シロウトクロウト
- 1 名前:NEMO 投稿日:2003年02月01日(土)21時08分34秒
- はじめまして。
タイトル通り、白い人がクロく、黒いひとがシロく登場します。
他にもいろいろ、年齢はばらばらに出てくると思います。
まだ研究不足、拙いものではありますが、お付き合い下されば幸いです。
- 2 名前:Stray dog 1-1 投稿日:2003年02月01日(土)21時14分41秒
- 深まる秋の日に、人づてに手紙が届いた。
会いたい。
その4文字に気付いたときは、正直、逃げ出す理由を探していた。
果たさずにいる約束ごと、3人で過ごした日々をなかったことにしたかった。
あの子の父親に対しての、遠慮も勿論あった。
それでも、便箋の上、カラフルに並んだ子供の字に、気持ちが動いた。
昔から、あの子のおねだりには弱いのだ。
甘やかしすぎだと、笑みを含んだしかめ面をされたこと、今でもあの視線を憶えている。
7年半ぶり。
幼稚園の年中さんだった亜依は、もう中学生になっている。
- 3 名前:Stray dog 1-2 投稿日:2003年02月01日(土)21時15分24秒
- 物心つくかつかないかの幼少期に離れてしまったのに、亜依はまったく迷わなかった。
「よっすぃ!」
休日のJR新宿駅南口。
喧噪の中、声の主を探して惑う吉澤に、助走をつけての体当たりをぶちかます。
人間違いだったらどうするんだろうと、イノシシぶりを心配しながら、吉澤は左手でお団子頭を包み込むように撫でてやった。
「大きくなったなぁ、あいぼん」
亜依は吉澤の黒いコートの肘にしがみついて、その長い腕に頬を擦り付ける。
中学1年生にしては、小柄な方だろう。
亜依の行動も表情も、まだまだ弧度もの無邪気なもので、吉澤は内心安堵していた。
亜依は、母親に似ていない。
「当たり前や。もぉ、うち、よっすぃは忘れてしもたんや、て思て」
ただひとつ、すこし涙の混じった声で紡ぐ関西ことばが、母親を思い起こさせる。
「……お母さんのことも、うちのことも、みぃんな」
「ごめん」
謝るしかなかった。
女達に泣かれるのには慣れていた。
でも、この13歳年下の子供に泣かれるのには参ってしまう。
幼稚園の頃と同じ手が通用するのかわからなかったけれど、吉澤は食べ物で亜依の機嫌を取ることにした。
- 4 名前:Stray dog 1-3 投稿日:2003年02月01日(土)21時16分05秒
- 吉澤ひとみにとって、加護亜依は妹のような、娘のような存在だといえる。
亜依の実の両親は、吉澤と母娘が出逢ったとき、既に離婚寸前で。
母ひとり、子ひとり、小さな家庭に吉澤も混ざって。
このまま3人でずっと一緒に、楽しくやっていけるんじゃないか、そんなふうに考えていた。
でも、『彼女』は死んでしまったから。
亜依は既に再婚していた父親のもと、加護家に引き取られた。
吉澤は大学への入学を控えたケツの青いガキで、幼稚園児を育てられるような状況ではなかった。
もっとも、吉澤と亜依には血の繋がりがない。法的にもまっさら、赤の他人だ。
育てたい、と主張したところで認められるはずがなかった。
- 5 名前:Stray dog 1-4 投稿日:2003年02月01日(土)21時17分00秒
- 絶えず微熱に追われて走り続けた、幼い日々。
3人、ちょっと普通とは違うかもしれないけれど、家族だと思っていた。
でも、そうではなかった。
全然、違っていた。
普通じゃない人間は、独りで死んでいくしかないのだ、そう気付いた。
独りで生きて、死ぬ方法を、吉澤はあれからずっと探している。
病んだ猫が、人の目を避けて、己の死に場所を探し求めるように。
- 6 名前:Stray dog 1-5 投稿日:2003年02月01日(土)21時17分39秒
- 「なあ、よっすぃ、髪、黒くしたん? いつ?」
「就職するとき。変かな?」
明るいイエローブラウンにしていた吉澤しか知らない亜依には、物珍しいようだ。
短かめに整えられた吉澤の黒髪から、視線を外さないで尋ねた。
「ううん。カッコエエよ。で、仕事は?」
「んー、内緒」
さっきから、亜依はクエスチョンマークを連発している。
その問いに答える自分の言葉が、過去のものに戻っていきつつあることを、吉澤は感じていた。
新たに得た職業に合わせて、自分の言葉も外見も買えたつもりだったのに。
被った皮が、剥がされてしまう。
「……イケナイ仕事なん?」
フォークを握ったまま、亜依はテーブルの上に身を乗り出して、不安げに声をひそめた。
色褪せたジーンズにハイネックの長袖Tシャツ、薄手の膝丈コート。
今日の吉澤の服装では、まともな社会人に見えないかもしれない。
(失敗したな)
内心舌打ちしながら、亜依の疑念を振り払おうと、吉澤はその口元にやわらかな笑みを浮かべてみせる。
「真面目にやってますよぉ、今は。ちゃんと。じゃなきゃ、裕子さんに怒られる。
……ほら、余所見しなーい。下、こぼれてるよ」
顎を持ち上げて、指摘する。
- 7 名前:Stray dog 1-6 投稿日:2003年02月01日(土)21時18分41秒
- 亜依の前に置かれているのは、苺やラズベリー、スグリを色よく盛り付けたタルトだ。
バターがたっぷり使われていて、サックリとおいしい、そう評判のタルト生地が皿のまわりに散らばっている。
「よっすぃも、食べる?」
「私はいいよ。あいぼん、食べな」
いつから、ケーキが似合わない人間になってしまったのだろう。
亜依のような少女だったころも、確かに存在したはずなのに。
ブラックコーヒーを啜りながら、太陽を仰ぐように目を細めて、吉澤は亜依を見つめていた。
コーヒーよりも、久し振りに舌にのせた名前のほうが、遥かに苦かった。
ゆうこさん。
あの夜、泣きながら叫んで叫んで叫び続けて、喉を嗄らした名前だ。
誘惑に負けて、吉澤はもう一度、声を出さずにその動きを繰り返した。
ゆうこ、さん。
鍵をかけたアルバムが開きそうな気がして、吉澤は舌を誤魔化すように、コーヒーを啜った。
一杯だけではとても足りなくて、亜依のアップルパイと一緒に、コーヒーも追加注文する。
カフェインよりも、アルコールが欲しかった。
- 8 名前:Stray dog 1-7 投稿日:2003年02月01日(土)21時19分28秒
- 「送っていかなくて大丈夫?」
「うん、平気。乗り換え簡単やし。ののと小母さん、駅まで迎えに来てくれるて」
亜依が通っているのは、日本では余りない2期制の学校で、短いけれど秋期休暇がある。
亜依はその秋休みを利用して、友達とディズニーリゾートに泊りがけで遊びに来ているのだ。
勿論、子供たちだけで小旅行ができるはずもない。
亜依の父親は仕事で忙しいので留守番だけれど、そのかわり友達の両親が一緒だということだった。
「そっか。じゃ、ここでいいね?」
亜依は頷き、改札口の前で立ち止まると、上目遣いに吉澤を見た。
きっとまた何か、おねだりしたいことがあるのだろう。
吉澤はすこし身構える。
「よっすぃー」
「ん? どした?」
「ケータイ、教えて」
ちょっと、ためらった。
それから、コートの内ポケットを探って、金属のケースから名刺を1枚取り出す。
吉澤は名刺を3種類持っていた。
今、取り出したのは、『プライベート用』だ。
細い黒字で、姓名、自宅の電話番号とパソコンのメールアドレスが記されている。
- 9 名前:Stray dog 1-8 投稿日:2003年02月01日(土)21時20分12秒
- 「ケータイ、持ってないんだ。だから、家に直接電話して。留守電、使えるから」
嘘だ。
肩から提げたショルダーバッグには、メタリックシルバーの携帯電話が眠っている。
「よっすぃ、遅れてんなぁ。ウチでも持ってんで」
「なんか、邪魔でさ。ちょっと前まで、使ってたんだけど」
亜依は大事そうに、シンプルな名刺をシステム手帳のポケットにしまった。
はにかんで、歯をみせて笑う。
「あ、これ、お父さんがよっすぃに渡してくれ、て」
亜依はトートバッグに手帳をしまうかわりに、分厚く膨らんだB5サイズの茶封筒を引っ張り出した。
その茶封筒は、厚みのわりに重たくない。カサカサと、乾いた音をたてている。
中身を守るために、何かクッションになるようなものを一緒に入れているみたいだ。
「ありがと。……お父さんに、私に会うこと、言ったんだ?」
「うん。お父さん、よっすぃに悪いことしたって。かわりに謝っといて欲しいんやて、ウチに」
「そんなこと、ないよ」
「よっすぃ、お父さんに殴られたん?」
「かるーくね、ほんと、かるく。だから、謝られるような、ことじゃないよ」
- 10 名前:Stray dog 1-9 投稿日:2003年02月01日(土)21時20分45秒
何故、殴られたのか。
理由は、言わなかった。
子供ながらに気付いているだろう、吉澤はそう思う。
偽りではあったけれど、それでもあのころ、自分たちは家族だったのだから。
- 11 名前:NEMO 投稿日:2003年02月01日(土)21時24分02秒
- 初日はここまで。
これまで掲示板にこうして小説をあげたことがないので、まったく要領がわかりません。
改行など、読みにくいところがありましたら、どうぞ言って下さい。
随時改良していきたいと思っています。
- 12 名前:NEMO 投稿日:2003年02月01日(土)21時27分38秒
- スレッドが長いので、もういっちょ。
しばらくはこのまま白くてクロいほうでネガネガと。
残念ながら、黒くてシロい人に出会うのにはまだ結構かかりそうです。
- 13 名前:チップ 投稿日:2003年02月01日(土)22時08分40秒
- おもしろそう、続き楽しみにしてます。
- 14 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月01日(土)22時31分53秒
- 大人っぽい吉がイイですね。
3人の過去に何があったのか・・痛めな感じに引き込まれてます。
- 15 名前:読者 投稿日:2003年02月02日(日)03時22分35秒
- 三人の過去がはやく知りたい〜!!!(w
すごく楽しみです。
- 16 名前:Stray dog 2-1 投稿日:2003年02月03日(月)16時35分54秒
- 改札口で亜依と別れて、吉澤は駅ビルの書店に寄った。
週刊誌のたぐいを斜読みしてから、腕時計を覗き込んだが、まだ夕方の5時前にしかなっていない。
(早過ぎるかな。……遅れるより、いいか)
手土産に、量販店でワインを1本買った。
スペイン産の赤、シグロ。
夏目漱石に少し上乗せするだけで買える割には、うまい。
気取らない仲間との夕食の席に供するには、これで充分だ。
ワインを携え、明大前で乗り換えて、下北沢に向かう。
各駅停車でも、下北沢まではものの数分で到着する。
その電車の中で、糊付けされた茶封筒を開けた。
- 17 名前:Stray dog 2-2 投稿日:2003年02月03日(月)16時36分58秒
- 中身は古い、3本のビデオテープだった。
家庭用ビデオカメラがデジタルにほとんど切り替わった今では余り見られない、VHSコンパクトテープ。
3本とも、裕子が撮ったものに違いない。
黄ばんだラベルに、彼女の字で日付けと場所が記されている。
あの小さなアパートで、客が入る前の『店』で、仲間と騒ぎながら写したものだ。
封筒に触れた指先が、震えた。
4秒、息を吐き、しばし止め、次の4秒で吸う。
その呼吸を繰り返し、震えがおさまってくれるのを待つ。
そして視線をあげたときには、吉澤の涼しげな瞳に動揺は見えなくなっている。
吉澤は封筒をショルダーバッグの中に戻し、ワイン袋を抱えなおした。
電車は既に、下北沢のプラットホームに滑り込もうとしていた。
- 18 名前:Stray dog 2-3 投稿日:2003年02月03日(月)16時37分45秒
- 駅前の通りを南に進む。
花屋の隣、やわらかなクリーム色の壁を持つ喫茶店の前で立ち止まり、窓から店内を窺った。
背の高い観葉植物、分厚い木材のカウンター、空になったカップ。
そういえば、毎日曜は夕方にもなると、さっさと店仕舞いをしている。
木戸には、『Closed』の札があった。
カランコロンと、ベルが鳴る。
カウンターの天板を磨いていた人影は、明るい色の髪を揺らして顔をあげた。
「よしこ、早かったねー」
吉澤の姿を見るなり、ふにゃりと破顔して、布巾を置く。
濡れた手を、厚地のエプロンに擦り付けて水気を拭ってから、両腕を広げる。
吉澤もまた、笑顔になって歩み寄る。
カウンター越しに抱き合い、互いの背中を軽く掌で叩いた。
挨拶はヨーロッパ式なのだ。
「いやいや、ごっちんも元気そうでなにより」
「っていうか、金曜にも会ったじゃん」
「あー、そうかも」
喫茶店のマスター、後藤真希と吉澤の付き合いは長い。10年近くにもなるだろう。
後藤がパートナーを見つけてからも、変わらずに行き交いは続いている。
吉澤にとって、友人と呼ぶことができるのは後藤だけだった。
- 19 名前:Stray dog 2-4 投稿日:2003年02月03日(月)16時38分46秒
- 「すぐ片付けるから、座って待ってて」
「うん」
スツールに浅く腰掛けて、後藤が立ち働く様子を眺めていた吉澤は、ふと思い立って傍らのショルダーバッグを探った。
取り出したのは、茶色にくすんだ封筒。
日付けを再度確かめて、3本のビデオテープを古い順にカウンターに重ねる。
ワインと揃えて、後藤に差し出した。
「これさ、愛しいごっちんにプレゼント」
「へ?」
「多分ね、市井さんならこのビデオ見れるデッキ、まだ持ってると思うんだ。
市井さん、やたらに家電製品集めてるし、意外と貧乏性だから捨てられないでいるし」
吉澤はいつになく饒舌だった。
後藤がビデオテープを手に取るのを横目で確認して、また口を開く。
「この中、ごっちんに会う前の市井さんが写ってるよ、きっと。
結構、面白いと思うし。まあ、別に興味なければ、さっさと処分してくれてもいいし」
カウンターに肘をついて、こめかみを拳でおさえている吉澤の表情は、後藤から窺えない。
それでも後藤は、気付いた。
テープを置き、流れ落ちる黒髪に、そっと手をのばす。
「……そっか。今日、だよね、約束。よしこ、逃げないでちゃんと会ってきた?」
「だからぁ、テープがここにあるんですよ、お嬢さん」
「偉いエライ。頑張ったねえ」
頭を撫でる後藤の手がひどくやさしくて、吉澤は少し肩を震わせた。
- 20 名前:Stray dog 2-5 投稿日:2003年02月03日(月)16時39分44秒
- 喫茶店を閉め、賑わいの絶えない商店街をうろつき、夕食の買物をしながら家路をいく。
魚屋ではイカが、八百屋ではリンゴが余分についてきた。
後藤は商店街の先輩方に、随分と可愛がられているようだ。
後藤が店先で捕まっているあいだ、ビニール袋を押し付けられた吉澤は、所在なさげに道端に突っ立っていた。
ビニール袋を覗き、頭の中のレシピ帳をめくって考える。
海老、貝類、ホールトマトの缶詰。セロリとチコリ、にんにく。
「ペスカトーレ?」
「そ。なんだかねえ、気分がイタリアンなんだ」
結局、後藤がパートナーと住む分譲住宅まで、30分近くかかった。
そっくり同じ造りの細長い2階建ての建物が3棟並ぶ、その東側。
つやつやと黒光りするドアの脇、ポストの上にふたつの苗字が仲良くくっついている。
『市井』『後藤』
- 21 名前:Stray dog 2-6 投稿日:2003年02月03日(月)16時40分35秒
- 「市井さん、帰ってないんだ」
「新人の面接が午後から入っちゃったって。
なっちから連絡きて、チクショーとか言いながら出てったよ、いちーちゃん」
ワインクーラーに吉澤の手土産を片付けて、後藤はシステムキッチンの前に陣取った。
見事な手付きで魚介の下ごしらえをし、同時進行でトマトソースを作る。
途中で吉澤と交代して、後藤は洗濯物を取り込みに走った。
「真希ぃ、ただいまー」
吉澤がイカの薄皮と格闘しているところに、後藤の同居人、市井紗耶香が帰ってきた。
だらしなく間延びしていた声と、弛んでいた顔面筋肉が、キッチンの吉澤を見るなり引き締まる。
「あ、どうも、おかえりなさい」
「ドーモ、じゃないだろ。吉澤お前、昼に何度も電話したのに出ないしさ。
あたしだけで面接する羽目になっちゃったじゃん」
市井は口元をひん曲げて、脱色した髪を掻き回す。
レザーのパンツで包まれた脚を組み、右腕を背もたれにかけて、ダイニングの椅子に深々と座った。
肉付きも薄く、日本人女性の平均身長にぎりぎりの市井だが、体格にはそぐわない風格がある。
- 22 名前:Stray dog 2-7 投稿日:2003年02月03日(月)16時41分32秒
- 14歳の夏に知り合って以来、市井はなにくれと吉澤の面倒を看てくれた。
『仕事』の先輩で、恩がある。
さすがに昔のように、毎晩毎晩一緒に遊び歩くことはないが、今でもしょっちゅう後藤を加えた3人で呑んだり食べたりしている。
「ちょっと、人に会ってたんですよ」
「女?」
「ええ、まあ、一応」
「昼間っから喰っちゃってた、と。んで、幾ら取った?」
市井の声に、からかうような響きはまったくない。
日々の空模様を尋ねるのと同じ、淡白なやり取りだった。
「残念ながら。14歳未満の子供でした」
「やー、今のコドモは進んでるからなあ。
吉澤が手塩にかけて育てた亜依ちゃんも意外にね、もうヒトのもんになっちゃってるかもよ?」
「……知ってるなら、一々訊かないで下さいよ」
並びのいい歯を剥き出して、イヒヒと笑う市井を、吉澤は肩ごしに振り返って睨んだ。
魚介を炒める手元が狂いそうだ。
吉澤は白ワインを目分量でふりかけて、フライパンに蓋をする。
「ごっちーん。この人どうにかしてよ。手に負えない」
情けなくも、2階に向かって助けを呼んだ。
- 23 名前:Stray dog 2-8 投稿日:2003年02月03日(月)16時42分28秒
- ペスカトーレとシーザーサラダ、ワインで腹を満たし、食後のコーヒーも飲み終えた。
後片付けは市井担当と決まっていて、市井は次々と皿を重ねて腕にのせ、シンクに運んでいく。
後藤の躾が行き届いているらしく、市井がさぼっている姿は吉澤も見たことがない。
「じゃ、こっちもそろそろ働きますか」
椅子に腰掛けたまま伸びをして、吉澤は持参してきたノートパソコンを開いた。
会計ソフトを立ち上げる一方で、ファイルから紙の束を取り出し、万年筆を用意する。
「では、よろしくお願いします」
後藤が畏まった表情で、数冊のノートを吉澤に差し出した。
ノートは手書きの罫線と算用数字で埋まっている。
後藤が切り盛りする喫茶店の伝票であるとか、出納帳であるとかだ。
吉澤はノートをめくり、後藤に短く質問を飛ばして、万年筆とキーボードを使い分けながら記帳を進める。
数年前から、申告の為の帳簿作成は吉澤の担当だった。
九九すら言い淀んでいた頃からは想像のつかない速度で、40分も経たずに作業を終えた。
「こんなもんかな」
「あはっ、ありがと、よしこ」
ノートを後藤に返して、吉澤はテーブルに広げたファイルや書類をしまい、帰り支度を始めた。
- 24 名前:Stray dog 2-9 投稿日:2003年02月03日(月)16時44分38秒
- 胸の前で腕組みし、首をゆっくり上下に振りながら、感慨深そうに市井が呟く。
「吉澤も結構サマになってきたなあ」
「毎日鍛えられてますからね、鬼の上司に」
「違いないや」
「市井さんも、さっさと伝票持ってきてくださいよ。毎月毎月遅いんだから」
肩を竦めて、市井は壁のフックからパーカーを取った。
「もう帰るんだろ。そこまで送ってく」
横に並んで歩くと、市井の肩は吉澤のものより低い位置にあって、やはり華奢な造りをしていた。
足運びが、普段よりも遅い。
家から死角になる、角を曲がってすぐのところで足を止めた。
「悪い、ちょっと煙草吸わせて」
閉まったシャッターの前、細い身体を電柱の影に寄り添わせて、パーカーのポケットを探る。
市井はライターとHOPEのパッケージを取り出し、1本咥えて火をつけた。
手持ち無沙汰に佇む吉澤に、HOPEを差し出す。
吉澤はそれを断わり、自分のポケットから煙草を抜き取って唇に挟んだ。
市井が咥えた煙草から、火を分けて貰う。
- 25 名前:Stray dog 2-10 投稿日:2003年02月03日(月)16時45分57秒
- 「で、どうだった、再会は?」
「大きくなってましたよ」
「そりゃそうだ。……7年?」
「もう、そんなになるんですね」
今更のように、感じた。
中澤裕子が死んで、もうそれほどの年月が経とうとしているのか。
「吉澤、お前さ、このままでいいわけ?」
「このままって?」
苛立たしげに舌打ちし、市井は足元に灰を落とす。
「最近、『店』にもほとんど顔出さないって、矢口が膨れてた」
それは、言われると予想していたことで、言われたくなかったことだった。
「すみません。なんだか、昼間の方が忙しくて」
「……そっか。でもなあ、お前、1人でいるなよ。
誰かさ、紹介してやろっか? そんな必要、ないだろうけど」
「それじゃあ、ごっちん下さい」
- 26 名前:Stray dog 2-11 投稿日:2003年02月03日(月)16時47分03秒
- ちょっと背伸びをして、市井は尖らせた口から煙を吉澤の顔面に吹き付けた。
煙にうっすらと涙ぐみ、咳き込む吉澤に向かって、唇の端を剣呑に持ち上げる。
「なんて言ったのかな、ヨシザワちゃん。え?」
「冗談ですってば」
「アタリマエだ、この。やらねぇよ」
吉澤の脇腹を小突き回して、さも楽しそうに笑う。
どこか尊大で、自信に満ちあふれていて、しかもそれを不快に感じさせない市井。
敵わない。素直に、吉澤は思う。
市井は、煙草と女と嘘で生きていくとこを教えてくれた人だった。
「じゃ、帰ります」
「ん。気ィつけろよ」
煙草を2本灰にしてから、吉澤は下北沢の駅に向かって歩き出した。
背中に市井の声が聞こえたが、両手をコートのポケットにしまったまま、振り返らずに歩き続けた。
後藤を手に入れた市井が妬ましく、市井を手に入れた後藤は羨ましかった。
市井と後藤は、きっとふたりで長い時を過ごしていけるだろう。
- 27 名前:Stray dog 2-12 投稿日:2003年02月03日(月)16時47分51秒
- 吉祥寺駅から徒歩で数分いったところに、吉澤の住むマンションがある。
石造りのエントランス、計算され配置された植え込み、万全を誇るセキュリティ、地下にはプール付きのスポーツジム。
吉澤はその最上階、9階の3LDKで1人、暮らしていた。
勿論、吉澤の現在の年収で買えるような部屋ではない。
20歳になったとき、当時のパトロンから贈られたものだ。
バルコニーに面した広いリビングダイニングに入ると、吉澤は黒いコートを床に脱ぎ捨てた。
慌ただしくバド・パウエルのCDを再生し、テレビをつけ、静まり返った部屋が音に満ちたことに安堵する。
軽やかなジャズピアノ、観客を煽り立てる芸人の声。
淋しさを紛らわすには至らないが、それでも、針が落ちた音も響き渡りそうな静寂よりましだ。
フリーザーから表面が白く凍ったボトルを取り出して、タンブラーに半分、淡い緑色の液体を注ぐ。
バッファロー・グラスで色付け、香り付けをしたフレーヴァード・ウォッカだ。
タンブラーを傾けるごとに、甘く蕩ける炎が、身体の中に滑り落ちていく。
吉澤は冷蔵庫にもたれて、一気にタンブラーを空にした。
ウォッカのお代わりを注ぎ、それをテーブルに置いて、崩れるようにソファに倒れ込む。
靴を脱ぐのすら億劫で、面倒で、吉澤は全身を弛緩させたまま、宙を睨み吸えていた。
- 28 名前:NEMO 投稿日:2003年02月03日(月)16時51分31秒
- 更新終了。
レスありがとうございます。
無視されるんじゃないか、と怯えていただけに嬉しいです。
亀の歩みですが、どうぞよろしくおつき合い下さい。
- 29 名前:NEMO 投稿日:2003年02月03日(月)16時58分05秒
- 初のレス。緊張です。
>チップ様
ご期待を裏切らないよう、鉢巻きしめて頑張ります。
>名無し読者様
ええと、25、6歳ぐらいのつもりで書いています。
娘。小説とも思えぬ平均年齢の高さで勝負。
>読者様
過去。まあ、この遅さなのでいつになるかわかりませんが。
じわじわと染み出していくと思います。
以上、おしまい。
……こんなものでいいんですかねえ。
あわわわわ。
- 30 名前:NEMO 投稿日:2003年02月03日(月)17時00分17秒
次の更新は金曜日。
ドラえ○んと一緒にお会いしたいです。
- 31 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月03日(月)19時59分48秒
- いー雰囲気だぁね。こーいう吉澤好きだなぁ
- 32 名前:14 投稿日:2003年02月04日(火)00時42分48秒
- 更新、お疲れ様でした。
う〜ん、すっごくオシャレでイイ感じですねぇ。
大人の吉ってありそうでなさそうでしたから、やっぱり新鮮です。
「仲間」や仕事、これからどうなって行くのか楽しみです。
すっかり引き込まれてますよ。次回も期待しております。
- 33 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月04日(火)01時23分22秒
- よっすぃーカッケー(w
黒くて白い人とどう絡むのか…(ムフフ
この小説のタイトルもカッコイイですね。引き込まれますた。
- 34 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月06日(木)00時13分14秒
- 自分はこういうよしかごの関係好きだす。
なかざーさん気になる…
- 35 名前:Stray dog 3-1 投稿日:2003年02月07日(金)19時22分29秒
- 吉澤の朝は早い。
就職してから、平日は午前6時にもなれば目が覚めるようになった。
寝室の日当たりがよすぎるのだ。
ブラインドを下ろしていても、うるさいぐらいに太陽光が入り込んで、シーツにくるまった吉澤の瞼を刺激する。
寝癖をなおしながら、デスクトップパソコンを立ち上げて、1日のスケジュールを確認し、
余裕があれば、マンションの地下にあるジムで1時間ほど汗をかく。
体調管理ができない人間は、仕事もできない。
直属の上司の口癖が、吉澤にも浸透したのだろう。
シャワーを浴びてから、産経・朝日・東京と、3種の新聞に目を通すのは、変わらない日課である。
朝食はあまり食べない。
コーヒーを2杯と、アボガド1つで済ませた。
コーヒーは後藤が配合し、焙煎したもので、酸味を抑えて苦味を効かせたブレックファスト用のブレンドだ。
『ほんと、よしこは手間がかかるんだから』
後藤は文句を言いながらも、豆を小さなフライパンで煎って、数日分ずつ渡してくれる。
- 36 名前:Stray dog 3-2 投稿日:2003年02月07日(金)19時23分24秒
- 食器を片付けたあと、出勤の仕度にかかる。
スリムなシルエットのスーツ、手に馴染んだ革のブリーフケース、胸ポケットの万年筆。
ひとつひとつ、確認しながら慎重に身につけていく。
それは、吉澤が『昼の名刺』の自分になるのに、必要な儀式だった。
税理士法人UFA
コンサルティング部門 ジュニアスタッフ
税理士 吉澤ひとみ
東京都千代田区○○ △△△
- 37 名前:Stray dog 3-3 投稿日:2003年02月07日(金)19時24分31秒
- 「吉澤さん、おはようございます」
「おはよう。早いね、美貴さん」
向かいの机の藤本美貴に挨拶を返して、吉澤はコートを壁のハンガーにかけた。
吉澤と藤本は同い年だ。入社は吉澤が1年早い。
大学卒業後1年めで試験をすべて終えた吉澤と違い、藤本はまだ税理士試験に挑戦している最中だった。
そのため、藤本の役職はアシスタント。
UFAにおいて、もっとも下の役職である。
しかしそれも後わずかだ。
夏に行われる試験前、藤本の勉強を手伝っていた吉澤は、彼女の合格を疑わない。
12月の合格発表では、きっと良い報らせが聞けるだろう。
「コーヒー、いれましょうか?」
「いいよ、自分でやるから。座ってて。美貴さんも飲む?」
「あ、すみません、お願いします」
他のメンバーもじきに出社してくる。
吉澤は壁に据え付けられたコーヒーマシンに豆を補給し、スイッチを入れた。
- 38 名前:Stray dog 3-4 投稿日:2003年02月07日(金)19時25分57秒
- 藤本はパソコンの辞書ソフトを引きながら、英字新聞を読んでいる。
UFAは外資系だ。
くわえて、最近では取引先の海外企業とのあいだでも、英語を用いて書類を作ることが必要になる。
ある程度の専門用語を知り、新聞くらいは自在に読みこなせないとやっていけない。
「はい、コーヒー」
「どうも。……吉澤さんはTOEIC、昨年受けましたよね?」
「受けたけど。どうかした?」
UFAでは、2年に1度はTOEICテストを受けることが社員に義務付けられている。
スコアが悪ければ、昇進や俸給にも影響が出てしまう。
端的に言えば、税理も、英語も、更に経済もできないとUFAでは偉くなれない。
「スコア、幾つでした?」
「どうだったかなあ……」
首を傾げた吉澤の代わりに、ガラス戸を開けた上司が素早く答えた。
「吉澤は710よ。ジュニアスタッフとしてはぎりぎり合格」
- 39 名前:Stray dog 3-5 投稿日:2003年02月07日(金)19時27分06秒
- 保田圭。
2人のアシスタント、2人のジュニアスタッフ、1人のシニアスタッフを従えるチームリーダーである。
役職はスーパーバイザー。
証券アナリストの資格も有する彼女は、企業トップにとっては心強い参謀となる。
「おはよう。藤本、T&C海運の申告書、明日までよ。今日中にチェックさせて。
吉澤、金曜にも言ったけど、昼から出かけるからそのつもりで。このファイル、朝のうちに見てちょうだい」
プリントアウトした図表のファイルを吉澤に投げつけるように渡し、保田は部屋の最奥のデスクに荷物を置く。
細いフレームの眼鏡を軽く右手で押し上げ、小さなくしゃみをした。
「ここのとこ寒いわね。あんた達、風邪なんかひくんじゃないわよ。
外から戻ったら、ちゃんとうがい手洗いしなさい」
ぶっきらぼうで言葉の足りないところがあるが、保田は決して悪い上司ではない。
部下を育てて使うことを知っている、面倒見のよい人だ。
「保田さん、コーヒーは?」
「ん、ミルク入れて」
藤本からカップを受け取ると、保田は腰掛けたまま床を蹴って、椅子を180度回転させた。
レンズの奥の猫目で、眼前のビル街を見つめている。
ミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲むあいだ、保田は毎朝そうしている。
- 40 名前:Stray dog 3-6 投稿日:2003年02月07日(金)19時28分48秒
- 11時半をまわると、保田が席を立った。吉澤の肩を叩く。
「行くわよ」
吉澤はファイルをブリーフケースにしまい、保田の後に続いた。
オフィスビルの地下の駐車場に、保田のBMWが置いてある。
保田は毎日愛車で通勤しているのだ。
当たり前のように、保田は吉澤にキーを投げた。
吉澤もキーを片手で受け取り、涼しい顔で運転席に滑り込む。
保田に告げられた副都心のホテルに向かって、アクセルを踏んだ。
教習所の指導員には怒られるかもしれない。
ハイヒールでペダルを踏むことにも、近ごろは大分慣れてきた。
横目で、助手席の保田を窺う。
抑えた声で、クライアントに対する口調で、尋ねた。
「保田さん、私をただ、運転手にしたかったわけではありませんよね」
「そうなら、名刺を用意しとけなんて言わないわよ」
「私は、一介のジュニアスタッフです」
「だから?」
「……財閥トップとの会食に付き合わされるのは、何故ですか」
鼻を短く鳴らして、保田はフィリップモリスに火をつけた。
「名前を売っておくのは、悪いことじゃないわ」
- 41 名前:Stray dog 3-7 投稿日:2003年02月07日(金)19時30分54秒
- 密閉された車内が、少しずつ白く濁っていく。
自分のものとは違う煙草の匂いに、ステアリングを握る吉澤の右手が反応する。
人指し指が落ち着きなく、3拍子リズムを刻んだ。
1・2・3・1・2・3・1・2……3。
吉澤がタイミングを計るよりも早く、保田が唐突に言った。
「開業しようと思ってる」
カーヴのための減速チェンジが、一瞬遅れた。
車体の揺れに、保田はわずかに眉をひそめた。
「今のチームで担当してるクライアントの一部は、あたしが自分の事務所に引っ張っていく。
でも、ほとんどはUFAに残していくことになるわね、当然」
「引き継ぎなら、私でなくてもいいでしょう」
「遠慮なんかしてたら、仕事にならないよ、吉澤」
携帯灰皿に灰のかたまりを落とし、保田は続ける。
「あんたは、もう暫くしたらシニアに昇進できる。
このまま経験を積んでいけば、30歳前でスーパーバイザーにもなれる。
寺田パートナーにも言ったよ。あたしが辞めた後のチームは、あんたに任せるってね」
「とんだ買い被りだ……」
吉澤は下唇を噛んで、下目遣いにステアリングに添えられた自分の手を見つめた。
「吉澤」
「はい」
「前見て運転しなさい」
- 42 名前:Stray dog 3-8 投稿日:2003年02月07日(金)19時31分50秒
- 頭を下げ、名刺を配り、笑み、その昼を過ごした。
折角の飲茶だったが、技術と工夫が込められたであろう点心に、気を留める余裕などなかった。
用意していただけの名刺と忍耐力を使い果たし、吉澤は物憂げに座り込んでいる。
コーヒーチェーン店の沿道寄り、一面ガラス張りの壁際に、吉澤はいた。
道行く人々に、伏せた睫毛が影を作った無防備な横顔を晒して、煙草をくゆらす。
「お待たせ」
両手にえんじ色に紙コップを持った保田が、吉澤の隣のスツールに腰掛けた。
「カプチーノで良かった?」
「ええ」
吉澤は白い灰皿に一旦煙草を預けて、紙コップを受け取る。
外は既に暗かった。
ガラスに映るのは、自分の顔ばかりだ。
そのまま黙って、それぞれ煙草をふかしながら、カプチーノを飲んだ。
- 43 名前:Stray dog 3-9 投稿日:2003年02月07日(金)19時33分01秒
- 「……さっきのは、本気よ」
2本めのパーラメントを咥え、マッチを擦ろうとした吉澤に、保田が言う。
「本当に、吉澤ならできるって、あたしは思ってる。
正直、昔のあんたからは想像もつかなかったよ」
保田は下唇を舐め、泡立ったミルクの甘さを拭い取った。
「だから吉澤。これは上司として言うんじゃない。トシ食った友人としての忠告」
静かに、保田が爆弾を落とす。
「紗耶香と手を切りなさい」
火をつけたばかりのパーラメントを、吉澤は思わず灰皿に押し付けていた。
「保田さんのおトモダチじゃないですか」
「腐れ縁のね」
吉澤は軽くなった紙コップを口につけて、傾けた。
てのひらが触れた側面には、すっかり温もりが消え失せている。
- 44 名前:Stray dog 3-10 投稿日:2003年02月07日(金)19時34分24秒
- 「紗耶香は悪いやつじゃない。でも、今のあんたにはマイナスになる。
あの頃、あんたは確かに紗耶香に教えられた方法でしか生きられなかったかもしれない。
でも、今は違うでしょ、吉澤。
その頭、ちょっと動かすだけで楽に生きていける」
それは保田が教えたのだ。
簿記も、記帳の仕方も、他人より自分を賢そうに見せるやり方も。
夜から昼に連れ戻そうと、手を尽くしてくれた。
「だから。身体を売り物にするのは、もうやめな」
吉澤は保田の言葉に応えられず、不器用に沈黙する。
回転させたり、蓋を指先で弾いたり、空になったカップを両手で弄んだ。
吉澤の不安は、顔よりも瞳よりも、その手元にあらわれる。
煙草を吸い続けるのも、落ち着かない右手の動きを隠すためだ。
それを知る保田は、酷だと思いながらも、止めを刺した。
「裕ちゃんも、きっとそう望むはずよ」
- 45 名前:NEMO 投稿日:2003年02月07日(金)19時37分54秒
- 更新終了です。
専門用語がボチボチと出てまいりました。
税理士法人というのは、税理士や会計士ばっかりを集めた会社です。
そして外資系の弁護士法人や、税理士法人では、役職が上から、
パートナー>マネージャー>スーパーバイザー>シニアスタッフ>ジュニアスタッフ>アシスタント
パートナーは取締役、スーパーザイザーは課長クラスということになります。
まあ、そんなこと知らなくとも、この話には特別問題ありません。
ただ吉澤さんは税理士としてはまだ駆け出しで、保田さんは上司なんです。
それだけです。
- 46 名前:NEMO 投稿日:2003年02月07日(金)19時48分21秒
- 今回もあたたかいレス、ありがとうございます。
書き込んでくださる方、読んでくださる方に少しでも、
面白いな、と思ってもらえるように努力していきたいと思います。
>31名無し読者様
こーゆー吉澤さん、でいいですか。よかったです。
後ろ斜め向きな吉澤さんですが、末永く(?)お願いします。
>14.32様
再びのご来店、ありがとうございます。
1つめの仕事は、取り敢えずこうなりました。
次回は続けて2つめ、いきます。
オシャレ……くすぐったい褒め言葉です。
ただ食べてるばかりの小説なので、過分に褒めていただいたような。
- 47 名前:NEMO 投稿日:2003年02月07日(金)20時01分19秒
- >33名無し読者様
ええと、黒くてシロい人は、次の次に登場する予定です。
出てきてもこのスピードなので、あんまり人間関係に進展はないですが。
タイトル、相当悩んだのでそう言っていただけて嬉しいです。
ネーミングセンスゼロなもので。
>34名無し読者様
加護さんは、もう少し出したかったですね。
しかし更にノロくなるのも問題だし……。
中澤さんは……いえ、本当に気を長くもってください。
でもまあ、吉澤さんとの関係は初回でわかるように書いたつもりです。
以上で、本日は店仕舞い。
申しわけありませんが、次回更新は遅くなります。
次の金曜日までには必ず戻ります。
- 48 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月07日(金)20時05分35秒
- 更新お疲れ様です。
今一気に読んだのですが、
作品の空気にヤラれました。
これからも楽しみにしてます。
- 49 名前:32 投稿日:2003年02月08日(土)00時26分57秒
- 更新、お疲れ様でした。
徐々に明らかになりつつある、吉の生活がますますカッケ〜です。
しかし、TOEIC710でジュニアスタッフのUFA、レベル高いですねぇw
(ちなみに、アメリカに4年間留学経験のある友人は580でした)
何気に過去を知る人物・上司ヤッスーがメチャカッコ良いですね!
