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翼の折れたエンジェル

1 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時35分10秒
〔プロローグ〕

 五月病という言葉がある。
四月に入った新人達が、初めて味わう社会の厳しさ。
特に、希望に満ちて就職して来た連中にとっては、
現実とのギャップに苦しみ、仕事が嫌になる。
また、目的の就職先に落ち着いてしまったら、
これまで頑張って来た目標を見失ってしまう。

「安倍さん、何か面白い話は無いですか?」

市井紗耶香は、この春から看護師になった。
今日は教育係の安倍と一緒に深夜勤である。
五月にしては肌寒い夜だったが、
病院内は完璧な温度管理がされていた。

「もう三時になるべさ。裕ちゃんと圭織を起して夜食にしよう」

安倍と市井は仮眠中の中澤と飯田を起すと、
ナースステーションの奥にある休憩室で、
夜食を食べながら他愛も無い話をしていた。
2 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時36分27秒
 市井は五月病になりかけていた。
女ばかりの職場なので覚悟はしていたが、
先輩看護師の中には、意地悪な連中もいたのである。
そういった市井の気持ちを察してか、
安倍がさりげなくフォローしていたのだった。

「言ったべさ。あやっぺは市井を虐めてるんじゃないの。元々きつい人なんだべよ」

そんな話をしながら、二人は食事を食べ終え、仮眠用のベッドに入った。
辞めるべきか続けるべきか。そんな葛藤をしながら、市井は天井を見上げる。
溜息ばかりをつく市井に対し、安倍は先程、彼女が言った言葉を思い出した。

「面白い話だべか?面白いかどうか判らないけど・・・・・・」

安倍は市井の顔を見ながら、静かに話を始めたのだった。
3 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時37分02秒
〔ホームステイ〕

 二月も後半になると、春の息吹が聞こえて来る。
梅は満開となり、食卓にはフキノトウの芽の煮物が並ぶ。
無機質だった季節からの脱却が、もうそこまで来ていた。
しかし、日中こそいいが、夜になると激しい寒さが訪れる。
一人暮しのなつみは、頭まで布団を被り、ベッドに丸まっていた。

(もうじき起きる時間だべさ)

なつみの生業は、ある病院の看護師である。
準夜勤の翌日は深夜勤なので、ギリギリまで眠っておく必要があった。
すでに時計は、午後の九時を指しているが、なつみはなかなか起きられない。
寒の戻りと言うべき寒さが、彼女の部屋の中にも侵入していたのである。
なつみは、すでに三十分も、寒さと格闘していたのだった。

(もう、時間切れだべか)

枕元の目覚し時計が、九時十五分のアラームを鳴らした。
この時間に起きれば、十時過ぎには出掛けられるだろう。
職場の病院は、このアパートから自転車で十分くらいである。
多少、早目に出掛け、途中のコンビニで夜食を買う。
これが彼女の深夜勤の日常なのであった。
4 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時37分36秒
(アラームを止め・・・・・・へっ?)

安倍が目覚し時計に手を伸ばそうとした瞬間、
別の手が出て来て、無造作にアラームを切ったのである。
決して大きくないベッドだったが、彼女以外の誰かが、
同じ布団に潜り込んでいるのは間違いなかった。

(そ・・・・・・そういえば、妙に温かいべさ)

布団の中は、外と比べると、普段より数倍温かく感じられる。
蛍光灯の中央にある五ワットの電球が照らす薄暗い世界の中、
彼女は意を決して、横に寝ている『そいつ』に手を伸ばした。

「う〜ん」

『そいつ』は安倍の手を感じたのか、唸りながら寝返りをうつ。
声の感じからして、『そいつ』は子供か女性のようである。
『そいつ』が男でない事に、彼女は自然と安堵感を覚えた。
記憶も無い状態で、眼が覚めたら男と寝ていたとなれば、
いくら呑気な安倍であっても、パニックになるだろう。
5 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時38分08秒
(誰か泊まってたっけ?)

安倍は記憶を辿りながら、『そいつ』の身体を触ってみる。
女性特有の柔らかな触感があり、安倍は更に安心した。
『そいつ』はトレーナーを着ているようだったが、
どういうわけか、何かを背中に背負っている。
従って、うつ伏せになった状態で寝ていたのだった。

「誰だべか?」

安倍は『そいつ』を揺り起こしてみた。
『そいつ』は「んー」と高い声を出し、大きく伸びをしながら起き上がって行く。
ベッドの上で布団が持ち上がり、安倍は正体を現す『そいつ』を凝視した。
6 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時39分26秒
「眠いのれす・・・・・・」

布団から現れたのは、髪をお団子にした少女だった。
安倍が枕元の電気スタンドを点けると、少女は眩しそうに顔を顰める。
触った感じは大人っぽかったが、こうして見ると小学生のようだ。

「聞いてもいいべか?何でここにいるの?」

安倍は脳内を整理しながら、大きな欠伸をする少女に訊いた。
しかし、少女は安倍の質問には答えず、キッチンに歩いて行く。
どうしても思い出せない安倍は、少女の存在を無気味に思った。
確か、ベッドに入ったのは午後一時頃で、しっかりと戸締りをしている。
どう考えても、少女は合鍵で入って来たとしか思えない。

「なっちさん、何か作りますね」

少女は冷蔵庫を開けると、何やら物色を始めた。
安倍はベッドの上に正座し、腕を組んで考えてみる。
少女の方は自分の事を知っているらしいが、
彼女には全く心当たりが無かった。
若年性アルツハイマー病ではないかと、
安倍は本気で心配してしまったのだった。
7 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時40分11秒
「あの・・・・・・さ、名前は何だっけ?」

安倍は少女の名前を聞けば、何かを思い出すと思ったのだ。
少女の顔と知り合いの子の顔をコンバインしながら、
彼女は少女の返事を待っていたのである。

「希美れす。ののって呼んでくらさい」

安倍は『希美』という名前の少女を脳内で検索してみるが、
期待に反して、全く該当する人物が出て来なかった。
もしかすると、まだ夢の途中ではないかと思い、
彼女は自分の頬を抓ってみるが、痛いだけである。
どうやら、全く知らない少女がいるようだった。

「幾つか質問があるんだけど、正直に答えてくれるべか?」

安倍としては気味の悪い話であったが、
とにかく事実を知らなければならない。
彼女は必死に頭の中を整理すると、
疑問を片っ端からぶつけて行ったのである。
8 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時40分50秒
「まず、ののちゃんは誰だべか?それから、何でここにいるの?
何でなっちを知ってるの?どうやって入って来たんだべか?」

すると希美は、フライパンでタマゴを焼きながら、
矢継ぎ早に質問を浴びせる安倍に回答して行った。
それは安倍の知りたい事では無かったのだが。

「ののは・・・・・・ののれす。いわゆるホームステイれすね。
なっちさんは、学校の名簿で選ばれたんれすよ。それから・・・・・・」

希美は困ったように首を傾げた。
恐らく、最後の質問を忘れてしまったのだろう。
だが、安倍はそんな事などどうでも良かった。
要するに学校の名簿で希美のホームステイ先が決められたようだが、
彼女には何の連絡も無かったし、同意すらしていないのである。
無理矢理に押しかけられたところで、安倍には何も出来ないのだった。
9 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時41分27秒
「あのさ、学校で指定されたみたいだけど、なっちは何も聞いてないの。
悪いんだけど、学校に連絡して、帰ってくれないかな?」

安倍にしてみれば、かなり迷惑な話だった。
どうやら手違いがあって、希美は知らずにやって来たようである。
あまり邪険にするのも可哀想だと思い、安倍は柔らかく話をした。

「学校には連絡出来ないのれす」

確かに、もう夜も遅いので、学校には誰もいないだろう。
警察に相談しようかと思ったが、それも少し可哀想である。
だが、日勤や非番の日なら良かったものの、今日は生憎の深夜勤務だ。
まさか、希美を置いたまま出勤するわけにも行かないので、
安倍は何が得策か、対応を考えていたのである。

「なっちは、これからお仕事があるべさ」

深夜勤は最少人数で行っているため、休んだりしたら、
他の看護師に多大な迷惑がかかってしまう。
したがって仕事を休むわけにも行かず、
安倍は困り果ててしまった。
10 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時43分09秒
「知ってます。ののは病院に行くのれす」

希美が病院に来てくれたら、それは最良の方法だった。
しかし、病院にはベッドこそ多いが、部外者は使用する事は出来ない。
最適な温度に管理されているため、廊下のベンチでも寝られるだろうが、
安倍が仕事をしていたら、希美の面倒をみてやる事が出来なかった。

「病院だよ。遊ぶところじゃないべさ」

この小学生を病院に連れて行けば、きっと入院患者から苦情が来るだろう。
病院といえど企業である以上は、顧客である入院患者からの苦情が怖かった。
事実、あまりに横柄で入院患者の苦情が多い看護師は、解雇されていたのである。
幸か不幸か、仕事に一生懸命な安倍には苦情が一件も無かった。
11 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時43分47秒
「判ってますよ。ののは病院で大人しくしてるのれす」

安倍は希美を病院に連れて行くに当たり、
主任看護師である中澤に諒解を取る必要があった。
三十路間近の中澤は、かなり難しい性格ではあったが、
何だかんだ言って、面倒見が良い事でも知られている。
安倍が事情を話せば、仕方なく許可するだろう。

「約束だよ。騒いだら絞め殺すべよ」

安倍は最大級の脅しをかけたつもりだったが、
希美は嬉しそうに微笑みながら「はい」と答えた。
12 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時44分33秒
 希美が作った料理はハムエッグとフレンチトーストだったが、
安倍はその美味しさに仰天してしまう。
確かに普通の朝食ではあったが、全てが安倍好みの味だった。
ほんのり甘いフレンチトーストに塩を入れる事によって、
その甘味を最大限に引き出していたのである。
元々大食いの安倍は、舌鼓を打ちながら、見事に完食してしまった。

「美味しかったべさ。ののちゃんは料理が上手いね」

安倍が率直な感想を言うと、希美は「てへてへてへ・・・・・・」と笑った。
その純真で可愛らしい笑顔に、安倍は自然と笑顔になってしまう。
心のどこかで室蘭において来た妹を連想し、安倍は希美が可愛くなってしまった。
姉妹であるから、勿論、幼い頃には殴り合いのケンカをした事もある。
それでも甘えられると、妹には甘い安倍なのであった。
13 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時45分46秒
「なっちさん、ののはお手伝いをするのれす」

希美は安倍が食べ終わると、嬉しそうに洗い物を始めた。
この可愛らしい少女の手が荒れては可愛そうだと思い、
安倍は「いいよ」と言うと、自分から食器を洗い出したのである。
希美には罪が無いのだから、邪険にしては可愛そうだし、
こんなに料理が上手いのであれば、また何か作って貰いたかった。

「さっきから背負ったままだべね。何が入ってるの?」

安倍は希美が背負っているリュックが気になった。
あまり大きくないリュックであるから、
きっと彼女にとっての宝物でも入っているのだろう。
安倍はそう思っていたが、希美は悲しそうに下を向いた。

「もう、必要が無いものなのれす。残念だけど」

希美の悲しそうな表情に、安倍は悪い事を訊いてしまったと思った。
きっと、何か悲しい想い出のある品なのだろう。
バレンタインデーに好きな男の子に渡そうとしたが、
予想に反して断られてしまったものなのだろうか。
14 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時46分44秒
「そう、ごめんね。変な事訊いちゃって」

安倍は洗い物をしながら、迂闊な自分に反省した。
希美は不思議な子であり、彼女が笑うと安倍まで嬉しくなる。
また、彼女が悲しい顔をすると、安倍まで悲しくなってしまうのだった。
安倍は悲しい雰囲気を払拭しようと、話の話題を変えてみる。
看護師である安倍は、そういった技術には長けていたのだった。

「ののちゃんは何歳なの?」

安倍が訊くと、希美は困ったように首を傾げ、指を折りながら数を数えていた。
その仕草はとても可愛らしく、安倍は思わず笑顔になってしまう。
だが、自分の歳を忘れたとしても、指を折って数えるほどの事では無いはずだ。
そうなると、希美は凄まじく頭が悪いのだろうか。

「う〜ん、十五歳・・・・・・なのれす」

安倍は希美が指を折った事などより、予想よりも大人だった事に驚いた。
舌足らずな喋り方に、あまり女性として発育していない身体を見て、
安倍はてっきり小学生だと思ってしまっていたのある。
十五歳といえば、中学三年生くらいの年齢であった。
15 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時47分29秒
「もう中学は卒業っしょ?・・・・・・そうか。ホームステイさせる学校だから、私立なんだべね?」

私立の中高一貫教育であれば、この時期にホームステイさせても不思議ではない。
義務教育の最終段階で、他所様の生活に眼を向けるのも大切な勉強である。
希美を見ていると天真爛漫ではあるが、やはり世間知らずなところがあるようだ。
屈託の無い笑顔と可愛らしさだけで、渡って行けるほど世の中は甘く無い。

「さてと、片付けものが終わったら、出掛ける支度をするんだよ」

希美はピンクのジャンバーを着ていたが、これだけではさすがに寒いだろう。
安倍は洗い物が終わると、大きめのダウンジャケットを希美に渡した。
すると、希美はリュックの上からダウンジャケットを着てしまう。
余程、大切なものなのだろう思い、安倍は苦笑しながら出掛ける支度を始めた。

「さあ、行くよ。ののちゃん」

安倍が言うと、希美は自転車の荷台に飛び乗った。
二人乗りが見つかったら警官に怒られてしまうので、
なるべく出くわさない道路を選んで病院へ向かう。
希美は安倍が思ったよりも、意外に軽かった。
16 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時48分17秒
「ほら、そこの病院が、なっちの職場だべさ」

病棟らしい場所の灯は消えていたものの、煌々と電気が点いている場所がある。
その場所こそが、安倍の戦場であるナースステーションなのであった。
安倍は病院の駐輪場に自転車を滑り込ませると、希美を連れて近くのコンビニへ向かう。
満天の星空ではあったが、耐え難い寒さが二人を包み込んでいた。
コンビニに入ると、その暖かさからか、自然と笑顔になってしまう。

「今日は寒いべさ。ののちゃん、肉まん食べる?」

寒い時は、なぜか熱い肉まんや餡まんが食べたくなってしまう。
その熱さに手と舌を躍らせながら、味わってしまうのである。
不思議な事に、一人よりも何人かで食べた方が、数倍美味しく感じられた。
笑顔で頷く希美は、とても可愛らしい。安倍も自然と笑顔になる。
17 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時49分18秒
「夜食も買って行くべさ。何がいい?」

安倍はミニカツ丼と焼きそばを篭に入れる。
ナースステーションの奥にある看護師の休憩室には、
電子レンジがあるので、冷めたものでも温かく出来た。
希美は指を咥えて陳列棚を見ていたが、
持って来たのは大きなカップラーメンである。
コレステロールの宝庫でもあるカップラーメンだったが、
希美のような成長途中の少女には関係が無かった。

「さてと、お金を払って行くべさ」

安倍と希美は真っ白な湯気の出る肉まんを食べながら、
二人で仲良く目の前の病院へと入って行った。

 日勤や準夜勤の場合は、通用口から入って行くのだが、
深夜勤の時は正面玄関から入って行く事になっていた。
夜間は物騒なので、通用口に鍵をかけてしまうからである。
すでにロビーは電気が落ち、通路の灯だけなので、
椅子がある場所などは、かなり薄暗い感じであった。
18 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時50分08秒
「あの人・・・・・・」

希美はロビーの椅子に座り、髪の長い少女と話をしている小柄な女が気になった。
髪の長い少女は俯き加減で女の話を聞き、どうやら泣いているようである。
小柄な女は黒い服を着て、何やら小声で少女を説得しているようだった。

「ののちゃん?」

安倍は立ち止まった希美に声をかけた。
その声に気付いた女が二人を見ると、
希美は慌てて眼を逸らし、安倍の手を握る。
安倍は薄暗い病院内が怖いのだと思い、
笑顔で希美の手を引いて更衣室へ向かって行った。
19 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月17日(月)19時55分34秒
今日はこのへんで失礼します。
あまり頻繁に更新出来ないと思いますが、宜しくお願いします。
20 名前:名無しさん 投稿日:2003年02月20日(木)23時05分00秒
妙に気になる始まり方・・・
21 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)22時56分03秒
>>20
ありがとうございます。
この題名、他にありましたか?
適当な題名が思い浮かばずに、何となくつけてしまいました。
22 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)22時58分19秒
〔病院〕

 更衣室で白衣に着替えた安倍は、希美と一緒にナースステーションへ行った。
そこでは数人の看護師が、カルテの整理や薬剤の仕分けなどを行っている。
安倍は希美を連れ、看護師にしては派手で怖そうな女に近付いて行った。

「裕ちゃん、お話があるべさ」

『裕ちゃん』と呼ばれた女は、安倍を見ると微笑みながら首を傾げる。
怖い顔ではあったが、きっと優しい人なのだろうと希美は思った。
『裕ちゃん』が胸に付けたネームプレートには『中澤』とあり、
その横に小さな字で『主任』という印字がされている。
彼女は病棟担当の主任看護師であり、今日は安倍と一緒に深夜勤であった。

「この子は希美ちゃんっていって、ホームステイしてる子なんだべさ」

安倍は中澤に、これまでの経緯を話した。
いきなり押しかけられた事や、料理が上手い事。
そして仕方なく病院に連れて来てしまった事。
話を聞く中澤を上目遣いに見る希美は、
とても不安そうな顔をしていた。
23 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時00分13秒
「別にええやろ。けど、ここは遊ぶ場所やないしな」

中澤は頭を撫でながら、希美に微笑みかけた。
その優しそうな顔を見て、彼女は笑顔で大きく頷く。
希美が笑顔になると、誰もが幸せな気分になってしまう。
安倍と同僚の小湊などは、ついつい鼻歌が出てしまった。

「ののちゃん、困った事があったら、遠慮しないで言うんだよ」

安倍は希美の頭を撫で、僅かだったが小遣いを渡した。
すっかり姉気分の安倍を見て、中澤は吹き出してしまう。
普段は中澤に叱られて「室蘭に帰りたい」を連発していたが、
あの可愛らしい希美の前では『お姉さん』なのだった。
24 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時02分52秒
 希美は誰に迷惑をかけるでもなく、病棟の中を散歩していた。
名札が多い大部屋には、比較的軽症の患者が収容されており、
個室や二人部屋には、かなり重症の患者が入っている。
最近の大きな病院には、病室にドアというものが無く、
ベッドもキャスター付きで患者の搬送をしやすいようになっている。
だから廊下から病室を覗けてしまうのだが、希美はある個室の前に来ると、
どうしても気になって中を覗き込んでみたのだった。
そこには大きな眼をした少女がベッドを起し、窓から外を眺めている。
とっくに消灯時間ではあったが、この少女は寝られないのだろう。
すると、少女は希美の視線に気付いたのだった。

「誰?」

病室内には小さな電気が点いていたが、それでは少女の表情すら覗えなかった。
希美は「見つかったのれす」と小声で言うと、少女の病室へ入って行ったのである。
間近で見る少女は、どこか金魚を連想させるような顔をしていたが、美人であった。
年齢は希美と同じくらいであり、酸素を補給する管を鼻に入れ、右手には点滴を打っている。
25 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時03分57秒
「ののれす。あなたは?」
「名札がかかってたでしょう?紺野あさ美」

少女は小さな声で溜息をつきながら言った。
希美は少女が見ていた外へ眼をやる。
遠くの繁華街には煌びやかなネオンが光っていた。
同じ東京でありながら、これほど静かな場所もあれば、
あの繁華街のような眠らない街も存在したのである。
その賑やかな灯りの上空には、北斗七星が瞬いていた。

「入院患者じゃないみたいね。誰かのお見舞い・・・・・・の時間じゃ無いか」

あさ美は希美の存在が不思議だったようだ。
確かに、こんな遅い時間に、いくら病院とはいえ、
希美のような年齢の少女が来る場所では無い。
入院していた家族の容態が急変したのだろうか。
あさ美はそんな事を思っていた。
26 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時05分47秒
「ののは、なっちさんの関係者なのれす」

希美が説明すると、あさ美は少しだけ頬を緩めて頷いた。
安倍は同僚や入院患者からも『なっち』と呼ばれている。
彼女を『安倍さん』とか『なつみさん』というよりも、
やはり『なっち』と呼ぶ方が似合っていたのであった。

「何を見てたのれすか?」

希美は何かいいものが見えるのかと思い、窓ガラスに貼りついて外を見てみた。
しかし、見えるものといえば、住宅街の街灯と遠くのネオンだけである。
希美は首を傾げながら窓から離れ、あさ美と眼が合うと少しだけ頬を緩ませた。

