ワールド・アトラス 2
- 1 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)01時47分07秒
- パラレルです。sageでいきます。お付き合いくださる方は、どうぞよろしくです。
前スレ:風板「ワールド・アトラス」
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/wind/1044076263/
- 2 名前:パート1-9 投稿日:2003年02月26日(水)01時48分37秒
- ◇
(さぁ おいで 「こっち」へ)
――あなたは誰?
(わたしは 誰でも ない)
(そして 誰でも ある)
(わたしは あなたでも ある)
――ワケ分かんないよ、そんなんじゃ。
――じゃあ、「こっち」って、どこのことなの?
(あなたが いるべき ところ)
(あなたが ほんとうに いるべき ところ)
――いるべき、ところ…?
(あなたは 覚えていないだけで ほんとうは 知っている)
――知ってる? わたしが…? なにを知ってるっていうの…?
(もっと 深く――)
(自分の なかの もっと 深くへ 潜って)
(そうすれば 思い出せるはず)
(あなたは ほんとうは 誰なのか)
(あなたは ほんとうは 何者なのか)
(あなたは ほんとうは なにを為すべきか)
- 3 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時49分09秒
- 目覚し時計というものは、これまで、この世で最も忌むべき存在のひとつだと思っていたが、
最近になって、その考えを改めるべきかもしれないと思い始めていた。なぜなら、自分を間違いなく
眠りの海から現実の地上へと引き揚げてくれるからだ。
まただ。またあの夢だ。
気持ち悪い夢――。
胸がざわざわする嫌な感じの夢――。
コンサートの際中に倒れたあの日から、身体のなかに潜んでいたなにかのスイッチがオンになったように、
石川は毎晩ずっと同じ夢を見続けている。
色彩のシャワーと心地いいノイズのなかで自分を呼ぶ「声(?)」は、
確実に自分をどこかへと誘おうとしている。
夢を見ても、たいていは目覚めとともに忘れてしまうのだが、この夢だけは、起きたあとも
じゃりじゃりと妙な舌触りを残す。おまけに、ビデオテープを巻き戻して見るようにいつも同じものだから、
そのたびに夢の輪郭がくっきりと鮮明になっていく。
- 4 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時49分41秒
- はじめのうちは、どうせ見せられるなら、たとえば英語でも話してくれれば、
この上ない効果的な睡眠学習になって、英語がぺらぺらになれるのに、などと呑気に思っていたが、
さすがにこう毎日となると、辟易である。さらに問題なのは、夢の輪郭が鮮明になっても、
その意図するところは依然として不明瞭なままであることだった。
それから顔を洗いに2階の洗面所に立ち、鏡に映った自分に向かって呪文のごとく唱えるのだ。
わたしは石川梨華だ。
わたしは、石川梨華でしかない。
なにが自分を漠然とした不安に駆り立てるのか分からないが、とにかく言い聞かせる。
ジャージを脱いで消臭スプレーを腋の下に吹き付け、キャミソールを着て制服に袖を通す。髪をとかし、
鞄を持って階段を下りるときには、いつものように途中で一瞬足を止め、親に会う「準備」をする。
ダイニングでは、母親ひとりがテーブルに着き、バターを載せたトーストを口にしていた。
父親は昨日から1週間のアメリカ出張なのだ。3人きりの家族だけに、
ひとり抜けただけで、その食卓の風景はやけにすっぽ抜けた印象を伴って石川の目に映った。
- 5 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時50分26秒
- テレビでは、いつもの番組で朝のニュースをやっていた。
「ママ、おはよう」
「あぁ、おはよう、梨華」
いつもと同じように、梨華がテーブルに着くのを見計らっていたかのように、
トースターからいい具合に色付いたトーストが飛び出す。
番組が芸能コーナーになり、いつものように刈部が上機嫌そうな笑顔で画面に登場する。
『おはようございます。今日の話題はこちらのVTRからご覧頂きましょう』
「今日は学校終わったら、いったん帰ってくるんでしょう?」
母親が尋ねた。
『後藤真希さんのファーストコンサートツアーが今日、千秋楽を迎えました』
なぜか嬉しそうに話す刈部のあと、ステージ上でスポットライトを浴びて歌う後藤の姿が映し出される。
石川は液晶テレビに目を遣りつつ、トーストにバターを塗りつけながら、
「うん、掃除当番だから、たぶん5時過ぎだと思うけど」
――そうそう、たしか、この曲のときに倒れちゃったんだよね…。
後藤の歌い踊る姿を見ていて不意に思い出されたのは、夢のなかでいつも囁いてくるあの声だ。
(あなたは ほんとうは 誰なのか)
(あなたは ほんとうは 何者なのか)
- 6 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時51分23秒
- 「できるだけ早く帰ってらっしゃい。ドレスなんて着て外出なんて、初めてでしょ?」
「うん。試着のとき、けっこう掛かったもんね」
「ついでだから、写真なんて撮っちゃおうかしらね。娘の艶姿、パパも見たかっただろうし」
母親が楽しそうに言った。
そんな母親の表情を見て、石川は言った。
「ママ…わたしのママは、ママだけだからね」
そう言いたかった。確認の儀式のように。
唐突な石川の言葉に、一瞬呆気に取られたあと、なぜか、どこか申し訳なさそうな笑顔で、
「分かってるわよ、梨華」と、母親は笑う。
今日は「テーブルマナー」の特別講義である。夕方、学校に集まり、チャーターしたバスで
ホテルに向かうことになっていた。基本的に服装は自由なのだが、ドレスアップするのが
しきたりのようになっていて、皆、自分の家庭のステータスをドレスとして飾り立て、しのぎを削るのだ。
- 7 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時51分57秒
- 教室に入ると、クラスメートの大半は大きなスーツケースやトランクを持ち込んで、
なかにはケースを開けて、そのなかにしまったドレスを早々と周囲にお披露目している生徒の姿もある。
柴田がすでに机に座り、いつものようになにかの文庫本に視線を落としていた。
石川は挨拶もせず、自分の――柴田のひとつ前の――席に座る。
このところ、朝、ホームルームが始まるまでの手持ち無沙汰さに困っていた。
例えば、今日、柴田の机の脇にはスーツケースが置いてあった。おそらく、今夕着るドレスが
入っているのだ。きっと、一流企業の社長令嬢に見合った素晴らしいドレスに違いない。
これまでなら、「どんなドレス?」と真っ先に話し掛けるところだろう。
毎日見る不思議な夢の話にしても、話していなかった。本当は柴田に絶対に話すところなのに。
石川と柴田がちょっとした冷戦状態に入り、もう2週間ほどになる。
- 8 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時52分27秒
- 発端は、吉澤と「たまたま」話す機会があったという柴田の忠告にあった。吉澤ってコとは、
あまり付き合わないほうがいい、と言うのだ。理由を尋ねると、
「あのコはなんだか嫌な感じがする」
そんな漠然とした理由を述べられたところで、石川が反発するのは目に見えていた。
恋は盲目だ。好きなひとをけなされるということは、
石川にとって、そのひとを好きになった自分をもけなされるのと同義なのである。
それでも、言葉を選びながらも柴田は散々説得を続けた。
「悪いこといわないから、もうよっすぃーと会うのは止したほうがいいよ」「あの目は、
どこか危険な感じがする」「向こうは、梨華ちゃんのこと、そんなに大切な友達と思ってないと思う」
そして、とうとう石川がキレた。
「もういいよ。しばちゃん、わたしのこと考えてくれてるって言うけど、なんも分かってくれてないじゃん」
- 9 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時53分09秒
- 以来、口をきいていない。柴田もしばらく様子を見ようと決めたのか、話し掛けてくることもない。
石川も頑固な性格が災いして、相手が詫びるまでは話し掛けない。お陰で、宿題は忘れずに
やってくるようになってしまったけれど。
携帯での通話時間は、柴田との通話が減ったぶん、吉澤との通話時間に費やされた。柴田とのことは
話さなかった。吉澤は今までどおり屈託なく接してくれたし、話していて楽しかった。何度かいっしょに
映画を観に行ったり、ショッピングに行ったりもした。
ただ、せいぜい“いいお友達”止まりである。第一、遊びに行くにしても、誘うのはいつも石川のほうで、
吉澤からは電話が掛かってきたこともない。
何度か、自分の想いを打ち明けてみようか、とも思った。しかしいつも、モラトリアムな性格を発揮してしまい、
“このままでいい”という気持ちが圧勝してしまうのだ。もしかして、向こうが自分の気持ちに
気づいてくれるんじゃ?と、虫のいいことも考える。
いっしょに楽しい時間を過ごし、家に帰ってから、以前に柴田にプリントアウトしてもらった
吉澤の写真を見て、会話のひとつひとつを反芻し、悦に入る。
それで、いいじゃないか。
- 10 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時53分40秒
放課後、いったん家に帰り、母親に手伝ってもらってドレスを着る。先日、両親とともに
デパートのなかに入っている専門店に行き、仕立ててもらったのだ。
オフショルダーで、トップとスカートがセパレートのクラシックなドレス。石川の細いウェストが
実に見事に全体を引き立てる。胸元には薔薇のコサージュがアクセントとして大きく咲いているが、
そのほかに無駄な装飾はない。生地であるベルベットの色はピンクにしようと思っていたが、
母親が、ピンクは、いまは着られるだろうけど、3年後は無理かもしれないわよ、と言うので、
ワインレッドのシックな仕上がりである。鏡に映してみると、もし明るい色だったら、
きっと自分の地黒がさらに強調されて悲惨だっただろうから、これで正解だったなぁと頷く。
――これ、コンセプトは“大人のプリンセス”ねっ。
鏡の前でくるりと回り、スカートの裾が優雅に翻るさまを見て、石川はひとり笑顔で悦に入った。
仕上がってからコンセプトを決めるのは、順番が間違っていないか、というツッコミはご法度である。
- 11 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時54分11秒
- 記念として、玄関のそばの花壇をバックに、母親に写真を撮ってもらってから、母親のオーバーオールを羽織り、
車で学校まで送ってもらった。さすがにこのドレスで自転車に乗って行くのは無理がある。
ドレスで着飾った少女たちがひしめいて、まるで絵の具のパレットのような観光バスの内部――。
それはなんとも奇妙な光景であった。それでも生徒たちは、
ふだんとまったく違うクラスメートたちの有り様に黄色い声を上げながら、楽しそうだった。
石川はそこそこ仲のいいクラスメートと、柴田もやはり誰かクラスメートを捕まえて隣の席に座った。
3つ先になる座席の背もたれの上に、柴田の黒い髪が見える。隣の子と話しているらしく、
なにか可笑しい話になったのか、黒い頭が大きく揺れて、背もたれの下に消えたりした。
これまでだって、人付き合いのいい柴田が誰とでもそんな風に楽しそうに話しているのは
別段珍しくもなかったが、いまは、ひと際寂しさを覚えた。
- 12 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時54分49秒
- 「ねえ、石川、どうしたの?」
背筋をやけにぴんと伸ばし、顎を逸らしたきりの石川の様子に怪訝なものを感じたのか、隣の友達が尋ねる。
「あ――ううん、なんでもない」
繕って笑顔で答えた。
「あのさ、あんた、柴田となんかあった?」
「え?」
「だって、あんなにいっつもベタベタして仲よかったのに、最近話してるトコ見たことないなぁって思って」
「そんなことないよ。べつに喧嘩なんてしてないし」
「ふーん、喧嘩してるんだ?」
「してないって言ったじゃない」
「こっちは『喧嘩してるの?』なんて訊いた覚えもないんだけどさ」
「………」
友達は「石川はウソついても、すぐに分かっちゃうから、将来、イロイロ苦労しそうだねー」と、
可笑しそうに笑ったあと、「なにが原因か知らないけどさー、ちょっと折れてやることも必要なんじゃないの?」
そう言われてもなお、石川は、わたしは悪くないのに、なんでわたしが?!と、
窓ガラスに映った自分の顔に向かって、べーっと舌を突き出した。
- 13 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時55分39秒
一行を乗せたバスが止まったのは、ホテル・ベイ・シェラードの前である。海外資本のホテルで、世界中の主要都市にメンバーホテルを持つ一流の老舗だ。Y市中央公園を囲む、
高層ビルがいくつか立ち並ぶ一角のなかでそのビルはずば抜けて高く、高級ホテルとしての威信を誇っていた。
大きな回転ドアを抜けると、3階までの吹き抜けの大きなロビーが広がる。
中央には漆黒のグランドピアノが置かれ、周囲には丸いテーブルがいくつも配置されている。時間が合えば、
生演奏を聞きながら喫茶を楽しむことができるのである。ホテルに入った頃にはすでに日は暮れていたが、
煉瓦造りのロビーには暖炉の火を思わせる暖かなライトアップが施され、品格と優しさを併せて演出していた。
ぞろぞろと並んでエスカレーターに乗り、向かった、3階にあるフレンチレストラン
「クゥールド・ド・ヴィー」は、200年程前にロンドンの街にできた、
元はフランスの田舎料理を食べさせる店を起源とする3つ星のレストランで、
ここは日本でふたつ目のチェーンになる。ロンドンの本店で修行した日本人が総料理長ということも
話題作りにひと役買い、開店した5年前にはグルメを扱う雑誌にしばしば取り上げられた。
- 14 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時56分17秒
- 木を基調にした温かい趣のフロアのキーワードは、「斜め」。あちこちに見える柱は斜めに立っているし、
天井と床の板張りの継ぎ目も斜めで、見る目を楽しませてくれる。老舗だからといって敷居を高くせず、
そうした遊び心も窺わせてくれるのも、この店の人気の秘密でもあった。
今日は、店のフロアの約半分を借り切っての贅沢な「講義」である。
予め前日にホームルームの時間を使って、コース料理の食べ方について担任から話があり、
プリントも配られていた。
講義といっても、大仰なことはなにもない。ただ単に、食器はどのように使うか、食べ終わったらどうするか、
正しいマナーではこの食材はどのように食べるのか、などを実践するのである。要するに、
淑女を育てる格式あるお嬢様学校として、コース料理をいちどきちんと経験させておこうという趣向なのだ。
出席番号順に座席が予め決められていたため、柴田と石川、それぞれが座るテーブルは3つほど離れていた。
石川の位置からは、同じ列に座っている柴田の姿を捉えるには、顔を少し前に突き出して横を見なければならない。
- 15 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時56分47秒
- ちらと覗き見てみた。柴田の横顔が見えた。自分のように顎も出ていないし、
綺麗な横顔だと思った。考えてみれば、こんな風に柴田の顔を注意して見たことなんて、今までなかった。
ホテルのエントランスで止まったバスから降りるとき、柴田のドレス姿を見た。青のタイトなドレスで、
同じ色のストールを腰の辺りに緩く巻いてリボン結びにしていた。着慣れているのは一目瞭然で、
それに比べてやはり自分は“着られている”なぁと思った。
料理が運ばれてくる。総勢40余名の一斉の来客に、何人ものメートルが厨房とテーブルを往復する。
なんだか慌しい光景だが、それでも皿をテーブルに置くときは、ひとりひとりにちゃんと料理の名前を言ってくれる。
キャビアと甘酢を使った前菜に始まり、次が温野菜のサラダと続く。
そして次が問題だった。先に料理が運ばれた前のテーブルからひっそりとざわめきが広がる。
石川の前にも料理が置かれた。
「きのことエスカルゴのグラタンでございます」
――エスカルゴ、って、かたつむりだよね? マイマイだよね? でんでんむしむしだよね?
注意深く表面を観察するが、ふつうのグラタンである。
- 16 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時57分18秒
- 向かいや隣の友人の姿を窺うが、平気でフォークを差し入れている。
「どう? どんなの?」
不安げに訊いてみると、
「んー、美味しいよ、むにゅむにゅしてて」
その会話を耳にしていたのか、向かいのクラスメートが、
「なに? もしかして石川、エスカルゴ駄目なの?」
「いや、駄目っていうか、食べたことないだけなんだけど…」
柴田のほうを窺う。ちゃんと食べているのだろうか。
柴田はすぐに石川の視線に気づいたようだった。いや、それだけではなく、長年の友人だけあって、
石川がなにを気にしているかをすぐに悟ったようだった。フォークに、まさにエスカルゴを突き刺して、
これ見よがしに口に放り込んでみせる。そしてもぐもぐさせたあと、口の形だけで“いけるよ”と伝えた。
石川は“ホントに?”と、眉を潜める。柴田は“うんうん”と頷く。
そこで柴田がハッとしたように表情が一瞬止まり、照れ臭そうににこりと笑みを浮かべた。
――そうか。しばちゃんとなにか気持ちを交わしたのって、すごく久しぶりだ…。
そう思ったら、石川にも笑みが自然に広がった。なんだ、こんなに簡単なことだったんだ、と、
嬉しい拍子抜けだった。
- 17 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時57分50秒
- グラタンに手を付ける。
恐る恐る口に入れたエスカルゴの歯ごたえは、貝柱に似ていると思った。それ自体には特に味を感じないが、
ペシャメルソースのほどよい甘酸っぱさがよく染みていて、美味しい。
「あー、エスカルゴの強壮作用って、聞いたことある。なんとかいう粘液だよね」
「野生のかたつむりは食べられたものじゃないらしいよ。これは養殖でしょ?」
そんなクラスメートたちの会話を耳にして、
粘液、という言葉から、かたつむりのぬめぬめと鈍い光沢のある身体を思い出し、
養殖、という言葉からは、薄暗く湿った場所にうごめくかたつむりの大群を想像してしまう。
なんだか気持ち悪くなってきた。しかし、自分の胃袋のなかにすでに、間違いなくマイマイはいるのである。
もちろん死んでいるわけだが、殻を背負ってうねうねと胃の内壁を一周するかたつむりを感じられるような気がする。
次にスープが来たが、もはやそれには目もくれず、石川は離れた席に座っていた担任に、
「ちょっと気持ち悪いので、そこいらを歩いてきます」と言って許可を貰い、店の外に出た。
席を立ったとき、石川の体たらくに笑いが周囲から漏れたが、気にしていられなかった。
- 18 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時58分22秒
- 吹き抜けに接した手すりにもたれ掛かり、しばらく1階のロビーの様子を眺めることにした。グランドピアノでは、
ちょうど黒いロングドレスに身を包んだ若い女性が聞き覚えのある美しい旋律を奏でていた。その音色にしばらく
ぼうっと耳を傾けていると、徐々に気持ち悪さは治まってきた。
10分余りそうしていただろうか。
柴田とよりが戻りそうでよかった。
明日――いや、今日、このあと帰り道にでも、思い切って話し掛けてみよう。
なんてことはない。仲直りのきっかけなんて、こんな、ふとしたことだ。しばちゃんも、
仲直りのきっかけを欲しがってるに違いない。毎日が寂しいのは、きっとしばちゃんも同じはず。
こうして綺麗に着飾った夜なんて、滅多にないことだ。だから、なんだかいっぱい話したいと思った。
そんなことを考えていると、回転ドアを通って足早にロビーを横切ってくる赤いパーカーが目に付いた。
石川は自分の目を疑った。
それは吉澤だった。
- 19 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時59分07秒
- ――なんでこんなトコによっすぃーが?
そう思っている間に、視線の先で追っていた吉澤は、ロビーの奥にある6基のエレベーターの前で
立ち止まった。上りのボタンを押す。
――どこ行くんだろう。
その疑問以上に思い浮かんだのは、自分の艶姿を見てもらおうということだった。いまの自分の格好を見て、
吉澤はどんな反応をするだろう。偶然こんなところに居合わせた、“今日だけは大人のプリンセス・石川”に
びっくりし、そして、少しは気を引けるだろうか。
ロビーの両脇にあるエスカレーターへと急ぎ、ドレスを着ていることもなんのその、エスカレーターを
一気に1階まで駆け下りる。履きなれないミュールがもどかしい。途中、ある老夫婦の脇を
駆け抜けたときは、石川のはしたない走りっぷりがかなり驚かせてしまった。
さっきまでの気持ち悪さは、吉澤の姿を見た瞬間に吹っ飛んでしまっていた。
- 20 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)01時59分37秒
- しかし、1階に着いたときには、吉澤はエレベーターに乗り込み、ちょうどドアが閉まったところだった。
ようやくエレベーターの前に辿り着いた石川は、ドアの上にあるデジタルの階数表示が増えていくのを
息を切らしながら見上げた。
どうせここまで来たのだから、ひと目だけでも見てもらうのだ。ほとんど意地である。
上りのボタンを押す。
すぐに、ちん、とベルの音が鳴って、隣のエレベーターのドアが開いた。
しかし、石川は階数表示を見上げたままで、動こうとしない。
「お客様――」開いたドアの向こうからボーイが話し掛けた。「お乗りになりますか?」
「ちょぉっと待ってっ!」
視線を上向きに固定したままの石川の鬼気迫る口調に、
ボーイはびくっとして、閉まらないように慌ててドアに手を掛けた。
と、デジタルの表示が止まる。20階だ。
それを認めると、石川は待たせていたエレベーターに乗り込んで、叫んだ。「20階、大至急で!」
エレベーターの速度に至急もなにもないが、はやる心は抑えられない。それに、そこそこに戻らないと、
誰かがわざわざ探しに来るかもしれない。
- 21 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時00分24秒
- 20階は最上階で、展望台になっていた。フロア全体がぶち抜きになっていて、中央には花壇や植え込みのスペースがあり、
周囲は総ガラス張り、有料の据え付け式の双眼鏡が等間隔で窓際に置かれている。
薄暗い照明のなかで目を凝らしても、点々とカップルが数組いるのが見て取れただけで、吉澤らしき人影は見当たらない。
じっと階数表示を見詰めていたのだ。この階で下りたのは間違いない。
ふと、フロアの端にある非常口の緑のランプが目に付いた。傍に行き、鉄製のドアをゆっくりと開けてみると、
照明で照らされた白い鉄製の階段があった。
かすかに音が聞こえた。なにかが低く唸るような音が、上から聞こえてくる。
どうやらこの階のさらに上、屋上から聞こえてきているようだ。
手掛かりがなければ、なんでも当たってみるしかない。
階段を上りきった突き当たりに、ドアがあった。ほんの少し、開いていた。低く唸るような音は、
どうやらこの隙間を通った風の音が巻いて聞こえていたらしい。
- 22 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時02分19秒
- ――バカじゃないの? だいたい、こんなトコになんのためによっすぃーが来るっていうのよ。
自分の行動の無軌道さに呆れて笑いながらも、一応は確認のために外に出てみる。
ここにいなければ、諦めてレストランに戻ろう。
いや、もう半ば、戻るつもりでいた。気になるなら、後日、見かけたことを伝え、
なにをしていたのかを尋ねればいいだけのことだ。
一歩外に出た途端に、冷たい風が石川を包み込んだ。オフショルダーのドレスだったことに
今さらながら気づき、寒さに身を震わせる。
夜空と、ところどころ小さな照明に照らされたコンクリートだけの、殺風景な場所だった。
そこに吉澤が、そして、高橋の姿までもがあった。
だが、石川が息を呑んだのは、彼女たち以外の、「もうひとつ」の「存在」を目の当たりにしたからである。
- 23 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時02分53秒
- 「それ」は、「異形」としか表現のしようがなかった。
蛙のようにずんぐりとした身体に、手は恐竜のそれのようにひょろりとして短い。足は太いが、
重心の安定を保つためなのか、極端に短い。一方で首は、手足とは対照的にひょろりと長く、
頭は首から続くように紡錘形で前方に湾曲し、その風貌は強いて例えるなら魚かウナギである。
2本足で立っているが、サルではないのはひと目で分かる。直立しているぶん、サルよりもむしろ、
ヒトのほうが近いと思われた。だが、決定的にヒトと違っているのは、
身体中をびっしりと隈なく覆い尽くしている鱗(うろこ)である。
だが、そんな「彼」あるいは「彼女」を目の前にして、吉澤と高橋――このふたりは
いったいなにをしているのか。
ふたりは異形と2、30メートルほどの距離を置いて並んで立ち、じっと異形のほうを睨み付けている。
ふたりの息遣いが荒いのは、夜空に解ける白い息の濃さと回数で分かる。また、異形のほうも、
細長い頭の先に細長く横一文字に開いた口から真っ白な息をしきりに漏らしている。
これではまるで、あの異形と戦っているかのような――。
- 24 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時03分29秒
- ――戦って、る?!
石川が思ったときには、高橋が異形に向かって跳躍していた。単なる跳躍ではない。足元のコンクリートが
砕けるほどの強さで蹴り出したあと、真横に、弾丸のように向かっていく跳躍である。
その目にも留まらないようなスピードは高橋を乗せて、あっという間に異形に達する。
だが、その鈍重な身体つきからは想像できないような俊敏さで、異形は身の丈の倍ほどの高さまで
飛び上がった。「空振り」に終わった高橋は、そのまま突き抜けて屋上のフェンスに激突――するかと
思われたが、器用に足を振って身体を回転させ、水泳のクイックターンよろしくフェンスを蹴る。
万有引力の存在を嘲笑うかのような、その動き。
再び弾丸と化した高橋は、まるで最初からそれを計算していたかのように、
異形が落下する瞬間に合わせて、その懐に飛び込んだ。
インパクト。
高橋の拳が異形の柔らかそうな腹肉にめり込んでいた。そこからなにやら赤い光が漏れている。
異形が声を上げた。
初めて聞く異形の咆哮――。それは、絞め殺されまいと懸命に羽を羽ばたかせながら細い首から搾り出す、
鳥の鳴き声のようだ。いや、「声」というよりは「音」と呼ぶべきかもしれない。
- 25 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時03分59秒
- しかし、異形は為されるがままではなかった。おもむろに細い腕が高橋の両肩を掴み、
引き剥がそうと踏ん張る。その腕の細さとは裏腹に、かなりの力が入っているのか、細長い爪が
高橋の着ていたブルゾンの肩口に深く食い込み、そこを中心に赤い沁みがじわじわと広がっていくのが見えた。
眉間に深い皺を寄せ、高橋が懸命に苦痛に耐えているのが遠目にも分かる。
――ラブリーが…っ! よっすぃーは?!
自分が出て行ったところで、どうにもならないことは明らかだった。
吉澤のほうへ視線を転じる。が、さっきまでいた場所に吉澤の姿はなかった。
――どこっ?! どこ行っちゃったのっ?!
忙しなく視線を泳がせるが、どこにも赤いパーカーは見えない。
再び異形に目を遣ったとき、視界の上端から素早い影が素早く飛び込んできて、異形の頭に取り付いた。
吉澤だった。
高橋が「敵」の注意を引き付け、その合間に吉澤が急所を襲う。どうやらそれが、
初めからふたりの作戦だったようだ。
- 26 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時04分30秒
- だが、とうとう高橋の身体が細い腕に引き剥がされて、そのまま片手で放り投げられてしまう。
勢いのついたまま高橋の身体は屋上の鋼鉄のフェンスに激突し、
大きく湾曲させた。そのまま地面にぐったりと落ちて、動かなくなってしまう。
「高橋…ッ!!」
吉澤の声だ。あんな切羽詰った叫び声を聞くのは初めてだが、確かに吉澤の声だ。
確かにあれは――あの化け物と戦っているのは、吉澤ひとみなのだ。
異形が突如として動いた。短い足を振り上げて走り出す。一歩一歩、コンクリートがどッどッと、細かく震えた。
そのまま吉澤を押し付けるようにして頭からフェンスに激突する。フェンスが鈍いきしみ声を発し、
異形とフェンスのあいだに挟まれた吉澤からは苦痛に満ちた短い悲鳴が漏れた。
2度、3度と、フェンスにぶつけられ、とうとう吉澤の身体は、異形から剥がれるようにして
コンクリート上に崩れ落ちた。
すかさず、足元に仰向けになったままの吉澤にとどめを刺そうと、異形がぎらりと鋭く爪を剥き、
腕を振り上げる。
「だめーッ!!」
石川は両手を握り拳にし、思わず叫んでいた。
- 27 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時05分01秒
- その声に反応したのか、異形の手が止まる。その一瞬を吉澤は見逃さなかった。
右手の爪が白く光る。ただ光っているのではない。細かな幾何学模様にも似た光の文様が爪全体を埋め尽くし、
爪自体が光って見えているのだ。爪の光が一際輝きと広がりを増したかと思うと、
腕を中心にした光輪となった。爪と同じく、文様が環状になって光っている。
拳を異形へと振り上げると、光輪が解け、光の鞭となって異形の腹を打ち据えた。
背中を丸めるようにして異形が怯んだ隙に、吉澤はいったん飛び退くと、
間を置くのを嫌ってか、再び異形へと突進する。
「――りゃぁああぁぁあぁぁあッッッ!!!!」
空気をつんざくような吉澤の叫びとともに、光の塊となった拳が異形の顔面に炸裂した――かに思われた、
次の瞬間、いきなり異形の口が大きな花びらのように4つに裂け、
顔全体が口のような有り様に変化していた。石川が子供の頃に見た、なにかの食虫植物のようだ。
異形は高く鋭い咆哮を上げたかと思うと、涎を飛び散らせながら、細長く大きな口で
吉澤の腕全体を呑み込んでしまう。肩までを異形に呑み込まれ、吉澤はそこからぶら下がる形になる。
- 28 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時05分36秒
- ――食いちぎられちゃう!
