走る
- 1 名前:arkanoid 投稿日:2003年05月29日(木)17時31分01秒
- はじめまして。
ずっとROMってきましたが、今回初めて小説を書かせていただきます。
稚拙な文章ですがお暇な方がいらっしゃいましたらどうかお付き合い下さい。
五期メンの2人を中心に進めていきたいと思います。
- 2 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時34分12秒
- 真っ白な世界に私は立っていた。
不思議に思って辺りを見回しても、白、白、白。
遠近感が掴めなくて奥行きがあるのかないのかすら分からない。
ふと目を自分の体に向けるとおかしな格好をしていることに気づく。
真白いシューズ、目がチカチカするような蛍光のライトグリーンのランニングに短パン。
それらは身に着ける者の負担にならないように、とても軽い素材でできている。
(ああ、そうか)
どこからともなく、パン、と火薬の音が鳴り響いた。
(走らなきゃ)
右足から踏み出し、一歩一歩スライドを広げ、ぐんぐん加速していく。
(走るんだ)
- 3 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時36分23秒
- コースどころか道さえもない。
白の世界を必死に駆け抜ける。
行けども行けども景色が変わらない。
しばらく走って思うこと。
私、なんで走ってるんだろう。
何かを目指して走っているの? では、ゴールはどこ?
何かに追われて走っているの? では、敵は何?
そんな思考がぐるぐると頭の中を駆け巡ると、その疑問符たちはやがて足に絡みつく。
だんだんと足の回転が遅くなり、のろのろと歩き始め、とうとうペタンと座り込んでしまった。
このままじゃ誰からも逃げれないね。
このままじゃどこへも行けないね。
汗じゃない何かが、私の頬を伝った。
- 4 名前:_ 投稿日:2003年05月29日(木)17時39分57秒
――――走る――――
- 5 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時41分59秒
- ガタンゴトンガタンゴトン……
はっ…。
一定に刻まれる電車の走行音の中、私はうっすらと目を開いた。
夢、か…。
心地よい振動と暖かすぎるほどの暖房にいつの間にか身を委ねてしまっていたようで、
窓の外を流れる景色は電車が出発した時のものとはだいぶ違うものになっている。
私は慌てて携帯を取り出し、時刻を確認しようと液晶の画面を見つめるがぼやけて数字が読めない。
それで初めて自分が泣いているのだと知った。
人差し指で目を拭って、再び画面を見る。
良かった、まだ降りる駅に着く時刻ではなかった。
- 6 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時43分52秒
- ガタンゴトンガタンゴトン……
淡々とした走行音ばかりが辺りに響いて妙な静けさを醸しだしていた。
眠っている間にMDを1枚分聞き終えてしまったらしく、私の耳につけられたイヤホンはすでに音を発していない。
ちょっと伸びをしてボックス席越しに辺りを見回してみると、もうこの車両にはほとんど乗客が乗っていなかった。
始発の駅を出たときには満員、とは行かなくてもそれなりに乗客はいたのに。
- 7 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時45分48秒
- ガタン…ゴトン…ガタ…ン…
速度を落とした電車が小さな駅に停まった。
ローカルのこの電車はドアの開閉が押しボタンによって行われていて、
ドアが開くとき、ピンポンピンポン、という注意音がけたたましく響く。
五人、降りた。
そのうちの一人、大きなバックパックを背負った若い男性が、ホームまで迎えに来ていた中年の女性と談笑を交わしている。
中年の女性のすぐ横には4、5歳くらいの小さな男の子がいて、しっかりと女性の手を握っている。
里帰りかな?それとも旅行か何か?
状況は想像できない。
けど、電車に乗って思うこと。
人の数だけ、生活の数がある。
私の知らない土地で、私の知らない人が、私の知らない生活をしている。
あたりまえのことなんだけど、改めて思い知らされる。
電車に乗っている人も同じ。
それぞれみんなに生活があって、ばらばらの理由で電車に乗ってる。
それは交わることの無い平行線のようで、お互いに影響しあうことは、多分、無い。
そんな人たちが同じ乗り物に乗ってるんだなぁと思うと、なんだかすごいことのように思えたし、どうでもよいことのようにも思えた。
- 8 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時47分43秒
- ウィーン……
五人分だけ軽くなった電車が再び動き始める。
私は頭の中で線をイメージした。
複雑に絡み合った沢山の線の中を、一本だけ、何とも交わらないで伸びている線、一本だけ。
私は溜息を一つついて、MDの再生ボタンを押す。
外との関係を遮断するかのような音の塊がイヤホンから溢れると、私は再び目を閉じた。
- 9 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時49分47秒
- 「こ、紺野、あさ美、で、です…! よ、よろしく、お願い、します…」
まばらな拍手が教室に響く。
「紺野は東京から来たんだよねー。慣れない土地で大変だと思うけど、
そこらへんは田舎育ちの子からいろいろ聞いて、うまくやってねー」
担任の飯田という先生はとても若く、絹のようなロングの髪の毛がとても印象的だった。
若い割に堂々として見えるのはぱっちりと開かれた目のせいだろうか。
「センセー、田舎はヒドイよぉ」
私の後ろの方の席から活発そうな女の子の声が飛んだ。
「あははー、ごめんね。でもここらへん、立派な田舎でしょ。それに田舎だって悪くないぞー。
ご飯美味しい、空気美味しい、水美味しい。ね、紺野?」
「は、はい…」
いきなり同意を求められた私は、曖昧な返事を返しただけだった。
- 10 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時51分13秒
- 人前で話すなんてほんとに久しぶりだったから、ものすごく緊張してしまった。
普段よりうまくやろうとするから緊張する、なんていうけど、私の場合、普段人前なんかで話さない。
その「普段」がないのだから、それはめちゃくちゃ緊張するっていうことじゃないか。
そんなことを考えている間にも自己紹介という春の儀式は続けられていく。
「はい、じゃあ次―、あ、高橋か…。高橋は今日はお休みでーす」
- 11 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時52分21秒
- 大きな木造の門をくぐると、庭園、とまではいかないもののなかなか立派な庭がある。
松の木がすらっと長く生えていて、そこから少し離れた所には置石なんかが置いてある。
ごつごつした大きなもの、つるっとした丸いもの。
石はおじいちゃんの趣味だったらしい。
私にはどこが良いのかさっぱりわからないけど、なんとなく石の一つ一つの形が遠い記憶にある祖父の面影とだぶって見えた。
砂利の道に飛び石が敷かれていて、それを渡って玄関まで歩いてく。
静かに玄関の戸を開くと、呟くようにそっと、ただいま、と言った。
- 12 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時56分08秒
- 二階にある私の部屋に行く前に、居間を覗き見る。
おばあちゃんは座布団に座ってお茶を飲んでいた。
「ただいま」
「おかえり。どうだった、学校?」
祖母の口調はゆっくりで穏やかだが、一つ一つの音がはっきりと発音されている。
「どうって…別に。普通だよ」
「普通かい。そりゃ良かったねぇ」
そう言っておばあちゃんはにっこりと笑った。
私はその笑顔の横をすり抜け、奥の台所の冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取り出す。
コップに半分だけ注いで、それを一気に飲み干してから部屋へと向かった。
階段に足をかけると、かすかにキシッキシッと音が鳴る。
もう大分古い家なんだと思う。
見かけは大きくてそこそこ立派だけど、もうあちこちガタがきている。
私は何年この家で過ごすのかなと思った。
- 13 名前:走る 投稿日:2003年05月29日(木)17時57分16秒
- 部屋に入るなり無造作にベッドに飛び込む。
布団の柔らかな感触を顔で確かめると、そのままごろんと仰向けになる。
ベッドは南の窓際に置かれていて、淡いピンク色のレースのカーテン越しに光が降りそそぐ。
手をかざすと指の隙間から光がきらきらとこぼれた。
人の数だけ、生活の数。
私の生活は…どうなるんだろ。
部屋の隅にはまだ整理されていないダンボール箱の山が重ねられていた。
- 14 名前:arkanoid 投稿日:2003年05月29日(木)18時06分34秒
- こんな感じで進めて行きます。
文章及び改行、要するに日本語全般、まだまだ勉強が足りなさ過ぎ…。
生ぬるく見守ってやってください。
誉めれば伸びる子ですから(w。
- 15 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時27分37秒
- 放課後の賑やかな喧騒をすり抜けて校門を出る。
学校から家までだいたい2キロの道のり。
急な坂も大きな交差点もない平坦な道。
自転車で通ったほうが当然早いのだけれど、私はなんとなく歩くようにしていた。
この道を歩くのも6回目。
行きも合わせると12回目か。
はじめは新鮮に見えた風景も慣れるとただの道路。
家と学校を結ぶだけのただの道路。
- 16 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時31分44秒
- 学校の周りはほとんど田んぼで、景色が広い。
等間隔に伸びている電信柱とそれらをつなぐ電線。
ずっとずっと遠くのほうにやっと建物が見える。
あそこらへんの建物は新興の住宅で、それらはどれも模型のように似たような形をしていた。
からっぽの風景。
そんな言葉が頭に浮かんで、私は東京の所狭しとひしめき合う人と建物を思い出す。
どっちがよいかなんて分からないけど、どちらも結局からっぽなんだ。
- 17 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時33分30秒
- カンカンカンカン……
踏切の警報機が鳴って、私は立ち止まった。
田んぼを突っ切るように長く延びている線路。
遮断機のバーが私の行く手を遮るようにゆっくりと下りてくる。
…今日も、ほとんど喋らなかったなぁ。
ぼんやりと学校のことが頭に浮かぶ。
ここらへんの高校はほとんどが地元の中学の出身者で、私は完全によそ者だ。
みんな慣れない高校生活で、同じ中学出身者で固まってしまうのも仕方ないと思う。
田舎は排他的だっていうし、と思いかけて変に都会人面した自分の考えにうんざりした。
…仕方のないことなんだ、と自分にもう一度言い聞かせる。
4両編成の電車が目の前を駆け抜けると、巻き起こった風に私の髪が揺れた。
- 18 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時39分11秒
- 「あさ美―、ちょっとー」
部屋に着いて制服を着替えようとしていたら、居間からおばあちゃんの声が響いた。
「なーにー?」
階段をとてとてと下りていくと、おばあちゃんは手に何かメモを持っていた。
「ちょっと、買い物に行ってきてくれないかい?」
「うーん、いいけど……」
「そうかい、じゃこれね」
そう言っておばあちゃんは財布から千円札を三枚取り出した。
「おばあちゃん、ちょっと多すぎるよ?」
「余ったのであさ美の好きなもの買ってきなさい。あさ美は昔っからお菓子とか甘いものが好きなんだから」
おばあちゃんは私の目をみて懐かしそうに笑った。
「……うん、ありがと」
私もつられて笑いそうになったけど、おばあちゃんみたいにうまく笑うことができず、
照れたような困ったような変な顔になってしまった。
- 19 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時41分01秒
- 買い物に行くために部屋に戻って制服から私服に着替える。
ジーパンにピンクのパーカー。
別に制服のままで行っても良いのだろうけど、まだ真新しい制服は不似合いなものを着ている気がしてどこか恥ずかしい。
制服をハンガーにかけながら、多分おばあちゃんは私に気を使ってくれたんだろうなと思った。
だって、おばあちゃんは歳に見合わないほど元気で、普段ならこんな買い物くらいぱぱっと車で行ってくるだろう。
それをわざわざ私に頼むのは、きっと私がこっちに来てから家と学校の往復しかしていないからだ。
夕方早くに学校から帰ってきて、どこに出かけるというわけでもない。
おとといの日曜日だって家から外に一歩も出なかった。
そんな私をなるべく自然に外に出すように。
おばあちゃんは、お母さんからどこまで私のことを聞いてるのかな。
- 20 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時44分42秒
- 買い物袋をぶら下げて川原の道を歩く。
家から駅前のスーパーに行くにはこの川原に沿って歩くのが一番分かりやすいと、おばあちゃんが地図を書いてくれた。
迷うようなところもほとんどなく、帰り道を歩く私は地図をポケットにしまったままだ。
余ったお金で買ったケーキが崩れないように丁寧に気をつけて歩いた。
ケーキは3つ買った。イチゴのショートケーキとチーズケーキとモンブラン。
モンブランは栗の好きなおばあちゃんので、残りの2つが私の分。
どちらにしようか迷った末に結局2つとも買ってしまった。
おばあちゃんはきっと、しょうがないねぇ、なんて言ってまた笑うのだろう。
日が西に傾いて、空も水も大地もオレンジ色に染まる。
私はちょうど太陽に向かって歩くようになっていて、背後には影が大きく伸びる。
ビニール袋がかさかさと小気味良い音を立てる。
この色は。思った。
この色は心の奥の部分に染み込んで変な気分にさせる。
終わっていく安堵感と、終わってしまう焦燥感。
- 21 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時55分29秒
- もともとそんなに人が歩いている街ではないけど、この川原は私以外の人がいなくてとても静かだった。
時折向こうの通りの道路を走る車の音が響くだけ。
立ち止まってオレンジの光がきらめく川を眺めていると幼い頃のおぼろげな記憶がよみがえる。
東京から遠く、またお母さんが忙しい人だったこともあって、
私が母方の実家のあるこの街に来た回数は片手で数えれる程度しかなかった。
そのうちの一回。私は7才だった。
家には知らない大人の人たちが沢山いて、その人たちは一様に黒っぽい服装をしていた。
そして私が気づいたこと。おばあちゃんの隣にいつもいたおじいちゃんがいない。
お母さんに、おじいちゃんはどこ?、と聞くと、少しの沈黙のあと押し殺したような声で、テンゴクよ、と答えた。
テンゴクという意味はよく分からなかったけど、驚いたのはお母さんがぽろぽろと涙を流していたこと。
お母さんが泣いてる姿をみたのはそれが初めてで、なんだか私も悲しくなって怖くなって、気づいたら走ってこの川原に来てた。
やけに青い空とその下でただ淡々と流れる澄んだ川をみて、なんとなくおじいちゃんにもう会えないんだと思った。
- 22 名前:走る 投稿日:2003年06月02日(月)02時58分59秒
- その時みた記憶の中の川と、今、目の前を流れる川のイメージが重なる。
この夕日の色のせいだ、きっと。
おじいちゃん、私、逃げてきちゃったよ。
私、居場所無かったんだよ。
この街には私の居場所あるかなぁ。
私はまばたきを何度も繰り返して、そして目を閉じた。
一瞬にも永遠にも感じられる時間。
「………っ…て――!」
遠くから聞こえる叫び声が私の思考と静寂を打ち破った。
- 23 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月02日(月)03時03分56秒
- 更新終了。
今回も反省点多いなぁ。
まったりとゆっくりとやらせていただきます。
- 24 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月08日(日)17時21分59秒
- いきなり耳に飛び込んできた叫び声に驚いて目をぱっと開けた。
え、何、何?
声のする方を目を凝らしてみると、遠くの方から何か物体が2つ、
小さいのと大きいのが縦に並んでこちらに向かってきているのが分かった。
何、あれ?
ちょうど逆光になっていて影になってしまっているが、どうやら後ろの大きな方の物体は…人間らしい。
「…………っって〜…!」
なにやら叫びながらこっちに向かって疾走している。
距離が縮まって私の存在に気づいたようで、今度は私に向かって叫び始めた。
「…めて…!とめて! とめて、とめて〜〜!」
?
状況が飲み込めずおたおたしていた私の足元を、瞬間、小さいほうの物体がすり抜けた。
四足歩行。ハッハッという息づかい。手綱をずるずると引きずったまま跳ねるように駆けていく。
「ああ゛〜………行っちゃった」
やや遅れて人間到着。私の前でよろよろと足を止めた。
この距離になってはじめて、私と同じくらいの女の子だと気づいた。
- 25 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月08日(日)17時23分41秒
- 膝に手をついてはぁはぁと息を切らせている彼女。
膝までのナイロンのパンツに腕まくりをした黒のウインドブレーカー、とても動きやすそうな格好。
左手の手首に巻かれたリストバンドがより健康的な印象を与える。
結構な距離を走ったのか、赤らんだ顔を多量の汗が伝い、後ろで結えられた髪もぼろぼろだ。
と、いきなりすくっと背筋を伸ばしてこちらを見ると、すっと右手を差し出す。
「ん」
…「ん」ってどういうこと?
理解できないでただ私が立ち尽くしていると、彼女はにこっと笑って、差し出した手をそのまま伸ばし私の手から買い物袋を奪った。
そして空いているほうの手で肩をつかまれ、くるんと体の向きを変えさせられる。
「私の替わりに…」
どん、と強く背中を押されて二三歩つんのめる私。
「追ってきて〜〜!」
- 26 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月08日(日)17時25分42秒
- なんで私、走ってるんだろう?
見知らぬ人の犬なんか追っかけて、しかも犬になんか追いつけるはずない。
でも、無理ですよ、と言おうと思って振り向いたら彼女が笑ってたから。
笑顔が、なんかすごかったから、何も言えなかった。
右足に力を込めて大地を蹴ると、一瞬左足が重力を失ったかのように軽くなる。
その左足を目一杯遠くへ、遠くへ踏み出す。
今度は左足で右足を前に運ぶ。
その繰り返し。
景色がすごいスピードで流れていく。
ああ、この感じ、久しぶりだ。
- 27 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月08日(日)17時28分36秒
- 中学校の狭いグラウンドを思い出す。
道路に面しているため周りを背の高い金網に囲まれたそのグランドは、まるで都会の閉塞感の象徴みたいな存在だった。
一周が400mにも満たないそのトラックを私はひたすらぐるぐる回ってた。
息が苦しくなっても足が痛くなってもそれでも走っていたかった。
走っている間は何も考えずに済んだから。
受け入れたくない現実に追いつかれないように必死に走った。
でも、あの日。
(あさ美、大事な話があるの…)
嫌だ。止めてよ。
(お母さんたちね……)
聞きたくないよ。知らないよ。
(どっちと一緒に…)
分からないよ!考えたくない!
――――――――――真っ暗な部屋―――――――――――――
- 28 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月08日(日)17時36分28秒
- ―――――
――――
―――
――
―
「うわぁ、あなた、すごい足速いねぇ」
私の買い物袋を下げた彼女がのんびりと歩いてきた。
土手の斜面に膝を抱えて座っている私はそれに答えない。
「陸上部か何か?びゅうっていってもうてなぁ」
彼女は独特のイントネーションで喋りつづける。
彼女の犬が私の周りをウロウロし続けていた。
「……違います」
やっとで出た声は鼻水交じりで震えていた。
「……泣いてるの?」
彼女が私の左隣に座って覗き込みながら尋ねる。
「……違います」
顔を右に逸らしながら答える。声はやっぱり震えている。
「……泣いてる」
彼女はその後何にも言わなかった。
私の隣で朱に染まる空をみてるだけ。
と、思い立ったように急に立ち上がってどこかへ行ってしまった。
一人取り残された私の顔を彼女の犬が覗き込むように見ている。
確かラブラドールレトリバーという種類だ。白と薄茶の短毛がよく手入れされていて綺麗だった。
犬は飼主に似るなんていうけど、確かに彼女そっくりの大きな目をしていた。
- 29 名前:走る 投稿日:2003年06月08日(日)17時43分36秒
- 二つの円筒を持って帰ってきた彼女。
「ほい」
緩やかな放物線の軌道。
少し汗をかいて水滴のついている青色の缶ジュースが私の手元に納まった。
そのまま再び私の隣に足を伸ばして無造作にドカッと座る。
「ありがとうね、ラブリー捕まえてくれて」
「いえ…」
別に私が走って追いついたわけじゃない。
道の脇に植えられた木の周りをぐるぐる回っているのをただ捕まえただけ。
「こいつすぐ逃げちゃうんだぁ。久しぶりの散歩で油断してもうたわぁ」
彼女はわしわしとラブリー、という名前らしい犬の頭を撫でた。
ラブリーはハッハッと舌を出して喜びを表現している。
「名前聞いてもいい?」
不意にこっちを見つめてそう聞かれ、なぜか胸の鼓動が高まった。
「あ、ええと…こ、紺野、あさ美…です」
ここ一週間で何度かしてきた緊張とは違う感じ。
なんだかとても大事なことを相手に伝えたみたいだった。
「紺野あさ美さん…。ほんっとにありがと。私はねぇ、愛、高橋愛。でもってこいつがラブリー。
私の名前の「愛」とラブラドールの「ラブ」をとってね、お母さんがつけてくれたんだぁ。」
- 30 名前:走る 投稿日:2003年06月08日(日)17時45分17秒
- タカハシアイ。
その名前を聞いて私はハッとした。
もしかしたら。
「…もしかして豊北高の人じゃないですか?」
「ああー、ほやねー。多分そういうことになってると思うわ。…ってなんで、紺野さん知ってんの?」
廊下側から二列目の最後尾の席。
いつもぽっかりと空いていたその席は、クラスの間ではすでに無いものとして扱われていた。
その席に座るべき人は入学式から一度も姿を現していなかったから。
「同じクラスです…多分。他に同姓同名の人がいなければ」
「ええーっ、ほんっとに?マジで?すごい、すごい偶然やねぇ!」
そういって高橋さんは私の手を握ってぶんぶんと思い切り振った。
ちょっと手が痛いくらいだったんだけど、やめてください、とはなんとなく言えずにされるがままにしておく。
「そーか、そーか、こういう事もあるんねぇ…」
ようやく手を離した高橋さんはまだ興奮冷めやらぬといった感じで呟いた。
- 31 名前:走る 投稿日:2003年06月08日(日)17時48分06秒
- 「あの…高橋さんは何で」
「ん?」
「何で学校に…」
言いかけて、私は慌てて口を噤んだ。
『何で学校に来ないんですか』
ちょっと前まで私に散々浴びせられた素敵な言葉。
受話器越しに響く女教師のその質問は私を容赦なく傷つけた。
相手を考えないその質問がどれだけ無力感と疎外感を刺激するか、身をもって知っていたはずだったのに。
「ああ、何で休んでいるかって?」
「いえ、いいんです。変なこと聞いて、ごめんなさい!」
「私、昨日帰ってきたばっかりだから」
高橋さんはけろっとした表情で答えた。
「…どちらかに行かれてたんですか?」
「…うん、まぁ、いろいろとね。指輪を捨てる旅とか」
そういってへらへらと笑っていたかと思ったら急にまじめな顔をして。
「…優しい子やね」
声が小さすぎて何を言ったのか分からなかった。
- 32 名前:走る 投稿日:2003年06月08日(日)17時50分06秒
- 「え?すいません、よく聞こえなかったんですけど…」
「ああ、いいの、いいの。そんなことよりも、私の事、愛でいいよ。私もあさ美ちゃんて呼ぶし。
なんせクラスメイトやからなぁ。ほら、呼んでみて、愛って」
「…あ、愛さん」
「んー、ぎこちない」
ラブリーの頭をなでながら苦笑する愛さん。
私もつられて、笑った。
なんだか自然に笑えた気がした。
「呼び捨てでいいよ…ってそれは無理か。じゃ、ちゃん、でええよ。愛ちゃんて。ほら。」
促されるままに口を動かす。
「あ、愛ちゃん」
「よくできましたー」
ふざけて、ラブリーにするのと同じように私の頭をなでる。
にっこりと微笑む愛ちゃんの顔がなんだかとても眩しく見えたのも、多分夕日のこの色のせいだ。
- 33 名前:走る 投稿日:2003年06月08日(日)17時51分54秒
- 今日初めて会ったばかりの私たちの間に会話はそんなに生まれなかった。
二人で並んで、なんとなく川を眺めてたり、空を見上げてみたり。
でもそんな空気が別に嫌じゃなかった。
とても自然な心地よい気持ちが胸に広がっていた。
「そろそろ行くわ、もう日も暮れかけてるし」
ぱんぱんと土をはらって愛ちゃんは立ち上がった。
確かに日が沈みかけて、東の空のほうは群青色に染まり始めている。
「明日から学校行くから。今度は教室で」
「…はい」
「じゃ、今日はほんとにありがと」
「いえ…」
斜面を走るように駆け上がっていく愛ちゃん。
川原の道まで上がったところでくるっと振り向いた。
「そうだ、言い忘れとった!」
距離をつなぐ大きな声で愛ちゃんが叫んで、何だろう、と思って目を合わせる。
一瞬、止まる、時間。そして。
「あさ美ちゃんの走る姿なぁ、めちゃくちゃ格好良かった!」
愛ちゃんははにかんだようににっこり笑うとすぐに踵を返して走っていってしまった。
- 34 名前:走る 投稿日:2003年06月08日(日)17時53分17秒
- しばらく愛ちゃんのいた場所を呆然と見つめていた。
ハシルスガタ…。カッコヨカッタ…。
はっ、と気づいていやいやとかぶりを振る。
私はもう走るのやめたんだ。
今日はたまたま、そう仕方ないよ。強引に走らされたんだ。
もう自分の意志では走らない。
おばあちゃん、待ってるかなと思いながら、ゆっくりと腰をあげる。
左手に買い物袋、右手に手綱を持って歩き出す。
ん、手綱?
