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アルシュ!

1 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時12分34秒
 
 
 
 
 
──マキが消えた。
 
 
 
 
 
2 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時13分26秒
 
 
 †
 
 
3 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時14分09秒
T.


 ぼやけた光。
 目を開けると、頬の辺りが冷たかった。枕に触れてみるとうっすらと湿っていて、
それで私は自分が泣いていることにようやく気がついた。
 とても怖い夢を見ていたような気がする。でもその内容はもう全然思い出せなくて、
私は大きなあくびをしてそのつまらない記憶を噛み殺すと、勢いよくベッドから降りた。
 お化粧を済ませると、部屋を出る。今日も空は灰色。私がこの街に来てから、
晴れた日は一日もない。
4 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時14分49秒

「おはよう」

 空と同じ灰色のレンガが敷き詰められた広場。この四隅はそれぞれ木が
植えられていて、それぞれ小さな柵で切り取られている。くすんだ葉の色は
それでも辺りに安らいだ空気を振りまいていて、弱々しい陰を地面に落として
退屈な四角いリズムをいたずらっぽく揺らしていた。
 おはようございます、昨日ともおとといともそのまた前の日とも、ちっとも変わらない声。
バレエの練習に興じていた若い子たちが挨拶を返してくる。私はなんとなく手を顔の前にかざして、
くるくると回る彼女たちを眺めた。
5 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時15分23秒

「あれ」

 ひいふうみい。数えていく。ひとり足りない。

「まだ来てない──」

 口走ったものの、私の声はそこで途切れてしまう。子どもの手を離れた風船のように、
ふらふらと浮き上がって流されてしまう言葉。
 彼女たちは気にも留めず踊り続ける。跳躍。ターン。くるくるくる。
 そのまぶしさに誘われるように、私も迷いを忘れることにした。近くの段差に腰掛けて
じっとその様子を眺める。
6 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時15分56秒

 そのうちバレエが一段落して、マリさんもいっしょに踊りましょうよ、なんて声がかかる。

「いいよ、オイラ最近、ヒザ痛くってさ」

 おどけた調子で答える。まだ若いのにー、えーハタチ過ぎたらおばちゃんだよぉー、
のんきな響き。
 口元にシワをつくる得意の苦笑いでやり過ごす。
7 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時16分30秒

 しばらくして、彼女たちは何事もなかったように再びバレエを始める。
 ヒザが痛いのは事実だ。いや、ヒザだけじゃない。なんだか最近、体が重いのだ。
ちょっと前まではこんなことなかったんだけど、でもいつからか、
思うように動けなくなってきている。
 だから、バレエの練習は、控え目にしている。
8 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時17分03秒
 
 
 †  † 
 
 
9 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時18分09秒
U.


 どこか遠くから、お昼の鐘が聞こえてきた。バレエの練習は休み時間に入る。
 私は若い子たちに声をかけると、広場をあとにする。
 散歩。のんびりと街を一周して、気に入ったところで足を止め、
ちょっとだけ物思いにふけってみる。それが私の午後の日課だ。
10 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時18分41秒

 街というより、むしろ城といった方がいいのかもしれない。赤、青、黄、緑、白…。
プラスチックのブロックで造られた、巨大な建物。四辺ともだいたい同じ長さで、
ところどころ思い出したように出っぱっていたり、穴が空いて窓になったりしている。
 出っぱりをつたっていくと、みんなそれぞれの部屋に行くことができる仕組みになっている。
ちなみに私の部屋は、あまり光の当たらない北側の、8個目の黄色い出っぱりの奥だ。
11 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時19分33秒

 ぼんやりと考えごとをしていたら、いつのまにか城を通り過ぎていた。行き止まり。
 ──壁。黄土色のどこまでも背の高い壁が、私の行く手を塞いでいる。
 壁が四方を囲んでいる。その中に城も広場もすっぽりと収まっている。
私たちの見上げる曇り空は、いつも四角い。
 つるつるしている壁の前に立ってみる。たたいてみると、ぼこん、と低い音が響いた。
12 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時20分16秒