黒くてシロイ人の登場、楽しみです。
次回更新、また〜りとお待ちしております。
- 50 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月11日(火)00時28分22秒
- >>49 いや、TOEIC710はトップ企業のボーダーラインとして
ギリギリという設定でおかしくないかと(満点は990だし)
まぁ、俺は990なんて点数に遠く及ばないんですが(w
よっすがカッケーっすね。展開が気になります。
- 51 名前:Stray dog 4-1 投稿日:2003年02月14日(金)00時32分41秒
- 焼肉でも奢るわ。
保田の誘いを断わって、吉澤は改札の中に入った。
そのまま、吉祥寺のマンションに帰るつもりだった。
まだウォッカが残っている。
次の会合から参加させられる、プロジェクトの資料も山と積んである。
紙の束とアルコールは、きっと吉澤を眠りに導いてくれるはずだ。
だというのに、気付けば吉澤は新宿にいた。
14歳の頃から、歩き慣れた通りに立ち尽くしていた。
男、女、汗、酒、煙草、香水。
様々な匂いが沈澱し、淀む空気が四肢を重くする。
立ち並ぶビルすべてが自分勝手に自己主張をするような通りのなかで、その一画だけがおとなしかった。
看板やネオンも一切見当たらない。
店があることすらも知らないで、多くの人が通り過ぎてしまうだろうドアに、吉澤は手をかけた。
ドアの奥、絨毯が敷き詰められた階段はゆるやかなカーブを描いて、地下に続いている。
足元をうっすらと浮かび上がらせる小さなライトを頼りに下っていけば、見るからに頑丈で無骨な金属製の扉が眼前に現れる。
丸い窓が嵌め込まれた扉の向こう、そこが会員制クラブ『Nautilus』だった。
- 52 名前:Stray dog 4-2 投稿日:2003年02月14日(金)00時33分32秒
- 市井は毎日、夕方の6時に石黒エンタープライズの事務所を出る。
会社が新宿に出しているクラブやバーを順に見回り、最後に『Nautilus』に入るのだ。
専務に抜擢され、現役を退いたとはいえども、古巣では市井を目当てにする客も少なくない。
もっとも、後藤という恋人を得てからは、客と個別に契約を結び、長期に渡って関係を続けるようなことは一切しなくなった。
ただ、『Nautilus』という空間を媒介にして、ほんのちょっと言葉遊びをするだけだ。
その夜も、市井は8時過ぎに螺旋状の階段を下った。
重量感、威圧感ともにたっぷりな鉄扉の右脇に、スリットとテンキーが取り付けられている。
市井は銀色に鈍くきらめくカードを、スリットに差し込んだ。
この『店』の扉は、IDカードと暗証番号の確認なしには開かない。
カードは、市井のような関係者のものなら黒で、客のものならば赤で縁取りされている。
丸窓を模したディスプレイに、白く文字が浮かび上がった。
“......
Exective Director Sayaka Ichii...
--3/
--2/
--1......open
ようこそ、ノーティラス号へ
ミズ市井、貴方の乗船を許可します”
- 53 名前:Stray dog 4-3 投稿日:2003年02月14日(金)00時34分31秒
- 地下にひそんでいる『Nautilus』の中は、やわらかな青い光で満たされている。
およそ90平方メートルの、奥に長い店内には、薄型の水槽が幾つも並ぶ。
飾り窓の2重になったガラスの間にも水が張られており、反射した光が作る影が天井や壁、床でゆらゆらと波打っていた。
壁には海図と計器類、着る者のいない肩章のついた濃紺のブレザーと制帽。
『Nautilus』は、新宿に潜る船なのだ。
審査をクリアした女性のみが船に乗り込み、選び抜かれた〈船員〉と安全な火遊びを楽しむことができる。
市井も、数年前まではこの潜水艦の船員達のトップ、〈1st オフィサー〉だった。
フロアを、行き交う女達を、長いあいだ見続けてきたのだ。
だから、判る。
今日の船は、なにやらおかしい。
市井は絨毯の上を滑るように店を縦断し、カウンターの奥でくるくるとせわしく動き回る小さいコンビの片割れを捕まえた。
「〈機関長〉、もしかして吉澤が来てる?」
〈機関長〉ことフロアマネージャーの安倍なつみは、えくぼを作って頷いた。
「やー、紗耶香は勘がいいねぇ」
「誰でも気付くよ。……なんでんすか、この客の入り。
どっから情報が流れるのやら、吉澤が顔出すと皆さんぞーろぞろ集まってくるね」
溜息をひとつ吐き出して、市井はスツールにへたり込む。
「で、吉澤は? 何してんの?」
「んーっとぉ、松浦と〈船室〉」
- 54 名前:Stray dog 4-4 投稿日:2003年02月14日(金)00時35分21秒
- 大腿の上の弾力ある重みと、うなじを行きつ戻りつする指先。
駆け引きなどない、真っ向からの誘惑を仕掛けられても、吉澤は冷静だった。
吉澤の心拍数は毎分70回ほどで安定しているし、眼球の動きも落ち着いている。
〈1st オフィサー〉が、下にいる船員から挑戦されることは珍しくない。
市井の後を継いで、てっぺんに担ぎ上げられた時にも、このようなお誘いは数多くあった。
『Nautilus』の船員達は、けしておとなしくない。
自分達よりも上の椅子に座る者を、常に目を光らせ品定めし、時には実際に試してもみる。
もう10年にも渡って、吉澤は同じ『船』に乗り込む仲間からの審査を受けてきた。
久し振りに顔を出したその直後に、ロッカールームでいきなりのしかかってこられるとは予想外のアクシデントだが、対処の仕方をすっかり忘れてしまったわけではない。
「……もう、店が開くよ。準備は、いいの?」
顔を少し傾けて、耳元に囁いてやりながら、吉澤は自分の膝に乗った、か細い腰を抱く。
待ちかねたように、しなやかな身体が擦り寄った。
「あたし、吉澤さんに会えるの、楽しみにしてたんですよ」
「そう。期待外れにならないといいね」
「ええ」
吉澤の頬に手を添えて、『Nautilus』の新任〈2nd オフィサー〉松浦亜弥は、唇の両端を持ち上げた。
- 55 名前:Stray dog 4-5 投稿日:2003年02月14日(金)00時36分05秒
- 絶えず膝を上下に揺すり、指でカウンターを叩いている市井を、シェーカーを手にしたミニサイズの金髪バーテンダーが叱りつけた。
「紗耶香じっとしててよ! もうウルっサイんだよ!
初めての出産に立ち会うダンナじゃないんだからさあ」
カウンターの中に、こっそりと踏み台を持ち込んでいる矢口真里。
棚に並ぶ色とりどりのリキュールや、スピリッツのボトルに紛れ込みそうなほどに小さい。
実際、彼女の足元から踏み台を外せば、カウンターの外からその姿は見えなくなってしまう。
『Nautilus』の名物バーテンダーだ。
「よっすぃーのことだからさ、もうちょっとで終わるんじゃん?
上で始まってからそろそろ30分になるしさ。後10分かそこらでしょ」
よいしょ、とかけ声をかけて矢口は重い踏み台を移動させた。
ディサローノ・アマレットの四角い瓶を両手で支えて、棚の上段から取り出す。
シェーカーに目分量でコニャック、アマレット、クレームドカシスを順に注ぎ入れ、最後にオレンジビターズを少しだけたらす。
そして胸の前に構えて、シェーク。
その狂いのない手付きを見ていた市井が、拗ねたように呟いた。
「矢口はぁ、あいつには甘いよなあ」
「だって、よっすぃーはオイラの大事な弟子だもん」
胸を張って矢口は答え、完成したばかりのカクテル、ヴェルジーネを足付きのグラスに移した。
一番近くにいた下っ端船員を手招いて、客のところまで運んで貰い、次の注文に取りかかる。
- 56 名前:Stray dog 4-6 投稿日:2003年02月14日(金)00時40分05秒
- 吉澤が市井に連れられて『Nautilus』に出入りするようになったのは、吉澤がまだ中学生の頃。
最年少の吉澤を、おとな達はペットやマスコットのように可愛がったものだ。
バーテンダー見習いとして働いていた矢口も、嬉々として吉澤に酒の飲み方と扱い方を教えた。
初めてできた弟子だったものだから、思い入れは深い。
「大体、誘ったのだって松浦みたいだし」
「だからってわざわざ営業時間中に乗っかるかあ?
1stと2ndが揃って消えてて、いるのがヒラの〈セイラー〉だけじゃ、さすがに客にも失礼だろ。
……矢口、モスコー・ミュール作って」
「忙しいからムリ」
すげなく市井の注文を断わり、矢口はトマトとモッツァレラチーズを楕円型のまな板にのせた。
酒と一緒につまむ肴を作るのも、矢口の担当だ。
安倍もよく手伝ってくれるけれど、フロアが騒々しいこの状態では頼りにできない。
「紗耶香もさぼってないで、接客したら」
「へいへい、今参りますよ」
『Nautilus』は他の店とは違い、客を決まったテーブル席に座らせて、指名を受けた店員が始終傍に付く、ということをしない。
椅子もテーブルも置かれているが、客は好き勝手にフロアを動き回り、自由に遊び相手を探す。
気に入った相手が見つかれば、きわどい会話とアルコールを楽しむことになる。
あぶれてしまう客がでないように、船員達を誘導しているのが、〈機関長〉の安倍なのだ。
安倍の指示は悪くない。
しかし今日は、客に対して船員の数がどう見ても足りていない。
〈船室〉のある上階の方向を一睨して、市井は客の中に混じりにいった。
- 57 名前:Stray dog 4-7 投稿日:2003年02月14日(金)00時41分06秒
- 〈1st オフィサー〉に与えられた専用ロッカールーム〈1等船室〉は、かえって都心部にあるアパートよりも暮らしやすい。
12畳ほどの広さがあり、ユニットバスとキッチン、トイレが備え付けられている。
小さな冷蔵庫の中身は、安倍がこまめに点検し、補給もしてくれるというありがたさ。
大学に入りたての頃、既に〈1st オフィサー〉だった吉澤は、この部屋に住み着いていた。
市井が置いていったベッドやTVもあったし、生活に不自由はなかった。
文句をつけるとするなら、地下室であるために、自然光が全く入ってこないことぐらいだろう。
隣に横たわる松浦の荒い呼吸が、寝息に変わったのを確かめて、吉澤はベッドから起き上がった。
身体に絡み付いたままの、松浦の手が掴んで皺だらけにしたシャツを脱ぎ捨て、クローゼットを開ける。
黒いカッターシャツを素肌の上から羽織り、スラックスに脚を突っ込んだ。
サイドテーブルから煙草を取り上げて、マッチで火をつけた。
パーラメントの煙で、身体にまとわりつく松浦の残り香を誤魔化すために、ふかすだけふかして、すぐに灰皿に置く。
松浦は動かない。しばらくは起きてこられないだろう。
そのように、抱いた。
こんな時、相手をやさしく扱ってやる必要はない。
昔、市井は言ったものだ。
強引に振り回し、主導権を片時も譲らず、徹底的に疲れさせ、一気に追い詰める。
そうすれば、すぐに終わる。
まだ燻っている煙草と、松浦とを部屋に残して、吉澤は廊下に出た。
疲労はない。
ただ、喉の渇きをおぼえた。
- 58 名前:Stray dog 4-8 投稿日:2003年02月14日(金)00時42分02秒
- 廊下の突き当たりにある、幅の狭い、傾斜のきつい階段をおりる。
フロアに繋がる木戸を開けるその前に、吉澤はスラックスの尻ポケットから薄手の手袋を取り出して、両手にきっちりと嵌めた。
靴、靴下、スラックス、ベルト、長袖のカッターシャツ、吉澤の身につけているものすべてが黒で統一されているなかで、手袋だけが目に染みるように白い。
シャツ胸ポケットには、〈1st オフィサー〉であることを示す徽章をとめる。
そして、右足からフロアに踏み出した。
馴染みの顔があったところで、吉澤が自ら挨拶に赴くことはない。
どれほどの視線を集めたとしても、囁きが波のように広がったとしても、木戸を開けたら一直線に、右手に位置するカウンターに歩み寄る。
フロアに一歩踏み入れたら、一挙手一投足を見られて当たり前。
動物園のパンダも、自身を観察する人間にサーヴィスすることなく、黙々と竹を喰らっている。
媚を売れば、価値が下がる。
それだけの話。
カウンターの端、壁際の席は暗黙の内に吉澤の指定席になっている。
吉澤はスツールに軽く尻をのせて、バーテンダーと視線を合わせた。
『Nautilus』での夜、一番最初に呑む酒は、矢口にまかせることに決まっているのだ。
矢口も、吉澤も、一言も発さずに酒を出し、受ける。
- 59 名前:Stray dog 4-9 投稿日:2003年02月14日(金)00時43分09秒
- 吉澤はブランデー・グラスに満たされた琥珀を、少し波打たせ、香りを確かめてから口腔に含んだ。
舌で踊る刺激に、余韻の豊かさに、その両目を細めて微笑む。
「タリスカー10years old」
「……合格」
弟子の舌の確かさに、小さな師匠も破顔する。
そして次の瞬間、矢口はグラスを磨く手を休めて、背後を指差した。
「あ、よっすぃー、後ろ危険」
吉澤が首を巡らせるよりも先に、背中に何かが追突してきた。
「オハヨウ、王子様」
右肩に後ろから顎をのせるようにして、市井が吉澤の背中にひっついている。
「どうよ、松浦は?」
「あー、あの子、松浦っていうんですね」
「そういや、吉澤とは初対面か。人員補充で、他から動かしてきたばっかりだしな」
「道理で」
知らない顔だったわけだ。吉澤は呟いて、残りのウィスキーを口に放り込む。
「前の〈2nd オフィサー〉は?」
「辞めた。……お前ね、本気にさせるなって言ってるだろ?
素人さんに手ぇ出さなくなったのはいいけどさ、その代わりにウチの娘さん達、次々と再起不能にするのはやめてね、マジで。お店立ち行かなくなるから」
じわりと、吉澤の肩を掴んだ市井の手に力が加わっていく。
骨にかかる重圧に、吉澤は眉根を寄せた。
「返事は? どうした、1st?」
「了解、専務」
市井は満足げに頷くと、腕から力を抜いて、吉澤を解放してやった。
「よっし、んじゃ客にそのカワイイ顔見せてきな」
- 60 名前:Stray dog 4-10 投稿日:2003年02月14日(金)00時44分12秒
- フロアの中央へと滑り出る黒いシャツの背中を見送って、矢口が市井を咎めるように睨む。
「紗耶香、あんましオイラの弟子いじめないでよね」
「えー、ズイブンとやさしくしてるじゃん」
「ウソつけ」
市井は黙って片頬だけで笑い、HOPEを咥える。
すかさず矢口が差し出したライターの火に、煙草の先を近付けた。
「ただね。ここらでガツーンと一発躾してやらないと、さすがに従順で素直なワンコだって、どこが自分の犬小屋なのか判らなくなっちゃうだろ」
「誰がゴシュジン様なのかも?」
「言うね」
短く息を吐いて、市井は小さく笑い声をたてる。
吉澤は、この『Nautilus』が育てたのだ。
今更、『陸』になどあげてやるものか。
中澤裕子の死後、吉澤の首からぶら下がったままの千切れた鎖を、今度こそ『Nautilus』に繋ぎ止めておきたかった。
「あいつは、あたしが拾ってきたんだ。ってことは、あたしの犬でしょ」
「……紗耶香には後藤がいるじゃんか」
「それとこれとは別問題」
だけれども、矢口に説明するのは難しい。
だから市井はただ、曖昧に口元を持ち上げたまま、換気扇に吸い込まれる煙を見ていた。
- 61 名前:Stray dog 4-11 投稿日:2003年02月14日(金)00時45分17秒
stray
〈動〉(動物などが)道に迷う、はぐれる
〈形〉 道に迷った、さまよっている、家のない
--大修館書店ジーニアス英和辞典--
第1章 迷い犬 -了-
- 62 名前:NEMO 投稿日:2003年02月14日(金)00時46分03秒
今週の更新終了です。
なんだかまたワケわからん店が出て参りました。
本当、読みづらい話ですみません。
『Nautilus』
石黒エンタープライズが新宿の2丁目に出している会員制女性専用クラブ。
潜水艦をイメージしてつくられている。
その為、スタッフを〈船員〉と呼んだり、ロッカールームが〈船室〉だったり妙にややこしい。
┌〈機関長〉=フロアマネージャー:安倍
船員一覧 ├ バーテンダー:矢口
└〈1st オフィサー〉:吉澤 -〈2nd オフィサー〉:松浦 -〈セイラー〉
機関長、1st、2ndは各1名ずつ。
セイラーは常時10人から15人程登録されていますが、全員が揃うことはありません。
- 63 名前:NEMO 投稿日:2003年02月14日(金)00時52分45秒
- テンポが悪くてレスもしにくい小説に、皆様ありがとうございます。
>48名無し読者様
一気に、っていうほどまだ貯まってないですが……遅くてすいません。
タルーイ空気はこれからもずっとそのまんまです。
>49様
3度、ありがとうございます。
続けて来てくださる方がいるのは、本当に励みになります。
TOEIC710でギリギリ、っていうのはUFAではなく保田ラインです。実は。
UFAラインは、650に達していれば管理職でも問題なし、ぐらいで。
保田スーパーバイザーが厳しい、と。
説明不足でした、すみません。
ええ、またーりと、次をお待ち下さい。
遅筆なもので……。
50 名前 : 名無し読者 投稿日 : 2003年02月11日(火)00時28分22秒
>>49 いや、TOEIC710はトップ企業のボーダーラインとして
ギリギリという設定でおかしくないかと(満点は990だし)
まぁ、俺は990なんて点数に遠く及ばないんですが(w
よっすがカッケーっすね。展開が気になります。
- 64 名前:NEMO 投稿日:2003年02月14日(金)00時59分20秒
- あわわ。上の記事大失敗。
すみません、返事を書くためにコピってそのままのっけてしまいました。
50名無し読者様、申しわけありません。
平身低頭しておわびします。
>50名無し読者様
すみません。不注意でやってしまいました。
折角フォローしていただいたのに……。
ここのネガな吉澤をカッケーと言ってくださったのに。
なかなか展開しない小説ですが、のんびりおつき合いくださいませ。
次回より、『イヌモアルケバイシカワニアタル』
来週末には、更新したいと思っております。
- 65 名前:49 投稿日:2003年02月14日(金)01時17分05秒
- 更新、お疲れ様でした。リアルタイムで読めました。
スタイリッシュな雰囲気に魅せられて、ついに4度目の出現でございますw
毎回惚れ惚れするような内容ですねぇ・・溜息が出ます。
実は、今一番ハマってる作品です。
今回の更新で、各所で思わずニヤリとさせられましたw
なるほど、そう来たか〜ってな感じです。
作者さんのHNも店の名前も、実にカッコ良いですね。
TOEIC710は保田ラインでしたか・・さすがに厳しい人ですねw
そして市井が何を考えてるのか・・ちょっとコワいです。
この人はたまにゾクっと来る冷たさがあります。
次回更新、まったりとお待ち申し上げております。
- 66 名前:Pessimistic Baby 1-1 投稿日:2003年02月21日(金)20時32分31秒
- どうしてだか、朝はいつも慌ただしい。
部屋の中を引っ掻き回し、ローテーブルの上、散らばっていた書類をバッグにまとめて突っ込む。
床に積み上げた雑誌や衣類に、足を取られてすっ転ぶこともしょっちゅうで。
気付けば、髪は起き抜けのひどい状態のままだったりする。
その割に、自室を出るときには、いっぱしのビジネスウーマンらしくなっているのだから不思議なものだ。
恐ろしいことに、これでも彼女、職場では才女で通っている。
ベージュのスーツに、パステルカラーのシャツ。唇には控えめなピンク。
華奢な身体に対して、大きめの2ウェイバッグを抱える。
階段脇に置いた鏡に全身を映して、シャツの襟を整えた。
「よーし、OK」
最後に、皺が寄りがちな両眉のあいだを指先で軽く揉みほぐして、石川梨華は階段を駆け下りた。
「お母さんお母さん! オープンハートのネックレス、どこにやったの?」
「知らないわよ。放り出しておくから見つからなくなるんじゃないの。
……あら、でもそのクラウンも可愛いわね」
「そう言って、いっつもわたしのアクセサリー勝手に使うのやめてよね。もうっ」
娘は口を尖らせて、母の目から王冠型のペンダントヘッドを手で隠す。
ダイニングテーブルの席について、コーヒーカップを引き寄せた。
ソーサーを支えて、カフェオレを一口含んだところで、新聞のかげから自分を見守る視線に振り向く。
「あ、お父さん、おはよう」
- 67 名前:Pessimistic Baby 1-2 投稿日:2003年02月21日(金)20時33分28秒
- 「ああ、おはよう。なんだ、今日は、早いのか?」
父は娘が2階でパタパタと走り回っているあいだに出勤する。
8時前にはオフィスに着いているというのだから、部下にとってた大変な管理職だろう。
父娘が平日、朝食の席に顔を揃えることは珍しかった。
「うん、そうだなあ、今週はちょっと忙しいかも」
「そうか、まあ、遅くならないようにな」
「はい」
石川家の朝食は英国式である。
伝統あるイングリッシュ・ブレックファストを、オートミールからフルーツまでしっかりとたいらげて、迎えの車に乗り込む父の後に続いて、家を出た。
職場は少しばかり遠い。電車に50分揺られ、乗り換えも2度ある。
(やっぱり、近くに部屋借りようかな……)
毎朝、駅のプラットホームに駆け込むたびに石川は思う。
大学も通学圏内だったし、家事をするのも面倒で、20代半ばになっても実家暮し。
資金がないわけではない。
旅行やショッピングを楽しむ余裕などなく、休日も家でTVを見ながら寝て過ごす生活を続けていれば、自然と預金はたまっていく。
『自分の部屋の片付けもできない、あなたには無理よ』
自室の惨状を知る母に鼻で笑われて、計画はいつも頓挫してきた。
でも、今度こそは。
握りこぶしを作ってみたりして、石川は決意も新たに、キヨスクの店員に週間CHINTAIを突き付けた。
- 68 名前:Pessimistic Baby 1-3 投稿日:2003年02月21日(金)20時34分19秒
- 吹き抜けが開放的なエントランスホールを、ヒールで切れのいいリズムを刻んでいく。
エレベーターに乗り込んで、12階まで一気に登った。
石川の所属する、A&R部門第4班のオフィスは、ゼティマグループ本社ビルの12階に入っている。
南西に向かった角部屋で、壁の2面を埋める大きな窓から見える夕陽が格別だ。
薄い壁で仕切られた他のオフィスとくらべて狭いし、形もきれいな四角形にはなっていないけれど、石川はこの眺めを気に入っていた。
ドアの横、ホワイトボードに貼られたネームプレートを移動させ、上からの連絡事項がプリントされたA4の紙を1枚取る。
それから石川はオフィスに入った。
後輩が、午前中に行われる会議のための資料を綴じている。
「あの、石川さん、資料のチェックをお願いします」
「いいわよ。それじゃ、1部貰うわね」
デスクの上の筆記具やカップを無造作に両脇にどけて、石川は資料を開いた。
Acquition & Recovery -- 買収と再生。
倒産した企業を買収し、再建してから売却して利益を得るビジネスである。
第4班の役目は、倒産企業から優良部門を探し、買収の為の条件を整えることだ。
買収価格、再建計画、雇用などの諸問題を、売り手のエージェントと交渉し、営業譲渡を行う。
勿論、売り手の条件をそのまま飲み込むわけにはいかない。
弁護士や税理士をアドバイザーとして、ゼティマグループ側のプラン作成をすることになる。
今日はその、アウトライン決定の為の会議が開かれるのだ。
- 69 名前:Pessimistic Baby 1-4 投稿日:2003年02月21日(金)20時35分54秒
- 午前10時25分。
石川は第14会議室の仕度を整え、後輩にプロジェクター用の原稿を渡した。
資料とのページ合わせを再度行ってから、2階ラウンジに向かう。
仕事のたびに手伝ってもらっている税理士を迎えるためだ。
石川は第4班の外担 -- つまり、プロジェクトに関わる外部のスペシャリストの世話を一任されていた。
「保田先生」
ラウンジのソファに腰掛けている、ダークスーツの女性に声をかける。
UFAのスーパーバイザーは、雑誌をアタッシェケースに投げ込んで顔をあげた。
「わざわざ足を運ばせて悪かったわね、石川」
石川が新人の頃から、保田はゼティマの仕事を請け負っていた。
要領を得ない石川に、図表の読み方や資料の選び方をそれとなく教えてくれた。
外部の人だというのに、同じ班の上司よりも頼りにしているかもしれない。
「今日から参加させる、ウチの若いの、始まる前に紹介しておこうと思って。
ちょっと今、クルマ置きに行かせててね、もうすぐ来るよ」
座れば、と向かいのソファを示されたが、石川は笑って辞退した。
初めて会う人とは、同じ高さで向き合いたい。
「今回はあたしがフォローするけど、次からそいつがゼティマに来ることになるから」
「本当に、このプロジェクトで最後なんですね」
「今からしんみりしてどうするのよ。まだ始まってもいないんだから。
シャッキリしな、石川。顎までしょぼくれてるよ」
思わず顎に手をやって、困ったように眉尻を下げる石川に、保田が笑う。
石川の細い肩越しに、歩いてくる部下の姿を認めて、軽く片手を挙げた。
「吉澤、こっち!」
- 70 名前:Pessimistic Baby 1-5 投稿日:2003年02月21日(金)20時36分47秒
- 石川はすぐさま顎から手を離し、口元を引き締めて振り返った。
逆光を背負って近付いてくる人影を、目を凝らして見詰める。
その人はしなやかな長身を、細いストライプが入ったグレイのパンツスーツに包んで、手に革のブリーフケースを提げている。
顔に落ち掛かる黒髪が、なめらかな足運びに合わせて揺れていた。
そして、石川から1メートル離れたところで立ち止まる。
その顔を見上げた、石川の瞳孔が開く。
(まさか)
不躾な視線を浴びせられても動じずに、カードホルダーを探るこの人物。
(まさか)
白い顔に散らばっているほくろ、垂れ気味の両眼。
「初めまして。UFAの吉澤です」
差し出された名刺を機械的に受け取り、石川は表情を作りなおした。
いつまでも金魚のように、間抜けな顔を晒しているわけにはいかない。
交換した名刺を一瞥して、自分から握手を求めた。
「石川です。よろしくお願いします」
「いえ、こちらこそ」
この声。耳に柔らかく通る、穏やかなアルト。
てのひらの温度と、広さ。石川の手の甲をひとまわりしてしまいそうな、長い指。
髪の色も、長さも違っているけれど、スーツをまとって澄まし顔をしているけれど。
これは、あの、吉澤ひとみだ。
- 71 名前:Pessimistic Baby 1-6 投稿日:2003年02月21日(金)20時37分22秒
- 会議のあいだ中、石川は、保田の左隣に座った、白い顔の税理士を観察していた。
視線を感じているのかいないのか、吉澤は素知らぬふうにスクリーンに顔を向けている。
(ひょっとしたら、顔面筋肉ないんじゃない?)