………愛ちゃん、ラブリー忘れてます。
ラブリーが薄暗くなった空に一声、ワンと鳴いた。
- 35 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月08日(日)17時58分42秒
- 高紺発見(w
話も好きな感じなので楽しみです。
頑張ってください
- 36 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月08日(日)18時07分37秒
- 今回はここまでです。
この二人中心で行きますので、紺野、高橋推しの方はそれなりに楽しんでいただけるのではと。
地道にゆっくりと進めていきたいです。
- 37 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時12分17秒
- いつもより30分早く家を出た。
たったそれだけのことで見慣れた通学路の風景がだいぶ違って見えた。
30分前の太陽はいつもより強い光を放っているような気がしたし、30分前の空気はいつもより澄んでいるような気がした。
私が普段どおりの時刻に家を出ていたら目にすることの無かったモノたち。
30分前の人間はいつもより穏やかな気持ちになれるのだろうか。
- 38 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時13分53秒
- 私が30分早く家を出た理由。
朝の静寂に包まれた廊下を少しだけ緊張しながら歩く。
廊下にキュッキュッと私の上履きの音だけが響きわたる。
教室のドアの前に着いて、大きくひとつ深呼吸をした。
そしておそるおそるゆっくりとそのドアを開ける。
やっぱり、彼女はいた。
「あー、あさ美ちゃん!おはよう」
外を眺めていたのか、窓際に立っていた愛ちゃんがこちらを振り向いて大げさに手を振った。
昨日のスポーティーな格好から一転、制服姿の愛ちゃんはどこかのお嬢様みたいな雰囲気。
「あ…おはようございます」
多分ラブリーのことを心配して朝早くに教室にきてるんじゃないかと思った。
そしてその予想は的中。
カバンを机の上に置いて私も窓際に駆け寄った。
- 39 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時16分38秒
- 「あの」
「ん?」
…私は愛ちゃんが先に聞いてくるものだと思ったから、少し拍子抜けして言葉を続けた。
「…昨日、ラブリー忘れていきました」
「あ〜、そやった!昨日、家帰ってから気づいてなぁ。びっくりしたわぁ。
あさ美ちゃんの家分からんから迎えにも行けなかったし。で、今どうしてる?」
「一応、家の庭につないでおきました。おばあちゃんは驚いてたけど」
「そっかー、それは申し訳ない。…あのさ、あさ美ちゃん、今日放課後なんか予定ある?」
「いいえ、特に…」
予定なんかあるわけない。自嘲気味に思った。
「じゃ、いっしょに帰ろ?それでラブリーつれてくわ」
「ええ、いいですけど…」
なんとなく流れにまかせて返事してしまったけど、誰かと一緒に帰るというのは初めてのことだった。
- 40 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時18分03秒
- その後愛ちゃんは何を話すという事もなく黙って窓の外を見つめていた。
私も同じようにして外を見てみる。
春の柔らかな朝日の中、ぽつりぽつりと登校してくる生徒の姿。
校門から昇降口に続く道の脇に植えられているのは桜の木だが、北のこの大地は開花が遅く、
4月の中旬に入った今もまだつぼみのままだった。
横目でちらっと愛ちゃんをみると、目線は上のほう、光の入り混じった青い空を眺めていた。
その姿はどこか神々しくて、同性の私が言うのも変だけどとても絵になっていた。
愛ちゃんはとても綺麗な顔をしている。
- 41 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時19分52秒
- 「あさ美ちゃんの席そこ?」
突然振り返った愛ちゃんは私がバッグを置いた席を指差しながら尋ねた。
「ええ。今はまだ出席番号順ですけど、多分近いうちに席替えをすると思います」
「…私の席どこ?」
そのとぼけた質問とさっきの空を眺める姿のギャップにちょっと笑ってしまう。
「ええと、私の列の一番後ろです。教卓に座席表があると思いますけど」
「今、笑ったやろ」
そういう愛ちゃんも笑ってた。
「…すいません」
なんだか少し通じ合った気がした。
先生に挨拶に行くといって、愛ちゃんはぱたぱたと職員室へ駆けて行った。
私は再び窓に体を向け、今度は空を眺めてみる。
小さな雲がゆっくりと空を散歩していた。
愛ちゃんは何を見ていたのかな。
- 42 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時27分18秒
- 4時間目の終わりのチャイムが鳴ると教室の空気が一気に緩んだ。
入学式から10日間学校に来ていなかった愛ちゃんがいきなり教室にいたことに、最初は戸惑い気味だったクラスメイトもなんとなくその存在を受け入れ始めていた。
かといって話し掛けるようなこともなかったけど。
さてお昼ご飯。愛ちゃんはどうするんだろうと思って一番後ろの席に目をやると、視線がぶつかった。
愛ちゃんが席を立って、来て、という風に手招きしたので、私はお弁当箱を持って着いていった。
「私、いい場所知ってる」
- 43 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時29分43秒
- 愛ちゃんに連れられてきた場所は、3階のすみっこのほうにある美術室…の奥の美術準備室…のさらに奥のドアから行けるベランダだった。
準備室を通らなければいけないのでこの場所の存在を知っている生徒は少ないと思う。
私も美術室には授業で一度来たが、奥にベランダがあるなんて気づかなかった。
なんで愛ちゃんがこんな場所を知っているんだろうという疑問は当然頭に浮かんだが、なんとなく聞けなかった。
「ね、いい場所でしょ?」
格子状の鉄柵のすきまから覗く、どこまでも続くような田園風景。
Vの字型の隊列を組んだ鳥が4月の春の空を軽やかにに横断していく。
確かに絶好のお弁当ポイントだと思った。
きっと教室で1人で食べるより何倍も美味しいに違いない。
手すりに体を預けて身を乗り出すと、爽やかな風が私の髪をなでた。
- 44 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時36分30秒
- さて食べようと思ってちょうど段差になっているところに腰掛けようとして、ふと気づいた。
「お弁当じゃ…ないんですか?」
「ああ、家、お母さん、朝忙しいから」
愛ちゃんがお弁当袋から取り出したのはビニール袋に包まれた菓子パンとペットボトルの紅茶。
少し切なそうに遠くをみつめた愛ちゃんをみて、そして手元にあるおばあちゃんの作ってくれたお弁当をみて、
私はなんともいえない気持ちになる。
私の母も忙しい人だった。俗っぽい言葉を使うと、“超”忙しい人。
小、中と普段は給食が出るから良かったものの、例えば遠足とか部活とか。
私は母の作ったお弁当を食べたことがなかった。
きっと東京の高校に進学していたら、私もコンビニとか購買とかでお昼を済ませていただろう。
愛ちゃんに自分の姿を重ねると、手元にあるお弁当箱が少し重くなった気がした。
- 45 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時37分54秒
- 「でも、お母さん、すっごい優しいの。毎日沢山お喋りしたり。
仕事お休みの日は買い物とかいっしょに行って、欲しいもの買ってもらったりするんよ。」
愛ちゃんは私の表情を読みとったのか、そんなふうにお母さんのことを話した。
また失礼なことを聞いてしまったと後悔していた私は、それを聞いて少し安心した。
愛ちゃんはお母さんと仲がよいみたいで、お母さんのことを話す愛ちゃんはとても生き生きしている。
私がお母さんのことを考えるときはどんな顔をしているのだろうか。
- 46 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時40分14秒
- お昼の話題はお互いの出身地。
私が東京から来たことを伝えると、愛ちゃんは「有名人に会ったことある?」と、いかにもな質問をして、私は笑いながら「ないです、そんなの」と答えた。
愛ちゃんは小学校に上がるまで福井にいたそうだ。
福井、と聞いて私は正確な位置を思い浮かべることができなかったけど、その響きはなんだか優しく感じられた。
トウキョウ、より、フクイ。
うん、なんだか優しい感じ。
福井という、おおよそ今までの私の人生の中で関係の無かった県が、一気に身近になった気がした。
この街に来てからもお母さんが訛ったままだから、私まで訛りが抜けなくて困る、と話していた。
困る、と言っている愛ちゃんは笑ってたけど。
- 47 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時42分35秒
- 「あ〜、やっぱりここにいた」
声が私たちの斜め後からして、振り返る。
美術準備室の窓から飯田先生が顔をひょっこりと覗かせていた。
ハロー、と手を振ってはしゃいでみせる飯田先生。
私は、飯田先生の姿を確認した途端に、愛ちゃんの表情が曇ったのが気になった。
「お、紺野もいるのかー。そっか、そっか、さっそく友達になったかー。いいねー、いいねー」
ドアを開けてベランダに出てきた飯田先生が、呑気な声を上げながら私たちの横に腰をおろす。
愛ちゃんは先生の方を見ようとせず、コンクリートのベランダの床に視線を落としたままだった。
愛ちゃんの様子が明らかにおかしい。
- 48 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時44分54秒
- 「どう、学校は?」
「別に。なんも変わらん」
愛ちゃんは飯田先生の顔を見ずに、ぶっきらぼうに答えた。
先生も別にそんなことは気にしていないように微笑を浮かべている。
知り合い…なのかな。
「高橋、お昼ご飯、パンだけでしょ。圭織のお弁当半分食べない?
ちょっと休み時間にお菓子食べすぎちゃってさぁ、お腹一杯なんだよね」
「いい。いらん」
愛ちゃんはまた飯田先生の顔を見ずに、差し出されたお弁当にも目を向けず、答える。
「これで」
残っていたパンを一気に口の中にほおばった。
「お腹一杯」
- 49 名前:走る 投稿日:2003年06月12日(木)05時59分06秒
- 「もう、教室戻る」
愛ちゃんはそう言うなり、飯田先生を無視してさっさとベランダから出て行ってしまった。
先生のほうも高橋を無理に止めようとせず、目で追うことすらしなかった。
私は慌ててお弁当をしまって、愛ちゃんを追いかけようとする。
「紺野」
ベランダのドアを開けかけた時、飯田先生の声が届いて私は足を止めた。
先生はやはりこちらを見ずに、ベランダの外の景色に目を向けたまま、言った。
「…高橋をよろしくね」
「…はい」
何をどうよろしくなのか、よく分からなかったけど返事をしてしまった。
飯田先生の声は淡々としていたけど、普段の先生とは違う、とても強い意志のこもった声だったから。
先生の寂しそうな横顔をかすめて、私はベランダを後にした。
- 50 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月12日(木)06時32分57秒
- 更新終了です。
文章表現、難しい…。読者様に伝わってるかすごい不安。
書き続けていれば上達するものと信じて、無理やり話を進めてます。
訂正
49 先生のほうも高橋を無理に止めようとせず→先生のほうも愛ちゃんを無理に止めようとせず
やっちまいました…。更新する直前に手直しするときは危険ですね。
他にも直したい個所はたくさんあるんですけどね。
>35さん
初レス、ありがとうございます!レス無しでも地道にやり続けようとは思ってたんですが、
やはり読んでくださる方がいるというのは励みになります。気が向いたらまたレス下さい。
- 51 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月15日(日)22時18分43秒
- 高橋の態度、気になる…
更新楽しみにしてます。
- 52 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時39分16秒
- 「ただいまー」
「おじゃましまーす」
「あら?あらあら。いらっしゃい。あさ美、お友達?」
ラブリーの毛づくろいをしていたおばあちゃんは私たちをみるなり、興味津々に聞いてきた。
うーん。お友達…なんだろうな、多分。
「うん、っていうか、そのコの飼主」
「高橋愛といいます!ラブリーが一晩お世話になって申し訳ありませんでした!」
少し甲高い、緊張した声でそういった愛ちゃんは深々と頭を下げた。
長い髪がさらりと垂れる。
「あら、そう!このコあんまり可愛いから、なんだったら家で飼っちゃってもいいかな、なんて思ってたのよ」
おばあちゃんの冗談に、愛ちゃんは顔を上げて困ったように笑う。
ラブリーはご主人様に気づいて、舌をハッハッと出して辺りをぐるぐる回ったり、尻尾をぶんぶん振っていた。
- 53 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時41分26秒
- 愛ちゃんは制服に毛がつくのもかまわずにラブリーをしっかりと胸に抱きこむ。
まるで迷子の子供を見つけた母親のように。
「ごめんなー。ほんとにごめんなー。」
短い毛に顔をうずめて懸命に体をなでる愛ちゃんをみて、ほんとにラブリーのことが好きなんだなと思った。
「…もう忘れちゃだめですよ」
迷子センターの係員の気分で、少しだけいたずらっぽく愛ちゃんに言った。
「うん、分かってる。ほんとにありがと」
もう一度深く頭を下げると、やっぱり髪が長く垂れた。
「あさ美、ほら、お友達に上がってもらいなさいよ」
おばあちゃんの言葉に、私たちは、どうする?、といった風に顔を見合わせる。
「…上がっていきますか?」
「…じゃ、ちょっとだけおじゃましていこうかなぁ。というわけでラブリー、もうちょっとだけ待っててな」
頭をぽんぽんと叩かれたラブリーが、クゥーンとのどを鳴らした。
- 54 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時42分38秒
- 「へぇー、これがあさ美ちゃんの部屋かぁ」
もの珍しそうに私の部屋を眺める愛ちゃん。
変なとこ…ないよね。だいたい片付いてるとは思うけど。
私もぐるっと見回してみる。
うん、大丈夫。
なにせおばあちゃんと引越し屋さん以外の人が入るのは初めてのこと。
恥ずかしいような、くすぐったいような気持ちがして、落ち着かない。
「今、飲み物持ってきますね」
おかまいなく、と決まりきった言葉をいう愛ちゃんがなんだか可笑しくて顔が緩む。
そのことを悟られないようにいそいそと部屋を出て行った。
- 55 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時45分25秒
- 私が普段使うのと、お客様用のと、グラスを2つ並べて、なるべく同じ量に近づくようにオレンジジュースを注いでいく。
濃いオレンジが透明なグラスを満たすと、表面がゆらゆらと波立った。
2つのグラス、2人の帰り道。
帰り道、飯田先生との関係は結局聞かなかった。
それに美術準備室の奥にベランダがあるのを知っていたことも。
下校するときにはもうすっかりいつもの愛ちゃんで、昼間のことなんか全然気にしてないみたいで。
もうすっかり暖かいね、とか、寒いのは嫌だよね、とか、当り障りのないことしか話せなかった。
聞かないのか、聞けないのか。
…多分後者だ。
本当は知りたいんだ。
飯田先生とはどんな関係なのか。
どうしてあんな態度をとるのか。
どうしてあんなベランダがあることを知っているのか。
…どうして学校休んでいたのか。
でも聞けない。
臆病なんだ、私は。
深く、人に入っていく方法を私は知らない。
今はこのままでいい。今はこのままがいい。
聞かないほうが、きっといい。
お盆に二つのグラスとお皿にもったクッキーをのせて運んだ。
階段に足をかけると、やはりキシキシと音が鳴った。
- 56 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時47分36秒
- 愛ちゃんは部屋のベッドにちょこんと腰掛けていた。
てっきり部屋の中をあちこち物色されていると思っていた私は少し安心して、お盆を脚の短いテーブルの上に置いた。
「すいません。特に面白いものも無くて…」
「ん、いいよ。それにさ、人の家に来るのってそれだけで面白いよ。
部屋みてるだけで、なんかいろいろな人生があるんだなぁって思う」
なんとなく分かる。
例えば、夜に一人で歩いているときの人の家の灯り。
私とは違う生活がそこにある。
違う灯り、違う生活、違う人生。
それはなんだかとても明るくて、幸せそうで、羨ましくて。
少しだけ覗いてみたい衝動に駆られる。
私の部屋の灯りは他人にはどう映っているのだろうか。
- 57 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時49分08秒
- 愛ちゃんは本棚から漫画本を一冊抜き出して、これ読んでいい?、と聞いた。
私が、どうぞ、と答えると、その後の巻も4冊抜き出した。
一番巻数が若いのを手にとって、残りはテーブルの上において、愛ちゃんはまたベッドの上にちょこんと座って漫画を読み始めた。
そんなに深刻な内容の漫画でもないのに愛ちゃんはとても真剣な顔つきで、それが少し可笑しかった。
私もテーブルから一番後の巻を手にとって、ぱらぱらとページをめくる。
一度読んでいるから、内容はほとんど覚えていた。
ふいに窓の外に目をやると、電線が風に揺れているのがみえた。
空に電線。
電気みたいに私の考えてることも伝われば楽なんだけどなぁ。
- 58 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時52分56秒
- 愛ちゃんは、真剣に、黙々と漫画を読みつづけた。
読むのが遅いみたいで…良く言えば、丁寧に熟読するみたいで、結構な時間がたったのにまだ2冊目の始めのほうを読んでいる。
窓から差し込む光が傾いて部屋が若干薄暗くなったことに気づいて、私は電気をつけようと立ち上がった。
その時、愛ちゃんが読んでいた本をパタンと閉じて、私の方をみた。
愛ちゃん越しにみえる窓の外の空は、赤かった。
「…あの、別に見るつもりじゃなかったんだけど」
愛ちゃんは語尾を濁し、言いづらそうにした。
「…何ですか?」
愛ちゃんは部屋の隅に置かれているダンボールに目をチラリとやって、気まずそうに私を見る。
開き具合が今朝に比べ大きくなっているのに気づき、私は、しまった、と思った。
- 59 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時55分19秒
- 「陸上部、やったんやね」
ダンボール箱の中には、陸上用のスパイクと賞状、それに写真。
向こうの家に置いてくるはずが、間違えてもってきてしまったもの。
こんなことならさっさと送り返しておくべきだった。
自分の行動の遅さを後悔しつつ、それを悟られないように表情をつくった。
「なんか賞状、沢山あったよ」
「ええ、そうだったんです。もう毎日走ってばっかりで。嫌になって辞めちゃいました」
無理に言葉を並べる。
うまく表情をつくれてるだろうか。うまく話せているだろうか。
愛ちゃんの顔がちょうど影になっていてよくみえない。
私はどんな顔をしている?
- 60 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時57分11秒
- 「…そう、辞めちゃったんだ」
残念だなぁ、と呟いて言葉を続けた。
「昨日、あさ美ちゃんの走ってるのみて、すごく綺麗だなぁって思った。
なんか、他の人とは違う感じで。脚に羽がついてるみたいに走ってたよ」
胸がちくちくと痛む。
そんなこと言わないでほしい。
もう走りたくないんだ。
部屋が、暗い。
空が、赤い。
「陸上部に入ればいいのに…」
「…もういいんです。もう疲れちゃいました」
そう、と呟いた愛ちゃんはまた手元の漫画を広げて読み始めた。
部屋の電気をつけると蛍光の明かりが白々しく辺りを照らす。
私も同じようにして読みかけのところから読み始めたけど、絵も内容も頭を通り抜けていく。
ただページをめくるだけの作業を淡々と続けた。
- 61 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)03時58分33秒
- 外がすっかり暗くなってワン、ワンとラブリーの吠える声が2階の私の部屋にも届いた。
「あらら…ちょっと待たせすぎちゃったみたい」
愛ちゃんは漫画をパタンと閉じて帰り支度をはじめた。
ホッとしてる自分と、寂しく感じている自分。
「あ、そうだ。携帯の番号教えて?」
愛ちゃんからそういう言葉が出てくるのが、なぜか少し以外に感じた。
愛ちゃんは私にとって、夢のような存在というか現実離れした存在というか。
それは唐突な出会い方であったり、時折みせる不思議な雰囲気であったりするんだけど。
そういう感じと、携帯の番号を交換すると言う極めて現実的な行為が違和感を起こす。
ねぇ?、と愛ちゃんに促されて、私は我に帰って、自分の番号を告げた。
間をおかずに携帯の液晶に映し出される11桁の数字。
私の携帯のアドレス帳の数が久しぶりに増えた。
- 62 名前:走る 投稿日:2003年06月16日(月)04時00分05秒
- 愛ちゃんの家は学校からみて私の家とだいたい同じ方角で、そんなには遠くないらしい。
じゃあね、と言ってラブリーに引っ張られていくように帰っていった。
その背中を見送ったあと、私は自分の部屋の明かりを見つめる。
本当はとても明るいはずの白色の光が、なんだか少し寂しく見えた。
私は愛ちゃんのことを知らないし、愛ちゃんも私のことを知らない。
お互い、大事なことを多分知らない。
電気でも電波でも、空気でも風でも、なんでもいいから伝えてくれればいいのに。
もう一度自分の部屋の明かりを見てから、私は玄関へと飛び石を渡った。
- 63 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月16日(月)04時14分45秒
- 更新終了です。
なんだかやや重な感じになってしまいました。
風板らしく爽やかなのを書きたいんですけど…。
>51さん
レスありがとうございます。飯田との関係は後々ということで。
今は紺野さんの成長を見守ってやってください。
- 64 名前:悠希 投稿日:2003年06月22日(日)08時32分37秒
- 高紺だー!!
高紺大好きなんですよ。ちょっと見つけたとき感動しました。
(そのわりに小川さん中心の小説書いてますが。。。w)
すごいですね。ちょっとした描写がとても上手で、情景がすごく伝わってきます。
それに他のメンバーだと合わないような設定で、キャラを創るのも、メンバーを選ぶのも上手で感心しました。
(どこの先生だよ。w)
では、頑張ってください。更新待ってます。
- 65 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時05分26秒
- ◇
ベッドに横になって携帯の液晶を眺めていた。
くるくるとジョグダイヤルをまわして、ある画面でぴたりと手を止める。
ディスプレイの表示には、「高橋愛」。
…かけてみようかな。
なんとなく少し気まずいまま別れてしまったのが、気になっていた。
でも特に用事があるわけでもない。
きっとすぐに何を話したらよいか分からなくなる。
電源ボタンを押して待ち受けの画面に戻しては、また愛ちゃんの番号をみている。
その繰り返しをしばらく続けていた。
- 66 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時07分10秒
- 突然携帯が震えて、着信音がけたたましく鳴り響く。
電話が鳴るのはいつも唐突だけど、手に持っていた分余計に驚いて、思わす体を起こしてしまった。
一瞬、もしかしたら、と期待したけど、着信の表示をみてそれはため息に変わる。
通話のボタンを押すのを、一瞬ためらって、やっぱり押した。
「…もしもし」
「…――――、…―――?」
「…うん、久しぶり…だね…」
「……―――――――?」
「…うん、元気。おばあちゃんも元気だよ。…そっちは?」
「―――――――――――――――。…―――――――――――――?」
「…うん、大丈夫、ちゃんと学校も行ってるよ」
「…………………」
「…………………」
「…………………」
「……もう、切るよ?」
「…………―――――」
「うん、じゃあね」
- 67 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時09分16秒
- 通話ボタンを押して電話を切ると、無造作に携帯を放った。
ぽふっとベッドに携帯が収まるのみていたら、訳の分からない感情が心に湧きあがる。
怒りなのか、悲しみなのか、諦めなのか。
お母さんとうまく話せない。何を話したらいいか分からない。お父さんとだってそうだ。
いつからこうなんだろう。
気づいたら私は必要最低限のことしか、家族に伝えないようになっていた。
いつしか、それでもいいやって思うようになってた。
そう、それでもいいんだ。いいはずなんだ。
じゃあ、今、なんでこんなやるせない気持ちになってるんだろう?
