市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(4)(完結)
- 1 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時39分57秒
- 同じ板で書いていたものです。
新スレですがいきなり完結です。
かなり容量が余りますが、書きかけの短編がいくつかあるので追々埋めていきたいと思います。
<過去スレ>
市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(花板倉庫)
http://mseek.xrea.jp/flower/998923252.html
市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(2)(月板倉庫)
http://mseek.xrea.jp/moon/1022582658.html
市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!(3)(金板)
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/gold/1035453065
- 2 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時41分02秒
- 高麗航空015便は曇天の下、平壌順安空港を飛び立とうとしていた。客室乗務員が搭乗客
に向かってにこやかに微笑みかける。旧北朝鮮のフラッグシップ・エアラインである高麗
航空は幸い、その名称を変更せずに存続している希少な存在であった。ただ、内戦後、か
つての汚名を返上せんとサービスの向上に努めており、経営陣も刷新した現在の運営状況
はかつてとは大きく様変わりしていた。現政権は海外のメディアとの接触が多い分野にお
いて積極的に民主革命の成果をアピールする方針であり、その効果は客室常務員の態度に
如実に現れていた。
- 3 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時41分23秒
- 私はソウルを訪れようとしていた。韓国でのCDリリースの話が具現性を帯びてきたからだ。
恐らく、今回の訪問で契約を交わし、リリースの日程も決められるはずだ。そして韓国か
らの再デビューという運びになるだろう。久しぶりに胸がときめくような感じだ。
向こうの弁護士に依頼して高麗国内での再版権についての契約も交わす予定だった。それ
により、自分の曲が高麗の人々に届くだろう。この国の再建にかける市民に力を与えられ
る、そんなメッセージを伝えられれば。過ぎた望みかもしれない。だが、今、私は歌いた
くてたまらなかった。
胸に灯った炎はまだ消えていない。大分、周り道をしてしまったが、日本を発ったときの
気持ちは忘れていないつもりだった。日本の古巣であるゼティマからもソロ・リリースの
誘いは来ていたが、断ったのはそんな理由からだ。もちろん、日本の巨大な音楽マーケッ
トは魅力的だったし、貴重な外貨獲得のためにいずれ日本語版も発売することにはなるだ
ろう。だが、今は韓国・朝鮮語圏でのリリースを成功させ、高麗の音楽マーケットの育成
に力を注ぐことが先決だった。
- 4 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時41分47秒
- 朝鮮民族はもともと歌の好きな民族だ。その歌好きな人々が長い間、意に沿わぬ金日成、
正日父子礼賛の駄曲に甘んじてきたのだ。労働党の幹部でさえ、宴会では市民に禁じられ
ている韓国の流行歌を歌っていた。彼らの中には積年の積もる想いを歌に託して吐き出し
たいと願うものもいるだろう。自分たちの歌いたい歌を歌えるようになった今、そうした
市民の要求に応えることこそが民主高麗再建の礎となるのだという確信めいたものを、な
ぜか私は心に抱いていた。
シートベルト着用のサインが点灯し、客室乗務員が乗客のベルト着用を確認するため、通
路から声をかけて回った。乗客のほとんどが旅慣れたジャーナリストやビジネスマンであ
るせいか大きな混乱もなく、直に機は滑走路の上を滑るように走り始めた。客室乗務員の
態度が内戦後、大きく向上したというのにツポレフのガタガタと震える危なっかしい走り
方はまったく変わっていない。それは時代が変わろうとも自分のやり方だけは絶対に変え
ない頑固親父を連想させて、なんだか微笑ましく思えないこともなかった。
- 5 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時42分11秒
- やがてスピードの乗った機体は空気の大きな抵抗を掴んだ翼によってすっと浮かび上がっ
た。西側の飛行機がふわっという感じだとすれば、むしろ自らの出自を誇示するかのよう
に、ぐわっ、という強烈な加速の感覚が背中に残る。斜めに傾いた窓の外の風景は殺風景
で取り立てて見るべきものもない。だが、赤茶けた大地がどんどん広がりを増し、やがて
ゴツゴツとした岩肌の太白山脈へと連なるのを見て、私はようやく実感することができた。
戦争は終わったのだと。
- 6 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時42分34秒
- ◇◇◇
拘置所を訪れた金永南は、後藤が現れるのを待つ間、本当にこれでよいのかと自らに反問
していた。後藤を拘留したそもそもの理由である金正日の身柄確保が失敗に終わった今、
後藤を留置し続けている正当な理由は無きに等しい。
間が悪かったのだろう。平壌解放後、即座に後藤を自由にしていればこれほどの問題に発
展することもなかった。金正日を捕らえるために何らかの使用価値があるのではないかと
判断したことが、結果的に後藤を非常に苦しい立場に追いやったことになる。金正日が消
息を断ってしまったことで、国民の怒りは目に見える対象を失ってしまった。成り行きの
ようにその矛先が後藤に向けられてしまったのは、やはり不運としか言いようがない。
まずいことに後藤の存在が日米など先進諸国で明らかになると、後藤の拘留にたいして人
道的見地から問題ありとする抗議が相次いだ。確かにそうだろう。それは金永南自身も認
めている。そもそも後藤を拘置し続ける法的な根拠は遅れていると言われた旧北朝鮮の国
内法に拠っても薄弱であった。
- 7 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時42分52秒
- (やはりこれ以上、留置し続けるのは無理がある……)
金永南の内なる心は九割方、後藤の釈放に傾いていた。こんなときに市井がいてくれれば、
軽く背中を一押しして残りの一割も即座に傾けてくれただろう。だが、その市井は韓国へ
と飛んでいた。
(これでよかったのだ)
金永南は自分に言い聞かせるように、頭の中でその言葉を反芻した。
祖国復旧のためには、何を置いても諸外国からの経済援助は必要だった。特に日本からの
有形無形の支援は荒廃しきったこの国のインフラを立ち直す上で必要不可欠である。その
ために後藤を自由にすることで国民から非難されようとも、金永南は断固として、実行す
るつもりだった。
- 8 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時43分07秒
- 最悪の場合、それによって国民の怒りの矛先は自分を中心とする政府へと向けられるだろ
う。弱腰の誹(そし)りさえ受けるかもしれない。だが、それはこの国の未来に向け、熟
慮の末下された決断なのだ。政権の維持が難しくなるかもしれない。それでもよかろう。
国民が自らの意志で為政者を選択できるならば、それに越したことはない。むしろ、民主
主義の定着した証拠として喜ばしいことではないか。金永南がそこまで考えて顔を上げる
と、既に後藤がドアを開けてこちらを窺っていた。
「入りなさい。真希同志」
「失礼します」
後藤の精神状態は落ち着いているようだった。少なくとも死を前に怯えている者の様子で
はない。金永南は安堵した。釈放を告げたとき、この娘はどんな顔をするだろう?にこや
かに微笑んでくれるだろうか?そういえば、まだ内戦が勃発する以前からこの娘の笑った
顔を見たことがないことに彼は思い至った。
- 9 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時43分45秒
- 「真希同志、あなたは市井准将と特別なの関係にあったのだな」
「はい。イルボンでの同僚でした」
「歌を……歌を歌っていたそうだね」
「はい」
後藤の返事は淡々としていて、聞かれたこと以外の答えは返さなかった。
「また歌ってみたいとは思わんかね?――市井同志とともに」
俯いていた顔をぐっと上げて後藤は物問いたげな視線を返してよこした。その透明感溢れ
る瞳に浮かび上がった感情は歓喜の類のものではなく、どちらかというと困惑に近い。
(なぜだ?)
金永南は興味を引かれた。
(愚鈍なのか?)
そう考えかけて頭の中で否定した。そんなはずはない。あの金正日が見込んだ娘だ。では
何の意味があるのだろう?あの問い返すような視線の無機質さは。
- 10 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時44分30秒
- 「――代表閣下……」
「我々はあなたをあまりにも長い間、引き留めてしまったようだ……」
「……?」
後藤は眉を顰めている。いよいよ困ったという顔つきだ。金永南は期待した反応が得られ
ない居心地の悪さに戸惑いを隠せない。それでも、彼は意を決して告げた。
「済まなかった。今日からあなたは自――」
「それには及びません」
「?」
後藤は彼の言葉を遮り、強い調子で断わった。まだ、すべてを言い終わらないうちに。
金永南は面食らった。この娘は今、何と言った?
「私の釈放をお考えならご無用と申し上げました」
「……」
頭を落ち着けて考える必要がありそうだった。後藤が放った言葉は到底信じられる類のも
のではなかったのだから。
- 11 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時44分48秒
- 「――真希同志……落ち着いてよく聞きなさい。あなたには自分の置かれている状況がよ
く見えていないようだ」
「いいえ、閣下。私にはよく見えています。国民が抱いている私への嫌悪と怒りが」
「そんなことはない……金正日への怒りをどこにぶつけたらよいかわからないのだ、彼ら
は。今はその憎悪の激しさに目が眩んでいるだけだ。あなたが憎いわけではない」
「わかっています」
それなら、なぜ……と口に出しかけて金永南は思いとどまった。相変わらず話がどちらの
方向に向かって収束していくのかわからない。あるいは収束するのかさえ心もとなかった。
だが、少なくとも彼女が何らかの意志に基づいて釈放を拒んでいるのは確かだ。まずは、
それを見極めなければ。
「何か、思うところがありそうだ。話してみてはくれないかね?」
「はい……」
- 12 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時45分08秒
- 後藤は少し俯いて視線を落とした。面会所の小さな明り取りから辛うじて入り込んだ午後
の日差しがやや斜めに傾げられた顔にかかった。高い鼻梁に遮られた光は行き場を失って
顔の半分に深い影を落とす。陰影を刻んだその横顔の厳しさに金永南は言葉を失い、ただ、
後藤が再び口を開くのを待たざるを得なかった。
美しい娘だ。彼は間近で見て、改めてその美しさに驚嘆した。もちろん後藤の姿を目にし
たのはこれが初めてではない。金正日の側近であった彼は官邸で何度か見かけたこともあ
るし、市井が騒ぎを起こしたあのパーティでの後藤の姿もよく覚えている。だが、今、目
の前に相対している少女の比類なき美しさは、かつて見たのと同じ少女とは思えぬほどに
際立っていた。
ただ容姿が美しいというのではない。どこか内面から滲み出る凛冽たる決意の凄絶さ。静
謐な佇まいを見せながらも、何かを覚悟したものの迷いのない真っ直ぐな視線。それらが
渾然一体となって後藤真希という実体を伴ってこの世に顕現したかのような……。無神論
者である金永南が思わずそこに神性を見出すほど、それほどに目の前の少女は美しかった。
- 13 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時45分38秒
- 後藤が口を開いた。
「この命、閣下にお預けします」
「――真希同志!」
「親愛なる指導者同志の代わりになれるなどと大それたことを考えているわけではありま
せん。ただ、こんな私が死ぬことでこの国の人々が新たな一歩を踏み出すことができるな
ら――」
金永南はその言葉に思わず決心がぐらつくのを感じ、胸の底から這い上がろうとするどろ
どろとした塊を慌てて押し留めた。仮にも一国の宰相たるものが、年端のいかない少女の
犠牲の上に世論を誘導するなど、断じてあってよいことではない。だが、やっとのことで
絞リ出した声は掠(かす)れ、抑揚のない口調は彼自身の苦悩の深さを物語っていた。
「いかん。自暴自棄になってはいけない」
「自棄(やけ)になっているわけではありません。充分、考えつくした上での結論です」
「何と言われようともあなたを死なせるわけにはいかんのだ。そんなことを認めたら、市
井准将に合わせる顔がなくなる」
「それは――」
後藤は何かを口にしようとして躊躇い、結局、そのまま口を噤(つぐ)んだ。
- 14 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時45分58秒
- 「加えて各国があなたの行末を注視している。この状況の中で、死刑執行を敢行した場合、
わが国は金正日政権下の北朝鮮と何ら変わらぬ蛮族の国との謗(そし)りを免れないだろ
う。そうなれば折角、端緒に着いたばかりの復興事業が様々な障害により頓挫することに
なる。一国を預かる宰相として、断じて認めるわけにはいかん」
「閣下……お言葉ですが」
後藤は相手の視線を捉えて、しっかりと見つめ返した。
「それで国民は納得するでしょうか?」
「どういうことかね?」
金永南は判じ兼ねた。金正日への怒りは確かに理解できる。だが、一時の感情から長期的
展望を欠いてよいものではない。復興事業さえ軌道に乗れば、いずれは理解してくれる時
が来る。例え、今、彼がその弱腰を追求され、政権から滑り落ちることがあろうとも。彼
自身の決意もやはり生半可なものではなかった。だが、目の前にいる少女の意見は異なる
ようだ。金永南はそのしっかりとした瞳の力に負けぬよう、視線に力を込めた。
- 15 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時46分22秒
- 「大国の顔色を伺い、大国の意に染まぬ国民の世論を政府が封じ込める。建国の第一歩か
ら、そのような体たらくで、果たして新たに自由で闊達な民主主義をこの国で育むことが
できるでしょうか?」
「――理想ではそうだ……だが、――」
「国民はすべて知っているのです。もし私が釈放されて自由の身になれたら、それは大国
による圧力の成果なのだと。だから、国民はこの一事に注目しているはずです。大げさに
言えば国家の主体としての国民の尊厳が、未来が、この一事の帰趨にかかっているのだと」
「……」
強い衝撃を受けた。その通りだ。あるいは、この金永南臨時政府代表よりも、国民の誰よ
りもこの少女は、この国の行く末を案じているのではないか。自らの命を賭してまで。彼
は少なからずその侠気に心揺さぶれる思いがした。だが、同時にまた苦い思いが湧きあが
るのを抑えることができない。彼は煩悶した。
できるのか、自分は?
このように純粋で無垢な若い命をこの手で摘み取ってしまうことが。
その内面の葛藤を見透かしたように後藤が微笑みながら跡を継いだ。
- 16 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時47分06秒
- 「お気に病まれることはありません、閣下。例え一時的に諸外国からの支援が途絶えても、
国民は焦土の中から自力で這い上がることを選択するでしょう。ようやくこの国を覆って
いた闇が払われたのです。希望だけが、新しい国を造り直す上で唯一の支えとなるのです。
目先のドル借款や円借款に捕われてはいけません。そのために――」
「――そのために……」
「私ひとりが処刑されることで過去の悪夢が清算されるのなら、喜んでこの身を捧げまし
ょう」
「真希同志――」
柔らかい。柔らかい笑み。その柔和な表情の奥に隠された凄絶な決意を目の当たりにして
金永南は言葉を失った。後藤の決心は揺らぎそうにない。最早、話し合うことはないと悟
った以上、後は彼自身の問題だった。後藤を生かすも殺すも。その掌中に握った命の重さ
は、この国の未来にも匹敵する。そのことをよく理解しているからこそ、彼は迷わざるを
得ない。
「――代表閣下。お時間が……」
公設秘書が時間を告げた。公務に追われる彼にとって、ここまで時間を取れたのは上出来
と言っていい。金永南は立ち上がると、同時に椅子を引いて腰を上げた後藤に右手を差し
出した。
- 17 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時47分54秒
- 「短い時間だが、あなたと話せてよかった。ありがとう」
「光栄です。閣下」
「もう一度だけ聞く。本当によいのだね?」
「はい。とっくに気持ちの整理はできています」
「そうか……何か欲しいものはないかね?日本に残した家族と電話で話すとか――」
「いえ。母や姉は私の考えを理解してくれると思います。ただ……」
後藤は少しだけ言葉を詰まらせ、すぐに打ち消した。
「いえ、何でもありません」
「……」
何となく見当がついたものの、それを口に出すのは後藤の誇りを傷つけるようで躊躇われ
た。この健気な少女が必死で保とうとしている矜持を汚すことが誰にできよう。気まずい
雰囲気を振り払うように、金永南は最後に尋ねた。
「真希同志は家族で一人だけイルボンへの帰化を拒んだそうだが?」
唐突な質問であったが、後藤の答えには迷いがなかった。
「ここが、この国が私の祖国ですから」
「そうか……ありがとう。これが本当に最後だ」
そういって踵を返し、秘書の開けたドアを出た金永南は、まっすぐに出口へと向かい、二
度と振り返ることはなかった。
- 18 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時48分21秒
- ◇◇◇
これでよかったのだろうか……
公用車の後部座席右側に身を深く埋めて金永南は自問した。正直に言えば、まだ迷いがあ
る。だが、少女のあの純粋な想いを誰が妨げられよう。彼は大きく頭(かぶり)を横に振
った。無性に市井に会いたいと思った。だが、彼女はここにいない。それは後藤にしても
同じだろう。最後の瞬間、思わず口に出しそうになった言葉。それが何かわからぬほど、
彼は人情の機微に疎いわけではなかった。
平壌の郊外に位置する拘置所から官邸までの市街地は廃墟と化し、先の内戦の激しさを物
語っていた。この粉塵の中から再びこの街を再生し、新たな国を建設するためには、確か
に後藤の言う通り、外圧に屈しない、強い意志が必要なのだろう。高麗国民としての誇り
と自信を拠り所として。貧すれど鈍せず。自らの未来は自らの手で切り拓くこと。その自
由を高麗の民は、日帝支配の終焉から共産主義の名を借りた金王朝を経て、21世紀に入り、
歴史上初めて自らの手中に収めようとしている。
- 19 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時48分42秒
- 車窓に流れる風景の荒涼とした佇まいを見るに連れ、金永南は感傷的にならざるを得ない。
あれほどに国を想い、自らの身を犠牲にしてまでこの国の未来を案ずる後藤の気高い精神。
金正日と労働党の統べる政権の中枢にあのような高潔な人士はついぞ見かけることがなか
った。時代は確実に変わっていく。前政権の悪政に疲弊しきった老人たちに代わり、これ
からは彼女のような若者がこの国の未来を形作っていくのだろう。
金永南は市井の顔を思い浮かべた。分断後の長い悪夢からこの地を開放した若い力はこの
国を建て直し、最終的な目標である祖国統一へと着実に近づいていく。
金永南を乗せたルノーサムスンSM5は戦禍により悪路と化した道路から伝わる振動を巧み
に吸収し、軽快にその優美な白い車体を走らせていた。座席は以前、北朝鮮時代に彼があ
てがわれていたメルセデスに比べるとこじんまりとしている。大柄な彼にはやや窮屈に思
えるときがあったが、小さな政府を目指す以上、公用車に支出する費用さえ惜しまれる。
高麗を新たな市場と見込んだ韓国サムスン財閥が無償で貸与してくれた車であった。
- 20 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時48分58秒
- 前政権時代、江原道出身の創始者、鄭周永が直接、金正日に面会し多額の寄付を行った現
代財閥は、この国でのビジネスを一手に引き受けていた。やや出遅れた感のある韓国最大
の財閥、サムスングループはその間、中国経営に力を注ぎ、弱体化しつつある現代との差
をさらに広げつつあった。機は熟したと見たのだろう。政府首脳への公用車提供など、早
速、様々なアプローチを仕掛けてきたサムスンのやり方はあくまでもビジネスライクで、
その割り切り方が小気味よくもあった。
既に前政権時代から工場を設置していた羅津(ナジン)の工業特区の他にも様々な案件を
提案しては、経済官僚を戸惑わせていたが、金永南はむしろサムスンの経営センスに舌を
巻いてさえいた。なにしろ前政権のときには不可能だった中国への陸路での通過が可能に
なる。もちろん、道路や鉄道網などの輸送インフラさえ整わない現状では、その地理的に
有利な条件がすぐに活かされるわけではない。だが、少なくとも韓国、中国、両国が注ぐ
熱いまなざしは何らかの実体をともなって、それらの開発に寄与するだろう。
- 21 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時49分14秒
- この国の人間のまじめさ、優秀さをもってすれば、壊滅した経済を立て直し、韓国と比べ
ても遜色ない経済水準へと近づけるのにそれほどの時間はかからないだろう。現在の状況
のまま統一することは韓国の経済規模ではあまりに負荷が大きすぎる。統一を実現させる
には、まず、経済的実力の充実、そして民主主義の浸透が不可欠だ。それが実現されるの
は何年後になるのか、金永南には想像もつかない。実際、ドル借款や円借款が遠のいてい
く現状では夢物語にしかすぎないのかもしれない。
だが、金永南には確信めいたものがあった。日本、韓国、高麗を跨いで活躍するであろう、
市井らの世代。彼女らは国や言葉の違いなどものともせず、どこか簡単に乗り越えてしま
いそうな、そんな可能性を秘めているように彼には感じられた。
- 22 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時49分29秒
- 未来は彼女たちのすぐ手に届くところにある。それを手中にできるか。それは市井ら、若
い世代の肩にかかっているのだ。そのための礎を自分は築かなければ。それが長年、金父
子の独裁政権を支えてしまった自分達老人のせめてもの償いである。それが困難な道であ
ろうとも、自分は果たさねばならない。自らの命を賭して、その道を示して見せた後藤の
ためにも。
物思いにふける金永南を乗せたSM5はやがて平壌市内を貫いて流れる大同江沿いの道へと
入った。川向こうに沈む夕日を眺める市民や河川敷を散策する市民の姿を横目に眺めなが
ら、彼はこの穏やかな祖国の光景を再び見ることのない後藤のことを思った。太陽が沈む
瞬間、その長い日差しが水面に反射してキラキラと煌く美しさ。だが、今日に限って、そ
の情景が滲んでぼやけるのを金永南はどうすることもできなかった。
- 23 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時49分46秒
- ◇◇◇
翌日午後。
午前中行われた閣僚会議の間にも溜まり続けた要承認案件の書類に目を通していた金永南
に一通の電話が入った。黙って受話器に耳を傾けていた彼は、やがて「わかった」とだけ
告げると、受話器を置き、しばらく考え込んだ。時間にして数秒。何を思ったか、彼は椅
子を引いて立ち上がり、窓際に立つと空を見上げた。
澄んだ空気の向こう、遠い空はそのままソウルへと広がっている。その同じ空の下、市井
は、レコード会社との契約を無事に済ませて一息ついている頃だろうか。還ってきた市井
が知ったらどうするだろう。二度と自分を許さないかもしれない。その想像は、身を引き
裂かれるような痛みをともなって彼を驚かせた。そのような感情の昂ぶりをまだ、彼が保
持していたことに。
- 24 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時50分02秒
- 後藤は裁判の間中、終始、静かだったという。国家反逆罪の適用を要求した検察の公判論
述中も眉を顰めることなく、淡々と聞いていたようだ。金永南の用意した国選弁護士の再
三の勧めにも関わらず、結局、意義を唱えることもなかったという。最後に最高判事の告
げた判決に少しだけうなずき、静かに法廷を退出した後藤の後姿は凛然として気高く、そ
の場にいた全員が感銘に打たれたと電話の相手は興奮気味に語っていた。
それを聞いても彼が驚くことはなかった。ただ、自分が取り返しのつかないことをしでか
してしまったという虚しさだけが去来し、空っぽの胸のうちに市井の顔が浮かんでくるの
をどうすることもできなかった。
- 25 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時50分20秒
- ◇◇◇
梁鉉錫(ヤンヒ・ヒョンソク)は金色の長髪をかきあげると、その派手な髪の色には似つ
かわしくない銀縁の眼鏡を鼻の上に押し上げた。
「市井さん、もう一度聞きますけど、滞在期間を延ばすことはできませんか?」
「さっきも言いましたけど、無理です。まだ公務が残ってますし」
既に三回目の質問だったが、もう忘れているのかもしれない。シャンパンのグラスを傾け
るピッチが大分、早まっている。それほど彼にとっては嬉しいことだったらしい。
私は彼が率いるYG企画と正式にマネージメント契約を済ませていた。契約記念パーティと
称した内輪の集まりに私は誘われたのはいいが、未成年の分際で酒に手を出すわけにもい
かず、一人だけ素面(しらふ)のまま、やや酒の回った梁を相手にしていた。
「ソテジも本当はあなたに会いたがっていたんだけど」
「また何度も来るんですから。焦る必要はありませんよ」
ソテジに会えなくて残念なのはむしろ私の方だった。なにしろ韓国のスーパースターにし
て、生ける伝説。カリスマという近頃では軽く使われすぎてインフレ気味の言葉では言い
表せないほどの大物だった。
- 26 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時50分35秒
- 丁度、私が渡韓した年にソロ第二集のアルバムを引っさげて帰国した彼はまさに時の人だ
った。CDの売上げは瞬く間にミリオンを越えた。人口の少ない韓国におけるミリオンは日
本のトリプルミリオンに匹敵するという。だとすれば、日本で私が最後に参加した娘。の
サードアルバムでさえ、その数字には至らなかった。本当に凄い人なのだ、彼は。
その彼が私に興味を持っていると聞いて飛ぶように(本当に飛んで来たのだが)ソウルを
訪れたのが三日前。直接、連絡をくれたのは、以前、彼と一緒に「ソテジワアイドゥル(ソ
テジと子供達)」として活動していた梁鉉錫(ヤンヒ・ヒョンソク)だった。一応、声を掛
けてくれた他の事務所にも義理で顔を出してはいたが、私の胸の内では、もう既に梁から
誘いがあった時点で決まっていた。
- 27 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時50分51秒
- 以前から韓国の政権を批判し、祖国分断の苦しみを苛烈な詩に乗せて歌い続けてきたソテ
ジ。その彼から、一緒にやらないかと声を掛けられて、断われる人間が朝鮮半島にいると
は思えなかった。だが残念にことに彼はツアー中で、今回は会えそうにない。それをとて
も残念がって、先程から何回も梁は引き止めてくれるのだが、今回は早く帰りたかった。
何だろう。言い知れぬ不安感。胸騒ぎがする。それが何に起因するのかわからないことが
余計、不気味に感じられて。正直に言うと、このパーティーからも早く抜け出したいのだ
が、今後のことを考えるとそうもいかない。それに江南で最上級のリッツカールトン・ホ
テルの17階、全フロアを占めるプレジデンシャル・スィートでのパーティーと聞いては、
出ないわけにはいかなかった。なにしろ、私が住んでいたアパートはすぐ裏手にあって、
夜、いつも窓から眺めていた憧れの場所だったのだから。
- 28 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時51分09秒
- だが、いくら憧れのホテルスィートとはいえ、大好きなビールも飲めぬ、梁以外は知らな
い人ばかりで緊張を強いられるパーティは一時間を越えるとさすがに苦痛になってきた。
時折、窓の外を眺めては薄闇に包まれていくソウルの町並みに目を奪われる。それだけが、
唯一の救いだったが、あまり外ばかり見ていては列席者に失礼になる。そう思ってしまう
と、窓の外を覗いてばかりというわけにもいかない。
「まったく、ソテジのやつも悔しがってましたよ。『市井ちゃんに会いたいからライブ、早
めに切り上げようかな』って」
「またまた、そんなわけないじゃないですか」
笑い声に疲れた感じが出ている……。私は気づかれていないか気になった。梁は気を遣っ
ていろいろと楽しませてくれるのだが、帰りたい気持ちは募る一方だった。
そろそろお暇を……。
どのタイミングで言おうか考えていると不意に梁があっ、と短く声を漏らした。その視線
の先は私のグラス――と見る間にカクテルジュースの入ったグラスの先端だけが深紅色の
中身を零(こぼ)しながら落下して、絨毯の上に転がった。
- 29 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時51分56秒
- 私はさぁっと血の気が引くのを感じた。おそらく、顔色がまっ蒼になっていたのだろう。
梁がすぐに「大丈夫ですか?」と肩を抱いて尋ねてくれたが、グラスの先端が落ちる際、
頭の中に過ぎった映像はすっかりまぶたの裏に焼き付けられて、私は叫びたい衝動に駆ら
れた。
後藤が危ない……。
なぜだか、そう感じた私はいても立ってもいられなくて、暇を告げるのもそこそこに、ス
ィートを飛び出した。
その映像。首だけの後藤が切断面から血を流して落ちていく映像。
私は本能の命ずるままに長い長い廊下を駆け抜けてエレベータホールへと駆け込んだ。
- 30 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時52分12秒
- フロントを抜けてホテルの車寄せに踊り出ると運良く一台の模範タクシーが坂を登ってく
るのが見えた。私は、それが近づくのを待つのさえもどかしく、駆けて行き、窓を叩いた。
「空港まで、仁川まてお願い」
「お荷物は?」
「ないわ、急いでるの。早く出して」
運転手は私の切迫した様子をみて、何も言わずに車を動かした。ノボテルホテルとの間の
急な坂道をゆっくり下ると左から車が来ないか確認して右に曲がる。しばらくまっすぐ進
み大きな交差点に差し掛かると、タクシーは再び、右折して空港への道を急いだ。
高速に入ってしばらくすると右手に漢江が見えた。中州のヨイドまでは20分足らずで来ら
れた。仁川まで一時間かからないかもしれない。現在20時過ぎ。22時発の高麗航空便が
平壌行き最終のはずだった。
- 31 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時53分14秒
- 背の高い大韓生命63ビルが闇の中にぬぼうっとそのひょろ長い姿を闇に躍らせている。し
ばらく進むとライトアップされた国会議事堂の丸い屋根が青白く浮かび上がり、再び不安
感を煽る。
何があったんだ、後藤?何が……
私は、心のうちで問い掛けた。まるで強く念じさえすれば、その思いが届くとでも言うよ
うに。ありえない。後藤は言ったはずだ。
『朝鮮語でプッチモニ……。歌いたい、ね』
一緒に歌うんだろ?後藤、なあ、何とか言ってくれ。
私は目を閉じて、浮かんでくる後藤の姿に懇願していた。
あんなに喜んでくれたじゃないか、私が韓国でデビューすることを……
なあ、後藤?
そんなことはないよな?嘘だって言ってくれ……
- 32 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時53分54秒
- だが、頭の中に浮かんでくる後藤の映像は寂しげに俯く表情ばかりだった。
くそっ!……
速く走れ、速く、速く……
それだけを念じて前方を見つめた。幸い、平日の晩であるせいか、道は込んでいない。
速く、速く、もっと速く。
距離は近いのに。ソウルから平壌なんてすぐ近くなのに……
私は歯軋りするほど強く奥歯を噛み締めて、ただひたすら最終便に間に合うことを祈った。
- 33 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時54分14秒
- 漢江を越える辺りで、仁川国際空港への専用高速道に入る。そこまでいけば、片側4車線
の大道路だ。もっとスピードを出せるだろう。いよいよ傍花大橋を渡ってさあ、猛スピー
ドで、と運転手に告げようとした瞬間、目の前にズラっと並んだ車のテールランプが目に
入った。
何?何で?
わけがわからなかった。今までは空いていたというのに。
「何?どうしたの?」
気が付けば、堪り兼ねて叫んでいた。運転手も首を傾げている。
「どうしたんですかね?聞いてみましょう」
無線で会社を呼び出して運転手は尋ねた。
「ええーっ、こちら32号車どうぞ」
『32号車どうぞ』
「空港高速を仁川に向っていますが、ひどい渋滞でピタッと止まっています」
『検問です。どうぞ』
「検問?検問って何の?」
運転手は振り返って同意を求めた。私はただ、縋るような目で成り行きに聞き耳を立てて
いる。
- 34 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時54分30秒
- 『ええ、米国がイラクに攻撃を開始したため空港への出入りが厳しくコントロールされて
いる模様です。永宗大橋の手前で車を止められて一台一台丹念にチェックされています』
「そんなばかな?じゃあ、お客さんが飛行機に乗れないじゃないか!」
『イラク戦の開始に伴い、現在、すべてのフライトが出発時刻を大幅に遅らせていますの
で、あるいは……』
「じゃ、乗れる可能性はあるんだな?」
『その辺はそちらの状況を見て判断してください』
「了解。このまま進む。どうぞ」
無線を切った運転手は私に振り返って尋ねた。
「このまま行きますか?」
「いいえ、降ります。運転技士さん、いくら?」
「どうするつもりです?」
「走っていくわ。全然、動きそうにないもの」
- 35 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時55分23秒
- 呆れ顔の運転手に1万ウォン札2枚を渡すと、私は外に飛び出してドアを勢いよく閉めた。
ずらっと並んだ車のテールランプが瞬いてはるか前方まで天の河のように連なっている。
「よしっ!」
私は太腿をパンと叩いて気合を入れると、走り出した。
ただひたすら前を向いて。
後藤……
私はみんなで走った、あの映画のことを思い出していた。
冬の寒い最中、雨のシーンで放水され、ずぶ濡れになりながら演技をやり通した後藤の姿。
私ならず、メンバー皆が感動した。
そして、ろくに睡眠時間も取れない中、なんとか走り抜いて完走した駅伝。
あの映画で走りきって、何が得られたか問われた裕ちゃんが何と答えたか覚えてるか、後藤?