「星を見てたの。北斗七星とカシオペア座は、北極星の周りを回ってるんだよ」

あさ美は指をさして説明するが、希美には全く理解出来なかった。
何しろ、柄杓というものを知らないし、Wというアルファベットも、
完璧に覚えているかどうか不安だったくらいである。
とにかく希美は、勉強に関しては典型的な劣等生であった。
27 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時07分55秒
「あさ美ちゃんは中学生れすか?」

希美は全く人を警戒しないし、とてもストレートな眼をしていた。
純真な眼で見られると怖い人もいたが、あさ美はそんな眼が好きである。
あさ美が微笑むと、希美も笑顔になった。
希美が笑顔になれば、あさ美は幸せな気分になる。
そんな状況であったから、二人はすぐに仲良くなってしまった。

「そうなんれすか。もう、ずっと休んでるのれすね?」

あさ美は心臓の血管が、生まれつき細いという症状だった。
要するに、死ぬまで動き続ける心臓に、思うように栄養が行かないのである。
成長するにつれ、心筋は多くの栄養を要求するが、供給しきれないのだった。
すでに部分的な梗塞が始まっており、大きな発作が起きれば死んでしまうだろう。
あさ美は自分の死を見つめていたのである。
28 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時09分09秒
「心臓が悪いから、中学に入っても、ほとんど入院してるんだ」

最近では外にも出られず、テレビも一日に二時間までと決められている。
日中は刺激が多くて疲れるため、主に面会時間のある午後から夕方に眠っていた。
医師もその方が良いと判断し、あさ美の生活パターンに合った看護を命じている。
したがって、あさ美は、ほとんど誰とも面会する事が出来なかった。

「学校、好きれすか?」
「・・・・・・うん」

ベッドの横には、学校の教科書が置いてある。
きっとあさ美はこれまで、退院出来る日に備え、
勉強が遅れないようにしていたのだろう。
希美は、そんな健気なあさ美が好きになった。
29 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時11分02秒
「ののは、学校嫌いれす。勉強出来ないし。てへてへてへ・・・・・・」

希美が笑うと、あさ美も一緒になって笑った。
普段は無表情な少女だったが、希美がいると何か楽しいのである。
そこへやって来たのが、凄まじく怖い顔をした看護師だった。

「もう消灯時間は過ぎてるんだからさ。トーンを落としてくれないかな」

彼女は石黒彩といい、病棟看護師屈指のきつい女であった。
微笑んだ顔はきれいなのだが、睨まれると凄く怖いのである。
あさ美は怖がっていなかったが、びびりまくっていたのが希美だった。
石黒の怖さは顔だけではなく、その声にも迫力があったのである。
怖い人が苦手な希美は、震えながら眼を合わせないようにしていた。

「はい、ごめんなさい」

あさ美が苦笑すると、石黒も笑みを溢した。
だが、石黒が怖くて仕方ない希美は、震えたまま俯いている。
その希美の肩に、怖い怖い石黒の手が置かれた。
希美の心臓は、爆発するかのように、凄まじい音で鼓動している。
30 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時12分06秒
「あなたがののちゃんね?なっちが連れて来た」
「は・・・・・・はい」

びびりまくる希美を、石黒は優しく立たせた。
確かに石黒はきつい性格をしていたが、心根は優しい女である。
石黒は希美の頭を撫でながら、判りやすいように説明した。

「あさ美ちゃんが疲れちゃうから、また今度ね」

希美が震えながら頷くと、石黒は彼女の手を引いて、
あさ美の部屋を出て行こうとする。
すると、あさ美が希美を呼び止めた。

「ののちゃん、明日も来てくれる?」

希美は泣きそうな顔で振り返るが、
あさ美と目が合うと途端に笑顔となり、
大きく頷きながら返事をした。

「勿論なのれす」

手を振る希美に、あさ美は笑顔で応えた。
31 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時13分45秒
 石黒と希美がナースステーションに戻ると、
小湊が泣きそうな顔で電話をしていた。
何事かと思いながらも、希美は安倍の姿を探している。
しかし、ナースステーションに安倍の姿は無かった。

「道玄坂病院です!里沙ちゃんの容態が急変しました!」

小湊の話を聞いた石黒は、反射的に近くの個室に走った。
ただならぬ雰囲気に、どういうわけか、希美も石黒の後を追う。
きっと、石黒が行く先に、安倍がいると思ったのだろう。
希美が石黒に続いて『新垣里沙』という名札のある部屋に入ると、
中では懸命な蘇生措置が行われていた。

「この子は・・・・・・」

希美はベッドの上で昏睡している里沙を見て驚いた。
なぜなら、安倍と一緒に病院へ入って来た時、
ロビーで見かけた少女だったからである。
あれから、この少女に何があったのだろう。
32 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時14分48秒
「強心剤!」

痩身で背の高い女性医師が、聴診器を里沙の胸に当てながら指示を出す。
主任看護師の中澤が、医師に言われた通り、里沙の腕に注射を打った。
医師は様子を覗っていたが、「エレキ」と言いながらその場を離れる。
代わって安倍が里沙に心臓マッサージを行う。

「離れて!」

医師が指示を出すと、安倍や他の看護師が里沙から離れた。
アイロンのようなものを持った医師が、里沙の胸に『アイロン』を押しつける。
そしてスイッチを押すと、里沙の身体が十センチも跳ね上がった。

「先生、鼓動再開しました」

石黒がモニターを指差すと、医師は『アイロン』を置き、
里沙の胸に聴診器を当てて様子を覗った。
緊迫した雰囲気に、希美は思わず安倍に抱き付く。
安倍はモニターを見ながら、心臓マッサージの待機をしていた。
33 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時16分22秒
「OK!あと二時間は大丈夫だね。点滴に強心剤を二ミリ入れて」

『夏』というネームプレートを付けた医師は、
看護師達に幾つかの指示を出すと、部屋を出て行ってしまった。
主任看護師の中澤は、石黒と安倍に指示を出しながら、
蘇生に使用した道具や薬品を手際良く片付けてしまう。
その時、病室に現れたのは、背の高い看護師であった。

「アハハハハ・・・・・・寝坊しちゃったー。ごめんね。裕ちゃん」

遅刻して来たのは、看護師の中でも変わっている飯田圭織だった。
とにかく変わっているので、誰も相手にしていなかったのである。
何が変わっているのかというと、暇さえあれば屋上で宇宙と交信していたし、
眠気覚ましに催眠剤を飲むという異常体質だったのだ。
それでいてケンカが強いので、同僚達は飯田を怒らせないようにしている。
34 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時17分24秒
「しょうがないやっちゃな。遅刻はあかんで」

中澤は遅刻の罰として、家族が来るまで飯田に里沙の部屋の番を命じた。
彼女の容態はナースステーションでモニター出来るのだが、
懸け付けた家族の手前、危篤の患者の部屋に誰もいないというのは、
やはり体面的に良く無かったのである。
片付けが済むと、中澤と石黒、安倍と希美はナースステーションに引き上げた。
35 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時19分26秒
 ナースステーションに入ると、緊急事態から開放された看護師達は、
安堵の溜息をつきながら、口々に温かい飲み物を欲しがった。
それを聞いた希美は、ティーカップにココアを作り出したのである。
安倍は希美を手伝いながら、残っていた小湊に詳細を伝えた。
里沙の家族へ電話した本人が、何も知らないでは済まされないからである。

「ココアが出来たのれす」

人数分のココアを作ると、希美は看護師達に配る。
誰もが笑顔で受け取るものの、石黒だけは怖い希美だった。
全員に行き渡ると、希美は丸椅子に座ってココアを飲み始める。
その仕草が可愛らしく、看護師達はほっと出来たのだった。

「こら美味いな」

中澤は希美が作ったココアを飲んで、実に嬉しそうに言った。
それを聞いて希美が微笑むと、全員が嬉しい気持ちになる。
普段は仕事に追われ、『戦場』という言葉が似合う職場だったが、
希美の存在で、全員が癒されているのは事実だった。
36 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時20分38秒
「あの子、病気なんれすか?」

すでに脳死状態の新垣里沙は重度の肝不全を患っており、
初診でこの病院に来た時には、すでに手遅れであった。
当初は生体肝移植も視野に入れて治療を行っていたが、
その甲斐も無く、見る見る容態が悪化して行ったのである。
数日前から合併症を引き起こし、もはや死は時間の問題だった。

「うん、重い病気だべさ」

安倍は患者のプライバシーの問題から、あまり詳しい話はしない。
先程、医師が「二時間は大丈夫」と言ったのは、心臓が動いている時間だ。
そのくらいの時間があれば、家族が駆け付けられるという事である。
人間の『死』というのは、とても難しい問題なのであった。
37 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時21分44秒
 結局、希美は朝方になってナースステーション前の長椅子で寝てしまい、
安倍が仕事を終わる十時過ぎになるまで起きる事は無かった。
私服に着替えた安倍が、希美を揺り起こすと、彼女は「眠いのれす」と言って、
真っ赤に充血した眼を擦りながら、手を繋がれて一緒に帰って行く。
安倍も眠かったが、今日は明け番なので、希美と一緒に心行くまで眠る事が出来た。

「ふえ〜、太陽が眩しいべさ」

夜勤明けの安倍の疲れた眼に、太陽の日差しが容赦無く飛び込んで来た。
安倍は眠くて彼女に抱き付く希美を荷台に乗せ、自転車を漕ぎ始める。
そんな微笑ましい二人の横を、スモークガラスのワゴン車が通り過ぎて行く。
それは、未明に死亡した里沙の遺体を搬送する、葬儀屋のクルマであった。
38 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月21日(金)23時25分50秒
日曜日の夜には更新したいと思います。
最後までお付き合い頂けると幸いです。
39 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時08分03秒
う〜、酔っちゃう前に更新します。
40 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時09分42秒
〔夜勤明け〕

 二月も後半に入って来ると、梅は満開となり、
その分だけ暖かくなったような気分になる。
確かに日差しも幾分、強くなったように感じた。

「ののちゃん、サウナに寄って行くべさ」

安倍が住むアパートの近所に、安いサウナがあった。
午後四時までは半額料金であり、安倍は何度も行っている。
特に夜勤明けには、リラックスするために、よく行っていた。
サウナでたっぷりと汗を流し、コーヒー牛乳を一気飲みする。
そして、リラックスしながら三時間ばかり仮眠を摂るのだ。

「ののはいいれす。お家に帰るのれす」

希美は自転車の荷台に座り、安倍に抱き付いていた。
安倍は希美が眠いのかと思い、とりあえずアパートに戻る。
熟睡した希美ではあったが、断続的な睡眠だったため、
まだ眠くて仕方がないのだろう。
41 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時11分07秒
「ほら、ちゃんと掛けて寝るべさ」

アパートに着くなり、希美はベッドに倒れ込んだ。
安倍は彼女の靴下を脱がし、背中のリュックサックを取る。
そして上着を脱がすと、羽毛布団を掛けてやった。

「それじゃ、なっちはサウナに行くよ。買い物して来るから、帰りは五時くらいだからね」

希美は返事をするのも億劫なのか、頷いただけであった。
そんな希美が可愛らしく、安倍は微笑みながらドアを閉める。
初めは非常識で迷惑な話だと思っていた安倍だったが、
可愛くて料理が上手い希美との暮らしも、悪くはないと思い始めていた。
42 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時12分33秒
 昼間のサウナには、やはり暇を持て余す老人の姿が多かった。
連れ合いを亡くした老齢の未亡人達は、浴場か病院を社交場にする。
ここのサウナにはスチーム室の他にも、様々なタイプの風呂があった。
そういった場所の一角を占拠したグループごとに、高らかな笑い声を上げている。
安倍も看護師であるから、老人との応対には慣れていた。

「まずは、汗を流すべさ」

安倍はスチーム室に入って行く。
最近ではスチーム室内に塩を置くサウナが増えている。
身体に塩を擦り込むと、汗が出やすくなるのだそうだ。
確かに細胞の浸透圧の関係で、汗は出やすくなるだろうが、
過度の発汗は、脱水症状の原因となるため危険である。
看護師である安倍は、そういった事から、決して塩を使わなかった。

「ふー、さすがに暑いべさ」

安倍が汗をかいていると、老婆軍団が乱入して来た。
平日の昼間にサウナへ来る若い女性は珍しいので、
安倍に興味を持った老婆が遠慮無しに話し掛けて来る。
夜勤明けで疲れている安倍には迷惑な話しだったが、
変に誤解されるのも嫌なので、彼女は話に付き合った。
43 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時13分44秒
「お嬢ちゃんは高校生?」
「アハハハハ・・・・・・もう二十一だべさ」
「あら、可愛いから高校生かと思ったわよ」

こんな話をしながら、老婆達は屈託無く笑った。
安倍が愛想良く答えたので、老婆達は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
仕事は何か。出身はどこか。彼氏はいるのか。親と同居なのか。
安倍は半分ヤケになり、全て早口で答えて行った。

「へえ、看護婦さんなの」

やはり老人は看護師とは言わずに、看護婦と言ってしまう。
以前は女性ばかりであったため看護婦と呼ばれていたが、
最近は男性も増えて来たため、看護師と呼ばれるようになった。
しかし、老人達は呼び名を変える事など、一朝一夕には出来ない。
何しろ彼女達は半世紀以上も、看護婦と言って来たからだ。

「今日は夜勤明けだべさ」

安倍が口を開くたびに、またしても矢継ぎ早の質問が来る。
どこの病院なのか。室蘭は寒いのか。彼氏は欲しくないのか。
一人で暮らしていて寂しくないのか。収入は良いのか。
再び安倍は早口で答えると、そのままスチーム室を出た。
そうしないと、なかなか離してくれそうになかったからである。
あの調子なら、老婆達は安倍がミイラになるまで質問を続けただろう。
44 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時14分58秒
「気持ちいいべさー」

水風呂に飛び込んだ安倍は、火照った身体が冷却される快感を味わう。
こんなに寒い季節に、火照った身体を冷やすというのは、最高の贅沢であった。
それから安倍は数種類の風呂を楽しみ、満足して脱衣所に出て来る。
このサウナには、昔の銭湯をイメージしてか、瓶入りのコーヒー牛乳を売っていた。

「おばさん、コーヒー牛乳を貰うべさ」

安倍はバスタオルだけの姿でコーヒー牛乳を買うと、
腰に手を当てて一気飲みをしたのである。
渇ききった体内に染み渡るコーヒー牛乳は格別だった。

「かー!美味い!」

少々オヤジっぽい安倍だったが、これで身も心もリフレッシュする。
安倍はサウナの服を着ると、仮眠室で束の間の睡眠を摂る事にした。
45 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時16分35秒
 安倍が眼を覚ましたのは、午後三時を少し過ぎた頃であった。
アパートでは希美が待っているので、そろそろ帰る事にする。
安倍はコーヒー牛乳の分を清算してサウナを出ると、
愛用の自転車で、近くのスーパーマーケットへ向かった。

「今日はお肉の特売日だったべさ」

安倍は希美の分もあるため、普段の倍は購入した。
冷凍食品から野菜、パンやお菓子などを山ほど買ったのである。
安倍は病棟の看護師であるため、普通のOL以上の収入があった。
実際、安倍の年齢で、これだけの収入を得ている者は少ない。
外食をする事もあるが、料理が好きな安倍は、主に自炊していた。
そのせいか、二十一歳にしては多額の預貯金があったのである。

「・・・・・・あれ?ののちゃんは替えの下着を持ってるんだべか?」

希美の荷物といえば、背中に背負った小さなリュックだけだった。
中に何が入っているのか知らないが、替えの下着が無いと不便である。
安倍は未使用のパンツこそ持っていたが、ブラとなると希美とはサイズが違う。
そこで安倍はアパートに電話してみる。数回コールすると眠そうな希美が電話に出た。
46 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時18分17秒
<もひもひ、ここはなっちさんのお家なのれす>
「寝てたべか?なっちだよー」
<なっちさん、どうしたのれすか?>

相手が安倍だと判ると、希美は途端に嬉しそうな声になった。
今の希美にしてみれば、安倍が保護者であるからだろう。
同時に、安倍は自分を可愛がってくれる。
だからこそ、眠い時でも安倍の声に反応するのだ。

「ののちゃん、替えの下着は持ってるべか?」
<替えの下着れすか?・・・・・・持ってないのれす>
「パンツはなっちが使ってないやつがあるからいいけど、問題はブラだべね」

安倍は二十一歳の大人であるから、大きくは無いが胸があった。
だが、まだ幼児体型の希美は、貧乳どころの騒ぎでは無い。
ブラというものは、身体に合ったサイズを選ばなくてはならないのだ。
そうでないと、苦しかったり、胸の形が悪くなったりするという。
47 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時19分54秒
「サイズは?ふたつばかり買って行くべさ」
<えーと・・・・・・八十のBなのれす>
「うそつきー!」
<てへてへてへ・・・・・・本当は七十八のAれす>

希美がモロバレの見栄を張った事に、安倍は思わず微笑んでしまう。
大人の女性に憧れる少女の、ちょっとした背伸びのように感じたからだ。
そういったところが、希美の可愛らしい部分なのである。
安倍はスーパーの二階にある婦人服売場のインナーコーナーで、
希美に合ったブラを買うと、真っ直ぐにアパートへと帰って行った。
48 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時21分38秒
「ただいまー」
「あ、なっちさん、お帰りなさい」

安倍が帰って来ると、希美は嬉しそうに駆け寄った。
その希美の笑顔を見た安倍は、ごく自然に彼女を抱き締める。
安倍にも三歳年下の妹がいたものの、希美は更に幼く、
無垢な可愛らしさを持っていたのだった。

「お腹すいたれしょう?ご飯を作っていたのれす」

希美は鍋に火を入れ、料理を温め始めた。
その間、安倍は買い物を冷蔵庫や棚に入れて行く。
二百リットルの冷蔵庫も、大量の食糧で埋め尽される。
普段は自分で食べられる量を購入している安倍だったが、
やはり、希美と二人分だと思うと、ついつい余計なものまで、
買い込んでしまうのだった。

「これがお菓子で、この袋がののちゃんの下着だよ」

安倍が希美に買って来たブラを渡す頃になると、
食卓には美味しそうな料理がズラリと並んでいた。
ごはんにお味噌汁、ハムカツ、コールスロー、
ポトフ、肉野菜炒め、ワカメとキュウリの酢の物。
どれも一般的な家庭料理、つまり惣菜だったが、
手間のかかるものばかりである。
特にポトフは、弱火でじっくり煮ないといけない。
49 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時24分02秒
「うわあ、美味しそうだべさ!」

安倍は涎を啜りながら、大喜びで食卓に着いた。
料理が好きな安倍だったが、食べる事は、もっと好きである。
彼女は下戸だったが、中澤達と飲みに行く時は必ず同伴した。
とにかく、みんなで楽しく食事する事が大好きだったのである。
普段は一人で寂しく食事を摂るため、余計にそうなのだろう。

「どれも簡単な料理なのれす」

確かに作り方は、至って簡単なものばかりだ。
しかし、かなり手間がかかるものである。
料理が好きな安倍であるから、その手間が大変なのはよく判った。
きっと、希美は帰ってすぐに料理を作り始め、
そのうちにうたた寝をしてしまったのだろう。

「いっただっきまーす!」

二人は嬉しそうに食べ始めた。
希美の料理は美味しいので、安倍は嬉しくて仕方ない。
これまで一人で寂しく食事をしていたと思うと、
彼女の中で希美の存在が大きくなり始めていた。
50 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時25分50秒
「美味しいべさ!・・・・・・美味しい」

看護師という仕事は、思った以上に体力を使う。
飯田のように身体が大きくて力もあればいいのだが、小柄な安倍は、
入院患者のパジャマを着替えさせるだけでも一苦労だった。
病棟の仕事をしていると、比較的楽な日勤でも、
帰る頃には疲れ果ててしまうものである。
そんな恵まれない身体を酷使するのだから、
それなりの栄養補給が必要だった。
気力と体力を維持して行くためには、
とにかく食べる他には無かったのである。

「なっちさん、自転車を貸してくらさい」

ハムカツを齧りながら、希美は安倍に頼んでみる。
美味しい料理を味わって上機嫌な安倍は、
二つ返事で快諾するが、どこへ行くのか知りたくなった。
あまり夜遅くなるようだったら、引き止めなくてはならない。

「どこへ行くんだべか?」
「病院れす」

病院へ行くのであれば、それほど心配では無い。
だが、どういった理由で病院へ行くのだろう。
今日の当直は連続で深夜勤の中澤と飯田、
それから休み明けである石井と戸田の四人だ。
51 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時30分04秒
「忘れ物だべか?それなら明日・・・・・・」
「違うのれす。あさ美ちゃんと約束したのれす」

あさ美は消灯時間頃に眼を覚ましていた。
なるべく刺激が少ない方が、彼女の身体には良かったのである。
しかし、一人で長い夜を過ごすのも、退屈で面白くないものだ。
あさ美は仲良くなれた希美に、遊びに来て欲しかったのである。

