VOICES
- 1 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月16日(月)01時06分10秒
- [前口上]
架空の地方都市が舞台のアンリアルの短篇/中篇連作です。
長編ではないのですが、短編集というのともちょっと違うので海に立てます。全体で一つの物語と思ってください。
エピソードごとに主人公がいて、特に誰かが全体の中心ということはありません。
大した事件も事故も謎も冒険も争いもなし。エロなしカップリングなし、そもそも恋愛自体なし。えらく地味な話ばかりになります。
娘。メンバー出演のこんなドラマが見たい!という作者の願望(妄想)の産物です。その方針上、年齢設定にブレがあったりします。さらに娘。お約束のネタ/小道具/決まり文句などほとんど出しませんし、呼称とかもちょくちょくお約束違反します。髪形・髪の色などは、作者が好きだった時点のものに固定してます。ほんとに申し訳ねっす。
元ネタ(?)ありです。最後に白状します。
ochi進行でいきます。この緑の発色が好きなんで。
あと、週一更新です。
- 2 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月16日(月)01時07分15秒
- 前置き長すぎました。
でわ、まず第一話。
- 3 名前:1. Voices 投稿日:2003年06月16日(月)01時07分52秒
- 「1. Voices」
- 4 名前:「1. Voices」. 投稿日:2003年06月16日(月)01時08分52秒
- <………ン!…メン! メン! メン!…>
(右腕は肩と水平に…打ち下ろした瞬間、え…と雑巾をしぼる、ように…大事なのは左手小指だけ…)
<…メン!………メン! メン!……メン! メン!…メン!>
(…かかとが、そうだ左のかかとが上がりすぎ……あと両腕はなにかをかかえるようにふくらみをもたせて)
<ン! メン! メン! メン! メン!…>
(左こぶしをおでこにひきつけながら振りかぶる…)
<…メン! メン! メン! メン! メン!…>
(痛!汗が目にじゃなくて気合ださなきゃおしりが痛いな自分でたたいてるんだもの違う背筋を伸ばす腕がもうしびれて汗ですべる柄がほらヌルって…ぁあ!)
…つるりと飛んでいこうとした竹刀を、少女は、すんでのところでつかまえた。
大きな瞳をびっくりしたように見開く。
(あぶなかった…きのうはこれで、わたしのせいで、百本追加されたんだ)
- 5 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時09分34秒
- ただでさえムワっと真夏の熱気のこもる道場で、男女合わせて数十人の剣道着姿が“メン!メン!メン!”の掛け声で果てしなく竹刀を振り続ける。振り続ける。振り続ける。
自分のものでなくなったような四肢は、それでも染みこんだ一定の型をなぞって勝手に動く。自意識七割がた蒸発の一種恍惚の域に達した脳ミソにゆわんゆわん響く―――
<…メン! メン! メン! メン! メン! メン! メン! メン!…>
わたしの声。耳に響くわたしの声。
お腹からの気合でミリミリ震える身体。
なんだろう。
まわりのみんなの声が、たちこめる。それにつつまれる。
感じる―
『気合出せー! いつまでもおわんねーぞ!』
<…メン! メン! メン! メン! メン!! メン!! メン!! メン!!…>
<…メン!! メン!! メン! メン! メン、メン、メン! メン!…>
- 6 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時10分15秒
- 『どうしたー、きこえねぇなあ…よーしあと百本!』
<…メン!! メン!! メン! メン!! メン!! メン!!…!!…!……!!>
(…あ)
(わたしのなかから、湧きあがってくる)
(わたしのなかへ、ながれてくる)
(わたしのなかが、満ちてくる)
響きが――
少女は、華奢な身体に力がみなぎっているのを感じた。
疲労も暑さもうわまわる、力。なにかに身をまかせる。
- 7 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時11分04秒
- 『よーしラスト早素振り五十本!』
素振りと掛け声が一挙に加速した。
<…メン!メン!メン!メン!メン!メン!メン!メン!…>
『よぉーし! 最後!』
<メン!!!>
ドズゥ…ン……ザザザザザ…
腹までこたえる重量感ある響きと、木の表面をすべる音。
最後の一本は、全員思い切り踏み込んでそのまま摺り足で身体を流した。
呼吸をととのえて、すぐさま打ち込み稽古。十人縦一列に間隔をとって、竹刀を腰/頭の高さに水平に突き出し、または腕を突きだし縦に垂らす。
そこに次から次へと打ち込んでいく。止まらない。止まらない。
(小手小手面面小手小手胴面面…胴!)
打ち込みが止まらない。
人が止まらない。
何度となく、めぐっていく。そのスピード。
- 8 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時11分44秒
- さらに防具をつけて懸り稽古。
面をつけた瞬間にスイッチが切り替わる。
打ち倒す。殴り倒す。
自分がやられてもいい。いや、やられてる。だから相手を倒すのも平気だ。
数十人一斉の躍動・狂騒。壁に跳ね返る、リミッターのはずれた気合。ズゥン・ミシリと床を鳴らす踏み込み。ゴォっと地鳴りとすら思える気合が壁を震わす。
竹刀が肉を打ち、面ガネが床を削り、いい払い腰をもらった身体がきれいな放物線を描いた。
喧騒の中のひとり。
しかしひとりの自分は、たちまち喧騒に溶ける。
喧騒に、なる。
(はやく、もっとはやく)
(強く、もっと強く)
(もっと、もっと、もっと、もっと、もっと)
面の中で鼻筋を流れる汗のかゆみも、気にならなくなっていた。以前よく感じた、面ガネにとじこめられたような孤独感もない。いま湧き上がる、この喜びにも似た衝動。もう体力限界だと思うたびに現れてくる、みずみずしい自分。
動かずにいられない。
さもないと、どうにかなってしまいそう。
倒さずにいられない。
さもなければ、倒してほしい。
- 9 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時12分29秒
- 目の前にたった相手に、とにかく打ち込むだけ。
竹の棒切れで、目の前の相手を打つ。
打っていいのは、右前腕・頭・胴体。
それだけだ。
だからって打たないことはない。
打ちたきゃ打つ。叩きのめせばそれでいい。
柄を手元に引き寄せ竹刀を立てて、腰からぶつかる。逆にふっ飛ばされそうだ。
もし吹っ飛ばされても、床に横になったまま竹刀で足首を打ってやる。
自意識などとうに飛んでいる。
感じるのは、空間を満たし、自分を満たす、あらゆる振動たち。
(みんなの声が、わたしの声が、響いてる)
(感じる。満ちあふれてる――)
遠くでは誰かが竹刀を飛ばされ、誰かが派手に投げられ床に叩きつけられ、誰かが体当たりで吹っ飛ばされ、誰かが突きをくらって壁に貼りつけになり…
自分も、行く。
(なんでもいい、ほら、飛び込むよ!)
どこまでも立ち昇る力。つっぱしる気持ちをそのまま身体に乗せて、跳び、打ち込み、道場一杯の気合と一つになり―――
- 10 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時13分24秒
- …………
「ぷはぁーっ」
稽古が終わって面をはずし、頭をおおっていた手拭で顔と首筋をガシガシ拭く。
(うー、気持ちいい)
端正な顔を、ほっとゆるませる。
やっぱり気がついたら、かゆかった。かゆいところをかける面があったら結婚してもいいくらいだ。
などと思いつつ、後ろで一つに束ねていた髪の輪ゴムを待ちかねたように外して、頭を振る。長い髪がわさっと広がった。
確かにいつもの髪型では、稽古中は邪魔になるし、なにより面をつけることもできないのだが、それこそ稽古中だけに限定したい。とりあえずいまは、左右の耳の上あたりでまとめるだけにする。どうせまたすぐに稽古なのだ。
壁際でぼんやりどこともなく見渡して考える。
(きょうはいい感じだったなぁ…なんだろう、自分がまわりと響いてた。あれってやっぱり――)
「愛ー、どうよー」
底抜け元気、かつ意味不明な呼びかけに思考は断ち切られた。
(いきなり「どうよ」って、それこそどうよ?)
愛と呼ばれた少女…高橋愛は、苦笑してそちらを向いた。
- 11 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時14分10秒
- 「うぇー死にそう。死ぬー。てか死んでる」
ちっとも死にそうにない声の主は、すでに防具をとって胴着と袴だけになっていた。床でだべってる連中を踏み分け、蹴散らし、跨ぎこし。いま死ぬすぐ死ぬもう死んでるでも生き返ったうおりゃー、とかいいながら袴の裾をつかんでぐいっとたくし上げ、盛大にバタバタとあおいでいた。
(うわ、ナマ脚見えすぎだって…あとその風をこっちに送るなっつーの)
「まこっちゃんは使いべりしない人だから、びくともしてないでしょ」
「なんじゃーそりゃー」
愛のずいぶんなもの言いにも、わははと笑って応じる。日向の猫のように目を細めた笑顔もどっしりしてて、やっぱり「使いべりしない人」なのだ、この「まこっちゃん」…小川麻琴という少女は。
「あっづー。ね、外でよ」
「そだね…ってもう!」
こっちの返事も待たずにずんずん出入り口に向かっていく麻琴を、愛はあわてて追いかけた。
- 12 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時14分51秒
- N県S市。
人口二十五万人。わりと大きいほうだろう。面積も130平方kmと相当なものだ。
むかし農村、いま二割くらい農村。人口比はともかく単純に面積比で言えば、市の三割近くは田畑じゃないのか、と思えるくらい。そしてそれ以上の山林と野原。さらに農村部の向かいっかわでは海に面している。田んぼと畑と山と森と林と川と海、そして住宅街・商店街などなど、という町。
だから断じて都会ではない。が、それほどイナカというわけでもない。このご時世で年寄りばかりで若者が減る一方、などということもまったくない。それでももちろん市内にたいした産業などなく、たいていの勤め人は自動車なり電車でホントウの都会に働きにでる。
働きに出るのと反対方向にちょっくら出れば、もうかなりの畑と山。
その山の端ちかく、そろそろ街並みが切れるか、というところに町道場の夏合宿所がある。べつに剣道場専有ではないのだが、とりあえずいまの期間はそういうことだ。
- 13 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時15分37秒
- 合宿所のごく近くにかなりの空き地があるのを、二人は(というか麻琴は)見つけていた。なんかの建設予定地らしいが土地を拓いただけで工事が止まっており、いまは丸太がごろんと積まれてるくらいだ。なぜか刈り残された樹もそこそこある。
目の前には「カジカ山」の名でみんなに親しまれる山。その緑の山なみが映えて景色がいい。川のせせらぎが聞こえる。虫がそんなにこない。ついでに人もこない。なぜならここは観光名所ではないし、道場生は合宿所から勝手に出ることを禁止されているから。二番目の理由はちょっと辻褄が合わないようだが、ともかく、二人にとっての穴場だった。
丸太の上に並んで腰掛けた。残された樹がちょうど蔭をつくってくれる、特等席。
二人とも剣道着のままだった。どうせ合宿中は稽古漬けだから、日中、合宿所内ではみんな着替えたりしない。防具や竹刀も道場に下ろしたままにしてある。
いまは十二時前。昼食が十二時半だから、まだ少し時間がある。
- 14 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時16分27秒
- うだるような暑さ。木漏れ日。青空を縫う飛行機雲。バッタがギッチギッチ鳴く声。
山のほうから、木立を抜けて風が走った。
「ふあー、きんもちいいー!」
素直さ120%で伸びをする麻琴、十五歳。道場九年目のベテラン少女。
うんうん、といった風に見守る愛、十六歳。剣道歴三年、道場の二年生。
- 15 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時17分09秒
- 高橋愛が剣道をはじめたのは、中学三年になってから。さらにいまの道場に入ったのは去年、高校生になってからのことだ。その道場で七つのときから剣道を続けている小川麻琴は、雲よりも高く大先輩となる。そこに二人の性格と、愛のほうが一コ上なのと、いろいろプラスマイナスした結果、麻琴が愛を引っぱりまわすという関係が今日まで続いている。
「にしても、きつかったなー。竹刀飛ばされるは、床に投げられるは、体当たりくらうは」
…ありゃ全部あんただったんかい。
「アッタマきたから、突きで壁までぶっ飛ばしてやったよ」
へへん、と得意げに鼻をぴくぴくさせてる。
それもあんたかよ…じゃなくて。
- 16 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時18分08秒
- 「ちょっ…突きはうちじゃ――」
「うん、すっごくおこられた。いーじゃんね、もう高校なんだしさ。だいたい男子とかしょっちゅう先生にやられてるじゃん。やりかえしゃいーのに。それにあたし、突き、はじめてじゃないよ? 愛は知らないだろうけど、もう四回目」
まったくこのコは。
その小さい体のどこにそんなパワーが…などという疑問は、むかし自慢げに示されたチカラコブを見て解決している。
やれやれ。わんぱく坊主のお母さんの気持ち、なのかな?
「たとえでっかいケガしたってさ、それでD総合病院にいけりゃいーんだよ、男子なら」
「なにそれ」
「聞いたことない? あそこの病院にすっごくかわいい看護婦さんが勤務してるって、男子のあいだで評判。だからあたしきょう、協力してあげたわけ。頼まれてないけど」
「あほらしー」
「ねー、男子ってバカ丸出しだよね」
いや、あんたもだよ。協力とか言って、いま思いついた理屈のくせに。
色気ゼロ、彼氏つくる気ゼロで、なんでそんなうわさ話ひろってこられるのか…っていえば、そりゃこのコが男子中学生レベルだからなんだよね。はぁ。
- 17 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時18分58秒
- 「ともかく、きょうはムチャはやめなよ。午後から会長が合流するじゃん」
「んにゃ、会長はこないよ。なんか街の名士さんがなくなって、お通夜だかお葬式だかだって。しらなかったん?」
「あ、そうなんだ」
「それにさ、会長きたところでよけい稽古ハードになるだけなんだから。ケンカ上等!」
このコはやる気だ。本気の目をしている。
たとえボロゾーキンのようにされても、そのときには相手を焼きイモの皮のようにしてるだろう。
やるといったら、必ずやる。
やばい決意、とか大層なものではない。単純に「決めた。やる」――それだけ。
麻琴の目はいつも、ウソをつかない。ウソをつくことの意味を理解できない。いつも、まっすぐ。
- 18 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時20分06秒
- 「…ハァ。あんた、変わんないよねぇ」
「そうだよぉ。前から言ってるじゃん、変わらないんだって。小学校一年のころからこのまんま。たぶん、生まれたときから。この先もずっと」
その言葉に、愛は考える。
確かにね。人間、変わるようで変わらないんだ。
自分なんて、こないだ小学校のときの通知表ひさしぶりに見返したら、担任から保護者への通信欄に
『愛ちゃんはものごとに生真面目にこだわるところが長所ですが、こだわりすぎておっちょこちょいな見落としもあります。肩の力を抜きましょう』
だって。
よく見てるなぁ……先生、あなたは偉かった。
というか、いまもぜんぜん変わってないじゃないか。ショックだよ。変わらないのかな。変われないのかな。変わりたいな。
あ、でもまこっちゃんにはいまのままでいてほしい……
「でも愛のほうはさ、きょうは違ったよね」
「…うん?」
現実に引き戻された。
- 19 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時21分00秒
- 「まーたぼーっとしてた? ま、いーや。違うっていうのはね、いつもは素振りで半泣きなわけじゃん?」
(半泣きって…そんなことないもん)
愛は、ぷー、と頬をふくらませる。
眉根を寄せ、口をちっちゃく結んでむっとしてみせる、いつもの表情。
しかし愛らしいばかりで迫力ゼロなのも、いつものとおり。
だから麻琴もおかまいなく話をすすめる。
「それがさ、なんつーの、きょうはもうどんどん力はいってくみたいだった」
(あ、見てたんだ…いや見てわかったの?)
「ちらちら目に入ってたけど、なんか違ったよねー。ヤケになってるふうじゃなくて、キレてんでもなくて――」
「うん、そうなんだ。なんか、道場のみんなと一緒にせいいっぱい気合張ってたら、こう、ぐわーんってなってきて」
「ぐわーん、ねぇ」
- 20 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時22分01秒
- 「わたし、まこっちゃんにくらべたらぜんぜん初心者で、この道場も去年入ったばかりでだからわたしのが一コ上でもまこっちゃんいまだにタメ口だし…いやともかく、こんなのはじめてだった…うーん、こうさ、みんなと一つに響いて、知らない自分が暴れてるみたいな……どんどん内側から膨らんでくるというか溢れてくるというか、でも内側からだけじゃなくて外からも流れ込んできて動かされて、というかもう内側と外側が分かれてなくって……自分なのか自分じゃないのかもわかんないみたいな…」
自分で言っててよくわからなかった。でも、ややこしいことなんだからしかたない、と思った。
「そりゃつまり、この合宿で、愛が一皮むけたってことだな」
「え?」
あっさりまとめられてとまどう。「一皮むける」とはまたオッサンみたいな言葉づかいをする、とかつっこむことも考えられなかった。
- 21 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時22分58秒
- 「気どらないで自分を出せるようになったってこと。お腹の底からうわーってなるの、気持ちいいし大事なのに、そこまでいけなかったでしょ。いままで」
“んねっ?”
麻琴は、本当に気持ちいい笑顔でこっちを見た。
うーん。そんなものなのかな。納得しちゃっていいのかな。
どうだろう。わたしは、もちょっとややこしいことだと思ってたんだけど。あの感じはこう、いろいろ複雑で、絡み合ってて、絡み合ってぎゅ―っとなったうえで、そこを突き抜けてこそ生まれてくるなにかというか…うーむ。
いや、そうなのかもしれない。きっと、自分はまだ、ややこしく考えすぎてたんだ。ややこしく考えないことが大事で、それこそさっきつかめたのに、見失っちゃうところだったんだ。あぶないあぶない。
ありがとね、まこっちゃん。
この結論にたどり着くまでがすでにややこしいのだが。
けれど、それが高橋愛なのだからしかたない。大きな瞳でこちゃこちゃ考えて、マヌケな結論にはまってニッチもサッチもいかなくなってたりする、考えすぎの天然少女。やっぱり小学校の担任の先生はよく見てた。
- 22 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時23分57秒
- 「うん、そうだよね、まこっちゃん」
「そうだよ。うちの高校なんかさ、気取って勝手に悩んでるの、多いんだ。道場さそってやろうかと思うくらい。アタマ使いすぎだって」
「まこっちゃんとこ、優等生さん多いもんね」
「ねー、愛のとこにしたらよかった」
あっさり素直な受け答え。まるで自分は「優等生さん」で、愛がアホ校に行ってると聞こえかねないことを言う。だけど愛はまったく気にしない。麻琴がそんな含むところのあることを言うわけがない、とわかってる。
- 23 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時25分01秒
- さらに事実に照らしても、麻琴の言葉に怒る理由はなにもない。
まず、麻琴がいい学校に行ってることは本当だ。「近いから」というステキな理由で志望したというが、「優等生さん」が結構集まっている。そこに、麻琴は今年、あっさり合格した。体育会系ゆえの理系というか、持ち前の割り切りのよさで、正解以外に迷い込まない。0じゃなけりゃ1だろ、という二進法思考。それが国語などでも成果をあげているというのが、凄いところだ。
そして、愛が通ってるのはアホ校ではない。まあまあのところで、まあまあだからなのか、のびのびしていて気取りがない。だから麻琴みたいな子には居心地がいいはずだ。それで麻琴はああ言ったのだ。そして、も一つ付け加えれば、その学校で愛はわりと好成績だ。
- 24 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時25分56秒
- そんなこんなで、あっさり流して話は進む。
「気取って悩んでる、か」
「あー、愛は悩んでるふうじゃないけどね、迷ってたっつーか」
「そうかもねえ」
「あたしが言ってもしかたないから、どうなるかなーって思ってたけど」
「もう…」
「でもあたしが思ったとおり。愛は強くなった!」
「うん…うん!」
確かに、愛は道場で迷っていたところがあった。防具つけて竹の棒を振り回してなんになる、などと身も蓋もない段階から悩んでいた。だからといって剣道をやめるなんて考えられない。それを脱したら、こんどは思う存分に暴れることができず、考えすぎて。
小さいころからこの性格で損をしていたとも思ってきたけれど。変わんなきゃと考えすぎて、変わらないといけないのかどうかもわからなくなって。
- 25 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時26分52秒
- しかし、いまは……。
そんな愛の親友となっている腕白少女が、相変わらす、いい笑顔でこっちを見ている。
物事をややこしく考えることができないという能力にめぐまれた真琴のことが、愛は大好きだった。このコと仲良くなってから、やっぱり自分はちょっとずつ、変わってきてる。
もう一度、心の中でつぶやく。
ありがとね。まこっちゃん。
まこっちゃんに出会えて、本当によかった。
うん。元気百倍。
ふいに愛は立ち上がった。
「あー! なんかむしょーに大声だしたい気分。ほら、まこっちゃんも立って立って。あれ、カジカ山に向かって叫ぶよ?」
と、真正面の山を指さす。
- 26 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時27分54秒
ちょっとびっくりの麻琴。こんな積極的な愛を見るのって初めてかもしれない。すくなくとも、愛にリードされるなんて、はじめてのことだ。
でも、すぐに乗っていく。
「いいねいいねぇ。で、なんて叫ぼっか?」
「なんでもいーの。とにかくうおりゃーってぶつけるの。山に」
「ラジャ!」
息を吸い込む二人。一度見合ってタイミングを計って。
せーの……
「暑いぞばかやろー!!!」
「夏が好きだー!!!」
「「って、わけわかんねー!!!」」
二人ではりあげた叫び声と笑い声が、入道雲までも駈け昇っていく気がした。
- 27 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時28分48秒
ああ。
わたしの声。耳に響くわたしの声。
麻琴の声。響きあう声。
セミの声。草葉がそよぐ音。
遠くの川のせせらぎ。お日さまの歌声。
まわりのすべての声に、つつまれる。
こんなにいろんなものに、かこまれてたんだ。いっしょにいたんだ。
それで力が湧いてくる。わたしも、力をあたえてる―――
- 28 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時29分33秒
そのとき。
「わ、やっべ! もう食堂に集まる時間じゃん! 行こ!」
言ったときにはもう、麻琴は丸太を跳びおり駈けだしている。決断即実行。愛のほうを振り向きもしない。
やっぱり、リードするのは麻琴のようだ。
「わー、待ってよー」
「ほらほら遅刻よーん」
とたとた駈けていく、二人の剣道少女。
空き地には変わらず、虫の声、風の音、草いきれ。
青空の底。
たくさんの生命の声たちが、夏の熱気になってざわめいていた。
- 29 名前:「1. Voices」 投稿日:2003年06月16日(月)01時30分55秒
「1. Voices」
−了−
- 30 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月16日(月)01時31分43秒
………
- 31 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月16日(月)01時33分45秒
- 第一話はこんな感じで。剣道着姿の高橋と小川が見たいだけです。
しかし短いな。ま、序盤ということで(この剣道シリーズを続けるわけではないです)。次はもう、ずっと長くなります(本当)。
高橋が標準語。高橋大好きなのに…いろいろ試してみたけども、どうにもならなくなってあきらめました。ごめんなさい。
- 32 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月16日(月)01時34分31秒
- 人生初小説なので、作者が気付いてない変なところがたくさんあるはずです。どんどん叩いてください。作者はヴォルヴィックの空容器よりもヘコみやすいので、ちょっと叩けばたやすくベコベコいきます(万が一にもご感想をいただけるとして)。
- 33 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月16日(月)01時35分03秒
- 一度の更新で一エピソード全部、という予定。
ではまた次週。
このくらいの時間に。
- 34 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月18日(水)10時08分27秒
- こういう何でもない日常を描く作品好きです。
ここってそういうの意外と少ないんで頑張って欲しいです。
- 35 名前:∬´◇`∬<ダメダモン… 投稿日:∬´◇`∬<ダメダモン…
- ∬´◇`∬<ダメダモン…
- 36 名前:2. Echoes 投稿日:2003年06月22日(日)23時04分06秒
「2. Echoes」
- 37 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時05分22秒
……………
身体に感じる、ぐん、と柔らかい反動。
壁を蹴った足元からと、前をふさぐ透明なカタマリからと。
青白い広がりの中、ぐん、ぐん、とすすんでいく。
わたしは水になる。
わたしは水だ。
なにも考えない。
腕と足で、水をかく。
体が前にすすむ。
ほかにはなにも考えない。
すべてを洗い流しながら、前にすすむ。
水圧を耳に感じる。
ガンガンと頭を締めつけてる、圧力。
呼吸…呼吸が…
あがらない。
まだいける。
もうすこし…もうすこし…
空気の塊を吐き出しそうだ。
ドクン、ドクン、と突き破りそう。
まだだ……
まだいける…
もうすこし………
……………
- 38 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時06分04秒
スポーツが好きといっても、泳ぎはそれほど好きじゃなかったし、とりたてて得意なわけでもない。得意だったらバレー部じゃなく水泳部に入ってる。
だからこそ、だ。自分にとって馴れない運動で、身体を思いきり使いたい、と思ったんだ。
- 39 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時06分57秒
□□□
いつごろからだろう。
わたしは、なにもかも――全てが、鬱陶しい、と感じるようになっていた。
道を歩いてる人たち・電車の中で大声で笑っている学生たち・街中で聞こえる有線の音楽・垂れ流されるテレビ番組・そのテレビの話題で盛り上がる同級生たち……繰り返す、日常。
それなりに仲のよかったはずの友人たちまで、ふっと空っぽに見えて仕方なくなることがあった。
- 40 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時07分48秒
ほんとうに、いつごろからか。
自分でも「こりゃひどい」と思い始めたのは、二年の秋くらいからだ。
“高二の秋ですか。ふむふむ。ああ、それはですねぇ。進路決定という大きな現実が否応なく選択を迫ってくることにより思春期特有の内的葛藤が(中略)ってことですよ、ヨシザワさん――”
などと得意げに言い立てるやつらがいるのだろう。呪われろ。阿蘇の火口に跳ぶがいい。
理由なんてどうせ、もうすぐ受験で部活の練習がなくなっていきなりヒマをかかえてしまったからってところだ。
というか、自分は昔からこうだった気がする。はっきりいって、可愛げのないガキだった。小学三年生の秋の夜、トイレに起きたとき、家事疲れ気味の母が仕事疲れ気味の父に相談してるのが聞こえてきたじゃないか。
今でもよく憶えてる。
『ひとみって、いつも醒めた顔してる』
『あの子、すごく冷たい目をするときがある』
『なに考えてるのかわからなくなる』
少し開いた居間のドア越し……はっきり聞こえたなあ。
- 41 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時08分39秒
あの時、なんか、聞いてたことを知られちゃいけないって思って部屋に戻ろうとしたら、ギイって床板が鳴って。ドアの隙間の向こうの母さんと目が合って。母さん…ギョっとした顔してた。そしてすぐに泣きそうな顔して駆け寄って、わたしを抱きしめて。「ごめんね、ごめんね」って、本当に泣き出した。そんな母さんの肩越しに、父さんをじっと見てたら、目をそらされちゃったっけ。「冷たい目」ってやつだったんだろうな。
悪かったな。
いやほんと、客観的に「悪かった」と思ってるよ。母さんには心配かけてるよね。あと父さん、いまじゃ、ろくに話もしなくなっちゃったよね。でも理解が共感にならないんだ。余計ごめん…と、これもきっと、醒めた言葉なんだ。
なにせ、泣かれても目をそらされても、それで自分が変ることもなかった。なにも変わらず普通に、淡々と――傍目にはきっと「冷たく」――日々をおくってきた。
そしていま、すべてが「余計なもの」と感じるようになっていた。
- 42 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時09分29秒
- ともかく。
両親は別として、この吉澤ひとみ、なにに引け目をおぼえる理由もない。
いまのわたしは、目にするもの、耳に入るもの、すべてが、自分にとって無駄なものと感じられてならない。すべて流してしまいたい。まとわりついてくる余計な言葉や考えを、消し去りたい。
屋上でひとりぼーっとする……ダメだ。解決にならない。なにより屋上は、いつでも(授業中だろうとだ)意外に人がいる。
身体を動かさないと。でも、ジョギングとかじゃダメだ。たった一人の広くて狭い空間で全身を動かすような――
それで、ああそういや県立のでかいプールがあるじゃないか、と思い当たったんだ。
- 43 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時10分21秒
N県立総合体育館。
ムダな公共事業の一例として、たしか日曜午前の報道番組(だかワイドショーだかよくわからないタイプの番組)に取りあげられたことがあったと思う。いや、なかったかな。とにかくそれくらい、ムダに充実した総合体育施設。なんでこれが県の中心てわけでもないうちの市にあるのかわからない。
でも、でかい。きれい。そして柔道場から剣道場からテニスコートからウェイトトレーニング・ジム...etc etcとなんでもあって。
でもってプールはお子様向けの浅いのから、25mプール、50mプールまである(なんかすごい深いヤツ)。ガラス張りの屋内プールで天井は高く、照明たくさん。こりゃいい。
- 44 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時11分08秒
- はじめて来たのは十二月はじめ。冬だけど、一年中やっている屋内プールは暖かい。もし雪が降ってもガラス天井ごしの雪見もいいものだ。きちんと身体をふけば帰りも大丈夫だろう。
2時間で300円。コインロッカー使っても400円。たいてい自転車使うからアシはただ。定休日の火曜以外は、毎日来ることにした。いまはバイトしてないけど、小遣いと貯金でじゅうぶんいける。
夜はほとんど人が入らない十時までやっている。だからムダな公共事業といわれるのだが、一人で泳ぎたいわたしにとっては、ありがたかった。
- 45 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時11分53秒
- 夜の九時前から閉館ぎりぎりまで一時間、ほぼ毎日泳いだ。そのために替えの水着まで用意して。“月に一度の体調不良期”は残念なことだ。
50mプールは手に余るので、泳ぐのはたいてい25mプール。記録をつけてるわけじゃないが、たぶん毎回2kmくらいは泳いだんじゃないか。
両親はあまり文句を言わなかった。わたしが家でほとんどの時間を勉強に当てていることや、学校のテストや業者の模試の成績を知ってたから。だいたい、プールでもやもやを晴らさなかったら、かえって勉強に影響したはずだ。ともかく両親とも、女の子なんだから夜道に気をつけろ、というくらい。それはそれでありがたいと素直に思った。
- 46 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時12分35秒
はじめて泳いだとき、ここに来てよかった、と思った。
とにかく、くだらないことを忘れられる。水の中でたったひとり。よけいなことは考えない。手脚を動かし、水をかく。前にすすむ。それだけ。
塩素のにおいと、口の中に残る、飲んでしまった水の奇妙な味。手脚がぐにゃぐにゃになった感触。
プールサイドに寝そべると、体が憶えている大きなうねりにつつまれたよう。そのまま全身の力を抜いて耳をすませば、水が流れるゴボゴボいう音がだだっぴろい空間に反響するだけで、不思議と落ち着いた。
その夜、わたしはひさしぶりにぐっすり眠れた。
- 47 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時13分44秒
-----------------------------------
ワタシノ ニチジョウ
[2002/12/10 Monday]
07:00 ……起床
朝の風景
学校の日常
17:10 帰宅
食事・無言・勉強
20:30 家を出る
20:50 到着
21:00 泳ぎ始める
……
泳ぎ続ける
泳ぎ続ける
泳ぎ続ける
泳ぎ続ける
……
22:00 泳ぎ終える
22:30 帰宅
お風呂・翌日の準備
夜の静けさ
23:40 深い眠り……
(繰り返し)
[2003/1/22 Wednesday]
同上。
[2003/2/20 Thursday]
同上。
[2003/3/11 Tuesday]
同上。
-----------------------------------
- 48 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時14分47秒
- ◇◆◇◆◇
年度が変わって、わたしは三年生になった。
もう受験生だから、さすがにプール通いも毎日というわけにはいかない。それでもなんとか時間をやりくりして、週二日、泳ぎにきている。
泳ぐのが好きになったわけじゃない。わたしにとって、「泳ぐ」というのはそれ以上でもそれ以下でもない。
ただ、水の中の奇妙な孤独感が、自分には必要なんだと思うようになったのだ。
- 49 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時15分34秒
- 三年にもなれば、当然いろんなプレッシャーをリアルに感じるようになる。やっぱへたに四年制大学いくより、きちんと専門いったほうがいいのかな、とか。一定以上の偏差値の大学には余裕でいけるけど、就職はどうする、とか。法学部って脳味噌カビそうだし経済学部って高校よりウザそうだし、だからってどこが自分にいいのかイマイチわからんとか。まわりから「さばさばしてる」「気まま」「てきとー」「マイペース」とか言われて、自分でもそう思うわたしだって、カリカリくるようになる。
加えて、二年の三学期終りくらいから、学校内の下らないウワサばなしがしきりに耳に飛び込むようになった。同じ学年のゴトウ・マキとかいうこが、これまた同じ学年のナニガシの彼氏を奪って捨ててどうこう、みたいな。聞く気がないからあやふやだが、なんかそういうことだ。あーうるさい。早い話、耳から洗い流したいことがまた増えた。
こうして週二回のプール通いは、わたしにとってなくてはならないものとなった。
- 50 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時16分30秒
- □□□
耳に張った空気の膜の中で、ボツボツというノイズとともに体内の血流や空気を感じる。そして、ポンプかなにかだろうか、機械のゴロン・ゴロンという重い音が身体に響く。
ゴーグルのむこう、透明な空間にゆらめく白い光。このプールは側壁が鏡のように処理されていて、壁のむこうにもう一つの世界が広がっているようだ。
たかだか水深140cm、縦25m×8コースなのに、なぜかこのままどこまでも続いているのじゃないかとさえ思える。
一度身体を沈めて、壁をキック。
そのまま潜水で平泳ぎ。
あごが底をこするようにして進んでいく。
浮かばない。まだ浮かばない。
鼻から逃がした気泡が、耳元でゴボゴボと流れていく。
目の下をすぎていく、ラインたち。どこまで来たかなんて数えてない。
ジン、と暗い響きが頭の中にたまっていく。
胸が破けそうに鳴る。
まだだ。自分には、まだだ。ここで浮かぶな。
もうすこし、もうすこし――
向かいの壁が、見えてきた。
- 51 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時17分29秒
―プハッ!―
壁にタッチしてすぐさま浮き上がり、ハッハッハッ、と呼吸を整えた。跳びこみ台の真下の壁に後頭部をくっつけて、高いガラス天井を眺める。整列するライトの白とオレンジ。その隙間から覗く真っ黒な夜空。二つを見較べながら、徐々に鼓動を落ち着けていく。水が柔らかく首筋を撫でて顎を濡らす感触が気持ちよかった。
すっきりする。この時間、わたしはすべてを忘れられる。泳ぎながら、無駄な思いを流してしまっているようだ。
――彼女もそうなのだろうか?
わたしと対角線上に、きょうも彼女の姿が見えた。
歳はわたしより三歳ほど上だろうか。
今月…五月のはじめから、その姿を見るようになった。
- 52 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時18分15秒
- わたしが泳ぐ時間、まず人はいない。ごくごくたまに、数人の学生だのおっさんだのが騒ぐこともあり、そういうときはひたすら憂鬱なのだが、そんなことはほとんどない。
で、彼女だ。
週に何回も、大体わたしと同じくらいの時間に入って、わたしと同じようにとにかく泳ぎ、時間がきたらあがってさっさと帰る。
名前は知らない。
話したこともない。
話そうとも思わない。
たぶん、むこうもそのつもりのはずだ。
わたしたちはお互いに、ただ、ひとり、泳ぐだけ。
それでも仲間がいるようで、悪い気はしなかった。
- 53 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時19分01秒
- ◇◆◇◆◇
六月になって、邪魔者が入るようになった。
その日、水着に着替えていると、プールのほうからけたたましい騒ぎ声が聞こえてきた。やれやれと思い顔をしかめたが、すぐに奇妙な点に気がついた。
気配、というとエラソーだが要は「声」が一人分しか感じられないのだ。
いつものようにシャワー浴び殺菌槽に漬かってから場内に入ると、文字どおりにケラケラケラと聞こえる笑い声・うひょーひょえーなどという奇声が耳に入り――その方向を見るとなにやらちっちゃいカタマリがいきなり猛スピードで壁際からプールサイドを突っ切りプールのへりで踏み切ってぽーんと高く跳ぶとくるるっと回って…バシャーンとわたしのそばの水面に飛び込んだ。
- 54 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時19分49秒
――気を静めろ。怒るな。落ち着け。
くるるっと一回転半まわったその人物は、腹から水面に落ちて。
盛大な水しぶきをたてて。
わたしはその水しぶきを思いきりくらった。
――落ち着け。落ち着け。水をかぶっただけのことだ。どうせプールに入るんだから。
と、プールのちっちゃいカタマリの様子がおかしいことに気がついた。
バシャバシャとはしゃいでいるようだが、あれは……溺れてる?……やばい!
わたしはすぐさま、飛び込んだ―――
- 55 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時20分32秒
「「ゲヘガハゴホゴホゲヘブハ!!」」
ふたりでプールのへりにつかまって、思いきり咳き込む。
水温が調節されていたから、いきなり飛び込んでも無事ですんだが。それでも、水深140cmのプールなのに、身長164cmのわたしまで溺れかけた。思いきりしがみつかれ、引きずり込まれたのだ、となりのこのチビに。
「あー、死ぬかと思ったぁ」
「………」
…生きているなら問題ない。自分の出番は終わり。
そのまま泳ぎ始めることにする。まずはクロールから――
- 56 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時21分24秒
- 「ありがとう!」
さっさとプールサイドに上がったチビが、上から声をかけてきた。
こうしてみると本当にちっちゃいな。でも年はわたしより二つか三つ上か。で、童顔で金髪でちゃらちゃらしてて、なのに妙なふてぶてしさがある。人生の場数いくつも踏んでますみたいな――そんなことどうでもいい。はやく泳ごう。
「助けてくれてありがとう。で、はじめまして」
ケラケラ笑いながらだろうと挨拶されたら、無視するわけにはいかない。水につかったまま、わたしはチビを見上げて挨拶する。
「どうも」
適当に挨拶すると、彼女は勝手に自己紹介をはじめた。
「わたしヤグチっていいます、ヤグチ・マリ。もともとここの人間で。いままで東京にいたんですよ」
これが、チビ……矢口真里とわたしの出会いだった。
- 57 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時23分23秒
□□□
それから数十分間、矢口に付きまとわれた。
こっちが露骨に聞く気を見せずに泳いでいるのに、顔を合わせるたびに話し掛けてくる。
先月からこっちに戻ってきてたけどここはいままで知らなかったとか、はじめてきたでっかいプールに興奮して水深を確認しないで飛び込んだとか、でも身長145cmもないからパニックになったとか、パニクっただけで本当は普通に泳げるとか、コースロープ張ってないから飛び込みやすくていいとか。
ヨシザワ…吉沢? あ、なんかムズカシく書く方の「澤」ね。
吉澤って高校生?
あそう、その髪、おっけーなんだ。あ、服も。ふーん。
てことは…その高校、知ってる。頭いいんだあんた。いいねー。
何年生なの? なんだ、じゃ受験生じゃん。
こんなとこ来て大丈夫?…へー、やっぱり。
じゃ大学いってちゃんと勉強するんだ。わたしと違って。
法学部…ああ、そんな雰囲気あるわ…
- 58 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時24分24秒
- 勘弁してくれ。
あなたがなんだろうと、わたしにはどうでもいいんだ。
わたしがなんだろうと、あなたにはどうでもいいじゃないか。
アタマ痛い。
ちなみにわたしの「仲間」はといえば、いつもどおり黙々と泳ぎ続け、帰っていったのだが。
矢口は帰り際に、不吉なことを言った。
「わたし、これからもこれくらいの時間にちょくちょく泳ぎに来るつもり。よろしくね!」
せっかくのわたしの場所が……
いや、わたしがここに来るのは週に二回だけ、それも曜日を決めてるわけじゃない。矢口は「ちょくちょく」とは言ったが「毎日」とは言わなかった。ならばまったく顔を合わせないですむことだって充分ありうる。なんとか自分を納得させるしかない。
その日は、あまり眠れなかった。
- 59 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時25分14秒
- □□□
わたしの願望に反して、ほとんど毎回、矢口と顔を合わせるようになった。
そのたびに矢口はわたしに話し掛けてくる。というか、一方的に自分の話をする。
こっちの聞き流しモードまたはノイズガード(レベルMAX)ごしに入ってきた情報。
矢口は、イナカが嫌で高校を二年で中退しなんのアテもないまま東京に飛び出したもののどうしたらいいかわからず「もう昔のことよ」な仕事をして「自分の城」を持つため貯金に励んでいたが、ある日運命的な出会いをして惚れこんだどこかの馬のホネを「旦那」として自分のマンションに住ませるようになり旦那にぶんなぐられたりそれでも旦那が好きだったりいろいろあったうえ、今年になって旦那が一方的にほかに女をつくり矢口名義の分まで財産あらかたかっさらってトンズラ、さらに勤め先でトラブってプーになりマンションの家賃も滞納、そこで実家の手伝いという名目で「タダ飯・タダ宿」を求めてのこのこもどってきたが当然冷たい目で見られ、しかもまずは財産持ち逃げの旦那について被害届を出せいや出さないで大もめして結局出したけど最近は父親が身体をこわし、周囲の自分への目線も厳しく大変。
- 60 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時25分57秒
- なんなんだこいつは。
はじめて会ったときに感じた、あの妙なふてぶてしさ・たくましさは、こういうことか。
いや、なに興味もってんだ、わたしは。どうでもいい。どうでもいいんだ。
そうだ。大変だともいえるし、世間にはひと山いくらで転がってる話だともいえる。
いずれにしても、わたしには関係ない……。
それより、なぜこのチビはこんなにわたしにつきまとうのか。
なぜ、自分の家庭の事情だの悩みだのを、たいして親しくもないわたしに話すのか。
いまも矢口は、家のこと、近所のこと、自分を捨てた旦那のこととかを話している。そんなに大変なら大変そうにすればいいのに、何をこんなに明るく笑っているんだ?
- 61 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時28分12秒
- わたしはプールサイドで身体を休めて、ぼんやりと矢口を見ていた。
こいつは、チビのくせに水深140cmのプールで果敢に泳ぐ。たいていはビート板にしがみついてだが、ときおりビート板なしで泳ぐこともある。どうも、コースロープが張ってあるときのようだ。すぐにしがみつけるからだろうか。もっともときどき子供用のえらく浅いプールでバシャバシャやってることもある。お似合いってもんだ。
…しかし時たま、ほんの時たま、えらく無表情になることがあるのは―――
まただ。なにくだらないことを気にしてるんだ、わたし? 矢口がなにしようと、どうだっていいじゃないか。最近、わたしは余計なことを気にしすぎてる。なんのためにここに来てるんだ。
……わたしの視線に気がついたようで、矢口がこっちを見て笑ってきた。
曖昧にうなずくと…やばい、あがってきた。
そしてやっぱりわたしの隣に腰をおろす。
- 62 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時28分52秒
「前から思ってたんだけど。あの人さ、吉澤みたいだよね」
矢口は遠くのわたしの「仲間」を指差して言った。いまの矢口は鬱陶しさ全開だ。
それにしてもあの人のことはできるだけ、矢口との話題にしたくなかったのだが。
「ずーっと泳いでる。なんだろう。吉澤もさ、なんで?」
「プールには泳ぎに来るに決まってるでしょう」
「え〜? それだけ?」
「それだけでいいじゃないですか。ほかになにがあるんですか」
「なにってこたないけど。ん〜…なーんか、楽しそうじゃないんだよね〜、二人とも。教えてあげたくなるね、もっと楽しいことあるぜーって」
- 63 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時29分36秒
- 余計なお世話だ。
わたしだけなら気にもならないが、「仲間」のことまで言われて気分が悪い。矢口なんかより長い「つきあい」なんだから。だいたい、いつもわたしに自分の苦労を聞かせるばかりのあんたが、他人様になにいってるんだ。
「わたしはとにかく泳ぐだけ泳ぐんです。たぶんあの人も。余計なことはなにも考えないで」
「余計なことって…」
「余計なことは余計なことですよ」
それだけ言いきると、あっけにとられた様子の矢口を放っておいて、すぐにプールに向かった。
なにか、調子が狂っていた。いくら泳いでもどこかすっきりしなかった。
学校では、例のゴトウ・マキが傷害沙汰おこしたのどうのと、またうるさかった。
まわりの鬱陶しさが、いよいよひどくなっていくのを感じていた。
- 64 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時30分59秒
- ◇◆◇◆◇
七月。
その日も、いつものように、身体を休めているわたしに矢口が話し掛けてきた。
いつものことなのだが…今回は少し勝手の違う展開になった。
もう少し冷静になるべきだったのだが、矢口の話したことが引っかかってしまったのだ。
「吉澤って美人だよねえ」
「はあ、どうも」
「モテるでしょう?」
「そんなことないですよ」
いつもの言葉。いつもの無難なやりとり。
ただ、この先がいつもと違った。
「でも惜しいなあ。クールな美人ってのもいいんだけど…ちょっと冷た過ぎな感じがするんだよな、表情あまり変えないから」
- 65 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時31分53秒
- 矢口としてはもうかなり気安くなったつもりで、踏み込んだことを言ったのだろう。
しかしわたしには、あの日の両親の顔が浮かんだ。小学三年のあの夜――泣きだした母と、わたしから目をそらした父……。
いつもなら適当に流せたのに、ずっと矢口に調子を狂わされていたこともあって、そうもいかなかった。
「矢口さんはいつも笑ってますよね」
「そりゃー楽しいもん」
「楽しいですか」
「うん、毎日ね」
思わず、ポツリと漏れてしまった。
「なんか、無理してるみたいだな…」
「え?!」
「いえ、なんでもないです」
矢口はそれ以上聞き返そうとしなかったから、聞こえたのかどうかはわからなかった。そしてそのまま二人とも黙り込んでしまった。
やがて、矢口が「よーし行ってこよ」と大声をあげて、ビート板片手にプールに走っていった。
わたしは、矢口が飛び込んで立ちのぼった水しぶきを、ぼんやり眺めていた。
- 66 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時32分39秒
この日のやりとり以来、矢口とのあいだに微妙な緊張がうまれることになった。
わたしの方は、もともと親しいそぶりを見せていなかったが、なぜか一層、矢口のことを見られなくなった。矢口のほうもわたしに遠慮するようになった。
その後、矢口は、ボンヤリしてるかと思うとイライラとビート板蹴っ飛ばしたり、という様子が多くなっていた。
わたしも、心のささくれが取れなかった。
- 67 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時33分31秒
- □□□
きょうの夜。
わたしは珍しく父とケンカしてしまった。
きっかけは私の食事の行儀がどうこうという些細なことだが、要はプール通いだ。もう七月なのにそんな時間があるのか、とか。
夏休みに入って、予備校に行ってはいないが、プールで泳がない日は家で毎日十時間は勉強してる。さらに模試で結果を出してることだし、と無視したのがまずかった。父はえらく頭に血を上らせて怒鳴りつけてきた。
わたしはそのまま部屋にこもり、時間になるとさっさと家を出た。この間の矢口とのやりとりも引っかかっていた。
むしゃくしゃしたまま、25mを何本も泳いだ。
泳ぐうちに落ち着いてきたが、まだイライラが消せない。
だめだ。いったんあがろう。
わたしが身体を休めていると、後ろから妙にハイテンションの声が飛んできた。
「よっ、元気ないなー。悩み多き青春おくってるう? 平和なこって! いいねー、学生さんは」
なんだ? いつもとなにか様子が違う。
- 68 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時34分20秒
- 矢口がどうかしらないが、いまはわたし自身ちょっと不安定になってる。ここは適当に流すに限る。
と思ったら急に猫撫で声になった。
「吉澤さ、笑ったらすごいかわいいと思うんだけど」
「はあ?」
「前も言ったじゃん、美人なんだから。笑ったほうがいいよ。無表情よかさ」
また蒸し返すつもりなのか?
「別に笑わないわけじゃないですよ」
「いや! 笑わないね! あんた、笑顔を向ける相手がいないもの」
また変わった。なんなんだ。
きょうの矢口はやけにつっかかってくる気がする。挑発してるみたいだ。
「ねえ、このおねーさんの苦労を聞いてよ。きょうねー、ひどいんだよー」
つきあってられない。無視しよう。
「おい、ちゃんと聞けよ」
ドスの効いた低い声。矢口のものだと信じられない。
やっぱりだ。矢口は完全に、いつもと違っていた。
なんなんだ? でも、むしゃくしゃしてるのはこっちも一緒。あんまり調子に乗ってると……
- 69 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時35分03秒
- 無視を決め込むわたしに、矢口が一人でエスカレートし続ける。
「こないだあんたが言ったこと、ちゃんと聞こえてたんだからね。わたし、いやなことがあっても、無理矢理にでも笑うんだ。ウソでも笑うんだ」
「でも、あんたのその無表情、なんなの?」
「自分だけひとりだと思ってるでしょ」
「あんたさ、まわりのことバカにしてるよね? 自分のまわりの人間も生きてるってこと、思ってもいないよね?」
「親がかりのガクセイが悩みかかえてる気になって、冗談じゃねーっつーの」
「こっちはこんだけ苦労かかえてるってのに。このおねーさんの苦労にくらべたら、あんたの悩みなんてちっぽけなもんだよ? そんなもん世間を知ったらふっとんじゃうんだって。ガ・ク・セ・イさん?」
「ぶすっとしてないで、なんとか言ってみなよ」
- 70 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時35分58秒
- 黙ってりゃいい気になって、いろいろ聞き捨てならないことを言ってくれる。
「なんとか言ってみろ」? お望みどおり言ってやろうじゃないか。
あ……これからひどいこと口にしそう。
いや、する。
「なに言っても聞く気ないですよ。はっきりいって、こんなことを話すのも嫌ですね。これまでひとりで泳げてたのに、邪魔が入るようになった。いい迷惑ですよ」
立ち上がって、真っ正面から矢口を見下ろして言いきった。
「へ、へえ?…なんだ、人並みに怒ることできんじゃん」
そう言う矢口の声はうわずっていて、顔はすっかり強張っている。
- 71 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時36分55秒
- 「念のため言っときますけど、「邪魔」って矢口さんのことですからね。聞きたくもないくだらない家庭の事情とか悩みとか。さっき矢口さん、わたしのこと『自分だけ一人だと思ってる』とか言ってたけど、余計なお世話ですよ。じゃ矢口さんはなんなんです? 矢口さんは自分の「一人」に向き合ってるんですか? それと、確かにわたしは親のスネかじりですけどね、東京暮らしに失敗して実家に逃げ帰ったあなたが言うことじゃない」
矢口はもう黙り込んでいたが、わたしの口は止まらなかった。
…止められなかった。
「だいたい、自分が苦労かかえてるのにって、その苦労はわたしのせいですか? 矢口さんの苦労はぜんぶ、矢口さん自身で招いたことですよね? それを自分ひとりでしょいもしないで、無関係のわたしにぶちまけて。なにが『世間を知っ』てるんですか? そんなことだから――」
そしてわたしは、言ってしまったんだ。
- 72 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時37分39秒
「そんなことだから、バカな男に引っかかるんですよ」
- 73 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時38分32秒
- 言った瞬間、しまった、と思った。いくらなんでも言い過ぎだ。
頬を張られるくらい思ったが――矢口は動かなかった。
いや、ぶるぶると震えていた。
降ろした両腕の拳をぎゅっと握り締めて、唇をかみしめて……目を真っ赤にしてこっちをにらみつけていた。
わたしはわたしで、なんだかいまさら目をそらすことができなくなっていた。
しばらくにらみ合ったままでいたが、やがて耐えられなくなり、プールに向かった。
背中にヒリヒリと矢口の視線を感じながら。
むこうでは、いつの間に来ていたのか、例の「仲間」の彼女が、あいかわらず「ザッザッザッ」と見事に整然としたフォームのクロールで泳いでいた。
- 74 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時39分38秒
- □□□
(きょう、矢口、来てるかな。会いたくない…いや、謝らないと)
矢口と衝突してからはじめてのプール。
いつもより少し遅れて更衣室に入ると、矢口の背中が見えた。すでに着替えていて、プールに向かうところのようだ。
その背中は、痛々しいほど小さくてはかなげで。どうしても声をかけられないでいたら、むこうがわたしに気づいた。
よし、ちゃんと謝らないと――
「こないだはごめんね」
先に謝られてしまった。蛍光灯のように明るい声だった。
「いや、そんなわたしこそ…」
「ううん、わたしが悪いんだ。あの日すっごい、イライラしててね……」
わたしの言葉をさえぎって、矢口は一方的に話し出した。
「うん、実家の酒屋どうするかで親戚集まって話し合いがあったんだ。娘なのに家の商売なかなか思うようにやらせてもらえないってのもイラつくんだけど、その少し前の日に元旦那が警察に捕まって。親族会がアイツの悪口大会。アイツにはわたしだってもう愛想つかしてたからいいんだけど、そのうちわたしが赤ちゃん堕ろしたことまで槍玉に上がって――」
え…?
『アカチャン オロシタ』
……え? え?
矢口は、子供を堕ろしている? 父親は当然…
- 75 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時40分26秒
- 「――両親ならまだしも、おめーらただの親戚連中風情がふざけんな!って大ゲンカ――」
わたしはこの前、なんて言った?
『そんなことだから、バカな男にひっかかるんですよ』
矢口は子供を堕ろしている。
矢口はときどき、奇妙な無表情となるときがあった。
「――ま、それで、平和な受験生なのにガシガシ泳いでるあんた見て、八つ当たり。あ、またやなこと言った、ごめん」
わたしが黙り込んでいるあいだに、矢口は結論を出してしまっていた。
「そんな……わたしだって、ひどいこと言いました。ごめんなさい…」
「いや、わたしが悪いの! 吉澤は悪くない。ともかく、ごめん。で、仲直りしよう!」
矢口は一方的にまくしたてると、一方的に私の手をとって、一方的にぶんぶんふった。
仲直りといいつつ、どこまでも一方的で、せっかちだった。
- 76 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時41分20秒
- そして。
「わたし、もう、吉澤の邪魔しないから。いままでごねんね? 表情が冷たいとか、ほんと、失礼だし大きなお世話だったよね。申し訳ない。で……おたがい、いつもどおりこのプール使おう?」
「…はい」
以前のわたしにとってならありがたかったはずの矢口の申し出が、ちっともありがたく感じられなかった。
せめて。せめて、わたしのほうからきちんと謝らないと。
「矢口さん、本当にすみませんでした、その…男…旦那さんに…引っかかる、なんて。ひどいこと言いました。言い訳ですけど、わたしもあの日、父とケンカしてて」
「もういいっていいって。ま、お互い大変だわな。謝ってくれてありがとう」
完璧な笑顔で矢口は“それじゃ”と言った。
完璧すぎて、ひどくぎこちない笑顔だった。
ただただ、後味の悪さが残った。
惰性でいつもどおり泳いだが――
その日は、プールで泳ぐようになって一番、眠れない夜だった。
- 77 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時42分12秒
- ◇◆◇◆◇
八月。
夏休みだから学校でのイライラはないのだが、それでも来てしまう。
しかし。
最近、ここに来ても以前のようには無心でいられなくなった。
理由はわかってる。
矢口だ。このプール自体が、わたしにとっての厄介ごとの現場なんだ。
ここで矢口の姿を見るたびに、この前のやりとりを思い出す。
しかしだからといって、いまさら泳ぐのをやめるなんて考えられなかった。
思いきり泳げば、それなりに頭を空っぽにできる。そうしないとたぶん、やってられない。第一、このままプール通いをやめるのは矢口から逃げるみたいで。きっと毎日なにも手につかなくなる。だからって、泳ぎに没頭できるわけじゃないんだけど。
そんなこんなで、きょう。
いつもより早めにプールに来たのに、少し泳いだだけであがってしまい、あとは十分ほどもプールのへりに腰掛けて水に脚をゆだねてぼーっとしていた。
と、プールの横幅をはさんだ向こうの出入り口から、矢口が姿をあらわした。なにかに怯える子猫のようにあたりをキョロキョロ見回して、わたしに気がつくとすぐに目を伏せた。
- 78 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時42分57秒
…来なきゃよかったかなぁ。
矢口を見ることもできず、かといって泳ぎに集中もできない。そんな自分に怒りを感じることさえできないまま、ぼんやりと場内の反響音を感じていた。
…と、むこうからあの「仲間」の彼女が歩いてきた。きょうはかなり早めに来てずっと泳いでいたようだが。しかしいつもとなにか雰囲気が違う?
彼女はそのまますたすたと近づいてきて――
そのままわたしの隣に腰をおろした。
「こんばんは」
「…こんばんは」
はじめて、言葉を交わした。
こんなに近くで顔を合わせること自体、はじめてのことだ。
美人というわけではないが、不思議と魅力的な眼差しをした女性だった。目に力があった。
その目で、まっすぐこちらを覗き込んできた。
――この人は、いつでも・誰にでも・なんにでも、この目で真っ正面から向かい合うんだろうな――
全然知らない相手なのに、そんな気がした。
- 79 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時43分48秒
- 「ずっと泳いでるよね」
「ええ」
「というか、わたしがここに来はじめる前から泳いでたよね」
「ま、そうです」
そして彼女はわたしから目を離し、場内を見渡した。
わたしはわたしで、いきなり話しかけてきた馴染みの相手とどう接したものかわからず、だまっていた。
――なにかこっちから聞こうか。まずは名前くらい――
「わたしね」
ふいに彼女が、口を開いた。
「きょうで最後」
「え?」
こちらに向き直る。
- 80 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時44分36秒
- 「ここで泳ぐの、きょうで最後」
「……」
「いや、そりゃ、遊びではいくらでも来るよ? ただ、ケリをつけたんだよね、わたし。だから、もう、これまでみたいな泳ぎ方する理由がなくなったってこと。きょうは自分の卒業式」
「なるほど…」
「はは、なにがなんだかわかんないよね。ごめん。ただ、“お仲間さん”にはきちんと挨拶しとこうと思ってさ」
“お仲間さん”というところで、カッコよく笑ってみせた。
彼女も「仲間」と思ってくれてたわけだ。
「でさ………あんたも、頑張ってね」
「………!」
そのとき、なぜかはわからないけど、胸が締めつけられるような感じがした。
彼女は、決着をつけた。
ではわたしは…なにに対して?
- 81 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時45分21秒
「まずは、“お友達”を大事に、からかな?」
にっ、と笑って彼女が指差した先に、いつの間に来ていたのか―矢口真里の姿があった。
おどろいて彼女のほうを見ると、
「じゃね」
と言ってスルリと水に身体を滑りこませると、第四コースまで潜ってからバシャバシャと25mを泳ぎきり、さっさとあがっていった。
そしてそのままシャワー室への扉に向かって歩きながら、こちらに背を向けたまま・やや首を落し気味・左手を腰に・右腕を九十度くらい曲げて・手を頭の横で“サラバ”という具合にヒラヒラ振った。
最高にキマったそのうしろ姿は……
――練習したな。
必ずわたしが見てると確信しきって。
鏡に背中を映して“サラバ”の動作を入念に繰り返す彼女の姿が思い浮かんだ。いや、それどころか、おそらくきょうの一連の流れをすべて頭の中で予行演習してきたに違いない。そう思うと、なんだか無性におかしくなった。
- 82 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時46分11秒
最後までおたがいの名前も言わなかったが、たいしたことじゃない。
「仲間」は自分にケリをつけ、去っていった。
鼻歌まじりにこっちの肩をぽんとたたいていくような、爽やかさと軽やかさを残して。
そしていま、ここで大事なのは――
「…矢口さん!」
いきなり大声で呼ぶと、水から首だけ出した矢口がびっくりした様子でこっちを見た。
「待ってて!」
そのまま水に入り、向かい側の彼女のところまで一気に潜水する。
―プハッ―
浮上。
「えっ、なになに?!」
プールのへりにしがみついたまま、ギョっとしたようにこっちを見つめている。
「…あー、と。この前、やなこと言ってごめん」
――って、おい。ちがう、そんなんじゃない。
「??…あ、いや、もう謝ってもらったじゃん。仲直りしたでしょ。あれはもう終わり!」
「ん…でも、ま一応ね、あらためてさ、なんつーのか」
「……そりゃどうも」
――なにいってる。そうじゃないだろう。
いまが大事だ。走れ――
- 83 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時47分05秒
- 「あのさ!」
「ハイ!!?」
止まるな――走れ!
「あのさ、わたしも頑張る!」
「へ?」
「だから、矢口さんも頑張って!」
よく言った!!
「ちょっと、お〜〜い! わけわかんないってば!」
「いいの!」
すぐさまわたしは壁を蹴って、平泳ぎ。
「なんだよ〜〜勝手なやつだな! 待てぇい」
振り返ると、こっちに向かってくる。お、きょうはビート板なしじゃないか。あ、きょうはコースロープがはってあるからか。
わたしはロープのそばで彼女を待った。
すぐ追いついてきた矢口は、ロープにつかまってわたしと向かい合う。
「ねえ、なんなの。ヘンだよ?」
「うーんとね、わたしも、ちゃんと決着つけなきゃと思って」
「受験?」
「いや、それは必ず勝つ。そっちじゃなくて、そもそもここで泳いでいたことに。水の中って独りじゃなくてもいいのかも、って」
- 84 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時47分51秒
- 「…それって、前に言ってた、なにも考えないで泳ぐだけ泳ぐ、とかのこと?」
あ。おぼえてたんだ。
「そう。でさ、なにもかも洗い流してからっぽにするのは、それはそれでいいんだけど…それでも、おたがい前向きにがんばろうって。わたしと矢口さん、せっかくここで会えたんだから。嫌なこともあったけど、いまもこうして、こんな時間のプールで二人で一緒なんだし、ね?…だから、わたしたちさ、んーと……」
にわかに矢口がいたずらっぽい表情になった。
なんだなんだ?!
「それはつまり、だ。“ヨシザワは・この・ヤグチさんと・もっと・仲良しに・なりたい”ってわけな?」
「…!」
図星だった。自分でははっきり考えてなかったけど、言われてみればまったくそのとおりだった。かーっと耳が熱くなってくる。ちっくしょう、一気に形勢逆転だ。
「やー、かわいい。かわいいなあ。耳まで赤くなっちゃってまあ」
ぽんぽん、と頭をたたかれる。なにも言い返せない。
- 85 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時49分16秒
- 「うんうん、いいよー。おねいさん、素直になりきれない美人女子高生、大好きだから。いやー、いっきなりコワイ顔で“頑張って!”とかいうからなにかと思ったら。ぷぷ、告白とはねー、はっはー、あたしもまだまだいける――ウワップ!ゴボゴボゲヘ」
ロープにつかまってたほうの腕を払ってやった。いい気味だ。ちっちゃいくせに生意気言うからだぞ――ってうわっと!
膝かっくん状態で引きずり込まれる。やられた――いや、じたばたしがみついてくる矢口は…かなり必死っぽいぞ。
「「ゲヘガハゴホゴホゲヘブハ!!」」
二人してロープにつかまり顔を合わせる。なんか、わたしたちがはじめて出会ったときみたい。矢口は…涙目だ。
「吉澤ー! おめー、マジ死ぬかと思ったろ!」
あ…その顔もしかして、マジ怒りっすか? すんませんでした〜。でも矢口さんが人のことからかうから…うう、ごめんなさい。ほら、いま心の中でも呼び捨てじゃなく「さん」づけしたでしょ?
- 86 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時50分12秒
- わたしがあんまり情けない顔してたからか、矢口さん、
「ま、いいや」
…笑ってくれた。
そのときの矢口さんの笑顔は……すっきりとしたとびきりの笑顔だった。
年上の人ってこういうものなんだ、と納得してしまう笑顔だった。
この前「仲直り」したときの、ぎこちなく完璧な笑顔とはもちろん違う。
今までさんざん見た、カラ元気のはしゃぎ笑いでもない。
ああ、矢口さんの本当の笑顔って、こんななんだ。
- 87 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時50分57秒
- □□□
「…そっか。十歳かそこらでお母さんにそんなこと言われたら、つらかったよね。なのにこの前…無神経だったな、わたし。ごめん」
「いえ…そんな、いいんです」
いま、矢口さんはプールのへりに腰掛けていて、わたしはその隣に両肘かけて彼女を見上げてる。
そしてわたしは、自分の「冷たい表情」について矢口さんに聞いてもらったところだった。元はといえば、これが発端だった気がしたからだ。
「でも吉澤は大丈夫。さっき、とってもやわらかい表情してたよ」
「それは…」
それはきっと、矢口さんの笑顔に見とれていたから。わたしは、あんなふうに笑えるだろうか?
- 88 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時51分44秒
- 「わたしはわたしでさ、笑ってないとウソだって、むきになってたな…昔からバカみたいに笑ってばかりいるとかよく言われて。それで幸せにやってたから。やなことばっかの今だって笑えなきゃおしまいだ、なんてね」
「矢口さん…」
「だから無理してたんだ、吉澤の言うとおり」
「あの…」
「でもね、またちゃんと笑えるようになったんだ、吉澤のおかげで」
「……」
「泣くなよ? ありがとうって言ってるんだからさ」
それでも…心が暖かくなって、涙があふれた。
矢口さんは、そんなわたしを、にっこり笑って見守ってくれた。
- 89 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時52分50秒
「じゃ、わたしの話するけど…わたしもね、ここでは、ほんとはあんたと同じだった」
「?」
「意地張って言い出せなかったけど。わたしも、忘れるためにここに来てたの」
「あ…」
「食い詰めてこっちに戻ってきたら、近所の連中やら店の常連やらの視線と陰口が鬱陶しくてさ。覚悟はしてたけど……もうなにもかもウゼー!って。だからはじめてあんたと会ったとき、なんか自分に似てるなって。それでちょくちょく話しかけて、あんたには露骨にやな顔されたけどね」
露骨にやな顔……確かに思いきり“近寄んな”オーラを出してたけど、あらためて言われると申し訳なくなる。そんなわたしをほっといて、矢口さんは話し続けた。
- 90 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時55分31秒
- 「あんたには“一人で気取ってる”みたいなこと言ったけど、あれ、強がり。一人ってことにわたしも向きあわないといけなかったのに。そのためにここに来たのに、ぜんぜんできなくて。あんたにはっきり言われたよね……うん、グサってきた。あんたにまとわりついたのも、一人でやれてる強いやつの足ひっぱって、仲間増やしたかったんだ。だからこないだ、あんなにつっかかって……いや、この話はもうなしだったね、ごめん。
ま、それでも自分なりにここで一人、やってみたよ? あんたみたいにただひたすら泳ぐ、ってんじゃなかったけど。ジャブジャブやって、ときどきゴボーってその場に潜って。あんたからしたら、なんも考えてないパー女がうるさいだけだったかもしれないけどさ」
耳が痛い。自分のバカさ加減に腹が立ってくる。
わたしはなんにもわかってなかった。わかろうとしなかったんだ。自分で壁つくるばかりで、まわりを…矢口さんのことをわかろうとしなかった。それで鬱なのはテメーひとりでございみたいなこと考えてたんだ。わたし、何様?
- 91 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時56分22秒
「…それにしても、ほんと、吉澤の言うとおりだよね」
「なんでしたっけ?」
「洗い流すの結構なんだけど。独りじゃなきゃいけないってもんでもないよね」
「ああ…」
なら、さ。
矢口さんが、上からニコっと笑っていった。
「二人で潜ってみよっか?」
「あ……と、は、はい!!」
- 92 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時57分15秒
……………
ゴーグルのむこう、透明な空間にゆらめく白い光。
鏡のような側壁のむこうに広がる、もう一つの世界。
見上げれば、万華鏡。そこにキラキラと気泡が昇ってゆく。
耳の奥からのブーーンという音が、あたりを満たしていた。
そして、わたしの右手に感じる――矢口さんの手。
どちらからともなく、手を離した。
青白い世界の中を、わたしはひとり、ただよっていた。
ひとりでも、独りではなかった。
そちらを見ずとも、矢口さんを感じていた。
この光の中、ともに。
この静かな響きの中、ともに。
なにも考えない、すべてを洗い流す、至福の時――
…………………
- 93 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時58分00秒
□□□
いやー、時よ止まれ、ってわけにはいかないもんだね。
ほら、わたしらニンゲン、エラないし。あ、あってもプールじゃダメか。
うん、だから潜れたのは、せいぜい五十秒ってところ。
結局、苦しくなってあがっちゃってさ。カッコ悪ぅ。
しかーし! たしかにやってみてよかったっス。
こうね、空っぽにしただけじゃなく、そのうえで元気になれたわけさ!!
「ほい、吉澤」
矢口さんが、自販機のスポーツドリンクをぽんと投げてよこした。あ、矢口さんはレモンティーっすか。ともかくありがたく、ご馳走になります。
「これ、貸しね」
ちっ。
はいはい、次はレモンティーおごりますよ。
矢口さんと一緒に帰るのは初めてだ。
外に出ると、うわ、暑い。もう汗がふき出してくる。
そして、ああ、やっぱすごいわ。この星空。月。なんて光!
照明のせいもあるけど、おたがいの顔がちゃんと見えるんだ。
- 94 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時59分06秒
- 「きょうさ、あの人となに話してたの」
「?――ああ、お互い頑張ろう、って。あの人のおかげで、矢口さんと潜れたんです」
「うーん? よくわからないけど、つまり、あの人も吉澤と同じだったんだね。たぶんわたしとも………わたしも、あの人と話してみたいな」
「あの人はもう泳ぎに来ませんよ」
「え!?」
あ。しまった。
「ごめんなさい、間違えました。もうこれまでみたいな泳ぎ方はしない、ってことで。だから、わたしらと同じといえば同じ、ちがうといえばちがうんだけど。まーともかく、遊びでならいくらでも来るよ、て言ってました。わたしだってこんどはちゃんとあの人の名前知りたいし」
「はぁ? 名前も知らないって……ハハ、ま、きょうはそれがよかったんだろうね」
「そうです!」
- 95 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月22日(日)23時59分51秒
さて。帰りますか。
わたしは自転車。矢口さんも自転車だ。二人で車のない真っ直ぐな道路を走り出す。
夏の夜、両脇に並ぶ街灯が、なんか幻想的。
隣りの矢口さんが、やさしく言った。
「お父さんにやさしくしてやりなよ?」
「は?」
「こないだケンカして仲直りしたとき、あんた言ってたじゃん、お父さんとケンカしてた、って。わたしだってあの時は、体こわした親父にひどいこと言っちゃって、すっごい後悔したんだから。ともかく、父親ってウザいけど、やっぱ娘のこと心配なんだって。ま、あんた自身ちゃんとわかってるだろうけどさ」
「…わかりました」
たしかにあの日、父とケンカしてから、一言謝りはしたけどずいぶん口きいてないな。もうちょっとやさしくしてやるか…いや、父さんにも母さんにも、ちゃんと笑ってやろう。
なんか、すごくゆったりした気分だ。
- 96 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月23日(月)00時00分35秒
- 「…あんた、いま、いい顔してるよー」
「え?」
「もう見とれちゃったもん」
「やめてくださいよ〜」
そうなのかな? わたしも、ちゃんと「いい表情」できるのかな?
「あとさ、笑うとほんと、かわいいわ。思ったとおり♪」
「も〜〜」
「ほんとだって。いまも、すんげーかわいい」
「うう〜〜」
なんでこんなに、素直にはずかしくなれるんだろう?
なんでこんなに、素直に笑えるんだろう?
月と星の夜空が、周りの木々が、なんでこんなに輝いて見えるんだろう?
矢口さんがまたケラケラ笑って、こっちを見た。
その声はとても爽やかで。
「ありがとうね、吉澤。わたし、いろんなこと――産めなかった子供のこととか、ちゃんと向き合うよ」
「こっちこそ、ありがとうございます、矢口さん。わたしも…なんとかやってきます」
そして二人、ちょっと黙り込んだ。
そうだよ。
なんとかやってく。どうにかやってく。
それだけなんだ――
- 97 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月23日(月)00時01分33秒
- と、急に矢口さんがいつものトーンで話してきた。
「な、今度、知り合いの女の子たち連れてきてやるよ。その子らとも遊べたらホンモノだ」
「カンベンしてくださいよ、矢口さんみたいな子たちでしょ?」
「なんだと〜素直じゃねーなー」
一応、抵抗してみる。
「わたし受験生なんですよー?」
「おまえアタマいいんだろ?」
「そりゃまそーですけどー」
「ぎゃはははー、言うね〜」
- 98 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月23日(月)00時02分32秒
じゃれあいだよ。
いや、まじで子供と遊ぶのは勘弁してほしい。
でも。子供はともかく。
いま、なんか、ドキドキしてる。
いろんなところに、いろんなところから響いていきそうな。
この感じ、悪くない。
これから、なにがあるんだろう。
あしたは、なにがあるんだろう。
むこうに、なにがあるんだろう。
ねえ、矢口さん?
わたしは矢口さんに、自分で最高と思う笑顔を向けた。
「なんだ〜吉澤〜、なんかおっもしれー顔してんぞー」
ふふん。
素直じゃないな、矢口さん。
「おまえなんか勘違いしてないかあ?」
「なんでもないですー!」
月と星の下。
静かな響きに満ちた、青白い世界。
わたしと矢口さん、ふたりで、どこまでも泳いでく。
そんな気がした。
- 99 名前:「2. Echoes」 投稿日:2003年06月23日(月)00時04分43秒
「2. Echoes」
−了−
- 100 名前:... 投稿日:2003年06月23日(月)00時05分26秒
………………
- 101 名前:∬´◇`∬<ダメダモン… 投稿日:∬´◇`∬<ダメダモン…
- ∬´◇`∬<ダメダモン…
- 102 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月23日(月)00時07分14秒
- 矢口が「オイラ」と言わなけりゃ吉澤がベーグルを食べもしません。せめてそのくらいはいれようかとも思ったんですが、なんかそんな気が起きなくて、やめました。いわゆるひとつの「娘。である必然性」というやつを持ち出されるとぐうの音も出ませんね。ほかの作品もそうなります。そうします。
矢口がレモンティー飲んでますが、うちの矢口が本当に好きな飲み物はね、そりゃもう牛乳っすよ! ギューニュー! でもって吉澤はウデ玉子を「ありゃ魔人の食いものだ!」ってくらい嫌ってます! 当然!!
………いや、それでも、ぼくの頭の中のキャスティングでは、矢口と吉澤以外にありえないのです。(ただし吉澤は、三ヶ月間毎日2kmは泳ぐこと)
- 103 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月23日(月)00時08分15秒
- >>34
うわ、びっくしりした! 読者さんだ!
どどどどうする? これって現実の読者さんだよな? 俺の自作自演じゃないよな?! 大丈夫だよな?
……あ、お気を悪くなさらないでください。素でおどろいてしまいまして。ごめんなさい。嬉しくてはしゃぎ過ぎてしまいました。まさか読んでくださる方がいるとは思わなかったもので。こんなに底のほうでやってる作品を見つけていただけて、感謝の気持ちでいっぱいです。(自分でochi進行しておいてこんな言い方はナニですが。でも緑がきれいなのでこれからもochiでいきますね)
それにしても嬉しいお言葉です。
はい、頑張りますです。
で、今回は、もしかしたら「何でもない日常」というわけにはいかなかったかも知れません。それでも、これはこれで日常だと思うので、楽しんでいただけたらと思います。
- 104 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月23日(月)00時08分58秒
- ではまた次週。
今回よりは短いです。
- 105 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月24日(火)08時25分47秒
- >>35>>101
の、削除依頼を出しました。
諸事情、お察しください。
- 106 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月30日(月)00時28分41秒
さーて、今週も「海の底」でひっそり更新するか!
暇だからな!!
- 107 名前:3. Come To Me 投稿日:2003年06月30日(月)00時29分23秒
※ このお話は、年齢設定を少々いじっております。ご了承ください。 ※
- 108 名前:3. Come To Me 投稿日:2003年06月30日(月)00時30分18秒
「3. Come To Me」
- 109 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時31分13秒
バカなやつ。
救いがたいバカ。
こっちの事情も考えずに勝手にのめりこんで、自滅に向かってまっしぐら。挙句の果ては言うにこと欠いて……
ちゃんと説明したんだ。
そりゃクリスマスは楽しみだよ。F市まで出て、電飾ごてごての街並みひやかして。二人で話して、遊んで、笑って、お茶して、買い物して...etc――去年までならば。
でも、わたしだって来年は受験生。いまはとにかく集中したい。なにせ今まで勉強なめてたから。ほんと、適当にやってたな、あんな学校だから。
でもやっぱり大学にはいきたくて。で、うちの状況だと浪人はムリなんだ。(いま思えば、これがあいつにはひっかかったんだろうけど)
忠告だってした。
あんたこそ、こんな毎晩みたく長電話してられる時期じゃないだろう。ましてデートなんて。いまが勝負どころだろう。いまなにが大事か、ちゃんと考えなよ。
- 110 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時32分01秒
- 『真希…もう俺のこと好きじゃなくなったのか?』
はぁ?? What!?
確かに、大事な時期に女にうつつをぬかす浪人生に呆れはててはいるけど――というのはいま振り返ってみればの話。
そのときは、自分の気持ちをわかってもらえなくて、切なくなったねぇ。ちょっと待ってよ、って。「言いすぎたかな、慰めてやろうかな」とか慈愛心もあったんだ、よね。だって、大好きだったもの。
でも。
『…☆▼と二股してんだろ?』
絶句。
っつーか☆▼ってどなた?
『今度もムリっぽいけど、落ちたらお前のせいだからな…』
……はぁ。
アイソが尽きるってこのことなのねー。さーっと醒めました。
- 111 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時32分54秒
とまあ、そういうわけですよ。
…ん? なんか引っかかった? ああ、「浪人」ね、ごめんごめん。聞き流して。
あのときのこと? ああ、去年の春先……後藤はもう気にしてないよ。いやマジ忘れた。
ほんとだって!!
今年の春と夏に会えなかったのは……もうバカとつきあっててさ。やつに夢中。
さびしー思いさせちゃった? あは。
ま、それはともかくさ。
いまはこっちの話よ。
好きだったんだけどね…。ああやって、憧れて、なつける男の人に会えたの、はじめてだったもん。
…だからちがうって。寂しさまぎらわしてって…それ自意識過剰!
年上で、なんかヒネたところがあって、遊んでる風で、いろいろ余計なこと知ってて。大学生とはちがう素敵な人だ、って思って憧れた。でも、ヒネて浪人してるやつが遊んで勉強以外の余計な知識しこんでるようじゃ、ダメなんだよね。ははは。
大馬鹿モノでしたな。ワタクシ。
……いや、そこはうなずかなくていいから。
- 112 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時33分37秒
- あと、テクもあった。あ、いや、いろんな人とくらべた結果、じゃないよ。なに言ってんだ? 痛い思いしないですんで良かったな、ってそれだけのこと………………はいはい、気持ちよかったっスわ。なにより気が合ったしね。
よかったよ〜〜。
お? 顔赤くしちゃってまー。うぶなネンネじゃあるめーしゲヘヘヘ…あ、ひかないでね?
とにかくね、結局逃げ場を求めてただけってことなんだな。お互いに。
……だーかーらー! 勘違いクイーン目指してる? 逃げ場ってそういうことじゃないよ!!
なんつーの?
こう、息が詰まるような退屈な日常! 生産から切り離され、ただ「余計モノ」としかありえない我ら(いや、我が)学生という存在、That's モラトリアム、教室と言う名の病室、うおりゃー爆破してー!…って。
あ、これ、クラスの男子が机に書いてたやつ。よりによってムラサキの油性マジックで書いてやんの。大笑いしたよ。
いやほら、うちのガッコ、「自由」じゃん? いくら自分の性に合ってるつってもね、時々さ、こう…『自由の牢獄』ってやつを感じるわけよ。わかるかな? ふっふーん。
- 113 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時34分22秒
とにかく。
いーの!
きょうはどうせ勉強なんて身が入らないんだから。
マンガ読んでぼーっとするのが一番いーの!
うおー刃牙すげ〜…っていくらなんでも懸垂するだけで鉄棒ぶっ壊すのってどうよ?
ね、ね、どーなの? 市井ちゃん的には。
- 114 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時35分04秒
◇◆◇◆◇
ったくこいつは。
そりゃたしかに至近距離からショットガンで撃たれても平気ってのはどうかと…ちがう。
そりゃたしかに体験した早さでは負けたがこいつは絶対愛のないセックスしか…じゃなくて!
せっかくの冬休み、実家には顔だけ出して後はがっちり遊んでやろうって予定立ててたのに。帰ったその晩に――
“どうせ予定なんもないんでしょ。かわいい妹の悩みをがっちり受けとめなさい!”
一息に言い切って、そのまま電話を切りやがった。
…いや妹じゃないし。
ま、妹みたいなものだったけど。かわいがってたのはたしかだけど。
なんか…もう、できればやめておきたいっつーか。逃げたいっつーか。
わかるよ?
あんたがホントはどんなつもりでいるのか。
わたしゃあんたのおねーさん「だった」んだもの。
- 115 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時35分52秒
- だけど「大人はわかってあげない」のであるからして、あえて部屋の片付けに精を出すワタクシ。
だいたい、わたしとあんた、もう昔みたいな関係じゃないもの。
人は変わる。わたしだって変わる。あんたも変わる。
現に、変わった。
ほんと、会ってなかったなあ。
どう近づいたらいいかもわからなくなるくらい。
それで結局、それでもいいじゃん、それがいいじゃん。となって。
会いたいけど、なんかいまさら。
そもそも、ほんとうに会いたいのか。
会って、どうする。
会ったら、どうなっちゃうのか。
で、朝から部屋の片付けをしていたんだ。
夏休みに帰ったときにざっと片付けてたとはいえ、そこそこ物置化がすすんでいたもんね。くそっ。
日焼けした畳が居心地いい六畳間。ガラクタどかして、掃除機かけたり、きのうこっちでまとめ買いしたマンガ本を散らかしたりしていたところ…
- 116 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時36分48秒
- 来やがった。
朝の九時!
九時だよ九時、朝っぱら!
ピンポーンと鳴らして「市井ちゃんに会いに来ました」ってうちの母親への挨拶だけかわいくきめて。
母親の「紗耶香、真希ちゃん来―」という語尾にかぶせてずかずか部屋におしかけてきたかと思えば、元カレへの罵詈雑言ぶちまけて。
あとは人の部屋で寝っころがってマンガ読んで。
二年分の空間とか壁とかいったものを、一気に蹴散らした。
かなわないね。
蹴散らしたあとに、なにが残ったのか。なにが現れたのか。
そりゃもう――――
いや。結論を出すのはもうすこし先にしとくか。
- 117 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時37分28秒
- しかし結局、悩みって、あんたのなかでもう解決してんぢゃねーの。
わたしにはわかるの。
後藤は、安定してるようで危なっかしい。けどそれ以上に、あぶなっかしいようで安定してる。
いまの後藤の話の途中で、わたしは何度か口をはさんだけど、あくまで茶化しだ。なんの心配もしちゃいない。
わかる…というか。
そう思えるように、なってたんだ。
- 118 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時38分07秒
- で、たしかに、その元カレ…え? バカっていわなきゃだめなん?
あ、そ。
んじゃそのバカ、ダメダメだねえ。
はいおしまい。帰んな。
……そんな目で見んなって。
わかったよ。
でもあんたさっき自分で言ったでしょう、現役合格しないとダメだって。
ここで寝っころがってちゃさ。ダメじゃん。わたしが言うんだから、間違いない。
きょうはぼーっとする日…うーん。ま、仕方ない。許す。
美人の元妹、見てるのも、悪くない。
- 119 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時38分54秒
はっきりいって、美人になったよ、あんた。
それにね、オトナになった。タイケンしただけのことは…とかじゃないよ。
バカにひっかかったのはそりゃガキだったけど、でもそのバカを気遣って忠告までしてあげて。そこだよね。オトナになった。
わかるよ。
帰れって言ったときの上目づかい。
昔を大切にしまいこむために、昔とそっくりのしぐさをして見せた。
わかったよ。
きょうのこの時間を、大切にしよう。
- 120 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時39分42秒
- ◇◆◇◆◇
二年ぶりだよ? 市井ちゃん。
後藤が精一杯、気合入れてお願いしたのに、市井ちゃん、応えてくれなかった。
いや、わかってる。市井ちゃんは緊張してる……後藤だってそうだもの。
どうしたらいいかわかんなくてさ。
だからもう、後藤のほうから会いにきた。口実、あったし。
そりゃ後藤だって行きづらいけど。
きっかけ持ってるほうこそ、動いてあげなきゃってもんだ。
市井ちゃんが帰ってくるって聞いて考え続けて、思いきって決めた。
きのうの晩、ドキドキしながらひっさしぶりに電話かけて。
電話に出た市井ちゃんのお母さんに
『紗耶香さ…市井ちゃんお願いします』
って言ったらもう、お母さん喜んで喜んで。余計、退けなくなった。『市井ちゃん』ってむこうの家族の人に言うの、ひさしぶりだったんだよね。
で、受話器越しに“ドン、ドン、ドン”って近づく音が聞こえて、もう緊張して。
『はい』
って声がした瞬間に、明日いくよ、って伝えたら、
『はあ?』
とか言うんだもん。だから、憶えてないけどとにかくなんか言って、すぐ電話切った。は〜ドキドキしたぁ。
- 121 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時40分29秒
- 今朝はね、いっつも市井ちゃんの家までは自転車使ってるのに、わざわざ歩いてさ。
どうせ近所は近所なんだけど、歩きながら気合高めて。
だんだん家が近づいてきて、後藤も気合入りまくって。
で、ひさしぶりで緊張してるから、うおりゃーって勢いで部屋にかけこんだんだけど。
やー、ドキっとした。
ぜんぜん違ってるぢゃん。
なに? その長い髪。付け毛?…じゃないんだ。はぁ…オトコマエだったのが、すっかり「美女」になっちまってまあ。
きれいだよ。んにゃ綺麗。
いまの市井ちゃん、すごいいいよー。
大学でなにがあったんだか。
そりゃまあナニがあったんでせうな。
市井ちゃんが高校のとき話してた初体験ばなし、「ふっ」とかカッコつけてたけどやっぱフカシだったんだねー。どうせそんなこったろうって思いつつ、優しい後藤は「すごーい」って聞いてあげてたんだけど……なんてこと、もちろん言えない。殺されるって!