「気になる?」

 背中に声がかけられた。振り向くことなく、空を眺めたままで返す。

「なにが?」
「壁の外側。どうなってるのか知りたくない?」

 声の主は人懐っこく笑っているのがわかる。機嫌の良い猫みたいにその目を細めて。

「べつに」
13 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時21分05秒

 そこまで言ってようやく振り向いてみせる。ケイちゃんは想像通りの表情で、
私はいくら興味のない話題とはいえ、素っ気ない返事をしたことをちょっとだけ後悔した。
 ケイちゃんはそんな私の心を知ってか知らずか、白い歯を見せたままで
こっちに近づいてくる。そのまま私の横を通り過ぎると、くるりと回れ右して壁に寄りかかって
一緒に空を見上げた。
14 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時21分43秒

 沈黙が続いた。
 手持ち無沙汰になった私は、実際に壁に触りながらパントマイムのマネをしてみる。
15 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時22分15秒

「今夜さ、ウチに来ない?」

 急に口を開いたと思ったら、それかよ。私はマイムを続けながら返す。

「その気?」
「まさか」
「じゃあナニ?」
「訊きたいことがあんの」
「今じゃダメ?」
「ちょっとダメかな」
「行けばいいんだ」
「来ればいいのよ」
「わかった。行く」
「待ってるからね」
16 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時22分47秒

 ケイちゃんは反動をつけて壁から離れると、そのまま歩き出した。振り返らず、
城へと戻る。
 ひとりだけで壁に手をついてパントマイムをしている自分。なんだか間の抜けた
格好をしているのが照れくさくて、しょうがないからバレエの練習をちょっとだけ
ひとりでしておいた。
17 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時23分29秒
 
 
 †  †  † 
 
 
18 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時24分03秒
V.


 夜はいつも急にやってくる。灰色の空が、パチンという音とともにいきなり
真っ暗になるのだ。辛うじて差し込んでくる星と月の明かりを頼りにして、
私たちは家路につく。
19 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時24分38秒

 昼間言われた通りにケイちゃんの部屋まで来た。ドアをノックする。
ハイハイ、と返事があって、すぐに開いた。

「いらっしゃい」
「どうもっス」

 相変わらず病院の個室のように部屋の中は殺風景だった。闇に塗り込められた
その中、わずかな星明かりに照らされてぼんやりと浮かぶのは、パイプのベッドと
流し台、小さなタンスがぽつんとあってその上にフォトスタンドが置かれている、
それっきりだ。
20 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時25分25秒

「まあ座ってよ」
「どこに?」
「床。それともベッドがいい?」

 返答代わりにその場に腰を下ろす。昼間とあまり変わらない苦笑いを
ケイちゃんは浮かべた。

「よっこいしょ」

 おばちゃんくさい声を出してケイちゃんはベッドに腰掛けた。なんだか、
いまひとつ体の調子が思わしくないみたいだ。
21 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時26分05秒

「で、なんだっていうワケ?」

 最近具合が悪いよね、なんて話を延々とするのはゴメンだ。素早く、簡潔に、
昼間の話題を出す。
 もともとは自分から持ち出してきたクセにケイちゃんは少し当惑した視線を
私に浴びせたが、すぐにいつもの突き刺すような鋭さを戻した。利発な彼女が好きだ。

「マキ。いなくなったでしょ」

 ポン、ポンとボールが弾むようなリズムで言葉は放たれた。今度は私が
当惑する番だった。

「何か知らない?」

 鋭さを増したナイフの先がきらめいた。夜の闇に浮かぶ、獲物を狙う鳥の目。
22 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時26分37秒

 私が正直に、なにも、と答えると、ケイちゃんは眉間とおでこにシワを寄せた。
逆に尋ねてみる。

「気になるの?」
「忘れることなんてできない」

 そう、吐き捨てた。
 凍えた空気が窓からひゅうひゅう私たちを侵食してくる。
 ヨ、ル。
 闇の中でケイちゃんは、とても硬そうな金属のようにうっすらと冷たい光を
まとっている。
23 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時27分09秒

「マキっていっつもサヤカにくっついてたじゃない? サヤカが消えてから、
 ずっと落ち込んでた」
「そうだったね。うん、ずっと泣いてた。でも、吹っ切ったんじゃないの?」
「いや、それがさ、こっそり調べ続けてたらしいんだ。サヤカが消えた理由を」
「へえ」