とっさに石川は思い、思わず一歩踏み出したが、自分にできることなんてなにもないじゃないの、と、
自分に言い聞かせ、踏み止まる。もっとも、足がすくんでそれ以上踏み出せなかったのもある。
しかし、吉澤が悲鳴を上げることはなかった。両足を大きく振り上げ、
異形の口に飲み込まれたままの腕を支点にして飛び上がり、長細い首に馬乗りになった。
さらに驚くべきことに、すっかり腕を呑み込んだはずの異形の口が、再びこじ開けられていくのだ。
広げられるに従い、見えてきた異形の口腔全体が白く光っていた――いや、光っているのは
口腔ではなかった。吉澤の腕全体を、何重もの光輪が包帯のように巻き尽くしているのだ。
光輪は腕を中心に徐々に広がっていき、自ずと異形の口も開かれていく。そして吉澤は、
口から腕を引き抜くどころか、さらに広げられた喉の奥へとねじ込んだ。
- 29 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時06分07秒
- 身の危険を感じたのか、吉澤を振り落とそうと、異形は必死に長い首を振り回し始めた。だが、吉澤は
足を固く異形の首に絡ませてこらえ、引き続き腕を喉のさらに奥へとねじ込んでいく。
と、異形の首の中央が白く光り、外面を覆っていた鱗の模様が浮き上がらせた。やがて光はさらに明るさを増し、
直視できずに石川は目を細めた。
「このやろぉぉおおぉぉぉッッ――!!!!」
常人とは思えない吉澤のその声とともに、振り落とそうともがいていた異形の動きが小さくなり、
やがて短い足を小刻みに震わせて直立するのみになった。立っているのがやっとのようにも見える。
石川の鼻腔を、かすかになにかの臭いが突いた。肉が焼ける臭いだ。
そう気づいたとき、異形の首が幾すじにも裂け、眩い光が細い光線となって漏れた。光線の根元からは、
細長い白煙がゆらゆらと立ち昇り始める。
- 30 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時06分41秒
- ――ど、どうなるの…?!
どうやら吉澤の危機は去ったようだが、なおも固唾を呑んで見守る。
そして数秒後、断末魔の叫びさえ許されないまま、鈍い音とともに異形の首全体が砕け散った。
四方八方に肉塊と血しぶきが飛び散り、周囲のコンクリートをどろりと赤く染める。
大きな肉片――おそらく臓物のひとつだろう――が“びちゃッ”っと鈍い音を立てて、
履いているミュールの爪先から数cm先のコンクリートに落ちてきた。石川は「ひぁッ」と短く叫んで涙目になる。
コンクリート上に叩き付けられ、こぶしふたつ分ほどの大きさに平べったくなった赤黒い粘膜の袋はあちこちが裂け、
そこから、湯気を立てながら黄色い液が漏れて広がっていく。有機的な異臭が鼻を突く。
異形の身体は立ち尽くしたまま、首が飛んだところから赤い噴水を律動的に噴き出していたが、
吉澤が飛び降りると、ようやく力尽きたようにその巨体をコンクリートにどッと横たえた。
- 31 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時07分12秒
- いつしか、よろりと高橋が起き上がり、吉澤のそばにゆっくり歩いてきた。血に塗れた右肩を
片手で押さえるようにして。
「大丈夫?」
吉澤が声を掛ける。
「はい…すみません、思った通りにいかなくて」
「いいよ、高橋はよくやったって。だって、ここでなんとか押さえられたじゃん」
「あ…はい…」
小さく頷くと、高橋は照れ臭そうに俯いた。
吉澤は携帯を取り出すと、ダイアルをメモリーさせたボタンを押し、
「あ、矢口さん?……ええ、いま…ええ、終わりました……ええ…場所、送ります?……
あ、はい、じゃあ、軍の処理班が来るまで、現場保全のまま待ちますね」
電話を切る。
「今回は周りにひと気がないから、『後始末』の手間がなくていいですね」
高橋が、血塗れのコンクリートを歩きながら言った。
そんな高橋をじっと見詰め、吉澤は、「ねえ高橋、先に帰っていいよ」
「え? いえ、いっしょに待ちます」
「怪我してるんだから、帰って早く消毒しな」
「いや――」だいじょうぶですよ、と続けるところを、「いいから、先に帰りな」と、
吉澤に念を押されてしまう。
- 32 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時07分55秒
- 本当は、夜景が綺麗なこの場所なら、少しはふたりのあいだでロマンティックな雰囲気になれるかな、と、
少しばかり期待してしまったのだが、吉澤が言うのだ、やむを得ず従うことにする。他人には
理解できなくても、誰だって独りになりたいこともあるのかもしれない、と。
傍から見れば、この場が血塗れであるという異常な状況を、このふたりは完全に意識していないのである。
「じゃあ、風邪ひかない程度で帰ってきてくださいね」
そう言い残して、高橋は屋上のフェンスをひょいと飛び越えてしまった。そのまま視界から消え失せる。
「ひ…っ」
その様子を見ていた石川は驚愕して、思わず短く発してしまう。
気づかれてはいけない。本能的にそう悟って、慌てて両手で口を塞いだ。
吉澤は平然として、変わらずそこにいた。
突如、目の前に現れた、現実とは思えない状況――さっきの「戦い」からずっと、
茫然と様子を窺うだけだった石川だが、静寂を取り戻したところで、
ようやく冷静に物事を考える余裕ができてきた。
- 33 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時08分28秒
- ――ちょ、ちょっと待って…ココ、このホテルって、20階ぐらいはあったよ…?!
――なんなの?どうなって…っていうか、誰なの?! いや、よっすぃーでしょ?!
――よっすぃーだけど、うん、よっすぃーだよね、それは分かってる、うんうん。
――でも、誰なの?!――っていうか、なんなのよぅっ!!
目を見開いたまま、栓を抜かれた風船のようにヘタヘタとしゃがみ込んだ。どうやらまだ、
冷静に――とはいかないようだ。
「ねえ――」
突然背後から話し掛けられ、
「きゃぁあぁッッ!!」
挙げたもろ手をを無様にばたばたさせて、その場から思わず飛び退く。
振り返ると、いつの間にかそこに吉澤が立っていた。石川の派手なリアクションに、
「あたしは変質者かよっ」と、吉澤は困った顔で笑う。
ある意味、変質者よりも怖い…。石川は思う。
「ねえ、ってば」と、吉澤は語り掛けながら、一歩一歩、歩み寄ってくる。
自ずと石川は後ずさりながら、
「な、ななななにょ、なに、なに…?」
ろれつが上手く回らない。心の底から恐怖していた。
- 34 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時09分00秒
- その原因は、さっきまで彼女が戦っていた異形の返り血が、吉澤の服の袖や襟元に
べっとりと付着し、白い顔に血飛沫が点々としていることだけではなかった。
さっきまで繰り広げられていた信じられない光景を目の当たりにしたあとでは、目の前にいる吉澤は、
石川がすでに知っている“よっすぃー”ではなかったのである。
「なにしてんの? こんなトコで」
――怖い…っ。
「なにって…あの……あの…」
屋上を吹きすさぶ風は強く、石川のか細い声は、口から出た途端に吹き飛ばされていく。肩より少し長い髪が止めどなく耳元で暴れる。
「……講義…そう、講義なの、テーブルマナーの……」
「テーブルマナー…そっか…このホテルでやってたんだ?」
「うん、そう…あの……あなた、こそ……こんなトコでなにやってんの?」
いつものように“よっすぃー”と呼ぶのは、はばかられた。“あなた”が精一杯だった。
「なに――って、見たまんまだよ」
「え…っ」
「…見たよね?」
「へ…っ?」
声は掠れ、心臓はびくんと跳ね上がる。
「見たよね、今しがたずっと、ここであったコト」
- 35 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時09分46秒
- 石川のなかで、本能が、「危険」というアラートを頭のなかでけたたましく鳴り響かせている。
吉澤の目つきが違う。あの雪の日――初めて会ったときの穏やかで優しげな眼差しとはまるで異なり、
別人のように冷たくて、浴びているだけでぴりぴりと痛い。警戒心を解かせるためか、
口元は穏やかに笑っているが、本当には笑っていない。
石川は凄まじい勢いでかぶりを振り、震える早口で答えた。
「み、見てない。見てないよ。それに、ぜんぶ忘れちゃうしっ」
「やっぱり見たんじゃん」
「――!!!」
さっき、バスに乗っていたときのクラスメートとの会話を思い出してしまう。
「い、言わない、誰にも言わない、から…」
掠れたままの声で、目尻を引き攣らせながら言う。
そんなことを言ったところで、こういう場合、たいていの映画やドラマ、小説ではどうにもならないものである。
では実際、いまの石川の場合はどうなのだろう。
- 36 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時10分17秒
- 吉澤はさらに一歩近づき、石川のすぐ目の前まで来ると、立ち止まった。視線はじっと石川の目を捉えている。
「高橋にやってもらってもよかったけど、あのコだと、うちと会った記憶まで消しちゃいそうだからね」
「記憶…? 消す…? 消す、って?」
思わず両手を組み合わせるようにして自分の肩を抱きすくめたのは、風が強いせいだけではない。
ドレスの裾が面白いほどにばさばさと翻る音が、やけに大きく聞こえた。
まったく要領を得られず、眉根を寄せると、
「梨華ちゃんと話したりするの、正直、楽しいし、これまで通りやっていきたいから」
吉澤がいったいなにを言っているのか、まったく分からなかった。
そして吉澤は、唇をきゅっとつぐんでから、呟くように言った。
「ホントはこういうの、好きじゃないんだけどさ…」
吉澤の視線が、かすかに憂いを帯びたように見えた。そのときだけは、いつもの“よっすぃー”が目の前にいた。
「ちょっと待って。あの、ちゃんと説明して。わたし、なにがなんだか分からな――ッ?!」
石川が早口でまくしたてるのを、吉澤の唇が塞いでいた。
- 37 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時10分51秒
- ――な…っ?!
柔らかな感触が、自分の唇を吸う。身体が抱きすくめられる。
お遊びで柴田の頬に“ちゅー”したことはあったが、唇同士は初めての感触だ。
しかしそれは、ふつうのキスだった――血の臭いが鼻腔に満ちていることを除いては。
――よっすぃー、ちょっと待…っ…待ってったら!
心のなかで喚き立てるが、それは吉澤に届くことはない。
吉澤との口づけ。それは、実は自分でも想像したことはある。
だが、それは例えば、夕日の差し込むふたりきりの教室で、互いに寄り添い合って、自然に唇を交わす、
といった、少女マンガさながらの甘酸っぱいシチュエーションのものであった。
こんな風に強引に、一方的にされるのは、ファーストキスということを抜きにしても、
おまけに、いくら相手が自分の想い人であっても、あんまりである。
唇のあいだから舌先がするりと入り込んでくる。
石川のまぶたが混乱で瞬かれる。息遣いが大きく乱れた。身体がさらに硬直する。
遊びがなく、想いというものがほとんど感じられない。とは言え、それは乱暴なものではなく、
繊細な動きだった。まるで、手探りでなにかを探しているかのように、生温かい感触が自分のなかでうごめく。
- 38 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時12分00秒
- 「んっ……んむ…っ」
引き剥がそうと吉澤の肩を押し返すが、しっかりと身体を抱き抱えられていて、身動きが取れない。
そうしていたのはほんの数秒間のはずだったが、石川にとってはまるで時間が止まったように思えた。
そして突然、経験したことのない、鈍い痺れが全身を覆い尽くした。
視界が小さな窓枠の景色となって暗闇のなかを遠のき、石川の思考は途絶される。
「ごめんね、梨華ちゃん…」
薄れゆく意識のなかで、最後に、暗闇の向こうからそんな声が聞こえたような気がした。
- 39 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時12分33秒
- ◇
ふと、目が覚めた。自分の部屋のなかで、石川はゆっくりと身体を起こしてみる。
枕もとの時計を見ると、月明かりだけの薄暗さのなかで、3時半を示していた。
――わたし、どうやって帰ってきたんだっけ…。
思い出そうとするが、頭のなかに濃い霧が立ち込めているようで、なにも見えてこない。
しかし、そんなことよりも今は、のどが渇いた。
ベッドから足を下ろしてみて、ようやく気が付いた。ドレスのままだ。寝ていたせいで、
いたるところに皺が刻まれている。胸元のコサージュが形を歪(いびつ)に崩していた。
ドレスを脱いでジャージに着替え、廊下に出た。
一歩一歩、足の裏に伝わる感触が妙に曖昧だった。廊下はフローリングなのに、分厚い絨毯の上を歩いているようだ。
両親の寝室のドアを見て、さすがにもう寝てるだろうな、と思って1階に下り、
キッチンに行くが、しばらく、なんでココに来たんだっけ?と茫然としたまま立っていた。
そうか、喉渇いてるんだ、と、じきに思い出した。
- 40 名前: 投稿日:2003年02月26日(水)02時13分03秒
- 冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターをグラスに注ぎ、ごくごくと喉を鳴らして飲んだ。
喉にじんと鋭い冷たさが、ぼんやりした頭に心地いい刺激を与えてくれる。
一気に飲み干すと、思ったよりも喉の渇きがひどいことに気づき、もう1杯同じように流し込む。
ようやく喉が潤うと、さて――と、再び立ち尽くす。わたし、いま、なにがしたいんだろ。
とりあえずバスルームでシャワーを浴びた。いつもよりも少し温度を高くして。
浴びてる際中に、そうか、わたし、シャワー浴びたかったんだ、と思う。
頭のなかをなんとなしに覆っていた霧が徐々に晴れてくる。
熱いシャワーを浴びながら、ふと、唇にそっと指先を触れさせてみる。そのまま、ゆっくりと撫で回す。
しばらくそうしていたが、やがて、シャワーを頭からかぶったまま、ゆっくりと壁にもたれ掛かった。
唇が震えていた。喉の奥からしゃくり上げるものが口を突いた。
自分が泣いていると分かるのに、多少の時間が掛かった。
- 41 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)02時14分25秒
-
- 42 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)02時15分23秒
- そんなわけで、今回の更新は終わりです。
勢いだけの産物のため(笑)、相変わらず誤字など多いかと思われですが、
今後もよろしければ。
- 43 名前:名無し 投稿日:2003年02月26日(水)02時16分44秒
- 次か、次の次の更新ぐらいで、パート1が終われるはず。。
- 44 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月26日(水)03時26分48秒
- 大量更新お疲れさまです!
おもわずため息が出ちゃいましたよ!
(゚◇゚)<はぁ〜、スゴィ…。
今、1番続きが気になる作品です!
- 45 名前:前スレの256です 投稿日:2003年02月26日(水)11時46分10秒
- 新スレ、おめでとうございます。
そして大量更新、お疲れ様でした。
今回はもう、口をあんぐりと開いたまま読み耽りました・・
何だかいしよし主演のSFX映画を観ているかのような描写で、すっかり
どっぷりしてやられましたw
少しずつ謎がほぐれて来ている感がありますが、やはりまだ先が読めない
展開です。
次回もソワソワしつつ、お待ちしております。
- 46 名前:名無し読者 投稿日:2003年02月27日(木)10時07分15秒
- いいです!
かっこいい!!
- 47 名前:パート1-10 投稿日:2003年03月01日(土)13時21分16秒
- 公団が20年余り前――N市の人口増加ラッシュの真っ只中に建設したその団地は、
駅前から川沿いの道をしばらく海の方向へと走り、川の反対側――右手にひたすら続いていた
球形のガスタンクの列が途切れたところで現れた。当時の流行りだったのだろうか、
緑や黄色、オレンジ色など、棟ごとに色が違っていて、
しかし今や、いずれも色はくすみ、かえって沈んだ印象を与える。
それぞれの棟には、側面に棟の番号が大きく書かれている。手前に迫ってくる棟には「東-D」という表記が見えた。
「ええと、西のC棟ね」
助手席の矢口が、手元のPDAを操作しながら言った。
信号のない三叉路が見えてきた。斎藤は車を減速させ、「じゃあ、ここ、左折したほうがいいよね」
「んー、そっだね」
液晶に視線を落としたまま矢口が答える。同意ではなく、小事はぜんぶ任せた、という意味だ。
――なにさ…。
斎藤はふっくらした口元を不服そうに歪めながら、ハンドルを切った。
- 48 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時21分43秒
- 矢口といっしょに行動するのは、今日で2回目になる。
先日は、こんなので本当に当該の給与を貰ってもいいのか、と疑いたくなるほど呆気なく、
非常にどうでもいい仕事だった。いや、仕事とさえ言えない。斎藤は、
まさに矢口のそばにいるだけだったのだから。お陰で、“能力の有無は問わない”そして、
“居るだけでいい”という言葉の意味を身に沁みて理解することになった。
おそらく今日も同じようなものだ。
敷地内に入って棟のあいだの狭い道路をくねくねとしばらく走り、ようやく見つけた西C棟の前で車を止めた。
肌寒いのは、一帯が日陰になっているせいだ。マンションに囲まれて狭い青空を飛行機雲がひとすじ、
くっきりと横切っている。
どこの家庭もちょうど昼食が終わった頃の時間帯だからか、ひと気はない。敷地内の小さな公園では、
砂場に小さなスコップやバケツは半ば埋もれたままで、子供たちの笑い声はなく、
木々の天辺あたりにわずかに残った葉が風に揺れるざわめきと、
どこか遠くで干した布団を叩いている音だけが、棟のあいだを、行き場をなくしたようにただ漂っていた。
- 49 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時22分15秒
- 西C棟の入り口のひとつから3階まで上り、「305 上田」という表札の部屋の前でふたりは足を止める。
約束の時間より10分遅れてしまった。
「じゃ、ひとみちゃん、よろしく」と言って、それまで先導していた矢口が斎藤の背後に回る。つまり、
このあいだと同じ要領でよろしく、というわけである。
ヤレヤレ――と内心思いながら斎藤は頷き、呼び鈴を押した。
どこか間延びした“ピンポーン”のあと、「はいー」と、鉄製のドア越しに鈍く伝わる女性の返事。
ややあって、チェーンが掛かったまま小さく開いた薄暗いドアの隙間から、中年の女が顔の半分を覗かせる。
「はい」
「上田さん?」
「ええ」
「先日お電話しました、警察の斎藤です」
そう言って、斎藤は手帳の裏表紙を、そこに添付された自分の写真がよく見えるように掲げた。
- 50 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時22分53秒
- 軋んだ音を引きずるようにしてドアが開き、
「わざわざ有難うございます」
中年の女――上田さんは深々と頭を下げて斎藤を招き入れる。と、そのあとすぐに、
当たり前のように続く矢口に、「あ、あの――」と話し掛けるが、そんな上田さんの怪訝そうな表情に、
「こちらはいま、ウチで研修中の矢口です。いっしょにお話を窺わせて頂きますので」
斎藤はすかさず付け加える。しかし、それでも不思議そうな上田さんの視線は、
玄関でミュールを脱ぐ矢口の背中をなおも追っていた。上田さんの戸惑いはもっともである。少なくとも、
髪の毛がきらきら光り、ジージャンを着ている警察官なんて、常識的にまずあり得ない。
踏み入れた内部は、典型的な公団の団地である。廊下のいちばん奥、8畳ほどのリビングに通される。
窓際に引かれた黄色のカーテンの上で、ベランダに干されたシャツやバスタオルといった洗濯物の影が
風に柔らかに踊っている。
上田さんはワイドショーを映していたテレビをそそくさと消し、3人分の座布団を並べると、
「いま、お茶淹れますから」と、台所に向かう。
- 51 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時23分25秒
- やがて、出されたお茶を、唇を湿らせる程度にすすると、
斎藤はバッグのなかからA4サイズの封筒を取り出し、さらにそのなかから書類を引っ張り出して、
じゃあ早速ですが――と、切り出した。
「息子さん――啓太さんの姿が見えなくなったのが、去年の8月、ですか」
調書のあらましを確認する形で、質問を始める。事務的と言ってもいい、淡々とした口調。意気込もうにも、
この訪問がどんな意味を持つのかを斎藤は知らないのだ。矢口からは、前回と同じく、
行方不明者に関する調書の内容の確認と、補足事項を聞き出すことを言われていた。
あくまでも矢口がこうした行方不明者の出た家を訪れることが主であって、
斎藤は、矢口の訪問が潤滑に行われるためのお飾りでしかない。
上田啓太、18歳。この家のひとり息子で、勉強の成績は学年でトップクラス、
有名予備校でも成績上位のクラスにいて、東京の一流大学を期待されていた少年である。
友達は少なくもなく、多くもない。特定の恋人はいなかった。予備校が終わればまっすぐ帰宅し、
夜遊びなんてしている形跡はなかった。
趣味は読書(特にミステリー)。スポーツはしていない。好きな音楽は邦楽一般。
恨みを買うような出来事や友人のあいだでのトラブルもなさそう。
- 52 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時23分56秒
- その彼が5ヶ月前、突然家に帰って来なくなった。家族は学校と相談し、帰って来なくなって3日後、
警察に家出人捜索願を出した。最も最近の顔写真、通いつけの歯科医院に作ってもらったデンタルチャート、
血液型、その日着ていた衣類などの情報の提供を両親から受けて所轄の警察は捜査を始めたが、
一向に手掛かりが掴めない。当初は誘拐の線も浮上していたこともあったが、身代金の要求も一向にない。
ほかの可能性として考えられるのは、不慮の事故、自殺などだが、遺体も見つかってはいない。
最後に彼が目撃されたのは、予備校の教室である。そこを最後にぷっつりと姿を消してしまった。
警察の聴取に対し、同じ講義に出席していた少女は啓太と面識はなかったものの、
いつもと特に変わった様子はなさそうだった、と証言している。
母親に質問していくうちに浮かび上がってきたのは、これといった特徴がない、
どこにでもいる少年の姿でしかなかった。矢口は顔写真も見たが、
似顔絵にいちばん描きにくそうな、これといった“癖”のない顔だなぁという印象を抱いていた。
- 53 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時24分39秒
- 周囲の期待を背負った受験を控えてストレスはあっただろうが、
現代の都会に暮らし、ストレスのない人間なんて、老若男女関係なく、いない。
だいたい、いまどき、母親が高校生の息子のことをどれだけ分かっていたか、なんて、怪しいものである。
実は、この訪問において、母親から話を聞くのは単なる“見せ掛け”に過ぎない。
ひとしきり調書の内容をなぞっただけの質問が終わると、
「啓太さんのお部屋、見せてもらってもいいすか?」
見計らったように矢口が言った。
それまで斎藤の隣でずっと黙りこくったままで、
話を聞いているのか、それとも上の空なのか、よく分からなかった矢口が急に口を開いたものだから、
「あ、はぁ…」と、上田さんは眉間に戸惑いを浮かべた。
上田さんは斎藤のほうが上司だと思っている。当然、ちらと斎藤のほうに視線を遣り、
斎藤が頷くのを見て、ようやく「こちらです」と、席を立った。
- 54 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時25分13秒
- 玄関から通ってきた廊下の途中で啓太の部屋のドアがあった。
「そのままにしてあります」
上田さんに続き、ふたりは部屋に入った。北向きの窓しかないせいで薄暗い。
上田さんが紐を引っ張って天井の電灯を付け、部屋の様子がくっきりと浮かび上がった。
ベッド、本棚に収まっている漫画類、勉強机、布張りのクローゼット、風景写真付きのカレンダー、
MDコンポ。ざっと見回しても、18歳の少年としては何の変哲もない部屋だった。強いて言えば、
多少「色気」がない、といったところか。お行儀がよ過ぎる。
と、上田さんが手持ち無沙汰にドアの傍に立ったままのさまを見て、
「お母さん、もう少し、お話をお伺いしたいんですが――」
と、斎藤が促し、部屋を出て行く。そうして、この場には矢口ひとりが残された。
失踪当時、すでに警察も手掛かりの捜査でいちどこの部屋を捜索している。しかし、
特に手掛かりになりそうなものは見つかっていない。
勉強机の引き出しを開ける。本棚に並ぶ背表紙をざっと眺める。机の脇にあるCDラックに目を移し、
薄い背のタイトルを指先で辿り、注意深くひとつずつ確認していく。
- 55 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時25分44秒
- CDのタイトルを見え終えたところで、ふー、と、なんとなく息をつくと、
次に矢口は耳を床に擦り付けるようにしてしゃがみ、ベッドの下を覗く。暗くて判然としない。
ジージャンのポケットからペンライトを取り出して照らす。奥に雑誌が何冊か見えた。手を伸ばしてみる。
写真ばかりのアイドル雑誌、そして、ヌードのグラビアが大半を占めている週刊誌が、
埃をうっすらとかぶって数冊あった。いずれも、どこのコンビニでも買えるようなものだ。
ぱらぱらとめくる。あるページで手が止まる。が、それ以上用はないと判断し、またベッドの下に戻した。
リビングに戻ると、ちょうど上田さんが斎藤を相手に息子の思い出について語っている際中だった。
小学校の運動会で、在りし日の息子が初めて徒競走で1位になったときのことを、懐かしそうに目を細めて。
矢口がテーブルの前に戻ってきても、上田さんは話を止める気配はなさそうである。
斎藤もすでに聞き流しているといった風情で、
上田さんの息継ぎのタイミングにときどき形だけ頷いているに過ぎない。
- 56 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時26分16秒
- 「上田さん――」
話の途中で急に矢口が口を挟んだものだから、「――んえ?」と、上田さんは妙な声を出して口をつぐんだ。
「ひと通り終わりましたので、そろそろお暇しようかと思います」
斎藤も「失礼いたします」と、軽く会釈をして立ち上がった。
「あの――」と、玄関で靴に足を入れるふたりに上田さんは話し掛けた。「この時期にもういちど話を聞きに来られる、ということは、警察はまだ積極的に捜査を続けてくださるということなんでしょうか?」
自制しつつも、すがるような視線と声色だった。
斎藤は答えに窮し、視線を漫然と狭い玄関を泳がせた。それを察したのか、矢口が傍から穏やかに口を開いた。
「ええ、そう考えてもらっていいですよ」
- 57 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時26分51秒
「あーんなテキトーなコト言って」
マンションを出ると、斎藤の口からはそんな不機嫌そうな声が口を突いて出た。
「あの奥さん、完全に希望を持っちゃったし」
しかし、隣を歩く矢口はイヤリングをいじりながら、
「ま、いいんじゃないの、希望を持つのは重要なことだよ」
と、軽く受け流す。
車の許までやって来る。運転席と助手席に座ると、どうにも煮え切らない斎藤は再び口を開く。
「そりゃそうかもしれないけど…実質上、もう捜査なんて行われてないし…」
エンジン・キーを回す。昨年、5年ローンで買ったハイブリッドの軽が軽やかな唸りを上げる。
- 58 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時27分36秒
- シートに深く身体を収めた矢口はシートベルトを引っ張り下げながら、
「いずれにせよ、きっと、もう上田啓太は見つからない」
サイドブレーキを倒そうと手を掛けたところで、斎藤は怪訝な表情になる。
「なんでそんなこと分かるの? だって、まだ遺体も見つかってないのに」
すると、矢口は優しく念を押すように、「ひとみちゃんには、関係ないのよ」
「ハイハイ、わたしはどうせお飾りだもんね」
「不満?」
「べつに」
「欲求不満なんだったら、オイラがなんとかしてあげよっか?」
矢口はすっと顔を近づけ、半ば冗談めかして呟くように言う。しかしその視線に、
斎藤は身体の下腹のあたりにじんと疼きを感じた。
――な…っ。なによ、今の。こんなガキっぽいコに、なんで…。
戸惑いを振り切るようにブレーキを倒す。
- 59 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時28分09秒
4時間後、矢口の目の前には、セミダブルに身をたゆね、安らかな顔で瞼を伏せる斎藤の顔があった。
その薄く開いた唇のあいだからは、くぅぅぅ、くぅぅぅ、と、安らかな寝息が漏れてくる。
市内にある斎藤のマンションである。1DKだが、かなりゆとりのある間取りである。
ただ、独身女性向けの部屋らしく、無駄な装飾的なところが目に付く。たとえば、部屋の壁には
無意味に凹凸があったり、角が丸くなっていたりで、家具がうまく端に寄せられず、空間を食いつぶしている。
あるいは、天窓があるのは悪くないが、円形で、採光の効率はあまり考えていないようである。
矢口は乱れた髪型を手のひらで撫で付けながら、真昼間からえっちしまくってしまった…と、
自分の軽薄さにほとほと呆れる。
円形の天窓からは夕方の琥珀色の光がうっすらと柱になって床に丸く落ちていた。
「お茶でもどう?」と部屋に誘ったのも、ソファで身体を摺り寄せてきたのも斎藤のほうだった。
そして、部屋に入って行ったのは自分の意志だったし、キスに応じたのも自分だった。
郷にいた頃から、似たようなことはときどきあった。
しかし、どうしてこんなことになってしまうのか、いまだによく分からない。
- 60 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時28分42秒
- ベッドのなかで呼んだ名前は“ひとみ”だったが、同じなのは名前だけだった。身体の匂いが違うし、
声なんてもっと違う。身体の張りもずいぶんと違う。吐息が帯びる熱や湿り気の度合いも違う。
――名前がいっしょってだけじゃ、やっぱ満足できないな…。
そんな当たり前のことを思いながら、枕もとに広がった斎藤の髪に指を絡めた。しばらくそうやっていたが、
――なにやってんのかね、まったく…。
自然と寂しげな薄い笑みが浮かぶ。
――欲求不満なのは、オイラのほうか…。
つと、斎藤の肉感的な唇が緩慢に動いた。
「やぐひ、ぃ……」
矢口はゆっくりと身を起こし、ベッドサイドに軽く腰掛けると、
「まぁ、君も楽しんだわけだし」と、オヤジ口調で呟いてみる。
- 61 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時29分15秒
- ――まぁ、これからしばらくいっしょに仕事することになるから、いっか…。
郷にいる頃、付き合っていたあるひとが言ったことを、ふと思い出す。
「あなたは名演奏家ね」
どうして?と尋ねると、彼女はこう答えた。
「だって、どんな“楽器”でも、いい“音色”を引き出すでしょう?」
それから、なんとなく手持ち無沙汰に部屋のなかを歩き回る。
溜め息をつく。
――よっすぃーの顔、見たいなぁ…。
なんとなくそんなことを思い、吉澤の笑顔を思い浮かべる。
服を着込み、すっかり帰り支度を整えるたところで、
再び、まだベッドでシーツに包まったままの斎藤の寝顔を見た。
――やっぱ、“リセット”しとこ…。
ややこしいことになったら面倒だ。斎藤は、矢口をかなり“気に入って”しまったようだったから。
顔を寄せ、そっと口づける。
- 62 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時29分45秒
- ◇
「なんか怪我したって?」
ドアチェーンを外して隙間から高橋が顔を覗かせるなり言ってやった。
それに対して、言い返す代わりというわけでもないだろうが、
「――ぶえっしょっ!!!」
思い切りよく、唾が矢口の顔全体に掛かる。ぐわぁぁ!汚いーッ!と、矢口の甲高い悲鳴が響き渡る。
昨夜、吉澤に、風邪ひかないうちに帰ってきてくださいね、と言った高橋のほうが、
今朝起きたら鼻の奥と喉のむず痒さを感じていたのである。
「1回のくしゃみで何万個っていうウィルスが撒き散らされるんだよ、知ってる?」
ぶちぶちと高橋の背中に浴びせ掛けながら、続いて矢口が部屋に入ってくる。
だが、リビングのソファで寝そべり、「あー、コンチワ」と言う吉澤の姿を見るや否や、
「よっすぃぃぃ♪」
飛び掛かる。
「ちょ…っ、いま言ってたじゃないですか、矢口さんの顔にはウィルスが…っ!」
「オイラの風邪、よっすぃーにうつしたげる。一蓮托生だよ♪」
「いぃやぁぁ〜ッ!」
「やめれくらざいー!」
ひどい鼻声の高橋も、矢口を引き剥がそうと、ソファに飛び込んだ。
- 63 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時30分28秒
- 2分後。
ひとしきり攻防を終え、ぜえぜえと肩で息するふたりがソファに並んで座っていた。
吉澤の貞操の危機がいったん去ったのを確認すると、高橋は、
「寝まふけろ、なむがあっだらずぐに大声らしでぐらざい」と吉澤に言い残し、寝室に入ってしまった。
吉澤はようやく息を整え、落ち着き払った口調で告げた。
「…矢口さん、誰かとえっちした足で、ウチに来ないで下さい」
「――ッ!!!!!!」
矢口の表情筋が凍りつく。そんな様子を見て吉澤は目を瞬かせ、
「うそ…ホントにそうなんですか?」
――しまったぁ、カマ掛けられたぁ…!!
