表情で眉間にしわを寄せている吉澤を、保田は笑顔で見守っている。
大人ってずるい。
吉澤が断らないことをわかっているその笑顔は、吉澤の不安定な精神を余計に乱した。
保田が来たことを素直に喜んでいる自分と、とても腹を立てている自分がいる。つまら
ない意地だとわかっていても、ここで素直に、お願いしますと頷くことはできなかった。
「あなたは小川さんのお友達?」
ほこ先を変えて、保田は紺野へ目を向けた。
「…あ、はい。まこっちゃんとは友達です」
一呼吸おいた紺野の変わった喋り方に、保田はタイミングをずらされたようだったが、
構うことなく話しかけた。
「私は保田圭ていって、吉澤の知り合いなんだけど。あなたの名前は?」
「私は…紺野あさ美っていいます」
「紺野さんね。かわいい後輩がいていいわねー」
ちらりと吉澤を見る。吉澤には嫌味にしか聞こえなかった。
- 313 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時11分58秒
- 「よろしくね。紺野さん」
保田は親しげな笑みを浮かべ、手を前にスッと出した。ケーキの箱を右から左に持ちか
え、紺野もつられるようにぎこちなく右手を伸ばす。二人が握手を交わしているのを、
吉澤はうさんくさそうに眺めていた。
何なんだこの人、昨日と全然態度違うし。あー、なんかムカツク。
握手一つと保田のかわいいの連呼で、紺野の顔から警戒心がなくなる。保田をいい人だ
と思っているのが、一目でわかった。
これだから、日本人は…
「えっと、紺野さんはここに何度も遊びにきたことあるの?」
「いえ、ないです…一度も」
紺野は首を大きく横に振った。
「そう、あなたも家族との面識がないのね」
家を眩しそうに見上げ、ぽつりと呟く保田の表情は厳しいものに変わっていて、次に吉澤
に向けられたその強い目は「覚悟はいい?」といっていた。吉澤も同じ目でゆっくり頷い
てみせる。保田と吉澤があまり穏やかとはいえないアイコンタクトを取り合っているのを、
紺野は不思議そうな顔で見つめていた。
- 314 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時13分17秒
「あのー、うちに何か用ですか?」
わずかに開けたドアの隙間から小さな顔がのぞいている。小川の妹らしき少女が、不審
者を見るような目つきでこちらを見ていた。
「ちょっと、お訊したいことがありましてー」
吉澤をおしのけ門に近づくと、保田ははっきりとした口調でそう伝え、胸ポケットから
お得意の黒い手帳を取り出す。それに驚いた少女はすぐに顔を引っこめた。ドアの隙間
から、かすかに話声が聞こえてくる。
もしかしたら、小川が後ろにいるのかもしれない。
吉澤は身体を乗り出して覗き込むが、小さな隙間からは何も見えない。再び出てきた少
女に喋る隙を与えず、保田が先に口を開いた。
「中に入れてもらってもいいですか?」
- 315 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時14分31秒
- 嫌な顔をした少女の視線をうながすように、保田は顔を横へ向ける。隣の家のベランダ。
立派な身体を揺らしながら、その家の母親らしき女性が布団を干そうとしていた。
のどかな日曜の朝。スーツできめた女と暗い顔をした少女。この組み合わせ自体、ここ
では目立つし、元々人気のない住宅地では注意していなくても人目を引く。それに保田
は自分が刑事だと告げている。これからここで交わされる会話が、主婦の好奇心をくす
ぐるものだということは簡単に想像できた。
少女がもう一度顔を引っこめた後、ドアが大きく開く。
「どうぞ、入って下さい。玄関でよければ」
「すみません」
にっこり笑い、保田は門の上から手を入れ鍵をはずす。ギギッと音をたてる門を開いて
ためらいなく入っていく背中を見つめ、吉澤も遅れまいと足を進めた。
- 316 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時16分23秒
☆
そこに住んでいると気付かないが、家にはそれぞれ独特の匂いがある。友達の家に遊び
に行く度に、自分の家はどんな匂いがするんだろうと思うが、それはそこに住んでいる
人にはわからないものだったりする。保田は小川の家に足を入れた瞬間、あまり綺麗と
はいえない自分の事務所を思い出していた。
吉澤に聞いてみようかな。臭いとか言いそうだけど…ここよりいい香りなはず。
暖かい空気に包まれ頬がゆるんだのも束の間、保田はすぐに息を止めた。後から入って
きた吉澤は「くさっ」と声に出して、鼻をつまむ。それを見て、少女は申し訳なさそう
に声を出した。
「あの、中を少し工事してて…すみません」
「大丈夫ですよ。リフォームしてるんですか?」
「あぁ、はい。そうです」
鼻を刺激するペンキの匂いに、少しむせかえりながら保田は少女に尋ねた。
「お母さんか、お父さんは?」
「今、でかけてますけど」
「そうですか。あなたは麻琴さんの妹さん?」
「ええ。妹の里沙です」
おでこを出して横で結っている髪型はまだ中学校低学年に見えるが、その口調はしっか
りしていて話はわかる感じだった。
- 317 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時17分36秒
- ごっちんよりちゃんとしてる…あ、そういえば置いてきちゃったな。
後ろのドアはもう、しっかりと閉まっていた。今さら後藤を呼びこむこともできない。
ま、いっか。お父さん達いないみたいだし。
「お姉ちゃんと、ちょっとお話したいんだけど」
「姉は病気で寝ています」
即答する里沙。わかっていた答えにも、保田は今初めて知ったかのように驚いてみせた。
「あら、そうなの?うーん…どうしようかな。お父さん達何時ごろに帰ってくるかわかる?」
「ちょっと、わからないです。道路が混んでると遅くなるし…」
「そう…」
保田の視線が中に舞う。正面には二階へ上がる階段。その手前、左側にトイレのドアが
ついていて、右側は階段に沿うようにして奥へと廊下が伸びている。そこにリビングへ
とつながっていると思われる、少し大きいドアがついていた。よくある家の造り。玄関
にはローラーブレードやバスケットボールが転がっていて、下駄箱の上にある熊の置き
物も、周りにあふれた縄跳びや空き箱、放り出された鍵やペンに埋もれてしまっていた。
- 318 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時23分30秒
- 「うそだ…」
部屋を観察していた保田の耳に入った小さな声。吉澤は表情を隠すかのように、俯いた
まま呟いた。保田が手をかける前に、その力の入った肩はそこから消えていた。
「小川!いるんだろー!」
怒鳴るような声が狭い空間に響く。あっけにとられている三人を残して、吉澤は階段を
駆け上がっていっていた。
「あっ、勝手に入らないでくださいよ!」
事態を呑みこんだ里沙が、急いでその後を追いかける。目をぱちくりさせていた紺野も
それを見て「おじゃまします」と断ってから上っていった。
「あのバカ…」
二階でどたどたと走り回る足音。保田は軽く舌打ちして、みんなとは反対に後ろのドア
に手をかけた。
「ごっちん、出番だよ」
- 319 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時24分49秒
- 「何?この匂い」
「あー、何か工事してるらしいわよ」
呑気に会話を交わしながら、階段を上っていく二人。
保田は後藤に確認しておきたいことがあった。
「ごっちん、車まだあったよね?」
「うん。駐禁とられてないから大丈夫」
「ちがくて、この家の車の方」
「うん、あるよ」
