鉄枷グイシオン

1 名前:魚心 投稿日:2003年06月15日(日)21時57分35秒
アンリアルで時代、地域等は特に想定しておりません。
お口に合う方がいらっしゃいましたら、
お付き合い頂ければ幸いです。
2 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)21時58分38秒
<1>

発端は、一本の矢だった。
その鋭い矢先が、硬く引き締まった筋肉繊維を割き、それでもなお止まらずに骨の髄まで貫き通したとき。
人の耳には届かぬ所、眼には届かぬ所で、小さな、ほんの小さな塊が転がり出した。
そして一旦、転がり出すとそれは先にあるもの全てを呑み込み、加速度を増し、人がその存在に気付いた時には誰にも止められぬ巨大な塊となって世界を押し潰さんとしていた。
巨大な塊に名は無い。
そしてその塊を前にすると人は余りに無力だ。
だからこそ。
「運命」と人はそれを片付ける。
3 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)21時59分08秒

「だから、なんなの?」
リカは苛立たしげに肩に流れる髪をかきあげる。
「そんなことまでいちいち私に報告してどうするのよ」
「そうは申しますが…」
だが、地面に跪く男の次の言葉を待たず、リカは踵を返した。
男は砂埃が顔面にかかるのも気にせず、慌てて腰を上げるとその後ろ姿を追う。
「どうぞ、お待ち下さい!どうぞ!」
今は不機嫌を顕わにしている優美な背中に我知らず目を奪われながらも男はリカの進行方向に回りこみ、歩みを遮るように再び跪いた。
「我が都市を揺るがす一大事ですぞ!」
だが。
砂利の代わりに男に降ってきたのは、蔑みを含んだ不穏な視線と、男の叫びにも全く心を揺すぶられない事を示す一言だけだった。
「たかが、犬でしょ?」
4 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)21時59分58秒
丘の頂きで季節外れの強い風を体に受けながら、リカは館を見下ろしていた。
荘厳な石造りの館。
何十年、何百年という時を過ごし、その世代により改築や補強を繰り返してきた堅牢な建物。
建物を二重に取り囲む防壁。
加えて背後には、自然の要塞である絶壁が、高く高く高く、そしてほぼ垂直にそびえ立つ。
館に攻め入ろうとする侵入者は、先ず館の足元に広がる農村地帯を破り、街を破り、様々な軍備を施した防壁を破り、更にもう1枚の防壁も破らなければならない。
背面からの攻撃はまずもって不可能だ。
掴まる場所もないほどの滑らかな岩肌を下りようとするならば、館に到達する頃にはまず間違いなく、母親からもらった肉体は原型をとどめてはいまい。
背中も羽でも生えていない限り。
自然と地理と人間が一体となった世界の何処にも及ばぬ堅固な要塞。
リカはこの光景を見つめる度に、得も言われぬ誇らしさで胸が打ち鳴る。
5 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時01分00秒
(世界は、私のもの。)
正確には都市の君主であるリカの父親のもの。
ここにいる限り、何の不安もなく、何の恐れもない。
明日も明後日も、そして一年後も、十年後も、何にも侵されない一定の時間が流れていく。
決められた相手と結婚して、子どもを産んで、その子どもがこの都市を治める。
諦観ではなく、穏やかな時間の積み重ねが自然にリカに教えてくれるのだ。
リカはただその導きに従っていればいい。

リストランテ。
それがこの都市の名前であり、リカの揺り篭であり、墓場でもある。
6 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時01分32秒

『一大事ですぞ!』
さきほどの侍従の言葉が不意に湧き起こり、リカは眉をひそめる。
今更報告されるまでもなく、その出来事はリカの耳に入っていた。
だがそれは、リカには単なる瑣末な出来事でしかない。
些細な事をいちいち知らせてくる侍従の無神経さの方が、リカにとってはよほど一大事だ。
そんなことは父親か、さもなければサヤカに伝えればよいこと。
ほんの一刻も経たぬうちに解決してくれるだろう。
彼らが、彼女らが、リストランテを守ってくれる。

『私を守ってくれる』
7 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時02分10秒
都市境で一匹の犬の死骸が発見された。
鼻の先も耳の裏も眼もどこもかしこも漆黒と呼べるほどの黒に覆われた犬。
呼吸を止めた塊と成り果ててもなお、傲慢なほどの高貴な血を感じさせる犬。
しかし、嘗て躍動する血液を送りこんでいたであろう逞しい首筋には、一本の矢が深深と突き刺さっていた。
哀れに思った都市の人間が死骸を葬る為に矢を引き抜こうとしたが、骨にまでめり込んでいた矢先は死んだ後までもその体を手放そうとはしなかった。
結局、業を煮やした人間により、犬は自分の命を奪った忌まわしい仇を抱きこんだまま、大きな楓の木の下に埋められた。
しかし。
数日後、粗末な埋葬を目にしていた都市の子どもが、せめて花でも添えようと木の根元に行って眼にしたものは。
荒らされた即席の墓と、楓の幹に突き立てられた大人が数人がかりでも抜けなかった筈の矢。
単なる悪戯として片付けてしまうには余りにも不気味な予兆を孕んだ出来事。
だが、予兆は常に、後から語られるものである。
『あの時、確かに嫌な予感がした』と。
8 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時03分34秒


「やはり、こちらでしたか」
風が運んできた柔らかい声音に、リカは満面の笑みを浮かべ、ふと取ってつけたように頬を膨らませた。
「そういう言い方、やめてって言ってるのに」
ゆっくり丘を登ってきた人物は薄い苦笑いを漏らす。
「一人で出歩かれないようにと申し上げましたのに」
「ほら、それ。その偉ぶった言い方、きらい」
リカは憎らしそうに、隣に並んだサヤカの腕を突つく。
「昔はそんなじゃなかったのに」
それも「昔」と言えるほど遠くはない昔なのに。
誰よりも優しくて頼り甲斐があって、ほんの少しだけ意地悪な、最高の遊び相手。
物心ついた時から覚束ない足取りで必死に背中を追い掛け回した相手。
手が届きそうで、指先が触れんばかりの所でするりとかわされた相手。
9 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時04分11秒
小さい頃、いつもリカの半歩先には悪戯を企んでいるようなサヤカの余裕の笑みがあった。
だから余計に成長に従ってサヤカが身に着けた慇懃な態度が癪に障って仕方がない。
闘いを放棄されれば追いつくこともできやしない。
「また、そんな難しい顔して」
「外に出られる時はお申しつけ下さればお供しますから」
「なぜ?」
「一人歩きは危ないこともありますから」
「今までは平気だったのに?」
「…お聞きになったかと思いますが、先日から不穏な動きが」
「聞いた」
「万が一ということもございます。何かあってからでは遅すぎます。どうぞ十分にご注意されますよう…」
「もう、いい」
素っ気無く言い放つリカの眼は、既に興味の色を失っている。
「私は私の好きにするもの。サヤカの指図は受けない」
蚤のくしゃみほどの、ひそやかな溜息の気配が流れてきた。
(またそうやってバカにして。言いたいことがあるなら言えばいいのに。)
「帰る!」
リカは、不誠実な昔の幼馴染であり、今のお守役を放って、精一杯の大股で歩き出した。
10 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時07分35秒

「…困りましたね」
溜息を運んだ風は、その埋め合わせのつもりか、サヤカの最後の言葉をリカに届けはしなかった。
本格的に不機嫌になってしまったリカの後ろ姿を見つめながらサヤカはもう一度心の中で呟く。
(困ったもんだね。)
いつも自分の半歩後からついてきた少女。
可愛くて、時々、本当に時々だけれど、鬱陶しく感じたこともある存在。
いつの間に、あんなに大人びた体を手に入れたのか。
体に巻かれた絹のマントが、風が吹くたびに体に沿うようにぴたりと密着して、そのバランスの良い体のラインを浮き立たせる。
並んだ時の目線も、僅かに見下ろされるくらいになっていた。
…しかし、大人びたのは体だけのようだ。
サヤカの眉間に憂いの皺が寄る。
11 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時08分14秒
大抵の人間がころりと騙されて目を細めるであろう、リカの拗ねた表情。
細く整った眉を大仰にしかめ、両目を哀しそうに僅かに歪めてみせる、独特にして絶妙なバランス。
本人にしてみれば無意識の、しかし確実な学習の末に完成された切り札。
ほんの少し表情を崩すだけで、周囲は彼女の意のままに動く。
リカは君主の娘であり、次代の君主の母親となるべき人物なのだから。
彼女の世界は彼女の周囲だけで完結し、それは決して揺るぐことのない絶対的なものだ。
だが。
急ぎ足でリカを追いながらサヤカは思考の沼に沈んでいく。
本当に。
これからも本当に、リカの錯覚を真実としてとどめておけるだろうか。
リカの世界を壊さずにいてやれるだろうか。
本当に、自分はリカを守ってやれるだろうかと。

いや、本当に守りたいのはどちらだろうか?
幼馴染としてのリカを守りたいのか、君主の娘としてのリカを守りたいのか。
(勿論、両方に決まってる。)
だが、いざ、という時。
自分はどちらを選択するだろうか。
リストランテか、リカか。
サヤカは立ち尽くしたまま、リカには見せない凍った視線を館へ向けた。
選ばなければならない日は、そう遠くないかもしれなかった。
12 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時09分24秒


館に戻ったリカを迎えたのは、打って変わって騒がしい嬌声だった。
普段は厳かな姿勢を崩さない乳母のリンも興奮を隠せないで早足でリカの方へ近寄ってくる。
「お待ちかねの物が届きましたよ!」
リンに連れられて自室に戻り、それを目の当たりにしたとき、先ほどからの鬱憤が一度に吹き飛んでいった。
「ほんとうに、まぁ、ねぇ!」
意味をなさないリンの呟きも無理はない。
13 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時11分31秒
月の光を織り込んだような純白のドレス。
左肩で軽く絞りあげ、もう一枚の皮膚のように体を包みこむフォルム。
人の微かな吐息にさえうっすらと応えて、艶やかに変化する光沢。
リカはただ黙ってドレスを眺め続けた。
言葉が出なかった。
不用意な言葉の一つでも漏らそうものなら、ドレスが陽に溶けて消えていってしまいそうな気がした。
「これをお召しになる時は…」
リンが途中で言いかけた台詞を飲みこんだ。
リカはそこでようやく、リンの沈黙と自分の沈黙の違いに気付いた。
14 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時12分41秒
ドレスそのものに心を奪われているリカに対し、リンはこのドレスを着る時のリカを思いを馳せているらしい。
このドレスはリカの婚礼衣装として作られたものなのだから。
リカが相手と決まっている人間について知っていることは、名前と盗み見た横顔くらいなもの。
趣味も性格も、正確な年齢も知らない。
会ったのはたった一度だけ。
それも父親が開いた晩餐会で挨拶とも言えぬ挨拶を交わす間もなく、未来の婿だという事実を知らされた。
上機嫌極まりない父親とは逆に、リカは醒めた気持ちのまま「そうなんだ」と思っただけだった。
結婚相手だと知らされても、相手に特別な興味は湧かなかった。
目の前に垂れている手が、男性の割にはやけに青白くて節が細かったのは覚えている。
政略結婚、と周囲の者は噂をする。
せいりゃくけっこん、せいりゃくけっこん!
しまいには都市の子らまでもが大人の真似をして同じ言葉を喚き立てる。
セイリャクケッコン!セイリャクケッコン!
「それがどうしたの」とリカは心の内で笑う。
半分は本音で、半分は強がりだ。
父親が決めた相手と結婚する。
高い所から低い所へ水が流れるのと同じくらい、自然なこと。
15 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時13分20秒
かと言って、リカが現実主義者かといえば、またそれは別の話だ。
誰と誰がくっついた別れたという話には目がないし、「ロマンティックな大恋愛」にも大いに憧れている。
リカの惚れっぽさに内心辟易している者は数知れない。
何せ、好きになったと思ったら黙っていられない。
内緒よ内緒よと言いながら、お相手の素晴らしさについて誰彼構わず力説し、内緒の大安売りをしてまわる。
そうしてもう何人の人間に「今度こそ真実の恋」をしたことか。
ただ。
リカの場合、恋と結婚が結びつかないだけのことなのだ。
それを寂しいとも思わない。
ごくごくたまに、好きな相手と結婚したらどんな感じかな…と考えることもあるけれど。
だがそれは波立つ水面に映る月のように、漠然と頼り無く揺れるだけのもの。
リカにとっては父親の決めた相手との生活の方が、よっぽどリアルなのだ。
それだけの話、だった。
16 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時15分13秒

