圭ちゃんの卒業を祝う会
- 1 名前:卒業企画 投稿日:2003年05月03日(土)00時37分18秒
- 5月5日SSAで卒業を迎える保田圭祝福スレッドです
圭ちゃんの卒業企画として、圭ちゃん小説をひたすら書き込むというものです
ジャンルは問わず、作者もフリーでどんどん書き込んで下さい
一応期間は4日〜6日としますが、フライングや遅刻も全然OKです
- 2 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月04日(日)08時14分38秒
〜 終 了 〜
- 3 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月04日(日)23時22分03秒
- >>1
削除依頼出したら?
- 4 名前:一番。 投稿日:2003年05月05日(月)05時57分31秒
- せっかくのスレなので書きます。
ちなみに昨日のコンサはもちろん、矢口のラジオも聞き逃した奴ですんで
そのへんのツッコミはかんべんしてください。
「ありがとう。」
- 5 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)05時58分23秒
- 「圭ちゃんがおらんようになったら寂しいやろ?」
コンサートが終わった後、私はわざわざ車を飛ばして埼玉のホテルまで迎えにきてくれた
中澤さんと二人、夜の街の中にいた。
そしたら、急にそんなことを訊いてきた。
「そりゃぁ、…寂しいっすよ、やっぱ」
だって、今日はもう5月4日。
後、一日しかないんだもん。圭ちゃんと同じグループのメンバーでいられるのは。
- 6 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)05時59分00秒
- なんて、中澤さんの問いに思いっきり滅入ってたら、
その張本人は何だかそわそわと時計を気にしてるようだった。
だから私も緑色に光る車の時計に目をやる。
―あぁ、そうか。
もうすぐ矢口さんのラジオが始まる時間だ。
って、まぁた矢口さんかぁ…。
なんっかなぁ…妬けるなぁ…。
「…行こか?」
マグマ近くまで沈んでいた私に中澤さんがかけた言葉に私は首をかしげた。
「…行くって、どこへですか?」
正当な質問だったと思う。
けど、
「決まっとるやろ」
中澤さんから返ってきた言葉は、まるで私の問い掛けが野暮なものだったかのように思わせた。
- 7 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)05時59分35秒
- 何も反応を示さない私を気にする訳でもなく、車は発車された。
暗い窓の外の景色の中、ぼんやりと見える風景がどこかまだ新鮮な記憶と一致しようとしていた。
それもそのはずだった。
なぜなら中澤さんが無言で向かった目的地は、さっき私が拾ってもらった場所、
つまり私たちメンバーやスタッフの人たちが泊まってるホテルだったから。
「矢口、絶対圭坊泣かすようなこと言うはずやからな。
待機するで」
「た、待機っすか?」
「せや、12時半までの時間は矢口にあげんと罰あたるやろうからな」
っていう正論なのかそうじゃないのかよく分からない意見を鵜呑みさせられ、
私は中澤さんと二人、ただひたすらに矢口さんのラジオが終わるのを待った。
っていうか、こんな堂々と廊下にたむろしてるって言うのに、全然誰も気付かないし。
まぁ、たぶん皆矢口さんのラジオを聞いてるんだろうけど…。
ちなみに私と中澤さんは、
「そんなん聞いてたら絶対私らも涙腺緩むから」っていう中澤さんの指示によって
聞いていなかったりした。
ごめんなさい!矢口さん!!
- 8 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)06時00分13秒
- そして、ケータイの画面で12時半を回るのを確認して、いざ、突入!
もちろんドアをノックするのは私の役目。
コンコンッ。
「はい」
声はあんまりいつもと変わらないみたいだ。
「あれぇ、よっすぃーじゃん」
「こ、こんばんは」
「どうしたのよ、こんな時間に」
「いや、そのぉ…」
どうやってつないでいればいいのか考えあぐねていると、ようやく中澤さんが顔を見せた。
…待機しすぎですっ。
- 9 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)06時01分02秒
- 「じゃんじゃじゃーん!
裕ちゃんでぇーすっ!!」
うわぁっ。
あ゛。圭ちゃんもちょっと引いちゃってるじゃないっすかっ。
「…酔っ払い連れてくるのやめてよ」
「…いや、中澤さん、今日はシラフですけど…」
ごめん、圭ちゃん。こんな人連れてきちゃてさぁ。
けど、私も強制連行されてる身だからさ、逆らえないんだぁ、ほんとごめんよぉ。
「これでシラフなの…?」
「…うん」
「で、何しにきたのよ、二人揃って…」
私もそう思う。
一体何しにきたんだろう。
- 10 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)06時01分39秒
- 「うわぁ、圭坊機嫌悪ぅ。
…ま、ええわ。
何しにきたかってそんなん決まってるやん。
いちゃつきにきたんや。当然やんか」
は?!
って思う間もなくいきなり後ろから被さるみたいに抱きしめられた。
「ちょっとっ。
ほんとに嫌がらせ?
やめてよ。他でしてよ、裕ちゃんっっ」
「イ・ヤ」
あぁ、小悪魔の尻尾が見えそうだよ…今日の中澤さんはまた一段とさぁ。
- 11 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)06時02分14秒
- 「……」
圭ちゃんもすげーその目、恐いんだけど。
…私、明日無事にコンサート務まるのかすごい心配になってきた。
どうかその怒りが私の方に向けられませんように。
「やめて。
その無言の重圧。
裕ちゃん、そーゆのに耐えれん子なんよぉ、知ってるやろぉ?」
「知っててやってる。
それに「子」じゃないでしょ」
「ひっどぉっ。
もう、今夜は寝かさんからな。
覚悟しせぇや」
この言葉を最後に、以降中澤さんから発せられる言葉は全て全く意味不明なものとなった。
- 12 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)06時02分57秒
- 耳の奥がキンキンと変な音をキャッチし始めても、心の中でなんどもアクビを噛み殺して、
とにかく中澤さんのテンションに乗っかて騒ぎ倒した。
記憶にあるだけでも3時はゆうに回っていた。
明日、ほんとにコンサート大丈夫だろうか…私も、圭ちゃんも、結構、危ういと、思う…。
ま、いいや、おやすみなさーい…。
――――
「もぉ、何で勝手に暴れて勝手に寝るのよ?!
訳分かんないよっ。
…はぁ…。
………。
ありがと、裕ちゃん。よっすぃーも…」
- 13 名前:ありがとう。 投稿日:2003年05月05日(月)06時03分33秒
- お仕舞い
- 14 名前:一番。 投稿日:2003年05月05日(月)06時04分09秒
- ×
- 15 名前:一番。 投稿日:2003年05月05日(月)06時05分20秒
- ×
- 16 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時46分26秒
『ありがとう』
- 17 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時47分13秒
5月5日。
世間ではゴールデンウィーク、こどもの日。
でも、オイラにとっては圭ちゃんが娘。を卒業する日。
それまでも、テレビとかラジオとか圭ちゃんの卒業の話題とかで、オイラがんがん泣いてたし。自分でも泣きすぎて、何かわざとらしく思われるんじゃないかって思ったりしたけど。もう、「圭ちゃんの卒業」って言葉聞くと、条件反射みたいに涙が出てきちゃってさ。だって、苦労したもん。オイラも圭ちゃんも。
だから、今日の圭ちゃんのラストステージも。
みんな泣かないようにしようねとか言い合ってたけど。
もう絶対泣くの分かってたし。
今更ガマンしてもしょうがないっていうか、つーか、ここまで来たら涙が枯れるくらい泣いてやるって気分だったんだよね。
- 18 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時47分47秒
だから、コンサートが終わってステージ裏で圭ちゃんと顔を見合わせたとき、思わずオイラも圭ちゃんも笑っちゃったんだ。
だって、ふたりとも涙と鼻水で、ほんっとうにヒドイ顔だったんだもん。
「アイドルがこんな顔見せちゃだめじゃん?」
まだ、しゃくりあげるのが収まらない声でオイラが言ったら、圭ちゃんは笑って言った。
「アタシ、今日からアイドルじゃないもん」
今までは何か悲しくて何か寂しくて、でも本当に明日から娘。に圭ちゃんがいなくなるなんて全然実感なかったのに。
その言葉で、何か、本当に圭ちゃんがいなくなるんだって。
涙が出たりするのとは、また別の気持ちになった。
つまり、何か、不安っていうか。
- 19 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時48分18秒
ホテルの広間で打ち上げパーティーがあって。圭ちゃんが挨拶して。これからも娘。をよろしくお願いしますって、自分もがんばりますって。そんでそれが終わってから、かねてからマネージャーさんにお願いしていた、大人チームだけの圭ちゃん卒業パーティー。つまり、圭ちゃんとカオリとなっちとオイラ、4人で。圭ちゃんの顔なじみの都内のレストラン。ご飯もおいしくって、でもゆっくりお酒も飲めるところ。一体圭ちゃんはどうやってこういう居心地のいいお店を探して来るんだろうっていつも思う。
圭ちゃんは、まずはビールってコロナビール。とりあえずオッサンじゃないんだからってつっこんで。飲めないなっちとカオリはウーロン茶って言ったけど、圭ちゃんに「カンパイくらいはつきあいなよ」って言われて、軽いカクテルを。オイラはカルーアミルクって言ったら、やっぱり圭ちゃんに「そんなギャルが男の前で甘えてみせるときに飲むような酒を飲むんじゃない」って怒られて。いや、よくわかんないんだけど。気がついたら目の前に真っ赤なカクテルが置かれてた。
いやー、今日の圭ちゃんもテンション高いわ。
- 20 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時48分54秒
4つのグラスが触れ合って、最近あんまり食べなくなったカオリ以外の3人は、欠食児童みたいな勢いで、目の前に並べられた料理をがっつき始めた。
「ウチら、さっきのパーティーでも結構食べたよねぇ?」
なっちが自虐的に笑う。確かに、これじゃコンサートでどんなに消費したってカロリーオーバーだ。
「いいよいいよ今日は特別っ」
オイラが言う。
「矢口いつもそう言ってる」
圭ちゃんがまぜっかえす。
カオリはそんなオイラ達を微笑みながら見てた。
- 21 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時49分25秒
食事がひと段落ついて、オイラ達4人は昔話に花を咲かせた。
こういうのが、好きだ。昔のことばっか言ってても始まらないのは分かってるけどさ。裕ちゃんのことがどんなに怖かったとか。実はなっちのこと大嫌いだったとか。カオリとは絶対目を合わせないようにしてたとか。実はカオリたちは圭ちゃんのことびびってたとか。もう何回も話したことばっかりなんだけど、そういう昔の打ち明け話をしていると、何かさ、やっぱオイラ達一緒にがんばってきたんだって、確認じゃないけどさ。安心できるのかな。今はもう、こんなことまでぶっちゃけられるんだぞって確認してるのかも知れない。
「一回さぁなっちがキレたことあったじゃーん」
「ああ!あったあった!!」
「オイラと紗耶香が騒いでたらさぁ、うるさいっ!って、バーンって折りたたみの椅子蹴っ飛ばしてさぁ」
「もぉー言うなよぉー!昔のことじゃないかい」
- 22 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時49分58秒
やっぱり、下の子がいると話せないこともある。別に話したらいけないってこともないのかもしれないけど。でも、例えばオイラ達が入ったとき、メンバーからもスタッフからも愛の種の手売りの時の苦労話とか、本当に耳にタコができるくらい聞かされて。もちろん、それはそれですごいことだって分かるけど。オイラ達2期は、そのことですっかり気後れして、自分を出せるまでに余計な時間がかかったって、今になって思うし。だから、下の子達にあんまり苦労話とか聞かせすぎるのもよくないと思うし。だから、最近はオイラと圭ちゃんと石川と3人でよく遊んだりして、反対になっちやカオリと遊ぶこと少なくなったけど。やっぱこの4人でしか話せないこともある。
- 23 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時50分30秒
「そういえばさぁ、この前お豆のプリクラ帳見てたらさぁ、結構男の子と2ショットがあってさぁ!」
「えー!新垣がー!?マジショックー!!」
「やばいよ圭ちゃん、マメにも負けちゃってるよ?」
「向こうは、この間までランドセル背負ってたんだよ?どうする圭ちゃん?」
「あーもーうるさいっ!」
もちろん、本当に下の子たちには話せないこともあるけど。誰が最近やる気がないとか、誰が落ち込んでるとか。っていうか、本当は、そういう仕事の話だけじゃなく、辻と加護が大喧嘩したとか、よっすぃーが最近やたらメールばっかり気にしてるのは男ができたんじゃないかとか、小川は辻派か加護派かとか、石川と柴ちゃんが合コンに行ったらしいとか、そういう無責任な噂話に花を咲かせたりもしたりして。どれもこれも実際は取るに足らないつまらないことだったりするんだけど。だからこそそういうことで大騒ぎするのが楽しいかったりするんだよな。
- 24 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時51分04秒
「何?カオリもう帰るの?」
「うん、リンゴが待ってるし、明日早いし」
「あーなっちも帰る。一緒のタクシーで帰るべ」
「マジー?、何だよぉ。せっかく圭ちゃんの最後の夜のなのにさぁー」
「最後って、別にいつでも会えるじゃん」
「あーあ、やっぱ1期は冷たいよなー?ケメ子ー」
「矢口が1期とか2期とか言い出したら酔ってる証拠だべ、圭ちゃん後ヨロシクねー」
「マジ?アタシかよ!?」
「やっぱ、今日の主役ががんばらないと」
「えー?主役ってそういうことかなぁ?」
- 25 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時51分38秒
----------------------------------------
なっちとカオリが帰って、オイラと圭ちゃんは席を店の奥のカウンターに移った。確かにオイラはちょっと酔ってたカナ。
頭の奥がふわふわする感じ。
「ちょっとインターバルおきな」
圭ちゃんがバーテンのお兄さんにウーロン茶を注文してくれた。圭ちゃんはオレンジっぽい、茶色っぽいお酒をロックで飲んでる。
「それ、何?」
「チンザノオランチョ」
「は?」
圭ちゃんは自分のグラスをオイラの前に差し出した。恐る恐る一口、舐めてみる。
「あー」
「どう?」
「甘いけど、きつー」
「そんな、きつくないんだよ」
圭ちゃんはオイラからグラスを受け取ると、おいしそうに小さく一口飲んだ。
- 26 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時52分14秒
その、お酒がおいしく感じるのと、感じないのが。
娘。を辞めることを決めた圭ちゃんと、まだ娘。でいたいオイラとの差なのかな。
オイラはぼんやり思った。
思ったら。
何か、悲しく。
「まーだ泣き足りなかったの?」
圭ちゃんが呆れたみたいに言った。
オイラはカウンターの上に突っ伏して、またボロボロ泣き出していた。
「だ、だって、バカ、ケメ子のうら、裏切りモノ、なんで、だって、なんで、オイラ、さみし、さみしいじゃんか」
「はいはい」
「はいはいじゃ、ねーよぉ、ばかぁ、オイラ、けー、けーちゃ、いなかったら、やってけねーよ」
「矢口はいつも大袈裟なんだよ。もうダメとかもうできないとかさぁ、すぐ言うし」
圭ちゃんがしゃくりあげるオイラの頭を撫でる。
「でも、いつもちゃんとやるし。できるんだよねぇ」
- 27 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時52分51秒
大人チームでしか話せないことがあるみたいに。やっぱりオイラ達二人、でしか話せない事がある。話せないことっていうか。
オイラは圭ちゃんにしか甘えられない。
こんな、子供みたいな駄々をこねたり。
やっぱり、下の子たちがいれば、シャンとしなきゃいけないって思うし。別に入ったときのしこりとかがあるとかじゃなくて。でもやっぱなっちやカオリはオリジナルメンバーで、やっぱ微妙に、オイラ達とは考え方ちがうって思うこともある。プライドみたいのも感じるし。
わかんない。
こんな風に何期だからとか、すぐそういう風に括って見ちゃうのがオイラの悪い癖みたいな気がするし。圭ちゃんは年も上だし、大人だし。多分そんな風には思ってないんだろうなぁ。
- 28 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時54分17秒
オイラひとりが、こんな風に、いろいろ考えて。
なんだっけ、ネットで見た、どっかのファンサイトで言われてたなぁ。
えーっと、そうそう。
『矢口は中間管理職みたい』
上手いこと言うなぁ、って思ったんだよなぁ。
別に、なっちやカオリに遠慮してるワケでも、石川やよっすぃーに気に入られようと思ってるワケでもないんだけどなぁ。
でも、圭ちゃんがいなくなるってだけで、こんなに不安なんだよなぁ。
何なんだろうなぁ。
何だかなぁ。
あーあ……。
「矢口?」
遠くで圭ちゃんの声がする。
何で、こんなに遠いんだろう。
何で―――。
- 29 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時55分06秒
----------------------------------------
「何だよ、矢口寝ちゃったよ。もー」
「大分酔ってらしたみたいですもんね」
ばーか、酔ってなんかないよぉ、ちゃんと。
「コレ、もう一杯おかわり」
「保田さんも飲み過ぎじゃないですか?」
「いいの、今日は特別な日なんだから」
ちゃんと、聞こえてるんだからねぇー。
ばーかばーか、ケメ子のばーか。
- 30 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時55分40秒
「あーあ、気持ちよさそうな寝顔しちゃって、好き勝手なこと言っちゃってさー」
「でも、まいってるんじゃないですか?保田さんが卒業されて」
「んー。でも、がんばりすぎるところが矢口の悪いところなんだけどさ。でも、もーダメとか言いながらさ、がんばってばんばって、がんばりすぎて、それで何とかしちゃうのが矢口のいいところだったりもするしね」
「本当のお姉さんみたいな口ぶりですね」
「付き合い長いからねぇ。矢口置いていくのは、ちょっと心配だけどさ、反対に矢口がいなかったら、もしかしたら、後のことが心配で、辞めること決めれなかったかもしれないって思うんだよね」
何だよケメ子、勝手に語ってんじゃねーよ。
ばか。
ちょっと。
ちょっと嬉しいじゃんか。
- 31 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時56分11秒
「それにしても、矢口にだけは話しとこうと思ってたのになぁ」
普通に、聞こえてるんだから。
ただ、ちょっと、何か、返事できないだけで。
「ええっ?ああ―――彼の」
「うん。他の子たちには、ちょっと言えないけどさ。恥ずかしいし。でもやっぱ矢口にだけは紹介しときたいと思ったんだけどねぇ。アタシはさ、娘。辞めても、全然幸せだよって、安心させてあげたかったし」
ええっ?
何?
何のこと言ってるんだよ。
誰のこと。
- 32 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時57分19秒
「やっぱり、ちょっと特別ですか?矢口さんは」
「当たり前じゃん、特別だよ」
夢なのかな?
何か、わかんないや。
もう、何言ってんのかも―――。
「矢口は特別だよ」
おわり。
- 33 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時57分59秒
- ( `.∀´)
- 34 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時58分32秒
- ありがとう。
- 35 名前:2番 投稿日:2003年05月05日(月)06時59分04秒
- ( `.∀´)
- 36 名前:名無しケメコ 投稿日:2003年05月05日(月)09時29分57秒
- 書いていいんだよね?
書くよ
- 37 名前:名無しケメコ 投稿日:2003年05月05日(月)09時30分33秒
『手紙』
- 38 名前:. 投稿日:2003年05月05日(月)09時33分21秒
Dear Kei Yasuda
あなたがこの手紙を読む頃には、私という存在は消えていることでしょう
どう?元気?
楽しんでるかい?
モーニング娘。を卒業して五年、あなたは何をしてたのかな?
ちゃんと歌手やってんの?
それとも、なんちゃって女優?
きいてみたいことが、いっぱいあるんだよね
たぶん私の予想では、あなたのことだから色々と悩んでるんだろ思う
根がネガティブだからね
十年前にモーニングに入ってきた頃からそう
一人じゃ何にも出来ないヤツだったもんね
結局、あなたはメンバーに生かされてた
今でもメンバーには感謝しなくちゃダメよ!
- 39 名前:. 投稿日:2003年05月05日(月)09時35分14秒
そうそう、そういえばあなたの隣に矢口はおるかい?
あなたにとって、矢口以上の存在はいないんだから、大切にしなさいよ
あなたと矢口は一心同体!
言い過ぎかしら・・・?
矢口はあなたを輝かせてくれたんだから!
覚えてる?五年前のラストステージ
あの日は、最高に輝いてたわよ!
大観衆の前で、あれは紛れもなく、あなた一人のための舞台だった
あの日一番に輝いてた!
忘れないでね
あれは、あなたにとって最高の財産なんだから
私?
私は、これから
今から一番に輝いてきます
あなたが今でも、あの日を誇りに想えるように、輝いてきます
願わくば、あなたまでその輝きがつづきますように・・・
五年前の保田圭より
- 40 名前:. 投稿日:2003年05月05日(月)09時35分51秒
「けいちゃ〜ん!何やってんのー!」
「おう!ヤグチ!」
「あ!今何か隠しただろ!オイ見せろ!」
「やーなこった」
「あ!そんなとこに置くなよ!届かねーじゃん!」
「相変わらずチビだね」
「チビゆーな!」
「アハハハハ・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・圭ちゃん・・・・・・今日でラストだね・・・・・」
「おいおい、始まる前から泣くんでないよ」
「・・・うん!ほら行くぞ圭ちゃん!もうみんな待ってるんだから!」
「おう!」
- 41 名前:. 投稿日:2003年05月05日(月)09時37分03秒
P.S 願わくば、いつまでもあなたの隣に矢口がいますように・・・
2003.5.5 At Sitama Super Areana
- 42 名前:. 投稿日:2003年05月05日(月)09時37分41秒
- おわり
- 43 名前:名無しケメコ 投稿日:2003年05月05日(月)09時38分26秒
- というわけで、ありがとうございました
保田さん卒業おめでとうございます!
- 44 名前:名無しケメコ 投稿日:2003年05月05日(月)09時39分24秒
- (〜^◇^)<けいちゃんオメ!
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時16分54秒
さよならストレンジャー
- 46 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時17分26秒
1
いいことを思いついたので、さっそく楽屋の保田さんのところへ報告へ向かった。
楽屋には保田さんしかいなかった。いつものように床にぺたっと座って、壁に
背中をつけて脚を投げ出していた。耳元からイアホンのケーブルが垂れ下がって
いる。多分またなにかのMDでも聴きながら自分の世界に没入しているんだろう。
私はこっちを振り向きもしない保田さんの肩を叩いた。保田さんは眉を顰めながら
イアホンを外して顔を上げた。
「なによ」
「いいこと思いついたんですよ、保田さん」私が言い終わらないうちに保田さんは
またイアホンを耳に付けようとした。私は保田さんの腕を掴んだ。
- 47 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時18分00秒
- 「最後まで聞いてくださいよぉ」
「いいっての」
「すごくいいことなんです。保田さんって、絵が下手じゃないですか」
「あんたの歌くらいね」
「ひどーい」私が泣きそうな顔をすると、保田さんは苦笑して、
「いいよ。続けて」
「あのですね、なんで保田さんの絵が下手なのか、論理的に考えてみたんです」
「ふーん」
「あ、今石川のこと馬鹿にしたでしょう」
「いや別に」
「あのですね、保田さん。線なんですよ、線」
「線?」
「保田さんの絵って、線じゃないですか」
「だって線しか描けないんだもん」
「でも、他のひとの絵も、実は全部線で出来てるんですよっ!」
「そうだね」
「あれ? 気付いてたんですか」
「ていうか普通そうじゃん」
「あれ?」
「ん?」
「あ、でもちょっと来てください」
- 48 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時18分40秒
2
自分の事務所だって言うのに、私たちはめったに来ることはない。
引越祝いも兼ねて久しぶりに顔を出したら、ひどく汚れているように感じた。
保田さんも私と同じように感じたらしい。
「ずいぶん壁が汚れてるわね」
「掃除とかしないんでしょうか」
「経費削減……、事務所もむかしほど羽振りがよくないとは思うからね……」
小声でいう保田さんを振り返る。なんとなく沈んだ表情に見えた。
私はまたいいことを思いついてしまったので、満面の笑みで保田さんの肩を叩いた。
「保田さん、じゃあ私たちでキレイにしましょうよ!」
「はあ?」
「いつもお世話になってる事務所じゃないですか。こういうときこそ恩返ししましょう!」
「お世話に、ねえ……」
そんなわけで、私たちはゴンドラに乗って事務所の壁をデッキブラシで磨き
始めた。天気もよく風も涼しくて、私はいい気分で鼻歌までとびだしてしまった。
「おっ掃除るんる〜ん♪」
「あのさ、石川」保田さんは渋面だ。でも灰色のつなぎはよく似合っている。
「なんですか?」
「めちゃめちゃ下から指さされて笑われてるんだけど」
「えーっ、私の歌ってそんな変ですかぁ?」
「いや、……別にいいや」
- 49 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時19分18秒
3
保田さんがモーニング娘。としての最後のステージを終えて、私たちは楽屋へ
戻っていった。関係者のひととかえらい人がいっぱい廊下に並んでいた。でも、
みんな人目を憚らず泣いていた。私も泣いていた。若いメンバーみたいに声を
あげて泣いたりしなかったけど、目はさっきステージから見た客席みたいに
真っ赤だった。
楽屋に戻っても、それは続いた。お通夜みたいに、みんなの泣き声が響いていた。
これじゃまずい。せっかく保田さんの新しい出発の日なのに。
ここは一番弟子の私が、ちゃんと保田さんに声をかけてあげないといけない。
私は瞼を押さえながら立ち上がった、みんなの視線が、私に集中した。保田さんも
泣き腫らした目で私を見ていた。
私は口を開いた。いい言葉はなにも思いつかなかった。
「猫ピアノ!」
私は言った。みんな、ぽかんとした顔で私を見つめていた。
「……猫ピアノ」
もう一度言ってみた。もう一度言ってみても、やっぱり意味は分からなかった。
保田さんが立ち上がると、私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。
「ありがと」
- 50 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時20分07秒
2
壁が汚れてる原因はすぐに見付かった。それは、変な昆虫のせいだった。
丸っこくて黒くて、羽根が二枚生えていた。そいつがぶんぶんと飛び回って
は壁にぶつかって、黒い染みを残していたのだった。
「えいっ、このっ、やあっ」
私はデッキブラシを振り回して虫を叩き落とそうとしたが、全然当たらなかった。
「なにやってんの」呆れ顔で保田さんが肩を竦める。
「あいつですよ。あいつが事務所の壁を……」
保田さんは黙ったまま不敵に笑った。それから、ポケットから細長い筒を取り出すと、
口にくわえて狙いを定めた。ぷっと空気の抜ける音がして、空中で虫が弾けた。
「すごーい! 吹き矢ですね」
「あんたもやってみる?」
「はいっ!」
- 51 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時20分42秒
- それから、二人して日暮れまで虫を撃って過ごした。
丸っこい虫の他にも、灰皿みたいな虫とか、三角定規みたいな虫もいた。そんなのも
全部、吹き矢で撃ち落とした。
「日が暮れちゃったね」ゴンドラの上で荒い息を吐きながら、保田さんは汗を拭った。
「でもほら、もうほとんど虫いなくなりましたよ」私は吹き矢をくわえたまま、
あたりを見回した。
「今日はもうつかれたから、続きは明日にしようか」
「そうですね。じゃあ保田さん、夕食おごってください♪」
「しょうがないわね」
ゴンドラを地面に下ろした。事務所の周りは、私たちが撃ち落とした虫で
いっぱいだった。私たちは雪の上に足跡を残すように、虫たちを踏みしめて
夕食を食べに行った。
- 52 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時21分14秒
1
保田さんを連れて、私は近所の公園に向かった。途中でコンビニに寄って、
私はポテトチップスを、保田さんはおにぎり二つとまろ茶を買った。
公園には誰もいなかった。狭い敷地を、ちょっとした林が取り囲んでいた。
砂場の側にさくらの木が生えていた。五分咲きといったところだった。
鉄棒の側に、誰かが折ったさくらの枝が落ちていた。私はそれを拾うと、
保田さんに渡した。
「いいですか? 下手な絵でもちょっと手を加えるだけでうまくなる秘訣を
ですね、発見したんですよ」
「テレビでやってたんだ」保田さんが言った。図星だった。
私はぱちぱちと目を瞬かせると、
「と、とりあえずなにか描いてみてください」
「なにかってなによ」
「えーっと……、じゃあ、石川のこと描いてください」
「いいわよ」
言い終わらないうちに、保田さんはさらさらと乾いた地面にさくらの枝を
滑らせていった。
- 53 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時21分44秒
- ほどなくして、私の絵は出来上がった。ひどかった。顎の尖った目つきの悪い
女が、枯れ木のような身体を大の字に広げていた。
「さて、これを……」
保田さんから枝を受け取り、私はしばし地面と睨み合った。
付け加えるものは、なにも見付からなかった。
「すいません。やっぱり無理でした」
「あっそ」
気のない声で言うと、保田さんは靴の裏で私を消そうとした。
「あっ」
私は慌てて保田さんの肩を突いた。片足のまま保田さんはバランスを崩して、
くるくると回った。くるくると周りながら、保田さんは公園を出ていった。
「待ってくださいよぉ」
私は言うと、小走りであとを追った。
ポテトチップスを一枚口に含んだ。しょっぱかった。
- 54 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時22分16秒
- 終わり
- 55 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時23分06秒
- ( `.∀´)人(T▽T )
- 56 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月06日(火)01時23分41秒
- さようなら
- 57 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時22分23秒
- 「モームス?コンサート?」
「ああ、娘がどうしてもって言うんだ。その日はどうしても抜けられない商談があってね。
ただ、これで君たちが打ち解けてくれれば、という気持ちもないわけではない」
「でも…」
「頼むよ。親子席のチケットはもう二人分、用意してしまった。娘も楽しみにしているし」
私は考え込んだ。
彼とは結婚したい。今年、大台を迎える私にとっては理想の相手だ。
ただ一つの障害、先立たれた前の奥さんに良く似た娘の存在を除いては。
- 58 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時22分43秒
- 「はあっ、しょうがないわね」
「すまない。恩に着るよ」
電話越しに手を合わせて拝んでいる彼の顔が目に浮かぶ。
「ふふっ、この代償は高くつくわよ」
「望むところさ。今の仕事が一息ついたらシェ松尾あたりで祝杯をあげよう」
「楽しみにしてるわ」
天王洲アイルにあるフランス料理店の名に反応してしまった私は
既に断わるタイミングを逸していた。
「ああ、それじゃまた」
機嫌よく別れの言葉を残して通話が切れた。
私はもう一度ため息をつく。
(はあっ…しょうがないわね)
- 59 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時23分07秒
- 正直なところ、彼の娘とうまくいっているとは言いがたかった。
まだ小学6年生。
亡き母の面影を残す端正な顔の造作は現代っ子の基準に照らしても
充分、美しい部類に入るのだろう。
そのせいだけではないのだろうが、
彼の娘に対する溺愛ぶりは傍から見ても少しどうかと思うところはあった。
その愛娘がモームスのファンだと知ったのはつい最近。
それまでは、口をきくことはおろか、視線さえ合わせなかったのだから、
進歩といえば進歩ではある。
だが、なるべくなら私はその話題には触れたくなかった。
会話の糸口にモームスで共通の話題を確認する程度に留めておきたかった。
だが、コンサートともなればそうもいかない…
憂鬱の種が増えた。
- 60 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時23分25秒
- もう半年になるのか。
早いものだ。
私は、手元に届いたさいたまスーパーアリーナ最前ブロックのチケットを眺めながら
もう一度だけ、嘆息した。
保田が卒業、と聞いた夜の衝撃といったらなかった。
次の日、風邪と偽って有給を取らねばならぬほど泣き腫らした顔を
表に晒すわけにはいかず、その日は一日、部屋に篭ってはまた泣いた。
保田にはある意味、自分と重ねている部分があるのかもしれない。
- 61 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時23分39秒
- ようやく、顔の腫れが引いて出社した次の日。
オフィスでは若い同僚の男性社員がこれみよがしに
「モームスもやっぱ年増でいらないやつはリストラされるんすねえ」
と暗に私に向けた言葉を放つ。
わかっている。
30才を目前にしていつまでも会社を辞めない私が疎んじられていることは。
わかっていた。
私のような「おばちゃん」が早く辞めないと若い女性社員の補充がないことは。
だから、私は保田に託していたのかもしれない。
綺麗でなくても、若くなくても、モームスでいられる保田がいる限り、
私も頑張れる、と。
- 62 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時24分16秒
- その保田がモームスを辞める。
心無い同僚の言葉はせっかく平常心を取り戻し始めた私の心に鋭い楔を打つ。
厳しい現実を私に突きつけて。
保田でさえ抗えなかった社会の壁を前にして、
私はどうしたらいいというのだろう。
そんなとき、身の危険を感じて通い始めた会計の専門学校で知り合ったのが彼だった。
同僚の若い男性社員にはない落ち着きが好もしかった。
先妻を亡くして一人娘を育てていると聞いてもさほど気落ちしなかった。
それほど、私は彼に惹かれていた。
- 63 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時24分34秒
- 付き合い出してしばらくすると、彼はことあるごとに娘と引き合わせた。
恐らく、その頃には彼も結婚を意識し出したのだろう。
娘とうまくいかなければ再婚には踏み切れない。
そんな彼の思いが伝わるだけに、娘と会うときは常に緊張を強いられた。
それを知ってか知らずか、視線を合わせようとさえしない彼女に
端から私を認めるつもりがないのは明らかだった。
きっかけは何だっただろう。
確か藤本がモームスに加入する、とかいう話だったか。
軽いネタ振りのつもりが、知らなかったと見えて俄かに尊敬されてしまった。
その場では向こうから打ち解けてくれたことを喜んだものの
調子に乗って深入りするのは危険だった。
- 64 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時25分00秒
- 彼女にとっては辻加護がモームスなのであり、
保田など歯牙にもかけない。
そんな少女期に特有の残酷さを感じ取っていたからかもしれない。
もし彼女が保田について何か心無いことを口にしたら…
自分の娘となるかもしれない子供の言葉で傷つくのは嫌だった。
かといって小学生の女の子と他に共有できる話題もなく、
会うたびにモームスの話で会話の端緒に着こうする私はやはり臆病者だった。
丁度、6期メンバーの募集、発表が行われた時期でもあり、
彼女が7期募集の時にはぜひ応募したい、と言うのを聞いて
あなたなら受かるかも、と自尊心をくすぐることも忘れなかった。
実際、彼女はキッズくらいなら今すぐ入れそうなほど美しかった。
- 65 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時25分16秒
- 決して心を開いた、というわけではないのだうけれど。
それでも、知らない人とコンサートに行くよりは私なら、
ということで彼女も納得したらしかった。
彼の親バカぶりがこれほど癪に障ったこともない。
よりによって、5月5日、夜の部。
モームス春のツアー最終公演、そして保田のモームスとしての最後の舞台…
憂鬱だった。
私は手元にある両席のチケットをもう一度眺めた。
これを手放すのはどう考えても惜しい。
だが、あんなコアなヲタどもが飛び跳ね、回転しまくる席に
小学生の彼女を連れて行くわけにはいかない。
私は断腸の思いでそのチケットをオークションに出品することに決めた。
- 66 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時25分33秒
- ◇◇◇
5月5日、子供の日。
まだ親子ではない、微妙な大人と子供の二人連れはさいたま新都心駅の改札を抜け、
その人込みのすさまじさに感嘆の声を上げていた。
「コンサートとか来るの初めてだっけ?」
「はい」
目をキョロキョロさせては、珍しいものでも見るようにコアなヲタを観察している。
ハッピや揃いのTシャツを身に付けて奇声を発するヲタ集団に
早くも圧倒されている彼女の様子に私は子供らしさを感じて少し安心した。
「ああいう人がコンサートを盛り上げてくれるのよ」
「へーえ?」
上の空で返事する彼女は不思議そうな顔つきで
モームスの音楽をかけて踊り狂うヲタ集団に見入っていた。
- 67 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時25分50秒
- 親子席は辛かった。
立てない、というのが音楽に合わせて体を動かすのが好きな私にとって
これほど辛いとは思わなかった。
しかも、今日は保田のラストステージだ。
歯がゆさに思わず立ち上がりそうになったことは一度や二度ではない。
彼女の方はと言えば、最初こそ、物凄い音量に戸惑って耳を押えたりしていたものの
初めてのコンサートで聞くもの見るものすべてが珍しかったらしい。
リズムに合わせて体を揺らすでもなく、ひたすらステージを食い入るように見つめていた。
最初のMCで遠慮がちに「あいぼん…」とつぶやいた以外は周りの声援に圧倒されて
声を出すでもない。
- 68 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時26分11秒
- 私は、アリーナやスタンド席から物凄い「圭ちゃん」コールが沸き起こるのを聞いて
段々と我慢できなくなっていった。
しかし、隣には私の幸せを左右するキーパーソンが座っている。
この子の前で無様に取り乱した姿を見せるわけにはいかなかった。
「ザ☆ぴ〜す」、「ここにいるぜぇっ!」とヒット曲が続いて一旦、照明が落ちると
物凄い「圭ちゃん」コールが湧き上がった。
「うわっ、すごっ」
雰囲気に乗って加わろうとしていた私はタイミングを逸した。
だが、突然、異変が起こる。
観客のかざしていたサイリウムの色が突然、赤、一色に変わった。
- 69 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時26分30秒
- 高い席から見る一面の赤は感動的ですらあった。
ファンが一丸となって保田の卒業を盛り上げようとしている。
そして、それを受け止めた保田の反応。
もう、駄目だった。
溢れ出す涙を止めることはもはやかなわなかった。
横にいる彼女に気付かれても構わない。
私は思い切り泣いて、叫んだ。
「圭ちゃぁぁぁぁぁん!!」
親子席からもところどころか細い声を張り上げて「圭ちゃん!」
と叫ぶのが聞こえ、頼もしく思った。
- 70 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時26分48秒
- 気付くと彼女がしっかりと私の腕にしがみついていた。
振り向くとその目には涙が浮かんでいる。
雰囲気に飲まれたのだろうか。
いい傾向だと思った。
そして、卒業旅行でやはり涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら
一緒に歌う私の腕を彼女は掴み続けた。
会場の明かりが照らされて私は我に返った。
すごい顔をしてるはずだ。
思わずハンカチで顔を覆った。
だが…
「っく…」
私はハッとして横に振り向いた。
- 71 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時27分09秒
- 泣いている…
大粒の涙を流して彼女が泣いていた。
コンサート中、ずっと私の腕を掴んで震えていた彼女が急に愛しく感じた。
立ち上がり、肩をポンと叩くと、「うわーっ」と泣き出して私に抱きついてきた。
彼女が何を感じたかはわからない。
だが、保田の姿に、号泣するモーニング娘。たちの姿に何かを見出してくれたなら
それでいいと思った。
帰りの途上、二人はあまり会話を交わさなかったけれど、
電車に乗っている間も、ずっとつないだ手を離さなかった。
彼女に抱いていたイメージは大きく変わっていた。
帰り際、「また連れてって」とはにかんだようにせがむ姿が可愛かった。
私は彼女の母親になりたいと思った。
- 72 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時27分31秒
おわり
- 73 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時28分45秒
- ( `.∀´)<加護ちゃん…
- 74 名前:女たちのダーヤス 投稿日:2003年05月06日(火)19時30分18秒
- ( #`.∀´)<それ、山崎さんの前で言ってきてくれる?
- 75 名前:偽みっちゃん 投稿日:2003年05月07日(水)00時15分48秒
- http://www.metroports.com/test/read.cgi/morning/1048844572/5-203
長いので、貼らせて頂きます。
- 76 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月10日(土)21時07分34秒
- さようなら保田
- 77 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月10日(土)22時22分39秒
- さようなり保田
- 78 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月11日(日)00時43分42秒
- もまえら、この神聖なスレを保田一行ネタスレにしたら頃ヌ保田
- 79 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月11日(日)14時32分24秒
- さよなら〜保田
- 80 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月11日(日)18時40分41秒
- あなたに会える日を楽しみにしてます保田
- 81 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月11日(日)20時26分53秒
- 大好きだったよ保田
- 82 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月12日(月)00時41分41秒
- あなたの歌を早聞きたいでせ保田
- 83 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月12日(月)04時30分14秒
- だからそういうスレじゃないだろ保田
- 84 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時15分07秒
- 雲が流れた。
頬にまとわりつく髪をかきあげて駆け抜ける風に向かい目を閉じる。
木々の葉が揺れるさらさらとした音が耳に涼しい。
少し汗ばんだ額がひんやりと冷たく感じる。
乾いた空気の運ぶ樹の香りが心地よかった。
ニューヨークの街からわずか数10キロしか離れていないとは信じられないくらい。
- 85 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時15分27秒
- 瞼を開くと鮮やかな緑が目に飛び込んでくる。
ハイランドフォールズの駅舎から歩いて小一時間。
雑草の生い茂った廃線のレールを辿って歩くうちに梢を渡る風に導かれて
林の奥に分け入ってみれば、ぽっかりと空いた空間が目に入った。
きこり場だろうか。
切り株に座って、空を見上げる。
ニューバーグの空港から飛び立った旅客機の白い軌跡が薄蒼い空に棚引いていた。
- 86 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時15分47秒
- 深く息を吸い込んだ。
はぁっ、と思い切り吐いたつもりだが、やはりため息にしか聞こえない。
もう一度瞳を閉じる。
目を開けたとき、違う光に照らされた風景が見えればと思った。
ゆっくりと瞼を開く。
だが、飛び込んできた緑の輝きは…
- 87 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時16分11秒
- あれ…?
掌を上に向けて前に差し出す。
ぽつり、また、ぽつり
冷たい感覚に空を仰ぐと急に灰色の雲が湧き上がり
やがて大粒の雨を落としてきた。
銀色に光るその雫のひと粒ひと粒が頬を叩いて痛い。
急に雨足を早めた薄暗い空に一瞥をくれると踵を返し
もと来た道を引き返した。
- 88 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時16分31秒
- 駅舎で雨宿りをするしかないか…
そんな弱気な心を見透かしたように雨は激しさを増した。
木々の葉に当たって落ちる水滴のダダダダという爆音。
その迫力に押されるようにして雑草で埋もれたレールに沿って歩く。
朽ちた枕木に滑りそうになりながらも必死で足を運ぶ。
- 89 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時16分46秒
- やっとの思いで戻った駅舎の中は薄暗く湿った匂いが鼻についた。
ベンチに積もった埃を手で払うと腰をおろし、背後の壁に背を預けた。
冷たい雫が額から流れ落ちて目に入る。
ほっ、と息をつこうとした瞬間、ボォッという汽笛のような音が耳に入った。
- 90 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時17分13秒
- 思わず立ち上がってホームに出たが、もちろん汽車が走ってくることはない。
しばらく立ち尽くしてはたと気付く。
あれは、ハドソン川を行き交う汽船の発した汽笛の音だ。
- 91 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時17分28秒
- 再びベンチに体を投げ出して駅舎の天井を見上げた。
黒光りした大きな梁に支えられたヴィクトリア調の古風な建築物。
張り出した天窓から差し込む光がぼんやりと構内を照らしている。
その光の優しさについ口に出していた。
- 92 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時17分46秒
- (圭ちゃん…)
頬を流れ落ちる雫の冷たさはいつのまにか温もりに変わっていた。
涙の温かさとともに保田との思い出も気化して消えてしまえばよいのに…
人から受けた優しさがそんな風に簡単に忘れられるものなら苦労しない。
自嘲気味にひとり微笑んだ。
- 93 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時18分03秒
- あの優しかった保田のくれた温もり。
あの温もりは…
たとえハドソン川を溢れさせるほどの涙を流したって拭い去れるものか…
- 94 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時18分46秒
- 雨は止みそうにない。
天井を打つタン、タカ、タン、というリズムがどうにも不快だ。
次第に記憶の中の何かと一致していく。
それは、その曲は…
やがてひとつの旋律に結実していくのを感じて、ああっと絶望の声を上げた。
雨は非情にも止みそうにない。
そして、涙もしばらくは止まりそうになかった。
- 95 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時19分10秒
- ◇◇◇
初めて、彼女の優しさに触れたのはいつだっただろう。
どうしても思い出せないのがもどかしい。
だが、それこそ保田がさりげなく、
自分に向けてくれた優しさの証左だと信じている。
- 96 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時19分31秒
- 少女期をインタースクールで、
長じてからはハワイのアメリカンスクールで育った自分にとって
保田が見せてくれたさりげない優しさは新鮮に映った。
ハワイと日本を往復する忙しい生活
そして、慣れない芸能業界。
そんな中で悩む姿を見て不憫に思ったのだろうか。
保田はさりげない、本当にさりげない優しさで寂しさに震える心を包み込んでくれた。
- 97 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時19分48秒
- それが優しさだと気付かないくらいのさりげなさ。
だが、それに慣れてしまったある日、ふと忍び込む寂しさに気付いてしまった。
保田の優しさなしではもう、いられないことに。
そして、既に引き返せないところまで来ていたことに。
- 98 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時20分03秒
- 男女の垣根を越えることはこんなに簡単だったのか
それとも、保田だから、これほど好きになったのか、アヤカにはわからない。
ただ、自分がどうしようもなく保田を必要としている。
それだけは、はっきりしていた。
- 99 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時20分17秒
- (圭ちゃん…)
それが自分だけに向けられた優しさだと信じたとき
アヤカは無上の喜びを感じた。
そして、今、思えば、それは既に終末への始まりだったのかもしれない。
なぜなら保田はノーマルだったから。
そして、誰に対しても優しかったから。
- 100 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時20分44秒
- 初めて保田の部屋を訪れたとき、
邪な思いを抱いていなかったと言えば嘘になる。
ただ、現実的にそんなことはあり得ないことは充分理解していたし、
物理的な肉体の繋がり以上に保田のそばにいられる幸せは大きかった。
何気ない言葉や仕種から滲み出る優しさ。
それらに触れていられるだけでアヤカは本当に幸せだった。
- 101 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時20分59秒
- 二人でひとつのイヤホンを片方ずつ耳に嵌めて聞いたCD。
頬を寄せ合って感じるくすぐったさが喜びで胸を満たした。
何事にもかけがえのない泣きたいくらい貴重な瞬間…
溢れ出る感情はしかし、耳に届いた曲によって凍りついた。
アヤカは泣いた。
- 102 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時21分16秒
- 驚いてイヤホンをはずし、どうしたの?と尋ねる保田の顔が近づく。
アヤカはただ泣きじゃくって答えられなかった。
美しいピアノのアルペジオに乗せられた伸びやかで美しい声。
だが、その美しい旋律が乗せた歌詞はなんと残酷だっただろう。
- 103 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時21分36秒
- お互いに相手のことを思っているはずなのに
傷つけ合ってしまう二人。
まるで少年少女期の郷愁を掻き立てるような美しい旋律になぜ
このような絶望的な歌詞が乗せられていたのか、アヤカにはわからない。
互いの生き方が決して交わらないと理解したとき、
人はこのように悲しい歌を明るく歌えるのだろうか…
- 104 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時22分03秒
- 英語で歌われる詞を保田は深く理解していないようだった。
あるいは、思いながらも決して交われない二人のことなど
保田には想像もできなかったかもしれない。
だが、アヤカにはわかっていた。
ノーマルな保田に対して友情を越える感情を抱いてしまった自分が
受け入れられることは決してないのだと…
- 105 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時22分13秒
- ◇◇◇
アヤカは薄暗い駅舎の一郭で次第に雨音が弱まってきたのを感じた。
ホームのところどころにできた水溜りにぽつぽつと雨だれが落ちては
小さな波紋を広げる程度。
先ほどまでの激しさは既に見られない。
立ち上がってホームに近づくと暗い構内にいたせいか外が明るく感じる。
- 106 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時22分27秒
- (圭ちゃん…)
アヤカは思い出に縋って生きることだけは避けたかった。
だが、今の自分から保田との思い出を取ったら何が残るだろう。
人は空っぽの中身を抱えて、まだ生きられるものだろうか?
目を閉じようと閉じまいと。
浮かんでくるのは保田との思い出ばかりだ。
- 107 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時22分44秒
- (圭ちゃんが英語でしゃべりだしたとき、どうしようかと思ったよ)
二人で食事に出かけたときのことだ。
保田は「自分の分を食べて」と言いたかったらしい、だが彼女が口にした言葉は…
ころころと転がすような声でアヤカは笑った。
- 108 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時23分04秒
- (圭ちゃん…本当に食べちゃいたかったよ)
そのときのことを思い出して、アヤカはまた涙が溢れてくるのをどうしようもなかった。
外はもう晴れ間が見えてきたというのに。
あのとき、冗談を装って抱きついていたら今ごろ何かが変わっていただろうか…
アヤカは静かに首を横に振った。
(ありえない…)
- 109 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時23分20秒
- そんなことはありえるはずがなかった。
決して交わることのない二つの人生…
ふたたび、あの歌の歌詞が脳裏に浮かんだ。
自分は今、その歌の世界へと足を踏み入れている。
ホームにできた水溜りが陽光を反射してキラリと光った。
眩しさに思わず顔をしかめる。
- 110 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時23分42秒
(圭ちゃん…)
あるいは眩しかったのは保田の笑顔だったか…
- 111 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時24分08秒
- ◇◇◇
保田の脱退が発表されたとき、
正直に言って悲しみよりも喜びの方が大きかったことを覚えている。
卒業といっても、以前に辞めたメンバーの何人かのように
芸能界から引退してしまうわけではないし、むしろ自分との接点が増えるかもしれない。
そして、自分がプッチモニへの加入を知らされたときの喜びといったら!
- 112 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時24分21秒
- (圭ちゃん…)
アヤカはそのきのことを思い出して、くすっと笑った。
(私がどんなに喜んだか知らないでしょ…)
だが、その喜びは長く続かない。
早とちりであったことに気付いたとき、気持ちの落差は激しかった。
- 113 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時24分36秒
- 新プッチは後藤と保田の脱退にともない、小川とアヤカが加入。
まだ卒業まで半年の時間を残す保田がはずれ、自分が加入…
加えて、新ブッチとしてのシグルリリースは延期に継ぐ延期。
ライブでこそ、歌い踊ることはあるけれど、
保田のいないプッチモニなど、アヤカには何の意味もなかった。
- 114 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時25分01秒
- ◇◇◇
卒業の日はあっという間にやってきた。
保田の姿を舞台の袖から眺めるのはいつものことだけれども、
その日はいつにもまして辛かった。
保田のために別れの言葉を一言ずつかけていくモーニング娘。のメンバーたち。
ほとんど面識さえないはずの新しいメンバーでさえ立っているその舞台に自分の姿はない。
- 115 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時25分12秒
- (圭ちゃん…)
次々に泣き崩れる若いメンバーたちの言葉にアヤカは泣いた。
『保田さんはいつも自分のことを見守ってくれて…』
そう、保田が見守っていたのは自分だけではない。
5期メンバーも、そして6期メンバーだって、保田は見守っていたのだろう。
残り少ない時間の中、彼女達が視界に入る限り。
保田はそういう人だった。
- 116 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時25分27秒
- 自分を、自分だけを見つめてくれると信じていた幸せな日々。
そうでないと気付いたのはそれほど最近のことではないけれど、
それでも、どこかに信じたい自分がいた。
だが、今、ステージの袖口にしがみついて見つめる保田の後姿は遠く感じる。
- 117 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時25分42秒
- (圭ちゃん…)
傍で見るものがあれば、保田への友情による涙だと思うだろう。
便利な言葉だと思った。
友情…
便利にして残酷な言葉。
保田と自分の間に決して越えられない、
見えない壁を作り出す非情な言葉
- 118 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時26分04秒
- 保田が歌う最後の歌。
メンバーたちと目で言葉を交わしながら、
しっかりと歌う保田の声。
――出会ったのは偶然なの?
