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狂ったダイヤモンド
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月05日(月)00時39分43秒
- マターリになるでつ。
暗い小説になると思いまつ。
- 2 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月05日(月)00時40分37秒
- ――1――
「だいじょうぶ? 」
保田の手の温もりを感じながら、矢口は夜空を見上げた。
視界が歪んで、魚眼レンズのように、あたりの風景と同化している。
地獄の底に引きずりこまれるような恐怖に襲われた彼女は、
保田の手を握ったまま、その場にしゃがみこんでしまった。
「―――貧血―――だよ」
すっかり交通量が減った深夜の大通りを、空車のタクシーが通りすぎてゆく。
そのライトに照らされて、二人の姿が闇に浮かびあがり、再び闇に溶けこんだ。
去ってゆくタクシーの音は、寂しげであり、悲しげであり、退廃的だった。
「あたしじゃ、力になれないけど―――」
明日は雨になるだろう。
今は星が出ているが、矢口の手首の傷が疼いていた。
彼女は何度もリストカットした。
そのたび、だれかに見つかってしまう。
アイドルには死ぬ権利もなかった。
- 3 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月05日(月)00時41分08秒
- 「圭ちゃん、いつになったら休めるのかな」
矢口は食用ガエルのような声を出し、胃の内容物を吐きだした。
歩道のタイルに両手をつき、彼女は何度も喉を鳴らしている。
それは、腐った内臓を吐き出しているようだった。
決して寒くはないのに、彼女は怯えるように激しく震えている。
今の彼女に、怯えるものなど何もなかった。
「―――まただ」
自分の太腿に流れる生温かい感触に、どういうわけか笑ってしまう。
もう、泣く気力もなかった。それほど疲れていた。全てに。
彼女はバッグからティッシュを取り出すと、太腿に伝わった血を拭きとった。
「また出血してるの? 」
朽ち果てた難破船のように、彼女は着実に壊れていった。
保田にとって親友の矢口が、全ての希望を失っている。
空を見あげた保田は、流れ出るものをこらえられなかった。
- 4 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月06日(火)23時32分11秒
- ――2――
朝から曇天の空は、いつもより2時間も早く闇を連れてくる。
むし暑く湿った空気は、肺の中にカビを生やしてしまいそうだ。
品川パシフィックホテルのスウィートルームからは、
東京タワーの明かりが、妖しく輝いているのが見える。
いくら暗いとはいっても、目の前の男の表情は、嫌でも目に入った。
「―――ほんとうに小さいな」
ベッドのスプリングが軋む音は、パーカッションのように聴こえている。
水に墨汁を垂らしたような空から、とうとう雨が落ちてきて、
スウィートルームの大きな窓に、いくつかの水滴を残していた。
雨が窓ガラスを叩く音と、ベッドのスプリングが軋む音。
それは彼女にとって、とても退屈な時間だった。
「た―――たまんねえや」
部屋が暗いせいか、やけに外が明るく感じた。
それは空が流した涙によって、様々な光が乱反射しているからだろう。
彼女の枕元にあるデジタルの時計が、9:59から10:00となった。
- 5 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月06日(火)23時32分48秒
- 窓ガラスに当たる雨の音は、次第に激しくなってゆく。
風に吹かれた雨粒が、勢いよく窓ガラスを叩いた。
「うっ! 」
決して留まることのできない水滴は、ポリマー加工された窓ガラスを流れ落ちる。
その過程で水滴はプリズムの役割を果たし、一瞬の小さな虹を形成していた。
そして、行き場のなくなった雨は、排水溝へと流れこみ、下水へと排泄されてゆく。
「―――モー娘の矢口に―――中出しだぞ! 」
男は異様な盛り上がりをみせ、とても喜んだ。
だがそれは、ピンク色の錠剤によって、無意味となっている。
雨や風は、少しづつではあったが、大地を侵食してゆく。
大きな痛みを伴って。そう、確実に。
- 6 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月06日(火)23時33分21秒
- (これも仕事―――だよね)
東京タワーの明かりは、雨によって鈍く膨らんでいた。
まったく、いつもと同じ風景がそこにある。
見慣れているとはいえ、どこか淋しげで悲しかった。
「こ―――こんどは口で―――」
部屋の隅には、ガラスケースに入ったフランス人形があった。
その純真な青い目が、外からの明かりで際だっている。
幼い少女の人形は、人を癒すために作られたものだった。
人形に意思などはいらない。人を癒せばそれでよかった。
これだけむし暑いというのに、彼女は厚着をしていた。
日中は誰もが涼を求めて、木陰や噴水に集まるというのに。
不快な空気の中で、少し動けば汗まみれになっていたが、
彼女は毛皮を着たいくらいに寒かった。
- 7 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月06日(火)23時33分53秒
- 「どちらまで? 」
「お台場の東京シティホテル」
タクシーの中は、快適な温度に保たれていた。
日付が変わったこの時刻になると、大都会の交通量も少なくなってくる。
すれ違う車も、タクシーの占める割合が多くなっていた。
「ちょっと寒いですか? 」
親切な白髪まじりの運転手は、バックミラーで厚着の彼女を見ている。
小柄な彼女の体調が悪いのではないかと、彼なりに気をつかったのだ。
そんな気持ちが嬉しくて、彼女はエアコンに手を伸ばした運転手を遮った。
「平気ですよ。気持ちいいです」
彼女は上着を脱ぐと、火照った体を冷却し、涼しさに笑顔となった。
大きく息を吸いこんで、体の中にまで冷気を浸透させる。
今日は最後になって、少しばかり心が暖かくなった。
- 8 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月06日(火)23時35分38秒
- 続きものダメでつか?
移転しましょうか?
