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ワールド・アトラス
- 1 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月01日(土)14時11分03秒
- パラレルです。sageでいきます。
タイトルは、「ワールド・アトラス」です。
- 2 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月01日(土)14時12分13秒
これは、どこにでもある、単なる片想いのものがたり。
- 3 名前:パート1-1 投稿日:2003年02月01日(土)14時13分21秒
- 絶え間なく左右に揺れ続ける車両の座席のあいだを、足首に力を入れてバランスをとりながら
座席まで戻ってくると、果たして吉澤ひとみのこうべはうつらうつらと舟を漕いでいた。
――ありゃぁ、寝ちゃってる…。
高橋愛は、もともといた向かい合わせの座席にそっと腰を下ろし、
買ってきたオレンジジュースとウーロン茶の缶を窓際に置く。
冬休みも終わろうかというこの時期、乗客の入りは5割弱といったところで、
その半数はサラリーマン、残りのほとんどは大学生ぐらいのグループ旅行である。
高校生の吉澤・中学生の高橋のふたり組は、車内の雰囲気に溶け込んでいそうにいて、
遠目に見ると微妙に浮いて見える。
この特急に乗り込んだときはまだ朝日が差し込んでいたが、いまはもう太陽は真上だ。
窓越しに見える景色は、そのほとんどを占めていた木々の緑や雪の白が減り、
コンクリートの灰色が目立つようになっていた。
いつしか列車は高架を走っている。車両が大きく傾くほどのカーブもなくなり、
ひっきりなしに通過した短いトンネルももはやない。下り列車と擦れ違う回数も徐々に増えてきた。
そしてそれらは、確実に“郷”から離れていることを高橋に実感させた。
- 4 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時14分03秒
- ふと、視線を吉澤のほうへやると、肘置きに頬杖を突いて、
張子の虎のように頭がぐらぐらと揺れている。
高橋は、見てはいけないものを見ているような興奮を伴って、吉澤の顔を見詰めた。
列車の振動音に混じって、“くー……くー……”と、緩やかな息遣いが聞こえてくる。
こんな風に、至近距離で憧れのひとの無防備な顔を見られるチャンスなんて、なかなかないものだ。
しっかり焼き付けておかなくちゃ、と思った。そして、
こういう機会がこれからもたくさんあるといいなぁ、とも。
- 5 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時14分39秒
- 吉澤は取り立てて美人という感じとはすこし違う。
しかし、目や眉、口といったパーツが微妙な均衡を保っている顔立ちは、
すらりとした背丈と相まって一概に“綺麗”という印象を抱かせ、
“郷”にいた頃からひときわ目立つ存在だった。
高橋が通う“郷”の中学は、文字通り田んぼのど真ん中に、吉澤の通う高校と隣り合わせにあった。
ともに木造の小さな学校へと続くのは細い道1本きりで、
登校するときにはときどき吉澤の姿を目の当たりにすることがあった。
初めて見たときから、素敵なひとだぁ…と、思った。
屈託ない物腰、そして時にげらげらと笑う吉澤の周りには、常に何人かの友人と思しき姿があった。
そう、吉澤は人気者だった。
- 6 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時15分22秒
- 「あれ誰?」と、高橋はあるとき思い立って、いっしょにいたクラスメートに尋ねた。
「えー、うそ、知らないの? 高2の吉澤さんだよ」
どうやら、結構な有名人らしかった。なぁんだ、と思った。
クラスメートの話では、靴箱にラブレターが入っていることは日常茶飯事、
さらには、ファンのあいだでは隠し撮りの写真まで取引されているということらしい。
なんどか見かけるうちに、いつしか高橋の視線は自然と吉澤を探すようになっていた。
しかし、吉澤の姿を見つけたところで、なんでもいいから関われるきっかけがあればなぁ、と、
いつも目に見えるよりもずっと遠くに吉澤を感じるばかりだった。
- 7 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時16分14秒
- 吉澤が仲間うちや先輩から“よっすぃー”と呼ばれているのは知っていたが、
ほかに、本人は知ってか知らずか、“撃墜王”という密かなあだ名があった。
特定の誰かと付き合っているという噂はなかったにも関わらず、
数多くの“挑戦者”がこれまで吉澤に告白をしては、涙を呑んできたのだ。
吉澤のことを教えてくれた仲のいいクラスメートもそのひとりだった。朝早くに高校に忍び込み、
靴箱にラブレターを入れておいたにも関わらず、
その日の放課後、指定した場所に吉澤が現れることはなかった。
そんな話を聞いて、どちらかと言えば内気な性質の高橋は、好きでいさせてもらうだけでいいや、と、
すっかり諦めきっていた。決して近づくことはないけれど、
好きな相手のことを考えているだけで充分楽しいのだから、これでいいのだ。
もちろんそれは強がりだったが、無残に崖っぷちから突き落とされるよりはよっぽどマシなはずだ。
それが、まさかこんなことになるなんて、と、いまだに信じられない自分がいる。
- 8 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月01日(土)14時16分51秒
- さっき、3両先の車両で見つけた車内販売のワゴンが脇の通路を通り過ぎていく。
「温かいお飲み物、ビール、アイスクリームはいかがでしょぉか?」
若い女性の売り子の声を聞いていると、なんだか喉が渇きを感じてオレンジジュースの缶を手に取り、
プルタブを引いた。ぷしっ、という気味のいい音がかすかに空気を震わせ、
ほのかな甘味の粒子が周囲に漂う。
ただ、その音は、足元で低く唸り続ける電車の走行音とは明らかに異質で、
吉澤の目を覚まさせてしまったようだ。瞼がゆっくりと上がり、視線がぼんやりと高橋を捉える。
「あ、すいません、起こしちゃって」
缶から口を離し、申し訳なさげに高橋は言った。
「ん…あぁ、いいんだけどさ」
吉澤が車窓に目を遣る。いつしか山々は遥かに霞んで見えるだけとなり、すっかり街中に入っている。
- 9 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時17分48秒
- 「あと10分ぐらいかな」時計に視線を落として吉澤が言って、
ウーロン茶が窓際に置かれていることに気づいた。「あ、ありがと」
「あっそうだ、お釣り――」と、高橋が思い出してジーンズのポケットに手をやりかけると、
「いいよ、あげる。お駄賃」
「いや、でも、そんなこと…」
なおも高橋はポケットのなかの小銭を集めようと、躍起になってじゃらじゃらと鳴らしていたが、
「あのさぁ――」見るに見かねたように吉澤が肩をすくめて言った。
「もうちょっとこう、ラクにしたら? 先は長いかもしれないし、もっと気楽に、さ」
「あ、はい…あの、でも吉澤さん――」と、高橋は、自分の思いの丈を熱く語ろうとした。
今回のことで、選ばれた自分がどれだけ光栄に思っているか。
そして、自分がいま、どんなにどきどきしているか。
- 10 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時18分26秒
- しかし、それをやんわりと制するように吉澤が軽く、「よっすぃーでいいよ」
「え…?」
出鼻を挫かれて、目を瞬かせる。
「うちを呼ぶとき。同居人がいっつも“吉澤さん”じゃあさ、なんか肩こっちゃうっていうかさぁ」
「無理、無理ですよーそんなの」と、眉根を寄せ、情けない声で高橋がこうべをぶんぶんと振る。
「結論早ぇ」吉澤は笑った。
「だって…」
「じゃあさ、練習してみよっか」
「は…?」
「“よっすぃー”。はい」と、手のひらを差し出して、高橋に反復するように促す。
まるで中1のクラスを受け持つ英語の先生のように。
それはともかく、「やっぱり無理です」と渋る高橋だったが、なおも吉澤は、「はい」と、もういちど促す。
「…よ、よっすぃー……」
消え入るような声になった。
「もういちど。“よっすぃー”。はい」
「よっすぃー…」
- 11 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時19分00秒
- 吉澤の屈託のないところは好きなのだが、こうして屈託がなさすぎると困ってしまう。
本当は、こんなに緊張せず、ごく自然に“よっすぃー”などと呼べたら、どんなに素敵だろう。
ただ、そう呼ぶ自分がとても想像できない。想像しようとすると、頬のあたりがかッと熱くなる。
こうして実際に本人を目の前にして口に出すとなると、なおさらだ。
こらえきれず高橋は、「あ、吉澤さん、お茶、あったかいうちに――」
と、とりあえず窓際のウーロン茶を差し出す。
吉澤は、あははは、と困ったような顔で笑い、「ま、気長にいこうよ」と言って、缶を受け取った。
なにが可笑しいのか分からず、高橋は小首を傾げるのだった。
- 12 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時19分37秒
目的地であるY市で列車を降り、そこから先はバスだ。
小春日和ということもあるが、やはり“郷”よりも明らかに気候の温かさを感じる。
バスターミナルへと続く駅前のロータリーを歩きながら、
吹き抜ける風のなかに柔らかな潮の匂いをかすかにかぎ分けて、吉澤はすがすがしい気分になりかける。
Y市――。
急峻な山と穏やかな海に細長く挟まれたこの街は、もともとは町だったが、
首都へのアクセスの利便性から衛星都市として住宅街が至るところに作られ、
高度経済成長の頃に人口増加ラッシュを迎えたこともあって、30年前に市に昇格した。
この不景気だというのに、いまも、いかにも高級そうなマンションが
いつの間にか新たに建っていることは珍しくなく、街の表情は絶えず変わりつづけている。
駅前の様子を見ると、行き交う人たちのファッションにそこそこの余裕が感じられた。
つまりは、上品な土地柄なのだ。
- 13 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時20分29秒
- 吉澤の手には薄っぺらいファックス用紙があり、そこには新居への交通手段と道順が書かれていた。
昨日受け取ったときは、“らしい”なぁ、と、吉澤に微笑みがこぼれたものだ。
バス停で降りてからアパートまでの道順にしても、
たとえば途中の喫茶店の位置が描いてあって、矢印で“ココ、シナモントーストがおいしー”などと、
少なくとも今日は役に立ちそうにない情報まで書き込まれている。
あるいは、ある曲がり角のタバコ屋にも、矢印で“おばあちゃん、いいひと”などと、
おそらく永久に役に立ちそうもない情報まで。
そんなひとつひとつが、単なる気遣い以上のサービス精神の旺盛さを物語っているようで、
その相変わらずさに吉澤はまた微笑んでしまうのだった。
- 14 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時21分05秒
- 「ちょ、ちょっと待ってください」
背後から声が掛けられた。振り返ると、地図に視線を落としたままだったせいで、
高橋を置いてきぼりにして、どんどん先へと歩いてしまっていたようだ。
高橋の姿は2、30メートル後ろにあった。ロータリーの一角にある大きな噴水の脇で吉澤は立ち止まり、
「ねえ、いっこ持とうか」
「い、いえっ、大丈夫ですっ」
数メートル遅れて、顔全体に赤みがかるほど、
高橋は一歩一歩踏ん張るようにしてふたつのバッグを担いでいた。
どちらのバッグもぱんぱんに膨らんでいる。大丈夫、とは言うものの、遠慮しているのは明らかだった。
手前の噴水が吹き終わり、もういちど吹き上がる頃に、ようやく高橋が追いついてきた。
並んでゆっくりとペースを合わせて歩くことにする。
- 15 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時22分24秒
- 「ずっと気になってたんだけどさ、なんでそんなに荷物があんの? 引っ越し屋に頼めばよかったのに」
「ぜんぶ送ったつもりだったんですけど、あれもいる、これもいる、って、
あとから考えながら今日の荷物詰めてたら、こんな有り様になってしまいました」
そんな情けなさそうな表情の高橋に対して、
「もしかして、電車のなかで食べるためのおやつとかも入ってたりして」
からかい口調の吉澤だったが、さらに顔を真っ赤にする高橋を見て、マジで?と笑う。
昨日初めて顔を合わせたばかりだったが、だいたいどんなコなのかが呑み込めてきた。
ついさっきも、切符をどこにやったか忘れたと、改札口の前であたふたと
コートやジーンズのポケットをひっくり返している高橋の姿に、
ひと足先に改札を出たところで腕組みして苦笑いするばかりだった。
- 16 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時23分06秒
- そうこうして、ようやくバス停に到着する。
“郷”にもバスはあったが、せいぜい30分に1本だったし、
バス停に待ち時間を表示する電光パネルなんてもちろんなかった。
「すごいですねぇ、なんかすごく、都会って感じで」
バッグを置き、くっきりと真ん中にすじの入った手のひらを擦り合わせて
じんじんと残る痛みを散らしながら、“あと5分です”と表示されたパネルを見上げて高橋が言った。
吉澤はと言えば、自分たちが降りた駅の白い建物を振り返っていた。
駅の両脇からはJRの高架が伸びている。
――線路がこう走っていて、うちらはこっちから来たんだから…東はこっちか…。
探し当てた方角を見詰める。バーゲンセールや展示会の長い垂れ幕を何本もまとった
大きなデパートが視界を遮っていた。しかし、吉澤の意識はデパートをすり抜け、
さらに東へ数10キロ行ったところの見知らぬ街へと思いを馳せていた。
――あのひとが、暮らしてる…。
そのことを意識すると、まるで息遣いまでもが感じられるようで、
不意にどろりとした苦味が胸のあたりに拡がる。
これから、ふとした瞬間にこうして何度も意識することになるのだろうか。
そう思うと、気持ちが重みを少し増した。
- 17 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時23分50秒
- 「吉澤さん」
おそらく何度目かの呼びかけだったのだろう、ひときわ大きな高橋の声で我に返る。
「バス来ましたよ」
振り向くと、すでに緑とクリーム色のツートンカラーのバスが目の前に止まっていて、
バス停の周りにいたほかの数人の客はすでにバスに乗り込んで発車を待っている。
ごめんごめん、と、吉澤は足元に置いてあったバッグを担いだ。
乗り込むと、ふたりでいちばん後ろの席に陣取る。
高橋が尋ねた。「なんか、心配ごとですか?」
もしかして、自分に関することだろうか。高橋はそう思ったのだ。
「あー、なんでもない」
吉澤はかぶりを小さく振り、意識しすぎだよ、と、自嘲気味に笑みをこぼした。
バスが発車する。ターミナルをぐるりと一周してから片道5車線の幹線道路に出て、
ぎっしり詰まった車列の最後尾に加わった。
――ひとが多いなぁ…。
車窓を流れゆく街の風景を見ながら、吉澤は思う。このなかに、「予備軍」はどれぐらいいるんだろう。
窓の外には、休日ということもあってか、かなりの人通りがある。
- 18 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時24分54秒
- 一方の高橋は、改めてささやかな野望に燃えていた。
確かに、まだまだ経験も“業(わざ)”も未熟だけれど、吉澤の足手まといにだけはなりたくない。
そう固く心に決めていた。そしてあわよくば、自分を認めてもらいたかった。
そうすれば、自分が、憧れの吉澤さんにとっての特別な存在にさえなれるかもしれない。
すでに吉澤さんは自分にとっては特別な存在だ。いつまでもそんな不均衡なのは、悲しい。
今回のことは、神様が自分に与えてくれたチャンスなのかもしれない。
バスに揺られること30分。周囲の車の数は減り、道路も狭くなる。
それでも、舗装されているだけ、“郷”よりもずっとましだろうが。
郊外の住宅地に入ってくると、山を切り開いてできた新しい土地なのだろう、
緩やかな上り下りを何度となく繰り返した。
目にする住宅やマンションはどれも小洒落た感じで、いかにも古びた建物は表向きには見当たらない。
ファックスに書いてあったバス停で降りる。長い坂道の中腹、高級そうなマンションが立ち並ぶ一角だった。
- 19 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時25分28秒
- 「よっすぃー!」
声のほうを見ると、華奢な少女が金色の髪を輝かせ、小走りでやって来るのが見えた。
どうやら迎えに来てくれたらしい。
吉澤と高橋は小さく会釈をする。
「久しぶりだねぇ!」
「こんにちは」と、にこりと笑顔になった吉澤はバッグを置いた。
「またちょっと、ちっちゃくなったんじゃないですか?」
「あーっ、言うね言うね。しばらく見ないうちに、そんな風に大口叩けるようになったんだ?」
「いやぁ、矢口さんの教育の賜物ですよ」
「オイラ、そんな風に育てた覚えはないよぉ…」
ほろろと泣き崩れる真似をする矢口真里。
相変わらずテンション高ぇ、と、吉澤は久々の再会を噛み締める。
と、矢口が、高橋の存在にいまさら気が付いたように向き直り、
「あー、コンチハ」
それまでの弾んだ口調が嘘のように、事務的なものになる。実に分かりやすい。
- 20 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時26分18秒
- 「初めまして。あのう、わたし――」
「高橋愛ちゃん、でしょ? だよね?」
「あ、はい。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる高橋に、ふうん…と、矢口は値踏みするような視線を這い回らせる。
「保田のおばあちゃんから聞いてるけどさ、このコが中学でいちばん“優秀”なんだって?」
「らしいです」と、吉澤が高橋の顔を覗き込むようにして、「ね?」
不意に接近した吉澤の顔に、高橋は耳たぶの先まで真っ赤に染める。
「あ、あのうっ、根性では誰にも負けない自信がありますっ。
吉澤さんを精一杯助けて、頑張りたいと思いますっ」
小鼻をヒクヒクさせ、上ずった早口になった。このままでは
「我々はスポーツマンシップにのっとり――」などと口走りかねない勢いだ。
矢口は苦笑して、このコ、ホントに大丈夫なのかぁ?といった風に、
眉を潜めた顔で吉澤のほうを窺うと、まぁまぁ、と吉澤は笑ってみせる。
- 21 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時26分58秒
- バス停から5分ほど歩いたところに、3階建ての真新しいマンションはあった。
玄関が暗証番号式だ。矢口から番号を教えてもらい、
玄関脇に据え付けられたパネルのボタンを押すと、ドアが開錠する音ががちりと重く響く。
吉澤と高橋がこれから暮らしていく部屋は、3階のいちばん奥にあった。
ドアを開け、一歩踏み込んだところで玄関の明かりが自動的に灯る。
「すっごぉい…」いちばん後ろにいた高橋が呆然と呟いた。
「センサーが反応して、勝手に明かりがつくんだってさ」
矢口がうんちくを述べる。
「いまの都会のマンションって、どこもこんな風なんですか?」
吉澤が尋ねると、
「まっさかぁ」と、矢口は笑う。「ある程度、経済的に豊かな夫婦向けの物件だよ」
夫婦向け。
その言葉に微妙に反応した高橋は頬を染めるが、そんな高橋を置き去りにして、
矢口と吉澤はずんずんと玄関から続く廊下を歩いていく。新築の匂いがほのかに鼻腔に満ちていく。
- 22 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時27分33秒
- 間取りは2LDKほど。
廊下を突き当たったところの8畳ほどのリビングには、
すでに3人掛けとひとり用のソファ、ローテーブルが置かれていた。テレビ、ビデオ、FAX付き電話も。
細長いカウンターを挟んだ隣にあるキッチンの戸棚には、皿やグラスが行儀よく収められていた。
「今朝届いた引っ越しの荷物は、寝室に運んでもらったから」
最後に高橋も部屋に入ってきて、ソファの脇にバッグを下ろすと、ふー、と息をついた。
- 23 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時28分19秒
- 窓際に行き、外観を見渡しながら、吉澤が尋ねる。
「ココって、家賃、いくらぐらいなんですか?」
リビングからの見晴らしも、向かいが小さな公園、さらにその向こうが平屋建てということもあって、
遠くまで一気に見渡せる。すぐ手前の電柱がすこし目障りだが、慣れればどうということもないだろう。
「ま、よっすぃーには関係ないけどね。一応、20万5000円」
うひゃー、と、吉澤は笑ってこうべを振った。あり得ない、という風に。
自分たちが住むには、あまりに豪華すぎる。
そんな吉澤の戸惑いを察してか、「いいんじゃないの」と、矢口はにべもなく言う。
「来週帰るかもしんないけど、来年、再来年もいるかもしんないしさ。
とにかく、オイラが言われたのは、ふたりのために快適な生活環境を用意するように、ってコトだったしね」
- 24 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時29分04秒
- 下見の段階では、ロフト付き30万円の物件もあったという。
なんでも、ジャグジー・バス付きで、ふたつのフロアの中央をぶち抜いたその部屋は、
柱にそって螺旋階段がふたつのフロアを繋いでいるという、
ひと昔前のトレンディードラマの主人公が住んでいそうなものだ。
それを聞くと、この部屋でいいや、とも思えてくる。
それにしても、来年、再来年になってもこの部屋に暮らしている自分たちを想像すると、
吉澤はなんともぞっとする。つまり、それだけの月日を掛けても、
まだやるべきことが終わっていないということなのだから。
「でも助かるわぁ。これで、緊張からも解放されるし。ひとりじゃきつくてさぁ」
そう言って、3人掛けソファの端に矢口は華奢な身体を沈めた。
「困ったときは、でも、助けてもらうかもしれません」
吉澤は窓際を離れ、3人掛けの、矢口とは反対側の端に座った。
「いちおう、オイラはオイラでほかにやることがあるけど、連絡してもらったらすぐに駆けつけるよ」
「お願いします」と、高橋とそろって頭を下げる。
すると矢口は吉澤の傍に身を寄せて、「んもお、なんか水臭いなぁ、このォ」と、吉澤の腕を肘で突付く。
- 25 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時29分34秒
- それから、矢口は部屋のあちこちの説明をしてくれた。ちょこまかと動き回る矢口のあとを、
吉澤と高橋がついて歩き回る。
リビングに接して小さなバルコニー付き。端にあるアルミの閉じぶたのような非常用脱出口は薄いので、
上にはなにも置いてはいけない。
お風呂は膝を少し曲げれば肩までたっぷり浸かれる。
洗濯機と乾燥機は風呂の横に。防音がしっかりしているから、深夜に洗濯しても騒音は問題ない。
寝室には、ふたりのベッドが離れて並べられている。足側の壁には
奥行きのあるクローゼットが据え付けられており、ふたりでも充分に使える。
- 26 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時30分12秒
- ひとしきり部屋のあれこれの説明が終わると、
「そーだ、高橋さぁ」と、思い出したように矢口が言った。
「ちょっとコンビニ行ってさ、ほら、コンセントいくつか差し込めるボックスみたいなやつあるじゃん、
アレ買って来てよ」と、矢口は身振りを交えて伝える。
「さっき気づいたんだけどさ、
たこ足にしないとビデオとテレビのコンセントがいっしょに入んないんだよね」
吉澤は、ビデオなんてなくても困らないと思ったが、矢口になにか思惑があるような気がして、黙っていた。
「コンビニって、どこにあるんですか?」
ようやく矢口が買って来てもらいたいものを理解した高橋が尋ねると、
ええとね――と、矢口は簡単にコンビニまでの道順を教えた。
- 27 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時30分55秒
- 高橋はさっき脱いだばかりのハーフコートを着て、玄関に向かう。そのあとを矢口が追った。
「ゆっくりでいいからね」
「はい」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
そんな朗らかな声が聞こえたあと、ややあって玄関のドアが閉まる音が響いた。
玄関からリビングに戻ってくるなり、矢口は「さーって、と」と言って、
吉澤の背後に回りこんで座り、えへへと、笑った。
「ちょっと、あの、矢口さん…?」
「ああ、あのコならたぶん、たっぷり2時間は戻って来ないと思うけど」
吉澤が口を一瞬「あ」の形にすると、矢口の口元がにんまりと笑う。
わざわざ見送りに行くなんて妙だなとは思ったものの、そこでようやく合点がいった。
「戻って来ない、というか、戻って来られない、の間違いだと思いますけど」と、苦笑い。
「細かいね」
「言葉ってのは、正確に伝えないと」
へへへ、と、矢口はあっけらかんと笑う。
- 28 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時31分51秒
- 「いけないひとですねぇ。イタズラにしては、のっけから手厳しくないですか?」
「いいんだよ。あれぐらい、自分ひとりの力でなんとかしないとね。
よっすぃーの足手まといにならない程度のちからがないと」
しれっと矢口は言った。
「それ、本人もけっこう気にしてるみたいで。黙っててくださいよ」
吉澤が声を潜めると、
「でも、中学でトップだったんでしょ?」
「あくまでも中学レベルですから。今回は若手育成の一環としてでしょうね」
「若手育成ね」と、矢口はその響きを口のなかで転がすようにシニカルに笑う。
文句は本家に言ってくださいよ、と、吉澤は困り顔で笑い、
「で、どうなんですか?」と、急に真面目な口調になって話を切り替えた。
「ん? あぁ、早速本題なの? せっかく久しぶりに会ったんだし、もうちょっとこう、
まろやかなっていうかさ、そんな雰囲気でいきたいな…」
矢口が上目遣いで吉澤に近づいてくる。
「矢口さ――」
振り返った吉澤の口元が、人差し指でそっと押さえられる。
困惑を吉澤の瞳のなかに見出して、矢口は、「しょーがないなー」と言って、吉澤にさらに顔を近づけた。
- 29 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時32分33秒
- 唇が重なる。
吉澤の瞼が瞬かれる。頭のなかを、白い痺れが心地よく走る。
わずかに眉間に眉を寄せたあと、まぶたをゆっくりと閉じた。
吉澤は身じろぎせずに、ただ唇を受けていた。
一方で、いつしか握られた手が、さらに強く握られる。
唇が離れた。
吉澤は小さく息をついて、
「べつに口移しじゃなくてもいいような気がしますけど」
「やっぱ、そのほうが正確だから」
そして矢口は再び顔を寄せて、こんどは頬に短く口付ける。
「あの…今のはなんですか?」
「キスだよ」
そりゃ分かりますけど、と、吉澤は小さく笑う。
「分かりますけど、そういうことじゃなくて…だいたい、なんでうちの手が握られてるんですか?」
すると矢口は真面目な顔で、
「わざわざ訊かなきゃ分かんないことでもないでしょ」
もちろん気づいている。矢口が自分の教育係だった頃、自分に注がれる視線が、
時折教育係以上のものであることは意識していた。
それに、言い寄られる、という程ではないにしても、さり気なく想いを伝えられたことは何度となくあった。
いつになく積極的な矢口に、気圧されている自分を感じる。
- 30 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時33分08秒
- 吉澤の脳裏には、高校の廊下やバレー部の更衣室、教室の片隅で聞いた噂話の数々が蘇っていた。
(矢口さんって、すっごい上手いんだって。え?「なにが?」って、アレよアレ)
(こないださ、体育館の裏でF先輩が、よりを戻してくれって土下座してたトコ見たひといるってさ)
(相手の懐に入って、ぶわぁ、って、炎みたく燃えるんだって。やみつきになっちゃうらしいよ)
(向こうがその気になったら、ポイって捨てちゃうって聞いたよ)
そんな噂が出るたびに、そこに居合わせた吉澤は尋ねられたものだ。
「よっすぃーってモテるしさ、矢口さんからモーション掛けられたりしないの?」
モテているという実感はなかったものの、その言葉の後半部分ははっきりしていた。
「ないよ」
「うっそ!マジで?」
「ホントだってば」
「っかしいなぁ…」
本当になかった。自惚れる訳ではないが、意外だった。高校に入って、
矢口が自分の教育係だと知らされたときは、中学の頃から矢口の振る舞いに関して
散々さまざまな噂を吹き込まれていた吉澤は、少なからず貞操の危機を感じたものだったが。
- 31 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時33分41秒
- 自分が撃墜王と影で揶揄されているのは知っていたが、それはたまらなく不本意なあだ名であったし、
なにより、真の撃墜王は矢口さんのほうじゃないかと思っていた。
ノートに撃墜シールでも貼っていたところで驚かない。
だから、こうして迫られていても、なんでいまさら、という感もあった。
「ちょっと、待ってください」
掠れ気味の声になった。
「心の、準備が…」
まだ、あのひとのことを忘れたわけではない。そのことがブレーキを掛ける。
しかし矢口は、
「待たない。もし嫌なら、『嫌』って言って。すぐにやめるから。でも、言わないんだったら…」
矢口のまっすぐな視線に、吉澤はなんだか照れ臭いものを感じて、うつむいてしまう。
正直、矢口のことは嫌いではなかった。事実、迫られたらどうする?と、
心のなかで思い描いてみたことも何度かあった。
「かわいいね、よっすぃー」
グロスをきらりと帯びた矢口の薄い唇が呟く。
カッコいいと言われたことはこれまで多々あったが、可愛いと言われたことはほとんどなかった。
「もお。からかわないでくださいよ」
気恥ずかしさを残したまま、顔を上げる。
- 32 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時34分28秒
- 待っていたように、再び吉澤の唇が矢口のそれに吸われた。こんどは、
さっきよりも深い口づけになる。吉澤も、それを受け容れていく。
――まぁ…いいか…。
誘惑に勝てなかった。
――矢口さん、なんだかんだ言ったって可愛いもんね…。
そのまま頬、首筋へと滑っていく。すでにこの時点で吉澤は、
息遣いの乱れを聞き取られるのが恥ずかしくて押し殺していたが、
舌先で耳たぶを絶妙の匙加減でなぞられるに至って、声が漏れた。
「かわいい」
満足そうな矢口の呟きが、吉澤の鼓膜を震わせる。辛うじて残る理性を奮い立たせて、
吉澤は切なげにまつ毛を伏せ、
「シャワー、あの、浴びてきたいんですけど…」
「いいじゃん」
息遣いだけでかすかに笑みをこぼすと、矢口は胸元に手を伸ばした。
「あのコがホントに優秀だったら困るしさ」
自分の理性が白く、淡く融けていくのを感じていた。それはぬるま湯のような心地よさを伴って、
吉澤を優しく包んでいく。
- 33 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時35分35秒
◇
「なんでぇ?」
悲しそうに高橋は独り言ちた。
――っかしいなぁ…。
きょろきょろと辺りを見渡しながら、心のなかで呟く。
この交差点は、さっき通ったと思ったのに。
2車線の道路に面したタバコ屋のおばあさんは小さな窓越しに座ったままこくりこくりとしているし、
その手前の家の庭では、垣根越しに盆栽の手入れをしている老人の姿が見えた。
いずれも、ほんの10分ほどまえに見た光景ばかりだ。
- 34 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時36分22秒
- ――でじゃぶ、って言うんだっけ?…にしては、あまりにくっきりし過ぎてるし…。
矢口の言った通りに歩いていくと、コンビニにはすぐに辿り着いたし、
自分の地理感がそんなにひどいとは思っていない。むしろ、記憶力には自信があるほうだった。
だいたい、マンションからコンビニに行くまでに角を曲がった回数と言えば、片手にさえ余る。
手にコンビニのビニール袋をぶら下げたまま、いま来た道を引き返すべく、向き直る。
あまり遅くなると、吉澤に方向音痴だと思い込まれてしまい、そんなことでは話にならない、と、
最初から使いものにならないという烙印を押されそうである。それはなによりも困る。
高橋は足を速めた。
だが、そんな思いも空しく、彼女は約10分後、再び同じ交差点に立つことになる。
- 35 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時36分58秒
◇
表向きには余裕の涼しい顔をしていたが、矢口は必死だった。誰かと身体を合わせるのに、
これだけ集中したことはかつてなかった。
押し殺しているのか、わずかに漏れるだけの小さなリアクションのひとつひとつに気を配り、
吉澤を気持ちよくしようとしていた。
“郷”にいた頃、何人にも言い寄られたし、いいな、と思った何人にも言い寄った。
そして、そのことで、よくない噂が流れていることも知っていた。
しかし、不思議なことに、いつになく好感を抱いていた吉澤には手が出せなかった。
何度も試みようとする度に怖気づく自分に気が付いたとき、ホントにこのコのことが好きなのだと分かった。
だから、この街に吉澤が来ることを知って、矢口は心を決めた。
自分の想いを、自分のやり方でぶつけてみよう。
その裏には、ちょっとした計算もあった。
あのコの住んでいる街とはすぐ近くだ。吉澤は、ひょっとしたら少し感傷的になっているかもしれない。
その隙があれば、吉澤は自分を「ちゃんと」見てくれるのではないか。
- 36 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時37分32秒
- バス停で吉澤の姿を見たとき、本気で嬉しかった。1年ぶりぐらいで吉澤に会えたことも、
吉澤のことを変わらず好きでいる自分自身にも。すこし卑怯なこともしたが、
それさえも、自分への想いの結果だと分かってくれればそれでよかった。
――いっそのこと、カオリのコトを忘れさせることができたなら。
――このどさくさに紛れて…。
――いや、まさか。
――そんなことをしたら。よっすぃーがそのことに気づけば、きっとあたしを許さないだろう。
――待てよ。気づいたとしても、よっすぃーはもう、以前の自分の想いを取り戻すことはないのだから…。
「いま、なに考えてました?」
お腹のあたりに、いつしかおざなりになったキスを繰り返す矢口の頭をそっと押さえ、
吉澤は急に醒めた声になった。すでに上半身にはなにも着けておらず、
ジーンズのボタンもふたつとも外されて、飾り気のない淡いブルーのショーツが覗いている。
しかし、吉澤の視線は、どこか矢口を責めるようなそれになっていた。
- 37 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時38分12秒
- 顔を上げ、吉澤と目が合った矢口は、ようやく自分の失敗に気づく。
「あー、あのう、ゴメン、冗談にしては、ちょっと度が過ぎるよね」
そう言って、愛撫を再開しようと吉澤の鎖骨のあたりに唇を寄せる。
しかし、さらに吉澤は落ち着き払った声が降ってくる。
「ホントに、冗談だったんですか?」
嫌味なところのない、しかし、まっすぐな口調だった。
矢口は答えに窮した。もしかしたらあのまま行為が続いていたら…。
気まずそうに、てへへ、と薄く笑ってうつむく。吉澤の「温度」が見る見る冷めていくのを感じていた。
――もう、今日はダメかな…。
答えを見つけられない矢口に、吉澤は小さな微笑みを浮かべ、
「でも、矢口さんの想いも、すごくよく分かりましたよ」
すっかり“終了”口調の吉澤に、
「もう、ダメかな。もう、チャンスない?」
こういうことに関して百戦錬磨のはずの矢口にしては珍しく、媚びを帯びた口調になる。
「べつに悪気があったわけじゃないじゃないですか。あくまでもうちの問題で…。
矢口さんがそこまでうちを想ってくれてるのは分かったんで…でも、いまはまだ…」
吉澤は薄く微笑むと、矢口の頭をやんわりと撫でた。
- 38 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時38分54秒
- ドアが閉まると、矢口は、ふーっ、と長く息をついて目を細める。
ほんの数秒、ドアの前でそうして立ち尽くしていたが、もういちど大きく息をついて、
踏ん切るように廊下を歩き出した。しかしすぐに立ち止まり、再び重い溜め息をつく。
「もうちょっとだったよなぁ…バカだなぁあたし……」
小首を何度も傾げ、曖昧に口のなかでぶつぶつと呟きながら、階段を下りた。
どこまでも真っ直ぐな吉澤ひとみを、やっぱり好きだと改めて思った。そして、真っ直ぐだからこそ、
いつまでも吹っ切れないというのに、好きなコのためになんの力にもなれない自分が歯痒かった。
マンションを出たところで、針で突き刺すような冷たい横風を浴びた。
「さむ…」
矢口は思わず腕を組み合わせ、身を縮めた。このあたりはマンションが多く、
その合間を吹き抜けていく風も強い。
見上げると、ついさっきまで晴れていた空をどんよりと厚い雲が覆っている。
――今夜は、雪、降るかもなぁ。
なんとなく思い、両の手のひらを息で温めた。
- 39 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時39分33秒
- あっけなく身体を明け渡してしまったほうがラクだったかもしれない。
矢口が帰ったあと、しんと静まり返ったリビングで、吉澤はひとり思った。
そうしたら、飯田さんのことを気に留めることもなく、これからやるべきことに打ち込めたんじゃないか。
考えても、なんだかもやもやしたものが頭のなかで攪拌されるだけで、
一向にすっきりした結論は得られない。
――とりあえず…パンツ穿き替えなきゃ…。
吉澤は火照りの埋み火が残った身体をゆっくりと起こし、
引っ越しの荷物が置いてある寝室へと歩いていった。
- 40 名前: 投稿日:2003年02月01日(土)14時40分26秒
ちなみに、高橋が戻ってきたのは、それから数分後のことだ。
帰ってくるなり、「なんかヘンなんですよ、この界隈」と、
自分がいかに散々の堂々巡りをしてきたことを吐露した。
吉澤は、そう、そう、と、笑顔でいちいち頷きながら、もうちょっと頼りにさせてよね、と、
“参りましたよー”といった風の高橋の表情を見ながら思った。
ちなみに、わざわざたこ足配線にしなくても
ビデオとテレビの電源が確保されていたのはもちろんだったが、吉澤はそのことは言わなかった。
――先輩として、いちおう気を遣ったりしてるんだよ。
「ほんとにエラい目に遭いましたよ」と、遅くなったことについて
言い訳がましく話す高橋の弱り顔を見ながら、心のなかで呟いた。
明日からはさっそく学校が始まる。
- 41 名前:名無し 投稿日:2003年02月01日(土)14時41分27秒
-
- 42 名前:名無し 投稿日:2003年02月01日(土)14時42分21秒
- 初回分は以上です。
書き込むの久々だったので、ケアレスミスしちゃいました。。
- 43 名前:名無し 投稿日:2003年02月01日(土)14時43分00秒
- 更新は、早くても隔週ぐらいになりそうです。
大きく空きそうなら、またその旨を書き込ませてもらうことにします。
- 44 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月01日(土)17時44分15秒
- おお、面白そうだ!