――だから サヨナラさえも偶然なの…
- 119 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時26分25秒
- (違う…)
アヤカは呟いていた。
サヨナラは決して偶然なんかじゃない。
(圭ちゃん…)
アヤカは大粒の涙でステージが霞むのをどうすることもできない。
気が付けば保田とともに声を合わせて歌っていた。
- 120 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時26分46秒
――きっとまた逢えるよね
――きっと笑い合えるね
――今度出会うときは必然…
- 121 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時27分08秒
- それは願いのように
あるいは悲痛な叫びのようにステージの上に届いた。
一瞬、自分に目を止めた保田がくれた満面の笑み。
(圭ちゃん…)
溢れ出る涙。
(サヨナラ…)
アヤカは静かにステージ脇から退いた。
- 122 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時27分24秒
- 今度出会うとき…
そんなときがあるのならば、
何度でも死んで生まれ変わりたいと思った。
死んで変われるのなら…
保田と結ばれる、どこか別の世界に生まれ変われるのなら…
- 123 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時27分43秒
- 気が付けば保田は既にステージを降り、記者会見の準備のため
風のような勢いで舞台から楽屋へと去っていった。
アヤカは涙を拭った。
打ち上げではせめて笑顔を見せよう。
笑って今日の日を終えよう。
そう決意したのも束の間。
結局、打ち上げでも号泣したアヤカに寄せる保田の眼差しは穏やかで優しかった。
いつものとおりに…
- 124 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時28分10秒
- ◇◇◇
保田の卒業後、時代劇風のミュージカルの稽古、公演と
目の回るような忙しさの中、保田と連絡を取ることもなかった。
あるいは、あえて連絡を取らなかったのかもしれない。
会えばきっと、いつものように親しい友人を装ってしまうだろう。
もう、自分に嘘をつき続けるのは嫌だった。
- 125 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時28分25秒
- もうすぐ夏のハロプロコンサートが始まる。
ともにステージに立つはずの保田と顔を合わせるのが辛く、
リハーサルを前に、気付いてみれば日本を逃げ出すようにして
ニューヨークへと旅立っていた。
ここへ来れば何かが変わるような気がして。
だが、自分は何かを変えられただろうか?
- 126 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時28分52秒
- 雨はすっかり上がって、照りつける太陽の日差しは眩しかった。
高原とはいえ、やはり夏だ。
じりじりと肌を焼く。
(焼けちゃう…)
ハワイに住んでいたことがあるとはいえ、
地肌が白いせいか、綺麗な小麦色の肌が羨ましかった。
- 127 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時29分09秒
- 色の黒い女の子…
あの子のようになれば、あるいは保田が自分を愛することもあっただろうか…?
ふふっ。
いつまで経ってもそこから思考が離れない自分はやっぱり変われそうにない。
(ま、いっか…)
自分が変われないのなら、環境に変わってもらうしかあるまい。
(中谷美紀さんって…たしか、あっちの人だよね?)
- 128 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時29分24秒
- アヤカはホームからジャンプするとレールの間に生い茂った叢に降り立つ。
むせ返るような草の匂いに何かとてつもなく強い生命の息吹を感じた。
水分を含んだ地面が急に差し込んだ陽光で温もり、水蒸気を発している。
霧のように立ち込める白い蒸気に夏の光が作り出した七色のアーチ…
- 129 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時29分42秒
- (虹…)
はるか続くレールの向こうにぽっかりと浮かんだ虹を目指し
アヤカは歩き始めた。
(変わらなくても…いっか)
木々の間を抜けて差し込む日差しが白い帯となって、足元を照らす。
木漏れ日の落ちる叢を分け入って進む先にある半円形の虹彩。
光が見せる幻影に向ってひたすら歩く。
- 130 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時30分02秒
- (圭ちゃん…)
日差しの強さと水分を含んだ空気の蒸し暑さに汗が噴出す。
手の甲で額を拭うと何とはなく視界が開けたような気がして心が軽い。
風が吹く。霧が流れた。
火照った体の熱を奪い去って虹が消える。
その先にあるものは、草に埋もれたままどこまでも続くレール…
- 131 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時30分19秒
- (圭ちゃん…)
その先がどこまで続いているのか知らない。
だが、自分の行き着く先はやはり、保田しかいない。
そう悟った今、あの歌は決して、悲しい歌ではない。
なぜか、そんな風に思える。
たとえ、保田が自分の愛に応えてくれることがないとしても…
(好きです…)
- 132 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時30分43秒
- 再び風が吹く。
自分の中を風が通り抜けていく感覚に心が透き通るような気がした。
(圭ちゃん…)
アヤカは急に気持ちが昂ぶって愉快な気分になった。
「好きだよぉーっ!」
ぉーん、ぉーん、という響きがこだまして山間に消えた。
- 133 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時31分11秒
アヤカは晴れやかな笑顔を浮かべると
再び、前を向いて歩き始めた。
- 134 名前:夏、ハイランドフォールズにて 投稿日:2003年05月13日(火)11時33分17秒
−− Summer, Highland Falls −−
−− end −−
- 135 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月13日(火)11時36分34秒
( `.∀´)<It's either sadness or...
- 136 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月13日(火)11時37分24秒
- 川‘.▽‘)‖< euphoria...
- 137 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月13日(火)11時38分03秒
川‘.▽‘)‖人(`.∀´ )
- 138 名前:名無し作者 投稿日:2003年05月18日(日)02時45分46秒
- 物凄く遅いのですが、
せっかくなので書かせて頂きます。
すいません。
一度オムニバス短編集で書いた話の、
続編というか、別視点の話になります。
読んでやろうじゃないか、と思われた方、
この、
http://mseek.xrea.jp/event/big02/1032236557.html
『クライ・ベイビー!クライ・ベイビー!』
という話を、先に読んで下されば、幸いです。
- 139 名前:名無し作者 投稿日:2003年05月18日(日)02時46分57秒
『ドント・クライ・ベイビー!』
- 140 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時47分51秒
- 「梨華ちゃん」
「何ですか?安倍さん」
「悪いんだけど、中澤部長にお茶持ってってくれる?」
「いいですよ」
「ごめんね、私、これから四角物産に行かなきゃいけないから」
「わかりましたー。お疲れさまでーす」
安倍さんがオフィスを出るまで見送って、給湯室へと向かう。
途中で、営業のコ達とすれ違った。
何気ない様子で、たわいもないであろう雑談に夢中。
だけど、その内容は、どうしても耳についてしまう。
「聞いた?保田さん、本社に転勤でしょ?すごいよねー」
「でも、あっちは人使い荒いっていうし、大変なんじゃないの?」
「だよねー。あたしは気楽でいいや」
「寿退社待ちなんでしょ?」
「アハハ、まあね」
聞こえないフリをして、歩くテンポを早めた。
- 141 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時48分30秒
- 急須からは、柔らかな渋みと湯気が立ち昇る。
それを嗅いで、ひとり頷く。
「よしっ、完璧」
思わず、口許まで緩む。
入社三年目。
『今時の若いモンはお茶汲みもまともにでけへんのか!』
なぁんて部長によく怒られたもんだけど、もう、大丈夫。
そうなんです、もう大丈夫ですよ、保田さん。
石川は、一人でも大丈夫です。
鼻の奥が、急にむずむずしてくる。
視界が少し滲む。
でも、泣いちゃいけない。
笑顔で見送ってあげたいから。
伝えたいのは、『ありがとう』と『おめでとう』。
「ハッピー!」なんていつもの口癖でキメたら、
きっと彼女も笑ってくれるだろう。
- 142 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時49分15秒
- 「部長っ、お茶どーぞ」
笑顔で差し出した。
でも、どうしてかな。部長はお茶より渋い顔。
「石川…」
「なんですか?」
「あんな…」
「なんですか?間違ってないですよ?湯呑みはちゃんと部長の有田焼ですってば」
そうそう、最初はコレに戸惑ったのよね。
でも、今日は完璧だもん。
保田さんに教えてもらった通り、きっちり覚えたんだもん。
「確かに湯呑みは合ってるんやけどな…」
部長は、ガックリ肩を落として溜息を漏らす。
「中身、入ってへん」
しまった…。
- 143 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時49分57秒
- 「あ、あれぇ?どこ行っちゃったんでしょうねぇお茶さん、ひょうたん島かなぁ…」
「石川…、毎度毎度ウチを馬鹿にしてんのか?」
部長の目がギラリと光った。
「と、とんでもないです、すいません」
「ええ度胸やな。あんた自身をひょうたん島支社にトバしてまうで」
「あ、あの、あの、ごめんなさい」
焦っているところに、突然、
「キャー!」
と、飯田さんの声が上がった。
「なんや?うっさいで」
部長が声をかける。と、
飯田さんは憤然とした様子でオフィス内をぐるりと見回す。
「ちょっと!誰よ!ここに置いといた企画書シュレッダーにかけたの!」
あたしだ…。
「飯田さん!すいません、石川です!!」
「またあんたなのっ!何回言えばわかるのよ!!」
「だって、訳のわからない絵とか落書きしてあるから、ゴミかと思って…」
「あれはカオリの芸術作品なのっ!!」
「す、すいませんっ!すいませんっ!」
- 144 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時50分50秒
- どうして?
どうしてこういう日に限って失敗しちゃうのかな。
真後ろのデスクの保田さんを、振り返ることが出来ない。
彼女はどんな顔で、失敗ばかりの後輩を見ているのだろう。
安心…、させたかったのに。
石川はもう大丈夫ですから、だから、本社で思いっきり頑張って下さいって、
言いたかったのに。
もっともっと上を目指して下さいって、言いたかったのに。
だって、今夜は保田さんと後藤さんの送別会。
お別れを言わなくちゃならない日。
なのにあたしは、今日もドジやっちゃった。
けど、
せめて笑顔で会いに行こう。
おめでとうの代わりに、花を買って…。
- 145 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時51分35秒
- よし、いくぞ。
目の前のビルを睨む。
と、後ろから後輩の高橋の声。
「石川さん、何ですか?そのでっかい鞄」
「え?え?あ、ああ、ちょっとね」
「ちょっと…ですか?」
どう見ても『ちょっと』じゃないんですけど。
高橋の目は口ほどにものを言うらしい。
いかにも不審そうに、あたしが抱えるでっかい鞄を見る。
違うの、高橋。
これには、海よりふかーいわけがあるのよ。
パッと見、プチ家出少女みたいな大きさだけど、違う、違うの。
心の中で、必死に言い訳。
高橋に届くだろうか。
- 146 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時52分11秒
- 「あっ、わかった」
何かひらめいた様子で、高橋はポンと手を打つ。
「タッパでも持って来たんですか?パーティの料理、持って帰るんでしょ?」
違う…違うわ、高橋。
あたし、テレパシーの才能はないみたい。
別にいらないけど…。
あ、でも、
テレパシー出来たらケータイいらないよねぇ。
それは便利かも。
念写で写メール、とか…、
うーん…、
ちょっとイヤかも…。
「……ごめんね高橋、あたし、急ぐから」
早々に退散することにして、送別パーティ会場へと向かう。
- 147 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時52分51秒
- 一歩踏み出すごとに、鞄の中のモノがかさかさと音を立てた。
そう。
この鞄じゃなきゃ、コレが入らなかったのよね。
あーあ、でも、やっぱりちょっと失敗だったかな。
だって、だってね、花屋のカッコイイお兄さんが……。
あたしは、買うつもりなんてなかったのよ。
いや、買うつもりだったんだけど。
花、でよかったのよ。
束にしてくれ、なんて言うつもりはなかったのよ。
だって、保田さんに似合いそうな花を『束』で買っちゃうと、恥ずかしいんだもん。
でも、でも、目元がちょっぴり二課の吉澤クン似の花屋のカッコイイお兄さんが……。
ほら、
売り言葉に買い言葉ってやつよ。
「お姉さん、すっごく美人ですねー」
「それ、全部下さい」
で、買っちゃったわけよ。
真っ赤な真っ赤な、バラの花束…。
- 148 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時53分35秒
- 会場に入ると、すぐに保田さんを探した。
随分と盛り上がっているようだ。
中心には、後藤さんを囲む人垣。
そこから外れ、端で一人、シャンパンを飲む保田さんを見つける。
彼女らしい。
思わず口許が緩んだ。
「保田さん!」
近付いて声をかけると、
彼女は少しめんどくさそうに溜息をもらした。
「何よ、石川」
「あの、あの…」
よし、言うぞ、誘うぞ、連れ出すぞ。
「何?」
「保田さん、あの、ちょっと来てもらえませんか?」
「あぁ?どこに?」
そりゃもちろん……
「屋上です」
「あ!?何でまたそんなトコに?」
「いいからいいから」
「ちっともよくないよ」
彼女は、より一層めんどくさそうに息を吐く。
ごめんなさい、保田さん、
最後までめんどうな事に付き合わせちゃって。
でも、どうしても、行きたいんです。
この街で、一番高い場所へ。
もっともっと、高いところへと行けるよう、
あたしの願いをこめた場所へ。
- 149 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時54分18秒
- 少しの間夜景を眺めた後、彼女は振り返った。
「もう…、なに?こんなトコまで連れて来て。何の用?」
穏やかな表情が、月と星と街に照らされる。
それは、いつものパワフルさとはほど遠く、
なぜだろう、
とてもとても儚く見える。
そしてまた少し、胸が苦しくなる。
それでもあたしは唇を噛んで、精一杯元気に花束を取り出した。
「保田さん!コレ、もらって下さいっ!!」
大声と共に差し出す。
と、ただでさえ大きい保田さんの目が、
1.5倍(当社比)に見開かれた。
「何よ、コレ!!」
ありえないものを見たかのような表情。
まあ、それが普通の反応だよね…。
やっぱり、かすみ草も混ぜてもらうべきだった。
そういう問題じゃないかな…。
- 150 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時54分56秒
- 少し後悔。
出端をくじかれて、言葉が詰まる
代わりに、目の中が水分過多。
だめ。
泣いちゃだめ。
「あの、保田さん、あの…」
「何?」
「保田さん、本社に異動しちゃうって…」
「だから、何?愛の告白でもしてくれるの?」
「ちっっがいます!!」
思わず、力いっぱい否定してしまった。
「あたしが好きなのは、営業二課の吉澤クンなんですぅ。吉澤クン、すっごく男前でぇ、優しくてぇ…」
しかも余計なことまで付け加えてしまう。
話があらぬ方向へずれ始めたあたしに、
保田さんが少し…いや、
かなり、キレた。
「あんたね、何が言いたいのよ!!
吉澤クンが男前だろーが焼肉ビビンバ三人前だろーが、
どうでもいいっつーの!!まったくもう!用ないんだったら帰るわよ!」
いやいや、焼肉ビビンバはどうでもよくないでしょう。
好きですよね、保田さん。
絶対、また二人で食べに行きましょーね。
……って、そうじゃなかった。
- 151 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時55分29秒
- 「待って下さいっ!」
慌てて引き止める。
「何よ」
「赤い薔薇の花言葉って、知ってますか?」
「情熱…だっけ?」
「そうです!!なんかギラギラした感じで保田さんに似合うかなと思…」
「帰る」
「あっ!ま、待って下さいよぉ」
待って下さい。
帰らないで下さい。
あたしまだ、伝えたいこと半分も話してないです。
どうでもいいことは、十二分に話しちゃいましたけど…。
だからもう少し…、
もう少しだけ、石川のそばにいて下さい。
- 152 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時56分16秒
- 「ありがとうございました!!」
あたしは、そう言って、深く頭を下げた。
抑えている涙が漏れ出しそうになり、
なかなか顔を上げることが出来なかった。
唇を噛んで拳を握って、一度だけぎゅっと目を閉じて、
必死に我慢する。
泣いちゃだめ、泣いちゃだめ。
「あたし、保田さんに、いっぱいいっぱいお世話になって、
本当に本当にお世話になって…、
でも、あたしは保田さんに何にもお返しできなくて…」
あたし、保田さんがいたから、今まで頑張ってこれたんです。
入社したての時、何もわかんなくて、ドジばっかしてるあたしに、
保田さんは、いっぱいいっぱい、色んな事を根気よく教えてくれて。
一番簡単なお茶いれさえもろくにできなくて、中澤部長にめちゃくちゃ怒られて、
そしたら、保田さんが、
『茶柱をたてて持ってくと、部長めちゃくちゃ機嫌よくなるから』
って教えてくれて。
書類とか、報告書とか、作り方ろく知らなくて、
そしたら、保田さんが、『あたしが教えてやるよ』って笑ってくれて。
その他にも色んな事、たくさん教えてもらって…。
- 153 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時56分46秒
- 怒られたこと、教えてもらったこと、
そしてあの笑顔に、どれだけ救われたかわからない。
「保田さん。お世話になりました!ありがとうございました!」
あたしの話を、キョトンとして聞いていた彼女は、
数秒の間ののち、突然吹き出してしまった。
「あははっは、何?その顔。あはは」
しかも、指さして笑う。
ひどい…。
これでもけっこーモテるのに…。
指さして笑うことないじゃない。
- 154 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時57分18秒
- 「保田さん!あたしは真面目に…」
言いかけると、彼女の笑顔に遮られる。
「石川!よく聞け!あたしが教える事は、これで最後だよ!」
「え?」
戸惑うあたしをよそに、彼女は大きく息を吸い込んだ。
大声を出す前に、気合を入れている、といった感じ。
何?何だろ、何すんの?
ヤッホー!とか叫びだしたら、いくらなんでもちょっとヤだな…。
少し心配した。
けど、彼女が次に取った行動は、
ヤッホー!と叫ばれるより、あたしの心をもっと大きく揺さぶるものだった。
- 155 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時57分48秒
- 「泣きたい時は……、泣けっ!!」
肩のあたりを物凄い力で引っ叩かれた。
鈍い痛みが走ると共に、
彼女の声が幾重にも重なって、頭の中でぐるぐると回る。
泣きたいときは泣け?
泣きたいときは泣け。
ナキタイトキハナケ。
泣きたい時は……、
石川、泣いてもいいんですか?
途端に、抑えていたものが堰を切って流れ出す。
まるで洪水のようなそれは、とどまることなく頬を伝い顎へと滑り、
いくつもの水滴となって、地面を濡らした。
保田さんの、ばか。
せっかく、せっかく我慢してたのに。
なんてことするんですか。
全部、ムダになっちゃったじゃないですか。
保田さんの、ばか。
ばかばかばかばかばかばかばか……、大好き。
- 156 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時58分29秒
- 「……う、う、うわぇぇーん、やすださぁん…ひっく…ひっく、嫌です、寂しいですぅ」
「あははは、あんた何泣いてんの?いつでも会えるじゃんか」
「保田さんだってちょっと泣いてるじゃないですかぁ」
「これは心の汗なんだよ!」
「古いですぅ。うぇぇぇん」
「うっさい!」
おめでとうの代わりに、二人でいっぱい泣いて、少し笑って。
ありがとうの代わりに、二人してまた泣いて、すごく笑って。
- 157 名前:ドント・クライ・ベイビー! 投稿日:2003年05月18日(日)02時58分59秒
- 彼女の笑顔が見たかったから、泣かないと決めていた。
その予定は随分狂ったけど、
どうしてかな、
清々しい気持ち。
だってほら、
泣きながらでも、笑える。
泣いたあとなら、もっと笑える。
それを教えてくれたのは、やっぱり保田さんで…。
「保田さん、絶対絶対、頑張って下さいね」
あたしも、絶対絶対、頑張ります。
この場所より、もっと高い場所へ行こう。
上を目指して進もう。
道は違っていても、またどこかで逢える。
この場所より、きっと、もっと高い場所で…。
fin.
- 158 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月18日(日)02時59分54秒
- …
- 159 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月18日(日)03時00分32秒
- …
- 160 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月18日(日)03時01分04秒
- …
- 161 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月18日(日)20時10分29秒
- ( `.∀´)
- 162 名前:名無し読者。。。 投稿日:2003年05月27日(火)14時19分36秒
( `.∀´) Good bye yasuda
- 163 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)23時37分27秒
- もう誰も使わないでしょうし、ここ使わせてください。
わざわざスレ立てるほどの話でもないですし。
そんなに長くない連載ものです。
もし短編を出そうと思っていた人がいたらごめんなさい。
- 164 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月08日(日)23時47分20秒
- 後藤真希は豆電球さえ点けていない真っ暗な部屋で一人、薄めの毛布を頭から被りながらテレビを眺めていた。
2003年4月18日。ミュージックステーション。
今流行っている歌が次々と演奏される一音楽番組。その中に精緻な機械のように笑顔を絶やさない12人の女たちがいた。
他の出演者と比べると明らかに浮いた衣装を着ているその女たちが、CM明けの画面では前列に座っていた。
身長も年齢にもかなり幅がある、テレビ枠の向こう側でないと中々小見目にかかれない性質の集団。
- 165 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月08日(日)23時51分16秒
- 耳を澄ますと、階段の下からも同じ音が聞こえてきた。
後藤の家族が団欒を交えて、同じ番組を鑑賞している。
後藤は目を閉じた。
光を食い尽くす闇があった。しかし、よく見るとチカチカと直前まで見てい
た女たちの幻影が微かに生きていた。
直感といえば、一番安直で正しいのかもしれない。後藤は12人を包む黒
く輝く未来を幻影の向こうに感じていた。
その中心で煌くのが後藤と仲が良かったモーニング娘。の保田圭だった。
- 166 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月08日(日)23時59分30秒
- ◇◇
グラサンをかけた司会者がテレビには映らないカンペを上手に見なが
ら、話題を振る。前列の右から4番目にいた女、保田圭にカメラが向け
られる。
保田は寂しげな表情一つ見せず、淡々と受け答えをしていた。
司会者も、周りの同士も、スタジオを囲む客も、そして視聴者という輪郭
のない人間たちも何も保田には求めない。
誰でも容易に想像できるシナリオをただ「感動」という言葉に見せかけ
るだけ。
この番組で保田の話題が中心に据えられるのは殆ど初めてと言っ
ていい。
保田の隣にいた矢口真里が涙をカメラにちらつかせながら、保田との
思い出を語り始めた。
- 167 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時01分02秒
- 矢口は思い出の全てを美化し、保田という人物がこのグループでどれ
ほど重要な人物であったかを演技を交えて伝えていく。
生まれるのは悲しみと祝福のカオス。
しかしそれは表面上だけのもので、誰かがこの「作られた感動」を
否定すれば容易に吹き飛んでくれるものだ。
もちろん視聴者はそんな面倒なことをしない。
所詮はテレビの向こうで繰り広げられるに過ぎない軽すぎるフィクシ
ョンなのだから。
あの場にいる人間もその表面の感動を増幅させるだけの存在。
壊す人間などいやしない。
- 168 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時04分04秒
- 一視聴者である後藤は無意識に爪を噛んだ。ストレスに制圧された
時に人間がよくやる行動の一つ。
自分があの場にいないもどかしさなどではない。保田の気持ちがわ
かるという共鳴でもない。
類似した記憶がフィードバックして、だけど完全に一致することなく、
ひずみはじめる。
網膜を刺激する、取り留めの無いはずの光景と得体の知れない高
揚が違和感を呼び、心の傷を疼かせるような眩い不安を引き起こし
たのだ。
- 169 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時06分18秒
- 「圭ちゃん……」
後藤は中心にいる保田の名前を呟いた。
後藤なりの愛情がそこにはあった。しかし、その思いはテレビを突き
抜けることなく、この部屋の闇に吸収される。
後藤自身も闇に支配されていた。
同色の中に身を染めながら、自分の意志とは無関係に震える左腕
に力を込めた。
暗い部屋の中でのテレビの光は強烈で有害だ。目が痛くなってくる。
後藤はその光をまばたきすることなく真っ向から受け止める。
体がどんなに震えようとも目だけはしっかりと画面をとらえていた。
それが感動を盾にした似非物語であっても構わない。
後藤には保田を見送る義務があった。
司会者の軽い合図により、「よろしくお願いしま〜す」という威勢の良
い声が飛び交った。司会者の横にいたアシスタントの女子アナが曲を
紹介しはじめた。
- 170 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時08分48秒
- ◇◇
その昔、福田明日香という人間がいた。石黒彩、市井紗耶香、中澤
裕子という人間がいた。そして、後藤真希という人間がいた。
かつて「卒業」というある種の魔力持った言葉に本人たちや見守る
者たちは酔いしれた。
先に見えるものが不透明であったとしても、消失から生まれる悲劇的
な魔力には逆らえることができなかった。
そして、今度は保田圭が同じ道を辿る。
ただ、もう魔力の効果は薄められている。
もう「卒業」なんて安易な行事では一瞬の主人公にさえなれやしない。
なったとしても、二番煎じならぬ「六番煎じ」の劣化した主人公に対し
て、人々の記憶には殆ど残らない。
- 171 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時09分36秒
- エンディングでアナウンサーが保田にコメントを求め、保田は「ありが
とうございました」と「これからもよろしくお願いします」を言うことになっ
ている。
真実がそこにあるかはどうでもよかった。ただ、桜が散るときの儚い
美しさを残してくれればいい。番組のプロデューサーは保田にそういう
ニュアンスをもっとオブラートに包んだ言葉で要求した。
保田には抵抗する権利はない。やることは福田と同じ、市井と同じ。
世間の大半は「あいつ辞めるんだね」で終わり。
予定調和の感動はテレビの向こう側ではもう下らないものになっている。
しかし、それを「最高の感動」として演じなければならない。
- 172 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時12分23秒
- 生放送という番組はここしかなかった。つまり意思をより多くの人に正
確に伝えられるのはここしかないということ。
保田はトーク中も殆ど緊張を感じていなかった。
首を横に向けると矢口と目が合った。表情豊かな彼女の顔が少し硬
直していた。
自分の緊張をきっと矢口たちが受け持っているのだと思った。
スペシャルメドレーと称した気持ち程度の保田ソロと新曲「AS FOR ONE
DAY」のメドレーが終わり、番組はラストへと向かう。
司会者のいる所に戻っていく保田たち。司会者やその他の出演者はい
つも通りの、気のない拍手で彼女たちを迎える。
歌は終わった。エンディングの音楽が流れはじめた。
他のアーティストに迷惑がかからないだけ良かったなと保田は思った。
あとは予定通りなら、お決まりの言葉をテレビに向かって言うだけ。
- 173 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時15分52秒
- 「どうでしたか?」
アナウンサーが保田にコメントを求めてきた。保田をとらえているカメラ
の上のランプが黄色く光った。
いよいよだと気を引き締めた瞬間、突如として心臓が強く意思表示を始
めた。吊りあがった目は見開き、一瞬にして体の至る所の汗腺が開いた。
自分の異変に気付いた保田は素人のように、「あ、あ……」とマイク
チェックをはじめる。しかし、チェックしたかったのはマイクではなくて自
分の喉だ。
歌い踊り、汗が滴るような状態であるにも関わらず、喉の裏は乾きで
張り付いていた。
- 174 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時17分35秒
- もうこれは決定事項だ。
再度、自分に言い聞かせた保田は第一期メンバーである安倍なつみ
の隣にいた矢口を見た。
在り来たりな祝福ムードのメンバーの中で、矢口だけが少し緊張した
面持ちで保田の言葉を待っていた。
矢口がいるからきっと大丈夫だと、変にそう思った。
後ろにいたSMAPのメンバーから「何やってんだよ、保田」などという失
笑した声が漏れる中、両手でマイクを掴みなおし、ゆっくりと口を開いた。
「はい。最後のステージ、すっごく緊張しましたけど、楽しかったです」
最後という言葉にめざとく反応したアナウンサーが、
「今度はソロとして、お待ちしています」
と、フォローを入れた。
「いえ、もう来れないと思いますし」
- 175 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時19分33秒
- そう演技の入れたように大げさに諦観した様子で言い切る保田に対し、
司会者が少し引き攣った笑顔を見せる。
そんなこと分かっていても口にすることじゃないだろう、という顔だ。
祝福ムードが少しだけ翳る。
番組を見ている人の大半が「保田がソロとしてこの番組に出ることはな
いだろう」と思っている。
しかしそれは言ってはいけないことなのだ。
隣にいた安倍が「ちょっと、圭ちゃん……」と肘で保田の腰の辺りを軽く
突付く。
保田はそれを無視して、口元を引き締めながらカメラとその奥に広が
る視聴者に視線を向けた。
「みなさん、ちょっといいですか? ここで重大なお知らせがあるんです」
テレビではエンディングのテロップが流れている。
保田の予定外のコメントに皆かなり当惑している。
司会者も動揺は隠し切れないようだったが、そこはプロフェッショナル。
まるで保田のコメントが台本であるかのように、落ち着いたまま、
「なんでしょうか?」
と聞き返した。
- 176 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時21分33秒
- 「今からの宣言は、モーニング娘。や事務所やこの番組には何にも関係
ありません。私個人の意志です」
「宣言ですか? それは一体……なんでしょうか?」
アナウンサーは保田の只ならぬ状況をいち早く察していた。
保田の上昇し続けた心拍数が急激に落ちた。
これが緊張の極限を超えた状態なのだろうか。
スタジオを流れている音楽も、観客やメンバーたちから作られる雑音も
保田の耳からは消え去った。
全てが保田一人のための空間。
その歪んだ空間が保田には心地よかった。
保田は静かに口を開いた。
- 177 名前:赤い草原 第1話 宣言 投稿日:2003年06月09日(月)00時23分20秒
- 「わたくし、保田圭は、5月5日の卒業ライブの後に自殺することにしました」
保田の作った前例のない衝撃は、電波の壁を容易に飛び越えた。
テレビの向こうにいる不特定多数の人間の感情、全てが一人の華のな
い女性に向けられる。
飾り気のない萎びた雑草が今黒い光を浴びて、煌々と輝きはじめる。
次の瞬間、今までの誰とも似通わない特異な主人公が誕生した。
保田の声と、静止画のように変わることのない不敵な笑顔だけが幾人
もの記憶に深く刻みこまれた。
- 178 名前:赤い草原 第1話 終 投稿日:2003年06月09日(月)00時24分12秒
-
- 179 名前:赤い草原 第1話 終 投稿日:2003年06月09日(月)00時24分52秒
-
- 180 名前:赤い草原 第1話 終 投稿日:2003年06月09日(月)00時25分22秒
-
- 181 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月09日(月)00時27分36秒
- さっきも書きましたが短編載せようと思ってた人、ごめんなさい。
>>164-177
→第2話 衝撃
- 182 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)21時59分44秒
- 目覚めてすぐ、虹彩に映る朝景色は少しだけ違った感触があった。
後藤は白い壁に貼られた風景だけの絵に目をやった。
まるでハイジがいるような、殆どがパステルグリーン一色で描かれた
草原が描かれている。きっと永遠にまで伸びていると錯覚するような広
大なところなのだろう。
昨日、後藤はこの絵を渋谷の路上で殆ど衝動買いのような感覚で買った。
独創性を主張する奇抜なアクセサリーや絵が並ぶ中で、このシンプル
で凡庸な絵がやけに目立って見えたのだ。
絵の目の前に座っていたのは鼻の低い黒人で、耳の髑髏を象ったピア
スが不思議と目立つ、およそこの絵の風景の中には居てほしくない青年
だった。
- 183 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時01分39秒
- 家に飾ってみても、初見の時にやってきた、この絵の中にワープし
てしまうような感覚は色褪せない。
まるで現実と幻想を行ったり来たりするようだ。
ここは一体どこなのだろう。
アルプスだろうかアメリカのプレーリーだろうか。それとも地球上の
どこでもない、無から創造した場所なのだろうか。
後藤は無意識的に届きそうで届かない絵の彼方に手を伸ばす。
しかしその中には入れない。幻想はあくまで幻想にすぎない。
宙に浮いたみすぼらしい腕を下ろす。
感じる腕の重みは現実の証。
二次元に描かれた夢の世界に憧れて、三次元の現実の世界に失望し
ながら、時が流れる。
そんな毎日だった。
- 184 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時04分58秒
- 窓を開けると涼しげな風が通り抜けた。朝日がとうに昇っており、大小
さまざまな生命が活動をしはじめていた。窓枠の向こうには春色に染ま
った道路が遠く伸びていた。
ただその先にあるものを後藤は知っている。小さな公園、駅、商店街など、
身近すぎる光景を頭の中で描き、うんざりする。
慣れきったいつもの風景だった。闇なんてない。
だけど、何かが違う。部屋に新しい絵が飾られたという違いだけではない。
風景は同じだけど、それを見る後藤の目が歪んでいるのだ。
後藤は枕もとに置かれた携帯電話を手に取り、切っていた電源をオン
にした。
ケータイの横にあったリモコンをつかみ、ミニコンポに差し向けた。
流れたのは周波数の合っていないラジオ。男の声が雑音混じりに聞こえ
てきた。
すぐにCDボタンを押した。キュルルと不快な音を立ててから鳴り響くの
は聞きなれたモーニング娘。の歌。曲名はすぐに出てこなかったが、「い
きまっしょい!」だと分かると、音量を上げ、リピートボタンを押し、それか
らリモコンをコンポに向って投げた。
- 185 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時06分13秒
- コンポの横のCDボックスに当たったリモコンはそのまま床に落ち、単4
電池が2本散らばる。それを見届けた後藤はケータイを握りしめながら、
布団にくるまった。
しばらくして、ケータイの音が続けざまに鳴る。
何かと面倒になりそうと思い、切っておいた間にきたメールが今ごろに
なってやってきたのだ。
自ら作り出した闇から広がるオレンジの光の中には文字が刻まれて
いる。
加護亜依から4件、吉澤ひとみと石川梨華から1件ずつ入っていた。
内容は見ない。あとはよく分からない迷惑メールの類だったので、すぐ
に消去した。
- 186 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時08分06秒
- 後藤は相変わらずの無表情の顔のまま、テレビをつけた。
芸能コーナーではなく、社会コーナーで保田の顔が小さく映っていた。
まるで犯罪者もしくは被害者のような顔つきをした保田を見て、もう少し
いい写真使ってくれないのかね、と呟きながら、ようやく口元から笑みが
微かに浮かんだ。
保田の残したコメントは番組の最後だった。下から上へと流れるスタッ
フの名前などが保田の決意を秘めた顔を上手く隠していた。
保田の逼迫した表情は卒業に対する、嬉しさや悲しみなどの単純な感
情からではないことを後藤は勘付いていた。
何かある、と頭から被っていたシーツの端をギュッと力強く握り締めた。
慢性的に起こる手足の震えを保田の不敵な表情によって押さえつけら
れた。
あと1分ぐらいで番組終了となる時、保田は「重大なお知らせ」と口にした。
画面の隅に顔半分だけ映っていた安倍が目を丸くして、過敏に反応し
ていた。
- 187 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時12分08秒
- 次の瞬間、保田は見ている者全ての時を止めた。
カオスがようやくカオスらしく空間を乱したのだ。
ディレクターが慌ててカメラを切り替えたのか、画面が乱れ、しばらくす
ると緑の背景に「しばらくおまちください」と下の隅に書かれた画面が現れ、
茶の間とスタジオを断絶した。
しかし、もう遅い。
前例の無い宣言は千万人以上もの人間にしっかりと届けられた。
「圭ちゃん……」
後藤は保田の名前をボソリと呟く。今日はこれで二度目だ。
しかし、一度目と二度目ではその言葉の意味は明らかに違う。
二度目の名前は闇に吸収することなく、どこか遠くへ消えていった。
今回は、テレビを越えて保田に届いただろう。
保田の気持ちなんてわからない。わかる必要もない。
ただ、その先の近い未来が灰で霞んだ気がした。
そして、後藤は保田の遺した言葉を何度も狂ったようにリフレインしは
じめた。
自殺自殺自殺自殺自殺自殺ジサツジサツじさつじさつ。
瞬間的に感じた衝撃が緩和されていく。
いつしか妙に軽い言葉になった。
即興で作ったメロディに合わせて、しばらくの間、口ずさんだ。
- 188 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時13分13秒
- ◇◇
番組終了後のスタジオは保田に視線が集中していた。
しかし、誰も声はかけてこない。
「うたばん」の中だけとはいえ、少し懇意にしてもらっていた中居あたり
から「何言ってんだよ」と冗談ぽく声をかけられることも想定していたが、
それすらなかった。
保田は軽く辺りを見回したあと、「おつかれさまでした」といつものように
頭を下げた。一番近くにいたモーニング娘。のメンバーは狼狽さえもでき
ずに、立ち尽くしていた。
圭ちゃんの言ったことが信じられない、もしくは自分の聞き間違いだとで
も思っていたようだ。
- 189 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時14分20秒
- 楽屋に戻ると安倍やリーダーの飯田圭織は少し冷静になったのか、明
らかに問題のある発言に関して、真相を問い詰めようとしている様子が
窺い知れた。
保田はそんな二人に「今日もお疲れ様ー」といつものように爽やかに
声をかけ、黙々と着替えを始めた。
安倍は飯田と顔を見合わせた。二人同時に小さく頷き、保田に詰め寄
ろうとする。
しかし、その前に楽屋の扉が勢いよく開いた。マネージャーだ。
マネージャーは息を大きく乱しながら、保田の顔を確認する。真っ青だ
った顔がみるみる赤く染まっていく。
「保田!」
「ちょ、ちょっと着替え中なんですけど……」
保田の声を全く無視して、マネージャーは保田に近づき、言葉より何よ
り先に保田の胸倉を掴んだ。まるで犯罪者と対峙するような目をしていた。
- 190 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時17分36秒
- 「お前は何をしたのかわかってんのか? 番組を壊したんだぞ」
肺から絞り出すように唸り、拳を握り締める。
どうやら局のディレクターあたりからかなり怒られ、脅されたようだ。
何か気の障ることを言い返せば、商品である顔を殴ろうと思っている。
その気配を感じつつ保田は敢えて挑発する。
「わかってません」
マネージャーの頭の血管がプチンと音を立てて切れた。刹那的に飛ぶ
拳に対し、保田は顔を横に傾ける。そのおかげで拳は保田には当たら
なかった。
すぐに二人は周りの人間たちによって引き剥がされる。
誰からか飛び出た「落ち着いて!」という叫び声は悲鳴というより断末
魔に近かった。怒りで我を失っているマネージャーは通りがかりの大道具
の大男に取り押さえられた。
「ったく、これでもアイドルなんですよ。殴らないでください」
人のパニックを嘲笑うように保田は投げキッスを、手足を拘束されてもが
くマネージャーに向けてした。いつもなら近くにいる誰かが必ずやる「気持ち
悪いポーズ」は誰もやらない。
- 191 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時19分17秒
- 狼狽と緊張で満ちる中、安倍がキッと保田を睨んだ。
「圭ちゃん、冗談やめてよね」
「ああ、ごめんね、なっち。怒ってる人にこんな冗談、やるもんじゃないね」
「そうじゃなくって! さっきの番組での――」
安倍が言いかけた時に保田の携帯電話が鳴った。新曲「AS FOR ONE
DAY」のメロディが小さな部屋に滑稽に響き渡る。
「ごめん、電話だ。ちょっと待って」
いきり立つ安倍を制して、バッグから電話を取り出した。画面に書かれ
ている名前を見てから、安倍と飯田以外のメンバーが集まっている方向
に目をやる。
「親からだった。ちょっと電話してくるね」
安倍に一言詫びながら保田はそそくさと楽屋を出た。
- 192 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時20分58秒
- そのまま電源をオフにしてトイレに駆け込んだ。そこは壁も天井も目が
眩むほどの白に統一されたトイレだった。
洋式の便座に腰を落ち着かせてから、再び電源をオンにする。
着信履歴の一番最初にある「矢口真里」の名を眺めて、フフフッと笑った。
ほとぼりが冷めるまでここで待機していたほうがいいかな、と思った保
田は右の壁に取り付けられているトイレットペーパーの先端を三角折に
した。
そして、自分の手首をじーっと見つめた。親指を手首に押し当て、脈があ
ることを確認した。
「これが生きてるって証拠にはならないね」
独り言の後、透明なマニキュアをした桜色の爪で手首を2回引っかいた。
白い線がうっすらと残った。その痕をじっと見つめながら、心の中に充
足感が、潮が満ちるように少しずつ浸されていくのを感じていた。
- 193 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時22分59秒
- ◇◇
保田の「自殺宣言」により、後藤の母親は青ざめた。
保田と後藤の母親とは面識がある。
しかし、その心配の矛先は保田が本当に自殺するのかというより、娘で
ある後藤真希に向けられていた。
保田は後藤にとって頼り甲斐のある先輩だった。
幾つかの小さな壁を乗り越えて、年齢の離れた親友としての関係を築い
ていたことを知っていた。
だから、今回の保田の宣言に対し、後藤真希がどういう心境でいるか、
それが心配だった。
- 194 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時25分03秒
- 最近の後藤にはどう接すればよいのかわからなくなっていた。
年頃ということもあるのだろうが、そういう一般的なものだけではもちろ
んない。
会話が少なくなった。悩みを抱えているのだろうが、相談もせずに一人
自分の部屋に閉じこもることが多くなっていた。
色々話しかけるべきなのだろうが、後藤の気だるそうな目を見て以来、
何も言えなくなった。
親としては何もできなかった。後藤の選んだ道は特異すぎた。
どんな言葉で労おうとしても「あんたにはわからないよ、ほっといてい
てよ」と邪険に蔑まれることは目に見えていた。
この保田の件で後藤はどういう反応を示すのか怖かった。
結局、後藤自らが口にするまで、できるだけその話題には触れないでお
こうという一番消極的な、親としての義務の放棄のような結論に至った。
- 195 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時32分31秒
- ◇◇
後藤は七時に起き、自分の部屋を出た。1階に降りると、エプロン姿の
母親と偉そうにふんぞり返っている弟がいる。
作った直後だと主張せんばかりに湯気が立つ洋風の朝食が並べられ
ていた。心なし、いつもより豪勢のような気がする。
美味しそうではあったが、そこらの女子高生と同じく、後藤は朝が苦手
で、あまりお腹一杯食べたいとは思わない。
「おはよう、お母さん」
台所で使った食器を洗っていた母親の背中に向かって後藤は自然に
声をかけた。母親は驚きを隠せないまま振り返ると、テンションが心無し
高い後藤が眠気が残る顔の中に微笑を浮かべながら立っていた。
- 196 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時34分50秒
- 「あ、おはよう、真希」
「あれ、裕樹早いじゃん」
台所の椅子にすでに座っている弟の裕樹は挨拶を返さない。
まるで一家の大黒柱のように大股広げて椅子に腰掛け、新聞を大きく
広げている。裕樹も年頃で反抗期だ。
「へー、珍しい。テレビ欄しか見ないあんたが何読んでんの? あ、スポ
ーツ?」
裕樹は広げた新聞紙の上から、窺うような目を覗かせた。
「さってと、いただきまーす」
後藤はそんな裕樹を無視して行儀よく、手を合わせた。卵焼きを箸で
掴み、その半分を口に入れる。
「おいしいね、これ」
母にとっては失敗の部類に入るその卵焼きを箸で掲げながら母親に向
って言った。
「そ、そう?」
後藤は保田の起こした事件なんて知らないような無邪気な顔をしていた。
- 197 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時35分48秒
- 少し前には毎日のようにあった朝の平凡な風景だった。
しかし、何かが違う。まるで、演出のような――次の瞬間、どこからか「は
い、オッケーです」という若いADの声が飛んでくるんじゃないかと思うくらい、
「普通」の中に潜む不安定な状態。
最近の後藤はこんな感じではなかった。
もっと排他的で、孤高な存在だった。
一抹の不安を抱えながら、母親はこの仮初とも言える「普通」に甘えた。
後藤の「行ってきます」という快活な声に「行ってらっしゃい」と笑顔で見送
った。
- 198 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時37分28秒
- ◇◇
家を出ると、三人の芸能記者が待ち構えていた。
朝に光るフラッシュは夜での密会を激写された時より、目立たない分返
って腹立たしいもの。
後藤は好奇な視線に少し苛立ちを募らせつつ、無視して足を駅のほうへ
と運ぶ。しかし、一人、新米と思える若い女性記者が後藤の進む道を遮った。
お互い避けるつもりもない二人は当然衝突する。足が止まった後藤に、
背中を追っていた他の記者が集まる。そんな中、そのぶつかって尻餅を
ついた女が立ち上がりながら、
「保田さんのこと、ご存知ですよね?」
と聞いてきた。
後藤は尻を強打したのか顔を顰めて聞こうとする記者の迫力に一瞬押
されたのか「ええ」と頷いた。
- 199 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時38分51秒
- 「どう、お思いですか?」
後藤は空に目をやった。突き抜けるような青の中に薄い白雲がゆっくり
と西から東へと流れていた。
今日はいい天気だとのんびり思った。
「すごいことだと思います」
その後の次から次へと飛んでくる質問に対し、後藤は頑として口を開か
なかった。
再び後藤は足を進めた。
模範的回答ならば「嘘であってほしい」と涙を軽く浮かべてから訴えるの
かもしれないが、今の後藤にはそんな余裕はなかったし、見え見えの演技
でこれから広がっていく、あらゆる推測のネタの一つにされるのは少々癪に
障るものがあった。
だから正直に答えた。
- 200 名前:赤い草原 第2話 衝撃 投稿日:2003年06月11日(水)22時39分54秒
- マスコミの影がなくなると、後藤は大きくアクビをした。
毎夜、これからの自分に対する見えない不安に、震えながら眠っていた
のに昨日はやけにぐっすり眠れた。
頭の中では保田の淡々とした表情が繰り返されていた。
あの勝ち誇った表情を浮かべたのはいつ以来だろう。
どんなに古い記憶を辿ってみても、保田はいつも切羽詰まっているよう
な顔つきをしていた。
自殺宣言をした時のほうが余裕が垣間見えるのだからおかしな話だ。
携帯電話が鳴って、手をポケットに突っ込んだ。
いつもの下らない出会い系サイトからのメールだった。
もう日常に溶け込んでしまった下卑た世界への入り口を後藤は、「くだら
ないね」と呟きながら、いつものように消去した。
- 201 名前:赤い草原 第2話 終 投稿日:2003年06月11日(水)22時44分40秒
- >>164-
>>182-200
→第3話 挑戦
- 202 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時37分55秒
- 週末の芸能界の話題は保田のことで持ちきりだった。
事務所には苦情の電話が鳴り響いた。
保田の下に警察が来たが、何もすることができずただ勧告したにす
ぎなかった。
警察は事後でしか動くことができない愚かな組織だ。
例え事前に守ることができた存在であったとしても、自分自身を殺そ
うとしている人間にその間を割って入ることなんてできはしない。
自殺は他人には不可侵な聖なる行為。
しかし、人は社会は、そうは言わない。
自殺は愚かな行為だと唱え、自殺した人を悼みつつ罵るだろう。
社会的には「敗北者」として刻まれるだろう。
ただそれだけだ。
倫理が崩壊し、形骸化が進む大衆社会から、何を言われようとも、端
から相手にしていない保田の心には響かない。
保田は帰っていく黒いスーツの二人組の警察官を見送りながら、ほくそ
笑んだ。
- 203 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時38分43秒
- ◇◇
週が明けて保田はようやく社長の瀬戸に呼び出された。
こんな異常事態だというのに瀬戸は何も変わらず予定していた余暇を楽
しんできたらしい。これくらい肝の据わった人間でないと芸能プロダクショ
ンの重役はやっていけないのかもしれない。
「President room」と書かれた扉を開ける。
光が差し込んだことのない地下室のような薄暗い部屋だった。
電気もつけていないし、外の光は濃茶色のカーテンで遮られていた。
空気は白く濁っていた。
保田は入った途端、むせてしまい、咳を二度した。
瀬戸は自慢の髭に二、三度手で触れながら、ソファに座らずにじっと
立ち尽くす保田に向かってようやく口を開いた。
- 204 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時40分10秒
- 「なぜあんなことをしたんだ?」
「なぜ、と言いますと?」
少し悪意を持って保田は聞き返す。
瀬戸は何か粘着性のあるものを咀嚼しているようにモゴモゴと口を
動かす。自分の思い通りにならなかった時によくやる瀬戸の癖だ。
右の拳が固く握られているのが目に入った。
「ふざけるな。あれからテレビ局やら視聴者の抗議の電話の処置が大変
だったんだ。自分のしたことがどういう意味なのかわかっているのか?」
瀬戸は間違いなく怒っていた。
しかし保田は怯える様子は全くない。
脅しとばかりに鋭い視線を投げる瀬戸に対し、保田は小さく頭を下げた。
「勝手にあんなことを言ってしまったのは軽率でした。だけど、仕方なかっ
たんです」
「仕方ない? 何が仕方ない?」
「今までの卒業者はそれなりにこれからの道を与えてくれました。だけど
私には何もありません。このまま私は忘れ去られてしまうんじゃないか
なぁって気になったんです」
「それは――」
- 205 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時44分57秒
- 何か言おうとした瀬戸だが、続きは彼の口から出てこない。保田はその
続きをすぐに感じ取った。
「それは、お前が人気のない人間だから」――言わなかったのは瀬戸の
自分に対する思いやりなのだろうか。
保田はそういう風に一瞬でも思ってしまった自分に苦笑した。
そんなものがあるわけがない。
もしあるというのなら、こんな不仁義な脱退をさせないだろう。
これは保田のことは何一つ考えていない単なる無慈悲なリストラだ。
今まで、保田は同じ状況に追い込まれた人間を数人見てきた。
現在その者たちは誰一人としてモーニング娘。にいた時よりも幸福な道
を歩んでいない。
実力のない自分を嘆くべきなのか、実力をつけさせてくれなかった幹部
を憎むべきなのか。あるいは両方か。
- 206 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時45分53秒
- ともかく、卒業というイベントの向こうにある真っ暗な道を保田は卒業前
から誰よりも強く認識していた。
他の人間は一応の理由があった。
学業であったり、シンガーソングライターの勉強であったり、ソロ活動であ
ったり。しかし、保田は何もなかった。
それに卒業までのスパンは今までの誰よりも長かったのに、その半年
間かけた脱退までのシナリオは余りにも陳腐で、行き当たりばったりなも
のだった。
「女優になるつもりだと言え」と命令されたのは4月に入ってからだった。
しかもそれは保田自身の意志とは全く無関係の決定だった。
- 207 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時51分11秒
- 瀬戸は保田はこの不遇に対する抵抗をしたかったのだと思っていた。
瀬戸に限らず、大抵の人間ならそう思うだろう。瀬戸の心を読みきった
保田は微笑を浮かべる。
「別にいいんです。自分の立場はわかっているつもりですから。ともかく、
私はみんなに自分の存在を見せつけたかったんです」
「こんなマイナスイメージを見せつけて、面白いのか? 単なるピエロだぞ」
ケンカ口調の瀬戸に対しても、保田は仰け反ったりしない。
「マイナスイメージかどうかはわかりませんし……面白いとかそんなんじ
ゃないんです。頭が悪いんですよね、私。将来どうなるかわからないんな
ら、なんでもいいから何かしなくちゃいけないって考えたらこうなっちゃい
ました。一種の賭けですね。それに、どうせ何もしなくてもピエロなんだし」
- 208 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時54分00秒
- 瀬戸の眉がピクリと動いた。
「……じゃあ、自殺というのは狂言なんだな」
「はい」
保田は瀬戸の喉を潰したような低い声の確認に対し、迷うことなく頷いた。
瀬戸は表情を変えない。端から保田が本気で自殺するなんて考えていな
かったのだ。
それも保田にとっては予想通り。
「そうか。とりあえずはほっとしたよ」
口先だけはそう穏やかに言い、静かにタバコをくわえる。
瀬戸はヘビースモーカーだ。歌手は喉が大切だと知っているはずなの
に、ところ構わずタバコを吸う人間だ。保田たちを歌手として見ていない
何よりの証拠とも言える。
瀬戸はジッポのライターを開ける。強い油の匂いが保田の鼻孔を突き
刺した。
- 209 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時55分00秒
- 「これからどうしたらいいですかね、私?」
瀬戸が吐き出した紫煙は天井へと昇っていき、部屋全体に拡がっていく。
能天気すぎる保田の言葉が癇に障ったのか瀬戸は眉根を寄せ、軽く舌
打ちを鳴らす。
「どうって? それは俺が聞きたいよ。君はどうしたいんだね」
「社長の判断に任せます。『狂言でした』って言えと言うのなら、今すぐそう
します。5月5日まで引っ張れというのなら、黙っておきます。私としては黙
っていてほしいです。すぐ狂言って言っちゃうと私が馬鹿みたいですから
ね。それに黙ってたほうがいいことだってありますし」
保田は手を体の後ろに組んで、楽な姿勢で立っている。
社長は保田にとっては怖い人間だった。しかし、今の保田は少なくとも
対等な気持ちでいる。
瀬戸はそんな保田を苛立ちながら見下げた。
- 210 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時56分11秒
- 「何の得になる? 俺らはお前の尻拭いをしなければならないし、嘘を隠
しとおすのは大変な労力だ。そして、お前は嘘つきとして生きていかなけ
ればならないんだぞ」
「社長は私のことをそんな遠い先のことまで気にかけてくださるんですね」
保田の言葉にはありったけの皮肉がこめられていた。
しかし、その保田の気持ちを知ってか知らずか、瀬戸は「ああ」と何食わ
ぬ顔で返事をする。
保田は小さくため息を漏らす。立ち方を少し変えて、やや右半身側に重
心を傾けた。
「昨日、一昨日とライブがありました、広島で」
保田は言った。
「ああ、確かそうだったな。それが何だ?」
「当日券が凄い売れたらしいんですよ。私は具体的なデータは持っていな
いんでわからないですが、プロモーターの人がそう言っているのを耳にし
ました。多分、私があんなことを言ったからだと思うんです」
- 211 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時57分06秒
- 瀬戸はじっと保田を見つづける。タバコの灰がポトリと絨毯に落ちるの
も気づかずにいた。
「言いたいことは大体わかったよ。でもな、もうライブなんてほとんどない
んだぞ。今更やったところで――」
「社長」
保田は瀬戸の言葉を塞ぐようにして声をかけた。
「モーニングは良くも悪くも話題性で引っ張ってきたグループです。今回の
はただその延長線上に過ぎません。この話題を5月5日で終わってしまう
一過性のものにするのか、利用するのかは社長たち次第です」
瀬戸は言いくるめられた気がして、喉奥を鳴らした。
保田は暗にこのネタを利用しないのであれば、それは運営側の能力不
足と言わざるをえないと主張しているのだ。
瀬戸は保田がこれほど自分に刃向かう人間だとは思っていなかった。
- 212 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)20時58分05秒
- しかし、保田は今普通の状態ではない。
自殺する気はないにしろ、濁流を背にしながら相当な決意を秘めている。
そういう時の人間は強いことは身に染みて知っている。
瀬戸は保田のアイドルとはかけ離れた濁った瞳を直視した。
敵意と挑戦が見受けられた。
野心のためには何かを汚してでも突き抜けようとする強い感情だ。
何を敵と思っている?
