猫と君と夕暮れと
- 1 名前:和泉 投稿日:2003年06月10日(火)20時58分45秒
- 安倍さんいろいろとおめでとう、ということで。
今年の2月の話なので、季節を二つほどもどして読んでいただければ。
- 2 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時00分18秒
- 空には半分欠けた月がかかっている。絹を布いたように広がる雲に、ときおり隠れながら浮かんでいる。無機質なコンクリートの壁の合間にあるためか、それは相応に安っぽく、さながら書き割りのようだった。
真希はブラインドを閉じて窓から部屋の中へと視線をうつす。
そうして、机の上に見慣れないものがあることに気付いた。
- 3 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時01分35秒
- 「なんだろ」
帰り支度に忙しく、今の今まで目にもとまらなかった。
スタッフからだろうか、お世辞にもきれいとは言えない字で紙にお疲れさまと書いてある。その文字にかかるように置かれているのは、片手におさまりそうなほどの小さな包みで、姿と同じくやはり控えめにリボンが巻いてある。
- 4 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時02分24秒
- 主演のミュージカル初日まで、もう日がない。
すこしでもスタッフからの期待に応えなければという気負いもある。それが周囲には妙な緊張感として伝わっていたのかもしれない。
また、年中ツアーを行っていた関係で慣れているとはいえ、一日中舞台稽古に翻弄されればさすがに疲れも出る。それを気遣ってだれかが買い置いてくれたのだろう。
「はー、がんばんなくちゃねぇ」
真希は一度、いただきますと手を合わせて感謝したあと、それを上着のポケットへ無造作に突っ込んだ。
- 5 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時03分13秒
- 送迎のワゴン車に乗り込んで、ドアを滑らせる。どんと閉まる音が寒々しく響き、あらためて自分の周囲に去年のような仲間のいないことを実感する。助手席に乗り込んだマネージャーが発車をうながすと、車は静かに動き出した。
右手には、先ほどよりはやや高くなった月がかわりなくぶらさがっていて、真希は意味もなく光に手をかざした。金色に縁取られた指を目でなぞる。
- 6 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時04分51秒
- いつかは、同じ手を太陽にかざしたことがある。
ずいぶん昔の話で、なぜか「僕らはみんな生きている」を合唱していた。
たしか、梨華となつみ、そして真希の三人で東北へ出かけたときのことだった。電車の窓からまぶしく陽が射し込んで、なつみが「血管、みえるかな」と変わったことを言いながらガラスに手をあてていた。
真希がおもしろがって真似をすると、置き去りにされるのを怖がるように梨華もそれにならった。
- 7 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時05分49秒
- (イカ、釣ったんだっけ)
あのときよっちゃんイカを詰め込んでいた鞄はもう引退して、押し入れの奥で眠っている。
件の番組企画にいちばん意気込んでいたのはなつみで、梨華と真希はその勢いにつねに引きずられていた。
結局そのなつみはイカを釣り逃し悔しい思いをしていたらしいが、帰り際、
「なっちさぁ、も一個、くやしいことがあるんだ」
むすっとした表情を向けた先には海がある。
- 8 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時07分11秒
- 「なに?」
「なにって、ごっちん、ココ日本海だよ? もぉさ、ぜったい夕陽見たかったのにさ、昨日イカに必死でさ、見れなかったんだもん」
「夕陽、かぁ」
真希もつられて西を向いた。細かな船がまばらに見えるその向こうに、水平線がゆるやかに引かれている。
「海に沈むんだよ」
それはきっと目のさめるようにきれいな光景だろうと思った。
- 9 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時09分10秒
- あれから何度か日本海をのぞむ機会はあったものの、海に沈む太陽というものを見た記憶がない。真希の知り得るかぎり、なつみも同じだろう。
思いめぐらしていると、ポケットでさきほどの包みがかさりと鳴った。それに気をとられて指と月から意識をはずすと、マネージャーがあわてたように携帯にむかって何か捲し立てている。
- 10 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時09分49秒
- 「わかった、わかったから、いまからそこ、行くから、目立たないようにしていなさい」
命令口調で通話を切った。携帯をたたむのももどかしいようで、眉間に皺をつくった彼女はどこかに寄るよう運転手に告げる。それをうけて、いつもの帰り道、まっすぐに抜ける交差点を車は左に曲がった。
それまで横手にみえていた月は後ろにそれて、目で追った真希から逃げるようにどこかへ消えた。
- 11 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時10分57秒
- 都心とはいえ、夜の墓地には人気がない。少し足をのばせば雑多な飲食店も軒をつらねているのだが、その周辺だけは灯りも人も寄せつけないような暗いとばりが降りている。
車は黙々と走っている。車内にさえ外の暗やみが忍んでいるようで、時おり咳がひびくほかには交わされる会話もない。
ともかく、だれかを拾いに行くらしい。
状況を説明されたときに、なぜかそれがだれなのかは聞き落とした。
- 12 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時12分03秒
- 「あれ?」
窓の向こうに見知った人影をみとめて、真希はガラスに額をつけるような格好で後方をのぞき込む。
「いま、いまだれかいた」
「えっ?」
声に誘われるように半分シートから身を乗り出したマネージャーは、一瞬のちに早口で止めてと言った。その指示から数秒たって車は静かに路肩へ寄る。すると軽く駆ける足音がまばらに届いて、真希は勢いよく扉を開けた。
- 13 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時13分12秒
- 「なっち! と、圭ちゃん」
「……人をおまけみたいに言わないでくれる?」
「ケメ子、おまけだってー」
笑ったなつみと、その頭をはたいた圭が騒々しく乗り込むと、真希はそれまで独占していた広いシートの端に追いやられる。その拍子にバランスをくずしかけてなつみの腕につかまった。思った以上にひっぱった相手の首筋が近くなったとき、懐かしい匂いがした。
去年からお気に入りの香水は変えていないらしい。
- 14 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時14分25秒
- 「なっちだぁ」
思わず言うと「なっちがなっちじゃなかったら、どーすんのさ」とずれた答えを返してくる。
「そりゃー……どうしようね」
真剣に悩みかけた真希に、圭があきれて声をかけた。
「アンタら、会話おかしい」
- 15 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時15分24秒
- 彼女の弁によれば、思いついたことが即、口へと出てしまうなつみの言葉を、ひとつひとつ真剣に受け止めていたら、自分たちの思考がこんがらがるという。圭自身も最初の一、二年はそれに振り回されたようで、
「なっちも、あんま人が混乱するようなこと言わないの。とくにごっつぁんは」
「うん」
「なんでも真に受けるから」
ことになつみの言葉に関しては、だれもが引いてしまうような軽口さえ、こつこつ拾う。
- 16 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時16分13秒
- 「だって、なっちおもしろいし」
「そりゃ、ごっつぁんだけだって」
「ひっどぉーい。なっちこれでも一生懸命考えて笑わせようとしてるもん。ね、ごっつぁん」
「あはは、そーれもどーかなー」
軽い会話。意味のない言葉の応酬。しかしそんなささいなことにさえ普段とはちがう居心地のよさを感じる。まるで卒業そのものがうそででもあったかのような錯覚に、真希はゆるく首を振って自嘲した。
- 17 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時16分48秒
- (もう娘。じゃない)
一度押されて前に出た、その背中にふたたび手をあててもらうことを望んではいけない。なにより、背を押してくれた相手、とりわけ「たがいの夢に向かってがんばろう」と笑顔を向けてくれた彼女に申し訳がたたない。
それに、がんばっているんだということを、認めてもらいたくもあった。
- 18 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時17分37秒
- 先刻から惰性でつかんだままでいた腕を、数秒、逡巡してからはなした。
「おっ、なにさ、ごっつぁん。へんによそよそしいぞ」
咎めているわけではないだろう、ややいぶかりながらも明るいなつみの声を聞きながら、真希は置き場を失った手をそのままポケットに入れた。
こつりと指に箱の角があたる。
- 19 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時18分36秒
- 「あ」
「どした?」
「これ」
おもむろに例の包みを取り出してみせると、興味津々にのぞいた圭となつみは声をあわせて「かわいい」と言った。言葉だけではなく、おなじように頬までゆるめている。
顔を上げて外を見やると、だいぶん見慣れた景色が流れている。つぎの四つ角を曲がれば家に着く。そのあとは、たまたま圭の携帯で運悪くメモリのトップにあった(らしい)マネージャーが、「担当ちがうのに」とぶつぶつ言いながら残る二人をそれぞれの家へと送り届ける。
そうして明日からはまた別々の仕事場で、互いのことを思い出す暇もないほど忙しない日々が続いていくのだろう。
- 20 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時19分58秒
- (しばらく会えないな)
思うと同時に、真希は包みをなつみへと押しつけていた。
「あげる」
よほどびっくりしたのか、なつみは目を大きく見張ったまま、たぶん息をすることさえ忘れている。真希の家の門灯まであとわずかとなったあたりで、彼女はようやく深々と息をついた。それから、和らいだ視線がはじけるような笑顔に変わるまでは数瞬となかった。
- 21 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時20分53秒
- 「マジで? くれんの? うっわー、えー?」
ごっつぁん、どういう風の吹き回し? とは心外な言い様だったものの、うれしさが高じてくすくすと肩をふるわせ始めたなつみに、思わず頬が火照る。その向こうで疎外されてやや不満げだった圭も、身体を丸めて笑いやまないなつみに、苦笑をもらしている。
車が止まった。明日の予定を確認し、運転手に頭をさげる。
「じゃあね」
玄関先で車内から手をふる二人をぼんやり見送りながら、
(しまった……)
真希はわれに返る。
予想以上の反応に、じつはあれがもらいものなのだということを告げることができなかった。
- 22 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時21分38秒
- 春の卒業が決まっているせいか、それとも根っからの寂しがり屋が度を強めているせいか、このところ圭はなにかと周りをかまう。ことに年の近いメンバーは一人暮らしということもあって、そのターゲットになりやすい。
- 23 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時22分29秒
- 「ご飯食べいこう」
「温泉いこう」
そしてその日は、片頭痛に帰り支度の手を休めていたなつみに向かって、
「なっち、散歩いこ」
「やぁだー、もー」
「いこうよ」
「……なっち今日あったま痛いの、見てわかるっしょお?」
「きれいな空気、吸えば、治るよ」
「も、ぜったいヤ」
- 24 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時23分10秒
- それに、東京できれいな空気と言っても、足をのばせる周辺ではたかが知れている。くわえて明日は早朝からの仕事が入っていて、散歩をする暇があるくらいならはやく家に帰って眠りたい。
しかし不運なことに相手はなつみをよく知っていた。親しい人間の頼みを最後まで断わり通すほど、なつみの意志は固くない。いやだいやだと口では言うものの、結局押されるがままなびいてしまう。
「ちょこっとさ、公園歩くだけだからさ」
- 25 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時24分18秒
- (公園って言ったじゃん)
先ほどからなつみの足取りは重い。なにか話を切り出そうとしているのか、隣で肩を並べている圭は、たいして長続きのしない話題を振っては黙り、黙っては思い出したように言葉をつむぐ。
そんな圭の方へ顔を向けるたび視界を埋める黒々とした木々が、その奥にある冷たい花崗岩のつらなりを連想させてうす気味わるい。この都心の墓地の周囲は、車通りは多いものの歩道にはほとんど人影がない。
頭の痛いのも手伝って、なつみの我慢もそろそろ限界に達していた。
- 26 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時25分02秒
- 「なにか、言いたいことあるなら、言っていいよ」
不機嫌な声色で告げると、
「いや、その」
圭は戸惑いながら、新垣が、と続けた。
「うん、新垣が、なに」
「安倍さん、大丈夫ですかーって、言ってきてさ」
「なにそれ」
「それから、やっぱり後藤さんの代わりにはなれませんって」
- 27 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時26分04秒
- 「……なにそれ」
「ハロプロの、ライブで、あと、秋のツアーとかでさ、ピースやったじゃん」
「うん」
「新垣ってさ、あの子根っからモーニングのファンじゃん。で、それまでのウチらのことすっごい見てるからさ、よけい気になってんじゃないかなって思うんだけど、どうしても『ちがう』んだって」
- 28 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時27分31秒
- その違和感は、なつみにもある。
それまで無意識に対で合わせていた振りが、相手がかわってからどこかでしっくりこない。
慣れのせいだろう。
そう思ってなるべく練習の時間をとっていたのだが、もう半年ほども経つというのに未だに以前のようにはならない。むろん、合わないのは相手の非ではなく自分に問題があるのだと、年下のメンバーを責めるような態度は一切とっていないはずだった。
- 29 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時28分28秒
- それでも、隠しきれない思いが伝わってしまったらしい。
(ごっつぁんだったら)
一瞬でもそう考えなかったと言えばうそになる。
(新垣には、わるいことしちゃったなあ)
なつみは立ち止まり、うつむいた。
「なっち?」
振り返った圭は、その足許にまとわりつく小さな影に目を止めた。反省してうつむいていたなつみも、どうもその影に気をとられているらしく、やがてその場にしゃがみこんだ。
- 30 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時29分07秒
- 「ニャンコだよぅ」
声がほころんでいる。
(これは、もう尋けないな)
圭は内心で肩をすくめた。
『安倍さんは、だいじょうぶなんですか』
その問いは今は胸のうちにしまっておこう。
猫に興奮しているのか無邪気に手招きするなつみの姿を見ながら、そっと携帯を開いた。
- 31 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時29分55秒
- 「安倍さん、たいじょうぶなんですかー」
髪をひっつめてふたつにくくった顔は、いつ見ても小さい。
「なにが大丈夫じゃないわけ?」
「あのですねー、このあいだもそのまえもだったんですけど、踊ってるとき、あるじゃないですか」
里沙は今のところ最年少ではあるが、甘えという訳ではなくもともとの性格なのだろう、五期のなかでも物怖じすることがない。
- 32 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時30分57秒
- 「や、踊るってもさ、いろいろあるじゃん」
「えぇと、ピースです。ピース」
「うん、ピースね」
「ほかにもあるんですけどぉ、安倍さん、ぜったい新垣みて、びっくりするんですよ。で、ほかにだれかを探してる感じで、目が……どっかに飛ぶ……」
「目が泳ぐってこと?」
「オヨグ……のかも」
「うん、で?」
「たぶん、後藤さんを、探してるんだろうなあって、おもってですねえ」
はーっと音をつけて、里沙はその小さな肩を落とした。「私、ぜんぜん、だめだなあっておもって」
- 33 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時32分20秒
- 同じことを別のだれかからも聞いた気がする。
圭自身、以前に同様の悩みを抱えていたことがある。
(もう、あれから結構経つんだ)
福田明日香の卒業とそれにともなうパート変更。そのときにくらべれば、今はまだ露骨には表に出ていない。そのとき、目のまえでうなだれている後輩と同じように、もしくはそれ以上に落ち込んだことが圭にはあった。
当時はまだ、同じグループではあってもどこかでオリジナルメンバーとの溝が埋まりきらずにいた。その心細さともどかしさは、多分、今の里沙たちの比ではない。
- 34 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時33分10秒
- けれど同じ経験を経ているだけに、圭にはこのひとまわりも年のはなれた後輩が無性にいじらしく思えた。
「考えすぎだよ。新垣のこと、なっち褒めてたし。ああ見えて、けっこう、なぁーんも考えてないとこあるから」
最後は蛇足かもしれないと苦笑しつつ、具体的になつみの言葉を伝えると、とたんしぼんだ風船がふくらむように里沙は喜々として顔をあげた。そこで圭織が休憩の終わりを告げて、彼女は呼ばれるまま同期のもとへと走っていく。
- 35 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時33分42秒
- なつみは、と視線をさまよわせると、鏡台のまえで読んでいた本を閉じている。栞をはさみ忘れたのかあわててページを探っているあたり、いつもの慌て者ぶりは健在のようで、とくに気になる様子はみられない。
「ほら、なっち、いくよ」
声をかけながら、ふと思った。
たまには会わせてみるのも、いい薬かもしれない。
- 36 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時34分27秒
- 「おまえ、ここに住んでるの? 趣味わるいねえ」
趣味のいいわるいの問題でもないだろうし、第一、猫に真面目に問いかけること自体、どこまで本気なのか量りかねる。しかしそれがなつみという人間の偽らざる姿で、圭にはそれがめずらしくもあり、うらやましくもあった。側までいくと、猫はなつみからはなれてこちらをうかがいにくる。よくみればまだ仔猫のようで、ふつう見かけるものとくらべて、ひとまわり小さい。
- 37 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時35分16秒
- 「かわいいねえ」
「うん、かわいいねえ」
「でも」
一拍おいて、なつみは言った。「わかれなくちゃだねえ」
なっち、飼ってあげられないからさ。
「心配ないって。もともと野生なんだし」
「だね。ひとりでも、さみしくないんだろな」
仔猫の首もとに手を添えながら、なつみの目はじっとそこから動かない。猫に近付こうとでもするかのように身体を縮めた彼女は、暗がりのせいかやけに小さく見えた。
- 38 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時35分51秒
- なにかに自分の感情を仮託することで、その感情の飽和を避けようとする本能が人間にはある。だからもし猫にさみしさを感じるとしたら、それはなつみ自身の心の投影なのではないだろうか。ただ、さみしいかどうかを訊ねて、彼女が「はい、そうです」と素直にうなずくとも思えない。
だからそれは口にはせずに、圭は「いま、車、呼んだから」とだけ伝えた。
- 39 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時36分34秒
- 真希のマネージャーが圭の飲み仲間だったことは幸いだった。
さんざん愚痴を浴びせられながらも、久しぶりに真希の姿を見てはしゃぐなつみの姿に、ほっとする。真希が車を降りてからも彼女のうれしさは持続して、もらった包みを上から下から斜めから、ながめ回しては表情をくずしている。
- 40 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時37分42秒
- 「キミもちゃんと寝なくちゃだぞ」
夜の墓地で諭すようになつみが告げた相手は、わりあい毛なみの整ったトラ縞の猫だった。
- 41 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時38分26秒
- その日は朝から頭が重く、右のこめかみあたりに、鉛でも埋め込んだかのような鈍い痛みがある。
(ねむい……)
この睡魔と頭痛は、圭織から借りた何本かの映画を立て続けに見たことに起因するのだろう。「いっしょに見よう」と言って泊まり込んだ真里にははなから最後まで見ようという意志はなく、彼女はバックに流れるピアノを子守唄がわりに心地よい睡眠を貪ったらしい。
- 42 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時39分23秒
- 「裏切りものめ」
はっきりしない口調で愚痴を告げても、コンディション・グリーンの相手には効き目がない。結局ひとりごとをぶつぶつと念仏のように唱えながら、自己嫌悪におちいるのが関の山だった。
さらに、あきらめて本を手にとったはいいが、栞をはさみ忘れ読んでいたページを見失う。
- 43 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時40分11秒
- 「厄日」という単語が脳裡をかすめた。
ただ漢字表記がおぼつかないために、正確には「やくび」という、ひどく間の抜けたひらがなが頭のなかで転がっているだけである。
自然顔は仏頂面になる。
だから圭に呼ばれて振り向いたときには、相手が固まってしまうほど不機嫌な目つきになっていたらしい。
当然、散歩などという気分でもなかった。
- 44 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時41分10秒
- 表情からなにかしらのアクションを起こしてくることは予想済みだったため、「いこう」と相手が言い終わるのを待たずに、なつみは「いやだ」と言った。
気が変わったのは、しつこく誘う圭にうんざりして、現実から逃避するために意識を過去へと飛ばしたときだった。
自分でも驚いたことに、それはずいぶんと遠いところまで飛んだ。
- 45 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時42分11秒
- 『散歩いこ、さんぽ』
『キミひとりで行きな』
昔は、どちらかと言えば構うよりも構われる立場にいて、しつこく食い下がってはあしらわれることが楽しかった。
それも反論のしようがないほど理詰めで断わられ、ただ、それに従うのも嫌なので拗ねて駄々をこねて呆れられる。
『えー、いいじゃん。ちょこっと歩くだけだからさ』
『歩いて、どうすんの。疲れるだけじゃん』
『ええーっと、そうだ、太陽を見にいこう』
そうしてそんなおかしな理由を声高に告げると、その人は『しかたないなあ』と苦笑して渋々ながら腰をあげる。
その面倒くさそうで照れたような顔を見るのがうれしかった。
散歩は、二の次で。
- 46 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時43分01秒
- なつみはまっすぐ圭を見た。収録後の疲れ切った身体でただ歩くだけなら人を誘う必要はない。
(なにか、話すことがあるんだ)
急に肩の力をぬいて話に耳をかたむける素振りをみせたなつみに、怪訝な目を向けながら圭はつづけた。
「ちょこっとさ、公園歩くだけだからさ」
「さんぽ、なんだ」
「そうそう、さんぽさんぽ」
「……さんぽ」
「いく? なっち」
- 47 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時44分51秒
- 控室からひとりふたりと挨拶をしては出ていく後輩たちを笑顔で送って、なつみはかけていた椅子の背もたれにぐっと体重をかける。
しばらく思案顔のままその格好でいたのだが、やがて勢いをつけて後ろへ寄った重心を前へともどした。
「しかたないなあ」
何年もまえに自分へ向けられたことばと、記憶にある表情を真似てはみたが、どこまで似せられたかはわからなかった。
- 48 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時45分28秒
- その記憶さえいまでは鮮明とはいえない。あの日の自分は太陽を見ようと誘ったはずなのに一度も空を見なかった。
街路樹の影にかかったりはずれたりしながらぼんやり揺らぐ景色と、隣ではいはいと適度に話を流しつつ歩幅を合わせてくれる友人の横顔ばかりながめていた。
そのくせ自分の見上げなかった太陽の感想を、「きいろかったよ」だけで片付けてしまう相手に頬をふくらませていた。
- 49 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時46分08秒
- 圭と連れだって表へ出ると、なつみは首を反らして空を見た。
やけに目立つ月と街の灯りのせいで、ようやくぽつぽつと光の届く星すらここではかすんでいる。
なつみの知る数少ない星座は先月よりも低い位置にあり、まだ肌寒いものの、どうやら季節は変わりはじめているらしい。
月は絵でみるような黄色ではなく、ただ白かった。
- 50 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時47分08秒
- 散歩の途中、行かせまいとするかのようにまとわりついてきた仔猫は、しっぽを真上に伸ばしてのどを鳴らしている。
餌でもねだっているのか、しきりに小さな頭をくるぶしの上あたりに押しつけてきた。
(のの、みたいだよ)
屈託なく甘えてくる後輩を思い浮かべて、
(でも、ののほどじゃないな)
自分で打ち消した。
仔猫は摺りよってばかりではなく、いったん身体をはなしてはじっとこちらをうかがい、またしばらくしてから温もりのある冬毛をあててくる。
背をなでようとすると、気配におどろいてすこし後ずさりした。
- 51 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時48分42秒
- その様子は、
(むかしのごっつぁんだ)
考えてみれば、彼女はたしかに猫に似ている。
甘えてくるかと思えば急に距離を置いてみたり、ただどうも、最近は自分の方が構われているかのような印象がある。
グループから出てひとりで活動するようになってから、真希は以前とどこか変わった。
すこし目を猫から逸らすと、近くに圭の影がある。
「かわいいねえ」と言うと「うん、かわいいねえ」と影は答えた。
- 52 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時49分45秒
- こいつは食べものをくれない、そう覚ったのか、それとも単に飽きたのか、仔猫は一声ささやくように鳴いてから近くの茂みの方へ去っていく。
はじめはその一匹を残していくことに申し訳ない気分になったが、となりの影がなつみを引き起こしつつ、猫の向かう先を指さした。
「家族、いるんじゃん」
- 53 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時50分19秒
- 暗くてわかりにくいものの、茂みの前に二匹ほどかの猫を待ってるらしい影がある。
すると、先刻までは自分たちが残していく側だったのが、今度は猫に取り残される格好になった。
「寂しくは、ないか」
車を呼んだと告げた圭にも聞こえないくらいの声で、なつみは言った。
- 54 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時51分14秒
- 朝から胸にわだかまっていた暗鬱な気分は、猫で薄れ、そのあとすぐかき払うように晴れた。
圭の言う「車」には見知った顔が乗っていて、なつみの考えていたよりもはるかにあどけない表情で迎えてくれる。
ただそれだけのことでお手軽にも浮かれてしまい、心無しか頭の痛みも和らいだ。
不意にもらったプレゼントにも驚いた。
- 55 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時52分38秒
- ひとしきり騒いだあと、片頬を照らす光に気がついて、なつみは目線を車外へ向けた。
月がある。街灯さえうす暗く思えるほど、煌々と真上にちかいあたりで照っている。
無意識に手を窓にあてた。
指の合間からこぼれるように光がおちてくる。
「なにやってんの」
なつみが膝のうえに大事に置いた包みをうまく避けて、身を寄せてきた圭はやはり月をあおいだ。
「えっとねえ、なーんか、血管みえないなーって思ってさ」
ばかにされるのを承知で言うと、
「ミエナイねえ」
真面目に返されて困った。
- 56 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時53分20秒
- 記念日というものをはじめて考え出した人は偉いと思う。
- 57 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時54分24秒
- 記念日というものをはじめて考え出した人は偉いと思う。
カレンダーの二月七日を指でくるくると囲うようにして、なつみは蛍光ペンでにぎやかに彩られた数字をみつめる。
それは以前遊びにきた亜依が、家の主人に隠れてこっそり書き込んだものらしい。うかつにも一月が終わるまで気付かずにいて、みつけたときに吹き出した。
「7」の数字はほとんど隠れてしまっていて、とりどりの装飾が見知った筆跡で塗りたくられている。
微妙に配色のバランスが整っているので、絵心はある。
- 58 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時56分10秒
- 「バーズデイ、誕生日でしょ。クリスマスー、まめまきー、それにバレンタイン、と」
職業柄、祝日というものの恩恵にあまり浴していないせいもあって、記念日でもイベントごとのある日くらいしかすぐには思い浮かばない。
部屋には同意をもとめる相手はおらず、自分自身で確認するかのようにつぶやいた。
「やっぱ、記念日っていいよねえ」
振り返って机に置いてある卓上カレンダーを見る。
それはまだ一月の日付を残したままで、その二八日がささやかに花丸のなかに収まっている。
- 59 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時57分38秒
- この花丸は、来年も再来年もずっと同じ日に打たれ続けるにちがいない。
すこし名残惜しく思いながら、一月のカードを抜き取り二月に変える。そこにもやはり七日に落書きがほどこされていて、ついでに一四日のわきにも「チョコくれ!」と小さな字で催促の文句が書かれている。
今日の日付には、なにもない。
なつみはおもむろに近くにあったペンをとって、数字のまわりを丸に耳をつけた猫の輪郭で囲う。
しばらく考えて、その横に「ご」と添えた。
真希のくれた包みの中味は、市販のチョコレートだった。
- 60 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)21時58分33秒
- 『チョコ、おいしかったよ。あと、ごっつぁんのミュージカル、ぜったい見にいくからね』
深夜届いたメールで、はじめて自分の贈ったものがチョコレートだったことを知り、同時に無性に自分も食べたくなって部屋を出た。
- 61 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時00分53秒
- 階段につけられている窓からは、灯りの消えた町が見える。
ふと立ち止まった真希は先刻見失った月を探してみたが、すっかりかたむいてしまったらしく、みつけることはできなかった。
時間が時間だから、西につらなる屋根のむこうに、もう沈んでしまったのかもしれない。
「ざんねんだべねー」
何が残念なのか真希自身にもよくわからなかったが、つぶやいてから窓へと手をかざした。
そしてなぜか語尾をおかしくしてしまった我が身の他愛なさに、ひとりで肩をふるわせる。
- 62 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時01分38秒
- 「なっちでも、もうだべなんて言わないよねえ」
真希は独り言は多いほうだと自覚している。
あらためて考えると、自分の発した語尾をことさら照れて弁明している姿は、ずいぶん滑稽だった。しかも弁明する相手は階段と窓くらいしかない。
「もう、全部なっちのせいだよ」
当人が聞いたら冤罪だと驚くだろう理由(真希にとってはたいへん正当な事情ではある)で一連の弁解を締めくくると、真希は鼻歌を歌いながら食料の貯えてある納戸へと向かった。
そこには調理道具も一式そろっていて、適当なものを見繕おうと箱の中をあさる。
- 63 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時02分46秒
- なにか目新しい道具を見つけるたび、上の姉ともども使い道も考えずに買ってきてしまうため、箱の中はありとあらゆる道具がラッシュアワーよろしくひしめき合っている。
その中からハート型の型抜きをみつけて、おもわず笑みをこぼした。
「あー、これ、三つあるんだよね」
一、二、三と底の方から取り出して、棚の隅に並べてみる。
形も素材もすべて同じで、実のところ、だぶっている二つは後藤家のものではない。
それは希美と亜依からの預かりもので、連れだって買いに行ったはいいが使うこともなく眠らせていた。
- 64 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時03分18秒
- もう二年ほど以前になるだろうか、
「ごっちん、あのさ」
と、ことさら思いつめた顔をして亜依と希美が真希を両側からはさんだのは、その年も暮れの慌ただしい時期だった。
- 65 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時04分15秒
- 「チョコの作り方、おしえて」
「辻も」
なにぶん特番やらライブやらの段取りに忙しない時だったので、一瞬それがなにを意味するのか分からなかった。
ぽかんと間抜けた顔をさらしていると、身ぶり手ぶりをまじえて二人は「二月一四日」までに覚えたいのだと訴えてくる。
- 66 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時05分15秒
- バレンタイン、という製菓会社の思惑をそのまま反映したような日は、楽しんでこそ甲斐がある。
少なくとも真希はそう思っている。なにより台所に立つことがたのしい。新しく挑戦した料理が好評なら、さらにうれしい。
だから真希にとって、二月一四日はチョコ菓子作りの腕を披露する絶好の機会だった。
その腕を期待されての申し出だから、もちろんわるい気はしない。
ふたつ返事で引き受けると、希美と亜依はげんこつでハイタッチをした。
「よし、これでかんぺっき!」
「?」
完璧という単語の意味をはかりかねて、首をかしげると、
「安倍さんとごっちんカクホ!」
確保という意味をまだ十分に理解していなさそうな幼い顔をならべて、目の前のふたりは仲良く声をそろえた。
- 67 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時07分16秒
- 『チョコラブ大作戦』と題された企画のもと、希美がなつみの手を引き亜依が真希の腕をとって、翌日収録の合間に街へ出た。
作戦と銘打ったはいいもののなんら計画性はなく、ただぶらぶらと無為に昼のさかりのアスファルトを歩く。
その途中、かわいいからという理由で立ち寄った雑貨屋で、在庫処分か割り引き札がちらほら目についた。
そのうちのひとつに年下二人の眸がきらめく。
- 68 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時08分21秒
- 「四コ二百円」
売られていたのはアルミ製の型抜きで、花や星をかたどったものが籐のかごの中にどっさりと入っている。なかなか手ごろな値段でもあったので、四人は好きな形を選んで「せーの」と見せ合い、とたんそろって吹き出した。
それぞれの手には銀色のハートが乗っていて、それぞれの顔はおかしさにくずれている。
- 69 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時09分34秒
- 「なんで、みんなベタなの選ぶのー?」
真希が驚きあきれて声をあげると、
「そういうごっちんだって、おんなじじゃん」
「だって、あんまりさぁ狙ってるから、今まで買わないでたんだよ」
「でもみんな同じじゃ、リバエーションがないよ」
「のの、バリエーションバリエーション」
「いいじゃん、もう、みんなハートで」
それぞれがとりとめもなくわめいた後、結局ハートが四つ、紙袋におさまった。
それは帰りまで真希があずかることにして、四人の短い休憩は終わる。
ただ失念していたことに、仕事の終了がそれぞれまちまちだったため、なつみにしか手渡すことができなかった。
- 70 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時10分35秒
- 「ごっちんからのハート、確かにいただいたぜ」
ふざけているとは分かっていたものの、その言葉にすこし照れた。そうして渡せず終いの残り二つは後藤家の納戸におさまることになる。
年の暮れにはじまり二月一四日に向けた彼女たちの作戦は、年の明けるころにはうやむやになり、ライブのリハーサルにまぎれてバレンタインすら消えた。
「鬼がわらった」そうなつみは言って、すっかり振り回されてしまった真希とともに肩をすくめた。
- 71 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時13分14秒
- 「レシピも、つくったんだけどな」
棚に並んだハートをながめて、回想に苦笑いする。
三つのハートと買い置いてあった板チョコを持って、納戸の扉は足で閉めた。
深夜のおやつ作りは手早くしなければ気付かないうちに朝になる。
以前おかした失敗を反省しながら、真希は手際よく作業にとりかかった。
今まで使わなかったことを詫びるように、希美たちの型抜きでチョコを混ぜたクッキーの生地をくり抜く。
適当につくっているつもりだったのだが、できあがった数を数えると二六個あって、おもわず手を止めた。
- 72 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時13分51秒
- 「………」
ひとつつまんで口に放り込む。
乾いた口のなかでそれはずいぶん食べにくかったが、残りが一三の倍数でなくなったことになぜかほっとした。
- 73 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時15分08秒
- 『チョコくれ』というカレンダーへの催促どおり、なつみが差し入れたそれはメンバーの不評を買った。
一四日にはまだ早いものの、休日の手持ち無沙汰に、目新しいものを作ってみようと思い立ったことが裏目に出たらしい。
「なっち、つかぬことを聞くけど、これ、ナニ?」
確認することがある意味おそろしい、そう言わんばかりの表情で真里が尋ねる。
「いや、あのー、チョコなんだけども」
答える側も、じつは相当困惑している。自信を持って作り始めたものの、できあがりに近付くにつれ味見すらしようという気も起きなくなった。作った当人がそういった態なので、当然他の人間がすんなりと手を出してくれるはずもなく、たがいに顔を強張らせながらなつみ作の差し入れを囲んでいる。
「ごめん、なっち、私、これ、チョコにみえない」
圭織が眉を寄せてつぶやくと、乾いた笑いを小さく放ってから、なつみはうなだれた。
「だよねえ。なっちもそう思う」
- 74 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時17分01秒
- アイスの天ぷらがあるなら、チョコだってありだろう。
単純な思いつきだった。
アイスと同じ天ぷらというのも芸がないから、パン粉をまぶして揚げてしまおう。
暇というものは、しなくてもいいことをするためにあるようなもので、いつもは料理に手間暇をかけないなつみが、妙な新作の試行錯誤で一日を潰してしまった。
その妙な新作は、さんざん油の匂いを嗅いだために気分をわるくした当の彼女の口に入ることはなかった。
そのまま楽屋に持ち込まれて、部屋の空気を固めて終わる。
- 75 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時17分56秒
- 責任転嫁だと自覚しながらも、きっかけとなった亜依を恨めしげにみやって、なつみは長々とため息をついた。
(どうしよう、これ)
なつみと妙な新作を残し、三々五々散ってしまったメンバーにむくれつつ、休日明けで冴えない思考を必死に回してみる。
食べられるものかどうかわからない、という重大な問題よりも、残したらもったいないじゃないかという考えが大方を占めて、半分罪悪感にさいなまれながら「揚げチョコ」を廊下のわきにあるテーブルに置いた。
(きっとだれかが食べてくれる。……かもしれない)
一縷の希みを託して、とりあえずその場からは逃げることにした。
収録が終わったときにひとつでも減っていれば、それでなつみは報われる。チョコとともに衣に包まれているオフ一日分の努力を、ひとりくらいは認めてくれてもいいと思った。
- 76 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時18分53秒
- 「ハラヘッタヨ」
ぽつりつぶやいた声は自分でも驚くほど響いて、真希はおもわず周囲を見回した。
目深にかぶったニット帽はセットをしていない髪を隠すためのもので、遅刻を恐れるあまり今日は朝食すらとっていない。
- 77 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時19分58秒
- (やっぱりお菓子なんか作るんじゃなかった)
テレビ収録を済ませれば、本番間近で熱の入った舞台稽古が待っている。
昨日のお礼にと作ったクッキーが真希の抱える鞄に詰まっていて、今朝はその準備に追われたために局へ着くまで空腹に気付かなかった。
いつもは買い溜めてある駄菓子も見あたらない。
稽古のまえに一応の食事が出るのだが、それも今から四時間もあとの話である。
(もたない、ぜったいお昼までもたない)
- 78 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時24分55秒
- そんな真希の目に、食べものらしきものが映った。
どうも奇妙な形で、いびつでふぞろいな揚げ物がバスケットに入れて置いてある。ご自由にお持ちください、ということなのだろう。
食べものにはちがいない。
真希はなんのためらいもなく二つ、続けざま頬張って、
「………あまい」
お菓子、なのかな、と首をかしげた。
チョコを揚げるとは、大胆な発想をしている。妙に感心してから、大家族の癖でのこりの数を無意識に数えた。
「二、四、六の八の……十一コ」
口のなかでチョコ独特の苦味がすこし後を引いた。
- 79 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時26分06秒
- 昔、父がいなくなってからしばらく、「ご飯、炊きすぎた」というのが母親の口ぐせだった。
家族という存在は、自分で思うより深く日常に染み込んでいて、なんでもないようなことにかぎってその影響は著しい。
姉が結婚して義兄や甥が家族として増えてからは、今度は「ご飯、少なすぎた」という口ぐせに変わって、やはりしばらく彼女は夕食の献立とその分量に困ったらしい。
- 80 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時28分11秒
- 『娘。は、家族なんだよ』
そう言って拳をにぎっていたのはだれだったろう。
その人はそれから拳を広げ、暑い盛りの太陽にかざしていた。
『もー、やっぱりだまされたー』
などと急に不平の声をあげるから、
『なにー?』
と側へ寄る。
すると、手を真上へ向けた格好のまま『だって、真っ赤に流れるボクのチシオなんて、見えないんだもん』と口をすぼめる。真希はそれが唱歌の歌詞のことだとすぐに分かったので、ささいなことにこだわって拗ねている彼女をおかしく思った。
- 81 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時28分43秒
- おなじく空を見上げて、太陽と顔のあいだに手を差し入れた。
手はわずかに橙色に見えたけれど、透かすどころか光をきれいにさえぎって影をつくる。
てのひらを透かすという太陽は、いったいどれほどのまぶしさなのだろう。
考えながら、となりでまだ眉間にしわを寄せているその人をそっとのぞいた。
てのひらが透けることはたぶん未来永劫ないだろうと真希は思う。それでも、目の前で一生懸命目を凝らしている彼女は、ことあるごとに手をかざし続けるにちがいない。
いつか、見えるといい。そう思った。
- 82 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時29分46秒
- と、急に廊下の奥で、ざわめきが起こる。
なにかの収録が終わって、出演者が一斉にスタジオを出たのだろうか。
耳を澄ますと、波のように寄せる音のなかに聞き慣れた声がある。
真希は、やがて廊下の角を曲がり姿をみせるだろう面々を思い浮かべながら、腕をのばし視線の先で指を広げた。
しばらくそうやってぼんやりとしていたが、ざわめきがすぐそこまで来たと覚ると、なぜかあわてて背を向ける。そのまま自分の楽屋へと逃げるように飛び込んで、ようやく息をついた。
- 83 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時30分44秒
- 彼女がいる。
それだけで信じられないほど動悸がはげしくなり、じっとしてはいられなかった。
あのまま手をかざし続けていれば、まぶしさに脈打つ自分の血さえ見えたかもしれない。
その胸の高鳴りは、真希にはじめてステージに立ったときのことを思い出させた。
- 84 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時32分07秒
- あれから何年経つのだろう。
指折り数えて、小指を残した片手の指がすべてうずくまる。
「あ」
その数は、年を日に差し換えればミュージカル初日までのカウントと同じだった。
- 85 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時43分21秒
- 「ごっちーん」
「ごっちーん」
「ウィーッス」
ミュージカルが始まってしばらくのち、希美と亜依という小さな台風を引率して、ひとみが楽屋に顔をのぞかせた。
「おー、みんな元気かーい」