マターリ楽しみにしてます。
- 45 名前:パート1-2 投稿日:2003年02月02日(日)02時43分44秒
- 石川梨華は、タイマー通りに作動したエアコンによってすっかり暖かくなった部屋で目を覚ますと、
「さむさむ…」と腕を組み合わせて部屋を出る。いつものように用を足し、顔を洗い、歯を磨く。
部屋に戻り、うっすらとフェイスメイクとヘアセット、ようやくブレザーの制服に袖を通す。
すっかり身支度を整え、エアコンと加湿器のスイッチを切り、
前日にすでに準備しておいた鞄を持って1階へ。
階段の半ばまで軽い足取りで駆け下りると、焼いたトーストの香ばしい匂いが漂ってくる。
ここで一瞬足を止め、息を吸い込む。これが石川にとって、
すっかり習慣となった“スタート”の合図だった。
鞄をリビングのソファに置き、ダイニングへ向かう。
- 46 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時44分19秒
- 席に座った父親が背広で新聞を広げ、
エプロン姿の母親はダイニング脇のキッチンでコーヒーを淹れているところだった。
ダイニングの壁に掛けられた液晶テレビ(ちなみに先週父親が買って来た極薄の最新型だ)では、
若い女性アナウンサーが内閣官房長官の贈賄疑惑のニュースを伝えている。この数日、
トップニュースはずっとこれだ。
「おはよう」
石川のきらきらと高く通った声に、両親はちゃんと娘の顔を見て、
「おはよう」「おはよう」
「今朝、ちょっと早いね、パパ」
「ああ、今朝は早めに出たほうがよさそうだしな」
「ふうん」
会社で早朝から会議でもあるのかな、と思った。なにせ、石川の父親は一部上場の貿易会社の部長で、
帰宅が遅くなることもしばしばなのだ。
- 47 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時44分52秒
- 『来年度の軍の予算は、内閣案が与党の支持を得て引き上げられる公算が強くなり、
今日から始まる議会での野党との論戦が――』
「なんか寒いねー、今朝は一段と」と、石川はいつもの席に着く。テーブルには、
ちょうど焼きたてのトーストが皿に載っていた。
毎日繰り返されるこの時間、このタイミングの誤差は、1分もない。
母親が隣にやってきて、梨華専用のピンクのマグカップにコーヒーを注ぎながら、
「そりゃそうよ。だって、外を見てごらんなさいな」
キッチンの前には北向きに大きな窓が4枚広がっている。石川は窓越しに外を眺めて、
「あーっ」と声を上げた。かじりかけたトーストを皿に戻し、キッチンに向かう。
隣家の屋根がすっかり分厚く雪化粧していた。そしていまも、
鉛色の空から大粒のぼたん雪が止めどなく舞い降りている。
- 48 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時45分34秒
- 『では次のニュースです。
一昨年ごろから、全国的に失踪者、いわゆる行方不明のひとの数が急激に増え続けていることが、
わたしどもの番組の調べで分かりました。これは内務省の統計に――』
「今日は、自転車は無理かなぁ…」と呟いて、気づく。「あ、だからパパ、今日は早いのか」
石川家のコーヒーは、口当たりがいくぶん滑らかなのが特徴だ。
流しのすぐ横に据え付けられた装置からのアルカリイオン水を使っているせいである。
10万円以上するこの装置は、ある日会社で同僚から「健康にいいらしいよ」と聞いただけで
すっかり気に入ってしまい、帰り道にふらりと寄った家電店で買って帰ってきたのだ。
- 49 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時46分05秒
- 父親は、壁掛け液晶テレビにしても、このアルカリイオン水発生装置にしても、いつも突然だ。
そのたびに石川と母親は、「まぁた、なくてもいいもの買って来てぇ」と半ば呆れ顔になる。
あるいは、家族3人で行ったデパートのアクセサリー売り場でショーケース越しに、
ちょっといいなぁ、と眺めているだけで、「よーしパパ買っちゃうぞ」などと言って、
値札も見ずに店員に声を掛けるのである。
父にしてみれば、家族全員のことを思ってのことなのだろうが、
ときどき、もうちょっと考えればいいのに、とも思う。
とは言え、友人たちから聞く彼女たちの父親などと比べると、
どうやら自分の父親はかなりマイホームパパのようで、不平を言うのはあまりに贅沢というものだ。
父親はカップに3分の1ほど残っていたコーヒーを飲み干すと、
新聞を折りたたんでテーブルに置き、「じゃ、行ってくるよ」と、腰を上げた。
- 50 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時46分35秒
- 「あれっ? もう?」
コートに袖を通しながら、父親は、
「今日はバスと電車、遅れるかもしれないからな。梨華も、歩いて行くんなら、早めに出たほうがいいぞ」
「はぁい。あ、パパも気をつけて行ってらっしゃい」
「ああ、行ってきます」そして母親には、「今日、ちょっと遅くなるけど、夕食は用意しておいてくれ」
「はい」
物腰柔らかく母親は頷くと、父親のあとを追って、見送るために玄関へ向かう。
テレビから派手なBGMが流れた。芸能ニュースのコーナーだ。
まるまると大きな体つきの男性アナウンサーが画面に現れる。蝶ネクタイがいつもより大きい。
『今朝は、後藤真希さんの新作PVが届きましたので、まずはそちらからご覧頂きましょう』
窓の外を見ていた石川の顔が、びゅんと壁掛けテレビに釘付けになる。
- 51 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時47分06秒
- ――ごっちんだっ!
歌が流れ始めた。後藤真希がパーソナリティをつとめる深夜ラジオでひと足先に聞いていた、
来週発売になるニューシングルだ。
ごっちんごっちんと呟きながら、石川はダイニングに戻ると液晶画面の前に駆け寄る。
「あぁ、可愛い可愛い可愛いなぁ…」
後藤真希は、3年程前にデビューしたアイドルだった。的確な歌唱力と
可愛らしくもあくの強い顔立ちが受けて、常に売上げチャートの上位に入る。その売上げには、
常に石川もわずかながら貢献していた。
部屋には後藤真希のポスターを貼るほどのファンだ。クラスメートの柴田には、
「女子高生が女性アイドルのファンだなんて、ちょっと変わってる」と言われるが、
実際、コンサート会場に行ってみると、女性のファンもそれほど少なくない。
ピンクのドレスを身にまとい、宮殿のベッドルームを跳ね回る後藤の姿を
くいいるように見詰める石川の瞳は、すでに潤みがちである。
♪だいじょうぶきっとだいじょうぶ
『今回のPVも、かわいいですよねぇ』
画面は後藤を移しながらも、アナウンサーの声が割り込んでくる。
- 52 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時47分46秒
- 「あーもう、刈部兄さん邪魔っ」
断っておくが、もちろん血のつながりはない。ただ、後藤に関する話題のとき、
このアナウンサーがやけに嬉しそうなので、同類意識を感じていつの間にか愛着が湧いただけのことだ。
「梨華、そんなとこにいたら、ママ、テレビ見れないじゃないの」
いつの間にかダイニングに戻ってきた母親が席に着き、自分のぶんのコーヒーを注ぎながら言った。
「だってだって、ごっちん可愛いんだもん」
PVが終わり、有名俳優のドロ沼不倫へと話題は変わった。
とたんにテレビから興味を失った石川が席に戻ると、母親がコーヒーをひと口飲んで、
「そろそろ梨華も出たほうがいいんじゃないの? いま見てきたら、結構積もってるわよ」
「うん」
頷いて、石川はトーストを口に突っ込む。
- 53 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時49分26秒
母親の見送りもそこそこに、玄関でリップクリームを塗ってから外に出る。
途端に予想以上の寒さが石川を包んだ。鼻先と頬がじんじんと痛い。
傘を開いて家の表まで出ると、あたり一面は真っ白で、すっかり丁寧な雪化粧を施されていた。
いつも見ている近所の風景がまるで別世界のようだ。
ふと思い立って、黒い皮の手袋をはめたままの人差し指を、垂直に道路に積もった雪へと突き刺してみる。
ざっ、と鈍い音がして、軽く指全体が隠れる。けっこうな量だ。まだ降り続いているから、
この空模様が続くなら、帰りにはさらに積もっているかもしれない。
道路には、ローラーで描いたような轍が等間隔を保ったまま、2本、くっきりと溝を作って描かれていた。
梨華は轍に沿って歩き始める。その手にした真っ赤な傘は、遠目には、白銀の世界のなかで妙に映えた。
- 54 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時49分59秒
- 石川が通う高校、あさひな女学院へは、住宅街の合間を抜けて、いつもは自転車で15分ほどの距離だ。
歩くと30分前後はかかるだろう。
周りにぽつんぽつんと歩くひとの姿も、慣れない大雪に四苦八苦しながら歩いている様子だ。
ときおり、電線に細長く積もった雪がバランスを失い、
塊となって真っ白な路上にぱさっと落ちる。その様子が、そこはかとなく素敵だと思った。
しばらく歩きつづけ、道のりも半ばを過ぎた頃、襟元がやけにスースーすることに気づいた。
マフラーの巻き方が緩かったようだ。胸元まで冷気が広がっている。
立ち止まり、マフラーを巻き直そうと、いったんほどく。鞄と傘を持ちながらだから、
なんともぎこちない動作になる。
と、そのとき、一陣の突風が雪を舞い上げながら石川のそばを吹き抜けていった。
「あっ」
発したときには、すでにマフラーは石川の細い指先をすり抜け、
数メートル先、交差点の手前の積雪面を、ゆらゆらととぐろを巻いて漂っていた。
「あぁん…」
小さくついた息は真っ白に膨らんだかと思うと、じきに風のなかへ融けていく。
- 55 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時50分34秒
- 足元に注意しつつ駆け寄って、マフラーに手を伸ばすために屈もうとしたとき、
石川の靴底と、何度も押し固められた轍の底とのあいだの摩擦力が失われた。鞄を持つ手が空しく宙を掻き、
地面と空とが一瞬反転する。
「ひゃッ?!」
完全に宙で一回転した石川の身体は、積もった雪がクッション代わりになったものの、
両の手のひらのみならず、胸元から膝にかけて雪のなかに深く沈んでいた。ちょっと間抜けなダイビング。
脇では、ひっくり返った傘が雪面をふらふらと回っている。
「いてて…」と漏らしながらなんとか身を起こすと、乱れた前髪をとりあえず整え、
コートの前面にこびり付いた雪を両手でぱらぱらと払う。
道の先のほうで、数人の小学生がこちらを指差してげらげらと笑っていた。
去年の秋まではテニス部の部長を務めていたこともあり、反射神経は悪くないほうだと思っていたから、
余計にむかつく。デリカシーのないやつは、将来モテないぞまったく。
- 56 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時51分06秒
- 足を踏み出すと、左膝に鈍い痛みがじんと走った。見ると、黒のストッキングがいびつに破れ、
その合間から血が滲んだ傷口が覗いている。どうやら膝は雪面を突き抜けてアスファルトにまで達し、
擦りむいてしまったらしい。寒さのせいで、痛みは見た目ほど感じないが。
――うあ、最悪ぅ…。
形のいい石川の唇が歪められる。
コートのボタンを外し、スカートのポケットからピンクの花柄をあしらったハンカチを取り出すと、
屈みこむようにして傷口にそっと押し当てた。
こうしている間も石川の身体には雪が降りしきり、
細かな白が自慢のさらさらの髪やコートの肩口に止めどなく引っ掛かっていく。
――あぁ、このハンカチ、けっこう気に入ってるのにぃ…。
ピンクの生地にどす黒い赤が滲んでいくのを見ながら、石川は深々と溜め息をついた。
高校生活最後の新学期だというのに、幸先の悪いことこの上ない。
- 57 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時51分44秒
- じっとしていると、強くはない風もけっこう頬に染みて、身体の芯から冷やされていくようだ。
「さむ…」
小さく呟いて、よく降るなぁ、と、空を見上げた。
そこで、違和感を覚えた。自分の周りだけ雪が降っていない。
気配をようやく感じ、振り返る。
「だいじょうぶ?」
ふわりと柔らかで、落ち着いた低めの声。
黄色いイヤーウォーマーを付けた少女が、背後から傘を差し掛けてくれていた。
- 58 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時52分47秒
- 自分と同じ、学校から指定されたコートだった。しかし、それに気づく前に、石川は少女の顔に息を呑んだ。
――きれーな顔…それに、きれーな黒い髪…。
そうして、その少女の顔をくっきりと捉えたとき、とくん、と、胸の辺りでなにかが跳ねるのを感じた。
それはかすかに気持ち悪くもあり、そしてなぜか、嬉しさをも感じさせるものだった。
心の奥底から、ほんの一瞬、眩暈のような、たくさんの色彩が交じり合った光が見えたような気がした。
――なにこれ…??
「あの、だいじょうぶ?」
もういちど声を掛けられて、遠のきかけた意識が現実に立ち戻る。
石川は目を瞬かせて、
「あ、うん。あの、ありがと…」
スカートとコートの雪を払い、立ち上がると、彼女はけっこうな背丈があることが分かった。
“少女”という呼び方にはすこし似つかわしくないかもしれない。
「あなたも、あさ女?」
「え?…ああ、“あさ女”、うん」
- 59 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時53分17秒
- あさひな女学院は、ひとクラス40人、5組まである。たとえ同学年だったとしても、
別のクラスなら面識がなくても不思議ではなかった。
しかし、3年間まったく見覚えのないことなんてあるだろうか。こんな顔なら、別の学年だったとしても、
さぞかし目立つだろうに。
とりあえず石川は、足元で開いたままひっくり返っていた傘と、半ば雪のなかに身を隠した鞄を手に取り、
さらに、足元で、まるでいたずらが成功したのを喜んでいるようにひらひらと舞うマフラーに手を伸ばした。
- 60 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時54分37秒
- 石川は人見知りするタイプだった。それに、自分の間抜けさ加減を
一部始終見られていたかもしれないと思うと、恥ずかしかった。
「ありがとう」
小さく会釈をし、足早に立ち去ろうとすると、「あ、待って」と呼び止められた。
彼女はコートのポケットから財布を取り出していた。
なんだろうとその手先を見ていると、ばんそうこうが現れた。
彼女はわざわざ屈んでばんそうこうを貼ってくれた。
そのあいだ、ふと、以前にテレビで見たことを思い出した。
ばんそうこうは、80年ほど前、アメリカの医療器具メーカーに勤める社員が、
料理の際、たびたび指を怪我するそそっかしい妻のために、
ガーゼにテープをくっ付けたものを作ったのが始まりだと、その番組では言ってたっけ。
- 61 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時55分10秒
- 「ごめんね。ありがとう」
「ううん。あ、もう一枚貼っといたほうがいいなぁ」
そう言って、彼女は財布からもう一枚取り出す。
そこでようやく気が付いた。彼女のそばに、もうひとり、やはり同じコートを着た少女がいた。
どちらかと言えば、この子のほうが“少女”と呼ぶには相応しいかもしれない。きりっとした
顔立ちのなかにも、どこか幼さを残している。
「ごめんなさい」
いっしょに待たせる羽目になったことに、石川は謝った。しかし少女は、
じとっと石川を睨みつけたまま、小さく会釈しただけだった。
「3年生?」と、石川が尋ねると、
「あ、ううん、2年生」
「えーうそ、なんか大人びてるから、3年生かと思っちゃった」
なんとなくいっしょに歩くことになった。行き先はいっしょだし、
いまさら、離れて歩こうと、足早になるのもなんだか不自然だ。
なにより石川は、いっしょに歩きたいと思った。内気だと思っていた石川にとって、
それは自分でも不思議な心の動きだった。
- 62 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時55分41秒
- 「石川さんは3年生?」
「うん。吉澤さんの先輩だね。吉澤さんは何組?」
「ええと、まだ聞いてないから分かんないけど…」
「聞いてない…?」
「今日転校してきたばっかなんで」
「あ、転校生かぁ!」
ようやく合点がいって、石川は「そっか、それでか」とひとり頷いた。
「なにが“それで”なの?」
「だって、こんなに綺麗なコなら、絶対学校で目立ってるはずだもん。」
「石川さん、お世辞なんて言っても、なにも出ないよ」と、吉澤は笑う。
「お世辞じゃないよー。あー、あと――」
言いかけたところで、不意に口をつぐんでしまう。
- 63 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時56分13秒
- 吉澤は「ん?」と、石川の顔を覗き込むようにして、「どうしたの?」
「え?」
「“あと――”なに?」
「あ、ううん、なんでもない」
「言いかけてやめるの、よくないよ」
「あと、あと…ええと、あと…あと、始末…! そう、後始末忘れてきちゃったナーって思って」
まるで自分に言い含めるように、石川はこくこくとすごい勢いでうなずく。
「なんの後始末?」
「えっ?!」
とっさのとっさの切り返しに、石川の表情が凝固する。
石川を捉える吉澤の視線は、どこまでも透き通るようにまっすぐだ。
「あのう、後始末をね、あの、あのね…」
「…ホントはなんて言いたかったの?」
そうまで言われてもまだ渋っていたが、とうとう観念して、石川はためらいがちに口を開いた。
「石川さん、っていちいち呼ばれるのって、なんか背中のあたりがこそばゆいっていうか、
だから、“梨華ちゃん”って呼んで、って言おうとしたの」
初対面のコに、いきなり「“梨華ちゃん”と呼んで」は、ないだろうと思った。
妙にロマンティック浮かれモードな自分に気づき、にわかに気恥ずかしさが込み上げてきたのだ。
- 64 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時56分44秒
- しかし吉澤は、「あー、“梨華ちゃん”。名前、梨華っていうんだ?」と、実に自然なリアクション。
「うん」
「石川梨華かぁ。いい名前だねー」
とくん、と、石川の鼓動がまた跳ねた。
しかし、それはさっき初めて吉澤の顔を見たときのそれとは少し調子が違って、
純粋に嬉しさでうち震えるといった感じだった。
――じゃあ、さっき、どきッとしたのはなんだったんだ?
――いや、だいたい、なんでいま、どきッとしたの?
「じゃあ、梨華ちゃん、って呼んだらいいの?」
「ああ、うん」
「じゃあ、うちのことも“よっすぃー”って。“吉澤さん”じゃあ、やっぱあたしもくすぐったいし」
「よっすぃー。じゃあ、よっすぃー・梨華ちゃんで」
「うん。梨華ちゃん・よっすぃーで」
- 65 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時57分15秒
- このあと、どこから引っ越してきたのか、という話になり、N県の北の山奥だと吉澤は言った。
「へーえ、じゃあ、今ごろは雪に覆われてるんじゃない?」
「もうね、ここよりもずっと、一面真っ白だよ」
「うわぁ、なんか素敵ね」
「でも、住んでみると、どうってことないんだけどね。大変なだけだよ」
「ここじゃ、こんな大雪なんて珍しいから、この程度でも、わたしなんてけっこう心が弾んじゃうの」
石川は、吉澤との会話が弾むことが、なぜかとても嬉しかった。初対面の相手――内気なはずの自分にさえ、
警戒感をまったく抱かせないところが、このコの魅力なのだろうと思った。
これから、仲よくなりたい。いや、きっと、仲よくなれる。
そんな予感がした。
ただひとつ、気になることがあった。3歩後ろをついてくる少女が、
殺気とも思える猛烈な勢いで自分を睨み付けていることだった。わざわざ振り返らなくても、
その「圧力」は背中でびりびりと感じ取れる。
- 66 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時57分56秒
- 「あ、あの、高橋さんは、なんかあだ名ないの?」
気を利かせて石川が水を向ける。
思いも寄らない相手から急に話を振られ、高橋は嫉妬にまみれた険しい目つきを緩めてまぶたを瞬かせた。
あだ名…ニックネーム…。
“郷”では、これまでせいぜい“愛ちゃん”としか呼ばれたことはなかった。しかし、それでは
“梨華ちゃん”とかぶってしまう。梨華ちゃん。なんてきらきらして可愛らしい響きなのだろう。
敵ながらあっぱれだ。なにか、“梨華ちゃん”を越えるものを思いつかなければ…!