 初耳だ。
 ケイちゃんは間の抜けた私の返事につられることなく、こわばった声で続ける。

「それで、あれこれ探っているうちに、自分も消えちゃった」
「ふぅん」
24 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時27分50秒

 今度は丁寧に相槌を打ってみせた私に、ケイちゃんは身を乗り出して訊いてくる。

「ねえ、マリは気にならないの? ふたりが消えた理由」
「え、べつに。消えちゃったモンはしょうがないじゃん」
「薄情ね」
「割り切ってんだよ。私、母さん消えてるし」
「ああ」

 母さんは私が18のときに消えた。確か、27で消えた。
25 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時28分24秒

「とにかくさ、今度はアタシが調べる番だと思ってる。だからさ、マリも何か
 わかったことがあったら教えてほしいんだ」
「いいよ。うん、そうする」

 軽い気持ちで答えた。
26 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時29分06秒
 
 
 †  †  †  † 
 
 
27 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時29分39秒
W.


 次の日の朝も、やっぱり空は灰色に曇っていた。
 日課。起きてお化粧を済ませると、広場へと出かける。きっと、今日も若い子たちは
バレエの練習をしているはずだ。
28 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時30分13秒

「あれ?」

 道の途中、誰かが倒れているのを見つけた。近くに寄ってみる。ナツミだった。

「おーい」

 声をかけるが返事はない。体を揺すっても反応はない。
 羽みたいなカタチをしている背中のゼンマイのネジを巻いてあげる。じーこじーこ、
いっぱいまで巻いたら、途端にぱっちりと目を開けた。
29 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時30分49秒

「マリぃ、たすかったよぉ」

 私の姿を確認して、ナツミは抱きついてきた。ひまわりが咲いたような満面の笑み。
夏の匂いに、彼女の存在の大きさを、あらためて思う。

「ま、困ったときはお互い様だからさぁ」

 そう言ってふたりで笑い合った。
30 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時31分27秒

「マリはこれから、バレエの練習?」
「気が向いたらね。ナツミは?」
「わたしはちょっとパスかな。踊るより、みんなを見てにこにこしてる方がいいもん」
「ふふ、そだね」

 私がうなずいたところで、ナツミは突然ぽんと手をたたいた。

「あ、そだ。カオリんとこに行くつもりだったんだ。忘れるところだったよ」
「ん、それじゃオイラも行くよ」
「バレエは?」
「気が向かなくなった。今日はお休み」
「今日も、っしょ?」
31 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時32分00秒

 カオリの部屋まで来ると、ナツミがドアをノックする。どーぞー、と中から声がして、
ふたりでおじゃまする。

「あれ、マリも一緒なんだぁ」

 ベッドから半身を起こしてカオリは笑った。

「うん。たまにはカオリの顔も見ないとね」
「はは、あんがと」
32 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時32分37秒

 カオリはここんとこ体の調子が良くなくて、昼間もずっと家の中で過ごしている。
 ここに来るまでのナツミの話によれば、前と比べてベッドの中で過ごす時間が
増えてきているらしい。それでもナツミがいろいろと世話を焼いているようで、
おかげでカオリの表情は明るい。
 風で柔らかく広がる黄色いカーテン、ふわふわしたカーペット。日の光が存分に
差し込む部屋の中は、ゆったりとした暖色の空気で満ち溢れている。
33 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時33分13秒
「どうなの、調子?」
「んー、まずまず。まだまだカオリはがんばれるよ」
「ムリしないでね」
「だいじょぶだいじょぶ。そんなおばちゃん扱いしないでよ」
「あれ、そういえば元祖おばちゃんは元気かい?」
「うん。昨日の夜、ケイちゃんとこに行ったよ。なんか、マキのことを気にしてたけど」
34 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時33分50秒

 その瞬間、ふたりの顔が曇った。

「どしたの?」
「なんでもないよ」

 すでにふたりは5秒前とまったく同じ笑みを浮かべていた。でも、
5秒経ってもそれはびくともしなかった。
 それでも、と思い、踏み込んでみる。

「まさか、マキが消えた理由、知ってるとか?」
「わたし知らないよ」

 即答。

「カオリも。だいたいそんなの調べようがないよ。消えちゃったんだから」

 カーテンが風に引かれてサーッと音を立てる。何かを引き裂くような、
こすれる金属音。
35 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時34分24秒
 
 
 †  †  †  †  † 
 
 
36 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時35分00秒
X.