胸のごちゃごちゃを抱え込んだまま、私の体も携帯みたいにベッドに投げ出す。
柔らかな感触が私を包んでくれた。
ベッドはいつだって、優しい。
優しすぎて、離れたく無くなる程。
- 68 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時10分40秒
◇
理科室には無機質な空気が広がっている。
真っ黒な机の上に透明な試験管と、触れるとすぐに壊れてしまいそうなプレパラート。
顕微鏡の黒と銀のボディが鈍い輝きを放つ。
白い流しの蛇口には緑色のゴムホースのようなものが取り付けられている。
生物の授業のはずなのに、「生」の雰囲気が少しも感じられない。
窓の外に揺れる、午後の鮮やかな緑の木々たちが、この教室の不思議な空気を際立たせていた。
静かな教室に、チョークが黒板をはねるカッカッという音が響き渡る。
私はノートを取る手をふっと止めて、愛ちゃんの方にこっそりと目を向けてみた。
愛ちゃんは何も入っていない空の試験管を真剣にじっと見ていた。
何にも入っていないのに。ただじっと見ていた。
愛ちゃんが、そこにいるはずなのに、そこにいない気がした。
同じ教室にいるのに、愛ちゃんだけ違う世界にいるみたいな感覚。
- 69 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時11分50秒
- 「…さっき何見てたんですか?」
終業のベルが鳴り、先ほどまでの静寂から解き放たれたかのようにざわめき立つ教室。
「…さっきって?」
「試験管、見てたじゃないですか」
「あぁ、いや、別に」
「なんか、すごい、真剣に見てましたよ」
「早く授業終わらんかなぁって思ってただけやよ」
「…そうですか」
なんだかはぐらかされた感じがして、少しだけ疎外感を覚える。
「それより、早く教室戻らんと。次、何だっけ?」
「世界史です…飯田先生の」
飯田先生、と聞いて愛ちゃんの表情が一瞬止まった気がしたけど、すぐに「じゃ、早く行こ」と言葉を続けた。
- 70 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時14分31秒
- 高校生活ももう3週間目。
授業もイントロダクションからより本格的な内容に入ってきて、私たち新入生も各授業の雰囲気のようなものを掴み始めていた。
飯田先生の世界史は面白いと人気があって、実際私も好きな授業の1つだった。
フランクな口調から語られる歴史の話は、まるでその場に居合わせていたかのように想像力を掻きたてられる。
でも。
廊下を並んで歩く愛ちゃんの横顔を見る。
愛ちゃんは飯田先生の授業をどんな顔で聞いているのだろうか。
私の席からはその様子を伺うことはできない。
一体どんな気持ちで。
ねぇ…
「…愛ちゃん!」
その声を発したのは私ではなかった。
甘ったるくて甲高い声が私たちの背後から響いた。
振り返ると、廊下の端の方、私たちと同じ制服の女の子が驚いた表情でこっちを見ていた。
私たちの学校は上履きのラインのカラーで学年分けがされていて、私たち一年生はブルー、
2年生はレッド、3年生はグリーンのラインがそれぞれ入っている。
彼女のシューズには赤いラインが入っていた。
- 71 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時16分37秒
- 「亜弥ちゃん…」
走って駆け寄ってきた彼女を見て、そう呟いた愛ちゃんの顔にはみるみるうちに動揺の色が浮かぶ。
心なしか体が少し、震えている。
“亜弥ちゃん”と呼ばれた彼女が私たちの前に立つと、愛ちゃんは俯いて廊下の緑色の床を見つめた。
2人の間に重い空気が流れていて、私はその空間から締めだされてしまう。
私は見えない透明な壁の外に立たされる。
それはさっき生物で使ったのより何百倍も丈夫なプレパラート。
遠くから聞こえる、休み時間の生徒たちのはしゃぐ声が白々しく響いた。
「久しぶり…だね」
沈黙の空気からおそるおそる放たれた彼女の声に、愛ちゃんは反応しなかった。
「…もういいの?」
…うん、とかすかに、ほんとうにかすかに頷いた愛ちゃんの目はどこも見ていない。
- 72 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時17分55秒
- 2人の関係を私は知らない。
一体何のことを話しているのか私には分からない。
けど今の愛ちゃんの表情は前に一度見たことがある。
前に飯田先生がベランダに来たとき。
あの時の愛ちゃんも、どこも見ずに虚ろな表情を浮かべていた。
愛ちゃんが愛ちゃんでなくなる時。
私は何ができる?
愛ちゃんの体が震えている。
フルエテイル。
- 73 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時19分05秒
- 「あ、あの!」
考えるより先に声が出た。
思考より体が反応するなんて初めてで、私はこの後に続く言葉を探す。
“亜弥ちゃん”が私を不思議そうに見つめていた。
愛ちゃんは相変わらず視線を落としたままだった。
「あ、あの…あのですね」
言葉が出ない。
何も出ない。
手に汗がにじむ。
何かしなきゃと思った。
何も出来なかった。
「あっ」
愛ちゃんがくるっと振り返って逃げるように駆け出していってしまった。
私は一瞬“亜弥ちゃん”の方を見てから、愛ちゃんを追った。
“亜弥ちゃん”もいつかの飯田先生と同じ寂しそうな目をしていた。
- 74 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時20分08秒
- 追いながら、思った。
私は何がしたかったんだ?
…私は愛ちゃんを守りたかったんだ。
何から守るのか、よく分からないけど、とにかく。
だから悔しいんだ。
私は何もできなかったから。
壊せなかったプレパラート。
6時限の始業のベルが廊下に空しく響いた。
- 75 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時23分00秒
◇
私と愛ちゃんは川原に来ていた。
愛ちゃんの手にはしっかりとラブリーの手綱が握られている。
私と愛ちゃんが初めて出会った川原。
「今日、いっしょにラブリーの散歩しない?」
放課後、愛ちゃんはすっかり元の表情を取り戻していた。
そう誘われた私は、勿論断る理由も無く首を縦に振った。
制服のままじゃ動きづらいからと、一度家に帰って着替えてきた愛ちゃん。
初めて会った時とほとんど同じ格好。
手首に捲かれたリストバンドと、首にかけられたタオルは黒で統一されている。
私も動きやすいように、白のラインパンツを履いた。
散歩の途中、何度か手綱を持たせてもらったけど、うまくラブリーと歩調を合わすことができなかった。
ラブリーは突然進行方向を変えたりするので、綱に足がかかって私は何度も転びそうになって、その度に愛ちゃんは声を出して笑った。
無邪気な笑顔。
その笑顔につられるように、照れ隠しの意味もこめて、私も自然に頬が緩む。
愛ちゃんが手綱をもつと、さすがご主人様らしく、しっかりとラブリーの動きに合わせて歩いてた。
- 76 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時25分04秒
- 「ねぇ、“時の旅人”っていう歌、知ってる?」
川原の斜面に座って休憩している時に、愛ちゃんが唐突に聞いてきた。
愛ちゃんは私の左隣に座っている。
初めて会った時とおんなじ並び。
あの日、私が泣いていたことについて、愛ちゃんは何も聞いてこない。
「“時の旅人”…ですか?ちょっと…分からないです」
「めぐる、めぐる、風ー♪…っての」
「…ごめんなさい。分からないです」
「そっか…。あ、じゃあさ、私、歌ってみるから聞いててよ!」
愛ちゃんは正面を向いて、少し目線を上に向けて、静かに歌い始めた。
まるで遠くに浮かぶ小さな雲に向けて歌うように。
- 77 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時27分03秒
めぐるめぐる風 めぐる思いに乗って
懐かしい日々に会いに行こう
めぐるめぐる風 めぐる思いに乗って
ぼくらは 時の 時の旅人
愛ちゃんの声はとても伸びやかで綺麗だった。
歌は、夕暮れの風に乗って静かな川原にどこまでも広がっていく。
私は目を閉じて、その声に耳を澄ませる。
優しい雨に打たれ緑がよみがえるように
涙のあとにはいつも君が
そばにいて生きる喜び教えてくれた
―――――
――――
―――
――
―
- 78 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時28分53秒
- 「僕らはぁー旅人ぉ―、ララーラー、ララーラー、ラーラー…ってな感じなんだけど」
初めて聴く曲だったけど、とても懐かしい感じがした。
閉じていた目をゆっくり開いて、私は手をパチパチと叩いた。
「…いい歌ですね」
「うん、小さい頃にお母さんが教えてくれたんよ。お母さんがピアノ弾いて、私が歌って。
ほんとは合唱曲だから、あさ美ちゃんも知ってたらいっしょに歌おうかなって」
「そうですか…。すいません、知らなくて」
「ううん、今度いっしょに練習しよ?」
「…はい、私、歌はあんまり得意じゃないんですけど。…愛ちゃんは、歌、好きなんですか?」
「うん。ちっちゃな時からね、ずっと歌ってた。お母さんが歌好きだからかなぁ。
その中でもね、この“時の旅人”大好きなの。悲しいときとか、落ち込んだときとか、よく歌うんだ」
- 79 名前:走る 投稿日:2003年06月25日(水)03時30分25秒
- 悲しいとき、というフレーズを聞いて、私は今日学校で会った“亜弥ちゃん”の顔が浮かんだ。
彼女は愛ちゃんを悲しくさせる存在なのだろうか。
それとも飯田先生が?
でも愛ちゃんに出会った“亜弥ちゃん”も飯田先生も、どちらも悲しそうな表情をしていた。
愛ちゃんも、“亜弥ちゃん”も、飯田先生もみんな悲しそうだった。
じゃ、その悲しさもこの歌に乗ってどこかに飛んでゆけばいいのに、と思った。
「この歌、昔の思い出に会いにいってもいいよって歌なの。
―――うん。だから、時の旅人」
トキノタビビト。
愛ちゃんはもう一度、静かに呟いた。
- 80 名前:arkanoid 投稿日:2003年06月25日(水)03時53分15秒
- なんとか更新…。
密かに目指していた週一更新が早くも崩れました。
目標下方修正。1.5週間に一回更新を目標にします。
こうやって妥協に妥協を重ねて人間どんどんダメになっていくんだろうな(w
>悠希さん
レスありがとうございます!
黄板の方、読ませてレスまでつけさせて頂きました。
感心されちゃったので(w、調子にのって頑張りたいです。
- 81 名前:悠希 投稿日:2003年06月26日(木)16時37分43秒
- おっ!『時の旅人』だ。1つ上の先輩が卒業式の時唄ってましたよ。私じゃないですけど。w
ところで、愛ちゃんに亜弥ちゃんと飯田先生・・・いったい何があったんだ!?
気になってしょうがない。。。arkanoidさんの書き方が上手いせいですね。w
>こうやって妥協に妥協を重ねて人間どんどんダメになっていくんだろうな(w
いやいや・・・まず私は目標なしで生きてますから。w
不定期に更新してますし。。。w
宣伝になっちゃうんですけど、『学ホス』(無意味に略してみたりw)で今アンケートをとってるんですよ。
もし良かったら応えていただけたらな・・・と。w
更新待ってます。
- 82 名前:悠希 投稿日:2003年06月26日(木)16時47分35秒
- すみません。あげてしまった。。。
作者さんがsageで更新されてるのに・・・(汗)
ところでSAGAとSAGEって似てますね。w
すみません。あほで。。。w
- 83 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)03時49分34秒
◇
朝からの雨がまだ降り続いていた。
登校時はしとしとと静かな雨だったのに、お昼頃にその勢いを増し、帰る頃にはざぁざぁと音を立てるほど強いものになった。
本日の学業から開放された生徒たちは色とりどりの傘の花を咲かせ、家路を急ぐ。
この雨で屋外の部活動は休みになったんだろう、その花の数は普段よりも多く感じた。
私も白い花を一つ咲かせて、雨に濡れたアスファルトを一人で歩いた。
一人で。
私の隣を歩く人はいない。
いつもは真っ直ぐ進む交差点を、右に曲がった。
あの人の家に向かうため。
今日、愛ちゃんは学校を休んだ。
朝のHRで飯田先生は、高橋は風邪でお休みです、と機械的な口調で言った。
それを聞いて心配になるようなクラスメイトもいない。
まるで入学した頃、愛ちゃんが学校に来ていなかった時に戻ったようだった。
ぽっかりと空いた席は、慌ただしく過ぎる学校の一日とはまるで無関係の空気を放っていた。
お昼に電話をかけてみたけどコール音が繰り返されるだけ。
じゃあ。
行ってみよう。
入学した頃と違うこと。
私は愛ちゃんの存在を知っている。
- 84 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)03時51分37秒
- この間、ラブリーの散歩から帰るときに教えてもらった家の前に立つ。
お城みたいな石造りの背の高い塀に囲まれた大きな2階建ての家。
格子状になっている門の隙間からは緑に溢れた庭が見える。
雨にしっとりと濡れた葉が雫を垂らしていた。
住宅街の中にあるにもかかわらず辺りに人がいないのはこの雨のせいだろうか。
愛ちゃんの家の中からも人気が感じられない。
そういえば前にお母さんは忙しい人だと言っていた。
仕事に行っているのかもしれない、と思いながら、私は門の横につけられているインターホンをゆっくりと押した。
雨音の中に、ピンポーン、と家の外観とはちょっと似合わないごく普通の呼び出し音が溶ける。
しかし再び訪れる雨音の世界。
何も反応がなかった。
もう一度、インターホンを押してみる。
ピンポーン。
相変わらずの音が鳴っても、やはり返事はなかった。
愛ちゃん、眠っているのかな。
家族の人もいないみたいだし。
迷惑になってもいけないと思って、帰ろうとしたその時、スピーカーから聞き慣れた声がした。
- 85 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)03時56分10秒
- 「……誰…です…か?」
「…愛ちゃん?…私、あさ美です」
聞き慣れたはずのその声は。途切れ途切れで、とても暗く低く、消えてしまいそう。
相当具合が悪いのか。それとも。
「…あさ美…ちゃん?」
「…うん、今日学校休んでたから。大丈夫かなって」
愛ちゃんは何も答えなかった。
沈黙の空気。
雨粒の傘を叩く音だけが私の耳にやけに響いてまとわりつく。
じわじわと水に染みてきた靴下の感触が気持ち悪い。
沈黙に耐えきれなくなっておそるおそる声を絞った。
「…愛ちゃん?」
「…ごめん、帰って」
その言葉の直後、ブツッと無機質な音がして、私と愛ちゃん繋いでいた通信が遮断された。
- 86 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)03時59分14秒
- えっ。
一瞬、何が起きたのか分からず呆けてしまう。
「…愛ちゃん?…愛ちゃん?」
ハッと気づいて、慌てて呼びかけてみてもスピーカーの向こうから返答は何もない。
“ごめん、帰って”
“帰って”
その言葉が頭の中で何度も繰り返し再生されたが、私はその意味をうまく呑みこめない。
帰って。帰って。帰って。
その言葉の音は認識しているが、頭の中で言葉として意味をなさずにぐるぐると渦を巻く。
ぼんやりと愛ちゃんが時折見せる虚ろな目が、頭の中に浮かんで消えた。
なんとなく家の中の愛ちゃんはそんな目をしてるのではないかと思った。
仕方なく家に向けて歩き出そうとした足を一瞬止めて、愛ちゃんの家を見上げた。
灰色の雲に厚くおおわれた空の下に大きなお城みたいな家が聳え立っている。
その周りには背の高い塀と丈夫そうな門。
そして叩きつけるように降りしきる雨。
私と愛ちゃんを隔てるもの。
目を閉じて、唇を噛み締めて、また目を開ける。
何も変わらない景色がそこにあるだけだった。
- 87 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時02分49秒
- ◇
今日も雨だった。
昨日よりは弱まったけれど、ぽつぽつと飽きもせずに降りつづいている。
今日も愛ちゃんは学校を休んだ。
誰も座ることの無い席を見ていると、昨日の愛ちゃんの言葉が頭の中でリフレインされる。
“…ごめん、帰って”
4時間目が終わって、私はお弁当箱を持って美術室に向かった。
雨だからベランダは濡れているかもしれないけど、一人で教室にはいたくなかった。
それにひょっとしたら愛ちゃんがいつもの笑顔でひょっこりと現れる、そんな気がしていた。
美術室のドアをガラガラと開くと、誰もいないと思っていた教室に人の背中が見えて足を止める。
その背中はドアの音にも反応せずに、集中してキャンバスの上に筆を滑らせていた。
長い髪の毛がさらりと揺れる。
- 88 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時06分13秒
- 「飯田先生…」
私のその声に、一瞬振り返った飯田先生は、「お、紺野か」と言っただけで、またキャンバスに体を向けた。
「…何してるんですか?」
「何って…絵、書いてるの」
私の方を見ずに背を向けたまま答えた。
「いや、でも…」
「世界史の教師が美術室にいちゃいけない?絵、書いたらいけない?」
「あ、そ、そんなことは…」
ぐるっと振り返り大きな目でギロリと睨んできたので私は慌てる。
「ふふっ、冗談。あ、でも、本当はやらなきゃいけない仕事サボってきてるから、他の人には内緒ね」
飯田先生はそう言って人差し指を口に当てておどけた笑顔をみせた。
それを見てホッとした私は、キャンバスを覗き込みながら尋ねる。
キャンバスには無数の青色の線。
「何の絵、書いているんですか?」
「んー、『雨』の絵」
「…はぁ」
私にはただの線の集まりにしか見えなかった。
授業とかで前々から思ってたけど、飯田先生は独特の感性をしている。
- 89 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時10分51秒
- 先生はその後も黙々と絵を書きつづけた。
横で私がお昼を食べてても、まったく気にしていないように見えるほどの集中力。
雨の絵と言っていたのに先生は窓の外には少しも目もくれずにキャンバスに向き合っている。
柔らかなタッチで加えられていく、いろんな青。
藍に近い濃い青から、透明にも見えるとても薄い青。
世界にある全ての青色がそこに存在しているかのようだった。
マリンブルーをキャンバスに塗っているとき、飯田先生が唐突に口を開いた。
外の雨が少し弱まった気がする。
「こっちに来て大分経つね。もう1月位?」
「ええ、その位ですね」
「紺野…この街好き?」
そう訊かれたとき、真っ先に浮かんだのは何故か愛ちゃんの顔だった。
笑っている愛ちゃん。悲しそうな愛ちゃん。
…分からない。
…けど。
- 90 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時16分51秒
- 「…分かりません。…けど好きになれるかもしれません」
そう、好きになれるかもしれない。
いや、好きになりたいんだ、多分。
だから、訊かなきゃ。
プレパラートを壊さなきゃ。
窓の外は雨が上がったみたいで、雲の隙間から薄白い光がこぼれて、この教室にも差し込む。
その光の剣がプレパラートを壊す映像が見えた気がした。
先生の姿を視界の中心に見据えて、ゆっくりと口を開く。
「…昨日、愛ちゃんの家に行きました」
「…そう」
飯田先生は何かを知っているようなそぶりで、別にそれを隠そうともしていないように見えた。
私は目を逸らさないように言葉を続けた。
- 91 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時17分43秒
- 「でも会ってくれませんでした。…玄関で追い返されちゃって。よっぽど風邪がひどかったのかな」
飯田先生は無言で筆を走らせる。
光はプレパラートを壊しつづける。
「…愛ちゃん、時々すごく辛そうな表情をするんです。
普段は明るくて優しいのに、まるで違う愛ちゃんになるんです。
そんな時の愛ちゃん、別の世界にいるみたいに感じるんです」
そっと丁寧に筆を置いた飯田先生は、自分がさっきまで塗りたくった青をじっと睨んだ。
その様子をみて私は言葉をためらったが、それでも最後に消え入りそうな声で、云った。
「…飯田先生に会ったときも…愛ちゃん…そんな表情をするんです…」
- 92 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時19分25秒
- 弱弱しい声を放つと共に、視線を床に落としてしまった。
気配で、先生の体がこちらを向いたのが分かった。
「…紺野」
「…はい」
「…ありがとう」
「え?」
意外な言葉にパッと顔をあげてみると、飯田先生はとても穏やかな表情を浮かべていた。
「あのコ…高橋のこと一杯考えてくれてありがとうって。私がお礼云うのも変だけど、嬉しいの」
嬉しいんだ、と言って、先生はにこっと笑った。
子を抱いた母親のような笑顔だった。
「つまり、紺野は高橋のこと知りたいんだよね?」
「…はい。知りたい、です」
「うん、でもね、私がいろいろと教えるのは簡単だけど、私はなるべくあのコの口から直接訊いてほしい。
あのコが話すのを待ってほしいの。それが紺野にとっても高橋にとっても望ましいことだと思う」
- 93 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時23分13秒
それに、と先生は言葉を続けた。
「それにね、知るっていうのは責任を伴うものなんだよ。
知ってしまったら、痛みも悲しみも共有しちゃうんだ。しなくちゃいけないんだ。
ひょっとしたら今は、高橋はそれを望んでいないのかもしれない。
“知らない”人と1からの関係を築きたいのかもしれない。
だから、まだ“知らない”紺野でいてあげて。…云ってる意味分かるかな?」
なんとなくでしか意味は分からなかった。
でも、よく分かったのは、先生が愛ちゃんのことをとても大事に思ってるということ。
だから私はしっかり先生の目を見て頷いた。
「はい」
「うん。…ありがとう、紺野」
- 94 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時26分18秒
- さっきまで雨を降らせていた雲は徐々に空の隅に追いやられ、隙間から青空が覗く。
そこから届く光が、地上に残された雨の粒を反射させてきらきらと輝く。
そんな外の様子みたいにガラッと空気を変える、軽い口調で飯田先生が言った。
「あ、そうそう。実は圭織ね、東京の大学に通ってたとき、紺野の家の結構近くに住んでたんだよ」
「え、そうなんですか?」
「うん。お隣の駅。あそこらへん、いい所だよね」
いい所。
15年住んでいたけど、そんな風に思ったことは一度も無かったけど。
「…はぁ、そうですか」
「あー、その声は納得してないなー。……多分、気づいてないだけだよ。
いい所、一杯ある。どんな街にも。どんな場所にも。いつかきっとね、分かる時が来ると思うよ。
私は紺野にこの街も、そしてあの街も、両方好きになってほしいよ。
…ほら、もうチャイム鳴ってるから教室戻りな、…って次、私の授業じゃん!」
飯田先生はそう言って慌てて画材の片付けを始めた。
そんな先生の様子に苦笑いを浮かべつつ、美術室のドアに手をかけた。
「じゃあ、お先に失礼します」
「あ、ちょっと待って!」
ドアを開きかけた手を止めて振り返る。
- 95 名前:走る 投稿日:2003年07月05日(土)04時28分17秒
- 「…何ですか?」
「もし紺野が高橋のこと知りたいと思うならさ、紺野も高橋に教えなきゃいけないよ。
何かあるんじゃない?紺野にも云わなきゃいけないこと」
云わなきゃいけないこと。
胸がちくりと痛んだけど、それを無視して、失礼します、と言って美術室を出た。
廊下の窓から雨ですっかりどろどろになった校庭がみえる。
中学校のグラウンドに比べて、やたらと広いその校庭。
トラックのスタート地点の辺りをぼんやりとみつめていたら、自分があそこに立っているような気がしてきた。
位置について。よーい。
心の中でそこまでいいかけて、止めた。
スタートの合図は鳴らなかった。
- 96 名前:arkanoid 投稿日:2003年07月05日(土)04時48分41秒
- 更新終了です。
私事で申し訳ないのですが、資格試験の勉強を悪あがきしてみようと思いますので、
更新を一ヶ月ほど休ませていただきます。
時間に余裕ができたら=諦めたら更新するかもしれません。
放置はしないので…とか書くといかにも放置の前触れっぽいんですけど(w、
本当にしないので少しお時間を下さい。すみません。
>悠希さん
レスありがとうございます!
ageでもsageでもsagaでもsegaでもレス頂けるのなら何でも嬉しいです。
新しい『学ホス』待ってます。
- 97 名前:名無し厨房 投稿日:2003年07月31日(木)19時43分49秒
- 短編集で読んだ『雨男』が自分のツボを突いて止まなかったので、こちらの話も覗かせて頂きました。
この話も自分のドツボでした。今までのこの話を読んでいなかった自分が憎いです。久しぶりに自分に怒りを憶えました。
感覚的に色や音が見えたり聞えたりする文章が大好きす。個人的に紺野の1人相槌とかたまりません。設定もたまりません。何かも大好きです。自分の好きな波長と作者さんの波長が合っている気がしてなりません。
なぜならジャガーはもちろん、課長バカ一代を愛読している人が自分の他にいるとは信じられなかったw
大ファンになりました。これからも頑張って下さい。長レススマソ。
- 98 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月08日(金)22時02分29秒
- 描写や淡々と進んでくお話がすごく好みです。
続きも楽しみに待ってます。
- 99 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)16時58分37秒
- ◇
穏やかな日曜日の午前。
先週雨を降らせた雨雲も今はもう遠いどこかの空へと去っていった。
ぱぁっと辺りを照らす太陽を見上げてみたが、その強い輝きにすぐ目を閉じてしまう。
今日は暖かい一日となるでしょうといっていた天気予報のキャスターの顔を思い出した。
瞬きをすると、瞼の裏側に太陽の残像がちかちかと揺れた。
街でみる人たちもすっかり日曜日の顔。
ここぞとばかりにホース片手に車を洗っているお父さんや、庭仕事に精を出すお母さん。
自転車の籠にグローブを入れた子供らが、4台ほど連なって私のすぐ横を追い抜いていった。
公園の側を通りかかると、小さな赤ちゃんを連れた若い夫婦がベンチに腰をかけて微笑みあっている。
隅に植えられた桜の木は、つぼみを大きく膨らませ、今にもその花を咲かせそうだった。
そんな景色につれられて自然と軽くなる私の足取りが交差点の角を曲がった。
- 100 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時00分51秒
- ピンポーン。
この間と同じ呼び鈴の音が鳴り響いた。
スピーカーからの応答はなかったけど、その代わり、門の向こうのドアが勢いよく、がちゃっと開かれた。
わんわんわんわん!