- 122 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時41分21秒
外見はすっかり変わったけど、後藤をやさしく見てくれる。
昔と同じやさしい目だけど、後藤のところに来てくれなくなった。
きょうみたいな話を、やっぱりきちんと聞いてくれる。
きょうみたいな話をしても、おろおろ心配しなくなった。
変わったようで、変わってない。
変わってないようで、変わってる。
きっと後藤も同じ。
われながらすっきりシャープになった。とくにほっぺたのあたり。美人だ。
すませるもんも、すませた。
だけど、いまだに「後藤はー」で。「市井ちゃん!」で。
けれど、心配させるようなことも平気で打ち明けられるようになった。
だけど、いまだに、会いたくなることもある。
けれど、会いたいのかな? とも思ってる。
変わったのだよ。二人とも。
うれしいねえ。
我ら二人、どこまでも変われるのだぞ。わはは。
それにしても、なんだろう。
この、青空みたいな哀しさは。
ううん。
たぶん、本当は自分でもわかってる。
- 123 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時42分51秒
- ◇◆◇◆◇
二年ぶり…正確には一年と十ヶ月ぶりくらい、だね。
高校卒業から、いまの大学「一年」の冬休み、まで。
地元で勉強して、あっさり大学受験に失敗して。
オール不合格。国公立私立問わず。
ちゃんと勉強したよ? 市内の塾に行って。
結果が出なかった以上、なに言ってもサムいけど。ああ、それに塾の同期はけっこう第一志望に合格してたな…ナメてました、勉強。
やー、まわりの視線のきつかったのなんの。
特に、後藤にあわせる顔なくてね。
うん………
昔から妹みたいな存在だった。
家は歩いて十五分くらいだから隣近所ってわけじゃないけど、親同士が昔から仲が良かったらしくて。だからもうわたしと後藤はほんと、赤ん坊のころからの付き合いだ。
あいつ、いっつも「いちーちゃん、いちーちゃん」ってくっついてきて。
- 124 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時43分43秒
- あのこが中学に入ってからはさすがにガキみたいな甘え方はしなくなったけど、それでもやっぱり「妹」だった。
あいつはいつだって「市井ちゃん、がんばれ!」で、わたしはいつでも「おう、余裕だ、まかせとけ!」で。
それが。
「妹」後藤にとっての「市井ちゃん」が、オール不合格だもん。
あいつのほうは余裕で高校への推薦決めてて。それも優良校。
会えないって。
あいつと顔合わせそうな場面は極力避けて、電話かかってきても逃げまくったさ。
いま思えば、こっちに変な気を使わないでガンガン会おうとしてくれたのって、さすが後藤ってもんで。感動モノなんだけど。
- 125 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時44分25秒
- とうとうあいつにつかまったとき、わたしは思いきりヤサグレた最悪の状態で。
まっすぐなあいつの目をきちんと見もしないで…ひどいこと言ったなぁ。
なに言ったか……………思い出したくない。
あのやりとりの記憶、消したい。
もういま思い出しても、頭から布団かぶって「ウギャー!」とわめいて転がりたくなる。
で、いやーな別れかたして。
あいつはわたしに向き合ってくれたのに。
あのときのわたし、蜘蛛の糸を自分でチョン切っといて「なんでワイヤーロープくれなかったんだ!」とか逆ギレしてるようなもんだったな……ごめん、いまの喩え、あんまうまくなかった。
後藤はきょう、「もう気にしてない、忘れた」なんて言ってくれたけどね……わたしも忘れたい。
で、ま、親に泣きついて、東京の予備校の寮にいれてもらって。自分は地元にいたら甘える、環境から変えないとダメだと思ったんだ。
もう必死に勉強した。
アタマ冷やして、自分にもう後がないってわかったから。
ここで踏ん張らなきゃ、本当にもう二度と後藤に顔向けできなくなる、ってわかったから。
そして、後藤に笑顔で会いたいって思ったから。
- 126 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時45分15秒
びっくりしたことがいくつか。
一つ目。わたしは勉強してたと思ってたけど、あれはまったく勉強じゃなかった。
二つ目。勉強ってちゃんとやってみると面白い。
三つ目。勉強したら本当に問題がわかるようになる。
- 127 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時45分57秒
でもって、四つ目。
後藤と会わないことに、あっさり慣れてしまった。
- 128 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時47分00秒
- 最後のは、ほんとおどろいた。
そりゃ、死ぬ気で勉強するんだって気になっていたことは確かさ。
上京する直前にわたしのほうから『後藤、たぶんなかなか連絡できないと思う』なんて言ったし。そしたらあんにゃろあっさり『わかった、後藤からも連絡しない』…っておい! わたしゃ「なかなか」ってつけたのに、あんたはまったく連絡しないつもりかよ!とかヘコんだけど。あいつの余裕たっぷりの表情見て、なにくそって……
えーと、なんの話だっけ?
そうそう、後藤ね。
小さいころから、いつも一緒にいて当たり前だった。あいつは妹、わたしはおねーさん。あいつは「ごとー」、わたしは「いちーちゃん」。離れるときっていえばせいぜい修学旅行くらいのもんだった。
それが一年以上も遠く離れてしまう。
いっくら覚悟キメてたって、寂しい思いすんぞわたし、などと思ってた。
- 129 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時47分54秒
- ところが。
勉強の鬼と化した浪人生として、とはいえ…わたしは…東京での新しい生活のほうに、ものの見事に吸い込まれていった。
いや、もっといえば、後藤のいない生活が……正直、しっくりいったんだ。
はじめは、ギチっと自分を戒めてるからだ、って思ってた。最初が肝心ってね。
だから、後藤の事を夢に見たりしなくても、やっぱ意志強いじゃん、自分。なんて、変な喜びかたしてた。
でもねえ。
背水の陣の浪人生。笑って後藤に会うために、後藤と連絡しない。
のはずが、一月もしないうちに、
“これはこれでいいじゃん”
になった。
そしてそのうち、
“いままでが、くっつきすぎてたんだ”
なんてふつーに思うようになって。
新しい環境。生活。
自分の目標。
勉強、とにかく勉強。それがすべて。
そこに、後藤はいなかった。
後藤がいないからこそ、入り込めた。苦しいけど、充実してた。
- 130 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時49分01秒
- まあ勉強に集中して、順調に成績伸ばして。最終的には第一志望の大学の第一志望の学部に見事(浪人だけど)合格。政治経済学部でなにやるのかって? ま、精一杯やるだけよ。
実家に報告に帰ったけど。
そのころにはすっかり、後藤と再会することが、なんか、ピンとこなくなっていた。
笑って後藤に会うんだ、って決意だったのに。なんだろう。
そんな自分に焦る…ことすらない、ということにビックリしたくらいだった。
後藤からも会いに来なかったし。
で、両親も不思議がってたけど、後藤と会わないまま東京に帰った。
母親から後藤の彼氏の話を聞いたとき、なんともいえない感慨が湧いたっけ。
でも、それでいいと思った。
きっと、あんたもそうだったんだよね? 後藤。
- 131 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時49分57秒
- 東京では。
大学一年生!
「きゃんぱす」!
アパート暮らし・勉強・サークル・バイト・友人。
浪人のころから伸ばしはじめてた髪を染めたり。前のほうが良かったとか言う友人もいたけど、おおむね評判上々。化粧もちょっと変えて。中身とのギャップがイイ、とか言われてちょっぴり得意。ああ、両親はビックリしてたっけ。いまだに元に戻せとか言う。
ともかく。
わたしは学生生活に夢中だった。
浪人して、ひとり、自分の前を見つめて。そしてこじ開けた扉。
ここだ、ここ。
これだ、これ。
わたしがつかんだ場所。つかんだ生活。
夏休みは、バイトと一人旅にほとんど使ったね。
- 132 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時50分41秒
- 旅行、「二人」じゃなくて「一人」……あいつのことは忘れた! 傷心旅行なんかじゃないよ、うん。単純に、一人旅っていいじゃん。
そりゃね、思い出なのは確かさ。記念の人っての? 政経のお勉強サークルの勧誘で知り合って、付き合い始めて、五月には…ね。早い早い。まあ「合格した勢いで」みたいな。勉強が実を結んでテンションあがってたし。
正直、「十九歳にもなってまだ」なんて焦りもあったし。
でもあいつ、いま思えば面倒くさそうな表情したな。一瞬、『えっ?』って顔したもん。二年が新入生にその顔はなんだっつーのだ。あいつは現役合格だから同い年だけど。てか、それでも男か、と。
それが理由ってわけじゃないけど、じきに、底が浅い!って思うようになって。小賢しいだけの薄っぺら。理解した瞬間に、醒めた。その程度か、お前はって。七月前には切って、サークルもやめた。
あんなのが現役でわたしゃ浪人。くそ。
つーか、そんなのが初めての相手だったわけね。後藤の元彼(バカ)よりゃ全然マシ…のはずだけどさ。
後藤には絶対に言うもんか! わたしのほうがおねーさんなんだから。なけなしの意地だわな、トホホ……でもこいつ、なに? 妙にニヤニヤして。
- 133 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時51分27秒
……また脇にそれたな。それまくりだな。
ともかく、夏はせいぜい実家に顔出した程度。
全然、後藤に会いに行こうと思わなくて。
親に言われても、なんかね。正直、もやもやしてて。
それでもねえ。やっぱ、切ないよ。
自然消滅って、よくないよ。わたしと後藤の絆って、絶対にそんなんじゃないはずなんだ。
もう一度、ちゃんと確かめなきゃって。会うだけでわかるはずだって。
なのにいつまでもずるずると会わないで。
ま、わたしゃ後藤にくらべてよほどの根性なしですわ。
- 134 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時52分16秒
- ◇◆◇◆◇
ガスストーブがときどき、ぶーぶーいってる。
窓ガラス越しの空はおもいっきり青くて。そろそろ真ん中にさしかかってるお日様も輝いて。だけど外は思いっきり寒い。六畳のこの部屋はあったかい。
こんな日はごろごろしてマンガ読んでるに限るよ? 外に遊びになんか行かないでさ。後藤が来てよかったね、市井ちゃん。
この部屋で二人でこうするの、二年ぶりなんだもんねえ。
こうやって床から見回すと。
押入れのフスマのツギ当て…二人が小学生のころプロレスごっこして、市井ちゃんにぶん投げられた後藤が頭から突っ込んで。市井ちゃん、真っ青になってさ。うししししし。
すみっこの畳の焦げ目…この部屋のストーブでお餅焼いたとき、後藤が焼けた餅網おっことして。市井ちゃんが代わりに怒られて。後藤、絶対しゃべんな!って、かっこよかった〜。
天上のシミも、日焼けしたカーテンも、すすけた電灯も、なにもかも変わってない。
変わったのは、後藤たち。
二年会わないで、変わったね。
会わないあいだに、変わった。
会わないから、変わった。
変わったから、会わなかった。
- 135 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時53分02秒
- 市井ちゃん、さっきの様子だとまだ気にしてんな。おととしのこと。
市井ちゃんが受験に失敗しちゃったあとのこと。
後藤はほんとにもう気にしてないのに。
そりゃあのときは、むちゃくちゃショックだったし、マジムカついたし。
こっちの気も知らないで死んじゃえ市井ちゃん!なんて気がついたら本気で思ってて、やだ死んじゃったらどうしようって恐くなって、ひとり頭の中でごめんなさいごめんなさいごめんなさいって……
あれ?
うん、とにかく。もうなんでもない。
ただあのあと、心配でねえ。
いつも器用で余裕でかっこよかった市井ちゃんが「人間、これより下ありません」ってなドブネズミオーラくずぶらせてたんだもん。もうダメなんじゃないか、って。でもなにもいえなくて。
だから東京に出るって決めた市井ちゃんを見て、後藤は本当にうれしかったなあ。
それで、市井ちゃんが「連絡できない」って強い目で言ったときも、すぐに「後藤も連絡しない」って言えたんだ。
なんの心配もなかったし、不安もなかった。
- 136 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時53分46秒
でも。
本当に、離れても大丈夫だったんだ。
- 137 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時54分37秒
- 市井ちゃんは東京へ。
後藤は高校へ。
そう。高校。
高校であたらしい友達ができた。てだけじゃなく。
高校は、勉強の中身も授業のすすめかたも、先生も、学校の中の雰囲気も、とにかくなにもかもが、中学とはぜんぜん違った。
服装、自由。猥褻罪さえやらかさなければ。
髪型、自由。茶髪金髪? 赤でも緑でもいっとけ。
遅刻・欠席・早退、ご勝手に。ただし学力テストは受けてね。
バイク通学? できなきゃ不便じゃん。ノーヘル許可は大人の事情で無理だけど。
…でも言っとくけどうち、お勉強のレベルも相当なもんよ?
こんな学校。
こんな学校だから選んだのだけど、実際に学生生活が始まってみると、これまでとの違いは想像以上。もんのすごい開放感。
これだよこれ! 後藤が求めてたもの。
ここでまったく新しい生活が始まるんだー!って。
- 138 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時55分24秒
その勢いのまま、後藤は市井ちゃんを解放し、市井ちゃんから解放された。
市井ちゃんがいない中で見るなにもかもが、新しくて。違う光を放ってて。
そのことにすごい焦ったし、いやだって思ったけど。
もう戻れないってわかってた。
二人の、小さな小さなあの世界に。
大好きだったよ? 市井ちゃん。
あんなに仲良すぎなければよかったのかもしれないね。
くっつきすぎてなければ、離れたら寂しく感じられたのかもしれないね。
- 139 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時56分12秒
- 次の年の二月、市井ちゃん、大学合格。
一年ぶりに、携帯に連絡が入って。
『勝ったよ。ありがとう』
ひさしぶりの市井ちゃんの声。かっこよく、たくましい。
『おめでとう!』
って言って。
ほとんどこれだけでおしまい。
そりゃもう嬉しかったよ。すぐ外でて「やっほー」って叫んで200m走ったくらい。
でも、春に帰省した市井ちゃんに会うことはなかった。
もう、そういうのはいいやって。たぶん、おたがいに。
そのころは初めての彼氏…いまや「あのバカ」…とずっと遊んでたし。
夏なんかも、市井ちゃんはこっちに三四日くらいしかいなかったんだって? 後藤は後藤で相変わらず「バカ」とべったりだったねえ。
- 140 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時57分00秒
ただね。
なんか、不自然だよなって気はあった。
なんとかしないとな、って。
小さいころからずっと一緒だったんだ。おたがい、大事だったんだ。こんなふうになし崩しで消えてしまうなんて、やっぱりよくない。せつなすぎるじゃないかって。
会いたい。
市井ちゃんの顔を見たい、声を聞きたい。
後藤の声も聞いてほしい。
それでもなかなかね。踏ん切りつかなくて。
だから、まあ「あのバカ」には感謝すべきなのかもね。
ともかくも、あいつがきっかけで、こうやって市井ちゃんにまた会えたんだから。
会ってすぐに、青空みたいな悲しみに気づいたとしても。
- 141 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時57分53秒
- ◇◆◇◆◇
後藤は昼飯をガツガツ食べている。
キャベツの千切りだのエビフライだのモズクだのオクラだのがみるみる消えていく。ドンブリ飯を…もう二杯目だ。
美人のくせしてこいつは本当によく食べる。遠慮もない。そこがいい。中学のころ、うちでソーメンを五把食ったこともあったっけ。
結局わたしの部屋で二人、三時間ちょっと。それほどつっこんだ話をすることもなく、音楽かけてマンガ読んで、のへーっとしていて。そのうちノックと一緒に「ごはんよー」と聞こえてきた。
で、ダイニングに来てみりゃ後藤用の箸や茶碗、汁椀とか決まってて。
母親も父親も、嬉しそうにしてる。
わたしが東京に出てからもずっと、家族ぐるみのつきあいが続いていたとかで、わたしよりよほどここの娘になっている感じ。なんか…むかつく。あんたら、絶対だまされてるんだぞ? なにをどうだましてるのかわからんが。
両親は、わたしと後藤がまた昔のようになったんだねよかったね、としきりに笑っていた。
それを聞きながら、わたしも後藤も、にこにこ笑っていた。
- 142 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時58分54秒
昼ごはんのあと、二人で外に散歩に出た。
うちは住宅地といいつつほとんど郊外てなところで、そこらに畑だの果樹園だのが広がっている。自動車もめったに通らない。二人でプラプラ歩くにはもってこいだ。
太陽は中天をかなり過ぎて。この季節はそれだけでいきなり寒くなる感じ。
でも……青いなあ、この空。
後藤はずっと黙ってる。わたしも、黙ってる。
たぶん、あんたも感じてるんだよね。
少なくとも、わたしは感じてる。
部屋で会ったときから、ずっと。
会う前に抱いていた淡い期待が、ふわーって透きとおっていった。
ああ、やっぱりって。
あとの三時間は、それをずっと確かめていただけ。
『さようなら』
『こんどこそ、さようなら』
『むかしの、わたしたち』
- 143 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)00時59分41秒
ふいに、後藤がわたしの前にたたたって回り込んで来て、ふにゃって笑った。
「市井ちゃん、後藤、ここで帰るわ。おじさんとおばさんに挨拶しなくて悪いけど…」
うん。
なんかそんな気はしてたよ。
「ちょっと早いけど、いまのうちに言っとく。誕生日――二十歳の誕生日おめでと!」
「…おう」
いまのうちに、か。
「握手しよ!」
ああ。もちろんだ。
まっすぐ差し出されたあいつの手、ぎゅって握ってぶんぶん振って。
泣くんじゃねーぞ?
そして、ふたりで言ったんだ。
「「いままで、ありがとう。じゃ…さよなら!」」
あいつ、すぐさま、くるってこっちに背中向けて。
冬の午後、少し延びかけた影を引きずって、ぐんぐん駈けていった。
力強く、ぴんと張った背筋。
一度も振り返らなかった。
- 144 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時00分56秒
- ◇◆◇◆◇
市井ちゃんにきちんと「さよなら」して。
お誕生日おめでとうは言ってあったし。
お正月はいつもどおり、家族で祝って親戚に会って。そんだけ
なんか親がヘンな顔してたけど、笑って安心させてあげた。
市井ちゃんの成人式どんなになるかなとか、別に気にもならなかった。
◇◆◇◆◇
誕生日はいつもどおりなし崩しにすませた。
後藤からの電話がないことに、両親は不思議そうにしてた。
正月は、まったり・のんびり。
うちにみえた後藤の両親、来ない娘について恐縮顔。うちの両親、おろおろしてた。
東京に帰って、成人の日。アパートで、借りてきた『ミッドナイト・ラン』と『ゲッタウェイ』を見てた。
- 145 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時01分37秒
- ◇◆◇◆◇
冬休みも終わり、またわたしの高校生活が始まった。
一月。
……
二月。
そして「そういえば市井ちゃんなにしてんのかな」とか普通に思えるようになった。
メールとか電話とか、やり取りはしないけど。でも、いいんだ。
もうね、ちゃんと「さよなら」したんだから。大丈夫。
- 146 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時02分27秒
- そんななか。忘れてるだろうけど、「あのバカ」の話。
当然、大学受験失敗。三浪決定! バカの三乗決定!!
三浪も許してくれる親っているんだね、素晴らしいと思う。思わねーよ。
いや、なんでこんな話をするかと言うとだね。
「ガイキチも 忘れた頃に やってくる」(後藤“寅彦”真希)
という警句を提唱したい。のだ。
あのバカがヨリ戻そうとしてきた、とかじゃない。ただ、三浪決定はわたしのせいだとか言いふらしてるらしい。
で、それだけなら「自分で恥の傷口広げて、バカもここまでくるとかわいそうに。神様もひどいことをするわねー」くらいのものだけど。
さらに、わたしとのこと、付き合いはじめから終りまで、あることないこと、ないことないことバラまいて。
なにやらそこから
「後藤真希は・切羽詰った浪人を・さそって・狂わせた・ナニな人」
などというウワサが流れるようになった。
- 147 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時03分15秒
- もう三年生なのに。
みんなわたしと同じ受験生なのに。暇なんだなあ。
四月。
……
五月。
ウワサは尾ヒレに角だのフックだのオプションをごてごて加えていった。生まれてすぐにひとり歩きをはじめたと思ったらジェットの力でぎゅーんと飛んだ。
煽ってるやつらについては、だいたい見当つく。
あいつのこと好きだったモノ好きの@△か(えーえー、わたしもモノ好きでしたとも。それがなにか?)、わたしにコクってきたけどあっさりフッた(だってキモイんだもん)▲×か、同じくわたしにコクってきたけどあっさりフッた(だって女なんだもん)〒〆か、そいつの信者だった#☆か、それから……………わたしって、敵、多いなあ。共学でこれだから、女子校だったらどうなっていただろう。想像するだにウットーしい。
「自由」が信条の学校だけあって教師たちはさすがに大人で。そんな噂を真に受けて説教するなんてことはなかった。一応、五月半ばに担任がわたし本人に確認を取りに来て、わたしも隠すことじゃないから本当のところを全部話して。それでおしまい。学年主任も生活指導も、親も出てこなかった(どうせ母親には、うっぷん晴らしでほとんど話してたんだけど)。
- 148 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時04分25秒
「後藤もなあ、その性格だから」
とは、ひととおり面談終わっての担任の言葉。
その苦笑まじりの表情をみて、わたしも笑ってしまった。
「でもわたしは、あんたのその性格、好きだけどね」
「お、告白?」
「バーカ」
二人でへらへら笑った。教室でもこんな風に笑えりゃいいんだけどね。
告白うんぬんはともかく、わたしはこの担任――石黒彩が好きだ。
二年から引き続いての担任。クラスのみんな、最終学年を石黒のクラスでいられることを喜んでいた。もちろんわたしも。まさかこんな風に頼りになってくれるとは思わなかったけど。
とにかくこの石黒、頭はやわらかいけど、締めるところはちゃんと締める。教師と生徒というケジメを守って絶対に馴れ合わない。こんな学校だから生徒の勝手にやらせてるようで、最低限のフォローもする。それも的確。まだ二十代半ばなのに、冷静沈着、堅実無比。
学校側の対応がヒステリックなものにならなかったのは、ひとつは石黒の力が大きかったはずだ。
- 149 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時05分26秒
- 「バカが多くて、これからまだまだウットーしいだろうけど。でも後藤のその性格、すごく大事なものだから」
「…はい」
「やなことあったらいつでも相談に来な。あ、でもあんたはそういう性格じゃなかったよねー、困るよりも、ただウザイってだけだもんね」
はっはっは、と笑って石黒はわたしを面談室から送り出した。その言葉はあたっていた。どこまでもわたしのことを理解してくれていて、なんだかほっとした。
石黒の言うとおり、相変わらず学内はいろいろウットーしいことが多かったし、そのうえ進路のことで些細なことから親と衝突したりもした。
それでも、石黒との面談でいろいろとふっきれた。去年一年間では感じる機会のなかった、強い信頼を石黒に感じていた。
市井ちゃん以外で、こんな感じ、初めてだ。
これ知ったら、市井ちゃん、どう思うだろう。すごく安心してくれるかな。
市井ちゃん、後藤はこんな風にやってます。
- 150 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時07分02秒
- ◇◆◇◆◇
あいつからはじめてもらったメール。
むかーしアドレスは交換してたけど、ほんと、はじめて。
おう、来たな、くらいのもんだ。別にどっきどきとか、感慨とか、そんなのないよ。
いまのわたしたち、そうなってるんだ。
ほら、わたしたち、ちゃんと終わらせてるから。
普通に開いたね。
しっかし。
いやはや、すさまじいというか、あいつらしいというか。
充実した高校生活、送ってるじゃないの。
その、石黒? いい先生じゃないか。うう、わたしが高校のころ、そんな先生がいれば浪人しないですんだものを……ごめん。見栄張った。
冗談おいといて、よかったなあ後藤。うれしいよ。
負けんな。
負けないだろうけど、負けんな。
- 151 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時07分59秒
- こっちはこっちで、ぼちぼちやってるよ。
「語学は落とすな」という大学生の鉄則きっちり守って。一年履修分は、やばかったけど、何とかクリアー。つーか、結局一つも落とさなかったよ。ほんとだって! 意外に優ばっか。
いままで勉強以外の学生生活を強調してたかも知らんけど、やっぱ勉強が面白いわけさ。実力つけて、自分も現実も変えてやるぜ、って。
で、後藤にはよくわからんだろうけど、来年、三年になりゃ「ゼミ」ってやつが始まるのな。いや、一年から予行みたいに始まってはいるんだけど、それが本格的になるの。ともかく言われるのは、「ゼミこそが大学生の勉強だ」って。そっちに集中するには、余計な単位落としてる暇なんてないの。
語学は三年まで持ち越すな。おぼえときなさい。
- 152 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時08分38秒
- ◇◆◇◆◇
ぷぷぷ。
市井ちゃん、カッコツケがすべってるって。そこがいいんだけど。
だいたいうちの高校、三年になったら自由選択科目で「ゼミ」があるのだよ。後藤は石黒のゼミとった。「近代日本作家論」。もう受験生なのにね。あは。
それはそうとこっちはね、カタつけた。
ちょっと前のことになるけど、下校時刻、大勢見物人がいるところに「バカ」呼び出して。
ぶぁちこーんってぶん殴って「地の果てまで失せろ」って。「五階の窓から跳べ」とどっちがよかったかな? ま、乙女が口にしちゃいけない言葉もちょこっと使いましたわよ。おほほほほ。
- 153 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時09分32秒
石黒がきっちりフォローしてくれたし。
最初はね、石黒に迷惑かけたかなって思ったんだけど。
教え子が暴力沙汰起こしてお咎めなしだよ、この教師。すげー。それどころか、なんか、今回のこと待ってたくさかったな。
あんだけ人がいたのに、ポリス沙汰にならなくてね。後藤は石黒へのレポート二十枚ですんだ。
『ある高等学校における一女子生徒についてのウワサの発生・展開・終息に関する一考察』みたいなテーマで二百枚くらい書こうかな。市井ちゃんよりよほどきちんとしたの書くかもよ。ふっふーん。こう見えても社会学部志望なのさ。階層論とか、よくない?
- 154 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時10分12秒
- ともかくね。
なんもかも、ピタって止まったね。
なーんだ、やっぱりチキンばっかりだったんじゃん。
石黒に話したら、なんかニヤって笑うだけ。怖え〜。
それにしても、梅雨入りしたのかわからないうちに梅雨が明けて。七月よ。
ほら、
「桜が咲き桜が散って、気候は暖いと云う間もなく暑くなった」
ってやつ。知らない? 鴎外だよ、「二人の友」。
でさ。
この二年間、なんとなく言えなかったんだけど。
いま、新しく、言えるんだ―――
- 155 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時11分04秒
- ◇◆◇◆◇
もうじき夏休み。
東京の暑さにはいつまでたっても慣れない。不自然な、べたつく暑さ。
だりー。死ぬ。
そんなころ、またメールが届いた。
う。いろいろムカつく。
なろー、大学のゼミだぞ。そっちはどーせオママゴトみたいなもんだろ? ちくしょーめ。
だいたいおめー、レポートってのはそんな思いつき書き散らしゃいいってもんじゃないんだぞ。なんだそのテーマは。考え甘いんだよ! なりきりエドガール・モランかっての! 階層論てのも周回遅れのミーハーだろ?…表現、悪かったな…うう。
鴎外? 大学生をバカにすんな、読んでらあ。それは知らなかったけど……。
ふ、ふんっ、じゃこれ知ってるか?
「青い空は動かない、雲片一つあるでない 夏の真昼の静かには タールの光も清くなる」
――けっ、中原中也「夏の日の歌」でい! えーいうるさい、少女趣味っていうな!……くそ、暑い。
ま、なんにしても問題解決ってのはおめでたいこって。
やるなあ。カッケーじゃん。
そりゃ喜んでやるさ!
うおっと。
最後に一行書いてある、これって――――
- 156 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時11分53秒
『こんどの夏休み、会いたい。会いに来て』
- 157 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時12分42秒
――――――――
特急から普通電車、バスに乗り換えて。
ようやく近づいてきた。
こっちも暑いけど、東京の暑さよりずっとましだ。
これからしばらく。夏休み一杯、いるつもり。
アパートの部屋の冷蔵庫はカラにして、家電のコンセントはぜんぶ抜いて。ゴミ出しすませて。友人たちと管理人には連絡してある。家賃も二か月分払っといたし。勉強に必要なテキストやノートは実家に送った。必要ならインターネットで大学とやりとりもできる。
そうしょっちゅう会うわけにゃいかないけど、いいんだ。
大事なのは、ここに来た・ここにいる、ってことなんだから。
- 158 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時13分21秒
さて。
客がろくに乗ってないバスの、一番前。
目の前にまっすぐ伸びる二車線道路が、どんどん下に吸い込まれてく。
両脇はだだっぴろい畑、むこうに果樹園。もっとむこうに、寝そべる山並み。そして雲と空。
だんだん人家が見えるようになってきた。
まだ全然、畑ばかりだし。対向車もないけど、家並みが広がり始めてて。
来たなぁ。
来たんだよなぁ、ここまで。
- 159 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時14分01秒
ほら。
フロントガラスから、もう、見える。
スピードを落とし始めた進行方向。
果樹園に沿った道路わき、コンクリの塊に鉄棒突き立てただけのバス停。
ベンチもないから、離れた木蔭に座り込んでたのが、バスの音に立ち上がった…あの人影。
むこうからもこっちの姿、見つけて。
かぶってた麦藁帽子をおもいっきり振って。
ちくしょう、こっちだって手を振ってやるぞ!
- 160 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時14分43秒
バスが止まって、ドアが開いて。
もうずいぶん日焼けしたあいつは、麦藁帽子片手に向こうの木蔭に立ったきり。
こっちからゆっくり、歩いてく。一歩二歩、確かめて。
なんともいえない表情だなあ、おまえ……きっとわたしも、おんなじだ。
その場に荷物、どさって降ろして、ちょっと黙り込んで。
そして――
「…来たよ」
「…来たね」
ここまで、なんとまあ、まわり道したもんだ。
しみじみ思う。
つくづく思う。
でも、いまはもういい。
- 161 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時15分45秒
「…来てっていわれりゃ、さ」
「…来てっていうもん」
うん。
眩しいなあ、おまえ。
頭のうえの青空は、去年の十二月のとはぜんぜん違う。
おたがい、一歩ずつゆっくり近づいて、立ち止まって。
で、もちろんここで、ほら。
―――握手。
ぎゅっと握って、ぶんぶん振って。
そして、ふたりで言ったんだ。
「「はじめまして……これから、よろしくね!」」
- 162 名前:「3. Come To Me」 投稿日:2003年06月30日(月)01時16分32秒
「3. Come To Me」
−了−
- 163 名前:..... 投稿日:2003年06月30日(月)01時17分24秒
…………………
- 164 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月30日(月)01時18分21秒
- このお話では、「姉」は現実より一歳年上という設定です。82年生まれ。「姉」と「妹」は三つ違い。こういうお話にしたかったので。
…と、一応説明してみる。
いや、別にしなくていいかな。ochi進行だし。まあいいや。
前回より約二割減。
まだ重いか。第一話くらいの「すっきり感」、好きなんだけど。
でもこれはこれで好きかな。うん、これでよし。
つーかあれじゃ容量余らせまくりだし。
- 165 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年06月30日(月)01時19分09秒
ではまた次週…
…どうだろう。
暑いからな。電力不足だし。
………
よし、冬まで待つか!!
……?
- 166 名前:名無し娘。 投稿日:2003年06月30日(月)23時12分40秒
- すいません。1の話しは読んでいたんですがレスするタイミングを逃し、
そして2の話になっては少し長かったので今まで読むのを躊躇い、
結果、こんなタイミングの悪いレスになってしまいました。
3はもう少ししてから読ませて頂きます。
とりあえず感想を。
おもしれぇぇぇーーー!!!
感情的に叫び出したいほどに自分のツボを打たれました。
必然性は出ていたと思います。アイテムや口癖が無くとも(オイラは実は欲しかったかもw)自分には二人の声が聞えてきました。
こう言う普遍性のある話は大好きです。2番目なんてモロ好みでした。
これからも頑張ってください。勝手ながら応援させて頂きます。
- 167 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月01日(火)00時53分28秒
- ううう、ど、読者さんだ。もったいないお言葉、ありがとうございます。
読んでくださる方がいらっしゃるなんて…うれしい! 頑張ります!!
…まだまだ語りたいところですが、ミスを発見してしまいました。
第三話です。
>>135、一行目で、後藤は「おととし」と言ってますが、これは「去年」が正しいです。
>>111の「去年の春先」と同じことを言っているわけです。
せっかく読んでいただくのに、こんなミスをしてすみません。
ほかにも若干気になるところはありますが、構成上のミスはないはずです。たぶん。
それではごゆるりとお楽しみください。
- 168 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月01日(火)23時18分27秒
- うーむ、メランコリック。
昔の後藤はよく喋っていたなと。市井とはこんなにも喋れていたなと。
やはり今の後藤からは想像もつかないテンション振りは市井じゃなければ引き出せないんだなーとセンチメンタルになりました。
成人の日、市井が借りてきたビデオ2本に少し笑ってしまいました。
全ての話に言えるのですが終わり方がとても素直で気持ち良いです。
無駄に何か付け加えようとか驚かしてやろうとかそう言う作者の意図が見えないので読み終わった後が爽快です。
次の話も楽しみです。
- 169 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月02日(水)03時17分59秒
- 嬉しさ余ってフライングレス返し(ごめんなさい)
>>166>>168名無し娘。さん
緊張するなあ…いえ、ぼくが敬愛する作者さんと同じHNでいらっしゃるので。ご本人だったらどうしよう…こちらの話です、すみません。
第二話、長かったですよね。短編のつもりではいるんですけど。
「オイラ」は、二つの理由から外しました。まず、ぼくの脳内ではこの話のテレビドラマが完成していて、その映像だとどうも「オイラ」と言いそうになかったのです。もう一つの理由はのちほど明らかになります。
第三話についてもご感想ありがとうございます。
アンリアルながら実物への願望を投影してもいます。市井も後藤も今だって強く元気にやってほしいという。特に市井。で、またもぼくの脳内ドラマでは、お別れ後の祝日に市井が見るビデオはあれだろう、と。
あと、小川と高橋(第一話の)もいい子ですので、気に入っていただけたら幸いです。
読後感というものに気をつけてますので、お言葉が本当にありがたいです。
ぼくは明るく前向きな話しか書けないですね。そして、自分が気持ちよくなれる形で書き終えると、こうなっているのです。
これからもよろしくお願いします。
- 170 名前:名無し読者 投稿日:2003年07月04日(金)02時34分06秒
- 読ませて頂きました。
面白いです。二作目のEchoesが特に良かったです。
個人的に矢口がオイラじゃなかったところが自然で良かったです。
次回も期待しています。
- 171 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月06日(日)11時54分10秒
- 読者様へのご連絡――「2. Echoes」について。
<一度書いて、削除したことなのですが…>
このお話の「雑念を流すためにひたすら泳ぐ」というアイデアは、数年前に読んだあるマンガ作品から無意識の影響を受けたものです。近藤ようこの短篇マンガ「プール」(『アネモネ駅』/青林工藝舎 所収)です。
書き始めたときは自分でも全然気がつきませんでした。ただただ、鬱が入って無心で泳ぐ高校三年生の吉澤と、痛々しく明るい矢口、そして水の中の二人の映像が浮かんで、そこから始まったのです。だから登場人物もストーリーも、まるっきり違います。似ても似つきません。
ただ、「ひたすらプールで泳ぐ」という一点は、影響を受けています。九割がた仕上がったところで「あれ?」とようやく思い出し、押入れの奥にしまいこんでいた単行本を引っ張り出して見て…影響に気付かされました。
本来なら気がついた時点で全面的に書き変えるべきだったのでしょうが、中身が全く違うし、なにより登場人物二人への愛着があって、そのまま完成させて投稿。そしてマンガ「プール」について書いて「101」として投稿しました。
- 172 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月06日(日)11時56分43秒
- ただこの「101」、飼育で書ける嬉しさからはしゃいだもので、マンガをそのままパクったように読める書き方になっていました。さらに、業務連絡スレにあった真偽不明の「新潮社」からのレス。あれでスレごと一つの作品が消えました。
そこで色々考えて、「101」(およびそれを予告した「35」)の削除依頼を出しました。
そしてこのまま最後まで行こうと思っていましたが、「2. Echoes」を気に入ってくださる方が複数名いらっしゃって、「VOICES」=「2. Echoes」となりそうな感じがしてきました。「101」を削除したことがとても気になるようになりました。
そこで、この文章を投稿します。仮にどこかから抗議が来たら、丸ごと削除ということにするでしょう。管理者様には申し訳ありません。
読者様を混乱させてしまい、さらにこのような無粋な文章をお目にかけてしまいました。申し訳ありません。
それでも…「2. Echoes」の、不器用でも、もがいて、頑張って前に進んだ矢口と吉澤を、見捨てないでやってください。
そして、もしよろしかったら、今後ともお楽しみいただきたら…と思います。
- 173 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月06日(日)23時44分18秒
- いろいろ事情がフクザツなのですね・・・。
それでも自分は、この作品が好きです。
- 174 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月07日(月)00時23分44秒
- よーし、今夜も深く静かに潜行するか!
暑いからな!!
- 175 名前:4. P.S. 投稿日:2003年07月07日(月)00時24分34秒
- ※ 登場人物がちょいと問題発言をします。あらかじめ、ごめんなさい。 ※
- 176 名前:4. P.S. 投稿日:2003年07月07日(月)00時25分26秒
「4. P.S.」
- 177 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時26分17秒
わたしの目の前にたつ、細面の人物。
グレーのカッターシャツに黒のスリムパンツと革靴。短く刈り込んだ金髪とおそろいの金のピアスが両耳でジャラジャラしてる。
逆光の中。整えられた眉もその下の眼差しも鋭くて。
すっと通った鼻筋と引き結ばれた薄い唇が、固い意志をあらわしているよう。
その顔にさっきから次々と吹きだす汗を拭きもしない。ときどき、顎の先からぽたりと落ちる。
それをわたしは、なにも言わずに見つめ続けるだけ。
まだ、口を開かない。
恐いくらい、真剣な表情。
(いつまで黙ってるの?)
夕方五時の、人気のない公園。
もう夏――七月下旬だから、ぜんぜん明るい。
その中でわたしたちは、十分近くも、黙って見つめあったまま立っている。
そんなに黙っていられると、わたし、すごくせつない気持ちになっちゃうよ。
(はやく帰りたいんだけど……)
- 178 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時27分06秒
- まったく。
わたしを呼び出したのはそっちでしょ? はやいとこ用件を言ってよ。暑いし。
いい加減、男らしく……
「つきあってくれ」
はい、やっぱりね。
そのひとこと言うのに、暑いなか十分間……。
でもその言葉でさえぎってくれたおかげで、我ながらバカな言い間違いを、たとえ頭の中とはいえやらかさなくてすんだのだけど。
「あたしとつきあってくれないかな、石川」
ほらね? 男らしくしろなんて、言えないわな。
ともかく、わたしの身振りと言葉と表情はいつもと同じ。
ちゃんと真面目に聞こえるように声を調節して、
「ごめんなさい。わたし、先輩とおつきあいするわけには行きません」
さー、こっから自動操縦装置、働いちゃってくださーい。
石川さんの脳味噌、大部分はお休みしてますねー。
- 179 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時27分46秒
- 「あたしが…あたしが女だから、同性だからつきあえないってことか」
「そういうことじゃないです」
「女なのに女と付き合うなんて、気持ち悪いって…」
「わたし、そんな偏見で言ってるんじゃありません。先輩のこと、男とか女とかじゃなく、ひとりの人間としてみて、言ってるんです」
「ひとりの人間…」
「そう! そうですよ」
「はは…ははは。でも結局、人間としてダメ出しか…よけいヘコむな」
「いえ、ですから聞いてください!」
よし、あとは締めの言葉ね。
声の調子、オッケー? ここ大事よ?
いや、わたしの声、ほんと特徴あって。なかなか真剣に聞いてもらえないんだ。
ま、ともかく。
- 180 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時28分30秒
- 「わたし、もう付き合ってる人がいるんです。その人のこと、大好きなんです、ほかの人のことを考えられないくらい。だから、先輩とはおつきいできません」
「でもおつきあいというのとは別に、先輩にはいつもすごく感謝してるんです。人間として尊敬してます」
「だから…これからも、いままでと同じように、よろしくおねがいします」
はい、おしまい。
さーて早く帰って、お風呂♪お風呂♪お風呂♪お風呂♪お風……
「よくもそんなウソを…」
そりゃまあウソだけど…って、あらぁ?
え、なに? いまなんかボソって聞こえたんですけど。
- 181 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時29分01秒
「▲♯に頼んだんだ。石川に付き合ってる人いるか、さりげなく聞いてくれって」
「ほえ!?! あ、いやそそそそそれは、えーと」
思い出しました。確かに聞かれたわ、▲♯さんに。ほんっっとさりげなく。
- 182 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時29分38秒
『こんどさ、みんなで海いこうよ。石川の彼氏も車もってたでしょ』
『彼氏ってなんの話ですか? それ嫌味です。付き合ってくれる人募集中でもう一年ですよ?』
『やー、わりーわりー』
『もう〜〜』
『『キャハハハハハハ』』
- 183 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時31分27秒
…………。
あれがまさかこんな落とし穴となるなんて。思い出さなかったわたしもわたし。暑い中つっ立ってたせいで勘が鈍っちゃってたんだ!
「#〒とか$〆とか★◆とかに止められたわけ、わかったよ」
うぎゃ。全員、わたしが嫌いな、向こうもわたしを嫌ってる女の人だ。
なに? そんなネットワークできてるの?
「結局、石川ってそういうヤツなんじゃん」
「女と恋人になるなんて考えられない、って丸出しだよ」
「それならそれではっきり言えばいい。なにが“そんな偏見で言ってない”だよ。“ひとりの人間として”だよ。人のこと馬鹿にして」
「きれいごと言って、自分がいい子になりたいだけじゃないか」
……返す言葉、ないです。
全部、きれいごと…ハイそのとおりです。
石川梨華、十八歳。
かわいいね、いい子だね、って言われてきました。
いまも言われます。
言われると嬉しいです。
言われていたいです。
言われ続けたいです。
で、ですね。
それがいけないことですか?
いけないことですか?
- 184 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時32分25秒
- 「はぁ…はじめて石川みたとき、あたしの理想の彼女だ!って思ったのになぁ」
「ちょっと色黒でセクシーで、でもピンク系がばっちり似合って、なんてかわいい子だろう、とか」
「だからいまの職場にだって紹介して。一緒にやってこうと思ったのに」
「がっかりだよ、お前には」
…えー、みなさん、ごめんなさい。
良い子の石川梨華、十八歳。
――キレます♪
「いい加減にしてよね…」
わたしにとって裏声の、重低音。
あとはもう、なにがなんだか。
- 185 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時33分02秒
- 「さっきから黙って聞いてりゃ、ぐちぐちぐちぐち、あーうっさいうっさい!」
「はい、そのとーりです! 全部きれいごとですよ! つきあうなら男がいいに決まってるっつーの! “ひとりの人間として”なんて、言ってて“ハァ?”って感じ」
「彼氏がほしい! かわいい、いい子って言われたい!」
「だからなによ? わたしはそれで精一杯やってきたんだから! その気持ちにウソつかないで。人はだましても自分はだまさなかった」
「だいたいあんたさ、偉そうなこと言えるの? ついさっき言ったよね、わたしをはじめて見たとき“自分の理想の彼女だ”とかって。ピンクが似合うとかって。なにそれ? 笑っちゃう! 思いきり人を外見で判断してんじゃん。わたしはね、自分で好きだからピンクの服着てんの。あんたのエロ目線引きつけるためじゃないっての。あ、気付かれてないと思ってた? バっっっっカじゃないの!? バレバレ!」
「でもって手元に置いときたいから職場紹介したって、セクハラ中年オヤジかあんたは」
「そんな万年発情期が、言うにこと欠いてこのわたしに“がっかり”? はあ? あんた何様?」
「あと、気安く“お前”とか言わないでくれる? マジうざい」
- 186 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時33分50秒
ハー、ハー、ハー、ハー、ハー、ハー……
肩で息をするなんて、ひさしぶり。というかはじめてかも。
ワンピースから帽子からポーチから靴からピンクずくめの自分を思い出して、効果を疑問に思ったけど。
でも万年発情期は茫然としてる。ふん、むこう一週間は立ち直れまい。
まわりを見渡したけど、誰もいない。見られてなかったよね? よかったよかった♪
わたしは、立ちつくす万年発情期をそのままに公園をあとにする。
はやく帰って、お風呂♪お風呂♪お風呂♪お風呂♪……はぁ。
- 187 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時34分31秒
- ◆◇◆
……はぁ。
また溜息。
とぼとぼ歩く帰り道、わたしは思いきりヘコんでいた。
今回みたいな失敗、初めてだな。いままではうまくかわしてたのに。
せっかく休みとって外で遊んでたら携帯で呼び出されて。用件は想像ついたから、いつもどおりに断って終わりってイメージができてたんだけど。
もう、いまのバイト先の焼肉屋さん、いられないな。先輩、店長に顔きくし。あれだけ言っちゃったらね。
たしかに高校卒業してずーっとプラプラして、バイト先もなかなか続かないでいたわたしのことお店に紹介してくれたの、先輩だったしなー。
先輩がわたしのこと好きなの、高校のころから気付いてたけど。でもわたしからお願いしたわけじゃなくて。むこうが申し出てくれたのをありがたく受けただけ。好意は無駄にできないじゃない? お店でもいろいろよくしてくれてたけど、ぜんぶむこうから言ってきたことだもん。
- 188 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時35分06秒
- この調子であわよくば正式な店員に、社員に、と思ってたのに。けっこう感触あったのに。なんの技術も資格もないバカ校の高卒でもこのS市で楽しくやれてたのにねえ。
ぜんぶ先輩のせいだ。
いっそ我慢して恋人になってれば……って、それは無理!
あ〜もう、どうしよ〜。
- 189 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時35分41秒
- だいたいさー、同性愛の人って、ノーマルだったら見てすぐわかるから見込みのない子には声かけないんじゃなかったの? いや、週刊誌の座談会だかテレビのバラエティー番組だかで見かけた曖昧な記憶だから、よくわかんないんだけど。
まったく、なんでわたしがいっつもいっつもいっつもいっつもいっつもいっつも。
いくらかわいくてアニメ声でピンクずくめで色黒セクシーだからって、オニーサマなんていらないよ。
ノーマルとわからなくても、そのくらいわかってよ。
はあ。
早く彼氏つくりたい……。
でもって思いきり楽しくやりたい。
- 190 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時36分21秒
- わたし、すっごくモテるのに…一年も彼氏いないなんて……。
男以上に女にモテちゃうんだもんなー。
一年前にフラれたのだってそれが原因だったし。彼女を信じられないなんて最低!
この一年、付き合いかけては疑われて…。
この石川さんと付き合っちゃえば、すっごく甘えてあげるのになー。
はっきりいって、自分でも甘え上手な方だと思う。
少なくとも、相手が男であれば、たいていのわがままを聞いてもらえる自信がある。
同時に「(ノーマルの)同性に嫌われるタイプNo.1」だってこともわかってる。ほら、さっきの#〒とか$〆とか★◆とかね。わたしだってあんたらなんか大嫌いだよ。卑しいウワサ話が大好きで、うじうじと人の足引っ張ることばかり考えて、イナカ者丸出しじゃん。
それにさ、わたし、これはこれで自分の気持ちに正直なつもりだし。
ウソはつきたくないもん、自分に。だから他人にウソをつくことだって、時にはあるよ。しょうがないよ。正直が一番だもん。
- 191 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時37分12秒
- 正直と言えば、きょう、よくあそこまではっきり言ったなあ。
「“ひとりの人間として”なんて、言ってて“はぁ?”って感じ」…か。“あいつ”ならあそこまでの言い方はしなかったろうけど。でも、わたしはわたし。
先輩、「それならそれではっきり言えばいい」なんて。わかってないよなー。そんなことしたらわたしが嫌われちゃうじゃない? でも結局嫌われちゃったけど………はぁ。
いろいろ考えてるうちに我が家に着いた。田舎だけに、結構な庭付き一戸建て。
いまさらくよくよ悩んでも仕方ない。お風呂♪お風呂♪お風呂♪お風呂♪…
- 192 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時38分06秒
いや。まて。
おかしい。
そうだ、なんで電気がついてるの?
お父さんとお母さんは結婚記念日とかで、きのうから二泊三日で旅行に行ってる。
きょうはわたし、朝から外出てたから、電気をつけてたわけがないし。
…ちょっとやだ。泥棒?
わたしはすぐに携帯電話を取り出し、警察にかけようとした。
そのとき、すこし開いたお風呂の窓のほうからかすかに聞こえてきた鼻歌――あの声は。そしてようやく、奥に止めてあるポンコツ軽自動車に気がついた。
――あいつだ。
- 193 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時38分49秒
- ◆◇◆
「ふー、あーいいお湯だった」
隙だらけな大声の独り言を言いながら、どたどた歩いてきて。
リビングのドアノブをガチャガチャやる気配。
開いた瞬間、ドアに向かって怒鳴ってやる。
「もう! なにやってんの!!」
「あれえ? 梨華ぁ。お帰りー」
力が抜ける。
この人はいつもこうだ。こっちがいくら気負って声張り上げても。精一杯迫力ある声つくっても。間延びした返し一発で空気を和らげてしまう。
長い髪をバスタオルでぐるぐるまとめた頭で、わたしよりだいぶ高い目線から、きょとんとして見て。
もう。その空気、反則だよ…
- 194 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時39分28秒
- でもでもでも。
きょうは許さない。
きょうはわたし、あんないやなことがあって、すぐにお風呂つかいたかったのに。それだけが楽しみだったのに。なんか勝手にあがり込んで、勝手にお風呂つかって、わたしのこと待たせて…
「勝手にって、家族じゃんかー」
「家族ったって、圭織ちゃんはもう別の家族じゃない!」
そうなんです。
この人、わたしの実の姉、圭織ちゃん。
だけどもう結婚して石川姓ではなくなって、いまは『飯田圭織』さん。
- 195 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時40分16秒
- ◆◇◆
「梨華ー、ねえ梨華ー」
お風呂上りのわたしは、バスタオルも夏用パジャマも(もちろん下着も)ピンクずくめで、圭織ちゃんの声に知らんぷり。
「梨華ー、ごめん。悪かったってー。先にお風呂つかって」
ドライヤーで髪を乾かす。
美容液、乳液、あとはえーと。
「機嫌直してよー。メロンさんぬるくなっちゃうよー」
…まったく。
機嫌なんてとっくに直ってる。
お風呂上りだからってご飯の前にでっかいマスクメロン一個全部切って、そのうえ「メロンさんぬるくなる」なんて間の抜けたこと言う人を相手に、いつまでもへそ曲げてられるわけないじゃない。短パンにタンクトップなんて格好からして隙だらけだし。
わたし自身、お風呂で気持ちよくなれたし。
ただ、なんかくやしくて。
「あー、梨華、やっぱ笑ってるなー。よかったー」
「……」
- 196 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時41分03秒
- わたしが本当は笑ってるのを知って、ムっとするどころか心底安心してる。それが圭織ちゃん。
だからますますくやしくて、こんな言い方してやるんだ。
「『飯田』圭織さんは、きょうはなんの用ですか?」
「もーショックー。絶対わざと言ってるよね、「飯田」って。うん、お母さんから「旅行いってきます」って電話っもらってさ。じゃ梨華ひとりじゃん。心配だから、きた。やっぱここのカギ持っといて正解だったわ」
「旦那さんは?」
「奄美大島に潜りに行ってる」
「奥さん置いて?」
「圭織、潜らないもん」
「…まーでも、来るなら来るって連絡くらい…」
「しようと思ったよ」
「思った?」
「忘れてた」
………。
「『飯田』圭織さん?」
「ごめんなさい。反省します。『石川』梨華さん」
ぷはははっ。
圭織ちゃんがわたしのこと『石川』って言っても意味ないよー。
もう、許す!
わたしは圭織ちゃんが出してくれたメロンにようやく手を伸ばした。わたしの好物。差し入れに気を使うんだよね、圭織ちゃんは。
- 197 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時41分46秒
- それに、わたしが「飯田」にこだわるのは、別に「あんたはヨソモノ」なんて意味で言ってるんじゃない。圭織ちゃんが「飯田」になった理由が理由だから、ついからかいたくなっちゃうんだ。
圭織ちゃんが「飯田」になった理由。
「女だから旦那の姓に」などと、この姉が思ったわけがない。
本人に理由を聞くと、んー、と数秒一時停止してから、真顔でひと言。
「じゃんけん」
…………。
わけがわからないからしつこく聞いて。
まとめると、
「自分は石川だろうが飯田だろうがどうでもいい。ただ、変わると手続きとか面倒というならちょっとやだ。でもそれは相手も同じこと。だったら公平に、じゃんけんでいい」
圭織ちゃんはパーをだし、旦那はチョキをだした。
で、いま、圭織ちゃんは『飯田圭織』になっている。
- 198 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時42分36秒
- 旦那もよく合わせたな、と思ったけど、そういう男でなければそもそもこの姉と付き合おうと思うはずがない。つまり二人は同類。
なにして生計たててるかわからない二人。
旦那は「自称」作家だかアーティストだかでしょっちゅう外に出て、圭織ちゃんは結婚前と変わらず、絵を描いたり音楽やったり。
圭織ちゃん、中学生の頃からずっと絵を描いてた。高校卒業後も大学行くでもなく働くでもなく、家を出るでもなく、マイペースに「アーティスト」。現に作品がプロから評価されてたから、お父さんもお母さんも別に心配なんてしなくて、娘が家にいてくれて嬉しい、ってだけだった。才能は宝だよね、ほんと。
そのうち市の芸術サークルみたいなのに顔を出して、そこで出会った男性が現在の旦那さん。
- 199 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時43分13秒
- 圭織ちゃんの絵、なにしろ不思議な魅力があって。
でもずーっと外に出そうとしなくて、見せるのは仲間内だけだった。
本人いわく、
「人が絵を見たがっても、絵が人に見られたがってるとは限らないよ」
…よくわかんないけど、目が説得力100%だった。
それが去年、そろそろ正式に結婚を考えるか、というころなって人に見せる気になった。そこは愛する旦那の影響なんだろうな。
ともかく展覧会に出したらいきなり注目を集めて、市役所とかにも数点飾られたくらい。いまじゃ買い手も結構つくし、このS市じゃ、知る人ぞ知る、という感じ。名物ともいう。旦那と出会った芸術サークルに時たま顔を出すこともあるけど、だいたい一人のマイペース。
で、作品発表するときはどう名乗ろうと自由だから、「飯田圭織」のときもあれば「石川圭織」のときもあり、そして「クリスチーヌ剛田」と名乗って失笑をもらったり、「金☆正日」にしてまわりを凍らせたりもする。
なんにしても去年、二十歳で結婚したんだから若年結婚もいいところだ。両親は手放しで喜んでいたけど、わたしは自分が再来年とか結婚するところなんて想像もつかないよ。
- 200 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時43分52秒
- ◆◇◆
テーブルに並ぶ、冷やし中華。棒棒鳥。鮭のマリネ。焼きナス。白菜とキノコのミルクスープ。などなどなど。
きょうは晩御飯を圭織ちゃんが作ってくれていた。わたしが帰ってくる前にほとんど仕上げていたそうだ。
この人は料理が好き。家事が得意だ。というか、なにかをこさえるのが好きで、得意だ。
取り合わせはどこかおかしい気もするけど。
「「いただきまーす!」」
この人、自分のつくったものを本当においしそうに食べる。
でも、たしかにおいしい。
「ほんと? よかったー」
きょうは適当にピザでも注文して、とか考えていたから、嬉しい。
- 201 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時44分25秒
- 「ま、取り合わせはなんかヘンだけどね」
「あー、やっぱり。でもね、なんか、準備はじめたら止まらなかったんだ」
や、ほんとおいしいよ。それに食事って、人と一緒に食べるのが一番だもんね。
「でしょー? 料理するのもさ、人のためにつくってあげるほうが嬉しいもんだよ。いっつも旦那のために心をこめてるけど、梨華のためだと格別の嬉しさだもん」
そういってくれるとわたしだって嬉しくなる。
こんなに楽しい晩ごはんが食べられるなんて、つい二時間くらい前までは思いもしなかったよ。ありがとうね。
- 202 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時44分57秒
- 晩御飯を食べおわって食器下げて。片付けはわたしの仕事。
圭織ちゃんは缶ビールを開けて、わたしも飲む。
片付いたテーブルで、むかいあって、ビール。
テーブルの上は、グラスとお酒と、チーズとかサラミとか。
わたし十八歳だけど、それがなに? 二十歳になって初めてお酒飲む子なんていないって。
ともかくこんな静かな、二人の夏の夜、ひさしぶりだね。
そんなこと考えてたら、声をかけられた。
「ねえ、梨華。きょう、なんかいやなことあったんだよね?」
「?…あ、そうそうそうそう! 聞いて聞いて! 聞きなさい!」
- 203 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時45分37秒
- きょうのこと、つつみ隠さず、すみずみまで話した。聞いてもらった。
つつみ隠さずどころか、話のなかで今日の相手は「最低な偽善者で極悪人」ということになったけど、いいのだ。わたしたち姉妹のあいだでの話なんだから。
わたし、昔っからオニーサマ系の女の子から声かけられること、多くて。
背が高くて美人の圭織ちゃん、後輩の女の子から告白されること多くて。
おたがい、よく、その話をしてたんだ。
もっとも、相談するのはわたしのほうばかり。圭織ちゃんのほうは、相談なんかじゃなくて「きょうこんなことあったよー」程度だった。圭織ちゃんはひどいグチャグチャになったこと、一度もないみたいだったな。人柄の差なのか…ちぇっ。
ともかく、今夜も、いつものとおり。
- 204 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時46分12秒
「うんうん、梨華は悪くない」
「そう! 梨華ちゃんは悪くない!」
「梨華はいい子」
「そう、梨華ちゃんはいい子! でもってかわいい!……あと圭織ちゃんもいいお姉さん!」
「えー? 圭織はいいよー……ああ? え、ほんとー? 嬉しいなあ」
圭織ちゃんの差し入れのビール、ワイン、転がっていて、二人ともかなりいい具合になっていた。ま、大半は圭織ちゃんが飲んだんだけど。
「でもさ、梨華、よくそんな正直になれたよねー。圭織の同い年の子とか、結構“男女関係なく相手をひとりの人間として”とかエライこと言うんだけど」
「なに言ってんのー。これ、圭織ちゃんが教えてくれたんじゃん」
「…? そうだっけ?」
「そうだよー」
- 205 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時46分55秒
- ◆◇◆
あれは二年くらい前のこと。
わたしは高校生で、圭織ちゃんは結婚してない。
あのころもわたしは思いきり女の子からもてまくっていて。でももちろん相手の子のこと、好きになんてなれなくて、全部ことわっていて。
で、好きになれない理由について、そのころの映画とかテレビドラマとかの影響で、すごく悩んでいて。
いつものように、ダイニングのテーブルで圭織ちゃんに相談してたのだ。
真剣に話すわたし。
リンゴをむいてる圭織ちゃん。
「……でね、断るとたいてい言われるんだ、“自分が女だからか”って。女の子同士だから付き合えないのかって。わたし、やっぱそういうのって良くないのかなって思って。ちゃんと相手をひとりの人間として見て、好き・嫌いを言わないとだめなのかなって」
わたしの話に区切りがついたところで、圭織ちゃんがこちらを向いた。
「へえ。そういうものなんだ?」
- 206 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時47分32秒
- 「なにその返事ー? じゃ、圭織ちゃんはどうなのよー」
自分なりに真面目に考えていたのをバッサリやられて、納得いかない。
圭織ちゃんはリンゴを剥く手を止めると、右斜め上へと小首を傾げて(妙にかわいい)んー、と一時停止した。
で、しばらくして戻ってくると…
「たとえばね、圭織はほら、いまナイフ持ってても、あんたを刺し殺したりしないでしょ」
と、手にした果物ナイフをぷらぷらと振った。
「ハァ!!!???」
自分でもびっくりするくらいの大声が出た。
いきなりなに言いだしちゃってんの、この人は!?
- 207 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時48分04秒
- 「それはぁ、相手が梨華だから刺さないのか、というときっと違うのね…もちろんなにがあろうと絶対に梨華を刺したりしないんだけど」
「はぁ…………」
「やっぱりね、とにかくまず“人を殺しちゃだめ”“人を殺したくない”というのがあるの」
なにを言いたいのかは、だんだんわかってきた。軽い頭痛と引き換えに。
「だから圭織が女のコを恋愛対象として考えないのって、やっぱりまずは「相手が女のコだから」なんだ」
「恋愛は殺人かい」
「??」
きょとんとする我が姉。次の瞬間、
「きゃはははははは! やっだーもう。これ、喩え話だよぉ? なのに恋愛が殺人って…おっかしー。おかしいよ。ほんとヘンだよね、梨華って…ひー、お腹いたい…」
涙目になってるし。
誰になんと言われようと、あんたに「ヘン」と言われるのだけは納得いかない。
つーか、そもそもおかしいのはそっちのたとえ話じゃない。
まったくいつもいつも、こっちの予想を軽く上回ってくれるんだから。
「あ、でも「愛は殺人」ってカッコイイかも」とかまた脱線していくこの人は放っておこう。はあ。
- 208 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時48分44秒
- 「でも、梨華を殺そうとするやつがいたら、なにも考えずにそいつを殺す」
うげ。物騒な脱線だ。でも眼差しがちっとも物騒じゃないのが、この人のすごいところ。
「その場合は、「およそ人は殺しちゃいけない」のと逆で「そいつは殺していい」ってことで…ああ、好きになる場合なら、相手が女の子でもありなのかな? この子だから好きになるって」
「ありえないし!!」
「やっぱり?」
「「そーだよねー」」
二人で納得。
「…でも、わたしも、圭織ちゃんにひどいことするやつがいたら、絶対に許さないよ」
「ありがと〜梨華あ」
「きゃー、ナイフ置きなさいって!」
あの日、わたしは自分のなかで納得することができたんだ。
女の子相手だから好きになれない、でオッケーなんだと。もちろん告白してきた相手にはそんな素振りみせないけど、自分のなかで解決できて、前向きになれたんだ。後ろめたさなしで、自分に正直にお芝居できるようになったんだ。
- 209 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時49分34秒
- ◆◇◆
「…ああ、そんなことあったねえ。よくおぼえてるなー梨華は」
「おぼえてるよー。わたしには大事なことだもん」
圭織ちゃんはマジに忘れていたようだ。まったく。
「そんな大事なことだったら、それこそ「女の子相手はムリ」って言えばいいじゃない」
「だーかーらー、石川梨華ちゃんはそんなこと言わない子なの! だいたい圭織ちゃんまでアイツと同じこというの?」
「圭織は梨華の味方だよ。でも今回は付き合ってる人がいるってウソがバレてたのがまずかったよね」
まったくだ。わたしをひっかけたあの▲♯め。
「ま、それはそれとしてさ、やっぱ余計なこと付け加えちゃったのが一番まずかったんだと思うよ」
「え、なに?」
それは聞いておきたい。
「「お付き合いできません」のあと、「でも人間として尊敬してます」みたいな。そりゃ余計だって。自分をふった相手からそんなこと言われりゃ…」
「ちょっ…フォローが大事だって自分が!!」
「?」
…これも忘れてるんだ。
わたしはちゃんとおぼえてる。
あの「恋愛は殺人」喩え話のあと。
- 210 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時50分07秒
『でもね、やっぱり断ったあと一言、言ってあげないと』
『恋愛対象として「好き」はムリだけど、それこそ、人間として尊敬します、みたいに』
『これ、相手が男の子でも女の子でも関係なく、だよ』
『やっぱさ、告白ってすごく勇気がいることじゃない? それを断るわけだから。あなたのその勇気をきちんと受け止めましたって、見せないと。それが礼儀ってもんだよね』
『あれ、なんかいまカッコイイこと言ったなー』
- 211 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時50分43秒
- 「……あ」
「あ、じゃないよ! もう!!」
本当の本当に忘れてたな。それもこの様子だと、自分では一度も実践してないだろう。信じらんない。なんてやつだ。
「…ごめん、梨華」
「……」
ちょっと冷たくしてやる。
「ごめんって、ねえ梨華」
「ほんっと信じらんないよ」
…………。
「ごめん〜ごめんね、梨華ぁ」
うわ、なに、いきなりそこまで悲しそうな顔! お酒が入るとすぐこれだ。
「ちょちょちょっと、そんな泣きそうになることないじゃない」
「あー、圭織、お姉さん失格だあ。梨華、圭織が忘れちゃってたことのせいで傷ついちゃったね…なのにきょう来るとき、自分が梨華を助けてやらないと、慰めないと、なんて気合入れてさ…グス……悩みを聞いてあげないと、なんてさ……こんなだから、なにもわかってないとか言われるんだよね」
え、え!?
最後の部分はよくわかんなかったけど。
でも。いまの話からすると、やっぱり……。
- 212 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時51分20秒
- 「あのー。きょう来たのってやっぱり…報せ、あった?」
「…グス…うん。梨華がすごいヘコんでるだろうなって。お父さんもお母さんもいない家にひとりっきりで元気のない梨華のこと考えたら…」
相変わらずだ。
圭織ちゃん、昔っから妙に…いや、恐いくらいに勘が働く。超能力? とか思うときがあるくらい。道に迷ったときは「こっち」ってぐんぐん歩いてそのとおり、みたいな。
よくわかんないけど、今回もそうやって妹のわたしを元気づけにきてくれたんだ。
なんか、感動だな…。
- 213 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時51分55秒
- ◆◇◆
「ごめん圭織ちゃん、わたしもう怒ってないよ…それに、きょう来てくれてほんとうに嬉しかったよ?」
酔いはすっかり醒めてしまっていた。
つっぷして泣いてる圭織ちゃんのまわりのグラスやらサラミやらをさりげなくどけながら、慰める。ごめんね圭織ちゃん。
そして本当に感謝してるんだ、いまは。
お風呂を先に使われたと知った、あの時だけはアタマにきたけど、そんなこと、もういい。
「だいたいさ、今回先輩相手には失敗しちゃったけど、いままでは圭織ちゃんのアドバイスどおりのフォローでちゃんと成功してたんだから。ね?」
「…………」
「ねー、元気出してよ、ほら、わたしが元気をあげるから」
震えてる圭織ちゃんの肩を、ぎゅって抱いてあげた。
握手したり抱きしめたりって、すごく力をあたえるものだから。
- 214 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時52分37秒
- 「……」
「ほら、もう圭織ちゃんのおかげで、わたしすっごい元気になったから。もう、それこそ圭織ちゃんの悩みを聞いてあげたいくらい」
「…本当に?」
まだつっぷしたままの圭織ちゃん。でももう泣いてないみたい。
「うん、ほら、すっごい元気!」
「本当に、悩み聞いてくれる?」
「え? あ、うん!」
- 215 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時53分32秒
- そっちのことかい。
圭織ちゃんはガバっと顔をあげた。涙でぐちゃぐちゃだけど、もう元気な圭織ちゃん。
「ありがとうね〜梨華〜。じゃさじゃさ、圭織の話、聞いて!」
恢復早いな。でもいいや。聞いてあげようじゃない。
しかし圭織ちゃんに悩みがあるなんて。
「圭織ね、すごく仲良くしてる子がいるじゃない、絵の生徒に」
「ああ、うん。そうだったね…」
なんて子だっけ、圭織ちゃんの生徒。おとなしい子。
圭織ちゃんは、家の一角をそこそこの広さのアトリエにしていて、自分が描く合間に子供に絵を教えてる。そう言ってもほとんど生徒ひとりくらい。月謝とってるかどうかすら怪しいもので。それ以上に、先生・生徒じゃなく友達みたい。いや、それも違う……
- 216 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時54分23秒
- 「でね、あの子には絵が必要だし、圭織のことも必要なわけ」
「うんうん」
「だってさ、あの子のこと、圭織はすっごくよくわかるもん。みんなあの子のこと、わからない、こわいとかっていうけど、あの子の笑った顔、すごくいいんだから」
「確かに圭織ちゃんと一緒だと、なんか違うよね。似た者同士だし」
「お互い、わかるんだよ。いまもあの子、一生懸命やってるもん。圭織は辻のこと、よくわかる」
辻ちゃん…そうだ、辻希美ちゃん。
わたし、ほとんど会ってないから、忘れちゃってた。
- 217 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時55分10秒
- 辻希美ちゃん。今年は春先から会ってないけど、たしか高校一年生になったばかりのはず。とてもかわいらしい子。笑うと八重歯がのぞいて。でもなんか困ったような弱々しい笑い方なんだよね。それが圭織ちゃんと一緒だと、すごく自然に笑ってた。
彼女が圭織ちゃんのところに来るようになったのは、圭織ちゃんが結婚してすぐのこと。だから一年ちょっと前からだ。
わたしがたまたま圭織ちゃんの家に遊びに来てたとき、お母さんといっしょにやってきた。“解禁”したばかりの圭織ちゃんの絵をたまたま市のギャラリーで見た辻ちゃんがすっかり気に入ってしまい、親御さんに頼み込んでやってきたのだそうだ。
- 218 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時55分40秒
- 不思議な子だった。なにか、周囲と距離のある子。自分はまわりと流れがちがうとわかっててあきらめてるような。
でも、不思議だからって、怖いだなんて思わなかった。わたしはなにせ圭織ちゃんの妹やってるから。
辻ちゃんも圭織ちゃんみたいに、すごい勘の働く子で。どこか似た雰囲気。
それでぜんぜん友達もいなくて。まわりに理解されなくて。と、これは最初に辻ちゃんと会ったときの、お母さんの言葉。
「辻にはね、圭織と一緒の時間が必要なんだ。そりゃ圭織はこんなだから、あの子の面倒全部見ることは…できないけど……うん…全部はね……あー、だから言われちゃうんだよなぁ」
わ、また泣きだしたよ。
- 219 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時56分13秒
- 「なに言われたのさ、誰に?」
「梨華には話したことないけど、辻の面倒よく見てる人。圭織は辻の逃げ場になってるだけ、なにもわかってない、迷惑だって。こないだ言われた。思いきり怒られた」
“なにもわかってない”…ああ、さっきわたしのことで急に泣き出したとき言ってたの、これか。それで不安定になってて…あんなに泣いたんだ。
そしていまも、えぐえぐ泣いてる。とことん、泣いてる。
こんなに弱気になってる圭織ちゃん、みたことない。きっとその人に、もっとひどいことを言われたんだ。
誰だか知らないけど、圭織ちゃんをこんなに泣かすなんて、許せない。
- 220 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時56分56秒
- 「で、その人の言う通りかも……って思うところも、あってさ」
「ちょっと、そんなことないよ、圭織ちゃんのアトリエでの辻ちゃんって、本当に安心してるじゃない」
「それなんだけどね…それでいいのかな、って」
「どういうこと?」
「うー……ん」
泣いていた圭織ちゃん、こんどはテーブルにおでこをくっつけて、うんうんうなってる。
知恵熱でそうなくらい考えてるみたいだ。なに?
- 221 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時57分30秒
- しばらくそうして。
煙、出るんじゃないの?
と思ったら。
いきなりガバっと顔をあげた。
「でもやっぱ、いずれ雛は親元を巣立っていくものだよね?」
もう泣きやんでる。
…というかその話、長くなる?
「それならそれでいいんだよね。なのに圭織、それがいやだったんだ、そーかそーか」
「……」
「寝よっか?」
「は?」
「ほら、もうこんな時間だし」
たしかにいつの間にかもう十二時をだいぶ回っている。
なんか、すっきりした顔になってる。なんなんだ、いったい。
ま、話が長くならなくてよかったけど。
- 222 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時58分27秒
- ◆◇◆
歯を磨いて、いつも使わない八畳間に布団をならべて。
電気を消すと、暗闇の中、隣から圭織ちゃんの声が聞こえてきた。
「辻にも妹がいたら、最初から問題なかったんだよなあ」
「え?」
「ほら、辻って一人っ子じゃんか。圭織には梨華がいたからよかったけど、もしいなかったらどうしたろう、って。圭織、もし梨華がいなかったら誰もわかってくれなくて独りぼっちだーって、そう考えたらいまでもすごく恐い。それが、辻、ずっと独りだったんだよね、そりゃ不安だよ。でもようやく……」
圭織ちゃんはまだなにか話してるけど、わたしは考えてしまった。
そうか。
圭織ちゃん、そんな風に感じてたんだ。いつもマイペースでのんびりの変わり者・圭織ちゃん。くらいにしか思ってなかった。だけど間違ってたんだ。
そんなふうに、悩んで、怖がって…いまも…。
- 223 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時58分59秒
- でもねー。
圭織ちゃん、本当に辻ちゃんのこと大事にしてるよね。辻ちゃんもなついてるし。もう、入り込めないわかりあう二人、みたいな。お似合いなんだけど…「辻ちゃんが一人っ子」なんて、圭織ちゃんにとっては辻ちゃんが妹みたいなもんじゃない?
はぁ…なんか、実の妹の立場ないや。
「ごめんね、辻の話ばっかりして」
「ふえ!?」
まただ。なんでこの人はこう察してしまうんだろう。
「きょうは梨華のために来たのに。ほんとごめん…」
「そ、そんな、いいよ圭織ちゃん」
「いや、梨華には絶対にわかっててほしいんだ、圭織にとって梨華がすごく大事だってこと。いまも言ったけど、梨華がいなかったら圭織は独りぼっちなんだ。でも梨華がいたから、これまでもずっと独りじゃなかったんだ。ずーっと、寂しくなかったんだ、梨華のおかげで」
圭織ちゃん………
- 224 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)00時59分39秒
- 「圭織ちゃん、やっぱり寂しかったんだ?」
「え? ああ、ほんとにちっちゃいころ、梨華が生まれるまではね。独りぼっちだもん。周りの人、みんな「違う人」なんだもん。そりゃお父さんもお母さんもやさしかったけど、やっぱ大人だから、どうしても壁あって。妹ができて…梨華が生まれてくれて、本当に嬉しかったよ。梨華はずーっと、圭織の大事な妹。たった一人の妹」
「圭織ちゃん……」
「辻は確かに他にいない子でさ、圭織と同じだ、一緒だと感じられるけど。でも梨華は…うーん…なんていうのかな、一緒じゃなくて、それでもいつも隣りにいてくれる感じなんだ。これ、ものすごく大事なんだ。なによりも大事なんだ」
圭織ちゃんの声、真面目で、でも落ち着いてて柔らかくて。暗い中、届いてくる…。
- 225 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時00分20秒
- 「だからさ、いま、結婚して旦那のこともちろん大好きだけど。姉妹は…梨華は別格なんだから」
「…うん」
胸が詰まった。
わたしもなにか言わなきゃ、伝えなきゃ、と思ったけど、言葉にできなかった。
圭織ちゃん、そんなふうに思ってくれてたんだ。
わたしは「なんだかんだで仲良し姉妹」って思っていたけど。
圭織ちゃんはもっともっと、思ってくれてたんだ。
なのに…わたし、圭織ちゃんのこと勘違いしてて……いままで、妹のくせになにしてたんだろう……話す機会なんていくらでもあったのに、自分の相談ばっかりしてて…なにしてたんだろう、わたし……
「どした梨華? 泣いてるの?」
「…なんでもない」
「寝よう?」
「…ん」
いまはなにも言えないよ…そうだ、あしたせめて、わたしが朝食つくって、圭織ちゃんに食べてもらおう。圭織ちゃんへのせめてものお礼に……
そんなことを考えているうちに、私は眠りに落ちていった。
- 226 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時00分59秒
- ◆◇◆
次の日。
台所から聞こえる物音で目が覚めた。時計を見たらもう七時。
わ、しまった。
朝はわたしが作るつもりだったのに……
「梨華、起きなー」
「わーごめーん」
いそいで着替えると洗面所にむかう。
う、頭いたい…なんだかんだで結構飲んだからな…
鏡を見ると、寝起きを差し引いてもひどい顔。あーあ。
ま、姉妹なんだからいーや。簡単に洗顔だけすませると、台所にいった。
「おはよー! 梨華」
「う…大声出さないで…あ、おはよう、圭織ちゃん…ごめんね、わたしが朝つくるつもりだったのに」
「いーっていーって」
テーブルに並ぶ二人分のご飯、焼き魚、だし巻き玉子、ほうれん草のおひたし…圭織ちゃんはいま、お味噌汁をついでいるところだった。
きのうはすぐ寝ちゃったから……ご飯洗うために、ずいぶん早く起きたんだろうな。朝食つくるつもりだったわたしは、トーストとベーコンとスクランブルエッグと…程度にしか考えてなかった。ほんと頭があがらないよ…。
けどそれより、なんか圭織ちゃん、すごい元気だな。きのうのことがウソみたい。
- 227 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時01分52秒
- 「「いただきまーす」」
圭織ちゃんのご飯は、朝もおいしい。
圭織ちゃん自身、おいしそうにパクパク食べている。
「圭織ちゃん、なんか元気だね」
「うん。元気」
「きのうは辻ちゃんのことすっごく心配してたけど」
「いや、辻のことはもう大丈夫」
「へ?」
「もう、心配しなくなった。不安もなくなった。問題なんて最初からなかった。梨華に聞いてもらったおかげ。ありがとう」
「いや、わたしなにも…」
なにがなんだかわからないけど。その自信に満ちた顔を見てたら、そんな気もしてくる。
この人にはこの人の考えがあるんだろう。
勝手に悩んで勝手に解決。やれやれ。
ま、「ありがとう」って言ってくれるんなら、ね。わたしもすこしは圭織ちゃんの役に立てたってことだ。
- 228 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時02分24秒
- それにしても。
今回は、圭織ちゃんに悩みがあって、わたしは嫌なことがあって。それで昨日(正確には今日だけど)の夜、あんなふうにちゃんと話ができたんだね。二十年近くも姉妹やってたのになんで話せなかったんだーって、布団の中ではすごくせつない気もしたけど…でも、もう、話せたんだよね。
「梨華もなんか元気そうだねー」
「えー…だって圭織ちゃんがいてくれるんだもん」
「わあ、嬉しいこと言ってくれるなあ」
「ほんとだよー」
うん。
本当だ。
- 229 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時03分19秒
- 朝ごはんのあと、わたしが食器を片付け終わると、圭織ちゃんはもうてきぱきと身支度を整えていた。
八時をちょっと回ったくらいなのに。
「もう帰るの?」
「梨華がもう心配ないってわかったから。晩にはお父さんもお母さんも帰ってくるし。だから早めに家に帰って、掃除・洗濯・庭の手入れ・展示会に出す絵の制作」
「展示会って、なんとかいうサークルの? あれ、気分が乗らないからやだって言ってたじゃん」
「やる気になった。朝起きたらなってた」
あ、そうですか。
圭織ちゃんは常にマイペース。
だから、ぱっと現れて、さっと去っていく。
でもって、もう玄関で靴をはいている。まったく。見送りくらいさせなさいって。
わたしもあわててサンダルに足をつっこむ。
- 230 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時03分55秒
- 外に出ると、すっかりお日様が昇っている。
朝もこのくらいの時間になるとジリっと暑い。やっぱり夏だ。
そして、お別れの挨拶。
圭織ちゃんの自動車の前で、ぎゅっと抱き合った。
暑いけど、抱き合った。
「梨華、いつもジタバタして精一杯がんばってるの、圭織はちゃんとわかってるから。圭織はいつでも梨華の味方。忘れないでね」
「圭織ちゃん…」
「かわいくて、いい子で、見てて気持ちよくて面白くて、そんな梨華のこと、圭織は大好きだから」
「………」
また、なにも言えなくなってしまった。
「じゃ、またね。梨華」
「うん、またね。本当にありがとうね、圭織ちゃん」
- 231 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時04分43秒
- お別れをすませて圭織ちゃんはポンコツ自動車に乗り込んだ。ドアをバン、バン!とやってようやく閉める。
そうだ。
もう「またね」って言っちゃったけど。一度お別れすませちゃったけど。
今度こそちゃんと伝えないと。
窓ガラスを開けた運転席に駆け寄って、大きな声で言った。
「姉妹がいてよかったの、圭織ちゃんだけじゃないからね! わたしだって、圭織ちゃんの妹でよかったよ! 圭織ちゃんがお姉ちゃんでよかったよ!……わたしのお姉ちゃんでありがとう、圭織ちゃん!」
これ、きちんと言っておきたかったんだ。
「ありがとー梨華ぁ〜〜」
圭織ちゃんは、泣きそうに……ならずに、心底嬉しそうに笑った。明るく笑った。
そしてさっと敬礼のように手を傾けると、自動車をガヒョヒョンって出した。
なんて気持ちいい笑顔……。
その笑顔見たら、わたしだって、しんみり泣かずに元気な笑顔!
向こうに小さくなってく自動車。
手を振るわたし。
- 232 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時05分32秒
………。
行っちゃった。
またね、圭織ちゃん。
わたしの、お姉ちゃん。
ヘンテコでわけわかんなくて、イラってくるときもあるけれど。
大事な、大好きな、一人だけのお姉ちゃん。
……………
よーし!!
石川梨華、きょうも、“かわいく・いい子に・自分に正直に”いきますか!
無意味にファイティングポーズ。
- 233 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時07分09秒
うん。
今日はすごく、いい日になりそう。いいことありそう。
…いや、そうじゃない。
きっと、いい日にするんだ。絶対、いいことするんだ。
なんたってわたしは、あの『飯田圭織』の妹なのだ!
うー…ん、と顔を上げて伸びをして。
目を開けたら、ああ、吸い込まれそう。
――気持ちにまかせて、その場にかがんで……
思いきり、ジャンプ!
地面を蹴って、青空に飛び込む…ことはできなかったけど。
真っ青な、夏の空。
大きくて、深くて、爽やかで、ドキドキする……
まるで圭織ちゃんみたい、と思った。
- 234 名前:「4. P.S.」 投稿日:2003年07月07日(月)01時07分48秒
「4. P.S.」
−了−
- 235 名前:..... 投稿日:2003年07月07日(月)01時08分30秒
………………
- 236 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月07日(月)01時09分54秒
- いや、なにがびっくりしたって、自分のがあそこで紹介されるなんて思わないじゃん。ochi・地味・初モノの三拍子揃ったこの作品がさ。それもあんなにたくさん。というか全部。
でもって、後先考えずにHN決めてた自分にまたびっくりだよ。
…はい、ぼくは「夏の城」の和泉氏とは赤の他人の小説ビギナーです。つい三日前に思い当たりました。バチ当りもいいところですね。混乱させてしまいごめんなさい。どなたかに怒られたら変えるかもしれません。でも、ま、違う名前ですので…。
あと、紹介してくださったあちらの管理人様、ありがとうございます。
前半で登場人物がいろいろ言ってますが、これはアンチCPを主張するものではありません(ぼくは、CP小説は書けないだけで、読むのは好きです)。二人をいろいろ動かしてるうちに、こんなふうに落ち着いたということで。
今回の主人公のキャラクター、ぼくとしてはとてもお気に入りです。このキャラでいろいろと動かすこともアリかと思いましたが、二人の交流を書きたかったので。
- 237 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月07日(月)01時10分55秒
- >>170名無し読者さん
はじめまして。読んでくださってありがとうございます。大感謝です。
「Echoes」がお気に召しましたか。
あれと較べてしまうと、今回のお話はご期待に応えられなかったかもしれませんが…こういう雰囲気もある世界ということで、お楽しみいただけたらと思います。
>>173名無しさん
ありがとうございます…そのお言葉に救われました。
で、繰り返しになりますが、彼女達の物語そのものは本当に完全なオリジナルです。
「Echoes」を今後ともよろしくお願いします。
- 238 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月07日(月)01時11分36秒
- すっかり気を取り直しました。
ではまた、次週。
- 239 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月10日(木)22時07分28秒
- 自分の中の石川さん像と今回の話しは少しずれていたんですが、作者様が再三仰っていられるドラマとして読むと、なぜだか全てが合致しました。
不思議な事に石川さんが怒った顔、笑った顔、悩んでいる顔が鮮明に映像として自分の脳に映りました。
この話なら安心して石川さんの演技をテレビの前で見る事が出来ます(w
さり気に盛り込んでいるクリスチーヌ剛田等の小ネタも胸を打ちました。
あと、小川高橋の話も勿論大好きです。自分は小川・高橋という二人組みには特別な何か勝手に感じてしまっているほどのマニアです(w
一話目を見た時に自分はこの中篇連作にはまってしまうんだろなーと感じました。あそこに紹介されるのもこんなに面白ければ当然の事なんですが個人的にここのひっそり感が好きだったので少し寂しいです(w
それと残念な事に自分は決して作者様が思っていられる御方では無いと思います。軽々しくこのHNを使った事を自分も反省しています(w
- 240 名前:170 投稿日:2003年07月12日(土)01時21分08秒
- 今回のお話も楽しませて頂きました。
どのお話にも淡々とした独特の雰囲気あり非常に気に入っております。
二作目のEchoesが特に気に入った理由は個人的に入試前に鬱に入っ
てしまい、公園のジョギングコースをひたすら走っていた経験があった
ので吉澤に共感したからです。
何だかプレッシャーをかけているみたいで申し訳ないのですが、
次回も楽しみにしてます。
- 241 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月14日(月)00時14分39秒
- (読者様へのご連絡)
第四話で石川さんが「恋愛は殺人」話が「二年前」と言ってるのは、作者的には「三年前」のつもりでした。二年でも三年でも物語上の不都合はなく、ミスでもなんでもないのですが、直し忘れてたということで。
- 242 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月14日(月)00時15分18秒
- ※ 今回は一度に更新しきれないかもしれないので、先にレスのお礼を。 ※
>>239 名無し娘。さん
あ、やはり人違いでしたか。失礼しました。
丁寧なご感想をありがとうございます。「ochiでひっそり」だとじっくりレスをいただけて嬉しいっす。ぼく自身「ひっそり海の底」が居心地いいし。もちろんあちらに紹介されたのは光栄の極みですが、その一方、見つけてくださった方達にじっくり付き合っていただければそれで…みたいな気持ちも。いずれにせよ、このままずっと「ひっそり」の気配ですね。
第四話は、あんなキャラの石川さんのドラマを見たくて見たくて。飼育では見たことがないキャラなので不安もあったのですが、よかったです。ネタも拾っていただけたし。
第一話についてのお言葉、ありがたいです。すっきり気持ちよく書けたぶん、個人的に愛着があるもので。思い入れでは「Echoes」と同じくらいかも。
頑張りますので、今後ともはまっていただきたく…。
- 243 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月14日(月)00時15分57秒
- >>240 170さん
お楽しみいただけたとのことでほっとしました。ありがとうございます。
「Echoes」の吉澤には、ぼく自身大変思い入れがあります。自分で書いていてどんどん共感が湧いてきましたね。わかる、わかるよその気持ち!…と。明るいラストをつけてあげられて、大喜びしてました。先に書いた事情があるにしても、ぼくにとってはやはり「泳ぐ吉澤」「水の中の二人」の物語しかありえなくて、書き直しなど思いもよらず。あの物語にして良かった、あれしかなかったと思っています。
お話づくりに四苦八苦していて、「雰囲気」と言うのには自分では気がつかないので、嬉しいです
期待していただけると大喜びする作者ですので、今後ともよろしくお願いいたします。
では、今週の更新、深海へGO!