絆、絆だよ。
後藤……
私だけじゃない、あんたのお母さんが、お姉さんが、ユウキが、友達が、メンバーみんな
が、そして私がお前の無事を祈ってる。
そう、みんなが……
- 36 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時55分42秒
- わき腹がズキズキと痛む。息が止まりそうなほどの苦しさに休みたくなる。走っても、走
っても、橋は見えてこなかった。遠い。遠い道のり。胸が苦しい、喉が嗄れる。脚が痛い、
攣(つ)りそうだ。
それでも私は走らなければ。ひたすら前を向いて、前を……。
ふと気がつけば闇の中に何かとてつもなく大きなものの存在を感じた。ぬぼうっと浮き上
がる存在。それはイルミネーションで照らされた永宗大橋の偉容だった。濃密な深い紺色
を背景に浮かぶ背の高い建造物が私に話し掛けたように思えた。
走れ、と。
額の汗を拭うと、再び前を目指して走る。走る。
やっぱり年だ。
息が上がる。器官がぜえぜえと嫌な音を立てる。あの頃のようにはもう走れないのかもし
れない。何も考えず、ただがむしゃらに走りつづけていたあの頃のようには。
だが、走ってみせる。私には、守るべきものがある。それは、私が走っても走らなくても
同じなのかもしれないけど、それでも私は走り続ける。
大切なもののために、自分自身のために……。
あと少し。あと少しだ。橋の威容はますますその威圧感を増している。
- 37 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時56分00秒
- どれくらいの時間が経っただろうか。
突然、キーンという甲高い音が聞こえた。はっとして上を見上げる。白い機体、見覚えの
ある不恰好な尾翼……高麗航空のツポレフだった。
私は、為すすべもなく、路上に立ち尽くすしかなかった。
「ごとぉぉぉぉぉっ!」
拳を握り締めて叫んだ言葉は、しかし夜の闇に虚しく吸い込まれるだけだった。
橋の向こう。空港の管制塔はもう、すぐそこなのに……。
明滅する灯りが嘲(あざけ)るように私を見下ろしていた。
- 38 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時56分19秒
- ◇◇◇
ユウキはイーファが宿所に現れてその言葉を告げたとき、心臓が凍りつくかと思った。ま
さか、そんなに突然に決行されるとは思っても見なかったからだ。イーファを責める暇も
なく、ただ言われるまま車に乗せられて拘置所に着いたときも、まだ現実の出来事とは信
じられなかったくらいだ。
せっかく、今朝のラジオが市井の韓国からのデビューを伝えたばかりだと言うのに……。
それもソテジと競演だという。韓国では大ヒット間違いなし。もちろん高麗でも。話題に
なれば日本に逆輸入だって……。
やや場違いな想いを抱きつつ、それでもユウキは姉の最後を見届けようと、拘置所の内部
へ脚を踏み入れた。何度も通った場所だが、ここに死刑執行のための施設があるとは気づ
かなかった。だが、警察国家である北朝鮮時代の建物であれば、そういうものがあって当
然ともいえる。
- 39 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時56分36秒
- 本来なら家族は入れないのだが、事情が事情ではあるし、金永南が気を回してくれたらし
い。そんな気を回すくらいなら、姉を助けてくれればいいのに、と考える余裕は今のユウ
キにはない。
いつもは通れない、鉄格子の扉を通ると地下への階段を下りる。切れかかった蛍光灯が照
らす薄暗い廊下はなんだか冷んやりとして肌寒かった。この廊下をまっすぐに行って突き
当たった廊下のさらに左側の奥がその場所だという。看守に導かれて廊下を進む間、柵の
向こうに出てはいけないこと、受刑者の心を乱すようなことを言ってはいけないことなど
の注意を聞き流した。イーファは恐る恐る周囲の壁を見回している。
廊下の突き当たり、T字型の縦棒が横棒に重なる交点には柵が設けられており、その向こ
うには行けないようになっていた。後藤はユウキたちから見て左右に伸びる廊下の右手か
ら現れるらしい。心の準備が整っていなかったため、ユウキはいざ、姉に会ったとき、最
後に何と声を掛けてよいものかわからなかった。あるいは声などかけない方がいいのか。
わからない。結局はその場の情動に委ねるしかないのだろう。
- 40 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時57分12秒
- 「ユウキくん……大丈夫?」
「――多分」
「ごめんね……」
「何で謝るのさ?」
ユウキは不思議に思った。イーファに謝られるいわれはない。また、彼女が姉を絞首台に
送ったわけでもないし、何しろこれは姉の意思なのだ。その辺の事情を彼女はわかってい
ないのではないか。ユウキは逆にイーファを慰めた。
「イーファが悪いわけじゃないよ。強いて言えば悪いのは金正日だろうけど……」
「ユウキくん?」
「今はもうどうでもいい感じだよ。恨む気にもなれない」
そう言ってユウキはイーファの肩を抱いた。女性にしては大柄なイーファとユウキは頭一
つ分も背丈が違うわけではないが、消沈して肩を落とすイーファはなぜか小さく感じられ
た。
「下がってください」
来た。カツ、カツとゆっくりと規則正しく歩く看守の足音が、その姿を表す前に聞こえて
きた。右側の奥の曲がり角から、両脇を看守に付き添われた姉の姿が見えた。まっすぐ背
筋を伸ばして歩く姉の姿に、ユウキはどこか誇らしいものさえ感じて、少し、戸惑った。
イーファは既に正視できないのか、目頭を押えて俯いている。
- 41 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時57分39秒
- ま、まきちゃん……。
ユウキは口に出して言おうとするが、喉が乾いて、声にならない。
そうこうしている間にも、姉はもう20メートルくらい手前、すぐそこにまで近づいてくる。
ユウキはその姿の美しさに目を奪われた。
美しい。
その言葉しか思い浮かばなかった。
人間はここまで美しくなれるものなのか。ユウキは声を失った。今まさに死に向おうとす
る一瞬、人間は最後に輝けるのか。わからない。だがユウキの目に映る姉の姿は最早、こ
の世のものとは異なる次元でその輝きを増しているように思えた。ただ、観念としての美
しさがそこにある。ユウキにもう少し語彙があれば、そのように表現したかもしれない。
それほど、今、眼前に迫りつつある姉の姿は美という概念に昇華されようとしていた。そ
れは、まるで自己を犠牲にしてまでこの国の行く末を案ずる気高い心情の在り様が実体化
したかのような。
凛とした空気に触れ、ユウキは我に返った。姉は今、まさに目の前を通り過ぎようとして
いる。だが、その視線は真っ直ぐ、遠くに向けられ、最早、ユウキはおろか、地上の雑多
な世界は目に入っていないかのような印象を与えた。
- 42 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時58分06秒
- ま、まきちゃん……。
声が出ない。ユウキは息を吸った。今度は大きく息を吐きながら喉を震わせた。
「真希ちゃん!」
一瞬、後藤は足を止めたかのように見えた。だが、その顔は相変わらず前に向けられてお
り、ユウキやイーファは一顧だにしない。そして、何事もなかったかのように再び後藤が
足を踏み出したとき、ユウキは何も考えず、ただ何かをしゃべらなければという切迫した
思いで口を開いた。
「市井さん……」
後藤が再び足を止めた。
「市井さん、韓国からのデビュー決まったって!」
そのとき、一度だけ振り返った姉の表情が少しだけ崩れたように見えたのは気のせいだろ
うか。そして、一瞬だけ、心が通ったと思えたのは。だが次の瞬間、何事もなかったかの
ように、再び前を向いて歩いていく姉の後姿にユウキは最前とは異なる、どこか満ち足り
た気配を感じた。
- 43 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時58分40秒
- 姉の後姿を永遠に目に焼き付けようとでもするように、ユウキは視界が滲まないよう何度
も擦っては目を見開いた。その視線をしっかりと受け止めるように、後藤は最後まで、視
界から消える最後の瞬間まで、背中で愛を伝えていた。やがて、その姿が左の角に消えよ
うとする瞬間、ユウキは叫ばずにはいられなかった。
「市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!」
その声が後藤に伝わったのか、もはや確かめる術はなかった。後にはただ、拭いきれない
涙の痕と、こだまする自分の声だけがいつまでも耳に残った。
- 44 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時59分25秒
=== 完 ===
- 45 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)16時59分50秒
- 46 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時00分06秒
- 47 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時02分12秒
- 【後書き】
まずはお礼を。
こんなくそ長くて字が詰まってて読みにくくて、誤字脱字が多くてしかも娘。に関係ない人がどんどん出てきてワシャワシャしたりする作品を読んでいただけたたというだけで、もう言い表せないほどの感謝の気持ちで一杯です。
読んでいただいただけでなく、要所要所でレスしていただいた方。放置するつもりは毛頭なかったのですが、レスが少なくて正直、書きつづける気力を失いかけたときもありました。そういうときにタイミングよく、レスをいただけたのは本当に励みになりました。ありがとうございました。
そして、もし、羊の頃からこれを読んで保全してくださった方がいらしたら……。これはもう、感謝という言葉では表現できないほど私には近しい存在です。
もう、お分かりだと思いますが、もともと羊と狼にこのタイトルでネタスレを立てたのは私です。そこで何か書いて膨らめばいいなー、という程度の気持ちで始めたものです。韓国のイム・ウンギョンという女優が余りにも可愛くて、なぜだか市井に似て見えた、というトホホな理由だったのですが。
- 48 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時02分33秒
- 嬉しいことに羊の方で初めて保全をしてくれる方が現れました。それまでにも2chの氏にスレにこちょこちょと書いていたことはあったのですが、いずれも保全されないうちにdat行きしました。羊のこのスレで初めて保全されたときの嬉しさといったらなかったですね。その時点でどういう形になるのかわかりませんでしたが、とりあえず完結させようという気持ちでだらだら始めたのが、このくそ長い話の発端だったのです。
ですから、そこで保全してくださる方がいらっしゃらなければ、ここまで長く引張ることもなかったし、そしてこれを書いている途中で2ch閉鎖騒ぎがなければ飼育に来ることもなかったのです。そして、その時たまたま同じ板(花板)で開催していた短編バトルを見つけて軽い気持ちで出して見ようかなー、と思わなければ、短編を書いて完結させるという楽しみを見つけることもなかった。
- 49 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時02分51秒
- その意味で、羊のスレで保全していただいた方には感謝以上のいろいろな想いがあります。もちろん、今は読んでいただけてないかもしれませんし、むしろ、こんないつ終わるのかわからないものを追いかけてくれることを望む方が酔狂だということはよく理解しています。
それでも、もし、当初からときたま覗きに来てくれた方がいらっしゃったとすれば……。
もう、言葉はいらないという感じでしょうか(キモイですね、すみません。)同じ時間を共有してきた濃密な関係、というか、そんな近しいものを感じてしまいます(くどいですね、すみません。)
当初は軽いネタのつもりでブラウザに直打ちしてました。なにしろ昼休みの時間を使って一日一レスという状態でしたから。いつごろからワードを使い出したのかわかりませんが、やはり2ch閉鎖の頃からのような気がします。あの頃はもう、読んでくれる人がいるというだけで、嬉しくて書き散らかしていた記憶があるので。
- 50 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時03分14秒
- 今はやっと終わったというのが正直な感想です。この話を書き始めてから2年近くの間にいろいろな変化がありました。5期、6期の加入、後藤の脱退、小泉首相の訪朝、米によるイラク攻撃……。驚くべきスピードで変わりつづける環境に戸惑い続けた日々でした。そして、5月5日には保田が娘。から卒業します。自分にとっては、おそらく、それが娘。ヲタとして最大のターニングポイントになることと思います。
保田が辞めてもまだ、自分がヲタとして、何かを書いていけるのか。今はまだわかりません。沈みつつある船から娘。を放り出して逃げるような真似はしたくありませんが、一方で保田がいなくなった後に期待できる何かを娘。に見出せない自分がいます(イタいですね。すみません。)せめて小川が一本立ちできるまでは見守りたいと思うのですが、5月5日以降、どう心の整理をつけられるのか。現時点ではわかりません。
最後に、この長い話を読んでいただけた方、レスをいただいた方、いろんなところでこの話を紹介していただいた方にもう一度、厚く御礼申し上げます。本当に、長い間ありがとうございました。
- 51 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時03分50秒
- 参考図書
出版社 / 作者 / 訳者 / タイトル
日本経済新聞社 / キャサリン・フレッドマン / 吉川明希 / デルの革命
草思社 / 西岡力 / / 飢餓とミサイル
講談社現代新書 / 重村智計 / / 北朝鮮データブック
講談社 / 朝鮮日報『月刊朝鮮』・黄民基共著 / / 北朝鮮その衝撃の実像
徳間書店 / 李韓永 / 浅田修 / 金正日が愛した女たち
小学館文庫 / 張龍雲 / / 朝鮮総連工作員
小学館文庫 / 安哲/朴東明 / 李英和/RENK / 北朝鮮飢餓ルポ
芳賀書店 / 田代親世 / / 韓国エンターテイメント三昧Vol.2
小学館文庫 / 月刊朝鮮・編 / 夫止栄 / 祖国を棄てた女
文芸春秋 / 黄長華 / 萩原遼 / 狂犬におびえるな
ダイアモンド社 / 桜井よしこ / / 北朝鮮 北東アジアの緊張
徳間書店 / 申英姫 / 金燦 / 私は金正日の「踊り子」だった上下
- 52 名前:名無し娘。 投稿日:2003年03月31日(月)17時04分09秒
- 出版社 / 作者 / 訳者 / タイトル
草思社 / ノルベルト・フォラツェン / 瀬木碧 / 北朝鮮を知りすぎた医者
草思社 / ノルベルト・フォラツェン / 瀬木碧 / 北朝鮮を知りすぎた医者国境からの報告
文芸春秋 / 鄭乙炳 / 尹学準/金潤 / 北朝鮮崩壊
文芸春秋 / ラリー・ボンド / 広瀬順弘 / 侵攻作戦レッド・フェニックス 上下
文芸春秋 / 康明道 / 尹学準 / 北朝鮮の最高機密
飛鳥新社 / 石丸元章 / / 平壌ハイ
インフォバーン / 石丸次郎 / / 北のサラムたち 日本人ジャーナリストが見た、北朝鮮難民の“真実”
文芸春秋 / 李英和 / / 北朝鮮秘密集会の夜 留学生が明かす“素顔”の祖国
- 53 名前:名無し読者 投稿日:2003年03月31日(月)18時02分10秒
- まずは脱稿お疲れ様です、本当にお疲れ様です。
上手いこと感想が浮かばないため、お礼だけ言わせてください。
作者さん、素晴らしい作品をありがとうございました!!
- 54 名前:む 投稿日:2003年04月05日(土)19時39分40秒
- 完結おめでとうございます。
読み始めたのは半年くらい前からですが、
ぐいぐい話に引き込まれてしまいました。
しかし、最後のユウキくんの一言。「お隣の国」ってそう来ますか。
非常によかったです。
スレ埋め用に短編もあるということなのでそちらも期待してます。
- 55 名前:名無し読者 投稿日:2003年04月05日(土)21時09分49秒
- お疲れ様でした。
そして、素晴らしい作品をありがとう!
娘。小説でも異色の分野、さらに4スレにも渡る長編を書き上げた、
作者さんの意欲、それを飽きさせない筆力、お見事でした。
この作品のおかげで、北朝鮮の事について家族に知ったかぶりできました。
今後とも飼育で活動を。
- 56 名前:56 投稿日:2003年04月07日(月)00時25分55秒
- 本当におつかれさまでした。
言うもおろかですが、ものすごい数の人たちが熱狂して読んでいたんでしょうね。
固唾を呑んで見守りたいからレスつけてないだけで。
スケールが大きくて緻密で場面が豊かで。それに構成、人物造形、描写の確かさ…
…などなど、凄すぎでした。最後に参考文献が並ぶのにも感服。
それにしても…最後の最後に、やられた!
題名にこんな意味があったとは。
ずっと、(内容がスゴすぎるだけに)「なんじゃこのふざけたタイトルは」
などと失礼千万なことを考えて読んでいたのですが…。
力まかせに笑顔をつくって叫んでいるユウキくんの映像が浮かんで、
涙で視界がぼやけちゃいましたよ、わたしゃ。
後藤よぉ、気持ちはわかるけど…やっぱ、理性を信じてほしかった。
民衆の熱狂をしりぞけてほしかった。せつなすぎるよ。
後藤の犠牲のその後、というエピローグ、など無性に読みたくなります。
それは読者が自分で妄想すればよいものなのでしょうが…。
とにかく、ありがとうございました。
- 57 名前:56 投稿日:2003年04月07日(月)22時15分01秒
- 続けてすみません。
後藤の「決断」の余韻がまだくすぶってます。もやもやするというか。
ムシャクシャする、というと違うか。
後藤さー、そりゃたしかに君は気高いよ。美しい。でも、君ひとりだけまわり
を置いてきぼりでキレイになっちゃって。これじゃ、あとの者は敗けっぱなし
じゃないか。ちくしょうめ。
誰か、後藤に正面から堂々と「あんたは間違っている」と言い切れるやつはい
なかったのか。「死ぬなんて許さん、ふざけるな!」と怒りをぶつけられるや
つは、いなかったのか。ちくしょう。
いや、終わってからぐだぐだ書いてしまいました。これだけのめりこめる作品
に出会えて幸せです。
テーマ/メッセージの深さと重さ。そこをきっちり支えきる圧倒的な情報密度。
ドラマチックにぐいぐい引っ張る展開。これだけの大作でテンションが途切れ
ない…どころか最後まで高まる一方だった、というのは驚異っス。
重ね重ね、ありがとうございました。
次回作に出会えることを希望しつつ。
- 58 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月08日(火)18時06分08秒
- 短編をあげます。
- 59 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時06分49秒
- スタジオ間の移動中、突然、雨が振り出した。
「うっわー、やべー、傘持ってないよ。よしこ、入れてくれ」
「えー、圭ちゃん持ってないのー?あたしもないよ」
カバンを開けてオロオロしてる隙にも雨は勢いを増し、
額を頬を濡らしていく。それがとても冷たい。
「衣装、濡れちゃうよー。しょーがない、走ろ。いくよ」
「ええー、まじっすかあ?」
もー、この人は高額納税者のくせに傘くらい持ってないのかよー。
それでも妙なステップを刻むケメコ走りで前をいく圭ちゃんの姿は
悪いけど微笑ましかった。
- 60 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時07分11秒
- そのときはそう思っただけだったんだ。
- 61 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時07分33秒
- 急に思い出したのは、とってもイカした傘を見つけてしまったせい。
- 62 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時07分51秒
- その日は仕事に遅れそうで、焦りまくってとにかく走っていた。
地下鉄の階段を登り切って息を切らせていたら、いきなり傘が開かれて飛沫が降りかかる。
うわっ、つめてー!
文句のひとつも言ってやろうと顔を上げた瞬間、視界にあふれる色の交響詩。
赤と黄色のコントラストがアダジェットで静かに情熱を朗々と響かせれば
黄色がピチカートで軽いアクセントをつける。
緑のスタカート、青のアチェレランドがに目を奪われて気が付けば、小さく叫んでいた。
ブラーボ!
これだ、と思い出したのが、なぜか圭ちゃんの顔というわけ。
- 63 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時08分14秒
- 慌てて孔雀が羽根を広げたようなその傘を追いかけるけど、
無情にも信号があたしと運命の傘の出会いを引き裂く。
えーっ、待ってよー。
願いも虚しく、傘は雑踏の人ごみの中に埋没…しなかったんだな、これが。
見てたら、その傘、あたしがこれから入る仕事場のビルに入っていった。
ラッキー。
これなら、後で誰だか探せるじゃん。
あれだけ目立つ傘のこと。きっと捜せるよ、うん。
さあ、これで心置き無く仕事ができる、と余裕で信号を渡ってから気づいたんだ。
あれ、あたし、急いでたんじゃなかったっけ?
腕時計を見たら…
ギリギリじゃん!やっべー!
- 64 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時08分30秒
- それっきり、傘のことはすっかり頭から離れてしまった。
圭ちゃんの顔を見ても、別段、何とも思わなかったんだけど。
返り際にまた、雨が降り出して、思い出した。
あ、でも圭ちゃん傘買ったかなー?
「圭ちゃん、傘は?」
飯田さんが聞いた。
さっすが、リーダー。ポイントをついてる。
「あ、いけね。カオリ、入れて」
「やだおー、買えよー傘くらいよー」
飯田さん、し、渋い。っていうか既にしわいかも…
- 65 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時08分47秒
- 「忘れちゃうんだよねー。カオリの傘おっきぃから好きさ。ね、お願い」
「しょーがねーなー」
なんだかんだいって相合傘な二人なんだよね、飯田さんがいるときはさ。
寂しいけど仕方がないのかなー。
こないだは、あたしも持ってなかったし。
でだ、早く買ってあげよーと思ったのは、別に圭ちゃんが
他の人の傘に入るのを見たくないから、
とか、そういう可愛らしい理由ではない…と思う。多分。
だって誕生日が近づいてるんだもの。
- 66 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時09分14秒
- 手始めにスタッフの人に聞いてみたけど、
意外や意外。
誰も知ってる人がいなかった。
考えてみれば当然かもしれない。だって、建物の中に入っちゃえば、
傘なんか畳んじゃうし、そうなれば、なかなか柄なんか人は気にしない。
んんー、これは難航するかもしれませんなー。
などと、ひとりごちてると寄って来たのは暇人A。
「ねえ、よっすぃ、何考え込んでんの?」
「え、んっと、あー、梨華ちゃんさー、こんな傘持ってる人見た覚えない?」
「ん?どんなやつ?」
- 67 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時09分42秒
- 絵柄の説明をすると、どうにも知ってるっぽいのだが…
「んんっと…でも、教えてあげない」
「なんだよー、けちー」
まったく、梨華ちゃん相手はつかれるよなー。
早く教えろよー。
「それ、よっすぃが使うの?」
「へ?あ、考えたこともなかったなー。それもいいかも」
ペア…で差すことはないだろーけど、卒業する圭ちゃんと同じのを持つっつーのは
結構いいアイデアかもしれない。
たまにはいいこというじゃん、梨華ちゃんもさ。
- 68 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時10分01秒
- 「誰かにあげるの?」
「ん、ああ、ええっとね。そりゃまだ秘密さー」
ギギっと音がした?いや、するわきゃないか。
でもさー、なんか眉毛が音を立てて釣り上がったような気がすんだよねー。
あるのかないのかわかんないような眉毛なんだけど。
いや、だから、逆に怖いっていうかー。
「教えてくれなきゃ言わないよ」
「ええっ?けちだなー、教えてよー」
ったく、何考えてんだこの色ぼけ女は。
こんなだから怪しげな小説書かれてそんでもって、
あんなことや、こんなことやXXや○○なことしてるとか本気で信じる
キモいやつが増えるんじゃないかー。
- 69 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時10分21秒
- 「じゃー、いいよ。他あたるから」
ぷいっ、て音はしなかったけど。
まーそんな感じで背中を向けて去ろうとしたんだ。
「ま、待って、よっすぃ」
きたきた。
わかりやすいんだよ、梨華ちゃんは。
「ごめんね。たしか、あの番組のスタイリストさんで、
そんな傘、持ってた人がいたと思う」
「オーッケー、梨華ちゃん!さんきゅぅっ!」
最高だぜ、梨華ちゃん。
これですぐに見つけられそう。
お礼に…
「お別れのキッスを…」
- 70 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時10分40秒
- 「ギャーっ!止めてーへんたいっ!」
へ、変態ですか…
「よっすぃがそんなだから、できてるとか変な噂が立って、
怪しい小説とか書かれちゃうんだよ。もー!」
あ、あたしのせいですか…
梨華ちゃん…
ずーん、と沈み込んだまま、
それでも有力な情報を掴んだあたしは、スタイリストさんを探しに出かけた。
番組付きの人だ、探すことはそう難しくない。
と、思ってたんだけど…
見つからないんだ!これが!
- 71 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時11分00秒
- ったく梨華ちゃんの情報はまったく当てにならないことがわかって一からやり直し。
しょーがない。その日はスタッフなんかにも聞いて回ったんだけど、
大きな成果はなかった。
何日かかけて、心当たりを探したけれど、そもそも雨が降らないと
傘はさせないわけで。
珍しく晴天の日が続いたこともあって探索はなかなか進まなかった。
あたしたちより、しっかりしてそうな5期メンにも聞いてみたけど、
なかなか埒があかない。いわんや辻加護をや(反語。)
そんなとき、見つけたのは偶然だった。
だって、その人が目の前を歩いてくんだもん!
- 72 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時11分34秒
- 走りよって声を掛けると、ちょうど圭ちゃんくらいのOL風の人だった。
いきなり声を掛ける失礼を詫び、どこで買ったのか尋ねると
親切に店の場所を教えてくれた。
雨の日だというのに、栗色の髪をふわっとかき上げて、
にっこり微笑んだその人の笑顔。
色彩を背負って浮かび上がる様は、不思議な感じだった。
なんだろう、曼荼羅の中心に鎮座する如来さま。そんな感じ?
- 73 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時12分28秒
- 「大事な人がいるのね」
ありゃりゃ。何を勘違いしてんの、おねーさん。
唐突にそんなこと言われちゃ照れるじゃないっすか…
っていうか、あたしが吉澤ひとみだってことに気づけよなー。
「え?いや、その…」
しどろもどろでろくに礼も言えなかったあたしを置いて、
結局、勘違いしたまま去ってしまったスタイリスト(なのか?)のおねーさん。
どっかで見たことある顔だなー、とか思って後でびっくりしないかなー。
え?しない?あ、そー。ま、いいや。
- 74 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時12分50秒
- 16_
別にその人が圭ちゃんに似てるとか、
傘の色彩が圭ちゃんの目指すげーじつ的志向にぴったり、
とか歯が浮くような奇麗な理由で、その傘をあげたいと思ったたわけじゃないんだ。
なんとなく、っていうか、圭ちゃん傘持ってなかったなー、
そういえば誕生日近かったなー、ってただそれだけ。
- 75 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時13分05秒
- だいたいあの人はなんだかお金の使い方がなってない。
セリーヌだなんだかいう高級ブランドをいっぱい持ってるくせに、
傘の一本も持ってないなんて。
よーし、ここはいっちょー、あたしがプレゼントしてあげよー!
うん、してあげるぞ!
ってね。力強く思ったわけです。
- 76 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時13分21秒
- それから早速行きました。そのお店。
善は急げ、って言うからさ。もちろん善行だよね。
そこは小さな雑貨屋さんで、輸入品の小物なんかをいっぱい置いていた。
多分、センスのいい店なんだろうけど、あたしにはわからない。
なにせ、買い物の基準はコストパフォーマンスですから。
- 77 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時13分36秒
- ざっと見渡したけど、くだんの傘は見当たらない。
店員さん――なのかな?
オーナーらしい三十台前半くらいの女性が一人、いるだけだけど。
とりあえずその人に聞いてみよー。
「あの、傘を捜してるんですけど」
けど、その人が口を開く前にわかっちゃったんだ。
あの傘はないって。
だって、あの傘のこと、告げただけで
すごい落胆した表情になっちゃったんだもの。
- 78 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時13分50秒
- 「残念ですけど…」
ほーらね。ああ、でもホント残念だー。
あ、けど、取り寄せたら?
「輸入品なので、向こうに確認して、在庫があったとして…」
一ヶ月っすか…
はぁー、ついてない。それじゃ圭ちゃんの誕生日、終わっちゃうよ。
誕生日を一ヶ月くらい待ってくれる鷹揚な性格ならいいんだけど、
歳のせいか、最近、気が短いからねー。
ともかく、それじゃーしょうがない。
帰ろうと背中を向けたときに、後ろで何かごそこそと。
- 79 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時14分08秒
- えっ、何か言いました?
「ええ、同業の友人のとこにも置いてあったはずなんで、今、電話で確認しますね」
え、あ、それはどーも…
もごもごと口篭るあたしにかまわず、電話のダイアルを押す店員さん。
ちゃんとお礼を言えないのが自分ながら悔しい。
意外とこういうときに梨華ちゃんの方がしっかりしてるんだよね。
見かけによらず。
受話器を置いて店員さんが、告げようとする。
でも、またわかっちゃったよ。
だって、満面にこぼれる笑みが「あったよ!」って既に伝えてる。
「あと、一本だけあるそうです」
そんな嬉しそうに言われると、こっちも顔がほころんじゃうよ。
「あ、ありがとーございます!」
- 80 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時14分23秒
- ペコッと頭を下げて顔をあげると、でもまた店員さんの表情が曇っていた。
えっ、なにか問題が…?
「ただね…」
ハ、ハイ…なんでしょう?
「さっきも同じ傘のこと尋ねてきた方がいらしたそうで…」
ドキッ…じゃあ、早くいかなきゃ。
お礼もそこそこに場所をメモって早速、教えられた店に向かう。
はやく、はやく…
なんていうか、ここまでくるともう、意地だね。半ば。
地下鉄に乗ってる間、今にもその傘が売れてしまいそうで落ち着かない。
ただ、もう、一刻も早く、着かなければ。
もう、それだけ。
- 81 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時14分38秒
- 地下鉄の階段を駈け上がって、メモを見ながら小走りで目的の店を探す。
あった!
やっぱり小さな雑貨屋さん。
入ってすぐ左手に固まっている傘の売り場。
イエースッ!
最後の一本があたしを待っていたかのようにひっそりとたたずんでいる。
オーケー、べべー。
あんたは、今、あたしが買いとってやるぜ。待たせたな。
ふ、ふ、ふ、と傍から見たら怪しさ全開のにんまり顔でその傘に手を伸ばす。
つーっと伸ばした指の先で、柄の黒檀が鈍く光る様に目を奪われる。
一瞬、それを掴むのを躊躇した次の瞬間、
突然、視界に乱入してきた他者の手がその鈍い輝きを放つ傘の柄を掴んだ。
うあっ、あ、あーっ!
ちょ、ちょっとー…
- 82 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時14分55秒
- 「あの、そ、それ…」
思わず漏らした声に、その手の持ち主が動きを止めた。
傘の柄を握った手から視線をずずっと上にずらす。
「あ、あーっ!」
むこうも驚いたみたいで、ただでさえおっきい瞳をさらに見開いて。
っつーか、こわいよ!それ!
「よ、よっすぃ?」
「け、圭ちゃん?!」
「あちゃー、見つかっちゃったよ。遅かったかー」
っていうか、なんで圭ちゃんが?
- 83 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時15分11秒
- 「とりあえず、レジ済ませてからね」
そう言ってお金を払う圭ちゃんの背中を間抜けな顔で見つめるあたし。
「ああ、お問い合わせいただいた方ですね。遠いところ、ありがとうございます」
「はい。どーしても、ほしかったんで」
「フォーブな感じがとってもお似合いですよ」
「?」
なんだろう?フォーマルとかそういう感じかな。
っていうかお世辞うまいよね。さすが店長さん。
- 84 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時15分27秒
- 店を出るとさっそく圭ちゃんに確認。
「でさ、何でその傘――」
「はいっ」
言い終わる前に買ったばかりの傘を手渡されて私は目が点に。
「えっ?」
「ほしかったんでしょ?」
「えっ……いやぁ……」
「あんた傘持ってなかったじゃん。
スタイリストさんによしこが同じ傘探してるって聞いてさ。それで」
「それで……」
「わたしからの餞別だ。大事にしろよ」
- 85 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時15分41秒
- 圭ちゃん……。
あたしは胸が詰まって何も言えなかった。
その代わり黙ったまま、今もらったばかりの傘を広げてみる。
「はいっ」
あたしは雨も降ってないのに開いた傘を差し出した。
なんだよ?って顔をしながら圭ちゃんが傘の下に入る。
「えへへ。やってみたかったんだよね」
「はあ?」
呆れたような顔つきで。
それでも黙って一緒に傘に入ってくれる圭ちゃんが好きだ。
- 86 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時15分56秒
- 地下鉄の駅まで、雨も降ってないのに相合傘で歩く二人。
不思議そうな目で見られたけど、でも平気。
午後の陽が原色の弾けるような色合いを通して落とす影は虹のように綺麗だったから。
- 87 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時16分13秒
- ◇◇◇
スタジオ間の移動中、突然、雨が振り出した。
「うっわー、やべー、傘持ってないよ。よしこ、入れてくれ」
「えー、圭ちゃん持ってないのー?しょーがねーなー。ハイ」
「よしこ、ナイス!」
相変わらず傘買ってないんだよね、この人は。
結局、誕生日のプレゼントにはできなかったけど。
っていうか、逆にもらっちゃったけど。
その傘は今でも大事に使ってます。
なんていっても、卒業する圭ちゃんからの餞別だしね。
- 88 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時16分44秒
- 飯田さんがおっきな目を開いてこっちを見てる。
手持ち無沙汰な様子で。
でも、今日はお呼びじゃないっすよ。
「あ、その傘いいじゃん」
「飯田さん、さすがお目が高い!」
いやー、やっぱ絵を描く人は違うっていうかー。
ん?あ、そーいえば……。
「カオリさ、フォーブってどういう意味?」
「ええ?何でまたそんな渋い言葉を」
圭ちゃんも思い出したみたい。
「いやー、『フォーブな感じがとってもお似合い』なんて言われたら気になるよねー」
あ、なんか自慢してますかー?
まー、趣味のいい雑貨屋の店長さんにセンスを誉められたんだから
悪い気ははしないよねー。
- 89 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時17分05秒
- あれっ?
でも目を三日月型にしてにんまり笑う飯田さん。
なんかやな予感が……。
「フォーブってね(ニヤニヤ)……」
「うん」
「フランス語でね(ニヤニヤ)……」
「うん」
焦らしますね……飯田さん。
- 90 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時17分23秒
- 「『野獣』って意味だよ!」
「おおー、だから圭ちゃんにぴったりだと思ったんだ!」
思わずさけんでしまったあたし。
「よしこ!こらっ!」
大きい目をさらに見開いて抗議する圭ちゃんの姿は……
「おおっ、まさに野獣だー」
「アッハッハ。ひー、腹いてー、圭ちゃん、おかしすぎるー」
飯田さんもひどいよね。
ホントに腹抱えて笑ってるよ。
「ちくしょー。フォーマルかなんかいい意味かと思っちゃったじゃんよー」
「イャー、もうやめて。圭ちゃん、死ぬー、ひー!」
「カオリ、しつこい!」
バシッて背中を叩かれがらもまだ笑うか、飯田さん。
- 91 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時17分40秒
- 「いいじゃん、圭ちゃん。あたしらフォーブな仲間じゃん」
「お前が言うかー?よしこぉー?」
口調は怒ってるけど。
「その口が言わすかー?」
でも、もー目つきは穏やかになっていた。
「そうそう。プッチモニはさ、そのフォーブなとこがいいんじゃん」
おおっ、さすがリーダー。
何事もなかったかのようなフォローだ。
- 92 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時18分14秒
- 「うん、モーニング娘。の野獣派として、新プッチは圭ちゃんの意志を受け継ぐからね!」
あたしもすかさずフォロー。
「なんか、素直に喜べねー」
「喜びなよー。圭ちゃんらしさは忘れないってゆってんだからさー」
くくくって声が下の方から聞こえる。
「うぉううぉううぉうって曲、あれ野獣の咆哮だったんだ。あーはっはっは」
っていうか飯田さん。
うずくまって、腹抱えなくても……。
- 93 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時18分45秒
- 「もーっ!バカはほっとていて、いこ!」
「いこー、いこー。いーもんねー。うちらフォーブな仲間だもんねー」
「一緒にすんな!バカよしこっ!あー、もう雨なんて嫌い!」
「怒んないのー。卒業するまで傘入れてあげるからさー」
「くーっ、くやしーっ!」
圭ちゃんの雄叫びに呼応したのか雨脚が速まる。
あたしは傘を前に傾けて先を急いだ。
後にうずくまる飯田さんを残して。
- 94 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時19分04秒
- でも、ホント。
卒業まであと少しだけど、雨の日が続けはいいな。
なーんて。
- 95 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時19分25秒
おわり
- 96 名前:フォーブな仲間 投稿日:2003年04月08日(火)18時20分49秒
- 短編バトルの「雨」がテーマのときに出そうとしたんですが、
出来が悪くて出せずに放って置いたものです。
まー、本編が重かったので軽目のものをと思いまして……(汗
- 97 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月08日(火)18時22分18秒
- >>53名無し読者さん
早速のレスありがとうございます。投稿してから一時間も経ってないのに驚きましたw
こちらこそお礼を言わなければなりません。
読んでいただいた上に、こんなに速く反応していただき嬉しい限りです。
思えばこの話は名無し読者さんのように素晴らしい読者さんに恵まれて幸せでした。
ネタバレなどで荒れることもなく(ネタバレるくらいのレスがほしいと思ったことも
ありましたが。てへへ)、無事、完結することができました。
もし何か感想を思いつかれましたら一言いただけるとさらに嬉しいです。舞い上がります。
- 98 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月08日(火)18時22分46秒
- >>54むさん
半年くらい前というと後藤も脱退して保田も卒業決定、この話に出てくるキャラがほとんど
娘。でなくなることが決まってましたね。そのような時期にこの地味な話に興味を持って
いただき、あまつさえ読んでいただけたのは嬉しい限りです。
「お隣の国」に関して。飼育に移ってきた頃には大体の構想を得ていたのですが、その
時点で「日本から見た韓国」という視点ではないだろうなーと漠然とではありますが、
思ってました。そのときにはまだこういう終わり方をするとは作者自身も考えていません
でしたね。よく、「話の中で登場人物が勝手に動き出して」作者はそれを筆にしただけ
などと言う話を聞きますが、実にそのようなことはあるものだなとw
短編については……あまり出来のよくないもので申し訳という感じです。
- 99 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月08日(火)18時23分16秒
- >>55名無し読者さん
ありがとうございます。小説を読むとき、ストーリーや描写だけではなく、今まで自分が
知らなかった世界を垣間見られると、なんだか一粒で二度おいしいというか得したような
気分になります。
プロの作家ではないので、拙い文章を読んでいただく以上、何か読者の方に得るものがあれば
と思い、ベースとなる設定は資料に基づき、かなり現実に近い表現となるよう心がけました。
その意味で、役に立ったと言っていただけるのは非常に嬉しいのです。ただ、作者がいい
加減なため、引用が正確でなかったり、あるいは誤った記述をしている個所も多々あります。
最後の資料一覧は別にこんなにたくさん読んだんだよーすごいでしょーと自慢したかった
わけではなく、もし、北朝鮮に関して興味をもたれた方が出所元の本を読んでみたいと
思われた場合、探し易いように置きました。ですのであまり知ったかぶると危ないですw
今やワイドショーとかの情報が凄いですから(多分、毎日TVをチェックしてる主婦の方が
私なんかよりもずっと詳しくなってると思います。くーっ、くやしー!)
- 100 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月08日(火)18時23分46秒
- >>56-57さん
おおっ、これは丁寧な感想をありがとうございます。
こんなに思い入れていただけるなんて、作者として嬉しい限りです。
っていうか作者の浅はかな狙いを通り越して、作中のキャラに奥行きを与えてしまう
実物の娘。たちの凄さに改めて気づかされるというか何というか。
このラストはねー、やっぱり後藤の姿を思い浮かべないと考えつかなかったですねー。
よく感情の表現が下手だとか苦手って言われるじゃないですか。
クールに見えるけど本当は優しいこなのにね、とか。
だから、ここでもですね、なんというか友人や祖国への愛情を苛烈な行動でしか示せない
不器用さというか。そういう感じが後藤には似合うんだろうなーと意識した結果です。
なんというか、その辺のいじらしさを感じとっていただけたなら、やはりこれは何といっても
後藤のイメージに負う所が大きかったのだなーと。そう思います。
この話の後日譚は……イラクの戦争が終わって民主化への取り組みが始まった時点で何か
思うところがあれば書くこともあるかもしれません。今は一刻も早く戦争が終わることを
祈ります。それにしても勿体無いほどのお褒めの言葉……恐縮至極でした。
- 101 名前:56 投稿日:2003年04月09日(水)00時34分27秒
- こりゃまた一転して、ほんわか&爽やかな内容で。文体も軽快で気持ちいいですね。
もやもやが晴れてきた気がします。
保田はやっぱ「フォーブ」ですか。野獣派な肖像画が容易に想像できたり。
強くて安定してて気遣い細やかで、でも抜けててどっかヘンテコなキャラクターが
よくつたわってきます。
先週の「めちゃイケ」の「期末テスト」では、トップは紺野に譲ったうえで二位を
キープ、というじつにカッケーことをしてましたね。国語での「モーニング娘。の
中で肩身がせまい」なんて回答も余裕のあらわれ(に違いない…)。
その「めちゃイケ」でやはり二人連れで登場してた吉澤with石川。
そりゃあ、
「できてるとか変な噂が立って、怪しい小説とか書かれちゃう」
わけだわな。(ここらへんは、ほんと笑った)
「後日譚」、お待ちしてます。ぼくも、受けとめるだけの覚悟を取り戻さないと。
いまは本編で膝がくがく状態です。(しかし、イラクは戦争おわってもワヤくちゃ
が果てしなく続きそうで。アフガンを見てもわかる)
でわ。
- 102 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月14日(月)18時45分00秒
- 短編をあげます。
- 103 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時45分36秒
- 駆けつけると、窓のちょうど真下の辺りに吉澤ひとみが横たわっていた。
血溜まりの中にその端正な顔を横に向けている。
かっと見開かれたその瞳は何を凝視しているのだろう。
降りつける雨の中、ひたいにぺっとりと張り付いた髪から滴る雫を拭いながら、
彼女らは、ただ呆然とその光景を眺めるしかなかった。
- 104 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時46分05秒
- ◇
- 105 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時46分33秒
- 雷鳴の轟きとともに激しく光る稲妻が
その女性にしては大柄な体躯の輪郭を窓際にくっきりと浮かび上がらせる。
カオリは窓の外を見ているのか、振り返らぬまま質問を続けた。
「こんな日だったわね…彼女が死んだのは」
「…」
相手はうなだれたまま、言葉を発しない。
「雨…雨が激しく振りつける日だったわ…」
カオリはかまわずに話し続ける。
「とても信じられなかったわ。なぜ…それしか言葉が出てこなかったの。覚えてるでしょ?」
「はい…バカみたいにそればっかり、繰り返してましたっけ…」
ようやく口を開いた相手にも反応せず、相変わらず窓際で外を睨みつけるように立ち尽くすカオリ。
その長い髪が一瞬、揺れたように感じられたのは動揺の印なのか。
椅子に座ってその様子を観察する相手は心の中で笑みを浮かべた。
- 106 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時47分12秒
- 「血溜りの中で見開かれた彼女の目が最後に目にしたものは何だったのかしら…」
「さぁ…少なくとも天国の入口…というわけではなさそうですね。あの形相は」
そうだ、とカオリは思い起した。あのカッと見開かれた目。
あれはまさしく恐怖に追い詰められたもの、何かに脅かされていたものの目だ。
それを思うとよりいっそう、カオリの心は痛む。
「私たち…仲間なのに。彼女の心を救ってあげることができなかった」
「気に病むことはありませんよ。仲間といったって、所詮、ビジネス上の付き合いじゃありませんか」
「強がらなくていいわよ。あなたが辛いこともよくわかっている。だってあれだけ仲がよかったんだもの」
仲がね…相手は心の中で毒づいた。本当のことなど誰にもわかりはしない。
それは死んでいった彼女にしても同じことだ。
私を友達、友人だと思っていたなんて…
思い出しただけでも胸がむかつくのか、
椅子に座った少女は元から浅黒い顔をさらに怒りで赤黒く鬱血させた。
- 107 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時47分51秒
- 相手が黙り込んだ様子を感じて、カオリは意を強くした。
やはり、この子は…
手応えを感じて、さらに畳みかける。
「ただ、教えてほしいの…あなたは何を伝えたの?あの子があなたに相談したことはわかってる。教えて…」
「何を根拠にそんな…」
バレているのだろうか…いや、そんなはずはない。
相手は一瞬、躊躇したが、しらを切り通そうと思った。
だが、カオリの言葉はその決意をすぐにぐらつかせる。
「司法解剖の結果、あの子には堕胎の痕跡が認められた…かなり週数が経ってからの中絶だったそうよ」
「そうですか…」
くっ…相手は少し見くびっていたことを後悔した。
カオリは思ったよりも手強い。だが、それならば対処のしかたもある。
「なんとなく、ふっくらしてたのはそのせいかな、と思ってましたけど…」
相手は切れ長の細い目をさらに細めて、カオリの様子を見つめた。
この女はどこまで知っている?
- 108 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時48分13秒
- 「本当に悩んでいたのはむしろその後だったと思うわ…だってそうでしょ?」
相手に背を向けたまま同意をを求める姿はある意味、滑稽だった。
だが、それが故にある種の相手には切迫感を与えることができる。
カオリはどこで学んだわけでもないのだろうが、リーダーとして
心理的なプレッシャーを与えることに関してはやはり一日の長があった。
それが着々と相手を追い込んでいく。
「中絶までしたのに、さらに冷たくなった恋人…堕ろしてしまった子供のこと…あの子でなくても気がふれそうになるわね」
「そういうことには強いタイプかと思ってました。泰然自若というか、マイペースというか…あまりこだわらないタイプかと…」
それは本心だった。まさかあれほどプレッシャーに弱いとは思っても見なかった。
悔しさからか。相談に乗るどころか恐がらせるようなことばかり伝えては、その反応にさらに減滅。
悪循環だった。
だが、そもそもは自分を裏切ったあの子のせいだ…
バカな子…
- 109 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時48分43秒
- 「雨の日は…雨の日には、聞こえるでしょ、ほら。行き場を失った子供の霊が雨音に紛れて聞こえてくる…」
「…」
「寂しいよ、お母さん、寂しいって…子供が読んでる声…」
「…」
すべて、自分が吹き込んだことだった。
少女は、だから何だ、と鼻白んだ。
カオリはその様子にも頓着せず、さらに説明を続ける。
いいさ…
だが、わかるものか…
「いつ、子供のもとへゆこうか迷ってたみたいね…あの子」
少女は目を逸らして唇を噛んだ。
そうだ、自分を置いて…
死に場所を探していた生ける屍。
- 110 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時49分03秒
- 「だから、あのとき、あなたは、あの子に告げたの?いっしょにいってあげるって」
「指示語ばかりでわかりませんね。何のことだか」
不適な笑みを浮かべて椅子に座ったまま挑発する少女。
だが、それには乗らず、カオリは淡々と説明を続ける。
「簡単だったでしょうね…心身ともに衰弱し切っていたあの子に信じ込ませるくらい…」
カオリは俯いて視線を落とした。
少女は不安に駆られた。
なぜ、それを知っている?