「いらっしゃい!」
ラブリーとそのご主人様の賑やかなお出迎えに思わず頬を緩める。
サンダルの音をばたばたと鳴らして、愛ちゃんが駆け寄ってきた。
距離が、近づく。
そしてキィッと小さく音を立てて門が開いた。
隔てるものがなくなった私たちの視線がぶつかって、一瞬、お互いを見つめあう。
「さ、入って、入って!」
ふと気を取り直して、誤魔化すように愛ちゃんが大きな声を出した。
「…おじゃまします」
風がそっと吹いて庭の緑を揺らした。
今日は、暖かいらしい。
- 101 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時02分38秒
- ◇
外から見て大きな家は、中もやっぱり大きな家だった。
広い吹き抜けの玄関には立派な観葉植物や高級そうな絵が置かれている。
部屋の数も相当ありそう。
「うわぁ…」
「ん、なにしてんの?早く早く」
思わず家の様子に見とれていた私の背中を、愛ちゃんがぐいぐいと手で押して、部屋に誘導していく。
服越しに伝わる手の感触がさわさわとくすぐったい。
2階にある愛ちゃんの部屋は思ったよりもシンプルで、黒と白のモノトーンを基調とした色でまとめられていた。
大きな窓から一杯に吸い込まれた外光が、部屋の壁につけられている全身鏡にきらりと反射する。
「はい、どうぞ」
差し出された大きなクッションも黒と白のチェックの模様。
「こないだはごめんなー。せっかく来てくれたのに…」
「いえ、いいんです」
「熱がひどくて、頭も痛かったしで、大変だったんよー。話すのもしんどくてね」
「いえ、本当にいいんです。それにほら、その分、今日こうしてお邪魔してるわけだし」
「うん…本当にごめん」
- 102 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時05分53秒
- いつもの帰り道、愛ちゃんが、「今度の日曜日、家に来ない?」と誘ってくれた。
学校とかその帰り道とか以外で2人で会う約束をするのは初めてだったから、嬉しかったし、なんだか少し緊張した。
普段の日曜はゆっくり目に起きるのに、今日はとても早くに目を覚ましてしまった自分を思い出して苦笑する。
で、今日、愛ちゃんの家に来た理由はというと…
「よし、じゃ早速始めよ。ちょっと待ってて。今キーボードとってくるから。
…あ、そうだ、先にCDのほう聴いててもらおうかな?」
大きなラックに収められたたくさんのCDのなかから1枚抜き取って、デッキに入れる。
ボタンを操作すると、短いピアノのイントロに続いて男女の合唱の歌声が流れた。
この間、愛ちゃんが歌っていた“時の旅人”。
- 103 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時08分28秒
- じゃ、ちょっと聴いてて、と言い残して愛ちゃんは部屋を出て行った。
一人取り残された私はなんだか不思議な感覚に包まれていた。
愛ちゃんの部屋で合唱のCDを聞いている日曜日の午前。
初めての場所で初めての音楽を聞いている。
心が落ち着かないのは、昨日までの自分とは違う自分がここにいるからだろうか。
愛ちゃんの部屋を知った自分。
初めての風景に出会って、人は少しずつ変わっていくのかな。
日曜日の太陽は少しずつ少しずつその高さを増していく。
- 104 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時09分59秒
- 歌詞カードを適当にぱらぱらとめくっていると、愛ちゃんがキーボードを抱えて戻ってきた。
「どう?なんとなくメロディ分かった?」
「いえ…。まだちょっと…」
「じゃ、少しずつやろっか。まず私が歌うから、そん次にいっしょに歌おう」
部屋に響く愛ちゃんの歌声。
メロディを覚えようとその歌声に耳をじっと傾けた。
「よし、じゃ、とりあえずここまでね。せーの」
歌はあんまり得意じゃない。
というよりも声を出すこと自体が苦手だった。
話すのも、歌うのも。
声にならない思いはいつも私の胸にとどまって、だんだんとしぼんでいった。
だから、愛ちゃんと歌の練習をするのは、思いを伝える練習でもあるんだと思う。
めぐるめぐる風 めぐる思いに乗って
懐かしい日々に会いに行こう
- 105 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時10分49秒
- 「うん、そこまではOKやね」
愛ちゃんが私の声を支えるように丁寧に歌ってくれたから、私もとても歌いやすかった。
「じゃ、じゃんじゃんいっちゃおう♪」
愛ちゃんの声にあわせて、出きる限り一生懸命歌った。
ちゃんと大事なことを伝えれるように、思いを声に出せるように。
もうあんな思いをするのは嫌なんだ。
私がちゃんと意思表示を出来ていればひょっとしたらお父さんとお母さんは…。
いや、やっぱりやめよう。そんなのは考えたって分からないことだ。
今はただ歌を歌おう。
- 106 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時11分52秒
- 太陽が一番高くなる頃に、一応最後まで曲を通せるようになって、愛ちゃんはキーボードのスイッチを切った。
「うん、OK。あさ美ちゃん、歌、上手いよ。もっと自信もって歌っていいよ」
「そう…ですか?」
そんな風に誉められたことがなかったから、いまいち確信が持てない。
「うんうん。全然いけてる。それに歌は上手い下手じゃないってお母さんが言ってた。
歌って気持ち良くなれれば、それでいいんだって」
そっか。確かに今日は歌っててなんだかすっきりとした。
じゃ、これでいいってことなのかな。
「それよりさ、お腹空かない?」
「…空きました」
「じゃ、お昼にしよ!」
- 107 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時17分10秒
- ◇
「今日は家の人はいないんですか?」
コンソメスープをすすっているテーブル越しの愛ちゃんに尋ねた。
テーブルには二人でなんとか作り上げた昼食が並べられている。
最初は愛ちゃんが一人で作るって張り切ってたんだけど、
キッチンの方から「うわぁ!」とか「ぎゃあ!」とか悲鳴が聞こえてくるものだから手伝わずにはいられなかった。
私もどちらかというと食べる専門で作る方はあんまり得意ではないのだけれど、どうにかこうにか形にはなったと思う。
「うん。お母さん、仕事」
「…お父さんは?」
「うち、お父さんいないんよ」
愛ちゃんはさらっとそう言いのけた。
「…ごめんなさい」
「ううん、全然。小さいときからもういなかったから。なんかいないのが普通っていうか」
「そう…ですか。じゃこの家には…」
「うん。お母さんと二人で」
- 108 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時18分34秒
- こんな大きな家にお母さんと二人。
どおりで、と部屋から居間に降りてくる時に感じた違和感に納得する。
この家の雰囲気はどこか昔のまま、というかここだけ時間が止まっているかのような感覚にとらわれる。
それはきっと使われていない家の場所が多いから。
何年も開かれていないようなドアもあったし、廊下には古ぼけた人形が飾られたままだったりした。
そういう要素が積み重なって、この家は外界の時間の流れから遮断された存在にあるんだと思った。
「…淋しくないですか?」
「うーん、どうだろう。でもこいつもいるし」
そう言って、お昼ご飯を食べてごろんと横になっているラブリーを指差した。
「逆にさ、お父さんってどんな?」
「え…」
- 109 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時19分36秒
――お父さんが家にいるのは珍しいことだった。
――お父さんの背広からはほんのりと甘い香水の匂いがした。
――お母さんのとは違う香水。
――お父さんとお母さんが顔を合わせるのはもっと珍しいことだった。
――そしてその度に聞こえてくる言い争いの声。
――私ができるのは妹と部屋にこもって手を握り合って震えていることだけ。
- 110 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時20分36秒
「―――――ちゃん、あさ美ちゃん。どうしたの?」
「…あっ、すいません。ちょっとぼーっとしちゃいました」
「ふふふっ。あさ美ちゃん、しょっちゅうぼーっとしてるでしょ?」
「え、何でですか?」
「授業中さ、一生懸命ノートとってるんだけど、たまにその手がぴたっと止まるの。
で、ちょっとするとまた慌ててノートとり始めるの。それ見てるの結構楽しいんよ」
「…そんなの見ないで下さい」
「えー何で?楽しいんだって」
「…恥ずかしいから見ないで下さい」
「やーだ。見るよ」
愛ちゃんはいたずらっ子の顔をして笑う。
その笑顔のおかげで開きかけた家族の記憶の扉をなんとか閉じることができた。
香水の匂いも、怒鳴り声も、妹の手の温度も、全部扉の向こうに。
すすったコンソメスープは少しぬるくなっていた。
- 111 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時22分17秒
- ◇
夕方の少し冷たくなった風が頬をなでて私は目を覚ました。
TVは真っ暗な外部入力の画面を映し出している。
…眠っちゃったんだ。
昼食を食べ終えた後、部屋に戻ってきた愛ちゃんが、じゃーん、という効果音と共にかざしたのは一本のビデオ。
男装した格好いい女性がパッケージに描かれていた。
どうやら愛ちゃんは宝塚の大ファンらしく、年一回はお母さんと一緒に劇場に足を運んでいることやその魅力をを熱を帯びた口調で語ったあと、問答無用でビデオをデッキに入れた。
確かにすごく格好良くて、とても華やかで面白かったのだけど、二本目に突入してしまったのがいけなかった。
今日、変に早起きしてしまったことも手伝って、早々に眠りの世界へ誘われてしまった。
- 112 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時25分04秒
- あれ、愛ちゃんは?と思って、ふと横を見やると、スースーと気持ちのよさそうな寝息を立ててベッドで横になっている姿が目に入った。
なんだ、愛ちゃんも寝ちゃったんだ。
赤い西日に照らされた無防備な愛ちゃんの顔。
もう少し近くで見るために移動しようとした瞬間、強い風が吹き込んでレースのカーテンがさぁーっとなびいて、
私はなぜだか思わず目をパッと逸らしてしまう。
なんだかいけないことをしているようで胸がドキドキした。
…いいよね。授業中見られてる分のお返しです。
ベッドのすぐ側にしゃがみこんで顔を覗き込む。
少し広い額に、長いまつげ。
すっと通った鼻に、艶のある唇。
手をそっと伸ばせばその全てに届く距離に私はいるんだ。
そう思うと、胸の鼓動がますます早くなって止まらなくなる。
- 113 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時26分39秒
- ちょっと。ちょっとだけ。
ゆっくりと手を近づけていって、夕日に照らされて少し赤みがかった愛ちゃんの髪に触れる。
さらさらと指の隙間をこぼれていった。
「…ん」
愛ちゃんの声が漏れて、私は慌てて手を引っ込める。
…起こしちゃったかな。
「…お……かあ………さん……」
そう呟いた愛ちゃんは少し震えていた。
よく見ると手には赤いタオルのようなものが大事そうに握られている。
そうだよね。
やっぱり寂しいよね。
こんな大きな家にお母さんと二人暮らしで、そのお母さんが忙しい人だったら恋しくもなるよね。
- 114 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)17時27分30秒
- 私も…そうだったかもしれない。
お父さんの帰りを待って、お母さんの優しい言葉を待って。
でももう今は諦めてしまった。
何を?
お父さんを、お母さんを、家族を。
諦めて、立ち止まって、逃げ出して。
そして、今、私はここへたどり着いた。
これで良かったんだと納得してた。納得しようとしてた。
じゃあ、この気持ちは何?
この流れ落ちるものは何?
いろんなことを放ったまま逃げ出して、結局何一つ問題は解決されてなくて。
それを見ぬ振りしていつまでいられるのだろうか。
真っ赤な夕日が部屋を染めて、カラスの鳴き声だけが響きわたる。
終わっていく日曜日。
楽しすぎた分だけ、それが過ぎていくのはとても淋しい。
- 115 名前:走る 投稿日:2003年08月11日(月)18時00分37秒
- お待たせいたしました。久々の更新です。
楽しみに待ってくださっていた方が少しでもいてくれれば幸いです。
資格勉強とかいいつつ男×娘。短編集出したり、よみうりランドのカントリーのイベント行ったりしてしまいました。
すいません。すいません。
資格試験のほうは終わった(いろいろな意味で)ので、これからは週一程度で更新できればと思います。
>名無し厨房さん
HNとはいえ人のことを厨房と呼んでしまうのはちょっと気が引けるのですが…(w
こちらのほうも気に入っていただきありがとうございます。
シンクロ率高そうですね。まさか課長バカ一代読者がいるとは…。
>98さん
レスありがとうございます!
おだてられると木どころか東京タワーにも登りかねない人間なので、調子に乗らないように気をつけます(w
次回あたりからちょっとずつ話がうごいていくと思うのでよろしくです。
- 116 名前:97 投稿日:2003年08月11日(月)21時37分40秒
- 淡々とした描写が妙に哀しみを佩びていて引き込まれます。
続き期待
- 117 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)17時51分55秒
- 「はい、じゃあ、卓球は大野さんと鈴木さんで決まりね」
早く終わらないかなぁ、そればっかり考えていた。
明日からはゴールデンウィークだってのになかなか帰れる雰囲気にならない。
私は机の木目をじっとみつめてやりすごす。
ふと首をくるっとまわして後の方を見てみると、
愛ちゃんも退屈そうに頬杖をついて時間が過ぎていくのを待っているようだった。
私が家路につけない理由は来月末の体育大会とかいうやつのせい。
クラス対抗で行われるらしくその参加種目を放課後の時間を潰して決めている。
連休が明けてから決めても遅くはないんじゃないかなぁ、と思ったけど、
「連休前に決めたほうがその間に心の準備ができるでしょ」とは、教卓の前で話し合いの進行をしている体育委員の弁。
そういうものかなぁ。
- 118 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)17時56分09秒
- 「100mは野口さんと山岸さん」
全員が全員競技に参加するわけじゃないから、なるべく話し合いの輪に加わらないように、目立たないように気をつける。
木目が、まるでロールシャッハのテストのように、様々な模様に見えるまでじっとみつめる。
バームクーヘン、ミルフィーユ、ウェハース。
食べ物にしか見えないや。
…お腹空いたな。
「じゃ、最後。800mリレー」
明日からのお休み、どうしようかな。
また愛ちゃんの家におじゃましちゃおうかな。
そうすれば愛ちゃんのお母さんにも挨拶できるかもしれないし。
うん、今日の帰りに聞いてみよう。
きっと、いいよって微笑んでくれるに違いない。
「んーと、水谷さん、小川さん、田辺さん。あと一人誰かいない?」
ほら、最後、あと一人だよ。
誰かぱっと手を挙げればそれで終わりだよ、って思ってたら、窓際の方ですっと手が伸びた。
やった、終わり。
- 119 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)17時59分21秒
- 「尾田さんはもう200mに決まってるから他の種目には…」
「あ、別に私がやるわけじゃなくてー」
そう言った尾田さんはぐるっと体を向きなおして、私の目をじっと捉えた。
「紺野さんって、あの紺野さんだよね?」
え…。
いきなり出された名前に、クラス中の視線が私に集中した。
さっきまで観客席にいたはずなのに突然舞台に引き上げられてしまった私は、
まるでピエロのようにおどおどと慌てふためく。
「え……いや……あの………」
心臓がドクドクと嫌なリズムを刻む。
言葉をうまく発する事ができなくて金魚のように口をパクパクとさせる。
頭の中が真っ白だった。
- 120 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)18時02分03秒
- 「中二の時さ、東京都の通信大会で1500mの日本中学タイ記録出した紺野さんだよね?
前からさ、どっかで聞いた事ある名前だなぁって思ってたんだ。
その後の大会、どうして出なかったの?」
一気にざわめき立つ教室。
その喧騒の中、私は再び目線を机に落とした。
そういやこの人陸上部だったなぁ、と冷静に考える私と、相変わらず動揺しっぱなしの私がいて、余計混乱する。
こんなこと覚えてるなんてよっぽどマニアな人だなぁと思う私と、手の平に汗をびっしょりとかいている私。
お腹空いたなぁ。 どうしよう、どうしよう。
バームクーヘン食べたいなぁ。 何か言わなきゃ、言わなきゃ。
- 121 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)18時03分22秒
- 「あの、じゃあ、紺野さん…」
「…走りません」
どうしよう。
「え?」
「走りません」
バームクーヘン。
「あ…あの、紺野さん?」
「走りません!」
…愛ちゃん。
勢いよく立ったらがたっと椅子が音を立てた。
すたすたと教室を出て行く私を、皆ポカンと見送っていた。
- 122 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)18時04分26秒
- ◇
蒼と闇の中間の空の色。風になびく桜の花びら。時折すれ違う車のヘッドライト。
何も目に入ってこなかった。
ただ淡々と同じリズムで歩く。
何も見ないように、何も聞こえないように。
中学生の頃はいつもこんな風にして歩いていた。
仲良く団体で帰る陸上部の同級生たちも、乗り換えの駅の気が滅入るほどの人ごみも、賑やかな街の灯りも。
お父さんのことも、お母さんのことも、妹のことも…そして自分でさえも。
全てをこの世界から切り離して歩いていた。
何も考えないように。
- 123 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)18時06分01秒
- お父さんの背広から誰かの香水の匂いがするのはどうして?
…考えちゃいけない。
お母さんが私の目を見てくれないのはどうして?
…考えちゃいけない。
妹の手が震えているのはどうして?
…考えちゃいけない。
私が走っているのはどうして?
…どうして?
…どうして?
…ドウシテ?
- 124 名前:走る 投稿日:2003年08月21日(木)18時07分14秒
――――っ。
不意に肩をぐいっと引っ張られた。
あまりにも突然だったのでバランスが崩れて後に倒れそうになる。
「おっと」
ぱしっと手を掴んで私を支えてくれた。
その手の先の顔は、走ってきたのだろうか、額に少し汗が滲んでいる。
「忘れ物」
「…あ」
愛ちゃんが私のカバンを顔の横まで持ち上げてひらひらと振っていた。
- 125 名前:arkanoid 投稿日:2003年08月21日(木)18時15分21秒
- 更新終了。
少なくてすいません。
>97さん
レス多謝です!
あんまり凝った文章が書けないんですよ…。
そういっていただけると幸いです。
でも、もし次書くとしたら、はじけた話も書いてみたいなぁと。
- 126 名前:97 投稿日:2003年08月22日(金)17時39分46秒
- 徐々に語られていく過去が気になります。あと高橋さんとの関係も。
続き楽しみです。
- 127 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時10分23秒
- ◇
滑り台とジャングルジム、砂場、それと私たちが乗っているブランコ。
小さな公園にある僅かな遊具を端の方にある街灯がおぼろげに照らす。
蛍光灯が切れかかっているのか、時折ピカピカと点滅しては辺りを一瞬だけ闇に染めて、また思い出したように光を放つ。
「あの蛍光灯さ、もう何年も前からああなの。切れそうで切れない。
いい加減替えればいいんだろうけど、もうここまでくるとね。誰も替えるに替えれないんじゃないかな」
愛ちゃんが苦笑いを浮かべると、またふっと蛍光の灯りが消える。
「ほら、また」
そういってブランコをゆっくり漕ぎだすとキコキコと錆付いた音を立てた。
その音はまるでブランコが泣いているように感じた。
- 128 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時11分41秒
- 「綺麗やね…桜」
「…そうですね」
「お花見やね」
「はい…」
隅に一本だけ植えられた桜はその花を綺麗に咲かせ、この大地に遅い春が訪れたことを告げている。
しかし桜が咲いたとはいえ、日が沈んでしまうとまだ少し肌寒い。
でも体が震えているのは寒さのせいだけじゃないと思う、きっと。
「カバン…ありがとうございました」
「いいの、いいの。気にしないで」
「…話し合いどうなりましたか?」
「…結局、あの後すぐ解散。残りは連休明けだって」
慰めるわけでもなく、気遣うでもなく、ただ淡々と話をする愛ちゃんが嬉しかった。
その言葉の一つ一つが雫となってグラスを満たしていき、それはいつか零れ落ちそうになる。
嬉しくて、零れ落ちるんだ。
足を地面につけてブランコを停止させ、チェーンを掴んでいた両手を膝の上にそっと置いた。
キコキコという音が一つ消え、もう一つの方もだんだんと音がゆっくりになり、辺りを静寂が包んだ。
そして私は斜め下の土の地面をみつめ、静かに言葉を吐き出す。
- 129 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時16分25秒
- 「1500mって結構短いんですよ」
「え?」
「1500m。私、その選手だったんです」
「ああ、中学の時?」
「はい…4分半位で終わっちゃうんです」
「それはあさ美ちゃんが速いからだよ。私だったら何分かかるか分かんない」
「…それでも私には大事な時間でした。走っている間は何も考えないで済んだから」
その言葉を聞いて、愛ちゃんは少し首を傾けて、納得したような困ったような微妙な表情を浮かべた。
「私がこっちの高校にきた理由、言ってなかったですよね」
「…いいよ、別に。無理して言わんでも」
「それに今日、あんなに向きになっちゃった理由も」
「…だから、いいって」
「…愛ちゃん、優しいから。その優しさに甘えて今まで言わないできちゃいました。
でも今日は、言いたいんです。言えると思うんです。言わせてください」
- 130 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時20分05秒
- 愛ちゃんは無言のまま、さっきからピカピカと点いたり消えたりしている街灯をじっとみつめた。
隣のブランコまで距離は約50cm。
1500mの……3000分の1だ。
大丈夫、愛ちゃんは側にいる。
視線を上げて、今度は真っ直ぐ前を向いた。
「私、逃げてきたんです」
「………」
「お父さんに、お母さん、妹」
「………」
「家族から」
「…どういうこと?」
「私――――――
- 131 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時23分45秒
- ―
――
―――
―――――
――――――
「…ただいま」
そう呟いてみても家に誰もいないことは初めから知っていた。
下校するときはいつも繋ぐようにしていた妹の手を離すと、心の重りが少しだけ軽くなった気がした。
ダイニングテーブルにはラップに包まれた冷え切った食事とお母さんのメモ。
私はそれらを一瞥し赤いランドセルを下ろした。
今日も長い夜が始まる。
お父さんとお母さんの関係がねじれていったのはいつ頃からなのかは分からない。
お母さんは仕事熱心な人で家を空けることが多かったのだけど、
それに対して夫婦共通の理解をもっていなかったというのが直接の原因だと思う。
とにかく私が物心つく頃には、家庭の風景はいびつに歪んだものとなっていた。
- 132 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時24分45秒
- お母さんにも問題はあったと思う。
あまりにも仕事に熱中しすぎて家庭をないがしろにしていた。
その姿は逆に家庭から目を背けるために仕事に力を入れていた、とさえも思えた。
そしてそのことに理解を示さなかったお父さんにも問題はあった。
そのうちお父さんも家になかなか帰ってこないようになった。
……他の女の人の所に行っているということを、私は幼心に知っていた。
家に家族がいない。
家庭という名の空っぽの箱。
小さな頃は淋しく思ったりもしたけど、成長するにつれて状況をだんだんと受け入れていった。
こういうもんなんだって。
…もの分かりのいい振りをしていた。
- 133 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時26分39秒
- 中学に上がる頃にはもうすっかり割り切ってて、家庭というものを諦めていた。
私にはそういうものは与えられなかったんだと。
それでも私の心の底にはいつも暗い影のようなものがこびりついて離れることはなかった。
その影は時々暴れだして、その度に私はひどい孤独感に押しつぶされそうになる。
諦めたはずなのに。要らないって思ったはずなのに。
陸上を始めたのもその頃、中学に入ってからだった。
別に陸上にそんなに興味をもっていたわけではなかったけど、何か部活に入らなくてはならなかったから。
話したりすることが得意でなかった私は個人種目であるという理由だけで陸上を選んだ。
- 134 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時28分04秒
- 都内の少ない土地に無理やり押し込めたような狭っ苦しいグラウンドでグルグルと走り続ける日々。
悪くなかった。
走っている間は何も考えないで済んだから。
特に疲れてくれば疲れてくるほど。
日が沈むまでずっとずっと、一人になってもずっとずっと走り続けていた。
くたくたに疲れるまで走ってから家に帰るとすぐに眠ることができた。
走って、眠って、走って、眠って。
とにかくその二つの事を繰り返す生活。
余計なことを見たり、考えたりしないように。
どんなに尖った棘だって、触らなきゃ痛くないって思ってた。
- 135 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時29分41秒
- 陸上を始めて1年とちょっと。
中学に入って2度目の夏休みを迎えていた。
変わったこと。
縮んだタイムと無駄に増えた賞状の数。
変わらないこと。
家庭の関係と心の圧迫感。
いや、それは変わらないというよりむしろ悪化していたというほうが正しいかもしれない。
お母さんもお父さんも私も、そして小学生の妹でさえも家で顔を合わせることはほとんどなくなった。
嫌なことから逃れるために走っているはずなのに、走っても走ってもそれは追いかけてくる。
より大きな影となって。闇となって。
- 136 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時31分00秒
- 人は時々説明のできない行動をする。
あるいは、それは人間が何かを感じ取って行う、必要な行動なのかもしれない。
とにかくその時の私の行動も説明することはできないことの一つだった。
遅い夕食をダイニングテーブルで取りながら、私は一週間後の都の通信大会のスケジュールについて書かれたプリントに目を通していた。
正直、大会とか順位とかにはまるで興味がなかったから、さっとだけ目を通してカバンの中にしまおうとした。
しまうはずだった。
しかし私はふとその手を止めて、テーブルの上にプリントを置きっぱなしにしたまま部屋へと戻った。
私の走っている姿を見てほしいだなんて思ったこと、一度も無い。
大会の日程なんて教えたこと無かったし、それ以前にもっと基本的なことでさえも私は家族に話さなくなっていた。
だからなんでこの時私がプリントを置いていったのかは自分でさえも分からない。
けど次の日の朝、プリントが無くなっていることを確認して、なんだかほっとしている自分がいた。
- 137 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時32分39秒
- 大会の日、どこまでも抜けるような青空だった。
スタートの位置についた私は、それでも観客席の方をきょろきょろと見回していた。
まだ見つけることができなかった。
やがて鳴り響くスタートの合図。
私は、走った。
なんだかよく分からないけど、今までで一番真剣に走った。
そうすることで何かから逃げようとしていたのか、…それとも?