「やっぱり」
保田は足を止め、後ろを振りかえる。玄関を見下ろし考え込んでいる保田の姿に、後藤
が首をひねった。
「どうかしたの?圭ちゃん」
「うーん…ちょっと、やっかいなことになりそう」
「そっか。まー、そっちは圭ちゃんにまかすよ。まずはあの子を止めないとね!」
- 320 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時26分41秒
- 二階にあるドアは全て開けられていた。部屋数はざっと見た所三つで、そのうちの一つ
真ん中にある部屋から里沙の声が聞こえてきた。
「何してるんですか?やめてください」
「小川!隠れてないで出てこいよ!」
保田がその部屋を覗くと、吉澤が押し入れのふすまを開け、中の物を引っぱり出してい
るところだった。勉強机にベット。壁際に積み重ねられたバレーボールの雑誌。すぐに
小川麻琴の部屋だとわかった。
「あんなとこに入らないよねー」
吉澤が化粧ボックスの引き出しを一段ずつ確認しているのを見て、後藤はおかしそうに
笑った。
「ほんと、どうしようもないバカね」
保田の声が耳に届いたのだろか、吉澤は部屋を見回し、小川がいないことを確認すると
肩を怒らせ部屋を飛び出した。保田と後藤がいることにまで目がいっていないようで、
すれ違っても何の反応も見せない。ばたばたと階段を降りていく三人と入れ違いになる
ように保田と後藤の二人だけが、二階に取り残される。
「あっ!下はやばいんだった」
思い出したように声を上げ、保田も階段を降りていった。
- 321 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時28分41秒
- 保田が息を切らせてリビングのドアを開けた時、吉澤が父親らしき人物にものすごい剣
幕でせまっていた。隣には母親だろう、小さな女性が立っている。
やっぱり居留守だったのね。
吉澤に時間を確認することもできないため、保田達は早めに小川の家の前で張っていた。
小さな車庫にぴっちり入った国産車。りさの言葉と下駄箱に置かれた鍵。牛のようなマ
ークのついたそれはどう見てもマスターキーだった。交通渋滞にハマることはできない。
「とぼけんなよ!」
今にも殴りかかりそうな勢いで父親につかみかかる吉澤。
頼みの後藤はまだ降りてきていない。
ごっちん何やってんのよ、もう。
保田は急いで止めに入ろうとしたが、足の裏に走った痛みに思わず足を止める。
原因を確認しようと足元に視線を落とした瞬間、保田は固まってしまった。
なに?これ…
恐る恐る顔を上げ、辺りを見回す。
吉澤のことも忘れ、保田は口をぽかんと開けてその場に立ち尽くしていた。
これは、いったい…どういうこと?
- 322 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時30分46秒
☆
人を本気で殴ったことなんて、今までなかった。
自分の親に近い年配の男が床に倒れこむ。おさまらない胸の熱さと握りしめた拳の痛み
に吉澤は顔をゆがめた。後ろで上がる悲鳴がずいぶん遠くに聞こえる。
こうなったら後には引けない。
興奮しているように見える吉澤だが、実際、彼女の頭の中はくっきりと覚醒していた。
やっていることも全部わかっている。ただ、その行動を止められないだけだった。
顎を押さえ、顔をしかめている父親に馬乗りになり、吉澤はセーターの胸元をつかんで
持ち上げた。
「どこにいんだよ!どこに隠したんだよ!」
声はかすれ、手が震える。憎たらしい父親の顔がぼんやりと霞んで見えた。
ちくしょう!
自分の意思とは関係なく熱いものが目から溢れ出していた。
それは吉澤の言うことを聞いてはくれない。
悔しくて悔しくて流れ出す涙が、自分の柱を折ろうとしている。
小川を助けるのは自分だ。何も間違ってなんかない。こんな人間殴ったっていいんだ。
目の前の景色はゆがんで、その感情を支える相手の顔すら見えなくなっていた。
くそっ!
- 323 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時32分05秒
- 「やめなさい」
頭に手をのせられ、吉澤は横を向いた。ぼやけているけれど保田の赤い色が見える。
勢いをます頬の流れ。手の痛みがじんじんと広がっていく。
とっくに柱は折れていた。いや、そんなもの初めからなかったのかもしれない。
動きの止まった吉澤のわきの下に、何かが滑り込んでくる。
それが後藤の腕だとわかった時には、吉澤はもう父親から引き剥がされ、尻餅をついた
ような格好で後藤に押さえられていた。身体から気張っていた力がぬけると自分を捕ま
えていた後藤の腕もゆるむ。俯いた顔の前に出されたハンカチをその手から奪い取り、
吉澤は目にあてた。
- 324 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時34分05秒
- 「何なんですか!いったい!あなた刑事さんなんでしょう?」
気を取り直した父親が保田に訴えかける。
セーターはだらんと腹のあたりまで伸びていた。
「小川さん」
父親の苦情を取り合うことなく、保田は低い声で呼びかけた。険しいけれど、泣き出し
てしまいそうな顔つきをしている保田に、父親は拍子抜けした返事をする。
「は、はい…」
「麻琴さんですか?」
「はい?」
質問の意味を考えている父親に、保田は部屋をぐるりと見回してみせる。すぐに父親の
表情は曇った。
「これやったの、麻琴さんですよね?…これ壊したのは」
「えっ?」
すっとんきょうな声が静まり返った空間に残る。それは吉澤一人だけの声だった。
真っ赤な目でみんなの顔を見る。里沙や紺野までもが下を向いていた。
は?なんだこれ…
そしてようやく、吉澤は自分がいる空間の異様さに気付いた。
- 325 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時38分34秒
- 台所からリビングへ倒れこんだ冷蔵庫。
ガラスは割れ、ガムテープの貼られた空っぽの食器棚。
テーブルはあるのに椅子のないダイニング。
外された照明、穴の空いたフローリングの床。凹んだ壁。
その上には赤いスプレーで「死んじまえ」「許さない」「消えろ」…
ささくれた言葉ばかりが走っていた。
「へ…」
口が乾く。
吉澤が言葉にならない声を出すと、まわされていた後藤の腕に力が少し加わった。
保田に助けを求めるような視線を向ける。その時、自分の目に飛び込んできた母親の
姿に吉澤はがく然とした。悲しみに似た衝撃が全身をつきあげる。
まさか、そんな…小川が…
おろおろしている母親の腕にまかれた白い包帯、おでこにあてられたガーゼ。
さっき殴り飛ばした父親の腕にも、同じように白いものが巻き付いていた。
「…家庭内ぼうりょく?」
混乱している吉澤の口が、勝手にその言葉を漏らしていた。
- 326 名前:4.2PC 投稿日:2003年06月07日(土)17時39分54秒
- >>306-325 更新しました。
- 327 名前:BX-1 投稿日:2003年06月07日(土)17時52分57秒
- >>303 名無しさん
そう言っていただけると、単純なのですぐ調子にのります。ペースの方も?(w
他に飼育で書いたのはオムニバス短編の2作だけで、長いのはこれだけです。
(>>281のと、http://mseek.xrea.jp/event/pacifico01/1039914479.html)
個人サイトで書いた短いのもありますが、自分の素性がバレるので、引かれるので…今はご勘弁を。(w
一応ミステリ風な話にしたいので、雰囲気的な支障がでないように。
といって、すでにバレてたらバカみたいですが、そういうことでお願いします。