第一声で呑気に告げると「そりゃこっちのセリフだよ」と三人ともに突っ込まれる。
舞台の感想や最近の仕事の話をつらつらとひとみと語る間、彼女の連れ二人はもの言いたげな表情をたたえて立ったり座ったり、どうにも落ち着きがない。
- 86 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時45分20秒
- もともとたいした話題を展開しているわけでもなかったので、いいかげん気になった真希は希美と亜依へと向き直る。
「で、キミタチはなにさっきから騒いでんの?」
「あ、あのねっ!」
問いを投げかけられた途端、二人は堰を切ったように話し出したものの、双方がてんでばらばらに言葉を繰り出すために、なかなか要領を得ない。
とりあえず、真希の耳で聞き取れる範囲の単語をあつめてみると、
- 87 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時46分58秒
- 『チョコ』
『大阪』
『バレンタイン』
『作った』
『がんばった』
『食え』
『残すな』
組み立てるのに時間がかかったが、逐一確認しながらつないでいくと、それはこう要約される。
「つまり、今年のバレンタインは、あたしが大阪公演の準備で忙しいから、会えない。そこで、辻とあいぼんが今日チョコを作って、持ってきた。がんばって作ったので、残さずタイラゲロ」
- 88 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時51分03秒
- 真希の言葉が終わらないうち、亜依が鞄から大きな袋を取り出して、どんと机にのせる。
(チョコにしては、重たい音だなあ)
苦笑いしながら、早速なかをのぞくと、オーソドックスな焦げ茶色のかたまりがごろごろと重なり合っている。一口サイズにしては、やや大きい。
比較的形の整っているひとつを取り出すと、真希から「あれ?」という疑問の声が口をついて出た。
手にしたのはハート型で、その形には見覚えがある。
つい先日、真希がクッキーをくりぬいたものと、まったく変わりがない。それはハートでもやや特殊な形で、わきの部分が通常よりもふくらんでいて、逆さにすれば桃にも見える。
- 89 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時52分46秒
- 同じ型抜きを買ったのだろうか。
不思議に思ってから、ふと一つの仮定が脳裡をよぎる。
「ねえ、これ、二人でつくったの?」
「そうだよ」
亜依は自信満々に胸を張る。すると希美が、
「あ、でもちょっと手伝ってもらったケド」
つぶやくように言った。
「そっか」
それを聞いて真希は満足そうにうなずいた。
「大切に食べるね」
だれが彼女たちを手伝ったのかは、聞かなくてもわかった。
- 90 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)22時57分57秒
- 猫のしっぽがうろうろしていると思ったら、プロモーションに使う衣装が移動の際になびいていただけらしい。
なんだと肩の力を抜いたときに、今度はすぐとなりからニャアニャアと鳴き声が響いてくる。
「猫だ」
あわてて振り向くと、希美と圭織が向かい合ってどういう訳か鳴き真似を競っていた。
(………まぎらわしい)
はげしく脱力してから、どうしてこうも先日の猫が気にかかるのかを、なつみは自分なりに考えてみた。
- 91 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時10分14秒
- 朝から閉じ込められている撮影所は、メンバーには馴染みの場所で、わずかの隙に機材の搬入路をつたって外へと出る。
するとそれまで壁に反響してこもっていた音という音が消えて、一瞬の静寂がおとずれた。
やがて耳が慣れて、次第に屋内とはべつの喧噪がもどってくる。
スタジオの脇に、周囲をアスファルトに固められた地面に根を張り、すっかり葉を落とした桜が一本立っていて、なつみはそのわずかな木陰に腰を下ろした。
もうしばらくすれば一面白い花びらで埋まるだろう枝と枝の間から、午後の太陽が見える。
「そっか。ごっつぁんと、会ってないんだ」
それがなつみの出した猫の結論だった。
- 92 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時33分03秒
- 去年の九月までは仕事で毎日顔を突き合わせていたのが、ただ「娘。」でなくなったというそれだけで急に会う機会が少なくなった。
仕事にほとんどの時間を割かれているために、その仕事で絡む以外接点を見出せない。それぞれのスケジュールを考えれば、数少ないオフが重なるわけもなかった。
だから、久しぶりに話した真希の声と表情が、その日見かけた猫と記憶のなかでつながってしまったのだろう。
チョコレートの記憶だけは、その後の苦い経験で消されてしまったのだけれど。
「おーい、がんばってるかい?」
だれに言うでもなくつぶやきながら、なつみは手のひらを空に向けた。
- 93 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時34分10秒
- 東京での真希の公演も終わりがけになったころ、圭織、梨華、なつみの三人が連れだって観劇に来てくれた。
幕が下りてから彼女たちの来訪を心待ちにしていると、まず梨華が興奮しながら楽屋のドアを開け、つづいて圭織がその勢いに気押されつつドアを閉めた。
「あれ? なっちは?」
すかさず問うと、遅れてくると言う。
「そういえば、こないだ、あのさ、へんなチョコ、だれか作らなかった?」
コロッケみたいなの。
軽い前振りのつもりで真希が切り出した途端、圭織と梨華の笑顔が引きつった。
- 94 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時35分46秒
- お腹、大丈夫? 歌以上にきれいに声を合わせて尋ねられ、真希は困惑する。
実のところ空腹にまかせて手を出したため、その形状や味に関しての感想がまったくと言っていいほどなかった。
とりあえずどんな味だったかと問われれば、ちょっと変わったチョコレートの味、としか答えられない。
ほかに感じたことは、なにかあったろうか。
「あー、いや、一三個あったから、娘。のだれかが作ったんだろーなーって、思って、あの、勝手につまんでみたんだけど」
「……おいしかった?」
「いやー、なんかすごくお腹へってて、ええと、お腹が重くなってよかったよ」
「ご」
「ご?」
急に横手から声が届いたので首をめぐらすと、白と黄色を基調にしたブーケをにぎりしめて、なつみが立っている。
久しぶりに顔を見たうれしさに、その手が小刻みに震えていることには気付かなかった。
- 95 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時36分50秒
- 「ごっつぁんのばかーっ!!」
「えええっ? なんでぇ?」
状況をのみ込めずに焦る真希のとなりで、事情を把握しているためにさらに梨華がおろおろとする。
「胃が重くなったって、せっかくあんときだれか食べてくれたってうれしかったのに、ひどいじゃん」
「それでなんで後藤がばかになんの? って、あれなっちが作ったの?」
「なっちが作ったの! 作ってみんなにさんざんばかにされて廊下置いといたの!」
「いや、安倍さん、ごっちんはよかったって」
「梨華ちゃんは黙ってて」
「ハイ」
固まった梨華がとなりへ視線を送ると、娘。のリーダーはあろうことか緊張感のない顔で笑っている。ため息を量産する間に、普段からテンポのちがうなつみと真希は噛み合わない言い合いを続けている。
- 96 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時38分36秒
- なつみは自身、理解していなさそうな単語を文法無視で並べ立て、真希はさらにその理解に苦しみつつ彼女の真意がどこにあるのか探りかねている。
「もういいよ」
なつみが憮然と言い放った。
「よくないよ、なっち訳わかんないって」
「もういいから、ちょっとさ、花瓶」
手を差し出された梨華があわてて机上にあった花瓶を渡す。
「花、活けてくる」
それが、ひとまずの終止符だった。
- 97 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時53分38秒
- なつみが席をはずして、かわりに沈黙がその場を陣取った。やがて、
「スマンねえ」
それまで微笑ましく見守るだけで口をはさまなかった圭織が、ふいに言った。「公演で疲れてんのに、あんなさ、感じで」
納得のいかない気分もようやく落ち着いてきたので、真希も苦笑いでそれに答える。
「まー、いいんだけどさ」
「でもさ、なんていうのかな。ああやって子どもみたいに怒ってるなっち、久しぶりに見たよ」
ねえ? 梨華に同意をもとめると、思い返してでもいたのか、ややあってうなずいた。
- 98 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時54分17秒
- 「そういえば」
「そうなの?」
「ホラ最近、うちら、お子さま多いじゃない? やっぱりさ、それなりに大人にならなくちゃ、だめでしょ」
「ふうん」
たいへんだな。真希はむくれたなつみが吸い込まれた入り口のドアを見遣った。
人一倍甘えたがりで、人恋しい気持ちも強い。
そんななつみが精一杯背筋を伸ばして大人数の先頭に立っている。弱音も後ろ向きな自分も全部、小さな身体のなかに包み込んで、それであの笑顔は反則だろう。
「あーなんだかもうマイッタなあ」
声を裏返らせて呻く。ソロになって一人立ちしたと思っていたのに、とてもかなわない。
- 99 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時55分38秒
- 先刻からのめまぐるしい展開に会話を続ける気力もなくなって、部屋に残された三人はそれぞれに口を閉ざした。静まり返った部屋は、密閉されているために外の音がよく届く。
だから、二、三歩進んでは止まり、止まっては思い出したようにこちらへ近付くなつみの足音さえ、意識しなくても聞こえてきた。
どんな顔でドアを開けようか迷っているのだろう。彼女なりにどうやら反省しているらしい。
「よし、じゃあ先行くわ」
圭織が立ち上がり、梨華もそれにならった。真希は座ったまま彼女たちの動線を追って首を上向ける。
「もう行っちゃうの」
「ん、うちらもまだ仕事残ってるから」
「そっかぁ。たいへんだねぇ」
「お互いさま」
圭織が微笑んだところで、向こうからドアが開いてなつみがきょとんと中をのぞいている。
その手許に揺れている花は、意外にもきれいにまとめられて花瓶に挿してあった。
- 100 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時57分44秒
- 「あれ? もう帰っちゃうの」
なつみがすがるように視線を向けた相手は、頬にかかった髪をすくって耳にかけると、「外で待ってるから、手短にね」とだけ言って横をすり抜けていく。
「安倍さん、なにかあったら、石川直伝の、コレで。こう、グッチャー、です」
続いた梨華はジェスチャーまでつけて応援してくれたが、さっぱり訳がわからない。
とりあえず愛想笑いだけ返してそのまま部屋へ入ると、椅子に腰掛けて小さくなっている真希と目があった。
すこし背をまるめて、まるでいたずらを叱られたときの子どものように、上目遣いでじっとみつめてくる。
- 101 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時58分55秒
- 「そうしてると、猫みたいだね」
「……そっかな」
「うん」
なつみは、なるべく邪魔にならずそれでいて色の映える壁際をえらんで花瓶を置いた。東京での公演は残りわずかで、花は最後まで真希を祝ってくれるにちがいない。
猫とよばれた背をすこし糺して、真希はなつみから目を離さないでいる。
視線の先で彼女は花のくずれを直していたのだが、やがてくすぐったそうに振り返った。
「もう、そんなじろじろ見るもんじゃないべ」
「そうだべか」
「そうだべさ」
唇をとがらせてふたりはにらみあい、同時に吹き出した。
- 102 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月10日(火)23時59分56秒
- ひとしきり笑うと、なつみは神妙に頭を下げた。
「ごめん、あんなへんてこなチョコ作って」
「ううんぜんぜん、あの、おいしいとかそういうのはわかんないけど、さっきなっちが作ったって聞いて、思い出したの」
「なに」
「なっちだなあって」
頬をゆるませて、真希は自分の胃のあたりをぽんぽんと叩いた。
「なんだい、そりゃ」
「ええと、なっちのさ、味っていうか、昔よく作って持ってきてくれた大学イモ? の味にちょっと似てたから」
- 103 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時01分11秒
- なつみの作るさつま揚げは、そのほとんどが真希の腹におさまり、一時期作ることにも食べることにも禁止令が出されたほど二人にとって馴染みが深い。
「で、あのチョコのおかげでさ、へろへろにならずにすんだよ」
満面の笑みをこぼす真希の眸に、情けなく眉をたれるなつみが映った。
「どしたの、なっち?」
「や、なんだろ、自分でもよくわかんない」
「泣いてるの?」
「ちがっ、なんか、ここが」
そう言って心臓のあたりを指さした。「あったかくてさ」口に出したとたん、言った当人が耳を真っ赤にして照れている。
あわてて「今の、なし、なし」とあたふた手を振って打ち消す素振りをみせる彼女の髪は、去年よりもうだいぶ長くなっていた。
- 104 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時02分49秒
- 「か、圭織たち待ってるし、もう行くね」
よく見るとなつみの髪の先がわずかに黄色く光っている。なんだろう、と思いながら近寄って、
「うん、今日はありがと」
言いながら指ですくった。
一瞬身を引いたなつみは、されるがままたたずんでいる。
「ああ、なんだ」
「なに、ごっつぁん」
「花粉だ」
「あ、さっき、ついたのかも。でさ、もう、行かないと」
そうだね。名残惜しい気持ちを指の先に残して、真希はゆっくりと腕を下げた。それが自分の髪から離れるのを見計らって、なつみは華奢な背をこちらへ向ける。
- 105 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時03分25秒
- 彼女に触れていた指にそっと視線を置くと、かすかに花粉がついていて、
「なっち」
真希は外へ半分身をすべらせたなつみを呼びとめる。
「うん?」
「なっちからのハート、確かにいただいたぜ」
亜依たちからもらったチョコレートのことを暗にほのめかして言ったつもりが、なつみの記憶からそれはきれいさっぱり抜け落ちていたらしい。彼女は困ったように眉をよせ、
「なんだい、そりゃ」
あきれたように言って、そのまま扉の向こうに消えた。
- 106 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時03分59秒
- 『なっちさぁ、も一個、くやしいことがあるんだ』
『なに?』
『なにって、ごっちん、ココ日本海だよ? もぉさ、ぜったい夕陽見たかったのにさ、昨日イカに必死でさ、見れなかったんだもん』
『夕陽かあ』
『海に沈むんだよ』
- 107 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時05分41秒
- 大阪公演の初日を控えての緊張が、忘れたと思っていた記憶をふたたびどこからか浮かび上がらせる。
浅い眠りのなかに乱入してきたなつみに驚いて、真希は「ぬあ」という奇妙な声をあげて目を醒ました。
真上に見えた、自分の部屋ではない天井に一瞬おどろいて、全身にのさばっていた眠気がとんだ。
「………」
カーテンに閉じられていて見えはしないものの、星々をいただいたまま未だ明けやらぬ空は紺色に染まっている。奥歯を摺り合わせるようなジーという機械音は、空調か時計だろう。
それは寸断なく耳に流れ込み、寝不足ともあいまって、あまりよい心地はしない。
- 108 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時06分40秒
- (もっかい寝よう)
シーツを頭からひっかぶり身体を丸めようとしたそのとき、水や台本その他が雑多に置かれているテーブルで携帯が細かく踊り出した。
ひきずるように目を時計へうつすとまだ午前五時半をすぎたばかりで、電話をかける行為じたい非常識きわまりない。
無視を極め込もうにも、それは不機嫌なうめき声で取ってくれ取ってくれとささやかに騒ぎたてる。
根負けするのも時間の問題だった。
「もーなに考えてるんだよう」
こんな時間に。言いかけて「こ」の字で止まる。
手に取った携帯の画面は、なつみからの着信だということを告げていた。
- 109 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時08分06秒
- 「おーい、ごっつぁん起きてる?」
脳天気とも言える底なしに明るい声が、寝起きの頭に直接こだまする。
「……起こされたよ、いま」
遠回しに相手を責めてもたいした効果はなく、浮かれているのか、なつみは弾んだ口調でくるくると喋りはじめる。近況からくだらない噂から、正味十分ほどひとりで語り終えると、
「いまからレインボーブリッジ渡るんだ。ごっつぁんに実況しようと思ってさ」
朝も早くから機嫌がすこぶるよろしそうな理由はそれらしい。
- 110 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時09分08秒
- それで一区切りとなったので、話に耳をかたむける間ずっと気になっていたことを、真希はぼそりと伝えた。
「あのさ、なっち」
「おう、なんだい」
「大阪と東京はね、時差はないんだよ」
「えーっ?! って、あ、そっか。そだよね。ちょっと勘違いしてた」
たまに常識に欠ける、それは同い年で同期の圭織にも共通していて、こちらが唖然とするようなことについて疑問をぶつけあっている光景は、娘。の中ではめずらしくない。だから大阪と東京に時差があろうがなかろうが、彼女にはたいした問題でもないのだろう。
「ふふん」
鼻で笑うと、ばかにされたと思ったのか、なつみは文句を言うかわりに通話口を指の腹で叩いて抗議する。空気のこもったような鈍い音が聞こえ、自然真希の頬がゆるんだ。
- 111 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時10分19秒
- 「なんだよう、もー、時差くらい勘違いしたっていいじゃん」
「いやー、なっちだなあーって思って」
「もー、ごっつぁんのばかー」
(そりゃこっちのセリフだよ)
胸の裡で愚痴をこぼしながら真希はベッドから這いずり出て、窓際に寄りカーテンを引いた。高層にあるためか、かしこの山に阻まれつつも、わりと遠くまで平野が見渡せる。そのもとに海を置いているだろう東南の空は、次第に白み始めている。
「そーいえば、さ」意識せずに言葉が出ていた。
- 112 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時10分56秒
- 「うん?」
「まえ、ずっとまえ」
「うん」
「海に沈む太陽が見たいって、言ってたよね」
しばらく間を置いて、息を漏らすようなかすれた声で「うん」と届く。
「朝日でも、いいじゃん」
「え? ふふ、あー、うん。それでもいっかな」
「沈まなくてもいいじゃん」言いながらそっと手のひらをガラスにあてて、中指のてっぺんあたりで消えかかっている星を見る。「モーニング、娘。でしょ」
- 113 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時11分43秒
- 「うん、ごっつぁんも、ね」
「あたしはもう、卒業……」
「ううん。なっちんなかのモーニングはね、今んとこ一七人いてさ、今度二十……一に、なるかな。どんどん増えてく」
「そっか」
「うん」
「ねえ、今、海見える?」
「ん、もうすぐ橋、渡るから、もうすぐ」
「太陽、出そう?」
「どーうだろ。わかんない」
車が橋を渡りきる前に、光の帯が水平線を彩ってくれることを願って、なつみは窓の向こうをのぞんだ。
- 114 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時12分33秒
- 「出るといいね」
真希は、なつみの眸にうつる景色を思い浮かべるように、そっと目を伏せて返事を待つ。
やがてかすかに身じろぎする音が聞こえ、窓に手をあてる気配を感じた。息ともささやきともつかない、くぐもった声がそれに合わさる。
「うん」
- 115 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時13分42秒
- 海へいこう。君と猫をつれて太陽をみにいこう。できれば昇るのがいい。
猫はしっぽをたてて、君は歌をうたって。
「ねえ、なっち」
「うん?」
「へへっ」
「なんだよぅ」
けれど今は猫もいない。君もいない。太陽もまだ見えない。ただ携帯に耳を押しあてて、声とそれにまぎれる吐息を聴いている。
「いやー、なっちだなあーって思って」
今はまだ、夜明け前。
- 116 名前:猫と君と夕暮れと 投稿日:2003年06月11日(水)00時22分49秒
- 終わりです。
言い訳は山ほどありますが、安倍さんが幸せそうに報告してくれた記念になればと。
すこし間をあけますが、残りのスレを放棄しないよう、なんとか、やってみたいと思います。
- 117 名前:名無し読者。 投稿日:2003年06月11日(水)10時31分38秒
- すごく読み応えがあります。
これからも楽しみにしています。
- 118 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月11日(水)17時18分43秒
- よかった、です。
- 119 名前:信長 投稿日:2003年06月11日(水)21時20分18秒
- こんな素敵なお話を読ませていただいて、ありがとうございました。
のんびりとでいいので、次回作、期待しています
- 120 名前:みじかく。 投稿日:2003年06月25日(水)22時53分19秒
- 軽く。
今年3月の話ですので、また季節はずれでごめんなさい。
実のところ、3/29の東京は曇りで肌寒い日でしたが、
そのへんはだまされていただけると、ありがたいです。
- 121 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時01分48秒
- 真里はその日、お気に入りの傘をなくし、寝ぼけまなこで廊下の角を曲がり損ね、打った額を冷やそうとして氷を床にぶちまけた。
つるつるとすべり転がっていく半透明の白いかたまりは、止まれといくら念じても、当然のことながら願うとおりにはなってくれない。
呆然と見送っているところを、同じユニットの後輩にみつかって笑われる。
- 122 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時04分33秒
- 「なにやってんのー?」
ひとしきり希美と亜依は無邪気な笑い声をひびかせていたのだが、やがて二人とも神妙に黙り込んだ。
いつもならすかさず飛んでくる怒声がない。十中八九叱られることを覚悟していたために、手ごたえのなさに拍子抜けをしたらしい。
気が抜けたところに自然と良心の呵責を感じて、なんとなくふたりともうつむいたままでいる。
しかし怒声を放てないことに驚いているのは当の真里自身で、不意の失敗を笑われたというのに、どうしてか二人を怒ろうという気にはなれなかった。
- 123 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時06分19秒
- (どうしてだろう)
ゆっくりとまだ鈍い思考をめぐらして、ああと気付いた。
今日は、お気に入りの傘をなくし、廊下の角を曲がり損ね、氷をばらまいて、そして「ミニモニ。」を卒業する。
- 124 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時07分27秒
- 卒業に「おめでとう」という言葉が続くように、今日は晴れの舞台で、だからきっと怒る気もしないのだろう。先刻ちらばった氷は冷たい床の上でまだ溶けずにいて、蛍光灯のもときらきらとまぶしい。
希美と亜依はふて腐れたようにうなだれている。
声をかけようとしたとき、控え室の扉があいて、ミカが三人を呼んだ。
「もう、はじまるって」
はじまる、という言葉が、真里の胸の裡に小さく引っ掛かった。
- 125 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時08分55秒
- 以前なつみが「娘。」について、まるでジェットコースターみたいだと語っていた。そのときは真里にもめまぐるしく時間を駆け抜けているという実感があった。
「もうさ、ビューンってかんじ」
なつみが言うと、そばにいた真希があどけない口調で「ビューンだ」とあわせる。
その二人の様子がなんとも間の抜けたものだったので、真里はお腹をかかえながら、やはり「ビューンだね」と続けた。
- 126 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時12分27秒
- 場所はどこだったか、セットの裏手、ぜんたい白く明るかったことを憶えている。ツアーで回った野外ライブの会場だったのかもしれない。
リハーサルを終え、開演を待つばかりのときで、それになりに場慣れしているはずなのに、緊張やるかたない新入生、真希の動揺がうつってしまった。
彼女に衣装の袖をずっとつかまれたままでいるなつみも同じらしく、三人は周囲のスタッフが苦笑するほど、しゃちほこばった口調でかちこちとした会話を続けていた。
- 127 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時14分06秒
- 真里がふと顔をあげると、周囲に張り巡らされた白い幕の上あたりに深緑の葉むらが見え、その上にうっすら雲が棚引いている。その白、緑、白のあざやかなコントラストに目を細めて、
「どこまで行くんだろ」
ジェットコースター。
主語を抜いてつぶやいた。なにげない独り言だった。
目線を空から下ろすと、つい先刻よりも近い位置に向き合っていた顔がある。まじまじとこちらをのぞきこんでいたなつみと真希は、一度大きく息を吸ったあと、それを吐き出す勢いで弾かれたように笑った。
この二人は外見も性格もすべて対照的であるのに、なぜか笑い方だけは一緒だった。
声は、高音と低音できれいに合わさる。
「どこまでも!」
- 128 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時15分07秒
- そう、どこまでも、うちらは歌っていける。それぞれがそう信じていたあの日は、たしか晴れていて風が強くて、その風に煽られた髪は今よりもずっと明るい色だった。
- 129 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時16分22秒
- 記憶はもうずいぶん昔のものだというのに、今日にかぎってあざやかによみがえる。
同じ記憶を共有する二人は今はいない。それ以外は季節もライブの前だという状況もすべて符号する。
(でも、ちょっとちがうよなあ)
回想にブレーキがかかり、野外の澄みあがった空は、一瞬で真白い天井になった。
今は、勢いよくジェットコースターが走り抜けたあとの、余韻を含んだレールをただながめているような心地がする。その銀色のカーブがいったいどこへつづくのか、昔は考えたこともなかった。
「ビューンだ」
真里はぼそっとつぶやいた。
- 130 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時17分15秒
- いったい、いつ、自分はあのジェットコースターから降りてしまったのだろう。
- 131 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時18分09秒
- 『紗耶香、これから、どうすんの?』
『どうって?』
『娘。やめて、どうすんのって聞いてるんだよ』
『あー、そうだねえ』
- 132 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時19分50秒
- 白い天井をみつめたまま、意識が揺らぐ。市井紗耶香の顔がその向こうに浮かび上がったとき、さすがに
(マズイなぁ)
そう感じたものの、真里は遡る記憶に抗おうとはしなかった。
甘えたような、それでいて意志の強さを思わせる強い口調、なつかしい声はなぜかいつもぶっきらぼうで、けれどそれこそが彼女から受ける印象と言っていい。
- 133 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時22分28秒
- どこからともなく梅の匂いがする。
花はみえない。
沈んでしまった陽の名残りもそろそろ消えかかっているいま時分、どこから香るのか探そうとしても多分徒労に終わる。
同期である紗耶香と二人でスタジオの外へ出たとたん、夕陽が見えなくなり、梅の香が鼻をついた。この付近には広い庭を持つ家は多く、そのどこかに植え付けられてでもいるのだろう。ともかく、むかし食べた梅ガムに似た甘酸っぱい香りは、ひどくきつい。
- 134 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時23分31秒
- 「梅えーはぁー咲いーたーかーっとぉ」
昭和ヒトケタの酔っぱらいのような歌声をあげて、紗耶香は真里の先を歩く。
調子が古くさいことから、祭囃子の類いだろうと真里は思ったが、聞けば有名な都々逸のひとつらしい。「ドドイツ」とはなにかと問えば、ドイツの親戚じゃないかとふざけたことを言う。
さすがにそれは違うだろうと反論するかわり、卒業のことをたずねた。公の発表はまだだったが、真里たちには「次のツアーで終わり」とだけ教えてくれた。
- 135 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時25分00秒
- そう告げてから、ふと思い出したように「ああ。ちょっとちがう」
「なにがちがうの」
「終わりじゃないや」
「そうなの」
「うん。これから、はじまるんだよ」
なにがはじまるのかを聞こうとして、真里は、つめたい空気の中まぶしく映える月に息をのんだ。
- 136 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時26分21秒
- 「やーぐっちさーん。矢口真里さーん、なに立ち止まってんのー?」
まだ人も引けきっていない往来で、嫌味っぽく人の名前を連呼する。視線を前方へもどすと、つい先刻まで側にあった彼女の背中は、道の向こうで半分ほどの大きさになっていた。
明るい基調の上着ばかりが、街の明かりに照らされて目立っている。
「はやく、ラーメン食べにいこーよ」
紗耶香は身体をくるりと反転させ、こちらへ真正面で向き合うと、追いついてこいと言わんばかりに腕を広げた。ありきたりなドラマのワンシーンを再現されているようで、真里はすぐには走り出せない。
- 137 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時27分24秒
- 代わりに、まんまるく目を見張ってから、じりじりと湧いてくるおかしさに耳を赤くしながら表情をくずした。
「ばっ、ばっか、なにやんてんだよー」
「照れるな照れるな。さァ来いッ! 真里!」
「犬みたいに言うなーっ!」
怒ったふりをしながらそれを口実に駆け出そうとしたとき、記憶は途切れた。
- 138 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時28分26秒
- まるで映画のフィルムを途中で切られたように、真里は呆然と周囲を見回した。
所狭しとメイク道具であふれる鏡台、その手前に置かれた味気のないテーブル、菓子箱がかしこからのぞいている誰かの鞄、そして、
「あの、はやくしないと、怒られる……」
心配そうにのぞきこんでいる年下の二人。なにもかも、さきほどと変わりない。
「お客さんも、待ってるし」
おずおずと希美が言う。
- 139 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時31分22秒
- 憶えば「ミニモニ。」はこの二人と遊び半分で起ちあげた企画だった。「主役になりたい」という軽くて大きな希望を叶えられるかどうか試してみよう。それはまるで秘密基地を作るような気分で、だから、次の遊びに気をうつしたら忘れられてしまうはずの、そんな他愛のないものだった。
それがいつからか、なつみの言う「ジェットコースター」に乗って、知らない内に自分たちだけの秘密基地ではなくなった。
遊びでは終わらなくなったことで、真里よりも年の幼い分、彼女たちにもそれなりの苦労はある。
今日のライブが終わったら、ラーメンぐらいおごってあげてもいいかもしれない。
- 140 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時32分40秒
- 二人の頭をおもむろに両手で撫でると、真里は勢いよく立ち上がった。
「よし、最高のライブにするぞ」
すると希美と亜依もあわせてかがめていた姿勢を糺し、彼女たちの頭に手を置く格好がとたん苦しくなった。
「もー、あんたら成長しすぎ」
「矢口さんがちっちゃすぎるんだよ」
「ちっちゃい言うな」
「だってちっちゃいもん」
「いいんだよ! ミニモニ。なんだから」
- 141 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時33分32秒
- 叱られた二人は妙にうれしそうに、怒る真里を見ている。その様子を
(似てる)
ふと思ったのをきっかけにして、ふたたび、人をからかってばかりいた彼女の映像が脳裡によみがえる。
(ちょっ、ちょっと待って。出てくんな、出てくんな! 市井紗耶香!)
これ以上思い出に時間を喰われてはたまらない。
あわててそれを消そうと両手を空に振ると、その拍子に真里は足許の氷を踏んで仰向けに転がった。
- 142 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時35分08秒
- 突然の奇妙な行動に驚いている希美と亜依の表情が、どうも漫画のようで、次第に逆さになっていく視界のなかにそれを見ながら思わず笑う。しかしそれもすぐに自嘲にかわった。
どうにも情けない。今日はお気に入りの傘をなくし、廊下の角を曲がり損ね、氷をばらまいた上にその氷にすべり頭を打つ。
ついてない。ついてない。これもぜんぶ紗耶香のせいだ。
文句をぐるぐる頭のなかで醸成していると、回想のなかの紗耶香は勝ち誇った顔で「ばーか」と笑った。
- 143 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時36分01秒
- 必死に走って、息をきらせながら追いつくと、彼女は真面目な声で「ラーメン、味噌にする?」と聞いてきた。
つづけて細麺がいいか太麺がいいかをたずねる。
それからぽつっと「ごめんね」と言った。
- 144 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時37分04秒
- あまりに声が軽くやわらかいので、真里は一瞬なにを言われたのか理解できなかった。意味をさとったあとも、はずんでいる肩と心臓を押さえるように下を向いたまま、顔をあげることができない。
ただ見えないものの、相手がどんな顔で、どんな目で自分をながめているかはよくわかる。
だからこそ、いま彼女を見るわけにはいかない。
- 145 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時38分40秒
- 「さやか」
「うん?」
「サッポロラーメンがいい」
「圭織の故郷のラーメンだな」
「ラッキョ入れれば、チバラーメンになる」
「なんだそりゃ」
「ホタテ入れれば室蘭ラーメンだし鹿入れれば奈良ラーメンだし神奈川は中華街あるから本格ラーメンでカラス入れれば福知山……」
次第にかすれていく声を無理矢理しぼり出して、そこまで一息にまくしたてたところで、言葉が続かなくなった。
- 146 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時39分41秒
- 埼玉と東京が抜けている。
指折り数えて真里の言葉を追っていた紗耶香は、いったん眉をかるく寄せてから、口許をほころばせた。
「ばかだなあ。お祝いしてくんなきゃ。卒業は、おめでとうなんだぞ」
「だって、一緒に、うた、うたえないじゃん」
「一緒にラーメンは、食べれるし」
真里は返事をすることもままならず、こみあげる嗚咽をこらえている。かろうじて涙だけは流れなかった。
- 147 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時40分20秒
- すると、
「やーぐっち」
急に声が間近から届いたのでおどろいた。おどろいて見開いた目に紗耶香が映っている。彼女はしゃがみこんで、ただでさえ小さい身体を曲げている真里を下から見上げていた。
「なんだ、泣いてないじゃん」
「なっ、ばかっ、泣くわけないじゃん。……オメデトウ、だしさっ」
「意地っぱりだなー」
「どうせ意地っぱりだよ」
「うん」
紗耶香は目を細めて一拍おいた。
「意地っていうのは張るためにあるからね」
その顔は、真里自身の影にかかって、はっきりとは見えなかった。
- 148 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時41分09秒
- と、うひょう、という間抜けた声が、なつかしい同期の姿をようやく追い払う。
我にかえると、亜依が携帯を手にあたふたと慌てている。その動揺にあおられたのか希美まで一緒になって騒ぎ出し、うるさいことこの上ない。
この二人には「感傷」などという言葉はポッキー以下の価値しかない。
「ヤグチさん、ケメちゃんから、電話!」
「なんで加護にかけてんのさ」
「はやく出て、はやく出て」
放るように携帯を手渡されて、真里の耳に入ったもうひとりの同期の第一声は、
『あー、加護、加護、あいぼんにかわって』
というものだった。
- 149 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時43分32秒
- 怒鳴りたい衝動を必死に押さえたためか、手短に、ということを伝えた真里の声は、押し殺したように低くなり、その手から携帯を受け取る亜依は脅されたように緊張している。
二、三、なにごとか話したあと、亜依は通話を切らないまま、手ぶりで真里に頭を出せと指示をする。怪訝に思いながらもその通りにすると、セットしたばかりの髪をかき回された。
「なんてコトすんだよーッ!」
- 150 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時44分24秒
- 真里の胸のうちで、今朝からの一連の不運がふつふつと煮えたぎっている。
傘はなくす、壁にぶつかる、氷をばらまく、さらに転んで、記憶の紗耶香にまで笑われて、とどめに整えた髪をくずされる。
吃と目線を上向けたとき、亜依はリズミカルに動かしている手を止めた。
「よく、がんばったな、矢口。ってケメちゃんが言えって」
「これからライブなんだから、過去形にすんな! って言って」
「たぶん、聞こえてるよ。あ、あーあーあーちょっと、ハイ、かわってだって」
どこまでも自分勝手な態度である。亜依が言い終わるのをまたずに携帯を奪い取ると、真里はありったけの音量で「もう、切るからね!」と叫んだ。
- 151 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時45分40秒
- さすがに向こうも慌てたらしく、必死でなだめてくる。とりあえず、ほんの少しだけ話を聞いてほしいと嘆願されて、しぶしぶ黙った。
『窓、ある?』
「ないよ」
『廊下は?』
「あったかも」
『開けてくんないかな』
「………なんで?」
『やぐちぃー』
哀しげに名を呼ばれるまえに、気のない返事を返しながらも真里は廊下へ出ていた。
もとより、自分を気遣ってエールを送ってくれている友人を邪険にするつもりはない。つれない口調を交わして許されるのも同期の誼だからで、お互いに本気で迷惑だと思っていれば、電話をかけることも受けることもなかっただろう。
- 152 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時46分33秒
- 廊下に手ごろな窓をみつけて、言われたとおりそれを開けた。
ただ開けると言っても、斜めにずらす型の窓で、細長くのぞいた隙き間からは皇居の木々が見える。
「ほい、で、窓開けたら、なに?」
『…………』
「圭ちゃん?」
『電波!』
「はぁ?」
『いま、しっかりやれよって、同期電波送った。届いた?』
- 153 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時48分22秒
- (ほんとに届いてたら、問題だよ……)
内心突っ込みを入れて、苦笑しながら「おうさ」と返す。白くかがやく窓の桟すれすれに、真上近くまでのぼった太陽がある。
そのくらむようなまぶしさに、いつかの月を思い出した。
『どうだ、感動したか』
「はいはい、したした」
『泣いた?』
「別の意味で泣きたいね」
『素直じゃないなー』
それは今に始まったことではない。
- 154 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時49分21秒
- ねえ、なっち。ビューンっていうジェットコースターからさ、落ちちゃったらどうすんの?
ライブを終えて、ステージから降りるなつみの背中に尋ねたら、なぜそんなひねた考え方をするのかと首をかしげて、
「素直じゃないなァ」
声は呆れている。
「でも、もし落ちちゃったらさ、どーする?」
「したら、もっかい乗るんだよ」
こともなげに言いきってから、なつみはかすかに音程をつけ口ずさむようにつづけた。
だって、ジェットコースターは、またもどってくるんだよ。
- 155 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時50分34秒
- あのとき言われた言葉を反芻して、今朝、気付いたことがある。その心の裡のどさくさにまぎれて、傘をどこかに置き忘れた。
「雨が降るかもって、うそじゃん」
楽屋入りしてからしばらく頬をふくらませていると、希美が飴をくれた。ふくれた頬に入っているのが怒りと飴では、その味はずいぶんちがう。
ありがとうと言って、飴を食べて、もう一度傘を忘れるほど気にかけた言葉を、真里も口ずさんでみた。
けれど、口のなかに転がる飴のせいで、それは声にならなかった。
- 156 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時51分32秒
- ジェットコースターは、またもどってくる。
そうだ、はじめから、なつみも紗耶香もわかっていたのだ。
立ち止まった自分がふたたび走り出せるということも。
線路がどこまでもつづかないということも。
『これから、はじまるんだよ』
記憶の向こうから声だけが届いた。
梅の香はしない。香も花もとうに散っている。
- 157 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時52分25秒
- 「圭ちゃん」
『おう、泣いてみる気になった?』
「ぜったいヤダ」
『意地っぱりだなー』
「ったりまえじゃん! 意地っていうのは……」
- 158 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時53分01秒
- 廊下の先で急げと叫ぶスタッフの声をききながら、もう一度外を見た。
次第に色濃くなるビルの影。淡く光を透かす街路樹の葉はやわらかく、桜の花もそろそろ終わる。
真里は深く息を吸った。
見慣れた都心の空はすこし靄がかかっていて、陽炎たつアスファルトを見れば、はや初夏の気配である。
- 159 名前:Your Will 投稿日:2003年06月25日(水)23時59分12秒
- おわりです。
>>117、118、119
読んでもらうためにあげたので、読んでもらった上にそのように言って
いただいて、うれしいです。
ありがとうございました。
- 160 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月27日(金)14時56分27秒
- 和泉さんのお話を読ませていただけて、こんなに嬉しい事はありません。
前回ROMらせて頂いたんですが、前回も、今回もすっごいよかったです。
情景が目に浮ぶようでした。
ずっとファンでした。あの、きっとこれからも(w
ありがとうございました!
- 161 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月01日(火)23時30分06秒
- いいなぁ。難しい言葉じゃなくてシンプルな言葉でわかりやすく伝えてくれるのは嬉しいなぁ。
いいなぁ。こんな言葉達が浮んで羨ましいなぁ。
まだ読んでいたいなぁ。
- 162 名前:名無し読者 投稿日:2003年07月05日(土)14時18分12秒
- 「夏の城」の時から和泉さんのファンでした。
「はじまりの日」を読んでもっと好きになりました。
そして今回の話でもっともっと好きになりました。
ずっと応援していますので、ずっと書きつづけていて下さい。
- 163 名前:和泉 投稿日:2003年07月12日(土)15時01分43秒
- >160,161,162
感想慣れしていないので、うまい言葉がみつかりませんが、
ほんとうにありがとうございます。
お礼といってはなんですが(他の場所で目にしているごくごく一部の方
には、すみません)以前羊で書いたものをあげさせていただきます。
2002年5月下旬から6月上旬の話なので、季節どころか、時間を
一年巻き戻してください。多少つじつまの合わないところも、見逃して
いただけると、さいわいです。
- 164 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時03分56秒
- 塀を越して溢れている花は時おり吹く風に揺すられる。道際に伸びている立木の枝先には、淡い新芽が細かな葉を広げだしている。
見上げれば五月の太陽は真上に近いあたりを通り、灼け付くような陽射しはすでに春のものではない。
- 165 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時06分18秒
- 汗ばむほどの陽気に夏の訪れを意識する、そんな最中でも仕事は間を置かずに入ってくる。
撮影の合間、携帯を手でもてあそびながら涼んでいる真希のすぐ隣で、なつみは暑い暑いと繰り返しながら狭い範囲を行ったり来たりして落ち着かないでいる。
自分から空気に当たって風を起こそうという心づもりらしいが、運動によって発生する熱量を考えると余計暑くなるはずだった。
- 166 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時08分11秒
- 小さな身体が目の端をこまごまと動き回る。いい加減うるさくなって、
「なっちぃ、止まったら?」
「あ、ダメ。それダメ。今止まったらぶわって暑くなるからダメ」
一向にやめる気配はない。その額にはすでにうっすら汗をかいてさえいる。
「止まりなって。逆効果だよ、それじゃ。ホラ、後藤が涼しくしてあげるからさ」
丸めた台本を元に戻して扇ぐ仕草をした。するとおもむろに立ち止まったなつみは満面の笑みをこちらへ向けて両手を広げる。
「サンキュ、ごっつぁん」
空気の揺れをひとつも取り逃すまいとしてかどうかはわからないが、ひどく間の抜けた格好である。ただ扇げばいいだけのところを、その様子にどう反応していいか迷った真希は台本を片手に固まってしまう。
- 167 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時09分53秒
- 当然、相手からはすかさず苦情が出た。
「ちょっと、止まっちゃったじゃんか。止まっちゃったでしょ? もー今暑いってすごく暑いって、どうすんのさもー」
わかる? わかる、この暑さ?