- 244 名前:5. Ask The Mountain 投稿日:2003年07月14日(月)00時16分49秒
「5. Ask The Mountain」
- 245 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時17分31秒
はあ、はあ、はあ…
自分の呼吸がやけによく聞こえる。
どれくらい登ったろう。
腕時計はとっくにしまってしまった。手首がぬるついて気持ち悪いからだ。
もちろんそれほどは登ってないはずだ。だから傾斜もたいしたことがない。しかし。
傾斜は急でもないが、何度も切り返しを登るのは意外にきつい。だいたいリュックが重い。ときおり、地肌から滲み出す水に足をとられそうになる。むきだしの木の根に足を取られる。落葉ですべる。暑さは覚悟していたほどではないが、なにしろ喉が渇く。
じわっと汗ばんでくる身体。長ズボンがまとわりつく。
この子は大丈夫か。
ちらっと前を行く友人を見やる。背中しか見えないが、歩調はしっかりしている。呼吸も規則正しいようだ。
まだ……大丈夫だが。
- 246 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時18分11秒
入る前は、たいしたことない山だと思ってた。そう聞いてもいた。
だけど、あたりまえだけど人間なんかより全然大きいのだ。
降りそそぐようなセミの声。いまはもう拷問だ。
頭上をふさぐ梢を縫う木漏れ日…きれいだと思ってたのだが。
陽射しは、まだまだ午前中。それでも強烈だ。
親友の顔を見られずひたすら背中を追う、というのは結構つらい。
早く休憩したい…が、先導者には一向にその気配はない。
やれやれ、まったく。
そもそもこの登山を決めたときもそうだったけど――
いつも思いにまかせてまっしぐらだよ、あなたは…
…明日香姉ちゃん。
- 247 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時19分23秒
- ◇◆◇◆◇
なんや、小学生みたいな子やな。
これが、その少女とはじめて会ったときの印象だった。
この笑顔。はずかしそうな笑いから覗く八重歯。
自分だって幼顔と言われるけど、ここまでの幼さはない。
背もちっちゃい…いや、これも自分と同じくらいか。
「ほら希美ちゃん、あなたのほうがお姉さんなんだから……」
はい?!
この子が? 自分より年上? てことはもう高校生?
いや、「ノゾミちゃん」というとこれが親から聞いた――
「まあ学年は一緒になるけど。加護さんは早生まれっていうから」
そうそう、学年一緒。確かそう言ってた。
しかしこの子の保護者然としたあなたも無茶無茶、ちっちゃいし。まん丸で、しっかり母さんって感じだけど。
だいたいあなたは、どこのどちらさんで?
「わたし、福田明日香。希美ちゃんのお姉さん代わり、かな」
辻希美、加護亜依、福田明日香。
この三人の少女がはじめて顔を合わせたのは、三月の終わり。まだ肌寒い中にも、春の光がきらめくころだった。
- 248 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時20分25秒
- 加護亜依はこの春、高校生になる。
父親の仕事の都合で、奈良からこのS市に引っ越してきた…といっても、その父親は去年の暮れから一足先にS市暮らしを始めていた。イナカのようでドイナカではないこの街の、かなり開けた界隈。父は以前仕事で訪れてすっかりここS市を居心地よく感じていたようだった。
一方の加護は、母と奈良で暮らして中学三年の残りの時間をこなしつつ、二月に高校受験のため一日だけ父のもとに行って、試験の後また帰って、とせわしない数ヶ月だった。そしてようやく、先日中学の卒業式を終えて、母とともにこちらに落ち着いたばかり。
ご近所への挨拶はもう親がすませていた。自分が高校に入学することももう紹介ずみらしい。ここらには自分くらいの年の子がほとんどいないので、その話はすぐ広まった。
そしていま。
この時期特有の、エアポケットに落ちたような空白の昼間をもてあまして家の外でボーっとしてると、小学生みたいな子を連れた小柄な少女に、こんにちは、と声をかけられたのだった。
- 249 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時21分13秒
- 福田は、家が古本屋をやっている、といった。戦前からしぶとく続いている、正攻法ながら地元の人々からご愛顧いただいている店とのこと。戦前と言えばS市が相当にイナカの農村だった頃だが、それでもここらへんは古書店が成り立つくらいではあったわけだ。意外に暇人が多かったわけだね、とは福田の言。でもって自分は四代目候補として修行中、とちょっぴり誇らしげだ。この春から、加護でも知っている県の有名大学の一年生となるが、それも修行の一環とのこと。地元に愛着のある彼女、大学までわざわざ毎日二時間かけて通うことにしたらしい。
彼女が連れている少女――辻希美はそこによく通ってくる子で、加護のごく近所に住んでいるという。いままで見かけたこともなかったが、挨拶回りをした両親がそのことを話してくれたのを憶えている。ともかく福田は、自分が親しくしている少女の近所に同年代の子が引っ越してくると聞いて、挨拶にやってきたのだそうだ。
それはそれはご苦労なことで。ほんとにこの辻希美の保護者みたい。
でもそれだけのしっかりした芯を感じる。ちょっとやそっとじゃビクともしない、という。
一方のこの子は――
加護はあらためて辻を観察した。
ほほう。
- 250 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時21分54秒
この子は自分を見せないようにしているだけ。そうしないといけないと思っている。
子供のまま、自分の時間をとめている。
しかもそうしなければならないと思わせるだけの、不思議な雰囲気がある。
なにかをもっている。隠している。
- 251 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時22分30秒
おもしろい。
おもしろいぞ、こいつは。
ジロジロ見ていると、辻はなんとも弱々しい笑みを浮かべてきた。
その様子をじっと見ていた福田が、口を開いた。
「近くに公園があるんだけど、行かない?」
「あ、はい」
福田のいう公園は加護も知っていた。自分の近所だから当然だが。
公園といってもごく小さなもので、ベンチのほかは砂場にすべり台に鉄棒くらいしかない。そのうえここら近所には遊び盛りの小さい子はあまりいないし、無為にだべる若者はゼロ。つまりあまり人が来ない。
なにか話があるのだ、というのはすぐにわかった。
- 252 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時23分09秒
- ◆◇◆
住宅街にひっそりとある、木々でぐるりと囲まれた小さな公園。やはり人影はない。
ちょうど日向になっているベンチに、加護と福田は並んで腰掛ける。風雨にさらされた木の感触。座り心地はなかなかだ。
一方、辻はすぐにその場を離れて、植わっている桜の樹に駈けていった。
咲き誇る桜。その太い幹に手のひらをあてて、花の天蓋をじっと見上げている。こちらからは背中しか見えないが、なにを感じているのだろうか…。
「さて。あの子も気をきかせてくれたみたいだし、話そうか」
「はあ…」
座ってすぐ、福田はなんの溜めもなく、ごくあっさりと切りだした。しかし余裕がないとか切羽詰った感じではない。いや、なにか思いつめているようだが、それでも…ごく自然に、最短距離。これが福田のやり方なのだろう。
などと加護がわずかな時間で思考をめぐらせているところ――
「加護さん、あなたに希美ちゃんのお友達になってほしいんだ」
「へ!!?」
「もともとそのつもりで来たんだけど。でも、さっきのあなたの様子を見て確信できた。やっぱり、きょう来てよかった」
- 253 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時23分57秒
- この人はなんか、唐突に話を始めてぐんぐん進める人だなあ。
それにまっすぐこっちを覗き込んで話す。苦手かも。
ほら、いまもますますまっすぐに覗き込んで…
「あなた、さっきちょっと見てすぐに希美ちゃんのこと見抜いてたよね」
「え、あ、あの、うちですか?」
「怒らないでほしいんだけど…あなたも希美ちゃんと同じように自分を隠そうとしてるよね? ただし、あなたは希美ちゃんよりずっと大人…」
「………バレてました?」
「…ごめんなさい」
あっさり見破られてたか。自分では完璧のつもりだったんだけど。
まあいーや。この福田という人をなめていたらしい。たいしたもんじゃないか。この人の観察力、たぶん天性のものだ。それに見抜かれてもなぜか気にならない。人徳というものか。辻希美がこの人になついた理由というのがわかる気がする。
加護は、素直に相手を認めた。
- 254 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時25分16秒
- 福田の言葉は正しかった。まだ高校生にもならない加護は、そこらの大学生なんかよりよほど成熟していたのだ。
その理由は加護の生い立ちにある。加護家は奈良から引っ越してきたが、別に奈良出身というわけではない。元は長野だ。しかし加護がまだ幼いころ静岡に。そして東京、千葉、広島、福岡と冗談のように引っ越して、ようやく奈良。そこで一番長い間、四年間暮らしたが、いままたこのS市にやってきた。
親の仕事半分・趣味半分で幼いうちに頻繁に環境が変わり、また両親共働きのため他人に預けられたりを繰り返すことで、加護は小学校低学年のうちに妙に練れた人格を身につけた。相手が大人でも、些細な心の動きを巧みに察して、当人さえ意識しない心の襞を瞬時に見抜く。常に醒めていて滅多なことでは動じない。大人顔負け、磐石の構えだ。それはある意味、自己防衛のためでもあった。
- 255 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時26分04秒
- そして、それを隠して子供のふりをすることさえもおぼえた。なぜなら、大人みたいな子供は嫌われるから。実際、小学生のころ、大人からそういう目で見られたことが何度もあった。それ以上に同年代の子から嫌われる。子供は自分より人間的に先に進んでいる子供を一番イジメるものだと、小学校三年生にして悟った。加護自身、自分の大人びた性格を鬱陶しく思う時があったから、周りの子の気持ちはわかった。次の学校から、うまくやった。
ただでさえ小柄で童顔な加護が「子供」を演じれば、みなそれを信じた。これまで疑われたことなどない。それをあっさり見抜いた福田は、相当な眼力の持主といえそうだ。
- 256 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時26分54秒
福田は、あいかわらずこちらをまっすぐ見つめている。
小細工なしの正攻法。それがこの人の強さ…福田の心を察する必要もなかった。なにせ、福田には隠すことなどなに一つないみたいだから。あれこれ窺ってしまう自分が恥ずかしくなる。だからこういう人、ちょっと苦手だ。
一方、辻はいま、桜の樹にもたれて、大きく張り出した枝越し、花びらの隙間から覗く青空を見晴るかしている。表情はあどけないのに、そのまま春の空気にとけこんでしまいそうな危うい美しさがあった。見とれてしまいそうになる。
その様子にちらっと目をやって、福田はまたまっすぐに加護の目を見た。
そして、あの子ね…、と話し始めた。
- 257 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時27分50秒
あの子ね…あの子のうちね、おととしのちょうど今くらいに引っ越してきたの。あの子がまだ中一のとき。はじめて会ったのは、うちの店にお客さんとして来たお父さんにくっついてだったんだけど。店番してたわたしと、それが出会い。わたしはお父さんのほうのお相手してたから、あの子自身とはきちんと接することは出来なかったんだけど。ま、それから一人でちょくちょく遊びに来るようになってね。
そのころ、ぜんぜん笑わない子だったよ。いまからは想像もつかないけど。すごい壁つくってた…いや、溝、かな。まあそれでも、わたしになついてくれてるのはわかった。
- 258 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時28分59秒
- で、ほんと言うと、もう会ったときからわたしのほうがあの子をほっとけなくなってた。あの子の…変な言い方だけど、寂しそうな無表情を見て、あの子が抱えてるもの、いままで背負ってきたものが、すごく伝わってきてね。なのに聞いてみると、ちゃんとあの子に向き合ってやれる人がご両親以外にいない。あの子はあの子でそれを受けいれちゃってて。そりゃほっとけないよ。だから、お姉さん気取り。ずーっと、いままで。
そのうちあの子もだんだんと自分を見せてくれるようになっていってね。せいぜいうなずくか首振るくらいだったのが、お話するようになって。笑ってくれるようになって。ますますあの子のこと好きになってった。うん、大好きだよ。この子のためにはなんだってしなくちゃ、って思えたんだ。そうしてやってきた。
- 259 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時29分48秒
- でもね…だんだん考えるようになった。
やっぱりニセお姉さんがいちゃだめだなって。わたしじゃだめだ、って。わたしが頑張りすぎることが、あの子の邪魔をしちゃってた。手取り足とり…あの子が自分で歩かなきゃ意味ないのにね。
最初はそれで仕方なかったと思う。ほかになかった。精一杯やった。それは胸張って言える。でも、いい加減このままじゃいけない。だいたい、あの子ももう高校生。義務教育じゃない。子供のままで止まってるわけにはいかないものね。前に進まなきゃ。そのために必要なのは、並んで歩いてくれる…そう、友達。
そこで、あなたの出番。
あなたはあの子と同い年で、背格好まで同じくらい。同じように一人っ子。同じようによそから越してきた。高校が同じだから一緒にいる時間をとれる。ね? これってすごいよね。で、なにより、あの子のことをわかってやれる。そう、人に見せない、人から隠した内面をもってる。自分の世界をもってる…これはさっき話したよね。他人を察する器と、小さなことに動じない落ち着き。すごく大事。こんな子、あなたしかいない。
だから――ねえ、どうだろう。希美ちゃんとお友達になってくれないかな?
- 260 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時30分56秒
「いいですよ、もちろん」
加護は即答した。
あんなおもしろそうな子と友達になるのは大歓迎だ。まだいろいろと事情はあるんだろうけど、それはだんだん明らかになることだろう。
などと考えていた次の瞬間。
「よかったぁ〜〜」
福田が、いきなりふ抜けた声を出した。
いままでハガネの強さを見せていたのに、顔立ちも一気に幼くなったよう。腰を抜かしてるんじゃないかとさえ思える。
- 261 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時32分03秒
- 「あ、あの、ちょっと、福田さん!?」
「…きょうはね、賭けだったんだ」
「賭け?」
「希美ちゃんのお友達、つくれるかどうかの。あとちょっとで高校はじまっちゃうのに、これを逃したら次はないって、どうしよう、どうしようって思ってた。で、会ってすぐに加護さんが期待通りの人だとわかってもうドッキドキ。そのうえ本当にこっちのお願い聞いてくれて……ああ、泣きそう」
「……」
福田は…本当に目に涙を浮かべていた。さきほどまでの大人びた粘り強さはひっこんでいた。
いや。この人は、辻希美のためにこそ強くなっている。そしていま、辻希美のためにこそ喜び、泣いているんだ。
この人の「正しい強さ」は、暖かい心に裏打ちされていた。
そしてあらためて確信できた。
この人にはウソがない。
ただただ、深くて強い真心がある。
加護は素直に感動した。
- 262 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時32分58秒
- 福田はもう、落ち着きを取り戻してきたようだ。
なら自分はさっそく、むこうで砂掘ってる辻希美のところに挨拶に行くか。
「それじゃ、福田さん――」
「もう「明日香」でいいよ」
「んー、じゃ、明日香姉ちゃん、うちのことは「亜依」で――うち、がんばります」
「うん、おねがいね、亜依ちゃん。わたしたち、仲間だね」
仲間、とはまたマンガみたいなことを言う。いまこうしてあらためて福田を見ると、年下の自分からしても、やはり十代のあどけない顔。この人とも、いい関係になれそうだ。
友達に、仲間。
にぎやかでええやないの。
加護は、にっと笑った。
- 263 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時34分16秒
- 「辻さーん!」
砂場に向かって駈けていく。辻がビックリしたようにこっちを見ている。
「わたし、加護亜依っていいます。辻さんと同じ高校に入るんですけど。友達になろう!」
「えと…は、はい」
はじめて聞いたこの子の言葉がこれ。かわいい声やけど…頼りないな。よし、踏み込んだろ。最初が肝心。
「あのさ、わたし――うちのことは「あいぼん」って呼んで?」
「ええ?」
「そんで辻さんは「のぞみ」だから「のの」な」
「ちょ、ちょっと…」
「でもこれ、うちとののちゃんだけしか使うたらあかんから」
「ちょっと、なになに〜」
助けを求めるように福田を見る辻。勝ち誇ったような加護。
福田はその様子に目を細める。
大した子だ。
あの希美に対していきなりがむしゃらに踏み込んで、心を閉ざされてない。いや、自分のペースに引き込みさえしてる。興味をもたせてる。
やっぱり、わたしの眼は正しかった。
そうなんだ。希美に必要なのは、あの子のような友達。わたしなんかじゃない。そして「あの人」でもない――
- 264 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時35分06秒
- ◇◆◇◆◇
「ここでちょっと休もう」
先頭をゆく福田が、ようやく足を止めた。心底ほっとした顔の、残る二人。ここまで、福田が先頭で道を確かめ、真ん中に辻を置き、加護がしんがりという当然の配置で黙々と歩いてきた。
福田は二人の表情を確かめる。
ちょっとバテかけてるか。あまり長く休ませないほうがいいかもしれない。
常に一定のリズムを保って登ってきたが、ハイペースできたわけではない。かなりじっくりと山道を味わいながらだった。それでも確かに、立ち止まっての休憩は一度も取らなかった。二人には少しきつかったろう。
まだ正午は回ってない。頂上まで――どれくらいだろう。はっきりいって、わからない。二人の子供の調子次第なのだが。距離的にはそれほどでもないはず。もっとも、大事なのは頂上に立つことじゃない――
- 265 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時36分01秒
傾斜が比較的緩やかな山腹。
なにか作業をしたあとだろうか、樹と下草が切り払われて、山道がそのまま膨らんだようにそこそこのスペースとなっている。進行方向左手は下り斜面。右手は山の横っ腹からでっかい岩が露出していて、よじのぼることもできそうだ。
三人、思い思いに腰をおろす。辻と加護はそのまま並んで座り、福田は二人よりちょっとうえにいい平面を見つけた。
三人とも登りはじめから上半身は半袖Tシャツと、汗拭き用にタオルを首にかけているだけ。でも、虫除けはばっちりだし、この気温だから身体を冷やしてしまう心配はない。それにリュックの中には予備のタオルと長袖シャツも用意してある。
「あんまりお茶飲みすぎちゃだめだからね。含んで、口の中でゆっくりまわすの」
「「はーい」」
- 266 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時36分38秒
足をのばして休める三人。
そして前に広がる、パノラマ――
梢が払われて、額縁のようにぽっかりと穴が開いていた。
「「うひゃあ!」」
「こりゃーいいや」
二人の歓声と、一人の嘆声。
ここからは辻と加護の後頭部しか見ることはできないが、ふたりがぽけっとしてるだろうことは想像がつく。二人とも運動靴と靴下を脱いで足を伸ばしたまま、止まっている。
うん、こんなふうにみえるんだよね、うちの町。
太陽。空。雲。畑に田んぼに、家に、道路に線路、広がって。
金と青と白と緑と褐色と灰色のお祭り気分。
梢が縁取る窓のなか、トンビが一羽、右から左にすいーっと滑っていった。
- 267 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時37分46秒
カジカ山、とここらの人間は呼んでいる。
標高1230m。高さはそれなりだが、特に険しいわけでもない。まあ、そこそこの山。
市の中心部から離れたところにでんと腰をすえて広がるこの山は、そこそこだからこそ市の人間に親しまれている。意外に学校の行事ごとからはあっさりシカトされてるが、それも馴染みゆえのこと、だ。
そしてこうやって、子供が夏休みに入ってすぐに、朝から自動車で麓まで乗りつけて、えっちらおっちら歩いてくる人間もいる。
- 268 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時38分37秒
- ◆◇◆
『カシャッ』
と、まずは目の前の風景を写真におさめる福田。
カメラは普通の銀塩式だ。家にはデジカメもあるが、シャッターのタイミングが一瞬ずれるところが好きになれずほとんど使っていない。
「二人ともこっち向いて」
「ん?…ああ、ほら、のの、並んで写ろ」
『カシャッ』
二人の高校生が、町の遠景をバックに肩を組んでVサインの図。一人はニコニコ、一人はエッヘン。
「今度は明日香ちゃんを撮ったげる!」
「うん、ありがと」
『カシャッ』
草木の繁る山肌を背に、大きな岩に腰掛けた大学一年生。穏やかで力強い笑みをたたえている。
「よし、んじゃ次、ののと明日香姉ちゃん、並んで」
「はいはい」
結局それから辻や加護がはしゃぐままに、福田と加護、各自一人、三人勢ぞろい、あっちの大木、こっちの岩などパチパチ撮っていった。
- 269 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時39分27秒
- 登っている間は全くカメラを使わなかった。山に入る直前に数枚、入ってすぐにまた少し撮ってからしまい込んでいた。福田自身が「記念に写真で残す」ということをあまり考えない人間だということもあるが、辻にできるだけ、今いる山そのものを感じてほしかったからだ。空気を吸い、においをかぎ、目に焼き付け、耳を澄まし、手に足に感じてほしい。自分と加護も一緒だ。
そして、そうであっても/そうだからこそ、カメラを持ってきた。
今日の登山が、三人にとって大切な思い出になるはずだから。
- 270 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時40分51秒
- ◆◇◆
辻が岩の上にはだしで立ち上がって、背伸びしている。
「あれ、希美の学校? 希美のうち見えるかな」
「見えるわけないやろ…その前に「希美」やのうて「のの」!」
「いいんだよあいぼん。明日香ちゃんもいるんだから。ね? 明日香ちゃん」
「もーどう思う? 明日香姉ちゃん」
二人に下から振り返られて、福田は苦笑する。まったく仲のいいことだ。
「うーん…とね、希美ちゃんもさ、ほんと自然に「あいぼん」て言うようになったよね」
「あ、そうそう、それはうちも思う。な、のの」
「だってあいぼんて呼ばないと返事してくれなかったじゃん」
「はは、あいぼんに意地悪されて、ののちゃんも大変だったわけだ」
わざと言ってみる。
- 271 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時41分39秒
- 「だー、もう! 「あいぼん」も「のの」も使うていいのはうちとののの二人だけ!」
「おーよしよし、ののが慰めてあげますよー、あいぼん」
「う、むっちゃばかにされてるみたい」
じゃれあう二人。
わざと拗ねてみせる加護と――心底のびのびしている辻。
本当によくここまでになったものだ。それもやはり加護のおかげ。
だが、まだだ。まだ辻の表情は弱い。
きょうこそが、重要な日になるはず。
一口二口お茶をふくんで水筒をリュックにしまう。
「さ、もうすぐ出発だよ」
- 272 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時42分25秒
- ◆◇◆
自分の隣で親友が、足の裏についたコケやら木の葉やらをぺんぺんと払って靴下と靴を履きなおしている。見ているこっちに気がつくとニコニコ笑いかけてくる。
ありがとう。
まだまだはっきりしない笑顔だけど。最初は本当に弱っちい笑い方しかしてくれなかった。
「あいぼんどうしたの?」
「んー? のの、楽しそうやな思うて」
「だって気持ちいいもん。やっぱり山は空気が違うよね。こっち引越してからずっと登ったことなかったけど、来てよかった。それに明日香ちゃんとあいぼんが一緒だし。いつもここ見てて…みんなで来れたらって思ってたのかも」
- 273 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時43分04秒
そういってくれるんだ。自分も福田も報われる。
もっとも自分だって、辻のことを離れても今回の登山は楽しんでいる。まわりに繁る、細い樹・でっかい樹。土と落葉のしめったにおい。岩肌の手触り。充満する、いのちの気配。
なんていうのか、自分が、自分をつつむ大きなものの一部になってしまったみたいな、不安と安らぎ。辻がよく、空のかなたを懐かしげに見つめている理由が、ほんのちょっぴりわかりかける…気がする。あくまで気がするだけだが。
この登山を福田から提案されたときは、ずいぶんと唐突、というかはっきり言って意味がわからなかったけど。辻の表情を見ていると、なるほどと納得する。
「ののはこの感じが好きなんやもんな」
「うん」
省略だらけの言葉に、あっさりちゃんと返してくる。最初のころは驚かされたものだ。じきに慣れた…というか、そんなことばかりだった。この子は。
水筒をリュックにしまうと、あらためてタオルで顔を拭く。
「ののはもう準備おっけー」
「明日香姉ちゃん、もう大丈夫。行けるでー」
さあ、行こうか。
そしてすべて片付けるんだ。
- 274 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時43分58秒
- ◇◆◇◆◇
出会ってから高校が始まるまでの短いあいだ、加護はほとんど日をおかずに幾度も辻のもとを訪れた。辻は最初、福田も含めた三人で遊びたがったが、福田のほうは色々と理由をつけて、できるだけ加護と辻の二人だけになるようにしていたのだった。
はじめは、自分は引っ越してきたばかりだからと半ば無理やり町の案内をしてもらったが、あまり外で遊ばない辻は町案内もすぐにネタ切れになってしまった。二人はもっぱら辻の部屋で遊ぶようになった。部屋は意外に女の子らしく散らかっており、恥ずかしそうにする辻を見て、加護はなんだか嬉しくなった。
辻の両親の喜びようはたいそうなものだった。それだけに、いままで辻には本当に友達がいなかったのだということを実感させられた。最初はとまどいが先にたっていた辻も、徐々に笑って迎えてくれるようになった。
- 275 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時44分49秒
- 辻の「友達」になってすぐ、加護は辻の変わったところに気付かされた。
なにしろ「勘」がいい。そうしょっちゅうではないが、「なんかそんな気がする」で先のことを見通すようなときがある。人の気持ちでも、知らない場所の道でも、失くした物のありかでも。
もちろん「超能力」なんて馬鹿馬鹿しいものではない。ただ、世間一般人とは違った回路でものごとをとらえた結果、世間一般人とは違った側面に…ある種の「感じ」にたどりついてしまう。そういうことみたいだ。ひどく大袈裟に言えば、一種の「天才」というやつなのかもしれない。そのくせ、ほかのところで抜け放題に抜けているのが、ますます不思議。
そして…その「回路」が他人とちがうということを自分でわかっていて、それがこの子を孤独にしている。わかりあえないならしかたない、というあきらめ。
その「しかたない」の重さを想像して、加護はぞっとした。この子は十数年、たった一人だったのだ。まわりの人間とはものの感じ方が違いすぎることに、ごく小さいころから勘付いていたに違いない。大勢の人に囲まれても、野菜畑の中にでもいるような感じがするのかもしれない。それが十数年!
- 276 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時46分04秒
- 加護はくやしかった。辻に本当に惹かれていたから。
はじめは確かに、変わった子への好奇心と、福田の誠実さにうたれてのことだった。しかし辻と接するうちに、ぐんぐんと気持ちが本物になっていった。“友情”ってやつなのだと思った。
福田が見抜いたとおり、加護も複雑な内面を隠している。隠すためにわざとオープンに見せかけている。だから辻とは一見正反対なのだが、辻はちゃんと加護のことをわかってくれているようだった。それで加護を近づけてくれたのだ。加護にとって、同い年でこんなふうに「わかりあえる」と思えた友達は初めてだった。我ながら鬱陶しい“オトナ”の自分を鬱陶しく思わないでつきあえた。
- 277 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時46分46秒
- あのとき公園で、とっさにでっちあげた自分達の呼び名――いま、自分にとってとても大切なものとなっていた。あまりにふざけた語感に辻はまだ慣れないようだが、それでも使ってくれる。というか「あいぼん」と呼ばないと返事をしないと決めた。賭けだったが、ぎこちないながらも「あいぼん」と呼んでくれるようになったし、こっちの「のの」に応えてくれる。絆を感じられた。
ところが、どんなに近づいても、どんなに絆を確かめても、辻は「天才」で、近づくほどに溝を感じてしまう。くやしかった。
なによりくやしいのは、辻が、加護に対して「理解できないだろうけどごめんね」といったふうな申し訳なさそうな表情をすることだった。
だから福田から「あの人」の話を聞いたとき、加護は猛然と燃えた。
- 278 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時47分25秒
- そもそものきっかけは辻の部屋でのことだ。
相変わらずズボラ全開で散らかった辻の部屋で、いつものようになにをして遊ぶともなくおしゃべりしていた。おしゃべりといっても話すのは八割がた加護のほうで、自分が今まで住んだ土地のこと、学校のことなどをとにかく話す。辻のほうは、あまり話したがらない。聞き役になる。
その聞き役の辻に対して、加護が辻の「習い事」の話を向けたのだ。
たまたま前日、辻の母親が加護にうっかり――本当に「うっかり」という感じだった――「習い事」に通っていることを漏らしていた。なんの習い事かまでは言わず、その代わりにばつが悪そうな顔をして、これ、本当は内緒だから、と言った。
自分に一言も話さず、両親にも口止めしていたらしいことが面白くなくて、辻に対して少しきつい聞き方になってしまった。
その途端に辻は、はじめて出会ったときの曖昧な笑顔になった。加護は、自分が聞く相手を間違えていたことに気づいた。
その場は適当に流して、後日、聞くべき相手のもとに向かった。
- 279 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時48分11秒
- ◆◇◆
「ごめんね、そのことは早く話さなきゃ、って思ってたんだけど。本当に大事なことだから、亜依ちゃんが希美ちゃんとしっかり親しくなってからにするべきだってタイミング計ってたら…」
加護は福田の部屋に来ていた。
南窓から昼の陽射しがさしこむ、時代のついた六畳間。
ジュースとお菓子が乗った小さなテーブルを前に、二人は脚を崩して座っていた。
来るのは三回目になるか。福田らしく、無駄なものがほとんどないながら、なにやら趣味の良さげな小物が三つ四つ置かれてる。西側の壁には大きなワイヤーラックがずらりと並ぶ。新旧・和漢洋入り混じった本やら大判の画集やら楽譜やらがぎっしりで、さすが長く続いた古本屋の四代目候補。畳に直置きされたノートパソコンがどうにも場違いに感じられるが、それでも部屋全体に品のよさが感じられる。
- 280 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時49分25秒
- そういえばはじめてここに来たとき、福田は嬉しそうに自分の家のことを色々話してくれた。
戦前からやっている落ち着いた古本屋。イナカでありながら、東京を始めとした大都市とつながりをもち、いわゆる草の根知識人たちの拠点になっていたとか。特高に目をつけられていたとかいないとか。それが戦後、農村近代化の際にも素晴らしい働きをしたらしい。
『ほら、知識って現実を変えられるものだから』と言った福田のまぶしい表情。
確かに、この古書店を知的一拠点としてS市における農業機械化・婦人解放・各種因習打破といった動きが展開され、その中心人物が市の…いや県の名士にまでなったというから本物だ。
福田の、なんというか「筋の良さ」は、きっとその歴史の上にある。やはり「生まれ」とか「育ち」ってあるんだ、と加護は思う。そう言っても福田はあまり喜ばないだろうが。
- 281 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時50分19秒
- その福田だから、いま自分より年下の少女に向けた「ごめんね」も、本当にまっすぐな「ごめんね」だった。
もっとも、加護には別に福田個人への不満などない。福田がこそこそと隠し事をするような卑怯な人間ではないということは、最初に会ったときにわかっていることだ。ただ、一体なにがどうなっているのか、きちんと知っておかなくてはならない。
- 282 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時51分53秒
- 「希美ちゃん、去年の六月から絵を習ってるんだけど…」
「絵を…でもなんでそれがあんなに秘密にするようなことなんです?」
「その習ってる先生というのがね…その、なんていうか、希美ちゃんにとってすごく大事な人なんだ」
「うちにも言えないくらい?」
「うー…ん。亜依ちゃんだからこそ、かな……はじめて会ったときに話したよね、ここに来たばかりの希美ちゃん、ぜんぜん笑わなかったって。すごい壁つくってたって。わたしと遊ぶようになってからずいぶんと硬さがとれてきてはいたんだけど…本当に変わったのって、その絵の先生に会ってからなんだ」
「あの子を変えた…」
そんな話し、ほんの少しも聞いたことがない。
「で、その人、わたしたちの「敵」なんだ」
「はあ!?」
いきなり話がぶっとんでる。なんなんだ。
しかし福田の目は真剣そのものだった。
福田は、ちょっと待ってて、というとラックからごそごそと何か探し始めた。
取り出したのは、何枚かの画用紙だった。なにか絵が描いてある。
福田は、すべて希美が描いて自分にくれたものだ、といった。
- 283 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時53分08秒
- 「あの子、最初から絵には興味があって。わたしもよくつきあってた。で、まずこのスケッチね、あの子がここに来たばかりのころの。見たありのままを描いてみよう、てことで描いたやつなんだけど」
「…!!」
手渡されたそれを見て、加護は息を飲んだ。
くたびれたスニーカーのスケッチ。
それは間違いなく……「見たありのまま」としかいいようのないものだった。
非常に精密に、たしかな腕で描かれていた…が、それはあまりにも「ありのまま」すぎた。描いた者の思いなど一切感じられない。荒涼としたなどという表現すら感傷的に思える。冷たいとか寂しいとかなんてものじゃない。凄まじいまでの――空虚。
いったいなんだってこんな絵を描いてしまえるんだ!? こんな絵を見たら、誰だって描き手の心配をしてしまうだろう。
「それ見たときね、こんなこと言っちゃいけないんだけど…正直、ぞっとした」
福田は噛み締めるように言った。しかしその気持ちは加護にもわかる。あのののにこんな絵を描く時期があったのか。
- 284 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時54分13秒
- 「ところが、これが去年の七月。「先生」に絵を習うようになってすぐ。静物を見ながら思うように描いてって」
同心円状に色彩をくゆらせ座禅する宇宙の中で大爆笑の百面鯛焼き――いや、なにこれ?
「それ、赤べこ…あの民芸品ね、あれ。いや、あの子にはそう見えてる、とかそんな恐ろしい話じゃないよ? 突飛な連想して描く子なんていくらもいるし。まあそこまでぶっとんで描けるのもすごいけど。ただ大事なのは、それ…すごく楽しそうじゃない?」
「あ…」
「ちゃんとあの子の気持ちが出てる」
「前進した、と。「先生」のお蔭で」
しかし福田は顔をしかめた。
「こっちは十月。自由に人の顔を描くっていう」
きれいな女の人。のののお母さん、じゃない。親戚? 違うだろうな。友達…は、いない。なら……まったくの空想? よくわからないけれど、すごく幸せで落ち着いた雰囲気じゃないか。正面むいて静かに目を閉じた女性が、花びらにかこまれて。
- 285 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時55分13秒
- 「これ、なにが悪いんです?」
「うん…次はこれ、先月はじめ。ごく最近のだね。それもお題は人物画。全身ね」
また同じ人だ。腰まで長く伸びた髪…スタイルいいなあ。森の中で花や果物がまわりをかこんで。このなかに世界が完成されている。うん、さっきの絵より数段完成されていて。これもやっぱり幸せな絵、だけど…。
「どう?」
「はい…うーん。いや、やっぱりこれはこれで、幸せいっぱい、と」
福田はなぜか苛立たしげに言った。
「わたしは素直に喜べないんだ。あの子が小さな世界に固まってるとしか思えない」
「え?」
「どっちの絵も、同じ人物のまわりを花とかで埋め尽くして。ほかの人の視線が入っていけない感じ。モデルに同じ人物を選んでるところからして、もう自分の好きな一つのところにとどまって、進むのをやめちゃってる。最後のなんてどうしようもない」
「???」
- 286 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時56分06秒
- 加護は混乱した。福田の話にはわからないことが多すぎた。彼女の中では一貫しているのだろうが、予備知識をもらわないとなにを言ってるのかさっぱりわからない。
いやまて。ということは。
「あ、この人が…」
「うんそう。その人が「絵の先生」。飯田圭織さん、っていうんだけど…いま希美ちゃんが、たぶん一番心を許してる人」
「心を許す!?」
加護は一瞬頭に血が昇った。「一番」というところにカチンときた。自分が辻と友達になって日が浅いうえ、正直溝を感じるときがあるのを、はっきり指摘されたようで。しかしその自分に「辻の友達になってほしい」と言ってきた福田が、どういうつもりなのか。
加護の表情が強張ったのを見て、福田があわてて付け加えた。
「勘違いしないで、わたしはそれがいいって言ってるんじゃないよ。というか良くないと思ってる。さっき言ったよね、「敵」だって」
「あ、はい」
そういやそんなこと言ってたっけ。
でもどういう意味?
- 287 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時56分50秒
- 「希美ちゃんが飯田さんになついてるのはね、二人が似たもの同士だからなの。つまり同類」
「同類、ですか」
「そのうち機会を見て亜依ちゃんにも会ってもらおうと思ってるけど。会えばわかるよ。抜けてるのに妙に勘が良くて、まわりと違う雰囲気をもってる」
「ああ、そのまんまやないですか」
ののが二人。なんか妙な気がした。
- 288 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時57分37秒
- 「きっかけは、ご両親が希美ちゃんを市のギャラリーに連れて行って、そこで飯田さんの絵を見て。飯田さん、それまで仲間内で評価されてたのに、一切公表したことがなかったらしくて、だから希美ちゃんが目にする機会もなかったんだけど…ともかく、絵を一目見て夢中になっちゃったあの子を、お母さんが飯田さんところに連れて行ったんだって」
ここでいったん、福田は言葉を切ると、数秒ためらうようにしてまた話し出した。
「わたし「姉」として気になって、飯田さんのアトリエに「授業参観」したことあるんけどね…びっくりしたよ。二人が似てるのにも驚いたけど、希美ちゃんの笑顔…自分は今までなにしてきたんだろう、自分ってなんだったんだろうって、情けなくなるやら飯田さんに妬けちゃうやら…あれ、なに言ってんだろ?」
- 289 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時58分26秒
- いや、無理もない。
辻に対する福田の思いやりの強さを加護はよくわかっている。福田本人は言いたがらないが、辻の両親から聞いた。自分の高校生活の一方で、勉強をきちんと見てやり、辻の中学の担任を味方につけて教室であまり孤立しないようにし、いじめのようなことがあれば職員室に乗り込み、一人でいがちな辻をよく外に連れ出してやり…ほとんど姉同然、母親同然だったという。辻の実の母親が感嘆してるくらいだ。
今年入学する高校にしても、のびのびした校風から福田が辻の両親にすすめたもので、辻の受験勉強を見てやりもしたらしい。
辻が引っ越してきたときから、そうしてひたむきにやってきたのだ。あとから来た「他人」にあっさり辻と分かり合われてしまえば、打ちのめされるように感じたとしても当然だ。
しかも、そのうえ――
- 290 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)00時59分52秒
- 「わたし、去年、ちょうど希美ちゃんが飯田さんのとこに通うようになる頃から、あの子と会う時間をそれまでほどは取れなくなってた。その間にこの絵が描かれてったわけなんだけど…自分の受験の準備が本当に忙しくなってて…言い訳でしかないけどね。第一、ほかに道はなかったもの」
最後の言葉はいかにも福田らしい。後悔はしてないし、納得してることが伝わってくる。
それでもやはり…苦い表情だった。
自分が辻との時間を充分に取れない間に、辻がどんどん変わっていった。割り切れないものが残るはずだ。
ただ、福田の苛立ちには筋の通った根拠もあるようだ。「同類」がどうこう言っていたが……
- 291 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)01時01分07秒
- 「うん。同類と一緒は良くないっていうのはわかるでしょう? 問題があれば解決しないといけない。そのとき、自分と同じ中身の人に相談してもなんにもならない。クラスのみんながわからない問題については、クラスメートより先生に相談するよね。そういうこと」
「それで飯田さんは敵だと――ののが心を許しすぎるから良くない、と」
「わたしも最初はそんなこと考えなかった。なにせあの人のおかげでそりゃもう変わったんだから。でも、そこから先にすすまなきゃいけないのに、だんだん袋小路に入っていった。わたしが気がついたのは、ようやく自分のほうが片付いた今年の二月に入ってからなんだけどね…」
ここでまたも福田は複雑な表情になったが、加護は一人納得していた。
なるほど、それでか。たしかに、辻は出会ってからごくわずかの間でかなり心を見せてくれるようになった。しかしある点から足踏みしている。辻がそれを望んでたからだ。
でも福田の言うとおり、いつまでも止まっているわけには行かないのだ。時間はすすんでいくのだから。
- 292 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)01時08分24秒
- 福田は福田で話を続けている。
「…ま、そうは言っても、去年のうちからなんとなく様子が変だと思い始めてはいたけど。うん、本当にはっきり気がついたのは今年に入ってから。それでも飯田さんのところにいってほしくないからって、わたしが希美ちゃんを止めることはできないんだ。こっちがあの子をふり向かせる努力をして、あの子自身が決めないと意味がない」
それはそうだろう。福田の願いは、辻が人格的に大人になってひとり立ちすることだ。
- 293 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)01時09分17秒
- 「四枚目に見せた絵を描いたころ…希美ちゃん、高校入学っていう環境の変化を控えてすごく微妙になって。すごく心を開きはじめたのと、飯田さんただ一人への依存心とが、ぎりぎりでバランス保ってるみたいなね。へたするとほかのものごとになんの関心も示さなくなりそうで……そこにあなたが現れてくれたわけ」
「話はわかりました。ただ、のののご両親はどうなんです? 飯田さんのことどう思うて…」
「もう信頼するだけ。愛娘が心を開ける人だって。何度かそれとなく話してはいるんだけどね…はっきり言って期待できない」
「結局、うちら二人がやるしかない、と」
「そう。わたしたち二人がね」
福田との話が一区切りついたとき、外は薄暗くなりかかっていた。
一方、加護の心はギラギラしてきていた。
なんとかしないといけない。
加護は燃えた。
やってやる。
自分と福田、二人でぶち破ってやる。
「そのうち二人で飯田さんに会おう。しばらく時間がかかるかもしれないけど」
「お願いします。うちはこれからもどんどんののと距離つめますから」
- 294 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)01時10分18秒
- ◇◆◇◆◇
まわりは細い木ばかりになっていた。てことは頂上が近い。
ときおり後ろをふり返ると、もう視界を緑にふさがれることはほとんどなくなっていた。
さっき休んだときの眺め以上に広がりを見せる、自分たちの町。
頂上からの景色はさらに見事だろう。
でも大事なのはそんなんじゃない。
自分の目の前の親友は、登り始めたときとはっきり違う。
まるで人が変わったように――
不安などないようにぐんぐん進む。
そうとも。
あんたの目の前には、誰よりも信頼できる仲間がいる。
あんたのうしろには、この世で一番の親友がいる。
どっちも最高のやつだよ?
そしてその二人が惚れこんでるあんた。
この三人に、不安などあるものか。
- 295 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月14日(月)01時11分00秒
- ◆◇◆
かなり傾斜がきつくなってきた。
もうじき頂上ということか。
さきほどから道はめっきり細くなってはいた。もう道というより階段・梯子のよう。剥き出しになった木の根に足をかけて、体を押し上げる。
石を踏み台にするときは細心の注意を払う。自分に続く二人が乗っても大丈夫か。木の枝を手がかりにするときも同じだ。なにせ、二人とも体重は自分よりある。
傾斜と、不安定な足場。足首にかかる負荷もかなりのものだ。
だから二人の先導こそ、自分のつとめ。
深い溝を挟んででも、自分を信じて微笑んでくれた、大切な「妹」。
自分の気持ちに見事に応えてくれた、年下ながら頼もしい仲間。
この子たちのために、自分は歩く。
さて、それもそろそろ――
「もうすぐだよ!」
ふり返って声をかけた。
- 296 名前:....... 投稿日:2003年07月14日(月)01時12分26秒
……………
- 297 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月14日(月)01時13分05秒
(ごめんなさい。ここで切ります。途中ですが、もしよろしかったらご感想など頂きたく…)
- 298 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月14日(月)01時13分52秒
次週、後半。
- 299 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月16日(水)15時25分37秒
- そうか、カジカ山で今更気付いたけど、これは一つの舞台で話されている物語だったのか。1レス目を疎かにしてはいけませんね(w
こういう作者さんの意図を感じる話を読むと嬉しくなります。話によって一人称などの使い分けを考えていられるのも嬉しくなります。
自分は実は、市井さんや石川さん、市井さんや吉澤さんらが、いきなり親しくしている話を読むのが苦手な人間です。
リアル・アンリアルをジャンルで分けるのならリアルが圧倒的に好きな人間です。しかし、アンリアルでも、現実のモーニング娘。との糸が繋がっている話を読むのは大好きです。ジャンルだけリアルで糸が見えない話も多々あると思います。
その中でこの物語達は、娘。との糸が色濃く見える話だと思います。糸の繋がり方は人様々ですが、自分の娘。との繋がり方と作者さんと娘。との繋がり方が比較的近いので楽しんで読めるのだと思います。
Ask The Mountainを読んでの自分なりの答えは少し出ているのですが、途中で口を挟むのも野暮なので終わりを待たせてからまた長々と語らせて頂きます。
- 300 名前:名無し読者 投稿日:2003年07月18日(金)01時28分31秒
- 今回のお話はいつもよりサクサク読めました。
読み終わると『もう終わり?途中なのに… こんなに引き込んでおいて…』
などと贅沢な不満を抱いてしまいました。
『もしかして今回って更新量少ないの?』と邪推し、今回と他の回のレス数を
数えて比べるという愚行の後に、そうではないことにようやく気づきました。
登山のシーンと他のシーンの切り替えのタイミングが良いので、
速いテンポで読めて短く感じたのだと思います。
次回が待ち遠しいです。
- 301 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時18分19秒
- (承前)
- 302 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時19分13秒
- ◇◆◇◆◇
高校が始まってみると、やはり辻と同じクラスというわけにはいかなかった。もとより加護もそこまで期待していたわけではない。事前に考えていた通りに動くだけだ。
一緒に登校し、下校も時間割が合う限り一緒にする。辻にあわせて自分も部活に入らない。休み時間はできるだけ辻のクラスに行く。とにかく学校でも辻に近づく。
辻と自分が近づきすぎて、周りから浮き上がっては意味がないのかもしれない。お互いにかけがえのない友人同士ではあっても、二人それぞれが、こだわりなく周囲の人間と付き合わないといけないのだろう、理想をいえば。
しかし福田は言っていた、物事には順序がある、と。福田だって、辻のために手取り足取りして、だんだんと心を開かせて、そのうえで次の段階のために加護に託したのだ。
だからいまは、とにかく自分が辻に踏み込む。
加護は、おおげさでなく、一生付き合う覚悟を決めていた。友達づきあいに「覚悟」など不自然かもしれない。しかし辻との交友には必要だと、加護は察していた。
- 303 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時20分24秒
- はじめての休み時間、教室の辻に声をかける前に、出入り口から様子を窺ったときのことを、加護は忘れられない。
教室の後ろの扉から対角線上、最前列の窓際に座ったその姿…
自分が知っている辻じゃなかった。
二人だけのときと較べて、格段に幼い雰囲気。はじめて会ったときの印象のままというか、辻の周囲だけ違う空気と時間がたちこめているよう。周囲の生徒との間になにか――目に見えない壁があるようだった。ほかの生徒達もそれを感じて戸惑っている。辻はというと、まわりのことにまるで無関心みたい。窓から見える、なんとかいう山をじっと眺めている。
わかりかけてきた、と加護は思った。
なぜいまの辻が「よくない」のか。溝を感じてしまう悔しさだけじゃなく、なにが「問題」なのか。福田の言う意味が実感できかけている――
そのとき、ふいに辻がまっすぐこっちに目を合わせ、にこっと笑って手をふってきた。
この二週間ちょっとで何度か経験済みのことだから、驚きはしない。それを機会にずかずかと教室に入り込んで、空いていた辻の隣りの席に腰をおろした。
- 304 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時21分09秒
- 「よ、調子どう?…のの」
内心、おっかなびっくりだった。学校での「のの」を辻は嫌がらないか。だからって自分から辻を裏切るように呼び方を変えられない。思い切って言ってみたが、口調が標準語になってしまっていた。
「大丈夫だよ…ありがと。あいぼん」
「…! お、おう、そらよかったわ」
今度は驚いた。
ぎこちないながらも「あいぼん」と言ってくれたことだけではない。辻の口調から、いまの返事が“「のの」で大丈夫だ”の意味だとわかったから。自己嫌悪に陥るほどややこしいこちらの気遣いをあっさり見通して、ごく普通に返してくれた。“それで大丈夫、ありがとう”と言ってくれたのだ、この子は。
「おーい、あいぼん」
「ん…」
その「勘」の良さ、その「回路」…理解はできないけど。
自分はやっぱりこの子が好きだ、涙が出るほど大好きだ、と加護は思った。
そしてだからこそ、ついさっき教室の外から目にした姿が頭から離れなかった。
- 305 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時21分57秒
- そして加護は、福田の部屋で決意したことがなんなのか…自分と福田がぶち破らなければならないものがなんなのか、実感できたのだった。
辻は「人と違う回路」を持ってしまっている。その孤独感から自分の時間を止めて子供の殻をつくり、とじこもっている。問題はやはりここだ。
前までは、辻の「はずれたところ」に目がいきがちだった。自分がどうしても埋められない、越えられない溝がもどかしかった。しかしそれはいい。それが自分が惹かれた辻なのだ。
理解しきれないことを認める。引き受ける。
その上で隣りにいる。
それが、自分が辻と共にあるということだ。
それでも…殻を作られては、先に進めない。
普段の辻が、周囲への関心がずいぶん薄いことがわかった。いま辻に相当踏み込んでいるはずの自分でさえ、きっとその殻に阻まれている。
人と違うというのと大人になるのとは別のことだ、と加護は思う。辻は確かに人と違うけど、彼女なりに成長できるはずなのだ。それはきっと、外の世界に関心を持つということ。ならばまずは、もっとこっちに目を向けさせなきゃいけない。
そう、「飯田圭織」よりもこっちに――
- 306 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時22分39秒
- ◆◇◆
加護の決意とは別に、「飯田圭織」に会えないまま時間だけが過ぎていった。
加護から聞くことはできないし、辻もなにも言わない。辻が、高校では授業でさえ絵を描きたがらないことを知ったくらいだ。辻にとっての絵はあくまでも「飯田圭織」あってのものということらしい。
友達としてほぼ毎日顔を合わせていながら福田の連絡待ちというのも、少し複雑な気持ちにはなる。しかし仕方ないのだろう。自分と福田では、辻と積み上げてきたものが違う。むこうは二年、こっちは二ヶ月。それに福田は信頼すべき仲間。その助言を聞くだけだ。
- 307 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時23分17秒
- 福田の話では、辻は「飯田圭織」と加護が会うのをすごく恥ずかしがっているという。そういうものかもしれない。「一番」心を許している人といるところを見られたくないということか。気持ちはわかる。
また、福田は「亜依ちゃんだからこそ見られたくないのかも」と言っていた。親友と思っているからこそ、もう一人の大切な人との時間を見せることができないのでは、と。
『いまね、希美ちゃん、戸惑ってるんだと思う』
『いままで「自分と同じ」飯田さんに心を開いてたところに、自分と全然違うのに話ができる人が…初めての友達ができて…そんなことなかったわけだから』
『だから、希美ちゃんも変わろうとしているんだよ、亜依ちゃんのおかげでね』
もしそうなら、自信をもってもいいのだろうか。
だからといって、今の状態がムカツクことには変わりないが。
- 308 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時23分53秒
- それならそれでと、遠まわしに別のことを確認してみた。
辻の部屋でのこと。
「なあ、ののが明日香姉ちゃんとはじめて会うたのって、中二前のときやってんな?」
「うん、そうだよ」
「どんな感じやったん、明日香姉ちゃん」
「ちっちゃくてまだ高一でお店番してた」
遠まわしすぎたか。それとも気付いてはぐらかしてるのか。
加護がはっきりさせたいのは、辻にとって福田はなんなのかだ。福田はずっと辻を想っている。辻も福田を信頼してきたろう。しかし辻は「飯田圭織」と出会った。福田は「飯田圭織」を快く思っていない――全部ひっくるめて、辻はどう感じているのか。
- 309 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時24分41秒
- 自分にとっての福田は、自分が辻の友達になることを引き受けたときに見せたあの涙だ。あれをみて、本当に福田を好きになったのだ。自分は、辻を親友と思うのと同じくらいに福田を仲間だと思っている。辻が福田より「飯田圭織」を選ぶとしたら納得いかない。だからちゃんと聞いてやる。
「えーと。じゃ会うたとき、どう思っ…」
「ウソつかない人だってわかった」
即答された。それも「思った」じゃない、「わかった」だ。辻は「当然」といった表情をしている。心から福田を信頼している。
そりゃそうだ。だから会ってすぐになついたんだろう。福田は以前、自分は辻に会ったときからほっておけなくなった、と言っていた。でも辻だって、福田に会った瞬間、自分にきちんと向き合ってくれる誠実な人だ、と思えたわけだ。友達とは別の、無上の信頼をおける人。それが辻にとっての福田なのだろう。
「あいぼんもわかったんでしょ?」
「もちろん!」
でもだったらなんで……
結局、加護の疑問は元に戻る。
「飯田圭織」ってどんな人なんだ?
- 310 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時26分30秒
- ◆◇◆
六月。
子供で止まっているようでも、辻は十六歳となった。
誕生日当日は福田が大学からの遅い帰宅となるため、家族だけでのお祝いとし、加護と福田は数日後の日曜日にあらためて招かれた。「飯田圭織」は招かれていない。やはり辻にとって二人きりでいたい人、ということらしい。
辻の母がいそいそとテーブルの準備をしている間に、辻と加護は戯れている。福田は、店と縁のある例の「名士」の病気見舞いとかで少し遅れるという。
辻の父と話すには話すが、完璧に「普通の高校一年生」モードを決め込む加護は、あまり多く話す必要はない。というか、愛娘が「友達」と仲良くしているところを見ることこそ、ここの両親の幸せ。それを加護はよくわかっていた。
- 311 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時27分05秒
- 加護が適当に考えて買ってきた誕生日プレゼントの…串カツを、辻は次から次へと串だけにしている。客の自分がプレゼントとしてでも食べ物を持ち込むのは嫌味かと思ったが、辻の食べっぷりを見て安心した。
「福田さん、まだかしら」
辻・母の言葉に、そうだね、そうですねとうなずく辻・父と加護。
しかし――
「ううん、もう来るよ」
辻の言葉にかぶせて、
「ごめんくださーい」
しっかりした声が聞こえてきた。
困ったように笑っている三人と食べ続ける一人の幸せな空間に、ごめんなさい遅れましてと言いつつ福田が現れた。
幸せそうな親友の笑顔。
加護はますます辻を好きになった。
学校でもそうしてられるようにならなくちゃね、と思った。
- 312 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時27分45秒
- だが加護の思いとは裏腹に、学校での辻になかなか変化は見られなかった。
高校の行事ごとなど、辻は傍目に淡々とやり過ごしてるだけだ。一緒のクラスならなにかのイベントを機会に、より辻に踏み込むこともできるだろうが、クラスが違う以上自分の時間が削られて辻のことがおろそかになるばかり。
休み時間のたびに辻のクラスに行っているが、入学してそれなりの時間がたつのにまだクラスにとけこめてない。やはり自分が辻とくっつきすぎるせいか、と思ったこともあるが、そうでもないらしい。
高校だからイジメなんて低レベルなことはおこっていない。教師が妙な干渉をしてくることもない。だが、こんな高校生活を送らせとくわけにはいかない。そんなの自分が許さない――と、焦る。
- 313 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時28分19秒
- 気がつけば一学期もそろそろ終わり――期末テストさえ終わってしまった。クラスでの答え合わせでは、まあ結構な数字を稼げた。辻も、意外に全教科平均点以上。予想からすれば快挙と言えた。でも、だからなんだってんだ。こっちは一歩も進めてないじゃないか。
もちろん「一歩も進めてない」は誇張だ。それどころか、福田に言わせれば辻は徐々に変わりつつある。加護自身、辻が自分を一層近づけてくれていることを感じている。そこを手がかりに外への関心が芽生えるはずという手ごたえも、ちょっとは掴みつつある。
それでもまだ見ぬ「飯田圭織」を思うと、「一歩も進めていない」と感じてしまうのだった。
しかしついに、福田から連絡が来た。
『希美ちゃんの了承が取れた。こんどの日曜日、飯田圭織さんに会おう』
- 314 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時28分51秒
- ◆◇◆
「あー、福田さんいらっしゃい。ひさしぶりですねー」
明るく間延びした声だった。
真昼の訪問。目の前に、「絵の女性」がいる。
腰まで届くような長い黒髪。大きな瞳。満面の笑み。スラリとした長身。
ようやくの、対面だ。辻と友達になってからなんだかんだで三ヶ月半たち、七月も半ば近くになっていた。それほど待ちかねたというのに、相手のほうはまるで間抜けな表情だ。
福田に連れられて、加護の家からここまでバスで二十分ちょっと。車内でいろいろ思い描いて気合を高めていた「敵」は、およそ隙だらけだった。
しかしだからこそ、会った瞬間に、抱えつづけた疑問はあっさり解けた。
- 315 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時29分39秒
- なるほど…そうか、この人が。たしかにわかる。なんか不思議な雰囲気で、ののみたい。見ただけでわかる。のの以外に本当にこんな人がいるなんて。
くやしいが、この人ならあの子を丸ごと理解してしまえるだろう……自分や福田と違って、なんの溝も壁もなく、丸ごと…やすやすと…
時間にして数秒、わずかに観察しただけで、加護は軽い敗北感を味わった。以前辻を見抜いた観察力が、いま加護に無力感をもたらしつつあった。
…いや、負けるもんか。
気合を入れ直す。
「あー、あなたが辻のお友達なんだよね、はじめまして加護さん。わたし、飯田圭織です。辻の絵の先生やってる。あ、これもう聞いてるよね」
飯田は一人でしゃべっている。なにやら複雑な表情のまま黙っている福田と、福田のとなりで飯田をにらみつける加護。
- 316 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時30分21秒
- 「どうぞ上がって、二人とも。辻はさっきからずっと描いてたとこ。わたしら勝手にやってるから、そっちも勝手に見てってね」
飯田はそれだけいって、そのまま庭の奥に歩いていった。アトリエの窓から直接出てきていたのだろう。福田は勝手知ったるというふうに歩き出し、加護も後に続く。
そして加護は、ようやく、飯田とともにいる辻を見た。
アトリエの壁には、飯田の絵がたくさん架かっていた。
不思議な魅力を持つ絵だった。
静物でも風景でも人物でもそれら以外のナニモノかでも、すべて……ヘンテコでズレている。見ている側の感覚が揺さぶられて不安になりそうで、しかしそういうのもアリなんだと納得し、納得してしまう自分に気がついてまた焦る。そんなものばかり。画家の――飯田圭織の個性がそのまま出ている。
その絵に囲まれて、辻と飯田は絵を描いていた。
辻は画板から一瞬顔を上げて福田と加護を見やると、居心地悪そうにもじもじして挨拶し、また元に戻った。
- 317 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時30分58秒
- 「元に戻る」――加護が見たことのない、安心しきった表情に。そしてそんな辻を見守る飯田。
さっきはじめて飯田を見たとき以上に、それは辻の「絵のとおり」だった。
なんというか、二人の空間が、空気が、辻のあの絵のままだったのだ。
そこここ油絵の具で汚れたフローリングの床。画材や画集が突っ込まれた棚をバックに、イーゼルを立てて辻を描いている飯田。その飯田を水彩で描いている辻。その光景はヘンテコで…しかし妙な居心地のよさがあった。
加護は福田の言葉を思い出していた。
『あの子が小さな世界に固まってるとしか思えない』
『ほかの人の視線が入っていけない感じ』
こういうことか。
あのときはなにを言ってるかわからなかったが、いまはよくわかる。
これはたしかに…健全とは思えない。
- 318 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時31分59秒
- 目の前の辻は、まさに子供の表情だった。
それが加護には、微笑ましいというよりも後退的に見える。
自分と出会ってから、変わってきているのを感じていたというのに。自身でつくった壁を、子供の殻を、だんだん壊してくれているはずなのに。福田もそう言ってるのに。
ここで立ち止まっている、というか後ろ向きになっている。
許せない。
加護は憤りを感じた。
余計なお世話かもしれないが、自分はもう辻の友達なのだ。友達は余計なお世話を焼くものなのだ。「人にはそれぞれの幸せが云々」などという御託は、野良犬にでも食わせてやればいい。
自分は、認めない。
福田を見ると、難しい表情をしている。なにを考えているのだろうか。
- 319 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時32分38秒
- 三十分も経ったころ、辻は、もう帰る、と言った。いつもそんな感じで、気がすむとやめて帰るらしい。別にこっち二人に遠慮したわけではないようだ。
福田が静かな口調で言った。
「亜依ちゃん、希美ちゃんと一緒に帰って。わたしは飯田さんとお話がある」
了解。たのんます。
きょう、福田の家の自動車ではなくバスで来たのは、最初からそのつもりだったわけだ。
辻は困ったように飯田を見るが、飯田はにっこりと見返すだけだった。
上等やん。
加護は辻とともに、飯田宅を後にした。
- 320 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時33分15秒
- ◆◇◆
昼下がりの帰り道。辻は自分の隣でもじもじしている。
残った福田と飯田との間が心配なのだろう。
「明日香ちゃん、飯田さんになんのお話なんだろう?」
「知らんけど…ま、いつもののがお世話になってるからご挨拶やろ」
もちろん辻はまったく納得してない。だからって加護は、きょうは邪魔してごめんな、などというつもりなど少しもなかった。
- 321 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時34分01秒
- 「あの人、きれいな人やなー」
「うん…」
自分の好きな人を誉められて、辻は嬉しそう。予想通りの反応だったが、それでも加護は面白くない。
「うち、ずっとあの人に会うてみたかってんで?」
「ごめんなさい、あいぼん…」
「あやまることやないけどな。でものの、よく会わせてくれたなあ」
「うーん…」
困らせすぎたか。気分を変えよう。
「きょうはよかったわ、はじめてののが絵を描いてるところ見られたし」
辻は照れくさそうにする。
絵を描く辻は本当に幸せそうだった。自分と心から分かり合える人と一緒にいて同じことをできるのだから当然ではある。しかしやはり、絵そのものが好きなのだろう。
のびのびと線を流し、色を置いていく。自分の感覚をそのまま出せることの開放感。同時に、自分の感覚に技術という枠を与えてやることの安心感。さらに筆をすべらせ絵の具をひろげるという動作そのもの、紙の手触りや絵の具のにおいといったところから好きなようだった。
飯田圭織への反発はあるが、辻が絵を好きだというのは動かせない。
- 322 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時35分31秒
- 「アトリエにいたときののの、むっちゃ幸せそうやったな?」
嫌な意味あいに聞こえてしまったろうか。辻はやはり困り顔だ。
加護もちょっと反省する。飯田に会わせてくれたというのは、辻が精一杯頑張ったということなのだ。変化が起こっていることなのだ。
「おー、こっからでも見えるなー、あの山」
向こうに見える、カジカ山。
我ながら無理矢理な話題転換だな、と加護は思う。
「たまにはあんなんも描いてみたらいいやん」
「え?!…う、うん、そうかもね、うん」
なんだかずいぶんとびっくりしたような返答だった。
「やっぱり飯田さんと一緒が一番?」
「……」
また困らせてしまった。
しゃーない。
気を引き締める。
後戻りはできないのだ。
「けどな、このあいぼんかてなかなかのもんやで!」
ばしっ、と辻の肩を叩いた。辻はようやく笑ってくれた。
そうなんだ。とりあえずなにか、はじめよう。
せやな? 明日香姉ちゃん。
- 323 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時36分25秒
- ◆◇◆
「さっきの子、加護さん……圭織もうれしいよ、辻にお友達ができて」
「うん、わたしもうれしい」
「辻とお友達になれる…あんなすごい子、いるんだねえ」
「そう、本当にすごい子。頼もしい仲間。会えてよかった」
福田と飯田はアトリエで立ったまま話している。福田は若干きつい表情。三つ年上の相手に、全く遠慮がない。一方の飯田はどこか悲しそうだ。
「希美ちゃんももう高校生だしね。いつまでも今と同じじゃいけない」
「あの子も一生懸命やってるよ?」
「あの子が変わろうとしてるのはわかってる。あの子とあなたとの間が、この一年変わってない」
「………」
飯田の表情がくもった。ここでちゃんと叩きつけよう。
「あなたはこのままでいいと思ってるの?」
「あの子には圭織が必要だし、絵も必要だよ」
「そんなことじゃない。今のままで続いていいのかどうかってこと」
「圭織はいつでも辻のことをわかって、受けとめてあげるだけ。それがいけないの?」
やっぱりわかってない。頭にきた。
- 324 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時37分17秒
- 「あの子、もう高校生なんですよ! その先は? 大学?就職? いずれ一人で生きていくんですよ? 自分で歩いていかなきゃいけないんですよ? あなたはこのアトリエの中で希美ちゃんに会うだけだけど、あの子にはアトリエの外の生活や時間や人づきあいが…外の世界があるんです。それがわからないんですか? この際はっきり言いますけど、あなたはなにもわかってない。あなたはいま、希美ちゃんの逃げ場になってるだけ。彼女の足を引っ張ってる。迷惑です!」
飯田は黙り込んでしまった。
最後のひと言は、我ながら言い過ぎだと思った。飯田が辻の心を一番理解しているのは事実だし、飯田との出会いが辻を劇的に変えたのもまた、まぎれもない事実だったから。
「ごめんなさい…」
「……」
- 325 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時37分50秒
- 一言謝ったものの沈黙に耐えられず、福田はまわりに視線をめぐらせる。
ふと、いままで見たことのない絵が何枚か目についた。これは辻のものだ。
相変わらずモデルは飯田だが…遠景がなじみのある山だ。いつも自分が見てるのと角度は違うけど、間違いない。
いや、山がどうこういうより、静物でもないのに辻が外の世界を描いた絵を見るのははじめてだ。特に飯田を描いた絵で、現実の風景が入り込んだものなんて、絶対にありえなかった。描くのはアトリエの飯田だったり、そうでなければせいぜい、飯田の周囲を草花や青空、ベールのような色の襞が埋めるくらい。他のものが入り込む余地なんてなかった。息苦しいほど濃密な、「完結してしまった」世界だった。
大好きな飯田だけにのめりこむ絵ばかりだったのに、一体……?
- 326 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時39分30秒
- 「これ、背景は……」
「……カジカ山。珍しいでしょ、あの子が風景描くの。三ヶ月ちょっと前からね」
加護と出会ってからだ!
胸が高鳴る。
「外で教えたの?」
「ううん、ここで自分で描いた。あの子、あの山いつも見てたんじゃないかと思う」
そうか、やはり辻は変わりかけてる。視線が外に向き始めてるんだ――
それにしても…やはりさっきの自分の言葉は間違ってなかったじゃないか。せっかく辻が新たな展開を見せようとしているのに、飯田は、気付いていながら伸ばしてやろうとしていない。この人はたぶん、辻のほうからなにか言い出せばそれを受けとめてやることはできる。でもそれだけだ。自分から働きかけない。だから時間が動かない。
よし。決めた。
- 327 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時40分11秒
- 「飯田さん。さっき言ったこと、わたしは本気。あなたは希美ちゃんのことを考えてるようで、本当には考えてない。希美ちゃんの時間を止めている。それをこれから、わたしと亜依ちゃんとで動かす」
「圭織だって考えてるもん……」
いつものんびりした飯田が泣きそうだ。見ていたら福田もつらくなる。
情が動かされる前に、早々に切り上げることにした。
「それじゃ飯田さん、わたしはこれで失礼します」
「………」
返事はなかった。福田はそのままアトリエをあとにする。
もう、やることは見えた。
亜依ちゃん、わたしたち二人で、やるよ。
- 328 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時40分46秒
『カジカ山…そりゃわかりますけど』
『こんど、夏休みに入ったらすぐ、登ろう』
『へ?』
『わたしと亜依ちゃんと、希美ちゃんの三人で』
『ちょちょっと、なんなんですいきなり?』
『飯田さんはやっぱり頼りにならないってわかった』
『……こないだなにか話したんですね?』
『登るからね』
『りょーかい、相棒』
- 329 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時41分28秒
- ◇◆◇◆◇
「「やったー!!」」
ぴょんぴょん跳んで大喜びの辻・加護。
ふー、と一息ついて充実顔の福田。
見慣れた山でも、頂上に立てたという嬉しさは格別なのだ。
朝からたっぷり四時間以上。女の――まして小柄な自分たちの――足取りで、さらにちょこちょこ休みながらとはいえ、長くかかった。それがついにここまで来た。福田も嬉しい。
いまはもう一時をとっくに過ぎている。予定よりずいぶん遅れたが、まあしかたない。そのぶんみんな、山道をおおいに楽しめた。というか、そのために時間をかけたのだが。帰途が暗くならないかやや気がかりだが、下山はもっと短時間でいけるはず…いや余計ゆとりをもつべきか。だが降りるルートは登りとは違う。時間を短縮できたと思うが。まあいずれにしても七月下旬の今の時期、太陽は遅くまで出ているから、さほど心配ないはず。
「明日香ちゃーん、はやくお弁当にしようよー」
大きな岩の上から辻が呼んでいる。その隣では加護が待ちかねた表情。
木陰で三人並んでお弁当。辻と加護の母親に言って、二人の弁当も自分に作らせてもらった。辻の分は加護の二倍は作ってあったが、がんがん減っていく。もともと食欲旺盛な子だったが、きょうは本当においしそうに食べる。加護はその様子をにこにこして眺める。
- 330 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時42分35秒
- それにしても目の前のこの景色。
青空の下、はるかむこうに連なる青い山並み。自分たちの町。こうしてみるとやっぱり畑と田んぼがずいぶん多い。さらにぐるりと見渡すと、さきほど山腹では見えなかった海がキラキラと見える。
この高い場所から、なんだろう、男の子でもないのに「世界は俺のものだ!」なんてバカなことを叫びたくなるような爽快感。
辻はその景色をしっかりと目に焼き付けているよう。もう見るものすべてに心を奪われそうな勢いだ。福田から見ても、辻の心の中でなにかが芽生えているのははっきりわかる。
やっぱりこの登山はやってよかった。辻はいま、飯田以外の、絵の対象としたものへの興味を育てている。外から眺めていたものに入り込んでみて、自分の足で踏みしめ、手で触れ、空気を吸った。さらにその体験が、ほかの人間――自分と加護――としっかり共有された。それらが確実に辻の心に響いているはず。
- 331 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時43分19秒
- 「この山」を辻が描いた理由はわからない。たぶんはっきりした理由はないだろう。山に惹かれたという感じではない。やはり、加護の存在が大きいはずだ。
加護との出会いが影響して、飯田以外のものに視線が向くようになった。そのときいきなりほかの人間などを描くことはできず、飯田をモデルとした絵のバックとして、いつも見慣れた山を描いた。流れはこんなところと思って間違いない。
これまでもよく辻を外に連れ出していたが、海に行ったり隣町に行ったりで、見慣れたこの山に登ろうとしたことはない。あまり外に出たがらない辻を連れて延々数時間も山道を歩くなど、以前は考えられもしないことだったのだ。今回も辻は、嫌がりはしないが驚いていた。それでもこのタイミング、この三人だからこそ、できたのだろう。
ともかく現にいま、辻はこの場所に夢中になっている。自分を破りつつある――いや、もう破っているかもしれない。大事なのはその事実だ。
福田はわれ知らず笑みをこぼしていた。
- 332 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時43分49秒
- 福田が山登りを考えたのは、ほとんど直感的なものだった。なにか裏づけがあって行ったことではない。ここで動かなくてはいけない、まずなにかしないといけない、というものだった。
歴史ある古書店の四代目候補にして『知識って現実を変えられるものだから』と確信する彼女は、そんな「情」の根っこを持っていた。草の根知識人たちの拠点となった店の「歴史」だった。
- 333 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時44分32秒
- いま、加護と辻は岩から飛び降りて、あちらこちらを走って四方八方に目を向けている。加護は率先してあれ見てそれ見てと指差している。さすが、加護は辻の変化を察しているわけだ。
しかし福田には、辻が加護に合わせてあげているようにも見える。加護にいろいろと世話を焼かせてあげて、自身はそんな加護の様子を見て楽しんでいるような余裕というか……もちろんこれはそう見える、というだけだが。
でもときおり、こちらに向けられる辻の眼差し。笑顔。
全部お見通し、といった謎めいた輝き。
なにかいつにも増して、こちらの理解を超えるような。これまでも理解はできなかったけど、閉じこもった感じだった。それがいまはなんだろう、ずっと大きく、自在に飛び回ってつかまえようがない感じ…?
- 334 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時45分18秒
- 「明日香ちゃん、良かったよね、きょうここに来て」
ふいに目線を合わせて話し掛けられた。
「希美も良かったし、あいぼんも良かった。明日香ちゃんも良かったよね?」
「え?!…うん、そうだね」
福田は一瞬ぎくりとした。なんだかなにもかも見抜かれているみたい。以前から良くあったことだが、今の辻から聞くと少し気圧される。
しかし――
「登るよ、って言われたときはちょっとびっくりしたけど。ずっと歩くの不安だったし。でも良かった。ありがとね」
そう言った辻は、もうまるで屈託のない笑顔になっていた。
まったく、考え過ぎだ…
福田は軽く二三度頭を振った。
- 335 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時46分03秒
- それからしばらくの間。
S市のみんなに愛される山のてっぺん、あっちこっち駆け回った。
空を、雲を、海を見た。
青と、緑と、白を見た。
でっかい声を張り上げた。
拳を握って両腕を大きく広げて、どこまでも叫んだ。
本当に「世界は俺のものだ!」と叫んだ。福田まで、そう叫んだ。
山の頂上、午後の暑い日ざし。
時おり吹く涼しい風。
みな心底充実していた。
「わたしたち三人いたから登ってこれたんだよね、力をあわせて」
「そ。うちら三人おったら怖いものなんてないねん」
「三人…うん、そうだねあいぼん、明日香ちゃん」
たしかに充実していた。幸せだった。
だからここで、幸せついでに辻が断言したのも、当然ではあった。
「でもこんどは飯田さんとも一緒に来たいね」
二人が一瞬、止まった。
- 336 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時46分49秒
- ◆◇◆
辻が絵に描いた山にみんなで実際に登ることで、辻の変化をはっきりさせる。
福田の直感はやはりたいしたものだった。確かに登る前と今とで、辻の目はまるで違う。
しかし、福田はいくつか計算違いもしていた。
まず、加護と辻のためにじっくり登ったことで、登頂に予定を大幅に越える時間をかけた。
そのうえ頂上での光景に辻は夢中になってしまい、出発がさらに大幅に遅れた。
そしてさらに――
「もう、なんか言ってよあいぼん!」
「……………」
「飯田さんのこと、そんなに嫌いなの?」
「……………」
「あんな言い方したのは悪かったよ、ねえ!」
「……………」
「あいぼんってば!!」
「うっさいな!!」
- 337 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時47分23秒
- ――いくらなんでも一度山登りしたくらいで、いきなりなにもかも変わるはずがない。まして飯田圭織の重要さが辻から消えることなどありえない。これはあくまでも「始めの一歩」だ。
福田は最初からそれくらいに考えていた。
しかし加護は、福田が考えていた以上にこの登山に賭けていた。これでなにもかもケリをつける、くらいに本気で考えていたのだ。福田の誤算だった。
だから加護は辻のたったひと言に思いきりヘソを曲げてしまい、下山途中ろくに辻と口をききもしない。それどころか、自分と一緒になって怒ってくれない福田に対してまでキレかかっている。話が違うじゃないか、というわけだ。福田としては登山はあくまでも始まりだと事前に言っておいたつもりなのだが、連絡不十分というやつだろう。
それにしてもオトナのはずの加護がここまでムクれるとは福田にとって意外だった。登山は加護にも影響を与えたということかもしれない。
その加護を、辻のほうがオトナになってなだめている。なんだかお姉さんの風格さえ見せて頼もしいくらい。山頂で発したあの言葉はどこか確信犯めいていたが、こうして懸命に加護に声をかけている。
- 338 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時48分14秒
- 「そんなにあわてて降りるとあぶないよ」
「うっさい!」
「もう登ってきたときとは違うんだから、足元よく見ないと」
「見えとるわい!」
――これもまた福田の誤算だった。山の夕暮れがいきなりなのはわかっていたはずだった。しかし急いでいたつもりでどこか気が抜けていたのだろう。下山行程を半分以上こなしたところで、薄暗くなって足元が見えにくくなってきた。
午後の山はあっという間に雰囲気を変えてしまう。登ってきたときの、むわっと生気のたちこめる明るさは、今はなくなっていた。生気はあっても、暗い顔を見せ始めたよう。そんな空間につい最近まで中学生だった子を二人連れて、さしもの福田も心細くなってきた。
けっこう降りたが、夏だというのに暗くなるのも早い。当然だ、樹が陽射しをさえぎっているのだから。
気温はあるし、みんな持参の長袖シャツを着ているから身体を冷やすことはない。しかしいうまでもなく、山は登りより下りこそ注意が必要だ。足元が見えるうちに、出られるだろうか……
- 339 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時48分50秒
- のののアホ! せっかくてっぺんに立てて、三人、ええ感じでおったのに。
あのひと言で全部ぶちこわし。なんであの人の名前出すねん。うちと明日香姉ちゃんの気も知らんと…。明日香姉ちゃんも明日香姉ちゃんや。なんであそこでビシっと言わんねん。こんなんやったらなんも変わらんやないか!
加護はとにかくヘソを曲げていた。頂上で気が抜けて大人びた部分が取れていたため、自分を抑えるなぞどうでもよくなっていた。そもそも、自分よりよほどガキのはずの辻が、なんかお姉さんのようになだめようとしてるのが気に食わない。おどおどするならまだしも「しょうがないなあ」と言わんばかり! 頂上につく手前くらいからなんかそんな雰囲気を出していたが、のののくせにこのうちを心配しくさって!
…といいつつ、登りでは辻を守るようにしんがりをつとめていたのが、いまや福田の次につけている。辻を心配することなど思いもよらない。
こうしていろいろと計算違いのうえに、さらに不運が二つ、重なることになる。
- 340 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時49分32秒
- 「山なんぞ下に歩いとったら出られるんや、アホか!」
「あ、あいぼん待って!! そっちはだめ!」
「ちょっと亜依ちゃん、希美ちゃん?!!」
ついにキレた加護は福田のわきをすり抜けて一番前を走り出し。
辻はすぐさまあとを追って福田を追い越し。
福田は二人のあとを追いかけた。
- 341 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時50分11秒
- カジカ山には昔から――S市がばりばりに第一次産業中心だったころから、よく人が入っていた。山道も一本きりではない。昔使われていたが今は放棄されたもの、一応試しに切り拓いてみたがなんかうやむやのうちに先で消えてしまっているもの、こういった死んだ道がいくらもある。そして、危険なことだが現在の生きた道と並走していたり、分かれ道のように口を開けていたりもする。
いま加護が突っ走りとびこみ、残る二人も入っていったのは、まさにそうしたニセのルートのひとつだった。
これが不運の一つ目。
そしてもう一つの不運。
力いっぱいキレた加護は、道があるのかどうか怪しくなってきても止まらずに分け入って、あとの二人を引き連れておよそ長い距離を走りに走り、ぴょんと跳んだ先の着地点、薄暗いなか木の根っこと思ったのはただの枯れ枝で。
着地点は足元でぽっきり折れて、加護はそのまま派手に転がりつつ斜面をすべり落ちていった――
- 342 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時50分51秒
- ◆◇◆
「いやぁぁああああ!! 亜依ちゃん、亜依ちゃん! ちょっと亜依ちゃんってば!」
「……ぅぅう、つつ。あー、かっこ悪う」
斜面をかなりの距離、一気に滑り落ちてしまっていた。樹にぶつかることなく、途中にこんもり生えた藪でようやく止まった加護のかたわらに、福田と辻が降りてきている。意外なことに辻より福田が激しくとりみだしていた。辻はただ静かに周りを見回している。
加護は額や手の甲をすりむいたり切ったりしているし、泥と落葉まみれだが、骨折や脱臼、靭帯損傷といった大怪我はないようだ。ほかには……
「う、痛! 手首ひねったみたい。あと肘、打った…」
「動かしたらだめ。ほかには?」
「うー、足首は…あ、足は大丈夫? 痛っ…たぶんズボンの下で膝すりむいてる。でもそれより…」
「なに?」
「ここ、どこ?」
「あ…」
言われて気がついた。
道を見失っていた。
- 343 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時52分18秒
- 道がわからない。
時間が遅いうえに梢が空をふさいで、相当暗い。なんとかまたよじ登ったとして、加護が足を滑らせた地点がわかる保証はない。第一あの時点で、本来の道から思いきり外れてしまっていた。さらに迷うのがオチだ。
そして加護の言う「山など下に歩いてれば出られる」はもちろん間違ってる。ほんの5mほどの崖とか密集する藪でもあればもう進めない。そもそもカジカ山を含む山並みは、かなり広範囲にわたって広がっている。適当に歩いて抜けられる確率はごく低い。暗くなってきた山中で道を見失い怪我人を抱え、満足に進めず、体力を消耗し――なんてことだ。
福田は背筋に冷たいものが走った。
携帯電話は持っているが当然圏外だ。助けを求めることはできない。捜索願が出されて助けが来るのにどのくらいかかる? わからないが夜九時くらいには捜索隊が出るのではないか。べらぼうに広大すぎる山ではない。必ず発見されるはず。なら、ここは定石どおり動かずじっとしてるのが一番、と。
- 344 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時52分55秒
- 「…じゃあ二人とも、行こうか」
「「え!?」」
さきほどから黙っていた辻の、突然の言葉だった。
驚く福田と加護にむかって辻は微笑む。
「ねえ、これって、本当に三人で歩くチャンスだと思わない?」
「ちょっとどういうこと? なに言ってるの?」
「わかってるでしょ、これから三人で降りてくの。三人でね」
歌うような口調。
「なにわけわかんないこと言ってるの、そんな危ないこと!」
「そうやのの、しっかりせえ! 動かんほうがええって」
「それはどうかなー♪」
辻は――妙に生き生きしていた。なにか強さを感じる?
そういえばさっき、転げ落ちた加護のそばで、なぜかすごく落ち着いていていた。そしてこの目の光…そうだ、山頂でもすでにこんな目をしていたような…ともかくわけがわからない。
- 345 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時53分43秒
- 「ねえ明日香ちゃん、わたしたち三人で、登ってきたよね?」
「え? うん」
「だからわたしたち三人で降りる。当たり前のこと」
「バカなこと言わないで!」
福田は混乱した。目の前の辻は理解を絶していた。
いま“わたし”って言った?
それにこんなにしゃべる子だった?
というか、どうしちゃったの? なんなの、このなににも動じないような強さは?
目は生き生きと輝き、大人びた感じと子供っぽさが混ざり合って、ドキっとするような妖しい魅力さえ発している。同時に、すべてを見通しているような涼やかさ。なんなの?