- 328 名前:BX-1 投稿日:2003年06月07日(土)17時54分43秒
- >>304 名無しさん
まき散らした物を少しも回収できてなくて、私の方はイライラしてたり。
早く全部消化して、すっきりしたいです。今の時点で、推理というか
真相に気づかれてる方がいるんじゃないかと、ビクビクもしています。(w
>>305 さしみさん
全然かけてないですよ。○家さんには、いずれ活躍してもらう予定です。
ちょっとこの質問にはドキリとしました。○家さんはキーパーソンないい子なので。(w
大家さんの素性は(大したネタバレでもないですが)まだふせさせてください。
- 329 名前:名無し 投稿日:2003年06月07日(土)23時39分13秒
- 単純に面白い。
続きに期待です。
- 330 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時12分05秒
☆
6歳の春、私にお姉ちゃんができた。
朝の青空が嘘のように、いつの間にか雨がしとしとと降り出した日。
その日の記憶だけは、今でも頭の中に映像として鮮明に残っている。
もの悲しげな情景。
灰色の空と窓を叩く雨音。
- 331 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時13分21秒
- 「しゃくらさんが、なくなっちゃうよ…」
通りに面した窓にはり付いて雨粒で霞む公園を見つめながら、私はその言葉を何度も何
度もお母さんにぶつけていた。
「さくらさん、がんばってるから大丈夫よ」
肩に置かれたやわらかい手。お母さんの匂い。
その度に、後ろからやさしい声が返ってきても、私は不安でしょうがなかった。
桜の花びらが消えてしまう。ピンク色の木が緑になってしまう。他の木となんら違いの
ない緑色に。それはとても自然な事だけど、その頃の私にはひどく悲しくて怖いことで
しかなかった。魔法が一夜でとけてしまうシンデレラみたいに、雨のせいで普通の姿に
戻ってしまう桜の木がかわいそうに思えてならなかった。
雨でアスファルトにへばり付く大量の花びら。
茶色い痣をつくった花びらを踏まないで歩くのが、王子様になれない私ができる唯一の
行いだった。
- 332 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時14分39秒
- 空までも暗くしてしまった悪者の雨。その日、何もできなくて泣きそうになっている私
にお母さんが雨をやっつける方法を教えてくれた。白い布切れを丸めて顔をかく。今で
はすっかりやらなくなった習慣も、その時には輝いてみえた。紙に書くお絵書きみたい
に上手にいかなくて、ちょっと情けない顔ができあがる。弱々しいヒーローの姿に不安
を覚えながらも、その白い固まりを軒下にぶら下げてもらった。
間抜けな顔したヒーローと雨が闘っている軒下を、じっとあきもせず眺めていた。
屋根にあたる雨、庭に染み込む雨、窓ガラスを叩く雨。
微動だにぜず、雨の大合唱を聞いている耳にうれしい音が届く。その音が家の前で止ま
り薄ぐらい景色の中に赤いライトが光ると、私は桜もヒーローのことも忘れて窓越しに
パパ、パパと呼びかけた。すぐに帰ってくるよと言って朝早く出かけていったお父さん。
その姿を車の中に捜すのに夢中になっていた。だから、私の肩に触れているお母さんの
手に力が入っているのには全然気付かなかった。
- 333 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時16分59秒
- 「パパ、やっと帰ってきたよー」
「ほんと、遅かったね…」
そう言ったお母さんの顔は蒼白だった。
どこか遠くを見ている目は、私のことも忘れているようで窓の外に向けられていた。
急に怖くなった私はそれ以上何も聞かずに、窓の方へと顔をもどした。
いったい私の後ろにいるのは誰なんだろう。
表情もないお母さんの顔色は、今日の空みたいに暗かった。
私のお母さんじゃない。
きっと、この雨のせいだ。雨に濡れちゃったんだ。
肩に乗せられたお母さんの手がずっしりと重みを増していく。
私は軒下で揺れる白いヒーローを見上げ、必死に願いをこめた。
お母さんを助けて。雨をやっつけてよ。
- 334 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時19分31秒
- ガラスを流れる雨の雫。いつの間にか、その向こうに真っ赤な花が咲いていた。この世
界で一際目立っている赤い傘。お父さんがいつも使っている黒くて大きな傘ではない。
それでもその下には、ずっと待っていたお父さんの笑顔があった。
いつものお父さんじゃない。
傘のせいだけじゃなくて、その笑ったお父さんの顔もどこかおかしかった。
私のお父さんだけど違う…もしかして、お父さんも雨に捕まったの?
一人ポツンとこの大きな世界に取り残された気分だった。そして、その焦燥感はすぐに
高まることになる。私は自分の目を疑い、何度もこすった。お父さんの隣、いつも私が
いる所に違う女の子が立っていたのだ。
お父さん、その子はニセモノだよ。りさはここにいるよ。
その子はりさじゃない、気付いてよ。その子は…あれ?
その顔を見て、思い出したように軒下を見上げる。てるてる坊主は雨に濡れ揺れていた。
人間になっちゃったのかと思った。
その女の子は私が作ったヒーローにそっくりだった。
- 335 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時21分08秒
- 「里沙のお姉ちゃんだよ」
肩を濡らしたお父さんが、その女の子の横でそう言った。
「りしゃのおねーちゃん?」
「そうだよ、里沙のお姉ちゃん。今までちょっと別のとこに住んでたんだけど今日から
一緒に住めるからね」
おねーちゃん。りさのおねーちゃん。
いっしょにすめる、いっしょに、いっしょに…
「いっしょに遊んだりできるの?」
「あはは、そうだよ。りさのお姉ちゃんだからな」
お父さんは笑って私の頭を撫でた。「お姉ちゃん」に同じことを尋ねると「お姉ちゃん」
も笑って頷いてくれた。
- 336 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時22分32秒
- 一人っ子だったから、ずっと姉妹というものに憧れていた。急にお姉ちゃんができたよ
と言われて疑問に思う歳ではなかったし、姉ができるということで頭はいっぱいだった。
「お姉ちゃん」と連呼する私に戸惑いながらも「お姉ちゃん」は笑ってくれた。自分の
大事なおもちゃとかをいっぱい見せてあげたくて、家の中を連れ回しても「お姉ちゃん」
は嫌な顔なんてしなかった。
雨はどんどん強くなっていく。
外にぶら下げたヒーローのことはすっかり忘れていた。
- 337 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時24分23秒
お姉ちゃんとはすぐに仲良くなった。
仲良くなるっていうのも変だけど、とにかく何をするにも一緒だった。公園で遊んだり
テレビを見たり、おやつを食べたり。夜寝るのもお父さんとお母さんからお姉ちゃんに
変わっていった。
お父さんから見れば私が連れ回してたらしいが、それでもお姉ちゃんは喜んで付き合っ
てくれてたし、いつも笑っていてやさしかった。
「ハラチガイ、ハラチガイ」
言ってる子にも言われてる私にも意味のわからない言葉。ケンカをすると、いつもその
五文字が返ってきた。小さいながらにも、それが相手を傷付ける言葉ということをその
子たちは知っていたはずだし、私もそれを言われると無性に腹が立った。涙ぐむ私を毎
回助けてくれるお姉ちゃんは、その度に私に「ごめんね」と謝った。
なんでお姉ちゃんが謝るんだろう?