怒って詰め寄ってもやはり暑いだけだということには気付いたようで、意味不明なことを二、三訴えたあと、彼女は再びくるくると円を描いて歩き出した。こういうときのなつみに何か言っても聞き流されるだけなので、真希は苦笑して、残り少なになった差し入れの氷を口に含む。
「今、ちょっと可愛いなって思ってるでしょ」
不意に背後から無愛想な声と首とを肩ごしに突き出されて、真希は思わず氷を飲み込んだ。ひんやりとした塊がのどをすべっていくのはかえって心地良いものだったが、やや含み笑いを秘めた件の声の主には反発を覚える。
- 168 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時10分36秒
- 「ちょ、圭ちゃん。心臓に悪いって」
「なっちは毎年毎年学習能力ってもんがないねぇ。輪っか回してるハムスターみたいだねえ」
「けぇちゃん、頭重い」
「でもそんななっちのちょこまかしてる姿は、ぜんぜん見飽きないわーなんて思ってたでしょ」
「けーいーちゃーんー」
身体をひねって無理矢理頭を肩から退かすと、圭はわずかに前のめりになったものの、すぐ体勢を整えた。最年長である強みかどことなく余裕のある圭に対して、真希は内心の動揺を悟られまいと、柄にもなく頬を上気させて、それ以上のことを言わせないよう牽制する。
その態度は図星をさされたと自身で証明しているようなものだった。
- 169 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時11分44秒
- にらみ合っている二人の横を、さらにスピードを増したなつみが何度も往復する。やがて路線を変えてじぐざぐに折れ曲がりながら歩いていった彼女は、やはり涼む場所を探してうろついていた希美を間一髪避けたものの、その拍子にコードに足を取られ勢いよく機材にぶつかった。
音に驚いたメンバーの目が一斉に集中するなか、暑さと情けなさに耐えかねたなつみはやぶれかぶれな表情を天へと向ける。
「もー室蘭帰りたーい!」
- 170 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時13分55秒
- ムロランムロラン。呪文のように唱えてみる。
とりあえずおまじないとしての効き目はなさそうだと結論付けて、真希は北海道特集と銘打った雑誌を広げる。北海道はこの時期から夏の終わりにかけてもっとも人気のある避暑地だと言っていい。この雑誌に限らず至るところに風景写真を見ることができ、それだけで軽い旅情にひたることもある。
ページをめくると、白文字で抜かれたコメントの背景に一枚の写真が見開きで載せてあった。
そこには一面花の咲き誇る黄や薄紫の畝がなだらかに地平線を彩っている。
- 171 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時15分04秒
- 真希には空と地上の境が平地で区切られている光景というものには馴染みがない。太陽はビルの谷間から出て住宅地の屋根に沈む。東京で育った人間にとってはそれこそ自然の姿だと疑うことすらなかった。
なつみや圭織に言えば「そこまで田舎じゃない」と反論されるかもしれないが、少し足を伸ばせば手付かずの自然が広がっている故郷から、人工物でひしめきあう東京へ出てきたときの戸惑いはどれほどだったのだろう。
しかもおいそれと帰ることのできない距離である。
- 172 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時16分52秒
- 「近かったらしょっちゅう帰ってるよ」
左のこめかみに水で冷やしたタオルをあてて、なつみはぼやいた。
先日鉄の角に打ちつけたところにできた5ミリにも満たない傷からは、その規模に反して驚くほど夥しい血が流れ出た。当人には痛みの自覚はなく、また血も見えないことから、そのまま撮影を続けるつもりでいたのだが、メンバーを始めスタッフは真っ青になって、結局訳の分からないまま無理矢理病院送りとなった。
搬送された先が整形外科だったということになつみ自身はわずかな不信感を覚えたものの、傷の残る心配はないと診断されて全員がほっとした。
しかし「なにもかも暑さのせいだ」という主張が通るはずもなく、顔に傷をつけるなんてと周囲から散々叱られて、今日までなつみは機嫌がわるい。
- 173 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時18分46秒
- いいかげんぬるくなったハンドタオルをはずすと、ちらとまだ生々しい傷がのぞいたが、それはすぐ髪に隠れた。
「バンドエイド、貼っとく?」
「……目立つからいい」
貼りたくてうずうずしているらしい真希の手にある丸い形のそれを一瞥して、なつみはため息をついた。
(絶対ばかにしてる)
ピンクの地にプリントされているクレイアニメのペンギンは、こころなしか笑っているようにも見える。それを憂鬱の因(もと)である傷のうえに貼り付けて見せびらかす気にはとてもなれない。
断わられた真希はなおも名残り惜しそうに傷とバンドエイドを交互に見遣っていたが、なつみの冷たい視線を受けて渋々片付けた。それを見届けるとなつみは言った。
「それはそうと、室蘭が、なに?」
- 174 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時20分21秒
- 「むろらん?」
「そう、室蘭」
「ああ、ムロラン」
頷いて、自分から話題を振ったことに気付いた。北海道の地名はアイヌ語源が多く、和名として認識するには少しばかりの努力がいる。
漢字をあてるよりもカタカナ言葉にした方が音でも字面でもしっくりくる。だから急に室蘭の話に戻ろうとしても、すぐには返された単語の意味を理解できない。
ムロランムロラン。声には出さずもう一度頭のなかで唱えてみる。
じっと考えていると、それが地名なのだか人名なのだかそれとももっと抽象的な言葉なのかと次第に思考が絡まってくる。停止寸前でなんとか「なつみの故郷」だと無理矢理意味を付け、ようやくそれまでの会話の流れを記憶の端から引き戻した。
- 175 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時21分30秒
- 室蘭と聞いて、なにを思い出すのか。そう問いかけたのを皮切りに、ぐるりと回り道をしながら続けていた会話が、近かったら、というところへ繋がった。手許の雑誌を閉じると、視線の高さを合わせるように、真希は心持ち姿勢を斜めにしてなつみの顔を覗き込んだ。
「そうそう、ねえ、なっちぃ。室蘭って言えば、なに?」
「なっちの家族、が住んでるとこ」
「そうじゃなくてぇ、もちょっと、こう、なに? イメージっていうかぁ。これがあれば、お、ムロランじゃんって思うようなの、ない?」
「え……って、ねえ、そんなすぐにはどれって言えないよ」
- 176 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時22分23秒
- ひどく真剣な表情をして、なつみは口をつぐんだ。
視線もひとところに落とされたきり動く様子はない。流そうと思えばいくらでも流せる質問に、あきれるほど時間をかけて考え込むのはいつものことだが、今日はそれにも増して長すぎる。問いかけた方が続く沈黙に耐えかねて、
「や、あのさ、そんなさ、悩むことでもないと……」
うかがうように声をかけると、相手は困惑顔でため息をつく。「ごめん。なんかさ、いざ考えてみるとなかなか思い浮かばない。いっぱいありすぎて、でもなんかまとまらないし。室蘭ってむずかしいねえ」
ムロランはむずかしい。
奇しくも二人は同じ答にたどりついたようだった。
- 177 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時23分26秒
- 三月も終わり頃になって、家に色刷りのカタログが送られてきた。
一種図鑑かと見紛うばかりの装丁で、しかしよくみると安物の紙を使っている。そこには園芸用の花々の写真が解説やら手入れの仕方やらと共に所狭しと収まっていた。やや閑散とした庭にいくつか新しいものを植えてみようと、母親が知人から取り寄せたらしい。
実際、真希の家の庭には申し訳程度にいくつかの低木の庭木があるばかりで、ガーデニングに凝って春夏秋冬彩りの絶えない他所の庭に比べればさびしいかぎりだった。
近ごろも隣の家の木々が垣根を越えてこちら側へ葉を広げ出している。やがて花をつければつけたで落ちた花はこちらに溜まり、秋になれば朽ちた枝葉が地面を覆う。
- 178 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時24分25秒
- それに対抗するわけではないが、とりあえず少しはにぎやかな庭にしたいと考えたのだろう。
彼女は眼鏡をかけて右手にチェック用の赤鉛筆を持ち、真面目に購入計画をたてている。
横からのぞいていると、ひと際あざやかなページがあって、上の方を見ると飾り字体でラベンダーとある。
ずらりと並んだ細かな写真に、その花が必ずしも紫をしているわけではないということを知る。また品種は何十もあり、小振りなものもあれば、背が高く豪奢な風情を持つものもあった。知らず身を乗り出した真希はそのうちのひとつを指さした。
「これ、ほしい」
- 179 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時25分28秒
- そのときはそれがどれだけ手間のかかる代物かはまったく考慮に入れなかった。たとえば自然に降り積もる雪と同じように自然に花も咲くと、それらを人が丹精して育てていることを失念していた。
北海道にあるような花をこの庭へ持ってこれたらいい、その思いばかり先走って、結局あとを人任せにしていたつけは、育て方の手引きの文字の細かさに辟易するところから回ってきた。
なんでも種から育てると花をつけるまでに二年はかかるらしく、もっとも手軽に楽しむには苗から始めるのがいいらしい。その簡単であるはずの苗を鉢植えから庭に移すまでが大変だった。
- 180 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時26分12秒
- 真希がなんとなく気に入って指をさした品種は東京の気候にはあまり合わないらしく、手引きの隅に、親切心なのだろう、軽く添え書きがしてあった。それが箇条書きで十条ほど、律儀にすべて読み終えて深々とため息をつく。
(こんなことならサボテンにでもするんだった)
そうやって性来の不精が頭をもたげてくる。貴重なオフを庭で土いじりに励んで潰すのも、なんだか変わっている。かといってほかに何をするという訳でもないが、陽にだって焼けるだろう。
もういいや。
そう思って振り返ると、はみだしてきている隣の庭木で、白いつぼみがぽつぽつと黄みどりの葉にまぎれているのが見える。もうすぐ開くのだろうか。目を凝らしていると、ふと数日前のなつみの顔がその先に浮かんで消えた。
- 181 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時27分23秒
- その日、亜依を食事に誘ったのはなつみだった。前々から約束をしていたらしく、それぞれに帰り支度がいつもより早い。
着替えている途中で、真希は背中をつつかれた。首だけそちらへ動かすと、なつみの横顔がある。あくまでさりげなさを装いつつ、彼女は声をひそめて言った。
「ごっつぁんも、来る?」
誘いの言葉よりも、囁くようなその声を拾うのがやっとで、すぐには返事を返せない。
「加護ちゃんの希望なんだけど」
「行く、行く行く」
大げさに首を縦に振ると、横目でにらんだなつみは、あろうことか「バカッ」と罵ってくる。その理由が分からず首を傾げたところへ、わっというざわめきが背中に当たった。
- 182 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時29分33秒
- 「なになに、なっち、ご飯? ご飯食べにくの?」
「矢口も! 矢口も行くー」
「ののもー」
アーティストとしてのプライドのかけらもない不協和音の合唱である。各々が好き勝手に声をあげれば、聞き取れるような人数ではない。
ただ、総じて「自分も行く」という意志表示であることは明らかだった。なつみの「バカ」はこの結果を予測して出てきた正当な評価だと言える。
亜依の方へ目をやると、なんとか笑おうとしているものの、寂しげな眸を隠せないでいる。
たしかに自分はバカかもしれない。真希が後悔するより早く、なつみが両手をあげて騒ぎを制した。
- 183 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時30分38秒
- 「はい、はいはい。よっく聞いてね。今日は、食べに行くんじゃありません。なっちの家で調理実習です。料理を作るの。かならず一人一品。もちろん後片付けもあります。はい、じゃあ、行きたい人、手ぇ挙げて」
一瞬鎮まったあと、メンバーから手ではなく口々に不平があがった。今日はいつになく仕事が詰まって進行していたこともあり、そのうえで料理に精を出せるほどの気力はもう残っていない。
食べに行くという選択枝を出したこともあり、幾人かは連れ立って夕食をとることになったが、他は大人しく帰る支度の続きに戻った。
- 184 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時31分22秒
- やがてそれぞれが楽屋を後にすると、一時とはいえ騒動の中心にあった真希たちは三人取り残される形になる。がらんとした部屋の中央で、真希は腰を折り曲げて深々と頭を下げた。
「ごめん」
「だって。どうしようか、加護ちゃん」なつみはおかしそうに亜依と顔を見合わせた。当然なにか厳しい要求をしてくるだろうと覚悟をして待ち受けていると、罰というにはやさしすぎる返事が届く。
「一緒にご飯食べてくれるだけでいいよ」
亜依の声は、普段より落ち着いていてどことなく頼りない。気になってなつみを見ると、無言でみつめ返してくる。その表情になんとなく察しをつけて、真希は亜依の肩に手を置いた。
「じゃ、早く行こっか」
- 185 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時32分27秒
- タクシーを呼ぶと、亜依を真ん中に挟んでなつみと真希はその両隣りに座る。最初助手席へまわろうとしたなつみを亜依が引き止めて、狭いだろうに全員で後部座席へ乗り込んだ。
ただ、そう暑い季節でもないのに車内にはきつく冷房が効いていたから、肩を寄せ合っていた三人が寒さを感じることはなかった。
空気を入れ替えていないせいか、ややすえた匂いもする。
対抗車線の車のヘッドライトが、窓ガラスに乱反射しながら時おり頬を照らしては通り過ぎていく。急にスピードが上がったように感じて外を見ると、オレンジに近い黄信号が一瞬光って後ろへと流れた。
きわどく交差点を抜け、ふたたび速度を元に戻したその車内で、亜依がぽつりと言った。
- 186 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時33分37秒
- 「こーしてると、なんか家族みたいだよね」
言ってから照れたように目を臥せる。
「うん」なつみが応えた。「なっちも、みんなのこと家族だって思ってるよ。ちょっとにぎやかすぎるってくらいうるさいし、性格もバラバラだけど」
そういうのもいいんじゃないかな。
なつみの声には、亜依と同じ響きがある。亜依を家に招いたなつみは、親元を遠く離れている彼女に、きっと自分と同じ寂しさをそれとなく見い出したのだろう。厚い窓に頭をつけて、真希は月の涼やかな夜空を見上げた。
それから、その格好のまま「そうだね」と言った。
車は街灯のまばらな裏道の坂をのぼる。
上弦の細い月は真上近くにあって、街路樹の葉陰をうっすら地上へ落としている。
- 187 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時34分46秒
- なつみはロールキャベツの巻き方を亜依に教えるかたわら、オニオンベースのスープを鍋で作っている。真希はシーザーサラダ担当を拝命し、冷凍庫に転がっていたニンニクを隠し味程度にすり下ろして仕上げにかかる。
いつもなら気にかけることのない見た目まで整えて誇らしげにしていると、いつのまに茹でていたのか、そこへ丸く切ったジャガイモとブロッコリーを適当に投げ入れられた。
「ああー!」
「温野菜は体に良いってテレビで言ってたべさ」
「これまでで最高の見栄えだったのに……なんてコトすんのさ」
「まぁまぁごっつぁん。料理なんて食べちゃえばみんな同じっしょ? 要は味。ね?」
キャベツに手を添えたまま無邪気に言うなつみに泣きそうな目を向けていると、となりで亜依が声をあげて笑い出した。
- 188 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時35分35秒
- 「ごっちんと安倍さん、おかしー」
「ちょっと加護ちゃん?」
「なっちはともかく、なんであたしまで」
なつみがムッとした視線をこちらへ投げた。
「だって、だってさー、あのね、さっきからずっとなんだけど、ふたりでおんなじ曲歌ってるんだもん。それで、ごっちんも、何か安倍さんのダベサ、うつってるし」
「えっ?」
なつみと真希は仲良く声を揃えた。
そう言えば、「娘。」の歌で、自分のパート以外をだれかが歌ってくれていたような気もする。おそるおそる視線を交わすと、ふたりは合わせ鏡のように肩の力を抜いて苦笑し合う。無意識で同じ歌を歌ったことに少なからずうれしさを感じているだろうことは、お互いの表情でわかった。
食卓にあがってからも湯気をたてていた真希のサラダは一番早く空になった。
- 189 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時36分31秒
- 「安倍さんは、帰りたいって思ったことないんですか?」
食後、紅茶を淹れたなつみの、洗いものでやや白くなった指先をみつめて、亜依が尋いた。テレビのチャンネルに気を取られていた真希は、すこし遅れてなつみを見る。
彼女はテーブルにカップを置いて「なんて、ホントはテレビで見てたんじゃないのー? もーなっち大変だったんだからさぁ」
ねえ、ごっつぁん。と、途中まで言いかけて「あ」と一オクターブ高い声をあげた。そうして「そっか、ごっつぁん入るまえだったもんね。知らないか」だれに説明するわけでもなくつぶやいた。
膝を抱え込むように座ると、幼さが垣間見える。回想した頃の自分に戻っているかのようでもあった。
「うん、もうねえ、もう、ホントすごい、すごかった」
- 190 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時40分55秒
- 話し始めるなつみから目線をはずして、紅茶を手にとる。薫り高いフレーバーティーは、いつもとは違う味がした。
酸味が薄く反対にやや甘い。亜依の味覚に合わせて新しく調達したのだろう。
テレビにはちょうど番組と番組の合間のニュースが流れていて、明日が晴れであることを告げている。そのテレビからそう離れていないキャビネットの上あたりに、いくつもの写真を貼り付けたコルクボードが掛けてある。地元の友人や娘。の写真のなかにまぎれて、そこに一葉だけ雰囲気の違う写真があった。
- 191 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時41分37秒
- ラベンダー。以前来たときには気付かなかった。
採光の具合が独特で、どうも素人の撮ったものではないらしい。薄紫の細かい花が波打つそのうえを、帆船にも似た巨大な雲が走っている。引き伸ばしたのか、やや大きめのそれは何枚かの写真にところどころ隠されながらも、割り合い広い範囲を占領していた。
きれいな風景というよりは、凛としたなかに激しい衝動が伝わってくる情景だった。
ボードは部屋のどこからもよく見える位置にあり、なにかの拍子に自然に目に入る。多分なつみも毎日これを視界のどこかに置いて過ごしているのだろう。
- 192 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時42分15秒
- 「ねえ、ごっつぁん」
急に声を掛けられて驚いた。まったく聞いていなかったと謝るのも気が引けて、真希はおざなりな返事をする。
「ね、だからさ、あのときのなっちよりも、今の加護ちゃんの方がぜったいがんばってるって」
過程はわからないが、亜依は納得しているようで、しきりに相づちを打ってはうれしそうに笑っている。
- 193 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時42分47秒
- 「あたし送っていくから」
そう真希が申し出たのは、ずいぶんと遅い時間になってからのことだった。過密なスケジュールをこなして、かつ義務教育中の亜依は、さすがに疲れがたたって先ほどから重い瞼と闘っている。もう会話もほとんど聞こえてはいないだろう。
「うん、よろしく……と、今日はありがと」
「ううん。加護も、最近元気なかったからね。またうるさくなるんじゃない?」
そうだね。微笑んだなつみは肩に落ちた一筋の髪に気付いてつまんで払った。顔の角度をやや下向きにして結んだ唇の端はかすかに上がっている。翳りをつくった彼女は、とてつもなく遠いどこかをうつむいたその先に見ているようだった。
- 194 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時43分30秒
- 「ねえ」
「うん?」
「なっちは、どう?」
「え?」
「なっちは、今は帰りたくないの?」
すると、肯定なのか否定なのか、「うん、どうなんだろう」と不思議そうに目線を宙に泳がせた。
「帰りたいけど、帰りたくない……って言うか、離れなきゃわからないことだってあるよ。だって、あのままずっと室蘭にいたら、きっとこんなに大事なものなんだって思わなかった気がする。ふつうに学校行ってふつうに生活してひょっとしたら結婚とかもしちゃったりして、それもすごく素敵なことだとは思うんだけど、でもこんなに室蘭を好きにはならなかったかもしれないし。それにね」
真希の右の肩にとんと人さし指を置いて軽く突いた。「みんなとも会えなかったっしょ」
そうして、なつみはこれからもあの写真をながめて帰りたいという思いを紛らわしていくのだろうか。
- 195 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時45分08秒
- あらかじめ手配してあったタクシーは、行き先を告げなくてもどこへ向かえばいいのかきちんとわかっているようだった。なつみは自身も眠くなったのか欠伸をかみ殺しながら下まで見送りに出てくれた。その姿を浮かび上がらせていたエントランスの明かりはだんだんと遠ざかり、短い坂を下ったところで闇に沈んだ。
行きよりかはいくぶん広いシートで、そろそろ意識の揺らぎが限界まできているらしい亜依に真希は言った。
「ど? すこしは料理の腕、あがった?」
「うん。あとね、安倍さんの紅茶がね、すごくおいしかった」
「あの紅茶、加護のためになっちが新しいの買ってきたんだよ。……たぶん」
「うん」
「明日、ちゃんとお礼、言うんだよ」
「うん」
ごっちんもありがとね。亜依の頭がだんだんと真希の方へ寄りかかってくる。
- 196 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時45分40秒
- 「子分は親分のお役にたてて、うれしいです」
聞いているのかいないのか、傾いた小さな体はやがて完全に真希へともたれ、次第に重みを増していく。
「親分も、ウレシイです」
それは最後まで声にならないままふつりと途切れた。真希は羽織っていたジャケットをその体にかけると、わずかに姿勢をずらして窓を見る。月は、西に寄って、ずいぶん低いところまで降りてきていた。
- 197 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時46分13秒
- 「帰りたいけど帰りたくない」
そう答えたなつみの眸を思い返して、開花を控えたつぼみに手を伸ばした。芽吹く若葉に混じってまだ固く結ばれている。葉影に埋もれているせいか、それは驚くほど冷たかった。
「よろこんで、くれるかな」
翌日、撮影の合間につばの広い帽子を買いに走った。
- 198 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時47分13秒
- その決意が実ったのか、それとももともとその品種が早咲きだったのかはわからないが、ラベンダーは予定よりも早く花をつけて、庭の片隅に紫の空間をつくっている。
後藤家の庭がささやかに華やぐのに合わせるように、固く閉じていた隣家の白いつぼみもしばらくしてほころび始めた。その木はどうやら匂いの強いものらしく、ささやかな風にすら、甘い芳りが真希の部屋にまで運ばれてくる。
何の木なんだろう。
疑問を口にした彼女に、母親はツツジの一種なのだと答えた。自分でも気になっていたのか、植えた本人にそれとなく尋ねた。話によれば実家の裏山に自生しているのをみつけて、枝を一振り頂戴し挿し木にしたところ、案外うまく根付いてくれたのだという。はみ出した枝はもうすぐ落としますから、どうも申し訳ありません。そうやってしきりに恐縮していたらしい。
花の開くまえに、枝を落としてしまうのは惜しい気もする。隣人の言う「もうすぐ」がいつになるかは分からないけれど、それまでに咲いてくれたらと真希は思った。
- 199 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時48分43秒
- 「よしこー、ちょっと協力してくれないかな」
朝、顔を合わせるなり、挨拶もそこそこに真希はひとみに向かって両手を合わせた。
「でも、それって、あとで怒られない?」
協力の内容を打ち明けると、相手は途端に困惑顔になる。
ソロの仕事中、メンバー全員対象のアンケートをとりあえずという形で先に渡された。聞けば残りは翌々日の集合日にいくつかの番組や雑誌用のものをまとめて配付すると言う。
移動の時間、その質問に答えていくうちふと思いついた計画は、稚拙といえば稚拙きわまりない。
それでも興味の方が先に立って、ひとみに話を持ちかけた。
- 200 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時50分54秒
- 「偽のアンケートをコンニュウして、どうするの?」
「どうするわけでもないんだけど、ちょっとおもしろいかなーって」
「おもしろがった後どうするの?」
「………あんま考えてない」
「だったら、やめといた方がいいんじゃない?」
正論できれいに詰めてくれる。王手をかけられた後できることと言えば、逃げてかわすか「待った」をかけるか、それでなければ初めから勝負を反故にするくらいしか打つ手はない。
拗ねてうつむいた真希に、ひとみは口の端に笑みを浮かべて言った。
「ごっちんは、欲張りだねえ」
- 201 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時51分44秒
- 背に比例して小さな掌が細かい動きで手招きしている。梨華が怪訝そうにその方向へ近寄ると、自分よりも小柄な先輩のうちの一人がしきりにこちらの名前を呼んでいた。
たまに本当に年上なのだろうかと疑問に思うほどの童顔に、真剣そのものの眉と眸が乗っかっているさまは、失礼にあたるかもしれないがどうにも微笑ましい。
弛んでくる頬をなんとか堪えていると、彼女は手に一枚の用紙を持って旗のようにひらひらと振った。
「梨華ちゃん、あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
- 202 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時52分31秒
- あくまで、さりげなくね。
最後にそう言い残して、なつみはくるりと背を向けた。これから一人で別撮りがあるらしく、マネージャーと連れ立って足早に階段のある角を曲がる。その拍子に、服の襟にかかる後ろ髪がかすかに弾んだ。去年の夏ごろに比べて少し長い。廊下の照明の加減で、その色はいつもより淡く見えた。
(それにしても……)
いつのまにか手に持たされた一枚の紙をしげしげとみつめて、梨華はため息をついた。
「やっかいごと、引き受けちゃったなぁ」
- 203 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時53分18秒
- 道幅の狭い住宅街を抜けているせいか、移動車は時おり側溝のふたを鳴らして、シートごしに音を低く響かせる。それを身体で感じながら窓にもたれて寝ていると、瞼のうらにちらちらと光が映る。
(なんだろう)
なつみが薄く目を開けて外を見やると、やや大きめの川があった。車はその堤(どて)のうえに敷かれた道を、流れに沿うように川下へ向かっている。風が強いのか、水面に白く泡立つ波を不規則に作りながら、鉛色の水は車と競うかのように動いている。
そのまま河口から海へ注ぎ込むだろう流れをみていると、
『ムロラン』
ふいに真希の声がよみがえる。室蘭と言えばなにか、そう問われたときには何も答えてあげることができなかった。
- 204 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時53分56秒
- 「海、かな」
晴れた日にのぞむ水平線の色は、どんなことばにも替えがたい。その室蘭の海を連想させるように、川面はまだちらちらと太陽に照り映えている。
(そういえば、梨華ちゃん、ちゃんとやっててくれてるかな)
なんの脈絡もなく思ったとき、軽くブレーキのかかる音がして、車は横道へとそれる。なんとなく川を追って振り返ると、川は堤に隠れて見えず、代わりに柿色の鉄橋が見えた。
- 205 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時54分49秒
- 「欲張りって、なんで?」
「どうせ、今いちばん欲しいものはなんですか? とか答えさせたいだけでしょ」
真希とひとみは肩を並べて楽屋へ続く廊下を歩く。真新しい床にときおり靴底がすべることもあって、歩調はそれほど早くない。白い蛍光灯の並ぶこの廊下は、壁もまた白いことから、スペース的にはあまり広くはないものの明るい雰囲気がある。
その明るさに呼応するかのように、ひとみは口元をゆるませたままおかしそうにこちらを見やっている。その含みのある視線に、多少の不満を添えて真希は反論した。
「だって、誕生日のプレゼント、いろいろ悩むじゃん。ホラ、辻とか圭織とか」
「なっちゃんとか」
「……なっちゃん?」
「うん、安倍さん」
「なっちゃんって呼んでんの?」
驚いて立ち止まる。
そうだよ、最近の流行り。ひとみは二、三歩先へ歩いてから隣に真希のいないことに気付いて振り返る。
- 206 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時55分28秒
- 「……なっちは、なっちじゃん。なっちゃんって、なんかヘンなかんじ」
どこかへことばを放り投げるように言いながら、真希は軽く駆けるとひとみを追い越して楽屋のドアノブに手をかけた。身体のうごきに合わせて、その背にかかる髪が左右にゆれる。
(やっぱり、欲張りだ)
ひとみにすれば、なつみを苗字以外で呼べるようになるまで、ずいぶん時間と努力を費やした。それなのに、真希ははじめから自分たちよりも彼女の近くにいて、なおかつ、まだ物足りないらしい。
しかし、ひとみも、おそらく真希でさえも、アンケートなどという手段では、なつみの本心を量りきれないことはよく解っているはずだった。
「安倍さん気まぐれだから、答え、しょっちゅう変わるんだよね」
友人としてはとりあえず、それぐらいのなぐさめしか思いつかない。
- 207 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時56分13秒
- と、ノブを引こうとした真希の身体が急にうしろにのけぞった。ひとみがなんだろうと首をかしげる間に、勢いよく開かれた扉の向こうから切羽詰まった声が響いてくる。怒声とも悲鳴ともつかない甲高い声は梨華のものだ。
「ごっちーん!」
「おわ?」
抱きつかんばかりに詰め寄った梨華は、息を切らすほど頬を紅潮させている。彼女はところどころ声を上ずらせながら叫ぶように言った。
「チャ、チャーミー・ドッキドキインタビュー!!」
あきらかにインタビューする側の方がドキドキしているようにみえる。そんな彼女に追い詰められた小動物のような印象を受けるのは、眉が八の字を描いているせいだろう。
(梨華ちゃん、なんかたくらんでる)
傍でその様子をながめていたひとみは、瞬時に覚った。
- 208 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時57分12秒
- 「インタビュー、ねえ」
乗り気でない顔を真正面へ向けて、真希はひどく困った目で梨華をみつめる。
「そう! ドッキドキだよー」
「梨華ちゃんさ」
「うん」
「すごく、へんだよ」
「……一応自覚してるんだけど」
真希の指摘に、梨華はつい今しがたの勢いからは想像のつかないほど萎れた様子でつぶやいた。しかし一旦決めた行動を諦めるつもりはないようで、ふたたび意を決したように顔を上げ、
「チャーミー・ドッキドキインタビュー」
- 209 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時57分42秒
- 一抹の哀れを感じたのか、真希はおとなしく質問を待つ。その隣でひとみは堪えきれずに声をあげて笑っている。おかしなやりとりを交わす三人に好奇心を煽られて、希美と亜依が梨華の背中ごしに顔をのぞかせる。そんなちぐはぐな雰囲気のなか、即席インタビュアーは一呼吸おいて言った。
「今いちばん欲しいものはなんですか?」
- 210 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時58分22秒
- 「家族だんらん」
「もっと具体的に」
「えぇ? うん、じゃあ、あれ、えーっと、みんなで人生ゲームできるくらいのヒマがほしい」
「そうじゃなくて、もっと、こう、お金で買えるもの!」
「……だったらもう自分で買ってるって」
たとえば「今日の晩ご飯なにがいい?」と聞かれて即答できないように、「欲しいもの」の指す範疇が広すぎて、単純すぎるだけになかなか答えにくい。真希が口をとがらせて悩んでいると、
「もっとさ、夢のあるものとかないの?」
どんよりと音が出るのではないかと思うほど、梨華は表情を腐らせた。
- 211 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)15時59分52秒
- その向こうへ目を向ければ「もうすぐ収録だよ」と圭織が唇の動きだけで告げている。おなじく口だけで、圭と真里はなにやら囃し立てている。残りの中学生メンバーはそれぞれ準備に余念がない。
適当にやり過ごそう。
そう思うのと、声が出たのはほぼ同時だった。
「じゃあ、ひょっこりひょうたん島のぬいぐるみ!」
叫んだところにスタッフから一〇分まえの声がかかった。
- 212 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時01分18秒
- 二度目の休憩に入ったとき、あわただしくなつみがスタジオへ姿をみせた。移動の疲れがまだ抜けていないらしく、顔色がわるい。それを笑顔で包み隠して、到着早々希美のちょっかいに甘んじている。
なにげなく会話に耳を傾けていると、笑い声の合間にしきりになっちゃんという単語が入った。
その響きに真希はかすかな違和感を覚える。
耳慣れない呼び名のなかに自分の知らないなつみがいる。そう思うと喉の奥底に言い知れないわだかまりを感じた。漠然としている分、真希の知りうるどんな言葉にも感情にもそれはあてはめることができない。
- 213 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時03分19秒
- 『なっち、って呼んでいいよ』
そう言われてはじめてなつみを苗字以外で呼んだときのことは、よく憶えている。
気恥ずかしさと緊張とわずかな気分の昂揚、そしてなにより彼女に歩みよれたうれしさに、最初はなかなかうまく声にならなかった。名前を呼ぶというただそれだけのことに、今からは想像もできないほどの戸惑いがあった。
そうやって気持ちだけ行きつ戻りつさせていると、四つ年上のはずのなつみは子どものように、
『もー、なっちって呼ばなきゃ、返事しないかんねー』
その膨れっ面も、まだ冗談か本気か見分けることができなかった。だからあわてて
『なっち!』
と呼ぶと、彼女は。
- 214 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時05分01秒
- 「ほら、ボーっとしてると置いてくよ」
風邪気味なのか、ややハスキーな圭織の声でわれに返ると、さきほどまでのざわめきはすっかり消えて、辺りには収録直前の緊張した空気が漂っている。
急いで決められた持ち場へつくと、「しっかりしろ」とでも伝えたいのか、なつみが髪飾りをつけた頭をこつこつとぶつけてくる。
当人は真希の頭にそれをやりたかったらしいが、やや開きのある身長差のため肩のあたりに髪があたって、すこしくすぐったかった。
- 215 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時06分21秒
- 何本かを撮り終えると食事のための空き時間になる。メンバー全員で机を囲んでにわかの食卓ができると、途端騒がしくなった。
ふと隣を見ると、その騒々しさに背を向けてなつみはひとり眉間に皺を寄せている。声こそ聞こえなかったものの、わかんないわかんないと口のなかで繰り返しているのが傍目に見て取れる。
彼女は、見覚えのある用紙を二、三枚重ねて持って、紙に顔を埋めるようにしながら悩んでいたが、やがて見切りをつけたのか鉛筆を箸に持ちかえた。
何気なく後ろに置かれたそれに目をやると、例のアンケートのようで、昨日自分の答えた質問が同じく並んでいる。その内容を頭で反芻すると、真希は気になった項目に焦点をさだめた。
- 216 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時07分46秒
Q5 あなたにとって「ふるさと」とはなんですか?
目を凝らすと、何度も書きかけて消したのだろう、消しゴムの細かいかすを付けたままそこは空欄になっている。
ぽっかりと白く空いた空間に、本当にむずかしいのは室蘭ではなく、故郷を思うなつみ自身の気持ちなのだとはじめて気付いた。結局なつみはその後、なにかとりとめのない答を書いたらしく、覗き込んだ圭に一言二言からかわれて拗ねていた。
- 217 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時08分45秒
- それからしばらく経ったその日、早朝から集合をかけられていた真希と梨華は、午前中なぜか楽屋待機となって暇を持て余している。途中から遅れてやってきたひとみもそれに加わった。
いつ終わるとも知れない待ち時間をつぶせるほどの話題もなく、交わす言葉の途切れたまま、けだるさだけが募っていく。スケジュール調整で多少の手違いがあったらしく、扉の向こうではスタッフが騒いでいる。
「あ」
雑誌を読んでいた梨華がなにかに気付いたように声をあげた。
どうしたと問う気力もない残り二人が目だけを梨華へと向ける。
「安倍さんの匂いがする」
だれかに話しかけると言うより、自身で確認するような口振りだった。聞き流してもとくに問題はない。しかし、ただひたすら待つという行為にそろそろ限界を感じていた真希が、興味を示した。伸びをしつつ梨華の側まで来ると、大きく息を吸い込む。
- 218 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時09分29秒
- 「んー? そうかな」
「するって。かすかにだけど。ホラ、安倍さんがたまに付けてくるやつ。なんか……花の、匂い」
目線を落として記憶をたどるように目を細める。
するとパイプ椅子にぼんやり座っていたひとみが椅子ごと寄ってきて、
「あ、ほんとだ。するする」
「ええー? しないよー」
梨華とひとみがあまりにも自信ありげにうなずき合うので、真希は首をかしげた。いくら嗅いでも花の匂いなどしない。
(あれ?)
急に思い当たって真希は自分の手首を鼻に近付ける。今朝、気分転換にとつけた香水はいつもとは違うものだった。だから匂いに慣れてしまってそれを認識しないということは、今日に限ってありえない。
「あれ?」
驚いて声に出してしまった真希をじっとみつめて、「ごっちん、顔赤いよ」不思議そうにひとみが言った。
- 219 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時10分48秒
- なんで、こんなことしてるんだろう。
梨華は両手を後ろについて体重をかける。やや斜めになった視界には、広い居間とカウンター式のキッチン、そして庭に通じるガラス戸がある。その敷き居に腰掛けて自分と肩を並べているのは、つい先刻まで楽屋で手持ち無沙汰にシャドウボクシングをしていた同期だった。
「この暑いのに、よくやるねぇ」
彼女は感心しながらひたすら庭の方へ目を向けている。
つられて顔を横から正面へもどすと、まぶしいばかりの白と緑におもわず目を瞑った。
もう一度ゆっくり瞼を開けて光に慣らすと、葉むらの隙き間から細切れになった光が落ちているあたりに、真希の姿があった。彼女の顔はやや影になっていて、ここからははっきりと見ることができない。
- 220 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時11分35秒
- 真希は手前にある紫の花に霧吹きかなにかで水をやっているらしかった。そのあと付近の雑草を軽く抜き取ると、壁ごしに咲いている白い花を背に、なにか言いながら戻ってくる。
てっきり暑さにたいする愚痴だろうと思ったが、近付くにつれて「つきあわせちゃってゴメン」と言っているのがわかった。
「いいよ、うちらが来たいって言ったんじゃん。まだぜんぜん時間、余裕あるし」
ひとみは笑いながらかぶりを振った。
「でも、ごっちんがガーデニングに凝ってるなんて、知らなかった」
梨華が言うと、帽子をとりながら苦笑いを返してくる。「あー、やっぱ似合わないよねえ」
- 221 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時12分22秒
- 結局午前の収録は取り止めになり、次の集合は夕方になるとマネージャーから告げられて、さてどうしようと三人額を寄せた。今日は土曜で学校はない。しかしどこかへ遊びに行くには、この一、二時間で早々に気力を削がれた。
真希は自分の頬に手の甲をあてて、風邪気味だからとりあえず家へもどると言う。そのついでに花の世話もしようとつぶやいた言葉をとらえて、ひとみは自分もついていくと言った。
それから、いっそ三人で昼食をつくろうとなぜか二人だけで盛り上がり、なんの意思表示も出せなかった梨華は半分引きずられるかたちで連れてこられた。
- 222 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時13分06秒
- 居間からは庭が見渡せる。その庭では鈴なりに白い花をつけている木が梨華の目を惹き付けた。その下で立ち回る真希の髪の色が妙に景色に溶け込んでいる。
(髪の色……)
よく視ると以前と少しだけ変わっている。陽に透けて違うようにみえるだけかと一度は思ったものの、念のため、ようやく花の手入れを終えて戻ってきた当人に尋いてみた。
「変えたよ。ちょっとだけだけどね」
言ってから、真希はちらと視線を宙に一旋させて考える素振りをみせると、おもむろに梨華の耳もとでささやいた。
- 223 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時14分37秒
なっちとそろえたんだよ。
なぜか尋ねた梨華の方が頬を赤く染めた。うれしげな声は当分耳から離れそうにない。まだテレビで「娘。」を観ていたころ、梨華にとってなつみと真希はことごとく対照的な存在に思えた。
たとえば髪の色にしても、なつみが黒なら、真希の髪は金色で、見かけもたぶん中味も決して相容れない二人なのだと勝手に決めつけていた。その憶測は、当事者と直接付き合うことによって見事に崩されはしたが、それはしこりとなってなんとなく頭の片隅に隠れている。
だから、そのしこりを融かすような言葉の温度に、顔が火照った。
それを気付かれまいと無意識に庭を見る。印象的な白い花の右下に真希の花壇がある。
- 224 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時15分14秒
- 「ひょっとして、あのラベンダーも、安倍さんに?」
「うん」
ラベンダーイコール北海道という単純極まりない可能性は、あっさりと肯定された。
「写真じゃダメなんだよ」
「写真?」
聞き返すとやや渋りながらも、真希はなつみの部屋にある写真のことを語った。当人に直接問いただした訳ではないが、なにか深い意味のあるものなのだろうと考えているらしい。
「ほら、匂いとかあったほうがいいじゃん」
彼女は髪の先を指で梳きながら言った。その言葉と口元にわずかに笑みをにじませた顔には、なつみに対する真摯な想いが裏打ちされている。でなければ、ただ匂いをあげるというそれだけで、一から花を育てようなどと考え付くはずはない。
「ああ、それ、けっこう正解かも」梨華がつぶやくと、理由を知りたいらしく、向かい合う二人の視線がやや熱を帯びてこちらへ向けられる。強い視線をかわすように、梨華は二人ではなく、その向こうのラベンダーをみつめて答えた。
- 225 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時15分55秒
- 「あのね、匂いと記憶って、すごく関わりがあるらしくってね、サケの遡上とかでも生まれた川にちゃんと戻ってくるのは、その川の匂いを覚えているからなんだって。人間もおんなじで、たとえば、花ことばとか、匂いの強い花には記憶に関するものが多いってなにかで聞いた……ような気がする」
ラベンダーから意識を目の前の二人にもどすと、一人はこちらが恥ずかしくなるくらい喜々とした表情をたたえ、もう一人はへえ、だか、ほお、だか、よく聞き取れない感嘆詞をこぼして、難しい顔をしている。
「じゃあ、なっち、ムロラン思い出すかな」真希の声はいつもより高い。
「室蘭はどうだかわからないけど」
勢いに気押されて怯んでいる横から、今度は間延びした声が届いた。
「ねえ、梨華ちゃん」
「なあに?」
「ソジョウってなに?」
その単語で引っ掛かった彼女は、頭のなかで前後の話の流れを切り落としてしまったらしい。続けて「新種の昆虫?」と早口で言って、まじまじと梨華の顔をのぞきこんだ。
- 226 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時17分40秒
- 正午を過ぎてしばらく経つと、眠いからという理由で真希は客を残して部屋へとあがってしまった。残された二人は先ほどと同じく庭に向かって足を投げ出してぼんやりしている。勢いよく照りつけるこの陽射しの下では外に出ようという人も少ないらしく、土曜の昼間というのに、あたりはやけにひっそりとしている。
まだ冷房をつけるほどの暑さはないが、間を置いて吹く風を心地よく感じていると、漂ってきた涼やかな芳りに急に目が冴えた。
「いーいにおーい」
「サイタマを思い出すよ」
「なにそれ」
ひとみは答えずに、ラベンダーを指差した。丈の低いせいか、風にそよぐ様子もない。ただ四方へ伸びた細い葉先がかすかに揺れている。
「ごっちんもよくやるよねえ。安倍さんの話するときのさ、あのカオ、安倍さん本人は見たことないんじゃないかな」
「どうだろーね」
「方言が田舎くさいとか、ギャグが寒いとか、散々なこと言うわりに、なんかひとりで受けてるし」
「手とかたたいて、よろこんでるよね」
「で、今度はラベンダー」
「うん」
- 227 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時18分17秒
- なぜかそこでひと区切りとなって、ふたりはそれぞれ黙った。朝見たときは雲一つなかった空に、うっすら靄のような白い膜ができ始めていている。熱気に視界がにじんだのだろうと、梨華は顔をうつむけ目を閉じる。ひとみは、庭のラベンダーに縫い付けられるかにして視線を置いている。そうしてぽつりと言った。
「安倍さん、気付いてんのかな」
「それは、気付いてるでしょ。いくら安倍さんでも」
「そうだよね。安倍さんだもんね」
「……」
「……」
不自然な間があいた。
「……どうだろう」
「………安倍さん、だからねえ」
「…………安倍さん、だもんね」
言いながら梨華は、ぽんとつっかけを蹴って芝生のうえに転がした。横回りに二回ほど転がって、それは仰向けになって止まった。それから燦然と太陽の輝く空を見上げて、
「あした、雨だ」
なんの気もなくつぶやいたでたらめ予報が、あたるとは思えなかった。
- 228 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時20分37秒
- 「安倍なつみー!! いいかげん、その性格なんとかしろー!!」
夏至にはまだ至らないものの、確実に日は長くなっている。
午後六時を過ぎて西の空には雲が明るく棚引いていて、あと少しもすれば、やがて東から薄青くなるだろう景色が窓の向こうに広がっている。小高い丘陵地にそびえるこのスタジオは、眺めがいい。
少し早めに楽屋入りをして夜景でも見ようと、浮かれてドアを開けた真希、梨華、ひとみの三人は、突如として飛び出してきた怒声にその場で立ちすくんだ。
それらの視線を漏れなく受けて、前方やや右寄りの机あたり、小柄な身体と不機嫌な眸を向き合わせているのは見知った顔だ。
一方は勢い余ったのか大きく椅子を蹴って立ち上がってい、声とともに打ったのだろう、机の天板に握り拳を置いている。