何に挑もうとしている?
瀬戸は保田の中に潜む存在を探りはじめる。
静寂がしばらく流れた。
やがて、瀬戸は「面白い」と顔を歪め、下卑た笑い声をタバコの煙ととも
に振りまいた。
- 213 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時02分42秒
- 「わかった。とりあえず君が自殺する気なんてないということは隠してお
こう。他のメンバーには何て言ってるんだ?」
「本心を伝えてあります。冗談だよって笑い飛ばしてあります」
「そうか」
「理解してくださってありがとうございました。それでは、よろしくお願いし
ます」
保田は深々と頭を下げた。
そして、保田は社長の部屋を出た。
服や体にタバコの煙がこびりついていた。
瀬戸の吐いたものが肌や口の中に付着していると想像するだけで気
持ち悪い。
保田は自販機に向かった。
- 214 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時06分18秒
- その途中の廊下で、矢口が壁によしかかりながら突っ立っていた。
保田が歩いてくるのを確認すると、声をかけてきた。
「元気?」
「見てのとおり、ピンピンしてる」
どうやら待っていたようだ。
矢口は買ったばかりの缶コーヒーを保田に投げる。
保田は運動神経が鈍いせいか、上手く取れずに落とした。缶はガコンと
いう音とともに重々しく床を転がる。
「あ〜あ、落としちゃった」
「いきなり投げてこられても取れないわよ。反射神経無いんだから」
保田は転がっている缶コーヒーを取る。今、CMでよく流れている朝専用
のコーヒーだ。ラベルを見ながら保田は言う。
「何よ、もう昼すぎてるのに」
「そんなの関係ないじゃん。圭ちゃん味の違い分かんの?」
- 215 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時09分20秒
- 矢口は右脇に二冊の新聞らしきものを抱えていた。保田はプルタブを開
けながら、それに気づく。
コーヒーは生ぬるくて、甘ったるかった。
保田は舌から広がる不味さに顔をしかめながら、矢口に尋ねる。
「で、何でこんなところにいるわけ? 今日オフでしょ?」
保田の視線は矢口の顔ではなくその脇に行く。
「一緒に見ようと思って」
「何? レディコミ?」
「まさか。圭ちゃんとなんか見れないよ。生々しすぎて」
矢口は下らない冗談を笑い飛ばした。
- 216 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時13分10秒
- 二人は誰も居ない部屋に入った。
六畳程度の小さな部屋の中央にはテーブルと真新しい灰皿が置かれ
ている。部屋の角に大き目の鏡が備え付けられていて、矢口は自分の
小さな体全身が映ると、特に意味なくセクシーポーズをしていた。
「何やってんのよ」
保田は苦笑しながら、座布団を矢口の足下に出す。その上に矢口はド
カッと座り込んだ。
「鏡見ちゃうとキメポーズしたくなるんだよねー、オイラ」
そう言いながら、保田の飲みかけのコーヒーを手にとり、口をつけた。
「うわぁ、甘いね、これ。よく飲めるね、こんなの」
「あんたがくれたやつじゃない」
保田は呆れながら矢口から缶コーヒーを奪い取り、最後まで飲み干した。
矢口は新聞を自分の足下に置く。保田の顔をしばし眺めてから話しか
ける。
「ホント、思ったより元気そうだね」
「心配してたの?」
「そういうわけじゃないけど」
矢口は視線を下に落とした。保田も矢口の目線につられてその方向に
目が行く。
「とりあえずそれ見せてよ。私のことが書かれてるんでしょ?」
- 217 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時14分20秒
- 保田は矢口が買ってきた雑誌を見た。
二冊ともゴシップと女の裸が大好きな品のない三流新聞だ。芸能界入り
してから保田や矢口はこの手の雑誌は目にも入れない。ましてや買うこと
なんて考えられないことだった。
保田は何も言わず、自分のことが書かれている部分を見つづける。矢
口は何も言わずじっと保田の表情がどう変わるかを観察しようとした。
しかし、保田は感情を表情には出さなかった。
「面白くもなんともないね」
一読した後、保田は鼻で笑うようにして言った。
「そう?」
「うん、予想通りだった」
- 218 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時17分36秒
- 保田は会見などを開いていなかったので、全てが憶測に基づいて書
かれていた。
記事を要約するとどちらも「卒業させられる事務所への抗議」と「自殺は
狂言で、話題を作るためのもの」という内容のものだった。
矢口は一冊を自分の下に引き寄せ、もう十回くらいは見た記事に習慣
的に目を通し、雑誌を投げ飛ばすようにテーブルに置く。
「とりあえず話題十分ってことは確かだね」
「ほんとほんと。私にもこんな影響力があるとは思わなかった。それとも、
なっちや石川あたりならもっと凄いことになってたのかな」
「どうだろ? 卒業する圭ちゃんだったからこんなに大きくなるのかもしれ
ない。ほら、色々簡単に読み取れるじゃん。この雑誌みたいに、卒業に対
する抵抗だ、とか。まあ普通に考えれば分かるもんだけどね。こんな憶測
だけの記事でお金もらっているんだからいい商売だよね」
矢口は再び雑誌を取り、保田に見せながら言った。
「だといいんだけどね」
保田は大きく息を吐きながら、天井を見上げた。
壁と同じように少し黄ばんでいた。タバコのせいだろうか。
矢口はそんな保田を心配そうに見つめる。
- 219 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時18分40秒
- 「これからどうするの?」
保田は「どういう意味?」というような顔を矢口に向ける。
「会見とか開くの? メンバーにはもう説明はしないの? あれだけじゃ
多分、納得していない人はいると思うよ」
保田は瀬戸に言った通り、自殺宣言の直後、トイレから戻ってから安倍
や飯田に真相を求められた。すぐに狂言であることをモーニング娘。のメ
ンバーに説明した。
「な〜んだ」と安心する人、どっと緊張が抜けて涙する人、「変なウソ言わ
ないでよ」と怒りを露にする人、今後どうなるのか当人以上に不安になる
人など様々な表情が保田の目に映った。
その後、メンバー全員に口止めをお願いした。「話題を引っ張りたいから」
と説明すると、内心はわからないが皆一様に納得してくれた。
そう。内心はわからないのだ。「自殺」がウソではなくて、「自殺はしない」
というのがウソだと疑心暗鬼になっているメンバーもいるのかもしれない。
- 220 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時21分43秒
- 自殺宣言の翌日に行われた広島でのライブはどことなく殺伐としていた。
客からは保田に対してのブーイングと「死ぬな」という悲痛の叫びが入り
混じっていた。
メンバーやスタッフたちも一応の説明を受け、安心したとはいえ、やはり
いつもとは違う気持ちでステージに立っていただろう。
保田は「自殺宣言なんてしてませんよ」とでも主張しているかのように淡々
とルーチンワークのようなMCや歌をこなしていった。
ダンスも殆ど間違えることなく、十二分のパフォーマンスを客に披露して
みせた。
保田は真っ白な天井を見上げながら、そんな先日のことを思い返して
いた。そして矢口の問いに答える。
- 221 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時24分10秒
- 「とりあえずは……どうなっていく反応を楽しむ。先が見えなくってゾクゾク
するね。こんな感覚久しぶりだ」
「圭ちゃんって……マゾだね」
矢口は呆れ気味に言う。
「それよかさ、ヤグチ。ちゃんと作ってくれてるの?」
矢口は何のことか一瞬わからなかったのか呆けた顔を見せたが、すぐ
に大げさに「ああ……忘れてた」と反応する。
「忘れてたって……。ヤグチが言い出したんじゃん」
「あははは。ごめん忙しかったから忘れてた。でも何とかするよ」
「うん、お願いね」
保田と全く同じように、矢口は体を反らし、両腕を体の後方につけなが
ら、天井を見上げた。
目を閉じて、耳を澄ますととパタパタと部屋の前の廊下を走り去ってい
く足音が聞こえた。
- 222 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時27分45秒
- やけにこの空間がのんびりしているように感じられた。このまま目を閉
じてしまえば時間が止まるような気がした。
「ねえ、ヤグチ」
そんな時、保田は矢口のほうに目を向けずに呼びかけてきた。
「なーにー?」
矢口はその体勢のまま首のストレッチに入る。
「私たち、もう二十歳なんだから……」
「圭ちゃん、二十二じゃん。ドサクサ紛れに何サバよんでんのよ」
矢口はさっと保田に顔を向け苦笑する。
保田は少し照れた顔で矢口と、その前の真新しい、火サスなどではお
馴染みの頭を殴るのには打ってつけの透明な灰に目にやる。
「もう揚げ足取らないでよ。私たち、成人なんだからさ」
「うん」
「タバコ吸ってみない?」
矢口は「はぁ?」と口元を歪める。
- 223 名前:赤い草原 第3話 挑戦 投稿日:2003年06月13日(金)21時29分41秒
- 「今までは歌手だからっていうことで吸ってなかったけど、法律上はもう
何にも問題ないんだしさ」
「だからってオイラを巻き込まないでよ」
「別に巻き込む気はないよ。ヤグチが嫌ってんなら私一人で吸うからさ」
矢口は少し考え込んでから、
「いいよ、今度一緒に吸おっか」
と言った。見たところ矢口はあまり乗り気ではなさそうだった。
矢口は保田とは違い、正統派に近いアイドルだ。そして何より自分よ
りもずっと明るい未来がある。
そんな立場でありながら、保田にほとんど嫌な顔をせずに付き合ってく
れると言っている。
やっぱり矢口と同期でよかった、と矢口の顔とドラマ等の関係でここのと
ころ頻繁に色の変わっているストレートの髪の毛を見ながら思った。
- 224 名前:赤い草原 第3話 終 投稿日:2003年06月13日(金)21時31分43秒
- >>164-223
→第4話 電話
- 225 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時00分43秒
- 後藤はぱっと目が覚めた。
時計の短針は6を差していた。一瞬朝の6時なのか夜の6時なのかわか
らなかったので慌ててテレビをつけたら、めざましテレビの軽部アナウンサ
ーがいて、ほっとした。
今日は昼の2時に事務所に行けばいいという社長出勤だ。
なぜこんなに早く目が覚めてしまったのだろうと思いながらボサボサの
髪に触れる。タイマーは11時にセットしてあった。それを確認した後、もう
一度寝ようとベッドに横になる。
疲れがひどく残っていた。
足や手に枷がついているように重い。頭にも軽い痛みが走る。
少しでも寝ておきたかった。しかし、どうしてもこれ以上寝られなかった。
ベッドに横になり、目を閉じながら、後藤は昨日の訳の分からないイベン
トのことを思い返していた。
行ったことのないド田舎に飛ばされて、そのド田舎の名誉町民なんてい
う肩書きを持つ大物演歌歌手と一緒にマラソンをした。
簡単なコンサートの後、夜はその演歌歌手の接待が待っていた。できる
限りヨイショして、機嫌を損なわないように笑顔をふりまく。腰や肩に手を
かけられても嫌な顔一つせずに、微笑む。微笑む。微笑む。
- 226 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時01分18秒
- もう何年も行われていた行事だ。
毎年、数人のハロプロメンバーが娼婦のように駆り出されていた。しかし、
まさか自分にその低級な仕事がやってくるとは思いもよらなかった。
振り返れば振り返るほど怒りが込み上げてくる。
この屈辱感はきっとセクハラに悩むOLと同じだろう。何度、手にした銚子
を頭の上で逆さにしてやろうかと思ったかわからない。しかし、そんな怒り
は外には発散せずにそっと胃の中で消化した。
これが社会だ。
大人の世界には必ず裏がある。何かしらを得るためには色んなものを捨
て、媚を撒いておかなければならない。
後藤だって今まで同じようなことをして、ここまでの地位にたどり着いた。
怒りを押し込められる人間が勝者なのだ。
そんな思いと長年、モーニング娘。のエースとして引っ張ってきたプライ
ドが絡み合い、後藤の心を混乱させていく。
- 227 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時01分53秒
- 結局寝られなかった後藤は7時にベッドから起きた。
ダンスで鍛えている体ではあったが、どうやら走るための筋肉と踊るた
めの筋肉とは違うようだ。
体の節々が痛んだ。階段を降りるのが一番つらかった。
台所に行くと、母親が朝食の用意をしていた。後藤の姿を確認すると、
少し躊躇いつつも「おはよう」と声をかけてくる。
しかし、後藤はほとんど何も言わずに、椅子に腰掛け、テーブルの片隅
にあった新聞を手にとった。
いつもならテレビ欄と4コマ漫画に目を通すだけだったが、今日は特に意
味なく新聞をパラパラとめくっていった。4枚めくってから、下の広告に保田
の顔が載っているのを目にする。
「朝ごはんはどうする?」
その時、母親が聞いてきた。最初は作ってもらうつもりだったが、後藤は
思うところがあって「いらない」と首を横に振る。
「ちょっとでかけてくるね」
後藤は母親に告げ、スッピンのまま家を出た。
- 228 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時03分11秒
- コンビニまでは歩いて2分。いつも行くところなので、別に後藤が歩いて
いてもあまり騒がれない。
中に入るとレジにはよく見る顔の男性がいて、後藤は軽く会釈した。
向こうは軽く微笑んだだけで、声をかけたりはしない。そういう態度は後
藤を安心させた。
そのまま雑誌が並べられたコーナーに足を向ける。
いつもは見向きもしない女性誌を見て、一冊適当に取ってみた。
表紙の左側に「保田」の文字が載っていた。それを黄色の籠に入れ、
他の雑誌も取り、「保田」や「モー娘。」の文字が表紙に書いてあると迷わ
ず籠に入れた。
最後におにぎりを2つとカフェラッテを買い、家に戻る。
「ただいま」も「おかえり」もなく、後藤は自分の部屋に直行する。
部屋に鍵をかけ、ベッドに飛び込んだ。
薄いシーツに包まりながら、一度テレビの電源を入れ、適当にチャンネ
ルを変える。
興味のない番組しかやっていないこと確認すると、電源を消し、リモコン
を遠くに放り投げる。すぐに買ってきたばかりの雑誌を開く。
- 229 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時03分46秒
- 買った雑誌は3冊。
4種類ほどあった女性誌のうち保田のことが書かれてあったのは最初
に手に取った1冊のみだった。他の2冊は新聞。明日明後日と時が経てば、
どんどん増えていくのだろう。
シャケのおにぎりをくわえながら、後藤は雑誌に目を通した。
書いてあることの殆どは少しモーニング娘。のことを知っているのなら誰
でも書けそうな他愛もないものだった。「後藤」という文字もあったが、「後
藤、市井らとともにプッチモニを結成〜」など、導入部分だけだった。後藤
は少しほっとしながら、新聞を開く。
女の裸が載っているページの反対側に保田の顔とともに「売名行為」と
いう見出しが大きく載っていた。「この死を軽んずる行為が単なる話題を
売るためのものであるならば、倫理に著しく欠けるものであり、許されるべ
きことではない」という文で締めくくられていた。
何を高尚なライターを気取っているのだろう、と見下しながら後藤は読み
流した。
低俗な三流紙にしか雇われない能力の欠けた人間がこうも表面上は堅
苦しい文章を書くと妙に腹が立つ。
後藤は勢いでおにぎり三個を食べきり、横になった。今度はやけに素直
に眠れた。
- 230 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時04分28秒
- 何か大きな音が鳴り響き、目が覚めた。
最初は目覚まし時計だと本能的に思い、時計の頭をバンバン叩くが一
向に鳴り止まない。
しばらくして、鳴っているのは目覚まし時計ではなく、机の上に置いてあ
る携帯電話であることに気づいた。
眠気の抜けきれない表情で後藤は誰から来たのかも確認せずに電話
を取った。
「もしもし」
名前を言わなくても声だけで相手が誰かわかった。
「あ、圭ちゃん」
「その声……もしかして寝起き? もう一時だよ。仕事は? 休み?」
「ああ、うん。やっばー、遅刻するかも……」
軽いアクビを挟みながら、後藤は先ほどバンバン叩いた時計をちらりと
見る。
「あんたねえ、もうちょっと仕事に自覚持ちなさいよ」
「もう……また小言言ってるぅ……。久しぶりに喋ってるのに」
「後藤がしっかりしてないからよ」
「は〜い。で、今日は何?」
「……」
- 231 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時05分27秒
- 保田の反応はなかった。
後藤は器用に携帯電話を肩口に乗せ、着替えを始めようとする。
一向に口を開かない保田を不思議に思い、後藤は聞き直す。
「圭ちゃん? どうしたの?」
「知ってるんでしょ?」
えらく小声で言ったので何て言ったか聞き取れなかった。
聞き返すと保田は同じことを言った。特に声を大きくしたわけではなかっ
たが今度はきちんと聞き取れた。
「あぁ、圭ちゃんも大変だね、色々」
後藤は今ようやく何のことかわかったような感じで言う。
「後藤は何かあった?」
「ちょっとマスコミが来たけど。マラソンあったじゃん、日曜日。その時に少
し聞かれた」
「何て言ったの?」
「そんなことする人じゃないです、って言っておいた」
「……そっか。それで、本心はどうなの? 私、自殺すると思う?」
「何それ? 変な質問だね」
後藤はケタケタと乾いた声で笑う。
少し顔を青ざめながら「そうだね」と頷く保田に対し、後藤は少し間を置
いてから口を開いた。
- 232 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時06分13秒
- 保田の反応はなかった。
後藤は器用に携帯電話を肩口に乗せ、着替えを始めようとする。
一向に口を開かない保田を不思議に思い、後藤は聞き直す。
「圭ちゃん? どうしたの?」
「知ってるんでしょ?」
えらく小声で言ったので何て言ったか聞き取れなかった。
聞き返すと保田は同じことを言った。特に声を大きくしたわけではなかっ
たが今度はきちんと聞き取れた。
「あぁ、圭ちゃんも大変だね、色々」
後藤は今ようやく何のことかわかったような感じで言う。
「後藤は何かあった?」
「ちょっとマスコミが来たけど。マラソンあったじゃん、日曜日。その時に少
し聞かれた」
「何て言ったの?」
「そんなことする人じゃないです、って言っておいた」
「……そっか。それで、本心はどうなの? 私、自殺すると思う?」
「何それ? 変な質問だね」
後藤はケタケタと乾いた声で笑う。
少し顔を青ざめながら「そうだね」と頷く保田に対し、後藤は少し間を置
いてから口を開いた。
- 233 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時06分59秒
- 「するんじゃないの? って言ったらどうするの、圭ちゃん」
「……冷たいなぁって思う」
「じゃあ、そんなことする人じゃないと思うってことにしとく」
保田は苦笑した。何か最初に会った頃の後藤のような、掴みどころのな
いイメージが頭の中で浮かんできた。
しかし、あの時とも違う。
あの時の後藤は純粋な女の子だった。
今は純粋になんてなれるわけがない。
きっと後藤は打算的に本心を隠している。
もしくは、無意識的に本心を失っている。
「じゃあそろそろ切るね。マジ遅刻しそうなんだ」
後藤は手帳を開き、今日のスケジュールを再確認してから言った。
- 234 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時08分40秒
- 「ちょっと待って。最後にいい?」
保田が口を開いた。
「何?」
「半年前の約束、覚えてる?」
「半年前?」
「うん。後藤がモーニングを卒業したときのこと」
「約束……? したっけ?」
「やっぱ、忘れてる」
「なんだっけ? マジ忘れた」
「もうずーっと言ってることなのになぁ。思い出すまで電話切らないぞ」
「ちょっと待って。ヒントは?」
「ノーヒント」
「ケチー。急いでる……ってああ、わかった。しゃぶしゃぶだ」
「おお、偉い偉い。でさ、今度行かない?」
「今度っていつ?」
「5月4日とかどう? 後藤は名古屋だっけ?」
「圭ちゃんが自殺する日の前かぁ。え〜っと、名古屋は3日だし……。4日
の夜だよね。夜なら神戸にいる予定かな。圭ちゃんは、ラストの前日だし
さいたまだよね」
「じゃあちょっと無理?」
「う〜ん、別に前日に神戸入りしなくても何とかなりそうだし。わかった圭
ちゃんの為だ。東京に一回帰るよ」
「できる? じゃあ決定で」
「うん」
「それじゃ、また電話するね」
「はーい。あ、圭ちゃん。私からも一言」
- 235 名前:赤い草原 第4話 電話 投稿日:2003年06月16日(月)23時09分12秒
- 今度は後藤が保田を呼び止めた。
その時、開けた引出しに百均で売っ
ているような半透明の小袋に入っている黄色と赤の錠剤型のサプリメ
ントを発見する。
袋を開けて、計二粒を空いている手で取った。
「何? 場所とかなら後で――」
「ううん、そうじゃなくって、『ありがとう』って言いたくて」
「どういう意味?」
「無理して壊れてくれてありがとう」
手に取ったサプリメントを口に含む。水も使わずに二、三回ボリボリと砕
いてから飲み込んだ。
後藤はフフフと笑みを浮かべながら携帯の電源を切った。
軽く化粧を済ませ、使い古したヒスのトートバッグに適当な化粧品、財布、
携帯などを入れ、家を出た。
そしてまた何も変わらない一日が始まった。
- 236 名前:赤い草原 第4話 投稿日:2003年06月16日(月)23時10分18秒
- 重複ごめん
>>164-235
→第5話 謝罪
- 237 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時16分26秒
- 第5話 謝罪
水曜日。
家に帰り、保田は焼酎にするかワインにするか悩んだ挙句、ワインを選んだ。
戸棚に入っている赤ワインは特に高級ではないが、色がすごく綺麗で、光
に透かしてみると、赤紫色の液体が毒々しく揺らめきながら、煌いていた。
一杯をまず飲み干したあと、バッグから今日事務所から受け取った葉書や
FAXを取り出した。
苦情から応援まで様々な意見が書かれてあった。
それらはどれも保田の不遇な卒業という立場の上でしか述べられていない。
保田は「浅いなぁ……」と一人の部屋で葉書に向かって呟いた。
パラパラとめくっていくうちに、「自殺志願者」からのFAXが目に止まる。
- 238 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時25分31秒
- 『ぼくは小学校6年の男子です。
保田さんの「自殺宣言」を見ました。
ぼくはモーニング娘のことはよくわからなかったのですが、自殺宣言した
あと、週間誌とかを読みあさりました。
保田さんもつらかったんですね。歌が好きなのに歌わせてもらえず、い
つも嫌われて、それで保田さんの意志と関係なく止めさせられちゃうんで
すよね。
すごくかわいそうだと思いました。
自殺宣言はすっごくかっこよかったです。
見たとき、みとれてしまいました。
実はぼくはずっと自殺したいと思っていたんです。
クラスの男子にずっといじめられてました。
シャーペンをモモに突き指されたり、つめを強引にはがされたり、ずっ
とつらい思いをしてきました。
いじめはどんどんエスカレートしていって、男子だけじゃなくて女子もいじ
めるようになりました。
ちょっぴり好きだった女の子にも、声さえかけてもらえなくなりました。
そんな日々が続いたいたんですけど、この前、久しぶりに声をかけられ
たんです。「元気?」って。
すごくうれしかったんです。でも次にそいつは言いました。万引きしろ、
そしたらシカトは止めるって。
- 239 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時26分43秒
- ぼくはこわくって何度も断りました。でも結局はおどしに負けちゃって万
引きしてしまいました。
本屋でエッチな本をぬすみました。
だけど、ぼくは足がおそいのですぐつかまりました。
親が飛んできました。めちゃくちゃどなられました。
ぼくは「万引きしろって命令されたんだ」って何度も言おうとしましたが、
言えませんでした。
怖かったんです。きっと告げ口したら、もっとすごいイジメをされるはずだ
からです。
それから親もお兄ちゃんもぼくをきらうようになりました。誰もぼくを守って
くれる人はもういなくなりました。
- 240 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時27分20秒
- 何度も死のうと思いました。今も思っています。線路を見ると、飛び込みな
くなるし、5階の窓から空を見ると飛びたくなります。彫こく等を見ると自分の
心臓をえぐりたくなります。
だけどできません。勇気がないんです。ぼくは死ぬ勇気さえない最低の人
間なんです。
でも、保田さんが宣言通り、死んでくれたら、ぼくも死ねるような気がしま
す。保田さんはぼくに勇気をくれるんです。
5月5日を楽しみにしています。ぼくも貯金全部使ってでもコンサートに行
こうと思います。それで帰りの電車に飛び込もうと思います。
がんばってください』
- 241 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時28分36秒
- 汚い字体、誤字もいくつかあって、読みにくかったというのが第一の感想。
その後も自殺志願者のFAX及び葉書が二、三枚続けてあった。
おそらく瀬戸はこのFAXを見せたかったのだろう。「自殺はしない」と早く言
えとでも言いたいのだろう。
保田はワインに口をつけた。そして、持ってきた葉書たちを全てゴミ箱に
投げ捨てた。
明日、会長である山アの指示で、保田は謝罪会見をすることになった。
今日、命令された。
その場で保田は「本心」を伝えることになっている。
別にワインを飲みたくなったのはこのことに対する怒りではない。お酒を
飲むのは最近の日課だ。
保田は瀬戸に呼び出されたときはかわしたが、遅かれ早かれこうなるこ
とを予想していた。
- 242 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時29分53秒
- この数日間、次々と批判が向けられていた。
その対象は保田でもモーニング娘。でもなく保田の所属するUFAだった。
自殺宣言なんてさせてしまった、事務所の管理能力のなさに対する批判だ。
一方の保田に対しては「勝手に死ねよ」というような無責任な意見より、同
情票のほうが多く集まっていた。
マスコミもそうだった。無責任なことを記事にして、本当に死なれたら後味
が悪いとでも思っているのだろう。
それよりも、弱小にしては名が知られすぎている事務所を叩いたほうがリ
スクも少ないし、世間も飛びついてくれる。
そんな打算が容易に読める記事が無意味に並んだ。
こんな予想以上の自分たちへの批判を受けて、山アたちは急いで撤回
会見をすることに決めた。
能力不足で辞めることになっている保田なんかに事務所の地位を下げ
られてはたまらないといったところだろう。
適当に謝罪して、あとは話題が沈下するのを待って、チョンと首切り。
事務所にはもっとも傷がつかない安全な処置だ。
- 243 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時30分37秒
- 余波は他にもある。
「徹子の部屋」に明日収録予定だったのだがキャンセルされた。
保田の代わりに中澤が出ることになった。
雑誌のインタビューもいくつか取りやめになった。
もう収録済みだった番組も一つ、他の内容に切り替えられたと聞かされた。
そんなことに対し、特に怒りはない。
程度の差はあれ、どれもこれも予想の範疇だったからだ。
むしろ、すぐに狂言だと謝罪させなかった事務所を馬鹿だと密かに罵っ
ていた。
- 244 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時31分43秒
- ワインを小さ目のグラスで5杯ほど飲んで、ホロ酔い気分でテレビを見て
いると、携帯電話が鳴った。登録していない番号からだった。
出てみると意外な知り合いの声が聞こえてきた。
「おお、久しぶりー、元気?」
保田はアルコールの影響もあって気分は上々だった。
電話の向こうの女は、少し訝しげな口調で簡単に用件を伝える。
「明日は……大丈夫ってことはないけど、会見開くんだ。そう、嘘でしたーっ
ていう謝罪。その後少しなら時間取れるよ。そうだなぁ、9時ごろで。あ、夜
のね。うん。じゃあ天王洲の昔よく行ってた喫茶店……は、最近行ってな
いけど、まだあるかなぁ……。うん、じゃあそこで。なかったら、また適当な
ところで」
電話を切るなり、携帯電話を充電器に差し、ベッドに潜る。
真っ黒な前髪をかきあげながら、明日もいっぱい楽しもうと上機嫌のま
ま眠りについた。
- 245 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時33分07秒
- ◇◇
翌日に行われた会見で保田は謝罪した。
規模としては中澤の脱退会見よりずっと小さいものだった。
昔と今では状況が違うとはいえ、それだけではなくて、保田自身の人気
のせいというのもあるのだろう。
分かっていたこととはいえ、少し複雑な気持ちだった。
会見は10分間。
先に保田が世間を騒がせたことを謝り、「自殺宣言はウソでした」とはっ
きり言った。
その後、芸能記者たちの質問が続いたが、宣言をした時の自分がいか
にテンパっていたかを強調して、交わした。
会見に参加した記者たちの何人かは新たな展開を望んでいたようだっ
たが、どうやらこのまま事態を無理やりにでも沈静化させようとしている様
相を察すると、口では「よかった」と言いながらも、残念そうな顔色をして
いた。
「卒業までモーニング娘。として頑張ります。そして、その後はソロとして
頑張ります。よろしくお願いします。本当に申し訳ありませんでした」
定型句のようなセリフを言い、保田は深々と頭を下げた。
断続して起こるフラッシュに対し、目一杯微笑んで見せた。
- 246 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時34分21秒
- それでも、卒業に関する数件の取材や番組はキャンセルされた。
瀬戸の表情はまるで心の折れた少女に接するように穏やかであったが、
その裏はマイナスイメージにしかならなかった今回の件に対し、激しい憤
りがあることを、タバコを吸う回数が増えたり、口をモゴモゴと動かすとい
った些細な仕草から読み取っていた。
今日の仕事はそれで終わりだった。
一度家に帰って昼寝をしてから、目が覚めたのは6時。
もう昼のワイドショーは終わっている。しかしどういう風に捉えられたか
興味があった保田は一番組を録画していた。
30分ほど早送りしてようやく自分の話題になった。
記者会見の様子は2分あるかないかだった。
その後、スタジオにカメラが切り替わり、一人のコメントが「まずはほっと
した」と開口一番に言い、保田に対し、応援と労いの言葉をかけていた。
そして、それに同調する周りのものたちが後に続いた。
保田の話題は5分ぐらいで終わった。
保田はリモコンを手にとり、停止ボタンを押す。目を閉じて、ベッドに横に
なった。
- 247 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時36分36秒
- ◇◇
電車の中、保田は時計を見た。
もう9時を20分も過ぎている。待ち合わせは9時ちょうど。
遅れてしまったのは、あのまま再び眠ってしまったからだ。
時間に厳しいほうの保田は少し焦り気味に、謝罪の電話を入れ、支度
をはじめた。
コンタクトを入れるのが面倒臭くなって眼鏡を手に取った。
到着したのは9時40分をすぎていた。
店内に入ると待ち合わせの女が入り口を背にして座っているのがすぐ
目に入った。
「カラン」という鐘が鳴っても、店員が「いらっしゃいませ」と言っても、女
は振り向かず静止している。
保田はすぐに近づき、背中からポンと肩を叩いた。
直立していた相手はビクッと肩を震わせながら、保田を振り返る。
- 248 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時37分59秒
- 「お久しぶり。遅れてごめんね」
保田は口を半分開きながらのウィンクをした。メンバーならばそのあと、
「ゔぇ〜」というお決まりのアクションが出る。
しかし、女はそんな表情はしない。
強張らせていた顔を少しだけ弛緩させていた。
「ううん。色々忙しかったんでしょ?」
保田は「まあね」と嘘をついた。
やってくる店員に向かってすぐにコーヒーを頼む。
茶色のハンドバッグを隣の椅子に置き、「よっこいしょ」と言いながら、椅
子に腰掛けた。
そして、正面から女を見る。
- 249 名前:赤い草原 第5話 謝罪 投稿日:2003年06月18日(水)20時40分10秒
- 大人っぽくなったな、と保田は思った。同時にケバくなったとも思った。
キャメルアッシュに染めたストレートの髪の毛は、随分長く、先端は腰
近くまで伸びている。
艶はあるが、それも自然的なものではない。
保田より3つほど下のはずだが、あまりその差は感じられない。
人を衰弱させる要素は肉体的疲労より精神的疲労のほうが何倍も大き
いのだとつくづく思った。
目の前に置かれた水に軽く口をつけながら、保田は口を開く。
「最近がんばってるみたいね」
「うん、今度新曲出るし、CMも決まったし……そこそこ忙しいよ」
女――市井紗耶香はか細い声で言った。
- 250 名前:赤い草原 第5話 投稿日:2003年06月18日(水)20時41分37秒
- 次は多分金曜。
>>164-249
→第6話 共有
- 251 名前:名無し読者 投稿日:2003年06月18日(水)22時36分52秒
- オモシロイ
- 252 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時03分31秒
- 第6話 共有
市井は保田が「自殺宣言」をしたことを知ったのは次の日のことだった。
市井は音楽番組を見ない。
特にハロプロ系の人間が出ている時は絶対に。だから、宣言をした番
組を市井が見ているはずがなかった。
2000年5月にモーニング娘。を「惜しまれながら」辞め、2001年8月にソロ
活動での復帰を宣言。11月にフォークソングを同じく元モーニング娘。で
ある中澤裕子と連名でアルバムを発売。そして、2002年4月にたいせープ
ロデュースの下、「市井紗耶香in CUBIC-CROSS」として、CDデビュー。同
ユニット名でシングル3枚、アルバム1枚を出して、今に至る。
ファーストアルバムを11月に出してから、仕事は激減していた。
ライブの客入りは悪く、ツアーを組むのも難しくなった。
4thシングルは延期につぐ延期。
ようやく今度の5/1に発売されることに決まり、今はその関係と、単発の
ゲームのイメージキャラクターの仕事がやってきてそこそこ忙しいが、そ
れも実力というより殆ど温情のようなもので、この期間が終わればどうな
るかは全くの闇の中。
精神的に疲労が蓄積するのも当然のことだった。
- 253 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時04分47秒
- 保田のコメントは人づてに聞いた。
保田はモーニング娘。時代は仲が良かった。
同期かつ同郷ということで、年齢差はあれど、よく一緒に遊んだりした。
同じユニットにも入り、その結束はより強くなっていった。
しかし、市井が辞めてから連絡は殆ど取らなくなった。
忙しいだろうから――という保田に対する配慮もあったが、それだけで
はない。
今もモーニング娘。に居続ける保田に対する気持ちは嫉妬しかなか
った。思い出に縋りつくことはひどく滑稽で惨めなように思えた。
だから、7月31日に保田がモーニング娘。を辞める(辞めさせられる)と
聞いた時、少し嬉しかった。そして、同時に嬉しいと思った自分を蔑んだ。
その後も電話をかけることはしなかった。何を言っても、自分が惨めに
なるだけのような気がしたからだ。
- 254 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時07分52秒
- 今回の保田の「自殺宣言」は市井にとって、大きな出来事だった。
証拠に、ずっと憚っていた電話を市井はついに取ったのだから。
何を言えばいいのかわからない。
しかし、異様に保田に会いたくなっていった。
その理由を市井自身はわかっていた。
市井はこの1年、幾度となく思っていたことがある。
家族にも身近な友人にも相談できなかったこと。
――死にたい。
現状の不遇や、自分の愚かさ、惨めさが積もり積もった結果、市井は死
を意識するようになった。
が、実際に行動することはなかった。
追い詰められてはいても、死を具体的なものにする決定的な因子はな
かったのだ。
しかし、保田は易々と「死」を自らの口で形作った。
宣言するということは余程の苦痛があったのだろう。そして、よほどの決
意だったのだろう。
保田がどれだけ苦しんでいるかはわからない。
しかし、この時市井には同調のような意識が働いた。
自分が保田に対する一番の理解者だと市井は思い込んだ。
- 255 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時08分46秒
- と言っても「大変だけど生きていこうよ」なんて保田を説得しようとする
つもりもなかった。もちろん「一緒に死のうよ」という積極的な思いもない。
ただ市井はモーニング娘。時代と同じことしようと思っていた。
二人は「ブレイク」が一番遅かった。
モーニング娘。はグループ全体で売れていく過程の中で、個人単位で
もフィーチャリングしていったグループだ。
中澤のソロに始まり、タンポポというユニットが作られ、石黒飯田矢口が
光を浴びることになった。
途中、保田と市井は完全に取り残された。
二人の結束が強まったのはそんな時代だった。つまり二人は弱者とし
ての程度の低い価値観を共有した。
市井は今の保田にその時に近い様子を感じ取っていたのだ。
保田は爪弾きにされた弱者で、きっと現モーニング娘。メンバーには
分かりはしない価値観。分かるのは自分だけ。
自分に何ができるかなんて、善人ぶるつもりなんて毛頭ない。
ただ、「死にたい」気持ちを共有するだけ。
そんなことをしても何も生まれないだろう。
でもそれでもいい。
前進も後退もいらない。
ただ共有するという感覚だけ得られれば、それでいい。
- 256 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時10分52秒
- 保田は真っ黒な髪に少しパーマをかけていた。
淵なし眼鏡の奥にある吊り上った目からは、死を考えた人間とは思えな
いほどの強い光が感じられた。
市井は一気に緊張を抱く。やはり5年以上もテレビに出つづけた人間
だ。人とは違う強い何かを持っている。
過去のよく知る保田と今目の前にいる保田を重ね合わせ、イマイチ符合
しないことに焦りを覚えた。覚悟はあったはずなのに一気に緊張が訪れる。
保田が水を飲むのに合わせて、市井はコーヒーの最後の一口を飲んだ。
茶色いコーヒーのカスがカップの底にこびりついている。
保田の市井を見てからの第一声はえらくフレンドリーだった。それが逆
に怖いと市井は思った。
- 257 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時11分59秒
- 表面上で久しぶりの再会を喜びながら、市井は心の中では今日の保田
の会見を思い返していた。
保田は、はっきり死ぬ気はないと言った。
市井は大きく失望したが、その一方で疑問も残っていた。
なぜ、あっさり手のひらを返したのかだ。そして、その結論も容易に導か
れていた。
言ったんじゃなくて「言わされた」ということ。
ああいう場では本人の意志なんて無視される。それは市井も痛いほどよ
く味わっている。だからこそ、今本心を聞き出そうとしていた。「死にたいよ」
と自分の前で本心を言ってくれる保田を期待していた。
- 258 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時12分52秒
- 「で、今日はどうしたの?」
保田は呼び出しておいて、口を開こうとしない市井に少し痺れを切らした
ように話し掛けた。
「ううん。いや、圭ちゃんも大変だなぁって」
「まあね。今日も会見あってさ。見た?」
市井は目を逸らし気味に頷いた。
「自殺宣言……撤回したんだね」
「聞いてよ。それがさぁ、記者の数が少ないんだよ。もっと集まるかと思っ
たのに。やんなっちゃう」
保田は愚痴っぽく口を尖らせながら言い、一度背もたれによしかかるよ
うにして背筋を伸ばした。
「で、どうなの? 実際のところ?」
市井は窺うようにチラリと保田の顔を見ながら、コーヒーに口をつけよう
とした。しかし、コーヒーはもうなくなっていた。
- 259 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時16分07秒
- 「実際って?」
保田はわかっていて敢えて聞き返す。
「死ぬ気だったの? ホントに?」
市井の心臓の鼓動が一段階加速度を上げた。対し、保田は顔色一つ
変えず氷の彫像のように冷ややかに市井を見下ろしている――ように市
井には見え始める。
ここまで保田は強かったかと過去を少し引っ張り出した。そして、過去を
振り返っても仕方ないことに気づく。
保田は強くなったのだ。
市井の知っている保田ではない。そんな認識が思考を埋めようとする。
その一方でそうじゃないとかき消す。
もし認識通りだとしたら、保田に会った意味がなくなるという防衛意識だ。
「圭ちゃんは弱いんだ」と半ば強引に思い込もうとする。
- 260 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時16分50秒
- 「んなワケないじゃん、何言ってんのよ、紗耶香」
保田は鼻で笑いながらあっけらかんとした口調で言った。
「ホント?」
「あ、もしかして心配させちゃった? ごめんね。あれは単なる話題性。ほ
ら、今、ASAYANみたいな番組もないし、紗耶香の時みたいに卒業するっ
てあんまり広まってないみたいだったから、ちょっと波を立ててみようって
悪戯心で言っただけ。思ったより影響強くて、今日謝罪までしちゃったけ
どね」
保田の重たいものを全て吹き飛ばしてしまいそうな聡明な声が市井に
は逆に重く圧し掛かる。
市井は表情を変えないではいるものの、心中の動揺は隠せない。
コーヒーを飲んだばかりなのに喉がやけに水分を欲した。
市井は保田の言葉自体よりも、表情に陰りが全く見当たらないことに戸
惑っていた。
違うよ、圭ちゃん。私の前では少しぐらい本心を見せてくれたっていい
んだよ――そう目で訴えても、保田は笑顔で弾け飛ばす。
- 261 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時17分50秒
- 将来を約束されたような余裕という包容力が、場に窮する市井を禍々し
く包み込む。
保田は自分を本心さえ打ち明けられないほどのどうでもいい存在に成り
下がったのか、それとも本心で死ぬ気なんてないのか、市井にはわかり
かねはじめる。
「死にたいって思ったことは……全くない?」
保田は眼前で手を振りながら苦笑する。
「ないない。そりゃあこれからどうなるか不安だけどね、それも自分次第だ
と思ってる。週刊誌に書かれてるみたいに、事務所に対して、悔しいって
思う気持ちもあるけど、でも、やっぱりここまでの私にさせてくれたのも事
務所だしさ、むしろ感謝してるよ」
「自分次第……」
市井はあてつけられた気がした。保田の顔を見ることさえつらくなりはじ
めた。
口では「不安」と言ってはいるが、表情からそんな様子は窺い知ることは
できなかった。
もしかしたら、今後、何かしらの地位が約束されているのかもしれない。
自分よりずっと未来は明るいのかもしれない。
- 262 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時18分53秒
- 市井は自分の居場所がなくなった気がして、落ち着いていられなくなる。
市井の求めていた保田はもういない。
会話中、そんな結論がすでに固まっていった。それはつまり「共有」は不
可能であるということ。
保田のペースダウンのおかげで、追いついたのだと思っていたが、実は
保田は市井よりもすでに一周も二周も多く周っていたのだ。
冷静に考えれば、向こう見ずに突っ走ってきた保田に一年半もの間、何
も努力しないで生きていた市井が勝てるはずがない。足の速さが同じウサ
ギとカメ。当然ウサギは市井、カメは保田。
それなのに市井が保田に同等だとみなしてまったのは、保田という人物
の認識不足と市井自身の驕りだろう。
市井は場違いな自分を呪いながら、保田に目をやった。
「ホント、ごめんね、色々。でも保田圭はこれからも頑張ります!」
やけに力をこめながら、保田は口先から舌を出すという無邪気な悪戯っ
子のような――二十歳をとうに過ぎた保田にはおよそ似つかわしくない仕
草をした。
- 263 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時20分39秒
- 「そっか、それならよかった」
市井はそんな保田に急き立てられるようにして笑顔を作った。
じゃあ安心したし帰るね――そう言おうとしたとき、保田の頼んだコーヒ
ーがやってきた。
逃げ去る機会を逸し、市井は眉をひそめ、下唇を噛む。
心の置き場を失い右往左往している市井に対し、保田はドカッと椅子に
腰を据えながら「しかしねぇ」としみじみとした口調で市井に話し掛ける。
「紗耶香から連絡がかかってきたとき、私ホント嬉しかったよ。久しぶりだ
よねぇ、こういうの」
保田はシュティックシュガーを一本丸々コーヒーに入れて、ソーサーに
置かれていた少し金光りするスプーンでまわす。
「うん……」
「もうずっとこうやってプライベートで会うことはなかったもんなぁ。番組で、
二回……いや三回か……会ったぐらいだもんね」
「そうだね」
「紗耶香が辞めてから、色々あったよねぇ。お互い知らないことを一杯経
験してきてるんだろうなぁ」
「……そうだね」
- 264 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時22分02秒
- 保田は頷くしかできない市井をまっすぐ見ようとする。しかし、市井は保
田を直視できない。
空いたグラスや保田の奥にいるカップルや窓から見える景色に慌しく
目が動く。
「そうだ、紗耶香。昔『私たちはずっとライバルだね』って言ったこと覚え
てる?」
「いや……」
覚えていない、と首を傾けながらも、市井はすぐに思い出していた。
タンポポオーディションが終わったときだ。悔し涙を隠すことなく市井の
ほうからそう言った。
「タンポポのオーディションでヤグチに決まってすぐだよ。私まだ覚えてる
んだ。あの時はホント悔しかったなぁ」
「ふーん」
市井は気の無い返事で答える。
手のひらに汗を感じ、椅子にこすりつけた。
なぜこんなどうでもいい昔話を持ち出したのか、戸惑う市井をよそに保
田は温かな眼差しで市井の心を引き寄せる。
「私ね、今でもそう思ってるよ。紗耶香はいいライバルだから、負けないよ
うに頑張りたいってね」
- 265 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時24分26秒
- 市井は思いもよらない言葉に驚く。
まさか保田がまだ市井を対等に見ているとは、直前の言動からは考えら
れないことだった。
保田と久しぶりに目を合わせる。
そこには市井の知っている保田がいた。
眼鏡の奥の目は思慮深さを示す柔らかな光を蓄えている。
少なくとも市井にはそう見えた。
「圭ちゃん……」
そして、今日はじめて市井に自然な笑顔が出る。
久しぶりの「共有」が生まれた瞬間だった。
当初の予定とは違ったが、それは遠い過去から現在へと飛び越えた末
に出来たかけがえのない「共有」だった。
もうお互いの立場は違う。
だけど、二人はあのときとずっと変わらないまま繋がっている。弱者とい
う愚かな絆。市井は愚かだと罵られようがかまわない。
そんな市井のささやかな幸福をしかと見届けた保田は心の中で嘲笑い
ながら、突き落とす。
釣り針に食いついた魚に対し、ゆっくりとリールを巻くように。
- 266 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時28分54秒
- 保田は「でもね」と言ったあと、顎を突き出すようにして口を開いた。
「同時に紗耶香のこと、かわいそうとも思ってる」
「……?」
市井は何を言ったのかわからずきょとんとした顔に変わる。いや、保田の
言った言葉ははっきりとわかったのだが、脳が理解をしてくれないのだ。
市井は保田を見た。
保田には温もりの影が残っている。
しかし、それは市井が勝手にイメージした妄執とした残影に過ぎなかった。
「紗耶香はね、かわいそうだなあって。ああいう風にはなりたくないって」
「え……?」
薄く縁取られただけの脆い幻想が消えはじめる。暖色系の照明やス
テンドグラス、店の角に吊るされた千羽ガラスや魚のオブジェ。
そんな現実の色彩が一気に殺がれ、保田の目の黒色がどこまでも深く市
井を突き刺す。
それはもっとも市井が恐れていたもの――同情、憐れみ、嘲笑。
- 267 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時30分04秒
- 市井は喉を締め付けられるような感覚に襲われ、何も言えなくなった。
目はお互いを見つづける。
外さなかったのではなくて呪縛の魔法をかけられたように外すことができ
なかった。
保田は唇を少し歪める。
「歌の上手さとか踊りの上手さとか、ルックスとか性格とかアイドル性とか、
そんな要素を足してみたら私たちはそんなに変わらないと思う。だけど、
私はね、紗耶香のことかわいそうって思う」
「そ……そんなこと……」
そんなこと言わないで、と市井は心の中で叫んだ。
しかし、保田はどんどん市井の一番弱い部分に汚い土足で上がってくる。
- 268 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時31分56秒
- 「かわいそう。紗耶香、ホント疲れてるみたいね。忙しいからじゃなくて、忙
しくないから疲れてる。なんか老けて見えるよ。かわいそう……。私はこんな
風には絶対ならない。絶対にね」
市井の顔色が真っ青になった。
何も言い返せない。
絶叫して保田に飛びかかる勇気すら持てない。
保田は市井の縋りつこうとする心理を見越していた。そして、わざと持ち
上げ、突き落としたのだ。
「私は……私は……」
うなだれる市井に対し、保田はのそっと立ち上がった。伝票を掴みなが
ら、「私が奢るね」と言った。
市井はずっと保田が飲んでいたコーヒーカップを見つめる。まだわずか
にコーヒーが残っていた。
- 269 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時33分38秒
- 呼吸することさえ苦しみに思えてきた。
顔から血の気が失せ、唇が冷えていく。
保田に対する恐怖感と、保田にさえも捨てられたという孤独感と挫折感が押し寄せる。このような負の感覚はどこまでも深い。
市井は光が届かないくらいまでとことん落ちた谷の、そのまたさらに奥深
くへと迷い込んでいく。
そんな時、保田は市井の背後から「紗耶香」と呼びかけた。
反応しない市井に対し、2度ほど名前を呼び続けた。
市井はゆっくりと振り返った。しかし、保田をまともに見ることを本能的
に拒絶した。顔さえも見れずに、保田の喉元に焦点が定まる。
その喉が動くのが見えたと同時に、頭の中に保田の声が鳴り響いた。
「私はね、紗耶香以外にもかわいそうって思う人間知ってるよ」
「……?」
「その子はね、私たちより、若いし、ルックスもいいし、アイドル性もあるし、
踊りも上手いし、有名で売れてる子。だけど、私はその子のことをかわいそ
うって思うんだ」
- 270 名前:赤い草原 第6話 共有 投稿日:2003年06月21日(土)08時35分57秒
- 市井はおそるおそる視線を上げた。
口元のホクロが見えたところで止まる。ナチュラルなルージュを引いた
唇が不自然につり上がっている。
市井は「誰?」と口を動かした。
「その子、壊れちゃってるんだよね、ずっとずっと」
吐き捨てるように言い残したあと、保田は背を向けた。
市井は一人の人間の像を結びながら驚いて立ち上がった。
しかし、声をかけることはできずに、保田が去っていくのを呆然と見送った。
- 271 名前:赤い草原 第6話 終 投稿日:2003年06月21日(土)08時38分20秒
- >>251 アリガトウ
>>164-270
→第7話 三人
- 272 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時16分36秒
- 第7話 三人
4月27日。福岡の昼の公演も無事終わった。
客の入りはかなり悪かった。スタンドには人が殆どいなかった。
前にも行ったことがある会場で、その時は会場の隅から隅まで埋まって
いたのだから、キャパが大きすぎたというわけではない。
モーニング娘。の人気がかなり落ちていることを改めて実感した。
矢口は保田に愚痴をこぼすように話しかける。
「今日人少ないねぇ」
「なんか責任感じるわ〜。私の卒業じゃあ……」
保田は肩で息をついた。
「大丈夫ですって。さいたまじゃ埋まりますよ〜」
そんな二人の会話に、隣にいた石川が笑顔で割り込んできた。石川は
二人が喋っているとき、なぜかよく近くにいる。
矢口と保田は顔を見合わせた。
- 273 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時18分44秒
- 「そうだね。とにかく、夜公演も頑張ろう」
「はい! あ、ちょっと髪型直してきま〜す」
飛び跳ねるようにして去っていく石川を見送りながら、矢口はぼそりと