今日、初めて知りまつた。
- 9 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時11分26秒
- ――3――
真冬だというのに、テレビスタジオには冷房が入っている。
高い天井に吊られた無数のパーライトが、その広い空間を焼いているからだ。
ライトが当たらない場所は、いくらか涼しかった。
だが、出演者のいる場所では、のぼせるくらいの温度になっていた。
「ハイ、オーケーです! 」
ディレクターのオーケーがでると、出演者たちは自分の楽屋へと引きあげてゆく。
モー娘の8人も例外ではなく、数人のマネージャーとともに、楽屋へ向かった。
そんな時に彼女を呼び止めたのは、事務所の社長秘書をする女だった。
「ちょっと話があるの」
次に使用する番組のため、スタッフたちは慌しく動いている。
パーライトが落ちたせいか、本番中よりもスタジオ全体が暗い。
ジーンズ姿の、まだ若い女性のカメラアシスタントは、
自分より重いケーブルを、汗まみれになって巻いていた。
しかし、ほんの少しでもずれると、容赦ない罵声が飛ぶ。
カメラアシスタントは、こうして一人前になってゆくのだ。
- 10 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時12分06秒
- 「この錠剤を、毎日決まった時間に飲んでね」
彼女はその小さなピンク色の錠剤を、ビタミン剤と思うほどおめでたくはなかった。
来たるべく時がきたのである。それは招かざる時。忌まわしい時。
灰色のスタジオの壁が、妙に悲しい色に見えている。
大道具を引きずった痕が床に残り、それは痛々しい傷痕に見えた。
「―――そんな」
「嫌だろうけどさ。―――あんたも辞める? 」
福田が辞めたのは、自分を大切にしたかったからだ。
身をすり減らすような仕事は、基本的に体によくない。
そんな仕事をしているのが、テレビのスタッフたちだった。
彼らは「いい番組を作る」という大義名分に踊らされ、
プロデューサーのエゴの犠牲になってゆくのだった。
- 11 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時13分08秒
- その日から、彼女は錠剤を飲むようになった。
それが、自分の体を、着実に蝕んでゆくものだと知りつつ。
タレントというのは、全てが商品。意思を持ってはいけないのだ。
「ちらっと小耳に挟んだんやけどな。事務所が火の車らしいで」
すっかり春めいた季節に、冬へ逆戻りしたような寒さが訪れていた。
啓蟄を迎えた昆虫たちは、胎内へ戻ろうと右往左往している。
このままでは、寒さにやられてしまうからだった。
「株式配当(上納金)が多すぎるんだよ」
笑った顔はかわいいのだが、不機嫌な石黒には妙な威圧感がある。
保田・矢口・市井の三人は、この怖い顔に何度も泣かされてきた。
喜怒哀楽がはっきりした石黒は、自分に素直な女性だった。
- 12 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時13分54秒
- 「何だかんだゆうて、ヤクザが株主やからな」
市井が聴いていたMDウォークマンの電池が切れた。
新たな電池を入れない限り、音楽を聴くことはできない。
電池がなければ、MDは機能を果たさないのだった。
「資本注入が必要か。―――また借金が増えるんだね。事務所」
この時代、銀行ですら、土地を担保に融資することはない。
すでに、下落はないという土地神話は、崩壊していたのだった。
融資を申しこむには、新たな担保や交渉が必要なのだ。
(担保は人脈、交渉は―――)
賢い矢口は、交渉の道具に利用されることを悟った。
それこそが、彼女が採用された最大の理由だった。
不幸なことに、今回の赤字は深刻で、「接待役」は他にもいる。
それが、何も知らない安倍だった。
- 13 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時14分37秒
- ――4――
初めて「接待」をした彼女は、出血が止まらないことを、マネージャーに告げた。
まだ夜も明けきらない早朝、彼女はマネージャーに指定されたその筋の医院へゆく。
いくら女医であっても、恥ずかしい姿を覗きこまれるのには抵抗があった。
「奥が裂けてるわね。縫合しとくわよ」
素顔の彼女は、まだ子供の顔をしていた。
彼女が生まれたとき、両親はとても喜んだ。
彼女は祝福されて生まれてきた子供だった。
診察室の片隅に、祝福されなかった子供がいる。
堕胎器具で傷ついた胎児が、透明の液体の中に入っていた。
その子にとっては「災難」だったが、両親には「罪」があった。
- 14 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時15分16秒
- 「2週間は刺激しないこと。いいわね? 」
「あの―――もっと長くなりませんか? 」
「わかった。それじゃ、3週間にしとくわね」
短い期間で、彼女は体と心の傷を癒さねばならなかった。
夜が明けても、どんよりとした空気は変わらない。
その忌まわしい空気は、絶えず彼女にまとわりついた。
「こっちだよ」
迎えにきたマネージャーが、事務的に彼女を回収してゆく。
彼女を回収した車は、テレビ局へと疾走していった。
その使われていない楽屋で、彼女はつかの間の安眠を得るのだ。
車窓からは、灰色の風景の中に、黄色く点滅する信号機が見える。
壊れた信号機は素早く修理され、再び日夜問わず働き続けるのだ。
「これ、診断書」
3週間と聞いて、マネージャーは舌打ちをした。
工作機械が故障すれば、そのラインはストップする。
優秀な機械であるはずなのだが、その扱いが乱暴すぎた。
- 15 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時16分00秒
- 彼女が「接待」不能となると、ついに安倍に白羽の矢がたった。
何も知らない安倍は、「投資家」に陵辱されておかしくなってしまう。
メンバーの誰もが、「ふるさと」が伸びなかったことが原因だと思っていた。
そう、たった一人、矢口を除いては。
「困ったべさ。矢口、室蘭が消えちゃったの。なっち、もう帰れないよ」
楽屋の隣の席でメイクしていた安倍が、とつぜん、矢口に意味不明なことを言う。
安倍は瞬きすらしないで、鏡の中の一点を凝視していた。
驚いた矢口は安倍の肩をさわり、べそをかきながら揺さぶってみる。
蕾を散らされた安倍は、ショックのため、壊れかけていたのだった。
「む―――室蘭はなくなってないよ。ちゃんとあるよ」