もう一方はといえば、終始むっとした表情を崩さない。だが相手の怒りを呼んだことについては自分の罪だと認めているらしく、困ったような拗ねたような目で下から睨んでいる。
- 229 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時21分29秒
- 「もー、そんな怒んなくたっていいじゃん、やぐちー」
「ここで怒んないで、どこで怒るっての! もーいいかげん今日という今日は堪忍袋の尾がキレた!」
「ちょー、だからぁ、ちょっとばかしいたずらしただけじゃんかー。ねえー矢口ってばー」
「ぜんっぜん反省なしかよ! も、ダメだかんね。なっちが誠意を持って謝るまで、二度と口きかない」
当初、真里をなだめようと、いくらか気を遣った様子を窺わせていたなつみは、その一言に急に態度を硬化させた。よほど癪にさわったのか半分目が座っている。
「わかった。もういい。矢口が口きかないなら、なっちも口きかない。ぜーったいきかない!」
側でことのなりゆきを見ていた圭と圭織は、さすがにまずいと悟ったのか、呆れ口調で「いい加減にしな。下の子ら、みてるから」双方に声をかけた。
- 230 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時22分56秒
- その言葉に気付いて真希が後ろを振り返ると、いつの間に集ったのか中学生の面々がやはり硬直しつつ中をのぞいていて、ただでさえ狭い通路をふさぐように群れている。
それを見て、はからずも入り口の栓になってしまっていた真希たちはようやく奥へと進んだ。
すると、真里となつみが背を向け合っている窓際を囲んで、ちょうど半円を描くように全員が部屋に収まる。不運なことにその半円のいちばん端に出てしまった梨華は、不機嫌を全身から漂わせているなつみの前で、挨拶に添えた笑顔もぎこちない。
右手に目を逸らせば不自然なほど赤い夕暮れと、湿気によどんだ夜の藍色が混じり合っている。窓枠を額にした絵画のような景色のなか、なつみは目を伏せて顔を翳らせた。そうするといつものあどけなさが消えて、憂いを帯びた年相応の表情になる。
- 231 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時24分09秒
- なつかしいな。
ふと脳裡をよぎった自分の感情に驚いて、真希はそのなつかしさの出所を探ってみたが、思い出せない。たしか、以前に同じ表情を見たことがある。あれはいつだったろう。
(なんか、怒ってたような、気がする)
真希が首を傾げているあいだに、なつみは希美と一瞬視線を合わせて、きまりがわるかったのだろう、すぐに身体ごと窓を向いた。つまらなさそうに肩を落とした希美から、わずかに離れて小さくなっている五期メンバーにいたっては軽い怯えすら感じられる。
- 232 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時24分41秒
- 「慣れてないからね、無理ないよ」
圭が小声で真希に耳打ちする。
「でも、雰囲気わるいよ」暗に問題の対処を求める口振りで言うと、圭は片眉を上げて笑みをつくった。「まぁ、見てなって。今だって」
十秒ごとに、相手のコトうかがってるから。
そのことばを確かめた真希は思わず吹き出し、張り詰めた空気のなか、あまりの気まずさにうなだれる。それとほぼ時を同じくして、
「ハイハイ、もーこれから歌の撮りなんだからねー、みんなもっとテンション上げていくよ!」
喝を入れるような圭織の呼び掛けに、約二名を除いた全員が拳を挙げてそれに応えた。
- 233 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時25分51秒
- 収録後、食い入るようにスケジュール帳を睨んでいたなつみは、側を通りかかった真希を不意に呼び止める。声よりも先に手が出たようで、衣装のはしを引っ張られた真希は強制的に静止させられた。
「……なっちぃ、びっくりするって」
「うん、あのさ」
思いきったようになつみが顔をあげた途端、
「なっつぁん、餃子食べにいこー」
ことさら餃子の音が強調されて響いてくる。よほどうれしいのか声まで踊らせながら、圭が足取りも軽く駆けてきた。その独特のステップをぽかんと眺めていた真希は、弾かれたように笑い出した。つられてなつみも笑う。
そんな二人の態度に相手は機嫌を損ねた素振りをみせたのだが、それをさらに笑われて口を尖らせる。声を合わせて笑いながら、なつみはぽんと真希の背を叩いた。
- 234 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時26分57秒
- 「イテ」
振り返ると黒目がちな眸がまっすぐ自分に向いている。
「なんだ、ごっつぁん元気じゃん」
「え? 元気だよ」
「そっか、そだよね。や、なんかさぁ、最近仕事中に眠そうにしてるし、疲れてんのかなって思ってたよ」
言いながら鈴を転がすように笑う。ふと視界の隅に、やはり笑いを堪えているらしく、小刻みに揺れる金髪が映った。意識を向けると、彼女は苦笑しつつ、遠くからなつみをみつめている。
すると真希の視線に気付いたのか、その人物は急に姿勢を糺してくるっとそっぽを向いた。あくまでなつみ相手に徹底抗戦を極め込んでいる。
- 235 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時27分49秒
- (素直じゃないなぁ)
いくらかの微笑ましさを伴いながら呆れていると、
「ところで、ごっつぁんさ、明日の四時って、空いてるよね」
不意になつみが言った。たしかに、ちょうど午後四時から六時にかけてぽっかりと予定に隙き間がある。膨大なスケジュールを消化しなくてはならないため、最近はシフト制が導入されて、メンバーが全員そろうことはそう多くない。ことになつみと顔を合わせる機会は少なく、一月前、互いの予定を見比べたときに思わず二人でため息をついたほどだった。
なつみはそのときの真希の予定を憶えていて、確認したに違いない。
- 236 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時28分21秒
- 「うん、空いてる……あ、なっちも、だよね?」
「うん、あのさ」
「じゃあさ、会えない?」
なつみの言葉をさえぎって、真希は身を乗り出した。庭のラベンダーはちょうど今を盛りと咲いている。実際は家に招待するつもりだったのだが、仕事の都合、それも叶いそうにない。それなら、たとえ切り花数本でも手渡したい。半分以上自己満足であることは承知のうえで、真希は期待を込めた目をなつみへ向けた。
「ちょっと餃子はー?」
二人の間に割り込むことができずに、圭は頬をふくらませている。
- 237 名前:MakeMake our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時29分23秒
- 餃子。
「昔、凝ったことあるや」
「うん?」
残業帰りか、周囲には地味ながらも色とりどりの背広がひっきりなしに行き交っている。器のこすれる音やそれぞれに交わされる話し声に混じって、野球中継のアナウンスがBGM代わりに流れている。
この居酒屋仕様の餃子専門店は、餃子のほかは飲み物しかメニューにない。
仕方なくなつみが烏龍茶をオーダーするかたわら、圭は数種類の餃子を律儀にも二人前ずつ頼んでいる。飲み物を尋かれて思案顔で考え込んだ圭にはかまわず、先に頼んだ烏龍茶は来る、餃子の皿は矢継ぎ早に運ばれてくるで、テーブルの上はなんとも慌ただしい。
頭のなかで右往左往した挙げ句、結局圭は梅酒を頼んだ。
- 238 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時30分19秒
- 「凝ったって、餃子に?」
「うん。なんか、最初はもっときれいに作れるって思ってたんだけど、これがむずかしくてさ、ちょっとね、きれいにできるまで止めるもんかってムキんなってさ。毎日作ってたら、ヤグチが『ニンニクくさい』って」
「そりゃ毎日食べてたらねえ」
「でね、いつだったかなぁ、ごっつぁん家に泊まりにいったときに、なんか二人で話してたらネガティブな感じの話になって、めちゃくちゃへこんじゃったのね。で、よくわかんないんだけど、夜中に二人してニラ切ってた」
- 239 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時30分49秒
- 一呼吸おくと、なつみは表情をやわらげた。つい昨日のことを語るような口振りは、周囲の空気に酔ったのか次第に明るくなっていく。
「台所以外真っ暗なとこで、二人で黙々と切ってたんだけど、そんとき、なんでかダンボール箱いっぱいにニラがあったのね。もうね、切っても切っても無くならないの! で、なんかこっちも意地になってサクサクやってて。したら、ごっつぁんが泣きそうな声で言う訳。『なっちぃ、切りすぎたー』って。なんかね、切るのに必死になってて、切ったあとのこと忘れてたんだけどね」
もう、すごいの。テーブルの上、こんななの。
腕を広げて空中に山の形を作る。
- 240 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時31分26秒
- 手許の皿にまだ餃子は手付かずのまま残っている。それを指さして、そのとき真希とニラばかりの餃子を作ったのだと続けた。
それでもあり余るニラを使い切ることができずに、結局数日のあいだ後藤家の食卓はその緑の葉で染められてしまったらしい。
話し終えると、なつみはほとんど意識しないまま「なつかしいな」とこぼした。
言った自分に驚いて、思わず圭を見やる。彼女は餃子を口に放り込みながらなつみの話を聞いていたが、最後の独り言についてはとくに感想はないようで、「そりゃ、今じゃそんなバカなこともしないでしょ」とだけ告げて梅酒に口をつけた。
傾けたグラスのなかで、からんと氷が鳴る。
「うちら、もう二十代なんだよ」
- 241 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時32分28秒
- 圭と別れたあと、覚束ない足取りでたどる帰り道は、夜更けということもあって人気がない。自分の足音さえ聞こえてくるのではないかというほど、しんとしている。そんななか、なつみは先刻覚えた自分の感情に説明をつけかねている。
なぜ「なつかしい」と感じてしまったのか、なつみには解らなかった。思い出と呼ぶにはまだそれほど遠い記憶でもないうえ、たとえば明日香のように目に見える形で別れがあったわけでもない。
ただ、最近は真希にも同い年の仲間ができ、なつみもなつみで年長組と顔を合わせている時間が長い。以前のようにオフに会うことも少なくなった。しかしそれは自然のなりゆきでもある。
- 242 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時33分00秒
- (そういえば、ごっつぁんも餃子巻くの下手だったな)
料理に関してはわりと器用な真希が、むずかしい顔をして整えていた餃子の形はどれも不揃いで、二人で苦笑いしていたことを思い出す。
今は上手くなったのだろうか。
街灯に照らされてできる短い影を引きずりながら、なつみはそんな取り留めのないことを考えていた。
- 243 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時34分25秒
- 「ごっつぁん、ちゃんと寝てる?」
尋ねたのは、たしか四月も終わろうとしているころだった。
「あー、寝てるよー?」
応える声は反して眠たげである。「なら、いいけど」言いながら、なつみはこれみよがしに自分の目の下を指で縁取るように撫でた。
「あ、うそ、クマ?」それまでいくぶんぼんやりとしていた真希は急に勢いをつけて立ち上がった。
「もうね、かなりひどいよ」
「そっかぁー。だって大変なんだもん」
「なにが?」
聞き返すと真希は半分口を開けたままぴたりと動きを止めた。そのままあさっての方へ目をやって、
「……仕事」
小声で言う。あったりまえじゃん。笑いながら肩を叩くと、彼女は困ったようにうなずき返した。
- 244 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時35分06秒
- 一連の態度に疑問を感じて、なつみは問いただそうと向き直ってから、思いとどまる。疲れは見えるものの仕事に差し障りが出るほどではなく、あえて言えばメイクの際に時間のかかる程度である。それに一六にもなる彼女なら、尋かれたくないことの一つや二つもあるだろう。そこへ土足で踏み込む権利などなつみにはない。
以前の自分なら、無理にでも分け入ってすべてのことを暴き出そうと躍起になってたかもしれないが、近頃はずいぶんと歯止めが効くようになった。
(オトナになったってことかな)
一歩退くということを覚えて大人になるのだとしたら、それはすこし寂しいことのような気もする。
「がんばろーね」そう言うと、やはり眠たげだった真希の眸に柔らかい光が宿る。
「うん」
わずかに顔をほころばせると、彼女はおもむろに欠伸をした。
- 245 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時35分40秒
- それが一月まえのことで、あれから仕事は密度と量を増し、ただでさえ少なかった休日は目に見えて減っていく。
家に帰ると、なつみは服も替えずにフローリングの床に寝転がる。西陽の射さない居間の床は思った以上にひんやりとして、熱っぽくなっていた頬や腕を心地よく迎えてくれた。
膝を曲げて身体を丸めると、なぜかおかしさがこみ上げてきて、その格好のまま円を描くように回転しながらソファの方へ移動する。淡いグリーンのそれにようやく達しようとしたあたりで、手前に置かれていたテーブルの足に思いきり後頭部を打ちつけた。
- 246 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時36分12秒
- 「………」
あまりの衝撃に声も出ない。涙目になりながらテーブルを睨もうとすると、茶色の包みがなつみの視線をさえぎった。視界の半分を覆っているそれは、白いビニール紐で十字に括られている。ちょうど両手にすっぽり収まるほどの大きさで、顔を寄せて真新しい包装紙の匂いに目を細める。
「よろこんで、くれるかな……あー、でもどーだろ」
強く膝を抱いて、なつみはこぼれてくる嬉しさを堪えきれず、頬をゆるめた。
- 247 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時48分43秒
- 件の言い争いからこの方、暗雲垂れ込めている気持ちとは裏腹に、今日の空はまぶしいほど青く澄み切っている。遠くには夏の象徴とも言うべき入道雲が早くも立ち上がって、藍染めの模様のように鮮やかな白で空を切り抜いている。
「ちくしょー、ちょっとはこっちを思いやれー」
真里は頭上に向けて、無理な注文をつけた。そうして前日の一件を顧みて深々と息をつく。
口をきかないと宣言してみたはいいものの、一日でその決意は崩れかけている。
背を向ければ向けるほどなつみの姿が脳裡にちらついて、今朝は夢にまで出てくる始末である。しかもそのなかでさえ彼女は「絶対口きかない」と言い放ってくれた。
- 248 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時49分22秒
- 「なっちのバカアホタコスカアンポンタン……」
局の廊下をぶつぶつつぶやきながら歩いていると、ハリセン代わりか丸めた台本らしきもので力いっぱい頭をはたかれた。殴られたあたりを両手で抑えながら先行く犯人を見ると、メンバーで一番短い後ろ髪の持ち主が振り返りもせず駆けていく。
「なっちのアホー!!」
場所をはばかるような余裕もなく、思わず叫んだ真里を、後から追いついてきた圭織がなにごとかと驚いてみつめている。当然のことながら、楽屋ではそれぞれ端と端を陣取って年下のメンバーに迷惑をかけることになる。
- 249 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時50分28秒
- 「アンタらガキじゃないんだから」
「だって、なっちがわるいんだもーん」
一通りの収録が終わって、別撮りの予定を確認しつつおそい昼を食べていると、学校帰りか制服姿のあさ美と里沙がひょいと顔をのぞかせた。一応の挨拶はしたものの、ふたりともドアの外に気掛かりなことでもあるのか、なかなか入ってこない。
「どうしたー」声をかけると、やっとのことであさ美が口を開いた。「安倍さんが」
瞬間眉間に皺をよせてしまった真里にはかまわず、圭が続きをうながす。
「なっちが?」
「いま、すっごいうれしそうに出ていったんですけど……」
こんなでっかい紙袋かかえて。あさ美の言葉をうけて、里沙が両手で自分の背丈ほどの四角を描いた。そうして二人で確認するようにうなずき合う。
「ね」
「うん」
- 250 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時51分02秒
- 圭織、圭、真里の三人はそれぞれ配られた弁当に箸をつけながら、首をかしげる。
「なっちなら、次ぎの撮りまで空きがあるから、問題ないよ」
「や、あのぅ、そうじゃなくて」
「うん」
「あの、傘、持ってなかったんです」
傘という単語に反応して、真里は背の方にあった窓を振り返る。目を凝らしてブラインドの隙き間をつなぐと、朝とはうってかわった濃いグレーの雲が陽をさえぎっている。先ほどから地響きのように聞こえてくる音がにわかの雷鳴だということにも気が付いた。
「今日、夕立ちがあるって天気予報で」
あさ美と里沙は、ふたたび顔を向き合わせて「ね」と声をそろえた。
- 251 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時51分45秒
- そういえば。
ふと朝からのなつみを思いだしてみる。
(今日は、なんか浮かれてたな)
その理由が、空き時間に足取り軽く楽屋を出たことにつながるのだろう。真希と待ち合わせることは圭から聞いた。その待ち合わせになにかプラスアルファがあるのは間違いない。
急に落ち着きをなくした真里を、事情を十分すぎるほど察した圭と圭織は半ば面白がるように見守っている。見守っているだけでは物足りないらしく、ついつい口がでる。
「あーあ、なっちびしょぬれになっちゃうね」
「ほらほら、はやく追いかけないと」
「うるさーい!! 絶交してんだから、そんなことオイラに言うなー!」
- 252 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)16時52分17秒
- 先ほどから大袈裟に主張しているはずが、ほとんど相手にされていない。それどころか、二人の煽りは次第に激しさを増している。
「なんだよ、二人して!」感情的になって食ってかかっても、相手は呆れとも苦笑ともつかない表情で笑うばかりで、むきになっている自分が惨めだった。
「怒ってないではやく行かなきゃ」
「そうそう、こーしてる間にも夕立ちが」
一つ二つの年齢差というものは、開きがないようでいて肝心なところでその違いを思い知らされる。余裕綽々然とした二人の態度に、たまらず真里は声を荒げた。
「もう、ぜーったい行かない!!」
- 253 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)17時56分06秒
- 数日まえから危ないなとは感じていた。
希美が発端となってメンバー内に持ち込まれた風邪は、気まぐれに人から人へ伝染しながら一向に衰える気配はない。真希へと移ってきたのは亜依経由だろうか、ともかく朝から頭が自分のものではないほどのめまいを覚える。
一応我慢できない痛みではなかったために、たかを括って仕事に出たのが間違いだった。一時間もしないうちに、眠気とも痛みともつかないどんよりとした重みが全身を包みはじめる。もちろんそのころには周囲にも体調の不具合は気付かれていて、言い訳をする間もなく病院へと送られた。
注射で熱を下げて撮影を続けたが、そのぶん時間は大幅に押していた。
奇跡的に撮り直しなどはなかったものの、四時を過ぎて撮影はようやく終盤になる。なつみのことが気掛かりだったが、頭痛と段取りを追うのに意識のほとんどが割かれていて、時計の針を見ることすらままならなかった。
- 254 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)17時56分52秒
- やがて薬効が切れたのか、身体が鉛になったような鈍い不快感におそわれる。朦朧とした意識のなかで撮影終了の声を聞くと、緊張が解かれて立っているのも億劫になった。
重たげに首をめぐらして、スタジオの隅に置かれた自分の鞄を見る。
(行かなきゃ)
なつみはきっと待っていてくれる。そうして『おっそーいよー。もー』と責めるような言葉を、ひどく優しげな声でかけてくれるにちがいない。
きっと待っていてくれる。
そんな確信と紙袋に大切にしまってあるラベンダーを持って、真希はスタジオを飛び出した。待ち合わせの場所はここからさほど遠くない。ところが、焦って表へ出た途端、ざんという音とともに視界が暗く閉じられる。
「雨ぇー? カンベンしてよ」
思わず振り仰いだ空は、一面にごりきった灰色で染められていた。
- 255 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)17時58分03秒
- 午後四時三分。
街中にある箱庭のような公園を、折からの雲行きを怪んで、人々が足早に通りすぎていく。目立った木々もなく、ビルの谷間でかろうじて噴水だけがにぎやかに水しぶきをあげている。
閑散としたタイル張りの地面と奇妙なオブジェ、花崗岩のベンチがぽつぽつと置かれている以外、そこには公園を連想させる施設はない。
この場所は台地にあるものの、やや窪んだ地形になっていて、雨が降れば水浸しになると思われる。ここにはその雨を避ける屋根もない。
- 256 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)17時58分44秒
- 噴水のまえに佇んだなつみは、低く雲の這う空を不安そうに見上げた。腕に抱いた包みにわずかばかりの力を込める。その頬に一滴、水がはぜた。
それをつめたいと感じるより早く、立ちこめた雨雲から一斉に雨が落ち始める。
青白い稲光りが近くのビルの窓に反射して目の端で閃いた。なつみは肩をすくめて、包みを抱く腕をさらにきつくする。雷が怖いという理由もあったが、なにより降り注ぐ雨から包みを守りたい一心で、身体を丸めてしゃがみこんだ。
その背に肩に容赦なく雨は降り懸かる。
それでもなつみはその場から離れようとはしなかった。
- 257 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)17時59分34秒
- 公園に面する細い道路を隔てた向かい、街路樹の銀杏に半分身を隠すようにして、水色の地に白文字でロゴの描かれている傘がさきほどからじっと動かずにいる。
大きめの傘にやや飲まれるようにして立っていたのは真里だった。
瞬きを忘れるほど強く公園のなかの唯一の人影をみつめている。
まるで道ばたの石ころのように濡れるがままうずくまっているなつみは、もちろん気付いてはいない。真里は携帯を取り出して時間を確認すると、やがてため息をついた。
「時間切れだよ、後藤」
- 258 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時00分43秒
- 平日の半端な時間であるため車通りは多くない。下り坂になっている右手を注意深く見やってから、靴の濡れるのもかまわずところどころ水の溜まった道を駆け抜ける。
風に傘をあおられて思ったよりもたついた。その間もなつみは人であることをやめたようにひたすら雨に打たれている。
「ちょっと、なっち生きてる?」
中腰になってなつみの肩をゆさぶると、彼女はようやく顔をあげて、しかし次の瞬間思いきりそっぽを向いた。
「なんだよぉ!」
「……中じゃん」
「なに? 聞こえない!」
「……絶交中じゃん! なんで矢口がこんなとこにいんの!」
- 259 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時01分16秒
- 一瞬で真里の忍耐は限界に達した。自分の服の裾は半分ほど濡れて色が変わっている。なつみはやや無理のある体勢で苦しいだろうに渾身の力を込めて真横を向いている。役に立ちもしない傘をさして、あわてて追いかけてきた相手に対してとる態度とは思えない。
「こっ、こんの、バカなつみー!! ひ、人が、心配になって来てやったのに、その言い草はなんだよ!」
「矢口から口きかないって言ったんじゃん。最後まで責任持つのがスジっしょ」
言い終わるや、なつみははげしく咳き込んだ。彼女はまだなにか文句を続けたいらしかったが、喉に物でもつまらせたような途切れがちの言葉は、ほとんど意味をなさない。真里としても口喧嘩をしに迎えにきた訳ではないので、当初の目的を果たそうとさらに腰を落として言った。
- 260 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時01分54秒
- 「帰ろう、なっち」
腕を掴むと、なつみはそれを引っぱり返して抵抗する。
「ごっ、ごっつぁん、来るから。ぜったい来るから」
「……来てもだめじゃん」
真里はなつみの胸許で水を吸ってすっかり重くなっただろう包みを見る。それまでかろうじて上向いていたなつみの頭が、ゆっくりとうなだれる。髪から流れた水滴が幾筋も頬を伝った。
「そ、だね。濡れちゃったね」
「だから帰ろう?」
「でもごっつぁんが」
「ごっつぁんなら、来ないよ」
はじめて、なつみの眸がまっすぐに真里をとらえる。その表情は、それまでぴんと張っていた糸が切れたように危うく頼りない。痛たまれなくなって真里はわざと目を逸らした。
「熱がひどかったらしくて、病院行って、その分時間かかって、それにこの雨止みそうにないし。さっき尋いたら、あの、携帯で、尋いたら、『ごめん、行けそうにない』って」
本当に、ごめんって。
「だから、帰ろう?」
- 261 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時02分26秒
- 「や、ムリ」
しばらくの沈黙ののち、なつみは乾いた声で言い切った。
「強情だなぁ」
「そ……じゃなくて、うごけない」
「は?」
「……足、つった……」
涙目で告げる。軽く自己嫌悪に陥っているようで、情けない声で真里を呼ぶ。絶交云々に関してはもうすでにその思考からは抜け落ちていて、今度はなつみから真里の手をとった。濡れた手のひらの感触は互いにあまり良いものではなかったが、握り合っていればすぐにそれぞれの熱で乾くだろう。
- 262 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時03分49秒
- なつみの足の筋から痛みが消えるまで、植樹されたばかりの若木の下で半分ずつ肩を濡らしながら傘を分け合う。なつみが後生大事に包みを抱えているので、必然真里が傘担当となり、身長の関係で枝を持ち上げるような格好を維持している。
いい加減腕がしびれてきたところで、ふいになつみが言った。
「うちら、変わったのかな」
急な質問の意味を考えあぐねて、真里はなにも言葉を返せない。その沈黙をうけてなつみは続けた。
「さいきん、さ、ごっつぁんとあんまり喋ってないなーって、思ってて」
「うん」なんとか相づちだけはうった。
「やっぱさ、ごっつぁんも同い年の子とかの方が話しやすいだろうし、楽しいのかなって思うと、なんかさ、声もかけづらいときとかあって。昔はさ、毎日くっついてばかみたいに一緒にいてホント息つく暇もないくらいいろんなこと語り合ってさ、なんか、それがあたりまえだって、思ってた。でも、うちらもうオトナだし、いつまでも昔のまんまじゃだめじゃんっていうのもあるけど、でもそんなんじゃなくて、なに? なんだろ。もう昔みたいに隣にいられないのかなって。矢口もそうでしょ」
どうだろ。聞こえるかどうかといった声でつぶやいた。
- 263 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時04分23秒
- 「うちらいっつも三人でバカやってたじゃん。紗耶香とかもいてさ、裕ちゃんも怒らせてばっかでさ、ほんとは今日ごっつぁんに会って、もっかい昔みたいな時間が取り戻せるかなって、ちょっと確かめたかったんだけど。これも、濡れちゃったし……肝心なとこでドジやるのはずっと変わんないのにねえ」
それが義務ででもあるかのように一息に喋りきる。ふたたび訪れた長い沈黙を真里はどうすることもできずにいる。
つながっている片方の手は、互いの体温が混ざりあって温かい。しかし咳をするたび触れるむき出しの肩は驚くほど冷たかった。
その冷えた身体ごとなつみは包みを抱えたままでいる。それまでじっと噴水に向けられていた視線が、ふいに足下に落ちた。
「うちら、いつからこんな、離れちゃったんだろ」
強く握られた手が痛い。ああ泣いてるんだと感じつつ、真里はなつみの顔を見ることができなかった。
- 264 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時09分14秒
- 横ざまに殴りかかってくる雨をまともに受けながら、とにかく花だけは濡れないように、真希はやや上り勾配になっている坂道を必死で走る。走りながら何度もなつみの携帯を呼び出してみたが、まったく反応はない。ともかく待ち合わせの場所まで行って、みずから確認するよりほかはない。
見通しがきかないため、濡れた道に何度も足をとられた。
(ぜったい待っていてくれる)
昔から、約束の時間に遅れることはあっても、約束そのものを破るようなことはけっしてされたことがない。今日にしても、ひょっとしたら真希と同じくあわてて公園に向かっているころかもしれない。
以前よく待ち合わせに使っていた公園は、一時期拡張工事のために入れなかったこともあって、自然足が遠のいた。なつみや真里と待ち合わせること自体、最近はめずらしい。
- 265 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時09分50秒
- 場所を決める際に、急に思いだしたようにあの公園の名を告げたなつみの眸には形容しがたい温もりのようなものがあった。
『もうずいぶん行ってないねえ』
感慨深く漏らした言葉が、やけに耳について離れない。
坂をのぼりきると、ひらけた視界のなかに公園は記憶のとおりある。
「あ……」
けれど懐かしいその場所にもとめた姿はなく、おもわず足を止めて周囲を見回した。煙るような豪雨ではっきりとはわからないが、公園にもその周辺にも、なつみどころか自分以外の人影さえ見当たらなかった。
目の置きどころを探しかねた真希は、傘の縁から落ちる雫を意味もなくみつめる。
それから勢いよく手に提げた袋を頭上へ振り上げ、しかし込めた力を内包したまま、諦めたようにゆっくりと腕を下ろした。袋の口からのぞいた花に、細くなりはじめた雨がかかる。
「いるワケ、ない……か」
いるワケないか。だれに言い聞かせるでもなく二度繰り返した。
- 266 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時10分55秒
- めずらしく楽屋の机には花が活けられている。青とも紫ともつかない花は、今朝真希が差し入れた。すりガラスの花瓶が射し込んだ光を透してぼんやりと影をゆらめかせている。
昨日の夕立ちはその名のとおり二時間も経たないうちに晴れて、うるさく吹きすさんでいた風だけが今日の午まで残った。午後二時を過ぎるころにはその風も止んで、穏やかな陽気のなか、窓から見える景色はすっかり夏の様相を呈している。
上空ではまだ風の勢いは衰えていないらしく、手でちぎったような雲が粗く散らばっている。雲に反射してまぶしく照りつける太陽を避けるように、真里は仏頂面でブラインドを閉じた。
- 267 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時12分52秒
- 急に明るさを失った室内には、意地のわるい顔が二つ、意地のわるい笑みを浮かべて並んでいる。それはとりもなおさず真里の仏頂面の原因をつくっている二人である。
「ぜったい行かない! んじゃなかったのぉー?」
「モウゼッタイクチキカナイ、とか言ってたっけねえ」
「ゼッタイって一体ナンダロー」最後にはきれいに二重奏になる。苦虫を噛み潰したような顔で、真里は努めて反応しないよう肩をいからせつつも堪えている。そんな必死の決意にも引き下がる様子をみせず、頭一つ分高いところから圭と圭織はしつこく嫌味を降らせてきた。
「急いで追いかけてったわりに、結局なっちびしょぬれだし」
「あー、寝込んじゃったねえ。まーたスケジュールに穴あけちゃったねえ。ど−責任とるのかな、矢口サンとしては」
- 268 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時13分33秒
- 井戸端会議の主婦よろしく、互いに相づちをうちながら意味ありげに真里を覗き込んでくる。いっそ怒鳴って抵抗してみてもいいのだが、なにしろ、なつみが風邪をひくまで濡れるのを黙って見ていたという負い目もある。
そのなつみと昨日の収録に遅れてしまったせいで圭と圭織にはさんざん迷惑をかけていて、頭を下げこそすれ、怒る資格などない。
「……絶交なんか、できるワケないじゃん」
ふてくされたように口を尖らせて言うのがやっとだった。「ほっとけるワケないじゃん」
すると、圭と圭織は乾いた視線を同時に真里へと向けた。
「なにをいまさら、ねえ」
今頃気付いたの? 続けられた言葉に、急に取り残されたような心細さを感じて、真里は食い下がった。
- 269 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時15分06秒
- 「いまさらって、そんなの、わかんないよ! 自分大好きでたまに空気読めてなくて見かけによらず無頓着でジャージ変えろっつってんのにお気に入りのしか着なくてすぐ笑うしギャグは寒いし背も矢口よかちょびっと高いだけなのに人のことチビチビって言うし、何に気付けっての?!」
「相手がなっちだってことにだよ」
圭が半分呆然と固まってしまった真里の頭に手を置いた。その手のしたで、みるみる肩の力が抜けて小さな身体はさらに縮んでいく。うつむいた彼女から「かなわないよぉ」と拗ねた声が届いた。
「かなう訳ないじゃん」
真里は重い顔を上げて圭織を見る。
「なんで?」
「だって、なっちだもん」
「……それ最強」
うなだれたところに廊下から真希の笑う声が聞こえた。
- 270 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時15分57秒
- 『水はやりすぎないように』
高温多湿の日本でならなおさら留意しなければならない。もともと根付いていないものをよそから移し替えただけでも、花にとっては相当のストレスだっただろう。
それでも真希はなつみの部屋にあったあの写真のような景色を自分の手でつくり出してみたかった。そしてそれをなつみに見せたかった。
待ち合わせの時間に合わせて東京を襲った夕立ちは相当規模の大きいものだったらしく、朝テレビをつけると被害の状況がトップニュースで伝えられている。
上空からの中継をなんとなく眺めていると、余すところなく地面を舐めつくして川へ入った水が河口付近の色を変えていた。
- 271 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時17分09秒
- 昨夜は帰宅してから電気もつけない暗い部屋に閉じこもり、ベッドでずっと枕に顔を押し付けていた。
時間に一時間も遅れてたどりついたのは自分の方だが、頭ではわかっていても気持ちの方で整理がつかない。何を考えるのもいやになって、結局そのまま眠ってしまった。
このまま風邪が悪化して、なつみと気まずい顔を合わせずにいられたらどんなによかっただろう。
そのはかない希みさえかなうことなく、いつもどおりの朝を迎える。真希はいくぶん億劫になりながらベランダに出て庭を見下ろし、言葉を失った。
- 272 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時18分50秒
- 昨日まであざやかに咲いていたラベンダーがあるべき場所にない。よく見ると、水はけのいいよう高く盛った畝がくずれて、倒れた花がことごとく無惨に根をさらしている。
「ごめんねぇ」
ほとんど無意識にもれた言葉が、花にたいして向けられたのか、それともその花をとおして想う彼女へ向けられたものだったのか、真希には判断がつかなかった。
西から吹く風は夜通し昼間の熱をうばっていたためひどくつめたい。
隣のツツジの木だけは奇跡的に昨日の風雨を持ちこたえて、花に葉におもく朝露をかぶっている。
- 273 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時20分15秒
- 会いたくない。
会いたくない会いたくない。その切実かつ不機嫌な願いは中途半端に現実になった。
「なっちゃん、今日一日来れないって」
ああ、そう。それ以上の感情は湧かなかった。なっちゃんという呼び名にもまだ慣れない。「辻の風邪は、強力だねえ」ひとみが側を通りかかった希美をつかまえて羽交い締める。
病原を持込んだ本人は、人にうつしてからというもの至って調子がよく、餌付けされた犬のごとく差し入れをもとめて駆け回っている。
- 274 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時20分59秒
- 「よっすぃー、はーなーせー」
「離さなーい」
じゃれあう二人を見て、真希は笑った。そうして目のまえの二人に二年まえの自分となつみの姿を重ね合わせる。遠くなったと思う。年齢のせいだけではないだろう。互いに遠慮が生まれて、一歩ずつ背中合わせに前へ前へと進んでいる。この距離を測る手立てはなく、また縮めることも無理かもしれない。
それだけ離れていると感じながら、なぜなつみの存在がこうも自分の胸を締め付けるのか不思議だった。
「ごっつぁん、ちょっと」
急に手を取られて我にかえる。先行く人の頭はずいぶん低い位置にあって、その金色の髪が照明の暗い廊下でやけに目立った。階段の踊り場まで来ると彼女はようやく真希の手をはなして振り返る。
真希には何があるのかという疑問はなく、汗ばんだ手にあたった空気がただ心地よかった。
- 275 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時21分40秒
- 「昨日」
なんの前置きもなく、真里は口をひらいた。すこし声がうわずっている。
「公園」
途中をつなぐ助詞も動詞もない。それでもなにを告げたいのかはいやというほど理解できた。
「あのさ」
「うん」
「なっちは、待ってたんだよ」
「そう、なんだ」
「ばっかみたいにさ、浮かれてたから、傘とか天気予報とかぜんぜん考えてなくてさ」
「うん」
「ほんとバッカじゃないのって、いうくらい、あの雨ん中でさ、ごっつぁんのことずっと待ってたんだよ」
「……うん」
「でも、ごめん」
真里の語調が耳をすまさなければ聞こえないほど弱くなった。「あれ以上、見てられなかった」
- 276 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時22分34秒
- 真希に知らせようにもあの荒れた天気のせいか携帯はつながらなかった。もうすこし待つとふたたび駄々をこねはじめたなつみを無理矢理口説いて、楽屋に連れ帰った。そのあと真希が来ることを考えはしたものの、あのまま残っていれば多分なつみの身体の方がもたなかっただろう。
結果的になつみは高熱で寝込んでしまったのだが、そのときの真里にはそこまでの予測はつかなかった。
謝りたかった。真里は言った。
「ごめん、ごっつぁん」
「あー、イヤ、よかったよ」
「なんで」
「あ、後藤、行かなかったから。あの、雨だし、なっちもそこまでばかじゃないだろーし、絶対、いないって……思ったから。それに」
たいした用事でもなかったし。言いながら階段の手すりにもたれかかる。
- 277 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)18時23分07秒
- 「よかったよ。やぐっつぁんがいてくれて。だから、あやまることなんて、ないし」
ことさら淡々と伝えたはずがところどころつまって途切れる。それを受ける相手もまた、ぎこちない返事で応えた。気がつけば、ここへ来てからずっと空白の多い言葉ばかりを投げ合っている。
「そっか。ま、ごっつぁんが思うより、なっちは、ばかだったってコトだね。ホントそれで風邪ひいてりゃ、世話ないってねえ」
本心で言っているのでないことは、表情をみればあきらかだった。
「じゃあ、行くわ」
いくぶんほっとした様子で言い残して、真里は足早に楽屋へともどってしまった。後を追うわけにもいかず、真希は手すりにかたよった重心をゆっくりもとへもどすと、真里の消えた廊下に視線を置いた。
- 278 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時10分33秒
- しばらく廊下の隅にある非常灯の緑を見ていると、その下に希美が勢いよく飛び込んでくる。先刻のひとみの攻撃に耐えきれず必死で逃げ出してきたらしい。
「ごっちん、助けて」
ふざけたように言いながら、言葉とは逆に真希の手をひいて駆け出した。
「ちょっと、なにー?」
踏み止まることもできないまま希美の背にむかって叫んでみたが、彼女は足を止める気配すらみせない。そうして倉庫として使われている部屋に無断でもぐりこみ、ようやくあてどない暴走に終止符を打った。自分の意志に反して走り回された真希が肩で息をしているかたわらで、このささやかな誘拐犯は疲れを微塵もみせずにへらへらと笑っている。
- 279 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時11分09秒
- 「なんだよぅ、もー」
先輩である手前、甘やかしてばかりもいられない。ここはひとつ小言をお見舞いしてやろうと顔をあげると、部屋のはしに見覚えのない衣装がかけられている。希美はそのうちのひとつを指差して「ごっちんの」とだけ言った。
「あ、舞台のだ」
男物の衣装の色は、ラベンダーを思わせる。
「きのう届いて、なっちゃんとみにきたんだよ」
「なっちゃんと」
「も、すっごいさぁ、ごっちんカッコイイねえって言っててさ」
「うん」
うなずいて近寄ると、ふいに懐かしい香りがした。「そで、通しても怒られないかな」
- 280 名前:「なんだよぅ、もー」 投稿日:2003年07月12日(土)19時11分45秒
- 日を追うごとに強くなる陽射しが、ブラインドを抜けて斜めに部屋に入り込んでいる。
かなりな鋭角で射し込んでいるため、普段は短い真里の影も今はおかしいほど長い。床では収まりきらず壁にまで伸びたそれは、黄昏れたようにたたずんでいる。
真里の視線のさきにはラベンダーがゆるやかにその身をしならせていて、ややくたびれたような淡い色の花は、今日明日持つかどうか怪しかった。
真里はひとつ息をつくと呆れたようにつぶやいた。
「バーカ。嘘ならもっとうまくつけよなー」
- 281 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時13分20秒
- 「おー、かっこいいじゃん」
「へへっ、そっかな」
真希が上着だけのにわかのショーを終えると、希美はなにげなく自分の前髪をさわる。その仕草が驚くほどなつみに似通っているのでじっとみつめていると、照れたように笑った。側にいる分、ふとしたくせがうつってしまうらしい。なつみの膝は今では希美の専用席だと言っても過言ではなく、こちらが暑くないのかと疑問に思うほど、いつも背中か胸に貼り付いている。
本かなにか、重いものが詰まっているダンボール箱をすねで蹴るようにしながら、真希は尋ねた。
「辻は、なっちゃん好き?」
「うん、大好き!」
弾けるような笑顔とともに明るい声が返ってきた。
「そっか。……辻はなっちゃん大好きか」
- 282 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時13分52秒
- 大好きという言葉を素直に使えなくなったのは、いったいいつからだろう。そう思ったとき、ふたたび先ほど感じた香りがかすかに漂う。それは真希のすぐそばから発せられているようだった。
この匂いには覚えがある。
そうやって、記憶をたどろうと意識をずらしていた矢先、
「ごっちんは、なっちゃん好き?」
急に投げ返された無邪気な問いに言葉につまった。
「あ、どうだろう」
「なっちゃんは、ごっちんのこと好きだよ」
「……どうだろ」
「だって、きのうもおまじないしてたもん」
「おまじない?」
「うん。その服に、『ごっつぁんの風邪が、はやくよくなりますように』って」
- 283 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時14分57秒
- 『ごっちんの風邪が、はやくよくなりますように』
いつか家まで見舞いに来たなつみは、なんの規則性もなく物の散らかった部屋にさんざん文句をつけてから、そう言った。部屋がきたないから風邪なんてひくんだよ。訳知り顔で続ける。
冗談かと思っていたらどうも真剣らしく、科学的には未来永劫証明されなさそうな持論をとうとうと展開して、
『しかたないから、なっちが片付けてあげるべさ』
腕をまくって、にぎった拳を真希へと突き出した。見ているだけで風邪のことなど忘れてしまいそうな笑顔が、げんこつのむこうにあった。やがて眠気におそわれた真希の視界で、せわしなく動き回るなつみの姿は次第にかすんで、あたり一面世界が白くなる。
『ごっちんの風邪が、はやくよくなりますように』
ふたたび唱えられた声にうっすらと意識を取り戻すと、壁にかけられたお気に入りのジャケットの袖口になつみが額をつけている。
祈るように閉じられた目が、どこか厳粛な雰囲気に感じられて印象に残った。
- 284 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時15分31秒
- 真希は自分の袖に口づけるように顔をあてる。希美は不思議そうに首をかしげてそれを見ている。
「ごっちん、だいじょーぶ?」
「……風邪、なおった」
「じゃあ、もっとうれしい顔すればいいのに」
泣いてるみたいだよ。希美は最後の言葉だけのみ込んだ。
袖に顔をうずめたままでいる真希は、そこから香るかすかな残り香を逃がさないよう腕を引き寄せる。吐息の熱がこもるのを感じながら、浮かんでくるのは聞き慣れた声と、見慣れた顔、それはいつもと同じように「サンキュ、ごっつぁん」などと言って笑っている。
- 285 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時16分38秒
- 次の日、不規則に押されるチャイムの音で目が覚めた。時計をみると短針は一〇をさしている。
舞台稽古は午後からの予定で、そのあと立て続けに番組収録が入るためぎりぎりまで寝ていたい。家族がそれぞれ出掛けていることから、居留守でも使おうと真希はベッドに貼り付いたままでいた。しかしチャイムは飽くことなく鳴り続け、貴重な安眠の時間は否応なく妨げられる。
しかたなくまだ鈍い身体を起こすと上にジャージを羽織って階段を降りる。
大欠伸をしながら不用心にもドアを開けて、真希は凍り付いた。
「な、なんでいるのー?」
叫んだそのさきで、病み上がりそのものの童顔がじっとこちらをにらんでいる。
やっと両手で抱えることができるほどのコバルトブルーの包みに半分身を隠すようにして、彼女はなにかに挑むような表情を向けている。即席のラッピングなのか、腕のなかの包みはかなりいびつにできあがっていた。
- 286 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時17分17秒
- 唖然としているあいだに、なつみは家主の了解も得ないでずかずか居間へとあがり、ふて腐れたように床へ座り込む。それも一切無言のままである。
(おこってる……おこってるよ……)
動揺しながら、それでも来客の際に紅茶と駄菓子を出す習慣は健在で、内心汗だくになりつつポットへ水を注ぐとコンセントを入れる。その湯沸かしランプが保温に変わるまで、寒々しい空気が室内に漂った。
「こ、紅茶でいいよね」
声まで裏がえる。
憮然とうなずくなつみは、ちらと庭へ目をやった。なにかに気付いて、一瞬その周りを囲む緊張がゆるむ。しかしそれもわずかなあいだで、真希が震える手でソーサーごとなつみに紅茶を差し出すときには、またなんとも不機嫌な顔にもどっていた。
小さく正座をしているなつみの斜め前で、真希もおなじく姿勢を糺してかしこまる。
- 287 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時18分25秒
- 「あ、あの」
「……」
「ナンノ、ゴヨウデショウカ」
あらたまって言いながらそっとなつみをのぞくと、一昨日真里との諍いでみせた艶のある目もとが、幼さの残る顔のなかでアンバランスな雰囲気を醸している。
(おこられるの、ヤだなあ)
思い返すとなつみに叱られるという経験自体、ほとんど記憶にない。気分にむらがあることを彼女自身よくわかっていて、機嫌を損ねたときにはなるべく人にあたらないよう心掛けているらしい。だから彼女の怒りを買うとすれば、それはよほどのことに違いなかった。
がさごそと紙の擦れる音がして、なつみがだまって例のいびつな包みをといている。
「あのぉ、なっちさん?」
うかがうように声をかけたところへ、なつみの手許から巨大な影が勢いよく投げ付けられる。間の抜けた音がして、ヤシを一本生やした無人島型のクッションが真希の顔にあたった。かろうじて倒れはしなかったものの、大きさが大きさだけに受け止めた顎にクッションの布地がすれて、かなり痛い。
- 288 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時19分16秒
- 「な、なっちぃ?」
「なっちは怒ってるの!」
(そんなん見ればわかるよ!)