あの子にそれを教えたのは、まさに死の直前だったはずだ。
まさか…
- 111 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時49分25秒
- 相変わらず背中を向けたままの姿に違和感を覚え始めたのは、
一瞬、光った雷の閃光にその表情が透けて見えたような気がしたためだろうか。
少女はなぜかはわらないが、背筋に悪寒が走るのを覚えた。
早く帰りたい…
何をもったいぶっているの、この女は…
早くして…
「そんなに早く帰りたい?」
カオリの言葉に、ビクっ、と相手は震えた。
何?
考えを読んでる?
まさか…
- 112 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時49分45秒
- 「いいえ。でも話がちっとも見えないんで、退屈してきました」
少女は脅えていることを必死に隠そうと強がって見せた。
「そう。それは悪いことをしたわ」
そう言いつつも動じた気配を見せないカオリ。
段々と向こうのペースにはまりつつあることを認め、次第にイライラを隠せなくなってきた相手。
その状態を読み切って、ついに核心に迫るのか…
カオリは一瞬、息を整えると、静かな声で告げた。
「あの子がなぜ、屋上に上ったのか…あなたなら知ってるわね?」
「…」
それでかまをかけたつもりか…
ふ、ふ、ふ…
少女は不適な笑みを浮かべると、逆襲の狼煙を上げた。
「知りませんね」
だがカオリもさるもの。相手が動揺をうまく抑え込んでもひるまない。
- 113 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時50分10秒
- 「いえ、あなたなら知ってるはずだわ。なぜなら…」
カオリはそこで言葉を止め、窓の外に目を凝らした。
雷鳴は大きく轟き、風は激しさを増す。
とぎどきピカッとストロボのように光っては室内を照らす稲光が
嵐の激しさを浮かび上がらせる。
「あの子を屋上に誘い出したのがあなただから…ね、梨華ちゃん」
「私じゃないわ!」
相手…石川梨華は声を張り上げて否定した。
冗談じゃない。
証拠はないはず。証拠は…
だが、自信満々に問い詰めるこの女の様子はどうだ。
それに、この声は…
- 114 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時50分31秒
- 「それはないでしょ、梨華ちゃん」
くるっと振り向いたその顔は…
「ギ、ギャァーッ!」
「教えてくれたのは梨華ちゃんじゃないか…雨の日には霊が舞戻るって…」
「いやっ!近づかないで!ごめん、ごめんなさい!よっすぃ!ごめん」
椅子を蹴り飛ばして、後ずさりに逃げる石川をじりじりと追い詰める長身の影。
燃えるように光る二つの目が石川を見つめる。
「教えてくれた通りに舞い戻ってきたよ…梨華ちゃんを迎えるために」
「ひぃいーっ!こないでーっ!いやいやいやいやーっ!」
逃げ惑う石川は扉にしがみついてドアノブを回すが一向に開く気配はない。
「ひ、ひぃいっ!ゆ、ゆるしてっ!」
ガタガタと扉を揺すって、必死の逃亡を試みる間にも、
その長身の影はゆっくりと間合いを詰め、妙に芝居掛かった口調で告げた。
- 115 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時50分49秒
- 「梨華ちゃん、寂しかったよ…やっと、一緒にいけるね」
その一言に石川は遂に観念したらしかった。
「よっすぃ、ごめん…ゆるして、ゆるして、ゆる、して…」
泣き崩れる石川。
「やっぱり死ぬつもりはなかったんだね…」
長身の影が寂しげにつぶやく。
「ごめん」と石川が吐き出すように押し殺した声を漏らしたのを合図に、
バタンと音がしてドアが開き、警察の人間がなだれ込んだ。
「石川梨華、自殺教唆未遂の容疑で逮捕する!」
「えっ…?」
何が起きたのかわからずに目をしばたかせる石川を横目に
カオリは首からベリベリッと音をさせて何かを剥ぐと石川の正面を向いた。
「ごめんね、石川。証拠がなかったの」
「い、い、飯田さん…?」
- 116 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時51分08秒
- 「飯田さん、ご協力感謝します」
カオリに向かって敬礼すると、私服の警官たちが石川を囲むようにして
つれ出していく。
「梨華ちゃん…」加護が泣きそうな顔で見送ると、
辻もつられた様に顔をしかめて「差し入れするからね」と誰に言うともなくつぶやいた。
「それにしても、あのマスク、よく出来てたね」
「うん。それによっすぃの声色、本人かと思うくらい似てた」
保田と矢口が場の空気を和らげようと務めるが、当のカオリは窓の外を向いたまま。
石川の身から出た錆とはいえ、仲間の逮捕に手を貸してしまったという
何とも後味の悪い、喉がざらつくような不快感はなかなか消しようがなかった。
- 117 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時51分26秒
- 「結局、石川はなに?よっすぃと心中しようとして、ひとりだけ生き残ったってこと?」
「そうみたい…だけど」
保田の問いかけを継いで、矢口は先程から、思っていた疑問を口にした。
「カオリは何で、そこまで知ってたの?」
再び窓際で外を向いてしまったカオリに応える気配はない。
重苦しい雰囲気を打ち破るように保田の携帯が鳴った。
「ん、あれ?この番号…ま、いいや。ハイ、保田です」
不思議そうに眉をひそめて携帯に耳を当てた。
その瞬間、保田の表情が凍りつく。
- 118 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時51分51秒
- 「ちょっ、どうしたの?圭ちゃん」
矢口の問いかけにも固まったまま動かない保田。
その視線はまっすぐに、前方の長い影を捉えていた。
「おばちゃん、なんかへんだよー」
「おなかすいたの?」
加護と辻が語りかけるのも聞こえない様子で、
放心したようにぶらりと下げた手の中の携帯から声が呼びかける。
『…っと、圭ちゃん、聞いてんの?渋滞で遅れるからって、ね、ちゃんと伝えて、ねえ、圭ちゃん?』
「うわっ、こ、この声…」
矢口が真っ先に反応した。
加護辻は抱き合ってぶるぶると震えている。
「あ、あんた…だれ?」
保田のもらしたつぶやきに、みなが恐る恐るその視線の先を見つめる。
- 119 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時52分21秒
- 腹に響くほどの大きな雷鳴が轟き、続けざまにピカッと空が光る。
一瞬、そのふくよかな頬のふくらみが照らし出されたことに気付いて、
その場の全員が恐怖に包まれた。
「…よ、よっすぃ…なの?」
保田の問いかけにも影は相変わらず無言のまま窓の外を見つめているが、
その声に反応して、少しだけその輪郭をやわらげたように見えた。
- 120 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時52分45秒
- バタン!
突然、窓が開けられ、ものすごい勢いで雨が入り込んだ。
「よっすぃ!」
その長身を躍らせて窓枠を超えようとする少女に向かって加護が叫ぶ。
ひらり、とそのふくよかな体躯からは想像もつかぬほどの敏捷さで
身を翻した残像だけが、みなの網膜に焼きついた。
虚構と現実の堺は曖昧になる中、
物凄い勢いで顔面を叩く水滴の激しさだけが彼女らを現実に引き戻す。
時折、照明弾のような激しい閃光を放つ稲妻が滝のように流れる雨の様を映し出した。
保田はふと、飯田は無事に辿り着けるだろうかと考えた。
雨は降り止みそうになかった。
- 121 名前:降り止まぬ雨 投稿日:2003年04月14日(月)18時53分20秒
==END==
- 122 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月14日(月)19時31分35秒
- >101 56さん
早速のレスありがとうございました。
保田と吉澤ってなかなか画面で仲いいところを確認できなかったりするのですが
卵とベーグルのエピソードとか、うたばんでの気のおけない関係とか、
さりげない絆みたいなものを感じるのです。っていうかあればいいなーと。
メチャイケは娘。関係の番組としては久しぶりに視聴率がよくって嬉しかった。
保田の卒業関連の番組も数字がいいと嬉しいなあ。
イラクの方は戦略的な意味での制圧が終わったらしいので、いよいよ政治、経済
両面からの復興段階に入るわけですね。日本の関与については法制面でいろいろと
ごたごたしそうですが。まずは中東の安定が経済に与える影響は大きいので
ほっとしてはいます。
- 123 名前:56 投稿日:2003年04月15日(火)00時47分38秒
- どひぃー、いやだー。怖いよぉーーママ〜ン!
どす黒な人間関係とか裏事情とかが、あくまでもほの見える程度ってのがまた。
本当に怖いのはそっちのほうかな?
リーダーが確かに心配だ。いや、きっと交信してヤツとの共同作戦だったんだ。
そうに違いない。あはははは、あーよかったよかった。うう、そうだといってくれ。
でも、なんだろうと圭ちゃんが全部さばいてくれるから大丈夫。
むこう側へと旅立つやつに手を振って、わたしゃこっちで踏んばるから心配すんな。
てな役柄が本当に似合うんだもの。なかでも「お隣の国から〜」の圭ちゃんが、
ぼく的にベストでした。いまさら。
娘。の番組って数字イマイチだったんすか。知らなかった…。
(イラクどころかあそこら一帯、たっぷりもう半世紀は泥沼でしょうな…嘆息)
- 124 名前:名無し娘。 投稿日:2003年04月22日(火)14時38分19秒
- >>123 56さん
いつも感想ありがとうございます。
今週も何かあげられればとは思っていたのですが、私生活の方がなんだか
バタバタとしてなかなか書く時間が取れませんでした。
当分、こんな状態が続きますので、次にいつ短編をあげられるかはっきりと
予定を立てられない状態です。申し訳ありません。
保田のキャラについて言及していただきありがとうございます。
嬉しいですね。まさに一番、力を入れて書いたのが保田だけに(おいおい。)
ラストコンサート、盛り上がるといいですね。
チケット余ってるらしいのが心配といえば心配ですが。
- 125 名前:56 投稿日:2003年04月27日(日)22時09分28秒
- おつかれさまです。
やっぱり保田に一番入魂、でしたか。納得。
150%増しくらいの熱気を感じてましたから。
新作、のんびりおまちします。
- 126 名前:名無し娘。 投稿日:2003年05月19日(月)17時09分27秒
- 127 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時10分57秒
- I have a dream
私には夢がある
that one day
いつの日か
on the red hills of Georgia,
ジョージア州の赤土の丘の上で
the sons of former slaves
かつての奴隷の子孫たちと
and the sons of former slaveowners
かつての奴隷主の子孫たちとが
will be able to sit down together at table of the brotherhood.
共に兄弟愛のテーブルに着くことができるようになるだろうという夢が
I have a dream
私には夢がある
that my four little children
私の幼い四人の子どもたちが
will one day live in a nation where they will not judged by the color of there skin but the content of their character.
肌の色によってではなく、人格によって評価される国に住めるようになるだろうという夢が
キング牧師
- 128 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時11分40秒
『深い河』
- 129 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時12分32秒
- 風はない。
音もない。
夜はまだ若く、夕景に漂う薄闇はまだ広がり始めたばかりだった。
かすかに光る月明かりの下。
私は行くあてもなく、ただ震えていた。
幹線道路に沿って歩きながら、
果たして生きて帰れるのだろうかと自問した。
この5時間というもの、車一台すら通らなかったのだ。
私は5時間前の行為を後悔し始めた。
- 130 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時13分28秒
- 私自身、同意するわけにはいかないが、
日本人の女の子は白人男性の間で「イエローキャブ」と呼ばれる傾向にある。
私がどう否定しようとも、
彼らが日本人の女の子に抱いているイメージとは結局変わらないものらしい。
繰り返して言う。
私自身、断じて同意するわけにはいかないが、
やつらが日本人の若い女性は必ず「やれる」と思っているのは確かだ。
身をもって体験した私が言うのだから間違いない。
おめでたいことにヒッチハイクで西への交通費を節約しようなどと考えたのは
確かに私のミスだったかもしれない。
だが、あの場面で他にどうすることができただろう。
やつはまるでマウント・マッキンリーのようにいきり立たった股間を
この手に握らせようと迫ってきた。
屹立する峻峰を前に登頂記念の一歩を残したとて恨まれる筋の話ではない。
- 131 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時13分55秒
- 私のキックは怖いほどきれいに決まった。
やつはうずくまったまま、立ち上がることさえできなかったのだから。
車を降りてしばらくしてもやつは動き出す気配さえなかった。
してやったり。
あの瞬間は気分がよかった。あの瞬間は。
だが、車を降りてすぐにいやなことを思い出した。
――ここまで来る間に対向車って見たっけ……?
不安はすぐに的中した。
車が通らない。
5時間の静寂は私が甘かったことを思い知らせた。
- 132 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時14分16秒
- 仕方がない。
私は決断した。道端で夜を明かすしかない。
さいわい寝袋は持参している。
西へ行くまでの途上、野宿も辞さないつもりでいた。
だが、寝袋を地面に投げ出そうとした瞬間、
小さな明かりが前方に灯ったのが見えた。
車だ。
私は道路に駆け上がって、大きく手を振った。
- 133 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時14分39秒
- 一台の車が目の前に止まった。
ある意味、これは賭けだ。
親切な人か自分を西に連れて行ってくれるかもしれない。
と同時に身包み剥がれて身一つで置いて行かれるかもしれない。
賽は投げられた。
私は運の強さを試してみることにした。
向って右側、運転席のドアが開いて足が下ろされた。
運転手は女性だった。
(ラッキーメェン!)
私は心の中で叫んだ。
だが、次の瞬間、彼女が喉から搾り出した言葉は私を凍りつかせた。
「手を上げて!動くと撃つわよ!」
目の前の光景が信じられなかった。
しっかりとその先端が私に向けられる。
その右手が握っているもの。
それは銃だった。
- 134 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時14分59秒
- 光が私に向けて当てられた。
「ふぅっ。なぁんだ、あんた中国人?」
幾分和らいだ口調で尋ねられる。
向こうも緊張していたのだろう。
こっちが女性だとわかって安心したらしい。
「ええっと……答えていいの?」
私は恐る恐る口を開いた。
視線は自分に向けられた銃口に釘付けになったままだ。
「あっ、ああ、これ……ごめん、もちろんOKよ。やばい奴かと思ったから」
優しく告げると右腕を降ろした。
- 135 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時15分55秒
- 「中国人ではないです。日本人」
私は国籍を告げた。向こうは興味深そうにうなずく。
反対側のドアからもう一人降りてきた。
やはり女性だ。
そのやや平坦な面相は東アジアの血が入っていることをうかがわせた。
「失礼。アジア人の顔はどれも見分けがつかなくって」
そのいかにもアジア的な風貌の人間から出た言葉としては面妖だが、
本人はいかほどにも頓着していないらしい。
「あたし達と一緒に行く?」
「ハイ、可能であれば」
私はノータイムで答えた。
- 136 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時17分37秒
- どう見てもアジア人なのにアジア人の見分けがつかないとのたまう
このお姉さんがいい人に見える。
「強く願えば不可能なことはないわ。その逆は……わかるわよね」
ハイ、ヨウクワカリマス。
銃を手にした女性が洗練された物腰で私に微笑んだ。
確かに銃を持った今のお姉さんなら大概の望みはかなえられそうだ。
私にはアジア系のお姉さんの方がさらにいい人に思え始めた。
「お願いします。私はヒトミ。西を目指してます」
どのみちついていくことには変わりない。
少なくとも悪い人たちじゃなさそうだ。
「OK、おいでよ、ヒトミ。なんだかオリエンタルな響きだね」
アジア系のお姉さん……
ここまで徹底してると突っ込む隙がない。
なかなかの達人だ。
とにかく、これが彼女達と過ごす不思議な一日の始まりだった。
- 137 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時18分29秒
- 私はアジア系のお姉さんがドアを開けてくれるまま、後部座席に座り込んだ。
銃を持っていたエキセントリックな女性は続けて運転するらしい。
隣はアジア系の顔をしたお姉さん。「ケイ」と呼ばれている。
想像に反して彼女はネイティヴ・アメリカンだった。
つまり……?
「このインディアンのお姉さんを怒らせちゃだめよ、ヒトミ。呪いをかけられちゃうからね」
運転席から笑い声が聞こえた。
ノースリーブのワンビースから惜しげもなく晒された肌は
薄暗がりの中で黒檀のような鈍い光を放っている。
彼女の名は「リカ」だとケイが教えてくれた。
中国人の父とアフリカ系アメリカ人の母、つまり黒人とのハーフ。
- 138 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時19分00秒
- 「それは、まったくもって正しい忠告だわね。リカはもともとそりゃ綺麗な白い肌を持つ
白人だったわ。それが私を怒らせちゃってね。今じゃほら、ご覧の通りってわけ」
気の利いたジョークだ。
私は笑うべきだったのだろう。
だが笑えなかった。
ギラギラと暗い車内で光るケイの瞳は充分にリアルだったから。
それは、まったくもって正しい……
そう信じるに足る迫力だった。
- 139 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時19分23秒
- なるほど。
ケイは確かにインディアンの伝統により何らかの力を秘めているように見えた。
一方、リカもまたある種、中国的なものを背負っているように感じられる。
それだけでなく、彼女の肌の色は黒く、暗闇の中では判別し難いほどだった。
私は車に揺られて気持ちよくなり、うとうととし始め、やがて眠りに落ちた。
信じられないほどハードな体験に疲れきっていたのだ。
- 140 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時19分49秒
- 目が覚めたとき、既に日は上がっていた。
とあるハンバーガー・スタンドに車を停めて中に入る。
窓際の席に座ろうとすると、白人のウェイトレスガ飛んできた。
「ああ、あんたたちはあっちだよ。ここは白人専用だからね」
ケイの目に危険な光が点った。
怒りで顔が紅潮している。
- 141 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時45分46秒
- 「OK、向こうへいくよ」
だが、次の瞬間、ささやくように告げた声は
深く傷ついた様子を押し込めて低く響いた。
「ま、あたしたちカラードには珍しくないよ。こんなこと」
リカは何の興味もないという風を装っている。
人種差別……
この国に来て初めて直面する現実だった。
ひとごとではない。
自分自身の問題なのだと改めて気づかされた。
この瞬間から、理想と現実の隔たりがいかに遠く離れているか。
私はようやく理解し始めていた。
- 142 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時46分23秒
- 「あんたがそんなに落ち込むことないじゃん?」
「そうだよ。あんたは旅行者なんだから」
彼女達は私を元気付けようと励ましてくれた。
いい人たち……
何も悪いことをしてないのに。
ただ、肌の色が濃いというだけ。
それだけになのに……
「同情してるならお門違いだよ」
ケイは静かに私を見つめた。
「生きてく上で肌の色なんて何の意味もないさ。何の意味もね」
彼女は続ける。
「そんなのは世界観に占めるひとつの側面に過ぎないんだ。
見たものすべてが真実だと思っちゃいけない。
人生は楽しいことや美しいもので満ち満ちている。
空はいつでも真上にある。地面はいつだって踏みしめてる。
川の流れは変わらない。あたしがいくらそいつらを嫌ったところでね。
それだけは確かさ」
- 143 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時46分41秒
- ケイはなんだかよくわからない演説を始めた。
私には複雑すぎるみたい。
インディアンの人には世界がちょっと難しく見えるのかもしれない。
わからないなりに私はその言葉を素直に受け止めた。
同意するわけでもないけれど。
ケイが熱く語っている間、
リカは終始穏やかな笑みを湛え、時折、相槌を打っていた。
なんか、本当にいい人なんだな。
- 144 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時47分05秒
- 「驚かないでね、ヒトミ」
リカはやさしく言い含める。
「チェロキーの血がケイを熱くさせるの。特に人種差別には、ね」
片目を瞑ってウィンクする彼女はなんだか可愛いと思ってしまった。
認めたくはないけれど。
それがかなり深いところで私を魅了し始めたことを意識した。
私たちは朝食にパンケーキ、サラダ、それと卵をいくつか注文した。
ウェイトレスが注文を取りに来るまですっかり空腹であることを忘れていた。
私はリカの顔に見とれていた。
- 145 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時47分27秒
- 朝食を終えると私たちはスタンドを後に再び西を目指した。
窓の外を眺めながら、ケイとリカはどうやって知り合ったのか考えた。
彼女らが行動をともにする理由を探すのは難しそうだった。
直接、尋ねることもできただろう。
ただの道連れかどうか
聞くべきだったのかもしれない。
だが、私にはできなかった。
聞くのが怖かったから。
二人が恋人同士だったら……
私は今、ようやく気づいた。
リカに惹かれ始めていることに。
- 146 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時47分43秒
- 私はリカのことしか考えられなくなっていた。
すぐ横に座るリカに胸の鼓動が伝わらないかと思うとドキドキした。
ケイはハンドルを握っている。
すぐ横にリカを意識して私は頬に熱を感じた。
真っ赤になってるんじゃないか。
こんな気持ちは初めてだった。
女の子の横に座ってこんなにドキドキするのは。
- 147 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時48分05秒
- リカは頬杖をついて窓の外を眺めている。
中西部特有の荒涼とした風景を置き去りにして車はひた走っていた。
私はなんとかしてリカとケイの関係について聞きたかった。
そのために適当なタイミングを見計らっているが、なかなかチャンスは来ない。
と思っていたら果報は向こうからやってきた。
「ヒトミって日本人よね?」
「そうだけど?」
嬉しさで飛び上がりそうになる。
「あたし、ずっと日本人に興味があったんだ」
ごくり…
思わず唾を飲みこんだ。
「日本人ってどうしてこう傲慢なのかしら」
頭の中が真っ白になった。
- 148 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時48分24秒
- 静寂が小さな空間を支配する。
時間が止まったかのように思えるほどの長い沈黙。
蒼褪めているだろう私の顔をリカの冷たい視線が捉えていた。
「アパルトヘイトって言葉知ってる?南アフリカの」
「ええ…」
「じゃあ、何を言いたいかわかるわよね」
「多分…」
たしか有色人種に対する白人優遇政策だったはず…
頭の中を引っ掻き回してうろ覚えのあやふやな知識を取り出す。
「当然、日本人が『名誉白人』としてあの国で優遇されていた事実も…」
何が言いたいんだろう、リカは?
私は首を横に振るしかなかった。
- 149 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時49分13秒
- 「南アフリカ政府は日本人に『名誉白人』の称号を授けたわ。
日本は最大のODA支援国だったからね」
リカは一気にまくしたてるとさらに続けた。
「まだ、あたしが生まれてない頃、両親があの国で暮らしてたことがあるの…」
リカは私の目をじっと見詰めている。
もう少しだけでもその視線が温かかったら嬉しかったのに…
だが、厳格に制御された機械のように、その表情は1ミリすら動かなかった。
「日本の外交官の家で働いていたの」
リカの声が冷たく響く。
- 150 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時49分51秒
- やめて…
リカの言わんとしていることはわかった、だから…
「彼らはあたしの両親を奴隷のように扱ったというわ。
人間だと思っていたかどうかさえ怪しいって」
急に視線が外されて、氷の呪縛が解けた。
「ごめん…あなたには関係のない話よね、ヒトミ」
リカはうなだれてため息をついた。
「――いや、その問題に関しては…ええ、我々、国民の問題として責任の所在を…」
私はわけのわからないことを口走るほど混乱していた。
泣きたくなった。
- 151 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時50分02秒
- リカは私を軽く抱きしめると、耳に顔を寄せて囁いた。
「気にしないで。あなたのせいじゃないから」
「あんまりヒトミを困らせちゃだめよ、リカ。この子はいい子よ。
そんなことくらい、あんただってわかるでしょ?」
ケイの言葉で気が楽になった。
と同時にリカの腕の中は信じられないほど心地よかった。
「おやすみ、いい子だね。子守唄を歌ってあげるから…」
リカは私の髪をやさしく撫で下ろすと、柔らかい声で歌った。
彼女の囁くような歌声が体を包み込む。
私は心地よい感覚に身を任せ、意識が眠りに落ちてゆくのを感じた。
“黄金のまどろみ
まぶたにキス
起きれば笑顔が待ってるよ”
暖かい。
とても温かい腕。
私は夢心地でリカの歌声に揺れていた。
- 152 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時50分21秒
- 私は夢を見ていた。
リカの肌は白かった。
白いリカが私を罵った。
『この黄色いブタが!さわんないで!出てってよ!』
釣り上がった目、心臓を射抜く冷たい声。
涙が洪水のように溢れ、深い悲しみに震えが止まらない。
夢の中であることはわかっている。
それでも涙は止まらなかった。
- 153 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時50分36秒
- 目が覚めたとき、まだ日は高かった。
リカが私の顔を覗き込む。
「おはよう、赤ちゃん。いっぱい寝まちたねー」
彼女の顔を近くに感じてホッとした。
嫌われてない…
自分がまだリカとケイの車に一緒に揺られていることを確認して安心した。
窓に目を移すと赤々とした夕日が平らな大地の上で揺れていた。
- 154 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時50分55秒
- 「リカ、そろそろハンドル握りたくてうずうずしてんじやないの?」
「あほくさ。あたしのお尻はデリケートだから後ろの座席とラブラブなのよ!」
「こりゃ失礼。あんたのお尻を撫でてくれるのは車のシートくらいだもんね」
「あぁー、むかつく!このファッキン、インディアン!」
とても若い女の子の交わす会話とは思えないが、二人は楽しんでいるようだった。
少しだけ羨ましいかも。
ケイはリカに最後通牒を突きつけるといきなり車を車道の端に止めた。
二人は同時に車を降りて運転を交代した。
- 155 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時51分13秒
- ケイが私の横に座り尋ねた。
「モーテルに泊まるけど、一緒でいい?」
「お邪魔じゃなければ…」
彼女たちと別れたくなかった。
リカに対する自分の気持ちに気付いていたし、ケイの人柄にもひかれる。
私は彼女たちが好きだったのだ。
「もちろんよ、歓迎するわ。それにリカがあなたを降ろしたら許してくれそうにないし」
「こら!そこのインド人!そのファッキン、マウスを閉じないとひどいわよ!」
リカはその顔に似つかわしくない言葉をケイに投げた。
だが、その表情は心なしか満足げだ。
まあ、半分は希望的観測だろうけど。
私はなぜか裸のリカを腕に抱いて寝ている自分の姿を思い浮かべて赤面した。
まだ早いって…
- 156 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時51分57秒
- 辺りが夕闇に包まれた。
まだ完全に日が沈んでしまったわけではないれけど、
私たちは小さなレストランの前で車を停めた。
席に腰を下ろすやいなや、店の主人と思しき女性が話し掛けてきた。
「今夜はこの辺で泊まるの?なら上が空いてるわよ」
そう言って、天井を指差す。
2階を旅行者相手の簡易宿にしているらしい。
「値段しだいよ、奥さん」
ケイが如才なく答えた。
値引き交渉を前に瞳はギラギラと燃えている。
「50ボックス(ダラー)でどう?」
「もちろん”一部屋あたり”よね?」
ケイが優秀なビジネスマンに思えた。
リカは満足そうな笑みを浮かべて頼もしい仲間の闘いを見守っている。
- 157 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時52分15秒
- 「もちろん、一人あたりよ!」
「奥さん、あたしたちはここで夕食を取って、泊まって、朝食も多分、ここで食べるのよ。
一体、ここでいくらお金を落とす思ってるの、え?奥さん?それくらい計算できるわよね!」
勝負はあっけなく決まった。
もちろんケイの勝ちだ。
女主人はしぶしぶ一部屋$50で貸すことを認めた。
「イェス!」
「カモーン、すっげーや!」
私たちはケイを褒め称え、その勝利をひとり1パウンドのステーキで祝した。
熱い夜の始まりとしては上出来だ。
私の期待は高まるばかりだ。
- 158 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時58分59秒
- 部屋はいわゆるコネクティングルームというのだろうか、
内扉で繋がっている奥の部屋があった。
「さて、私はとっても疲れており、そして値段を引き下げた功労により
一人で奥の部屋を占有する権利があると思われます…っつーことでお休み」
「意義あり!」
一人、奥の部屋のベッドで寝ようとドアノブに手をかけたケイに
リカが異議申し立てを行った。
私は少しだけ傷ついた。できればリカと同じベッドで寝たい…
そう思ったときには口を開いていた。
- 159 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時59分19秒
- 「ケイの意見に賛同します、ケイが正しい!」
二人はあんぐりと口を開けたまま私を見つめていた。
「お好きなように」
呆れた、というように肩を竦めて見せた後、リカはシャワールームへと向った。
私はリカが反抗しなかったことで意を強くした。
その顔が赤らんだように見えたのは気のせいだろうか。
もつとも、黒いからよくはわからないけれど。
「うまくやんなさいよ。おやすみ」
ケイは片目を瞑って私を励ますと隣の部屋へと入っていく。
「ありがとう。おやすみ、ケイ」
その背中に向ってつぶやく。
なんとなく、ケイは私のためにわざと奥の部屋を選んだのだと思えた。
胸の奥がジンと痺れたような不思議な感覚にそわそわした。
どうしよう…
胸の鼓動は早まるばかりだ。
- 160 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)17時59分38秒
- シャワーから戻ると、リカはすでにベッドに体を横たえていた。
だが…
スゥー、スゥー…
耳をすますとかすかに寝息が聞こえる。
ハァッ…ため息が出た。
リカに近づくチャンスなんだけど…
物理的には確かに近い。すごく近い。
だけど…
なんだか神様に罰を与えられたみたいだ。
これって拷問以外の何ものでもない。
「ヒトミ?まだ起きてる?」
「お、起きてるよ…」
起きてます、起きてます!
飛び上がりたいほどの嬉しさが言葉に出ないようにさりげなさを装う。
彼女はまだ寝てなかった…
神様、ありがとー!
- 161 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時00分12秒
- 「ど、どうしたの…?」
声が震えてる。
リカが気付いていなければいいんだけど。
「ねえ、お願い。あたし、子守唄を歌ってもらえないと眠れないの」
「へっ…?」
思わず言葉に詰まった。
「ま、まさか、私に歌えと…」
「うん。お願い」
恐ろしいことを…
私の歌を聞いたことがないらしい。
だが、これはチャンスなんだ。
私は自分を奮い立たせた。
「い、いいよ。どんな歌?」
「そうね…『深い河』は知ってる?」
知らなかった。
リカはこちらに顔を向けてニコッと微笑んだ。
「オッケー、おいでよ。あたしが一緒に歌ってあげる」
心臓が再びどっくん、どっくん鳴り始めた。
そうっと、置き上がったリカの横に座る。
大丈夫、大丈夫…
心に言い聞かせる。
けど、自信はなかった。
リカの横で何もせずにいられるかは。
- 162 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時01分47秒
- リカは歌い始めた。
やや高めのソプラノ。
『深い河、かみさま、
私はヨルダンを渡って集いの地へいきたい。』
調性でいうと明るいということになるんだろうけれど、
どこか物悲しく響いて聞こえた。
それはリカの音程が安定しないから
――いや、もっと端的に言うと私より――
というわけではなさそうだけれど。
リカが肩に手を回した。
私にも歌え、ということらしい。
- 163 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時02分06秒
『深い河、かみさま、
私はヨルダンを渡って集いの地へいきたい。』
『あの福音の宴にいきたくないか、
平和に満ちた約束の地へいきたくないか?』
最初、ささやくように。
そして、段々とフレーズを覚えるにつれ、
私はリカに合わせ、心を込めて歌った。
『深い河、かみさま、
私はヨルダンを渡って集いの地へいきたい。』
なぜかはわからない。
けど涙が目から溢れた。
私は泣いていた。
「泣かないで、ねえ、ヒトミ」
「泣いてないよ…ただ、ねえ、泣いてないんだ…」
「うん、そうだね…大丈夫、大丈夫だよ、ヒトミ」
肩が温かかった。
リカは私を抱きしめ、その顔はすぐ近くにある。
耳元に吐息がかかった。
- 164 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時02分24秒
- その声は目を閉じるよう告げた。
その言葉に従うと、何が起きるのか期待して待った。
チュッ…
残念。温かい唇の感触は額の上だった。
なんだか、靴の上から痒いところを掻いたような…
さらに何かを期待しつつ待つ。
だが、結局、何も起こらない。
「ヒトミ、なぜ私が黒人霊歌を歌ったかわかる?」
首を横に振るしかない。
あれは黒人霊歌だったのか…
「私たちの祖先はアフリカから来たの。奴隷としてね」
「それ、学校で習った気がする」
「お嬢ちゃん、聞いて。黒人霊歌は文字通り魂の歌だったの」
私はうなずいて目を開いた。リカの表情は真剣だ。
- 165 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時02分40秒
- 「ヒトミ、日本人はどこから来てどこへ行くのかしら?」
「わかんない…私にはわかんないよ」
「聞いて、ヒトミ。私たちは漆黒の闇から悲しみの河を越えてきた。
行く先はわからない。あるいはどこにもあたしたちが行くところはないのかもしれない。
あたしたちに安息の地はないの、多分、天国しか…」
救いのない、絶望的な色が声に混じっていた。
私はリカの言葉、語ろうとしている内容の重さに耐えられなかった。
リカは私に何を言いたいのだろう?
「ときどき、あなたの無邪気さが無性に私を苛つかせる」
「なぜ?ごめん、リカ。私、何か悪いこと、した?ごめん、謝るよ」
「違うの。あなたは悪くない。そう感じるあたしが悪いんだから」
返す言葉が見つからない。
ただ、彼女をひとりにしたくなかった。
- 166 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時02分57秒
- 「ヒトミ、あたしを天国に連れて行って…」
リカは絞り上げるような声で告げると目を閉じた。
突然のことに戸惑った私はどうしたらよいのかわからない。
リカの艶やかな唇。
そのぬめぬめとした光が視界のどこかで瞬いた。
私の中の野生が覚醒する。
気が付けば無心にその唇にむしゃぶりつき、舌をこじ入れていた。
わけもわからず、手当たり次第に掌で撫で回し彼女の上衣を脱がせた。
リカの漏らす吐息は私の欲望に火を着ける。
その豊かな双丘に誘惑され、掴み、揉みしだいた。
「あっ…はぅ…」
リカはそれを望んでいたかのように敏感に反応した。
その声に鼓舞されて私の指は彼女の秘所に侵入しようとしていた。
- 167 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時03分15秒
- 夢のような時間。
私にはそれが現実のものとはとても思えなかった。
いつのまにかリカは私の上で激しく腰をグラインドさせ、
その敏感な部分を私の腿に押し付けていた。
最後の咆哮をあげ崩れ落ちたリカの体…
なんだか私はただ横たわっているだけの人形のようだった。
経験がないからよくわからない。
けれど、リカは勝手に達したように思えた。
その心地よい重さを感じながら、私は不思議な想いに捕らわれていた。
リカは多分、同性愛者ではない。
それなのに、なぜ、私を誘うような真似をしたのか。
そして、一番、不思議だったのは、自分がそれに応えたことだった。
- 168 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時03分33秒
- これは愛…なの?
自分ではない誰かに聞きたかった。
もちろん、誰も答えてくれるわけはない。
そして、答えは永遠に得られそうになかった。
なぜ…
私の思考は不毛な無限ループに陥ったようだった。
決して解かれることのない永遠の謎…
リカにとっての真実、そして私にとっての謎…
目を閉じると疲れがどっと押し寄せてきた。
私はそのまま深い眠りに落ちていった。
- 169 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時04分40秒
- 翌朝、目を覚ましたときにリカの姿はなかった。
辺りを見回すが、彼女がいたという痕跡さえない。
あれは夢だったか…
私は首を振るとベッドから降りて隣の部屋をノックした。
コン、コン…
……
コン、コン、コン…
……
私は痺れを切らしてドアのノブを回した。
ガチャリと音がしてドアは開いた。
誰もいない。
「ケイ!リカ!どこにいるの?!」
……
返事はなかった。
たっぷり一分間かかった。
ケイはいない。
そして、リカも…
私は置いていかれた。
ひとり残されて。
- 170 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時04分59秒
- 彼女たちは朝早くに出かけたようだった。
お金は昨晩のうちに支払っていたので問題はなかった。
まったく見事な発ち方だった。
風のようにとはまさしくこういうことに違いない。
彼女たちは消えた。
私に深い悲しみを残して。
いなくなってから、いかにリカを愛していたかに気づいた。
今となっては遅すぎるけれど。
でも、私は知っていたはずだ。
一目見たときから、恋に落ちていたことは。
- 171 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時05分15秒
- 日は既に高く上がっている。
軽い朝食後、私は出発した。
乗せてくれる車を探すのは難しくなかった。
2回、車を換えてサンフランシスコに着いたときにはすでに日が暮れていた。
郊外にあるベスト・ウェスタンにチェック・イン。
キーを開けて部屋に入ってすぐ目に入ったベッドに体を投げ出す。
そのまま体を伸ばすとすぐに眠りに落ちた。
私はひどく疲れていた。
- 172 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時05分34秒
- 夢の中で私はリカを見つけた。
その姿を見つけて体当たりするような激しさで体にしがみつき
二度と離すまいと誓った。
リカは腕の中、無言でただ私の目を見つめていた。
私にはわかった。
リカを引き止めることは出来ないと。
ケイの声が聞こえた。
リカを呼んでいる。
リカは離れた。
ほんの4歩か5歩進んで後ろを振り向く。
悲しそうな表情を浮かべていた。
やがて見せた静かな微笑みは永遠の別離を示していた。
私はただ、リカの後姿を眺めることしかできなかった。
- 173 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時05分49秒
- テレビの音で起こされた。
つけっ放しで寝てしまったらしい。
ニュースのキャスターが甲高い声で今日の天気予報を告げていた。
「晴れ…か」
それがさも大ニュースのように語られるほどここは気候が悪いのだろう。
おもしろい土地柄だと思った。
窓から差す日差しは確かに外が快晴であることを示していた。
私はベッドから降りると洗面台に向かった。
暖かい陽光を背に受けて鏡の前に立つ。
じっと自分の顔を見つめる。
頬を伝う二筋の線がカピカピに乾いていた。
フレスコ画でできた出来の悪い「悲しみの聖母」みたいだ。
- 174 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時06分06秒
- 笑いかけの中途半端な表情で見つめている自分がいる。
笑顔を完成させようと口元を開こうとした瞬間、私の耳が何かを捉えた。
『――ケイ・ヤスダ、アンジェリカ・イシカワ、二人の脱走者はネバダ州から
カリフォルニアを抜けてメキシコへ向かっていると――』
脱走者…
ケイ、そしてアンジェリカ…
リカ…リカなの?