スクリーンの照り返しでうっすらと緑に染まる、その横顔。
敵意を持っているからなのか、石川にはどうも爬虫類じみて見える。
落ち着き過ぎていて、なんだか、
(厭なかんじ……)
なのだ。
石川だけが気付いているわけではない筈だ。
初めまして、その言葉がやたらと強調されていたような気もする。
上司の保田の前だったから、知らんぷりを決め込んだのかもしれない。
挨拶をしてから後は、1度として目が合わないのも不自然だ。
作為的に石川の視線を避けている。
少しぐらい、気まずい思いを味わっていたりはしないのだろうか?
腹立たしくなって、石川はボールペンを強く握りしめた。
こぼれた髪を指先で梳きあげて耳のうしろに追いやり、会議に集中しようと努力する。
書類の上に苛立ちをぶつけるかのように、ペン先をギュッと押し付け、無意識の内に眉間に皺を寄せ、舌唇に歯をたてて、眼前の仕事に向き直る。
だから石川は知らない。
吉澤の右手が、シャドーアンバーの万年筆のキャップを絶えずいじっているのを。
そして保田が、そのレンズの奥から落ち着かないふたりを交互に探っているのも。
- 72 名前:Pessimistic Baby 1-7 投稿日:2003年02月21日(金)20時38分10秒
- 会議のあと、いつものように保田から昼食の誘いがあった。
吉澤もまじえて3人で、近場のエスニック料理の店に入る。
保田も石川も、それぞれランチプレートを注文したけれど、吉澤はコーヒーしか頼まなかった。
大学時代、初めてファミリーレストランで顔を合わせたときもそうだった。
1日2食しか摂らない人間なのかもしれない。
信仰している宗教の規則、という可能性も考えてみる。
(でも、こんな人が真面目に神様信じる筈ないよね)
それにしても、ものを食べているところを、食べていない人間に見られるというのは、なんとも落ち着かないものだ。
甲高い電子音が鳴り響いた。
保田が顔の前に手刀をたてて、立ち上がる。
「ちょっとごめん」
携帯電話を手に、保田はレストルームへと歩いていく。
観葉植物の向こうに保田が消えるのを見送ってから、石川は斜め向かいに焦点を合わせた。
視界の中央で、とぼけた表情をしてコーヒーを啜る吉澤。
確かめるなら、今しかない。
石川はプレートにフォークを置き、深い呼吸をした。
- 73 名前:Pessimistic Baby 1-8 投稿日:2003年02月21日(金)20時38分44秒
- 「あの、吉澤さん」
呼び掛けて、そこで石川、はやくも一時停止する。
確認すると決めた。呼び掛けてもみた。
さて、ここから一体どのように話を持っていけばいいのだろう。
(単刀直入に過去の悪行をぶちまけて、万が一別人だったらまずいよね。
なんていったって、これからずっと一緒に仕事をしていくんだもん、失礼なことはできないよ。
あの吉澤さんですよね、とか?
でも、『あのってどの?』とかはぐらかされたら、そこで終わっちゃうし。
以前お会いしたことありますよね?
わたしのこと、憶えてます?
……駄目だぁ、どっちも頭の悪いナンパみたいじゃない。
違う違う、そうじゃないのよ、梨華)
石川は両手をテーブルの上でこぶしにして、俯き加減に悶々とする。
肝心なところで思い切りがつかない。
急発進した車に驚いてブレーキを踏み、エンストを起こしてしまう初心運転者と変わらない。
エネルギーはいつでも空回る。
「言いたいことがあるなら、どうぞ。……お嬢さん」
- 74 名前:Pessimistic Baby 1-9 投稿日:2003年02月21日(金)20時39分27秒
- つむじに向かって、揶揄を含んで投げ付けられた声に、弾かれたように石川は顔をあげる。
キッと眉を吊り上げて、吉澤を睨み付けた。
吉澤は唇を弓のようにたわませ、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
(やっぱり、変わってない。全然、変わってない)
コーヒーカップをソーサーに戻し、吉澤は椅子に座りなおして脚を組みかえた。
威圧されないように、石川も背筋をのばして対抗する。
「お嬢さん、だなんてあなたに呼ばれる筋合いないわ」
「なら梨華さん。梨華ちゃん。梨華」
「口を噤んで!」
「相変わらず、おカタいね」
「そっちがやわらか過ぎるだけでしょ」
軽薄で、気侭で、腹が立つ。
こんな人間に自分はすっかり騙され、信じ続けた友人は傷付けられた。
「大体、なんであなたなんかがUFAにいるのよ」
「ご存知の通り、私は経済学部卒だからね。税理士やっててもおかしくない。
あなたなんか、っておっしゃいますけど、奨学金貰えるぐらいの頭はあったし」
確かに。
短く呻いて、石川は黙ってしまう。
- 75 名前:Pessimistic Baby 1-10 投稿日:2003年02月21日(金)20時40分59秒
- 沈黙の落ちるテーブルに、保田が戻ってきた。
「悪い石川、すぐ社に戻らなきゃならないの。ほら、吉澤、行くよ」
食べかけのプレートを残して、荷物を持ち上げる。
「ここはあたしが支払っておくから。じゃ、また次の会議でね」
伝票を素早く取り、保田はレジに向かう。
吉澤も足元のブリーフケースを取り上げて、席を立った。
石川に軽く一礼をして、保田の背中を追う。
横を擦り抜けるその瞬間に、すっと身を屈めて、石川の耳に囁いた。
「好き嫌いはビジネスに持ち込まないように、お嬢さん」
反射的に立ち上がりかけた石川の肩を押さえて、再び座らせる。
それ程強い力だとは思えないのに、どうしてか立つことができない。
「お互い、もういい大人なんだから、当然解ってるよね?」
顔を合わせないで告げた吉澤の平板な声が、背骨を下から上へ辿り、頭蓋の中身を揺らす。
膝の上で、手が震えている。
「----それじゃ、また、イシカワさん」
吉澤が足早に立ち去った後も、石川は唇を噛み締めて、自分の指の先を見詰めていた。
出所の知れない敗北感に、目眩がした。
- 76 名前:NEMO 投稿日:2003年02月21日(金)20時46分47秒
- 更新終了です。
ドラ○もんに間に合わなかった……。
ひょっこりも終わっちゃってますね。
今回から第2章に入りました。
まだ「石吉(?)」というかんじですが、
ゆっくりそれらしくなるかと思われます。
- 77 名前:NEMO 投稿日:2003年02月21日(金)20時53分43秒
- 閉店前のご挨拶。
>65様
リアルタイム、ありがとうございます。
そして皆勤。お見事!
なんだかこういう読者の方がいらっしゃると、それだけで力入ります。
サボれないぞ!という。
今回、市井さんを見習って、迷い犬も怖くなってみました。
迫力に欠けますね……(苦笑)
以上、本日閉店。
おはなしの切れ方が悪いので、次回はもうすこし早く現れたいと思います。
- 78 名前:チップ 投稿日:2003年02月22日(土)00時36分09秒
- どゆこと?これから先どうなるのかなぁ?
登場してくれたのはすんごい嬉しいけど何があったんかしら?
混乱中の頭を整理しつつ早めの更新をお待ちしてます。
- 79 名前:65 投稿日:2003年02月25日(火)00時53分00秒
- 更新、お疲れ様です。
またしても皆勤賞でございますw
これは意外な展開になって参りました。
自分の中では、てっきり『Nautilus』の方で絡むのかと思っていましたが、
こちら側で来ましたか・・ヤラレた!ってな感じです。
石吉の過去に何やらありそうな予感・・
吉、やっぱりタダモンじゃないですw
二人の感情に気づくヤッスーがイイですねぇ。
次回もゆっくりとお待ちしております。
- 80 名前:Pessimistic Baby 2-1 投稿日:2003年02月27日(木)12時53分59秒
- 初対面の印象は、決して悪いものではなかった、と思う。
むしろ好感を持って、石川は吉澤を遇していた。
石川が友人から吉澤を紹介されたのは、大学に入って2回目の夏期休暇が終わる頃。
夜気が日々柔らかくなっていく、秋の始まりだった。
* * *
ショッピングの帰り道、半ば強引にファミリーレストランに連れ込まれたあたりから、奇妙な予感はしていたのだ。
冷めてしまった紅茶を掻き回し続ける右手。
手首を返して、腕時計をしょっちゅう確認。
どんな問い掛けにも上の空で、視線が落ち着いていない。
なにか切り出そうとはしているものの、口を開けば線路から外れてしまう。
いつまで経っても肝心なことを言葉にしようとしない友人に、石川はかまをかけてみた。
「ねぇ、ひょっとして、誰か来るの?」
このシチュエーション。やって来る人は、ただの『お友達』ではない筈だ。
紅茶を掻き回す手の速度が増した。
チープな白いカップの内側には、完全に渦ができている。
- 81 名前:Pessimistic Baby 2-2 投稿日:2003年02月27日(木)12時56分49秒
- 「今、付き合ってる人」
同性の目から見て、彼女はいい子だ。
性格マル外観マル。……ただし、男運が徹底的にない。
石川と知り合ってから1年半にも満たないが、そのあいだに何度泣かされていたことか。
夏期休暇に入る前にも、涙と徒労の果てに恋人とようやく別れられた彼女だった。
経験豊富なほうではない石川にだって、この友人が惹かれる男達がどことなく、
(危険そう)
であることは判る。それこそ一目瞭然だ。
石川は眉根をキュッと寄せた。
八の字眉毛で決意を固める。
変な男だったなら、この場ですぐに追い返して、彼女から手を引いて貰おう。
「どんな人なの?」
石川の警戒心をその科白の中に嗅ぎ付けたのか、彼女は慌てて両手を胸の前で振る。
「違う違うよ。いい人だよ、すごく」
「まあ、あんまり期待しないでおくね。あさみちゃん、男運ホント悪いし」
ティースプーンを動かす手が止まる。
「や、あの、そのね、男の人じゃないんだ」
「え」
「女の子、なんだ」
- 82 名前:Pessimistic Baby 2-3 投稿日:2003年02月27日(木)12時57分37秒
- 驚いた。確かに驚いた。
ストローで吸い込んだアイスコーヒーが、口の端からつたい落ちる。
唇を半開きにしたまま呆けている石川に、友人は紙ナプキンを手渡して俯いた。
「ごめん、いきなり」
「うん……でも、いきなり金髪モヒカン頭にされるよりは、びっくりしなかったかも」
「なにソレ」
大学生活だなんて、ほんの一瞬だ。
大学時代に付き合う人と、そのまま結婚することなんて滅多にない。
あくまでも短いあいだの恋の話で、これから先の生活にも、影響を及ぼすことなんてない。
人間が80年も生きる時代なのだ。
その内の1、2年なら、1度くらい同性と付き合ってみるのもアリ、かもしれない。
同性しか好きになれない、というなら大変な問題だろうけれど、少なくとも目の前の友人は違った。
手痛い目に遭わされて、異性との恋愛に、すこし疲れてしまっただけだろう。
付き合っている、と言ったところで、『親友』にちょっと上乗せしたぐらいに決まっている。
石川は、そう考えた。
「で、その人、いつ来るの?」
「もうそろそろだと思うんだけど」
腕時計の文字盤と、窓の外を交互に見遣る。
時間には正確な人らしい。
約束していた時刻丁度になって、その人は現れた。
- 83 名前:Pessimistic Baby 2-4 投稿日:2003年02月27日(木)12時58分21秒
- 「初めまして。吉澤です」
照れたように、こめかみを指先で掻いている、友人の年下の『彼女』。
予想していたよりも、『女の子』だった。
石川が持つ、同性を恋の相手に選ぶ女性のイメージは、男の真似をして、無理に肩をいからせて歩いているような、そんなもので。
平均より多少恵まれた背丈と、伸びやかな手足こそ少年のようだけれど、でも斜め向かいに腰掛けている吉澤はやっぱり、女の子だった。
キャミソールの上から薄手のシャツを羽織り、明るい色の髪をうなじで括っている。
白い顔は人懐っこい、ふんわりとした笑みを絶えず浮かべて、なんとも憎めない感じの人だ。
親兄姉に、大切に育てられたのんびりやの末っ子、そんな印象を受けた。
「っていうか、あさみさん、他にも人がいるなんて言ってなかったじゃん」
「んー、ごめんね?」
「やー。もうすごい緊張した。まだバクバクしてるもんね。
もっかいやられたら死んじゃうよ、絶対死ぬ」
1歳下ということもあってか、甘えたようにじゃれる姿も微笑ましい。
その様子はどう見ても、恋人同士というよりは、仲のよい友人にしか思えなかったけれど、
(取り敢えずは、マル)
石川は、ぺたりと合格の判子を押した。
- 84 名前:Pessimistic Baby 2-5 投稿日:2003年02月27日(木)12時58分58秒
- そのままファミリーレストランで、早めの夕食を摂ることになった。
吉澤は、お代わり自由の薄いアメリカンを啜っている。
「味見する?」
スプーンを差し出されても、
「全部食べちゃっていいよ」
やわらかく断わって、スプーンを差し戻していた。
シーフードドリアをフォークで突つきながら、惚気話を半分流して聞く。
合間に挟まれる、吉澤のプロフィールを選別して、頭のファイルに綴じた。
サークルの納涼会で初めて会ったこと。
他の大学の経済学部1年だということ。
身寄りがなくて、奨学金の世話になっていること。
靴のサイズ……これはまあいい。
喋るのは90パーセントが友人で、彼女の傍らにいる吉澤は黙って、やさしく笑んでいた。
穏やかな、ちょっと頼もしい笑顔。
嘘だと解るのに、たいして時間はいらなかった。
冬が来る前に、吉澤は彼女を泣かせた。
吉澤にとって彼女は、無料で宿泊できるB&Bのひとつにしか過ぎなかった。
遊びですらなかった。
ただの生活手段、それだけ。
- 85 名前:Pessimistic Baby 2-6 投稿日:2003年02月27日(木)13時00分55秒
- 「それがどうかした、お嬢さん?」
咎められた吉澤は、ふてぶてしく唇の片端を吊り上げて、瞳を細める。
片方の手をポケットに隠したまま、咥え煙草で近付いてきた。
顔を上げて胸を張る石川を、身長差を最大限に利用して斜めに見下ろす。
わずかに首を傾けて、石川の顔を覗き込んだ。
血が上る、というのはこういう状態なのか。
視界がぼんやりと霧がかって、吉澤の薄ら笑いが遠くなっていく。
言ってやりたいことは沢山あったのに。
速い心臓の動きに次々と押し出される血流が、すべてを洗い流してしまった。
整頓された言葉は残らない。
駄々をこねる子供のように、石川は思いつくかぎりを喚いた。
「……最っ低!」
叫んで、振り上げたてのひらは、白い頬を打つ前に、吉澤の手に掴まれていた。
* * *
- 86 名前:Pessimistic Baby 2-7 投稿日:2003年02月27日(木)13時01分38秒
- 「あんた、あの子になんかしたの?」
「何も」
吉澤は、煙草を挟んだ左手をひらひらと振った。
窓枠に右肘を預けて、こめかみを緩く握ったこぶしで支える。
「保田さん、社に戻らなくていいんですか」
BMWのルームミラーに映る保田のしかめっ面に、恐いな、一言呟いて、首を竦めてみせた。
石川は気付かなかったろうが、吉澤は、保田が席を外す振りをして自分達の様子を窺っていたことを知っている。
社に戻らなくてはならない、というのも、一触即発の状態をおさめるための口実だろう。
「何もしてません。あのお嬢さんには」
「忘れてるだけかもしれないわよ。
19、20歳の頃に遊んだ相手だなんて、まるっきり憶えてやしないでしょ」
「無理な話ですよ、それは」
煙とともに苦笑を洩らして、吉澤はつぎはぎだらけの記憶を手繰り寄せた。
顔は、おぼろげながら浮かび上がった。ころっとした輪郭、笑ったときの歯の並び。
名前となると、まるで駄目だ。なんのイメージも湧きやしない。
「あのお嬢さんの友達だった、と思います」
「石川の?」
「そう。随分とトモダチ思いのお嬢さんで、相当叱られましたね」
- 87 名前:Pessimistic Baby 2-8 投稿日:2003年02月27日(木)13時02分25秒
- 乱暴な感情に引き摺られるがままに、整った顔をみっともなく歪めていた優等生。
上がりっぱなしの高音では、何を叫んでいたのかも判別不能で。
それでも、育ちのよろしいお嬢さんが、知る限りの罵倒をしていったことは確かだろう。
「……うまくやってよね。ゼティマは大事な顧客なんだから」
「はい」
「まあ、あたしは吉澤のことは信用してる。信頼はしないけど」
眼鏡を外して胸ポケットに納め、保田は両目を軽く擦った。
吉澤は煙草を揉み消してから、窓を閉める。
保田の顔を捉えていたルームミラーの角度を直し、慣れた動作で発進準備を行った。
女達が泣くのには慣れていた。
涙に心揺らされることなどない。
頬を叩かれたのも、1度や2度ではすまない。
誰でも変わりはなかった。ただの蛋白質の塊だった。
屍と生きている身体がどのように違うのか、生温い肌に包まれて考えた。
左の膨らみの下の鼓動を、跳ね上がる息を、生物学者の目で見て確かめた。
それでも。
何一つとして解らなかった。残らなかった。淀んで溜まって沼の底。
それでも。
憤怒と侮蔑に憐憫が入り交じったあの視線を、吉澤は、忘れていない。
- 88 名前:NEMO 投稿日:2003年02月27日(木)13時03分26秒
更新終了です。
石川さんにまたもやられました。
この人、掴めない。
まだ登場できていないのは飯田さんあたり。
彼女も第2章のうちに顔を出してくるかと思います。
あとは五期の皆さんですね。さて、どうしようか。
- 89 名前:NEMO 投稿日:2003年02月27日(木)13時04分09秒
- お返事です。
>チップ様
早めの更新、といいながら結局遅くてすみません。
30時間ぐらいは早めたつもりですが。
混乱中の頭はどうでしょう? 今回で治ったでしょうか?
>79様
石川さんはジグロシロウトさんですから。ええ。
『Nautilus』には入れないんです。
石吉の過去はあっさり暴露してしまいました。
まあ、そんなに隠しておくような色気のある話でもないので。
がっかりさせてしまったかもしれません。
以上、本日閉店。
次回より再びネガ吉澤さんモードです。
- 90 名前:チップ 投稿日:2003年02月27日(木)13時54分32秒
- おかげ様で混乱は大分落ち着きましたけど、あさみ可哀相・・・
でも吉かっこいいなぁ。もっと石と絡んでくれる日が待ち遠しい〜。
今更ですけど、ジーニアスおいらも使ってたんで、なんか嬉しかったです。
- 91 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月27日(木)16時17分34秒
- むちゃくちゃいいです
雰囲気が最高 頑張ってください
- 92 名前:Pessimistic Baby 3-1 投稿日:2003年03月11日(火)19時08分03秒
- 幸いにも、雨が本降りになる前に、駅構内に入ることができた。
吉澤はスーツの肩に降り掛かった細かな雫を払い、湿り気を帯び、顔にこぼれ落ちている前髪を、掴み上げるようにして後ろにおいやる。
黒い髪の下から現れたなめらかな額を、雨が一粒滑って鼻筋へと流れた。
(酸性雨)
地球崩壊の警鐘を鳴らすマスコミに与えられた、吉澤の先入観のせいなのか。
唇に溶けた一滴は、ひどく酸味が強いように感じられた。
開けた視界を流れていく人の群れに、吉澤はひっそりと紛れ込む。
流れに入れば、吉澤の姿は消えてしまう。
市井紗耶香に備わっているものよりも柔軟な、けれどもやはり大きな存在感。
それを剥き出しにすれば、無用の警戒心を与えてしまうことを、吉澤は経験から悟っていた。
だから自身の存在を、周囲に合わせて薄めてやる。
小学校の理科の実験、水溶液の濃度調節。
アルカリ性と酸性のバランスで、金属をぼろぼろにする塩酸だって、無害な液体に変わった。
人間もそれと変わらない。
プラスマイナス、どちらに片寄っても駄目なのだ。
中途半端が、生きていくには丁度いい。
『中庸の徳』、アリストテレスもそんなことを言っている。
- 93 名前:Pessimistic Baby 3-2 投稿日:2003年03月11日(火)19時09分03秒
- ビーカーの中身を教科書に添っていじくりまわすのと同じ手順で、吉澤は肉体を操る。
指先の小さな動作ひとつで、与える印象は見事に変わってしまうものだ。
自分の肉体がどう動いているのか、どう他人に見えているのか。
観察と分析、そして実践。
繰り返すことによって、自己の姿が見えてくる。
研究材料には事欠かなかった。
オーケストラ、ワイン、絵画、チェス。
気前のいいパトロンが吉澤に教えてくれたものは、教養やマナーだけではない。
なによりも先に、[How]。
どのように、扱うか。
ことあるごとに、言葉で、態度で、彼女達はそう示した。
おかげさまで吉澤の肉体は、どこまでも精神に忠実だ。
思う通りにならないのは、空腹感ぐらいか。
この、脇腹を内側から引っ張られるような感覚。
それだけが、自分が体温を持った生存中の動物なのだと、吉澤に思い出させる。
- 94 名前:Pessimistic Baby 3-3 投稿日:2003年03月11日(火)19時10分30秒
- 朝にゆで卵を食べたきり、眠らせておいた消化器官が騒ぎ始めた。
吉澤は広げた週刊誌の横文字に視線を落としたまま、考える。
3人でいた頃から家事を押し付けられていたし、独り暮らしも長い。
買い出し、調理と後片付けは、吉澤にとって苦にならない。
横着するなら、吉祥寺の駅ビルで、惣菜を適当に買って帰ればいい。
外食は苦手だった。
ものを食べる行為は、非常に生々しい。
唾液やソースで濡れた口唇や、砕かれた食べ物が見え隠れする歯。
隣のテーブルで食べ滓をまき散らされても興醒めだし、口を開けたまま咀嚼する癖がある人間が近くに座っていたら拷問だ。
箸を扱う手元、フォークを置く場所、それだけで育ちが明白になる。
相対して食事をすれば、ベッドを共にするよりも、そのひととなりが判ると、吉澤は思う。
だから吉澤は慎重になる。
ふらりと食べ物屋に入る、だなんてことはまずしない。
人見知りならぬ、店見知り。
結局、馴染んだ店、馴染んだマスター、行く場所は決まってしまうのだった。
- 95 名前:Pessimistic Baby 3-4 投稿日:2003年03月11日(火)19時11分29秒
- クリーム色の壁を持つ、喫茶店の扉を押し開けようと、てのひらに力をくわえる。
同時にドアノブを内側に引いた学生アルバイトと正面衝突しそうになって、吉澤は一歩左に飛び退いた。
「あ、ごめん紺野さん、大丈夫? ぶつからなかった?」
「はい、平気です。……あの、もうお先にいらしてますよ」
(先に?)