「あさ美ちゃんだべか・・・・・・」

安倍は茶碗と箸を持ったまま、少し考え込んでしまった。
あさ美の心臓は、次に大きな梗塞を起せば、二度と動かなくなるだろう。
しかし、その時期がいつであるかまでは、ベテランの医師にも判らない。
彼女の家族からは、何かあった場合、延命の希望が出ていたものの、
安倍はあさ美の気持ちを優先してやりたかった。
52 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時31分23秒
「あさ美ちゃん、本当は面会謝絶なんだべよ」

病院としては、あさ美の延命を考えた上で、面会謝絶にしていた。
だが、医師や病棟の看護師達は、家族よりあさ美の気持ちを考えている。
死んでしまうのは残念ではあるが、悔いを残して死なせたくなかった。
だからこそ、あさ美が望む事であれば、可能な限り対応していたのである。
あさ美が希美と会いたいのであれば、それに応じてやるのもいいだろう。
しかし、希美はあさ美の病状を知らないのだった。

「会ってはいけないのれすか?」

希美は悲しそうな顔で安倍を見つめる。
安倍の本音を言えば、希美をあさ美に会わせたくない。
なぜなら、あさ美は確実に死んでしまうのである。
これ以上、二人が仲良くなれば、別れが辛くなるからだ。
安倍は可愛い希美に、悲しい思いをさせたくないのである。
53 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時32分56秒
「駄目じゃないけど・・・・・・あさ美ちゃんは、もう治らないんだべさ」

さすがに「もう助からない」とは言えなかった。
だが、あさ美の命は、本当に時間の問題である。
安倍は遠まわしに言ったつもりだったが、
幼い希美には通用するわけが無かった。

「それじゃ、会いに行ってもいいのれすね?」

希美の嬉しそうな顔を見てしまっては、安倍に「駄目」とは言えなかった。
しかし、早い内に、希美にはあさ美の病状を伝えなくてはならないだろう。
こういった宣告が残酷であるのは、看護師である安倍だから熟知している。
だからこそ、少しでもショックが少ないように話すべきだと考えていた。
54 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月23日(日)21時50分13秒
今日はここで失礼致します。
「しぇしえ」(北京語:ありがとう)
55 名前:名無し 投稿日:2003年02月24日(月)13時41分06秒
更新乙です。
もしかして作者さんは某狩板で書いていた人ですか?
あの小説好きだったんで、なんかキャラがびみょーに似てるような気がしたもんで。
間違ってたらすいません
56 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月24日(月)19時42分00秒
>>55
げげー!
成長が無いですか?
57 名前:55 投稿日:2003年02月24日(月)23時04分23秒
やっぱりそうでしたか。
今回も楽しみにしているので頑張って下さい。
58 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時12分43秒
>>55
ありがとうございます。
どうもキャラを変えるのは難しいですね。
59 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時14分32秒
〔発作〕

 安倍は色々と考えた挙句、希美と一緒に病院へ行く事にした。
中澤に事情を話し、看護師の休憩室に泊めて貰おうと思ったのである。
患者本人の意思を尊重する中澤であるから、駄目だとは言わないだろう。
安倍は白衣をバッグに入れて、例によって二人乗りで病院に向かった。

「あれは・・・・・・」

アパートから病院へ向かう途中に、一方通行の橋がかかっている。
安倍がその橋を渡ると、一台のクルマが近付いて来たのだった。
そのクルマは、珍しい白黒のツートンカラーである。

「止まりなさい」

ハザードを点けて道路脇に停車したのは、やはりパトカーだった。
先に降りて来たのは運転していた中年の警官であり、
助手席から現れたのは、安倍と同じくらいの若い女性警官である。
二人の警官は安倍と希美を自転車から降ろし、話を聞く事にした。
60 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時15分57秒
「自転車の二人乗りはいけないのよ」

女性の警官が大きな眼で二人を見る。
安倍は「はい」と言って俯いたが、希美は微笑みかけた。
すると、二人の警官も、思わず笑顔になってしまう。
希美には、こういった不思議な力があった。

「高校生と小学生?もう九時だよ。どこに行くの?」

女性警官は二人から話を聞く。
すると、安倍はバッグから病院の職員証を出す。
女性警官は安倍から職員証を受け取り、マグライトで照らした。

「道玄坂病院の看護師だべさ」
「看護婦さん?それじゃ、これは白衣かな?」

中年の警官がバッグから覗く白い布を指差した。
安倍が頷くと、中年の警官は真剣な顔になって行く。
女性警官から職員証をもぎ取ると、慌てて安倍に返す。
そして、希美を見ながら緊張した声で話し出した。
61 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時17分12秒
「まさか、入院患者の容態が急変したとか?」
「急変っていうか・・・・・・この子を会わせるために・・・・・・」

安倍は、どうやって説明したらいいか考えていた。
すると、早合点した警官は、パトカーの後部ドアを開ける。
そして、安倍が支えていた自転車を女性警官に持たせた。

「乗って下さい!道玄坂病院ですね?」

中年の警官は唖然としている安倍と希美を、
後部座席に押し込んでドアを閉めた。
そして、首を傾げる女性警官に指示を出す。
62 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時18分30秒
「俺は病院に急行するから、保田はそれに乗って来い。判ったな!」
「へっ?」

女性警官の保田は、自転車のハンドルを握り締めて固まっている。
そんな保田をよそに、パトカーは回転灯とサイレンを点け、
凄まじいスピードで走り去ってしまった。
取り残された保田は、暫くそこで茫然としてしまう。

「あたしって・・・・・・警官だよね」

そこへ鎖がとれ、脱走した犬が近付いて来て唸り声を上げた。
保田が反射的に振り向くと、彼女を睨むハスキー犬と眼が合う。
ハスキー犬は保田を睨み、牙を剥いて威嚇した。

「・・・・・・ケンカ売ってんの?上等じゃねえかゴルァ!」

機嫌の悪い保田は、特殊警棒を引き抜き、凄まじい表情で犬を追い回した。
これにはハスキー犬もびびりまくり、悲鳴を上げて逃げ出してしまう。
組関係者と機嫌の悪い保田には、近寄らない方が賢明であった。
63 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時19分58秒
 病院に到着すると、パトカーを運転していた警官は、満足そうに笑みを溢した。
看護師である安倍が、危篤患者の身内を連れて行くのだと早合点した警官は、
困った都民への奉仕を完了した充実感でいっぱいの顔をしている。
思いっきり勘違いではあったが、自転車の二人乗りで説教をされなかったので、
安倍は嬉しいやら恥ずかしいやらで困った顔をしていた。

「お役に立てて光栄です」

警官は敬礼しながら、苦笑する安倍と希美を見送った。
結果的に安倍は助かったのだが、やはり二人乗りはいけない。
特に自転車は安定が良くないので、転倒する危険もあった。
原付でも二人乗りを禁止しているのは、法律が優先しているわけでは無い。
本来、一人乗り用に設計されているため、ブレーキが華奢に出来ているのだ。
更に、原付は普通車の免許や原付免許だけでも公道で運転する事が出来る。
やはり、二人乗りをするには、自動二輪の運転技術が無いと危険だった。
64 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時22分12秒
「なっち〜、パトカーで来たの?」

階段を昇る安倍と希美に、上から駆け下りて来た飯田が言った。
屋上で交信していた飯田は、パトカーから降りて来た安倍を目撃したのである。
飯田としては、パトカーで病院に送って貰った安倍が羨ましくて仕方ない。
普通は何かあったのか心配するものだが、飯田は本当に変わっていた。

「圭織、見てたんだべか?・・・・・・って、あんた深夜勤っしょ?」

安倍は深夜勤である飯田が、午後九時過ぎに病院にいるのが不思議だった。
昨晩は遅刻したので、遅れないように早目にやって来たのだろうか。
それにしても、これから出勤するには早すぎる時間であった。

「アハハハハ・・・・・・さすがに十時間も交信すると疲れるね」

飯田は今日の夜勤明けの最中、ずっと屋上で交信していたのである。
この寒空の下、十時間も屋上にいた飯田は、本当に物好きであった。
空腹の飯田は食べ物を買いに、笑いながら一階に降りて行く。
そんな飯田を見ながら、二人は顔を見合して苦笑した。
65 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時23分38秒
 ナースステーションに行くと、準夜勤の看護師達が仕事をしていた。
希美が嬉しそうにあさ美の部屋へ向かうと、安倍は休憩室に入って行く。
休憩室にはすでに中澤が来ており、テレビを観ながら食事をしていた。

「裕ちゃん、今日、ここに泊めて欲しいべさ」

詳細を説明すると、中澤は安倍の申し出を快諾した。
中澤も以前から、あさ美に必要なのは延命ではなく、
やはり充実した日常であると確信していたのである。
あさ美が望むのであれば、それを叶えてやりたかった。

「そやな。問題はののちゃんのショックやね」

あさ美が死んだ時の事を考えると、希美の悲しみは測りしれない。
看護師として必要なのは、患者だけでなく、周囲の人間まで看護する事。
それが結果的に、『良い死に方』へと繋がって行くものである。
中澤はホスピスにいた頃の経験を活かし、安倍達に教えていたのだった。

「あさ美ちゃんの病状を追いながら、徐々に話して行くつもりなの」

安倍は中澤が食べていたチャーハンを横取りしていた。
話に夢中になった安倍は、自然と食べ物に手が伸びてしまう。
中澤は苦笑しながら、ペットボトルのウーロン茶を飲んだ。
66 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時24分51秒
「う〜、もう入らないべさ」

満腹だった安倍は、中澤のチャーハンまで食べてしまい、
とうとう苦しくなってベッドに横になった。
看護師の休憩室には、仮眠用のベッドが三床とテーブルが置いてある。
交代で仮眠を摂るため、深夜勤が四人であるなら、ベッドは二床で足りた。
残りの一床を安倍が使うつもりなのである。

「苦し・・・・・・ああっ!裕ちゃんのチャーハン、食べちゃったべさ!」

安倍はようやく気付き、済まなそうな顔をして起き上がった。
特に珍しい事では無いので、中澤は別に怒りもしない。
安倍はベッドから飛び降りると、泣きそうな顔で財布を掴んだ。

「ごめんね。何か買って来るべさ」
「そやね、うちはゼリーがええな」

中澤が怒っていないので、安倍は幾分救われた顔になる。
そして、安倍はコンビニへ向かって走って行った。
67 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時26分37秒
 病室では希美がやって来たので、あさ美は嬉しそうにしていた。
今日は調子がいいようで、昨晩よりも顔色が良くなっている。
希美は安倍から、あさ美の病気は治らないとは聞いていたが、
まさか死が迫っている状況だとは思っていない。

「今日はパトカーで来たのれす」

パトカーと聞いて、あさ美は不思議そうに首を傾げた。
パトカーで来たと聞いても、どういう意味か判らない。
警察車両をタクシー代わりに使うとは考えられないし、
運転する事が出来るのは、警察官だと相場が決まっていた。

「なっちさんと自転車に乗ってたんれすが、おまわりさんに停められたのれす」

希美が話をすると、あさ美は声を上げて笑った。
早合点した慌てん坊の警官の勝手な思い込みが、
パトカーを二人の足として提供したのである。
68 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時28分02秒
「自転車の二人乗りか・・・・・・あたしもやってみたかったな」

あさ美を眼を細めて言うが、彼女の言葉は重かった。
健康な希美は、いくらでも安倍と二人乗りを出来たが、
回復の見込みが無いあさ美には決して出来なかったのである。
何気なく出た言葉ではあったが、希美には重たい話であった。

「な・・・・・・治ったら、ののと二人乗りするのれす」

希美はあさ美と視線を合わせないで言った。
純粋な希美は、嘘をつく事が苦手である。
治る見込みの無いあさ美に「治ったら」という事は、
とても心苦しかったのだろう。

「・・・・・・ののちゃんも知ってるんだよね。あたしが治らない事」

あさ美は僅かに微笑みながら、泣きそうな顔で首を振る希美に言った。
希美がどこまで知っているか判らないが、少なくてもあさ美には判っている。
あと数日で『死』がやって来る事を。
69 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時29分17秒
「あさ美ちゃん。寂しかったら、ののが来ますよ」

希美は涙を溜めながら言った。
あさ美は優しく微笑むものの、それ自体が痛々しい。
点滴や酸素を送り込むチューブ、血圧や脈拍を調べるセンサー。
あさ美の身体には、実に多くの管が繋がっていた。

「ののちゃんは、優しい子なんだね」

あさ美は希美と話をしながら、瞼を閉じてしまった。
短い時間ではあったが、話をして疲れたのだろう。
あさ美の心臓は、確実に限界へと近付いていたのである。

「あさ美ちゃん?」

静かな寝息をたてるあさ美を覗き込み、希美は安堵の溜息をつく。
あさ美が眠ってしまう事は仕方ない。それだけ身体が弱っているのだ。
希美は暫くあさ美の寝顔を見ていたが、そのうち眠くなってしまい、
ベッドの端に顔を押し付けていると、いつの間にか寝てしまった。
70 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時30分34秒
 それから少しすると、中澤がやって来てあさ美の様子を覗う。
あさ美の規則正しい寝息に安心した中澤は、うたた寝する希美を見て微笑んだ。
そしてナースステーションに戻り、押し入れから希美に掛ける毛布を取り出す。

「ののちゃん、眠っとるわ」

ベッドの中で熟睡寸前だった安倍は、条件反射のように跳ね起きた。
やはり『妹』である希美の面倒は『姉』である安倍が看るのだろう。
中澤は可笑しそうに苦笑しながら、取り出した毛布を安倍に渡した。

「連れて来た方がいいべか?」

希美が眠ってしまったとしたら、あさ美も眠っているに違いない。
安倍は身体が弱っているあさ美の安眠を妨害しないためにも、
希美を連れて来た方がいいのではないかと思ったのである。
しかし、中澤は微笑みながら首を振った。
71 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時32分33秒
「別にええやろ。もう、一緒にいられる時間も少ないよって」

医師の判断からすると、希美はあと数日で呼吸器を付ける事になるという。
呼吸器を付けるとなると、もう口からの食事は出来ないし、会話も出来ない。
少しでも延命させるためには、やむをえない手段ではあったが、
それであさ美が幸せかというと、やはり問題が残っていた。

「・・・・・・うん、そうだね」

安倍は俯きながら頷いた。
看護師や医師達は、呼吸器を取り付けるのに反対である。
確かに延命の手段ではあったが、そこまでして生かす必要があるのか。
だが、それを決定するのは、最終的に患者の家族であった。
安倍は希美に何と言って良いものか、思案しながら毛布を持って行く。
あさ美の部屋には、二人の寝息が聞こえていた。

「・・・・・・あさ美ちゃん・・・・・・」

希美の寝言に安倍は溜息をつきながら、彼女に毛布を掛けたのだった。
72 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時33分53秒
 それからどのくらいの時間が経ったのだろう。
すでに日付が変わり、深夜の雰囲気が漂い始めていた。
遠くに見える繁華街の明かりも心なしか少なくなっている。
そんな中、希美は只ならぬ気配に眼を覚ました。
あさ美は苦しそうに唸っており、身体が酷く痙攣している。
心臓の発作が起こったのだった。

「あ・・・・・・あさ美ちゃん。あさ美ちゃん!」

希美は必死に呼び掛けるが、あさ美は反応せずに痙攣するだけである。
驚いた希美は、ナースステーションへ知らせに行ってみる。
ところが、ナースステーションには誰もいなかった。
運悪く、ナースコールが重なったため、戸田と飯田は別の病室に行っていたのである。
希美は仕方なく、奥にある休憩室に飛び込み、安倍に抱き付いて叫んだ。

「なっちさん!あさ美ちゃんが・・・・・・あさ美ちゃんが死んじゃうよー!」

仮眠していた中澤と石井は飛び起きたが、熟睡していた安倍は、
あまりの事に仰天してしまい、ベッドから転げ落ちてしまう。
家のベッドとは違い、病院のものは看護しやすいように高さがあるため、
安倍は床に額を打ち付け、かなり大きな悲鳴を上げた。
希美は寝惚けた安倍を引き摺りながら、あさ美の病室へ行く。
73 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時35分51秒
「不整脈の発作やな。石井、先生を呼んで来!」
「はい!」

中澤が指示を出すと、石井は同じ階にある医師の休憩室へ走った。
その間、中澤は酸素の供給量を増やし、慌てて駆け付けた戸田に、
薬や器具を積んだワゴンを持って来るように言う。
安倍は半分寝ていたものの、胸を掻き毟るあさ美の手を押さえた。

「発作か?」

石井に呼ばれて駆け付けたのは、小柄な『稲葉』という医師であった。
彼女は内科医であるため、あさ美の容態を観察しながら、薬剤での処置を考える。
戸田が持って来たワゴンの薬剤を、慎重に選びながら点滴に混ぜて行く。
今回は梗塞による発作ではなく、不整脈による発作であったため、
大事にこそ至らなかったが、また同じような発作が起きれば、
身体の弱っているあさ美には致命的になっても不思議ではない。
稲葉医師が聴診器であさ美の心臓の様子を覗っていると、
薬が効き始め、次第に正常な動きへと移って行った。
74 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時37分08秒
「収まったようやな。けど、次の発作が来たら、かなり危険やで」

稲葉医師はあさ美の体力と相談し、かなり強い薬を処方した。
これで暫く発作は起きないだろうが、あさ美の体力を著しく奪ってしまう。
もしかすると、明日には呼吸器を付けなくてはいけなくなるかもしれなかった。

「なっちさん!」

希美は安倍に抱き付いて泣き出した。
彼女は思った以上にあさ美が重症だった事にショックを受けたのと、
今回の発作の原因が自分にあると思い込んでしまったのである。
自分があさ美を疲れさせてしまったから発作が起きたと思ったのだ。

「もう、大丈夫だべさ」

安倍は優しく希美の頭を撫でてやる。
泣きじゃくる希美は、あさ美の手を握り締めた。
安倍は稲葉医師や中澤の邪魔になると思い、
希美を立ち上がらせようとする。
だが、中澤が微笑みながら首を振った。
75 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時38分36秒
「あさ美ちゃん、ごめんなさい。ののがお話したから・・・・・・」

希美はあさ美の手を握ったまま、大粒の涙を溢した。
その涙は宝石のように純粋で、思わず手に取ってしまいたくなる。
この場の誰もが、希美のように純真だった頃を思い出していた。
そんな希美の肩を、中澤が優しく叩いて説明する。

「ちゃうで。ののちゃんがおったから、酷くならんで済んだんや」

稲葉医師をはじめ、中澤や石井、戸田は微笑みながら希美を見ていた。
希美の存在が、あさ美の癒しになっているのは確実である。
彼女さえ嫌でなければ、あさ美の力になって欲しかった。
しかし、それには希美に対し、あさ美の現実を説明しなくてはならない。
その誰もが逃げたい役目を負うのは、やはり安倍であった。

「ののちゃん、後でお話するべさ」

安倍が深刻な顔をした。
その顔を見て、稲葉医師や中澤は、安倍が決断した事を悟る。
辛い役目ではあるが、誰かが希美に真実を話さなくてはならない。
いつになく真剣な顔の安倍に、希美は涙を拭きながら首を傾げた。
76 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時39分55秒
そんな重い空気の中に、場違いなテンションで入って来たのが飯田である。

「いきなりナースコールで何かと思ったら、ベッドに引き摺り込まれちゃったー」

飯田はヤケにハイテンションである。
まるで、自分がセクハラされたのを自慢しているようだ。
男性患者による看護師へのセクハラは、この病院でも問題になっている。

「また寺田さんやろ?」

中澤は「またか」といった顔で溜息をついた。
寺田という患者は、安倍のお尻を触ったり、
石井や戸田のスカートを捲ったりしている。
だが、ベッドに引き摺り込んだともなれば、
温和な中澤でも黙っているわけには行かない。
77 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時41分25秒
「それで?逃げて来たんか?」
「ううん。嬉しくなって抱き付いたら寝ちゃった」

飯田はバツが悪そうに頭を掻いた。
すると、戸田がワゴンを押して駆け出す。
中澤と石井、稲葉医師も続いた。
恐らく、飯田は嬉しくて思いきり抱き締めたのだろう。
飯田の腕力で抱き締められたら、運が悪ければ内臓破裂だ。

「アハハハハ・・・・・・なっちぃ〜、可愛いね」

飯田は困ったように笑うと、安倍の頬を撫でて四人の後を追った。
78 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月26日(水)20時44分48秒
今日はここで失礼致します。
「だんけっしぇん」(独語:ありがとう)
79 名前:55 投稿日:2003年02月26日(水)22時05分10秒
更新乙です
シリアスな展開なのに、飯田さんは・・・(w
80 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時20分30秒
>>55さん
ありがとうございます。
この物語では、笑いは全て圭織に任せようかと思っています。
ちょっと重い内容なので「べさァァァァァァァー!」は使いたくないし。
81 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時23分23秒
〔告知〕