 それから何日かした朝、起きると、枕が冷たかった。いつかと同じように、
私は泣いていた。
37 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時35分32秒

 まさかと思ってバレエよりも先にケイちゃんの部屋に行った。ノックをする。
返事はない。ノブを回したら開いた。

「ケイちゃん?」

 中に人の気配はない。無機質な部屋。冷たい金属のような彼女の姿が
頭の中に浮かぶ。

「どういうこと?」

 声に出してみる。消えた?と口にしたら本当に消えてしまったように思えるから、
それだけは強く意識して避けた。忌んだ。
38 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時36分06秒

 広場へと走った。今日も変わらず若い子たちはバレエを踊っていた。
荒い息をそのままに、大声で尋ねた。

「ケイちゃん知らない!?」

 しかし、彼女たちは狐につままれたような顔つきで首をひねるだけだった。
 ちくしょう、ダメだ。
39 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時36分38秒

 カオリの部屋へと急いだ。ヒザのことなんて忘れて、ブロックの出っぱりを
駆け上がった。ドンドンドン、ドアを思い切りたたいた。

「カオリ、カオリっ!」
「マリ? …どうしたの、そんなに慌てて」

 ドアの向こうでしっとりと落ち着いた声がした。

「知ってるの!? ねえ何か知ってるの!?」

 開かれないドアに拳をぶつけて怒鳴った。
 常軌を逸した私の声に、彼女はすべてを悟ったようだった。

「カオリは何も知らないよ。ただ、踊るだけ」
40 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時37分12秒

 もう踊れる体じゃないのに? 踊るだって? 何も知らないって? どうして?
じゃあ誰が? なんで? なんのために? 私? どこへ?
 頭の中を増殖していく疑問符に体が支配される。
 びくりと背骨が跳ねた。微かに残されていた理性が閉じきった回路を断った。
 ──ダメだ。これじゃ、ダメだ。埒が明かない。

「くそっ」

 今来た道を引き返す。次の目標はナツミだ。ナツミの部屋だ。
41 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時37分43秒

「あっ!」

 地面に飛び降りてダッシュをかけようとした瞬間、視界の隅っこに人影。
顔を上げると、まるでアーモンドのように目を丸くしたナツミが、花束を入れた
バスケットを落とした。カオリの家に向かう途中だったのだろうか。

「ケイちゃん!」

 思考、体、すべてがショートしている中、私の口から紡ぎ出された言葉。
 天使のように優しい彼女は石ころみたいに何もない表情に変わって、
首をただ横に振った。
42 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時38分17秒

 もはや行くべきところはひとつしかなかった。再び、ケイちゃんの部屋。
 あらためて訪れた無機質なその部屋は、まるで主が消えてしまうことを
予測していたようだった。あまりに軽い空気の感触に、背筋がぎゅっと
握りつぶされる気がした。
 ベッドのシーツにはシワひとつない。流し台の周りは乾ききっている。
ここに誰かがいたという痕跡は、まったく残されていなかった。
43 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時38分55秒

「ウソだろ」

 途方に暮れた私は、そう漏らした。演技がかったセリフをこぼせば、
どこかで「カット」という声がかかって、現実に戻れると咄嗟に思ったから。
 しかしカメラは止まらなかった。いや、最初から回っていなかった。
肺の中のぬるい空気を入れ換える行為しか、私にできることはなかった。
44 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時39分38秒

 倒れかかるようにベッドに腰を下ろした。と、そのとき、ちょうどタンスの上の
フォトスタンドが目に入った。
 そこには、サヤカとケイちゃんと私が並んで写っていた。そしてサヤカの胸のところで、
マキがはにかんだ笑みを見せていた。

「ひとりぼっちだ」

 誰にも聞こえないように、神様にも聞こえないようにこっそりとつぶやいた私は、
フォトスタンドを持ち帰って自分の部屋のちゃぶ台の上に置いた。
45 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時40分12秒
 消えたサヤカ。サヤカを追ったマキ。マキを追ったケイちゃん。みんな消えた。
母さんも、消えた。
 消えるか、忘れるか。──私の目の前には、ふたつの選択肢が与えられていた。
 フォトスタンドの奥、ガラス1枚を隔てた向こうでは、4人が揃って微笑んでいた。
46 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時40分42秒
 
 
 †  †  †  †  †  † 
 
 
47 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時41分19秒
Y.