内心首をかしげる吉澤の背中で、紺野あさ美が『Open』の木札をひっくり返す。
この店を貸し切りにできる客。
その姿を探すよりも先に、鈴の余韻と重なって涼やかな笑い声が響いた。
「とっろいなぁ、吉澤。なにやってるんだよ」
カウンター席の、脚の長いスツールに腰掛けている市井。
薄い肩ごしに玄関に顔を向けて、吉澤を招く。
自分の右隣のスツールを顎で示した。
「職場放棄ですか?」
「ブッブー。『Nautilus』は本日休業。水槽入れ替えることになってさあ。
今頃サカナちゃん達を戻し終わったんじゃないの」
「ごっちんは?」
「買い出し。これから皆来るって。出張『Nautilus』だよ、まったく」
球形の氷をグラスの中で転がして、市井は底に残ったバーボンを呷る。
- 96 名前:Pessimistic Baby 3-5 投稿日:2003年03月11日(火)19時12分10秒
- 「呑む?」
「No, thank you」
吉澤は市井ほど、アルコールに強くない。
空きっ腹に流し込む酒は黄信号だ。
市井も無理にはすすめない。実におとなしい酒飲みだ。
ボトルを市井が引き寄せようとするのを、吉澤は隣から攫って傾けた。
指を横に2本重ねた分の深さだけ、グラスに注ぐ。
「じゃ、乾杯」
市井は軽くグラスを持ち上げてから、IWハーパーを口に運んだ。
左手が手持ち無沙汰のようで、カウンターの上を彷徨っている。
喫茶店は終日全面禁煙だ。
コーヒーの香りを大切にする後藤は、ニコチンの匂いを一切持ち込ませない。
市井の喫煙量は、後藤と暮らすようになってから確実に半減していた。
どうやら市井は、素直に後藤の言い付けを守っているらしく。
後藤は見事に市井の手綱を握っているらしく。
「ん、なに?」
「え」
「や、ヘラヘラしてるから」
「してませんよ」
「してた。気味悪ィ」
グラスを持ち替えて、市井は吉澤の頬を人指し指で突つく。
- 97 名前:Pessimistic Baby 3-6 投稿日:2003年03月11日(火)19時13分06秒
- 「イイことあった?」
吉澤の頬のやわらかな肉を掴んで、市井は訊ねる。
縦縦横横マル書いてチョン。
「無気力・無関心・無愛想、三拍子揃った吉澤サンが今日はやたらとゴキゲン」
しつこく絡む手を払いのけて、吉澤は片頬だけで笑う。
「絶対錯覚」
「ま、いいけどね。そういうことにしておきたいんならさ」
含みを持たせた市井の科白に、ほんのわずか眉が持ち上がった。
----何が言いたいんだ、この人は。
不満の色がうっすらにじんだ横顔に、今度は市井がニヤニヤする番で。
お互いひねくれているのは承知の上だから、瞳の奥底を探り合いながら、消化不良になりそうなジョークを重ねていく。
友人ではなく姉妹の遠慮のなさで、言葉の端々に織り込まれる毒には、マイペースアルバイター紺野でさえ胃を痛めてしまいそうだ。
(これって労災になるのかなぁ)
紺野はレジのなかの小銭を数えながら、ぼんやりとそんなことを考えた。
- 98 名前:NEMO 投稿日:2003年03月11日(火)19時16分48秒
すみません、短く、かつ区切りも悪いですが一時更新終了です。
明朝帰宅する余裕があれば、続きと返事をのせたいと思います。
- 99 名前:79 投稿日:2003年03月11日(火)23時08分53秒
- 更新、お疲れ様でした。
水溶液の濃度調節のお話、非常に好きです。
深いなぁ・・
確かに「バランス」って、生きて行く上ではある意味大切な
ものですよね。吉の、己の肉体をすべてコントロールする術は
まるで感情を持たないマシーンのようです・・
吉が何故そうなって行ったのかということも含めて、やはり
この先の展開に惹きつけられます。
吉と市井の会話、見えないミサイルが飛んでるみたいですねw
次回更新、まったりとお待ちしております。
- 100 名前:Pessimistic Baby 3-7 投稿日:2003年03月16日(日)13時52分45秒
- 紺野が神経性胃炎に陥る一歩手前、買物袋を抱えた喫茶店の主が戻ってきた。
後藤はその一声で、店にふきだまった重たい空気を一掃する。
「ふひゃあ、すっごいよ、雨。洗濯物片付けといて正解だったねえ。
紺野もさあ、無理に帰んないで食べてけば?」
シャワーを浴びさせられた犬のように、ぶるぶると身体を震わせている後藤に、市井がカウンターの中から引っ張り出したタオルを頭からかぶせてやる。
正月にでも配られたものなのだろう、タオルには酒屋のロゴが青くプリントされていた。
「後藤お前、傘は?」
「傘はあっても、持つ手がなかったんだよねぇ、それが」
「誰がこんなに食べんだよ」
市井は呆れたように呟いて、片手でセロリの葉が飛び出したビニール袋を持ち上げる。
30センチ、床から離したところで持ち替えた。
「や、だって、いちーちゃんでしょ、あたしでしょ、紺野、やぐっつぁん、なっち----」
「あー、もうわかったから、そーだね、皆が食べんだね」
指折りながらの反論を、市井が投げやりに切り捨てる。
その腕が微かに震えているのを、吉澤は見逃さなかった。
やはり後藤と比べて非力な市井、ちょっと辛いらしい。
「市井さん、無理すると腰にきますよ、もう若くないんだから」
「黙れガキ」
14歳の頃と変わらぬガキ扱い。
市井は吉澤を横目で睨んで、カウンターに荷物を置いた。
「あ! 卵あるんだから気ぃつけてよ」
「……遅いんだよ」
- 101 名前:Pessimistic Baby 3-8 投稿日:2003年03月16日(日)13時53分26秒
* * *
茶碗蒸し、ほうれん草とベーコンのオムレツ、あおのり入り卵焼き、トマトのココット。
和洋混合の卵尽くしに、矢口真里は思わず声をあげる。
「なんだよぉ、コレ」
「いちーちゃんに聞いて」
オープンキッチンに立って、勢いよく中華鍋を揺すり、米粒を舞い上がらせている後藤。
手を休めずに顎をしゃくって、隣で焼いた鮭の切り身をほぐす市井を示した。
市井は菜箸をおろして後藤に向き直り、素直に頭を下げる。
「ごとーさん、ごめんなさい」
「----市井さん、卵1パック駄目にしたんですよ」
首を傾げる一同に、吉澤が短く補足した。
「ごっつぁんの前じゃ、『Nautilus』の王様も形無しだぁねえ」
〈機関長〉安倍が永遠の童顔を笑み崩せば、矢口も頷いて同意を表す。
「ものの見事に座布団になってるよ」
座布団、それは尻に敷かれてナンボの世界。
「ほら、いちーちゃん、鮭入れてよ」
「ハイ」
「コショウ取って。あ、塩もね」
「ハイハイ」
「あ、ちょっとそれコショウ入れ過ぎ」
- 102 名前:Pessimistic Baby 3-9 投稿日:2003年03月16日(日)13時54分08秒
- 『Nautilus』ではいつも泰然として君臨する専務の弱々しい姿に、新入り2名は目を大きくしている。
笑いたい。
でも、後がちょっと怖い。
口元こそ意思の力で抑えてはいるものの、〈2nd オフィサー〉松浦の瞳は楽しげに輝いていた。
一方、『Nautilus』上級クルーに囲まれて、所在なさげにうろうろする新米〈セイラー〉。
吉澤と目が合う都度に、驚くほどの速度と深さで頭を下げた。
「そうそう、この子は高橋。彩っぺが知り合いから預かったんだって。
だからゲストの相手じゃなくて、なっちの手伝いしてもらうことになったんだぁ。
高橋、こっちが〈1st オフィサー〉のよっすぃーね」
安倍に互いを紹介され、吉澤は頬杖を外して会釈した。
固くなっている〈セイラー〉との距離を縮めては、余計に怯えさせるだけだろう。
「どうも、吉澤です」
「あ、はいっ、高橋愛です、あの、よろしくお願いします」
上擦った声で名乗った名前が、吉澤の脳裏に別の顔を浮かばせる。
一昨日、7年もの空白を打ち破って、吉澤の前に現れた少女。
煙草を、万年筆を探して、脇に垂らしていた吉澤の右手が動き出そうとする。
「……高橋の場合、字はloveのほうね、loveの」
指先の神経に動揺が伝わる前に、完成したばかりの鮭炒飯を運んできた市井が小声で注釈を加えた。
助けて貰った、ことになるのだろう。
- 103 名前:Pessimistic Baby 3-10 投稿日:2003年03月16日(日)13時54分44秒
- 後藤の音頭取りで、宴会が始まる。
掲げた細身のグラスを口に運ぼうとした安倍に、矢口が飛びつく。
「なっち、ビール没収」
「えぇ、なんでさ」
「帰りの運転、なっちの番だろぉ。飲んじゃダメだって」
ビールを巡っての攻防は一進一退。
長い睨み合いの末、安倍がふっと視線を外す。
(お、ようやく諦めたか)
矢口の構えが緩んだ瞬間、安倍はテーブルに身を乗り出し、半分以上中身が入っている500ml缶を掴み取って、中腰になったまま一息に飲み干した。
「あーッ! なっちのバカぁ!」
矢口の悲鳴が響くその横で、市井は後藤の機嫌を取り、紺野と高橋は下っ端の悲哀を共有していた。
吉澤は半球型に盛られた炒飯のドームを崩し、レンゲですくい取る。
一口放り込んで、小さく、呻いた。
運悪く混じっていたコショウのかたまりに、口元を手でおさえて噎せる。
「はい、吉澤さん」
背後から差し出された黒ビールでコショウを流して、肩ごしにしなやかな手の持ち主を見遣る。
口角をきれいに吊り上げた笑顔に、隙は全くない。
松浦亜弥は、既に安定感を得たプロフェッショナルだった。
「ありがとう」
そして吉澤は、既に完成されたプロフェッショナルだった。
だから松浦は、吉澤にとって異分子にはあたらない。
- 104 名前:Pessimistic Baby 3-11 投稿日:2003年03月16日(日)13時55分21秒
- 松浦は対吉澤プランを練り直したらしかった。
当たり前のように、吉澤の隣に座っているあいだも、いつ引っ込んだらよいのか計算している筈だ。
並ぶ2人の背中を指差して、矢口が市井の腕をひく。
専務・バーテン・機関長----『Nautilus』の頂上会談がコソコソヒッソリ囁かれる。
「あれ、どうなのさ、松浦」
「再チャレンジってことなんじゃないの」
「でもやっぱりよっすぃーの勝ちっしょ?」
鉄壁のディフェンスで8年間、〈1st オフィサー〉であり続ける吉澤。
挑んでいって自滅したクルーは相当な数になる。
「前の〈2nd オフィサー〉もやられちゃったし。
2ndキラーだもんね、よっすぃー」
「松浦ねぇ。これ潰されると後がないんだ。
結構頑丈そうなの借りてきたんだけど」
市井は、札入れを隠したジャケットの内ポケットを叩いた。
「どう、賭ける?」
「ってか勝負になんないよ。オイラ、よっすぃーに2万」
「なっちも」
「んじゃ、あたしは松浦に4万ね」
- 105 名前:Pessimistic Baby 3-12 投稿日:2003年03月16日(日)13時56分09秒
- テーブルの中央に重なった、8人の福沢諭吉。
「いいのぉ、紗耶香?」
「いいよ。吉澤と遊べば松浦ももうちょっと賢くなるでしょ」
「4万で済むなら安い教育費かもしんないべ」
「まだあたしが負けるって決まったわけじゃなし」
8枚の紙幣を封筒にしまい、糊でしっかりと綴じてから、市井はそれを安倍に渡した。
「『Nautilus』の金庫に片しといて」
「ラジャ」
おどけた素振りの敬礼に、市井も指を揃えた右手をゆらりと額に持ち上げる。
だるそうに、こめかみを指先でビッと掠らせた。
新しいクルーがやってくるたび、市井はわずかな期待を諦観のうちに紛れ込ませて、飽きもせずに繰り返されるゲームを見ている。
結局、誰でもいいのだ。
あの吉澤を混乱と焦りに走り回らせてくれるのなら。
そうしたなら吉澤も、すこしは感情というものを思い出すだろう。
しかしそのゲームは、あくまでも市井の支配下で行われなければならなかった。
10年前のように、市井の手の外で、知らないうちに始まってしまっては余興にならない。
----さて、松浦はどれだけ楽しませてくれるだろう。
市井は不穏な微笑みを目元にのせ、煙草を吸おうと雨上がりの匂いの中に出ていった。
- 106 名前:NEMO 投稿日:2003年03月16日(日)14時07分47秒
更新終了です。
明るいんだか暗いんだか、馬鹿馬鹿しいんだかシリアスなんだか。
ちょっと自分でもわからない。
吉澤さんも石川さんの座布団になる日がくるはずです、一応。
そこが目標ですので。
……我ながら遠いぞ。
ではお返事を。
>チップ様
ジーニアスは基本です。ええ。
あさみさんの役所はほんと誰でもよかったんですが、
なんだかこの人が一番騙されやすそうな顔だったので。ごめんなさい。
飲みたくなりました、という感想が実はすごく嬉しかったりします。
次回は絡む予定です、シロウトさんとクロウトさん。
- 107 名前:NEMO 投稿日:2003年03月16日(日)14時20分20秒
- 続きです。
>91名無し読者様
最高、という響きにしばし照れます。
もうすこしスピードが出せるよう、頑張りたいとは思ってるんですが。
>79.99様
ミサイルっていうか、いやなオーラぷんぷんでしょう、おそらく。
紺野さんも災難です。
吉澤さんのマシーンっぷりは、ただ単にやる気がないからだという説も。
おそらく無頓着・無計画・無鉄砲が三拍子揃ったガキだったんでしょう。
まあ、それはそれで書いたら面白そうですが。
今は本筋をすすめることにエネルギーを注いだほうがよさそうですね。
以上、これにて本日閉店。
次回、シロウトvsクロウト勃発。
- 108 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月16日(日)14時51分57秒
- この作品凄く好きです。
クールな吉澤さんがたまりません。
次回更新も楽しみにしています。
- 109 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月16日(日)16時29分50秒
- 最高です
いま一番好きな作品
頑張ってください
- 110 名前:ひっち 投稿日:2003年03月16日(日)21時20分03秒
- 梨華ちゃんの座布団になりたい!
- 111 名前:ひっち 投稿日:2003年03月16日(日)21時20分46秒
- しもた、上げてもた、スマソ。
- 112 名前:ヒトシズク 投稿日:2003年03月17日(月)17時18分19秒
- 初めてレスします^^
いや〜かっけぇ〜ですね、ここの登場人物さんたちと雰陰気。
もう酔ってしまいそうです^^;
続き楽しみにしてます!
がんばってください、応援してます^^
またひょろっと現れますね〜
- 113 名前:Pessimistic Baby 4-1 投稿日:2003年03月30日(日)16時39分24秒
- 細く落ちる水音に、吉澤の閉ざされた瞼が震えた。
薄暗がりに瞬きをゆっくりと繰り返して、ベンジャミンの豊かに茂った緑の隙間から、周囲を素早く見回す。
3つ繋げた椅子の上、横になっている矢口。
テーブルに、頬をぺたりとくっつけている安倍。
向かって左手には、吉澤とまったく同じ姿勢で、壁を背にして椅子に深く腰掛け、目をつむる市井がいた。
紺野と高橋の姿はない。雨上がりに、市井が駅まで送っていったことを、吉澤は思い出す。
オープンキッチンのシンクで顔を洗っていた後藤が、水を止めてタオルを掴む。
滴る水を軽くおさえて、手刀にした手を顔の前に立てた。
「ごめん、起こした?」
「いいよ。もうそろそろ始発も出るし」
吉澤は後藤の頭上、カチコチ響く壁掛け時計を確かめる。
膝の上に落ちている両手を持ち上げ、組んでいた指をほどいた。
片手で首の後ろを支えて、左右にコキリコキリ。
肉体は不具合を訴えているのに、ベッドに横たわるよりもよく眠れたような気になるのは何故だろう。
「ごっちん、水ちょうだい」
「ん」
傍らで眠る松浦を起こさないよう、吉澤は肩をおさえて体勢を整えてやりながら立ち上がった。
後藤はボルヴィックのペットボトルを、一口先に失敬してから吉澤に手渡す。
「ありがと」
吉澤はカウンターの天板に片肘をのせ、ボトルを傾けた。
- 114 名前:Pessimistic Baby 4-2 投稿日:2003年03月30日(日)16時40分15秒
- 寝息が満ちる屋根の下。
必然的に、会話は秘め事めいた囁きで交わされる。
「よしこ、結構寝てたねぇ」
「大分、呑まされたからね」
他人に絡んだり泣き出したりする人間に較べたら、吉澤の酔い方は静かなものだ。
頭よりも先に身体が使い物にならなくなる。
まず足、手、それから眠気。
意識が途切れる寸前まで、思考はとてもクリアに保たれる。
普段なら足元が確かなうちに切り上げるのだが、今回は周囲のプレッシャーがひどかった。
市井が煽り、矢口と後藤が調子に乗ると、吉澤の手に負えない。
最後、市井と後藤がコップ酒を手に呑み比べを始めたところまでしか記憶になかった。
「結局さ、どっちが勝ったの」
「いちーちゃんに後藤が負けるわけないじゃん」
「だろうね」
恐ろしいことにこの酒豪は、二日酔い、という生理状態を知らない。
肝臓のつくりが一般人とはまるで違うのだ。
「そういえばさあ、いちーちゃんが可愛かった」
「ビデオの話?」
「うん、そう」
「ちゃんと見れたんだ、あれ」
- 115 名前:Pessimistic Baby 4-3 投稿日:2003年03月30日(日)16時40分55秒
- 映像を見ることが可能かどうか、吉澤はほとんど気にしていなかった。
ただ、手元に置いておきたくなかっただけだ。
残しておくのも未練なら、作意的に遠ざけようとするのもまた、未練だろう。
自分がみっともないのも、女々しいのも。
全部わかっている。
わかっている分、病は重い。
「市井さん、若かったでしょ」
「あれ幾つ? まだ20前だよねえ?」
「18歳ぐらいだと思うよ」
「ホントかーいかった」
「そりゃよかった」
軽くなっていくペットボトルと、白んでいく窓の外。
吉澤は目頭を指先で揉んで、短く息を吐き出した。
カウンターに頬杖をつく後藤に、一度振り向く。
「じゃ」
「うん」
店を出ていく吉澤に小さく振り返した手を落とし、後藤はだらんとカウンターに沈んだ。
両腕に顎を置いて、顔の下半分を埋めたまま、くぐもった声で告げる。
「いちーちゃん、よしこ絶対気付いてたよ」
「……やっぱり?」
額に右手の甲をあて、狸寝入りを決め込んでいた市井が薄目を開けた。
頑固な頭痛のせいか、眉根に皺が寄っている。
「なんか視線を感じたんだよね、ビシバシと」
- 116 名前:Pessimistic Baby 4-4 投稿日:2003年03月30日(日)16時41分47秒
- 「よっすぃー、勘がいいからさぁ」
伸びをして、安倍が顔を上げた。
木目の跡がついて赤くなった頬をさする。
「てか、ビデオって何?」
しかめ面継続中の市井に、水を差し出して後藤が答える。
「あいぼんに貰ったんだって。裕ちゃんが撮ったビデオ」
「……捨てて」
「ヤだ」
「頼むよ、真ぁ希ちゃーん」
逃げる後藤に、みなしく虚空を掴んで市井の腕が落ちた。
「オイラも映ってた?」
「あー、やぐっつぁんは昔っから小さかった」
「なんだよ、紗耶香はかーいくて、オイラはそれなのかよお」
からかい半分、諦め半分、ぼやいて顔を覗き込んでくる矢口の額に、市井はデコピンをかます。
仰け反る矢口を、腫れぼったい瞼の下から笑った。
「うるさい、ちっちゃいの。頭に響く」
「ちっちゃい言うな! ザブトンのくせに」
「あー、だから叫ぶなってば」
金髪頭が2つじゃれあう様子を静観しつつ、後藤と安倍はモーニングコーヒーを啜る。
今年度下半期のスコア表をカウンターから取り出してきて、続いたバッテンの最後にもう1つ書き加えた。
「これで紗耶香の15連敗かぁ。賭けるまでもなかったっしょ」
「だねえ」
- 117 名前:Pessimistic Baby 4-5 投稿日:2003年03月30日(日)16時42分19秒
- 騒々しさを増す店内に、松浦もようやく目を擦りながら起き出してくる。
安倍に手招かれて、安全地帯になったカウンターへとそそくさと移動した。
椅子を蹴倒す勢いで駆け回る市井と矢口に、腰が多少引けている。
後藤がクリームを一匙落としたコーヒーカップを、音もなく松浦の前に置いた。
「大丈夫、もうすぐに飽きてやめるから」
「あ、そぉなんですか」
「呑んだ朝はいっつもだし。備品壊されないあいだはいいかな」
テーブルをひっくり返して、砂糖壷を割ったことも1度や2度ではすまない。
そう文句を言いながらも、後藤は目を細くしている。
年甲斐もなく、矢口とふざけあい、走り回っている市井はなんだか微笑ましい。
「でも松浦、こういうこと、『Nautilus』ではナイショね」
一本立てた人さし指を、唇の前に持ってくるお約束のポーズ。
安倍は子供相手にするみたいに、松浦に口止めをする。
「ここと『船』は違うし、紗耶香も矢口も、『Nautilus』にいる時はちゃんとしてるっしょ。
それとね、フロアに出たらよっすぃーのことも〈1st オフィサー〉って呼んで。名前はダメ。
〈船室〉のことはなんにも口出ししないからさ。勝手にしていいよ」
吉澤に何を仕掛けても、『店』側は黙認する。
そう悟って、松浦は満面に笑みを浮かべた。
「了解しました、〈機関長〉」
- 118 名前:Pessimistic Baby 4-6 投稿日:2003年03月30日(日)16時42分55秒
- 不意をついて、松浦の影からゆらりと市井が現れる。
半開きになった唇から、荒い息が零れ落ちていた。
松浦が立ち上がって、場所を空ける。
「うひぃ、きっつー」
一声洩らして、市井は譲られた席に座り込み、カウンターに身を投げ出した。
続けて矢口も、背の高いスツールによじ登る。
「あのさ、ごっつぁん。オイラもそのビデオ見たいんだけど、いい?」
後藤はすこし躊躇してから、頷いた。
そして市井後藤宅で、ビデオ観賞会が行われる運びとなった。
市井の集めたガラクタ類が詰め込まれた4畳半のフローリングの上、5人はTVに向かって半円を作る。
二日酔いには迎え酒、レッド・アイを一気に飲み干して、市井は小振りの煙草を口に挟む。
ライターのつまみをひねって、半日振りにHOPEの煙を吸い込んだ。
後藤から手渡された小さなビデオテープを、順繰りに摘まみ上げてラベルを調べる。
「後藤、コレ?」
「や、1番下の」
「……あんまり気乗りはしないんだけどね」
「今更なーに言ってんのさ」
「往生際が悪い」
ちっちゃいのに煽られて、苦笑いをしながらデッキにセットする。
「ありゃ」
おとなしく入っていってくれない。
差し込み口から再び顔を出すテープを、2本の指で強く押し込んだ。
- 119 名前:Pessimistic Baby 4-7 投稿日:2003年03月30日(日)16時43分27秒
- 市井はリモコンを掴み、後藤の左隣に片膝をたてて腰を下ろす。
灰を落とそうとして、灰皿がないことに気付いた。
仕方なく、グラスを灰皿の代わりにしようとした市井に、後藤が立ち上がる。
「もー、今とってくるから待っててよ。ついでになんか食べ物用意するね」
市井の手からグラスを奪って、扉を開け放して部屋を出ていった。
「……ついで、が長くなるんだよな、いつも」
軽い溜息をつき、市井は煙草の先を指で潰して消す。
まだ長い吸い殻を手の中に隠して、松浦に顔を向けた。
開口一番、
「松浦さ、初恋はいつだった?」
「いきなしコイバナかよッ!」
矢口の突っ込みに、へらりと笑う。
「初恋はね、大事だよ、マジで。人生狂うからね」
市井は弛んだ笑顔を引っ込めて、頬をキュッと引き締める。
「水疱瘡と同じでさ、大きくなってからやると大変なことになっちゃうんだよ。
幼稚園くらいにさっさと済ませちゃえば、心ほんのりあったまる昔話で終わるのに」
「誰の話ですか?」
「誰でもいいよ。そう、例えば吉澤とか」
リモコンの再生ボタンに指をのせ、
「敵を知るのは勝利への第1歩、ってね。こりゃ孫子だったかな……? ま、いいや。
んじゃ、おベンキョウしましょうか、〈2nd オフィサー〉」
ビデオテープが軋みながら回り出す。
4対の視線を集めながら、15インチの控えめなブラウン管が輝き始めた。
- 120 名前:Pessimistic Baby 4-8 投稿日:2003年03月30日(日)16時44分59秒
- その頃、吉澤はUFAにいた。
朝1番で、クライアントとのミーティングを済ませてきたばかりだ。
オフィスの自分の席に落ち着いて、ようやくメールに目を通す時間ができた。
吉澤はプラスチックのカップからコーヒーを啜りながら、重要なメールをプリントアウトする。
メールの半数は国外から送られてきた、英語で綴られたものだ。
吉澤の頭も次第に横文字使用に切り替わる。
日本語は美しい言葉だ。しかし、ビジネスには適さない。
硬質なアルファベットによって、思考の流れに枠組みを作ってやる。
その時点で、ビジネスを進める上でさまたげになる情や義理は消えてなくなるのだ。
データ、計算、勘、それらを繋ぐ論理。
思考はどこまでも鋭く、深く、速くなる。
紙を吐き出すレーザープリンタの前に立つ吉澤に、保田が声をかけた。
「吉澤、ちょっと!」
カップをデスクに置いて、吉澤は保田のもとに駆け寄った。
デスクに高く積み上げられた書類から、保田は迷いなく黒のファイルを抜き取る。
薄っぺらい半透明のものではなく、つやつやした革製の、いかにも値が張りそうな代物だった。
中に挟まれている紙も、大量購入しているコピー用紙とは違う。
UFAの社章が中央に鎮座するトレーシングペーパーだ。
右端下に、万年筆で入れられたサインを見て、吉澤が片眉を持ち上げる。
「やる?」
YESでも、NOでもない。保田から求められているのはただ一言。
「Sure(勿論)」
答えを受けて、保田の猫目が、満足そうに細められた。
- 121 名前:NEMO 投稿日:2003年03月30日(日)16時48分07秒
短いですが2章4節、前半終了。
後半は明日に更新を予定しています。
お返事もそのときに。
- 122 名前:99 投稿日:2003年03月30日(日)22時20分55秒
- 更新、お疲れ様でした。
『Nautilus』の宴、何とも楽しそうですねぇ。
座布団やら、ちっちゃいのやら・・
いろんな意味で緊張感に満ちた宴会ではありますけどw
しかしながら、吉澤さんの外濠が徐々に埋められつつあるような気が・・
吉澤さんのサイボーグぶりが崩れて、石川さんの座布団になる日が
待ち遠しいような、このままでいて欲しいような。
かなりワクワクしてます。
松浦がどう出るかも密かに期待してます。
- 123 名前:Pessimistic Baby 4-9 投稿日:2003年04月02日(水)00時40分24秒
* * *
残業が続いていた金曜日、ようやく定時で帰れる目処がたった。
第4班の面々の表情も、多少明るさを増している。
今日あたり、羽目を外す人間も出るだろう。
「さて」
1週間をかけて、積もりに積もった資料やゴミを片付けようと、石川はデスクに対峙する。
我ながらよくもこんなに溜め込んだものだ。
石川はビニール袋を片手に、山を崩して袋の中に突っ込んだ。
ふと指先が触れたファックス用紙を裏返す。
それはUFAから昨晩発信されたものだった。
隅に癖のない筆記で、ふたり分の署名がされている。
ジュニアスタッフ吉澤ひとみと、スーパーバイザー保田圭。
ふたりの文字は、崩し方がどことなく似ていた。
気取り過ぎてはいない、だけれどもよそ行きの、他人に見せるための文字。
通信教育のペン習字の広告にでも登場しそうな筆跡だ。
指で吉澤のサインをピシリと弾いてから、石川はファックスをファイルに綴じた。
このビジネスは、まだ終わっていない。
吉澤との付き合いも、不本意ながら長くなることだろう。
(仕方ないじゃない、仕事だもの)
- 124 名前:Pessimistic Baby 4-10 投稿日:2003年04月02日(水)00時41分28秒
- 人格に問題ありとはいえど、税理士としては保田の折り紙付き。
ビジネスライクな関係に終始すればいい。
肝心なのは隙を見せないこと。
吉澤も言っていた。
----お互い、もういい大人なのだから。
「石川さん、6番お電話です」
石川は受話器を取り上げて、顎と肩で挟み込む。
「はい、お電話代わりました」
『UFAの吉澤です』
デジタルの世界を介してでさえ、その声は鼓膜に柔らかかった。
心地よい低音は、同時に石川を落ち着かなくさせる。
『……すみません、聞こえてますか?』
「え、はい、聞いてます」
『大手町にいるんですけど、今からそちらに向かっても大丈夫ですか』
石川は腕時計に視線を走らせる。
午後4時半を回ったころ。お客様は遠慮したい時間帯である。
だが最寄り駅までやってきた吉澤を、すげなく追い返すわけにもいかなかった。
急に思い立ったのかもしれないが、ゼティマ本社に徒歩3分という駅で電話をしてきたあたり、確信犯としか言い様がない。
『すみません、すぐに済みますので』
電話をかけながらも、吉澤の足は止まっていなかったらしい。
通話を終えて、石川がデスクの上のものを取急ぎ段ボール箱の中に放り込み、それをロッカーに押し込んだ時、既に吉澤はゼティマグループ本社ビル12階に到達しようとしていた。
- 125 名前:Pessimistic Baby 4-11 投稿日:2003年04月02日(水)00時42分02秒
- 「突然、申し訳ありません」
腰は低いものの、決してへりくだっているわけではない。
現れた吉澤は石川に会釈をして、すぐに本題を切り出した。
「保田さんの仕事が見たいんです」
「は?」
「これまで保田さんが第4班と行ったA&Rは、16件。
現在進んでいるものも含めれば17件になります。
残念ながらUFAにはほとんど資料が残っていなくて」
吉澤はデスクの横に立ったまま、コーヒーを用意しようとする石川の後輩に笑顔を向けた。
「あ、新垣さん、お構いなく」
いつの間にか名前もチェックしている。
女性に対する当たりが柔らかいのは、大学時代から変わっていないらしい。
「譲渡が終わったものだけで構いません、ゼティマのデータバンクをお借りしたいんですが」
「吉澤さん、……うちのデータバンクは、外部には開放していないんです」
「知っています。承知の上で、お願いにあがりました」
石川は悪態をこらえた。
どうやら、今日も定時に帰れそうにない。
「わかりました。でも、貸し出しはなしですよ」
「と、いうことは?」
「閲覧許可を取ってきます。しばらく、エレベータホールで待っていて下さい」
- 126 名前:Pessimistic Baby 4-12 投稿日:2003年04月02日(水)00時42分46秒
- 空腹を薄いコーヒーで誤魔化して、石川は欠伸を噛み殺した。
吉澤は折り畳みテーブルの上いっぱいに資料を広げて、忙しげに万年筆を動かしている。
持ち出し禁止、コピー禁止、顔をしかめたくなったのは吉澤だけではない。
外部の人間だけを入れるわけにはいかない資料室、必然的に石川も残らなくてはいけないのだ。
譲渡が終わったもの、それだけで11件はある。
きっと今夜は長いだろう。
(終電までに帰れるかな……)
横文字を書き散らかしている吉澤の横顔を一瞥し、幾度めかわからない溜息をつく。
(ひとのこと、ちょっとでも気にしたらどうなのよ)
久し振りに早く帰れると思っていたのに。
班のメンバーは、皆で軽く一杯楽しんでいるのに。
「……帰っていいよ、お嬢さん」
グラフを書き写しながら、顔も上げずに吉澤が言う。
「あなたがいるから帰れないのよ」
「見張りがなくなったからって、何もしないから」
「規則です」
小さく、鼻で笑う音。
「融通がきかないのは、変わらないね」
苛立ちが抑えきれなくなりそうだった。
石川は携帯電話を手に立ち上がり、無言で吉澤の目の前を突っ切って部屋の外に出た。
- 127 名前:Pessimistic Baby 4-13 投稿日:2003年04月02日(水)00時43分41秒
- 肩を怒らせて出ていく石川の背中を横目で追い掛けて、吉澤は万年筆を机に置いた。
偽善よりも、偽悪。
石川と組んで仕事をするなら、そのほうがいい筈だ。
石川が形作っている吉澤、という人物像を壊して作りなおさせるには時間がかかり過ぎる。
信頼は、いらない。
最初から、そんなもの期待していない。
数分後、戻ってきた石川は、幾分落ち着いているように見えた。
感情を暴発させるようなことは、流石になくなったのだろう。
「あのさ、本当に帰っていいよ。終電、なくなるし」
「そっちこそ。誰か待たせてるんじゃない?」
摺り替え、そして挑発。
会話をコントロールしようとする努力は認めよう。
ただし技術に難がある。
「いないねぇ」
「あなたが? まさか。寂しい思いする人じゃないでしょ」
「いや、本当」
「吉澤さん」
「なんでしょうか、お嬢さん?」
視線を合わせる。
唇の端を引き上げる。
演じているのは、あの頃の吉澤自身だ。
- 128 名前:Pessimistic Baby 4-14 投稿日:2003年04月02日(水)00時44分40秒
- 「どうして、彼女だったの?」
彼女。
脳裏に蘇ったのは、柔らかな関西ことばだった。
----どうして、中澤裕子だったのか。
いや違う。違う。
「……ああ、おトモダチのこと」
「答えて」
「意外としつこいんだ、お嬢さんは」
怒るだろうか。
あの時のように。
「誰でも良かったんだよ」
「そう」
「やけに静かだね」
「……怒り疲れたのかも」
石川は肩を竦めた。
日付けが変わろうとしている。
吉澤はページをめくる手を休めて、向かいのテーブルで頬杖をつく石川を見た。
意地を張っていた石川も、もう限界だろう。
- 129 名前:Pessimistic Baby 4-15 投稿日:2003年04月02日(水)00時45分34秒
- 何冊かのファイルの残りを確かめた。
あと少しかかる。
だが今切り上げれば、石川を再終電車に乗せることができる。
「お嬢さん」
反応がない。
立ち上がって、歩み寄る。
テーブルの前で屈み込んで、流れる髪の隙間から伏せられた両目を覗いた。
「……お嬢さん?」
肩を揺すれば、石川は目覚める。
目を擦りながらでも、帰り支度を整えるだろう。
だが吉澤はそうしなかった。
タクシー代ぐらい、肩代わりしてやってもいい。
石川を、眠らせておいてやりたかった。
吉澤はパイプ椅子に腰掛けなおし、再び万年筆を取り上げた。
蛍光灯が容赦なく暴きたてる静寂に、石川の唇から零れる息が溶けていく。
生きている。
ここに確かに、生きている人間がいる。
傍らにあり続ける孤独の手を、吉澤は瞬間、手放した。
- 130 名前:Pessimistic Baby 4-16 投稿日:2003年04月02日(水)00時50分40秒
-
pessimistic
〈形〉 悲観主義の、悲観的な
--大修館書店ジーニアス英和辞典--
悲観
物事を悲しむべきものと考えること。
特に、この世を苦と悪にみちたものと考えて、
なんらの希望を持たないこと。
--広辞苑--
第1章 ペシミスティック・ベイビィ -了-
- 131 名前:NEMO 投稿日:2003年04月02日(水)00時54分27秒
更新終了です。
第2章シメのはずなのに、いやな間違いをしております。
第1章 -了- ってなってますね。上。
最後までカッコ悪くてどうもスイマセン。
ツメが甘い、というのでしょうね。
次回予告はもうしないことにします。
全然正しくないし……。
- 132 名前:NEMO 投稿日:2003年04月02日(水)01時01分55秒
- お返事です。
>108名無し読者様
クール、という看板にそろそろ綻びが出て参りました。
クール、は難しい。
>109名無し読者様
いや、本当に恥ずかしいです。
こそばゆい、といいますか。
ありがとうございます。
>ひっち様
座布団権は……まだ今なら空いております。
吉澤さんがいかんせんのろいもので。
もともとage続けてますから、あまり気になさらないで結構ですよ。
- 133 名前:NEMO 投稿日:2003年04月02日(水)01時11分02秒
- >ヒトシズク様
かっけー、と言われますとちょっとびくびく。
ただ怠惰な人々です。
ええ、ひょろっといらして下さい。
ひょろひょろと書いております。
>122様
ドゥカティ、考えました。HONDAにも浮気ぎみですが。
外堀からじわじわ埋めていくのが楽しいと、徳川家康も言ってます、ええ。
サイボーグぶりに既に亀裂が走っています。
後は転がっていくだけでしょう。
宴……参加する勇気はありません。
松浦さんは、ちょこちょこチャレンジを続けているのではないでしょうか。
以上、本日閉店。
次回からは第3章になります。
- 134 名前:1-0 投稿日:2003年04月17日(木)18時05分41秒
第3章 Jumble Tumble
- 135 名前:1-1 投稿日:2003年04月17日(木)18時06分31秒
- 夏のあいだに豊かにたくわえた葉を、木々が時折はらりと落とす。
肥え太った鳩の群れが、人に怯える様子もなく、愚鈍に地べたを短い脚で這い歩く。
秋から冬の終わりにかけて、井之頭恩賜公園は比較的静かだ。
ソメイヨシノが激しく自己主張する頃には、間違っても公園に足を運ぶ気にはなれない。
その時ばかりは吉澤も、毎週土曜日のジョギングコースを変えることにしている。
吉澤は黒いウェアのフードを背中に揺らしながら、ボートが浮かぶ池の周囲を時計周りに走っていく。
向い風に嬲られた直毛が、目の下に毛先を打ち付ける。
1歩1歩踏み出していくごとに、化学繊維が擦れてシュルシュル鳴いた。
足をこうして動かしている最中には、何も考えずに済む。
呼吸、脈拍、歩数、数えるものがたくさんあって、頭のなかは数字で飽和状態だ。
吉澤は軽く5kmほどを走って、池を横切る橋の手前で速度を緩めた。
額に浮いた汗を手の甲でぬぐい、上がった息を歩きながら整える。
橋から身を乗り出して、売店で買った餌を鯉にやる少女に、吉澤は目を細めた。
小学生だろうか。
その年頃のこどもは、正直、あまり判別がつかない。
亜依よりも、幾分幼い横顔だった。
- 136 名前:1-2 投稿日:2003年04月17日(木)18時07分01秒
- 吉澤は公園から吉祥寺駅へのびる道沿いのカフェに立ち寄って、ブレンドコーヒーとべーグルを注文した。
コンビニエンスストアで買った、薄っぺらい雑誌を斜め読みしながら、遅めの朝食を摂る。
考える余裕を、頭の中に残しておきたくなかった。
せわしくページをめくり、活字を読み取る。
この1週間、自分はどこかおかしい。
いや、それ以前、亜依の手紙が迷い込んだあたりから、既に傾向は現れていた。
なんだろう。
なんだろう、これは。
心臓の裏側からせり上がってくる、この不愉快な塊は。
マッチを擦り、咥えた煙草の先に火を近付ける。
熱によじれるマッチの軸を掌の中に閉じ込めて、吉澤は、ちっぽけな炎を一息に握り潰した。
人指し指から拳をほどいて、燃え残りと煤を灰皿に落とす。
うまくやれば、火傷にもならない。
煙草の火を指でひねり消しながら、市井が笑っていた。
『つまりはね、恋愛と一緒なんだって。憶病者がケガすんだ』
暇つぶしに、聖書をめくっているせいだろうか。
市井は昔から、引用だとか比喩だとが好きだった。
- 137 名前:1-3 投稿日:2003年04月17日(木)18時07分34秒
- 99匹の羊と1匹の迷い羊、カラシの種、針の穴を通るラクダ。
全て、市井のオリジナルだと素直に騙されていたこともある。
素直に、盲目的に、ヤハウェの啓示を聞くように。
一旦浮かんだ市井の顔が、なかなか消えてくれない。
吉澤は残っているベーグルを一息に押し込んで、その塊をコーヒーで流した。
経験上、吉澤は知っている。
こうして市井のことを考える、それはいつも、ロープから足を踏み外しそうになっているときで。
吉澤はバランスを失ってぐらぐらふらふらしながら、左右どちらに倒れ込んだほうが軽傷ですむか、ロープの上で足元を見回している。
追い詰められたときに、故郷や両親のことを思うのと同じなのだろうか。
(親、ねえ)
吉澤は苦く笑って、灰皿に預けておいた煙草を摘まみ上げた。
煙の向こう、近くて遠い雑踏に、幾つかの顔と言葉が重なって渦を巻く。
堰を越えて溢れるノイズに、頭が痛んだ。
----ね、そういうの、なんて言うのか教えてあげよっか。
木炭を動かしながら、女が囁く。
----いい加減、認めたら?