タイムは自己ベスト。
それどころか中学の1500m記録に並んだらしい。
先生が何か興奮して色々喋っていたけど、私はそれにまったく耳を傾けず、必死で観客席のほうを見渡した。
どんなに探してもいなかった。
いなかった。
家に帰った私を待っていたのは素敵なプレゼント。
お父さんとお母さんが珍しく並んで座っていた。
そしてお母さんの口からこぼれる、お決まりともいえる台詞。
「あさ美、大事な話があるの――――――――――――――――――――
―――――
――――
―――
――
―
- 138 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時34分02秒
- ――――――走ったって無駄なんだって思いました。
走ったって追いかけられて、追いつかれてしまう。
それ以来、私は走るのを止めたんです」
ただ真っ直ぐ前をみて、話し続けた。
感情を出さないように淡々と。
どこか遠い国の物語を話しているかのように。
「私、知ってました。逃げても問題は大きくなるばかりだって。
私の知らないところで膨らんで、破裂して、元には戻らなくなるんです。
そして一度逃げ出したら、あとはもう逃げることしかできないことも。
走るのを止めた私の今度の逃げ場所は自分の部屋でした。
走ってもどうせ追いつかれるなら、じっと耐えていようと。
ずっとずっと部屋に閉じこもってました。2学期が始まっても、3年生になっても。
でもいつまでもこうしていられないことも感じていました。
その時、ここのおばあちゃんの家を思い出したんです。
小さな頃に何度か来ただけだったんですけど、すごく暖かな記憶があったんです。
だからこっちの高校に入ろうって。それでここへ来たんです。
お父さんも…お母さんも……妹も……全部…忘れようって………ここに………」
- 139 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時34分55秒
- ”忘れる”という言葉を口に出したとき、堰を切ったように涙がぶわぁっと溢れてきて、私は俯いた。
どうして泣くの?
泣く必要なんかないんだ。
そう、忘れちゃえばいいんだ。
…忘れちゃえば。
…本当は気づいてるくせに。
―――――本当は。
- 140 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時36分39秒
- 瞬間、暖かい感触を体全体で感じて私は思わず顔を上げる。
愛ちゃんが抱きしめてくれた。
そっと、優しく。
体中から力が抜けていく。
「……………あ………」
「……辛かったんやね」
「…………」
「……でも忘れれるはずないんよね……家族だもんね」
「……!………うん!……私……私…本当は!」
そう言いかけた時、パッと視界が闇に染まった。
「……?」
「……蛍光灯、切れちゃったね」
- 141 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時37分59秒
- 何度も点いたり消えたりを繰り返していた街灯が、今はうんともすんともいわずに沈黙を保っている。
日はもうとっくに沈んでいるから、辺りは当然真っ暗…と思ったけど、実際は違った。
すぐ近くの家の灯り、向こうの通りの街灯の灯り、遠い街の灯り、そして。
「…ねぇ、見て」
愛ちゃんに促されて目線を空に持ち上げる。
「……うわぁ……綺麗……」
きらきらと小さな宝石のように瞬いている星と、ずっと昔から私たちを見てきてくれていたかのような暖かい光を放つ月。
この空はきっと東京からでも見えているんだろう。
私は、そこに置いてきてしまった人たちを想って、また静かに涙を零した。
- 142 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時39分40秒
- 「…あさ美ちゃん」
背中に回っていた手がするりとほどかれて、今度はその手が私の両肩に置かれた。
月の光に見守られながらじっとお互いを見詰め合う。
愛ちゃんの瞳の奥にも月が光ってた。
キス、するんだと思った。
やがて愛ちゃんの顔が少しだけ近づいた気がして、私はそっと目を閉じて、唇の感触を待った……けど。
「……東京行こ」
「はい…………え?」
意外な言葉に慌てて目をパッと開くと、愛ちゃんがにっこりと微笑んでいた。
- 143 名前:走る 投稿日:2003年09月03日(水)19時46分45秒
- 更新終了です。
今回、難しかったっす…。
というか何でこんな暗い話になっているのかと自分に小一時間(ry
>97さん
毎回のレス本当にありがとうございます。
なんだか作者の意図に反して暗い話になってきましたが、
それでもよろしければこれからもお付き合いくださいませ。
- 144 名前:97 投稿日:2003年09月04日(木)20時09分34秒
- 青いですね。青くて憂鬱な話は大好きです。
微妙な変化などの描写の仕方が巧い。
そしてこれから話がどう動いていくか楽しみです。
- 145 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/13(土) 13:09
- この小説すごく大好きです!これからも応援してますー頑張って下さい
- 146 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:14
- ◇
陸上部に後藤先輩という人がいた。
綺麗に伸ばされた茶色い髪の毛。すらっと伸びた長い足。そしてどこか遠くをぼーっと見つめている瞳。
その独特の雰囲気に、はじめて見た時は難しそうな先輩だなぁと思った。
けど実際は違って、よくふざけてはしゃぎながら笑う人だった。
部長とかとは違った意味の、部の中心。
後藤先輩の周りには自然と人が集まっていた。
後輩の面倒見も良くて、同じスプリントの子にアドバイスを送っている姿を何度も目にしたことがある。
部の人たちとあまり馴染んでいない私にも、自然に声をかけてくれた。
「紺野ー、元気ー?」
「は…はい」
「そっか、そっか。そりゃいいことだ。元気があればなんでもできる。いくぞぉー、1、2、3、ダァー!」
「………」
「ほら、紺野も一緒に」
「だ、だぁー……」
ちょっと強引な人でもあったけど。
- 147 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:16
- ◇
羽田行きの飛行機は快調に雲の上を進む。
連休の初日ということでほとんど満席だったのだけれど、キャンセル待ちをしてなんとか乗り込むことができた。
隣の席では愛ちゃんがすーすーと小さな寝息をたてて気持ちよさそうに眠っている。
私はその寝顔を見つめながら昨日の愛ちゃんの言葉を思い出す。
――――ほんとはさ、家族の人と話したいんでしょ?
――――このまんまじゃダメだよ。あさ美ちゃんも家族の人も傷ついたまんまだよ。
――――行こうよ。きっと大丈夫だよ。
愛ちゃんの熱のこもった言葉と優しげな眼差しについ頷いてしまった。
それともあの月がそうさせたのかも。
とにかくこれからあの家に戻るということを考えるととても眠ることができない。
無防備に眠る愛ちゃんの顔を少しだけ羨ましく見つめてから、窓の外に目を向けた。
飛行機の分厚い窓の向こうに、青すぎる空が広がっていた。
- 148 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:17
-
「東京は、人、一杯やねぇ…」
家のある駅へと向かう地下鉄に乗り換えて、なんとか一息ついたところで、愛ちゃんがため息に似た言葉を漏らした。
座席がほとんど埋まってしまっているため、私たちはドアの付近で向かい合うように立っている。
「さっきの駅はJRと私鉄の乗り換えの駅ですから、余計混むんですよ」
「ふーん。向こうじゃ、祭りでもこんなに人おらんわ…」
愛ちゃんはそう呟いて、窓の外、といっても地下のトンネルの真っ黒が流れていくのを眺めた。
私はその反対、向かい側のドアの方をちらりと見やる。
誰もいないはずのそこに、中学生だった頃の私がいる気がして。
中学生の頃は、この電車に乗って自宅から5つ離れた駅にある学校に通っていた。
車両の先頭の一番端っこのドアの付近にいつも立っていた。
電車は苦手だった。
電車という閉じられた空間の中で、人はどうしても何かを考えてしまう。
自分と向き合わざるを得ない空間。
私はそれを誤魔化すかのようにイヤホンから大音量の音楽を鳴らし、目をじっと瞑っていた。
音楽はなんでもよかった。只、自分を外界から、さらには自分自身から遮断するための道具。
私はここにいない人間なんだ。
いつも自分にそう言い聞かせていた。
- 149 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:18
- 「…ただいま」
「おじゃましまーす」
2つの声は、マンションの5階の4LDKの部屋に吸い込まれて消えていく。
夕暮れの薄暗い部屋は静寂を保ったまま返事を返すことはなかった。
「…誰もいないみたいやね」
「そう…みたいですね」
上がってください、と言おうとして、一瞬躊躇う。
ここは私の家といえるのだろうか。
家族から、家から逃げ出した私の。
「…どうしたの?」
「え?…あ、えーと…上がってください…」
「はーい、おじゃましまーす」
なんだか人の家に勝手に上がるような居心地の悪さを感じながら、靴を脱いだ。
- 150 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:19
- とりあえず荷物を置くために自分の部屋へと向かった。
ドアを開けるとガランとした空っぽの光景。
物は向こうの家のほうにほとんど持っていってしまったのだから、それは仕方ないのだけれど、なんとなく淋しい気持ちになる。
西日の差し込む窓を開けてみても見える景色は同じ。
背の高い建物の群れと、慌ただしく行き交う人と車。
「荷物、この辺に置いといていい?」
「あ、はい。適当に置いていいですよ」
「そこから何か見える?」
「…いいえ、別に、何も」
どれどれ、といって愛ちゃんは私の隣に並んで窓の淵に手をかけた。
「うわぁ、建物、多いね」
「…うん」
「人も、車も」
「…うん」
「………」
「………」
自動車の走行音がひっきりなしに鳴り渡る。
街の喧騒がこの部屋の静けさをより際立たせていた。
ずいぶん西に沈んだ太陽がちょうどビルの陰に隠れて、その向こう側で今日最後の光を振り絞る。
隣に愛ちゃんがいてくれて良かった。
一人にこの風景はあまりにも淋しすぎるから。
- 151 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:21
- リビングで愛ちゃんと夕御飯をどうするか話し合っていた時だった。
がちゃり。
無造作にドアが開かれる音が玄関の方から聞こえた。
ドタドタと乱暴な足音が響いて、それからリビングのドアがばたんと勢いよく開く。
「あ…」
一月ぶりにみた妹の髪は薄い茶色に染められていた。
少し驚いた様子で口をぽかんと半開きのままにして呆然としている。
「…ただいま」
「お姉ちゃん…帰ってきてたんだ」
「…うん。さっき着いたとこ」
「知らなかったよ、帰ってくるの」
「…お母さんから何も聞いてない?」
「…昨日、会ってないから」
「…そう」
少しだけ気まずい空気が流れて、お互いに目を逸らしてしまった。
- 152 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:22
- 「…で、そっちの人は?」
妹は愛ちゃんのほうを怪訝そうに見ながら私に訊いた。
「あ…えーと、私のクラスメイトの高橋愛さん。一緒に来てもら…あ、いや、そうじゃなくて…」
言葉に詰まる私を愛ちゃんの声が遮る。
「あさ美ちゃんに我侭言って一緒についてきちゃいました。高橋愛です。よろしくね」
「ふーん…別にいいけどさ」
にこりと笑った愛ちゃんを無視するように妹は新聞のテレビ欄を机に広げてから、いそいそとビデオデッキの前に向かった。
「私、これ予約したら、また出掛けるから。夕飯は二人で適当に食べてよね」
「あ…うん。…今日、お母さんは?」
「知らない。どうせ遅いんじゃない?」
デッキのビデオを入れ替えてから、またテレビ欄を覗き込んでコードの番号を確認する。
妹は私たちのほうを見ようとせず自分の作業に没頭する。
リモコンの送信ボタンが押されて、一瞬の間の後、ビデオの電源が落ちた。
- 153 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:24
- 「…じゃ、行くから」
「…あ!」
「………何?」
なんだかよく分からないけど口が勝手に動いて呼び止めてしまった。
妹はじれたようにこちらを睨んでいる。
「…髪」
「…え?」
「髪、染めたんだね」
「…悪い?」
「いや、そうじゃなくて…似合ってるよ」
「…………」
妹は何も言わずに背を向けて、また乱暴な足音を響かせ外に行ってしまった。
私はその様子をただ見送ることしかできなかった。
- 154 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:26
- ◇
長針がぐるぐると円を描き、短針がじわじわと昇っていって、やがてその二つの針が重なる。
私は玄関の扉が開かれるのをじっと待っていた。
1時間程前に、その扉は一度開かれているけれど、それは帰ってきた妹によって。
その妹も、私とは会話らしい会話を交わさずにすぐ部屋に入っていってしまった。
リビングのテレビはつけられているがその内容はほとんど頭に入ってきていない。
…何を話したらいいんだろう。
そのことだけが頭にぼんやりと浮かんでは消える。
私は目を閉じてテーブルにうつ伏せになった。
真っ暗になる視界に反比例して、研ぎ澄まされる聴覚。
夜になって街の喧騒が落ち着いた分、テレビの音だけがやたらと耳に届いた。
リビングのドアが開く気配を感じてパッと顔を上げると、
バスタオルを首にかけた愛ちゃんが顔を手でパタパタと仰ぎながらリビングに入ってきた。
少し濡れたその髪からは、ほんのりとシャンプーのいい香りがする。
「お風呂、お先にいただきました」
そのかしこまった言葉に、お互い目を合わせて少し微笑んだ。
- 155 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:27
- 「何か飲みますか?」
「あ、うん、飲みたい」
冷蔵庫を開けて中を確認すると、ひんやりとした空気が私の頬に触れた。
扉の裏側の飲み物を入れるスペースに口の開いた紙パックのオレンジジュースをみつけた。
多分妹のだろう。
小学校の頃は学校から帰るといつも二人で飲んでいた。
まだ好きなんだな、と思うと茶色の髪の妹があの頃の面影に重なる。
「オレンジジュースでいいですか?」
「うん、なんでもいいよ」
パックのオレンジジュースをグラスに注ぎ、冷凍庫から氷を2個取り出して入れる。
パリパリとひびの割れる小気味良い音が鳴った。
- 156 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:28
- 愛ちゃんは椅子に座ってテレビをぼーっと見ていた。
別に内容に興味をもっているわけでもなさそうに、ただぼーっと。
グラスをテーブルに置くと、愛ちゃんはハッと気づいて、ありがとう、と言った後、私の目を覗き込んだ。
「…まだ帰ってこないみたいやね」
「…うん」
私は首を縦に振る。
「ひょっとしたら急に泊まりになったのかもしれないし。
私はもう少しここにいますけど、愛ちゃんは先に寝ちゃっていいですよ」
「……ん。じゃ、これ飲んだら先に寝ちゃうね。ちょっと疲れたし」
そう言ってグラスに口をつけた。
分かってる。
愛ちゃんが気をつかってくれたのは。
ここからは一人でじゃないと意味がないから。
愛ちゃんに背中を押してもらってここまできたけど、ここからは一人で。
- 157 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:29
- ◇
真っ白な世界に私は立っていた。
その世界に一際目立つ、目に刺さるようなライトグリーンのユニフォーム。
私はこのユニフォームを着るのがあまり好きではなかった。
派手すぎるというものあるけど、これを着て走るときは他の知らない人たちと一緒に走らなきゃダメだから。
私は誰にも邪魔されないで、一人で走っていたい。
だからスタートと同時に私はまず、ダッシュをかけて先頭にたつようにしていた。
一度トップになればそこからは他人のことを考えず、自分のことだけ…いいや、それさえも消してしまう。
何も思わず、ただ走るだけだ。
でも今日はスタートダッシュをかける必要はなさそうだった。
何故ならこの世界にいるのは私、一人。
ゆっくりとあてどなく走り出す。
何かに追われているような、何かを追っているような。
ま、いいや。
とにかく走るんだ。
何処へ?
分からない。
- 158 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:30
- どれくらい走ったんだろう。
部の練習の時とは違ってペースも何も考えずに走りつづけている。
第一、ゴールがどこかも分からないからペースの配分の仕様がない。
足が痛い。
体中の筋肉が悲鳴をあげている。
呼吸を繰り返しても息が苦しい。
私の肺胞の一つ一つが酸素を求めて叫んでいる。
汗が額を、鼻を、頬を伝う。
やがてそれは滴り落ち、地面に染みていく。
脳への酸素の供給が足りなくなってきたのか、視界がぼやけてきた。
意識が朦朧とする。
足の運びも散々だ。
もつれてしまって、さっきから何回も転びそうになっている。
それでも。
それでも。
- 159 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:32
- 気のせいかもしれない。
遠くに人のような、薄い影がみえた。
白い世界に薄い灰色のインクを垂らしたような、そんな影。
それは1つにも3つにもみえる。
私はとにかくそれに向かって走り出した。
やがて少しずつ近づく影。
輪郭がぼんやりと見えてくる。
私はそれに触れたいんだと思う。
けど触れられないんだ。
臆病なんだ。
急に膝の力が抜けて、もつれた足はそのまま地面に叩きつけられた。
こすれた膝小僧に赤いのが滲む。
もうすっかり消耗しきっている私はすぐに顔を上げることができない。
このままここに座り込んでしまえばどんなに楽なことだろう。
本当に?
それが私の望むこと?
…ううん。
ゆらりと顔を前に向けた。
影が、遠くなっていく。
何かに吸い込まれていくかのように、ゆっくりゆっくりと消え去っていく。
待って。
行かないで。
ねぇ待ってよ。
待っ――――――――――
―――――――
―――――
―――
――
―
- 160 名前:走る 投稿日:2003/09/23(火) 18:33
- テーブルに突っ伏したまま、ゆっくり目を開いた。
体中に嫌な汗をかいている。
どれくらい眠ってしまったんだろう。
時計が少し気になったけど、なんとなく確認する気は起きなかった。
もう少しだけこうしていたい。
テーブルに頬をくっつけるとひんやりとして気持ちが良かった。
部屋がやけに静かだ。
あ、そうだ、さっきまでついていたTVが消えてるんだ。
…私が消した?
いや、その記憶はない。
あっ、と思って慌てて目線を上げた。
「お母さん…」
- 161 名前:arkanoid 投稿日:2003/09/23(火) 18:47
- …すいません、間が空いてしまいました。
その上この出来。
ほぼノープランで書き始めたつけが今回ってきてる感じです。
放棄だけは、放棄だけは(2回言ってみる)避けたいので、頑張ります…。
>97さん
真っ青ですよ。むしろ黒に近い青。
そして今後の展開をほとんど考えていない作者の顔も青いです。
>145さん
レス(初ですかね?)ありがとうございます!
そう言われると、よーしパパ頑張っちゃうぞ、ってな気持ちになります。
これからも気が向いた時にでもレス頂ければ嬉しいです。
- 162 名前:97 投稿日:2003/09/28(日) 21:48
- 放置じゃなければ何時までも待てMAX!
紺野さんの過去が少しずつ見えてきそう。高橋さんがどう絡むか楽しみです。
マイオールドタイマー
走れ
- 163 名前:名無しダム 投稿日:2003/10/09(木) 23:22
- 初レスです。この小説の世界観が大好きです。
東京の無機質さと田舎の土の感じがステキです。
登場人物のイメージもピッタリだし。
自分の我侭な希望としては高橋さんの家の近くには田んぼが広がっていてほしいです。
次の更新気長に待ってます。
- 164 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:08
- ◇
その日一度家に帰宅した私は、沈みかけの夕日を背に再び学校への道を辿っていた。
明日からの中学生活初めての期末試験。
勉強をしようと思って机に向かったところで、科学のプリントのファイルを忘れてきてしまったことに初めて気づいた。
机の中にぽつんと取り残されていたそのファイルをを見つけると同時に、自分に呆れてため息を一つつく。
テスト期間中だから午前授業で部活も無し。
もう誰も生徒の残っていないであろう空っぽの校舎に一人でいるとなんだか悪いことをしているような気がして、いそいそと校舎を後にした。
早く帰って勉強しなきゃな、なんて思っていた時、トラックへと続くアスファルトの階段にぽつんと佇む背中が目に留まった。
長い茶色の髪が夕日に照らされて赤く染まっていた。
「…後藤先輩」
「んー?…紺野かぁ」
一瞬振り返ってこちらを見遣ってから、再びトラックの方に目を向ける。
誰もいない校庭に伸びる、フェンスの長い影。
昼の間に蓄えられた初夏の熱は狭い空に少しずつ奪い取られていく。
挨拶だけして立ち去ってしまっても良かったのかもしれない。
だけど、後藤先輩の背中がなんとなく”そこにいろ”といっているような気がして、私はその場に留まっていた。
後藤先輩はしばらくトラックをぼーっと見ていた。
何を見ているのだろうか。
何が見えているのだろうか。
後藤先輩越しの夕日がやたらと赤かった。
- 165 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:09
- 「紺野ってさぁ」
不意に自分の名前を呼ばれてどきっとした。
「は、はい!」
「…そんな驚かないでよ」
振り返った後藤先輩の顔は逆光になっていて表情が分からない。
泣いているかのようにも、苦笑いを浮かべているようにも見えた。
「紺野ってさぁ、何か逃げるように走ってるよね」
「……そうですか…?」
「うん、何かいつも追われて走ってる感じ。フォームとかは綺麗なんだけど、なんとなくいっつも苦しそうに見えるんだよね」
「…………」
「紺野は何で走ってるの?」
「…分かりませんよ、そんなの」
「あのさ、後藤、思うんだけど。走るってのはさ。」
暗く影になっている表情が、なんだか少し照れてはにかんで微笑んでいるように感じた。
「あくまで、私はってことだけど…走るってのは――――――――」
私は夕日の眩しさに思わず目をひそめた。
後藤先輩は次の日、陸上部を辞めた。
翌日からの期末試験を受けることもなかった。
後藤先輩はその日から学校に来なかった。
- 166 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:11
- ◇
「…愛ちゃん、起きてください……愛ちゃん…愛ちゃん」
そっと声をかけながら肩を少しだけ揺さぶると、瞼がゆっくりと持ち上がった。
眠たげな瞳は、しぱしぱと小さく瞬きを繰り返す。
「……おはよ」
「おはようございます。今日はお出かけするって言ってたじゃないですか。いい天気ですよ」
「…あ……うん」
「ほら、早く準備しないと遅くなっちゃいますよ」
愛ちゃんは私の妙なテンションに少し怪訝そうな顔を浮かべながら、もそもそと布団から抜け出してきた。
まだ寝ぼけているのか、眉間に皺を寄せながら左手の平で顔をごしごしと擦る。
「あれ、それ…」
「…ん?」
私は手首の辺りに捲かれた赤いタオルに気がつく。
そういえば前、愛ちゃんの家に遊びに行った時も手に持ってた。
- 167 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:13
- 「おまじない、みたいなものですか?」
「これ?…うん、そう、おまじないみたいなもの」
そう言って静かに微笑みながら、パジャマの袖に手首をすっと引っ込める。
「恋愛成就…みたいな?」
「…ほんとですか?」
「…ウ・ソ」
「…」
「…」
ちょっとの間があってから愛ちゃんがプッと吹き出して、私もそれにつられる。
きらきらと朝日が差し込む部屋の中に笑い声が溢れた。
「ちょっとー…やめて下さいよ〜…ほんと、あ〜おかしい…――――?」
急に一つ減った笑い声。
愛ちゃんは真面目な顔に戻ってこちらを見ていた。
「ねぇ、あさ美ちゃん…昨日は…」
「あ、ほら、早く準備しないと。私、朝御飯の準備してきますね」
咄嗟に愛ちゃんの言葉をかき消して、キッチンへと向かう。
窓からは差す日はやけに眩しくて、強い力に満ちている。
ほら、今日はこんなにいい天気だ。
こんな日はせめて笑っていよう。
- 168 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:14
- ◇
東京に住んではいたものの、都心の方に遊びに行くなんてことはほとんどなかった。
だから原宿も初めてだったし、お台場にも初めて行った。
連休中の所為かどちらも人だらけでちょっとうんざりしたけれど、愛ちゃんはちょっとしたことにも、
わぁ!とか、きゃー!とか過剰に反応して、私はそんな愛ちゃんを見ているのが楽しかった。
さっきだって愛ちゃんたっての希望で宝塚のグッズ専門店に行ったのだけど、店に入った瞬間から目をきらきらと輝かせて、ずっとはしゃぎっぱなしで。
時間をたっぷりかけていろいろと見て回って、悩みに悩んだ挙句ビデオ二本を購入。
欲しがってた玩具を買ってもらった子供のように、さっきから何度もビデオが包装されている袋を取り出しては眺め、悦に入っている。
そして今日の締めくくり。
私たちはその根っこに立って、空にすらっと伸びた赤の三角を見上げる。
さっきまで乗っていた山手線の車窓からもその背の高い姿を確認することができた。
訪れている観光客の年齢層も今までの所より若干高めで、私たちは少しだけ浮いているような気がした。
「東京にきて”コレ”ってのもちょっとベタやよね」
「愛ちゃんが近くにあるんだったら行きたいって云ったんじゃないですか。
それに私も行ったことないし…いいじゃないですか。いきましょ!」
愛ちゃんの腕をぐいっと取って、人の波の中に飛び込んだ。
- 169 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:15
-
展望室からアスファルトの街を見下ろした。
ジオラマのような建物の隙間を豆粒ほどの大きさの人や車がせわしく行き来している。
こうしてみるとそれらの一つ一つはそれ自体は意志を持たずに、まるで誰か――神様か何かが操作して動かしているかのようにも思えた。
ひょっとしたら私も神様にゲームのように操作されているのかもしれない。
神様の気まぐれで私は走ったり、止まったり、泣いたり、笑ったりしてるんだ。
そう、私が走ってたことに意味なんか無い。
神様が沢山ある選択肢の中から陸上部ってのを勝手に選んだだけなんだ。
意味なんか無い。
…神様、そのゲームは楽しいですか?