 安倍は希美を連れて二階の談話室へ行った。
ここの片隅の換気扇の下ではタバコを吸えるため、
夜間でも整形外科や軽症の入院患者が出入りしている。
その談話室の窓際の席に、安倍は希美を座らせた。
安倍は大きく深呼吸すると、希美にあさ美の病状を話し始める。

「あさ美ちゃんの病状なんだけど、もう治らないのは知ってるよね?」

安倍が訊くと、希美は悲しそうな顔で頷いた。
希美の泣き顔を想像し、安倍は貰い泣きしそうになる。
それでも、希美には正確に伝えなくてはならない。
安倍は自分を励ましつつ、苦しそう話を続けた。

「あさ美ちゃんの心臓は、もう限界なんだべさ。判る?」

談話室にある飲み物の自動販売機が、モーターの音を響かせている。
その音は、安倍にとって、とても耳障りで大きな音であった。
しかし、それは精神的なもので、彼女の話を遮るような音量では無い。
一瞬にして希美の眼が充血し、嗚咽を漏らし始める。
それは安倍にとって、とても辛い事であった。
82 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時24分41秒
「あさ美ちゃん・・・・・・死んじゃうのれすか?」

見る見る希美の眼に涙が溜り、収容しきれなくなった涙は、
クリスタルな宝石となって、彼女の目尻から零れて行った。
そんなきれいな光景ではあったが、実態は悲しい限りである。
安倍の眼にも涙が溜り、彼女は零れないように天井を睨んだ。

「もう、いつ死んでもおかしくない。残念だけどね」

希美が安倍に抱き付いて号泣すると、ついに安倍の眼からも涙が零れた。
純真無垢な希美にとって、仲良くなったあさ美が死んで行くというのは、
耐え難く寂しいものであり、きっと重過ぎたに違いない。
泣いて楽になるのであれば、いくらでも泣けばいい。
だが、奇跡でも起きない限り、あさ美の命は確実に無くなってしまうのだ。

「今夜は・・・・・・なっちと一緒に寝るべさ」

安倍は項垂れる希美を連れ、看護師の休憩室に戻って行った。
83 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時26分18秒
 朝になると、安倍は仕事を始め、希美はあさ美の部屋から離れなかった。
昏睡が続くあさ美は、希美が帰る時間になっても、眼を覚ます事は無かった。
酷く体力が落ちてしまっているため、昏々と眠ってしまうのだろう。
安倍は日勤を終え、希美と歩いて帰る事にした。

「なっちさん、また、あさ美ちゃんとお話し出来ますよね?」

希美は悲しそうに安倍を見た。
夕日に照らされた希美は、とてもきれいな顔をしている。
安倍はふと、どこかでこの顔を見たような気がした。
しかし、それがどこで、誰の顔だったのかまでは思い出せない。

「うん、きっと出来るべさ」

自転車を押しながら、安倍は笑顔で答えた。
明日は準夜勤であるため、ゆっくり眠る事が出来る。
希美を落ちつかせる意味でも、ぐっすり眠らせたい。
睡眠不足の頭で悪く考えると、どんどん鬱な気分になってしまう。
84 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時27分47秒
「今夜はなっちが作るべさ。親子丼にしようか」

夕飯の話になると、希美は少しだけ頬を緩ませる。
それが彼女の本心であるのか気を使っただけなのか、
未熟な安倍には理解する事が出来なかった。
とにかく、今、安倍に出来る事といえば、
希美の心を癒してやる事だけだったのである。

「なっちさん、あさ美ちゃんみたいな子、他にもいたのれすか?」

希美は安倍の腕にしがみつきながら言った。
魚屋の店頭には、高知産の初鰹が並べられている。
切身の周辺は焼かれており、タタキになってはいたが、
この時期の鰹は油が少ないので焼く意味が無い。
安倍はそんな事を考えながら、記憶を辿って行くと、
あさ美のような状況で死んでいった少女の事を思い出した。
85 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時29分32秒
「ののちゃんも知ってるっしょ?里沙ちゃんもそうだったし」

希美が初めて病院に来た日、心停止状態になった少女である。
夏医師が心蘇生を行い、家族が駆け付けるまで心臓は動いていた。
しかし、実際は、心停止した段階で死亡していたのである。
残念ながら、それが現在の医療というものであった。

「他には、去年の暮れに、高校一年の女の子が亡くなったべさ」

死亡したのは、高橋愛という少女だった。
彼女は白血病で、骨髄移植の甲斐も無く死んでしまった。
最期まで次のドナーを待ち続け、生きる事を諦めなかったのである。
愛は抗ガン剤の副作用から、女の命である髪や眉まで抜け落ち、
絶え間無い吐き気に襲われ、とても苦しんでいた。
それでも明るい笑顔を振り撒き、決して暗い顔はしない。
そのため、看護師達も彼女と一緒になって、白血病と闘ったのである。
だが、病魔は容赦無く彼女を襲い、ついに十六年の短い生涯を終わらせた。
86 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時31分46秒
「そうれすか・・・・・・何で死んじゃう子って魅力的なんれしょうね」

死んでしまう子が魅力的では無く、生きようと努力する姿が魅力的なのである。
希美があさ美を気に入ったのも、懸命に復学しようとする姿勢が見えたからだった。
あさ美が死の渕にいるとも知らず、希美は仲良くなった彼女に甘えていたのである。
それは、決して良い友達関係を形成して行く事では無いかもしれない。
しかし、友達になったからこそ、無条件で甘えられるのだ。

「教えられる事は、たくさんあるべさ」

安倍にも五月病があった。
ホームシックになり、当直の夜に泣いた事もある。
だが、幼い少女が病気と闘っているというのに、
看護師である自分が甘えてはいられない。
安倍は死んで行った少女達に、実に多くの事を学んだ。
87 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時33分13秒
 アパートに着くと、安倍は風呂を沸かしながら、親子丼の支度を始めた。
先に希美を風呂へ入れるため、安倍は休む間も無く動いている。
ところが、希美はどういうわけか、風呂に入ろうとしないのだった。

「ののちゃん、お風呂に入るべさ」
「・・・・・・今日はいいれす」

希美は苦笑しながら首を振った。
しかし、希美の襟は汚れていたし、いつも同じ服を着ている。
恐らく、昨夜もその前も入浴していないのだろう。
これには安倍も、少しばかり強引に入浴を迫ったのだった。

「何言ってるべさ。臭いよ!」

安倍は希美を押さえつけ、洋服を脱がし始める。
希美は抵抗するものの、看護師である安倍の力には敵わない。
十五歳といえば恥ずかしがる年頃ではあったが、
不衛生にしてると感染症を患う事もあった。
88 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時35分10秒
「なっちさん、のの、そういった趣味は・・・・・・」
「馬鹿言ってんじゃないべさ!いいから・・・・・・これは!」

パンツ一丁になって蹲る希美を見た安倍は、
その小さな背中を見て硬直してしまった。
そこには、痛々しい大きな傷跡があったのである。
背中の皮膚を剥がされたようなケロイドに、
安倍は希美が酷い虐待を受けていたと確信した。

「み・・・・・・見ないでくらさい」

希美は消え入るような声で言うと、小さな身体を更に小さくした。
サウナに行こうと誘っても、頑なに断った理由は、この背中の傷に違いない。
考えてみれば、安倍は希美の事を、何ひとつ詳しく知らないのだ。
誰からどういった虐待を受け、どれだけ傷ついているのか。
安倍は希美の心に、土足で踏み込んでしまったような自己嫌悪を感じた。
89 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時36分25秒
「・・・・・・ののちゃん、ごめん・・・・・・」

安倍は希美の服を握り締め、眼を逸らす事しか出来なかった。
裸にされた希美は、べそをかきながら安倍から洋服を受け取ると、
項垂れながら無言で浴室に入って行く。

「ののちゃん!」

安倍は希美を傷つけてしまったと思い、泣きながら彼女の後を追った。
脱衣所で振り返った希美を、安倍は思いきり抱き締める。
希美が傷ついてしまったのなら、許してくれるまで謝ろう。
そして、希美の心に負った傷を、二人で分かち合いたい。
安倍はそう思っていた。

「なっちさん、ののは・・・・・・」
「何も言わなくていいの。ごめんね。知らなかったとはいえ」
「・・・・・・なっちさん」

希美は嬉しそうに安倍に抱きついた。
90 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時37分46秒
 結局、二人は一緒に入浴した。
希美は傷について語ろうとしなかったし、
これといって安倍も訊ねたりはしない。
希美が傷に触れたくないのであれば、
彼女の口から語られるまで待てばよかった。

「なっちさん、自転車を貸してくらさい」

バスタオルで髪を拭く希美は、かなり大人の雰囲気があった。
やはり、彼女の年齢くらいは微妙なところであり、
無垢で可憐な少女と、官能的な大人の女が混在している。
髪を結ぶと子供っぽいが、こうして濡れた髪を垂らしていると、
えもいわれぬ大人の女の色香が漂って来るのだった。

「いいけど、今日はぐっすり寝るべさ。明日の朝、早くに行けばいいじゃん」

希美は「そうれすね」と言うと、屈託無い笑顔を見せた。
安倍のパジャマは少し大きかったが、希美が着ると可愛らしい。
希美の可愛らしさが、安倍のエネルギーになっていた。
91 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時39分03秒
 安倍が作った親子丼を、希美は美味しそうに食べた。
その無垢な笑顔の裏側には、想像を超えた虐待があったに違いない。
そんな希美を、安倍は何があっても守ってやるべきだと思った。
実際のところ、ホームステイは嘘で、家出をして来たのかもしれない。
だが、背中の傷を見れば、虐待に耐えきれず、逃げて来たのは確実だ。
警察に保護を求める選択肢もある事にはあったが、
安倍はギリギリまで、希美の面倒を看ようと思っていたのである。

「なっちさん、あさ美ちゃんの病気を教えてくらさい」

親子丼を食べ終わった希美は、玄米茶を啜る安倍に訊いた。
希美は、あさ美の病気と向き合う決心をしたのである。
どんな病気であり、何がよくて何がいけないのか。
つまり、どうすれば、あさ美の負担にならないかを知りたかったのである。
安倍は知り得る事を、眼を大きく見開いた希美に話し出した。
92 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時40分28秒
「あさ美ちゃんは、生まれつき心臓の血管が細いんだべさ。
成長に伴って心臓も大きくなるんだけど、それにはたくさんの栄養がいるの。
でも、あさ美ちゃんは血管が細いから、充分な栄養が行かないんだべよ」

安倍は出来るだけ判りやすいように、噛み砕いて話をした。
あさ美に残された道は、脳死者からの臓器移植しか無かったが、
法律で移植が出来る十五歳になった時には、すでに手遅れだった事。
そして、心臓の随所で壊死が確認され、もはや時間の問題である事。

「どうしても、あさ美ちゃんは助からないのれすね?」

安倍が頷くと、希美は何度も残念そうに頷いた。
悲しい事は悲しいが、もう、希美にショックは無い。
安倍の優しいフォローがあったからこそ、希美は冷静になれた。

「もう、あさ美ちゃんに充実した毎日を送らせてあげる事くらいしか出来ないべさ」

充実した一日を送らせるというのは、生半可な事では無い。
喜怒哀楽があってこそ、人間というのは充実感を得るものだ。
確かに希美の存在自体が、あさ美の心を癒してはいるだろう。
しかし、希美はもっと、あさ美に楽しんで貰いたかった。
93 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時42分44秒
「あさ美ちゃんは、食べられないのれすか?」

食べる事が大好きな希美は、お菓子を食べさせてあげたいと思った。
ウエハースにチョコを絡めたものは、希美が大好きなものである。
希美は美味しいお菓子を食べながら、あさ美と話がしたかったのだ。

「先生に訊いてみるべさ。あさ美ちゃん、食欲は無いけど、まだ少しなら食べられるみたいだし」
「なっちさん、あさ美ちゃんにお菓子を食べて貰いたいのれす」

希美の可愛らしい提案に、思わず安倍は笑顔で頷いた。
二人は食べ終わった食器を急いで片付けると、キッチンでお菓子作りを始めたのである。
医師に相談してみて許可されなければ、看護師達と一緒に食べれば良いのだ。
例え、あさ美が食べられなくても、作って困るものでは無い。

「あさ美ちゃん、食べられるといいね」

安倍が鍋でチョコを溶かす希美に言うと、彼女は嬉しそうに大きく頷く。
一日の半分以上を眠って過ごすあさ美は、そろそろ体力の限界に来ていた。
恐らく明日あたりから、再び深夜勤が五名体制になるだろう。
そして、それはあさ美が死ぬまで続くのだった。
94 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年02月28日(金)22時45分30秒
今宵はこのへんで失礼致します。
「おぶりがーどぅ」(ポルトガル語:ありがとう)
95 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時50分21秒
〔死にたくない〕

 希美は日出と共に眼を覚ました。
ベッドの上では安倍が寝息をたてている。
カーテンの隙間から差し込む明るい光が、
スズメの囀りと共に今日の天気を代弁していた。

(なっちさんは、まだ寝てるのれす。起こしたら可哀想なのれす)

希美は布団から這い出すと、安倍の洋服を漁り出した。
そして、割と可愛らしい服を選んで着ると、ピンクのジャンバーを羽織る。
リュックの中に、昨夜、安倍と一緒に作ったお菓子を入れると、
自転車の鍵を持って外に飛び出して行った。

「・・・・・・う〜ん」

安倍は寝返りをうつと、再び規則的な寝息をたて始めた。
96 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時51分14秒
 希美は朝の空いている道路を、思い切り飛ばしていた。
希美の乗った自転車は、川沿いのなだらかな下り坂を走っているので、
恐らく、時速三十キロ近くは出ているに違いない。
冷たい風が顔に当たり、それに刺激されて自然と涙が出てくる。
寒い中、これだけ飛ばせば、体感温度は五度くらい低くなるだろう。

「はあはあ・・・・・・バイクでも乗りたいのれ・・・・・・へっ?」

希美の横を、軽く流す感じの走りで、
ジョギングスタイルの長身の女が追い越して行った。
単純に計算して、時速三十六キロは分速六百メートル。
したがって秒速に直すと十メートルである。
日本人の最高記録でも、百メートル十秒はきれていないのだ。
多少、追い風に下り坂という好条件ではあったが、
これだけの速さで走れる人間は日本に存在しない。
97 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時52分21秒

「アハハハハ・・・・・・ののちゃん?元気いいねー」

笑顔で振り返り、手を振りながら走り去って行ったのは、
やはり、安倍と同僚の看護師である飯田圭織だった。
どこかおかしい飯田だったが、この走りは人間業では無い。

(本気で走ったら、きっと百メートル九秒をきるのれす)

とにかく、飯田は常人とは違っている。
普通に走らせたら凄まじい速さだろうが、
きっと、スタートでもたついてしまうだろう。
一般人の範疇に納まらないのが飯田なのだった。

(あまり、係わり合いになりたくないのれす)

希美は一生懸命に自転車を漕ぎ、病院の駐輪場までやって来た。
やはり、少しでも早く、あさ美に手作りのお菓子を食べさせたかったのである。
希美は自転車を置くと、走りながら病院の中へと入って行った。
98 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時52分54秒
 朝方の病院は、これまでに無いくらいの静寂に包まれていた。
希美の足音だけがロビーに響き、近くに人がいない事を証明している。
二十四時間消える事が無い蛍光灯は、朝日に辛うじて打ち勝っていた。
希美はロビーを駆け抜けて階段を昇ると、ナースステーションに入って行く。
そこでは宿直の夏医師と看護師の前田が、退屈そうに世間話をしていた。

「おはようございます」

希美がペコリと頭を下げると、夏と前田は途端に笑顔となった。
病人ばかりの病院内で、希美のように生命力がある少女を見ると、
医療従事者は、とても嬉しくなってしまうのである。
安倍の関係者という事で、希美は病院内を自由に出入りしていたが、
ナースステーションにおいては、マスコット的な存在になっていた。

「おはよう、ののちゃん」

笑顔で挨拶され、希美も笑顔になる。
すると、ナースステーションの雰囲気が変わった。
希美の存在だけで、とても穏やかな空気に包まれる。
やはり彼女は癒し系の少女なのであった。
99 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時54分24秒
「先生、これをあさ美ちゃんにあげたいのれす」

希美はリュックから、安倍と一緒に作ったお菓子を取り出した。
夏医師はクッキングホイルを開け、中身を確かめる。
あまり刺激が強いものや、硬いもの、喉に詰まりそうなものは駄目だが、
ビスケットをミルクチョコでコーティングしたものであれば、
あさ美にも食べる事が出来るかもしれない。

「うん、大丈夫じゃないかな。でも、無理には食べさせないでね」

外科医の夏医師は、あさ美が望むものであれば、
何でも与えていいと考えていたのである。
彼女は最も延命医療に反対する医師であった。

「はい」

希美は笑顔で頷くと、あさ美の病室へ走って行った。
そんな希美の後姿を、夏と前田は微笑ましく見ている。
希美は癒しを与える少女として、この病院でも有名になりつつあった。
100 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時55分09秒
 希美が病室に入って来ると、意識が戻っていたあさ美は、嬉しそうに微笑んだ。
高濃度の酸素を吸入しているのにもかかわらず、あさ美の顔色はかなり悪い。
血圧が下がっているため、全身に新鮮な酸素が供給されにくいからだろう。
昇圧剤を使えば血行こそ良くなるが、心臓に過度の負担がかかる。
そういった諸刃の剣を使用するのが、医療の現場なのであった。

「あさ美ちゃん、お菓子を作って来たのれす」

希美はベッド脇のハンドルを回し、あさ美をゆっくり起こした。
最初に会った時よりも、あさ美の病状は確実に悪化している。
もう、すぐそこまで、死がやって来ているのだった。

「ののちゃん、ありがとう」

希美はビスケットを食べながら、あさ美にも手渡す。
あさ美はビスケットを齧ると笑顔になった。
もしかすると、これが最後の食べ物になるかもしれない。
だからこそ、あさ美はビスケットを精一杯味わったのだ。
101 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時55分53秒
「なっちさんと二人で作ったのれす」

あさ美は希美が自分に食べさせたい一心で、一生懸命に作ったのだと実感する。
そんな希美の気持ちが、あさ美には嬉しく、煩わしく、そして悲しかった。
こんなに優しくして貰っても、自分はあと少しすれば死んでしまうのだ。
一人にして欲しい気持ちと、誰かに縋り付きたい気持ちが交差している。
死を間近に迎えた人間は、こういった気持ちになるのだろうか。
あさ美はそんな事を考えながら、希美が作ったお菓子を食べた。

「ののちゃん、美味しいよ」

あさ美が言うと、希美は満面の笑顔になった。
眩しいくらいの希美の笑顔に、あさ美は羨望を覚える。
希美こそが普通の少女であり、自分は不幸な少女なのだ。
死への恐怖こそ無かったが、残念な気持ちでいっぱいである。

「のの、お菓子屋さんになりたいなー」

安倍としたお菓子作りが楽しかったのだろう。
希美は頭こそ良くなさそうだが、
美味しいお菓子作りへの情熱さえあれば、
いいお菓子職人になるに違いない。
あさ美はお菓子を食べながら、そう思った。
102 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時56分50秒
「あたしは、お医者さんになりたかった」
「お医者さんれすか?」

あさ美は多くの医師と接する内、その仕事に憧れるようになった。
苦しんでいる患者を救う事が出来るのは、医師しかいないのである。
病気や怪我が完治し「ありがとうございました」と頭を下げる患者に、
医師は必ず嬉しそうな笑顔で応えていたのだった。

「うん。でも、もう無理だね」

あさ美が残念そうに言うと、希美は悲しそうな表情になった。
自分の死を悟るあさ美の前では、どんな嘘も通用しない。
希美の悲しそうな表情を見て、あさ美は自分の死期が近い事を痛感した。

「あさ美ちゃん・・・・・・」

希美は眼に涙を溜めている。
その顔を見たあさ美は、思わず希美の手を握った。
死にたくない。まだ十五歳だ。絶対に死にたくない。
あさ美は死んで行く自分が哀れでならなかった。
103 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時57分45秒
「ののちゃん、死んじゃうのは怖くない。でも、まだ人生なんか始まったばかりでしょう?」

あさ美は、その短い人生の大半を病院で過ごしている。
決して治る事の無い病気であるのに、誰もが偽善的に「頑張れ」と言う。
頑張って治るものであれば、あさ美だって必死に頑張るだろう。
だが、あさ美はいくら頑張っても、死んでしまうのだった。

「あたし、学校に行きたい。勉強やクラブ活動、恋愛もしたい。死にたくない!」

恐らく、あさ美は両親にすら、こんな事は言っていないだろう。
癒し系の希美と仲良くなったので、思わず言ってしまったのだ。
だが、それはあさ美の偽ざる本音だったに違いない。