呟く。
「元気だね。あの子にはずっとポジティブでいてほしいね」
「なんかお母さんみたいな言い方だね」
保田は苦笑した。
- 274 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時19分41秒
- 夜公演は昼公演よりもさらに悲惨なものとなった。
他のメンバーも口にはしないものの、皆それぞれ胸に期するところがあ
ったようで、コンサートが終わった後の表情はいつもより晴れやかではな
かった。
保田が卒業することへの悲しみももちろんあるが、それよりも、この客数
の現状を嘆いているということのほうが大きいのだろう。
公演の後、ラジオの仕事がある矢口を除いた11人で食事をした。「ごっ
つぁんの時もやったねぇ」と誰かが言うと、安倍が「なんでなっちを呼ば
なかったのさ」と今更ながら怒り出した。
去年の夏、長崎で安倍を除くお姉さんチームで「後藤真希地方遠征最後
おつかれ食事会」を開いたのだ。後で、そんな会があったことを知った安倍
は暫くは会うたびに頬を膨らませていた。
今もなお過敏に反応するところを見ると、安倍はまだ根に持っている
ようだ。
この場にいない矢口を除くメンバー全員が今日の悲惨さについて言及す
ることはなかった。
- 275 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時20分52秒
- 保田や安倍、飯田は結成当初に体験したことがある安倍や飯田、保田
でもショックだったのだから、加入当初から席が埋まるライブしか知らない
4期以降のメンバーにとってはその大きさは計り知れないだろう。
暗黙のうちに今日の客の入りのことは禁句になっていた。
禁句を抱えているという事実は無意識に笑い声を重く感じさせた。
「とにかく、来週は圭ちゃん卒業だから。一層気合入れましょう」
そんな場の空気を敏感に感じ取ったのか、飯田がリーダーらしきことを
言うと、いの一番に石川が反応して、
「がんばりましょう!」
と高い声で言った。
続けて「うん」とか「はい」という声があちらこちらから飛んだ。
「がんばりましょうね」
今度は保田一人に向かって石川が言った。保田だけ何の反応も示さな
かったことに気づいたようだ。
「うん、がんばろ、石川」
そんな石川にウィンク付きの笑みで返した。当然のごとく、石川は「おば
ちゃん気色悪〜い」と言って、吐く振りをした。
- 276 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時22分21秒
- ◇◇
月曜日。今日は新メンバーの六期メンと合同で打ち合わせ。
最終公演のさいたまでは六期メンバーを合わせた16人で「Do it! Now」
を一緒に歌い踊ることになっている。
六期の一人である藤本美貴は翌日ソロライブがあり、北海道に行ってい
るので、今日のところは新人3人だ。
3人とも最初に見たVTRでは生意気な態度を見せていて驚いたものだが、
実際会ってみるとそうでもなかった。
先週、ハロモニの企画で1対1のトークを観覧車などを使ってしたのだ
が、ごく普通の中学生という印象に変わった。
3人のキャラはもう事務所や番組によって「作られて」しまったのだと思い
知らされ、作った人間に対し、憤りを覚えた。
オーディションの時点でキャラは本人の意志とは無関係に決められてい
たのかもしれない。
「最初で最後だけど、よろしくね」
人見知りが激しいようで、相変わらず返事は返ってこなかったが、それ
でも3人ともきちんと頷いていた。
- 277 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時26分17秒
- 夜になって、保田は一人暮らしをしている矢口の家に行くことになって
いた。
月曜夜から火曜の午前までオフで、前から約束していたことだった。
本当は二人きりの予定だったが、二人と最近仲がいい石川もついてくる
ことになった。
今日のプランの打ち合わせの時、たまたま石川に会ってしまったのだ。
「私も行っていいですか?」
と悪意なんてこの世には存在しないと主張しているような聡明な笑顔で
お願いしてくる。
最初は断ろうとした二人だったが、断る理由も見つからず、石川の勢い
に押されて「いいよ」と言ってしまった。
- 278 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時29分43秒
- ◇◇
矢口の家は綺麗だった。
不必要なものはない。本棚とテレビとビデオとオーディオとDVDプレーヤ
ーとパソコンとプレステがあるだけの、少女らしさも、もちろん男らしさもな
い、シンプルな部屋。引越しする時は簡単だろうなぁとどうでもいいことを
保田は考えた。
本棚には本はあまりなかったが、ファッション誌が数冊と、DVDとゲーム
ソフトが一番上の棚にぎっしりと並べられてあった。
「圭ちゃんが来るから昨日掃除しといたんだよ」
感心しながら見渡す保田に矢口は照れながら言った。
「まあ、掃除しなくても梨華ちゃん家よりはずっと綺麗だったけどね」
矢口は保田の後ろにいる石川に卑しい目を向ける。
「もぉ〜。私の家だって綺麗ですよ〜」
「どれくらい?」
「あ、えっと……この部屋の10分の1ぐらいかなぁ?」
「そんなんじゃわかんないよ」
保田も矢口も呆れ気味に笑っていた。
- 279 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時46分22秒
- 3人は宅配ピザを頼んだ。
最初は何か簡単なものを作ろうと思っていた保田と矢口だったが、石川
も加わったことや、たまたまポストにピザのチラシが投函されていたので、
そうなった。
ピザは6枚頼むと割引されるようで、矢口は「食べれないよ」と反対した
が、石川の独断で結局6枚頼んだ。
保田は石川のこういう庶民的なところにも好感を持っていた。
結局5枚も食べられなくて、冷めたピザが1枚残った。愚痴をこぼす矢口
に石川はひたすら謝っていた。
それからは紙コップ片手に雑談。
お酒好きの保田も今日は石川に合わせてジュースで済ませている。
昔話で盛り上がり、つらかったこと楽しかったことなどを語り合った。
- 280 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時47分35秒
- 「ふぅ……」
3人同時に大笑いした保田いじりネタが終わってすぐ、石川が二人にも
はっきりと聞き取れるような大きなため息をついた。
矢口はそんな様子にめざとく反応する。
「どうしたの、梨華ちゃん? シワが増えるよ。裕ちゃんみたいに」
「あ、いえ、保田さんが卒業するのはやっぱり寂しいなぁって……なんか今
ふと思っちゃいました。今まで実感なかったのになぁ。ちょっとしんみりしち
ゃった」
「梨華ちゃん……」
泣きそうになり俯く石川は自力で顔を上げる。瞼にはうっすらと涙がたま
っていたが、見上げることで落ちるのを阻止した。
- 281 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時49分31秒
- 「でもでもっ! 別に永遠の別れってわけじゃないですもんね! 卒業して
も保田さんはソロとして頑張るわけだし、会おうと思えばいつでも会えるし!」
石川は虚勢を張るように語調を強めて言った。
保田は一瞬矢口を見た。そして、石川に子供に諭すように優しく声を
かける。
「そうだね。とにかく今を一生懸命楽しもうよ」
「そうそう。泣くのは卒業式までとっておこうよ、梨華ちゃん」
矢口が付け加えるように言う。
石川は寂しさを打ち破るように精一杯の笑顔を二人に向け、頷く。
「はい! じゃあ……」
石川は紙コップを手に取って、二人にも取るように目配せをした。矢口は
「またやんの〜」と愚痴をこぼしながら、紙コップを手にとった。
「かんぱ〜い」
三つの紙コップが勢いよく触れた時、中に入っていたオレンジジュースが
軽く波立った。
- 282 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時52分33秒
- ◇◇
「とりあえずお疲れ」
矢口は柿ピーをだらしない姿勢でつまんでいる保田の前にワイングラス
を二つ置いた。
立っている矢口の小さな体が大きく見えた。
「何これ?」
「圭ちゃんが来ると思って買っておいたんだよね」
矢口の脇にはワインボトルが抱えられていた。
「へぇ……。気がきくじゃん。ちゃんと赤だし」
「オイラはあんまりワイン好きじゃないけど、やっぱり圭ちゃんとは飲みたい
しさぁ。焼酎よりかは似合ってるでしょ?」
「ふふふ、ありがと、ヤグチ。これからは大人の時間ってわけね」
一度、扉のほうを一瞥しながら保田が言った。
- 283 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時57分06秒
- 石川は疲れていたのかすでに今は隣の部屋の寝室で熟睡していた。
昔この三人とその家族で温泉旅行に行ったことがあったのだが、一番先
に寝てしまったのは三家族全員を合わせても石川だった。
「まだまだ、梨華ちゃんも子供だね」
矢口は保田がコルクを必死で抜こうとしているのを、横で何もしないで眺
めている。時折、二人きりの空間を楽しむように微笑を浮かべながら。
「仕方ないんじゃない? あの子が一番昼間は動いてるし……ああ、一番
はしゃいでるのは辻加護だけど、石川は日常生活で無駄な動きが多いか
らねぇ、人一倍疲れるんじゃないの?」
「なるほどね〜」
それから「ポンッ」といい音を立てながら、コルク栓が抜けた。保田は「あ
らら……」と罰の悪い表情をする。
「あんまり音立てちゃいけないんだけど、まだまだ苦手だなぁ」
保田はグラスを一つ矢口に差し出し、ワインを注ぎ始めた。自分のにも
注いだあと、お互いグラスを手に持つ。
- 284 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時58分17秒
- 「それじゃあ……何に乾杯にする?」
「じゃあ圭ちゃんの前途に」
矢口の意図がわからず、保田は苦笑する。
「私の? やけに暗いね。まあいいけど」
「じゃあチンチン!」
「何それ? ヤグチのエッチ」
保田はおくびもなく口にした矢口を見て、少しだけ頬を赤らめる。
「覚えてない? 加藤紀子さんが言ってたじゃん。フランス語でいう乾杯
って意味だよ」
「ああ、確かそうだったね。でもヤグチは今明らかに違う意味もあったで
しょ?」
「えへへ……まあ」
「でもさ、それってイタリア語じゃなかったっけ?」
「そうだっけ?」
結局どちらもはっきりと、覚えていないということで、「慣れない外国
語は使うもんじゃないね」と笑い合いながら、改めて今度は日本語で
「乾杯」をした。
- 285 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)20時59分58秒
- 一口飲んだ後、矢口は顔をしかめる。
矢口は日本酒や焼酎、カクテル系は結構飲めるが、ワインは苦手のよ
うだ。
一方、ワインも大好きな保田は2口3口と味を確かめるように口をつけ
たあと、すぐに一気に飲み干した。
「さすが圭ちゃん」
豪気な保田に矢口は感心したあと、「ちょっと見てくる」と言いながら立ち
上がり、隣の部屋に足を運んだ。
真っ暗な部屋の中で石川が美少女らしからぬ大きなイビキを立てて寝
ていた。
- 286 名前:赤い草原 第7話 三人 投稿日:2003年06月23日(月)21時02分08秒
- 「どうだった?」
帰ってくる矢口に保田がすぐに尋ねる。
「うん。気持ちよく熟睡してた。あれじゃ爆睡かな」
「じゃあ、そろそろ……」
保田の表情が少し固くなった。その中にはついさっき摂取したアルコー
ル分などどこかに吹き飛ばしたような強い力の目があった。
「うん」
矢口も顔をひきしめながら、ゆっくりと頷いた。
- 287 名前:赤い草原 第7話 終 投稿日:2003年06月23日(月)21時04分09秒
- 次回は来週かも。ごめん。
>>164-286
→第8話 計画
- 288 名前:赤い草原 第7話 投稿日:2003年06月30日(月)20時23分06秒
- やっばー……
- 289 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)18時58分18秒
- 第8話 計画
石川梨華は目を開けた。そして、見慣れない高い天井を確認しながら、
「ここどこ?」と独り言を呟いた。
すぐに矢口の家であることに気づいた。保田と矢口と3人でささやかなピ
ザパーティーをやったことも同時に思い出す。
「あっちゃー、寝ちゃったんだ」
また独り言を呟いた石川は自分の顔をパンと叩き、眠気を少しでも覚まさ
せようとする。
保田と矢口はまだ寝ていないのだろうかと思った。少なくともこの部屋には
人の気配はしない。部屋に掛けられている時計によると午前2時を5分ほど
過ぎていた。
いつ寝たかは正確には覚えていないが大体3時間ぐらいだろうか。
部屋を出て、二人がいると思われる居間に足を運ぶと明りが差し込ん
でいた。暗闇に慣れた目を何度もまばたきさせる。
そして、二人の声が聞こえてきた。なんて言っているかは聞き取れない。
しかし、保田と矢口の声だということはわかった。
- 290 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)18時59分52秒
- 「ああ、まだ起きてるんだ」
自分一人を置いてけぼりにして、二人だけで穏やかなひと時を楽しんで
いるのかなという孤独感を軽く感じながら、部屋の扉を開けようとした。
「ジャジャーン」と明るい声を出して扉を開けようか、と考えながらノブに手を
かける。
ほんの少しだけ開けた時、保田の声がはっきりと聞こえてきた。
石川はドアを開けるのを止めたのは、何か危険な信号を直感的に感じ取
ったからだろうか。
「ホントにありがとね、ヤグチ。私の自殺まで手伝ってくれて」
一瞬保田の言っていることの意味がわからなかった。
ただ、考えるより先に、眠気は一気に吹っ飛び、体が硬直していた。
- 291 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時01分27秒
- ◇◇
カチャカチャという音が軽快なリズムで鳴りつづける。二人の横では三脚
で固定されたビデオカメラが虫の羽音のような微かな音を立てて回っている。
「へぇ〜、だいぶタイピング上手くなったね」
保田は感心した声を上げた。
「まあね、タッチタイピングぐらいならできるようになったよ。数字とか記号
とかが入ると全然ダメだけど」
矢口は肘つきのデスクチェアに座り、保田はその斜め後ろから、立って
パソコンの画面を見ている。
矢口は小慣れた手つきで、マウスを動かした。しばらくすると画面には
「保田圭応援サイト(本人公認)」と大きく書かれたページが映された。
「これ、全部ヤグチ一人が作ったの?」
「こんなこと、他の人に相談できるわけないじゃん。作り方とかを友達に教わ
っただけで、あとは全部オイラ一人。まだデザインがダサイから、見せたく
なかったんだけどね。もう時間ないし」
「いやいや、結構カッコいいよ、うん」
「圭ちゃんのセンスでカッコいいって言われても嬉しくないし」
「何よそれ」
保田は口を尖らせながら、ちょうど叩きやすい位置にある小さな頭を軽く
こづいた。
- 292 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時02分23秒
- 「しっかし、便利な世の中になったもんだね。こうやって個人で情報を発信
できるんだからさ」
矢口は画面を見つづけながら言う。「ダサイ」と自分で称したレイアウトを
少し改装しようとしていた。
「そうだね」
「それよりさ、圭ちゃん。何か書いてくれない?」
矢口は立ち上がり、保田をついさっきまで座っていた椅子に座らせようと
する。
「私がかい?」
「仮にも『本人公認』なんだしさ」
保田はO.K.し、椅子に座り、キーボードを軽快に叩いていく。
保田は適当なページを閲覧するだけで、ホームページを作るなどクリエイ
ティブなことはしたことがなかったが、パソコン暦で言うならば保田のほうが
矢口より長い。
だから、タイピングのスピードなら保田のほうが早かった。
- 293 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時03分28秒
- 「でもさぁ、これで多くの人が見てくれるのかい? 5日まで気づかれないまま
ってことはないの?」
保田は文章を頭の中で考えながら、背後に立っている矢口に聞いた。
「このページを明日かあさってあたりに、みんなが見ている掲示板に流す
つもり」
「みんなが見ているって?」
保田は少し背後の様子が気になって、振り返った。
「決まってるじゃん。オイラの嫌いな悪口サイトにだよ」
矢口は綺麗に生え揃った白い歯を光らせながらニコリと微笑んだ。
「それで信じてくれるかねぇ。ほら、『本人公認』って言ったって誰も信じてく
れないんじゃ……偽者なんていっぱい出回ってるだろうし」
「だから、今圭ちゃんに書いてもらってるんじゃん。それに――ちょっと待
って」
- 294 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時04分04秒
- 矢口は戸棚のほうに行き、デジカメカメラを取り出してきた。
「今のプライベートな圭ちゃんをこのページに貼っつけておくってのはどう?
そしたら、本人だってみんな信じると思うけど」
保田は「なるほど」と頷く。
「そういうわけで、撮るよ。はいピース」
保田は準備する間もなく、フラッシュが焚かれた。
デジカメについている小さな画面を見て、矢口はプッと吹きだした。
「目が半開きの圭ちゃんだ。すごい顔」
「ちょっと、撮りなおしてよ……」
「ダメダメ。こんな画像のほうがリアリティあるじゃん。それに、万一事務所
とかマスコミが嗅ぎ付けるのが早くても、この画像だったら、『隠し撮りされ
たんです』って言い張れるでしょ?」
保田はあまり納得がいかないようだったが、結局は矢口に言いくるめ
られた。そして、ゆっくりとキーボードを打ち始めた。
- 295 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時11分42秒
- ◇◇
「これでするべきことは終わり?」
「うん。あとはオイラがいいタイミングで広めとくよ」
保田は少し腑に落ちない感じで首をひねるも、しかし、矢口がもうするこ
とはないと言っているのだから仕方がない。一度壁に掛けられた時計を
見て、「そろそろ帰る」と矢口に告げた。
本当は泊まる予定だったが石川が一つベッドを使っていたし、寝るとし
たら矢口か保田がどちらか一人はソファになる。
明日も朝から仕事があるし、あまりそういうことはしたくなかった。
しかし、矢口は少し不満気な顔で「もうちょっとお喋りしようよ」と引き止めた。
保田は先ほど見たにも関わらず、今度は腕時計に目をやった。もうすぐ2
時になろうとしていた。
帰る手段はもうタクシーしかなかったので、交通に関しては急ぐ必要は
ない。
少し迷っていたが、矢口の無邪気な子供のような目に吸い込まれるよう
にして「うん」と頷いた。
- 296 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時12分54秒
- 書き込みを終えて、保田は居間のソファへと向かう。矢口はカメラのレン
ズを居間の方向に向けてから、保田に近づいた。
テーブルの上にはピザの箱とワイングラスが2つとおつまみと石川と三
人で遊んだトランプのカードがバラバラに散らばっていた。
グラスの1つには矢口が飲めずに残したままのワインが入っていた。
保田は、飲んでいいか矢口に確認した。承諾をもらってから、保田はグラ
スの半分ほどの量をぐいっと一気に飲み干した。
「ホント、圭ちゃん強いねぇ」
「ぷはぁー」というワインというより日本酒を飲んだ後に出るようなオヤジっ
ぽい息を吐いた保田を見て、矢口は感心したような呆れたような声をあげる。
- 297 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時13分31秒
- 矢口だって安倍に比べれば十分酒には強いが、どんなに飲んでも酒に飲
まれることがない保田には敵わない。
「まあね。大人になってよかったって思える一時だよ」
すると矢口は何か急激に思い出したように「そうだ」と言った。そして、その
まま台所に向かい、何かを持ってくる。
「じゃ〜ん」
と、おどけて保田の前に突き出したものはタバコだった。
どうしたの? と聞きたげな顔の保田。
「近くの自販機で買っといたんだ。ほら、この前、圭ちゃんと約束したじゃん。
一緒に吸おうって」
「ああ、そうだったね」
矢口は保田の隣に座り、箱から一本タバコを取り出して、保田に渡した。
- 298 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時14分27秒
- 「これ、何ミリのタバコ?」
「何ミリ? 長さ? 計ったことないけど」
首をかしげる矢口。
保田は「んなわけないでしょ」と薄く笑いながら、矢口の持っているタバコ
の箱を取り、側面を見た。「ニコチン6mg」と書かれてあった。
「結構強いじゃん。ヤグチは初めてだよね?」
「うん。圭ちゃんは……あるの?」
「高校時代にちょっとね」
「へぇ〜初耳」
矢口は昔の少しヤンキーが入っていた圭ちゃんだったら吸っててもおか
しくないかなと思い、ひそかに苦笑した。
そして、二人一緒にタバコを吸った。
矢口はすぐにむせた。
「うぇ、気持ち悪い」
「大丈夫慣れれば、気持ちよくなるんだって」
「それはエッチと同じだね」
「そうやってすぐにエッチな方向に結びつけるのはヤグチの悪い癖だよ」
「は〜い、気をつけま〜す」
無邪気な返事を聞いて、保田は呆れる。そして、すぐ隣にいる矢口の肩を
軽く抱いた。
- 299 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時15分29秒
- 一生懸命タバコを吸おうとする様子が保田にはいじらしく感じた。
もう5年以上になる付き合いだ。
良い面も悪い面も知っている。その全部をひっくるめて矢口を尊敬してい
る。そう思っていた。
しかし――。
「ヤグチ……」
矢口は顔を保田に向けた。
「何? 圭ちゃん?」
――向けられた瞳が透き通ったガラスのように透明で、少し触れると粉々
に砕けてしまうような気がした。
「どうしたの?」
矢口の瞳を見つづけるままの保田を不思議に思い、矢口はもう一度聞き
返した。
- 300 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時17分27秒
- なぜ、矢口はこんなことに協力してくれるのだろう。
その点の本心を保田はまだ理解できていない。きっと、このままではずっと
理解は不可能なのだろう。
矢口は泣き虫だ。ことあるごとに泣き喚く矢口を保田は見つづけている。
しかし今回の件で矢口は涙を見せたことはなかった。
まるで内部で凍らせているように、瞳は冷たく乾ききっている。
知っていることとはいえ、なぜ涙を浮かべることさえなく気丈に振舞ってい
られるのだろう。
本当の矢口をまだ殆ど知らないのかもしれないと保田は思った。
尊敬の先にある、新たな矢口像を見た気がして、保田は背筋に冷たいも
のを感じた。
「どうしたんだってば、圭ちゃん」
はっと我に返った保田は、動揺で乾きそうになる目をギュッと抑えて、すぐ
に首を横に振る。
- 301 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時18分43秒
- 「ううん、なんでもない。ヤグチってかわいいなぁって思って」
「え? そんなのあたりまえじゃん」
保田は思わず吹き出した。つられて矢口も笑った。矢口らしいとすぐに
思った。
二人はタバコをギリギリまで吸った後、小皿にタバコを押し当てる。
灰色の細い煙がゆらゆらと天井に向かうのを呆として見ながら、保田は矢
口に「どうだった?」と感想を求めた。
「う〜ん、オイラはたぶんもう吸わないだろうなぁ。なんか気持ち悪いだけ
だし。肌にも悪いんでしょ。でも――」
矢口は一度俯き、眉をひそめ、険しい顔をしたかと思うと、すぐに顔を上
げ微笑んだ。
「でも圭ちゃんと一緒にだったら、もう一回吸ってもいいよ」
保田は困った顔をして、ヤグチの頭を撫でた。
そして、言った。
- 302 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時20分20秒
- 「ホントにありがとね、ヤグチ。私の自殺まで手伝ってくれて」
矢口は即座に「ううん」と首を振る。
「もちろん最初は驚いたし、反対しようと思ったけど、圭ちゃんが一番最初
にオイラに教えてくれてすっごく嬉しかったよ」
「……」
保田は、出かかった言葉を喉奥で食い止めた。
協力してくれる理由を聞こうとしたのだ。
なぜ、言い詰まったのかはわからない。ともかく、保田は心の中で小さく、
よし、と気合を入れなおして、再度聞こうとしたその時だった。
「どうやって死ぬか決めてるの?」
矢口が先に口を開いた。
小川のせせらぎのような穏やかな口調と質問の内容ががひどく不釣合
いで、瞬時の理解を遅らせた。
- 303 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時22分24秒
- 時間が止まったような静寂が流れる。反応しようとしない保田を不思議に
思ったのか矢口は「ねぇ、聞いてるの?」と催促する。
「ああ……」と頷いた後、保田は言った。
「決めてない。でもできるだけ苦しまないほうがいいね」
「じゃあさ、オイラが決めていい?」
人当たりの良い笑みを絶えず保っていた矢口の顔から、柔和さだけが
消える。残ったものは怜悧な瞳に相応しい冷たい笑顔。
それは保田の気のせいだったのかもしれない。息を飲み、目を一度瞑
ると、そんな矢口はいなかった。
「ヤグチが?」
「うん。ほら、危険なことを手伝っている報酬だと思って」
「どういう風に死なせたいの?」
「オイラも決めてないけど……そうだ」
そして矢口は保田に目を瞑り、後ろを振り向くように指示した。言われる
がままに従うと、矢口が立ち上がる気配を感じた。
- 304 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時24分14秒
- 保田は酔いが醒めたせいもあるのか、やけに緊張感を感じていた。
矢口の野心を抱えた顔が色濃く闇の中に映し出された。
あの一瞬見えた矢口らしくない矢口の表情は幻なんかではないと確信した。
すると、目を閉じ、矢口に背を向けている現状が怖くなった。
このまま、背後から、日本刀で背中をバッサリと斬られてしまうのではとい
うありえない錯覚さえ起こした。
怖い夢から解き放とうと、目を開け、振り返ろうとする保田対し、まるでそ
んな心理を見抜いていたかのように、矢口が「もうちょっと待ってね〜」と明
るく声をかけてきた。
保田はそんなよく知っている矢口の声を聞いて、強張っていた腕の筋肉を
緩めた。
耳を澄ますと、テーブルの上で何かを書いているようだった。キュッキュと
いうマジックを滑らしているような音が聞こえてきた。
矢口は「何やってんの?」という保田の問いにも答えずに、その作業を続
けていた。
しばらくして「いいよ」と合図してきた。
- 305 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時26分19秒
- 保田はすぐに目を開けて、振り返った。矢口はテーブルの反対側にいた。
矢口の顔、胸、手に持った赤色の太いマーカーペンと視線を下ろしていき、
最後に、色々なものが散らばったテーブルの中央に整列されたトランプが3
枚並べられているのを見つけた。
そのトランプは表を向いており、保田から見て左からスペードのジャック、
ハートのクイーン、ダイヤのキングだった。
「何してたの?」
保田はそのトランプ3枚と矢口の顔を交互に見交わす。矢口は一度頷いた。
この3枚のトランプに何か意味があることを理解した。
「選んでもらおうと思って」
「選ぶ?」
「うん。一枚引いてほしいんだ」
矢口は3枚のトランプを指差した。
「これを?」
「うん。裏には、自殺方法が書かれているから」
「え?」
- 306 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時27分31秒
- 意図することがよくわからないまま、何の気なしにトランプをめくろうと、
テーブルの上に出した手が保田の表情と共に止まる。
顔を上げた。
矢口がいつもどおりの顔で、驚く保田を迎えていた。
「裏……ていうかトランプで言ったら表だけど、3通りの方法書いといた。
選んだものを圭ちゃんが実行するってのはどう?」
小さな狼狽を保田は表に出さずに飲み込んだ。
矢口は何がしたい?――味方であるはずの矢口にある種敵意の視線
をぶつける。
しかし、矢口は全く気にもとめないといった表情で、さらりと交わす。
すぐに保田は自分の中で起きている感情に少し懺悔する。
ふっと肩で息をつきながら、「ヤグチはミカタ」と経のように心の中で唱
えた。そして、今ふと気づいたことがぱっと口に出る。
「もしかしてさ、今日、私を家に呼んだのってこれをしたかったから? ホー
ムページにはただ私がコメント書くだけだったし」
- 307 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時28分03秒
- 矢口は音の出ない口笛を吹きながら、少し顔を逸らし、さぁ? と首をか
しげる。保田は少し諦め気味に、苦笑いをしながら言った。
「わかった、いいよ。私は死ぬ方法なんてどうでもいいし。大切なのは死
に方じゃなくて死ぬことだからね」
まるで自分に対して弁護をするような口調だった。保田は言い終わると
同時に、手を伸ばし、真中に置いてあったハートのクイーンを隠すように
かぶせた。
「それでいいの?」
保田は無言で頷く。
矢口は両端のカードをそれぞれの手でつまみ、2枚同時にひっくり返す。
そこには赤いマーカーで大きく、「ナイフ」と「毒」という字が書かれていた。
- 308 名前:赤い草原 第8話 計画 投稿日:2003年07月08日(火)19時28分44秒
- 「じゃあ、これには……」
「よかったね、圭ちゃん。一番ラクで、一瞬で、見栄えがよくて、確実に死
ねる方法だ」
矢口の目線は保田が触れているカードに行っていた。保田はおそるおそ
るカードをめくり、書いてある字を見た。
「これって……どうやって……」
「大丈夫、アテはあるから」
「アテ?」
矢口は何となく品の悪い笑みを浮かべながら「うん」と頷く。
その時だった。
「キィー」という音が保田の背後から聞こえてきた。
保田はパッと振り返る。半開きの扉が微かに動いていた。
その奥には人影が見えた。
二人は顔を見合わせた。
「石川……」
石川が呆然自失のまま、突っ立っていた。
- 309 名前:赤い草原 第8話 投稿日:2003年07月08日(火)19時32分56秒
- 遅れてごめん
>>164-308
→第9話 本心
- 310 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時11分18秒
- 第9話 本心
石川は心がどこかに吹き飛ばされてしまったような顔をしていた。
「……起きたんだ。もしかして起こしちゃった?」
保田の声にも石川は反応せず、破裂寸前の風船のような一種の緊張感
を静けさの中に作っていた。
矢口が「ごめんね」と言いかけたと同時に石川の口が震えながら動いた。
「――ゆうことですか」
「え、何?」
「どうゆうことですか!」
石川は呆けていた顔を真っ赤に変えて、二人のもとに飛んできた。矢口
が「どういうことって……」と呟きながら、保田のほうに顔を向ける。
「自殺するって嘘だったんですよね!? あれは単なる話題作りで、本当は
死のうって思ったことなんてないんですよね!?」
石川は保田の両肩を強くつかみ、上下に思い切り揺さぶる。そして、真
っ直ぐに保田を見つめる。
しかし、保田は向き合わずに、目を逸らした。
- 311 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時12分12秒
- 「ちょっと、梨華ちゃん、落ち着いて!」
横からの矢口の声に険しい顔つきのまま、矢口のほうを向き、睨みつけ
る。矢口の小さな体は石川の勢いに押されて、ややのけぞる。
「どうなんですか? 教えてください!」
家の外に漏れそうなくらい大きな声で石川は二人に詰め寄った。
とりあえず何か喋ろうとするも上手くウソが思いつかずに狼狽している
矢口を手で制してから、保田は真剣な顔で「石川」と言い、まっすぐ向き
合った。
石川はひどく息を乱していた。
首筋から汗が光っていた。
「ウソじゃないよ、ホントだよ」
「ホント……って?」
「私は、5月5日に自殺する」
- 312 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時12分53秒
- 低い声が石川の心の奥底を揺り動かす。
石川の中で怒りと焦りが弾け飛んだ。
脳を内側から叩かれたような衝撃が視覚や聴覚を麻痺させる。
石川は保田の口から漏らした言葉を認めることができずに記憶から
消去した。
「ははは……何それ……」
結果、口に出るのは無意味で乾いた笑い声。
しかし、そんな逃避はほんの一瞬。
おぼろげに見える保田の真剣な眼差しが忘れた言葉をまざまざと蘇
らせる。
- 313 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時14分42秒
- ――保田さんが自殺する。
4月18日、保田は宣言した。その日すぐに、メンバーには撤回した。
4月24日、宣言を公に撤回した。
そして今日――再び保田は宣言した。「自殺する」と。
18日に初めて聞いた時、冗談だと思った。
保田は冗談が得意でない生真面目な人間だということは石川は十二分
に知っている。
だが、生番組で、自殺を宣言したときは、さすがにタチの悪い冗談にし
か聞こえなかった。
楽屋に戻り、血相を変えるマネージャーや楽屋の戸惑いに満ちた場の空
気が事の重大さを教えてくれる。
保田は台本なしで、宣言した。
それに生だから編集でカットなんてできない。状況を考えれば考えるほど、
保田は本気であるという結論に導かれていく。
- 314 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時15分58秒
- それでも保田は冗談で言ったんだという根拠のない憶測が石川の中
では殆どだった。つまり、考えないようにしたのだ。
だから、その後すぐに楽屋に戻ってきて「実は、話題作りのためなんだ
よね〜」と下手なウィンクをしながら謝る保田を見て、
「やっぱりね〜、そうだと思ってたんですよ〜」
と、誰より早く安堵の言葉を口にした。誰よりも自分をいち早く安心させ
るためにだった。
そして、飯田や吉澤などにも「冗談だったんだから笑いましょうよ」とい
う意思を半ば強引な笑顔で送った。
- 315 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時16分33秒
- 今日――正確に言えば昨日だが――保田が矢口の家に遊びに行くと
いう話を聞いて、石川は飛びついた。
それは無意識下の不安からだったのかもしれない。
冗談だと思い込んでも、どこか100%信じきれない部分が心の奥底には
あったのかもしれない。
悪い予感は的中し、保田は再び「自殺宣言」をした。
今度は世間という形の無い対象にではない。
石川梨華一人にだ。
自分は、からかわれたりだまされたりするキャラだという思い込みがあ
った石川はこんな状況に立たされてもやっぱり冗談だと思った。
しかし、疑いの部分が保田の突き刺すような眼差しによって暴発する。
- 316 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時17分09秒
- 「それも……ウソ……なんですよね?」
絞り出すような息と一緒に、しゃがれた細い声で聞く。保田はゆっくりと首
を横に振り、呟く。
「ホント」
回答は重い鉛だった。石川の心にズシリと響く。
石川は保田の肩を強く掴み、叫んだ。
「ウソって言ってください! ドッキリなんですよね!? もう十分騙されま
したから……お願いですから……お願いですから……ウソって……」
保田は激昂しながらだんだんとうなだれていく石川の体を支えるように抱
きしめた。
最初はそっと、そして、徐々に強く。
そのまま何も言わなかった。
保田の落ち着いた鼓動や温もりが石川をここが現実であり、保田の言葉
は真実であるという絶望へと追いやっていく。
- 317 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時17分54秒
- 「圭ちゃん」
矢口の声が保田の背後から飛んだ。
石川は溢れ出した涙で歪んだ視界から、落ち着き払っている矢口を確認
した。
混乱している頭の中に、一つの大きな疑問が黒い雲のように覆い尽くす。
なぜ、矢口はこんなに冷静でいられるのだろう。
思い返すと、涙腺が弱く、人一倍物事に動揺してしまう矢口が、この保田
の件に関しては、特に感情を露にすることはなく静観という態度を取って
いた。常に他人の様子に合わせている感じだった。
どうして、矢口は保田の行為を止めないのか。
盗み聞きした感じによれば、むしろ手助けしているようにも思える。
疑問とそれに対応した憤怒が、冷たい炎となって高揚する体を焼きつ
くしていく。
石川は背骨を折られそうなくらい保田に抱きしめられながら、感情の
発露の標的を保田から矢口に定めた。矢口も石川がこちらを睨んでい
ることに気づく。
口元がかすかに笑ったように見えた。
まるで挑発しているようだった。
- 318 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時18分46秒
- 「圭ちゃん、もう帰りなよ。明日朝早いんでしょ? 石川にはオイラがちゃ
んと話しておくから」
矢口は石川の眼を見て、言った。
保田は抱きしめる腕の力を緩め、振り返った。
すぐに石川は立ち上がり、矢口と向き合う。
跪きながら保田はそんな二人を交互に見交わす。
矢口と目が合ったとき、「大丈夫だから」と目と手で合図してきた。
「ヤグチ、まさかわざと……」
保田は少し青ざめながら呟いた。矢口が過敏に「何のこと?」と反応する。
少し間を空けてから、保田は「いや、なんでもない」と首を振る。
矢口に任せることを了承して、帰り支度を始めた。
石川は何か保田に言おうとしていたが、その前に矢口が石川を遮るよう
にして「梨華ちゃん」と呼び止めてから、言った。
「心配しなくても大丈夫だよ。5月5日までは絶対死なないし」
石川はビクッと体を震わせた。そして、何の抵抗もなく「死」を口にする
矢口を睨んだ。
- 319 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時20分20秒
- パソコンの駆動音が部屋を占領している。
夜はまだ深い。重い闇に包まれたせいか、この部屋がひどく非現実な空間
に思えてくる。
しかし、ここは現実だ。保田と矢口が作り上げた残酷な空間の中、石川は
一人、抑えきれないほどの衝動を抱えて、立ち尽くしている。
バッグを肩にかけたとき、石川は保田に声をかけた。
石川らしくない低い声で。
「保田さん。私は絶対認めないですから……保田さんや矢口さんは間違っ
てます」
そこには石川と初めて出会った時の弱弱しい面影はなかった。
その成長を保田は心のどこかでは喜んだ。ただ、表情からはそんな感情
など読み取ることは不可能。ただ残忍な影に染まっているだけだ。
保田は口を歪めながら石川に向かって言った。
「石川は生きるってどんな意味があるか考えたことがある?」
突然の問いに石川は首を傾げる。
「なんですか、それ?」
「……石川もね、いつか考えるときが来るよ」
石川の反応も待たずに、保田は部屋を出た。
石川は保田が消えた扉をずっと見つづけた。取り戻せないような喪失感
がやってきた。
- 320 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時21分07秒
- 握り締めた拳は保田の幻影を掴もうとする。しかし、その幻影さえ石川
を嘲笑うように捕まることなく消えていく。
石川はテーブルに視線を落とした。そこには「ナイフ」と書かれたトランプ
カードがあった。石川は半分無意識にそのカードを拾った。
「梨華ちゃん、こっち来なよ」
はっとしながら、声の方向に振り返る。
すると、矢口がパソコンの近くで石川を手招きしていた。石川はカードをポ
ケットに入れ、矢口に近づく。
「保田さんが自殺するって本当なんですか?」
何度となく聞いた質問を矢口にぶつけた。矢口は無視して、パソコンの画
面を見ながら、マウスをクリックしている。
矢口が合図すると、石川はその画面を覗き込んだ。
そして、絶句する。
- 321 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時22分23秒
- 「これ……保田さんが書いたんですか?」
「そうだよ。さっき書いてた。このページはオイラが作ったんだ。さっきだい
ぶ変更したんだけど、どうかな。結構マシになったと思ってるんだけど」
カウンターはまだ「000145」。おそらく保田と矢口と石川以外誰も見て
いないのだろう。
石川は保田の書いた文を読み直した。
目に映るものさえ信じることができずに、目を何度もギュッと瞑った。
そして、また変わることのない文章を読み直す。
事実を認められないことと相反して、突発的ではない憤りと哀しみが混
ざり合って心を埋め尽くしていく。
なんで、と震えながら呟く石川の横から矢口が淡々と説明しはじめた。
- 322 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時23分52秒
- 「これを使って、圭ちゃんの生きざまを記録しとこうってわけ。あと死ぬ瞬間
をオイラが撮っておいて、あとでネット上に流そうと思ってる。今は誰でも映
像をすぐに全世界に流すことができるんだよね。だからどんなに放送事故
な映像でも多くの人に届けられるんだよね。すごい世の中になったもんだ」
石川は愕然とし、瞳孔を震わせた――自殺現場を撮影する? その映像
をネットに流す?
全く意図するところがわからなかった。焦点の定まらない目を一度閉じて
から、矢口を睨んだ。矢口は皮肉っぽい微笑を浮かべ、石川を見下ろして
いた。
「なんで……なんで自殺なんかするんですか……? なんでこんなことする
んですか?」
石川はわなわなと肩を震わせる。憎しみに目がくらむような感覚が頭の中
を突き抜けていた。
「さあ? オイラにもよくわかんないよ、自殺したことないし」
「なんですかそれ? わかんないって、じゃあなんで……協力してるんで
すか? 止めてくださいよ! 説得してくださいよ!」
- 323 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時25分10秒
- 石川は大量に湧き上がってきた涙を拭うことなく四散させながら、あっけ
らかんと言う矢口を恫喝した。
先輩だとか仲間だとかいうのはもう関係ない。
矢口は死を軽んずる犯罪者だ。
そんな意識が石川の心を熱く滾らせる。
「なんで説得なんてしなくちゃいけないの?」
矢口が言った。
「当たり前じゃないですか、死のうとする人をそのまま放っておくなんておかし
すぎますよ」
「だってさ、これが圭ちゃんの意思なんだよ。主張なんだよ。これが圭ちゃん
のやっと見つけた真実なんだよ。やめろなんて言えないよ」
「そんなの真実なんて言いません!」
石川は矢口の肩を襲い掛かるようにして掴んだ。痛いよ、と顔をしかめる
矢口は相変わらず余裕そうに口の端を歪める。
「まあ、話が合うわけないとは思っていたけどね」
失望したかのように鼻で息をつく矢口。
石川は追い詰められた表情で、自分のポケットに手を突っ込み、矢口から
ぱっと離れ、距離を取った。
背中にクリーム色のブラインドカーテンが当たり、カラカラと音を立てた。
夜の闇をあざ笑うようにして昇っている金色の月がその隙間から顔を出し
ていた。
- 324 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時26分41秒
- 矢口は「いきなりどうしたの?」と聞く。
石川は取り出した携帯電話を一度矢口のほうに掲げてから鼻息荒く言う。
「電話します」
「どこに? 警察? 事務所?」
携帯電話の「1」のボタンを押した指がピタリと止まる。矢口はあくびをしな
がら、「勝手にすれば」と言い放った。
「なんで……止めないんですか?」
「関係ないし。警察に言ったって、圭ちゃんの自殺は止められないよ。それと
も、圭ちゃんを精神病院かどっかに連れて行って、拘束してもらう?」
「……」
固まった指が微震する。石川はそれ以上ボタンを押すのを止めた。携帯
電話がすごく重たく感じて、ポケットに入れた。
「ヤグチさんは、保田さんが死なれて悲しくないんですか?」
「さぁ、死んでみないとわかんない」
「……わかるでしょ? 死ぬんですよ。もう一緒に喋ったり、歌ったり、笑った
りできなくなるんですよ。そんなの悲しすぎる……」
- 325 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時29分04秒
- 石川はうなだれるように身をかがめた。そんな石川を尻目に、矢口は石川
から少し離れる方向に歩き出した。そしてくるりと振り返り、手に持っていた
デジカメを石川に向けた。
顔を上げようとしない石川に対し、「梨華ちゃん」と声をかける。石川が徐に
顔を上げた瞬間、矢口は「はいチーズ」と早口で言った。
同時にフラッシュが光った。
石川は当然笑っていない。焦燥した顔が記憶媒体に刻まれる。
それを見た矢口は「アイドルはちゃんと笑わないと〜」とおちゃらけて言う。
そんな状況を無視したような言動は石川の怒りをさらに買う。
「ふざけないでください!」
「ふざけてなんかないよ。保田圭の本心を知った石川梨華の絵ということで
サイトに載せるんだから」
その言葉で石川の怒りは頂点に達した。激しい剣幕で詰め寄り、矢口か
らデジカメを取り上げた。
- 326 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時30分19秒
- 「人をからかって何が楽しいんですか?」
「だからからかってないってば」
石川は怒りを込めてデジカメを床に投げつけた。
矢口は「あ〜あ、高かったのに。弁償してくれるの?」と呑気に言う。
「どう考えても、自殺を見届けようなんて間違ってます。お願いします。止めて
ください」
「やだね。それに梨華ちゃんのお願いなんて聞きたくないし」
矢口は腕組みをして言った。目が獲物を狙う獣のように険しく光った。石川
はその寸時の変化に一瞬たじろぐ。
「……なんでですか?」
「オイラ、梨華ちゃんのことが嫌いだから」
石川は目を丸くした。
嫌いと言われていい気分になれるわけがない。怒りや悲しみとはまた違っ
た気持ちが胸に去来する。
- 327 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時31分22秒
- 「嫌いって……なんですかいきなり」
「梨華ちゃんってさ、表面上でしか喋らない人なんだよね。本当に人と深く付
き合ったことってないでしょ? ムカツクんだよね、そういうの」
石川は、あります、という言葉を言おうとして躊躇する。
確かに幼少は引っ込み思案なところがあった。それを直したくてテニス
部に入り部長も務めた。そして、もっと自分を出したくてモーニング娘。に入
った。
結果、石川はポジティブな性格になり、誰とでも仲良くなれるようになった。
少なくとも保田や矢口とはこうして泊まりに行ったり、温泉へ行ったりと深
い付き合いであった。
そう自負している。
しかし、その最もたる相手に、問い詰められたのだ。しかも「嫌い」や「ムカ
ツク」という言葉を前フリに。
石川は心のどこかで本心は矢口は自分のことを嫌っていないと思う気持ち
がまだあった。
心の中の迷いを今一度振り切って毅然と答える。
- 328 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時32分56秒
- 「ヤグチさんや保田さんとは深い付き合いのつもりです」
「へぇ。圭ちゃんの気持ちを全く知ろうとしなかったくせに?」
「それは私が鈍感なだけで……」
「じゃあ聞くけど、圭ちゃんが脱退するって初めて聞いた時、どう思った?」
唐突に聞こえる問いに、石川は「なんですか、それ?」と苛立ち気味に聞
きなおす。
「7月のいつだったっけ? ハロプロライブが終わってから、ごっちんと一緒
にオイラたちに卒業のことが発表されたよね? その時どう思った?」
矢口の冷ややかな視線に石川は一瞬たじろいだ。
- 329 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時33分57秒
- 「どうって……。もちろん悲しくなりましたし、辞めてほしくないって……」
「で、実際梨華ちゃんは何をした?」
「辞めないでくださいってお願いして……」
「それ以上は?」
「……」
「しばらく経ったらいつも通り、仕事してたよね? 辞めないでって言って
も、どうにもならないとも思っていたよね? で、結局すぐに諦めたよね。
梨華ちゃんの圭ちゃんに対する気持ちなんてその程度なんだよ」
石川は一瞬喉が詰まった。
矢口の言葉に呼応するように、石川自身の性格が石川を追い詰めていた。
保田が「自殺宣言」をした時、本気であると直感しておきながら、ウソなん
だと思い込んで、逃避した自分。それはまさしく現実と直面せず、本心を認
めず、事なかれ主義を貫こうとした自己欺瞞であり、保田への思いより、自
己防衛を優先させた行為だ。
石川はそんな内部からせり上がるような罪状に対し、歯を食いしばりな
がら、否定する。
- 330 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時35分12秒
- 「それが何だって言うんですか? だって仕方ないじゃないですか? 私
たちにはどうすることだってできな――」
懸命に言おうとするも、肺にある空気が欠乏したかのように口が止まる。
矢口は間隙を突くように、口を歪めて言った。
「そう。仕方ないんだよ。モーニングを辞めるのも、自殺するのも。オイラ
たち他人はどうしようもできないんだ」
石川は狼狽しながらも、懸命に首を横に振る。
「それとこれとは、全然違うじゃないですか! 娘。を辞めても、次のチャ
ンスがあるけど、自殺したらそれで終わりなんですよ。なんで死ななきゃ
ならないんですか!」
「チャンスねぇ……。圭ちゃんにそんなチャンスがあると思う?」
- 331 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時37分04秒
- 矢口は目を細めながら言った。矢口の裏を含んだ言い方に、石川ははっ
とした。
保田の卒業は後藤や中澤とは違う。
そんな意味を敏感に感じ取ったのだ。
石川は自らの思考によって締め付けられた喉から振り絞るようにして言う。
「でも……ゼロじゃないです……」
「圭ちゃんはね、わかってるんだ。卒業したら終わりだって。ゼロだって。
そんな気持ち、多分梨華ちゃんにはわからない。今の梨華ちゃんにはね」
明らかに矢口の口調は事務所に推されている石川の現状をふまえたも
のだった。
矢口や保田は少なくとも自分には妬みを向ける人間ではないと思い込ん
でいた。
石川は意外な矢口の心境を垣間見た気がしてさらに心が重くなる。
矢口はずっと石川の厚遇を妬んでいたのだろうか。
妬みつつも、表面上は仲のいいふりをして付き合っていたのだろうか。
そして自殺という最悪なラストを選ぼうとしている保田も全く同じ心境なの
だろうか。
- 332 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時38分29秒
- 先ほど矢口が言った「嫌い」という言葉がより濃い色を帯びる。今まで築
き上げていた信頼や仲間意識がガタガタと崩れ落ちていく。
失望が幾重にも重なり、深い暗闇を作る。
矢口はそんな石川を無感情で見届けてから、言った。
「それにね、死ぬことは終わりじゃないんだ。圭ちゃんにとって」
石川には矢口の言っていることの意味がよくわからない。顔色を失った
顔を懸命に上げた。
矢口はたしなめるように半開きの目で石川の落ち込み様を観察している。
「どういう意味ですか?」
矢口はパソコンを指差した。
- 333 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時40分33秒
- 「ねえ、梨華ちゃん。どうして、人は死んじゃいけないの? どうして、生き
なきゃいけないの? 死ぬことで価値を見出すことだってあるんじゃない
かな」
「みんなが悲しむから生きなきゃいけないんです。死ぬことに価値なんか
ありません」
「でも、圭ちゃんは見つけたんだよ。オイラや梨華ちゃんがわからない価
値ってものを。オイラはその価値を否定できない」
石川はデジカメを真下に落とした。そして、振り絞るような声で呟く。
「……やっぱり、おかしいです」
矢口は疲れたとばかりにふぅと軽く肩で息をつく。
「ま、これ以上話あっても無駄だね。もっとも最初っから無駄だってわかって
はいたけど。梨華ちゃんがどんなにおかしいと思っていてもオイラたちは
おかしいとは思ってないんだから」
- 334 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時41分37秒
- 矢口はその発育途中のような小さな体を大きく見せた。
石川はペタリと床に座り込んだ。そして、むせび泣く。
「死ぬのは怖いです。死なれたら悲しいです……。だから死なれたくない
です……。死んじゃイヤです……」
矢口はテーブルに散在したワインボトルやおつまみやグラスを片付け
始めた。
石川はおぼろげにデジカメを見た。
石川の紅潮した顔の前には保田の目が半開きの変顔が映っていた。
「そうだ。梨華ちゃん、一つ教えてあげる。圭ちゃんにも言ってないオイラ
のこと。というか今決めたことだけど」
唐突に矢口が言った。石川は涙を拭うことなく見上げた。
「本当に圭ちゃんが死んだら、オイラも死ぬことにする」
- 335 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時43分17秒
- 頭の中が真っ白になった。
「ど、どうして……」
「圭ちゃんが好きだから」
石川は「好き?」と呟く。矢口は頷きながら続けて言う。
「好きだから、自殺を見守る。好きだから自分も後を追う。これがオイラの
気持ち。表面上でしか付き合えない梨華ちゃんには絶対分かんないだろ
うけどね」
好きだから、死ぬのを見守る?