長い髪が流れる肩ごしに見え隠れするキャンバスに、黒が広がっていく。
咥えたパーラメントのフィルタに、火が届く。
テーブルに力なく置き去りにされた吉澤の右手に、白い灰がさくりと落ちた。
- 138 名前:1-4 投稿日:2003年04月17日(木)18時08分11秒
- 同時刻、市井紗耶香はまどろみの中にいた。
右半身を下にして壁に顔を向け、左足を布団からはみ出させて、警戒心の欠片もなく二度寝を楽しむ。
寝相がよろしいほうでないらしい。
ぐるりと寝返りをうった市井の足が布団を蹴飛ばし、めくれたTシャツから背中が覗いた。
ノックもなしに、寝室のドアが開く。
「いちーちゃん」
受話器を右手に、後藤が市井の上に影を落とした。
後藤もたいして朝が早いわけではない。
着替えこそ済んでいるけれど、寝癖の始末がまだついていなかった。
「起きてって。電話」
市井は布団を抱く腕の力を強めて、ゆるゆると瞼を持ち上げる。
「出て」
「出たよ。圭ちゃん」
「……ったく、なんだあ、朝っぱらからさあ」
「もう10時回ってるよ。ほら」
後藤は両手を引っ張って、軟体動物化している市井の上半身を力任せに起こした。
サイドテーブルに置いた受話器を、市井の手に握らせる。
やっとのことで受話器を掴ませると、市井はまたシーツと布団のあいだに埋もれてしまった。
- 139 名前:1-5 投稿日:2003年04月17日(木)18時08分49秒
- 「ふぁい、もしもし、けーいちゃーん……んー」
布団から頭をひょこっと出して、怠惰なカメがぼやく。
「ごとー、出ないよ」
「……保留押してよ」
「あ、そっかそっか」
再び引っ込んでいく頭を、後藤は腰に手をあてて呆れたように眺めた。
お付き合いを始めて7年半、一緒に暮らして6年ちょっと、市井は最近増々手がかかる。
保田を散々待たせた割に、会話は短かった。
頼りなさげな甲羅から、受話器がごそりと吐き出される。
「終わったの?」
「ん、終わった」
市井、起きる気は皆無。
ごそごそと、寝る体勢を整える気配がした。
「こぉらっ!」
枕を布団の中に引き込もうとしている市井の手を、後藤がピシャリとはたく。
後藤はそのまま布団をひっぺがし、丸まっている市井を転がしてベッドの端に追いやった。
転落する一歩手前、市井はシーツをきつく掴んで回転をとめる。
コガメになって、上目遣い。
「も少しやさしくしてくださってもヨロシイんじゃ」
「出る前にシーツ洗っちゃいたいの。ほれほれ、さっさとどく」
「えーヤダ」
- 140 名前:1-6 投稿日:2003年04月17日(木)18時09分20秒
- まだ頭も身体も重たくて、ぬくい寝床から離れがたい。
軽く駄々をこねてみた。
「ヤだ」
「……なに。朝っぱらから遊んでほしいわけ?」
だけなのに、急速に冷える後藤の声。
実に嫌な具合に、昨晩の汗が戻ってきた。
(こいつはチーターだ。そしてあたしは無力なレイヨウだ)
底の知れない無気味な微笑みを浮かべて、じりじり迫る肉食獣に、市井の頬が引き攣る。
「や、っていうか後藤さん、そんな、朝っぱらから」
近付く後藤の額を手で押しとどめて、市井はタンマをかけた。
能動態よりも、受動態のほうがずっとくたびれるのが自明の理だ。
be動詞プラス過去形、なんて忌々しい英文法。
「まーまー」
後藤はニヤッと笑い、市井の肩に鼻先をうずめる。
「相互協力があったらさ、すぐに済むし」
「あのね、いちーはね、これから圭ちゃんとマジメな話があるの。
ほんと、体力をここで使っちゃまずいんだよ。お願いどいて」
「えーヤダ」
軽く駄々をこねられた。
「ヤだ」
後藤の指が、市井の首筋の髪を掻き分ける。
夜のうちに残した赤を見つけて、その上に軽く前歯を突き立てた。
市井は生温い感触に身体をのけぞらせ、下唇を噛んで天井を仰ぐ。
どこまでも爽やかなお空が遠かった。
- 141 名前:1-7 投稿日:2003年04月17日(木)18時09分57秒
- 赤と黒の看板の下、グレイのつなぎを着込んだ痩身が、背中を向けてしゃがみ込んでいる。
油に汚れた軍手の指が、器用に動いてエンジンを組み立てる。
吉澤は2メートルの距離をあけて、その曲がった背中の前に立ち止まった。
軍手が工具を置くタイミングを見計らって、声をかける。
「マサオさん」
大谷雅朗は、肩ごしに吉澤に視線をやって、短く応じた。
「おう」
白いタオルを巻いた頭は、すぐにエンジンに向き直る。
工具を持ち替えて、
「すぐ終わる」
「はい」
吉澤は店先に陳列してあるバイクのシートにもたれ、エンジンの完成を待つ。
手持ち無沙汰で空を眺めていると、バイクショップの店内から、大谷と揃いのつなぎ姿の女性に呼び掛けられた。
「あ、いらっしゃい。お茶ぐらい煎れるから、入りなよ」
手招き、吉澤の服装を確認して、柴田あゆみは小首を傾げた。
指先が空いたグローブまで、全身まるで鴉のようなライダースーツ。
「それとも、もしかして急ぐ?」
「いえ、いただきます」
「そ? よかった。おいしい豆大福があるんだ。焙じ茶と合うんだよねえ。
ほら、マサオもお客さん待たしてないで、お茶にしよ」
「あー」
- 142 名前:1-8 投稿日:2003年04月17日(木)18時10分38秒
- 曖昧な唸り声に苦笑いして、柴田は吉澤を見上げた。
「ごめんね、無愛想で」
「いいんです。バイク屋にはやっぱり頑固オヤジがいないとね」
大谷モータースの看板オヤジは、振り向きもせずに鼻で笑った。
柔らかな白を基調としたバイクショップの店内は、ちょっとしたショールームのように整えられ、テーブルや椅子が揃えられている。
陳列されたバイクや部品も、磨き上げられて得意顔だ。
柴田の意見が大幅に通った結果だった。
……ただし、カウンターに並んだ、ザリガニの水槽とサボテンの鉢植えを除く。
真っ赤なハサミを振り上げて客を威嚇するザリガニは、そのブリーダーと同じく、愛想を売ろうという気がまったくないらしかった。
水槽を覗いて、吉澤が眉を上げる。
「減りましたね」
「そう。寿命かな、お亡くなりになっちゃって。
そこ、お線香たってるでしょ。匂いが嫌だって言ったんだけどねー」
柴田は居住区に繋がる木戸を開け、靴箱の上で燃えている線香を指し示した。
「でもマサオはあんなだから、あたしの言うこと聞きやしないし」
ま、しょーがないんだけど。
そう愚痴をこぼしながらも、柴田はやはり笑顔のままで。
気前よく、豆大福をピラミッド状に積み上げてくれる。
「ほら、よっすぃー、たんとお食べ」
お供えものを前にした、お地蔵様の気分になった。
- 143 名前:1-9 投稿日:2003年04月17日(木)18時12分07秒
- 左足を庇うようにして、大谷がぎこちない足運びで店内に入ってくる。
柴田が椅子を引いてやろうとするのを、顎の小さな動きで制してカウンターに手をかけた。
「マサオ、座ったら?」
「ん」
大谷は頭に巻いたタオルをほどいて、つなぎの肩に引っ掛ける。
三十路手前の年令に似合わず、プラチナに近い、蛍光灯に透ける髪がばらばらと落ちてきた。
混じりっけのない、きれいな白髪を無造作に片手で撫で付け、大谷は吉澤の斜め向かいに腰を下ろす。
神経質そうな痩せた顎に、無精髭がうっすら見えた。
「あゆみ」
大谷は大福に一口齧りついて、柴田を見もせずに呼ぶ。
「はい、どーぞ」
静かに焙じ茶が差し出された。
どうしてか、大谷の前だけマグカップ。
訝しげに細められた大谷の目に、
「だって、マサオの湯のみ割れちゃったでしょ、昨日。
後で買ってくるね。前のとおんなじ絵柄にする?」
「いい」
コミュニケーションを成立させているのは、9割9分柴田の力である。
それでも今日の大谷はよく喋るほうだ。
呼び掛けたときに珍しく返事があったのだから、それだけで大谷の機嫌の良さが見てとれる。
「吉澤」
3つめの豆大福に手を出しかけた吉澤に、大谷が言う。
「できてるよ、お前の」
- 144 名前:1-10 投稿日:2003年04月17日(木)18時13分09秒
- つなぎの胸ポケットから、クリップで上辺をとめた請求書を抜き取る。
吉澤の前に投げ出して、
「あんなデカいの、いつまでも置いとかれちゃ、場所塞ぎで迷惑だ。
さっさと乗ってけよ」
「こら、マサオ!」
吉澤は請求書を表にかえして数字を確認し、尻ポケットにふたつに折って突っ込んだ封筒を取り出した。
充分に余裕が出る額を用意してある。
「じゃあ、これを」
いつものように、大谷は中身を確かめもせずに封筒を受け取り、それを柴田に手渡した。
テーブルに手をついて立ち上がり、ガレージに向かって歩き出す。
吉澤は湯のみに残った焙じ茶をぐいと呷り、大谷に続く。
一旦立ち止まって、柴田に一礼した。
「どうも、ご馳走様でした」
ガレージの中央に、それはあった。
ドゥカティ、MONSTER 4S。
被せてあったシートを剥いで、大谷はその黒い怪物を披露する。
「フロントフォークと、マフラーだな。回りやすくなってる筈だ。
それに、ちょっとばかし軽くなってる。今は190Lより下だな。
取り敢えず乗っかって……後はそれからだ」
大谷が放ったフルフェイスのヘルメットを被り、吉澤は愛車の背を一撫でした。
そうっと囁く。
「……お待たせ」
ガレージを飛び出して、焦れるエンジンを軽くいなす。
ひとまず、青梅街道を西へ。
御岳の麓の、アトリエへ。
- 145 名前:NEMO 投稿日:2003年04月17日(木)18時20分54秒
第3章・1節、更新終了です。
半月も放っておいて、申しわけありません。
……うーん、閑散としているなあ。
では、本日はこれにて店仕舞い。
次節、また2人が新たに加わる予定です。
- 146 名前:名無し読者 投稿日:2003年04月17日(木)20時15分12秒
- 更新お疲れさまです。
お待ちしてましたよ〜。
ゆっくりでいいんでがんばって下さい!
- 147 名前:122 投稿日:2003年04月17日(木)23時03分22秒
- 更新、お疲れ様です。
静かに沸々と物語が進んで来ているような・・
徐々に転がり始めた吉澤さんのバイクはどこへ走るのか。
もしやあの人が登場でしょうか・・
吉澤さんはやはりドゥカティでしたかw
取り回ししづらい、しょっちゅう故障するマシンに愛着を持って乗る
イメージが何故かこの人にはあります。
HONDAだとCB1000あたりで来るかと密かに予想してましたが。
大谷モータース、自分も通いたいですw
またどんどんと引き込まれております。
次回も楽しみです。
- 148 名前:Jumble Tumble 2-1 投稿日:2003年04月29日(火)11時42分43秒
- 窓際に置いたスツールに腰掛けて、芝生の上を渡り、
カーテンを揺らして半開きの窓から飛び込んでくる微風を楽しむ。
石川はスリッパを投げ出し、素足を床に滑らせた。
高い位置からキッチンに降り注ぐ光が、丁度よい具合にフローリングを暖めてくれている。
足の指で、そっと木目を辿ってみた。
静かだった。
ダイニングルームにあるアンティーク時計が、チクタクと時を刻むのが聴こえる。
鍵爪の手を持つ船長さんでなくても、逃げ出してしまいたくなるような音だ。
秒針は石川の鼓動を追い掛けて、60進法の円の中に閉じ込めようとする。
自分で、脈が速まるのがわかった。
身体の脇に垂らした手の指先の、毛髪よりも細い血管すら、己の存在を誇示していた。
唸りをあげて、血が巡る。
時計と呼応するかのように、内側から石川を叩いている。
その喧しさ。
その凶暴さ。
「----もうっ!」
しつこく残った奇妙な感覚を掻き消そうと、石川は両手の指をほぐしながら立ち上がる。
腰に手をやり、上体をぐるりと旋回させて……
- 149 名前:Jumble Tumble 2-2 投稿日:2003年04月29日(火)11時43分26秒
- 調理台の上、放置されたポットに気付いて奇声をあげた。
慌てて調理台に駆け寄って、丸いポットの上部を覆う濡れ布巾を取り除く。
おそるおそる蓋を摘まみ上げて、石川はこそっとポットの中を覗いた。
膨みきった茶葉が黒ずんだ液体の底に、累々と横たわっている。
蒸らし時間を計る為の砂時計の砂は下にすべて落ち、一体どれほどが経つのだろう。
失敗だと判り切っているけれど、一応、ティー・カップに注いでみる。
カップを口に運んで、石川は眉根を寄せた。
勿体ない、そう思いはしたものの、ポットを傾けて、シンクに蒸らし過ぎた紅茶を流した。
お湯で薄めるか、ミルクを入れるか。
たいした手間ではない筈なのに、プラスαの行動を取る気力がない。
ポットとカップをシンクに置いて、石川は足取り重たくキッチンを出た。
静か過ぎた。
目覚めてからまだ、誰の顔も見ていない。
出無精の次女と違い、休日に在宅していることが少ない夫婦だ。
(どうせゴルフかなにかでしょ)
車庫から1台、ワゴンが消えているのは確認済みだった。
ぺったりぺったり、スリッパを引き摺って中庭に接した廊下を渡る。
石川は開け放したドアから居間に入り、一番近いソファに身を横たえた。
2人掛けのソファから膝から下をはみ出させて、アームレストに頭をのせる。
頬に革の冷ややかさが心地よく、石川はそのまま瞳を伏せた。
* * *
- 150 名前:Jumble Tumble 2-3 投稿日:2003年04月29日(火)11時44分18秒
- 最初に視界に映り込んだのは、パイプ椅子の上の人影だった。
右を上にして脚を組み、少し肩を丸めるようにして、4つ折りにした新聞に視線を落としている。
くすぶる煙草を挟んだまま、指先が眼鏡のブリッジを押し上げる。
(この人、眼鏡かけるんだ……)
吉澤。
吉澤、ひとみ。
その名と、目の前の人物とを、噛み合わせるのにひどく時間がかかった。
ネジが弛んでいるらしく、すぐに鼻先へずり落ちてくる眼鏡に、彼女は小さく舌打ちをする。
前髪を払って、眼鏡をするりと引き抜いた。
灰色の紙面から跳ね上がった吉澤の視線に、寝起きでおぼつかない視線が絡まる。
目が合った。
器用に眼鏡と煙草を摘んだ手が、顎の下でストップしている。
ぱちり、シャッターを切るように、瞼が1回落ちて、上がった。
(あ、今の顔、ちょっと抜けてる)
霞のかかった頭で、石川はそんなことを思う。
吉澤はもう1回、まばたきをして、
「ああ。うん、おはよう、お嬢さん」
「……うん、おはよう。ね、今何時?」
- 151 名前:Jumble Tumble 2-4 投稿日:2003年04月29日(火)11時45分06秒
- 吉澤は笑ったようだった。
新聞を持った手首を返して、腕時計の針を見ている。
「午前2時過ぎ」
「え」
絞り立てのミルクのように濃厚で甘い霧が、一瞬にして吹き散らされた。
石川はパイプ椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、背にした柱に掛かった時計を振り返る。
吉澤の言葉の正しさを、自分の目で確認してから、
「なんで!? 起こしてよ! 終わってるんでしょ?」
「誰かさんがよくオヤスミでしたからねえ」
「だからって」
食って掛かる石川に、吉澤は片方の眉を持ち上げる。
薄い唇をたわませて指摘した。
「寝起き悪いって、言われたことない?」
「そっ…」
反論しようとした声が裏返って、石川は口を開けたまま喉をつまらせる。
吸い込み過ぎた空気を数度にわけて吐き出して、前のめりになった身体をひいた。
- 152 名前:Jumble Tumble 2-5 投稿日:2003年04月29日(火)11時45分49秒
- 沈黙は長く続かない。
石川のターンでつまずいた会話を、吉澤がそつなく拾い上げる。
「これ、まだ火をつけたばかりでね」
煙草の軸を指で叩いて、携帯用の灰皿に灰を落とした。
「あと5分くれる?」
疑問形はただの抜け殻、勿論返事が必要なわけではあるまい。
お互い、形式にのっとるだけの分別が身について、ルール通りに振る舞う窮屈な楽しみを知ったのだ。
吉澤は両脚をポンと前方に投げ出して、椅子からずり落ちそうな体勢で煙草をふかす。
石川のほうを一瞥もせず、ブラインドに隠された窓を見詰めていた。
(はいはい、お好きなだけどうぞ)
胸中で皮肉っぽく呟いて、石川はずらりと並んだスチール棚のあいだに入っていった。
腰の後ろで手を組み、人を殴り殺せそうな書籍やファイルの背を、ざっと流して読みながら歩き回る。
背の高いスチール棚は、その許容量以上に資料を詰め込まれて、今にも崩落を起こしそうだ。
吉澤の姿は見えない。
かすかに流れてくる煙が、石川に吉澤の存在を教えてくれる。
しかしそれだけでは不充分だ。
- 153 名前:Jumble Tumble 2-6 投稿日:2003年04月29日(火)11時46分35秒
- 石川は足音が速くならないよう、ゆっくりと後戻りをする。
棚の陰から顔を出して、椅子にもたれた背中を一目確認すればいい。
あと一歩。
棚が切れるその前で、足が止まる。
もう一歩。
踏み出したなら、だるそうな背中が見える筈で。
「……吉澤さん」
「別に、置き去りにしていったりはしないよ」
反応の速さは、石川の行動に対して予測がついていたことの証拠だ。
首を巡らせて、吉澤は石川に顔を向ける。
パイプ椅子がキュウっと鳴いた。
咥えた煙草は確実に短くなっていて、ジリジリと吉澤の唇に迫っている。
「どうして、煙草を吸っているの?」
「喫煙者見かけるごとに訊いてまわってんの?」
「情報は不特定多数の人から得たほうがいいもの」
「陳腐だね」
「どっちが?」
「全部だよ、まるごと全部」
- 154 名前:Jumble Tumble 2-7 投稿日:2003年04月29日(火)12時01分24秒
- どこかで見た通りのやり取り、準備された言葉は濁らない。
滞らずに、表面をツルツル滑って消えてしまう。
「それなら、陳腐ついでにもうひとつ」
吉澤が次に用意した科白が、手に取るようにわかった。
きっと、吉澤もそうだろう。
「はいはい、お好きなだけどうぞ」
オフェンスディフェンスを交互に入れ換えながら、突いて、弾いて、進んで、退く。
型から外れない約束組手。
ただ回転のみが速まった。
「どうして、女のひとが好きなの?」
「本当に知りたいの、それ」
煙を吹き上げて、吉澤は口元で笑う。
パイプ椅子から立ち上がって、窓に向かって歩いていく。
「理由なんて全部後付けだよ。なんとでも言える。
だから、『どうして?』なんて意味がない。
オハナシを期待してるなら悪いけど」
「でも、それぞれきっかけがある筈じゃない?」
「そんなもの、フロイト信者に任せておけばいい」
- 155 名前:NEMO 投稿日:2003年04月29日(火)12時10分23秒
第3章2節前半部、更新終了です。
お返事は後半更新後に行いたいと思います。
2週間に1度のペースに落ち込んでいますが、
ちょこちょこ書いてはいますので、気長に付き合っていただければ幸いです。
- 156 名前:南風 投稿日:2003年04月30日(水)23時41分32秒
- 更新お疲れ様です。
ここの言葉の世界に見事はまっております。
だもんで気長に付き合わせていただきたいと思っております(ぺこり)
- 157 名前:Jumble Tumble 2-8 投稿日:2003年05月13日(火)22時28分03秒
- ブラインドに指を引っ掛けて、吉澤は横に細長い隙間から外界を見下ろす。
白いうなじを隠した髪がさらりと崩れ、スーツの肩がふわりと浮いた。
腹立たしい程、一連の動作が画になった。
「それとも、石川さんは安心したいのかな。
異常な私とは違って、自分は『普通』だとでも思いたい?」
言葉の端々から滲み出る意地の悪さが、石川をぐいぐい引っ張りあげる。
煽られている。
「違います」
「違わないよ」
「ただ単にあなたが自虐的になってるだけでしょ!
被害妄想なんじゃないの」
「かもね」
あっさりと認めて、吉澤は微笑する。
サラダオイルみたいに、クセのない笑顔を石川に向ける。
それはひどく場違いで、唐突で、圧倒的だった。
横殴りに、風が吹いた。
石川の思考を絡め取り、感情と常識を摺り合わせて築き上げた障壁を乱暴に剥ぐ。
石川の中枢を白く白くまっさらにして、轟々と唸りをあげている。
- 158 名前:Jumble Tumble 2-9 投稿日:2003年05月13日(火)22時28分58秒
- 時間は、本当に連続しているのだろうか。
窓際に佇む吉澤は、夏の終わりに出会った吉澤なのだろうか。
数年間の空白を、イコールで埋められない。
目の前にいるのは、何者なのか。
こんな表情をする人間を、石川は知らない。
それは当然で、でもそのアタリマエが、どうしようもなく怖かった。
吉澤が部屋に迎え入れた沈黙は、いつ途切れるのやら、石川の頼りない肩にのしかかる。
2人分の呼吸が重たく溶ける部屋から逃げ出したくて、助けを求めた薄っぺらいドアが、
ひどく小さく霞んで見えた。
後ろ向きな自分に、石川は下唇に歯をたてる。
(なんなの、なんなのよ、もう)
上手に石川を黙らせた吉澤は、愛想のない能面に戻っていて。
横目で見下ろす街路のどこが面白いのか、燻るパーラメントを片手に窓辺から動かない。
細められた両の眼が、暗がりをくまなく攫う。
思い出したように、灰皿の蓋を開けて。
燃え尽きようとしている煙草を、唇から取り上げる。
(なんとか、言ってよ)
悔しいことに。
沈黙を破る、一言を。
透徹な横顔に、期待している。
- 159 名前:Jumble Tumble 2-10 投稿日:2003年05月13日(火)22時29分37秒
- 「----っく、ふはぁあ」
このタイミングで、天井を向いての大欠伸。
膨張を続けていた空間が、ぱちんと弾けて収縮に転じる。
吉澤が、あんまりにも気持ちよさそうに伸びをするものだから。
見事に伝染った。
ぽっかり開いた口を慌てて隠す石川に、吉澤はマーク・トウェインの作品に登場する、
いたずらな少年たちのように、にやりと口許をねじまげる。
濡れた瞳を指の背でこすって、
「タクシー捕まらなかったらどうしようか、って思ったけど、心配いらないね、これなら」
脈絡だとか、前触れだとか、そういうものはほとんど気にしない質であるらしい。
外角高めの速球を投じて、吉澤はまた煙草を咥えた。
火が近い。
もうすぐ、フィルタを焦がすだろう。
隅っこに埋もれていた意地が、起き上がって囁く。
このままやられっぱなし?