「な―――なくなったべさー! 」
安倍は矢口をつきとばすと、コンクリートの壁に自分の額を打ちつけた。
何度も何度も打ちつけられた額は、無残にも割れて、大量の血が流れでる。
それは、大人への反発と女に生まれてきたことに対する後悔のように見えた。
自分を罰するために頭を打ちつけることは、ままあることだったが、
安倍のそれは、そんなに甘いものではなかった。
- 16 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月13日(火)22時16分33秒
- 「なっち! やめて! 死んじゃうよ! 」
近くにいた飯田が、興奮した安倍を押さえこんだ。
安倍は泣き叫んでいたが、楽屋の時間は止まっていた。
時を告げる時計の秒針は、信じられないほど大きな音をだす。
「手当てを」と思っても、体が動かない状態だった。
(死ぬの? )
矢口の頭の中で、何かが小さな爆発をおこしていた。
安倍は死を得るために、壁に頭を叩きつけたのだ。
「死」という選択肢があることを、矢口はこの時に知った。
「死」は恐怖であり、終着、無を思うのが通常である。
だが、安倍や矢口にとっては、開放であり安らぎだった。
- 17 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時28分09秒
- ――5――
次のシングルが、モー娘の運命を左右する曲になる。
彼女が、そして安倍が「接待」して得た資金を使い、
かなり以前から、関係筋に「協力」を依頼していた。
モー娘という商品を売りだすのには、莫大な費用がかかる。
それだけ莫大な資金を、UFAが持っているわけがない。
だからこそ、投資者を得なければならないのだ。
彼女は投資者への撒き餌として使われたのだった。
「矢口! ホンマなんか? なあ、接待ってホンマなんか? 」
休止中のスタジオ―――ここには誰もいない。
どうしても確かめなくてはならなかった。
この16歳の少女が、どんなことをされているのかを。
狭いスタジオは、音が反響することもなく、
非常口の緑色の光だけが照明だった。
「――――」
彼女は何も言わない。いや、言いたくなかった。
それを認めたところで、何も変わることはない。
彼女は「接待」をするために選ばれたのだから。
沈黙こそが肯定であり、大人へ対する反発だった。
- 18 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時28分44秒
- 「ホンマなんやな―――なんてことを! 」
中澤は彼女を抱きしめ、歯ぎしりしながら涙を溢した。
7人のメンバーには、それぞれの役割がある。
たまたま彼女が、投資者を「接待」をする役割なのだ。
べつに驚くことではない。それがこの世界なのだ。
「なんで言わへんかったんや! 」
中澤は泣いた。とにかく泣いた。
彼女に対する同情といったものではない。
何も知らずに、リーダー顔していた自分への不甲斐なさだった。
10歳近く年下の少女が、じつはモー娘を支えていたのである。
それは、初めて戦争の裏側を見たときのショックに似ていた。
- 19 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時29分43秒
- 以来、中澤は彼女を溺愛するようになった。
これまでは、2期メンとは一線を引いていた中澤だったので、
他のメンバーたちは驚いているようだった。
その意味を最初に悟ったのは、勘の鋭い石黒である。
それは、テレビ番組の収録が終わったときだった。
「矢口、疲れてるの? 今日はテンションが低かったよ」
飯田に指摘された彼女は、露骨に嫌な顔をしたため、やがて口論になってしまう。
当時の2期メンは、オリメンに対して遠慮ばかりしていた。
特に風当たりの強い保田などは、沈黙こそが金であると思っていた。
「矢口、やめなよ」
保田は腕を引くが、彼女の精神状態も悪かった。
このところ、ほぼ毎日「接待」をしており、身も心も疲れはてていたのである。
彼女の怒りは、焼けた石にアルコールをかけたように、燃え上がってしまった。
- 20 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時30分19秒
- 「ええんや。矢口、ええんや。飯田、引いてくれへんか? 」
中澤の溺愛ぶりには、飯田にも不満があった。
腹の虫がおさまらない飯田は、中澤にくってかかる。
そんな飯田を本気で叱ったのが、他でもない石黒だった。
2期メンに対しては、最も辛く当たった張本人である。
「圭織! いいかげんにしろ! 矢口はね、矢口は―――」
「ちょっと席を外してくれへんか? 」
中澤はマネージャーに、楽屋から出てゆくように言った。
数人の男性マネージャーは迷わず出ていったが、
さすがに女性マネージャーたちはためらった。
そんなマネージャーたちに、中澤は脅すように促す。
「出ていけ言うとるやろ? 早ようせんかい」
それは最後通告だった。
ここでマネージャーが出ていかなかったら、
中澤は間違いなく殴っていただろう。
その空気に、マネージャーたちは呑まれてしまった。
- 21 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時30分54秒
- 「市井、ドア閉めや」
明るく清潔な楽屋ではあったが、その空気は押しつぶされるほど重い。
中澤のこんな表情は、オリメンですら見たことがなかった。
矢口は精神安定剤の錠剤を握りしめる安倍の横に座る。
やはり、誰よりも安倍の状態が心配だったからだ。
「石黒、気づいてたんか? 」
「―――うん、漠然とだけどね」
気づいていないのは、飯田と保田、市井の3人だけだ。
息をする音ですら気をつかうほど、室内は静寂が支配している。
エアコンの僅かな音だけが、室内に一定の騒音を提供していた。
「保田、いちばん辛い仕事をしとるんは誰か分かるか? 」
中澤の声は落ちついていたが、どこか威圧的な響きがあった。
保田の仕事は歌を支えること。いわば、家の基礎のようなものである。
そこに中澤という大黒柱が立ち、石黒、飯田といった梁で支えるのだ。
その上に乗って家の姿を形成するのが、安倍の仕事だったのである。
- 22 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時31分26秒
- 「―――中澤さん? 」
保田は何と答えてよいのか分からない。
まさか、自分であるとは言えないからだ。
当たらず触らずといった答えが、保田の生き残る術だった。
もちろん、矢口の「接待」を知らなかったこともあった。