 原色のブロックに全身を覆われているはずの城は、空に広がる
わずかな光を映して深い青に染まっている。
 すべてが眠っているかのようだ。空気も今はぐっすり夢の中で、
まったく音を伝えようとしない。
 延々と続いているブロックの出っぱりをのぼって城の頂上へと
たどり着いた私は、冷たい雨のようにじっとり染み込んでくるヒザの
痛みに耐えて、すぐに準備に取り掛かる。
48 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時41分56秒

 ──パチン。
 いつもの音が連れてきた夜。私は部屋を飛び出すと、まっすぐに
カオリのところを目指した。
 ドアの前に立つと、大きくひとつ深呼吸をした。そして、起きていますように、
そう祈ってからドアをたたく。
 しばらくの沈黙の後、はい、と小さく返事が聞こえた。
49 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時42分33秒

「カオリ、お願いがあるんだ」

 ドアの向こうで息を飲むのがわかった。おびえている気配がした。
 私はわざと、いつもよりさらに高い声でドアを貫くように言う。

「カーテン貸してくんない? その、こないだ見てさ、かわいかったから
 オイラもほしいなって。もっとよく見てみたいなーって」

 下手な嘘だ。自分でも情けなくなってくるけど、そんなつまらない感情を
押し殺して返事をじっと待つ。
 こわばり、澱みきった夜の空気がまとわりついてくる。まるで、全身が
石になってしまったみたいだ。
50 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時43分19秒

 どれくらいしただろうか。ゆっくりと、少しの音もさせないで、
ドアが隙間をつくった。

「これ」

 差し出された黄色いカーテンは真っ白い手に乗せられて。
タンポポの花と綿毛の色を思った。
 視線を上げれば、隙間からわずかに覗いた大きな瞳がどこまでも
優しくて、それでいて強くて、私はふと母さんのことを思い出した。

「気をつけてね」

 すべてを見通したセリフ。やつれ切った体を押して手渡してくれた
彼女に、深く深く頭を下げた。
51 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時43分50秒

 プラスチックの城の頂。
 カオリに借りたカーテンを取り出す。くるくると巻いて、縛ってつなげる。
そしてその端っこに、自分の背中から取りはずしたゼンマイのネジを
くくりつけると、きつく結んだ。
 行く手を塞ぐものと向き合う。これだけ高い場所にいても、壁はなお
高く立ちはだかる。
 ごくり。唾を飲み込んだ。
 臆するな。成功することだけを考えろ。自分に言い聞かせる。
52 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時44分36秒

 頭に響くケイちゃんの言葉。

「気になる? 壁の外側。どうなってるのか知りたくない?」

 消えたサヤカ。サヤカを追ったマキ。マキを追ったケイちゃん。みんな消えた。
母さんも、消えた。
 ──すべての答えは、この壁の向こう側にある。
53 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時45分11秒

 壁に背を向ける。そのまま歩を進める。ギリギリまで進める。脆くなっていた
ブロックの端が小さく欠け、奈落の底にこだました。これでいい。
 回れ右。壁が立ちはだかる。構わず、助走をつける。足音が四方に響く。リズム。
でも、その波に引き込まれてはいけない。
 一世一代のチキンレース。あと三歩、二歩、一歩、今だ放て!
54 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時45分44秒

 急ブレーキをかけた脚。ヒザに全体重が押し寄せる。体が崩れる。
こらえろ、こらえろ! 歯を食いしばり、慣性に逆らうことこそがすべて。
 手から離れたゼンマイのネジは、スローモーションの弧を虹みたいに
描いて夜の闇に伸びる。彗星のように、黄色いしっぽを引きながら。
55 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時46分15秒