「死にたくないよ・・・・・・死にたくない・・・・・・」

あさ美は嗚咽を漏らしながら泣いている。
そんなあさ美の手を握り、希美は茫然としていた。
確かに、十五歳で逝ってしまうのは早過ぎるだろう。
しかし、人間には必ず死が訪れるものなのだ。
生まれた限りは、いつかは死んでしまう。
それが自然の摂理というものであった。
104 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時58分19秒
「ののは・・・・・・」

希美は何かを言いかけたが、言葉を飲み込んでしまう。
こんな状態のあさ美には、何を言ったところで慰めにはならない。
少し興奮したせいか、あさ美は泣きじゃくりながら眠ってしまった。
あさ美の手を握っている希美は、彼女の腕に眼をやる。
点滴を続けているあさ美の肘の内側は、かなり痛そうだった。

「可哀想なあさ美ちゃん・・・・・・」

希美は腫れ上がったあさ美の腕に手を添えると、
顔を顰めながら病室を出て行った。
105 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)04時59分04秒
希美がナースステーションに行くと、一番逢いたくない人がいた。
それは、希美が怖くてたまらない石黒だったのである。
石黒は希美に気付くと、無言で腕を掴んだ。

「きー!石黒さんなのれす」

石黒はびびりまくる希美を連れて、休憩室に入って行く。
そして希美を座らせると、自分のバッグから袋を取り出した。
震える希美の目の前に、石黒は袋から取り出したオニギリを置く。

「なっちから電話があったんだよ。朝食はちゃんと摂らないとね」

びびりまくる希美をよそに、石黒は笑顔で言った。
希美としては夏医師や稲葉医師、中澤も怖かったのだが、
この石黒だけは、群を抜いて怖かったのである。
あの寺田ですら、石黒だけにはセクハラをしない。
106 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)05時00分51秒
「はい・・・・・・なのれす」

怯える希美を人見知りと判断する石黒もおめでたかった。
希美は真剣な顔で石黒が作ったオニギリを味わう。
感想を訊かれた時のために、いい加減な食べ方は出来なかった。

(お・・・・・・美味しいのれす)

鼻の横に穴のあいた怖い石黒だったが、
彼女が握ったオニギリは、とても美味しかった。
梅干と鮭フレークの二個で、握り方が丁寧である。
顔は怖いが、意外に優しいところがある石黒だった。
107 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)05時01分37秒
 希美が石黒の作ったオニギリを食べ終わると、
日勤で出勤して来た中澤が、あさ美の分の食事を持って来た。
あさ美はもう、まともに食事を摂れないほど弱っていたのである。

「あさ美の食事やけど、いらん言うしな。ののちゃん食べてや」

病院の朝食であるから質素なものではあるが、
それでもご飯は丼一杯あるし、焼き魚にひじきの煮物、
漬物と味噌汁、そして牛乳がついていた。

「忙しくなって来たのれす」

あさ美と一緒に高カロリーのビスケットを食べ、
石黒のオニギリを食べたので、希美も空腹では無い。
だが、ここで断ったら女がすたると思い、
希美は猛然と食べ始めたのだった。
108 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月03日(月)05時04分50秒
今宵は(っていうか、もう朝だわ)このへんで失礼致します。
「めるしー」(仏語:ありがとう)
109 名前:55 投稿日:2003年03月03日(月)20時07分07秒
更新乙です
辻の過去に一体なにがあったのか?
そもそも彼女はどこからきたのか?
そして、飯田さんは(ry
謎がいっぱいでこの先が楽しみです。
110 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時18分51秒
>>55さん、ありがとうございます。
こういったレスは、凄く励みになります。
ありがたい事です。
111 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時19分53秒
〔希美の力〕

 予想外に大量の朝食を食べさせられ、希美は苦しくなった。
ナースステーションのマスコット的存在である希美は、
可愛がって貰っているのだが、誰もが何かと食べさせたがる。
希美にしてみれば、人の好意は素直に受け入れる性格のため、
全てたいらげてしまったのだった。

「く・・・・・・苦しいのれす」

希美は何とか仮眠用ベッドに這い上がると、
布団に潜り込んで胎児のように丸くなった。
これが膨らんだ胃を圧迫しない体勢である。
暖かい室内で横になったものだから、
早起きした希美は一気に眠くなってしまった。

「眠いのれす・・・・・・」

希美は睡魔と格闘していたが、瞼は鉛のように重い。
必死に抵抗を試みても、次第に自力では瞼を開けられなくなる。
瞼を開ける事を断念した直後、希美は眠りの渕に落ちて行った。
112 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時20分50秒
 昼近くになって眼を覚ました希美は、あさ美の部屋へ急行した。
あさ美は眼を閉じていたが、浅い眠りだったのか、すぐに眼を開く。
すでに医師の間では、あさ美に呼吸器を挿入した方がいいという話が出ており、
それに反対しているのは、主治医の夏と稲葉くらいのものだった。

「ののちゃん。さっきはごめんね」

あさ美は疲れた顔で、済まなそうに言った。
希美は、そんなあさ美を見るのが辛い。
生きていたいというのは、ごく自然な事である。
全ての生物が持っている生存の本能であるからだ。

「謝る事は無いのれす。あさ美ちゃんの本音が聞けて良かった」

希美が笑顔で言うと、あさ美は彼女の手を握った。
元々色白のあさ美の肌は、透き通るような白さになっている。
それは健康な身体の白さでは無く、病人の青白さだった。
心臓が弱っているため、血行不良によって皮膚の色が悪いのである。
113 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時21分26秒
「ののちゃん」

あさ美は嬉しそうに微笑んだ。
まだ数回しか会っていないというのに、
二人の友情は確固たるものになっている。
それは単に気が合ったというレベルを超えていた。

「せっかく友達になれたのに・・・・・・ごめんね」

あさ美は自分が死んでしまう事を詫びた。
だが、そんな事を詫びられても、希美は少しも嬉しくない。
死んでしまう事は仕方ないが、あさ美が詫びる事では無いのだ。
希美は悲しそうに首を振って、あさ美の手を両手で握る。

「何で謝るのれすか?あさ美ちゃんは、何も悪い事はしていないのれす」

高圧酸素のお陰で、あさ美の意識はしっかりしている。
しかし、身体の衰弱は、予想以上に深刻であった。
全身の血行不良による間接痛に悩まされ、
あさ美は定期的なモルヒネの投与を受けている。
モルヒネの量と反比例するように、
あさ美の生体エネルギーが消費されて行く。
114 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時22分02秒
「そろそろ、疲れちゃった」

そう言って寂しく微笑むあさ美には、死相が色濃く出ていた。
これだけ生きる力が乏しくなった人間を見る事は、
普通の生活を送っている人では、まず無い事だろう。
やがて、あさ美は息を引き取り、棺に入れられてしまうのだ。

「駄目なのれす。あさ美ちゃんには夢があるのれす。死んじゃ嫌なのれす」

希美は悲しくなって、大粒の涙を零した。
こんなに優秀で夢があるあさ美が死んでしまい、
これといった取り柄も無い自分が生き残ってしまう。
そういった矛盾に怒りを感じながら、
希美はこれが『人間』であると実感した。
115 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時22分44秒
 あさ美は起きている時間が少なくなって行った。
それだけ身体も気力も弱って来ている。
やがて起きているのが稀になり、
そして昏睡から死へと移行するのだ。

「ののちゃん、使って」

石黒が持って来たのは、今やほとんど使われていない、
付き添い者用の簡易型ベッドであった。
あさ美と一緒にいる希美も疲れてしまうと思った石黒は、
倉庫の奥から引っ張り出して来たのである。

「あ・・・・・・ありがとうなのれす」

希美は石黒が怖くて仕方ない。
断ったりしたら、石黒の機嫌を損ねると思い、
希美は喜んで使わせて貰う事にした。

「あさ美ちゃん、ののはここにいますよ」

希美は眠っているあさ美に言うと、ベッドに横になった。
116 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時23分15秒
 午後三時になると、準夜勤の安倍がやって来る。
この時間は外来患者のいない病棟では割と暇な時間である。
安倍はコーヒーを飲みながら、中澤に希美の事を相談してみた。

「虐待やて?」

患者のカルテに眼を通していた中澤は、安倍を見て真剣な顔になった。
看護師経験の長い中澤は、虐待された子供の悲惨な状況を目の当たりにしている。
社会の歪みが、弱者への暴力といった形で反映されて行く。
特に、保護者である親からの虐待は、子供の心を確実に蝕んで行くのだ。

「ののちゃん、背中に凄い傷があるんだべさ」
「虐待が事実なら、放っておけんわ」

中澤は希美の事を心配したが、虐待されていたとは信じられない。
なぜなら、虐待を受けている子供は、誰もが希望を失った眼をしている。
だが、希美は信じられないくらいに純真無垢な眼をしているのだ。
愛というものを知らないと、あそこまで素直な眼にはなれない。
117 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時23分50秒
「虐待を受けた子ってさ、根性まで捻じ曲がった子が多いじゃん」

そう言ったのは、希美が怖がる石黒だった。
彼女も虐待された子供を何度か看護した事がある。
そういった子の多くは、絶えず怯えて周囲の様子を覗い、
自己防衛のために凶暴になって他人を傷つけるのだった。
愛されないで育った子供は、人を愛する事が出来ない。
それは、まんざら嘘では無かったのである。

「そういった言い方はないっしょ」

安倍にも石黒が言わんとする事は判った。
しかし、石黒の極端な言い方が癪に障ったのである。
性格がきつく、言葉も乱暴な石黒であるから、
口ほど思っていないタイプの人間だった。
118 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時24分37秒
「根性いうか、性格が普通やないな」

人間は学習して行く動物であるから、
殴られた事が無い人は、殴られそうになっても平気だ。
ところが、虐待を受けて瀕死の重傷を負った子供などは、
殴られそうにになると、過度に怯えるものである。
中には恐怖に耐えられず、失神してしまう子もいた。

「だから、ののちゃんは虐待とは違う気がする」

石黒は自分の意見を述べた。
すると、中澤も石黒の意見に頷く。
虐待でなければ、希美の背中の傷は、
どうやって出来たものなのだろう。
安倍は首を傾げながら考え込んだ。

「あんたにとって、ののちゃんは?」

中澤が訊くと安倍は途端に笑顔となる。
室蘭から単身上京して数年が経つ。
一人暮らしには慣れ始めていたが、
やはり家族がいない寂しさがあった。
119 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時26分04秒
「妹みたいなもんだべさ。アハハハハ・・・・・・」

最初は迷惑な話に憤慨していた安倍だったが、
一緒に暮らして行くうち、希美が可愛くなったのである。
希美が虐待を受けていたという懸念もあり、
安倍は尚更、彼女を守ってやりたくなった。
そんな時、妙なアラーム音が聞こえて来る。

「あさ美や!」

中澤がモニターの異常音に気付き、
ナースステーションを飛び出した。
安倍も転がるように続いて行く。
石黒は冷静にワゴンを押して行った。

「あさ美ちゃん!あさ美ちゃん!」

あさ美の病室では、胸を掻き毟るあさ美を、
希美が必死になって励ましていた。
安倍は医師を呼びに走り出て行く。
中澤は暴れるあさ美を押さえつけ、
医師から指示されていた強心剤を注射する。
120 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時26分56秒
「石黒、エレキ用意してや。これは不整脈の発作とちゃうわ」

中澤はあさ美の脈を採りながら、深刻な事態である事を察知した。
最悪の事態。つまり、あさ美の心臓に、致命的な梗塞が起こったのである。
昼寝の真っ最中だった主治医の夏が、おっとり刀で駆け付けた。
夏は聴診器で、あさ美の心臓の様子を覗う。

「モルヒネ二ミリ。それから・・・・・・送管の用意を」

夏としては、ギリギリまで送管を見送って来た。
だが、今のあさ美には、気道内送管が必要である。
あさ美をこのまま放置すれば、瞬く間に死が訪れるだろう。
少なくとも家族が来るまでは、心臓を動かし続ける必要があった。

「の・・・・・・の・・・・・・ちゃん・・・・・・死にたく・・・・・・ない・・・・・・」

あさ美は薄目を開けて、心配そうな希美の手を握った。
夏はあさ美の意識が戻った事で、送管するかどうか迷っている。
中澤が夏の顔を見て頷くと、送管器具をトレーに戻した。
121 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時27分41秒
「ののちゃん、次にあさ美の意識が無くなったら、送管しなきゃいけないの。
判るよね。だから、ちゃんとお話するんだよ」

夏医師は希美に判りやすいように話をする。
希美は大きく頷き、あさ美の手を握り締めた。
夏と中澤、石黒の三人は、ここは安倍に任せ、
ナースステーションで待機する事にする。
中澤は「まかせたしな」と言うと病室を出て行った。

「あさ美ちゃん、痛いところは?」
「せ・・・・・・な・・・・・・か」

希美は意を決してあさ美の背中へ手を入れると、
顔を顰めながら全身に力を入れて行った。
すると、あれほど苦しがっていたあさ美が、
次第に落ち着いて行くではないか。
安倍はモルヒネが効いたのだと思っていたが、
希美の様子がおかしかった。
122 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時28分22秒
「ののちゃん・・・・・・お菓子・・・・・・美味し・・・・・・かった・・・・・・よ」

あさ美はそう言うと、昏睡状態に入って行った。
安倍はナースステーションへ報告に行く。
その間、希美は背中の激痛に七転八倒していた。
希美はワゴンの上にあるモルヒネのアンプルから、
少しだけ注射器で吸い取ると、左上腕に突き刺して押し込む。
そして、何とか簡易ベッドに倒れ込むと、
薄れ行く背中の痛みを感じながら眠ってしまった。
123 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時28分55秒
 あさ美に送管し、処置を終えた看護師達は、
ナースステーションに引き揚げて来た。
すると、薬品を片付けていた石黒が声を上げる。

「あれ?こんなにモルヒネを使ったんだ」

その言葉に反応したのが中澤である。
麻薬の一種である痛み止めのモルヒネは、
取り扱いに神経を使うものであった。
少量でも使途不明となれば大問題に発展する。

「夏先生は二ミリ言うたしな。足りんか?」

石黒はアンプルを蛍光灯にかざして見てみるが、
どう見ても四ミリ近くが無くなっていた。
四ミリのモルヒネは、ガン患者の末期的数字である。
これだけのモルヒネをあさ美に注射したとしたら、
すぐに心不全を起こしてしまうだろう。
124 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時29分30秒
「零したんやないの?」
「そうかもね」

結局、モルヒネは零してしまった事にし、
残りは破棄したと管理簿に記録してしまう。
まさか、希美が使用したとは思っていなかった。
ところが、安倍は妙な事に気がついたのである。
それは、あさ美の背中に手を入れた希美の反応だ。

「そういえば、ののちゃんの様子がおかしかったべさ」
「ええっ!あの子、モルヒネなんか使ったの?」

石黒が怖い顔で眼を剥いた。
多少は慣れている安倍でも、石黒のこういった顔は怖い。
ここに希美がいたなら、恐怖に硬直してしまうだろう。
安倍は苦笑しながら首を振った。
125 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時30分09秒
「なっちがついていたべさ。ただ・・・・・・」
「ただ?」

今度は中澤が訊いた。
虐待されていたという話もあるので、中澤としては、
希美がモルヒネを使ったかもしれないという疑念がある。
虐待と麻薬が結びつくケースもあるからだ。

「あさ美ちゃん、背中が痛いって言ってたべさ。
ののちゃんが背中を触ったら、途端に楽になったみたい」

安倍としては、注射したモルヒネが効いたのだと思ってはいたが、
あまりにも偶発的なタイミングで、あさ美の痛みが緩和された事に違和感を覚えていた。
通常、モルヒネの効果はフェードイン・フェードアウトなのである。
いくら身体が弱っているとはいえ、たった二ミリの注射では、
効いて来るまでに数分の時間がかかってしまうだろう。
126 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時30分57秒
「それは人の『気』かもしれへんな」

怪我をした時、反射的に患部に手を当てるのは、
人間の持つ『気』を送り込むためだと言われている。
『気』を注入する事で、痛みと怪我を少しでも良くする本能だという。

「『気』だべか?」

現代の医学において、薬品は一時的な解決方法にしか使用されない。
根本的な治療に関しては、人間の持つ自然治癒力に頼っている。
患部を除去するという乱暴な考え方である外科手術にしても、
最終的には患者自身が、修復または再生をするのだ。

「『気』には不思議な力があるよってな」

安倍も『気』の話は聞いていたが、それを見た事は無い。
確かに中国では、針麻酔や気孔治療が盛んに行われている。
だが、希美の様子は、決してそういったものでは無かった。
127 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月05日(水)19時32分38秒
今宵はこのへんで失礼致します。
「さんきゅー」(英語:ありがとう)
128 名前:名無しさん 投稿日:2003年03月05日(水)22時57分54秒
段々、すごい展開に…ののの力って…
129 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時54分07秒
>>128
ありがとうございます。ちょっと苦戦しています。
三月末までには終える予定なんですが、それも危うくなって来ました。
オムニバス短編集は、今回見送る事になりそうです。
リベンジに燃えていたのですが。
130 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時55分02秒
〔再会〕

 希美が眼を覚ますと、すでに午後十時を過ぎていた。
あさ美の両親は心配して駆け付けたが、今すぐに危険ではないため、
家が病院の近所という事もあり、今日のところは帰宅している。
希美は背中の鈍痛こそ残っていたが、動けないほどでは無い。
それでも動くのが億劫で、しばらく簡易ベッドに寝ていた。

「えーと、紺野あさ美の病室は・・・・・・ああ、ここだったねー」

希美がベッドの中で見ていると、黒いスーツを着た小柄な女が入って来た。
女はあさ美を覗き込み、肩を叩いて起こそうとする。
気道内に送管されているため、声が出ないあさ美は身を捩っていた。

「こらー!面会謝絶なのれす!」

希美が大声を出しながら跳ね起きたため、女は仰天して転んでしまった。
立ち上がった希美は、あさ美を守るように手を広げ、女の前に立ちはだかる。
女は打った腰を擦りながら起き上がると、顔を顰めながら希美を睨む。
131 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時55分34秒
「てめー、霊能者かゴルァ!」

女は凄まじい表情で希美を睨みつけ、彼女の『気』を探った。
希美もあさ美を守るため、口を固く結んで女を睨む。
二人の対峙は数分にも及び、一触即発の空気が流れていた。
やがて、女は「クスッ」と笑うと、希美に近付いてデコピンをする。
すると希美も笑顔となり、女に抱きついていた。

「久し振りなのれす。マリーさん」
「チッチッチッ、シスターマリーって呼んでくれる?」

シスターマリーは指を振りながら、嬉しそうに言った。
それを聞いた希美は大喜びで、強く彼女を抱き締める。
シスターマリーは「苦しいー!」と言って笑った。

「良かった。シスターになれたのれすね。そうじゃなかったら・・・・・・」

希美は眼に涙を溜めて行く。
シスターマリーは希美の頭を撫でながら、笑顔で彼女の顔を覗き込む。
あさ美が無意識に足を動かすと、シスターマリーは声のトーンを落とした。

「馬鹿、いいのよ。もう昔の事なんだからさー」

二人は久し振りの再会を喜び、一階のロビーで話をする事にした。
132 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時56分17秒
 ロビーの通路こそ明るいが、長椅子のあるエリアは、
ようやく新聞が読めるほどの明るさしか無い。
そんな薄暗い場所に、希美とシスターマリーは座った。
通路からでは、ピンク色の服を着ている希美こそ見えるが、
黒い服を着たシスターマリーには誰も気付かないだろう。
と言うか、彼女の姿は凡人には見えないのであった。

「シスターマリー、黒装束はどうしたのれすか?」

シスターマリーは『死亡者案内人』である。
早い話が死神なのだが、近代化の波に押され、
二十世紀半ばから『死亡者案内人』と名称が変わった。
以前は有無を言わさずに連れて行ったのだが、誤認連行が後をたたず、
最近では死亡者を説得してから連れて行く事になっている。
名前の前につく『シスター』とは、管理職のようなもので、
部下を持つ『死亡者案内人』であり、会社で行けば課長くらいだ。
133 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時56分51秒
「今時、黒装束に髑髏のマスク、大カマなんて時代遅れじゃん。もう二十一世紀だよ。
一昨年の死亡案内人協会の総会で、『服装は黒を基調としたもの』に採択されたの。
今じゃ『死神文化保存会』の連中くらいしか、あんな恰好はしてないよ」

シスターマリーは女性の病死者専門の案内人であった。
事故死や自殺専門の案内人もいるのだが、彼等は常に待機しておかねばならず、
寝る暇も無いほど忙しいので、若手の登竜門として組織されていたのである。
戦争ともなると、特別にプロジェクトチームが結成され、
そのエリアへと配属されて行くのだった。

「その方が今っぽくていいのれす」

希美がシスターマリーの服装を褒めると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
旧死神とはいえ女性である以上、スタイリングを褒められれば嬉しい。
しかも、久し振りに逢った古い友達から言われれば尚の事である。
二人は暫くの間、互いに見詰め合って微笑んでいた。
134 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時57分56秒
「あら、ののちゃん。こんなところにいるの?」