ケンカ相手の子よりも、お姉ちゃんの言葉の方が胸の奥に響いた。
- 338 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時25分58秒
- 「ハラチガイってなに?」
一度両親に聞いたことがある。和んでいた食卓が一気に凍りついた。愛想笑いを浮か
べるお父さん、箸を落としたお母さん。まるであの日の二人を見ているようだった。
誰もが傷付く言葉なんだ。
そう理解した。そして、それからニ度と口にすることはなかった。
その言葉の意味がわかる歳になってからも、私達は、生まれた時からずっと一緒にいる
姉妹のように仲が良かった。友達の兄弟ゲンカの話なんて信じられない。服はどれでも
好きなのを貸してくれたし、お姉ちゃんが友達と遊ぶのに、私がついていっても嫌がら
なかった。
- 339 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時27分42秒
- お姉ちゃんは勉強があまり得意ではなかったけれど、バレーはすごい上手だった。絶対
にかなわないと思った私はバスケを選ぶ。レギュラー取りを目指して、二人で毎朝して
いたジョギング。住宅街を一周する間、どちらかというと私の方が一方的に喋っていた。
あの先輩がムカツクだとか、もう辞めてやるとか、新入生が生意気だとか…。
ほとんどグチばっかの話でも、お姉ちゃんはちゃんと聞いていてくれていた。たぶん、
お姉ちゃんがいなかったら、ジョギングどころかバスケ自体も続けられなかったと思う。
受験勉強やら何やらで、その日課が消えた頃から何かが変わり始めていた。
ポップスしか聞いていなかったのに、クラシックのCDが棚に並んでいる。
マンガしか読めなかったのに、小難しい本を借りてくる。
注意していなければ気付かないことから、それは少しずつ始まっていた。
- 340 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時29分46秒
- 去年の年末くらいから、お姉ちゃんは目に見えて様子がおかしくなった。私の相談にも
曖昧な返事ばかりで、急に塞ぎこんだり、両親の言うことにもいちいち突っかかるよう
になっていた。今まで反抗期らしい反抗期もなかったお姉ちゃんだけに、お父さんとお
母さんが困惑しているのは、態度に見せなくても伝わってきた。
真夜中に感じる気配。
隣の部屋で、お姉ちゃんは何を思っていたのだろう。
14才の冬、私のお姉ちゃんはいなくなる。
夜中に物音に気付いてドアをそっと開けた。
暗くて冷たい闇の中に浮かび上がるシルエット。
お姉ちゃんがバットを持って立っていた――
- 341 名前:4.3PC 投稿日:2003年07月01日(火)02時35分35秒
- >>330-340 更新しました。
遅くなって申し訳ないです。しかも、たいした展開もなく…
あと数時間早かったら、6月に一回しか更新できてない事実をうやむやにできたのに。(w
- 342 名前:BX-1 投稿日:2003年07月01日(火)02時37分39秒
- >>329 名無しさん
ありがとうございます。ちょっとしたスランプに嵌ってまして…。
抜けだせたか微妙な感じですが、がんばっていきたいと思います。
- 343 名前:BX-1 投稿日:2003年07月01日(火)02時50分20秒
- ☆
- 344 名前:名無し 投稿日:2003年07月01日(火)20時36分18秒
- うひょー!!
どうなっちゃうの!?続き期待。
- 345 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月01日(金)02時33分32秒
- hozen
- 346 名前:BX-1 投稿日:2003年08月12日(火)19時31分16秒
- 更新できてなくて申し訳ないです。
一ヶ月以上も放ったらかしといて何ですが、放置は絶対しないので…
意地でも完結させます。
このスレの容量とキリの良さを考えると、次は新スレを立てさせてもらうかもしれません。
なんとか今月中には載せるので、それまでもうしばらくお待ち下さい。
>>344 名無しさん
ほんと、どうにかしろよって感じですよね。
この頭の中にある展開を早くぶっちゃけたいです。(w
>>345 名無しさん
お手数おかけしてます。きちんと更新で応えられるように…。
- 347 名前:名無し 投稿日:2003年08月12日(火)22時53分40秒
- マターリ待っているので作者さんが納得いくまで頑張って下さい。
- 348 名前:0.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時43分45秒
潮は満ちゆく時、狂った歌を口ずさむ。
そしてゆっくりと、その寂しい調べが海を深い黒色に染め上げていく。
その前に、青いうちに、今すぐ舟を出そう。
暖かい風が小さな肩にふわりと触れる。
少女は重いまぶたを上げ、灯台の明かりをそっと吹き消した。
黒い幕がすっと上がる。
遠くではじける稲妻を見つめ、彼女は冷たい水に足を浸した。
急に重たくなる踵、力の入らないつま先。
それでも彼女は後ろを振り返らない。
眩い光りが再び輝くと信じて、彼女は濃藍の世界に飛び込んだ――
- 349 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時46分59秒
Chapter.5-- sweet message
ため息って、しゃっくりみたいに100回ついたら何かあるのかな…
曇ったガラス越しに見える傾いた電柱。鳥のフンにまみれた姿をぼんやり眺めながら、
吉澤はそんな事を考えていた。目の前で左手を広げ、5本の指を順に畳んでいく。ぎこ
ちない動きで2桁目に突入した頃、保田が怪訝そうな顔で吉澤の前に現れた。真剣な表
情で子供みたいに指を動かしている吉澤の姿に、保田は首を傾げた。
「あんた何やってんの?」
「じゅうしじゅう…ろく?ん?あーもう!保田さん話しかけないで下さいよ!」
「あぁ、ごめんなさい」
あっけにとられている保田の事も気にとめず、吉澤はまた指を数え始める。怒られた理
由も分からないまま保田は肩をすくめ、くたびれたソファーに腰を下ろした。
- 350 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時47分54秒
- 「まだ大丈夫だー」
吉澤は安堵した表情で腕を天井へ伸ばす。だが、向かいに座っている保田と目が合うと
その口から漏れていた欠伸も自然と止まった。ふわっと鼻をかすめる大人の香り。足を
組み、優雅な姿勢でコーヒーに口をつけている保田。すぐに吉澤の中に忘れていた重た