だいたいあだ名に“かぶる”もなにもなさそうなものだし、
そもそもいきなり“敵”扱いもあんまりだが、高橋は直感的に芽生えたライバル心にまかせ、
わずかな沈黙のあいだに思索を巡らせた挙句、口を開いた。
- 67 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時58分28秒
- 「た、高橋ラブリー…」
消え入るような声になった。
「え? なに?」
よく聞き取れなかったのか、石川が聞き返す。
「いえ、なんでも――」と、にわかに猛烈な後悔の嵐にさいなまれた高橋はすぐに打ち消そうとしたが、
「へえぇ、そんな風に呼ばれてたんだ?」
どうやら吉澤にはくっきりと聞き取られてしまったようだ。
「え? なんて?」
こんどは吉澤に石川が尋ねる。
「“高橋ラブリー”だって」
「ふうん」
物分りのいい、と言うよりも、単に素っ気ないふたりのリアクションは、
高橋の惨めさにさらなる追い討ちを掛けてしまう。
――うう…。
心のなかで泣き崩れながら、高橋は弾むふたりの会話のあとをとぼとぼと歩いた。
この時点で、石川はこのふたり組について、不自然な点のいくつかに気づかなかった。
- 68 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)02時59分39秒
- ◇
ほぼ同時刻、N県の山間にある小集落・百合の郷では、ひとりの老人があることに気づき、
「むう…」と、眉をしかめていた。
郷の端にある雪深い小高い山の中腹に位置し、築300年以上を誇る巨大な日本家屋の
いちばん奥まったところに、20畳ほどのこの和室はあった。館の主であるこの老婆の自室である。
部屋の真ん中には畳2畳ぶんはあろうかという古い巻物が広げられ、そこでは、
墨汁で描かれたいくつもの幾何学模様が重なり合っていた。
巻物の表面にはいくつかの古銭が散らばっている。老婆は巻物を前にして、
まるで親の仇のようにじっと睨み付けたまま動かない。その視線は、
古銭の散らばり具合と幾何学模様との位置関係をゆっくりと追っている。
- 69 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)03時00分09秒
- 「占いの結果?」
部屋の隅で雑誌に目を落としていた若い女が視線を上げることもなく、さも感心なさげに尋ねた。
老婆は突き出ている下唇をさらに尖らせるようにして、
「よくないことが、起こりそうぢゃなぁ…」
それを聞いて女は腕を組み、口元を歪めて天井に漠然と視線を彷徨わせたのち、
「あっ!」と鋭く発して立ち上がった。「借りてきたDVD、3日も延滞してるーっ!」
障子を開けて、庭に面した外側の廊下へ出て行く。
「ありがと、お婆ちゃん」
部屋を出る間際、女はそう礼を述べて障子を閉めた。
足音が遠ざかるのを聞きながら、老婆は着物の懐から、常に携帯している位牌を取り出して畳の上に立て、
「おじいさんや、圭は本当に後を継いでくれるんかのう…」
と、心底悲しげに呟いた。
- 70 名前: 投稿日:2003年02月02日(日)03時01分34秒
-
- 71 名前:名無し 投稿日:2003年02月02日(日)03時02分11秒
- 導入部だけだとあんまりなので、更新しました。
>>51 「移しながらも」→「映しながらも」の間違いです。申し訳。
- 72 名前:名無し 投稿日:2003年02月02日(日)03時03分00秒
- >>44
ありがとうございます。
気長に気楽にユルーく書いてるので、そんな感じでたまに覗いてくださると幸いです。
- 73 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月04日(火)08時35分02秒
- おもしろいです。
文章も読みやすくて好き。
長引きそうなんで完結を待って読ませていただきます(^-^ )
- 74 名前:パート1-3 投稿日:2003年02月05日(水)15時40分33秒
- 私立あさひな女学院は、創立して半世紀余りの名門である。小高い丘の上に立った、
洒落た赤レンガ作りの古びた校舎は、Y市を一望の下にでき、学院のシンボリックな存在であった。
同じ敷地内に幼稚園から短大・大学・大学院までをそろえる、いわゆるエスカレーター式の学校で、
育ちのいいお嬢様が通う学校として世間に名を馳せている。そのブランド名と引き換えに、
授業料は一般的な私立校と比べるとひと回り高く、医者や弁護士、
あるいは企業の上役クラスの娘が多く通っていた。
3年生のほとんどは、そのまま学院付属の大学か短大に進む。外部の大学を目指す生徒を集めた
“進学コース”と呼ばれるE組以外の生徒は、3年生の3学期までしっかりとあり、
多くの生徒と同じく、形だけの推薦のもとに付属の大学への進学をすでに決めていた石川は、
こうして今日も授業を受けに来ているのだ。
- 75 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時41分07秒
- 昼休み、石川は母親から持たされた手作りの弁当を開いていた。席の向かい側には、
いつものようにクラスメートの柴田あさみが座り、売店で買ってきたサンドウィッチふたつと
コーヒー牛乳の三角パックを並べている。
「雪、やんだね」
すぐそばの窓の外を見て、柴田が言った。
「あ、ホントだ。いつの間にか、空、明るくなってる」
「今朝の予報では、今日いっぱい降り続くって言ってたけど」
「このまま降り続いてたら、帰れなくなっちゃうトコだよ」
校庭は、ようやく顔を出した日の光を浴びて、一面に広がる雪の原を白く輝かせている。
その一角に、いつの間にか、誰が作ったのか、雪だるまが立っていた。青いポリバケツの帽子に
掃除用のはたきが手足というクラシック・スタイル。ふたりはそれを見て、
「可愛〜い」と、笑顔を見合わせた。
- 76 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時41分41秒
- 先週あった英語のテストで長文問題に誤りがあり、
全員に点数が配分されることになったらしいよ、と、柴田から聞いて、
石川は、その問題にたっぷり時間を取られたおかげで他の問題に余裕がなかった、
と、散々愚痴をぶちまけた。お嬢様学校でも、補習はあるのである。
そんなに悩む問題だったら後回しにすればよかったじゃない、という柴田だが、石川曰く、
「あの問題、どうしても訳分かんなくて、そういうのって、悔しいじゃない。なんか意地になっちゃって、
これを解くまでは前に進まないっ!って」
「梨華ちゃんって、そういうトコ、要領悪いよねえ」
「要領悪いのは、前々から知ってるよ。でもさぁ、そういう努力点みたいなの、欲しいねー。
そういうの、せめて認めて欲しいよ」
「“頑張ったで賞”みたいなの?」と、柴田は笑った。
そのあと、来週に行われる特別講義・「テーブルマナー」の話題になった。
それは、“一般的な”社会のたしなみを身に付けようというもので、
この学校では“お茶”“生け花”といった特別授業が各学期にいちど開かれるのである。
- 77 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時42分19秒
- テーブルマナーの授業は、生徒の誰もが楽しみにしているイベントだった。みんな一張羅を着て
一流ホテルのレストランに集まり、ちょっとした社交界デビューの気分を味わえる。
石川もその例に漏れず、楽しみにしていた。いくら石川でも、
フルコースを食べたことは、あさ女の小学校入試に受かったときのたった一度きりだ。
この年末には、家族そろってデパートに行き、わざわざそのためにドレスをしつらえるという
気合の入れようである。
柴田は、明日行くホテルにもこれまで何度となく行ったことがあるという。
あのレストランの料理長はパリの三ツ星にいた、とか、ほたてのテリーヌが美味しかった、
といった知識を自慢げでもなく世間話のように話してくれた。
- 78 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時43分23秒
- 政府も多額出資している“柴田重工”と言えば、世の中に知らないひとはいないほどに
歴史ある大手企業だが、柴田はそこの社長令嬢だった。だが、彼女はそのへんを鼻に掛けず、
それどころか、裕福な家庭に育ったことを重荷に思ってさえいる。
「まぁ、子供は親を選べないしね」というのが、柴田が事ある毎に口にする言葉だった。
たぶん、桁外れのブルジョワにはブルジョワなりの苦悩があるのだろうし、
家庭でもいろいろあるのだろうが、決して内輪のトラブルや弱みを漏らすことはない。
それが彼女のプライドなのだろう。極めて“フラット”に留まり続け、
いつも冷静に分析するしっかり者。それが、
小学校の頃からずっといっしょに過ごしてきた石川が抱く、柴田あさみ像だった。
ほんのすこし印象がなんとかいう女優に似ている気がするし、
端整で綺麗な顔つきはいかにもモテそうなのだが、
浮いた話を特に聞いたことはない。正直、もったいないと常々石川は思う。
- 79 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時43分54秒
- ひとしきりテーブルマナーの講義に関する話題が続いたあと、ところでさ、と、石川は言った。
「今朝ね、ちょっと面白いことがあったよ」
「なになに?」
面白いこと。それは、元新聞部の柴田にとって、部活を引退したあとでも大好物だった。
「今日、この学校に転校してくるってコと会ってさ――」
と、今朝あったことを、自分の間抜けさを面白おかしく交えながら、掻い摘んで話して聞かせた。
「へえ。何組のコ?」口のなかのものをコーヒー牛乳で流し込むと、柴田が尋ねる。
「さぁ、分かんないけど、2年生って言ってたよ」
「そりゃそうか。いまさら3年生たって、もう卒業だもんね」
「それがさぁ、すっごいこう…なんて言うか、カッコいいの。すらーっとしてて、顔立ちが綺麗でね」
話すうちに、石川が目を輝かせていく。
- 80 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時44分25秒
- 瞳がほとんどピンクのハート型になっている石川の緩みきった顔を見て、
「ほほう」
柴田はいわくありげな笑みを浮かべ、机の下から
手のひらに収まるほどの大きさのデジカメを取り出すと、操作ボタンをいじり始めた。
その様子を見ていた石川は、「どうしたの?」
「いいからいいから…っと、あった」
と、柴田はデジカメの液晶画面の側を石川に向ける。
「もしかして、そのコはこういうコではなかったかな?」
うそっ!と思った。
画面には、教室で机に座っているブレザー姿の吉澤のバストショットが
斜め前から鮮明に収められていた。おそらく授業中なのだろう、
机の上になにかの教科書を広げ、視線はまっすぐ黒板のほうを見詰めている。
「あっ!ああっ!そう、このコ!」石川は顔を綻ばせて声を上げた。「ねえ、いいよね、このコ」
しかし柴田のリアクションを待たずして、すぐに訝しげな顔つきになる。
「ねえ、もうこんなのが流れてるの?」と、デジカメから視線を上げ、再び視線を落とす。
「いやぁ、デジタル時代の恩恵だねぇ」
柴田はしみじみと言った。
- 81 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時45分00秒
- これには、多少の説明を要する。
1年前、新聞部が毎月発行する学校新聞の人気コーナーのひとつに
「このコに要ちぇけらっちょ」というものがあった。もともとのコーナーの趣旨は、
賞をもらうなり、校内の行事で活躍したなり、変わった特技があるなりで
話題になった生徒のインタビューを写真つきで掲載するものであったが、
いつしか校内の美少女を紹介するだけというコーナーになっていた。
それは、当時の新聞部部長であった柴田の影響でもあったが、
それから柴田のもとには新聞への掲載の有無に関係なく、校内の美少女の写真が多く持ち込まれ始めたのだ。
以前は部費から出していたささやかな謝礼は、柴田のポケットマネーから出すことになった。
- 82 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時45分30秒
- 写真ブーム、そして、裕福な家庭の生徒が多いことが手伝って、
当時からデジカメを学校に持ってくる生徒は少なくなく、写真のストックはひたすら増えつづけた。
現像といった手間なく簡単にデータの取引ができることも影響しているだろう。
そして柴田は、新聞部をやめた去年の秋以降もそういった写真の売買をする、いわばブローカーとなり、
ちょっとした小遣い稼ぎになっていた。もちろん、柴田は金銭面で困っていることはないから、
データの値段は、買い取り料にほんの少し手数料を上乗せする程度なのだが、
可愛い、あるいはカッコいい女の子の姿というのは、同性から見てもやはり魅力的なもので、
柴田のもとには毎日、データを持ったコ、データを買うコが訪れるのである。
- 83 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時46分03秒
- デジカメを手にしたまま、自然と口元を緩ませている石川の様子をちらちらと窺っていた柴田が、
ぼそっと言った。
「そっかぁ、梨華ちゃんは、そういうコがタイプなのかぁ…」
「えっ?! ち、違うよ、そんなんじゃないったら」
地黒の顔を赤らめ、慌ててデジカメをつき返す。
「タイプ、っていうか、そんなの、大切なのは中身だもん。外見が綺麗だからって、好きになるかどうかは、また別問題だと思う」
早口になる。
「そっだね。大事なのは人柄だよね」
「そうだよ、中身だよ」
「プリントアウトしてあげようと思ったけど、じゃ、べつにいいんだね?」
「え…っ」
「いいんだね?」
念を押すように、柴田はもういちど尋ねた。
- 84 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時46分34秒
- しばらく唇を尖らせたまま、なにかに耐え忍んでいた石川は、上目遣いで柴田をじとっと睨む。
変わらずにんまりと満面の笑みを浮かべている柴田に、石川はぽつりとこぼした。
「しばちゃん、意地悪だ…」
ふふふ、と楽しそうに笑って柴田は、
「うそうそ。ちゃんとあげるから、そんな泣きそうな顔しないでよー」
そう言って、柴田はデジカメを石川に向けると、かちり。
不意打ち。
「あっ、ちょっとっ! 急に撮らないでよぉ」
情けない膨れ面を撮られ、ますます情けない表情になる。
「だってさー、梨華ちゃんの写真って、けっこう売れるんだよ? ふふ、今週の新作新作っと♪」
「撮られるのはべつにいいから、ちゃんとしたの撮り直して。お願い」と、石川はもはや懇願口調。
しかし、柴田は聞く耳を持たず、「んー? 可愛いと思うよ、こういう梨華ちゃんも」と、
唇を尖らせた石川の膨れ面を正面からどアップで収めたデジカメの画面を見て、くすくす笑う。
- 85 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時47分07秒
- ◇
放課後、新聞部の部室にあるパソコンで昼休みに話していた吉澤の画像を
プリントアウトしてもらうことになった。
柴田は掃除当番だったため、掃除が終わるのを待つあいだ、廊下でぼんやりと中庭を見下ろしていた。
校舎と校舎で挟まれた中庭には、バスケットボールの赤いコートがあり、
石川がいる校舎が作る影がコートの手前3分の1ほどに落ちていた。
中庭は、校舎で四方を囲まれているせいで、雪はそれほど積もっておらず、
午後になってにわかに温かさを増したこともあって、雪は影になった部分にだけ残る程度だった。
- 86 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時47分39秒
- 一方のゴールの周りで数人の下級生たちが遊んでいる。どうやらふたつの組に分かれていて、
どちらかがゴールにボールを入れたら得点のようだった。石川のいる3階まで嬌声が聞こえてきて、
楽しそうだ。
しばらくその様子を何気なく眺めていたが、あるとき、パスのひとつがあらぬ方向にすっぽ抜け、
校舎の1階を繋ぐ屋根付きの廊下の方へと大きく跳ねていった。
石川の視線がボールを追っていくと、
ちょうど廊下を向かいの校舎へと渡っていく途中のふたりの生徒が気づき、足を止めた。
「あ…」
石川は小さく発した。
――よっすぃーと……ええと、ラブリーだっけ…?
朝会ったときと違ってコートは着ていないが、間違いなくふたりだった。
バウンドが細かくなり、ほとんど転がってくるだけのボールに手を伸ばしたのは、
立ち止まったふたりのうち、高橋のほうだ。そのまま片手で掬い上げるようにしてボールを手にする。
今朝、簡単に紹介されたとき、学院の中学3年生だと言っていた。
コートを着ているときは気づかなかったが、たしかに締めているネクタイは、
高校の赤と違って中学の黄色である。
- 87 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時48分12秒
- 「ありがとー」「こっちこっち」
気ままに声を掛け、両手を振る下級生たち。
そして、それは突然だった。
高橋が振り返り、石川の方向を見上げた。
それまで、まったくこちらの方向には目を向けていなかったというのに。その表情は、
石川の視力では判然としない。高橋につられるようにして、吉澤もこちらを見上げる。
やはり表情はよく分からないが、視線は合っていそうだ。
窓越しに小さく手を振ってみる。
振り返してくれた。笑顔だ。これはくっきりと分かる。
なんだか嬉しくて、こちらも訳もなく笑顔になった。
だが、吉澤に気を取られていて、次に起こったことを、瞬間、石川は見逃した。
- 88 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時49分01秒
- 気が付いたときには、高橋の手元にあったはずのバスケットボールは、
大きな弧の最後の片鱗を描いてすぐに、
50メートルは離れていようかというバスケットゴールに吸い込まれていた。
――え? なに?
――ダイレクト…?
吉澤に振っていた手が自然と止まり、石川は目を瞬かせた。
ぽかーんと口を開いたまま立ち尽くした下級生たちのあいだに、ボールが落ちる。
――ラブリーが…?!
今朝、ひたすら自分に注がれていた、高橋の恨みがましいやぶ睨みが思い出された。
――実は…ラブリーって、めちゃくちゃすごくない?! 人間離れ、っていうか…。
純粋にすごい、というよりも、それはある種、畏れ(おそれ)に似たものだったかもしれない。
ウロコが落ちたばかりの目をふたたび高橋へと移すと、
なにやら申し訳なさそうに吉澤に頭を下げているところだった。
石川は眉を潜め、首を傾げる。
――なにを謝ってんの?
吉澤は一方的に振り切るようにして、ずんずんと向かいの校舎へと歩いていき、
高橋がそのあとを慌てて追った。
まったくわけが分からない。
- 89 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時50分05秒
- どうして高橋は、自分が見下ろしていることに気づいたのか。
そして、ダイレクトシュートを決めた、あの驚くべき力はなんなのか。
そこで初めて、石川は根本的な疑問に気がついた。
そもそも、転校生がなぜ初日から、ほかの生徒――しかも、下級生と並んで登校していたのか。
- 90 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時50分38秒
- ◇
「偶然じゃないの?」
柴田は淹れたばかりのコーヒーをひと口舐めて、さらに続けた。
「それか、実はすごいバスケットの選手とか。県大会で優勝経験ありとかさぁ」
新聞部の部室である。古い資料も多く本棚に詰まったこの部屋は、ふだんは紙の匂いがほんのりとするが、
今はコーヒーの芳ばしい香りが立ち込めている。3学期初日の今日は始業式だけということもあって、
式の取材を終えると、柴田の後輩の部員たちは早々に帰っていき、
石川と柴田のふたりが部屋の中央に置かれた折り畳み式の細長いテーブルを挟んで座っているだけだ。
一方の壁に掛けられた大きなホワイトボードには、
今月の学校や街の行事・イベントと取材予定が殴り書きされ、
さらに取材関連のメモがいたるところにマグネットで留められている。
- 91 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時51分19秒
- 部室は5階の視聴覚室の隣にあり、用事のない生徒が通り掛かることはまずないため、
黙っていればしんと静まり返っているところだが、これも今日はすこし違う。
部屋の端の机に置かれたiMACの液晶ディスプレイには、昼休みに見せてもらった吉澤の写真が表示され、
その脇の最新型インクジェット・カラープリンターからは、がしょがしょと忙しない駆動音を立てながら、
吉澤の姿が印刷されている。
柴田の淹れてくれたコーヒーは、石川にとっては少し苦かった。ひと口すすったあと、
予め柴田が出してくれていた砂糖壺に手を伸ばす。
- 92 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時51分53秒
- 「でも、そんなすごい生徒なら、当然しばちゃんの耳にも入ってるはずでしょ?」
ふた匙目を落としたところでスプーンを壺に戻しながら、石川は言った。
「そりゃそうか」
と、柴田は自分の持つ情報網を思い起こし、もっともらしく頷いたあと、
「でもちょっと待って。そのラブリーってコ――ええと、高橋さんだっけ?
そのコも、転校してきたばかりなの?」
ひと口飲んで、頃合いの甘さに、うん、と頷くと石川は、「ん〜〜、そこなのよねぇ」
と、首を傾げる。「転校生同士がいっしょに登校してくるっていうのも、なぁんかヘンな話だよね」
「今朝会ったとき、ヘンとは思わなかったの?」
- 93 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時53分01秒
- 思わぬ急所を突かれ、石川は、「えっ、あ、うぅ、うん、恥ずかしながら…」と、しどろもどろになる。
「ふうん、“よっすぃー”にすっかりご執心で、そういうことにはぜんっぜん気が回らなかったわけね」
と、柴田は眉を吊り上げて目を細める。
「もう。違うってば」
にわかに頬を染めた石川の両手が机を叩き、ふたつのカップに注がれたコーヒーがさざ波を立てた。
毎度のことながら、あまりに分かりやすいリアクションに、柴田は吹き出してしまう。
“いじられキャラ”というのは石川が自認するところだが、
ときには相手が親友の柴田であっても、
あまりに切れ味鋭くずばっと核心を突かれると、辛いこともあるのだ。
- 94 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時53分31秒
- 「まぁ、なんにせよ、よかったんじゃないの?」
笑いをこらえて柴田が言った。
「え? なにが?」
「謎を解明するってのは、その“よっすぃー”に近づくための、ちゃんとした動機になるでしょ?」
「だからぁぁ! もうっ」
石川の抗議なんてどこ吹く風、柴田はキャスター付きの椅子をごろごろと足で転がして
プリンターの傍まで行くと、プリントアウトが終わった用紙をトレイから取り上げる。
そして、「ねっ」と、写真がプリントされた面を石川のほうにひらひらと掲げて見せた。
「いずれにしても、この“よっすぃー”ってコが鍵よ」
「ラブリーじゃなくて?」
「うん」
「その根拠は?」
「ラブリーは、よっすぃーに頭が上がらないんでしょう? それになにより、新聞部・元部長のカンよ」
「カンねぇ」
「そ、カン。よかったね、鍵が“よっすぃー”のほうで」
もはや決め付けである。
石川は溜め息をついた。なにをどう弁解したところで、
友達のなかで最も付き合いの長い柴田の目には、すべてはお見通しのようだった。
- 95 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時54分02秒
- ◇
家に帰ると、ドアを開けた途端にカレーのいい匂いがした。
「ただいまぁ」と夕飯を作っている母親がいるキッチンに顔だけ出して、2階に上がる。
「ちゃんとうがいと手洗いしなさいよー」という遠い声が追いかけてくる。
部屋に戻る途中の洗面所で、言われた通りうがいと手洗いを手早く済ませると、
“りか”と周りを花であしらったネームプレートが掛けてある自分の部屋のドアへ向かう。
- 96 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時54分44秒
- お世辞にもきちんと整理整頓するタイプではない。カーペットの上には
買ってきた雑誌やCDが散らかっている。これはこれで、自分としては秩序立っていると思うのだが、
母親は部屋を覗くたびに「掃除しなさい」と言うし、
たまに柴田が遊びに来るときには片付けているつもりなのだが、
それでも柴田にとっては、本棚の上に平積みにしたまま埃をかぶったマンガの単行本や、
消しゴムのかすが勉強机の端っこに追いやられて蓄積している様、窓ガラスにうっすらと着いた指紋などが、
気になって仕方がないという。
年にいちどぐらいはきちんと掃除し、その度に、もう決して散らかさないぞ、と決意を新たにするのだが、
その3日後には部屋のあちこちからたがが緩み始め、こういった、そこそこの散らかり具合こそが
自分の個性なんだから、これでいいのだ、と、開き直るようになってしまう。
- 97 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時55分16秒
- 母親は、いつまでも部屋を綺麗にできないようじゃ、子供と同じよ、と言うが、
これでも少しは成長したと自負している。前は、カーテンやベッドカバー、枕カバー、
スリッパ、すべてピンクじゃないと気が済まなかった。ピンクが好きなのだ。
それが、最近はピンク以外の色も許せるようになり、たとえば今のベッドカバーは、
石川がひとりでデパートに買い物に行ったときに衝動買いした空と雲の柄だ。
ただ、柴田に言わせれば、それもなんだかちょっとセンスが悪いといったことになるのだが。
「センスも個性のうちよ」
結局、辿り着くのは、部屋が散らかっている様に対するのと同じ言い訳である。
足元に積んであるCDに適当に気を配りつつ、
制服を脱いでハンガーに掛け、いつものようにジャージに着替えた。
そして次にすることは、すでに決まっていた。それは、
鞄からクリアファイルに挟んだ吉澤の写真のプリントを取り出すことだった。
さらにファイルからプリントを取り出すと、仰向けにベッドに寝転がり、
両手で写真を掲げるようにして眺めた。
- 98 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時55分47秒
- 自然体。
そんな言葉がふと浮かんだ。飾り気のまったくない表情。隠し撮りだから当然と思われがちだが、
教室のようなひと気のある場所では、ひとは常に誰かに見られていることを
かすかにでも心のどこかに置いているものだ。しかし、この写真を見る限り、
吉澤の表情の柔和さは実に自然で、そんなことを微塵も感じさせず、
石川のなかのなにかを惹き付けずにおかない。
柴田に散々けしかけられたせいもあるが、
学校からの帰り道ずっと、この写真を早く誰にも気兼ねなく見たくて仕方がなかった。
いつも覗く書店やCDショップには目もくれず、自ずと早足になった。
今日、自転車ではないのが歯痒く思えたほどだ。
- 99 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時56分28秒
- 今朝、「大丈夫?」と、傘を差し掛けてくれた吉澤の顔、そして、わざわざ屈んで
膝にばんそうこうを貼ってくれたときの感触が忘れられない。
手を伸ばして左膝を触ってみる。コットンのジャージ越しにばんそうこうの厚さを感じ取ると、
今朝吉澤と交わした会話のひとつひとつの温度がアルバムを手繰るように鮮明に思い出されて、
石川は自分の顔がぽぁーっと緩むのを感じた。
どうしたらいい。もう、目を閉じても思い出せてしまうじゃないの。
- 100 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時56分59秒
- ――好きなの?
自分に問い掛けてみる。
――まさか。
すぐに自分で言い返す。
――今朝会ったばかりだよ。どんなひとか、よく分かんないじゃない。
しかし、顔立ちだけではなく、ソフトな声もいいと思った。
内気な自分が、抵抗なく馴染めたひと。
笑ったときの表情も柔らかで余裕があって、素敵だ。すぐにはしゃぎ気味になってしまう自分とは大違い。
――もうすこし、話してみたいな…。
飽きることなく吉澤の顔を眺めていると、ベッドサイドのインターフォンが鳴った。
たぶん、母親から夕食ができたという知らせだ。
- 101 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時57分43秒
夕食は、母親とふたりきりになった。父親はたしか今朝、今晩は遅くなると言っていた。
ふたりで食卓を挟み、カレーを食べながら、それにしても――と、思う。頭に思い浮かぶのは、
謎の転校生のことばかり。
明日、吉澤の顔を見ることはできるだろうか。
吉澤も今ごろ、家でご飯を食べてるんだろうか。
そんなことをぼんやりと思っていた。
- 102 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時58分13秒
- 「どうしたの? 梨華」
さすがに娘の様子を怪訝に感じたのか、母親が尋ねる。なにせ、石川が手にしたスプーンはいつしか、
大半がまだ残ったままのカレーに突っ込まれたまま、不恰好なオブジェのように静止していたのだから。
すでにスプーンの周りで、冷めたカレーソースの表面が薄く膜を張っている。
「ルウ変えたから、ちょっと辛かったかしら?」
と、さらに窺うように尋ねられて、
「あ、ううん、美味しいよ、ちっとも大丈夫。辛いのも好きだし」
ふつうに笑みを浮かべると、石川はカレーを口へと運ぶ。
「なにか…悩みごとでもあるの?」
なおも母親は顔色を曇らせて詮索するが、「まぁ、お年頃だから」と、
石川はもっともらしいことを言って誤魔化すが、母親は沈みがちな表情で言った。
「あの…遠慮しなくていいんだからね」
石川の表情が、「あ…」と、なにかに思い当たった風になった。「違うの。うん、ママ、違うからね」
と、慌ててかぶりを振る。
- 103 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時58分45秒
-
- 104 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時59分24秒
- 今月、けっこう多忙になりそうなので、ひと足先に更新。
今週中にたぶん、もういちど更新、そのあとが少し空きそうです。
- 105 名前: 投稿日:2003年02月05日(水)15時59分54秒
- >>73
ありがとうございます。客観的に面白いのかそうでもないのか、よく分からないもので、励みになります。
か、完結ですか…(遠い目
- 106 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月05日(水)16時08分21秒
- すみません、最後の部分だけ、再投稿させてください。
「なにか…悩みごとでもあるの?」
なおも母親は顔色を表情を曇らせて、石川の顔色を窺う。
「まぁ、お年頃だから」と、
石川はもっともらしいことを言って誤魔化すが、なおも母親は沈みがちな表情で言った。
「あの…遠慮しなくていいんだからね」
石川の表情が、「あ…」と、なにかに思い当たった風になった。「違うの。うん、ママ、違うからね」
と、慌ててかぶりを振る。
- 107 名前:73 投稿日:2003年02月07日(金)18時57分22秒
- 完結まで〜とか言いつつ読んじゃった(^-^;)
タイトルが超好みで、惹かれて読んだんだけど
思った通り能力系話でかなりツボです。
(タイトルだけだと貿易の話かとも思えますが…)
あせらず、自分のペースで更新をどうぞ。
気長に待ちますんで(^-^ )
- 108 名前:後藤真希大好き11歳 投稿日:2003年02月07日(金)19時17分20秒
- 私、後藤真希のファンです。部屋中ポスターで、うめつくされています。
学校では、後藤真希オタクと,まで結われるようになりトッテモうれしいです。
ごっつぁん大好き。大スキです。 応援します 後藤真希大好き。11歳
- 109 名前:後藤真希大好き11歳 投稿日:2003年02月07日(金)19時21分38秒
- 大スキ。)後とうまき
- 110 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月09日(日)01時57分19秒
- おおぉーこんな作品が始まっていたのか!
文章も読みやすいし、展開が気になります。期待。
- 111 名前:パート1-4 投稿日:2003年02月10日(月)10時07分59秒
- 教壇の前では、古文担当であるハイミスの教師が、万葉集のなかの一首について解説をしている。
石川は頬杖を突いたまま、広げた大学ノートに短くシャープペンを走らせては息をつき、口元を歪めていた。
もちろん――と言っては失礼だが、教師の言葉をいちいち書き留めるほど
古文に関心が深い訳では、決してない。
そこには、転校生・吉澤ひとみについて、自分が知っていることが箇条書きにされていた。
・雪深いN県の山奥から、この冬休みにこの街へ引っ越してきた。
・あさ女の高校2年生。
・(転校してきたばかりなのに、なぜか)高橋愛という、やはりこの学院の中学3年生と友達らしい。
・高橋愛は、バスケットボールが上手い。
・高橋愛は、吉澤ひとみに頭が上がらない(しばちゃんの分析)。
ひと通り挙げてみると、ふうむ、と顎のあたりを軽く撫でたりして、
ちょっとした探偵気分である。もっとも、チャンドラーではなく赤川次郎だが。
さらに、転校してきたばかりの子が、下級生と知り合いである可能性を少し考えてみた。
- 112 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時08分29秒
- ・休み中、街で偶然、知り合った。
・例えばかつて吉澤がこの街に住んでいたことがあったりして、以前からの知り合いで、
このたび吉澤がこの街に帰ってきたため、同じ学校に通うことになった。
・それぞれの父親と母親は伴侶をなくしていて、恋に落ちたこの男女は、
それぞれの連れ子である吉澤・高橋とともに、ひとつの家に住むことになって、
3つ目の選択肢は、書いている途中でやめてしまった。まるで、
母親が好きで近所のブックオフからまとめ買いして来ては、
懐かしがって読んでいる昔の少女マンガのような設定じゃないの。
(↑結局、石川も読んでいるわけだが)
いろいろ考えを巡らせてみるが、釈然としない。つまるところ、本人に訊いてみるのがいちばんである。
今朝、また登校途中に会えたら話し掛けてみようとも思っていたが、
あいにく、ふたりのどちらの姿も見かけることはなかった。
休み時間には、「このすぐ下の階に、よっすぃーがいるんだよう」と石川が芝居がかった
切ない口調で言うと、直接、吉澤のクラスに訪ねていけばいいじゃない、と、柴田はにべもなく言う。
だが、尋ねて行ったところで、いったいそこで、なんと言えばいい?
- 113 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時08分59秒
- また、高橋の、あのダイレクト・ロングシュートを思い出すと、
ひとつの言葉が常に浮かんだ――“人間離れした”ちから。
――そりゃ、努力すれば、あんなこともできるようになるのかもしれないけど…。
ひょい、と、単に放り投げただけのような印象だった。投げた瞬間は見逃してしまったものの、
少なくとも、じっくりと狙いを定めたわけではなさそうだし、
ゴールにボールが入るところはこの目で見てしまったのだから、それは夢でもなく紛れもない現実であり、
認めなくてはならない。
だが、それにしても…である。
なにかがずっと引っ掛かっていた。それは、「不思議な」――というよりも、
「不自然な」ちからという印象が拭えないからかもしれない。
いや、実のところ、ほんとうは高橋のことなんて、これっぽっちも考えてはいない。ただ単に、
吉澤に話し掛ける口実が欲しいだけなのかもしれなかった。
高橋のことは、実際に真相を聞いてみると、小さい頃からずっとバスケをやってた、といった、
なァんだ、と思える理由だろうと思っていた。転校したてで知り合いなのも、
分かってみればきっと、どうということはないだろう。現実なんて、大概の例に漏れずそんなものだ。
- 114 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時09分35秒
- それから窓際の席に座る石川は漫然と校庭を眺め、吉澤のクラスが授業をしていないか
盗み見したりしていた。
一日経って、すっかり雪が溶けた校庭では、下級生の学級が体育をやっていた。
どうやら50メートル走でタイムを計っているらしい。中学校指定の青ジャージが列になって、
消えかけた白線のトラックの2列に並んでいる。
漫然とその様子を眺めていた石川だったが、列のなかに高橋の姿を見つけた。肩までの黒いセミロングを
後ろで小さく束ねている。
――運動神経抜群なら、足も速いかも。
そう思って、高橋の順番を待った。
完全に授業中であることを忘れていた、そんなとき、
「――じゃあ、石川さん、この歌の解説を読んでみて」
急に指名され、びくっとする。
ぎこちなく起立して、「すみません、ちょっと今、聞いてませんでした」と、
潔くも、もごもごと口を開こうとしたとき、すぐ後ろの席の柴田がすかさず
「P124」と、こそっと囁いてくれた。こういうときの助け合い精神は抜群である。
- 115 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時10分09秒
- 額田王の想いの丈を無味乾燥に述べた解説を、気持ち、早口になって読み終え、
着席の間際に手刀で「ありがと」と柴田に伝えて席に着くと、すぐに校庭に目を移す。
順番を待つ列に、高橋の姿はすでになかった。え?どこ?と、視線を忙しなくさまよわせる。
そしてすぐに見つけた。
ちょうど高橋はゴールに向かって走っているところだった。ここからでは実際の速さは分かりかねるが、
隣のトラックを走る生徒といい勝負である。
なぁんだ、と思った。なにか超人的な力でも持っていれば面白いのに、と、
マンガめいたことを思い描いて、クスリと笑った。
- 116 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時10分40秒
- ◇
その日、休み時間の、例えば生物の時間で教室移動するとき、あるいは、
昼休み、大学の入学に必要な書類を職員室に持って行ったとき、鉢合わせしないかな、などと、
都合のいいことを思い描いていたが、結局、吉澤の姿を見ることはなく放課後を迎えた。
ちょうど今日は、後藤真希の新曲フラゲ・デーだった。学校が終わると、帰り道に通る商店街のなかの
CDショップに寄る。このあたりでは割と大きな店で、輸入版やLPレコードまで幅広く扱っている。
もしここに目当てのものがなければ、駅前まで足を伸ばすことになるが、
わざわざそんなことをした経験は、いままで数えるほどしかない。
- 117 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時11分18秒
- 店に入ると、一直線に邦楽ポップスのコーナーへ。もうすでに、たとえ目をつぶっていてもきっと、
「か」行がどこにあるかは分かるだろう。
「か」行の棚のいちばん上の段に目立つように、後藤真希のニュー・マキシ・シングル
「やる気!IT’S EASY」は何枚も重ねて並べられていた。
PVで見たのと同じ、コケティッシュなピンクのドレスに身を包んだ後藤真希の笑顔がジャケット写真だ。
早く部屋のコンポで聞きたい。
来週、気が進まない柴田を説得して、いっしょに後藤真希のコンサートへ行く約束をしていた。
いまのうちにしっかり聴いて、会場で思いっきり楽しんでやるのだ。
CDを手にすると、頬がかすかに上気するのを感じながら、すぐさまレジへと向かう。
だが、レジに向かう途中で石川は見覚えのある顔を見つけて足を止めた。
何列かあるCDの棚それぞれの端には、新譜CDの視聴機が置いてある。
洋楽の棚の端にある試聴機の前に、吉澤の姿があった。やはり家路の途中なのだろう、
制服のままで、足元に置いた鞄を両足で挟んでいる。
- 118 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時11分48秒
- ――なんて偶然!