「な、なんでそんなこと…?」
「初歩的過ぎます。だって、香水が嗅いだことない匂いですもん」
――うげえ、しまったぁっ!!
ふだん、こんなミスなんてしないというのに、なぜか吉澤の前では無防備になってしまう。
しかし、それでも微塵も嫉妬の色を浮かべてくれない吉澤に、少し寂しさを覚える。
吉澤はソファの端に座り直すと、
「あ、それはそうと、そっちのお仕事はどうですか? いま、行方不明者洗ってるんでしょう?」
「んー。こないだ行ったサラリーマンの家は、アレはホントに、
単に借金残して愛人と蒸発したっぽいんだけど、今日行ったトコは”当たり”っぽかったよ」
- 64 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時31分03秒
- 「ふぅん…」
なんだか吉澤が生返事である。
矢口は道すがらコンビニで買って来たポテトチップの封を開けながら、「なんか浮かない顔だね」
どした?と、話を振ってみると、矢口さんに話したものかどうか、迷ってたんですけど――と前置きした上で、
「うちのクラスメートで、石川ってコがいるんですけど――」と、吉澤は話し出した。
ああ――と、矢口は相槌を打って、「こないだ、コンサートいっしょに行ったってコね」
「ええ。それが…昨日の夜、あたしと高橋が“霞”と戦ってるトコを見られちゃってですね――」
それを聞いても、矢口は別段驚くことなく、チップスを一枚口に放り込んで、
「ふうん」と小さく相槌を打つだけだ。吉澤がその次にやるべきことを、当然のようにすでにやっていると
思っているからである。そして、それはその通りだった。
「――で、記憶を操作したんです」
「うん」
矢口にとっても、それは当然の対応だと思った。
だが、吉澤は神妙な面持ちでこう続けた。「でも、覚えてるんです」
「うん」と、すっかり惰性で相槌を打ってからすぐに、「え…っ?」矢口は眉を潜めた。
「だから、その石川ってコ、霞と戦ったのを目撃した記憶を消したはずなのに、覚えてるんです」
「ぜんぶ?」
「んー、たぶん、ぜんぶ…」
- 65 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時31分36秒
- しばらく矢口は足元に視線を落として考え込んでいたが、顔を上げ、
「よっすぃーが、やったんだよね?」と、確認する。
「記憶の操作ですか?」
「うん」
「はい、うちがやりました」
もし、高橋に任せたとなれば、彼女の“業(わざ)”の未熟さという可能性もまだ考えられるのだが。
「よっすぃーのことだから、もちろん、ちゃんとやったんだよね…?」
「ええ。“直接”だから、ミスはありません」
「なのに、覚えてる…?」
「はい」
「あり得ない…」
ぽそりと呟き、矢口は視線をしばらく天井に向けていたが、再び吉澤に戻し、
「例えば、ほかに目撃した人間がその場にいて、そのコに吹き込んだ、ってことは?」
「ほかに誰かいたら、絶対に気づいてますよ」
「そりゃあ……そっだよね…」
郷では、業の使い手として10年に1人の逸材と呼ばれた吉澤である。たとえ、その業が発達途上にせよ、
その実力の程は、中学の頃からずっと教育係として吉澤の姿を見てきた矢口が誰よりも知っている。
- 66 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時32分17秒
- 業が一般人に通用しないということは、あり得ない。吉澤が言ったことが、もし正しいとすれば、
現在の郷のあり方や2000余年にも及ぶ歴史を根底から揺るがしかねない問題である。
矢口はどうにかして、納得のいく、そして都合のいい理屈を導き出そうと思索を巡らせる。
「ずっと前、保田のおばあちゃんから聞いたことあるんだけどさ。郷以外でも、なぜか、
ごく稀に業を使える人間が生まれる、って。でも、それは単なる偶然だし、使える業や、業に対する耐性も、
そんなに強いものではないはずなんだよ。少なくとも、郷で生まれ育った人間とは比較にならない、って」
「そうなんですか」
「うん。でも、ごく稀だからこそ、例外の存在もあってもおかしくない。なんせ、そういったひとの
詳しいところについては、ほとんど分かっちゃいないんだから。それがまず、第1の可能性」
「なるほど」
- 67 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時33分18秒
- 「次に、例えばカオリみたく――」
勢いに任せて口走ってしまってから、しまった、と思い、とっさに口をつぐむ。すぐに吉澤の表情を窺うと、
「矢口さん、気ぃ遣いすぎ」と、柔らかい笑みを浮かべていた。「飯田さんみたいに――なんですか?」
矢口は安堵とともに苦笑いを浮かべる。好きなあまり、吉澤のことをか弱く見すぎていたかな、と思う。
「カオリみたく、郷で育ちながらも、郷での記憶を一切なくして
一般社会に溶け込んで暮らしてるような人間だと、業に対する耐性は、充分あり得るかも」
「なるほど」吉澤は頷く。“記憶を一切なくして”という言葉に対して、
――違う。奪われたんだ。奪ったんだ。
そう心のなかで小さく反発しながらも、
「でも、そんなひと、滅茶苦茶少ないじゃないですか。
それに、18歳でそんなコがいたら、ほとんど同年代だし、絶対うちも知ってると思うんです」
それもそうか、と矢口は思う。
と――なると、いまはほかにこれといった整合性のつく理由を見つけられそうにない。
「その石川ってコは、いま、どんなカンジなの?」
吉澤はやや気重そうに、昼間、石川に食って掛かられたところから
話し始めた。今にも、張られた痛みが蘇ってくる気がして、左頬に手を添えながら。
- 68 名前: 投稿日:2003年03月01日(土)13時33分48秒
- ◇
ちなみにその頃、自室のベッドで目を覚ました斎藤は、
なぜ自分がこんな時間に全裸で眠っていたかがどうしても分からず、部屋のなかを落ち着きなく逡巡していた。
- 69 名前:名無し 投稿日:2003年03月01日(土)13時35分15秒
- わずかですが、今回の更新は、>47以降。
- 70 名前:名無し 投稿日:2003年03月01日(土)13時35分48秒
- 次回は、パート1-10の続きを。
- 71 名前:名無し 投稿日:2003年03月01日(土)13時36分36秒
- >>44
温かいレスをありがとうございます。いい方向に期待を裏切れるといいのですけれど。
ちなみにわたしは、投稿が終わって読み返すたびに、誤字・脱字の多さに溜め息をついています。←笑えない
>>45
読者の方が先を読めないとしたら、書き手が先のことをそんなに考えていないからかもしれません。←笑えない
いつも励みになるレスを有難うございます。勢いと勝手だけで書いているので、恐縮することしきりです。
>>46
ありがとうございます。拙いですが、このスレのことを思い出したときには、
またお付き合いくださると幸いです。
- 72 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月01日(土)20時38分17秒
- いつも楽しませてもらってます。
正直、名作の予感なんですが、
石川はクラスメートじゃなく先輩じゃなかった…?
- 73 名前:名無し 投稿日:2003年03月01日(土)22時11分51秒
- >>72
し、しまったっ!
ご指摘及び、いつも読んで頂いて、ありがとうございます。
>>64
× うちのクラスメート
○ うちの学校の先輩
すみません。
- 74 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月14日(金)23時39分32秒
- まだかなー
- 75 名前:パート1-10の、つづき 投稿日:2003年03月16日(日)22時17分26秒
- ◇
その「力」――“業”の存在は、広く明るみになってはならない。
だから、郷に生きる者は滅多に郷の外へは出て行くことはない。
必要なときは山を下りて、業を使わなければならないが、
それと同時に、その存在に触れた一般人の記憶は、例外なく消すこと。それが郷の掟だった。
そうして、郷と、郷に住む人々のちからの存在は、幾千年にも渡って守られてきたのだという。
この街で自分と触れ合ったすべての人々の記憶からは、いずれ、自分の存在は消えてしまう。
いや、正しくは、彼らから記憶の一部を奪うことになる。
だから、必要以上に誰とも関わりたくないと思った。親しくなったひととの別れは嫌いだ。
単なる別れではない。相手の記憶から、自分の存在の一切が抹消されるのである。再び会ったとしても、
相手は自分との思い出はおろか、存在自体さえ覚えてはいない。
- 76 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時18分08秒
- 吉澤は“記憶に触れる業”が嫌いだ。
それでも使わなければならない。いつかこの街を去るとき、一切を抹消しなければならないのだ。
Y市に向かう列車のなかで、すでに決めていた。誰とも親しくならない。そんな自分のなかの決まりは、
言わば、自分が傷つかないための防波堤でもあった。
だが、そんな防波堤を呆気なく乗り越えてきた少女がいた。
石川梨華――。
初めは取るに足らない存在でしかなかった。
しかし、この街に移ってきて初めての登校の朝――あの、大雪の朝だ。絵に描いたような静謐な雪景色のなかで、
傘の鮮やかな赤に視線が引き寄せられた。それは視界に入った瞬間に不意にふわりと舞い上がり、
白銀の世界のなかで鮮やかな残像を残しつつ、滑らかな積雪面にそっと身を横たえた。
その傍らで、じたばたしている少女が目に留まり、すぐそばでゆらゆらと踊っていたマフラーを拾った。
それが知り合うきっかけとなった。
“あー、なんか可愛い子だなぁ”と思った程度で、それ以上にはどうということはない。
そのあと学校までいっしょに歩いたし、いっしょに学校の屋上で昼食をとったこともあったし、
CDショップで偶然会ったこともある。それでも単なる顔見知りに過ぎなかった。
- 77 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時18分40秒
- それが、いつの間にやら違ってきた。
誤って捨ててしまったコンサートのチケットを、焼却炉のゴミを全部引きずり出してまで探している
彼女の姿を目の当たりにして、抗いがたい勢いで自分を惹き寄せるものがあった。
謝って、チケット代を弁償しようと思ったが、それでも彼女は頑なに自分を誘いたがった。
もしかしたら――と、吉澤は思った。石川は、自分のことを好いているのではないか。
自惚れを差し引いても、自分に向けられる眼差しのなかに、
単なる友達に向けるもの以上の熱を感じることが、ままあった。
だとしたら――正直、少し困る。
彼女を妙なことに巻き込んでしまう危険があった。
霞との戦いは、郷の者だけに負わされた定めだ。ごく普通に暮らしている人びとにとって、
霞は太刀打ちできる存在ではないし、そんな彼らが霞となんらかの関わりを持つことは、
ときに命を危険に晒すことにつながり、さらには吉澤たちの戦いの足を引っ張ることにもなりかねない。
- 78 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時19分10秒
- それになにより、吉澤にはまだ、想っているひとがいた。忘れられないひとが。
かつて付き合っていた、というだけではない。彼女に対して自分がしてしまったひどい仕打ちのせいで、
ずっと自分を責めてきた。その償いをしない限り、新たに誰かを好きになってはいけないような気がしていた。
都合よく吹っ切って、新たに誰かを好きになれるほど、自分の性格は便利ではない。
その一方で、償いようがないということも、よく分かってはいたが。
それでも、石川から携帯の番号を訊かれたとき、刹那の迷いのあと、教えてしまった。
もっとたくさん話してみたいと思わせるなにかが、吉澤に惑いを抱かせたからだ。
屋上には手製の弁当を持ってきてくれたりするし、映画に誘われれば行った。
引っ張られるように、ずるずると付き合っていた。
高橋からは何度となく「あまり深入りするのはどうかと思います」と忠告されたが、
自分に対して興味をさらに深めている石川を感じていたし、それは、なぜか悪い気はしなかった。
いや、むしろ…例えば、石川から電話があると、いつしか心が弾んでいるのを感じた。
- 79 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時19分40秒
- そんなある日、ホテルの屋上での霞との戦いのさなか、
彼女の気配が意識の隅に、くっきりとした輪郭を伴って存在するのを感知した。
霞にいよいよとどめを刺しながら、吉澤は思った。
――“処理”しなくちゃ。
霞の喉に突っ込んだ腕に力を集中させる傍ら、ちらと横目で窺うと、
陰に隠れてこちらを窺う石川の、不安と驚きにあふれた表情が見て取れた。
ふつうなら、自分と関わったすべてを“リセット”し、彼女とはまた他人に戻るべきところである。
しかし、そこにためらいが生じた。
いちど親しくなった人間が自分に関する記憶を失ったときの、どうしようもなく深い切なさを思い出した。
そして、この屋上での出来事に関する記憶だけを選んで“削除”することに決めた。
- 80 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時20分10秒
- 戦いが終わり、石川に有無を言わさず記憶に触れる業を行使した。
多数の目撃者がいた場合、首から掛けたネックレスに付いている石の力で業を増幅させ、
周囲一帯の人間の記憶を一気に操作することになるが、今回はひとりだけだし、
石を使えば操作がけっこう乱暴になるため、“直接”行うことにした。
業の難度自体は、吉澤にとっては――例えば、目の前にある水道の蛇口をひねる程度に――
造作もなく簡単なものだが、多少でも気の迷いは禁物である。この場合、万が一、操作が中途半端に終われば、
石川には記憶の予期しない欠落や混乱をもたらすどころか、すべての記憶さえ壊してしまうことになりかねない。
いつも以上に集中した。そして、業自体は問題なく終了した。
記憶をいじられた人間はほとんどの場合、少しの間、ひどい眠気に晒されたような、
外界からの刺激に対して甚だしく鈍い状態になる。個人差はあるものの、最低10分程度は
そんな状態が続くことが多い。そのあいだに、はっきりと覚醒したときに目の前に広がる血塗れの凄惨な光景に
石川が驚かないように、別の場所に移せばそれでいいと思っていた。
- 81 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時21分10秒
- だが、石川の場合、完全に気を失ってしまっていた。唇を離した直後から、すとんと力が抜け切った石川の身体を、
吉澤は支えなければならなかった。若干焦ったものの、すぐに石川の薄い唇がかすかに動き、
小さな風にさえ吹き消されそうなか細い声で「おかあさん…」と発したものだから、安堵の息をついた。
そういや、コンサートで倒れたときも、お母さん、って寝言で言ってたっけ。よっぽどお母さんが好きなんだろうか。
そんなことを思った。
その翌朝、風邪をこじらせたのか、熱を出して寝込んだ高橋ひとりを家に残し、いつものように学校に向かった。
相も変わらず靴箱に入っていた1通の手紙を教室に向かう途中で廊下のゴミ箱に無造作に放り込み、
教室においては、クラスメートとはできるだけ距離を置いて過ごす。
そして、昼休みには孤独を感じないように屋上に行って、売店で買ったサンドウィッチを頬張った。
出たゴミを売店の白いビニール袋に入れて、牛乳の紙パックから伸びたストローを咥えながら、
くすんだ青い空の高みを飛行機雲がゆっくりと真横に尾を引いていくのを、なんとなく見上げていた。
そんなときだった。屋上のドアが勢いよく開けられ、石川が姿を見せたのは。
- 82 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時21分49秒
- 石川に会ったときの準備はしていた。
昨日の出来事について、おそらく石川は摩訶不思議な経験をした、と言うだろう。なんせ、
昨夜の記憶のなかに吉澤は出てこない。テーブルマナーの習得のためにホテルに来ていたはずが、
いつの間にか、家の自分のベッドで眠っていたのだから。
吉澤は記憶を操作された経験がないからよく分からないが、記憶を奪われたあとの喪失感は、
例えば、思い出せそうで思い出せない、喉元まで出掛かっている言葉、といった感覚に似ているのだという。
普通の人間なら、そんな記憶の欠落を覚えれば、自分はいったいどうしてしまったのか、と、
不安がるに違いない。そこは、からかうような軽口でも叩いて不安を多少和らげてやればいい。
「へえ、そんなことが」「お父さんとかお母さんも不思議がってたんじゃないの?」
「今日、先生に説教されたでしょ、勝手に帰るなんてけしからん、って」
「寝てる間に家に帰れるなんて、考えようによっては便利かもよ」
そんな想定問答を用意していたのだ。
急にホテルから消え、勝手に家に戻ったことになって、多少の迷惑は掛かっただろうが、
そんなことはいちいち気にしてもいられない。今回もそこは目をつぶろう。
- 83 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時22分23秒
- 「よっすぃー!」
石川の呼びかけに、「や」と、いつものように手を上げる。
だが、すぐに石川の様子がいつもと違うことに気づいた。眉間に深く彫りを刻み、視線が怒りを帯びている。
猛然と石川は早足で近づいてくると、取って食わんばかりの勢いで吉澤に噛み付いた。
「どういうコト?!」
“がしゃ!”と屋上のフェンスに突いた石川の両腕に挟まれる。目を瞬かせた吉澤は、
まったく訳が分からずに両手を掲げ、「な、なによ? なになに?」
想定外の石川の表情に、戸惑う。
「ゆうべのことっ!」
「ゆうべの…?」
オウム返しのまま吉澤は眉を潜める。なにか勘違いをしているのだろうか、と思った。
「ちょっと待って。『どういうこと?』って、こっちが訊きたいよ、『どういうこと?』って。
いったいなんの話?」
すると、石川は必死に言葉を手繰り寄せながら、
「ゆうべ…ホテルの屋上で……ほら、化け物?…みたいなやつと、
なんか、戦ってたじゃない、よっすぃー、ラブリーといっしょに」
自分で言っていても、なおも実感として伴っていないのか、「化け物」というところで声のトーンが落ちる。
しかし――。
そんな、ばかな。
- 84 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時22分54秒
- 吉澤は完全に混乱してしまった。
――なにを言ってるの、梨華ちゃん。君はそんなもの、見た覚えがないじゃない。
そう――業が完全に行使されたなら、あり得ない。
「なにそれ? なんの話? 映画かなんか?」
言葉に詰まりながらも捻り出した。
しかし、吉澤の空惚けた答えなどにはまともに取り合うつもりはないらしく、
「そっちこそ、なにそれ。なんかのギャグ?」と、石川は鼻息荒く詰め寄ってくる。「ぜんっぜん笑えないんだけど」
「ねえ、落ち着いて。ゆっくり話そう」
なだめるように言ったが、それはむしろ自分に言い聞かせるようでもある。
石川はそこでようやく長く息を吐き出すと、多少なりとも落ち着きを取り戻したのか、
吉澤と差し向かうようにコンクリートの上にぺたんと腰を下ろす。
「最初から話して。どういうこと?」
石川にじっと見詰められる。いつもは真っ直ぐな吉澤の視線が今日はどこか落ち着きをなくし、
絶えずどこか泳いでいる。
「わたしが、なににいちばん怒ってるか分かる?」
「さ、さあ…」
「わたしね、誰かとキスするの、初めてだったの。それが、あんなに強引に、一方的にやられて――」
「キ、キスぅ?」
トンビの鳴き声が遥かな高みから聞こえ、どこか間の抜けた空気が漂う。
- 85 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時23分28秒
- どうやら、ゆうべのことを覚えているのは本当らしい。
それよりも――である。意表を突かれたのは、得体の知れない化け物の正体や人知を超えた力の存在よりも
そっちなのか、ということだった。正直、拍子抜けもいいところである。まったく、
お嬢様というのはどういう思考回路を持っているのか、いちど目の当たりにしてみたい。
「あんなの…」と、そこで石川はなにかを耐え忍ぶように小さく下唇を噛み締めてから、「ほとんどゴーカンだよ」
「ねえ、あの――」
「そりゃ、よっすぃーとそんなことになったら、って、考えたこともあったよ、
ほとんど夢みたいなことだったけど。でも、昨日みたいな…あんなのって、ないよ。
ねえ、なんで? どういうこと? 記憶がどうとか言ってたけど、
要するに秘密にしてくれ、ってことなんでしょう? キスは、なんかの口封じのつもりだったの?
納得のいく説明が欲しいんだけど。このままだったらわたし、なんか頭んなかぐちゃぐちゃっていうか。
ちょっと考えてみてよ。初めてのキスなのよ、一生に一回の。
年取って、初めてのキスを思い出すこともあるかもしれないじゃない、その度に思い出すことになるの。
なのに、あんな無茶苦茶なのって、あり?」
- 86 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時24分00秒
- もはや質問のガトリングガン状態である。話しているうちに感情が昂ぶってきたのか、
徐々に早口になってきて、飛び散る空薬莢の山が量を増していくのが足元に見えるかのよう。
吉澤はぎこちなく笑みを浮かべて、「あの、さ…そんなにいっぺんに訊かれても…」
「じゃあ、いっこずつ答えて」
どう答えればいい。
吉澤はやや迷った挙句、ゆっくりと息を吸い込むと、言った。
「梨華ちゃん、ヘンな夢でも見たんじゃないの?」
実際、そう言い返すのがやっとだった。
そんな、答えにもなっていない言葉を耳にした石川の目つきが、
ゆっくりと険しさを増していく様子がありありと見て取れた。
石川にとっては、永遠にも似た一瞬だったかもしれない。吉澤の目には、まるで、
なにかの花のつぼみが開いていく様を早送りで見ている感じに似て映った。氷のように冷たい色の花だ。
突如、吉澤の左頬に尖った熱さが走り、同時に小気味いい音が耳元で弾ける。
そして、そこにじんと痺れたような鈍い痛みが広がってきた。
- 87 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時24分33秒
- 石川の形のいい唇が、なにかをこらえるように真一文字に強く引き結ばれている。
やっ……ぱりな…。吉澤は思った。
そりゃそうだろう。もし自分が石川の立場だったら、馬鹿にされてるんじゃないか、と、やっぱり思うかもしれない。
「上手く嘘をついてくれないひとを前にした気持ち、よっく分かった」
それだけを言い残してやおら立ち上がり、スカートの尻を両手で軽く払うと、石川は踵を返した。
引き止めて、改めてちゃんとした弁解をして欲しそうな、そのゆっくりと去っていく後ろ姿を見て、
吉澤はなにか言わなくちゃ、とも思ったものの、適当な言葉が見つからない。結局、ただただ見送ってしまう。
どこかでトンビがもういちど、さっきよりも少し長く鳴いた。
痛いのは、頬だけではなかった。
- 88 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時25分31秒
放課後、石川になにか話さなくちゃ、と思い、
午後の授業の間もずっと、考えていたが、いい言い訳はなかなか見つからない。
――映画の撮影だったんだぴょーん。
バカみたい。あり得ない。いつあたしは映画スターになったんだっての。
――着ぐるみのバイトのひとと喧嘩になっちゃったんだぴょーん。
あり得ないあり得ない! なんで首まで飛ばす必要がある。屋上一面、真っ赤な血糊に染まってたし。
だいたい、キスはどう説明する?