「――――――ちゃん、あさ美ちゃん」
「――え?…あぁ、すいません!」
「んもぅ、またボーっとして」
「…違いますよぉ、景色に見とれてたんです」
「そういうのをボーっとするっていうの」
フフッとお互い顔を見合わせて軽く微笑んだ。
愛ちゃんは笑うと鼻の辺りにくっと皺が寄る。
- 170 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:16
- 「あー、今日は楽しかった」
「はい、私も楽しかったです」
「東京に住むってのも悪くないかもね」
「…そうですか?」
「…あさ美ちゃんは東京嫌い?」
「…あんまりいい思い出ないです」
「そう…」
そこで話が途切れると、愛ちゃんは目線を空に移した。
私は愛ちゃんがこうして空を見上げる横顔をもう何度も目にしている。
その横顔は、どこか私と違う世界に愛ちゃんが行ってしまうような気がして、私を少しだけ不安な気持ちにさせる。
「…それにしてもすんごいよね。こんな大きいもの造ってこんなに空に近づけちゃうんだから」
「え…それって何かおかしいですよ。展望室とかってのは下の世界を見下ろすためにあるんじゃないですか?」
「…そうかなぁ?…でも私、空、見てると何だか安心できるんよ。
昨日の飛行機だって何か凄く気持ちよくて…おかげでほとんど眠りっぱなしだったけど」
また、顔に皺を寄せて笑った。
- 171 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:17
- 「ほら、あさ美ちゃんも見てみて、空がすぐそこだから」
促されるまま空を見上げる。
視界一杯に青が拡がった。
その青さはすーっと心の中に入り込んでくる。
「ね、ほんとに近くにみえるよね」
「はい…本当に」
「あさ美ちゃんだったら走って翔んでいけるんじゃない?」
「え?」
愛ちゃんは空を見上げながら続けた。
「いや、初めてあさ美ちゃんと会った時さ、ラブリー追っかけて走ってってくれたじゃん。
なんかそれ見てて凄いなって思った。
速いとかそういうことじゃなく、走ってるっていうよりは軽やかに翔んでるように見えたよ。
ひょっとしたらこのまま空まで翔んでゆくんじゃないかって」
「そんな…」
「もう一度、あさ美ちゃんの走る姿が見たかった。
あさ美ちゃんに私を空に連れてってほしかった」
「そんなことできません!」
思わず大きな声を出してしまった。
愛ちゃんの肩がビクッと震えた。
外の景色を楽しんでいた観光客のうち何人かが振り返った。
- 172 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:19
- 「私、ダメです。全然ダメです。
昨日だって、お母さんと何にも話せなかった。
せっかく愛ちゃんにここまで連れてきてもらったのに、私、何にもできなくて…」
「そっか…ごめん」
「愛ちゃんが謝る必要なんてないよ。私がダメなの。
何か大事なことを言わなきゃいけないはずなのに、いざってなると言葉が出なかった。
何のためにここまで来たんだろう、何のためにわざわざこんなところまで…。
私、翔ぶなんてことできません。走ることすら…もう……」
言葉の切れ端と涙を一緒に飲み込んだ。
今日は泣かないって決めたんだ。
喉の奥にしょっぱい味が拡がった。
俯いたら、零れ落ちてしまいそうだから、じっとまっすぐ前を見た。
「あのさ」
愛ちゃんはそんな私の目を逸らさずに捉えて、云った。
「あさ美ちゃんは、何のために走ってたの?」
- 173 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:21
-
トクン。
瞬間――私の心臓がその言葉に反応して跳ねた。
そういえば、前にも同じことを私に訊いた人がいた。
夕暮れの狭いグラウンド。
茶色い長い髪。
少しも似てないはずのに、愛ちゃんとその人の面影が重なる。
「前にさ、あさ美ちゃんの話、聞いててなんとなく思った。別に逃げるために走ってたんじゃないんじゃないかなって。
ねえ、何のために走ってたの?」
「そんなの…分からな……」
あの時、後藤先輩は何て言ったっけ?
『走るってのは―――――――』
そのことだけが思い出せない。
「私…私……」
『走るってのは―――――――』
――――――――!
- 174 名前:走る 投稿日:2003/10/13(月) 02:22
-
「ねぇ、愛ちゃん!」
「な、何?」
「愛ちゃん、ここから一人で帰れる?」
「え?…あ、えーと、うん、多分、大丈夫だと思うけど」
「ごめんなさい!私、ちょっと行くところができた!先、帰ってて!」
「えぇ!ちょ、ちょっと!」
「帰り方、分からなくなったら電話してください!」
言い終わる前に、私は既に人ごみの中に紛れて駆け出していた。
行かなきゃ。
確かめなきゃ。
後藤先輩に会わなきゃ。
- 175 名前:arkanoid 投稿日:2003/10/13(月) 02:54
- とりあえず更新しました。
最近はめっきりと頻度が落ちてしまいまして…。
なんとか最後まではもっていきます。
>97さん
もはや97さんと呼ぶのもおこがましい。
凹みがちな駄作者に毎回の様に暖かなレスをくれていた足長おじさんはあなただったんですね(w
なんとか完結までこぎつけるので、これからもよろしくお願いします。
青板のほうにもそのうちお邪魔するかもしれません。
>名無しダムさん
初レス多謝です!
作者が田舎出身ですので、そこらへんは自分の見てきた風景を生かしているのかもしれません。
なるべくお待たせしないように更新したいしたいんですけどね…。
待っている時間もデートの内、というのでご容赦ください(w
- 176 名前:足長”お兄さん” 投稿日:2003/10/14(火) 23:33
- 後藤さんの儚い感じに酔ったり、撒かれた小ネタに笑ったり、モー大変でした。
紺野さんと高橋さんの性格の違いが面白いです。紺野さんの1人称で、紺野さんだけでなく高橋さんの性格まで伝わってきます。
自分はセリフヲタなんですが、作者さんはセリフがとてもステキングです。
続き、鬼期待です。
川’ー’川<青はストレンジャー以外お断りやよー
- 177 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:21
- ◇
最後に後藤先輩を見たのはもう秋も終わりに近づいた頃のこと。
その日は都選抜の合同練習会で、いつも走っている中学のグラウンドではなく、少し離れた所にある都の陸上競技場で練習をしていた。
普段に比べ中身の濃い練習が終わるとその場で現地解散。
私の中学からは自分だけしか参加していなかったので、付き添いの先生もいない私は、一人で駅までの道を歩いていた。
練習で疲れた体に冷たい風が吹き付ける。
ジャージのファスナーを首元まで全部閉めても、寒さはじわじわと染み込んでくる。
吐く息はうっすらと白く見えて、やがて空気に混じっていく。
早く暖かい所に行きたいがために、足の運びは自然と速いものになった。
駅に近づくにつれてファーストフードやら飲み屋やらのお店が増えていき、それぞれ自分勝手なネオンを街にばらまいている。
コンビニの前に座り込んでいる若い男女の固まり。
くたびれた顔をして今にも倒れそうにふらふらと歩く背広の中年。
道端にダンボールと新聞紙で寝転んでいる、多分家の無いおじさんたち。
今日の練習会で初めて降りた駅だけど、あまり好きにはなれそうになかった。
私はそれらのものを目に入れないように斜め下だけを見つめて、やり過ごすように道を急いだ。
駅前の小さな広場に差し掛かった時だった。
ふと視界に入ったその姿に、私の足はぴたりと止まった。
久し振りに見る綺麗な茶色い長い髪が、暗くなっても星も見えないような空の下で揺れていた。
後藤先輩は歌っていた。
- 178 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:22
- ◇
一瞬、グラウンドに立っている彼女が自分のように見えた。
休日であるうえに、もう夕方。
学校に来ても誰もいないだろうと思っていたけど、後藤先輩に会う手がかりを得るにはここに来るしか思い浮かばなかった。
トラックの直線のコースには、膝を下ろしクラウチングスタートの姿勢をとる一人の少女。
中学生の時は狭いと感じていたグラウンドも、こうして客観的に見渡すと、一人には広すぎる位だ。
やがてその腰を手と足で支えるように上げ、少しの間の後、少女ははじけるように走り出した。
あの日、後藤先輩が座っていた所と、まったく同じ場所に私が腰を下ろしたのは無意識の内だろうか。
夕暮れの中、一人で走るのと、それを見てるの、どっちが淋しいんだろう。
そんなことを考えている間に、少女は徐々にスピードを緩め そして立ち止まる。
彼女はスプリンターだった。
彼女がスタートの位置に戻ろうと体の向きを変えた瞬間、視線が私とぶつかった。
彼女――亀井さんは一瞬、幽霊でもみたかのようなひどく驚いたような顔をして、その後、薄く微笑んだ。
- 179 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:23
- 「…久しぶりです、紺野さん」
「…そうだね…亀井さん」
練習を途中で切り上げた亀井さんは、私の隣にちょこんと腰を下ろした。
「名前、覚えててくれたんだね」
「はい…私の方こそ覚えててもらって…嬉しいです」
「うん…」
私が2年生の時に彼女が入部してきたから、一緒の部員として過ごした時間は、私が走るのを辞めるまでのおよそ4ヶ月。
その間も、彼女と会話を交わした記憶はほとんどなかった。
だからこうして今、一緒に話しているのはどこか不思議な感じがする。
「…今はどうしてるんですか?」
「北海道のね、高校に通ってるの。そっちにおばあちゃんがいてそこに住まわせてもらってるんだけど…」
「そう…ですか」
「ゴールデンウィークだからね、こっちに戻ってきたの。この中学校も変わらないね」
「…あ、あの、紺野さん…高校で1500は…」
最後まで言い終わるより先に、私は首を横に振った。
「……そうですか」
亀井さんは、そう小さく呟いて俯いた。
- 180 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:24
- 会話が途切れ、静寂が訪れる。
演者を失った舞台と化したグラウンドの上を風が吹き抜ける。
飛行機がちょうど真上を飛んでいるらしく、その轟音が辺りを包んで、それが行ってしまうと再びグラウンドに静けさが戻る。
その静けさを丁寧に破るように、声をそっと押し出した。
「…頑張るね。休日にこんな遅くまで」
「あ…はい。ありがとうございます…」
「でも、ゆっくり体を休めるのも練習の内だよ」
「…紺野さんに言われても」
「え?」
「紺野さんに言われても説得力ないですよ」
亀井さんはため息に似た笑いを洩らし、囁くように言葉を続けた。
「だって紺野さんも、いつも遅くまで一人で走ってたから。
私、知ってましたよ。時々、友達と一緒に帰るの断って見てたんです、走るの」
「え、そうなの…。なんか恥ずかしいな」
「何回か、声かけようかと思いました。けど、走ってる紺野さん、どこか人を寄せ付けない雰囲気があって…。
そうこうしてる間に、紺野さん、走るの辞めちゃって…」
「…ごめんなさい」
?
何で私、謝ったんだろう。
一人で勝手に走って、一人で勝手に辞めたんだ。
そこに他人の存在は無いはずなのに。
でも、亀井さんの斜め45度に伏せた眼差しを見ていると謝らずにはいられなかった。
「…そうだ、あんまりゆっくりもしてられないんだ。亀井さん、部室の鍵持ってる?」
「あ…はい、一応、私、部長なんですよ。あんまり見えないかもしれないけど…」
「へぇ、そうなんだ。…鍵、貸してもらっていい?ちょっと調べたいことがあるの」
「ええ…ちょっと待ってて下さい」
- 181 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:26
- ――――
―――
――
―
「ありがとう」
「もういいんですか?」
「うん、そんなにたいしたことじゃないから」
鍵を小さな手のひらにそっと置いた。
「じゃ、行くね」
亀井さんは何か言いたげに、でも口を噤んだまま俯いている。
私は少しの間、言葉を待ったけど、もう沈み始めた太陽を見て、踵を返して歩き始めた。
その時―――
「あ、あの」
押しつぶされそうなほど細い声が、かろうじて私の耳に届いた。
その声に振り返ってはみたものの、亀井さんはじっとこちらを見ているだけで言葉は無かった。
私は今日初めて亀井さんの目をしっかりと見た。
- 182 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:27
-
「亀井さんはどうして走ってるの?」
言葉は自然と私の口からこぼれた。
亀井さんは、えっ、とちょっと困ったような顔をしてから、また斜め下を俯いて口を開いた。
「…私、こんな名前だから。苗字に『亀』なんか入ってるから。
小学校の頃、よく男子に馬鹿にされて。それにこんな性格だし…。
それで悔しくて、足、速くなってやろうって。足、速くなれば何か変われるんじゃないかって。
…下らない理由ですよね」
「…ううん、そんなことないよ…そんなことないと思う。
…走る理由を自分でちゃんと見つけてるんだね」
「そんな…」
「…私は、何で走ってたのか分からなくなっちゃった」
最後は、亀井さんに向けた言葉ではなかった。
「じゃ、またね」と言ってグラウンドに背を向ける。
いつかまたここに来ることはあるんだろうか。
ひょっとしたらもう二度と来ないかもしれない。
そう思ったら足がなんだか急に重たくなった気がした。
「また、いつか紺野さんの走ってるところ、見たいです!」
不意に背中から聞こえた、精一杯絞ったか細い声。
胸がきゅうっと締め付けられた。
私ができるのは、振り返って、ただ曖昧に微笑むことだけだった。
- 183 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:29
- ◇
駅への道の途中、赤信号で立ち止まっていた私の携帯が震えた。
愛ちゃんからの着信。
「もしもし、愛ちゃん?」
『もしもし!?』
小さなスピーカーから聞こえる声はどこか慌てた様子だった。
「…大丈夫ですか?」
『あ、なんとか家には帰れた…』
「そう、良かったぁ」
信号の色が青に変わって、歩き出す沢山の人々。
私もそれに混じって横断歩道の白を跨ぐ。
『それより!あさ美ちゃん、いつ帰ってくるの!?』
「…すいません、まだちょっと分からないです」
後ろのほうからやってきた自転車に、チリンチリンとベルを鳴らされて慌てて道をどける。
こちらの方を少しも見ずに自転車は私を追い抜いていった。
愛ちゃんは話しにくそうに、少し間を置いて、それからおそるおそる喋りだした。
『さっき、妹さんから聞いたんやけど…お母さん、今日の夜から2週間ほど家空けるって…』
歩行者だけでなく車も一斉に動き出す。
大型のトラックが大きな音を轟かせて走っていく。
「……はい」
『…知ってたの?』
「はい、昨日、お母さんから聞きました。年に一回ほど海外の方に行くんです、仕事で。そういえば毎年この辺りの時期でした」
『じゃ、じゃあ!今、会わなきゃ!私たちも明日戻るんだから、またしばらく会えなくなっちゃうよ!』
横断歩道を渡り終えた私はぴたりと足を止めた。
「…………」
『ねぇ、あさ美ちゃんってば!会わなきゃ、ねぇ!』
- 184 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:30
- 黙り込んで立ち止まっている私を、ちらりと横目で見ながら歩行者は追い抜いていく。
信号の色が再び変わる。
私のすぐ後ろを車の排気音が走り去った。
私は静かに、でも強く言葉を放った。
「…すいません、今は行かなきゃいけないと思うんです」
『行くって…どこに…?』
「行けば、分かるかもしれないんです」
『あさ美ちゃん…』
「だから…すいません……」
愛ちゃんは何も言わなかった。
いくつもの街の音が右に左に駆け巡る。
何重にも重なる車の排気音、それを縫うように遠くから聞こえる人の話す声、空には夕暮れを飛ぶ鳥の鳴声。
私はそれを目を閉じて聞いていた。
やがて小さなスピーカーから優しい声がそっと聞こえてきた。
『…………そう…きっと大事なことなんやね』
「…はい、多分」
『…私、待ってるからね』
「…え?」
『私が待ってるから。だから、うん、行ってきて』
マッテルカラ。
その言葉は心に絆創膏のようにぺったんと張りついた。
とても優しい言葉だと思った。
私のことを待っててくれる人がいるんだ。
「…はい!」
通話を切って、少しの間、携帯の画面を見つめる。
そして、前を見上げて、私は再び歩き出した。
- 185 名前:走る 投稿日:2003/10/25(土) 02:43
- 更新終了です。
突っ込みどころはいろいろあるかもしれませんが、今は前に進むのみです。
>97さん
おじさん呼ばわり、すいません…おにーたま。
『大事なこと』を話せなかったという解釈をしていただければありがたいです。
わかりづらくて申し訳。
- 186 名前:97 投稿日:2003/11/04(火) 18:20
- 小生はこの青春フレーバーが大好きだ。
それぞれの決意、信頼、そこには飾り付けられた言葉はいらない。
あるのは気持ちと気持ちのやりとり。
そこにそえるは丁寧で綺麗な描写と優しい比喩。
おらドキドキしてきただ!続きめちゃ×2期待!
- 187 名前:名無し 投稿日:2003/12/10(水) 21:42
- 保全します
- 188 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/17(水) 15:33
- 一応落ちしときますが、更新待ってますよ。
- 189 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:41
- ◇
私は声をかけることができず遠巻きに後藤先輩を眺めていた。
座り込んでフォークギターを抱えている後藤先輩は、そのこじんまりとした広場でやけに小さく見えた。
学校で見ていたときは、何かこう、とてつもない存在感みたいなのがあったのに、それがすっかりと消えうせていた。
呆れるほどに騒がしい街に、歌声もかき消されていく。
足を止める人もいない。
こんな所で何してるんだろう。
陸上部には夏休み前からもう顔を見せなくなっていた。
それどころか学校にすら来ていないらしい。
曲が一区切りついたらしく、ギターを脇に置いて体育座りのような格好で背中の壁にもたれかかる。
流れていく歩行者をぼーっとみている視線は、あの放課後の後藤先輩だった。
あの瞳は何を映しているのだろうか。
しばらくして、また思い出したようにギターを抱えては丁寧に弦を弾く。
一本、一本、弦をしっかり見据えて弾いていく。
イントロが終わりに近づいて、顔をぐっと振り上げて歌いだす瞬間――――
笑った。
後藤先輩は確かに笑った。
今まで私たちが見ていたのとは全然違う笑顔。
私はそれを見た瞬間、無意識のうちに駅へと向かって歩き出していた。
後藤先輩の方を見ないように、すっと前を通り過ぎる。
その時、私はどんな感情を抱いていたのだろうか。
とにかく、もう後藤先輩を見ていることができなかった。
先輩に気づかれることもなく、私も流れていく歩行者の一員になった。
- 190 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:45
- ◇
小さな商店街の一角、こじんまりとした居酒屋の前に私は立っていた。
埃っぽい部室に埋もれていた3年前の部員名簿の住所。
後藤先輩の家が居酒屋だということを店の前まできて初めて知った。
話す機会もそんなになかったのだから、それもあたりまえの話か。
…私の事、覚えててくれてるかな。
少しだけ不安を胸に抱きつつ、おそるおそる店の扉を引いた。
「いらっしゃ……あら、どなた?」
カウンターの中の艶やかな女性。
そんなに若くはないけれど、おばさんと呼ぶにはとても似つかわしくないように思えた。
お通しの漬物を刻んでいたようだが、今はその手を止めて、場違いな客人の私を不思議そうに見つめている。
「あ、あの、私、紺野あさ美と申しまして…え、えーと、中学生の時に、り、陸上部で真希さんにお世話になりまして…
…真希さんのお母さん…ですか?」
「…そうだけど?」
先輩の名前を口に出した途端、顔色が曇ったような気がして、一瞬、次の言葉を発するのを躊躇った。
「…あ、あの、今日は真希さんは?」
返事はすぐに返ってこなかった。
沈黙の気まずい空気に私の質問がぽかんと浮かんだまま。
先輩のお母さんはしばらく呆けたように遠くを見つめたが、やがて再びまな板に視線を落とし包丁で淡々と漬物を刻みはじめた。
「…知らないよ、あんな馬鹿娘のことなんか」
吐き捨てるように呟いた声がまな板を叩く音に溶ける。
知らないよ、と言った唇が少し震えていた。
「し、知らないって…」
「…用はそれだけ?…じゃあ、客じゃないんだったらさっさと出てってちょうだい」
ぴしゃりと叩き付けられた言葉に押し黙ってしまう。
何か言わなきゃならないのに何にも言葉が出てこない。
トントンと包丁を振るう音だけがそう広くない店内に虚しく響く。
- 191 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:46
- そうこうしている間に、店の引き戸ががらがらと引かれ、サラリーマンらしき背広の中年の男性が3人、ぞろぞろと入ってきた。
先輩のお母さんは急に表情を変えて、「あら、いらっしゃい」とにこやかに振る舞うが、
その右手は私に向かって、まるで犬にでもするようにしっしっと振られていた。
それを見た私はサラリーマンと入れ替わるようにすごすごと店を出る。
すれ違いざま、背広に染み付いたタバコの匂いがやけに鼻についた。
もうすっかり暗くなった空には商店街の灯りに紛れるように星が薄く輝いている。
それを見上げながら、ゆっくりと店の前にしゃがみ込んだ。
どうしたんだろう…先輩。お母さんと何かあったのかな。
とりあえず少しだけ待ってみよう。
- 192 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:47
- しばらくの間、ぼーっとそこにしゃがみこんでいた。
商店街を歩く人たちは誰もが一瞬だけこちらを見て、また素知らぬ顔して歩いていく。
きっと変な子だと思われてるだろうな。
そう考えると何だか急に気恥ずかしくなる。
今度は向こうからバイクのライトがうるさいほどの排気音で近づいてきた。
猛スピードで駆け抜けていくと思っていたバイクは意外にも徐々にスピードを緩め、やがてゆっくりと私の前に止まった。
ヘルメットを取った男性の顔を見て私は思わず、あっ、と声を上げた。
「…ウチに何か用?」
怪訝そうにこちらを睨み付けるその眼は後藤先輩にそっくりだったから。
- 193 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:50
- 「あ、あの、私、真希さんに会いにきて…!」
慌てて立ち上がりながら喋ったら、勢い余って少しだけ前につんのめってしまった。
ドッドッと胸に響くようなエンジン音がうるさくて自然と大きな声になる。
「…姉ちゃんに?」
八の字に曲がる眉。
「…弟さんですか? 私、真希さんの陸上部の後輩で…紺野あさ美と申しまして…!」
「あんた、いくつ?」
「え?」
「歳だよ、歳。いくつ?」
やっとのことでエンジンを切ると、彼は気怠るそうににバイクから降りた。
「15ですけど…」
「年下に弟さんとか言われるとなんかムカツクんだけど」
「あ、す、すいません…」
「ま、いいけどさ、別に……ちょっと邪魔、どいて」
「す、すいません!」
バイクのまん前に立っていた私は慌てて道を空けた。
なんだかさっきから謝ってばかりいる。
店の脇の狭い隙間にバイクをぴったりと収めてから、切れ長の目でこちらを振り向く。
表情が少しも動かない。
笑っているのか、怒っているのか少しも分からない。
正直少し、怖い、と思った。
- 194 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:51
- 「で、姉ちゃんに何の用?」
「え?…あ、いや、私、今、北海道の高校に行ってて、それで久し振りにこっち戻ってきたから、会いたいなって思って…」
「ふーん、あっそ」
全く興味なさげな返事が抑揚の無い声で返ってきた。
「…あの、今日真希さんは?」
「いないよ」
「あ…どこかへ出かけてらっしゃるんですか?」
フフン、と表情を崩さずに鼻で笑う。
「そう、出かけてるよ。もう二年以上もずっと」
「え…それってどういう…」
「出てった」
まるで『コンビニに行った』というのと同じような口調。
表情もまるで変わらずに。
「出てったって…どこにですか?」
「知らなーい。死んでなきゃどっかで生きてるんじゃない?