声を掛けようとしたら、ヘッドフォンを両耳にはめたままの吉澤の表情が、なにやら険しいことに気づく。
あれこれボタンを押したりボリュームのつまみをいじったりしている。どうやら、
試聴機の操作が分からない様子だ。5枚ほどセットしてあるCDのなかから選ぶタイプだが、
今では珍しくもないあの機械も、確かに初めて見たときは、石川も操作に戸惑ったものである。
もしかしたら、これまで吉澤の住んでいた辺りには、
そんな視聴機が置いてあるCDショップはなかったのかもしれない。
しばらく遠目で吉澤の様子を盗み見していた。困惑する表情も、なんとも可愛いじゃない、と。
困っているひとを見て微笑んでいるのだから、よくよく考えれば、単なるひとでなしである。
しかし、すぐに思い立った。
――もしかして、これってすっごくチャンス?!
石川は足早になって、吉澤のもとへ近づいていく。
試聴機の操作に気を取られている吉澤は、まったく気づく気配がない。
――おねいさんが教えてあげようじゃないの。
だが、石川が隣に立ったとき、ちょうど吉澤の表情が「あっ」と緩み、
視聴機の小窓のなかでCDが軽快に回り始めるのが見えた。
- 119 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時12分24秒
- ――あら…。
石川の気配に気づいたのか(すごい速度で石川は歩み寄っていったのだから、気づかれるのに無理はない)、
「あー」と、吉澤が横を見てヘッドフォンを外して、「ええと、梨華ちゃん」
「あの…っ」自分の間の悪さに困ったような笑みを浮かべ、「やっ」と、手を小さく挙げて挨拶する。
吉澤は視聴機の停止スイッチを押して、ヘッドフォンをラックに掛けると、
「ココ、よく来るの?」と向き直った。
「あー、うん、けっこう。帰り道だし」
「ふうん」
「よっすぃー、なに聴いてたの?」
吉澤が口にしたのは、外国のロックバンドの名だった。
「あー、いま、流行ってるよねー」
適当に合わせた。かすかにどこかで聞き覚えがある程度だったが、
洋楽をほとんど聞かない自分にも覚えがあるのだから、大メジャーのバンドに違いない。
すると、吉澤はそのバンドについて語りだした。
今までアルバムに入ってなくていつもライブのときだけやってる曲が今回初めて入るんだよね
プロデューサーがまた○○○○に戻ったからデビューの頃の古きよきアメリカンポップスの王道スタイルっていうかさ
- 120 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時14分47秒
- なにを言っているか、正直さっぱりである。しかし、根っから好きなのか、吉澤の表情はなんとも無邪気で、
それにつられるように石川の顔には、作り笑いではない、自然な笑みが浮かんだ。
「あ、梨華ちゃん、なんか買うの?」
尋ねた吉澤の視線が、石川が手にしていたCDを捉えていた。
「あ、これ…これね、うん、買おうと思って…」
好きなひとに自分の嗜好の一端を垣間見せるのは、いささか気恥ずかしいものだ。増してや、
もっぱら洋楽を聞くようなひとには、日本のアイドルポップスは小馬鹿にされるのではないかと思えた。
石川はためらいがちに、「後藤真希…って知ってる?」
「あー、うん、名前ぐらいは」
「そっか。あのう、『愛のバカやろう』とかって、聞いたことない?」
うーん、聞いたことあるようなないような、と、吉澤は首を傾げる。
「けっこうヒットしたんだけどなぁ、あ、これのひとつ前のシングルなんだけど」
「ふうん。そんなにいいんだったら、また今度貸してよ」
貸すとも貸すとも、このCDだって、今すぐにでも貸したっていい。
こうして、つながりの些細な取っ掛かりができることが、胸のあたりでぷちぷちと弾けるように嬉しい。
- 121 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時15分24秒
- と、不意にふたりのあいだに微妙な沈黙が落ちてきた。
「あー…じゃあ、またね、バイバーイ」と、吉澤は行ってしまう。その後ろ姿に、「あ、あの――」と、
石川はほとんど発作的に声を掛けていた。「せっかく会ったんだし、ちょっとお茶でもしない?」
せっかくのチャンスじゃないの。最大限に生かさないと。
「いいね。ちょうど、のど渇いたなーって思ってたトコなんだよね」
呆気なく吉澤は答えた。
――イエス!!!
心のなかで大きく振りかぶって、石川はガッツポーズ。
- 122 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時15分56秒
ココのミックスジュース、美味しいんだよ、と、石川が触れ込んで、
同じ商店街内のビルの中2階にある小さな喫茶店にふたりは入った。
端の窓際の4人掛けに向かい合わせに座ると、それぞれ隣の席の背もたれにコートを掛けて、
ふたりぶんのミックスジュースを注文した。
「いいカンジの店だね」吉澤が周りを見回して言う。
フローリングの床に、分厚い木製のテーブル。壁のあちらこちらには、小さな版画やエッチングが
アクセントとして薄い額縁に入れて掛けられていて、大きな窓からは光が差し込み、
バー風のカウンターが洒落た雰囲気を醸し出している。
平日の夕方近く、客はふたりのほかには数組だけ、買い物帰りのおばさんたちや、他校の制服姿などだ。
カウンターの向こうで、中年の女性店員がミキサーに角切りのフルーツを次々に放り込んでいく。
「学校にはもう慣れた?」
「うん、だいぶ。環境への適応能力は、けっこうあるみたい」
店員が最後にミルクをたっぷりとミキサーに注ぎ込むと、蓋を閉め、作動させる。
しばらく、モーターの駆動音と、かすかに果肉がすり潰される気味のいい音が交じり合い、店の片隅で響く。
- 123 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時16分53秒
- 吉澤のクラス担任の話になり、「あぁ、あの先生、すっごいいい先生だよ」と、
石川は思いつく限り、その先生に関することを話して聞かせた。
話している合間も、まつ毛を瞬かせるタイミング、笑うときの口元のラインの綻び――
吉澤のひとつひとつの仕草に、
石川の視線はいちいち忙しなく吸い寄せられていた。
そのうち、吉澤のひとつの癖に気づく。自分で息を吹き掛けて前髪を揺らすのだ。
話がすこし途切れたときに、気が付けばやっていた。本人は意識していないようだったが、
ちょっとハマっていてカッコいいな、と思った。
「部活は? 決めた?」
「まだなんにも考えてないんだけど――」と、そこまで言って、急に吉澤は口をつぐむ。
「どうしたの?」と、石川が尋ねると、
「さっきからどうも違和感みたいなの感じてたんだけどさ、
うちと梨華ちゃんって、仮にも先輩と後輩でしょ? 言葉遣いとか、こんなに『なあなあ』でいいの?
それに、先輩に向かって『梨華ちゃん』って」
大人びた雰囲気のせいで、言われるまで意識してはいなかった。そうか、このコはわたしの後輩なんだっけ。
- 124 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時17分25秒
- 「いいよ、いい」
石川は笑って言った。少しでも“同じ高さ”に立っていたかったのかもしれない。
「ホントに?」
「うん。それに、今さら“先輩”“後輩”って、きちんとするのも、なんかヘンじゃない」
「そりゃそうかも」と、吉澤はひとしきり笑って、「でも、もしムカついてきたら、遠慮なく言って」
――このコは、すごくひとに気を遣うコなんだ。
その印象は、石川にますます吉澤に対する好感を抱かせた。
丁寧なひとは、好きだ。自分がズボラだから、余計に。
そうこう話しているうちに、背の高いグラスに入ったミックスジュースが来た。
- 125 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時17分58秒
- 「ひとつ訊いてもいい?」
ストローから口を離して石川が尋ねると、うん?と、吉澤は顔を上げる。
「あとでヘンだな、って思ったことがあってね」
「ヘン?…って、なにが?」
「転校してきたばかりなのに、なんで下級生のコと知り合いなのかな、って。
いや、ちょっと思っただけなんだけど、なんか気になっちゃって」
吉澤はきょとんとした面持ちで目を瞬かせた。
訊かれたら困ることもあるかもしれない。誰しも、口にしたくない秘密もあるものだ。
もし、そんな気まずそうな表情が少しでも見え隠れしたら、もうそれ以上訊くのはよそう。
そう決めていた。だから、一瞬間を置いた吉澤の表情を見て取り、
やっぱり訊いたらまずかったのかな、と思った。
- 126 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時18分34秒
- しかし、吉澤は急にくだけた口調になって、「ああ、そりゃそうだよね、うん、うっかりしてた」
どこか上ずった調子のようにも聞こえた。
「なにを“うっかり”?」
「え? あ、『なにを?』って、その、だからー、ちゃんとあのとき――って、初めて会ったときさ、
説明しとけばよかったね、ってコト」
ああ、と、石川は頷く。
「休み中――ええと、引っ越してきて、学校が始まる前にね、近くで道に迷っちゃってさ、
そんとき、たまたまそばを通り掛かったのが、高橋だったから」
つまり、高橋は前々からここいらへんに住んで、あさひな女学院の生徒であったということらしい。
「道を教えてもらって、そのまま友達になったんだ?」
「友達…まぁ、友達――になったんだよね。偶然、わたしが通うことになる学校の生徒だったし。
だから、いろいろ教えてもらえるかなぁ、って」
「そっか、そういうことだったんだ。ここんとこ、ずーっと引っ掛かってたんだよね。
謎の転校生、ってカンジで」
“謎の転校生”という言葉を耳にして、吉澤が苦笑する。と、ここでも前髪を吹き上げる。
- 127 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時19分12秒
- 「じゃ、ついでにもうひとつ」
石川が言うと、吉澤の表情が一瞬固くなるが、和やかな雰囲気を感じている石川は、
そんなことに気を留めるどころか、まったく気づいてさえいない。
「昨日、放課後さ、渡り廊下歩いてたじゃない?」
「ああ、うん」
吉澤は表情を崩さないまま、気づかれない程度の小さく溜め息をついた。
「いっしょにいた高橋さんが、すっごいシュート打ったでしょ?」
なにを訊きたいかを漠然と悟ったのか、吉澤は答えた。
「あー、あのう、そう、あのコさ、バスケやってるらしくてさ」
「ふうん、バスケ部にいるの?」
「あー、えと、なんか、学校に関係なくバスケのサークルみたいなのに入ってるみたいだよ。
かなりバスケのほうのセンスはあるみたい」
なぁんだ、やっぱり、と、石川は納得した。ほらね、蓋を開けてみると、どうってことない真相だ。
ただ、石川は、50メートル先のゴールにダイレクトシュートを軽々と決める能力と、
バスケのセンス云々との桁外れ具合には気が回らない。なんとも呑気なお嬢様である。
- 128 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時19分48秒
- 「ああ、なるほど、しばちゃんが知らないわけだよね」石川は言った。
「しばちゃん、って?」
「わたしの友達で、ウチの新聞部の部長だったコでね、かなりの情報通なんだけど、
そのコも、そんなバスケのすごいコ、ウチの学校にいたかなぁ、って首ひねってたから」
「そりゃあ、知らないよね。知らなくて当然だよ」と、吉澤は笑った。
これで、箇条書きにした最初のふたつは解決だ。最後は、こうなると些細なことかもしれないが、
どうして高橋は吉澤に対してああも頭が上がらなさそうなのか。
昨日初めて会ったときにひたすら寡黙にあとを付いて来ていたさまや、
放課後にシュートを決めたあと、吉澤に頭を下げていた様子を見るに、やはりこれも気になっていた。
そのことを口にしようとしたとき、携帯の着メロが鳴った。石川のものではない。
吉澤がコートのポケットを探り、つや消し黒の折り畳みを手に取っていた。ボディの上端からは
フィギュアのアンパンマンのストラップが垂れて揺れている。
「あー、どした?」
――誰からだろ。やけに馴れた口調…。
――そうだ、この電話が終わったら、携帯の番号聞いとこう。
- 129 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時20分30秒
- そんなことを石川が思っていると、
「…どこ?」
急に吉澤の声が、心なしか張り詰めた感じを帯びた。それまでの“ほわん”とした表情も
雰囲気がすっかり変わって、急に大人びて見えた。
嫌な予感。どっか行っちゃうの?よっすぃー…。
「…………うん………うん、分かった、すぐ行く」
予感的中。
電話を切ると、「ごめん、急に用事入っちゃった」と、申し訳なさそうに席を立つ吉澤。
すでにコートを手に掛け、有無を言わさない勢いである。家の用事かなにかだろうか。
いずれにせよ、どうやら携帯の番号はお預けになりそうである。
しかし、急ぎつつも、財布を取り出して小銭を探っているのを見て、
「あ、いいよ、わたし、おごるから」と、石川はこうべを振る。
「でも…」
「昨日のばんそうこうのお礼。ほら、急ぐんでしょ? 行った行った」
と、追い払う手振り。笑みも浮かべているのは、もちろん強がりだ。
「じゃ、ご馳走になっとくね、ありがと。ジュースも美味しかったし。じゃあまたね」
バイバイと手を振りながら、吉澤は足早に店を出て行く。
- 130 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時21分22秒
- 自動ドアの硝子の向こうに吉澤の姿が消えると、
石川は席の向かいに半分ほど残ったミックスジュースのグラスを見詰める。
――『美味しかった』って、半分しか飲んでないじゃん…。
もの悲しそうに心のなかで呟く。
なんだか今日は、ちっとも仲よくなれた気がしなかった。本当はもっと仲よくなりたいと思っていたのに。
つまらない質問を浴びせるばかりで終わってしまった。
逆に言えば、こういう風にしか、まだわたしはよっすぃーと接することができないってコトなのかなぁ…。
今日訊いたことだって、親しくなれば、自然と分かってくるものだったのかもしれない。
ああ、つまらないことでせっかくのチャンスを棒に振ってしまった。
こういうときの石川は、際限なく自己嫌悪の海の底に沈んでいくのである。
向かいの席で、ミックスジュースの氷の重なりが溶けて緩み、
ささったままのストローがゆっくりと小さく揺れた。
- 131 名前:パート1-5 投稿日:2003年02月10日(月)10時22分00秒
- 「アタックあるのみよねッ」
朝っぱらから石川の気迫溢れる表情に、教室に入ってきたばかりの柴田は気圧されていた。
始業のチャイムまであと5分あまり。すでにほとんどの生徒が揃った教室は、
まだ全体が眠気を引きずっているような、ぼーっとした雰囲気をたたえているが、
そんななか、石川だけが妙に元気だった。
柴田は鞄を机の横に引っ掛け、コートの袖から腕を抜きながら、
「なにがよぅ?」
「だからー、振り向いてもらうためには、こっちから仕掛けないとね」
「あ…ああ、そうね、そうかもね」
そういうことか、と、柴田はようやく要領を得る。石川はときどき、
自分が抱いているものは相手も抱いていると思い込む、
そそっかしいところがあるのだ。特に、こんな風に想いの勢いに任せているときは。
こういうハイテンションのときの石川には逆らわないほうがいい。それは長年親友をやっている柴田が、
石川について最も理解していることのひとつだった。
- 132 名前:パート1-5 投稿日:2003年02月10日(月)10時22分43秒
- ようやく椅子に腰掛けると、
「それでね、仕掛けようと思うの」
「仕掛ける?」
柴田が聞き返すと、急に目の前で猫だましのように平手がぴしゃりと合わせられる。ちょっとびっくりして、
目を瞬かせる。頼むから、もうちょっと低血圧になってくれ、と思う。
「ごめん! しばちゃんっ」
深々と石川が頭を垂れていた。
「な…――もー、なんなのよ、いったい」
わけが分からず、柴田は眉をハの字にする。
石川は自分の考えを話した。約束していた後藤真希のコンサートはナシにして欲しい、と。
「え? なんで?」
特に後藤真希自体には興味のない柴田は、別段しょげることもなく尋ねた。
「よっすぃーを誘おうかと思って」
コンサートに行けば、後藤真希のファンになるかもしれない。そうなれば、共通の話題ができ、
話す機会も増え、もっと親しくなれるかもしれない。昨夜、じっくりと熟慮を重ねた結果、
そんなアイディアに思い至ったのだという。
「あー、いいんじゃないの?」
「怒ってない? しばちゃん」
「怒ってないよ。なんで? わたし、そんな怖い顔になってる?」
「ううん、なってないけど、でも、ほら、せっかくの約束だったのに…」
- 133 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時24分46秒
- 「怒ってないったら。だいたい、梨華ちゃんがわたしを無理やり連れて行く、とか言ってただけだし。
あー、あと、これは確認なんだけど、梨華ちゃんのなかでは、よっすぃー>しばた、ということでいいのね?」
石川は、机の上に何気にあった柴田の手を両手でぎゅっと握り締めて、ふるふると振る。
「やっぱり怒ってるじゃんー!」
「あはははは。ホント、怒ってないったら」
「ホント?」
「うん。怒ってないよ」と、柴田は頷くと、「ただ、コンサートの日、空けとかなきゃ、って思って、
その日、家族で計画してた温泉旅行、わたしだけ行かないことになってるんだよね」
「うそっ!」
発した石川の表情が、この世の終わりに臨んだようなものになる。
しかし柴田はあっさりと、「うー、そ」と言いつつ、
懐からデジカメを素早く取り出して、眉尾の下がりきった石川の悲痛な表情をかちり。
「もおおおおお!!」
「梨華ちゃん、がんばりなよ」と、柴田は微笑んだ。
すると石川の顔つきは、次の瞬間には
お花畑を駆け巡っているようなものになる。ほとんど機械仕掛けの百面相。
- 134 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時25分16秒
- 「ありがとしばちゃん。わたし、しばちゃんに会えて、本当によかった…親友に乾杯!」
再び手が握り締められる。まるで今生の別れだ。おいおい…と、柴田は苦笑い。
「『仕掛けようと思うの…』だなんて言うから、いったいなにかと思うじゃない。
なんか、国家機密でも話すみたいだったからさ」
と、柴田はわざわざ石川の口ぶりまで真似してみせる。
「こんなアホなコが国家機密なんて知るわけないじゃん」
と、石川は自分のこめかみを指差して、からからと笑った。
「国家機密といえばさ――いや、国家機密とはあんま関係ないか、
昨日、ウチの近所に軍のトラックが急にやって来て、なんか、不発弾が見つかったとかで。
そのあたりの道路とかぜんぶ封鎖されてね、けっこう人通りの多いトコだったから、
周りの道がめっちゃくちゃ渋滞してさ――」
と、そこからは、柴田が昨日、家族で外食した帰り道にその渋滞に巻き込まれ、
母親といっしょにひと足先に車を降りて徒歩で帰る羽目になり、
新品のヒールが靴擦れして酷い目に遭った、という話になった。
とにかく、これでチケットは確保したとして、
あと残すは吉澤の意思確認である(というか、むしろこれが最も重要)。
- 135 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時26分07秒
- ◇
昼休み、柔らかい冬の午後の光が差し込む教室脇の廊下には、決意を胸に秘めた石川の姿があった。
ふだんと違うのは、石川が立っている廊下が3階ではなく、
2年生の教室が並ぶ2階であるということだ。
――たしか、2年C組って言ってたよね…。
実は石川は、2年のときC組であった。だから、かつて毎日いた教室なのだが、
息を殺してまで通り過ぎるふりをして、その瞬間、教室の後ろのドアからちらっと覗くと、
そこにいるコたちの顔はまったく知らないし、部屋の雰囲気もまるで違う。当たり前のことだ。
しかし、まったく見知らぬ学級というのは、
なんだか少し怖いものである。学年まで違うとなると、なおさらだ。
クラスにはそれぞれの雰囲気というものがある。傍から見ればどれも似たようなものかもしれないが、
本人にしてみれば、一歩足を踏み入れた途端に違和感を肌で感じるのだ。
せめて軟式テニス部の後輩がいれば、話の取っ掛かりもありそうなものだが、
あいにくC組にはテニス部員はいないことは、すでに部員の名簿で分かっていた。
- 136 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時26分51秒
- 柴田には「付いて来て」と切実に頼んだが、断られた。石川は、友達なのにひどい、と情に訴えたが、
いっしょにライブに行く約束を一方的にほごにしておきながら、
そのチケットをほかのコに渡すのについて来てくれ、というほうが、あんまりというものだ。
通り過ぎて、前のドアからもちらっと覗く。そのまましばらく行ったところでくるりと向きを変え、
また前のドア、そしてまた後ろのドアから、ちらちらと部屋の様子を窺う。
相当に挙動不審である。例えば真夜中にどこかの家の前でそんな行動を取っていたら、
通りがかりの警官に職務質問されるのは必至だ。
――すでに、いちどはいっしょにお茶した間柄じゃない。
――「ライブなんか、誘っちゃったりなんかしてー♪」みたいなノリで、気軽に誘えばいい。
そんな風に自分で自分の背中を押す一方で、
――で、でも、あんまり軽いやつみたく見られんのもヤだなー。
と、弱気で内気な自分に対する言い訳めいたことも考えたりしていた。
教室の前を何往復しただろうか、昼休みだけが着実に残り少なくなってくる。ブレザーの胸ポケットには、
ライブのチケットが忍ばせてあった。
- 137 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時27分21秒
- 「あのう――」と、背後からいきなり話し掛けられた。反射的に背筋が一斉に総毛立つ。
振り返ると、C組の生徒のひとりがドアの傍に立ち、
石川のほうを見ていた。ポニーテールで髪を束ねたおとなしそうな生徒だ。
「なんかご用ですか? 3年生の方ですよね?」
生徒は石川の胸ポケットにある学年証のバッジに目を留めて言った。
――見つかっちゃった…!
まったく、『見つかっちゃった』どころではない。
ともかく腹を括り、石川はその生徒に近寄って尋ねてみる。
「吉澤さんっている? あの、こないだ転校してきたっていう…」
同時に、視線をその生徒の肩越しに教室のなかに走らせる。しかし、
昼休みも半ばを過ぎたあたりでまばらな教室には、吉澤の姿はなさそうだった。
「あぁ」と、生徒は頷き、「あのコなら――」と言いかけたところで俯き加減になり、
クスクスと笑いを漏らす。
――なんかわたし、笑われてるっ?!
いくらなんでも考えすぎである。
――! もしかしてわたしの覚え違いで、C組じゃなかった、とかっ?!
石川は平静を装いつつ訊き返す。「え? わたし、なんかヘンなコト言った?」
- 138 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時27分52秒
- 「――あぁ、すみません、先輩」と、その生徒は笑いをこらえつつ、答えた。
「いえ、あの、先輩で4人目なんですよ」
「4人目?」
「吉澤さんを訪ねてくるの、先輩ですでに4人目、ってことです」
ようやく石川は理解した。と、同時に焦燥感が胸を焦がす。
――なんだってーーーっ!! 出遅れたっ! 完ッ全に出遅れたっ!
「そうなんだ?!」
後輩の手前、おちけつ、いや、落ち着けと自分に言い聞かせるが、声は上ずってしまう。
「同学年と下級生が多いですね。っていうか、3年生の先輩は初めてかな」
――年下キラーか。ちなみにひとつ年上のわたしも、見事に「殺されて」しまったけど。
決め付けもいいところである。
「それで、吉澤さんになにか用ですか?」
「あ、ううん、よっすぃーいなきゃ、べつにいいんだけど」
ちょっとホッとした自分がいた。だが、こんどは生徒が尋ね返した。
「よっすぃー?」
「うん、あだ名。誰かよっすぃーって呼んでない?」
「…そうなんだ? 知らなかったです。あー、吉澤さんなら、昼休みはいつも屋上にいるって話ですけど」
ありがとう、と礼を言って、教室を後にする。
- 139 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時28分22秒
- 廊下を歩きながら、石川の心中は少し複雑だった。
――そっか。そりゃモテるよね、カッコいいもんね。
でも――と、石川は足を止め、向かいの校舎の屋上を見上げた。
何年も前に飛び降りがあったとかで張られたフェンス越しに、
人影があるのに気づく。スカートの裾が小さくはためいている。
制服の後ろ姿だったが、すでに何度もそのコの形をまぶたの裏に焼き付けている石川にとって、
確信に至るのは、いともた易いことだった。
ただ、その小さな人影は、背中に背負った、どこまでも青く高い空の重さに耐えているように見えた。
「友達――」小さく呟いたあと、なんとなく心のなかで続けた。
――いないのかな…。
フロアがあるのは新聞部の部室がある5階までだ。そこからさらに階段を上ると、
屋上に通じる鉄製のドアに突き当たる。ここに来るのは、
中学校に上がった頃に柴田といっしょに放課後のちょっとした校内探検をして以来だった。
重いドアを開けると、眩しい外の光が石川を照らした。じんと目の奥が沁みる。
すぐに視界を取り戻すと、すでに吉澤の姿はなかった。
- 140 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時28分58秒
- 屋上の端、フェンスに向かって歩いて行く。そして、さっき吉澤がいたあたりで立ち止まると、
なんとなく、同じようにフェンスに背中をもたれ掛けさせてみた。
まるで、残像に自分の身体を重ねるように。
ポケットからチケットを取り出した。
「後藤真希ファーストコンサートツアー2003」とプリントされた地味なチケットが、
穏やかな風のなかで小さくはためく。
「よっすぃー…」
まぶたを伏せて、呟いてみる。それだけで、身体のなかを、緑にきらきらと輝く風が吹き渡っていく。
ややあって、予鈴が鳴った。
- 141 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時30分05秒
- ◇
テニス部に入った頃、石川には想いを寄せる先輩がいた。練習のときはいつも目で追っていた。
先輩が飲んだあとのスポーツドリンクの缶に口づけしてみて、どきどきしたこともあった。
練習後に立ち寄るもんじゃ焼き屋では、常に先輩の隣の席に座ろうと努力していた。
そんなある日、その先輩から告白された。
願ったり叶ったりのはずだった。
しかし石川はやんわりと拒んだ。なぜか、怖かったのだ。
先輩は「そっか」と微笑んでみせるだけだったが、その日のもんじゃ焼屋には、先輩の姿はなかった。
帰宅してから思い返し、なんてバカなことをしたんだろう、と、すぐに先輩に電話をした。
「やっぱりお付き合いすることにします」と告げた。
すると、先輩の答えはこうだった。「『やっぱり――』ってなに?」
電話口で泣き崩れながら、石川は、
「だったら、こんどはわたしのほうから言います。わたしと付き合ってください」
と、食い下がった。後々思い起こせば、これまで生きてきたなかで最もぶざまな思い出のひとつだ。
- 142 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時30分36秒
- 先輩が部活を引退したのは、それからすぐのことだ。
半年後、卒業の送別会の席で、先輩に花束を渡した。
「実は、電話をもらったとき、断ったこと、あとで後悔した」花束を胸に先輩は言った。
「なんか、上手くいきませんね」
「ホント」
「なかなかね」
「なんでだろうね」
「なんででしょうね」
先輩とはそれきりだ。
最初に告白されたとき、いったいなにが怖かったのか、なにが自分を押し留めていたのか、
いまでもよく分からない。
- 143 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時31分10秒
放課後、校門のそばで待ってみた。
幸い、雪が降った日の午後からずっと、穏やかな気候が続いていた。春はまだ遠いが、
コートがなくてもいいほどの陽気だ。
下校する生徒のなかには、なにしてるんだろ、という好奇の視線を向けるものもいたが、
石川は気にしなかった。ちょっと走ってみようと、こんどは走り抜けてやろうと、思った。
しかし、結局その日は吉澤と顔を合わせることはなかった。
たとえば、休み時間に2-Cの教室を訪れるのは最も確実に思えたが、それは同時に、
下級生たちの噂の的になりそうだった。昨日、教室の前で吉澤の所在を尋ねたときの感触では、
どうやら吉澤は、まだクラスに馴染めていないのか、同級生たちから遠巻きにされているようだ。
すでに密かな噂になっているであろう、綺麗な顔立ちの転校生のもとに次々に訪れる、
ほかのクラスや学年の生徒たちのことは、退屈な学院生活のなかでは
格好のゴシップのネタを提供するだろう。会えるまでなんども通うことになれば、なおさらだ。
翌日、作戦を変えた。古典的だが最も効果的であろう手段――恋文である。
- 144 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時32分36秒
- 出席番号は柴田の協力で簡単に分かった。朝、いつもよりも早めに登校すると、吉澤の靴箱を探し出し、
手紙を差し入れた。差し入れるとき、なんら迷いはなかった。前日の夜に自分の部屋で、
試験勉強のときとは比べものにならないほど悩み抜いて書いた手紙には、
石川の気持ちを簡潔に伝える文面と石川の携帯の番号が書かれ、封筒にはライブのチケットを同封してある。
翌日になっても吉澤からの電話はなかった。その次の日も。
- 145 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時33分09秒
- 柴田は「残念会がてら、なんか美味しいもの食べに行こう」と、机の上にHANAKOを広げたが、
まだ分かんないもんっ、と、石川は頑なにそっぽを向いた。
「もうそれ以上のめり込まないほうがいいと思うけど、という柴田の忠告にも耳を貸さない。
時間を追うごとに込み上げてくる不安と戦うことで精一杯だった。
事が決定的になる前に先回りして諦めてしまえ、という嫌な誘惑が常に付きまとっていた。
それは精神的な防御反応かもしれない。熱くなるほどに、
結果がよくなかったときの傷は深くなるものである。
帰っては、吉澤の顔写真のプリントを見て、ときにはそっとキスし、
頭のなかではいっしょにデートを楽しんだりして、想いを挫こうとする不安に打ち勝とうとした。
- 146 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時33分43秒
- 手紙を靴箱に入れて3日目の放課後、日直だった石川は日誌を職員室に届けるところだった。
すでに校舎内に残る生徒もまばらで、静けさに包まれている。
高い窓から差し込んだ夕日が透き通ったオレンジ色の柱となって落ちている階段で、
ちょうど昇ってくる吉澤とばったり出会ったのだ。
さすがに3日目ともなると、半ば諦めモードだった。
もしかしたら、足を踏み出さなかったほうがよかったかもしれない、と。
そうすれば、こんなに切なくて苦しい思いをしなくて済んだのだ、と。
とても見たい顔だったはずなのに、石川は気まずさのあまり、視線をとっさに逸らしてしまう。
結局、声を掛けてきたのは吉澤のほうだった。
「あ、梨華ちゃん、久しぶり」
なんら悪びれるところのない、屈託のない口ぶりだった。吉澤が階段の半ばで足を止める。
オレンジ色の四角い柱が吉澤の顔を眩しく照らし、髪を明るい栗色に染めていた。
- 147 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時34分14秒
- 自然、石川もそのそばで足を止め、
「あぁ、うん、久しぶりだね、よっすぃー」
「どうかしたの?」
逆光になっているせいか、顔色を覗き込むように吉澤は訊いた。
「え?」
「なんかこう、元気なさそうだし。なんかあった?」
「ええっ?」
「その、“ええっ?”ってのは、なに?」
不可解な石川のリアクションに、吉澤はおかしそうに笑う。
「わたしの手紙…」
なんと言っていいか分からない。もし、手紙を目にしてなお、
こんな風にふつうの態度を取っているとしたら、吉澤はとんでもない「たらし」だと思った。
しかし、「手紙、って?」と、きょとんとした面持ちの吉澤である。予想外のリアクション。
「読んでないの?!」
「え? 手紙なんて貰ったっけ?」
吉澤は視線を足元に落とし、眉を深く潜める。
ひとつの可能性が石川の脳裏に浮かんだ。それは、とんでもなく間抜けなミスである。
恐る恐る、尋ねてみる。
「よっすぃー、ってさ、出席番号44番だよね?」
年度初頭以外に入ってきた転校生の出席番号は、いちばん最後になる、というのは柴田から聞いていた。
44番というのに間違いはないと思うが、念のためだ。
「うん、44だよ。でも、なんで?」
- 148 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時34分46秒
- それは石川にとって、絶望の呪文のようだった。聞いた途端、まるで足元から吸い取られるように、
力がヘタヘタと抜ける。石川はその場で卒倒しそうになるのを、
辛うじて手すりにしがみ付くようにしてこらえた。
「ちょっとちょっと、ワケ分かんないんだけど、なんなの?」
番号には間違いはない。すると、残った可能性はひとつ――きっと、ほかの靴箱に入れちゃったんだ。
靴箱はひとつひとつに扉があって、その表に出席番号のシールを扉に貼ることになっているが、実のところ、
わざわざ貼っている生徒はいない。だから石川は、2年C組の靴箱を最初から順番に数えていき、
44番目の靴箱に手紙を入れておいたのだ。たぶんそのとき、数え間違ったのだろう。
他ならない自分のミスだ。そそっかしい、とは柴田にもよく言われるが、ここ一番というときに一生の不覚。
- 149 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時35分24秒
- 石川はすぐに思い浮かべた。
朝、学校に来ると、黒板に手紙が貼り出されていて、みんなの笑いものになっている自分を。
いや、黒板ならクラスだけの笑いものだが、正門から靴箱に続く道の途中にある掲示板に
貼り出されたりして、その周りに人垣ができていたりして、そうなると、学校中の笑いものである。
「見た? アレ」「見た見た、3年の石川先輩のラブレターでしょ?」「いまどきラブレターだって」
「ダッサーい」「C組の吉澤さんのことが好きなんだって」「へええ、石川さんって面食いなんだ?」
終わった…わたしの青春…。
影で囁かれる噂とともに、転がる坂道まっしぐら。ああぁぁぁ、もう学校には来られない。
退学? いや、あと少しで卒業じゃないの。ああ、学生にも有給ってあったらいいのに。
いや、もともとお給料なんてないんだから、有給もなにもないか。
じゃあ、有出席休暇? 出席なのに、休暇。ははっ、なんかおかしい。
…ええと、なんの話だっけ?