――梨華ちゃんのことが好きなんだぴょーん。
いや、もちろんこれには、「――ぴょーん」は付けないけれど。でも、都合がよすぎるし、
あまりに見え透いている。だいたい、なんの説明にもなっていないじゃない。
たとえ、絶妙の言い訳を思いついたとしても、あの少女は、こと今回の出来事については、
すべてを見抜いてしまうような気がした。
いろいろ考えを巡らせても、妙案は浮かずじまいだった。
わざわざ記憶を消すのは、業の秘密を外部に漏らしてはならない、というよりも、
単にいちいち説明して回るのが面倒なだけ、というのが理由なのではないかとさえ思えてくる。
- 89 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時26分21秒
- 放課後になり、校門の脇で待ってみた。肌寒い風が短めのスカートの裾を翻させる。
コートを着て来ればよかったと後悔する。このところ小春日和が続いていたし、
まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
そう言えば――と、思う。梨華ちゃんが、ここでこうして誰かを待っていたのを見たことがあったっけ。
たしか、出会ってすぐの頃の話だ。
校舎の窓から不意に見かけたその姿に、吉澤は、なんとなく分かった。自分を待っているのだ。
しかし、その頃はまだ、この地で誰かと親しくするのが嫌だった。怖かった、と言ってもいい。
いずれ忘れ去られてしまうのだから、あとからつらい思いをするだけだ、と。
結局、石川は現れなかった。
代わりに、もしかしたら(特にいま)最も会いたくなかったかもしれない少女と会ってしまった。
校門の前で立ち止まった彼女の視線がじっと自分を捉えているのに気づきながら、
吉澤はあさっての方向を向いていた。校舎の窓ガラスの一枚が、傾き始めた陽の光をきんと反射して眩しく、目を細める。
「もうとっくに帰ったよ、梨華ちゃんなら。気分が悪いとかで、早退」
背中に唐突に話し掛けられた。静かな、ゆえに凄みを伴った口ぶりだった。
- 90 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時27分30秒
- 「梨華ちゃんに、なんかしたの?」
半ば決めつけ口調である。間違ってもいないが。
振り向いたものの、吉澤は答えなかった。軽はずみになにか口にしようものなら、
なおさら事態を複雑にしてしまうかもしれない。この少女に話すべきことはなにもなかった。
沈黙は金――その言葉が体のいい免罪符のように思えた。
しかし、この少女が詳しいことを知らないということから、石川が昨夜のことを誰かに話したということは、
どうやらなさそうだ。そんな風にどこか安心している自分がいやらしいと思った。
口をつぐんだままで顔を逸らし、一向に視線さえ合わせない様子から、
吉澤が問い掛けに答える気がなさそうなのを察したのか、
「もし梨華ちゃんを傷つけたら、あなたのこと許さない」
そんな風に釘を刺される。いや、厳密には「釘を刺される」という表現もどこかおかしい。なぜなら、
今さらだからだ。
悪の権化を見据えるような視線でそう言い放つと、柴田はバス停への道を遠ざかっていった。
- 91 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時28分01秒
- たぶん、帰ったのは本当なのだろう。足を重々しく引きずるように、家路についた。
なぜ、業が通用しなかったのか。そんなことは、実は問題ではなかった。
確かなのは、石川梨華の想いを無碍にしてしまったことだ。そのことだけが、
ハムスターの回し車のように吉澤の頭のなかを回り続けていた。
足元をじっと見ながら歩いていると、ふと、思った。自分はいま、どんな顔をしてるんだろう。
道すがらのコンビニに入り、立ち読みをする傍ら、ふと、窓ガラスに映った自分の顔を見てみた。
ひどく沈んでいるようだった。なにかに怯えているようにも見える。
――なんで?
自分に問い掛けてみる。
――このまま嫌われたままなのが、そんなに怖い?
――いつから自分はこんなに臆病になった?
- 92 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時28分43秒
- ◇
石川の感情的な反応については、“ちゃんと説明しなかったら機嫌を損ねた”とだけ話した。
話を聞き終えても、矢口はしばらく黙ったままで、なにかをじっと考え込んでいるようだった。
腕組みしたまま、口を開いたかと思えば大きく息をついて、う〜ん…と唸るばかりだ。
「どうしたら、いいですかね」
なるべく軽い口ぶりで尋ねてみるが、頼みの綱の矢口も、今回のことに関してはなんとも言えないようだった。
なぜ、石川には業が作用していなかったのか。
郷に住むものなら、業に対する耐性のようなものができていて、通じなくても不思議はない。しかし、
石川が生まれ育ったのは、このY市なのだ。さっき矢口が言ったような、
特殊な体質を偶然持ち合わせていたということなのだろうか。
天井に視線をなんとなしに預けたまま、「もしかしたら――」矢口は呟くように口を開いた。
「もしかしたら…?」
「…いや、なんでもない。思い過ごしだわ、きっと」
矢口は薄く微笑んで、かぶりを振った。
- 93 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時29分26秒
- そのとき矢口が思い至って口にしようとしたことは、後に的を射ていたことが分かるのだが、
この時点で矢口には、単なる噂としてどこかで小耳に挟んだ程度の話を確たるものにするだけの材料を
持ち合わせていなかった。噂とは言え、郷の歴史において、おそらく最も忌むべき血塗られたタブーにも
繋がっていくような話を軽はずみに吉澤にするべきではない。
郷で育った者は、言わば温室栽培である。郷での思想が骨の隅々にまで染み込んでいる。
勝利こそが正義の証。そして、正義は常に郷の側にある。という思想が。
ショックを与えたくはなかった。
それに、そんなことが――郷以外の地で、郷のタブーに、郷の者が関わる確率なんて、
万にひとつである。奇蹟に近いと言ってもいい。どんなに神様がうまく運命を仕組んだにせよ、
ここまで上手くいくことはないだろう。きっと、なにか別の要因があるに違いない。
だが、どんなに奇蹟に近いような事柄も、起こってしまえばすべて、必然である。そして、
そこにまで考えが及ぶほど、矢口も達観してはいるわけではなかった。
- 94 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時30分02秒
- ◇
矢口に話したその翌日も、石川と顔を合わせることはなかった。昼休み、吉澤はいつものように、
屋上でひとり昼食をとっていたが、石川が来ればいいな、と思ったし、
同時に、来なければいいな、とも思った。
吉澤には、一見豪気にも思える性格の裏には、なにかが気になりだしたら止まらない、という
神経質なところが多分にある。なんとか仲直りできないだろうか。そう思って、
吉澤はなんども携帯を開いては石川の番号を呼び出すものの、呼び出し音が鳴り出すまでに弱気になって、
掛けずに閉じてしまう。昨日からいままで、もうかれこれ、その行動を繰り返すこと10回はくだらない。
――ホント、どうしちゃったんだ? あたし…。
携帯のディスプレイに表示されたままの石川の番号を見詰めたまま、
こんな自分がほとほと情けなくなって、大きく溜め息をつく。
- 95 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時30分32秒
- 矢口からは、しばらく石川梨華と関わるのを避けるように言われていた。もし、彼女があの夜の出来事を
吹聴する節があるのなら、そのときにまた対処を考えればいい、と。
根本的な問題の解決にはならないが、強いて言えば、それがいまの状態での最善の策なのかもしれない。
ただ、そのとき矢口が口にした“対処”――その言葉には含みがあるように思えた。郷の掟を守るためなら、
多少であろうと人命すら犠牲にしても厭わない。常に正義は郷の側にある――。
業の存在は、そのあまりの尋常のなさゆえに、常に秘密であらねばならない。郷で業の使い方を学んでいた頃、
常に言い聞かされていたことだ。
- 96 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時31分05秒
- 放課後、特になにかすることもなく家に帰り、夕飯の支度をする。高橋が寝込んでいるため、
当番制度は一時中止だ。昼間、近所の病院に行くと、すぐにインフルエンザと診断されたらしい。
卵粥を作ってやることにした。
鍋に炊いた飯を移し、火を通しているあいだ、吉澤は上の空だった。コンロの前でぼうっとしていると、
「吉澤さん、吹いてますよ!」
いつしか起き出してきていた高橋が、掠れ気味になりながらもマスク越しに張り上げた声で我に帰る。
目の前で鍋の蓋が泡にまみれてごぼごぼと揺れていた。吹きこぼれるごとに、
鍋から伸びたお玉の柄が揺れ、コンロの火がじゅっ、じゅっと黄色い炎を大きく広げている。
慌ててスイッチをひねって火を止め、事なきを得た。
吉澤は息をついて、「高橋、もう起きてきても大丈夫なの?」
「『だいじょうぶなの?』は、こっちのセリフです。どうしたんですか? 吉澤さんらしくないです」
言い終えるとすぐに、けほけほと背中を丸めて咳き込む。
「あー…ちょっとね、考えごと」
再び火をつけ、すぐに再び泡立ち始める鍋の中身をゆっくりとかき回す。
その様子をじっと見ていた高橋は、窺うような口調で、「石川さんのことですか?」
- 97 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時31分41秒
- 「んー、違うよ」
「いいんです、気を遣ってもらわなくても。そんなことされたら、わたし、なんか惨めです」
「…ごめん」
「謝られたら、余計に惨めだし」と、高橋は気を悪くするでもなく薄い笑みを浮かべた。
「遠慮がないね、今日の高橋」
言ってから、そうだ、こんな風にざっくばらんにいきたい、と、
こっちに来るとき、列車のなかで言ったのは自分のほうだった、と、吉澤は思い出す。
「熱のせいですよ」と、高橋は言って、けほけほと小さく咳き込んだあと、さらに続けた。
「あの夜の一件、矢口さんから聞きました。一応、わたしの耳にも入れといたほうがいいだろ、って」
「そう」
高橋は冷蔵庫の扉を開け、ポケットから冷えぴたクールの箱を取り出すと、箱のなかを探りながら、
「とりあえず、もういちど連絡取ってみたらどうですか?」
「んー?」
「仲直り、したいんじゃないんですか?」
そう言って、一枚抜き出した冷えぴたクールを額にぴしゃりと貼る。
「いったいどうしたの、今日は」
「熱でぼーっとしてるので、今日だけです、こんなコト言うの。それに、“不戦勝”なんて嬉しくありませんから」
- 98 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時32分17秒
- 吉澤は“不戦勝”という言葉に苦笑いを浮かべながら、
「残念ながら、仲直りなんてできないって、きっと。だって、事情を説明しようがないんだから」
「明日はせっかくの休日なんだし、とりあえず電話して、いっしょにどっか行く約束でもしたらどうですか」
相手に塩を送るわけ?と吉澤が尋ねると、高橋は、ちょっと違います、と首を傾げ、
「わたしの好きな吉澤さんは、カッコよくてモテモテじゃないと駄目なんです」と言って、
熱のせいか赤味の差した顔にふわりと柔らかな微笑みを滲ませる。その途端、それまで高橋の額に
辛うじてしがみ付いていた冷えぴたクールが剥がれ、ぴしゃッと間抜けな音を立てて
ふたりのあいだに落ちた。フローリングの上に、まったく皺なく貼り付いたその見事なさまが妙に可笑しくて、
見合わせたふたりに笑いがこぼれた。
電話、してみようと思った。
- 99 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時32分48秒
- ◇
それでも、結局その夜は掛けることができないまま日付が変わってしまい、
プッシュボタンに指を掛けたのは翌朝のことだ。
ゆうべはろくに食べなかった高橋の枕もとに「少しでもいいから食べたほうがいいよ」と、
ミルク粥とカップ入りのプレーンヨーグルトを持って行き、リビングに戻ってくると、
時計の針は9時過ぎを示していた。さすがにもう起きているだろう。
できるだけリラックスして話そうと、ソファに寝そべって携帯を手に取る。
きっと、向こうも落ち着いている。そんな根拠のない楽観を信じようとしていた。
4回のコールののち、相手が出た。
『どうしたの?』
これまでいつも吉澤に話し掛けていたような、きらきらと陽気な声ではなかった。甲高いアニメ声が、今日は、
耳に氷水を注ぎ込まれたみたいに冷ややかに聞こえる。いや、実際にも声のトーンが低くて、いつもとは違う感じだ。
気後れするな、と自分に言い聞かせながら、「昨日、早退したって聞いたから、だいじょうぶかな、って思って」
『イロイロ都合悪くなったら、やっと、そっちからコールくれるんだ?』
- 100 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時33分20秒
- そうだった。思い返せば、携帯に番号を登録したままで、石川に電話したことがない。
いくら親しみを覚えているとは言え、こちらから電話をするにまでなると、
一気に単なる親しみを越えそうで、無意識に自制していたのかもしれなかった。
少しの沈黙の間も、なんだか怖い。言葉に詰まり、「こほっ」とひとつ咳払いののち、
「あの、さ、今日、会えない? 話したいことがあるんだけど」
どうにか言葉を紡ぐ。なにをどう話すというのか。まったく考えてもいなかったが、とりあえず、
相手の顔を見ないとなにも始まらない、浮かぶものも浮かばないような気がした。
それに、実際に石川の声を耳にしてから、やっぱりなにを話すかちゃんと考えておけばよかった、と、後悔し、
せめて会うまでの時間のなかでなにか思い浮かべば、と思うところもあった。
しかし石川は、『これから、しばちゃんと映画観に行くトコなの』と、トム・クルーズ製作・主演による
アクション映画のシリーズの最新タイトルを告げた。それは、前にふたりで
情報誌を広げながら話しているときに、吉澤がその映画の特集記事を見つけ、
観たいと言っていたタイトルだった。ふたりでこんどいっしょに行こう、と話し合っていた。
- 101 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時34分03秒
- 不意に胸のあたりをちくりと切なさが掠めたが、
「そう」と相槌を打ち、「こんど、感想聞かせてね」とだけ言った。
相手が黙り込む。推し量られているような沈黙。
吉澤が間を埋めるように、息を吸い込み、次に口を開こうとしたとき、
それをすかさずぴしゃりと制するように、
『ばかっ!』
音が割れるほどのボリュームで伝わった石川の端的な答えを最後に、ぶつりと通話は途絶えた。
どうやら、なにか試されていたのかもしれなかった。
つー、つー、と空しく伝える携帯を耳にしたまま虚空に視線を上げ、
“ふぃーっ”
前髪を勢いよく吹き上げる。さらに、だらっと寝そべっていたはずなのに、
いつの間にかきちんと座っている自分に気がつき、ますます情けなくなる。
- 102 名前:パート1-11 投稿日:2003年03月16日(日)22時35分04秒
- 赤信号になった。停車線の間際で緩やかに停車させると、
「あのさぁ、単なる足代わりにすんの、やめてくんないかなぁ。今日は休日じゃない」
斎藤が口を尖らせた。尖らせたと言っても、そのぽってりした唇がさらに厚みを増すだけになるが。
「何言ってんの。オイラが声掛けないときは、毎日、日曜日みたいなもんじゃんか」
それを言われては、なにも言い返せない。案の定である。たぶん、そう言い返されるだろうからと思って
口をつぐんでいたのだが、それでもどうしてもひと言差し挟まずにいられず、つい口を開いてしまったのだ。
「寒くないの? それ」
「え?――ああ、これ?」
矢口のマイクロミニから伸びる生足の太腿のことを言っているのだ。さっきから気になっていた。ついでに言えば、
袖口が指先まで隠すほどのだぼだぼな白いセーターのVネックの襟元からは、はっとするほど白い胸元が覗いている。
なにが苛立つかと言えば、こんな“ガキ”の拙い色香にいちいち反応してしまう自分である。
- 103 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時35分42秒
- 「寒いだのなんだの言ってたら、お洒落なんかできないじゃん」
そう言って、矢口はけらけらと笑った。
こんなガキにいいように使われている自分は、いったいなんなのだろうと思う。
「いやん、あんまり見ないでっ」
芝居がかった口調できゅっとミニの裾を引き下げるのを見て、斎藤は妙に疲労を覚えるのだった。
内務省付きになってから、仕事と言えば、何日かに1回、この謎の少女・矢口真里と同伴する数時間だけで、
それ以外は日がな一日、部屋でだらだらと寝そべりながら本を読んだり、ショッピングをしたり、
1泊で温泉に行ったりといった怠惰な毎日である。その昔、仕事がないことを、
「サンデー毎日」という雑誌名になぞらえて表現した映画があった気がするが、
それとは明らかに違うのは、この不景気のご時世、ろくに内容のある仕事もしていないのに、
銀行の口座には、ちょうど自分と同い年のサラリーマンが貰う給料の倍近くは振り込まれるということだ。
もちろん、それまでいた警察よりは高給で、正直、気味が悪いほどの厚遇である。
- 104 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時36分17秒
- 矢口の身の上について、最初の頃は尋ねたこともある。しかし、その度に
なんだかんだと誤魔化されて終わっている。口ではどうにも敵わないのだ。
今でも、“どうしてこんな『お子様』に付き従わなくちゃいけないのか”“失踪者の家ばかりを訪ねて、
このコはいったいなにをしているのか(だいたい、行方不明者の捜査は、警察の仕事だろうに)”
“そもそも、このコはいったい内務省のもとでなにをしているというのか”という疑問はあったものの、
最近はすっかり吹っ切れてしまい、「給料貰えるんだから、それでいいや」という風になっていた。
せっかく職場が変わって、ようやく閑職から解放されて、自分を巡ってなにかが動き出すと思ったものの、
結局、自分はいつも蚊帳の外なのだ、と。
信号が青に変わる。
「あたし、会わなくてもいいの?」
アクセルを踏み込みながら、斎藤は尋ねた。今日はこれから、自分がいま所属している“らしい”
内務省に初めて赴くのである。矢口に用事があるとかで、事実上、単なる運転手というわけだが。
つまりは、いつもと同じようなものだ。
- 105 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時36分50秒
- ただ、斎藤が電話で話した中澤という女性に会いに行くということを聞いて、
強いて言えば上司と言えるであろう中澤に顔ぐらい合わせておいてもいいのではないか、という気持ちで
尋ねたのだった。この少女といっしょに行動しているだけでは、
家にいても、どうにも毎日、地に足が着いている気がしない。
給料は確実に入ってくるものの、これはまさに、霞を食って生きている、といった塩梅なのだ。
しかし矢口はいつもの軽い口調で、
「あー、いいのいいの。たぶんそんなに時間掛からないと思うから、地下の駐車場で待ってて」
予想通り。ヤレヤレだ。もう慣れっこだけど。
高速に乗る。色褪せたように霞んだ水平線を右手に見ながら30分足らずで東京に着いた。
霞ヶ関なんて斎藤は来るのも初めてだった。おそらく一生縁がない街だろうと思っていた。
道路の幅が気持ち悪いほどに広い。
斎藤の目には、歩道にぽつんぽつんと目に付く背広やスーツ姿が、
皆、この国を動かしているのだという自信に満ち溢れているように映った。
- 106 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時37分28秒
- 内務省は国会議事堂まで続く官庁街のいちばん端に位置する。建物は戦前に建てられた5階建て、
迎賓館ばりの洋風建築で、それ自体、国の重要文化財に指定されるほどの価値があるものだと
どこかで聞いたことがある。その荘厳な造りは、この省の持つ絶対的な権力を示すのに
ひと役買っている。しかし現在、実質の執務を取り仕切っているのは、
その裏手にあった公園を潰して建てられた、総ガラス張りでモダンな新庁舎である。
斎藤の車は、矢口の指示通りに新庁舎の脇にある地下駐車場への小道へと滑り込む。
と、敷地に入ってすぐ、地下へ続く緩やかなスロープの手前に検問所が目に入った。
紺色の制服を着たガードマンがふたり、黄色と黒のボーダーの遮断機脇に立っている。
- 107 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時37分58秒
- 遮断機を前に車を停止させた斎藤が、どうすんの?なんか見せるんじゃないの?と矢口に尋ねようと、
視線を助手席に向けたときには、すでに矢口の顔を目にした警備員が
速やかに遮断機を上げるスイッチに手を伸ばしていた。
――顔パスかよっ!