ふと背後に違和感を感じて我に返ると、いつの間にか妹のマコトが入ってきていた。
「マコト様、ご覧下さいな」
うきうきとした調子でリンが話しかけるが、マコトは無表情のまま黙っている。
「…どう?」
本心からドレスの感想を聞きたかったわけではなく、ただそこにいるから、何気なく声をかけた。
が、マコトはその何を考えているか分からぬ眼でちらりと姉を一瞥しただけで、入ってきた時と同じように素早く部屋を出て行った。
17 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月15日(日)22時16分43秒
流石に非難めいた事は口に出来ないが、リンは不満そうな表情を隠していない。
リカとマコトの母親は、マコトを産んでしばらくしてこの世を去っている。
殆ど母の温もりを知らないマコトはどこか寂しげな影を抱いている、と感じる事もあったが、だからと言って常に寂しい思いをしてきた筈もない。
リカと同じだけ周囲には世話をする人間がいたし、…よく世話をしたとは言い難いが、リカだっていたのだから。
実際、マコトがさっきのような不可解な態度を取るようになったのは最近のことだ。
それまでは、それなりに子どもらしくて幼い年相応の妹だったのに。
「ほんと、どうしたのかな」
しかし、リカの疑念はそこで途切れ、意識はまたドレスの方へ引き戻されていった。

18 名前:魚心 投稿日:2003年06月15日(日)22時19分39秒

初回は以上です。
何やら冗長な展開になりそうですみません。
更新ペースは少し遅くなりそうですが、それでもよかろうという方はお付き合いいただければ嬉しいです。
19 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月17日(火)07時27分09秒
わお!
面白い!
続き期待〜。
20 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月17日(火)23時27分14秒
新作キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!

魚心さんのアンリアル、非常に興味ありです!
最後までお付き合いさせていただきまーす!
21 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月19日(木)11時25分16秒
面白いっす!
すっと物語に入り込んでしまいました。

続きを楽しみにしてまーす。
22 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)22時55分17秒

サヤカの危惧は、驚くほどの早さと呆気なさで現実のものとなり始めていた。
都市境の、ある農家で鶏小屋が丸々ひと棟焼き払われた。
混乱が冷めやらぬうちに、次は葡萄園の苗木がことごとく薙ぎ倒された。
不安と恐怖に居たたまれなくなった農家の人間は市政機関に殺到し、リカの父親やサヤカの頭を悩ませた。
犯人の手掛りは、皆無ではなかった。
出所は分からないが、その頃にはまことしやかにこんな噂が囁かれていたからだ。
『山ひとつ、川ひとつ隔てた都市の君主は真っ黒な犬を飼っていたらしい』
『耳の裏まで真っ黒の、立派な犬だったらしい』
『君主と犬とは一心同体で、君主は目に入れても痛くないほど可愛がっていたらしい』
どこまでも伝聞調の心もとない噂ではあるが、不安におののく人々の心の隙に忍び込むには十分すぎた。
23 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)22時56分42秒
お隣とはいえ、チェケベーグについて多くを知る者は少ない。
山ひとつと丘をいくつか越え、川ひとつ渡らなければならない上に、リストランテの歴史の中でも交流は殆どなかった。
特に交流を避けてきたわけではない。
ただ、継続的に行き交うには路が過酷すぎる上に、互いに殆ど自給自足でまかなえる両都市にとってそれだけのリスクと代価を支払う程の値打がなかっただけのこと。
情報が少ない。
それが更に人々の恐怖を煽った。


『犬を殺された復讐に違いない』
24 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)22時57分26秒

「たかが、犬」で生活の糧である鶏小屋を焼かれたり苗木をだめにされたのでは、たまったものではない。
一部の農家の人間がそう考えたのも無理はない。
いっこうに解決策を講じようとしない市政期間に業を煮やし、彼らは彼らの方法で解決へと乗り出した。
目には目を。歯には歯を。
選ばれた数人の若者が三昼夜かけてチェケベーグへ向かい、農家の納屋を焼き、畑の水路を破壊し、葡萄園を踏み荒らした。
その返礼はさらにひどかった。
夜半に押しこんできた集団により数人の娘が凌辱され、その村の犬という犬が始末された。
もう、手をこまねいている猶予はなかった。
リストランテの人間はこぞって眉を顰め、声をひそめて朝も昼も不吉な未来を語った。
館にも緊迫感が漂い、皆が押し黙って無口になった。
25 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)22時58分30秒

リカには、それが気に食わない。
父もサヤカも、それどころか侍従さえ、リカの相手をしてくれなくなった。
お嬢ちゃんに構っている暇はないとでもいうように、難しい顔で忙しげに歩き廻る。
おぎゃぁと産まれてこのかた存在を無視されるなどという事は有り得なかったのに。
館の一角にある東屋でお気に入りの織布や飾り布を眺めながらリカは頬を膨らませる。
普段はリカを恍惚とさせるなめらかな布の感触さえどこか味気ない。
おまけに一人きりよりは、と半ば強引に連れ出してきたマコトの態度は素っ気無い。
26 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)22時59分19秒
「マコトはこれとこれのどっちが好き?」
「…うん」
敷物の上に広げられた艶やかな布にも、興味のない視線を送るだけで、全く会話にならない。
「マコトにはこれが似合いそうね」
薄紫の布を肩にあてがう。
「…そう」
返ってくるのは、無反応。
まるでマコトに渋々相手をされているようで、これまた面白くない。
「…どうしたの?近頃、変だよ」
思いきって口にしてみた。
「…そう?」
「いっつも何か考えてるみたい」
「…そうかな」
「そうだよ。何か心配なの?良かったら、お姉ちゃんに話してみて?」
ここが姉としての本分の見せ所。
「そりゃ、お姉ちゃんは頼り無いかもしれないけど、マコトよりは少しだけ長く生きてるんだよ?話せば楽になることもあるかもしれないし、どうにか助けてあげられるかもしれない」
ようやく会話らしい会話が成り立ったのに気を良くしてリカは畳みかける。
27 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時00分01秒
しかし。
「無理だよ」
「…え?…」
「お姉ちゃんには解決できないし、お姉ちゃんに頼っても仕方ない」
「…何それ」
折角、人が優しく言ってあげているのに。この妹ときたら。
「だってお姉ちゃんの頭の中は綺麗な物ばかりでしょ?着る物とか、花とか宝石とか」
綺麗な物、という単語に含まれる微かな軽蔑に、流石のリカも気付かないわけがない。
「そんなことないよ。お姉ちゃんだって他にも色々…」
「色々、何を考えてるの?」
「それは…マコトの事とか、色々だよ!」
むきになって語調が強くなる。
「……いいよ、もう。ごめんね、お姉ちゃん」
激しい光を帯びたマコトの眼が再び何の色も灯さなくなるから、リカもそれ以上は言葉を継ぎ足せない。
いつからこんなにも噛み合わなくなったのだろうか。
(綺麗な物のことを考えて何が悪いの?
 他にどんなことを考えればいい?
 それが私たちの生活でしょ?
 それが私たちの役目でしょ?)
せめて年上らしい言葉を言い返そうとするが、頭の中で思いはぐるんぐるんと回るだけ。
もどかしくてやるせなくて、溜息がこぼれ落ちそうになった時。
28 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時01分57秒
「いけませんね。溜息は悪魔を呼び寄せる…」
涼やかな声が背中に降ってきた。
「笛、でしょ」
わざと振り返らずに答える。
丘の上で話してから両手指を三倍にしてなお余る日数が経っている。
折角、例のドレスを見せようと待ち侘びていたのに。
敷地内で時折見かけるサヤカの険しい横顔に、声をかけることさえはばかられた。
それではとサヤカの方から出向いてくるのを待っていたが、あっさりと期待を裏切られ続けた。
(散々無視しておいて、何よ。)
そんな勝手をリカのプライドが許すはずもない。
無言の非難を察したのか「色々とありまして」とサヤカは小さく付け足す。
声に含まれる疲労の色に、リカは思わず頭上を仰ぎ見てしまった。
「…痩せたのね」
「そうでしょうか」
29 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時03分00秒
サヤカが、チェケベーグとの交渉に当っていることはリカも知っていた。
状況を飲みこんでいないリカにも、その役が困難なものだという事くらいはわかる。
何もサヤカがやらなくてもいいのに、というのがリカの不満の一つでもある。
他にも人は沢山いるのだ。
「…座れば?」
申し出を受け、サヤカは樫の一枚板で作られた東屋の椅子に腰かけた。
柔らかな午後の陽射しを浴びた横顔の深い陰翳に、リカの心が騒ぐ。
「元気じゃ、なさそうね」
「…」
「でも私も寂しかったんだから」
「……昨日、例の犬が埋められた場所に行ってきました」
何の脈絡もなく、サヤカはそんな事を言い出した。
傍で姉とサヤカの様子を窺っていたマコトの肩が不安げに揺れた。
マコトの様子に気付いたのか、サヤカはマコトの目を真っ直ぐに見て「大丈夫ですよ」と声をかけた。
マコトはどこか、サヤカを怖がっている節がある。
リカが独占する余り、サヤカの堅い一面しか知らないせいだろうか。
30 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時04分27秒
「大丈夫です。心配要りません」
更に深く両目の奥を覗きこみ、サヤカが繰り返した。
しかしマコトは、不意に目を逸らすと東屋を走って出て行ってしまった。
「…嫌われてしまいましたね」
「違う。あの子、緊張しているだけだから」
「そうだといいんですけれどね」
「そうに決まってる。嫌う理由なんて何もないもん」
「……理由なんてなくても……」
サヤカの呟きはそこで途切れた。
『溜息は悪魔を呼び寄せる笛』
そうリカに教えたのはサヤカだ。
だが、当のサヤカが息こそ漏らさないが、全身で溜息をついている。
「うまくいってないの?」
具体的に何かを指して訊ねたわけではない。
が、サヤカは黙ったまま陽射しに目を細めている。
市政に従事する人間が身に着ける緋色の腰丈ほどのマントが白い肌によく映える。
31 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時05分07秒
ねぇ、と、しびれを切らせてリカは答えをせっつく。
「…いいですか、よく覚えていて下さい」
「なに?」
「そう遠くないうちに、何か、ここにも変化が起こるかもしれません」
「…うん」
「それでも、決して、決してですよ。心を動かされてはいけません。リカ様は普段通りにしていればそれでいいのです」
「…わかった」
「約束して下さい」
「するする。約束する」
重苦しい空気を払いたくてわざと気軽な調子で首を振った。
が、サヤカは騙されなかった。
「きちんと、私の目を見て約束して下さい」
「……うん」
「いいですね」
「だから、わかったってば」
強い口調にリカは口を尖らせる。
「でも、でもね、サヤカ」
「はい」
「悪い奴らは、さっさとサヤカ達が退治してくれるよね」
「……」
その瞬間、サヤカの瞳に宿った何とも言い難い感情の波を、その意味を、後から幾度も反芻することになるとは。
リカはただ。サヤカに言われるまでもなく。
楽しく愉快に毎日を過ごしたかっただけだったのに。
32 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時05分58秒


それから、直ぐのことだった。
一連の事件の始末として、チェケベーグに人質が差し出される、という噂がたった。
人質として、リストランテの君主の長女である、リカを。

33 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時06分54秒

『この世で一番強いのはだぁれ』
『お父様!』

幼い頃の、父とリカのお決まりの戯れだった。
悪い奴らは、退治してくれる。
眩しいほどピカピカ光る軍団もあれば、武器もある。
私の都市は、強い。
世界のどの都市よりも、強い。
そう信じてきた。
周囲がそう信じさせてきた。
この都市を、父親を、何よりも誇りに思っていた。