「ねえ、ったら」
吉澤に肩を叩かれて、半ばトリップ――あるいは、過剰な現実逃避――していたところを
ぐいと引き戻される。
- 150 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時35分57秒
- 石川の視線が焦点をようやく結んだのを見て、吉澤はふたたび、「いったいなにがあったの?」
「あの、ね――」と、石川はそのまま腕が落っこちそうなほどに肩を落としたまま、力なく口を開いた。
「靴箱に、ね、よっすぃーの靴箱に、手紙を入れたの」
「え? なんの手紙?」
石川はそれには答えず、「なんかね、違う靴箱に入れちゃったみたい…」
「いつ、入れたの?」
「3日前。はは…なんか間抜けだよね、わたし…」
吉澤はしばらく視線を落とし、なにか考えあぐねているようだった。
放課後の生徒たちの楽しそうな笑い声が遥かに聞こえた。
やがて、ふいー、と、前髪を吹き上げると、吉澤は言った。
「多分ね、それ……言いにくいんだけど、読まずに捨てちゃったと思う」
予想外の、さらに予想外の展開。さすがに石川は怪訝な表情になって、
「それって、どういうこと?」
「朝、来たら、靴箱に手紙、いつも入っててさ」
「いつも…?」
よく分からない。話が見えない。
「うん、だいたいここ数日、毎日2、3通は。こないだは5通だった」
「それってもしかして、ぜんぶラブレター…?」
見えない恋敵の存在に、新たな不安感を募らせながら、石川は尋ねる。
- 151 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時36分47秒
- 「うん…だいたいはね。でも、それだけじゃなくて…コレ、見て」
と、吉澤は人差し指の腹を、石川の目の前に掲げて見せた。ばんそうこうが巻かれていた。
「ときどきね、剃刀が仕込まれててさ」
「剃刀?! なんでそんなこと?!」石川は驚きに目を瞬かせる。
「分かんないけど…でも、なんとなく、分かるような気もするけど」
と、吉澤はシニカルな、どこか寂しそうな笑みを浮かべた。
吉澤が言うには、前の学校でも同じようなことがあったという。
朝、ときどき靴箱に入っている手紙。最初はそれらをきちんと1通1通読んでいた。
たいていはラブレターなのだが、そのうち、剃刀が封に仕込まれたものや、
封筒のなかに手紙はなく、代わりに妙な白い粉だけが入っているだけのものが混じるようになった。
それが何度目かになると、もはや手紙を開けるのも嫌になり、読まずに捨てるようになった。
そのせいで、たとえ誰かに恨まれたとしても、嫌なものは嫌だった。
この学院に転校してからも、朝、靴箱に入っている手紙を見て、同じだ、と思った。
試しにいくつか開けてみると、うち1通はやはり不愉快なもので、
石川に見せたように、人差し指にざっくりと傷を作る羽目になった。
- 152 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時37分33秒
- 石川には、わざわざ嫌がらせの手紙を入れる気持ちも神経も分からない。
しかし、それによって吉澤がどんなに嫌な気持ちになり、
手紙を捨てるといった行為に至ったかは理解できた。
もし自分が同じ立場なら、やはり手紙が入っているのを見るのも嫌になるかもしれない。
「じゃあ、わたしの手紙も捨てちゃった、んだ…?」
「どんな封筒だったの?」
「薄い黄色で、表に“吉澤ひとみさま”って書いてあるやつ」
「黄色…なんとなく覚えがあるなぁ。ごめん、うち、きっと捨てちゃったよ…」
捨てたのは、吉澤が手紙を入れた3日前の朝――石川が靴箱に入れた手紙は、
その1時間後にはゴミ箱に入っていたことになる。
しかし、待てよ、と、石川は思い当たる。
学院の燃えるゴミは1ヶ所の焼却炉に集められ、
週に2度、夕方に用務員が火を入れて処理されることになっている。
そして今日はちょうど焼却日だ。
石川は思い至ったとき、すでに足は階段を駆け下り始めていた。「梨華ちゃんっ?」と、
吉澤の声が追ってくるが、振り返らなかった。
――お願い、間に合って!
そう念じていた。
- 153 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時38分17秒
30分後、夕闇がすっかり包んだ校庭の片隅、焼却炉の脇で、
ゴミに埋もれている石川の姿があった。
石川がここに駆けつけたとき、初老の用務員がまさに火を入れようとしているところだった。
待ってください。だいじなものを間違って捨てちゃったんです。探させてください。
校庭の端まで全力疾走してきた直後で、息も絶え絶えにそうお願いすると、
用務員は、それなら、と気さくに言って、焼却を明日に伸ばしてくれたのだった。
焼却炉の扉を全開にして、なかのゴミを引っ張り出した。
潰れたダンボール箱、くしゃくしゃにされたプリント、使ったあとのティッシュ、紙くず、などなど、
さまざまなものが石川の足元に広がった。
脱いだブレザーを校庭のフェンス脇の少し草が繁った場所に畳んで置き、ブラウスを腕まくりして、
石川は作業を始めた。
「梨華ちゃん」
不意に声を掛けられた。顔を上げると、吉澤の姿があった。
「探した。急に走って行っちゃうから、何事かと思ったよ」
「ああ、ごめんね。でも、よっすぃーは帰って。もう遅いし」
そう言って、再び作業に戻る。
- 154 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時38分56秒
- しかし、吉澤はその場に留まって、尋ねた。
「手紙、探してるの?」
「うん」手を休めずに、俯いたままで石川は言った。
「ごめん、捨てちゃって…」
沈んだ声の吉澤に、
「べつに悪気があったわけじゃないでしょう?」
「そうだけど…」
ちょうど校庭でハードルの練習をしていた陸上部員たちが様子をちらりと窺っているが、
石川は構わず、ゴミのなかを探り続ける。
「で、結局それは、なんの手紙だったの?」
「…いっしょに、コンサートに行かないかな、って、チケットを入れておいたの。
なかなかよっすぃーと会えないし、手紙なら確実だな、って。
それに、ごっちんの…後藤真希のCD、貸して欲しいって言ってたでしょ?
でも、どうせなら生歌のほうがいいかな、って思って」
「ねえ…ライブなら、またこんど、いっしょに行こう。ね?
お詫びに、次はうちが誘うから。もう暗くなってきたしさ」
「んー……でも、探したいの」
「そんなに後藤真希が好きなの?」
「え?」
「だって、そんなに一生懸命だからさ」
「ううん、違う。そんなんじゃないの。あ、でも、ちょっとはそういうのもあるかな…」
あなたのことが好きだから。
そして、こんどは少しも譲りたくないから。
- 155 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時40分25秒
- 会話が途切れてからややあって、気づくとそこに吉澤の姿はすでになかった。
しかし、石川は気落ちすることなく作業を続ける。日が落ちてから、さすがに風が冷たくなってきたものの、
石川の額は汗で光っていた。
がちん、と重い音とともに、すでに薄暗くなった視界が急に明るくなった。
高いフェンスの天辺のあちこちに設置された校庭の照明が点いたのだ。次々に照明は点いて、
校庭全体を白く浮かび上がらせる。
そこで石川は、吉澤が再びそばに立っていることに気づいた。
「あれ?」石川は鼻の頭に浮いた汗の粒をハンカチで拭くと、少し驚いて言った。「帰ってなかったの?」
吉澤は答える代わりにひと組の軍手を石川に差し出した。吉澤の両手には、すでに軍手がはめられている。
- 156 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時44分09秒
- それからふたりで手紙を探し始めて10分ほどが過ぎた頃、
吉澤が「ねえ、これかな?」と取り上げたものが、石川の手紙だった。
作業を中断して石川はそれを認めると、「ああっ! それ! それよ!」と、声を上げて駆け寄る。
吉澤が「開けてもいい?」と、封に爪を立てようとすると、
「あ――待って!」
手紙を吉澤から受け取ると、封を切り、なかからチケットだけを取り出した。
「来週の日曜日。どう? 行かない?」
「…行く。行くよ」
笑顔になった吉澤の手が、差し出されたチケットを受け取る。
「チケットだけ?」
吉澤は尋ねた。封筒はすでに、石川のスカートのポケットに突っ込まれてしまっていた。
さすがに目の前でラブレターを読まれるのには耐えられないと思った。
- 157 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時44分57秒
- 「ああ、うん。あと、携帯の番号書いたメモとね」
走りきってやるんだ、という決意はあったものの、こういう状況はさすがに想定していなかった。
しかし、告白できないことに、どこかホッとしている自分もいた。もうちょっと、よく知り合ってからでも
遅くない、と、またしてもモラトリアムぶりを如何なく発揮してしまう石川なのだった。
「そっだ、いま教えてといてもらおうかな、携帯の番号」
「いいよ」と、吉澤は気さくに番号を教えた。
石川は携帯を取り出し、教えてもらった番号に電話する。
吉澤のブレザーのポケットで携帯が着メロを奏でた。これで、番号の交換が成立。
「もしもし、吉澤ですけどー」
「あ、石川です」
お互い手を伸ばせば届くところにいるのにわざわざ携帯で話しているのがなんだかおかしくて、
ふたりとも笑ってしまう。
「ねえ、アンパンマン好きなの?」
ストラップのみならず、着メロがアンパンマンのテーマ曲だった。
「ああ、うん。好きだよ。可愛いじゃん。ヘンかな?」気恥ずかしそうに電話越しに吉澤が言うと、
「ううん、よっすぃーとアンパンマンっていう意外性が素敵」
「意外性かぁ」と、吉澤は嬉しそうに笑う。
- 158 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時45分42秒
- 携帯を切って、「じゃ、後片付けして、早く帰ろ」石川は言った。
見上げるとすっかり夜空が広がっていて、
ふたりの周りには、焼却炉の空いた扉から雪崩のようにゴミが流れ出し、広がっていた。
せっせと大きなものから拾い上げ、焼却炉に放り込んでいく。
「よっすぃー」手を動かしながら石川が話し掛けた。
「なに?」と、吉澤も手を休めずに答える。
「手伝ってくれて、ありがとね…」
「なぁに。いいってことよ」
「よっすぃー、オトコマエだよ」
「へへっ」
照明でくっきりしたコントラストで浮かんだ、その吉澤の照れ臭そうな笑顔は、
柔らかで可愛くて素敵で、
あーもう、ちくしょー、好きだよー、と石川は思わずにはいられなかった。
- 159 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時46分27秒
家に帰ってから、自分の部屋でババシャツに着替えると、
石川はスカートのポケットから渡せなかった手紙を取り出した。
ベッドにごろりとして、手紙を広げてみる。
Dear よっすぃー
こないだはどうもでした すごく楽しかったです
あなたと会ってから わたしの生活は一変しました
ただし 目に見えてはなにも変わっていません
朝も昼も夜も、いつもあなたのことが、頭の片すみにあるのです
わたしは あなたのことがとても好きです
もしよかったら 同封したチケットのライブ いっしょに行ってください
石川梨華
P.S. 携帯の番号、書いとくね OKでもダメでもTELください
090-××××-○○○○だよーん
- 160 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時46分58秒
- 読んでいる途中ですでに吹き出してしまい、そこからは笑いが止まらなくなった。
「いやぁぁぁ、クサすぎる〜〜っ」
背中がこそばゆくなって、身体を打ち震わせて身悶えする。
「あり得ないぃ〜〜」
固い文章は、書いたときの肩の力の入り具合そのままだ。文才がないのは分かっていたが、
もし学校の掲示板にでも貼り出されていたら、やはり間違いなく青春が終わるところだった。
よく言われる、真夜中に書くラブレターは恐ろしい、というのは、どうやら真実のようである。
枕に顔を埋めると、頬が上気しているのがよく分かった。さらに耳を押し当てると、
耳たぶの表面にひんやりした感じが広がる。それは妙に心地いいものだった。
よっすぃーのことが好きでいる自分が嬉しくて仕方がない。
- 161 名前: 投稿日:2003年02月10日(月)10時48分09秒
- 予定量オーバーのため、予告よりちょっと遅れましたが、今回の更新は以上で。
次回更新まで、ちょっと空くかもしれません。次回こそ、物語を進められますように…。
- 162 名前:名無し 投稿日:2003年02月10日(月)10時49分47秒
- >>107
「能力系」は、実は読むのも苦手なので、あえて書いてみようと思いました。
タイトルはいつも、ふと浮かんだ、適当に座りのいい言葉を据えています。
最終的にストーリーに関係なかったらごめんなさい(笑
>>108 >>109
スレ違い…かな? できれば、スレッドのageかsageかは見てカキコしたほうがよいと思われますよー。
でも、読んでくださっていたなら、どうもありがとう。ごっちん、あんまり出ないけど、、
- 163 名前:名無し 投稿日:2003年02月10日(月)10時51分44秒
- >>110
話のバランスとか整合性よりも、書いていて楽しいかどうかを大切にして、
奔放にユルーく書いていきたいと思っています。
それが、他の方にも楽しんでもらえるというのは、とても嬉しいことです。
- 164 名前:うらら〜 投稿日:2003年02月10日(月)23時43分42秒
- 題名からよっすぃの海賊姿が目に浮かんだんですが、
なるほど。こうきましたか。
しかし面白いです。楽しみにしています。
- 165 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月11日(火)00時55分39秒
- ふむふむ。おもしろいです。よきかなよきかな。
なんとなく、この話の石と吉のイメージが自分的に二年前です。
ちょっと嬉しい。あの頃のいしよし好きだから(w
- 166 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月13日(木)02時48分03秒
- 今日一気にここまで読ませていただきました。
すごく面白いです。爽やかないしよし、イイですねぇ。
冒頭にチラっと出た飯田さんとは何があったのか・・
そしてよっすぃ〜自身の能力は何なのか、この先の展開が楽しみです。
- 167 名前:パート1-6 投稿日:2003年02月13日(木)10時55分49秒
- 「キショいってば」
両手で頬杖を突いて、柴田は言った。
「えー?」
「だからぁ、キショいって言ってんの」
「わたし?」と、石川は自分の顔を指差した。
「梨華ちゃんに言ってんのよ」
石川は両手を挙げ、「なんでー? わたし、なにも言ってないし、なんもしてないよ」
「なにも言ってなくてもしてなくても、キショい」
「ちょっと待って。しっっつれいねー、なにが…わたしのどこがキショいのぉ?」
柴田は白い目で石川を見詰め、ぼそっと呟く。
「…全体的に」
「ちょ…っ、ちょっと待ってってば。そんな漠然とした指摘ってアリ?!」
休み時間の教室を満たすざわめきのなかでも、石川のいつもにも増して甲高い声は、
頭ひとつ飛び抜けて響いた。先ほど終わった生物の講義での板書を消している日直の生徒が、
何事かと石川たちの座席をちらと振り返る。
- 168 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)10時56分55秒
- 「だぁって、そうとしか言えないもん。朝からずーっとニヤニヤニヤニヤしてさぁ」
柴田が眉間に皺を寄せ、うんざりした風に言った。
「えー? そーお? ニヤニヤしてるぅ?」
皮肉ったつもりが、当の本人はさらに気持ちよさそうに表情が緩むものだから、
柴田ががっくりと肩を落とすのも無理はなかった。
「で、なんでニヤニヤしてるかって気にならない?」
石川の期待混じりの嬉しそうな口調。訊いて欲しくて仕方がないようだ。
「べつにー」
さも関心なさげに柴田は突き放す。
「そんなこと言わずにさー、ねーねー」
「訊かなくても分かるって」と、柴田は聞こえよがしに溜め息をついた。「どうせよっすぃー絡みでしょ。
いっしょにライブ行けることになった、とか?」
「えーっ、すごい! なんで分かるの?」
すると柴田はそれには答えず、急にお嬢様口調になって、
「ときに石川さんは、お次のお時間のお数学、ちゃんとお宿題やっていらしたのかしら?」
- 169 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)10時57分33秒
- 「お数学?――!!!!! そっか、次の時間、数学に入れ替わったんだったっ!」
柴田はしてやったりという風ににんまりとなって、真っ青になった石川の顔を見遣った。耳を澄ませば、
血の気が失せていく音が、今にもありありと聞こえてきそうだ。
「しばちゃん…」
急にしおらしくなった石川の声にも、柴田は「さーて、と」と、読みかけの文庫本を机の下から取り出して、
しおりを挟んだページを開くだけだ。
身を乗り出し、文庫本に落とした視線に割って入って顔色を窺うように、
「しーばー、ちゃん」と猫なで声を発する石川に、やれやれ、と肩をすくめ、
黙って鞄からノートを差し出す柴田なのだった。
- 170 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)10時58分05秒
さらに昼休みになると、いつもの石川なら、後ろの柴田の机に自分の椅子の向きをひっくり返し、
“ママ”お手製の弁当を広げるところなのだが、今日は違った。
ひとりで弁当を机に広げる柴田に、たまたまそばを通りがかったクラスメートが尋ねた。
「あれー? 柴田、今日ひとり? 石川は?」
「あぁ、あのコなら――」と、柴田は、前の石川の席へと視線を遣った。「ちょっと用事だってさ」
昨日の帰り道、吉澤が独り暮しだということを聞いて、自分のぶんと吉澤のぶんのお弁当を
早起きして自作してきたのだという。吉澤はいつも屋上で売店のパンを食べているらしいから、
今から行ってくるというのだ。
柴田も、「わたしも行く」と言うほど野暮ではない。結局その日はひとり教室に取り残されることになった。
箸を止め、「そんなにいいかなぁ、このコ…」と、デジカメのメモリーから吉澤の写真のデータを呼び出し、
小首を傾げた。
そもそも、「このチケットどうしたの?」と吉澤に訊かれ、
石川が「友達が急に用事で行けなくなっちゃって」と説明したことも、少しだけ気に入らないのである。
- 171 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)10時58分54秒
- 「えーっ?! ホントに作ってきてくれたんだ?!」
屋上にやって来た吉澤は、石川が懐に抱いたものを見て、開口一番言った。
「あーっ!――」と、石川は唇を尖らせる。「信用してなかったの?」
吉澤の手には、パンやサンドウィッチが入った売店のビニール袋があった。
「もし作ってきてくれたら、すっごい儲けモノだと思ってたぐらいで。
まさかホントに作ってくるとは思ってなくて…」
屋上の端の段差になったところにフェンスを背に並んで腰掛けると、
吉澤は手渡された弁当を膝の上で広げ、風呂敷を解く。そこに姿を現したのは、
ピンクを基調にド派手な花柄をあしらった、しかしこぢんまりした弁当箱だった。
「ね? ね? 可愛いでしょ? 昨日、スーパーに寄って買って帰ったの」
傍からそう言われても、言葉に詰まってしまう。
「これは…すごいね…」
そう、ある意味すごい。なんら間違ったことは言っていない。
――プリティにも程がある…このコのセンスって…。
- 172 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)10時59分56秒
- 蓋を開けてみる。
「これもまた、すごいね…」
茫然と吉澤は呟いた。自然と無表情になっていた。
半分を占めるご飯の部分は、その上に敷き詰められたとき卵、さらにそこにはそぼろの茶色でハートマーク。
「将来の恋人のための練習?」吉澤が尋ねると、
「ああ、うん、そんなとこかな」と、もごもごと石川は答えた。
残り半分のおかずの部分に視線を転じると、ミートボールはまともだが、だし巻きは型崩れし、
ウィンナーはおそらくタコ崩れの断片群である。端に配置されたリンゴに至っては、
どう皮を剥いたらこんなに、と言うほどの切り身の小ささ。
しかし、せっかく作ってきてくれたのだ、とりあえずひと口運んでみる。
悪くない。ご飯もちゃんと炊けている。だが、首を傾げてしまうのは、
食べていると、なぜか、“郷”の家のトイレにあったピコレットと同じ匂いが仄かに広がる気がしたからだ。
- 173 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時00分28秒
- 「どう?」石川は期待感いっぱいの表情を浮かべ、感想を尋ねた。
「美味しいよ…」
心のなかでピコレットの匂いに蓋をしつつ、ぎこちない笑顔で吉澤は応える。
しかし、なにかが割り切れない。
――不味くはないんだけど…不味くはないんだけどさー……なんて言うか、微妙すぎる……。
石川も自分のぶんの弁当を広げ、口に運ぶと、「んー、美味しい」と、嬉しそうに声を弾ませる。
「けっこううまくできてるじゃん、わたしってば、すっごい」
なんのためらいもなく快調に箸が進む石川を見て、おかしいのはわたしのほうなんだろうか、と、
吉澤は思い悩む。
食べながら石川は、明日いっしょに行く後藤真希のライブについて語った。
今回のコンサートツアーは後藤真希にとって2回目だが、全国規模の大きなものは初めてだということ、
1回目の模様を収録したDVDを見て、ぜひ自分も行きたくなったこと、
歌にあわせた掛け声の決まりのようなものがあるらしいこと、などなど、事細かに話していった。
吉澤の箸がたびたび止まるのは、べつにピコレットの匂いのせいだけではなく、
熱心に語る石川の表情にどことなく吸い寄せられるものを感じていた、というところもあった。
- 174 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時00分59秒
- やがて、明日の待ち合わせの場所と時間を決めた頃、
「ごめん。美味しいけど、なんか、昨日からちょっとお腹の調子がさ」
「そうなんだ? ごめんね、無理に食べさせちゃったみたいで」
「ううん、美味しかったのに、こっちこそ残しちゃって」
みたい…ではなく、いや、それはともかく。
とりあえず、「これからは、こんな気ぃ遣わなくてもいいよ」と付け加え、
ご飯とおかず、それぞれ半分を超えたところで吉澤は申し訳なさそうに蓋を閉じた。
吉澤のぶんの弁当箱を受け取ると、石川は改めて向き直るようにして、視線をもじもじさせ、
「あの、ね、よっすぃー」
「なに?」
「その、さっきから気になってたんだけど、もうちょっとこう、女の子らしくね…」
「?」
「その足、どうかな、って」
吉澤の足は、チェック柄のスカートを豪快に大きく開いたまま、
弁当を膝の上に載せていた。正面から見れば、ショーツが丸見えである。
一方で石川は、一分の隙間もないほどぴったりと閉じて、靴の爪先まで揃えている。
- 175 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時01分30秒
- 「んー、べつに誰も見てないし、いいじゃん」
吉澤はわざと邪険に言って笑うが、石川は「そういう問題じゃなくて」と聞かず、
にっこり笑って吉澤の太腿の両端に手を添え、「はい」と、両足を閉じさせた。
しかしすぐに、石川の両手を外に押すようにして、足はぱかっと開いてしまう。
「はい」
ぱかっ。
「はい」
ぱかっ。
「はい」
しばらく、そんなじゃれ合いにも似た応酬がふたりの笑い声とともに続いたとき、
校内アナウンスのチャイムがふたりのあいだに割って入った。屋上にもスピーカーがあるため、
やけに耳に響く。
『2年C組の吉澤さん、職員室まで来るように』
“ぱかっ”のまま、「行かなきゃ」吉澤は言った。
「明日、こないだ言ってたライブだけど、どこで待ち合わせよっか」
「あー、またメールする」
「ん、分かった」
「じゃあ。お弁当、ありがとう」と言って小さく手を振り、吉澤はドアの向こうに消えた。
それから、わずかに残っていた弁当を平らげると、
石川はふたりぶんの弁当箱を風呂敷で包み、屋上を後にした。
- 176 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時02分18秒
- 屋上のドアを後ろ手に閉めると、階段の下に意外な生徒の姿があった。
「あ、こんにちは」
吉澤とゆっくりといっしょに過ごすことができて、すっかり上機嫌の石川は、朗らかに声を掛ける。
しかし、壁にもたれ掛かり、腕組みしたままの高橋はなにが気に入らないのか、「ども」と、
憮然とした表情で応えるだけだった。
「どうしたの? こんなトコで」
学院の中等部は、渡り廊下で結ばれた隣の校舎である。同じ制服だとは言え、
ネクタイは中等部のそれだし、やはり目立つはずである。
「石川さんに話があって、来ました」
「わたしに?」と言って、石川は階段を下り、高橋のそばまで行く。
高橋は真正面から石川を見据えて、「忠告です」
「忠告…?」
「これ以上、吉澤さんに近づかないほうがいいと思います」
青天のヘキレキとは、まさにこのことだ。思ってもみない言葉に、石川は戸惑いを感じずにはいられない。
「え…それって、あの、どういう――」
「吉澤さんと親しくなるのは、よくない、って言ってるんです」
- 177 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時02分50秒
- まるで小学生にものを諭すような口調で言われて、石川の声がさらに戸惑いを帯びた。
「あの…あなた、なに言ってるの? だいたい、急にそんなこと言われても、ワケ分かんないんだけど」
と、眉を潜める。
「ワケ分からなくてもいいです。とにかく、吉澤さんの周りを、
あんまりウロチョロしないほうがいいですよ」
あまりに理不尽で、ひどい言い草である。即座にカッティーン!ときた石川だったが、
すぐにその理由に思い至った。急に視線を細めると、したり顔で囁くように言った。
「あなた…よっすぃーのコト、好きなんだー?」
「いいえ違いますそんなんじゃないです」
準備していたかのような、自若した口調で高橋は応える。
「石川さんのためを思って言ってるんです。ヘンなことに巻き込みたくないんです」
「だってそうでしょ? そうじゃない? わたしとよっすぃーがいっしょにいるのが気に食わなくて、
そんなこと言いに来たんじゃないの?