私はテレビの画面にへばりついた。
『――二人は共謀して白人の少年4人を射殺した後、逃亡中のところをネバダ州
ラスベガスで逮捕。一旦は同市警に拘置されましたが、先週金曜日に脱獄。
その後、行方を眩ましていましたが、昨日、サンディエゴ方面を逃走中との情報が――』
私は息を止めて画面に見入っていた。
- 175 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時06分24秒
『――調べによれば、二人はハイスクールの先輩後輩にあたり、イシカワをレイプし、
その妹を惨殺した4人の少年に復讐を果たしたものと関係者の証言で伝えられています。
尚、二人の育った地元は有色人種への差別が激しく、黒人や黄色人種の女性への性的迫害
が頻繁に起こる土地柄で、加害者が白人であったため、二人の訴えを地元警察が退けていた
ことを指摘する声もあります。それぞれを”リカ”、”ケイ”と呼び合う二人のカラードに関する
情報はご覧の番号、連邦警察まで――』
涙が止まらなかった。
獣のような叫び声を上げてうずくまった。
心臓を鷲掴みにされたような苦しさに呻き声が口から漏れる。
私はベッドに倒れこんで枕に顔をうずめた。
- 176 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時06分45秒
『――ええ、このアブシェイパーは一日5分、ほんの少し使用するだけで…』
気づくと画面はテレビショッピングに変わっていた。
テレビを消すと立ち上がり洗面所に向かう。
水道の蛇口を思い切り開くと、勢いよく落ちる水で顔を洗った。
ホテルをチェックアウトして通りに出る。
通りに沿ってふらふらと歩く。
ふと立ち止まって空を見上げた。
高層ビルの間に切り取られた青が狭く感じる。
私はリカのために祈った。
ケイのために祈った。
私は二人への想いが翼となって国境を越えることを祈った。
- 177 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時07分02秒
- ふわりと風が舞い上がった。
髪が流れる。
もう一度空を見上げる。
ひらひらと一枚の羽根が横に揺れながら落ちてくる。
鳥の姿は見えない。
願いは天に届いたのだろうか。
私は信じてみることにした。
たまには奇跡を信じたいときもある。
- 178 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時07分20秒
- 私は再び歩き出した。
風が、穏やかな薫風が髪を撫でる。
それはリカの優しい吐息を思わせた。
心の中で応える。
(オッケー、リカ。今度は私の番だね)
まっすぐ前を見据えた。
視界の両脇に聳え立つ巨大なガラスの壁が午前の陽を受けてギラギラと光る。
まるで励ましているかのように。
私は希望という名を持つ、輝ける大海原に向かい
その一歩を踏み出した。
- 179 名前:深い河 投稿日:2003年05月19日(月)18時07分38秒
『深い河』
―終―
- 180 名前:名無し娘。 投稿日:2003年05月20日(火)05時51分36秒
- >>125 56さん
いつもありがとうございます。
すみません。保田の卒業でボーッとしてました。
長文感想は大歓迎ですよ。
もちろん、読んでいただけるだけでもありがたいのですが。
- 181 名前:56 投稿日:2003年05月20日(火)19時04分57秒
- ああ、ひさしぶりの新作! うれしいっす。
今回は「正攻法」ですね…。テーマでドスンと正拳突き、みたいな。どこか「お隣の国から〜」の空気で。
ロードノベルというのでしたっけ。好きなんですよ。乾いてるのにせつない感じが続いて、一転して、さらに一転。最後の、重い・正しい強さが印象的です。
希望。ただ明るいのでなく、強く重い希望。
今度は自分の番――本当にそうですわ。いつだってそう。中島みゆき「泥海の中から」を思い出します。「ふり返れ/歩きだせ/忘れられない罪ならば/くり返す/その前に/明日は少し/ましになれ」
で、やっぱりこの三人なんだな、と。迷い人・陰もつ者・重鎮。ほかの顔ぶれは想像できないです。お見事。
保田、卒業しましたが。要が去りましたが。
だからこそこちらの作者さんに期待…すんません、勝手ですね。
ではまた、次をのんびりのんびり、待たせていただきます。
- 182 名前:名無し娘。 投稿日:2003年05月21日(水)15時14分27秒
- >>181 56さん
早速、見つけていただきまして、ありがとうございます。
仰るとおり、ロードムービーのようなものをイメージしてました。
それにしても中島みゆきとはなかなか渋いですね。
その歌は知りませんでしたが、ぜひ聞いてみたいものです。
私の場合、中島みゆきというと歌とは180度イメージの違うANNでの弾けっぷりが印象的だったりするのですが。
保田に関しては、いろいろ思うところあり、5/5まで書いていたものが羊にまだ残ってると思います。
あまりにストレートに自分の気持ちを吐き出したみたいで人によってはキモチワルイことになるかもしれません。
そのような典型的な自己陶酔丸出しキモヲタ小説でよければご覧になってください↑
- 183 名前:56 投稿日:2003年05月21日(水)22時17分25秒
- さっそく拝見しました。こちらに感想を書くのは筋がちがうかもしれませんが。
情報密度がリアル感を高めててすごいや。
あと、何人もの登場人物たちが、それぞれ悩んでもがいて、みないきいきと書き込まれてて。吉澤の微妙な心の揺れとか、すごく生々しい。で、いやなやつはいなくてみんな頑張ってる、というのが読んでて気持ちよかったですね。
ドラマがどんどん最後まで盛り上がって、わーどうなっちゃうのー、でちゃんと希望が。救われましたー。
なんつっても、ほんと作者さんの想いというか気合・熱気がそのまま伝わってくる文章で。迫力でした。
しっかし羊はぜんぜんチェックしてなかったですう。
白板「圭ちゃんの卒業を祝う会」スレの短篇のうちのいくつかを、ああこれもしかして作者さんが書いたんじゃ…とか思って読んでたんですが、ちゃいましたね。
ところでぼくは「天才矢口の〜」大好きだったんですね。
あの、どこまで本気なのかふざけてんのかわからない妙に壊れた味わいが。
そのうち、作者さんの気が向いたとき、またあんなテイストのを書いてほしいなーなんて。
失礼しました。
- 184 名前:名無し娘。 投稿日:2003年05月22日(木)16時19分43秒
- >183 56さん
あまりの早いレスポンスに驚きました。
あのようなものを読んでいただき、どうもありがとうございます。
いつも感想をいただけるので、とても張り合いがあります。
あれを書いて、今まで自分がほとんど吉澤を見ていなかったことに気付きました。
吉澤のナイーブさに気がつくことができたのは収穫です。
ところで、保田卒業スレの三十路ヤスヲタとアヤカのやつは私が書きました。
やはりバレてましたか。あはは。
天才矢口を書いてどうも自分にはギャグの才能がないことがわかったので、
最近は、あまりそちらの方向に筆が向わないのですね。
強いて言えば、黄板のいしやぐ聖誕祭に出した「歌姫の誇り」というやつが
近いかな。あそこの短編は、私のより他の方の作品におもしろいものがたくさん
あるので、機会があればぜひ読んでみてください。
- 185 名前:56 投稿日:2003年05月24日(土)16時25分47秒
- まず白板のについて。そうなんですよ、Justその二編、疑って(?)ました。
「三十路ヤスヲタ」の読んだとき「すげえ、こんな書き方もアリなんだ!」と目からウロコばりばりで。お話と文体にもすんげー引き込まれました。
アヤカのは、ひさびさに『ニューヨーク物語』ひっぱりだしまして。あの曲をBGMにした映像がばーっと浮かびました。涼やかな哀感、好きです。
「歌姫の誇り」、よかったです。うん、あのテイスト。あそこの一連の短篇(おっしゃるとおりどれもおもしろかったっす)の中で、作者さんの作品が奇妙な際立ち方をしてると感じるのですが、そこなんですね。
うまくいえないんですが…緻密に書き込みまくってて、なのにどっかシニカルに突き放したような視点を感じて。その、密度の濃さと冷徹な視点とのミスマッチ感が、ああこれだこれ、と嬉しくなりましたね。
いかにものギャグじゃなくて、あの妙な空気が好きなんですよ。ありがとうございました。
(気がついたら作者さんの小説のスレが感想スレとか語るスレみたいになってた。すんませんした)
- 186 名前:名無し娘。 投稿日:2003年05月26日(月)16時44分38秒
- >>185 56さん
ありがとうございます。
なんだか催促してしまったみたいで申し訳ないです。
なかなか書いたものに対してコメントしていただける機会がないので56さんの感想は大変ありがたく受け止めています。
それにしてもTurnstylesをお持ちとは驚きました。
あの曲を始めて聴いたときの爽やかな印象と歌詞のあまりの落差に受けた衝撃のようなものがモチーフと言えばそうなります。
とりあえず、今、書いているものを早く書き上げてまた感想を書いていただけるよう頑張りますです。
- 187 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時28分50秒
- ええ、以前お話ししていた「市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!」の
後日譚のような話を書きます。
6期の田中麗奈主役です。あ、逃げないで下さい、そこの人。
短いです。ただ、一回の更新で終わるほどでもないです。
何回かに分けて更新するはずです。
ええっと、タイトルは例によって羊から借りてきましたがネタではないです。
雰囲気は前作そのまま…だと思います。
それではよろしくお願いします。
- 188 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時34分59秒
- 『そろそろ市井さんを許してあげようよ!!』
- 189 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時36分18秒
- 広田 弘毅
「何これ?」
道重さゆみは不思議そうな顔で見上げた。
いつも不思議そうな顔つきのさゆみだが、これは心底わからないと見える。
勢いのあるまっすぐな筆致。
迷うことなく自信を持って書かれた文字。
だが、さゆみにはこれが人の名前であることすらわからないらしい。
それが麗奈には不満だった。
「これ、じゃないでしょうが。尊敬する人やけん」
強がりながらも少しだけ不安が心によぎった。
あまり一般的ではないだろうか?
さゆみの非常識さはさて置き、インタビューやトークの度にこの話題を広げられるのも困る。
郷土の人ではあるし社会の先生が「偉か人やけん」と繰り返すのでそんなものかと思っただけだ。
何より、アイドルが昔の政治家の名前を出すなんてイカしてる。
「何した人?」
「さゆみは不勉強やけん、いかん。昔の首相ばい」
「首相?」
キョトンとした顔で見つめるさゆみの顔はにくらしいほど可愛い。
自分が男ならファンになりそう。
それだけにさゆみと違う自分をアピールしなければ世間に認知されない。
焦りのようなものが、麗奈をいささか突飛な行動へと走らせる。
- 190 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時36分40秒
- 「首相ゆうたらね、山口県は歴代首相輩出数では日本一やって」
はしゃいで地元を自慢する口調は悔しいけれどやはり可愛かった。
「ふーん、福岡は一人しかおらんけん。やっちょれんばい」
麗奈はなんだかばかばかしくなって、やや覚めた調子で応えた。
広田弘毅は地元の輩出したただ一人の首相だ。そして、文民にしてただ一人のA級戦犯でもある。
麗奈にはそれがどういうことなのかわからない。
ただ、なんとなく、戦争を避けようとしたのに戦犯にされた偉い人、というイメージがあるだけだ。
「じゃー、後藤真希ちゃんにしよ」
さゆみはくりくりとした目を瞬かせて「うーん」と短くうなった。
「それはどーかな?」
手元のボールペンをくるくる回してそちらに視線を落とす。
「死んだ人やし」
麗奈にはさゆみの言わんとしていることがわからなかった。
「なんでー?かっこよかね、トップアイドルを突然、辞めて北朝鮮でお姫様たい。マリー・アントワネットみたいな華麗な人生と思わん?」
「うん、波乱の人生やとは思うけど…」
それでもさゆみは何か含むところがありそうだった。
多分、さゆみ自身もよくはわかっていないのだろうけれど。
- 191 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時37分48秒
- 「「小川さんに相談してみたら?」
それは麗奈も考えたが、
「小川さんは話しやすかばってん、少し頼りなか」
「そうねー」さゆみもすかさず同意する。
小川はいろいろと親切にしてくれるから助かるが、たしかに少々頼りないところがあった。
こないだも原宿への行き方を尋ねたところが、どうにも怪しい。
念のため亀井に電話して確かめたところ案の定、違っていた。
それじゃ代々木の方に出ちゃうよ、と教えてくれた亀井はころころと弾むような声で笑い
「小川さんって楽しいね」と羨ましそうに言っていた。
「やっぱり、こういうことは飯田さんかの?」
「そうやねー…」
「……」
二人はなんとなく気詰まりになった。
飯田はモーニング娘。の大先輩としてもちろん尊敬している。
だが、二人には飯田に対して何か雲を掴むような漠とした印象しかなかった。
- 192 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時38分17秒
- モーニング娘。はLOVEマシーンの後藤であり、ザ☆ぴ〜すの石川であり、飯田は何か自分たちが生まれる前から活躍しているような、どこかの偉い人といった遠い距離感。
石川に対してはテレビで躍動するその姿を見て、憧れを抱いていた人に相対する気恥ずかしさというか照れ、いい意味での緊張を覚える。だが、飯田に対しては、そういうテレビで見ていた人と会うのだ、というよりはむしろ、事務所の社長に対して覚えるような、どこか雲の上の人といった印象が自分の中にある。
「なんかなー…」
「なに?」
麗奈は物憂げに応えた。
「あんまり、いい顔されんような気がする」
「うん…」
さゆみは、また手に持ったボールペンをくるくると回した。
アンケートはすべて書き終わっている。
麗奈は気が進まないながらも重い腰を上げた。
別室に控えているはずの飯田に相談しなければ。
「行ってくる」
「がんばって」
何をがんばれと言っているのかさゆみ自身もわからない。
それでも、がんばれといわざるを得ないほど、麗奈の表情は強ばっていた。
- 193 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時39分24秒
- ◇
二人の予想は当たっていた。
「ええっとね…」
飯田は明らかに不快とわかる表情で麗奈から視線をはずし、顔を背けた。
「ごっちんのことはここではタブーになってるんだよ。マネージャさんからいろいろ注意されたはずなんだけどな…覚えてない?」
しかられている雰囲気に麗奈は完全に萎縮してしまった。
無理もない。相手は十歳近く離れている大人だ。
それにマネージャからの注意事項は長くて退屈だったから、半分くらいしか覚えていなかった。
母親が一緒だったから、大事なところは聞いておいてくれると思っていたし。
その母親も後藤のことについては伝えてくれなかった。
「――あのね、ごっちん…いや、後藤真希は、高麗、旧北朝鮮の独裁者の身内として処刑された、民主主義の敵なの。普通の中学生が何を言ってもいいけどね、私たちはモーニング娘。だから…」
飯田はさも疲れたというように長い髪をかき上げて、肩の後ろへと払った。
「だからさ、おおやけの場所で後藤の名前を出しちゃいけないの。わかった?」
- 194 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時39分55秒
- こくり。
麗奈はうなずくしかなかった。
目には涙を浮かべている。
自分のあさはかさが疎ましかったせいもあるし、単純に飯田が怖かったということもある。
とにかく、一刻も早くこの場から立ち去りたかったし、さゆみのそばに戻りたかった。
だが…
民主主義の敵。そのような建前だけでは説明のつかない妙にじめじめとした苛だちを飯田に感じたのもまた確かだ。
後藤の死に関しては、何か触れてはいけない不文律のような暗黙の了解がメンバーの間で成立しているらしかった。
さゆみの不安はそうした現場の空気を敏感に察知した故の直観だったのだろう。
麗奈はぼーっとしているとばかり思っていたさゆみにさえ劣る自身の鈍感さに嫌気がさした。
飯田は苦虫をつぶしたような表情で自分を見つめている。
- 195 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時40分16秒
- 「あの…」
「なに?」
飯田は早くして、と言わんばかりに強い調子で尋ねた。
「それじゃ、何て書いたらいいですか?」
ただでさえか細い声が震えて消えそうになる。
畏れと恥ずかしさ。多分、両方のせいだ。
「自分で考えなさい。非常識な答えでなければ何も問題ないから」
あたりまえでしょ、という声が聞こえてきそうだった。
それほど目の前にいる背の高い人はどこか必要以上に苛ついて見える。
「わ、わかりました…」
顔を伏せ、うなだれて帰る麗奈に後ろから飯田が声をかけた。
「書いたら、一応、見せてね。道重のと一緒に」「はい…」
消え入りそうな声でかろうじて応えると麗奈は重々しい空気から逃げるようにしてその場を立ち去った。
- 196 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月06日(金)21時40分41秒
- 飯田はその後ろ姿を見送った後もしばらく立ち尽くしていた。
はあっ、と深く息を吐いてようやく呪縛から解かれたように動作を取り戻したのは時間にして数秒に過ぎなかったはずだ。だが、飯田には数分にも感じられた。振り返ってパイプ椅子まで戻ると崩れ落ちるように体を投げ出して天井を見上げる。何もない白い平面に向かって飯田はつぶやく、
「ごっちんのバカ…」
あはは、と笑う声は、しかし聞こえてこなかった。そしてもう二度と再び聞くことはかなわない。永遠に…
飯田は目を閉じて右手の甲を目蓋の上に押し付けた。
ひんやりと冷たい感触が心地よかった。
- 197 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月07日(土)07時11分36秒
- 大変うれしく、また緊張します。
完結まで、静かに息を詰めていようと思います。
- 198 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時51分03秒
- ◇
吉澤ひとみはベッドの上で仰向けになって右手を顔の上に翳(かざ)した。
掌に握った不機嫌な銀色はその輝きには満たされていないことを訴えているように思えた。
では、一体、何によってなら満たされるというのだろう…
それを思うと吉澤はこの上もない喜びと同時に怖いような泣きたいような何とも形容しがたい感情に捕われた。
どうせ自分にはできやしない…
虚しくなって掌の中の小さな憎悪を机の上に投げた。
カタカタと音を鳴らして転がったそれは写真立てにぶつかって止まる。
ガラスに傷がついた。三人の写真。
そして、もはや写真の中でしか見られない三人の咲き誇ったような笑顔。
吉澤はもう何万回となく眺めたであろうその写真に今更、感慨を催すでもなく、ああ、傷がついた、と歌うようにつぶやいて目を閉じた。
いい加減、もう、そのことにばかりこだわっていられないことは自分でもよくわかっている。
- 199 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時53分52秒
- しかし、忘れた頃にふとしたきっかけであの感覚が襲ってくる。
何もできなかったという激しい無力感。
自分だけではないことも承知しているつもりだ。
あの日、9月23日。後藤が処刑されたと告げられたときの光景は今でもまぶたの裏に焼きついている。
マネージャーが告げた直後、楽屋に充満した刺すような空気と耳鳴りのしそうな痛いほどの沈黙。
うつむいた石川の横顔が青ざめていく様子が手に取るようにわかった。
小川のすすり泣く声を皮切りに加護と辻が顔を手で覆った。
机につっ伏す高橋と呆然と立ち尽くす紺野にしがみついて泣きじゃくる新垣。
放心して崩れ落ちるように椅子にどかっと倒れ込んだ飯田。
嘘でしょ、嘘でしょ、とうわごとのように繰り返す矢口。
眉を寄せ、怒ったように口を真一文字に閉ざし、ただ黙っていた安倍。
- 200 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時54分32秒
- すべてはコマ送りの映像にように鮮やかに脳裏によみがえる。
しかし、それらすべてを記憶している自分が何をしていたかとなるとてんで頼りなかった。
おそらく呆然と立ち尽くしていたのだろう。
あまりのショックに何かを考えることさえできなかったのだと思う。
思考を中断した目と脳は一個の映写機と化して周囲の映像を記録した。
だが、それが、これほど自分を苦しめることになるとは…
吉澤は閉じていた目を開いてうっすらと目に涙を浮かべた。
何が彼女らを変えてしまったのだろう。
もう、何回も自問したが答えの出なかった問いだ。
そして、答えなど永遠に得られない。後藤は死んでしまったのだ。
いっそ保田に従って自分もあのときモーニングを辞めてしまえば、と後悔したこともある。
今はそれも昔の話だ。彼女が今、何をしているかは知らない。
だがその保田だとて結局、後藤を助けることなどできなかったではないか。
吉澤はもう一度目を閉じた。
無力だった点で自分と変わらない。そう、変わらないのだ…ただ、一人、あいつを除いては。
- 201 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時54分56秒
- カッと目を見開いて半身を起こすと、机の上で相変わらず鈍い光を放つそれを掴んだ。
(できたんだろう…)
刃の半身が怪しく光る自らの瞳を映し出す。
(あんただけは、できたんだろう…)
ヒュッと手首の返しを効かせて投げられたそれはガチッと重い音とともに壁に当たってカーペットの上に落ちて跳ねた。
それが当たったと思しき壁の辺りに幾筋もの傷穴が穿たれて不規則に波打っている。
すでに何回、何十回となく繰り返された行為であることを雄弁に物語っていた。
吉澤にはその場所であれば目を瞑っても同じ場所に当てられる自信があった。
(あんたなら、助けることができたはずだ…)
壁の傷穴に強くにらみつけるような視線を投げると、吉澤は再び目を閉じて体をベッドに投げ出した。
- 202 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時55分15秒
- (どうする…)
結局、想いは千々に乱れてまたしてもまとまらない。時間だけが刻々と過ぎ去っていく。
吉澤はあの女の顔を思い浮かべようと努力した。
だが、その印象は驚くほど希薄で、輪郭を持つ一定のイメージとして結像しようとした瞬間、いつも掌からするりと逃げ落ちてしまう。
きっと意識して情報を遮断していたのだろう。
イメージとしての実体を伴わない相手への怒りは行き場を失って胸のうちに充満し、何かのきっかけで暴発しそうな状態を危うい均衡の上に保っている。
市井紗耶香の来日は一週間後に迫っていた。
- 203 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時55分53秒
- ◇
図書室のある新校舎へは中庭の渡り廊下を通らなければならない。
大分、慣れたとはいうものの、自分の姿を認めて声をかけてくる生徒もいる。
急ぎ足で通り抜けようとすると、頬に何かが張り付いた。
手に取って指でつまむ。
日に翳(かざ)すと薄絹のような淡い白に東京の春が透けて見える。
さくら……
麗奈は足を停めて中庭の方を眺めた。
満開の桜がここぞとばかりに花びらを散らす。
建物の間に切りとられた矩形の空を雲霞のように埋め尽くす桜の樹々。
その下で思い思いに語らう生徒たちの中には同じクラスで見た顔も何人かいるようだった。
穏やかな微風に浮かぶ花弁のひとひら、ひとひらが柔らかい陽光を浴びて白く光る。
桜の散り方ひとつ取ってみても、福岡と東京ではひどく違うように感じた。
福岡の友達の顔が浮かびそうになり、慌てて首を横に振った。
桜前線とともに自分も南から北へと移動した今年、麗奈の春は長い。
- 204 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時56分21秒
- 図書館は空いていた。
借りる本を選んでいる生徒が書架の間に数人見えるたけで、机に向かって本を読む者はいなかった。
「あのっ…すみません…」
カウンターの向こうで端末に向かって何か入力中の人に声を掛けた。
こちらに背を向けていた眼鏡の女性が振り返る。
「はい?」
「あのっ…高麗の歴史に関する本を探してるんですけど…」
立ちあがると意外に背の高い女性は、眼鏡の奥の目を細めてこちらに近づいてきた。
作業を中断させられて不機嫌なのか、じっとにらみつけるような視線が少し怖い。
「高麗って…李氏朝鮮の前の?それとも弁韓、辰韓、馬韓の三韓時代から朝鮮史全体を――」
「いえっ、あのっ…今の、高麗共和国の、その…」
慌てて遮ってはみたものの、何と応えていいものか。
しどろもどろになりながら話した内容を司書らしき女性が察知したらしいのは幸いだった。
「ええっと…高麗共和国の歴史…って言っても、建国してまだ半年くらいだからねぇ…」
「あのっ、その、特に北朝鮮時代の戦争犯罪責任者…って言うんですか?その裁判に関する資料が…」
司書の女性はようやくわかったというように腕組みして冷ややかな視線を投げてよこした。
- 205 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時56分43秒
- 「要するにあなたも後藤真希の最後について知りたいわけ?」
「えっと…」
麗奈は言葉に詰まった。
まさにその通りではある。
だが、彼女が自分を見る目の冷たさはどうだろう。
どこか興味本意で芸能人の過去を暴きたてようとするいかがわしさ。
そうした品のない行為に対する不快感の表出を感じる。
断じて自分はそのようなものではないと抗議したい。
だが、はっきりと口に出して言われたわけでもないのに弁解するのもおおげさだ。
第一、自分は…そうだ、この人は自分がモーニング娘。として、その後藤真希の後輩であることを知らないのだろうか?
麗奈は校内で自分を知らない人がいるとは思いもしなかっただけにどうしていいかわからなかった。
「ま、モーニングの後輩としては知ってなきゃいけないか…」
「…」
気付いていた…
なら、そんな言い方をしなくてもいいのに。
麗奈は自分の眉毛が少し中央によりそうになるのを意識して、慌てて顔の表情を緩めた。
とりあえず後藤に関して記してある書物を教えてもらえればよいのだ。
「ごめんね、きつい言い方しちゃって」
「い、いえ…」
謝られると調子が狂う。
- 206 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時57分03秒
- 「後藤さんの裁判記録だとかはね、まだ、きちんとした資料は開示されてないの」
「えっ?そんなはずは…」
ない、と麗奈は思った。元モー娘。の後藤が処刑されているのだ。
裁判資料が開示されていないなんてことがあるだろうか。
「多分、ワイドショーとか週間誌で無責任な情報流してたからだと思うけど、憶測以上の情報はないのよ」
「そんな…」
麗奈は落胆した。
これでは後藤の死に関して飯田がなぜ、あれほどの嫌悪を示すのか説明がつかない。
それに巷間、流布している後藤への風評はすべて憶測に基づくものだというのだろか…
麗奈にはわからないことだらけだった。
ふと、気付いた。
この人はなぜ、こんなに後藤の情報について詳しいのだろう?
口を開こうとした瞬間、相手から切り出した。
「不思議そうな顔ね。なんで、そんなに詳しいのか」
麗奈はうなずくしかない。
「あの頃、後藤さんが芸能界から去ってすでに大分経っていたんだけど、それでも小学生のときに好きだったっていう子が多かったのね」
- 207 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時57分22秒
- 司書の女性は視線を落し、カウンターに積み上げられた返却図書を整理しながら続けた。
「『後藤さんはなんで殺されたんですか?』って問いあわせが多かったわ。私は別に芸能レポーターでも何でもないのにね」
ふふっ、と笑って再び麗奈の顔に視線を合わす。
目尻に小皺が寄ってはいるものの、肌の艶から見てまだ若そうだ。
後藤について詳しいのはそれだけではないかもしれないと、麗奈は思った。
「だからね、普通、芸能関係の書籍は購入しないんだけど。あのときはねえ…。北朝鮮の崩壊と民主国家の誕生という現代史上の重要な出来事でもあったし…」
「では、その手の本なら何冊かあるんですか?」
その手の本とは一体、どんな本だろうと麗奈は自ら訝(いぶか)しむ。
あやしげな本でも断片的な情報は掴めるだろう。
なにしろ、麗奈は後藤が死ななければならなかった背景について、何も知らないのだ。
「もう、ないわね。買ってはみたものの、興味本意で書かれた劣悪なものばかりでほとんど処分しちゃったから」
- 208 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時58分08秒
- 「ほとんど、ってことは残してるものもあるんですか?」
麗奈は食い下がる。
ここで引いてしまっては、後藤の死は謎のままだ。
そんな状態でモーニングの一員としてやっていけるのか自信がない。
「あるにはあるけど…」
司書の女性はそれを生徒に告げるべきか逡巡しているようだった。
麗奈はすがるような思いで眼鏡の奥を見つめた。
「お願いします。たとえ興味本意に書かれたものでも、当時、後藤さんの死がどんな風に扱われていたかだけでも知りたいんです」
「本当は持ってちゃいけないものだからねえ、生徒に見せていいのかわからないけど…」
何でもいいから、とにかく見たい。麗奈は頭を下げた。
「お願いします!」
困ったような顔つきで腕を組み、しばらく考え込む素振りこそ見せたものの、麗奈にはなんとなく、この人には拒めない、という確信めいたものがあった。
人がいい、ということとは違うのだけれども、とにかく、人を見ることにかけて麗奈の勘はよく働く。
司書は折れた。
「しょうがないわねえ…」とつぶやきながら、カウンターを回り込んで書架の方へ移動するその後を麗奈は慌てて追った。
- 209 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時58分44秒
- 意に反してその本は非常に分厚い論文集のようなものだった。
芸能界の内幕暴露本みたいなものを期待していた麗奈は拍子抜けした。
「なんか、すごくむつかしそう…」
「難しいよ。それに北朝鮮…じゃないや、高麗政府から抗議されて回収した、っていういわくつきだし」
「回収?」
麗奈は司書の顔を見上げた。
麗奈よりも頭一つ分くらい背の高い相手は、腕組みをしてまさに難しい顔つきで答える。
「そう。事実無根の内容であり、歴史を著しく歪曲したものだ、って高麗政府に抗議されてね。出版社が自主回収」
「出版社が…」
麗奈はおうむ返しで繰り返すばかりだ。
「高麗とは建国当初から友好ムードだったからね、その国が抗議してくるくらいだから、そりゃよっぽどなんだろう、ってことで、出版社もすぐに応じたらしいよ。もちろん、外務省の圧力もあったみたいだけど」
麗奈はページを繰りながら、半ば司書の言葉に耳を傾けつつ、どんな内容が書かれているのか目を通してみた。
- 210 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時59分03秒
- 『拉致被害者救済交渉に関する新民主政権との合意について』、『第二次円借款に関する付帯条件緩和に異議あり』、『日本の戦争責任の明確化と賠償請求に関する政治・経済問題の分離交渉について』、合意について、交渉について…うんぬん、うんぬん…
麗奈には難しい言葉ばかり並んでいる。
それでもあきらめずに目で追っていくと、目指す内容に触れているらしい論文に目が止まった。
『内戦における戦犯裁判に関する人権侵害の疑いについて』
執筆者は…
「えっ?!」麗奈は思わず声を上げた。
その名前、それは、
『保田圭』
元モーニング娘。ということでは後藤同様、自分の先輩筋にあたる人物である。
後藤ほどの知名度はないものの、卒業したのがつい最近でもあり、その名を忘れようがない。
麗奈は再び司書の顔を見上げた。
無言でうなずくしぐさが、目指す内容を探し当てたことを示していた。
「これ?」
「そう。それが引っ掛かったみたいね」
ページをめくる指が緊張で震える…
- 211 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時59分27秒
- それにしても、保田はなんでまた、こんな難しそうな論文を書いたものか。
麗奈は保田の卒業後の消息についてほとんど知らなかった。
20ページほどの論文はざっと眺めてその用語の難しさなどからしてこの場ですぐに読み終えることはできそうになかった。
「これ、借りていいんですか?」
だが背表紙を見ると「禁帯出」のシールが貼ってある。
「本当はだめなんだけどね…でも、まあ、何か理由があるんでしょう?いいわよ」
「ありがとうございます。どれくらいかかるかわからないけど、読んだらすぐ返します」
「うん、そうして」
そのまま振り返ってカウンターの内側に戻った司書の背中を見送って、麗奈は再び論文のページに視線を戻した。
堅い表現が目につく。
- 212 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)18時59分53秒
- 『――中でも朝鮮労働党総書記の内縁の妻とされた被告人Gの審理については数々の疑問が残る――』
いきなりわからない言葉が頻出する。
被告人Gは明らかに後藤と思われるが「労働党総書記」だとか「内縁の妻」、「審理」など。
わからない言葉だらけだ。
麗奈は立ちあがり、カウンターへと向かった。
一番近い机に沿って並べられた椅子を一脚持ち出してカウンターの前に陣取る。
「先生、この部分がわかりません!」
こちらに背を向けて端末を叩き始めたばかりの司書は振り返ると、やれやれといった表情を浮かべて立ちあがった。
- 213 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月10日(火)19時09分08秒
- >197名無しさん
ご配慮ありがとうございます。次回更新は13日の金曜日(!)くらい。
- 214 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時29分57秒
- ◇
保田は待ちあわせの場所へと急いでいた。
地下鉄の改札を通りぬけ人の流れを掻き分けていく。
階段を上りきると薫風が舞いあがってスカートの裾をふわりとめくった。
薄い雲のまじった好天に日差しが柔らかく感じる。
雑踏と車の往来による喧騒の中にもどこか春めいてざわついた空気を感じて、保田はつい「ああ日本だ」とつぶやいていた。
さしたる意味はない。
自然の変化に対する鋭敏な感覚と下世話な現実感の奇妙なバランス。
その感覚を肌で感じるとき、自分がやはり日本人であることをはっきりと自覚した。
そうした感覚を持ちあわせているはずもない子供に自分はこれから何を話そうとしているのか。
正直なところ、保田自身にも判然としない。
だが、飯田から相談を受けたとき、迷わずに会おうと思ったのは、やはり誰かに伝えたいという想いの発露に他ならなかった。
そして、何よりも嬉しかった。後藤のことを知ろうとしている人がいる。
その事実がたまらなく嬉しかったのだ。
- 215 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時30分13秒
- 夕方にはまだ間がある午後4時台のオフィス街はそれほど人の往来が激しいわけではない。
だが、休日の閑散とした雰囲気に比べるとやはり活気があって、街の息吹のようなものを感じる。
サラリーマンやOLが忙しそうに通り過ぎていくのを横目に保田はそうした時間に追われる生活というものを何となく懐かしんだ。
もちろん今だって仕事がないわけではない。
むしろ、こなしている量で言えば、あの頃よりも多いかもしれない。
収入がその量にまったくリンクしないこともそれほどは気になるわけではない。
ただ、何かに追われるようにしてがむしゃらに働いていたあの時代が懐かしかい。
そんな気分に浸ることは久しくなかった。
自ら戒めてはいるものの感傷的に往時を懐かしんでしまうのは、すでにこれから話すであろう内容へと意識が傾きかけているからかもしれなかった。
- 216 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時30分37秒
- それは多分、今現在、モーニング娘。に在籍していたとしても、もはや経験することはできない感覚のはずだ。
時代に追われるように、いや時代を追いたてていたとさえ言えるのかもしれない。
疾風怒涛。
そんな言葉でしか、あの状態をうまく説明できなかった。
渦中にいたときは一瞬前の出来事でさえ振り返る暇もなくただ、走り続けていた。
その先に何があるのかもわからぬまま。
それが若さのなせるわざなのか。それともあるはずのない何かを掴みたかったのか…
今となってはわからない。
失ったものの大きさに釣り合う対価が果たして得られたのか。それさえも今となっては怪しい。
だが、保田はこうして生きている。それで十分だ。
自分をそう納得させることでしか、後藤の死に報いることはできないと思った。
- 217 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時31分01秒
- やがて前方に皇居の土塁を多い隠すようにおい茂る緑の木々が視界に入った。
交差点を挟んでその対角にある大きなホテルのロビーで相手は待っているはずだ。
保田は足を早めると右手に曲がり車寄せを通りぬけてホテルのエントランスをくぐりぬけた。
ロビーは平日の午後にしては混雑しており、目指す相手がどこにいるのかすぐにはわからなかった。
(たしか、制服で来るって言ってなかったっけ…)
保田は制服の少女を探したがそれらしい姿は見つからない。
ロビーとフロアを同じくする喫茶コーナーまで足を伸ばそうとした瞬間、「あの…」と遠慮深そうに尋ねる声が後ろから聞こえた。
振り向くとたしかに制服を来た小柄な少女がうつむいて申し訳なさそうにたたずんでいる。
- 218 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時31分22秒
- 「あなたが田中さん?」
「はい…」
消え入りそうなか細い声。何をそんなに緊張しているのだろう。保田は少女に微笑みかけた。
「保田です。始めまして」
「あ、あの…田中です。始めまして」
いまどきファンでもこれほど固くはならないだろうというくらいカチカチに固まっている相手に保田は好もしい印象を受けた。
「あっちでお茶でも飲もうか、ね?」
「は、はい…」
うつむいたまま答えるしぐさはとても芸能人とは思えない。
田舎から出てきた中学生そのままという感じに保田はついつい微笑をこぼしそうになる。
それと同時に、まだ右も左もわからないような普通の少女とともに活動していかなければならない飯田や安倍の苦労を思いやった。
- 219 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時31分38秒
- 最初、小川から連絡を受けたとき、保田はあまり乗り気ではなかった。
その話題について事務所側が意識的に公の席では話さないようにメンバーを指導していることも知っていたし、なにしろ、あの件以来、保田とメンバーが接触すること自体、面と向かって言われたわけではないが、歓迎されてないことも承知していた。
それでも、こうして出向いてきてしまったのは、小川が不器用なりに後輩の相談に乗るまでに成長し、自分に連絡してくれたことが嬉しかったからだ。
石川や藤本が二つにわかれたあのチームで表の中心として活躍する一方、小川が全体をまとめる裏方的な存在として自覚を深めてきたことがわかり、頼もしくさえ感じた。
OGとして新メンバーの育成に一役買いたいという義務感のようにものを感じないでもないが、それよりも小川のために一肌脱ぎたいという義侠心のようなものに駆られたというのが実体に近い。
保田は小川が好きだったのだ。
- 220 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時31分58秒
- 「それにしても変わってるよね」
「えっ…?」
何がですか?と問いたげな視線が保田の目を捉えた。
「いや、今どき後藤の話が聞きたいなんてさ」あはは、と笑う保田を不思議そうな顔で覗く麗奈。
その屈託のない表情に時代は変わったのだなと思う。
保田は別に誇張して言ったつもりはなかった。
実際、後藤の話を聞きたいどころか、むしろ講演会などで呼ばれた場合でも、後藤の話だけは止めてくれと言われることの方が多いくらいだ。
「それで?後藤の最期について何が知りたいの?」
保田は単刀直入に尋ねた。
「はい。保田さんの論文を読んだんですけど…」
「うん」
「わからない言葉が多くて…」
ああ、と応じて保田は理解した。それもそうだ。政治や外交の話題を中心に扱うオピニオン雑誌への寄稿論文であれば中学生にわかりがたい表現があって当然だ。