「お父様」
誰もいない居室で、暖炉の火を見つめる父親に声をかけた。
世界で一番強いはずの父親の背中は、猫背気味に曲がり、逞しい筈の肩幅はいつのまにか丸みを増していた。
「お父様、聞こえてるんでしょ」
思わず、強い声が出た。
のろのろと振り向く父親の顔を、リカは思いのほか冷静に眺めた。
髭には白いものが混じり、やけに深い目尻の皺が苛立たしさを誘う。
それでも目を逸らさず、直視しているうちに、我知らず「あぁ」と声を漏らしそうになった。
これが本当の父親の姿なのだ。
これまで毎日眼にしていた父親の姿は、リカの『理想の父親』というフィルターを通して見ていた姿なのだ。
実際の父は、こんなにも、頼り無げで人間くさいものだったのだと。
34 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時09分57秒
「本当なの?」
ひと息に訊ねた。
父親の髭の端が震えているような気がしたが、暖炉の火に煽られているだけかもしれなかった。
「ねぇ、本当なの?」
「……」
何も読み取れない父親の目に、リカの心は次第に乱されていく。

どこかで、そんなことは嘘だと信じていた。
サヤカはあの日、心を動かされてはいけないと言った。
約束もした。
だが、噂の中身を知っていたらあんな約束はしなかった。
直接サヤカに確かめたかったが、その姿を館に見つける事は出来なかった。
であるならば。

「聞いたのよ。あの犬は」
『あの犬』に憎々しい響きがこもる。
「あの犬は、チェケベーグの君主の飼い犬だったって。でも墓を掘り返したり荒らしたりはしていないって」
つまり、リストランテの人間が勝手に誤解して、勝手に仕掛けたのだと先方は主張していると。
「だけど、そんなのってないじゃない!そんな、そんなの!」
一気に沸騰した感情が、リカから言葉を奪う。
他の何者が、わざわざ墓を掘り返して矢を突き立てたりするだろう。
直後に、何を盗むわけでもなく、農家を荒らしたりするだろう。
様々な要素がはっきりと犯人を指し示しているではないか。
35 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時10分51秒

「証拠がない」
久し振りに鼓膜に届いた父親の声は、用意していたかのように棒読みで、そのくせやけにしゃがれていた。
「証拠……」
「犬を殺した矢には楓の印が彫りつけてあった。若者が隣の都市へ侵入した時、はっきりとリストランテの名を名乗っている」
楓の葉はリストランテの紋章。
圧倒的に、不利な状況。


火の粉が爆ぜる音。
びろうど張りの椅子の艶めかしい照り返し。
荘厳な館の姿を描いた壁の絵画。
心を穏やかにしてくれるそれら全てが今は、寒々しく、嘘くさいものに感じられる。
「…それで?」
「……」
「お父様、それで、どうなさるの?」
「……」
期待を、最後の期待を、最大の期待を込めて、リカは訊ねた。
「…戦うの?」
36 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月19日(木)23時11分39秒

父親は微かに、しかし確実に頭を振った。
「それは、できん」
「どうしてっ?」
「…わたしはこの都市の君主だ。都市の人間を無駄に殺すわけにはいかん」
それなら私は人質になって無駄に命を散らしてもいいの、と叫びそうになる。
父親は、それに、と言葉を継ぐ。
「戦いにはならん。戦いになれば、我が国は七日と経たずに」
その瞬間、完璧にして絶対的なリカの都市が、爆ぜた。


「滅びる」

37 名前:魚心 投稿日:2003年06月19日(木)23時13分03秒
更新しました。

>19 名無しさん様
 有り難うございます。せめて期待を裏切らないよう頑張ります。

>20 名無しさん様
 無謀にもアンリアルに手を出してしまいました。宜しくお願いします。

>21 名無しさん様
 すっと話から退出されないよう頑張ります。宜しくお願いします。
38 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月20日(金)01時36分27秒
魚心さん、新作おめでとうございます。
あの人の登場がまだみたいですが、登場ありますかね…
39 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月20日(金)08時18分56秒
21の名無しです。
なんだか映画を見てるような雰囲気、いいですね。
もちろん退出なんてしませんとも!
40 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月25日(水)15時52分15秒
ずっとファンです。ぜひともまたドキドキさせてくださいー。
41 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時00分45秒
<2>

それは、余りに質素で陰鬱な行列であった。
チェケベーグは衣装から宝石の類いに到るまで、細かく『人質』の荷を指定してきた。
必要最低限の服。
必要最低限の装身具。
必要最低限の小間物。
リンは荷をまとめている間中、嘆き、悲しみ、憤った。
そしてその怒りは、付き添いの者は一切認めないという指定を聞くに及んで頂点に達した。
「誰がリカ様のお世話をするんですか!」
「誰がこれまでリカ様をお育てしてきたと思っているのですか!」
しかし、リンがどれだけ嘆こうと喚こうと、どうしようもなかった。
誰も彼も皆、腫れ物に触るようにリカに接した。
もしくは普段通りに振舞おうとしては失敗した。
42 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時01分33秒

引渡しが行われる都市境までも、護衛の為の必要最低限の軍備しか許されなかった。
主の娘が乗るには余りにも粗末な馬車は安定が悪く、少しも行かないうちにリカは気分が悪くなった。
籐で編まれた窓の隙間から新鮮な空気を吸おうと外を覗く。
馬に跨ったイイダの姿が見えた。
先頭を率いているのは軍将のナカザワだろう。
今となってはどうでもいい事だが、一時期、リカはそれぞれに夢中になったものだ。
颯爽と軍のマントをなびかせるイイダに厳しい口調で軍を指揮するナカザワ。
結局どちらにもリカの想いは届かず…というよりも、未だかつて届いた事はないのだが。
憧れだった二人が、こうして自分の護衛に付いている。
二人に守られて道を進んでいる。
だが、今はとても喜べる状況ではない。
『チェケベーグに攻められれば七日と経たずに滅びる』と父親は言った。
ならば。
やり場のない怒りがこみあげる。
43 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時02分04秒
リストランテ軍が弱いのは、ナカザワやイイダのせいでもあるではないか。
澄ました顔で馬を進めてはいるが、内心では戦わずに済んだ事に安堵しているに違いない。
『私だけこんな目にあわなきゃいけないなんて』
胸元をぎゅっと掴む。
なぜ、よりによって、自分なのか。
父親でもなくマコトでもなく。
何もリカが、人質という役目をマコトに押しつけたかったわけではない。
もしあちらがマコトをと望んだのであれば、自分が身代わりになっただろう。
しかし、先方はリカを指名した。
結局リカは最初から最後まで、一度も決心をつける余裕もきっかけも与えられなかったのだ。
44 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時02分47秒


リカに配慮してか、列の歩みは遅く、引渡し場所までは丸八日も要した。
険しい山道や流れの速い川の横断でリカはすっかり疲労困憊していた。
それ以上に付き添いの小編制の兵団もイイダもナカザワも疲労しているだろうが、それはリカの知ったことではない。
揺れる箱の中でただ座っている事がこれだけ辛いものだとは思いもしなかった。
唯一の救いは余りにも考える時間が多すぎて、終いにはあれこれ考えることすら飽きてしまったことだろう。
流れの速い川、馬車を降りなければならない程の隘路。
もう、何でも良かった。
室内で落ち着いて横になって眠れるのであればチェケベーグでさえ待ち遠しい。
ナカザワがそっと「そろそろです」と声をかけた時にはうっかり「ありがとう」と答えそうになったほどだ。
とはいえ、咄嗟に自分の立場を思い出し、急いで衣服や髪の乱れを直した。
例え人質とはいえ、人質だからこそ、無様な姿など見せたくなかった。
疲労のお陰で、居直りにも似た妙な覚悟がリカの中に生まれていた。
45 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時06分37秒

遂に、馬車は止まった。
「ようこそ、おいで下さいました」
やや遠くから聞こえる、柔らかい響き。
お行儀が悪いと分かっていてもリカは思わず隙間から前方を窺う。
ナカザワとイイダが、見事なまでに整列した一団と相対している。
黒い、というのが正直な感想だった。
黒いマント、黒い鎧、黒い脚当て。
黒尽くめの騎乗の一団が並んでいる。
異様な威圧感が場を圧倒していた。
リカが心を揺らしてきたリストランテ軍の濃紺の制服が霞んで見える。
「ここからは、私共が」
柔らかいが…厳かな声音で先頭の者が切り出すと、イイダとナカザワが道を開く。
「随分と、お疲れになったでしょう」
急に外から覗きこまれて、リカは危うくバランスを崩しそうになった。
46 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時07分11秒
「お迎えにあがったチェケベーグのケイと申します」
傾いた姿勢のまま、リカは気まずくなって俯いてしまう。
ケイと名乗った者もそれ以上は話しかけず先頭に戻るのを待って、馬車はゆっくり動き出す。
たまらず横の隙間から今度は背後を窺った。
イイダとナカザワが、こちらを見つめている。
その姿は、無念そうにも役割を終えて心を軽くしているようにも見える。
二人はリカとリストランテを繋ぐ最後の糸であった。
糸に導かれてここまでやって来て、そして遂に、糸は断ち切られたのだ。
二人の姿が遠ざかっていく。
リストランテが、遠ざかっていく。
47 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時09分08秒

どんな悪路が待ちうけているかと覚悟していたが、そこから先はなだらかな道ばかりで、列は軽快に距離を稼いでいく。
リカは両脇に広がる風景を眺めようという努力を間もなく放棄した。
寄り添うようにして兵士がぴったりと横に馬を付けているために視界が遮られてしまうからだ。
一団は前後でおよそ三十名くらいだろうか。
質素な馬車の護衛にしてはやけに物々しい。

と、ここまで考えてふと思い当たる。
『そういうことね』
彼らの任務はリカの護衛のみならず、リカの監視でもあるのだ。
大事な人質が毒でも飲んだら、大変だ。
人質は生きていることで始めてその役目を果すのだから。
48 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時11分12秒
(そんなこと、しないのに)
頼まれるまでもなく、死ぬのは嫌だ。
死ぬ時の痛みや苦しみを想像するだけでおぞましさに身が縮む。
だが。
もし自分が死んでやったら、周りはどれほど驚き悲しむだろう。
父親は後悔の涙にくれて墓の前に跪く。
ナカザワやイイダは復讐の為にチェケベーグに乗りこむ。
リンは悲嘆に狂ってしまうかもしれない。
…サヤカも。
サヤカもきっと、人質にやった事を悔やんで悔やみ倒すだろう。
そしてリカは「美麗なる悲劇のヒロイン」として都市に名を残す。
リカはうっとりと自分の葬列の様子を思い浮かべて…我に返った。
(ちっとも苦しくない薬がこの世にあれば、だけど)
49 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時12分30秒

ふと、確かな視線を感じて横を向いた。
脇につける騎馬の隙間から、緑が映える野原が広がっている。
そして遠く、野原の向こうから、漆黒のつぶらな瞳が、しっかりとリカを捉えている。
四足の生き物が馬車と並走しながら、リカを見詰めている。
なぜか、犬だ、と分かった。
その姿は親指ほどにも遠いのに、規則的な息遣い、縮んでは伸びるしなやかな筋肉の動きが感じ取れる気がする。
犬が、ふと、リカから眼を逸らして真っ直ぐに前を向く。
リカも自然と犬の視線の先を追う。

「…すごい」
リカの口から嘆息が漏れた。
真っ白な馬を駆る、黒尽くめの後ろ姿。
凛と伸びた背中。
かなりのスピードを出しているのに全く無理のない乗りこなし。
何もかもが自然で、しかも自由そのもの。
きれい、と素直に思った。
顔など見えやしない。
だが、美しかった。
姿が見えたのは、時間にすればほんの数秒もないだろう。
あっという間にその背中はリカの視界から立ち去っていき、後を追うようにして犬も姿を消し去った。
50 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時13分21秒

リカの護衛の兵団の人間でないことは確かだ。
何かを知らせる為に先を急いでいたのか、それとも単に馬を走らせていただけか。
どちらでも良い。
(もう一度あの背中を見たい)
そう、強く、思った。
51 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時15分37秒