そんなわけでここには姉ちゃんはいませーん。残念でした」
「あ、ちょ、ちょっと!」
そんなおどけた言葉を置いて店の中に入ろうとした彼の腕を慌ててつかむ。
「何?」
「…心配じゃないんですか?」
「…別に今更。それに心配するようなキャラじゃないでしょ」
途端、一瞬だけ表情の仮面に罅が入った。
罅の隙間から感情が抑えきれないように滲み出る。
「…それにさ、俺、姉ちゃんのこと嫌いだから」
「え…?………あっ!」
私の手を振り解くと、ガラガラと店の戸を開いて中へと入っていった。
店の中から、『まったく、どこぶらぶらふらついてんだか』とか『うっせーなぁ』とかそんなやりとりが聞こえてくる。
そんな家族のやりとりの一つ一つが、外で一人ぼっちの私に優しく刺さる。
店の中の灯りは何だかとても眩しくて。
- 195 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:54
-
後藤先輩の暮らしていた家をじっと見つめていた。
ここで先輩は食べて、眠っていた。
何かを思い、何かを考えた。
そして最後は出て行くことにした。
誰もいない夕暮れのグラウンドに何を見てたのですか。
逆光の表情は笑っていたのですか、泣いていたのですか。
走るってのは――何ですか。
走るのをやめた後藤先輩。
走るのをやめた私。
どこが違うのですか。
どうしたら私、もっと、もっと―――
とりとめの無い考えが頭の中をぐるぐると駆け巡る。
ここでこうしてても仕方が無い。
行こう、と思って、どこに?と自分に聞き返す。
行くところなんてどこにもない。
愛ちゃんの顔が一瞬浮かんで消えた。
それでもとりあえず歩き出そうとした瞬間。
店の戸がガラガラと音を立てた。
- 196 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:55
- 「…あんた、まだいたの?」
何も言わずにただ頷いた。
「…煙草買いに行くだけだから」
目を合わせずにサンダルを引きずって20mほど離れた自販機まで歩いていく。
ポケットに両方の手を突っ込んだ、その後ろ姿を黙って見送った。
彼はお金を入れると、少しの間、自販機の灯りをボーっと吸い寄せられるように見つめていた。
やがてハッと気づいたようにボタンを押すと、面倒くさそうに腰を曲げて箱を取り出し、ポケットに押し込みながらまたこちらに戻ってくる。
やはり私の視線は無視してそのまま戸に手をかけて――――。
「―――あーっ、くそっ!」
- 197 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:56
- 彼は戸を引かなかった。
大きな声と共に戸にかかっていた手をそのまま勢いよくポケットに突っ込んだ。
中から取り出したものを、こちらを見ないように手だけ伸ばして差し出す。
「ほら、これ!」
渡されたのは丸め込まれたくちゃくちゃの薄い紙のようなもの。
引き伸ばしてみるとお店の伝票だった。
「ちげーよ、裏だよ、裏」
慌ててぱっとひっくり返すと、皺になってしまった紙にちょっと失礼だけど決して綺麗とはいえないマジックの文字。
そっぽを向いたまま彼はぼそぼそと話した。
「…姉ちゃんのバイト先。
つっても二年以上も前のことだからそこにいるかどうかは分かんないけど」
「あ……でも…どうして…ですか?」
「…なんかマジっぽかったから。
なんかあるんでしょ、あいつに会う理由」
「…ありがとうございます」
くしゃくしゃのメモを両手で大事に胸に抱きながら深々と頭を下げた。
- 198 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:57
- 店の中から大きな笑い声が響いて、彼は不機嫌そうにポケットから煙草を取り出す。
煙はゆるゆると小さな商店街から夜空へと立ち昇っていく。
「あいつさ、歌手になりたいとか言い出しやがってさ。
だからもう学校に行く意味ないって、高校にも行かないっていきなり母ちゃんに言って。
それで大喧嘩したと思ったら、次の日にはもういなかった。
ホント、バカだな、あいつ」
初めて聞いた話だった。
当然のように私は後藤先輩の事を何も知らない。
あの日見た先輩の笑顔が今でも焼きついて離れない。
どうして――そんな顔で笑えるのですか。
- 199 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 18:58
-
「あの…ひとつだけ聞いてもいいですか?
さっき…お姉ちゃんのこと嫌いって…」
彼はお店の壁に寄っかかって、煙草を口から外して小さく一つ咳払いをした。
「確かに嫌いだよ。
ちっちゃい頃から、よく比べられてさ。
あいつはなんでも俺より巧くやった。
勉強だって、運動だって…喧嘩だって敵わなかった、あいつすげえ馬鹿力なんだよ」
初めて少しだけ笑った。
その笑みに先輩の面影が重なる。
「あんた、陸上部の後輩ったっけ?」
「あ…はい」
「…だよな。どっかで名前聞いたことあると思った。何か陸上部に凄いやつがいるって。
…俺も一応あの学校の陸上部だったから」
「え…そうなんですか!?」
「つっても入って二ヶ月で辞めたから知らなくて当然。
最初は、姉ちゃんに負けたくない一心で始めたんだけど、結局どこ行っても、後藤真希の弟、でしかなかった。
俺はあいつのおまけかよっていつも思ってた。
それでむかついてキレて、バイバイ」
力無く手を振る仕種が儚い。
- 200 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 19:00
- 「だからあいつが出てった時は正直せいせいした。
これでやっとで俺は俺になれるんだって。
…それがこのザマだけどね」
自嘲気味に笑いながら煙を噴き出す。
煙は夜の闇にすぐには溶け込まず白さを保ったまま、たゆたう。
「今日あんたが来て姉ちゃんのこと聞いてきて、久々に姉ちゃんのことでむかついた。
やっぱり姉ちゃんかよって。
でも、なんかちょっと懐かしかった。
ああ、そういやこんな感じだったなって
こういう風に苛ついてたなって」
なんかよくわかんねぇけど、と言って、また一つ咳払い。
「わかんねぇけど、なんか同じだよ、あんた。
結局、あいつに振り回されてるんだよ。
振り回されて、追っかけて…。
でもさ、今思うと、それ、実は嫌じゃなかったなって」
後藤先輩に似た遠い目はどこを見つめているのだろう。
「前、走ってるやつに急にいなくなられるのも困りもんだよ。
景色がいきなり広がっちゃって、どこ走ったらいいかわかんねぇ」
1500mを走っていたときのことを思い出す。
私の前にはいつも誰もいなかった、けど。
やっぱり誰かいた気もする。
誰?
- 201 名前:走る 投稿日:2003/12/18(木) 19:01
- 「あー、もし、あいつ生きてたらさ、たまには連絡くらいよこせっつっといて。
母ちゃんが心配してるって」
立ち上がりながら、少し照れたように頭をぽりぽりと掻いてそう付け加えた。
「分かりました!」
何だか少し嬉しくて思わず大きくなった返事に、彼はもうひとつ照れて苦笑いをした。
その笑顔はやっぱり後藤先輩に似ていた。
- 202 名前:arkanoid 投稿日:2003/12/18(木) 19:58
- …忘れ去られた頃におそるおそる更新です。
もし待ってくださっていた方がいましたらごめんなさい。
正直話がうまくまとまらなくて、このままユ○キ×紺野にでもしてしまおうかと頭をよぎりましたが思いとどまりました。
後は雰囲気で乗り切ります。
>97さん
遅くなってすいませんっした!
過度な期待は厳禁です。親の過剰な期待は子供を潰します。
やんわりと、ふんわりと見守ってください。
>187さん
保全ありがとうございます。
本来なら自分でやらなきゃいけないところですよね…。
>188さん
なんとか更新できました。
待ってくださる方がいるというのは励みになります。
- 203 名前:名無しジム 投稿日:2003/12/20(土) 02:46
- ごちーん!生き方が市井ちゃんぽいよー!
ユ●キー男だよー!帰って来いよー!
この雰囲気好きなんで、勢いで乗り切ってください。
そして、自分も言わねばならないでしょう。
「若者的最高峰」と。
- 204 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/21(日) 17:55
- 作者さんお帰りなさい。ってのは失礼ですね。w
更新『ありがとうございます』
- 205 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/22(月) 22:52
- 感動しつつ読み終えて、203のレスに吹いてしまった…w
- 206 名前:arkanoid 投稿日:2004/01/18(日) 22:36
- 自己保全+生存報告
とりあえず生きてます。
今月中にはなんとか更新しますのでもう少しだけお待ちください、すみません。
代わりといってはなんですが、妄想にまかせて短いの書きました。
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/blue/1059546339/の637からです。
お暇な方、どぞ。
では返レスだけさせていただきます。
>>名無しジムさん
モリソン?ドアーズ?…まさかスナイパー?第08MS小隊?w
「若者的最高峰」目指して頑張ります。
短編スレ建てようか迷ったんですが、スレッド2つ分の重さに耐え切れそうもないので今回は見送りました。
やりたいネタは若干あるので、近いうちに建てるかもしれません。
とりあえずはこっちのペースが上がってから考えます。
>>204さん
また旅に出てました。
今週を乗り切ればある程度定期的に更新できるとは思うのですが…。
週一更新とか大口叩いてた半年前の自分にチョップをくらわせたいです。
>>205さん
203さんのレスを引き出すための小説ですから。w
もはやそこも作品の一部としてご覧下さい。
- 207 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:38
- ◇
今、何時なのか確認する気にもならなかった。
毛布の温もりは優しい麻薬のように私を包んで逃がさない。
私もそれに抗うことなく身を委ねた。
もうずっと閉めっぱなしの厚手のカーテンを外から洩れる光がぼんやりと縁取る。
それは少なくとも今が日の出ている時間だということを教えてくれた。
目を閉じる。
眠れはしない。
それでも他にすることなんかない。
枕元に置いてある少女漫画も何遍繰り返し読んだことだろう。
主人公はいつだって明るくて、強くて、大勢の人に愛されている。
ページをめくってその世界に浸っている間はいいのだけれど。
1冊読み終えて、次の巻に手を伸ばすその隙間。
主人公と私が分離して私だけがこの現実に置いていかれる。
この現実――――私は一人ぼっちだった。
- 208 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:39
- どんなに孤独に身を包まれていても、絶望を抱えていても、現実問題、お腹は減る。
それは人間として仕方のないこと。
暖かな毛布に一時の別れを告げて、閉ざされのドアに手をかけた。
いつもこの瞬間、少しだけ緊張が走る。
おそるおそる扉を開けて―――溜め込んだ息を大きく吐き出す。
安堵の?それとも。
とにかく目前にはいつもの風景。
誰もいない食卓。
窓から差し込む赤みがかった光。
冷蔵庫の横にあるワゴンから菓子パンを2つ掠め取って、急いで部屋に戻った。
暗く湿った水槽のような私の部屋。
外の世界は水が無くて私はすぐに死んでしまうだろう。
ここでしか生きていけないんだ、きっと。
ベッドの上でむしゃむしゃとパンをほおばる。
ジャムの甘さが口の中に広がると吐き気がして、それでもぐっと呑み込んだ。
カーテンから洩れる光はさっきよりもその強さを増したように感じる。
私はそれから隠れるようにまた暖かい毛布の中に潜り込んだ。
どんどん私の居場所がなくなっていくような気がする。
隙間からこぼれる光が眩しい―――――
- 209 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:40
- ◇
私は歩いていた。
どこを目指すわけでもなく。
何も考えることもなく。
時間の経過も忘れて。
何かに引っ張られるように。
微弱な、でも確かな力に引きつけられるように。
――――
――
―
もらったメモのバイト先――どこにでもあるようなファミレスには、当然のように後藤先輩の姿はなかった。
頼み込んでなんとか教えてもらった履歴書の住所―――決して立派ではないアパートにはすでに別の名前の表札が入れられていた。
ぷつん。
ずいぶんあっさりと断ち切られた手がかりの糸。
今は別の人が住んでいるであろう部屋の前で呆然と立ち尽くしかなかった。
すーっと遠のいていく後藤先輩の背中。
もうどうすることもできない。
何の手がかりもない。
あとは大人しく家に帰るだけ―――のはずだった。
けれど、私の足が自然に動き出した。
- 210 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:41
- ―
――
―――
――――
行くあてなんかどこにもない。
けれど、私の思考はぱちりとスイッチを切ったかのようにまるで働かず、どこに行くのかなんて少しも疑問に思わなかった。
リモコンで命令されたロボットのように、ゆっくりと夜の東京を行進していく。
静かな住宅街、いくつも車線のある大きな国道、少し侘しい感じの線路沿い。
周りの風景なんか目もくれず、時の流れなんか少しも気にせずに歩いた。
まるで糸で引っ張られて動かされているあやつり人形みたいに。
この向こうで糸を引っ張っているのが誰なのか、何なのか。
その正体は分からないけれど。
その存在は確かに感じる。
- 211 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:42
- 目に飛び込んできた眩いネオンにふと思考のスイッチがオンに切り替わった。
気がつくと、いつの間にかずいぶん明るい通りを歩いていて、連休で浮かれたように騒ぐ声とか、、車のクラクションとかで通りは埋め尽くされていた。
歩き始めた頃は西の空でひっそりと輝いていた細い三日月も、今は建物の群れに呑みこまれてしまっている。
どのくらい時間がたったのだろうか。
途端にものすごい疲労感に襲われて、道の真中で思わず立ち止まると、派手な服を着た女性と肩がドンッとぶつかった。
女性は一瞬こちらをじろっと睨みつけて、また何事もなかったかのようにさっさと雑踏へと消えていく。
なんだかすごく泣きたくなった。
知らない街で、一人で、何してるんだろう。
何、こんなところまで歩いてきてるんだろう、馬鹿みたいだ。
もう、いいや、帰ろう、と思って、ふっと顔をあげた瞬間。
目の前の混みあったごみごみとした風景が、私の記憶の扉をコツコツとノックした。
――あの日も私は疲れていて。
行き交う人の波のスピードが、その扉を徐々に開いていく。
――何も考えないようにして歩いていて。
扉の向こうの景色。
――そして、あの人が歌っていた。
知ってる。
私、この街、知ってる。
- 212 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:43
- ◇
息を切らしてやってきた駅前の広場は何年か前に見た時とはすっかり様変わりしていた。
以前は申し訳程度に植えられていた小さな緑が、今では中央に大きな噴水が設けられていて、周りに等間隔に置かれた暖色の街灯はその噴水を煌びやかにライトアップしている。
こじんまりとした広場が、ちょっとお洒落なムードの公園に。
私の知らない所で、確実に時間が動いていたことを実感した。
私が最後に後藤先輩を見かけたこの場所。
ひょっとしたら後藤先輩は今でもこの場所で。
噴水の一角には大きな人だかりとそこから聞こえてくるギターの音色。
微かな希望にはやる心を押さえ、おそるおそる人の隙間から覗き込んだ。
- 213 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:44
- 歌っていたのは違う人だった。
というか全然違う人。
だってジャージを履いて甚兵衛を着るなんておかしな格好、後藤先輩はしないはず。
それに座っているからよくは見えないけど、おじさんが履くようなサンダルを履いているようにもみえる。
彼女は噴水にもたれかかるようにして座りながら歌っていて、それを中心に半円を描くように人が集まっていた。
足を止めて聴いている人は様々で、私と同じくらいの女の子から、大学生位の人、背広にネクタイのおじさんまでがその歌に聴き入っている。
これだけ人を集めれるということは結構長くここで歌っている人かもしれない。
だとすると、ひょっとしたら後藤先輩のことも知っているかも。
その可能性に期待して、私もそこに座り込んで彼女が歌い終わるのを待つことにした。
それにしても。
こんなに明るい曲なのに、彼女も笑顔で歌っているのに。
どうして、こんなに悲しく心に響くんだろう。
- 214 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:46
- ◇
「はい、今日はこれでおしまい!」
甚兵衛を着た女性がそういうと、えー、という残念がる声がそこら中から起こった。
「『ありがとうございまーす、じゃあ、明日のお友達はですね…』
…ってテレフォンショッキングかよ!」
どっと沸いた観客を静めるようにパンパンと手をはたく。
「はいはい、おしまい、おしまーい。GWも明日までですよー。
学生の皆さんも、社会人の皆さんもしっかり休んで、明後日からの辛く厳しい日常に備えましょー」
今度はそこら中で苦笑い。
- 215 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:46
- 「もう電車もなくなるよー。
遠方のみなさんは特にお早めにねー」
ぱらぱらと散っていくギャラリーをかき分けて前まで進む。
ギターを丁寧に拭いている彼女におそるおそる声をかけた。
「あの…」
「ん?」
地面に座り込んでいる彼女が下から私を大きな目で見上げる。
おかしな格好で気づかなかったけど、近くで見たら、外人さんのようなとても綺麗な顔だった。
「今日はもう終わりだよー。…あ、ひょっとしてサイン?
あたし、サインとか書かない主義なんだよねー、ごめんねー」
「いや、そうじゃなくて…」
「あ、じゃあ握手? 握手くらいならいいかなー。ほら!」
そう言って大きな手で勝手に私の手をとってぶんぶんと振った。
…ヘンな人。
こちらから喋りだすタイミングがなくて困ってしまう。
- 216 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:47
- 「あ、あの、そうじゃ…」
「あなたのお名前なんてーの♪」
「こ、紺野あさ美ですけど…あの…」
「あさ美ちゃんかー、可愛い名前してんじゃーん、このこの!」
「あ、ありがとうございます…あ、じゃなくて…あのですね…」
「どっから来たの?」
「北海道…ですけど」
「えーーっ!北海道からわざわざ!?マジで!?
そっかーあたしも有名になったなあ!そーか、そーか!」
…。
- 217 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:48
- 「あの!私の話を聞いてください、大事なことなんです!」
「えー、まさか告白?あさ美ちゃん、それはちょっと早いって。
だって、私達出会ってまだ3分も経ってないよ。
あーでも、愛は時間じゃないしねー」
…ダメだ。
まともに話を聞いてもらえそうもない。
「…もういいです」
うなだれて場を離れようとした瞬間、腕をがしっと捕まれた。
大きくて、暖かい手だった。
「ちょっと待った、ちょっと待った。
ごめんごめん。真面目に聞きます。よっちゃん反省」
手をぽんぽんと頭にやる仕草はあんまり真面目に反省しているようには見えないけど、その言葉を信じて彼女の側に座りなおす。
- 218 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:50
- 「いつ頃からここで歌ってるんですか?」
「さて、あれはいくつの頃だったろうねぇ。
東京にオリンピックが来た頃?あーそれとも家康様が将軍やってた頃だったかな。
鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギスってね。
偉いね、家康。あたしなら速攻でしめるね。砂肝サイコー」
…真面目に聞くってさっきいったばかりなのに。
私の冷たい視線に気づいて慌てたように取り直す。
「…ああ、嘘嘘、ちょっとしたジョーク。…一年前くらいかな」
「あの…ここに以前、後藤さんという人がいませんでしたか?」
「――!」
- 219 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:51
- ギターケースのホルダーを留めようとしていた手がぴたりと動きを止めた。
彼女のふにゃふにゃとした笑顔が一瞬、ひきつった。
その表情に少し戸惑いながら、おそるおそる質問を続ける。
「…後藤真希さんという人なんですけど」
「うん、知ってるよ」
「――本当ですか!?今、どこにいますか?」
「イギリス」
「イギリスですね!?
ありがとうございます!
…って、え?」
私の方を見ないまま、彼女はぶっきらぼうに言い放った。
「だからー、イギリス」
- 220 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:52
- イギリス。
正式名称、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国。
ユニオンジャックが私の頭の中で揺らめいた。
ひょっとしたらまたつまらない冗談なんじゃないかと思ったけど、彼女の顔は嘘をついているようには見えなかった。
「ど…どうしてですか?」
「…そりゃあ、こっちが聞きたいくらいだよ。どーしてあたしじゃ駄目なのさってね」
イギリスという言葉が私の頭の中でうまく処理できない。
世界地図をイメージしてみても、場所は分かるのだけど、それと後藤先輩がまったく結びつかない。
あまりにも突飛な言葉すぎて、あまりにも遠すぎて。
私は呆けたように虚空をみつめた。
- 221 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:53
- 「それよりさぁ、さっきから携帯鳴ってない?」
指差したのはブーン、ブーンと微かな振動音が聞こえる私のバッグ。
そういえば歩くのに夢中ですっかり気付いていなかった。
慌てて取り出して通話のスイッチを押す。
同時に愛ちゃんの金切り声が響いた。
『あさ美ちゃん!?』
「あ、もしもし…?」
『もぉー、もしもし、じゃないよー!
何回電話したと思ってんの!?』
「…ごめんなさい」
怒られているのに、早口で捲し立てる愛ちゃんがなんだかちょっと嬉しかった。
『今、どこにいるの?』
「ここ…なんて駅だっけ…」
『ちょっとぉー、大丈夫?』
「あ、うん、大丈夫…です。今から、帰ります」
『…もう用はいいの?』
愛ちゃんがためらいがちに訊いてきた。
イギリス、という全く現実味の無い言葉が重く圧し掛かる。
嘘じゃなかったとしたら――いや、多分、嘘じゃない――さすがにそこまでは行けない。
後藤先輩には会えないということ。
はい、もういいです、と云おうとした瞬間。
すっと伸びた大きな手が、私の左手から携帯を奪い取った。
- 222 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:54
- 「あー、もしもし、あさ美ちゃんのお母様ですか?」
『――――?』
「…え、違う?友達?まぁどっちだっていいんですけどね。
えー私、本日あさ美ちゃんとお友達になりました吉澤と申します」
『――――?』
「本日はですね、あさ美ちゃんのほうこちらで預からせていただきます。
明日の朝になりましたら、責任持ってお家の方へお返しいたしますので、はい。
じゃーねー」
『――?―――――!?………』
- 223 名前:走る 投稿日:2004/01/31(土) 19:55
- 電源のボタンを少しもためらう素振りもなく押して、鮮やかなほどあっさりと通話を切る。
私はその一連のやりとりをただ呆然と見送った。
彼女がこちらに向き直ってやっとで我に返る。
「ちょ、ちょっと何言ってるんですか!?」
「携帯電話はひとまず先生が預かっておきます」
携帯がパタンと折りたたまれ、それはそのままジャージのポケットの中へねじ込まれた。
学校にこんなもん持ってきちゃダメだぞー、とへらへら笑いながら、彼女は大きな手を私の肩に回した。
身体が無理矢理引き寄せられて、顔がぐっと迫る。
「私の傷えぐったんだからさ、今夜だけ付き合ってよ。
ねぇー、あさ美ちゃん?」
穏やかな口調で、顔は笑っていたけど、私を見つめるその目はすわっていた。
- 224 名前:arkanoid 投稿日:2004/01/31(土) 19:59
- 更新終了です。
なんとかぎりぎり今月中に間に合いました。
ではまた。
- 225 名前:名無しオルーク 投稿日:2004/02/19(木) 19:25
- 更新に全く気付かなかった。
そして気付いたら、ファンタジスタが出ていた。
彼女の影響によって、どう走り出すのかが楽しみ。
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/18(木) 22:39
- 気になるよー。ずっとROMらせてもらってましたが気になって仕方ないっす!作者さんー!
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/25(木) 12:37
- 作者さんの描写がかなり好きです。
- 228 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:24
- ◇
終電の時間が近づいているのだろう。
若い男性が慌てたように広場を駆け抜けて駅の構内へと消えていった。
かたやベンチには終電なんかさっぱり気にしていないように二人だけの世界を作り出しているカップル。
そんな中で私は吉澤さんの側で俯いたまま立っていた。
吉澤さんはさっきまでの愛想はどこへやら。
むすっとした顔のまま広場をぼんやりと眺めている。
まるで本当に職員室で怒られている先生と生徒みたい。
いや、不良さんに恐喝されているといったほうが近いだろうか。
「…あの、吉澤さん、携帯電話返してください」
「あれ、なんで、あたしの名前知ってんの?」
「…さっき電話でいってました」
「あ、そっか。あさ美ちゃんは賢いなぁ」
「あの、電車、行っちゃうんですけど」
「行かせとけばー?」
吉澤さんは、まぁ、座りなさいよ、と言って地面をパンパンと叩いた。
私はコンクリートの地面に直接座るのはちょっと嫌だったから、吉澤さんの横にしゃがみこんだ。
さぁ―っという噴水の音が微かに耳を撫でる。
- 229 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:26
- 「あさ美ちゃんはごっちんのファンだったの?」
「…ごっちん?」
「…後藤真希のこと」
「あ…後藤先輩は私の中学の頃の陸上部の先輩で…」
「ああ、そういや陸上やってたとかなんとかいってたなー…ってそれだけ?歌とか聴いてないの?」
「あ…はい、聴いたことはないんですけど、でもちらっとここで見かけたことがあって……。 吉澤さんは、後藤先輩とは?」
「…まぁ、あたしの話はいいじゃないですか。 それよりさ、じゃ、たんなる後輩ってだけでこんな時間まで探してたの?」
「…ええ、まぁ」
「あっ、じゃあ、好きなんだ?」
「えっ?」
好きなんでしょー、このこのー、なんて茶化しながら肘をぐりぐりと押し付けてくる。
「ち、違いますよ!そんなんじゃありません、そんなんじゃなくて、私――」
私、何だ?