「バカなことじゃないよ。わたしたち三人で力をあわせて最後までやる。助けなんていらない。道だっていらない」
「??ちょっと、なに言ってるかわからないよ…」
- 346 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時55分21秒
- 加護も口をはさむ
「なー、のの、もうアホなこと言わんと…」
「三人いれば怖いものなんてないんだよ」
「うっ…せやからあのときはあのときでな?」
「ののの方がお姉さんなんだからね。言うことききなさい?」
「……」
いまや、弱気になっている二人を完全にリードしている。しかし威圧的なわけではない。この状況を楽しんで、空気を自分のものにしているのだ。
「明日香ちゃん、わたしは大丈夫。明日香ちゃんがわたしを信じられるかどうかだよ。あいぼん、足は大丈夫って言ったよね? よし、がんばって一人で歩こうか」
辻は加護を立たせる。いま、たしかに「お姉さん」になっていた。
- 347 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時56分03秒
- 「明日香ちゃん、わたしはいつだって明日香ちゃんを信じてた。今も信じてる。これからもね。そして今は明日香ちゃんがわたしを信じる番。信じてくれるって信じてる」
「……」
辻の言葉、最後は言葉遊びのようだったが、その重さは十二分に伝わってくる。だから福田はなにも言えない。
「もう一度言うよ。わたしを信じなきゃだめ。三人で始めたのは三人で終わらせる。助けも、出来合いの道もいらない。さあ、心配しないでついて来て?」
よく通る声。なんと気持ちよく楽しげな。聞いているだけで爽やかな元気が生まれそう。
しかし、加護が足を滑らせたところまで戻ってみたほうがまだましでは――
「おもろいやん」
加護が口を開いた。
「うちら三人、後戻りなんて絶対せーへん。前につきすすむだけ。せやんな、明日香姉ちゃん?」
やったる、という表情。
「あいぼんはわかったんだね。じゃ、行くよ」
ふり向きもせず下り始める辻の、その力強い後ろ姿。小さいはずの背中が、大きく見えた。
福田も腹を決める。
おっけー。
信じてやろうじゃないの。
あんたを。
わたしたちを。
- 348 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時56分59秒
- ◆◇◆
無謀もいいところ。
普通に考えれば、ごくあっさりと「自殺行為」ということになる。
それでも三人は進んでいく。
たしかに、まだ陽は落ちていない。降りられないほどひどい急斜面はなく、樹木も進めないほど密集してるわけではない。きちんと手がかり足がかりになってくれる。
だがそれにしても辻の足取りの確かさはどうだ。まったく迷っている様子が見られない。かといって無鉄砲にとにかく進むというのではない。正しい道を行っている、という確信に満ちている。
暗い山中、辻は一歩一歩確かめながらも力強い足どりで降りていく。そのあとを恐る恐る踏み出せば、はたしてしっかりと山肌が、木の根が、こちらの足を支えてくれる。辻が歩いた上を踏んでいるか定かではないのに、間違いなく進んでいける。
なるほど。
福田と加護は、納得した。
- 349 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時57分39秒
- 下り始めてから、みなほとんど口をきかない。ただでさえ道を外れた下山行。加護に合わせて、ペースはゆっくりだ。ゆっくり、山肌を斜めに切っていく。
辻は時々ほんの一瞬立ち止まって「こっち」「むこう」などと言って方向を決めると、またずんずん降りていく。そしてたまに、すごく楽しそうに木の幹をたたいたり、どこかをじっと見つめたり、なにかに耳を澄ませたりして、そのたびに笑って『ねっ?』と二人を見る。辻の心はわからないが、二人もなんだか楽しくなってくる。
福田は意地になって、加護の荷物を引き受けていた。その場に置いて行こうとも思ったが、辻が余裕を見せているのだ。それを信じる。また、先導は辻だがペースを考えるのは福田だ。全員の体力を見て、ときに辻を引き止め、ペースを落とさせる。辻もそこは素直に従ってくれる。
加護もまったく迷いがない。福田に荷物を持ってもらうことを最初は嫌がったが、もう気にせずまかせてしまっている。ケガでゆっくりしか進めないのも、この行軍がそもそも自分の無茶がきっかけだということも気にしない。いまそれを弁解してもなにもならないとわかっている。だから迷わない。「仲間」と「お姉さん」を信じる。
- 350 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時58分44秒
- 暗さを増していく山の中で三人。
まわりを囲み迫ってくる、暗がりと樹と土と虫の濃密な存在感。耳にジーっと響き続ける地虫たちの声のうねり。すべて、人間より圧倒的に大きい塊となっている。
しかし福田はなぜか先ほどまでの心細さを感じなかった。感覚が麻痺しているのかもしれないが、不思議な高まりを感じていた。
加護も同じだった。腐葉土の匂いと熱気。胸がドキドキする。山を楽しむ気持ちになる。
降り始めて一時間ほど。辻の足を止めて休憩にした。
辻は木の根っこに腰を下ろし、穏やかに目を閉じている。
加護と福田は、黙って樹の幹に背中を預けた。残り少ない水筒のお茶を大事に含みつつ、二人そろってぼんやり辻を眺め、顔を見合わせると声もなく笑った。ズボンのおしりに水が染みこんでくるのも気にならなくなっていた。
歩いているとき以上に感じる、山の精気。
この、手でかき分けられそうな空気。本当にかき分けてみる。
しばらくぼんやり山を感じて、じっとしてるとヒルや蚊にやられるかな、などと思ったとき。
辻が目を開け、立ち上がった。
「よし、行こう」
二人も、ゆっくり立ち上がる。
さあ、行こう。
- 351 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)01時59分43秒
- どれくらい歩いたろう。
靴は足首までどろどろ。汗なのか水を吸ったのか、ぐちゃっとほてっている。平らな地面を歩く感覚がどんなだったかなど、もう忘れてしまった。足首がふわふわする感じ。
いや、足首といわず、背中から腰、太腿、膝、ふくらはぎと、疲れがたまっていないところはない。何度となく首や顔をぬぐったタオルは、絞れば派手に汗がしたたりそう。さらに、福田には朝から辻と加護を引率した心労があり、加護は当然、ケガがある。
先頭の辻でさえ、体力的には疲労がたまっているのがはっきりわかる。
およそボロボロの状態。
それでも歩く。前に進む。
一休みはしても、戻らない。
戻れるはずはないから当然だけど、とにかく戻らない。
後ろを見ない。
前に進む。下を目指す。
辻を信じて、三人を信じて。
十八歳と、十六歳と、十五歳。
三人の少女たちは粛々と山中を行く。
……………
- 352 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時00分19秒
そうして、さらに数十分。
三人はあっさり道路に出ていた。
- 353 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時01分27秒
- ◆◇◆
「「やったー!!」」
ぴょんぴょん跳んで大喜びの二人。加護は痛めた腕をかばいつつ、それでも大はしゃぎだ。
「よかった〜〜」
福田は腰を抜かしている。
自動車を止めた場所からはずいぶん離れていると思うが、確かに今朝、通った覚えがある。ここがどこかは分からないが、道路に出てしまえばあとは簡単だ。
まったく、この三人でよくぞ出られたものだ。
いまになってようやく、自分達がどんなに危険なことをしていたのかが実感されて、身震いする。本当に「自殺行為」だったのだ。いくら辻の不思議な魅力に説得されたとはいえ、そしていまも納得しているとはいえ、今回の暴挙を振り返るとぞっとしてしまう。
それでも、出られた。
それどころか、ことによると最短距離を踏破したのかもしれない。そういえば辻は言わなかったか、『道だっていらない』と?………信じられない。
- 354 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時02分16秒
- 「ののー、すごいやん! ほんま信じられへん」
「えー…まーね…」
「すごいって! うちの「お姉ちゃん」はむっちゃすごい!」
「やめてよ〜〜」
盛り上がっている二人のそばに、ようやく立ち上がった福田が歩み寄る。
「希美ちゃん、ありがとう…ありがとうね……わたしが山登り考えたのに、なんにもできなくて、なのに希美ちゃんは……亜依ちゃんもごめんね」
福田は半泣きになっている。
「泣かないでよ、明日香ちゃんはなにも悪くないじゃない?」
「そうやて、なんで泣くねん。もとはといえばうちがアホやってもうて、自分がケガして、みんな迷わせたんやで? うちが悪いんやん」
「でもさでもさ、わたし自分が二人をひっぱってくんだって威張ってて、なのになんにもできなくて。ほんとダメで。亜依ちゃんが落ちてケガしたとき、もうどうしよ〜ってわかんなくなっちゃったし」
ボロボロ泣きだした。それだけ緊張していたのだろう。もともと二人の保護者として責任を感じていたのだから、当然かもしれない。
二人に慰められてどうにか泣きやんで、福田はとても恥ずかしそうにしていた。
- 355 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時02分58秒
- 「希美ちゃん、ほんと信じられないよ。ここまで迷わなかったのもすごいし、なんかすごく強くなってたし」
「そうそう、『ののの方がお姉さんなんだからね。言うことききなさい』て。思わず言うこときいてもうたで」
「えーと……どうかな、わかんないよ〜」
福田も加護も、ようやく気がついた。辻は……ほんとうにわからないようだ。別に照れているのでもないらしい。いつものはにかんだ笑みに戻っているのを見て、二人とも呆気にとられる。
山を抜けられたのはあの「勘」の良さのお蔭と無理矢理にでも納得するとして、自分たち二人を引っぱったあの強さはなんだったのか? これまでずっと抑えられてきた辻の内面が、あの特殊な状況でだけ、ことさら強められた形で現れたということだろうか?
- 356 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時04分36秒
- 福田はふと、思った。
あの目、あの声。いたずらっぽい輝きと落ち着いた強さが同居した魅力。年上の自分がドキドキしてしまったが。もしかしたら数年後、辻はあんな女性になるのでは?………
いや、考えすぎだろう。
少なくともいまここにあるのは、以前と同じ、はにかんだ笑顔。すっかり元に戻ってしまって、少し残念ではあるけど……いきなり変るわけもない。登山が効果があったのは確かだ。辻は確かに変わってきてる。これからだんだんと、育てていけばいい。
そして思う。自分はやっぱり偏った考えをしていたんだ。
いま、山登り前の張り詰めた気負いがすっかり取れてみてわかる。加護が辻に大きな影響を与えたのはもちろんだけど、飯田圭織だってきちんと良い影響を与えていたはずだ。いつでも受けとめてくれる飯田がいたからこそ、山登りが効果をあげた。辻もこんな無茶ができた。
さらに山中でのあの辻の姿。大人のような、子供のような…どこか飯田を思わせたことに、いま気がつく。
- 357 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時05分14秒
- 加護に気をつかいながら辻に話しかける。
「無事降りられたから言うことだけど、楽しかった。希美ちゃんも頂上で言ってたけど、こんどは飯田さんと四人で来たいね。ただわたしこの前、飯田さんにちょっときついこと言っちゃったからちゃんと謝らないと…」
加護は少し微妙な表情を見せたが、辻はあっさりしたものだ。
「大丈夫。飯田さん、もうちゃんとわかってくれてます。ぜんぜん問題ないです」
なぜそう確信できるのか……しかし飯田圭織についてこの子が言うなら、そうなのだろう。
「そう…かな。ま、挨拶はちゃんとするよ」
「心配せんでええ、うちがとりなしたるわ」
空気を和らげようと、加護。
- 358 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時06分26秒
- 辻が、少し恥ずかしそうに口を開く。
「あのね、山に登って、思ったんだけど…」
「うん、なに?」
「えーと…」
「なんやの、はよ言うて!」
照れる辻。じれる二人。
ついに辻が、それを言った。
「こんど、あいぼんと明日香ちゃんと飯田さん、三人の絵を描きたいなって…」
「「!!」」
福田も加護も、言葉に詰まった。
これ以上ない、変化の証…!
おどろいた表情のままの二人を見て辻が不安げな顔をする。
空気が固まりかけたとき――
「そんときは、あの人にはずいぶんかがんでもらわんと。うちら頭のてっぺんしか描いてもらわれへん」
加護のひと言に、一瞬でその場が和んだ。
福田を見て、加護がニヤリとしてみせる。加護も飯田へのわだかまりをかなり解いているようだ。辻はすごくほっとして、嬉しそうにしている。
福田はなんとも愉快な気分だった。
いまや自分は、背伸びした部分がやわらいで落ち着いた感じがする。それはきっと加護も同じ。
本当にこの山登り、みんなにとって…やってよかった。
- 359 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時07分17秒
- 「明日香ちゃん、写真撮ろう!」
「え?…ああ、そうだね」
辻に言われるまで、福田はカメラのことを忘れてしまっていた。
うん、きょうは持って来てよかった。まさかここまで「思い出の日」になるとは思いもしなかったけど。
…………
「そんなんで大丈夫? うちらちゃんと撮れる」
「大丈夫だよ…たぶん」
ガードレールの支柱の上にカメラを置き、ファインダーを覗き込んで、向こうの辻と加護のほうにポジションをあわせてもらう。自分が入る場所を決めてもらうと、ファインダーの中の二人は、自分達の真ん中を開けてくれた。
フラッシュを使って、タイマーをセット…
『カシャッ』
――どんな仕上がりになっていることやら。画質はひどいものだろう。でも、いいんだ。
充実した笑顔を浮かべる自分達三人が写っているはずだ、きっと。飯田に自慢してやろう。
- 360 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時07分58秒
- 時間のうえでは夜といっていいが、まだ空はそこそこ明るい。
帰る時間にはぎりぎり間に合う、だろう。間に合わなかったら怒られるだけだ、と福田は開き直る。だが時間はともかく加護のケガは……えーい、当って砕けろ。
「さて、と。クルマ止めた場所、どっちだっけ」
「こっち!」
「そりゃわかるやろ!」
みんなできゃっきゃとはしゃぐ。
- 361 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時09分07秒
自動車道を三人並んで歩いていく。
山の中と同じに、みんなで歩く。
ボロッボロのグッチャグチャで、疲れきった身体。
泥まみれで、汗だくで、木の葉とかくっつけて、すり傷つくって。
全身の筋肉が、体の節々が猛烈に痛い。
喉も乾いたけど、水筒はカラッポだ。
でも。
仲間がいる。
親友がいる。
だから、平気だ。
なんだって、平気だ。
しっかりと手をつなぎあって、元気に歩く少女たち。
頼もしいその姿を、山がどっしり見下ろしていた。
- 362 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時10分06秒
「5. Ask The Mountains」
−了−
- 363 名前:「5. Ask The Mountain」 投稿日:2003年07月22日(火)02時10分43秒
…………
- 364 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月22日(火)02時11分49秒
- 前半よりずっと長くなったな。第五話、もう中篇だな。90kb近く。また途中で切ろうかと思ったくらい。ごめんなさい
加護の言葉づかい、何語だろう。ま、各地を転々としたから、と。
辻のはヘンじゃない…はずだけど。「のの語」を話してません。辻はすごくかっこよくなれるはずなので。たとえ鼻の穴に百円玉を入れようとも。
福田が本当にいい主人公になってるなあ。いままでのキャラでいちばん好きかもしれない。作者的に、共感する吉澤・楽しい石川・憧れる福田、の3トップってところ。
「事件・事故なし」宣言に反してしまったか。でも「地味」は守った。作者は満足です。
- 365 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月22日(火)02時12分51秒
- ぼくもよくお世話になってるCP分類板で、「Echoes」をよしやぐ作品として紹介していただきました。大変ありがたいし感激しています。矢口と吉澤の関係が「同士」と紹介されてるあたり、ああ、読み込んで頂いてるなあ、と嬉しくなりました。自分で「カップリングなし」と言ってしまっていたので、なるほどこれもカップリングか、と感心もしました。
ただ…やっぱりこのHN、まずいかしらん。
いえ、その紹介文に、
「情景描写に定評のある和泉俊啓氏」
とあるわけですよ。
これ、九分九厘…いや100パー、“「夏の城」の和泉氏”のことでしょう。
和泉氏は情景描写に定評があります。一方ぼくは情景描写が苦手です。というか人生初小説のぼくに「定評」はありえないもの。
紹介してくださった方に陳謝します。混乱させてしまって本当にごめんなさい。
でも、紹介してくれてありがとうございました。頑張るぞ!
- 366 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月22日(火)02時13分31秒
- ご感想ありがとうございます。
>>299 名無し娘。さん
はい、「VOICES」の物語はすべて、同じ空間の、同じ時間軸の中で進行しております。物語同士あちこち絡みまくっており、直接に描かれることもあれば、ほのめかし程度のところもあり。そのあたりもお楽しみください。
ぼくはリアルものが書けなくて、どうしても「娘。メンバー主演のドラマ」という形になります。ただ、キャスティングは絶対に彼女達しかありえない、と思い込んでおり、それで現実とのつながりを感じていただけるのかもしれません。
第五話はこうなりました。名無し娘。さんの出された「答え」に見合うものとなったかどうかわかりませんが…。
>>300 名無し読者さん
「サクサク」とは嬉しいお言葉です(中身スカスカだったせいかと一瞬ギクリ)。シーンの切り替えは確かに気を使いました。これまではモタついてたかな。そして今回も…すんません。
前回の更新量は、四十レスだか五十レスだかの40kb程度で、たしか第二話と同じくらいのはずです。途中で力尽きたんです。ごめんなさい。
第五話、前半は引き込まれていただいたとのことで、大喜びです。後半で脱力されなかったか気がかりです。
- 367 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月22日(火)02時14分27秒
ではまた次週。
- 368 名前:名無し読者 投稿日:2003年07月26日(土)02時38分29秒
- 今回のお話は今までで一番ハラハラしました。
福田、加護、飯田が引かない性格だと思ったので、
三者の関係がどのようになるのか楽しみでした。
実は早く読みたくて日曜の深夜に更新のチェックしにきてました。
4人の思惑が交錯していて内容が濃くてとても楽しめました。
次回も期待してます。
- 369 名前:名無し読者 投稿日:2003年07月26日(土)21時47分03秒
- ココのお話、すごく好きです。
この流れできて…ん、明日香?と思ったら。
ハマってますねー見事に。
来週の更新も楽しみにしています。
- 370 名前:名無し娘。 投稿日:2003年07月27日(日)16時15分41秒
- 正直、前半部分だけ読んで二人はちょっとお節介じゃないかと思っていました。
人の今ある幸せを無理やり自分たちの幸せに当て嵌めてしまうのは如何なものかと。
そして後半を読んで、作者さんに、いや辻に説教された気分ですw
「4. P.S.」で出てきた飯田とは同じ人物でいいのかな?
今回は出てきたキャラが濃い(と言うか味があると言うか)というのと風景の描写があまりに美しいので、僕はこの話はドラマで見るよりもジブリアニメで見てみたいと思いました。
329と353レスの重ね方も好きです。
微笑ましいと言うかとても晴れやかな気分に成れました。
ごちそう様でした。ここを読む事が一週間の楽しみになりつつあります。来週も楽しみです。
- 371 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年07月31日(木)23時17分11秒
- ※ 今回はあっさりしたお話です。でも長いです。 ※
- 372 名前:6. Prelude 投稿日:2003年07月31日(木)23時17分55秒
「6. Prelude」
- 373 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時18分50秒
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…だめだ。さっぱりわからん。
わからないときはとばして…これもとばして………これも……これも……うお、問題用紙これだけ?
えーと、じゃ記号選択問題だ。
これは「え」
これは「A」
これは「か」
これは「3」
これは「G」
これは「ヨ」
………
よし、ここまでちゃんと記号はバラけてるな…
うー、あとは記述と論述か。どうしよう。とにかく書く。
まず記述………適当!
論述は…もう自分でなに書いてるかわかんないや。とりあえず白いところを埋めないと。
早くしないと時間がない、時間がない、時間がない、時間がない、時間がない時間がない時間がない時間がない時間が時間が時間が時間時間時間時間―――
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- 374 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時19分25秒
- ――視界にぼんやり、見慣れたおっとり顔が映って来た。
「ああ、起きた起きた」
「…なにやってんの?」
「起こしたら里沙、怒ると思って」
だからって、起きるまで人の寝顔を見物とはどういう趣味だ。
などと里沙――新垣里沙は思わない。自分の年上の友人が少しズレた気の利かせかたをする素敵な人物だということは、昔からのつきあいでよっっくわかっていた。だいたい、約束しておいて眠り込んでた自分が悪い。いや、先に声をかけてくれなかったお母さんが悪い。おぼえとけ。
つっぷしていた学習机からようやく身を起こして、目をこすりながら大あくび。
「はふぅぅ…ごめんね、あさ美ちゃん。寝ちゃってた」
「いや、いいよ。里沙、昼に眠っちゃうくらい勉強してるんだねー」
- 375 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時20分07秒
- まったく。勉強してるところならともかく、しながら眠ってるところを見られるとは間が悪い。ほっぺたを乗せてた辞書はシワシワ、寝る寸前に書いたらしいノートの字はなにか得体の知れない生き物がのたくったようだ。
そう思うのは新垣里沙。くっきり眉とちまちまととのった顔のつくりが印象的な、中学三年生の十四歳。高校入試を控えて猛勉強中
その友人、紺野あさ美。大きな瞳とぷっくりほっぺがどうにもトロそうに見える、高校一年生で十六歳。友人の勉強を見るために、日曜の昼間、本人の部屋にやってきた。なにしろ紺野、トロい顔して勉強は相当できる。
近所同士の幼馴染。要領いいけどポカも多い新垣と、おっとりしてるけど取りこぼしをしない紺野。二人はもう十年以上の親友だ。
- 376 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時21分12秒
- 「あー、またやな夢見た。三月のテストの」
「ああ、生まれ変わる前、ってやつのね」
「いやほんと生まれ変わったんだって! 小テストの結果みせたじゃん!」
「たしかに昔のテストはひどかったもんねー」
……いや、そこは普通、「いまはすごくよくなったよね」だろう。と言いたいが言えない。前が本当にひどかったから。だから心底ぶるって猛勉強して、ようやくいまの学力まで持ってきたのだ。
- 377 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時21分48秒
- きっかけは、中一の頃からチンタラ通っていた市内の塾の「一週間強化コース」に、親の言いつけで参加したことだ。もちろん本人の成績が思わしくない――はっきりいって悪いからなのだが、にもかかわらず「露骨に中三予備軍を囲いこむ企画だね、大人の事情ってやつ?」などと余裕かまして参加した。いまはアレでナニだけどその気になればいくらでも取り返せる、だってあたし器用だもん、くらいの気持ちだった。
しかし、第一回目の案内でのこと。案内者は三十代の男性講師で、「勉強わかってるつもりでなめててイタイ目にあった人の話」をした。
ぅおっとー、しょっぱなからビビらせて気合入れるつもりだね、ごくろーさん、とへらへら聞いていたが……引き込まれていった。講師が話し上手なせいもあるが、やはり実話が持つ説得力ということだろう。
かいつまんでいうとこんな話――
- 378 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時22分29秒
「自分はやる気になればいつでもできる」と思っている人間は多い。そういう人間に限っていつまでもなにもせず「やればできる」を逃げ口上にするだけ。ここの以前の生徒でもいた。その人の場合は高三で大学受験だが。
二年前のことと思いねェ。その高校三年生、仮にIさん。けして頭は悪くないのだが、そのぶん勉強をなめているところがあった。本人はコツコツやっているつもりでも傍目には手抜きもいいところ。模試の成績が悪くても真剣になりきれない。
Iさん、結局なめたまま本番を迎えて、受けた大学に全部すべった。そしてまわり全員が5kmは引くほどのヤサグレオーラを垂れ流し、ナイフみたいにとがっては触るものみな傷つけた。同期は「ああならなくてよかった」と胸をなでおろし、後輩は「ああはなるまい」と気を引き締めたという。その後Iさんは東京の予備校に行って一浪で第一志望に合格したけどそもそもはじめからちゃんと勉強しとけば……云々。
- 379 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時23分15秒
- 気がつくと余裕の表情が固まりかけていた。頭が悪くはなくて「やればできる」が口癖の人、がジャスト自分だという気がしてきたのだ。自分がそのIさんにかわって「高校入試でイタイ目にあった、仮にNさん」とか再来年あたり話の種にされてる情景がリアルに浮かんだ。背筋が凍った。
まわりの連中は、そのIさんのことを「ふふん」と笑い話として聞いている。こいつらは自信があるんだ。焦ってるのは自分だけなんだ。やばいじゃないか、自分!
- 380 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時23分58秒
- そしてとどめの衝撃。
案内のあと、
「ではまずみなさんの実力を見ておきましょう。ま、なんてことない腕試しなので軽い気持ちで」
と実施されたテストだ。
その、「なんてことない腕試し」テストでグズグズになった。わからない、とばして次、とやったらすぐに問題用紙の最後になってしまった。記号はぜんぶ運を天にまかせた。記述は適当を書き散らした。論述はひたすら空白を文字で埋めた。できあがったのはお笑いぐさの珍答案。もうすぐ三年だというのに!
“おまえ、再来年『Nさん』決定!!”
神の声が聞こえた気がした。肩を落としシッポ巻いてすごすご帰った。マイペースでお調子者でちゃらんぽらんの新垣は、そのぶんシャレにならない状況にはからきし弱かった。
その後「強化コース」企画者の目論見どおり「高校進学コース」に入ったが、あのテストの夢はそれからもくりかえし見ることになったのだった――
- 381 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時24分43秒
「こら、Nさん?」
「ぅあっと?!」
こづかれてわれにかえる。ポニーテールがぷるると揺れた。
「やっぱり気を抜いてたでしょ。さっき寝たんだから、いまは集中集中」
「わるい、ちょっと考えごとしてて…」
「だめだって、そんなんじゃ! せっかく調子上げてきたのに!!」
普段トロい表情なのにキッと見つめて、紺野がえらく強い口調。ほわっとした声だけど芯の通った強さに新垣はびびる。
「…ごめんなさい」
「わたし、里沙がやる気だしてくれてすごくうれしいし、里沙にはもっともっと伸びてほしいんだ。里沙はできるはずだもの。だからこういう言い方するし、精一杯教えるの。わたしの気持、わかってね?」
「反省してます…」
「ちょっとでも気を緩めたらあっという間に戻っちゃうんだから」
「はい…」
「じゃ、再開ね」
- 382 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時25分42秒
- 部屋の真ん中にテーブルを置いて、二人向かい合っての個人授業。
熱心に古文の読解を解説する紺野をちらちら見て、新垣は考える。
出た。
「紺野センセイ」が出た。
最近は呼び覚まさないように気合入れてたのに、まずったな…。
あさ美ちゃん、いままでずっとふわっとやわらかい感じだったのに。自分が高校になってあたしが三年になってから、あたしの勉強にすごく厳しくなった。でも、こわいという以上に、なんか不安があるみたいに必死になった感じで。こっちが心配になっちゃう感じ。あたしが猛勉強して学力つけてからは引っ込んでたんだけど……
- 383 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時26分15秒
- 高校入学してすぐの紺野が、受験生となった新垣の勉強を必死に手伝ったというのは事実だ。それまではスチャラカな新垣に対して、それでも/だからこそ可愛いという感じだったのが、急に厳しくなった。なにか思いつめたように新垣の成績を気にして勉強を見るようになった。叱りつけるときは、逃げようのない理詰め。無茶苦茶怖かった。これまでの紺野からは想像もつかないが、でも、事実だった。
また、猛勉強した新垣がぐいぐい力をつけていったのも事実だ。万事そこそこ器用にこなせてしまう新垣は、これまで勉強に身を入れていなかったが、やる気になったときの集中力はすごかった。ふだん手抜き癖のある彼女、ここ一番で底力を見せるタイプだった。わずか二月ほどで、問題への理解の深さが別人のようになった。
- 384 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時27分27秒
- 二年以上通っていた塾は、親を説得してテストを受けるだけにした。紺野との勉強のほうがはかどったからだ。もちろん付きっきりで見てもらえるのは休みの日だけだが、毎週末渡される課題は、一週間勉強してお釣りが来るくらいだった。そして、そうなってから、紺野には少しずつ柔らかい表情が戻っていたのだが。
それなのにきょう、怒られてしまった。
やはり寝てたところを見られて、そのうえボーっとしてたからか、と新垣、反省モード。
反省した新垣、それからぐいぐい勉強した。
気を取り直してからはまったく集中力が途切れることなく、紺野のアドバイスを気持ちよく吸収していった。
- 385 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時28分01秒
- ◆◇◆
そして夕方の五時、勉強が終わって――
「………でさ、そいつ、「WHO」の正式名を日本語で答えよって問題に「誰」だって。チョーウケない? てかバカだよねー」
「…うん」
「マジじゃなくてネタなんだろうけどさ、でもテストでやんなって」
「…うん」
「一番だめなのは相手を考えなかったってことで。うちの学校、シャレの通じる教師なんていないんだから」
「…うん」
時間が来て帰ろうとした紺野を引きとめてのおしゃべり。
家がごく近いからそのくらいの時間は充分ある。
新垣としては、友人が張り詰めた感じのままで帰ってしまうのはどうにも心配だったから。自分を叱った人間の心配をしてしまう、新垣はそういうやつなのだった。
それでいろいろ話して解きほぐそうとしているのだが……
- 386 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時28分45秒
- 「つーか、そいつってあたしなんだけどね」
「…うん」
「真受けした教師がマジ怒り」
「…うん」
「バカだよねー、あたし」
「…うん」
「同情の余地なし?」
「…うん」
「…………ラムズフェルドってリチャード・ウィドマークに似てるよね?」
「…うん」
「……」
「……うん」
「おーい、紺野センセイ?」
「…あ、ごめん」
こづかれて目をまん丸くする紺野。シラケ顔の新垣。どちらかというとこっちが本来の形のように見える。というか、これまでずっとそうだった。
新垣は、やれやれ、という表情を作って見せた。さっきのお返しという意味ももちろんあるが、それだけじゃない。
まったく、一人でじっと悩んじゃって。あたしゃ置いてきぼりかっつーの。
- 387 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時29分21秒
- 「あのさーあさ美ちゃん。なにがそんなに心配かな?」
「え? いや、里沙のことは安心してるよ」
「そうじゃなくて。なんか別に心配あんでしょ、ウチらのことで」
「!…それは」
図星のようだった。
昔から新垣は、くわしいことはわからないままにいきなり核心をついてくることがあった。お調子者だからこそ、適当に放ったボールがど真ん中ストレート。今回もそうみたいだ。
そして紺野はなにか言いたそうに口を開いて――
「ごめん、ほんとになにもないよ」
結局こう。
新垣は不満だ。
へー、言わないんだ。おもしろくない。
んじゃ…アレ、持ち出してみるか。ちょっと違うだろうし、あたしも言いたくないけど…
- 388 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時30分02秒
- 「そりゃーね、なんのことかわかんなくもないよ?」
「え?」
「いや、ほら、さ…先月にさ…その、帰ってきた…」
「ストップ!」
今度ははっきりと拒絶された。
「里沙、その話はやめにしよう」
「ぅっと、それがうちらの心配ごとではあるわけじゃん」
「いまはどうにもできないよ。とりあえず考えないでおこう、ね?」
よし。
カマかけ成功。
「…ってことは、やっぱいま心配なのは、あたしのこと?」
「……」
「あー…っと」
「ほんとなにも心配なんかないよ…」
失敗した。ますます意固地になっちゃって。
たしかにあれは禁句だったけどさ、それにしたって…。ほんとにもう、この人、昔から頑固だからな。決めたら絶対に動かない。
――でもとりあえず、これだけ言っとくか。
「ねえ、大丈夫だって! 紺野センセイは優秀。新垣さんはそのまた優秀な生徒。なんも心配ないよ、これからも」
「うん…そうだよ。心配ない」
そういう紺野の弱い笑顔のほうが心配な、新垣だった。
- 389 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時30分39秒
- ◆◇◆
くたびれたアスファルトを、夕陽が寂しく染めている。
ジャリっ、とわざと音をさせてみる。
家への帰り道、歩きながら、さきほどに引き続いて紺野は考えこんでていた。
きょうちょっと、いやなわたしだったな。里沙がちょっと考えごとしてただけできつい言いかたしちゃって。里沙がすごい頑張ってるの、わかってるのに。勉強疲れで寝ちゃってたくらいなのに。
高校入って…それから…里沙の言うとおり、先月にあんなことがあって…でもって、やっぱり最近見たあの映画。あのショックがまだ残ってるんだ。だから必死になっちゃって、わたしなんかよりずっと必死な里沙に強くあたっちゃって。
でも里沙、わたしは一年先輩なだけだけど、おもいきり協力するって決めたんだ。里沙も真剣に頑張って。だって、わたしたち、ずっと友達でいたいもんね。わたし、勉強なんかで里沙を失いたくないんだ――
- 390 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時31分17秒
- “受験で新垣を失いたくない”
――それが紺野が必死になった理由。
高校に入学してすぐ、大ショックを味わった。
「義務教育までと、それから」で、環境がまったく変わってしまうということ。中学の進路決定のときからなんとなく予感していたことだけど、現実となってみると、本当にこたえた。
いまの高校は、すごくいやな言い方だけど「あるレベル以上の人」ばかり。自分で決めた学校だからそれは仕方ないし、いいんだけど、なんか一気に中学までの友達との距離が開いてしまいそうで…と思ったら本当にそうだったのだ。
元来、要領いい友達作りなんてできないし、したくもない、という性格の紺野。同級生の友人はただでさえ少なかったのだが、数少ない話友達ともろくに連絡が取れなくなった。むこうはむこうで楽しくやってるみたい。はっきりいえば、避けられてる。誇張でなく「あんたはアタマいい人なんでしょ」という空気がぶつけられる。
では、いまちょうど受験生となった一番の友達――十年来の親友・新垣とはどうなってしまうのか。新垣はどこへ行ってしまうのか。怖くて怖くてしかたなくなった。
だから、新垣には頑張ってほしい。自分の身勝手かもしれないけど、勉強なんかで距離をつくりたくない。絶対、嫌だ。
- 391 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時31分55秒
- だけど紺野は本心を絶対に新垣に話さない。さっきも話しそうになったがやめた。一瞬で浮かんだその理由は、
一つ。新垣の勉強の邪魔になる。
二つ。いま中学生の新垣には無縁の悩み。というか、そもそも新垣にはこんな悩みはわからない。
三つ。この悩みは自分に問題がある。他人に聞かせることではない。
四つ。なんにしても、新垣が勉強を頑張っていれば解決する。
こんなところ。
紺野あさ美、悩んでるときでも、もどかしいくらい冷静な人間だった。
- 392 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時32分30秒
- わたしの不安なんだけど。
里沙にはわからないだろうけど。
わたし、四月のうちから、とまどう里沙にかまわずとにかく教え続けて。里沙も応えてくれた。いや、もともと素質はあったんだ。あの子は自分が興味のあることにはどこまでも没頭するけど、嫌いなことは見向きもしないもの…ともかくそれで、実力をつけてった。
里沙の志望校は私の高校じゃないけど、それは別にかまわない。あの子がわたしに変な遠慮とか感じて溝ができなければいいんだ。志望理由が「制服を着たくないから」だって別にいい。いや、あそこは自由にやりたい里沙にとっては一番いいかもしれないし。
そうして、わたしはようやく気持ちが落ち着いて、このところ普通になってたのに。「あの人」のことも、なんとか…なんとか落ち着いて考えられるようになってたのに。
やっぱりこの前の、あれがねえ……
- 393 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時33分06秒
- 最近、高校の友達の家に何人かあつまったとき見た、すごく昔の映画のDVD。わたしが生まれたのと同じ年ので。みんな見たことなかったけど、すごいいい、感動するって評判だから見た。
『スタンド・バイ・ミー』っていうアメリカ映画。
少年時代の友情を、きれいな音楽ときれいな風景にのせて、せつなく描いてた。登場人物はみんな男の子だったけど、女のわたしにもその「子供の世界」がものすごくよくわかった。胸に迫ってきた。
終わって、最後にテーマソングが流れたとき、みんなボロボロ泣いた。わたしも泣いた。みんな、よかったね、感動したね、って泣いてた。だけどわたしはちょっとちがった。
怖くなったんだ。
- 394 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時33分49秒
- この映画は、子供の友情は成長とともに離れていくって映画だと思った。どんなに仲がよくたって、勉強とか家の環境とかであっさり離れてしまうんだ。そして離れてしまったら、もう戻らないんだ。描かれてるのは「子供の世界」なんだけど…もっと冷たい「社会」というか、なんだっけ、えっと、なんていうんだろう……そうだ、「階級」とか「階層」をはっきりと描いてしまっていて。
主人公の一番の親友が言ってた、頭のいいお前はバカな自分たちなんかと仲良くしてちゃいけないって。主人公を誰よりも思いやってあげているからこそ、そんなこと言うんだ。その親友は努力して進学コースに進んで、さらにその後は弁護士になったけど、つまり今までいたところから「上」に脱出したってことで。主人公は自分の生まれ育った小さな町を出て「成功」してしまう。それなのに、その後二人の友情がずっと続いていたとは、はっきり描かれてなかった。
そして最後に、大人になった主人公が、自分は子供のころ持った以上の友人を持ったことがないって……もう戻らない「昔」を懐かしむんだ。
- 395 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時34分42秒
- そんな話がものすごくきれいにせつなく描かれていて、きれいだと感動してしまう自分がいて、たまらなくなった。怖くて怖くて、たまらなくなったんだ。
映画の、努力して勉強した親友との友情がどうなったのかもわからなくて、じゃあいま自分が里沙にしてることってなんなんだろう、なんになるんだろう、ってますますわけわかんなくなった。
それだけじゃない。里沙に学力つけさせて、わたしのほうに引き込んで…そしたら里沙が今のわたしとおんなじになっちゃうんじゃないのか、って今さら気がついた。考えないようにしてたのが、一度迷いだしたら気がついてしまった。
でもでも、だからって、いまさら他にどうしたらいいかもわかんない。
それになにより…
なにより、「あの人」のことが余計に強く浮かんできて…
それからは、夜中に心臓がすごくドキドキして目が覚めたら涙がブワーって溢れてる…なんてこともあって。
- 396 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時35分23秒
わたしのこんな悩みは、まわりの子たちには通じないみたい。
話したわけじゃない。通じなさそうだから話さない。たいていの子たちは別に友達が変わったとか考えない。すごく明るく楽しそうだ。きっと実際に変わってないんだろう。なんか悩んでるふうの子たちも、すごく「お高い・偉い」ことを考えてるみたいだし。
本当に素直に真っ直ぐ明るい子も、中にはいるようだけど。わたしにはちょっと無理だ。なんであんなに真っ直ぐ笑えるんだろう、って思っちゃうもの………
- 397 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時36分10秒
- ◆◇◆
考えこんでいて、むこうから来る人にずいぶん近づくまで気がつかなかった。とぼとぼ歩いているその小さい人影は――
「真里ねーちゃん…」
「…あ。ああ、あさ美」
そのひどく小柄な女性は、声をかけられてはじめて気がついたようだったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「どうしたのこんな時間に…って、そりゃ里沙の勉強見てやってたんだよね?」
「うん、そう。真里ねーちゃんは…」
「やー、ほんとあさ美は里沙によくしてやってるよね。えらい! わたし、感心するよ」
「そんなことないよ、真里ねーちゃんだって昔よく…」
「あいつ昔っから器用でテキトーだったけど、あさ美がきっちり引き締めてくれて、それがいいんだよ。あさ美は教え上手で里沙は学び上手ってやつ? 二人は最高! だね」
「ねえ、二人じゃなくて三人でさ…」
「うんうん、こうして二人ともどんどん優秀に成長していくんだな〜。おねーさんはうれしい」
紺野はやりきれなくなった。
まただ。またこっちに話させてくれない。
そしてきっとまた言うんだろうな、言わないでほしいのに…
- 398 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時37分47秒
「あ、いっけね。あんたもう、わたしなんかと話してちゃだめだよね、ごめん」
- 399 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時38分19秒
- 「……」
「ま、それでもわたしなりに里沙のこと応援してるから、伝えといて。じゃ、二人ともがんばってね」
黙り込んでしまった紺野をおいて、彼女は足早に去っていった。
- 400 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時38分50秒
真里ねーちゃん、あいかわらず…元気なかったな。こっちに話させてくれなくて、陽気にしゃべり続けて。笑顔だったけど。やさしい声だったけど。元気なかった。わたしに気がつくまで、なんかたまらない無表情だったもの。こっちが声をかけてあわてて笑顔をつくってた。
それにまた言った、あの言葉――あんなこと言わないでよ…
- 401 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時39分38秒
- ◆◇◆
「真里ねーちゃん」こと矢口真里。
紺野と新垣の、年の離れた幼馴染。悪ガキな真里ねーちゃんに二人の親はあんまりいい顔してなかったけど、とにかく三人は仲がよかった。いま思えば危険なことしてたなーと思うことや、いま思うと悪いことしてたなーと思うことなんか、三人でよくやった。頼もしい「隊長」だった。
背はちっちゃいけど、情に厚くて陽気で頼りがいがあって、とにかく行動力がある。そしてなにより、笑顔がとびきり素敵な真里ねーちゃん。二人とも、大好きだった。
真里ねーちゃんが高校生になってからは(自分で「アホ校」と言ってたけど)さすがに小学生の二人とはちょっぴり距離ができた感じで、もう「隊長」じゃなくなっちゃったけど。でもやっぱり、頼りがいのあるいいお姉ちゃんであることには変わりなかった。相変わらずの「悪ガキ」真里ねーちゃんだった。
- 402 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時40分31秒
- 高校生の真里ねーちゃんはよく言っていた。
『わたし、もうすぐここ出てくんだ』
『独り立ちすんの』
『あんたらの真里ねーちゃん、もっとかっこよくなるよ?』
『どっか消えちまうわけじゃないしさ、あんたらにはどうにか連絡してやるよ』
小学生の二人には、真里ねーちゃんの言ってる意味がよくわからなかった。
ただ、そう言う真里ねーちゃんの横顔を、かっこいいなあ、と思うだけだった。
だけど…本当にふいにいなくなってしまったのだ。四年前のことだ。
わけわかんなくって、二人ともすごく悲しかった。あんなに仲良かったのに、なんで黙っていなくなっちゃったんだろう。そりゃ高校生ともなると色々あるから…なんて、二人にはわからないことだった。
でも、そうだ、真里ねーちゃんは連絡をくれるって言ってた。きっとどこにいるか教えてくれるんだ…と思ってたのに、なにもなかった。
どうしちゃったの?どこいっちゃったの? 四年間、紺野も新垣も彼女を忘れたことはない。いまなにをしてるのかな、とか、また会いたいなとかいつも思ってた。
- 403 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時41分07秒
- それがなんと、ひょっこり戻ってきた。今年の五月のことだ。
ほんとうにびっくりして、嬉しかった…んだけど、なんかすっかり変わっていた。ケバケバしくなったとか以上に、昔の素直な明るさじゃない、痛々しいカラ元気。
なんでいなくなったのか、いままでなにをしてたのか、真里ねーちゃんは話そうとしないし、大人たちも教えたがらない。せいぜい東京で暮らしてたってだけしかわからない。
でも、その東京で、嫌なことがたくさんあったんだってすぐわかった。こっちでも楽しくなさそう。大人たちはひそひそ陰口。すごく冷たい目で真里ねーちゃんを見る。それでも真里ねーちゃんは、ただ笑ってるだけで。それは二人が知ってる笑顔とは似ても似つかない、悲しい笑顔。
- 404 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時42分23秒
- なにより二人にすごく遠慮するようになっていた。
紺野が「頭のいい高校」に入ったことを知ると、『さすがわたしなんかと違うわ』なんて言った。新垣には『わたしみたいにアホ校入るなよ』なんて言った。
環境が友情を引き裂くという紺野の不安を、あっさり認める言葉だった。
せっかく戻ってきたのにもう昔の真里ねーちゃんじゃないんだ、あのころの三人には戻れないんだ、終わっちゃったんだってむちゃくちゃ悲しくなって。あまり会わなくなってしまった。近所だからたまに顔を合わせることがあっても、余計気まずい――
- 405 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時43分28秒
- ◆◇◆
真里ねーちゃんの小さい後ろ姿が、遠くの角に消えた。
消え方までちっちゃくちっちゃく見えた。
たまらなく寂しく見えた。
真里ねーちゃん…なんか、『スタンド・バイ・ミー』の男の子みたいじゃないか。
真里ねーちゃんが遠くに行っちゃって。
だからわたし、余計に理沙のことが心配になってるんだよ?
はーー、っと大きなため息を一つついて、紺野はとぼとぼと家に向かった。
- 406 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時43分58秒
- ◆◇◆
うーん。やっぱ真里ねーちゃんのこと持ち出したのはまずかったよな。
でも、あたし自身以外であたしらの心配ごとっつったら、一番確実なのはアレしかなかったし。そりゃあカマかけに使ったのは悪かったけどさ。
紺野を見送ったあと、部屋で一人反省会の新垣。
うん、あたしが心配なのはあさ美ちゃんと真里ねーちゃんだ。
あさ美ちゃん、あたしに勉強を教えてくれるとき、ほんとに必死だ。
真里ねーちゃん、自分みたいにアホ校入るな、なんて悲しいこと言った。
うーん…
うー……ん
……………
…うん。
やっぱあたしが勉強するしかないじゃん。
それしかないよ、やっぱ。
- 407 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時44分36秒
- 新垣、あっさり結論を出した。
それも――
あたしにとって大事な友達って、あさ美ちゃんと真里ねーちゃんだもん。一番の親友だもん。
中学の友達なんかより、ずっとずっと大事だもん。
紺野よりよほど友達の多い新垣。というか、人並みはずれて友達の多い新垣。
紺野と反対に、要領のいい友達作りに長けた新垣。浅く広く人づきあいできる新垣。
そんな新垣だからこそ、幼馴染二人との深い絆を大事にしていた。
紺野は、新垣に勉強の実力をつけさせることが新垣の友達づきあいを壊さないか、不安に思っている。でもそれはちょっと違う。新垣は親友との関係のためなら、ほかとの付き合いをそれこそ要領よく切ってしまえるだろう。
もちろん要領のいい新垣のこと、どっちの関係も壊さないで巧いことやってくに決まってる。
それでも…本当に二択となったら答えはもうとっくに出ている。
それが中学生の幼く浅い考えであるとしても。
よーっし、がんばろ。
なんたってあたし、器用だもん。
軽妙な、決意。
部屋で一人、うきうき顔で学習机に向かった。
- 408 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時45分20秒
- ◇◆◇◆◇
七月。
誰がお調子者だろうと。
誰が悩もうと。
誰がカラ元気だろうと。
そんなことに関係なく、時間は流れる。
すたすた進む。
進む毎日の中、紺野は、落ち着いたように見えてやはり張り詰めたままだった。少なくとも新垣にはそう感じられる。だから部屋でのあのやりとり以来、ずっと話を切り出せない。なにが心配か聞き出せない。面白くないけど、仕方ない。
ただ勉強の日々。
だから新垣、期末テストの結果は相当なものだった。
が、二人とも学校の試験など最初から眼中にない。紺野はそれほど必死になっていたのだった。
そしてもう夏休み。
もちろん受験生にはそんなものない。というかいわゆる「天王山」。
いまや紺野はほとんど一日おきくらいで見てくれる。
- 409 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時45分54秒
- そんな「天王山」なある日の昼下がり、新垣は近所をプラプラ歩いていた。
きょうは一人で勉強する日。紺野センセイに怒られることはない。
特にどこへ行こうというのではない。ここ数日、紺野との勉強も含めて一日十四時間というひどいペースで勉強していたため、ちょっとボーっとしてきてしまった。うへーっという気分になって、静かに暑い路地を歩いてやれとなってしまったのだった。
そう、自分から望んで歩き出したのだが――
なんだよー、やっぱ暑いじゃん。
そりゃそうだわな、夏だもん。
夏…夏だよ夏! 雲は白いしお日様は元気、とくらあ。
プール行きたい…海行きたい…行きたい…◆£とか℃●とか誘って…
あたしもう相当レベル上がったはずだよね。うん、がんばってるよね。ちょっとくらい休んだっていいじゃん…休んじゃえ、きょうは……
…ん?…なに?!
休んだっていいとか、いまの誰だ?! 誰だそんなあぶないこと言うの!
…ああ、あたしか。
やばいなー。暑さで脳をやられるってやつ? せめて帽子くらいかぶってくりゃよかったよ…
…っと、あ――
- 410 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時46分25秒
ふと我にかえると、あらためて、静かな路地だった。
両脇の生垣のむこうから、昼のぬるいテレビ番組の声が飛んでくる。
今朝這い出てきたばかりなのか、セミが不器用に鳴いている。
電信柱の根本にぽつんと置かれた、遅く出された可燃ごみ。
そんななか、一人だけの、静かな路地。
うわー…
なんか。
なんか、いいなあ…
うん、やっぱ歩いて正解だったな。
しみじみしてしまった。
よし。
気持、おさまった。
帰って勉強するか。
――あれ?
いま、この路地は自分一人ではなかった。
見知った人影が見えた。
- 411 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時47分21秒
- ◆◇◆
冷房の効いた勉強部屋。
きょうもきょうとて、紺野は新垣の部屋で勉強を見てやっている。
新垣はいつになく真剣な表情で、まるで無駄口・軽口を叩くことがない。紺野のほうが最初とまどったが、すぐに教えることにのめりこんだ。
最近は知識面の補充はほぼすんでいる。あとはその使いかた。そして器用な新垣が気を緩めないように引き締め続けるのがメインだ。問題を解かせて、その解に至る筋道をきちんと説明させる。教え始めの頃は平気で「選択肢の文が一番長いのと短いのを消して…」などと答えたものだが、さすがにそんなことはない。それでもちょっとでも論理展開に飛躍があれば、きちんと指摘して考えさせる。
- 412 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時47分51秒
- いまや、紺野は新垣を教えることだけに集中している。夏の天王山ってやつだから当然とはいえ、真里ねーちゃんのことを考えないようになっていた。新垣との間で話題にすることもなかった。
自分が今やらなければならないのは、里沙の学力を本物にすること。それだけ。真里ねーちゃんとどうしたらいいか、とか考えてるわけにはいかない。わたしは、わたしたちは、自分がやらなきゃいけないことを、自分でがんばるしかないんだ。それは仕方がないことなんだ。
…というのは言い訳だ。
いや、もちろん紺野の考えはとても筋が通っていて、そりゃそーだ、てなものだ。常識的に。客観的に。そして、紺野自身そこまでわかったうえで、それでも思ってしまう。
自分は里沙を言い訳に使っている。真里ねーちゃんとどうしたらいいのか全然わからないからって、そこから逃げてる。なのに自分で頑張るしかないなんてよく言うよ。里沙の「自分のこと」を、わたしの「自分のこと」にすりかえて。いま、逃げてる。
なら…なら、いま、ちゃんと里沙に向かい合ってるって言える?……
- 413 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時48分28秒
- 「きのう真里ねーちゃんと会ったんだけど」
「え!?」
いきなり意外な言葉が飛んできた。
見れば新垣は筆記用具を置いて、ひどく真面目な様子。きょうは最初から口数も少なくてちょっと違う気がしていたのだが、切り出すタイミングを計っていたようだ。
そして紺野を確かめると、話しだした。
「真里ねーちゃんに会ったのね、昼に近所歩いてたら」
「う、うん…」
「たまたま、だったんだけど…」
「どうしたの?」
「それがねえ……」
- 414 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時49分21秒
- ◆◇◆
真里ねーちゃん――!
声が出なかった。
いま声をかけなきゃ、いま絶対に声をかけてあげなきゃだめだ、と思ったのに。
すぐには声が出せなかった。
こっちに気づいてない、その小さな人影。
真里ねーちゃんは…むごたらしいほど、寂しげだった。
なんかやなことがあったとしか思えない。そりゃ今年帰ってきたときから楽しくなさそうにしてたけど、でもそんなもんじゃなかった。
声かけなきゃ、頑張れあたし!
「真里ねーちゃん…」
ひどく弱い声になってしまった。
「ん?…ああ、里沙、こんちは」
真里ねーちゃんの笑顔は、もっと弱かった。
しかも曖昧に黙り込んでしまって。これまでならすぐに『大事な時期に受験生がブラブラしてちゃいけないなー』とかたて続けにまくしたてて、こっちに話させてくれなくて『んじゃ頑張れよー』とか言ってそれで悲しくなるのに…それすらなかった。
- 415 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時50分27秒
- 「あさ美、元気してる? こないだ会ったとき、やけに元気なかったけど」
「え、ああ、元気…だよ」
ほんとは心配だけど、とりあえずそう言った。
だって、真里ねーちゃんのほうがよほど元気がないから。
「真里ねーちゃん、ねえ、どうしたの?」
「うん………」
「……」
真里ねーちゃんは黙り込んでしまった。
そしてやがて、ぽつりと吐き出した。
「なあ里沙、後悔したこと、ある?」
「え…なに言ってんの? 真里ねーちゃん」
「大事にしなきゃいけないものってあるのにね…」
「あの…」
- 416 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時51分06秒
- 寂しそうな笑顔を貼り付けた真里ねーちゃん。新垣に言ってるようで、まるで独り言だった。
「後悔なんてしないって、意地張ってやってきたんだ、わたし。そのはずだったんだ…」
「……」
「後悔ばかりだよ」
「やめてよ真里ねーちゃん…」
「あんたの真里ねーちゃん、後悔ばっかりだよ」
「やめてよ!」
いやだ。
いやだよ。
そんなこと言っちゃいやだ!
胸がぎゅ―ってなった。鼻の奥がツーンとした。
必死でこらえた。
真里ねーちゃんが微笑んでたから。
- 417 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時51分44秒
- 「ねえ、ほんと、なにかあったの?」
「うー…ん。あのなー……いや、人にぶつけないで自分ひとりでしょわなきゃだめ、なんだよね? 耳が痛いや、うん。笑われちまう。怒られちまう」
なんだろう、真里ねーちゃん、ひとりで納得してる。誰に話してるの?
いまさらだけど、聞かずにいられなかった。
「あの、真里ねーちゃん、なにかあったんでしょ? 大丈夫?」
そしたら。
今度はこっちむいて、ゆっくり、はっきり言った。
- 418 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時52分47秒
「わたしが大丈夫じゃなくても、あんたは頑張れ。あんたが大丈夫じゃなくても、わたしは頑張るから」
- 419 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時53分19秒
- 「…!」
「な? そういうこと」
言ってる真里ねーちゃん、全然大丈夫じゃなさそうなのに。でも、そんなこと言った。
そしてそのときの真里ねーちゃんの笑顔。
昔の素敵な笑顔とは全然違う、すごく傷ついて痛々しい笑顔なんだけど。
でも、弱々しくはなかった。
あからさまに、無理矢理の笑顔だし。
いい笑顔なんかじゃ絶対ないと思うけど。
なんだろう、頑張れ!って言いたくなる笑顔だった。
なんか、かっこいいと思った。よくわかんないけど、すごい、と思った。
胸のぎゅ―っとした感じや、鼻の奥のツーンとした感じは、いつのまにか消えていた。
- 420 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時54分01秒
- ◆◇◆
「『わたしが大丈夫じゃなくても、あんたは頑張れ。あんたが大丈夫じゃなくても、わたしは頑張るから』、だよ?」
真里ねーちゃん、そんなこと言ったんだ。
「へへ、すごいこと言うよね」
「うん…」
紺野は気がついた。
話していた新垣が、いま、どこか強い輝きを感じさせる。
つらいことを話したはずなのに。
少なくとも、聞いていた自分はとてもつらく感じていたのに。
「で、あらためて思ったんだ。あたしも、とにかくやるだけやろう、って」
「そうなんだ…」
そう言った新垣は、お調子者の中三とは思えないほど頼もしい笑顔だった。
そういうわけか。
新垣はちゃんと決めたわけだ。進もう、と。
- 421 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時54分31秒
- その決意をまぶしく思う一方…紺野はまた不安も覚える。新垣も自分も、自分で頑張ることにして、真里ねーちゃんも自分で頑張って。
それしかないと思っていたけど、新垣の口からあらためて聞かされると、それはやっぱり、みんなバラバラになることじゃないのか、と思える。
そしてまたも思い出す、あの映画。
『スタンド・バイ・ミー』の子たちだって、きっとみんな自分のことを頑張って、そして離れていったんだ。それぞれが頑張るっていうのは、かっこいいようだけど、要はそういうことなんだ。これではそのうち、新垣までも失うことになるのじゃないのか。
だから紺野の悩みは変わらない。
親友を失うんじゃないか。
失ったらどうしよう。
離れていった真里ねーちゃん。
いま隣にいる親友は、どうなるのか。
口にださないと決めた悩みを、抱えてる。
- 422 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時55分21秒
- 一方の新垣。
あれだけつらい話をしたというのにシリアスモードが長続きしない。根っからのお調子者だからして、言うだけ言うとものの見事に元に戻っている。それはそれは、あっさりと戻ってる。「すごいこと」を言われたから、という以上に、そこはやはり中学生ということか。
でもって親友の心配顔が、あいかわらず面白くない。
「ねーねー、紺野センセイ。言ってみ言ってみ、お悩みぶつけてみ?」
「ちょ、真里ねーちゃんの話でしょ…」
「もうそれは終わったの!」
「う…いや、なにもないって」
「ウーソーだーね! なんか隠してるね!」
「なんにもないです! はい、おしまい。続けるよ」
やっぱり頑固者のガードは固かった。
だけど新垣だってしつこいのだ。
自分はすごくがんばっている。紺野はそれを認めなきゃいけない。そして誠意ってやつを見せなきゃいけない。よし、きょうこそ逃がさないからな……
新垣、やる気満々だった。
- 423 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時55分58秒
- ◆◇◆
そしてまた、二人で雑談する夕方。
「ふー、きょうははかどったなー」
「うん、すごいすごい。里沙、どんどん調子上げてるよね」
「どこまでレベルが上がっていくんざましょ…やーん、こわい! 出来すぎる自分がこわい! 美人で性格よくてそのうえ頭もいい自分がこわい!! ね、もう勉強いいのではなくって?」
「もう! またそんな…」
「うっそぴょーん!」
ぴょんぴょんぴょんと、紺野相手でなければ、中指の第二関節を突き出したいわゆる中高一本拳をコメカミに叩き込まれるだろう仕草をしてみせる。そして眉根をせつなく寄せて胸の前で両手を組んで、「お願い」ポーズ。
「これだけ勉強がんばってるからさ、あさ美ちゃんの悩み、いーかげんに話してくださいませ。里沙たんの胸、張り裂けそうよ?」
- 424 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時57分09秒
- 目をくりくりさせるリスのようなその表情に、紺野はふっと気が緩んでしまう。
真里ねーちゃんのこともあって、やっぱりガードが甘くなっていた。
つい数時間前に話を終わらせたばかりなのに、まったくもう。
くわしくは言えないけど…肝腎なところだけ。
正面から目を見据えて言う。
正座して言う。
「里沙、わたしたち、ずっと友達だよね?」
「な、なになに? いきなりマジ顔で。ちょっとこわいんだけど」
「すごく大事な話なんだ。ね、これからもずっと友達でいるよね?」
「う…そりゃもう二人の友情は永遠ぴょん!」
「里沙ってば!!」
「ひえっ」
マジな場面からはすぐ逃げたくなる新垣、自分から振っておきながらちょっと困る。だけど親友は思いつめた表情で迫ってくる。うう、この人のこういうまっすぐで大マジなところ苦手だし……大好き。
- 425 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時57分45秒
- 「え〜? 先のことなんかわからないよ。明日クルマに轢かれて死んじゃうかもしれないし、チョー最高の彼氏ができてほかに誰も目に入らなくなるかもしれないし、あたしら友達から恋人に一歩前進するかもしれないし、あと…」
やっぱりこのお調子者に話したのは間違いだったのだろうか。紺野は表情を曇らせる。
「あ、怒った? いやほら、そんな簡単に“この先ずっと”とか“絶対に”とか言えないじゃん、やっぱ。新垣さんなりにね、真面目に考えてますよー?」
「里沙…」
- 426 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時58分35秒
- 実際、新垣はお調子者なりに考えていた。せっかく紺野が、ちょっとだけだけど答えてくれたのだ。
紺野は自分たちが友達でいられるか悩んでいる。それは勉強に関係してるらしい。自分からしたらよくわからないけど、すごく大事なことなんだろう。だから大事に考えると、なんだろうと「絶対」なんて言えない。でも、勉強は自分の意思でがんばってるからオッケー。このまま友達、というのもたぶん問題ない。
「真里ねーちゃんも、あたしも、あさ美ちゃんも、大丈夫。たぶん、大丈夫」
「たぶん、か…」
「うう、だからね、絶対なんてのはさー……」
「そうだよね、うん、ありがとう」
紺野は泣き笑いといった表情でうなずいた。
一方、やはり新垣は釈然としない。
すっきりしない笑顔だ。
よし。
「あさ美ちゃん、あした二人で真里ねーちゃんとこ行こう!」
「へ?!」
- 427 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年07月31日(木)23時59分18秒
- ◆◇◆
「YAGUCHI」と単純明快な看板が出ている、かつての「矢口酒店」。いまは経営が苦しくなって、なし崩しにスーパーもどきになりかかって、それでも方向がはっきり定まらずとりあえず酒屋ということになっている、近所の店。
そこの裏手に、二人は来ていた。
なんか正面からは行きづらかったのだ。
昔は週に何度も来ていたこの店だけど、今年はこれが二回目だった。
「里沙、どうすんの?」
「えーっと、よくわかんない」
「なにそれ!」
なにそれと言われても、新垣は困る。
いーからいーから、と紺野を説き伏せて二人で来たけど、来たところで、真里ねーちゃんに会ったところで、それでどうするのか、よくわかっていない。
あえて言えば、あらためて自分達二人の姿を見せておきたいってだけだ。
さーて、どうすべェ。
などと思っていると、裏口からちっちゃい人影。よたよたと一升瓶のケースを抱えた真里ねーちゃんが現れた。
二人を見て、ギョッとした顔。
- 428 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時00分02秒
- 「あんたら…」
「こ、こんちは! 真里ねーちゃん」
「う、うん…こんちは。っつーか里沙はきのう会ったばっかだよね」
やっぱり元気なさそうだけど、新垣のでかい声に応えてはくれる。もてあまし気味の一升瓶ケースをコンクリの地面において、怪訝な表情。
「どうしたの、こんなとこで」
「えっと、あたしとあさ美ちゃん、元気だよって」
「…そりゃわかるけど」
「真里ねーちゃんも、ね?」
真里ねーちゃんが暗い表情になった。
「わたしはいいからさ、それよりあんたら、こんなとこにいないで――」
「よくないよ!!」
紺野がふいにさえぎった。真里ねーちゃんが悲しいことを言い出す前に、さえぎった。
びっくりしてる真里ねーちゃんに、ぶつける。
「ねえ、わたしと里沙は頑張ってるよ。真里ねーちゃんもそうなんだよね? だから大丈夫って言うんだよね?」
「あさ美…」
「でもね、一人じゃなくたっていいじゃない?…っていうか、真里ねーちゃん、大丈夫じゃないよ。一人だけで頑張ってちゃ、大丈夫じゃないよ!」
「………」
紺野は言いたかった。
一人で頑張らないで、三人で頑張ろうよ。昔の三人に戻ろうよ。
- 429 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時00分52秒
- 「ね、真里ねーちゃん、一人じゃなくてさ」
「そう、だね…」
「そうだよ!」
「うん、お互い一人になっちゃってるけど…」
「?」
なに? 真里ねーちゃん、「お互い」ってなんのこと?
紺野はわからない。
一方新垣は神妙な面持ちで、紺野と真里ねーちゃんを交互に見つめた。
そして、真里ねーちゃんはとても真面目な顔で黙り込んで…やがてつぶやいた。
「うーん…一人じゃだめ…一人じゃなくてもいい…のかな…」
もっとなにか話したそうにしてた。
でも、そこで笑って首を振った。
「いや、やっぱいまのわたし…一人でやるしかないんだよ」
「……」
「なんつーか、ありがとね、あさ美。里沙も。でもいまは、どうもなんないや」
「真里ねーちゃん…」
「ははっ、オトナにはオトナの事情ってもんがあんの。な?」
紺野が初めて見る、その表情。
もしかしてこれが新垣が言っていた、痛々しいけど弱々しくない笑顔、なのだろうか。
なんか、納得してしまいそう…
「んじゃわたし、これから配達があるから」
- 430 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時02分10秒
- 「うん、行ってらっしゃい! あたしらも帰って勉強するよ」
隣りの新垣が元気よく言った。
驚いて新垣のほうを向いて固まる紺野。
そんな紺野をほっといて、おうそうか頑張れよー、うん頑張る、と二人は挨拶を済ませてしまっていた。
あっさり引っ込む真里ねーちゃん。そして新垣は紺野の手を引っぱって、もと来た道をぐんぐん歩き出した。
「ちょっと里沙! 痛いよ、なんなの?」
「真里ねーちゃんの表情、見たよね?」
「え!?」
ぴたっと立ち止まった新垣が、紺野の顔を覗き込んできた。
「あの笑顔で真里ねーちゃん言ってたよね、オトナにはオトナの事情があるって」
「う、うん」
「どんな事情かよくわかんないけど。あたしらにはわかんないことだって、そりゃあるよ。真里ねーちゃんのほうが全然オトナだもん」
「里沙…」
「真里ねーちゃんには真里ねーちゃんなりの、やらなきゃなんないことがあるんだよ。でさ、あたしらはあたしらなりに、やることやろう。オッケー?」
きのう言ってたこと、もう一度念を押された。
紺野は思った。
新垣はまた、お調子者なりの適当ストライクを決めたんだ。
- 431 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時03分08秒
- それぞれが、それぞれで、やることをやる。
そのことにすっきり納得いったわけではない。いまだにわだかまってる。
ただ、納得いかなくてもどうにもならないということ。そのしかたなさが、実感された。
あの映画へのこだわりが、ちょっと薄れていた。
「帰ろう、里沙」
「あ、うん」
紺野のほうが先に歩き出した。
隣りの新垣の手をぎゅっと握って、前を向いたまま、紺野が聞いた。
「里沙、わたしたち、ずっと友達だよね」
「…うん、たぶんずっと、ね」
「たぶん、か…」
「たぶん、ね…」
きのうと同じやりとり。
やっぱりすっきりとはしていない、紺野の笑顔。
でも新垣は、それで納得しようと思った。
- 432 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時05分33秒
- ◇◆◇◆◇
八月。
ギラつく暑さの昼間、近所の公園の木蔭で、紺野と新垣がコンビニで買ったアイスを食べている。
真里ねーちゃんと会った日から、そんなに日にちはたっていない。
だけど二人はあの日がすごく重大な日だったんだと思っていた。なんかえらくオトナになったような気がした。
紺野にとって、あの日は「しかたない」がわかった日だった。以前の、迷いまくった上での「しかたない」ではない。届かないところというものがあって、隣りの新垣のために精一杯頑張ればいいんだと本当に決めた日だった。ちょっと苦い決心だけど、決めた。
新垣にとって、あの日は「紺野がなんか変わった日」だった。『ずっと友達だよね?』が相変わらず引っかかっているし、張り詰めているけど。なにかを決めた感じだった。
とにかく二人、身を入れて勉強した。
で、いまは、すごく身を入れて煮詰まった気分転換の公園。さらにちょいと用事もあるのだが。
- 433 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時06分27秒
- アイスを食べている新垣は上機嫌だった。ガリガリ君で当りが出たから、ではない。いや、それももちろん嬉しいが、なによりも、こないだの模試で五科目合計四百点以上をたたき出したのだ。紺野の指導のおかげもあるとして、すごいじゃん、自分、という気分だった。最近は例の悪夢もあまり見なくなっているくらいだ。
だから当然、口数も多くなれば声も大きくなる。
「……でね、中学生相手に“セミの命は一週間”ってさ!」
「はは、なんかほのぼのしてるね」
「地面の下で七年間、地上でたった七日間って、あの目はシャレじゃなかったな」
「カンドー的な話じゃん、泣いてあげなよ」
「無理無理。だってさ、七年も生きられるんだよ? ならそっちがメインじゃん。で、最後の最後、繁殖するために出てくるわけだよね。自分が生きるためじゃなくて」
「そりゃね」
「てことはセミが飛んでるのって……セーショク器が空飛んでる? きゃー。ホタイの授業でやれっての!」
「………しかも鳴いてるわけね、セーショク器が」
「いやぁー! 紺野センセイが欲求不満だわ〜。男子生徒、気をつけろー!」
「……………」
- 434 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時15分25秒
- お調子者にあわせてあげるのは、とても疲れる。
まあいいや。そんだけ有頂天になるほどの結果を出したのだ、たしかに。
それになにより、武者震いってやつだろう。きょうの行き先を考えれば――
「じゃーあさ美ちゃん、行こうか」
「うん」
アイスの棒をゴミ箱に捨てて。
きょう、二人は真里ねーちゃんのところに行く。
新垣が、模試とはいえ結果を出したからだ。
二人は頑張ってる。
その証拠をきちんと持って、あらためて真里ねーちゃんのところに行く。真里ねーちゃんが頑張ってるのを見せてもらう。それに二人が納得いかなかったら、どうでも二人で真里ねーちゃんを元気付ける。
コドモなりの、決意と行動。
- 435 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時16分17秒
- 新垣にとっては、自分の成果で解決してやる、という気概。
紺野にとっては、さらに複雑。
この成績は、新垣を失うまいとする自分の努力の結果でもある。だけど、なんか…まだ不安なのだ。というか、これでは安心できないのだ、違う気がするのだ、親友のままでいるのには。
そして、「アタマいい」への遠慮がある真里ねーちゃんに、これを見せたらどうなるのか。本当に、自分達の気持ちをわかってくれるのか。
いろいろ、ややこしいところはある。
だけど決めた。
真里ねーちゃんにオトナの事情があって、こっちがコドモだというなら。
コドモなりのやり方を、認めてもらうしかない。
- 436 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時16分56秒
- 「あー緊張するなー!」
「わたしだってそうだよ…」
どうにももぞもぞしてしまう。
なかなか出発できないでいたところ……
- 437 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時17分35秒
- 「こらー! そこの二人!!」
いきなりカン高い声が後頭部に飛んできた。
「「真里ねーちゃん?!」」
もちろん真里ねーちゃんだった。
こっちから行こうと思っていたのに、機先を制されたみたい。
というか、びっくりだ。
なにがびっくりって、こんな突き抜けた声。まるで昔の――
- 438 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時18分13秒
- 「ったく、おぜうさんが昼間っからでかい声で、セーショク器が空飛ぶとかなんとか……てか、オイラのことは「隊長」って呼べい!」
「オイラ…」
「隊長…」
二人とも目を丸くした。
自分の耳が信じられない。
『オイラ』
『隊長』
懐かしい言葉だった。どっちも、三人で遊ぶときしか使わなかった言葉。昔でさえ、真里ねーちゃんが高校生になってからは恥ずかしがって使わなくなっていた言葉。
さらに、その笑顔。その姿。腰に手を当て仁王立ち。
もしかして……真里ねーちゃんが、われらが「隊長」が帰ってきた?!
- 439 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時19分08秒
- 「隊長! いったいどうしたんでありますか!」
びっくりしながらも新垣はノリがいい。二十歳の人間に「隊長」など、言われるのと同じくらい言うほうも恥ずかしいはずだが、気にしていない様子。というかこの呼び名を口にできることがうれしくてならないみたい。だって、真里ねーちゃんだって、胸を張って堂々と「オイラ」って言ってる。
「おう、ニイガキ隊員、コンノ隊員、命令だ。あした総合体育館のプールに行くぞ!」
「そりゃまた、いきなりであります!」
「いいんだよ。おめー成績よくなってんだろ? 明日、二人に面白いやつ紹介してやるよ。背が結構あって、色白くて、美人だぞ〜」
「もろに隊長の好みであります!」
「お、コンノ隊員も調子が戻ってきたな。オイラはうれしい!」
「「われわれもうれしいであります!」」
ほんとうだ。なにがなんだかわからないけど、隊長が帰って来たのだ。めでたいのだ。
- 440 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時21分49秒
- 「オイラが電話かけても取り次いでくれないかもしれないし、どうしようか考えてたんだけど…新垣隊員はしょうがないけど、紺野隊員、携帯持てよ? いや、持ってるか聞いたこともないけどさ…とにかく会えてよかったわ。ニイガキ隊員のでかい声は遠くからでも丸わかりなのな」
「光栄であります!」
紺野が口を挟む。
「えっと、隊長、あの、なんだか、すごく元気そうであります!?」
「ん…ああ、いやその、な」
真里ねーちゃんはふいに、照れくさそうにして頭を掻いた。
「こっちはこっちでさ、なんとかなったっつーか…へへ、正直、自力でなんとかしたんじゃないんだけど……うん、完全にむこうさんのお蔭なんだけどさ」
『むこうさん』?
『むこうさん』…『面白いやつ』…そういえばこないだ、『お互い一人になっちゃってる』とか言ってたけど。
「片付いてみればさ、コンノ隊…あさ美の言ってたとおりだったわ。一人で突っ張ることなかったな…ま、結果オーライ、うん」
なんだか一人で納得してる。
- 441 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時28分12秒
「とにかく、あしたの朝九時、あの駐車場でな!」
「「ラジャ!!」」
忠実な隊員の返事を確認すると、隊長は颯爽と帰っていった。
残るのは、敬礼している紺野と新垣。
隊長の背中が見えなくなったところでその手を下ろす。
二人とも、ちょっとの間、黙ってた。
サワサワサワサワ…と風が木の枝を揺らす音。
ジーージーー…とセミの声。
繰り返す音の中に時が止まった、真夏の昼間。
なんか、余韻を閉じ込めていたかった。
- 442 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時29分10秒
- やがて新垣がそろりと口を開いた。
「…真里ねーちゃんさ、なんていうか………帰ってきた…んだね」
「…うん」
「きょうはあたしらで決めてやろう!とか思ってたけど。オトナの事情ってやつなのかな」
「そうだね、きっと」
真里ねーちゃんは真里ねーちゃんで、頑張ったってことなのだろう。きっと。
それはそれで、いいことなんだ。
オトナの事情…
うん。なんで東京に行っちゃったのか。なにがあったのか。いまはわからなくてしかたないことが、やっぱりあるんだ。里沙の言うとおり。そりゃ、そのうちわかりたいけどさ…
考え中の紺野に、静かに新垣が話し続ける。
「…ね、あたし、思うんだ。こないだあさ美ちゃんが言ってたことなんだけど…友達でいられるか、ってやつ。あたし、あれからずっと考えてたんだよ? どうなんのかなーって」
そう、新垣だって考えていた。紺野にひきずられるように、考えていた。
- 443 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時30分19秒
- 「たぶん大丈夫、とか言ったけど…でもさ、ほら、真里ねーちゃんだって、ちゃんと帰ってきたじゃん。友達でいられるんだよ、あたしらと真里ねーちゃん、あたしとあさ美ちゃん」
「うん…そうだね、きっと」
「大丈夫なんだよ」
「うん…うん…」
「もー、高校一年生が中三受験生に慰められてどーすんの。紺野センセイ?」
「う…うるさいなー、Nさん」
ひさびさに、「Nさん」っていった。それくらい気持ちが楽になっていた。
そうだ。真里ねーちゃんはあの映画の子みたいな「悪ガキ」だったけど、里沙が言うとおり、わたしたちはまた戻れたんだ。わたしたちは大丈夫なんだ。
しみじみ考えていると…
- 444 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時31分27秒
- 「あ、そういえば」
新垣が、本当に「そういえば」な付け足し口調で言った。
「あたしの成績表、結局見せなかった…」
「あ…」
なんだそりゃ。
二人して顔を見合わせて……
大笑いした。
「どうでもいいよー」
「わ、センセイが生徒になんてことを!」
新垣は笑った。
紺野も笑った。
本当に気持よく笑った。
紺野のその顔。
こんどこそ新垣が心配しないですむ、いい笑顔だった。
- 445 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時33分04秒
- ◆◇◆
次の日、朝の九時。
二人それぞれ自転車のカゴに水泳バッグ入れて、待ち合わせ場所の駐車場で真里ねーちゃんを待っている。白砂利からも照りかえす八月の陽射し。部屋で勉強ばっかりしてたから、ちょいきつい。
あのとき真里ねーちゃんは言った。
『二人に面白いやつ紹介してやるよ』
よくわからないけど、その人が真里ねーちゃんを元に戻してくれたのだろう。コドモの自分達ではできなかった。それはちょっぴり悔しい気がするけど、まあ仕方ない。
とにかく自分も親友を、これからもずっと元気づけたいな、と新垣は思う。隣りの紺野は、まだほんのちょっぴり表情が固い気がする。
- 446 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時34分17秒
- まったく、いっつもいっつも、理屈こねて先走りしすぎだよ。「ずっと友達だよね?」なんて言ってるあんたが、こっちを置いてきぼりにしてるみたいなもの。あんたの考えてること、テスト勉強よりもよっぽど難しい。ついてくの結構きついんだから。わかってる?……でも当然、ついてくけどね。
その紺野は考えている。
自分はやっぱり、あの映画の主人公とはちがう。いまの里沙や真里ねーちゃん以上の友人を、きっともつ。それはもちろん……未来の里沙や真里ねーちゃん。
などと、新垣の気持ちも知らず、生真面目に考えこんでいる。
- 447 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時35分08秒
- と、むこうに、自転車に乗ったちっちゃい人影が現れた。ここからでもわかる、還って来たその明るい元気さ。
「隊長ぉお〜〜隊長おお〜〜!」
「ちょ、ちょっと」
思いきり叫ぶ新垣。
異様に張りのある、のびやかででかい声が、朝の静かな住宅街に響き渡る。
それに焦りまくるいまいちノリの悪い紺野。
お、ついてこれてないな? よーし、みてろ。
「隊長! お迎えするであります!」
「あ!」
自転車をそのままに、新垣はいきなりそっちに駈けていく。
まずここは、自分が紺野を置いてきぼりにしてやろう。
へへん、どうだ。ざまーみろ。
- 448 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時35分54秒
- 「ちょ、ちょっと里沙、待って〜」
「くよくよ考えてボーっとしてるからだって!」
「もーう、Nさん!」
「紺野センセイ、ついてこーい!」
新垣はまっすぐ走ってく。
紺野をふり向きもせず、走ってく。
紺野も走る、とりあえずなんも考えずに、親友を追っかける。
むこうでは、ちっちゃいけどギラギラ輝くような元気者が…隊長が、ぶんぶんと手を振っている。
陽炎の立つような地面をぐんぐん蹴って、中学生と高校生、力いっぱい走ってく。
- 449 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時36分50秒
そう。人生、いろいろある。
なにが起こるか、どうなるのかなんて、わからない。
わからないけど。
わからないからこそ。
あせらず、こわがらず。
精一杯がんばって、悩んで、笑って。
しっかり確かめていけばいい。
少女たちの夏は、まだまだこれから―――
- 450 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時37分22秒
「6. Prelude」
−了−
- 451 名前:「6. Prelude」 投稿日:2003年08月01日(金)00時38分00秒
…………………
- 452 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月01日(金)00時39分35秒
- いつもより遅れました。
ちょっと所用ができてなかなか最終仕上げが終えられなくて。
お詫びのしるしというか、途中で切らずに一気上げ…きつい。
今回は子供の世界を、あっさりした視界を書きたかったんですね。
二人(三人)のこういう掛け合い、見たいなあ。
ただ……うーん。
どってことのない、あっさりした話のはずなんだけど、ずいぶん長くなったな。第三話より短くなるはずだったのに。おかしい。ごめんなさい。
スレ容量、とっくに320kb超えてるし。やっぱ海に立てて良かったわ。
- 453 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月01日(金)00時41分41秒
- >>368
そうですか、日曜深夜に…嬉しいです。先週は野暮用がありまして。今週も…。
福田と加護は引かない、飯田は引き方をわきまえてない、と。飯田、第四話のとおりのキャラなもので、福田に怒られるシーンは書いていて気の毒になってしまいました。和解できてよかったと作者も喜んでます。
>>369
読んでくださってありがとうございます。第五話は「山中を行くちっちゃい三人」というのが出発でした。そのとき、はっきり福田が浮かんだんです。辻・加護と共演というのは冒険でしたが、うまくハマってくれたと自分でも喜んでます。
>>370
はい、飯田、同一人物です。第四話で妹の前でひどく落ち込んでたのは、福田に徹底的に叱られたからなんですね。
第五話は「人は他人に変化を望んでいいのか」「友情か余計なお世話か」で書き方に悩みましたので、お言葉が嬉しいです。福田・加護・飯田にはそれぞれ言いたいことを言ってもらってあとは辻に任せたところ、こうなりました。
情景描写は苦手ですが、ジブリアニメとは光栄です。嬉しい!(もっともそうすると娘。が出てこなくなるので痛し痒しといったところですな)
- 454 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月01日(金)00時43分35秒
- ではまた、次週…といいたいところですが。
「次週」っていつよ?って話ですな。
それどころかまた遅れるかもしれません。
いわゆるひとつの用事が重なってというか。
すくなくとも今度の日曜は絶対に無理です。
来週末…どうだろう。
再来週中には、くらいが安心かも。
安心かな…?
ともかく、そのときに。
- 455 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月01日(金)21時28分30秒
- やーちょっとヤバイ。鳥肌たっちゃった。
2人のノリや誰かを思って何か出来ないかと考えるコトとかもう全部がグっときました。
あの矢口がこの矢口で、ってリンクしてるのもすごく好き。
コレからも楽しみにしています。
- 456 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月02日(土)22時05分17秒
- おーこういう話だからオイラ使わなかったのね!!