まだ熱があるのか潤んだ目を赤くして肩をいからせている。土砂降りのなか真希を待ち続けていた彼女の怒りは当然と言えば当然だった。
「……ごめん」
「ひょっこりひょうたん島のヌイグルミなんて、どこにも売ってないじゃない!」
「はいぃ?」
「だいたい『島』のヌイグルミってなんなのさ?! ごっつぁんのアホー!」
真希は咄嗟には事情が飲み込めず、必死に自分の記憶に残っている情報を一から立て直してみる。
なぜか怒っているなっち→島の形をしたクッション→ひょっこりひょうたん「島」のヌイグルミ→このあいだのへんな梨華ちゃん。行き着いた可能性に唖然とするよりほかはなかった。
- 289 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時20分03秒
- 「……って、まさか、チャーミー・ドッキドキインタビュー?!」
「そうだよ!」
力強く肯定されて、全身から力が抜けた。インタビューとアンケートの違いはあるとは言え、まさか自分の実行しようとした計画を逆になつみが仕掛けてくるとは思わなかった。しかも、微塵も悪いとは感じていないらしい。騙されて叱られてクッションで攻撃されたうえ、挙げ句の果てには「アホ」と罵られる。これではどうにも納得いかない。
「さ、さっきから、怒ってばっかでさあ、ちょっとは後藤のことも考えてくれたっていいじゃん」
「ごっつぁんのことなんて知らないもん! だいたい『なっちさん』なんてそんな呼び方しないでよ!」
「ちょっ、もーなっちなんに怒ってるかさっぱりわかんない」
- 290 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時20分55秒
- ごつ、と鈍い音をたてて、二人の額があたる。その格好でしばらくにらみ合うと、互いにおかしさが込み上げてきて意地の張り合いは結局十数秒と続かなかった。
どちらからともなく吹き出すと、相手の顔が息のかかるほど間近にあることに気付いて、それぞれあわてて身体をひいた。遠目に見て取れるほど赤くなった頬を隠すように、真希はなつみに背を向ける。
数秒のち、その背中に柔らかい熱があたった。
気になって背後へ意識を送ると、なつみが同じく背を向けて真希にもたれかかっている。彼女はそのまま軽く体重を寄せてきた。それを感じて、痛いほど大きくなった胸の鼓動に忘れかけた記憶がよみがえる。
- 291 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時21分40秒
- なっちって呼んでいいよって言ったじゃん。
整っているだけににこりともしないなつみの顔には、有無を言わさぬ迫力がある。本人からいくら許可が下りたところでなかなか実行することもできず、いま思えば、実際はかなり長い間なつみを苗字で呼んでいたらしい。当初は不本意ながらも受け入れてもらっていたが、日を追うにつれてさすがに我慢しきれなくなったのか、差し向いできつく釘を刺された。
「安倍さんって呼ばないで」
「ごめん、なさい……安倍さん」
惰性で付け加えてしまった呼び名にしまったと思う暇もなく、椅子を大きく鳴らして彼女は立ち上がった。踵をかえすと一歩あるくたび蒸気があがりそうな勢いで部屋を出ていこうとする。
- 292 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時22分40秒
- 「ま、まって安倍……」
「もー、なっちって呼ばなきゃ、返事しないかんねー」
その膨れっ面も、まだ冗談か本気か見分けることができなかった。だからあわてて
『なっち!』
と呼ぶと、彼女は。
一瞬おどろいて一瞬はにかんで、肩ごしに振り返ったその口元にすこし得意げな笑みを浮かべると
『聞こえないよ』
と言った。
- 293 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時23分21秒
- そうやってなんども言い慣れない名を繰り返させられ、最後には顔が真っ赤になる。気がつくとなつみは真希の側にいて、たまらないといった表情で肩をふるわせている。きまりのわるさにうつむいてしまった真希の頭に、背の低い彼女は伸び上がるような格好で手を置いた。
よく言えました。
褒めるかわりに髪の毛をかきまわされた。
- 294 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時24分39秒
- 「なっち」
真希はかみしめるように背中を合わせている彼女の名を呼ぶ。
「なに?」
「なーっち」
「……だからなに?」
「なっちなっちなっち」
「ちょっ、なんなのさぁ、ごっつぁん」
対抗するようにごっつぁんごっつぁんと早口でつづけて、途中で噛んだ。舌がまわらなくなっただけでなく、どうやら事実、それを噛んでしまったらしい。痛そうに、そして情けなく肩を落としたなつみは、気分を変えようと思ったのか庭の方へ膝を向けた。
「そうだ。あの花」
独り言のようにぽつりと言うと、おもむろに立ち上がってサッシを滑らせ、驚く真希が見守るなかで庭へと下りる。そのまま音沙汰がないので不思議に思って後に続くと、ツツジのもとで背伸びをしている彼女が目に入った。のばした指が花を摘むのを見て、あわてて声をかける。
「それ、だめだって。人ん家のなんだから」
声は届いているようだったが、一度振り向いたなつみはとくに気に留めるふうでもなく、一つ取るとそれを口へと持っていく。
- 295 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時25分16秒
- 「わっ、わっ、わっ」
つっかけを履くのももどかしく駆け寄ると、どうやら蜜を吸っているらしい。
「おなかこわすよ、やめなって」
「だーいじょーぶだって。なっつかしいなー」
蜜を吸い終えたのか、なつみは花をくるくると指でまわした。
「なつかしいって」
「うん、あの、ね、ウチの近くにさ、通学路、ツツジがあったのね。小学校のときとかよくこうやって飲んでたんだ。でさ、今日ごっつぁん家に来てこの花みたら、いろいろ思いだしちゃって、なんか、うん、うれしいねえ」
「ムロラン、思いだしたんだ」
なつみはうなずきながら花をもてあそび続けている。するとふいにそれが動きを止めた。足元からややはなれたところにはくずれた畝の跡が黒い土色を目立たせている。そのあと、歌うように紡がれた言葉はいくらかの熱をもって真希へと届いた。
「ごっつぁんはさ、北海道イコールラベンダーって思ってるかも知んないけどさ、室蘭の市の花はね」
ツツジなんだよ。
- 296 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時26分12秒
- なつみが手許から視線をはなしたと同時に、花は空気の抵抗をほとんどうけず真下へ落ちた。そこにはもういくつかやや黄みを帯びた花が散らばっていて、まだ白の目立つ花弁はそのなかで一際あざやかだった。
真希が地面に気を取られているうちに、なつみは縁側に座って「おなか空かない? 空いたでしょ」こちらの意志を確かめもせず決めつける。
「お昼にはまだ早いけど、なにかつくろうか」
こころみに尋ねてみると、なつみは目線を右ななめ上へしばらく置いて一言「ギョーザ」とつぶやいた。
「えー? またニラ切るのやだよ」
渋い顔をつくって反論すると、ひどく驚いた様子でおおきく目を見張る。それから驚きとも戸惑いともつかない声で、
「覚えてたんだ」
「ナカナカ忘れられるもんじゃないよ。アレは」
夢にまで出てきてうなされた。そう言うと彼女は声をあげて笑ってくれた。
- 297 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時26分56秒
- よくよく考えれば、朝起きがけになつみの来襲を受け、真希は昼どころか朝食すら食べていない。
(ご飯どーしよう)
軽く悩みながらなつみの隣に腰を下ろしかけたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。
「ちょっと、待ってて」
言い残して、ふたたび押された呼び鈴に返事をしつつ表をのぞくと、パステルカラーで彩られた小型のバンが目に止まる。やわらかな卵色を基調にして水色やピンクの花のイラストがある。
一見幼稚園の送迎バスとも思えるその車体には、やや丸めの文字で社名が書かれている。その名称からすぐに花屋だと分かった。
独特の車体が向かいの壁のレンガ色と、その上にのぞいた木々の緑のなかにささやかに収まっている。
- 298 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時27分52秒
- ドアを開けると、バンの色と合わせたような制服を着た配達員が、帽子を取りながら、梱包された長細い箱を差し出した。
「矢口さまからの、お届けものです」
「やぐっつぁん?」
ぽかんと口を開けてしまった真希には頓着せず、若い配達員は箱の上に受領書のようなものを置いて「こちらに判子かサインをお願いします」にこやかに告げた。
サインをしようとして、ふと箱に貼られた配達表が目に入る。差出人名義には、見慣れた筆跡でたしかに真里の名があった。
それを受け取って、しばらく玄関にたたずんだ。やがて真希はふっと口元をほころばせ、急かされるように箱の蓋を開けると、今度は完全に相好を崩した。
箱の中には、つい最近まで見慣れた花が少し窮屈そうに、けれど行儀よく並んでいた。
- 299 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時28分25秒
- 居間にもどると、なつみは縁側の隅でさきほどと同じく座ったまま庭を向いている。戸袋に近いあたりで、背中はやや傾いていて、近付いてよく視ると心地よさげに眠っている。
無理に起こすのも気がひけて、真希はラベンダーの入った箱をテーブルに置くと、裸足のまま庭へ下りた。
若い芝生を踏んで誘われるようにツツジの木へ寄る。
「キミはムロランの花だったんだねえ」
- 300 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時29分00秒
- 手を伸ばさなくても届く辺りまで花は群れて垂れ下がっている。それはさながら雪にしなる冬の樹木を思わせた。
真希は先刻のなつみを真似て一房もぎ取ると、それを鼻先へと寄せる。途端、むせ返るような芳香が周囲に充満していた朝露の湿った匂いをかき消した。
頬と唇に触れた花弁は濡れたようにつめたい。強い香りに、ともすれば揺らぎそうになる意識をどうにか保って、真希は花びらに包まれている芯の部分を口に含んだ。
すっとした甘さが舌をかすめて、喉をつたった。
つい今しがた、やはりこの白い花に顔を埋めていたなつみの姿が鮮明によみがえる。
まるで花ごしに彼女と唇を合わせている感覚を覚えて、余韻を味わうかのように瞼を閉じた。
- 301 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時29分46秒
- ガラス戸にもたれたなつみは規則正しく肩を上下させていて、まだ起きる気配はない。頬にかかった横髪は春先よりもいくぶん伸びて柔らかく陰を置いている。真希はその髪にツツジをそっと挿した。手前にはまだうっすら赤く先日の傷が残っている。
危うい均衡をとりながら髪飾りとなっていた花は、やがてなつみのかすかな身じろぎに膝上へとさりと落ちる。
新しい紅茶の缶でも開けようか。
散り敷くツツジを眺めて思った。
そうして、なつみは陽射しと紅茶の匂いに目を醒ます。膝もとにある花にも気付く。それからまだ夢の途中のような眸を細めて、緑しげく庭を背に、陽だまりから真希を呼ぶのだ。
- 302 名前:Make our garden grow 投稿日:2003年07月12日(土)19時35分51秒
- 終わりです。わずかに以前のものに手は加えました。
古い話を使い回しているようで申し訳ないのですけども、
かるい暇つぶしにでもしていただければと思います。
ありがとうございました。
- 303 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月14日(月)21時32分59秒
- 素晴らしい作品をありがとう。
- 304 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月20日(日)22時03分31秒
- 萌えたー。和んだー。良かったー。
- 305 名前:名無し読者 投稿日:2003年07月23日(水)22時50分50秒
- 相変わらず描写が綺麗ですね。
- 306 名前:(●´ー`)生誕記念 投稿日:2003年08月10日(日)21時33分00秒
- どうにも遅筆で、こんなおめでたい日になにもできない
自分がくやしいです。
>>303 >>304 >>305
読んでくださって、ありがとうございました。
あと「萌えた」という褒め言葉をいただけたのが、
とてつもなくうれしいです。
ひとまずは、レスのお礼まで。
- 307 名前:3rdcl 投稿日:2003年09月06日(土)20時00分39秒
- 「Make our garden grow 」
ノベルモニのほうから来て読ませていただきました。
上手いな誰が書いているんだろうと思ったら和泉さんだったんですね。
「夏の城」がすごい好きで何度も繰り返し読ませて頂きましたが
同じ作者の人が書いているスレを見つけて嬉しいです。
これからも作品を楽しみにしていますんで頑張ってください。
- 308 名前:KUMA 投稿日:2003/10/31(金) 21:14
- すばらしい!の一言に尽きます。
自分が娘。達にのめりこむようになったのは1年程前からなのですが、
当然娘。のことは知っていたし、そのころから押しはなっちでした。
もちろん今の一押しもなっちだし、これからも変わることはないでしょう。
そして和泉さんの作品を読ませて頂いて、ごっちんのことも前以上に好きになることができました。
これからも私たちを感動させてくれる作品ができるのを心の底から楽しみにしています。
- 309 名前:和泉 投稿日:2003/11/30(日) 21:13
- ずいぶん長い間、お返事もせず、すみませんでした。
>>307-308
のお二人、そこまで褒めていただくと、じっさいは娘。さん本人の魅力を
借りているだけなので、うれしいような申し訳ないような感じもします。
でもともかくは、感想ありがとうございました。
で、いろいろのお礼方々。
賞味期限が切れている上に、後安ですらありません。
しかも書いた当人でさえ読み返すのが恥ずかしいというべたべたな代物ですが、
一緒に恥ずかしく思っていただけるとうれしいです。
今春から夏の終わりまでのお話です。
- 310 名前:ずっと夏休み 投稿日:2003/11/30(日) 21:15
- このごろの、ののさんは、ちょっと機嫌がわるい。なぜなら。
- 311 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:17
- 聞き慣れた着信音が、希美のよく知る彼女からメールが届いたことを報せる。
勢い込んで携帯を開いてから、確認しようとする指にふっとブレーキがかかった。耳をかすめるだけの軽い電子音はそのあいだも鳴り続け、見ようか見まいか、なんとなく躊躇しているうちに鳴り止んだ。
メールは開かなくても、連日やりとりしている内容はたかが知れていて、いまさらあわててそれを読む必要はない。それに読んだところで、胃のなかに石がごろごろ転がっているような、この不快感はなくならないだろう。
なくなるどころか、いやな石ころはどんどん溜まる。
赤頭巾に出てくる狼のように、いつか胸が圧し潰されてしまうかもしれない。
このごろの、ののさんは、やっぱり機嫌がわるい。
- 312 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:18
- 「メールばっかじゃん」
口をとがらせてうつむいた。あわせて両手に包んでいた携帯も、膝もとまで下がる。
「なちゅみのばかぁ」
ありったけの悪口をぶつけようと思ったけれど、結局出てきたのはそれだけだった。悪口を言うにも勉強は必要らしく、記憶力がないと心のなかのもやもやを掃き出すための言葉もみつからない。
言えない悪口はなんとも言えないまずい空気になって頬にたまった。
- 313 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:19
- 以前はそんな顔をしているときまってなつみの指でつつかれた。つつきながら「アイドルはそんな顔しちゃだめ」なんて怒った口調で言うくせに、目もとにはこらえきれない笑みがのぞいている。
人を叱るには、この人はやさしすぎるし、甘すぎる。そう思う。
けれど、他愛もない数行の文字を受け取るよりは、面と向かって怒られた方がよっぽどいい。
それなのに、当の相手は知ってか知らずか、気を遣ったつもりのメールをこうやって毎日届けてくる。
- 314 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:21
- 冴えない気分とともに部屋にこもったいやな空気を飛ばそうと、希美はサッシを引いた。
風は吹き込まない。
昼の陽光に暖められたぬるま湯のような空気が、顔にあたるだけだ。
心のなかで舌打ちをして、湿気ににじんでいる空を見た。自然も人も、なかなか望むとおりには動いてくれない。
- 315 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:22
- 『モーニング娘。をぶんかつする』
聞いたときは言葉の意味も漢字もわからなかった。漢字は「分けて、さらに割る」と書いて、意味は「会う時間が少なくなる人が半分ほどいる」ということらしい。
話が唐突すぎて、漢字を教わっているあいだに、意味を理解する間もなくそれは決定になっていた。
窓ひとつない会議室で机を囲んでなにか質問はないかと尋ねられたが、ハタチを越えているメンバーでさえ頭のなかがまとまらずにいるようで、みなうつむいたままだった。
音のない空気はいつのまにか沈み切っている。
と、それを振り払うように、
「ヨシ、ガンバロッ」
頬をはたいたのか、それとも手を打ったのか、ぱちりとなにかがはぜたような音とともに、明るい声が響いた。自然全員の視線を受けた彼女の眸が、つと希美を向く。
「ね、ガンバロ」
おもわず「うん」とうなずいた。
- 316 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:23
- 分かれるのはまだまだ先のこと。ケメぴょんの卒業だって終わってない。ガンバロガンバロ。
そう思って「ケメぴょん」を見ると、「ガンバロ」という言葉に同意するように口許をほころばせつつ、なぜか眉をよせ、声を発したなつみをみつめる眼差しには戸惑いがある。
なにか心配なことでもあるのだろうか。
- 317 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:24
- 心配と言えば、最近は希美にもなつみのあぶなっかしい言動の予測が、なんとなくつくようになった。
ガンバロでほのあかりがさした部屋を、さらに勢いづけようとでもしたのだろう。はじけるような明るさを振りまきつつ、なつみは続けた。
「も、ほら、テレビ写る時間だって、二倍に増えるしさっ」
(逆効果だよ!)
心のなかで突っ込んではみたものの、笑ってフォローをできるほど、周囲はやわらかい雰囲気ではない。
覚られないよう気をつけながら、希美はくるりとメンバーを見回し、ふと気付く。
(あとで、教えたげよう)
ふたたび空気を凍らせてしまったそそっかしい先輩に、それでも言わんとしたことは皆に届いていると伝えてあげよう。
なぜなら、戸惑いつつも、まず真里の表情がくずれ、次いで圭織があきれたような息を吐き、顔はうつむいたままだが、麻琴とあさ美の口許にはかすかに笑みが漏れている。他のメンバーも似たりよったりで、それまでがんとして動かなかった空気が、すこしづつ融けはじめた。
- 318 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:25
- けっして悪気があるわけではないということも、明るくしようと思うあまり、細かい気配りをつい失くしてしまっているということも、みんな解っている。
そして、失言だと気付いたのか、自身でさらに言い訳を考えているなつみは、きっとまた墓穴を深くするに決まっている。
いつものごとく、くるくると空回って、それはとても見慣れた光景なのだけれど。
その彼女の言動がどれだけその場の救いになっていたかなんて、きっと当人には思ってもみないことだったにちがいない。
- 319 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:25
- 事後報告という名の会議が終わり、なにを考えるでもなくぼうっとしていると軽く肩を小突かれた。
「ほーら、次の収録行くぞ」
気付くと、なつみとあさ美が両側からはさみ込むように身をかがめている。
「なっちゃん」
「うん?」
なにかを尋ねようと思って顔をあげたものの、なつみの顔を視界に入れたとたん、頭のなかが真っ白になる。頭のなかは真っ白なのに視界だけは鮮明で、煌々と部屋を照らす蛍光灯を背にしたなつみには、淡く陰がかかっていた。
- 320 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:28
- 辻、いくよ。
なつみははじめは苗字でしか呼んでくれなかった。「辻」が「辻ちゃん」になって、しばらくはそれで落ち着いた。それなのに自分のことは愛称で呼ばせようと、一年くらい必死になっていたのを憶えている。
しかしそれにも飽きたのか「安倍さん」という呼びかけも、やがては受け入れるようになった。
ただ、「安倍さん」と呼ぶと、彼女は一瞬だけ困った眸になる。
その眸を見るたび、なつみとの間にある壁の高さに気付く。それは透明なガラスの壁で、声は届く。無邪気に笑う姿も見える。視線を交わすことも手を振り合うことにも差し障りはない。
けれど、手をつなぐことだけはできなかった。
『なっちの手はねぇ、赤ちゃんみたいでさ。ぷくぷくしててやーらかいんだよ』
なにかの雑談の折りにふともらした、真希の言葉を確かめるには、まだ時間が足りなかった。
- 321 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:29
- はじめて手を取ったのは、いつだったろう。
指を見る。
はじめて手をつないだとき、なつみの手は、この手より大きかったろうか。
その日は晴れていただろうか。
朝だったろうか、夜だったろうか。それとも、暮れ行く陽に雲が朱く染まる夕方だったかもしれない。
唯一たしかに言えることは、つないだ手の持ち主が笑っていただろうこと。
そうしてそのころ自分は、彼女の笑顔しか知らなかったということ。
- 322 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:30
- ずいぶんずさんな記憶だと、希美は情けなく息をもらした。
とめどなく続いていきそうな思考の幕を下ろすには、それで十分だった。
「どーした? のの」
「うん、なんでもない」
部屋を出ていくメンバーたちに続こうと椅子から立ち上がったところで、背中をぽんと叩かれた。
それが、まだ春浅い日のことで。
- 323 名前:このごろの、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:31
- 「シャッフルまで別々だなんてさぁ」
もうこれ以上は膨れないだろうほど膨れた頬は、つついてくれる指がないせいか、いつまでもはじけずにいる。
去年の今ごろ、まだ残っていた彼女との距離が縮まるきっかけになった企画も、離れてしまえばただうらめしいばかりである。
会えないわけではない。
ただ、なんとなく近寄りづらいように思う。
なぜなら、いつも自分がいるはずのなつみの隣が今は別の人で埋まっていて、それを押し退けることができるほど、希美は強くない。
- 324 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:31
- そんな彼女を尻目に、このごろのあいぼんは、ちょっと機嫌がいい。
- 325 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:32
- もともと、亜依にとっては後藤真希があこがれだった。
彼女のようになりたくて、オーディションを受けた。けれど夢というものは、いざかなってみると案外素っ気無いもので、あこがれの人の隣でお弁当を食べることもイタズラをして困らせることも、慣れてしまえばただの日常になる。
くわえて、予想をはるかに超えたその気さくな人柄のせいか、真希はいつのまにか姉のような存在になっていて、自然、あこがれとはまた違った感情を持つようになる。
真希に対しては、ことあるごと、「家族みたいだね」と言った。
- 326 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:33
- 昔から姉というものが欲しかった。けれど母親にねだっても駄々をこねても、もちろん世界がさかさまになったところで実の姉など転がり出てくるはずもなく、結局姉のいる友人たちをうらやましく思いながら過ごすしかなかった。
それが、血のつながりはないものの、やっと叶ったのである。うれしくないわけがない。
そんな心はずむ日々をおくりながら、亜依にはもうひとりずっと気になっている人がいる。
- 327 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:34
- 「あーべさぁーん、まーた、こぼしてぇ」
ライブの打ち上げで醤油瓶をひっくりかえし、
「ちょお、アンタ、もう、カンペ書きすぎ! 手ぇまっくろやん」
番組収録では周囲から顰蹙を買い、
「なっちぃ、アノサ、それ後藤のアイス……」
「あー、うっそ、ごめん。名前見てなかったよー」
興味あるもの以外に割く注意力はないらしい。
- 328 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:35
- (年上って、思いたくない)
オーディションを受けたからと言って、モーニング娘。の大ファンだったかというとそうでもない。他にも好きなアーティストはたくさんいた。
ただ、そこに加わるという機会があっただけの話で、それまでの彼女たちの活動をつぶさに知っているわけではない。
だから、「後藤真希」以外のメンバーについては、予備知識がほとんどゼロのままの対面となった。そんなイメージ先行だったのと、年上というそれだけで、なにもかも大人なのだという先入観が、年長メンバーの第一印象になる。
十代のころ考える年齢というものは、たった一歳の幅をはてしもなく広いと感じるものらしい。結成当時は年少だった圭織やなつみにしても、亜依から見れば十分に大人の分別を備えているはずの年齢だった。
- 329 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:36
- それが、実際会ってみると、どうもおかしい。
当人たちは希美や亜依を(当然のごとく)子ども扱いするくせに、その実、つくろっているのが丸見えで、見えている分、ほころび出すのも時間の問題である。
かろうじてオリジナルメンバーの年がしら、裕子の威圧が、そのほころびを霞ませているにすぎない。
(ウチらより、アホかも)
正直、そう思った。
思うだけでなく、それは自然と態度に出る。
意気ばかりがあがって中味をともなわないことを生意気と言う。まさに、そのものだった。
- 330 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:38
- 「カミナリ」を落とすのは、決まって担当マネージャーで、その隣には裕子が肩を並べている。
落雷ののち、叱られていたという事実さえ煙にまいてしまう説教をするのが圭織、なにがなんだか訳がわからなくなったところへ、「よし、次はしっかりね」と有無を言わさずまとめにかかるのがなつみだった。
そのあたり、役割分担はなかなか考えられていて、それぞれの持ち味がうまく活かされている。
しかし、決められた自分の範疇をいったん越えてしまうと、この連係はもろくもくずれる。
- 331 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:38
- たとえば、圭織が裕子の代役になったところで、具合のいいカミナリを落とすことはできず、秋の長雨よろしく延々と小言が続くばかりで退屈なだけである。
そして同期のなつみも、妹がいるせいか年下を怒る行為は苦手なようで、つい、叱りきれずにゆるしてしまう。それでは相手のためにならないと理解はしていても、人にうつむかれることが苦痛らしい。
「センパイ失格だよ」
八の字に眉を下げて、呆れ半分で笑っていた。
- 332 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:39
- その呆れた笑顔を見るのが楽しかった。ステージで披露する満面の笑顔より、情けなく困っている彼女の方が、ずっと身近に思えてこころなしかほっとする。
気を精一杯張っているときのなつみは、まるで磨き抜かれた円のようで、こちらが取り付くしまもない。完璧なものほど人を不安にさせるものはなく、オーディションを終えメンバーと合流してからしばらくは、始終四期で固まっていた。
それが時間の経つうち徐々にくずれた。
亜依の目に映るなつみは完璧でもなければ強くもない。
それを自覚しているらしい彼女の小さな背中に貼り付いて、「ちょっとヤメテー」と降参の声をあげさせる、そんなささいな関係を持つまであまり時間はかからなかった。
- 333 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:40
- くわえて、ステージでレコーディングで、なつみとはよく目が合う。大人数の振り付けでフォーメーションを組むときに、向かいの位置にいることが多いからだろうか、ともかく、自然、頬がゆるむ。
どんなに必死に振りを頭で追っていても、彼女の顔を視界に入れたとたん、無意識のうちにつられて笑ってしまう。それほど、なつみの表情には邪気がない。
舞台に立って歌っていることがうれしくてしかたないといった風で、いつだったかなにがそんなに楽しいのかを尋ねたら、
「え? 楽しくないの?」
と素っ頓狂な声で問い返され、しばらく返答に困った。
- 334 名前:このごろの、あいぼんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:41
- そのなつみとシャッフルで同じ組になり、分割でも離れなかった。
それまでなんとなく希美に遠慮してゆずっていた彼女への甘えも、今は独占できる。
(ごっちんと、おんなじだ)
それは姉をもうひとり持ったような気分で、このごろのあいぼんは、ちょっと機嫌がいい。
- 335 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:43
- 反対に、ふて腐れて眠った翌朝の、ののさんの気分は最悪だった。
- 336 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:47
- まず、楽屋にいちばんに入ったものの、空調が効いていなくて暑苦しい。
掃除したばかりなのか消毒液の臭いも充満していて、たまらず窓を開ければ風のかわりに外の喧噪だけががたがたとなだれこんでくる。
あわてて閉めて空調をいれたところ、春という微妙な季節のせいか設定は暖房になっていて、気付くころにはすっかりのぼせてしまった。
くわえて言えば、朝お好み焼きを食べ過ぎて胸やけがする。
寝てしまえ。
ふて腐れた希美は、収録の準備もストレッチもすることなく端に置かれた椅子の上で膝をかかえこんだ。
- 337 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:48
- どれくらいそうしていたのだろう。眠りの縁をふらふらさまよっていると、低いトーンの声で人の話し合う気配がする。希美を起こさないよう気を配っているのか、それは自分からいちばん離れたあたりで、会話はつながっては途切れ、途切れてはつながって、それでも延々と続いている。
(なっちゃん、と……ケメぴょん)
やがて、隠す、隠してない、などと、こちらまではっきりと聞こえるようになったふたりの話し声は、さきほどよりも一段高くなっていた。
「なっつぁん、ぜったいなんか隠してる」
「だから、そんなことないってば」
「なっつぁんさ、嘘つくとき無意識で目、逸らしてるから」
もう、バレバレ。
勝ち誇ったような口調は、それでもどこかふざけきれていない。
- 338 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:49
- 希美はひざ頭と両腕の間からそっとのぞいてみた。同時になつみが深い息をついて鏡台に背をあずける。
(なっちゃん?)
薄く自嘲の笑みを浮かべている彼女の表情は、傾けた加減か翳りが多く驚くほど艶やかだった。
それが硬質のテーブルの向こうで静かにたたずんでいる。
「まあ、大人の事情かな。だれかに泣きつくほど深刻でもないし、ちょっとだけ、頭んなかでぐるぐるしてるだけだから」
「そっか、大人の事情ね」
「うん、そう。ねえ、圭ちゃん、これでもなっちもう二十一なんだよ」
「見えないけどね」
「それでもさ、圭ちゃんがはじめて見たテレビのなっちよりさ、けっこうオトナになってる訳さ。だから、自分で解決できることは、自分でなんとかしなくちゃなんだよ」
- 339 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:50
- かみしめるように言うなつみに、圭はそれ以上言葉を返すことができずにいる。雰囲気に気圧されて希美は寝ているふりを続けるしかなく、やがて振りをしているうち本当に眠ってしまった。
かすかに残る意識のなかで、
「ののは、大丈夫だよね」
いつより柔らかななつみの声を聞いたような気がした。
- 340 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:52
- 朝に充満していた不機嫌は、寝ているうちに薄れてお昼を食べるころにはきれいに消えた。
食欲旺盛な育ち盛りが揃っているのを考慮したのか、お弁当もやけに豪華で、結局気分は食べ物に左右されたらしい。家の味付けよりも甘めの卵焼きを頬張りながら、希美は「こんな日がずっと続けばいいのにな」と思わず洩らした。
正確には「こんなおいしいお弁当の日が」ずっと続けばいいと願ったわけだが、目の前にいたその人は言葉の意味をややはき違えたようだった。
- 341 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:52
- 「のんちゃん」
大きい眸に真剣な光をたたえて、圭織は自分の箸を置いた。
そうして改めて向き直られると、だいぶん居心地がわるい。
「なに?」
「圭織もそう思う」
「……うん」
「こうやってみんなでご飯食べて、みんなで力を合わせてお仕事する幸せな日々が、ずっと続くといいよね」
返す言葉がみつからず、たっぷり十秒ほどの間をあけて希美は弱々しく頷いた。
もとより深い意味のない言葉を、発した当人の及びもつかないところまで深く汲み取ってしまったらしい。
飯田圭織という人は、やはりどこか浮き世離れしている。
なんとなく気まずさを感じながら卵焼きを飲み込んだ。するとまだ伸び続けている背を椅子へと軽く反らして、
「ずっとなんて、無理かもしれないけど」
つぶやいた圭織の声は、こころなしか震えて届いた。
- 342 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:53
- 「そんなこと、ないよ」
あまりにも心細げな声だったことに驚いて、希美はあわてて言った。
「そんなこと、ないって」
もう一度打ち消すように力強くくり返すと、丸く見開いてこちらをみつめていた圭織の目がゆるく細まる。それを見返すことに気恥ずかしさを感じて、希美は手許にある彩り豊かなお弁当に視線を落とした。
そこには、つくしの煮付けと茹でた筍にまだ春が残っている。
「のんちゃんが言うなら、まちがいないね」
やがて聞こえた言葉に、彼女と同い年で同期のなつみの記憶がかぶさった。
- 343 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:54
- ずっとこのままでいられたら。
同じようなやりとりをずいぶん昔に交わしたことがある。
たしか春にしては暑い日で、中澤裕子の卒業を直前にひかえたライブのリハーサルでのことだった。
照明があるとは言えステージとその周囲はうす暗く、その中で人いきれと雑音とに囲まれて過ごすのも二時間が限界である。休憩の合図が出るやいなや、希美はタオルを片手に屋外へと飛び出した。
とにかく外の空気を思いきり吸いたかった。
誰を誘ったわけでもないので、振り返っても今のところ追いかけてくる人影はない。
広大な敷地の神社などに隣接するせいか、低いものの建物の屋上にあたるこの場所は都心とは思えないほど視界がひらけている。
- 344 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:55
- 見上げれば上空に流れる雲の足は速く、地上にも春らしい強い風が吹いている。
なんとなく叫びたい気分にかられて、希美は「どわー」という妙な声をあげた。
するとくつくつと息を洩らすように笑う声が聞こえ、その方を見ればなつみが口許を手でおおい、ゆるみきった顔をこちらへ向けて立っている。
しばらくその様子をながめていたが、笑い止む気配はない。どうにも止まらないらしく、いつまで笑い続けるのか興味津々でいると「ちょっと、いいかげん、笑わせるのヤメテくれたっていいじゃん」と謂われのない抗議を受けた。
- 345 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:56
- 必死の形相で走り去った姿を見、心配になって追いかけてきたら「どわー」だったので、その場で崩れ落ちそうになったらしい。
急に力の抜けた分、その気持ちの余白を埋めるように笑いがこみあげてきたのだという。
ようやく笑い止んだなつみは、涙目になっていた。
ただそれも神護の森を揺らして吹き抜けてくる風が、すぐに乾かしてしまうだろう。
そしてその乾いた眸は、次のライブでまた濡れてしまうにちがいない。自分の気持ちの整理だけで手一杯だろうに他人の心配までするなつみが、希美には不思議に思えた。
- 346 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:57
- 「そりゃ、いっぱいいっぱいだけどさ。でも前に進むっきゃないっしょ、今は」
寂しくはないかと訊くと、なつみはうんと空に向かって伸びをした。その清々しい表情に、ふと希美は胸騒ぎをおぼえる。
「あの、安倍さんは、やめない、よね。ずっと一緒だよね」
「おーう。なっちはずうっとモーニングだー」
ソロもない、ユニットもない、本体でいるしかいない彼女の言葉は、軽く流すようでいて他のだれよりも重味がある。
「なっちが娘じゃなくなるってのはさ、地球がひっくり返るようなもんだよ」
「はあ?」
「ないから、そういうことは」
- 347 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:58
- 言い切ってから、
「たとえばさ、空とか海ってずっと青いっしょ? だから、なっちがモーニング娘じゃなくなるってことは、それが、まあ、全部ピンクになっちゃうようなものってこと」
「なんだーそりゃー」
「だから、ないってこと」
澄んだ空気のなかで「ね?」と同意を求められ、笑顔につられて頷いた。なつみが言うなら間違いはない。
「そっか」
にぎやかな雑踏と静かな葉ずれの音が、風に合わせて近付いたり遠のいたりしている中で、希美は漠然とモーニング娘。という存在もなつみやメンバーといる日々も永遠だと思った。
空が青いかぎり、なにもかもずっと変わらない。
- 348 名前:その日の、ののさんは 投稿日:2003/11/30(日) 21:58
- けれど、裕子の卒業があり真希の卒業があり、その日抱いた思いは圭織となつみあたりでようやく繋がっているだけになった。その頼みの綱の圭織に「ずっと」を否定されたら、希美には心の拠り所がなくなってしまう。
「カオリン心配性」
わざと茶化してからつくしを食べた。口の中にじわりと苦味が広がって思わず顔をしかめると、リーダーは
大口を開けてそれを笑った。
彼女の言うところによると、つくしは「のんちゃんには大人の味」なのだそうである。
- 349 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:00
- まだ六月を迎えている訳でもないのに、気温だけは真夏かと疑うような日が続いている。
毎年恒例となった舞台の仕事をひかえて、毎日がスタジオと練習用の体育館との往復で過ぎていく。
一月の公演を休まずに通すには事前からの体調管理も必要で、希美たちには中間テストに追われる学生とはまたちがった緊張感がある。
「あっつー」
じりじりと音の聞こえそうなほど強い陽射しを避けて仰いだ空は、ここ数日の晴天ですいぶんと色が淡くなっていた。
海へと続いている端の方に至っては、雲との境さえはっきりしない。それでも真上の雲間に目を凝らすと、隙き間からわずかにのぞく色は深く、夏の近いことを報せている。
深くない廂の影でかろうじて陽を避けながら、希美と亜依は再びそろってため息をついた。
「あっつー」
- 350 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:01
- 先ほどから手で扇ぐ以外、そよとも風は吹かない。
留まった空気は太陽に暖められて、足から腕から至るところにまとわりついてくる。それを厭うなら空調の(多少は)効いている屋内へ逃げればいいものを、上機嫌とは言い難い顔で汗のにじむままたたずんでいた。
そうして目線だけはしっかりと同じ方を向いている。
やがてその先に現れた豆粒のような人影に、二人は勢いよく身体を起こして、待ちかねたように両手を振った。
「アイスー!」
はずんだ声は熱せられたアスファルトを転がって、向こうまで届いたらしい。
遅れて収録に現れたなつみは、目一杯ふくらんだコンビニの袋を高くかざした。
- 351 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:02
- 今度遅刻したら、アイス買ってきて。
なつみは最近、事情を告げずに仕事に遅れることが多く、いつも心ここに在らずといった顔でいる。圭織や真里に苦言を頂戴しているあいだも、どこか上の空で、うつむきながらもその表情には落ち着きがない。
「なっちゃん、なんかヘンだ」
たしかな証拠はないもののカンでつぶやいた希美に、亜依もうなずいた。
そして単純に遅刻がなくなれば、近頃のおかしななつみから元のなつみに戻るだろうと考えて、遅刻しないようアイスの罰則をつくった。
伝えると一旦は不平を訴えたものの、なつみは案外あっさりとそれを受け容れたのだが、その矢先の遅刻である。
- 352 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:03
- 理由が理由だから、希美と亜依の二人が待っていたのはアイスではない。
けれど、アイスを喜ばなければ、なつみはきっと自分たちの不安に気付いてしまう。自分たちも違和感のあるなつみを認めることになる。なつみは何か大切なことを隠していて、遅刻もどことなく浮ついた言動も、すべての原因はそこにあるように思われた。
二人はことさらアイスばかりに気を取られる振りをして、それを楽しそうに眺めてくるなつみと極力目を合わせないようにする。
「やっぱ暑い日はアイスだね」
「だね」
ぎこちない言葉を交わして食べたアイスは、あまり美味しくなかった。
- 353 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:05
- 六月に入ると季節は早くも夏の盛りに差しかかる。
月の半ばを過ぎる頃には、舞台にも慣れ、なつみへの不安にも一応の説明がつき、梅雨まえの気温の頭打ちとともに希美たちの気分も落ち着いた。
ただ、公式の発表ぎりぎりになってはじめてメンバーへ伝えるほど、ソロ活動というものは隠すものだろうかという疑問がある。
できれば、それを心待ちにしていたなつみと、もっと早くから嬉しさを分かち合いたかったし、だれより先に祝ってもあげたかった。
それともなつみにとって、自分は言うほど大切な存在ではないのだろうか。
希美は自分の手のひらに目を落とした。
- 354 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:05
- (ずっとモーニングって、言ったくせに)
あの日自分が信じたものはなんだったのだろう。
念願を叶えたなつみの眸には爽やかな光がある。未来が映っているはずのその眸のなかに、自分の姿はきっとかけらも見あたらない。
劇場の窓から見上げた空はめずらしくすっきりと澄みあがり、それは二年前の空とまったく同じ色をしている。けれど眼下に並ぶ街路樹はじっと静まり返って、黒雲をはらんだ気持ちとは裏腹に風も凪いでいた。
(なっちゃんのうそつき)
心のなかでなじる。
ソロでもなんでも勝手にひとりでやればいい。
- 355 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:07
- 「のの」
なつみの声の温度を季節にたとえるとするなら、四月あたりになるだろうか。
固く閉じていたつぼみも膨らませる春のような声は、けれど希美のわだかまりをとかすことはできなかった。反対に、名を呼ばれるたび胸の裡に苛立ちが溜まっていく。
「もう、いちいち言わなくても、自分でできるからいいよ」
口をついて出てしまった言葉に、自分で驚いた。
そして自分以上に、声をかけてくれた相手の表情には困惑が浮かんでいる。半ば呆然としていたなつみは、やがて一言「そっか」と低くつぶやいた。
「もう、ひとりでも大丈夫、なんだ」
「だって、もう一六だもん」
「そうかぁ、一六だ。……一六かぁ」
ふっと遠い目をしたなつみから困惑が消え、顔を下向けながら何かを思い出すようにかすかに笑った。
- 356 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:08
- 「そっかぁ、一六か」
感慨深く洩らすのを聞くうち、なんとなく居辛くなった希美は側にいた美貴の腕をつかんで、
「行こ」
どこへ行くかも告げずにその場から逃げ出した。
廊下をしばらく行ったところで気になって振り返ると、それまで下を向いていたなつみは、いつのまにか窓の外へ目をやっている。遠目でよくはわからなかったが、ぽつんと影を置いている姿は、どことなく自分の知っている彼女とは別人のように思えた。
なつみがそのとき何を見ていたのか、尋ねなかったのを後悔するのは一月経った後になる。
- 357 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:09
- 『ねえ、あのさ、明日ののの誕生日でさ、お客さん、たくさん来てくれるかなあ』
舞台公演中に誕生日を迎えるときは、不安と期待が交互に押し寄せる。
件のソロ活動の発表で少なからず壁をつくりながらも、意識しないところでなつみの前では甘えが出る。
めずらしく楽屋には二人きりで、他のメンバーの姿はない。
なつみは希美の目の前まで膝をすすめると、額を希美のそれにあてて破顔した。
『あったりまえじゃん。いーっぱい来てくれるから、ののが皆んなを盛り上げなくちゃダメだよ』
『ほんとに、来てくれるかな』
『もー来る来る、ぜーったい来るっ』
- 358 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:09
- なつみの髪から香るすっとした匂いがくすぐったい。
思わず希美が白い歯を見せて笑うと、『ののが一六なんて、ちょっとびっくりなんだけどね』となつみは指で自分の髪を梳いた。
『もう、オトナ? って感じ』
『うん、そんなカンジ』
希美ははにかみながら言う。するとなつみは額を離して小さく息を洩らした。
『なっちが一六のころは、まだまだお子様だったけどねえ』
『なっちゃんが一六のころって?』
『うん、ちょうど、デビューしたころ』
- 359 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:10
- 夜中、無性に悲しくなって目が覚めた。
なんだろうと不思議に思っているうちに、とめどなく涙が流れ出る。眠っている間に無意識でこすったのか、パジャマの袖が左右とも濡れていた。
ベッドの木枠ごしに椅子にかけた鞄が見える。それはなつみとお揃いで買ったもので、自分が欲しいと言い出したにも関わらず、今までずっと椅子にぶら下げたままでいる。
- 360 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:11
- 「ののが欲しいって言ったんでしょー?」
しばらくは唇をとがらせていたのだが、最近はその不満もなくなっているらしい。
まるで自分への関心が薄れていったように感じて、結局鞄は使う機会を逃して置き去りにされている。
(ばかみたいだ)
たかが鞄ひとつにこだわって拗ねていることも、なつみのソロを素直に受け入れられないことも、すべては自分勝手なわがままに過ぎない。そのわがままの延長で、ひどい態度をとっている自分に呆れもした。
横になったまま希美はもう一度鞄に視線を置いた。
- 361 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:16
- 希美の誕生日に、なつみは自分の一六のころの話をしてくれた。
デビューまでのこと、オリジナルメンバーのこと、失敗ばかりしていた自身のこと、語るには想いの方が強すぎて何度か言葉に詰まっていた。
その明るさのなか、ほのかにさした陰りに気付いて、希美はのぞきこむようになつみを見た。
いつものように「なんだい?」とのぞき返してはくれず、彼女は顔をうつむけたままでいる。
『一六のときは、たのしかったな』