い感情が押し寄せてきた。
はぁー、と気のぬけた声がこぼれ出る。吉澤はソファーのスプリングのかたさを確かめ
るように体を深く沈め、足を前に投げ出した。
「あんたが、考えこむことないわよ」
「そんなの…無理ですよ」
吉澤はぶっきらぼうに答えた。机に広げられた新聞に目を落としながら、保田はそんな
事何でもないといった感じで自分に接してくる。小川のことなんてどうでもいい。そう
いう風に言っているように聞こえた。
何だよ、さっきはあんなに真剣になってくれてたのに…
- 351 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時50分08秒
- 「あっ、保田さんどうでした?」
俯きかけて吉澤ははっと顔をあげる。すぐに切り替えられない想いが、保田に問いかけ
る声を無愛想にさせた。
「何が?」
「あの、電話は?」
施設の場所は、と吉澤が言いかけると保田はすぐに首を振った。
「全然だめよ。プライバシーがなんたらかんたらってうるさくて」
「そうですか…じゃあ、お見舞いにも行けないんですね」
「まー、普通の病気とは違うからね」
専門の病院に入院しているが場所は教えられない。
小川の父親はそれ以上答えてくれなかった。それは小川の意思でもあるらしい。父親と
しての最後の砦なのだろうか、家の中で起きた事を語る父親は終始弱々しく見えたが、
その事については強い口調ではっきりと、しつこく迫る吉澤にも拒絶の意思を伝えた。
- 352 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時51分51秒
- それでも吉澤は小川に会いたかった。
会って自分に何かができるとまでは過信していなかったが、このまま何もせずにいる事
の方が耐えられなかった。小川の家を出て、呆然としている紺野を車で家の前まで送っ
た後、保田が自分の住所を聞いてきても吉澤は何も答えずに首を振り続けた。
結局、二度と来ないと思っていた事務所の簡素なソファーにもたれ、吉澤は保田に探偵
なら小川のいる場所くらい調べてくれよ、と少々強引なお願いをしていた。自分でも無
理だとどこかで思っていたのだろう、ダメだったと言う保田の言葉もすんなり受け止め
ることができた。
「そうだ、これ貼っときなさい」
ペチンと音をたてて白くて薄っぺらいものが吉澤の前に投げ出される。吉澤が眉をひそ
めそれを見つめていると、保田は「あぁ、ちょっと待ってて」と立ち上がった。ちらか
った机の上の書類をかきわけて保田が見つけてきたのはバンドエイドとはさみだった。
- 353 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時52分47秒
- 「包帯ないから、これ使って」
「え?…あーすみません」
バレてたんだ、と吉澤は少し恥ずかしくなる。指先に力を入れると中指に鈍い痛みが走
った。関節の部分が、小川の父親をぶっとばした時よりもずっと太くなっていた。
「あれ?これ湿布じゃなくて頭に貼るやつじゃ…」
湿布にしては分厚すぎる。保田のこめかみがピクリと動くのを見た吉澤は、言葉の最後
の方を濁した。
「しょうがないでしょ!それしかないんだから、私の愛用品にケチつける気?」
「いえいえ、これで十分でした」
これ以上文句を口にすると返してくれと言い出しそうだ。無いよりはいいや、と吉澤は
指には少し大きい冷却剤にはさみを入れる。中指をつっぱらかして握るはさみは力を入
れにくく、妙な感覚で右手が動いた。
突き指なんて久しぶりだなぁ。
部活動に没頭していた時にはしょっちゅうやっていた怪我を、今頃こんな形で負うとは
思ってもみなかった。懐かしい痛みが様々な思い出を引き出してくれる。といっても、
今この状況で最後に脳裏に描き出されるのは、バレーとはまったくかけ離れた所で闘っ
ていた小川の笑顔だった。
- 354 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時54分09秒
- 「はぁー」
白い湿布に肌色のバンドエイドという不格好な指を見つめる。指に残る違和感が逃避し
ようとしている吉澤を現実に繋ぎとめていて、その事を認識する度に吉澤はため息をつ
いていた。小川の周りで起こった事はドラマとかでたまに見る世界であって、自分の後
輩に直接ふりかかるものではなかったはずだった。
突然、ゆらぎだす自分の世界。
一つ違う色のグラスをかけただけで、眼下に広がる景色がいとも簡単に変わってしまっ
た。ハンマーで叩き壊されたような衝撃、薄っぺらだった壁はもろくも崩れる。そうし
て見えた向こう側、今まで隠れていた世界の眺め、それを自分が直視できるようなるに
は相当な時間が掛かりそうだということが、さらに吉澤を追い込んでいた。
それなのに、一緒に小川の事情を聞いてきた保田はソファーに深く腰掛け、カップ片手
に新聞記事を読みふけっている。まるで今さっき起きだして、遅くなった朝をのんびり
と過ごしているようだ。こういう事件には慣れてんだな、と吉澤は苦い目で保田を見つ
める。保田が新聞をめくっている音が意識せずとも耳についた。
- 355 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時57分52秒
「「たのもー!」」
変なかけ声で入り口のドアが勢いよく開いた。ドンという大きな音に驚き、飛び上がり
そうになった吉澤は、跳ねる心臓を落ち着かせて音のした方を向く。弾みがつきすぎた
ドアは直接壁にあたってはね返り、元気な声の主を再びドアの向こうへと隠していた。
どうやら保田にとっては好まざる客が来たらしい。わかったのは、女の子が二人廊下に
立っているということだけだったが、それだけで保田は「げっ…」と心底嫌そうな顔を
作っていた。廊下から響いてくる女の子達の笑い声、今度はゆっくりとドアが開いた。
「あれ?ケメちゃん起きてるよ」
「ほんとだ。ケメちゃん、おはよー!」
保田は挨拶代わりにため息を一つついただけで、すぐに視線を新聞へと戻す。そんな保
田のそっけない反応に吉澤はおや、と首を傾げた。さっきのドアの開け方は、子供だと
いうことを差し引いても不作法で、保田の怒鳴り声が響きわたってもおかしくなかった。
- 356 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)22時59分56秒
- 保田とは会ってまだ数日しかたっていないが、その間に流れていた時間はけっこう濃い
もので、吉澤は保田がどんな人間であるか少しはわかっているつもりだ。現に吉澤も車
のドアの閉め方で、さっき注意されたばかりだった。
なんで何も言わないんだろう?