「―――矢口なんや。それと安倍」
下を向いて涙を溢す安倍の背中を、矢口が優しく撫でていた。
もし石黒に男性経験がなかったら、きっと暴れていただろう。
それくらい嫌悪感のある仕事を、矢口はひとりでこなしている。
あまりにも辛い現実。残酷で汚い現実がそこにあった。
「どういうことですか? 」
市井には中澤が言う意味が分からない。
いつもは陽気な矢口と壊れかかった安倍。
2人には何の共通点もなかったからだ。
- 23 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時32分13秒
- 「それはな―――」
「自分で言うよ。『接待』させられてるんだ。紗耶香には分かるかな? 」
淡々と言う矢口が悲しかった。
優しく安倍の背中を擦る矢口が悲しかった。
そして、小刻みに唇を震わす矢口が悲しかった。
10代後半という、人生の中で最も晴れやかな時期に、
彼女は残酷な仕事で、心をズタズタにされていた。
「まさか! 」
飯田は穴があくほど矢口を見つめる。
彼女が困ったように笑うと、飯田の目からも涙が溢れてゆく。
あれほど2期メンを嫌っていた石黒が、矢口だけには優しくなったこと。
いきなり中澤が、矢口だけを溺愛し始めたこと。
そういった疑問が氷解してゆく。
最もモー娘に必要な人間は矢口だった。
- 24 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時33分11秒
- ――6――
壊れた安倍を抱えたまま、モー娘は新人を迎えることになる。
それは安倍に代わる太陽。若さと美貌を武器に彗星のごとく現れた。
まだ、あどけなさの残る少女ではあったが、太陽としての資質は十分だった。
1999年秋にリリースした「LOVEマシーン」は、順調に伸びてゆく。
ミリオンの声が聞こえたとき、ついに「接待」が中止された。
しかし、彼女が喜んだのもつか間、現実は甘くなかった。
「や―――辞める? 」
メンバーの前で脱退を打ち明けたのは、オリメンの石黒だった。
一気にトップへ踊りでたモー娘にとって、それは青天の霹靂である。
天下統一を目前にして、本能寺で無念の死を遂げた織田信長。
信頼していた明智光秀の謀叛で、実に潔く波乱の生涯を終えた。
- 25 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時33分54秒
- 「福ちゃん、辞めたべさ」
安倍は順調に回復していたものの、予断を許さない状況だった。
ここまで壊れた安倍を切れない理由は、株主の許可がでなかったからである。
つんく♂をはじめ、現場では安倍を脱退させる準備が進んでいた。
後藤という太陽を手に入れたのだから、輝かない太陽など必要ない。
それ以前に、モー娘に太陽は2個も必要なかったのだ。
「もう決めたの。あたし、真矢と結婚する」
石黒は笑っていた。嬉しそうな笑顔だった。
その笑顔に、中澤は殺意にも似た怒りを覚えた。
石黒には状況が分かっていない。
明智光秀がそこにいた。
「このアホ! 」
ステンレス製の水筒が石黒の肩を直撃する。
肩を押さえてしゃがみこむ石黒を、中澤は容赦なく蹴りあげた。
驚いた飯田が止めにはいっても、中澤は泣きながら石黒を蹴った。
それは矢口が石黒を守るために抱きつくまで行われた。
- 26 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時34分29秒
- 「やめて! 真希が怯えてる」
市井は怯える後藤を抱きしめ、中澤を非難するように言った。
浮かれていたのは事実だった。そのために、肝心なことが見えてこなかった。
中澤に蹴られ、石黒は初めて気がついたのだった。
「矢口―――ごめんね―――ごめんなさい」
あのプライドの高い石黒が、矢口に土下座している。
その意味を、幼い後藤が理解できるはずもなかった。
辛そうに涙を流す中澤は、石黒を蹴っていたのではない。
歯がゆい自分を蹴っていたのだった。
その夜から「接待」が再開された。
- 27 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時35分03秒
- 翌日、後藤は昨日の雰囲気を払拭しようと、つとめて明るく振舞った。
やはり、太陽が明るいと、メンバーの気持ちも高揚するものだ。
中澤と石黒も一夜明けて、気持ちを切り替えている。
テレビの収録が終わると、後藤はメンバーたちに声をかけた。
「いちーちゃん、来週の合コン、行くでしょう? 」
「圭ちゃん、ジュニアだよ。行こうね」
「圭織さん、彩さんは行けないと思うけど」
「やぐっつぁん、ジュニアとの合コンだよ」
後藤は気を使っていた。最年少として、できることを模索していた。
そんな後藤の気持ちが嬉しくて、誰もが笑顔で応対していた。
だが、矢口だけは違っていた。
「接待」が再開され、絶望に近い気持ちになっていた。
- 28 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時35分45秒
- 「いいよ」
「遠慮しなくていいからさー、いっしょに行こうよ」
後藤は太陽である。
太陽が光を放たなければ、どんな宝石も輝くことはない。
太陽がいるからこそ、みんなが輝いていたのである。
それは矢口にしても例外ではなかった。
「浮かれてんじゃねーよ! 」
それは昨日までの陽気な矢口ではなかった。
手を叩いたような音に、彼女がふざけているのかと思った。
しかし、頬を押さえた後藤の鼻から、一筋の血が伝ってゆく。
決してふざけているのではない。
「真希! 」
市井が2人に駆けよると、中澤が矢口を抱きしめた。
冷静な保田は、コットンで後藤の鼻血を拭いた。
- 29 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時36分27秒
- 「やぐっつぁん! ごめん! ごめんね! 真希! 謝れ! 謝りなさい! 」
こんな市井を、後藤は見たことがなかった。
誘っただけで殴られるなど、理不尽にもほどがある。
後藤は納得できない。何でみんな矢口を庇うのか。
味方だと思っていた市井は、殴られた自分を叱りつける。
こんな非常識は、あってはならない。
「矢口、殴ったらあかん。な? 腹がたったら、うちを殴ればええ」
興奮した矢口は、中澤に背中を擦られて、次第に落ちついてゆく。
誰も後藤を殴った彼女を責めようとはしない。
石黒や飯田も、彼女の体を擦りながら、悲しい顔をしていた。
「おかしいよ。殴られたんだよ。謝るのはやぐっつぁんの方だよ」
「莫迦! 」
市井は反射的に頭を抱えた後藤を殴った。