しばらくして洩れた言葉に胸が詰まった。
- 362 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:17
- どうしてあのとき手をとってあげなかったのだろうと思う。
そして痛む胸に急かされるように、今まで思い出せなかった記憶が蘇った。それはつい2年ほど前のことなのに、ひどく古ぼけて彩りを失っている。
冬木立を照らしている太陽はまだ高く、静かな午後だった。
はじめてなつみの手を握ったのは、いつより狭く感じられる楽屋でのことで、そのときなつみは幼い子どものように丸くうずくまって膝を抱えていた。
よく見れば大きいと感じていた背中は小さく、たまに亜依に抱きつかれている肩も案外薄い。
そうしてその格好のままじっと動かずにいる。
希美は声をかけようとして、ためらった。影になって表情はよく見えなかったが、一瞬のぞいた頬のあたりがなんとなく濡れているように思えて、開きかけた唇をふたたびつぐんだ。
- 363 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:18
- 昔風邪を引いたとき、母親にねだって手を握ってもらいながら眠るのが好きだった。
手はたまに冷たいときもあったが、それはそれで心地よく、眠くなるころには自分の熱が移ってひどく温かくなる。ともかくそうやって誰かと繋がっていると熱もすぐに下がるような気がした。
風邪を引くのもたまにはいいものだと、ひところは咳をするとすぐに風邪だ風邪だと騒いで、周囲を困らせていた。
- 364 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:18
- 先刻まで側にいた真里は、なつみは心が風邪なのだと言っていた。
同じ風邪なら、手を握っていてあげよう。そうすれば、きっとなつみも元気になるにちがいない。
そう思って触れた手は、ほんの指先分、希美より小さかった。
- 365 名前:夏のはじまり 投稿日:2003/11/30(日) 22:19
- 急に悲しくなったのは、意識の底の方でそのときの手の感触を思い出したからにちがいなかった。
彼女の手は、今ではもう希美の指でくるむこともできる。それだけ時間が経ち、わずかではあるもののそれぞれ歳をかさねた。
その間、側にいるということがあまりに当たり前すぎたのだろう、はじめて手をつないだときのことさえ記憶の外に放り出していた。
(ごめんね)
ブラインドから射し込む細切れになった月明かりを見ながら、希美は明日あやまろうと思った。
- 366 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:21
- 『いつかはやってくるんだよ』
夕方になってようやく吹き始めた風に、そのあとなつみの続けた言葉を聞き取ることはできなかった。
亜依は、そんなあてどない「いつか」など、信じられなかったし信じたくもなかった。だから、声には出さずに「やってこなくたっていいよ」と口の中でつぶやいた。
- 367 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:21
- あったようななかったような梅雨も完全に終わる頃には、ユニットの枠を超えた恒例のツアーも始まり、お祭り騒ぎのように周囲は浮かれている。
翌日のリハーサルを終えて、大舞台を前に心臓の音も高くなっている。
ライブはたのしい。けれど未だに前日に気分が昂揚し、緊張をはてしなく抱えてしまうのは、なにも亜依にかぎったことではない。見れば梨華も本番はまだ明日というのに、つかれたように手のひらに「人」という文字を書きなぐっていて、圭織はいつもどおりにあらぬところをみつめているが、真里は落ち着きなく氷ばかりかじっていた。
さらにその周りにはスタッフが右往左往していて、否が応でも緊張と期待を煽る。
- 368 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:22
- 「緊張するねえ」
リハーサル中、何度か姿を消していたなつみをようやく捕まえて、抱きつきざまそう言うと、
「ん、ドキドキだぁ」
答えた声は明るいのに、なぜか彼女はこちらを向かなかった。
ソロの活動も本格的に始動して落ち着かないのだろうかと思っているうちに、なつみはスタッフに呼ばれ、くっついたままでいた亜依の手をゆっくりほどいた。
ソロって大変だ。息とともに吐き出すと、ふと思い出したように振り返って亜依を見る。そうして指を自分の頭のてっぺんに向けて、
「あいぼん、これ、つけてくれてんだ」
彼女の髪にはなにもなかったが、つられて亜依が自分の頭をさぐると、今朝なにげなくつけたぼんぼんがある。その色と形を思い浮かべて、あっと気付いた。
- 369 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:23
- 「なっちゃんの、ぼんぼんだ」
それは、一年ほど以前になるだろうか、テレビの企画でなつみが獲得した賞品だった。賞品と言っても籠に山盛りのぼんぼんだったため、すべて亜依へと流れたのである。
なぜかしみじみと眺めているので、とりあえず「似合う?」と尋いた。するとなつみは一言、
「カワイイヨ」
にっと笑ってから背中を向けた。
カワイイと言われたことよりも、たかだかぼんぼんひとつのことを憶えていてくれたことが嬉しくて、しばらく頬がゆるんで仕方なかった。
- 370 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:24
- やがて一通りの通しを終え、ひとまずの休憩を取るときになって、娘。のメンバーだけ別個に召集をかけられる。新曲か叱責かはたまたご褒美だろうかとささやき合ったその後に、なつみから卒業の二文字が告げられて、そのあとの楽屋は火の消えたように静かになった。
しかし見かねた圭織が喝をいれたため、リハーサルも終わりにさしかかるころにはほとんどが気分を持ち直し、いつもどおりの明るさにもどる。
明日になればしばらく騒がしくなるが、それを越えればまた同じような日々になる。卒業ということを意識さえしなければ、その日々はこれまでとさして変わらない。
- 371 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:25
- 帰りしな、亜依は「ほんとに退めちゃうの」とすがるような思いで尋ねた。
「そりゃ、ずっと……ずうーっと皆と一緒にいたいけどさ。でもなっちにはまだ行きたいところがあって。それに、ずっとおんなじなんて夢みたいなもんだし」
考えながら言葉を紡いでいたらしく一言一言途切れがちだったが、気持ちの整理はついているのか歯切れはよかった。
「いつかはやってくるんだよ、こういう日」
- 372 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:25
- あれ、と胸の隅が疼いた。以前にも同じ言葉を聞いたことがある。
いつだろう、いつだっただろうと首をかしげた先で、髪をあおられたなつみがまっすぐ西の方角に目を向けていた。ここからは見えないが、視線をたどればそれは都内を割って流れる川へと行きつく。
ごっちんと、おんなじだ。
亜依は、やがてなつみから目を逸らし、日の暮れかかった薄青い空を見上げた。
- 373 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:26
- それはちょうど一年前のことで、曇りがちな日が続いたその週にしてはめずらしく、降り注ぐ陽射しを帽子や手で避けることに必死になるような晴天が頭上に広がっている。
スタジオ近くのコンビニでほうけた表情をガラスの壁越しにさらしていると、やわらかい感触が両頬を包んだ。
だれの手だろうと思っていると、つづけてひやりとした缶が水滴と一緒に押し付けられる。さすがに身をよじって抵抗すると、頬を狙ったその刺客はけらけらと軽い声をあげて笑った。
- 374 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:26
- 「もー、なにすんの」
「アイドルが、真っ昼間からそんなバカな顔見せびらかしてちゃだめじゃん」
「それと、加護のほっぺとなんの関係もないしー」
むきになって言い返していると、今度は頭の上へコーヒー缶をのせられた。
一体どんな意図があるのかはかりかねていると、相手は一言「なっちさんがおごってアゲヨー」と無邪気に言った。
- 375 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:27
- コーヒーは、にがい。
実のところ、むかし戯れに親に舐めさせられたビールも、にがい。
さらに言えば、体操着の赤白帽のゴム紐と涙は、しょっぱくて同じ味がする。亜依はどれもあんまり好きではない。
だから、そのうちの一つを「おごって」もらって仕方なく蓋を開けたはいいが、一度口をつけたきりそのまま持て余していた。
- 376 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:28
- 両手でにぎるほどの大きさもない小さな缶は、頬にあたったときに比べて、もうずいぶん温まっている。
なつみ同伴で、道草を食う。その途中、護岸に敷かれた散歩道のわきで、どちらからともなく足を止めた。
手の中の缶はその時点ですでにぬるくなっていて、あたたかくも冷たくもないそれは、数日前の真希の手のひらと同じ温度のように思われた。
- 377 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:31
- 『ごっちん、退めないよね』
『うーん? うん、まだまだ』
そのやりとりを交わしたときに、気付けばよかった。真希の手が小さな震えを隠していることに。そうして、その眸がけっして亜依を向かなかったことに。
人を思い遣ってつく嘘は、ばれやすい分、つく方も必死になる。それを見抜くことができるほど、懸命に嘘をつむいだ経験が亜依にはない。
気付かないまま「今度お菓子いっしょに作ろう」などと他愛もない約束をして、それから真希の「卒業」という言葉を聞いた。
- 378 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:31
- コンビニへいこう。
件の発表からしばらくのち、収録の合間にふと思い立ち、だれにも行き先を告げずに外へ出た。
- 379 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:32
- なにせコンビニはにぎやかでいい。
音楽はひっきりなしに流れているし、雑誌は華やかな色遣いでずらり並んでいるし、おもちゃ箱をひっくり返したような、とりどりの菓子箱はぎゅうぎゅうと棚に詰まっている。
日中でさえ白く輝いているのかと疑われるほど、照明も強い。
まるで夢のなかだ。白昼夢という単語をあてるにはまだ勉強が足りないが、ともかくそこに身を浸していると外の世界がいつより遠い。
- 380 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:32
- ガラスで仕切られたこちら側が現実で、真希の卒業を控えている向こう側が夢なら、それはどんなに幸せなことだろう。
だから、口を開けっ放して外を見ていた。
それを邪魔されたことに腹は立たなかったが、夢でごちそうを前に目醒めてしまったときのように、無性にお腹が空いた。渋味ばかりで甘くないコーヒーでは、胃を満足させることはできないだろう。
- 381 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:33
- 力なく赤錆色の鉄柵に前のめりにもたれかかると、川向こうのやはり舗装された岸沿いに見知った人影をみつける。
「ケメちゃん」
ぽつり言うと、なつみが伸び上がるようにして彼方をのぞみ、同時に両手を振った。
「けーいちゃーん! ケメコー!」
舞台用の腹式呼吸でよく透る声を響かせたが、都内では第一級の川幅を越えることはできなかったらしく、呼びかけた相手は黙々と歩いて、やがてビルの角を曲がり見えなくなった。
- 382 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:33
- 「行っちゃったねえ」
柵の下方にある枠に足をかけて、なつみがつぶやいた。普段はたいして変わらない彼女の目線が、そのため若干高くなり、自然亜依はなつみを見上げる格好になる。
なつみは圭の消えたあたりをじっとみつめながら、今度は「行っちゃうんだねえ」と言った。
その言葉に真希の声が重なる。
- 383 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:34
- 「ほんのちょっと、先へ行くだけなんだよ」
声もなく気落ちしていたその日、真希は「ホントはみんなが先へ行っちゃうのかもしんないし」と続けた。
「だから」
がんばって一緒に走ろう。
- 384 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:34
- 今の亜依には、がんばることも走ることもできそうにない。
なつみはまだ柵に足をかけたままでいる。
(おんなじだ)
ぼんやり思った。
声をかぎりに叫んでも振り向くことなく去っていく。その背中を見送る側のやるせなさを、たぶんなつみと自分は共有している。鉛色の水をたたえて滔々と流れる川の前に、自分たちはなんて無力な存在なのだろう。
- 385 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:35
- 「ケメちゃんも、卒業なんだね」
「だね」
「加護はぁ、ずっとみんな一緒にいれるって思ってて」
「うん」
「でも、そんなことなくて」
「うん。いつかはやってくるんだよ、こういう日。なっちは、加護ちゃんよりかさ、もう結構慣れてるはずなんだけど、やっぱり、うん。まだまだ、だめだめでさ」
- 386 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:36
- なつみが感慨深く息をもらすのと同時に、亜依の腹の虫が二度鳴った。
思わず照れてうつむいてしまった亜依にやや驚いた顔を向けて、それを聞き付けたらしいなつみはようやく柵から足をはずした。驚いた顔はだんだんとくずれていく。
「よし、じゃあ早く帰って、ごはん、食べよう」
はにかむように、亜依はうんとうなずいた。
ごはんが食べられるという分、夢よりも現実の方がいい。
- 387 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:36
- けれど一年経った同じ七月の夜、涙で白くにじんだ食事はまるで喉を通らなかった。かすんだ人参の赤い色に、亜依は夕陽を浴びて佇む先刻のなつみの姿を思い出していた。
『いつかはやってくる』
一年前に告げた言葉をもう一度くり返したのは、彼女自身への確認の意味も込めたのだろう。
なつみの「いつか」は、ようやくはっきりと形を持ち出したような気がする。それはもうやってくる時期も決められていて、避けて通ることも後ろへ逃げることもゆるされない。
なつみは進むしかなく、亜依にも止める手立てはない。
- 388 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:37
- 理解はしていても、たやすく受け容れることはまだ無理である。
だから忘れたふりをしようと思った。忘れたふりをして、今までとなんら変わることなく側にいれば、ひょっとしたらなつみの卒業も消えてなくなるかもしれない。
明日もいつものようにステージをこなし、いつものようになつみとアイコンタクトをとろう。
そのためには、と亜依は意を決したように顔をあげた。
「イタダキマス」
ようやく箸をつけたご飯はすっかり冷めていた。
- 389 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:38
- 多分、もう夜なのだろう。
うす暗い視界で顔をあげた希美は目を凝らした。つい先ほどまで自分を捜して駆け回る足音と声が近くを行きつ戻りつしていたが、それももう聞こえなくなった。かわりに、扉の向こうでコツコツとタイルの壁に爪をあてる音が、ずいぶん長い間響いている。
「中澤さん、あと頼みます」
ひそやかに交わされる言葉は、聞き耳を立てなくてもはっきり届いた。
そうして、硬質な爪の音の主と希美は、二十分ほど沈黙のなかに身を置いている。
- 390 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:39
- 「なにも」
やがて爪の音が止んで、先に声を発したのは裕子だった。
「なにもトイレにこもらんでも」
ため息まじりの声は呆れ返っている。
「……だもん」
「聞こえへんよ」
「なっちゃんが、やめちゃうんだもん」
必死に声を絞り出しても、相手は「それとトイレとなんの関係もないんとちがう?」と素っ気無い。鬱々と考え込んでいた希美には、その淡々とした言い草が気に入らなかった。彼女には自分の悩みの半分も伝わっていないのだろう、そう思うと喩えようもないほど悔しくなる。
- 391 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:40
- 「なかざーさんにも関係ないじゃんか」
ぶっきらぼうに言うと、
「なっちのことなら、関係ない言われたら正直怒る。もうなぁ、他人ちがうんよ、あの子も、あんたも」
裕子は静かな怒りを込めたようだった。
だから希美は「ほっといてよ」という捨て台詞を投げることはできなかった。ほっておいてくれと言って言うとおりにするくらいなら、初めから駄々をこねた自分の説得など引き受けるはずがない。
- 392 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:40
- 「なっちがやめんの、つらい?」
「………」
「なっちも、つらいと思うよ」
「わっかんないよ!」
あんなにソロを楽しんでいるなつみなら、娘。を捨てることぐらいどうでもいいことじゃないかと、頭のほんの片隅で思っていた。ただ、それを言えばきっとなつみは傷付くに決まっている。しかし分かっていてもなお、心にささったままの刺は抜けない。
『みんながね、ほんとばかみたいに好きなの』
ことあるごとなつみが口にする言葉さえ、今は信じられなかった。
- 393 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:41
- 「なあ」
ふたたび、こつっと裕子の爪がタイルにあたった。
「辻は、モーニングに入るのが夢やったかもしれへんけど、ウチらは、なっちは、なぁんもないところからな、モーニング娘。になったんよ。な? 娘。でなくなることがどういうことか、ちょっとはわかったって」
それはとりもなおさず彼女自身の想いだったろう。
知ってる。わかってる。希美はうつむいたまま両の拳を握りしめる。
けれど、認めるのはいやだった。
- 394 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:42
- 認めたら、もうなつみを止めることができなくなってしまう。聞き分けのない子どものように駄々をこねて、眉間に深い溝を描きながら彼女が途方に暮れているかぎり、置いてきぼりにされることはない。
困らせて、ずっと自分の側にとどめておきたかった。
ふと、思う。
「なっちゃん」ではなく「安倍さん」と呼んだら、昔みたいに困ってくれるのだろうか。
- 395 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:42
- それから三度目に呼ばれた名前に小さく返事を返して、希美は個室の扉をそっと開けた。
おずおずと外をのぞくと、電気を消したまま、洗面台の脇に背をあずけた裕子は窓を見ていた。
窓からは、凛とした空気を割くように月が光を落としている。
うなだれたまま、ごめんなさいと頭を下げると、何も言わずに頭を撫でられた。
- 396 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:43
- 「辻、ちゃんと帰ったよ」
えらい親御さんに怒られとったけど。
『モーニング娘。様』と書かれた即席のプレートを懐かしく眺めてから、裕子は楽屋内に顔をのぞかせた。
中では見知った同僚がぼんやり座っている。しかし、灯りを落してあるためその姿を見るには目を慣らす時間が必要だった。
目が慣れる前に、上体を起こす気配がして、返事だけが返ってくる。
「そう。ありがと、裕ちゃん」
- 397 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:44
- 「こんな暗いところでぼうっとしとらんと、アンタもはよ帰り?」
「あーセツデンセツデン」
やがて扉外から射し込んだ廊下の光に、椅子になぜか正座しているなつみがぼんやり見えた。表情までははっきりとは分からないものの、寝起きのようにけだるい雰囲気だけは感じられる。
それが初めて出会った頃の頼りなげな彼女を彷佛とさせて、裕子はその場から立ち去ることができなかった。
「ホンマに……いつまで経っても、アホやなあ」
ため息とともにこぼすと、側にあった椅子に腰を下ろした。
- 398 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:51
- 今からは想像がつかないが、昔のなつみは例えば自分の方言ひとつを気にして裕子の背に隠れているような少女だった。
引っ込み思案で、言いたいことはあるはずなのに、黙ったまま大きな眸だけでじっと訴えてくる。
そのたび、うつむくな、あきらめるなと叱ることが最年長だった自分の当時の日課だった。
裕子は、ようやく暗がりに慣れた目で、机に腕と頭をちょこんとのせているなつみを見た。
- 399 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:51
- 最近はずいぶん強くなったと思う。
けれど目の前で椅子に小さくなっている彼女は、周囲のすべてに怯えていたあの頃となんら変わりない。そのなつみが今でも自分を頼ってくれることが、嬉しくもありくすぐったくもあった。
実はこのあとに明日の進行の打ち合わせが入っているのだが、今日ぐらいは遅れてもいいだろう。
- 400 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:52
- 「なん? 言いたいことあるんやったら裕ちゃんに話してみ」
と問いかけたわりには、腕と足をそれぞれ組むという、聞く姿勢にはほど遠い格好をすると、ほんとに聞く気があるのかと笑いの混じった批難にあう。
お互いにしばし苦笑し合ってから、やがてなつみは「ハチ」とぽつりと告げた。
- 401 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:59
- 昼間、楽屋にどこからか蜂が迷い込んだ。年少のメンバーと一緒になって怯えるわけにもいかず、圭織となつみで追い払った。追い払う、というよりは、出ていってもらったという表現の方が妥当だろう。
部屋の電気を消し、窓を開けた。
そして全員に「静かに」と号令をかけたのである。
ひとしきり羽音をうならせて、蜂は窓から外へと出ていった。それを確認して咄嗟に窓を閉めると、皆がどっと安堵の息をついた。
蜂は暗い場所を嫌い、陽のあたる方へと向かう習性がある。それを圭織もなつみも知っていた。
- 402 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 22:59
- 「じつはさ、これ、むかし福ちゃんに教えてもらったんだ。福ちゃんはお祖母ちゃんに教えてもらったって言ってて」
- 403 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 23:00
- その折り、なつみは「じゃあ、うちらハチさんだね」と大真面目に言って、明日香の口をぽかんと開けさせた。
「あーこれこれ、なっちさん、どーしてそこへ考えが行くかな」
「だって、ハチ、明るい方へ向かうんでしょ? じゃあやっぱりうちらみたいじゃん。オリコンとかでも一位になったしー、上昇キリュウ? なんかさ、ぱぁーっと光に向かってる感じがするっしょ」
- 404 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 23:00
- なつみの勢いに圧され、明日香は開け放った口からやがて深々と長い息を洩らした。
「するっしょ、てさ……や、でも」言いながら口許に置いた手で自分の顎をつかんだ。「キミが言うと、ほんとにそうなりそうな気がしてくるから、すごいわ」
納得する素振りでうんうんと頷く友人を、なつみは不思議そうに見ていた。
そのころの自分にとって「光りかがやく未来」というものは、疑いようもなく目の前に存在していた。
- 405 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 23:01
- 「今は、どうなん?」
裕子の問いになつみは片眉を上げた。
「圭織に、おんなじこと言ったら、ばっかだねえってため息つかれた」
「ふうん」
「ごっつぁんに言ったら、そうだねえって笑ってくれた」
「そうやろーね」
「矢口……矢口はどうだったかな。もう、忘れた」
思い出すのも面倒らしく、真里にいたっては当人が虫の仲間だから否定はしないだろうなどとひどいことを言う。それは可哀想だと言うと、じゃあ裕ちゃんは? と問い返され返事に詰まった。
- 406 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 23:02
- 「なあ、なっち」
考えをまとめきる前に、とりあえず彼女の名前を呼んだ。もう一月もすれば二十二になる相手には、すこしばかり幼すぎる愛称である。以前、ふざけて八十歳になっても「なっち」なのかとからかったこともあったが、なつみを見ているとそれもおかしくない。
ともかく裕子にとって彼女は今も可愛い年下の同期であることに変わりはなく、もちろん呼び名を変えるつもりもさらさらなかった。
「あんなぁ」
「うん」
「そーゆうんは、口でどうこう言うもんとちがうわ」
一瞬なにか有意義な意見を聞けるものと期待した顔が、へなへなとくずれた。力の抜け切った顔と声でずるいと言う。それも言い方を変えて三度くり返した。
- 407 名前:その七月 投稿日:2003/11/30(日) 23:03
- 「ずるくないの。だいたい、見えないもんを明るい暗い決めつける方がおかしいわ」
そろそろ話にきりをつけたい。そう思って腰を浮かせると、なつみは机に顔を横にして突っ伏したまま、上になった頬だけ膨らませる。
しかし、余裕綽々然と眺め下ろす裕子と目を合わせると、途端、頬に溜めた空気を静かに吐き出した。月明かりで深い影をつくりながらも、その顔は笑っている。
「それじゃあ、もう、行くな?」
言いながらドアへ向かうと、
「やっぱり裕ちゃんずるい」
息のこもった声が、ぽつっと背中にあたって消えた。
- 408 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/11/30(日) 23:04
- 雨が、細く白い筋を描いて落ちている。明け方から降り出して、まだ止む気配はない。
七月も残りわずかになったと言うのに、思い出したように梅雨前線が東京を中心に居座っている。
梅雨という季語も六月にあれば相応に様になるが、八月前にあってはただの雨でしかない。
低気圧で頭痛をおぼえている圭織あたりはずいぶん不機嫌な顔をしているが、そんな中、希美と亜依はそれにはお構いなしに時おり奇声をあげながらはしゃいでいる。
とりあえず、このごろのののさんとあいぼんは機嫌がいい。
- 409 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:38
- 理由は三つある。
一つは先週に今日のお泊まりをなつみに取り付けたこと。
二つには、その彼女がソロイベントを控えて嬉しさを隠しきれず、やたらメンバーの前でそわそわしていることが、はた目にとても面白い。
そして三つ目は、なつみが今日ご馳走してくれるというチヂミが楽しみでたまらない、というものである。
「チヂミー、あんたとチヂミー」
即興なのだろう、妙な節をつけて歌うと、二人は手持ち無沙汰に側で呆れていた真里をかまいだした。
- 410 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:39
- このなつみと学年の一つ違う先輩は、先輩というには威厳なくいつもこちらを見上げてくる。
背の低さを庇うように、自然声は大きくなる。それがきかん気の強い小型犬に似ていて、どうにもかわいらしい。
しかしかわいさ余ってと言おうか、最近小言の増えた彼女にはすこし反発を覚えている。とくに、なつみの周辺にいるときによく叱られ、バツが悪いのと反論できないもどかしさに、二人には不満が溜まっていた。
今日も朝いちばんに投げかけられた言葉は「なっちに迷惑をかけるな」というものだった。
- 411 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:40
- 「アンタらが泊まりにいくなんて、マジで気が気じゃないよ」
すこし拗ねているような口調だったが、理由も告げずに存在そのものを迷惑と言われた気がして、さすがに希美は抗議の声をあげる。
「もう、さ、ちょっとはさ、ののたち、うるさいかもしんないけど、なっちゃんに迷惑なんてかけてないもん」
「そうだよ。やぐっつぁん、最近おシュウトメさんみたい」
亜依も口を揃えると、真里は癇癪気味に「うるさいやい」とこぼした。
- 412 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:44
- 「おいらが心配してんのは!」
意気込んで途中まで叫んだものの、真里ははっと周囲を目を配ったあと、静かになった。
黙ったまま、「なんだよ」と身構えた希美と亜依の拍子抜けした腕を取ると、ちょっとついて来いと言う。ついて来いと言うわりには当人たちの意志は尊重されず、半ば引きずられる形で隣室の衣装部屋へと連れ込まれた。
- 413 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:44
- そして部屋へ入ったなり、真里はさきほどと同じく黙り込んでしまう。
彼女のうつむいて唇を尖らせている姿に、すこし重い空気を感じて、希美と亜依も言葉を発せない。
やがて、かすれた声が小さく響いた。
「おいらが、心配してんのは」
しんとした部屋で、一呼吸置く音が聞こえる。
「あんたらが、なっちに、やめるなって言わないかってことだよ」
強い視線を感じて顔をあげると、真里は小さな身体には不釣り合いな気迫を込めて、こちらを凝視している。
- 414 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:45
- 「あんたらが、せっかくなっちが必死で決めた気持ちを、揺さぶるようなこと言うんじゃないかって、あんたら、素直すぎるから、絶対、言っちゃうだろうって、で、なっちもやさしいから、きっとつらく思うんじゃないかって、ああもう、うまく言えないんだけど、ずっと娘。でいて、とか、さみしい、とか、絶対なっちの前で言っちゃだめだかんね」
「でも、さみしーよ」
希美はぼそぼそと答えた。「ののは、さみしいよ」
言いながら亜依の袖を軽く引くと、彼女は目線を足許へじっと注いで、ただうなずいていた。
「矢口さんは、さみしくないの」
「んなワケないじゃんよぅ」
うなだれる勢いで、真里はその場にしゃがみこんで呻いた。
- 415 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:46
- 窮屈に衣装が押し詰められた部屋は、奥まったあたりからは埃くさい臭いもする。
それに防虫剤やら使い古した生地独特の匂いは、希美に昔叱られて閉じこもった押し入れを思い出させた。
首をめぐらせば、すでに使うことのなくなった衣装が所狭しと掛けられていて、ふたたび仕立て直されるのを待っている。いくつかは希美にも思い出深いものがあり、襟に縫い付けられた自分の名札も、まだ付いたままかもしれない。
普段、人の出入りの少ないこの場所は、廊下や窓を隔てた屋外からの喧噪も疎外して、何年も同じ空気を保ったままでいるように思われた。きっと窓の向こうには、三年前の世界が変わらず広がっているにちがいない。
- 416 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:47
- まだ芸能界というところがまぶしくて仕方なかったころ、自分たちはすっかり末っ子気分で、ことあるごとに周囲に迷惑をかけ、そのつどやかましく叱られていた。
希美はブラインドの隙き間から外を見た。
人のいない空き室をみつけてはもぐり込み、息を殺して外の様子をうかがっていた時に見かけた曇り空が、アルミの銀枠に切り取られてそこにある。
今にも、扉から裕子や真希が顔を出し、急げ急げと追い立てに現れるような気がして、思わず視線をもとへ戻した。
戻した先には、さきほどと同じく閉じられたままのドアと、うなだれたままの真里がいる。
- 417 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:48
- 「だめなんだよ」
真一文字に引き絞った唇から、噛み締めるようでいて、けれどゆるりとした声が洩れた。
そのまま真里は渋い顔をぐっと上へあげ、
「モーニングは、昔はよかったねえ、なんて振り返っちゃいけないんだよ。前を見て突き進むグループなんだよ。だから、ウチらが寂しいなんて言って、なっちを振り返らせたら、だめなんだ」
諭すように言ってから、もうちょっと大人になれとつけ添える。
- 418 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:48
- だから、自分は泣き言は言わない。弱音なんか吐くもんか。
力強い眸はそう告げているのに、表情は今にも泣き出しそうだった。
「ヤグチさんの意地っぱりぃ」
亜依と希美が声を合わせると、
「今が張り時なんじゃんよ」
と、さらに意地を張った。
- 419 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:49
- この日、なにか気がかりでもあるのか、レッスンの間中麻琴は落ち着かない様子で、しきりに天上を見上げてはため息をついている。上を向いて一つ、下を向いて一つ、必然いつも以上に口に締まりがない。
「五〇回」
「百回」
「あいだとって八〇」
それぞれ百円玉を手に、美貴とひとみ、そして梨華の三人が、そのため息の数で賭けまで始めるほど、それは傍目にも目立っていた。
同年代三人組は、賭けたはいいものの、どうやって正解を出すのかまでは考えが回らなかったらしく、百円と互いの顔を意味もなく見比べている。
- 420 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:50
- 希美が訳を尋ねても言葉をにごすばかりで、結局夕方まで麻琴の不思議なため息は続き、やがて雲間から赤い陽がのぞき出した頃、ため息は歓喜に変わった。
ただ落ち着きがないのはそのままで、何かうずうずとした興奮を抱えながら、彼女は頬をゆるめている。
と、ふとその動きが止まり、止まった途端、文字どおり躍り上がって両腕を真上へ伸ばした。その指先はさらに天へと向けられている。
なにごとかと三々五々集まりかけたメンバーへ、麻琴は今日のため息分の鬱屈を晴らすかにして叫んだ。
「花火!」
声を追うように、どんと夕刻の空を鳴らしてくぐもった音が落ちてきた。
- 421 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:51
- まだレッスンの途中だったが、特別の許可がおりて、全員で屋上へ向かう。
いちばん先を駆けていくのは麻琴で、年上の面々はそれぞれ手を引かれながらそのしっぽあたりをついていく。
近ごろどうも腰の重い圭織にいたっては背中まで押されながら、揃って階段を上りきると、早くも柵越しに緑と白の光が弧を描いていた。
風船の空気を抜くような細く高い音のあとに、まず静かに花が開いて、それが空の暗い色に溶けるころになって、ようやくどんとくる。
- 422 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:51
- その「どん」を全身で感じながら、全員が「おー」という若くない感嘆の声をあげた。
打ち上げはまだ始まったばかりのようで、まとまった上げ方ではなく、わずかの時間を置いてまばらに打ち上げられる。待ち焦がれているためか、そのひとつひとつの間がやけに長い。
焦れったくなった希美は隣のなつみに話しかけようと視線を送り、そのまま花火のことを数瞬忘れた。
- 423 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:52
- 陽の暮れきった空から吹き落ちてくる風は、昼間の雨で湿った空気を飛ばし、いつになく視界は澄んでいる。だからなつみの表情は暗いなかでもはっきりと見えた。
その目は、花火の消えた(そしてまた上がるだろう)空にじっと注がれていて、すこしも揺らいだりはしない。まばたきを忘れたように、ひたすらひとつところを眺めている。
置いてかれる。
なんの根拠もなく押し寄せてきた不安に、
「なちゅみ」
希美は時間と彼女の意識を取り戻すように呼びかけた。
- 424 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:52
- 「なっちゃん」と、この名前を軽くくずした呼び名とを、希美は好んで使っている。いまでは苗字にさん付けで呼んでいたことが嘘のような気もする反面、この先ずっと「なっち」と呼んであげることはできないだろうとも思っていた。
ただ「なっち」と呼ぼうとした努力をなつみは認めてくれたらしく、呼べばすぐに返事をする。返事を返しながら、目尻を下げてのぞきこんでくる。
けれど、今日はなかなかこちらを向いてくれようとはせず、まるで忘れ去られたあの鞄のように、希美はじっとそこにたたずんでいるしかなかった。
- 425 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:53
- なくなったと思っていた透明な壁がふたたびそびえ立って、いずれ手をつなぐこともなくなってしまうのだろうか。そう思うと息をするのも苦しくなって、
「なちゅみぃ」
声をふり絞り、もう一度呼んだ。
折り悪しく、ひと際大きい花火があがり、低い破裂音とお祭り気分で盛り上がる皆の歓声に、必死の声はあえなくかき消されてしまう。続けざまスターマインと思しき彩とりどりの花火が、余韻を楽しむ余裕すら与えず次々とあがって、地上よりも上空の色数が多くなった。
- 426 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:54
- (とどかなかった)
光に髪を照らされながら、悄然と希美はうなだれる。と、それまで拠りどころなく下ろしていた左手を、力強く握られた。
力を込めているわりに、その手は自分よりずいぶん小さい。温もりを逃がさないよう手を握り返しながら、希美はそっと顔をあげた。
「なんだい?」
手をつないでいるためか、右肩を下ろし、にこにこと笑う顔はやや斜めになっている。そのなつみからは何年も会えずにいたような、懐かしい匂いがする。
希美は自分から呼んだにも関わらず、どうにもきまりが悪く、二秒と相手をみつめていることができなかった。
かわりに音と光に満ちたにぎやかな夜空を仰ぐ。
「花火、きれーだねえ」と言うと「うん」となつみは答えたが、それよりも声に合わせてはずんだ手から嬉しさが伝わってきて、それだけで口許がゆるんだ。
- 427 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:56
- 結局そのままレッスンは流れて、最後の一発が轟音をとどろかせたあと、花火も終わった。
その場で解散となったため、ざわめきながらまばらに列をつくって階段口へと向かう。
階段を下りきった控え室の前には、すでにそれぞれの保護者がきちんと整列して待っており、数分もすると希美と亜依をのぞいてそれぞれに帰宅の途についた。
- 428 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:57
- 今日はなつみの家に泊まる手はずになっているので、希美たちの親は迎えには来ていない。かわりに宿泊先の家主の姿を探すと、なぜかおらず、あわてて屋上へ引き返そうとしたところへ、やや間延びした声に呼び止められる。
「おー、あいぼーん、つーじー、ひっさしっぶりー」
声を発した当人よりも、その周囲に漂っている甘い匂いに惹かれて二人は振り向いた。
- 429 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:57
- ツアー前の陣中見舞いを持ってきたという真希は、すでにほとんどのメンバーがいないことに肩を落したが、なつみはまだいるはずだと告げると、途端明るくなった。
「よかった、じゃあ、間に合った」
独り言のようにつぶやいてから、二人にもついてこいと言って、手に提げていた紙箱を振る。
「シュークリーム、つくってきたんだ」
- 430 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:58
- お菓子がN極とすれば、自分たちはさぞかし立派なS極なのだろう。
吸い寄せられるように真希の後ろにくっついて、今さっき降りてきた階段をふたたび上る。
やがて屋上へと出ると、先ほどまで花火の光と音とメンバーの歓声で溢れていたそこは、雨雲を追いやってなお吹き続けている風の音が耳につくぐらいで、ぜんたいがらんとしている。
その閑散としたなか、ぼんやり柵にもたれているなつみを目に止めて、真希が叫んだ。
「なっち! 早まっちゃだめだよ!」
え? と眉間に皺を寄せてその意味を考え込んだ希美と亜依の前を、彼女はものすごい勢いで駆けていく。
そしてその勢いのままなつみに体当たりをして、ハテナの海を泳いでいた年下二人の前で、コントのような光景を展開し始めた。
- 431 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:58
- 声は、雨上がりで空気が澄んでいるためか、よく聞こえた。
「おー、ごっつぁん、ひっさしっぶりー……でも、ちょいとイタイ登場だよ」
「もうばかな真似しちゃだめだかんね! なっちは頭よくないけど、そういうことはしないんだよ」
「や、ちょっと、頭わるいって、ごっつぁんだって同じくらいっしょ?」
「四歳年下と一緒なんていばれることじゃないじゃん」
「そりゃぁ、そうだけど。でもいきなりぶつかってくるなんて、ひどいんじゃない?」
「なっちが飛び下りようとしてたからでしょ!」
「は?」
「いま、こう、こうやって柵越えようとしてたじゃん」
「してないよ」
「うそ、してたよ」
「してないし、こんな高い柵越えるなんて、なっちの足の長さじゃ無理だよ」
「あっ! そうだね!」
ぱこん、という間の抜けた音を希美も亜依もたしかに聞いた。
- 432 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:59
- よく見れば真希が大事に持っていたシュークリームの箱をうばいとって、なつみはそれで彼女の頭をはたいている。なによりハリセンがわりにされた箱の中味の惨状を想像して、希美たちは驚愕した。
「なっちゃん、なんてコトすんのー!」
涙声を響かせてシュークリームを助けに向かった。
- 433 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 05:59
- シューは手作りらしく、軽く焦げ目がついていて、かなり厚い。
「さいきん、皮に凝ってるんダヨネー」
と言うわりに、素人の域を抜けられないようで、試しに作ってみたというその皮は、厚くてさらに固い。
そのため、皮からクリームにたどり着く努力は生半でなかった。半分ひしゃげている方を頬張っているなつみと真希は比較的クリームへの到達は早く、おいしいおいしいと感想が出ているのだが、形のきれいな二つをもらった希美たちは皮に悪戦苦闘を続けている。
ただシューにもそれなりに味はついていて、飽きることはなかった。
- 434 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 06:00
- 「しっかし、惜しかったねえ。さっきまで、すっごい花火だったんだよ」
年下二人がようやくシュークリームのメインであるクリームを味わうころ、すでに食べ終えたなつみが指についたそれを舐めつつ言う。そしてその指で上空を指した。
「こーんなでっかいの」
真希もなつみのはずんだ声に誘われて、上を向いた。昼間の雨の名残りで雲はまだ大分残っている。それが月も星も覆い隠して、一面暗幕を張ったようだった。
けれど、二人ははしゃぎながら真っ暗な夜空を見上げている。
- 435 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 06:01
- (花火、終わっちゃったのに)
見えない花火よりおいしいお菓子の方が、希美には大事だった。だから余ってしまったシュークリームをそのままに、話のなかの花火だけで楽しんでいる二人が不思議でならない。
ただ、ここへ来るまでに真希のつぶやいた「間に合った」という言葉から、少なくとも彼女は花火そのものを期待していたわけではないのだろう。もちろん、箱でどつかれに来たわけでもシュークリームの皮と自分たちを闘わせるために来たわけでもない。
(じゃあ、なんで来たんだろ)
- 436 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 06:02
- シューごしに真希を見る。黒からまた染め変えた髪を、今度は切りたがっているらしい。
けれどまだなんとなく未練があるらしく迷っているのだと亜依から聞いた。
その長くまっすぐな髪は、ときおり風に流れる。
彼女はひたすらなつみの花火の話に耳をかたむけ、たとえば卒業のことやソロのことなどには一切触れることはなかった。
真里の言っていた「大人になる」という言葉は、きっとこんな態度を示しているのだろうと思いながらながめていると、やがて花火の話もつきて首を反らせたまま二人は黙り込んだ。
- 437 名前:花火とシュークリーム 投稿日:2003/12/01(月) 06:02
- 「花火、ごっつぁんにも見せたかったな」
まるで自分が打ち上げていたかのごとくつぶやいたなつみに、真希は箱を手に取り「あたしは、これ食べてもらえたから満足だよ」と言った。
希美と亜依は、箱にかわいらしく収まっている残りのシュークリームに気を取られて、もっと食べていいかと尋ねるタイミングを見計らっている。
「また、降るかな」
最近頬にまでかかるようになった横髪を揺らして、なつみは先刻よりも暗くなった周囲に目をやった。
雨雲を散らしたと思っていた風がふたたび湿り気を増し、うっすら見えていた空も、今は黒い雲に隠れている。
我慢しきれなくなって、亜依がもうひとつシュークリームの催促をすると、
「持ってきな」
真希は空からすっとした視線を下ろして、箱ごとくれた。
- 438 名前:ずっと夏休み 投稿日:2003/12/01(月) 06:04
- ちょっと休憩です。
- 439 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/01(月) 19:46
- 和泉さんの作品大好きでーす。
続き楽しみに待ってま〜す。
- 440 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:02
- 「雨、もったねえ」
なつみが言って、ベランダから鉢植を持って部屋へと入ってきた。
もともとが室内観賞用であるため日陰でも育つ種類の樹なのだが、時おり太陽にあてようと外へ出して、たまに出したまま忘れてしまうらしい。
今日もその「たま」の日だったようで、鉢に植わっている根もとあたりにごめんごめんと謝っている。雨は今朝早くから降っていたから、外へ出したのはたぶん昨日以前のはずだった。
「圭織とかさぁ、植物の気持ちがわかるらしくってね、こないだ叱られたばっかなんだよねー」
だれに説明するでもなく、なつみは一人でぶつぶつと自分への愚痴をつぶやいている。
昼間の雨で汚れた葉をひととおり拭き終えてから、食卓にあがったチヂミの匂いをやわらげようと、彼女はベランダの窓を大きく開けた。
「チヂミ、おいしかった?」
問う声に、希美と亜依は二度三度、勢いよく首を振ってうなずいた。
- 441 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:03
- わるいことをした、と二人は思っている。
だからことさらチヂミに満足したのだとアピールして、なつみに感謝の気持ちを伝えたかった。
このチヂミの不運は、鉄板を出したあたりまでさかのぼる。
まず、なつみがネタを作る。焼く。希美が食べる。
またなつみが焼く。亜依が食べる。
さらに焼く。希美がまた食べる。延々この手順がくり返され、なつみが食べる、に行きついたのは残りがほとんどなくなってからのことだった。
食べてばかりだった客二人は、これはいけないと争ってネタの入ったボウルを奪い合い、あげく鉄板の脇にひっくり返した。
結果、かろうじて墜落をまぬがれ鉄板の上に乗った見るも無惨な残骸が、なつみの取り分となったのである。
そのうえで「チヂミ、おいしかった?」と問われると、正直心が痛い。
しょげかえる二人を見てなつみは怒る気もなくしたようで、食後の紅茶とともにカットチーズをつまんでいる。
- 442 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:04
- そうしてチヂミの余韻も薄れるなか、紅茶で指先を温めながら、希美は興味深げに部屋を隅から隅まで見回した。