- 221 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時32分16秒
- 「それで本人に直接聞こうというわけね」
「はい」
こくりと素直にうなずく姿に保田は苦笑した。これでは後藤失踪…いや、市井の脱退から話せばならないかもしれない。後藤はともかく、市井なんてこのくらいの若い子は知ってるんだろうか?保田は気になった。
「あのさ」
「はい?」
「長くなるけどいい?」
少女はしっかりとうなずいた。純粋な意志。だが、その澄んだ瞳がやがて知る事実により曇るであろうことを思うと保田はつい口に出してしまう。
「いろいろとさ、モーニングとしてやっていく上で都合の悪いこともあるんだけど、それでも聞きたい?」
「…」
少女はうつむいて逡巡しているようだった。思い当たる節があるのだろう。やがて開かれその口から告げられた言葉はしかし、保田の予想に反して、固い意志を感じさせた。
「モーニングとしてやっていきたいから知りたいんです…」
「そう…」
保田はコーヒーカップを口許に運びながら視線をはずし中庭へと向けた。
あえてこの少女の前でそっけない風を装ってはいるものの内心では快采を叫びたい思いをこらえている。
- 222 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月13日(金)11時32分40秒
- 午後の日がガラス越しに差し込んでテーブルを白く照らす。
保田は少し冷めかけたコーヒーに口をつけるとカップを降ろした。
白い皿の上では琥珀色の小さな水面が揺れている。
「どこから話そうかしらね…」
だが、保田にはわかっていた。あの二人について話さねばならないことは。
中庭の池で鯉が飛沫をあげてポチャンと跳ねた。赤、白、橙色の体が一瞬、薄い陽光を受けてきらめいたが、やや不細工な波紋を池の表面に残してすぐさま水中にその姿は消えた。
その姿を果たして自分は見たのだろうか。
夢のようにうつろう波のゆったりとしたうねりだけが、かろうじてそれが幻影でなかったことを示している。
だが、自分がこれから話そうとしている内容は果たして真実だと言えるのだろうか…
痛いほどの沈黙が二人の間に漂い始めて、ようやく保田は視線を少女の顔に戻した。
待ちくたびれているはずの表情は、しかし意外なほどに弛緩していない。
準備はできた。
さあ、始めようか。
市井紗耶香と後藤真希の長い長い物語を…
- 223 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時29分11秒
- ◇
目の前には一面の白い砂浜。
パラソルの落とす黒い影が伸ばした脚のすぐ先に広がる白のまぶしさを際立たせる。
じりじりと照りつける太陽の日差しに耐えきれないのか、ときおり宿かりがチョコチョコと足許の砂の上を横切る。
その姿をぼんやりと目で追いながら麗奈は、ただひたすら待つ。
グラニュー糖のようにきめの少し荒いベージュ色の砂丘の向こうにはやはり目の覚めるような鮮やかなエメラルドブルーが広がっているはずだ。
だが、その光景は目を閉じてただ風と波の音に耳をすます麗奈の目には届かない。
パラソルの下だというのにこの暑さはどうだろう。
いい加減、待ち時間の長さに辟易し、ミネラルウォーターのペットボトルに手を伸ばそうとした。
亀井絵里が急に立ち上がる。
- 224 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時29分27秒
- 「どした?」
麗奈は寝転がったまま、薄目を開けて亀井の姿を探した。
さゆみは規則正しい寝息を立てて寝入ったままだ。
「ちょっと泳いでくる」
「髪の毛濡らしたらいかんよ」
「うん」
ザッ、と音をたてて走り去る亀井のサンダルの裏が視界に飛び込んできた。
サンダルの黒と白い砂のコントラストが鮮やか過ぎて目に痛い。
ザッ、ザッと砂地を蹴るたびに跳ねあがる砂の白さが麗奈の野生を呼び起こした。
「暑っ…」
立ち上がってサンダルを履くと既に遠くなった亀井の背中を視線が追いかける。
「えりぃーっ!」
叫ぶと砂を蹴って走り出した。
- 225 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時29分42秒
- 照りつける日差しの強さから一刻でも早く逃れようと風を切って走る。
額ににじんだ汗がすぅーっと引く感覚が心地よい。
亀井を追っていたはずの視線はやがて眼前にきらめく碧色がかった青に釘付けになった。
「れいなぁーっ!」
ひとあし早く水に浸かった亀井は両手を広げて水をすくい上げては麗奈の方に投げてよこす。
濡れないように髪を上げて浅瀬に足を浸けるとひんやりとした感覚が肌を伝って体中を駆け巡る。
「早くおいでぇーっ!」
麗奈はお椀の形に両手を揃えると水をひとすくい。目を閉じて顔に叩きつけた。
バシャッという音とともに感じた冷たさに意識が瞬時、遮断される。
「気持ちよかー」
潮風が頬のほてりを奪っていく心地好さに麗奈はしばらく沖に向かって目を閉じたまま立ち尽くした。
しかし、遮るもののない強い日差しは容赦なく照りつけ、濡らしたばかりの顔面から熱とともに水分をもまた奪っていく。
「れいな、おいでよぉー」
- 226 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時29分57秒
- 「ひゃっ!」
冷やりとした軽い衝撃と同時に亀井が呼ぶ声を背中で感じ、麗奈は振り返った。
「なんばしよっと!冷たかろーが!」
お返しとばかり、相手をめがけて水面をはたくと亀井は待ってましたとばかりにキャー、キャー奇声をあげて喜ぶ。
「すかん!」ジャブジャブ水をかきわけて進むと、麗奈は高速連射砲さながら腕をくるくると大回しに回して水しぶきをあげた。
「うわっ、ちょっと、タイム!タイム!」
両腕で顔を隠しては見るものの次々に跳ねかかる水の勢いに亀井は目を閉じて防戦一方。
麗奈はすかさず速射砲から大砲へと戦術を切り替えた。
両掌を合わせるとお椀の形をしたその容量いっぱいに水をすくい上げ、亀井に向けて思いきりよく放った。
ザブン!と見事に頭の上から対象をとらえた爆撃はしかし両軍に重い沈黙をもたらした。
- 227 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時30分14秒
- 麗奈は両腕をだらりと下げたまま、無残にも大破した敵艦の惨状に目を奪われた。
頭から海水を浴びせられた亀井の髪は碧色に光り、海草かなにかのようにぺったりと頬に貼りついて滴をぽたぽたと垂らしている。
息をしているのか、と思うほど亀井はピタッと止まったままだ。
その時間、数秒。
しかし、麗奈には数分にも思える長さだった。
相変わらず亀井は顔を両掌に埋めたまま微動だにしない。
風が頬を撫でる涼しさがどこか場違いに感じられた。
「――ごめん」
口火を切ったのは麗奈だった。
「……」
おずおずと亀井が掌の間から顔を覗かせる。
その泣きそうな眉毛の下がり具合に麗奈は思わずごめん、と駆けよった。
肩をいだこうとして上げた腕は亀井に振り払われて宙にさまよう。
「――なぁ、ごめん。悪かったて…」
しかし、ぷいとそっぽを向いたまま亀井は返事をしない。
気まずさに何か言わなければとあせる麗奈は思いついたことをかたっぱしから口に出す。
「なぁ、ごめんて…何でも言うこと聞くからこっち向いてよ」
- 228 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時30分29秒
- 「ホント?」
弾むような声に気付いたときはすでに遅かった。
「何でも言うこと聞いてくれる?」
あちゃぁ…
振り向いたその顔に麗奈は敗北を悟った。
相変わらず頬に濡れ髪を貼りつかせたまま三日月のように口をつり上げて微笑む顔が恐ろしい。
亀井の方が一枚上手だった。
「どうしよっかな…」亀井は思案げに首を傾げるとやかて、そうだ!と短く叫び、頬の髪をかきあげながら麗奈に近づいてきた。
満面の笑みはよからぬことを企んでいる証拠だ。麗奈は身構えた。
「たとえばぁ、新垣さんにデコピンして『いつまでデコ出してんだよぉ!』って言う」
やだよ、と言下に否定する麗奈の様子には頓着せず、亀井は上目遣いで何か考える封に、じゃぁあ、と諭すような調子で麗奈に向き直った。
「安倍さんのぉ、ここをこうやって」と言いながら自分の薄い脇腹を摘まんでみせる。
「『もうちょっとですね』と笑顔で言う」
殺されるよ。それもそうだ。
端からまともに取り合う気のない麗奈だが、真剣にそれだけはできそうにないと思った。
- 229 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時30分44秒
- もっとも亀井にしても罰ゲームを考える事自体が楽しいわけで本当に実行を迫ることはないだろうとたかをくくっているところがないこともない。
「それじゃ、おとめ組の集合撮影でぇ、小川さんに『場所違いますよ』って端っこに押しのける」
「……」
濡れた髪が風になびいた。
麗奈は言葉に詰まった。亀井は不思議そうな表情で自分の顔を覗き込んでいる。
「――えっと…」と口にはしてみたものの、何を言ったらいいのか、麗奈は考えながら喋らざるを得ない。
「あのな…絵里ちゃん…」
亀井はなに?と言うように首を傾げた。その邪気のない様子に麗奈は思わず脱力する。
はぁっと息を吐いて麗奈はつぶやいた。
「小川さん…最近ずっと端っこや」
「……」
さすがに亀井も気付いたのだろう。きまりが悪そうにしてやや俯き加減に、ええっと、ええっと、と繰り返している。
麗奈は沖の向こうを眺めた。きらきらと光る水面の果て、水平線が横に長く伸びる。
青空との微妙な境目の上にはとってつけたような入道雲が夏らしさを演出していた。
- 230 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時31分00秒
- 「じゃあね…」
暑い。肌がじりじりと焼ける。あれほど濡れて水を滴らせていた亀井の髪の毛も既に乾き始めて奇妙な形で固まろうとしている。
麗奈はそろそろ帰らないとまずいなと思い、陸へあがろうと言おうとして向き直ろうとした矢先、亀井が突拍子もないことを言い出した。
「藤本さんと石川さん二人がいるところで『やっぱおとめ組のセンターは石川さんですよねえ』と言う」
「はぁっ?」
「だけじゃなくて、石川さんを褒めちぎる。『その肌の色、すごいですよねー、どこの日焼けサロンで焼いたんですか?いやー、夏はやっぱ石川さんの季節って感じですよね』とかー」
「褒めてないやん、それ」
麗奈はからからと声を上げて笑った。それに…
「藤本さんと石川さん、仲悪くないよ」いやむしろ、と麗奈は思った。
「仲よかよぉ。あの二人」
「ええっ?!ほんとぉ?」
亀井は心底驚いたようだった。罰ゲームのことはひとまず置いて二人の仲についての興味を隠さない。
- 231 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時31分24秒
- 「ほんとだよ」と答えながら、麗奈はイメージというものの持つ危うさの一端に触れたような気がして急に冷静になる自分を感じた。
そういえば日差しが強い。本当に。そろそろ戻らねば。
「暑か。あがろ」そう言い置くと亀井の返事を待たずにパシャパシャと水をすくって体にかけながら、麗奈は浜に向って歩き始めた。
慌てて追いかける亀井は背中に向って「待ってよぉ」と困惑したように呼びかけるが、麗奈はずんずんと進んで既に砂浜に到達しそうだ。
「あっつぅ…」
ようやく亀井がさゆみの寝ているパラソルの下へと戻ってきた頃には麗奈は既に横になって目を閉じていた。
収まらない亀井はその横に腰を下ろして麗奈の肘を突付く。
「ねえ…ねえったら」「なんね?」
片目を一瞬開けて、面倒くさそうな口調で答える麗奈が憎らしい。
「教えてよ」「だからなんね?」
とぼけているわけではなさそうなところが余計に癪に障る。二人のやり取りが煩かったのか、麗奈の横で寝ているさゆみが、んんっと小さく唸って眼の上に置いていた腕を持ち上げた。
- 232 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時31分39秒
- 「藤本さんと石川さんの仲」
「ああ、そげんこつばきにしとーが。せからしかねー」
薄目を開けながら早口でつぶやいた言葉は亀井にはよくわからなかったが、なんだかばかにされてるような気がして愉快ではなかった。横では亀井の言葉に反応したのか、それとも二人のやり取りに睡眠を邪魔されたものか、さゆみが薄目を開けて自分の方を窺っていた。
「だってー、気になるじゃん。安倍さんだって、いつも『梨華ちゃん、大変だよねー』とか言ってるし、矢口さんだって『石川には悪いけどオイラこっちでよかったー』って言ってるし…」
「それ、ネタやって」「は?」
見事に決まった亀井八の字眉毛がおかしかったのか、麗奈とさゆみは顔を見合わせて、くふふっという感じで笑った。亀井はもちろん、おもしろくない。さらにその眉毛の尾が下に下がるにつれ、二人の笑い声はカラカラと明るい響きに変わった。
「ねぇ、ちょっと!ふざけてないで教えてよ!」
「いや、だって絵里ちゃんおもしろかー」
「ねえ、その眉毛、絶対おいしいって」
さゆみがややピントの外れた答えを返す間に麗奈は考えた。
- 233 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時31分54秒
- (安倍さんと矢口さんは知っていながら絵里ちゃんをからかっとる)
藤本と石川の仲はいい。少なくとも麗奈が見る限り、どちらかが一方を嫌っているという様子はなかった。石川にとっては初めて迎える同学年のメンバー。一方で、娘。としては後輩にあたることから何かと石川に対しては気遣う藤本。どちらにしても麗奈からすれば大人な二人が世間一般に言われるような修羅場を演じているわけではないのは確かだった。
「えぇーっ、でも藤本さんって、なんか女王様っぽいじゃん」
「美貴帝とか言われてるもんね」
「何それ?」
「さゆみ、インターネットの見すぎばい」
「わかんないっ!」
「わからんでええが」
「もういい!あんたたちに聞いてると何がホントだかわかんないもん!今度、小川さんに聞いとこっと」
「それがいいよ。ね、さゆみ?」
「うん、小川さんはおとめ組の影のリーダーやからね…」
「ああ、もう、あんたたち嫌い!」
ふんっ、と言って立ち上がり、亀井が向った方向に視線を移して麗奈も慌てて後を追った。すっかり海水をかぶって固まった頭髪のためにシャワーを浴びなければならない。
- 234 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時32分10秒
- パラソルの影から離れると再び沖縄の熱い日差しが麗奈の肌を襲った。水着の肩の部分をめくると既にくっきりと白いラインが浮き上がっていた。
(あちゃあ…)
またマネージャーに叱られそうだ。麗奈は小走りに亀井を追いかけた。
ひとこと言ってやらねば気が済まない。
「絵里ちゃん!」「ん?」
だが振り向いた亀井の顔を見て麗奈は何も言えなかった。
「なに?」
尋ねる亀井に対し、答える代わりに必殺技を繰り出した。
「眉毛ビィームッ!!」おでこをピンと弾くとキャハハと笑ってシャワールームに飛び込み鍵をかけた。
- 235 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月16日(月)18時32分25秒
- 「こらっ!れいな、開けろ!こら!」
ドン、ドン、と戸を叩く音を遮るように麗奈はシャワーの栓を思い切り開いた。
シャーッと音を立てて冷たい水が飛び出す。
「ひゃっ」思わず体に向けていたシャワーのノズルを明後日の方向に向けて麗奈は閃いた。
外ではまだ亀井が戸を叩いて何か叫んでいる。
「絵里ちゃん、気持ちよかよー」下から50cmほど空いているドアの下からシャワーのノズルを突き出すと亀井のいるあたりに向けて思い切り栓を開いた。
「キャーッ!」黄色い声をあげて飛びのいたらしい亀井の声を聞いて麗奈はようやく人心地がついて栓を止めた。外ではまだ、れいなはもー、とかなんとかぶつくさいう声が聞こえるものの、気にせずにシャワーの温度栓を捻って温水に設定し、再び栓を開けた。
射出口から噴出す心地よい温かさに身を任せながら、麗奈は上を見上げる。
ぽっかりと四角い口を開けた石垣島の空はテレビで見るものとは、やはり違って見えた。
- 236 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時07分12秒
- ◇
市井紗耶香はカーテンを開いて窓に映る人影にギョッとした。
都会の夜、高層ビルの狭間に徘徊する亡霊の影…
取るに足らない都市伝説のひとつとしてもそのアイデアは陳腐に過ぎて我ながら笑い飛ばさざるをえない。
ガラス越しに見下ろす景色は目映いばかりの光の洪水に溢れ、普段、見慣れたはずのソウルのそれよりもやはり一回りも二回りもスケールが違うと認めざるを得なかった。
久しぶりの東京。
そもそも日本に帰国できたのが久しぶりだった。あの歴史的な日から既に一年以上経っている。
時の流れが早い東京で自分が過去の人となるまでどれくらいの月日が必要なのか、わからないわけではない。
だが、そうは思っていてもやはり、この街に戻れば、一年の歳月などはあってなきがごとく往時の自分の影をそこかしこに色濃く残してやりきれなかった。
ふと、自分は何のためにここへ舞い戻ってきたのだろうと市井は思った。
正直なところ自分が歓迎されているとは思えない。
にも関わらず来てしまったのは、やはり何らかの形で蹴りをつけたい。そう考えているからに違いなかった。
- 237 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時07分30秒
- 一年来の脅迫は今もまだ続いている。日本の警察庁への再三の捜査依頼にも関わらず、その偏執狂的な行為が止むことはなかった。
その律義さに潜む盲信の激しさは、市井が日本に来さえすれば、犯人が必ず何らかの行動に出ることを予想させた。
それにも関わらず市井は日本に戻った。いや、戻ったというのは正確ではない。
市井の活動は相変わらず半島を中心に行われるのであり、今回のツアータイトルも"JAPAN TOUR 2003"である。
経済の復興とともに活気を取り戻しつつある高麗の音楽市場。
その小さなマーケットを巡って香港資本や韓国資本、はては日本のAVEXに代表されるさまざまな国際資本がそれぞれの思惑の元、
あの手この手で参入を果たそうと入り乱れる。
市井はその混沌とした熱気あふれる半島の音楽シーンこそ、自分の居場所と定めていた。
- 238 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時07分51秒
- 市井は決着をつけるつもりでいた。そして、エンターテイメントの世界に生きるものとしての礼儀を果たすために。
ソテジやその他のツアーのサポートメンバーに先だって来日したのは単に家族に会うためや、
かつての友人たちと旧交を温めるためばかりではない。
既にそのための算段は保田に頼んであり、もうじき当の本人が来る手筈になっている。
市井はカーテンを引いて腕時計の時間を確認するとソファに沈み込んだ。
- 239 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時08分05秒
- ――コン、コン、という音が聞こえる。
ハッと市井は起き上がった。いつのまにか寝入っていたらしい。
慌てて飛び上がり、ドアに向かい「どなた?」と尋ねる。
「わたし」と低く答える声は間違いなく保田のものだった。
それでもドアガードを倒してドアを開けねばならないのは忌まわしい記憶のせいだ。
「大丈夫?」と聞く声に周囲を見回して、こくりとうなずく保田。
その様子にようやく安全を確認した市井はバーを内側に戻してドアを開け、保田を招じ入れた。
「ふぅっ。相変わらず用心深いわね」それはこちらの台詞だ、と内心つぶやいて市井は苦笑した。
セキュリティを甘く見てはいけない、という保田の忠告に従ったまでのこと。
実際、気をつけていたつもりでいたあの時だって、少しの気の緩みを突かれて、危うい場面を招いてしまった。
その記憶がある限り、市井が慎重の上に慎重を期すのは当然だった。
- 240 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時08分19秒
- 「それじゃー再開を祝して、まずは――」と言いながら市井の両手は既に冷蔵庫に入れられて缶ビールを二本掴んでいる。
「乾杯といきますか」
保田は、その弛緩し切った表情やだらしなく垂れ下がった眉毛を見て、ああ、紗耶香は戻ってきたんだと思った。
「ちょっと、あんた、まだ未成年でしょ?」
だが、口をついて出た言葉は照れ隠しなのか、やけに杓子定規でこれまた二人がモーニングにいた頃から少しも変わらない。
毎日のようにその景色を変えていく高麗の猛スピードでの経済成長。猫の目のように情勢がくるくると変わる韓国の音楽市場。
激しい変化に身を置きながら、変わらないものを見つけるほうが困難な環境。
そんな中で、市井が表情を緩ませることができるおそらく唯一の相手。それが保田だった。
変わらないのではなく、永遠に変わりようがない、もう一人の存在を除いては。
- 241 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時08分34秒
- 「しょうがないわね。今日だけよ」
言いながらも既に保田はプルトップを引いてプシュッと景気のいい音を響かせている。
「はい。じゃー圭ちゃんの健康と輝かしい未来を祝してかんぱーい!」
「かんぱい」
カチリと缶を軽く合わせて冷たい刺激を喉に流し込む。
プハーッ、炭酸にしまりがないように感じてしまうのはホテルの冷蔵庫であればしかたがないか。
キリッとした冷たい韓国ビール、ハイトを飲みなれた市井には少し物足りないが、
それでも旧友と顔を突きあわせて飲む酒はまた格別だった。
「でさ、圭ちゃん」
市井は顔を赤らめながら保田に例の件の首尾を尋ねた。
「ああ。先方はいつでもいいって。わざわざお気遣いいただいて申し訳ないってさ」
「そう…」わざと何気ない風を装ってはいるものの保田だって辛いに違いない。
- 242 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時08分59秒
- 痛ましい事件だった。
まだ後藤の死から間もないモーニングのコンサート。
そのショックの覚めやらぬ中、後藤の死を悼み、哀切の意を表するために後藤のファンは黒い腕章をつけてコンサートに臨んだ。
機を見るに敏な事務所が急遽仕掛けたシングルは哀悼歌として、久しぶりに50万枚を越える売上げを上げていたが、
その売らんかなという姿勢にはファンの間でも賛否両論を巻き起こした。
その哀悼歌の演奏が終わり、メンバーによるMCが始まってしばらくたったところで異変は起こった。
仲間たちが後藤への思慕を涙で綴る中、唯一人、苛立たしそうに会場の一角を睨みつけるメンバーがいた。
吉澤ひとみだ。いよいよ自分の番が回ってこようというところで異変を察知したリーダーの飯田が何事か声を掛ける。
それほど彼女の様子は異常だった。
その時点では会場も含め、その場のすべての人間が、彼女か何を口走るかわからないという危惧を抱いていた。
- 243 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時09分09秒
- 飯田からマイクを受け取った吉澤は開口一番、
『おまえーっ、なんのつもりだーっ!』
指差した方向には、「市井」という文字の書かれた紙を掲げた青年の姿があった。ギョッとしたのは青年だけではあるまい。
その場にいたものすべてが、まさか本当に発せられるとは思わなかったその言葉に動揺した。
慌てて吉澤を抑えにかかる飯田や矢口の腕を振り切って吉澤は続ける。
『ごっちんが死んだのはあの女のせいだろーがっ!ふざけんなよっ!市井が死ぬべきだったんだよ!』
その一言で静まり返っていた会場がざわざわとし始めた。名指しで批判された青年はそれでも市井の名前を掲げながら震える声で叫ぶ。
「市井さんは悪くないですよ!」
呼応するように会場の各地から「そうだ」「紗耶香は悪くない」と擁護する声が聞こえ、会場に広がりつつあったざわめきは次第に怒号へと変わっていった。
- 244 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時09分30秒
- 「市井が死ねよ!」「そうだ、ごっちんを殺したのは市井だ!」「市井を殺せ!」
意外にも小競り合いの中心となったのは吉澤のファンだった。
「止めて!」「」みんな落ち着いて!子供もいるのよ!」
安倍の甲高い叫び声は、落ち着かせるどころか逆に火に油を差す結果となった。
当初静観していた後藤のファンも次第に加勢し始め、騒ぎは収拾がつかなくなった。
脅えた表情で成り行きを見つめていたステージのメンバーたちは慌てて飛び出したスタッフによって袖に引き戻され、
会場に明かりが灯された。警備の人間が拡声器を通して騒ぎを静めようと躍起になって何かを叫んでいるが、
ひび割れた声が何を言っているのかほとんど判別できないほど、会場の喧騒はすさまじかった。
- 245 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時09分46秒
- 突然、ステージ横の大画面が文字を映し出した。
「本日の公演は中止」
ええーっ!という声はやがて阿鼻叫喚の惨状と化した会場の喧騒に掻き消され、
混乱を避けようと出口に殺到する観客の押し合いへし合いする悲鳴が取って替わった。
子供が押し潰されそうになるのを「止めてぇーっ!」と訴える母親の声、「通せよ!」とすごむ男の声、泣き叫ぶ子供の叫び声。
やがて地元の警察と消防署員が到着して誘導するまで、優に30分間は地獄絵のような惨状が繰り広げられた。
騒ぎは、そもそもの発端である市井の名前を掲げていた青年の死によって締めくくられた。
混乱の中で青年の掲げていたはずの紙はずたずたに引きちぎられ、その痕跡を止めていなかった。
その紙切れ同様に多数の人間に踏みつけられ、圧死した青年のニュースはいかな事務所も止めることはできず、
その日の夜のうちに、多くのテレビ番組で「ニュース速報」としてテロップで報じられた。
- 246 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時10分02秒
- 青年の遺族への慰謝料。当然のようにキャンセルされたその後のコンサート。
活動自粛によるさまざまな活動の制約による収入減。
その一事が一体、どれほどの損害を事務所に与えたか、その影響は計り知れなかった。
哀悼歌で多少なりとも上向いた収益は一夜にして消え去り、代わりに多額の負債を残す結果に終わった。
騒ぎを起こした張本人である吉澤の処分はその日のうちに決まった。
モーニング娘。及び芸能界からの永久追放。
直ちに回状が主要な媒体と大手の芸能事務所に送られたことで、いかに事務所、つまり山崎会長の怒りが凄まじかったかがわかる。
だが、この断固とした処置が奏効してモーニング娘。はなんとか解体の危機を免れた。
もちろん、故人となった犠牲者の家庭にはすぐに事務所の社長とともにメンバーを代表してリーダーの飯田が駆けつけたことも反感を和らげた。
子供や若年層を主要な支持基盤とするモーニングにとって後藤の死に続き、コンサートで一般人を死に至らしめるほどの騒ぎを起こしたことは致命的な痛手となるはずだった。事務所は吉澤ひとりに罪を被せることでこの難局を乗り切った。
- 247 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時10分21秒
- 以来、市井の元には後藤の死を防げなかったばかりか、その死を冒涜しているとの理由で市井を憎む者、吉澤の処分に怒りを隠せず、
その怒りの矛先を市井に向ける者、双方からの嫌がらせの手紙が引きもきらず、毎日のように送られて来る。
韓国だけに日本から近いとはいえ、国際郵便であればその料金もばかならないだろうに。
その情熱は市井を日本から遠ざけるに充分な効果を与えていた。
だが、いつまでも事実から眼を背けているわけにはいかない。
人間として、最低限の礼を尽くすため、市井は日本に来た。
そして、危険な兆候は既に現れている。
用心に用心を重ねることは、自分のみならず、関わってくれる保田やその他の人々を巻き添えにしないため必要であった。
- 248 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時10分43秒
- 俯いて唇を噛み、黙りこくった市井を案じたものか保田はことさらに明るい口調で鼓舞するように励ます。
その様子が過度にふざけたような調子にならないあたりが保田の人徳だろうか。
「紗耶香のせいじゃないからさ。気にしなさんなって。まー、そうは言っても、無理かもしれないけど」
保田はビールを一口あおると、でもさ、と続ける。
「紗耶香の気持ちを理解して最期まで信じてくれた人がいるって嬉しいよね」
優しい口調に変わったことで市井の心は堰を切ったように激しい涙の奔流となって頬をつたい落ちた。
その言葉をどれだけ待っていただろう。
「大丈夫。今はまだ少数だけど、いつかそのうちきっと…ね?」
背中をさすってくれる保田の手が温かかった。
- 249 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時11分05秒
- 後藤をみすみす見殺しにした上、己が欲望にしたがった高麗政権の走狗。
死者を貶(おとし)め、掌を返したように旧友を批判した変説漢。
どれだけひどい言葉で罵られ、嘲(あざけ)られてもしかたがない。
自ら進んで口にしてきたのだ。
『人民の敵、後藤の死により高麗の第一歩は始まる』
『旧北朝鮮の独裁者に寵愛された憎むべき人民の敵』
『独裁者の金と力に魅せられた愚かで貪欲な女』
混乱。後悔。激しい自責の念。
取り乱すことさえ許されない要職にあって、唯一、心のバランスを崩さずにいる方法は積極的に後藤を、
いや、独裁者、金正日の最後の妻としての後藤を罵り、貶(おとし)める行為にしか見出せなかった。
後藤の死を無駄にしてはならないという焦り。
後藤の死によってひとつの時代が終わりを告げたのだという安堵感の創出。
二人の関係を、ともに東海(日本海)を渡ってきた知己であり、無二の親友と捉えていた周囲の人々は、
掌を返したような市井の豹変ぶりに驚かされたが、大多数の国民は祖国解放の英雄、市井准将の態度を歓迎し、
旧体制への怒りの矛先を後藤に向けた。
- 250 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時11分18秒
- 心に鎧をまとうのは難しいことではなかった。
後藤に対する呪詛や怨嗟の言葉を吐くとき、市井は確かに自らの怒りをぶつけていた。
自分に何も言わず逝ってしまった友への怒り。
取り残されたものの悲しみ。
そのような怒りともどうこくともつかぬ激しい衝動を市井は金正日の情夫に仮託して糾弾した。
罵り、蔑むことで心の渇きが満たされるとでもいうように。
だが、国民が歓呼の声で市井を迎える一方で、海を挟んだ向い側の国では市井への非難の声が高まった。
当然の話だ。市井がモーニング娘。の一員であったことは(もはや忘れられつつあるとはいえ)変わりようのない事実であり、
その市井がともにメンバーとして活動した後藤を悼むどころか誹謗中傷の限りを尽くし、死者に鞭打つ暴挙に出たのだから。
- 251 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時11分32秒
- 保田の話によれば、メンバーにも今や市井を庇うものはいないという。
後藤への哀悼の意が強ければ強いほど、そして吉澤への憐憫の情が強ければ強いほど市井への憎悪は高まり、厳しい拒絶の態度が現れるという。
渦中にあって事情を理解し、当初、市井の立場を伝え、メンバーの理解を得ようとしていた保田の試みも今となっては、
メンバーの嫌悪感を増幅する役割しか果たさない。
あろうことか、保田自身も事実上、モーニングへの出入り禁止を言い渡されとしまっている。
- 252 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時11分46秒
- そんな中、見も知らぬモーニングの新メンバーが自分に会いたがっているという話を保田から持ちかけられたとき、
市井はあまり好意的に捉えることができなかった。興味本位としか思えなかったし、そもそも、会ってどうしようと言うのだろう。
「後藤の話が聞きたいんだってさ」
自分の心を見透かしたように保田が切り出す。
その少女に会う、とはまだ決めていない。決めかねているのだ。
「あの子なりに考えてるみたいよ。後藤がなぜ自分から処刑されることを願い出ねばならなかったのか」
「圭ちゃん、何でそれを?」
保田には伝えていないはずだった。自分が後に金永南から聞いた後藤との最後の会見の様子は。後藤の死を無駄にしたくない。
そう強く願い、心に鎧をまとって生きると決心することができたのは、その想いを受け止めることができたからだ。
だが保田はどうしてそれを…
- 253 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月19日(木)18時12分17秒
- 「わかるよ」ぐい、とビールをあおって市井の顔を正面から見つめた。
「あの子の考えることだからね」
「圭ちゃん…」
「だから、吉澤にもきっとわかるはずなんだ…」
寂しそうに俯く保田の顔は光線のあたる角度が変わるとひどくやつれているように見えた。
「期待してるんだ、わたしは」市井の顔を見上げて保田は言う。
「田中麗奈って子にね」
市井は無言でうなずいた。
- 254 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時12分10秒
- ◇
空には一面の星。
寄せては返す波の音。
砂浜を渡る夜風は昼間の暑さが嘘のように心地好く並んで座る二人の間を駆けぬける。
これで横にいる相手がさゆみでなくて誰か格好いい男の子であれば最高にロマンティックなシチュエーションなのだが、あいにくと同い年のこの相棒の興味は海亀が産卵に来るだろうかといった少し違う方向に向かっている。
煌々と波間を照らし出す月の明かりを頼りに夜の浜辺へと繰り出したはいいが、昼間の疲れからか、さゆみは既に目がとろんとして今にも寝入りそうだ。
肩にさゆみの頭の重さを感じながら麗奈は時折白い飛沫をあげて砕け散る波のうねりに目を凝らしていた。
- 255 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時12分46秒
- 『後藤はね、自ら進んで死刑を希望したんだよ』
保田の厳かな低音の響きを今も肌に感じる。保田の話してくれた内容は大筋で巷間伝わっているものと変わらなかったものの、それぞれの事象にまつわる背景や当事者の意図は、結果として現れた事実からは類推することさえ難しいものばかりだった。
『なんでだと思う?いや、何のために?って質問した方がいいかな』
一方的に話すだけでなく、ときどきそうやって麗奈の理解を確認するような問いを保田は投げかけた。
もとより麗奈にとっては雲をつかむような漠然とした話ではあるし、とても当事者の心境を慮かるほどの想像力もない。麗奈の手には余る質問であったが、保田は容赦なく畳み掛けてきた。
- 256 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時13分04秒
- 『当時、私たちは後藤の減刑嘆願運動を行っていた。正直、死刑どころか、すぐに釈放されるって高をくくってたわ。私たちの常識からすればそれが当然だったのよね。アメリカでも日本でもヨーロッパでも、その感覚は変わらなかった。少なくとも、人権意識のある程度確立された文化のもとで呼吸をしている者には、そもそも後藤の拘束自体、根拠が薄弱だと映っていたのだし』
そう一気に言いきってから喉を潤すため手に取ったカップにはすでにコーヒーは残っていなかった。ウェイトレスを呼んでおかわりを飲んだ方がいいのかとも思ったが、もし保田にコーヒーを飲む気持ちが無くなっていたとしたら迷惑になる。逡巡しているうちに当の保田がウェイトレスを呼んでおかわりを頼んでしまった。麗奈はあのとき、やはり自分が頼んでいた方がよかったのかな、と思い返す。保田は別に責めはしなかったけれども、わざわざ呼び出した立場としては、やはりゲストである保田の手をわずらわすべきではなかったのだろう。都会での生活は一瞬、一瞬が勉強の毎日だ。
- 257 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時13分20秒
- 『ところが世の中にはまったく違う考え方というか行動原理で動いている人がいるのね。あのときは思い知らされたわ』
おかわりのコーヒーに一口つけると、保田はほっとしたといった風情で応時を語る。
いい加減、自分に質問しているのを忘れたのか、と思ったところで保田は再び尋ねてきた。
『で、何でだと思う?』
麗奈にはわからなかった。自ら死刑を求めるとはどういうことだ。消極的な自殺と考えればいいのだろうか?では、自殺しなければならない理由とは何か。そこで麗奈の思考は行き詰まる。逮捕拘禁されている身とはいえ、助かる方策があるならそれにすがるだろう。麗奈にはわからなかった。その旨を告げると保田は山猫のように大きく見開かれた眼をわずかに細めて告げた。
- 258 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時13分35秒
- 『じゃ、次に会うまでの宿題にしよう。後藤がなぜ、自ら処刑されることを望んだか』
その「次」の機会がもうすぐ近くに迫っている。相変わらずこれといったアイデアは浮かんでこないが、昼間、亀井と交わした会話の中に引っ掛かるやり取りがあった。亀井は藤本と石川の仲は悪いのだと言い、麗奈は二人の仲は良いと言った。同じ事象を見ているはずなのに、見る角度によって、まったく異なった印象を二人が抱いている、そのことに麗奈はどこか、冷静にならざるを得ない何かを感じていた。
安倍はともかく出戻りの分限でメンバーの噂話に花を咲かせる矢口の態度はどうかと思う。確かに一度卒業したのに、いろいろあって大変なモーニングに請われて戻ったのは本意ではないのかもしれない。だが、それにしたって右も左もわからない新メンバーに誤った印象を植えつけるような情報を与えるなんて――
- 259 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時13分50秒
- そこまで考えて、ふと、麗奈は違和感を覚えた。なんだろう?何かが違う。矢口は出戻りだ。卒業後はレポーターやバラエティ番組への出演を中心にモーニングとは一線を画す存在感を芸能界で示してきた。つまり、モーニングとの接触はほとんどなかったということだ。そして――はた、と気付いた。矢口は保田やソニンとともに市井や後藤の救出活動に携わっていた。石川はともかく、藤本とはほとんど接触はないはずだ。その矢口が石川と藤本の不仲説を公言することにどんな意味があるのか…
麗奈は寝息を立てて寄りかかるさゆみの頭を膝の上に乗せてその長い髪を撫でた。
波の砂浜に寄せる音だけが二人を包む。海亀はあがってこない。
波の狭間が月の光を受けて白い縞模様を織りなす。
- 260 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時14分05秒
- 麗奈は思い出した。矢口はミニモニの企画によりキャラクタの商標権などCDなどの媒体の売上以上に事務所の収益性に貢献した功労者と言われている。さすがに麗奈の年になるとミニモニのキャラクタグッズを身につけるということはないが、小学生のときには低学年の女の子がミニモニの衣装を模した服を来たり、バッグを手にする光景を何度も眼にしている。矢口には何かよくわからない特権が与えられている。と同時にさくら組のリーダーである安倍以上に、事務所のビジネスに沿った言動が備わっていると感じることが一度ならずあった。ある意味、矢口の行為自体が事務所の指針を現しているのだと言えなくもない。そこにどういう事情があるのか麗奈はよくわからない。ただ、矢口の意見を単なる個人的意見の表明と捉えてはいけないのではないか。突然、そんな考えが頭の片隅を過(よぎ)ったのは、やはり昼間、亀井と交わした会話のせいだろうか。であるならば…
- 261 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時14分19秒
- そうだ。藤本と石川の不仲、というのは要するに事務所が世間に対して、そのような構図のもとにモーニングのあり方を見せたいとの方便なのだ。矢口はその方針の忠実なスポークスマンに過ぎない。ライバル関係にあるはずの二人が仲良し関係では困る、ということか。実際に、二人の私生活にまで口出しできない事務所としてはせいぜいイメージとしてのライバル関係を意図的に演出しなければならない。それならば、事情をよく理解しない亀井が二人の不仲は事実だと思い込んだとしても不思議ではない。ワイドショーなどでよく見る芸能人同士の確執なども大方はそのたぐいかもしれない。麗奈はなんだか鼻白んでくる自分に言い聞かせた。
- 262 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時14分32秒
- 同様に、後藤の死にもなにかそうした意図が隠されているはずだ。
麗奈は、先程、覚えた違和感の正体に思い当たった。後藤の死。金正日の最後の情夫。民主主義の敵。これらのキーワードがすべて虚構だとすれば、実体はどこにある?
まず考えた。後藤がもし処刑されずに生き延びていたなら?