ついに後藤が泣きだすと、手当てしていた保田が庇った。
- 30 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月17日(土)22時37分00秒
- 「お前は何も知らないで―――やぐっつぁんは―――」
「市井! 」
中澤の声は、注意を促すといった生易しいものではなかった。
それ以上言うことは、絶対に許さないという命令だった。
後藤は太陽である。太陽を曇らせてはいけない。
「もういいべさ。みんな知ってるんっしょ? 汚れたなっちを」
「やめんかい! 」
「あたしが説明する。いいよね? やぐっつぁん」
「―――うん」
何も知らない後藤へは、教育係の市井と保田が説明する。
中澤や石黒、飯田に体を擦られた矢口は、徐々に落ちついていった。
金と妄想によって、まだ16歳の少女が犠牲になっている。
その犠牲の上に、モー娘が成り立っていたのだった。
「うそ―――嫌―――嫌だよ」
後藤は全てを聞き、号泣してしまう。
その声を聞いてか、テレビカメラが入ってきた。
- 31 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)01時32分16秒
- ――7――
「LOVEマシーン」でトップに踊りでたモー娘は、
2000年を石黒の脱退でスタートしたのだった。
回数こそ減ったが、彼女の「接待」は継続して行われる。
「恋のダンスサイト」では代名詞になる「セクシービーム」を得た。
それは、1人でUFAを支える矢口への褒美だった。
「ご褒美か―――」
彼女は男の歯型がついた右の乳房を念入りに洗う。
「接待」したあと、彼女は自分のホテルに戻って、必ずシャワーを浴びた。
胎内に出されるのはしかたないが、口内だけはガマンできなかった。
中には飲みこむことを強制する男もいた。
- 32 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)01時32分55秒
- 「うっ! 」
激しい吐き気が彼女を襲う。
ピルを飲んでいるため、妊娠ではないだろう。
彼女の胎内に放たれた精子は、あるはずもない、
たった1個の卵子を求めて数億倍の競争をする。
受精すべき場所に到達した最初の精子は、
どれほど無念の思いで死んでゆくのだろう。
「あううう―――」
胃の中を何かが跳ね回るような感触に、彼女は唸りながら吐いた。
とても大きなものが、彼女の喉から排水溝の上に落ちる。
グロテスクな音とともに吐きだされたのは、暴れる胎児だった。
「そんな―――」
安倍のように劇的ではなかったが、彼女も確実に壊れ始めていた。
好きでもない相手に抱かれるという背徳な行為が、
ありえない幻覚を作りあげてしまうのだろう。
バスルームに座りこんだまま、彼女は泣きながら笑いだした。
そしてその晩、彼女は最初のリストカットをした。
- 33 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)01時33分39秒
- ――8――
昼はアイドル、夜は娼婦の生活が続いた。
リストカットしても、誰かに発見されてしまう。
彼女には死ぬ権利もなかった。
浜辺に作られた砂の城のように、
波に侵食され、彼女には何も残っていなかった。
「圭ちゃん、疲れちゃったよ」
本番が終わると、彼女は横に座っている保田の肩に額を当てた。
そんな彼女を見ると、保田は悲しくてしかたなくなってしまう。
誰よりも元気だった彼女。誰よりも明るかった彼女。
きれいにメイクされた彼女だったが、その素顔は老婆のようだった。
「とにかく寝よう。あたしがついてるから」
今日は「接待」がない。
だから、家に帰ることができた。
明日から「ピンチランナー」の撮影がはじまる。
それが憂鬱だった。
- 34 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)01時34分09秒
- 彼女は宵の口に家に帰ることができた。
横浜の実家の前に、マネージャーの運転する車が止まる。
赤いダウンジャケットに毛糸の帽子を被り、
彼女は疲れた体を引きずって車からおりた。
「それじゃ、10時に来るからね」
事務的に言い残し、マネージャーは帰って行った。
彼女は自宅への階段をのぼろうとする。
そのとき、背後でだれかの声がした。
「真里」
それは懐かしい響きだった。
彼女はいつも「矢口」と呼ばれている。
「真里」と呼ぶのは、両親くらいのものだ。
彼女が振りかえると、そこには若い男が立っていた。
- 35 名前:名無しさん 投稿日:2003年05月24日(土)01時34分47秒
- 「―――カツ」
それは地元でいっしょだった「カツ」という男である。
偶然、通りかかって彼女を見つけたらしい。
彼女は懐かしそうに微笑んだが、
彼にとっては泣き顔にしか見えなかった。
「疲れてるみたいじゃん」
「まあね。―――いろいろとあるのよ」
このときは、それで別れた二人だったが、
翌日、これまた偶然にも再開することになる。
それから二人は、急接近してゆくのだった。
- 36 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時09分30秒
- ――9――
彼女が癒される場所は、自宅以外になかった。
ここには金の亡者も、人を消耗品にしか思わない奴もいない。
ボロボロになった心と体を、無防備にさらけだせる場所。
「ただいま」
彼女は眠りたい。とにかく眠りたかった。
眠っている間は、自分の時間を過ごせるからだ。
同時に、心と体の修復をする時間でもある。
彼女は自分の部屋へ入ると、何かにとり憑かれたように、
着ていた服を脱ぎすてていった。
それはまるで、自分の皮を脱いでいるようだった。
「―――疲れた」
彼女は全裸になると、自分のベッドへと潜りこんでゆく。
真冬の布団は冷たかったが、全身が火照っていた。
ほんの数時間でも深く眠れることで、興奮しているのだろう。
彼女は泥のように眠った。
- 37 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時10分32秒
- 翌朝、目がさめた瞬間から、彼女は母に甘えた。
まるで3歳児のように、徹底して甘えたのである。
彼女は触れ合いたかった。無償の愛が欲しかった。
それができるのは、母親だけだったのである。
「メールだ」
彼女は携帯が鳴っているのに気づいた。
発信元は、どうやら「カツ」のようだ。
あまりにも疲れはてた彼女を心配して、
メールを送ってきたのだった。
親に甘えたあとは、友達へと移行してゆく。