上がっていく遮断機を前に、一瞬ぽかんとしたあと、心のなかですかさずツッコミを入れる。
ここまで来ると、不思議なことに、むしろ痛快とさえ思えてくる。全くわけがわからない。
この国は一体全体どうなってるんだ。
いや、むしろ、どうにでもなってしまえ。
複雑な不可解さを覚えながら、斎藤はアクセルをそろりと踏み込んだ。
- 108 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時38分32秒
- 6階でエレベーターを降りると、しんと静まり返った広い廊下が真っ直ぐに伸びている。
スニーカーだというのに、一歩一歩、響く固い靴音は、いちいちこの省の威厳を主張する。
そのいちばん先の左手に、危機管理2課の部屋はあった。手前が1課になるが、空き部屋である。
実は、このフロアは2課だけのものになっているのだ。
そのドアを開けると、到底、“お役所”とは思えない光景が広がる。
巨大な実験台が何台か並び、その周辺や卓上には、フラスコやバーナー、菌の培養のためのメディウムが
入ったプラスティック・ディッシュの山。ほかにも、恒温槽、クリーンベンチ、液体窒素の入ったボンベ、
一方の壁を占領する棚に並ぶ試薬壜の列、水を張ったバケツに無造作に突っ込まれたガラス製のピペット。
さながら、理科系の大学の実験室といった佇まいである。
そしてなにより異様なのは、一歩足を踏み入れた瞬間から鼻を突く、甘ったるい匂いだ。
大腸菌を培養するために作ったメディウムを使用前に高温殺菌する際に出るものなのだという。
ヒトから大腸菌に至るまで、甘いものは共通して好きらしい。
- 109 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時39分05秒
- ドアを後ろ手に閉めると、矢口は、「裕ちゃーん?」
どこに向かって、ということもなく、窺うように声を出してみる。
「はあいー」
間延びした返事とともに、実験台の棚に山積みになった本の向こうに、
白衣の袖口から伸びた手が振られていた。中澤裕子だ。
「早かったんやねぇ」
マスク越しなのか、いつもの関西弁は若干くぐもって聞こえる。
「高速、空いてたから」
「ごめんなぁ、今日は迎いに行けんで」
矢口は何気なく傍らのディッシュを手にとり、黄褐色の培地の表面に点々と浮かぶ大腸菌のコロニーを見ながら、
「いいよ。えっと、オイラ、どうしたらいい?」
「いつものオフィスに行って、待っといて。すぐ行くわ」
“実験室”の隣にある応接室が中澤のオフィスである。
窓際には一枚板の分厚く巨大な机には、パソコンのキーボードと、見たこともないほど大きな液晶のディスプレイ、
部屋の中央にはずっしりとした応接セットが置かれている。
相変わらずめちゃくちゃいい革張りだなぁ、と思いながら、矢口はソファに掛けて中澤を待った。
ふと見上げると、“弱肉強食”と図太い筆字で書かれた色紙が額縁に収まっている。
よく分かんないひとだ、と、矢口は口元を綻ばせた。
- 110 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時39分36秒
- 初めてこの部屋を訪ねたのは、去年の夏頃だったか。冷夏たとは言え、その日はいちばん暑い日だった。
「あのぅ、先日お電話した、矢口というものなんですけど…」
やはり実験の際中だった中澤は、先にピペットが付いたまま、L字型の電動ピペッターをテーブルに置くと、
「あ、お待ちしてましたー」と、物腰柔らかに対応してくれた。
矢口の背格好を見ただけで高飛車になる大人をごまんと見てきたが、中澤は違っていた。初対面の印象は、
えらくきっちりしたひとだな、というものだった。フレームレスの眼鏡越しの眼差しは
少しきつい印象があったものの、話しているうちに、はんなりした関西弁ということもあってか、
落ち着くものを感じさせた。
しかしその印象は、ものの10分も経たないうちに音を立てて崩れ去った。
「で、現在の研究はですね――」「はぁ、なるほど、それなら、こちらでサンプルを――」などと、
この部屋で互いの情報交換をしている際中、急に中澤が、
「あーッ」と、突然、こらえ切れなくなったように声を張り上げたのだ。
- 111 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時40分06秒
- あの、どうかしたんですか、と、怪訝な面持ちになって尋ねたところ、
「堅っ苦しいの、嫌いなんよ。なあ、もう“なあなあ”でええやんね?」
ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
「あぁ、うん…いいよ」
呆気に取られたまま矢口が答えると、それまでずっと身体を縛っていた縄が解けたように、途端に中澤は「はあーっ」と、
長く息を吐き出した。だったら、最初からざっくばらんにいけばいいのに、と思って矢口は笑ったものだ。
しかし、一気に打ち解けることができた。今では「裕ちゃん」「矢口」と呼び合える間柄になっていた。
ごめんごめん、待たせて――と、中澤がクリアファイルを小脇に挟んで部屋に入ってきた。白衣のままで、
両手にはカップがふたつ。
「紅茶でよかった?」
「あー、うん。ありがと」
矢口の前のテーブルにカップが置かれると、ダージリンがたっぷりとした香りを湯気とともに立ち昇らせる。
- 112 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時40分39秒
- 中澤は向かいのソファに腰を落ち着けると、自分のカップを手にして窓の外に視線を遣り、
「ちょっとずつ温っかなってきたなぁ」
「うん、そーだねー。あ、テレビじゃ、今年の桜は去年よりも遅いとかって言ってたよ」
「去年が早すぎたからなぁ」
「でも、ひと雨ごとに、ちょっとずつ春になってきてるってカンジ」
「そういや、今日、夕方から雨らしいで」
「ふうん」矢口は相槌を打つと、紅茶をひと口舐めて、「あ、美味しい」と、目を見張る。
「友達が香港で買って来てくれたお茶なんよ。漢方とのブレンドらしいわ」
「へえぇ」
物珍しそうに、綺麗に透き通った明るい褐色に目を落とす。
官庁舎の一室で、20歳と30歳が何ら気兼ねもなく世間話をしている。まったく、ヘンなカンジ――と、
なんだか可笑しくなってしまう。
「なに? なんか可笑しい?」中澤は小首を傾げた。
「え?」
どうやら口元の端が綻んでいたらしい。
「んーん、べつに」
「なんやのぉ?」
「いや、ホント、大したことじゃないから」と言って、仕切り直すように矢口は大きく息をつくと、「――で?」
「面白い結果が出たんよ」
中澤が口元を弛ませて言った。意気満面なのが分かる。いよいよ今日の本題である。
- 113 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時42分55秒
- 霞と呼ばれる異形との戦い。それがすなわち、古来より続く百合の郷の歴史であった。なぜか、
なぜか郷に生まれ育つ者のみに備わる不思議な能力が、いつしか彼らに霞を狩る者としての役割を
担わせてきたのだ。
時代は移ろい、人びとの記憶からも百合の郷や霞のことは消え去っていった。しかし、戦乱や動乱の影には、
常に人びとを惑わせ、破壊と殺戮を繰り返す霞の姿と、それを打ち滅ぼそうと戦う郷の民の姿があった。
霞――時には“鬼”、時には“修羅”と呼び習わされてきた異形――については、未だに不明な点が多い。
だが、現在のめざましい発達を遂げた科学技術は、霞のことや郷の者が持つ不思議な力の解析を可能にし、
あるいはそれは、郷の負担を和らげることができるのではないか、という提案が数年前、政府の側から為された。
言い換えれば、いつまでも自分が掌握していない大きな力の存在を黙認しているのは、
政府としても常に配慮を強いられることでもあり、面白くないというのが本音である。
霞に対して、警察の力では対抗できないのは明らかであり、かと言って、
軍の実効力のある戦力をおいそれと動かせば、治安出動の前例を作ると世論が黙ってはいない。
- 114 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時44分12秒
- そこで官僚たちは考えた。業の秘密を解明し、それを警察の人間にも身に付けさせることができれば、
事態は変わってくるのではないか、と。
さらに、郷の民が狩った霞をサンプルに研究すれば、生物化学兵器という選択もあるかもしれない。
そんな皮算用も、政府にはあった。
これら、一見、権力側にとってばかり都合のいい話の持ち掛けに、
百合の郷の首長――通称“保田のおばあちゃん”は応じた。郷にも止むに止まれない事情があったのである。
古来から、百合の郷は、時の権力と付かず離れずの姿勢を貫いてきた。近づき過ぎては、
その尋常ではない力を霞掃討以外の目的に利用される恐れがあったし、完全に途絶すれば、
使命を果たすための、時々の便宜を図ってもらえなくなる。
- 115 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時45分11秒
- しかし、ここ数年、事情は急激に変わってきた。なぜか霞の発生頻度は急増し、
霞の能力自体も強くなってきているのは明らかだった。多くの血も流れた。
だから、こちらも政府を利用してやろうというわけである。
何千年にも渡って戦ってきたにも関わらず、霞の目的、生態はおろか、業を使っている自分たち自身にも、
業のメカニズムはまったく不明だった。すべては経験則に基づき、代々受け継がれてきたものでしかない。
業の秘密を解析できれば、霞をた易く狩れるように、業をさらに強化することも可能なのではないか。
そういった経緯で、政府の機関と連携しながら、霞や、郷の者が持つ能力・業について、研究していくことになった。
郷の側からは、以前までの飯田に代わって霞掃討の中心となっていた矢口がその任を帯びた。
ちょうど矢口は、ここ数年、霞はどこに発生しようと常に一定のある地域を目指す傾向がある、
という確証を得て、目星を付けていたその地域最大の都市、Y市を中心に霞の生態を追っていた。
東京を目と鼻の先にして活動し、さらに霞と最も接触している矢口は、まさに適任であったと言える。
- 116 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時46分29秒
- 政府の側からは、内務省危機管理2課の中澤という女性がこれにあたった。
内務省危機管理2課――。耳慣れないこの部署は、実はまだ設置されて1年も経っていない。
以前から政府では、霞に対して分子生物学的なアプローチを模索する動きがあった。つまり、
生物化学兵器作製への足掛かりである。そこで目を付けられたのが、当時アメリカで研究していた中澤裕子だった。
単身渡米した中澤は、かつて、ある大学のフェローとしてヒトの遺伝子解析についての論文を発表したが、
その理論のあまりの大胆さに異端視されていた。テクニックや発想は注目されるに値するものであったものの、
彼女を喜んで受け容れる研究機関は皆無に等しかった。
政府が探していたのは、極秘裏に研究を進めつつ、確実な成果を上げられる人間だった。そんな条件に、
中澤はまるで示し合わせたかのように一致した。
すぐさま日本に招き、内務省内に新たな部署を設置して中澤を迎え入れた。
プロジェクトがスタートしたのは、昨年の夏である。
当初は中澤とともに行動し、大まかな霞の特徴から迫っていた。そこで偶然発見したのは、霞の身体は一律に
ユニークな低周波を発していることだった。まずその解析から始めた。
- 117 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時47分41秒
- 中澤にとって物理は畑違いであり、結局、それは大した成果に繋がることはなかったものの、
思わぬ副産物を得ることになった。軍の協力を得て、
GPSと連動した霞の探知機を作ることに成功したのだ。密かに莫大な予算が計上され、
マイクロアンテナがY市とその周辺地域の至る所に人知れず設置された。それまでずっと
霞の“臭い”を頼りに追跡していたのが、地域は限られるとは言え、かなり確実になり、狩りも迅速になった。
しかし、そこからがなかなか進まなかった。そうこうしている間に、霞たちの発生頻度がさらに多くなった。
吉澤と高橋が呼ばれたのは、増加する霞に手を焼いていた矢口を、プロジェクトに集中させるためなのである。
中澤は、矢口が狩った霞をサンプルにして研究を重ね、その一方で、百合の郷の住民たちからもサンプルを採取し、
業のメカニズムにも迫ろうとしていた。矢口は“狩り”を吉澤と高橋に任せて一線を退き、
時にこうして中澤と意見を交わす機会を作りつつ、引き続き霞の生態を調べていた。
近年、霞たちは、なぜある一定の地域を目指すようになったのか。霞たちの目的はなんなのか。
霞の発生が増加しているのは、なにかが引き金になっているのか。
- 118 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時48分12秒
- 「面白い結果が出たんよ」
中澤が口元をにんまりと弛ませて言った。
「へえ、どんな?」
「あんたら郷の人間についてのあたしの仮説は、こないだ話したやん?」
「あー、うん」
ぼんやりと思い出せる。たしか、中澤の仮説は、郷の人間の体内には特殊なたんぱく質が存在し、
それが、“業”と呼ばれる特殊能力の行使を支持している、といったものだった。
中澤の話は、このところの実際の研究成果を話し始めた。
郷の人間から採取したサンプル――口腔粘膜細胞、毛根の細胞、血液など――から得られたDNAを
解析した結果、ユニークなことが分かった。
「ヒトの染色体は通常、23対、46本存在するって、高校の生物の時間に習わったやろ?」中澤は尋ねる。
「あー、うん、なんとなく覚えてる」
そのうち、6番目の染色体に含まれるある遺伝子において、郷の人間はユニークな異常を有していた。
塩基1対ぶんだけのそれは、通常ならイレギュラーな点突然変異として解釈される。しかし、それを単なる偶然として
片付けられないのは、得られたすべてのサンプルに、個体差なく同様の変異が認められたからである。
それは中澤にも予想外の、驚くべき結果であった。
- 119 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時50分02秒
- 「――で、な。その遺伝子を単離して、塩基配列を調べてみた」
中澤は、矢口に見えるようにデスク上のパソコンのディスプレイを180度回転させた。4列ずつ、
A、T、G、C――4種類のアルファベットの羅列が横に何往復にも並び、画面が埋め尽くされている。
なかに、赤字で示されたアルファベットが矢口の目を引いた。
「これが――」と、中澤はその赤字部分を指差して、「通常の人間ではこうなるんよ」
どうやら、4列のうち、上の2列ひと組が郷の人間が持つ塩基配列、
下の2列ひと組が通常のヒトが持つ配列らしい。なるほど、上の組と下の組は、
すべて一致しているように見えて、赤字のアルファベットの部分だけがまったく違っている。
要するに、その塩基対だけが郷の人間固有の変異ということを示しているらしい。
「なんでそんなことが起こるの?」
すでに湯気が薄くなった紅茶を一気に飲み干して矢口が尋ねると、
「まあ、そう先を急がんと」
中澤はいなすように得意げな笑みを浮かべ、再びマウスに手を伸ばした。
カーソルがひらりと泳いで“structure”という名前のフォルダを開き、
ひしめくように並んだ画像ファイルのひとつをクリックする。画面の半分に画像が開かれた。
- 120 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時50分36秒
- 「この遺伝子がコードするたんぱく質の構造っていうのは、ホンマやったら、これやねん。
まぁ、そもそもこのたんぱく質の持つはたらきも、まだよく分かってないんやけども」
そこには、マッチ棒を複雑に繋ぎ合わせたような立体図がいっぱいに示されていた。
「ところが――」と、さらにカーソルが別のファイルをクリックする。
「郷の人間が持つ、さっき言ったような変異を含んだ同じ遺伝子が作るたんぱく質っていうのは、
理論的にはこうなる」
新たに画面の反対側に画像が開かれる。すると、さっきの立体図とはまるで形が違うものが示されていた。
中澤の仮説の上では、このたんぱく質が、業を使うために必要なもの、引いては、
このたんぱく質自体が、業のエネルギー発生のプロセスに直接関わっている可能性があるということになる。
- 121 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時51分09秒
- 「んー、なんかよく分かんないけど、たったあれだけの違いで、
できてくるものはこんなに違っちゃうもんなの?」
「そういうこと。3つの塩基がひとつのアミノ酸をコードして、それらが集まって、
ペプチド、ポリペプチド、そしてたんぱく質、ってなる。せやけど、たったひとつのアミノ酸でも――」
と、そこで中澤は眉を潜めると、「……付いて来てる?」窺うように尋ねた。
「ぜんっぜん分かんない」
矢口は笑いながら、かぶりをぶんぶんと振る。正直なところ、専門的なことはどうでもいいのだ。
この場においては、むしろ、意気揚揚と話す中澤の表情を見ているほうが、
矢口にとっては遥かに面白かったりもする。
- 122 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時51分39秒
- そこで不意に、まっすぐだった矢口の思考の糸が綻びを作り、なにかが引っ掛かった。
――なんだ?
口の端を小さく歪めて自分に問い掛け、そしてすぐに思い当たった。
「一般のひとが、つまり、郷以外に住んでるひとが、急にその変異を持つことって、ある?」
「それは、さっきあんたが訊いたことと、ちょっと関連するわ」
「なんで郷の人間には、こんな変異が生じるか、って話?」
「うん」
中澤の仮説はこうだ。
例えば、あるとき、郷の辺りに住んでたひとりの人間に、遺伝子の複製の際に偶発的にそういうミスが生じたとしたら?
それが、今日まで続く郷の業の始まりだったのかもしれない。
郷は古来より人間の出入りがほとんどなく、閉鎖社会である。人口も百人余りのこの集落は、
細かに辿っていけば、すべての人間が血縁とも言える。
あるひとつの個体が偶然有した遺伝子レベルの異常が、長いタームを経て、
郷のなかで濃縮を繰り返しながらその血を広め、すべての個体に広まったとしても不思議ではない。
- 123 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時53分18秒
- …だとしても、一般のひと、つまり、郷とは縁も所縁もない人間がこうした変異を持つ可能性は――。
「ゼロではないね」と、中澤は言った。「実際のトコはよう分からんけど、可能性の話な、あくまで。
つまり、“イヴ”が、一般社会にもときどき生まれる。
せやけど、ほとんどのひとはそんな変異なんて持ってないから、継代されることなくすぐに薄まっていく。
絶えず、人間の身体はそういった変異の可能性に晒されてるんかもしれへん。
長い歴史のなかで、たまたま百合の郷が特殊なケースとして広まった――ということなんやろな」
中澤が言ったことが正しいとしたら、もしかしたら石川梨華は、
偶発的に郷の民と同じ遺伝子の変異を生じた者、つまり“イヴ”なのかもしれない。当然、
さっき図で見た、変異たんぱく質も体内に有するわけで、
このたんぱく質が業の耐性にも影響を及ぼしているなら、業が通用しなかったのも説明がつく。
そして、自分でも意識しないうちに、吉澤が施した記憶に関する業を無効化していたのだろう。
そうだ。きっと、そうに違いない。
- 124 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時53分50秒
- と、そこで、矢口の携帯が胸ポケットのなかで浜崎の着メロを鳴らした。
なんやの、話の腰折って…と、中澤は不機嫌そうな目つきになる。矢口は困ったような笑いを浮かべ、
手刀で“ごめん”とすると、ストラップを手繰って抜き出した携帯を開き、
「あ、よっすぃー、どした?」
ディスプレイの液晶に“よっすぃー”とあったので、相手の声も聞かずに言った。
携帯を耳に当ててから、ややあって、それまで呑気そうだった矢口の表情が、
見る見る険しさを増した。目は瞬きを忘れたかのように大きく見開かれる。
「いま、どこにいんの? ……うん、いや、いいよ、こっちでもモニターするから」
言いながら、空いている手で素早く胸ポケットから取り出したPDA――霞探知機を開き、電源を入れると、
膝元に置き、スタイラスで速やかに地図をスクロール、拡大し、光点が示す霞の現在地を探る。
Y市の北――山のほうから1ドットずつゆっくりと南下してくる光点があった。
- 125 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時55分28秒
- 「…………こっからだと…5分は掛かると思う、いま、東京だから。持ちこたえられそう?
…うん……………いざって時は逃げるんだよ、いい? 絶対ムリしちゃ駄――」
突然、鈍くなにかが砕ける音が重なり合って響いたかと思うと、音声が途絶えた。
無音の緊張感が矢口を鷲掴みにするようにぴりぴりと包む。
「もしもし? もしもし…ッ?」
差し迫った声で呼び掛けるが、とうとう単調な発信音に変わってしまう。
吉澤が誰かに助けを求めること自体、只事ではない。
いつも、自分ひとりでなにかをしようとする子である。郷にいたとき、吉澤に業の扱い方を
手取り足取り教えたのは教育係の矢口だったが、ひと通り教えたあとは、たとえ上手くいかなくても、
こちらが声を掛けるまでは、延々と自分だけでなんとかしようと努力していた。お陰で、
矢口が手を焼くことは皆無だったが、その反面、頼ってもらえないという寂しさもあった。
そんな吉澤が、今、助けを求めている。
- 126 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時56分05秒
- 「ごめん、裕ちゃん、行かなきゃ」
PDAと携帯を仕舞うと、すっくと立ち上がる。
「出たん?」中澤が腕組みしたまま尋ねると、
「出た」
もちろん、霞のことである。
矢口は足早にデスクの背後に回って窓を開けると、
臍の高さほどの窓枠に剥き出しの片足を掛けたまま顔だけを振り向かせ、
「続きはまた今度ってコトで」
そう言い残し、小柄な身体をひょいとすぐ外の宙空に滑り出させた。
ひとり、部屋に残された中澤は、首をひねりながら、
「矢口――」ぽそっと呟くように言った。「Tバック穿いてるんやなぁ…」
妙な点に感心する。
風が吹き込む窓を閉め、パソコンのディスプレイに再び視線を落とした。
「先天性か後天性か、いずれにしてもこれは――」
――神の御業(みわざ)っちゅうやつやね。
口に出すのがはばかられ、心のなかの呟きに留めた。そして、すぐにそれを打ち消すように、
「神なんて、おらへんけどな…」
吐き捨てた。
- 127 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時56分36秒
- 6階からの自由落下の間に、矢口の頭上にはまるで大気中に潜んでいたものが凝結するように光の文様が集積し、
それらは細かな粒子となって円運動を始め、すぐに白い光輪を形作る。同時に矢口の華奢な身体は
下に凸の弧を大きく描き、そのまま重力を無視して勢いよく空高くへと舞い上がった。
水を掻くように片手を大きく振って反動をつけ、身体を大きく反転させると、
ひと息にY市の方向へと飛んだ。時折、バタ足のように足を小刻みに動かし、
その度に、緩みかけた速度を大きく取り戻す。遥か眼下に見えるジオラマのような地上の街並みが、
足元へと吸い込まれていく。
上空を吹きすさぶ風は強く、全身を冷たさが刺した。目を開けているのも辛い。
――あ〜っ、やっぱ、生足なんてやめときゃよかった…。
矢口はかじかむ両手をポケットに突っ込み、さらに光輪を二重に増やした。ぐんと速度が増し、風を切り裂く。
- 128 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時57分13秒
- 急がなければならなかった。
――いざってなったら、“ゐる”を移すかもしれません。
電話の向こうで、たしかに吉澤はそう言った。
そんな業は、もちろん自分でも使ったことはない。誰かが使ったのを見たこともない。
コレ、最後の手段だから――と、おちゃらけた口調で吉澤に伝えた覚えはある。
ホントに死にそうなときぐらいしか使い道ないけどね、と。万が一にも使うことになるなんて思っておらず、
こんなのもあるヨ、といった、豆知識程度にしか教えなかったはずだ。
あの吉澤が、重篤なダメージを負った。そんなに手強い、あるいは賢い相手なのか。
それとも、単に吉澤が油断しただけなのか。
まさか――。矢口は思う。吉澤に限って油断なんてするわけがない。なんせ、霞を相手にすれば、
憎しみにまかせて我を見失ってしまうような子なのだ。そこまでしなくてもいい、
というほどに躍起になって、霞の息の根を止めようとする。
- 129 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時58分57秒
- 2年前、飯田が郷から姿を消してから、しばらく吉澤は荒れた。
無理もないことだった。
「血の日曜日」ののち、しばらく経って、矢口が吉澤に付き添って狩りをしていた頃のことだ。
すでに頭の先から腹のあたりまで真っ二つに割れ、呼吸も心臓も止まったはずの霞の身体を、
さらに粉々の肉片に砕こうとしていた。
「このやろぉぉぉぉッ!」と叫びながら。「お前らのせいで! お前らのせいでッ!」
憎しみをぶつけるように、もはや完全に生命機能を停止した霞に向けて、光の拳を打ち込んでいた。
冬の寒い日だ。雪が降っていた。しかし、吉澤の身体中からは、汗が湯気となって薄く立ち昇っていた。
ただの湯気ではない。霞の返り血を帯びて、赤く染まった湯気だ。
そんな吉澤がミスを犯すわけがない。
Y市までの距離の半分は飛んだだろうか。
再びPDAを取り出す。光点はさっきいた山沿いよりも海側に移動し、市街地に入ろうとしている。
もっとも、この情報だけでは吉澤の状態は測りかねる。とりあえず、この霞に接触することが先決だ。
もっと速く――。
いつしか頭上には3つ目のさらに大きな光輪を広げ、それら全体は互いに共鳴しているように、
いっそう光を増す。風の鋭く巻く音が、ひときわ大きく耳元に満ちる。
- 130 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)22時59分29秒
ちなみにその頃、地下の駐車場の車内にいた斎藤は、シートをいっぱいに倒したまま、
安らかな寝息を立てていた。ぶつぶつとくさっていても、つまりは最も平和なのは彼女であった。
- 131 名前: 投稿日:2003年03月16日(日)23時00分55秒
- 科学的な事項については、ぜんぶ信じてはいけません。
受験シーズンですので、念のため。
- 132 名前:名無し 投稿日:2003年03月16日(日)23時02分04秒
- あ、今回の更新は、75〜130です。
次回こそ、パート1を終わります、たぶん、きっと。
- 133 名前:名無し 投稿日:2003年03月16日(日)23時02分45秒
- >>74
お待ちどうさまでした。
- 134 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月17日(月)03時00分20秒
- いつみても凄いなぁ
今回更新遅いから心配しちゃった
続き頑張って下さい
- 135 名前:名無し読者 投稿日:2003年04月07日(月)23時12分36秒
- よっすぃー大丈夫なんでしょうか…。
ドキドキです。
- 136 名前:名無し 投稿日:2003年04月10日(木)10時18分01秒
- レスだけです、すみません。
>>134
ありがとうございます。
そしてごめんなさい。今回、さらに更新が遅れています。。(汗
ヒマみて書き進めてますので、もうしばらくお待ちを。
>>135
作者としても、
あんまりよっすぃーを可哀想なことにしたくありませんけど。。
次の更新まで、もう少し待っててくださいませ。
- 137 名前:名無し読者 投稿日:2003年04月27日(日)09時56分12秒
- 待ってるよ
- 138 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月16日(金)11時44分04秒
- 保全
- 139 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月28日(水)22時44分30秒
- hozen
- 140 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月11日(水)04時39分35秒
- 保
- 141 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月15日(日)19時50分30秒
- 全
- 142 名前:名無し読者 投稿日:2003年06月22日(日)19時50分25秒
- 保全
- 143 名前:名無し 投稿日:2003年06月22日(日)22時25分09秒
- 保全ばかりしてもらってすみません。そして、どうもありがとうございます。
なかなか更新できず、心苦しい限りですが、お応えできるよう、今週中には少しでも更新します。。
- 144 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月22日(日)22時45分58秒
- もう駄目かと思ってたよ
待ってます
- 145 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月23日(月)01時07分30秒
- はい待ってます。
- 146 名前:名無し読者 投稿日:2003年06月23日(月)01時53分32秒
- 心よりお待ちしております。
- 147 名前:これまでの、お話 投稿日:2003年06月28日(土)22時10分49秒
- (この時点で、これまでのあらすじを書くのはヘンだけど、少し間が空いたので)
お嬢様学校に通う女子高生・石川梨華は、転校生・吉澤ひとみと高橋愛に出会う。
数々の不審な点にも関わらず、石川は、吉澤に惹かれていき、
いっしょに人気アイドル・後藤真希のコンサートに誘ったりする。
だが、吉澤たちは、不思議な能力を使って奇妙な化け物との熾烈な戦いを影で繰り広げていた。
戦いを目撃してしまった石川の記憶を操作する吉澤だったが、なぜか石川にはそれは通用しない。
石川は吉澤に対し、恐れともつかない不安、不審を抱く。
- 148 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時11分53秒
- 吉澤と高橋は、N県の山奥にある百合郷の出身だった。
そこに住む人びとは不思議な力を持ち、その能力を有するがゆえに、
古来から、“霞”と呼ばれる、無造作な破壊と殺戮を続ける謎の異形との戦いをひそかに続けてきた。
一方、同じ郷出身の矢口真里は、内務省内の特設研究機関に勤める中澤裕子とともに、
霞の研究を始めていた。
ある考えから、ここ数年の失踪者の家を訪ねて回る矢口。科学的な観点から霞の謎に迫る中澤。
ここ数年の霞は、これまでのそれらとは何かが違うらしい。
そんなある日、中澤の研究室を訪れていた矢口の携帯が鳴る。吉澤からだった。
どうやら、なにかあったらしい。吉澤のもとに飛ぶ矢口だった。
- 149 名前:パート1-12 投稿日:2003年06月28日(土)22時12分54秒
- 時間は少しさかのぼる。
石川との電話が切れたあと、手持ち無沙汰なのが妙に落ち着かず、
日曜の朝の、どこかけだるいテレビ番組を上の空で眺めながら、ソファの座り位置をなんども変えたり、
高橋のためにフレンチトーストもどきを作ったりして時間を潰していた。
いっしょにいて、正直、イライラすることも多い。特に、あの独特の声が、ときに癇に障る。
なぜ好かれているのか、よく分からない。
嫌われたままでいいじゃないか、とも思う。
その一方で、どこかで、なんとかしなければと思っている。
なんで? べつに、なんとかしなくてもいいじゃない。
分からない。分からない。分からない。
こんなに、自分の気持ちが分からなくなったことは初めてだ。
ああ、いまいましい。
むしゃくしゃする。
面倒くさい。
でも……ああ、もう、ちくしょー。
何事も、シンプルに考えるのが好きだった。
灰色の気持ちは、自分でも気持ち悪くて仕方がない。
- 150 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時13分27秒
- そんな風に、ひとり、馬鹿みたいに身悶えしていたとき、充電中の吉澤のPDAがアラームを鳴らした。
こんな日に限って、同居人の高橋は熱で寝込んでいる。もっとも、はなから頼りになんてしていなかったが。
とにかく、むしゃくしゃした気分を狩りで紛らわせることができる。
半ば空元気かもしれなかったが、吉澤の心は弾んだ。
いつまでも石川のことを考えていても仕方ない。
もし、石川の記憶の操作がなにかの理由でできないとしても、
いつか自分はこの街を後にすることに変わりはない。
もし彼女が自分たちのことを誰かに話したところで、
常識ある一般人にとってはにわかに信じられる話でもない。
吉澤は地図上に浮かぶ光点に目を落とす。縮尺を変えながら、大まかな位置を確認する。
PDAの液晶ディスプレイに表示されるドット単位の光だけでは、霞の形状や特徴、大きさまでは分からない。
「そこに存在する」ということ以上の情報はなく、狩りは、実際に相手を目の当たりにするまで、
どういう攻め方をすればいいのかは分からない、言わば出たとこ勝負なのだ。
とは言え、便利な時代になったものだと、郷の年寄り衆は口を揃えて言う。
探知機はおろか、電話すらなかった大昔は、霞の発生や被害などは、方々で噂を伝え聞いたり、
実際に霞が暴れた爪痕――壊されて廃墟と化した家屋や、累々たる屍の山を見ながら追うという、
なんとも気が遠く、重くなるような作業だったという。それこそ、
狩るまでには何日も、何ヶ月も掛かることは珍しくなかったはずだ。狩りに出るというのは、
長い旅に出ることと同義だったことだろう。
- 151 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時14分00秒
- それに比べれば、スマートに戦えば、探知から1時間もあれば、
霞を葬り去ることができる今は、実に恵まれているというのだ。
おまけに、ここ数年の霞の傾向は、待っていれば向こうからやって来てくれる。理由は分からないが、
このY市を目指すことはほとんどはっきりとしていて、なんとも都合がいい。
霞の反応は街外れにあった。宅地造成の途中でバブルが弾け、
作業を一手に請け負っていた大手のゼネコン業者が手を引いたため、
ほとんどが新地となったまま放置された見晴らしのいい一帯である。
街中に入る前に接触すれば、人目に触れず“事後処理”の手間が省けるし、
周辺地域への配慮の必要なく大きな業も繰り出すことができる。
「力」を温存するために、高くは飛ばず、電柱の天辺から天辺へ、ビルの屋上から屋上へと
跳ねて行った。意外なほど道行くひとの目にはつかない。目についたとしても、
視界に入るのはほんの一瞬だし、一般常識ではあり得ないことだから、
せいぜいなにかの錯覚だと思う(あるいは思い込もうとする)に留まるのだろう。
数分後、宙空にゆらゆらと身を浮かせたまま、吉澤は再びPDAのディスプレイに目を落としていた。
そこに映し出された地図は、中央が現在地を示す。そしていま、霞の存在を示す光点も中央にあった。
矢口曰く、アンテナの設置密度の都合で、場所によっては数100メートルまでの誤差はあるのだそうだ。それに、
座標は二次元でしか表示されないため、上空や地下から来ることも考慮に入れて探さなくてはならない。
- 152 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時15分20秒
- 吉澤はさらに高みに浮き上がると、潜水艦がソナーを発信するように五感を研ぎ澄まして
上下左右に素早く視線を走らせた。ぽつん、ぽつんとしか住宅が見当たらず、
そのほかの区画はすべて背の低い雑草が生い茂ったまま放置されている。
すぐに視界の端――2ブロック先に不自然な小さな存在を認め、視線が引き寄せられた。
四肢と胴体はあり、四足歩行はしているものの、犬と違って頭はない。外見は象牙色の外骨格のみで形成され、
遠目にそのシルエットは、白い岩の塊にも見える。大きさは、大型犬ほどだ。
身体のあちこちにぬめりを帯びた黄色い半球面を覗かせているのは、あるいは眼球の役割を果たす知覚器官なのだろうか。
そんな重々しい身体が、枯れ草に覆われた区画のなかを走っていた。その方向は、いま、吉澤が来た方向――市街地である。
宇宙飛行士が無重力空間でするそれのように、勢いよく足を振って身体の向きを変えた。
ふ――っと意識を緩め、さらに方向をイメージすると、光輪の光が弱まり、
支えを失った身体はそのまま霞に向かって斜めに落下していく。
耳元で巻く風のなかで意識を集中させる。爪に光の文様が走り、振り上げた拳に何重もの光輪が巻きつくと、
真昼のなかにもうひとつ太陽が生まれたような眩い輝きを帯びた。
同時に、霞は突然の存在に気付いて立ち止まり、意外なほど素早く身体を向き直らせる。
落下の勢いを載せ、吉澤は頭のなかで、この霞を粉砕するイメージを描き出す。
拳の先と霞が接触したとき、轟音とともに、地雷が爆発したような土煙が大きく立ち昇った。まさにイメージどおりに。
- 153 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時15分55秒
- 徐々に薄まる煙から吉澤の身体は飛び出すと、
数10メートルの距離を取って、ふわりと道路の真ん中に降り立った。
手応えは、あったような、なかったような。曖昧だったが、なにかを砕いたようには思えた。
やがて煙が晴れたところに、地盤を剥き出しにした浅く広いクレーターが現れ、
その中央に悠然と相手は立っていた。
無傷だった。
小さく――本当に小さく、吉澤はこくりと唾を飲み込んだ。
一撃目でまったくダメージを与えられないなんて、初めての経験だった。
霞はしばらく吉澤の様子を窺うように見つめているようだったが、
やがて、また向きを変えて、街へと進み始めた。
――こんな可愛いコが誘ってるのに、シカトなんて、つれないなぁ。
吉澤は怯えるどころか、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、霞を追った。
そのあと、隙を見て何度か同じ試みをしてみたが、やはり霞に傷ひとつつけることができない。
強固な外骨格のせいだ。足跡を残すように、
攻撃のあとのいびつなクレーターがアスファルトや空き地に無様に広がるだけだった。
焦りは禁物だ。
だが、手を変え品を変え、何度目かの攻撃ののち、とうとう市街地まであとわずかとなった。
もし、一般市民に対して無差別に攻撃するようなことがあったら…。
吉澤たちの使命は、霞を殺すことである。市民の保護は目的にはない。
が、やはり、後味が悪いだろう。自分がなんとかしていれば、無駄な血が流れずに済んだ、ということになるのだから。
- 154 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時16分27秒
- 攻撃しては離脱を繰り返していたが、少しやり方を変えることにした。
手のひらに光輪を浮かべては、立て続けに投げつけていく。注意を引き付けて、
街から引き離すことができるかもしれないと思った。
だが、霞の身体に百発百中で当たった光輪は、しかし強固な外骨格によって軒並み呆気なく弾かれ、
周囲のアスファルトに鋭利な刃物のように食い込んでは力を失って消えていく。
しばらくは我関せずといった霞だったが、不意に、様子が変わった。
立ち止まり、吉澤を見上げる。頭がないからはっきりとは分からないが、少なくとも、そんな風に吉澤には見えた。
ようやく注意を引き付けることができ、しめた、と思ったときだった。
――飛ぶのかよっ!