好きだから、自分も死ぬ?
石川には到底理解できない。
その意味を尋ねても、きっと矢口は自分の想像外のことを言ってくるだ
ろう。
何を言っても無駄なことだけは理解した。
- 336 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時44分50秒
- 混乱からは、絶望の二文字が強く頭をよぎっていた。
腰から下の力が抜けたのか、立ち上がることさえもできなくなっていた。
ただ愕然と、飄々と見下ろす矢口を見つづけるしかなかった。
その矢口はダイヤのキングをポケットに入れたあと、石川を横切り、パ
ソコンのほうに向かう。
「狂ってますよ……」
石川が全ての思いを込めて呟いた。
矢口はパソコンの起動終了させようとしていた。
石川が呟いた後、少し間隔を置いてから、矢口は椅子を利用してクルリ
と振り向いてから言う。
「知らないの? 人間みんなどこか狂ってるんだよ。圭ちゃんやオイラはも
ちろん、梨華ちゃんもね」
石川は言い返すことができずに、パソコンが落ちるのを今日はエイプリ
ールフールであってほしいと願いながら、呆然と見ていた。
- 337 名前:赤い草原 第9話 本心 投稿日:2003年07月15日(火)18時48分12秒
- 『こんにちは。保田圭です。本人です。
そう言っても信じてはくれないかもしれないけど、紛れもなく本人です。
ここのところ、色々お騒がせしてしまって本当にすみませんでした。
自殺するって言ったり、嘘でしたって言ったりしたので、結局どっちなんだ
よってムカついている人も多いと思います。
だから、ここで本心を言いたいと思います。
わたくし、保田圭は5月5日に自殺します。
これだけが真実です。
あと6日。
私の残り僅かの人生を温かく見守っていただけたら、幸いです。
(保田圭 03/4/30 01:38)』
- 338 名前:赤い草原 第9話 投稿日:2003年07月15日(火)18時50分21秒
- 7月中には終わるかと。
>>164-337 (今回>>310-337)
→第10話 夢想
- 339 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時00分34秒
- 第10話 夢想
市井は悩んでいた。
保田の最後に言った言葉を何度も思い出し、そして思い出すたびに頭
を抱える。
卒業して嫉妬を覚えてから、もうモーニング娘。のメンバーとは関わらな
いと心に決めていた。だから、番組で共演しても、上っ面の会話でやり過
ごしていた。
プライベートで会うなんてとんでもないことだった。
そう決めていたのに、なぜ保田と会ってしまったのだろう。
もうみんな変わってしまった。
市井と他のメンバーとは同じ世界に身を置きながら、二度と交わるこ
とのない存在になりつつある。
いくつかの取材に対し、「モーニング娘。」なんて言葉は使わず「前にい
たグループ」などと言い、敢えて避けるようになった。
それほど徹底していた。
- 340 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時03分34秒
- 一番仲の良かった保田にだってそうだった。
それなのに、市井は保田の受けた冷遇を自分のものに投影させ、保
田もモーニング娘。とは違う存在になりつつあると錯覚してしまった。そし
て、会って錯覚だと思い知らされた。
保田の高笑いが心の中で聞こえてきた時、恥辱は頂点を迎え、絶望と
いう境地に陥れられた。
保田が実際に5月5日に死ぬのかはわからない。
しかし、どちらであれ、その自殺宣言の背景には市井が想像していたよ
うな陰気な感情はなかった。
- 341 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時04分12秒
- 保田は何で、あんな宣言をしたのだろう。
何を考えて生きているのだろう。
また保田の声が聞こえる。
「私はね、紗耶香以外にもかわいそうって思う人間知ってるよ」
市井は強く首を振る――考えたくない。これ以上、モーニング娘。に関
わると、保田の前に自分が生きたまま死んでしまう。
だけど、保田の声から作られた人物は否応なしに市井の頭の中を駆け回る。
時に無邪気な笑顔で。
時に蔑みながら。
会ってどうするのだろう。何が変わるというのだろう。
きっと負のベクトルがそのままの方向で延長されるだけだ。
自分にとっていいことなんて一つもない。
だけど――市井は携帯電話を掴んだ。
震える指先の向こうには甘えん坊の妹のような笑顔が浮かんでいた。
- 342 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時05分46秒
- ◇◇
4月27日。
お疲れ様でした、というスタッフの声が飛び交う。
汗だくの後藤真希は笑顔で応える。
「ありがとうございました」
今日は大阪でライブ。
空席はちらほらあったけど、今日来てくれたお客は皆満足そうに帰って
くれた――と思う。
最近はライブ尽くしだ。
モーニング娘。時代は夏休み、春休み以外は大抵週末にしかライブが
なくて、リズムのようなものがあったけど、今は違う。
平日に行われるのはザラだ。今日昨日を含めて、この5日間で4日もライ
ブを興行することになっている。
ライブが終わり、後藤は大阪のホテルで一泊。明後日に香川でライブが
あるので、このまま香川に直行することになっている。
まだ香川公演のチケットが完売していないため、簡単なPRを明日するこ
とになっていた。
- 343 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時07分17秒
- ホテルの部屋は後藤一人だった。
モーニング娘。時代は大体がダブルだった。シングルだったときでも隣
の部屋に寝る直前まで行ったりして、一人でいることはあまりなかった。
今はメロン記念日が一緒に泊まったりするが、あの4人はもうグループと
して出来上がっていて、中に割って入る込むことはできなかった。
布団に入り、すぐ寝ようと電気を消して目を瞑るが、なかなか寝られない。
飛び起きて自分のバッグを漁り、睡眠薬を取り出した。
この1週間で4度目だ。
使い始めの頃は、あっという間に眠ることができ、感動モノだったが、
今は少し耐性がついたのか最初の時のようにすぐには寝られない。
飲む量を増やそうかと思ったときもあったが、大量に服役すると死ぬこと
だってあることぐらいは知っていた後藤は後藤なりに自制していた。
- 344 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時08分03秒
- 「死ぬ」とというワードから保田のことを思い出す。
「あと1週間か……」
後藤は指折り数えながら呟いた。
保田が自殺宣言を撤回したのは知っている。だけど、それが本当かどう
かは5日になってみないとわからない。
マスメディアは撤回したことで、興味がなくなったのか、殆ど話題にしなく
なったので、その後の動静は後藤もよく知らない。
後藤みたいに、撤回に疑問を持っている人だってメディア関係者の中に
は多くいるだろう。それなのに全然表立たないのは逆に不気味な気もする。
- 345 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時08分49秒
- 何が起こるかわからないのがこの業界だ。
金次第で情報なぞ、どうとでもなる。
保田の話題をもしかしたら何らかの圧力が情報をストップさせているのか
もしれない。
後藤には保田が死んだらどうしようという不安はなかった。
もちろん、死ぬわけがないと安心しているわけでもない。
保田の1週間後に興味を持ちながら、保田自身に対する感情がやけに
希薄な自分が不思議で仕方なかった。
保田のことを考えている間、ずっと手のひらに置いてあった真っ白な睡眠
薬を見た。
ベッド横の小さな棚の上に置いていたミネラルウォーターと一緒に、睡
眠薬を飲み込んだ。
そして、すぐに布団にもぐりこんだ。
- 346 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時09分40秒
- 額に手を当てると熱っぽかった。汗もじんわりと浮かんでいる。
風邪かな、と思った瞬間、吐き気が突然やってきた。
後藤は飛び起きてトイレに走る。
しかし、間に合わずにトイレの扉に向かって吐いた。
胃の中が空っぽになっても胃液がせり上がってくる。
吐瀉物の臭さと床の冷たさを感じながら、鼻水と唾と涙と胃液を床に
垂らす。
睡眠薬のせいなのか、風邪っぽかったせいなのかわからない。
ただとにかく、体の異変に後藤は必死に耐えていた。
助けてくれる人なんていない。
独りぼっちの空間で後藤はモーニング娘。時代を思い出しながら、吐き
つづけた。
- 347 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時11分36秒
- ◇◇
目を開けると白い天井が見えた。
お尻や背中がやけに痛い。起き上がろうとするとお腹がキリキリと痛む。
どうやら吐いたままその場で眠ってしまったようだ。
懸命に体を起こし、洗面所に向かった。
自分の顔が鏡に映る。
頬が影に染まっていた。
そのツヤのない頬を軽くポンと叩く。
憔悴してはいるが、そこまで体調が悪いわけではなさそうだ。
美味しいものでも食べれば治りそうだ。
「風邪だったのかなぁ」
独り言を呟いた。同時に風邪がすぐに治ってよかった、
そして、今日はライブがなくてよかったと思った。
午前10時に大阪を出発し、香川に向かう。
興行主のお偉いさんに挨拶して、ローカルのラジオ番組に出演して、今
日は終わり。
メロン記念日のみんなやスタッフのみんなと簡単な観光旅行ののちにホ
テルで一泊した。
朝、ひどかった疲れも、貰った風邪薬と美味しい料理のおかげですっか
りとれていた。
- 348 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時13分41秒
- しかし、夜、寝る直前になって再び吐き気がやってきた。
今度はちゃんとトイレで吐いた。
便器を抱え込んだまま眠りについた。
次の日も、夜、寝るときになると吐いた。
体は段々とつらくなる。鉛が胃の中に埋め込まれているようだ。
頭も偏頭痛のような痛みが止まない。
こんな日々が続くと、昼にもその余韻が残りはじめた。
それでも4月30日の広島でのライブも何とか終えることができた。
- 349 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時14分41秒
- 明日は久しぶりのオフだ。
夜は広島のホテルで一泊して、次の日東京に帰ることになっている。
後藤としては家に帰りたかったのだが、どう頑張っても終電には間に合
わないようで諦めた。
家の自分のベッドでなら、吐かずに寝られるかもと思っていたのだ。
その日もやはり吐いた。手足も痺れが生じてきた。
自分の体が自分のものじゃないような気がしてきた。
しかし、そんな様子の後藤に気づく人はいなかった。
風邪薬を貰った人に「風邪治った?」と聞かれたことはあったが、それ
以来その人は後藤の様子を心配する気配はない。
それは後藤の気丈さや演技力のせいなのかもしれない。
それとも、後藤の不調さを知っていて、ライブの障害になるからとあえ
て無視している人がいたのかもしれない。
- 350 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時15分50秒
- 胸の奥がぽっかりと空いたような虚脱感がやってきた。
こんなライブを続けて何があるというのだろう。
後藤はライブが好きだった。
ソロライブはモーニング娘。のライブよりお客を近くに感じられるし、MC
も自分の思ったことを比較的言えるので、魅力だった。
しかし、それも体調最悪でも働かなければいけないことにより、魅力は
削がれてきている。
お客は金蔓、歌は仕事。
それ以上でもそれ以下でもない。
感情は無視されたシビアな関係。
客は「騙されて」夢を買う。
後藤は「騙して」夢を売る。
その本質はモーニング娘。時代から何一つとして変わっていない。
いつしか後藤は「歌が好き」という気持ちを利用されているだけのような
気になっていた。
そんな理不尽さに苦しみながら、後藤はとうとう睡眠薬をいつもより多め
に服役した。
そのおかげか、久しぶりにベッドの上で眠ることができた。
- 351 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時16分53秒
- ◇◇
頭痛がいつもよりひどかった。
スッピンの顔、額にだらしなく「冷えピタ」をつけて、ホテルを出た。
途中で会ったメロン記念日の柴田あゆみに「どうしたの?」と聞かれた
が、「ちょっと頭痛くって」と言うと、「まあ今日休みだし、ゆっくり治してね」
と言われただけだった。
メロン記念日とは仲が悪いわけではなかった。
しかし、ここまで来る道のりの違いにお互いが見えないコンプレックスを
抱えていた。
そのせいで、友達と言えるほどの深い関係にまでなることはできなかった。
- 352 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時17分55秒
- 家に帰り、ただいまも言わずに自分の部屋に向かう。
パジャマにも着替えずにベッドに飛び込もうとしたが、その前に、いつも
常用していたサプリメントが机に置きっぱなしになっているのを発見する。
今回のライブ周りの時にバッグに入れるのを忘れていたのだ。
まじない程度のものだと聞いているが、後藤はこのサプリメントを飲むと
妙に気が軽くなっていた。だから、貰ってからは肩身離さず持っていたも
のだった。
後藤は2粒を手にとり、水も使わずに飲み込んだ。
そのままベッドに入った。すると吐くことはなく、ぐっすり寝られた。
- 353 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時19分16秒
- 目が覚めたのは夕刻辺りだった。
空がやけに朱色で眩しかった。
夢を見ていたことを思い出す。
おぼろげだったが、目を壁にやり、飾ってある風景の絵を見ることによ
り、はっきりとしてくる。
後藤は夢の中で、天使のような白い羽根を得て、飛び回った。
できるだけリアルに再現しようと目を閉じた。
暗闇がゆっくりと淡い色を帯びてきた。
ふんわりとした風が後藤の頬に当たり、苦悩とか絶望とか悲しみなど幸
福には不必要な感情をさらっていく。
草花が揺れ、生の息吹を得たように歌い始めた。
後藤の心は空と同じ半透明なパステルグリーンに染まり、明るすぎる輝
きを放ちながら笑う。
誰かが隣にいて一緒に笑っている。
その「誰か」は3人、4人と増え、後藤を取り囲む。
繋がれた手の温もりも、話しかけるその声もはっきりと感じた。
- 354 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時21分42秒
- その時、めざまし時計の音が遠くから鳴り響いた。
草原の中心部から亀裂が走った。
開いた世界はいつもの変わらない日常だった。
音を止めながら、後藤はあそこは空想でしか叶わぬ世界なのだと
気づき、涙を一粒落とした。
涙は光を集め、残像が残る草原のふわふわとした地面に落ちる。
夢は夢であるから美しいのだ。
儚いから美しいのだ。
無だから美しいのだ。
なぜ現実はこんなに重いのだろう。
苦しいのだろう。
孤独なのだろう。
無意味なのだろう。
空想はやがてガン細胞のような現実の黒色に浸潤されていく。
- 355 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時22分35秒
- 手に残ったのは幸福には不必要なものばかりだった。
それらを握り締めて、布団を叩きつけた。
ホコリが少し舞い、目に入る。
痛くてまた涙が出てきた。
しばらくシーツを噛みしめた後、後藤は起き上がった。
電池の切れた携帯電話を見つけた。帰ってすぐに充電しなければと思
っていたのに忘れていたのだ。急いで、充電器にとりつけた。
- 356 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時23分25秒
- 階段を下りると母親が寝そべりながらテレビを見ていた。
「おはよう」
母親はのそっと振り返りながら、「具合どう?」と聞いてくる。母親は後藤
の顔を少し見るだけで、調子が悪かったことに気づいていた。
「うん。ぐっすり寝たら、よくなった」
「そう。ならよかった」
後藤は母親がつまんでいるチョコチップクッキーを食べる。サクサクとし
た食感が美味しかった。
しばらく母親が見ていた芸能人が旅行レポートのような番組を何も考え
ずに見ていると玄関のチャイムが鳴った。
母親は「はいは〜い」と言いながら立ち上がろうとしていた。
しかし、座椅子に座ってテレビを見ていた後藤は母親よりも反応が早
かった。
「私が出るから」
そう母親を制し、玄関に向かった。
- 357 名前:赤い草原 第10話 夢想 投稿日:2003年07月16日(水)18時24分18秒
- ファンが押しかけてくる可能性もなくはなかったため、念のために、との
ぞき穴で誰がいるのか確認する。
すると意外な人物が神妙な顔つきで立っていた。
後藤はやや目を丸くしながら、急いで扉を開ける。
「市井ちゃん、どうしたの? 突然」
「いや、電話つながらなかったから。番号変えたの?」
「ううん変えてないけど……。あっ、そっか電池切れたままだった」
「そうなんだ」
「とにかく上がる?」
市井は少し目をキョロキョロさせながら、「うん」と頷いた。
- 358 名前:赤い草原 第10話 投稿日:2003年07月16日(水)18時26分25秒
>>164-357 (今回>>339-357)
→第11話 崩壊
- 359 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時42分41秒
- 第11話 崩壊
市井は後藤を久しぶりに間近で見たとき、その体の線の細さに目をみはった。
自分よりずっと大人びて見えた。
テレビで見ないようにしていると言っても、売れっ子の後藤だ。その姿は見たく
なくても自然と目に飛び込んでくる。
だから、全く今の後藤を知らないわけではなかった。
それなのに、市井は少なからずぞっとした。
市井は建て直した後藤の家に入ったのははじめてだった。後藤の部屋がど
こなのかわからず、後藤に連れられるままに入った。
部屋の中はなかなか綺麗だった。
後藤は部屋の片付けが下手なタイプで、床にはいつも散らかっているイ
メージだったので少し驚く。
「どうしたの?」
そんな様子を見て後藤が市井に聞く。
- 360 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時43分25秒
- 「あ、いや。片付いてるなって思って」
「まあ、後藤も大人になりましたから」
「……そっか、そうだよね。長いこと会ってなかったもんね。後藤も大人に
なったんだね」
少し寂しげに表情を曇らせる市井に対し、
「な〜んてね、ウソだってば。本当はお母さんが後藤の留守中に片付けて
くれただけ。どうもこういうのって苦手なんだよね」
と、後藤は舌をチラリと出した。
市井を邪険にしていない態度と昔の面影を見せてくれた後藤を見て市
井は少し安心した。
もちろん、保田の時の二の舞を演じないように、厚く引かれた防御線の
後ろ側にいることをしっかりと確かめながらであったが。
- 361 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時44分47秒
- 市井は机の椅子に座り、後藤はベッドに腰掛けた。市井は背もたれを前
にし、右に左にとくるくる落ち着きなく動く。
「そう言えば、市井ちゃんシングル出したんだったよね、おめでとー」
「あ、うん」
「売れるといいねー」
その口調からは売れるわけがないという含みがあったように市井は感じ
られた。
実際にはどうかわからない。
ただ後藤がどういう気持ちで言ったとしても今の市井には否定的な意味
に聞こえるのだろう。それほど市井は自信を失っていた。
「そうだね」
市井は適当な相槌を打つ。
「でさ、今日はどうしたの? 突然」
「う、うん。実はさ、この前、私、圭ちゃんに会ったんだ」
「圭ちゃん? 後藤のこと、何か言ってた?」
「えっと……後藤のことを圭ちゃんが心配してたみたいだから、それで……
私も心配になって……」
「圭ちゃんが心配してたの? それで様子を見に来てくれたの?」
「うん……」
「市井ちゃん、優しいなぁ。もう何年も会ってないのに」
「いや、そうだけど……」
後藤は飛び上がるようにぱっと立ち上がった。
- 362 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時45分25秒
- 「ありがと、市井ちゃん。でも後藤はこんなに元気です」
そして、ダンサーのようにくるりと一回転。
「そう。ならいいんだけど」
「そりゃあ確かに、最近ライブ続きで疲れてるけどね。忙しいのは仕方ない
し、ちゃんと楽しんでやってます」
その後、後藤はライブで起こったハプニングや裏話を楽しそうに話しはじ
めた。
市井は胸にチクリと針を刺されたような気分になる。小さなライブハウスで
さえ行うことができなくなった市井の現状を踏まえての発言に聞こえたのだ。
おそらく後藤はそんなことを思っていないだろうが、どうしてもそう考えて
しまう。
- 363 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時46分03秒
- また後悔が湧き上がってくる。
やはり保田と再会した時と何も変わらない。
自分を卑屈にさせるだけの存在に何故会おうとしたのか。「壊れている」
と思われる後藤に、自分は何を求めているのか。全く分からない。
市井は自分の愚かさを前にも増して痛感しはじめていた。
防御線の後ろできちんと身構えているのに、あまり効果はなかった。
市井は「壊れている」と言った保田の言葉の意味を知りたかった。
保田は誰かを特定してはいなかったが、まず間違いなく後藤のことだろう。
その後藤は、ライブをしっかりとこなし、明るい笑顔で楽しそうに市井に
話している。
これのどこが壊れていると言えるのか保田を憎みたくなる。
後藤はベッドに座り、幼稚にも足をバタつかせはじめた。
「後藤は、市井ちゃんのほうが心配だよ。なんか疲れてるっぽいし」
「そう? まあ私もそれなりに忙しいしねぇ」
「そうだ。ちょっと待って」
- 364 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時47分08秒
- 後藤は市井の言ったことも無視して、立ち上がり、椅子に座っている市
井に近づいてきた。
「何?」
市井に向かってきた手は市井を通り抜けて、机に向かった。
後藤が何を取ったのか市井は目を向ける。取ったのはビニール袋に
入っている薬のようなものだった。
「何それ?」
「栄養剤かな。一時期流行ってたじゃん。これあげるよ、結構効くんだよ」
「へぇ。こんなの飲んでるんだ」
「気休め程度だけどね」
そして後藤は袋から黄色と赤色のサプリメントを2粒ずつ取り出し、一気
に飲み込んだ。
ゴクンと飲み込んでから、まるでポパイがほうれん草を食べたときのよう
に、満面の笑みとともに、力こぶを作る。
- 365 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時47分57秒
- 「すごい即効性のある気休めだね」
市井は苦笑しながら、そんな後藤の様子を楽しんでいた。
後藤は袋を閉め、市井の手元に置いた。
「これ飲むとさ、ホント、結構元気になるんだよね。昨日までずっと家を離
れてたんだけど、これ忘れちゃってさ、ちょっとつらかった。よかったら飲
んでみてよ」
市井はその袋の中に入っている錠剤をしばらく見ていた。
遠い記憶と結び合わせて、血の気が引いていくのを感じていた。
その普通じゃない顔つきに後藤は眉をひそめた。
「どうしたの、市井ちゃん? なんかあった?」
「後藤……。これどうやって手に入れたの?」
後藤はぶっきらぼうに答える。
「忘れた」
市井は顔を真っ青にして立ち上がった。そして、手に置かれた袋を乱暴
に掴んだ。
- 366 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時49分03秒
- 「後藤、これ栄養剤なんかじゃないよ……」
後藤は首をかしげながら、まばたきを増やす。
「じゃあ何?」
市井は少し迷いながらも、その迷いを振り切るようにして言った。
「覚せい剤……だよ。ドラッグ……」
「ドラッグ?」
後藤は市井の言葉そのままに反復した。市井は唾をゴクリと飲み込ん
で静かに頷く。
「なんで、こんなの飲んでるんだよ」
「ちょっと待ってよ、市井ちゃん。なんで市井ちゃんにそんなことがわか
るの?」
市井はためらいつつも口を開く。
「私……モーニングをやめてから、ずっとつらくって、一時期、そういうのに
興味を持ったことがあって……池袋で外人から買ったのがこれみたいな
もんだった……」
- 367 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時50分50秒
- 市井は恐る恐る後藤を見た。
口ぶりからしてドラッグだと知らずに飲んでいたと推測される。だから、少
しは驚くことを予想していた。
なのに、後藤は表情を殆ど変えていない。
「ふーん。そうなんだ。気休めってわけじゃなかったんだ」
むしろ落ち着き払った後藤は市井に近づき、持っていた袋をやや強引
に取り上げた。そして言う。
「まあでも、市井ちゃんの買ったやつとは違うものかもしれないしね」
「後藤やめようよ。やばいよ」
「それに、市井ちゃんは止められたんでしょ。だったらそんなに危ない薬っ
てわけでもなさそうだし」
市井は後藤の肩を強引につかみ、首を横に振る。
「違う。私は、飲めなかったんだ。これを飲むとどうにかなってしまう自分
が怖かったんだ。だから買っただけで、すぐに捨てたよ……」
真剣に市井は後藤を見つめる。
しかし、後藤は「ふ〜ん、そうなんだ」とさらりと交わす。
「どっちにしろ、これがないと今精神的にしんどいし。やめないよ」
- 368 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時51分42秒
- 市井は意外な反応に焦りを覚える。
「何馬鹿なこと言ってんのよ。お願い、やめてよ……。ドラッグだよ。もし飲
んでるのバレたら捕まっちゃうんだよ。それに飲みつづけたら後藤、壊れ
ちゃうよ」
「何言ってんの、市井ちゃん?」
「何って……?」
「もうとっくに壊れちゃってんだよ、私。それくらいわからないの?」
後藤は肩をつかむ市井を振りほどく。
その拍子に市井は後方に尻もちをついた。
「市井ちゃんってつくづく臆病だよね。買ったけど飲めなかった? バッカ
じゃない? なんでそんなに勇気がないの?」
後藤は瞳に宿る冷たく青い炎で、市井を焼き尽くそうとする。そして、ドラ
ッグの入った袋を乱暴に掴み取り、市井の眼前に突き出した。
「な、何?」
薬と後藤の顔を交互に見ながら、市井は聞いた。
後藤が何をさせようとしているのかすぐにわかった。
額から汗が滲んだ。
- 369 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時52分51秒
- 「飲みなよ。世界変わるよ。なんていうか頭の中にずっと浮かんでいたモ
ヤみたいなものがパーッと取れる。鳴り止まなかった轟音が嘘のようにな
くなっていく。あとは自分の思うままの世界が描かれるよ。後藤の世界は
見たことのない草原だった。パステルグリーンの空。透き通った草花。何
もかもが柔らかくて、広大で後藤を包んでくれる。あそこに幻でもいいから
行けてよかった。壊れちゃったかもしれないけど、あの草原に行けてよか
った」
後藤の腕がグイッと伸びた。市井は顔を背けることができず、唇が後藤
の冷たい爪に触れる。
「後藤……」
市井の目は涙で潤み、瞼に浮かんだ水分はプルプルと震えていた。それ
を見た後藤は、大きくため息をつきながら、薬を自分の口に入れる。
「市井ちゃんはそんなに、壊れるのが嫌なの?」
ボリボリという音が後藤の口の奥から聞こえる。
破壊の音だ。薬を砕くと同時に、後藤は自らの心をも壊している。修復
不可能であるのを理解しても、恐怖など微塵も感じていない。
- 370 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時53分40秒
- 「嫌に決まってんじゃん……」
「ふーん。だけどね、市井ちゃんも、もうズタボロだよね。中途半端に再デ
ビューしちゃってさ、今回が最後の勝負なんでしょ? 絶対負けだよ。再
起不能。ノックアウト。カンカンカン。人生終了。これからどうすんの? 首
切られて、それでも歌で生きてこうと思ってんの? 行けるわけないよね。
後藤はね、最初から分かってたよ、市井ちゃんが成功するわけないって。
後藤だけじゃない、他のみんなもそう思ってたよ。思ってなかったのは市
井ちゃんぐらい。ホント、馬鹿だよね。馬鹿で馬鹿でどうしようもない人間
だよね、市井ちゃんって」
後藤は市井を責めまくる。
市井は自分の引いておいた防御線をいつの間にか乗り越えていた。
後藤に強引に引きずられたのだ。
後藤の声が鋭いトゲとなってストレートに市井の劣等部分を突き刺す。
赤いものが内部から噴出す。
何も言えず市井は立ち尽くした。
図星だからだ。
- 371 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時55分33秒
- 市井は全てを失いかけている。
残ったものは過去のまがい物とさえ言える栄光と、そんなものを拠り所
にした傲慢というべき腐ったプライド。
誰だって市井はダメだって知っている。
かろうじて呼吸をしてはいるものの、人生はもう終わってる。
後藤の叱責は延々と頭の中で鳴り響く。鳴り止まないどころか増幅する。
後藤に慕われていたという今では考えられない過去が残酷に赤く染まっ
ていった。
市井のズタボロの心が拒絶反応を起こした。
先に市井の記憶の中でのみ生きている髪の短い黒髪で幼顔の後藤が
何も言えない市井の代わりに絶叫した。
呼応するように市井は言葉になっていない叫び声をあげて、後藤に飛び
掛った。
後藤と市井の体は後方のベッドに投げ捨てられる。
その「ダメ」と責める口を塞ぎたかった。市井を奈落へ引きずり込もうと
するその手をもぎ取りたかった。
- 372 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時56分46秒
- しかし、腕力さえも後藤のほうが上だった。
市井は後藤めがけて飛びかかったが、やがて体を入れ替えられ、後藤
の体が市井の上に乗る格好になった。
そのまま細く伸びた指で首を締め付けられた。
後藤はドラッグのせいかやけに気分が発揚しているようで、目が血走っ
ていた。
力加減を制御できないようで、薄い桃色をした爪がどんどん喉元に食い
込んでいく。
苦しみと痛み、そして後藤が市井を見る目が市井の体も心も拘束していく。
市井の意識が白く霞んでいった。死へと続く階段を着実に上りながら、
本能的に生きたいと必死でもがいているとき、後藤の声が聞こえた。
「市井ちゃんはもうずっと前に死んでるんだよ。生きてるなんてみっともな
いよ。今の市井ちゃんは未練たらたらの亡霊。後藤にとっても恥ずかしい。
だからね、ちゃんと後藤が殺してあげる。浄化させてあげる。次に目を開
けたとき、きっとそこは天国だよ。だから安心してね」
- 373 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時57分45秒
- 市井の耳に届いたかどうかはわからない。
何時の間にか市井は抵抗を止めていた。
青筋が浮かぶ後藤の額には汗が浮かんでいた。対照的に市井の体は少
しずつ体温を失っている。
それでもなお、後藤はしばらく力を振り絞って喉を締め続けた。
爪が食い込んでいた市井の喉から血が滲みはじめたのを見て、後藤は腕
の力を緩める。
ピクリとも動かない。真っ白な目と青紫色に変色した顔がベッドに横たわっ
ていた。口の端から唾液の泡がこぼれそうになるのを後藤が掬った。
後藤はハァハァと息を乱しながら立ち上がった。そして市井に向かっ
て言う。
「まあ、私もとっくに死んでるんだけどね」
手が病的なくらい激しく震えだした。後藤は床にガクリと膝を落とし、拳を
作って、床に叩きつけた。
痛みを感じられるまで何度も叩きつけた。手の甲が赤く腫れ上がっている
のを見て、やめた。
- 374 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時58分51秒
- 「そう。生きてるなんてみっともないんだよね、圭ちゃん……」
後藤はこれがドラッグであることは薄々勘付いていた。サプリメントなん
て所詮は栄養補助食品であり、こんな劇的に体が高揚したりはずがない。
一度、コンビニで売っている安価のサプリメントを食べてみたが何も変わ
らなかった。明らかに質が違うどころではない、全く異質なものであること
を知っていた。
知っていながら後藤はサプリメントだと思い込むようにしていた。
「……」
後藤は市井の黒目のない顔を見た。そして、第一期プッチモニのことを思い
出した。
そして、あの頃を懐かしく思えば思うほど、後悔が押し寄せてきた。
あの時、自分たちが輝いていなければ、今はもうちょっと普通に生きて
いられたのかもしれない。
どうして、人は栄光の影の惨めさを見ずに、栄光だけを求めようとするの
だろう。栄光の先がいかに惨めなものかを考えずに、永遠に続くと思って
しまうのだろう。
- 375 名前:赤い草原 第11話 崩壊 投稿日:2003年07月27日(日)07時59分27秒
- 今後藤たちが競っていることは「誰が一番上か」ではなく「誰が一番下で
はないか」だ。つまり影の濃さを競っている。不毛な争いだ。
しかし、そのレベルでしか今の自分たちは競うことができない。
後藤はドラッグの入った袋をポケットに突っ込んだ。
後藤は一つ市井に嘘をついた。ドラッグの入手先はしっかりと覚えてい
たのだ。
痩せ衰える体とは対照的に、心はまるで残りの生命を全て焼き尽くそう
としているように、異常に燃え立っていた。
それは怒りとは全く違う透明なエネルギーだった。
- 376 名前:赤い草原 第11話 投稿日:2003年07月27日(日)08時01分50秒
>>164-375
→第12話 未来
- 377 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月17日(日)10時21分48秒
- おもしろいです。
続き待ってます。
- 378 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時14分21秒
- 第12話 未来
石川は自殺しようと考えたことは今まで一度としてなかった。
苦しいことなんて何度もあった。ずっと泣いていたこともあった。
しかしそんな時でも死のうなんて心の片隅にも抱いたことはなかった。
死ぬことで得られるものなんてない。死なれることは悲しみしか生まない。
ずっとそう思っていたし、学んできた。
石川は周りの人間が死んだという経験がない。祖父も祖母も父方母方
とも元気だ。だから、死は悲しみしか生まないというのは、家族や周りの
友達、仲間からの経験談や、映画や漫画での感情移入から得た結論で
しかなかった。
それでもその結論は正しいと確信を持って言えた。
- 379 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時15分14秒
- 「間違ってる……」
壁に貼られたポスターを見ながらぼそりと呟いた。
生きることは素晴らしいことで、死ぬことはもっともつらいこと。何の疑い
を持つこともなかった。そして、これからもない。
真昼間だというのに部屋の中はカーテンによって外の光が遮られている
ので暗かった。空気が真っ黒なオリのように澱んでいた。
寝ることができなかった。寝れば一日が過ぎてしまう。一日が経つというこ
とは5月5日に近づくということ。それは保田が死ぬということを意味する。
石川は時が経つのを絶望的な気持ちで見届けていた。呼吸をすることさ
え、時を動かしているような気がして、つらくなった。
- 380 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時15分56秒
- 自分の部屋に篭り、目の下にクマを作りながら、誰とも会わずに保田が自
殺しないようにするにはどうしたらいいか考えていた。
保田は華々しく散ろうと考えていることはわかった。
5月5日に何かしようと言うのだろう。そのために保田たちは何らかの計
画を練っていた。華々しくさせないための方法なら簡単だ。「保田は本当
に自殺する」とどこかにリークすればいい。
うまく広まれば、計画は潰れる可能性が高い。
しかし、それは何の解決にもなっていないことにも気づいていた。
石川がしなければいけないことは、保田たちの計画を壊すことではない。
自殺させない方法を考えることだ。
石川は頭を抱えた。
何度も保田との思い出が甦り、気が狂いそうになる。
こんな思い出なんて忘れてしまえればいいのに、とさえ思った。
- 381 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時17分27秒
- 保田は石川のモーニング娘。加入当初の頃は教育係として石川を指導し
てきた。
厳しい人だった。しかし、その厳しさの中に何倍もの優しさがあった。
そんな保田を心から尊敬した。
卒業すると聞かされた時、心から泣いた。
繰り返される強制的な脱退劇にモーニング娘。というグループへの失望さ
え感じるようになった。
しかし、保田はその時言った。
「あんたは将来モーニング娘。を引っ張っていく人間なんだからね」
一生懸命生きるしかないんだと思った。どんな状況に置かれても、しっ
かり前を見て、進むしかないんだと思った。
しかし、その支えとなった保田が本気で死のうとしていることを知って、
石川の中で心の支柱だった部分が脆くも崩壊した。
今まで保田から教わったこと感じたことの全てが否定された気がした。
矢口は「狂っている」と言った。保田や矢口自身はもちろん、石川をも
「狂っている」と指摘してきた。
石川は拳を丸めながら、首を強く横に振り「私は狂ってなんかいない!」
と叫ぶ。
- 382 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時17分58秒
- 敵は保田の中にいる。
どう向き合い、どう戦えばいいのかわからない。
石川は携帯電話に手を伸ばした。そして、慎重に文字を打ち込んでいく。
画面には矢口が作ったサイトが映っている。携帯からでもアクセスができ
るようだ。
更新があった。石川は息を飲みながら、画面をスクロールしていく。
「わかんないよ……」
涙が出てくる瞼にぎゅっと腕を押し当てた。
- 383 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時19分29秒
- ◇◇
今日もカメラが回っている。
矢口も保田もその存在を知っていながら無視をする。
昼3時。保田は朝方のソロ仕事を終え、矢口の家に直行していた。
「圭ちゃん、知ってた? 卒業の時にファンのみんな、赤いサイリウムを
振るんだって」
矢口がタバコを吸っている保田に声をかけた。
保田はどこか放心状態で天井に昇っていく煙を眺めていた。
矢口に声をかけられ、保田は緩慢に体を矢口に向けた。
矢口はパソコンの前に立っていた。
保田はタバコを灰皿に押し当てた後、矢口に近づき、画面を覗く。書かれ
ている「計画」を通読して、「へぇ」と感心した声をあげた。
「面白いことやるもんだね」
「オイラたちのタンポポ卒業の時、黄色に染まったじゃん。あれと同じこと
やるんだね」
「でも、なんで赤なんだろ?」
「圭ちゃん、赤色が好きって言ってたじゃん」
「あ、そうか。でも成功するかなぁ……。だって横浜アリーナよりずっと広い
会場だし、何より私の卒業だし」
「どうだろ。でも赤く染まったら、感動しようね」
「で、その後、私は死ぬと。なんていうか、血の海だね」
保田は皮肉をこめて笑った。
- 384 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時20分53秒
- 矢口はまだまだ覚えなければいけないことがあるようで、小難しそうに眉間
に皺をを寄せながら、本を読んだり、画面を見たりを繰り返している。
保田はちらりと二人の様子を捉えているカメラを見た。
「さて、あと5日なわけだけど、今の心境は?」
突然、矢口はくるりと椅子を回転させながら、あたかも手にマイクを持っ
ているような構えをして、突き出した。
明らかにカメラを意識した発言だ。
「卒業のこと? それとも――」
「じゃあ卒業」
「卒業ね。まだ実感ないかな。多分、当日まではあんまり変わらないんじゃ
ないかなぁ」
「そういうもん?」
「卒業って案外当人より周りのほうが泣いちゃうことがあるでしょ。裕ちゃん
もごっつぁんの時もあんまり泣かなかったし。私もそうなのかなぁって。ヤ
グチも卒業するときはわかるかもね」
- 385 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時22分03秒
- 矢口は保田の言葉にやや表情を曇らせる。どうしたの? と言いたそうな
保田に対し、すぐに「なんでもない」と首を振った。
「じゃあ自殺するって実感は?」
「それもない。不思議なほどないねぇ」
「なんでだろ?」
「多分、自殺だからだろうね。未練もあんまりないし」
矢口は何かを言いたそうだったが、直前で止めたらしく、一つ咽たような
咳をした。そして、再びパソコンの画面と向き合いはじめた。
保田は話し相手のいなくなったことで近くにあった先ほど矢口が座ってい
たソファに横になった。
膝より下が折り曲げられて仰向けになる。部屋の蛍光灯が眩しくて手で
目の上を覆った。
- 386 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時22分56秒
- そんな風な怠惰な時間に身を置いていると、ポカンと空いた思考の中に
今日の新聞に書かれていた記事のことが入り込んできた。
自殺宣言をして以来、保田は新聞を軽くながら目を通すようになっていた。
思い出しているのは4コマ漫画の下のほうに書かれた「自殺」という文字だ。
小学6年の少年が学校の屋上から飛び降りたという記事だった。
保田は以前に手紙を送った人間だと直感した。顔も知らないその気弱な
少年の姿を思い浮かべる。
記事には遺書が遺されていると書かれてあった。
きっとただの遺書ではないのだろう。
遺書の存在を示しながらその中身に触れないという書き方の曖昧さが、実名
入りでの数々のいじめの行為を克明に書いてあったことを推測させる。
- 387 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時31分04秒
- この少年は保田に命を委ねていた。
自殺宣言をしたことで、何を見出そうとしていたのだろう。そして撤回し、元
に戻ったことで、何が変わったのだろう。
少年は生きる勇気も死ぬ勇気もない劣等種だった。そんな人間に保田と
いう存在は大きく影響を与えた。
仲間意識なんてものがあったのかもしれない。周りが全て敵で、孤独だった
少年にとって、保田の宣言は「仲間だよ」と言ってくれたようなものだったのか
もしれない。
そうだとしたら、宣言撤回は「絶交」に当たる。
つまり、少年は最初で最後の仲間に裏切られたため、絶望に朽ち、死んだ
ということになる。
謝る気持ちなんてない。
少年は死にたかったから死んだのだ。むしろ少年を称えたい。なぜなら、こ
れは少年の初めての意志であり、自分の劣等さを打破した瞬間だったからだ。
結果、それが最後の意志になってしまっただけだ。
- 388 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時32分03秒
- 「どうしたの圭ちゃん?」
保田の様子が端から見ておかしかったのだろうか、矢口は一区切りつけて
保田に顔を向けるとすぐにそう声をかけた。保田は我に返り、「なんでもない」
と前置きした上で呟く。
「私が死ぬことで人々にどれだけの影響を与えるのかなぁって思って」
「そりゃあ結構あるでしょ。とりあえずオイラは泣く」
「じゃあ手伝わないでよ」
保田は苦笑した。矢口もつられるように苦笑しはじめる。
そんな矢口を表層上では微笑ましく思いながら、その裏では不思議そうに
見遣る。
- 389 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時34分22秒
- 矢口にこの自殺計画を話したのは1月末のことだった。
話したというよりも、言ってしまったと言うほうが正しい。
その日、保田は石川の十八歳と矢口の二十歳の誕生日を祝おうという
ことでフランス料理店に誘った。矢口に似合うカクテルを頼んだり、お花
を用意したりなど、色々な演出をしてあげた。
その後、お酒の飲めない石川とは別れて二人きりでカクテルバーに行っ
た。矢口と初めて一緒にお酒を飲めるということでひどく上機嫌で、いつも
より多く酒を飲んだ。
バーを出て、保田の家でもう一飲みしようと決め、寒空を歩いている途
中、保田は宙に浮いた意識で矢口の小さな肩にもたれかけながら呟いた。
「私、自殺しようと思ってるんだ」
目覚めたとき、隣に矢口が眠っていた。
少し寝惚けているのを直そうと頭を軽く叩いている時に、矢口に自殺しよ
うとしていることを言ってしまったことを思い出した。
酔っていたとはいえ、なぜこんな重大なことを言ってしまったのだろう、と後
悔し、青ざめた保田は矢口に目を向けた。深刻そうに息を飲む保田とは対
照的に矢口はスヤスヤと無邪気な顔で眠っていた。
- 390 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時37分11秒
- しばらくして矢口は起きた。
どう確かめればいいか迷っていると、矢口は目をこすりながら「おはよう」
と気だるそうに声をかけてきた。保田はピンと張った緊張を隠し、同じよう
に「おはよう」と返した。
あくびをしながら、立ち上がりトイレに行こうとする矢口の背中を見なが
ら、昨日のことは矢口も覚えていないのだ、と安心しかけた時、矢口は振
り向いて言った。
「さすがに驚いたけど、仕方ないよね。オイラにできることがあったら言っ
て。手伝うから」
「何のこと?」
「オイラは圭ちゃんが何をしようとも味方だよ」
一気に血の気が引いた。知られたのだ。
しかし血の気が引いたのは知られたからというだけではない。驚愕とも言
える保田の意志を聞き、それを保田の本気の意志であると認めながら、矢
口には何の衝動も与えなかった――ように見えたからだ。
もちろん本心はわからない。ひどく動揺しながらも隠しているのかもしれない。
自殺の意志を話してしまってから、一晩経っているわけだから、冷静になって
考える時間もあったはずだ。「手伝う」と騙しておいて、何とか自殺を食い止めよ
うとしているのかしれない。
- 391 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時40分26秒
- そう思い、最初のほうは警戒心を持って接していたが、今日までそんな怪し
い様子は見当たらなかった。
そして、実際に保田は矢口に色々助けてもらっている。矢口がいないと
できないこともあったし、精神的にもつらかったかもしれない。
保田はそんな矢口に感謝しつつ、一方では恐怖に似た感情がどんどん
膨らんできていた。
まるで自分の心が操られているような感覚が5月5日までの期間限定の主
人公である自分の存在を脅かしている。そんな気がするのだ。
- 392 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時41分22秒
- 「また考え事? 最近多くない? カオリみたいだよ」
そう言って笑う矢口はいつもの矢口。「笑いの絶えない生活」が一つの夢で
ある矢口は誰よりも大きな声で誰よりも高らかに笑う。それは梅雨明けの夏空
のように爽やかなとびきりの笑顔だ。
そんな笑顔を見て、保田は何を考えてるんだ、とモヤモヤとしたものを強引
に掻き消した。
自分が自分であるために今矢口とくっついているのだ、矢口は純粋に手伝
ってくれているのだ、と自分を諌める。
保田は矢口に気づかれないように小さく深呼吸をしながら、カメラに目を向
けた。「あんまりカメラを意識しないで」と矢口に事前に言われたがその命令を
破った。
- 393 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時43分05秒
- 「ヤグチはすっごいいい子だから。お願いします。許してやってください」
矢口は眉をへの字にして、「何言ってんの?」と優しく睨み、立ち上がる。
145センチの上背がやけに大きく見えた。
「いやね、一応言っておかないと。やっぱり」
訝しげな顔をした矢口はそのまま置かれているカメラのほうに向かい、
電源を切った。
「別に許してもらわなくたっていいよ」
「この前はさ、冗談ぽく言ったんで流されちゃったけど、ホントに私が死ん
だらどうすんの? 色々聞かれるよ。多分……逮捕とかされると思う」
保田は聞いた。
矢口は「何、いまさら?」と外人ぽく肩をすくめながら鼻で笑う。
- 394 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時44分09秒
- 「考えていないけど。とりあえず圭ちゃんが生きていたってことを証明するよ」
保田は矢口の顔から目をそらさない程度にゆっくりと首を横に振る。
「……やっぱりわかんない。なんでヤグチがこんなに協力してくれるのか」
そう言った瞬間、自分が言ったことが意外に大きな意味があるような気がし
た保田は無意識的に息を飲んだ。
矢口は少し考えたポーズをしてから口を開く。
「圭ちゃんが好きだから。これでダメ?」
保田には矢口の口調がわざとらしさを含んでいるように見えた。本心は見
せないということを主張しているようだ。
「ダメ」
「なんで?」
「好きなんて曖昧な答えじゃ納得しない」
- 395 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時48分52秒
- 矢口は保田に近づき、後ろから優しく抱きついた。そして、耳の裏側を舐める
ようにそっと囁く。
「正直なところオイラにもわかんないんだよね。昨日ね、梨華ちゃんになんで手
伝ってるのかって怒られちゃったよ。結局さ、オイラもよくわかってないんだ。
なんていうか実感がないんだよね。ずっと夢の中にいるみたいで、ふわふわし
てて、ある瞬間になったらぱっと目覚めて今までのことが嘘になっちゃうんじゃ
ないかって時々思うんだ」
「嘘?」
「うん。オイラがモーニングに入ったことも、圭ちゃんやみんなに出会ったこと
も、ぜーんぶ嘘になるんだ」
「本当に嘘だったら、どうなるの?」
「わかんない。ただ、ああ、夢だったんだなってちょっとガッカリして終わりだ
と思う。夢なんてそんなもんでしょ」
- 396 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時49分53秒
- 固くなっていた表情が少し緩む。
似ていると思った。自分との大きな違いは、夢というものに置き換えている
ことだ。夢だから嘘なのではない。現実こそが嘘なのだ。
矢口の言葉に混じった静かな息遣いと、温かな体温と、電池切れ間際の
時計の針のようなゆっくりとした鼓動が保田に伝わってくる。
この感触たちも嘘なのかもしれないね、と心の中で呟きながら、保田は首に
巻かれた矢口の腕にそっと触れた。
- 397 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時50分53秒
- 「そう言えばさ、昨日あれからどうなったの? 石川からも連絡来てないし、
少し不気味なんだけど」
矢口はぱっと体を離した。矢口の腕や胸の感触が消える。一瞬の不安感か
らか保田は振り返る。矢口のニヒルに染まったアヒル口が見え、軽く汗が引
いた。
「適当にあしらっといたよ」
その後、矢口は昨日保田が帰ってからの会話を要約して説明した。もし、
石川がこのことを他のメンバーに話したらどうしようと思っていたので、その
気持ちを矢口に素直に打ち明けた。
保田は石川の行動次第ではライブが中止になるという事態も覚悟していた。
しかし矢口のほうはと言えば「ま、なんとかなるんじゃない? 大丈夫だ
って」と至極楽観的にその心配を笑いとばした。
確かにあれから石川からは電話がかかってきていない。
他の誰からもかかっていないということは、言いふらしてはいないと推測される。
もっともまだあれから12時間程度しか経っていないし、実際に矢口以外のメ
ンバーと会っていないのだからわからないが。
- 398 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時53分11秒
- 矢口は「疲れたしちょっと寝るね」と告げ、ソファに身を沈めた。矢口の身長だ
と二人で座るぐらいのソファでも十分に足を伸ばして寝られる。
置かれていたファッション誌を適当に開いて顔の上に載せ、胸の上で手を
組むようにして寝はじめる。Tシャツが少しめくれ、フィットネスの専門家をも
唸らせる見事に割れたお腹が見えた。
何となく滑稽な光景だな、と苦笑した後、保田はパソコンに触れ、矢口の
作ったサイトを開いた。そして手を動かしはじめた。
- 399 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)07時55分00秒
- 『死のうと思ったのは、結構前のこと。
最初は特に具体的ではなかった。
だけど、段々とその思いが強くなった。
別に卒業するから自殺しよう、というわけじゃない。
もちろん卒業させられるからというわけでもない。
卒業は理由じゃなくて、きっかけ。
いくつもの疑問を乗り越えることなく時は進んだ。
聳える壁には目を瞑り、襲いかかる敵には背を向けた。
ありもしない翼を広げて飛んだ気になって、いるはずのない分かりあえ
る人と会話を交わした気になって、届くはずのない人の心に向けて歌を
歌った。
そんな自分を恥ずかしいと思った。
私が見ている現実は全て幻覚だった。
正しいことなんてなかった。確かなものなんてなかった。
- 400 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時02分46秒
- 生きることに何の意味がある?