それは人間の成長の縮図だった。
「やさしいな。カツは―――」
まだ17年足らずしか生きていない彼女だったが、
あまりにも汚いものを見すぎていた。
それが現実であり、世の中なのだと思うことで、
みじめな自分に納得させていたのである。
そんな中でピュアなものを見てしまうと、
自分でも制御できない気持ちになってしまうのだった。
- 38 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時11分17秒
- 「カツ! カツ! 逢いたいよ! 」
彼女は「カツ」を呼びだした。彼女は安らぎが欲しかった。
ただ、それだけだった。それが、いったい何だというのだ。
普通の少女と違っていたのは、彼女はアイドルであり、
誰よりも重い十字架を背負っていたことだった。
その重さに耐えられず、彼女は幾度もつぶれそうになる。
いや、もう確実につぶれていたのかもしれない。
とにかく、彼女は乾いていた。
その痩せほそった手で水をすくおうとしても、
指の間からこぼれてしまうのだった。
手に残った水滴を舐め、彼女は生きていた。
ひたちなか少女駅伝大会に出場した彼女は、
リストカットした傷を隠すため、リストバンドをしていた。
前の晩も「接待」をし、彼女は身も心もボロボロだった。
それでも、彼女は驚異的なスピードで走った。
与えられた区間を疾走すれば、カツに逢えると思ったからだ。
- 39 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時12分10秒
- 「ピンチランナー」の撮影が終わった日、
彼女はオフを利用して自宅へ戻っていた。
たっぷりと眠ったあと、彼女はカツを呼びだした。
「ほんとうなのか! 」
彼女は泣いた。滅多に涙を見せない彼女が、声をあげて泣いていた。
カツは全てを聞いてから、彼女を優しく抱きしめる。
彼女にとって、優しく抱かれることほどつらいことはない。
優しくされる資格など、ないと思っていたからだ。
「こんなに汚れてんだよ。触らないでよ」
優しいカツは好きだったが、自分には恋人になる資格がない。
身分や家柄の足枷など、彼女にしてみたら、他愛もないものだった。
- 40 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時12分55秒
- ――10――
彼女はカツという恋人ができたことにより、
少しずつ精神状態が安定してきていた。
忙しくて滅多に逢えないが、それでもよかった。
今日は収録が遅くなり、近くのホテルに市井と泊まる。
「ごめんね。やぐっつぁん」
ついに市井が事務所の圧力に負け、脱退することになった。
また「接待」が続くだろうが、今の彼女にはカツがいる。
汚れきった自分を、全て受けいれたくれたカツがいた。
それは彼女にとって、信じられないことだった。
こんな汚れた女を、好きになってくれる男がいる。
単に物好きのなか、ステータスが欲しいだけなのか。
そんなことは、どうだってよかった。
「おっと、電話だ。カツかなー? 」
彼女は嬉しそうに携帯を取りだした。
携帯の呼出音は、いつもより軽快に、
しかも震えるように鳴っている。
それは、あたかも助けを求めているようだった。
- 41 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時13分27秒
- 「カツ! 」
『真里―――悪いけど、もう逢えない』
「―――そう。嫌いになったの? 」
『詳しくは話せない。俺、まだ死にたくないから。じゃあな』
どういうことか分かっていた。
事務所が感づいたのだろう。
カツはヤクザに脅かされたのだ。
「やぐっつぁん? 」
急に無表情になった彼女を、市井は心配する。
市井に呼ばれて我に返った彼女は、携帯を放りだし、
狂ったように笑い転げてしまったのだった。
市井は何が起こったのか分からず、ただ茫然としていた。
「ふられちゃったよ」
彼女は笑っていたが、市井にとってその声は、
どうしても泣き声にしか聞こえなかった。
- 42 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時14分45秒
- 彼女は大きな心の拠りどころを失った。
蜘蛛の糸が希望であるように、彼女にとってカツが光明だった。
再び絶望が支配したとき、彼女は確実に壊れてゆく。
日常が、夢が、そして精神が、少しずつ壊れだしていた。
「―――? 」
市井は何げなく目を覚ました。
そとは薄暗く、早朝であるようだ。
隣のベッドの彼女は、とても苦しそうだった。
「あううう―――カツ―――カツ! あううう―――」
「やぐっつぁん! 」
市井が声をかけると、彼女は泣きながら飛び起きた。
そして、何を思ったか、悲鳴をあげながら窓を開けてしまう。
市井は飛び起きて、暴れる彼女を阻止しようとした。
- 43 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月01日(日)23時15分55秒
- 「だめ! ここは7階だよ! 」
「死なせて! 紗耶香! 死なせてよ! 」
市井は彼女を窓から引き剥がすと、
ベッドに押さえこんで泣きだした。
矢口がリストカットしたことは知っている。
感情の起伏が激しい矢口であるから、
それくらいはするかもしれない。
しかし、今のは本物の自殺未遂だった。
「やぐっつぁんも辞めよう! いっしょに辞めようよ! 」
辞めるのは簡単だろう。
だが、そのあとがたいへんだ。
第二、第三の「矢口」が要求されるだろうし、
彼女の家族にも災難が降りかかるかもしれない。
芸能界と言えば聞こえはいいが、
暴力団の資金源には変わりなかった。
「もう―――だめだよ。―――紗耶香」
彼女が死を選ぼうとするのは、決して逃避ではなかった。
それは、本能的な自己救済に他ならない。
死ぬことだけが、今の彼女を解放するのだ。
それを知る市井は、ただ泣くことしかできなかった。
- 44 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)23時52分47秒
- ――11――
季節は初夏を迎えていたのだが、彼女は寒さに震えていた。
まだ10代だというのに、髪が白くなってしまっている。
それを隠すために、とうとう彼女は金髪にしてしまった。
ただのファッションなどではなく、それは変装に近い。
「こ―――こんなに薬を? 」
保田は彼女が飲む薬の量に驚愕した。
彼女には薬物依存の状態が続いていた。
それは生きるために飲む薬ではなく、
彼女は破滅へ向かうために飲んでいる。