吉澤は目を瞬かせた。
飛んだ、と言うよりも、ふわりと浮いて、そのまま急速に見えない糸で引っ張り上げられてくるようだった。
風を切り裂き、ぐいぐいと霞はその距離を狭めてくる。
とうてい飛べるような身体つきではない。羽もなければ、ロケットを背負っている訳でもない。
おまけに、見るからに重そうな、まるで鉛の塊で全身をがんじがらめにしているような外骨格の身体である。
吉澤は、驚く、というよりも、いささか呆れていた。
まったく、こいつら――“霞”と呼ばれるやつらは、なんでもありだ。
- 155 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時16分57秒
- ふと、郷の授業で教師が諭した言葉を思い出す――霞に人間の常識は通用しない。
その言葉を聞いたときは、もしかしたら霞は、
“どうして人間は、あんなにありとあらゆる要素――例えば万有引力の法則だの、個体としての形状だの、
社会のルールだの、遺伝形式だの、老化現象だの、睡眠、性欲、食欲など――に縛られているのだろう”と、
疑問に思っているのかもしれないとも思った。あの頃はまだ、
飯田は自分に柔らかな笑顔を見せてくれていたし、両親も健在で、
霞に対する憎しみはほとんど抱いていなかったのだ。漠然と、“自分たちの敵だ”ということを
幼い頃からの郷での教育の結果、“知識”として知っているに留まっていた。
今はもちろん、霞の気持ちになんて思いを馳せるわけがない。
知ったことではない。やつらは憎むべき敵であり、それ以上でも以下でもない。
そもそも、霞にそんな高度な知性などというものが存在するかどうかさえ分からないのだから。
それに、なんでもあり、ということに関してなら、自分たちの力も負けてはいない。
自分のなかのイメージを凝縮し、実際に形のあるエネルギーにする――なんでもありだ。おまけに、
古来から存在する割に、詳しい理屈がいまだに未知で、不条理極まりないというところまで一緒ときている。
世界の“たが”に収まりきらない理不尽な力に対抗させるために、
神は一部のヒトに、同じような理不尽な力を授けたのかもしれない。
だから今も、地上に人間はこうして存在し続けることができる。
- 156 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時17分31秒
- そのまま頭から体当たりを仕掛けてくる霞を、ひらりと身体をひねって避ける。すると相手は、
透明の壁に跳ね返ったボールのように、鋭角的に身を翻して再び接近してくる。
返り討ちにしてやろうと、吉澤は両手のひらを広げてかざすと、そこに五重の光輪を浮かべた。
投げつけた途端にそれらは一気にばらけ、極限まで研ぎ澄ましたナイフと化して、
一瞬のうちに霞の身体を切り刻むはずだ。
だが、吉澤の目論見は外れた。今度は体当たりではなかった。
霞の全身に散らばる黄色い眼球が、ストロボのように一斉に、きん、と輝きを増した。
周囲の空気が歪むのが見えた。眼球の表面がにわかに乾いて、ぢりっとした鈍い痛みを伝える。
吉澤の周囲に、一瞬、身を守るように大きな光輪が白く浮かび上がった。
と同時に、身体の芯を鈍く震わせる衝撃。
歪んだ空間の波は吉澤をやり過ごして後方に突き抜けると、
その歪みを代償するようにぎゅっと凝縮して元に戻っていく。
とっさに両手を組み合わせるようにして、ガードしていた。
“障壁”を作っていなければ、間違いなく相当のダメージを食らわされていた。
吉澤のすぐ横を通り過ぎた霞は、やはり地面に跳ねたボールとなって、急上昇してくる。
――早!
- 157 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時18分02秒
- 心のなかで舌打ちしながら、なんとか体勢を立て直す。
霞は新たに完璧な障壁を作る暇を吉澤に与えない。再び、眼球が一斉に光る。
両腕を前で交差させて辛うじて作った小さな障壁に、霞が放った衝撃波が牙を剥いて襲い掛かる。
接触したふたつの力が真っ白な火花を散らし、吉澤の全身が紡錘状に覆われた。
透明な障壁が衝撃に耐えきれずに可視性の歪みとなって悲鳴をあげる。その瞬間、
吉澤のジャージの脇腹が裂け、その下に垣間見える白い肌に荒い切創面が走った。
「――ッ!」
思わず声とも息ともつかないものが漏れる。
痛みをこらえ、つぶった瞼を次に開けたとき、霞の身体がほんの目の前まで迫っていた。
かわすのも間に合わず、あっという間に視界全体が霞の身体で覆われ、ダメージを食らう。
それは直接の体当たりなのか、あるいは、身体の周囲に特殊な力場でも形成しているのかはっきりしないが、
とにかく吉澤の身体は掃かれた埃のように軽々と吹き飛ばされた。
だが、攻撃はそこまでだった。
慌てて吉澤は構え直すが、霞はそれ以上、吉澤に構おうとはせず、再び市街地に向かって走り出す。
――なん…なんだ。まったく。
単にあしらわれているような気がしてくる。
- 158 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時18分36秒
結局、繁華街に出てしまった。
幸い、相手は雑踏を縫って走るよりも、高い場所を跳んでいくほうが速いと思ったのか、
ビルからビルへ、屋根から屋根へ、電柱から電柱へと飛び移る。吉澤もそれを追う。
だが、さすがに目抜き通りに沿って飛べば、人目につく。
たまたま空を見上げていて、霞とそれを追う吉澤の姿を見ては、
驚いているサラリーマンや、指差すカップルがちらほらと目に付いた。
――参ったなぁ、あとで“処理”しなくちゃ。
相手が悪いこともあるかもしれないが、こちらも、どうも本調子ではない。
早く決着(ケリ)を着けたくなってきた。
あれ?と、吉澤はあることに気付く。
それまでひたすら一直線に進んでいた霞の足取りが、
ここに来て、急に迷走し始めたように思える。急に行く宛を見失ったかのように。
ある一角で足を止めて迷う素振りを見せたり、同じ場所に再び戻ってきたり。そう、まるで――
――なにかを探してるみたい…。
訝しげに細めた視線を霞に向け、吉澤は思った。
ビルをいくつか飛び越しては、高いビルの屋上に降り立つ。
そうやって、仕留める機会を窺っていた。下手に近づけない。
しかし、あの堅固な外骨格を貫くにはどうすればいいのか。
そんな風に考えあぐねているとき、その瞬間は訪れた。
- 159 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時19分10秒
- 跳びながら目にする、疾風のように流れる視界のなかで、
「それ」は、吉澤の注意を引き付けるのに十分すぎるインパクトがあった。
雑踏のなかを、“真っピンク”が歩いていた。
以前、こんなお菓子を食べたことがある。小さな三角錐で、上下2層に分かれていて、
上の層はチョコレートの茶色、下の層はいちごチョコのピンク。
吉澤は思わずそのお菓子を連想した。あれは確か、甘すぎて口に合わなかった。
シャツも、上着も、パンツも、靴も、ぜんぶ、真っピンク。その上に明るい栗色に染めた髪。
ビルからビルに飛び移る際に、ほんの一瞬、眼下に流れた、通りの人ごみのなかで、
それは、実に目立つ残像として吉澤の網膜に焼きついた。
あんなファッションが堂々とできる人間といえば、彼女しかいない。
――映画を見に行くって言ってたっけ。でも、ひとりじゃん。
――ってか、自分、なんでホッとしてる?
狩りに臨む緊張感が、一瞬、緩んだ。
それが、命取りだった。
いきなり後方から”圧”が襲った。顔を上げると、前方にいたはずの霞の姿はすでにない。
肋骨に抱かれるように守られているはずの肺が、内部から押し潰されていく。
肺を構成する細かな組織、細胞がぷちぷちと圧壊していく音が、
耳元で巻く風といっしょに聞こえるような気がする。
- 160 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時19分43秒
- ――あれ…っ?
ダメージを受けたのは確かだが、空気の塊に閉じ込められたみたいに
身動きが重くなっただけで、痛みや苦痛がいまひとつ実感できない。
そのまま頭を下にして落下していく。太陽を背にした霞の無骨なシルエットが、
見る見る小さくなっていく。
――なんで、うちが、油断、なんか…。
真下から真上へと駆け抜ける風のなかで、そんなことを思った。
自然落下のあいだも息ができず、代わりに口を突いてなにかが込み上げてくる。
鉄の重い苦味が、わッと口のなかに広がり、鼻腔の奥がつんとした。
――ヤバい。
思ったよりも冷静だった。
吉澤は力を振り絞り、両足の裏に光輪を浮かべる。辛うじて揚力を得た身体は、
ビルの10階ほどの高さから繁華街のど真ん中を貫く通りのアスファルトへの、
命綱なしのバンジージャンプは回避し、裏通りに面した小さな神社の木の繁みへと飛び込んだ。
枝に引っ掛かりながらも、息つく暇もなく、すぐさまさっきまで自分がいた辺りの宙を見上げても、霞の姿はなかった。
見失った。
PDAに手を伸ばす。
光点は離れていく。
どうやらとどめを刺すよりも、やはり、ほかになにか目的があるのかもしれない。
そこそこの知恵を持つ霞のようだが、なにかを探し回っているような素振りは、
こちらを油断させるためのものだったのか。それとも、単に、こちらが垣間見せた隙を敏感に感じ取ったのか。
- 161 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時20分52秒
- ともかく、いつまでもここでこうしているわけにはいかない。
――まだ、やれる?
自分の身体に問い掛けてみる。しかし、すぐさま“NO”という返事が返ってきた。それどころか、
警報アラームがけたたましく鳴り響いている状態である。
見ると、ジャージの腹のあたりが、見る見るどす黒く滲んでいく。捲り上げると、
へその横あたりの皮膚が小さく、しかし深く裂け、その隙間から、
黄色い脂肪組織の乗った腹膜が血を滲ませてゆったりと蠢いているのが見えた。
吉澤はため息をつく。
――やっべー…死んじゃうとこだった。
――っつーか、ふつーの人間だったら死んでるよね、コレ。
言葉尻だけなら余裕しゃくしゃくだし、吉澤の口元には笑みすら浮かんでいるが、
その視線は笑っておらず、額にはびっしりと脂汗が光っている。
この身体ではどうしようもない。携帯を取り出すと、矢口に電話した。
呼び出し音のあいだ、自分の息遣いがにわかに荒くなっていくのに気付く。
上手く呼吸ができないのを、回数で補おうとしているらしい。
速い呼吸を維持するための筋運動に見合っただけの酸素を送り出そうと、心臓の鼓動が速くなる。
鼓動が速くなると、心臓自体の酸素の要求が増え、さらに酸素が足らなくなる。悪循環である。
いよいよもって、まずい。
シャレにならない。
死んでしまう。死んでしまう。
- 162 名前: 投稿日:2003年06月28日(土)22時21分25秒
- 仕方ないか。
最後の手段が思い浮かぶ。
“ゐるを移すかもしれません”
何度目かのコールののち出た矢口に、そのことを告げると、受話器の向こうで息を呑むのが分かった。
このままでは、たぶん、自分は死んでしまうだろう。
吉澤のまぶたには、さっきのピンク色が鮮やかに浮かんでいる。
- 163 名前:名無し 投稿日:2003年06月28日(土)22時21分57秒
- つづく。
- 164 名前:名無し 投稿日:2003年06月28日(土)22時22分48秒
- 思いがけず、かなりの時間が空いてしまいました。
自分でも、もうそんなに時間が経っていたのかとびっくりです。
なにより、待っててくれた方々、ごめんなさい。
- 165 名前:名無し 投稿日:2003年06月28日(土)22時23分31秒
- その割に、この短さと粗さで、弁解の余地もなく。
レスや保全を頂いたぶん、いずれ、内容でお返しできるとよいのですけれど。
- 166 名前:名無し 投稿日:2003年06月28日(土)22時24分06秒
- >144、>145、>146
待ってもらえているうちが華だと思って、ちょっとだけ頑張って書きます。
- 167 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月28日(土)22時38分19秒
- 待ってたよ!
早速読ませてもらいます
- 168 名前:146です 投稿日:2003年06月29日(日)01時28分03秒
- 更新お疲れ様でした&お待ちしておりました。
拝読させていただきます。
お忙しいようですが、これからもがんばってください。
- 169 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月29日(日)17時13分53秒
- 待っててよかった。
- 170 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月17日(木)22時28分21秒
- ( o^〜^)ノ<hozen
- 171 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月21日(月)22時04分48秒
- がんばってください。
待ってます〜
- 172 名前:146 投稿日:2003年08月04日(月)00時54分01秒
- ( ^▽^)ノ<hozen
- 173 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月06日(水)11時06分01秒
- 保
- 174 名前:503 投稿日:2003年08月14日(木)17時33分54秒
- 保全
- 175 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2003年08月23日(土)19時53分18秒
- 作者さんがんばってくださいよ〜…
- 176 名前:名無し読者 投稿日:2003年09月03日(水)20時42分25秒
- 保全
- 177 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/18(木) 09:46
- お願いだ…
続きを…
- 178 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:12
- それから矢口が吉澤と出会うことはなかった。本当は、一刻も早く吉澤のもとに急ぎたかったが、
Y市上空に辿り着いたとき、現在いる詳しい場所を尋ねようと、再び携帯で吉澤に連絡すると、
うろついている霞をなんとかするほうが先決だと言われた。
なるほど、もっともだった。なにか大きな被害が出る前に食い止めることこそ、わたしたちの使命。
たとえ、仲間を犠牲にしてでも。学校ではそう習った。小さな犠牲で、
より多くのものを救えるなら、迷いなくそれを選ぶべきだ、と。
――なんだ、けっこう冷静じゃん。
少し、ほっとした。
“ゐる”を移すかもしれない、と聞いたときは、そんなにまずい状況なのかと思ったが、
さすがの吉澤も、いつになく大きなダメージを受けたことで、さっきは少し焦って、
そんなことを口走ってしまったのかもしれない。
- 179 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:13
- 気流に身を任せながら、どこにいるか分からない吉澤の姿を、
はるか眼下の景色――たとえば待ち合わせのメッカである、駅前ロータリーの花時計、
最近できた大型の家電量販店のビル、デパートの屋上にある観覧車――に探しつつ、
「とりあえずよっすぃー、動けるの?」
『んー、まぁだいじょーぶです』
「すぐに救援呼んだげるからね」
『や、ホント、だいじょーぶですから』
もし、このとき吉澤が正直にいまの自分の状態を答えていたら、
矢口は霞を追うことなく、間違いなく一目散に吉澤のもとに跳んだだろう。
確かに矢口には、まったく大丈夫というわけではないことは、携帯越しの声色で判った。
長い付き合いはダテではない。かすかに震え、かすれ気味の声は、
相応のダメージを負っていることを連想させた。
それでも、少なくとも強がりを言うほどの余裕はあるらしい、と、
最悪の事態までは想定しなかったのだ。
- 180 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:13
- 現在地を尋ねると、街中の小さな神社の境内にいるという。ただ、大まかな場所や寺の名前は判らない。
「すぐに助けを呼ぶから、あんま動いたらダメだよ」
執拗に言うと、吉澤も根負けしたように、「ハイ」と、食い下がった。
今回の霞はどんなやつなのかだけを簡単に尋ねてから吉澤との通話を切り、
そのあと、手早くもう1本電話を掛けてから携帯をしまう。
そして矢口はPDAを片手に宙を蹴った。目指す先は、吉澤を傷つけた霞だ。
久々の狩り。久々の、心地いい緊張感。
吉澤に、致命的な問題がないと分かった矢口からは心のつかえがとれ、
目つきが徐々に変わり始める。
- 181 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:14
-
腹を押さえながら、おぼつかない足取りで歩く。
神社の小さな鳥居から十数段続く急峻な石段を降り、
古びた家屋に挟まれた細い路地を抜けると、目抜き通りに出た。
視界はますます霞み、一歩一歩重く踏みしめる地面が、ぐらぐらと揺れているような錯覚。
まるで巨大な振り子に乗っかっているようだ。
――やっべー…こんままだと、マジ死んじゃうよ…。
休日の昼間ということもあり、見渡す限り、人波でごった返している。
できるだけぶつからないように、通りの端を歩く。それでも、肩が当たったり、
力なくぶらつかせるだけの手が、隣を歩くひとのバッグに当たったりした。
自然と、この街に初めて来た日に、心のなかで漏らした言葉を反芻してしまう。
――ひとが多いなぁ。
こんどは、あのときよりも少し腹ただしさを伴いながら。
いったいどこからこれだけのひとが湧いてくるのか、考えただけで気が遠くなる。
一歩一歩を踏み出す感覚が、すでに失せていた。自分の意識が身体を離れ、
物体としての身体が勝手に進んでいくような感覚。
視界のすべては強いソフトフォーカスのレンズを通しているかのようだ。
改装中と張り紙がされた喫茶店のシャッターにもたれて、少し休む。
ふぃーっ、と、汗に濡れて額にへばり付こうとする前髪を吹き上げる。
唇の先がしびれているのが分かった。
- 182 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:14
- 腹を自然に抱える格好になっていた。押さえているジャージの腹の部分には、
縦長に紡錘形の真っ赤な染みが広がり、手だけでは覆い隠せないほどになっている。
――急がなきゃ…。
吉澤は再び歩き出した。彼女を探すために。
『なぜ彼女なのか』は、視界と同じくぼやけて、判然としない。すでに理由は頭から抜け落ち、
はっきりしていることは、彼女に会わなきゃ、という奇妙な使命感だけだった。それだけが、
吉澤の足を交互に前に出させていく。
震える手で首元を探り、シャツの下の胸元にあったペンダントを引きずり出す。
チェーンの先には、小指の先ほどの大きさの、水晶のような石がぶら下がっていた。
ダイヤのようにカッティングは施されておらず、切り出したままのような無骨な形状だ。
石の中心がうっすらと白く濁り始めている。
――どうか、あとちょっと、もうちょっとだけ、力を…。
祈りを込めて、吉澤は石をきゅっと握った。
- 183 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:15
-
無骨な小動物といった趣の霞は、すぐに見つかった。吉澤が言っていたとおり、
行く宛を失ったように、Y市の中空を跳び回っていたのだ。
特に一般市民に対して、例えばすぐさま無差別に攻撃を仕掛けるという兆候はなかった。
アンテナや工場の煙突、電線、看板など、あらゆるものを伝いながら、
一定の距離を置きつつ追い続ける。
後を追う矢口のことは察しているだろうが、気にする様子はない。
いまは、それよりももっと重要な使命が「彼」にはあるのかもしれない。
「なに……探してんだ…?」
弱点を探しつつも、眉を潜め、呟いてみる。
そんなとき、不意に上空を、爆音とともに巨大な影がかすめた。矢口の姿も一瞬、影に包まれる。
少し、仕掛けてみることにした。
- 184 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:15
-
その頃の石川梨華――。
どうして吉澤との電話で、邪険に振舞ってしまったのか。
一方的にキスされたことなんて、実のところ、どうでもよかった。
いや、どうでもよかった、ということもなかったが、いかんせん、その直前に見た光景が、
あまりに突拍子もなく、キスが初めてだったことなんて、完全に吹っ飛んでいた。
あの夜、ホテルの屋上には、石川の知らない吉澤の姿が、あった。同時に、
いっしょにコンサートに行ったり、いろいろなことを話して、
ある程度は知っているつもりだった吉澤のことを、
実はなにも知らなかったということに気づかされた。
高橋がいっしょに行動しているということも、妙に気になった。
あの化け物は、なんなのか。
そして、あなたはナニモノなのか。
今朝、電話が掛かってきたとき、どう答えていいかわからなかった。
怖かった。
たくさん話してしまうと、自分が知っている吉澤が、違う吉澤になってしまう気がして、怖かったのだ。
結果、受け答えが自然と拒否的になってしまった。
好きでいさせて欲しい。自分の好きな、自分が知っている吉澤でいて欲しい。
もっと近づきたいから、いまは離れていたい、という、矛盾した感情が渦巻いていた。
- 185 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:16
- そもそも、柴田との約束なんて、なかった。吉澤と会わずに済むために、
その場で咄嗟にこしらえた言い訳だった。
吉澤との電話が切れたあと、波立つ自分の心を紛らわすように、実際に柴田を映画に誘ってみたが、
生憎今日は、親戚の家に遊びに行っている、と、
石川とも前々から顔馴染みのメイドが電話口で教えてくれた。
気もそぞろのままに服を着替え、仕方なくひとりで家を出て、映画に行った。
いったん吉澤に言ってしまった以上、少なくとも映画を実際に観に行くことで、
嘘をついたという罪悪感を多少は打ち消せるような気がしたからかもしれない。
しかし、映画館の前の行列を見て、すぐに観る気が失せた。
いや、もともと観る気もなかった。観るなら、やっぱり吉澤とがいいと思った。
ほら見て見て、と、その映画を特集した雑誌のページを広げて見せてくれた吉澤の顔が思い出された。
観に行く機会が果たして訪れるかどうかは、今となっては分からなくなってしまったが。
しばらくそのまま映画館を臨む通りの反対側に立っていた。
やがて上映時間になると、いつしかチケット売り場の前は閑散とし、
紺色の制服を着た売り場の女性同士が楽しそうに喋っているのが、ガラス窓越しに見えた。
ふと、石川は理解した。今日、映画を観に来たのは、
吉澤に対する罪悪感を紛らわせたかったからではない。
このあたりで映画館といえば、ある程度限られてしまう。吉澤が、自分のことを気に掛けてくれて、
来てくれるのを期待している自分に気づいた。だから、わざわざ観る映画の名前まで教えたのだ。
- 186 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:16
- 数十分もそうしていただろうか。なんだか周囲の目が気になった。
デートをすっぽかされた、格好の悪い女に見られているんじゃないか。
そんな気がしてくると、すぐにその場を立ち去った。
少なくとも、無意識に選んだ結果の真っピンクのファッションセンスが周囲の視線を集めていたとは、
微塵も思っていない石川であった。
行くあてはなかった。そのまま家に帰るのも、なんだか嫌だった。
ふらふらと休日の繁華街を歩き始めた。
ときどき、吉澤からの着信に気づかなかったのではないかと思って、
思い出したように携帯を取り出してみたりもしながら。
――そもそも、よっすぃーのどこが好きなんだろ…。
人波に紛れて歩くうちに、何気にそう思った。
そもそも自分の知っていた吉澤とは、いったいどんなコだったのか。
あの夜、自分の知らない吉澤を見た、と思ったが、
結局、元から自分は吉澤のことをちっとも知らなかったんじゃないか。
そんな気がしてきた。
いや、それでも、確かに自分は惹かれていたんだ。吉澤のふとした表情に、柔らかな声に。
――だいたい…ひとを好きになるって、どういうことなんだっけ。
――こういうのって、好きになってるコトになるの…?
考えているうちに、ワケが判らなくなってきた。
周囲の店並みを見ると、気がつけば結構な距離を歩いてきていた。
――わたし、なにしてんだろ…。
気だるいため息をついて、安っぽい広告がびっしりと覆いつくした電柱のそばで、立ち尽くす。
- 187 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:16
- 通りを行き交うひとびとは、日曜日ということもあって、家族連れが目立つ。
仲睦まじげなカップルもいる。友達同士、じゃれ合いながら、と言うよりも、
もつれ合うようにして歩いているグループもいる。
自分以外のすべてのひとが、なんの悩みもないように見えた。
あと、さっきから気になっているのは、上空を何度も通過していく爆音だった。
軍が訓練でもやっているのだろうか。
耳障りなそれは、石川の陰鬱な気持ちに拍車を掛けた。
――なんか疲れちゃった…。
なにをしているわけでもないのに、
いつしか泥のような重い疲労感だけが胸のあたりに沈殿していた。
――帰ろ…。
そう思って振り向いた目の前に、
ひどく疲弊しつつも、口元に辛うじて笑みを浮かべる吉澤の顔が、あった。
見るからに顔色が悪い。唇は紫がかり、びっしりと玉のような脂汗を浮かべている。
しかし、初めて見るような、実直な吉澤の視線は、石川にそれらを意識させなかった。
「見つけた…」
そう言って、吉澤はようやくひと仕事終えたように、ふぃーっと前髪を吹き上げると、
いきなり石川を強く抱き寄せた。
驚くことさえ忘れ、目を瞬かせるばかりの石川の耳元で、囁きが聞こえた。
「ごめん……梨華ちゃん…」
- 188 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:17
-
何度か仕掛けてみた。
急速に近づいては、手から放った衝撃波を適当に与え、すぐにその場から離れる。
もちろん、霞には掠り傷ひとつ付いていない。そもそも、攻撃自体に気づいていないようにも見える。
そんなことを繰り返していると、あるとき、矢口の放った衝撃を跳ね返すように、霞が振り返った。
初めての、リアクションだ。よし――と、矢口は思った。
攻撃の手数を増やした。移動を続ける霞の周りをぐるぐると回りながら、衝撃波を絶え間なく打ち出す。
そのうち、煩わしそうに霞は衝撃を跳ね返し、
そのたびに矢口を少し追いかけて威嚇するようになった。追いかけてくる距離もだんだん伸びてきた。
――ついといでっ!