砂利道が石畳に舗装された道に変わる。
街に入ったらしい。
リカは僅かな隙間から食い入るように外を見つめては驚嘆した。
街の造りはリストランテと大して変わらない。
が、何もかもが、大きい。
道幅は広く、忙しげに行き交う人が尽きることはない。
誰もが一団に好奇の視線を投げるが、直ぐに興味を失って道を急ぐ。
めまぐるしく、それだけ活気に溢れている。
喧騒の中を縫うようにして馬車は前を目指す。
ゆるい上り坂になっており、その頂点がチェケベーグの館だった。
オレンジの残光を撒き散らしながら夕陽が山の端に沈んでいく。
山の向こう側には、リストランテ。
太陽は無事にリカの到着を見守ってくれていたようだ。
52 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時16分32秒
ケイの手を貸りて馬車から下り、チェケベーグの大地を踏む。
遂に来てしまったのだと、腰がじぃんと鳴った。
付き添われ、脇を固められて重々しい鉄製の扉をくぐる。
ひやりとした冷気が体を包む。
石の床に硬い足音が響く。
促されるままに角を曲がり、廊下を付きぬけ、階段を上り、また角を曲がる。
歩いても歩いても冷気は去ってくれない。
壁に点々と据えられた金具に灯りが点されている。
が、炎の揺らぎは却って陰鬱な空気を際立たせるだけだ。
薄い絹のマントの下は青い一枚布のドレスだけ。
後悔してももう遅い。
くしゃみが出そうになるのを必死で我慢する。
53 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時17分10秒

「こちらで」
ようやく、大ぶりな扉の前でケイが立ち止った。
リカの館は石造りながら扉は全て重厚な木であったのに対し、ここはどこもかしこも石と鉄、鉄、鉄。
鉄が豊かな証拠だろうが、何とも寒々しい。
「どうぞ」
神経に障る軋みと共に扉が開け放たれる。
全身が緊張で強張る…が、室内には誰もいなかった。
赤々と火が灯された暖炉へ手をかざしたいのをぐっと堪え、足を踏み入れる。
簡素なベッド、絨毯、長椅子、チェスト、鏡。
「ここが私の…」
リカの言葉をケイがすくいあげる。
「こちらがご滞在頂く部屋となっております」
「そう…」
広くはないが、思ったよりは快適そうな部屋に違いなかった。
少なくとも牢に閉じ込める気はないらしい。
54 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時18分04秒
「この者がお世話をさせて頂きます」
どこから湧いてきたのか、小柄な女が横に立ち、リカの荷物をてきぱきと解き始めている。
「よろしく」
リカの挨拶にも慇懃に腰を折り曲げるだけ。
「マリと申します」と紹介したのもケイの方だった。
一礼してケイが下がると、もうリカのする事はなかった。
新しい主人に興味を向けるでもなく、マリは淡々と作業を続ける。
「あの…」
たまらず声をかけると、ようやく体ごと向き直る。
が、その眼にリカの心が竦みあがる。
軽蔑でも、拒絶でもない。
ただ前にいるリカを映し出しているだけの眼。
感情を押し殺している気配すら見せない様子は、不気味ですらある。
用事があったわけではない。
もごもごと呟いてマリの視線から逃れ、こっそりと冷汗を拭う。
そうだ。そういうことなのだ。
自分は一人きりなのだ。
誰も味方のいない中でこれから暮らしていかねばならないのだ。
人質、なのだ。
苦い実感がふつふつと湧き起こる。
そして。
四方の壁を見渡して気付いたある事実が、リカに最後の杭を打ちこんだ。

この部屋には、窓がない。

55 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年06月26日(木)02時19分53秒


「着いたみたいだけど」
鉄格子の奥から外を見下ろしていた人物が言い放った。
キュロットを膝まである牛革のブーツに押しこみ、長い髪を無造作に背中に垂らした立ち居姿は端麗そのものだ。
夕陽を反射して栗色の髪が燃えている。
一方、部屋の奥で首飾りを弄くっているもう一人の人物は、気が無さそうにふんと鼻で返事を返した。
「で?」
どうにでも取れる言葉だが、栗色髪は迷うことなく答えた。
「まぁ何と言うか、お嬢様だね。気が強くて我が侭で世間知らずで、役立たず」
「辛辣だね」
「そ?」
幼馴染、という関係によるものでもないだろうが、長椅子にふんぞり返っている人物の格好は窓辺の友人とよく似ている。
袖が膨らんだ白いシャツに黒いキュロット。牛革のブーツ。
背丈はこちらの方がやや高い。
が、その艶やかな黒髪は毛先が肩に届くかどうかくらいだ。
窓辺の人物は、幼馴染が手にしている首飾りを見咎めるように眉を顰めた。
「まだ、そんなもん…」
言葉を断ち切るように、唐突に黒髪が立ち上がった。
「とにかく、任せるから」
残ったのは仏頂面の栗色髪と、高らかに遠のいていく靴音だけだった。

56 名前:魚心 投稿日:2003年06月26日(木)02時21分33秒

更新しました。

>38 名無しさん様
 あの人とは? としらばっくれてみます。

>39 名無しさん様
 実は退出口をご用意していないインチキ迷路のような話かもしれません。

>40 名無しさん様
 有り難うございます。きっちり話をまとめられるか自分もドキドキです。
57 名前:ステキカット 投稿日:2003年06月30日(月)01時27分48秒
ややや!
こんなところで新作をアプされていたとは!
なにやらむずかしい題名ですが、どんな話になるのやら…。
静観です。そして期待なのです。
58 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時33分33秒

夢を見た。
寝台に横たわっている。
目を閉じているのに、なぜか闇に埋もれたはずの周囲が手に取るように見える。
何者かが横になったリカを見下ろしている。
静かな静かな気配。
人間にしては荒い息遣い。
生温かい風が頬を打つ。
例の犬だ、と気付く。
本能的な恐怖に身はすくむが体は動かないし瞼を開けることができない。
生臭い息が近付く。
と、気配が人間のものに変わった。
観察というよりは寝ているリカをいたぶるかのような視線。
(やめて、何なの、もう何なのよ)
しつこい視線に皮膚が焼けそうな感覚を覚える。
もう、一秒も我慢できない。叫ぼう、と大きく息を吸った途端、気配が消えた。
夢の中で安堵の溜息をつきながら、リカは更に深い夢へと落ちていった。
59 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時34分16秒

「この部屋って、頑丈に造ってあるの?」
そうマリに尋ねたのは、起きた後も余りに夢の余韻が鮮やかだったからだ。
リカとしては部屋が安全かどうかを知りたかっただけだが、マリはまた違う意味に受け取ったらしかった。
「…言うまでもありません。錠はなくても夜には見張りの者が外に待機しています。私も前の部屋で休ませて頂いておりますから、何かあれば直ぐに気付きます。この館自体が頑丈な石と鉄で造られておりますから、簡単に脱け出せるような所ではございません」
冷たく述べるマリの言葉がリカの心に冷たいものを押しつける。
「…別に…私、脱け出したりしないわ」
「それが賢明かと存じます」
「ほんとよ」
「ええ」
「ただ、昨日の夜、何かが入ってきた気がしたの」
「そのような事は。夢でもご覧になったのでしょう」
一笑に付すマリに、少し抵抗してみたくなる。
「でも、本当に、入ってきたと思ったのよ。恐かったの」
「それじゃ侵入者はどんな格好をしてましたか?」
今度はリカが笑う番だった。
60 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時34分54秒
「どんな格好も何もないけど。だって、人間じゃないもん。真っ黒な犬なんだもん」
「…まさか」
マリの頬が、微かに強張る。
「嘘じゃないもの!」
「……」
「ほんとよ」
「……」
「ここでは犬を放し飼いにしてるの?」
「ちょうしょく」
「え?」
「朝食を、お運びします」
今までの会話など無かったかのようにあっさりと背を向けたマリの背中をぼんやりと見詰める。
(何なのよ!)
人をバカにするにもほどがある。
大体、人質とはいえ、リカはリストランテの主の娘、しかも長女である。
次の主となるべき婿を取る身分なのだ。
戦場でちょいと捕まえてきた兵士ではない。
晩餐に招待せよとまでは言わないにせよ、館の主から挨拶があって然るべきではないか。
しかし到着からリカは徹底的にその存在を無視されている。
おまけに今のマリの態度。
プライドはいたく傷つけられているのだ。
そして更に腹立たしいことに。
マリが運んできた朝食は、いたって美味だった。
61 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時36分06秒


「動きは?」
長椅子に仰向けになった黒髪が折り曲げた片足をぶらぶらと揺らす。
「ない」
「ふーん」
「今のところは、ね。まだ分からないよ」
「そりゃそうだろうね」
「焦っちゃだめだよ」
「焦ってなんかないよ」
「またそうやって頑張っちゃって。可愛い可愛いゴナツヨの仇だよ?」
ゴナツヨ、という単語を耳にした途端、黒髪の全身に苛立ちの色が露わになる。
だが、栗色髪はフハッと気の抜けた笑いを返しただけだった。
「睨んでも恐くないし。ま、当分は様子を見るしかないでしょ」
「どうぞ。最初っからこの件はそっちに任せてるんだし」
「あんまり任せっきりってのもねぇ。また爺ぃたちが騒ぎ出すよ」
「騒がせておけばいいんじゃん?」
「…自分の立場、ホントにわかってる?」
強い視線で窺う栗色髪に、今度は黒髪が仕返しを企てる。
「睨んでも、恐くないから」
「…あたしだっていつまでも助けられないからね」
「マキに助けてもらわなくても」
いよっ、と反動をつけて黒髪が刀を振り回す真似事をする。
「自分の身は自分で守る」
「守れるわけ?」
「守れなかったら?」
今度は長い指を自分の首元に添えて、真横にすっと線を引く。
「散るだけ」
62 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時37分16秒
その硬質な動きとは裏腹に、ウハハと大仰に笑ってみせる幼馴染に栗色髪は苦笑する。
「巻き添えになるのはごめんだよ〜」
「なんだよ、見捨てる気?」
「あったりまえじゃん。危なくなったらさっさと逃げ出すから」
うっそーまじーひでーひでーきゃーひとでなしーろくでなしー、と騒ぐ黒髪に、そーだよそーだよひとでなしだよろくでなしだよわるかったね知ったこっちゃないよ、と栗色髪がまぜ返す。
だが、いつもの息の合った掛け合いをふっと栗色髪が断ち切った。
「今は、何も無い。無いけど、気になるんだよね」
「…何が?」
「イチイ。イチイサヤカ」
「ああ、リストランテの」
「おかしいと思わない?」
栗色髪が神経質に体を揺する。
「んー、まぁそれだけうちらを警戒してるって事じゃない?」
「…イチイサヤカはそんな簡単な人間じゃないと思う。残念ながら」
「まーそうだけど」
「引っかかるんだよね」
「でもさ、実際に」
「イチイサヤカの方から人質に差し出してきた。あのお嬢さんを」

63 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時37分58秒


どうしてだろ?と、リカは首を傾げる。
背丈の2倍ほどは越える、石を巧みに積み上げた壁面。陽射しを照り返す白みがかった土。吹き抜けていく風の匂い。
同じだ。
リストランテと、同じだ。
けれど、どこか違う。ずれている。
同じ音符で構成されているのに奏でてみたら別の調であったような、半音の違和感。
ここが違うと指摘できないもどかしさ。
(気持ちの問題なのかな)
ここに来て20日。
だんまりを決め込んでみたり食事を取らなかったりもしてみたが、拗ねようがひねようがちっとも反応の無いマリにあっさり根負け。
よって、無念ではあるが、マリを相手にひたすらお喋りを続け、一日に一度許されている中庭の散歩を楽しむ。
楽しみと言ったらそれくらいのものだ。
単調な毎日。
底無し沼のように生温く、緩慢にリカを受け止めてくれる毎日。
(なーんか疲れちゃったな)
踏み固められた土の感触を足の裏に受けながら、壁面沿いにぶらぶらと歩く。
64 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時39分58秒
と、ふと背後を何かが通り過ぎたような気がして振り向く。
(あっ)
黒い犬だった。
黒い瞳でリカを凝視している。
そしておもむろに、くあっと口を開く。
真っ赤な舌と尖った犬歯が不吉なコントラストを織り成す。
しかし、犬はそれ以上は何もせず、さっさとリカを追いぬいて歩き出した。
ついてこい、とその背骨がリカに呼びかけている気がした。
(なによ…)
ここへ来た当初に見た夢の感覚が、その生臭い感覚が、鮮やかに甦る。
唾を飲みこもうとしたが、緊張で口の中は乾き切っていた。
「なんなのよもう」
小声で呟いたつもりだったのに、くるりと犬が振り返り、またリカを硬直させる。
「…行くわよ」
敗北感を悟られぬように精一杯の威厳を取り繕いつつ後を追う。
中庭の端の小さな木戸の前に来ると、犬は鼻先でコツコツと木戸を叩く。
どうやら「開けろ」と言っているらしい。
が、自分が開けていいものやらリカは逡巡した。
逃げ出しているとでも思われたらどうしよう。
いや、万が一にも逃げ出せてしまったらどうしよう。
65 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時40分35秒
「ダメだよ…」
犬相手に弱々しく抵抗を試みる。
コツコツ。またもやノック、そして視線。
「開きっこないよ…」
コツコツ。
「もう、開かなくても噛まないでね!…お願いだから」
犬歯とやけに冷たい視線の威力に勝てず、リカはそっと閂を上げて扉を押す。
案の定、木戸はビクとも動かない。
それはそうだろう。そんなに簡単に開いたのでは意味がない。
「ほら、やっぱり」
言い終わらないうちに、ドンッと重い音と共に体当たりした犬の姿はあちら側へ吸いこまれた。
(開いちゃったし!)
清々しく開け放たれた木戸の前でリカは立ち尽くす。
黒い犬の姿がふっと横にスライドして木戸の陰に隠れた。
66 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年07月06日(日)19時41分29秒
「ちょっ!」
声をあげ、駆け寄った時。
向こう側に、リカを見詰める二つの目があった。
リカより少し高い位置に。
やや茶色がかった、透き通った目。
真っ白なシャツの襟元にかかる、黒い髪。
動けない。
先ほど感じた恐怖に似ている。
だが、恐怖より更に強く、痛く、苦しい波。