全ての自由を失った彼女に残されていたのは、
「死」という名の開放しかなかった。
「まだ足りないよ。圭ちゃん」
多量の薬物摂取による障害は、彼女をさらに老けこませてゆく。
素顔の彼女を見て、いったい誰が10代だと思うだろうか。
精神を維持させる薬を飲めば、いくらか冷静でいられる。
彼女は自分の吐く息や体臭が、薬くさいと思いこんでいた。
無機質な薬のにおいの中で、彼女は「死」という安らぎを夢みていた。
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)23時53分32秒
- 「お願い―――薬なんか飲まないでよ」
保田は泣きながら懇願する。
彼女は絶望こそが開放であることを知り、
とても楽な気分でいるのだった。
死が迫るという充実感に満たされ、
彼女は最期のときを指折り数えていた。
「割腹自殺したらさー、薬が出てくるんじゃないかな? 」
開放される楽しみを待ちながら、彼女は元気になってゆく。
燃えつきる前のロウソクのように、崩れてゆく自分がおもしろい。
まだ希望があったころ、死こそが恐怖だった。
その死を開放に感じたとき、恐怖は期待にかわった。
「矢口―――矢口! 」
淋しさは癒えるものであるから、別れはつらくない。
開放された瞬間に、彼女は救われるのだった。
その昔、ひとりのアイドルが飛び降り自殺した。
彼女が求めていたのは、矢口と同じ開放だった。
ひとつ違っていたのは、彼女には死ぬ権利があったことである。
- 46 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)23時54分19秒
- 「圭ちゃん、竹取りの翁は、なんで竹を切ったんだと思う? 」
かぐや姫伝説は、いろいろな解釈がされている。
日本に生まれ育った人間であれば、誰もが知っている話だ。
「竹取りの翁? 今昔物語の? 」
「うん。竹取りの翁は、光る竹を見ても驚かなかったでしょう? 」
「気になったから切ったんじゃないの? 」
「―――翁は死ぬつもりだったんだよ」
年老いた翁は、死ぬつもりで竹林に入った。
貧困という現実から開放されたかったのと、
伴侶の老婆から三行半をうけたのだった。
希望を失った翁が願ったのは開放だった。
だからこそ、尋常ではない竹にも驚かず、
中身を確かめてみたくなったのだ。
- 47 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)23時54分50秒
- 「―――あたしには分からないよ」
分かるはずもないだろう。
なぜなら、保田には希望がある。
希望を持っている人間が、開放を求めるわけがない。
「翁は絶望を選んだんだよ」
「選んだ? 」
「絶望は翁にとって、楽になるための手段だったの」
「そんな破滅的なことを―――」
「分かってないなー、絶望は楽になるためのプロセスだよ」
彼女の考えは、保田には理解できないだろう。
たしかに彼女は狂っていた。
彼女だけでなく、全てが狂っていた。
それが芸能界だった。
- 48 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月15日(日)22時10分35秒
- 彼女の苦しみは、薬によって癒されていた。
ビタミン剤、精神安定剤、抗鬱剤そして睡眠薬。
体の痛みには、経口モルヒネを使うようになった。
そして、必ず飲まなくてはいけない薬。
小さなピンク色の錠剤がある。
「圭ちゃん、矢口真里は、どこにいったんだろうね」
「―――矢口」
保田の大きな目から、とめどなく涙がこぼれてゆく。
壊れるために選ばれた少女が、保田の目の前にいた。
狂人は自分が、狂っていないと思っているらしい。
しかし、矢口はそんな次元すら、超越してしまっていた。
「もう、矢口真里には戻れないんだよね」
壊れかけた器でも、用を足すのであれば、使いつづけられる。
道具などというものは、壊れるまで使われるのが常だった。
芸能界で必要なものは、美貌や歌のセンスなどではない。
何が大切かというと、自我を存続させられるだけの強靭な精神力だった。
- 49 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月15日(日)22時11分15秒
- 「矢口、もう起きなよ」
ホテルのベッドは柔らかすぎる。
その状況はまるで、自分の体が、
ベッドに吸収されてゆくようだった。
安眠を提供するはずのベッドが、
人の精気を吸っているようだった。
「そうだね」
「もうすぐ時間―――矢口! 」
バスローブを着ていた彼女の下半身が、
かなりの出血で真っ赤に染まっていた。
それを見た保田は、驚いてしまったのである。
だが、彼女の自分の下半身を見ると、
力なく笑いはじめたのだった。
- 50 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月15日(日)22時11分56秒
- 「また出血してるね。―――生理でもないのに」
「オイラだって―――オイラだって子供を産みたかった! 」
「矢口! 」
「産みたいよ。女だもん―――でも、もうだめだってさ」
彼女は中絶こそしていないが、小柄な体でムリをしすぎていた。
今の彼女の子宮では、三ヶ月の胎児までしか育てられない。
小柄な彼女が子供を産もうとするなら、それは命がけのことだ。
すでに矢口真里という女性の機能は、失っていたのである。
女性としての生産性がなくなってしまった以上、
彼女が幸せになれる可能性はきわめて少なかった。
- 51 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)19時43分38秒
- ――12――
彼女の苦痛は5期メンバーが入ってからもつづいた。
5期メンの中でモー娘らしいのは紺野だけであり、
他のメンバーは優等生すぎて、リアリティに欠けている。
高橋と紺野という二枚看板を掲げ、5期メンは次第に居場所を得てゆく。
「はあはあはあはあはあ―――」
彼女の息切れに5期メンは、なにごとかと思ってしまう。
ほんの少し動いただけで、彼女は激しく疲労した顔をしていた。
それがどういった意味か分からない5期メンたちは、
彼女には体力がないという安易な考えに終始してしまった。
「矢口、少し休む? 」
彼女を気づかったのは、コレオグラファーの夏まゆみだった。
「ミスタームーンライト」モー娘13枚目のシングル曲である。
この曲は吉澤・後藤・安倍の3人がメインの曲であり、
他のメンバーは、3人の後方で他愛もないバッキングをするだけでいい。
それでも彼女は、体力の限界に達していたのだった。