正直途中までみんな悩んでいて結構眠たい話だなーと失礼ながら思っていました。
しかし隊長の復活により眼が一気に覚めました!!有難う御座いました。
こういうのは連作ならではの楽しみですね。作者さんは一体何処まで作り上げているのだろう、凄い。
Iさんも笑ったw
- 457 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月03日(日)13時26分25秒
- 訂正です。
>428の三行目で「きのう会った」というのは、当然「おととい」の間違いです。失礼しました。
- 458 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月08日(金)02時02分07秒
- 紺野に感情移入する部分が多々あり、感動しました。
冒頭で作者さんが大した事件も事故も謎も冒険も争いもなしと仰ってますが、
そういう何でもないありふれた日常だからこそ心に響くものがありました。
2話とのつながりはもちろん、3話とのつながり方も絶妙でした。
次回も楽しみにしています。
- 459 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月13日(水)05時12分14秒
- ※ 先にレスのお礼です。 ※
>455 名無し読者さん
鳥肌ですか、グっときてくださいましたか。ありがとうございます。
いつも自分で書きたいこと・読みたいことしか書かないのですが、第六話は本当に地味な話だったので、読者さんに楽しんでいただけるか不安でした。
主人公二人に共感していただけたようで嬉しいです。矢口も元気になりました。
>456 名無し娘。さん
はい、「Iさん」、本人はネタにされてるなど夢にも思っていないでしょうな。ひどい話です。ここまで、他にもいろいろ仕掛があります。
お話の九割がた眠たかったですか。ごめんなさい。みんな悩んでというのは痛いところです。お楽しみいただけて良かったですが…うーん。第七話は輪をかけて……
>458 名無し読者さん
紺野に共感していただいてありがとうございます。高校一年生、色々考えてしまうんです。それにしても、このスレのお話が飼育の中でいかに地味か、最近実感するようになりました。それでも読んでくださって感謝に堪えません。
では、今週の更新。
ますますひっそりと、海底へ沈みます。
- 460 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月13日(水)05時15分03秒
- ※ 長いです。重いです。あと、キャスティングが少し変則的です。 ※
- 461 名前:7. Losing Sleep (Still, My Heart) 投稿日:2003年08月13日(水)05時15分46秒
- 「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」
- 462 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時16分29秒
一人の女性が、作業台の上の大きな木の塊りを相手に鑿と槌をふるっている。
ガシッガシッと刃が食い込み、木屑が飛ぶたびに、ただの丸太が少しずつなにかの形をとっていく…ようである。その形が見えた気がするたびに、刃先の角度は変わり、新たな面を削りだしていく。
そのうち、女性は金属片をいくつも持ち出した。小さいものは5cmほど、大きなものは30cm近く。もとは自転車だの自動車の部品だったり建築用材だったりするのを、あるいはそのまま、あるいはぶったぎったりしたもののようだ。それを、削っていた材木に、豪快に…あるいはなにかの刑罰のようにガシガシ打ち込む。
- 463 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時17分06秒
- こんどは電動ドリル。材木の数箇所にたちまち穴が開けられていく。そこに別の木の枝だの金属棒だのがギュウギュウねじ込まれる。
そのうえにペンキが塗りたくられていく。水色、赤、黄色…全体に、ではなくある一ヶ所にアクセントのように置く。粗くけばだった表面はムラなく塗るわけにもいかずあちこち下の材木の色が見えている。そうでなくともきわめて荒っぽいハケ使いだ。
そしてバーナー。材木の下半分とか向かって右側とかに、炎が走る。木の焦げるにおい、ペンキの焼けるにおい。凄まじいというか無残な焦げ目がつけられていく。
いまや元の白い丸太は、なにがなんだかわからなくなっていた。わからないながらも女性の心のおもむくままになにかの形を与えられているようである。目を背けたくなるような、見ていて心がささくれるような、荒々しい炎が見えるような…見えないような。なにか見えたような一歩手前のところで、さらに女性はまた鑿と槌で数回削り始め、そしてなにごとかつぶやいて舌打ちすると……力まかせに木材を作業台からはらい落し、ハンマーを叩き込んだ。
- 464 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時17分38秒
- 数回ハンマーを振りおろしたところでようやく手を止めた。ねじ込んだ金属片や木の枝はいくつもはじけ飛んだが、丸太が砕けるわけもないとあきらめたらしい。苛立ちも露わにつま先でグイと転がして、ふん、と鼻息を一つ。
全身、汗まみれになっていた。額に巻いたバンダナが吸いきれない汗に、彼女は大きな目をぎゅっとつぶる。ジーパンのポケットからタバコを取り出し火をつける。大きく吸い込み溜め込んでから吐き出すと、薄暗い作業場の蛍光灯の下、煙がゆらゆら立ち昇っていった。
「ずいぶんとまたムゴイことしてんね〜〜」
ざっくばらんな声が背中に飛んだ。
気安さから無視していると、相手も気安くさらに続ける。
「いっくらスランプだからって、ペンキもガスもただじゃないんだしさ。木だってかわいそうじゃん。だいたいそんな凄まじいもの見たらあの子泣いちゃうよ?」
「…うっさいよこの不良教師!」
最後に言葉に込められた響きに、ようやく女性…保田圭は、年上の悪友のほうをふり向いた。
- 465 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時18分26秒
- 「なんか用? 彩っぺ」
「ん、まあ用ってこたないんだけど。いい時間だし昼にしよ、圭ちゃん」
そんな時間か。あらためて時計を見るともう十二時半だ。
「わかった。ちょっと待ってて」
保田は手早く工具類を片付けると友人のもとにむかう。
相手はもう一度、保田の「制作物」のなれのはてにちらっと目を落とすと、言った。
「あの子、あんたと約束したって言ってもどうせ遅刻でしょ。話せるよね」
「うん」
そして二人はがらんと広い倉庫のような作業場を後にして、レストランもしくは食堂に向かった。
- 466 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時19分07秒
◆◇◆
ここはS市内のよろずアーティスト(自称大半)のたまり場みたいなもの。
『ムダモノ広場 どこか』という、考え過ぎたのかヤケクソなのかよくわからない名を名乗っている。
それが集団の名前なのか場所の名前なのかプロジェクト名なのか、およそ曖昧。曖昧さをこそ求めている、というところはあるが。
- 467 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時19分38秒
- 設立は古く三十年前だ。モノ好きお絵かき好きな連中の集まりが原型で、各自の自宅を月回りで会場にしていたらしい。その頃のS市はいまよりよほどイナカだったから、いたってささやかなものだったようだが。
やがて喫茶店をやっている人間がメンバーになり、いっそその店をサロンにしてしまえ、となった。その後、店内を改装したり建物を増築したりを繰り返すうちに、だんだんわけがわからなくなっていった。
現在、やけに広い喫茶店もしくはレストランもしくは食堂は、メンバーの憩いの場であると同時にバイト先であり事務所であり、一般人向けの作品展示場であり販売店。さらに増設した居酒屋もある。美術製作の作業場や音楽演奏の練習室があり、そこでメンバーが先生になって「芸術」教室もやっている。お客を育てて営業してみんなで幸せになろう、という精神。ギャラリーが増設されたうえ、さらに各種イベントの企画。自主開催することもあれば企画屋として請け負ったりお人よしの小金持ちに持ち込んだり。
- 468 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時20分14秒
- メンバーも多様だ。絵描き・写真家・小説家・陶芸家・和太鼓奏者・彫金師...etc etc。プロアマ問わず。認知心理学の実験もかくやという現代アートを手がけるものまでいる。大都市でもないこのS市によくそんなメンツが集まったものだが、最初に塊ができれば後の結晶化作用は早い、ということかもしれない。
市内だけ相手にしてられるわけもないから、市外、さらに県外まで射程に入れた活動をする。個人でHPなぞ持っているものもいるが、果たして費用対効果がどのくらいのものかは定かではない。
はなはだアバウトで収支も全員が把握しているわけではない。持ち出しでやっている可能性もある。正式な名簿も作らず組織立っていないためかなり無駄も多いはずだが、組織をかためた場合の窮屈さとはかりにかけるとどっちがいいかわからず、あやふやなまま現在に至っている。
- 469 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時20分47秒
- 自ら「ムダモノ」を名乗るこいつら、なんの役に立っているかは不明だが、けっこうS市の風通しを良くしてくれているのかもしれない。
なにせこいつらのおかげで、S市は都会モノの自称アーティストにナメられることがない。
よくありがちな、「都落ちした自意識肥大者が、“芸術”コンプレックスをもつ田舎モノを舌先三寸で丸め込んで世を渡る」という情景がまるでない。いや、時おりあるにはるのだが、そういうやつを『どこか』の連中は絶対に許さない。もう、そいつのメッキを徹底的にはがす。むごいくらいにボコボコにけなす。再起不能にする。それを『どこか』メンバーは「更生させる」と表現したが…。
だから、よほど情報に疎いトンチンカンしか、バカな考えをおこさない。小賢しいやつが住むには勇気がいる町になっているといっていい。これは『どこか』の立派な業績だ。ともあれ、なんだかよくわからないけど、内情を知る義理のない素人たちは適当に「芸術サークル」程度の理解でおさめてるのだが。
- 470 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時23分39秒
- ◆◇◆
ここの四年目・保田圭は、『どこか』がいったいなんなのかあまりややこしく考えない。そういう性格だ。作業場で制作に打ち込んで食堂もしくは(以下略)で腹を満たす。それだけ。そして、情熱をカタチにすればそれを生活に換えられる。ざっくばらんに太くまっすぐが一番だと思っている。
彫刻、版画、陶芸、油彩水彩、さらにキャラクター製品、写真、CG制作…幅広く手がける。自分を狭くすると作品も狭くなるから…というのは口実。とにかくなんでも試してみたくなる性分のうえ、引き出しが多いほうがいい――商品をしまう引き出しの数があれば食っていきやすいだろう、という算段。そして中途半端にならず、ものにしてしまうセンス。まだ若いが、着実なキャリアと情熱的な作風に固定客もついている。いい暮らしはできないが、食っていけないわけではない。そうしてやってきたのだ、少なくともここまで。
- 471 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時24分22秒
- で、日曜の昼。いま、店内は七分くらいの入りだ。二割がたはメンバーなのだが。
そんななかカレーライスとグリーンサラダを黙々と食しながら、さきほどから好きにしゃべり続けている友人の言葉を聞き流している。
「……うん、わたしもあんま踏み込みたくはないんだけどね。でも、友達が荒れてるのってやっぱ見過ごせないじゃん。あんたのここ最近の、作ってるというより壊してる感じだよ。わかるよ、わたしは別にお絵描きもなにもしないけど、こんなに出入りしてるんだもの。ともかく、あんたの「事情」はそりゃ複雑だし、わたしも軽軽しく口ははさめないって気持ちもあるけど、でも…」
やはり聞き流そうにもそうはいかない。自分のことなどお見通しなうえ、ちゃんと向かい合ってくれている。さすが数十人の生徒の担任、か。
- 472 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時25分57秒
- オムライスをぐちゃぐちゃかき混ぜながらしゃべり続ける友人。「彩っぺ」こと石黒彩は、野性的な眼差しの美人。鼻ピアスでグラサンで黒のツナギでハーレーに跨ったりするのだが、アタマのいい高校で国語の教師をしている。年は保田より三つうえだが、実年齢以上に年上に思えることもある。しばらく前から『どこか』に出入りするようになったが、似た者同士な一方で違ってもいるせいか、すぐに保田と友人になった。その日のうちに「彩っぺ」「圭ちゃん」の中になった。保田は、ほとんどの仲間に教えていない自分の「事情」もすぐに話せた。
その石黒自身は作品を作るわけではなく、鑑賞専門だ。作業場で習っているようにも見えない。面白いものが見たい、というだけあって鑑賞眼は的確。そして企画センスが抜群で『どこか』のそっち方面の仕事にもよく力を貸している。もっとも彼女のセンスなら、美術製作も習い始めたらあっという間という気もする。
- 473 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時26分38秒
- 「少なくとも、あの子あれでも、あんたに嫌われてるんじゃないかって気にしてるから。あんたがまっすぐ目を見ないの、あの子だけだし。まあ、あんたの部屋で写真見せてもらったことあるけど、ほんとそっくりだもんね……あ、ごめん!」
石黒は一瞬「やばい」という表情をするが、保田は別に気にしていない。石黒になんの害意もないことはわかってる。石黒を信用しているからこそ、ほとんど誰にも話していない「あのこと」をちゃんと打ち明けられたのだ。だからここでもただうなずくだけだ。
「…ともかくね、わたしもフォローするけど、解決するのはあんただよ?」
「それはわかってる。ありがとう」
それを聞いてほっとしたように、石黒が口調を変えた。
「ま、なんも事情がなくても、わたしもああいったタイプ、ちょっと苦手かもな」
「『わたしも』って…わたしは好きだよー」
むくれた声になる。うん。嫌ってるわけじゃない。自分の一方的な事情のせいだ。などと考える保田を、石黒はにやにやして覗き込んでいる。さすが教師、と保田は苦笑するしかない。
- 474 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時27分23秒
- 「そういえば教え子に問題児がいるみたいなこと言ってたけど、その後どうよ?」
「あの子は問題児つーか被害者なんだけど…まあでも問題はおこしたね。こないだ、人ぶん殴った」
「おいおい…」
「いやよかったよ、本人がちゃんと動いてくれて。待ってた甲斐があったな。これで全部ケリがつけられそう。この件、わたしの預かりできっちりおさめる」
「ほー、さすが頼れる先生」
冷やかし半分、などではない。保田は本気で言っている。石黒の始末の確かさはたいしたものなのだ。そうでなくて、教え子の暴行事件に色をなすこともなく、楽しげに話せるわけがない。だから自分にもアドバイスをくれた。そう――
「そっちは? ずっと泳いでるんだよね。どう?」
「最近、メンツが一人増えてにぎやかになったかな…でも、お蔭で落ち着けてるよ。ありがと」
「わたしは場所教えてあげただけ。それにあくまでその場しのぎだし……にぎやかって、こないだ言ってたうるさい人? よく来るんだ?」
「わたしは別に気にしてないよ。人それぞれ過ごし方があるから。頭、落ち着けるのにはね……」
- 475 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時29分59秒
- オムライスもカレーもきれいに空になって片付けられ、さらにあれこれ続けていた話にも、一区切りついた。
「さて、もう来るかな…やっぱ遅刻したね、あの子。わたしは帰るわ。あの子によろしく」
「うん…」
「ほんとしっかりしなよ? 来月末の例のイベント、結構重大なのに。そんなんじゃさ、どうにもなんないでしょ」
「わかってるよー」
言いたい放題の石黒に、逆ギレ気味に拗ねた返答を投げる保田。
石黒は、その意気やよし、といった風ににやりと笑うと二人分の伝票をひらりとつまんでテーブルを立った。
「あ…」
「いいからいいから。次はおごってね」
支払いを済ませ、悪友は気どった仕草で出て行った。
- 476 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時30分46秒
- カウベルがガロンガロンと鳴る古びたドアをぼんやり眺めながら、保田は物思いにふける。
あの子、か。
うん。ほんとうに、彼女自身はちっとも悪くない。それどころか彼女を嫌う人間がいるとしたらよほどのヒネクレ者だ。みんなあの子を好きなのに、自分はあの子の目をまっすぐ見られない。だって似てるもの……事情を知ってる二三人のメンバーには口止めしてあるけど。それでも、あの子への目線がちょっと違うものになっている。あの子はわけがわからず、さぞ不安だろう。
自分だっていつまでもむしゃくしゃしたままだ。なんとかしないと。でもなんとかって、どうやって?――
- 477 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時31分25秒
- ◆◇◆
「ごめんね〜〜!」
保田の考えを破り、妙なイントネーションで底抜けに明るい声がドアを開けて現れた。
小柄で、申し訳なさそうな表情なのにニコニコしていて。天性…いや、天然というやつか。
「あー、圭ちゃん待たせてしまったべか、ごめんよー。」
「ん、そんなことないよ、なっち」
保田はぎこちない笑顔をつくって天然を迎える。
彼女が「なっち」こと安倍なつみ。保田圭がどうにも苦手とし続けている人物だった。
- 478 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時32分06秒
- 安倍なつみは、N県の有名大学に進学するため北海道からやってきた。いまは四年生。三年修了して春休み中にS市に引っ越してきた。そんな時期にわざわざ大学から遠くはなれたところに移るなど、よく親を説得したものだと思うが、ともかく一月ちょっと前――四月の終わりから「生徒」として『どこか』に出入りするようになった。いまや喫茶『どこか』の看板になってほしいと周囲の期待を寄せられたりする。本人も積極的で、企画運営にも関わる勢いだ。
絵など教わるだけならほかにいくらも人がいるのに、さらに教わる必要もないくらいの技術もセンスもあるのに――充分カネをとれるレベルなのに、保田にすっかりなついてしまっている。保田の一コ下ということもあってかほとんど妹気分のよう。いまや生徒・先生というより押しかけ友達でしょっちゅう会う機会を持っている。
そしてきょうも、約束の二時をかなりオーバーしてだが、相談ごとに現れた。
- 479 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時32分51秒
- 安倍はオレンジジュース、保田はブラックコーヒー。支払いは先にすませてしまう。灰皿は片付けてもらった。安倍はタバコを吸わないからだ。この店には禁煙席などというものはないが、いまはもうまわりに客がいないから煙が流れてくることもない。
「外で彩っぺとすれ違わなかった?」
「んにゃ。彩っぺ来てたんだ?」
「うん。なっちによろしくって」
「はぁー、もっと早く来てれば会えたのに、やっぱだめだなー」
こんな明るく屈託のない子を、自分は一体いつになったら素直に見られるようになるのか。こんないい子になついてもらっている自分が幸せなことくらい、わかっているのに。
- 480 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時33分27秒
- 「ね、圭ちゃんさ、作業場でなんか作ってたんでしょ。見せてよ」
「え? いや、なにも。とくになんもしてないよ。ここでぼんやりしてただけ」
「ほんとかい?」
「うん、ほんと」
安倍は納得しきってはいないようだが、保田としては「あんなもの」をよりによって安倍に見せるわけにはいかない。石黒が冗談めかして注意してくれたとおりだ。
「こっちのことよりもさ、なんか相談事があったんでしょ」
「あ、そうそう。うん、相談事というか、もやもや聞いてほしくてさ」
ようやく安倍は自分の本来の要件を思い出したようだ。話をそらすことができて保田はほっとする。
- 481 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時34分24秒
- ◆◇◆
「……でさ、前も言ったけどまわりの子たちなんか去年から、三年生からシュウカツ…あ、就職活動して、四年になったときには内定出てたりするのさ。それがなっちひとりぼんやりして、なんか気が乗らないなんてこと言ってたらもうこの時期で」
「でも、こないだも言ったけど、なっちがここ来たのって四年の春学期はじまってからでしょ。ぼんやりどころか確信犯じゃないの?」
「う…うーん。いや、まわりの子とかは言うのさ、結構な大学行かしてもらってたら、そりゃ結構なところ行かないともったいないっしょって。なんか気が乗らないなんてぜいたくだって」
それは保田もそう思う。安倍は頭がいい。小賢しさではなく、正々堂々、頭がいい。そして安倍の大学は誰もが知るブランドだ。「大学のブランド神話崩壊」などそれこそ神話で、本物のブランドに現役合格、さらに掛け値なしに優秀な安倍なら、やり方次第できちんと就職して入社五年目で年収五百万、というコースに乗ることだってありえた。いや、ひょっとするといまからだって遅くないかもしれない。ひたすら寄り道しようとしている安倍の行動は、客観的には宝物をドブに捨てるようなものなのだ。
- 482 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時34分58秒
- しかしそれは「客観的には」の話。主観的には――安倍の気持ちとしては、結論が出ているはずだ。「なんか」気が乗らない、のではない。やりたくない。さらに、別にやりたいことがある。そして安倍は保田に背中を押してもらいたがっている。
そんなことは安倍がここにやって来てすぐわかったことだ。いろいろ彼女自身の話をされて、『どこか』への想いや進路の悩みなど、はっきり言わずともすぐ察せられた。だいたいそうでなくてはわざわざこのS市に越してくるわけがない。
自分になついたのもたぶんそのため。安倍と年が近いながら『どこか』を足場になんとかやっている自分に、なにか願望を投影したのかもしれない。
そこまで安倍の気持ちをわかっていて、保田はどうにも踏み出せないでいた。いつも明るい「なっち」が自分に困った表情を見せてすがっていて。なんとか声をかけてやりたいと思いつつ、うまく言葉にできない。というか言葉にするわけにいかない。
- 483 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時35分33秒
- 「なっちはここですごく楽しそうにしてるよね」
「うん、そう。前からうわさは聞いてて。ここのこと知ったのは県の新聞に紹介されてるの見たからだけど、来てみて期待通りのところだって。ここだ、って」
「四年生にもなって…」
「え、えーと…でもなんか、はじめて、ここが自分のいたい場所だって思えて」
結局、安倍はこの空間で生きていきたいのだ。なのに迷っている。迷っているのはやりたくないということだ、そんなやつはどうせ先がない、などと切り捨てることは、自分にはできない。安倍が捨てようとする道は、このご時世で多くの人間が心底うらやむもの。ここの大半のメンバーとはそこが違う。迷って当然だ。だから自分が――
「いたいって場所、大事だと思うよ。なかなか出会えるもんじゃない」
「そう、そうだよね、うん…」
「それをつかむのはやっぱり――」
しかしここで止まった。やはり止まった。安倍の背中を気軽に押せない。自分を羽交い絞めにする自分がいる。
…おまえに人をそそのかす資格があるのか
…よりによってこの子を後押しするのか
…後押ししてそれからどうなる
…あの子のことを忘れたのか
- 484 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時36分08秒
- 「やっぱり、最後は自分で決めることだね」
「あ…うん、そだね」
「結局「アート」なんてカッコつけても、虚業だから。うちが名乗ってるじゃん、「ムダモノ」って。食ってこうとすりゃ甘いもんじゃない」
「そ、そうだよね」
「仕事でやってれば、嫌なこともでてくるし。もしかしたら本業は別にもって趣味で楽しむのが一番いいかも知れないし」
「そうなんだよね……」
「だいたいよく誤解されるけど、うちって互助会じゃないんだよね。確かに機材は共有だし生徒を教えもするけど、基本、てめえ一人で食ってく腕がなきゃメンバーとしてはノーサンキュー」
「……………」
どんどん嫌なことを言っているなあ。なっちは黙ってうつむき加減になっちゃって。
次第に保田は安倍から目をそらしがちになっていた。無意識にタバコを探ってしまう。
- 485 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時37分21秒
- 「圭ちゃん、ありがと!」
「え…」
「なっち、甘えてたよ。圭ちゃんにやさしいこと言ってもらおうなんて」
「いや、そんな」
「そんなふうにちゃんと厳しいこと言ってくれて。なっち、ちゃんと自分で考えてみるべさ」
それだけ言うと、安倍は立ち上がって、ほんとありがとう、またね、と言って出て行った。
まただ。初めて会ってから丸一月以上。こんな接し方しかできない。
あの子、笑ってたけど。心細そうな笑顔だったな…
でも、やっぱり自分にはできない。
だってねえ…似すぎてる。名前まで同じ。赤の他人だってわかってても、でも。
うん。自分には言ってやれないよ。
そうだよね。勝手なわたしが人の勝手を応援なんて。
……もう三時か。出よう。
タバコが切れかかっていた。レジでセブンスターをカートンで買ってドアを開ける。
六月の午後の陽射しは、保田にとってちっとも気持ちよくなかった。太陽は安倍を思わせて、なんだか責められるような気がした。
はー、ダメだな。今夜も行こう……
- 486 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時38分26秒
- ◇◆◇◆◇
N県立総合体育館。S市内にある、総合体育施設だ。
午後八時五十分、そこの巨大な屋内プールに保田は来ている。
プールサイドで入念に準備運動をすませると、すぐに泳ぎ始めた。
保田がここのプールに泳ぎに来るようになったのは、五月のはじめだからだ。安倍がやってきてからの保田の様子を見て、「事情」を知る石黒が助言してくれたのだ。
『でっかい体育館、あるでしょ。あそこのプールで思いきり泳いでみな』
『プール?』
『そ。閉館一時間くらい前だとほとんど人がいないから。もうね、泳ぐことだけに集中すんの。とりあえず落ち着けるよ。まだ教師なりたてのころ、嫌なことあったとき試したことある。わたしはもうとっくに卒業したけどね』
- 487 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時39分12秒
- そして石黒はこうも言っていた。
『あくまで、とりあえず、だから。最後は水の外できちんと解決しなよ』
わかってるよ。解決…する。いずれ。
でもいまは、こうして忘れたい。
保田は石黒のアドバイスどおり、とにかく泳ぐ。25mプールを何本も何本も、ぶっ続けに泳ぐ。きれいなフォームのクロールで何百メートルも続けて泳ぐ。
そうすると、安倍のことも…「あの子」のことも、その日のむしゃくしゃが流されていった。
もちろん少したてばまたもとどおり。だけど、それでも大事な儀式みたいなものだった。
きっとあの二人もそうなんだ。
- 488 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時39分57秒
- 向かいのコースに目をやる。
そこには保田と同じように、夜、泳ぎに来ている人間が二人いた。
どちらの名前も知らない。話したこともない。
一人は保田がここで泳ぐようになるずっと前から来ているらしい、色白で高校生と思われる少女。週に二回は必ず来ている。きれいな顔立ちだが、鬱屈した無表情。
もう一人は最近来るようになった、たぶん保田より三コほど年下。こちらはほぼ毎日のようにやってくる。やけに背が小さく、いつも一人で精一杯にぎやかだ。
色白少女は黙々と泳ぎ、チビは騒がしい。週に二三回、色白が来る日はチビがやけに接近し、相手はそれを迷惑そうにしている。しかし保田の目には、どちらもなにかから逃れようともがいているように見える。
つまり自分も傍目にはそう見えるってわけだ。
そうだよ。
あんたら二人とも、おんなじ。わたしもおんなじ。
でも、どっかで解決、しないと。
そうだよね、彩っぺ?…………
いつものように一時間近く泳いで上がる。
心と体が軽くなったようで、気分が楽になっていた。
楽になった、ただそれだけではあるのだが。
- 489 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時40分58秒
- ◆◇◆
…カツン…カツン…カツン…と先ほどから、甲虫が蛍光灯のカサにぶつかっている。
何度も、何度も。
そのたびに少したまっていた埃がふわりと舞い落ちる様を、保田はぼんやり見上げていた。
気持を落ち着けて帰ってきたねぐら。
築二十年の木造だが、風呂・トイレ別で二階の南窓、家賃は月三万、礼金・更新料なし。商店街から歩いて五分。大雑把に暮らせるS市の中でも、そこそこの好物件だ。
保田はそこをさらに、自分の居心地いいように好き勝手している。大家と話が付いているとはいえ、穴を開けるわ削るわ塗るわ。ここで暮らし始めて以来あちこち手を加え、いまや立派な「巣」になっている。いま寝転がっているベッドも、製材所の木っ端をもらってきて、塗装からなにから自分でやったものだ。
心がすっかり無防備となる場所で、泳ぎ疲れた身体を弛緩させる。
なっち、か……
一人、ため息混じりにつぶやいた。
- 490 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時41分51秒
- はじめて彼女が来たときのことを思い出す。新人紹介、て呼ばれて、作業場に行くとみんな集まっていた。何人かは妙にそわそわしていて。そして見慣れない子がいて――
『ナツミ……』
小さくかすれてだけど、思わずその名を呼んでいた。
ショックで心臓が止まるかと思った。
呼ばれたその子はびっくり半分、ニコニコしながら
『? なんでなっちの名前知ってるんだべか?』
『「なっち」…』
『あ、ごめんなさい。なっち、あ、いやわたしの名前、安倍なつみ。よろしくお願いするべさ』
『べさ?』
『あらやだよー、なっちったらもうずっとこのしゃべりかたなんだべ』
『……』
ケラケラ笑う相手を、食い入るように見つめてた。こっちは黙り込んでしまって。顔も真っ青だったろう。よく気絶しなかったと思うが――
- 491 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時42分42秒
- 明るすぎるな……
いったん身を起こして灯りを豆電球だけにすると、またベッドに転がり両手を頭の後ろで組む。
蛍光灯の白い光とうって変わって、暖かいというより生ぬるい、オレンジの光。部屋の細部が暗がりの中に柔らかく溶かしこまれる様は、傷を舐めあう弱者のよう。
まったく、いまの自分にお似合いだ…弱さを抱えた自分みたいだ、と保田は思った。
四月終わりに安倍と出会って以来、保田は鬱屈した思いに囚われ続けている。
およそ素直で明るく、いまどき珍しいほどひねたところのない安倍。
誰からも愛されるし、誰のことも信じて人づきあいできる安倍。
そんな彼女が、「圭ちゃん、圭ちゃん」とニコニコ笑ってなついてくれる。
もちろん保田はそんな安倍を嫌いなわけがない。というか、好きだ。できるだけ力になってやりたいとも思っている。
しかし、その思いと裏腹に、安倍が原因で気持がふさいでしまっている。
あの表情を思うたびに、話を聞くたびに、気持がささくれ立つ。いつも・誰にでもまっすぐ目を向ける自分が、安倍の眼をちゃんと見ることができない。
そしていまや制作に支障をきたすようになるほどのありさまだった。石黒のアドバイスがなかったらどうなっていたろう。
- 492 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時43分37秒
なっち、か。
また、言葉を浮かべた。
目を閉じ、豆電球の弱々しい光すらさえぎって気持を流す。
なっち、なっち、なつみ、なつみ、ナツミ、ナツミ、ナツミ―――
……………
- 493 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時44分18秒
◆◆◆◆◆
なんだろう まわりがぼんやりしてる
だれ?
ああ あの子か
なつかしいなあ そのわらいかた
あれ? なんだ……やっぱりみえないや
そのかわりこえがきこえる
あの子…
『ほら、腕輪つくったの』
うん じょうずだね
『ほめられたー』
だっていつだっていい子だもの
あんたはいつでもいい子だった
『痛ーい』
『なに、こけたの? ドジだなー』
だれ? ドジだなんて ひどいこというやつだ
『圭ちゃんおこして』
『はいはい、ほれ』
ああ わたしだ
『圭ちゃん、圭ちゃん』
うん よくそうよんでくれてたね
『すごいよ圭ちゃん』
『へへ、ありがと』
うん ほめてくれるのすごくうれしかったっけ
- 494 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時45分08秒
『圭ちゃん、決めたんだね』
『うん。もうね』
『それが圭ちゃんの道なんだね』
『そう。これがわたしの道』
ああ あったなあ こんなこと
『圭ちゃん…』
あ…なんだろう ふんわりしたのがなくなってきた
『圭ちゃん、勝手だよ』
あれ?
『なんでも好きにやってさ』
ちょっと え?
『いつもいつも、圭ちゃんばっかり』
違う なんか違うぞ
『…なんでも思い通りになんかさせないんだから』
違う違う違う
『あなたの好き勝手のせいでわたしは……』
違う!!!
◆◆◆◆◆
――まだ心臓がはげしく鳴っている。
なにごとか喚きながら掛け布団をはねのけて身を起こしていた。
眠り込んでいたらしい。
冷蔵庫の麦茶をがぶ飲みして、保田は徐々に気持ちを落ち着ける。全身嫌な汗をかいていた。
蛍光灯をつけるとベッドに腰掛けて、ぐっと頭を抱え込んだ。
- 495 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時45分53秒
- まただ。同じような夢、何度見るんだろう。
最後のところなんて、三年前によく見たのとそっくりだ……
こんなふうに眠れない夜が、何度あったことか。
まったく。あの子があんなこと言ったことは一度もない。言うわけがない。あの子は本当にわたしをよく思ってくれていた。
すべてはわたしの勝手な思い込み。ねじくれた考え方をして、自分の中で勝手に引け目を感じて、勝手に追い込んでる。最悪だ。あの子をすごくやなやつ扱いして。またあの頃に戻るつもり? なに考えてんだ。
もう、ちゃんとけじめをつけられたはずなんだ。それがなっちに出会ってからこんな風に…って、あーもう、こんどはなっちを悪者あつかいかよ。あんないい子なんだよ、なっちは?! でもでも、二つはこんがらがっていて。解きほぐさないといけないんだ。どうしよう……
ねえ、どうしようか、奈津美……
保田の視線の先、本棚の写真立ての中から、安倍――いや、安倍とうりふたつな少女が、静かな笑みを浮かべてこちらを見返していた。
- 496 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時46分54秒
- ◆◇◆
保田圭の妹・保田奈津美が亡くなったのは、三年前。妹はまだ十八歳だった。
二人の姉妹は、幼いころからとても仲がよかった。器用で自由奔放・思うままに動く情熱家の圭と、静かで控えめだが内に秘めた強さを持つ奈津美。お互いに、相手に自分にないものを感じて慕いあっていた。姉は妹のためなら殴りあいも辞さなかったし、妹はなにかと誤解されやすい姉について鉄壁のフォローをした。お互いがお互いを最高の理解者だと思っていた。
いや、姉のほうがより妹に依存していたかもしれない。お祭り好きで情熱家の姉は意外に打たれ弱かったから。芯の強い妹には頭があがらず、大事な場面で後押ししてもらうこともしょっちゅうだった。
家を出ると決めたときもそうだった。
保田は四年前、十八歳で家を出ている。その前からちょくちょく出入りしていた(自称)芸術家の集まり――つまり『どこか』――を拠点に、自分の腕で食っていく、と決めたのだ。両親からは大学進学を強く望まれたが、そのまま高校を卒業。家を出た。
こういう説明をするとかっこいいが、最後は奈津美の後押しだった。
- 497 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時47分57秒
- 家を出る前年。
圭・高校三年、奈津美・高校二年の九月。
両親に延々と説教され説得され、しょげかえった気持ちを隠すようにあえて明るく、奈津美に告げた。
家を出る覚悟を。
『圭ちゃん、決めたんだね』
『うん。もうね』
『それが圭ちゃんの道なんだね』
『そう。これがわたしの道』
あのときの奈津美の目……たぶん自分の中のしょげた部分をお見通しだったろう。だから、言ってくれたんだ。
『行ってらっしゃい、圭ちゃん』
『へ?』
『圭ちゃんが出発するんだから。これまでの人生で一番の出発…だから笑って見送るの』
『奈津美……』
『泣かないでよ、圭ちゃん。後のことはまかせて。心配しないで歩き出せばいいの』
いつもの静かな笑顔だった。そして確かに渡された言葉。
そうだ。奈津美は笑って、送る言葉をくれた。
話す前は、正直、気持ちがくすぶったままだった。しょげかえって、半ばやけになっての宣言だった。それが、奈津美の言葉で力強い気持ちに変わったのだ。
姉にとって、妹の言葉は魔法だった。いつだってそうだった。
- 498 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時48分33秒
- 家を出るといっても「家出」ということではない。ただ、呆れ果てたといった顔の父が「義絶だ」と言っただけだ。母は多少なりともとりなそうという様子を見せたが、娘の生き方を認めるというわけでもなかった。要するに、奔放で気ままな娘は父・母どちらの手にも余ったのだ。いくら『どこか』が名の知れて実績がある集団といっても、それは同業者内での評価。カタギから見れば、素性の知れない怪しげな馬のホネ連中でしかなかったのだから無理もない。
同じ市内に住んで義絶とはやや奇妙な話だが、ものの見事に実家との連絡はなくなった。もともと親の援助を当てにしてはいなかったし、親の保証のない十八歳として一番不安だった住む場所も、『どこか』のつてでアパートを借りられた。そして保田は両親のことを頭から追い出して活動を始めた。あっちもこっちも丸くおさめることなどできはしないのだ、みんなにいい顔するなんて無理なんだ、と開き直った。
一方、長女に出て行かれた親へのフォローは、奈津美が一手に引き受けてくれたのだ。
- 499 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時49分45秒
- 奈津美とはそう頻繁に連絡をとるわけには行かなかった。高校三年生になり、長女が家を出たことで両親の期待を一身に背負った受験生。勉強に集中しないわけにはいかない。といって、無理をしているということもなさそうだった。
奈津美が受験のために上京する直前に、会ったときの会話を思い出す。
『え? 圭ちゃんが気にすることないよ。わたし、行きたい大学の行きたい学部に行くために勉強してるの。ほんとだって。期待に応えるためとかじゃなくてね』
『あ、でもお父さんお母さんがどうでもいいってことじゃないよ。あの二人が笑ってくれると、わたしも嬉しい。圭ちゃんだって喜んでくれるよね?』
『そうだ、お父さんもお母さんも、ほんとはあの二人なりに圭ちゃんのこと気にしてるんだよ? 表現へただけど。圭ちゃんの気持ち、作品で見せるしかないよ?』
『ごめんね、展示会とか全然行かないで。わたし、いまこんなで、二人はすっかり意固地になってるし…わたしのほうが片付くまで、ことがこじれるようなことはやめたほうがいいと思うから』
『でも、いつかまた、家族四人で会いたいよね』
奈津美はつねにみんなの幸せを考える子だったのだ。
- 500 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時50分24秒
- その後、奈津美は東京の大学を受験し、見事第一志望に合格した。
実家でのお祝いの場に呼ばれはしなかったが、奈津美のほうからアパートに訪ねてきてくれた。
保田の商売道具に囲まれた部屋で、姉妹二人のささやかな祝賀会。自慢の妹の静かな笑顔は、いつにもまして魅力的に映った。
『ね、写真撮らせてよ。いま凄いいい顔してるから』
『やー、恥ずかしいな、名カメラマンにそんなこと言ってもらえると』
『いや本当にいいもん…はい撮るよー………よし!と。ね、でさ、これ合格祝いにさせてもらえる? 保田奈津美クン、見事勝利の記念写真てことで』
『本当?…嬉しい、圭ちゃんの写真大好きなんだ』
『嬉しいのはこっちだよー、こんないい顔撮らせてもらえてさ。泣きたくなるくらいいいよ?』
『ええ〜?』
保田の言葉になんの誇張もなかった。その時の奈津美の笑顔は、儚い美しさと優しい強さとを兼ねそなえているようで、どこか現実離れしていると感じるほどだった。見ていると胸に暖かいものが広がって、なぜか涙が出そうになった。この表情を絶対に残さないといけない、と思わされたのだ。
- 501 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時51分20秒
- 『現像、すぐやっちまうけど、東京のアパートに送るってことでいいかな? 見送り行って直に手渡してあげたいんだけど…あの二人、来るでしょ。ごたごたしちゃうと思うから、ね?』
『うん…ありがと』
そしてそのあとのやりとりを、保田は忘れない。
『ね…圭ちゃん、前に言ったこと憶えてる?』
『ん?』
『また家族四人で会いたいって』
『……う、うん。憶えてる』
『わたしのほうは片付いたから、ずっとやりやすくなったよね。お父さんもお母さんも、わりと柔らかくなった感じだもん』
保田の自慢の妹は、父・母にとっても自慢の優しい子ということだった。
『んー、まだいろいろややこしいことは残ってるけど…そうかもね』
『あの二人と圭ちゃんとの間のことは、わたしじゃわかんないこともあると思うけどさ、いつかきっとね? すぐには無理でも、近いうちにさ』
『うん…そうだね、四人で』
『また四人みんな、笑って話せるんだよね…きっと』
『…うん』
『うん!』
奈津美の笑顔は、大丈夫だよ、と言っていた。
可愛い妹は、まるでお姉さんだな、と保田は思った。
- 502 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時52分06秒
- ◆◇◆
しかし、奈津美の願いがかなうことはなかった。
アパートでのお祝いから一週間後だった。
いよいよ大学生としての生活を始めるために、東京へと向かう途上。乗っていたバスの横腹に居眠り運転のトラックがつっこみ――奈津美は還らぬ人となった。
連絡が途絶えていた親からの初めての電話(激しく取り乱した母の声だった)は、奈津美の訃報だった。
最初はなにも考えられなかった。ただただ、信じられなかった。
葬式の間も、両親とろくに話すことすらできなかった。最愛の娘を亡くして悲嘆にくれる二人の姿は、透明な壁にさえぎられているかのように現実感がなかった。両親にとっての娘と、自分にとっての妹と、違うような気がした。ただ茫然としていた。
そして葬式が終わり初七日、四十九日ときて、だんだんと効いて来た。
あらためて、奈津美の存在の大きさが身に沁みた。自分がどれだけ妹を精神的な支えとしてきたか、思い知らされた。
そしてなぜか…いや、だからこそ、自分がその妹を――最愛の妹を不幸にしてしまったんだ、と思うようになった。
- 503 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時53分00秒
わたしはあの子に支えてもらうばかりで、あの子は誰に悩みを相談していたのか。
あの子はこれまでずっと、わたしが好き勝手をした後始末をするばかりだったのではないか。そのために、あの子は自分が本当にやりたいこともできなかったのではないか。
わたしが家を出たあと、両親を慰め、わたしをフォローするのに、あの子はどれだけ苦労したのだろう。みなを立てるために、すべてがうまくいくように、気を使い、自分を削っていたのではないか。
わたしが出て行ったせいで余計に期待がかかり、東京のいい大学を受験したのではないか。わたしが出て行かなければ、あの子は東京に出ることはなかった。あのバスにも乗らなかった。
わたしのせいで、あの子は死んだ――
- 504 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時53分38秒
- 発想の飛躍といってしまえばそれまでだ。しかし、当時の保田はそこまで落ち込んでいた。何ヶ月もの間、奈津美が自分の勝手気ままな生き方を呪い責めるという悪夢にうなされた。目覚めてからは、自分が奈津美を悪霊のように考えているのだと思ってさらに苦しんだ。
奈津美がいつも自分を眩しそうに笑ってみてくれたことの意味を、忘れでしまっていた。
当然、奈津美は喜んで保田を支えたのだ。姉は言葉にせずとも、行動で妹に力を与えてきた。そして妹は尊敬する姉の力になったのだ。東京の大学を受けたのだって、そこが本当に行きたいところだからだし、それが両親の笑顔にもなるならそんないいことはない、と思っていた。奈津美が直接保田に話したことだ。
- 505 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時54分21秒
- しかしだからといって、念願の第一志望に合格した直後の死、という悲惨さは変わらない。
結局、保田は本業にまったく手がつかなくなり、しばらくの間バイト生活になってしまった。保田が妹の死を自分の中で整理し「勝手な自分が奈津美を不幸に追いやった」という間違った考えをどうにかしりぞけられたのは、奈津美の死後一年近くたってからのことだ。
さらに一年後、去年の三回忌では、両親と多少は話すことができるようになっていた。もっぱら奈津美の思い出話ばかりで、親子の会話としてはひどくぎこちないものとなった。これを機会に、奈津美のためにこそ仲良くなろう、などと都合のいい考えにはどうしてもなれなかった。
- 506 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時55分00秒
- そして今年。
保田は、安倍なつみと出会ってしまったのだ。
最初に会ったとき、胸が破けそうに感じた。顔も声もそっくり。名前まで同じだった。
もちろんすぐに、性格的な違いはわかった。安倍は朗らかで出たがり、奈津美は物静かで控えめ。それでも、芯の強さが似てはいた。
しかし、それ以上に――安倍は保田に妹のようになつき、そして『どこか』に飛び込みたい、というわがままを抱え、保田に相談してきた。
保田はうろたえた。かつて自分がこの世界に飛び込む後押しをしてくれた妹――彼女と同じ顔と名前の人間が、こんどは自分に背中を押してもらいたがっている。自分のためにバックにまわってくれていた妹が、今度こそ好きなことをしたがっている。そんな錯覚を覚えてしまった。かつての――奈津美が亡くなってしばらくの間の嫌な連想が甦ってしまった。
それをどうにか抑えつけようとしても、今度はひたむきな安倍にかつて家を飛び出した自分を重ねてしまい、ならあとに残る家族はどうなる、あの子みたいに、奈津美みたいになるのか、と、また戻ってしまう。
- 507 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時56分14秒
- はっきりいって、ねじくれた思考回路だった。ぽんと一つ前に進めば、あっさり解決してしまうものかもしれないのだ。保田が、奈津美の後押しによっていま在る自分を肯定するなら、今度は自分が安倍の背中を押してやる、と当然のように考えていいはずだ。それは保田自身よくわかっている。理屈では。
しかし、保田は割り切れなかった。
安倍と向き合うことができず、妹を振り返るばかりで、しかし妹に向き合えるわけでもなく。
そして――自分を見失っていった。
- 508 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時57分01秒
- ◆◇◆
奈津美……
写真立ての中の彼女は、いつまでも十八歳のまま。
あの時、アパートの部屋での、深く静かな笑顔をいまもこちらに向けている。
三年前のその瞳は、現在の保田のことを見通しているようにすら思える。
なにも言わず、ただ、微笑んでいる。
ねえ、どうしよう奈津美……
答えを返すわけもない写真の妹に、あらためて保田は問い掛ける。
見つめているその写真の面影に、全く同じで全く違う顔が重なるように浮かんできた。
同じで、違う、その表情。
ああ、そうだ。
どうしたらいいんだろう、わたしはあなたにどうしてやれるんだろう。
なっち……
- 509 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時57分37秒
- ………
- 510 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月13日(水)05時58分11秒
- (体力の限界。ここで切ります。途中ですが、ご感想などありましたらお願いします)
- 511 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月13日(水)05時58分54秒
- 次回、後半。
- 512 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月16日(土)02時28分41秒
- 保田さんの妹が安倍さんそっくりか……。
題名が題名だけに保田さんの心境がどう動いていくのかが楽しみです。
元々碌なレスを付けられない上、話の途中にレスを付けるのは更に苦手ですいません。
- 513 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月23日(土)01時29分56秒
- 何だか重いお話ですね。今後の展開が楽しみです。
あの話とつながっているのかとかあの人はこの人だったんだ
とか他のお話とのつながりが段々と分かってきて面白いです。
次回も楽しみにしています。
- 514 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時36分50秒
- (承前)
- 515 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時37分44秒
- ◇◆◇◆◇
七月。
梅雨入りもウヤムヤなまま梅雨が明けたらしい、と思ったら、あっさりと真っ青な空がやって来た。この土地らしい、すべての気配が濃密に立ちこめる強烈な夏がすぐそこまでやって来ていたが…保田の心はいまだに晴れない。
もちろん、安倍のことだ。といっても安倍の顔をちゃんと見てやれない、といったことではない。なぜなら安倍はこの前の相談以来、ほとんど顔を見せなくなっていたからだ。四月末にやってきてからというもの、ほとんど入りびたりに近い状態だったのが、この一ヶ月で二回しか来ていない。
『彼女がいないと、どうもしっくりこない』
『場が冷めたような感じがする』
『あの子がここにやってくる前に戻っただけのはずなのに、調子が狂う』
『考えてみれば彼女が入りびたってたのは一月とちょっとなのに、こんな気持ちになるものなんだなあ』
『いや、そりゃあの子はいい子だから』
『そうそう、それだけここに溶け込んで、ここの空気を変えてたってことだ』
…と、以上は『どこか』のみんなの一致した見解。
さらにもう一つ、一致した見解として、保田と安倍との間になにかあったんだろう、とみんな思っているようだ。
- 516 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時38分24秒
- そう思われてなんの不思議もない。妹のような押しかけ友達として本当になついていたのだ。さらに、先月のやりとりを見かけた人間も何人かいる。安倍が来てすぐに保田の様子がおかしくなったのも仲間内では明らかなこと。安倍が顔を見せなくなれば、保田についてまず考えがおよんで当然のことだった。
だからって、保田に干渉するような人間はここにはいない。というか、保田も含めて余計な詮索・干渉をする人間はここにやって来ない。「一人でやってけないやつはノーサンキュー」の精神が徹底していた。
まったくもってありがたいことだが、それでも奈津美のことがみんなに知れていたら…やはりここまで静観してはくれなかったろう。
- 517 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時40分35秒
- そう。安倍が奈津美とうりふたつである、ということを知るメンバーはほとんどいない。奈津美は姉と両親との関係を気遣って『どこか』を訪れることがなかったし、保田は保田で、妹の自慢をしたことはあっても、特に名前を言ったこともないし、石黒以外に写真を見せたこともない。両親との確執の手前、仲間には奈津美の葬式にも来ないように頼み込んでいたから(いま思えばおよそ無茶な願いだった)、遺影を見た者もいない。妹の死にどこまでも落ち込んでいた保田をみんな知っているから、奈津美が話題に上ること自体なかった。
たまたま奈津美の顔を知っていたごく少数の人間には、安倍が来てすぐに余計なことを言わないように頼みこんだ。もとより要らぬ心配ではあったのだが。
ともかくも、保田は独りだ。
仲間は遠巻きにしてくれる。親友の石黒は、だからこそ静観している。そして安倍は顔を見せない。
自分から突き放すようなことを言った手前、別段気に病むべきことではないはずだ。なのに、圭ちゃん圭ちゃんと屈託のないあの笑顔と遠ざかってしまったみたいで、勝手きわまる話だが気持がふさぐ。
- 518 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時41分09秒
- ◆◇◆
相談にのった数日後に顔を合わせたときは、なにかずっと考え事をしているようだった。もっとも、あの別れ際での心細そうな感じはなくなっていた…というか、もともとその心細げというのも保田の勘違いだったのかもしれない。なにやらふっきれたようではあった。
ただ、考え事を抱えているのは確かなようで。一番お気に入りの木炭画を始めたと思ったらいつの間にかワトソン紙を一面真っ黒にしてしまい、うひゃーやっちまったべさ、題して「焼き海苔(全形)」だべさ、などと笑い転げてる始末。
さすがに気になって、ぎこちないながらもどうしたのかと聞いてみると、
『うーん? っとねー、なっちはいま、トンネルの出口が見えかかった気分! つまりいまは真っ暗!』
…わけがわからなかった。
まあそれなりに前向きになっているようだったが、保田のほうが素直になれないのには変わりなかった。朗らかな安倍は、そんな保田に対してちょっと悲しそうにしていた。
- 519 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時41分40秒
- 次に会ったのはそれから二週間ほどあと。
安倍は、ほぼ仕上がってそのままになっていた油絵をちょちょいと片付けると、妙に神妙な顔つきで保田に言ったのだ。
『圭ちゃん、なっちはいろいろ考えてさ、ここに来なくなる』
唐突だった。
はあ?! という保田の顔を見て、すぐに
『でもまた来るから。ちゃんとして、来るから』
そう言って、笑った。
保田が入っていけない、初めて見る「強い」安倍の表情。話すことができない保田を置いて、安倍は他のメンバーたちに報告に回った。といって、詳しい話をされたわけではないようだが。ともかく彼女の朗らかさが一層輝いて見えた。
その後、ここまで静観を決め込んでいた石黒が保田に言ったものだ。
『あの子はちゃんと進むことにしたみたいだね』
『どういう答えを出すか、わからないけど』
『あんたも準備しておきなよ。あの子に応えるのに…それと、自分から答えてやるのに』
どういうことかはよくわからなかった。石黒の教師としての直感が働いているのだろうが。
ともかく安倍が、それからちょっとのあいだ、まったく姿を見せなくなったのは確かだった。
- 520 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時42分10秒
- ◆◇◆
そうして、これまでのところ保田はまともに安倍の顔を見ることがなかった。
だからといって保田の心が解放されたということはない。大切な妹はいつも心のなかにいる。保田がケリをつけなくてはならないのは、安倍ではなく、自分自身だ。
作品には保田の心の荒れ方がそのまま反映されてしまっていた。作家の心を反映しさえすれば魅力的というものではない。現にいまの保田のソレは、暴走し昇華されてない。ネタをそのまま放り出されたようなもので、赤の他人からすれば、そんなものはご免こうむりたい、となる。早い話が売り物にも見世物にもならない。よほどの物好きなら…悩んでる他人のみっともないハラワタを見て喜ぶ人間なら喜ぶかもしれないが、あいにく保田はそういう人間と末永く取引を続けようとは思っていない。
- 521 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時43分45秒
- 絵でも彫刻でも写真でも、過去のストックがかなりあるから、現在制作が止まってもすぐに困るということはない。なにしろ保田は気分が乗ったときの仕事は素晴らしく早い人間だった。イメージがいくらでも湧いてきて、いつまでも手が止まることがなかったのだ。だから「過去の遺産」で食いつなぐ、ということは出来る。
さらに言ってしまえば、気持が乗ったものでなくとも技術だけでお客の要望を満たせるだろうという、後ろ向きな自信もある。なにも考えずとも、自動的にマチエールを作り下地をこさえてアクリルを重ねている。愛用のエアブラシは勝手に動く。靴下でサルの人形もこさえる。そうして、現にお客は満足している。
もっと言うと、いざとなれば「教室」でのセンセイ家業というやつもある。喫茶『どこか』のほうで働いたり、ぜんぜん別のバイトをする手もある。
しかし、もちろんそれがいいということはない。
安倍は戻ってくるといっていた。石黒の言うとおり、応えられるようにならなければならない。なんとか自分を取り戻さないといけない。
安倍がいない間、保田はこれまでより一層、自分を掘り下げていった。
そして今夜も、保田は黙々とプールで泳ぐ。
- 522 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時44分31秒
- ◆◇◆
夜のプールの顔ぶれは、今にいたるもいつもと同じ。
保田と、色白と、チビ。
整然としたフォームでひたすら泳ぐ保田。
ますます黙々と水に溶け込もうとするかのような、色白少女。
浮き沈みの激しいはしゃぎ方をする、小柄な金髪。
似た者同士の色白とチビだったが、いまや微妙な距離が生まれているようにも見える。
全くじれったいことだ…などとは保田は思わない。普通に考えれば友達になっていないのが不思議なくらいだが、二人には二人の事情があるのだろう、と思う。
それより、あの二人からは、今の自分はどう見えているのだろうか……
身体は勝手に動いて、水を掻き前に進む。
淡々と、一定のペースで疲労を溜めて、悩みを削る。
見事にピッチを保ったその姿は、覚めやらぬ眠りの中にあるかのよう。
それでも保田の頭の中では、安倍と石黒の言葉がはっきりと響き続けていた。
『また来るから。ちゃんとして、来るから』
『あんたも準備しておきなよ』
わかってるよ。
逃げない。
わたしは、逃げない……。
- 523 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時45分13秒
- ◆◇◆
<トゥルルルルル……>
プールから帰って一息ついていると、電話が鳴り出した。
携帯も重宝するが、保田は仕事上のカッコツケもあって固定電話を入れていた。いまやもっぱらADSL回線としての利用となっているが…
「はい、もしもし…」
『あ、圭、わたし。今晩は。ひさしぶりね…』
遅い時間に誰かと思えば、聞きなれた、そしてあまり聞きたくない声だった。
「お母さん…」
『ここのところ夜に電話してもいないし、携帯の留守録に入れても返ってこないし…連絡ついてよかった』
「うん、まあね」
夜はたいていプールに行っていて、帰りは十時半とか十一時になっていた。留守電や携帯の着信履歴で実家から連絡入っていたことは知っていたが、こちらから書ける気にはならず放っておいたのだった。どうしようもなく不自然な母親の(そして自分の)言葉づかいを耳にすると、今回も出なければよかった、などと思う。
『元気でやってる?』
「うん…地道にやってるよ」
『元気ならよかったわ…』
もちろん、元気とはほど遠い状況なのだったが。
- 524 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時45分59秒
- 「えっと、なんか用件があんだよね?」
『あ、そうそう、ちょっと早いけど…お盆にはこっち来れる?』
「……」
『あの、変な言い方だけど…これまで“普通の”お盆で会ったことないじゃない』
「うん…」
その通りだった。奈津美が亡くなって以来、父・母と会ったのは、初盆とか一周忌、三回忌といった特別な行事ごとばかりだった。正直、保田からすれば、妹を想うのにお盆も日常も関係ないし、祭壇も必要なければ家族が一同に会する理由もない、という気持ではあった。
「どうかな…日程次第だけど」
『いらっしゃいよ、よその県から里帰りってわけでもないんだし』
「ん…なんか感じが違わない? どうしたの?」
『そんな、どうしたってことないでしょ、親子なのに』
どうだろう。少なくとも、“義絶”した親子だった。ぎこちない関係は奈津美の死後も、曖昧に続いている――
『お父さんもね、もう許してくれるって…』
耳を疑った。
- 525 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時46分57秒
- 『ちょっと、圭、聞いてる?』
「………なに言ってるの?」
『なにって…お父さんも、あとわたしも、これを機会にあんたと仲直りしたいって』
「で、許してくれるって?」
『うん、わたしもお父さんも、あんたが出てったのはすごく残念だったし、あんたがなに考えてるのかわかんないけど…でも、もう水に流さないとって』
保田の母は能天気な人だった。「許す」という表現に自分の娘がどう反応するか、理解していなかった。
「へー、そりゃどうも。嬉しいや」
『奈津美もね、望んでるだろうし』
この流れで奈津美を持ち出してほしくなかった。
奈津美は保田の出発を、家を出る決意を祝福してくれていたのだから。母の知らないこととはいえ、大切な想い出を踏みにじられた気持だった。
「奈津美が望んでるって?」
『そうよ、だってあの子…』
「あのさあ、お父さんやお母さんにとっての奈津美と、わたしにとっての奈津美って、たぶん違うと思うよ」
『なに言って…』
「奈津美は「許してあげよう」なんて思わないってこと!」
そのまま受話器を置いた。
- 526 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時47分32秒
- 過敏だったかな、と保田は思った。話を合わせてやるべきだったかもしれない。なにも、いまの生活をやめて家に戻って来いと言われたわけではない。表現にカチンときたが、両親が(特に父が)不器用で意地っ張りというのは奈津美も言っていたことだ。なにより、奈津美が「また家族が揃う」ことを願っていたことは確かなのだ。
もう一度鳴り出すことを期待してちょっとのあいだ電話の前で固まってしまったが、当然そんなわけもなく。保田も自分からかけたりせずにさっさとベッドに転がった。
無理してもろくなことにはならないよね。
でも自分を立て直して、奈津美に…さらに安倍に向き合うには、こっちも片付けないといけない、か。
あっちこっち大変だよ………
- 527 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時48分10秒
◆◆◆◆◆
――ごめんね、奈津美…
あーあ 圭ちゃんったら
――だってしょうがないんだよー
はいはい
――ほんとにあの二人ときたら…
圭ちゃんそっくりだよね
――うえ。
特にお父さん 親子だもん
――親子、だよねえ。でも奈津美、わたし……
うん 仲直りなんて難しいでしょ
――…そう。普通に仲良くは、わたしには無理。
まあ 圭ちゃんは圭ちゃんだもんね
――ごめん。
もっと大変な心配ごとあるしね
――え?
なんとかしないとね 圭ちゃん
――奈津美…
約束だからね……
◆◆◆◆◆
……なんか、自分に言い訳してるみたいな夢だったな。
あの子、少し寂しそうだったけど、やっぱり「仲良し親子」はちょっとねえ。いや、奈津美も元々わかってくれてた。わたしら姉妹それぞれで親子関係が違うもんだってことは。
あ、そう言えば…こんな普通に奈津美を夢に見たの、久しぶりだ……。
- 528 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時49分10秒
ひどい悪夢ではなく、普通に夢の中で妹と出会えたことに、保田は気がついた。
安倍と離れて一月ちょっと。保田は多少なりとも落ち着きを取り戻しつつあったのかもしれない。早い話が、頭を冷やしたということなのだろう。
もっと大変な心配ごと…約束…か。
保田圭、頑張ります…。
もちろん実際に安倍と再会したときにどうなるか、それはまた別問題ではあるが。
- 529 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時49分50秒
- ◆◇◆
再会は早かった。
七月も下旬になって、安倍がまた顔を見せたのだ。
安倍は、看板娘の帰還を歓迎する仲間達に挨拶回りを済ませると、ギャラリー区画のテーブルについている保田のもとにずんずんとやって来た。
「圭ちゃん、ひさしぶり」
「う、うん」
少しのあいだ見なかったその笑顔はやはり天真爛漫だった。どうも調子が狂うというか…
それでも笑顔を作って迎える。
「戻ってきたんだ」
「えーっとね…」
珍しく安倍が目を泳がせた。
「戻ったのは戻ったんだけど…制作はお休みで企画運営にだけちょべっと顔出す感じかな」
「運営って月末の…」
「うん…展示会」
「ごめん、新作は無理」
「…圭ちゃん、あの……したらなっち、会議があるから」
出だしでつまづいてしまった。
安倍は、制作を休むといった。運営に戻るといった。どちらも保田には引っかかってしまった。事前のイメージと違うとこうもうまくいかないものか。
安倍の寂しげな表情に申し訳なく思ったが、保田はぎこちない態度をぬぐうことができなかった。
- 530 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時50分30秒
- ――約束、したのになあ。
立ち去る安倍の背中を見て思う…この前の夢を。
「なに? わたしが準備しとけって言ったこと?」
「ぅわ…」
石黒が隣りに来ていた。知らずに声に出していたらしい。保田のマヌケな反応にかまわず、石黒は話し続ける。
「かなり準備できてるはずだけどねえ」
「…って、なにが」
「あの子はきちんと道を決めたみたいだし」
「おーい」
「自分でいうつもり、かな?…ま、近いうちに結論が出るでしょ」
言うだけ言うと、自分ひとり納得して、石黒はカウンターへと歩み去っていった。
なんなんだ。
ともかく石黒がなんと言おうと、保田が安倍との距離を縮められなかったことは事実だった。安倍のどこか悲しそうな様子。胸にわだかまりが残った。
- 531 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時51分10秒
- ◆◇◆
それから…いつものプールでのこと。
保田はひどく後味の悪いものを目撃した。
例の二人だ。彼女ら二人が、プールサイドで派手に口論していたのだった。
もともと色白のほうはチビのほうを露骨に敬遠してはいた。また、両方ともこのところ妙にギスギスした気配を感じさせてはいた。逃げ場を見つけられない苛立ちが消せない感じではあった。
そして、その険悪なムードが臨界点に達した感じで口論が始まったのだ。細かい内容は聞こえるわけもなかったが、目をそむけたくなるような、耳をふさぎたくなるようなやりとりだった。お互いに、相手の絶対に触れてはならないところを抉っているようだった。まるで近親憎悪のように……。
どちらが仕掛けたのか、なにが理由かはわからない。しかし、ともかく二人組みは最悪の空気を漂わせて固まっていた。もう二度と来ないのじゃないかというくらいの、ひどい雰囲気だった。
- 532 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時51分50秒
- 保田は意識的にフォームを整えて泳ぎに集中した。さもないと、二人が気になってここにきた意味がなくなりそうで。
それでも泳ぎながら考えてしまう。
なにやってんだよ。
なんだってケンカなんかするんだよ、あんたら。
見てればわかるんだよ。あんたら同じ。友達みたいなもんだよ?
ケンカなんてよしなよ。
そのまま離れ離れになって、明日どっちか死んじゃったら?
ものすごくやな思いをするよ。
一生後悔するよ、きっと。
- 533 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時52分24秒
- 保田は二人と話をしたこともなかったが、同じ空間を共有するものとして、そしてたぶん同じようにもがいているものとして、「戦友」のような感覚を持っていた。傍目にも似た者同士な二人が…あっさり友達になってしまえばいいような二人が、ケンカしていること
が残念でならなかった。
自分は嫌だ。大事な人と離れたまま…もしそのままになってしまったら?
家を出てから、奈津美と昔みたく遊ぶこともないまま、死に別れてしまった。あんなことが繰り返されたらと思うと耐えられない。
それに…そうだよ、なっちとだってそうだ。
せっかくまた戻ってきてくれたのに。
なんとかしないと。
そうだ、なんとかしないと、なんとかしないと―――
保田の中でいま、ようやく、安倍に向かっていこうという衝動が生まれていた。
自分の気持ちをはっきりぶつけて、この居心地悪い隔たりをなくしてしまいたい。
それは、前向きで前のめりな、焦りにも似た衝動だった。
- 534 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時53分04秒
- ◆◇◆
翌日。
きょうは『どこか』の会議室に主要メンバーが集まって、「青空展示会」とやらいう催しの打ち合わせ。今月末つまり一週間たらずのちに開催するイベントごとで、昼間から野外に彫刻だの絵だの並べて、その場で制作・指導も行い、さらに楽器やダンスほか見世物を披露、そのまま夜になだれ込んで花火でも上げたらよかろう、という企画。何ヶ月も前から準備を進めていて、直前の最終調整といったところ。
この企画、『どこか』にとってかなり重大・重要な意味をもつ。
てっとりばやく言えば、病床にある『どこか』の「協力者」に捧げられるもの、だ。
その人物は市の名士で、この得体の知れない集団のお祭り騒ぎに要所要所で助力してくれていた。土地を借りたり交通規制が必要だったり火薬を使ったりといったとき、その人が「公」の筋に話を通してくれたお蔭で、ずいぶん活動が楽になったものだった。
- 535 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月25日(月)22時53分42秒
- しかし数ヶ月前にその人が重病で入院しもう長くないとわかり…その時点で、ただの夏祭り企画は「協力者に捧ぐ」というものに変わっていた。おおっぴらに銘打つような野暮なことはしないが、生前葬とばかりに盛大に騒ぐ。それが『どこか』なりの誠意。
さらにいえば、すでに「協力者」なきあとを見据えてもいる。これからも自分達は大丈夫だというデモンストレーション、そして今後ともお世話になるだろう「公」筋への顔つなぎでもある。そんな重大イベント。
保田は会議室の外、思いつめた表情でじっと待っていた。打ち合わせそのものは満足に作品が仕上げられないため出席を遠慮している。なのにこの場にいるのは、安倍を見つけられたから。外からガラス窓越しに中の様子をうかがうと、安倍はかなり積極的に意見を出しているようだ。
- 536 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時54分26秒
- 安倍はすんなり企画運営に戻っていた。もともと、ちょうど安倍が入ってきたときくらいからいよいよ本格的に軌道に乗りだした企画だ。憧れの場所にやってきたらなにやら面白いことが動き出している、と安倍はすっかり夢中になってどんどんのめりこんでいた。しかも「重大」な企画なのだ。安倍は小さな身体にやる気をみなぎらせているようだった。
しかし安倍のその様子を見ていて、なぜか…保田の心はささくれ立ってきていた。
悪い予感がした。
このままだと、湧き上がっていた安倍に向かっていく気持ちが、前向きに話をするのとは違う方向にいってしまう。
これは引き揚げたほうがいいかも、と思いかけたとき、ガラスの向こうの安倍と目が合った。笑って手をふる安倍を見て、もう引き下がれなくなってしまった。
- 537 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時54分59秒
- 打ち合わせがおわって解散すると、安倍が駆け寄ってきた。なにやら有頂天の様子。
「ああ、圭ちゃん! 今回ね、すごいんだよ? 飯田圭織さん、知ってるっしょ。あの人! あの人が新しい絵を出してくれるって!」
そりゃ確かにすごいことだ。あの理解不能のウルトラ気分屋が出展してくれるかどうか、最後の最後、ぎりぎりまでわからなかった。なにかいいことでもあったのだろうか? 同じく気分屋の旦那のほうはぶっちぎったみたいだが。ともかく、彼女みたいに描けたら、と思ってる画家はたくさんいる。間違いなく目玉になるだろう。
というところまで心の中で流れるが――しかし。
「なっち、そういやこれまで見かけなかったの、シュウカツってやつ?」
「え?え?」
「で、大学は夏休み始まったから顔出すこともできるようになった、と。うん、それくらいのスタンスがいいと思うよ」
「なに言ってるべ?」
「やっぱりあまりハマリこむもんじゃないよって。あんたもそのつもりになったわけでしょ」
- 538 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時56分24秒
- 保田としては、まずは普通のトーンで話のマクラにするつもりだった。
安倍がこのところ顔を出さなくなっていたこと。顔を出すようになったのは、ちょうど大学の夏期休業開始と一致すること。これらは事実だ。事実を普通に話せばよかった。
しかし、以前自分に相談したときに安倍が言った「ちゃんと自分で考えてみる」という言葉を思い出し、ならいまどうなのか、とつっかかってしまったのだ。
「圭ちゃん…なんでそんな言い方するかな?」
安倍は好きな人に逆上したりしない。ひたすら哀しい、という表情になる。
こういうところ、奈津美にそっくりだ――
「なっちはさ、前に圭ちゃんに言われたこと考えて。したっけいま行ってる大学をちゃんと頑張ろうって」
「うん、だからそれがいいって…」
「ちゃんと聞いて。大学卒業して、ここに来ようって」
「なにそれ。よくわかんない。やりたいことはまっすぐやればいい。卒業まで寄り道なんてしてる暇はない!」
「待って、圭ちゃん!!」
- 539 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時57分03秒
- 安倍を振り返らずに歩み去る。安倍もそれ以上追いかけてくる気配がない。
保田の怒りに理屈はなかった。そもそも安倍に対して、「やりたいことをやればいい」という考えの甘さを戒めたのは保田自身だ。それが正反対のことを言っている。
ここでもやはり奈津美が影を落としていた。
自分を『どこか』に送り出してくれたものの、第一志望の大学合格直後に世を去った奈津美。かたや安倍は、奈津美がまっとうできなかった四年間を完結させてたうえで、『どこか』に来ようとしている。おいしいところ取りだ、不純だ、という論理。
また、妹と同じ顔をした少女にまっすぐ走ってほしかったという願望。自分が背中を押してやりたかったのにできなかった不発感。さらに、スランプで作品が作れない焦り。一方で飯田圭織参加を喜ぶ安倍への苛立ち。
すべて、およそ身勝手極まる思いが混ざり合って、安倍にぶつけてしまった。
- 540 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)22時57分43秒
- 早くも猛烈な後悔が湧いていた。
せっかく、自分から安倍に声をかける気持ちができていたのに。
出会って以来初めて湧いてきた、なんとか向かっていこうという気持ちだったのに。
くだらないこだわりのせいで最悪の結果になってしまった。
むこうでは、安倍をなぐさめている石黒が、こっちを見て『しょうがねーなー』という表情をしていた。
- 541 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時00分24秒
- ◆◇◆
その後、保田は安倍に謝り、かたや安倍は、自分が保田を謝らせてしまったといって保田に謝った。さらに安倍は、作品をあげられない保田の前で飯田圭織のことを有頂天で話してしまった軽率さも詫びた。これはこれで、余計ヘコまされたが。
そして二人は難なく元通りになった。
そう、保田がなかなか先へと進めないという、元の通りに。せっかく、なんとかしなければと湧き上がった気持ちが、空回りのせいで一気にしぼんでしまった。
確かに残り火はくすぶっている。しかし、もう一度燃えあがらせる方法がわからない。
イベントは盛況だったという。
素人も玄人もスポンサー予備軍もエライ連中もみな満足で、当初の目的を十二分に達成したらしい。
もっとも保田は、結局新しい作品を仕上げられず、鉄道のレールをひん曲げて作った未発表のオブジェを化粧直ししてお茶を濁した。だから顔も出さなかった。
いっぽう飯田圭織の絵はやはり大変なものだったという。
森だか山の中をさまよう少女たち…に、頑張れば見えなくもない、ともかく予想以上にぶっとんだシロモノで、またも多くの素人に衝撃を与え、多くの玄人に羨望の念を抱かせたとのこと。
- 542 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時01分51秒
- ◆◇◆
夜のプールのその後。
衝突した二人組みはお互いを避けるようにしていた。
なにか仲直りの気配を見せた瞬間もあったのだが、もううやむやだ。どちらもなにかきっかけさえあれば仲直りしてしまうのだろうが。
簡単なことなんだよ? きっと。
踏み出しさえすれば、あとは簡単。
そんな知らんぷりして。相手のこと大事なはずなのに。
そのままじゃ、自分がつらいだろうに。
あ。
簡単なことに踏み出せないで、大事な相手をほっといて、つらい思いしてる。
なんだ、わたしのことじゃないか。
- 543 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時02分45秒
◆◆◆◆◆
――ナツミ、ねえ。
………
――ねえ、どうしたの?
…………
――ねえ、なんで黙ってるの?
……………
――お願い、ちゃんとこっち見てよ。
……こそ…こっちを……
――? 聞こえない。ね、ちゃんとこっち向いて?
圭ちゃんのほうこそ こっちを見てくれないべさ
――?!
はーあ ちょべっとマシになったかと思ったら
――ちょ、ちょっと…
せばね
――待って!
◆◆◆◆◆
うわー…ひっどい夢、見ちゃったな。
いや、ひどいのはわたしだよね、なっち……。
うん。
そうだ。わたしはマシになってきてたはずなのに。
なにかが足りない。
なんだろう。
どうすればいいんだろう………
- 544 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時03分41秒
- ◇◆◇◆◇
「あんたらさ、二人で奈津美さんのお墓参りしてきなさい」
八月にはいってすぐ、『どこか』喫茶店でのこと。
口調は明るく、しかし奇妙に厳しい表情で石黒が保田に言った。
「なにそれ、いきなり。お盆にもう少しだってのに。だいたい二人ってあと一人はだれよ」
「なっちに決まってるでしょ。時期なんて関係ない。行ってきな」
石黒は、もはや決定事項といったふう。そうする以外に道はない、とでもいいたげだ。
「なんでなっちと二人で奈津美の……」
「ぐだぐだ言わない! 道はもう決まってるの! あとはキッカケつくって、ケジメつけるだけ。ケジメつけるのにはそれなりの舞台が必要でしょ。妹さんになっちのこと報告しなさい。なっちに妹さんのこと紹介しなさい。あんた自身のこと、なっちに白状しなさい」
強い口調で一気に言い切られた。保田は返す言葉がない。
- 545 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時04分22秒
- 石黒はふっと表情を和らげ、声のトーンを落した。
「あのさ、この際…っていったらなんだけど、なっちに会えたの、縁だと思いな? あんたにとっての、なっちとの出会いの意味、考えるの」
「出会いの意味…?」
「あんた、自分では奈津美さんのことふっきれてたと思ってるかもしれない…なっちに会うまではふっきれてた、ってね。でもね、わたしが初めてあんたに会ったとき、すぐわかった。なんかわだかまりをずっとくすぶらせてるって。ふっきれてなんかいなかったよ」
「…!」
「その時は、時間が解決するかもって思ってた。わたしが口だすことじゃないって。いまみたいなひどいスランプってことはなかったし…だけど、なっちが現れたんだよ。こんな出会いってないよ?……これが出発のときなんだよ、きっと」
- 546 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時05分13秒
- 最後の部分は、わかるようなわからないような、だったが。
しかし確かに保田の心に響くものがあった。
石黒の目を見て、かすかにうなずく。
その様子に安心したかのように、石黒はにっこり笑ってみせた。
「大丈夫だって。あんた自身、もう、ちゃんと進めるようになってきてるよ。だからこんなこと言ってるんだからさ。石黒先生は水飲む気のある馬しか水場に連れてかない。おわかり?」
「わたしゃ馬かい」
「そ、水飲む気になってる、ね。馬が嫌なら鹿でもいいよ」
石黒の軽口にリラックスしてきた。
しかし、それでもまだちょっと不安もある……そんな保田の様子を見て、石黒は言葉を続ける。
「こないだだって、なっちに自分の気持ちぶつけてたわけじゃない? 少し前ならあんなこと絶対なかったもの。あれはかなりびっくりしたんだから、わたし」
「うー、でもあれは…」
「うん、最悪な空回りだったけどね。なにやってんだバーカバーカって思ったよ。も一つ言おうか? バーカ」
「…くっそー」
いいように石黒に遊ばれているのがムカついたが、おかげではっきりと気持ちが切り替えられたように思った。自分の中で進んでいた変化が、定まったような気がした。
- 547 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時06分33秒
- ◆◇◆
その夜、また保田はプールに来た。
しかし今回は、いつもと少し気持ちが違っていた。それを予感して、確かめるためにここに来たというのはあるのだが。
なんだろう。泳ぎに没頭してカラッポになる感覚が湧いてこない。そのかわりにいろいろと感じる。身体のまわりをすり抜ける水を感じ、見上げる照明のまばゆさを感じ、場内に満ちる音を感じる。さまざまな感覚を、しっかりと噛みしめている。これは……そうだ、充実感。
なにか泳ぐのが楽しくなってきていた。この三ヶ月ほど、一度も湧いたことのない感覚。
泳ぐのが楽しい。楽しいじゃないか。
- 548 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時07分27秒
- 夢中になって泳ぎ続け、プールサイドで心地よい疲れに身体を伸ばしていると、例の二人組みが目に入る。
相変わらず、ぎこちなく素知らぬふりを通している。自分から歩み寄ろうとせず、そのくせ相手が近づいてくれるのを待っているように見える、二つの寂しい背中たち。
保田はその様子を見て、なにか猛然と血がたぎってきた。
なにをやってるんだ、あんたら。
いい加減にしろよ。
いつまでそうやって立ち止まってるつもりだよ?
よーし。
あんたらが踏み出せないってんなら。
足踏みし続けるってんなら。
見てなよ。
わたしがまず、踏み出してやるから。
さっさとプールを出て、帰途に着いた。
そうとも。
あした、決着だ。
- 549 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時08分14秒
- ◆◇◆
翌日の朝、保田は力強い足どりで『どこか』喫茶店にむかった。かならず安倍に会えるという確信があった。安倍はここのところ、午前中だけだがほとんど毎日『どこか』に来ていたから。
ゆうべ、厄介事は一個片付けた。あともうひとつ、でっかい山を越えてやる――。
そう、一つは確実に片付けたのだ。
保田は昨晩を思い出す。
気持が高揚したままに、なんとあっさりやってのけたことか―――
――――
「あ、もしもし、お母さん、わたし、圭。今晩は」
『まあ、今晩は……驚いた』
「なによ」
『あんたから電話なんて初めてだもん』
「そりゃしかたないじゃない」
『……』
「ま、そんな話じゃなくって…こないだの返事、ちゃんとする」
『?』
「じきお盆でしょ、そっち行くわ。家族だしね」
どんなもんだ。言ってやった。
受話器のむこうの仰天した様子。たやすく想像できた。
そしてここが肝心だ。
「ただ…詫びを入れる気はないから」
『圭、そんな…』
「お父さんにも、会ったときちゃんと言うよ。意地張って顔も見ない、なんてのはもうおしまい。だからって、いかにもな家族をする気もないよ。そのつもりで、行く」
- 550 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時09分04秒
- 「帰る」じゃなくて「行く」にこだわった。
声が震えてたのは仕方ないか。
『……』
「お母さん?」
『はぁ〜、初めて電話してきたかと思えば……あんたらしいわ。うん…おかしい』
「泣いてるじゃない」
『…笑ってるのよ』
まあこっちだって、笑みがこぼれてなぜか目頭が熱くなってる。
『そういう意地っ張りなとこ、お父さんそっくりね』
「うえ、やめてよ」
『奈津美はわたしに似て素直ないい子だったけどねー』
「よく言うよ」
こんなに軽く、奈津美のことを話し合えたなんて。
「ま、ともかくお盆はさ、三人で奈津美を迎えてやろう」
『うん……そうね。あんたも奈津美も帰ってくる』
「ちょーっと、わたしは帰るんじゃなくて…」
『はいはいはい「来る」ね、まったく。その調子でお父さんとケンカしなきゃいいけど…するよねえ』
「善処します」
『………』
――――
思い出しても笑みがこぼれる。
奈津美が生前言っていたのと、たぶん形は違うけど…これがいまの自分なりの親子関係。奈津美もきっとわかってくれる。
この勢いだ。
保田は、ますます力強く「正念場」へ向かった。
- 551 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時10分34秒
- 力強く――確かにそうだったのだが。
だんだん近づくにつれて足どりが重くなってしまった。喫茶のドアまでがやけに遠い。
ちくしょうどうした。決着つけるんじゃなかったのか。
ゆうべ実家に電話したときのあの勢いはどうした。
焦っても、気持ちはなかなか突き抜けない。
無理もない。奈津美の死後ずっと、三年間も晴らせなかったのだ。心の中の安倍に、奈津美に、いきなり強気になれるわけがない。しかし、わかっていても情けない。昨日の決意と現実の不安。保田は絡めとられそうになる。
前へ…前へ…!
しかし歩みは遅く、歩幅は狭く……
うっかりすると回れ右しそうになる。
…ってなに考えてんだ。
ここで止まるなよ。
止まったらもう進めなくなる。
逃げるな、逃げたら今後あんたを「エヘン虫」と呼ぶ!!
もはや自分でもなにがなんだかわからない。
でも、とにかく前へ…!
………
普通より遥かに時間をかけてようやく着いた店の前、口の中が渇き、何度も唾を飲み込む。そして二三度深呼吸して目をつぶり、力まかせにドアを開けた。事前に思い描いてたカッコイイ動作とはほど遠い、不恰好でぎこちない登場になってしまった。
- 552 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時11分58秒
- ドアを開けると、むこうのテーブルの安倍が顔を上げた。手前がわ、安倍のむかいは石黒のようだ。背中を向けていてふり向きもしない。
一方保田は、ここまで来たのに、足が進まないし言葉も出ない。
どうしよう、ここで焦ってこないだみたいな「最悪の空回り」をしちゃったら。いや、いまそんなこと考えてどうする。
とにかく。とにかく、ここで片付けないと。なにか言わないと。
しかし言葉が浮かばないうえ、喉が締まったようになってひどく間抜けな声が出た。
「えーと、おはよう、あのさ、なっち――」
「圭ちゃん!」
安倍がすごい勢いで立ち上がり、だっと駆け寄ってきた。
「?なっち、あの…」
「ねえ、圭ちゃん! なっちはなっちなんだ。圭ちゃんの目の前にいる人は、安倍なつみって人。圭ちゃんのこと大好きで、この場所が大好き。そんな安倍なつみさん。わかるかい?」
いきなり機先を制されたうえ、なにやら省略だらけの文を羅列されて、保田は茫然とするばかり。
- 553 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時12分46秒
- 「?あ、あのね、もうちょっと…」
「ねえ、圭ちゃん、こないだはちゃんと言えなかったけど、きちんと言う。なっちはもう自分のこと、親ときちんと話してケリつけたんだ。だから顔出さなかった。なっちはもう進んだ。圭ちゃんを困らせない。だからこんどは圭ちゃんがなっちを見る番」
「???」
保田の当然過ぎる反応に、しかし安倍はもどかしそうにする。
「もっかい順序よく言うね。まず大学ね、卒業はちゃんとする。やりかけてることだから、ちゃんと終わらせる。これ、なっちのけじめ。したらここで働く。親にはスジ通して了承とりつけたから、なんの問題もない。ここは企画・運営・制作・いろいろ。ここ、運営がなまら弱っちいからさ、なっちみたいに頭のいい子いると便利だよ? 経営学部だもん。ここまで、いいかい?」
安倍の勢いに、保田はうなずくしかない。
- 554 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時13分44秒
- 「したっけ、こんどは圭ちゃんがなっちをちゃんと見る番。なっちはなっち。圭ちゃんの妹さんと名前も顔も同じでも、別の人。なっちは平仮名のなつみ。漢字じゃないよ?」
妹さん!? いったいなんの話を――
「圭ちゃん、それこだわって、ちゃんとなっちのこと見てくれないっしょや? 彩っぺに聞いたんだ。したどもこのまんまじゃたまらないもの。なっち、ここでちゃんとやってく。圭ちゃんと仲良くしたいんだ! ね、どしたらいいべ?」
えーと、なんかいま聞き捨てならないセリフが。
「『彩っぺに聞いた』って?」
「うんそう。ちょっと前に。で、圭ちゃんどうせもうじき来るから待ってろって」
あいつ…!
石黒のほうを見る。
こっちを眺めていたのをあわてて目をそらしてみせるが、その動き、どうにもわざとらしい。忍び笑いが聞こえそうだ。
なんてやつ。
あんた本当に、なんてやつだろう。きのうはわたしをたきつけといて。
- 555 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時14分59秒
- もう一度、安倍に向き直る。確認しておかないといけない。
「どこまで聞いたの、彩っぺに」
「いや、えと、圭ちゃんの亡くなった妹さんがなっちとそっくりだって。あとその妹さんと圭ちゃん、ほんとに仲良かったんだってこと」
「うん……よし! あとはわたしが全部話すよ。ちゃんとね…………ねえ! わたしちょっくら妹の墓参り行ってくるわ!」
最後の言葉は石黒の背中に投げる。
すると石黒、さっと席を立つとこっち向いてつかつか歩いてきて、ぽんと小さな紙包みを手渡した。
「なにこれ?」
「お線香とマッチ。どうせ手ぶらでしょ? 二つ先の角の花屋、開いてるよ。手桶・柄杓その他もろもろも貸してくれたはず」
それだけ言うと、くるっときれいなターン。そして背中を向けたまま、ただ、握った右手を上げると親指をぐいっと突き立てて見せた。どこまでもカッコツケしいだ。
保田は保田で、テーブルに戻る背中におどけて敬礼。そして、ほっておかれていた安倍をまっすぐ見た。目をぱちくりさせている安倍に、きちんと言う。
「これから、妹を紹介するよ」
その言葉に表情を硬くする安倍の肩をたたいて、ドアを開ける。さっき入ってきたときとは違う、力強い動作になっていた。
- 556 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時15分58秒
- ◆◇◆
周囲の木立から、アブラゼミの声が飛んでくる。
木蔭のもと、墓の周りを掃いて墓石をきれいに磨き、花を換えると、線香に火をつける。少し風があったが難なくついた。保田と安倍、ふたりしてかがんで、こじんまりした墓に手を合わせる。安倍も神妙な面持ちだ。
『どこか』からそれほど離れていない小高い墓地。その片隅に、保田の妹・奈津美の墓はあった。
妹に手を合わせ保田は心の準備をととのえた。やがて目を開けるとその場にあぐらをかいて、安倍にもうながす。安倍は体育すわり。これから長いややこしい話になるのだ、できるだけ楽な格好がいい。はっきりいって無作法もいいところだが、自分と妹の間柄なのだ。誰にも文句は言わせない。
さて、なにから話そうか。まあ、きれいにまとめることはない。時間はたっぷりある。
奈津美、この子に聞かせること、あなたも聞いておいてね…。
「妹…奈津美とわたしはね―――」
- 557 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時16分59秒
- どのくらいの時間がたったろう。保田は安倍に洗いざらい話していった。順序だててではなかったが、話しておきたいと思うことはすべて。
奈津美のこと。奈津美と自分のこと。自分たちがどれだけ仲が良かったか。自分が家を出たいきさつ。そのとき奈津美がくれた言葉。奈津美があとに残ったこと。奈津美の死。自分がとことん苦しみ抜いたこと。そして、安倍と出会ったこと――
話し始めてからいつの間にかお互いの顔を見なくなっていた。保田は奈津美の墓を見つめ、安倍は自分のつまさきを見つめ……自然とそうなった。
安倍はときおり「うん、うん」とうなずくほかはずっとうつむいて黙っていた。
「――で、いまこうして全部話せるようになったってわけ」
「…………」
「なっち?」
保田はようやく安倍のほうを見た。
安倍は――泣いていた。抱えた膝に額をつけて、肩をふるわせ声を押しころし。ほんの少し前からこらえきれなくなったらしい。ぎゅっと閉じた目からはあとからあとから涙があふれ続け、膝小僧を濡らしていた。
- 558 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時17分52秒
- 「なっち…」
「……そんな、そんな、悲しいよ…悲しいよお…圭ちゃんも……奈津美さんも、かわいそうだよお…奈津美さぁん…」
ふえーん、と大泣きになっていた。
泣いてくれるんだ…いまはじめて話した妹のことで、そんなに泣いてくれるんだね。
安倍の涙に、保田も胸が熱くなった。
「ありがとう。ありがとうね、妹のために泣いてくれて」
立て膝に顔を埋めた安倍の背中に手をまわし、抱きしめた。小さなその背中を、いとおしげにポンポンとたたいてやる。保田の腕の中、「奈津美さん、奈津美さん」と声に出して、安倍は泣き続けた。
- 559 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時18分59秒
- やがて泣きやんだ安倍は、顔を上げてにっこり笑った。涙でぐちゃぐちゃだったが、太陽のような笑顔だった。保田も笑って、ハンカチでその顔をふいてやる。
「圭ちゃん、ちゃんと話してくれて、なっち嬉しいよ」
「うん…ちょっと時間かかっちゃったけど。話せてわたしも嬉しい。なっちにこそ聞いてほしかったんだと思う」
そうだ。この、安倍なつみにこそ聞いてもらいたかったんだ。安倍との出会いの意味とは、そういうことだ。
「奈津美さんのこと、知ることができて本当によかったな。奈津美さんって、素敵ないい子だったんだね……」
「あは、ありがと。うん。本当にいい子だったよ……なっちと同じくらいね」
「やー、恥ずかしいべさー!」
言葉と裏腹にまったく照れた様子もなく、にっこり受けとめている。
もとより保田の言葉は本心だ。奈津美もなつみも、どちらもまったく同じようにすばらしい個性なのだ。
- 560 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時20分08秒
- 「でもほんとにそんな似てるんだべか」
「うん、そっくり。こんど写真見せたげるよ。赤の他人だなんて信じられなかったもん。はじめてなっちと会ったとき、驚いたのなんのって。パニックだったね」
「あー。圭ちゃんあのときおっかない顔してたものー」
「はは、ごめんごめん」
でもしかたない。ほんとにそっくりなんだから。
もし…両親が安倍と会ったら、どんな顔をするだろう?