その瞬間、リカは人生初めての恋に陥ちた。

67 名前:魚心 投稿日:2003年07月06日(日)19時42分27秒

更新しました。
ネット環境の変更により次の更新まで少し間が開きそうです。
申し訳ございません。

>57 ステキカット様
 静観及び諦観の念を持ちまして見守っていただけると、大変嬉しく思います。
68 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月19日(土)13時51分52秒
期待して待ってます 土器土器です…
69 名前:ミニマム矢口。 投稿日:2003年08月08日(金)02時22分47秒
更新ご苦労様です。めちゃ良い感じ。
正体不明の黒と茶・我侭主人公・優しい幼馴染、寡黙なメイド
そして、なにより意味深な妹にワクワク。次回更新に期待です。
70 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時00分50秒

「話したいことがあるんやけど」
振り返ったサヤカの怪訝そうな顔をナカザワは苦々しい思いで眺めた。
ナカザワ達がいつか迫ってくるのは分かっていたはずなのに、いかにも不思議そうな表情を取り繕うサヤカの慎重さと周到さがいつもながら疎ましかった。
もってまわった言葉や交渉事を有利に進める為の布石は嫌いだ。
だから直球に切り出した。
「何の話かわかっとるやろ」
「話と言いますと?」
リカのお守り役からリカの父親に気に入られ、今やリストランテの市政の一端を担っていると言っても過言ではないサヤカもナカザワよりは大分若い。
「お嬢様の事や」
慇懃な態度を崩さないサヤカに、ついナカザワは苛立った声をあげてしまう。
いけない。
これではサヤカの思うつぼだ。
どうしてもというから連れてきたが、隣のイイダも頼りにはならない。
落ち着け、落ち着くんやと言い聞かせながら言葉を継ぐ。
71 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時02分15秒
「…リカお嬢様のことや。どういうことか、うちらは何も聞かされてない」
「状況は十分察していただけたかと思っていましたし、説明する余裕もなかったものですから」
「それなら今、説明してもらおか」
サヤカはナカザワとイイダに椅子を勧め、自分は執務用の机に腰掛けた。
まるで出来の悪い子どもに説教でもするような態勢に、ナカザワは改めてサヤカの巧みさを思い、心の中で舌打ちをする。
「まぁ、ご存知の通り、ああいったアクシデントがありまして、リストランテは対応を迫られていたわけです」
「余計な前置きはやめてもらおか。チェケベーグの要求は何だったんや」
「…はっきりとした要求はありませんでしたが、あのままいけばリストランテはじわじわと吸収されていく恐れがありました」
「それはあんたの勝手な思いこみと違うの」
「ならばお伺いしますが、ナカザワさんがチェケベーグだったらどうでしょう。相手に否がある状況で、何も言わずに赦しますか。市を大きくする絶好のチャンスですよ」
さりげなく、しかし確固とした口調で問いかけられてナカザワは口を噤む。
(イヤミったらしいやつ!)
内心では憎々しさの花満開だが大人げないので表には出さない。
72 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時03分09秒
「チェケベーグが狙っているのもまさにそれでした」
「…あっちの交渉担当は」
「…ゴトウ、という女です」
「知らんな。軍の人間か」
「違うようです」
「ともかくゴトウとやらは武力行使も匂わせてきたわけや」
「そういうことです」

「それならさ!」
今まで黙っていたイイダが唐突に立ち上がる。
(また余計な…。空気読め空気)
ナカザワはせがまれるままにこの部下を連れてきたことを後悔した。
そもそも、ナカザワはそれほどイイダを可愛がっているわけでもなく、イイダもそれほどナカザワを慕っているわけはない。イイダはナカザワの位置を狙っている節があり、どちらかといえば油断のならない存在といっていい。
だからと言ってイイダを嫌っているわけでは決してないが、時として個人行動に走りがちなイイダに危険なものも感じているのは確かだ。
73 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時04分06秒
今も、どうにも我慢できなくなったのか、イイダの美しい顔面が怒りで歪んでいる。
「どうして戦わないの!その為にあたしらがいるんでしょ!」
「イイダ」
まんまとサヤカのペースにのまれていく後輩を遮るが、若いイイダの勢いは止まらない。
「あんたはあたし達を侮辱したのよ!あたし達を見くびって、腰抜けって嘲笑れるのを見物してるってわけよ。いざって時は何の役にも立たないただのお飾りだって思ってるわけよ」
激していくイイダとは対照的に、淡々とサヤカが言い放った。
「…そういうことに、なるかもしれません」
イイダの額がさっと蒼白く染まる。
怒りがイイダの動きを鈍らせていたのが幸いした。
サヤカに掴みかかるより一瞬早く、ナカザワがイイダを羽交い締めにする。
「アホ!!」
心理戦にあっさり負けたイイダを怒鳴りつける。
イイダはそれでも、憎々しげにサヤカを睨みつけるとナカザワの腕を振り払い、顎をそびやかせて部屋を出ていった。
74 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時05分51秒
「何せ血がのぼりやすい性質で。堪忍してやって」
「ええ」
「なあ」
何か、とサヤカが醒めた目で尋ねる。
「今謝ったのはあの子の上官として謝ったまでや。本音は、イイダがあんなになるのも無理はないと思うてる。わかるやろ」
「…ええ」
「あんたが何を恐がってるのが知らんけど、そっちがそうならこっちはこっちで好きに動かせてもらうより仕方ないわ」
ポーカーフェイスの策略家を装っていたサヤカの仮面が初めて揺らいだ。

イイダを、ナカザワを、軍を敵に回してでも守りたいもの。
その為には身の危険を厭わず、最善と信じる道を非情に選択する姿勢。
ナカザワは知っている。
自分が命を賭けているものが、サヤカの守りたい何か、リストランテであることを。
軍によって自分の計画がおしゃかになる事をサヤカは恐れている。
邪魔だてをされることを恐れている。
だが、そんな事はナカザワにとって、知ったことではない。
(一人で何もかも背負った気になって、いきがってるんじゃないよ)
ナカザワもまた、自分の最善と信じる方法、自分が為しうる方法でリストランテを守りぬくと決めた人間なのだ。
75 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時07分37秒
<3>

「どーすんの」
「どーするって言われても」
「本当に何もしてないんでしょうね」
「バカ言うなって。勘弁してよ」
「まー、わかってるけど……ほら」
潔いまでに日の光をシャットダウンしている重厚なカーテンから栗色髪が外をうかがう。
「またいるよ、ってかまだいるよ」
「…あらまぁ。ご苦労だね」
「もう一週間だよ?飽きもせずにさぁ。ちょっとおかしいんじゃないの?」
「でなきゃよっぽどヒマなんだろうね」
「あーもう、ただでさえ厄介な状況をややこしくするのやめてよね」
「だーから、あたしのせいじゃないでしょ?」
「あんまり浮気してるとぉ、可愛い可愛いあの子に刺されるよ。ズバっとグサっと」
「そん時はマキも道連れにするから」
「はぁ?なんでよ」
「だってほら、あたしたち、一心同体じゃん?」
「……バーカ」
「さて、面倒くさいことはさっさと片付けちゃおう。来てるんでしょ?」
「……うん、まぁ」
「ずっとマキに押しつけてきたから。そろそろあたしが出なきゃでしょ」
76 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時08分31秒
いや、と弾かれるように栗色髪が腰を上げる。
「あたしが、行く」
予想外の反応に戸惑う親友に、言い訳のように言葉を足す。
「今が大事な時なんだよね。こういう微妙な状態なんだし。易々と人質差し出してきたりして、絶対何か裏がある筈なんだよね」
「マキ」
「そりゃいつかはそっちに出てもらわなきゃだけど。今日はまだ早いっていうか」
「マキ、分かったから」
「……ん」
「実はあたしもさー、気が重かったし。苦手なタイプっぽいから、イチイサヤカ」
「間違いないねー。駆け引きとかさ、出来ないじゃん」
「なにそれ。人をバカみたいにさー」

本当は二人とも、気付いていた。
叫んだ瞬間、栗色髪の目に灯った烈しい色に気付いてしまったことを。
顔を上げた瞬間、指の先に走った焦燥に気づかれてしまったことを。
闇夜の埃の様に、音も無くしかし確実に降り積もる違和感を、けたたましい言葉という布で覆い隠そうとしている事を。
黒髪と栗色髪は、確かに、一心同体だった。
互いの呼吸を測りながら互いを欺こうとするほどに、二人は親友だった。
77 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時09分12秒


知ってる。わかってる。リカはあっさりと自分の心の内を覗きこんだ。


わからない。わかりたくない。マキは勝ちのない勝負を挑み、心の内の闇を睨みつけた。

78 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時10分02秒


太陽が熱い息を吹きかける。
わかってる。バカげていると自分でも思う。
でも、あの衝撃から立ち直れない。
この人に会う為にここまでやってきた、そう確信した。
私の人生はこの人にあると直感した。
大きな黒い瞳に現在が消え、未来が見えた。
出会えた喜びは、無かった。鋭い糸でひと息に心臓を撫でられたような痛みが走った。
相手のうっすらと透き通った首元の静脈さえ切なく哀しかった。
誰、何でここにいるの、どうやって開けたの、というような事を相手が口にしていた気がする。
低くこもるような声音に、体中の関節が絞られるように痛んだ。
痛い、と胸の内で言葉にしてみると、もう訳がわからなくなった。
『リカ』
『え?』
『リカ!!』
叫んで元の道を思いきり駆けた。
(つまり、逃げちゃったわけだよね…どう考えても)
踵を返す瞬間に視界をよぎった相手の驚いた顔。
例え環境は違っても、初対面の相手に名前を怒鳴り捨ててしかも走り去るのが礼儀に適っているとは思い難い。
79 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時10分44秒
弁解したい。謝りたい。
その為にこうして一週間、待ち続けている。
(…ううん、知ってる。わかってる)
そうじゃない。会いたい。存在を感じたい。あの衝撃が本物かどうか確かめたい。
知りたい。彼女が何者なのか。どんな些細な事でもいい。
マリにはそれとなく特徴を伝えて探りを入れてみた。
だがいつにもまして素っ気無く「存じません。見張り当番の兵卒でしょう」と、取りつくしまもなかった。
何かしら軍に関わる人物だろう。着衣と、どこかした攻撃的な眼差しから推測は外れていないという確信がある。
(そう、ちょうどこんな感じだけど、もう少し冷たくてけだるくて…)
息をのんだ。
いつのまにか静かな視線が、リカに向けられていた。
「あっ、私…」
「お待ち下さい」
ピシリと呼び止められて足が竦む。
あの時のようには逃げられない。恐る恐る、振り返って、もう一度「あ…」と声をあげた。
「あなた、警護の…」
イイダとナカザワからリカの引渡しを受け、チェケベーグまで警護についていた人物。
確か名前は…そんな事まで、いちいち覚えてはいない。
80 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時11分33秒
「ここで何をしていらっしゃるんですか」
「何って…何でもいいじゃない?ちょっと散歩しているだけ。それとも何?私はあの粗末な部屋から一歩も出ちゃいけないっていうの?」
後ろめたさがリカを饒舌にする。
「いえ、そんな事は」
適度な距離を取った位置で、突然の来訪者は腰を低くする。
「ただの散歩でしたら、問題はございませんが」
「なっ、なによ!ただの散歩じゃないっていうの?あなた…」
「ケイと申します」
「私は、私の好きにするっ。誰の指図も受けないっ」
地団駄を踏み出しかねないリカへ半歩ケイが距離を詰めた。
「何よっ」
「リカ様がお待ちのある方から伝言がございます」
辺りを憚るような押えた声に、リカの体は硬直する。
「…なに?…」
81 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時12分21秒
ひとつ、ケイが息を吸った。
「迷惑だ、と。どうぞお部屋にお引取り下さい。ここへはもう来られませんよう」
「……」
「どうぞご理解下さい」
「……」
「では、私はこれで」
ケイが慇懃に腰を深く折る。
「…待って」
「何か」
「彼女は、あなたの何?」
「…詳しくは申せませんが、上官に当たります」
「だったらこう言っておいて頂戴。私は、人の指図は受けません。明日もここで待っています」
「リカ様」
「行って」
「しかし」
「行って!」
一礼してケイは木戸の向こうへ消えていった。
恥辱と怒りと、混沌とした感情が零れてしまわないようにリカは顎を引き上げ、地を踏みしめた。
ふと、館の一室から斜光が翻ったような気がしたが、不覚にも瞼にこみあげてくる自分自身の熱いもののせいかもしれなかった。
82 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時13分07秒