なつみの部屋はしばらく見ないうちにずいぶん様変わりして、唯一カーテンの生地に見憶えがあるくらいだが、その記憶もおぼろげである。
ただ以前訪れたときよりもなんとなく天上が低くなったような気がして、それを告げると、なつみはあたりまえだと言ってくすくす笑った。
「なんで?」
「だって、まえ来たとき、のの、なっちより背ぇ低かったもん」
彼女は今度は亜依へと向き直り、手を水平にかざして目線の高さのちがいを測る。一旦身体を後ろへ引いてじっと目を凝らすと、おもむろに嘆息した。
- 443 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:05
- 二人とも大きくなったねえと言いながら、表情には驚きを隠せずにいる。
「なっちは、抜かされてばっかりだ」
脚も遅いうえに背にいたってはもう伸び止まり、どんどん皆に置いていかれるようだとこぼした。つづけて「今度の卒業も」と言いかけてふつと言葉が途切れる。その先は希美にも亜依にも言葉にしないまでもぼんやりと覚ることができた。
いままで自分という存在と表裏一体となっていた「娘。」から抜ける、ということが、彼女にとっては未だに実感を伴っていないらしい。
卒業してあらためてメンバーを見たときに、取り残されるように感じるのではないかと思っている節もあった。
だからふとしたときに、不安が口をついて出てしまうのだろう。
「追い抜かされてばかり」には、そんな意味も含まれている。
- 444 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:06
- 「そんなこと、ないよ」
沈みかけたその場の空気に抗うように亜依が言った。
「追い抜かされてばっかじゃ、ないって」
「あいぼん、でもさ」
「ホントは、なっちゃんが卒業して、それで、加護たちが、置いてかれるのかもしれないし」
亜依は去年の真希のはにかむ顔とやわらかい声を思い出していた。あの時と同じでなつみが退めたら自分はきっと気落ちして、がんばるどころではないかもしれない。けれど、なつみを快く送り出すには、それを正直に言ってしまうわけにはいかない。
- 445 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:07
- 嘘をつこうと亜依は決めた。
「だから、がんばって一緒に走ろう」
嘘と言うよりは見栄にちかい。この精一杯の虚勢にはたしてなつみは気付くだろうか。気付いても騙されたふりをしてくれるだろうか。
どちらにせよ、嘘でも胸を張ってなつみに大丈夫だと伝えたかった。
そうしておそるおそるなつみを見ると、いったん視線を落としなにごとか考えた後、彼女はうんと頷いて顔をあげる。
小さな拳を目の高さまで掲げて、なつみは一言「おう、負けないべさ」と答えた。
- 446 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:08
- その後も希美はまだ部屋のあちこちをながめて、以前来たときの記憶と照らし合わせている。
なつみは入浴を終えて、台所で台本を読んでいた。切羽詰まっているのか、「一時間だけごめんね」と真面目な顔で諭されれば、さすがに騒ぐわけにもいかない。
仕方なくDVDの棚を漁ったり、古いビデオを適当に流したりして遊んでいたが、すぐに手持ち無沙汰になった。そんな中、亜依は今度はCDを物色しはじめ、希美は口を半開きにして部屋を見ている。
そうしてのろのろと壁沿いをつたっていた希美の視線は、やがてひとところに止まったまま動かなくなった。
- 447 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:09
- 相方が静かなことに気付いたのか、
「のの、なに?」
隣から亜依が身を乗り出してきて、希美の目線をたどって同じ方を見た。そこには見覚えのあるコルクボードに、最近撮ったのだろう目新しい写真が貼られていて、なかには色ペンでコメントを添えてあるものもある。そのあざやかな蛍光色に彩られた写真にうずもれて、一枚だけ毛色のちがう風景写真がまぎれていた。
希美の目はそれを捕らえたままじっとしている。
「あれ、きれい」
亜依も同じものに惹かれたのか、立ち上がって側へ寄る。その背中に視界がさえぎられてしまったため、希美も同じく立ち上がって亜依に寄り添った。
- 448 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:11
- 「北海道、だね」
「ムロラン、かな」
写真は、ラベンダーだろう、一面うす紫色の花畑を低い位置から仰ぐようにして撮ったもので、地上よりも空が景色の大半を占めていた。その澄み切った空に浮かぶ雲はまるで撹拌された生クリームのようで、二人の心を奪った理由は「おいしそう」に見えたからに外ならない。
「まこっちゃんが、なりたいのは、こんな雲かな」
後輩のような友達のような麻琴の姿を思い浮かべて、希美が言った。
- 449 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:11
- 普通ならあまりにもメルヘンすぎて笑われるだろう夢の話を、彼女はぽんぽんと口にする。
無邪気と言うよりは自分の願いを口にすることで、夢に近付けたらいいと思っているらしかった。
しかし、人間が雲になるという話は聞いたことがないうえに、希美の知識を持ってしてもそれは物理的に無理だと分かる。だから、雲みたいな人になりたいのだろうと尋ねると、やはりちがうと言う。
「雲に、なりたいの。まーねぇー、無理かもしんないけど」
かもしれない、と付けるのは間違っている。そう思いつつ、雲になるという語韻に、希美は強く惹き付けられた。
- 450 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:12
- 「あのね、雲は、歳とらないんだって」
麻琴から聞いた雲の話をすると、亜依はふうんと頷いて興味を持ったようだった。
「ずーっと太陽を追いかけて一緒にいれば、ずっと今日のままなんだって」
「そっか。夜になんないもんね」
真剣な面持ちで言葉を交わして、それから二人はそろって照れ笑いをする。麻琴の言葉にではなく、自分たちが雲について真顔で語る行為に滑稽さを覚えたからだった。
「なに言ってんだろね」
「だね」
どうにもおかしさが込み上げてきて二人が胃を押さえて笑い合っていると、ようやくなつみが部屋へと顔を出し、
「そろそろ寝よっか」
灯りを落とす素振りを見せた。
- 451 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:22
- 一人用のベッドに三人入るとさすがに窮屈だ。軽く身体を縮めながら希美は眉を寄せた。
なつみがソファで寝るというのを無理に口説いて、川の字をつくろうと肩を合わせたところまではよかったのだが、狭すぎて「川」と言うよりその様は数字の「1」に近い。
だから希美のすぐ鼻先になつみの横顔があり、その向こうには亜依の耳がのぞいている。
なつみは、どちらを向いても相手とみつめあう形になるので、仕方なく真上に顔を向けていた。
- 452 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:23
- 苦笑いして彼女が言うには、
「たぶん、だれかこっから蹴飛ばすと思うんだよね」
寝相の悪いことは自覚しているらしく、気をつけなさいと注意する。
事実、希美は以前ホテルでその被害に遭っていたが、注意して避けられるようなものでもない。それに夏の夜に身を重ね合わせているのも一時間がせいぜいだろうから、自然、涼をもとめて壮絶な蹴り合いが繰り広げられるにちがいない。
(落とされないようにしないとなー)
希美はシーツを引っ張らないよう気をつけながら身をよじり、なつみからリビングへと首をめぐらした。
そうしてふたたび件の写真に目を凝らした。
- 453 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:23
- かろうじて雲のぼんやりした輪郭と白い縁が見える外は、周囲の壁も小物もなにもかもが灰色の影と化している。暗いなかでも写真は見やすい位置にあり、はじめからそれを意図して貼られているようだった。
なつみもいつもここからあの雲を見ているのだろうか。
あの雲を見て、雲になりたいと思っているのだろうか。
それとも故郷を想っているのだろうか。
「なちゅみ」
静かな寝息が規則正しく聞こえるころになって、希美はそっと呼びかけた。返事のないことを確認すると、今度は「なっち」とつぶやいた。
- 454 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:27
- オーディションに受かってはじめて事務所の廊下ですれ違ったときは、「なっちに会った、ゴマキに会った」とはしゃいでいたのに、いつのまにかその名で呼べなくなっていることが、すこしおかしい。
「なっちゃん」
もう一度呼んだ。やはりなつみは答えない。目が慣れてやっとはっきり見え始めていた雲の写真が、なぜかぼんやりとにじんでいる。希美は深く息を吸って、震える唇から声とともに細く吐き出した。
「卒業しなくて、いいよ」
- 455 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:27
- 雲になる夢は見なかった。そして何のためらいもなく日付は変わり、なつみの卒業へと確実に近付いていく朝が来る。
まだ暗いうちから起き出した希美は、しばらく外の様子とコルクボードの写真とを代わる代わるみつめてから、おもむろに自分の手帳を一枚やぶると、
「たびに出ます」
いったん「旅」と漢字で書こうとしたが正確には思い浮かばず、しかたなく平仮名で書く。
顔を洗い身支度を整えるころになって、亜依が目を覚ましたらしく、合点のいかない顔でせわしく立ち回る希美を見ている。
「のの、今日お昼からだよね」
「うん、でも、もういいの」
「いいって何が?」
「ぜんぶ」
だからちょっと旅に出てみようと思うと続けた。
- 456 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:28
- 幼稚な発想だということはさすがに解っている。
ただ、雲になることはかなわなくても、太陽を追って西へ行けば秋も来年もやってこなくなるかもしれない。そうすればなつみはずっとモーニング娘。のままで、変わらず自分たちのばか騒ぎに付き合ってくれるだろう。
理由を告げるうちに、どんどん怪訝な顔になっていく亜依を見て、希美はうつむきがちに自嘲した。
貶されることを覚悟で心持ち目線をあげると、彼女は案の定笑いをこらえている。その顔がふと明後日の方を向いた。
「のの」
「うん?」
「うちも、行くわ」
声に誘われるように、窓から白い陽が射し込んできた。
- 457 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/01(月) 23:36
- 早暁にぱらぱらと雨を降らせた雲は、すでに七割がた空の端へと追いやられて、見上げればわずかに取り残された欠片がめまぐるしく形を変え、風に流されていく。
その風に揺れる街路樹の枝には、若い葉が勢いよく茂り、色濃くなりはじめた緑の上に露を置いている。
雨の名残りで、ときおり、思い出したかのように葉むらから雫が降ってくる。それを避けながら進む足取りは最初こそ軽やかだったが、すぐに重たくなった。
- 458 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:00
- 足音をひそめて部屋を出てから、正味二〇分ほどで、まず当の希美が根をあげた。
旅というものは漫画か水戸黄門でしかお目にかかったことがなく、たいした食糧難もなくほのぼの道を歩いている姿ぐらいしか記憶にない。
しかし、実際歩いていればお腹が空く。足も疲れる。くわえて寝足りないらしく一〇歩に一回はあくびが出る。それに、太陽の沈まない場所へ行くには目的地が果てしないうえに、自分たちの歩く速度は遅すぎた。
いつのまにかだいぶん高いところまで昇っていた太陽にちらと目をやって、希美は側にあった電信柱に寄りかかる。
- 459 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:01
- 「ハラヘッタ」
なつみへの切実な想いが、空腹にすら勝てないものだと認めたくはない。
認めたくはないものの、我慢するには腹の虫がうるさすぎる。
「食いもん、ほしい」
涙目になったところに、とぼとぼ後を追ってきた同行者がやおら前方に指をやって、「コンビニいこう」と誘ってくれた。
街を照らし出す夜明けの空に対抗するように、亜依の指の先でコンビニは白色灯を目一杯光らせて、希美たちを待っている。
ふらふらと透明な建物へと足が向いたときに、二人の短い旅は終わりを告げた。
- 460 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:02
- コンビニには、季節柄、至る所に「Summer」や「夏」と書かれたディスプレイが飾られていて、視界を明るく彩っている。それを見ながら、希美は今朝、無防備な寝顔をさらしていたなつみを思い起こした。
安倍さんでありなちゅみであった彼女の本名について、一度だけ悩んだことがある。
そのとき希美は「なつみ」の「なつ」は季節の夏のことかと尋ねて、どうして平仮名なんだろうと首をかしげた。なつみはなつみで、遠い記憶を掘り起こしているらしく、なかなか答えてくれない。
やがて、
「たぶん、夏だけじゃないんじゃないかな」
考えていた時間のわりに、出した答はあっさりと味気ない。
- 461 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:03
- 「夏って書いたら、夏しか意味がなくなっちゃうけど、平仮名ならどんな意味でもあてられるっしょ」
納得のいくようないかないような言葉に、希美は「ふうん」と気のない返事をして、そのままそれを忘れてしまった。ただ、そのあと何か言われたような気がして、もう一度ゆっくりと薄れた記憶を喚び戻してみた。
名前のことだったはずで、漢字のことだったはずで。
「あ、そうだ」
急に声をあげた希美に驚いて、亜依が振り返る。
なんでもないと口で言いつつ、頭の中はいそがしく時間をさかのぼっていた。
- 462 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:04
- 「ののは、うつくしい希望で、のぞみ、なんだ」
すっごいねえ、いい名前だねえと、なつみはしきりに褒めて、名前が斜め上を向いている感じだと言って笑った。
そうして、照れくささにうつむいてにんまりしている希美に聞こえるように、自分の子どもの名前にしたいナと続ける。
「したら、どんなときでも希望を持つ人間に、なれるよーな気がするじゃん」
- 463 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:04
- あのとき一緒に肩を震わせていた彼女は、まだ心地よい睡眠を貪っているだろうか。それとも、そろそろ目を覚ましているころだろうか。
希美はガラスを透して今来た道を目でたどる。
もし起きているとしたら、重たい瞼を持ち上げて書置を見、自分たちのいないことに呆然としているかもしれない。
希望を持つどころか、打ち砕くようなことばかりしている希美に呆れてもいるだろう。けれど、帰ったら帰ったで、きっとなつみは叱ることもなく赦してくれるにちがいない。
- 464 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:06
- 結局二人はそれぞれに一先ずの朝食を買い、店員の白い視線を受けながら店内で食べてしまった。
迷惑をかえりみず、さらに二人は食後の一服とばかり雑誌棚の前に陣取って、人心地のついた顔をなかよく並べる。
取っては戻し戻しては取ってと乱雑に雑誌を選んでいると、しばらくして亜依が「猫がおる」とぽつりと言った。
声と視線につられて希美も同じところへ目をやると、はたして、街路樹の銀杏の根もとあたりにトラ縞の仔猫がいる。
どうも仕草が妙なのでしばらく様子をうかがっていると、猫は銀杏の幹のやや高いところに生えている葉を狙っているらしい。自分の背の三倍はあろうかという距離を縮めようと、しきりにぴょこぴょこ跳ねている。
- 465 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:13
- 「無理だよ、あんなんじゃ」
思わず亜依がこぼした。
猫が何を思って葉を取ろうとしているかは分からないが、届きそうもない場所にある葉は平然と上へ向かって伸びている。しばらく黙ってその光景をながめていると、幹を跳躍の足掛かりに、やがて猫は今度はずいぶん葉に近いところまで跳ぶようになった。
そのころには、届きそうで届かないことに、傍観者である希美と亜依が熱を上げはじめた。
「いけっ! そこっ!」
「あー、惜しい」
雑誌をそっちのけにして店内で応援の声をあげる。
がんばれがんばれと拳を握りしめている二人のまえで、仔猫は何度も跳びあがり、それが一〇分ほど続いたぐらいで、振られる爪にあたって初めて葉がその身を揺らした。
- 466 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:13
- 「よし! もいっちょ!」
そろって叫んだとき、猫の両前足がみごとに葉をとらえ、ちぎり落とした。
「やったー!」
二人は飛び上がって喜び合い、しかし、すぐに静かになった。凍り付いたように銀杏のあたりをみつめたまま、それぞれの顔には戸惑いの色が浮かんでいる。
ただの暇つぶしだったらしく、葉を落とした猫は嬉しがる様子もなく、興ざめたように近くの塀の影へと隠れてしまった。代わりに、その猫の跳んでいたあたりには、よく見知った顔が途方に暮れている。
彼女にいつもの明るさはなく、頼りない表情で朝陽のなかたたずんでいる。
- 467 名前:雲の行方 投稿日:2003/12/02(火) 00:14
- 服は寝巻き代わりのジャージのままで、あわてて飛び出してきたのだろう、髪にも寝癖がついたままだった。こちらには気付いていないのか、なつみは肩を落とすと銀杏の脇にうずくまる。
居ても立ってもいられなくなって、希美と亜依は競うように彼女の名を呼んで駆け出した。
いきなり姿をあらわした二人になつみは驚くよりもまず安堵の息をついたが、わずらわされた仕返しか「旅に出たんじゃなかったの?」と楽しげに嫌味を言った。
売り言葉に買い言葉で、希美は口をとがらせる。
「とちゅう、なんだもん」
「なんだもんって、なんだよー」
「ちょっと途中で休憩しただけだもん」
だからまだ旅は続いている。そう言うと、
「そっか、まだ旅の途中なんだ」
なつみは白い歯を見せて破顔した。
- 468 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:31
- 三人で手をつないで歩く。
横一列に道をふさいでいるのだが、早朝のことで他には道を通る人影もない。つないだ手を振りながら、今度は太陽に向かっている。
まぶしさに目を細めてしばらく行くと、四つ角を曲がったあたりでなつみのマンションのレンガ色が見えた。
やや上り坂の道の向こうに屋根と避雷針だけが朝靄にかすんでいる。
だらだらとした坂を上るうち、すこしだけ荒くなった息づかいの下から、ふいになつみが声をかけた。
「辻、加護」
「……ハイ」
苗字で呼ばれるときは叱責と相場が決まっている。神妙にうつむいて、歩調まで弱めた二人は次に告げられるだろう言葉をおとなしく待った。
- 469 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:32
- 朝から慌ただしい思いをさせたうえに、断わりもなく抜け出したことが明らかになれば、自分たちどころか保護者のなつみまで周囲から叱られる。
なにより、今さっき出会うまでの彼女の焦りと不安は尋常ではなかっただろう。その気苦労に対して、希美と亜依は申し訳なかったとひたすら頭を下げることしかできない。
だから、どんなに叱られても反論はしないでおこう。そう考えていた。
しかし、なつみが続けたのは、思いもかけない質問だった。
「二人のなりたいものって、なに?」
昨晩の話を漏れ聞いていたのか、雲は、なしね。肩をすくめて笑いかける。
- 470 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:32
- 「テレビ、出たくて」
「芸能人と会いたかったし」
「歌手になって、コンサート開いて、お母さんとか友達呼んだりしたかったし」
「ごっちんみたいに、カッコよくなりたくて」
でも一番は、と二人は声を合わせる。
「モーニング娘。に、やっぱ、なりたかった」
その間、なつみはなにを言っても頷いているばかりで、たまりかねた亜依がつないでいる手を引いて立ち止まった。そこから、なつみ、希美と順番に引っ張られ、坂の半ばあたりで三人は長い影をアスファルトの上にそろえる。
- 471 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:33
- 「なっちゃんは、まだ、なりたいもの、あるの?」
突っ立ったまま亜依は訊いた。
娘。を退めて、行く先を見失ったりはしないのだろうか。
するとなつみはため息とも感嘆ともつかない声を洩らして、なにげなく頭上を仰いだ。
「なっちはぁ、モーニングになりたかった訳じゃないからなー」
「じゃあ! じゃあ、なっちゃんは娘。のことなんて、どうでもいいの?」
問う亜依の声はしゃがれている。それをみつめる希美もまた不安気な面持ちで、息を詰めながらなつみの答えに耳を澄ました。
- 472 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:34
- 聞く側の重苦しい雰囲気に反して、答える声はひたすら軽くのんびりしている。
「あー、ハシかな? うん、ハシだ」
「おはし?」
「食べるほうじゃなくてぇ、いやまあ、どっちでもいいんだけど。なっちはさ、ソロで歌うって夢があったさ、や、あったさって変だねえ。ま、あった、うん、あった」
「うん」
「で、そこにたどり着くには、川があって。おっきな川でさ、なかなか向こうへ行けなくて。でさ、裕ちゃんや彩っぺや、明日香と圭織? で、モーニング娘。って橋をかけたのね。で、ちょこっと、その橋にいるのが長過ぎたんだよ。なっちは、その橋がすごく好きで、大事なんだけど、ほんとは川を越えるためのものだから。ね? だから降りなくちゃ、橋をかけた意味がなくなっちゃう」
なつみの声を聞きながら、二人の顔も視線もだんだんとうなだれていく。希美が消え入るような声で「意味、わかんないよ」とぼそりと言った。
- 473 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:35
- 「だから、それがなっちのモーニング娘。ってことだよ」
答になってないよ。
拗ねるように亜依が咎めたが、その語調には勢いがない。うなだれたままの希美にいたっては口をきく気力さえ湧かないでいた。
なりたいものを目的地とすれば、今は橋の上にいて、自分たちはその橋しか見ていなかったことになる。
その先は、と訊ねられてはじめて、橋が向こう岸につながっていることに気付いた。
今まで考えもしなかった向こう岸は、きっと深い霧に煙っている。なつみが手を引いてくれなければ、迷子になってしまうかもしれない。
そんな不安をよそに、彼女は一人で先へ行ってしまう。
ずるいじゃないかと二人は思った。
- 474 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:35
- 「なーに暗いカオしてんのさぁ」
二人の気落ちした様子を見て、なつみは苦笑しながら二人の手を片方ずつ取り、それを自分の両手に包み込んだ。
もちろん、包み込めるほどその手のひらは大きくはなく、具をはさみすぎたサンドイッチのように希美たちの手があふれる形になる。
なつみはその指にぐっと力をこめて、
「ウチらの未来は明るい!」
驚くほど迷いのない声で、言い切った。
- 475 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:36
- 「考えてもみなよ。モーニングは昔っからグッドに決まってんじゃん。おはようって、グッド・モーニングじゃん。太陽だってグッド・サンシャインじゃん。ね? 光り輝いてるに決まってんじゃん」
だから。
なつみは祈るように手の甲に額を押しつけた。
「ウチらの未来は、明るい」
しばらくして亜依が笑いながら視線を上げた。希美もなつみの髪の分け目をみつめながら、花のほころぶように表情をくずした。やがてなつみもくすぐったそうな顔を上げる。上げて、きっと額についた赤い跡を笑われる。そうして残りの坂を上りきるまで、三人は手を離さずにいるにちがいない。
- 476 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:37
- ウチらの未来は明るい。
なつみが言うなら間違いはない。
- 477 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:38
- その夜、希美は夢を見た。
それはおかしな夢で、朝靄の立ちこめる港(だろう)で、なつみがカナヅチをあぶなっかしく使って桟橋を作っている。錨を下ろした船がその先にあって、橋はそこへつなぐのだろうと思われた。
水底に打った杭の頭へ板をあてがって、ひたすら釘を打ちつけていく。
とんかんとんかん架けているそれは、希美がぼうっと見守るうちに長くなって、やがて船へとつながった。
気付くとなつみはもう船のへりに立って、衣装までピースの水兵になっている。そのセーラーと前髪をあおって吹く風に、周囲の白い靄もいずれは飛ばされてしまうだろう。
なつみは、ひょいと身を乗り出すと、「じゃ、行ってくるね」とまるで曇りのない声で告げた。
そして、自分でも驚いたことに、希美はかるく「いってらっしゃい」と答えて笑った。
- 478 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:40
- 八月は夏休みだけあって活動も目白押しで、休む暇もないうちにめまぐるしく過ぎていく。
すこしでも過ごしやすい季節であればいいのだが、そこはやはり夏で、下旬になって、仕事の予定ではそろそろ九月の文字が踊り始めているのに、気温は下がりそうにない。
夏のツアーは暑気とのせめぎ合いで、気を抜くとすぐにあてられる。夏生まれのメンバーはさすがに耐性があるようで威勢もいいが、「夏?」と首をかしげられる六月生まれの希美にとっては、氷とアイスがなければ勤まらない。
昨日も他人の氷を食べた食べないで真里と口喧嘩をしたばかりだった。
そんなこんなでずいぶんだれた顔をぶらさげていると、
「不機嫌さん、アイス、買いにこ」
奇妙な呼ばれ方をして振り向くと、額ににじむ汗をハンドタオルでぬぐいながらなつみが立っていた。
- 479 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:42
- 「ほどほどに!」
希美たちのクーラーボックスの蓋にはでかでかとそうマジック書きされていて、普段はスタッフの厳しいガードにあっている。ところが今日にかぎってそのアイス貯蔵庫が空だという。
そこで急遽、アイス調達隊が編成され、消費者の意志も反映させようと希美が呼ばれたらしい。
なつみは常にイチゴ嗜好なので参考にはならなかったが、希美の保護者がわりに付いていくことになった。
- 480 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:47
- ライブの夜公演までの空き時間に、アイスを愛するメンバーの羨望の視線に見送られ、いさんで飛び出す。
しかし飛び出したところで、会場の近くに適当な店はなく、結局ワゴン車を繰り出して海岸沿いのコンビニへと行くことになった。
時間がないというスタッフの声に追い立てられて、せわしなくアイスを選び終えると、精算のあいだ、なつみと希美は海を見ようと外へ出る。
浜に臨む道路わきのガードレールまで歩くと、にわかに沖から風が吹き始めて、二人は自然と足を止めた。
- 481 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:47
- 「ピンクだ」
視界の端から端まで隈なく広がる景色を見て、希美が無意識につぶやいた。二人の目の前で、真夏の空を高くたどった太陽が、水平線に積み重なった雲の間へ沈もうとしている。
その斜光を受けて、ところどころに浮かぶ雲も、海鳥の影をぽつぽつと置く空も、一面薄桃色に染まっていた。
- 482 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 00:48
- 「ピンクだ」
希美はもう一度言った。言ってからなつみを横目で見ると、彼女の髪も頬も同じ色になっている。卒然と昔言われた空の例え話を思い出した。
「なっちゃん」
「うん。すっごいねえー! ぜんぶピンクだよ」
「……うん」
「ねえ。ぜーんぶピンクだ。うちら、ラッキーだよ。こんなきれいな夕焼け見れるなんてさ。ほんと、ラッキーだよ」
胸の奥から熱いものがこみあげて、希美は楽しげに語るなつみから目を逸らした。
- 483 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 01:14
- 空がずっと同じ色ではないように、自分たちも永遠に同じ関係だとはかぎらない。はからずも目の前に広がる景色は雄弁にそれを物語っている。
でも、と小さく首を振った。
今はピンクに染まるこの夕暮れの空も、短い夜を経てふたたび朝陽の昇るころには青にもどる。だから、変わっていくようで変わらないものもあるはずだと、自分に言い聞かせてふたたびなつみを見た。
百と何十回目かの明日、なつみを送り出す日の空はどんな色になるのだろう。
晴れたらいいなと希美は思った。
そして空の色はこの八月に見た抜けるような青がいい。
- 484 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 01:15
- 「のの、もう行くって」
気付くとなつみはすでに車の方へ歩き出していて、置いていかれた希美は後ろ髪を引かれる思いで海へと目をやった。
なつみの隣にいる夏は、この夏が最後になる。
永遠に続けばいいのにとも、思う。
ずっと夏休みが終わらなければ。そこまで考えて希美は海から陸へと視線をもどした。
なつみの背中は、ぐんぐんと向こうへ遠ざかり、追いつくには走り出さなければ間に合わない。立ち止まってうつむいていれば、きっと置き去りにされてしまう。
季節がいつまでも夏ではないように、自分もいつまでも手を引かれている子どものままでいることはかなわない。
- 485 名前:桟橋 投稿日:2003/12/02(火) 01:16
- (行かなくちゃ)
踏み出したところへ、
「のーの、いくぞ」
なつみの声が届いた。
背中は見えない。かわりにちいさな手のひらがこちらへ差し出されている。その先をたどれば、いつもの顔がいつものようにほころんでいて、
「ほら、はやく」
はじかれたように、希美は走り出した。
- 486 名前:ずっと夏休み 投稿日:2003/12/02(火) 01:27
- 終わりです。
小説というより、願望です。ごめんなさい。
>>439
ありがとうございます。
でも、楽しみに待ってもらえるような話でなくて、すみません。
以下元ネタです。
|_8月.|
| .31 .| マダオワンネーノレス
~~'~~~ ∋oノハヽo∈ っ
(´D`; ) っ
._Φ_C_)__
.//≡//三/./| \ののがんばれ/
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|. | ノハヾヽ
| ..コアラのマーチ ..|/ l⌒ii⌒l ⊂(´ー`●)⊃⌒つ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ⌒'''⌒
- 487 名前:野良柴 投稿日:2003/12/02(火) 12:27
- 和泉さんへ
お疲れ様でした。
和泉さんのお話は、他愛も無い会話から繰り広げられる日常でありながら
そこから何か、ほのかな運命めいたものを感じずにいられない
そういうところが大好きです
ののは、きっと今頃も「なっち」と呼ぶべく
小さな思いを胸の裡に秘めながら
楽しく過ごしているのだろうと頬が緩みます
僕のような者がスレの無駄遣いをしてもアレなので
詳しい感想などは、また後日メールででも
何はともあれお疲れ様でした
素敵な作品を、ありがとうございます
- 488 名前:こう 投稿日:2003/12/03(水) 09:15
- こんにちはです。
和泉さんの作品は大好きなので、また読めて嬉しいです。
たくさんの更新お疲れ様でした。
あいぼんやののなど、周りにいる人達はなっちのことが大好きなんだなって思いました。
そんなみんなに愛されているなっちは、幸せなんだろうって思います。
大好きな娘。を卒業していくわけですが、これからも娘。のことが大好きなのは変わりませんし。
和泉さんの作品が読めて幸せです。
ありがとうございました。
- 489 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/03(水) 22:14
- ののたんがトイレから出てこなかった背景にはそんなことが!
飯田さんは、言っちゃったけどね「辞めるの止めれば」って……。
号泣
- 490 名前:和泉 投稿日:2003/12/05(金) 06:24
- >野良柴さん、こうさん
なにか気をつかっていただいたようで、ありがとうございます。
私はどうも、年少メンに慕われている安倍さんが好きなようです。
>489さん
飯田さん、言っちゃいましたね。
あのあと、急に涙ぐんだ安倍さんを見ると、オリメンの絆を
感じずにはいられないです。
で、今後このスレを更新することはたぶん無理か、もしくは
だいぶん間が開いてしまうと思いますので、落とします。
書かせていただいて、ありがとうございました。
- 491 名前:和泉 投稿日:2004/03/18(木) 23:03
- 510レスまではどうしても行きたいので、
見切り発車になりますが、明日くらいに更新したいと思います。
- 492 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:32
- 三つ数えてから、見ていいよ。
今でもよく思い出す。
目隠しをした手の小ささとどこかはずんだ声色、なによりかならず匂う花の香りは、どれだけ隠そうとしてもそれが彼女であることを教えてくれる。気付かない振りをしてもよかったが、その日はどうも面倒だった。
真希が楽屋の隅で台本を読んでいると、ふとよく知る匂いがして、それから目を手で覆われた。
- 493 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:33
- 「なにすんだよう、なっち」
指先の冷たさを心地いいと感じながら、甘えるように背中を相手にぶつけると、彼女は耳もとで「目ぇつぶって、三つ数えてから、見ていいよ」とささやいた。
耳もとにかかる吐息のくすぐったさに肩をすくめて、ただ黙っていると、焦れったくなったのかなつみは自分でカウントを数えてしまう。
「いーっち、にい、さーん」
挙げ句、真希が目を開ける前から「みてみて」とはしゃぐあたり、どちらが年下か分からない。仕方なく目を開けてなつみの促す方へ視線を下ろすと、オリーブグリーンの半透明の物体が小さな手足を広げ不様に机でのびている。
そのとさかにあたる部分には短いチェーンが付いていて、先が輪っかになっていた。確認するまでもなく、それはキーホルダーで、しかし携帯に付けるような類いでもない。
しかもキャラクターはと言えば、
「カメレオンだ」
持ち上げて言うと、
「イグアナだよ」
と訂正された。
- 494 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:34
- 後藤家のペットのことを考えて、かなり必死に探したらしい。
「でも、これをどーしろと」
「あー、そこまで考えてないや」
ずいぶん無責任に好きにしていいよと突き放して言うものだから、捨てる素振りを見せると、彼女はあわててもごもご弁解の言葉を考え始めた。その切れ切れに洩れてくる単語を拾いあつめて、真希は苦笑する。
「自分だって、裕ちゃんにガイコツあげたじゃん」
「そー言えばねえ」
中澤裕子の誕生日に贈ったガイコツのキーホルダーは、暗やみで光ることもあって、真希としてはずいぶん満足のいくプレゼントだった。しかし贈られた当人は素直には喜べなかったらしく、後で「ごっちんに嫌われとるんかなあ」と眉を寄せて周囲に尋ね回っていた。
それに比べればまだイグアナはましだと言いたいのだろう。真剣な面持ちで覗き込んでくるなつみの頬は、かすかに紅みがさしている。つい、衝動にかられて、その頬を指でつつくと、耳まで赤くなった。
- 495 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:35
- 「なぁにすんのさ」
「あのさ、もっかい、これやって」
真希は目隠しの形を両手で作る。つづけて、急かすように自分の頭を相手の方へと差し出した。
「ごっちん、ヘンな子だなあ」
つぶやきながらなつみは小さな手のひらを、先刻と同じ場所へそっとあてがった。
「でさ、もっかい、数えて」
さらに催促すると、ひとつ呆れたような息をついたあとに、ふたたびなつみの声が届く。その匂いと声の心地よさに真希は知らず口許をゆるませた。
「いーち、にい……」
- 496 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:36
- 十二月の半ばになって、西日本に大雪が降ったと朝のニュースで言っていた。
ブラウン管の中の景色は大阪でも福岡でも大荒れで、それなのにふと首をめぐらして庭をのぞむと、さんさんと黄金色の陽が満ちている。東京では雪どころか雲も北風すらもない、ずいぶん穏やかな朝だった。
「いいな、ユキ」
ないものねだりのように、真希はそのときテレビの中の雪がうらやましかった。
- 497 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:37
- 収録を終え撤収作業に沸き返るスタジオで、ちらと目の端を白いものが掠めて消えた。
消えたはずの白を探してゆっくりと上を見上げると、今度は視界一面に白い紙片が舞う。続いて「スンマセーン」という野太い声が落ちてきて、どうも小道具係が過って演出の紙吹雪をこぼしてしまったらしい。
(スタジオん中で、雪もないか)
肩についた一枚を指でつまんで小さく振ってみると、それは揺れに合わせて小さい身をひらひらと泳がせた。効果のためか、それは四角でも丸でもなく、すこし変わった形をしている。
雪の結晶とは似ても似つかない紙切れが、それでも雪に見えるのはなぜだろう。
- 498 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:38
- 「キミの仲間は、今年はなかなか来ないねえ」
真希は、まるで友人に向き合っているかのようにそれに語りかけた。
搬入口に隣接する大道具倉庫からは、積み出しの最中か、身を切るような冬の風が足許から入り込んでくる。だからスタジオを一歩出ると、楽屋までの通路はひどく冷たい。
短くカットされた薄手の衣装は、暖房の効いたスタジオでライトを浴びていてこそ我慢できる訳で、蛍光灯の白く光るだけの廊下では、我慢以前の問題である。
マネージャーから手渡されたストールを羽織ると、真希は全速力で駆け出して、走りながら軽く首をかしげた。
これだけ寒いのに東京に初雪が降らないのは、ちょっとおかしい。
- 499 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:39
- 失くしたことに気付いたのは、楽屋にもどって帰り支度をして、ふと鞄の中に手を入れたときだった。
「あれ?」
落とさないように鞄の内側に付けていたキーホルダーがない。いつもは物の出し入れの際に手の甲で転がるイグアナはおらず、主を失った鎖が固い鞄の皮にこすれてからりと鳴った。
なつみからもらったこのキーホルダーは一度ならず壊れている。鎖が取れたことも何度かあって、もう一年ほど以前になるだろうか、イグアナの尻尾を何かのはずみで折ったときは、さすがに持ち歩き続けるのは止めようとも思った。しかし、木工用ボンドでなんとかくっつけて、今に至る。
- 500 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:40
- (しっぽ、サカサマなんだよね)
消えたイグアナの形を思い起こして、尻尾を表裏逆向きにくっつけてしまったことに苦笑いする。気付いたときはもう手遅れで、直すのも面倒だったため「ま、いっか」と不格好なままふたたび鞄に付けた。
それが、ない。
いったん鞄の中を手探りでがさごそ漁り、埒があかないので結局中味を机の上へばらまいた。それでも樹脂でできた半透明の姿をみつけることはできない。
机の下を見、靴を逆さに振ってみる。
つづけて鏡台の周りを這い、ふと鏡に映った自分の顔を見て、思わず吹き出しそうになった。そこには捨てられた子犬のように打ち萎れた情けない顔があり、
「ヘンな顔」
真希は人さし指をもう一人の自分の鼻先へと突き付けた。
- 501 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:41
- (アレも、もうずいぶん長いこと使ったし)
あきらめよう。
頭ではそう答えを出しているのに、身体は結論とは逆に動いている。ああ、と思った。
はっきり言葉にしてしまったら消えてしまいそうなほどほのかな理由が、心臓のあたりにある。
肺にあるのか血にでも混ざっているのか、息を吸うたびそれはどんどん膨れ上がって、苦しくなった真希は床に置いていた手をぐっと丸めた。
- 502 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/19(金) 00:42
- ないと、困る。
すこし邪魔かなと思ったこともあったが、慣れてしまうと手に当たるその感触は、息を吸うことと同じく日常の一部になった。だから、自分の身体の一部を削がれたようなすかすかした気分で、どうにも落ち着かない。
皮に擦れてもとの色を失ってしまったことも、尻尾が逆向きに付いていることも、自分にとっては大切なことだった。
「いなくなったら、だめじゃんよう」
絞り出した声は、自分で聞いても頼りなかった。
- 503 名前:遅筆 投稿日:2004/03/19(金) 00:44
- 見切り発車なので、ひとまず。
忘れていましたが、去年の12月なかごろから、27日
あたりまでの話になります。
季節はずしてすみません。
- 504 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:15
- なつみと美貴は、顔立ちが似ている。髪色と髪型も似通っているせいか、後ろ姿だけではすこし見分けづらい。その二人が同じ格好で窓際に並んで、曇り空の下、灰色に沈む街を見ている。眼下に連なる街路樹の揺れ具合から見て、外は相当の寒さであるにちがいない。
それなのに。
二人は同じ感想を持った。
「雪、降りませんね」
「うん、降らないね」
会話にもならない言葉をぽつりと互いにつぶやくと、外の風にごうと窓が鳴った。
「北海道は真っ白なころなのにね」
やはり同じ地方出身の圭織が、そんな二人の背中に声をかける。
「そうそう、滝川なんてヤグチさん埋めれる」
「室蘭は、どうかなあ」
北海道でも南に位置するため、室蘭では案外積雪はすくない。それでも起伏の多い地形に加え、外洋に面している土地柄、吹雪くことも多かった。人を埋めることはできないかもしれないが、凍らせることはまず可能だろう。
(そう言えば)
ユキユキとぶつぶつつぶやく隣の声を聞きながら、なつみは昔「雪は排気ガスの匂いがする」と言われた日のことを思い出していた。
- 505 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:17
- 「雪ってさ、車のガスの匂いがするよね」
ニット帽を深くかぶり、さらに顔半分をマフラーに埋めた真希は、かろうじて前髪と目だけをのぞかせている。それをなつみに笑われると、話題を変えたいのか、言いながら路傍の雪を軽く蹴った。
道の真ん中あたりは人の往来でアスファルトの地色が見えているものの、昨晩から降り続いた雪は街中を薄く包み、見渡す一帯が白い。
道の端にはところどころ泥じみをにじませた雪が積まれていて、葉のない木立の枝にも、やはり雪がかぶっている。しかしそれだけ降ってもまだ止みそうにない。
真希は傘をずらして上を見た。
「もうちょっと降ったら、ユキダルマ作れるかな」
空気は今にも凍りそうなほど冷たく、何かを言うたび言葉は白く煙って漂う。
その息が風に流れて消えるのを見送りながら、真希は同行者の返事を待っているようだったが、ずいぶん長い間なつみは黙ったままだった。
まさか本当に雪だるまを作ることができるかどうかを計算しているのかもしれない、そんな表情で真希はこちらをうかがっている。
- 506 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:19
- 「なっち?」
「ああ、えっとね、排気ガスの匂い、なんだね」
なつみは言い得て妙だとばかりうなずいて、自分もそう思うと続けた。東京の雪は、あまりいい匂いはしない。
「いい匂いなんて、するわけないじゃん」
「んなことないよ。室蘭の雪はいい匂いするもん。北海道の雪はきれいだもん」
こと自然に関して、北海道はその名前自体が不思議な引力を持っている。東京であたりまえのことも、向こうではまったく違う現象になるのかもしれず、案の定、真希は「そうなんだ」とひどく感心している。
なつみが憶えている室蘭の雪は、
「うーん、なーんて言うんだろ。花?……なんか、なんかいい匂いがするんだよ。むかしお母さんにこうやって匂いかがせてもらったもん」
手を丸めすくうような形をつくり、差し出す仕草をした。さすがに真希はそこに落ちる雪の匂いをかごうとはしなかったが、そのかわり、
「ふうん」
相づちを打って、なつみの首もとへ鼻先を近付ける。
- 507 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:20
- 「ちょっと、なーにするべさー?」
その肩をつかんで身体を押し戻したときには、すでになつみは顔中火を噴いたように赤くなっていた。もとより他意はなかったのだろう、真希はきょとんと目を見開いて、それから戸惑ったように告げた。
「花の匂いで、んで、いい匂いなら、じゃあ、なっちの匂いみたいなのかなあって」
だから、
「ユキ、見たくなったら、なっちの匂いかぎに来ればいいんだ」
真希はずいぶん神妙な顔で、ずいぶん奇妙な結論をくだした。
「なんだそれ」
「だってふつう雪が降るとき、排気ガスの匂いするもん」
「で、なんでなっちの匂い嗅ぐの?」
「いい匂いの方がいいに決まってんじゃん」
「……よくわかんないよ」
「うん、あたしも今なに言ってるかわかんなくなった」
なぜか照れてしまったようで、真希は乾いた笑いを放ってからそのままうつむいた。意味のない会話に呆れながらも、彼女の様子におかしさを覚えて、なつみは口調を和らげる。
「なんだそれ」
笑いながらいったん真希の身体に軽く体当たりをして、すこしよろめいた彼女の腕を取った。
- 508 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:22
- 「なっちは、雪の匂いなんだ?」
「うん、いい匂い」
「そっか」
それなら、と、なつみは目線をあげた。雪は次第に小やみになって、そろそろ傘も要らないように思われた。明日晴れたら、今降っている雪も残らず溶けてしまうだろうか。それぞれに一抹の寂しさを感じて、ふと二人の足が止まる。
それなら。耳を澄まさないと雪の降る音にさえ消えてしまいそうな声で、なつみは言った。
「したら、雪が降ったら、なっちんトコおいで」
うん、とも、わかった、とも真希は答えなかったが、ゆるゆるとほぐれた頬にうれしさをのぞかせて、ひとつうなずいた。うなずいて、身体を寄せ合ったためにぶつかってしまった自分の傘を閉じる。そうして、風を避けるように腕を組みなおした。
ひとつさした傘からはみだした肩に雪が落ちる。薄くはあるものの、雪を踏み分けて歩く靴の先はすっかり濡れて、指先は冷えている。
組んでいる腕のあたりだけが互いの体温で温かくなっていて、なつみは、雪というものは冷たいだけではないのだと思った。
- 509 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:27
- 「ハヤクフレフレ トーキョーノユキ」
呪文のようにつぶやいて何気なく柏手を打ったところ、一連の様子を見守っていた美貴の笑いのツボを圧してしまったらしい。室蘭では拝むと雪が降ってくるんですかとからかわれて、気付く。
言われてみれば、雪の止むのを願ったことはあるが、雪の降るのを神様にお願いしたことはない。
けれど雪が降り始めると、なんとなくうれしくなる。
空気が冷えて、今年もそろそろ、と思いはじめるころ、雪虫が飛ぶ。
昔は雪虫のゆらゆら飛ぶ姿をみつけると、自然曇りがちの空を仰いで、もうすぐ雪が降るんだと胸を踊らせていた。そのささやかな楽しみがなくなって、もうずいぶん経つ。
「東京には、ユキムシいないねえ」
なつみが窓ガラスに額をくっつけてつぶやくと、美貴も笑い止んで窓にのぞんだ。二人の息で窓は白く曇り、一瞬でかすんでしまった外の景色は、蜃気楼のように遠くなった。
「雪虫いないと、なんか、雪が降ってくる感じがしませんもんね」
美貴の言葉に、なつみは首をかしげる。
「そっかな」
「美貴はなんか、へんな感じがしますよ」
「なっちは、うん、もう慣れたかな」
指を折って過ごした冬の数を数えると、一度折った小指がまた立った。
- 510 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:30
- 慣れた、と思う。