冗談じゃない。
思いつきで、言ってみる。
「1本、わけて貰ってもいい?」
- 160 名前:Jumble Tumble 2-11 投稿日:2003年05月13日(火)22時30分16秒
- 少し、返答が遅れた。
これまで反応が速かった吉澤だけに、空白がひどく目立つ。
少し、ちょっと、嬉しい。
綻びそうになる口許を、石川はキュッと押さえつけた。
石川を見、天井にのびる煙を見、吉澤が訊ねる。
「吸うの?」
「いけない?」
「身体に悪いよ」
自分のことを棚にあげて、真顔で言う。
「だから、これで」
いつの間に、引き算が行われたのか。
吉澤は石川との距離をきれいにゼロにする。
押し込まれた煙に、胸がつまった。
石川を引き寄せもせず、首をひねるようにして、上から奪う。
くちづける、重ねる、触れる、どれも違った。
置く。
それが最も近い。
開かれたままの2対の視線が間近で交差する。
精一杯、睨んでやる。
垂れ目が笑って、離れた。
- 161 名前:Jumble Tumble 2-12 投稿日:2003年05月13日(火)22時31分42秒
- 「わかった?」
「……なにが」
「煙草を吸う理由」
ゼロが1になり、2になり、手をのばしても届かない距離になる。
吉澤は吸い殻を灰皿に捨て、磨きあげられた靴の先に視線を落とした。
「理由なんて、無意味なんじゃなかったの?」
「無意味だよ。でも、その不毛さが、たまらなく人間らしいとは思う」
「人間が好き?」
言って、悔やんだ。
本当に、馬鹿な質問。
「……人に、よる。でしょ?」
「わたしは、」
耳鳴りに、石川は額をおさえた。
戻る、戻らない。戻りたくない。
「お嬢さんは?」
「わたしは、あなたが、嫌い」
石川がその答えを導き出すことを、待ちわびていたのだ。
そんなふうに、吉澤は深く頷いた。
- 162 名前:Jumble Tumble 2-13 投稿日:2003年05月13日(火)22時32分50秒
- 「殴っても、いいよ」
言葉に、右手が従った。
「今度は、避けないから」
あの風は、やんでいなかったのだ。
悟った時には、もう遅かった。
白く、白く、引き延ばされて、霞んで、そして、……リセット。
* * *
昼下がり、公道と私有地の境界線上に置いた警備室から、内線で連絡が入った。
皮を剥いたかぼちゃの種を口に放り込み、番茶を啜って立ち上がる。
----今ですねえ、ほら、あの真っ黒な税理士先生がいらっしゃいましたよ。
月に1、2度、週末に大型2輪でやってくる顔を、守衛は既に憶えている。
黒い税理士。
確かに間違ってはいないのだけれど、
「悪徳税理士みたいだよね」
コルクタイルを敷いたキッチンに、自身の声がぽつりと落ちて転がっていく。
独り言が増えた、そう思う。
雇い主はやさしい人だが、なんとも近寄りがたい。
やっぱり、ゲージュツカは難しい。
「……あ、ベーグル焼かなくっちゃ」
小川麻琴はかぼちゃの種の残りをクッキングペーパーの上にまとめ、
近付くエンジンの音を捉える為に耳を澄ました。
- 163 名前:NEMO 投稿日:2003年05月13日(火)22時40分45秒
- 第3章2節、更新終了です。
出せる、と意気込んでいた人物が結局次節にずれこんでしまいました。
その分、石川さんを沢山書いた気がするので……まあ、いいか。
吉澤さん、やっちゃったよ、早いよ、と見るか。
遅いよ、やっとかよ、と見るか。
じりじり進んではいる、筈。
遅れましたが、お返事。
>146名無し読者様
更新直後は、次は頑張るぞォ、なんですが。
気付くと2週間ごとになっている、この罠。
今回もゆっくりでした、申しわけない。
- 164 名前:NEMO 投稿日:2003年05月13日(火)22時56分34秒
- >147様
あの人。登場できませんでしたー。ああ。
バイクは写真並べて悩んだんですが、ドゥカになりました。
大谷さんに乗らせるなら絶対HONDAだったので、かぶらないように。
沸々と進んでいる、のかなあ。
それでも今回、吉澤さんは頑張ったんじゃないかと思います。
>南風様
地にしろ、科白にしろ、言葉遊びばかりしてしまいます。
あちこち入れ換えている内に、楽しくなってきてしまって。
言葉の世界、そう言っていただけると嬉しい限りです。
以上、本日店仕舞い。
おつき合い、ありがとうございます。
- 165 名前:南風 投稿日:2003年05月22日(木)23時04分55秒
- よ、吉澤さん・・・。
すげ〜、本当に頑張ったって感じですた(w
今後の展開がこれでさらに楽しくなってきました。
これからもこの素敵な言葉の世界を堪能させていただきます☆
頑張って下さい!
- 166 名前:Jumble Tumble 3-1 投稿日:2003年06月07日(土)15時09分55秒
- 10年と少し前、奥多摩の山麓に灰色の楔が打ち込まれた。
その人工物は、幾通りもの緑の狭間に、コンクリートの肌を晒して突っ立っている。
冷たく吸い付く灰色の壁を仰いでも、全体像は見えてこない。
風がない、晴れている日がいい。
不粋な送電線に細かく仕切られていない空に、ヘリコプターを飛ばしてやる。
プロペラの轟音に耳を塞いで見下ろせば、全く同じ大きさの3つの正六角形が、それぞれ2辺と1つの角を接しているのがわかるはずだ。
まさにハチの巣から一部分を切り取って、地面に放り出したような形態である。
余分な装飾を徹底的に省いた、幾何学的かつ無機質な建築物に、生きものの巣を想像する人は稀だろう。
コンクリートと不透明なガラスによって築かれた3本の六角柱は、到底、自然界とは相容れないものだと思えるかもしれない。
だけれども、私有地の門から細く続く道を辿ってきて、建物を一目見たなら誤解は消え去る。
少なくとも吉澤は、コンクリートという材質をこれほどまでに美しく見せる風景を、他に知らない。
灰色の塔に住まうのは、ラプンツェルでも蜜蜂の女王でもなく。
気儘を装う、ひとりの絵描きだった。
- 167 名前:Jumble Tumble 3-2 投稿日:2003年06月07日(土)15時11分39秒
- 北・南東・南西----3本の六角柱のうち、北棟がパブリックスペースにあてられていた。
非常階段を除けば、外部との出入りは北棟中2階にのみ限られる。
ゆるい階段を1段抜かしにして、小川は半分地下に潜った厨房から玄関ホールに向かった。
左右に開くガラス扉の向こう、黒い鋼鉄が1秒ごとに大きくなる。
路に落ちて乾いた枝葉を太いタイヤで踏み砕いて、塔に迫り来た。
「吉澤先生!」
わずかに速度を落としたライダーに小川が呼び掛けると、フェイスガードの奥から素早く視線が飛ぶ。
危なげなく車体を傾け、エントランスへ登るスロープに、バイクを寄せて停止した。
吉澤は左右のグローブを外し、ジャケットのファスナーを半分引き下ろして、メットに手をかける。
黒髪を逆立てて額を全開にしたまま、薄い唇の端をくにゃりと持ち上げて。
「小川、元気ぃ?」
26歳の税理士。
ここで会う吉澤は、そんな年齢も肩書きも考えさせないような顔をしてヘラヘラ笑う。
「や、元気っす」
「それは重畳」
小川は、ここでの吉澤しか知らない。
小川の友人----紺野あさ美は、外での吉澤しか知らない。
紺野を通じて描き出される吉澤の輪郭は、小川の視線が形成する像とはまるで違っていた。
だからといって、紺野よりも小川のほうが吉澤に近しい存在である、ということでもないだろう。
「圭織さんは?」
「明け方まで描いていらしたので……まだおやすみです」
- 168 名前:Jumble Tumble 3-3 投稿日:2003年06月07日(土)15時12分19秒
- 「あ、そ」
頷いて、吉澤は硬い靴音をたててスロープをのぼっていく。
ガラス扉をくぐる前に、顎でドゥカティを示して言った。
「それさぁ、ビニールシート被せておいてくれればいいから」
「はい」
「ん、よろしく」
吉澤はエントランスからラウンジへ進み、ジャケットを脱いでTシャツの袖をまくりあげる。
遅れて続いた小川に、内ポケットから取り出した淡いブルーの封筒を差し出した。
「はしっこ折れちゃった。ごめんね」
月に1、2度やって来て、一泊していく税理士は、郵便屋の役目も請け負っているらしい。
切手も宛先もない手紙をついでに届けてくれる。
電話であるとか、Eメールであるとか、この塔に住んでいると科学の恩恵を忘れてしまいがちだ。
不便さを楽しんでいるのだろう、きっと。
ここは一応東京都で、出ようと思えばすぐに人が蠢く街へ出ていける。
だから、孤島ごっこを面白がっていられるのだ。
「あさ美ちゃん、元気ですか?」
「まあね、芋のおいしい季節だし」
菜園でとれたかぼちゃを土産に、顔を見に行こうか、小川はそんなことを考える。
もともと白い頬に血を上らせている吉澤に水を一杯差し出して、風呂をすすめた。
「吉澤さんが入ってるあいだ、ベーグル焼いときますから」
吉澤はまた子供のようにヘラヘラ笑い、ありがとうと呟いて、小川のこめかみにキスをした。
- 169 名前:Jumble Tumble 3-4 投稿日:2003年06月07日(土)15時14分14秒
- バスルームは奇妙にまばゆく、白い光に満たされていた。
ぬくい湯の盤上に踊る光が波となって、四方八方から吉澤を浚う。
すくいあげた水は指のあいだから滑り落ち、弾け、どこかに溶けてしまった。
砂よりも脆く、なめらかで、あたたかい。
すくう。
落とす。
ためらいなく、浴槽の中に飛び込んでいく。
混ざったなら、数秒前にてのひらにあった水を再びすくいあげることはできない。
てのひらの窪みにのる水は、常に新しい。
湯に浸かる吉澤だけが、そこにいる。
変わらないで、変われないで、そこにいる。
バスルームは不思議に冷たく、透明な意思に淀んでいた。
吉澤は水を弄ぶのをやめて、浴槽の縁に頭をのせた。
後頭部を支えるのにぴったりな、厚みを持ったカーヴ。
四肢を浮力にまかせ、見上げれば、摺りガラスが斜めに吊られた天井が目に染みる。
昇っていく湯気を口から吸い込むと、ストンと青臭い暖気が肺に落ちてきた。
何故か、夏草の味がした。
- 170 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月07日(土)15時44分03秒
- 更新御疲れさまです
嬉しいです
- 171 名前:Jumble Tumble 3-5 投稿日:2003年06月10日(火)21時18分26秒
- 温室にするつもりだった、そう聞いている。
南東を向いた六角柱の最上層、深いところで4メートルはあろうかというコンクリートの壺に、溢れんばかりに光が降り注ぐ。
本来の計画通りに進んだなら、全国から集められた植物が太陽に育てられ、ここを埋め尽くす筈だった。
けれども今、足元に敷かれているのは土ではなく、乳白色の床石。
そして部屋で大きな顔をしているのは、床を掘って嵌め込まれた楕円の浴槽だ。
それなのに。
「……草臭い」
吐き棄てる。
生気に満ち満ちた熱い空気が、吉澤を悩ました。
湯気とともに言葉が湧いて、つかみ取る前に天井へ消える。
再び脳裏を駆け巡るノイズ、気管を塞き止める塊。
(頭が痛いんだ)
ずっと、朝からずっと痛かったんだ。
行き所を探す手が、顔面を下から一撫でして、水の中に戻っていく。
落ちた手に叩かれて散った飛沫が、頬にかかった。
- 172 名前:Jumble Tumble 3-6 投稿日:2003年06月10日(火)21時19分32秒
- 低く呻いた吉澤に、どこかで、誰かが。
背骨をくすぐるような声で、囁いた。
----どうして?
好奇心という、人間だけに許された残酷さで、もう1度。
----どうして……?
また、呻いた。
百科事典で、顕微鏡で、先生に訊ねて、見事に解き明かされる問いならよいのに。
浴槽から溢れた湯が濡らした乳白色の石の上を、ぴたぴた歩いてくる。
眉間の皺にだけ苦悶が表れた吉澤の顔を覗き込み、短い忠告。
「……ねぇ、溺れるよ?」
黒いドレスの裾が濡れるのも構わずに、よいしょ、と一声かけてしゃがみ込む。
飯田圭織は、ほっそりとした肩から垂れた一房の黒髪を、絵の具で汚れた指で払った。
「溺れないよ」
泳ぐのは、得意なんだ。知ってるでしょ。
吉澤は浴槽の縁に預けていた頭を持ち上げ、伸ばしていた膝を曲げて座る。
強い逆光に滲んで溶けそうな飯田の頬に手を滑らせて、目の下を親指でなぞった。
「もうちょっと、寝ていればいいのに」
「だって、起きちゃったんだもの」
飯田は吉澤の右手に自らの左手を重ね、憂鬱な視線とは裏腹な、幼げな口調で呟いた。
つるり、左手が吉澤の腕を伝い落ちていく。
指先で手の甲を引っ掻いて、飯田は吉澤を辿り出す。
- 173 名前:Jumble Tumble 3-7 投稿日:2003年06月10日(火)21時21分08秒
- 「ぬくい、ね」
「そうだね」
顔を見合わせて、微笑んだり、してみる。
飯田は吉澤の頭を撫で、重たい髪を掻き回す。
首筋に見つけた若白髪を、吐息で笑って引き抜いた。
「痛ぁ」
指で摘んだ頭髪を、顔をしかめた吉澤の目の前に垂らす。
「ほら、真っ白」
目を細めて笑うから。
「どうでもいいよ」
差し出された飯田の手に噛み付いた。
貰えるものは、毒でない限り黙って頂戴する主義だった。
爪の先から、食べ残しがないように丁寧に喰らう。
飯田は吉澤に与えた手とは逆の手で、吉澤の背中を撫でている。
ふっ、と見上げた飯田の双眸の色が問うていた。
絵の具の染みた指に歯をたてて、視線を逸らしてそっと答えた。
「大丈夫」
溺れないよ。
誰にも、……あなたにも。
大丈夫、もう、溺れないよ。
- 174 名前:ヒトシズク 投稿日:2003年06月21日(土)09時46分20秒
- いい・・・
ポツンとその言葉が読み終わった後に出ました。
最後の3行なんて、もうすごくよかったです。
では、次回の更新楽しみにしております。
頑張ってください、応援してます♪
- 175 名前:Jumble Tumble 3-8 投稿日:2003年07月02日(水)14時03分41秒
* * *
身体の脇に垂らした吉澤の手の甲を、冷え始めた空気が叩いていく。
3つの塔の影が長く落ちるコンクリートの前庭を素足で踏み締め、吉澤は震える梢を眺めていた。
橙や薄紅に色付いた雲が、頭上をせわしく流れている。風が速い。
襟元がくたびれたTシャツの中に滑り込んだ夜気に小さく身震いをして、
両手をカーゴパンツのポケットに隠した。
「先生」
背後から投げられた呼び声の主に、横顔だけで振り向いて訊ねる。
「火ィ持ってる?」
吉澤は咥えた煙草を揺らし、ポケットから抜いた右手でグーとパーを繰り返してみせた。
「マッチ、忘れちゃったんだ」
小川がその張りのある声で謝るのに、吉澤は笑って頷いて、煙草を右手の中に押し込める。
近付く夜を待ちながら吸う煙草はとてもおいしい。
コーヒーショップでポケットにねじ込んだマッチは、今どこにあるのだろう。
「雨がくるね」
「え、そうですか?」
「うん。圭織さんが」
もう少しで、ここから見える世界がすべて深いブルーに包まれる。
熟しきった青が己の重さに耐え切れないで、空からぽつりと落ちてくる。
雨と一緒に。
- 176 名前:Jumble Tumble 3-9 投稿日:2003年07月02日(水)14時05分23秒
- もう1度、吉澤は身震いをした。
コンクリートのなめらかな肌に貼り付いた足の裏を引っ剥がす。
「小川ぁ」
大型二輪の型にあわせて盛り上がったビニールシートを指差した。
「車庫のシャッター開けてくれるかな。こいつ、中に入れてやらないと」
「はい、今すぐ」
身を翻し、屋内に入りかけた小川が、吉澤の足元に目を留めて顔をしかめる。
厳しい視線を受け、困ったように生乾きの頭を掻く吉澤に、わざとらしく溜息をついた。
「タオル、玄関に用意しておきますから。
ちゃんと拭いてからじゃないと、立ち入り許可あげませんからね!」
勿論、初犯ではない。
その都度、小川はマメに叱ってくれる。
約束事のように、繰り返されるやり取りというものがあって、確かにこれは『それ』だった。
吉澤はシートを半分だけ剥ぎ、雲に残った太陽を集めて黒光りする金属に愚痴る。
「なぁ、怒られちゃったよ」
そして錯覚する。
出口が、ないのではないか、そう思う。
出て行かなくとも良いのではないかと、灰色の塊を凝視する。
- 177 名前:Jumble Tumble 3-10 投稿日:2003年07月02日(水)14時06分09秒
- 小さな頃には、朝と昼と夜しかなかった。
今日と明日は、同じものだった。
幾つも繋げられたループのなかで、生きていた。
時間は食い潰されるものではなく、無限に生み出されていくものだった。
「また、怒られちゃったよ。ねぇ」
カウントダウンの、声を聴いた。
裏手に設えられた車庫にドゥカティを入れ、エントランスへのスロープをぺたぺた登る。
「ほら、足あげて下さい」
湯気をあげる濡れタオルを持った小川が、母親の顔で待機していた。
足元に屈みこんだ小川の肩に手をのせて、言われるままに右から足を持ち上げる。
「動かないで」
タオルを裏返して、左足。
「はい、きれいになりました」
満面の笑みを向けられて、吉澤はおとなしく礼を言ってスリッパを履く。
夕ご飯は7時からですよ、追い掛けてきた言葉に生返事をしていたら、今度は飯田に捕まった。
「おいで。爪、切ってあげるから」
ラウンジのソファに腰掛けて、膝の上をポンポンと両手で叩いて示す。
- 178 名前:Jumble Tumble 3-11 投稿日:2003年07月02日(水)14時06分47秒
- 飯田はやさしい。
とんでもなく、惜しみなく、吉澤を甘やかす。
波の下にひそんだ砂のように、じわじわと人を引きずり込んで。
「ひーちゃん」
長く吐き出した息に、かすかに紛れ込ませて呼んだ。
「……なに?」
、飯田の大腿に頭を預け、爪が弾ける音を数えていた吉澤が、呟きを受け止めて訊ねる。
かすかな、本当に微少な笑みを頬に刻んで、飯田は首を横に振った。
あと少し、ものを知らなかったなら。
もう少し、子供だったなら。
そして、臆病でなかったなら。
無意味な仮定を積み重ねた。
怯えることなく、飯田の手を取れたろうか。
雨音が響く夜明けに見る夢は、死んだ日々を連れてくる。
飯田は吉澤の閉じた瞼を指先で撫で、髪を梳き、悪夢に震える手を見守った。
視界の片隅で小川が酒席を整え、無言で一礼をして去っていく。
雨が降る。
やめばいいのに、と願った。
降り続いて欲しい、と祈った。
それから飯田は、静かに笑った。
- 179 名前:NEMO 投稿日:2003年07月02日(水)14時16分27秒
- 第3章3節、更新終了しました。
これでようやく、第1章から物語世界で一週間が経過したことになります。
日曜から始まって、ようやっと、土曜日。
無駄に長いです。
特別なにかストーリィが動いているわけでもないのですが。
>南風様
前節頑張り過ぎたためでしょうか、今回吉澤さんは終始ふやけております。
実にダメな人まっしぐらです。
こっちのほうが似合うのではないか、と思ってしまいました。
- 180 名前:NEMO 投稿日:2003年07月02日(水)14時23分18秒
- >170名無し様
長らくお待たせして申しわけありません。
忘れ去られない程度には、のそのそ書いていきたいです。
思い出したら、また覗いてやって下さい。
>ヒトシズク様
実はあげる直前に適当にくっつけた3行でしたが、
そう言っていただけて、付け足して良かった、と思いました。
楽しみに、という文字を見ると、
ケツひっぱたいて書かないと、という気分になれます。
……続かないのが問題ですね。
以上、本日店仕舞い。
おつき合いありがとうございます。
- 181 名前:ヒトシズク 投稿日:2003年07月02日(水)22時18分40秒
- 更新お疲れ様です。
いや〜、作者さんの書かれる作品は何か何処か引き込まれますね。
そして、奥が深い・・・
では、次の更新をゆっくりと待っております♪
では、頑張ってくださいね^^
- 182 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月21日(月)08時06分59秒
- 保全です
- 183 名前:Jumble Tumble 4-1 投稿日:2003年07月25日(金)21時43分52秒
- 卵が先か、鶏が先か。
謎をかけたあの人は、眉間に縦皺を寄せて弱る吉澤に悪戯っぽく笑みを浮かべる。
そして、そっと開かせた吉澤の手に、鍋から取り出した卵を握らせた。
吸い付くような温もりが、てのひらの上で密やかに息づいて。
ひどく、気味が悪かったのを憶えている。
あれは、間違いなく、生き物だった。
* * *
カクテルグラスの隣に置かれた灰皿に、白い手袋が短くなった煙草を押し付ける。
崩れた灰に、赤がちらちら見え隠れした。
手持ちの煙草はこれで最後だった。
シャツの胸ポケットから取り出した薄っぺらな箱はだらしなくひしゃげて、
耳の横で揺らしてみても、だんまりを決め込んでいた。
昼、コーヒーを啜りながら封を切ったパッケージが、半日も経ずに目敏いバーテンダーに回収され、
カウンターの裏側のゴミ箱にそつなく放り込まれる。
灰皿の中、重なりあう吸い殻を数えてみた。
いち、にい、さん、し、……。
「吸い過ぎだよ」
指先で吸い殻の山を掻き回している吉澤に、矢口が鋭く忠告する。
「また、発作起こしたらどうすんの」
「ですよねぇ」
ここ数年、1箱を2日以上かけて空けるように節制をしていた。
自分でも首を傾げてしまう。
- 184 名前:Jumble Tumble 4-2 投稿日:2003年07月25日(金)21時45分35秒
- 吉澤はグラスからカクテルピンを摘んで、オリーヴを齧った。
塩気が程よい。果肉は柔らかすぎずに、歯をしっかり受け止める。
カクテルの飾りに添えるオリーヴひとつにも、『Nautilus』は手を抜かない。
矢口の徹底ぶりは、見ていて爽快ですらある。
オリーヴの残りを口に入れ、ピンを戻すと、矢口がジンの瓶を手にして溜息をついた。
「同じのでいい?」
「や……トニックで」
「そのほうがいいかもね」
丁寧に磨かれたタンブラーに氷が落とされる。
吉澤は手持ち無沙汰に灰皿の縁を指でなぞり、矢口の手元を見詰めた。
「失礼します」
独特の抑揚に振り向くと、 おろしたてのスタンドカラーの白シャツに、臙脂のベストとリボンタイ。
新任〈機関士〉高橋愛が、するりと煙草を取り出した。
「これ、どぅぞ」
新しいパッケージは、既に封が切られ、ビニールが取り去られてある。
とても断れない。
矢口の視線を気にしながら、吉澤は差し出されたパーラメントを咥えた。
素早く、高橋が細身のライターで火をつける。
「ありがとう」
礼を言うと、高橋はぎこちなく笑顔を見せた。
- 185 名前:Jumble Tumble 4-3 投稿日:2003年07月25日(金)21時46分17秒
- 「あのぅ、矢口さん、専務のソルティ・ドッグがまだ……」
遠慮がちな催促に、むうっ、と矢口の眉が寄る。
吉澤の前にジン・トニックを置くと、横目で視線を飛ばしてフロアの端と端とで睨み合った。
市井と矢口は、この週末に喧嘩をしたらしい。
月曜の夜、市井は『Nautilus』に入ってからずっと、カウンターの近くに寄ってこない。
「放っておいていいよ」
仲裁を求める困り顔に、吉澤は肩を竦めて言った。
「今は無理」
「よっすぃー」
「だってそうでしょ」
矢口の膨れっ面をあっさりかわして、タンブラーを持ち上げる。
炭酸が喉に甘く染みた。
「おとなげないったら」
絵描きの塔と、ここは同じだ。
飽きもせずターン。ターン。おまけにリターン。
時間が自らとぐろを巻いて、自身の尻尾に噛み付いている。
それが眠気を催させるような心地よさの正体だった。
恐れているのは、外の世界か。見知らぬものか。
(それとも、それは)
グラスを揺らして、氷を鳴らす。
吉澤は疼痛にこめかみを押さえた。
(それは、……全部だ)
- 186 名前:Jumble Tumble 4-4 投稿日:2003年07月25日(金)21時46分56秒
- かちり、ことん。
小気味いい音を響かせて、象牙の球がポケットに落ちる。
キューを構えているのは市井だった。
続けざまに、次のナンバーの球も落とす。
ここしばらく、玉突きをしているのを見なかったが、やはり腕は悪くない。
吉澤はジン・トニックを減らしながら考えた。
倉庫から久し振りに出してきたビリヤード台が、矢口がへそを曲げた原因なのは明らかだ。
普段は強みにしている身体的特徴が、どうやらコンプレックスになってしまうらしい。
成程、一般的に使われているキューは147cm、矢口よりも多少長い。
(さてさて、どうする?)
黒みがかった赤のベストに、細身のタイを締めて壁際に陣取り、
フロアを見渡していた安倍が、吉澤に幾度めかの目配せをする。
背中を押された。
灰皿に預けっぱなしだったパーラメントを取り上げ、1、2度ふかしてまた置いた。
「矢口さん」
タンブラーを一息に空にする。
吉澤はカウンターに身を乗り出して、藤の籠からグレープフルーツをひとつ掴み出した。
「これから敵討ちしてきますから、そうしたら機嫌なおして下さいよ」
片手には余るグレープフルーツを、宙に放って背中で受け止める。
- 187 名前:Jumble Tumble 4-5 投稿日:2003年07月25日(金)21時49分16秒
- 歩き出して、また放りあげる。
鮮やかな黄色の弧を残し、吉澤の手に呼び戻されるように落ちてくる。
右から左、左から右、そして上空に、お手玉みたいに弄びながら、
フロアを黒ずくめのシルエットが音もなく横切っていく。
かちり。
市井がふと顔をあげる。
ことん。
吉澤はビリヤード台に歩み寄り、市井が落としたばかりの球をテーブルの上に戻した。
球にふられたナンバーは9。
「ナインボールで、構わないでしょう?」
答えが返る前に、グレープフルーツを市井に向かってオーバースロー。
市井はキューを持ち替えて、危なげなく胸の前で受け止めた。
「負けたら、それでソルティ・ドッグを作ります」
それまで市井と撞いていた、ゲストと〈セイラー〉が退いた。
〈セイラー〉からキューを受け取って、歪んでいないかを確かめる。
すり減ってはいるけれど、使えなくもない。
「んじゃ、あたしが負けたら」
「サーヴィスしてくれます?」
9つのボールを、2人は神経質にも思える几帳面さで三角形に並べた。
市井が左の口元を吊り上げて笑う。
「さぁて、どうかな」
それは、傲慢にも近い、不敵さだった。
- 188 名前:かつらぎ 投稿日:2003年07月26日(土)01時30分20秒
- 更新うれしい〜!!
さっそく読ませていただきました。
いつもながら不思議な空気感。
時間がなかなか進まないのが、もどかしいような、
逆にいつまでもその空気を味わっていたいような・・・
気がつけば、すっかり夢中です。
これからも楽しみにしてます。
- 189 名前:匿名匿名希望 投稿日:2003年07月26日(土)12時27分13秒
- 更新お疲れ様です。
前に『南風』というHNで何度かレスを書かせていただいた者です。
ここのよしはやっぱカッケ−ですねぇ。
ここの小説の言葉が大好きです。
何度も読み返したくなるような雰囲気が私のツボ(w
次回の更新もまったりと楽しみに待っているのでがんがって下さい。
- 190 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月13日(水)00時33分40秒
- 初めて読みました
かな〜りおもしろいですね
保
- 191 名前:Jumble Tumble 4-6 投稿日:2003年08月24日(日)10時31分53秒
- バンキングは省いた。
数年前、面倒臭いと市井が言い出し、吉澤があっさりとそれに頷いてから、
撞く順番はじゃんけんで決めることにしている。
あいこが続いた後で、吉澤の運が競り勝った。
市井は左手で出したパーに舌打ちをして、白い手玉を譲る。
「ファーストぉ、ちゃんとこっちにもターンまわしてよ」
わざとらしい粘着質な声音に微苦笑しながら、滑り止めのチョークをキューの先端に塗り付ける。
チョークからこぼれた細かな粉が白い手袋の布地の目に入り込み、指先を鮮やかなブルーにした。
「あ」
「うん?」
先を促す市井に、吉澤は首を横に振った。
レールにチョークを置く。
絨毯を踏む踵を一旦浮かせて、スタンスを決める。
市井は目を細めた。
中身が詰まって重たいグレープフルーツをフットレールの上で転がして遊びながら、
吉澤のブレイクショットを無言で見守る。
ブリッジを作る左手、グリップを握る右手、感触を確かめるように幾度かストローク。
緩めた膝も、倒した背中も、教科書通りのフォームを典雅になぞっている。
儀式のようだ。
周囲の緊張が高まるのがこそばゆく、市井はうなじを覆う金髪をかきあげて首筋を引っ掻いた。
指にうつったのか、柑橘が微かに香る。
- 192 名前:Jumble Tumble 4-7 投稿日:2003年08月24日(日)10時32分47秒
- 吉澤の舌がこっそりと覗き、上唇を舐めてまた消えた。
キューが引かれる。止まる。
ゼロが決して無意味でないのだと、そのしたたかな横顔は知っている。
ただのブレイクにこれだけの時間をかけて、溢れ出ようとするものを塞き止めて。
呼吸も、言葉も、その手が奪った。
吉澤は振り子のようにキューを押し出し、引き、『船』の時間を刻む。
高揚感とともに、キューにうつした己の心音を数えさせる。
唱えさせる。
イチ、ニィ、サン……?