最後に会った時と同じマントの緋色が、覚悟していたよりも遥かに強く、心臓を撃った。
わからない。
色々なことがわからなさすぎて、頭がうまく働かない。
弱みを見せることは出来ない。
幸い、無表情は特技の一つだ。
「お変わりもなく、お元気そうで」
単なる挨拶だろうか?それとも。
「…如何されましたか?突然お邪魔しまして、ご迷惑でしたでしょうか」
もう駆け引きは始まっているのだろうか?
やや長めの前髪の奥に隠れた強い光を直視することが出来ない。
室内に入ってきたきり何も言葉を発しないマキに辛抱強くイチイサヤカは話しかける。
「何か意図があっての訪問ではありません。ただ、こうして我が都市の大切な後継者をおあずけしております以上、我が都市と貴方の都市は兄弟も同然と申してよろしいのではないでしょうか」
きた、とマキの血液がアラームを鳴らしながら体を駆け巡る。
83 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時14分15秒
リストランテは、まずは優良な都市と言っていい。
水に恵まれ、麦から果実まで作物は豊富だ。
気候もそこに住む人間も穏やかで都市の周囲に広がる商業街もそれなりの賑いを見せている。
だが、どれもこれも、チェケベーグよりひとまわり、劣る。
地利のお陰で余所からの侵略を受けず、攻撃を受けず、ひっそりと仲良く生ぬるく時間を刻んできた、それがリストランテだ。
つい先だって、「平和外交」を貫くチェケベーグ君主が亡くなるまではその存在が無視されてきた。
その程度の都市だ。
当然、外交にも長けてはいない筈。
しかし、マキは目の前の相手の意図を、未だに掴みかねている。
端整な顔立ちのリストランテの重官は、君主の長女で人質のリカの幼馴染だとも聞いている。
故郷のためとはいえ、進んで幼馴染を敵の渦中に投げ入れるイチイサヤカの神経と、その思惑。
84 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時17分47秒
「…今日は、都市の使いとしてお邪魔したのではありません。勿論、リカ様のご様子を伺いたいという事もございますが」
「申し訳ありませんが」
相手を遮った声は、自分でも意外なほど冷静だった。
よし、大丈夫と言い聞かせる。
「突然のことですし、十分な用意が整っておりませんのでそれはご遠慮頂きたいのですが」

だが、イチイサヤカは、そうですか、と落胆する素振さえ見せない。
「…今日の用事というのは、是非、これを」
袂から取り出した小さな包みを差し出す。
茶色い紙はイチイサヤカから乗り移った体温で微かに温かく、それを敏感に感じ取っている掌が煩わしかった。
「楓の葉の葉脈だけを抽出し、金で薄く全体を覆ったものです。我が都市でも大変な値打のある品です」
説明通り、それは少しでも余分に力をこめるとあっさりと折れてしまいそうなほど、うっすらと葉脈が浮き立つ、まさに金の葉だった。
85 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時18分37秒
「我が都市では家内の繁栄のお守りとして重宝されますし、経済力を示すものとして求婚の際に贈られたりもします」
求婚、の音を耳聡く鼓膜が拾うのを無視する。
「…では、有り難く頂戴して主に…」
「いえ、これはチェケベーグへ差し上げる品ではありません」
「…と言うと?」
「私から、あなたに、個人的に差し上げたいと思ってお持ちしました」

これは、駆け引きだ。
イチイサヤカの仕掛けた挑戦だ。
鵜呑みにしてはいけない。油断してはいけない。隙を見せてはいけない。
86 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003年08月24日(日)23時19分23秒
…そうか、そうだったのだ。
ずっと心に引っ掛かっていたもの。
痛み、猜疑心、どうにも解せない妙な願い。
覚えのある、懐かしいこの感情。
マキは悟った。
(これは、憎しみだ。あたしはイチイサヤカを憎んでる)

分かってしまえば、恐くはない。
マキは正面からイチイサヤカの視線を捉え、妖艶に微笑んだ。
その憎しみがどこからきているのか、などという問いは問題ではなかった。
87 名前:魚心 投稿日:2003年08月24日(日)23時20分46秒

本当に間が空いてしまいました。すみません。

>68 名無しさん様
 余りに更新が遅くて怒気怒気になりませぬよう。切に切に。

>69 ミニマム矢口様
 的確な登場人物紹介を有り難うございます。緩やかな展開で申し訳ないです。
88 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月26日(火)11時35分52秒
これからどう展開していくのか・・・。
期待してます!
89 名前:ステキカット 投稿日:2003年09月08日(月)01時58分25秒
おかえりなさい。
物語が動き出しそうな予感。
楽しみにしています。
90 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/22(月) 00:24
続き読みたい…
作者さんのペースでいいんで、待ってます。
91 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 18:56

地面に鉄の金具を撃ちつける硬質な響きに、リカは目覚めた。
号令。そしてまた地響き。その繰り返し。チェケベーグ軍の演習はここのところ毎朝の行事だ。
無視して寝続けたところで誰に文句を言われるわけでもないが、あの中に、あの人がいる、と思うと妙に気持ちが騒ぐ。
押し黙ったままマリの手をかりて身支度を整え、朝食をとる。
鏡に向かった後、静かに立ちあがり、部屋を出る。
マリが目の端に僅かに批難を浮かべる。感情らしい感情を見せるのはこの時くらいだ。
構わず足を外へ向け、しばらく歩き回ってからあの場所へ行く。
辺りに人がいない事を確認すると木戸に寄りかかり、または地面に座って鼻歌を歌ってみたり、あの人の面影を描いて遊ぶ。
92 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 18:57
『迷惑だ』
実に呆気ない宣告。
それでもリカが変わらず毎日ここへ来るのは意地だけではない。
簡単に言えば、他にやることが、ない。
果てしなく単調で空っぽの日々の中で、リカがここにいる理由、意味。
もし何年間も、もしかしたらこのままずっと、あの狭い部屋で誰からも忘れ去られてマリの能面と共に機械的に年老いていったら。
この想像はリカを芯から凍えさせる。
だが、空想の中であの人はいつもリカを助け出してくれる。
森へ連れだし、街へ連れだしてはリカを笑わせてくれる。
優しい目で、大丈夫、ここにいるよと抱き締めてくれる。
93 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 18:58

きっとリカは、空想に遊び過ぎたのだ。
だから、何週間かぶりに木戸が重い音を立てて開き、彼女の姿を押し出した時、ためらうことなく口にした一言が
「遅い」
だった。
リカが驚き慌てる事を期待していたのだろう。
先手を打たれた彼女は大きな目を丸くして、あぁ、と間の抜けた声を漏らした。
「いっぱい待ったんだから」
「…」
「私の故郷ではレディを待たせたら捕まって牢屋に入れられちゃうんだから」
「えっ、うそっ」
「うそ。そんなわけないじゃない」
やられた、と彼女が口を尖らせる。
久し振りの再会が思い掛けなく自分のペースになっている事でリカは無性に浮き立つ。
「ね、あなた、名前は?」
「は?」
「別に本名じゃなくてもいいから」
「何であんたに教える必要があるの」
「だって私はちゃんと名乗ったじゃない」
「…」
「教えたくないなら私が勝手に決めるけど。そうだなー、色が白いからシロちゃんとか。目が可愛いからメメちゃんとか」
「ばっ!…よしっ、よーし、わかった。今考えるから。よーし、えーとね、そんじゃ」
「メメちゃんまで5秒前」
「待ってっつーの!えーと、よしっ、んーえー」
そこら辺の物からヒントを得ようとしているのだろう。きょろきょろと視線を走らせる姿が可笑しくて、益々嬉しくなる。
94 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 19:00
「さっきからえーと、とかよーしばかりじゃない、よっすぃー」
「…そのよっすぃーってのはどこから」
「えとちゃんは言い難いし、よしちゃんじゃ面白くないでしょ?メメちゃん」
「…よっすぃーでいい」
「決まり!」
即席よっすぃーはひとつ大きく息を吐く。
呼応するように土埃を含んだ真昼の風がリカの頬を撫でていく。
「あたしさぁ、伝えたよね。こういう事するなって」
「…聞いてない」
「ウソだね。ケイが来たでしょ」
「よっすぃーから直接聞いてないもん」
だったら今直接言ってやるよ、と彼女は言うだろう。
そうしたらいくら言っても無駄だと、諦めたりしないと言い返してやるのだ。そう待ち構えていた。
「……今度さ、二人で出かけない?」
「えっ?…」
「デートって訳じゃないけど、何かあんたに興味出てきたみたい。もっと知りたい気がする」
お伽話だと思っていた空想と同じ言葉。同じ展開。
目だけは相変らず何かを閉じこめたようなガラス玉だけど。
95 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 19:00
「明日の朝、東の道を行った所に大きな石があるから。そこで待ち合わせ。行けば直ぐわかるから」
「……ここじゃダメなの?」
「は?どうして?二人でお出かけ、って言ったじゃん?外の方が気持ちいいし。秘密の場所があるんだ。連れてってあげるよ」

城壁から、外へ。
今のリカの状況でその行動が指し示すものは。
『脱走』

「待ってるから」
彼女の微笑が、降ってきた。

96 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 19:01

迷いがないわけではなかった。
自分の境遇、状況、どこから見てもそれはタブーだ。
発覚すれば、罪。罰。監禁?…処刑?
少なくとも木戸の前には二度と行けなくなるだろう。そして彼女に二度と会う事も出来なくなるだろう。それくらい、リカにだってわかる。
脱け出すのはどうにかなるかもしれない。
昼食にはいつも一度部屋に戻っていたが、それも気分が悪くなったとでも言えばどうにかなる。
日が暮れるまでに何とか戻ってこれれば。
(なんて、うまくいく筈ないよね)
問題は時間なんかじゃない。
ここにいる限り、リカは常に見張られている。自由に散歩に出ていけるようで、立ち入ってはいけない部屋、いけない場所が控え目に、しかしはっきりと示されている。
とても狭い狭い範囲でのみ有効の自由。
あからさまではないが、ふたした瞬間に感じる拘束の視線。
チェケベーグの地理には疎く、一人でリストランテに戻る準備も体力もない。
城を出れば遅かれ早かれ、間違い無く捕まる。
リストランテはどうなる?
(別にいいじゃない。皆の方が私を利用したんだもん)
自分は一方的な犠牲者なのだと言い聞かせる。
97 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/09/28(日) 19:02

その夜、リカは夕食を殆ど口にしなかった。
代わりに、パンにサラダと肉を詰めこみ、そっと布ナプキンに包む。
神経も内蔵も全てが荒れ狂っているのにその手際が素早く的確である事に唇を噛む。
揺れていた。
しかし、リカは明日自分がとるであろう行動を、知っていた。
98 名前:魚心 投稿日:2003/09/28(日) 19:03