 カシィ。
 乾いた音がした。黄色いしっぽを引くと、確かに手応えがあった。
 深呼吸。それはまるで水の中へと飛び込むように。息を止めて、
しっぽを固く握り締め、私は城のてっぺんから飛び降りる。
56 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時46分46秒

 ぐいん。肩の関節が全身を揺らせた。髪の毛から爪先までこわばらせて
衝撃に備える。
 ぼごっ。鈍く低い音とともに背中からたたきつけられた。耐える。揺れる。
また耐える。
 振り子が止まると、目を開けた。目の前1cm、壁。
57 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時47分21秒
 最後の力を振り絞って黄色い垂直の道をよじのぼっていく。腕の感覚が
徐々に薄れていく。股関節がはずれそうだ。それでも、やめない。
 やがて指先が、布とは違う感触を覚えた。ひんやりして、硬くて。
それはゼンマイのネジ。
 はやる気持ちを落ち着かせて、腕を壁の奥へと運ぶ。直角。指の腹が、力を
しっかりと受け止めた。無我夢中のままで体を持ち上げると、素早く腰掛ける。
 私は今、壁の頂点を征服したのだ。高鳴る鼓動を抑え、ゆっくりと背中の
向こう側へと振り向く。
58 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時48分01秒
 
 
 
 
 一面の青。
 
 
 
 
59 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時48分38秒

 城を囲んでいる壁。その向こう側にあったのは、茫洋と広がる
ディープブルーの海。
 規則正しく凹凸を繰り返す波は、あまりに細かくて見えない。
しかし、それはなみなみとすべてを取り囲んでいた。
60 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時49分12秒

 だが、私は視線を上に移して愕然とした。そこにあったのは、
天井という名の、もうひとつの壁。
 目を凝らす。ぼんやりと見えてきた。そして、世界が上下左右前後を
壁に囲まれていることに気がついた。壁の向こう側にあったもの、それは、
もっと巨大な壁に囲まれている部屋だったのだ。
61 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時50分00秒

 つまり、今まで私たちが壁だと思っていたものは、実は箱だった。
ディープブルーの絨毯が敷かれた巨大な部屋の中にぽつんと置かれた、
おもちゃの箱に過ぎなかったのだ。
 私たちは、箱の中の街で暮らしていたんだ。方舟の中、プラスチックの城に住み、
ゼンマイのネジを巻き、バレエを踊るおもちゃたち。

62 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時50分55秒

 それじゃ、ケイちゃんは? マキは? サヤカは? 母さんは? 消えたみんなは、
この箱の外の世界へと出て行ったの?
 でも、私たちの暮らす箱の外も、また箱なのだ。天井があって壁があって
床があって。それは無限に繰り返される。
 眩暈がした。どこまで行っても逃げることなんてできない。箱、箱、箱!
63 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時51分31秒
 ──マトリョーシカみたいだ。
 いつかケイちゃんと一緒につくったロシアの人形を思い出した。
64 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時52分02秒

 私は立ち上がった。
 壁のてっぺんは幅が細くて、まるで平均台のようだ。両手を広げて
バランスをとる。
 このまま、どっちの側に飛び降りても、私は箱の中で暮らすことに
変わりはないのだ。
 そう思うと、何かがこみ上げてきた。素直にそれを吐き出した。
出てきたのは笑い声だった。
 お腹の底から笑った。甲高い私の声が闇を切り裂いていく。でも、それが
こだますることはなかった。
65 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時52分32秒

 そのとき、ヒザが崩れた。バランスを失った。
次の瞬間、私の意識は飛んだ。
66 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時53分15秒

 私の部屋。ちゃぶ台の上。フォトスタンド。ガラスの奥。写真。
ケイちゃん、マキ、サヤカ、そして私。
 なぜか、床に落ちてガラスが砕け散る光景が、まぶたに焼きついていた。
67 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時53分47秒
 
 
 †  †  †  †  †  †  † 
 
 
68 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時54分25秒
Z.