怒鳴りつけられなかった二人を吉澤は不思議そうな目で観察する。ぱっと見で双児だと
思っていたのは間違いだったみたいで、同じような格好をしたお団子頭は親の趣味で揃
えられているようにも見えたが、二人の顔はよくよく見ると似ていなかった。
「保田さん怒ってんの?…ケメちゃんていうのが嫌なのかな」
「うちらは別におばちゃんって呼んでもいいんだけどね」
- 357 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時01分07秒
- 次に浮かんできた可能性、二人のどちらかが保田の妹だという説もすぐに消える。自分
の姉を名字で呼ぶ妹は見た事がないし、呼びたくなる気持ちもわからなくはないが、お
ばちゃんと呼ぶ妹もいないはず。それに姉妹にしては年が離れすぎているように思えた。
強面の保田に物おじしない二人の女の子に、吉澤の疑問は更に深まる。
客でもないよね…いったいこの子達はなんなんだ?保田さんに刃向かえるなんて。
保田は二十代後半もしくは三十代前半だと、吉澤は勝手に思い込んでいた。
小さなバックをぶら下げただけの身軽な格好から、近所に住んでいる子供だとわかった。
キャラクターのついたカラフルなパーカーをお揃いで着ている。細かく言えば違う部分
もあるが、彼女達が身につけているものはピンクとブルーの色違いのものというだけで、
肩に斜がけされたバックも全く同じものだった。
- 358 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時01分58秒
- 「あっ!お客さんだ。めずらしー」
ピンク色の方の女の子が吉澤の存在に気付いた。外と中の気温差のせいで少女の白い頬
までもがピンクに染まっている。近い距離で見下ろすように指をさされるのは、あまり
いい気分がしなかったが、吉澤はその少女に向かってとりあえず微笑んでみせた。
「こんにちは」
「へ、ども…」
先程まで保田に向けられていた横暴な態度は急に影をひそめ、その少女は少し恥ずかし
そうに頭をぺこっと下げた。
あれ?この子達、人見知りまでもお揃いなのかな。
二人に挨拶したつもりだったのに、隣にいるブルーの服を着た女の子は口をぽかんと開
けてこっちを見ているだけで、その唇が動く事はなかった。
「残念ながら、お客さんじゃないわ」
新聞の端を揃えて畳むと、保田は顔を上げた。まだ不機嫌そうな保田の横にピンク色の
少女は臆することなく座ると、偉そうに足を組んで保田に迫るような態度で問いかけ始
める。会話の内容で、それが取り立ての真似をしているんだと後からわかった。
- 359 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時03分11秒
- 「なんだー、それじゃまだ家賃払えないの?保田さんは。困ったなー」
「うるさいな、あんたには関係ないでしょ」
「ほぅ、かんけーないですか」
「そうよ!子供は口出ししないの」
「んーそんじゃ、お家に電話しよっかなー」
子供扱いされたことが嫌だったらしく、少女はそう言ってバックから携帯電話を取り
出す。携帯を開いてボタンをいじり始めた少女に、保田の目がキッと吊り上がった。
「電話してもいいけど、そのかわり…あんた達を永遠に出入り禁止にするからね」
「うっ…」
これが効いたようで、少女は渋々携帯を閉じた。保田と対等に時には勝ち誇ったように
喋る少女に、吉澤の疑問は膨らむばかりだった。
家賃って…この子の家に恐い人でもいるのかな?
不安げな目で見つめる吉澤をよそに、少女はテーブルに広げられたお菓子の袋をつっつ
き始めた。
- 360 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時04分33秒
- 「あのさー、今日は帰ってくれない?疲れてんのよ」
相変わらず保田は仏頂面だった。朝から吉澤に付き合っていたのだから、それは無理も
ない。しかし、そんな大人の事情を知らない少女は駄々をこねる。
「えー!やだー!」
「てか、ここはあんた達の遊び場じゃないのよ。みなとみらいで観覧車にでも乗ってき
なさいよ!すぐそこでしょ。そこのお菓子持っていっていいから」
「やだ!ここにいるもん!」
体を横にしようとしている保田の耳元で少女はそう叫ぶと口を尖らせた。ケンカに近い
保田と少女のやりとりを眺めながらも、吉澤はさっきからずっと違うことが気になって
いた。その元気な子の横で一言も喋らない水色の女の子。ぼけっとしている彼女からの
視線が自分に突き刺さっている感じがしてしょうがなかった。
この子、知り合いだったっけ?
さり気なく様子を伺うと、少女はつぶらな目で自分の事をじっと見ていた。思い過ごし
でも勘違いでもないのは確かなようだった。
- 361 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時06分28秒
- 一方、保田達は今度は「制服を貸した、貸してくれなかった」という事でもめていた。
貸さなくて正解だよ、と無意識のうちに保田の制服姿を想像したのか口にしていたらし
く、保田の鋭い視線が吉澤に飛んできていた。
「そういや、あっちゃん次にいつここに来るって言ってたかなー」
「え?いつ!?あっちゃん、いつもいきなり来るから困ってんのよ」
固まっている吉澤に少女が助け舟を出してくれる。その言葉に保田はすぐに少女の方へ
向き直った。
「んー、明日って言ってたかなー…明後日だったかなー」
「どっちよ?何時頃?」
「ふふふふ、帰りに教えてあげてもいいよ」
そして、この一言で少女が勝った。保田は苦虫を潰したような表情で「静かにしててよ」
と叶いそうにもないお願いを仕方なしにつけて、ソファーに寝転がった。
この子は誰なんだろう?