だいたい、こんなトコにいるのも、わたしとよっすぃーのことが気になってたってことじゃないの?」
会話がまったく噛み合っていないが、ふたりの表情は真剣である。
- 178 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時03分21秒
- 「違います」
「ちょうど明日、よっすぃーといっしょにライブ行くの」
挑みかかるように言い放つ。そこでようやく、それまで泰然としていた高橋の表情に、
かすかに動揺が覗いた。視線がどこか落ち着きをなくしている。
「そんな回りくどいやり方しなくても、真っ向勝負したらいいじゃない」
「話にならないですね」
午後の授業開始5分前を告げる予鈴が校内に鳴り響く。そのさなかに、高橋は言った。
「もういいです。どうせ石川さんは、すべてが終われば、
わたしたちの――吉澤さんのことを忘れてしまうんですから」
その声は、べつに予鈴の音に負けじと大きくしようともしなかったために、
聞こえるか聞こえないかぐらいの危うさで石川の耳に届いた。
「どういう、コト…?」
尋ねると、高橋はハッとして、すぐに気まずそうにうつむいてしまう。
「ねえ、ちょっと、どういうコト? わたしが? 忘れちゃう、って?」
逃げるように高橋は階段を駆け下りていく。その背中に質問を浴びせるも、
足音は立ち止まることもなく階下へと消えていった。
- 179 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時04分18秒
もしかしたら――ここが最後の「分岐点」だったのかもしれない。
- 180 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時04分56秒
- ◇
その日の夕方、とある児童公園に高橋と吉澤の姿があった。
ふたりが住むマンションから歩いて10分余りという手ごろさであり、
高台にあるため別段ひと目に付くこともなく、
夕方になると、遊具や砂場で遊んでいた子供たちもいなくなって無人になるからちょうどいい、と、
吉澤が見つけてきた公園である。
ブランコ、象に見立てた滑り台、砂場があり、それらを囲むように適当な感覚で広葉樹が植えられている。
ここ数日、
ブランコの支柱の1本がぐにゃりと水飴のように曲がっていたり、
葉をすっかり落とした木々の枝の何本かが砕け散っていたり、
滑り台の象の鼻の一部がごっそりとえぐり取られたように欠けていたり
――といった不自然な変化がいたるところに見られていたが、
それらにいちいち気を留めるような感受性を持つ子供は、この界隈にはいなかった。
- 181 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時05分50秒
- 「だから、白い服はやめときな、って言ったのに」
腰に両手を当てたまま、吉澤は言った。
高橋が着ている白いニットの上着のあちこちが土埃のこげ茶色で汚れている。さらに、
夕方になって急激に冷え込んできたこの寒空の下、高橋のこめかみには幾すじもの汗が流れていた。
全身のいたるところから湯気がうっすらと立ち昇っている。息は絶え絶えで、立っているのも
おぼつかない様子である。
その一方で、30メートルほど離れて対峙する吉澤には、対照的に、一向に疲れの色は浮かんでおらず、
自分も白いセーターを着ていながら、全く汚れている様子はない。
- 182 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時06分22秒
- 高橋の回復を待つあいだ、前髪を吹き上げたりして時間を持て余していたが、やがて、
「今日はこれぐらいにしよっか」
あっさりと言って、歩み寄ってくる。
「ちょっと、待って、ください……まだやれ、ます」
手のひらをかざし、吉澤を制しようとするが、
「だって、ほら、息上がってるじゃん。そんなんじゃ、これ以上やってもしょーがないし。
いつだって『練習』相手になったげるから、とりあえず今日はこれでおしまい。
もうすっかり暗くなっちゃったしね」
すでに日は遥かに見える山の向こうに落ちており、黄昏の名残が空一面を焦がし、
公園に散在する電灯はナトリウムの黄色い光を灯している。
- 183 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時07分00秒
身体中の汗と汚れをシャワーで流したばかりの高橋が、バスタオルで頭をごしごししながらリビングに戻ってくると、
「あー、ちょうどいいタイミング」
エプロン姿で菜箸を手にした吉澤が、覗き込んでいた鍋から笑顔を上げて言った。
「うわぁ、美味しそーう」
高橋に笑みが広がる。
ローテーブルにホットプレートが置かれ、寄せ鍋ができていた。ぐらぐらと煮えた鍋のなかでは、
白菜やねぎ、しらたき、えのき、豆腐、ハマグリ、牡蠣肉、鶏肉が、いい具合にひしめき合っている。
今日は吉澤が夕食の当番である。引っ越してきた当初、わたしが毎日作ります、と高橋は申し出たが、
ここはフェアにいこう、と言う吉澤に従い、夕食は毎日交代で作ることになっていた。
1週間も経てば、共同生活の細々としたルールが自然とできてくる。早朝のゴミ出し、朝ご飯、
掃除、洗濯などなど。
本当は、もっと打ち解け合いたい、という気持ちもあったが、
誰よりも長い時間、吉澤と同じ空間で過ごしているのは自分なんだ、ということだけでも
充足感を得ることができた。これで、石川梨華の存在さえなければ、なんの不満もないのだけれど。
- 184 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時07分50秒
- 鍋の具の大半がふたりの胃袋に収まった頃、「あ、そうだ――」と、吉澤が切り出した。
「明日、あたし、ちょっと外出するから」
「どっか行くんですか?」
「うん、ちょっとね、友達にライブに誘われちゃってさ」
「…そうなんですか……」
見るからに高橋の表情と声が沈む。
「だーいじょうぶだって」と、吉澤は励ますように明るく言う。
「矢口さんには連絡してあるし、なんも心配いらないから」
すると高橋はきりっとして、「ひとりでも平気です」
誤解されているのが、すこし悲しかった。やっぱりこのひとは、
いつまでもわたしを「ちゃんと」見てくれないのだろうか。
「でも、やっぱ高橋ひとりだとさ――」
「大丈夫ですっ」
いつにない高橋の様子に、吉澤は怪訝な面持ちになって、「…なに意固地になってんのさ?」
「意固地になんて、なってませんけど…」
空気がにわかに気まずさを増した。ふたりのあいだを、煮汁が泡を立てる音だけがぐつぐつと満たした。
なんで不機嫌なんだろう。吉澤は思いながら箸を置き、日本茶をすすった。
- 185 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時08分59秒
- わずかに流れた沈黙を破ったのは、高橋のほうだ。
「ライブ、って、石川さんと行くんですね」
「あれっ? なんで知ってんの?」
「石川さんから聞きました」
「ああ、梨華ちゃんと会ったんだ?」
“梨華ちゃん”…。
「石川さんのこと、好きなんですか?」
「へっ?!」
ぶしつけな質問に吉澤は少なからず驚き、目をキョトンとさせた。
これまで高橋とは、まだ1週間足らずとはいえ、ひとつ屋根の下に暮らしていても、
互いの心中に踏み入るような会話をしたことがなかったから、なおさら、その唐突さは浮き彫りになる。
「だって…なんか最近、いっしょにいるトコ、よく見かけるし」
「べつに好きっていうんじゃないよ。さっきも言ったけど、ただの友達だよ」と、吉澤は苦笑い。
向こうはそうは思ってないみたいですけど――というひと言を呑み込んで、高橋は切り返した。
「そりゃ、そうですよね。どんなに親しくなったって、
いずれ、この街の誰もがわたしたちのことなんて忘れちゃうんですもんね。
そんな、誰かを好きになったってしょうがないですよね」
膝元に置かれたままの吉澤の手が、ぎゅっと握られる。しかし、そんなことに気づくはずもなく、
高橋は続けた。
- 186 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時09分42秒
- 「でも、親しくなりすぎるのは、やっぱりどうかな、って思います。親しくなりすぎても、
相手に迷惑掛かっちゃうかもしれないし……でも、迷惑掛かっちゃうようなことになったら、
石川さんも、わたしたちのことなんて簡単に忘れることになっちゃうんでしょうけど」
自分のことを一向に見てくれない吉澤に対し、不満をぶつけているのかもしれない。
そして高橋自身は、こういう形でしか苛立ちをぶつけられない自分がもどかしかった。
饒舌な高橋に口を挟むように、「今日はやけにしゃべるじゃん」吉澤は言った。乾いた声になった。
「…そうですか?」
吉澤の手が伸びて、ホットプレートの側面にあるスイッチを切った。鍋の泡立ちがしゅんと収まり、
湯気が急に白くなって天井に立ち昇る。
「今日の片付け、高橋だよね? あたし、シャワー浴びて、もう寝るわ」
床に就く時間にはまだ早いが、そう言って吉澤は席を立った。
高橋の位置からは、吉澤の俯いた表情はよく見えなかったが、その口ぶりはいつになく座っていて、
そこでようやく吉澤を怒らせてしまったことに気がついた。
- 187 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時12分44秒
- キッチンで洗い物をしながら、廊下の奥から聞こえてくるシャワーの音を耳にしているうちに、
そんなに石川さんのことが好きだったのかと思い、
悔しさ、後悔、切なさ、苛立ち…いくつもの感情が頭のなかでごった煮になって収拾がつかず、
流しのなかで、鍋の取り皿にしていた小さな一枚をつい割ってしまった。
シャワーの音が消え、寝室のドアが閉まる音が聞こえても、しばらくのあいだ、
高橋はテレビをぼんやりと見ていた。ドラマをやっていた。
箱のなかでは、CMでもよく見かける人気女優が目に涙を浮かべ、好きな男に向かって叫んでいた。
『なんで分かってくれないのよ! わたしのほうが、あの子よりもずっと、あなたのことを分かってるのにっ!』
身体はテレビのほうを向いているものの、いつしか、なにも見ず、なにも聞いていない自分に気づくと、
気だるそうに手元のリモコンを取り上げ、電源のスイッチを押す。ぶつんと黒くなったブラウン管の表面を
静電気の波がじんと広がって、そこに、ひとりソファに座る自分の姿が映し出された。
壁掛け時計が秒を刻む音だけが、ひっそりと部屋に這い上がってくる。
高橋はソファを立った。
- 188 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時13分17秒
- 寝室として使っている部屋は、窓から差し込む外のかすかな明かりだけで青く満ちていた。
10畳の間取りの両端にそれぞれのベッドは置かれている。それは実際にはほんの数歩の距離なのに、
果てしなく遠く思える。
吉澤は入り口に背を向ける体勢で布団をかぶっていた。
部屋の真ん中に立ったまま、高橋はしばらく話し掛けようかどうしようかと迷った挙句、
ようやく口を開いた。
「吉澤さん、まだ起きてます?」
ややあって、吉澤の肩が小さく動くと、「…起きてるよ」
「さっきは気に障るようなこと言って、すみませんでした…」
吉澤の身体が大きく身をよじらせ、寝返りを打つ。薄暗いなかに高橋の姿を認めると、
「いいよ。もう、寝よう」
さっきとは違って、穏やかな口調だった。
高橋はわずかに洟をすする。そして、ゆっくりと息を吸い込むと、決意を宿した目で吉澤を見据えて、
「わたし、吉澤さんのこと、好きです」
- 189 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時13分55秒
- 突然の高橋の告白に、少し間を置いてから吉澤は答えた。
「あたしも高橋のこと好きだよ」
下手な逃げ方だな…。胸のあたりで自嘲めいた笑みを浮かべながら、静かに応えた。
それでさっきはあんなに不機嫌だったわけだ、と、吉澤はようやく合点がいく。
しかし高橋は、そんな社交辞令のような言葉は耳に入らないかのように、さらに、
「ずっと好きでした。郷にいた頃から、ずっと、吉澤さんのこと見てて…だから…」
そこから先、どんな言葉を継げばいいのか分からず、高橋は押し黙ってしまう。
一世一代の告白にも、吉澤は黙ったまま、高橋の顔をただ見ていた。薄明かりのなかで、
緊張のあまり見開かれた白目の部分だけがやけに浮き上がって見える。
泣きそうになっているのかもしれない。初めてひとを好きになったときというのは、恋は命そのものである。
やがて、吉澤が穏やかに口を開いた。
「今日の高橋は、たびたび、あたしをびっくりさせるね」
「すみません」
「謝ることないけど」
「でも、ホントに好きなんです」
吉澤は長く息をつくと、ゆっくりと言った。
「ごめん…高橋とは、やっぱ、そんな気持ちになれないや……」
- 190 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時14分25秒
- そんな予感はしていた。それに、こんな状況で告白したところで、たとえ脈がありそうだったとしても、
端(はな)から勝負を捨てるようなものだ。
それでも高橋は、溢れ出した自分の気持ちを留めることができない。みじめになるのを知りながら、
なおも食い下がる。
「わたしじゃ、ダメですか…?」
「……あたし、ほかに好きなひとがいるから…」
「やっぱり、石川さんのコト――」
言い終わる前に、吉澤はかぶりをゆっくりと振った。「梨華ちゃんは友達だってば」
「じゃあ、誰なんですか…?」
「高橋はたぶん、面識ないひとだよ。さぁ、寝よ」
「あの…っ、せめて、そのひとが誰か教えてください」
「そんなこと知って、どうするの?」
「だって…わたしだって、吉澤さんのこと、誰にも負けないぐらい好きだっていう自信があるんです。
でも、もし吉澤さんが好きなひとっていうのが、そんなに素敵なひとなら、
負けても、まだ諦めがつくっていうか…」
- 191 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時15分10秒
- じっと、吉澤の視線が高橋を捉えた。まるで、その「答え」を聞いた高橋がどんな反応をするかを
推し量っているようだった。
そして、一歩も譲りそうもない高橋の眼差しにとうとう根負けしたように、吉澤はゆっくりと口を開いた。
「飯田さんだよ」
その名を告げられた瞬間、高橋は短く息を呑んだ。
「気ぃ済んだ? さ、寝た寝た」
高橋はしかし、神妙な面持ちでその場から動かず、「飯田さん、って…あの、飯田さんですよね」
吉澤はこくりと頷いて、
「『あの』飯田さんだよ。郷には、飯田って名の付くひとは、飯田圭織さんしかいなかったでしょ?」
「だったら……待ってください、もしかしたら…わたし……いや、もしかしなくても、わたし…
吉澤さんにさっき、すごく残酷なこと言ってたかもしれないです…」
- 192 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時17分47秒
- 「――かもしれない」じゃなくて、充分こたえたけどね。本当はそう言い返してやりたかったが、
「いいよ、気にしてないから。それに、高橋はそんなこと知らなかったんだし」
と、先輩らしく余裕のフォローである。
それでも、「すみませんでした…」と、高橋は厳しい面持ちで頭を下げる。
そんな高橋を見たとき、吉澤をある誘惑が駆り立てていた。
――“話してしまえ”。
次の瞬間には、吉澤は言ってしまっていた。久しぶりに口にした、あのひとの名前。それは、
このところずっと避け続けてきた扉を開けてしまったのかもしれなかった。
「なんで飯田さんが『あんなこと』になったか、知ってる?」
「いえ…」
「知ったら、うちのこと、嫌いになれるかもよ」
- 193 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時18分29秒
- 毒を食らわば皿まで、というわけではないが、好きなひとのことを好きでいるのは自由のはずで、
だったら、好きなひとのことを、もっとたくさん知りたいと思った。
「教えてください」
吉澤は、ふいーっと前髪を吹き上げると、
「じゃ、とりあえずベッドに入りなよ。そうやってずっと聞かれてるの、なんか落ち着かないしさ」
と、吉澤は小さく笑った。
高橋が向かいのベッドに入ると、吉澤は、
「寝覚めが悪くなりそうな話だけどね――」と前置きしたうえで話し始めた。
「2年前、郷で『血の日曜日』って事件があったでしょ?」
このコに話したところで、仕方ないよね、と思っていた。
知っている人間は限られているし、自分から誰にも話したことはない。
しかし、誰かに話せばラクになれるのではないかと少しは思った。それが誘惑だった。
それは“逃げ”だ。あるいは、自分のなかにある、認めたくない弱さだったのかもしれない。
もちろん、誰かに話したところでラクになれるわけがないことも、分かっていた。
――梨華ちゃんがこの話を知ったら、どう思うだろう。
そんな思いが一瞬、吉澤の頭をよぎったような気がした。
- 194 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時21分36秒
- ◇
「あー、もう、最っ低!」
石川は腹立ち紛れに、脱ぎ捨てたババシャツを脱衣籠に半ば叩きつけた。
身に着けたものをすべて脱いでしまうと、勢いよく引き戸を開けて風呂場に入る。
帰宅してからも、石川の脳裏には、昼休みに高橋から聞かされた言葉が
依然としてどんよりと厚い雲を広げているのだ。
リンスをシャワーで丁寧に流し終えると、湯船に浸かった石川はぺたんと浴槽の底に尻をつけ、
両手を頭の上で組んで、「ん〜〜〜……っ」と伸びをする。石川家の湯船は、
肩まで浸かっても膝を曲げる必要はない。
湯気の向こうに昼間の高橋の声が鮮明に蘇った。
――『どうせ石川さんは、吉澤さんのことを忘れてしまうんですから』
なにがなんだかである。
- 195 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時22分08秒
- 確かにそそっかしいし、うっかりすることは多いが、忘れっぽいわけではない。増してや、
いちど好きになったひとのことをすぐに忘れるだなんてことは、まず考えられない。
それに、ヘンなことに巻き込まれる――とは、いったい全体どういうことなんだろう。
このあいだの手紙探しといい、むしろ、自分のほうがヘンなことに巻き込んでいるような気もする。
バスタオルを胸元から下に巻き、ドライヤーで髪を乾かしながら、
バスルーム脇の洗面所の鏡に向かってぶつぶつと話し掛ける。
「ワケ分かんないコト言ってさ、結局単なるジェラシーじゃんねーっ」
いろいろ考えても埒があかない。結局、いつもの開き直りで心の平穏を取り戻そうとする。
そんな石川の座右の銘は、「何事にもポジティブ」である。英語の授業で初めてこの単語を知ったとき、
“これだわ! わたしの生きる道は!”と、直感でビンビンきたのだ。
とにもかくにも、明日はコンサート。初めて、吉澤とのデートなのだ。
(吉澤がデートと認識しているかどうかはどうでもいいらしい)
- 196 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時23分20秒
- ◇
ひと通り話し終えたところで、高橋が気重そうな面持ちで、ぎこちなく口を開きかける。
それを遮るように吉澤は、
「フォローとか、慰めっぽいこととか、感想とか、特にいらないから」と付け加えた。
「でも、だって吉澤さんは――」と、高橋はなおも、なにか言いたくてたまらなさそうだったが、
「取り返しのつかないことになったのは事実だしね。さ、これで話はおしまい。寝よ」
と、会話を一方的に打ち切ってしまうと、吉澤は再び壁のほうに寝返りを打った。
- 197 名前: 投稿日:2003年02月13日(木)11時24分17秒
- 進んでるような、進んでないような。
「次回まで空きます」と何度も言っておきながら、なかなか仕事の大波が来ないので、ちまちまと更新。
ところで、
>>193 「このコに話したところで、仕方ないよね、と思っていた。」って一節、読まなかったことにして下さい(汗
- 198 名前:名無し 投稿日:2003年02月13日(木)11時25分46秒
- >>164
海賊、関係なくてすみません(笑
あんまり「ウケる」展開じゃないような気がしていたので、気に入ってもらえたなら、なによりです。
>>165
わたしの拙い発想力では、いちど書いたキャラクターは作品を越えて固定しちゃうようで。。
でも、吉澤の「素」は、2年前と変わらないと踏んで、書いてますです(←言い訳)。
>>166
ありがとうございます。なんだか謎を引っ張りまくっているのは、
この先の展開を考えていないからではなく……エエ、決してそんなことは……決して…
また思い出した頃にでも覗いてくださると、幸いです。
- 199 名前:名無し 投稿日:2003年02月13日(木)13時08分10秒
- >>175 の、
「明日、こないだ言ってたライブだけど、どこで待ち合わせよっか」
「あー、またメールする」
「ん、分かった」
という一節も、読まなかったことにし(略 あー鬱だ。。
- 200 名前:パート1-7 投稿日:2003年02月18日(火)03時53分18秒
- 残り半分となったコーヒーの入ったカップをテーブルに置くと、矢口はソファの深くに勢いよくもたれ掛かって尋ねた。
「んで、よっすぃー、今日はなんの用事なの?」
「コンサートだそうですよ」
カーペットに直に座り、つれづれなるままにローテーブルの上で新聞の折り込み広告の裏に
サインペンで落書きを続けていた高橋が、顔をちらと上げて答える。
吉澤から電話をもらったのは、昨日の夜だ。急に用事が入ったとかで、明日一日、
高橋といっしょにいてやってもらませんか、とのことだった。
郷で教育係をやっていた頃から、吉澤が自分を頼ってくれることなんて、ほとんどなかった。
それは吉澤の頼もしさの表れであり、同時に、多少の寂しさも感じていた。だから、
ふたつ返事で引き受けた。「どうせなら、よっすぃーと一日いっしょにいたいなぁ」とはもちろん言ったが、
ハハハと一笑に伏されただけだった。
そんなわけで、今日は朝からふたりのマンションに来ている矢口なのである。吉澤と少しでも
顔を合わせられるかと思ったら、コンサートは昼の部だったようで、入れ違いになったようだ。
- 201 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時53分58秒
- 「ふーん、誰のコンサート?」
「後藤真希のコンサートらしいです」
「あー、後藤真希かぁ。人気あるもんね、いま」
ふと、高橋が描いている落書きに目を遣る。思いつくままに適当にペンを走らせているだけのそれは、
ぐるぐると渦巻きから2本の直線が伸びて、なにやら妙な柄の壺に見えないこともない。
「けっこう長続きしてますよね。ふつう、アイドルって1、2年ぐらいが寿命だと思ってましたけど」
「だねえ。それにしても、よっすぃーがわざわざコンサートに行くほど後藤真希のファンだったなんて、
知らなかったなぁ。それに、チケットもよく取れたよね。だいたい、こっちに来ることが決まったのって、
この年明けすぐでしょ? どうやったんだろ?」
「吉澤さんは、後藤真希自体は特にファンってわけじゃなさそうですけど」
「んじゃぁ、なんでコンサートなんか?」と言って、再び矢口は手にしたカップを口に付ける。
「石川っていう、同じ高校のひとが吉澤さんを誘ったみたいですけど」
- 202 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時54分28秒
- 言いながら、高橋はふと、屋上から下りる階段の脇でずっとふたりの様子を窺っていたときの心境を、
胸のあたりにじわりと広がる苦味とともに思い出していた。
が、それはすぐに打ち破られる。そのことを耳にした途端、ぶー、と、矢口の口がコーヒーを吹き出し、
「ぬわにーッ!!!」と、血相を変えて声を張り上げたからである。
顎の先からはだらだらとコーヒーが滴っているが、そんなことにはお構いなしに、
「なんでそれを早く言わないんだよ! それ、今日いちばんのトピックじゃん!
オイラが玄関に入ったとき、それ、真っ先に言わなくちゃ!」
興奮のあまりソファから立ち上がり、テーブル越しに高橋に詰め寄るものだから、落書きしていた紙の上にもコーヒーの滴が飛び散る。
「だ、だって、矢口さんにはべつに関係のない話題だし」
矢口の勢いに気圧されて若干後ずさりしながら、しどろもどろになった。
「大アリだよ大アリ、大アリクイだよ!」
意味不明の語呂合わせ炸裂。
突然に喚きだした矢口に、高橋のペン先は止まったままで、
「壺」の先端に水性インクの黒い丸をじわじわと広げている。
- 203 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時55分01秒
- だが、
「矢口さんになにか関係あるんですか?」
この、あまりに根本的な質問に矢口は深い脱力感を覚え、がっくりと肩を落とした。
それでもどうにか気を取り直し、ティッシュで口元を拭きながら、
「編入してまだ日も浅いのに、いっしょにコンサートか。うーん…」
「でも、石川さんはただの友達だ、って、吉澤さん言ってましたよ」
「じゃあ、石川ってコのほうは、よっすぃーに対してどんなカンジなのさ?」
「それは――」
――『真っ向勝負すればいいじゃない』
昨日の、強気が滲み出た石川の表情が思い出された。
悔しい。
どうしてあのひとは、誰かのことを好きだとあんなに胸を張って言えるのだろう。どうして自分は、
こんなに好きなひとに怯えてるんだろう。
悔しいのではなく、羨ましいのかもしれない。だから、いらいらするのだ、きっと。
「――好き、だと思います」
ぽつりと高橋が言った。
「だしょ? だしょ?」
「あんまり喋ったことないから、よく分かんないですけど…」
- 204 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時55分33秒
- それからしばらく矢口は俯き加減で、なにかを考え込んでいるようだったが、
やがてなにかが吹っ切れたように顔を上げ、
「でも・ま、そのコがよっすぃーをモノにするのは無理だと思うけど」
「…飯田さんのことがあるからですか?」
あら?と、矢口は意外そうに目を瞬かせ、「カオリのコト、聞いたんだ?」
「ええ…」と、やりきれなさを孕んだ高橋の返事は重い。「吉澤さんが昨日話して聞かせてくれました」
「じゃあ、『血の日曜日』事件のことも?」
高橋は黙ったまま、無理矢理なにかを呑み込むようにゆっくりと頷いた。
そっか…と、矢口は小さく呟き、
「そんな風に、パートナーのことをよく知るのは悪いことじゃないけどね。
あー、でも、郷に帰っても、あんま、ひとには言わないほうがいいよ。
一応、郷ではタブーの事件のひとつになってるから」
「ひとつ…って、まだあるんですか?」高橋は困惑混じりに笑う。
「うん、らしいよ。オイラも、2年前のその事件以外のことは、よくは知らないんだけどさ」
- 205 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時56分06秒
- 長く溜め息をついて、高橋は、「なんかでも……やりきれない話ですよね、あれ――飯田さんの件って」
矢口はほんの一瞬、口をつぐむ。なにかを思い出すように、あるいは、遠くのなにかを見詰めるように、
視線が細められる。そして、「まーねー」と、さも関心なさそうに相槌を打ち、
「カオリのこともあったし、よっすぃーも、そのコとはすっぱり割り切って仲よくしてるのかもねー。
『いずれこのコも、自分のこと忘れちゃうんだ』ってカンジでさ」
「それって、でも、なんか哀しいっていうか…
…だいたい、自分のことをさっぱり忘れてしまったひとを想い続けるのって、どんな気持ちなんでしょうね」
矢口は思う。よっすぃーはばかだ。いつまでもそんなことにこだわり続けても、自分を苦しめるだけだというのに。
しかし一方、そんな吉澤の真っ直ぐさがあるから、自分は吉澤のことを好きなんだろう、とも思う。
- 206 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時56分40秒
- 「高橋、あんた、よっすぃーのこと好きでしょ?」
「ええ」と、高橋は言って、てへへと笑ったかと思いきや、
「――ええッ! な、なんで分かるんですかっ?!」と、彫りの深い驚愕の表情になる。
「なんっかねー、すぐ分かっちゃうもんだよね。同じひとを好きだとね、なんとなくさ」
「…ッ!! 矢口さんも吉澤さんのこと好きなんですかっ?!!」
「ま、そんなわけだから、よろしく戦友」と言ってにっこり笑い、矢口は握手を求めた。
立て続けに明かされる衝撃の事実に高橋は戸惑ったままで、
急に目の前に現れた恋のライバルに対して手を差し出しあぐねる。
――そんなぁ…矢口さんが相手じゃ、分が悪すぎるよぉ……。
だいたい、昨夜、いちどフラれているのである。擦り傷にわざわざ塩を擦り込まれた気分だった。
- 207 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時57分22秒
- と、ローテーブルに置いてあったPDAらしき器械がピーピーと電子音を鳴らした。
「あら、鳴っちゃったよ」矢口は情けない顔で肩をすくめた。「ツいてねーっ…」
「しょーがないですよ」と、高橋はPDAに手を伸ばし、脇に差してあったペン型のスタイレットを取り出すと、
慣れた手つきで液晶画面をいくつかタップする。
カラーの液晶画面に映し出されたのはY市の地図だ。市街地の入り組んだ路地の一角に
小さな白い点灯を示している。さらに地図をタップしていくと次々に地図の縮尺が変わり、
白い点を中心にその付近の拡大地図が速やかに表示された。
「あー、けっこう繁華街ですよ」
傍らにいた矢口もいつしか懐から取り出した同じPDAを手に、同じ画面を見ていた。
「後始末がメンドいね。まあ、なんとか上手くやろっか」
そう言って矢口は立ち上がり、「んーッ」と、組んだ両手を挙げて伸びをする。
- 208 名前: 投稿日:2003年02月18日(火)03時57分56秒
- 「今日は1日のんびりしよーと思ってたのになー……これ、便利だけどさ、確かに。
でも、余計なもん発明しやがって、ってカンジだよねー」
手にしたPDAを恨みがましく見詰めながら矢口がぶつぶつと呟いている間に、
高橋は寝室のクローゼットに急ぎ、ハーフコートに袖を通すとリビングへ取って返していた。その両手には、
ついでに玄関から持ってきた矢口と自分の靴がある。
高橋の俊敏さに、「やる気満々じゃん」と、揶揄するでもなく矢口は言った。
「行きましょう。なんかもう昨日からムシャクシャしてて、ガツーン!とやっちゃいたい気分なんです」
握りこぶしを差し出し、勇ましく意気込みを語る高橋を横目に、矢口はソファに掛けてあったジージャンを羽織った。
「んじゃーさ、オイラ、今日は高みの見物してていい?」
「いいですいいです」と、高橋は胸を張る。それはどこか空元気のように見えなくもなかったが。
「任せてといてくださいっ」
「頼もしいねぇ。んじゃ、ま、行こっか」
ふたりは窓を開け、靴を履いて、比較的ゆとりのあるベランダに出たかと思うと、
まるで公園の芝生の柵をまたぐような気軽さで手すりをひょいと乗り越えて、姿を消した。
- 209 名前:名無し 投稿日:2003年02月18日(火)04時00分52秒
- 200-208
短いですが、更新です。
- 210 名前:名無し 投稿日:2003年02月18日(火)04時01分32秒
- パート1-7、もう少し続きます。
- 211 名前:名無し 投稿日:2003年02月18日(火)04時02分37秒
-
- 212 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月18日(火)17時43分23秒
- 一体高橋たちは何者なんだろう…気になって夜も眠れません(w
- 213 名前:うらら〜 投稿日:2003年02月18日(火)19時13分44秒
- 例えこの先「ウケる」展開でなくともぉー、
面白いからいいんです。
日常的なようで日常的じゃない。先が読めないと楽しいです(笑)
- 214 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時51分25秒
- ◇
Y市の湾岸地域は、江戸時代以来、日本有数の国際的貿易港として栄えてきたが、
近年、近隣のほかの大きな港がその役目を担うようになってからは、
むしろ、その異国情緒あふれる雰囲気を利用しての観光資源として利用が目立つ。
そんな港の周りに広がる遠浅の海には、不自然に角張った広大な埋立地がいくつも浮かび、
緑地公園や、首都のベッドタウンとして増え続ける人口を引き受けるための高層マンション群の敷地として
利用されていた。
そんな埋立地のひとつ、15号の最も南端に、港の衰退とともに国際的な役割を終えつつあったY市が
国際会議の誘致を図ろうと建てたY市国際フォーラムがあった。だが実際には国際会議よりも、
コンサートなどのイベントのために使われる多目的スペースとなっている。
- 215 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時52分03秒
- Y市国際フォーラムは全体がガラス張りの未来感覚溢れる5階建てのずんぐりした建物で、
内部に大小合わせて10近くのホールを孕む。遠くから見ると、それは、
白い網で包まれた黒い卵が半身を地上に覗かせているように見えた。
まだ景気が右肩上がりだった頃に建設されたため、そのバブリーな雰囲気は今の世相においては
食傷気味に思われがちだが、実際になかに入ってみると、
最上階まで続くその巨大な吹き抜け構造の贅沢さ、大胆さは、訪れる人びとに嘆息させる魅力に満ちていた。
マンション群とは少し離れた場所に位置するため、ふだんは閑散としたその周辺は、今日に限っては打って変わって、
朝から大変な騒々しさを見せていた。音響機器を搬入するトラックが次々に到着し、
IDカードを首からぶら下げたスタッフたちが目まぐるしく動き回る。会場の設営も前日に引き続いて行われ、
ようやく終わりを迎えようとしていた。
- 216 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時52分35秒
- 後藤真希にとってデビュー3年目、満を持して挑む、初の大々的なツアーである。所属事務所の力も入っていて、
いちばん大きなホールの端から端までを使ったセットの規模は、アイドルのコンサートとしては
かなり大きな部類に入る。もっとも、すべては今日の夜半過ぎにはすっかり解体されて、
元のがらんどうのホールに戻るのだが。
開演まで5時間。「卵」の屋上からは「後藤真希コンサートツアー 2003」と書かれた大きな垂れ幕が吊るされた。
セッティングが最後の追い込みを迎えているステージには、金槌や電動ドリルの音、
さらに音響チェックのためのBGMがない交ぜになって響き続けている。
- 217 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時53分05秒
- そんなステージの脇に、ひとりの少女の姿があった。ベージュのスウェットを着たその少女は、
ホールに並ぶ椅子の列を見下ろしたまま、なにかを考え込む風でもなく、立っていた。
コンサート前の緊張感なのか、あるいは、もともと感情を表に出しにくいだけなのか、
少女の表情は、どことなく醒め切っているようにも見える。雑誌のグラビア撮影でも、
いかにも笑ってみせたような顔はするものの、無防備な笑顔を晒すことはない。それがかえって、
クールな印象をファンに植え付けていた。
「真希ちゃん、あと10分ほどでリハ始まるわよ」
中年と呼ぶにはまだ少し若い女が客席から声を掛けた。彼女のマネージャーである。
黙って後藤は頷いたが、なおもそこを動こうとしない。
- 218 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時53分37秒
- ◇
昼の部は1時からだ。ふたりは11時に駅前で待ち合わせていた。吉澤がこの街にやって来たときに
降りた駅だ。
待ち合わせ場所であるロータリーの大噴水前に先に着いたのは吉澤だった。
黒地に白の英語プリントの入ったブルゾンに、ビンテージもののレプリカジーンズ、スニーカーという、
シンプルな出で立ちである。噴水の縁に座るとヘッドフォンを耳にはめ、駅から降りてくるひと、
駅に向かうひとの流れを何気なく見ていた。日曜日の昼前ということもあって、家族連れが目立つ。
結局、5分遅れで石川はやって来た。駆け足でやって来るその姿を見て、吉澤は言葉を失う。
――梨華ちゃんって、もしかして、センス悪い…?