 ぼやけた光。寝ぼけたまま、頬で枕に触れてみる。返ってきたのは、
私と同じ温度。
 そおっと目を開けると、こっちを覗き込んでいる顔がきれいに円形に
並んでいた。
 そんなにジロジロすっぴん見んなよ、なんて思っていると、聞き慣れた
声が耳元で響いた。

「よかった! 気がついた!」

 そして抱きついてきた体からは夏の匂いがした。

「ナツミ?」
69 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時55分01秒

 壊れたレコードみたいによかった、よかったと繰り返すナツミから視線を移すと、
若い子たちが安堵の表情を浮かべて私のことを見つめていた。

「ああ、オイラ──」

 つぶやいてはみたものの、状況がつかめない。私の記憶は壁のてっぺんから
落ちたところで止まってしまっているのだが、今の私はふかふかの布団に
包まれているのだ。
70 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時55分37秒

 円く並ぶ若い子たちの奥を見て気がついた。ここは、ナツミの部屋だ。
 それでようやく理解した。おそらく、壁から落ちて気を失っている私を、
バレエの練習に来た若い子たちが見つけたんだ。それからナツミの部屋に
連れて来られて、今までずっと介抱されていたんだ。
 ふっと息を吐いた。──あったかいな。私は壁のこっち側を選んでよかった、と
心の底から思った。
 なんだか、じわりと目が潤んできた。ゆがんで見えるみんなの顔。
ひいふうみい、7人。残りのみんなは、きっとバレエの練習を続けているのだろう。
71 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時56分13秒
「──あれ?」

 見慣れない顔が混じっている。ひとりだけ、知らない子がいる。もしかして、
記憶喪失とか?

「えっと、ごめんなさい。あなた…」

 声をかけると、雨に濡れた子犬のように、彼女はびくりと肩を震わせた。
 突然のその仕草に呆気に取られ、宙ぶらりんになってしまった言葉の続きを
探せないでいると、声がした。

「マリが眠っている間に、ここに新しく来た仲間だよ」

 ナツミは目尻にシワを寄せて笑った。私は母さんのことをちょっとだけ思い出した。
72 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時56分53秒

「そう。ねえ、名前、教えてくれる?」

 笑みをつくって尋ねた。少女はうつむき加減のまま、一度ちょびっと舌を出して
唇を湿らせてから、本当に小さな声で答えた。

「エリ」

 そして彼女は体をこわばらせた。
 私はそっとその肩に触れる。

「もう知ってるかもしれないけど、オイラはマリっていうんだ。よろしくね」

 エリは震えるように、ぴくりとうなずいた。
73 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時57分32秒

 夜が来る前に、私は自分の部屋に戻った。
 ちゃぶ台の上には、部屋を出る前とまったく同じ姿でフォトスタンドが乗っていた。
 ガラスの奥、写真の4人は相変わらず微笑んでいた。
 私は枕元にそれを置いて眠った。
74 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時58分05秒
 
 
 †  †  †  †  †  †  †  † 
 
 
75 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時58分37秒
[.


 翌朝。目覚めた私は、いつものようにお化粧を済ませて広場へと向かった。
 灰色のレンガが敷き詰められた広場。ひいふうみい、7人。昨日と同じメンツだ。
 きびきびと踊る若い子に混じってナツミも体を動かしている。バレエを踊る彼女を
見るのは久しぶりだ。
76 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時59分12秒

「あれ、珍しいじゃん」

 声をかけると、目尻にシワを寄せて笑った。

「がんばんないといけないからね」

 やっぱり母さんみたいだ、って思った。

「今日はオイラも踊るつもりだったんだよ」

 そう言って、私もバレエの輪の中に加わる。相変わらず、ヒザが痛む。
でも痛いなりにベストを尽くして踊る。
77 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)07時59分47秒
 お昼の鐘が聞こえてきた。休み時間だ。
 広場の隅の木陰にみんなで円をつくるように腰を下ろす。昨日と同じ7人。
他のみんなは何をしてるんだろう。
78 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時00分28秒
「なんかさ、今日は集まりが悪いね」

 何気なく言った言葉。心なしか、若い子たちの表情が鈍くなった。

「昨日ナツミの部屋にいた人しかいないじゃん。あとのみんな、どうしたんだろ」
79 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時01分20秒

 不意に、ナツミが立ち上がった。私の目をじっと見つめてくるので、こっちも
見つめ返した。すると彼女はさらに深く見つめ返してきた。ふつうじゃない。

「──消えたの」
80 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時01分50秒

 慌てて周囲を見回す。若い子たちは下を向き、足元のレンガに視線を落としている。
 ひいふうみい、私を入れると8人。あとのみんなは、一斉に消えた?