それから矢口が霞を地上まで引き込むのに、さほど時間は掛からなかった。
矢口を追って霞が降り立ったのは、港に程近い河口をまたぐ、貨物列車の鉄橋下だった。
寂れた工業地帯のど真ん中で、人目にも付かない。
数メートル先で、鉄橋の隙間からまだら状に落ちる日の柱に照らされて、矢口の後姿があった。
矢口はゆっくりと振り返ると、
「さー、カモーン」
手招きし、口元を不敵に緩ませる。
そんな矢口の言動を解したかどうかは分からないが、霞は一瞬、足を止めて顔を上げ、矢口を見据える。
矢口の体内をめぐる血流にドーパミンが分泌され、耳元に心臓があるかのように心音は速くなる。
狩りの経験は数え切れないが、仕留めるときの緊張感はいつまで経っても同じだ。
背中越しに命を晒すような危機があり、相手の命を奪うことで
乗り越えようとしていることの恍惚は、何物にも替え難い。
- 189 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:17
- と、霞の前足が地を蹴り、まるで別の生き物のように飛び掛ってきた。
矢口に動じる気配はない。
手招きしていた指先が光る。爪の表面に光が瞬時に走り、緻密な文様が描き出されていく。
だが、その指先が霞に向けられようとしたとき、
すでに目の前に迫った霞が振り上げた爪は、矢口の喉笛を呆気なく貫いていた。
霞にある程度の知恵があったとすれば、こう思っただろう――仕留めた、と。そして、
この小柄な少女の喉元から噴水のように吹き上がった血が、周囲に降り注ぐ光景を想像しただろう。
いずれにせよ、矢口のほうが上手だった。
少女の喉笛を砕き、貫いたはずの爪の周囲から、鏡が割れたように空間がいくつにも砕け、崩れた。
そして、仕留めたはずの少女の姿は掻き消えてしまう。
狼狽した霞の四肢が、次の瞬間、ぴんと伸びて強直した。身動きができない。
なにか巨大な力が霞の身体を拘束していた。固い外骨格の隙間がひしめいて生じる軋みが
鈍い摩擦音を上げる。
なにが起こったのか分からずにうろたえる霞の足元に、
光の文字列が霞を取り囲むように円形に浮かび上がっていた。
さっき、あらかじめ矢口が施しておいた、緊縛の術式だった。準備が要るぶん、かなり強固な業だ。
さらにその先には、幻影を見せるための簡素な術式が描かれていた。
幻を見せるのは、矢口が最も得意とする業だ。
真正面から当たっても、力負けは目に見えている。
吉澤のように力攻めはできず、華奢な身体に貯められるスタミナも乏しいぶん、
知恵と工夫で戦う。それが、矢口のやり方だった。
「あっけないなー」
動けない霞の背後から声がした。
言葉の意味は判らなかったかもしれないが、少なくとも、愚弄されたことは理解できたのだろうか、
霞の全身に散らばる黄色い「眼球」が真っ赤に染まっていく。
霞が身体の向きを変えようと、足を踏ん張り、一歩、横に踏み出した。
同時に、円形の文字列の一部が、細い火花と小さな土煙を上げて掻き消える。
- 190 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:18
- 「すっごい。この業、打ち破ろうとするなんて」
また一歩、今度は後ろ足を踏み出す。そしてまた、文字列の一部がスパークして消えた。
「おー、がんばるがんばる」
矢口は楽しそうに揶揄しながら、すっ、と、手を霞に向けて差し出した。
5本の指先が光る。それぞれの爪に微細な光の文様がちらちらと走った。
すでに円形の文字列の半分が消えた。半ば、霞はすでに矢口のほうへ振り返った体勢である。
あと数歩、足場を踏み変えれば、緊縛は完全に解けるだろう。
だが、それは許されなかった。霞が次の行動を起こすまでに、
5本の光線が、過剰な放水を強いられたゴムホースのように、それぞれうねりながら、
霞の全身に散らばる「眼球」を貫いていた。矢口の指先から伸びている光線だった。
光線の脇からは、眼圧から解放された真っ赤な粘液が重々しく噴き出す。
それだけでは終わらなかった。
光線はそれぞれ眼球を貫くと、身体の内部に入り込んで縦横無尽に走り回り、
堅固な外骨格が孕む柔らかな臓物のほとんどを凄まじい勢いで引っ掻き回していた。
外見的にはなんら変化はなさそうに見えるが、
その中身は、さながらミキサーに掛けられた状態である。
霞の後ろ足が痙攣し、背が反り返る。どこからか咆哮を上げた。
- 191 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:19
- 「あんたは別に悪くないかもしんないけど――」矢口は落ち着き払った口調で言った。
「よっすぃーを傷つけたの、許せないっていうかさ」
息の根を止められないのではない。わざと止めていないのだ。光線の1本1本は、
その先端で急所の在り処を敏感に感じ取りつつも、絶妙の匙加減でそこを掠めるだけだった。
「あんたを苦しめないと、オイラの気が収まんない。だから――」
細められた視線が、冷たく霞に投げ掛けられる。
もう一方の腕がかざされ、5本の指先の爪が光る。いっしょに、矢口のイヤリングがぼんやりと輝きを宿す。
大きさこそ違えど、それは吉澤が首から掛けている石と同じものだった。
ふたたび「眼球」を貫く鈍い音が響いた。
同時に、けたたましい音とともに直上の鉄橋を長い貨物列車が通過していく。
矢口に降っていた陽の柱が小刻みに瞬く。
「ごめん、たっぷり苦しんでから死んで」
その声は、すでに霞の聴覚器官には届いていなかっただろう。
それは、鉄橋を通過する列車の騒音のせいだけではない。
- 192 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:19
-
吉澤の身体が石川のほうへ崩れかかってきた。
「ご、めん、梨華ちゃ…」
弱々しい吉澤の笑顔だった。
「ちょ…っ、ねえ、よっすぃー、どうしたの?! ねえっ!」
石川の後頭部が掴まれると同時に力強く吉澤のほうに引き寄せられた。
キスしていた。
いや、またしても、一方的にされていた。
とっさのことで、石川は吉澤の身体を引き剥がそうと手足をばたつかせてもがくが、びくともしない。
周囲が自分たちをぎょっとした目で見ているのを視界の端で感じていた。
引き剥がそうと必死なあまり、口元に一瞬できた隙を突いて、ぬるりと舌が入り込んでくる。
「やめ――ぅぶ……っ…」
やっとのことで辛うじて逃れられそうになると、吉澤の手に、よりいっそうの力が込められた。
そんな力があるなら、自分で立って欲しいものであるが、
まるですべての体力をキスに集中させているように、
吉澤の身体は相変わらず自身を石川に預けたままで、石川はまったく身動きが取れない。
周りの道行く人びとが、自分たちに、驚きとほんの少しの好奇が入り混じった視線を注いでいるのを
身体中でじんじんと感じた。当然である。白昼の街中で堂々と女同士がキスしているのだ、
人目を引かないほうがおかしい。
――なん…なんなの、よっすぃー?!
どうすることもできず、心のなかで喚き立てると、
ごめん、梨華ちゃん。
そんな声がもういちど、聞こえた。しかし、極めて微かなそれは、耳で聞いたものではなく、
吉澤の声でありながら、なぜか自分の心のうちから浮かんできたような、
実に不思議な感触を伴ったものだった。
- 193 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:19
- と、急に吉澤の力がかくんと抜けた。同時に、頭を掴んでいた両手は重力のままにだらりと落ち、
ようやく石川の唇が解放される。
ぷはッと大きく呼吸を取り戻すと、
「なに、すんのっ」
声を荒げたものの、吉澤を突き飛ばすことはできなかった。そのまま再び倒れ掛かってきたのだ。
自ずと抱き合う形になる。
「ちょ、ちょっと、よっすぃー…?!」
ようやくさらなる異変に気づき、石川の声のトーンが変わる。
一方的に全体重を掛けられていると思ったが、それでも辛うじて踏ん張っていたのかもしれない。
キスが終わった途端に、ずっしりとした重みが石川の背骨に掛かった。
「よっすぃー? よっすぃー?」と眉根を寄せて呼び掛けるが、返答がない。
すぐそばにある吉澤の横顔は力なくまぶたが伏せられ、口元はかすかに開いたままで、まったく動かない。
意識が、なかった。
そこでようやく石川は、吉澤の腹部に広がる血糊に気づいた。
そのことを認識すると、ぐったりした吉澤の身体がバランスを失って倒れないように気を遣いながらも、
石川はヘタヘタとその場にへたり込んでしまう。
そばを通り過ぎるひとが次々に足を止める。いつしか、緩いひとだかりになっていた。
「だいじょうぶ?」
声を掛けられた。中年のOLのようだった。
そこでようやく、弾かれたように石川は発した。
「きゅ救急車ッ! あの、誰か! あの、救急車…救急車呼んでくださいっ!」
自分で携帯を持っていることをすっかり忘れ、あたり構わず金切り声で叫んだ。
こういうとき、周囲の反応はなんとも鈍い。囲んでいた人たちのあいだで
顔を見合わせるような沈黙のあと、ようやく数人が懐の携帯に手を伸ばした。
そのときだった。突然、細かな振動と低く重い騒音が周囲を包み込んだ。
- 194 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:20
- 「な、なにっ??!」
石川は思わず叫んだが、そう叫んだ自分の声さえも掻き消されてしまう。
次に、突如として強い風がにわかに周囲を包み込む。
タバコの吸殻、砂塵、通りの隅に捨てられた古新聞、空き缶、どこかに捨て置かれたのか割れたポリバケツ、
この場の誰かが持っていたであろう書類などが一緒くたになって、
ビルの合間へと散り散りに舞い上げられていく。
嵐と呼ぶには空はあまりにも青く晴れ渡っている。
石川は、ニュース番組で見たことのある海外の竜巻の映像を思い出した。竜巻を見たことはないが、
竜巻だとしても、この騒音――爆音はなんなのだろう。
爆音、風で、あたりは騒然となった。爆音に混じって人びとの悲鳴が聞こえる。
そして、巻き上げられた書類の渦の向こうに姿を現したのは、黒いヘリコプターだった。
前後にふたつのプロペラ、重々しいずんぐりとしたボディ。浮かんでいるのが不思議とも思えるほどの、
全長10メートルを悠に越えているであろう巨体である。
すべてが、唐突だった。
ヘリの拡声器からの声が、呆然と足を止める人びとに言い放った。
『市民のみなさん、わたしたちは陸軍の特殊部隊です。
この周辺に爆弾を仕掛けたという過激派グループからの予告声明がありました。
この場から速やかに避難してください。繰り返します――』
ざわめいた人波が、戸惑いながらも事態を把握し、すぐに、
映画監督の“スタート”の声が掛かったように、一斉にあらゆる方向へと走り始めた。
蜘蛛の子を散らすとは、まさにこういう光景のことを言うのだろう。真昼の繁華街の一角は、
それまでの穏やかな表情からにわかに豹変し、パニック状態になった。
叫び声、怒号、子供の泣き声、人びとがアスファルトを駆ける足音。
ヘリの騒音と相まって、さまざまな「音」が飛び交う。それらはすでに、
人間の聴力を認識する許容範囲を越えていたかもしれない。鼓膜の震えが伝えるのは、
音ではなく、もはや痛みに近いものだった。
- 195 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:20
- 逃げ惑う人びとは皆、足元なんて気にしている余裕はない。倒れたままの吉澤の身体をかばうように、
石川はその上にかぶさって叫び続けた。
人ごみのなかで太腿が蹴られ、頭にはなにか金属が当たった。足のつま先を思い切り踏まれた。
「誰か! このコを救急車に! 救急車呼んでぇ! お願いします! 誰かぁ!」
なおも叫び続けるが、そんな石川の悲痛な叫びに構うひとはいなかった。
みな一心不乱になって、あてのない「安全な場所」を目指して走りつづける。
しかし石川は、吉澤をこの場に放って逃げるわけにはいかない。
「お願いします! 誰かぁッ!」
声が裏返る。
こうしているあいだにも、ぐったりとした吉澤の顔からは温かみが失せ、唇はすでにくっきりと紫色に染まり、
色白の肌は、そのまま透けてしまうのではないかと思わせるほどに青白くなっていく。
訳が分からないままに、自然と涙がこぼれていた。
しかし、それさえも吹き荒れる風によって吹き飛ばされてしまう。
――よっすぃーを! よっすぃーをなんとかしなきゃ!
――死んじゃう!
――よっすぃーが死んじゃうっ!
あたりを取り巻く暴風のため、確かめる術はなかったが、すでに呼吸をしている気配はなかった。
石川がいる場所のほぼ直上に浮かんだヘリの両脇から、地上にまで届くほどのロープが
何本か次々に垂れてきた。吹き荒れる風でロープの先端が激しく踊る。
「な、なに…?」
砂塵を避けるように目を細めながら呆然と呟く石川の前には、
さらに、武装した黒づくめの兵士がロープを伝い、流れ落ちる水のように続けざまに下りてきた。
- 196 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:21
- 混乱する頭のなかに、それでも、ふと、考えが浮かんだ。避難を促しているなら、もしかしたら、
頼めばよっすぃーを病院まで運んでくれるかもしれない。ヘリコプターなら、
まだ手当てが間に合って、助かるかもしれない。
結局、降り立った兵士は4人だった。次々に風と砂埃のなかを俊敏に駆け寄ってきて、
石川と吉澤を取り囲む。
あの――と話し掛けるよりも先に、石川の目の前に立った兵士が屈みこんで手袋を脱ぎ、
無言のまま、吉澤の首筋に素の指先を押し当てた。当然、その兵士にも吉澤の腹に広がる血の海は
見えているはずである。
「あ、あの…」
話し掛けてみるが、戸惑いながらの石川の細い声は、
風とヘリの音に掻き消されて届かなかったのか、あるいはわざと無視しているのか、
ともかく、兵士は石川のほうには目もくれない。おそらく、なにか特殊なフィルムを
貼ってあるのだろう、屈んでいる兵士の表情はゴーグル越しには窺い知れないが、
視線の先がじっと吉澤の白い首筋を捕らえているのは確かだった。
腰には小銃のホルスターが掛けられ、石川のすぐ目の前でラバーコートのグリップの先端が覗いている。
首筋から離された手は、次に吉澤のまぶたを引っ張り上げ、
もう一方の手で胸元から取り出したペンライトがかざされる。
吹きすさぶ砂粒や砂塵なんて構っていられず、「あのっ――!!」と、意を決し、石川は声を張り上げた。
「この子を病院まで連れてってあげてください!」
そこでようやく石川の存在に気づいたように、
別の兵士が「君は早く避難しなさい」と言って、石川の肩を引っ張る。
「でも…っ」
このまま吉澤はどうなるのだ。早く病院に…!
ペンライトを仕舞った兵士が、トランシーバーに向かって怒鳴るように言った。
「いま、“目標”と接触した」
- 197 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:21
- ――「目標」?
――「目標」って、よっすぃーのコト?
兵士は続ける。
「“目標”の死亡を確認した。回収後、ヘリは撤収する」
死亡――。
石川の頭から、すべての音が消えた。ただ、「シ」という、無機質で清潔な響きだけが、
その意味や感触を忘れたまま、中途半端に浮かんだ。
シ――?
よっすぃーが、シ?――んだ?
死んだ?
死んでる?
よっすぃーが?
なんで?
いや、そんなわけないじゃん。
なんでよっすぃーが死ぬのよ。
石川が呆然としている間に、ヘリからなにかの塊が降ってきた。ロープに括りつけられたまま、
アスファルトに叩きつけられたそれは、毛布を小さく丸めたものだった。
兵士たちはロープを解いて毛布を広げると、砂塵が舞うなか、手分けして吉澤の身体に巻きつけ始めた。
石川はその様子を瞬きもせず、目に砂塵が入るのも気づかずに、見詰めるしかなかった。
と、ネイビーブルーの装甲車が猛スピードで、がらんとした繁華街の道を走ってくる。
装甲車は石川のそばで停車すると、後部のハッチが開き、数人の兵士――ヘリから降りてきた兵士とは違って、
こちらはカーキ色の迷彩服だ――が次々に降り立つと、
周囲に迅速に展開し始めた。皆、長身の銃を抱えながら散らばっていく。
- 198 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:22
- 毛布に包まれると、次は毛布ごと吉澤をヘリから垂れたままのロープで巻き始める。
ヘリに向かい、OKというサインなのだろうか、兵士のひとりが大きく手を振った。
吉澤の身体が浮くと、凄まじい速さでヘリへと引き上げられる。
「ご協力、感謝します」と、ヘリから降りてきた兵士のひとりが石川の傍に近寄ってきて、
指先までぴんと伸びた敬礼をすると、踵を返してロープへと戻っていく。
口をかくんと開けたまま、石川はかくんと頷いた。「ご協力」なんてした覚えもないし、
一体全体訳が分からないままだ。
4人の兵士を回収したヘリが、プロペラの回転数を上げた。石川の周囲に、
巻き上げられた土煙や埃の輪が波紋のように幾重にも広がる。
吉澤を回収したヘリは、そのままビルの谷間を抜けて消えていった。巻いていた風が、
急速に穏やかさを取り戻し始める。
「君、すぐに退避しなさい」
装甲車から降りた兵士のひとりに再び促され、石川はようやく重々しい腰を上げた。
冷たいアスファルトが尻の感覚をほとんど麻痺させていたことに気づく。
慟哭もなにも、あったものではなかった。
- 199 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:22
-
石川梨華は、「世界」のことを分かっているつもりでいた。
例えば「世界」というのは、友達や両親といった自分を取り巻くひとたち、毎日目にする馴染んだ風景、
自分を束縛する常識的なルール、容易く予測できる5年後の自分、愛や友情といった抽象的な概念、
そのほか、新聞やテレビで見る世の中のことなどからできているんだ、と。
そんなことはいちいち考えないが、それでも無意識のうちに、そう理解していた。
しかし、彼女はなんにも分かってはいなかったのだ。
吉澤との最後のキスのあと、世界はすでに、もうひとつの顔を石川の前に覗かせ始めていた。
- 200 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:24
- ◇
吉澤が石川にキスしたのと、まったく刻を同じくして、N県百合の郷――。
“保田のおばあちゃん”に食事の膳を運ぶ保田の姿があった。
2年前、保田は両親を亡くした。以来、この屋敷を実質上切り盛りしてきたのは、保田だった。
とは言え、彼女は料理に関してはからきしで、形の整っただし巻きを作ることなど、夢のまた夢だ。
よって、この郷に住むおが坂六郎という老人を使用人として雇い、
彼に料理や家事を任せっきりというのが現状である。
この屋敷に来るまでは、すでに妻を亡くし、畑を耕すことも老いた身体が許さない六郎は、
郷の半ばを流れる川の河岸に建てた家で、ひとり、漫然と日々を送っていた。余談だが、
もちろん(?)電気は風力発電である。
そんな六郎にとって、いまの仕事を与えられたのはこの上ない喜びであった。
たとえ賃金はわずかであるせよ、“毎日、やるべきことがある“という幸福感を噛み締めているのだ。
事あるごとに、「ありがてぇよぉほ…」と、紺色の作業着の上にピンクのエプロンという格好で
両手を合わせるものだから、保田も困ってしまうのだった。
この食事も彼が作ったものだ。
ジャガイモと大根の煮付けは、六郎の得意料理のひとつである。やもめで暮らすことになって、
嫌々ながら覚えた料理がこんなところで役に立つとは、まったく人生とは分からないものである。
- 201 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:24
- 「おばあちゃん、ご飯だよー」
障子越しに声を掛けるが、返答がない。
縁側にいったん膳を置き、障子を開ける。“おばあちゃん”はいつものように巻物を広げ、
とり付かれた様に、じっと、そのなかのなにかを見詰めていた。
このところ、しきりに口にするのは「じきによくないことが起こる」という言葉だ。
やれやれ、またか、と、保田は膳を持って、おばあちゃんの和室に一歩踏み入った、そのとき、
「うあぁッッ!!」
突然、老婆の口が開き、唾を飛び散らせながら、なんとも形容し難いうめきを発した。
保田は驚きで、膳を持った手を滑らせそうになる。
だが老婆は、次には俯いた姿勢のまま、また沈黙してしまった。
「ちょっと、おばあちゃん、おどかさないでよう!」
「…………」
「おばあちゃん…?」
「…………」
ただならない雰囲気に、不安が込み上げてきた。
「お、おばあちゃん…?」
保田はそっと近寄って、丸く小さな背中に話し掛けてみる。やはり返答はなかった。
その場に膳を置き、傍に寄り添うようにして横顔を覗き込んでみる。
ちらちらと舞い落ちる雪の影を映した障子を背負い、
老婆は気難しそうにまぶたをきっちりと閉じていた。
「ちょ、ちょっと、お婆ちゃんっ?!」
「…………」
焦った保田が声を上げた。もしかして、と、思った。
だが、次に老婆から漏れてきたのは、ぐがーっ、という豪快ないびきだった。
保田の顔が破顔した。もっとも、無事であることにホッとしたのではなく、呆れ果てているだけだった。
「もぉぉ。紛らわしいいびきかかないでよぅ…」
なぜ我が家にはおかしな人間が多いのか、理解に苦しむ保田なのだった。
ちなみに同じ頃、鬼ごっこの鬼となったケメ子は、大好きなかわもち君を探し続けていた。
郷の春は、まだ遠い。
- 202 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:25
- ◇
そして、やはり同時刻――。
後藤真希は、都内のスタジオで、2ヵ月後に出る新曲のレコーディングに臨んでいた。
六角形の木目調の壁で囲まれたレコーディングブースには後藤ひとりがいて、
天井から下がったマイクを前に歌い続けている。
ちょっと休憩しようか、と、ディレクターの声がブースのスピーカーから聞こえたが、
「大丈夫です」
と答え、涼しげな笑顔を大きなガラス窓越しに浮かべて見せた。
デビュー3周年の日に出すシングルは、これまでの集大成と銘打って、
アレンジャーも大物を起用し、スタッフの誰もがいつにも増して気合を入れていた。
いつもならOKが出るテイクが取れても、もうちょっとやってみよう、という流れだった。
すでに朝から4時間、ぶっ通しである。ディレクターの気遣いはもっともだった。
ヘッドフォン越しに、すでに数え切れないほど聞いたイントロが流れてくる。
そして、タイミングに合わせて後藤は口を開いた。
だが、そのあと、調整室のフロントパネルにある、
声のトーンレベルを示す光のバーは、ぴくりとも触れなかった。
ディレクターやミキサーが怪訝な表情を見合わせ、スタジオの様子を窺う。
後藤は、それまでとまったく違う様子だった。まるで集中力を失い、
ただそこに立ち尽くしているようだった。曲は流れ続けているが、もちろん歌ってはいない。
やっぱり、ちょっと休憩しよう、と、トークバックのボタンを押してディレクターが尋ねても、
呆然とした後藤の視線は宙をさまようばかりだ。
後藤はそして、ぼんやりと口の形だけで呟いた。
お か あ さ ん ?
- 203 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:25
-
「ワールド・アトラス」パート1・了
- 204 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:32
- おかしいな。ホントなら、夏が始まる前にはここまで終わってるはずだったのに。
まったく、世の中おかしなことだらけです。
- 205 名前: 投稿日:2003/09/25(木) 22:33
- 見捨てずに保全してくださってた方、ありがとうございます。切にお礼を。
感想/保全比>1を目指しつつ、続けます。
- 206 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/26(金) 00:38
- うわーん
待ってて良かったよぅ
- 207 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/26(金) 09:34
- 毎度の事ながらすっげー続きが気になる終わり方…
吉澤はどうなったんだ
- 208 名前:146 投稿日:2003/09/26(金) 11:38
- 更新お疲れ様です。
ものすごく続きが気になります。これからどうなってしまうのでしょうか?