生きてます、というだけの少量更新ですみません。

>88 名無しさん様
 有り難うございます。これから、話が動き出していく予定です。
 毎度申し上げている事ですが、予定は未定です。

>89 ステキカット様
 そう言って頂ける幸せを噛み締めつつ。ただいまです。

>90 名無し読者様
 本当ですね。作者のペースでいいんですね。言ってしまいましたね。…努力します!
99 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2003/09/29(月) 18:20
み、見つけたヽ(´ー`)ノ
相変わらず、奇麗な作品ですな…面白いです。
期待してますぞー
100 名前:ステキカット 投稿日:2003/09/29(月) 22:11
なんとなく打ち解けてきた感じなのでしょうか…。
更に楽しみです。

私信で申し訳ありませんが、メール送ったの届いてますでしょうか?
101 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:16

<3>

普段より念入りに髪を梳かす。
気付かぬ間に伸びた髪が月日を教えてくれる。
(もう十分だよね)
昨晩時化にあった心も今は不思議なほど凪いでいる。
「ねぇ、マリ、少し髪を切ってくれない?」
マリは何も聞かずに背後に立ってくれる。その無表情が今日ばかりは有り難い。
「マリは結婚してるの?」
「…いいえ」
「でも好きな人くらいいるんでしょ?」
これでマリともお別れかもしれないと思うと、無反応も無表情も恐くない。
「私になんか言えるわけないか。ごめんなさい」
「……います」
「…あ、そう」
「好きな人がいます」
「でも私の世話係になってるんじゃ、滅多に会えないよね」
「ええ、まぁ」
「マリはその人の為なら何でもできる?」
狂いなくナイフを動かしていたマリの手が止まる。
「やります」
リカの髪が一房、床に落ちる。
できる、ではなく、やります、と言ったマリを鏡越しに改めて見つめる。
意志の強そうな鼻筋、引き締まった口元。
この顔を温かく緩ませる誰かがいるのだと、マリも生きているのだと、自然に思えた。
床に散る残骸を始末するマリの背中に「ありがとう」と言った。
背中がほんの一瞬揺れた。
102 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:17

パンを袖に隠し、散歩道に入る。いつも通り木戸の前に行き、しゃがみこんで草花をいじる。
効果があるかどうかは分からないが一応のフェイクは試しておきたかった。
(さあ、行くよ)
何気ない風に木戸を押す。
『ここを突っ切ると近道だよ。錠は開けておくから』彼女が教えてくれた道だ。
幸運だった。さもなければどこから外へ出ていいのか見当もつかない。
足を踏み入れいたのは演習場らしき一面の広場。少し離れた所に館とよく似た造りのややこじんまりとした建物があった。
兵士の宿舎か軍の施設かその両方か、朝の演習を終えて静まり返った空気の中に素っ気無く突っ立っている。
早足で広場を抜けてしまえば、城壁までは拍子抜けするほど順調だった。
門の前には見張りの兵士が張り付いていたが、中へ入ろうとする積荷のチェックや行商の確認に追われて出ていくリカには一瞥もくれない。
「人質が逃げちゃうよ」
教えてやったらどんな顔をするだろう。こんな状況なのに愉快な気すらしてくる。
そしてリカは久し振りの自由を胸いっぱいに吸い込み、彼女の待つ方向へと駆け出した。
103 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:18


その建物は、眠っていなかった。
「ヒトミ、もういい加減にしたら」
マキが干し豆を口に放りこみながら窓辺の幼馴染に声をかける。
ヒトミの横顔に表情は無い。
窓の外に何があるのか。または何かがないのか。
マキは知っている。こういう時の幼馴染は、決して心の内を明け渡したりしない。
ノックの音と共にケイが入ってきた。
軽く会釈をするとヒトミの元へ寄り、何事かを耳打ちする。と、ヒトミの目がすっと細くなった。
「…ねぇ、ヒトミ」
「…」
「もういいでしょ。そろそろ用意しないと」
「…うん」
「今日は大事な日なんだよ。遅れるとまた爺ぃたちが」
「わかってるって。さー食うぞー!」
ヒトミが頬だけで笑ってみせるから、マキもそれに合わせる。
「頑張るところ違うから。命運のかかったパーティなんだから、しゃんとしててよね」
「オーケーオーケー!」
部屋を出る時、ヒトミは最後にもう一度、窓辺を振り返った。
104 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:19

真上から太陽がリカを見下ろしている。
砂利道に横たわる寸詰まりの影が真昼を告げている。
足元から伸びる影はまだ一人ぼっちだ。
膝丈ほどに生い茂った草原を分断する一本の道。
館から三十分、いや、もしかしたら一時間、不安が破裂する寸前に目印の石は見つかった。
むっと立ちこめる草いきれを、時折風が薙ぎ払っていく。
もうすぐ、彼女が、よっすぃーが来る。
きっと、少しはにかみながら、彼女の黒髪は遠くからでも目立つだろう。
掌で庇を作って陽射しから肌を守る。
(でも、そうね、遅刻は決定かな)
まずは拗ねてみせよう。そうして彼女が困りきったら優しく許してあげよう。
(私もそれほど子どもじゃないもん)
105 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:20
リカは石に寄りかかった。
…石によじ登った。草を折った。小さく鼻歌を歌った。
お腹が余りにも減ったので、袖に隠していたパンを半分食べた。
目を瞑り、五つ数えてから目を開けた。
目を瞑り、十数えてから目を開けた。
家系図を三回暗誦した。
喉が乾いていた。
それ以上に、焦燥に胸が焼け焦げそうだった。
用事でもできたのか。まさか場所を間違えているのか。急に病気か怪我に倒れたのか。日にちを勘違いしているのか。
106 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:21

光沢を微妙に変えてくる繊細な緑も、突き貫ける程の青も、もう欲しくはなかった。
リカが欲しいのは、あの艶やかな黒だけ。
頬を撫でる風の触手が冷たく温度を変えている。
道に座りこみ膝を抱えた。
空が何時の間にかオレンジに燃えている。
(もしかしたら)
考えまいと押しこんでいた最後の可能性が膨らみ出す。
(…騙されちゃった、とか?)
二度と顔を見せるなとケイを通して伝えた彼女。
やけにあっさりと姿を現し、あっさりとリカを誘った彼女。
もっと早くに気が付くべきだったかもしれない。もっと警戒すべきだったかもしれない。
でもリカは、うかうかとここまで来てしまった。館を脱け出して。リストランテを捨てて。
帰る場所はもうない。
(…あーあ…私ってマヌケ…)
「もうどうなっちゃってもいいかなぁ」
呼応するように、草むらがざわりと揺れたその時だった。
視界の端に黒い塊が波打った。
あっ、と思わず息が洩れた。暮れかけて自由が利かなくなった薄闇の中に、黒い犬がじっとこちらを見詰めている。
(あの犬…)
静かな深い目。
(なに?何か言いたいの?)
胸の内で呼びかけると、犬は身を翻して一目散に道を駆け、視界から消えた。
と思った途端、また戻ってきた。
107 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:22
(……違う)
リカは全神経を総動員する。
黒い毛はもっと長くて、もっと大きくて、二本足で。

「よっすぃー!」
叫んで、走った。泳ぐように両手を掻き乱すが思うように前に進まない。
永遠に辿りつけないような錯覚。
だが、彼女もまた全速力で。
最後の数歩がまどろこしくて、リカは大きく飛びこんだ。
温かい、しっかりとした弾力がリカを受けとめる。
しばらくは互いの荒い呼吸を相手の体にぶつけ合う。

「……捕まっちゃうんだから」
「…」
「言ったじゃない。私の故郷ではレディを待たせたら捕まるんだって」
「ウソだって言ったじゃん」
「今決めたの。私が」
「んーなのって」
「恐かった」
「え」
「少し。少しだけだけど、騙されちゃったのかなって思った」
彼女が僅かに身を引く。
二人の体温が奪われていくのが惜しくて、リカは前よりきつくしがみつく。
「よっすぃーにうるさがれてるって分かってるから。急に誘われたりなんかして舞い上がっちゃったけどもしかしたらって。少しだけだよ。こうやって、来てくれたし」
黒い瞳が闇に溶けこんで、何を映しているのかリカには分からない。
108 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:23

「…途中で帰ればよかったのに」
今度はリカが体を引く番だった。
「帰るところなんてないもん」
今頃はマリが、周囲が大騒ぎをしている頃だろう。
彼女とこうして会えて、抱き締められて、それでも自分にはもう帰る場所などないのだ。
覚悟を決めていた筈なのに改めて目の前に突き付けられると、それは圧倒的な重みでリカを潰しにかかる。
「もう、どこにも帰れないんだもん」
「……」
「どこにも居場所なんてないんだもんっ」
出口を見つけた感情が、噴き出した。
「私はあなたとは違うっ。誰もいなくて、何もなくて、喋る人もいなくて、毎日毎日一人でっ」
不安だった。退屈だった。悔しかった。寂しかった。
「私なんて」
「…」
「私なんて、もう」
「……」
「死んじゃった方がいいのかな」
109 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:25
強い力で腕を掴まれた。
「おいで」
言うなり、彼女は道を戻り始める。
「待って!どこに行くのっ」
「帰るんだよ」
「…帰るってどこに…」
「あんたが今朝出てきた所にきまってんじゃん」
「やだっ!いやだっ!」
彼女は何も知らないから、そんな簡単に言えるのだ。戻れば、リカは。
「お願いっ!離してよっ」
彼女はリカを半分引きずりながら先を急ぐ。
「ねっ、ねぇっ、秘密の場所に連れていってくれるんでしょっ?」
何とか思いとどまってくれるよう、必死に呼ぶ。
「ないよ」
「えっ?」
「そんなの、元からないよ」
「…どういうこと」
直ぐ先の背中は何も答えてくれない。
110 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/05(日) 00:25
「ねぇ、よっすぃー、本当はね、私ね」
「……ダメなんだよ」
「…何?聞こえなかった」
「死んだら、だめなんだよ」
呼吸音に挟みこまれた、彼女の言葉。
「生き物はね、寿命以外の理由で勝手に死んだりしたらだめなんだよ」
今度は、確かな伝える意思と共に、届いた。
そんなのと反論しようとして、出来なかった。
彼女の言葉は余りに正論で、それ以上に軽い反抗など押えこんでしまう異様な迫力があった。
彼女は、リカのことを知らない。
だがリカもまた彼女のことを知らない。名前も年齢も身分も何ひとつ。
どちらにせよ、リカに選択肢など無かった。
今は、少し汗ばんだ彼女の掌の質感だけがリカの道しるべだった。
111 名前:魚心 投稿日:2003/10/05(日) 00:26

そんなこんなで更新しました。

>99 名無しどくしゃ様
 有り難うございます。夜逃げしてたらまた見つけて下さい。

>100 ステキカット様
 のろい展開で面目ございません。更に努力致します。有り難うございます。
112 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:34


そこから先は、めまぐるしい展開にリカ自身が振り落とされないようしがみつくので精一杯だった。
館の門の近くでケイが待ち構えており、意外な物を手渡した。
リカと共にチェケベーグにやってきた白いドレス。
二人に急かされるままに物陰でドレスに着替え、彼女に添われて門に向かう。
門番は三人連れを押しとどめようとしたが彼女の顔に気付くと敬礼をして畏まった。
彼女は親しげに門番の肩を叩き、「いや、ちょっと夜風にあたってきてね」とリカを顎で指した。
門番は下卑た笑みを浮かべ、息抜きも必要ですと心得た顔であっさりと三人を通した。
館に入るとこれまでリカが通った事の無い長く幅広い廊下を進み、壮麗な扉の前にくると彼女はリカの腕を自分の肘に絡ませた。
ケイが扉を開け放つ。
と、光と、色彩が洪水となって溢れ出す。
着飾った何十人、何百人もの人間が蠢く海を彼女とリカはゆっくりと割っていく。
人々は彼女に向かってグラスを掲げたり頭を下げ、リカへは控え目で無遠慮な一瞥を投げかける。
外にいた時は気付かなかったが、彼女は肩元や胸に勲章や飾り羽を付けた正装用の軍服だ。
次第に、リカも余裕を取り戻してきた。
全く状況が飲みこめないけれど、不審を露わにしたって何もならない。
113 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:35
パーティや晩餐会には慣れている。
背筋に力をこめ、足の爪の先まで神経を張り巡らせると、ひそひそ声は賞賛と羨望の溜息に変わった。
楽団の奏でる音色がより華やかなものに移る。
隣を見上げると彼女も周囲に絶え間無く笑顔を配っている。
それだけで心は更に浮き立つ。
捧げられたさくらんぼの香りのするパンチをグラスを手に持ち、傲慢すぎず、しかし隙の無い微笑を口の端に漂わせる。
彼女と共に歩く先歩く先でワインやパンチのグラスが待ち構えている。
壁際には普段とは違う手の凝った料理の数々が並んでいて、これもリカを誘惑にかかったが、彼女に食べ物をがっつく姿は見せたくない。
ぐ、と腹の底に力をこめた時、前方から明らかに異質な視線を感じた。
視線の主は直ぐに見つかった。
彼女と同じ礼服。同じ位の年、背丈。
彼女より更に均整のとれた身体、栗色の髪。
視線がぶつかっても、その目は動じることなくリカを捉え続ける。
114 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:36
(あの人、私のこと知ってる)直感した。
『どうしてあんたがここにいるの』
相手の目がそう詰問している。
答えたくても、勿論リカが答えられるわけが無い。