まだまだ。
まだだよ。
やり直し。
イチ、ニィの……。
「サン」
吉澤のブレイクショットは、2番と5番、そして6番をポケットした。
* * *
- 193 名前:Jumble Tumble 4-8 投稿日:2003年08月24日(日)10時33分54秒
- 卵が先だと、市井紗耶香が答えた。
卵には鶏になろうとする夢がある。
卵には生まれ出ようとする意思がある。
だから卵が先なんだ、と。
珍しく生真面目に、口元を真一文字に引き締めて、球を撞く手も休めてそんなことを言う。
結局、この人どうしようもなくロマンティストだ。
思わず噴き出し、椅子を蹴倒して笑い転げる吉澤を、市井はキューの先で突っつき回した。
そう、どんな顔をしていても。
ちょっとばかり、ねじくれているとしても。
市井はあの頃から、そして現在に至るまで。
結局、どうしようもないロマンティストだ。
- 194 名前:Jumble Tumble 4-9 投稿日:2003年08月24日(日)10時34分54秒
- 市井はアームレストにもたれかかって、ショットグラスを傾けている。
猫がミルクを飲むみたいに、ぴちゃぴちゃと舌で水面を叩いてウォッカを舐めた。
少しずつ、ゆっくりと、確実に杯を重ねていく。
「鶏は、自分が卵だったと知ってるのかな」
真っ白な手袋が、柑橘の表皮に浅くペティナイフの刃を入れた。
実を傷付けないよう、刃先で撫でるようにして分厚い皮に線をひく。
へたから始まり、尻を通過してへたに戻る。
3回、ナイフはグレープフルーツをくるりとまわった。
「忘れてるよ。きっと」
「なら、卵はどうやって生まれるんだろう。どうやって産むんでしょうね」
「『産めよ、増えよ、地に満ちよ』」
独特の節回しで、歌うように囁く。
酔っ払いは頬を緩めてニマニマ笑う。
今夜、この人は自力で帰れるのだろうか。
「誰かが決めたから、だ」
ヤハウェでもない、アッラーでもない、誰か。
神でもない、仏でもない、運命でもない、なにか。
名前をつけることのできない存在に、市井はこそっと責任をなすり付ける。
宗教も哲学も、難しいことはお断りだ。
暇つぶしにいじるくらいで丁度いい。
- 195 名前:Jumble Tumble 4-10 投稿日:2003年08月24日(日)10時36分11秒
- 吉澤は外した手袋をテーブルに重ねて置いてから、グレープフルーツを剥き始めた。
革張りのアームチェアーをぎこぎこ揺らして、市井がうるさく催促している。
半分に切って、ぎざぎざスプーンで掬って食べれば手間はかからない。
それでも吉澤はナイフで刻んだ線の通りに皮を剥き、一房ずつわけていく。
「カオリのとこに行ったんだ」
「そりゃあ、月々料金いただいてますから」
櫛形の袋を吉澤の爪が破いた。
小さな果実の集まりを崩さないよう、半透明の薄皮を取り去る。
「保田さんが来たそうじゃないですか」
〈機関室〉の中央に、でんと構えた応接セットのテーブルの灰皿から、
吉澤はフィリップ・モリスの吸い殻を見つけていた。
灰とフィルタの様子からして、今日のものではない。
わざと残しておいたのか。
「で、鶏がなんだって」
吉澤は手元から視線を外し、市井を見た。
金髪頭が揺れている。
「なぞなぞです」
小皿にグレープフルーツをのせ、市井の前に、デスクに置いた。
市井は幾度か目をしばたいて、
「思い出した」
蛍光灯を振り仰ぎ、呟く。
- 196 名前:Jumble Tumble 4-11 投稿日:2003年08月24日(日)10時37分03秒
- 子供騙しの謎を、満面の笑顔で突き付ける吉澤がいた。
小学校で習ったひらがなを、母親に書いてみせる子供みたいに、誇らしげに、期待をにじませ。
鶏と、卵。
ビリヤード。
グレープフルーツの食べ方。
どこかでおぼえてきたことを、誰かに教えてもらったことを、嬉しそうに披露する。
子供だった。
そして、開いた口が塞がらないほど阿呆な子は、遺された万年筆を最後に選んだ。
あちこちから拾い集めたインテリジェンスで、数字を弄んで生きているらしい。
声をあげて笑い出した市井に、吉澤がほんのちょっと眉を寄せる。
冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を出して、グラスに注いだ。
市井の手からウォッカを取り上げて、水を飲ませる。
「ごっちんに電話します」
踵を返したところで、吉澤、吉澤、そう2回続けて、市井に呼ばれた。
肘を掴まれる。
手繰り寄せられ、前のめりになった吉澤の頭を市井は両手で挟み込む。
「卵には、鶏になろうとする意思があるんだ」
あの卵は。
「じゃあ、お前のここには、なにがある?」
あの日、中澤裕子がこのてのひらに置いてくれた。
あの卵の中の意思は、どこにいったのだろう。
ぬくい卵が抱えた、小さな確かな意思は。
- 197 名前:NEMO 投稿日:2003年08月24日(日)10時49分07秒
- 第3章4節、更新終了しました。
次で4章にいけるかなあと思ったんですが、もう1節かかりそうです。
初めて食べた有精卵は、小学校から貰ってきたものでした。
ゆで卵にしたんですが、ピーチクパーチク鳴いていそうでとても無気味だった。
あまり味はおぼえていません。
>ヒトシズク様
相当お待たせしました。
考えているあいだに店頭のグレープフルーツも少なくなり、旬は去ったようです。
もともと季節がズレている話ではありますが。
>182名無し様
保全ありがとうございます。
お手数かけまして……。
- 198 名前:NEMO 投稿日:2003年08月24日(日)11時09分54秒
- >かつらぎ様
相変わらず進んでおりません。なぜでしょう。
もどかしくってあいすみません。
書いているほうも非常にもどかしいです。
こう、トントントンといけばいいんですけれど。
だらーん、と脱力しておつき合い下さい。
>匿名匿名希望様
改名おめでとうございます。と、いうのも変でしょうか。
無気力な吉澤さんをカッケーだなんて、雰囲気がツボだなんて……過分です。
実は吉澤さんもストーリィもただダラダラしているだけ、という。
今回もまったりとしております。
ただ市井さんだけが頑張ってます。
>190名無し様
かな〜り、ですか。どうもありがとうございます。
思い出したころに、またいらしてください。
おそらくのんびりとやっております。
以上、本日店仕舞い。
おつき合い、ありがとうございます。
- 199 名前:ヒトシズク 投稿日:2003年08月26日(火)21時32分11秒
- 更新お疲れ様です。
吉澤と市井さんのやり取りが手にとるように見えるような描写につい何度も読み返してしまいました。
グレープフルーツが何というか・・・味を出してますね^^
お話を読んで何故かグレープフルーツを食べたくなったのはなんとなく(笑。
では次回の更新をまったりとお待ちしています。
- 200 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/06(月) 15:13
- 作者さん待ち保
- 201 名前:Jumble Tumble 5-1 投稿日:2003/10/08(水) 22:00
- 左手が、ハーフコートのポケットからシガレットケースを掴み出す。
吉澤は本日3本めのパーラメントを犬歯で押さえ込み、もたれた壁を滑り落ちるように、
コンクリートの床にずるりと尻餅をついた。
昨夜、『Nautilus』の新任〈機関士〉がくれた煙草だ。
その場で、20本の最初の1本を吸った。
マッチの火を右手で囲い、咥えた煙草の先に近付ける。
残りは16本。
好きな数字だ。
2進法であらわすと、ぴったり10000になる。
4進法なら、100。
(きれいな数字だ)
死にかけの蝉のようにジィジィ鳴きながら点滅を始めた天井灯をぼんやり見上げ、
吉澤は煙草を挟んだ薄い唇をねじ曲げた。
幾年もかけて吹き溜まった、やたらと密度の濃い空気。
ところどころ、乾いた表面にひびが見えるコンクリート。
壁も、床も、天井も、のっぺりとした鼠色で塗り潰されて。
掃除用具を満載した手押しワゴンの列と、ダンボール箱で築かれた長大な壁。
トイレットペーパーと蛍光灯を、あふれんばかりに納めたスチール棚。
万が一、タイミング悪く地震に襲われたなら、コピー用紙やらAO用品やら、
なだれを起こす備品に潰されて、相当に間抜けな死に方をすることはほぼ間違いない。
- 202 名前:Jumble Tumble 5-2 投稿日:2003/10/08(水) 22:01
- 税理士法人UFAオフィスビル、地下倉庫。
けっして、居心地がよいとは言えない。
けれども、全面禁煙令が布かれたUFAのオフィスで、煙草が吸えるのはここだけだ。
何種類ものカビが混ざって生み出した独特の臭気に顔をしかめながら、吉澤は地下に潜る。
灰皿がない職場で、スモーカーはどうにも肩身が狭い。
5時間ぶりに取り込まれたニコチンが、吉澤の血管を巡る。
身体の余分な熱が引いていく、そんな気がする。
前方に投げ出していた両脚を膝を抱えるように引き寄せ、だらしのない体育座りになった。
ついたり消えたりの蛍光灯がうるさい。
不特定の間をあけて、繰り返されるONとOFF。
苛々する。
弛緩した神経が、再び強張る。
思わず、パーラメントのフィルタに歯をたてた。
落ち着け。
言い聞かせた。
いつものことだ。
だから落ち着け。
吉澤は気管支に疾患を抱えていた。
不満を、苦痛を訴える肺を、喉を、騙し騙し使っているのだ。
気の持ちようひとつで、発作を抑えることができる。
- 203 名前:Jumble Tumble 5-3 投稿日:2003/10/08(水) 22:02
- 慌てるな。
恐れるな。
ちょっとした不安が、空気の通り道を圧し潰す。
意識を引っ張りあげる。
自分の呼吸を取り戻す。
もう8年近く、この病と付き合ってきた。
慣れている。
目を閉じ、ゆっくり吐いて、吸う。
よっつ、数える。
大丈夫。
言い聞かせる。
ふと。
瞼の裏、金髪が揺れた。
こめかみを挟んだ華奢な手の感触が、吉澤の喉を締め上げる。
市井。
この頭を掴み上げた、あの手。
髪を掻き乱した、あの指。
笑っていた。
- 204 名前:Jumble Tumble 5-4 投稿日:2003/10/08(水) 22:03
- 吸い込んだ空気が、喉に掠れて嫌な音で鳴いた。
まずい。
吉澤はくすぶる煙草を投げ捨てる。
気管支拡張剤を探して、コートの内ポケットをまさぐる。
確かに入れた筈なのに。
苦しい。
見つからない。
……焦るな!
波が、襲う。
舌をだらりと垂らした犬のように、短い息を繰り返す。
見つけた。
掴んだ。
取り出す手が、震えている。
いまだ荒い息の向こうから、小気味のよい足音が聴こえた。
吉澤は瞼を伏せたまま、壁に背中をはり付けて動かない。
塗装が剥がれた扉が軋みながら開く。
胸の前に紙袋を抱え、ダンボール箱に隠れた吉澤を斜に見下ろして。
「喘息持ちのくせして、煙草ガンガン吸うからだよ。
……バカだねえ」
肩にようやく届いたコーヒーブラウンの髪を揺らし、藤本美貴は吉澤の傍らに膝をついた。
- 205 名前:NEMO 投稿日:2003/10/08(水) 22:17
- 生存報告がわりの更新です。
ながらく音沙汰なしにして、申し訳ありません。
のろいですが、筆を折るつもりはありません。
書きたいところを、まだ書いていないわけですし。
>ヒトシズク様
しばらくは出ません、グレープフルーツ。
そろそろ吉澤さんには好物を食べさせてあげたいところです。
なかに挟む具のことで30分悩んだなんて、とても言えません。
どーでもいいことですね、そんなのは。
>200名無し読者様
お手数おかけしました。
ありがとうございます。
次回、楽しいお昼ご飯。
- 206 名前:名無しさん 投稿日:2003/10/10(金) 17:40
- おお更新されてる!
数レスだけでもすぐこの世界に入り込めますな。
次回もマターリ待ってます。
- 207 名前:名無しさん 投稿日:2003/10/12(日) 02:24
- 更新乙です。知的な雰囲気の感じられる作品は滅多にないので、いつも楽しみにしています。ご自分のペースでお続けください。マターリお待ちしています。
- 208 名前:ヒトシズク 投稿日:2003/10/15(水) 22:37
- 更新おつかれさまです。
うわぁぁぁー・・・と呟いてしまうような雰囲気と描写にしばらく思考能力がなくなりました(笑
淡々とした物語の進み方がとても好きです。
では、ゆっくりと更新をお待ちしてます〜
頑張ってください♪
- 209 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/04(火) 03:28
- hozen
- 210 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/01(月) 19:15
- ほぜん
- 211 名前:Jumble Tumble 5-5 投稿日:2003/12/07(日) 20:50
- 袋の中から紙のお手拭きを出し、汗の玉が浮いた吉澤の額をぬぐってやる。
たえず上下する肩を、さするように柔らかく叩いてやる。
「……なんか、飲む? お茶あるよ」
まだ、声が自由にならないのか。
藤本の問いかけに、吉澤は小さく、やっとのことで頷いた。
1度、たった1度、吉澤が発作に倒れるのを見たことがある。
椅子から転げ落ち、陸に打ち上げられた魚みたいに、背を曲げ、膝を胸に引き付けて丸くなり、
吉澤は床の上で時折、跳ねるように全身を震わせた。
留まることなく吐き出される咳、隙間風に似て鳴る喉、掻きむしる指。
白い、死者を思わせる白い顔。
おそろしかった。
呼吸をする----日々、無意識の内に隠れているはずの行為のために、何故ここまで苦しむのか?
神経性喘息。
生まれつきの病ではない。
他の喘息とは異なり、アレルギーでもない。
ストレスが引き金となって、過去、精神に受けた衝撃を、苦痛を蘇らせ、呼吸困難に追い込む。
精神的なものだから、薬物治療によっての完治は難しい。
なにが、吉澤の気管支に病を棲みつかせたか。
訊ねたことはない。
これからも、けしてない。
そう、藤本は決めている。
- 212 名前:Jumble tumble 5-6 投稿日:2003/12/07(日) 20:51
- 回復は、思っていたよりも早かった。
目を閉じたまま、空気の流れを確かめるように、長い深呼吸をして。
吐き出す息を、取り込む息を、はかっている。
「……よし」
最後に、ふっ、と短く吐いて、それでおしまい。
吉澤は手綱を取り返し、自身の肉体を再び支配下におく。
多少、くたびれてはいる。
けれども、いつもの通りの、つかみどころのない静けさが、その横顔に戻っていた。
「駄目じゃん、よっちゃん。気ぃ付けとかないと」
乱れた黒髪を手櫛でなおしながら、吉澤が自嘲めいた笑みを唇にのせて言い訳をする。
「時期が悪くて」
季節の変わり目、気温の変動が日々激しくなると、気管に大分負担がかかる。
当然、発作が起きる可能性は高い。
「なら尚更。自分の管理ができない人間には、ろくな仕事ができないよ」
藤本は上司の口癖でもって、吉澤をたしなめる。
「今日はもうコレ没収ね」
吉澤がコートのポケットにしまおうとした煙草とマッチを取り上げ、自分のバッグに落とした。
なにか言いたげに口を開きかけた吉澤を、素早くギロリと一睨み。
(ん? 文句あんの?)
無言のプレッシャーに屈し、吉澤は溜息をついて首を左右に振った。
- 213 名前:Jumble tumble 5-7 投稿日:2003/12/07(日) 20:52
- 吉澤さん、そう呼ぶときの淑やかな微笑み、距離を保った応対はどこへやら。
藤本は日本人としては珍しく、パブリックとプライヴェートをほぼ完璧に使い分ける。
スイッチの切り替えは、ピュウッと口笛を鳴らしたくなるほどに見事なものだ。
「銀行に寄ったついでにさ、西武の地下で買ってきた。
んで、海と山、どっちがいい?」
「別にどっちでもいいよ」
「えー」
別に、ってなんだよ、口を尖らせ、藤本は紙袋を探る。
缶コーヒー、ペーパーナプキン、そして2種類のベーグルサンド。
「よっちゃん好きだよねえ、ベーグル」
「まあ、嫌いじゃないし」
「……うわ、素直じゃなーい」
コンクリートの床に並んで尻をついて、背の低いスチール缶をコツンとぶつけあって。
渡されたのは、ロースト野菜のサンドだった。
- 214 名前:Jumble Tumble 5-8 投稿日:2003/12/07(日) 20:53
- もっちりとしたパンを噛み締める吉澤の隣で、藤本はよく喋る。
この前行った焼肉屋のレバ刺しが絶品で、やっぱり昼時はATMが混雑してて、
また人身事故で電車がとまったって、あー、そういえば今年はワインの出来がいいってね。
脈略はゼロに等しい。
吉澤は相槌を適当にうちながら、聞き流す。
どうでもいい、情報価値のない言葉、受け止めて蓄積しなくてもよい会話、それが楽なのだ。
肩から、力がストンと抜けてしまう。
ずっと耳を澄ましている。
ずっとアンテナを張り巡らしている。
網に引っ掛かってきたものを捕まえ、分類してフォルダにしまって、時がくれば引き出して……
常になにかのために、準備している。
日々、合図の銃声を待ち、『用意』の体勢のまま、じりじりしながら構えている。
だから、意味がないこと、それがとても貴重に思えた。
ありがたかった。
惜し気もなく即座に聞き捨てられる話題を選ぶ藤本に、心から感謝した。
これは、藤本の才能だ。
- 215 名前:Jumble Tumble 5-9 投稿日:2003/12/07(日) 20:54
- 吉澤はパンの屑を払って、傍らに置いた缶コーヒーを呷った。
ごみを入れた紙袋を手に、立ち上がる。
首のうしろを片手で支え、右に一回転、左に一回転。
首が終われば、肩、腰、順々に身体の節々をほぐしていく。
藤本がその後ろ姿を見上げて訊ねた。
「午後、外だっけ?」
「うん」
「平気?」
「平気」
無駄を承知で、遠慮がちに言ってみる。
「病院とかは?」
「薬あるから」
予想通り、あっさりと振られてしまって藤本は苦笑する。
病を知らない人間の口出しに、どれほどの効果があるだろう。
「それじゃ、ご馳走様」
ドアノブに手をかけた吉澤に、藤本が右手を伸ばした。
それに応じて、ひとまわり大きな右手で軽くハイタッチ。
滑り出ていった肩はすこし丸まっていたけれど、一歩一歩を踏んでいく足取りは確かだった。
等しい間隔を保って、コンクリートを叩く吉澤の靴音に仄かな安堵をおぼえる。
同僚は藤本から遠ざかり、離れ、消える最後の瞬間まで、すっかり聞き慣れた彼女のリズムを守っていた。
それは意地か、それとも警戒か。
- 216 名前:Jumble Tumble 5-10 投稿日:2003/12/07(日) 21:24
- 藤本は膝を抱えて座り直してから、食後の一服のためにトートバッグに手を突っ込んだ。
手探りで伸ばした指先が触れる。
パッケージが、ふたつ。
右、左。
迷って、えいやと掴み出したのを見てみれば、吉澤から預かったパーラメントだった。
煙草の銘柄にこだわりはない。
1本、失敬することにした。
身の回りの品を見るだけで、そのひととなりが解ると言うならば、
このパーラメントは吉澤のなにを語るだろうか。
吐き出した煙に、イメージがかぶさる。
あの歩幅、あの間隔、あの背中。
煙草の軸を叩く、万年筆のインクが染みた指。
意地? 警戒?
どちらでもない。
ただの癖だ。
濃いブルーのインクのように、あのやり方が吉澤の身体に染み付いているだけだ。
コーヒーの空き缶を足元に引き寄せて、灰を落とす。
結局また、肝心なことを切り出せなかった。
パーラメントのフィルタを犬歯でぎっちり噛みなおし、
(昼飯、奢り損したぁ)
煙草の1本では割りに合わない。
次のヤキニク大会には、財布担当として引き摺っていくことにした。
* * *
- 217 名前:NEMO 投稿日:2003/12/07(日) 21:32
- こっそりと更新終了しました。
吉澤さんの疾患に関しては、いくつか資料はあたりましたが、
もしかしたなら誤解や間違いがあるかもしれません。
その場合は、すみませんと頭を下げるしかありません。
>206名無し様
今回も数レスでまことにあいすみません。
年末年始には多少時間ができるはずなので、
そのときにはきっちり書き進めたいものです。
- 218 名前:NEMO 投稿日:2003/12/07(日) 21:41
- >207名無し様
知的なぞと言われるとケツまくって逃げ出したくなりますが。
時折理屈っぽく、時折バカっぽくやっております。
>ヒトシズク様
淡々と吉澤さんを二ヶ月死にかけで放置して、悪いことをしたなぁと反省中です。
思考能力はぜひ取っておいてください。
自分もあちこちで、うわぁうおぉと言いっぱなしです。
いろいろ取り込んで精進できればよいのですが。
>209、210名無し様
どうもありがとうございます。
次は保全がつく前に更新できるよう頑張りますので。
年が改まる前に、3章を終わらせるつもり。
ともかく、本日はこれにて。
- 219 名前:名無しさん 投稿日:2003/12/08(月) 13:25
- 待ってました。
藤本さんと吉澤さんの会話や関係がリアルっぽいな〜。
次回も楽しみにしてます。
- 220 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/08(月) 13:52
- 更新乙です。
毎回のことながら世界に引き込まれます。
早くも次回の更新が楽しみです。
- 221 名前:ヒトシズク 投稿日:2003/12/10(水) 22:38
- 静かな空気が伝わってくる様で毎回のことながらあっさりと物語の世界に引き込まれてしまいました。
ミキティとよっすぃーのクールさ、と微妙な関係がリアルで面白い(w
やはり作者さんにはかなわないなぁーと毎回思います(苦笑。
では、次回の更新楽しみにまったりとお待ちしております。
- 222 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2003/12/19(金) 18:20
- 更新されていて嬉しいです
がんばってください
- 223 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/21(日) 04:47
- いまこの小説が1番好きです、頑張って
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/07(水) 22:53
- ho
- 225 名前:名無しくん 投稿日:2004/01/14(水) 11:13
- zen
- 226 名前:Jumble Tumble 6-1 投稿日:2004/01/31(土) 12:03
- 確かに、デスクの右隅に置いたはず。
あれ?
小さく首をひねって、こめかみを指でトントン叩いた。
ゴミ箱へ落っこちてしまわないよう、ペンを1本重しにのせたのは、遅いお昼ご飯を食べる前。
そのペンはしつこい保険の勧誘員が押し付けていった、ちょっとずんぐりした3色ボールペンで。
後輩に買ってきて貰ったお弁当は、ご飯の上の海苔が前歯にくっついてしまって大変だったとか。
そんなことまで、憶えているのに。
「どこへやったかなぁ……」
無意識に洩らして、引き出しに手をかけた後ろ姿に、ブリーフケースを提げた税理士が問う。
「なにをです?」
「あの、封筒」
今度は、税理士が黒髪を掻き分けて、こめかみにその指先を添える。
トントン。
このお嬢さん、スカートからはみ出した膝を床について、一体なにをしているんだか。
四つん這いになってデスクの下を覗き込む石川梨華は、たいして珍しいものでもないらしい。
オフィスの中、彼女の同僚たちは、
「お疲れさまです」
頭痛をこらえて立ち尽くす吉澤に一言投げて、石川をかえりみることなく行き過ぎる。
- 227 名前:Jumble Tumble 6-2 投稿日:2004/01/31(土) 12:03
- 会議は終わった。
あちこち不具合を訴える身体に鞭をあて、数字と人間とのあいだを行ったり来たり。
四方八方から引っ張られ煽られて、ふらつく機体を誘導してやる。
焦るな怒るな時計を見るな。
保田が皮肉っていた通り、どんな女を相手にするよりも時間と忍耐と体力を消費する。
消費? いや浪費だ。
社に引き上げるところを呼び止められて、これまた浪費。
毎日欠かさず朝と晩、亜依から届くメールにも、今日はまだリプライを書いていない。
ずっと練習をしていた跳び箱、3限めの体育ではうまくいったのだろうか。
(怪我、してないといいな)
幼稚園にいたころは、結構な運動音痴だった記憶がある。
どうだろう、すこしは改善されたのだろうか?
這いつくばった石川の髪に、紙の細い切りくずが紛れ込んでいる。
取ってやろうか? いや気付いていないんだったら放っておくさ。
それにしても、あの平手は強烈だった。
おとなしく叩かれてやるんじゃなかった。
どうして今更、なにを今更、……だって7年前のことなのに。
- 228 名前:Jumble Tumble 6-3 投稿日:2004/01/31(土) 12:04
- 思考は積み重なる。
薄く薄く、指で突つけばすぐにも破れる、
米粉で作られた生春巻きの皮みたいな柔弱な膜が次から次へと覆いかぶさる。
思考は上へ下へ。意識は外へ内へ。
吉澤は調和を諦める。
仕事は済んだ。
できるだけ早く、そう、可及的速やかにこの場を立ち去りたい。
ささやかな望みだった。
この状況はあまり好ましくない。
左腕を伝わる振動に、指先、3日前に飯田が整えた爪へ落ちていた視線が飛び跳ねる。
ブリーフケースから取り出した携帯電話の液晶を確認して、吉澤は左の眉を持ち上げた。
(日本に来るとは聞いてたけれど)
到着は深夜だったというのに、時差にも負けず、さっそくの呼び出しである。
正直、舌を巻く。
見かけによらず、彼女のタフさはあの保田に劣らない。
石川の宝探しと同様に、こちらもそれなりに時間を食いそうだった。
「失礼。エレベーターホールにいますから」
ブリーフケースを抱え直して、携帯電話を耳にあてる。
頭にこびりついて、固まりかけた膜をすべて剥がす。
一気に剥がす。
今はこの声、この言葉。
それだけを掴んで、放さない。
- 229 名前:Jumble Tumble 6-4 投稿日:2004/01/31(土) 12:05
- 『Hi, Tom. This is Ayaka.
Now, can you spare some time to talk with me?』
「I do not have much time now.
But Ms Kimura, ...」
5分、吉澤がタイムリミットを提示するより先、西海岸風の米語が割り込んだ。
『OK. Lets get down to brass tacks.
Tom, Thanks for circlating the results of your survey.』
「H」の有声発音が苦手な英語圏の人々は、吉澤のファーストネームを上手に口にできない。
舌足らずにイトミ、イトミと繰り返されると、なぜだかこちらが面映い。
トム、だいぶ呼ばれ慣れてきた。
呼ぶのもサインするのも、短くて楽だ。
『The comparisons were very interesting to me.』
「Actually, Ms.Yasuda deserves our thanks.」
吉澤の右手が、古びた万年筆を握りしめる。
軸に添えた親指は、金字で刻印されたイニシャルを幾度も撫でた。
これはまじない、これはライナスの毛布だ。
万年筆を握ったままの拳骨が、コートのポケットに消えていった。
- 230 名前:Jumble Tumble 6-5 投稿日:2004/01/31(土) 12:07
- 会議室の片付けを終えた新垣は、胸に抱えたファイルや文具の重みにふらつきながらも、
いつも通り眉毛をぴくぴくうごめかせ、注意深く前方と左右の確認をおこなった。
うずくまっている先輩につまずいて、悲惨な衝突事故を起こしたことは1度や2度で済まない。
……右斜め30度、障害物発見。
回避成功。
無事にデスクに辿りついて、新垣は安堵の吐息をついた。
荷物を置き、軽い痺れの残る腕をぷらぷらさせる。
「先輩、今度はなに落としたんですか」
「今度は、ってなによ」
ぼやいて、石川がデスクの下から顔を出す。
「銀行の封筒。ここに置いておいたはずなんだけど、見当たらなくて」
「ゴミ箱見ましたぁ?」
「見た」
「んーじゃあ、ゴミ箱代わりにしてたお弁当のビニール袋は」
「あっ、まだ! ありがとう、おマメちゃ──!」
手を叩きあわせ、飛び上がった石川は、
次の瞬間には声をつまらせて、再び床にうずくまっていた。
唇を噛み締めて震えているところからして、頭頂部をデスクの角に打ち付けたらしい。
(……お約束なひとだなぁ)
新垣、見てないふりして、あらぬ方向へ目を逸らした。
せめてもの、後輩の情けである。
- 231 名前:Jumble Tumble 6-6 投稿日:2004/01/31(土) 12:09
- それはとてもスマートで、印象的なやり方でなくてはいけなかった。
金曜日----とはいえ日付けは既に土曜だった----、吉澤が石川の手の中へ滑り込ませた以上に。
タクシー代、短く言って、手渡された2万円。
困る石川に吉澤が笑っていた。
『ありがとう、って受け取ればいいんだよ。それだけで』
そのとき断わればよかった。
その場で突っ返せばよかった。
もちろんお釣が出たし、それ以前に、吉澤から貰うべきものではなかった。
(返さなきゃ。やっぱり、返さなきゃ)
週末、そればかりを考えた。
初めてのデートか、はたまた本命の面接試験か。
それくらい真面目に手順を確かめながら、
何度となく繰り返したシミュレーションも、今となっては水の泡。
(なんで格好よくできないのかなぁ)
お弁当と雑居させられた封筒には、鶏の照り焼きのタレが染みている。
ずるずると坂を転げ落ちていきそうになる自分を励まして、石川は頬をぺしぺし叩いた。
こぼれたミルクはなにをしたって戻らない。
後悔するな、攻めていけ。
「よしっ」
真正面をしっかと見据えて、エレベーターホールの吉澤を追い掛ける。
- 232 名前:Jumble Tumble 6-7 投稿日:2004/01/31(土) 12:10
- 小走りの足音で、吉澤は近付く人影が誰のものか悟ったようだった。
半身をねじって振り返り、ポケットから抜いた右手の人差し指をすっと立てる。
1分。
石川が頷くと、吉澤は眉間に寄った皺を消し、口許をゆるめた。
けれど浮かんだ微笑は、窓から差し込む午後の陽射しに遮られ、
石川がそれと認識するよりも先、光の波に飲み込まれた。
見間違いかとまばたいて、瞼が上がったときにはもう、吉澤は石川を見ていない。
(損、しちゃった)
勿体ない、一瞬悔やみかけて、石川はむぅっと唸る。
勿体なくない。
全然、別にそんなの、勿体なくなんか、ないぞ。
喉に掠れるアルトは、テンポをあげた英語で携帯電話に囁いている。
石川は手首を裏返して、秒針を睨んだ。
1分。
意地が悪い、自分でも思いながら、プレッシャーをかけてやる。
あと、47…46…45秒。
それしか、待たない。
* * *
- 233 名前:NEMO 投稿日:2004/01/31(土) 12:17
- 区切りのよいところまで、更新しました。
第3章はとうとう6節。
予定の1.5倍になっております。
前回更新したときは残り3レスくらいで終わるだろうと思っていたのですが、
予想以上に石川さんが動きました。
働き者で結構なことです。
失礼ながら、返事は次回まとめて。
- 234 名前:Jumble Tumble 6-8 投稿日:2004/02/10(火) 22:10
- 封筒を差し出すと、吉澤は怪訝そうに眉を寄せた。
「お金。タクシー乗るとき、貸してくれたでしょ」
「そんなの、別に返さなくていいのに。取っときなよ。
随分遅くまで残ってもらったから、迷惑料」
「よくない!」
語気を荒げて、石川は一歩吉澤に詰め寄った。
「アドバイザーが能率的に、正確な分析と判断を下す手助けをする。
これはわたしの仕事で、わたしはそれで毎月お給料を貰ってる。
あなたからお小遣いを貰う必要はまったくないの」
勢いよく一気に言い立てて、ようやくここで息継ぎを入れた。
挑戦的に吉澤を見上げ、封筒をその胸元に押し付ける。
「了解?」
「……了解」
吉澤は素直に封筒を受け取り、二つ折りにしてブリーフケースの外ポケットに落とした。
ファスナーもついていない浅いポケットだ。
不用心なのか、金銭感覚がすっかり鈍っているのか。
(折角、ピカピカのお札用意したのに)
折り目のない、手垢もついてない、新品のお札。
だというのに、この税理士、中身を確かめもしなかった。
- 235 名前:Jumble Tumble 6-9 投稿日:2004/02/10(火) 22:11
- 「いいね」
「は?」
低い呟きを捉えて聞き返す石川に、吉澤が口許を斜めにする。
「そういうの、嫌いじゃない」
どうして、この人はいちいち癇にさわる物言いをするのだろう。
頬が熱い。
一秒ごとに、沸点が低くなっていく気がした。
今ならきっと、摂氏70度でもピーピー沸騰できる。
吉澤が足元のブリーフケースを持ち上げ、窓際から離れた。
エレベーターの乗降ボタンに触れ、その返す手で首のあたりを引っ掻いて。
踏みかえた靴底に、キュウッと床が鳴った。
犬猫みたいに頭をかたむけて、吉澤は石川を見ている。
つられて、石川の頭も右にかたむいた。
こらえ切れずに床へと転がり落ちたのは、どちらの吐息だったのか。
「──石川さん」
思い出したように、呼ばれた。
「面倒ついでに、もうちょっと付き合ってくれるかな。
ふたつみっつ、頼みたいことがあるから」
「……え」
「下でコーヒー奢るよ」
石川の瞳の色を窺うように、もう一度、吉澤は頭をことんとかたむけた。
- 236 名前:Jumble Tumble 6-10 投稿日:2004/02/10(火) 22:12
- 幸い、2階ラウンジは空いていた。
吉澤はフロアに視線を走らせ、吹き抜けから1階ロビーを見下ろせるテーブルに荷物を置いた。
ふっくら軟らかなソファに石川が腰を下ろすのを見て、カウンターへコーヒーを取りにいく。
エレベーターという狭い個室には、奇妙な魔力がある、らしい。
12階から2階まで降りる数十秒間、吉澤も石川も終始無言で、口を開くことができなかった。
言葉は喉で消えてしまい、2人はフロア表示を見上げ、沈黙から解き放たれるのを待つ。
それは当然不愉快で、腹立たしく、原因が吉澤にあるのは明白だった。
彼女の向こう脛を思いっきり蹴りつけてやりたい、と石川は思い、その閃きに自分で笑った。
吉澤の横顔は、金曜の夜の痕跡を残さない。
石川に打たれて赤くはれた左頬は今日、羨むほどに白かった。
「どうぞ、石川さん」
木製のマドラーとクリームふたつを添えて、コーヒーカップが置かれる。
砂糖は入れず、ミルクをたっぷり。
吉澤は石川の好みを7年前に知り、そんな些末なことを今なお覚えていた。
「ありがとう」
なぜだか悔しくて、石川はブラックのままカップに口をつけた。
吉澤はコーヒーを一口啜ってカップを下ろし、資料をテーブルに並べ始める。
癖なのか、右手のなかで万年筆がくるりくるりとゆっくり回っていた。
緩やかな回転運動は、眠気を誘う。
テーブルの下、石川はこっそりと太腿をつねり、吉澤の声が導く箇所に視線を落とした。
- 237 名前:Jumble Tumble 6-11 投稿日:2004/02/10(火) 22:13
- それでも石川は考えている。
ビジネスに向かう意識から、タケノコの皮みたいに剥がれ落ちた、その薄っぺらな部分で。
「──信用していない、ということ?」
「今回は特に。典型的なオーナー会社だから」
知は力なり。
ベーコンの言葉に、今程深く共感をおぼえたことはなかった。
見ている。知っている。気付いている。
この若い税理士は、ほんとうに些細な行動で自分の力の影をのぞかせる。
「それに、非公開会社」
「そう。内部の会計基準が曖昧で、どうしたって公正さに欠ける」
「でも、今更ショートリストが必要?」
スティックシュガーをソーサーにのせなかった、ただそれだけ。
なのに吉澤は石川の領域をおびやかした。
「財務評価の修正に慎重になるのは、当然でしょ」
「それはそうだけど……」
「交渉が始まる前と今、どれだけ誤差をつめてきてるのか、知りたい」
吉澤はわずかに身を乗り出す。
ガラス天板のテーブルの角を万年筆の尻が掠めて、カツンと澄んだ音をたてた。
- 238 名前:JumbleTumble 6-12 投稿日:2004/02/10(火) 22:14
- 「残念だけど、そのうち1社に関しては秘密保持契約が継続中。
あなたは情報開示対象者じゃないから、期限切れまで待つしかない」
「そうか……なら、仕方ないね」
ソファに腰掛けなおし、落ちかかる黒髪を払って、顎に手を滑らせる。
石川が見る限り、その表情に落胆した様子はない。
きっと、吉澤は考えている。
ひとつの経路が塞がれたなら、次、また次、新たな打開点を探すだけだった。
吉澤は口を真一文字に引き結び、下唇を人差し指で叩いている。
肉の薄い、淡い色の唇。
今日は、煙草を吸わない。
テーブルの中央にあった灰皿は、脇にどけられてきれいなままだ。
寂しがっているのは、唇か、それとも手か。
脳裏をよぎる疑問に、石川は俯き、眉を寄せた。
どうして、煙草を吸っているの?