そうだ。いっそ実家に連れていってやるか……お盆に。
だめだめ、いくらなんでも冗談が過ぎる。二人とも「本当に帰ってきた」とか思ってぶっ倒れてしまうだろう。
それでも目の前でニコニコしている安倍を見ていると、そんないたずら心が湧いてきてしまうのだった。
- 561 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時20分51秒
- ◆◇◆
そういえば。保田はようやく、ここまで自分の話しかしていなかったことに気がついた。
「なっち、あんたのこと、さっきはちゃんと聞けなかったんだけど…」
「あっはー、ごめんねー。もういっぱいいっぱいだったんだあ。でもあれ以上のことは、ホントなんもないよ? それでもいいかい?」
念を押すのに保田がうなずくのを見て、安倍は話し始めた。
- 562 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時22分12秒
- 六月。
保田に突き放されてから、自分の中で悩み続けた。
やっぱり四年生にもなってから飛び込もうなんて中途半端だったんだ。
そのうえまだ…六月にもなってまだ自分の同学年たちの言動に揺り動かされて、最悪だ。
保田が全部見透かして厳しいことを言ったのも当然だ。
でもちょっとは優しくしてくれてもよかったのに、なんて思う自分が最悪だ。
だけど、違うふうに思うようになった。
保田は言ってた、甘くないって。だったら覚悟を決めよう。でもって、まず目の前のことを、やりかけてることをきちんとまっとうしよう。そしてあらためて、飛び込もう。
そう思って、それから学期中はわざと自分の中の『どこか』を封印した。
- 563 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時23分01秒
- 七月。
夏休みに入ってすぐ、実家に帰って親とじっくり話した。S市に引っ越すときとかにもう何べんも話していたことだから、むこうもあきらめがついてる感じだった。最後には、呆れ半分に笑ってくれた。
『思う存分、やってみろ』
父親はそう言ってくれた。でっかくてあったかい笑顔だった。母親はなにも言わずに抱きしめてくれた。話してよかった。
思わずもれそうになった『ごめんなさい』は、意地でも出さなかった。二人にそれこそ申し訳ないから。
- 564 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時23分51秒
- 卒業したら『どこか』でなにができるかいろいろ考えた。いきなり作品で食っていくのは、ちょびっと厳しそうだ。いや、自信がないわけではない。でも自信満々なわけでもない。
よし、いまのナマクラなやりかたでみすみす取りこぼしてるゼニ、そいつを自分の力で『どこか』にもたらしてやろうじゃないか。そしていくらかバックしてもらおう。そうしながら人脈も開拓しよう。市場を把握しよう。
なにせ自分は優秀なのだ。
以前は、自分が優秀でブランド大学行ってることに妙な引け目を感じていた。でもそんなのはもう捨てる。優秀、いいことじゃないか。いいことに決まってる。そこから逃げずに、思いきり使いこなしてやる。
みんながそれぞれで頑張って、みんなが幸せになる。『どこか』の唯一の掟みたいなもんだった。
決まった。腹くくった。膝曲げて腰落として、あとは跳ぶだけ。
ありがとう、圭ちゃん。
- 565 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時24分38秒
- ◆◇◆
「…というわけなんだべ」
「ちょ、ちょっとなに? 最後の、“ありがとう、圭ちゃん”って。わたし、ただやなこと言っただけじゃない。あんたのためにはなにひとつ…」
「なーに言ってんだべか? 圭ちゃんが背中たたいてくれたから、踏み出す勇気、持てたんだよ? 最後は自分で決めること、実力ないならノーサンキューって。なっちにとっての励ましだったな。まーでも展示会の打ち合わせのときのは正直悲しかったべさ。あらやだよー、余計なこと言ってしまったべ」
保田は苦笑いするほかない。あれは自分が一方的に悪い。でも安倍の笑顔を見ると、許された気持ちになる。そしていまの話によると、安倍は自分と違ってちゃんと親が納得している。納得しなくてもどの道決めてしまったかもしれないが、ともかくよかった。
- 566 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時25分30秒
- 「したども、なっちはいつでも圭ちゃんのこと大好きだったから。会ったときから。一コ上の憧れの人ってだけでなくて、どんなことからも逃げない人だってわかるから」
「そんな…わたし、なっちからずっと逃げてたよ」
「そったらことねーべさ。なにかを受け流すことできねくて、そんで苦しんでるんだなってわかったもん。圭ちゃんは逃げない人。したっけいま、こうやってるんだべ」
安倍はここで、すっと立ち上がった。保田も思わずあとに続く。
「圭ちゃん、ようやく言える。これからもよろしくお願いするべさ」
「…ありがとう。こっちこそ、よろしくね」
がっちりと握手した。
- 567 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時26分23秒
- もう、大丈夫だ。
二人であらためて奈津美の墓に正対する。
「奈津美、あらためて紹介するよ。この子、なっち。安倍なつみさん。あんたと顔も名前も同じで、あんたと全然違ってて、あんたと同じくらいいい子だよ。わたし、こんなにいい子に出会えたんだよ」
はっきりと声に出す。奈津美にも安倍にもきちんと聞かせる。
安倍もついっと前に出ると、ぺこりと墓石におじぎして、言った。
「奈津美さん、はじめまして。なっち、安倍なつみです。圭ちゃんのこと、大好きです。圭ちゃんから聞いて、あなたのことも大好きになりました。したら……あなたの代わりは誰にもできないけど…これからの圭ちゃんのこと、なっちにまかせてほしいべさ!」
「ちょっ…あんた、わたしの旦那にでもなるつもり!?」
「あは、やだよーそったらこと言ってぇ。あれ? 圭ちゃん照れてんのかい?」
「……うるさい!!」
二人のあいだの壁は、跡形もなくなっていた。
- 568 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時28分16秒
- 「圭ちゃん、なんかいま、奈津美さんに“はじめまして、よろしくね”って挨拶された気がするべさ」
「なっち……」
「なっちと奈津美さん、きっと大親友になれたね」
「……きっと、そうだね。そう思うよ」
「でも不思議。遅すぎた気なんて、全然しないもん」
……うん、そうだよ。語り合えないことなんて、なにもないんだ。なっちには奈津美のことをもっと教えよう。奈津美にもなっちのことをもっと教えよう。双子でもないのに同じ顔の、親友同士。きょうが二人の出会いの日なんだ。
保田は空を見上げた。
もうすっかり陽も高くなった。まだ午前中だろうが、真夏の暑さには関係ない。
それにしても、こんなすっきりした気分は何年ぶりだろう。
- 569 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時29分21秒
- 「彩っぺに、なにおごってやろっかな」
「圭ちゃんもそう思ってたんだ?」
「こうやって話せたの、彩っぺのおかげだからね」
「なっちも、圭ちゃんに向かっていけたの彩っぺのおかげ。ほんと彩っぺって気ィ使いィだべ」
いやほんと、大したやつだよ。彩っぺ。
わたしにお線香手渡して背中を向けた、あの後ろ姿のカッコよさ。
あいつが背中を押してくれたお蔭で、わたしはこうして踏み出せたんだ。
いじけて立ち止まってたのが、ちゃんといまを変えてやろう!って気持ちになれたんだ。
わたしは変わった。もうプールは――その場しのぎの気晴らしは、必要ない。
…そうだ。
鬱屈したあの子。プールの「仲間」。
あの子の背中、わたしが押してやるか。
彩っぺみたいにカッコよく決めて。
彩っぺみたいに去っていく。
そのときの自分の姿が浮かんで、保田は思わず笑みがこぼれる。
「圭ちゃん?」
「はは、ナイショ」
- 570 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時31分31秒
おし!
なにか気合が満ちてくる。充実してる。
忘れかけてたみたいだけど、これ、創作意欲ってやつじゃないの?
この墓地の小道が、なにか新しい段階への道に思える。
そうか。きっとこれが彩っぺが言ってた「出発のとき」ってやつなんだ。
そして隣りのこの子は…あのときの奈津美に負けない、なんて素晴らしい表情…!
「なっち、こんど、名カメラマンのモデルやってよ」
「へへん、名モデル、高いよ?」
「なんだと、うりゃうりゃ」
「きゃー」
- 571 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時32分24秒
- ひと通りじゃれあって。
二人でもう一度、お墓にお辞儀。
そして、その場をあとにする―――
『行ってらっしゃい、圭ちゃん』
「?」
思わず振り返る。
懐かしい声が、懐かしい言葉をかけてきた気がした……?
「圭ちゃん、なした? 泣いてんのかい?」
「あ…あれ? なんだ?」
安倍の不思議そうな声に我にかえって、頬に手をやる。
なぜか涙が一筋流れていた。
そして、なんだろう。
心がすごく、あったかい。
- 572 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時33分19秒
「……いや、なんでもない」
きょとんとしてる安倍に、笑顔を見せてやる。
あらためて前を見て、ふーっ、と一つ、大きく息を吐いた。
「じゃ、行こうか!」
「うん!」
ここからだ。
ギラギラ照りかえす石畳。
いま、新しい道の第一歩を、踏み出した。
- 573 名前:「7. Losing Sleep (Still, My Heart)」 投稿日:2003年08月25日(月)23時34分08秒
7. Losing Sleep (Still, My Heart)
−了−
- 574 名前:..... 投稿日:2003年08月25日(月)23時34分57秒
…………………
- 575 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月25日(月)23時35分51秒
- しんどかった〜。
いままでで一番しんどかったっす。苦しい道のりでした。なぜなら重くて暗くて長いから。
ともかく「−了−」を打てて、こんなに嬉しかったことはないです。よかったよかった。
いまさらながら言い訳。この物語では「長梅雨で冷夏」というのは考えないでください。梅雨はあっさり明けて夏らしい夏がやって来たのです、S市には。第三話の後藤の言葉のとおりの気候と言うことで。「ぱられるわーるど」っす。
さて、安倍さんには一人二役してもらいました。ぼくは奈津美の安倍さんもとても見たいのです。で、保田さんとはこういう形になりました。第二話との関連上、明るいオチは決まっていたのですが。さあ、どんなものでしょう。
しかし週一更新といっておきながら遅れすぎですよね。ごめんなさい。
週一でいけたはずなのに…おかしいなあ。言うんじゃなかった……
- 576 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月25日(月)23時36分46秒
- レスのお礼です。
>512 名無し娘。さん
ご感想ありがとうございます。そんな遠慮なさらないでください。おっしゃることがいつも実に的確で、励みにしておりますです。
>513 名無し読者さん
まったくあちこちつながりまくりで、ぼくは混乱してきています。もうちょっと加減するべきだったかなあ。楽しんでいただけてなによりです。
あと……
ずっと言い忘れてたのですが…この物語に六期の子達は出ません。理由は、彼女たちの物語が(いまのところ)浮かばないからです。すんません。
- 577 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年08月25日(月)23時37分41秒
- ではまた。
次回更新、今週中に…できたらいいなあ。
- 578 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月30日(土)01時43分23秒
- ラストの>>571-572の部分が印象的で良かったです。是非実写で見てみたい
と思わされました。自分の力不足のせいで良かったとか共感したとか、大し
たことのない感想ばかりで申し訳無いです。週一でこの更新量って凄いと思
います。一読者の戯言ですが、少しくらい更新が遅れても作者さんの納得で
きる作品が良いのではと思います。 次回も楽しみにしています。
- 579 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)19時08分12秒
- 巧いなー。
今まで出てきた娘。達が出てくると自然と読み返してしまう。
素晴らしい構成です。作者さんの見事な術中にはめられている気がします(w
やはり一読者ながら今回の話は読んでいて重たいものがありました。
泥濘に足を取られたように先へ進むのに抵抗がありました。しかし前の話との関連性を巧く利用されている辺りに感動しました。
保田さんの胸に詰っていた物をゆっくり綺麗に昇華していく様は作者さんの実力を見せ付けられた気がします。
只の読者がこんな事を言うのもなんですが、ペースは御気に為さらないで下さい。
やはり読者としても作者さんの納得いった物語を読めるのが1番嬉しいです。
- 580 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年09月07日(日)22時18分16秒
- ※ 1レス目で書いたとおり、人物の外見は作者が好きだった頃で固定してます。 ※
- 581 名前:8. Messages 投稿日:2003年09月07日(日)22時18分48秒
- 「8. Messages」
- 582 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時19分23秒
いま、目の前に、意識をなくした肉体がある。
大きく喘ぐような不規則な呼吸。
おそらく夜までもつまい。
自分より遥かに長く生き抜いてきた肉体から、命が去りつつある。
この人とのお別れが、もう確実に近づいてきている――
----------------------------------------
- 583 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時20分02秒
- 八月某日、正午。
圧力を感じるほどの暑さの中を、一台の長距離バスがえっちらおっちらと進んでいく。地方のそのまた地方を運行中とはいえ、まあ採算がとれる乗客数だ。こっち方面――S市にも鉄道が走ってはいるが、県の中心部からの接続が意外に悪い。県外から来る場合、特急と普通電車でS市に近づいてその先はバス、というのが一番手っ取り早かったりした。
そんなわけで今日も運行する長距離バス。
「N県・はるばるゆうゆうバス」なるふざけたその名称は、「はるばるバス」と「ゆうゆうバス」の二つの案を絞りきれずに、結局繋ぎあわせてしまった力づくのネーミング。地元の人間は「はるゆー」と略す。もしくは「はるばるバス」「ゆうゆうバス」どちらか好きなほうを使う。
その「はるゆーバス」は、やがてS市役所前に停車した。
しゃがれ声の車内アナウンスが終わるより早く、一人の女性が大きなスポーツバッグを肩に立ち上がる。車内の視線は彼女に集中した。
もともとのんびりペースで運行するこのバスにそれほど人数が乗っていないこともあるが、やはりその女性は目立っていた。
きれいな金髪と青いカラーコンタクト。やわらかな表情を見せつつ、すっと一本通るものを感じさせる美貌。そしてなにより、きびきびとした存在感に溢れていた。
彼女は扉を開けた降り口まで颯爽と歩き、そこであらためて外の熱気を感じとると、
「うっわ! あっつ〜〜…かなんなもう〜」
盛大に不平をもらした。
- 584 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時20分42秒
- 真夏の陽射しに白く粉をふいたような地面に、その女性――中澤裕子は降り立った。
停留所近くの木蔭で陽射しを避けて、ゆっくりとあたりを見渡す。
(毎年、夏は同じ空気やな…この町は)
中澤はS市の人間だった。S市の病院で生まれ、S市の中学・高校に通い、十七歳までここで育った。
関西の大学に進学するために街を出て十年以上。その間、中澤は妙な関西弁が身につき、金髪・カラコンにもなった。しかし街の方は――。
就職してからも一年に二回くらいで里帰りしていたが、パラパラマンガを見るみたく帰るたびにニョキニョキ街が変わっていたりすることもない。そこここ変わっているのだろうが、自分には見分けがつかない。
とりわけ夏場に見せる、この街独特の静かな雰囲気。透明な暑さの底に沈み込んだような不思議な居心地よさを感じさせ、それがいつまでも変わらなかった。
それでホッとさせられるところもあったのだが……
(いまはそれどころやない)
はやく会わなくては。
あの人に。
中澤が会いに来た人物。
中澤の育ての親であり、人生の大先輩であり、かけがえのない、親友。
その人物は、いま死の床にある。
- 585 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時21分24秒
- 一昨日の連絡はあまりにも急だった。そろそろ…と覚悟してはいたが。
ともかく一昨日。
もういつ「その時」がきてもおかしくない、と切羽つまった声で告げられたのだ。
震えあがった。
腹の底から、震えあがった。
一生後悔する羽目になるかもしれない。会わなくてはならない人に会えないまま、すべてが終わってしまったら。そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
だから、連絡を受けた電話でそのまま特急の切符を手配して(よくこの時期にとれたものだが)大車輪で仕事の引継ぎをすませ、部屋を散らかしながら荷物をまとめて出発し、ようやく、ここに着いたのだ。
ただ……いま、鳥肌立つような恐怖は退いている。バスが市内に入ったあたりからだった。もちろん切迫感は続いているのだが、気持が波立たない…。この心境がなんなのか、確かめなければならない気もした。とても大事なことだと思った。
ともかく、自分ひとりだけではしかたない――
中澤がそう思っていたとき、
「姐さん!」
背後から、声がかけられた。
「みちよ…」
- 586 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時22分05秒
- ちょっとキツめだがいかにも情の厚そうな女性が、顎を引いてぐっと唇を噛み締め、こっちを見つめて立っていた。なにかをこらえているような表情だった。
平家みちよ、という。
中澤の少し歳の離れた「妹」で、最も心を許している人物だった。高校卒業後にはじめた大阪暮らしはまだ六年だが、すっかり関西弁になっている。
それにしても。
(なんやあんた。もう泣きそうになっとるやんか)
「よかっ…よかった……よかった…間に合って。すぐいきましょ」
「うん」
二人が向かった先は、市で一番大きい、D総合病院だった。市役所の近くで、歩いていける距離にある。
ここに――Tがいる。
歳の離れた姉妹のようだとお互いに思っていた。他人からもそう言われた。親友同士のようだと言われたこともある。
その、Tがいる。
- 587 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時23分09秒
- ◇◆◇◆◇
Tは中澤の遠い親戚だ。
早死にした母方の祖父の、亡兄の妻。ずいぶん遠縁だが、中澤にとっては実の親以上の存在といえた。
中澤は子供のころに両親に捨てられている。小学校四年生のとき、父親が浮気をして家を出た。すぐさま母親も男をつくって出奔。
そして、残された一人っ子について親戚の間で押し付け合いがはじまった。子を捨てる人間の親らしいというのか、中澤の祖父母も全くあてにならなかった。そんなとき、なにも言わずに引きとって育ててくれたのが、Tだった。
- 588 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時23分39秒
- 子供がおらず、夫を数年前になくして一人暮らしだったTは、中澤をやさしく、厳しく育てた。曲がったことをしそうになったとき、本気で怒ってくれた。
一番怒られたのは、自分を捨てた両親の悪口をいったときだった。子供心に納得いかなくて三週間は拗ねていたが、いまではなんとなく、理由がわかるようになった。
中学二年のとき、だいぶ年下の女の子が家にやってきた。中澤と同じような境遇でひきとられたというその女の子は、おどおどしながら「へーけみちよ」と名乗った。延々たどれば親戚ということになるらしいが、まあ他人だ。ともかく一人っ子だった自分にも妹ができて中澤は嬉しかった。平家もなついてくれた。
もっとも彼女が中学生になってから、どこでおぼえた言葉なのか、自分のことを「姐さん」と呼ぶようになったのは勘弁してほしかったが。大学一年生の夏休みに里帰りして、数ヶ月ぶりに再会した「妹」がそう言ったのだ。その後、平家は大阪の人となり、ますます「姐さん」が板につくことになる。
- 589 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時24分30秒
- 自分のおばさんが「すごい人」なのだということを理解するようになったのは、中学生になってから。それまでもよく人から聞かされていたが、小さい子供には難しいことだったのだ。
Tは昭和の初めに大陸に渡っている。その地で結婚したが、昭和二十年八月、敗戦。
関東軍が民間人を置いて遁走したあとの凄惨な混乱の中、夫とは生き別れになった。
そして、国民党軍と八路軍との狭間に現出した――地獄。飢えと病気で多くの日本人がなんの意味もなく斃れていった。同胞同士が疑心暗鬼となり、女性や子供、病人、年寄りなど弱い者が真っ先に狙われた。
そのなかでTは千人以上の日本人を束ねて率いたのだ。幾度も、ライフルを突きつけられながら軍の将校と交渉したという。
当時のことをTは中澤たち若い人間にきちんと話したが…口調は重かった。
- 590 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時25分07秒
- 日本に戻ってから、夫の実家のあるこのS市にやってきた。
夫の生家はこの地で名の知れた地主だった。一方に変化を拒む旧弊な農村の世界、一方に不条理を抱えたまましゃにむに展開される農地開放政策。その真ん中に堂々と、Tは立った。桁外れの行動力と進取の気質とでどんどん人々の意識や環境を変えていった。S市を救った。「地主の嫁」が、と皆が信じられない思いをした。
夫が戦後数年して大陸から無事に帰ったとき、土地の雰囲気が一変していて驚いたという。
それからも積極的に人と交わり、なんにでも興味をもち、常に挑戦し続ける。社会を見る。
“一生勉強。勉強とは、自分を変え、現実を変えるためのものだ”
これがTの口癖だった。
Tは、S市のといわずN県のちょっとした名士となっていた。
- 591 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時25分43秒
- ◆◇◆
中澤は、そんなTとよく似ていた。
あけっぴろげで曲がったことが大嫌い。
人情味に溢れて正義感が強い。
感情の起伏が激しく、よく泣き、よく怒り、よく笑う。
人づき合いに潔癖で、卑しい人間をけして許さない。
性格だけでなく、声もしゃべり方も物腰も似ていた。
顔立ちまでなんとなく似ている、と人に言われた。あとで若いときのTの写真を見たらすごい美人だったから、嬉しかった。
しばらく前に平家から打ち明けられたことがある。
――自分は昔、中澤に嫉妬していたことがある。自分もTのことを中澤と同じように好きで、Tも中澤と自分を同じように好きなのに。Tと中澤は悔しいくらい良く似ていて。その絆がうらやましかった――
大人になるにつれて、そんな気持ちは吹っ切れたけどな、と平家は笑った。
いまはもう、結婚まで考えてる人が現れたし。とも。
その男性とはいまだに結婚三歩手前ぐらいのままもう三年になるようだが、結婚など考えたこともない自分が言うことではない。
- 592 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時26分27秒
- 高校卒業後。
志望の大学に進学するためS市を離れた。はじめての「里帰り」でTの家に戻ったとき、あらためて、自分の家はここなんだ、と思った。少しでも成長して戻れて、嬉しかった。
大学三年の秋。
父の訃報が届いた。きっちり葬式に出てケジメをつけた。遺産がどうしただの、知ったことではないとはねつけた。
社会人三年目の夏。
母が、四番目の男に捨てられて困ってるとかでヨリを戻そうとしてきた。会って、なけなしの貯金から百万渡して、そのうえであらためて縁を切った。
二十六歳の春。
勤めていた学術系の有名出版社を辞めて、弱小だが野心作を手がける出版社に転職した。給料はかつかつになったがのびのびやれるようになった。金髪・カラコンは転職後のことだ。
中澤は人生の節目節目でいつもTに報告した。Tはそのたびに、「お見事」と言って笑ってくれた。
- 593 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時27分19秒
- Tは中澤や平家に対して、絶対に母親としてふるまわなかった。実の親を大事にしろなどとは言わなかったが、自分を「お母さん」とも呼ばせなかった。馴れ合う隙がなかった。正直、寂しく思うときもあったが、結局そのケジメのつけかたがTなのだ、と理解した。そして、「おばさん」と呼べることこそ大事だと思うようになった。
しかし二十八歳の冬。
中澤は(そして平家も)Tの養女となった。二人ともなぜいまさらと思ったが、Tの、自分ももう長くないから手続きだけ整えておく、という快活な言葉に笑って応じた。
これで、法律上はちゃんと親子になった。しかし中澤と平家にとってそれはたいしたことではなかった。とっくのとうに、ずっとずっと強い絆で結ばれている。いまさら「お母さん」でも「娘」でもない。やっぱり「娘同然」なのだ。書類では同じ姓になったが、二人とも依然として「中澤裕子」であり「平家みちよ」だった。
Tはあいかわらず、自分と平家の育ての親で親友。「すごい人」だけど、それ以上に大好きで大切な人。そういう人がいる自分が幸せだと、中澤は思った。
- 594 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時27分50秒
- ◆◇◆
だから、Tが癌だと知らされたとき、しばらくなにも考えられなかった。
今年二月のこと、体調不良がひどくて検査入院する、という連絡が留守電に入っていた。去年の春に帰ったときはそんな素振りをまるで見せなかった。並外れて頑強なうえ、決して人に弱味を見せない気丈な人だというのはわかっていたが、気付いてやれなかった自分がショックだった。
すぐにでも帰りたかったが、いまの勤め先はなにしろ人手が足りず、そのうえ土日も関係ない忙しい時期だった。時間をまったくつくることができず、電話を入れることしかできなかった。
そのときのやりとりを鮮明に覚えている。どんな口調で語ろうか、なにを言おうか、しばらく悩んで答えが出ず、そのときの流れにまかせよう、と思い切って電話をかけたのだ。
- 595 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時28分32秒
- 『あの…もしもしおばさん? 裕子です…』
『ああ、裕ちゃん。元気?』
なんとも明るい声が返ってきた。中澤は一瞬、なにも心配はいらないような錯覚に陥った。
『そんな、うちのことより、おばさん…』
『うん。なに?』
『こんど検査やいうけど……なにもないこと、祈って…信じてますから』
『いやー、だめだろうね。そううまいことはいかないよ』
願望を語る中澤に対して、Tの言葉はごくあっさりしたものだった。
『ちょっ…そんなこと言わんといてよ』
『いや、自分のことだからね、わかるよ』
『……』
『だからあとは、無理に生かされないように気をつけるだけ』
もうなにも言えなくなってしまった。
なんでそんなに明るくいられるのか。この強さはなんなのか。
もちろんそれこそが自分の「親友」なのだ、と頭ではわかってる。しかしそれをあっさり受けとめるには自分はまだまだ若過ぎることも、中澤は自覚していた。もうじき三十といっても、こんな場面では依然ひよっこなのだ。
かろうじて、三月の連休には必ず帰る、とだけ伝えた。そのときまだ生きてるかわからないと言われなかったのは、Tなりの優しさだと電話を切ってから気がついた。
- 596 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時29分04秒
胃ガンだった。
胃は全部摘出、腸や肝臓も一部切除した。
それでもおそらく全身に転移していて、余命約半年、とのことだった。
- 597 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時29分44秒
- ◆◇◆
育ての親で親友の命は、あと半年。
無理にでも胃の検診を受けさせていれば、と思いもした。だが、およそ診断の類を受けたがらない人だったし、なによりいまさらどうにもならないことだった。
ともかく、あと半年。
それなのになかなか休暇のタイミングを計れず、イラつく日々が続いた。まとまった長期の休暇をとれるなら帰ってずっと看病したい。実際にはTの世話はS市在住の近親縁者に頼ってしまっている。「娘」である自分がなんてざまだ。
かつての勤め先なら…名の知れたあの大手なら、「親」の看病のためにたっぷり休暇をとることだって出来た。というか大盤振る舞いで休暇をくれたろう。出してる本の立場上もあってか、社員福祉にはひときわ気を使う会社だった。しかしいまの勤め先…Tが転職を祝ってくれた弱小出版社では、とても無理な話だったのだ。
- 598 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時30分24秒
- いっそ会社をやめてしまおう、とまで思った。感情の激しい中澤は、実際に辞表も書いたが……Tから手紙がきて機先を制された。自分は大丈夫だからそちらの生活と仕事をしっかりやれ、妙な気を使って半端をするな、と。誰かの代筆だったが、「過分な心配無用」というひと言だけがTのものだった。ふるえる弱々しいその文字からは、だからこそ苛烈なまでの気魄が伝わった。
そして、Tのことを誰よりも理解する中澤は、すべてを受けとめた。Tの気魄を受け止め、「帰れない・帰らない」自分を受けとめることを選んだ。
ひとまず自分より先に平家に帰ってもらった。彼女はすぐさまS市に帰り、一週間という短いあいだだがTの身の回りの世話をした。
平家は日常生活の些事に気が回るだけでなく、人付きあいの面でも練れた常識人だ。ほんの短期間のうちに、娘である自分と中澤がなかなか帰れないことを周囲にきちんと納得してもらい、Tの世話について最大限の協力を取り付け、中澤が帰る際の地ならしまでしてくれていた。すべて中澤には出来ないだろうことだ。自分のほうがずっと年上なのに。「妹」がこれほど頼りになると思ったことはない。
- 599 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時31分03秒
- 『あんた、ほんと凄いな〜。ぜんぶ話がついてて動きやすうなってて。こっちではうちのこと知らん人でも“平家さんのお姉さん”で大概とおってしまうねんもん』
『いやもう、そんなん言わんといて、姐さん。家族やん、親子で姉妹やん。うちはできることをしただけ。そっちのこと、よろしゅうに。なにせ中澤裕子さんなんやで?』
『みちよ……ありがとうなぁ…』
『泣かんでよ〜』
自分とTとの絆についての平家の打ち明け話はいまもはっきりと憶えている。その平家が、ごく素直に素晴らしい働きをしてくれていた。中澤は泣いた。
それから、「最後の最後」までは、かわりばんこで帰ろうと打ち合わせたのだ。
そして今回、平家はたまたま中澤より三日早くS市に入っていた――
- 600 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時31分42秒
- ◇◆◇◆◇
病院までの道すがら、中澤はふと、まるでいま気がついたかのように平家に聞いた。
「みちよ、髪、黒うしたんやな」
「あたりまえやん、こないなときに。姐さんは特別なの!」
「特別って……」
「だってそうやん、中澤裕子なんやで?」
そういわれると、中澤はかえって肩身がせまくなる。
しかし、客観的にいってそうだろう。
六十歳近く離れているのにまるでよく似た姉妹のようだと、知る人からは言われた自分たち。一年に二週間くらいしか会わないのに、相手のことは何でもわかる気がした自分たち。お互いに、ほかの人間には絶対に話さなかった相談事や打ち明け話は数知れない。“裕ちゃんだから話すんだけど”“おばさんにしか話されへんねん”――
- 601 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時33分45秒
- 三月、見舞いに帰ったときのこと。
そのときのTの病室はもちろん個室ではあったが、ごく簡素ものだった。もともとTが「名士」というのは名誉ある称号の意味が強く、これまでも特に厚遇を受けてきたわけではなかった(なにより本人がそれを嫌っていた)から、不思議はなかった。
ともかくあの時点で本当に衰弱していた。髪の毛はバサバサ、頬はすっかりコケて手脚など棒切れのようだった。
しかし目の強さは変わっていなかった。そして、その目で見て、言われた。
「裕ちゃん、わたしはもうじき死ぬじゃない?」
「ちょっと…そんなこといわんといて」
「いや本当よ。それでね、葬式とかあるでしょ」
「……」
「そのままで来てね、髪も目も」
「…それは」
いくらなんでも、それは。
そもそも見舞いに来る前に、もう戻そうと思っていたくらいだったのだ。事前に届いた葉書でそのままで来るように頼まれていなければ、間違いなくそうしていた――
「裕ちゃんのその髪と目、すごく好きだもん。そのままで送ってもらいたいんだ」
「……うん」
「約束してね」
「うん………わかった。約束する」
「よかったー」
Tは、安心した、という目をして笑った。
- 602 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時34分31秒
その後、Tが人に会うごとに、中澤は自分の葬式にはいつもどおりの髪と目で出る、これは自分と中澤の約束だ、と話していることを知った。宣言、というほど大げさなものではなかったらしいが、聞いた人はみな、Tの静かで揺るぎない意志を感じたという。
だから。Tとの約束だから、金髪とカラーコンタクトのこのなりで帰ってきたのだ。
- 603 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時35分42秒
- ◆◇◆
病室のある五階へのエレベーターの中で、平家がごく簡単に状況を説明した。
「電話でも話したけど、うちがこっち着いた時点でもうかなり意識がはっきりしなくなってて…言葉も脈絡がなくなってた。あまりよう聞こえへんようになってて」
つまり、せっかく中澤より早く里帰りした平家も、話すことができていなかったわけだ。
「で、来られる親戚はみんな集まっていて、交代で一日中病室についてる。いま、NおばさんとMおじさんがついてくれてて、うちらのこと待っててくれてる。おばさん、二日前に一度昏睡状態になって。それからほとんど目を閉じたまま。きょうもずっと反応がなくて。姐さん……たぶん、話すことはもちろん目を開けることも無理だと思う…」
「わかった…」
エレベーターが五階についた。
病室に近づくにつれて緊張が高まってきた。
自分は直視できるのだろうか。Tと自分との絆を、いまの自分はちゃんと受けとめられるのだろうか。病室に入れば、もうすぐTがこの世から去ってしまうということを突きつけられる。耐えられるのか?
いや、というよりも、いまから自分達は、Tが世を去るその瞬間まで、立ち会うことになるのだ。
胸苦しさを抱えたまま、扉の前についてしまった。
- 604 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時36分26秒
- 平家と二人で、病室の外に用意された消毒液で手を殺菌し、使い捨ての紙マスクをかける。平家がノックすると、部屋の扉が開いた。何回か会ったことのある中年女性―Nと、その旦那であるMが出てきた。
NとMは中澤を見て一瞬、眉をひそめた。金髪にカラコンだ、いたしかたない――だが、すぐに淡々とした表情に戻ると、二人とも白衣を脱ぎ、平家と中澤に渡した。病室には二着しか用意がなかったのだ。
「ひさしぶり。間に合ってよかったね」
抑えた、切迫感のある声だった。
「おじさん、おばさん、おひさしぶりです」
「昨日から泊り込んでてね。裕ちゃんが帰ってくるのに、もし…間に合わなかったらって心配だった」
「わたしたちこれから帰るから――おばさんの家ね、みんなで泊まってるんだけど。“これからのこと”があるから……。しばらくしたらKさんが来てくれるけど…裕ちゃん、みっちゃん…あと、頼んだからね…」
それからさらに二言三言、病室の外で状況説明をし、二人は帰っていった。
中澤と平家は病室に入る。
カーテンを開けるとそこには―――変わり果てたTの姿があった。
- 605 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時38分22秒
- ◆◇◆
いま目の前にあるのは、意識をなくした肉体。生きていると信じられないほど。
かさかさの肌は黒ずんでいて、手脚はちょっと触れたら折れてしまうように思える。深いしわを刻んだその顔は、一切の表情を無くしている。
目をつぶったまま、大きく喘ぐような不規則な呼吸。
見慣れたものもあるが、さまざまな医療装置をつながれている。心電図や脳波計以外にも、呼吸をさせ、胸水を抜き、痰を吸出し。“無理に生かされないように”と本人は言っていた。しかし、少しでも永らえてほしいと、自分だって望んだのだ……。
この姿を平家だって何度も見ているだろうが、言葉もない。マスクで表情はよくわからないが、眼差しは沈痛なものだ。自分はどんな表情なのか、と中澤は考える。
ベッドの左右のパイプ椅子にそれぞれ座り、Tの腕に手をやる。
「おばさん、おばさん。また来ました。みちよです。「裕ちゃん」もいま着いたところ」
「おばさん、裕子です。遅れてごめんね」
- 606 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時39分17秒
- 二人で揺さぶるが、首が揺れる以外にほとんど反応はない。やはり目を開けることもない。ときどきうめき声のようなものをあげるが、もはや「声」というより「音」だ。意識が戻ることはもうないのだ、と実感した。
「おば…さん……なあ、姐さん来たんやで…目ぇ開けて、な?…おばさん…!」
平家は泣いていた。それも中澤とTとの対面のために泣いていた。
一方の中澤は、ずっとTの腕に手をやって体温を感じている。「見る」ことは無理でも目を開けてほしいと願いつつ。しかし――病室に来るまでの緊張感は消えていた。いま中澤の思考はなぜか淡々としたものだった。
もう……目を開けることはない。そして夜までもつまい。
自分より遥かに長く生き抜いてきた肉体から、命が去りつつある。
この人とのお別れが、もう確実に近づいてきている――
そう、考えていた。
平家は涙を流し続け、中澤に声をかけることも忘れている。
中澤はじっと、静けさを噛みしめていた。
- 607 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時39分50秒
- MとNが去ってしばらくたった頃、ノックとともに人が入ってきた。病院から借りてきたのだろう、白衣を着ている。
「裕ちゃん、みっちゃん……」
「おじさん…」
五十代の男性――Kと言った。大陸でTに「救われた」人の子供で、Tを親のように慕っていた人物だ。中澤や平家とは親戚でもなんでもないが、だからこそ、共通のつながりのもとに昔から親しくしてきた。今回もS市になかなか帰れない二人を気遣って、実務面でも精神面でもさまざまなフォローをしてくれたのだ。
そして、いまこうして対面した瞬間も、中澤の髪と目をごく普通に受け入れてくれていた。
「僕もここにいさせてもらうね。おばさんの近くにいたい。それに、二人とも大人ではあるけど…こういうのは…不安だろ?」
「ええ、ありがとうございます…おじさんがいてくれると安心ですし、おばさんも嬉しいはずですから」
涙をふきつつ平家が挨拶してくれるのにあわせて、中澤もTと会釈を交わす。
Kの言うとおりだ。実際に「その時」がきたら、自分達だけでははなはだ心もとない。
そう思っていると、Kがぽつりと漏らした。
- 608 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時40分21秒
- 「裕ちゃんは…やっぱり強いね」
「え?」
「少しも取り乱したところがない」
しみじみ感じいったという口調だったが、はっきり言われると中澤は戸惑ってしまう。
「そんなことないですよ」
「いや、落ち着いてる」
「自分ではちょっとわからないですけど――」
そこに平家が割って入ってきた。
「おじさん、姐さんだって悲しいんですよ? そんなん当たり前やないですか。だいたいこんな場で…」
平家が口を挟んできた。珍しくきっとした表情を見せる。
その真っ直ぐな眼に、Kも自分の不用意さを詫びた。
「ごめんね、変なこと言って。ただ裕ちゃんのいまの感じ、おばさんそっくりで、なんか良かったなって思って…あ、またごめん。みっちゃんの言うとおりだね」
「いえ、うちも失礼なこと言いました、来ていただいたのに…とにかく、三人で付いていてあげましょ。ね、姐さん?」
「うん…そやな」
Kはようやくベッドに近づくと、Tの顔を覗き込みしばらく肩に手を置いていた。ぎゅっと唇を結んだ厳しい表情のままTの髪を撫でてやり…やがて枕もとを二人に譲った。
そして狭い病室の中、再び静かな時が流れていった。
- 609 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時41分05秒
- ◆◇◆
奇妙な落ち着き――
中澤はいまの自分の心境を、そうとらえていた。確かにKの言うとおりだった。
大切な人がもうすぐこの世を去る、その哀しみは感じている。平家を除いて、他の誰よりも深く感じている。なのに心が乱れない。深く深く、静かな哀しみを抱いて、動じない。
感情豊かだと自他共に認める自分がなぜ、と不思議ではあったが…これはきっと、大事なことなのだという気がした。
危篤の連絡を受けたときのとてつもない恐怖感が、この地にたどり着くころには消えていたのも同じだ。直接には「間に合わない」ことへの焦りがなくなったということだが、それとは別になにか「時を待つ」感覚があったのだと中澤は思う。
平家と落ち合って病院に向かうあいだにまた緊張が湧いてきたが、それも病室に入るまでだった。ベッドに横たわるTの姿を自分の目で確かめたとき、あらためて気持が落ち着いてきたのだった。
娘である自分が、こうしてベッドのそばについている。いま確かに、親であり親友である人の手を握り、顔立ちを目に焼き付ける。うめき声を、呼吸を聞き取る。大事な人のこれからを、見届ける。それだけだった。
- 610 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時41分41秒
- 中澤たちが病室に着いて数時間。
時間のうえでは夕方だが、八月のこの季節、ブラインド越しに昼のような明るさが伝わってくる。
もういつ逝ってもおかしくないと聞いている。
この呼吸。ハーッ…ハーッ…と大きく喘ぐような…。看護婦は「息があがる」と表現したらしい。いまこの瞬間にも呼吸が止まってしまうかもしれないが、医師はもちろんのこと看護婦もこの場についてくれるわけではない。ここまできた以上、これからを見届けるのはこの場の人間にまかされているのだ。もちろん病院側は心電図と脳波をモニターしているし、こちらから呼び出すこともできるが……それは、いよいよ最期のときと思っていい。
Kは、中澤の向かい、平家の隣りに座っている。祈るように両手を組んで額を押し付け、なにかをこらえているようだった。
平家はやはり泣いている。もはや涙が溢れて止まらないということはないが、それでも泣いている。意識のない身体にすがりつくようにして、時おり鼻をすすり、「おばさん」に声をかける。それは、目の前の人をなんとか留めおきたいというひたむきさなのか、ただただ愛しく悲しい想いに身をゆだねているのか…。ともかく、泣いている。
- 611 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時42分33秒
- 中澤はこの数ヶ月のTとのやりとりを思い起こしていた。この間、帰れたのはわずかに四回。連休を利用してせいぜい二三日、休暇を使っても一週間程度だった。それでも面会しさえすれば、わかりあえたのだ。
入院しても、Tはなにも変っていなかった。気丈な彼女のこと、身の回りのことを自分でできないことへの心細さや苛立ちはあるにしても……諦念や虚無感をまるで感じさせない。ひねこびることなく、ごく素直に「あれして、これして」と我がままを言ってくれた。なにか、世のすべてが愛しくて楽しくてたまらない、という表情を見せた。若いけどよくできた看護婦がいる、お気に入りだ、とも話していた。
そしてやはり思い出す、あの電話での言葉。
『だめだろうね。そううまいことはいかないよ』
『いや、自分のことだからね、わかるよ』
いまも響いている――
…………
- 612 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時43分11秒
- 異変に気がついたのは三人ほぼ同時だった。
Tの呼吸が明らかにおかしくなっている。いや、聞こえない。
ハーッ………ハーッ………といううめきが、もう途切れかけていた。心電図を見ると脈がほとんど確認できない。
「おばさん!」
「ちょっと、駄目、いかんといて!」
一気に緊張が高まる。
平家はTにすがって揺さぶった。
中澤も、Tの腕を掴んで食い入るようにその顔を見つめ続ける。
手に触れ、見守るその前で、どんどん遠ざかっていく。気配が、消える…
『ドクンッ』
自分の心臓の音がはっきり聞こえた。
いよいよ…いよいよだぞ…覚悟はいいか? 目をそらすな…!
隣りではKがナースコールのボタンを押し、切羽詰った声で叫んでいた。
- 613 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時43分57秒
- ほどなく駈け付けたのは、いまや見知った顔となっていた担当医師とベテラン看護婦。
硬い表情の彼らは、しかし特になにか処置をするでもなかった。高齢のうえ衰弱しきった身体。その時が訪れたらどうすべきでもないということは、事前に聞かされていた。
医師は脈と瞳孔を確認すると、ごく簡潔に「ご臨終です」とだけ言った。
その言葉を聞いた瞬間、平家は中澤にしがみつき、わっと泣きだした。Kも下を向き嗚咽をもらしている。
そして中澤は――
(そうか――そうなんや)
自然と顔をあげていた。病室の白い天井を数瞬見やると、静かに目を閉じた。
(おばさん、死んだんか)
なぜだろう。
不思議と涙は出なかった。
悲しみもまるで無かった。
実感が湧かないせいかとも思ったが、違う気がした。
いや、答えはわかっている、と思う。しかしいまはその言葉が見つからなかったし、それはそれでどうでもよかった。
- 614 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時45分00秒
- ◆◇◆
医師と二言三言会話を交わしていたKに、すぐTの屋敷に向かうよう告げられた。
「親」を亡くして早々に、そのもとを離れなければならない。
だが、到着してすぐ病院に来た中澤は、Tの屋敷で状況を把握しなければならない。平家も同様だ。なにしろこれからやることは山ほどあるのだ。
また、いくら二人が「娘」といってもこの地での諸手続きはまったくわからない。そもそも病院とのやりとり一切からして、Kをはじめ長く世話をお願いしていたこの地の親戚にお願いするしかなかったのだ……とまどいも気落ちもなくそういったことを素直に受けいれている自分に、中澤は気がついた。
病院まで呼び出したタクシーに二人で乗り込み、運転手に行き先を告げる。Tの名前を出すだけで、特に道順を指示する必要もない。
厳しい表情の中澤と、目を真っ赤に泣き腫らした平家。二人の様子に気を使ってか、運転手が話し掛けてくることもなかった。話し声のない車中で、屋敷についてからのことを考え、中澤は気を引き締める。
- 615 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時45分45秒
- まずは自分のこの…髪と目。周囲の人々はどう見るだろうか。さきほど運転手は少し眉をひそめた気がしたが。しかし病室でNやMと会ったときの雰囲気から、「歓迎すべきことではないが理解はする」という空気はつかめた。充分だ。あとはそれが周囲一般の空気でもあることを願うばかり――
グスン…グスン
隣りを見ると、平家がまた顔をおおって泣き始めていた。
(みちよ…あんたほんまに、まっすぐに泣くな。あんた、昔っからやさしいこやったもんな)
中澤はなにも言わずに、平家の肩を抱いてやった。
(思いっきり泣いとき)
「姐さん、泣かんのですか?」
ふいに腕の中で、平家の声がした。
平家はまだ泣きながら、それでも中澤を不思議そうに見ていた。
自分以上にTとわかりあっていた中澤が泣かないのが、不思議でならないという表情だった。
「うん、そうやな。不思議やな…なんでやろ」
逆に聞き返されても、平家にはわからない。
中澤は一人で言葉を続けた
「実感が湧かないんやないし、悲しすぎて涙も出ぇへんいうのもちがう。なんでやろな…」
- 616 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時47分01秒
そのうち答えが出るのだろうか? 出る気もするが、なぜだかわからない……
中澤が平家の肩を抱いたままそうこう考えているうちに、あたりの景色が変わってきていた。
道路脇を用水路が流れている。周囲に田畑や畜舎が目立つようになり、家並みも大きな屋根を持つそれになっている。サイドウィンドーを開ければ、家畜と干草のにおいが、カエルの声が、流れ込んでくるだろう。
ここは、S市がでっかい農村だったころの面影を色濃く残す地域。
中澤と平家が成長した、想い出の土地。
二人が周囲を懐かしんでいると、進行方向にひときわ巨大な屋根が見えてきた。
歴史を感じさせるそのたたずまい。
屋敷についた。
- 617 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時50分08秒
- ◇◆◇◆◇
この屋敷は百五十年近い歴史がある農家。
二十畳はあろうかという部屋がいくつもあり、長い廊下がぐるりととり囲んでいる。高い床、大きな畳、太く長い垂木に柱に梁。天井板をはめておらず、見上げれば高くに真っ黒な屋根の板が見える。いまや使われていない火鉢、自在鈎。掘り炬燵は冬に使っている。広い敷地には、もうカラだが鶏小屋・牛小屋・蚕棚を備える。茶畑や菜園、井戸などは現役だ。
二人とも、子供の頃はここが怖くて仕方なかった。なにしろ真っ黒で真っ暗で。なにやら立派な仏壇があって線香の匂いがして、この家の人の白黒写真があって。
それがだんだん、安らぎを感じるようになっていった。中澤は中学のころにはすでに、ここが自分の場所だと感じるようになっていた。大学進学そして就職後は、帰省して畳に寝転がって梁を見上げるたびに、「里帰り」だなあ、と思うようになったのだ。
- 618 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時50分57秒
- 屋敷には、なるほど親戚連中がそこそこ集まっていた。なんとか都合をつけて駆けつけた者、この地にいてすぐに来られる者、十数名。みな、これからのことはKからの連絡待ちだ。
この場の何人かは露骨に中澤に顔をしかめて見せている。両親に捨てられた中澤を押し付けあった連中だ。いまさら恨みもないが仲良くする義理もない。軽く会釈するだけですませた。平家はさすがで、きちんと丁寧に挨拶している。ともかく大方は、髪と目について「しかたない」という表情だった。
中澤が荷物を降ろして一息ついたとき、親戚のFが声をかけてきた。
「裕ちゃん…みっちゃんもひさしぶり。おばさんには…会えたのよね? どう、最後におばさんと挨拶できた?」
挨拶できたか? なにをバカなことを言うのか、あのTの様子を知らなかったわけじゃあるまい……とは、中澤も口にしない。目の前でいかにも悲しそうにしている上品な顔立ちのオバサンが、いささか鈍感な善意の塊りであることは、よくわかっていた。となりの平家はハラハラしている。
- 619 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時51分32秒
- 「いえ、もうまったく意識のない状態でしたから。でも見とってやれてよかったです」
「ああ…裕ちゃんの「お母さん」なのに、挨拶できなかったなんてね、気の毒よね」
「…それでもそばにいて手をさすってやることはできましたし」
「おばさん、ずっと目を開けられなかったのね?」
「……ですから、意識がまったくなかったんですよ」
「でも、あなたのその髪と目、せっかくそうして来たんだから、見せてあげられたらよかったのに」
「この姿、見せるより、わたしがこれで見送るのがおばさんの願いだったから」
平家がいよいよ居心地悪そうにしている。
- 620 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時52分06秒
- 「いや、でも、おばさんだってきっと見たかったよね、残念だわ…みんなはどう思うか知らないけど、わたしはあなたの態度、立派だと思うのよ?」
「…それはどうもありがとうございます」
「まあ、やっぱりね、言葉のやり取りができなかったのはかわいそうだわね、みっちゃんもあなたも、おばさんも」
「…………!」
「えっと、姐さん! ちょ、ちょっとこっち来てください、早く喪服になりましょう。Fおばさんすみません、また…」
平家がとっさに割って入ってくれた。あぶなかった。中澤はほとんど感情が顔に出かけていた。そのまま二人、奥の間に荷物を持って引っ込んだ。
- 621 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時52分47秒
- 中澤は自分が冷静さを失いかけたことを反省する…が、自分はやはりああいう「善意の塊という無自覚な悪意」は許せないのだ、と半ば開き直った。それでも、困ったなという平家の視線には気がつく。
「ごめんなぁ、みちよ。あんたには心配ばっかりかけて」
「ええんよ、わたしもあのおばさん、好きになれんもん。別の機会に思いきりキレよ?」
「ありがと」
「ええ妹もったな、姐さん」
まったくだ。この子がいてくれて本当によかった。
平家のお蔭で気持ちが落ち着いた。
一緒に着替えを済ませる。
そして二人でみなが見える場所に出て、じっとKの帰りを待った。
- 622 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時53分36秒
- 親戚たちはもう、無用に声をかけようとはしてこなかった。これからの段取りを考えれば余計なことに気を廻す余裕などないのだ。もっとも、具体的に話をすすめられるわけではない。全体を把握しているのはKだし、Tの身体がここに戻ってこなくては始まらない。それでも、中澤や平家も交えて役割分担のようなものは決まっていったし、Tの訃報は着々と出されていった。
中澤は、平家が時おり手を握ってくるのを握りかえして安心させてやる。空気が泡立つような張り詰めた静けさのなか、平家は泣きそうにしていた。
夕方とは思えない明るさの中。セミとカエルの声が、うるさいはずなのにもの悲しく感じる。
屋敷の中では、ときおりお茶が入ったり、誰かがトイレに立つ以外に、なんの動きもない。動きようがない。
年季の入った柱時計がコチコチいう音が、やけに大きくひびく。
時間だけ、刻々とすぎていった。
Tと親交のあった近所の人々が数人、なにがしかの気配を感じたのか訪ねてきてくれた。
- 623 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時54分44秒
- 何度目だろう、中澤が長旅の疲れに首を回していたとき。
電話が鳴った。
とても大きい音に感じた。
Mが受話器をとった。
「…はい。うん…何時? そう。じゃ、すぐ帰ってきてね。おつかれさま」
Mが全員にむかって、はっきり言った。
「Kさんから。もうすぐ「おばさんと一緒に」こっちに来るって」
その場の空気が一瞬泡立ち、すぐさま引き締まった。
もう、動き出したのだ。
その時間に入ってしまったのだ。
中澤はそう思った。
- 624 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時55分34秒
- ◆◇◆
それからは、万事が急展開の大忙しだった。
蒸し暑い真夏のこの時期だが、まっすぐに屋敷まで還された遺体は、広い屋敷の一番涼しい場所…仏間に用意された布団に寝かされた。
ようやく家に帰ってきた、白布を掛けられた北枕。しかし中澤は、どうしても亡骸の顔を見ようという気になれなかった。一方、平家は真っ先に布団にすがりつき大切な人の顔を覗き込んで、わんわん泣いた。
あらためて「妹」の素直さに感じ入るとともに、その自然な涙がなぜ自分には出てこないのか、中澤はまたも不思議に思った。
- 625 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時56分29秒
- 養女で長女の中澤が喪主ということになったが、通夜や葬儀について、手続きはMの助言を聞いた。斎場は屋敷を使うが、遺影や受付用具の準備、会葬礼状、通夜ぶるまい、副葬品をどうするかetc etc...なにがなんだかわからない目まぐるしさ。みんながほとんど殺気立つなか、たちまちのうちに仏間の近くに祭壇が設けられ、壁一面に幕が張られ、生花が運び込まれ、遺体は棺の中に納められ、湯棺がおこなわれまた棺に戻され……
ドライアイスが大量に用意された晩の仮通夜、翌日の本通夜。ぶっとおしで線香と百号ローソクを灯し続けた。遠い血縁者から小中学・高校の校長や教育委員、市長、県の議員まで来て。さらに塾経営者から書道教室や芸術サークルの代表、剣道道場の会長、Tと縁のある古書店の主人なんて人たちも。知った顔ももちろんいるが、Tの交友の幅広さをあらためて見せ付けられる気がした。
- 626 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時57分01秒
- 歴史のある農家は、葬式も本格的だった。葬儀社の案内などでは「現代ではここまでやらなくていいでしょう」と省略されるようなことが、いちいち律儀におこなわれて。さらに土地独特の、中澤や平家には理解不能な約束事が山ほどあった。
すべて自分の気持ちとは無関係に転がり続けていた。
というより、人間の気持ちそのものに無関係な気もした。
僧侶の間の抜けた説教がやけにうつろに響いていた。
- 627 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時58分42秒
- ◆◇◆
「姐さん、お葬式はあとに残ったもんのためやいうの、やっとわかりましたわ。悲しんどる暇もない」
本通夜の最中、獅子奮迅の働きの平家が、同じく働き通しの中澤に、疲労困憊といった表情で言う。二人とも昨日の夕方から三十時間近く、動きっぱなしだ。
「けど、若い者が動けるだけ動かんとな…」
「Kさんの言うことはそのとおりですもんね」
喪主の中澤も、その妹の平家も、弔問客の応対をするだけではなかった。酒や膳の用意から弔電の受付、業者の案内などなんでもやった。二人そろって座布団に正座して丁重に頭を下げていたかと思えば、一方が駐車場の様子を見に立ったり、二人そろって台所に立ったり。そうすべきだとKに助言されたのだ。
- 628 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)22時59分27秒
- こんな場で、客人をおいて自分達がばたばた動き回るほうが無礼にあたるのではと思ったが、そう単純なことでもないらしい。中澤も平家も、事情はどうあれ、娘でありながら付きっきりの看病をできなかった。ならばこのような場で率先して雑務を引き受けてみせることが、この近辺の人間との付き合い上は大切なのだという。
みんなそこらへんは見ているものだから、と言うKの表情は信頼できた。ややこしい事情であっても二人は必ず理解してくれると確信している、そんな安定感があった。
いまもKは、むこうで弔問客に二人の働きぶりを話してくれている。まったく、世話上手な人物だ。
「はー、もう目が回る」
「みちよ、少しは眠り。倒れるで?」
「姐さんこそ寝てへんやないですか。ていうか明日は弔辞読まなあかんのですよ? 準備できてます?」
「う……なんとか考えるわ。ま、いま寝てもうたらきっと切れてしまうな」
- 629 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時00分07秒
- 中澤は平家と違って、世間様向けの大過ない文章を書くのが苦手だ。そのうえ長旅の疲れをひきずったままろくに睡眠をとらず、全体の情況も見通せずにつねに緊張を強いられる中で働きどおし。最悪の状態だったが…しかしへたに休んだらもう戻れない気もする。
「心配やなあ。考えてあげましょうか?」
「…うっさい、それよりほらKさんが呼んでるで」
「あっ…っとに忙し…はいはいはいはいー」
Kの合図を見た平家は小声で「はい」を連発しつつ、いそいそと客人の対応に戻っていった。
忙しない妹の背中を見送って、
「よっしゃ、もうひと踏ん張り!」
中澤は一人、つぶやいた。
その晩、Kを中心として簡単な話し合いが持たれた。
Tには身寄りがないから、屋敷や敷地を含む遺産は娘である中澤と平家のものになる、ここは土地が高くないから相続税もたいしたことない、田畑か山林をいくつか処分すれば大丈夫だ、などという話をされた。
ここに着いた初日は気が高ぶっていてよい印象をもてなかった親戚たちも、こうして話してみればおおむね親身になってくれていた。
- 630 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時00分57秒
- ◆◇◆
夏の夜のねっとりとした静けさをたたえる、落ち着いた風情の八畳間。
壁の三方を埋める本棚、あとは扇風機、ベッド、座卓。
中澤が昔使っていた部屋は、物置となるでもなくそのままだ。なにしろ大きな屋敷なのに、何人も人がいたわけではないから。
その部屋で、中澤は明日の弔辞をまとめていた。
定型文に手を入れるのだが、主要な部分は自分の言葉になるから気をつかう。
そして案の定、先ほどから一向に形にならない。
どう書いても、なにか違う気がする。
故人が宗教色の希薄な人だったから、だろうか。
- 631 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時02分48秒
- Tは寺の檀家だったが、別に信者だったわけではない。単に地域のまとまりの一環として、それこそ町内会の会長でもやる感覚で婦人会をまとめていたのだ。中澤が知る限り、そもそもある一宗派に思い入れることがなかった。
以前、信仰心とか宗教についてどう思うか聞いたとき、
『あそこには神様も仏様もいなかったから、ね』
とだけ返ってきたものだ。厳しいその表情から、大陸のことを言っているのだとわかった。それですべて説明された。
そんな人になんて言葉をかけられるのか。決まり文句のような弔辞は、全部違うと思ってしまう。どうやらそれは、自分がずっと感じ続けている、Tへの不思議に冷静な気持ちと関係あるようだった。
中澤は考え続ける。
そもそも自分の冷静な気持ちのきっかけは…やはり、電話で話したときのTの言葉だった。
『だめだろうね。そううまいことはいかないよ』
『いや、自分のことだからね、わかるよ』
あの澄みわたった強さはなんなのかと、こちらに来てから考えていた。
- 632 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時03分41秒
- そしていま、目の前に書き出す言葉はすべて違うと思う。これと同じ違和感を感じたのは……そうだ、通夜での僧侶の説教だった。あの説教に対して自分は違うと思った。どんな説教だった? どう違うと思った? 自分ならと、どう考えた?
…………そうか。そうだ。そうだぞ、これだ―――
ようやく探り当てた、と思った。確信した。
中澤は、その自分の気持ちを一気呵成に書き上げた。心を言葉に換えられて、すがすがしい思いだった。
……のだが、しかし数分後それを見返して、すぐさま破り捨てた。中澤個人の気持ちが出すぎている。「名士」の大きな葬式の場で読めるものではない。結局、自分の気持ちと世間の常識とに折り合いをつけた文章をなんとか仕上げた。一度自分自身の中で吹っ切れていたから、中澤としては比較的楽に書けたのだ。
ここまで二時間近く。
あと数時間後の早朝から、やるべきことが山積してはいるが――ようやく眠りについた。
- 633 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時04分30秒
- ◆◇◆
葬式は盛大なものだった。旧地主で県の名士。当然とはいえ、参列者三百名以上というのは壮観だった。地方紙に死亡記事がうたれたという。敷地内に入りきれない人々が、低い生垣の外から遠巻きにしていた。
通夜に引き続いておこなわれた読経、そして焼香。
中澤は、その場の数百人に向けたあくまで公的な弔辞を読み上げた。金髪とカラーコンタクトの眼で、はっきりと読み上げた。見ず知らずの数百人が、それでも中澤の髪や目に対してそれほど違和感をあらわにしなかったのは、やはり立居振舞が醸し出すなにかを感じたからだろう。平家から見ても、きのうまでとどこか違う、なにかを吹っ切ったような…確信したようなたたずまいだった。説得力に満ちていた。
そして読み上げられる、形式の整った、心のこもった文に、多くの人が神妙な面持ちとなっていた。ただ、平家は少し不思議そうにしていた。自分の知る中澤は、そのようなことをいう人間ではなかったからだ。
- 634 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時05分13秒
- その後、出棺、そして火葬場に向かい、また儀礼。
屋敷に一旦帰って「焼き上がり」を待ち、また火葬場に行ってお骨を拾う。
多少時間をおいているはずなのに、かなりの熱線が迫ってくるのが印象的だった。もっと灰のようになっているかと思ったが、割と大きなかけらが残っていた。それでも人の形を想像するのは難しかった。そしてなにより、お骨のまわりが紫や黄色、白などの色で焼きついているのが、なにか無残に思った。
実直を画に描いたような、五十代半ばと見える係員がさまざまな手順やお骨の状態について説明を続けていた。絵の具を溶いたような色は、遺体のまわりを埋めていた花々によるものだそうだ。Tのお骨は非常にしっかりした見事なものだそうで、ただ黄色く変色している部分があるのは、病院で投与された様々な薬によるものらしい。
骨壷に納めるためにお骨をガツガツと細かく砕くのを、平家は「思い切って」というふうにやっていた。中澤も少し申し訳ない思いがしたが、こだわりをなくしていたのも事実だ。
箸の長さが違ったりだの箸渡しだの、それ以前に葬儀の作法のいくつもが中澤には今ひとつしっくりこない。しかしやはり一番ピント外れだったのは……
- 635 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時06分27秒
- ……あの坊主の説教やな。
いま思い出しても、なんや、て思う。
なにが「人の生とは虚しいもの」や。おのれが虚しい生を送っとるだけやないか。知らんやろ、うちが電話で聞いたおばさんの言葉。あそこで見事なお別れすませて、あそこから、うちはだんだんわかったんや。
「生老病死」? 「苦しみの生から浄土へ」? あのウスラハゲが、八丈島のキョンみたいな顔してからに。うちのおばさんは、おのれごときが言葉にして計れる生を送っとらんのや。
「浄土からわたしたちを見守ってくださいますよう」? あれだけ生き抜いた人にまだ頼るつもりかい、えーかげんにせえ! あの人は、生き抜いた。おのれに語ってもらうこと必要などどこにもない――
- 636 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時07分12秒
ああ、そうか。
それでなんや。
それで、うちは泣かなかったし、悲しくなかったんや。
ようやく中澤は言葉にできたのだ。
それが、昨晩のことだった。
Tは絶対に、思い残すことなど、なに一つなかったろう。
思う存分に生き抜いたひとだから。
あれほど精一杯、人生を戦った人を、自分は知らない。
控えめに言って千人分くらいの人生を生きた人なのだ。
その人が死んで、なんで泣く必要があるものか。
涙なんて、いらない。
悲しみなんて、いらない。
でてくる言葉はただ、
「おつかれさん」
これだけ。
これだけが、自分からTに伝える言葉。
みちよ、うちはそう思うんやけど。どう?
それは――中澤だからこそたどり着けた、深く透きとおった思考だった。
その表情もまた、すべてを飲み込んで納得した、静かな明るさがあった。
- 637 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時08分06秒
- ◆◇◆
「姐さん…わかるような気ィするけど、でもやっぱり、うちにはちょっと難しいわ」
平家は少し困ってしまっていた。
葬式のそのまた翌日。ごたごたが一応片付き、Kを始めとした親戚連中も一時外に出てしまったところで、中澤から話を聞かされた。
自分を見つめてやわらかく笑う中澤の、超然とした美しさに見惚れつつも…それはそれ。
中澤のいうことはわかる。ともにTに育てられたものとして。
もちろんあの坊主はアホやなあと思った。八丈島のキョン言うのはようわからんけど。
しかしそれでも。
“泣かなくていい、悲しくない”という部分を、自分はそう簡単に受けいれられない。
大事な人が死んだのだ。「親」が死んだのだ。
自分は悲しい。大声で泣き喚きたい。現にそうした。今だってそうだ。
中澤が涙を流さなかったのが自然というなら、自分の涙だって自然なものなのだ。
そこのところは、絶対に譲れない。譲りたくない。
平家はそういう人間だった。
昔から、とにかく思いやりにみちたやさしい性格だった。
- 638 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時08分47秒
- 「うーん、まあ、それはそれでええねん」
中澤が苦笑して頭をかいた。
しかし平家は口をとがらせる。
「ええことないよ。うちだってわかりたいやん。いや、わかってはいるけど…ちゃんと納得したいやん」
「ムリに納得するいうのは違うやろ」
「そない言うて、そりゃ…姐さんはおばさんと仲良かったもの。うちは……」
「あんたなぁ」
ふたりが少しヒートアップしかかったとき。
「あの、すみません」
空けてあった玄関口のほうから、声がした。
二人同時に振り返ると、ひとりの女性が立っていた。
- 639 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時10分36秒
- ◇◆◇◆◇
玄関に立つその女性――まだ二十歳そこそこ、だろうか。若くて、とてもかわいらしい顔立ちだが、非常にてきぱきとした印象があった。中澤は、どこかで見かけた気もしたが思い出せない。
「おじゃまだったでしょうか?」
丁重に聞かれた。いまのやりとりをみられたろうか。あわてて取り繕う二人。
ひとづきあいに気の回る平家が応対にまわる。
「すみませんね、なんでもないです…なにか御用ですか?」
「はじめまして…いえ、何度かお目にかかってますけど…わたし、D総合病院の看護婦をやっている柴田と申します。Tさんの看護をさせていただいてました」
「あ、そういえばそうですよね。お世話になりました。ほら姐さんも挨拶しなはれ、もう」
「あ、どうもありがとうございます…で、あのなにかご用件でも?」
中澤の間の抜けた挨拶に、平家が顔をしかめる。
「姐さんなに言うてますの、ほんまに…どうぞ柴田さん、お線香立ててあげてください」
「お通夜もお葬式も失礼してしまいまして、こんな形で来てしまいました…まことに申し訳ありません」
「そんな気にせんでください、形はええやないですか。こうして来ていただけるのがありがたいです」
- 640 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時12分00秒
- 平家が祭壇の前に柴田を案内する。
柴田は慣れた所作で線香を立て、手を合わせた。
そして顔を上げると祭壇を離れ、すすめられた座布団のうえに正座した。そしてあらためて、柴田あゆみと申します、とフルネームを名乗った。すべて流れるようだった。
(やはり看護婦をやっていると、こういう場面が多くなるからだろうか)
などと中澤が余計なことを考えているあいだに、平家と柴田は、これまできちんと会えなかったことについて型どおりの挨拶を交わしている。
Tが入院してから、中澤も平家もごく短期間しかS市に来れなかったし、その間も病院に長いあいだいられず、Tと交友のある多くの人たちと会うなどして闘病生活の準備に忙殺されてしまっていた。看護婦だって病室に付きっきりなわけもないし、何人かで交代の勤務だ。いままで話すこともなかったのは、なりゆきということで…云々。
平家まかせでぼんやりしていると、ふいにあらたまった声がした。
「きょうはお二人におはなしがありまして」
「うちらにですか?」
こんなときに、なんの話か。平家ともども訝る。
「Tさんからの言づてをお届けに来ました」
「「へ?」」
- 641 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時13分37秒
- ◆◇◆
ニ週間ほど前のことですが、と柴田は語りはじめた―――
柴田はTがD総合病院に入院したときからの担当だった。もちろんほかの何人かと分担してだし、婦長の指示のもとで動くのだが。
Tのさまざまな逸話は聞いていた。柴田は、自分がそのような人物の看護をできることを誇りに思うと同時に、ほぼ間違いなく“最期”までの付き合いとなることを、やりきれなく思った。
至らないながらも懸命に看護する自分を、ときに叱りつつTはやさしい目で見てくれた。Tのことをもっとよく知りたくなった。歴史の生き証人といってもいいTの話を、聞かなければならないと思った。そしてその掛け値なしに「波乱万丈」の人生に、圧倒された。
また、Tの口からは中澤と平家の名前がよく出た。血がつながらなくても固い絆にあるこの人たちが、素直に気持ちよかった。
だから、Tが生きることに弱気になったとき、きつい口調でたしなめてしまったこともある。ほぼ間違いなく半年ももたない人に対して許されない態度だったが、それでも生きてほしかったのだ。
珍しく強い口調の柴田に、Tは驚き、そして笑ってくれた。
- 642 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時14分33秒
- 実際のところ、大きな手術のあとは、もう手の施しようがなかったのだ。あとはなんとか少しでも楽に生活できるように、というのが柴田にできる精一杯のことだった。Tがかえって柴田に気を使うくらいだった。
そして、亡くなるニ週間前。
昼食の時間、ほとんど重湯程度のものだったが、その日もTはほとんど受けつけなかった。事実上点滴と栄養剤で先延ばしに永らえて、せいぜい形の上での「食事」を慰めのようにしていたのだ。
そして柴田の介添えでなんとか身を横たえると、黙って天井を見て、それから柴田を見た。
「もうそろそろかな…」
なにか、達観しているようだったが、それは以前柴田を不安にさせたようなものとちがう、ゆたかで大きな表情だった。
「直接伝えたかったけど…そうもいかないか。でもこんないい子がいるし…」
入れ歯を外していたから聞き取りづらくはあったが、確かに聞こえた。独り言のようで、しかしこちらを意識しているとわかった。
- 643 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時15分26秒
- Tは天井を――いや、どこか上のかなたを見て、目を閉じた。そしてふたたび目をあけて、しみじみ言った。
「楽しかったぁー」
衰弱しきった人間のものと思えないほど、くっきりと聞こえた。
「わたしの人生、ほんとうに…楽しかった」
細いのに、充実した声だった。
涙が溢れた。
なんということだろう。
なんてことを言える人なのか。
自分のこの涙――
これはいったい、なんの涙なのか。
「伝えてね」
涙にかすむむこうで、Tがまっすぐにこちらを見つめていた。
もう一度、言った。
「伝えてね。二人に」
「…中澤裕子さんと平家みちよさんに、ですね」
「そう。お願いね」
「わかりました。間違いなく」
「ありがとう」
そういったTの表情は――
柴田は、こんなに爽やかな笑顔を見たことがなかった。
- 644 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時16分29秒
- ◆◇◆
話し終えて、柴田は平家の出したお茶を一口飲んで湯飲みを置いた。
柴田の顔には終始、悲しみの表情は見られなかった。いまも晴れ晴れとした感じでこちらを見ていた。
「“楽しかった”ですか――」
「ええ」
そうだったんや、やっぱり。
心の中を、さぁーっと風が吹き抜けていく気がした。
やにわに柴田のもとによって、両手をとった。柴田はぎょっとしていたが、かまわなかった。思いに衝き動かされていた。
「ありがとう…ありがとうな…!」
なんどもぎゅっと柴田の手を握った。
そこに添えられるもう一組の手。
気がつけば、平家もそばにいた。
- 645 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時17分17秒
- 「わたしからもお礼いわせてもらいます…ありがとう。姐さんがさっき言うてたことって、このことやったんやね」
そう。
さっきの、わたしからおばさんへの言づて。
そしていま柴田さんが届けてくれた、おばさんからの言づて。
噛み合わさり、動いてく。
もちろん、いま柴田から伝えられた言葉は、これまでに何度となくT自身の口から聞いたものではある。
しかし、本当に最期の最期の言葉として、あらためて自分達に届けられたとなると重みがまるで違った。すべてを納得させられたのだ。
中澤と平家、二人の勢いに圧されていた柴田も、いまはきちんと納得しているようだった。
- 646 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時20分55秒
- ◆◇◆
「そうですか…うーん……いや、たしかにそうですね。わたしも、中澤さんに賛成です」
中澤は、平家に話した自分の考えを柴田にも聞かせたところだった。Tからの大事な言づてを届けてくれた柴田には、きちんと話しておきたかったのだ。
そして柴田は、幾分とまどいつつもしっかり反芻するようにしたうえで、中澤の考えに賛同した。
いま、中澤、平家、柴田の三人は、T宅の裏にある広い竹林を歩いている。
ほかの親戚が戻ったので後のことはまかせて、柴田に屋敷の案内をしようということになったのだ。
「なんや、柴田さん、あっさりわかってもうて。うちなんか、なかなか納得いかんかってんで?」
平家が冗談めかして言う。
中澤は苦笑い。
柴田は、さきほど勝手口から覗いた様子を思い出して納得顔。
- 647 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時21分30秒
- 「いえ、わたしだって、自然体で“悲しくなくて涙が流れない”なんてところまでは、とても実感はできませんよ。それはやっぱり中澤さんとTさんだからこそで。わたしはあくまで、頭で理解できる、ということですよ。いまはなんとか落ち着きましたけど、Tさんが亡くなった日の夜なんて、わんわん泣きましたもん」
なんややっぱりそうやったんかいな、と安心する平家と、それを見守る中澤。
中澤は、さきほどからの柴田のたたずまいや言葉で、ふと、わかった気がした。
「柴田さん、もしかして…お通夜とお葬式にいらっしゃらなかったの、わざとちゃいます?」
「ちょっ、姐さん!…すみませんね柴田さん――」
「おっしゃるとおりです、中澤さん」
あっさりと柴田に肯定されて、平家はまたも「へ?」という顔。
「中澤さんと平家さんだから申し上げますが、なんというか…短いあいだでしたがTさんと触れあってみて……大掛かりなお通夜とかお葬式とか、そういう大層な儀式って、違うな、と思ってしまいまして」
- 648 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時23分04秒
- 柴田の表情には申し訳なさそうなところはまったくない。すっきりと受けとめているふう。
そう言ってくれれば平家だって、きっちりわかる。わかるけど、文句をつけてみる。
「もう! 柴田さん、そないにちゃんとわかっとるんやったら、来たとき早う言うてよー。『まことに申し訳ありません』とか言うから、うち『気にせんでください』とか気を使ってもうて、むっちゃアホみたいやん」
柴田は恐縮し、平家はにっこり笑った。
中澤は納得する。なるほど、この柴田という人も、多少変わっているのだろう。こんなに若いのに、自分なりの筋を通しケジメをつける、折り目正しい人なのだ。なにせ同僚や上司から、必ず出るように言われたはずだから。そして…そうか。以前Tが言っていた、『若いけどよくできたお気に入りの看護婦』とはこの人のことなんだ。
そういう人にTが出会えてよかった。
この人に、きょう出会えてよかった。
Tからの言葉を伝えてくれたのがこの人で、本当によかった。
- 649 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時24分04秒
- そう思っていると、柴田がいたずらっぽい眼差しで言った。
「でもさっきの話を弔辞で読むの、よくぞ思いとどまれましたよねえ、中澤さんが」
「あ、それ、うちも思いました。姐さん本当に真っ正直にぶちまけかねないですもん」
我が意を得たり、という感じの平家に中澤はあわてる。
「ちょお、柴田さん!……みちよも! そないなことできるわけないやろ!」
「いや、姐さんはやりかねんもん。自分の気持ちに正直過ぎんねん。Fおばさんにもナックルいきかけたやん。参列者三百人以上で、この髪と目で、新聞社まで来てるところで、坊さんボロクソ言うたかも、て思うたらゾっとするわ」
「みちよ〜! あのオバサンはちょっとにらんだだけやろ! それにうちの言うんは別に坊さんの悪口がメインやないって!」
- 650 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時25分23秒
- 二人のジャレ合いを見守って、それにしても、と柴田は微笑む。
「わたし、中澤さんと平家さんを初めてお見掛けしたとき、すぐにわかったんですよ?」
「ああ、この髪でしょ、姐さんは――」
「それもありますけど…Tさんから「お葬式の約束」のこと聞いてましたし…やはり中澤さんのことよく聞いてましたから。六十も年下の双子の妹がいるって。Tさんそっくりだって。平家さんのことも、Tさんからよくうかがっていて。若いけどしっかりしてて、常に周りに気を配って、自分がおろそかになってしまうくらい。それが外に現れてるって」
中澤と平家は顔を見合わせる。
「自分がおろそか…」
「双子の妹…」
「「おばさんらしいな…」」
二人で笑った。
柴田も合わせて、三人で笑った。
- 651 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時31分13秒
- ◆◇◆
竹林が開けた。
乾いた落葉を踏みしめ、三人、目を細めて伸びをした。
緑の匂い。
背後でザーっと竹が鳴り、目の前の広い空、山の上には入道雲がむくむくとそびえたっている。
すべてが耀く、夏。
『わたしね、楽しかったよ』
どこからか、聞こえた気がした。
うん。そうやね。
おばさん。
ほんま、おつかれさん。
こんどはうちらの番。
精一杯、生きるから。
みといてな。
- 652 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時31分56秒
- 「姐さん、なにうなずいてますの?」
「え? うーん、こんどはうちらの番や、思うてな」
ここでも、きょとんとする平家と、納得顔の柴田。
だが今度は平家もすぐ気がついて、言う。
「おばさんのことやから、また今ごろ戦ってますよ、うちら関係なく」
「…うん、そやな。思いきり笑うてな」
「ええ、きっと。そして本当に、わたしたちの番、ですね」
- 653 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時32分58秒
三人、はるかかなたを感じて。
どこまでも届いてほしい。
きっと届く、この言葉。
おつかれさまでした。
こちらのこと心配せずに、楽しんでください。
そしてときどき、見てください。
『楽しんでるよ…楽しんでね…』
『…いつでも会えるから…』
また、聞こえた気がした。
- 654 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時33分57秒
耳を澄ませば、たしかに聞こえる。
太陽が、土が、風が、水が。
虫たちが、木立が、草花が。
自分が、平家が、柴田が、あらゆる人々が。
なにもかもが、なにかを伝えてる。
耳を澄ませば、伝わってくる。
自分もなにかに伝えてる。
さらさらと鳴る竹林。降ってくる青い空。
むこうにはあいかわらず、とほうもなくでっかい入道雲。
夏が、笑っていた。
- 655 名前:「8. Messages」 投稿日:2003年09月07日(日)23時35分55秒
8.Messages
−了−
- 656 名前:...... 投稿日:2003年09月07日(日)23時36分33秒
…………………
- 657 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年09月07日(日)23時37分36秒
- 柴田は実際より二歳くらい年上と考えたほうがいいかも。はっきり考えてはいませんが。
姉妹の言葉づかいについてもツッコミはなしです。
それにしても、まったく架空の人物を物語の要にあたるキャラクターにしてしまいました。「人生の大先輩に“おつかれさま”を言う三人」を、どうしても書きたかったんです。そのシーンを見たいの一点突破。MだのNだの、さらにごちゃごちゃ出てきました。すんません。これでも娘。小説なのかな…?
それにしてももうすぐ飼育は大規模な模様替えとのことで。次回更新時はどうなっているのか。ちゃんと書き込めればいいけど……容量がいきなり減らされたりして。それが一番怖い。
- 658 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年09月07日(日)23時38分25秒
- レスのお礼です。
まず、お言葉に甘えて丸二週間いただきました。ともかく、頑張りました。ますます季節感がなくなってしまいましたが、見逃してください。
>578 名無し読者さん
感想をいただけて励みになります。第七話のラストシーンは、ぼく自身、「VOICES」の中で特にお気に入りだったりします。実写で見たいとは、実にそれが「VOICES」の始まりなのでとても嬉しいです。ええ、ぼくの脳内では映像が完成してるのです。
>579 名無し娘。さん
おっしゃるとおりで、重かったのなんの。前半を終えた段階ではどうやって明るく締めたものかと途方にくれました。主人公と一緒に、じっくりゆっくり難行苦行。他のお話とからめてなんとか乗り越えられました。読んでくださってありがとうございます。
- 659 名前:和泉俊啓 投稿日:2003年09月07日(日)23時39分00秒
- ではまた。
次週、フィナーレです。
- 660 名前:9. Dream In An Open Place 投稿日:2003/09/14(日) 23:35
-
「9. Dream In An Open Place」
- 661 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:36
-
――――――
わたしは夢をみる
そこには あのこも わたしも あのこも みんな いる
あのこは あのこといっしょに 笑ってくれる
わたしも 笑っている むかしのように 笑っている
なにもかも そばにいて
だから わたしは 涙がとまらなくなる
とてもあたたかい 涙が
−−−−−−−−−−−−−−−
風が渡った。
九月半ばの、広い草地。
午前十時の陽射しはまだまだ夏の名残をとどめているけれど、やはり空気の肌触りがはっきり違う。この草地もじきに、秋の虫でいっぱいになるだろう。
また、風が渡った。
- 662 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:37
-
◇◆◇◆◇
原っぱの一角の高み。
さきほどまで寝そべっていた人物が、身を起こしてぐっと伸びをした。大きな瞳…その強い眼差しが印象的な女性だ。
折りしも吹いてきた風の涼感に目を細め、穏やかな表情でつぶやく。
「ひとりで来ちゃったの怒ってるかな…」
自分が妹に“行ってらっしゃい”をしてもらったのは、五年前のちょうど今ごろ。親友のあの子には悪いが、たまにはこうして一人で浸ってたっていいだろう。うん。ここに一人で寝転がってると、とても気分が落ち着くんだ……。ほんと、あいつにはこんな場所、教えてもらってばっかりだな――
物静かな笑みと、輝く笑顔。同じように大切な二人を思い浮かべる。不敵な笑みの悪友も割り込んできたが。
大切なことがごく自然に胸に流れ込んでくる、そんな落ち着きに、彼女は身を任せていた。
ふと気がつくと、一人の女性がゆっくりとこちらに登ってきた。
「ここ、ええですか?」
「え、ええ。どうぞ」
返事をしたときには、相手はもう隣りに腰をおろしている。
- 663 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:38
-
関西弁か。それにしてもきれいなひと。髪もきれいな金髪だし。青い目は…カラーコンタクトか。
なんだろう、この人なら隣りにいても気にならない…いや、いてほしい。なにかをわかってる感じがする。そう、なにも言わないけど、穏やかにすべてを納得したような、その表情。
「ここ、ええとこですね…」
「…そうですね」
それだけの短い会話。
そのまま二人の女性は黙って、広い原っぱを眺める。
陽射し降りそそぎ、風が渡る原を。
- 664 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:38
-
◇◆◇◆◇
「ありゃー! 意外に人、来てンねえ。さっすがわたしらお気に入りの場所」
すっとんきょうな、女の子の声。
さらにもう一人。
「はあ? 意味わかんないよ」
突っ込みだけは一人前か。
「なんだとー! いまのはこの口か?この口か、愛?」
「ひゃめへ…ってもう、痛いよまこっちゃん!」
「ふん、このくらいにしといたる!」
剣道少女、二人。
真っ黒な日焼けが褪せる気配のない麻琴。
どうにか褐色だけれどなかなかきれいに焼けなかった愛。
ふたりとも元が色白なのに、なんでこうも差がつくのか。
荷物はバドミントンセット一式、弁当包み、虫かご・捕虫網 etc...