ピンクのニットに羽織っているのは、やや濃いピンクのダウン、さらに、やや薄いピンクの靴下、
黄色いミュール、白地にピンクのボーダー柄のポーターバッグ。そのそれぞれは
上質のものとひと目で分かるものの、よっぽど確信犯的に狙わなければ、
こんな取り合わせは不可能なのではないだろうか。
- 219 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時54分08秒
- 「けっこう待った?」
目の前までやって来て、息を弾ませたままで石川は尋ねた。
しかし、茫然として、視線もうつろのままの吉澤は答えない。
「ん? どうしたの?」
「あ、いや、なんでも…えっと、なんだって?」
「待ったか?って訊いたんだけど…?」
「あー、いや、さっき来たトコだから」
「そ、よかった。じゃっ、行こっ」
そう言って、石川はずんずんと駅の構内へと向かう。
すぐに追いついて、並んで歩きながら、しばらくのためらいのあと吉澤は口を開いた。
「梨華ちゃん、って、さ……」
「んー?」
「ファッションセンス――」
「ああ、センスないから、わたし」と、いかにも慣れた風に軽く受け流し、けへへと笑う。
駅からはモノレールである。埋立地のいくつかを環状に走るそれは、
埋立地のマンション群に住むひとびとにとって重要な通勤・通学足になっていたが、
ふだんの日曜日はガラガラに空いている車内も、今日はコンサートに向かう若者たちで溢れ返っている。
- 220 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時54分42秒
- 「なんか、すごいね…」
石川が吉澤の耳元でこそっと呟いた。
車両のちょうど反対側に立っていた一団のことを言っているのは、すぐに分かった。4、5人のグループが皆、
一様に「真希」と背中に明朝体で派手な刺繍を施された半被を着ている。
「うん、アイドルのコンサートってカンジ」
ふたりとも、コンサートに行くこと自体、初めての経験だった。なんだか妙に高揚感が増してくる。
細長い海をいくつか越え、いくつかの埋立地を回り、「国際フォーラム前」という駅でモノレールを降りる。
改札口を出てすぐの陸橋の手すりに「後藤真希コンサート2003」と書かれた大人の背丈ほどの看板が立て掛けてあり、
その傍らに、おそらくイベント会社の人間なのだろう、若い男が立って、
拡声器で「後藤真希コンサート2003の会場は、駅を出られてこちら、右側へお進み下さい」と喚き立てている。
- 221 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時55分14秒
- 駅から溢れ出した人ごみは皆、一様に同じ方向へとぞろぞろ進む。石川と吉澤もそのなかに混じって歩いた。
だだっ広く平坦な敷地のなかで、卵型の建物は実に目立った。そして、その周囲を黒々と人だかりが
取り巻いている様が陸橋から見下ろせた。石川はその様子を見て、うわぁ、と嘆息を漏らした。
「すごいひとだねー」
「うん、ホント。これ、みんなコンサートだよね」
そんなことを言い合いながら、ふたりが歩きつづけること10分あまり、
ようやくフォーラムの前までやって来ると、ぐるぐると何重にも人の列が並んでいた。
最後尾をようやく見つけ、ふたりはそこに加わる。
行列は、ファンの期待と興奮をじりじりと焦らすように進んだ。
ラジカセで後藤真希の曲を掛けて踊っている半被姿の者や、
建物の脇のテントで買い求めたコンサートのパンフレットを顔を寄せ合って見る者たちの姿を見ながら、
30分ほど掛かって、ようやくフォーラムの入り口に辿り着く。
- 222 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時55分46秒
- フォーラムのエントランスの高い吹き抜けを見上げながら、
「ああ〜っ、なんかすっごいキンチョーしてきたよっ」
自分を両手で抱き締めるようにして身を震わせ、石川が言った。
「しっかり、梨華ちゃん」と、特に後藤真希に思い入れのない吉澤は笑う。
「でも、でもなんか、ココにもうごっちんがいると思ったらさぁ…」
不意に石川が言葉を詰まらせる。どうしたんだろう、と石川の顔を覗き込むと、
なんと涙を流しているのである。
「どしたの梨華ちゃんっ」
「ドキドキして、涙出てきた」石川は情けなさそうに笑った。
そんなに好きなんだな、と、吉澤は改めて思った。前にどれだけ後藤真希のファンであるかを
たっぷりと聞かされたことはあったが、これほどまでとは思わなかった。単なるアイドル歌手じゃん、
と思っていたから、なおさらである。
「ちょぉっと〜」と、吉澤は石川の肩を揺さぶって、「まだ入り口じゃん。泣くのは、実際に本人を見てからにしなよ」
「ハハ、そだね」
そう言って、石川は笑顔で目尻を拭った。
- 223 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時56分17秒
- 会場に入り、人ごみのなか、ふたりはチケットを片手に自分たちの席を探し当てた。
客席全体の真ん中よりも少し前。欲を言えばもう少し前がよかったが、これでも、
チケット発売時間ちょうどから石川が絶え間なく電話を掛けまくった挙句に、
ようやく手にしたという席である。
開演時間が近づくにつれ、「ああ、始まる、始まっちゃうよぉ、どうしよう」と興奮気味の石川を、「どうどう」と、吉澤は笑って諌めた。
開演のアナウンスが流れ、ホール全体の照明が落ちてくる。それに呼応するように
徐々にステージが明るくなってきて、うっすらと漂うスモークのなかに人影が現れた。
――あれがごっちん?
石川がそう思った瞬間に、派手なドラムの音が響き渡り、真っ暗なホールのなかでステージだけがいきなり真昼になった。
ホール全体を客席全体からにわかに湧き上がった歓声が揺るがし、客席全体が総立ちになる。
座っていたふたりには、まったくステージが見えなくなってしまう。歌だけが聞こえ始めた。
- 224 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時56分54秒
- 仕方なくふたりは立ち上がる。ステージも佳境になり、もっと盛り上がってから、
自然に立つものだと思っていたのは大きな間違いだったようだ。
立ち上がっても、リズムに合わせて団扇やサイリウムが振られ、
飛んだり横揺れしたりする人の頭と頭のあいだから、小さな人影がちらりと垣間見えるだけだ。
歌っている様子をじっくりと見ることはどうやら不可能である。そうなると、
ステージの両脇に掲げてある大きなマルチ画面が捉え続ける後藤の表情を見ることになる。
結局、大画面のテレビを遠くから見てるだけじゃんか、と吉澤は思う。
皮切りは最新のシングルのリミックスバージョンだった。シングルのアレンジが耳慣れているファンにとって、
激しいアップビートに嬉しく意表を突かれ、ここで早くも大きな盛り上がりを見せている。
コンサートの曲目は、石川が思っていたとおり、1stアルバム「マッキングGOLD」からのものを中心に、
既成の名曲を織り交ぜながら、という構成だった。
- 225 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時58分03秒
- 聞いた感じではありがちなふつうのアイドルポップスばかりだったが、画面越しに
ステージの端から端までを駆け巡りながら歌う後藤のアクトを目で追っているうちに、
吉澤はいつしか奇妙な感覚に襲われていた。
気持ち悪い――。
不愉快――。
そんな、理屈のつかないものが漠然と心のうちに浮かんできたのだ。
何曲目かで、その心象は輪郭がくっきりとしてくる。
性に合わないわけではない。耳障りのいい曲も多い。こうした曲にハマる気持ちも分からなくはない。
だが、嫌な感じはじんじんと伝わってくる。自分の心の奥底を踏みにじられているかのような不快感。
こんな感覚を覚えるのは、生まれて初めてのことだった。
あるいは、人だかりに酔ってしまったのだろうか。もしひとりで来ていたら、
早々に会場を後にしていたに違いない。
- 226 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時58分35秒
- ちらと横の石川に視線を転じると、自分とは正反対に恍惚とした表情で、ノリにノッている様子だった。
よく分からないが、「いま、憧れの人間と確かに同じ空間にいる」ということが最も重要で、
実際にその姿が見えるかどうかは二の次なのかもしれない。
石川のそんな気分を壊すまいと、表向きは吉澤もリズムに合わせて身体を揺らしたりしていた。
4曲を立て続けに披露したあと、照明が落ち、スポットライトだけで最初のMCになった。
『こんにちわーっ』
モニター越しに、暗がりのなかで真っ白に照らされた後藤が手を振った。
会場全体が、もはや返事とは言えない盛大な歓声で応える。
『今日は、わたし、後藤真希のコンサートに来てくれて、どうもありがとう!
わたしは、今日はですねぇ――』と、後藤は、今朝起きてからここに来るまでの他愛もない話を始めた。
- 227 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時59分15秒
- このまま2時間ほど、ずっと立ちっ放しなんだろうか、と、吉澤は不安に思い始めた。
正直、少し後悔していたりもした。なんで来ちゃったんだろう。なんで誘いに応じてしまったんだろう。
誰かのコンサートというものに来たことがなく、興味本位というところもあったが、
石川の一生懸命さに負けてしまったというところもあった。いずれこのコが自分のことを忘れるにしても、
その意味を考えるよりも先に、このコの気持ちに応えたいと思ったのだ。
MCが終わり、再び曲が始まる。
止めどなく自分のなかで、苛立ちのマグマがくすぶっているのを感じながらも、
あとたったの1時間ちょっとじゃないかと自分を戒め、吉澤はコンサートに付き合っていた。
- 228 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)05時59分46秒
- 異変が起きたのは、ダンサブルなナンバーで12曲目が終わり、次の曲の前奏が始まったときのことだった。
突然、ぐらりと石川の身体が吉澤のほうへともたれ掛かってきた。
「どうしたの? 疲れちゃった?」
尋ねる自分の声さえも、周囲の歓声とホール全体に満ちる楽曲の音で掻き消されてしまう。
だが、石川の指先が吉澤のブルゾンに食い込み、倒れるのを辛うじてこらえているのが分かったとき、
吉澤は慌てて石川の身体を支え、なんとか椅子に座らせた。しかし、ぐったりとしてまぶたを伏せ、
肩を支えていないと、今にも横に崩れ落ちそうである。
「梨華ちゃん?! どうしたの、梨華ちゃん?! しっかりして!!」
屈み込んで掛ける声は、石川に届かない。周りの音に掻き消されたこともあるが、
それ以前に、すでに石川の意識は失われていたのである。
- 229 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時00分39秒
- ◇
ほぼ同時刻、N県、百合の郷――いつもよりも少し早かった冬の訪れとともに降り始めた雪は、
まだ郷を奥深く閉ざしたままである。
そんな山間に、代々この郷を統べてきた保田家はあった。その大きな建物は、広く知られていれば
文化財としての指定は間違いないであろうが、この小集落は、極力ひとを寄せ付けない。
そうすることが、彼らが古来から受け継いできたものを守ることにつながるからである。
さて、ちょうど、この屋敷の持ち主である老婆――通称「保田のおばあちゃん」は、
屋敷のさらに最奥にある和室で、突然、「こ、ここ、これは…っ」と、震える声でうめいていた。
分厚い座布団の上に正座した老婆の前にはやはり、20畳の部屋の半分を占めるほどの大きさの、
年代物の巻物が広げられている。そこに筆で描かれた幾何学模様の数々は、
いくつもの宇宙の成り立ちと関わり合いを表しているのだが、いまや、その意味を解するものは、
この老婆ぐらいである。
- 230 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時01分14秒
- ちょうど部屋の片隅で雑誌を広げていた女――老婆の孫娘、保田圭は訝しげな表情で、
「おばあちゃん、どうしたの…?」
「圭よ、大変なことが起ころうとしておるんぢゃ。これを見い…」
老婆は視線を巻物に落としたまま、厳かな面持ちで言った。
どれ?と、保田は立ち上がり、老婆の背後に回り込むと、覗き込むようにして巻物を見た。巻物には、
やはりいつも老婆がしているように古銭がいくつかばら撒かれているが、
もちろん圭にはその意味は理解できない。
「いいかい、圭よ。これをご覧…」
と、老婆の皺だらけの指が巻物の中央の古銭を指し示そうとした――そのときだった。
突然どたどたと重い足音が近づいたかと思うと、障子が乱暴に開けられ、つば付きの黄色い帽子をかぶり、
赤いランドセルを背負った少女が飛び込んできた。いや、「少女」と呼ぶのは、実は多少ならずはばかられる――
例えるなら、大人の女性が過剰な若作りをしてしまった顔立ちをしているからだ。やはり血は争えないといったところか、保田にそっくりなのである。
- 231 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時01分52秒
- とにかく、少女は部屋に走り込むと同時に、誤って畳の上で足を滑らせ、
巻物の上に豪快なヘッドスライディングを披露してしまったのである。自ずと、
部屋の至るところに古銭が飛び散ってしまう。
目の前でその様を認めるや否や、
「うぎゃー!」
老婆が悲鳴にも似た声を上げる。
「こらっ! ケメ子っ!」
保田が金切り声を上げ、ケメ子の服の襟をとっさに掴み上げた。
「いたい! おねえちゃん、いたいでちゅよ!」
「いつも、家のなか走り回ったらダメって言ってるでしょ!」
- 232 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時02分22秒
- 相当に怖い形相だったが、そんな保田に臆することなくケメ子は平然と言い放つ。
「かくれんぼしてるんでちゅ!」
「そんなの、家のなかでやらないの!」
「ケメ子、おになんでちゅ!」
「話を聞きなさい」
「かわもちくん、みなかったでちゅか?」
「はぁ? 誰よ、かわもちくん、って」
「ケメ子の、だんなさまでちゅ」
その言葉を聞いた途端、「あ、そ…」と、怒ろうとする気持ちが半ば萎えてしまう。
あんたら子供は簡単でいいわよね、オトナになるとね、イロイロ大変なんだから、覚えてらっしゃい。
「知らないわよ。とにかくね――」
くどくどと説教し、ケメ子を廊下に追いやったあと、ふと思った。
――「かわもち」なんて名前の子、郷にいたっけ?
小さな集落である。名前も知らないひとなんていないんじゃないかと思って眉を潜めたが、すぐに、
ま、いっか、と思い直し、「で、なんだって? おばあちゃん」と、老婆に向き直った。
しかし、老婆は姿勢を凍りつかせたまま、「わ、分からんようになってしもうた…」
と、さめざめと涙を流すばかりであった。
- 233 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時03分23秒
- ◇
(さあ いらっしゃい 「こっち」へ)
それは、声なのだろうか。
いや、違う。それは声としての体を成していなかったにも関わらず、石川は自然に理解していた。
(さあ 「こっち」だよ)
もっとぼんやりとしたもの――外界からのものではなく、
心のうちからあぶくのように浮かんできたもののようにも思えた。
その輪郭は、繰り返しいったんくっきりと心の表面に浮かんでは徐々にぼやけていき、形を失っていく。
――なに…?
さまざまなノイズが頭のなかに溢れていた。ふつうならそれは、ただうるさく、
気持ちを苛立たせるだけのもののはずだった。
しかし今は不愉快なものではなく、不思議なことに、むしろ心地いいぐらいだ。
そもそも、それは音なんだろうか。もっと違うなにかかもしれない。
万華鏡のようにさまざまな色彩が交じり合い、また分かれて色を転じ、
視覚に目まぐるしい刺激を与えてくる。
- 234 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時03分56秒
(だめ)
さっきとは違う、こんどははっきりとした、「声」だった。
急に温かな風が吹いて、折り重なる色彩の向こうから、乳白色の光が広がってくる。
(ごめんね)
光のなかからあふれてくるそれは、手で触れて感じる人肌のように温かくて柔らかくて、
覚えもないのになぜか懐かしい。そんな奇妙な感覚を伴って石川に伝わってくる。
――なに…?
――誰……?
(ごめんね 梨華)
(でも)
(もう こうするしかないの)
内から叩く鼓動が胸元を突き上げてくる。
息苦しい。
切ない。
悲しい。
寂しい。
(じゃあ)
――待って…。
(ぜったい 幸せに ならなくては ダメよ)
――待ってっ!
叫んでも、届かない。必死にばたばたと足をもがかせても、
宙に浮いているようで、前に進まない。手を伸ばしても、空を切るだけだ。
しかし、「それ」は確かに遠ざかっていく。
石川は力を振り絞り、声にならない声を張り上げた。
――待って!「お母さん」っ!!
- 235 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時04分32秒
- ◇
「うわぁっ!」
誰かの突拍子のない声とともに、カーテンで囲まれた白い天井が蛍光灯の光でまばゆく浮かび上がってきた。
石川は、自分がベッドに横になっていることに気づく。
ふと、視線を遣ると、吉澤が目を白黒させて傍らのパイプ椅子に座っていた。
「よっすぃー…」
吉澤は「ふう」と息を撫で下ろし、
「梨華ちゃん、大丈夫?」
「わたし…」
「覚えてない? ライブの会場で倒れたの」
「ライブ…そっか。ここはどこ? 病院?」
「うん、救急病院。運び込まれたときは大騒ぎだったんだよ。心電図やらCTやら、って」
「よっすぃーがここまで連れてきてくれたの?」
「ううん、梨華ちゃん、もう完全に意識なかったから、救急車で来たんだよ」
救急車なんて、生まれて初めてだったはずだ。確かに、まったく覚えがなかった。病院に行く途中、
サイレンも鳴っていただろうに、まったく思い出せない。意識がなかったというのは本当だろう。
ベッドに手を突いて、ゆっくりと上半身を起こしてみる。大丈夫?と尋ねる吉澤に笑顔で応えた。
- 236 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時05分04秒
- カーテンを少し開け、外の様子を見る。どうやら病室ではなく、救命センターの処置室の脇にある
小さなスペースにベッドを運び込んで寝かされていたらしい。遠くから心電図かなにかのモニター音が
一定周期で聞こえてくる。
「わたし…どうしちゃったの…? なんかの発作?」
「診てくれたお医者さんは、かん…ええと、なんて言ったっけ…かかん――そう、過換気…症候群?
じゃないか、とか言ってたよ。興奮しすぎで呼吸が速くなりすぎたんじゃないか、って。
あと、軽い貧血以外は検査の結果も異常なかったらしいし、落ち着いたらすぐに帰れるってさ」
「そう、よかった…あ、そういえば、よっすぃー、なんかいま、騒いでなかった?
――っていうか、叫んでた?」
「びっくりしたんだよ」
「なんで?」
「だって、急に『待って!お母さん!!』とか言うんだもん。まったく、寝言にしては――あ…?」
吉澤が急に石川の顔を覗き込む。予期せぬ急接近に、石川は嬉しい戸惑いを覚えながら、
「え? な、なに?」
吉澤の指先が伸びて、石川の目尻にそっと触れた。
「涙…」ぽつりと吉澤は言った。そして、「なんか怖い夢でも見た?」と微笑む。
- 237 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時05分49秒
- 「怖い…いや、怖いっていうか…なんか……」言いながら、目尻に指先を触れさせると、
たしかに涙のようだ。「ホントだ…」
そのまま指の腹で追っていくと、頬のあたりまで伝っていたようだった。
「なんで泣いてるのかな…」
爪にのった温かなしずくを見詰めて、不思議そうに石川は呟いた。
吉澤が看護婦を呼びに行き、当直医が「気分はどう?」「吐き気は?」といった問診を
簡単に済ませると、帰ってよし、ということになった。
近くのバス停までの道順を病院の夜間出入り口脇の事務室で聞き、病院を出ると、
すっかり夜の帳が下りていた。
「こないだから、なんかわたし、よっすぃーに迷惑掛けっぱなしだよ」
「こないだ…?――ああ、手紙のことね、あれはまぁ、わたしのせいでもあるけど、
さすがに今日は、ちょっと焦ったよ」と、笑った。
「ごめんね、誘ったのはわたしのほうなのに」
「いいよ。途中でうちも、熱気にあてられたせいか、ちょっと気分悪くなってきてさ」
「そっか。いまはもう大丈夫?」
「うん、大丈夫。ひとの気遣いより、今日は梨華ちゃんのがもっと大変だったんだから」
「でも、わたしも今は全然平気だよ。元気」
- 238 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時06分59秒
- 月が綺麗に出ていた。このままあっさりと別れて帰るのも、なんだかもったいない気がして、石川は言った。
「晩ご飯、食べて帰る?」
「いいよ。なんにする? なんか食べたい?」
少しでも長くいっしょにいたいと思って提案しただけなのだ。別段空腹でもなかった。
なんでもいいよ、と答えると、吉澤は「じゃあ、ラーメンでいい?」
ちょうど目の前に、「ラーメン」と書かれた赤提灯が見えていた。
――ラーメン…?
ラーメン屋に友達と行ったことなんてない。それは、普段の自分から少しはみ出した行為に思えて、
石川はすぐに、「食べたい。ラーメン食べたい」と、笑顔で賛成した。
ただ、近寄ってみると、お世辞にも流行っていそうとも綺麗とも言えないラーメン屋である。
表には薄汚れた暖簾、ところどころヒビの入った赤提灯、縁にくっきりと油汚れがこびり付いた窓ガラス。
正直、石川は気後れした。なんか、汚いっぽいよ…別のお店にしない…?
せっかくご飯をふたりで食べるのだから、
もうちょっと雰囲気のあるお店がよかった。ラーメン屋に賛成したことを早くも後悔し始めていた。
- 239 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時08分24秒
- しかし、吉澤はすでに暖簾をくぐって店のアルミサッシを開けていた。仕方なく石川も後に続く。
内部に一歩足を踏み入れると、途端にむわっとした熱気が頬を撫でた。
赤いカウンターだけの、シンプルな内装である。カウンター内側の厨房で、白い調理服を着た中年の男が
「いらっしゃい」と、しゃがれ声で威勢よく出迎える。
客は老人がひとり、カウンターのいちばん奥で、折り曲げた新聞片手にラーメンをすすっているだけだ。
並んでカウンターに腰掛け、上着をそれぞれ隣の席に掛けると、
吉澤はとんこつしょうゆ(卵追加)、石川はみそを注文する。
家族で外食と言えば、落ちてもせいぜいファミレスだった石川は、物珍しそうに店のあちこちに
視線を泳がせる。厨房奥の天井脇に据え付けられた、おそらく数10年前の型のカラーテレビが
民放の6時のニュースを映していたが、音声はほとんど聞こえない。テレビの横からずらりと並んだ
筆字のメニューには油染みがこびり付き、なにが書いてあったかほとんど判別できないものまである。
きょろきょろと落ち着きのない石川の様子に、
「どうかした?」と、吉澤は尋ねた。
「う、ううん、べつに…」
- 240 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時09分35秒
- お高く留まっていると思われるのが嫌で、本音は口にしない。
吉澤は店の雰囲気にまったく臆する様子はない。
――こういうお店に来るのに抵抗ってないのかな。
――そう言えば、よっすぃーのお父さんってなにしてるひと?
――そもそも、なんで独り暮ししてるの?
「ねえ――」と、石川は尋ねてみた。どうして独り暮ししているのか。
すると吉澤は淀みなく答えた(まるで、予め用意していた答えを暗誦するような滑らかさで)。
銀行に勤める父親がボストンに転勤になって、家族全員で海外移住という計画だったが、
自分ひとりが日本を離れるのに抵抗したため、日本に残ることになった。ただし、
きちんと生活と勉強をさせておくため、あさ女に転校させられたのだ、と。
そんな話をしていると、
「はい、お待ちどう!」
年齢の割に張りのある主人の声とともにラーメンが前に置かれた。
吉澤は「美味ぇ」を連発し、石川もなんだかんだと思いながらも、結局スープまでぜんぶ飲んでしまった。
- 241 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時10分07秒
- 勘定は、こないだのコーヒー代のお返しということで、吉澤が奢ると言った。
「そんな。今日は迷惑掛けっぱなしだから」と、食い下がる石川とちょっとした押し問答になったが、
結局吉澤が出すことになった。
店を出て歩くこと5分足らずでバス停に着き、路線図を見ると、
幸い同じ系統の路線でいっしょに帰れることが分かった。
しかし、時刻表に貼り紙がされていた。路線の途中であるA町で異臭騒ぎがあり、
軍が周辺を封鎖しているため、現在、迂回路で運行しているとのことだった。
下半分には地図の白黒コピーが貼られ、赤インクで迂回路が示されている。
「なんか最近、妙な事件、多いんだよね」と、石川は言った。「こないだは、
しばちゃんチの近所で不発弾が見つかったとかで、やっぱりその地区を軍が一時封鎖してたっていうし」
「そうなんだ? あ、しばちゃん、って、元新聞部の?」
「うん、それがさぁ――」と、柴田がどんな迷惑を被ったかを続けようとしたが、
まるでその話題を打ち切るように吉澤が口を挟んだ。
- 242 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時10分39秒
- 「こんど、その柴田さんってコにも会わせてよ」
話の腰を折られ、多少鼻白んだ石川ではあったが、
「いいよ。すごく綺麗なコでさ、恋人いないのが不思議なぐらい」
「ふうん、そんなに可愛いんだ?」
「ま、わたしほどじゃないけどね――なんつって」と、石川は笑う。「でもね、わたし、
いっつもしばちゃんのお世話になってる。勉強でも遊びでも」
「へえ、仲いいんだね」
「うん、小学校の頃からだからね、マブダチだね」
「そう」
それから、不意に小さな沈黙がふたりのあいだにすとんと落ちた。それを石川はどう解釈したのか、
「あ、違うからねっ、べつに、そういうんじゃないから」
言い訳がましい口ぶりになる。
「なにが?」
「えっ?――いや、なにが、って、んー…なんだろうねえ、なに言ってんのかなぁ、わたし」
「梨華ちゃん、ヘンなの」
「いやぁ、ヘンだよね、センスもヘンだし」
ふたりで笑った。
- 243 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時11分53秒
「今日は楽しかった。イロイロあって」
「ホント、ごめんね、途中で倒れたりして」
「ううん、生まれて初めて救急車乗れたし、よかった」
「ヘンな感想ーっ」
「だってさ、赤信号とか、びゅうんって渡っちゃうんだもん。
もぉね、『梨華ちゃん、気ぃ失ってる場合じゃないよ、すっげえよ』って思ってたよ」
「あーっ、わたしのこと、心配してなかったんだ?」
「え…っ、してたよ、してた。すっごく心配してた」
「どーだか」
「ホントだってーっ」
日曜日の夜、バスの乗客はふたりのほかには数人だけだった。それも徐々に降りていって、
とうとうふたりだけになった。
バスのなかでも会話が弾んだ。最後尾の席に並んで座り、お互いに打ち解けあっているのが分かった。
少なくとも石川はなんの気負いもなく、自然に吉澤の顔を見て、笑い合ったりできた。
小さな交差点に差し掛かったとき、バスが赤信号で急停車した。
「きゃっ」
短く発し、石川はバランスを崩して、吉澤のほうに抱きつく形になった。
- 244 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時12分25秒
- 「ご、ごめん」
わざとではなかったが、一瞬でもぴったりできて嬉しかった。一方で、朝、家を出るとき、
お気に入りの香水を付けて来たけれど、すっかり落ちていたのが悔しかった。
「ねえ――」不意に、真顔になった吉澤の視線が石川を捉える。「梨華ちゃん…」
黒くて綺麗な瞳。彼女の名前がひとみであることが妙に納得できたし、それはとても似合いだと思った。
「梨華ちゃん」
もういちど名を呼ばれる。
――もしかして…いや、早すぎるかも…ううん、よっすぃーなら、わたしはいつでも「カモ〜ン」だけど…。
かすかに震えるまつ毛をそっと伏せた。
「次のバス停、梨華ちゃん降りるトコじゃなかったっけ?」
「ん?」
目を開け、辺りの景色を見る。そして、慌てて停車のブザーに手を伸ばした。
- 245 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時13分00秒
- ◇
玄関の呼び鈴を鳴らし、鍵をドアに差し込もうとしたら、ドアのほうから勝手に開いてきた。
「お帰りよっすぃー! 寂しかったぞーい!」
いきなり抱きつかれる。
「ちょっ、ちょっと矢口さん、危ないってば!」
よろめきながら、玄関の脇にある靴箱に手を突いて踏ん張る。
「だって、寂しかったんだよぅ」と言って矢口はまぶたを伏せ、そうするのが当然のように
「んー」と唇を突き出した。
「なんです、それ」
「お帰りのチューだよチュー」
吉澤が白い目で戸惑っていると、矢口の華奢な身体がおもむろに引き剥がされた。
今日の夕食当番である高橋が玄関まで出てきて「お帰りなさい」と言うのももどかしく、
「矢口さんは、夕食の準備を手伝うんでしょう?」と言い聞かせ、矢口の身体をリビングへと軽々引き摺っていく。
遠ざかるふたりの姿を見ながら、自分が不在のあいだ、特に大変なことはなかったことを悟り、安心した。
- 246 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時13分32秒
- 夕食は食べてきちゃったんです、という吉澤の言葉に落胆するふたりだったが、いっしょにテーブルを囲み、
少し摘ませてもらったら、共作の肉じゃがは、なかなかのものだった。
「んで、コンサートはどーだったの?」
「楽しかったですか?」
「まあまあでした」
石川が倒れたことは話さなかった。昨日、高橋の告白を断った経緯もあって、石川の話を出したくなかった。
しかし、
「石川ってコ、可愛いの?」
じゃがいもの欠片をひょいと口に入れて、矢口が尋ねる。
「んー、可愛いと思いますけど」素っ気なく答えた。
「性格は?」
「なんなんですか、いったい」
「よっすぃーに相応しい相手かどうか見極めるまでは、交際は認めん」
吉澤は頭を抱えた。
目の前では高橋がしょんぼりと沈んだ表情になる。
ひとに気遣いするひとなのに、どうしてひとの気遣いには気づかないんだろうか、と、吉澤はしみじみ思った。
- 247 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時14分04秒
- 夕食が終わり、リビングのソファに座ってなんとなしにテレビを見ていた3人だったが、
「そっだ、高橋さぁ、オイラ、なんかお酒欲しくなっちゃった。チューハイ買って来てよ」
矢口が言った。
高橋は「いいですよ」と快く引き受け、さっそく着込んで部屋を出て行く。
「あのコ、どうでした?」
玄関のドアが閉まる音を聞いて、吉澤は尋ねた。
「え?」
「だって、今日、また『出た』んでしょう?」
「あれ? なんで分かるの?」
「街で、異臭騒ぎだとかで、軍が出てるらしかったから。バス停の貼り紙にそう書いてありました」
「異臭騒ぎね」と、矢口はおかしそうに笑った。「こないだが不発弾処理だっけ?