妄想をふくらませながら悶々とした日々が続きそうです。
次回も楽しみにしています。がんばってください。
- 209 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:22
-
ワールド・アトラス パート2
- 210 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:22
- まぶたがゆっくりと上がる。窓から差し込む光の眩しさに、なんどか瞬きを繰り返す。
しんとした朝の空気のなかをゆっくりと泳ぐように寝返りを打って、
目覚まし時計に手を伸ばした。
7時5分――
寝ぼけまなこのまま、君はぼんやりと笑みを浮かべる。
よし、やった。今日も勝ったぞ。目覚し時計が鳴る前に起きることができたのだ。
これで“2連勝”だ。すごい。すごいぞわたし。
そんな風に口元を緩めたまま、君は布団をかぶり直した。
- 211 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:23
- 約57分後、目を剥いた君は、寒いとか言っていられる場合でもなく、
慌てふためいたままに制服に袖を通し、がしがしと荒っぽいブラッシングののち、
勢い、鞄を引っさげて階段を駆け下りる。ネクタイは首に掛けたままだが、
そんなものは学校への道すがらにやればいい。
と――階段の半ばで不意に足を止め、
すうっ、と、いちど深呼吸。これは君の習慣――というか、
儀式みたいなものだ。なにかを確認しているようにも見える。
そして、息遣いを落ち着かせながら1階へ。
「おはよう、ママ」
ダイニングで声を掛けると、洗い物を済ませたばかりの君の母親は、ダイニングテーブルに着いて、
トースト片手に朝のテレビを見ていた。
いつも君が下りてきたときには、ブラウン管には蝶ネクタイのアナウンサーが映っているが、
今日は、痩せ型で、どこか髪型に違和感を感じる男だ。その傍らには、
こくこくと頷くばかりの女性アナウンサーに、おかまのコメンテーター。
- 212 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:23
- 「早くしないと遅刻しちゃうんじゃない?」
テーブルには、すっかり冷えたトーストと、温くなったコーヒー。
君はテーブルにも着かず、とりあえずトーストをおもむろに半分ちぎって頬張ると、
口をもごもごさせながら、
「だったら、早く起こしてよう」
「さっき、ちょっと部屋を覗いたんだけど、あんまり気持ちよさそうに寝てたから、
後でいいかと思って、そしたら忘れてたわ」
肩をすくめて朗らかに笑う、君の母君。その笑顔には邪気は感じられず、
本気で君のことを思って起こさなかったようだった。どこか間の抜けたひとだ。
君はコーヒーで口のなかのものをあわただしく流し込み、
どたどたと玄関へ急ぐ。なんかこう、もうちょっとエレガントにいかないものかなぁ。
「梨華、朝ごはん、もういいの?」
「いいっ! 遅刻しちゃう!」
背後からの母親の声に振り返りもせずに大声で返しながら、君は靴を履き、ドアを開ける。
二月の柔らかな朝の光と痺れるほどに冷えた大気が、一瞬で君を包み込んだ。
- 213 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:23
- なんとか予鈴とともに教室に滑り込み、
自分の机に辿り着いた。両手を机に着き、ぜえ、ぜえ、と、息を切らす。乾燥した空気のせいで、
のどがひりひりと焼けるように痛い。
ひとつ前の席に座る柴田が振り向いて、「滑り込みセーフ」と、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「あ、ありがと…ご褒美に、なんか…ちょうだい」
息も絶え絶えに差し出した君の手を、柴田はぺちっと叩いて、
「さもしいっ」
お嬢様は厳しい。
すぐに担任が教室に入ってくると、ホームルームが始まる。
日直の号令で礼が終わって席に着いても、君の息遣いの乱れは治まっていない。
「石川――」と、君の様子に目を留めた担任が言った。
「なんでお前、朝っぱらからそんなに興奮してるんだ」
セクハラまがいの発言だったが、クラスは小さく沸いた。
- 214 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:24
- 出欠の確認を簡単に済ませ、
さっき職員室で読んできたばかりであろう朝刊のコラムの内容をちょちょっと掻い摘んで話すと、
担任と入れ替わりに、黒ぶち眼鏡の真面目そうな中年の女性教師が入ってきた。1限目は倫理の授業だ。
ひどく抽象的でユーモアに欠け、いまひとつ面白味に欠ける――色で例えるなら灰色の――内容を、
君は、丁寧に何色かのボールペンも併せて使いながら、
いちいちノートに書き取っていく。すでに付属の大学への推薦入学も決まっていて、
今月末の定期試験はほとんど形式的なものだというのに。まったくもって、君はまじめだ。
あとひと月足らずで、この教室、校舎ともお別れだが、あまり感慨というものを君は持っていない。
それはたぶん、大学に進んでも、キャンパスは同じ敷地のなかにあるし、
毎日顔を合わせている今の面子のほとんどとともに過ごすことが決まっているからだろう。
- 215 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:24
- 昼休みになる。教室の空気が生温いのは、エアコンのせいだけではなく、
数日振りに雲ひとつない表情を満たした小春日和のせいだ。昨日、天気予報で言っていた。
この数日は、移動性高気圧の影響で、穏やかな晴天が続くでしょう、って。
君はいつものように柴田と机を挟んで昼食をとる。置かれているのは、
柴田といっしょに、3限前の休み時間に1階の売店に買いに行った、
サンドウィッチとコーヒー牛乳の三角パックだ。
今日はお弁当を持って来るのを忘れてしまったのだった。
実は、今朝のテーブルには、いつものように母親手製の弁当が置いてあったのだが、
君は身も心もばたばたしていたせいで、一向に気づいていなかった。
「そういえば――」と、半分近くになったコーヒー牛乳を置いて、君は言った。
「しばちゃんって、誕生日、そろそろだよね」
柴田は、「ああ、友よ、やっぱり梨華ちゃんは親友だねえ」
「ったりまえじゃん。忘れてないよー」と、得意満面な君。そして、「なんか欲しいもの、ある?」
柴田は、うーん、と腕組みしてうなった。
真剣に考え込んでいる。
君は、なにか嫌な予感を抱いたのか、「あ、そんなに高いものは無理だけど」と、釘を刺す。
「高いもの? ああ、そんなの、つまらないじゃない」
「つまらない?」
「お金があれば手に入るものなんて、簡単でしょ」
さっすが、お嬢様は言うことが違う。
「じゃあ、いったいなにがいい?」
- 216 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:24
- 君が尋ねると、柴田はにわかに顔を緩め、
「うふふふふ」
心の底から湧き上がってきたような笑いを漏らす。
これまであまり見せたことのない種類の柴田の笑顔に、君は、
「えー、なによ、しばちゃん、ヘぇン」
すると柴田は「あ、ううん、なんでもない」と、かぶりを振って、
「なんにも要らないよ。その代わり、ウチに来てよ。いっしょにケーキとか食べよ」
「プレゼント、要らないの?」
「うん、梨華ちゃんがいればいいや」
君は、そんなわけにもいかないでしょ、と食い下がったが、
結局柴田からは、なんでもいい、という、最も困る答えを引き出しただけに終わった。
それから、去年、君が柴田からもらったブレスレットの話題になった。
あれ、あのアーティストがこないだ、ミュージックステーションに出てたとき、着けてた、という話だ。
次に、その日、いっしょに出演していた後藤真希の話になった。君は先日、柴田のためにわざわざ、
後藤真希がこれまでに出したシングルやアルバムの曲をぜんぶMDに入れてプレゼントしたのだ。
ごめん、まだ聴いてないや、と、柴田が答えると、
あー、全然ダメ、話にならない、まったくもってなってない、と、君はダメ出しの嵐。
今週中に感想文を提出しなさい、とまで言うに至って、
柴田は、なんでそこまでしなきゃいけないのよう、と笑った。
- 217 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:24
- 不意に、話題が途切れた。
君は食べ終わったあとに残ったサンドウィッチの包装をビニール袋にくしゃくしゃと詰め込むと、
なんとなく視線を泳がせた先に、窓から見える、向かい側の校舎の屋上があった。
小さく息をついて、君は視線を柴田に戻す。ちょうど柴田も食べ終わり、
三角パックの牛乳を飲み干したところだった。
「なに? あ、なんか付いてる?」と、石川の視線に、柴田は自分の頬のあたりに手をやる。
「ううん、付いてないけど」
「じゃあ、なに? どうしたの? ひとの顔じっと見て」
「だって…またどうせ、またか、って思うでしょ?」
「またか、って? なにに?」
「……よっすぃーの話」
「あー、“よっすぃー”、ね」
案の定、またか、というように、ふーっ、と、柴田は深いため息をつくと、
「覚えがないもんは、しょうがないってば」と、心底困った風に眉根を寄せた。その表情には、
単なる辟易以上のものが滲んでいることに、君は気づいてはいない。
- 218 名前: 投稿日:2003/10/19(日) 14:26
- 二人称は誰もが読み慣れない文体かと思われますが、もうちょっと続きます。
辛抱できる方は、今しばらくお付き合いくださいませ。
>206さん
おまちどうさまでした。次は、あまりお持たせしないと思います。ええと、たぶん…たぶん…。
>207さん
書き進めるうちに、気がつけば殺しちゃってた吉澤さん。
そのぶん、彼女に対して作者の情が深いと解釈してもらえると有難いです(笑
>208(146)さん
基本的にベタな展開を心掛けているつもりなので、
終わってみれば、悪い意味で期待を裏切らない出来になっていそうです。
ダメじゃん。
そんなわけで?これからもよろしくですー。
- 219 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:28
- ◇
よっすぃー――“吉澤ひとみ”は、君の友達だった。そしてその友達は、
ある日、君の目の前で唐突に息を引き取った。
わけの分からないまま家に帰った。あまりの呆然さに、
家までどうやって帰ったかを、君はよく覚えていないほどだ。
その日の夕食のとき、テレビのニュースでは、繁華街で爆弾テロの予告があったとして、
軍が出動したときの様子が映し出されていた。ブロックごとに銃を構えた兵士が立ち、
そのなかを特殊な防護服に身を固めた兵士数人がのんびりと歩いている様子が流れた。
君は箸を止め、ブラウン管を不思議な面持ちで眺めていた。
さっきまで、あの場に、君もいたのだ。
いっしょにテーブルに着いていた君の母親と父親は、そんな君の様子に、
怪訝そうに「どうかしたのかい?」と尋ねたが、
両親にそのことは言わなかったのは、余計な心配を掛けたくなかったからだろうか。
それどころか、観てきた映画の感想を聞かれ、観てもいない映画の感想まで答えていた。
どうしてそんなことをするんだろう。
- 220 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:29
- ニュースを見ていて、君には腑に落ちないことがあった。
あの騒ぎのさなかに、少女がひとり、死んだのだ。それも、大きな怪我をして。
テロの予告と関係ないとしても、当然、テレビはそのことも伝えると君は思っていた。
しかし、結局、“吉澤ひとみ”、あるいは、そうと思しき少女のことにはひと言も触れないまま、
爆弾は発見されずに事態は収束し、一時はパニック状態に陥った街並みも、
いまは落ち着きを取り戻している、と、
現場の記者が伝えただけで、映像はスタジオのキャスターに切り替わった。そして、
コメンテーターがここ最近のテロの傾向を手短に述べると、ニュースは次の話題に移ってしまった。
どういうことなのか、夕食のあと、風呂に浸かりながら君は考えた。気もそぞろだったせいか、
お気に入りの「別府の湯」を落とすこともしてなかったっけ。
例えば、ヘリコプターのなかで人工呼吸を施した結果、奇跡的に息を吹き返した、とか…。
助かったなら、テロと関係があるかどうかも分からないのだから、
ニュース的な価値は低いと思われて、扱われなかったのかもしれない。
待てよ、と、君は思い立つ。
「なんで、よっすぃーはあんな大怪我してたんだろ…」
理由はひとつしか思いつかなかった。
「いつか見たような、あんな化け物と戦っていたんだ、きっと…」
- 221 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:30
- そんなことを考えていると、だんだんと君は居ても立ってもいられなくなった。
身体が温まりきっていないまま風呂から上がり、
部屋に駆け戻って、携帯を手に取った。“吉澤ひとみ”の番号を呼び出して掛ける。
少なくとも、“吉澤ひとみ”と関わりのある誰かが出るかもしれない。
入院していたとしたら、本人は無理としても、その病院の関係者が出るかもしれないし、
駆けつけた彼女の肉親が出るかもしれない。
あるいは、万一、最悪の結果だったとしたら、
それでも、彼女があのあとどうなったかを知っている誰かが出るのではないかと思ったのだ。
しかし、呼び出し音が鳴ることもなく、
女性の無機質な声が、この番号が現在使われていない旨を伝えてきた。
そんな馬鹿な。今朝、話していたところなのに。君は思う。
メモリーダイヤルで掛け間違えるわけはないのに、はやる気持ちの君は、
「間違えちゃった?」と独り言ちて、もういちどボタンを押す。やはり結果は同じ。
- 222 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:30
- だいたい、あれほどの出血なのだから、常識的に考えても、助かるわけはないじゃないか。それに、
目の前で君は、兵士の言葉を聞いたはず。「死亡を確認」って。
でも、君は、根拠の薄い自信に満ちて、“吉澤ひとみ”が死んだとは思っていなかった。
「死ぬわけないよ。よっすぃー、あんなにすごい力を持ってるんだから、死ぬわけないじゃん」
なるほど。そう思いたいんだね。
「――っていうか……なんか、ヘン…。親しいコが目の前でタイヘンなことになったっていうのに、
なんか、ぜんぜんそんな深刻なカンジがしない…。ヘンな気分…」
3回目のダイヤル。こんどは着信履歴からだ。でも、やっぱり結果は同じで、携帯を机の充電器に戻した。
これ以上、“吉澤ひとみ”の手がかりはなかった。
それでも、明日、学校に行けば、なにかが分かるはずだ。そう思って、君は床に就いた。
そして事態は、翌日、君が思ってもいない方向に展開する。
- 223 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:30
- 早めに家を出、始業前、君は“吉澤ひとみ”のクラスに向かった。もしかしたら、
君に気づいた“吉澤ひとみ”が、「やぁ」と、何事もなかったかのように、
いつも通りの気さくな笑顔を見せてくれるんじゃないか、とさえ思いながら。
「吉澤さん、来てる?」と、
ドアのそばの席に座っていた生徒に話しかける。
すると、彼女は「あのう…」と首を傾げ、「クラスを間違えてません?」と尋ね返してきた。
ドアの真上のプレートを見る。間違いはない。このクラスだ。前に君は来たこともある。
「ほら、いっつも、お昼は屋上に行くっていう吉澤さん」
それでも彼女は戸惑いの色を浮かべ、「ウチのクラスに吉澤ってコはいないけど…」
「この冬、転校してきた吉澤ひとみってコなんだけど」
食い下がるものの、彼女は傍にいた友人に助けを求める視線を投げかける。
と、そこで予鈴が鳴った。埒が明かないと思った君は、仕方なく自分のクラスに引き返す。
いったいなにがどうなっているのか。
しかし、君は教室に急ぎながら、ある疑念を抱き始めていた。
- 224 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:30
- 1限目が終わったあとの休み時間、君は職員室に向かった。
君はちょっとした探偵気分である。
石川梨華探偵事務所。所長は君。調査員、秘書も君。ついでに依頼人も君。そして被調査人は吉澤ひとみだ。
始業前に訪れたクラスの担任の女教師は、去年、君の担任だった。君の顔を見ると、
「お、石川、どうしたの?」と、気さくに声を掛けてきたものの、
「先生のクラスの出席簿、見せてくださいっ」
君にそんな厳しい剣幕を見たのは初めてだったのだろう、気圧されたように、
「こんなもん、どうするの?」と困惑しながらも、黒い表紙の出席簿を渡してくれた。
適当なページを開き、左端の欄に縦に並ぶ名前の「や」行に視線を走らせる。
…ない。
顔を上げると、「いまの先生のクラスに、よっす…吉澤ひとみ、ってコ、いたでしょう?」
「吉澤…」と、女教師は首を傾げる。「いや、いないよ。吉澤って生徒は知らないなぁ」
なにも得られないまま、職員室を後にする。
石川探偵、困っちゃったねえ。
「ううん、予想通りよ」
へえ。そうなんだ。
でも、これからどうするの?
「手掛かりは、まだあるんだから」
強気だね。
- 225 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:31
- 昼休みには、学校生活で数少ない潤いである昼食を置いたまま、中等部の職員室に向かった。
こんどはなに?
「あの、ラブリー…高橋ってコ…」
ああ、なるほど、その手があったか。
「なにか知ってると思うんだよね、あのコ。だって、よっすぃーとはなにか関係がありそうだし…」
中等部は、一学年ぜんぶで6クラス。どのクラスなのかは知らなかったから、
やはり中学生のときに面識のあった教師に頼んで、ぜんぶのクラスの出席簿を見せてもらった。
“高橋愛”の名前は…どこにもなかった。
さて。石川探偵、どうするの?
「困った…」
教室に戻った君は、弁当をひとりで広げながら、徒労感が滲んだため息をつく。
初仕事なのに、早くも頓挫?
「でもね、ひとつ、引っ掛かることを思い出したのよね…」
――梨華ちゃん、なにかヘンな夢でも見たんじゃないの?
「あの、化け物と戦ってたよっすぃーを見た次の日、
まるで、あの戦いがなかったことになってるみたいに、よっすぃー、わたしに話し掛けてたの。
よっすぃーに、もし、ひとの記憶を…操作する?みたいな力があったとしたら…
それも、一気に大人数の記憶を…
いや、それだけじゃなくて……わざわざ学校の記録まで改ざんできるような、
そんな、おっきな組織がバックにあったりして…」
すごい想像力だなぁ。
- 226 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:32
- 「…あんな怪物と渡り合える、あんな不思議ですごい力を持ってるんだもん。
なにがあっても不思議じゃないし…」
ふむふむ。
でも、これからどうするの?
「…困った……」
君は再びため息をついて、だし巻きを口に放り込む。
「どこ行ってたの? なんか、昼休みになった途端、急に教室飛び出して行くんだもん」
すっかり耳慣れている声に君は顔を上げることもなく、
「うん、ちょっとね、調べたいコトが――」と、言いかけたところで、「あ――ッ!!」
「ひゃッ?!」
いきなり君が発するものだから、何気なく話し掛けた柴田はびくッと身体を震わせた。
「びっくりしたぁ。なによ、もう。急に大声出して」
「しばちゃん、よっすぃーのコト覚えてるよねっ!」
「ええ? “よっすぃー”、って?」
「よっすぃーはよっすぃーよ、吉澤ひとみ」
ようやく見つけ出した命綱にすがる君。
「ほら、しばちゃんには何回も話してるじゃん、
いっしょにコンサート行ったとか、喫茶店行ったとか、さ」
畳み掛ける君だが、柴田はきょとんとして目を瞬かせるばかりだ。
「コンサート? 誰が?」
「わたしが、よっすぃーと、よ」
いちいち言い含めるように、区切って言う。
しかし、「初耳。初めて聞くよ、そのコの話」と、柴田は曇らせた顔でかぶりを振る。
ようやく見つけ出したと思った命綱は、引っ張ってみると、ただの藁だったようだ。
柴田は自分の席に腰掛けると、
「でもさ、梨華ちゃんにそんなひと、いたんだね」と、眉を潜め、沈んだ調子で言った。
- 227 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:32
- 結局、石川探偵事務所は初仕事の成果を上げることはできなかったようだ。
尋ね人の手掛かりひとつ掴めないようでは、探偵は廃業だね。
帰宅すると、部屋で着替え、身体をどさっとベッドに沈める。まぶたを下ろしたまま、君は動かない。
ベッドが冷たかったが、ひどく徒労感に侵された身体は、
わざわざもういちど起き上がってエアコンのスイッチを付けに行くことを拒んでいた。
なに、考えてるの?
「よっすぃー…いったいなんなのよう…」
そして君は、ベッドのすぐ下にあったクリアファイルに手を伸ばす。開くと、
そこにはひとりの女の子――“吉澤ひとみ”の写真があった。プリンターで印刷されたものだが、
授業中の隠し撮り写真にしては、結構な高画質だ。
「どこ行っちゃったの」
唇を尖らせて、拗ねた口調で写真に向かって尋ねる君。
そのまましばらく写真を見つめていたが、やがて、ファイルごと胸元に抱きしめる。
「よっすぃー…会いたいなぁ……」
そして目をつぶり、指先を唇に持っていく。指の腹で、ゆっくりと薄い下唇をなぞる。
息遣いが深くなって、お腹が大きく上下する。
ちょっと…。
ねえ、ちょっと…。
これは…。
と――、
「写真っ!」
急に目を見開き、君は叫んだ。そして、さっきまでの倦怠感はどこへやら、飛び起きた。
退屈しないひとだ。こんどはなんだい?
「しばちゃんの写真!」
だから、どういうコト?
「この写真、しばちゃんが作ってくれたんだよ。
しばちゃんのデジカメに、よっすぃーの画像のデータが残ってるはずなんだよ!」
- 228 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:33
- 翌日、学校にクリアファイルを持っていき、さっそく柴田に“吉澤ひとみ”の写真を見せてみた。
「確かに、わたしが作ってあげたものだろうけどさぁ…」
写真を見せれば、思い出すのではないかと思ったが、やはり、というか、柴田の反応は鈍かった。
「しばちゃんのデジカメのなかに、データ、残ってるかもしれないし」
「覚えがないんだけどなぁ…」
半信半疑のまま、柴田はデジカメを鞄から取り出すと、液晶画面にサムネイルを表示させた。
ボタンを押して、4枚ずつめくっていく。傍らで、その画面を君は食い入るように覗き込む。
すると、何回目かで、君が持っている写真が出てきた。
「あー、これね」
柴田には、特に思い出した様子もなかった。
「確かに綺麗なコだよね。
でも、写真、けっこうあるからねぇ。だから、一枚一枚、いちいち覚えてなかったりするから。
あー、でも、こんな綺麗なコなら、忘れないと思うんだけどなぁ…」
新聞部の元部長は、記憶力にはそれなりに自信があったようで、
自分でも信じられない、といった風である。
とうとう最後の望みを失ってしまった君の落胆ぶりに、
さすがの柴田も、まるで自分に非があるかのように、
「ごめん、思い出せないや」と、申し訳なさげに言った。
- 229 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:34
- ◇
それから日が経つごとに、君のなかで“吉澤ひとみ”の存在は影を薄くしていった。
なにしろ手掛かりがないのだ。これ以上どうしようもないのだから、考えたって仕方がない。
ほんの数十日、それなりに濃密な時間をともに過ごしたのち、
忽然とこの世から姿を消した“吉澤ひとみ”は、君のなかで青春の幻影になっていく。
うーん、なんか、カッコいい。
それでもなお、不意に、さっきみたいに思い入れのある場所を視線の先に捉えたとき、
思い出してしまい、無駄と分かっていながら、柴田に尋ねるようなことをしてしまう。
もしかしたら、こんどは思い出してくれるかもしれない、という、微かな期待を抱きながら。
君は、中途半端に熱を帯びたままの想いを、不完全燃焼させ続けるしかなかった。
- 230 名前: 投稿日:2003/10/20(月) 01:35
-
つづきます。
- 231 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/20(月) 02:24
- こんな短期間に更新乙
気になるなあ
- 232 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/14(金) 14:46
- 期待の大作(・∀・)ワクワク
- 233 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/03(水) 04:17
- ホゼム
- 234 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/23(火) 11:49
- hozen
- 235 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/03(土) 11:36
- まだでつか…
- 236 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/03(土) 22:30
- ・・・まだみたいですね。
でも待つ!!
- 237 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/25(日) 09:04
- 保全
- 238 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:01
-
◇
薄暗い部屋――10畳ほどの古びた和室だ。
外の昼間の外気を帯びて白々と光る障子には、
細かな雪のシルエットだけが絶え間なくちらちらと滑り落ちている。
部屋では数人の人間が集まり、ひとりの女を取り囲んでいた。
彼女は畳の上に突っ伏し、小刻みに肩を打ち震わせている。それは赦しを請うているようにも見える。
周囲のひとびとは、そんな彼女の姿をどうすることもできずに見つめていた。
薄闇に辛うじて浮かび上がる彼らの表情に浮かんでいるのは、悲しみや憐憫、憤怒、苛立ち等。
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:02
- 取り囲むひとりが不意に一歩踏み出し、その沈黙を破った。
少女の声だった。あまりの取り乱しように、彼女がなにを言っているかははっきりと掴めないが、
その鬼気迫る語気から、なにやら目の前の女を罵倒しているらしいことは分かった。
さらに少女が、突っ伏したままの女に掴み掛かろうとするところを、
慌てて周囲の大人たちが羽交い絞めにし、引き留める。
そんな喧騒のなか、
――…なさい……
女の唇が動き、か細く呟いた。空気がきんと張り詰める。押さえ込もうとする大人たちも、
羽交い絞めを逃れて女に手を上げようとする少女も、じっと女を注視する。
だが、それ以上女は動かない。
手足を周囲から掴まれたまま、少女は乱れた息遣いの合間に、
…なに、と、やっとのことで搾り出した。
- 240 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:02
- ――ごめん、なさい……
さっきよりも、もう少しはっきりと、しかし涙に濡れた声は、わずかに部屋の空気を震わせた。
だが、そんな謝罪は少女にとって、癇に障るだけだったのかもしれない。
少女は咽びの混じった声を、刺すように爆ぜさせた。
――代わりにあんたが死ねばよかったんだ!!
同時に少女が身体をもがかせ、隙を突いて羽交い絞めから逃れると、勢い、女の横顔を蹴り上げた。
そうされるのが当然のように悲鳴を発することもなく、女は倒れこむ。
長い髪がさらさらと宙を舞い、倒れた女の顔から扇状に畳の上に広がった。
再び取り押さえられた少女は、とうとう部屋の外へと連れ出されてしまう。
廊下を遠ざかっていく罵詈雑言は、いつまでも悲痛さを帯びていた。
――代わりにあんたが…!あんたが死ねば…!
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:03
- そこから情景は、飛ぶ。
同じ部屋だ。しかし、さっきと違い、見るからに異様な様相を呈している。
黄昏が覆い尽くした部屋の中心には、天井に届くほどの卵形の巨大な繭が鎮座し、
そこから四方八方へと繭糸を伸ばして自身を固定していた。
それだけではない。
部屋の空気のなかに低く静かに、しかし確実に規則的に、響き続けるものがあった。
それは、鼓動だった。
不吉な予感を発するその鼓動は、部屋に重油のように満ちる淀みの源であり、
“ヒト”のものではないと確信させるに充分な、深い汚濁を帯びていた。
と、襖が開けられる。
真っ白な足袋が部屋に踏み入ると、しずしずと、繭のもとまで進んだ。
その様は、ぬらめく汚水のなかを、ひとすじの清流がゆっくりと分かつようにも見える。
続いて、少女がおずおずと入ってくる。
しかし少女は襖を閉めると部屋の隅に踏み止まり、事の成り行きをじっと見守った。
- 242 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:03
- 小さな手が伸ばされる。繭に触れ、手のひらで優しくそっと撫でたかと思うと、
やおらその表面を鷲掴みにし、ばりばりと引き裂いた。一見、繊維質のものかと思われたそれは、
裂け目に幾本もの粘液の橋をどろりと作った。その橋の向こうに、“彼女”の顔が、覗いていた。
ひっそりと呼吸をしている。
少女は、息を呑んだ。
――始めようか。
――はい…。
少女と白足袋の主は、畳の上に這い蹲るようにして、一心不乱に作業を続けた。
ざり、ざりざり、と、乾いた鈍い音が響く。
それぞれの手に握られた石の鋭角部分が、畳を引っ掻く音だった。
繭を中心に、文様の輪が幾重にも描かれていく。
そうして半時が過ぎ、“儀式”は行われた。
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:04
- さらに、どれほどか時は流れる。
一面の銀世界。
厚く垂れ込めた灰色の雲は、もう何日もこの地から日輪を奪っていた。
針葉樹林の谷間に激しく降りしきる雪。
そのなかを、赤く立ち昇る湯気。
漂う血の臭いは、寒さでもはや麻痺した鼻腔粘膜には届かない。
ひとつの戦いが終わったばかりだった。
生き残った者――少女と、その眼下に散らばる肉片だけが、そこにあった。
どうして――と、少女は天を仰ぎ、呟いた。
舞い降りる雪は、さっきまでの戦いの余熱をたたえた自分の周囲で、
かすかな音を立てては揮発していく。
ドウシテ、世界ハ、コンナニモ――
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:04
- 同じ頃、世界のどこかで黒い奔流がほとばしっていた。
あまりに深く、あまりに濃く、あまりに暗く、あまりに重く、あまりに醜く、
それらが醸し出す腐臭たるや、とうてい人が対峙できるものではない。
あえて向き合おうとするには、ヒトであることを捨てなければならないだろう。
すべてを飲み込むのではないかとも思えるその闇は、
飛散することなく、遥かな場所で収束していく。
それは脳漿を作り上げてまっさらな知恵を宿し、
神経や脈管が走ってその周囲には肉の茎が絡みついて膨らみ、
肉に包まれたなかでは柔らかな臓物が形作られていく。
そして――
とくん…
と、確かに“それ”は脈を打ち、最初の血流を身体に馴染ませながら送り込んだのだ。
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:04
-
◇
君の全身には、じっとりと汗がへばり付いている。
ずいぶんと早起きだね。窓の外は、まだまだ夜明け前だ。
――はあ…
――はあ…
心持ち、息遣いが荒い君。
どうしたの?
枕もパジャマも、汗でねっちゃりして気持ち悪いんだけど。
「…すごく、怖い夢を…」
君はじっとりと汗ばんだ両手をシーツに擦り付けながら、身を起こすと、
ベッドサイドランプのスイッチに手を伸ばした。かちん、と部屋が薄く照らされる。
夢を見たの?
「すごく怖い夢を…あれ?」
怖い夢を見たんでしょ?
「見た…はずなんだけど…あれ? どんな夢だっけ…?」
そんなんじゃ、ホントはそんなに怖い夢じゃなかったんだよ、きっと。
「……夢、っていうか、なんかまるで……」
なんか…?
「まるで…」
まるで…?
「…なんだろう?」
半開きのまなこで君はぼんやりと呟く。
ええと、起きるか寝るか、どっちかにしてくれないかな…。
- 246 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:05
- どんな夢だったんだっけ、と、君は重いため息をついて、俯く。
そんなことをしていると、遠くで始発電車が鉄橋を渡っていく音が遥かに聞こえた。
はい、提案。
とりあえず着替えるというのはどうだろう。二度寝にしても、こんなんじゃ風邪ひいちゃうし。
「それは、いい考えね」
君はのっそりとベッドから抜け出すと、クローゼットから替えのパジャマを取り出し、袖を通した。
着替え終わると再び、すっかりひんやりとしてしまったベッドに入り、
ベッドサイドランプに手を…伸ばし掛けたところで止まり、またしてもベッドを抜け出す。
どこ行くの?
「のど渇いちゃって」
- 247 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:05
- 1階の台所で冷蔵庫からほどよく冷えたヴォルヴィックをグラス半分ほど満たすと、
ごくごくと飲み干した。喉から胸の奥へと冷たさが落ち、乾きが癒されていく。
流しにグラスを置いて、ほー、と、ひと息つくと、再び2階へ。ベッドに入り、今度こそランプを消す。
暗闇のなか、時計の音だけが這い上がってくる。君は目を閉じ、眠ろうとするが、
時計の秒針の音がどうにも耳について眠れない。加えて、さっきの水ですっかり冷えた喉も、
君を完全にうつつに引き戻してしまったようだ。
むふー、と漏らし、君は苛ただしく寝返りを打つ。
なんていうか君は…些細なことに至るまで、圧倒的に要領悪いよね。
「ほっといて…」と、君はぎゅっとまぶたを瞑ったまま呟く。
どうやら、君の睡眠を苛んでいた悪夢とやらは、
実にあっけなく、綺麗さっぱり霧となって散ったようだ。
いや、君の大物ぶりの前に、居たたまれなくなったのかもしれないけれど。
- 248 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 22:06
- つづきます。
更新…というか、保全ですね、この短さじゃ。
いつも保全して下さってる方々に感謝を。
- 249 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/12(木) 23:51
- 待ってました
少しでもやっぱ更新あると嬉しいです
続きも楽しみにしています
- 250 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/15(日) 18:26
- マジで待ってたよ
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/19(金) 06:52
- ho
- 252 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/02(金) 00:44
- 保
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/30(金) 06:57
- まだぁ?
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/30(金) 18:55
- こらこら・・・^^;
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/27(木) 06:47
- 待つよ
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/18(金) 00:42
- 作者自ら保全。あうあう、、情けない。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/18(金) 06:40
- 放置じゃないと分かっただけで良し
頑張れ
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/23(金) 22:54
- 作者さん頑張って
待ってるよ
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/05(木) 04:21
- ホゼム
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/11(月) 13:50
- 作者さん戻ってこーい
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/13(土) 18:31
- 最初からもう一度見てやっぱり
続きがきになります〜
作者さんお願いします!!!!!!
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/13(木) 05:53
- 待っておりますです!
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 23:54
- 続きが見たいです!!頑張ってください!!
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/29(土) 00:25
- 多分もう作者はヲタ卒業してるよ…
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/29(土) 00:26
- 誰か自信のある奴続き書いてくれよ
- 266 名前:名無しさん 投稿日:2005/01/29(土) 00:42
- まだまだ待ってます。
- 267 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/11(金) 02:47
- 一年か・・・
- 268 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/02/21(月) 23:09
- 久々来てみた。続き読みたい。
自信ないけど、勝手に書いてもいいでつか?
- 269 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/22(火) 01:06
- 全角sageにしちゃううっかりさんが書くのはいやだに一票
- 270 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/22(火) 01:53
- >>268
アナタの作品ではないので止めてください
- 271 名前:名無し飼育 投稿日:2005/02/22(火) 07:55
- >>268
気持ちはわかるがおれらには待つことしかできんのだよ・・・
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