何でこんなに意固地になってるんだろう。
こんなに夢中になって能動的に何かをしたのは初めてかもしれない。
自分から何かを追いかけたのは。
私がちょっと考え込んでいるのを見てか、見ないでか、吉澤さんはさらりと言った。
言いのけた。
「あたしは好きだったよ…ごっちんのこと」
- 230 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:29
- え?、と驚いて吉澤さんの方に視線を向ける。
吉澤さんはさっきしまったばかりのギターをごそごそと取り出していた。
「はーい、一夜限りのオールナイトライブ!ご清聴あれ。帰ったら殴るかんね」
にっこりと笑いながら、そんな脅迫じみた事を言った。
私の携帯電話がジャージのポケットに入ってるのもう忘れたんですか。
そのままじゃ帰るに帰れないじゃないですか。
それに。
吉澤さんは言葉とは裏腹に、とても優しくて哀しい目をしていた。
そんな風な目をされたら、私、吉澤さんのこと置いていけないです。
- 231 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:30
- ◇
もう何時間も歌いつづけている。
広場からは時間の経過と共に徐々に人の数が減っていき、とうとう私達二人だけになってしまっていた。
正確な時間は分からないけど、もう夜明け近いのだと思う。
心なしか空がぼんやりと蒼みがかってきたような気がする。
私は途切れることなく続く歌を、ただずっと横で聴いていた。
休み無しで歌いつづけているせいか吉澤さんの声は少し掠れている。
それでも吉澤さんは歌うことをやめなかった。
その姿は鬼気迫るものすらあった。
まるで何かに憑りつかれたかのように。
逆に何かを吹っ切るように。
- 232 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:32
- やがて、解放されたようにギターからそっと手を離した吉澤さんは、額から流れる汗もそのままに訊いてきた。
「どう…だった?」
はあはあ、と息を切らしながら。
「どうって…」
「正直に言っていいよ。聞きたい、あさ美ちゃんの感想」
「…すごくいい歌、だと思います。けど…」
「…けど?」
「…なんか哀しいです」
そう。
ずっと哀しかった。
何がそうさせるのかはよく分からないけれど。
吉澤さんの声は私の耳に哀しく響く。
姿は私の目に哀しく映る。
「ははっ、哀しい、ときましたか。あさ美ちゃん、いい耳してるよ。
いや、心っつったほうがいいかな。考えるな、感じろってね」
- 233 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:35
- ジャンジャン♪
吉澤さんは抱えていたギターを短く二回鳴らした。
お話に入れる合いの手のような音。
「むかーし、むかし…といってもそんなに昔じゃありません。かれこれ3年前ほどのことです」
唐突にふざけた口調で語りだす吉澤さん。
また、ギターを短く鳴らす。
「あるところに一人の無気力な女子中学生がいました。
その子は何に夢中になることもなく、何を目指すでもなく、なんとなーく、のんべんだらり、てきとーに毎日を過ごしていました――――
- 234 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:36
- ―――
――
―
この先、生きてたって多分大した事は起こらない。
ただ死ぬのは痛そうだし、面倒くさいから生きてるってだけで。
それに一生なんてぼんやりとなんとなくてきとーに過ごしていればあっという間でしょ。
そんな風なことを考えながらあたしは“棺桶”の鍵を開けた。
てきとーに汚れてて、てきとーに片付いているあたしの“棺桶”。
まるでてきとーなあたしの人生みたいだった。
さーて今日も眠ろう。
たっぷり、ゆっくり眠って少しずつ死んでいこう。
- 235 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:37
- “棺桶”と呼んでいるこの部屋は誕生日に親戚から貰った。
賃貸経営をしている親戚――ちなみに金持ち――が部屋を遊ばせとくのももったいないから、ひとみちゃん、どう?一人の部屋がほしいお年頃でしょ?なんて言ってきた。
確かに今のぎゅうぎゅうのせまっ苦しい団地、弟と共同の部屋っつーのは不便っちゃ不便だけど、お年頃、ねぇ。
ま、貰えるもんは貰っとくけどさ。
ウチの親は放任主義というか、子育てが面倒くさいだけなんだろう、あっさりと一人暮らしを了承した。
つってもあたしがそのことを話しているとき、父は競馬新聞とラジオを片手、母は携帯片手にだったけど。
そんなわけであたしは中三ながらにしてすでに一国一城の主――それはちょっと違うか。
貰った部屋は城なんていえる立派なもんじゃなかったし。
とにかくあたしはそこでただ時間が過ぎ行くのだけを待っていた。
ここで眠ってゆっくりと死ぬのを待つだけ。
だから、“棺桶”。
閉じた瞳の裏側は真っ暗で何も映さないけれど、それでいい。
いや、それが、良かった。
下手になんか見えでもしたら、それはそれで面倒なことになりそうだから。
このままで、いい。
あたしはここでゆっくりと死んでいく。
- 236 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:39
- 〆
その日もてきとーな友達とてきとーにカラオケとかに行っててきとーにおしゃべりして、それで帰るところだった。
季節は秋から冬へと移り変わりの時。
めっきり短くなった日はとうにとっぷりと暮れて、歓楽街は会社なり学校なりそれぞれの箱から解放された人らでごった返していた。
あたしはその喧騒をすり抜けるようにして駅へと歩く。
すれ違う人の表情は、両極端。
歪んだ醜い笑顔を辺りに振りまいているか、鉄の仮面のような無表情で足早に駆けていくか。
ほら、ちょうど、今すれ違ったジャージ姿のスポーツ少女はぴったり後者みたいな感じ。
瞳は開いているけど、何も映してない、何も見えてない。
あたしもそんな顔して歩いているんだろうね。
そんなあたしも結構終わってるけど、もっとタチが悪いのは前者の方のような気がする。
自分を歪めて無理してまで生きたいとは思わない。
そんなにまでして欲しいものなんて何もないし、自分すり減らしたってしんどいだけだ。
ま、世の中ってヤツはなかなかにキビしいらしいのでこんなこと思ってるよーじゃ生きてはいけないのかもしれないけど。
それならそれでいーや。
そんときゃいさぎよく人生の退場ゲートをくぐろう―――そんなことを考えているときだった。
ちっぽけな駅前の広場であたしは足をぴたりと止めた。
- 237 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:41
-
彼女の何がそうさせたのかはわからない。
びゅうびゅうと吹き付ける冷たい風に揺れる茶色の長い髪かもしれないし、そこから覗いた切れ長の大きな目かもしれないし、
ギターを抱え込むようにしては白い息を吐きつづける、そのたたずまいかもしれない。
確かなことは、白黒写真のような色を失った世界のなかで、歌う彼女の姿だけ鮮明に色を放っていたこと。
そして彼女の歌声があたしの眠りっぱなしだった魂を揺さぶってやまないこと。
棺桶の扉をコツコツとノックするように、キュークツで閉じられた世界に風穴をあけるように。
『おじょーさーん、そろそろ目を覚ます時間ですよー。起きて起きてしてくださーい』
頭の中でそんな声が聞こえた気がした。
あたしは気がついたら彼女のすぐ側にしゃがみ込んでいた。
彼女はあたしのことなんか気づいてないように、歌いつづけた。
歌い終えた彼女は、拍手もせずただただ圧倒されてぼーっとしゃがみ込んでいるあたしの目を覗き込みながら、ふにゃっと笑った。
「涙なんか流してくれた人、初めてだ」
これが後藤真希との出会いだった。
- 238 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:42
- 初めて出会ったにも関わらず、あたしたちはまるで十年来の知り合いのような感じで喋りまくった。
普段クラスメイトとかと話してるのとは、全然違った感じ。
話してる内容はそんなに大したことじゃないけど、彼女の一言一言に暖かな熱を感じた。
流れにのるだけじゃなくて、言葉をしっかりと受け止めて、返す。
これが「話す」ってことなんだろうなと思った。
同い年だということが分かった。
家を飛び出してきたということを聞いて、家族と離れているということも同じだと思った。
そして、今は知り合いの家にお世話になっているらしいがそこもあまり長くいられないだろうとのこと。
―――じゃあ、うちに来ない?
その言葉は、ごく自然にあたしの口から零れた。
- 239 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:44
- 彼女は家までの道すがら、ほんとうにいいの?、と何回も心配そうに尋ねてきた。
家出するとか、一見、無茶苦茶なようでいて意外と真面目なところもあるんだな、と思った。
そんな彼女にあたしはますます好感をもった。
薄暗い路地をコンビニ袋片手に二人並んで歩く。
彼女の口から吐き出される白い息が綺麗だった。
今まで、「食べる」という行為は生きることに執着してるみたいで嫌だったけど、さっきコンビニで買った肉まんを早く部屋に帰って二人で食べたいと思った。
そして、それはとても美味しいだろう、と思った。
その夜、彼女はこんな話をした。
「え、なんで歌ってんのって?
…うーん、別に歌じゃなくてもいいのかもしんないけどね。
ま、せっかく生まれたんだからさ、伝えたいじゃーん、っていうか繋げたーいっていうか。
あたしもさ、誰かの何かすごいいいモノに感動してさ、それにちょっとでも近づきたくて、そんだけじゃなくて誰かに伝えたくて。
うちら、何だかんだいって、けっこー独りだー、孤独だーって思ってたりするじゃん?
だから、何か一つのモノで繋がれたらいいなーって。
それができるのって別に歌だけじゃないとは思うんだけど、あたしは歌が一番だと思ったんだよねー、もうコレしかないって」
その抽象的な話をすべて理解したとは言い難かったけど、一つだけ分かったことがあった。
あたしはあなたの歌に繋がれたということ。
とにかく、そうしてあたしたちの生活が始まった。
- 240 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:46
- 〆
冬が過ぎ、春が来て、あたしはまた一つ年をとった。
あたしたちは高校へは行かなかった。
けどそんなことはあたしにとって全然重要なことじゃなかった。
それより、あたしは彼女のことを、ごっちん、と呼ぶようになっていた。
彼女はあたしのことを、よっすぃー、と呼ぶようになっていた。
こっちのほうはとても重要なことだった。
あたしはバイトを始めた。
ほんとうはごっちんと暮らすようになってからすぐにでもしたかったのだけど、あまり下手に問題を起こすとこの部屋に住んでいることも取りざたされてしまいそうだったから、
とりあえず中学を卒業してからにしようということにしていた。
ごっちんは年齢を偽って去年からすでにファミレスでバイトを始めていたから、やっとで肩を並べることができたような感じがして、嬉しかった。
- 241 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:48
- ごっちんが路上に出て歌う日はあたしもついていって、ずっと一番側で歌を聴いていた。
いつも部屋で聴いているはずの歌だったけれど、その歌声は夜の街の空気に触れることでいろいろな形に姿を変えた。
それは闇を切り裂くナイフにも成りえたし、傷を癒す薬にも成りえたし、空を飛ぶ翼にも成りえた。
すべての存在が曖昧になりそうなこの雑多な街で、ごっちんの歌だけが本物だと思えた。
足を止める人もわずかながら増えていった。
ごっちんの言葉を借りるなら「繋がった」人たち。
あたしはそのことが嬉しくもあり、実はちょっと残念でもあった。
でもあたしがきっと一番たくさんごっちんの歌を聞いているから大丈夫だと思っていた。
今の時間がずっと続けばいいと思ってたし、続くと思ってた。
けれどそんな日々はあっさりと終わりを告げる。
- 242 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:50
- 〆
その日はごっちんが休みの日であたしだけがいつものようにバイトに行った。
夕方、帰ってきて部屋のドアを開けた時、どこか嫌な感じがした。
いつもはギターの音が聞こえるはずなのに、部屋がしんと静まり返っていたから。
ただどこかへ出掛けただけかもしれないんだけど、胸に走るひりひりとした感じは収まらなかった。
慌てて部屋の中に上がると、普段はごちゃごちゃに散らかっている部屋――二人で散らかすもんだから余計それに拍車がかかる――それがすっきりと綺麗さっぱり片付いていた。
そして、ごっちんのギターだけがなくなっていた。
予感が確信に変わった。
ぴかぴかに磨かれたテーブルの上にメモがあった。
五線譜に黒のマジックで、ごっちんの丸い文字。
- 243 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:53
-
『 よっすぃーへ。
あはは、いきなりでビックリしたでしょ?
ちょいとイギリスへ行ってきます、バイバイ。
―――ってこれだけじゃ足んないか。
イギリスにはあたしが歌うきっかけとなった人がいます。
その人が、いつか街で歌っているのを聴いて、歌ってすごいって思うようになりました。
だから、その人に今のあたしの歌を聞いてほしいなって思っちゃいました。
よっすぃーだったら分かってると思うけど、あたし思ったら即、実行の人でしょ?
それにずっとここにいるわけにはいかないなって、前から思ってたし。
というわけで、いってきまーす。
よっすぃーとの生活、めちゃくちゃ楽しかったっす。じゃね、また。
ごとー
』
- 244 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:54
-
青とオレンジの入り混じった光が差し込む部屋で一人、メモを片手に立ち尽くした。
なんて身勝手な、と腹立たしく思うことは全然無かった。
むしろ、ごっちんらしーな、と清々しくさえあった。
ただ、綺麗に片付けられた部屋がまるでからっぽの鳥かごのようで。
飛び立った鳥は二度と此処へは戻ってはこないだろう。
それだけ思った。
- 245 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:56
- 〆
その夜、あたしはいつものように駅前の広場へ来てしまっていた。
当然のように、いない彼女。
足早に過ぎ去っていく人々。
あたしの世界は、また、色を失うのだろうか。
味気ない時を、また、無意味に過ごさなければならないのだろうか。
そんなの、嫌だ―――そう思った瞬間、あたしの頭に狂気じみた考えが浮かんだ。
次の日、あたしは弾けもしないギターを買った。
彼女と同じ、ギター。
―
――
―――
――――
- 246 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 06:58
-
――――じきに、その少女はいなくなった彼女のいた場所で歌うようになりましたとさ。
彼女の歌を。彼女に近づくために、いや、むしろ彼女になるために―――ってつまんねー話っしょ?」
今日行ったアパートの表札が、吉澤、だったことを思い出して不意に胸が絞めつけられる。
あそこに、後藤先輩は確かにいて。
そして吉澤さんは今もそこで。
「つーわけで、今日あたしが歌ってたのはぜーんぶ、ごっちんの歌。あたしはごっちんの真似っこをしてただけ」
「……そんなの哀しいですよ」
「分かってたよ、そんなことは!」
突然の大きな声に思わず肩をびくっとすくめる。
「…ごめん、でっかい声出して。
でも分かってたんだよ、そんなことしても虚しいだけだって。
けど、そうせずにはいられなかった。そうでもしなきゃ、あたしはまた―――」
そう言って吉澤さんは抱えているギターに視線を落とした。
- 247 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:01
- 「最初は楽しかった。ごっちんのいた場所で。ごっちんの歌を歌って。ほんとうにごっちんになれた気がしてた。
足を止めてくれる人が増えてくのも嬉しかった、なんか認められた気がして。
けど、部屋に帰ればあたしはやっぱり一人ぼっちで。
観客が増えていけば行くほど、その思いは強くなった。
結局、誰も分かってないんだ、あたしのことって。
でも気づけば、またここに来て歌ってる、ごっちんの歌を。
寂しいから、歌う。 歌うから、寂しい。 そんなんの繰り返し」
なんか似てる、と思った。
増えていく観客。
増えていく賞状。
歌う吉澤さんと走る私。
求めたのはどちらもそんなんじゃなかった。
「でも」
そう呟いて吉澤さんはすくっと立ち上がった。
「もうやめんだ、こんなこと」
右手にはギターを持って。
その瞳は何かを決意したような目。
- 248 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:02
-
「今日さ、実は歌いおさめだったんだ。もう、終わり。やめるんだ」
ギターを持つ右手に左手がそっと添えられた。
それで、吉澤さんが 何をしようとしているのかやっと分かって―――私は訳も分からずに喋りだした。
「あ、あの、吉澤さん、ちょ、ちょっと待ってください!
あの、歌うこと……やめないでください!
今日会ったばかりで、こんな事言うなんておかしいかもしれないけど、やめちゃダメです!」
吉澤さんは表情を変えることなく、じっとこちらを見ている。
私は、自分でも何を言っているのよく分からないけど、とにかく胸に溢れる言葉を叫びつづけた。
- 249 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:03
- 「私も…そう、走ってたんです!
最初は何かから逃げるためだと思ってたんですけど…今はそれだけじゃなかったような気がするんです!
それが知りたくて私、後藤先輩探して…結局会えなかったけど…でも…でも、それだけじゃないんです!
吉澤さんも、そうだと思います!
たくさんの人が吉澤さんが歌うの、聞いてました!
確かに、それは吉澤さんのじゃなく後藤さんの歌かもしれないけど………でも…きっとそれだけじゃなくて…。
だから、分かってないとか、寂しいとかそんなこと…言わないでください…」
滲んだ視界の向こうで、吉澤さんは、一瞬、こちらをみてニコッと微笑んだ―――と、同時。
ギターを持っていた手が、大きく振り上げられた。
「てーい♪」
思い切り腕が下ろされると、酷い音が広場中に響き渡った。
- 250 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:06
- 噴水の淵にぶつけられたギターはネックのところから真っ二つに折れて、かろうじて六本の弦がばらばらにならないように繋げている。
その画がなんだかとても悲しくて、私の目からぽろぽろと涙が零れ落ちてきた。
「…どーして、あさ美ちゃんが泣くのさ?」
「だって、だって…」
走るのやめても結局何も変わらなかったから。
部屋で一人ぼっちでいたって苦しいだけだったから。
壊れたギターがまるで部屋でうずくまっていた私のように見えて―――――私は、走るのをやめたことを後悔している自分に気がついた。
「やめちゃ…いけない…です…」
子供の我侭のように泣きじゃくる。
「やめちゃ…いけない…」
呪文のように繰り返し呟く。
「やめちゃ…」
「だーれが歌うのやめるっつった?」
大きな手のひらが私の頭をぽんぽんと叩いて、え、と思って顔をあげると吉澤さんは噴水の淵にひょいと飛び乗った。
「はーい、長らくのご清聴ありがとうございました、じゃ、最後の曲です」
- 251 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:08
-
そして、吉澤さんは、歌った。
噴水の淵という小さなステージで。
壊れたギターを抱えて。
夜明けの街に。
声、高らかに。
あまり格好のいい歌ではなかったかもしれない。
とても単純なメロディー、単純な歌詞。
けれど、私はその歌をとてもいい歌だと思った。
その証拠に、吉澤さんが歌い終わる頃には私の涙はすっかり乾いていた。
パチパチと手を叩く音は静かな広場によく響いた。
- 252 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:10
- 「…それって」
「…うん、いちおー、自分で作った歌。…うわっ、やべっ、すっげー恥ずかし」
吉澤さんは照れたように頭をがしがしと掻いた。
「…うまくいえないけど、なんか吉澤さんらしい歌でした。すごい…良かったです」
「ははっ…ありがと。実はさ結構前から歌は作ってたんだ。
けれど、なぜか人の前では歌えなかった。
…怖かったんだよね、あたし、なんだかんだいって結構臆病者だし。
ごっちんの歌なんかより全然だし。これ、否定されちゃったらどーしよーとか。
でも今日あさ美ちゃんからごっちんの名前聞いて、あ、これはもうやるしかねーなって。
ごっちんのこと知ってくれている人に聴かせるしかないなって。
だから、ほんとうにありがとう、聴いてくれて」
そういって吉澤さんは深く頭を下げた。
今度は私が照れる番だった。
「そ、そんな…私、お礼云われるようなことなんか何も……」
それに……吉澤さんはきっとほんとうは後藤先輩に一番最初に聴かせたかったはずだ。
- 253 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:16
-
「実はさ、歌う事自体をもうやめようって思ったこともあったんだけどさ。
一度人と繋がる嬉しさ知っちゃったら、やめらんなかった。
それが例え借り物の歌だったとしても、寂しいだけの繋がりじゃなかったと思う、あさ美ちゃんが言ったみたいに。
今ならごっちんの言ってたこと、分かるような気がする。
あたしがごっちんの歌に繋がれたように、ごっちんも他の誰かの歌に繋がれてて。
だから…あたしは、やっぱり歌うよ、これからは自分の歌を。そいつで、人と繋がっていく」
そう言った吉澤さんの瞳は、いつの日か私に語りかけてくれた後藤先輩の瞳ととてもよく似ていた。
けれど私はそのことはなんとなく言わずにおいた。
- 254 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:17
- 「ほら、もうこんなもん、学校に持ってきちゃダメだぞっ」
「はい、先生」
携帯電話を受け取りながら、お互い顔を見合わせてフフッと笑った。
「あと、ほいっ。これもあげる」
「…これは?」
貰ったのは一枚のMD。
「オリジナルは、そーとーすごいよ。あたしが歌うのなんかより。ごっちんの歌、ちゃんと聴いたことないんでしょ?」
「…え、そ、そんな…貰えません」
「いいんだ、もう」
「…ほんとうに、いいんですか?」
「うん。だってこんなになるまで探したんだから、よっぽど好きだったんでしょ、ごっちんのこと?」
「えっ…だからそれは違…」
「いーから、いーから♪」
吉澤さんは最後まで何か勘違いしてるようだけど……ま、いいか。
それより。
吉澤さんを繋いだ後藤先輩の歌。
どんなんだろう。
私は手の中のMDを大切にしまった。
- 255 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:18
- 「ほら、もうそろそろ電車も動く頃だよ」
「あ…はい…そうですね」
「あたしは、もうちょっとここにいるよ。…もうちょっと、だけね」
深々と頭を下げてから私は広場の出口へと向かう。
少し歩いたところで振り返ってみると、吉澤さんは目を閉じて静かに座っていた。
壊れたギターを胸に抱いたまま。
夜明けの澄んだ広場の空気を風が緩やかにかき混ぜるのを感じて、私はその場を後にした。
- 256 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:19
- ◇
ホームに入ってきた始発電車に乗り込んだ。
いつもは端っこに座るのだけど、今日はなんとなく座席の真中に腰を下ろした。
同じ車両に乗っているのは私をいれても4人。
黒い背広を着たおじさんは今朝の新聞にじっくりと目を通している。
車両の隅には徹夜で遊んでいたのか、茶髪のお兄さんが向かい合って眠りこけている。
今日を新しく始める人。
まだ昨日が続いている人。
始発電車はそんな人たちを乗せて朝の街を走り抜けていく。
私は今日―――いやもう既に昨日?―――のことを思った。
おかしな、長い一日だった。
そういや昼間は愛ちゃんと遊びに行ったんだった。
で、その後、亀井さんに会って、弟さんに会って、吉澤さんに会って。
結局、後藤先輩には会えなかったけど。
でも、今、私は妙な充実感に包まれている。
なんだろう、これ。
長い一日で疲れた体をシートに沈める。
薄目でみた車窓の向こうの流れる景色は、昨日と今日を繋ごうとしていた。
- 257 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:21
- ◇
駅に降りてから愛ちゃんに電話した。
愛ちゃんは今にも泣きそうな声をしていて、私もつられて思わず泣きそうになってしまった。
人が全然いない朝の通りを歩く。
時折、車が私の横を忙ぐように駆け抜けていった。
空を舞う鳥は街に朝が訪れたことを告げてまわる。
声の主を見上げると、もうすっかり青くなった空に黒い羽が揺れていた。
瞬間。
私の前の背の高いビルが、ぱっと金色に輝いた。
驚いて後ろを振り向くと、建物と建物の隙間から新しい太陽がひょっこりと顔を出していた。
その眩しさに少し目をひそめて、また道に向き直る。
道に私の影が濃く、長く真っ直ぐに伸びていた。
- 258 名前:走る 投稿日:2004/04/04(日) 07:22
-
ぴたりと立ち止まった。
影もぴたりと立ち止まる。
あ。
おそるおそる、一歩、小さく踏み出す。
影も、一歩、小さく踏み出した。
今度は大きく一歩踏み出す。
影は、遠慮無しに大きく一歩踏み出した。
可笑しさがこみあげてきた。
なんだ、こんな事だった。
一日探し回って、見つけたかったのはこんな事だった。
私は太陽を背にしょったまま駆け出した。
影も一緒に走り出した。
- 259 名前:arkanoid 投稿日:2004/04/04(日) 07:45
- 森に浮気したり短編出したりで早2ヶ月…。
隔月更新ですいません…。
季刊更新にならないことを祈ります。
それにしてもほんとうに長い一日でした。
作中の日数を1日進めるのに約半年かかりました。
この展開の遅さは某バスケ漫画のS北×R南戦にも某サッカー漫画Road to 2002のエル・クラシコにも劣らないと自負します。
>>名無しオルークさん
ファンタジスタは破壊神でした。
破壊なくして創造なしです。
>>226さん
気にさせてすいません、そして気にして頂いてありがとうございます。
このレスを頂いて、あ、書かなきゃな、と思いました。
本当にありがとうございました。
これからもビシバシと作者のケツをひっぱたいてやってください。
>>205さん
そう言って頂けるととても嬉しいです。
内容に関してはもはや作者ですら整理できていないので、雰囲気で読みとってやってください。
考えるな、感じろ、です。
- 260 名前:名無し100s 投稿日:2004/04/04(日) 17:44
- むひょ。まいった、それしか言えない。
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/07(水) 01:49
- いやいや、よい一日をいただきました。
ありがとう。
- 262 名前:紺ちゃんファン 投稿日:2004/05/09(日) 22:06
- これで終わり・・・なわけないか・・・。
何度かここを訪れて読んでます。
とゆうわけで更新待ってます。
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/13(金) 18:39
- 保全
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