- 52 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)19時44分12秒
- 「うっ」
彼女はスタジオで練習中だというのに、貧血をおこして倒れてしまう。
驚いた保田と安倍が抱きかかえ、別室につれて行った。
出血がつづき、彼女の体はボロボロになっていたのである。
もう、自力で治るような状態ではなかった。
「矢口、もう、あたしも限界だよ」
保田はこれ以上、彼女をみているのがつらかった。
いつも元気な矢口真里は、カメラの前だけの話。
ほんとうの彼女は、限界まで来ていたのだった。
最近ではマネージャーも彼女に同情しており、
あまりムリをさせないようにしていたのである。
このころになると、もう接待など不可能な状態だった。
- 53 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)19時45分10秒
- 彼女の体は、もう誰がみても限界だった。
ステージの最中に、2度も貧血で倒れてしまう。
これだけ体も精神もズタズタで、生きているほうが不思議だった。
「やぐっつぁん、いっしょに辞めようよ! 」
後藤は彼女を誘うが、それはもう遅すぎた。
ミニモニ。からの卒業は、彼女の負担を減らしただけで、
それは「接待」をさせるための戦術でしかない。
ひび割れたコップからは、注いだものがこぼれてしまう。
今の彼女が、まさしくその状況だったのである。
生産性をなくした女が、どれだけ辛いものなのか。
それは女になってみないと分からないことだろう。
- 54 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)19時45分52秒
- 「辞めたいよ。もうアイドルなんて辞めたい。でも、それはできないでしょう? 」
後藤は彼女の泣き顔を初めて見た気がする。
彼女を最もかわいがっていた中澤が辞めたときも、
決して泣くことはなかったのだ。
とにかく、彼女は生きているだけで、
自分自身を傷つけていたのである。
それは、あまりにも辛い現実だった。
「真希、オイラの分も幸せになるんだよ。もう、オイラは幸せになれそうもないからさ」
彼女は笑顔で言ったが、それは誰が見ても泣き顔だった。
何という人生なのだろう。彼女は男に壊されるために生まれてきたのか。
彼女は女としての最大の歓びである、出産をすることができないのだ。
人間の生殖本能が意識的に否定されたのであるから、彼女は体調を崩してしまう。
人間以外の動物であれば、生殖能力を失ったメスなど、生きて行くことができない。
とても残念なことではあったが、それが自然の摂理なのだった。
- 55 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)19時46分28秒
- 「そんなこと言わないでよ。―――やぐっつぁん! 」
あんたはいいよ。女として、これからいくらでも幸せになれる。
彼女は自分でも驚くほど、冷静に自分や周囲を見つめていた。
後藤のようなカリスマは、おそらく2度と現れないだろう。
何度もケンカし、週刊誌には仲が悪いとまで報道された。
決して仲が悪いわけではなく、姉妹のようであるから、
互いに我儘を言い合い、本気でケンカしてきたのである。
彼女は真希よりも紗耶香とのほうが、実際、仲が悪かった。
「真希、あんたの家は多産系じゃん。子供をたくさん産んでよ。
その中の一人を、オイラにちょうだい。一人で育てるよ」
妊娠する権利さえ失った彼女には、こうしてしか、幸せを得ることができなかった。
実際に腹を痛めて出産し、自然に母親になるということが、彼女にはできないのである。
それはあまりにも残酷であり、後藤には彼女を見て泣くことしかできなかった。
- 56 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月09日(水)04時21分22秒
- ――13――
「圭ちゃん、オイラ、もう限界だよ。死なせてよ」
彼女に必要なのは、希望や努力ではなかった。
「絶望は愚か者の結論なり」という言葉があるが、
それは希望的な要素が残っている者へのそれである。
彼女の場合、希望的な要素などは一切なく、
死ぬことだけが癒しになるのだった。
「―――矢口―――矢口ー! 」
保田は泣くことしかできない。
全ての不幸を小さな体に背負いながらも、
彼女が明るく生きてきたことは、
親友の保田が一番よく知っていた。
それだからこそ、保田は何も言えない。
「圭ちゃん、今までありがとう」
彼女はそう言うと、バッグから手鏡を出して叩き割った。
その小さな破片は、車のヘッドライトに照らされ、
あたかも宝石のような輝きを放っている。
彼女は大きな破片を握りしめると、左手首につき刺した。
- 57 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月09日(水)04時21分58秒
- 「みんなにお別れできないね。謝っといてくれる? 」
彼女は笑顔で保田に頼んだ。
別れることは淋しいが、彼女にとっては、これが開放なのである。
保田は彼女の気持ちを理解していたつもりだった。
しかし、いざ目の前でリストカットを目撃すると、
とにかく悲しくてしかたない。
「ごめんね。何もできなくて―――ごめんね」
崩れるようにヒザをつき、子供のように泣き叫ぶ保田に、
彼女はうれしそうに、ほほ笑みながら首を振った。
保田はこれまで経験したこともないような、
吐き気がするほど激しい自己嫌悪を感じている。
それは、何もできなかった自分への怒りだった。
- 58 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月09日(水)04時24分05秒
- 「みんなに逢えてよかった。―――さようなら」
彼女はつき刺さった破片で、自分の手首をひき裂いた。
真っ赤な噴水は車のヘッドライトで、じつに鮮やかな色に輝く。
今の彼女にとって、死ぬことは何よりもうれしいことである。
彼女はうれしそうに歩道のタイルの上に横たわると、
眠るように息を引きとったのだった。
「忘れないよ―――矢口。ぜったいに忘れない―――」
保田は彼女を見送りながら、何度もそうつぶやいた。
国民的アイドルたちを支えていたのは、
とても小さな矢口真里という女性だった。
END
この小説はフィクションであり、設定・イベント・その他は、全て架空のものです。
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