吉澤は保田を丸め込んでしまった少女に、尊敬の眼差しを持ち始めていた。
- 362 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時07分46秒
- 「あれーごっちんはー?」
少女の問いかけに、保田は目をつむったまま天井を指差す。つられて見上げた吉澤の目
に入ってきたのは松田勇作の古いポスターだった。かっけーと呟いて、それを眺めてい
た吉澤の体が揺れる。下を向くとピンクの少女に右腕をつかまれていた。
「おねーちゃんも一緒にいこ」
「え?」
子供だと思っていた力はかなり強く、ぐいぐいと部屋の奥に引っぱられる。
「ちょちょちょっ…どこに行くの?」
「いいところ」
「ちょっと、保田さーん」
保田は目を閉じた状態で、いってらっしゃいと吉澤に手を振る。保田のデスクの横にあ
る他のより少し大きめの窓の前で止まると、少女は慣れた動きでギギッと音を上げる窓
を開けた。冷たい風をものともせず、少女はそこから外へ飛び出す。窓だと思っていた
ガラスは足下まで全部開くドアだったみたいで、その向こうはコンクリートむき出しの
小さなベランダになっていた。
- 363 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時09分54秒
- 「あれ、いない!?」
外に出るとお団子頭が見えなくなっていた。きょろきょろと通りを見下ろしている吉澤
の服の裾を引っぱって、水色の少女は背後にある赤茶色のレンガの外壁を無言で指差す。
そこには錆び付いた鉄が壁にぶら下がるようにくっついていた。それは屋上へと続いて
いて、見上げると眩しい空を背景にこっちを覗いているお団子頭のシルエットが見えた。
手をかざしている吉澤に「早くおいでよー」と頭上から明るい声が降ってくる。
「えっと、もしかして…これ昇るとか?」
細い鉄が組まれただけの今にも折れてしまいそうなハシゴ。
吉澤が頼りない鉄の棒を指差すと、裾をつかんでいた少女はこくりと大きく頷いた。
- 364 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時13分52秒
- ☆
小川麻琴の父親が今の奥さんに知り合う前に付き合っていた女性、それが麻琴の実の母
親だった。まだ10代だった二人はささいなケンカで別れる。父親は言葉を濁していたが、
きっと彼の浮気がその女性が出ていく原因になったんだろうと保田は勝手に思っていた。
そして、彼は見知らぬ所で自分の子供が生まれているのも知らずに別の女性と結婚する。
それが里沙の母親で、父親が麻琴の存在に気付いたのは別れてから10年以上もたった頃、
突然送られてきた一通の手紙からだった。
書いてあったのはどこか田舎の住所と学校名に麻琴という文字だけだったが、見覚えの
ある筆跡は彼の足をそこへと向かわせた。その施設で判明する事実。何かの間違いだと
思った。父親が真相を求め、麻琴の母親の実家を尋ねた時にはもう、彼女は奥の部屋で
やわらかく微笑んでいるだけで彼の質問には答えてはくれなかった。
- 365 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時15分33秒
- その瞬間、頭が真っ白になったという。覚えているのは線香の匂いが服にしみつくまで
手を合わせ、ただただ謝り続けたということだった。その時のことを思い出して、色々
な事を思い出したのだろう。そのことを語っている父親の顔はひどく苦しそうだった。
自分が悪かったと頭を下げることも優しい言葉をかけてやることも、何で教えてくれな
かったんだと責めることも、もう何もできない。それに、もしあの時告白されていたら
麻琴はこの世に存在しなかったかもしれないということを、彼は頭のどこかでわかって
いたのかもしれない。
驚いたことに彼女の母親は、彼女が妊娠していたことも子供がいたことも知らなかった
ようだ。一人で育てていく事に限界を感じていた彼女は、麻琴が一歳の誕生日を迎える
前に赤ん坊を手放していたし、もともと放任主義で、自分の娘が一年間顔を見せないか
らといって心配するような母親ではなかったらしい。
彼がそのことについて、彼女の母親に説明するチャンスもないに等しかった。彼女の後
を追うように息をひきとってしまった母親に、枕元で語る彼の声が認識できたかどうか
は、そのやすらかな表情からはわからなかった。
- 366 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時16分57秒
- 親も夫となるべき人もいない環境で、赤ちゃんを産むのはどんなに辛かったであろう、
と保田は麻琴の母親を不憫に思う一方、彼女の強さにも驚いていた。同じことを思った
のだろうか、その場で共に話を聞いていた今の――里沙の母親はいつのまにか席を外し
ていた。里沙と紺野は始めから二階に上がっていたため、最後まで父親の告白を聞いた
のは、保田の他に吉澤と後藤だけだったが、もっぱら二人はその場にいるだけで相づち
を返すのは保田一人の仕事だった。
麻琴を引き取ってからは何の問題もなく、麻琴自身もそのことで特別いじけたり、すさ
んだりせず、順調に暮らしてきたらしい。吉澤に聞いた話でも、麻琴が家庭内で暴れる
ようなタイプだとは思えなかった。そういう行動を起こす子はたいてい頭がよく、プラ
イドの高い、内に向かうタイプの子が多いと聞く。はっきりいって、小川は勉強はかな
りダメな方だったと聞くし、友達も多く、部活動だって夜遅くまでしていたという。
家に帰ってまで、暴れまわる体力が残ってるのかな?
保田の中では小川のイメージがいつまでもぼやけていた。
- 367 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時18分06秒
「私にできることはないか…」
入院している施設がわかったとしても治療中に会いに行って、いい方向に向かっている
小川の精神を乱すわけにもいかない。保田はよくわかっていたが、混乱している吉澤は
そんな簡単な事も理解できないらしく、小川の見舞いに行きたいとソファーから一歩も
動かない構えをとっていた。ツテを使って調べた電話も、吉澤を落ち着かせるために受
話器を取ったようなもんだった。
ドンと天井が揺れる。
電気の傘にその振動が伝わり、顔にパラパラとほこりの粒が落ちてきた。
「もう!あいつらブランコ禁止だっつってんのに。あっちゃんよりも迷惑な…ん?」
咳き込みながら上体を起こした保田は、思い出したように声をあげた。
「あれ?そういえば、なんで鈴が鳴らなかったんだろ」
今のところ毎回訪問者を知らせてくれていた、インターホンも兼ねた警報機。
うるさい二人が来た時には、そんな音は耳にしていなかった。
「まさか…ね」
- 368 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時19分47秒
- 換気するために窓を開けようと、錆びついた窓枠にありったけの力を込めた。そうして
開いたわずかな隙間から入ってくる冷気に、保田は口元を引きしめ、下の通りの様子を
眺める。
横浜自慢の観光スポットが駅をはさんで向こう側にあるため、駅から近いといっても休
日のこの辺りはひっそりとしている。たまに、このレンガ造りの建物にピントを合わせ
てカメラのシャッターを切る若者もいたが、わざわざ怪しい看板が軒を列ねる通りを選
んで入ってくる人は滅多にいなかった。今日もよく見かける業者のトラックと、一週間
くらい前から路駐してる車が止まっているくらいで、人の気配はほとんどない。
「でも、いたずらなわけないよなぁ」
ゴミ箱から一つの固まりを拾い出す。くしゃくしゃに丸められた紙を伸ばして、保田は
もう一度その短い文面を追った。
『寺田愛のことは忘れろ。命惜しくはこの件から手を引け』
- 369 名前:5.1PC 投稿日:2003年08月25日(月)23時21分29秒
- 宛先も名前も、何も書かれていない封筒の中に入っていた一枚の紙切れ。そこにはその
一文だけが書かれていた。切手がなく、直接ポストに投函されていたことから、そいつ
が昨日ここに来たことだけは確かだった。
やっぱり犯人からかな?