正面玄関から入って来たのは、深夜勤の飯田であった。
相変わらず、飯田はどこかいっちゃってる感じである。
看護師で無かったら、薬物中毒患者に間違われるだろう。

「そ・・・・・・そうなのれす。たまには・・・・・・」
「そう、お友達?じゃあね」

飯田が行ってしまうと、シスターマリーは真剣に驚いていた。
この病院の看護師である事は知っていたが、
飯田に霊能力があるとは知らなかったのである。
死亡者案内人であるシスターマリーが見えるという事は、
間違いなく霊視能力があるという事だった。

「オイラが見えるんだ・・・・・・やばいかなー」
「いーらさんは相手にしない方がいいのれす」

シスターマリーとしては、仕事の邪魔をされるのかと心配したが、
希美に飯田の素行や性格を説明され、何とか胸を撫で下ろす。
もっとも、何をするか判らないパルプンテな性格であるため、
希美にしても一抹の不安は感じていた。
135 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時58分33秒
「でも、そんな恰好じゃ、誰だか判らなかったよ」

シスターマリーは、希美をまじまじと見た。
希美は「てへてへてへ・・・・・・」と可笑しそうに笑う。
そう言うシスターマリーも、髪を金髪に染めている。
これまで、死神は黒髪と決まっていたのだが、
協会の副理事長にセント・シスター・ケイが就任してから、
現場への締め付けは、かなり改善されて来たのだった。

「ところでシスターマリー、お願いがあるのれす」

希美は真剣な顔でシスターマリーを見つめた。
シスターマリーは、希美が何を言いたいのか判っている。
希美の頼みとは、あさ美を見逃して欲しいというものだ。
だが、昔ならばともかく、今はチェックが厳しくなってしまい、
シスターマリーの一存では、どうする事も出来ないのである。
136 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)21時59分33秒
「残念だけど、あさ美を見逃す事は出来ないよ」

シスターマリーは残念そうに、そして申し訳なさそうに言った。
もし、死亡予定者である紺野あさ美を連れて行かなければ、
シスターマリーはおろか、希美や安倍にまで影響が出て来る。
それは希美が一番よく知っていた。

「そうれすよね。ごめんなさい。我侭な事言って・・・・・・」

希美の悲しそうな顔は、シスターマリーまで悲しくしてしまう。
規則は規則なのだが、シスターマリーにも少しは裁量権がある。
彼女は希美の悲しい顔が耐えられず、出来る限りの譲歩をした。

「オイラに出来るのは、死亡予定時刻を二十四時間だけ延長する事くらいだよ」

希美にはシスターマリーの心遣いが嬉しかった。
やはり持つべきものは、古い友達である。
少しだけ悲しみが和らいだ希美の顔を見て、
シスターマリーは救われた顔になった。
137 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)22時00分14秒
「それで、タイムリミットは?」

シスターマリーは慎重に計算をしてみる。
幼い少女の場合、意外に時間的な裁量権があるからだ。
やはり子供は説得しにくいので、そういった事になっているのだろう。
しかし、シスターマリーがあさ美に関して許された裁量権では、
一般の大人と同様の二十四時間だけであった。

「あの子は明日の朝六時に死ぬ予定なの。だから、明後日の朝六時が限界」

あさ美は自分が死ぬ事を理解しているので、二時間もあれば話がつくだろう。
シスターマリーは明後日の午前四時まで、延長を約束したのだった。
138 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)22時01分53秒
 シスターマリーと別れた希美は、二階までやって来ると、
あさ美の病室前にある椅子に座り、何やら真剣な顔で考え込んでいた。
日付が変わる頃になると、準夜勤の勤務も終了し、安倍は私服に着替える。
ところが、希美の様子がおかしいため、安倍は心配になってしまう。

「ののちゃん、どうしたんだべかねえ」

安倍が呟くと、彼女の背後で点滴の用意をしていた飯田が、
何を思ったか、信じられないといった声で話し掛けて来る。
それは、安倍が卒倒するような事実なのであった。

「なっち、知らないの?ののちゃん、さっき尿検査を受けて、妊娠してる事が判ったの」
「そそそそそそ・・・・・・そんなー!」

安倍は驚きのあまり、口と眼を大きく開いたまま硬直してしまった。
それもそうだろう。あの希美が妊娠していたと聞けば、誰だって驚いてしまう。
それに加え、希美を妹のように思っている安倍にしてみれば、
どうして話してくれなかったのかという残念な気持ちでいっぱいになった。
もしかして、自分は信頼されていないのではないか。
安倍は自信を失い、眩暈を覚えて倒れるように椅子に座った。
139 名前:偽みっちゃん(sage忘れた!) 投稿日:2003年03月07日(金)22時03分57秒
やはり、誰かに虐待されていたのではないだろうか。
性的虐待を受け、運悪く妊娠してしまったのではないか。
安倍は希美が哀れで、涙が零れそうになってしまう。

「嘘だぴょーん」
「へっ?」

安倍は嘘と判って安心する傍ら、信じられない冗談を言う飯田に硬直してしまう。
普通の感覚であれば、絶対にこんな冗談は言わないものである。
だが、飯田の場合、やはり普通の人の感覚からは、大幅にずれていたのだった。
安倍は無表情だったが、思いっきり飯田を絞め殺したい衝動に駆られる。
しかし、安倍が首を絞めたところで、飯田は痛くも痒くもないだろう。
ただでさえ疲れているというのに、飯田は更に疲れさせてくれる。
安倍は溜息をつく事しか出来なかった。

「面白くなかった?圭織的にはOKなんだけど」

安倍は無言で立ち上がり、困ったように首を傾げる飯田を睨むと、
そのままナースステーションから出て行ってしまった。
残された飯田はバツが悪そうにあたりを見回し、誰もいない事を確認する。
そして、自分の言った冗談を思い出し、苦笑しながら小声で呟いた。

「なっちも冗談が通じないね」

自分の感覚が一般的であると、本気で信じている飯田だった。
140 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月07日(金)22時05分49秒
今宵はこのへんで失礼致します。
「おおきに」(関西弁:ありがとう)
141 名前:55 投稿日:2003年03月07日(金)23時51分09秒
更新乙です。
やっぱり飯田さんはパルプンテなんですね。(w
142 名前:一読者 投稿日:2003年03月09日(日)15時56分33秒
最初から読み直してみました。
18の場面ではシスターマリーが新垣を説得していたのですね。

作者さんは医療関係者でしょうか?
細部の描写や解説にこだわりを感じます。たとえば
>>昇圧剤を使えば血行こそ良くなるが、心臓に過度の負担がかかる。
言われてみてなるほどと思いましたが、今までそんなことを
考えたこともありませんでした。
143 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月09日(日)22時52分07秒
レスありがとうございます!!!
このところ、何かと忙しく、花粉症というおまけまであるので、かなり苦戦中です。

>>141
パルプンテのオリジナルはボブさんでしたっけ?
本当にイメージぴったりですよね。

>>142
そうです。シスターマリーは里沙を連れて行くために説得していました。
私は医療関係ではありませんが、母が看護師です。
全て調べたわけではないので、薬剤の効果とか分量は定かではありません。
また、病院によって医療用語が多少違う場合もあるようです。

昨年は整形外科と内科に罹ったので、病院内で看護師や医師を観察する事は出来ました。
144 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時51分44秒
〔嫌い?〕

 飯田に洒落にならない冗談を言われ、
安倍は憤慨してナースステーションを出る。
仕事が終わった彼女は、一緒に帰ろうと思い、
相変わらず深刻な顔で考え込んでいる希美に言った。

「さあ、一緒にかえろう」

安倍が笑顔で話し掛けたのは、希美が悲しんでいると思ったからだ。
あさ美の病状は更に危険度を増し、次の発作で死ぬ可能性が高い。
呼吸器を付けられているため、暫くは心臓こそ動いているだろうが、
恐らく、意識は二度と戻らなくなるに違いなかった。
もう、あさ美とコミュニケーションがとれない希美は、
きっと悲しくて仕方ないのだろう。

「ののは・・・・・・ここに泊まるのれす」

石黒が用意してくれた簡易ベッドがあるため、
希美が泊り込む分には何ら問題は無い。
だが、ハードな仕事で心身共に疲れた安倍は、
可愛いがっている希美に癒して欲しかった。
145 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時52分28秒
「泊まるのはいいけど、何か食べに行くべさ」

すでに深夜零時を過ぎているので、開いている店はコンビニくらいである。
ところが、近くにあるファミレスは、午前二時まで営業していた。
安倍はこの店で『妹』である希美と一緒に、食事がしたかったのである。
希美がいるだけで、安倍は生活に張りが出て来ていたのだった。

「・・・・・・食べたくないのれす」

希美は俯きながら、迷惑そうな口調で言った。
悲しい時に一人でいると、余計に気が滅入ってしまうものである。
安倍は希美が首を振っても、根気よく説得を続けた。
こういった時に励ますのが『姉』だと信じていたのである。

「ちょっとしつこいれすよ。なっちさん一人で行けばいいれしょう?」

希美が冷たく言い放つと、安倍は驚きを隠せなかった。
あの希美が、こんな事を言うとは思わなかったからである。
やはり、あさ美の事でショックを受けているのだろうと思い、
安倍は仕方なく一人で帰る事にした。
146 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時53分02秒
「・・・・・・そう、ごめんね。しつこく誘ったりして」

安倍は希美の頭を撫でると、残念そうに帰って行った。
その後姿を見ながら、希美は涙を零している。
大好きな安倍に傷付けるような事を言ってしまい、
希美は辛くて仕方なかったのだった。

「なっちさん、ごめんなさい」

この希美の不可解な行動に、首を傾げていたのが中澤である。
彼女はナースステーションの中から、何気なく二人を見ていたのだ。
あれだけ安倍を慕っていた希美の変化に、中澤も驚いていたのである。
優しい希美の性格であれば、安倍を気遣って食事にくらいは行くだろう。
ところが、希美は冷酷なまでの言い方で「しつこい」と言ったのだ。

(単に余裕が無いのか、それとも現代っ子なのか)

中澤は希美の態度に、一抹の不安を感じていた。
なぜなら、まるで排除するような希美の言い方には、
安倍を傷付ける意思があったからである。
希美は何を考えているのか。
中澤は話をしなければいけないと思った。
147 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時53分44秒
 暫くすると、何を思ったか安倍が戻って来た。
希美は相変わらず、廊下の椅子に座って俯いている。
安倍は希美の眼の前に、温かな肉まんを差し出した。

「の・・・・・・ののちゃん、食べるべさ」

安倍は笑顔でいるが、その眼はとても悲しそうだった。
それは、可愛い『妹』に何もしてやれない自分への不甲斐無さと、
いきなり冷たくなった希美への悲しみに違いない。
とにかく、安倍は怖かったのだ。
希美が自分から離れて行ってしまうような、
耐え難い不安に襲われていたのだった。

「・・・・・・なっちさん」

希美の眼から、再び大粒の涙が零れ落ちる。
そんな希美を見ていた安倍も、悲しくなって泣き出してしまう。
すると、希美は安倍が差し出した手を勢いよく払った。
放物線を描き、肉まんが床に落ちて転がる。
安倍が買って来た肉まん。
初めて希美と一緒に病院へ来た時、
近くのコンビニで買い、二人で食べた肉まん。
148 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時54分24秒
「ののちゃん・・・・・・た、食べたくなかったの?」

安倍が床に落ちた肉まんを拾い上げようとした時、
ナースステーションから早足で誰かが出て来た。
それは、厳しい顔をした中澤である。
中澤は希美の前に立ち止まると、無言で彼女の頬を殴った。

「な・・・・・・何するべさ!」

安倍は反射的に希美を抱き締め、身体を張って中澤から大切な『妹』を守った。
小柄な安倍では中澤に敵わないだろうが、次の平手からは守らなければならない。
自分が多少、痛い思いをするくらいで希美を守れるなら、安いものであった。

「アホ!安倍に謝らんかい!」

中澤には安倍の気持ちが痛いほどよく判る。
そんな安倍の気持ちを踏み躙った希美を、
中澤はどうしても許せなかったのだった。
安倍にしても中澤の考えは判るが、
希美を殴られるのだけは我慢出来なかった。
149 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時55分05秒
「裕ちゃん!いいんだべさ!なっちがしつこかったから!」
「あんた、安倍の気持ちを踏み躙ったんや!謝らんかい!」

希美の襟首を掴む中澤の腕に、安倍は泣きながら抱きついた。
中澤の気持ちはありがたいが、希美に痛い思いはさせたくない。
安倍が中澤を止めていると、希美は悲しそうに俯きながら走って行ってしまった。

「待たんかい!謝れ言うとるやろ!」
「裕ちゃん!やめて!・・・・・・裕ちゃん」

抱き付いて号泣する安倍に、中澤は仕方なく溜息をついた。
それにしても、希美の豹変振りには、さすがの中澤も驚いている。
いったい希美が何を考えているのか、それは誰にも判らなかった。
中澤は自分に抱き付いて泣きじゃくる安倍の頭を撫でると、
とにかく、きつく抱き締めてやった。
150 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時56分20秒
 屋上に来た希美は、泣きながら遠くに見えるカラフルなネオンを見ていた。
涙で視界が歪み、ネオンは複雑な模様になって見えている。
冷たい雨が当たって寒さに震えていても、希美は涙を流し続けていた。

「どういうつもりなんだかねー」

いつの間にか希美の横にはシスターマリーがいた。
同じネオンを見ながら、彼女は希美の不可解な行動を訊く。
希美をよく知るシスターマリーは、安倍に対する態度が、
何か意味のある事だと気付いていたのである。
だが、希美は決して口を開こうとはしなかった。

「あんたらしくないじゃん。オイラと違っていい子ちゃんなのに」

シスターマリーが知る希美は、慈愛に満ち溢れた性格である。
誰よりも人を慈しみ、誰よりも優しいのが希美だったのだ。
そんな希美が安倍にとった冷たい態度には、必ず何かしらの意味がある。
希美と付き合いの長いシスターマリーは、そう思っていた。
151 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時56分58秒
「何を考えてるの?」

希美はシスターマリーの質問には答えず、涙を流しながらネオンを見つめていた。
その時、凄まじく場違いな声が、彼女達の頭上から聞こえて来るではないか。
何かと思って頭上を見上げた二人の眼に飛び込んで来たのは、
雨合羽を着て避雷針に抱き付き、トランス状態で交信をしている飯田の姿だった。

「アハハハハー!宇宙の声が聴こえるよー!こちら圭織。ねえ、笑って!」

誰が見てもトランス状態の飯田は、いっちゃってるとしか思えない。
黙っていれば意外に美人である飯田であるが、こういった姿には恐怖すら感じた
飯田は茫然と彼女を見上げる二人に気付くと、月面宙返りをして飛び降りて来る。
きれいな着地で二人の前に降り立った飯田は、笑顔で二人に話し掛けた。
152 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時57分39秒
「傘がないと濡れちゃうよ」

飯田は何を思ったか、二人に自分の靴を差し出した。
傘の替わりに、靴でも頭に乗せろとでも言うのだろうか。
とにかく常人とは違う飯田の事であるから、
その真意はシスターマリーでも判らなかった。

「それにしても背が低いね。悪い意味じゃなくて、可愛いよ」

飯田は驚いて口を開けたままのシスターマリーに言った。
霊能者であれば死神のシスターマリーを見て警戒するのだが、
とにかく飯田である。そんな態度は全く無い。
『死神』は今や『死亡者案内人』となっており、
以前のような邪悪な臭いは微塵も感じられなかった。

「ねえ、何て名前?」

飯田は硬直するシスターマリーに訊いた。
シスターマリーは辛うじて「マリー」とだけ言える。
黙っていれば意外に美人な飯田だったが、
その奇行は驚愕の範疇を超えていた。
153 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時58分20秒
「そう、マリーちゃんっていうの?圭織と一緒に交信しない?」

飯田はシスターマリーを誘ってみた。
だが、シスターマリーは顔を強ばらせながら首を振る。
飯田と一緒に交信したが最後、きっと壊れてしまうだろう。
中間管理職ではあったが、少しは出世したシスターマリーは、
まだ自分が可愛かったのである。

「そう、残念だね。それじゃ、また今度ね」

飯田は裸足のまま、屋上から立ち去って行った。
靴を握り締めた二人は、飯田の後姿を見つめながら、
もの凄い不安と恐怖に近いショックを受けている。
飯田は間違いなく、この病院の看護師なのだ。
入院患者の生命を預かる立場の人間なのである。
これで医療事故が発生しない方が不思議だった。

「オイラ、もの凄く疲れたんだけど。ちょっと寝るわ」

シスターマリーは憔悴しきった顔で、トボトボと屋上を後にした。
一般人の眼には見えないシスターマリーであるから、
病院内のどこでも、空いているベッドで熟睡する事が出来る。
相手が飯田であるから、彼女の疲労はかなりのものだった。
154 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時58分56秒
 希美はあさ美の病室に戻り、丸椅子に座っていた。
病院内は快適な温度が保たれているため暖かく、
濡れた希美の髪も次第に乾いて来ている。
時計の針は、間もなく午前六時になろうとしていた。
当初、あさ美が死ぬはずだった時刻である。

「約束、守ってくれたのれすね。ありがとう。シスターマリー」

希美はそう言うと、嬉しそうに手を合わせた。
すでに明るくなった外では、雲の間から太陽が顔を覗かせている。
今日は春の雨上りの、暖かな一日になるだろう。
希美が窓から外を見ていると、誰かの視線を感じて振り返った。

「な・・・・・・なっちさん」

部屋の入口から希美を見ていたのは、
真っ赤に眼を腫らした安倍だった。
安倍は希美の態度が悲しくて仕方ない。
瀕死のあさ美を救ってやれない自分が情けなかった。

「ののちゃん、話があるべさ」

安倍は涙を堪えて、声を震わせていた。
希美は、そんな安倍を見るのが辛いので、
視線を逸らしたまま、窓を背にしている。
あさ美の気道に挿入された呼吸器が、
狭い室内に規則的な音を響かせていた。
155 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)19時59分42秒
「な・・・・・・何れすか?」

相変わらず、希美はよそよそしい態度をとっていた。
そういった彼女の言動が、安倍の心を深く傷つけている。
安倍にしてみれば、何でいきなり希美に嫌われたのか判らない。
とにかく、自分を嫌う理由だけでも聞きたいと思ったのだ。

「何が気に入らないの?なっち、何か悪い事した?」

安倍の頬を涙が伝って行くと、希美も泣きたいのを必死で堪える。
希美には、安倍の詰まった声を聞くのが、辛くてたまらなかった。
耳を塞いでも、狭い室内に、涙を流す安倍を感じてしまう。
希美は意を決して安倍を睨むと、信じられない事を言ってのけた。

「なっちさん、お金を貸してくらさい」

安倍は頷くと、ポケットから財布を取り出す。
今の手持ちは二万円くらいだったが、
足りなければ銀行の普通口座に三十万円は入っている。
希美が安倍に現金をねだるのは初めてだった。
きっと希美の事だから、あさ美に何か買ってやるのだろう。
安倍はそう思い、希美に訊いてみた。
156 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)20時00分14秒
「いいよ。いくら?・・・・・・何に使うの?」

三十万円で足りなければ、定期預金を解約しよう。
そうすれば、三百万円くらいは用意出来るはずだ。
本当に希美が必要としているのであれば、
そのくらいのカネは出してもいいと思った。

「あ・・・・・・遊ぶお金なのれす。ゲーセン行って、美味しいもの食べて・・・・・・」

安倍は軽い眩暈を感じて倒れそうになる。
そんなの嘘だ。希美はそんな子じゃない。
だが、安倍は確かめなくてはならなかった。

「・・・・・・本気なんだべか?」
「あ・・・・・・当たり前なのれす。お金をくれたら、なっちさんに用は無いのれす!」

安倍にとって、こんなに悲しい事は無い。
希美は最初から、自分のお金を狙っていたのか。
この場に中澤がいたら、希美が倒れるまで殴っているだろう。
口惜しいわけでもない。怒っているわけでもない。
とにかく、安倍は悲しくて仕方がなかった。
自分でもどうしようもないほど涙が溢れて来る。
安倍は財布を床に叩きつけると、泣きながら部屋を飛び出して行った。
157 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月13日(木)20時03分43秒
更新が遅くてすみません。
日曜日には更新したいと思っています。
今宵はこのへんで失礼致します。
(もうネタが無いので、外国語はやめます)
158 名前:55 投稿日:2003年03月13日(木)23時17分42秒
更新乙です。
一体ののはどしたんだろう?
そして飯田さん・・・
159 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時23分10秒
>>55さん
いつもありがとうございます。
ちょっとスケールが大きくなり過ぎて、びびっています。
160 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時24分14秒
〔希美の秘密〕