保田らは今も後藤の減刑嘆願運動を続けているだろう。何も動かないことになる。日本の国民感情も冷えたままだ。あの元モーニング娘。の後藤真希がいわれもなく囚われている。これは日本の民主主義に対する挑発だ。あの国は何も変わっていない。そう思われるのが落ちだろう。その意味では後藤の死により、確実に両者は前進することができた、とはいえそうだ。その進んでいる方向が果たして正しいのかどうか、誰にも判断はできないだろうけれど。
- 263 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時14分46秒
- ただ、腑に落ちないのは高麗の国民感情だ。日本で生まれた後藤がいかに在日朝鮮人であったとはいえ、金正日の金と力に魅せられて堕落した、という理解には無理があるのではないか。少なくとも自分はそのような説明に納得はできないし、何か嘘臭いものを感じる。
高麗の国民感情か…
それは麗奈の理解の範疇外にある。今度、市井に会うときに聞けるだろうか。すやすやと寝息を立てて気持ちよさそうに寝入るさゆみの横顔は月明かりのもと白く儚(はかな)い。麗奈もやがて単調に繰り返す波のリズムに眠気を誘われた。肩を軽く掴んでさゆみを揺り起こすとホテルの部屋に戻ろうと告げた。薄目を開けて、海亀来た?と尋ねる相棒に対し首を横に振ると、そう、とつぶやいて再び眼を閉じてしまった。麗奈は子供のようなさゆみの態度に苦笑しつつ、市井と後藤、そして保田、三者の関係を思い起こした。自分とさゆみが同様の境遇にあったとして、自分はさゆみのために命を投げ出せるだろうか…
- 264 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月23日(月)18時15分14秒
- 波が寄せては返す。単調なリズムの繰り返し。やがて本格的な眠気に襲われた麗奈は、今度はしっかりとさゆみを揺り起こしてホテルへと引き返した。月は煌々と輝いて夜道を照らす。だが、自分とさゆみが果たしてどの道を進んでいくのか。前途は見えなかった。
- 265 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時30分37秒
- ◇
市井は再びカーテンを半分開けた窓ごしに夜の街を見下ろしていた。
このあふれるような光の洪水にはとても及ばないものの、平壌の街にも明かりが灯るようになって久しい。
市井が今はいないあの男に連れられて渡った当時、節電のため、平壌の街には街灯ひとつ燈ることはなかった。
そんな中、市民に供給されない電気は独裁者金日成の巨像をライトアップされるために費やされていた。
その巨像も平壌開放直後に市民の手によって引き倒され、今はない。
日ごとにその表情を変えていく巨大都市平壌。
あの街がこの東京ようにまばゆいばかりの光で満たされるのは、そう遠い日のことではないだろう。
そのとき、自分はどのような感慨をもってその光景を眺めるだろうか。
- 266 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時31分20秒
- 保田に尋ねられたとき、市井は答えに窮した。
『いつ日本に帰ってくるの?』
こうして今、帰ってきている、と答えようとした市井を遮って保田は表情をひき締めた。
『ずっと向こうで暮らすつもりなの?』
長い沈黙のあと「わからない」という一言をやっとのことで絞り出したとき、既に保田はこくりこくりと白河夜船を漕いでいた。
ワイン一瓶を開けて上機嫌のうちに寝入ってしまった保田の横顔に一瞥をくれると、市井はベッドに体を投げ出し天井を見つめた。
平壌で最後に金永南と交わした会話を思い出す。
『問題は市井同志、あなたがいつまでこちらの市民として暮らすことができるか。そこにある』
郊外の小高い山の上に建てられた西洋風の自宅。市井は久しぶりのオフをその庭園で英国流に午後のお茶としゃれ込んだ老人につきあっていた。
既に政治の表舞台から遠ざかっているものの、依然、その偉丈夫は健在で、健康的に日焼けしたその顔から、開放以来、急ピッチで各地に建設されたゴルフ場で鍛えた様子が見て取れた。
- 267 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時31分51秒
- 『いつまで…ですか?』
『そう、国民の大多数はいずれあなたが日本に帰るだろうと考えている。いずれね』
市井は、それのどこが問題なのだろうと訝しんだ。今、すぐに帰ることはありえない。
しかし、先のことは誰にもわからない。はっきりしたことを言えないのは自分の不誠実さの仕業だとでも言うのだろうか。
金永南は市井の憮然とした表情に顔を綻ばせた。きっと孫を前にしてもこのような笑い方をするのだろう。
市井はやはり、この人の前では自分をさらけ出さずにはいられないのだと悟った。
『しかし、後藤の名誉回復と私の滞在に何の因果関係が…』
『真希同志の名誉回復は慎重の上に慎重を帰す必要がある。君はトロツキーがフルシチョフによってその名誉を回復されるまで、どれだけの月日を要したか覚えているかね?』
『20年以上…』
『そうだ。決して短い年月ではない。フルシチョフはスターリンが死ぬまで待たねばならなかったが、同様に市井同志、あなたも改革が軌道に乗り、我が国の実力が韓国と肩を並べるまでそれを待たねばならないだろう』
- 268 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時32分01秒
- つまり真実を知る二人のうち金永南が生きている間は、後藤の名誉が回復されることはない。
そう市井は判断した。高麗が韓国と比肩しうる経済的実力を有するまで…
それは途方もない道のりに思われた。急ピッチで進む市街の変貌は意外に早い高麗の成長を予感させる。
だが産業基盤の確立なしに増加する支出は負債の増加以外の何ものをも意味しない。
性急な開発熱は国内に有望な融資先を見出せずだぶついていた日本の金融資産を乾いた砂が水を吸い込むほどの貪欲さで吸収していた。
『そのときがくれば…国民は真実に眼を向けてくれるでしょうか?』
『人間、生活に余裕が出てくれば考え方も柔軟になるということだよ。包容力と言ってもいい。今はまだ余裕がない。その時期ではないのだ』
自分はいい。だが、それまで後藤は死してなお、汚名を被り続けなければならないだろうか。
一番やりきれないのは、高麗はともかく、日本でまで後藤の処刑が独裁者一族に連なる者への裁きの結果として正当化されていることだった。
- 269 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時32分17秒
- 高麗の場合はある意味、そう思い込むことで旧政権という悪夢との決別を図る自己催眠的な機能を国民自らが果たした側面がある。
だが、日本の場合はどうだろう。無責任なマスコミによる興味本意な報道のしかたが後藤に要らぬ汚名を着せたとは言えないだろうか。
市井は考える。それは耐えられないと。さらに耐えがたいのは、そのことでかつての仲間までが、後藤への想いを素直に吐露できない環境にあることだ。
『高麗ではしばらく後藤に悪役のままていてもらわなければならないのかもしれません。しかし、日本では…いや、かつての仲間だけには真実を知っていてほしい。これは個人的な希望ですが…』
『気持ちはわかる。だが、みな体制の下で暮らしていることには変わりない。日本が民主国家であることと、それはまた別の問題だ』
金永南は表情を引き締めた。そうだ。それこそ後藤が求めた結果に違いない。後藤の死は決して無駄ではなかった。
だが、意図した結果が得られた今、なぜ、真実を知らしめてはいけないのか。市井には納得できそうになかった。
- 270 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時33分33秒
- 『その後、金正日の捜索の方は?』
金永南は閉じた口を横一文字に結んで首を横に振った。
『瀋陽以降の消息は掴めていないのですか?』
『そもそも瀋陽に現われた人物自体が10人以上はいると言われる影武者であった可能性が高い。本人は整形してどこか我々の想像もつかないところで余生を送っているのかもしれない』
『そんな…』
やりきれない、と市井は思った。権力をほしいままにし、その結果、国を滅ぼそうとした男。
真に裁かれるべき男がのうのうと暮らしていて、後藤がその罪を一身に背負って死んでいった経過を高みから笑っている。
想像しただけで髪の毛が逆立ちそうなほどの怒りを覚える。
- 271 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時33分55秒
- 『そもそも、あの時点ですでに「本物」の金正日が誰だったのかさえ、今となってははっきりしないのだ』
『え?』
『内戦に入る頃、すでに血縁の側近以外は近づけなくなっていた。それ以前から時折、党指導部や人民軍の視察に現われる指導者の姿は影武者ではないかと疑う声があった』
『では「本物」はすでに亡くなっていた可能性さえあると…』
『いずれにしても金正日と名乗る者の身柄を補足してみなければ始まらん話だがね』
金永南はそういってポットから自分のカップに茶を注いだ。ほのかに届く香りの薄らぐのを待って市井は尋ねた。
『スイス銀行の口座は相変わらずですか?』
答えるのもいまいましいと言わんばかりに金永南は市井から視線をはずして遠く、平壌の街を見つめた。
『UBSには当局の資金口座管理の業務委託をちらつかせてみたんだが金正日名義の口座はないの一点張りだ。常にクーデターを予測して架空名義やらなにやら、個人資金管理専門の経済官僚がいたくらいだ。そう簡単には見つからんだろう』
『では、今頃、金正日、あるいはその影武者一味は…』
『優雅に余生を楽しんでいる可能性は否定できんな』
- 272 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時35分21秒
- 市井はやりきれなかった。
後藤の死はたしかに無駄にはならなかったが、それがゆえに金正日の身柄を抑えるためにそれほど熱の入った捜索活動が行われているとは言い難い。
政府としては、そんな過去の亡霊のために予算を注ぎ込むよりも、新たな国家建設事業のために各国からの援助を活用したいと考えているだろう。
だがそれも無理はなかった。高麗は無からスタートしなければならない。この国はすっかり、あの男とその一族に毟り取られてしまったのだ。
『いるとすればやはり、朝鮮族の多い吉林省あたりですか?中国も金正日には同情的と言われているし』『いや、わからんな。意外に韓国…日本だって考えられる』
『日本!まさか…』
『こればっかりはわからない。正日があなたや真希同志を拉致してきた理由を考えればありえないことではないと思うがね。日本の公安の能力が低いことも仮に潜伏を考えた場合、有力な材料となりうるはずだ』
『そんな…日本に潜伏だなんて…』
『飽くまでも仮定に過ぎん話だがね』
- 273 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月26日(木)19時35分46秒
- 市井は保田の寝顔を見つめた。
もし、この日本に金正日一味が忍び込んでいたら…想像さえしたくなかった。後藤の人生を破滅に追い込んだ張本人。
悔しさと悲しさ。その感情は、あのときから少しも和らぐことはなかった。
むしろ、その後に付随して起こった悲劇は今も市井の胸を締め付けて止まない。
市井は保田の横に倒れこむと、明日、自分のために死なせてしまったファンの遺影に向ってかけるべき言葉を頭の中で反芻した。
本当に申し訳ない…でも、本当に嬉しかった…
好きな人のために、信じる人のために。自分も死ぬことができればどれだけ楽になれただろう。
市井は羨ましくさえあった。それは一人、茨の道を行かざるを得ない自分にしかわからない心情だと思った。
市井はもう一度、保田の横顔を見つめた。幸せそうな寝顔…
その表情に引き起こされた何かどす黒い感情に市井は戸惑った。
そして、そのどす黒い感情に身を任せた瞬間に、自分が護ってきたすべてを一瞬にして失うであろう。
そのことを理解しているだけに市井は恐れた。
あいつが現れないことだけを。
- 274 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時32分40秒
- ◇
ミュージカル終演後、メンバーを集めての発表があった。
すわ一大事と血相を変えるメンバー達をよそに飯田は落ち着いてマネージャーの言葉に耳を傾ける。
小川が腰を捻挫した。早い話がぎっくり腰だ。なに、それ?まこっちゃん格好悪い。
冗談のつもりで茶化す同期の言葉を飯田が眼の力でたしなめる。
たいした怪我ではないし本人も出演を希望しているが大事をとって3日間休養させるという。
本人が望んでいるなら出演させてあげればいいのに、とも思ったが飯田は深く考えなかった。
詮索してもしかたのない問題は放って置くに限る。モーニングで6年もやっていると自然に身に付く処世術だ。
それは念願のソロ活動を開始した安倍も同様だろうし、どういうわけかモーニングに舞い戻ってきた矢口もまたしかり、だ。
- 275 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時33分13秒
- 「おつかれさまー」「また、あしたー」「じゃーね」
若いメンバーたちから楽屋を出ていくと後には飯田と石川の二人だけが残った。
沈滞気味の空気を振り払おうと石川が無理にはしゃいでみせる。
「ねー、聞いてくださいよー、阪神、また勝ったんですよー。すごいでしょー、もう、負ける気しないんですよね、最近」
うるさいと思いつつも矢口のようには一蹴できない。
それなりにつき合ってしまう自分はやはりリーダー向きなのかもしれない、と最近、思うようになった。
「えー、何?野球?石川って、なんちゃって阪神ファンじゃなかったの?」
「もー、何言ってんですか?石川は子供の頃から筋金入りの阪神ファンじゃないですか」
「ふーん。阪神ファンってこうじめじめする季節に出てくるよね。ゴキブリみたいっていうか」
「ひどいじゃないですか?ゴギブリといえば茶羽夫人のごっち…ん…」
石川は視線を落としてうつむいた。沈黙が見えない鎖となって二人を縛る。
- 276 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時33分47秒
- しばらく経って、ようやく呪縛の解けたかのように飯田がすっと立ち上がり、つかつかと石川の方に歩み寄った。
ビクッと肩を震わせて不安げに飯田を見上げる石川の表情は既に謝っている。
飯田は無言のまま石川の髪をすくい上げると小声で尋ねた。
「最近、6期メンバーが圭ちゃんと会ってるらしいんだけど…知らない?」
「圭ちゃん」の言葉に反射的にうつむいていた顔を戻した石川は、首を横に振りかけて「あ」と短く声を上げた。
「そういえば小川が…」
「小川?」
飯田は怪訝そうに首を傾げた。小川がなんで圭ちゃんと?
- 277 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時34分50秒
- 「石川、なんで知ってんの?」
「ミキティが、焼肉食べたいって言ってぇ」
飯田の眉がつり上がった。
「はぁ?焼肉ぅ?」
「いえ!いえ、違うんです!違うんですよ。なんで焼肉なのって聞いたら」
「聞いたら? 」
「まこっちゃんがひさぶりに保田さんに電話してぇ」
「電話して?」
自分の顔を除き込む飯田の大きな眼から逃れようと早口で石川は言いきった。
「保田さんに焼肉おごってもらう約束したって聞いて食べたくなったって」
飯田は石川から視線をはずして考え込んだ。
「小川がねえ…」
- 278 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時35分20秒
- 石川はひとまずプレッシャーから逃れた気安さからか口が幾分軽くなった。
「そのときに、小川がどうも麗奈を保田さんに会わせるんだ、みたいなことを言ってたらしいんです」
「ふーん…ところで」「はい?」
「小さい子の前で後藤の話したらだめだよ。もちろん、あの――」
「――はい…」
飯田がすべてを言い終える前になきそうな顔でうなずいた石川は眉を寄せたまま再びうなだれた。
石川の肩を軽く叩くと飯田は優しい口調に戻って告げた。
「小川の様子見に行ってくる」
「え?今からですか?」
すでに夜も10時を回っている。
「寝てますよ?」
「悪いけど、起こしちゃおっかな」
いたずらっぽく笑うと飯田はフレア状のパンツの裾を翻してさっそうとドアを開けて出ていった。
- 279 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時35分56秒
- 残された石川はしばらく呆然とその後ろ姿を見送ると、思い出したように携帯をバッグから取り出してその番号を押した。
相手が受話器を取るのも待ちきれないというように、携帯をギュッと耳に押しつける。
8回目のコールが鳴ったところで、ようやく相手が出た。
「もしもし――うん――今いない――そう、大丈夫だから」
声を潜めながら周囲を見回す。
「うん、誰もいない――わかってる。それじゃ」
石川は通話をオフにして携帯をパタンと閉じた。バッグにしまうとドアを開けてもう一度周りを見回した。
- 280 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時37分26秒
- 誰も見ていないことを確かめると、廊下を小走りに渡って関係者出入り用の裏口へと向かう。
裏口を開けると門を出てすぐの路上にエンジンをかけたまま一台のタクシーがすでに後部座席のドアを開けて待っていた。
「お待たせしました」
石川は短く声をかけるとためらわずにドアを潜って車に乗り込んだ。
ドアが閉まると車はゆっくりと発進し、角を曲がって大通りに出ると一気にスピードをあげて走り去った。
たしかに劇場内部から石川を尾けるものはいなかった。
たが、そのタクシーを追う一台の車が直後に大通りの路上から発進したことに石川は気付いていなかった。
- 281 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時26分10秒
- 光が流れる。眠らない街、新宿。
石川はバッグを握り締め、泣きそうな表情で車窓に映る自分の顔を睨みつけていた。
やがて明治通りから靖国通りにへと入り夜の街が妖しい彩を放つ区域に近づくと運転手に場所を告げる。
煌びやかなネオンもまぶしい一番街の看板を遠くに見ながら手前を曲がり、区役所を過ぎたところでタクシーを停めた。
足早に目的地へと向かう。歌舞伎町二丁目。コマ劇場の裏手から職安通りに抜ける並びの端。
明かりもまばらな通りの一角に気をつけていなければ見過ごしそうなほど小さな入り口がぽかりと開いている。
石川は用心深く周囲を見回して誰も自分に注意を向けていないことを確認すると、背を屈めて間口の狭い入り口を潜り、地階へと続く階段を降りていった。
黒く重厚な趣のドアはそれ以外のすべてが安物めいて見えるのとは対照的に不釣合だった。
初めてのとき、石川はそのどこか拒まれているような感覚に戸惑った。
ドアが立派なのはそれなりに理由があるのだと言って聞かせた相手の虚勢を張るような態度にどこか危うさを感じた。
- 282 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時26分47秒
- だから、また来てしまった。このドアの前に立つと今でも緊張で足かすくむ。
足を踏みいれてはいけない領域への扉。その扉を石川は再びあけようとしている。
今日こそは言わねばならない。もう、こんなことは止めなければならない、と。
ぐずぐずしているわけにはいかなかった。扉の前は隠しカメラで監視されていると以前に聞いた。
軽く手を触れただけでドアは前に動いた。あっけないほど簡単に。
カメラで人相風体を確認した上でロックを解除しているという。
それを教えてくれた相手は薄暗い奥の席に座り自分を見つめていた。
ドアが閉まると暗い穴倉にでも潜り込んだかのような倉さに足許さえおぼつかない。
暗がりに目が慣れるのを待ってカウンターと平行に延びた細い通路を奥へと進む。
マスターらしき人に軽く会釈すると向こうも同じ仕種で返した。
ここでは妙に馴れ馴れしくされることもなければ、まったく無視されることもない。
石川にはそれがさらに恐ろしく感じられた。
- 283 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時27分33秒
- 「悪いね。いつも」
「…」
悪びれない相手の態度に少しむかついたものの、さりとて拒むことのできない自分の情けなさは今更いかんともしがたい。
黙ったまま、向かいに座り、バッグから取り出した封筒を渡すと相手の表情が和らいだ。邪気のない笑顔。
だが、その裏にどこか危ういものが忍び込んでいそうで油断がならない。
相手はそれをジャージのポケットに無造作に突っ込むとようやくひと心地がついたとばかりに表情を緩めた。
まるで悪事の一端を担いでいるような感覚に石川の胸は痛んだ。
「助かったよ。今回は本当に困ってたんだ」
そう言って微笑まれると、しかし、石川は固く言おうと決意していたはずの言葉を思わずしまいこんでしまう。
そんな顔で微笑まれると切り出せないじゃない…今回限りにしてくれなんて…
代わりに口をついて出てきたのは何の変哲もない、普通の言葉だった。
- 284 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時28分16秒
- 「ご飯、ちゃんと食べてるの?」
そう言ってバッグに手を入れてガサゴソと何かを探ると、薄いピンク色のバンダナに包まれた四角い容器を取り出す。「?」
不思議そうに除き込む相手に石川は表情を変えず説明した。
「こっちが筍の炊き込みご飯、こっちがひじきと大豆の煮物。どうせろくなもの食べてないんでしょ。ゆで卵くらいは自分でつくってよね」
「梨華ちゃん…」
相手の表情が緩んで昔のままの笑顔が覗いた。
「やっぱり梨華ちゃんだね。変わってないなあ」
その笑顔を見せている間に石川は説得したいと思った。
「ねえ、やっぱり、早くお家に帰った方がいいよ。こんなこと、よくない――」
「保護者づらかよ」
凍りつくような声。その途端、相手の顔は再び強ばり、頬がひきつった。
歪んだ意志そのままの表情に石川は返す言葉もなかった。
- 285 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時28分47秒
- 「干渉するなよ。うぜえんだよ」
「…」
どう宥めればいいのだろう。石川にはわからなかった。こんなとき、保田がいてくれれば…
しかし、保田に会うことは事務所にも禁じられている。当然、飯田もいい顔をしないだろう。
保田を呼び寄せて巻き込むわけにはいかない。
石川は途方に暮れた。悲しさと情けなさに鼻の奥がじーんと痺(しび)れて表情が歪むのを意識した。
さすがに言いすぎたと感じたのか、相手はやや声の調子を落として石川の顔を覗き込むように言う。
「いや、なんだその…言葉のあやってやつで…やっぱり、梨華ちゃんしか頼りになる人はいないし…」
その媚びるような調子は石川の神経をいたずらに逆撫で、そしてなぜ自分達がこんな悲しい茶番を延じなければならないのか理解に苦しんだ。
「もう少し…あと、ちょっとだからさ…そうしたら、家に帰ったっていい」
「もう少し?」
「ああ、もうじき片が付くよ。もうじきね…」
石川はその自信ありげな様子に何かいやな予感めいたものを感じて、思わず口に出していた。
- 286 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時29分21秒
- 「よっすぃ…悪い噂を聞いたんだけど…」
「?」
口許で笑っては見せるものの、目は探るような冷たい光を奥に宿したままだ。
それでも石川は言わざるを得ない。
「よっすぃが…その…よくない人たちと付き合ってるって――」
「なあんだ、そんなことかあ」
吉澤は答えた。その口調に努めて明るく振る舞っているようなぎこちなさはなかった。
ごく自然な反応、と言ってもよい。だが、石川はすでに吉澤の暗闇の一端を垣間見た気がして心中穏やかでない。
「大丈夫。梨華ちゃんが心配するようなことはしてないよ。これだけは約束できる」
「ねえ、本当に約束して。危ないことしないって…それから、お金貸すのはもう、今日で最後にして。社長がね、会長には内緒で仕事紹介してもいいって――」
パタンとテーブルを両手で軽く叩いて吉澤は立ち上がった。
「さあ、明日も舞台あるんでしょ。そろそろ帰った方がいいんじゃない。あたしも帰るよ」
「よっすぃ…」
石川はカウンターに沿った通路を通り、歩み去る吉澤の後ろ姿をただ呆然と見送ることしかできなかった。
- 287 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時29分52秒
- 出口のドアに手をかけようとしたた吉澤の横から、いつのまに現われたのか、一人の小柄な男が手を差し出してドアを開けた。
吉澤が笑いながら男に声をかける様子が見えたが、男の顔までは確認できない。
だが、その男の髪型や後ろ姿に石川はたしかに見覚えがあった。
「!」それは石川が漠然と感じていたいやな予感を確信に変えるた。
事務所に連絡すべきだろうか…石川は躊躇した。これが知れれば、吉澤は完全に復帰の道を断たれてしまう。
社長が同情的だとはいえ、会長の怒りは未だに解けていない。
ではどうしたらいい…
石川は対応に窮した。こんなとき保田がいてくれれば…
だが保田への接触は事務所の方針で禁じられている。石川は吉澤を助けたかった。
保田への接触同様、吉澤に近づくこともまた、厳しく戒められている。
だが、吉澤を泥沼から引きずり出すには自分が動くしかないのだ。
- 288 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時30分27秒
- 石川は保田がモーニングを辞めるときに残した言葉を思い起こした。
『後藤も紗耶香も大切な仲間だからね…』
だが、その「大切な仲間」のためになぜ、自分をそこまで犠牲にするのだと石川は問うた。
『私一人だったら動けなかったかもしれない。でも――』
と困ったように話す保田。
『――私にはソニンがいる、ユウキがいる、矢口がいる。それに、あんたたちがついてる。私が窮地に陥ったら、きっと助けてくれる仲間がいる』
だから、保田は戦えるのだと言った。そして、その「仲間」の誰かが困っているなら、きっとまた駆け付けるだろう、と。
その嬉しそうな表情を忘れることはできない。あるいは甘えなのかもしれない。
だが、と石川は思った。保田に連絡しなければならない。これは緊急事態だ。
石川は立ち上がり、足早に通路を抜けて店のドアを開けた。
- 289 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月06日(日)04時31分05秒
- むわっとした夜の熱気が石川を包み込む。既に吉澤とその連れの姿はない。
石川は職安通りに出てタクシーを捕まえると行き先を告げて目を閉じた。
「大切な仲間」か…皮肉なものだな、という考えがちらりと頭の中を掠めた。
石川は疲れ切っていたが、夜はまだ若く、繁華街の夜は宵の口を迎えたばかりと言わんばかりに誘蛾灯のように妖しい光を放って若者を吸い寄せる。
吉澤と連れの男がどこへいくのかを考えると胃の辺りがキリキリと傷んだ。
石川はハッと眼を開くとバッグから携帯を取り出して、その番号を探した。
まだ残っている。石川にしては珍しく躊躇せず、コールのボタンを押した。
それが保田だったからかもしれない。石川は懐かしさと不安の入り混じった妙な気分を感じながら、相手が出るのを焦れるように待った。
離れていく街の灯りがやけにぼんやりと頼りなく思えた。
保田は出なかった。
- 290 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時26分26秒
- ◇
ミュージカルで小川が腰を痛めて休養していると聞いた麗奈は、帰京してすぐに放課後、見舞いに出かけた。
おみやげはもちろん、小川の好物であるダッキーダックのパンプキンモンブランだ。
加えて石垣島で買ったちんすこうもある。休養中のおやつとしては申し分ないだろう。
最近、少し太り気味であることを気にしている風もあり、正直なところ気が引けないでもないのだが、そこはそれ。
体重も含めて健康管理は本人の自覚の問題であり、お菓子を差し入れること自体に罪はないのだと自分に言い聞かせてやはり持参することにした。
とりあえず、麗奈は小川が目尻を下げて喜ぶ顔が見たかった。
6月も終わりに近づいて東京の空は曇りがちだ。
沖縄では既に梅雨開け宣言が出されていたが、関東地方はまだ梅雨の真っ只中。
蒸し暑い空気がレイナをねっとりと包む。
泳ぐように重い空気を掻き分けて進む麗奈の額にじわりと汗がにじんだ。
取り出したハンカチで汗をぬぐうと前方に白くそびえ立つ山のような建物が目に入った。
小川が入院しているという病院だ。
- 291 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時26分48秒
- 「おかえりー」
「ただいまかえりました。腰、大丈夫ですか?」
「うん、たいしたことないんだけどね。一応、大事を取って様子を見るって」
「舞台は出られそうなんですか?」
「それがね…」
寂しそうに視線をはずしてうつむいた様子に麗奈は悟った。出られないのか…
顔色はよく、ふっくらとした頬も最後に会ったときのまま変わらない。
腰と偽って何か大病を患っているのを隠しているのではないかという心配は杞憂に終わった。
「あ、小川さん。おみやげ持ってきたんですよ、ほら」
「ん?」
振り向いた顔はすでに先程の憂いを含んだ表情を消し去っていた。
「小川さんの好きなパンプキンモンブランと、沖縄のちんすこう」
「わぁーっ、ありがとぉ、あ、でも…」
その顔に再び困惑の色が宿るのを麗奈は不思議に思った。
「どうしたんですか…小川さん、好きでしたよね?」
「うん、大好きなんだけど…」
「じゃあ、食べましょうよ」
「うん、けどね…」
今度は本当にうな垂れてしまった。麗奈にも大体の想像はつく。
- 292 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時27分22秒
- 「マネージャーさんに禁止されたんですか?」
うなだれたまま、こくりとうなずく様はいかにも打ち拉(ひし)がれたという様子で。
その大げさな態度に麗奈はおもわず笑みをこぼした。
「小川さん、おおげさですよぅ。ケーキ一個くらいいいじゃないですか?」
ぶるん、ぶるんと首を大きく横に振って小川は否定する。
「だめだよ。これ以上太ったら、次の契約更改は覚悟しておけって言われたんだもん」
ぷるん、ぷるん、と頬の肉も揺れている。
たしかに最近、小川の肥満は度が過ぎているように麗奈にも思われた。
「それじゃあ、しょうがないですねえ」と言って麗奈は首を傾げた。
「ケーキどうしましょう?置いときましょうか。紺野さんとか新垣さんが食べにくるでしょう?」
小川は恨めしそうにアヒルの絵が書かれたケーキの箱を眺め、そして嘆息した。
- 293 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時28分29秒
- 「あさ美ちゃんにあげるのは癪に障るなぁ…大体、なんであんなに食べても全然太んないんだろ。ずるいよ」
「そうですよね。紺野さん、ほっぺたはぷるぷるしてますけど、体は細いですもんね」
「もー悔しいからあさ美ちゃんにはあげない。麗奈、あんた食べなよ」
「いいですよ。だって実は…」もう、ここに来る前にすでに2個程平らげている。
これ以上食べたら、小川ではないが自分が叱られる羽目になる。
「あ、でも…でも、今日も誰か来るんじゃないですか?」
小川は再びうつむいてぼそりとつぶやいた。
「飯田さんが昨日来てね…」
「何かあったんですか?」
麗奈には言いにくいことなのだろうか。小川の表情に陰が差し、やや逡巡している様子が見て取れた。
しばらくどうしたものか考え込んでいたようだが、話したところで減るものでもあるまい。
やがて小川は口を開いた。
「麗奈…飯田さんにね、保田さんと会うな、って言われちゃった」
「…」麗奈はどう反応したものか答えに窮した。
- 294 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時29分14秒
- 「いや、あのね。別に気にしなくていいんだけど。でも、飯田さんとか石川さんの前では気をつけといた方がいいよ」
「小川さん…会わない方がいいですか?」
麗奈は泣きそうな表情で問うた。強がってはいてもまだ中学生だ。
リーダーにそう言われてしまえば萎縮せざるを得ない。
「ううん。会っておいでよ。保田さんも喜んでたみたいだし、それに…もうじき帰っちゃうんでしょ?」
「ええ…どうしようかなって…」
麗奈は正直、迷っていた。ちょっとした好奇心のつもりだったのに、なぜか大事になってしまっている。
これ以上、いろんな人に迷惑をかけるなら、会わない方がいいのか。
保田に会うなというリーダーの発言により、その迷いがさらに深まる。
「私は会ってきてほしいな…市井さんに」
ハッと顔を上げると小川はベッドの上でにこやかに微笑んでいる。
「後藤さんが何で死んだのか、私だって知りたいもん」
「小川さん…」
「正直、私だけじゃなくて、みんな知りたがってるよ。飯田さんだって、リーダーだから厳しいことは言うけど、本当は後藤さんのこと知りたいんだと思う。だからさ…」
小川の表情が一瞬、引き締まった。
- 295 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時29分44秒
- 「私たちのためにも市井さんによーく聞いてきて。後藤さんのこと。いい?」
「は、はい…」
「大丈夫だよ。飯田さんには言わないから」
「あ、はい…」
麗奈の煮え切らない様子を見て小川は重ねて言い添えた。
「保田さんがね、麗奈に会って、あの子は変わってるね、って言ってた」
「ええ?変わってますか、私?」
「うん。おもしろい子だねー、って。今時、後藤について調べたいなんて、本当に変わってるって」
「そんな、おかしい、ですかね…?」
小首を傾げて思案げに問う麗奈の姿に小川は笑って答えた。
「さゆみに会ったらもっと驚くと思うけどね」
「いやー、さゆみ連れてったら怒られそうで怖いです。どんな失礼なことするか検討もつかんし」
「予測不可能だよねー」
あはは、と顔を見合わせて笑う頃には麗奈の不安も大分、解消されてきた。
それにしても、と麗奈は思う。
やはり、市井に会うということはいろいろな軋轢を生み出すのだ。
そう考えると、改めてことの重大さに身が震える。
- 296 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時30分33秒
- 「あ、麗奈、忘れないで言っておいてね」
「へっ?なんがですか?」
でへへ、と小川の表情が緩みきったのを見て、ああ、と麗奈は敏感に反応した。
「焼肉の約束やったら、絶対忘れませんよー」
「保田さん、放っておくとすぐ、他の人と約束しちゃうから気ぃつけてね」
鼻を膨らませて真剣に話す小川がおかしくて、麗奈は思わず微笑んだ。
「大丈夫ですって。まかしてください」
麗奈はふと、気になった。
「小川さん、でも…」
「ん?」
- 297 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月07日(月)17時30分56秒
- 「おやつだめなのに、焼肉はいいんですか?」
「麗奈…」
その場を重い沈黙が支配する。小川は窓に顔を向けた。
急に黒雲が垂れ込め、泣き出しそうな空。
言ってはいけなかっただろうか?
少しだけ、麗奈が後悔しかけたとき、窓越しに振り出した雨を見つめながら、小川が声を出した。
「辻さんも焼肉楽しみにしてること忘れないでね…」
その一言が効いた。
「はい。か・な・ら・ず・確認してきます」
かならず、という言葉を一音ずつ区切って読む念の入れようで、小川の意図するところに応えた。
食べ物とその名前が絡んだときに怒りうる最悪の事態だけは避けねばならない。
麗奈は気を引き締めた。降り出した雨はいよいよ激しさを増して窓を叩いている。
その様子はどこか前途に待ち受ける困難を予想させるようであまり気持ちのよいものではなかった。
- 298 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時51分42秒
- ◇
「久しぶりね」
後ろから聞こえた声の射るような鋭さにユウキはハッとして振り返った。
何時の間に近寄ったのか、気配をまったく感じなかった。油断した。
普段なら慎重すぎるほど尾行には注意しているはずなのに。今日だけは少し注意が散漫になってしまったらしい。
悔やんでも既に遅い。逃げようにも目の前は自分の部屋だ。
そしてよく考えてみれば、その声の主から逃げる理由はとりたてて見つからなかった。
ユウキはやれやれといった表情で、はぁっ。と短く息を吐くと、相手に向かって微笑んだ。
「変わんないね。入る?」
「お邪魔じゃなければね」
鍵を開けてドアノブを回しながら、どうぞ、と声をかけて相手を招き入れた。
「お邪魔だけどいいよ…」
その言葉に相手はようやく微笑んだ。
「可愛いげのないところは相変わらずね」
「お互い様だろ」
- 299 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時52分30秒
- 靴を脱いで並べる几帳面さはしかし、彼女の知らない一面のはずだった。
玄関を上がり短い廊下を渡ってリビングらしい部屋に入るとテーブルに二脚の椅子がこじんまりと並んでいる。
その整然とした佇(たたず)まいに、もはや整理のできなかった少年の面影を探すのは自分でさえ難しかった。
それが以前には見られなかった成長の証とでも映っているのだろうか。
訝(いぶか)しむより前に自分の成長に目を細めているらしい相手に少しだけ気を許してしまいそうな自分を戒めた。
何か飲みものを用意しようと台所に向かうと後ろから事務的な声が追ってくる。
「お楽しみの余韻に浸ってるところを邪魔しちゃ悪いから、用件だけ聞いたらさっさと退散するからいいわよ」
ユウキは冷蔵庫から取り出した二本のビール缶を手にしたまま凍りついたように相手の顔を見つめた。
「そんなとこまで尾けていたのか…下衆だな」
相手はその眼の奥に宿る冷たい光を意識から遮断して、努めて機械的に振る舞う。
「どっちかっていうと尾けてたのは、あんたじゃなくて、あの子の方だったんだけどね」
- 300 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時53分29秒
- 「ひょうたんから駒ってことか…」
ユウキは自らの愚かさにようやく気付いた。
諦めたように顎で椅子を示すと自ら腰を降ろしてビールの缶を開ける。
呷(あお)るように冷たい泡を喉に流し込むと缶を握ったままテーブルの上に強く叩き付けた。
勢いで零(こぼ)れた水滴がテーブルの表面で光る。
「で、何を聞きたいのさ?」
「何を企んでるの?」
ユウキはキョトンとした目で相手を見つめた。いきなり核心に切り込んでくるとは予想していなかった。
どこまで知っている?