ワープロで打たれた脅迫状は、どちらかというと警告に近いニュアンスだった。気休め
程度にお金もかからない警報機をつけはしたが、保田は調査を打ち切ろうとまでは考え
ていない。それに調査から手を引けと言われる以前に、保田達は手をこまねいている。
調べたくてもどこをつけばいいのか、さっぱりわからない状況で、やる気が失せかけて
いた保田にとって、この脅迫状は逆にありがたい物となっていた。
私を脅迫するなんて上等なのよ!出て来たとこを捕まえてやるんだから。
ポケットに気味の悪いメッセージを押し込み、保田はバット片手に仕掛けを確認しに行
く。さすがに恐いのか、保田は歌を歌いながら階段を下り始めた。靴音とこぶしのきい
た演歌が、薄ぐらい階段に響きわたった。
- 370 名前:BX-1 投稿日:2003年08月25日(月)23時27分59秒
- >>348-369 更新しました。
関西弁の大家さんは、平家さんではなく稲葉さんでした。
計算してみたらけっこう余っていたので、そのまま更新しました。
かなり長い話になりますが、おつき合いよろしくお願いします。
ペースは変わらず2週に1回程度で。
- 371 名前:BX-1 投稿日:2003年08月25日(月)23時29分27秒
- >>347 名無しさん
お待たせしました。お言葉にかなり甘えようかとも思いましたが…(w
そろそろネタばらしの段階に入れるので、気持ち良く書いていけそうです。
- 372 名前:BX-1 投稿日:2003年08月25日(月)23時30分29秒
- ☆
- 373 名前:BX-1 投稿日:2003年08月25日(月)23時32分42秒
- >>348-369 更新。
- 374 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月25日(月)23時46分15秒
- 待ってましたよ〜、乙でした。
- 375 名前:名無し 投稿日:2003年08月26日(火)17時17分43秒
- ここに来てあの二人組みが。和みました(w
話がそろそろ動き出す様で、色んな事がどう処理されていくのか楽しみです。
- 376 名前:BX-1 投稿日:2003年09月07日(日)21時22分18秒
- 訂正
>>365 ×『その時のことを思い出して、色々な事を思い出したのだろう。』
○『その時のことを思い出して、色々な感情が蘇ったのだろう。』
読み返してみて自己嫌悪です。他にもたくさんありますが、これだけは直させて下さい。
ほんと間違いだらけですみません。
といいつつ、適当な性格なので今後も誤字脱字がたまにあるかと…大目にお願いします。
- 377 名前:BX-1 投稿日:2003年09月07日(日)21時23分38秒
- レスです、ありがとう。
>>374 名無しさん
なぜかパタリと書けなくなり…作者なのにこの世界からはじき出されていたようです。
「まだ冬?」とか「4日しかたってないじゃん」とか、色々思うとこもありますが
夏休み充電も完了したので、気にせずガシガシ書いていきます。
>>375 名無しさん
和んでよかったです。実は、何でもないこの二人がネックだったとか。
バラまいたものを繋げる作業は少しずつな展開なので、逆にイライラさせる恐れも…
全ては保田の手腕にかかっているのです。(w
ここの残りは、頼もしい保田探偵の手帳一部公開に使わせていただきます。
誘拐についてのメモと、日記も兼ねた二月の予定表をそのままに。
所々についていたハートマークと落書きは割愛させていただきました。(w
参考にどうぞ。
- 378 名前:誘拐に関する記述 投稿日:2003年09月07日(日)21時25分55秒
- 2.6(木) 寺田愛誘拐される(学校) 午前までの授業には出席していたらしい
12:50〜2:00 運転手が気付くまでの間に実行か?目撃者なし
夜、寺田家に脅迫状が投函される
7(金) 7時頃(夜ご飯の支度をしていた時)犯人から電話、機械を通した声
運び役に愛人の中澤裕子を指名、身代金は1000万
8(土) 犯人が中澤に直接指示して金を運ばせる。金と共に中澤も消える
中澤(寺田名義)のマンションに100万の束「一月分の家賃です」
――それ以降、連絡まったくなし――
- 379 名前:誘拐に関する記述 投稿日:2003年09月07日(日)21時29分27秒
- 中澤裕子(?) 30くらい、新宿歌舞伎町クラブQのホステス
年末〜今年の一月末まで(クラブは潰れ経営者は逮捕)
金髪、カラコン(ブルー)メグライアン似??(自称)
寺田光男(34) 寺田貿易株式会社取締役、HPプロジェクトCEO(つんく)
髪が金髪、格好も派手、関西出身?中澤にマンションをプレゼント
かなり神経質なタイプ、対照的に奥さんは地味(継母ぽい)
寺田愛(16) 横浜山手女学園一年生、毎日車で通学、切符も買えないらしい
黒髪のストレートでいかにもお嬢様タイプ
意外なことに学校ではクール、友達もほとんどいない
成績優秀、スポ−ツ万能、嫉妬と羨望をうけていたようだ
この学校に対する父親の影響力はかなり大きい
親に隠れてテニスを続けている可愛い一面も
宝塚が好きらしい、吉澤のファン?誰かと文通?
- 380 名前:2月の予定表 投稿日:2003年09月07日(日)21時31分49秒
- Day Schedule 2003
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
2.13 pm.5〜 仕事、寺田家(鎌倉)
(木) 誘拐事件、少しやっかいそうだが引き受ける、それにしても凄い家だった
犬もでかい。くそがきハルちゃん「子供の消える家」…あれは幽霊?錯覚?
pm.11〜 マシュー(タカシちゃんの店、新宿)
中澤裕子の情報収集をタカシちゃんに任せる。バレンタインナイトで飲まされた
まぁ、飲むのも調査。高い酒は上手い!
でも領収書を白紙にしてくれず…タカシちゃんはそういうとこ真面目すぎると思う
*あっちゃんからの家賃催促の伝言がドアに、半年も滞納してたっけ?
- 381 名前:2月の予定表 投稿日:2003年09月07日(日)21時32分47秒
- 14 am.9〜 入試面接受け付け開始、山手女学園(横浜市中区)
(金) 高橋愛に文通相手がいた。中澤と関係アリ?石川梨華はシロ、アニメみたいな声
pm.5〜 朝ヶ丘高校(横浜市神奈川区)吉澤ひとみに会う
その後、マックで痛い出費。さすがに領収書なんて恥ずかしくてもらえない
吉澤もシロ、金髪にピアス開けまくり、かなり態度悪いガキだったわ
pm.8〜 マシュー(新宿)
中澤の情報なし。タカシちゃんに一杯食わされたようで、そのまま捕まり
朝まで飲み明かす。後藤は夜の終電で帰宅していたらしい。ホルモン最高!
(夜中に脅迫状が投函)
- 382 名前:2.15 投稿日:2003年09月07日(日)21時34分14秒
- 15 am.8〜 一日中事務所
(土) 石川が来る、あの声で朝からビービー言うのは勘弁してほしい。頭いたい…
pm.2〜
お腹が空いて目が覚める、昼はいつものラーメン出前。脅迫状を初めて見る
昨日気付いた後藤がすでに警報機をつけていた。さすが我が弟子!
pm.3〜
今度は吉澤、昨日とはうって変わって大人しい雰囲気だった。
オガワマコト(朝ヶ丘一年のバレー部後輩)、家庭内に問題?
吉澤一人で解決できる問題じゃない…私の出番かしら
*あっちゃんが家賃取り立てに来る、最近一日おきに来てる気がする
- 383 名前:2.16 投稿日:2003年09月07日(日)21時44分52秒
- 16 am.8〜 小川家で張り込み(横浜市鶴見区××-×)
(日) 10時頃に吉澤が現れる、吉澤と後輩(コンノアサミ)なんかズレてる子
家はペンキ臭く、ひどい状態…家庭内暴力(去年の秋頃から)
小川麻琴と妹の里沙は異母姉妹(小川の実母はすでに他界)
吉澤が勘違いして父親を殴り飛ばす。私の入れ知恵のせいもあるけど…
殴るなんて吉澤はやっぱりバカだ。でも、なかなかいいパンチだった
pm.3〜 事務所
吉澤はてこでも動かない様子。そんな中うるさいのがまた来た――
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sky/1062938569/
空板に、新スレを立てさせていただきました。
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