今日は、我慢しているの?
どうして、女のひとが好きなの?
ねぇ、どうして避けずにおとなしく叩かれたの?
7年前のことなんだよ?
だというのに、わたしはまだ怒っているの?
許せないと思っているの? どうなの?
- 239 名前:Jumble Tumble 6-13 投稿日:2004/02/10(火) 22:15
- 会うごと、モルモットみたいな勢いで、疑問符が産んで生まれて石川の思考を縛った。
吉澤に訊ねたかった。答えて欲しかった。
ぶつけたい問いかけがこんなにもあって、なのにまだ増殖する一方なのは、なぜか?
唇から指が離れて、右手が万年筆を握る。
裁判官が叩き下ろす木槌のように、テーブルを幾度か打ち付けた。
「ここ、行くなら、車のほうが楽だろうね」
「まあ、近くにインターチェンジがあるから……」
頷きかけ、石川ははた、と止まった。
吉澤の目を捉え、ゆっくりと繰り返す。
「行く?」
「どうせなら、本社工場を見ておこうと思って。紙切れだけじゃあ」
「昔の刑事ドラマみたいなこと言わないでよ」
「現場百遍? 1度で充分だけど」
見に行った、足を運んだという事実が意味を持つときもあるのだ。
値段交渉が煮詰まる前に打つ、半ば様子見の一手。
不発に終わっても、こちらに不利に働くことはない。
「……いつにする?」
「来週にはスキームを組みたいから、金曜までかな」
「連絡、入れないと」
「お茶しにいくわけじゃないからね。いらない」
吉澤が啜るコーヒーは、もう冷めていた。
熱さにまぎれて気に留めなかった酸味が、小さなトゲになって舌を刺す。
- 240 名前:Jumble Tumble 6-14 投稿日:2004/02/10(火) 22:16
- 後藤のコーヒーが飲みたかった。
コーヒーを置くついでに、頭をひょいと撫でていく手で、労をねぎらって欲しい。
──ダイジョーブ、ちゃんとやってるよ。
ふにゃっと笑いながら言って貰わないと、もう解らなくなっている。
(あのさぁ、いま、私ちゃんとできてる?)
カップの底、残った澱を見て吉澤は思う。
こんなもので、吉兆を占う人もいるのだ。
このカップに沈んだコーヒー滓が吉澤に示す未来は、どんな日々か。
石川は眉間の皺を深くして、思案する。
吉澤の手が音をたてずにソーサーへカップを戻すのと同時に、言い切った。
「決まったら、知らせてください。同行しますから」
「物好き。面白いことなんて、ないよ?」
「車の手配とか、いろいろ、あるじゃない。地図だって」
「仕事だもんね」
「そうだよ、仕事だから。
うちのビジネスを請け負っている税理士に、勝手に突っ走られたくない」
本音をさらして睨んでやる。
吉澤は額を片手でおさえ、両目を細くして、見せつけるように溜息をこぼした。
「……イシカワさんて」
吉澤が一発必中の矢をつがえ、引き絞る。
きりきり、きりきり。
石川は眉を更に吊り上げた。
「なによ」
「学級委員なんか押し付けられちゃって、ひとり無駄に張り切っちゃって空回ってたクチでしょ」
- 241 名前:Jumble Tumble 6-15 投稿日:2004/02/10(火) 22:17
-
jumble
<動>乱雑にする、ごたまぜにする、人の頭を混乱させる
<名>ごちゃまぜの物、寄せ集め、動揺
tumble
<動>倒れる、くずれ落ちる、混乱させる
<俗>口説く
─研究社リーダーズ英和辞典─
第3章 ガラクタ -了-
- 242 名前:NEMO 投稿日:2004/02/10(火) 22:35
- 第3章更新終了しました。
えらく長かった……。
ドツボに嵌まっているのは吉澤さんか、石川さんか。
ここのひとたちは雪煙あがる山小屋にふたりきりで押し込んでも、
甘い展開にはならなさそうです。
>219名無しさん様
話の設定が無茶苦茶アンリアルなので、
会話がリアルと言ってくださるとホッとします。
そのひと「らしさ」を失わないよう、気にかけているので。
>220名無し読者様
世界をちゃんと作れているかどうかはわかりませんが。
次回の更新……月2回まではあげていきたいなあ、と。
- 243 名前:NEMO 投稿日:2004/02/10(火) 22:51
- >ヒトシズク様
クールぶっている藤本さんは、虎視眈々と肉を狙っています。
キャラクタを出すときはしっかり書けているかどうか、けっこう心配なもので。
リアルですか、そうですか……ビデオを何回か見直した甲斐がありました。
>222名無し募集中様
もうちょっと頑張ってみます。
更新されていて嬉しい、と思ってもらえることこそ嬉しい。
>223名無し読者様
1番好き、とか言われるとフワフワします。
頑張ります。
この度も保全、お手数おかけしました。
次章では、冒頭登場してそれっきりだった人がたくさん出る予定です。
- 244 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/02/11(水) 05:50
- 更新お疲れ様です
石川と吉澤の一言一言のやりとりが面白いです
こういう苦い関係のいしよしってあんまりないような気がします
そこがすごくいいです
次の更新も頑張ってください
- 245 名前:147 投稿日:2004/02/11(水) 23:30
- 更新、お疲れ様です。
すごく久しぶりのレスです。(スイマセン・・)
いよいよこのふたりが動き出しそうな予感が・・
ここの登場人物はみんな「大人」と言いますか、頭の回転の速そうなキレ者って
感じがして魅力的です。
ひょこっと出て来る藤本さんが気になってます(w
次回も楽しみにしております。
- 246 名前:Family Apparition 1-1 投稿日:2004/03/15(月) 22:55
-
日一日、確実に積み重なる時間の底の底、
ゆっくりとひしゃげ、色彩を失いつつある場所に、大好きなひとたちがいる。
いつしか、その笑顔は薄墨色にくすんでしまうだろう。
おばあちゃんが引き戸の奥へ大切にしまいこんでいる、
虫も嫌う薬品の匂いを放つアルバムの写真みたいに。
家族だった。
疑ったことなどなかった。
奇妙だ、と、会う人ごとに驚かれ、
お父さんは、と、問われることこそ不可思議だった。
知らないおじさんがやってきた日、
──お父さんのいない子なんて、いないんだよ!
ともだちに投げ付けられた言葉が嘘でなかったことを、初めて知った。
- 247 名前:Family Apparition 1-2 投稿日:2004/03/15(月) 22:56
- 日一日、こどもは新たな言葉に気付き、言葉に込められた決まりを悟り、
区別と分類によって引かれた、途切れることのない線を見るようになる。
世界を見る百人の、千人の、万人の目が、一言一言に溶けている。
家族、と人が言うとき、その語句は自分たち3人から離れていた。
世界にいる百人の、千人の、万人の声が、認めていなかった。
お父さんと、お母さんと、わたし。
お兄ちゃん、お姉ちゃんがいる友達もいる。
おとうと、いもうとが生まれた友達もいる。
おじいちゃん、おばあちゃん、一緒に住んでいるおうちもある。
なのに、『よっすぃー』がいるうちは、ヘンなのか。
なんで、ヘンなのか。
あの頃、わからなかったことだ。
だから、困らせた。
『おかあさん』を、『よっすぃー』を、困らせた。
- 248 名前:Family Apparition 1-3 投稿日:2004/03/15(月) 22:57
- 日一日、青味を増していく空に、あまりにも鮮やかな黄色。
満開の花が密集する枝を垂れ、ミモザの樹が揺れていた。
スワンを模したボートの浮かぶ池を通る風からも、頬に痛い刺がとれつつあった。
いい天気で、ほんとうにいい天気で、
幼稚園もしばらく続けてお休みしていて、おそとへ出ていなかったものだから、
手をつないで川沿いを歩いて、ふたりで公園に行ったのだ。
よっすぃーとふたりで、トウモロコシを齧った。
トウモロコシは3人でいるときにも、必ず1本だけと決まっていた。
小さな女の子にはトウモロコシは大きくて、残りをおとなたちが片付けることになっていた。
貧しかったからではない。
女手ひとつ、そう呼ばれてイメージされる生活より、ずっと豊かだった。
働くおかあさんに、淋しさを感じたこともなかった。
朝はおかあさんが幼稚園まで送ってくれて、帰りにはよっすぃーが迎えにきた。
おかあさんの仕事場で合流して、大勢でごはんも食べた。
足りないものなど、なかった。
見るもの、触れるもの、みんなが好きだと思えた。
……ニンジンを除けば。
- 249 名前:Family Apparition 1-4 投稿日:2004/03/15(月) 22:58
- つないだ手を2度引いて、中澤亜依はここ数日繰り返した問いを口にした。
「なぁ、おかぁさんは?」
「……裕子さん、」
水面の照り返しに目を眇めていた彼女は、イエローブラウンの髪を揺らす。
喉がひどくかれていた。声に、なめらかさがない。
「うちに帰ってこれなくなっちゃった」
「明日は?」
「明日も」
「そんまた明日は?」
「あさって、って言うんだよ」
眩しそうに顔をしかめ、それでも彼女は池を見ていた。
気温の上昇とともに増えてきたボートを、眉間に皺寄せ見詰めていた。
「いつ、会えるん?」
「もう、裕子さんには会えないし、
裕子さんと話したり、一緒に歩いたり、お花見したり、
そういうこともできなくなっちゃったんだ」
「……嫌いになったから?」
「違うよ」
好きだから、大好きだから、とても大事だから家族なのだ。
だから、一緒におうちへ帰るのだ。
「それは、違うよ」
- 250 名前:Family Apparition 1-5 投稿日:2004/03/15(月) 22:58
-
嫌いになったんじゃない、
だからね、あいぼん、
心配しないで、大好きだよ、
迎えに行くよ、
だから毎日、ちゃんと食べて、ちゃんと笑って、
夜はさ、おしっこ我慢しないでいいからね、
トイレって言って連れていって貰うんだよ、
ちゃんと、ほらぁ、泣くなよう、
大丈夫だよ、大丈夫、
だから、ごめんね、
しばらくいっしょに、
ドラえもんもアンパンマンも見れないけど、
ひとりで見てくれるよね、
ねえ、あいぼん、笑っててよ、
迎えに行くよ、きっと……
- 251 名前:Family Apparition 1-6 投稿日:2004/03/15(月) 22:59
-
* * *
吉澤は〈一等船室〉の浅く狭いバスタブに横たわり、肩までを湯に沈めていた。
口には歯ブラシをくわえ、手は薄い文庫本のページを捲る。
器用と褒めるべきか、横着を責めるべきか。
「なに、読んでるんですか?」
「市井さんからのプレゼント」
バスルームへの闖入者を一瞥し、手許に再び視線を戻した吉澤は、
読書の妨げになるページの上の影に眉をひそめた。
歯ブラシを一旦取り出して、言う。
「松浦」
「はい?」
「1メートル右にずれて。暗いよ」
指示された通り、光源の邪魔にならない位置へ移動して、松浦は文庫本を覗き込む。
ページは随分と黒かった。
行の上から下まで、わずかな紙面を無駄にすることなく活字が詰め込まれている。
「なんの本ですか、これ?」
もう1度訊ねると、吉澤は片眉を持ち上げた。
口に戻したばかりの歯ブラシを抜いて、泡立つブラシヘッドをピッと松浦の鼻先に向ける。
「〈2nd 〉」
もの言いたげな表情に、松浦は左右対称な笑顔で応じた。
- 252 名前:Family Apparition 1-7 投稿日:2004/03/15(月) 23:00
- 「あ、磨いたげますよ? 歯ブラシ貸してください」
「……そんなのはいいから」
のびてきた松浦の手を避け、吉澤は素早く歯ブラシを引っ込める。
「フロぐらいひとりで入りたい。Okay?」
「だって吉澤さん、ドア開けっ放しなんですもん。
カーテンぐらい引いとかないと」
「空気の通りが悪いと、本が蒸れる」
〈1st オフィサー〉の言葉に従い、松浦はドアを閉めずにバスルームを出た。
ベッドの上、吉澤の抜け殻が累々とする横に、俯せになって寝そべった。
そのうち、新入りの〈機関士〉が取りにくるだろう。
彼女の仕事を横取りする気はさらさらない。
「松浦」
バスルームから呼ぶ声にひっくり返り、大の字に広がる。
スーツのジャケットを右腕の下にして、
「はいー?」
「なにか用だった」
「キーを届けに」
「そう」
水が跳ねた。
松浦は目を閉じた。
噛み付いてやればよかった、そう思った。
- 253 名前:Family Apparition 1-8 投稿日:2004/03/15(月) 23:01
-
......
.........
鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。
卵は世界だ。
生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。
鳥は神に向かって飛ぶ。
神の名はアプラサクスという。
──Hermann Hesse 『Demian』
......
- 254 名前:Family Apparition 1-9 投稿日:2004/03/15(月) 23:02
- タオルをかぶって出てきた吉澤は、歯ブラシでなくて煙草を咥えていた。
まだ湿った身体に、黒いカッターシャツとスラックス。
『Nautilus』の吉澤は、いつでも同じ上下を身に付ける。
ベッドに転がって吉澤の眼鏡を弄んでいる松浦を見ると、カウチを選んで腰掛けた。
灰皿を引き寄せ、脚を組む。
「キー、ありがとう」
「クルマは、6番に置いてありますから」
「わかった」
またも、文庫をめくり始める。
紀伊国屋書店のカバーは湯気で波打っているが、濡れてはいない。
「返すの、日曜でもいいかな」
「明後日は、無理ですか」
「……うん」
反射で返した呟きに、松浦は上体を起こしてカウチを見やった。
黒いシャツの左肩が見える。タオルのかげから、タバコの火が見える。
吉澤の指が、ページのあいだに隠れていた赤い付箋を剥がし取る。
裏返して、小さなメッセージを見つけた。
口許を斜めに歪ませ、首を振る。
灰が落ちた。
「無理ですか?」
「うん、ちょっと。お姫さまを、迎えにね」
- 255 名前:NEMO 投稿日:2004/03/15(月) 23:21
- 更新終了しました。
浮気をしたりしてますが、こちらもじわじわ書いております。
>>244 名無し募集中。。。様
石川さんと吉澤さんの会話が考えていて一番くたびれます。
そういうニガニガしい感じが滲んでいるのでしょう。
まだしばらくは探り合いつつ、。
>>245 147様
レスは当然ありがたいものですが、
続けて読んでいただいている、というのも書き手冥利につきます。
気が向いたときにでも、レスつけてやるか、ぐらいの気軽なかんじで。
ひょこっと出てくる藤本さん、書いていても非常に楽しいので、
市井さんのニの轍を踏んで出し過ぎてしまわないよう苦労します。
次回、車上冷戦。
- 256 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/03/21(日) 20:02
- 更新お疲れ様です。
カッケ―よっすぃー素晴らしいですね!メッセージとか色々気になる小物があったりして。
相変わらず描写が綺麗でその場にいるような感じがしてたまりません。
これからも頑張ってくださいませ♪
では、まったりとお待ちしております。
- 257 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/04/19(月) 20:35
- 更新待ってます
- 258 名前:Family Apparition 2-1 投稿日:2004/06/15(火) 10:10
- 前方、朱色のマーチが右折に手間取っている。
後部座席から腰を浮かせて身を乗り出し、頭上の信号と若葉マークとを交互に睨め付けていた石川は、
下唇に歯をたてて、鼻の頭に皺を寄せた。
突き交わされるクラクションが、帰り際に鳴る電話と同じくらいに不愉快だった。
なぜこんなにも傲慢に、攻撃的に響くのだろう。
シートに背中を預け、両手を組んで膝にのせる。
淡い桜色に飾られた爪をぼんやり眺め、嘆息した。
「あー、交差点内に取り残されちゃってるよ」
苛立つでもなく、焦るでもなく、抑揚のうすいアルトで呟き、
ドライバーはギアをニュートラルに戻してペダルを踏む足を休めた。
独り言だと思ったのだ。
埃ひとつ、疵ひとつないレンズの奥から注がれる、ミラー越しの視線に気付いたものの、
結局、応えるタイミングを逸してしまった。
眼鏡のねじをしめ直したらしい。
今日は、鼻の上から落ちてこない。
シフトレバーから離れた手が、眼鏡のブリッジをずり上げて目頭を揉んだ。
瞼をゆるく落としたまま、頭をわずかに垂れる。
耳から濡れ羽色の髪が崩れおちるのもそのままに。
くわぁ、と、傍若無人な欠伸をひとつした。
吉澤が、あんまりにも気持ちよさそうに伸びをするものだから。
見事に、----そう見事に、再生した。
- 259 名前:Family Apparition 2-2 投稿日:2004/06/15(火) 10:10
- 舐めるように、素足がやわらかな木目を辿る。
ふくらはぎに力をこめて踵を持ち上げ、親指の付け根から五指をくっと反り返して。
指の腹をぴたりと押し付け、彼女は混じる熱を楽しんだ。
赤い砂が細く落ち、風に煽られたレースカーテンが擦れ合って涼やかに鳴る。
鳴っていた、はずだと思う。
これはいつのことだろうか。
こめかみを叩く血流がうるさい。
強く、速く、血液が巡っている。
……ああ、うるさい。
靴底に伝わるエンジンの震えとともに、切り落とす。
スラッシュで余分な数を消していくように。
指の先に触れるか触れないかの、糸を掴む。
数珠つなぎに引っ張りだされる感覚は、重たい鉈によって分かたれた断片だった。
荒っぽく振り下ろされた刃物の衝撃に面が歪み、切り口が潰れ、原形をとどめていない遺物。
自身のデスクそのままの、乱雑に積み重ねられたきり、手を加えられず放っておかれたもの。
けれどそれらは頭痛を呼ぶほどに鮮明で、そして、いとも簡単に石川を裏切る。
糸を辿る手を、かぷりと噛まれた。
胸につまった煙の苦さに、唾をのむ。
シンクにはじけていく紅茶。
頬を、額を撫で上げる湯気。
まだ熱い米粒。
厚みのあるフライパンからじかにすくって食べた。
湯気の向こう、スプーンでリゾットを掘り返しながら笑うひと。
舌の上でほどけたリゾットをほうほうと転がし、石川は目を細める。
なにしろ湯気が、ひどく濃いのだ。
ゆっくりとまばたいて、目を開ければ、
- 260 名前:Family Apparition 2-3 投稿日:2004/06/15(火) 10:11
- 吉澤がいる。
「……よしざわさん」
「ええはい、吉澤さんですが」
後部座席を振り返る吉澤は、随分と間の抜けた返事をした。
二重の瞳をいつもより大きくして、石川を見ている。
薄い唇を内側に巻き込むのは、彼女の癖なのか。
(へんなの)
若さに似合わず老巧鋭利で手堅い仕事をする税理士は、普通、そんな顔をしないものだ。
この針のような税理士は、なんだろう、よくわからない顔をする。
石川は笑む。
一点の穴が穿たれ、石川のなか、爪先までを隙間なく満たしていた緊張感が一気に流れ落ちる。
これではもう、無理だった。
穏やかな息を吐き、吉澤の肩ごしに石川は信号を見上げた。
まだ、赤い。
「ごめん、ちょっと」
吉澤は助手席のシートに右手を置いたまま、人差し指の小さな動きで石川の注意を引く。
「水筒が入ってるはずなんだけど、取ってくれる?」
石川の隣、後部座席の左側におすまししている藤の四角いバスケット。
家族で連れ立ってピクニック、お決まりの日曜日を連想させる大きめサイズだった。
- 261 名前:Family Apparition 2-4 投稿日:2004/06/15(火) 10:12
- ふと、考える。
吉澤は陽の光の下、風に髪を遊ばせ、声をあげて笑うのだろうか。
刈り込んだ芝の上を走り、身体を横たえ、誘われるまま午睡を楽しむだろうか。
この食えない税理士は。
走る姿すら想像しづらい。
7年前、ファミリーレストランで出会った少女のことも考える。
あの吉澤ひとみは、Tシャツの裾をはためかせて駆け回り、芝生を転がりそうな気がした。
薄くて酸っぱいコーヒーで唇を湿らせ、手持ち無沙汰にスプ−ンをいじり、時折欠伸をし、
だけれども友人たちの終わらないお喋りを聞いていた年下の女の子。
ごめんね、言うと、頬を緩めて笑った。
タレ目を潤ませて欠伸をこらえているくせに、つまんなくないよ、と嘘をついた。
なんていうか、こう、後をひくかんじだよね、下手な嘘をついて、ふわふわ笑った。
ほんとうに、嘘つき。
その一瞬が心地よかった。
思わず、笑みこぼした。
だから、悔しい。恨めしい。憎たらしい。
この感情は正当でしょう?
ねぇ、この、大嘘つき。
- 262 名前:NEMO 投稿日:2004/06/15(火) 10:15
-
生存報告がわりに少量ですが更新しました。
- 263 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/06/15(火) 11:19
- 更新乙です。
相変わらず短い中にも息を呑むような表現が盛りだくさん。
ここの更新を見つけるとなんだか得したような気分になります。
- 264 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/07/04(日) 19:19
- 更新乙です!
マターリまってます
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/05(木) 04:21
- hozen
- 266 名前:Family Apparition 2-5 投稿日:2004/09/06(月) 03:57
- 朝から、雨の気配があった。
石川の肩越しに、後ろの窓から見上げれば、東へ向かう車の尻を追いたてるように、足の速い雲が流れてくる。
鈍色の雲は潮が満ちるように、ひたひたと、輪郭のはっきりしない秋の空を浸した。
午後には、降るだろう。
----傘、持っていってね。
黒紫にかがやく大粒の葡萄を剥き、種を取り除きながら、安倍はそんなことを言った。
朝ご飯、あまり食べないんです。
使い古した言い訳で逃げようとする、吉澤の口をむりやり開かせて。
一皿、からにするまで、恐い顔して見張っている。
昼休みに入っても、ひとり教室に残されて給食を食べている小学生のようだ。
狭いカウンターの中でパンを切り、卵をゆで、バスケットに次々と詰め込んで。
吉澤のシャツの襟を整え、タイを結び、コートを着せかけ。
されるがままになっている『Nautilus』のこどもは、安倍の手を羨む。
寝て、起きて、明日のまた明日、そのまた明日がきたら、自然とあんな手になると思っていた。
与え、慈しむおとなの手に。
そうしたら、あの子を迎えにいける。
そうしたら、もう一度、もう一度。
……でも、もう二度と。
- 267 名前:Family Apparition 2-6 投稿日:2004/09/06(月) 03:58
-
* * *
紙コップの底を叩いて、湯気とともにたちのぼった豊かな香りが車中に満ちる。
魔法瓶の口から勢いよく流れ落ちたコーヒーが、一滴、二滴と跳ねてあちらこちらに散った。
石川は、見た目から想像するよりもずっと、細かな動作が荒い。
コーヒーがコップの半ばを過ぎたところで、石川は魔法瓶をたてた。
「これぐらい?」
「あ、うん。ありがとう。石川さんもどうぞ」
差し出された紙コップを取り、吉澤は運転席に座りなおす。
一口啜って、シフトレバーをローに入れた。
ふたつしかない手でステアリングを、シフトレバーを、紙コップを器用に取り替える。
「いいの?」
「勿論。コップ、余分に入ってると思う」
紙コップは5つ重なって、バスケットの隅に寝かせてあった。
吉澤が使わないスティックシュガーとクリームも。
その隣、アルミホイルでくるんであるのは、ゆで卵だろうか。
塩と胡椒の小袋が添えられている。
3種類のサンドウィッチにプチトマト、カットフルーツ、……本当にピクニックみたいだ。
定番メニューに足りないのは、鶏の空揚げだけだった。
濃厚な、息も詰まるような、家庭の匂いがする。
この性悪税理士には、まったく似つかわしくない。
- 268 名前:Family Apparition 2-7 投稿日:2004/09/06(月) 03:59
- 魔法瓶に入っていたコーヒーはやはり熱くて、紙コップを支える指の置き場にも困った。
熱を持て余して、石川は口をすぼめて息を吹き掛ける。
ふうふう、ふぅ。
吉澤はコップの上辺を指でつまむようにして、眼鏡をくもらせコーヒーを啜っている。
どうやら、猫舌ではないらしい。
「そういえば、ブラックが飲めるようになったんだ」
前を向いたまま、なんとはなしに吉澤が言った。
(いつの話よ、それ)
確かに、7年前には牛乳と一対一の割合にして飲んでいたけれど。
実は今も、ちょっぴり無理をしてたりするけれど。
「熱いのも、苦手だったっけ」
(どうでもいいじゃない、そんなこと)
本当に、本当にどうだっていい、些末な事柄。
いくつ、その上等なオツムに組み込まれているのだろう。
石川は、吉澤がブラックでコーヒーを飲むことを知っている。
石川は、吉澤がたぶんフロイトを嫌いなことを知っている。
吉澤はヘヴィスモーカーで、税理士で、同性愛者で、……それで? それだけ?
随分と不公平だ。不平等だ。とにかく駄目だ。
だから、おぼえておこう、と思う。
運転するとき、眼鏡をかけること。
コーヒーを啜るとき、音をまったくたてないこと。
熱いものでも、平気なこと。
吉澤が、石川のことをおぼえていて、気紛れにそれを喉元に突き付けてくるように。
おぼえておこうと、決めた。
- 269 名前:Family Apparition 2-8 投稿日:2004/09/06(月) 04:00
- 湯気に隠れて眉根を寄せる石川とは対照的に、運転席に座る人は涼しい顔。
溜息が出そうだ。
吉澤は、ストライプのシャツに、白抜きの水玉が散る細身のタイを締めて。
鋭いシルエットのパンツスーツで。
溜息が出る。
マニッシュなスーツで包まれた輪郭はまろやかで、いびつなところがなかった。
くずれた黒髪が落ちかかる頬も、なだらかに下る肩のラインも。
のびやかな曲線が集まって作る姿形は、やさしかった。
とても、女の人だった。
なのに。
この綺麗な人は、自分と同じ、女の人を好きになるのだ。
なぜか。
女の人に、好き、と言うのだ。
「ねぇ」
喉が粘る。声が掠れる。
「ねえ、吉澤さん」
再びの呼び掛けに、視線が動いた。
ミラーを覗くのを確かめて、石川は口を開く。
訊ねた。
「……男の人に生まれたかったって、思うことはある?」
いきなり、なんなの。
呟く声も素っ気なく、吉澤はまた一口、コーヒーを啜った。
- 270 名前:NEMO 投稿日:2004/09/06(月) 04:07
-
更新しました。
直しを入れていたらどうにも終わらないので、誤字も見ずに。
のろくて少なくて、申し訳なく思っています。
個別にレスができてないですが、一言一言、ありがたく頂戴しております。
以上。
- 271 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/10(金) 08:42
- 面白い作品なので更新が遅くても構いません。
焦らず作者さんのペースでこれからも頑張ってください。
この二人の距離感が今後どのようになっていくのか楽しみです。
- 272 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/23(木) 21:49
- 最高でーす
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/05(金) 00:06
- 楽しみにしています。
作者様のペースで頑張って下さい。
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/29(土) 18:12
- まだまだ待ってます
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