なぜなら去年も一昨年も初雪は見たはずなのに、それは室蘭にいたころに比べて感動が薄く、このごろは初雪がいつだったのかもよく憶えていない。記憶に残らないほどささいな感情しかおこらなかったのだろうか。
それでも、はじめて東京で見た雪のことは、はっきりと思い出すことができる。圭織と彩と三人で「東京にも雪降るんだねー」とはしゃぎ回って、翌日全員で寝坊した。互いに責任をなすりつけあって、結局、すべて雪のせいだと決めつけた。
そんな自分たちの隣で、最年長と最年少のメンバーが二人、そろって呆れていたことも忘れていない。
ミーティングの後、
『雪虫って、なに?』
北海道組の会話の端々に現れた単語が、明日香の興味を引いたらしい。
なつみは虫とは言わず、予感だと答えた。
- 511 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:31
- 『もーすぐ、雪が降ってくるよっていう予感』
『ヨカン』
明日香はその単語をおうむ返しにつぶやくと、
『なるほど、寒くなると飛ぶ虫のことか』
あっさりと自分で答を出した。
不思議なことに、なつみにとって雪虫は虫というたぐいのものではない。さながら冬という季節があるような感覚で、雪虫という存在がある。
それは一個の生物というよりは、色や匂いといったある種のイメージに近いものだった。
『虫、なのかなあ』
なにか違うと思ったが、そのときはなにが違うかも分からなかったし、明日香にそれを説明しきれるほどの語彙も持たなかった。
なんとなく違和感を覚えたまま、雪虫のことは話題にも出さなくなって久しい。
- 512 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:33
- 「ねえ藤本、雪虫ってどんな虫だったかおぼえてる?」
心をまだ過去に半分置いたまま、なつみは訊ねた。「なっち、思い出せないんだ」
すると美貴はしばらく上を向いたり下を向いたりして考えていたが、やがて「ヒラヒラしてるヘンな虫」とだけ答えた。そんな取り留めのない形容にもかかわらず、彼女は「だったような気がする」とまで付け添えて、さらに答えを曖昧にする。
そうして「虫って思って見てなかったからなあ」と独り言のようにつぶやいた。
虫だと思うより、もうすぐ雪が降る、という期待が先に意識を占めてしまう。だから美貴にとって雪虫は信号みたいなものだったらしい。
「信号が赤になったらトマレで、青になったらススメですよね。赤い信号見て、あれは信号機だ、って思わないような感じ」
「……あーなんとなくわかる」
「雪虫飛んだら、お、雪が来るぞーって、そーいう感じ」
それは「予感」と同じようなものだろうか。
寒がりの美貴のことだから人よりも余計に警戒心がはたらいてしまうのかもしれない。
- 513 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/21(日) 03:35
- ぼんやり考えながら、部屋の暖気にすっかり白くなった窓から、なつみはもう一度外を見る。視線がかすんだビルの輪郭をなぞったとき、細くのぞいた雲間から夕陽が射した。
まぶしさに目を細めると、突然の光は、窓のやや高いあたりにうっすらと絵を浮かび上がらせる。
今日のように曇ったガラスに以前だれかが指で描いたのだろう、それはいびつなドラえもんで、ひげが変に曲がっていたり首輪が妙に太かったり、とても絵心があるようには思われない。
(圭ちゃんよりかは、うまいかな)
どうだろうと悩んだのは、オリジナリティを出すためか、大口を開けて笑うそのドラえもんの目がどうしてか座っていたからだった。
お世辞にもかわいいとは言えないが、ほのかになつかしさを感じる絵だった。
「へんなの」
口をついて出た言葉を、美貴は取り違えた。
「ですよね。やっぱ雪虫いないとなー」
彼女が言うには、これだけ寒いのに初雪がまだなのは、ちょっとおかしいらしい。それはきっと雪虫が飛んでいないからだと、頭の片隅で信じているようだった。
- 514 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:31
- 「あーないないないー、ないー」
頭を抱えて、足をばたつかせる。
探し疲れたうえに結局探し物はみつからず終いで、椅子から立ち上がる気力さえなくなった。いつもは物を散らかすはずの楽屋はイグアナ捜索のためにいつよりも片付いていて、その真ん中で真希は萎え切った顔を机にうつぶせる。
仕事の合間に局の廊下という廊下を歩き回り、スタジオから楽屋からごみ箱までのぞいて、イグアナを失くすまでの自分の行動を一から思い起こしてもみた。
(なんで、なくしちゃったんだろ)
鞄に手を伸ばし、確かめようとして思いとどまる。
確かめたところで、残っている鎖だけを見てさらに気落ちするに決まっていた。
- 515 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:32
- もっと早いうちにあきらめてしまえばよかったと、今になって後悔し始めている。失くしたことにこだわっているのは多分自分だけで、もう一人の当事者であるなつみは知っても何も思わないだろうし、第一彼女は憶えているかどうかさえ疑わしい。
(……いや)
真希は確信をもってうなずいた。
(ぜったい忘れてる)
絶大なその自信と同じくらいの脱力感にかられて、机の天板へ力なく頭を落とした。額をつけたまま億劫そうに左右の壁を見やり、ため息をつく。この楽屋には窓すらない。
昔は窮屈な楽屋に始終じっとしていることに耐えかねて、出歩いては「用もないのにうろうろするな」とよく叱られていた。一緒に叱られる相手としては、亜依が八割を占め、あとはひとみ、梨華とつづく。
記憶を順繰りにたどっていくと、案外なつみとの接点がすくないことに気がついた。
それなのに、離れているというような感覚もあまりない。
- 516 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:33
- 真希にとって、なつみは常に「そこにいる」存在だった。
真希が娘。に入る前も、卒業した今も、振り向けば希美とはしゃいでいる姿があるし、仕事で顔を合わせれば娘。のメンバー同然に接してくれる。
唯一彼女との距離を意識したのは自分の卒業のときだけで、しかしそれを振り返る余裕もなく一年が過ぎ、もうその年すら暮れようとしていた。
(ピンラン、ときぐらいかなあ)
例えば今の希美以上に、なつみにくっついて離れなかった時期を思い返すと、その記憶はずいぶん遠い。当時はまだ同い年のメンバーもおらず、ふざけあえる相手はごく限られていた。
元来妹気質である真希は、妹を持つなつみに姉と同じ匂いを嗅ぎとったのかもしれない。
そしてなつみもまた、真希に妹の姿を重ね合わせたのか、自然二人は行動を共にすることが多かった。
- 517 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:36
- 甘え過ぎていた、と思う。
彼女になら何をしても赦される。そう信じていたし、事実なつみは真希に対して声を荒げたことはなかった。だからどうしても怒らせてみたくて、ひどく無神経な態度を取ったことも一度ならずある。
当時、どれだけ彼女が自分のなかで葛藤し、もがいていたかは、後になって知った。
追い詰めた一因は後藤真希という存在で、その上だれよりも側にいたはずが結局なんの力にもなることができなかった。
『ごっちんのせいじゃないよ』
ことあるごとなつみはそう言って弁護してくれたが、それを彼女の口ぐせにしてしまった責任は自分にある。その心のしこりはまだ消えていない。
だから、逃げた。なんの束縛もなく、わずらわしい過去もない関係をつくって、とにかくなつみから離れたかった。
そうして自分から心の距離を置いたら置いたで、言い得ようもない後ろめたさが募っていく。
今でもよく思い出す、すこし冷たい指、花の香り、低い声。それは思い出さなければすぐに消えてしまうほど、遠い過去になっていた。
鞄のイグアナは目隠しの記憶とともに、互いにまっさらな間柄でいたころの遺産だったのかもしれない。
- 518 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:37
- 真希は眉間に皺をよせて鞄を机から引っ張り落とした。
「もーやぁーだー」
嘆息しながら畳敷きの床へ仰向けに寝転がった。すると、「やぁーだー」の最後のだの形に口を開けて固まったその真上に、いつ入ってきたのか見知った顔が三つ並んでいる。
うち、他よりも色の黒い一つが甲高い声で告げた。
「ごっちん駅前交番、出番出番、もーすぐだよ」
「梨華ちゃん、と、よしこ、と」
放り出した鞄をそっと引き寄せて、真希は起き上がった。
「で、やぐっつぁんは、なんでいるの?」
「ひっどー」
「てか、ノックぐらいしようよ」
「したじゃん! でもぜんぜん反応ないから心配んなって入ってみたら、メイクもまだだし衣装もまだだし、んで『なんでいるの』じゃ、やってらんないよ」
「だって! しかたないじゃんか」
「なにがしかたないの」
三人三様に興味津々の眸を向けられて、一瞬真希は躊躇したが、話の流れとやる方ない気持ちが溢れるにまかせて思わず叫んだ。
「だってイグアナなくしちゃったんだもん!」
- 519 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:40
- 『北海道の雪は、いい匂いがするんだよ』
なつみが故郷の話をするたび、真希は気持ち一歩引いてしまう。娘。内には同じ北海道の出身が多いため、自然彼女たちから疎外されているようでいたたまれない。自分にはどこを探しても東京で培われた記憶ばかりで、同意することも否定することもできずに、ただ黙って聞いているしかない。
気に留めなければいいものの、なつみの嬉しそうな顔を見ると、軽い嫉妬を覚えずにはいられなかった。
彼女の眸と記憶のなかにある景色は、けっして自分には共有できない。
どれだけ手を伸ばしても、東京から津軽海峡を越えた室蘭までは届きようがなく、うつむいて手許をみつめ話の終わるのを待つ。
その間、ごっちんごっちん、と、いつもは話の節々で掛けられる呼び名すら聞こえてこない。
(あたりまえだ)
と思う。
室蘭で過ごした一五年は、なつみが真希を知ってからの歳月よりずっと長く、その分ずっと深い意味を持っているにちがいない。
だから、すこし低い彼女の声をただ音として聴きながら、やがて瞼を閉じる。
- 520 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:41
- 『いい匂いなんて、するわけないじゃん』
自分なりに精一杯の否定も、すんなりかわされた。
『んなことないよ。室蘭の雪はいい匂いするもん』
なつみは卑怯だ。室蘭を知らない真希は、どうやってもこの反論に太刀打ちできない。
けれど。
真希は横目でなつみを見た。
彼女は顔にかからないよううまく雪を避けながら、傘をはすにして暗い空を見上げている。その視線の先にはきっと室蘭の空があるはずで、眸には望郷とも懐古ともつかない不思議な色があった。そんなときのため息まじりのなつみの声は、聞いていてひどく心地いい。
もっと側で聴きたい。
思うのと身体が動くのはほぼ同時だった。傘が邪魔になってもどかしかったが、なつみの首筋に顔を埋めると、途端すっとした匂いに包まれる。そのつぎに今度はすこし甘い、石鹸のような香りが鼻をくすぐった。
細めた目の、そのうすい視界には粉雪がいくつも浮かんで、白いコートの襟ごしに現れては消え、消えてはまたまばらに落ちてくる。
『ちょっと、なーにするべさー?』
真希はそのままずっと動かずにいたかったが、相手にも事情はある。いくぶん上ずった声とともに、すぐに押し戻された。
雪となつみは、匂いという記憶のなかにそのまま封印されて、今にいたる。
- 521 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:43
- 一二月も残りすくなになって、それでもまだ雪は降らない。
このまま晴天が続いて、初雪は年明けに持ち越されるだろうと思われた。
そのころになると生活は年末進行で、毎日が分刻みのスケジュールでびっしりと埋め尽くされる。もちろん空を見上げる余裕も、寒さに不平を言う時間もない。
必然、イグアナのことも忘れた。
「後藤さん、本番です」
今日何度目かの呼び出しに、そろそろ新しい鞄でも買おうかと思いながら、真希は惰性で返事をした。
- 522 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:52
- 娘。の楽屋はいつも以上に騒々しい。
そのなかで、先週の終わりあたりから何人かのメンバーが常に不審な行動を取っていて、走り回ってみたりしゃがみ込んで妙なところを覗き込んでみたりと、はたから見れば奇妙と言うよりほかはない。
注意しようと事情を聞いた残りのメンバーまでそれに加わり、年の瀬に沸き返る局内で、彼女たちの周囲一帯だけひときわ異様な光景を展開していた。
合い言葉は「ごっちん」
そしてなぜかなつみだけがその挙動不審団体からつまはじきにされる形で、ひとりぼんやりしている。しかしさすがに気にはなったとみえて、真里あたりに何度か訊ねていたが、その都度のらりくらりとかわされてしまい、唇をとがらせることしかできない。
ところがその日は矛先をかるく変えて、希美に話を振ってみた。
「ねーえ、のんたちさぁ、こないだから何やってんの?」
希美は、じつは梨華から口止めをされたはずが、とうに忘れていたらしく、
「えーっとねえ、ごっちんの、さがしもの」
屈託なく答えた。
「ごっつぁんの?」
「そう、キーホルダー。なんかごっちんがなくしちゃってやる気なくなって、んでやーだーみたいになっちゃったから、みんなで探そうって」
「へえ、じゃあ、なっちもさがそかな?」
「うん、いいよ」
「どんなヤツ?」
「えーっとね、なんかヘンなので……」
- 523 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/23(火) 22:56
- 翌日、なつみまでが挙動不審になっているのを見た真里は、へらへらと彼女にまとわりついている希美と麻琴を見て、がっくりと肩を落とした。
はからずも自身でプレゼントしたものを捜索する羽目になったなつみに、一抹のおかしさを覚えながら、逆にじゃれては大声をあげて笑う希美を渋い顔でみつめる。軽くてなめらかな彼女の舌は、古今類を見ない。
その軽さ加減にかけては、
「あいつらエアチョコ以下」
真里はぼそっとつぶやいた。
- 524 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:00
- ごっつぁんのキーホルダーを探そう。
明確な目的のわりに、「アベちゃーん」と呼んでみたり人の衣装のなかに手を入れて遊んでみたりと、皆そこはかとなく仕事の気晴らしのような感覚でいるらしい。
そのうち物を探すことに愉しみを見い出したのか、やたら家の中を漁り、みつけためぼしいものを持ち寄っての品評会まで開かれるようになった。
目的と手段の入れ替わりというものは、こういう場合たいへん顕著である。
その日も、圭織が部屋でみつけた古い写真をごっそり持参して、朝早いうちから祭りでも始まったような騒ぎになった。
- 525 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:01
- 圭織当人にしてみれば、写真を肴に昔語りでもしようというつもりだったらしいが、写っている「当時」を知らないほとんどのメンバーにとって、それは新鮮な笑いの種になる。
唯一他とちがう反応を見せたのは里沙で、トレーディングカードよろしく食い入るように一枚一枚を吟味している。他のメンバーの笑い声がさざめくなかで、なつみは里沙の横からその手許をのぞきこんだ。
気配を感じて振り向いた里沙は、二、三枚の写真を見せながら、
「これ、後藤さんが入ったときの年末ですよね」
興奮を押さえきれずに頬は紅潮している。未だにモーニング娘。を憧れの対象にしている彼女の、熱心なファン心理なのだろう。
微笑ましく思いながら、なつみはどれどれと写真をみつめ、首をかしげた。
- 526 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:02
- 「どうかなあ。ごっつぁんのはじめのころ、こんな顔だった気もするけど」
「矢口さんと後藤さんの髪型と色が、あの年の十二月くらいなんです」
「よくおぼえてるねえ」
「私、ホント大ファンだったんで、あの、安倍さんとこうやって話してるのも、今でもなんか夢みたいです」
「ちょっとうれしいコト言ってくれるじゃん、このコは」
ほのかな嬉しさと照れを眸に浮かべたなつみに、安倍さんの写ってるのもありますよと差し出された一枚は初めて目にするものだった。
羽織っている白いコートには憶えがある。マフラーは今でも現役で、ただ、その中味である自分の顔に記憶がない。背景は黒にちかい藍色をしていて、夜なのだろうか。周囲にはかろうじて街灯らしき灯りがあるくらいで、きらびやかな街中で撮ったものではないことがわかる。
そこまでは推し量ることはできても、肝心の自分の表情への疑問は解けない。
- 527 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:04
- なつみが考え込んでいると、それまで他の話の輪に入っていた真里が、横から口を出した。
「うお、なっち初々しい。ロケんときのだ」
「ロケ?」
「そう。ホラ、雪降ってるじゃん。あんときもーなっちはしゃぎまくりでさあ、ディレクターさんに本番に備えて早く寝てって言われてんのに」
なつみの手にある写真を指さし、
「こーだもん」
その指の先には、数年まえの自分がこれ以上はないほど喜色満面の顔で両手を広げている。
「そうそう、こんとき、初雪だったんだよね」
真里につられたのか、圭織が長身をかがめて、なつみをからかった。
「ゆきーゆきーゆきーって、口の形してるっしょ? 降ったーってさ、ぱったぱった走り回ってさ、おまえは沖縄の子かよと」
「や、見慣れてるはずなんだけどねえ」
「それも、毎年だよね」
「え?」
そうかな。不思議そうに問い返すと、年長組の二人は顔を見合わせてから、そろって肩をすくめてみせる。
「毎年、雪降った降ったさわいで、クリスマスのイルミネ−ション見て『はぁーもーなっちこんなキレイなのはじめて見たよー』ってさ、いいかげん慣れろって毎っ年言われてるっしょ」
圭織が言って、そうだそうだと真里が両手を打って笑った。
「ふうん」
- 528 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:05
- 写真を上にかかげて、部屋の光に透かしてみる。そうしてふと、景色の隅に小さな人影があることに気が付いた。
その人は手に木の枝のようなものを持って、深く積もった雪のうえになにやら落書きをしている。
(ごっつぁん?)
まだ幼さの残る、猫背気味な立ち姿に目を凝らした。
なにを描いているのだろう。
角度と距離の関係でよくは見えない。ただ枝を持つその人の顔はなんとなく嬉しそうで、手前で笑っているなつみの背に目をやっているようでもある。大人気なくはしゃぐ自分に気をとられ、落書きをしている手を止めたときに撮られたのだろうか。
「ねえ、圭織」
無意識に同期の名を呼ぶ。
「うん、なに」
「毎年、なっちこんな感じ?」
「そうだよ。毎年。あきもせず」
「雪降ったら」
「そう、毎年」
ふうん。相づちとも気のない返事ともつかない声を洩らして、なつみはもう一度写真に視線を落とした。すると手許へ落ちた視線は、ふと手を逸れて机へと流れる。
- 529 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:07
- 目をやった辺りにはまだ幾枚かの写真が散らばっていて、そのうちのひとつが他に比べてやけに白い。
一見、積もった雪を写しただけのようにも見える。
ただその端の方に転がっている枝は、さきほど真希の持っていたものと同じであるように思われた。興味をひかれてじっとみつめていると、やがて雪のうえに薄い影があって、その影が線をなしておぼろげに形を結んでいることに気付く。
丸い顔、丸い目、丸い鼻。いびつなひげ。
「あ、そっか」
なつみはふっと頬をゆるませ、手にしていた一枚をその隣に並べて置いた。今より丸い自分の顔は絵で見るスイカのように大口を開けて笑っていて、それがどうも雪に描かれたキャラクターによく似ている。
あの頃よりも少しは成長しただろうか。写真のなかの自分に問いかけてみる。
たとえ雪虫はいなくても雪は降り、どれだけ東京に住み慣れても降る雪を見上げる顔は変わらない。
「そっか、たのしかったんだ」
目を細めてつぶやいた。机の上のちいさな冬景色がすこしまぶしい。
- 530 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:08
- セットのスクリーンを染めるうす青いライトを心ここに在らずの態でながめていると、なにかの合図か奥の方でちかちかと二、三度白い光が明滅した。すると、夜空を模したのだろう、きれいなグラデーションをなしていた照明がすっと落ちて、かわりに淡いフットライトが点る。
上半分が暗く足許にほの明かりが敷かれているその様は、まるでいつかの雪道のようだった。
舞台効果の確認をしているあいだ、真希はステージのわきで動くことを忘れたようにたたずんでいる。せわしなく視界を横切るスタッフも他の出演者のきらびやかな衣装も、今は背後にあるくらがりに溶け込んで、意識の外にある。
- 531 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:09
- (頭、ぶつけてたな)
一昨日の収録で顔を合わせたとき、最近行動のおかしいメンバーとともになつみはやたら張り切ってスタジオのなかを歩き回っていた。その際、どう考えても予測のつく機材の位置の目測を過って避けそこねる。
真希が唖然としてみつめていることを知ると、彼女は屹とした光を目に宿らせてこちらを見返し、わずかに「マカセロ」と唇を動かしたように思えた。
もちろん声を発した様子はなかったし、声に出したとしても周囲の喧噪にさえぎられて、届くはずはなかった。
なにを任せているのか、真希にはわからない。
それよりも、他人のことをかまっているような、そんな時間がなつみにあることが不思議だった。
『ごっちん』
呼ばれたように思って、もう一度セットを見る。
それはたしかになつみの声だったが、呼び方がいまとちがう。照明が落ちていまだ焦点の定まりきらない視界に、ふと雪の落ちるのが見えた気がした。
(おーなんだー、なっち)
心のなかで返事をする。
何年かまえのあの雪の夜から呼ばれたのかもしれない。
- 532 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:10
- 「ごっちんごっちんみてみてみてホラ雪だよユキすっごいねー」
「あー待ってよ、あんまはやく行かないでって」
ついでに言葉も区切ってくれると聞き取りやすい。
慣れない凍った道に足を取られながら、真希はなつみの背中に文句を言った。もたついている自分を待っているあいだも、なつみは落ち着きなく同じところをぐるぐると周り、新雪に足跡の円を描いていた。
それが面白かったのか、彼女は今度は妙な動きをみせて、右へ行ったり左へ行ったり、果てはぴょこぴょこと跳ねてまでいる。一連の動きが止まったところでようやく真希が追いつくと、誇らしげに足許を見るよう促された。
見れば雪の上には足跡で文字が書かれている。いびつな形だったが、その実なつみの手書き文字よりくせがなく読みやすい。
- 533 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:12
- 「ま」
「き」
思わず声に出して、けれどそのあとどう反応していいかわからず、「えへへ」と情けない照れ笑いをするよりほかがなかった。
「ごっちんのこといっつもごっちんって呼んでるから、名前忘れそうになった」
というのが、雪を紙の、靴をペンの代わりにした理由らしい。
「じゃあ」
真希はうつむいていた顔をあげると、道の脇にある芝生のあたりへ駆け寄った。芝生はすっかり雪に被われてなだらかな斜面をなしている。なつみも真希のしようとしていることが何かわかったのだろう、勇んでついてきた。
「なー」
一音一音区切りながら言い、足踏みをする。
「つー」
なつみも声を合わせた。
「みー!」
足跡を思ったようにつけるのは案外むずかしい。頭のなかで字面の軌跡を考えながらたどっていると、「な」だけがやたら大きくなり、「つ」と「み」はそれに比べて不格好に小さくなった。
- 534 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:14
- 「なー! ……つみって感じだねえ」
楽しげに告げられて、真希は申し訳なさにうなだれる。雪に足跡で名前を書くという、ただそれだけの行為がなぜかとても特別なことのように思えて、勢い込んでいた分、気持ちの下降する落差も大きい。
雪はいつか消えてしまう。たがいの名前も、さらに雪が積もれば消え、雪が地熱で溶けても消える。形に残らないことでそれは二人の記憶のなかだけの光景になるのだと考えれば、「な」という一文字だけを大きくしてアンバランスな名前にしてしまった罪は重い。
肩を落とすのと同時に「ごめん」と言った。
- 535 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:15
- しかし謝罪が届いたのかどうか不安になるほど、なつみからの反応がない。焦れて彼女の顔まで目線をあげると、
「まー気にすんなー」
訛りのつよい返事が、やや浮かれた調子で返ってきた。
「でも、なーだけおおきくなっちゃった」
「いいよ。また雪降ったら、今度はなっちがその『な』よりでっかい『まき』を書くからさ、ごっちんは、それよりでっかく『なつみ』って書いて。つーもみーもでっかく」
「へへ、つーもみーもでっかく」
「もー、こうさ、飛行機からみえるくらい、でっかく」
なつみはコートの袖を引っ張るほど勢いよく両腕をひらいた。止むかと思っていた雪はふたたびちらつきはじめ、二人の足下でそれぞれの名前ははやくも消えかかっている。
うっすらと白く染まった文字のなかで、真希の描いた「な」だけが唯一埋もれずにいて、飛行機からみえるくらい大きく書けば吹雪にも勝てるかもしれない。
「今度、雪降ったら、書くから」
指切りをするような心持ちで告げると、なつみは満面の笑みで「おう」と言った。
- 536 名前:フロレアル 投稿日:2004/03/28(日) 12:17
- もう三年以上まえになる。
あれから何度も冬はやってきて数えきれないほど街は白く包まれたけれど、あの夜の約束は結局まだ果たせずにいる。忘れたわけではなかった。ただ、そうやってずっと約束を留めておくことで、彼女とのつながりを持っていたかった。
(だって、もう、イグアナもないし)
ぼんやりと漂わせていた視線を、意味もなく左手へ置いた。
「モーニング娘。」という絆さえ、あと一月で過去のものになる。内緒でおかしな振り付けを考えてみたり、相手を見ることなく呼吸で立ち位置を合わせていたのも、思い返せばずいぶんと昔のことのような気がする。
今度。
照明が変わり、一面に広がる澄み切った青をまぶしくみつめた。
(今度、雪が降ったら)
三年越しの約束を果たしにいこう。
- 537 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:23
- 午後三時を過ぎて、視界が陰った。
室内の照明は変わらず点いているものの、光の届く範囲が狭まったように感じて、なつみは外を見た。すると朝方は西の端にうずくまっていた雲が、今は空一面に広がって太陽を隠している。
陽の当たらない街はまるで墨絵のようで、いつもの華やかな色合いは折からの空模様にすっかり吸い取られてしまったかに見える。
冬の色だ、となつみは思った。
それは東京の冬であって、室蘭の冬ではない。室蘭では気温がぐっと下がると同時に雪虫が飛び、それから間もなく山沿いに雪が吹き落ちてくる。冬になったかならないかで優柔不断にうろうろする季節が、北国にはない。冬はいきなりやってきて、身構える暇もなく街は白くなる。
黒とも白ともつかない灰色の時間は、上京してはじめて味わった。
- 538 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:24
- 季節も都会では迷うのかと、田舎育ちの自分の身に照らし合わせてみたこともある。
圭織あたりは「きっと高尾山あたりで迷ってるんだよ」と本気なのか冗談なのか分からない理由をあげていた。たとえばそれが真実だとして、山で迷って遠回りした雪雲からは、きっと疲れた雪が落ちてくるにちがいない。喧嘩腰にぶつかってくる故郷のものとはちがって、ここでの雪がひどくはかなげで柔らかい降り方をするのは、ひとつには圭織の言う「理由」があるからかもしれない。
だから雪の匂いも排気ガスに負けてしまう。
手近の窓を見やって、なつみはふっと口許を弛めた。
見えるか見えないかのところでかろうじて姿を留めているあのドラえもんが、いつもと同じくこちらを見下ろしていて、今日は光の加減かなにか物言いたげな顔をしている。
『いい匂いなんて、するわけないじゃん』
目を逸らし、どこか控えめに文句を言う彼女にも似ている。
(そうだ)
ふいに、ずっと心の隅に引っ掛かっていたことが思い出されて、なつみは知らず声に出した。
「ごっつぁんに、謝らなきゃ、だったんだ」
- 539 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:26
- その自分の声に驚いて我にかえると、絵里が間近で目をきょとんとさせている。
先刻までステージでの振りを並んで合わせていた彼女は、急に動きを止めて思案にふけった自分に、どう対処していいのかわからずにいるらしかった。それでも、
「あの」
おずおずと切り出した語調は、割り合いしっかりしている。しかし声とは対照的に不安げな面持ちで、眉間には三筋ほど皺ができていた。
「絵里と練習するの、嫌なんですか」
「ちがうちがう、ごめん、ちょっとなっち、ボーってしてた」
謝ると、何かを思い立ったらしく絵里は自分の鞄へと走り寄ってから、一度なつみを見た。そうして鞄のなかから白いものを取り出して、うきうきとした足取りで戻ってくる。なつみがその黒目がちな目を見張って、不思議そうに後輩の動きをながめていると、
「じゃ、安倍さん、絵里へのオワビとして、ヨーグルト、あーんしてください」
「は?」
差し出されたプラスチックのスプーンと、牛の絵が描かれているヨーグルトに、思わず身を後ろへ引いた。
- 540 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:27
- 「なに? なんで、あーんするって、なっちが?」
なつみが自分を指さすと、相手は期待に胸をおどらせているような眼差しで、うんと頷く。
「亀ちゃんに?」
同じく、今度はうんうんと二度首を縦に振る。
「ハイ、どうぞ」
にこやかに渡されたヨーグルトを手に、なつみは苦笑するほかない。
絵里の存在を忘れてひとり過去をながめていた申し訳なさもある上、考えてみれば最近は自分の方が後輩の面々にたいして甘えていることもあり、たまには甘やかす側にまわってもみるのもいい。
「もー亀ちゃんは甘えんぼさんだねえ」
ひな鳥のごとく身構えた絵里に、半分餌付けをする気分で言われたとおりヨーグルトを運んでやる。すると一口飲み込んでから、
「安倍さんにあーんってやってもらったから、いつもよりおいしいです」
ぬけぬけとした顔で絵里は言った。言ってから一旦首をかしげ、何かの答えを求めるかのように、じっとなつみをみつめる。スプーンとヨーグルトを持ったまま、なつみは彼女の好奇の視線にさらされて、ずいぶん居心地がわるい。
- 541 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:31
- 「なんで、そんなになっちのこと見るのさ」
「え、と、あのぉ、すごいなあって」
「なに?」
「ほんとにヨーグルトの味が、いつもとちがうんで」
「んなワケないっしょ」
「でも、なんか、桃っぽい」
「もも? あ、そっか」
絵里のこぼしたふた文字の単語になつみは思い当たる節があった。
「いまさっき、あいぼんたちとさ、桃食べたんだ。だから、匂いがうつって」
すこし季節をはずしたその果物は、差し入れに届いた盛り合わせのうちのひとつだった。聞いた話によると出荷数が少ないために、それは驚くほど高価なものだったらしい。
しかし、どれだけ高価だろうが食べ物にはちがいなく、なんの躊躇もないままメンバーの腹におさまったため今は跡形もない。
そのとき皮を剥いたなつみの手から、ヨーグルトへかすかな匂いがうつってしまったのだろう。たしかに、手を鼻へ持っていくと、涼やかな甘い香りが残っている。
(おんなじだ)
てのひらを見る。そして、何か大事なものをくるむように指を丸めた。
- 542 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:33
- 雪は、いい匂いがする。
疑いもなくそう信じていた。言葉で言い表すことはできないが、どんな匂いかも忘れてはいない。
けれど雪は氷の結晶で、よく考えてみれば無味無臭であることにうっすら気付いてもいた。
半年ほど前だろうか、それまで東京と室蘭を行ったり来たりしていた母親が、妹についてこちらで暮らすことになり、引っ越しの手伝いにいったことがあった。
春も過ぎ、目にあざやかな葉々が街路樹の枝のかしこに茂りだしたころである。
家の性格か、どことなくのんびりした引っ越しで、手伝うと言ってもほとんど役に立つこともなく、なつみは休み休み細かな作業ばかりこなしていた。
母親が東京へ出てくるにあたって用意したダンボールの中味にはいくつか要らないものも混ざっていて、そのうち古い化粧品を妹と一緒になって物色していると、しばらくして、漂う香りのなかになつかしい匂いのあることに気がついた。
なんの匂いだろうとぐるりあたりを見回すと、それは妹の膝もとにある摩りガラスの瓶からで、すでに試したのか瓶は蓋を開けられたまま置き捨ててある。
- 543 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:36
- 手に取ると、なつかしさは一つの確信に変わった。
「なんだ」
わずかな落胆とそれ以上のおかしさが喉の奥から込み上げる。
「お母さんの、匂いだったんだ」
それはたしかになつみの知る「雪の匂い」に外ならず、何年も昔に嗅いだその匂いは母親の移り香にすぎなかった。
確かめることもないまま、その勘違いを惜し気もなく周囲に披露していた自分には、呆れるしかない。
くわえて勘違いを刷り込まれてしまった相手は、すっかり忘れてしまっているか、もし憶えているとするなら、たぶん今でも室蘭の雪はいい匂いがするのだと信じ込んでいる。
だから、
(謝りにいかなきゃ)
もう一度練習しようと誘う絵里の声を聞きながら、なつみは握りしめていた指をそっとほどいた。窓を見上げれば、らくがきを透かして、一面に波打つ雲がずいぶん低いところまで降りてきている。
- 544 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:48
- 「ほんわかぱっぱーほんわかぱっぱードーラっえもん」
たらららら、とラストの伴奏まで口ずさんで、そのリズムに合わせ真希は楽屋にすべりこみ、曲の終了と同時に扉を閉める。
ひとつ収録を終えて帰った楽屋は角部屋で、一人部屋にしては間取りが大きく、その分がらんとしている。真希にとってそれはもう慣れたもので、娘。を卒業してからしばらく感じていた心細さはない。
扉一枚へだてた廊下では物や人がごったがえしていて、まるで目に見えない年の瀬が質量をともなって迫ってきているかのようだった。
背中でその喧噪を受けながら、ため息をつこうとして、やめた。
よく知る人の話によれば、『ため息をつくと、幸せが逃げちゃう』らしく、彼女の前ですこしでもため息を洩らそうものなら、当人以上に幸せを逃がしてしまった顔で心配される。
あまりに何度も注意されるので、
「いいよ、もう幸せにヘッドロックとかかけて、逃がさないようにするから」
とへ理屈をこねると、幸せに頭なんかあるわけないと揚げ足をとられてしまった。
- 545 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:54
- (もう二十二のくせに)
幼稚な論理を振り回すかたわら、たまに驚くほど年上の余裕を見せる。大人なのか子どもなのか分からない。その境目をうろうろしながら、どっちつかずでいるのはずるい。
「あたしの方が、さきに大人になっちゃうぞ」
つぶやいて、先刻のみ込んだため息のかわりに大きく息を吸った。
と、
(あれ?)
不意にへんな気分に襲われる。
しかし、なにがどうおかしいのかすぐには見当がつかない。
(なんだろ?)
しきりに首をかしげ、衣装を替えることもせずに突っ立ったままじっと考え込んだ。しかしそれもわずかの間で、すぐに答えにたどり着いたらしく、真希の口許にふっと笑みが浮かぶ。
だれかが楽屋にいた気配がする。かすかな芳香が残っている。
そのどちらも真希には憶えがあり、へんな気分になったのは、それを感じて無意識に胸がざわめいたのだろう。
気配の因は扉の内側にかくれていて、今は自分の背中から二メ−トルもないほど近くで必死に息を殺しているはずだった。
- 546 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 22:59
- 真希は半分からかうような気分で、
「あー肩コッタ」
などと大仰に肩をほぐしてみせる。
不自然なほど、背後を見ないよううろつかせていた視線は、やがて冬空を映し込んで藍色がかっている窓に吸い付けられる。外が暗いためかガラスは鏡のように部屋の明かりを反射して、必然部屋にいる真希ともうひとりの姿を映し出した。
最近伸びてきた髪をふたたび切って、髪のすくなさを目立たせないよう、今は左に分け目を変えている。
帰りがけなのか楽屋入りしたばかりなのか、彼女は私服のままで、どことなくしゃちほこばった表情のなかに無邪気な笑顔を隠しているように思われた。
驚かそうとでもしているのだろうか。
あまりにもあどけない思考に、知らず識らず頬のあたりがほころんでくる。
畳敷きの床にあぐらをかいて座り込むと、真希はわざと欠伸をした。
- 547 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:01
- 頃合いを見計らって、案の定なつみはそっと近付いてくる。背中に神経を集中していると、あのよく知る匂いがして、それから真希の期待ごと包むように両の目を手で覆われた。
「三つ数えてから、見ていいよ」
目隠しをした手の小ささとどこかはずんだ声色、けれどそれは以前聞いたときよりも落ち着きのある声で、手の大きさは変わっていないが、それだけ年月の隔たりを感じさせる。
変わらないと言えば声の温度で、それは季節をひとつ飛ばした春を思わせた。
「なにすんだよう、なっち」
「女の子が人まえであぐらなんてかいちゃいけません」
「あー、なんかお母さんみたいなこと言うー」
過去の再現をこころみようとした真希を無視して、説教をはじめた相手に脱力する。気分が萎えたついでに目隠しをされている自分の顔を指さし、なんのつもりかを問いただした。
「うん、だから、いちにーさんでばってやるから、数えてよ」
「そーすれば、なんかいいことある?」
「内緒」
- 548 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:17
- なつみは一言答えたきり、あとはうんともすんとも言ってくれない。
人一倍非力なため、もがけばすぐにはずすこともできるだろうが、彼女のてこでも離すまいという意志を汲み取って、真希は丸めていた背をすっと糺した。
「じゃあ、言うよ」
ひょっとしたら、イグアナでも出てくるかもしれない。
すると閉じた瞼の裏に見慣れたあのイグアナがのそりと現れて、想像の中ですら尻尾がさかさまになっていることに苦笑した。
「いーち、にい、さーん」
歌うように三つ数えて、真希はなつみが手をはなしてくれるのを待ってみたが、なかなか視界は明るくならない。焦るのもみっともない気がして、黙ったまま、見えない窓に意識を向けた。
昨日まで景色をざわめかせていた風も、今はないでいるらしく、道に沿って並ぶ木々もしんと静まり返っている。
その静けさが部屋の中にまで吸い寄せられてしまったのかと思うほど、二人のあいだの沈黙は続いた。
今後ろにいるなつみも幻覚なのかもしれない。
そんなとりとめのない推理も、次第に高くなる鼓動に邪魔されて、すこしもまとまってはくれずにいる。
もう一度かぞえてみようか、真希が思ったとき、耳もとでちいさな咳払いが聞こえた。
- 549 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:18
- 「なっち?」
「うん?」
「かぞえたよ」
「……うん」
ふっと息をついたなつみは、「ごめんね」とかすかにつぶやいて、抱える格好だった真希の頭からようやく腕をはなした。
光に目が慣れるまでの数瞬のあいだ、真希はなつみの謝った意味を考えていたが、答えは出ない。いぶかしく思っているうちに、部屋の様子がじわりと目に馴染んできた。
そこは目隠しをされる前となんら変わりがない。
白い冷たそうな壁、その冷たさを和らげるかのごとく広く抜き取られた窓、銀色の桟から左下に視線を下ろしたところには鏡台が置かれている。
唯一視界に入らない背後には、やりどころのなくなった手を膝においたなつみが、ぼんやりと座っているのだろう。吐息だけが聞こえてくる。
「あれ?」
ぐるりと部屋を一巡させてから、真希が目を胸許の机の上へ引き戻すと、期待に反してそこには何もない。戸惑いながら問いかけてみる。
「ええと、なんも、ないよ?」
これがなつみの「ごめん」の理由だったのだろうか。
- 550 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:22
- 「ほんとは」
しばらくして、言いにくそうに、わずかな自嘲を込めた声が届く。
「ほんとは、だーれだって、やろうと思っただけぇ……なんだけど、はは、なんかさ、急にさ、いちにーさんってやりたくなっちゃって」
照れた笑いにようやく真希は後ろを向いた。無理に身体をひねったため、すこし苦しい格好だったが、振り向いた先にいるなつみの姿に思わず笑みがこぼれる。
「ちょっと期待しちゃったじゃんか」
「うん、ほんとは、なっちもその期待にこたえたかった」
実のところ、彼女は真希の探しているものを届けたかったのだと言う。最近娘。のメンバーに妙な行動の多かったのも、すべてそのためらしい。
「なくしちゃったんでしょ? えーっと、ホラ」
「ああ、もしかして、イグ……」
「イ」
「うん、だからイグア」
「インドワニのキーホルダー!」
(イしか合ってないよ、なっち)
インドワニという種類のワニがいるのかどうかも定かではない。たぶんいないだろうと思った。
- 551 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:23
- 娘。名物の伝言ゲームにのって、見当はずれなものを必死に探していたなつみは、いかにも残念そうな表情でため息をついた。
「ほんとはさ、なっちがみつけてあげたかったんだけどさ」
「うん、ありがとね」
「でさ、さっきみたいにして、ばーんってやって、ごっつぁんをびっくりさせたかったんだ」
「そっか」
「まえあげた、イグアナみたいにさ」
「え?」
それまですこしうつむき加減だった真希は、なにかを窺うかのように視線だけをなつみへ向けた。彼女はつい昨日の話でもするように軽く目線をあげて、意味もなくぴたぴたと自分の頬をはたいている。
そうして、からかうように「ごっつぁんは、おぼえてないかもしんないけどねー」と言った。
「あれ、ほんっと、探すのたいへんだったんだよねえ。『あの、イグアナのやつ探してるんですけどぉ』って聞いてまわってさー、なんかさー、ふつうイグアナなんて飼ってないっしょ? ストラップなんてないからキーホルダーとか見てさ、インドワニには、かなわないけど」
なにが悔しいのか、語尾が拗ねている。
- 552 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:26
- 「でさ、あれ、しばらく大事に持っててくれたじゃん。だから、ちょっとうれしかったな」
「そっか」
真希はなつみとこのままどう向き合っていればいいのか分からず、それほど興味をひかれなかった振りをして、後ろへ向けていた身体をもとへもどした。もどしてから、堪えきれないくすぐったさが顔中に広がる。
「あのさあ、いまさらなんだけど」声が震えているのが自分でもわかった。「みんなにも、言っといてほしいんだけど」
「なに?」
「キーホルダーさ、あれ、なくしたーって思ってただけで、じつはあったんだよね」
声の揺れを押さえるために、床に置いていた手をぐっと握りしめる。
「ええ? ほんと?」
「うん、気付かなかっただけでさ。ちゃんと、あったから、ごめんねーって、言っといてくれないかな。あの、なっちにも、ごめんね」
イグアナの件がなければ、スタジオをうろつく必要も、機材に頭をぶつけることもなかっただろう。
せっかく探したのに、という不平の言葉が聞こえるかと思いきや、なつみは目一杯声をはずませて「よかったじゃん」と答えてくれた。
- 553 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:28
- (そういえば)
なつみは、何をしにここへ来たのだろう。
ひとしきり昂った気持ちを落ち着けると、素朴な疑問が転がりでてくる。
彼女は、ただ驚かすためだけに人の楽屋へ忍び込むような、おちゃらけた性格ではない。どちらかと言えば生真面目すぎるほど生真面目で、たまに常識に欠けるものの、相応の分別は持ち合わせている。
ただ、真希にはなつみが訊ねてくる理由に心当たりはない。
名前を呼ぼうと口を開きかけたとき、なつみはふいに膝立ちで窓の側へと寄り、見守る真希の視線の先で窓ガラスに手をあてて向こうを覗き込んだ。
「うわー、寒そう」
なんの脈絡もない言動を不思議に思ったのと、声の明るさにつられて、真希はなつみの肩に寄りかかるようにして外を見る。
風が吹いている様子はない。雲に被われた暗い景色と、手をあてたガラスの冷たさで外気の温度を推し量ったのだろう。
寒そうだという窓の向こうに比べて、彼女の背中はもうしばらくすれば汗すら滲んでくるだろうというほど、熱を持っている。空調が効きすぎているのかもしれなかった。
- 554 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:30
- その火照りを心地よく感じて、真希はさらになつみの側へ身体を近付ける。
背中にぺたりとくっついて(人間カイロだ)とへらへらしていたところを窘められた。どうも真面目な話をしたいらしい。
「あのさ、なっち、ごっつぁんに言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
「あの、大昔、東京の雪はいい匂いしなくて、室蘭の雪はいい匂いがするって、威張ったことあったけどさ」
「あったっけ」
「あったの。でも、あれなっちの勘違いでさ、ほんとはおんなじ匂いがするんだよ、たぶん」
もう何年も室蘭に帰ってはいないけれど。
だから、ごめん、と真剣な面持ちでつぶやいて、なつみは反省しきりといった表情でうつむいた。しかしすぐにけろりとした顔になり、甘えるように真希の方へもたれてくる。
「ま、よくあることだあねー」
自己完結してしまったようで、真希は置いてきぼりにされた形になった。
- 555 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:31
- 「あのさ、ひとりであやまって落ち込んでもとにもどってって、あたしのことあんま考えてないでしょ」
「んなコトないよ。だから謝りにきたんじゃん」
「威張って言うな」
「ごっつぁんこそ威張るな」
流れにまかせて言葉をつなぐと、だんだん訳がわからなくなってくる。次第にお互いがどうして言い合いをしているのかすら曖昧になって、それぞれに口をつぐんだ。
非のない相手を責める語彙を、二人はほとんど持ち合わせておらず、くわえて喧嘩をするつもりも毛頭ない。
結局、次の仕事があるからとなつみが告げた時点で、すべてがうやむやになった。予定はコメント録りだけで正味一時間もあれば済むだろうと言う。
- 556 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:46
- じゃあ、一緒に帰ろう。真希は言った。
「待ってるから」
すると、真希のちょうど目許のあたりにあるなつみの頭が、軽く揺れて、頷いたのだということがわかる。
「なっちさ、傘持ってないでしょ」
だから、送るのだと伝えると、不思議そうな声で問い返された。
「なんで、傘がいるの?」
「もうすぐ、雪、降るから」
だから傘がいる。
「雪降ってくるなんて、なんでわかんのさ」
雪虫もいないのに。
拗ねるように言って、なつみは窓を見た。天気予報でも寒くなるとは言っていたが、雪が降るとは聞いていない。
ガラスごしの曇り空はしんと冷たく、見上げると吸い込まれそうな気分になった。
「ねえ、なんでわかんの」
焦れたようにもう一度問うと、真希は小さく笑って理由を告げた。
「だってさ、雪の、匂いがするから」
- 557 名前:フロレアル 投稿日:2004/04/12(月) 23:54
- 終わりました、が、もう春の方が終わりそうです。
慣れないことはするもんじゃないなアと思いました。
でも、書いてる間はたのしかったです。
- 558 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/13(火) 00:07
- 読んでいるあいだ、ずっとあたたかい冬を近くに感じているような気がしていました。
素敵なお話ありがとうございました。
これ、大好きです。
- 559 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/13(火) 19:51
- なっちとごっちんの透明な空気と距離感が大好きです。
良い話をありがとうございました。
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