 希美は安倍の財布を拾った。
皮製の赤い財布にはミッキーマウスのアクセサリーがついていたが、
安倍が叩き付けたショックで紐が切れ、希美の足元まで飛んでいる。
希美はアクセサリーと一緒に、財布をハンカチで包んだ。

「・・・・・・なっちさん」

希美はハンカチで包んだ財布を抱き締め、大粒の涙をはらはらと零した。
良かれと思ってした事が、単に安倍を傷つけているだけではないのか。
安倍の事を思うと、希美は何よりも辛かった。

「もう・・・・・・出来ないよ」

希美は財布を握り締めると、泣きながら安倍の後を追って行った。
161 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時25分14秒
 希美がナースステーションに飛び込むと、
安倍は中澤に抱き付いて泣いていた。
もう、何も希美の眼には映らない。
大好きな安倍だけを見て、彼女は飛び込んで行く。

「なっちさん!」

希美に抱き付かれた安倍は、何が何だか意味が判らない。
反射的に希美を抱き締めたものの、どうして良いのか判らなかった。
泣くのを忘れた安倍が中澤を見ると、彼女は首を傾げながら微笑んでいる。
リアクションに困った安倍は、中澤を見ながら泣き笑いをした。

「なっちさん、ののを嫌いになってくらさい!」

「やはり」と思った中澤は、二人を休憩室に連れて行く。
その理由は判らなかったが、二人きりの方がいいと思ったのである。
中澤にも若干の心配はあったものの、詳細は後で安倍に聞けばいい。
希美が持ったハンカチから覗いた財布が、彼女の気持ちを表していた。
162 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時26分11秒
 希美は安倍の顔を見て愕然とした。
その化粧は涙ですっかり落ちてしまい、
眼は真っ赤に充血して腫れ上がっている。
大好きな安倍をここまで悲しませたのは、
他でも無い、希美自身だった。

「なっちさん、ごめんなさい。本当にごめんなさい」

許しを乞うわけではない。
希美は安倍に対して、本当にすまないと感じているのだ。
とにかく、真っ直ぐで汚れを知らない希美は、
酷い事を言って傷付けてしまった安倍に謝る事しか出来ない。

「話してくれるべか?」

何かあるとは思っていたが、安倍は悲しさが先行してしまい、
希美の考えている事を探る余裕が無かったのである。
だからこそ、今は希美の真意が知りたかった。
本来、素直な希美は、安倍に促されると正直に話を始める。
だが、それは安倍の常識では考えられないものであった。
163 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時27分21秒
 その痩せ細った男は、自らの処刑に使われる十字架を背負い、
処刑場である丘を目指して市内を歩いていた。
沿道には多くの市民が集まり、罵声を浴びせる者や、
手を合わせて泣きながら跪く者達で溢れ返っている。
馬上の者達は十字架を背負った男に冷たい視線を向けていたが、
徒歩で男の周囲を取り囲む者は、終始同情的な態度であった。
拳大の石が投げつけられ、男は額を押さえて倒れ込んでしまう。
徒歩で男を守っていた一人が、剣を抜いて投石した子供を追いかけようとした。

「やめよ。子供に罪は無いのだ」

男は額の血を拭って立ち上がると、再び十字架を担いで歩き出した。
市内を離れ丘へ近付いて行くと、次第に沿道の野次馬は減って来る。
こうして丘の麓まで来た時、妙な女が声を掛けて来た。
164 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時28分58秒
「ゴルゴダの丘にようこそ!ついに、ここまで来ちゃったねー。
これは失礼。オイラは死神のマリーだよ。あんたの『死』のパートナーってとこかな?」

死神として駆け出し中のマリーは、男に引導を渡すために派遣されて来た。
これまで行き倒れ専門だったマリーにとって、今回が初めての大役だった。
そのため、嫌でも緊張してしまい、今回は特別に四人の天使を付けられている。
死神とは『死』のプロデューサーであり、実際には天使が来世への案内役だった。
『死亡者案内人』制度が出来てからは、合理化によって一人で全てをこなす。
しかし、当時は死神と天使のコンビが一般的だったのである。

『汝は我魂を奪いに来た者であるか?』

男はマリーの頭の中へ、直接話し掛けて来る。
マリーの姿は男以外に見えないのではあるが、
変にブツブツ言われるよりも都合が良かった。
165 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時29分33秒
「へえ、使えるんだね。テレパシー」

男は僅かに微笑み、感心するマリーをチラリと見た。
その瞬間に、マリーは男の力を嫌というほど感じ取ってしまう。
この男はテレパシーだけじゃない。
サイコキネシスや瞬間移動まで行う事が出来る。
いわば選ばれた超能力者なのであった。

「すげー!凄い能力を持ってんじゃん。ジーザス」

男の名前はジーザス。
ジーザス・クライストつまりイエス・キリストなのである。
マリーはジーザスの実力を知り、不思議な気持ちでいっぱいになった。
これほどの超能力者であれば、簡単に逃げ出す事が出来るに違いない。
ところが、ジーザスはゴルゴダの丘で、本日死ぬ事になっていた。

『汝は死神であるな?我魂を誘導出来るのか?』

これだけの大物となると、マリーの力だけでは不安もある。
ジーザスがその気になれば、死刑関係者全員を突然死させる事も可能だ。
それでも彼は己が意思によって、この丘までやって来たのである。
マリーには、そんなジーザスの気持ちが判らなかった。
166 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時30分22秒
「今回は天使を四人も連れてるからね。でも、どうして逃げないの?死んじゃうんだよ」

ジーザスは死が怖くないのだろうか。
マリーがこれまで会った人間は、みな死を前に怯えていた。
極悪人もいたが、死を知らされると、大人しくなってしまう。
しかし、ジーザスは死ぬ事が楽しいかのように、笑みすら浮かべていた。

『これも神の意思なのだよ』

ジーザスは神の意思に従うというのだ。
これを聞いたマリーは仰天してしまう。
ジーザスくらいの知識や能力があれば、
神の正体が何なのか知っているはずだ。

「神様なんて存在しないよ。神ってのは、人の心にあるものなんだ」

マリーが言うと、ジーザスはニヤリと笑って立ち止まった。
ついにゴルゴダの丘にある処刑場へ到着したのである。
見物人が取り巻く中、偉そうな男が出て来て罪状を述べた。
すると、空から四人の美しい天使達が舞い降りて来る。
天使達はマリーの指揮で、ジーザスの周りにやって来た。
167 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時31分28秒
「私はリカと申します。あなたの右手をお持ち致します」
「私はヒトミと申します。あなたの左手をお持ち致します」
「私はアイと申します。あなたの足をお持ち致します」
「私はノゾミと申します。あなたの頭をお持ち致します」

マリーとノゾミは、数十年も一緒にやって来た相棒である。
互いに気心が知れる間柄だったので、今回もマリーは上手く行くと思っていた。
ジーザスは十字架に寝かされ、手足に釘を打たれて行く。
そこを三人の天使達が撫でると、ジーザスの痛みが消えた。

「おお、私は汝達を祝福しよう」

ジーザスは天使達に言ったのだが、マリー達が見えない者は、
自分を処刑する人間に対する言葉として受け取ってしまう。
立派な聖職者が殉教すると知った見物人達は、跪いてジーザスを祈った。
ジーザスを貫く槍を持った兵士は、泣きながら許しを乞う。

「ジーザス様、私もすぐに参ります」

十字架が立てられると、天使達がスタンバイするのだが、
どういったわけか、ノゾミだけがジーザスの前から動かない。
マリーは嫌な予感がしたものの、とりあえずノゾミに訊いてみた。
168 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時32分26秒
「そこじゃないでしょう?」

すると、ノゾミは済まなそうな顔をしてマリーを見つめる。
そのノゾミの顔を見て、マリーは全てを悟った。
なんとノゾミは、この場に及んでジーザスを助ける気でいる。
それは規律違反であり、厳罰に処される行為だった。

「ノゾミ!・・・・・・やめろって。そんな事したら・・・・・・」

天使を貫いた槍では、絶対に人間を殺す事が出来ない。
例え身体を貫通してしまっても、その傷は消えてしまうのである。
勿論、刺された者と天使であるノゾミは、全く痛みも感じない。

「ノゾミ、今ならまだ間に合うよ。考え直してよ」

マリーはノゾミの足に縋り付いて懇願した。
これだけ大掛かりな動員をしてジーザスを連れて行けなければ、
ノゾミはおろか、マリーまで厳罰に処される可能性がある。
マリーとしては叱られるくらいは良かったが、
相棒のノゾミを失うのが辛くてたまらないのだ。
169 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時33分02秒
「マリーさん、私は間違っているかもしれません。でも、ジーザスは今、必要な人間なのです」

その言葉が終わらないうちに、槍がノゾミの身体を貫通した。
ジーザスは気を失ったが、ノゾミは腰を抜かすマリーを抱き上げる。
ノゾミはついに、規則違反を犯してしまったのだった。

「どどどどど・・・・・・どうすんのよー!」

人間の死に関する事は、厳しい規則で決まっている。
死に直面する者の苦痛を取り除く事も天使の仕事ではあるが、
予定を変える事なでは、絶対に許されない事であった。
べそをかいているマリーに、ノゾミは穏やかに話す。

「私が罰を受けます」

四人の天使とマリーは、大失敗を犯してゴルゴダの丘を後にした。
170 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時33分50秒
 査問委員会に出頭したノゾミとマリーは、大きな眼をした女から尋問を受けた。
彼女の名前はセント・シスター・ケイ。彼女は死神や天使を統括する立場にある。
今回の失態に関して、全権が彼女に委ねられていたのだった。
一通りの事実関係が報告されると、無機質な白い部屋で、
二人はセント・シスター・ケイから直接質問される。
この場で二人のペナルティが決定してしまうのだった。

「それでは、ノゾミは規則を破った事は、仕方ないと考えるのですね?」

丁寧な言葉使いではあったが、セント・シスター・ケイの口調は厳しい。
マリーにとってみれば、彼女は雲の上の存在に他ならない。
こういった場所でなければ、口をきく事も許されない偉い人なのである。
マリーは極度の緊張で胃が痛くなっていた。

「はい」

ノゾミが信念を持って頷くと、横にいたマリーが小突いた。
マリーとしては、今回は連帯責任という事にし、
地域移動で処分を軽くさせようと考えていたのである。
ノゾミが素直に答えてしまうと、その目論見が水の泡だ。
171 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時35分01秒
(何考えてんのよー!思い余ってやっちゃった事にするの!)

マリーはノゾミと離れたくなかったのである。
こんな問題を起こしていたのにもかかわらず、
マリーはノゾミと一緒にいたかったのだ。

「そうなると、重いペナルティを課す事になりますね。何か言いたい事は?」

セント・シスター・ケイに訊ねられると、
ノゾミは自分が思っている事や事実を話し始める。
それは事前にマリーから聴取した内容とは違っていた。

「ですので、マリーさんに落ち度はありません。全て私の責任なのです」

ノゾミの言う話は真実であるから、誰が聞いても自然であった。
虚偽の証言をしたマリーは、小さい身体を更に小さくしている。
セント・シスター・ケイは、二人を交互に見ながら溜息をつく。
マリーの小賢しい作戦など、とっくにお見通しなのだった。

「判りました。それでは、ノゾミは二千年間、再教育を受けて貰いましょう」

再教育送致期間は、長くても百年と言われていた。
本来、再教育学校は、問題を起こした死神や天使の、
期間限定収容施設だったのである。
ところが、ノゾミに課せられた期間は二千年。
これまでに、これほど長期間を課せられる者はいなかった。
172 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時35分50秒
「復帰の方法は、こちらで検討します。次にマリーですが・・・・・・」

マリーへのペナルティとなると、ノゾミが黙っていなかった。
マリーはいわば被害者であるのに、それでもペナルティが必要なのか。
ノゾミはセント・シスター・ケイを祈るように見詰めた。

「マリーの監督不行き届きは否めません。よって、極東の病死者担当を命じます」

当時の極東では、現中国こそ都会ではあったが、
他は原始時代に近い僻地であった。
こんな場所に飛ばされるのは、かなりのペナルティである。
だが、マリーは虚偽の証言をしたのだから、本来なら死神失職だ。
それを転勤だけで済ましたのだから、セント・シスター・ケイも、
緩いペナルティにしたのだった。

「それではノゾミ、あなたに羽根は必要ありません」

セント・シスター・ケイが言うと、ノゾミの背中から羽根が抜け落ちた。
これでノゾミは天使という身分ではなくなったのである。
そのショッキングな姿に、マリーは思わずノゾミを抱き締めた。

「ノゾミ、二千年経ったら必ず逢おうね」

こうしてノゾミは再教育施設に監禁され、マリーは極東へ飛ばされた。
173 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時37分14秒
 再教育施設での生活は、ノゾミにとっても良い結果となった。
絶えず新しい天使や死神が再教育や研修に訪れ、退屈はしない。
それどころか、色々な仕事をしている連中と会って話をし、
冷静に世界を見る事が出来たのであった。

「ノゾミ、恩赦が出ましたよ」

面会に来たセント・シスター・ケイは、ノゾミの恩赦を伝えた。
西暦一九八七年。ノゾミは予定よりも五十年早く施設を出る事が出来る。
これで晴れて天使に戻れると思っていたのだが、
セント・シスター・ケイは、新たな条件をつけたのだった。
174 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時37分52秒
「あなたは人間として十五年と三百六十四日暮らしなさい。
そして最後の四ヶ月は、実際に人間としてホームステイして貰います」

セント・シスター・ケイは、ノゾミを少女の姿に変えてしまった。
あと、十五年と三百六十四日を、この姿で無事に過ごせば、
晴れて成体。つまり天使になる事が出来るのだ。

「言っておきますが、人間など儚いものです。耐えられますか?」

セント・シスター・ケイの言う事であれば、自信が無くても肯定するしか無い。
セント・シスター・ケイは質問形を使うが、それは誰が聞いても命令であった。
ノゾミから希美となった彼女は予定通り、成体になる四ヶ月前になると、
ある理由からセント・シスター・ケイが選んだ看護師のところへ送り込まれたのだった。
175 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月16日(日)19時41分48秒
今宵はこのへんで失礼致します。
176 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時18分19秒
〔希美の決意〕

 希美の話は三時間に及んだが、安倍に理解出来る話では無かった。
いくら希美が堕天使を名乗ったところで、人間と何ら変わらない。
確かに不思議な少女ではあったが、希美が天使である証拠が無いのだ。
希美はリュックサックから、古い木製の十字架を取り出す。
当時の人間のためを思ってジーザスを助けたのだが、
それが悲惨な結果になろうとは、希美も思っていなかった。

「そんな話が信じられるわけないっしょ」

希美が嘘をつくとは思えない。しかし、あまりにも常識外れだった。
安倍としても希美の話を信じてやりたいが、確固たる証拠も無い。
だが、希美の微笑みは、まさに天使のそれである事は事実であり、
安倍は半信半疑で話を聞いていた。

「話だけでは信じて貰えないれすよね。それじゃ、これでは?」

希美は安倍を思い切り殴った。
無防備だった安倍は、椅子から転げ落ちて悲鳴を上げる。
親にすら殴られた事の無い安倍は、動揺して狼狽していた。
177 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時19分04秒
「な・・・・・・何て事するべさ!・・・・・・あれ?」

確かに殴られて吹き飛んだのだが、安倍は全く痛みを感じていない。
いくら小柄な少女であっても、あれだけ渾身の力で殴られれば、
安倍の顔面に形容し難い、凄まじい痛みが襲って来る筈だった。
大きな音が安倍の耳に残っており、殴られたのは間違い無い。

「どうしたんだべ・・・・・・ののちゃん!」

見る見る希美の頬が腫れ上がり、鼻血を出しながら床に座り込んでしまう。
慌てた安倍は希美を引き起こし、鼻血の処置を始めたのだった。
安倍には何が何だか判らない。なぜ、自分を殴った希美が鼻血を出しているのか。
だが、希美の鼻血の処置をしていると、次第に判って来た。

「判ったれしょう?これが天使の力なんれすよ」

安倍の痛みとショックを、全て自分のものにしてしまった。
それを知った安倍は、驚愕のあまり軽い貧血を起こしてしまう。
希美が天使である証拠は無いが、超能力を持っているのは事実である。
あさ美が背中の痛みを訴えた時、希美は自分に痛みを移したのだ。
それでモルヒネが少なくなっていた理由も判る。
背中の激痛に耐えられなくなった希美が使ったのだろう。
178 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時19分42秒
「わ・・・・・・判ったけど、何でののちゃんは、なっちに嫌いになって欲しいんだべか?」

鈍い安倍の事であるから、希美の考えている事が判らない。
安倍は首を傾げながら、希美の鼻に脱脂綿を詰めた。
希美は安倍に抱き付きながら、自分の気持ちを話して行った。

「あさ美ちゃんを助けたいのれす。ののがやれば、あさ美ちゃんの心臓を治せるのれす」

希美は自分の健康な心臓と、あさ美の死にかけた心臓を交換しようとしている。
あと百日経って以前の姿(成体)になれたとしたら、とりあえず何も問題は無い。
だが、今の状態で心臓を取替えようものなら、希美は恐らく死んでしまうだろう。
希美は大好きな安倍を悲しませたくなかったのである。
そういった理由で、希美は自分から嫌われるような行動をとっていたのだ。

「だって、あさ美ちゃんの心臓は、もうすぐ止まっちゃうんだよ」

まだ、十六時間以上の余裕がある。
その間に、希美は心臓を交換する必要があった。
シスターマリーが感付けば、絶対に阻止するに決まっている。
したがって、シスターマリーが現れる前に、
互いの心臓を交換をしなくてはならなかった。
179 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時20分36秒
「それは・・・・・・」

希美は安倍に告げる事を躊躇した。
彼女にしてみれば、自分が姿を消す事こそ、
安倍が最も悲しむのだと痛感していたのである。
あさ美を助ければ、もう安倍に逢う事は出来ない。

「ののちゃん、辛いだろうけど・・・・・・」
「なっちさん!」

希美は安倍に抱き付き、大好きな人の感触を確かめた。
すでに、希美は安倍に告げずに、あさ美を助けるつもりでいる。
天使が死んだら、どうなるのかは判らなかったが、
希美はそれが正しいと信じていたのだった。
180 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時21分16秒
 大部屋の端にあるベッドでは、シスターマリーが目覚めるところだった。
このところの忙しさに加え、飯田と会話して疲れが増幅したのである。
普通の人からは見えないので、シスターマリーは呑気に眼を覚ました。

「ふぁ〜、よく寝たなー」

彼女は起き上がると、大きく伸びをして眼を擦った。
病室の窓からは柔らかな春の陽が差し込んでおり、
この季節にしては、とても暖かそうである。
昨夜までの雨が嘘のような晴天となっていた。

「・・・・・・一時か」

シスターマリーは時計を見上げて、八時間は眠った事を知る。
これだけ寝れば、さすがに疲れも吹っ飛んでおり、
シスターマリーは上機嫌で窓の外に眼をやった。

「あげる」

シスターマリーが振り向くと、そこには幼い少女が立っていた。
少女は手作りらしいクッキーを、シスターマリーに差し出している。
幼い子供の場合、見えてしまう子も少なくはない。
それがどういったわけか、成長するにつれ、見えなくなってしまうのだ
181 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時21分53秒
「いらない」

シスターマリーが苦笑しながら断ると、少女は首を傾げながら戻って行った。
その少女は母親と一緒に、若い女性の見舞いに来ているらしい。
少女が戻って行って母親に抱きつくと、保田という入院患者が眼を剥いた。

「あ・・・・・・あそこのベッド、この間まで髪の長い子がいたの」

シスターマリーが寝ていたベッドは、個室に移されるまで、
先日、死亡した里沙が使用していたのである。
保田は少女の仕草を見て、見えているのだと感じた。
シスターマリーが見えない彼女にとっては、
そこにいるのが里沙であると早合点したのである。

「・・・・・・里沙じゃねーよ。オイラだよ」

シスターマリーは苦笑しながら抗議してみるが、
一般人には彼女の姿も見えないし、声も聞こえない。
それだからこそ、死亡者案内人が勤まるのだった。

「どうでもいいけどさー、あんた、どこにでもいるね」

シスターマリーは首を鳴らしながらベッドから降りると、
屋上で日光浴でもしようと思い、意気揚々と大部屋を出て行った。
182 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時22分43秒
シスターマリーは、病院内の各所で残留思念を感じている。
霊能者の言う『霊』とは、残留思念である事が多かった。
死亡者案内人の数が増えているため、現在ではほぼ全員、
死後も現世に残るといった事は無くなっている。

「残留思念か。こいつも厄介なんだよね」

残留思念は、とても扱い難かった。
なぜなら、自分勝手に暴走してしまうからだ。
だからこそ、中途半端な霊能者が見誤ってしまう。
シスターマリーには関係の無い事ではあったが、
混同されてしまうのには憤りを感じていた。