その前が確か、地盤陥没の恐れによる避難。そろそろお偉いさんも、ネタもなくなってきたかねぇ」
ですね、と、吉澤も笑い、「んで、高橋、どうでした?」
「うん、スジはいいと思うけど、まだまだだね。ちゃんとフォローしてやらないと。詰めがまだまだ甘いよ」
「厳しいなぁ」
「だって、やっぱよっすぃーと比べちゃうからさぁ」
「いま、お世辞なんて言っても、なにも出ませんよ」
- 248 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時14分34秒
- 「お世辞じゃないって」と、矢口は真顔で言ったあと、
「あ――ねえ、ところでさ、よっすぃー、こんどオイラの部屋に遊びに来なよ」
「あー、ぜひ」
「で、泊まっていきなよ」
「えー」と、吉澤は眉をハの字にする。このあいだ迫られたことは記憶に新しい。
「心がなくてもいいの…身体だけでオイラは充分…」
もっともらしく頬に両手を当て、小さく呟くように言う矢口に思わず赤面して、
「いーや〜ッ! もぉ、なんてコト言うんですかぁっ!」と、吉澤は悲鳴のような声を上げる。
「カラダから始まる愛もあるんだよ、ふふふ」
「矢口さん、なんか目が怖いですって…」
「ヤだなぁ、オイラが教育係の頃は、いっしょによくお風呂入ったじゃん」
と、昔をしみじみと思い出し、矢口は頷きながら言った。
「たしか、鼻血出して途中で出て行ったことありましたよね。アレ、なんでですか?」
「…あー、えと、ほら、郷にいた頃は、オイラの部屋、よく泊まりに来てたじゃん」
「たしか、夜中に女の人が突然やって来て、
玄関のドアの外で矢口さんが土下座してたコトあった気がするんですけど、アレ、なんでですか?」
「こ…っ、細かいコト気にしないで」
「気にしますってば!」
- 249 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時15分59秒
- 大声で怒鳴ると、不意ににっこり笑って、矢口が穏やかに言った。
「よっすぃー、ホントに明るくなったね」
「え…?」
「オイラが最後に郷で会ったときとは大違い。あんときは、毎日がお通夜みたいな顔しててさ。
でも、今はなんだか、ずっと前、オイラが初めて会ったときのよっすぃーに戻ってる」
「そう…ですか?」
言ってから、急に照れ臭くなって、吉澤はうつむいてしまう。それまでふざけてて、
急に真剣な眼差しを向けるなんて、ちょっと反則だ、と思った。
「うん。ほら、言ったじゃん、ずっと前。『なにかを憎むだけじゃ、生きていけないよ』って」
「覚えてます…矢口さんに高校の卒業式で花束渡したとき、言ってくれたんですよね」
「今は…? 憎んでる?」
吉澤は押し黙った。しばらく自分のなかに答えを探していたが、やがて、寂しそうにぽつりと言った。
「分からないです…」
「そっか…」矢口は静かに言った。
「よっすぃー、オイラなんかでよければなんでも力になったげるからね」
「はい…」
「オイラ、よっすぃーのこと、いちばん分かってる人間だと思うし…」
「ねえ……あたし、口説かれてます? もしかして」
- 250 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時16分29秒
- やや間があって、「…えへへっ、そうだよっ」と、矢口は悪戯を見つかったように、舌をぺろりと見せた。
「もーう! 矢口さんっ!」
「いいじゃんいいじゃん」
と言って、矢口は問答無用でソファに吉澤を押し倒そうとする。ちょっとした攻防になった。
そのとき、玄関のドアが開く音がして、
「ただいま〜っ」
高橋の声だ。
ふたりの動きがぴたりと止まる。
まず、壁掛け時計に、そして玄関へ続く廊下のほうに視線を遣って、矢口は少し悔しそうに呟いた。
「ちっ、成長してやがる…」
そのセリフに、吉澤は思わず吹き出してしまう。
どすどすとリビングに入ってくるや否や、高橋は鼻息荒く矢口に詰め寄った。
- 251 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時16分59秒
- 「わたしをまた道に迷わせて、吉澤さんをかどわかそうとしていたんでしょう?」
血走った目つきで睨み付ける。
「そ〜はいきませんよ…さあ、お好きなだけどーぞっ」
両手に提げた、パンパンに膨らんだコンビニのビニール袋ふたつを、
これでもかと言わんばかりに矢口の目の前に差し出した。
「こっ、こんなにたくさん飲まないってば!」と、視野いっぱいに広がったビニール袋を前に、矢口は目を丸くする。
チューハイを頼まれた高橋だったが、戻ってきたらすぐに「これじゃない」と言われて
再び買いに行かされるのを恐れ、店にあったチューハイの全種類を買ってきたというのだ。
「いいえっ、飲んでもらいますっ。せっかく買ってきたんですから! さあ! さあ…っ!」
そんなふたりの様子を、困り顔で笑って見ている吉澤なのだった。
- 252 名前: 投稿日:2003年02月19日(水)06時18分02秒
214〜251:今日の更新です。
- 253 名前:名無し 投稿日:2003年02月19日(水)06時19分55秒
- >>212
次か、次の次ぐらいの話でなんとなく明らかにできると思いますが、
蓋を開けてみれば、きっとありがちな話です(笑
- 254 名前:名無し 投稿日:2003年02月19日(水)06時21分02秒
- >>213
今のところ、地味に地味に進行中です。文章荒れ気味ですが、よろしければ、またどうか。
- 255 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月19日(水)11時27分20秒
- 頻繁な更新嬉しいです。
続きが気になりますなあ。。。
- 256 名前:166 投稿日:2003年02月19日(水)12時47分00秒
- 更新、お疲れ様です。
だんだん面白くなって来ました。ググっと引き込まれてます。
矢口、高橋のキャラがイイですね!よっすぃ〜を含めたトリオがどこか
やんちゃな感じで楽しいです。
一見無関係なのかと思ってた後藤さん、何かありそうですね。
そして梨華ちゃんも何かありそう・・
目が離せなくなってます。次回も期待しております。
- 257 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月21日(金)20時07分46秒
- か〜〜〜な〜〜〜り、おもしろいです!
センスのない梨華ちゃんに笑えました。
よっすぃ〜の過去に何がっ!?
- 258 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月25日(火)23時55分11秒
- 一通り読ませてもらいました。
おもろい。いい。
なんかいい気分になっちゃいました。
続き楽しみです。 ドキドキ
- 259 名前:パート1-8 投稿日:2003年02月26日(水)01時06分29秒
- 清々しい光に満ちた朝の廊下で、教室に向かう柴田の背中を見つけ、
「チャオ〜ッ!」
駆け寄ったその勢いにまかせて抱きつく。一瞬、石川の両足が浮くほどに。
「うわっ、んわぁぁっと!」
つんのめりながらも、柴田はどうにか踏み止まると、両手でぺしゃんと耳を塞ぎ、「聞きたくない」
振り向きざまに言い放った。
「え〜っ、なによぅ、まだなんも言ってないじゃん」
「その緩みきった顔見たら、もうお腹いっぱい、ご馳走さま」
その緩みきった笑顔を目の当たりにしただけで、朝っぱらから無理矢理、牛カルビを口いっぱいに
頬張らされた気分である。げんなりしたやぶ睨みで石川を見据える。
「だって、しばちゃんぐらいしか聞いてくれるひといないんだもぉん…」
唇が上向いて尖り、切なげな上目遣いになる。無意識に自分の「武器」の使い方を知っているあたりが、
まったく始末に負えない。
「わたし、べつに梨華ちゃんのオノロケ聞き係じゃないんだよ?」
半ば呆れ口調で言うと、
「就任おめでとうございます」
石川は生真面目な表情になって、ぺこりとお辞儀。根負けしたように、柴田の表情が一気に緩んだ。
- 260 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時07分05秒
- 待ち合わせ場所に向かうときに服選びに迷ったところから始まり、コンサートの様子、そして、
夜、バスを降りて別れるところまで、結局、「完全ノーカット版」で聞かされてしまう。
それでね、よっすぃーが病院に付き添ってくれてたの。
よっすぃーといっしょにラーメン食べたの。わたしがみそで、よっすぃーがとんこつしょうゆでね。
よっすぃーったらね――。
ホームルームまでの時間、授業の中休みと、始終、そんな調子が続く。次からは、
できれば「名場面集」ぐらいでお願いできないだろうかと柴田は考えていた。
ひとしきり話が終わると、柴田は改まって尋ねた。
「で――?」
生物の授業の最後に、前回抜き打ちで行われた小テストが返却され、
一喜一憂でざわめく休み時間の教室である。石川の点数はお世辞にもよくはなかったが、
今や無敵モードの石川にとって、小テストの点数など道端に落ちている小石程度の存在でしかない。
「『で――?』?」石川は訊き返した。
「で、どこまで行ったの?」
「どこまで、って?」
「こら、とぼけるな。キスぐらいはした?」
声を潜めつつ、柴田は心の奥底まで見透かすほどに目を細める。
- 261 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時07分37秒
- 「だ、だって、まだ初めてのデートだよ? キスなんて、そんなコト…」消え入るような声になる。
「なに言ってんの。もう付き合ってるんでしょ? キスぐらいどうってことないでしょ」
そこでとうとう石川は、これまであえて黙っていた、極めて根本的な事柄を、
言い難そうにもごもごさせながらも柴田に告げた。
すると柴田はぽかんとなって、「まだ、告白もしてない、って…?」
さっきまでの、頭のなかで華やかな舞踏会が開かれているような石川はどこへやら、
急にお通夜になって頷く。無敵モード、実にもろい。
「じゃあ――」と、柴田は重ねて尋ねる。「よっすぃーの気持ちは?」
小さくかぶりを振る。
ふーむ、と、柴田は腕組みし、「てっきり、もう、そういう段階じゃないんだと思ってたけど」と、
半ば呆れ口調である。
「言わないで…それは心に刺さった棘なの…」
「わたしが訊いて来てあげようか? 梨華ちゃんのコトどう思ってるの、って」
「いい!…いいよ…」慌ててかぶりを振り、石川は必死な眼差しで言った。
「向こうはきっと、いい友達だと思ってくれてるし、わたしはそれで充分だから、今の関係、壊したくないし」
- 262 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時08分09秒
- 「でも、このままだったら、いつまで経ってもダメじゃない。
梨華ちゃん、前に言ってたでしょ? 仕掛けないと、って。行動あるのみよ」
「んー、でも、今のままで充分楽しいし」
「なーに言ってるの。自分だけを見て欲しいって思わない?
好きなひとにはいつも、自分のことをいちばんに想って欲しいな、って」
いつも冷静な柴田の声が、珍しく興奮気味に早口になって続ける。
「梨華ちゃんは可愛いんだから、もっと自信持っていいと思うよっ」
その勢いに戸惑いながら、石川は口を挟む。
「え…あの、し、しばちゃん、なんでそんなにわたしのために、一生懸命になってくれるの…?」
えっ?――と、思いも寄らない質問に、柴田は一瞬押し黙ったが、
「決まってるじゃない。梨華ちゃんは、わたしのいちばん大事な友達だもん、
しやわせになって欲しいって思うのは、当たり前じゃない」
- 263 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時08分40秒
- 「しばちゃんっ」
机を身体ごとまたぐようにして乗り出し、感極まった石川は抱きついた。
「しばちゃんって、ほん…ッと、いいひと!
しばちゃん、わたしにできることがあったら、なんでも言ってねしばちゃんっ」
「ぐる、ぐるしい、梨華ぢゃん…っ」
“わたしにできることがあったら――”
そう言いつつも、「柴田のために、自分ができること」――そんなものが世の中にあるんだろうか、と、
石川は思った。そして、いま、後ろからスカートの中身が丸見えなのには、全く気が付いていないのだった。
- 264 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時09分15秒
- ◇
突然見知らぬ生徒に声を掛けられても、吉澤には特に臆する様子はなさそうだった。
「ええ、うちが吉澤ですけど…?」
振り返り、靴箱の扉に手を掛けたまま答えた。
放課後、靴箱のところで待っていると、ほどなくして現れた吉澤に、柴田が話し掛けたのである。
――あー…たしかに、近くで見ると、ことさら綺麗なコだわ。
自分に向けられる眼差しに、柴田はそう心のなかで呟きながら、「ちょっと、いいかな?」
「はあ…あの、失礼ですけど――」
「あぁ、ごめん、わたし、3年の柴田っていう者なんだけど――あ、梨華ちゃんと同じクラスなんだけどね、
吉澤さんにちょっと尋ねたいことがあって」
「あぁ、梨華ちゃんの――?」音を立てて制靴を足元に落とし、上履きをしまうと扉を閉め、
「いいですよ」
吉澤は当り障りのない笑みを浮かべて頷いたところで、ようやく思い当たったのか、
「あ…もしかして、しばちゃん?」指差して言った。
- 265 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時10分55秒
石川からは、余計な気を遣わなくてもいいと釘を刺されたものの、
柴田は黙って見ているだけ、というわけにはいかなかった。石川から聞かされる話から察するに、
どうにも相手の気持ちがぼやけていて、よく分からない。石川のひとり相撲という気がしないでもない。
だから、吉澤の本音を聞いてみたいと思った。それで、場合によっては、
石川に対して有用な助言もできるかもしれないじゃないか。
「ここじゃあナンだから…」と、柴田は吉澤を連れて、レストハウスにやって来た。校舎から少し離れて、
綺麗に刈り込まれた明るい芝生が囲む平屋建てだ。校舎とお揃いの赤煉瓦造りで、
大きなガラス張りの窓からはY市の街並みが見下ろすことができ、昼休みや放課後の生徒たちにとって
憩いの場としては格好の場所だった。学食がレストランだとするなら、
ここはセルフサービスの喫茶店――つまりは、小さな売店付きの休憩所だ。
ふたりは広い店内に入ると、放課後の生徒たちで半分近く埋まっているテーブルのなかで空きを探すと、
ちょうど窓際で端の席の4人組が出て行くところだったので、そのあとに収まった。
- 266 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時12分09秒
- 外はよく晴れていた。格子状の窓枠の影がくっきりと落ちて、ちょうど吉澤の顔に十字を作る。
店内に満ちているざわめきのなかで「なんか飲む?」何台も並ぶ大きな自販機に目を遣って柴田が尋ねると、
「それよか、お話ってなんですか?」
きりりとまっすぐに見据えられる。
ひとしきり雰囲気がこなれてから切り出そうと思っていたが、仕方がない、本題に入ることにする。
「こないだ、いっしょにコンサート行ったとか」
「あぁ、梨華ちゃんが誘ってくれたから」
「梨華ちゃんってさ、どう思う?」
「可愛いコだと、思います」
「他には…? それだけ?」
吉澤の表情に怪訝なものが浮かぶ。「あの…お話っていうのは…?」と、小首を傾げ、
「質問の趣旨っていうか、うちに何を訊きたいかが分かんないんですけど」
「ええと…つまり、梨華ちゃんのことをどう思ってるか、っていうのを聞きたいんだけど」
「けっこう仲のいい友達、って思ってますけど……なんでですか?」
「え?」
「いや、なんでそんなコトわざわざ訊きに来るのかなぁ、って思って」
- 267 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時13分51秒
- 「そりゃあまぁ、長年の友達だから。あのコってば、けっこう思い込みが激しいっていうか、
いっぺんそう思ったら突き進んじゃうタイプだからね、ちょっとね、どんなひとかな、って」
石川のお人好しそうな笑顔が、ふと思い浮かんだ。
「ふうん…」
相槌とも取れない吉澤の反応に、
――なんか、調子狂っちゃうなぁ…。
それでも柴田は気を取り直し、「で、どう思う? 梨華ちゃんのコト」
「訊いてどうするの?」
「え…?」
「こういうコだから、これからも会ってよし、って梨華ちゃんに許可するの?」
挑みかかるでもなく、素朴な口調だった。
「…なにを…なに言ってるの」
さすがに戸惑い、言葉に綻びが生じる。
「柴田さんって、こうして話してると、友達思いでいいヒトっぽいけど、なんかすごくヨコシマな感じがする」
初対面の人間に面と向かって言うせりふではない。少なくとも、相手の目をじっと見て言う言葉では。
さすがに、なんと言い返せばいいか思いあぐね、すぐには言葉が出なかった。そしてとうとう、
柴田のなかの、なにかの「たが」が外れたようだった。
- 268 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時14分43秒
- 「わたしたち、さっき初めて会ったばかりでしょ? なんでそんなこと分かるのよ」
柴田の語気がかすかに荒くなり、端整な顔立ちが険を帯びた。
しかし吉澤はそんな相手の様子など目に入っていないように、淡々と答える。
「分かっちゃうんだよね。こういう『負』の視線って、すぐ分かっちゃう」
徐々にレストハウス内全体が静かに薄墨を広げたように暗くなり、それとともに吉澤の顔に浮かんでいた
十字の影は輪郭をなくし、消えてしまう。いつしか窓の外の空に冬の低く重い雲が広がっていた。
「負? 視線? …わたしの…?!」
「行きますね」
柴田の問いかけには答えずに、吉澤はおもむろに席を立つ。
店を出て、歩道代わりに芝生のなかに埋め込まれた丸石のステップを歩いて行く吉澤を、
ただ黙って見送るだけの柴田ではない。
「ちょっと! ちょっと待ってよっ」
柴田も店から出て、吉澤の背中に声を掛けるが、立ち止まるどころか振り返る気配すらない。
風が強い。吹きすさぶ風に髪を巻き上げられながら、とうとう柴田は駆け出して吉澤に追いつき、
その手を取った。どきりとするほどに冷たい手だった。
- 269 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時17分12秒
- 小さく息遣いを乱れさせたままに、
「待ってって、言って、るで…しょっ」
吉澤は困惑混じりに握られた自分の手にじっと視線を落とすと、「離してください」
「率直に訊くけど、吉澤さんって、ナニモノなの?」
吉澤に向ける眼差しが鋭くなり、言葉の端々に険が覗く。
石川から聞かされる話を通して、吉澤ひとみの存在になにかしら違和感を感じていた。自分のなかで、
なにかが納得いかない。その存在自体が、どこか整合性に欠けているような気がした。そもそも、
エスカレーター式のこの学校に転校生ということ自体が異例である。そして、さっきの会話で
ますます違和感が増した。どこか浮世離れしているものを感じる。ハイ・ソサイエティという意味での
浮世離れではなく、もっと根源的ななにかが違っているように思える。そしてそれは、
実際に話してみて、ますますくっきりとした。
最初は単なる直感だったが、新聞部の部長をやっていたのは伊達ではない。腑に落ちないことは
ハッキリさせないと気持ち悪くて仕方ない。
なぜ吉澤のことがやけに気になっているかが、ようやく自分でも解かった。
- 270 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時17分43秒
- 吉澤に近づいたのは、それ以上でも以下でもない。ハッキリさせたい。ただ、それだけだ。
「答えてくれたら、手ぇ、離してあげる」
そう言って柴田は、答えてくれるまでは逃がさない、という意志を、
握った手にさらに固く力を込めることで伝えた。しかし、次の瞬間――
「――ッ!」
突然、柴田の手のひらに鋭い痺れが走った。思わず吉澤の手を振り払うようにして離す。
――な、に…? 今の……静電気…?
自分の手のひらを見詰める。静電気にしては鋭すぎる。
吉澤の顔を見た。その表情には、冷たく静寂が立ち込めている。
「必要以上にうちに興味を持たないほうがいいと思う」
「どういう、こと…?」
吉澤の顔が不意に接近し、その目が言った。
「うちはただ、ひとときを楽しく過ごしたいだけなんだから、構わないでもらえる?」
柴田はその瞳の奥に、なにかを見たような気がした。何かは分からないが、
とても自分には太刀打ちできそうもない、なにか――大きな存在を。
正直、身体がほとんど本能的に怯えを感じていた。足が動かない。
風で波打つ芝生のなかを遠ざかる吉澤の背中を、今度は、柴田はただ茫然と見詰めるしかなかった。
- 271 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時18分16秒
- ◇
Y市のオフィス街のど真ん中に、ぽかんと大きく開けた空間がある。高いビルに囲まれたそこは、
市内でも有数の広い敷地面積を持つ緑地公園である。ニューヨークのセントラルパークにならって
「Y市中央公園」と名づけられ、もっぱら付近のオフィスに勤めるサラリーマンやOLたちが
休憩に訪れる場所になっていた。公園の中央には大きな池があり、まさに“都会のオアシス”と呼ぶに相応しい。
斎藤は、ほぼ約束の時間どおりに着いた。ちらと藤色のスーツの裾を見る。いつもはもう少し
華やかな色を選ぶところだが、今日に限っては地味なものを選んだ。
池のほとりにある貸しボート屋の古い木造家屋の前に年代物の椅子を持ち出して、
座って煙草を吹かしている老人はおそらく店の主人だろう。
池を見渡すと、なるほど、暇なはずだ。ボートで遊ぶカップルの姿が、今日は見られない。
貸しボート屋の前。それが、指定された待ち合わせ場所だった。
- 272 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時18分47秒
- 「いいスーツだね」
いきなり話し掛けられて、ヒールの足を止めた斎藤は辺りをきょろきょろと見回した。
いつしかそばのベンチにひとりの少女が座り、膝元に広げていたコギャル御用達の雑誌「エック」から顔を上げ、
斎藤を見ていた。片手で抱えられそうなほど華奢な身体には不釣合いな長さの皮のブーツを履いている。
身長が低いことにコンプレックスを抱いているのだろうか、ヒールが高い。きちんと手入れされた
ショートカットがそよ風に吹かれ、ちらちらと眩しく光っている。
――ヘンなコ…。
ぷっくりと肉感的な唇を尖らせ、一瞥しただけで、無視を決め込むことにする。
時計を見る。先月、雀の涙ほどのボーナスを工面して買ったブルガリの腕時計だ。素材は
ステンレスとアルミニウムで軽く、文字盤とチェーンのデザインが気に入って、
店のショーウィンドウの前で1時間立ち尽くし、迷いに迷った挙句に購入した品である。
- 273 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時19分30秒
- 職場に電話があったのは、昨日の今ごろのことだ。
この歳から窓際族というわけでもないと思うが、頼まれるのはコピーとお茶汲みばかり。
警察大学を出たときは、捜査線で走る自分の姿を想像して悦に入っていたが、男ばかりの職場で、
現実はそんなに甘いものではなかった。外に駆り出されることは、まずない。いま、署では、
全国紙でも大きく取り上げられた一家殺人を追っていて、斎藤はその捜査資料をまとめる作業ばかりに
追われる毎日を送っていた。
実家は新潟である。どこまでも田んぼが続き、電柱が等間隔にぽつんぽつんと見えるだけの田舎だった。
両親からは、刑事になるぐらいなら、近くの農家に嫁にでも行って堅実に暮らせ、と言われていた。だから、
たまに電話があっても、実際のことは話さない。言えばきっと、さっさと田舎に帰って来いと言われるのが
落ちだ。その代わり、いま追ってる犯人(ホシ)がさぁ――などと、もっともらしいことを並べ立てるのである。
- 274 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時20分00秒
- 昨日も8頁の資料を100部用意しなくてはならず、机の上のワープロとコピー機の前を
朝からひたすらに往復していたところ、
「おい、斎藤」
突然、課長が声を掛けてきた。電話に出ろ、という。そして、とにかくこの件はまかせた、と。
訳の分からないままにデスク脇の内線4番のボタンを押して受話器を取ると、
『内務省危機管理2局の中澤と申しますが――』
電話口に出たのは、ふわりとハスキーがかった、艶のある女性の声だった。
内務省と言えば、軍とも繋がりの深い、治安の総元締めである。小さなことは警察が、
大きなことは内務省が決めるのだ。
だいたい、危機管理2局という部署も初耳である。世の中はきっと、こんな、
自分の預かり知らないような部署が寄り集まって回しているものなのだろう。
中澤と名乗る女は用件を話し始めた。ひと言で言えば、
しばらくこちらの仕事に力を貸して欲しいというのである。
官僚と呼ばれる人種と話すのは、初めてだった。斎藤が抱く官僚のイメージと違い、
彼女の話しぶりは極めて簡潔明瞭だった。
- 275 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時20分39秒
- それにしても、なぜわたしが?――と思い、用件を聞き終わり、受話器を置いたあとで課長に尋ねると、
どうやら課長の「上」の「上」あたりから来た話らしく、詳しいことは知らないが、
先方は“能力の有無は問わない”とのことだったという。とにかく、この管轄で警察の身分を持つ人間を
ひとりよこしてくれ、と。あぁ――と、合点がいく。
多少プライドは傷ついたが、いまさら…という気もしたし、少なくともこの世の誰かが、
自分が持つ身分を必要としている事実は、斎藤の心のうちに心地いい風を吹かせた。
そんなわけで、今日からは内務省出向という形になったものの、省の建物に行ったわけでもなければ、
上司――この場合は中澤と名乗る女性ということになるのだろうか――に会ったわけでもない。ただ、
今日の2時、この場所でひとに会い、いっしょに、ある場所を訪ねて欲しい、とだけ聞いた。
よく分からないが、たまには平日の昼間、外の空気を目いっぱい吸ってみるのも悪くない
という程度にしか考えていなかった。
- 276 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時21分54秒
- 約束の2時を5分あまり回ってしまった。
午後の陽光は温かく、木々の枝は喜ぶようにさわさわと揺れている。
「ねえ、今日はあったかいねー」
また少女が話し掛けてくる。いったいどういうつもりなのだろう。
訝しげな目つきで再び少女に向き直ると、
「ヒマそうね」
皮肉っぽく言う。あんた、学生だかプーだか知らないけど、もうちょっと、世の中ときちんと向き合ったらどうなの?
しかし少女は、そんな斎藤の言葉の端々に漂う苛立ちを逆手に取って、
「なんか欲求不満ぽそー。いー身体してるのに、もったいなぁ」
余計なお世話よどうせ恋人はこの10ヶ月間いないわよこのセクシーバディ持て余してるわよ
っていうかあんたいったいなんなのよ。
「ねー、そろそろ行かない?」
初めは、誰に話し掛けているのだろう、と思った。そして、辺りに自分以外の人影がないことを改めて悟ると、
「…わたし?」
斎藤は自分の顔を指差して、困惑気味に訊き返した。
「そうだよ。あんた以外に、ココに誰がいんのさ」
可笑しそうに少女は言った。
- 277 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時22分57秒
- 「…? なに言ってんのよ、あなた」
「それはオイラのセリフだってば、ひとみちゃん」
少女はそう言って、雑誌をベンチの傍らのゴミ箱に無造作に投げ入れた。
「もしかして……あなたが、矢口、さん…?」
斎藤の怪訝な視線を跳ね返すように、少女はよろしくと言って、明るい微笑を浮かべた。
名前だけは聞かされていたが、まさか、こんな小柄で幼い顔立ちの少女が相手とは思いも寄らなかった。
「ん? オイラの顔になんか付いてる?」
「あ、いや、あの、ひとみちゃんっていうのはちょっと…」
「いいじゃん。気に入っちゃった、“ひとみちゃん”って」
- 278 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時23分27秒
- 少女はさらに満面の笑みになると、地下鉄の駅の方向へと歩き出した。
ひとときその場に立ち尽くしていた斎藤は、慌てて少女の小さな背中を追う。すぐに追いつき、
「あの、矢口さんって、内務省のひとなの…?」
どう見ても官僚には見えない。だいたい、20歳そこいらではないのか。
「違うよ」
「あの、全体的に、どういうことなのか教えてもらえない? わたしには、なにがなんだか…」
すると矢口は急に立ち止まり、
「あ、いいのいいの、ひとみちゃんは、オイラのそばにいてくれるだけでね」
斎藤は釈然としないまま、まじまじと金髪の少女の顔を見詰めた。
- 279 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)01時27分21秒
- 今回の更新は、>259以降です。
次からは新スレを立てて続けます。
- 280 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)01時27分52秒
- もお、誤字なんて数え切れないほどあるんですが、ひどいものを発見したので今さらながら訂正。
>>75 で柴田あさみと書いてしまったのは、もちろん柴田あゆみの間違い。申し訳ない・゚・(ノД`)・゚・
- 281 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)01時35分17秒
- >>255
早くて上手かったらいいんですけど、、(´・ω・`)
客観的に自分の文章見るのが苦手なので、どんな風に読まれているのかハラハラ。。
>>256
あんまり思わせぶりばかりが続くのもだれちゃいますが、
順を追って紐解いていこうと思っています。って、あんまり先のコト考えてないんですけど(汗
よろしければ、またお付き合いください。
>>257
よっすぃーの過去は、わたしもまだあんまり考え…ゴホゴホ。。
畳める程度の大きさの風呂敷しか広げてないつもりなんですが…
笑えるものは苦手なので、嬉しいです。
>>258
書いてるほうも読んでるほうも楽しい、というのは、この上ない幸せな共犯関係ですね(笑
よければ、もうしばらくお付き合いくださいね。
- 282 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)02時18分53秒
- 海板に新スレ「ワールド・アトラス2」を立てさせて頂きました。
以降の更新はそちらで。
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sea/1046191627/l50
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