探るような目つきで相手の瞳を凝視するが、変わらない表情から何かを押し量ることはできない。
「何のことかな…」
「しらばっくれてもだめよ。吉澤を利用して何をするつもり?」
「…」
ユウキは上目遣いで相手の顔を凝視した。自然と笑みがこぼれる。
どういう理由からかわからないが、精神的に優位にたっているのは自分のようだ。
厳しい質問をなげかけているにも関わらず、段々と余裕を失ってきている相手の様子が手に取るようにわかった。
彼女は段々と一人でユウキの家に踏み込んだことを後悔し始めているように見えた。
- 301 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時54分04秒
- 「人聞きの悪いこと言わないでよ。吉澤さんとは清く正しいお付き合いだよ」
「清く正しい交際相手とホテルに入ったりするものかしらね?」
ユウキの顔から笑みが消えた。
「あんたには関係ないだろ?」
「それが大ありでね」
相手の女性はようやく掴んだ手応えを離すまいと必死で食い下がる。
「市井紗耶香に近づいたらただじゃ済まないわよ」
虚を突かれた形のユウキは予想だにしない相手の言動にひるんだ。
「なんだ、それ?」
強がる言葉かそらぞらしい響きとともに空回りする。
ユウキは果たして相手がどこまで知っているのか訝(いぶか)しんだ。
だが、いずれにしろ市井の名前を出した時点で素直に返すわけにはいかない。
ユウキはぎこちない笑みを浮かべておもねるような口調で尋ねた。
「ねえ、昔のようにまた、一緒に活動できないのかな?僕らにしても心強いんだけど――」
「おことわりよ」
一言のもとに跳ねつけられてユウキの顔が歪んだ。
- 302 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時54分42秒
- もとより相手が自分に荷担することなどに一分の期待も寄せてはいない。
だが、その拒絶の厳しさはあまりにも断固としていて取りつく島さえない。
ユウキは必死になって話の接ぎ穂を探した。
「…えっと、何を言ってるのかわからないけど、とりあえず、僕の近況報告といこうか」
「必要ないわね。あんたに必要なのは、あのいやらしい連中と手を切って公安に突き出すことだけよ」
ユウキは急にそわそわし始めた。
「あの、さ…それ以上はもう言わないほうがいい…と思うよ」
「今からでも遅くはないわ。さあ、警察へ行こうよ。私も事情を話してあげるか――」
その言葉は最後まで語られることはなかった。後ろから黒い手が伸びて喋りかけていた彼女の口を白い布が覆う。
特殊な薬品をしみ込ませたらしいそれはほんの数秒で意識を奪い去った。
- 303 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時55分16秒
- 「どうします?」
「寝てる間に例のところへ運ぼう。この人が取り引きの材料に使える」
「わざわざ吉澤を利用する必要もなかっ――」
「しぃーっ…」
ユウキは黒いジャケットに身を包んだ男を制して告げた。
「余計なことはしゃべらない方がいい。体質によっては、半分くらい覚醒してる可能性だってあるんだから」
「失礼しました。で、この女、誰なんです…?」
「昔の仲間だよ」
そのぷっくりとふくらんで艶々とした下唇を見下ろしながらユウキは答えるともなくつぶやいた。
「昔のね…」
黒ジャケットの男が肩をすくめて部屋を出ていくとユウキはすぐに準備に取りかかった。
感傷に浸っている暇はない。彼女がひとりでやってきたとは限らないのだ。
彼女には厄介な仲間がいる。ユウキはややぬるくなったビールの残りを一息であおると缶を握り潰し、ゴミ箱に投げ込んだ。
- 304 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月09日(水)13時56分19秒
- カランカランという乾いた音の響きはさらに喉の渇きを意識させて無性に腹が立つ。
彼女が手をつけなかったもう一本の缶は汗をかいて底面の辺りに水たまりをつくっている。
ユウキはしばらくそれを凝視したのち、伸ばしかけた手を引っ込めて倒れている女の頬に手を触れた。
暖かい。久しぶりに人の温もりを感じた。
先ほどまで肌を合わせていたはずの女との逢瀬には感じなかったもの…
ユウキは引き剥がすように視線を外すと、努めてそこから意識を遮断した。
自分の身を案ずるこの女の存在は危険だ。
最後に人の優しさに触れたのは、もう、いつのことだかすっかり思い出せなくなっていた。
- 305 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時57分33秒
- ◇
雨の後のアスファルトが街灯の明かりを映して冷たく光る。
涼気をはらんだ風が肌を撫でると吉澤は少し寒気を感じて足を早めた。
先程、ホテルでシャワーを浴びたばかりだが、もう一度熱いお湯で体を温めなければ寝付くことはできそうになかった。
吉澤は疲れていた。
何かに憑かれたような激しさで自分を求めたユウキに呼応するように、自らもまた狂おしいほどの愛欲に耽溺してしまったせいだろうか。
わからない。考えるのが億劫だ。抜け殻のように放心した状態は肉体的な疲労というよりはむしろ精神の疲弊を感じさせた。
鍵を開けてドアを開けると暗闇に明かりを灯す。
ガランとした部屋の中には脱ぎ散らかした自分の衣服と何冊かの漫画、それから飲みかけのペットボトルしか見当たらなかった。
ユウキに言われて移ったこの部屋ではまだ二晩ほどしか過ごしていない。
そして、おそらく明日にはここも引き上げるだろう。
吉澤は無造作にTシャツを脱ぎ捨て、ジーンズのベルトに挟んだバタフライナイフを取り出して丁寧に床に置いた。
- 306 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時57分49秒
- 残りの衣服を下着ごとまとめて脱ごうとして違和感を覚えた。
尻の辺りをまさぐるとカサッという音がした。
吉澤は敏感に反応する。ジーンズの尻ポケットに指を入れる。
紙の感触。取り出すと、それは白い小ぶりな封筒に入った手紙のようだった。
ユウキか…
吉澤は封筒から便箋を取り出すと書かれている内容をざっと眺めた。
ラヴレター…のはずはなかった。あるいは本気になったか…
ありえない。吉澤は自分とユウキの関係ほど、そのようにロマンチックな想像を掻き立てる何事とも無縁であることを理解していた。
読み終えると便箋を封筒に戻して床に置き、ナイフをその上に乗せた。
その表情は最前と変わらない。
白い封筒の上で銀色に光るナイフは文鎮のような重々しさで、その内包する文章にどこか、しかつめらしい印象を与えた。
吉澤はジーンズを膝から落とし、下着を丸めて放り投げると浴室へ向かった。
- 307 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時58分05秒
- シャワーの栓をひねる。温水が出るまでの時間が長く感じられてもどかしい。
水からぬるま湯へと変わりかけたところで吉澤は待ちきれずにシャワーの先端を持ち上げ、首へと向けた。
一瞬、冷たいと感じたお湯の温度はすぐに上昇し、やがて肌を刺激するほどよい熱さが全身を駆け巡るとようやく生き返るような心持ちがした。
ふと視線を落とすと胸の辺りに小さな赤い斑点がいくつか残されている。
指でゴシゴシと擦(こす)ってみたが消えそうにない。ふぅっ、息を吐くと、目を閉じて顔から熱いお湯を浴びた。
ユウキは吉澤の決して豊かとはいえない胸に顔を埋めて眠るのが好きだった。
互いに肌を寄せてはいても、求めているのは、その肌触りを通して繋がりたい別の誰かだ。
その哀しさが二人を引き寄せるのだろうか。恐らく憐憫の情以外の感情を互いに持ち寄ることはできまい。
二人が共有するもうひとつの感情が途絶えたとき、この関係がどのような方向に向かうのか、吉澤にもよくはわからなかった。
- 308 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時58分42秒
- 少なくとも二人が行動をともにする理由である、あの女を葬り去ってなお、今と同じままの関係でいられることはない。
そう、吉澤は確信していた。
浴室から出るとバスタオルでさっと体を拭き、裸のまま床に寝転がった。
どこか突き放したような床板の冷たい感触が心地好かった。伸ばした腕に何か固い金属のようなものが当たるのを感じて吉澤は首を少しだけ上げて確認した。
シャワーを浴びる前に置いたバタフライナイフだった。キシャッ、という鋭い音を立てて刃先が飛び出す。
その鋭利な先端を見るたびに忘れかけた憎悪が呼び起こされる。
- 309 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時58分59秒
- 市井紗耶香…
物理的な接触はほとんどなかった。自分達、四期メンバーが加入してすぐにあの女はモーニングを辞めてしまったのだから。
そんな女を後藤は助けるために自分の命を惜し気もなく投げ出してしまった。
吉澤にとって、それは裏切り行為以外の何物でもなかった。
だが、それにも増して許せないのは、後藤の意志を踏みにじったあの女の行為だ。
ユウキは言った。そもそも、後藤が金正日の愛妾にならざるをえなかったのは、市井を助けるためだった、と。
拉致された市井を追って急遽、北に渡った後藤を待っていたのは、「血の海」歌劇団の踊り子として、そして金正日の最後の妾としての生活だった。
あの女は自らの失態により、強制収容所に送られたにも関わらず、悪運の強さによるものか、内乱に乗じて脱獄に成功した。
そのあげく、内乱に関わるうちにどういう理由でか、反乱軍の将校にまでなり上がってしまった。
- 310 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時59分31秒
- 『まきちゃんはね…売られたんだよ。あの女に』
ユウキは吐き捨てるように言った。
『准将の地位と引替えにまきちゃんを売ったのさ…自分は金永南の女になり下がってね』
まったく信じられない女だ。それを聞いてなお、冷静でいられるほど吉澤は大人ではなかった。
後藤の最期を少しでも知りたいと願い、さまざまな雑誌や書物を漁り(あさ)り、テレビの特集番組にも欠かさず目を通したが、その最期の息吹を感じさせるものは皆無だった。
巷間に流布する情報は後藤の堕落した姿を伝えるような内容ばかりだったからだ。
- 311 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)17時59分46秒
- 論外だった。後藤を知る吉澤には、そんなものは政府かどこかで決められたシナリオの一部にしか見えなかった。
吉澤は真実を求めた。たとえ後藤が本当に金正日の愛妾であったとしてもかまわない。
そこには何らかの理由があるはずだ。
吉澤は保田を頼ったが、事務所は保田との接触を禁じた。
モーニングのメンバーに余計な知識を与え、公式の場で不用意な発言をすることを恐れたからだ。
保田同様、ソニンなど事の真相に関わる人物との接触をも事務所は禁じた。
すでにそのとき、モーニングの凋落傾向に歯止めをかけるため、呼び寄せられていた矢口は、逆に事務所の経営側に近いポジションに収まっており、まともな情報を得られそうにはなかった。
- 312 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時00分14秒
- 吉澤は情報に飢えた。そんなとき高麗から帰国したユウキが姉の知己を頼って吉澤に接触してきたのは渡りに船。願ってもない話だった。
事務所には極秘裡に二人は密会を重ねた。ユウキにとっても吉澤を見方につけることで何らかのメリットがあったのだろう。
当初はモーニング・メンバーの口を通して、姉の名誉回復を計りたい。そんな口ぶりだった。
だが、ユウキの説く市井像があまりにも不快で、そして余りにも後藤が不敏に感じられたためだろうか。
いつしか、吉澤の心の中に市井に対する拭い難い不信の念が芽生えた。
それは次第に鬱積し、静かな怒りからやがて激しい憎悪へと変わっていくのにそれほどの時間を要しなかった。
そしてあの事件が起こった。傍から見れば、あまりにも突然な、出来事だっただろう。
だが、予兆はすでにあった。
後藤に関してはもちろん、市井に対するコメントさえ歓迎されなかったあの頃、吉澤はある番組で市井に対する剥き出しの敵意を吐露したことがあったのだ。
- 313 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時00分31秒
- お笑い芸人と売れっこの男性グループのリーダーが司会を務めるその番組では多少、過激と見られる発言も容認された。
いや、番組の狙いを考えれば、むしろ歓迎されたと言っていいだろう。
保田の卒業以降、その番組が常套手段としていた保田への暴言やCG映像による「いじり」ができなくなったことで、モーニング娘。を出演させた場合の番組構成上の価値は著しく減少していた。
当時タブーとされていた市井をからかうような言動を煽った司会者にも一因はあったのかもしれない。
だが、それを望んだのはむしろ吉澤だった。
- 314 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時00分51秒
- 『だってさあ、かあさんが将軍様だろー?おまえら、市井が帰ってきたら将軍様マンセー!つって歓迎しないとまずいだろ』
『モーニングは市井将軍の喜び組ですか?』
『ええーっ、やだーっ』『あ、紗耶香ならいいかな』『ええ゛ーっ、でも喜び組だよー?』
『いや、吉澤はー、許せないですよ。ごっちんも守れなかった将軍なんて何の意味もないじゃないっすか?』
『あ、ばか!謝れ。お前、赤坂に向けてテポドン発射されたらどーすんだよ!』
『大丈夫っすよ、貴さんにロックオンさせて逃げますから』
時間にしてわずか四、五十秒の出来事だったが、反響は大きかった。
番組中に殺到した抗議や苦情、支援の声は直接吉澤に告げられることはなかったが、ディレクターや事務所のマネージャーから厳重に注意されたことで、その影響の大きさを推し量ることは可能だった。
- 315 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時01分11秒
- ファンサイトや匿名の巨大掲示板などで吉澤の発言が物議を醸したのは当然だった。
計算ずくのことだ。非公式でいい。まずは真相に関する議論の火種が燻(くすぶ)ることを吉澤は望んだ。
だが、議論は必ずしも意図した方向へは進まなかった。
理性的な論争とはならず、むしろ激しい罵り合いによる言葉の応酬により、市井派、吉澤派に分かれ、泥沼の抗争へと向かった。
激昂したファンが掲示板のサーバに攻撃を繰り返すなどして、システムダウンに至ったことさえある。
吉澤は次第に煽っているのか煽られているのかわからないほど、市井を激しく憎むようになっていった。
そして市井支持を装う掲示板の書き込みに対しても。
市井の支持者は後藤を貶(おとし)めることによって市井を正当化しようとする。
吉澤にはそれが許せなかった。相手の実体が見えない事がさらに苛立ちを増幅させるのだろうか。
全人格を否定し合う捨て身の舌戦を繰り広げるうち、もはや自らの力では制御できないほどにその怒りは高まっていった。
そんなときだ。あの事件が起きたのは。
- 316 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時01分28秒
- コンサートにおけるMCの最中、偶然、その文字を発見したとき、吉澤は頭に血が上るのをどうする事もできなかった。
なんだ、あれは?この場にいない市井を支持する態度。それは自分に対する挑戦じゃないのか。
つまり、それは後藤の死に対する冒涜――気がつけば叫んでいた。
『おまえーっ、なんのつもりだーっ!』
吉澤には挑発と見えた。
あの二文字を掲げている青年が、後藤をおとしめ、吉澤を誹謗し挑発するそのすべての声の主体のように一瞬、見えたのだ。
だが、本当に頭の中が真っ白になったのは、次にその青年が叫んだ言葉を聞いたときだった。
『市井さんは悪くないですよ!』
紗耶香は悪くない…市井は悪くない。では悪いのは誰だ?後藤か?それとも吉澤か?
吉澤の中で何かが弾けた瞬間だった。
- 317 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時01分44秒
- 大声で何事か叫んだような気もするし、制する仲間を振り払ったような気もする。
ようやく落ち着いたとき、最初に目に入ったのは、顔を覆って蹲(うずくま)り、嗚咽を漏らす飯田の姿だった。
続いて視線を落とすと、ステージの袖の薄暗い明かりのもと、自分の腹にスタッフの腕が絡みついている。
ダイバータイプの腕時計の上に蛍光色の文字盤と短針、長針が浮かび上がる。
7時24分…
その瞬間に自分のモーニング娘。としての、芸能人としての生命は終わった、と直観した。
自分が振りまわした手が何かの拍子に当たってしまったらしい。飯田はうずくまったまま動かない。
吉澤は声をかけようとして、周りの異様な雰囲気に戸惑った。
心配そうな顔で自分を見つめている、というよりは、何か恐ろしい犯罪者でも遠巻きに眺めるようなよそよそしい視線を感じた。
- 318 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時02分04秒
- 終わった…
吉澤はうな垂れたが、脱力した吉澤を掴む力は一向に緩むことはなかった。
会場のスタッフが他のメンバーを次々とバスへと誘導して行く中、吉澤は一人、マネージャーに連れられて一人の冴えない中年男の前に連れて行かれた。
『代々木署のものですが…』
吉澤にはその男が何を言っているのかわからなかった。
『ご同行願えますか?』
終わった…
あのときに順風満帆だったはずの自分の未来は―そんなものがあったとすれば―脆くも崩れ落ちたのだ、と白い天井を見つめながら吉澤は考えた。
早かった。家に帰り着いたときには、すでに事務所からの解雇通知が届き、翌日にはご丁寧にも未払い給与の振込み明細が郵送され、事務所に置いていた荷物が宅急便で送られてきた。
二度と事務所には近づくな。
そう、言っているように、吉澤には感じられた。
- 319 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時02分20秒
- そして、事実、吉澤が電話してマネージャーに会おうとしても、体よく断わられて、取り付く島も与えてくれなかった。
メンバーも困っただろう。辻も加護も電話すると泣き出してしまう。
飯田はまだ話をしてくれるが、迷惑そうな素振りは隠さなかった。
他のメンバーにはかける気もしない。
唯一、話を聞いて会ってくれたのが石川だった。それがよかったのか悪かったのか。
親もとを飛び出して、ユウキのもとへ転がり込んだとき、まさか、自分が金をせびられるとは思ってもいなかった。
単なる金づる…と自分のことを思っているわけではないにしろ、ユウキにもやはり自活の能力はなかったのだ。
背後にどんな存在がいるのかよく聞かされていないが、それなりの生活費くらいは渡されているはずなのに、ユウキの懐は常に寒いままだった。
- 320 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月14日(月)18時02分37秒
- 石川の存在が、吉澤を、さらにはそこにぶらさがるユウキをも支えている、と考えるとさすがに吉澤の胸も痛む。
石川が嫌がるのも無理はない、と思った。
だが、石川に甘えきっているこのだらけた生活から抜け出すのも時間の問題だ。
吉澤は月の光を受けてギラギラと光るバタフライナイフの刃先を眺め、その美しさに魅入られたように恍惚とした表情を浮かべた。
市井紗耶香…もうすぐ、お前に会える
まるで血に飢えたナイフの意志がそのまま乗り移ったかのような感覚に吉澤は興奮を隠せない。
先ほど男と体を合わせたばかりだというのに、体の内側が熱く燃え盛るのをどうすることもできなかった。
ナイフを閉じると、冷たい柄の部分を下腹部にあてがう。
すでに充血して膨れ上がったその部分が、皮の上からでさえやや角張った固い感触を捉えた。
その冷たい感覚は脳に直接突き抜けるような感覚を与える。
吉澤は余った左手で胸を弄りながら、薄れゆく意識の中、ぼんやりと考えていた。
またシャワー浴びなきゃ…
- 321 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)02時59分56秒
- ◇
沖縄から帰っていきなり迎えた期末試験はやはり厳しい結果を新メンバーの中学二年生二人にもたらした。
試験開け後、最初の番組収録で再開した二人はお互いの成績を探るそぶりを見せていたが、やがてその必要もないほどに惨澹たる結果であることを知った。
そうとなれば、今度は慰め合い、そして教師への文句の言い合いへと変わるのだから、気楽なものだ。
どちらにしても成績に一喜一憂する必要のない二人ではあった。
それにつけても麗奈には不満がある。
自分が休校していた間に授業を行った部分からばかり出題したように思えるのは気のせいだろうか?
いや、気のせいではない!
妙なところで二人の息はピタリと合った。
「だいたい、なんね?あげな難しか問題ば出しよって!」
「しかたないよ。うちら、あんまり勉強する時間ないんだし」
「さゆはできとぅと?」
「えっ、わたし…?いやあ…あはははは」
- 322 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時00分36秒
- 東京の学校に移って初めての期末試験。
中間試験がそこそこの出来だっただけに、今回もなんとか凌げるかと期待していたのだが甘かった。
英語、数学、国語…どれをとっても丸の数が一目でわかるくらい。
さゆみも同様に出来が悪そうだというのが唯一の救い。
以前、モーニング娘。がTVで学力テストを行うという企画があったが、今やられたら間違いなく、麗奈が最低点だろう。
辻には悪いが、彼女にはもう少し、自分たちを守る傘でいてほしいと麗奈は思った。
麗奈やさゆみが実力通りに試験を受けたら、真剣に洒落では済まない雰囲気になりそうだ。
ただ、あんな企画が再び通る事はないだろうと麗奈は思う。
ゴールデンタイムに二時間近い枠を埋められるほどのパワーが、もはやモーニングに残されていないのは麗奈の目にも明らかだった。
「そういえばねえ、麗奈が言ってた『広田弘毅』って社会のテストで出たよ。あの問題だけは助かったー」
「なんね、それ?」
「ん?社会のテストでねー、『東京裁判で死刑判決を受けたA級戦犯のうち、文民が一人だけいます。それは誰でしょう』っていう問題」
- 323 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時01分39秒
- 「はぁ?さゆみの学校って、もう、第二次世界対戦とこまで進んどったん?」
「違うよ。なんかシビリアンコントロールって言葉が出たときにね、東京裁判の判決を先生が事例として上げてね」
「ほえー、進歩的な学校やん?」
「進歩的っていうか…変わってるだけだよ、あの先生」
麗奈は郷土が輩出した唯一の歴代首相について言及してくれたその社会の先生に好感を抱いた。
なにしろ、せっかくの首相であるのにA級戦犯ということで、地元では甚だ同情的ではあるにしても、公式の席でその名前を出すことはどこかはばかられる雰囲気がある。
麗奈がプロフィールの「尊敬する人」の欄に広田の名前を書いただけでも実は十分に大胆な行為ではあったのだが。
「さゆみは広田先生がどげんして戦犯になったか知っとぅ?」
「んん、知らんよー」
「でーも、テストの答えば当てよったばい?」
麗奈はさゆみが広田の名前を覚えていてくれたことも、もちろん嬉しかった。
「ほな、広田先生がほんまに戦犯やと思っとぅと、さゆは?」
「そーは思わんけど…えへへ、よーわからんよー」
- 324 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時02分19秒
- さゆみはわからないと笑ってごまかす癖がある。
さすがに芸能界でそれは通用しないと思いつつも今のところ見事にそれで何を切りぬけているから不思議だ。
これを麗奈がそのまま、まねしても怒られるに違いない。
加護や辻に対して飯田が甘いのとどこか通じるところがあるのだろう。
まったく愛敬でもって世間を渡れるタイプの人間が麗奈には羨しかった。
「広田先生は修猷館から東大に進んだ秀才やけん、地元で悪く言う人はおらん」
「ふーん」
「先生が戦犯にされたんは文民の代表として、早い話が人身御供ばい」
「犠牲になったってこと?」
「ほや。文民である大統領や議会が軍人を統率しとぅアメリカさんには、誰か文民の首謀者がおるとしか考えられんかったと」
麗奈は少し偉そうに胸を張った。
「ところが調べれば調べるほど、首謀者が誰なんかよーわからん。そこで文民である広田先生に目ぇばつけたと」
「その広田せんせいは、無罪だって反論しなかったの?」
- 325 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時03分11秒
- さゆみには歴史上の人物に対してまるで自分の知り合いの教師を呼ぶように律義に「先生」とつけるの麗奈がおかしくててまらない。
だが、得意げに話しつづける麗奈に満面の笑みで応えるさゆみの様子は伝わっていないようだ。
「反論しとらん!そこが広田先生のえらかところばい!」
「なんで反論しなかったんだろうね?」
「それは…難しか問題や。一説には天皇陛下ば庇ったげに言われとぅ」
「天皇陛下を?」
「うん。陛下のために広田先生は命ばかけたんかもしれん」
麗奈はそこで視線を遠くに定めて夢見るような表情でさゆみに伝えた。
「裁判の途中で広田先生は死を覚悟しとったけんね。奥さんが判決の出る前に自決されたんも広田先生の後顧の憂いになってはいかんと想うたからばい」
「奥さん、自殺したの?」
さゆみは心底驚いたようだった。無理もない。
まだ、終戦から50年強しか経っていないにも関わらず、なんと大時代的な身の処し方だろう。
現代の感覚からはとうてい考えられない妻の行為にさゆみでさえ少なからず胸を打たれた。
- 326 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時04分10秒
- 「でも、なんかそれって…」
「ん?なんね?」
さゆみは何か思いついたようだ。麗奈は首を傾げて先を促した。
「後藤さんの最期に似てるね」
「!」
麗奈は眼から鱗の落ちる思いだった。
「後藤さんが広田先生ね!」
「うん。死を覚悟してたっぽいところなんか」
そういえば、保田は後藤が自ら死刑を望んだと、そう言っていた。
裁判で自己を弁護するための主張もまったくなかったとも。
裁判とはいっても政治的な決着をつけるため形式上のものだから、否認したところで無駄という無力感もあっただろう。
ルーマニア革命でチャウシェスク大統領夫妻が学校の教室のような子部屋で型通りの判決を受けた後、すぐにその場で処刑されたのと大差はない。
その事実を後藤が知っていたとも思えないが、頭のいい娘だけに悟っていた節もある。
保田はそんなようなことをかいつまんで説明してくれた。
いずれにしろ麗奈にとってはどこか異次元の話を聞くようで、その問題についてそれ以上、深く考えることはなかった。
- 327 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時05分05秒
- それよりも気になるのは広田が天皇をかばったのかもしれない、という点だ。
そして、さゆみによる広田が後藤と似ているという指摘。
「後藤さんも誰かをかばって死んだんやろか?」
「そんなことは麗奈が考えんと」
「難しかねえ…」
麗奈は考えこんだ。まったくもって難しい。
後藤がかばう人物とは…
それは身を賭してまでまもらなければならない者、つまり最愛の人物、ということになる。
それが誰なのか麗奈には検討もつかない。
ただ、最期の後藤の立場、独裁者に庇護されていたというその境遇を考慮するならば導かれる答えはひとつだ。
「金正日」
にわかには信じられないが、他に具体的な人物像が描けない以上、その結論に達せざるをえないのだ。
たしかに、死ぬまでの短い間に他の若い兵士とのロマンスか何かがあった可能性は否定できないし、実際にそう考える方が感情的にはしっくりくる。
それでも後藤が処刑されることで、少しでも立場がよくなる者、という条件に鑑(かんが)みれば、それは「金正日」以外、考えられないではないか。
- 328 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時05分36秒
- 考え込む麗奈にさゆみがぼそっとひとりごとでもつぶやくように告げた。
「今度、保田さんに会うんでしょ?聞いてみたら」
「そうやな…」
麗奈は気をとり直した。
実を言うと、飯田が自分の行動に眼を光らせていると聞いたときから、市井に会う決心は鈍っている。
だが、これで市井に会わざるを得ない理由ができた。
後藤が誰かをかばって自らの命を差し出したという持論に対し、市井はどのように反応するだろうか。
そして後藤の最期の日々は、何を考え、どのような態度で死を迎えようとしていたのか。
その様子をやはり、一番、近かった人の口から聞きたいという思いはさらに強まった。
- 329 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時06分27秒
- 同時に、会った事のない自分でさえ、これだけ後藤のことを知りたいと考えている。
であるのに、つきあいの浅くない先輩メンバーたちが彼女のことをもっと深く知ろうとしないことに一抹の寂しさを覚えた。
だが本当にそうなのか?
飯田や石川や…そして、今はモーニングを放逐されて在野にある吉澤もまた、後藤に対して思うところがあるはずだ。
表立ってその思慕を表出できないのはやはり、政治的な圧力がかかっているせいなのだろうか…
麗奈にはわからなかったが、とにかくも市井に会って話をきかなければ何も動かない。そんな気がした。
保田に会うなと、飯田に含まれてはいるものの、それが飯田の本心ではないように感じている自分がいる。
麗奈はむしろ、自分が市井と会うことで、先輩メンバーがもっと素直に後藤や市井、さらには吉澤に対して自然に振る舞えるようになるのではないかという漠然とした期待感のようなものを抱いていた。
- 330 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月19日(土)03時07分18秒
- これといった根拠はないのだが、なぜだかそんな気がする。
市井の日本での滞在もあと三日。麗奈がコンサート最終日に招待されることはさゆみにも告げていない。
ふと、誰かに話しておいた方がよいだろうかと、考え、そしてすぐに首を横に振った。
さゆみを信頼しないわけではないが、もし何かの間違いで飯田に伝わってもおもしろくない。
マネージャーに知られて拘束されてしまえば、元も子もない。麗奈は自嘲し、さゆみにさえ告げることをためらった。
明日には何かがわかる。だが、そんな思いにも麗奈の胸は高鳴らなかった。
後藤と市井を巡る空気は重い。
そして、その重苦しい空気を打ち払う役回りを与えられたのが自分であることに例那覇まだ気づいていない。
そして気づくと気づくまいとに関わらず、麗奈が陰謀の渦中へと放り込まれるのはすでに時間の問題に過ぎなかった。
- 331 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時42分04秒
- ◇
ガシャンと重たい音を立てて扉は閉まった。
埠頭を渡る風にその響きが溶けて消えると入れ代わるように遠くで汽笛の音が聞こえた。
両脇にそびえ立つ要塞のように巨大な倉庫が四方の視界を遮る。
自身なさげに弱々しい光を落とす街燈の明かりだけがこの現実味の無い光景を視界に留めてくれる唯一の手がかりだった。
ナトリウムランプの橙色の淡い光に照らされて、谷間のような狭い路地に三人の男の影がバラバラに伸びる。
ユウキは街灯の燃えるようなオレンジに染まった男の背中を見つめた。
押し黙ったまま屈んだ姿勢で扉に鍵をかける男の背からはどのような意志も読み取れない。
いたたまれなくなったユウキはつい、口を開いてしまう。
「ちゃんと食事は与えてあげてよね。それから…」
ユウキは監視の男に何かを告げようと途中まで言いかけて口をつぐんだ。
- 332 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時42分29秒
- 言っても詮無いことではあるし、そもそも何を言おうとしていたのか自分でもはっきりしないところがあった。
ただ、このような倉庫の一角にソニンを監禁したまま放置されてはかなわないと思っただけだ。
監視役の男は見たところまだ若かった。ユウキとそれほど変わらないかもしれない。
日本語がわかるのかわからないのか。ぎこちなく微笑む様子は半分も理解しているか怪しかった。
このような人間にソニンの世話を委ねなければならないことがユウキは無性に腹立たしい。
「日本語がまだ、達者じゃないようですね」
ユウキは傍らにいる背の高い男を見上げた。
「表の世界で生きる必要のない人間だからな」
「でも、まだ若いんだから、学校に行けばすぐに覚えますよ」
「君には関りのないことだ。人のことよりも自分の心配でもした方がいい」
傍らの男が吐く言葉はその丁寧な口調にも関わらず、どこか人を寄せ付けないような威圧感を与えユウキを黙らせた。
たしかに、彼が知っても仕方のないことではあった。
だが、日本語も解さない人間がソニンの世話をするのかと考えるとどうにも不安が残る。
- 333 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時43分06秒
- もっとも、ソニンの方は片言ではあるが、韓国語を使えるので、その点で意志疎通に困ることはない。
では、何が不安なのかと問われても具体的にその理由をユウキは上げることができなかった。
ただ、何か得体の知れない恐ろしさを感じさせるこの傍らの男の存在自体が不安の種を巻き散らしているように思えないでもない。
「それよりもあの女の方は確実に仕込んだんだろうな?」
「え…?あ、はい…ナイフの方はかなりのものですよ。さすがに専門家の薫陶を受けただけのことはある」
「そんなことを聞いているのではない。お前の言うことなら何でも聞くまでに仕込んだのかと聞いている」
「あ、はい…そうですね。僕のために、ということでは動きませんが『共通の目的』のためなら、何でもやりますよ」
ユウキは吉澤のことになると急に歯切れが悪くなる自分に苛立った。
「共通の目的」が達せられるまでは同志である大切な女。
だが、その後は…?
肉体の繋がりが何ら二人の関係を保証するものではないことは判りきっている。
- 334 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時43分24秒
- 「どうだ、あの女、夜の具合はいいのか?」
ユウキは男の顔を見上げた。唇の端を釣り上げてにやけた表情に何と答えたものか。
軍人あがりらしいこの男がそのゴツゴツとした顔に感情らしいものを浮かべることはほとんどない。
その男の顔が今、好色そうな表情を浮かべ緩んでいる。
軍人として、そして政治家として大成することのなかった理由の一端をユウキは垣間見る思いがした。
彼が望むなら吉澤を抱く事など造作もないだろう。そのつもりはあるのだろうか?
ユウキは心臓の鼓動が早まるのを感じて戸惑った。彼には何の関係もない事だ。
この男が吉澤を抱いたとして何だというのだ。今はパートナーとして互いにその存在を頼りにはしているが、別に彼女とは恋人同士でもなんでもないのだ。
それは向こうだって同じだろう。いや、むしろ、彼女の方こそ、そのような生々しい感情からは迂遠であるようにユウキには思えた。
市井を殺ることだけが彼女の生きる目的となってしまった今、その後で果たして彼女が生きることにどれだけの意味を見出すのか、ユウキには皆目見当もつかない。
- 335 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時43分43秒
- まさしく生ける屍と化した吉澤を果たしてこの男が抱くことなどあるのだろうか…
だが、この男が吉澤と四肢を絡ませて睦み合う姿を想像しただけで喉元にせり上がってくる苦い思いはなんだ?
胸のうちに広がりつつある妙な気持ちを抑えるために彼は掌をギュッと握り締め唇を噛んで堪えなければならなかった。
焼けつくような痛みを喉の奥に感じながら、それでもユウキは必死に答える。
「悪くは…ないですよ」
「そうか」
男はにやけた表情を崩さない。
「一度くらい試してみる価値はありそうだな」
サングラスに映る街灯の明かりが意味ありげにキラリと光る。
ボォーッ、という汽笛の音が今度はもう少し近くで聞こえた。荷を積んだ船が入港したのかもしれない。
ユウキはどうでもいいと思った。ふと、吉澤は今頃、どうしているか気になった。
来るべき瞬間に備えてその感覚を研ぎ澄ませているだろうか。
妖しく光るその白刃を前にひすたら自分を狂気の縁へと追い込んでいるのだろうか。
おそらく、その目的を達すること以外の何物も彼女の心を捉えることはないのだろう。
そして、その目的を達するための餌は扉一枚隔てたすぐ向こう側にある。
- 336 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時44分04秒
- 「いや…死人を抱いているようなものですよ。そういう趣味をお持ちなら別ですが…」
ユウキは実際に吉澤と体を重ねただけによくわかる。
あの女はすでに死んでいる。
どれだけ熱い抱擁を重ねようと、どれだけ激しい交合を繰り返そうと、彼女の性が息を吹き返すことはなかった。
少なくともユウキとの情事においては。
彼女の体が真に反応するのは自分の顔を舐めまわしてその形を確認したときだけだ。
それが何を意味するか理解できないほどユウキも愚かではなかった。
刹那的な肉の交わりにより得られたのかもしれない束の間の安寧。
だが、それも長くは続きそうになかった。
「興味深い話だな…」
男はいかにも興味なさげに言い捨てると、埠頭の先に止めたままの車に向かって歩を進め始めた。
「ま、待ってください…」
ユウキは街燈の明かりが辛うじて照らし出す男の細い影を追った。
すぐに捕まえなければ目の前から消え去ってしまうのではないかという奇妙な焦燥感に駆られながら。
「こんなとこに置いてかないでくださいよ」
- 337 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時44分25秒
- 恨めしげに口を尖らせて抗議するユウキに答えることなく、男は車のドアに手をかけた。
銀白色に光る取っ手を男の手が軽く引き出すと、カチャッという硬質な音を伴ってロックが外れる。
ドアを開けて車の後部座席に入ろうとして男の動きが止まった。
「それにしても…」
「はい…」
男の考え込むような仕種にユウキは戸惑った。
「あの女…どうしたものか」
「え?」
ユウキは聞きとがめた。この期に及んで逡巡する男ではない。
殺ると決めたら必ずやるだろう。
男の躊躇うような素振りにユウキはどこか煮えきらないものを感じた。
「ソニンは…殺すまでもないでしょう。殺れば、いろいろとうるさくなります。市井の場合は怨恨の線で我々まで捜査の手が及ぶことはありませんが…」
「あたりまえだ」
跳ね付けるような男の言葉にユウキはむしろ安堵した。
街燈を背にした男の顔は影に埋もれて暗く、表情は判読できない。
「市井のことだ。どう処分したものか、なかなか思案がまとまらない」
「それは吉澤に任せるということでは…」
- 338 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時44分43秒
- 男は考え込むようにして顔を背け、俯き加減に視線を落とし、すぐ真下にあるはずの海面を眺めた。
ユウキは自分の問いに対する答を期待せずに、男の視線の先を追った。
一面の闇。深く吸い込まれそうな闇に耳を澄ますとチャプチャプと桟橋に寄せる水の音が聞こえる。よくよく目を凝らして見れば黒い闇の表面が上下にうねるように見えないこともない。
男は黙ったままだ。
「腕は確かですよ。冷静さを保てればぬかることはないでしょう」
ユウキはなぜだか必死に言い訳する自分が滑稽に思えた。
だが、吉澤の思いは自分の思いでもある。彼女が直接手を下さなくてはならない。
それだけは譲れなかった。互いの肉体を貪り合い、快楽に身を任せるだけの関係。
曝け出すべき心さえ失った抜け殻のような二人。
だが、一瞬、燃え上がった生の炎が互いの瞳に映し出したもの…
それは烈しい憎しみ。そして身を切られるような痛み。
ユウキはそのとき悟ったのだ。この女とともに、思いを果たさねばならないことを。
- 339 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時45分01秒
- 「わかっている。だが、あっさり殺してしまっては、真希同志も浮かばれないだろう。その前にいろいろと使い道があるかもしれん。御前はそう考えておられる」
「御前が…」
ユウキは言葉を繰り返しつつ、その「御前」と呼ばれた男の真意を量りかねた。
やつは何を考えている?
その実体の捉えどころの無さはいたずらに不安感を煽り、時代がかった言い回しは妙にユウキの心を逆撫でした。
恐らく黒沢あたりの日本映画の影響だろうと踏んでいるのだが、それにしても最悪のセンスとしか言いようがない。
もともと、あの男自体、好色で知られた御仁だ。
今になって女振りを増した市井の姿でも見て殺すのが惜しくなったか。
それだけは許されない、とユウキは思った。
それでは、わざわざ危ない橋を渡って、奴に近づいた意味が無い。
- 340 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時45分24秒
- 「妙な考えは起こすな」
びくっ、として顔を上げると男のサングラスが冷たい光を放っていた。
男はユウキの心をその複眼のレンズを通して見透かしてでもいるように静かに告げた。。
「市井は必ずやる…この俺が手を下してでもな」
一瞬、放出された男の烈しい怒気にユウキはたじろいだ。
思い出した。
そういえば、この男も市井に烈しい憎悪を燃やす理由があるのだった。
「御前」と呼ばれる男の前で嘗て犯した唯一の失態。
その元凶となった女。それが市井だった。
「忘れるものか…安心しろ。必ず市井は殺す」
低い声でつぶやくように言い放つ男の声は夏だというのにユウキを震わせた。
威嚇するような雰囲気は微塵も感じられないにも関わらず、むしろ青く燃える炎のごとき静けさが男の狂気を余計に際立たせる。
結局、まともな奴はひとりもいないということか…
ユウキはまともなやつのような考えを一瞬抱いてしまった自分に鼻白むと男に続いて車の後部座席に潜り込み、窓の外に視線を向けた。
- 341 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時45分43秒
- 一艘のタンカーが丁度、港内に入ってきて海面を賑やかに照らし出した。
その船体が押し退けた水の塊によって棚田のように盛り上がってうねる光の帯を目で追いながら、ユウキは万景峰号で新潟を出港した日を思い出していた。
(まきちゃん…)
姉を救うために単身、当時の北朝鮮に乗り込んだユウキはあのとき心細さに震えていた。
そして苦難の末に辿り着いた先は…
(まきちゃん…)
車は静かに走り出し、海面に生じた光の畦道を後ろに置き去りにしていく。
ユウキは結局、姉を助けられなかった不甲斐なさに忸怩たる思いを抱くとともに、一方で民族の誇りを持って自らの進退を決した姉の潔さを誇らしく思い起こした。
その姉の意志を歪んだ形に貶めた市井の利己的な振る舞いが決して許されるはずはない。
ともすれば挫けそうになる意志を鼓舞するように姉への想いを確認すると、ユウキは目を閉じてシートに体を埋めた。
やがて車がスピードを上げてリズミカルで心地よい振動を座席に伝えるに連れ、ユウキは眠気に誘われるまま、うとうとと舟を漕ぎ始めた。
- 342 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月01日(金)17時46分00秒
- 傍らに座る男はユウキの存在など眼中に無い様子でしきりに何かを考えているようだった。
やがてその考えがまとまったと見え、男は満足げな微笑をその酷薄そうな表情に浮かべてつぶやいた。
(やはり死んでもらうしかないか…)
彼の母国の言語で綴られたその言葉は、しかし、やたらと楽しそうな響きをともなって狭い車内に充満した。
(市井…)
彼女に蹴られたはずの股間にぶらさがる逸物は不思議とあの場面を思い出す度に体内の血流を集めてズキズキと脈打つ。
今もまた頭をもたげた欲望を静めるには今夜も女を抱かなければ収まりそうにない。
そして、それはすべてあの女のせいなのだ。
(市井…)
男は微笑んだ。
(もう少し、楽しませてもらうぞ…)
埠頭の倉庫街を縫うように走ると三人の男を乗せた黒い車はやがて一般道に入ると、スピードを落として光の列に紛れ込んだ。
二つ、三つ信号を曲がり細い路地に入り込むとやがてライトを落とし、漆黒の闇に溶けるようにしてその姿を消し去った。
- 343 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時05分28秒
- ◇
石川は携帯をパタンとたたんで、タクシーの後部座席に深々と沈み込んだ。
知らずと額に汗がにじんでいた。
どんな顔をして携帯の端末を掴んでいたものか。力を貫いて背中をシートに預けるとクーラーの冷気が額を撫でて熱を奪っていく。
しばらく心地好い風に目を閉じて頭の中を空白にした。
長梅雨の続く東京の気温は決して高くはなかったものの、それでも夏が近づくにつれて蒸し暑い日が続いている。
20回のコール音の間、石川にはすでに保田が通話口に出るような気配をまったく感じなかった。
ハァッ…
(ため息を吐くと、一緒に幸せも吐き出されちゃうよ)
教えてくれたのは保田ではなかったかもしれない。あるいは矢口だったか。
だが、今、石川は無性に保田に会いたかった。
- 344 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時06分18秒
- TBS緑山スタジオでの番組収録後、石川を乗せたタクシーは東名を飛ばして首都高に入ろうとしていた。
用賀の料金所を過ぎると、サンマイクロシステムズの看板を掲げた背の高いビルの偉容がフロントガラスを通して視界に跳び込んでくる。
サンが米国の大きなコンピュータ会社であることを教えてくれたのはやはり保田だった。
『スコット・マクニーリーって会長がやり手でねぇ。ま、うちの山崎さんみたいなもんだよ』
そう言ってニカッと笑う保田はやり手の経営者を引き合いに出すとき、必ずその言葉で締めくくった。
『うちの山崎さんみたいなもんだよ』
メンバーにとってはどんな言葉よりもそれで引き合いに出された人物の凄さがわかるのだから便利なものだ。
やがてビル街を縫って走る高架の上から都心の街並みを確認すると石川は急に落ち着きを失い、そわそわとし始めた。
- 345 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時06分39秒
- 保田は一向に捕まらなかった。
番号を変えたのだろうか?