「なにそれ…」

 唇からぽろりと言葉が漏れ出した。

「カオリたちは、消えたの。この街から、消えちゃったの」

 そんなバカな。次に消えるのは私の番だったはずだ。なのに私は残って、
カオリたちが消えた──?
81 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時02分24秒

 茫然と口を開けて見つめる私に、ナツミは力強く言った。

「でも、踊るのはぜったいにやめないよ。やめたら、
 そのときが本当の終わりだから」
82 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時02分54秒

 練習を終えた帰り道、まっすぐ帰るのがなんとなく嫌で、ふらふらと
城の周りを歩き回っていた。
 こうして寄り道をしてみても、それが何の慰めにもならないのは
わかっている。わかっているけど、何もしないで部屋の中でじっとしているよりは
はるかにマシだった。少しでも、新しい「ふつう」の明日が来るのを
遅らせたかったのかもしれない。
83 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時03分25秒

 気がつくと、城を行き過ぎて、私は壁の前に立っていた。いつか、
ケイちゃんと話した、あの壁の前。

「私の、せいなの?」

 そっと壁に触れてつぶやく。返事が返ってくることのない問い。

「──ちくしょう!」

 思い切り、壁をたたいた。べこん、と無機質な低い音がした。

「ちくしょう! ちくしょう!」

 べこん、べこん。何の表情もない音が、ただ辺りにこだまする。
84 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時04分00秒

 たたき疲れて、壁にそのまま寄りかかった。頬に伝わる温度が
いつかの枕のように冷たい。

「ちくしょう…」

 今の私は、壁の前で嘆くことしか許されない存在なのだろうか。
自分の涙で壁の表面を洗うことしかできない。穿つことなど、途方もない。
85 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時04分36秒

 ──ぽこん。

 音がした。
86 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時05分08秒

 ──ぽこん。

 また、音がした。慌てて頬を離し、耳をつける。

 ──ぽこん。

 確かに聞こえる。
87 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時05分43秒

 私は試しに、壁をたたいてみる。

 べこん。
 ──ぽこん。

 べこん、べこん。
 ──ぽこん、ぽこん。

 べこん、べこん、べこん。
 ──ぽこん、ぽこん、ぽこん。
88 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時06分19秒

 私がたたいた回数だけ、きっちり返ってくる。壁の向こうに、誰かがいる。
 仲間がいる! 壁の向こうに、仲間がいる!
 箱の外には、きっともうひとつの箱がある。私たちの箱の隣に並べられた、
まったく同じ形をした箱が。そこに、仲間がいる。
89 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時06分59秒

 バベルの塔。天に届く巨大な塔を造ろうとした人々は、罰として言葉を
分けられてしまった。
 この箱の秘密を知ろうとした私たちにも、同じように罰が与えられたとでも
いうのだろうか?
 それならば私は、もう一度この壁を越えよう。罰を乗り越えてしまえば、
罪なんてものはその意味をなさなくなるのだから。
90 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時07分56秒

 私は壁に背を向けると、広場へと走り出す。
 壁の向こうでも、きっともうひとりの私が仲間のもとへと走り出したはずだ。
 灰色の四角い空にふたつの足音が、今、シンクロする。
91 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時08分28秒
 
 
fin.
 
 
92 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時09分06秒

-

93 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時09分42秒

-

94 名前:  投稿日:2003年05月05日(月)08時10分43秒
 
 
 
 
Thank you for reading.
 
 
95 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月05日(月)13時00分11秒
完結おつです。しんみりとしたお話しですね。ある種の感動を覚えました。
96 名前:名無し読者 投稿日:2003年05月05日(月)17時25分51秒
なんか世にも奇妙な物語風で、だけど感動できて…。
いいなぁ。

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