いくつもある疑問の中で、この疑問がいつしか私に常に襲い掛かっていた。
考えても考えても答えは見えない。
意味のないものを排除していったら、虚しさだけが残った。
生きることは虚しさの集合体にすぎなくなった。
どんどん惨めになっていった。
残った虚無感ばかりが私を支配した。
この解答のない命題の中で、取りうる行動は二つある。
一つは、誤魔化すこと。
そしてもう一つは否定すること。
前者は誰もがやっている消極的な行為にすぎない。
誤魔化すなんて、「思考」を獲得した人間の進化に対する反逆行為だ。
だから私は否定する。
生きることの無意味さを認めて、未来へと旅立つ。
(保田圭 03/5/1 12:22)』
保田はなんか下手な哲学者だね、と苦笑しながら、リターンキーを押した。
- 401 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時03分40秒
- ◇◇
5月3日。3連休の初日。
自分の部屋で眠っていた保田は矢口の電話で目が覚めた。「リンク貼っ
といた」とのことだった。
朝起きてすぐに矢口の作ったページを確認した。カウンターは五桁まで
到達していた。前日は1444だったからもう大分アクセスがあったことになる。
今日公表することにしたのは、5月5日までに事務所の関係者の目に入
るか入らないかギリギリのところだからだそうだ。
保田としてはもっと事前に告知しておかないと広まってくれないと考えて
いたが、矢口はモーニング娘。のファンのネット依存度が大きいことを指
摘し、3日もあれば、事務所の人間に目に留まり、ライブ自体に保田を出
させなくするには十分だという推算をしていた。
- 402 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時10分19秒
- もう一つ。連休中はマスコミだって人手不足だ。
他の芸能人が平日以上に話題を提供してくれるだろうし、レポーターた
ちもそっちに飛んでいくだろう。
ネット上の他愛も無い噂など、もし目に入ったとしても、その真相に時間
と労力を割こうとする可能性は少ないと見たようだ。
保田は何か書いておこうと思い、キーボードに両手を載せた。しかし、先
日以来、「思い」を文章として起こすことに苦手さを感じており、何を書けば
いいのか頭の中で上手くまとまらなかった。
結局、一分ほどの硬直の後、書くのを諦めた。
一つ大きく息をついて、パソコン台の横にある保田にはあまり似合わな
いかわいらしい化粧台に腰を降ろした。
朝の惰性的な静けさが顔に僅かな陰影を残している。保田は眉間のあ
たりを一度強く抑えてから、改めて自分の顔と向き合った。
- 403 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時11分19秒
- ずっと昔。モーニング娘。に入る前。
保田は自分の顔が気に入っていた。美人だと思っていた。実際、地元
の同級生にはそれなりにモテた。
だが、モーニング娘。もとい芸能界に入って保田は不美人のカテゴリー
に入れられた。
ずっとそれを認めることができずにいた。
頭では分かっていても、心のどこかで自分が安倍や後藤のようにトップ、
センターで活躍できる日がいつか来ると願っていた。
しかし、そんな願いは気が付けばなくなっていた。あの頃抱えていた野望
を捨て、自分の居るべき場所を認めた。妥協したと言ってもいい。
- 404 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時15分05秒
- 額と手の平に汗を感じた。
保田は生きる代償として自分を捨て続けた。そんな自分を、それでもいい
と慰めた。そうして、22歳の保田圭は完成した。
ぬるぬると湿った手を強く握り締める。
嫉妬がなかった、なんて言えば嘘になる。
だが、嫉妬が原因で、と思われるのだけは勘弁してほしかった。
保田が安倍や後藤に向ける嫉妬なんて、妥協できるほどの小さななもの
だからだ。
- 405 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時15分38秒
- 確かにもし自分が安倍や後藤のような立場にいられるならば、周りを否定
しなかっただろう。生きていることについて矛盾を感じなかっただろう。
だからこそ、こんな自分に生まれたことに保田は感謝する。目に見えない大
きな力に流されるだけの大衆思想が隆盛する社会から抜け出せる方法を見
つけたのだから。
保田は周りを否定した。
偽物の世界によって、腐りかけた自分を取り戻すために。
本当の自分を見せるために。
仮面を被りつづける周りの人間を嘲笑うために。
そして、本当の自分を殺して、笑っていられることへの愚かさを教えるために。
- 406 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時16分20秒
- 保田は何の気なしに窓を開けた。
穏やかな風が頬を撫でていった。
朝日が網膜を優しく刺激した。
もう5月に入った。桜は散れども春盛りといったところ。
今日は晴れ。
最後の日までずっと晴れてくれたらいいなと思いながら、少し速めに打つ
脈を落ち着かせようと意図的に深呼吸をし始めた。
- 407 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時22分08秒
- ◇◇
集合場所である都内のスタジオに入るとメンバーやスタッフがいた。
新メンバー3人も固まって鏡の前に座ってお喋りをしていた。
保田が顔を出しても、挨拶どころか気づいてさえいないようだった。
とりあえず辺りを見渡すが石川はまだ来ていないようだ。
キョロキョロしている保田に「どうしたの、ケメちゃん?」とストレッチを
していた辻希美が遠くから話し掛けてきた。
「ううん、何でもない」
矢口のラジオ番組で作った黒Tシャツを加護とお揃いで着ながら、辻が近づ
いてくる。
まっすぐに伸びた前髪はつや出しのワックスを塗ったかのようにテカテカと
光っていた。
保田はそんな辻を可愛く思い、その前髪を梳くように頭を撫でた。
- 408 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時23分04秒
- 「梨華ちゃんなら別の仕事。後から直接さいたまに来るってさ」
背後から突然声が聞こえて、保田は慌てて振り返った。矢口だった。
軽く飛び出た心臓を手でぎゅっと押し込めてから、「そうなんだ」と適当に
相槌を打つ。
矢口はシニカルに笑いながら保田の肩を背伸びしながらポンと叩いた。
「それよりケメちゃんさ――」
保田の背後に突っ立ったままだった辻に声をかけられ、またしても保田
は慌てて振り返る。
その腕に辻は全体重をかけるように腕を絡めてきた。
これは辻なりの保田に対する愛情表現だ。
少し先を見ると、加護がどことなく悔しそうに保田と辻を見ていた。
二人とも何も変わっていない。しいて言えばナーバスになっているようだ
が、それは明日、明後日の卒業ライブのせいだろう。
- 409 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時24分25秒
- 保田は右腕に重みを感じながら、再び辺りを見渡した。
珍しく遅刻せずに赤紫色の、田舎の中学校で学校指定になっていそうな
上下ジャージを着ている安倍を見つけ、話し掛けた。
安倍はウォークマンを聞いていたようだ。少し鈍い反応で、「何?」と聞き
返す。
いつもの安倍だった。
辻加護ほど神経質にはなっていない分、一層いつも通りだった。
「ううん、なんでもない」
首を横に振って、スタッフが集まっているところにいる矢口に自然に目を
やった。
すると矢口と目が合った。
――ほら言ってないでしょ。
そう言っているような目だった。
- 410 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時25分26秒
- ◇◇
リハーサルを前日にわざわざ会場を借りて行うのは久しぶりだ。
後藤の卒業ライブの時だって当日(正確には横浜アリーナ3daysという
日程だったのでその初日ということだ)に軽い打ち合わせをして臨んだ
だけだった。五期メンの初お披露目は姫路の野外だったのだが、雨のた
め到着が遅れ、時間がなくなってしまったので殆どぶっつけだった。
記憶違いがなければ、石川たち四期メンバーのお披露目以来というこ
とになる。
前日ということで六期を除いたメンバーは心地よい緊張感を持ったまま
でリハをはじめた。
ここ、さいたまスーパーアリーナはモーニング娘。が今までで行ったライブ
会場の中でも屈指の大きさを誇る。
ガラガラだったマリンメッセ福岡の3倍近くもある。
チケットは順調に売れていると聞いてはいたが、この大きな会場を前にして
小さかった不安がそれなりに大きくなるのをメンバーめいめいが感じていた。
- 411 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時28分07秒
- しかし、心配していても仕方が無い。やるべきことは多い。
六期メンは何もかもが初体験だ。出るのはたった一曲(ラストは二曲)だとし
ても、右も左も分からない六期メンにとっては覚えることが他にもいっぱいある。
段取りが全く分からずに少し涙ぐむ亀井を見て、矢口は「私の時よりちゃん
とやれてるって」と先輩顔でフォローしたりしていた。
まず、まだ来ていない石川のポジションにスタッフを入れて、「Do it! Now」の
位置の確認をした。
ちゃんとした会場でやるのはこれが初めてだ。フォーメーションが変わる
とやはり戸惑う。六期メンバーはもちろんだが踊りなれている現メンバー
も覚えるのに必死だった。
困惑しつつも、一度通しでやってみようとする時に、石川がやってきた。
- 412 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時29分27秒
- 「梨華ちゃん遅〜い」
舞台袖から現れる石川を加護が口を尖らせながら一番最初に出迎
えた。
石川は矢口と保田の方向に一瞬顔を向けたが、
「遅れてすみませんでしたー。よろしくお願いしまーす」
と、目に入る全ての人に頭を下げた。
何も変わった様子のない石川を尻目に保田は不思議そうに矢口を見た。
矢口は何も言わない。ただ目で何かを言おうとしていることに気づいた。そ
れを読み取ることができるのは同期としての強い絆のおかげか、それとも黒
く染まった残酷な絆のおかげか。
リハーサル中、保田はちらちらと石川の様子を窺うが、石川のほうはといえ
ば、全くと言っていいほど保田と目を合わせてこなかった。
意識的に合わさないでいるわけでもない。
ただライブを成功させようとリハーサルから一生懸命になっている生真面目
な本来の石川梨華だ。
- 413 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時30分07秒
- しばらくするうちに、コレオグラファーの夏まゆみ先生から保田に向けての
お叱りの声が飛んだ。集中していない保田を目ざとく見つけたのだろう。
「圭ちゃん、ボケるのは早いよ」
矢口が背中を小さくする保田に、台風一過の晴天のようなあっけらかん
とした笑いを飛ばす。
安倍やみんながつられて笑い出す。顔を少し赤くしていた夏先生も次第に
相好を崩す。
いい雰囲気だった。
保田の立てた波など忘れてみんないつも通りに戻っている。
後藤の時と同じように保田を温かく送ろうとしている。
- 414 名前:赤い草原 第12話 未来 投稿日:2003年08月18日(月)08時31分08秒
- そんな中、誰より早くシリアスな表情をしたのは保田だった。
この広い空間で、明後日自分は主人公になる。それも卒業なんていう
定例行事ではない。
いつも通りの笑顔といつも通りの涙は悲しく壊れ、本当の姿が現れる。
想像によって作られる一歩先の未来が保田から笑顔を奪った。
ステージを照らす照明と各々の熱気のせいで汗が顔中に浮かぶ。
熱いものが顔の輪郭を伝い、口の中に入る。
それは涙とは違う、しょっぱくない無色の水滴だった。
- 415 名前:赤い草原 第12話 投稿日:2003年08月18日(月)08時33分30秒
- どうやら容量がギリギリ足りないらしい。どうしよう…。
>>164-
→第13話 約束
>>377 ありがとう。
- 416 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月18日(月)18時13分37秒
- いま、先が楽しみなことでは、自分的に飼育で五本の指に入る作品。
新スレ立ててでも思うがままに書ききってくれ。
もしたくさんあまったら月一で短編一本とか、あなたの作品が見たい。
とにかくこの作品を完結まで見届けさせてほしい。
- 417 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時04分22秒
- 第13話 約束
名古屋のホテルで後藤真希はシャワーを浴びていた。
シャワーを背にして頭の上から被る。
最初はぬるま湯だったが、お湯の蛇口を閉め、どんどん冷たくしていっ
た。完全な水になっても後藤はあまり冷たさを感じていなかった。
髪先から滴る水滴をホテル備え付けの白いバスタオルで強く抑えなが
ら、全身を映す鏡の前に自分の裸体を晒した。
細い腕、細い足、弾力の失った胸。肌は前よりも黒ずんでいる。
このまま進行すれば、飢餓に苦しむアフリカの住民みたいになりそうだ。
この削がれた体に気づいたのは実はつい先日だった。
体調の悪さは認識していたが、体の外側にまで影響が及んでいるとは
思っていなかったのだ。
毎日のように見続けるものに対して、異変を見つけるのは案外難しい。
市井に会った後、写真集に写っている自分の水着姿と今の体を見比べ
て、ようやく異常な体をしていることに気づいた。
- 418 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時05分04秒
- しかし、体調を戻さなくては、なんて気持ちは働かなかった。
かつての安倍や吉澤のように太るのであれば考えるかもしれないが、
今の後藤は病的なものであったとしても痩せていることには変わりない。
服を着れば誤魔化せるどころか、スリムに見える分映える。肌色の悪さ
は化粧で十分隠せる。胸は今の時代、いいブラが売られている。
後藤は「サプリメント」を手のひらに取った。黄色と茶色のいかがわしい
色をした錠剤を一瞬間見つめ、殆ど躊躇わずに口に含んだ。
蝕まれた体をさらに蝕むドラッグ。
その代わり、ほんの一時だけ、味わったことのないようなハイな気分を味
わえる。一瞬の輝きに対する魅力は替えがたいものがある。
- 419 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時06分06秒
- アイドルだって似たようなものだと後藤はふと思った。
輝けるのは一瞬だけ。
しかし、輝きだした瞬間から、不幸へのルートを確実に歩みだしていること
になっている。
輝けば輝くほど、終焉を迎えたときの絶望が大きくなる。
後藤は現在その淵に立たされていた。
落ち目とは認めたくないが、間違いなく昔ほどの人気はない。
再び人気を取り戻せるのか、現状を維持できるのか、はたまた慣性
の法則に則って、そのまま転げ落ちるのか。
その方向を決めるのは今だった。だから後藤はモーニング娘。にはもち
ろんソロで活躍している松浦亜弥や藤本美貴にも負けないパフォーマンス
をライブでは見せていると自負していた。
しかし、それでも人気は落ちてゆく。
新曲「うわさのSEXY GUY」は藤本程度しか売れなかった。アルバムは松
浦の足下にも及ばなかった。
- 420 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時07分07秒
- 今日の名古屋公演でアルバイトスタッフが喋っているのを盗み聞きした。
「あややの時より人少ないよな」
「まあ、後藤だしね。さすがに松浦には適わないでしょ」
どんなに一生懸命歌っても、どんなにクオリティの高いダンスを踊っても、
報われない。
そう半ば落胆して、ステージに立ったら、観客のみんなは自分ではなくて、
共演というより衣装替えのためのゲストであるはずのメロン記念日を見に
来たのではないかと思えてきた。
実際メロン記念日が出てきたときの客の歓声はかなり大きいのだ。
事前に飲んだドラッグによる激しい高揚感は空回りしはじめた。エネル
ギーを蓄えていた後藤の心にヒビが入り、その隙間から漏れ出す。
代わりに、不安と失意がどんどん入り込んできた。
- 421 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時07分48秒
- ホテルルームはずっと一人きりだった。「お喋りしよう」とジュース片手に
やってくる人間なんていやしない。
後藤はベッドに前から飛び込んで顔を布団に押し付けた。
今の裸の体は誰にも見せられない。
孤高だと思っていた自分のプライドは、年相応の孤独へと変わった。
シーツに押し付けて、後藤は唸った。
壊れたのはなぜだ。
壊したのは誰だ。
そして――。
野獣のような低い声が部屋中に轟く。
気づいてくれる人は誰もいない。
ソロになって得たものは喪失感だけだった。
- 422 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時10分32秒
- ◇◇
5月4日。さいたま2days初日。今日は六期メンバーの初お披露目の日だ。
メンバーもファンもそれぞれに複雑な思いを胸に秘めながら、六期メンの
登場までは通常通りのプログラムが進行していった。
まだ明日があるにも関わらず「圭ちゃんコール」がアンコールなどで聞こえ
たりもした。
保田はこの人たちの中で、どれだけ矢口の作ったサイトのことを知ってい
るのだろうと思いながら、手を振ったりウィンクしたりした。
今日、サイトのカウンターを見ると十万に届こうとしていた。
のべ人数だから実際の人数というわけではないが、かなりの数であるこ
とは間違いないだろう。今日来ている客の中に、あのサイトの存在を知っ
ている人間は結構いるはずだ。
- 423 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時11分03秒
- 掲示板はかなり荒れていた。
線や点で描かれた絵のようなものや「死ね」などの文字が書き込まれて
いた。自分の書いた書き込みは6ページほど先まで遡らなければ見られな
くなっていた。
どうやら大半が、保田の偽者が作ったサイトだと思っているようだ。
保田の少しピントがずれた近影画像もコラージュだとかたまたま手に入っ
たものだとか、ということで信用されていなかった。
保田は自分の意思がファンの圧力で片隅に追いやられた気がして「自分
の生き様らしいね」と自虐的に苦笑した。
その笑顔の先にいた矢口はただ笑うだけだった。
- 424 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時12分32秒
- 聞きなれた声がして、保田は振り返る。
石川だった。保田の黄色無地のバスタオルと言えそうなくらいの大きなタオ
ルを両手で持っていた。
「お疲れ様でした」
石川はあのピザパーティ以来、ほとんど口を聞いてはいなかった。
話しかけることも話しかけられることもなかった。ただ傍目で吉澤ひとみ
などとお喋りをしているのを見る限りでは特に変わった様子はなかった。
「ありがと」
保田はタオルをもらい、顔にまだじんわりと浮かんでいた汗を拭った。
石川は怖いくらい保田の瞳を捕らえて離さない。すぐ傍にいる六期メンバー
のことなど気づいてもいないようだった。
「明日も頑張りましょうね」
小首を傾げて、柔らかに微笑む中で目だけは笑っていない。少なくとも
保田にはそう見えた。
「石川……」
保田は6期が近くにいるので、石川の腕を引っ張り、誰もいないところに
連れて行こうとした。
- 425 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時14分00秒
- 「痛いですよ。何なんですか」
「いいから」
そんなやりとりをしていると六期メン三人は二人の只ならぬ空気を読んだ
のか、「ちょっと……」と言いながら二人の近くから離れていった。
保田は六期メンを見送った後、肩で大きく息をついて、石川と向き合った。
相変わらず石川は保田から目を離していない。六期メンに手を振ることも
しなかった。
「なんですか?」
石川は改めて聞く。
何から言えばいいのか言葉に窮する保田に石川は口を開く。
「そうそう。ホームページすごいですね。事務所の人とかにも知られちゃっ
てるんじゃないですかね」
淡々と言う口調が不気味だ。ただこの言葉で、石川はきちんと矢口から
明日何が起こるかをしっかり理解していることはわかった。
「なんで止めようとしないの?」
保田は軽く息を飲みながら聞く。
- 426 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時14分54秒
- 「止めるって何をですか?」
足音が聞こえ保田は警戒心からぱっとその方向に目をやる。スタッフの一
人が横の廊下から現れた。
そのスタッフは軽く礼をして、走り去っていった。石川はやはりそんな気配に
も気づかず、ずっと保田を凝視している。保田はもう一度周りに誰もいないこ
とを確認して口を開いた。
「私が自殺するってこと。死んでほしくないんでしょ?」
「自殺なんて止められるわけないじゃないですか。私なんかがどう説得しても、
聞いてくれないだろうし」
「あきらめたんだ?」
すると石川は皮肉を込めたように鼻でフッと息をついた。
「一つ教えてくれませんか?」
石川は聞いた。
「何?」
「死ぬことにどういう意味があるんですか? あんなホームページのメッセ
ージじゃよくわからないんです。私には愚かで惨めな行為にしか見えません。
教えてください」
無邪気な声の質問と無邪気とは正反対の表情が保田に襲い掛かった。
- 427 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時17分08秒
- ◇◇
ホテルの一室でささやかなジュースパーティを開いた。企画したのは
飯田で、
「本当はお酒欲しいんだけどね、圭ちゃん」
と乾杯した後、保田に向かって言った。
飯田はかなりの酒好きだ。
強さなら保田のほうが上だが、酒癖という点では保田はもちろん中澤より
も悪い。だから保田は飯田とは日常二人きりで飲まないようにしていた。
オレンジジュースにコンビニで変装をしながら買ってきた紙コップに注い
で乾杯をした。
その後、辻と紺野は豆腐を持ってきてポン酢をかけて食べはじめた。吉澤
は柿の種のパックを開け、豪快に鷲掴みしてボリボリと食べていた。高橋は
しばらくしたら少しみんなの輪から離れて、小難しそうな小説を真剣に読みふ
けっていた。
- 428 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時17分46秒
- 保田はポケットに忍ばせた携帯電話を握り締めながら、安倍の昔話や
紺野や小川の保田の第一印象の話を楽しく聞いていた。
石川も楽しそうにしていた。一度目が合ったが、特に変わった様子はな
かった。
矢口も同じだった。ただ矢口は自分の部屋に戻ったり帰ってきたりを繰
り返していた。サイトをチェックしているようだ。
このパーティが始まる前、保田は日記を書いた。
掲示板では荒れることがわかったので、自分しか書けない場所を設置し
てそこに書いた。
内容は今日のことがほとんどで、簡単な裏話も書いた。
明日の自殺のことには一切触れず、「明日も頑張ります」とだけ書いた。
これで少しは信じてくれる人が増えるだろうと思っている。
- 429 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時18分30秒
- 21時半を過ぎて、携帯電話がブルッた。着メロは鳴らさないようにしてい
たので着信がきたことに気づいたのは肌身離さず持っていた保田だけだ
った。
保田は「ちょっとトイレ」と言い部屋を出て行く。そして、携帯電話をポケッ
トから取り出す。
「もしもし、今どこ?」
「ちょうど大宮着いたところ。前と同じホテルでいいの?」
「うん」
さいたまスーパーアリーナは去年も同じ時期に使っている。今泊まってい
るホテルは去年と同じところだった。
「じゃああと5分ぐらいで着くと思う」
「わかった。待ってる」
保田は得たいの知れない緊張を抱えながら電話を切った。
- 430 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時19分29秒
- 次にかかってきたのは15分後だった。プチパーティに戻っていた保田は
電話が鳴っているのを太ももで感じながら、
「ちょっと出かけてくる」
とみんなに声をかけた。一応、保田が主役ということだったので「え〜」とい
う不満の声があちこちから出た。
「ホントごめん」
手のひらを合わせながら片目を瞑る。もう一方の目で辺りを見渡す。
石川がいた。矢口がいた。
二人に声をかけようとする自分を別の自分が引き止めた。
- 431 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時21分25秒
- ◇◇
予定していた店は22:00で閉店だったため入れなかった。
近くで一番遅くまでやっている店でも24:00が閉店で、ラストオーダーまで
はあまり時間がない。
二人はタクシーを飛ばしてその店に着いた。
帽子を被った二人は座席に着くなり、店員がさっとやってきてグラスを二つ
置いた。汗を掻いたグラスが頭上のオレンジ色の電灯に反射して、軽く光っ
ている。二人はその店員にウーロン茶と肉を頼んだ。
「しゃぶしゃぶなんて久しぶりだぁ」
保田の対面に座る後藤は出されたふきんで丹念に手を拭きながら言った。
場内は客がまばらなせいか思ったより静かだった。
保田は顔の上半分が見えない後藤を傍目にふきんを自分の顔にあてた。
それを見た後藤は「圭ちゃん、おじさんくさい」と無邪気に指摘する。
さすがに少し恥ずかしかった保田はさっとふきんをテーブルに置いた。
- 432 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時22分34秒
- ウーロン茶が二つやってきて乾杯をする。
保田も後藤に合わせてアルコール類は控えた。氷が敷き詰められたグ
ラスを合わせると、中の氷が衝突して爽やかな音を出した。
後藤はウーロン茶を一気に飲み干した後、今日実はライブを見ていたこ
とを話した。感想は「すっごくよかった」という素っ気無いものだった。
「じゃあなんで終わったら顔見せに来ないのよ?」
「だって、後藤、もうモーニング娘。じゃないんだし、邪魔かなぁって思って」
「なに、気を使ってんのよ。後藤だったらみんな大喜びだったのに。じゃあ、
こんな時間まで何やってたの?」
「別に。ただブラブラとしてた。ファンのみんなって気づかないもんだね。
後藤真希がファンでいっぱいの街中に一人でぶらぶら歩いてるっていうの
に、誰も声かけてくれないんだもん。それとも気づいてたけど、興味ないか
ら声かけなかっただけかな」
帽子の向こう側から自嘲気味な微笑が浮かんでいるのがかろうじて見えた。
- 433 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時24分32秒
- 「で、明日は大丈夫なの?」
保田は明日の後藤のライブのことを気にして聞いた。
「うん。ちゃんと次の日朝一番で神戸に行くって言ってあるよ。メールでね」
ということは、きちんと許可はとっていないということだ。
「……あんたねぇ、そういうことはきちんとしなさいよ」
後藤はうざったかったのか目深に被っていた帽子を一度取って、被りな
おした。
目元がはっきりと見える。
後藤は「特徴のある美人顔」だ。
正面から向き合えば、知っている人なら誰でも後藤真希だとすぐにわかる。
ただ、いつもより顔が小さく見え、対照的に目が大きく見えた。
- 434 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時25分39秒
- 「まあこれくらいのわがままは認めてくれるでしょ。圭ちゃんのラストライブ
を自分の目で見ることができないんだしさ、前日ぐらい会いに行ったって
許してくれるよ、きっと」
後藤はストローで中の氷を転がしながら言った。微妙な言い回しだと保田
は思った。
「後藤のほうは、最近どうなの? 元気でやってる?」
「んあ? 私? まあまあかな。数は少ないけど、はっきり言ってモーニング
の時より盛り上がってるし、お客さんの顔がはっきり見えるし楽しいよ」
「そっか。それならよかった。私もいつかソロコンサートできたらいいな」
後藤は保田が明日本当に自殺しようとしていることは知らない――こと
になっている。
しかし実際どう思っているかはわからない。あのサイトを見ているかもしれ
ない。保田は半分カマをかけたつもりで愚痴をこぼした。
後藤は顔色を変えない。
「できるよ、圭ちゃんなら。私より歌上手いし、それに……」
後藤の声が止まった。
「それに?」
「それに、私よりずっと強い人だから」
意味深な言葉をどう解釈すればよいかわからず保田は「そうだといいね」
と差し障りの無い相槌とともにウーロン茶に口をつけた。
- 435 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時27分52秒
- 薄っぺらい桃色の牛肉がやってきて、後藤は目を輝かせた。
早速、一枚を箸で取り、二人の間にある沸騰した鍋の中に肉を入れる。
数秒後にお湯から取り出し、「当店オリジナル」と書かれたタレに肉をつけて、
口に入れる。
「やっぱおいしいねぇ」
保田も同じ作業をして、肉を食べた。
「おいしいね」
しばらくは肉を食べることに専念した。後藤は保田より1.5倍の速度で食
べている。
「これで約束果たしちゃったね」
後藤は肉を口に一杯含みながら言った。
- 436 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時28分28秒
- 「そうだね」
「私はもうだめかもしれないけど、後悔してないからね」
「だめって? そんなことないじゃん。ライブも成功してるんでしょ。結構評判
いいって噂でも聞いてるよ。もしかして弱気になってる? とりあえず後藤は
下を見なさい。私がいるでしょ?」
自嘲的な言葉とともに冗談ぽく微笑む保田。後藤は何も言わず、じっと
保田を見つめていた。
そして、椅子に座りながらも離さずに肩にかけていた水色のショルダー
ポシェットから何かを取り出した。
少し粉みたいなものが付着した透明な袋に入った「それ」は保田も見たこ
とがあるものだった。
保田は袋と後藤の表情の欠けた顔を交互に見交わす。
箸でつかんでいた湯通し済みの肉をポトリと小皿に落とした。タレが少し
飛んだ。
- 437 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時30分05秒
- 「これ、すっごく効いたよ。ありがと。おかげでしばらくはすっごく楽しく過ご
せた」
保田は罰の悪い顔をしてから、「後藤……」と無意識に呟く。
「何?」
「それが何か知ってるの?」
「うん。ドラッグだってね。つい最近知った。私バカだからほとんど気づかな
かったよ。ただ気分が良くなって、ダンスとかのキレが良くなって周りの人
にも誉められたし、最高だった。圭ちゃんありがとう」
後藤は感情を持っていないかのように淡々と言った。
狼狽を隠せない保田に対し、後藤はさらに口を開く。
「なんで、これをくれたの? 私に壊れてほしいから?」
感情の昂ぶらない後藤はかえって不気味だ。その内に秘める轟々とし
たものを保田は感じ取っていた。
何か言おうとするも、上手くまとまらず言葉を飲み込む保田。
- 438 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時32分40秒
- 「別に怯えなくていいよ。さっきも言ったけど、私は圭ちゃんに感謝してるん
だから。これがなかったらもしかしたら私はもっと壊れてたかもしれない。
そう思ってるんだ」
後藤は少し笑みを見せながら言った。保田はしばらくの間、頭を垂れる
ように俯いた。
二人の間には湯気が相変わらず沸き立っていた。ぐつぐつと音が聞こえ
ていた。
後藤は鍋の横に置かれた錠剤をぱっと掴み、残り3錠を一気に自分の
口に放り込んだ。
ガリガリッと砕ける音が沸騰するお湯よりも強く保田の耳に届いた。
「今日これで10粒目。私の頭の中はどうになっちゃってる。もう手遅れ。
吐きそう。体が震えてる。寒い。手足が痺れてる。時々意識が飛んじゃう。
だけど、何だかハイなんだ。すごく不思議な感覚。最高の気分」
「10粒……」
- 439 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時35分04秒
- 異常な数を反復して保田は絶句する。
後藤をよく見ると口元は常に細かく震えていた。冷たそうな汗が浮かんで
いた。帽子で光を遮られた目だけが、やけに生気を帯びていて、瞳孔が異
常なまでに広がっていた。
後藤は喋ろうとしない保田に少し苛立ちを見せはじめ、「なんで?」「どう
して?」とぶつぶつと繰り返す。
少しずつ語気が強まっていく。
今にも感情が暴発しそうな気がした。その感情はきっと保田が作りあげて
しまった猛きもの。
保田は焦りを覚えながら、呟く。
「私は……後藤が一人になって不安そうで心配だった。だから――」
「それだけ?」
納得しようとしない残忍な笑顔が色濃くなる。
保田は気圧されるようにして、首を横に振った。そしてポツリと一言呟く。
「壊れてほしかった……私と一緒に」
「圭ちゃんと?」
- 440 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時36分55秒
- 保田はゆっくりと頷く。
「へぇ、そうだったんだ。圭ちゃん、壊れてたんだ。そんでもって、後藤は道連
れにされたんだ」
「……」
再び俯きはじめる保田に「まあまあ」と後藤はやけに優しく声をかける。
刺々しい苛立ちは一瞬にして遠い彼方へと消え去っている。
心が置き場を失い、ふわふわとさまよっている。ドラックの影響だろうか。
「圭ちゃんの気持ち、わからないわけでもないしね。今度さこの薬、まっつー
辺りに上げようかなって思ってるんだけど、いいよね?」
そして後藤は袋一杯に入った薬をポシェットから取り出した。保田は目を
丸くして、錠剤と後藤を交互に見つめる。保田はこんなにも後藤に渡してい
ない。
「こんなにどうやって……?」
「圭ちゃんと同じルートだよ」
「……和田さん?」
- 441 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時38分40秒
- 後藤はコクリと頷いた。
保田はこのドラッグをモーニング娘。の元マネージャーである和田から貰
ったものだった。
自分はトップ、センターに立てる人間だという思い込みと現実の集団の後
ろに立たされる立場である自分との乖離に最も苦しんでいたとき、保田は
和田からこの薬をもらっていた。
和田は裏のルートも色々知っている人間だった。
何回かは薬を飲んだこともあったけど、自分の立場を認識するにつれて、薬
は飲まなくなった。
この薬自体の依存性が他のドラッグより幾分かは弱かったことと、自分の体
がダメになるという恐怖心もあったこと、そして、矢口や市井という同期メンバー
など優しくしてくれる周りがいたから、何とか依存せずに済んだ。
しかし、後藤はソロになって孤独といつも立ち向かい合っていた。
そして、その薬がどういう類のものなのか知らなかった。
結果的に後藤は薬に依存した。
人間的に壊れるのも必然だったのかもしれない。
保田が薬を後藤に渡したのは落ち込む後藤を心配していたというのも、
確かにあったが、それは言い訳に過ぎないほどの小さな理由だった。
- 442 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時41分02秒
- 二人は卒業の時期は半年ほどずれていたが、通告された日は同じだった。
2002年7月上旬。
後藤と保田はプロデューサーのつんく♂がいる部屋に呼び出された。
そして、「お前ら二人は卒業することになった。おめでとう。イェイ」と自分達の
ことなのに何の暗示もなく、事後報告という形で通告を受けた。
つんく♂の楽しげな声が耳を突き抜けて、血の気が引いた。その中で、自分
はこれからどうなるかを考え、下手したら市井以下の存在に成り下がるのでは、
という最悪の状態を想定し、さらに血の気が引いていく。
少なくとも今ソロになっても保田自身にはいいことがないことだけははっきり
とわかった。
しかし、抵抗する権利がないことは5年近くも芸能界にいる保田は百も承知し
ていた。だから口答えはしない。
ただショックから意識が飛ばないように懸命に歯を食いしばっていた。
- 443 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時42分08秒
- 保田はふと隣で立っている後藤を見た。
放心状態でも、怒りを見せているわけでもない。かといって、嬉しそうという
わけでもなかった。
長年の付き合いだ。些細な仕草で後藤の心境は何となくわかることができ
るつもりでいた。
しかし、このときばかりは全く読み取ることができなかった。ただ無表情と
しか表現することができなかった。
保田は今までに見せたことのない感情が中で蠢いているゆえの無表情な
のではないか、と推測した。
「わかりました」
後藤はただそう言って、小さく会釈をして、部屋を出た。保田も慌てるように
後に続く。
廊下を歩いている途中で保田は聞いた。
- 444 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時43分22秒
- 「ショックじゃないの?」
のそっと振り返る後藤は口元だけにささやかな微笑を浮かべる。
「一応、後藤はいずれはソロになりたいって思ってたから」
「じゃあ……嬉しいんだ?」
後藤は首をゆっくりと横に振る。
「でも、急すぎたかな。やっぱショックだよ」
保田はこのショックとは思えない淡々とした言い方に反応し、足を止めた。
後藤は感情を中に閉じ込めるタイプだ。この手のタイプは追い込まれると、
爆発してしまうことが多い。
保田は後藤が相当、心の中に溜め込んでいることを感じ取った。
前に進む後藤にさらに声をかけることはできず、ただ小さくなる背中を呆然
と見送った。
- 445 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時46分32秒
- 状況はかつての市井と保田との関係に似ていたのかもしれない。
あのときは取り残された二人。今回は切り捨てられた二人。
孤独の島に置かれた二人ができることはお互いの存在を知るために、
手を組み、生きていることを確かめ合うことしかなかった。
市井の言葉を借りるなら「共有」だ。
保田にとってモーニング娘。を脱退することは、未来がなくなったことと等
しかった。それは余命幾ばくかを宣告されたガン患者のようなものだ。
もしこの保田を支配する共有すべき感情を隣で手を組んでいた後藤が
全く味わっていないものだったとしたら、それは保田にとって残酷なものと
なる。
- 446 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時47分53秒
- 未来が見える後藤は、ある日、孤島の上で後藤が保田にとって唯一の生き
た証である後藤の手を切り離し、「バイバイ」と軽やかに手を振る。次の瞬間、
後藤はテレポテーションし、視界から消え去ってしまう。保田の目に映るのは
鉛色の海と荒廃した森林。聞こえるのは大気と波の保田を芯から押しつぶす
ような低い音。そして、手のひらに後藤と手を繋いでいたという過去の感触だ
けが無惨に残る。
それだけは避けたかった。
だから後藤の溜め込んだゆえに見えない不透明なものを爆発させて、その
中にあるであろう共有すべき感情の存在を早く確認したかった。そして、後藤
も壊れているね、と後藤の顔色を窺わずに言いたかった。
道連れにしたかった。
その手段として、ドラッグをドラッグだと言わずに渡した。
- 447 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時49分16秒
- しかし、壊れる後藤を手助けしようとする一方で自分のように薬を止めて
くれることも期待していた。
罪悪感に身を裂かれる前に、後藤に薬を渡すことができたのはそんな期待
が免罪符としてあったからだった。
つまり、依存してしまったとしたら、それはドラッグを渡した自分のせいで
はなくて心の弱い後藤自身のせいなんだ、と自分を弁護しているフシがあっ
たのだ。
自殺の前日に、後藤に会いたかった理由はただ単に「しゃぶしゃぶを食べに
行こう」という約束を果たそうとしたかったからではない。
後藤という存在が死を迎える保田にとって唯一の心残りだった。
保田が想像した以上にどんどん壊れていく後藤を見て、薬を渡したことへの
懺悔をするつもりだったのかもしれない。
だから会う前からこんなにも緊張を感じていたのかもしれない。
保田はそんな風に自問自答した。
- 448 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時51分58秒
- 指先が冷たい水の入ったコップに触れた。保田は5分程度に入った水を
数秒じっと見た後、グイッと飲み込んだ。喉元に汗が一気に浮かんだ。
保田は店員を呼んで、水のおかわりを頼んだ。了解して、去ろうとする店員
を呼び止めて、「もう一個グラス持ってきて」と頼んだ。店員は少し首を傾げ
たが、すぐに「わかりました」と軽く頭を下げた。
後藤を見ると、後藤は久しぶりに肉を取って食べた。
大げさに咀嚼し、「おいしい」を連呼する。
「どうして、今頃になってそれがドラッグだって知ったの?」
次の肉を取ろうとしていた後藤に保田は話し掛ける。「ん?」という顔つき
を見せた後、取った肉をお湯にひたしながら口を開く。
- 449 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時53分38秒
- 「市井ちゃんがね、教えてくれた」
「……紗耶香?」
後藤は何かを思い出したかのように目を二、三度まばたきさせて箸に取っ
た肉を保田に向ける。
「そういえば圭ちゃん、市井ちゃんに私のこと言ったんでしょ。心配してるって。
だから市井ちゃん血相を変えてやってきたんだよ。心配してくれるのは構わな
いけど、市井ちゃんにまで言わなくたっていいじゃん。振り回されちゃって、か
わいそうだよ」
市井の名前が後藤から出てきて少なからずドキリとする。ついさっき、回想
の中で市井の存在が出てきたから、心根を見透かされたのでは? と勘繰っ
たのだ。
- 450 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時55分21秒
- 保田は一つ息を挟み、後藤の肉を美味しそうにほおばる顔と、テーブルに
置かれたドラッグを交互に見つめながら言う。
「紗耶香が……それのこと説明したの?」
「うん、市井ちゃんも同じ薬に手を出そうとしたときがあったみたいだよ。
市井ちゃんってほら、ダメダメじゃん。だから自暴自棄になって……ね。で
も市井ちゃんは怖くなって薬を飲まなかったみたい。そういうところもダメダ
メなんだよね」
「……そうなんだ」
「そうそう、聞いてよ圭ちゃん」
そう注意を引きつけた後で、後藤は取り皿にいっぱい溜め込んでいた、
湯通し済みの肉5枚ぐらいを箸で一気に掴む。
その間に店員が水を二つ、保田の前に置いていった。保田の顔が液面
に映った。保田は会釈もせずに、後藤の次の言葉をじっと待つ。
- 451 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時56分31秒
- 「市井ちゃんったらさ、薬を飲むこともできないなんて臆病だね、って言っ
てやったらさ、口を塞ごうと襲い掛ってくるんだよ。ちょっと爪で腕のあたり
を引っ掻かれちゃったよ。言い返すことができないからって力ずくで抑えよう
とするなんてヒドイよねぇ」
後藤は肉を持った手の袖をめくった。うっすらと傷が残っていた。
「そうなんだ」
「だからさ」
肉を一気に飲み込んでから後藤は言った。
「殺しちゃったよ」
「おいしい」と同じくらいに何気なく放った一言が保田の耳に突き刺さった。
保田の前に置かれたグラスに入った水が二つ、共振するように波立ち、
映っていた保田の顔を歪ませた。
- 452 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時57分08秒
-
- 453 名前:赤い草原 第13話 約束 投稿日:2003年08月22日(金)18時57分51秒
-
- 454 名前:赤い草原 第13話 投稿日:2003年08月22日(金)19時03分18秒
- 次、新スレ立てます。
>>164-451
→第14話 草原
>>416 新しい話を書く気力がないので、氏にスレとして他の人にもあとで
使えるようにしておきます。
- 455 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/13(土) 09:25
- すげえ……なんていう展開だ。
次を読むのが怖い。でも読みたい。
- 456 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/16(火) 01:48
- >>455さんに同感。
怖いぶん、この先に期待。
ところで、新スレ立てたの?
- 457 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/18(木) 16:58
- 最近このスレを見つけ昨日一気読みしました。
めっちゃ面白いです。
これってメインCPは誰なんですか?
保後・保矢・保石・K1・・・どれも好きだけど。
続き&新スレ楽しみにしています。
- 458 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/13(月) 00:50
- 保全
- 459 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 07:30
-
内容で読ませる小説発見。
更新とても楽しみにしています。
- 460 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/06(木) 18:22
- 待ってます
- 461 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:26
- 第14話 草原
6時ちょうど発の新幹線のぞみ1号。
グリーンシートに座って、後藤は目を瞑る。しかし、それだけだ。新幹線の
振動や隣の人のかすかなイビキを敏感に感じ取るほどに神経が過敏になっ
ている。気力とは違う沸々としたものが内部で沸き立ち、目の裏にある暗闇
には白い光が焼きつき、後藤に休息を与えさせない。
0時過ぎに保田と別れてから6時間、寝られずに夜の街をただふらふら
と徘徊した。
不意に息苦しくなり、混濁とした空気をもがこうと、奇声をあげたけれども、
酔っ払いのよくある行動なのか、特に注目はされなかった。
一つの電信柱に座り込んだら、前に誰かが吐いたらしく、アルコールの
匂いがした。目の前には肌色の吐瀉物があった。
それを見ながら後藤も吐いた。
少し前に食べたばかりの美味しかった肉が少し形を残しながら口から出
てきた。
勿体無いな、と痛みとともに急速に冷えていく頭の中で、やけに冷静に
思った。
- 462 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:26
- 寝られない――もうどれくらい寝ていないのだろうかわからない。そん
なことを考えることさえ億劫になってきている。
後藤には常に壊れた現実が重石のように頭の中にのしかかっていた。
それは夢とは全く違うもので、現実であるはずなのにリアリティがない、
ひどく無意味なもの。
「はやく寝ろ」と自分に対して何度も命令するが、眠りに落ちることはで
きない。
小田原、熱海、豊橋と弾丸のように通過する景色をうつろな目で見つづ
けながら、早く草原を見させてほしいと普段何とも思ってもいない神様に頼
んだりした。
- 463 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:28
- 9時前に神戸に着いた。
駅のホームに射し込む朝の光が後藤の残された体力を奪っていく。まるで
吸血鬼みたいだね、と苦笑した。タクシーに乗り、スタッフやメロン記念日が
泊まっているホテルに直行すると、マネージャーがややイライラした面持ちで
フロントのロビーでウロウロしていた。後藤の顔を見るやいなや、怒ったよう
な安堵したような顔で飛んでやってきた。
後藤は殆どマネージャーの顔を見ずに、頭を下げた。ワイン色の絨毯が
見え、そこには後藤の影が薄く映っていた。マネージャーは保田が卒業する
日であることを考慮したのか、連絡をろくにしなかったにも関わらず許してく
れた。
神戸の会場に向かうバスの中、メロン記念日のみんなやスタッフの笑い声が
ずっと飛び交っていた。後藤は会話に参加せずに、流れる景色を、そして、信
号待ちで止まった景色をぼんやりと眺め続けた。しかし、どんなに景色が変わ
ろうとも、草原らしきものは見つからなかった。
- 464 名前:赤い草原 第14話 投稿日:2003/11/19(水) 01:29
- 会場入りすると、すぐに音合わせ中心のリハーサルが始まる。
壊れた心を無視して、後藤は精一杯に歌う。意志を失ったロボットのようにた
だ歌う。
本能というより、ルーチンワーク化した仕事の滓が後藤の体内にこびりつ
いているのだろう。
しばらくしてダンス指導の先生から「オッケー」の声が飛んだ。そして、後藤の
元に近寄り、「今日も頑張ってね」と優しく声をかけてきた。
メロン記念日のみんなも笑顔で後藤を迎える。
確かにダンスは今の自分なりに精一杯やった。歌もそれなりにこなした。
だけど、本来の自分とは絶対にかけ離れているはず。
それなのに、周りは「よかった」とか「頑張れ」しか言わない。最後までプログ
ラムを消化さえすれば客から不満の声が出ることもない。ただリズムと勢いに
任せてに「ごっちん!」と叫ぶだけ。
みんな、きちんと自分のことを見ているのだろうかと疑った。
自分は壊れている。
微かに残る意識で、そう自覚している。
しかし、周りの人間は誰も壊れていると心配しない。
それは表層上の付き合いに過ぎないからだ。自分のことをショーの道具としか
見ていないからだ。
後藤は髪をかきむしった。
艶のない茶色の髪の毛が指に数本絡まっていた。
◇◇
- 465 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:30
- 神戸での昼公演は予定時間どおりに始まり、つつがなく進行していた。
声はリハーサルの時よりもよく通った。
踊りも体重が軽くなったせいかキレが出ていた。
3回目のMCで保田のことに触れた。
「実は昨日、圭ちゃんと会ってきたんですけど、何にも変わってなかった
です。圭ちゃんはすごく強い人です。これからも後藤は一人のファンとして
圭ちゃんを応援していきたいと思います」
保田の名前が挙がり、客は歓声を上げた。
客は軽いハプニングなどいつもと違うことをすると喜ぶ。完璧に歌いきるより、
歌詞を1、2回飛ばしたほうが「いいものが見れた」と満足する。少なくともハロプ
ロ系のライブではどれもそうだ。
- 466 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:32
- 結局、後藤が心の底から叫んでいる本当の「声」は誰にも届いていないのだ。
必要なのはアイドルとして、今「売れている」とされているゴトウマキというロ
ボット。時が経てば、「それ」は廃棄され、客はみな代替物を探し求めるだけ。
しかし、後藤真希はゴトウマキというロボットを見放すわけにはいかない。
なぜ、届かない歌を歌うのだろう。なぜ、踊るのだろう。叶えたはずの夢な
のに、なぜこんなに苦しいままなのだろう。
歌いながら突然やってくる疑問を前に強く首を横に振る。
そんなことを考えてはいけない。立ち止まってはいけない。ただ、とにかく
今日を、今を、早く終えたい。
そして明日もあさっても、しあさってもその次の日も、考える暇のない速さで
通り過ぎたい。
後藤は全く見えない未来を前に、何を頼りに前に足を踏み出せばいいのか
わからずに、ただ疾走する架空の自分を妄想の中に作り上げた。
- 467 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:36
- しかし――保田のやけに生気の薄れた顔が亡霊のように現れる。そして、後
藤の頭に旋回する疑問を口走る。「晴れた日のマリーン」を歌っているときだった。
他人から呟かれた全く同じ疑問は後藤がなんとか保っていた高揚という風
船に針を刺す。風船は弾け、中身が一気に弾け飛び出る。そして倦怠感がぽっ
かりと空いた心の中を埋めていく。
それは外見ではわからない変化だ。
後藤は最後まで歌えずに、虚しく、ステージ上で立ち尽くした。聞こえるのはスピー
カーから流れる少しヒビ割れたオケと、客からの振動と、バーストした心の穴を突き
抜ける高い風音。
観客は歌詞を忘れただけだと思ったのか、失笑したり、ハプニングに出会えてラッ
キーと思っていたり、と楽観的に見ている人が殆どだった。
しかし、後藤は「晴れた日のマリーン」が終わった後、急いで袖に消えた。
1分ほど経っても出てくる気配がない。照明が落ちた暗いステージがいなければい
けない人間が不在であることを重く映す。
- 468 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:37
- 観客からどよめきがポツポツと起きはじめた。
何度も足を運んでいる常連はここでは衣装を一枚脱ぐだけで、ステージ
上からは消えないことを分かっていたからだ。
予定外の行動に後藤以外のスタッフや客は少しずつ慌てはじめる。
後藤はどんどん重くなる体を何とか奮い起こしながら、自分のバッグを急い
で漁っていた。
後藤を早くステージに戻そうと一人のスタッフがやってきて、「後藤さん、どう
したんですか」と声をかける。
ドラッグを見つけた後藤は2粒を急いで口に含んだ。後藤は大丈夫というジェス
チャーをして、立ち上がる。
しかし薬が効いたのは立ち上がったその一瞬だけ。それは薬の効用そのもの
ではなく、飲んだという安心感からきたものだった。
一歩歩くごとに、黒くて重い霧に包まれるような倦怠感が再び襲い掛かる。
細胞一つ一つに圧し掛かるような重力に耐えつつ、早く効いて、と願いながら後
藤は再びステージに立った。
- 469 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:40
- 暗い沈黙が続いていたステージ上をぱっと白い光が照らされる。観客から
はほっとため息が漏れる。
そして、心配してくれているのか、「ごっちん!」「真希ちゃん!」という声
援合戦が始まった。
後藤は定価の何倍もの金をはたいてやってきた目の前の人間だけでな
く、2階席や3階席にも笑顔を振りまいた。もう笑顔は感情を必要とせず、何
も考えなくたって出てくる。
ごめんね、などと釈明することなく次の曲である「赤い日記帳」に入った。
一応、声は出た。手足も動いた。
心の悲鳴は小さくなっていた。
よし大丈夫だ、と自分の体と心に確認した時だった。
再び保田の顔が現れた。もう死神にしか見えなかった。そして、後藤の目
の色が赤く染まった。
客が持つサイリウムは青や緑などの色もあったのに、全部が赤く見えた。
ステージも赤く燃え上がっていた。この歌のサビの時は赤い照明を多く使う
構成になっているのはわかっていたが、それとは全く異なるドス黒い赤色だ
った。
- 470 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:41
- やがて、その色はサイリウムだけでなく、観客の体にも侵食していく。
「あっ……」
サビを歌うのも忘れ、後藤はその世界の中で呆けた。
もうここはステージではなく、草原だった。
殆ど寝られず、ずっと行くことができなかった草原を今後藤は目を開けなが
らにして辿り着いたのだ。
後藤はこの現実に聳える妄想の光景に刹那だけ喜び、次第に恐れへ変わ
っていく。
ここは確かにあの草原だ。
しかし、ここはすでに後藤の願っているような所ではなくなっていた。
後藤を柔らかく包んでくれていたパステルグリーンの空も、透き通った草花
たちも、血よりも濃い赤色に浸食され、悲鳴を上げていた。
- 471 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:42
- 後藤の手からマイクがするりと落ちた。
それは絶望だ。心の拠り所になりつつあった幻の草原は何者かによって
破壊されたのだ。
後藤は逃げる力もなく、立ち尽くした。
かいた汗が沸騰し、体温がどんどん上昇していった。体の真芯を揺さぶる
爆音が響き渡り、熱風が吹き荒れてくる。草花は赤く爛れ、ドロドロとした空
気によって液体状に溶けていく。
後藤はおそるおそる自分の体を眺め回した。
すでに全身が真っ赤だ。
手のひらも爪の先も全部目が眩むほどの毒々しい赤色に染まっている。
そして目の前に広がる草花と同様に、自分の手も足も溶けはじめている。
痛みはないが、皮膚感覚が全くなくなっている。
- 472 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/19(水) 01:43
- 私が行きたいのはこんなところじゃない!――後藤は体内を巡っている
血液を噴出すような絶叫をした。
しかし、どんなに拒絶しても、もうあの優しい草原は戻らない。今目に映る、
赤の景色は「妄想の中の現実」なのだから。
口からは赤色の血を噴出した。
後藤が辿り着いた最後の地は熱と狂気が渦巻く残酷な世界だった。
◇◇
- 473 名前:休憩 投稿日:2003/11/19(水) 01:45
- 後半は後日up。遅れてごめんなさい。
- 474 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/19(水) 21:40
- お待ちしておりました。後半部も期待してます。
- 475 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/19(水) 21:43
- 待ってたよー。続けてくれてありがとう。
また凄まじい…。ますます怖い、でも読みたい。
- 476 名前:216 ◆OZ.ZpwXo 投稿日:2003/11/19(水) 22:46
- >>470
ワロタ
ところで話変わるけど、携帯ゲーム機"プレイステーションポータブル(PSP)
久夛良木氏は,“PSPはゲーム業界が待ち望んだ究極の携帯機”として説明。「ここまでやるかと言われるスペックを投入した」という。
発表によれば「PSP」は,曲面描画エンジン機能を有し,3Dグラフィックでゲームが楽しめる。
7.1chによるサラウンド,E3での発表以来,クリエイターたちにリクエストが高かった無線LANも搭載(802.11)。
MPEG-4(ACV)による美しい動画も楽しめるという。これによりゲーム以外の映画などでのニーズも期待する。
外部端子で将来,GPSやデジタルチューナーにも接続したいとする。
また,久夛良木氏は,繰り返し「コピープロテクトがしっかりしていること」と力説。会場に集まった開発者たちにアピールしていた。
さらに,ボタン設定なども明らかにされ,PS同様「○△□×」ボタン,R1・L1,アナログスティックが採用される。
この際、スク・エニもGBAからPSPに乗り換えたらどうでしょう。スク・エニの場合、PSPの方が実力を出しやすいような気がするんですが。
任天堂が携帯ゲーム機で圧倒的なシェアをもってるなら、スク・エニがそれを崩してみるのもおもしろいですし。かつて、PS人気の引き金となったFF7のように。
いきなり変な事言い出してスマソ・・・・
GBAと比較してみてどうですかね?(シェアのことは抜きで)
- 477 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/19(水) 22:52
- >>476
誤爆だよな?