「やっぱり暖かいよー!」

シスターマリーは嬉しそうに屋上へ走り出た。
屋上の床にある水溜りでは、スズメが気持ちよさそうに水浴びをしている。
本当の春が、すぐそこまでやって来ている気配を感じた。
183 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時23分13秒

「昨夜はここで、パルプンテに遭っちゃったんだよなー」

シスターマリーは苦笑しながら、少し湿ったベンチに腰を降ろした。
南からの暖かい風が、かすかに潮の香りを運んで来ている。
三寒四温というように、この時期は寒さと暖かさを繰り返して、
次第に春の陽気になって行く季節なのであった。

「ノゾミと何を話してたんだっけ・・・・・・」

シスターマリーは、昨夜の様子を思い出してみる。
希美は安倍に嫌われようと、必死で嫌な子を演じていた。
ノゾミらしくない態度に、シスターマリーは話を聞こうと思ったのである。
そこを飯田に邪魔されたのだった。

「何でノゾミは嫌われようと・・・・・・まさか!」

シスターマリーは慌てて立ち上がると、
泣きそうな顔で屋上を走り去って行った。
184 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時24分30秒
 あさ美の部屋では希美が、いよいよ心臓を交換しようとしていた。
瀕死のあさ美を救うには、もう、この方法しか残されていない。
希美があさ美の胸に手を当てようとした瞬間、
凄まじい勢いでシスターマリーが飛び込んで来た。

「シスターマリー・・・・・・」

シスターマリーは息を切らせながら、希美をあさ美から引き離した。
そして窓際まで連れて行くと、真剣な顔で希美に話を聞いたのである。
ここまで真剣なシスターマリーの顔は、希美にしては久し振りだった。

「何を考えてるのよ。また変な気を起こすんじゃないでしょうね」

人間の死を変更してしまう事は、最もいけない事とされていた。
死ぬはずの人間が死なないという事は、来世が存亡の危機に立たされる。
来世の必要が無くなってしまったら、死神も天使も必要ないのだ。
必要と共に創造された死神や天使は、その必要がなくなった時、
『無』へと戻って行くしか無いのである。
185 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時25分22秒
「マリーさん、お願いなのれす。あさ美ちゃんを助けたいのれす」

「やはり」とシスターマリーは思った。
希美は本気であさ美を助けようとしている。
彼女には前科があり、今は仮出所中の身だ。
ここで大きな問題を起こせば、生半可な処分は来ないだろう。
それ以前に、仮出所中の天使が、深刻な病気を治せるのか。

「あんた知らないの?成体になる前は、人間と同じなんだよ」

希美があさ美の状態になってしまったとしたら、
待っているものは、間違いなく『死』であった。
永遠の命を保障されたのは天使のノゾミであり、
決して人間の希美ではない。

「人間と同じでも、あんたは天使でしょう?来世に行けると思ったら大間違いなんだよ!」

希美が死んでしまったら、全ての意識が『無』になって終わるのだ。
それは親友であるシスターマリーにとっても、耐えられない事である。
希美の希望は叶えてやりたいが、親友を失うくらいだったら、
恨まれようが憎まれようが、何としてでも阻止したかったのだ。
186 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時26分04秒
「あさ美ちゃんが頭もいいし、人のためになる人なのれす。
ののは頭も悪いし、人の役にになんか立たないのれす」

希美の話は判るが、規則を破る事は出来ない。
とにかく、シスターマリーは何としてでも説得しようとした。
最悪は希美と闘う事になるかもしれないが、
それはそれで仕方ない事である。

「忘れたの?あんたがジーザスを助けてどうなった!」

救世主の復活は、全国に信者を増やす結果となった。
やがて、宗教は権力に利用されて行き、新しい解釈へと変わって行く。
解釈の仕方が違うだけで、民族の対立も手伝い、殺し合いまで発展して行った。
カソリックとプロテスタントの対立は、現在に至るまで続いている。
中世のヨーロッパでは、魔女狩りという名の弾圧が行われ、
数万人の罪も無い人間が殺された。
そして今、キリスト教原理主義者が一国の大統領となり、
異教徒を殲滅する第一歩を踏み出したのである。
187 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時26分36秒
「あの時は、ジーザスが必要だったのれす」

希美自身、ジーザスは好きになれなかった。
しかし、当時の人間が彼を必要としていたのである。
だからこそ、希美は重い刑を甘んじて受けたのだ。
すでに、真の意味でのキリスト教は姿を消し、
都合良く解釈されたものだけが残っている。
それは、日本においても、同じような事が起こっていた。

「覚えてる?ジーザスは自分が処刑されるってのに笑ったんだよ。
あれは、自分が助かるって事を、最初から知ってたんだ」

マリーとノゾミは、ジーザスの手の平の上で転がされていたのだった。
その事に気付いたマリーは、担当の死神を説き伏せ、ジーザスに引導を渡したのである。
マリーの越権行為には、セント・シスター・ケイも同情的で、口頭注意だけだった。

「シスターマリー、今回はジーザスの時と違うのれす」

ジーザスは生神として崇められたが、あさ美は奇跡で終わる。
人間達に対する影響は、ごく小さなものでしかないはずだ。
間違っても権力に利用され、大勢の人間が死ぬ事にはならない。
ジーザスの件では、さすがの希美も反省したのだった。
188 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時27分19秒
「絶対に駄目!」

シスターマリーが凄まじい形相で希美を睨むと、
快晴だった空に暗雲がたちこめ、夜のような暗さになってしまう。
これがノゾミと別れてから、二千年近くかけて習得した、
シスターマリーの実力であった。

「曇って来たね〜」

場違いな声がして飯田が顔を覗かせた。
シスターマリーを眼が合うと、飯田は嬉しそうに微笑む。
だが、シスターマリーは全力で希美を阻止するところだった。

「マリーちゃん、こんなとこでケンカしちゃ駄目だよ」
「飯田さん、なっちさんを呼んで来て!」

シスターマリーは、希美が死に難い状況を作ろうとする。
大好きな安倍の前では、希美だって死に難いだろう。
それを察した希美は、あさ美に駆け寄ろうとして、
シスターマリーに抱き止められた。
189 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時27分51秒

「い・・・・・・飯田さん、早く!」
「判った!」

小柄なシスターマリーでは、希美を阻止するのにも限界がある。
飯田は只ならぬ気配を察知し、急いで安倍を呼びに行った。
シスターマリーのやり方はフェアではなかったが、
何としてでも希美を消滅させたくなかったのである。

「シスターマリー、汚いのれす」
「絶対に・・・・・・駄目ー!」

シスターマリーが怒鳴ると稲妻が光り、大音響で雷鳴が轟いた。
190 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月21日(金)18時29分05秒
今宵は、このあたりで失礼致します。
191 名前:55 投稿日:2003年03月22日(土)22時45分08秒
更新乙です。
しかし、シスターマリーと話をしてる飯田さんは
周りから見たら独り言を言ってるように見えるんですよね・・・。
違和感はないんだろうな・・・・やっぱり。
192 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時30分03秒
>>55さん
ついに終わりの時が来ました。
更新が遅くてすみません。
193 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時31分40秒
〔別れ〕

 シスターマリーは希美を阻止するが、いかんせん体格が違う。
希美は少しずつ、あさ美に近付いて行って手を伸ばした。
そこへ、安倍と中澤、そして飯田が駆け込んで来た。

「ののちゃん、何してるんだべか?」

シスターマリーが見えない安倍は、不思議そうに訊いた。
隣にいる中澤も、妙な恰好の希美に首を傾げている。
シスターマリーの姿が見えているのは、飯田だけなのであった。

「何か凄く真剣だし、圭織は困っちゃうな」

どちらに味方していいか判らない飯田は、
安倍と中澤の手を握って『力』を伝えてみた。
すると、二人の眼にシスターマリーが見えたのである。
飯田の持つ霊視能力が、二人に伝達されたのだ。
194 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時32分14秒
「ののちゃん、ケンカしてるんだべか?」
「っていうか、あんた誰や?」

安倍と中澤はシスターマリーを見て考え込んだ。
こんな小柄な女が、この病院にいたのだろうか。
それよりも、ここは瀕死のあさ美がいる病室である。
こんなところで騒がれては迷惑だった。

「二人とも、やめるべさ」

安倍がシスターマリーに近付いた時、彼女は真剣な顔で安倍に言った。
その真剣で悲壮感の漂う声は、安倍に耐えがたい不安を与えたのである。
それは飯田や中澤にしても同じ事だった。

「なっちさん!ノゾミを押さえて!早く!」

シスターマリーは、安倍の脳内に希美の計画を送り込んだ。
こういった逆エスパーは、彼女が死者を説得して行く上で習得したものである。
希美が考えている事を理解した安倍は、希美を抱き締めようとした。
195 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時33分03秒
「えっ?」

その瞬間、安倍は見えない力に押され、尻餅をついてしまった。
飯田と手を離すと、一瞬にしてシスターマリーが見えなくなる。
しかし、飯田が安倍を引き起こすと、再び見えるようになった。

「ノゾミ!頼むから・・・・・・オイラ、寂しいの嫌なんだよー!」

凄まじい雷が鳴り、滝のような雨が降って来た。
安倍と飯田、中澤が希美を引き離そうとしても、
やはり、見えない力に押し戻されてしまう。
安倍は泣きながら、何度も希美に抱きつこうとする。
その都度、弾き飛ばされてしまうが、安倍は諦めなかった。

「なっちさん、ごめんなさい」

中澤と飯田は気のせいか、希美の身体自体が輝いて見える。
安倍は何度も抱きつこうとするが、希美の放つ光に阻まれ、
決して彼女に触れる事は出来なかった。
そんな必死な安倍を見て、希美は悲しそうに謝る。
大好きな安倍が泣きながら抱き付いて来るのだ。
希美は手を広げて受け止めたかったに違いない。
196 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時33分41秒
「ノゾミ!判ってよー!」

シスターマリーは泣きながら希美に抱きついた。
彼女には最後の武器がある。
雷を誘導する術を会得していたのだった。
希美に落雷させれば、何とかなるかもしれない。
仮に落雷で彼女が重傷を負ってしまっても、
ここは病院であるから、手当ては迅速に行えた。

「雷神よ!希美に稲妻を放て!」

シスターマリーが大声で怒鳴ると、凄まじい爆発音と共に、
眼が眩むような激しい光が窓から入って来た。
あさ美の状態をモニターする機械がショートし、
夥しい火花を散らして壊れてしまう。
病室の蛍光灯も点滅を始め、火花が降って来た。
激しい光は希美とシスターマリーを包み、やがて拡散して行く。
希美は済まなそうな顔でシスターマリーを見ていた。
197 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時34分17秒
「ごめんなさい、マリーさん」

もう、誰にも希美は止められなかった。
成体になる前の希美は中途半端な状態だったが、
天使としての力に加え、人間としての物理的な力を持っている。
この状態では、シスターマリーですら、手も足も出なかった。

「ノゾミ・・・・・・」

希美が右手をあさ美の胸に宛がった。
すると、彼女の手の周りに球体の小さな光が幾つも現れ、
次第に合体しながら大きな光になって行く。
その時、中澤と飯田は確かに見ていた。
あさ美の身体から赤い光が希美の身体に入って行き、
換りに希美の身体から青い光があさ美の身体に入って行く。

「こ・・・・・・これは何や!」

中澤にしてみれば、初めて見る光景である。
驚いて腰を抜かす寸前だった。
だが、飯田は冷静に事態を見守り、
どういった事であるかを中澤に説明する。
198 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時35分05秒
「ののちゃんは、あさ美ちゃんの悪いところを吸い取って、
換りに健康なところを送り込んでるの」

普段は壊れる寸前の飯田だったが、こういった時には不思議と頼りになる。
霊視能力があるだけではなく、どうすればいいのかを無言で伝えていた。
暫くすると、二人の身体から光が消え、希美は嬉しそうに微笑みながら倒れた。

「ののちゃん!」

安倍が抱き締めると、希美は薄目を開けて微笑んだ。
その顔は、誰が見ても命が尽きようとする顔である。
安倍は涙を零しながら、希美の頭を撫でた。
あさ美を助けるために、自らの命を引き換えにした希美。
それは、天使の献身的な救済本能なのだろうか。

「この馬鹿!・・・・・・そうだ!」

シスターマリーは背後に回り込むと、希美の背中に手を突き立てた。
これを見た中澤は、シスターマリーを阻止しようとするが、
真剣な顔の飯田に引き戻されてしまう。
シスターマリーの手は、希美の体内へと入って行った。
199 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時36分11秒
「何や?・・・・・・うっ!」

シスターマリーが何かを探って手を引き抜くと、
そこには血塗れの羽根が握られていた。
あと百日経つと、希美に生えて来るはずの羽根である。
彼女の体内では、着実に天使になる準備が進んでいたのだ。

「間に合え・・・・・・間に合えー!」

シスターマリーは両方の翼を引き出すと、必死になって羽根を拭う。
羽根が乾燥して動くようになれば、希美が助かるかもしれないからだ。
これではシスターマリーも共犯になってしまうが、希美を失うよりはいい。

「まさか!・・・・・・ののちゃん、ほんまに天使やったんか!」

シスターマリーが必死に羽根を乾かそうとするのと裏腹に、
希美の身体は金色の光を放ち始めていた。
その金色の光は煙のように、空中へ消えて行く。
希美の消滅が始まったのである。
200 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時36分59秒
「なっちさん・・・・・・逢えて・・・・・・よかったのれす」

希美の顔色が悪くなって行き、呼吸はとても苦しそうである。
安倍は泣きながら頬擦りをし、希美が死なないように願った。
だが、肉体的に人間である希美は、もう心臓が停止する寸前である。
シスターマリーは、べそをかきながら、必死に希美の翼を動かそうとした。

「ののちゃんが死んじゃったら、なっちはどうすればいいの?」
「動け!動け!動けー!」

希美の生体エネルギーは、もう皆無になっていた。
喋るのですら厳しい希美に、翼を動かす力が残っているとは思えない。
そんな三人を見る中澤は、溢れる涙を堪えきれなかった。
このまま希美が死んでしまったら、彼女は何のために生まれて来たのか。
あさ美の身代わりに死ぬという目的だけに存在するのであれば、
そんな悲しい事は無かった。

「ごめんなさい・・・・・・マ・・・・・・マ・・・・・・」

希美はそれっきり、二度と眼を開ける事は無かった。
号泣する安倍は、希美を抱き締めていたが、
金色の光は一段と強くなって行く。
201 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時38分01秒
「なっち!」

飯田と中澤は、安倍に駆け寄った。
希美は純白の翼を広げたまま、つに力尽きてしまったのである。
その顔は苦悩に満ちたものではなく、とても嬉しそうだった。
あさ美を救えたという充実感と、大好きな安倍に逢えた幸福感。
あたかも、それを表しているような顔だった。

「じょ・・・・・・冗談じゃねーよ!」

シスターマリーは泣きながら窓から空を見た。
暗雲がたちこめた空からは、滝のような激しい雨が降っている。
親友のノゾミを待って約二千年。心待ちにした結果がこれだ。

「ノゾミは・・・・・・仲良しの子を救おうとしただけじゃねーか!
規則?・・・・・・そんなもんクソくらえ!死神なんて辞めてやらー!
セント・シスター・ケイのバカヤロー!」

希美の身体は次第に小さくなって行き、やがて、全てが光になって消えてしまった。
安倍の手の中で希美が消滅してしまい、彼女はショックのあまり気を失ってしまう。
そして安倍の手の中には、古い木製の十字架と、純白の羽根が一本だけ残っていた。
こういった場合、シスターマリーは全員の記憶を消さなくてはいけない。
希美という少女が存在した痕跡を、全て無くさなくてはいけないのだ。
202 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時38分57秒
「飯田さん、ノゾミの記憶、無くした方が幸せだと思う」

シスターマリーは、顔色が戻ったあさ美の額に指を当てた。
これで、あさ美から希美の記憶は消えてしまう。
余計な記憶は悲しみを残すだけである。
飯田にも、それは充分に判っていた。

「それじゃ、消すよ」

シスターマリーが飯田の額に指を当てると、
彼女の脳内に凄まじい威力の念が入って来た。
シスターマリーは、これまでにこんな強烈な念を受けた事が無い。
脳がガタガタになりそうなショックを受け、思わず座り込んでしまった。

「判ったよ。飯田さん」

シスターマリーは呪文を唱え、希美が存在した痕跡を消し去った。
そして、全ての作業が終わると、彼女は部屋の隅に座り込んでしまう。
親友を失ったシスターマリーは、未来永劫、一人になってしまった。
203 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時39分37秒
「あれ?あさ美の部屋やな。顔色がええやないの」

中澤が覗き込んだ瞬間、あさ美は眼を開けて起き上がった。
そして、喉に入った呼吸器を外してくれるように身振りで示す。
あれだけ重体だったあさ美が、起き上がって意思表示したのだ。
中澤は慌てて病室を飛び出して行った。
飯田は気を失った安倍を抱え上げ病室を出て行こうとする。
が、シスターマリーと視線が合うと、彼女は親指を立てて微笑んだ。

「飯田さん、時々凄いな」

シスターマリーは窓の外へ眼を移した。
雨はあがり、雲の隙間から一筋の光が差し込んでいる。
この光こそ、シスターマリーが呼び戻される合図だった。
死神としての存在こそが彼女の全てであるのだから、
それを拒否した場合には『無』に返るしかないのである。
寂しい思いを続けて行くよりも『無』になった方が、
彼女にとっては幸せであるかもしれない。

「オイラも消えるのか。そいつもいいかもね。へへっ」

シスターマリーは光が差し込む場所へ歩いて行った。
204 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時40分31秒
〔エピローグ〕

「なーんて話だけどね。市井は信じ・・・・・・眠ってるべさ」

市井はすでに、リズミカルな寝息をたてていた。
空想のような安倍の話が退屈だったのかもしれないが、
彼女は不満を感じながらも、疲れるまで働いていたのである。
何事にも一生懸命な市井であるから、安倍も可愛がっていた。

「最近の子はドライだべねえ」

安倍が溜息をつくと、腕時計のアラームが鳴った。
午前三時。安倍はベッドから降りると、休憩室から出て行く。
ナースステーションにいた中澤が、時計を見上げた。

「もう三時なんやね」
「それじゃ、行って来るべさ」

安倍は白衣のまま、階段を降りて行った。
一階の各医科の前を通り、奥へ行くと、
この時間であるのに煌々と明るい部屋がある。
安倍はその部屋のドアを、ノックしてから開けた。
205 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時41分07秒
「圭織、もう来てたんだべか?」
「アハハハハ・・・・・・遅いよ。なっち」

ここは病院内にある託児所であった。
安倍は昨年、ある男性と恋に落ち、
子供を宿したのである。
そして先々月、女児を出産していた。
男性は安倍から去って行ったが、
彼女は産む事にしたのである。
同じ頃、飯田も出産したのだが、
詳しい話は誰も聞いていなかった。

「はい、おっぱいの時間でちゅよ」

保育士の保田が安倍の娘を抱いて来た。
深夜の授乳は肉体的にも精神的にも大変だが、
不思議なもので、母親はこの時期、とてもタフになる。
飯田の娘は、あまり吸いが強くない。
それが原因なのか、とても小さな子だった。
206 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時42分10秒
「真里ちゃん、もっといっぱい飲まないと、大きくなれないでちゅよ」

授乳の途中で眠ってしまった娘に、飯田は困ったように声をかけた。
飯田の娘とは好対照に、安倍の娘は、やたらと食欲がある。
安倍は必死に吸い付く、ちょっと垂れ目の娘が可愛くて仕方ない。

「いっぱい飲むんだよ。希美ちゃん」

飯田がシスターマリーに伝えた事。
それは、自分と安倍だけは記憶を残して欲しいという事だった。
なぜならば、近い将来、飯田はシスターマリー、
そして安倍が希美の生まれかわりを産む事を悟ったからである。
そのために飯田と安倍が存在しているのなら、それはそれで構わなかった。

(人間かよ。まいったなー)
(いいじゃないれすか。結果オーライ)




――――――――――――― 終 ―――――――――――――――
207 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月22日(土)23時52分35秒
こんな拙い物語を最後まで読んで頂きまして、本当にありがとうございます。
試行錯誤した割に、こんな物語になってしまい、申し訳ありません。
プロットは自信があったのですが、とにかく出来が悪くてすみません。
短編集へのリベンジにも失敗し、鬱になってしまいます。
208 名前:名無しさん 投稿日:2003年03月23日(日)01時15分16秒
完結していただいてありがとうございました。
とてもよかったです。言葉が足りなくてすみません。
209 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年03月24日(月)21時25分56秒
>>208
ありがとうございます。
もう少し書き様があったと思うのですが、これが私の実力なのでしょう。
書きたいだけでは書けないという事が判りました。
多くの素晴らしい作品の中で恥ずかしい限りですが、
笑い飛ばして頂ければ幸いです。
210 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月03日(土)19時32分33秒
おもしろかったよ。ありがとう

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