おかしい。それならば、自分には当然伝えてくるはず、と石川は考えている。
一方で、ここ最近、連絡を取っていなかったことに多少の引け目を感じないでもない。
その間、小川が保田と連絡を取り、頻繁に会っていたらしいことを考えるとやはり、自分が新しい携帯の番号を知らされていない可能性も否定できないのだった。
それとも…
何か良くない事が保田の身に振りかかったのだろうか。
保田が自分に告げなかった番号を小川が知っている、という考えを自然と頭から振り払おうとする。
自分より後輩の方が保田と仲良くなっていたと考えることはいたく石川のプライドを傷つけた。
- 346 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時06分59秒
- だが、実際、保田は通話口に出ない。
矢口ならば当然、保田の居場所くらい掴んでいるだろう。
だが、事務所の方針として保田への接触を禁じている以上、メンバーである自分に矢口が保田の連絡先を教えてくれるはずはなかった。
知らぬうちに矢口との距離は遠ざかっていた。
今や矢口は体制側の人間として石川たちを抑圧する立場に近い。
石川にはそのように感じられる事が少なからずあった。
ともかく、飯田はもちろんのこと安倍や矢口にも相談のできる話ではなかった。
では、どうする…
石川は唇を噛んだ。焦る余り、降りるべき出口を運転手に告げるのを忘れている。
車はC1を直進し竹芝の分岐に差しかかろうとしていた。
(小川なら…)
石川はふと思いついた。小川なら保田の連絡先を知っているかもしれない。
なにしろ、一番、最近、保田と接触していたメンバーは小川だ。
石川はそのアイデアに意を強くすると慌てて窓の外を覗いて自分が今、走っている位置を確認した。
- 347 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時07分16秒
- 「す、すみません!次、次で降りてください!」
「どちらへ?」
どこをどう走っているのか判らないながらも、渋谷をとうに過ぎてしまったことだけはわかる。
急いで首都高を降りるよう指示すると運転手に行き先を尋ねられた。
「病院へ!病院へお願いします!」
迷わず小川の入院している病院の名を告げると石川は再び窓の外に視線を向けた。
左のレーンに車線を移して出口を降りると一般道に入り信号にぶつかった。
そこで左折すると歩道でジョギングをする市民ランナーの姿がぽつぽつと見え始める。
しばらくまっすぐ進むと両脇に芝生の豊かな緑が広がった。
前方左手奥には松の木に覆われた土塁と生垣がお堀の周りを囲んでいる。
- 348 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時07分33秒
- 知らぬ間に皇居まで来てしまったらしいが、幸いにも小川の病院はここからさほど離れていない。
やがて両脇をビルに囲まれた大通りを道なりに進むと右手に大きな白い建物が姿を現した。
「あ、あそこ!あの病院です!」
運転手は病院の名前を復唱すると、右折して病院の入り口に車を着けた。
石川はタクシー券を渡すと走るように受付へと向かう。
病院の建物に入ると車椅子に押されて移動する患者が何人か見うけられた。
石川は小川がその中に混じっていないかちらっと確認すると受付のカウンターに乗り出して小川の入院している部屋を尋ねた。
- 349 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時07分48秒
- 石川はノックこそしたものの返事を待たずに個室の扉を開けて驚いた。
「保田さん!」
「よ、石川。血相変えてどうしたの?」
「や、保田さんこそ、こんなとこで何やってんですか?」
石川はあんぐりと口を開けたまま呆けたように保田の顔を凝視するしかなかった。
当の保田は動じることなくベッドの脇の収納箱を兼ねた長椅子に座り込んで小川と顔を見合わせている。
石川は視線を小川に移すとそのへらへらとした緊張感のない表情に脱力した。
「保田さん……全然、捕まらなかったんですよ!どこに行ってたんですか?」
「別にどこも。ずっと普通に生活してたけど?」
「携帯、替えました?全然、繋がらなくって」
「替えてないよ。そんな金ないもん」
「えぇっ?じゃ、どうして繋がらなかったんですぅ?」
「そんなこと、私に言われても困るけど……でも、」
「でも何です?」
石川は勢い込んで質した。
- 350 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時08分04秒
- 事と次第によっては只では済まさないと凄みを利かせたつもりの目つきで保田を睨む。
保田は石川の妙に焦燥感を募らせた態度を不審に思いながらも、その視線の険しさには気づいていないようだ。
困惑したような表情を浮かべ、石川に答えた。
「でも、病院にいることが多かったからね。電源、切ってる時間、長かったし」
「そんなに頻繁にここに来てたんですか?」
再び気色ばむ石川の様子が可笑しいのか、保田の表情が次第に緩んできた。
「なぁに怒ってんのよ、あんたは?」
「だって…」
石川は段々と自分が空回りしていたらしいことを悟るに連れ、なんだか悲しいような口惜しいような妙に惨めな心持がして言葉を継ぐ気力を失いかけた。
「だって、凄い心配してたのに…」
目に涙を浮かべて悔しがるその様子にさすがに只事ではないと感じたのだろう。
保田が小川に目配せして「何かあったの?」と逆に問い掛けたものの、今度は石川のほうが俯いて黙りこくってしまった。
- 351 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時08分21秒
- いきなり押しかけてきて勝手に怒って、そして勝手に落ち込んでいるらしい石川。
その姿に困惑しつつも、小川は必死で場を取り繕おうとして「あ、あっ…」と訳のわからない言葉を発しながら、何か話の接ぎ穂になりそうな材料を探す。
保田はそんな小川の様子に目を細めながら、石川に優しく話し掛けた。
「どうしたのよ、何かあったの?」
「よっすぃが…」
「吉澤?」
保田は小川と目を合わせた。困惑した表情を浮かべる相手を目で制して、石川の言葉を待つ。
モーニングを脱退してから大分経つとはいえ、その名前がメンバー間でタブー視されていることくらいわからぬ保田ではない。
「私、見ちゃったんです。よっすぃがあの子と歩いているとこ」
「あの子って誰よ?」
石川は上目遣いで保田の瞳を見つめた。
推し量るような色合いの視線を受けて保田は何かとてもよくない予感を抱きつつある。
- 352 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時08分38秒
- 「――ユウキくん……」
「……」
躊躇いがちに告げられたその言葉に保田は言葉を失った。
小川はその名前の持つ意味を量りかねて困惑気味に保田の顔色を窺っている。
「ユウキと吉澤が…」
「ねぇ、保田さん、どうしたらいいですか?ユウキくんって、何か危ない人たちと付き合ってるんでしょう?」
「石川、落ち着いて。それ、いつのことなの?」
「つい一昨日のことです」
「一昨日…」
保田は何か心当たりがあるのか、考え込むようにして石川から視線を外し、しきりと窓の外を窺っては「まさかね…」と独り言のようにつぶやいた。
小川はハッと思い出したように病室に入ってきたまま突っ立ったままの石川に座るよう勧めたが、石川は聞こえないかのようにじっと保田を見つめたままだ。
小川はその様子にもさして落胆することなく視線を二人の間で交互に移しては、心配そうな色をその瞳に映した。
「ユウキに関して妙な噂があるの。ソニンが以前から疑ってたんだけど」
「はい」
ごくり、と唾を飲み込んで石川は次の言葉を待つ。
- 353 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時08分55秒
- 「どうも北朝鮮の旧政権が内戦で崩壊したとき、金正日とその側近が日本に逃げ込んだ形跡があるって…」
「…」
訥々(とつとつ)と語られる保田の話に石川と小川はただ聞き入ることしかできない。
「そしてユウキがその一味に加担している可能性があるって…」
「ユウキくんがですか?」
「うん。どうも内戦が終わってから向こうで紗耶香とトラブルがあったみたい。その辺は私も詳しくは聞いてないんだけど」
「トラブルって…ひょっとして後藤さんに関係することでしょうか」
「わからない。紗耶香もその件については話したがらないし、ソニンもユウキの行方を掴めずにいたから…」
保田は思い詰めたように視線を落とすと苦しそうに次の言葉を吐いた。
「一昨日からソニンと連絡が取れないの。なんだか気になってはいたんだけど…」
「まさか…」
- 354 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時09分10秒
- 石川の不安げな声に重ねるように小川があっ、と突然声を上げた。
びくっと体を振るわせた二人が視線を向けると、泣きそうな声で胸のうちに去来した不安を吐露する。
「麗奈…今日、市井さんと会う約束でしたよね?何もないですよね?」
「大丈夫…だと思うけど」
だがそわそわと落ち着きなく立ち上がった保田の仕種には、大丈夫だと確信している様子は微塵も感じられなかった。
「ちょっと紗耶香に連絡取ってみる」
そそくさと病室を立ち去る保田の後姿を見送りながら、石川は小川に問い掛けた。
「田中が市井さんに会うなんて初耳だけど」
「すみません…」
「いや、責めてるわけじゃないんだけど、話が見えなくて」
石川は実際のところ、予想もしていなかった展開についていけなかった。
今や天上人の感がある飯田らに代わって旧世代と5期以降の新世代の橋渡し役を自負している石川。
彼女にとって、自分の知らないところで年下のメンバーがなにやら不穏な動きをしていると知るのは正直なところおもしろくなかった。
だが、自分のつまらない感情のために小川を萎縮させては意味がない。
石川はできるだけ表情を崩さないまま、小川が説明してくれるのを待った。
- 355 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時09分27秒
- 「えっと…麗奈が保田さんに会いたい、って言ったんですよ」
「うん、それで?」
「ええっ…それで保田さんに会って、市井さんが来るから会わないかって誘われて…」
「そもそも、なんで田中が保田さんに会いに行ったの?」
石川はなるべく茶々を入れずに小川の話を聞くつもりだったが、要領を得ない話しぶりについつい口を挟んでしまう。
当の小川は気にする素振りも無く、あぁっ、と声を上げ、今、思い出したといった風情で口を開く。
「そもそも後藤さんの話が聞きたいってことで、それで保田さんに会いたいんだけど、って話でしたよ、そういえば」
「なんでまた、ごっちんの話なんか…それにしても、小川さあ、あんたもごっちんの話はまずいってこと、知らなかったわけじゃないでしょ?」
石川はとうとう我慢できずに、問い詰めてしまった。
小川はしゅんとして縮こまってしまう。
「悪いことは悪い、って新メンバーにきちっと話すのが先輩の役目なんだから、しっかりしてよね」
「…ごめんなさい…やっぱ、まずかったですかね?」
小さくなって、上目遣いですまなそうに答える小川の表情に、石川はなぜか積もり積もった鬱屈を吐き出さずにはいられなくなった。
- 356 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月04日(月)20時09分44秒
- 「まずいよ。娘。のメンバーがごっちんのこと喋ると外交問題になりかねないってマネージャーさんに口が酸っぱくなるほど言われたじゃない?あんた、覚えてないの?だいたい、あんたはミュージカルの閉まる直前になって怪我するなんて普段からの心構えが――」
「石川っ!紗耶香がいないの!何かトラブルがあるのかもしれない。これから、紗耶香の部屋に行ってみる」
バタン、と音をさせてドアを開けたところを見ると相当慌てているらしい。
石川と小川が呆気に取られて、見ていると保田は荷物をまとめて石川の手を取った。
「あんたもいくのよ」
「へっ?あの…ちょっと、保田さん…?」
「小川っ、あんたのとこに連絡はないと思うけど、万が一、田中から連絡が来たら私に電話して。いいわね、頼んだわよ?」
「は、はい…」
「あ、あの、小川?じゃ、よろしく…っていうか、保田さん?」
石川は後ろ髪を引かれるような未練がましい表情で小川を見つめつつ、保田に腕を引かれるまま、病室を退出していった。
後に残された小川はあんぐりと口を開いたまま、ただ呆然と閉ざされたドアを見つめることしかできなかった。
- 357 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時13分36秒
- ◇
麗奈は緊張していた。
市井とソテジのジョイントライブの熱気まだ冷め遣らぬ中、麗奈は事前に指定された場所で市井の車が迎えに来るのを待った。
会場の裏手にあたるその場所からは、機材などを搬出するローダーの姿が見え隠れして、麗奈の興味を引いた。
会場の収容人員は2500人程度で、麗奈がモーニング娘。として歌う10000人以上収容の大ホールと比べると容量は小さかった。
だが、その密集した観客個々のエネルギーがステージから客席へと直に放射されているように思えて、麗奈には逆に羨ましくさえあった。
韓国語で歌われる歌詞の意味はわからなかったけれど、その音楽の迫力は麗奈を圧倒した。
- 358 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時14分20秒
- 腹の底にまで響き渡る重く激しいリズムを刻み出すドラム。
ディストーションのエフェクトがかかった独特な音で疾走するギターのリフ。
正確なリズムできっちりとバンドを支えるベース。
そして韓国の英雄という触れ込みのソテジがさすがと唸らせる激しいボーカルスタイルで客席の興奮を煽る。
対して市井はあの細い体のどこから発しているのかと思えるような豊かな声量で深みのあるバラードを熱唱。
麗奈はパフォーマーとしての血を激しく掻きたてられた。
確かに客席の大半がソテジ目当てと思われる韓国からの留学生や日本で働く韓国人に占められてはいた。
だが、モーニング時代から市井を応援し続けるファンの今や数少ない生き残りも駆け付けて応時を忍ばせていた。
麗奈は市井がプッチモニで大プレイクした時代を懐かしく思い出す。
- 359 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時15分03秒
- まだ小学生だった麗奈は友達と一緒に教室でプッチモニをまねては喝采を浴びて歌手になる夢を少しずつ育んでいた。
後藤を担当するのはたいてい同じクラスにいた他の可愛い女の子と決まっていた。
麗奈は不本意な事に保田のパートをやらされることがほとんどだったが、今となってはそれさえもがよい思い出として記憶に残る。
市井を巡る情勢が不穏であるためか客席最前列には物々しい警備員が配備されていた。
厳戒態勢の中、時折、客席を監視するような係員の目が興趣を削いだものの、ライブは大いに盛り上がった。
市井、ソテジによる高麗再建、朝鮮半島統一に寄せる熱いメッセージがダイレクトに感じられて、言葉がわからないなりに麗奈でさえ感動で胸が熱くなる瞬間があった。
韓国人らしき若者や古くからの市井のファンが感涙にむせぶ姿が見られたのもさして不思議ではなかった。
ソテジとのジョイントであり、自分がメインのステージではないものの、その夜、市井は確かに光っていた。
- 360 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時15分36秒
- 「待った?!」
ライブの興奮そのままに頬を紅潮させて駆けよって来る市井の姿に麗奈は身を固くした。
(オーラ…)
栗色に染めた髪の色のせいだろうか。麗奈にはまるで市井の背後から光が差しているかのごとくにその姿が神々しく見えた。
「いえ…あの、始めまして…田中、田中麗奈です」
「おっす。れいなちゃんか、若いね。市井です、よろしくっ」
にこやかに手を差し出して握手を求める市井の颯爽とした姿に麗奈はすっかり参ってしまった。
「よ、よろしくお願いします…」
消え入るような声で囁くように返答した麗奈の初々しい様子が気に入ったのか、市井は頻りに鼻を鳴らしてはその表情をじろじろと遠慮なしに眺め回した。
ただでさえ、緊張しているのに大変な相手であると思う気持ちが余計に体を強ばらせる。
麗奈は市井に誘われるまま、市井らを招聘したという日本のプロモーターが用意した黒いセルシオに乗り込んだ。
- 361 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時16分18秒
- 麗奈は市井によって後部座席の右側、つまり上座に押し込まれたのだが、自分が客として遇されていることにまだ気付かない。
すぐに乗り込んで自分の横にちょこんと座った韓国の英雄がそのような気遣いを見せるはずもないと思い込んでいる麗奈にとって無理のない話ではある。
そして、実際、市井の打ち解けた態度は直に麗奈の緊張をほぐしていった。
「ごめんね。ソテジは別の車で移動なんだ」
「は、はい。でも市井さんと一緒なんで全然かまわないです。ライブ、すごい感動しました」
「あーよかった。そう言ってもらえると嬉しい。正直、日本のお客さんが反応してくれるか不安だったし」
くだけた調子で掌をひらひらと返し紅潮した頬あおぐような仕種に心底ほっとしたような表情が窺えて、麗奈はなんとなく気楽になった。
芸能界にありがちな上っ面を撫で合うもどかしい会話が麗奈は嫌いだった。
社交辞令でなく、心底、感動したという自分の拙い感想を素直に喜んでくれる市井に麗奈は次第に好感を抱きつつあった。
- 362 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時16分50秒
- 「正直、言葉はわかんなかったですけど、声の持つ迫力っていうか…響いてましたね。ソテジさんも凄かったですけど」
「あはは、嬉しいこと言ってくれるよね。でも、正直、私も安心した。日本の中学生って、何か怖いイメージがあったから」
「怖いですか?」
麗奈は意外に思った。自分の場合、イメージ戦略というか、14人という大所帯における差別化のためもあり、多少、突っ張ったようなキャラクター付けを意識している部分もある。
だが、それはあくまでもイメージ上の話であり、実際は普通の13歳と何ら変わるところはないし、そもそも普通の中学生がこわいという感覚が麗奈にはよく理解できなかった。
「あ、ごめん。多分、それは自分より上の世代の人も自分らに対して感じたようなことだとは思うんだけどね。世代間のズレというかギャップというか…」
「?」
- 363 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時17分22秒
- 首を傾げて戸惑う仕種はもはや市井にはできないポーズだ。
媚びるようなつもりはもちろんない。
だが、自分を最大限、魅力的に見せるしぐさを無意識のうちに会得しているローティーン特有の無自覚さが、市井をして「怖い」と言わしめていることに麗奈が気付くはずもない。
「うん、まあ、そんなことより、なんだっけ?後藤の話が聞きたいって?」
「はい、後藤さんが処刑された理由について」
市井は事前に保田から聞いていたとはいえ 、実際に後藤の最期を知りたいという中学生の麗奈を前に何をどう話してよいものか戸惑っているようだった。
- 364 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時17分52秒
- 市井は保田との会話を思い出していた。
『教えちゃっていいの?モーニングは後藤のことしゃべっちゃいけないんじゃなかったっけ?』
『いいよ。おおやけの場で後藤を擁護するような発言しちゃダメってことでさ。知ってる分には全然、問題ないでしょ?それくらいの分別はある子だし』
『えらく、買ってるんだね?』
『なんかね…』
躊躇いがちに揺れる保田の瞳が大きく見開かれたのは何を意味していたのか。
ギュッと目を閉じてその言葉を記憶の水底から呼び起こす。
『期待しちゃうんだよね、あのコには…』
市井はその言葉が大きな波紋となって広がるイメージを脳裏に描いた。
もちろん、麗奈には市井が何を考えているのかはわからない。
- 365 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時18分22秒
- 当の麗奈は淡々とした面持ちで市井の言葉を待つ。
ちらっと視線を車窓に向けると、車は繁華街を抜けて大通りへと向かうところだった。
シェーディングの施された窓を通して市井や麗奈の姿が外から見られることはなかったが、それでもつい先程までライブの場で熱狂していたはずの観客が普通に家路に着く様子はなんだか祭りの後の静けさのような寂しさを感じさせた。
「後藤はね、北朝鮮での最期の時期、金正日に保護されていた…」
眉をひそめ、ひとつひとつの言葉を丁寧に選びながら記憶を掘り返していくような作業。
その様子に市井の精神的な負担を感じて麗奈は戸惑った。こんなことを軽々しく聞くべきではなかったのではないか?
麗奈の様子を知ってか知らずか、市井は記憶の中に意識を埋没させ、いかにして後藤の最期を伝えるかに集中しているように見えた。
- 366 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時18分52秒
- 「保護されていたってことは、つまり…わかるよね?」
急に向けられた視線に麗奈はドキッとする。慌ててうなずくものの、それが後藤が金正日の愛人だったという事実を指すものかどうかわからず落ち着かない。
虚に揺れるその瞳の奥は誰の姿を映しているのか。
麗奈にはその視線が自分を通り越してどこか遠いところに焦点を合わせているように思えた。
「はい…独裁者の愛人だったために裁判にかけられて有罪になったと聞いています」
「独裁者の愛人…そうだね、それもある…」
市井の言葉はなんだか頼りない。麗奈はだんだんと居心地が悪くなってくるのを感じた。
「後藤の有罪判決は法的には何の根拠もないそうだよ。韓国で会った法学者の人が呆れてた」
「じゃあなんで後藤さんは…」
「政治的、極めて政治的な理由だよ。後藤の死によって高麗は近代国家の道を進むことができたんだ」
麗奈にはわけがわからなかった。市井は相変わらず遠くを見ている。
- 367 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時19分23秒
- 「後藤さんが処刑されていなければどうなったと思いますか?」
「国民の不信感が高まって治安が悪化しただろうね。政情不穏に陥って対外直接投資も激減しただろう。そうなれば、後藤を生かすことで得られたはずの円借款もまったくの無駄になる」
「えんしゃっかん…ですか?」
「ああ、借金のことだよ。極めて低利で貸し出される日本からの資金援助だね」
「結局、後藤さんが死んだことで、すべては良い方向に向かったと…そういうわけなんでしょうか。どうもよくわかりません」
麗奈の素直な感想に市井は目を細めて答えた。
「後藤にはわかってたんだろうね。頭のいい子だったから」
「教育係…」麗奈は顔を上げて市井の目を見つめる。「だったんですよね」
「ああ。詳しいね」
「私もモーニング娘。の端くれですから」
市井は麗奈の視線を受けとめて、それからスッと逸らすように顔を背けて窓の外に視線を移した。
ライブ会場からホテルまで、それほど遠くはないはずなのだが、やけに車の進みが遅い。
渋滞してる、とつぶやく市井に対し麗奈はうなずくでもなく、挑むような表情を浮かべた。
- 368 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時19分53秒
- 「市井さんは納得してませんね?」
「…納得?」
市井は別段、気を悪くした風ではないが、それでも怪訝そうな顔つきで麗奈の顔を窺う。
「後藤さんが自ら死を選んだことに対してです」
市井は奇妙な生き物でも眺めるかのように、しばらく穴の開くほど麗奈の顔を見つめたが、やがて諦めたようだった。
弛緩した表情で投げやりに答える。
「納得…そうね、納得して…なかった、かもしれないね…」
シートに背を預け、両腕を上げて頭の後ろで交差させると市井はだらしなく体を伸ばして虚ろな視線を天井に向けた。
「後藤さんが自分を置いて死ぬはずはない…そう、思っていたんじゃないですか?」
「なに、…なにを言うの?」
市井は多少、生気を取り戻した瞳で麗奈の顔を睨みつけた。
幸か不幸か車は遅々として一向に進む気配はない。
麗奈は自ら退路を立つかのように市井の神経を逆撫でる言動を繰り返した。
「保田さんから市井さんが公式の場では後藤さんを激しく罵倒したと聞いて思いました」
目の前の小柄な女性は次第に体中から気のようなものを発散しつつある。
だが、麗奈は市井の射るような視線に怯(ひる)むことなく続けた。
- 369 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時20分25秒
- 「市井さんは本当に怒っていたんじゃないか、後藤さんに裏切られたと思っていたんじゃないかって…」
「私が本気で後藤を罵倒してた…そう、言いたいわけ?」
「違いますか?」
市井はもの凄い形相で麗奈を睨みつける。
肩書きだけとはいえ、実際に戦場で修羅場を潜り抜けてきた戦士の迫力はさすがに違う。
一瞬でも気を抜いたらたちまち命を取られてしまいそうな錯覚に麗奈はこの場から逃げ出したくなる誘惑と必死で戦わなければならなかった。
「後藤が私を裏切ったなんて与太話をよくもぬけぬけと…」
血に飢えた狼が獲物を前にして低く唸っている。
少なくとも麗奈にはそう見えた。
「少なくとも市井さんは…」
麗奈はからからに渇いた喉で言葉を区切りながら慎重に続ける。
「市井さんはそう思っていたんじゃないですか?」
「……」
市井は思い当たる節があるのか麗奈から顔を背け、自らの内面を推し量るように中空に視線を泳がせた。
恐らく市井は後藤が自分を裏切ったなどと考えたことはないのだろう。
ましてや、自分が後藤を憎み、本気で罵っていたなどとは。
- 370 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時20分55秒
- 「私は後藤を…」
細く震えるような声に麗奈はハッとした。
「私は後藤を…憎んでなんかいなかったよ」
すっかり毒気を抜かれ、脱力してシートに深々と沈み込んだ市井は、やがてぽつぽつと語り始めた。
「ただ寂しかったんだ…後藤が悩んでいたときに何もしてやれなかったことが…」
淡々と話す市井の声は注意して耳を傾けなければ聞き漏らしそうなほどに小さく掠(かす)れていた。
「暗く寒い独房の中でどんなに後藤が辛く寂しい思いで死ぬことを考えていたのか…」
麗奈はやがて市井の声が湿り気を帯びていくのを感じて胸がギュッと絞られるような痛みに顔を伏せた。
「ユウキは…ユウキってのは後藤の弟だけどさ。あのコが最後に後藤の姿を見たとき、後藤は笑ったって言うんだ…最功の笑顔を見せたって」
市井は遠くを見つめたまま続けた。
「後藤は確かに大儀のために死ぬ覚悟はできていたんだろう。けど…」
「…」
麗奈は顔を上げて、言葉を止めた市井の横顔に注視した。
- 371 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時21分25秒
- 「死ぬことが怖くないはずはないんだ。それは戦場で後方にいた私にだってわかる…死ぬのは誰だって怖いんだ、それなのに…」
市井の目からつぅーっと一筋の線が降りた。
「それなのに、私は…」
車は少し動いたかと思うと、すぐに止まって大柄なワンボックスの後ろに着けた。
テールランプの赤い光が市井の顔を赤く染める。
「私は、最期の時間を一緒に過ごしてあげられなかった…後藤が死の恐怖と向き合っている間私は…」
「…」
「私は、デビューを目の前にして浮かれていたんだ…」
「…」
麗奈は言葉を発することができなかった。静寂が車内を重苦しい空気で包み込む。
車は再び動き出して、スピードに乗った。
今度はすぐに止まらない。
加速を背に感じながら、麗奈は何か言わなければ、との焦燥感を募らせるが一向に適当な言葉が浮かんでこない。
そもそも、こういうとき、市井を慰めていいのか、それとも突き放しておいた方がいいのかもわからないのだ。
- 372 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時21分55秒
- いい加減、沈黙による緊張が張り詰めて限界に達しようとしたとき、突然、市井の携帯が鳴った。
「!」
慌てて鞄の中を弄(まさぐ)り、見慣れない形の携帯を取り出した市井は、パカッと二つ折りの端末を開いてアンテナを伸ばした。
「ヨボセヨ…?もしもし…?ハイ、市井ですが…」
市井の表情が見る見るうちに強ばっていった。
「あんた…何言ってんの?」
暗くてよくはわからないが、市井の顔から血の気が引く様子が手に取るようにわかった。
「ソニン?ソニンがいるの?」
そのまま市井が黙り込んでしまったので、麗奈には何が起こっているのかまったく判断できなかった。
しばらくじっと聞き耳を立てていた市井は思い出したように顔を前に向けて運転手に告げた。
「首都高入って湾岸線、13号地で降りて青海埠頭までお願い」
「こっからだと11号線で橋渡りますけどいいですか?」
「構わないわ。お願いします」
それっきり黙り込んでしまった市井に再び生気が戻ったのを麗奈は不思議そうに眺めていたが、さりとて何か声を掛けるということもできそうになかった。
- 373 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月12日(火)20時22分25秒
- どこだかわからない場所で高速道路に入ると車はスピードを上げて高架の上をひた走っていく。
窓の外に目を向けると対抗車線の車の連なりが織り成すヘッドランプの光の帯がまぶしかった。
ロケットのような形のビルや東京タワーを横目に通り過ぎると、やがて空中に浮かんだ未来都市を思わせるループをぐるぐると回り、ライトアップされた巨大な橋脚が視界に飛び込んできた。
二本の巨大な柱頭に挟まれた橋梁の威容はどこか異世界へと通ずるゲートのような錯覚を麗奈に催させる。
市井は一心不乱に窓の外を眺めていた。先に何が待っているのか麗奈にはわからない。
だが、市井の日本での立場やライブでのものものしい警戒から見て、恐らく何かとてつもなく危険なことだというくらいは見当がつく。
不思議と不安は感じなかった。市井の横顔が橋の照明によりサイドウィンドウに浮かび上がった。
そこには麗奈の知らない市井の顔、死地へと赴く戦士の顔があった。
- 374 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時23分09秒
- ◇
市井はホテルに戻っていなかった。保田と石川はホテルのロビーで呆然と立ち尽くした。
公演が終了してからすでに一時間半が経過している。
保田は考えた。麗奈とどこか別の場所で話し込んでいるのかもしれない。
だが、ソニンが消息を断った矢先の出来事だけに言い知れぬ不安が募る。
保田は携帯を取り出して麗奈に聞いていた番号を呼び出した。
すぐに麗奈は通話口に出た。
慌てて跳びつく姿が容易に想像できるような急いた様子に何か只事でない気配を保田は感じた。
「田中さん?保田です。今、どこにいるの?」
「保田さん!市井さんが、市井さんが倉庫に…倉庫に入ったまま出てこないんです!」
「落ち着いて、田中さん…紗耶香が一緒なのね」
「はい、でも、でも倉庫に入ったまま…」
「落ち着きましょう、一回、深呼吸をして。ね、スゥーッと、ハイ」
受話器の向こうで深く息を吐く音が聞こえた。
- 375 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時24分03秒
- よほど混乱していたらしい。携帯を頬に寄せたまま深呼吸する姿が容易に想像できた。
違う場面であれば、可愛いと言えない事もない仕種だろう。
「落ち着いた?まず、どこにいるか教えて」
「はい。ええっと…倉庫があります…」
「倉庫…だけじゃわかんないわね。地名はわからない?」
「ええっと…フジテレビの近くだから…お台場!お台場です!」
「お台場…」
何でまたそんなところで、と言いかけて保田は思い直し、まずは確認すべきことを聞くため麗奈にやさしく問いかけた。
「そこには他に誰かいるの?」
「市井さんの運転手の人がいます。でも、市井さんは倉庫に入ったまま…」
どうにも要領を得ない話ぶりにさしもの保田も焦りを隠せない。
険しさを募らせる保田の表情に石川が心配そうな視線とともに肩に手を預けた。
ちらっと、振り向いて「大丈夫」と一言小声で告げると再び通話に集中する。
「じゃあ、あなたは、紗耶香の車で一緒にお台場の倉庫まで来ているわけね?」
「はい、そうです」
- 376 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時25分17秒
- 「なんでそんなところにいるの?」
「市井さんに電話がかかってきて…それで、それでここに呼び出されて…」
「電話?紗耶香は携帯を持ってたの?」
「はい、それで…」
保田はそれっきり口をつぐんだまま、しばらく考え込んだ。
市井の携帯の番号を知っているとすれば、呼び出したのは関係者以外に考えられない。
それにしたってお台場とはいえ、受話器の向こうの静まり返った様子からは人の気配が感じられなかった。
おそらく、人気のない、港に近い場所だろう。
興行関係の人間がわざわざそんな場所へ市井を呼び出すとも考えられない。
ということは…
「ソニンだ!」
突然、叫んだ保田の声に石川はその薄い眉毛をピクッと釣り上げて反応した。
「ソニンさん…そういえば」
受話器の向こうではやはり、麗奈が興奮気味に声を上ずらせていた。
「そういえば、『ソニンがいるの?』って市井さんが言ってました」
「ってことは、相手はソニンじゃないわけね?」
「はい…でも、ソニンさんがそばにいたのかも…」
- 377 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時25分51秒
- 保田は考えた。
ソニンは恐らく市井を呼び出すための餌。何物かに捉えられて拘禁されているのだろう。
麗奈を連れてホテルへ帰るつもりだった市井はソニンを拉致した相手から電話で呼び出され、その足でお台場に向かった。
そして、市井は相手の指示によりひとりで倉庫に入ったまま出てこない…
市井の身に危険が迫っているのは火を見るよりも明らかだった。
「田中さん、警察に電話して助けを呼びましょう。あなたじゃ場所わからないでしょうから運転手の人に替わって」
保田は通話口に出た男と二言三言交わして場所を確認すると、もう一度麗奈を呼び出して告げた。
「いい?よく聞いて。警察に電話するのよ、場所は運転手の人に言ってもらっていいから。田中さんは紗耶香が呼び出されて危険に陥った状況を説明するの」
「えっ?わ、わたしが警察に電話するんですか?」
「状況を説明できるのはあなたしかいないの。ね、緊張するかもしれないけど、お願い。それから、警察が来るまでは絶対にそこを動かないで。いい?」
「え、ええっ?」
- 378 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時26分50秒
- 麗奈が受話器の向こうで狼狽している様子が保田には手に取るようにわかった。
無理もない。まだ中学二年生の女の子が警察に電話しなければならないのだ。
緊張するなという方が無茶な話だ。
だが、保田は信じていた。麗奈にはどこか腹の座ったところがある。
臆することなく警察に連絡してくれるだろう。
「いい?絶対、車から出ちゃだめよ。危なくなったら逃げなさい。あなたまで巻き込まれたら目も当てられないから」
「はい…わかりました。警察に連絡します。市井さんの命には代えられないですからね」
先程まで慌てふためいていたのが嘘のように麗奈は落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
やはり保田の見込んだ通り、胆力のある娘に違いない。
- 379 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時27分39秒
- そうでなくては。保田は思った。
それでこそモーニング娘。だ。
困難に断ち向かうチャレンジング・スピリット。
それなくして明日の娘。を託すことはできない。
「すぐに私たちも行くから。それまでひとりで頑張るのよ」
「はい、必ず。あの、保田さん…」
「なに?」
「あの、えっと…何でもないです。気をつけて来てください」
「あんたもね。じゃ、よろしく」
保田は通話をオフにすると携帯をパタンと畳んでカバンにしまう。
石川を促してホテルのロビーを抜け、エントランスの車寄せで止まっているタクシーの一台へと向かった。
- 380 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時28分19秒
- そうでなくては。保田は思った。
それでこそモーニング娘。だ。
困難に断ち向かうチャレンジング・スピリット。
それなくして明日の娘。を託すことはできない。
「すぐに私たちも行くから。それまでひとりで頑張るのよ」
「はい、必ず。あの、保田さん…」
「なに?」
「あの、えっと…何でもないです。気をつけて来てください」
「あんたもね。じゃ、よろしく」
保田は通話をオフにすると携帯をパタンと畳んでカバンにしまう。
石川を促してホテルのロビーを抜け、エントランスの車寄せで止まっているタクシーの一台へと向かった。
- 381 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時29分23秒
- ◇
話の展開から完全に置いていかれた石川は保田に言われるままタクシーに乗り込むと不安げにその横顔を眺めた。
「青梅埠頭までお願いします」
そう言って後部座席のシートに深々と体を持たれかけた保田は目を閉じて、懸命に何か考え込んでいる。
石川は現場に到着するまでには少なくとも何が起こっているのか保田に問い質すつもりでいたのだが、その真剣な様子に気圧されて口に出すことができなかった。
半ば諦めて石川は石川で自分の思索に集中することにした。
車窓の外に流れるイルミネーションの煌(きらめ)きは、吉澤が足を踏みいれつつある闇の世界をどこか象徴するような危うい輝きを秘めて石川の心をじわじわと不安で包み込んでいく。
- 382 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時32分42秒
- 吉澤のユウキとの交遊とソニンの失踪は果たして関係があるのだろうか。
もし、吉澤が犯罪紛(まが)いの行為に手を染めることがあるとしたら、その責任の一端は自分達にもある。
石川は考えた。芸能界から放逐して一社会人としての再出発の機会さえ奪い吉澤を追い詰めてきた事務所。
そして、その方針に唯々諾々(いいだくだく)と従うだけで嘗(かつ)てのメンバーが苦境に立たされているにもかかわらず見てみぬ振りをしてきた自分たち娘。メンバー。
その想像が当たっていないことを祈り、保田の横顔に目を向けるが一向に事の成り行きを説明してくれそうな気配はない。
石川は深いため息をひとつ吐くと、首都高に入りスピードを上げた車の加速に身を委ねた。
- 383 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時34分03秒
- 坂道を登り切って高架の上を走ると遠くに東京タワーがオレンジ色の姿をぼんやりと浮かび上がらせているのが見えた。
東京のどこにいても見えるわけではないその姿を視界の隅に捉えながら、石川は吉澤をどうしたら救えるのか、ただひたすらそれだけを考え続けた。
吉澤が悪事に荷担していることはもはや明白なように思えた。
もし、ソニン、あるいは市井が吉澤のために危険な状態に陥っているとしたら…
そして、吉澤が彼女達に何か危害を加えるつもりなのだとしたら…
その先はすでに石川の想像の範囲を超えていた。
吉澤が逮捕される瞬間の映像が妙に生々しく瞼の裏に浮かび上がってくる。
石川は深いため息とともに、そんな場面を見たくない一心で最悪の状況を回避するための思案に没頭した。
- 384 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時35分17秒
- ――か、わ…
ハッとして思考を中断した。
「石川…」
突然、発せられた言葉に石川は、ビクッと体を震わせて保田の顔に視線を移した。
「吉澤が…よっすぃが取り返しのつかないことをする前に必ず助けよう」
「保田さん…」
「警察が来る前に、必ずよっすぃを取り返すよ」
「はい…保田さん」
石川は力強く返事を返しながらも、心の片隅では、本当にそんなことが可能だろうかとの疑念が燻(くすぶ)るのをどうすることもできなかった。
「保田さん、私の…私の責任です。下手にお金なんか渡さないで最初から保田さんに相談しておけばよかった」
「あんたのせいじゃないよ、石川…誰のせいでもない。それはきっと…」
保田は目を細めて遠くを見つめながら言い切った。
「きっと、後藤の死とまっすぐに向き合えない私たち全員が負わなければならない咎(とが)なんだ。欺瞞に満ちた現状を誰かが打破しなければならないんだ、誰かがね…」
石川には保田が見つめるその先に誰がいるのかなんとなくわかるような気がした。
- 385 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月17日(日)04時36分01秒
- 「保田さんはなぜ…」
石川は聞こうとして止めた。
「すみません、何でもありません」
「何よ、石川?」
保田はその大きな瞳をさらに広げて石川を見つめたが、石川の消沈した様子に目を細めて口調を和らげた。
「あんたのせいじゃないからね。何があっても」
そして再び視線をフロントガラスの向こうに戻すと、つぶやくようにひとりごちた。
「何があってもね…」
その言葉の響きから、保田が決して前途を楽観しているわけではないことを感じ、石川の心は余計に疼(うず)いた。
車は中空に浮かぶループの上を大きく旋回して、今まさに大きくその口を開けたと言わんばかりの巨大な二本の門柱に挟まれたゲートを潜り抜けようとしていた。
それが天国への門なのか、それとも地獄への入り口なのか、石川に判断するすべはなかった。
- 386 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時49分55秒
- 引越し警報が出たので森板に新スレを立てました。
『そろそろ市井さんを許してあげようよ!!』
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/wood/1061811617/l50
あと少しで終わると思いますのでお付き合いのほどよろしくお願いいたします。
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