どうやら思い出+お気に入りのこの場所に、また遊びにきたらしい。
「あいかわらずだよねー、ここ」
「ん? ああ、なんか「いろんな声を感じる」ってやつ?……愛、あんたやっぱヤバイよ」
「もう! そんな言い方したらそりゃ…」
「冗談冗談。だって、まーた簡単なことややこしく言ってたからさ。ま、愛がここでいろいろ突き抜けたみたいなのは、確かだもんね。まだまだだけど」
「………」
- 665 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:39
-
合宿での、あのひと時。
お気に入りの場所での開放感のままに二人で山に大声をぶつけて、愛はますます「うわー」ってなれるようになった。麻琴の言い方を借りれば、「いろいろ突き抜けた」のだ。あの心地よい広がりの中で、自分がいろんな声につつまれていることを感じ、そこに気持ちをのせていくことを知った。
もっとも、これまた麻琴に言わせれば「また簡単なことややこしく言って」だし「まだまだだけど」ということになるのだが。
なんだかんだで変わってきてる愛。
相変わらず、変わりようがない麻琴。
二人、荷物を降ろすと、
「よっしゃいくぞ、まずあの木を攻める!」
「まってよー」
とたとた駈けていく。
- 666 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:40
-
◇◆◇◆◇
少女たちのかつての「穴場」は、いささかなし崩し的にではあったが公園になっていた。めっぽう広い空き地、本来なんの建設予定地だったのか、知る人も関心をもつ人もいない。その程度の計画だったのだろう。だからなし崩しに計画変更しても、困る人なんてほとんどいない。
ともかくいまは、れっきとした公園だ。といっても、「S市第××公園」などと看板たてて、塗りなおした古ベンチをいくつか置いて、ときどき草刈りするくらいのものだが。その草刈だって、ボランティアだ。
それでも、このただでっかいだけの草っ原は地味に人々のお気に入りとなっていた。やはり、少女二人がお気に入りだっただけあって、というべきか。
近くに川があり森があり山が見えて、眺めもいい。そこここ、いい木蔭をくれる木立があり、緩やかな起伏をもつ地形。なにより「ぽーんと抜けるような不思議な広がりを感じる」「いろいろ響いてく」という共通理解。女の子が大声を張り上げたくもなろうと言うものだ。
そしてもう一つ共通理解。みんな、ここを「公園」じゃなくて「広場」だと思っていた。
どういうちがいか説明するのは難しいが、「公園」ではちがうという気がする。「広場」だと、思っていた。
- 667 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:40
-
◇◆◇◆◇
「ほんっと、アホなナンタラ文化ホールとかにならなくてよかったよね」
「おう、あいかわらず毒舌♪」
「ほんとだよ? そんなムダガネ、うちの市にも県にもないんだから。あの体育館だっていつまでやってるか…あんたわかってる?」
「へいへいへい、っつーかわたしのほうが年上だっての!」
不機嫌顔の受験生(わりと大きめ)と、無意味に笑顔の苦労人(とびきりちっちゃい)。
「オニ忙しい受験生が奇蹟的に暇をひねりだしたんだから、あんたにあわせて。これくらい大目に見ないと…ね、『隊長』?」
「うげ…それはやめろぉ!」
「なにが? 『オイラ』さっぱりわかんないや」
「やめろって!!」
大きいほうは小さいほうに対して全く容赦ない。
容赦ない受験生、ごくあっさり軽いナップザックと、ついで…というにはあまりにパンパンにつまったバカでっかいリュックサックを抱えている。その事情を推測すれば、彼女の口調に刺があるのもしかたないか。それでも、タメ口で話すようになっているのは親しみの現れ、なのだろう。
- 668 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:41
-
「里沙とあさ美は…まだかよー」
「あさ美ちゃんには会いたいけど、新垣は願い下げだね」
「冷たいことゆーなよ〜、後輩になるわけだし」
「あいつが合格したとして、ね。つーかどうせ入れ替わりだし……あ、保田さん来てる。いい木蔭みつけてるなあ」
「うわ。露骨に“来んな”って感じだよ」
「あーなったら近寄らせてもらえないからなあ。なんか隣のパッキン美人と話してるし」
あ、わたしあの人モロタイプ♪ などと相変わらず思い浮かんだことを適当に口にするチビを無視して、吉澤は荷物を広げ始める。
ったくこいつはこのでかいリュックの中になにを――
「こらぁ矢口ィー! あんたなに「ロボピッチャ(初代)」なんて入れてんだァァア!!」
なにも言わずにマッハの速さで逃げた矢口を投げっぱなしジャーマンで放り捨てるべく、吉澤は猛然とダッシュした。いまなら光でも抜ける、と思いつつ。
リュックの中には「ウージー・ウォーターマシンガン」も二丁入っていることを知るのは、十分後。なんとか矢口と仲直りして帰ってきてからのことである。
- 669 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:41
-
◇◆◇◆◇
「やー、大学生ってほんとヒマなんだねえ、この時期まで夏休みなんて」
「んだと、てめー…」
なんだろうとどこ吹く風といった明るい茶髪美人と、ぶっきらぼうな言葉づかいが似つかわしくない怜悧な美人。
木蔭にシートを敷いて、弁当を広げている。時間からいって早めの昼食、いや、遅めの朝食か。
「冗談冗談。言ってる後藤もやばいよね、受験生なのに」
「わかってるならさ――」
「模試、A判定ばっか。余裕。浪人の可能性、限りなくゼロ」
「………」
「ヘコむなよー。すんだことじゃん。いまの自分に自信もてばいいんだって!」
「あーもう!」
なんだかんだいって、仲はいいようだ。
市井が大学の長い夏休みをほぼまるまる、このS市で過ごしてくれたことの大きさ。それは、からかい口調の後藤だってよくわかってる。東京でのバイト先は休みを認めてくれなかったからやめた、とまで言われて正直びびったくらいだ。
- 670 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:42
-
受験生の後藤は勉強漬けの毎日で、そうしょっちゅう会うこともできなかった。なのに、いつでも会えるようにという、それだけのためにずっといてくれた。会うときはちゃんと勉強を見てくれた。
しかし自分の勉強のほうは大丈夫なのか。市井の学部は確か、帰ったらいきなり前期テストだろうに。そう聞くと、心配すんな、とだけ返ってきた。そういう人だ、市井は。カッコツケしぃだし、カッコイイのだ。
もう姉・妹ではない、いい友人として。それにはここに来てのんびりするのが一番だったりするのだった。市井の夏休みも本当にあとわずか。きょうが、ふたりの夏のしめくくりになる。
「はい、特製ハンバーグ、あーん」
「あんたわたしに毒見させようとしてない?」
「あー、これ後藤のお母さんのなのにさー」
「じゃ食べる」
「………ね、ほんとはそれだけ後藤が作ったんだけど、どう?」
「………………」
仲は、いいようだ。
- 671 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:42
-
◇◆◇◆◇
「もう一周、巻いといたほうがいいかなー」
「もうそんな問題じゃないよ圭織ちゃん、いい加減、クルマ自体買い替えなよ」
「いやそんなもったいないよー」
「わたし助手席なんだよ!」
「広場」の手前に乗りつけてきたポンコツ軽自動車の前で二人の姉妹。
姉は、さきほど走行中に落ちたサイドミラーを、いまガムテープでぐるぐる巻きに固定しているところだ。
「こんなの気休めだって! ほら!」
「あー! せっかくちゃんと直したのに!」
「はあ? どこが?」
「梨華ひどい! ひどいよー…うう…」
「……泣きたいのはこっちだよ!」
泣きそうな妹の気持ち、わからないでもない。
一方の姉は相変わらず立ち直りが早い。もうケロリとしている。
「だってー、このクルマ、旦那との思い出も詰まってるんだからさ」
「なんか旦那さん亡くなったみたいな言い方じゃん」
「あー、愛する旦那なんだぞー」
「じゃあなんで一緒に行かなかったの? イスタンブール」
「圭織こないだ一人で行ったばっかだもん」
「…………」
- 672 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:43
-
いつもの掛け合いもどっちらけで終わったら。
後部座席に積んでいた、でっかいバスケットとスケッチブックに絵具箱、野外用イーゼル、バッグだのを取り出して、二人で公園に入っていく。
スラリとした姉は原っぱで実に画になり、ピンクずくめの妹は草の緑との対照がよく映える。
「ね、梨華ー、こんな気持ちいいとさ、今度のバイト先のやなこととかふっとんじゃうよねー」
「う…なぜそれを…」
「でもそれは別にしてさ、こんどの人には失敗しないで断れたでしょ?」
「……時々ほんと怖くなるよ。あ、うそうそ」
姉は相変わらずのんびりで勘が良く、妹は相変わらずジタバタしているらしい。
あるがまま丸出しと、精一杯七転八倒。
お互いに相手のことをわかっているのも相変わらず。
相手のことがとても大事なのも相変わらず。
姉が妹にやり込められるのも、妹が姉にイラっとくるのも、相変わらずだが。
そんなこんなで、まずは姉、ベンチに座って、妹にポーズを取らせてスケッチ開始。
妹、すっかりモデルモードでスカート広げて女の子座りで小首かしげて地面の花などに手をやってみたりする。
こらえしょうのない妹、そんな不自然なポーズは十分ももたないのだが、それは先の話。
- 673 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:43
-
◇◆◇◆◇
「いまさらゆうことやないけど、スケッチブックと鉛筆くらい持ってきたらよかったのに」
「いいの! ののはきょうは暴れる!」
「いやその暴れるっていうのはね……」
小柄な少女ばかり、三人。
山登りから二ヶ月近く。
辻は思いきり変わっていた。笑うとき、怒るとき、泣くとき、はっきりするようになった。いろんなものや人にどんどん関心を示すようになった。山の中で加護と福田を導いた、頼もしい強さの片鱗を、ときどき見せるようにさえなった。
だがそれ以上に変わったのは………
「きゃっ!!」
「「よっしゃー!」」
片パイ鷲づかみをダブルでくらって胸を抱えうずくまる福田。
パシーンとハイタッチの辻&加護。
「こらぁあああ!」
「「へっへーん」」
- 674 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:44
-
辻は、加護と一緒のとき限定で、小学生レベルのイタズラ大王の顔を見せるようになった。まるでこれまでおとなしくしていた分を取り戻そうとしてるみたい。
そして加護までもそれにつきあっている。ふだんオトナの加護が、辻と一緒になにかやらかすときは、まったくナチュラルに・フリでなくガキになる。こちらもなにかを取り戻す感じ。
もちろんそこは高校生だからして、そんなしょっちゅう小学生レベルということはない。それでも時おり、ハイになる。胸を揉みしだかれる被害者も出る。
これはこれで健全なのかもしれない…と、頭に血を昇らせ拳を作りながらも考える福田。まして、つい最近冒険をした山が目の前に見えるのだ。
「ったく…二人とも飯田さんに挨拶しに行くよ」
「飯田さん!飯田さん!」
「あ、一緒にいるあの人が見てて楽しい妹さん、って人?」
三人、歩いてく。
向かう先は、スケッチしてる飯田圭織と、ただ寝っ転がるだけに落ち着いたやる気ゼロのモデル・石川梨華。
ガキ二人のスカートめくり攻撃でマジギレした石川に追い返されるまで、あと五分。
- 675 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:44
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◇◆◇◆◇
「うあー、重かった〜〜、肩痛い…」
「そりゃそうだよ、2リットルのペットボトル三本も。わたしも三本持たされたけど」
「鉄砲には弾がなきゃさ。真里ねーちゃんの頼みは聞かないわけにはいかないよ」
「あれ、頼みというより命令だったけどね。隊長の命令」
あいかわらずのお調子者と、おっとりが戻ってきた優等生。
命令でもなければ、やはり中三受験生がこの時期に外にのんびり遊びに来るわけがない、のだろうか。
「しっかし地獄の特訓のあとの外出、いいわー! 紺野センセイ、きびしいんだもん」
「Nさんは厳しくしないと手を抜くから、丁度いいの」
それで遊びに来られたらしい。
- 676 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:44
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紺野センセイの地獄の特訓。中学の全範囲をとっくに終えて、いま二巡目の最終ストレートを爆走中だった。友情のため、紺野センセイはやはり鬼になっていた。おっとりの鬼は、気を張り詰めてた鬼よりも、百倍こわくて、容赦ない。
もっとも、もうとっくに「Nさん」の心配はないのだが。なにせ新垣、例のテストの夢をもう見ない。いまは地獄の特訓の夢にうなされている。
「あー、真里ねーちゃんと…吉澤隊員!」
「その呼び方、また怒られるよ?」
「ふーん、あさ美ちゃんは吉澤隊員大好きだもんね。とられる前に誘惑しちゃおうかしらん、おほほほほ」
「ちょっと、これは!?」
新垣に荷物を押し付けられる紺野。ペットボトル、都合12kg也。
走る新垣の先には、みるみる仏頂面の『吉澤隊員』こと吉澤ひとみがいる。
- 677 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:45
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◇◆◇◆◇
「ねー彩っぺ遊んでよー。せっかくここまで来たのに」
「石黒先生は忙しいの。圭ちゃんに遊んでもらいなさい」
「圭ちゃん、知らない人とお話中なんだもん」
「石黒先生は本とお話中」
シートに寝転がってカール・シュミット『政治的ロマン主義』などを原書で読む嫌味な石黒。嫌味なだけに野暮ではない。この広場に教え子の姿を見つけていたが、邪魔をしない。
だが石黒に邪魔者がいる。さっきから遊んで遊んでとせがむ安倍。優秀な安倍、卒論はほぼ見通しが立って、余裕のあまりちょいと幼児退行気味だ。もちろんハーバート・サイモン『経営行動』を原書で読むような真似もしない。
「ねー彩っぺってばー!」
ふー、と一息ついて、本を閉じ身を起こす石黒。自分の荷物からごそごそとなにやら取り出す。遊んでもらえる!と目を輝かせる安倍に、妙に真面目くさった顔つきでひそひそと話しかける。
「なっち、すごいものを見せたげよう。ほれ」
「きゃ、なんだべか……凧ぉ?」
昔懐かしゲイラカイト。でっかいギョロ目を血走らせて、カラスも逃げ出す勢いだ。
- 678 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:45
-
「お正月じゃないべさ」
「そこ! そこをあえて、よ」
「???」
「正月でもなければ凧揚げ大会でもないのに、ひとり、凧揚げする。みんな不思議な顔をするのを、この凧の目と自分が一緒になって見下ろすの。気持ちいいんだから」
「ありゃー、なんか、すごいカッコイイべさ」
安倍はもう、うずうずしている。
「なっちと圭ちゃんが二人で仲良くしてるあいだに、わたし一人だけで遊ぶつもりで持ってきたんだけど…」
「そ、そんなのずるいべさ!」
「ふっ…しかたない、かわいいなっちに譲ってあげる」
「本当に!?」
喜色満面の安倍、しかしわれにかえって、
「…でもなっち一人じゃ悪いっしょ。彩っぺも一緒にしよ?」
「それはね、一人でやることに意味があるの。行ってきな」
「彩っぺ…」
得意の右親指を立てるサインの石黒。うるうるの安倍。
「じゃ、彩っぺのぶんも頑張ってくるべさ!」
「うん、頼むよ!」
行ってくる!と走っていく安倍。
石黒、爽やかに見送ると、涼しい顔でまた本に戻る。
百戦錬磨の石黒にしてみれば、素直すぎる安倍を転がすなど造作もないことだった。
- 679 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:46
-
◇◆◇◆◇
「ちょっと見つからんけど…来てると思いますよ。きのう教えたったらえらい気に入ってましたもん。ま、うちも柴田さんから教えてもらったわけやけど」
「ふふ…たしかに中澤さんがいかにも好きになりそうな場所ですよね…」
「まーここに来たら、あの坊主の説教も忘れられるってもんですわ」
「平家さん、ずっとそれ言ってますねえ」
「いや本当ですよ? まさか葬式のときと同じアホな説教、一言一句そのまま繰り返すなんて思わんやないですか。こっちは足も痺れとるっちゅーねん。シバいたろか、て思うたくらい」
「はいはい」
平家と柴田。歳は少し離れてるがすっかり仲良しの二人。しばらくまえからこの広場に来て、九月の空気を楽しんでいる。
中澤と平家は四日前からS市に帰ってきていて、つい昨日、四十九日の法要を終えたところだった。厳密に数字どおりの「四十九日」より早いが、寺の都合その他もろもろで日取りが決まったのだ。釈然としないが、そういうものらしい。
屋敷は平家と中澤のものではあるが、管理はとりあえず地元の縁者に頼んでいる。信頼できる人間との連絡をきちんとつけてあって、本当によかった。これから半年に一回くらいこちらに戻ってくるつもりだが、平家も中澤も、この先をどうするかまできちんと詰めているわけではない。
- 680 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:46
-
諸事雑務で忙しかったが、平家は帰ってすぐに柴田と連絡をつけた。中澤は長女ということで様々な段取りの前面に立つことになり、すぐには会えなかったのだ。一方柴田は奇跡的に暇を作り出してくれていた。
はじめて柴田にこの「広場」へと案内してもらったとき、平家は、独特の空気を感じて、とても体がなじむ思いがしたものだった。柴田もそうらしい。
そして、翌日。中澤は、自分や柴田が思う以上に、この場所がお気に入りとなったようだった。
「あ、姐さん見つけた。話してるの、お友達かな? 挨拶してきます」
「ちょっと、お邪魔かもしれませんよ?」
「そんなことないですよ。挨拶しないのが失礼ですもん、じゃ、行ってきますね」
言うが早いか平家は自分の「姐さん」とそのお友達のところに駈けていった。
あーあ、と見送る柴田。でも心から楽しそうだ。
ほら、案の定、平家は中澤に追い返されることもなく、幸せな空気を作っている。
世話焼きで、気配りができて、心やさしくて、馴れ馴れしいというより人なつこい。そんな平家が邪険に扱われるわけがないのだ。
そういう友人ができて、この場所に一緒に来られて、本当に良かった。
柴田は広場の空気を深呼吸して、微笑んだ。
- 681 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:46
-
◇◆◇◆◇
もうそろそろ正午。
あれから中澤と保田は、ゆっくりとお互いのことを話していった。
二人はすっかり打ち解けている。今日初めて会って、歳も離れているのに、敬語も使っていない。
なにしろ、会って少ししてからの、二人の会話。
『うち、中澤…中澤裕子いいます』
『あ、保田です。保田圭』
『……なあ、タメ語にせん? うちのことは裕ちゃん、で』
『へ? あ、じゃわたしは圭ちゃんで…』
『圭ちゃん……うーん。せっかくやから圭坊は?』
『………うぇっ……いや、それでいいよ、うん』
なんだかお茶目な人だ、と保田は思った。会って早々、もう友達みたいな気がして。そして自分を「裕ちゃん」と言ったときにふっと見せた柔らかな笑み。一瞬見とれてしまったものだった。
話していて、保田は、中澤が『どこか』に助力を与えてくれた“名士”の「娘」であると知って驚いた。中澤のほうは、そのことを聞いた覚えがあったし、何よりあのおばさんならそれくらいの活動はしてたろう、と思う。
並んで腰をおろして、旧友のように語り合った。この場所がそうさせてくれた。
- 682 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:47
-
「ここにいるとな、なんか、みんなすぐそばにいるって感じるな」
「ああ、裕ちゃんもそう思うんだ。うん、思い出すっていうかそこにいるっていうか」
「圭坊のこと見つけたとき、このコはわかってくれる思ったわ」
ふわっと笑う中澤。まぶしそうに見つめてうなずく保田。
二人が見渡す、この「広場」。
それなりの人数が集まって、ごちゃごちゃと騒々しく時を過ごしている。
うん。みんな、自分達と同じように、ここが好きなんだ。
わいわい・がやがや。
陽射しと風の中、わめいたり、走り回ったり。広場を楽しんで。
本当に、にぎやかに響きあってる。その響きあいに、自分達もつつまれてる。
- 683 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:47
-
ほんと、にぎやかだなあ…
あらためて周囲に目をやり耳を傾ける。
そのかたわらで、中澤はゆっくりと仰向けに転がると、独り言のようにぽつりと言った。
「静かやな…」
「??」
一体なにを、と一瞬、思った。このべらぼうににぎやかで明るい広場がなぜ? と。
しかし、確かに―――
うん。静かだね…
- 684 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:48
-
むこうでは。
いたずらチビ二人組みにとうとうキレた同じく小柄な女の子が、逃げる二人を猛然と追いかけ、その先、腕白&考え過ぎの少女二人がバドミントンで壮絶なラリーを繰り広げている真ん中に突っ込み、100km/hは下らないかと思われるシャトルの直撃を頭に受けてうずくまった。器用にすりぬけていたチビ二人組&バドミントンの二人組があっけにとられている。
そのむこうでは。
金髪チビ・矢口真里と眉毛チビの二人に、背後から電動水鉄砲の集中連射を受けた色白美人・吉澤ひとみが、なにやら意味不明の怒号をあげている。その近くでぼんやり気味の少女が、おもちゃのピッチングマシーンがびゅんびゅん投げる球を空振りしているのは、なにかのギャグだろう。彼女がようやくジャストミートしたボールが吉澤の後頭部を見事に捉えたのも、なにかのギャグだろう。その証拠に水鉄砲の二人は腹を抱えて笑っている。
あちらでは。
キンキン声を張り上げるピンクづくめの生き物にむかって、ノッポ美人・飯田圭織が間抜けな気合とともに渾身の力で投げたフリスビーがあさっての方向に飛んでいき、あさってではふんにゃり笑顔の茶髪美人が余裕でよけたフリスビーが細目美人の手にあったペットボトルを吹き飛ばした。いい感じにお茶を顔にくらった彼女とその連れにノッポが謝りに行く間、ピンクづくめはもう逃げ出している。
- 685 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:48
-
そしてまた。
自分が相手にしないからといって、安倍がひとり、延々スポーツカイトを引きずっている。いや、さきほどまではうまいこと揚がっていたが、ちょっと風が乱れて煽られた際に木の枝に引っかかって破れ目が入ってしまったらしい。さらに揚げているうちに破れ目が広がってしまい、それを西部劇の悪役が脇役Aに対してやるように引きずって、実にムゴイありさまだ。
その一方。
木蔭で平和な二人連れ。先ほどいかにも人なつこそうに挨拶してきた中澤の「妹」という優しげな女性が、若いのにてきぱきした感じの女性と静かになにか語り合っている。その様子は、見ていてとても大事にしなければいけない気にさせられて。なんか、災難もあの二人には絶対に降りかかるまい、といった雰囲気。いや、実際にそうだろう。
さらに。
カッコツケしいの石黒が、草の上に仰向けに寝転がって、これみよがしに洋書を読んでいる。ドイツ語だかフランス語だか中国語だか、すらすらと相当のハイペースで、まだ何冊か仕込んでいるよう。粋なのか無粋なのか、天然なのか。ともかくこいつの場合、どんな災難でもそっちを見もせず片手でペイと払ってしまうだろう。それもわざとらしい鼻歌まじりだ。
- 686 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:49
-
見知った人々が、見知らぬ人々が、広場にいる。
そして新たに、見知らぬ人々が、訪れる。
騒々しくて、穏やかで、ごちゃごちゃして、淡々として、勝手気ままで。
しかしすべてが……
確かに、静かだった。
「うん。わかるよ。わたしもそう思う」
保田は、となりで身を横たえる中澤に声をかける――が、返事はない。
そちらを見れば、中澤は静かに目を閉じている。
その表情は、どこまでも深く美しく――
「裕ちゃん……?」
- 687 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:49
-
―――――――
わたしは夢をみた
そこには すべてのものがあり すべての人たちがいる
きえさったものも なければ もどらない人も いない
なくなったものなど なにもない
そこであの人と とても大切なことを 話した
どんな話だったか いまは思い出せないけれど あせったりしない
けしてなくなることはないと わかっているから
−−−−−−−−−−−−−−−
風が渡った。
広場の夢を、ぐるりと渡った。
すべてが出会う広場の、すべての響きあう夢をめぐり。
あらゆる場所の、あらゆる時の、あらゆる声たちをのせて。
風が渡った。
- 688 名前:「9. Dream In An Open Place」 投稿日:2003/09/14(日) 23:50
-
「9.Dream In An Open Place」
―了―
- 689 名前:...... 投稿日:2003/09/14(日) 23:51
-
VOICES
―了―
- 690 名前:...... 投稿日:2003/09/14(日) 23:51
-
………………………
- 691 名前:...... 投稿日:2003/09/14(日) 23:51
-
ふーーーーー。
今回は「第九話」というより「エピローグ」というべきだったかも。「広場でそれぞれの時を過ごす娘。たち」の情景を書きたかったんです。ベタですが、ぼくは大満足です。
そして、以上で『VOICES』はおしまいです。
まずご挨拶を。
読んでくださった皆様、ありがとうございました。
人生初小説と言うのに「緑がきれいだから」という理由でochi進行していたこの作品を…海の底のこの作品を、見つけていただいた。読んでいただいた。感謝に堪えません。
はじめてレスを見たときは、自分の目が信じられなかったですね。
いくら自分が書きたい・読みたいものとはいえ、お約束違反ばかりで、地味で、カップリングもない小説を…読んでいただき、感想もいただけた。
重ね重ね、ありがとうございました。
- 692 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/14(日) 23:52
-
もう一つお礼。そして1レス目で言った元ネタ(?)について。
まず、この場で本当に唐突なんですが…「市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!」の作者さん、ありがとうございます。
ぼくがこれを書いたきっかけは、あなたのあの小説を読んだことでした。
凄まじいとしか言いようのない激流のような物語と、圧倒的に胸に迫ってくる結末。ハラワタを鷲掴みにされるような感動。本当に打ちのめされました。
読み終えて、なにしろ気持ちがぐらぐらして、しばらく立ち直れなくて。なんとか心を落ち着けようと、自分で「娘。のみんなが幸せに時を過ごす情景」をばーっと書いて、それが最終話の原型になりました。
そこにさらに娘。主演の様々な場面やお話が浮かんで、そのドラマをぜひ見たい、それは無理だから小説にしたいと思うようになったのです。それまで小説など書いたこともないというのに。
- 693 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/14(日) 23:52
-
さて、さまざまな物語が浮かんだものの、単なる短編集ではなく、娘。みんなが関わりあいをもつ、統一性のある作品にしたい。一つの世界を作りたい。構成を練って組み立てているうちに、自分の好きなCDにかなり重なりそうだと気がつきました。
それがこの小説の元ネタ(?)で、ギリシャの音楽家・ヴァンゲリス(Vangelis)が95年に発表した『ヴォイシズ』(VOICES)というアルバムです。各話のタイトルと並び順は、アルバムからのいただきものです。お話と題名が合わない、というところもあったかもしれませんが、そのまま借用。ただ第五話だけは、元が「〜Mountains」と複数形なのを単数形にしました。
といいつつ、お話のテイストと曲調とはずいぶん違います。もはや元ネタどころか「モチーフにした」ですらないか。第八話、第九話は曲に近いかな。
- 694 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/14(日) 23:55
-
さて。
終わりといいましたが、これからぼちぼちと、この世界の番外編をいくつか書こうと思ってます。いえ、「N県S市」がすっかり気に入ってしまったのです。飼育改変で、スレ容量も随分あまってますし。
ただしあくまでも番外編ですから、一つにまとまる方向性のようなものはありません。あっちこっちリンクすることもないです。唐突に「これ以上更新はないです」とか言うかもしれません。第三話の市井の言葉を借りれば、もう「ちゃんと終わらせてるから」ということで。
こんどこそごくあっさりめの短篇を書きます。目標10レス程度。きっちり書くのは懲りました。また痩せてしまいます。もう、断固としてテキトーなものを書き……たい。そうできればいいなあ。
もちろんすぐ更新というわけにもいきません。少なくとも来週再来週とかは無理でしょう。生存報告はするとしてかなり不定期になるかと。それもやっぱりochi更新で(何様のつもりでしょう? ごめんなさい)。
ではまた、いずれ。
- 695 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/15(月) 20:55
- 大円団って感じですねw
終わり方も含めてラストに相応しい話だと思いました。
脱稿本当にお疲れ様でした。毎回これだけの量を書かれるという事は、かなりの体力を必要とされたと思います。
素晴らしい作品群に出会えて幸せでした。
有難う御座いました。
- 696 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/18(木) 03:22
- 脱稿お疲れ様です。もう言葉が出ません。
これほどの作品を考えるなんて、自分には到底できないことです。
努力、構成力、想像力、そして才能。羨ましい限りです。
もっと作者さんのお話が読みたいと素直に思いました。
番外編として短編を書かれるそうで。
作者さんの世界観をもう少し味わえるんですね。楽しみにしてます。
- 697 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/20(土) 02:38
- 色々忙しくてやっと来れたら、終わってた…
今更ですが、Messagesの中澤は強いですね。親族が亡くなったときの
自分のうろたえ振りを思い出してしまい、苦笑いしてしまいました。
Dream In An Open Placeはそれぞれの個性が出ているのに、なぜか
まとまりが良くて絵画みたいな感じがしました。
脱稿お疲れ様でした。毎回本当に楽しみで仕方なかったです。
素晴らしい作品を本当に有り難う御座いました。
番外編も楽しみにしています。
- 698 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/22(月) 23:11
- えーと、まずレスのお礼です。
>>695 名無し娘。さん
>>696 名無しさん
>>697 名無し読者さん
暖かいご感想ありがとうございます。
まったく「努力」と「体力」でしたねえ……。才能がほしい…。
疲れたー、というか、お腹すいたー、というか。
休日・平日問わず、暇を見つけてはただひたすら、楽しくしんどく書いてました。書くのに夢中できちんと食事しなくなって、体重も3kgほど落ちました。骨身を削るとはどういうことなのかわかりましたです。
さらに、平和で幸せな第九話の原型から始まったものの、多くのお話で書いてる途中でつらい気持ちになってしまいました。第七話など特にです。登場人物たちに明るいラストを迎えさせてやれたときは、本当に嬉しかったですね。
「Messages」の主人公は中澤ですが、ぼくは平家の視点で「強い人だなあ」と思いつつ書いてました。柴田には二人の中継をしてもらったというか。
「Dream In An Open Place」は、やはり映像が先でしたね。好き勝手で調和して、みんなが幸せでいいじゃないか、と。
- 699 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/22(月) 23:12
- さて、ここから番外編を始めます。
でもって新スレの気持で、
- 700 名前:OTHER VOICES 投稿日:2003/09/22(月) 23:13
- こんな ↑ タイトルで。
ポール・ヤングのアルバム『OTHER VOICES』からいただき。ま、単なる語呂合わせです。
では、スタート。
- 701 名前:1. Sunny Earth 投稿日:2003/09/22(月) 23:14
-
「1. Sunny Earth」
- 702 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:16
-
ギラつく真夏の陽光。
すべてを焼き、照らし出す強烈な光。
すべてを輝かせる、光。
しかし――目の前に広がるのは、暗闇。
彼女はいま、完全に視界を奪われていた。
そして暗闇の中、好き勝手な方向から押し寄せる人のざわめき。耳に頼るのも難しいだろう。
さらに方向感覚まで狂わせるために、何度も右に左にぐるぐる回されている。
確かなのは、肌を圧す陽射しと、靴越しに伝わる地面の感触くらいだろう。
つまり、どう考えても目的地を見失っているはずだ――いかに直感的な彼女であろうとも。
暗闇にいる彼女に容赦なく陽射しが降り注ぎ、分厚い目隠しの下からも汗がふきだしている。
そんな彼女の状況を確かめて、
「よし、はじめ」
ゲーム開始が告げられた。
- 703 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:17
-
開始の合図とともに、本格的に湧き上がる歓声。
目隠しをされた彼女に、見物人たちから応援とも野次ともつかない声が跳ぶ。
ゆっくり、その場で扇状に身体を軸回転させてゆく彼女。周囲を確認しているのか――
やがて、ぴたりと止まった。
方向を定めると、なんの迷いもなく進みだす。
ずり、ずり、と摺り足だが、「すたすた」という形容が似つかわしい足どり。彼女が軸回転を始めたとき、それが、最初に回されていたのを正確に逆再生していたものだと、その場の何人が気がついたろう。
方向感覚を失っているはずの競技者の、その迷いなさに、歓声がひときわ激しいものとなる。それは応援か、妨害か。
だが、それも彼女が進むにつれてだんだんとしらけたものに変わっていく。
ときどき軌道修正はしているが、彼女のその歩みは、あまりにも真っ直ぐすぎた。
事前の妨害工作の手間に較べて、ごくごくあっさりと彼女は目的地にたどり着く。「標的」はいまや、彼女の射程距離内にある。
そして、携えていた木の刀で「標的」を軽く確認。とうとう、照準も固定された。
- 704 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:17
-
なおも誤導しようというあきらめの悪い声を無視して――いや、最初からおよそ周囲の声を無視していたようだが――彼女はその場に蹲踞の姿勢をとる。
そして、木の刀を真っ直ぐに振りかぶると、真っ直ぐに振り下ろした。
一閃。
振りかぶり、振り下ろす。
描かれるそれは――
きれいな、実にきれいな軌道だった。
完璧な軌道の先、切っ先三寸の下で、「標的」はきれいに真っ二つとなった。
ビニールシートの上、ぱっくりと割れて曝け出される、その赤い断面。
彼女のフォームと結果の美しさに、一瞬、静寂が訪れ、そして――
大歓声。
- 705 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:18
- ◆◇◆
「凄い! 凄い凄い凄い! やっぱ凄いよ、まこっちゃん!」
「うー、あちぃー」
駈け寄って自分を尊敬の眼差しで見つめる年上の親友に、ニヤリといい笑顔&ピースサインをくれて、競技者――小川麻琴は、先ほどまで視界を覆っていた手拭で顔をふき続ける。ぎっちぎちに固結びされた二枚重ねのそれは、ほどかれることなくそのまますっぽりと引っこ抜かれている。輪っか状の手拭で、そのまま首だの顔だのをゴシゴシこする。
剣道着姿の麻琴。その胴着にも袴にも、まるでハネが飛んでない。どれほど見事にやってのけたかわかろうというものだ。
「ね、やっぱ楽勝だったよね、全然迷わなかったもんね?」
「うんうん、そうだよ、そうだよ、愛」
目を丸くして興奮してる、端整な顔立ちの友人。
あんたは迷いまくりだけどねー、とは、たとえ事実でも麻琴は言わない。別に、気兼ねとか遠慮で、とかではない。いま思ってないから言わない、思ったら言う、それだけだった。
さらに、あれこれ迷いがちなこの親友――高橋愛が、いまは迷いを吹っ切りつつあることはよくわかってる。
- 706 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:20
- 町道場の剣道少女、二人。
道場九年目の高校一年、麻琴。
道場二年目の高校二年、愛。
迷うことを知らない麻琴と、考え過ぎで迷ってばかりの愛。
いいコンビだ。
麻琴同様、愛も剣道着姿。
いや、回り全員、剣道着姿。
「とにかくさ、はやく食べようよ、みんなもう食べてるし」
「うー。あたしはなー……ま、しゃーないけど」
「すっごいおいしそうじゃん」
「そりゃあんたらはねー…」
そうこう話していると、
「はいはい、食べた食べた」
二人のほうにも回ってきた、お盆。四十代のエプロン姿の馴染みのおばさんが抱えている。誰のお母さんだったか。顔なじみではあるけど。
で、いかにも「冷えてます! 甘いです! 爽やかです!」てな切り口をキラキラさせる、赤くうまそうな……早い話が、スイカ。
愛は案の定、どれが一番いいのかうんうん考えてる。
ほら早く、とおばさんが痺れを切らしている間に、どんどん周囲の人間が手を伸ばす。
「あ、あ、あ…」などと言うばかりの愛、結局残り物を取っている。
それでもやっぱり、冷え冷えでシャキシャキで、おいしそうだ。
- 707 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:21
- 「うー、あたしもさ…」
「はい、小川さんはこれね。勇者の特権」
もう一人のおばさんがやってきた。
「いい加減、この伝統はやめなきゃいかんよね」
「なに言ってるの、はいどうぞ」
包丁で切られて形が整っているようだが、組織が崩れているところがはっきりわかる。
「標的」のなれの果て。
先ほど、麻琴が見事に割ったスイカ。
いくら完璧なフォームで捉えたといっても、木刀で割ったのだ。ぐちゃり・すかすか、になっていたりもする。はっきりいえばまずい。
愛が食べているのは、それはそれはおいしそう。
……しゃーない。もったいないもんね。
すぐさま気分を切り替えて、むしゃぶりついた。
「もったいないオバケ」を怖れているわけではない。
麻琴は「もったいない」が許せない性格だった。
- 708 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:28
- ◆◇◆
「おいしいよねー、まこっちゃん」
「まじぃ…」
「………」
さすがに申し訳なさそうな愛。
しかし、まずいといいつつ、麻琴はもしゃもしゃ食べ続ける。食べ続ける。
そして口に溜め込んだタネを、ぷぷぷぷぷぷぷぷっ、とマシンガンのように飛ばす。
愛も、ぷっぷっ、と飛ばす。
周りの連中もみんな飛ばしてる。
暑い暑い、夏の陽射しのもと、地面に、草むらに。
「んー、でも今年もまこっちゃんはやったもんね」
「ん」
麻琴はもしゃもしゃ食べるのに忙しい。
「わたしは去年からしか知らないけど、もう何年目だっけ?」
「八年目」
そう、麻琴はもう同じ事を八回繰り返している。
道場の夏合宿四日目。
最終日を明日に控えたその昼に行われる「スイカ割り」。
合宿所敷地内の道場脇、そこそこの空き地で行われる毎年恒例の行事だ。
もう大した稽古もしないから、思う存分水っぽいものだって食え、ということだ。
- 709 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:35
- で、七つのときからの道場生・麻琴。七年前のこの合宿所でのこと、みんなが面白半分で八つの彼女にスイカ割りをさせてみたのが始まりだった。
にやにや笑いの大人たちの前で、しかし、迷いを知らない彼女はすたすたと標的にたどり着いた。そしてやや危なっかしいながらもしっかりと木刀を振りかぶり、見事に割ってみせたのだ。
よたよたしつつ木刀でスイカを割った小さな女の子。それから毎年、麻琴はスイカ割りの大トリ・最終選手を務めることになった。
以来ずっと、毎回一撃必殺。失敗したことはない。迷いも見せない。
みんな、今年こそはどうかと思ってる中、やっぱり危なげなく成功。
去年初めて麻琴のその姿を見た愛など、すっかり尊敬の眼差しだ。
なぜって、麻琴の前に挑戦した自分など、あっちふらふらこっちふらふらした挙句、道場生の頭をカチ割るところだったのだから。
そしていまも熱心に話しかける――
「すごいよね、八戦全勝!」
「八年とも、こんなスイカ」
「………」
- 710 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:36
- 毎年、大トリ。
勝負事は大好きだからそれはいいのだが、割ったやつが割ったスイカを食べるべし、という伝統のせいで、道場二年目から今年まで、ざっくり割ったなれの果てばかり食べている。ほかの連中は失敗して地面を叩いたり、そもそも適当に新しいスイカを食べたりしてるのだが、素直な麻琴だけは自分が割ったスイカを一個丸ごと食べている。
いまも黙々と食べ続ける。
「まじぃ」けど、来年も同じことやってるのだろう、と麻琴は思っている。いや、わかっている。自身のあんまりな素直さ・真っ直ぐさを省みることさえない。
――この子は変わりたがってるみたいだけど。
隣でシャクシャクと新しいスイカを食べている愛を見やる。
麻琴にはよく理解できないことでこちゃこちゃ考えすぎな、親友。初めて会ったときから丸わかりだった。向こうは向こうで、こちらの性格を気に入ったみたい。
麻琴からしても、天然考えすぎな愛は、楽しくて面白い「いいやつ」だ。
いいやつだけど、迷ってて、弾けきらなくて、変わりたいと思ってて。
考えるまでもなく答えは目の前にぶら下がってるのに、ぐるぐると遠回り。
“わたしら、なんで竹刀で叩き合うのかな?”なんて聞かれたときはびっくりした。
ただでさえ、道場生としても剣道歴も麻琴が大先輩なのに、そんなだから。
愛のほうが麻琴より一コうえなんて、まるで関係ない。
まったく、面白いやつだ。
いまでも充分いい友人だけど。
変わろう変わろうってややこしく言葉にして、どうにか強くなってきた。
そして今回の合宿でも、ずいぶんと愛は弾けてた。きのうの稽古なんかでも「うおりゃー」ってなっていたし。それをこの子は、自分のおかげだなんていってくれる……
- 711 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:37
- ◆◇◆
「ね、ね、まこっちゃん」
「んー?」
「ほんときれいに割るよねー」
「面打ちと同じだもん」
ああ、やっぱり、と感心顔の愛。
「まこっちゃん、素振りも型もすっごい丁寧に繰り返してるもんねえ」
それは本当だ。
大雑把に見られがちな麻琴だが、基本に忠実・正確無比。
地稽古・懸り稽古でケモノになることは確かだが、素振りでフォームを整えるのにも凄い集中力。迷いを知らない二進法思考は、どんな努力もおろそかにしない。
「苦労はしないに越したことないけど、努力はしたほうがいいに決まってるじゃん」
「わー、やっぱ凄いな、まこっちゃん」
こんな当たり前のことにいちいち目を輝かせる。
楽しいやつだ。
麻琴はまた、いい笑顔を見せる。
「じゃさじゃさ、なんでさー、あんなに真っ直ぐいけるわけ?」
「最初に方向を覚えとく。回されたのと反対に回る。そのまま前に進む」
「えー、それだけ?」
「それだけ」
簡単なことだ。なんでみんなもそうしないのか、麻琴にはわからない。
やってるんだけどできないんだよ、というのがいよいよわからない。
- 712 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:38
- 「本当にそれだけ?」
そう言われても、麻琴としてはそれ以上に説明のしようがない。
別に剣道やってるからって、「気配を察して」とかバカらしいトンデモな話じゃないのだ。以前、自分について先輩がそんな推測をしたときは、スイカになんの気配があるのだと呆れたものだ。だいたいなんだ、気配って?
周囲の歓声だってどうせ頼りにならないし――
いや。
「あ、あと愛のお蔭」
「え?!」
「愛はウソの誘導しないってわかってるから、愛の声はちゃんと聞いてた」
「まこっちゃん……」
麻琴の言葉に感激の愛。
「でも、愛は自分基準で「右・左」言うのもわかってたから、ちょい頼りなかったけど」
「もう!」
「まーとにかく、ありがとね」
「…うん」
自分のお蔭と聞いて、愛はとっても嬉しそうだ。裏表のない麻琴が言うことだから、余計嬉しいのだろう。
麻琴は麻琴で、むくれたり喜んだりとせわしない愛を見て、とても楽しい。
- 713 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:38
-
へへ、やっぱ、こいつが一緒だと面白いや。
これからもよろしくね、だね。
ま、もっともっと強く、変わっていくんだろうけど…
「どしたの、まこっちゃん?」
「やー、愛はそのままでも面白いかなーって」
「えー? そのままなんてさー…」
「うん、やっぱそうだね。愛は強くなってるもん」
「へへへ…」
変わりたくて変わるってんなら、変わればいい。それはそれでいいことだ。
この子が強くなってくのを見るのは、きっとすごく楽しいだろう。
麻琴は、常に真っ直ぐ。
余計な考えに踏み込むことを知らないのだった。
- 714 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:38
- ◆◇◆
「おーし、ごちそうさま!」
「はは、結局、一個丸ごと食べちゃったよね、まこっちゃん」
「だってもったいないじゃん…あーまずかった」
「来年も同じだね、まずいスイカ、丸ごと」
「うん」
そのとおり。
親友はよくわかってる。
自分は昔からこのまま。そしてこの先もずっと、このまま。
変る理由がないから、このまま、真っ直ぐ。
人間、どうせいずれ死ぬ。
無駄にふらふらしてる暇なんてない。
こんなにお日様が輝いているんだ。
しっかり地面を踏んでるんだ。
- 715 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:39
-
「もう片付けよっか」
「そだね」
二人して、そこらの皿だのお盆だの、スイカの皮だのを集めると、最後に、口に残ったタネを、ぷっと飛ばした。
偶然、同じタイミング。
二人で顔を見合わせて、笑ってしまう。
さすが親友同士。
歩き出すのは、麻琴が先だけど。
「行くぞー」
「待ってよー」
やれやれ。
頭のうえも、足もとも、きのうと変わらない。
明日も変わらない。
お天道様と、大地。
こんなしっかりしたものがあれば誰だって迷うはずがない、と麻琴は思ってる。
親友もいずれわかるだろう。
だから待たずに、ずんずん歩く。
親友も後ろから、ずんずん歩く。
- 716 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:40
-
変わろうとしてる少女。
変わらない少女。
それぞれの身の丈で。
それぞれのあるがままに。
それぞれのやりたいように。
そして、だからこそ、親友同士。
二人して、真っ直ぐ歩いてく。
これからも、歩いてく。
ずんずん歩いてく。
元気なお天道様の下、輝く大地をどこまでも―――
- 717 名前:「1. Sunny Earth」 投稿日:2003/09/22(月) 23:41
-
1. Sunny Earth
―了―
- 718 名前:...... 投稿日:2003/09/22(月) 23:41
-
………
- 719 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/22(月) 23:42
- 季節感がないのは、もう本当にごめんなさい、ということで。
これからもぶっちぎるんだろうなあ、季節感……。
本編でお気に入りのエピソードから。およそ苦労せずにかけたのがあれなので、気に入ってるのです。第八話と最終話を導いてくれたし。
で、二つで一つ、かな?
自分的にこんな友達がほしいなあ、という主人公なのでした。
ではまた、いずれ。
- 720 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/09/25(木) 22:40
- 誤記発見。
>>646最終行での「勝手口」は当然「玄関口」の間違いです。
あと、>>625一行目「Mの助言」は「Kの助言」です。
ごめんなさい。
- 721 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/27(土) 01:47
- おっ、番外編ですか。
季節感なんて気にしない、気にしない。
登場人物が少しずつ成長してるのが伝わります。
続きも期待してますよー。
- 722 名前:2. Rain And Tears 投稿日:2003/10/09(木) 00:13
-
「2. Rain And Tears」
- 723 名前:「2. Rain and Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:14
-
八月半ばをちょいと過ぎたころ。
でっかい雲の峰が、にょきにょきとそびえる。覆いかぶさるようにぐわーんと広がる。
夏の雲は、白だけじゃない。雄大なその下腹には、群青色がぎゅん・ぎゅんと荒っぽいハケ裁き。
力強くてドキドキする。
その隙間をこじ開けて、青い空。
やっぱりドキドキする。
お日様なんかすぐに隠れて疾風怒濤、そんな気配すら。
ドキドキ。
降りそそぐ、強烈な陽射し。
その下で負けずに騒々しいセミの鳴き声。
一方で立ち昇ってくる、涼しげなせせらぎ。
そして――
「わ、わ、またとれた!」
「おー、やっぱアホやな」
底抜けに明るい歓声と、陽気に応える声。
「アホ」と呼ばれたのはこの炎天下に帽子をかぶろうとしない少女のことではない。アホ丸出しのいい笑顔だが、ともかく違う。
彼女がつまんだタコ糸の先、縛り付けられたスルメをこの期におよんでもギュウと挟んで離さずにクルクル回っている、赤い色したニクイやつのことだ。
「しょせん人間様にはかなわん、ちゅーこっちゃな……ほれ」
「あいよー」
はしっこい眼差しの相方がつま先で押しやったバケツのうえに、少女は糸を持っていく。ぐーるぐーると右回り左回りして、そいつはスルメをゆっくり離すとバケツの中にボチャリと落ちた。
- 724 名前:「2. Rain and Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:15
-
――ガサ、ガサガサ、ガサ、ガサリ……
水を張ったバケツから上がってくる音は、結構ホラーだ。
でもって、バケツの中の様子も割かしグロだ。
ひたひたに張られた水の中、緩慢な動きながらうじゃうじゃとひしめく赤いやつ――アメリカザリガニ。略してアメザリ。
田んぼの敵。お百姓さんの敵。ニホンザリガニの敵というのは迷信らしいが、これは余談。
ともかく3リットルの青いポリバケツの中、ボツボツ泡を吐きながら、ぐったりしたりハサミを振り上げ威嚇したり。いましがた降ってきた新入りがどれか、もう見分けがつかない。
獲物をバケツに落とし込んだ姿勢のまま固まって、釣果を覗き込む少女。
何度見ても見飽きないらしい。
一心不乱に見つめ続けるその様子に、彼女の親友は苦笑してしまう。
「そんなに面白いかぁ?」
「うん。だってこんな変なふうに動くんだよ? 変な形でさ、ロボみたいじゃん」
「ロボ…」
そういやエビをかっこいいと言ってた子もいたな……小学二年のときだけど。
と思いつつ、手にした麦藁帽子を友人の頭にぎゅっと乗せる彼女。
「いい加減、帽子かぶらんと。明日香姉ちゃんも言うてたやろ、のの」
「うー……わかったよー、あいぼん」
- 725 名前:「2. Rain and Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:18
- ◆◇◆
ここはS市内を流れる用水路。
幅3m程度の素掘りで、植生護岸だったり石で固められてたり土が剥き出しだったり。上流下流はともかく、住宅が多いこの区画ではこじんまりしたものだ。
両岸は3〜4m幅くらいの土地が確保され、水路沿いにずっと続く。ひんやりする地肌、広がる雑草、蔭をくれる木立……パラパラと、アクセント。そのまたさらに外側は、膝小僧くらいの低さの柵を隔てて車道やら住宅やら倉庫やら。どうにもなんとも、何気にいい場所だ。
昔でっかい農村だったS市は、開けた界隈でもこんな風景はさして珍しくない。
そこに自転車でちょっくら乗りつけてきた、二人の少女。
半袖・短パン・麦藁帽子にこんがり日焼け。
「あいぼん」こと加護亜依&「のの」こと辻希美。高校一年生の仲良しコンビだ。
弁当を用意して、夏の風物詩・ザリガニ釣りに興じている。高校生の女の子だって、楽しいものは楽しいのだ。
なにしろこの水路、けっこう…かなりきれいだ。みんなが大事にしてるから、サッカーボールだの自転車だのが投げ込まれてたりということがほとんどない。フナもいればカエルもいる。ときどきヘビも泳いでる。そして水底に見える見える、夏場は獲り放題のアメザリ。
まったく、獲り放題だ。
- 726 名前:「2. Rain and Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:19
-
【用意するもの】…バケツと竹棒とタコ糸とスルメ――以上。
【釣り方】…竹棒の先にタコ糸を結んで、糸の先にスルメを結んで、ザリガニの前に沈める。にゃろうがしっかりスルメを挟んだら、静かに引き揚げる――以上。
ちょろいもんだ。
加護が言ったとおり、「しょせん人間様にはかなわん」のだ。
もっともザリガニ釣りなど初めての二人、最初は失敗ばかりだったが。ザリガニのすぐ鼻先にえさを落としてびっくりさせたり、エサを挟んでいきなり引き揚げようとして逃げられたり。でもすぐにコツを掴んだ。あとはもう、水路づたいにだんだん移動しながら獲れるわ獲れるわ。
で、またも――
「おーしおしおしおし、来た来た来た」
「うわー、でっかいハサミ!」
巣穴に引っ込んでたやつをうまいこと引きずり出せて、加護は有頂天、大物の姿に辻も大はしゃぎ。
そんな二人に関係なく無表情にダラーンとスルメにぶら下がってるやつを、日陰に置いたバケツの上にもっていく加護。
ボチャリ、とバケツに落ちたところで――
「ゲッツ!!」
短パン履いた両脚を思いきり開いて腰を落とした、空手で言う「騎馬立ち」の姿勢。腰に当てて曲げた両腕の先は指鉄砲、バケツの獲物に向けて、会心の笑みを貼り付かせた…が。
「……をい、放置かい」
「………」
やばい、はずした?!
反応の薄さに加護は焦る。チャンネル数が少ないこの地域でもちょくちょくテレビで見かける某芸人(若手ではない)のネタ。今年の大流行。いや、某民放の深夜番組では何年も前に死ぬほど見ていたが。
とにかく、好きなネタでもないのを親友のレベルに合わせたつもりだった。
しかし結果は、黙殺。
- 727 名前:「2. Rain and Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:20
-
「……あー、これ、なんで三人称単数形なんでしょうなあ?」
不自然きわまる言葉づかいで、加護はゆっくりゆっくりうやむやに姿勢を戻す。
なんともいえずせつない空気を感じる。真夏なのに、この寒さ。
穴があったら埋めてしまいたい、自分以外の全てを。
そしてようやく加護は、親友・辻の表情に気がついた。
辻は無表情のようで、口の端が微妙に歪んでいる。さらに相手を窺うような眼差し。
それはあきらかに――ニヤニヤ笑い。
「…おいこら」
「いやー、可愛いなあ、と思ってさ」
「言うとくけどののに合わせたんやからな? いきなりうちのレベルはきついやろ思うて…」
確かに加護が自分のネタで本当に気に入っているのは「天本英世」だったり「小渕優子」だったり、敢えていまどき「だっちゅーの」だったりする。それを普段、同年代の子相手には「高見盛」くらいに温度を下げているのだ。
「な? ほら、つまりあれや、ののにはこれくらいぬるい方がいいやろ、と! せやから…」
「必死だね、あいぼん」
「くっ…」
ちっ…まあいい。来年の今ごろに“敢えて”さっきのをやったるからな、見とれよ?
常人にはやや理解しがたいこだわりをぶつぶつつぶやいて、加護はそれ以上つっかかるのをやめた。
必死なのはかっこ悪いし。
なにより辻の明るい笑顔が嬉しかったから。
そんな加護にお構いなく続ける辻。
「可愛いなあ。おねーさんとして嬉しいよ、わたしは」
「………」
むかつきつつ、それ以上にどきっとして――なにより嬉しい。
「おねーさん」で「わたし」……か。
あれから、これで三回目。
うん。かっこいいんだよね、あんたは。
- 728 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:22
- ◆◇◆
辻と加護は同じ高校の一年生。
高校入学前に出会ったばかりの頃は曖昧なニコニコ笑いくらいだったのが、素敵な泣き顔も怒った顔もどんどん出してくれるようになった。よく喋るようになった。
でもって、同じ一年生だけど、辻はあと半年くらいの間は加護より「おねーさん」だ。
普段は無邪気さが目立つ辻。大人びた加護と一緒だとなおさらなのだが、しかしここ最近、ほんのときたま、一瞬「おねーさん」の余裕を見せてくれる。それが加護にはとても嬉しい。心底嬉しい。
嬉しいなあ……
「考えごと? あいぼん」
「ん?! あ、あー…いや、うん、明日香姉ちゃんも来たらよかったのになーって」
辻にぽすんとはたかれて、加護はとっさに年上の「仲間」の名を出した。いまの気持を正直に話すのは、なんかむかつく。
「ここ教えてくれたんなら、一緒に来ても同じやったのにな?」
「そりゃーあんなことしたからじゃん」
「むぅ…」
確かに仕事中にあれは悪かった。きゃっと飛び上がって、なんか貴重らしい昔の資料集だの古地図だの年表だのをばさばさ落としてしまってたっけ。自分としたことがどうも友人と一緒だとガキになってしまう…って――
「ののも一緒にやったやろ! うちとダブルで!」
「あれは決まったよねえ。最高の一撃」
「………」
「明日香ちゃんはあれくらいでへそ曲げたりしないよ?」
「…まーな」
そう。二人が絶大な信頼を寄せる、古書店の四代目候補・福田“誠の人”明日香は棚を整理してる最中にカンチョー食らわされたくらいでへそを曲げたりしない。二人のほっぺたをギリギリつねりあげて三日は抜けない青タンをくれただけだ。まだ残ってる。
なんだかんだできょう福田が来なかったのは、高校生二人の時間を楽しんでほしいという彼女らしい心遣い。
- 729 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:22
-
「つまり明日香ちゃん、わたしのこと喜んでくれてるんだよねえ……あいぼんも」
「は? え!?」
「さっきも。あいぼんに嬉しいと思ってもらえるとさ、おねーさんも嬉しいってもんだよ」
「あっ――」
…相変わらずか。
あっさり見通してしまうその「回路」。
それにしたって…
「ったく、どんな時間差やねん」
「んー?」
「せやから! こっちのことわかっとるんならそのとき言ってくれんと…話してて一人時間差されても意味わからん」
「? ののなんか言ったっけ?」
「なーにが“のの”や」
「ののはののじゃん」
とぼけてるのか天然なのか。たちが悪い。
いや、いきなりあどけない表情になってしまって……やっぱり、わからん。
しかしそれが自分の親友。加護はそれでいいと思った。
そしてようやく、二人はきょうの目的に立ち返る。
「ね、もっと釣る?」
「んー、しかしもう、えらいことになっとるしなあ」
「そうだねえ」
釣りも釣ったり。
ガサ、ガサ、ガサ…と、足もとのバケツ。
二人が見下ろしてるまん前で、赤いやつ一匹這い出して、ガサリと地面に落ちた。
- 730 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:23
- ◆◇◆
「達者でなー」
「ばいばーい」
ザラザラザラー、と水路にぶちまける。
赤いのが一杯、たまって、沈んだりあおむけになったり。
やがてゆっくり広がったり広がらなかったり。
上流から少しずつ移動しながら溜め込んだ釣果を、一点集中した。生態系にちょいと影響はあるかもしれないが、まあ細かいことは気にしない。生態系と言うやつは弱いようで案外いい加減、かもしれないから。
加護が水路に思いきり身を乗り出して、空になったバケツで水をすくう。
その中に辻が、地べたにホッポリ出していたアメザリを四匹、ボチャボチャと投げ入れる。
事前にひっくり返して腹を見て、オス・メスつがいを二組、確保しておいたのだ。加護は釣るのは初めてでも飼ったことはあったから、見分け方を知っていた。
「ちゃんと育てられるかなあ?」
「心配ないって、たいがいなことでは死なんから。水きれいにして水温上がりすぎないようにして、煮干でも食わせて、それでしまい。腹減らすと共食いするから、それは気をつけてな」
「げー、夫婦なのに…」
加護の説明に引き気味の辻。
「夫婦でもな。あ、夫婦と言えば子供同士が一番共食いするから」
「なんだかなー」
「オス・メス一緒にしとけば、そのうち勝手につがって子供作る。親に食われたり兄弟に食われたりするのもおるけど、うじゃうじゃおるから気にすることない。何匹か残して、あとはここに放してしまおう」
「一匹も死なせたくないなあ」
「まあ無理やけどな」
「なかなかね」
- 731 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:24
-
無理なもんは、無理。
接木サボテンを枯らせたり。
クワガタを三回越冬させて四回目の冬は越せなかったり。
インコの雛が朝冷たくなってたり。
いのちは大切、小さないのちを手のひらに乗せて、大事に育てる。そして、夜店の色つきヒヨコはあんなに安くて、安く死ぬ。
…どうにもこうにも、世の中そんなもんで回ってく。
たいていの人がわかってることだ。わからないふりする人もいるようだが、加護も辻も、よくわかってる。別に頭抱えたりしんみりすることもない。
しんみりはしないが、加護はなんとなく空を見上げた。
んじゃ、こいつら預かりますんで――などとちょいと挨拶気分。
こうやって仁義を切っとくと気分がいいものだ。
空のかなたに大切なものが感じられるというのは、辻の影響だけど。
気分はよくなって、でも違うことが気になった。
「うわちゃー…まずったかな…」
空はいよいよ、雲のほうが元気だ。
それだけじゃなく、その下腹に走っていた群青色がずいぶんとどす黒くなっていた。
ドキドキというよりもはっきり「ヤバイ」と思ってしまう。
そういえば出掛けに母親から、一応傘持ってけ、とか言われたような…速攻帰ったほうがいいのか。でももうちょっとゆっくりしていたい気もするし。ここでの弁当は楽しみだったんだ。うーむ。
いろいろ考えて、加護は相棒に目をやる。
「のの、傘、持って来たほうがよくなかった?」
「?…いや、そんなことないよ」
「ふーん、なんで? きょうの空、なんか」
「このままの方がいいと思ったもん」
お、なら心配ないんだ。
加護はほっとする。にこにこ笑っているこの親友の「勘」が恐ろしいほどよく当ることを、加護はよくわかっていた。
「んじゃ、昼にしよっか?」
「うん!」
二人、待ちかねた弁当を広げた。
- 732 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:25
- ◆◇◆
「うひょーっ」
「……」
「ひえーっ」
「……なあ、のの」
「んー?」
「…どういうこと?」
いかにも機嫌良さげな声と、いかにも「納得いかねえ」という声。
「なにが?」
「話が違うやん!」
「だからなにが?」
額に髪をべったり張り付かせ、降りそそぐ雫に目をしばたたかせながらきょとんとしている辻。当り散らした加護も、ずぶ濡れTシャツで下着が透けてしまったりして恥ずかしいことこの上ない。
当然だ。かなりの勢いの雨の中、傘もささないでいるのだから。
「のんびりするんやなかったわ」
「うん、のんびりできたよねえ」
水路に沿った地べたでのんびり弁当を食べた。
それからしばらく、ぼんやりバケツの中の四匹をいじくったり水の中を眺めたりしていた。
気持ちいい時間を過ごした。ゆったりしてた。釣りを終えてすぐ帰れば余裕で二人の家に帰り着いてただろう時間の、さらに三倍近くを過ごした。
辻の言葉を信じたからだ、加護に言わせれば。
そんでまあ、もうそろそろ帰るかと二人で自転車に跨ったとたんに、ポツリ――と来た。
ポツ・ポツ…ポツポツポツ…ボツボツボツボツ…ザーーー。
加護のママチャリのカゴに無理矢理突っ込んだバケツにもどんどん降った。時おり溜まった水を捨てないといけないくらいだ。
加護は安全のためというより、なんかもうどうでもよくなって、自転車を押して歩くことにした。隣の辻は妙にはしゃいでいるが。
で、いま。
「ののがあんなこと言うから」
「いや、だからなんて言ったっけ?」
「雨、降らないって言うたやん…」
「うそだー、言ってないよそんなこと」
「いや、言うたやん!」
- 733 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:26
-
加護はそれはもう納得いってない。相棒の言葉を信じてもたもたしててこのざまだ、なんて気分。ちょっとむこうに目をやると雲間から明るい空が見えて、雨でなくきれいな陽射しが降ってたりして、余計腹立つ。だけど辻は辻で加護の言葉に納得いってない。
「ねえあいぼん、本当にののそんなこと言った?」
「?!……あ…と、いや…」
はっきり問い返されて加護はようやく思い出した。
そう。辻は「雨は降らない」なんて意味のことは、ただの一言も言ってなかった。「なんか傘を持ってこないほうがいいと思った」「そんな気がした」。辻が感じたのは、本当にただそれだけ。
「これでよかったって思うんだけどなあ」
「あー…」
バラバラと雨粒を全身に浴びて幸せそうな辻のその表情。
自転車を支えてないほうの腕を広げて、顔を上げて気持よさそうに目を閉じてみせる。
そして加護のほうを見て、にこっと笑った。
あどけないようで、美しい……
初めて会ったときもこんな感じで、公園の桜の樹の下から空を眺めていたっけ、この子は。
「ね、気持いいじゃん」
「うん…」
加護は短くうなずいた。
靴はグチャグチャいってるし服は身体に張り付いてるし、気持ちいいわけない…はずだったけど。少なくとも隣の親友の姿は、とても気持ちいい。むこ〜うの方で空を覗かせる雲の穴も、いまは見てて気持いい。
それにしてもなんていう表情だろう。なんていう姿だろう。自分まで、なにかとても大切な懐かしいものを思い出しそう…。
「あいぼん…」
「ん?」
「なんで泣いてるの?」
「泣いてないよ」
「そう?」
嬉し涙というのかなんなのか。どこから来るのかわからない暖かい涙と言うのは、確かにある。そんな涙はなかなか流せるものじゃない。
「雨や、雨」
「そっか…」
「おう」
加護の返事に、辻はただ黙って微笑んだ。
加護は加護で、まあ、笑った。
- 734 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:27
- ◆◇◆
「あっ…」
「おー」
雨が上がった。
小降りになってきたな、と思ったら、降り始めと同じにごくあっさりと上がった。
顔を上げれば空一面、ちぎれかかった雲の波が渦巻いて、見る間にどんどん形を変えていく。でもって、さっきまで雲が切れていたかなたは、いま真っ黒に雨が降っているのがわかる。
いまあたりを満たすのは、雨ではなく柔らかな光。
粒の大きめな霧みたいに水滴がゆったり浮かび、降り残しの雨粒が時おりポツリと落ちてくる、そんな中をキラキラ陽射しが乱反射。蒸気にけぶるあたりはなんとなく虹色だ。
「うわー…」
「ふひょー」
「きれいだねー」
「うん……」
ぶんぶん腕を振って、光の膜をかき分けるようにして見せる辻。そんな親友こそ、きれいだなー、としみじみしてしまう加護だった。
「泣いてる?」
「ずぶ濡れやもん」
そしてもちろん、柔らかい光なんてつかの間のこと。
やっぱりお日様は強烈で、夏の雨上がりがどうなるかなんて誰でも知ってる。むわーっと湿気がたちこめて、靴の中で足がいい感じにふやけてきてたのが、さらに生暖かくなる。水を吸ってべったりの服が、乾きかけてるようで外気が水蒸気だらけでままならない。
「うげ、気持悪…」
「やー気持ちいいなあ」
「……」
辻はいま、なんでも楽しくてたまらないらしい。
幸せでならないらしい。
「ねー、やっぱ泣いてる?」
「汗や、汗」
「あ、そ」
汗をかいてること自体は本当だ。これだけ蒸し暑くなれば汗もかくというもの。
体中べたついてやっぱり気持悪い。
なのに。
二人で濡れた靴をぐっちゃぐっちゃいわせて自転車を押し続けるのって、気持ちいいのかもしれない。雨は上がっても、せっかくだから自転車に乗らないで歩いてく。
- 735 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:28
-
「ね、ほら! あれ、虹だよね?」
「うん…」
二人に馴染みの見慣れた山に、くっきりかかってる虹。
ほら見てごらん、と辻の目が言っている。それは、虹を見てというのじゃない、なにを指しているのか。きっと、いつでもどこにでもあるもの……。
「あいぼん、やっぱり――」
「うん、泣いてるよ」
「おー?!」
友人をびっくりさせることができて、加護はご満悦だ。
本当のことを言うのも気分がいい。
ずぶ濡れになって暑くてむしむしする中を歩き続けて、気がつけば服も身体も乾きかけるくらい。脳ミソがいい塩梅になったみたいな気がする。
幸せになるなんて、簡単なんだ。
ふと、思った。
――じゃあ、こいつらはどうなんだろう?
「どしたー、あいぼん」
「うーん」
ふいに立ち止まった加護、自転車の前カゴに突っ込んだバケツを覗き込んだ。
隣の辻も顔を寄せる。なんとなく、おねーさんの顔で、一緒に覗き込む。
「あのな…」
「うん」
「一匹も、死なせたくないな」
「…まあ無理だけどね」
辻はやっぱりおねーさんだった。
「…まあ無理やけどな」
そういうものだ。
答えはいつだって、簡単なもの。
「ね、あいぼん…」
「泣いてへんよ」
「そだね…」
「おうよ!」
とりあえず、いま、二人は幸せだ。
また自転車を押して歩き出す。
雲と青空を映しこんだ水面の下、赤いやつ四匹、ガサガサ動いた。
- 736 名前:「2. Rain And Tears」 投稿日:2003/10/09(木) 00:29
-
2. Rain And Tears
−了−
- 737 名前:_ 投稿日:2003/10/09(木) 00:30
-
………………
- 738 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/10/09(木) 00:31
- >>721
ご感想ありがとうございます。成長を感じ取っていただけて嬉しいです。彼女らはこれからどうなっていくのやら。
お言葉に勇気付けられました。で、今回はこんな話に。これからもより一層「どってことない」話になりそうです。
それにしても書きたい話がちょこちょこあるのに自分の筆の遅さ。一日五十時間ほしいです。
ではまた。
- 739 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/10/09(木) 01:15
- う…>>724でバケツの容量間違えてる。10リットルと書くつもりだったのに、なぜ…
というわけで訂正。
しかしのべつ訂正しまくりのスレだな。ごめんなさい。
- 740 名前:3. Memories Of Green 投稿日:2003/10/27(月) 22:38
-
「3. Memories Of Green」
- 741 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:42
-
…………
「…ふんふん……なるほどなるほど。へー、そーなんだあ、すごいなー!」
――あ、いるよね、こういう返事するやつ。感心してんのか小馬鹿にしてんのか、みたいな。
「…あ、じゃ、ただ制服なしってだけじゃなくて、本当の本当に服装自由なわけね。髪も。オッケーオッケー。でもそれならアナタ、もっと格好に気を使ったほうが…痛!」
――おいおい。
「…じゃ、えと、修学旅行は………え? ウソそこまで勝手にやらしてくれるんだー。そりゃいいや。しっかし好き勝手も度が過ぎると、あれですな、行きはクラス四十人、帰りはある事情で四十一人、十ヵ月後をお楽しみにー、なんてね。そうでしょ、美人さんは、ね、よりどりみどりだったっしょ? 夜には……わっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
――だからさー…。
「三年生も文化祭…それはうざいかなー。んなヒマなかろーに。…はぁ?「休憩所」?「荷物置き場」?…なにそれ?…ああ、そういうこと。わはははは。やる気ねー! どうせチミが提案したんでしょ、そんなやる気ゼロの企画……すんませんすんませんすんません」
――…さっきから調子乗りすぎでないかい? ただでさえお前、うるさがられてんだから。お前のほうが一方的になつきまくってるだけで。
「うん、きょうはいい話、聞けた! 満足満足!!」
――そこで止めとけよ…
「やーやっぱ持つべきものはよき先輩ですな! たとえ隊員としては後輩でも…」
――あ、バカ。
「痛い痛い痛い痛い痛い!ギブギブギブ!!」
ハイ同情の余地なし。
でも痛そうだよなあ、アイアンクロー。こいつのアタマってつかみやすそうだし。すごい勢いでタップしてるわ。
「隊長ぉ! お助けくださいであります! いま死ぬすぐ死ぬ!」
だからそこから離れろって…てかもう「隊長」はよせ! これで「オイラ」つったら鼻フックな?
まあいいか。
技掛けてるほうもやめるきっかけ欲しそうだし。
「吉澤ー、そんくらいで勘弁してやんな」
「……」
こいつはこいつで、ほんと素直に言うこと聞くな。
あっさり離したよ。
- 742 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:43
-
「あー…死ぬかと思ったっす」
「そりゃ里沙が余計なこと言うからだよ」
「あさ美ちゃん、そういうこと言う? あたしが悪いって? 紺野センセイはそうおっしゃる?」
そうだ、おめーが悪い。あさ美が正しい。
「吉澤さんごめんなさい、この子、悪気はないんだけどちょっと調子に乗りすぎで」
「や、そんな、あさ美ちゃんが謝ることないよ、うん。おら新垣、なにあさ美ちゃんに謝らせてんだよ」
でまたみょーに仲いいんだ、気が合うんだ、この二人は。オトコマエな美人とほんわか美人がさ。
アタマいいもん同士ってことか? アホな中卒にはわからないって、そうなのか!? そういうことなのか?! ちくちょーめ。
なんかムカつくから、心の同類に目線をチェンジ。でもこいつもいまじゃアタマよくなってんだよなー、って…
「おお! 里沙すげえ、コメカミと額にがっつり跡ついてんぞ! 面白ぇえ!」
「げ、マジっすか?!」
「マジマジ、こっち来てみ」
「ウケる?ウケる?チョーウケる?じゃなくて!うぎゃー」
うん。やっぱこいつは心がバカだ。こいつは仲間だ。
「ギャハハハハハ、こりゃしばらく抜けねーな」
「ひえ〜」
「吉澤ひとみ、容赦なし!」
「鬼だ、あのひと鬼だ」
「おう、まったく信じられんよ」
このノリだよな。
肩まで組んじゃう。
「だいたいお前の“親友”も薄情じゃん?」
「そう! ぜんっぜんかばってくれないし。なにあの二人わ?二人の世界わ」
「あいつらお高いもんなー」
「気取るんじゃねーってんだよね、何様だって」
「そこいくとわたしら楽しいもんなー、楽しいのはこっちが圧勝だもんなー」
「仲間はずれにしてやりやしょ、あいつらハブっすよハブ」
二人じゃれあって、ペットのお茶だのお菓子だのが乗ったローテーブル越しのあいつらを指差して笑ってやる。
指差されて笑われたあいつらは――
う……呆れてる…呆れた目をして、憐れむ目をして…そして「微笑ましいなあ」とか思ってやがる。くそ。
- 743 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:43
-
「……えーと、ま、その、里沙はもう聞きたいことは聞いたんだよな?」
「……う、うん。そうだね」
抱き合って転げてたのを、もぞもぞと、二人そろってなぜか正座。
むかいの二人はまたニコニコだ。くそくそくそ!
あーもう、空気変えよう。
「んじゃ、こんな時間だし、そろそろ晩メシにすっか」
「「「おー!」」」
幼馴染み二人と友達一人が来てから六時間ちかく。
もうすぐ十一月のこの時期、外はもう真っ暗になっていた。
- 744 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:44
- ◆◇◆
部屋からさげてきたモロモロかたして、コップ洗って、さて。
えーと。
いまなにがどうなってるのか。説明するのもめんどくさい。
いや、そんなたいそうな話じゃない。
要はいま、ワタクシ・矢口真里さん(20・高校中退…ほっとけ!)の部屋に、三人、お客が来てるわけよ。
「お客」っつっても全員年下だ。でも全員わたしより背が高い…んだとぉもいっぺん言ってみろ!
吉澤ひとみ。こいつは高校三年の十八歳で受験生。アタマいい。今年の六月に知りあって、なんだかんだあったけど、いまは友達、だな。
それと、わたしと幼馴染みの近所のガキ二人。
新垣里沙。中学三年の十五歳。来年が高校受験だ。最近、アタマいい。けど心がバカ。
紺野あさ美。高校一年の十六歳。アタマいい。里沙のお姉さんというかお母さんというか。
この二人とも、まあその、なんだかんだあったけど、いまはまた仲良くやってる。
でもって里沙の第一志望が吉澤の高校(優良校な)で、事前にいろいろ実際の学校生活のことを聞いときたいつーことで、親が家を空けたわたしんちに土曜の昼間から集まってぐだぐだやっている、と。
はいおしまい。
わたしゃ野菜を刻むのに忙しい。
四人分だからな、晩飯……焼きソバ炒めるだけだけど。ま、仲間ばかりだべってる晩にはこんなんがかえっていいだろう。
今日は親父もおふくろも町内会の慰安旅行とやらで、この酒屋モドキをあっさり閉めて娘を置いてきやがった。二コ上の兄貴は…あいつは六年前に家を飛び出したきり音信不通(まるでわたしだな)。つーわけで、仲間内で気兼ねなくのんびり出来る、と。受験生つってもあいつらなにしろアタマいいしな。ちぇっ。晩メシだって作っちゃる。
はっきり言ってこのヤグチさんは優しい。面倒見がいい。ついでに言えば尽くすタイプだ。つきあっちゃえよっと♪
…あー、またニンジン転げ落ちた!
…生シイタケにサヤインゲン…どうだろう? いいや使っちまえ。
…くそ、なんだ、肉切れないぞ。ちゃんと研いでおけよ、もう!
「矢口さ〜ん、手伝いますよ〜」
後ろからほんわか癒し系ボイスが降ってきた。
降ってくる……うん。こいつはけっこう背があるからな。164cmつったっけ? ミクロ系のいい女・ヤグチさんより20cmもでかいんだ。
- 745 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:44
-
「いいって吉澤、部屋でゆっくりしてな」
「いや、新垣がうざいし」
「なついてるって言ってやれよー……じゃ、あさ美とじっくり語ってりゃいいじゃんか、おめーら気が合うし」
「いや、新垣がいますから。それにあの二人ナイスコンビだから、わたし一人でいづらいし。つーか新垣うざいし」
ふーん。なんかいろいろあるわけな。でもなんだかんだで仲良く見えるけど…言ったら怒りそうだな。
「じゃー、上の棚の中華鍋とって」
「はーい」
うむ。やっぱタッパのあるやついると便利だな。わたしは踏み台なきゃ届かねーもん(ああいうのは下に置けと言ってるのに)。しかしこいつも、ただ鍋とるだけでなんで嬉しそうにするかね…なんか今日は妙だな。
「あとはなにすればいいですかー」
「んーと…いや、もう炒めちまうだけだからなんもないや。戻ってな」
「……そーすか」
「あ…是非ともいてくれ! 皿とかコップとか持ってかなきゃなんないから、な?!」
「そーすか!」
……ジト目になったり満面笑顔になったり、忙しいなこいつ。
ま、さっさとやっちまおう。
もう鍋あったまったな。油ひいて、肉…熱っ!油跳んだ……あと野菜、と。
こういうのは気合と勢いが肝心だ……大きめの中華鍋をガンガン揺らすの、わたしにはちょいホネだけど。こんなときはやっぱ背ぇほしいと思うな、こいつくらい――
「……なんだよ?」
「料理してる矢口さんて新鮮だなーって思って」
「なんだそりゃ」
うーん。どうも調子狂うな。なんなんだ?
……よーし、あとは麺ほりこんで水少々、ソースの素と………しゅーりょー!
「鍋ごと持ってくから、吉澤はそのお盆頼むな」
「はーい」
テーブルの上の、皿とハシと新しいコップと布巾と乗ったお盆を吉澤にまかせて、わたしは鍋を抱えた。二階まで持ってくから一仕事だな。
「……なんだよ」
「おっきな鍋抱えてよたついてる矢口さんって新鮮だなーって思って」
「なんなんだよそれは!…てか、よたつく言うな!」
ほんとに今日は変だ。
ここまでシッポ振るやつじゃないはずなのになあ。つーか、わたしがまとわりついてこいつがうざがる、てのが普通なのに。
うむ。早く晩飯食わして帰しちまおう。
- 746 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:45
- ◆◇◆
「……そんでその先生「池の水も零下何十度っていう冷たさだったでしょう」って言っちゃったわけ」
「そりゃいくらなんでもひどいや」
「だからあたし言ってやったね、「それ地球上の話ですよね?」って」
「うわ、嫌味ー」
こいつらまた掛け合いしてんのか。でかい声でよく聞こえるや。
「おい開けろー」
階段上がって折り返した突き当たり、自分の部屋のドアに二三度蹴りをくれる。
はいはい、と聞こえてすぐに開いた。
くっきり小動物系とおっとり上品顔…里沙もあさ美も、並んで立たれちゃ邪魔なんだがな。
「隊長お疲れさまです!」
「ちょ…里沙! ありがとー真里ねーちゃん」
里沙の野郎…あさ美に免じて許してやる。後ろで吉澤もつかえてるしな。
「吉澤、ドア閉めといてな」
「うぃーっす」
うん。ここN県の、特にS市は、夏は溶けるほど暑く冬は凍るほど寒いっつー迷惑な土地で、秋ともなればドアを開けっぱなしだとかなり冷える。あー、もうじき冬だよ、やだやだ。
ま、それでも七畳間に四人集まってテーブル囲むとあったかいもんだ。
中華鍋から皿に取り分けて、揃って「いただきます」。
「テキトーにやっつけた焼きソバだけだけどさ、ま、食っとけ」
「いや隊ちょ…真里ねーちゃんがつくってくれたんだから、ありがたく……え? 焼きソバにシイタケ?!インゲン? あんかけ固焼きソバでもないのに? マジやっつけ!!」
「うっせ!」
うーむ。やっぱダメだったかな。
「里沙だめだよそんなこと言っちゃ。おいしいよ?真里ねーちゃん」
「まったく新垣はダメダメだな!そんなことだから眉毛きっついんだよ!」
「……すんません」
吉澤とあさ美は里沙にダメ出ししながらニコニコして食ってるけど…ニコニコして…くそ。
余計ヘコむぞ。
「うー…と、吉澤、きょうは里沙のためにありがとな。わたしら三人は家がわりと近いからいいけどさ、お前、うちまで自転車で二十分とか言ってたっけ? ほんとなら里沙の方がお前んとこ行かなきゃいけないのにさ」
- 747 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:46
-
「いやー、わたしが矢口さんとこに来たかったんで。何気にここお邪魔するの初めてですから」
ほー、いいこと言うね。
「まーアレですな、オイラ思うに、やっぱ新参隊員も隊長大好きと…ウギャッ!」
勇次郎もマッツァオのデコピンくらってのたうちまわるこいつに、同情の余地なし。だいたい「オイラ」つったろ?てめえちくしょう。
「熱い!おでこが熱い!」
「あんたも少しは懲りるってこと知りなよ、もう」
「青海苔と紅ショウガもう少しもらいますね」
デコピンくらわしたほうは普通に焼きソバ食ってる。あさ美はやっぱ優しいな、里沙をなでてやってるし。妙な三人だ。あ、私も入れて妙な四人、か。
なんか…なんか……うん。
つい三ヶ月くらい前までは、こんなふうに集まってわいわいやるなんて考えられもしなかったんだよなあ。
- 748 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:47
-
わたし、四年前にうちを飛び出して(アホ高を二年で中退であります!)、酒屋の娘のイナカモンが精一杯背伸びして東京暮らししてた。ま、東京なんてわたしみたいなイナカモンばっかりだったけどね。むこうでなにやってたかは……ムニャムニャムニャ。
とにかく、今年の五月にこっちに逃げ帰ったときは本当にボロボロでさ、両親との仲は最悪で娘と言うより居候。親父は身体壊しちまうし、近所の連中や店の常連には陰口叩かれるし……昔は大好きだったこの街で、自分の居場所なんてどこにもなかった。
そんなだから、あさ美と里沙に再会したときも、ずいぶんぎこちなかったなあ。
ガキの頃はほんとに仲良くってね。わたし自分のこと「オイラ」つってこいつらの「隊長」やってた。わたしバカだから二人の両親からは白い目で見られてたけど、とにかく隊長だった。それが帰ってみたら、二人とも優秀になってんだもん。こっちゃ都落ちした負け犬プーさんだってのに……。かっこ悪くて卑屈になって、元に戻るまでずいぶんかかった。
あ、「隊長」も「オイラ」もいまじゃ封印してるよ? 恥ずかしいもん。なのに里沙のやつ、離れようとしやしない。いや、わたしも悪いんだけどさ。どうにか元気になったとき、つい調子に乗って「オイラのことは隊長と呼べ」なんて二人に言っちゃって。で、我にかえってみたら「なんだ、オイラって?隊長って?」なーんてな。
- 749 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:47
-
吉澤とだって、会ってから仲良くなるまで回り道したした。
こいつと会ったのは、市内にあるでっかい体育館のプールだった。むしゃくしゃを持て余して、どうにかしたくてプールに来たら、わたしみたいなやつがいる。それが吉澤だった。
うん。こいつはこいつでとにかく冷たい感じだったな。「この世に自分以外生きてる人間いません」「周りは鬱陶しいだけです」って。まとわりつくわたしのこと本気でうざがってた。疵舐めあおうとしてるこっちの安い魂胆、見透かされてるみたいで、いやー、きつかった。挙句にひどいケンカまでしたし…。
でもそいつのおかげで元気になれたんだから、世の中わからんもんだね。うん、わたしが元気になれたの、吉澤のおかげだ。いまでも週に一回はプールで会ってる。
で、いまや吉澤はわたしのお気に入りで、わたしは吉澤に妙になつかれて、吉澤とあさ美はなんか気が合って、里沙は吉澤になついてるけどうざがられて、あさ美と里沙はわたしの「妹」で。
わたしはわたしで、うちの仕事をだいぶまかせてもらえるようになったし、親父の身体も、わたしが親孝行してるからってもんでもないけど、ちょっとした旅行が出来るくらいに恢服した。周りに陰口叩かれることも減ったし、気にならなくなった。あさ美と里沙の親御さんだって、今じゃちょっとはわたしのことを認めてくれてる。
……ま、ぼちぼち、ってとこじゃん? いくらでも不幸の種が転がってる世の中でさ。
- 750 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:48
- ◆◇◆
「お、もうこんな時間かよ……あんたらもうすぐ帰んなきゃな」
やべーやべー、引き止めすぎてた。あさ美と里沙の家とは七時までに帰せばいいって話がついてるけど、わたしのほうから早めに追い返してやんなきゃならなかったのに。
わたしからさっと立ち上がって、ほかの三人もうながす。
「吉澤も里沙も受験生だってのに、この時期にこんなことで勉強休んじまって大丈夫か?」
「そこはほら、あたし優秀だから、このとおり」
「このとおり新垣は調子に乗って足もとすくわれるタイプなんだよな」
「ぐ…」
お調子者の応えにすぐさまツッコミが。里沙の頭を後ろからぽんぽんとたたいてる。やっぱこいつら仲いいんじゃねーのか?
「ほんとそうだよ、Nさ――」
「わーわーわー!ちょっとあさ美ちゃん!」
「!…!……フガフガモガ……ごめんって!」
なんだ、里沙、ずいぶん慌ててあさ美の口ふさいで。よくわかんないけど楽しそうだな。あとで聞いてやらないと。
しかし四人そろって部屋の中で立ちっぱなしてのも、マヌケな画だ。お開きお開き。
「じゃそろそろ帰るけど…真里ねーちゃん、片づけくらいはしてくよ」
「あ、あたしも今そうしようと思ってた、うん」
相変わらずだな、この二人は。
「いや、このままでいいって。そんなのこっちにまかせて帰んな」
「そうそう、あとはやっとくから、帰った帰った」
「そうそう……って、はぁ?!」
あんまり普通のトーンでかぶせてきたから、思わずノリつっこみしちまった。つっこみの先、わたしの左隣で吉澤が二人にパタパタ手を振ってる。
「おめーもだろ!」
「いやー、わたしはもうちょっと矢口さんと話したいんで」
嬉しそうに笑ってる。
「でもお前、いくらなんでもこの時期にさ」
「わたしは大丈夫ですから、親とも話はついてますし」
おいおい…。
- 751 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:48
-
「えー? 自分ばっかりいいないいなー、てか足もとすくわれるよん? 吉澤サン」
「おめーと違うっつーの」
あーもう、なにがなんだか。
呆れていると、帰り支度のまま困ってたあさ美が声をかけてきた。
「あの、真里ねーちゃん、とにかくわたしらは帰るね…ほら、里沙!」
「うへーい………いやはや、こうして隊長と隊員は記念すべき初めての熱い夜を迎えるのであった…ぅぉっと!んじゃまたねー」
わたしと吉澤が同時にコブシを振り上げた瞬間に、里沙は部屋を飛び出していった。
「まったくあの子はもう…吉澤さん、今日は本当にありがとうございました。あの子も感謝してますから。喜びすぎて、はしゃいじゃったみたい」
「いや、わたしはわたしで息抜きできたからさ、いいよ」
里沙もこうなれないもんかねえ。
「真里ねーちゃん、お邪魔しました、あとごちそうさま」
「おう、そんじゃ……」
『あーさー美ーちゃーん!! はーやーくー!!』
「うっせ! 一人さみしく帰ってろ!!……じゃ、あさ美、またね。下まで見送りはしないけど、お父さんお母さんにもよろしく」
「じゃーねー」
ようやくあさ美と里沙を帰せた。
むこうの両親との約束を守れてほっとした。
- 752 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:49
- ◆◇◆
いままた部屋で、こんどは二人。
二人で部屋のおもてなし品きれいにかたして、食器も洗って。食器拭きをまかせてやったらますますニコニコしてたな。戸締りも確認してから部屋に落ち着いたときは七時を少し回ってた。
そしてわたしと、ニヤけてる164cm。
なんだかなー。
ま、嬉しいけどさ。
年下のクセに時々ぶっきらぼーなタメ口きいたり地獄のヘッドロック掛けてきたりするけど、いや、そりゃこっちが悪いからだけど…だってこいつからかうのすんげー面白いんだもん、なかなか遊べないし……いや、ともかく、基本なついてくれてる。わたしのこと見て幸せそうにニヤーって笑ったりするんだ、今みたいに。
キモい笑いかただよなー、うん。
わたしが一番好きなこいつの笑顔ってのがちゃんとあってね。こいつ、前は「冷たい美人」でさ、今でも表情はちょっと固いんだけど、時々むちゃくちゃかわいい笑顔することがあるわけさ。それがもう最高なんだ。で、そう言ってやるとすっごい恥ずかしそうにして、またかわいいのなんの。
だからいまのこいつの「ニヤー」は、断じてこいつの最高じゃない。はずなんだけど。
でも…これはこれで、いいのかな、と思ったりする。なにしろ緊張感なくて幸せそうで。バカ犬の飼主気分。
- 753 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:49
-
「で、だ」
「はい?」
「なんの話だって? 手短にな」
そしたら吉澤、ああそういえば、って顔して、でもってあっさり――
「きょう、泊めてくださいよー」
「はい?!」
「じっくり語りたいんです」
却下。論外。
「だめだめ、おめー本番まであと二三ヶ月しかないだろ」
「だから!…」
「え?」
「だから、きょう話しておきたいんですよ」
その目――
「わたし勉強は出来ますし! 今日息抜きするのにリズム合わせてきましたから、ほんと大丈夫です。親にもちゃんと言ってありますし!」
「……」
妙に真剣…というか必死な目を見て、なんかきっぱり断ることが出来なくなった。そんなわたしを置いといて吉澤は、ほらほら、と自分のバッグをごそごそやりだした。
「ほら、ちゃんとお泊りセット持ってきたんですよ。歯ブラシ、マイ・ボディスポンジ、パジャマ、あと下着…」
「わかったわかった、パンツ広げなくていいから……泊まってけ」
付きあったるわ、もー。
「まじっすか? 矢口さんちにお泊りだー」
「パンツ振り回さなくていいから!」
やれやれ。きょうやけにでかいバッグ持ってきてると思ったら…。
「事前にお願いしたりしたら、絶対に許してくれないと思ってたんで」
「まーな」
とーぜん。それを知ってたら、うちにみんなが集まるんじゃなしに里沙を吉澤のとこに行かせてたろうな、きっと。
けれどいまは、ともかくこいつはうちにいる。
でもって、ほっと一安心の顔になっている。
- 754 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:50
- ◆◇◆
「…で、そうしたうえでこいつを押さえたままこのレバー回す。そのまましばらく押さえといてから離してここまで回す。な、そうすっと点火するわけだ」
たいして広くもないうちの風呂場で二人、吉澤に風呂釜の操作を教えてやってるとこ。
「わー、ボタン押すだけじゃなくてあちこちガチャガチャ動かすんですねー。つーか風呂釜が浴室の中にあるし。こういうの初めてだ」
「さり気なく失礼だな、お前」
「いや、かっこいいですよ、レトロで」
「ほんと失礼だな」
教えてくれっていうから、わざわざ元栓開けるところからやり直して見せたってのに。だいたい昔は家の外であちこちガチャガチャ動かしてたんだ、冬でも。シャワーもなかった。それに較べりゃずっとマシになったんだぞ?
「もう点火してるから、お湯足したきゃこっちをひねると…蛇口から出る。シャワーはこっち」
「あー、せっかくだから最初からわたしやりますよ」
へいへい、勝手にしな。
「バスタオルは脱衣場の棚のを適当に使いな。ドライヤーはあとで貸してやる。んじゃ」
「はーい」
あとは…いまのうちに布団の用意だな。あーもうめんどくせー。
あれこれ考えてると、背中から能天気な声が飛んできた。
「矢口さーん」
「どした?」
「今夜は寝かさないっすよ?」
「アホ」
ドアの向こうからヘラヘラ笑いと調子外れの鼻歌が聞こえてくる。
なーんか……なんだろうなあ。
あのはしゃぎっぷり。
どこか危なっかしいハイテンション。
それはきっとそのまま、さっき泊めてくれと頼んできたときの必死な目と同じなんだ。
『じっくり語りたいんです』
『だから、きょう話しておきたいんですよ』
考えしっかりしてるようで基本不器用なあいつ、なにを語りたいんだか。
ともかくこいつは……
長い夜になりそうだ――
- 755 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:50
- ◇◆◇◆◇
「お待たせー」
「ほーい」
風呂あがり、頭にバスタオル巻いて缶ビール片手に部屋に戻ると、吉澤はパジャマで布団に寝転がってなんか名刺みたいなカードの束をペラペラめくってた。わたしが入ってもすました顔つきでまだカードを見てる。
「なんだそりゃ?」
「英単語のカードです、自作の。二千枚くらい作ってるんですよ」
「ほえ〜」
「古文とか漢文とかのもあります。もうほとんど憶えてますけど」
ふふーん、と鼻の穴をふくらませる。
そういやこいつがこんなふうに勉強してるところ見るの、初めてだったな。
「だから、きょうは心配ないです!」
なるほどね。
缶ビール(ピルスナーの350mlな)をプシッと開けると一口飲んで、部屋の隅に寄せたテーブルに置く。吉澤が風呂から上がったときに出しておいたお茶とかコップも一緒になって、少しにぎやかで気分がいい。
「髪乾かしてるからちょっと待ってな?」
「うぃっす」
わたしがドライヤー使って顔もちょちょいといじってる間、吉澤はまたカードの束をペラペラやってた。
でもって、二つ並べた布団にあぐらをかいて、二人向き合う。
冷えてきたから二人とも掛け布団を羽織って、妙な空気だ。
さて。
語ってもらいやしょうか?