すっと右腕の温みが消えた。
「ここからはケイがエスコートするから」
彼女はリカの手をそっと外し、ケイに委ねる。
ずっと一緒にいてくれると思っていたから急に突き放されたようで寂しくなる。
それでもケイに向かって微笑むと、ケイは眩しそうに目を瞬いた。
押えた笑い声、グラスのぶつかり合う音、衣擦れの音がうねりとなってリカを取り巻く。
リカは半ば酔ったように優雅に人波の中を泳ぐ。
微笑だけで挨拶を交わし、男達の視線を交わす。
女達が身にしている煌びやかな宝石はないが、忠実に付き添うケイがアクセサリーとなる。
115 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:37
「楽しんでいらっしゃるようですね」
不意に背後から低く耳打ちされた。
振り向かなくても、声の主は分かる気がした。
「…お陰様で」
「それは良かった。ああ、初めてお目にかかりますね。マキと申します」
「……ええ」
「盛大なパーティでしょう。リストランテのパーティには敵わないかもしれませんが」
至近距離で、二人は向かい合った。
「父は賑やかな事が好きですから」
受けて立つ、つもりだった。
「どうですかここは。勿論色々と不便はおありでしょうが」
「いいえ。お食事も美味しいし、こうやってお招きにもあずかって、楽しく過ごしています」
「今日はあの者が直接お誘いを?」
彼女の事を指しているのだろう。
まさかさっき夜風に吹かれながら草の陰で着替えて何も知らずに引っ張りこまれましたとは言えない。
「……ええ」
「そうですか」
マキとリカの間に鋭いものが走り抜けていく。
116 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:38
「毎日散歩だけではつまらないでしょう。そろそろ花の季節も終わりますし、遠出には少し寒くなりましたしね」
マキは知っている。
知っているぞ、と知らせている。
「…お天気が良かったので少し遠くに行ってみたのですが、何もありませんでした。外に出てはいけないとは言われていなかったのですが、今度から気を付けます」
「いえ。何もあなたを監禁するつもりはありませんよ。ただ、おかしいですね。世話をしている者は、今日はリカ様は一歩も部屋を出ていないと言っていましたが」
「……」
てっきりマリが全てをマキに報告しているのだと思っていたのに。
なぜ、嘘を。何の為に。
「間違いないと言い切っていたんですけどね。世話係の勘違いですかね」
どう答えたものか。
マキはリカが館を脱け出した事を知っている。
だけれど、マリが本当に嘘をついてくれたとしたら。
117 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:39
動揺の為に上下左右に散ったリカの視線に応えたのは思いがけぬ救世主だった。
「あ、それ…」
マキの胸元に揺れる金色の葉っぱ。
「それ、あなたがつけてるの、サヤカ…私の幼馴染のものだわ」
これほど立派な金の葉脈は滅多にない。リカがどれほどねだっても手すら触れさせてもらえなかったサヤカの宝物だ。
それが何故こんな所で眩い光を放っているのだろう。
「どうしてあなたがそれを?」
今度はマキから捕獲者の余裕が消える。
「…ああ、先日、いらっしゃった時に」
「来たんですか?サヤカが?ここに?」
「ええ。お寄りになりましたよ」
サヤカがここへ。混乱の輪にもう一つの輪が加わる。
「どうして会わせてくれなかったの?ひどい。サヤカは私のことなにか」
「何も」
言い終わらぬうちに切って捨てられた。
どうして?と更に食い下がろうと吸いこんだ息は一際大きな拍手に掻き消された。
118 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:40
正面に誂えられた壇上に、彼女が立っていた。
隣には酒と肉と怠慢で鵞鳥のように太った男がむくんだ掌を彼女に差し出し、彼女は笑顔でそれを握り締める。
鵞鳥男がグラスを頭上に掲げ、「チェケベーグに!」と叫ぶと一斉に復唱の津波が起きる。
男は彼女の腰を引き寄せ、更に甲高く叫んだ。
「チェケベーグの若き主、ヒトミに!!」
もうマキの姿も見えず、リカは乾杯の洪水の中に真っ逆様に崩れ落ちていった。
119 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:41


もう何日も家に帰っていなかった。
湯浴びと夕食を終えるとさっさと館へ戻るサヤカを、母親は溜息と共に送り出した。
あれほどサヤカが「溜息は悪魔を呼び出す口笛ですよ」と注意しているのに、近頃ではひどくその回数が多くなったように思う。
体には気を付けて、ちゃんと寝ないと。
母親の言葉はどうしていつの世も変わらないのだろう。
自分の体など。
そう考えるのは子どものエゴというものなのか。
都市に仕え、リカに仕える。そういう生き方しか教わらなかったし、してこなかった。
(他に道はあったのかなぁ)
思い返せば自然の流れの中でも幾度か退避口は在ったような気がする。
だからといって今更。と首を振る。
疲労で少し気が弱くなっているようだ。
どうにかまだ周囲の信は繋ぎとめているものの、いつまでもつかは分からない。
積みたてた信用は常に上乗せしていかない限り時間と共に減じていく。
おまけに軍は水面下で独自路線を走り始めている。
何より時間が欲しい。
だが、圧倒的に足りないものこそ時間だ。
刻々と時が削られていき、その果てに丸裸になったリストランテはどうなる?
120 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:42
考え事をしていた為に、執務室の前に座りこんでいた影にぎょっと肝を冷やした。
「…ぁあ、驚かさないで下さい」
「へぇ。サヤカさんでも驚いたりするんですか」
マコトはニコリともせずに言い返してくる。
「そんなに冷血漢に見えますか?」
気安い口調には、しかしマコトはぴくりとも食いついてこない。
苦手なサヤカの元へ出向いてくるくらいだ。
子守唄を聴きにきたわけでもあるまい。
「いつまでこのままにしておくんですか」
室内に招き入れるなりマコトが切り出す。
せっかちな所は姉とそっくりだ。
「サヤカさんならって我慢してきました。直ぐにお姉ちゃんを助けてくれるって。でももう何ヶ月経つと思ってるんですか。いつまでお姉ちゃんを放っておくんですか。お姉ちゃんが可哀相だと思わないんですか」
せっかちな所だけではない。ひたむきな眼もよく似ている。
「あのお姉ちゃんが人質なんて、いつまでも耐えられっこない。取り返しがつかなくなる前に」
「そうでしょうか」
サヤカは姉によく似た真っ直ぐな瞳を正面から覗き込む。
121 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:43
「本心からそう思っていらっしゃいますか?」
「当たり前でしょう!あんなに寂しがり屋で弱くて」
「環境がお姉さんにそれを許してきたのです。お姉さんの底力を見くびっちゃいけませんよ。マコト様は私を信じてと仰いましたが、私はリカ様だからこそ信じて送り出せたのです」
あなただったら。
神経質に揺れるマコトに、サヤカは後の言葉をしまいこんだ。
甘え下手で人にうまく頼ることが出来ず、何でも自分の中に閉じ込めてしまいがちなあなただったら絶対に送り出しはしなかった、と。
「…だからってこのままお姉ちゃんを放っておいていいんですか」
「時間が必要なんです」
「もう十分でしょう。お父様も弱ってきてる。それに本心ではお姉ちゃんを出した事を後悔してる」
「…マコト様は私を信じては頂けないのでしょうか」
「何も手の内を見せずにただ信じろっていうんですか」
どこかで聞きかじってきたような台詞だ、と胸にある兆しが生まれる。
122 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:44
「ご尤もです。手は打ってあります。名前は申し上げられませんがチェケベーグの内部、それもリカ様のごく近くに内偵を潜りこませてあります。勿論、リカ様もご存知無い。何か危険が迫ればその者が命懸けでリカ様をお守りします」
「…信用できる人ですか」
「絶対に」
「でもそれだけでは」
「残念ながら、現状ではチェケベーグより軍力兵力持久力全てで劣っています。正攻法でいけば相手の思う壷です。今は平伏すように見せて、隙を窺う時なのです。時間が必要とはそういう事です」
時間、そして情報、チャンス。
狙うべき穴の大凡の見当はついている。
チェケベーグでは前の君主が死んだ後、裏で激しい後継者争いが繰り広げられたらしい。
現在は長女のヒトミが正式に君主となって収束したものの、煙はまだくすぶり続けている筈だ。
ヒトミに何か失敗があれば、煙ははっきりとした形でヒトミに襲いかかるだろう。
内部分裂、内部抗争。
手を拱いて待つつもりはない。引き金となりそうな種には例えどんな微小なものでも、水を与えておく。
弱さも寂しさも、全て利用する。軍隊など要らない。これは精神戦だ。
123 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:45
(卑怯と罵られても)
彼女の仮面の雲間から咲いた、あの大輪の笑顔も、全て。
母親から「いつかあなたも」と贈られた金の葉も惜しくなどない。
…迷い?
複数の選択肢を持つ者だけが握っている特権。
(私に迷う道なんて、ない)

「考えたんですけど、もし、もしも可能なら、例の犬を殺した犯人を捕まえて処刑すれば向こうも少し」
「無駄でしょうね」
即座にサヤカは断定する。
「お分かりでしょう。あちらにとっては犬殺しなど都合のいい切っ掛けに過ぎないんです」
マコトは唇を噛んで俯く。
「マコト様。もしもその犯人が捕まえられたとしても」
「…?」
「殺させはしませんよ。この私が」
「……望むかな?犯人が、それを」
124 名前:鉄枷グイシオン 投稿日:2003/10/19(日) 00:47
おやすみなさい、と背を見せるマコトを、呼びとめた。
「邪推かもしれませんが、ナカザワに何か吹きこまれているのではないですか?」
振り返ったマコトの眼は別人のように冷ややかだった。
「頼まれています。軍の全権となって欲しいと」
やはり。
「サヤカさん、私はどうしたらいいですか?」
「……マコト様が信じる道を」
「………そう言うと思ってました。だから教えなかった」
「…」
「サヤカさんはいつもそうだ。自分一人が何でも心得たような顔をして」
「マコト様、私は」
「ナカザワは言ってくれました。私が必要だって。私しかいないんだって」

それならば、どう答えれば良かったのか。
マコトだけが頼みの綱だと、運命を共にしましょうとでも手を握り締めれば良かったのか。
月光が手の甲を不吉に青白く染めていた。
125 名前:魚心 投稿日:2003/10/19(日) 00:47

そんなこんなで更新しました。
ぼちぼちと匍匐前進していきたいと思います。
126 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/19(日) 01:18
おお、チェケベーグ君主の名前が出たのは初めてですね。
それぞれの思惑がどう絡まっていくのか、楽しみです。
127 名前:名無しどくしゃ 投稿日:2003/10/20(月) 13:01
んおぉ面白い展開。
個人的にマコが気になる。
128 名前:ステキカット 投稿日:2003/10/20(月) 23:41
匍匐前進ですか…なるほど。
嵐の前の静けさという感じですが、楽しみにしています。
129 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2003/11/30(日) 11:03
更新待ってます
130 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/25(木) 12:14
131 名前:ほほほ 投稿日:2004/01/04(日) 12:19
132 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/04(日) 20:38
 
133 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/11(日) 23:02
保全。
匍匐全身、お待ちしてます。
134 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/12(月) 09:58
ガッカリするからageないで

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