削除依頼出そうね。
- 478 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/20(木) 23:48
- 更新楽しみにしてました
お疲れ様です>作者さん
この展開から目が離せないです・・・
- 479 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/21(金) 18:09
- はぁー、待ってた甲斐がありました!
最後はハッピーで終るのかバッドで終るのか、気になるところですね。
頑張ってください。
- 480 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:13
- 5月5日午前4時25分。
ぱっと目が覚めた保田はすぐに隣のベッドで寝ている矢口の寝姿を見る。
かわいらしい顔に見合わず、歯軋りとイビキを立てて眠っていた。少し、毛
布がめくれていたので直してやった。
ついさっきまで布団にくるまっていたはずなのに足や手が妙に冷たい。
そのまま保田は椅子に座り、軽く息をつきながら、天井を見上げた。
あまり深く眠れなかった。
眼球の裏側に広がる暗い世界に身を投じ、ずっとその中で束縛されて
いた。
いよいよ、今日。保田圭、最初で最後の主役の日。
色々な思いが複雑に絡み合っていて、混乱している。
卒業として祝福される自分がいる。自殺しようとする自分がいる。
裏と表。同じ日に真逆の色をした光を浴びる。
混ざり合った光は、どんな未来を映してくれるのだろうか。
- 481 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:14
- 保田は矢口のノートパソコンを勝手に起動させた。駆動音がやけに耳
に残る。パスワードはない。
すぐに「保田圭公認サイト」に飛んだが、カウンターはすでに10万をゆ
うに超えていた。
ネットという情報網はすごいものだと感心しつつ、一方ではもうスタッフや
マスコミの耳にも十分届いているだろうな、という危惧も抱いていた。
しかし、ここまで来てこんな真偽不明の情報で公演を中止することなんて
できやしないだろう。
保田は湿った指先を走らせた。
『いよいよです。
私の思いはどこに行き着くのだろうか。
運命はどういう結末を導くのか。
私にもわからない。
ただ、一つ。
私の死が、誰か一人にでも意味のあるものになることを期待して。
最後の書き込みとします。
(保田圭 5/5 4:44)』
- 482 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:16
- ◇◇
メンバーは後藤の卒業ライブのときと同じで、平静を装ってはいるがピリピリ
としたものを隠せずにいた。卒業のことは口にしないまでも、その重みをそれぞ
れが強く認識しているようだ。
直前リハが終わると、次はいくつかの取材を受ける。速報のドキュメント写
真を4日後に発売するということで、その出版元のサンスポの人のインタビュー
を一番長く受けた。他にはめざましテレビのスタッフがいたし、顔の知らないマ
スコミの人もいた。
質問の中身はひどく薄っぺらなものばかりだった。
過去を美化し、未来の門出を祝福する――次の日、スポーツ新聞の芸能
面では保田の涙で濡れた顔がでっちあげに近い歯の浮くようなサクセスス
トーリーとともに載るのだろう。
「本当にそう思っています?」
今後の活躍を期待しています、と言った一人の女性記者に対し、保田は
卑屈な好奇心からそうポツリと口にした。
- 483 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:17
- 今日何かが起こると予感しているマスコミもあるだろう。
保田はあの事務所が主導で行った幹部に囲まれての自殺宣言撤回・謝罪
会見だけで、事態が簡単に収縮するとは思っていなかった。
しかし、現時点では予想以上に収縮していた。詮索をしようとする人らも内
外問わず見当たらない。
もしかしたら、事務所辺りがこの件に関しての取材はしないように金でもば
ら撒いているのかもしれない。そうでなくとも何らかの形で圧力を受けている
のは間違いないだろう。
もしそうだとしたら、取材に来ている人たちは、本音を知りたいとヤキモキ
しているのではないか。「自殺するのかしないのか」という究極の二択を聞き
たいのではないか。
しかし、絶対にそんなことは聞いてこない。
「なんですか?」
女性記者は保田の問いに対し、聞き逃したかのように大きく首を傾げて問
い返してきた。
- 484 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:19
- この組織ぐるみの束縛はかなり大きなものなのだろう。
記者を志望したのは、真実を追及したかったからのはずなのに、今の彼女
は真実という一番大事なことは二の次にして仕事は仕事として割り切って取
材している。
この人たちが持っているプライドなんてその程度のもの。
正しいことなんて何もない。
本当の意味での真実は存在しない。
みんな、真実を忘れ、まがいものに価値観を求める。真実は畏怖すべきも
のだから、それに触れようとすることは絶対の禁忌というのが暗黙のルール。
そうして社会は大衆化し、低飛行で安定する。安定することが正しいと信じ、
生き続けようとする。生き続けることが幸せだと決め付け、そんな仮初の幸せ
が理想だと思い込む。
残った人間なんて、何を求めるでもなく、ただ生まれたから生きているだけの、
そして、死ぬのが怖いから生きるだけの単細胞な一生命体にすぎない。
馬鹿げているとつくづく思った。
「いえ、なんでもないです。ありがとうございます」
保田はカメラのレンズと記者に裏では最大限に小馬鹿にした最悪の笑顔を
向けた。この笑顔もレンズを通すと最高の笑顔に変わっているに違いない。
この社会はそういう風に出来ているのだ。
- 485 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:20
- ◇◇
昼公演は問題なく終わった。予想より盛り上がりに欠けたのは、夜公演も参
戦する予定で、夜のためにテンションを敢えて抑えておこうとした人が多くいた
からだろうか。
六期の新メンバーは二日目になるとやや余裕が出てきたのか、ステー
ジ裏で、3人固まって笑いあっている姿も見られた。
昼でかいた汗を大きなタオルで拭いながら、最後の公演の心の準備を
一人でしているときに、石川が声をかけてきた。
「がんばりましょうね」
保田は顔を上げ、石川の顔を確認した後、窺うように小刻みに頷く。
「最後だしね」
「それで、いつ死ぬんですか?」
- 486 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:22
- 仄かに上気した笑顔を変えずに石川は何の抵抗もなく聞いてきた。保田は
他に近くに誰もいないことを確認してから突き放したような低い声で言う。
「終わってから、ホテルか自分の家でひっそりと手首でも切るよ。ナイフか
なんかでね」
「ふーん、そうですか。なんか美しくないですね」
「そう?」
「あんな宣言しといたんだから、もっと華々しく死んだほうがいいんじゃない
ですか。例えば今日のステージ上でとか。そしたらヒーローになれますよ」
石川の口調はまるで早く死んでくれ、と自殺を促しているようにさえ感
じられた。保田は一つ大きなため息をつく。
「まあね。でも、人前で死んだら私にとってはどっちも同じなんだ。死に方
は大して重要じゃない。大切なのはあくまで死を自分の意志で選ぶことだ
から」
石川は保田の全身をくまなく眺め回す。そして、「そうですか」と何も反論
せぬままくるりと背を向けた。
保田はその背中に声をかける。
- 487 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:23
- 「変なことになってごめんね」
「なんですか、いきなり?」
石川は振り返り、困った顔をする。
「私の死は石川には関係ないからね。だから石川はちゃんと――」
「ありますよ。だって決めたんですから」
保田は「決めた?」と聞き返した。
「はい。もし保田さんが死んだら、私も死にます」
保田ははっとして、石川を強く凝視した。
瞳に揺らぎは見られない。
本気だと分かった。
そして、石川の手から、一枚のカードが不器用に出された。スペードのジャ
ック、裏面には「ナイフ」と書かれていた。
「これ、何かわかりますか?」
保田は一目見てわかったが、あえて「何?」と聞く。
- 488 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:25
- 「これ、あの時のトランプです。保田さんはこのカードを選ばなかった。だ
から、ナイフでは死なないんです。ナイフで死ぬのは私なんです」
「……」
石川は保田に対し、脅迫をしていることに気付く。保田の自殺を食い止
める手段として自分の命を盾にしてきたのだ。石川は続けて口を開く。
「そう言えば、ヤグチさんも言ってました。保田さんが死んだら自分も死ぬ
って。だから3人仲良く天国に行けますね。ああ、誰か一人は地獄かも知
れないですけど。それとも3人一緒に地獄かな」
「ヤグチ……も?」
「ええ、知らなかったんですか?」
石川は薄ら笑いを浮かべる。
保田は知らなかった。
石川の侮蔑したような瞳が保田を突き刺す。
- 489 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:26
- 「そうなんだ。まあでも、自殺する私には関係ないよ。勝手にすれば」
そう、関係ない。大体、石川は保田の動揺を誘おうと口からでまかせ
を言っているだけかもしれない。
例え本当に矢口が言ったことだったとしても、矢口は石川に何らかの
理由で嘘をついたとも考えられる。
そして、本当の本当に全てが事実だったとしても、それは矢口の意志
なのだ。保田の自殺を認めてくれた矢口に対し、逆は認めないという道
理はまかり通らない。
「ええ、勝手にしますよ。勝手にね」
お互いにらみ合ったまま、ゆっくりと時が流れた。
やがて、スタッフの二人を呼ぶ声が二人だけの空間を壊す。
「呼ばれてますね」
「うん」
二人は同時にお互いから顔を背けた。
◇◇
- 490 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:27
- 夜公演直前の会場は後藤の卒業ライブの時にあった掛け声は響いてはこ
なかった。
しかし、卒業を見送ろうというファンの熱気は舞台裏でも十分伝わってきた。
この重くて静かな盛り上がりの中、夜公演が始まった。
最前の人間が「圭ちゃんおめでとう」と書いた大きなボードを掲げていた。
左後方のアリーナ席では「圭」という文字を緑のサイリウムで作ったもの
を一生懸命振っていた。バックスタンドではすでに泣いている禿げた大人
がいた。
一人一人の人間の様子を保田は虚像のフィルターをかけて胸に焼き付ける。
「ここにいるぜぇ!」が終わり、一旦、娘。たちはステージを退くと、すぐさ
ま圭ちゃんコールが沸きあがった。「アンコール」の声は全くと言っていいほ
どなかった。
- 491 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:28
- その後、この衰えない歓声の中に飛び込むことになる。
保田は気合を入れようと頬をパチンと叩き、ステージにつながる小さな階
段に足をかける。その時、背後から飯田が保田の肩をポンと叩いた。
「最後だねー。がんばろ」
ライブ前には必ずやる、みんなで手を組んで「がんばっていきまっしょい!」
をやった。その音頭を取ったのがこの飯田だった。
飯田は見た目以上にナーバスな人間だ。
中澤が卒業し、リーダーになって責任感を強く感じたのか、神経質さが顕
著に見られるようになった。
しょっちゅう保田に愚痴をこぼしたり、酒に溺れることも増えた。
大人っぽい容姿だけど、精神的は幼い部分がある危なっかしいリーダー
だった。
「最後に失敗したら最悪だよ」
そう意地悪そうにプレッシャーをかけるのは安倍。
ずっと安倍は目の上のたんこぶだった。その天性のタレント性は自分に
は届かないものだと保田に一つの挫折を与えた。
- 492 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:30
- 「圭ちゃん、がんば」
同じプッチモニとして、吉澤とはそれなりに深く付き合ってきた。
プッチモニダイバーで「圭ちゃんと呼んで」と半ば強制的に言わせようと
したが、本当に自然に「圭ちゃん」と呼ばれるようになったのはごく最近の
ことだった。先輩・後輩から何でも言い合える仲間になった。
「おばちゃん、泣くなよー」
冷やかしをかけたのは辻と加護。
無邪気にはしゃぐことの多い辻加護も加入当初は保田(と中澤)の前で
はしゅんと縮こまることが多かった。
だけど、いつしか「おばちゃん」と親しみをこめて言うようになり、保田を持
ち前の天衣無縫さでいじってくるようになった。
その飾りのない素直な笑顔を真正面から見ることができたとき、保田はす
ごく嬉しく感じた。
- 493 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:31
- 「がんばりましょうね」
辻加護とは対照的にとことんマジメだった五期メンは、一年半も同じグル
ープのメンバーとして共に行動しているのに、今でも保田とはあまり付き合
いがない。
だけど、その生真面目さは自分と似ている気がしていた。
モーニング娘。というグループの認知度がもっとも高い中でのスタートはも
しかしたら一番過酷だったのかもしれない。
プレッシャーに押し潰されながらも、必死で立ち上がり今も誰一人脱落す
ることなく、モーニング娘。をやっている。それも十分、強さなのだと保田は
思っている。
「がんばってくださいね」
ソロからモーニング娘。に加入することになった藤本。保田とは付き合い
が殆どないので、「がんばれ」なんてのも社交辞令程度のものだろう。紆余
曲折を経て、今保田と同じ舞台に立っている。保田を見送る立場になったこ
とに対しては、胸中複雑なものがあるだろうが、少なくともステージ上ではそ
ういう顔は見せない。そんなプライドは保田は嫌いではなかった。
- 494 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:32
- 「……」
六期メンはまだ始まったばかりだ。じっと保田を見るだけで、何も言おう
としなかったので、保田のほうから口を開いた。
「一応、私のこと忘れないでね」
三人は無言で頷いていた。
みんな、いい子だ。すっごい仲間だ。素直にそう思った。
しかし――保田の中で保田の声が聞こえてくる。
- 495 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:32
- ――確かなものなど何もない。
こんな操り人形の中で生まれた愛で乾杯するわけにはいかない。
その愛はどんなにその間で強固なものであっても結局は操る存在の感情の
変化一つで変わってしまう不確かなものなのだ。
保田は孤独や嫉妬、劣等感などという卑下すべき状態や感情のせいで自分
の命を絶つわけではない自分を再確認し、胸を張った。
「さあ、行こっ」
飯田の声が飛んだ。
保田はほの暗い空間の中に勢いよく飛び出した。
◇◇
- 496 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:34
- ステージ上は赤い照明だけがメンバーを照らしていた。いつもアンコール
後のステージはこんな感じだったかなと少し首をかしげて客のほうを見ると、
やっぱり赤く染まっていた。
綺麗だと素直に思った。
「ほら、圭ちゃん」
飯田が加護が会場の赤さに声をあげる。観客から「圭ちゃんコール」がう
ねりながら響いてくる。メンバー全員が一色の燃える世界に驚き、惑う。
「ありがとー」
保田が叫んだ。保田も赤いサイリウムで会場を埋め尽くすという計画をネッ
トを使って広めていることを思い出していた。
照明が黄色に変わり、客席の赤が一層際立つ。ちらほら見えていた緑
や青などの他の色が申し訳なさそうに引っ込むのも見えた。
- 497 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:36
- 「圭ちゃん、みんなの愛がいっぱいだよ」
飯田が言った。
「圭ちゃん、赤好きだもんねー」
安倍の声が飛んだ。
「うん、赤好きなんだよね。ビックリした」
知っていたとはいえ、実際、目の当たりにするとその壮大さに驚きを隠
せない。
MCは加護や吉澤はこの赤い光景を上手く利用してアドリブで客を盛り
上げている。他の人もそれなりにいつもと違う感動のコメントを残した。
最後に保田のMCになると「圭ちゃんコール」がずっと響いた。このまま
保田が口を開かなければ永遠に続くのだろうとさえ思った。
「みんな、素敵なプレゼントをどうもありがとう!」
保田が頭を下げると、再びどこかの国のような統一された歓声が湧き上がる。
赤いサイリウムがさらに多く振られていた。
まるで草花が風になびいてゆらゆらと揺れている草原のようだった。美しくも
あり、幻想的で怖くもある、そんな光景。
- 498 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:36
- その後、段取り通り、12人最後の曲「卒業旅行〜モーニング娘。旅立つ人
に贈る歌」を歌い、六期メンを保田が紹介。藤本らが自己紹介と保田への祝
福のメッセージをした後、16人で「Do it! Now」を歌った。
それからは今日限りのプログラム。「Do it! Now」終了の後、保田以外の人
間は一旦ステージ中央から退き、ステ―ジ上は保田一人きりになる。
保田はステージの中央に立ち、再び深々とお辞儀をした。スポットライト
は全て保田を照らしていた。
重なったライトは熱くて、汗が顔中からどんどん出てきた。増幅する歓声
の中、「ありがとう」と呟くと、客の声が少し鎮まる。
- 499 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:37
- 「1998年の5月にモーニング娘。に加入して丸五年が経ちました。私にとって、
とっても大きな五年間でした。ホントの妹のようにかわいいメンバー。いつも
いつも心配して、ホントのお父さんのようにしてくれたつんくさん。いつも影で
ずっと支えていてくれたスタッフのみなさん。そして、ずっとずっと、声援を送っ
てくれた大切な仲間! 本当にみんなに出会えてよかったです。今、ずっとみ
んなに何を伝えようかなぁっていっぱい考えてたんですけど、伝えたい気持ち
はやっぱり一つで、みんなどうもありがとう。ホントにみんなどうもありがとう!」
どんどん大きくなる圭ちゃんコール。真っ赤な会場が一つの生命体となって、
熱く血を滾らせる。
- 500 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:38
- そして、他のメンバーが再び現れた。花束を持っているのはリハでやって
いた飯田ではなく矢口だった。
矢口は体が隠れてしまいかねない大きさの花束を保田に渡す。
受け取った花束はズシリと重たかった。
「わぁ重いね」
保田はマイクをあえて離してから呟いた。矢口もマイクは誰かに渡してい
るのか持っていない。
「うん。色んな思いとかオイラのプレゼントとか入ってるし」
「プレゼント?」
「うん」
矢口はサイリウムの海に染まったように、目を赤くしていた。
しかし涙を零した形跡はない。
「こんなに早く手に入るもんなんだ?」
「実を言うとね、こうなることを知ってて、ずっと前から頼んでおいたんだ」
「ずっと前から?」
保田が聞き返す。矢口は「うん」と頷き、言った。
- 501 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:43
- 「オイラは圭ちゃんの性格知り尽くしてるからね。『ハート』に、『クイーン』で
しょ。圭ちゃんならそのカードを選ぶに決まってんじゃん。真ん中にあるの
ならなおさらね」
例の3枚のトランプのことだ。矢口は3択を提示したとき、トランプの裏にあ
えて、その3択を書き、表を見せて引かせた。こうすることによって、矢口に
とって確率を3分の1から、3分の3に近づけたのだ。
保田はあの時のことを思い返しながら「なるほど」と呟き、勝ち誇ってい
る矢口を見た。そして、「負けたよ」と清清しい笑顔で返す。
「じゃあ、オイラは何もせずに見てるから。さよなら」
矢口はそう呟き、背を向けた。
花の赤や黄色。茎の緑。包装紙の水色。そんな華やかな色の中に黒い
ものが混ざっていた。
- 502 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:44
- 横を見るとリハーサル通り、六期メンから順に列を作っていた。そして、その
順番で一人一人コメントを残していった。
六期メンはさすがにあっけらかんとしていたが、五期以前のメンバーは全
員涙を浮かべていた。石川も石川らしいコメントを残した。ただ目を合わせ
ることはなかった。
最後に飯田のコメントが終わり後方に下がると、観客からは再びこの会場
を壊してしまいそうな大きな歓声が起こった。
保田は後方で立っているメンバーの温かい視線に見守られながら客席全体
を軽く見回した。
- 503 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:45
- 泣いている人もいる。叫んでいる人もいる。何も言わずにじっと見つめている
人もいる。
見せる行動は様々だが、望むものは一つ。感動だ。一つの決まっている結
末を、六番煎じだから旨味はもちろん、もう色や香りさえ残っていないエンディ
ングを、あたかも劇的であったかのように自分の中でいいように変換して、感
動を作り上げようとしている。
人は忘れる生き物だ。そして思い出す生き物だ。
本当は感動でもなんでもない出来事なのに、嘘をついて、その嘘を忘れて、
そして、感動があったということだけを思い出す。好都合に出来ている。
- 504 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:46
- しかし、残念だけど今日は違う。
ここにいる人たちはこれから起こる結末を想像していない。ホームページの
存在を知っている人だって、小さな可能性として、記憶の片隅に残している程
度だったに違いない。プログラムが順調に消化していくに従い、自殺かどうか
なんて忘れている人が殆どだろう。
だからこそ感動を超えた一つの事実が記憶に刻まれることになる。
嘘をつく余地はない。忘れることも思い出す必要もない。その記憶は封じ込
まれることなく、常におのおのに訴えかける。
作られた幸せを求めることに意味があるのか、と。
保田は汗で幾分濡れてしまった花束に一度目を落とし、少し再び顔を上げ、
冷ややかに見下ろしながら、声を張り上げた。
- 505 名前:赤い草原 第14話 草原 投稿日:2003/11/29(土) 12:48
- 「本当にどうもありがとう!」
心とは裏腹の感謝の言葉に呼応して返ってくるのは「圭ちゃん」や「ありが
とう」などのお決まりの声援で、すぐさまそれを180度ひっくり返し、作られようと
している感動を壊す予定だった。
しかし、予想したものとは微妙に違っていた。その種の声は確かにあったが、
あまり統一されていなく、どよめきのようなものが観客からの声には混じっていた。
保田は小さな戸惑いを感じながら、よく観察すると保田を見ていた人間が違う
方向を見ていることに気づいた。ステージ向かって左のほうだ。
そして、「圭ちゃん」と叫ぶ声が違う名前を呼ぶ声に侵されてきていること
にも気づく。
保田は引き寄せられるように横を向いた。
「……」
息を飲んだ。一瞬、幻だと思い、まばたきをした。しかし、幻ではない。確かに
そこにいる。
ステージ裏へと繋がる暗い階段の前に立ち、赤い光を浴びた「少女」。
保田の口が「後藤」と動いた。
- 506 名前:赤い草原 第14話 投稿日:2003/11/29(土) 12:52
- >>164-505
→第15話 否定
次も多分前後半。
- 507 名前:赤い草原 第14話 投稿日:2003/11/29(土) 12:59
- >>455 ありがとう
>>456 容量増えたようなのでここで完結できると思います
>>457 CPは特に決めてないです
>>458-460 ありがとう
>>474-475 遅れてごめんなさい
>>476 そうですね。乗り換えてみます。
>>478-479 遅れてごめんなさい。
- 508 名前:名無しさん 投稿日:2003/12/11(木) 23:37
- うわー、ごっちん!
どうなるんだろ?
- 509 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/03(土) 21:03
- 待ってます。というわけで保全
- 510 名前:名前無し読者 投稿日:2004/01/10(土) 17:13
- 今後の展開に期待してます。
頑張って下さい。
- 511 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/18(日) 17:57
- 作者さんへ、
更新、楽しみに待ってます
- 512 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/18(日) 22:32
- もう安倍や辻加護が卒業するわけだが
- 513 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/19(月) 00:58
- ごめんね。今忙しすぎる時期なんで。
もうちょっと待ってください。作者。
- 514 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/08(日) 14:12
- 作者さんへ、
待ってます
保全
- 515 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/29(日) 12:50
- 待ってます
保全
- 516 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/08(月) 22:52
- 更新まだぁ〜
- 517 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/13(土) 20:03
- ↑うざい
とりあえず倉庫送りの危機は迫ってます。
- 518 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/14(日) 04:22
- 作者ですが、続ける意志があるので、保全します。
- 519 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:28
- 第15話 否定
保田は一度ステージの後方に一列になっていた他のメンバーの反応を見た。
みな、後藤が来てくれたという喜びはなく、動揺していた。
それは、当然の反応だ。
後藤がここに来るはずがないのだから。
神戸でライブをやっているはずなのだから、来られるわけがないのだ。
会場の中はそんな背景も知らずにただ後藤がやってきたことを喜ぶファンの
声援と、背景を知っていてなぜここにいるのかと不思議がるファンの声援とが入
り混じっていた。
後藤は一歩一歩踏みしめるように保田のもとに近づいてくる。
手には今保田が持っているものより一回り小さな花束を抱えていた。
保田も他のメンバーやフタッフも、客の一部と同様にこの有りえない状況に困
惑し、何もできずにただ後藤が歩くのを見尽くしていた。
- 520 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:30
- 保田は顔をこわばらせながら、後藤の表情を窺う。
後藤は笑顔を浮かべているでも、泣いているわけでもない。
ただただ無表情に保田を見つめて離さない。
保田との距離が1メートルのところで後藤は止まり、口元がゆっくりと動く。
「卒業おめでとう、圭ちゃん」
「……あ、ありがと……」
「後藤はずっと圭ちゃんに教えられて支えられてきたから。わがまま言って、
来ちゃった」
「そうなんだ」
「驚いた?」
「……うん」
保田は後藤の顔色を確かめながら頷く。
後藤の声は異常に抑揚がなかった。まるで演技をわざと下手にやってい
るようだ。
- 521 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:31
- 「それにしてもすごい会場だね。真っ赤だ」
後藤は会場全体を見ることなく言う。
「うん」
「実を言うとね、昼間に後藤はこれを見たんだよね」
後藤はエヘヘ、と口元だけに微笑を浮かべる。
「どういう意味?」
「後藤が逝っちゃってたとき、いつも緑の草原で遊んでた。なのに、今日行った
草原は赤く染まっちゃってた。すごく悲しかったよ」
「……」
「多分、もう後藤の体はボロボロなんだと思う。体はもちろん、心の中も真っ
赤な血を噴出しちゃった。だから、一番大事で素敵だった草原も真っ赤な
地獄に変わっちゃったんだ。あの草原は後藤自身が壊しちゃったんだ」
- 522 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:32
- 後藤の手が動き、持つ小さな花束がガサゴソ揺れる。保田はその微かな
音に敏感に反応し、後藤の顔から一瞬目を逸らした。
後藤の声はマイクを通じているらしく、客や他のメンバーの耳にもしっかり
届いている。しかし、後藤の言っている意味はみなよくわからない様子だった。
ただ保田だけは後藤の言う意味を何となくわかっている。少しためらいな
がら、口を開く。
「後藤はやり直せるよ。後藤ならきっと大丈夫」
「無理だよぉ。だって後藤はずっと夢見てるもん。無邪気に楽しくて、それ
でいて輝いてたあの頃に戻りたいって。だけど、同時にそれは絶対叶わな
いものだってことも知ってる。もう後藤はボロボロになりながら進むしかな
いんだ。圭ちゃんがくれたドラッグをいっぱい飲んで、壊れていくしかない
んだ」
- 523 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:34
- 保田の体に今までとは違う冷たい汗が流れた。
会場がよくわからないながらも異様な二人のやりとりに何か不安めいた
ものを感じたのか、ざわめきはじめた。
このさざなみのように微かに空気が揺れる中、保田は諭すように口を開く。
「確かにあの頃には戻れないかもしれない。だけど、誰だってそうだよ。そ
れに後藤にはちゃんと未来があるよ」
「ないってば。もう後藤は普通じゃない。市井ちゃんも殺しちゃったしね。
いっぱいいっぱい罪を作っちゃった」
後藤は語気を強めて言い放った。
「殺した」という言葉が、それほど強弱は変わらなかったはずなのに、やけ
に強く会場全体に響き渡った。
保田は何か外側から圧力がかかったかのように喉元がキュッと閉まり、
一瞬何も言えなくなる。
- 524 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:37
- メンバーも客も「今、何言ったの?」など騒然としながら二人の会話を固
唾を飲んで聞いていた。まだ半分は冗談、もしくは、演出ではないかと疑
っているようだ。
保田は後藤から満ちている逼迫さに引き込まれないように一つため息
をつく。
「紗耶香のことならあれから確認したよ。紗耶香は――」
「市井ちゃんは死んだよ。死んだ。あたしが殺した。あたしが壊した」
後藤は呪文を唱えるように、保田の声にかぶせて言った。そして、花束を
左腕に持ち替え、微かに震えた右手を保田に見せつけるように掲げる。
「後藤がこの手で市井ちゃんを殺した。この爪が市井ちゃんの細い首に食い
込んで……血が出たし、市井ちゃんは呼吸も抵抗しなくなった。今も後藤の
家で死んでるよ。だけど、後藤は後悔してないんだ。後藤は市井ちゃんを助
けたあげたんだ。もう二度と輝けなくなった市井ちゃんを悲劇のヒロインにし
てあげたんだ」
「……」
- 525 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:37
- 保田は後藤の様子を見て、言いかけた言葉を飲み込んだ。
会場からはごっちんコールも圭ちゃんコールも全く聞こえなくなった。
二人の会話を見守るというより、恐怖の蔓のようなものに体が巻きつけ
られて動けないといった感じで見つめている。
3万ぐらいの人間がいるとは思えないくらい静謐とした会場の中で後藤は
「あははっ」と乾いた声を大にして笑い始めた。まるで壊れた目覚まし時計の
ように、突如に、激しく。
そして目だけが保田の動揺する瞳を鋭く射抜いていた。明らかに怨みのよ
うなものが込められている。
後藤は笑い尽くしたかのように、また突如に笑い声を止め、一瞬だけ静寂
を作る。
空間の揺れ動く波を後藤は操っている。そしてその間隙の静寂をやは
り後藤が埋める。
- 526 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/24(水) 16:38
- 「それでね、圭ちゃん。後藤のお願い聞いてほしいんだけどいい? いいよね」
後藤の体が一瞬硬くなったのがわかった。
保田の反応を待たずに後藤は言う。
「死んでよ」
後藤が片腕で抱えていた花束が真下にバサッと落ちた。
後藤の手に残ったのは刃渡り30cmほどのバタフライナイフ。
二人を照らす真上からのライトがナイフを怪しく輝かせる。
「後藤を壊したのは圭ちゃん。だから後藤は圭ちゃんを許さない」
誰も状況が飲み込めないのか反応できない。
後藤は全身に殺意を漲らせながら、保田に向かって飛び込んだ。保田の
抱えていた花束から花びらが数枚飛び散った。
- 527 名前:_ 投稿日:2004/03/24(水) 16:40
- 遅くなってすみません。
あと3回。間違いなく最後まで行きます。
- 528 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 17:01
- 更新キター
遅くてもいつまでも待っておりますので、
頑張ってください。
- 529 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 20:16
- やべえ……鳥肌立った。ゾクっときた。
なんなんだこの空間は……すげえ。
待った甲斐があったよ。完結させてください、でも怖い…
- 530 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:29
- ◇◇
「圭ちゃん!」「ごっちん!」
最初の第三者の悲鳴が飛んだのは後藤がナイフを見せてからずいぶん
後のことだった。
その時点ですでに花束とマイクが保田の手を離れ、重い音を立ててメン
バーたちの汗で輝いていた床に落ちていた。
圧倒的な恐怖のせいで誰一人近づくことができない。
六期メンなどは現実に目の前で起こっているのことを信じられないらしく
口を半開きにして呆けているだけだった。
後藤と保田はもつれるようにして保田の後方に倒れこんだ。
後藤の持ったナイフは保田の左腕を掠めていた。後藤はしっかりと心臓を
めがけて飛び込んだのだが、保田が上手く交わしたのだ。
- 531 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:30
- 倒れた拍子に、ナイフは後藤の手から離れ、二人の真横に落ち、1メート
ルほど床を滑る。後藤はすぐに顔を上げ、保田をキッと睨む。
「なんで交わすんだよぉ! 圭ちゃんは死ななくちゃいけないんだよっ!」
後藤は絶叫し、落としたナイフを探す。
その間に保田は直前まで自分が持っていた花束に向かった。
同時に後藤もナイフを見つけ、飛び込むようにして拾い、その刃先を保
田に向け、すぐに攻撃しようとする。
しかし、立ち上がる保田を見上げると硬直した。
狂乱した後藤の頭の中ででも、保田の手に持つものが何であるかを理
解できた。
拳銃だ。
保田は銃口を後藤に突きつけていた。
- 532 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:32
- 「後藤に心配してもらう必要はないよ」
「なにそれ……ホンモノ?」
「もちろん」
保田はハァハァと鼓動より早く息をつきながら後藤を睨みつける。
初めて手にとった拳銃はそれ自体の重さ以上に重く感じられた。撃鉄を起
こすとガチッという重い音がした。
左腕からは激痛と汗と血が混じった赤い液体が肘や手を伝い、床にポタ
ポタと落ちていた。思ったより深く掠めていったようだ。一向に自然に止ま
る様子はない。
しかし、保田はその痛みを表情に出さなかった。それは殺意を抱いている
後藤がすぐ近くにいるから、というだけではない。この痛みこそが、自分の
願望を呼び戻す餌なのだ。
後藤の口が少し困惑しながら動く。
「なんで……そんなの持ってるの?」
「自殺するため」
後藤は言葉の意味を理解する前に「ジサツ?」と反復した。
保田は今ここにいることを確かめるように軽く息を吸い込んでから頷いた。
- 533 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:34
- そうだ、自殺だ。私は今から自殺するんだ。自殺するためにここにいる
んだ――自分の口から放たれた「自殺」という言葉と自分の腕から流れ
る生臭い匂いによって、即効薬を飲んだかのように急速に精神が落ち
着いていく。同時に汗も引き、手足の感覚を奪っていく。
それがすごく心地よい。
――やっと主人公になれた。
「そう。殺されるわけにはいかないんだ」
保田は独り言を呟いた。
なぜ後藤に追い詰められてしまったのか、数秒前の自分を卑下する。
ここは保田が支配する空間だ。他の人間が抵抗できるところではない
はずだ。
保田は呪文を唱えるかのような声で「自殺」と何度もぶつぶつと呟き、
無理矢理口の端を吊り上げ、笑ってみせた。
後藤がほとんど動かずにいるのを確認した後、保田は床に落ちていた
マイクを拾い、客に向かって口を開く。
「私は、今日ここで死にます。ミュージックステーションで言った通りに」
保田は高らかに謳い上げるように宣言した。
- 534 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:36
- 空間に穴が空く。
後藤という狂いに満ちた存在を上回る主人公の誕生に、誰もその現実
を理解できない。すでに後藤が保田を殺そうとしたこと時点で客たちはリ
アリティを失っているのだから無理はない。
「自殺します」
保田はもう一度言う。
マイクを通して響いた音が保田自身の背筋をゾクリとさせる。
さらに、静寂は続いた。
意識のあるすべての人間が、本能的に冷たい汗をかき、ライブであふ
れた歓喜や感動の余韻という正常な熱気を一気に凍らせた。
- 535 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:39
- しばらくして、背後から「圭ちゃん!」という悲痛の声がやっと飛ぶ。
保田はずっと後藤だけに向けていた銃口を近づこうとする他のメンバー
に向け、威嚇した。
「近づかないで。近づいた人間は誰だろうと撃つから」
保田の穏やか過ぎる口調がすごく不気味で、本気であることをしらしめた。
近づこうとしたわずかな勇気を持っていた数名の人間は身の危険をモロ
に感じ、一歩退く。
それを確認して保田は再び一番警戒しなければいけない後藤に銃を向け、
客を背にする。
その後藤は立ち上がる気配もなく、床に這いつくばったままの態勢でいた。
目は黒い銃口の奥に焦点を合わせていた。そして、自殺宣言をして世間
を賑わせた昔の出来事を思い返していた。妙に遠い記憶のように感じられ
たが実際はたった18日前のことだ。
- 536 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:41
- 「じょ、冗談だよね? 圭ちゃん……」
飯田の震えた声が横から聞こえた。保田は後藤が歯向かう様子を見せてい
ないことを確認したあと、のそりと銃と顔を向ける。
視界には顔面蒼白の飯田や他メンバーが映った。保田は口元を歪め、一言
「本気だよ」と飯田の希望をあざ笑うように言う。
「な、なんで……なんで死ななきゃいけないの!? 生きてないとそれで終わり
なんだよ。死ぬのは怖くないの?」
保田は狼狽に満ちた飯田の目を見ながら、ゆっくり首を横に振る。
「怖くなんてこれっぽっちもないよ、カオリ」
「ねえ、卒業するのが嫌なの? だったら、私が何とかつんくさんに――」
保田は銃口を少し上に向け、引き金を引いた。銃声と、天井に吊るされて
いた照明が破壊される音が同時に響く。
- 537 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:43
- ワンテンポ遅れて、立っていた人間が反射的に床にへばりつく。飯田の震え
ながらの懸命な説得は強制的に封じられる。
保田は全ての人間を見下す冷ややかな視線で周りを見回した。
「そういう風に思われるのが一番ムカつくんだよね。そんな理由でなんか死な
ないよ。卒業は単なるきっかけ。私はね、みんなに生きることの醜さを教えて
あげるの」
飯田は両手を上げながら、ゆっくりと片膝を立てる。
「醜くなんかないよ……。私たちの歌でもあるじゃん、人生って素晴らしいっ
て……」
「それなんだっけ?」
「ほら、I WISHで――」
「だから、それが何?」
「何って……」
保田は鼻で笑った。
- 538 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:44
- 「カオリは歌っている歌に気持ちなんか入れてるの? いつも何か届けよう
として歌ってる? もう単なる仕事だよね。馬鹿馬鹿しい。いい歌を歌おうと
か、じゃなくていかにしてこれから芸能界を生きるかばかり考えてる。そんな
人間に人生は素晴らしいって歌われても何にも感じないよ」
「……」
保田のまくしたてた言葉に、飯田はとたんに閉口する。
保田の自分を、そして他人にも向けられているかのような強い殺意をま
ともに浴び、恐怖心がべったりと肌に張り付いていた。
飯田は誰かに助けを請おうとした。
しかし、誰も飯田のフォローはしてくれない。銃声を耳に焼き付けてしまっ
た人間はみんな臆病になる。飯田を助けようとするほど余裕のある人間
は見当たらない。
- 539 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:45
- 「私は今、宙を舞ってる気分なんだ。だからこれ以上邪魔しないでよね」
保田がマイクが拾えるか拾えないかぐらいの小さな声で呟いた。
飯田は震えながらも懸命に「何?」と聞き返す。
保田は無防備に両手を広げ、天井を見上げながら一度大きく息を吸
い込む。そして、捻じ曲がった視線を飯田に向け、微かな笑みを口元に
残した。
その表情に飯田は銃口を向けられたときより、恐怖を感じる。
- 540 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:54
- ――私は自分の気持ちに正直に生きてきたつもりだった。
歌を歌いたい、その想いを伝えたいっていう自分の夢を叶えて、今ま
でやってきたつもりだった。
だけど、そうじゃなかった。
私はなんで歌ってるの?
何を想っているの?
伝えたい歌が届かなくなった。
ううん、届いてなんか元々なかった。
私が歌った先に見えたのは、ピュアとは正反対の人間の歪んだ心ばかり。
これが私の夢なんだ、これが正しいんだって思ったことも次の瞬間、誰か
に否定された。
何度も何度も裏切られた。
いつしか夢は叶ったのか叶わなかったのかさえわからずに、違うものに
変わっていった。
- 541 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:54
- 絶対なんてものはない。
だけど、何かを信じなくちゃ生きていけない。
だから、人は嘘をつく。
自分で正しいなんて思ってないのに、正しいだなんて思い込んで、それに
寄り添っていく。
私は気づいた。
結局、残っているのは偽物だらけだってことを。
支えられているものは幻想。
手につかめる僅かな欠片も幻想。
この痛みや苦しみや喜びや幸せはすべて虚構。
信じることは裏切られることで、愛することは憎むこと。
喜びは悲しみで、生きることは苦しみ、もがき、壊れていくこと。
だからね、私は全てを否定してあげるの。
だからね、洗脳されているよって教えてあげるの。
この真実を失った場所を、洗脳されて真実に見せかけられた偽物を、幻
想と知っているのに認めようとしないその嘘で塗り固められた心を否定する。
そして、私が新しい道へと導いてあげる。
- 542 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:56
- 「……」
その道が「死」に通じていることは誰にでもわかった。
「カオリには、直接教えてあげようか?」
保田は銃をさっと飯田に向けた。
「や……やめっ……」
とたんに飯田は腰を落とし、そのまま動けなくなる。顔が蒼白しているのが
赤く染まった光の中でもわかった。そんな様子に保田は軽く鼻で笑う。
飯田も他の意識があるメンバーも言葉を失っていた。
同調や共鳴などはもちろんない。
ただ困惑と、そして銃という武器だけにではなく保田という人物そのもの
に対する恐怖を抱き、抵抗ができなくなる。
ただ狂っているとだけ感じた。説得なんて不可能だと感じた。
- 543 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:57
- 保田はそんなメンバーの統一された感情を見渡したあと、銃をゆっくりと
自分のこめかみに押し当てた。
一度銃弾を飛ばした銃口は熱を帯びていて、ひりひりと焼ける感触があ
った。
後悔も未練もない。
客は会場から逃げた人や銃声に怯え蹲っている人もいれば、その場に立ち
尽くしたままじっとこちらを見ている人もいる。その中には、ドッキリに近い劇を
しているのだ、という一種の現実逃避を相変わらずしている人もいるのだろう。
「この想い、みんなにしっかり届きますように」
悲しみの介在しない乾いた声で願う。
保田自身、この感情が誰の心にも届かないことは覚悟している。いや、む
しろ届かないことで、孤高に立つ自分の存在を確認したかったのかもしれ
ない。
結局、この願いの行き着く先は神様か、あるいは、悪魔かのどちらかしか
ないのだろう。
- 544 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 19:59
- 保田は再び劇鉄を起こしたあと、トリガーに触れる。あとは少し指を少し曲
げれば一瞬にして違う世界へ瞬間移動できる。
そう思うと、見えるはずのない景色が次から次へと断片的に浮かんできた。
空一面見渡すかぎりの鱗雲。その隙間から地面に注がれる橙色の光。海の
匂いを含んだ柔らかい風が、光を、地面を、草花を、撫でてゆく。
少し幻想的で、それでいて、この世界にあってもおかしくないようなところだ
った。
きっと今からそこに住むことになるのだろう。後藤の見ていた「草原」のよう
なところなのだろう。
そう。
この新しい世界は誰に支配されることのない楽園。深い黒に侵されてい
ようとも、保田以外が踏み込めないその地は保田にとっては「楽園」以外
の何物でもない。
「ははははっ!」
そのまま保田は会場に向かって意識的に高らかに笑ってみた。後藤がした
ようには上手くは響かなかった。
そんな時だった。
- 545 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:02
- 「そっか、あれは私の声じゃなかったんだ」
会場に残る笑い声の余韻を、はっきりとした意思を持った声が掻き消した。
声の方向はちょうど真横だ。
目を向けると、そこにはゆっくりと立ち上がろうとする後藤がいた。
この会場で意思を持てるのはもはや自分のみと思っていた保田は少し
戸惑うも、すぐに冷静に現実に戻り、銃口をこめかみから後藤の心臓へと
移す。
「声って何?」
そこには瞬間移動を邪魔されたという小さな苛立ちもあった。同時に何か
しこりのようなものを胸奥に感じ、無意識に血が滴る左手を胸に添える。
「後藤はね、ずっと聞いてたんだ。歌うって何? って。夢って何? って。
答えを求めていない一方的な押し付けみたいな疑問が後藤に駆け巡って
いたんだよね。ずっと自分自身から生まれたものだと思ってたけどそうじ
ゃなかったんだ」
「その声って……私?」
「うん。今わかった」
「じゃあ、私が死んだらもう聞かなくて済むね」
- 546 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:04
- 後藤はナイフを持ったまま完全に立ち上がる。
目の高さが同じになった。
温度が下がった赤い会場とは対照的に後藤の身体は青白い炎に包ま
れているように見える。
拒食症に近い痩せすぎた身体と同じように、全てを殺ぎ落とされた結果
として残った一つの強い思いが後藤を動かしている。
最後の最後で、後藤に殺されるわけには――支配されるわけにはいかな
い。保田は後藤が持つナイフの挙動に目を光らせた。
後藤はゆっくりと首を横に振った。
「後藤は圭ちゃんの声を忘れたりしない。自分も圭ちゃんも、ここにいるみん
なも全員生きていることを否定しない。だからそんな一方的な疑問もずっと
聞きつづけてやる。その中で後藤は生きる。もう死ぬかもしれないけど、ギリ
ギリまでは精一杯生きる。それが今まで生きたことへの償いだから」
- 547 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:06
- 「じゃあ、本当は生きたいんだ? 後藤は」
「うん」
保田は「フン」と鼻息を鳴らす。
「でもさ、今の後藤ってさ、すっごく惨めだよ。あんた状況分かってる? もう
このまま生きても何にもできないよ。何しても笑われるだけで、だけどかつ
ての栄光ばかりを追い求めちゃって、今よりもっともっと惨めになっていくだ
けだよ」
「さっき言ってたことと違うじゃん。後藤には未来があるんでしょ?」
「確かに、惨めな未来が待ってるかもしれないね」
後藤の皮肉っぽい言い回しに同じように保田は切り返す。
「それでも構わないよ。それも償いだし。だけどね、惨めかどうかは他人が決
めることじゃないと思うんだ。後藤は惨めに思えるんだったら、多分、圭ちゃ
んは自分で自分が惨めだって認めているんだ」
- 548 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:08
- 「何それ? どういう意味?」
「圭ちゃんは他人を自分より優れているか劣っているかでしか見ていない人。
きっと誰かを貶めることでしか、自分をさらけ出せない人間なんだ。後藤を惨め
な存在に作り上げて、自分の惨めさを隠しているだけ。前に出ようとして誰か
に否定されたなら、もっと前に進めばいいじゃん。なんでその否定を打ち消す
ことしか考えないの? なんでそこで立ち止まっちゃうの?」
「……」
「わからないなら教えてあげるよ。それはね、自分の惨めさを知っているから。
自分で認めているから。前に進む勇気がない臆病な人なんだ。嘘をついて
いるのはみんなじゃない。圭ちゃんだけだ」
後藤の畳み掛けるような口調を黙らせるために保田は「これ以上喋ると撃つ
よ」と問答無用に脅した。
苛立ちに、せっかく修正したシナリオが再び狂い始めているという小さな焦
りがあった。
しかし銃を突きつけられても後藤は全く反応しない。まるで銃は見えていない
ようだった。
後藤の生気の薄い目は銃口を貫いて保田の心にまで届いている。
- 549 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:10
- 後藤は持っていたナイフを真下に落とした。
ナイフを今まで持っていたことも、落としてしまったことさえも後藤は気づい
ていないようだった。それに保田を睨みつけているにも関わらず、殺意は全
くと言っていいほどない。
「なによ、殺そうとしているんじゃなかったの?」
底から湧きはじめた戸惑いを隠すように後藤に聞いた。
「ないよ。もうなくなった。圭ちゃんは殺す価値のない人間だって気づいた
から。あの声が自分のものじゃないんだってわかったら、なんだかすごく
滑稽に思えてきちゃったよ」
後藤はすぐに答える。
死にかけているような息も絶え絶えの弱弱しい口調。しかし、その中身は
激しく保田を攻撃している。
「じゃあなんで近づくの? 私が死ぬとこ、間近で見たいから?」
後藤は無表情にゆっくりと首を横に振る。
「後藤は馬鹿だよね。なんで圭ちゃんを憎んじゃったんだろ? やっと気づい
たよ。後藤は圭ちゃんに壊されたんじゃない、壊れている圭ちゃんに付き合
ってあげただけだって。だから後藤はかわいそうな圭ちゃんを助けてあげた
いんだって」
- 550 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:12
- 保田の眉がピクリと動いた。胸に残るしこりが痛みを伴って動き、添えて
いた左手が拳を作る。保田は眉をひそめ、「何?」と口元を動かした。
後藤はゆっくりと、そして、はっきりともう一度言った。
「圭ちゃんがかわいそうだ」
かわいそう、とは強者が弱者にかける哀れみの言葉だ。保田はついこの
間、強者となってある弱者に言った。その弱者とは――。
一つの認識と、脳裏に浮かんだ顔が保田の心を揺らがせる。
「市井ちゃんより、ずっとずっと、惨めでかわいそうな人間だ」
――それは紗耶香に言った言葉だ。
後藤の「市井」という名前の響きとそれよりやや先にいた市井の顔が保田
の頭の中で結びつく。
- 551 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:14
- 市井はどうしようもない人間だった。
夢を中途半端に抱いて、その夢が非現実になって無理だとわかっていな
がら、半ば自暴自棄気味にしがみついて、結局、自滅した。
保田にとっては、旧友でありながら、見下すだけの言わば下の存在だった。
そして、後藤も誰かに、もしくは、薬に依存していかないと生きていけない
「かわいそうな」存在だった。
能力的には保田より上でありながら、簡単に後藤を操ることができ、常に
優位性を持っていた――つもりでずっといた。
しかし、後藤は今はっきり抵抗してきている。そして、かつて保田が市井に
向けた最大限の侮蔑を、確信を持って投げつけている。
保田は見えない威圧に押されるように半歩後退した。
保田にとって市井は弱者のはず。それなのに、なぜ後藤は自分のこと
を市井よりかわいそうな人間に自分を位置づけているのか。
- 552 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:16
- かわいそうって何よ、と後藤に問おうとする。しかし、声となって出てこない。
あくまで保田の中で止まる。その答えを聞くのを本能的に躊躇ったのだ。
保田は歯を食いしばりながら、なぜこんな状況に立たされているのか自問
自答した。
この空間は予定通り制圧したはずだ。
それなのに、なぜ後藤は反抗できるのか。
かわいそう、だなんて下の人間にかけるような言葉を投げてくるのか。
銃を握る手が汗ばんできている。ひたいに汗が浮かぶ。強い鼓動が喉の奥
からせり上がってくる。
動揺している、とようやく自分でも認めた。
それは後藤に屈服されようとしていることを意味する。
保田は、動揺なんてするな、と自分に言い聞かせ、一度強く首を横に振る。
だまれ、と保田は言った。
止まれ、と言った。
ホントに撃つよ、と言った。
- 553 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:19
- 震えた声は後藤の耳には届かない。
後藤は生きることにしがみついているはずなのに、なぜ銃を見て、怯えな
いのか。
――矛盾している。
矛盾といえば、なぜ後藤がここにいるのかわからない。
後藤は今日は神戸でライブだったはずだ。だからここに後藤がいるはず
がない。
じゃあここにいるのは誰だ?
なぜ後藤の形をした人間が今自分の前に立ち、自分の空間を邪魔しよう
とするのか。
そうだ、こいつは亡霊だ。幻だ。最後の敵だ。未来の扉を開けるのを邪魔
する最後の番人だ。
- 554 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:22
- 保田の心を突刺し続けている目の前にいる亡霊の目を潰さなければいけ
ないという衝動が起きる。
片手で持っていた銃を両手でがっしりと固定して、亡霊の心臓から目に焦
点を変えた。
「ホントに撃つよ!」
驚くほど声は震えていた。
保田の中では、目の前の後藤は後藤ではないと思い込んだはずだった。
しかし、どう思い込んでみても、目の前の敵はどの角度から見ても間違い
なく後藤真希だった。
保田は躊躇いを紛らわすために懸命に声を荒げて警告する。それでも、
やはり目の前の亡霊は全く歩みを止めない。
保田の命令を悉く無視して、まるで、死刑台へと向かう罪人のようにゆっく
りと近づいてくる。
- 555 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/26(金) 20:24
- 銃口がどんなにぶれても確実にヒットできるところまできたところで、亡霊
は足を止める。
そして、亡霊は叫んだ。
「後藤は自分を否定しない。周りのみんなを否定しない。何度裏切られても
絶対次も信じる。圭ちゃんは弱いだけだ。裏切られつづけて、信じられなくな
って、それで結局自分も裏切る側に回って、優越感に浸りたかっただけだ!」
「だまれっ!」
まだ二人の間には距離があった。しかし敵の声と、それから作られる幻影
が保田に襲い掛かっていった。
それは保田がどう誤魔化そうが後藤の声に相違なかった。保田も何がなん
だかわからず、ただ無意識に叫んだ。
その二つの声にさらに覆い被さるように今日二度目の銃声が響き、縮まっ
ていた二人の距離を広げた。
◇◇
- 556 名前:_ 投稿日:2004/03/26(金) 20:26
- あと2回。
保全、催促、感想、ありがとうございます。
- 557 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/26(金) 22:37
- ハッピーエンドかバッドエンドか予想できません
また続きキボンヌ
- 558 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:44
- 時が止まる。
赤く染まっていた会場にさらに濃密な赤が塗り込まれた。
もう悲鳴は音を持たない。現実として目に映る惨劇の前には全てが無効
化する。
保田の体は撃った衝撃で軽く後ろに飛ばされた。威嚇で発砲した一発目
とはてんで違った。
両手でがっしりと握ったままの銃は、重く、そして熱かった。視界の先には
足をこちらに向けて大の字になって寝ている一つの体があった。
無音と化した場から高鳴りが響き、保田の脳に直接響く。
動かない体を見てから、数秒経ってようやくこの銃が亡霊を――後藤を撃っ
たという事実が押し寄せてきた。
- 559 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:45
- 喉の奥で暴れる絶叫はどういうわけか口までやってこない。消えるでもなく、
ただ心に入り込みその中で爆発し、保田の内部を壊していく。
自分が作り出した一つの死の前に、積み上げてきたシナリオが全て吹っ
飛んだ。
なぜここにいるのか、なぜ銃を持っているのか、なぜこんなに震えている
のか、なぜ死体がここにあるのか――?
ただわかるのは「死」が作られたこと。
しかし、その「死」は自分ではないこと。
幻影でも亡霊でもない、ゴトウマキであること。
保田を取り巻くあらゆるものに失望した結果、とりうる最後の行動は死ぬ
ことだった。
死は誰もが恐れることであれ、誰もが迎えることであり、何よりも神聖な
ものだった。
だからこそ、その死を自分の意志で足を踏み入れることは全てを凌駕す
る最高の主張だった。
- 560 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:45
- その結果、何かが生まれることを期待した。真っ黒に塗りつぶされたもの
であろうと、その次の瞬間はヒーローになるものと確信していた。
それが正しいと信じた。はじめて、裏切られる心配のない正しいものを見
つけたつもりだった。
しかし、今、保田の中ではその最後の真実にさえ裏切られた衝動が起こっ
ていた。
――市井ちゃんよりかわいそう。
体が動かなくなっても、目に光を失っても、その後藤の声は直接脳と心に
響く。保田の目には後藤が立ち上がり、そして叫んでいる姿が見えた。まさ
しく亡霊だった。
- 561 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:49
- 「違う……」
保田は自分の心に灯しはじめた現実を否定する。
「違う違うちがうちがうチガウ……」
頭を抱えて、何度も「違う」と繰り返した。
「……私が紗耶香や後藤よりかわいそうなわけがない!」
強い口調は一つの結論として保田の暴れようとする心を強引に封じ込める。
後藤の言葉に勝ったわけではない。開き直ったのだ。
「かわいそうなわけないんだ……私は……正しいんだから……」
かろうじて残った切れかけの糸を太いものと思い込ませる。
そして保田は再び銃をつかんだ。相変わらず重くて熱かった。ゆっくりと立
ち上がると、後藤の全身が見えた。
血はあまり床に広がっていなかったが、頭の辺りが赤く染まっていた。顔
はステージ奥側を向いていた。
- 562 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:50
- 「後藤は間違ってる。そうだ、後藤は狂ってたじゃないか。薬に依存して、幻
想まで見るようになった廃人だったじゃないか……。私はそんな後藤を助け
てあげたんだ……この腐った世界から、この現実から……。だから私は正
しんだ……」
体がやけに冷たかった。
手足はもちろん頭の中も冷気が吹きつけたように凍っていく。
自分は正しいと思い込めば思い込むほど蜘蛛の巣のような白くて粘々とし
たものが脳に巻きついていく。
「正しいんだ……」
正しくないよ、と誰かが言った。
保田は敏感にかっと目を見開き、後藤にその血走る目と銃と身体を向け
る。しかし、後藤は横たわったままピクリとも動かない。それに後藤の声と
は少し違うことに気づいた。
よく聞く、すごく身近な、だけどなぜか遠い声だった。
- 563 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:51
- 「今言ったの誰?」
自分の生き方、そして死に方を否定する人間は全て敵だ。
それがどんなに近しい人間であろうと許さない。
すぐに殺してやる。
得体の知れない恐怖と、込み上げる怒りで震える声とともに保田はメンバ
ーを銃と共に見渡す。しかしすでに失神したり逃げてステージ上から消えて
しまった人がほとんどだった。意識がある人間も保田と目が合うと、撃たな
いで、という恐怖で床に這いつくばっていた。
「誰よ!」
保田は叫んだ。
その後に流れる恐怖に支配された重い静寂が、一人の小さいはずの少
女の姿を大きく見せた。
- 564 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:53
- 「誰も何にも言ってないよ」
保田の殺意で赤く染まった目が瞬間的にその少女に向けられる。
「もし何か聞こえたんなら、それは圭ちゃん自身が言ってるんだよ」
保田はそのまま言葉を失った。口は「ヤグチ」とかろうじて動いた。
「何もしないで見ている」と言った矢口が今、その言葉を反故にして口を
開いた。
そして、それは保田以外の人間は意思を持つことが許されないはずのこ
の空間に後藤と同じように何の障害もなく入ってきたことを意味した。
矢口は無表情のまま、保田のほうに向かってゆっくりと歩みはじめる。
そのテンポは後藤が近づいたそれと殆ど等しかった。
「これ以上近づかないで……近づくと――」
- 565 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:57
- 保田は慌てて言い、銃口を矢口に向ける。しかし、後藤と同じく保田の命
令には従わない。
その意図的とも思えるくらいに類似した行動のせいで、保田は矢口に後
藤の影を重ねてしまう。
保田からすれば矢口は「私を殺してくれ」と言っているのと同じようなもの
だった。
止まれ、と言おうとした。しかし言えなかった。
撃つよ、と言おうとした。しかし言えなかった。
後藤の時と同じだから。無視されるのがわかっていたから。
そして何よりも、相手が矢口だから。
さらに大きくなっていく矢口の体躯。
両手で握った銃は震えている。
指間が汗でにじみ、すべり落としてしまいそうだったから、必要以上に力
を込めて握っていた。
こんな状態だが、それでもただ真っ直ぐ向かってきている矢口に当てること
は容易だろう。
- 566 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 18:59
- 保田は矢口が撃たれ、冷たい床に横たわる数秒後の未来を想像した。
矢口は何も言わないでただ震えながら銃口を向けるだけの保田に対し、
口を開く。
「撃てば。どうせオイラも死ぬつもりだし」
矢口の言い方は「撃てない」と挑発しているようだった。
保田の頭が空白に埋められていく。
これは後藤のときと同じだ。この後、自分は記憶を飛ばし、その間に訳
がわからないまま撃ってしまった。
死は恐怖ではないはずだ。
実際、死の直前まで自分を追い込んだが恐怖はなかった。
他人の死だって同じはずだ。それなのに、この眩暈がするほどの鮮やか
な白はなんだ。この自分の意志を意識を奪おうとするこの無の圧力は一体
なんなんだ?
- 567 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 20:20
- 保田の指先が震えていた。保田の意志とは無関係にその指が折れ曲がっ
ていく。
「うわぁっ!」
保田は意識が飛ぶギリギリのところで、叫び、銃を上に向けた。
放たれた弾丸は矢口の遥か上を通り過ぎた。
保田は弾丸の行く先を見て、誰にも当たらなかったことを確認した後、銃
を持ったまま、崩れ落ちるように床にペタリと腰を落とした。
目の奥を押し潰そうとする白い敵は目の中から一瞬にして消えた。
代わりに、照明と血のせいで赤く染まった床が見えた。
顔には涙と汗が混じった水滴がべったりとついていた。その感触の悪さと
冷たさがひどく保田の中で強調されている。
- 568 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 20:24
- 「なんで……こんな……」
安堵と悔恨が混ざったものが、胸に穴を開ける。
自分が死ぬことは怖くなかった。死なんて軽い存在だからだ。
いや、誰もが重いと認めている存在を軽くみなすことで、孤高な自分を
作り上げていた。だから、本来は誰が死のうと関係なかった。
しかし、実際の保田はその死をこれ以上自分の手で増やすことを否定した。
両手で持つ銃がすごく重たかった。呼吸がうまくできずに、苦しかった。
「圭ちゃんは今やっと自分自身にも裏切られたことを認めたんだ」
突きつけられた高い声の刃が右の耳を通って狂乱した脳を切り裂く。
保田は顔を上げた。ステージライトが網膜を刺激する。矢口の顔はその
光を背に浴びているせいでよく見えない。
- 569 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 20:26
- 「私自身?」
矢口は頷く。
バックの光がさらに光度を増して保田を襲う。
後藤を殺し、矢口に殺してくれという無言の圧力を受け、自分とは違うと
ころで死が生まれ、自分の許容を超えるその圧倒さの前に、ひれ伏そう
としている。
「ごっちんの言うとおりだよ。圭ちゃんはこの世が全て偽物だって言ってた
けど、そうじゃない。圭ちゃん自身が偽りだっただけ。圭ちゃんは自分自
身の弱さを否定していただけ」
- 570 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 20:28
- 呆とする保田を一度確認してから、矢口は続ける。
「圭ちゃんは人気がない。卒業じゃなくてリストラ。もう歌を歌わせてはもらえ
ない。そういった自分の不遇を全部理解した気になって、でも本当は全然
理解してなかったんだ」
「だから、ちがっ――」
それはもっともありふれた、だからこそ、もっとも否定したいものだった。だか
ら突発的に「違う」と言おうとした。しかし、その短い言葉さえ今の保田は最後ま
で言えずに詰まってしまう。
誤魔化し、封じ込めた一つの「真実」が矢口の言葉で保田の記憶から引き
出される。
- 571 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:06
- 卒業後の確実な不遇。
メンバーへの嫉妬。
やりたいことができないという失望。
全て保田は認めていた――つもりだった。
- 572 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:12
- 10ヶ月前。
卒業を宣告された。すぐにメンバーに告げた。全てのメンバーが口を揃えて
「辞めないで」と涙ながらに訴えてくれた。その行動に少なからず感動した。
だが次の日、メンバーに涙はなかった。
もう決まったことだから仕方がないよね、と誰かが言った。
とにかく今を頑張りましょう、と誰かが言った。
みんな笑顔でがんばりましょう、と保田を温かく迎えていた。
その時のメンバーは、第三者から見れば、悲しみに屈しまいと懸命に作っ
た笑顔だったのかもしれない。
しかし、保田にはすごく残酷なものに映った。市井より前の卒業メンバーの
ようにずっと会えなくなるわけでもないし、卒業というイベント自体、5回も6回
もやっているので、慣れてしまったというのもあるのだろう、と思い込んだ。
でも、この時感じた単純な残酷さは色褪せなかった。傷と言ってもいい。
- 573 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:19
- 移ろう時の残酷さは、さらに流れる時が洗い流してくれることは経験上知
っているはずなのに、保田はその流れに身を任せる余裕も持てずに自分か
ら行動に出る。
この現状の根本自体を保田は否定しはじめた。
押し寄せる疎外感をまず否定した。メンバーから裏切られた気になった自
分を否定した。残酷さに打ち震える思いを否定した。「否定された」と思う前
に全てを自分から否定し、防御線を張った。
全ての否定の上に、作られたのは自殺という意志。
それは自分が否定されることはおかしい、間違っているのは自分を否定し
ようとするこの世のもの全てだ、と真上から見下ろして、存在全てが愚かだと
罵る、保田にとっては意味のある行為。
しかし、それは当然独り善がりの価値観によって作られたものにすぎない。
保田の目には空虚な世界しか映らなくなる。
結局は自分の作った愚かな世界に目を向け、それは愚かだと蔑み笑うと
いう無意味なことをしていただけ。
そして、保田だけが架空の存在となった。
- 574 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:23
- 「否定したのは自分自身だけ? 否定されるのが怖かっただけ?」
認めなくない真実を呟く。
考えれば考えるほど自分という人間が陳腐になっていく。
自殺志願者のありふれた情けない自殺理由を保田は嘲笑った。
週刊誌の容易に想像できる憶測を浅いと吐き捨てた。
少年の自殺を称えておきながら一方では、自分は弱さからの逸脱ではな
い、と少年との違いを自分の中で強調した。
世に蔓延るすべての否定への証明のために死ぬんだ、という高尚と言
える死を選ぶ自分の存在意義をより高めていた。
しかし、違った。
結局は他の自殺する人たちと理由は何ら変わっていなかったのだ。
単なる逃避の手段、自分の腐ったプライドを守ろうとする愚かな行為にす
ぎなかった。
本質は、三流紙に書いてあったような保田のことを知らない第三者が容易
に想像できる理由と殆ど等しかった。
- 575 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:26
- 「チガウ……」
保田の願いともとれる呟きに、「違わない」という断定した声が脳天を貫く。
何度「違う」と言い、首を強く横に振っても保田は保田に拒絶される。
自分自身に拒絶された存在が今、銃を持って虚しくステージの中央に座
っていた。
保田は今こうして不必要なプライドを持ったもっとも愚鈍な殺人鬼になれ
果てた自分に悲しみの咆哮を放つ。
狂うという自己主張さえ否定された無の存在になってしまったことに嘆く。
「なんで……なんでよぉ!」
様々な赤に染められた会場に保田の叫び声が響き渡った。胃からせり出
されるような嗚咽が保田の全身を震わせる。
保田はうずくまるように頭を床につけ、泣き続けた。
汗と涙でぬるぬるとした床はすごく冷たかった。
- 576 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:27
- 泣きつかれて、少しだけ冷静になって、もうどうしようもない自分がいること
を知った。
保田は憔悴しきった顔で前方にいる矢口を見た。
「ヤグチ……私、どうしたら……。だからって私には生きる意味なんて……」
矢口は保田が泣き咽いでいる間、ずっと無表情、無言のまま見下ろして
いた。保田が矢口に懇願した今も表情が変わることはなかった。
「オイラは、別に圭ちゃんの自殺を止めようと思って近づいたんじゃないよ」
「え?」
保田はその赤く腫れ上がった目を丸くした。
「言ったじゃん。おいらは見てるだけだって」
保田の中で衝撃が走る。
鼓動がドクンと一回だけ強く波打ち血流が一瞬だけ速度を増した。
「それって……」
- 577 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:29
- 保田は床に置かれた銃を見た。
矢口が近づいたのは殺されるためでも自殺するのを食い止めるためで
もない。
保田が絶望に朽ち、それでもなお、死ぬしか選択できない愚かな人間の
最期を一番近くで見届けるためだ。
弱さを認めた後の自殺は何の意味も持たない。
死は単なる死として、命が消えるだけの行為。
「ヤグチ、言ってたよね……手伝ってくれるって。だから、お願い。私を……
殺して……」
保田は懇願するような目を矢口に向けたまま、銃を床に置き、ボーリング
のように銃を滑らして矢口の足に当てた。
「自殺」は保田の中ですでに意味を失っている。生きる意味も当然失って
いる。だから誰かに殺されることが、殺される人間にとっては意味も何も必
要としないものだから一番ラクなのだ。
- 578 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:32
- 「イヤだね」
しかし矢口は保田の思考を嘲笑うように即座に拒否する。そして足元にあ
る銃を拾い保田に投げ返す。
「圭ちゃんは自分で死ぬか、惨めに生きるしかないんだ」
「そんな……」
愕然とした。決して矢口は自分の手を直接汚すのを嫌がったのではない。
突きつけた二者択一は正反対だがどちらも残酷なものだ。
保田はほとんど無意識に銃を取った。立ち上がり、そのまま銃が胸のとこ
ろまで自分の意志とは無関係に、銃が胸、顔へとあがっていく。
矢口は表情一つ変えない。保田は劇鉄を起こし、銃口をこめかみに当てた。
今度は肌が焼ける感触はなかった。
手も足も顔も、体全体が麻痺していた。
生きることと自殺することの違いが一つある。生きる先は分かっている。
そして自殺した先は分からない。
苦しみは死んだあとも続くのかもしれない。しかし、続かないかもしれない。
生きていたら苦しみは100%続く……。
「……もう私は生きられない……」
- 579 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:33
- 保田は無様な自分の置き場の選択を口にした。
言葉として出してみて、ようやく死を理解した。後藤がここに現れる前に抱
いていた死とは全く異質なものだった。
惨めで、虚しくて、そして、後悔も未練も刻まれた最悪の死。
しかし、それが正しい死だ。
死は単なる敗北だ。
それ以外の何物でもない。そこに価値を見出す人間がいるとすれば、
それこそが幻想であり、まがいものだ。
後藤を見ると保田の目の片方から涙が滴り落ちる。
過去の膨大な記憶が一気に流れた。
出会い、一緒に苦しみ、生き抜き、笑いあったメンバーがいた。
その中に矢口もいた。誰よりも高らかに、楽しそうに笑っていた。
- 580 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:36
- 「そっか。じゃあここで見てるね」
そう当たり前のように言った矢口をおぼろげに見つめた。
相変わらず表情は変わっていない。あんなに表情豊かな矢口なのに、
と思うと、出会ってから今までの矢口の様々な顔が、膨大の記憶の中から
抽出されて浮かんできた。
きっと矢口は保田の矛盾を知っていて、あえて加担していたのだ。
自分は矢口に操られていたのだ。
そんな敗北感と恐怖めいたものは抱いたが、憎しみは不思議なくらい抱
かなかった。
それどころかどういうわけか感謝さえ心の片隅で抱いている。
真実はもっともっと奥深いところにあるのだと思った。
今闘っている戦場もやっぱり架空の範疇。保田は真実の中に住むことがで
きない。
きっと自分みたいな愚かな人間には永遠に辿りつけることなんてできない
のだと悟った。
- 581 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:38
- 「ねえヤグチ、最後に聞いていい?」
保田は聞いた。矢口は目で、頷く。
「私のこと、好き?」
すると矢口の口元が動いた。微かな笑みを添えて。
「うん、好きだよ」
口では何とでも言える。だからこれも嘘かもしれない。
だけど保田は、よかった、と素直に思った。矢口の少し和らいだ顔を見
て、すっと張り詰めていた緊張が解ける。笑顔というには薄すぎる、無に
還ったような穏やかな表情が保田の顔に浮かぶ。
「さよなら」
保田の右の人差し指が引き金に触れた。
目を閉じ、指先に力をこめる。
その時だった。
- 582 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:42
- 「保田さん」
その甲高い声は二人の真横から聞こえてきた。矢口は慌てて、顔を向ける。
後藤の体があった。
そして、その傍にナイフを持っている石川がいた。後藤が持っていたナイフだ。
「梨華ちゃん?」
保田は石川の声でなく、矢口の石川を呼ぶ声に反応し、引き金を引かずに
目を開けた。そのまま、矢口の見ている方向に目を移す。
視界に入ったのは無垢な笑顔をした石川だった。
その顔は間違いなく石川だったのに、保田は石川だとはしばらく気づかな
かった。
石川はゆっくりと近づいてきた。高いヒールを履いているわけでもないの
に、歩み寄る足音がやけに強く響く。
石川の右手にはナイフが強く握られていた。
保田の目は確実にその右手を捕らえたが、意志薄弱に近かった保田は
そこに意味を見つけられない。
近づいてくる石川に驚きもしない。なぜ石川が声をかけてきたのかという
疑問さえ浮かばなかった。
- 583 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:44
- 石川は保田の目の前に立つ。
「私、自殺が本気だって聞かされたときからずっと保田さんに自殺させない
方法を考えてたんです。それで、やっと見つけました」
「……」
石川は汗一つかいていなかった。
その姿はさらに近づく、磁石のN極とS極が引き合うように保田も石川と
ナイフに引き寄せられ、二人の身体は重なった。
石川の肌は温度を持っていなかった。「ブスッ」という何かを突き刺す音
は遠くから聞こえてきた。
当然、痛みなどない。
ただ、右手に持っていた銃がどんどん重たくなってきた。
石川は二人の間にあったナイフを保田の身体からゆっくりと抜いた。
同時に保田の腹から血が激しく流れはじめた。石川は赤く染まったナイ
フを保田の眼前に向ける。
赤色が反射して目が痛かった。
そしてようやく保田のほうが感情に変化を見せる。
現状を認識したのだ。しっかり石川の姿やナイフが目に映っていながら、
すでに銃弾がこめかみを貫いた後の光景だと思っていた。
- 584 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:48
- 途端に痛みが腹部に走る。
保田は左手で腹を抱える。
自重に耐えられなくなって、少しずつ身体が折れ曲がっていく。
「どうして……?」
保田は石川の顔を見上げながら聞いた。
石川は笑顔を絶やさない。
返り血のついた自分の手を舐めながら言った。
「私が殺してあげればいいんですよね」
淡々とした口調が保田の耳に届けられる。
保田はか細いながらも精一杯の声で「石川」と呟いた。
保田は鉛のように重くなっていた拳銃をそのまま真下に落とした。
意識が深い谷底に引っ張られるように急激に落ちていく。目の前が霞ん
でいく。
そんな中、目を凝らして見えたのは、変わらない石川の笑顔だった。
- 585 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:50
- その表情につられたのか、負け犬に成り下がり、最悪な結末を選択した保
田にも再び穏やかな笑顔が戻った。
自分を否定し、否定され、居場所を失った世界に、一筋の細い光が見えた。
石川の手によって作られたこの体の重みが最後の肯定であるように感じら
れた。
最後の最後で、ようやく保田は「生」の中にある真実を手に入れたのだ。
同時に尊い「死」を作ってくれた。
そして、「死」を背負ってくれた。
腹部からは血が止まることなく流れていた。
喉奥から口へと液体が上がってくるのを感じながら、石川にさえも聞こえな
い程度の小さな声で「ありがとう」と呟いた。
保田はうずくまるようにして床に伏した。
悲鳴はあがらない。もう二人以外の人間は全て失神、ないしは、逃げ去って
いたから。
- 586 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:54
- 石川はすぐさま保田が落とした拳銃を拾い、近くにいる矢口を見た。
保田を刺すときも刺した後も変わらなかった笑顔がロウソクの火を消した
かのように石川からふっと消える。
「ヤグチさんの言った通りでした。私も狂ってました」
矢口は首を横に振る。
「ううん。狂うだけなら簡単だよ。問題はどう狂うか。その点、梨華ちゃんは
オイラの想像を超えてた」
石川は両手で拳銃をしっかりと握り、銃を矢口に向けた。
「ヤグチさんがいなければ、保田さんはこんな風にはならなかった。ごっちん
の言葉を借りるなら、保田さんを壊したのはヤグチさん。私を壊したのも、
きっとヤグチさん」
矢口は逃げようとする気はもちろん、動揺の気配さえない。
まるでこうなることがわかっていたみたいに臆することなく状況をまるで第
三者のように達観している。
- 587 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:57
- 「オイラを……殺す気?」
石川は無言で頷く。
矢口は石川から一瞬だけ目を切り、その間に気を抜いたようにふっと息
を吐く。
「オイラはもうちょっと生きたいな。やらなくちゃいけないことあるし。だから
見逃してくれないかな?」
「大の大人が何無責任なこと言ってるんですか? 自分が何をしたかわかっ
てるんですか?」
石川は銃の延長線上にいる矢口に憤りながら言う。
「わかってるよ。圭ちゃんの自殺を後押しした。それだけじゃん」
「……悪いと思ってないんですか?」
矢口は首をかしげて、考える――フリをしているだけだ、と石川は感じた。
その変わらない無関心さに不快感を高める。
- 588 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 21:59
- 「まあ、悪いこと……なんだろうね。じゃあやっぱ仕方ないか。苦しむのは
嫌だから、ちゃんと心臓か頭を狙ってよね」
矢口はそんな石川の感情を逆立てるようにのんびりとした口調で答える。
そして、両手を肩の近くにまで挙げ、目をつぶった。
「……」
それから、五秒、十秒と経っても石川は撃ってこない。
焦れた矢口は片目を開ける。
「ねぇ、早くしてよ」
そこには相変わらず銃を自分に向けている石川がいた。だけど、内側か
らの猛攻を凌いでいるかのように歯を食いしばっていた。
「梨華ちゃん?」
「……」
「ねぇ。梨華ちゃんてば」
- 589 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 22:01
- 石川にはモーニング娘。に入ったころの、自信なさげな顔があった。手元
と口元が震えていた。その双眸は涙で揺れていた。
「ヤグチさんは、どうして保田さんを助けようとしなかったんですか? どうし
て……」
石川は一度言い詰まる。そして、胸を圧迫する重いツカエを懸命に押し
出すようにして言う。
「どうして、保田さんのことをこんなにもわかっているんですか?」
石川の瞼に貯まっていた涙が一筋の糸となって落ちる。
矢口はもう一つの目も開け、まっすぐ石川と向き合った。「それはね……」
と一拍矢口は間をためて言う。
「オイラは圭ちゃんの中の人だから」
涙でくぐもった視界から矢口の、どこか不遜とも言える笑顔が覗いた。
- 590 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 22:03
- その言葉の前に真理はなかった。
ただ、そう言い放った後に真理は作られた。
その無から生まれた余韻が二人の間にだけ漂う。
石川は妙に納得してしまい、怖いくらいに言質を消化していった。それを
すごく悔しく感じた。
この感情が「嫉妬」だと理解した。
「ふふふ……」
そして、その反応が矢口と同じような笑顔になって表れた。
「納得した?」
「はい。じゃあ、やっぱり死ぬしかないですね」
「そうだね」
- 591 名前:赤い草原 第15話 否定 投稿日:2004/03/29(月) 22:04
- 石川から涙が消えた。
矢口の姿がはっきりと映った。その矢口をキッと睨んだ。そして、再び血
のついた手に力を込める。
「死ね」
石川はためらうことなく引き金を引いた。
終幕を告げる最後の銃声が鳴り響いた。
- 592 名前:赤い草原 第15話 投稿日:2004/03/29(月) 22:06
- >>519-591
→最終話 意味
あと1回
- 593 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/29(月) 22:08
- 乙
ワクワク
- 594 名前:_ 投稿日:2004/03/29(月) 22:09
- レス流しを兼ねて。
>>508-511
遅れてすみません。
>>512
辻加護卒業前には終わらせられそうです。
>>514-517
保全ありがとうございます。
- 595 名前:_ 投稿日:2004/03/29(月) 22:12
- >>528-529
今月中に完結させます。
>>557
長いですけど更新しました。
>>593
微妙にフライングです。
ありがとうございます。
- 596 名前:_ 投稿日:2004/03/29(月) 22:19
- 訂正
>>591 「最後の」カット。
>>566 「意志を」カット。
こんなのは腐るほどあるでしょうが。
- 597 名前:593 投稿日:2004/03/29(月) 22:20
- >>595
実は書いたときには>>583までしか読んでなかった
更新真っ最中だったのね・・・
- 598 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:11
- 最終話 意味
――生きることに何の意味があるのか
ひどく不幸や苦しみを感じた人は得てして、こんな疑問を抱く。
そして、誰一人その答えを見つけられないでいる。
ただ、答えを見つける必要はない。しばらくすれば、通常は別の何らか
の作用で不幸や苦しみは解き放たれ、疑問自体を忘却していくからだ。
そんな繰り返しの中で人は時を過ごす。
その一部が、その疑問を忘れられずに、もがき苦しみ続け、そして、さら
にその一部が死を選ぶ。
もし、この答えがあったとしても至極無意味なものなのだと思う。大切なの
はその答えを見つけようとする過程であり、それは一種の心の浄化であり、
しいて言うならば「意味のあるもの」なのだと思う。
でもそれも、厳密に言えば、「意味がある」のではなく、「意味を見出し
ている」ことにすぎない。
- 599 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:12
- この世界は人が、動物が、生物が、モノが、連鎖しあい、何かをつむいで
出来ている。しかし、何を作っているのかは知らされていない。
疑問を抱きつつも、知る手段さえ見つけられぬまま、人は老い、死んでゆく。
その「何か」が例えこの先何光年後に出来上がったとしても、それ自体
にもおそらく意味はないだろう。それだけはなぜか根拠もなく理解している。
それでも人は生きる。
作っているものがわからなくても、作り上げたものが無意味なものだと知っ
ていても、その過程こそが意味のあるものなんだと自分に思い込ませて生
きる。
誰より何よりも自分を騙し、自分の存在意義が全くないことを忘れること
で生きている。
- 600 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:12
- 自分を騙すことから解放される、すなわちこの無意味な産物の支配下から
逃れることは不可能である。
生きることが嫌になれば、死ぬしかない。しかし、死ぬことさえも、自分を
騙すことに他ならないからだ。
自殺という意志だって、単に意味を「見出している」ことにすぎない。「生き
る意味とは何か」の答えには当てはまらない。
結局はみんな囚われている。生きていても、死んでも、何かに囚われ続
ける。
それを認めてしまうのは、罪なのだろうか。
認められないのは、罪なのだろうか。
- 601 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:14
- ◇◇
通り雨の後、舗装道路にできたいくつもの大小様々な水溜まりは晴れた
空を映す鏡のように反射し、地面から地上にまた新たな光を放っていた。
公園を囲む樹木も、その向こうに見える雑居ビルも、木の間から顔を出す
デザイナーが設計した奇怪な形をした家も、目の前にあるひょうたんの形を
した少し濁った池もその池でじゃれあう真白な鳥たちも、すべてが生まれ変
わったように色を増していた。
存在するすべての粒子が、太陽によって息吹を与えられ、穏やかに呼吸
をしていた。
保田は小さな公園の木の色をしたベンチに座り、目をつぶり、色々な音を
聞き、色々な匂いを感じながら、そのままうつらうつらと眠った。
- 602 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:17
- 「圭ちゃん」
それからしばらくして明るい声が飛び、保田は目を開ける。前には
市井紗耶香がいて、影を作っていた。
「なんだ、紗耶香か」
「なんだじゃないでしょ? 待ち合わせしたのに」
眠たそうな目をしている保田を見て、市井はふてくされ気味に言う。
保田は市井の肩口から覗く光が眩しくて手を眼の上に翳す。
「そうだったね」
「雨遭わなかった? さっき通り雨降ってたけど」
「ああ。雨が止んでから、ここに来たし」
「そっか」
- 603 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:20
- そう言った後で、保田は市井の背後の池に視線を向け、「あっ」と呟き、
おもむろに指差す。
市井はその指の先にあるものを追った。
なんてことはない。ただの虹だ。
そう思ってから、保田は恥ずかしげに指を引っ込めようとする。だが、市
井は「虹なんて久しぶりに見たなぁ」と嬉しそうに感想を述べ、しばらくその
虹を見続けていた。
保田も虹は随分見ていなかったことを思い出し、改めて虹を見た。
子供のころに初めて見て、感動した遠い遠い記憶が今見ている虹と重なる。
すると、その何てことのない虹は透明に輝く天女だけが渡れる橋のように見
えた。
しばらく二人で見ていると、虹はそこからいなくなることを気づかれないよ
うに少しずつ姿を消していく。自分たちが見えない間に天女は渡り切ったの
かもしれない。そう思うとなぜか胸が苦しくなった。
- 604 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:23
- 「子供はどうしたの?」
保田は市井の横顔に聞いた。市井は振り向く。
「もう一人で留守番できない年齢じゃないよ」
「そう……久しぶりに会いたかったのにな。元気にしてる?」
「まあね」
「ならよかった。じゃ行こっか」
保田はベンチから腰を上げた。
背中やお尻や手は雨のせいで少し湿っていた。初めて、冷たさを感じた。
もう一度、池のほうを見遣ると、虹は完全に消えていた。
- 605 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:25
- ◇◇
高台に構える墓苑は波の音と潮の匂いがした。
夕日に焦がされた赤い雲が空一面に広がっていた。まるであの日の血
とサイリウムと照明のようなまだらな色だった。
雲の大きさや角度によって赤の陰影は様々な形を成す。あるものは
人面に、ある雲は花や昆虫に。
保田は市井と歩きながら、その雲たちが流れ、次々に形を変わっていく
様を何度も見上げていた。
頂上に上ると海が開けていた。夕焼け空に反射する朱色の海はひどく
現実感を失っていた。
保田は死のうとする直前に見たあの草原に雰囲気は似ている、と思った。
- 606 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:27
- 黄色のマリーゴールドの花束と一本のタバコに火をつけ、墓前に置いた。
赤ワインをグラスに注ぎ、花束の横に置く。
保田と市井はしゃがみこみ、目を閉じ、手のひらを合わせた。
保田は心の中ででも何も言わなかった。ただ、心を空っぽにして墓前と向
き合うだけだった。
目を閉じている間に潮風が花びら数枚をさらっていった。隣のワイン
グラスが倒れ、赤い液体が滴り、ポタポタと墓標から土へと落ち、ゆっくりと
染み込んでいった。
「あ〜あ、だからそんなグラスはやめたほうがいいって言ったのに。風強い
んだしさ」
目を開けて市井が言った。
「言ってないじゃん」
「心の中で言ってたの」
「何よそれ」
苦笑しながら保田は割れてしまったグラスの破片を拾おうとした。
- 607 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:29
- しかし、運悪く手を切ってしまう。
指先に軽い痛みと赤い液体が残った。
ワインと自分の血だ。
保田は顔をしかめながら指を口に咥える。生臭さの中に酸味を感じた。
災難だね、と笑う市井に対し保田は言う。
「あいつ、ワイン嫌いだったからね。飲みたくないのかな」
「じゃあ、なんで持ってきたのよ。日本酒とかじゃダメだったの?」
市井は重そうに一回り大きくなった腰を上げる。前方から照りつける夕日
が市井と保田と墓の影を斜め後方に作る。自分の身長より1.5倍ほど長
かった。
「嫌いだったから飲ませたいのよ。タバコだってそう」
保田の説得力のない説明を聞き、市井は大きく首をひねった。
- 608 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:32
- ◇◇
あの日は何年前だっただろうか、と保田は指折り始める。
それくらい遠い出来事になりつつあった。
ただその日が5月5日だったということだけははっきりと覚えていた。
モーニング娘。はあの日で解散した。今や他の無関係だったメンバーも、
ハローで活躍していた人間も全員芸能活動を続けていない。事務所も潰
れた。
当然、サンスポの特報も出なかったし、ツアーが終わるたびに出してい
たDVDも、あの時のツアーの分は市販されていない。
しかし、アンコール後の映像は興味を持ったファンや凄惨な出来事を楽し
む世界中の人間の記憶にはしっかりと記録されている。
- 609 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:37
- 矢口はステージの端にひそかにカメラを取り付け、撮影していた。そして、
その映像を保田のサイトに残したコメントと、考えていたことを示す事前の
映像と共にネット上に流したのだ。
そんなきっちり収められた国民的グループの凄惨な末路の映像は一時、
社会に大きな影響を与えた。
警察は動画の回収を進めようとしたが、映像は寸時にして日本中、世界
中に広がってしまったため、到底不可能なことだった。
- 610 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:39
- ただ、その映像には「死」が映っているわけではなかった。
5月5日の時点では誰一人死んではいなかった。
後藤も保田も矢口も生きていた。
保田が腹部に受けた傷は深くはあったが、致命的なものにはならなか
った。後藤は頭部に弾が当たったが、それは掠った程度で、倒れたときに
後頭部を床に打ちつけ、気を失っただけだった。
そして、石川の矢口に向けて撃った銃は全く見当違いの方向に飛んでい
った。故意なのか偶然なのかわからない、と石川は後日語っていた。
しかし、矢口は動画を流した後、人知れず自宅のマンションで自殺した。
毒死だった。
- 611 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 21:45
- ちゃんとした遺書はなかった。
聞くところによると、矢口の周りにはスペードのジャックだけが何か意味
を残しているかのようにポツンと床に落ちており、手元には吸ったばかり
のタバコが握られていたらしい。
そして、その表情は天寿を全うしたような健やかな笑顔だったらしい。
矢口の死は、矢口が保田の自殺を幇助していた事実が明るみに出ると、
罪悪感ゆえの行為ではないかと報道された。
そして、それが結局、警察の公式見解となり、長い年月を経て、話題と
して上げられることはなくなった。
しかし、保田はそんな単純なものではないと思っていた。
- 612 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:08
- 矢口の死はあまりにもひっそりとしすぎていた。
もちろん当時、マスコミは大きく取り上げたし、問題にはなったのでおよそ
「ひっそり」とは言えないものではあったが、保田にとっては矢口の死に方
は日常のごく自然な出来事のように感じられたのだ。
矢口が一番、生きることに執着していなかった人間だったのかもしれない。
生に対し空虚であったのかもしれない。
保田のように、価値観を保田以外の人間に押し付けようとはしなかった
が、醜さは保田より感じていたのかもしれない。
そして、虚しさを「嘘」や「夢」に押し込め、似た価値観を持っていた保田
にその虚しさを託して、自分は無へ還ったのかもしれない。
全ての憶測は、確信には絶対に届かない。
全てが「かもしれない」で終わってしまう。その真意はやっぱり矢口に直接
聞かないと分からないのだろう。
- 613 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:09
- 今は殆どの人間はモーニング娘。という存在を忘れようとしている。
いや、無理やりにでも忘れようと努めている。
世間はすでに六期メンバーよりうんと若くて新しいアイドルが出てきて、
メディアを賑わしている。
かつてモーニング娘。のファンだったおじさんたちも、そんなアイドルたち
に夢中のようだ。
今のアイドルは誰も「モーニング娘。みたいになりたい」なんて口にはし
ない。
あれほど一時代を築いたグループだったにも関わらず、歌番組の司会者
たちが引き合いに出したりもしない。
モーニング娘。は狂気の象徴として、全ての界隈から抹殺された。
しかし、当事者のメンバーは矢口を除いて今もしっかりと生きている。
あの日の出来事を忘れることなく、それぞれの道を歩んでいた。
- 614 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:10
- ◇◇
市井の手首には黒いリストバンドが巻かれていた。
過去の苦衷の証がその裏に深く刻まれている。
その手首に目をやった保田に気づき、市井は恥ずかしげに腕を体の後ろ
に隠す。
「昔のことだってば」
- 615 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:12
- あの日。
市井が後藤に殺されかけた日。
死ななかった市井は、死と引き換えにさらなる生の絶望を掴まされた。
それは間違いなく死よりも過酷なものだ。
市井はずっとずっと死にたがっていた。
後藤に会った理由は、頼られたかったとか、自分よりかわいそうな人間
を見たかったとかではない。
後藤に殺されたかったのだ。切腹する市井の介錯人のような役目を果
たしてもらいたかった。そして、後藤はその願いを叶えてくれようとした。未
練だけの亡霊にトドメを撃ってもらった。
しかし、市井は死ななかった。「死」よりも「生」が上回った。市井が願っ
ても後藤が応えても、乗り越えられない圧倒的な絶望の「生」が眼前に構
えていた。
- 616 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:14
- 人智を超えた何者かが生きろ、と言った。生きて苦しめ、と言った。
後藤に締め付けられた喉が熱かった。まだ後藤の感触が残っていた。
その後、後藤が不在の後藤の部屋で、市井ははじめて手首を刻んだ。
死ぬことができないのは分かっていたけど、無性に血が見たくなったのだ。
枕に血がポタポタと染み込んでいくさまを見て、ほんのちょっとだけ幸せに
なった。
それからしばらく毎日のように手首を切った。どんどんエスカレートしてい
った。その先も決して市井が望む「死」の扉は待ち構えていないのに、市井
はずっと続けた。ただ、血と痛みがあることを知りたいがためだけに。
今、「立ち直った」とまでは行かないまでも市井は手首を切ることはして
いない。「生」にしか存在しない「時間」が市井を少しずつ洗い流していった。
結婚し、子供を授かってからは、血を見たいとは思わなくなった。
しかし、いつまた衝動が起こるかわからない。手首の傷痕は日常、生活
をしていれば必ず目に入る。その度に「生」は絶望の中で蠢いているものと
感じていた。
- 617 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:32
- 生きて苦しんでいるのは、市井だけではない。
保田が自殺しようとしていることと、それを矢口がすでに知っていることを
知ったとき、石川は二人への憎悪と同じくらいの孤独感を感じた。
結果、矢口と離れない保田に嫉妬し、保田と離れない矢口に嫉妬するよ
うになった。「三人」でいることをさらに強く望んだ。
その願望のために、石川は狂い、躊躇いなく手を汚した。
矢口と保田の絆はそれでも石川を排除した。
排除される理由を矢口から聞かされ、二人への嫉妬にやっと気づき、
自分に絶望した。
今、保田は生き延び、矢口は死んだため、保田と矢口は肉体的には
違うところにいる。
しかし、石川から見れば二人はまだ離れていない。これからも永遠に
離れない。そして、石川は永遠にその二人がいる場所にたどり着くこと
はできない。
石川は矢口の死後、自ら狂ったのか、二人に狂わされたか分からず
に何回か自殺しようと試みた。
死ねずにいることで、さらに苦しみを積み重ねていった。
- 618 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:34
- 後藤は二人とは違い、死のうとする気はなかったが、心も身体もかなり
蝕まれており、長い間の病院生活を余儀なくされた。最初のころは、死ぬ
一歩手前のところまで病状が悪化したこともあった。
このように保田の自殺宣言に関わった全ての人間が生と死の境界線に
立っていた。そして、そのどちらにも向かうことができず、うろついたまま、
時だけが無情に流れていた。
しかし、現在のところ矢口以外は死に至っていない。
昔の保田だったら、「醜いよ」と嘲笑っていただろう。
- 619 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:36
- だが、保田自身も同じだった。自殺することなく、今もなお生き続けていた。
保田の中で、生きることが惨めだという考え方は相変わらず変わっていない。
むしろ自分の弱さを認めた分だけ、その思いは強くなったとさえ言える。
実際、あの後の人生は言うに忍びないほどの悲惨なものとなっている。
もう明るい日差しを浴びながら生きることは永遠にできないだろう。
それなのに、保田は命を絶つことをしていない。
自分でも不思議だった。
なぜ死なないのか?
なぜ死ねないのか?
いつしか自問自答するようになった。
しかしどんなに考えても答えは浮かんでこなかった。
- 620 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:37
- ――答えなんてそもそもないのかもしれない。
そういう投げやりな結論に向かおうとしていたとき、偶然街で出会った後藤
にこの問いをぶつけてみた。
すると後藤は殆ど考えずにこう答えた。
「やぐっつぁんがこっちはいいところじゃないよって言ってくれてるのかもしれ
ないね」
妙に納得してしまう自分がいた。
矢口が自分の胸の中に息づいていることを確認した。大きく息を吸い込
んで、ゆっくりと吐きだした。
生きているという実感が全身を伝わった。
それでいいんだと思った。
- 621 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:38
- ◇◇
「あ、電話だ」
市井のポケットからメロディが鳴った。携帯電話を取ろうとポケットに手
を突っ込んだときに、違う音色が保田のほうから流れた。
「私もだ」
お互い背を向け、電話に出た。
ほぼ同時に電話を切った。
くるりと半回転して向き合う。
「後藤からだった」
先に口を開いたのは市井だった。
「私は石川」
保田は言った。
- 622 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:40
- 「石川? 何かあったの?」
「別に大したことじゃないよ。今度会いましょうって話」
「そっか。あの子、元気にしてる?」
「まあね。今度結婚するとかしないとか」
「へぇ、初耳だ。幸せになってほしいね」
「うん、そうだね。でもいいなぁ。あーあ、私も早く結婚したいなぁ。いい男い
ないかなぁ」
「ははは……」
市井は苦笑する。
「それで、後藤、なんだって?」
「ああ、うん。後藤、今からこっちに来るってさ。あと一時間ぐらいかかるみ
たいだけど、圭ちゃんどうする? 私は待ってようと思うんだけど」
保田は少し申し訳なさそうな顔をして、一度ちらりと腕時計に目をやる。
「ごめん。ちょっと用事あるんだ。もう行かなくちゃ」
「そうか。残念。じゃあ何か伝言ある?」
- 623 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:41
- 少し考えた後、保田は首を横に振る。
「特にない。元気でねって伝えておいて」
「わかった」
「じゃ、先に行くね」
保田は手を振り、市井と矢口が眠る墓から離れようとする。
「圭ちゃん」
それを市井が呼び止めた。
「何?」
保田は振り返る。
長い栗色の髪が風に吹かれて顔に軽く巻きついた。
「生きるってどういう意味かわかった?」
市井の問いかけに、保田は少し俯く。
そして何かを確かめるようにゆっくりと首を横に振る。
- 624 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:43
- 「もうそんなことはどうでもいい」
投げやりな言葉で、かつて愚かだと罵った存在になれ果てた自分を
労わる。
裏切ることも信じることも、愛することも憎むことも、生きることも死ぬ
ことも、否定することも肯定することも、そのすべてが真実なんだと思い
込もう。ただこの緩やかな流れに身を任せてみよう。
そして、ゆっくりと生きていこう。
それはきっと罪ではないはずだ。
保田は墓の下に眠る矢口に、汚れのない笑顔を向けた。
墓を取り囲むようにして生える夕陽に焼けた雑草たちは、どこまでも赤く
燃え上がっていた。
- 625 名前:赤い草原 投稿日:2004/03/30(火) 22:43
-
赤い草原 終
- 626 名前:赤い草原 最終話 意味 投稿日:2004/03/30(火) 22:44
- >>598-625
- 627 名前:_ 投稿日:2004/03/30(火) 22:48
- 最後に。
この手の話は勢いで書くほうが絶対いいと分かっていたのに、そうできな
かったのは単なる私の力不足です。
いっぱいある言葉の間違いは気にしないでください。
こんな自己満足な小説を最後まで読んでくれたことに感謝します。
何かが伝わったのなら最高です。
圭ちゃん卒業おめでとう。
- 628 名前:_ 投稿日:2004/03/30(火) 22:49
- 赤い草原
>>164-625
- 629 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/30(火) 22:51
- 完結おめでとう
そしておつかれさまでした
- 630 名前:593 投稿日:2004/03/30(火) 22:54
- お疲れ様でした
昨日に引き続き更新中に遭遇して、5分おきにリロードしてますたw
- 631 名前:_ 投稿日:2004/03/30(火) 22:56
- >>597
じゃあ間一髪だったんですね。危なかった。
- 632 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/30(火) 22:57
- 伝わった、と思います。
今はまだ言葉にできないけども、なにかが胸の中にあります。
強い気持ちになっていて、多分それでいいと思います。
面白く、そして圧倒された。
完結おめでとう。
- 633 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/30(火) 23:25
- ただただ深く引き込まれました
作者さんお疲れ様
- 634 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/30(火) 23:27
- とても面白かったです。
半年以上前にこの小説に出会い、今まで待ち続けて良かったです。
お疲れ様でした。
- 635 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/31(水) 07:01
- 感動をありがとうございました。
番外編があったりするのかな?
- 636 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/31(水) 23:10
- 作者さん、
お疲れさまでした。
圭ちゃんファンとしては、新しい新作(続編?)を期待しています。
ありがとうございました
- 637 名前:_ 投稿日:2004/04/05(月) 20:12
- 今一度、御礼申し上げます。
続編はミカが卒業するのでありません。
今回は生と死がテーマだったので、次回は愛と憎あたりで、
書いてみたいと思います。
では、その日まで。
Converted by dat2html.pl v0.2