いまもう九時近い。
これからどんだけ長い夜になるのやら。
しばらく静かなまま――卓上時計の秒針がコチコチいう音だけ聞こえてた。
吉澤はさっきまでのおふざけモードがウソみたいに固くなってる。
そして。
うつむき加減で黙ってたのが、ふいに顔を上げた。
「あの…」
「おう?」
よしこい。
「えーと、きょうは泊めてもらってありがとうございます」
「はあ…」
なんだよ、軽いジャブにもなってないぞ。
「えっと…いまのなんか変ですよね…話したいのはそうじゃなくて……いや違いますよ、いきなりお願いして無茶なのにそれでも泊めてもらってすごく嬉しいのはほんとで、お風呂まで使わせてもらって、あ、いや…」
「おい、もうちょっと…」
「えーとえーと、あーもう…」
やば、こいついきなりパニクってる?!
- 756 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:52
-
「違うよ、あーもうせっかくこんなふうな時間がつくれたのに、大事な時間なのに、矢口さんと一緒なのに、やっぱダメだー! わたし、もう――」
「おい! 落ち着け!!」
「ひたい………」
左右のほっぺたをむぎゅっとつまんでやってようやく止まった。
ほっぺた伸ばされて、我にかえったみたいにきょとんとした目。まったく、美人でアタマいいくせにこのバカ犬が…。
「よーし、ゆっくり深呼吸してみようか」
「へ?」
「いいからいいから、大きく息を吸ってー……はい吐くー」
素直に、すぅーはぁーって深呼吸するバカ犬。
それでかなりリラックスした感じのこいつは、自分でテーブルの上のお茶をごくりと飲んだ。わたしはわたしでビールをぐびり。やっぱちょっと甘いな。あとでハイネケン持ってこよう。いっそワインにすっか。
「矢口さんっていい人だなあ」
やらかい表情でぽーっとこっち見て、そんなこと言い出した。
なんだよ、いまさら?
「なに? あんたまだ――」
「これね、まず言いたかったんですよ」
「ふーん」
「本当ですよ? わたし矢口さんのこと大好きですもん」
うえ。
いや、うえってことないんだけど。
語りに付きあってやるって決めたんだし。
こっから始まるわけか。
「だから…さっきの、きつかったなあ」
「へ?」
「晩ごはん前に、矢口さんと新垣が肩組んで、わたしとあさ美ちゃんのこと「お高い」って…指差して笑ったじゃないですか。あれ、ほんとは結構きつかったんですよ?」
「あれはお前…」
「うん、冗談ですよね。でも…わたし、そんなのでも不安になっちゃうんです」
そっか…ごめんな。
目で返事した。
「わたしね、こんなやつだから、本当の本当に深く付き合えてるって思えるの、矢口さんだけなんですね」
「うん…ありがと」
こいつ――この子はいま、本気だ。
心を正座して聞かないと。
腰据えて。腹くくって。
- 757 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:53
-
「こんなやつだから…前はもっと…前は…自分の周りのこと全部カラッポに見えるだけだったし、なにもかも鬱陶しくて、周りが全然見えなかった。冷たい顔して気取って、本当に嫌なやつだったと思います」
「………」
「でも矢口さんに会って、変わったんです」
「うん…」
わたしだって吉澤に救われたんだ。
だけどいまは話を聞いてやる。
「わたし、自分で言いますけど学校の勉強はすごいできるんですね。それは普通に大事だと思ってます。勉強ばかり出来てもとか勉強より大事なことが、みたいなことの大半は寝言だと思ってる」
アホ高二年で中退のわたしにゃ少し引っかかるけど(他のやつだったらぶん殴ってるところだ、うん)、こいつはそれを承知であえて言ってる。わたしらの間を信じてる。わたしもこいつを信じてる。
「でも矢口さんと付き合ってて、ほんとに自分はまだまだだなーって思うんですよ」
「そりゃどうも」
「矢口さんってやっぱ全然大人だし、ああもう本当に優しいなあって、年上だなあって」
ずいぶんと誉められたもんだな。
ま、確かにこのヤグチさんはいい女だけど?
「較べてわたし、ガキです。わたし新垣のことうざがってますけど、自分だってあいつと一緒ですよ。中学生レベルのガキですよ」
「?」
「ほら、わたし時々矢口さんにわざと「隊長」とか「オイラ」とか言うことあるじゃないですか。矢口さん嫌がるのに」
ああ、言われてみりゃそうだわ。えーいやめろ、つーやりとり、あるなあ。だって恥ずかしくてかなわないもん。でもさ、そりゃわたしが吉澤にいたずら仕掛けたりしたからなわけで。
「あー…わたし新垣よりずっとダメですよね。つーか新垣はいいんですよね? あいつはちっちゃい頃に矢口さんと遊んでたときの思い出が楽しくて、嬉しくて、それで言ってる。けど…わたしは…」
あいつはあいつで、まあ、調子乗りすぎではあるけどな。
- 758 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:53
-
「自分が恥ずかしくて言われたくないこと言われるの、嫌なもんですよね。なのにわたし、矢口さんに言っちゃってる」
「いやいいよ…」
「だけど矢口さんのほうは絶対に、わたしが恥ずかしいこと言わないじゃないですか。二人きりの時だって言ったことないですよね、ただの一度も」
うーん、なんのことだろ?
「たとえば、ほら、わたしが飲みすぎちゃったときのこと」
「んー?」
「いや、保田さんとこに三人で集まったときの…」
「ああ」
あったなー、そういや。
ほんの二ヶ月くらい前だけど――
…………
- 759 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:55
- ◆◇◆
八月終り。
死ぬほど暑い夏の夕方、わたしと吉澤はS市内の友達のアパートに来ていた。
「ほほう、ここが“あーてぃすと”さんのお部屋でございますか」
「なんですその顎に手をやるポーズは…意外に散らかってないですね」
確かに意外だね。お芸術家の住まいってのはもっとこう、雑然としてるもんだとばっかり思ってた。とにかく住みやすそう、てか居心地いいな。でも…
「ここって手を入れまくってますよねー」
そうそう。
壁も天井も…窓枠までたぶんいじってる。
「圭ちゃーん、いいの? こんなに穴開けたり棚打ち付けたりして」
「大家とは話がついてるからいいんだよ! とにかくそっちでゆっくりしてて!」
台所からこっちに顔だけ見せて、大きな声で返事してくる。
わたしと吉澤の友達の保田圭って人。新進気鋭(自称)「アーティスト」で、口調と同じで顔立ちも威勢がいい…なんて言ったらシバかれるか。猫又系…ますますヤバイ。でもま、そんな感じ。
知り合ったのは、吉澤と出会ったのと同じプールだった。
彼女もわたしや吉澤と一緒で、悩み事があってプールで泳いでてね。もうマシーンのよう
にひたすら泳いでて、話しかけられなかったなあ。そのうち圭ちゃんが吉澤を元気付けて、吉澤がわたしを立ち直らせてくれて。それでわたしら、つながった。もがいてた三人の仲間だ。
でもなかなか素直に「圭ちゃん」って呼ばせてくんなかったな。親しき仲に礼儀ありとかで「保田さん」と呼べ、なんてケチくせーの。むこうは三つ上のクセにわたしのこと「矢口さん」なんて呼ぶからむずがゆくて。
無理に「圭ちゃん」って呼んだらツムジにチョップ落しやがってさ。それでもしつこく呼んでなし崩しに押し通して、いまじゃ慣れたみたい。こっちのことも呼び捨てにしてくれるし、やっぱそんくらいが気楽でいいや。
- 760 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:56
-
そしてきょう、圭ちゃんのアパートに酒とジュースとつまみ持参で押しかけて、三人まったりやる、と。吉澤は受験生だけど、勉強出来るからって余裕だねまったく。
「なに二人とも、わたしの部屋そんなに珍しい?」
圭ちゃんが、飲み物だのチーズだのトマトの薄切りだのピクルスだのその他いろいろ乗っけた盆を持ってきた。
「うん…なあ?」
「はい」
ふーん、と言って圭ちゃんはお盆片手にまた台所に戻った。
あらためて見回すと、おーおー、ご大層にパソコンだのなんだの。これ、スキャナーってんだっけ? 部屋の隅はあれは…暗室だね、たぶん。写真もやってるって言ってたし。カネかかってそうだなあ、大して儲けてるようにも見えないのに。
棚に詰まってる図鑑やら写真集やらは…資料とかにするのかな? うえ、人体解剖図!グロいなあ。ほかにも難しげな本がぎっしりと…ふーん。わがんね。とにかくいろいろと勉強大変なのね。
- 761 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:57
-
「うわー……」
ふいに、こっちに背中向けて棚を眺めてた吉澤がため息をついた。
「ん? なに見てんだ?」
「ほら…」
吉澤の手には写真立て。
そこに写ってる人は――
「わー……」
言葉にならなかった。わたしも吉澤と同じようなため息だけ。
写真には吉澤と同じくらいの年の女の子が写っていた。童顔だけどとても落ち着いた雰囲気のその人は、優しくて、静かに強い…そんな表情。暖かくて切なくなる不思議な写真だった。
「ね……なんか、いいですよね」
「うん…」
二人してしみじみしてしまった。
でも誰だろう?
背景を見るとこの部屋で撮られたみたいだけど。
「ねえ保田さん、この人、誰ですか?」
取り皿とかコップとかをお盆で持ってきた圭ちゃんに、吉澤が聞いた。
「あー、それ、妹」
「圭ちゃん妹いたんだ」
「うん。もう亡くなってるけどね」
あっさりした答え。
わたしと吉澤が固まったのを見て、圭ちゃんがあわてて言った。
「あ、そんな気にしないで? わたしもう大丈夫だから……つーかさ、ほら、あんたら座る、食う、飲む!」
「うん…」
そして――圭ちゃんは手短に話してくれた。
一つ下にとても仲のよい妹さんがいたこと。だけど三年前に事故で亡くなったこと。それで気持が荒れ続けて、今年に入ってプール通いをはじめたこと。そして、わたし達に出会ったこと。なんとか決着つけて吉澤を元気付けたこと。ほんとに手短だったけど、それで充分だった。
だからわたしと吉澤も、自分がプール通いを始めたきっかけを簡単に話した。
そこから三人の仲間が、語り合って、高まっていった。
うん、熱くなっていったんだけど…。
盛り上がりすぎたんだよね、三人とも。
…………
- 762 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:57
-
「えー! マジっすか? 保田さんの友達、わたしの高校でセンセイやってるって? 名前は?」
「う、うん、石黒っていうんだけど」
「イシグロ?……あー石黒ね! うんうん、名物ですよ! “重い・曲がらない・鈍くさい”って自分で言っててハーレー乗ってますしー」
「吉澤、顔洗ってこいよ…」
わたしと圭ちゃんが吉澤をきちんと止めなかったのがいけなかった。
色白なもんだから酒入ってすぐぽーっと赤くなるのがかわいかったり妙に色っぽかったりで…いやそうじゃないや。
「真っ黒なライダースーツ&ライダーブーツのまま授業やったのはね、もう、あれは大物なのかバカなのか、どっちかと話題をさらいましたね」
「……」
「バカって、んなわけねーっつーの! やつは大物に決まってるっつーの! すみません保田さん」
…そう言いながらなぜわたしの肩をバンバン叩く?
って、こっちのせいだよな。ビールと焼酎とワイン。受験生にもってのほかだった。でもたいして飲んだはずもないのに、まさかここまでなるとはねえ。もう泥酔のマグマ酔い。
圭ちゃんは苦笑いで、わたしはなんでかオロオロしちゃって。
夜の八時にお開きとなったけど、まだ全然ぐでんぐでん。
- 763 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:57
-
「な、もうちょっと酒、抜けてから帰りなよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
「…じゃあせめて乗らないで押して歩く、いい?」
「へーきへーき」
おっきく一人でうなずいて、自転車に跨る酔っぱらい受験生。
「んじゃおやすみなさーい」
…って、おいおい。
やっぱあぶない…右に左に、千鳥走行っていうのか?
止めないとやばい。
ノロノロ・フラフラの自転車に、走って駈け寄ると――
「…ぅぉっぷ」
「おい!!」
………………。
「お、膝があったかいぞー」
「喋るな。口、拭けないだろ。ほら膝も」
「ご面倒かけます」
……ったく。
アタマぐらんぐらんさせて自転車こぎながら自分の膝に一口ゲロこぼして…美人が台無し、とはこのことだな。
「あー、このジーパンお気に入りだったのになー」
「おい静かにしろよ」
「ウーソーでーすー。そろそろ捨てようと思ってたんですー」
「わかったから!」
こりゃ帰すわけにはいかない。
つーかほんと静かにしてくれ。
「おーし、あの電柱に登るぞ!」
「なんてベタな酔っ払いだ…」
…………
結局、圭ちゃんのアパートに戻って、わたしまで泊めてもらったっけ。
吉澤の家にはわたしと圭ちゃんで連絡入れて、酒のこと隠して辻褄合わせるのに大変だったんだ……。
- 764 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 22:59
- ◆◇◆
「うん、あったな、そんなことも」
といいつつわたしは、二本目のビールに口をつける。ついでにワインの小壜も開けておく。
「いま思い出してもほんと恥ずかしいんですよ」
そう言って耳を赤くしてる。
かわいいなー。
酒が入ってるわたしは、酔っ払いはしないけどそんなこと考えてしまう。
「で、あのときのこと、矢口さん、たとえ笑い話としても持ち出さないじゃないですか」
まーそうかもね。
いや、はっきりわかってる。言ったことない。言わない。だって言いたくないもん。
まあでも、あれはわたしが飲ませたのが悪いんだし、ね。
「そんなたいしたことじゃないよ?」
「いやー、そこがすごいと思うんです。ごく当たり前にやってますよね」
大きな目をキラキラさせて。うう、眩しい。
やっぱりこの子は…なんていうのか、開き始めたばかりなんだ。
「自分は全然、そういう気遣いが出来なくて。いまのことに気がついたのもつい最近ですしね。やっぱ人生経験みたいのが薄いから…」
「いや、気遣いできてりゃそもそも酒飲まさなかったよ。それにわたしはバカだからしなくてすむ苦労しただけ。だいたい世の中、苦労重ねた末にヒネこびちまっただけってやつ山ほどいるだろ?」
ほんとそうだよ。
吉澤はわたしから見れば順調に人生送ってる。それはありがたいと思わなきゃいけない。自分が恵まれたことに感謝すればいい。遠慮することなんか少しもないんだ。
……つってもわかんないかな?
「とにかくさ。焦ることなんてないから、いますごくいい感じなんだよ?」
そう言ってあげても、吉澤は掛け布団を羽織ったままもじもじとシーツをいじくっている。
- 765 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:01
-
「それでも…まだうまく笑えないし」
「いや、いい顔してるって」
「まだ新垣いじめちゃうし」
「あいつ調子に乗ってるからな」
「まだしょっちゅう父親のこと無視したりするし」
「親父はうざいときがあるよ、しかたない」
「まだ処女だし」
「そりゃまー…」
………うん?
いまなんか、余計なカミングアウトがあった?
…って、うわ!
吉澤、ものすごく真っ赤になってうつむいてるよ!
「うわー!いまのなし!いまのなし!」
「ちょっとおい!」
いきなり叫びだしたかと思うと、頭から布団かぶって亀になっちまった。
「な、あの、おい、大丈夫だから、出てきなって?!」
「わー!わー!わー!わー!わー!わー!」
声をかけても、布団越しにくぐもった喚き声が返ってくるばかり。
ジタバタして喚き続けるのをかなだめすかして、布団の上からゆすってやって。どうにもこうにも出てきやしない。ひっぺがすわけにもいかんし。
しばらくしそうして、もうこりゃどうにもならん、と諦めてただ撫でてやっていたら…いきなりニョキっと首だけ出してこっちを見上げてきた。う…かわいい。
- 766 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:02
-
「えーと」
「………」
「あのー、アレか、あんた…男とそのー…なんだ…」
「イエッサー! ヤったことないっす!!」
いや、そんなヤケにならんでも。
とりあえずまた身体を起こしてくれたのは良かったけど。
「風通し悪いっす! 穴開かず! 開かずの女!」
……。
うーん。なんだかなあ。
でもこれが、いまの吉澤の胸につかえてることの一つなのは間違いないみたいだね。
ここで「受験生なんだからそんなの気にするな」なんて正解は、なんにもならない。んなことは吉澤のほうがよっぽどわきまえてるだろう。
語り合ってやるわい。
「もしかしていままで付きあったこともない?」
「うー…ん。どうだろ?」
「はぁ?」
吉澤は本気でわからないみたいだった。
「いや、ガッコの男子に“付き合おうや”って言われたことはありますよ。で、二人で腕組んで歩いて、映画観にいったり、お茶したり、お互いに誕生日祝ったり、そういうのは何人か経験あります」
そりゃ付き合ってるって言うんだよ。
「…いや、付き合ってるっていうような温度じゃなかったなあ。もちろんわたし、そういう経験しかないから他と較べられないけど、たぶん違う」
「はあ」
「ほら、矢口さん知ってますよね? わたし、すっごい冷たい無関心なやつだったじゃないですか。いまだって、クリスマスとかバレンタイデーとか「はあ?なにそれ知らん」ですし」
う…たしかにそうだ。こいつはそんなやつだ。
「だからね、いままでの男の子って、わたしのこと面白そうって近づいてきて「やっぱ違うな」って気がついて離れてくか、そこそこ気が合うやつでも、要はそいつもわたしとおんなじだから全然付き合いが深まらないまま終わるか、どっちかだったんですよ」
「そりゃまた…わたしにゃよくわからん世界だな」
あぐらをかいてニコニコしてる吉澤…きっと以前の自分に苦笑してる。たぶんいまの自分にも。
そんな風に笑うなよ…。
- 767 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:02
-
「でも…でもさ、あんたの高校、共学だし自由だしで、生徒はやることやってるって聞いたことあるけどな?」
「あー、それは本当ですよ。結構ね、あっちこっちでくっついたり奪ったりって。わたしの学年でも一時期すごいウワサになってた子がいましたから。ウワサはただのウワサでしたけど、暴行事件まで起こしてね」
なんか楽しそうに。ほんとにそういうのは他人事なんだな…。
「でもヤらない子もそりゃいるわけで。「自由」な学校ですけど、ヤる自由もあればヤらない自由もあって…。ヤることからの自由ってのもあって」
一つ一つことばを選んでゆっくり話してる。
どうにもアタマいい子の言うことは、おねえさんわかんねーや。
ただね。
吉澤がなんだかんだ言っても、やっぱり納得いってないってことはわかる。
このヤグチさんにはお見通しだ。
「吉澤さあ、わたしにゃそのへんの理屈はよくわかんない。ただ一つ思ったのはね、わたしは、あんたはそういうの…処女だなんだって全然気にしないもんだと思ってたんだ」
これは本当だ。
わたし、吉澤が未経験だなんて知らなかった(というか気にしたこともなかった)けど、この子はそんな生臭い話なんてどうでもよくて、自分の物差しをがっちり掴まえてるってイメージがあったんだ。
「えーと、うーん…そう思ってたんですけど。思ってはいるんですけどねえ……時々ね、ほんとにそうなのかな?それでいいのかな?って思っちゃったりもするんです」
吉澤はとっても寂しそうに笑った。
「わたし、矢口さんに会って、冷たい無関心なやつからだんだん変わってきてますよね?」
「うん…」
「で、変われるんなら…変わるんなら、やっぱ“そのへん”も考え変えないとダメかなーとか。このまんまじゃわたし、おかしいんじゃないか、ダメなんじゃないかって。処女なのを気にしなきゃ…捨てたいと思わなきゃ、やっぱ人間としてどっかおかしいんじゃないのかなって…」
「吉澤……」
- 768 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:03
-
違う。それは違うぞ。
絶対、違う!
叫びたくなった。
泣きたくなった。
『人間としてどっかおかしいんじゃないのかな』と笑う吉澤の困ったような表情が、あんまり可愛くて、弱々しくて、不安そうで、せつなくなった。
この子はそんなこと気にしちゃ駄目なんだ。こんなにいい子が、そんなことで自分を不安に思っちゃ駄目なんだ。
吉澤、あんたは…いい子なんだ!!
- 769 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:04
-
「吉澤ー! ばっかだなーお前!」
「へ?」
「バカバカ、大バカ! ヤるのヤらないのなんて気にすることないっつーの!」
きょとんとしてるな?
悩んでるあんたを、可愛いあんたをバカって言ってやる。このヤグチさんが明るく笑い飛ばしてやる。
耳の穴かっぽじってよーく聞きやがれ!
「セックスなんてなーんもこだわるこたないんだよ。痛かったり気持よかったりするけどさ、それだけよ。えっらそーに「愛」を語っちゃうオッチョコチョイもいるけどさ、そんなやつにゃ言わせとけ! てか笑かすなって。あんただってそう思ってきたわけだろ?!」
「え、ええ、まあ…」
よっしゃ、一気に畳みかけるぞ。
「あのな、ヤったヤらないがどんだけくだらないもんか、セックスとその周りのアレやコレやがどんだけマヌケなもんか、わたしゃよーっくわかってる。さんざんバカやってきたこのヤグチさんはよくわかってる」
ああ、そうとも。
いまこの子を元気付けられるなら、わたしはいくらでも自分を笑ってやる。
「ヤりたきゃヤりゃいいけど、ほんとにマヌケでくだらないもんなんだから。気にすんな。経験したからナンボのもんだって。なにしろこのわたしが言うんだから間違いない!」
ほら、笑え笑え。
笑ってみろ。
「……矢口さん、なんで胸張ってるんですか?」
おうそうだ、その調子。
もうちょいだ!
「なにせわたしゃセンセイだからな、うん」
「先生…」
「あさ美が里沙の先生、わたしはあんたの先生! な?」
「なんですかーそりゃ。反面教師でしょ?」
う、ちょびっとリアルにむかついた。
でも…そんなのどうだっていい。こいつが元気出してくれたんだ。
いま、最高の可愛い笑顔だ。
- 770 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:04
- ◆◇◆
「ああ…矢口さんに話せてよかったなあ……」
さらにひとしきり、じっくり話し込んだあと。
吉澤は泣き笑いみたいな表情でそう言った。
わたしは泣かないで聞いた。アルコールで涙もろくなってたはずだけど泣かなかった。
でもたぶん、泣き笑いみたいにしてた。
うん。
話してくれてありがとう。話させてくれて、ありがとう。
わたしの心の中は、涙でいっぱいになっていた。
でも……でも。
これだけじゃないな、と、わかった。
「ありがとうございます…矢口さん」
うん、わかったよ…そしてもうひとつ、言っちまいな。
その目。
そろそろ、本題、かな?
「………」
「………」
吉澤は黙ってる。
だからわたしも黙ってる。
やっぱり今夜は、長い夜だ。
………
やがて。
「矢口さんのこと好きなのにな…」
ぽつりと、言った。
いきなりそう言われても、なんと返せばいいのやら。
吉澤は吉澤でもっとなにかを言いたそうに――言いづらそうにして、目をきょろきょろさせた。で、うー、と小さくうなって、そして。
「……ッ!」
「あー! なにやってんだぁあ!!」
こいつ!
いきなりテーブルの上のワインの壜を取って、ごくごくラッパ飲みしやがった! 取り上げようとするの振り払って。
どんだけ飲んだ?! ずいぶん飲んだ。咳き込みながら飲みやがった。
「あんた! 自分が酔っぱらったときの話したばっかじゃんか!」
「うー!」
「あ、ちょっと!」
缶にけっこう残ってたビールまで一気飲み。
信じらんねえ。
「お前なあ…」
「ゲェフッ」
「ゲップすんな!」
「ouch!」
とりあえず頭をハタいておく。
しっかし、もうほんのり赤くなってさ。きれいだねえ、じゃなくて。
なんだ? 酒でも飲まなきゃ言えないってか? 「処女です」宣言よかまだ言いにくいこと?
- 771 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:05
-
「矢口さん…」
「なんだよ」
真剣な…必死な目。まただ。
「ずっとね、話させてもらって、話も聞いてもらえて…わたしがその…処女だなんてことまで、ね、聞いてくれて、すごく嬉しいです」
「うん…」
「でも、来年には…」
来年には? あんたは大勝負だよね。
「わたしいま、怖くて…不安でたまらないんです」
「なら余計こんなことしちゃだめだろ!」
一応、叱る。
それでも、時間無駄にしてないで勉強しろ、とは言わない。いまは。不安を吐き出したい時だってあるんだろうよ。
大学受験のお悩み相談、アホ高二年で中退(くどい)のヤグチさんにゃ荷が重いが、上等じゃねーか。こちとら酒が入って気分がでっかくなってんだ。
さあこい、バッチ来ーい!
「そうじゃなくてですね」
あらあ?
「合格は、もう、決まってるとして」
もう酔いが回ってきてるな。でも確かに言うとおりだろうけど――
「そうすると矢口さんと離れちゃうじゃないですか! わたし東京に行ったら!」
「あ…」
そうだった。
「真剣な目」・「必死な目」・『怖くて…不安でたまらないんです』
そういうことか。
吉澤は、ゆっくり語りだした……
…………
- 772 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:06
-
「……で、最初は法学部なんて脳味噌カビそうとか思ってたけど、いろいろ考えてるうちに、これだろ、って思うようになって。そうすると県内には法学部強いとこってないから…来年いくとこは政経とかとの横の連携も強いし…」
だんだんろれつが怪しくなってきてたけど、ずっと話し続けてる。
わたしは大学のことは全然わかんないから、相槌うちながら考えてた。
さっきお酒を飲んだの、話しづらいとかじゃなかったんだ。怖くて不安で、それで飲んじまったんだ。
「確かに矢口さんに会ったときにはもう、いまのとこに決めてたんですけど。でもあれからわたし自身変わってきて…矢口さんと知り合えて…なのに、来年…」
「……」
「矢口さんと離れても、大丈夫なのかなって」
開き始めたこの子は、いまとても大事な時。
だから怖がってる――いや、「とまどってる」かな。
「矢口さんはどうなんですか」
「うん?」
「わたし、矢口さんと離れるの、きついっす。矢口さんはどうです?」
寂しくなるね、心配だね、つらいね。
そんな言葉は全部からっぽだ。
本音の一撃で決める。
「吉澤。わたしが言えるのは…言いたいのは、たったひとつ」
「……」
ちゃんと聞いてほしい。
一つだけ、言うよ。
「あんたは、大丈夫だ」
「ぅぁ…」
なんて顔してんだよ。
びっくりで、ほっとして、拍子抜けして、不思議そうにして、泣きそうで…いろいろ詰まりすぎ。
でも本当にこれだけだよ。この先言うのはみんなつけたしだ。
「東京で余計な失敗しないかとか、一人で寂しい思いしないかとか、はしゃぎすぎちまわないかとか…思うけど。そういうの全部ひっくるめて、それでも大丈夫なの。わたしの可愛いバカ犬くんは」
「バカ犬…」
「おう!」
バカ犬の頭を、くしゃくしゃって撫で回してやった。
- 773 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:07
-
「で、さっきのあんたの質問への答えだけどね。あんたが東京行って離れるの、わたしがどう思うかってやつ」
「……」
「わたしは楽しみだなあ」
「へ?」
ほんとだよ?
すっごく楽しみだ。
「わたしがいないところで、知らない土地で一人暮らしして、知らないもの見て、わたしの知らない人たちとたくさん知り合って……あんたがどれだけ立派になってくれるだろう、って。もう楽しみでしょうがないね」
「矢口さん…」
いいこと言うなあ、ヤグチさんは。
そして吉澤にぐいっと顔を近づけると、目の前で人差し指立てて軽い調子で続けた。ウインクは失敗したけど。
「さてここで、東京暮らし経験者から君に一つアドバイス。東京に東京の人間なんてほとんどいないからね。ハッタリかましてるイナカモンばっかり」
「イナカモン…」
「そ。特に渋谷原宿あたりなんざ、見栄張った若いオノボリさんが芋洗い状態で面白いぞ。ビビる必要まったくなし。な?」
「ふふふ…」
女の子座りで猫背の吉澤、幸せそうに笑ってる…けど。
やばい、色っぽい。
酔ってポーっと赤くなって。目もトロンとして、唇ちょっと開き加減で。
……こりゃも一つアドバイスだな。
- 774 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:08
-
「あー、その…無駄にビビらなくてもいいけど、警戒心は思いきり持てよ?」
「ふあい?」
「“酒”と“男”!! 飲み会なんかで飲まされて御休憩でやられちまう、みたいな…あんた酒に弱い処女のくせに、アルコールで色っぽくなるんだもん」
「なななな??!!」
一気に我に返ったみたいになって、酒とは別に真っ赤になった。
「いまだってむちゃくちゃ色っぽいもん。男なら絶対勘違いしてるね」
「な?!もう、うわ、なんてこと言うんですかあー!!」
また布団かぶって亀になっちゃった。
「わわわわたわたし!わたしは、そんなそそそそんな!」
「そうやって誘うなって♪」
「ぐえ…」
背中丸めた布団の上に抱きつきダイブ。
じゃれあった。
「食ーべちゃーうぞー!」
「あーれー」
「おらおらおらー」
「ギブギブギブ!」
ふう。
ようやく身体起こした吉澤とご対面。
ったく、わたしら夜中になにやってんだか。
まあ、ほれ、二人とも酒が回ってるし。
んじゃ、ここで確認。
「…な、吉澤、どうよ」
「へ?」
「もう、大丈夫だな?」
さあ、気合見せろよ?
吉澤、すぐにマジな目になって背筋をしゃきっと伸ばした。そのうえ正座した。
「はい。矢口さん、自分は、吉澤は、もう大丈夫であります」
敬礼してやがる。かっこいいや。
わたしも敬礼。
「うむ。なによりだ」
しばらくお互い、マジモードでそのままにしてた。
上官であるわたしのほうが先に手を降ろしたのは言うまでもない。へへ。
そして手を降ろして表情を緩めた吉澤、
「わたし、大丈夫です」
もう一度、自分に確かめるように言った。
かっこよかった。
- 775 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:10
- ◆◇◆
………かっこよくなんかない。
「……でね、わたしね、矢口さんに会えてよかったって思ってるんですよ?」
「うんうんうん、ありがとありがと、はいはい」
「あー、信じてないでしょ? 本当なんですからね?」
「……信じてるって!」
…ったく、バカ犬が。
しんみりだったりマジだったりしてたのもどこへやら。
いま吉澤はすっかりからみっぽくなっていた。
つーかずっとからまれてる。
こいつ酒癖悪いよなーほんと。一度圭ちゃんにシメてもらおう、うむ。
「もうわかったから…」
「いや! 矢口さんは絶対にわかってない! わたしにとって矢口さんに会えたことがどれだけ大きなことか、わかってない! なんでわかってくんないんすかぁ?」
「聞かれてもさ…いや、わかってる、わかってるから…」
「わかってないね!! もう窓開けて世界中に叫びたいくらいなんすから、『矢口さんありがとう!』って。それをわかってない!…じゃ、いまからやりますね、窓開けて」
「おいやめろ!」
マジ勘弁してくれ…。
「じゃ、わかってないよ、全然わからん、知ったこっちゃない、な?」
「おうよく言った!………あ?…なんだとー!! こらぁ矢口ぃ! ふざけんな!」
「……」
「へっへー、呼び捨てしちった♪」
「……」
「……あ、あの…怒りました? えと、あの、いまの、しんあいのじょうってやつですよ?…あの…」
う……捨てられた子犬のような眼をすんじゃねえ!
くっそー。
若ぇもんはなんでこう真っ直ぐになれるかなー?
なんか腹立ってきたぞ。
「吉澤あ!!」
「…なんすか?」
「おめーもな、わかってないぞ絶対!」
「…なにが」
なにが、だとお?!
「わたしにとって、あんたに会えたことがどんだけ大きなことか、あんたわかってない」
「うあ?」
びっくりしてるな。むっとしてるな。
でもそうなんだよ。
わたしのことわかってるって思ったら、大間違いってもんだこんちくしょう。
「マジな話するぞ」
「はい…」
吉澤は『きょう話しておきたい』って言った。
わたしも…いま、同じ気持になっていた。
話したい。聞いてほしい。わたしの気持を。
- 776 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:13
-
今夜はここまでずっと、あんたに付きあってやったんだ。付きあわせてもらったんだ。
ここからほんのちょっぴり、わたしに付きあってくれ。付きあわせてやるよ。
ほんのちょっぴり。
でもってわたし、覚悟はいいかい?
呼吸をととのえて。
「何度か話してるけど、わたし…」
「…」
「わたし…わたしさ――」
くそ、言葉が詰まった。
短い話なんだぞ? 酒も飲んでるんだぞ? 前にも話してるのに!
心の中で深呼吸。
いくぞ、いくぞ。一息で。
「わたし、赤ちゃん堕ろしてるでしょ、前の男の言うままにね」
言えた。
「東京暮らししてたときの、バカな男と、ね」
「う…」
言えたけど。
この話すると、こいつはほんとに固くなる。もういいのにな。
わたしの決着を見せてやる。
「でさ、思うわけよ。もしも……」
唇を、噛みしめた。
「もしも、ちゃんと産んであげられてたら……あの子、どんな顔して笑ったのかな、とか。どんな声でわたしのこと呼んでくれたのかな、とか……わたしはどんなふうにあの子を抱いてあげられたのか、ミルクあげてたのか、オムツ替えてたのか……」
「矢口さん…」
「……どんなふうに……あの子…あの子とわたし……今…どんなふうに…してるだろ、って」
「………」
わたしは泣いてない。泣いていない。
声は震えてるけど、泣いていない。
ね、吉澤?
「生きてる私が思うのも勝手だけどさ。産まないで…死なせちゃって…殺しちゃって。これは一生、わたしがしょってく十字架」
「あの……」
ごめん。いまはわたしに話させて。
「でもね、前はこんなこと考えられもしなかった。頭にのぼることさえなかった。ただぼーぜんとするだけでね、はっきり言や逃げてた」
「……」
「それが、こんなふうに向き合って考えられるようになった。自分が産めてたはずのあの子のことをいろいろ考えて、その命を一生しょってくって決めることができた。あんたに元気もらったからだよ?」
「…う…へぐ…グス…」
もう…わたしが泣かないんだから、お前が泣くなよ。
- 777 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:14
-
「そんなに大きいもんなんだって、あんたに会えたことは」
「やぐちさん…」
「何度も言ってるけど、わたしのほうこそ、あんたにありがとうなんだ」
どうだ、わかったか。
でもなんか吉澤、ふにゃってした声だったな?
「はふぅ…」
「な?!」
生あくびだとお!!
てんめー、いい度胸だ!
……って、いや。
吉澤はなんか、つぶれそうにうつむいて、ゆらゆらしてた。
少し前からかなりふらふらして、しゃべらなくなってたけど…。
- 778 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:15
-
なんだよ、大丈夫か?
そう思ってるといきなり。
「やぐちさぁーん」
「ぐぇ」
ふぬけた声あげて、倒れこむようにわたしのお腹あたりにタックルしてきた。
後ろに片手ついてどうにか押し倒されなかったけど、つぶされそうになる。
「かんどーしましたぁ! やぐちさんやっぱすごいや!」
「吉澤?!」
「わたしさっきからぐずってて、すんません」
なんつー声だしてんだよ…。
「きょうは、わたしのはなしきいてくれて、わたしにはなしてくれて、ありがとうございます。わたし、やぐちさんだいすきです」
「あ、う、うん」
「わたしじぶんのはなしばっかで、でもきいてくれて、やぐちさんおとなです」
人のお腹に顔押し付けて、ふがふが言ってる。
そうかいそうかい、でも、もうちょっとさ、あの。
あんた164cm、ヤグチさん145cmもないの。わかる?
「そんで、やぐちさんのはなしきいたげたから、わたしも、いいこいいこ」
てなこと言いながらこいつ、わたしの手をむんずと掴まえると自分の頭を撫でさせて。
「やぐちさぁん……」
ったく、撫でてやるっつーの。
「へへ…」
目を閉じて笑ってやがる。
そりゃいいんだけど、マジもうつぶれる…。
「重いって、なあ、ちょっと」
「…………」
「おい?」
「……………」
こいつ…………寝とる。
すぴー、すぴー、って鼻でいびきかいて。
口半開きでよだれ垂らして、長いまつ毛越しに薄く白目見せて。
涙こぼして、でも幸せそうに…。
ほんっっと……バカ犬。
- 779 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:16
-
やれやれ、だよ。
いい子なんだけどねえ。
いい子だから、かな。
固く冷たかったのが、いま、柔らかく開きかけていて…純粋で…だから、人との距離のとり方がとても不器用な子。
こういうやつが男にはまるとマズイんだよなー。
東京でバカな男に引っかからなきゃいいけど……って、わたしが言うこっちゃないか。いや、わたしが言うことだから間違いない、うむ(言ってて寒い)。
なーんてね。
心配なんていらないか。
この先、勝手に人を信じて、闇雲に突っ走って。
傷つくことなんていくらでもあるだろうけど。
大丈夫。大丈夫なんだ、この子は。
いまはゆっくりおやすみ。
わたしの、可愛い、かっこいい、バカ犬くん……。
- 780 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:17
- ◇◆◇◆◇
うー、いくら歯を磨いても口ん中がザラザラする。
別に頭痛とかはない。
たいして飲んだわけじゃないし。
でも酒が口に残る感じってのは、やっぱあるわけで。安ワインってどうしてもなあ。
――ふわぁー…ふぅう。
口の中のアブクゆすいで、でっかいあくびを一つ、朝の冷たい空気の中に。
「おはようございまーす♪」
顔を洗ってると、元気な声が飛んできた。
お、もうパジャマから着替えてる。きのうと同じジーパンとトレーナー。
「ん、おはよう。いまどけるわ」
「すみませんねえ」
いえいえまあまあ、なんて挨拶して。手早く顔を拭きながら、隣でゴシャゴシャと歯磨き始めた横顔を斜めに見上げる。
ほー、いい感じじゃん。
「ふわい?」
「ん…なんでもない」
歯ブラシくわえたマヌケ面もかっこいい。
…なんて言ってやらないけどね。
ぐじゅぐじゅ、ぺっ、とやってから色気ゼロにザブザブ顔を洗ってる背中をぱしんと叩いた。
「酒入ってても七時前にちゃんと起きて。えらいねえ、受験生」
「わたし、優秀なバカ犬ですから」
自分で言うか、バカ犬って。てか根に持ってんのかよ!
「ねーねー」
「あん?」
タオルで顔拭くとグイっておじぎしてツムジ見せてきた。ふーん…そゆこと?
いい子いい子。
撫でてやったら、ワウって吼えてにやりと笑ってやんの。
何気に気に入ったみたいだな。「バカ犬」って。
「朝メシ、どうする?」
「いえ、もうおいとまします。受験生ですから」
ま、そんな気はしてたけどね。一応聞いてみただけだよ。洗面所から振り返ってみりゃ、階段の上がり口にバッグ下ろしてきてるし。おっけーおっけー。
なんて考えてる間に、吉澤はスリッパをペタペタいわせて台所に向かってった。そして腕まくりして流しに立つと、わたしが起きがけに下げておいたグラスや空き缶を鼻歌まじりで洗い始めた。
- 781 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:17
-
「お。すまんね」
「やー、一宿一飯」
よく言った。
「惚れました?」
「ふふん」
手早く水仕事を終えてふりむいたその表情。
やっぱ、いい感じだ。
きのうを引きずったようなところがまったくない。
きのうのあれこれを照れてもいなけりゃ、強がってもいない。妙に晴れ晴れとしてもいないし、見違えるようなオーラを出してもいない。これ見よがしの自然体でもない。
さすが。持て余さないで、ちゃんと自分のものにしたんだね。
- 782 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:19
- ◆◇◆
でも…なーんか。
なーんか、このまんまじゃおさまり悪いっつーか。
違う気がすんだよなー。
らしくないっつーか……
そう思ってる間にも、むこうさんはジャンパー着込んで帰り支度を進めてる。
「さてさて〜♪…おしと。あ、布団はシーツ剥いで畳んどきましたから」
パタパタ走って、バッグつかんでキャップをかぶった吉澤、そのまま裏口に向かってく。
よし。
「吉澤ー!」
「はい?」
「おめー勉強もいいけど、運動不足じゃね?」
「は?!」
のけぞり加減でふりむいたまま固まった。おっしゃ。
「あんた、抱きついてきて眠っちまったときさ、つぶされるかと思ったもん」
「な?!!」
ぎょっとした表情。もうちょい。
「あんたの布団に戻してやるのがつらかったのなんの、重かったー」
「くっ……!」
「プール、週一じゃ足りんだろ」
「………」
小刻みに震えてんねー。
はい秒読み開始ー。
5、4、3、2…
「ったく、陸に上がったクジラじゃねんだから――」
「こらぁあ! 矢口ぃいい!!!」
いでででで! ギブギブギブギブギブ!
パンパンパンと光速タップして、ようやく地獄のヘッドロックを解いてもらった……痛っ!最後にデコピンは余計だろ!!
…でも。
へへ。やっぱわたしら、こうでなきゃいけないや。
ニヤニヤ笑って見上げると、ぷいってそっぽ向いちゃって。
可愛くないっつーか、可愛い。
「うりゃ」
「むう」
左のほっぺをぷにってつまんでやる。
「いいヘッドロックじゃん?」
「…わたし、矢口さんの可愛いバカ犬ですから」
いい返しだ。
いいわたしらだ。
- 783 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:20
- ◆◇◆
秋の空は高いって本当だ、なんていまさら思う。
朝っぱらの透きとおった陽の光が浮かんでて。うっすら雲切れのむこう、まだむこう、もっとむこうまで空は高い。
向かいに並んだケヤキの大木に、どっか近所の洗濯機がゴンゴン回る音がヒットしてる。
しっかし、おー寒む寒む。日陰だし。
店の裏口出たすぐ脇、わたしの左隣で、吉澤は停めといた自転車のサドルについた夜露をぬぐってる。バッグは荷台に縛り付けて。やっぱこういうときママチャリって便利だよな。
「こんなもんか…よし! あらよっと」
拭きおわって、そのまますぐにスタンドを蹴り上げてまたがった。
「んじゃ、頑張れよ、受験生」
「そりゃ頑張ってますよ、本人は」
なーに言ってんだか。
「しゃらくさいこと言わないの。ヤグチさんに言ってもらう“頑張れ”は違うだろ?」
「…そっすね」
わかってるならよし。
黙って右のコブシを持ち上げた。吉澤もすぐに合わせてきた。
ゆっくり、近づけてく。
「矢口さん…わたし、大丈夫です。矢口さんも…」
「ああ。わたしはわたしで、ぼちぼちやってくよ」
コブシとコブシ、コツンとぶつけ合った。
ちょっとのあいだくっつけて、また離す。
吉澤はその右手でちょいとキャップのツバをこっちに傾けて、わたしにコクンとうなずいて見せると――
「それじゃ!」
「おうよ!」
さっとまっすぐ前向いて、ペダルを思いきり踏み込んだ。
ママチャリのくせにウイリー気味で、勢いよく飛びだしてく。
そしてそのままギュン・ギュン・ギュンって、住宅街の路上をこいでいった。
振り返ったりせずに元気よく、元気よく。どんどん小さくなっていく――。
「愛してるぞお、バカ犬ー!」
ワオーン!って、遠ざかる背中が陽気に吼えた。
すんげーかっこよかった。
- 784 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:21
-
…………。
さて。
ぼちぼちやってく、か――。
自分で自分の言葉をもう一度つぶやいてみて…ドキドキした。
いいこと言うじゃん? ヤグチさん。
ニヤリと一人、笑ってた。
矢口真里、二十歳、ぼちぼちやってくぞ!
なんだろう。
胸の中に、生き生きとしたものが、確かにある。
いまはっきりと、育ってる。
高鳴って、待っている。
若草みたいに、精一杯で優しいものが。
わたしにはわかる。
これはいつでもわたしのなかにあって、わたしに大事なものを教えてくれるだろう。わたしの勇気になってくれるだろう。
ずっとずっと、わたしの宝物になっていくんだろう。
吉澤にとってもそうなんだ。
わたしと吉澤の、宝物。
そう。
きのうの夜を…吉澤と語り合えた、大切な夜を。
わたしはきっと、忘れない――
- 785 名前:「3. Memories Of Green」 投稿日:2003/10/27(月) 23:21
-
3. Memories Of Green
−了−
- 786 名前:_ 投稿日:2003/10/27(月) 23:22
-
…………
- 787 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/28(火) 00:55
- ああ…やばい。かなり素敵だ…。
読んでて胸がどきどきするような、わくわくするような。
そんな感じでした。
- 788 名前:N県S市住民 投稿日:2003/11/28(金) 15:05
- いままでROM専門でしたが、初めて感想など書かせて頂きます。
本当に素晴らしい。直接的な記述が少ないのに全ての登場人物の
感情が読み取れるし、それでいて共感できる。
もう正直、みんなに惚れちゃった(ぉぃ
それから、作者様もおっしゃっている読後感、胸の中を清涼な風が通っていくような
サワヤカさでありながら、ほんのちょっと切ない感じで非常に気持ちいいものです。
おもわずN県S市の住民になっちゃった人は僕以外にも多いのでは?
個人的に気になるのは・・・梨華ちゃんに告ったのはダレダロウ?
ともあれ、N県S市が大好きです。
頑張ってる作者様には頑張れなんて言葉は使えませんが、続きを期待しています。
上の方では6期は出てこないと書かれてましたが、そろそろキャラクターも
つかめたのではないかな?それからメロンやカン娘。なんかも出して欲しい・・・。
長々と書きましたが大好きなN県S市の保全です(ニガワラ
- 789 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/11/29(土) 19:06
- そろそろ自分で保全しようと思っていたところ、すみません。そしてありがとうございます。
現在書きかけのものを年内には仕上げるつもりですので、そのとき改めて読者さんにきちんと返させていただきます。
では。
- 790 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/23(火) 11:51
- ho
- 791 名前:和泉俊啓 投稿日:2003/12/25(木) 00:51
- ※ 今回はものすごくなんてことのないお話です。長いくせに。 ※
- 792 名前:4. Wisdom Chain 投稿日:2003/12/25(木) 00:52
- 「4. Wisdom Chain」
- 793 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 00:53
-
わたしのまわりを叡智が囲んでいる。
四方の壁と頭上に渡された棚板とに、記録と記憶が詰まっている。
右も左も目の前も背中のほうも頭の上も、本、本、本…。
それなりの広さの空間だけど、埋め尽くされそう。
フロアを縦に区切るように並ぶ棚が二列、壁を埋める棚、左手奥の小区画まですべて。
元は白塗りの天井からは明るすぎない蛍光灯の柔らかい光。
それをはね返さずに受けとめる、年季が入ってザラついた薄褐色のタイル床。
奥で幅広く陣取ってるのは、初代から使ってるどっしり黒光りする勘定台。
毎年冬に頑張り続けてくれるヒーター。
音を絞ったラジオから流れる、にぎやかでどこか悲しく明るいお昼の番組。
天井や壁にはそこここ、殺虫剤やらカレーやらのブリキの看板。黄ばんだ映画のポスター。正字正仮名が踊る婦人雑誌に、せつないほど真っ直ぐな少年雑誌。
古くなったインクと紙の匂い。
静かに出番を待っている声たち。
それは輝く栄光。たどり着いた豊かな大地。
それは挫折の跡。ぎりぎり突き詰められた袋小路。
それは苦闘のさなか。拓かれるのを待つ見えない道。
過去から現在へ。
現在から未来へ。
世界と世間、志と現実と。
かつてあった世界、ありえた世界。
あるがままの世界、ありうべき世界。
一筋に連なり、一つに繋げるもの。
この世はデタラメなようで、理由がある。
世界はバラバラなようで、すべては繋がりあっている。
関わりあってるだけじゃなく、確かに貫かれてる。本当なんだよ?
ここはそんな結び目の一つ。
わたしはいま、そこにいる。
きょうもわたしは、ここにいる。
――わたしはこの場所が好きだ。
ここを好きでいてくれる人たちが、いつもいる。
――わたしはとても誇らしい。
そして今日もまたわたしは、ここにいる。
………
- 794 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 00:54
- ◇◆◇◆◇
“ガチャ”
“ヂリン…リン…リン”
ドアが開くと控えめに鈴が鳴る。
七十過ぎのその男の人は、入りがけにいつもどおりニコリと笑みを浮かべてなにも言わずにただ会釈してくれる。わたしも一緒。ずっと馴染みの常連さんだから、それだけでいいんだ。この人も昔からここを好きでいてくれる。わたしがほんの子供だったころから、いままで。
ゆっくり、じっくりと棚を見渡して、真面目に、でもどこか楽しそうに背表紙を眺めている。抜き取ると手触りを確かめながらページをめくる。ある本はまた棚に戻し、ある本は小脇に抱えて、だんだんと棚を移っていく。
やがてその人は数冊を手に、こちらにやってくる。
勘定台の天板に静かに積まれる本たち。
「いらっしゃいませ……三百円が二点と、五点百円と……三千円が一点……以上でお会計四千五百十五円です」
「はい…じゃ、これで」
「…では五円のお返しですね。ありがとうございました」
大判の茶封筒につつんだ本を手渡すと、またいつものように笑ってくれる。
「修行は順調、だね、明日香ちゃん…あ、『福田さん』かな」
「はは、わたしはまだ『明日香ちゃん』ですよ」
「まだ、ね」
「きっとちゃんとした四代目で『福田さん』になりますから」
「そりゃ頼もしい」
もう何回くらいやってるだろう、このやりとり。
この人からすればわたしはずっと「明日香ちゃん」なんだろうけど…
「じゃ、お父さんお母さんによろしくね」
「はい。ありがとうございました」
“ガチャ”
“ヂリン…リン…リン”
そして静かに帰っていった。
- 795 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 00:54
- ◆◇◆
『悠現堂』――それがうちの店の名前。
ここN県S市で戦前からずっと続いている古書店で、現店主の父が三代目だ。
「はるか・とおい」ところと「いま・うつつ」を結びつける――安直といえば安直だけど志があっていい店名だと思ってる。なにせ店名決めるときのもう一つの候補が『北辰堂』だったって言うんだから。それはいかにも過ぎるし地に足がついてない感じもするしで、やっぱりわたしは『悠現堂』が好きだ。
遥かかなたを見据えて、でも地に足をつけて、進んでく。
うちは初代からそんな志でやってきた。S市がまだよほど農村だったころ、それでもわりと開けてたこの地でずーっと。勉強して自分と現実を変えようって人たちとともにやってきたんだ。
本当に変えてきたんだから。農業主体だったときはその改善、各種文芸雑誌・学術誌による戦後を見据えた人材育成、そして戦後は新しい時代にむけた新しい町・新しい農業・新しい人間関係の構築。うちが一つの拠点になって、展開していったんだ。この地の志ある人たちをお手伝いして、いまに続いてる。
いまだって市の古い資料がうちの倉庫から出てきて、市の発達史の大きな穴が埋まったり、ずっと続くおかしな事業が止まったりとか、あるんだもんねえ。昔の地図・アルバムも残ってて、ちょっとした図書館の役割もあったりする、そんなお店。
知識は現実を変えられるんだって思ってる。
現実を変えるには知識が必要だって思ってる。
いずれここの四代目となるわたしは修行中の身。大学で経営を勉強して、経理・会計も頭に入れて、仕入れのことがきちんとわかるように市場と人脈をしっかり身につけて。まあ値付けとなると父でさえ日々勉強なんだけど。
- 796 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 00:55
- うん、値付けはねえ…。
初版本ってだけの理由で特別扱いする気にもなれないし。書誌学的価値っていうのは認めるけど。翻訳ものに高値をつけるというのも、実はそんなにやりたくない。△○文庫ですぐ買えるのに「いまは亡きあの○×文庫」だからって三千円とか値をつけるのはどうもピンとこないんだよね。
特に海外でペーパーバックが普通に出ているものなんかは、そっちを買ったほうがずっとましだと思ってしまう。安いし、欠陥翻訳をつかむ心配もないもの。いや、わたしはまだフランス語と英語しか読めないけど……とにかくいまはインターネットで信じられないくらい楽に買えるんだし。
ま、それでも絶版になっちゃった良い本というのは、もちろん誠実に扱わせていただいているわけでございますが。
インターネットでの通販は検討課題。できるだけ早く対応したいと思ってるけど、目録の電子化がまだまだ進んでない。古書目録作ってるんだからすぐにデータを使えるのかと思ったら、そうでもないみたいでごたごたしてる。もっともうちは本当に地域密着型でやってきたから、ネットでどれくらいお客さんがつかめるかわからない。それに送料はきちんといただくつもりだから、ばんばん注文が舞い込むものでもないかもね。
準備はしてる。公開の目途もたってないウェブページ作りを、知人の知人くらいの“町の芸術屋さん”みたいな人と一緒に、あーでもないこーでもないって。はい、公開したいですね。
そして修行といったらやっぱり、お店に出ることも大事なわけで。
棚を整理して埃を払って、歩道を掃いて、お客さんと顔を合わせて、というのを時間を見てはやらせてもらってる。
さっきのお客さんなんか、なんべんわたしがレジを打ったろう。あの人はS市を下から変えてきた一人、いまも現役の“動く人”。うちとは本当に古い付き合いの一人だ。
どのくらい古い付き合いかって、以前ある本がどの棚にあるかわからなくなったときに、父が電話して聞いたらたちどころに教えてもらった、なんて冗談みたいなことがあったくらい。いえお恥ずかしい。でもあるんです、そういうことは。
- 797 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 00:58
- ◆◇◆
「…明日香姉ちゃん、もうしゃべってもいい?」
「え…うん、なに?亜依ちゃん」
ちょっとの間むこうでおとなしくしててくれたお友達に声をかけられた。
黒目がちで童顔もいいところだけどしっかりものの高校生、加護亜依ちゃん。
「あれ、やっぱり白い丸いのが明日香姉ちゃんかな?」
「うーん、どうだろうねえ」
お店の奥の壁、勘定台にいるわたしの後ろ上方を指差す亜依ちゃんと、ふりむいて見上げるわたし。そこにかかってる30号の大きな油絵は、いつもわたしたちの話の種になっている。なんせ見れば見るほど引き込まれる不思議な絵だから。
「で、オレンジで三角っぽいのがうち」
「ならあの光る花みたいのが希美ちゃんてこと?」
「え?! あれ花に見える? 明日香姉ちゃんやばいって」
やばいって…。
「そんなことないよー。ねえ希美ちゃん」
「そうそうのの、どう思う?」
「んー?」
声をかけたお相手はなんともとぼけた声で返してくる。それにお似合いの愛嬌ある表情だし。彼女は辻希美ちゃん。わたしとは二年以上のお付き合いで、亜依ちゃんの親友。というか亜依ちゃんと同じ高校の同学年。
で、いま話題の絵は、わたしたち三人と共通の知り合いの画家さんに描いてもらったもので。ちょっと(かなり)わかりにくいけど、どうもわたしたち三人が山の中を一心に進んでるさまに見えてならないものであり、さらに希美ちゃんはその画家さんの絵の生徒でとても分かり合う関係であるからして――そんなこんなで希美ちゃんに判定を下してもらいたいわけです。
さあ、どうでしょう。
「それは希美たちとは全然関係ないよ」
「「え?」」
これはびっくり――
「なーんてね。はっはっはっ」
「「……」」
「いいじゃんいいじゃん、なんでも」
いたずらっぽい目がいいんだけども。
「ののはわかってるんやろ? 教えろや」
「どーだろねー」
「むっちゃムカつく!」
まあじゃれあいもそのへんにしてもらってだね。この絵はいつかまたいくらでも語るとして。
- 798 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 00:59
- 「あなたたち、きょうの用事は絵の品評会? もうすんだ?」
「あー、そうそう。忘れてた。な、のの」
「ののはあいぼんのお守りで来ただけだもん」
「な!…」
はい脱線しないよー。
「ちっ…えーと、さっきも話したけど、読書感想文についてですよ。冬の風物詩。夏休みもそうだったけど」
「読書感想文ねえ」
「あれはなんとかならんもんでしょーか。おかしいっちゅーねん」
「おかしい?」
「そうそう…うっさい」
亜依ちゃん、後ろからつんつん髪の毛を引っぱって遊んでた希美ちゃんの手をぺしっとはたいて、そうですよ!と力説し始めた。希美ちゃんが口をとがらせてるのはちょっと置いておこう。
「あのね、単に文章を正しく読み書きするってことならね、わかります。大事だし、なにより採点基準がしっかりしてると。デタラメなこと書いたりねじ曲げて読んだりはバツ、漢字間違いバツ。ね。新聞記事とか取扱説明書とか契約書とか読めないとダメだし。そこはいい。だから評論文っていうんですか? ああいうのの感想書かせるのはよし」
力説してるなあ。あ、希美ちゃん、ツムジぐりぐりははたかれるよ。
「しかし!! なぜにお題が小説? そんなんいっくらでも書けるやん」
「いくらでもってことはないよ。間違った読み方というのはあるから」
小説もね、そこは一緒。
「う…いや言い過ぎました。言いたいのはね、その感想文書かせることになんの意義があるのかと。まともな文章の読み書き採点するのに、小説なんてお題としてふさわしくないのではないかと!そこを問いたいわけですな」
「異議なーし」
「うっさい…だいたい人それぞれの小説読む感性を採点するのはなにごとであるかと。もうそこからして、古館伊知郎的に言えばいかがなものかと。まあ、かように読書感想文なるものの無意味さを宣告しまして、本演説を終わります。ご清聴ありがとうございました」
「パチパチパチパチパチ」
口に出して拍手する希美ちゃんと、いやまーなに、とか言って手を振る亜依ちゃん。
とにかくなるほど。
- 799 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:00
- 「亜依ちゃんの言うことは筋が通ってると思うよ」
「ほう!」
「それをきちんと先生に言おう」
「は?」
「小説は課題から外すか、せめて納得いく採点基準をはっきりと説明するようにさせる。そう要求しよう」
「…えーと」
「やっぱりクラスのみんなの意見を集めるか、それこそ生徒会あたりを…」
「あー、いやいやいや!!」
亜依ちゃん、なんでかあわてちゃって。希美ちゃんは笑ってる。
「学校さんの事情はわかるんですわ。その、どうせみんな日頃小説なんて読まんから、冬休み中せめてこんだけ読めと。で、読んだ…目を通した証拠を持ってこいと。それだけ。採点なんて付け足し」
それはそれで一つの考えだねえ。
「ただ! やっぱり気が乗らない。お題になったっつーそれだけでね…自分が読みたいものじゃないっつーか」
「なるほど、それなら…」
「あーいやいや!! それはいいですいいです、はい。自由選択なんてさせると一人一人が読んだものに先生がぜんぶ目を通さなきゃならなくなるからね、そこに不満はございません」
「ふむ」
じゃあなんだろう。
「かったるいのです、単に」
「かったるい、ねえ」
「どうやっつけたらいいのでしょうな」
「やっつけはよくないよ」
よくないですよ。きちんと読んできちんと書かないとダメです。
ところが亜依ちゃんは、けっ、なんて吐き捨てて渋い顔。
「そういう答えは求めてないっつーの」
なんですと?
「まあまあ、わかってたことじゃん、あいぼん」
「まーな」
「明日香ちゃんはなんだろうと「やっつけかた」なんて知らないんだから」
「ほんっっと知らんよなー。使えん使えん」
「楽するコツ知ってる明日香ちゃんなんて明日香ちゃんじゃないもん」
「ぎゃはははは」
言いたい放題だね、お二人さん。二人仲良く、並んで勘定台に両腕組んで顎乗っけて。わたしの目の前で顔見合わせて笑って。
そうバカにしたもんじゃないですよ、この四代目候補を。
「楽かどうかは知らないけど、近道なら知ってるよ」
「「ほー?」」
目の前の並んだ顔、二つ。期待してないね?
よく聞きなさい。すごいことを教えてあげようじゃないですか。
- 800 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:00
- 「真っ直ぐ行くの。それが一番近道」
「「……」」
どうよ。ぐうの音も出ないってやつだね。
「うわー、すごいこと聞いちゃったなー…」
「うんうん、明日香ちゃんはそれでいいんだよ」
おかしな返事をするね、この子たちは。
「なーんか気が抜けたなあ…帰ろっか」
「だね」
おや?
「ありがと明日香姉ちゃん。やる気になった」
「そう言うこと。相談してよかったってさ、あいぼんは」
ああ、それはよかった。なによりです。
預かってあげてたコートを二人に渡すと、すぐに帰り支度。
ぺちゃくちゃ立ち話してる。
「自分で知ってたところに戻ったよね」
「結局そこかい!ってな。身も蓋もない。ははは」
なんだろね。
「じゃまた、明日香姉ちゃん」
「うん、お父さんお母さんによろしくね」
亜依ちゃんは希美ちゃんを待たずにさっさとドアまで歩いていく。
希美ちゃんのほうは――
「ねえ明日香ちゃん」
「うん?」
「明日香ちゃんは結局ここに…そこに戻ってくるからね。大丈夫だよ」
「? ありがと…」
おやおや、元気づけられちゃった。
すぐに、バイバイってして亜依ちゃんが待つドアまで駈けていく。
“ガチャ”
“ヂリン…リン…リン”
そして二人、仲良く帰っていった。
ドアから出て行く背中も仲のいいことで。
けど希美ちゃん、また変なこと言ったよ。
ときどき不思議なことを…なにか見通すことを言う子だけど、なんだったんだか。
まあ、亜依ちゃんにはちょっとからかわれた感じだけどね。それはわかるよ?
ほんと、シャレが通じないって昔から言われてたもの。ときどき「シャレがわかる」というのもいいのかもなって思うときもあるけど…自分とは別の話だからね。わたしの人生、他の人が替わりに生きてくれるわけじゃないし。ああ、「あんたは人をうらやましがるってことを理解できない」なんて言われたこともあったっけ。誉められたのやらけなされたのやら。
ま、こうしてやってく四代目候補です。はい。
……あ。
あの子たちの相手してて、目録作りも発売票作りもたいして進まなかったなあ。
四代目候補、まだまだ修行が足りません。
- 801 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:01
- ◇◆◇◆◇
今日はいい天気。
開店してまだ一時間くらい。正面、入り口のドアのガラス越しは、いかにも身体が引き締まりそうに澄んだ陽射しが降りている。
晴れの日が多いこの土地の冬は、夜のうちも見事にくっきり空が見えて放射冷却が全開。今朝店の前を水撒いて掃いたとき、すっごく寒かったものね。肌に当る光はほんのり暖かくて、手は冷たくて。ほんと、この土地の冬だ。冬が冬らしくてわたしは大好き。
おや、ドアの前に女の子が一人…なんかどっしり仁王立ちして。
でもってゆっくり、首をぐるりと時計回り。目線を左斜め下からめぐらせて…店構えを見てくれてるのかな。
お客さん?
と思ったらその子すぐさま、
“ガチャッ!”
“ヂリン…ヂリン…リン”
「うひゃー!こりゃ凄いやさすがだね、これならあるかな、うん」
元気にドアを開けた勢いのまま元気にでっかく独り言の彼女。ポカーンと口を開けて棚を見回してる。目を細めて、なんかどっしりした子だなあ。元気な若いお客さんも歓迎します。高校一年生てとこかな。
ん? この子どっかで会ったことがあるような――
「ちょっと待ってよまこっちゃん!」
また元気よくドアが開いて、駈け込んできたもう一人の女の子。
お連れさんがいましたか。
「なんだ、愛は愛でゆっくり読んでりゃいいじゃん。あたしはあたしで探すから」
「もう!…わたしがここに案内してあげたのにさー」
眉根を寄せて口を結んでむくれてる。可愛らしい子だなあ。ほっそりしてるし結んだ長い髪がよく似合ってるもの。小脇に抱えてる文庫本何冊か…ああ、外の三冊百円の棚を見てたんだね。けどこの子もどこかで…え? わたしのこと見てる?
「あー!」
うわ、びっくりした。急に人のこと指差して大きな声だすんだもん、あとから来たこの子は。でもあなたもびっくりした顔だねえ。
「おねーさん、前にほら、広場で、ほら、まこっちゃん」
「んー、そうだね」
「広場…あー!!」
…そう言えばあったっけ、そんなアクシデント。市の広場(公園なんだけど)で遊んでた子たちのバドミントンのシャトルを頭にもらったことがあったあった。そうだ、この子たちでした。偶然だねえ。
- 802 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:02
-
「おねーさん、このお店の人だったんですかー。あのときはすみませんでした」
「いやもういいよ、わたしのほうがつっこんじゃったんだし」
「凄い偶然ですよねー」
「いやほんと…で、きょうはお客さんなんだ」
「ええ、それがですねー…」
なんて挨拶してたら……
「すみませーん、りーまんの本ありますかー?」
え? はい?
ずんずんずん、って近づいて聞いてきた“まこっちゃん”…先に入ってきた女の子。
わたしと会ったことがあるなんてどうでもよさげで…いやそれはいいんだけど、えっと、なんか探してるのかな?
「りーまんの本どこですか?」
もう一度聞かれた。
まっすぐな目。
ぽわーんと柔らかい声はあっけらかんとして、でもやっぱり真っ直ぐで素直で。
まるで物怖じしない…好きだな、こういう子。
ただちょっと説明不足気味だけど。
「“りーまん”?」
「うん。りーまん」
「あ、あの、えっと数学! 数学の本さがしてるんです、ね? まこっちゃん」
おいてけぼりだった女の子――“愛”ちゃんが慌てて口を挟んできてくれた。
数学、ですか。
「そう、数学のりーまん」
「まこっちゃんほんとストレート過ぎ!」
「そーだよ。愛も見習いな?」
「……」
「…あーっと、数学の本ならこっちの棚になりますね…学習参考書じゃないんだよね、探してるの」
二人同時にこくんとうなずくのを確かめて、店の奥まで案内する。
さあ、いらっしゃいませ。
- 803 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:02
- ◆◇◆
「おおー、いかにも古本屋さんだあ」
「ねー」
「ははは、ありがと」
二人ともますますきょろきょろしてる。なんか嬉しい。
勘定台から右手にさらに入った区画。裏の倉庫とドア一枚隔ててるけど、たいていのお客さんにはここも倉庫みたいなものかな。特にこの子たちなんかには。
「わたしこのお店のこと前から知ってたんだけど、いままでなんとなく外から眺めるだけで…この子が探してるのがあるかも、ってはじめて入ったんですよー」
「じゃーきょうは記念の日だ」
とか言いながら中央を区切るスチール棚と未整理の本の山の間をどうにかすり抜けて、おっと、床に新聞敷いて平積みした雑誌・書籍の小山も崩さないように跨いで…あ、二人とも踏まないでね? で、東側の壁の棚に到着。
「理数系・科学書はここ。足元に積んであるのもね。それほど専門書とかたくさんあるわけじゃないけど…とにかく探してみてちょうだい。上の棚、届かなかったらそこの踏み台使って」
「「はーい」」
まずは自分で探してもらう。聞かれるまでは待機ってことで、勘定台に戻ったわたしはごそごそやってる二人を横目に見てる。
さーて、見つかりますかね。というかご期待にこたえられますでしょうか、当店は。なにしろ理数系専門の古本屋さんてわけじゃないからねー。そこそこ揃えてるつもりだけど。学部の教科書になるような本も一番新しい版が入ってたりするし、つい最近出たばかりの一般向け啓蒙書を売ってくれるお客さんだっているし。
けど数学の本で“りーまん”……ああ、そういうことか。
で、横手奥の彼女たち。仁王立ちで棚を左上隅からじーっと見続ける「まこっちゃん」に、床にしゃがんで古雑誌だの地質学の本だのに脱線してるらしい「愛ちゃん」が話し掛ける。
「ドイツの人なんだっけ?」
「リーマン。十九世紀の人だってさ」
やっぱり。でもこの子、まだ高校生だろうに。
「よくそんなの読む気になるなあ、二十一世紀に」
「言ったじゃん、お父さんが持ってるえらく昔の文庫本読んでたらそれをベタぼめしててさ。誉めかたがかっこいいから勉強したくなった。なんか電波入ってるふうな本だったけどそこの部分はかっこよかったよ」
ああ、そりゃまた古い本を。でも電波って。
- 804 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:03
-
「いいよね、まこっちゃんは理系で。数学できて」
「んー、理系とか文系とかって区別、あたしにゃよくわかんないな」
おお、偉い!「まこっちゃん」。そうそう、そうだよね。わたしは嬉しい。ま、とにかくリーマン幾何学なら入門書が確かあったはず。
「うー…こっちは日本人ばっかりか。ていうか探してたのなんだっけ?」
「『幾何学の基礎にある仮説について』。全集に入ってるって」
ええ?! 入門書とかじゃなくてそれ? あったかなあ? というか日本で出てたっけ? うん、少なくともうちにはなかった。ごめん。
二人の背中に近づいて声をかける。
「それ、確かうちは置いてなかったと思うよ」
「「え?」」
「リーマンの講演を元にした論文でしょ? 洋書の全集を仕入れたこともなかったはずだし…ごめんね」
「ありゃー。ないんだって、まこっちゃん」
そう言う「愛ちゃん」は自分のことみたいに残念そう。友達のこと大好きないい子なんだな。その表情を見るとわたしも申し訳なくなってしまう。探してた本人は……
「あーそうなんだ、残念。でもしゃーないね」
……この子はこの子で、いい子すぎかな。
ものすごく残念そうで、でもごくあっさり切り替えちゃって。どっちも本気の本気って感じ。変わった子だね。
「んじゃ帰ろっか、愛」
ほんと変わった子だ。
わたしも「愛ちゃん」もちょっとびっくり。
「えー、まこっちゃんいきなりすぎだよ」
「だって探してたのがないんじゃ、しょうがないじゃん」
いや確かにそうなんだけどね、うん。
「せっかくだからほかのも見ていこうよ。そのほうがいいよ」
「うーん?」
「探してたのじゃない面白いのが見つかるかもしれないし、もっといろいろ見ていこうよ。それにさ、わたし古本屋さんって入ったのはじめてで…まこっちゃんもさ。で、なんかこういう雰囲気っていいじゃない? 静かで落ち着いてて、なのになんかたくさん詰まってる感じで、広がっててあっちこっちに延びてるふうでさ。すごいよ。きっと楽しいよ、ね――」
すごい勢いで一気にしゃべり続けてる。ちょっとわかりにくかったけど、でも嬉しいこと言ってくれるね。お友達もちゃんと聞いてあげてるし。
- 805 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:04
-
「あー、あれだ、「声が聞こえる感じ」ってやつだ、あんたお得意の」
「うー…そうだよ、うん」
「そーかもね」
「声」? わたしとおんなじふうに感じてくれるのかな? いやあ、この子たち見どころあるじゃない。
「んじゃもうちょっと見てこっか」
「そうだよ!」
よし、当店にとりましてめでたしめでたし。
「えーと、んじゃゆっくりしてってね」
「「はーい」」
返事してすぐ二人とも背中を見せた。わたしはわたしでまた本だの棚だのすり抜け跨いで、自分の場所に戻る。
「あのー」
「え?」
「棚見終わったらここに積んであるやつも見ていいですよね?」
むこうで床から積みあがった本の山を指差す「まこっちゃん」。おお、ガッツがあるねえ。
「ああ、うんいいよ。どんどん見て。山を崩さないようにして丁寧に積みなおしてくれたらいいから」
うん、まずはお店に興味持ってもらうこと。そこからいいお客さんになってもらえるんだもんね。さて、これからあなたたちにいい出会いがありますように。
- 806 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:04
- ◆◇◆
それからは二人とも落ち着いたようになっている。
それほど広くもない奥のスペースで、「愛ちゃん」はじっくりしつつもあっちの棚を見たりまた戻ってきたり、同じ本を何度も開いては戻し、戻してはまた読みとあれこれ興味津々。「まこっちゃん」は端から順になんとも規則正しく見ていって、取り出した本をちょっと見たら棚に戻して、戻した本は二度と開かない。ふむふむ、いいコンビだね。
そんなこんなで、ときどき二人のひそひそ話が聞こえるほかはいたって静かな古本屋さんの午前中。コチコチと壁の時計の秒針が鳴って、二人のお客さんが着て一時間くらいの時間を刻んでる。
いま、仁王立ちでなにかを一生懸命読んでる「まこっちゃん」のそばで、「愛ちゃん」がずいぶん前から置いてる平積みの山をせっせと探険して――
「あー! ねねね、まこっちゃん、これなんだろ? これ!」
おやまたびっくりしたような声を出して。
「ノートでしょ。でもえらく古いねー。ボロボロじゃん」
「いやほら、表紙のこれ、「リーマン」って読むんじゃない?」
「おお、そうかも!…あのー、すみませーん!」
はいはい、なんでしょう。また彼女たちのところへいく。
「これなんですかー?」
そう言って渡されたのは大判の立派なノート。
うちの値付けもしてないし、ほんとなんだろ? 四隅が丸くなってて全体すっかり赤茶けてずいぶん昔のものみたい。表紙の手書きのタイトルもかすれてるけど……でも確かに…
…わ、鳥肌立っちゃった。
どうにか読めるその文字は、「Georg Riemann」と「Ueber die Hypothesen, welche der Geometrie zu Grunde Liegen」……。
はあ〜、なんとまあ。で、中は左ページにドイツ語、右ページに日本語。万年筆みたい。よくわかんないけど訳と自分なりの注釈…かな? ドイツ語はちょっと自信ないけど。でも、こりゃすごい。
「うー…ん。たぶん…」
「「うんうん」」
二人とも目を輝かせて…こりゃ責任重大だ。
「たぶんだけど、論文を書き写して自分で訳とノートをつけたものだと思う」
「「おー!」」
「いや、たぶん、だからね?」
そう言っても二人とも大はしゃぎ。いやごめん、たぶん、なんだけどなー。
特に「愛ちゃん」、ほんとにはしゃいでる。
- 807 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:05
-
「あの、あの! これなんなんですか?!」
「よくわからないけど昔の大学生のものだと思う。想像だけど。で、その元の持主さんからうちがたくさん買い入れたときに、箱の詰め物にでもしたのかな? 値付けもしてないし」
「どんな人だったんですかね?…このノートいつごろここに来たかとか」
「それはちょっと分からないなあ…なにせそこの隅の山、ずいぶん前に仕入れたのばっかりだもの。倉庫からそこに積んだのはそんな昔じゃないけど…とにかくほら、値付けしてないし記録もつけてないし…」
そこまで聞いて、もう彼女は有頂天になっちゃった。
「凄いよ、凄いよね、凄くない? まこっちゃん」
「んー?」
「だってこれ、ノートだよ? 本じゃなくって! それもすごくマニアックなやつのさ。それがこのお店のすみっこの山の中に、いつからかもわからないくらい前からあって、そこにきょうわたしらが来て! 中身をちょうどほしいと思ってたまこっちゃんの手に、いまあるんだよ?!」
「うん、凄いなー」
ああ、そうだよね、ほんとそう。
わたしだってさっき鳥肌立っちゃったもん。
「これ持ってた人、どんな人だったのかなー?」
「そりゃわからないよね」
「…もう!」
「わからない人のが、探してたあたしのとこにあるんだねえ」
「…そう!」
二人して、へへへ、って笑って。
うん、本当によかったね。
- 808 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:05
-
「ねね、わたしが言ったとおりだね、わたしの言うとおりにしてよかったね、まこっちゃん」
「ほんとだー、愛の言うこと聞いてよかったー」
「…う、うん、そうでしょ?」
「? だって愛が言ったんじゃん、もっと見てこうって。いまも自分で言ったじゃん」
「そうだけどさー」
……こういうノリなわけね、あなたたちは。いやはや。
そしてようやく。
「あのー、これ売ってくれるんですか?」
二人とも真っ直ぐに。そりゃそうだよね。
でも――
「売るといいますか、売りものなのかどうかも…」
「「えー?」」
いえ、難しいのですよこういうのは。
市販されたものならまだしもノートだし。それも有名人じゃなくてどこかの誰かの。書いてる内容も正しいものやら(目を通したかぎりじゃ大丈夫だと思うけど)。買い取ったのか詰め物だったのかもはっきりしない。でも、うちにあるってことは断じてゴミじゃないわけで、それをただあげるというのはよくないことで…さあ福田明日香さん、頑張りどころ。
「うーん、じゃ、五百円で」
はい、これが明日香さんの精一杯です。
「買う買う、買います!」
「安いよねー、よかったね」
「えっと、でもちゃんとした入門書も用意したほうがいいよ?」
ここはフォローしておかないと。さり気なく営業活動もかねて、なんてね。
「あ、それはほら、これ。買います」
ありゃ、本当に? でもそれ古本なのに三千五百円もするんだけど大丈夫?
「買います買います。買いたいし。もうじきお年玉入るし」
「まこっちゃんほんと無駄な買い物しないもんねー。買いたいのだけ」
それはそれは。あとはこれだけ確認。
「でも理学部の学生が読むようなのだけど…」
「うん。てこずるだろうけど、一日一ページずつでもいいや」
「それいいね。それにさ、まこっちゃん数学できるもんね」
よーし、ではおまかせします。
さ、こちらへどうぞ。
- 809 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:07
- ◆◇◆
「じゃ、四千二百円ですね」
「はーい…あ、袋いいです、そのままで」
嬉しそうに自分のバッグにつっこんで。よかったね。
「わたしはこれお願いします!」
「はいどうも…わ、こんなに」
「愛ちゃん」はまた大荷物だ。外から抱えてきたままだった文庫の小説を六冊も…ほほう、冒険ものがお好きですか。それと『輪切り図鑑』…ああ、これ楽しいものね。でも三冊セット全部って、あなたも思いきった買い物するんだねえ。結構な量だから手提げの紙袋になるんだけど…なんとも味気ないよね、ごめんなさい。
「三千三百六十円です…あなたもすごい買い物だね」
「あ、はい…やっぱ本当に買いたいもの、買いたいじゃないですか。迷って後悔、やですし。それにこのお店で買いたいし」
「それはそれはありがとうございます」
お礼を言うと、「愛ちゃん」は目を輝かせて言った。
「あの、きょうここに来てよかったです。まこっちゃん…麻琴はあんなすごいの見つけられて…あれは麻琴に買ってもらえて、うん、両方よかったです……ね、まこっちゃん?」
呼びかけられた彼女は、すぐうしろでニンマリ笑ってVサイン。かっこいい。
けどあなたもいいこと言うね、「愛ちゃん」。そうそう。そういう「出会い」をお手伝いするのもうちの大事な役目なのですよ。わたしは嬉しい。
「やー、きょうはよかったよかった」
「ねー」
そう言ってドアに向かっていくいいコンビ。
「じゃー失礼しまーす」
最後にこっちに手を振ってまっすぐドア開けて出て行く「まこっちゃん」。まっすぐすぎて気持いい。
そのお友達をあわてて追いかけ…ないで、「愛ちゃん」はこちらにきちんと向いてくれて…あらあらそんな丁寧にお辞儀まで。
「このお店、わたしも麻琴も大好きになりました。おねーさんと前に会ったことがあるのも、すごい出会いですきっと。わたしもうすぐ受験生だけど、いつかまた来ます。お得意さんです!」
「あは、それはそれは…ぜひよろしくおねがいします」
「じゃ!」
「はーい、ありがとうございましたー」
- 810 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:07
-
………。
はは。
いやー、ほんと。
なんとも気持いい子たちだったなあ。
きょうは午前中からいい気持ちになれたな、新しい若いお客さんがついてくれて。
うん、S市の『悠現堂』はこれからも健在です。
- 811 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:10
- ◇◆◇◆◇
きょうは午前中・お昼とお客さんが入れ替わり立ち代りだった。
母と交替した二時過ぎのいま、店内はわたし一人。
ドアガラスのむこうに見える陽射しは急に薄くなった気がする。こういう午後、S市の好きなところの一つだ。
静かだなあ……
<ドッドドドッドッドドドッドッドドドッドド…ドルルン…>
お、この音。
<ドッルッルッルッルッルッル……>
やっぱり。
外から聞こえてくる、ドア越しにお腹に響く排気音。重たくて大きな音だけど全然下品じゃない。というか耳に心地いい感じ。わくわくさせられて、でも余裕たっぷりで。
なんか、お日様が弱くなりかけた冬の午後にぴったりだなあ、この柔らかくて強い響き。伝統ある「鉄の馬」ならではってやつかな。
てことで、きょうはあの人のお出ましですか。
カチャリという音で排気音が途切れて、深い余韻。
ジャリジャリとゴツいブーツがコンクリートを鳴らして…。
“ガチャ”
“ヂリン…ヂリン…リン”
「こんちはー」
「いらっしゃいませ石黒さん」
入ってきたのは全身真っ黒に決めたかっこいい女の人。
きょうもブーツからスーツから抱えたヘルメットまで黒ずくめ…愛用の真っ黒なサングラスは胸ポケットにしまってるのかな。目つきがちょっときついんだけど「鋭い美人」って感じで素敵な人なんだよね。
彼女は石黒彩さん。うちの大得意だ。
「あ、きょうはあなたがお店番なんだ…四代目襲名のため修行中でございますか?」
「襲名って。はは、その折にはよろしくお願いします」
「ま・か・せ・な・さい♪」
黒の皮手袋をポンポン外しながら、いつもどおり気さくな軽口の彼女。
でもっていつもどおり、じゃお願いね、といいつつヘルメットを預けてきた。勘定台に座るわたしの前にポンと置いたヘルメットに腕を乗っけて、頭振りつつ“ふわさっ”って茶髪を揺らす石黒さん。また決まってるなー、というかかっこつけてるなあ。
ここで雑談始まるのもいつもどおり。
- 812 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:11
-
「ふー、しっかし、ちょっと日が翳ると急に寒くなるよねー」
「やっぱりそう感じます?」
「あーもう冗談じゃないね、こんな中わざわざバイクに乗って風切ってるやつの気が知れない。バッカじゃなかろか。クルマが一番だよ」
……もう。
いいウェア手に入れたって言ってたくせに。
「ごめんごめん。石黒先生、悪いクセ出た」
ちっともごめんという感じじゃなくペロリと舌を出してみせる「石黒先生」。
そう、石黒さんは本当に先生で、優良校として有名な高校で現代文を教えてる。もっとも現代文って範囲に収まらないというか、この人自身が先生という枠に収まらないというか、本業の片手間(本人談)にあれこれと動いてる。うちとの繋がりもかなりあるんだ……
「あの、こないだの会合は本当にお世話になりました。またスムーズに前向きに進めていくことが出来て…」
「あー、そう言ってもらえると嬉しいや」
かっこよく笑ってくれる。
「これからも頼りにしてますよ」
「はっはっはっ。どんどん頼っちゃって。飲み会でも勉強会でも、あのての集まり仕掛けるの大好きだから。会合大好き」
頼もしい。
「会合」…うちが昔から拠点となってやってる集まりの一つで、「勉強会」みたいなもの。
なにを勉強するって、いろいろ。飲み会になだれ込んで勉強だかなんだかみたいになるときもしょっちゅうだけど、基本は「自分らが住んでるところのことを知っておこう、自分らがどう生きてくかわきまえよう」ということ。
『S市のことを知ろう。自分がいる場所のこれまでを知って、これからを考えよう。自分自身がしっかり楽しく生きられる準備をしよう。お役所に頼らずバカにせず、使うと便利な制度を知っておこう、なければ作ってしまおう。一人で生きられるようになって、でも助け合いも面白いってわかっておこう。S市が自分の場所ってことがどういうことか、わかっていこう』
こんな感じ。
- 813 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:11
- 町内会とかなりかぶってるけど、うちのお客さんを中心にこの広いS市のあちこちと繋がってて、顔ぶれもわりと老若男女ばらけてるし、バランスがいいんだ。勉強の講師として議員だの議員秘書だの市役所職員だの県の大学教授だのを招いたり、でもそのうちお花見とか野球大会になったりして。
「山びこ学校もどき」にならないか、なんて言われたこともあったけど、なんのなんの。冗談じゃなく市政にも影響力あるんだよね。ちょっと得意。
ただほんと言うと、何年か前までマンネリになりかけて『そろそろ潮時かな』って声も出てたんだ。
そこに現れたのが石黒さん。
うちに顔を出すようになってから、「会合」も面白そうって加わってくれて、あとはもう電光石火で縦横無尽。あちこち連絡つけて、思いもよらない方面の同好会だのサークルだのの物好きさんたちを引っ張り込んで、好奇心旺盛な高校の生徒達を放り込んできて。あっという間に新規巻き直し完了。それからずっと、地道に丁寧に世話してくれる。
『人の集まりなんてほっときゃすぐ錆びつくよ。こまめに手入れしないと気持よく動いてくんないからね。バイクと一緒』
いやもう頭があがりません。
店主の父もわたしも精一杯やってるけど、石黒さんがいなかったらどうなってることやら…。
だから当店の四代目候補は、ここでもきちんとご挨拶。
「石黒さんにはみんな感謝してて、それ以上にびっくりしてますよ。なんであんなに若いのにあんなに動けるんだって。みんなお世話になってますもん」
「まったくね。教師っつー立場じゃなかったら山ほど付け届けをもらいたいくらいだ。はっはっはっ」
「ははは…」
「火打石でもらってだね、それをほら、景品交換所ってあるじゃない? そこで……」
…この人と話してるといつもこうなるんだよねー。
お歳暮・お中元のたぐいを一切受けとろうとしないのに。
ニヤニヤ面白そうにしてるよ。
「ともかく父もあらためて御礼を言わせてほしいって…」
「いやー、あれくらいのお膳立てはお安い御用。つーかね、自分が真ん中に立つ器じゃないぶん、ちょこまか動く世話人をやりたいわけですよ」
- 814 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:12
-
こういう人だ、石黒さんは。
目立つ人だから「黒子」てことは全然なくて、お勉強でも宴席でもいきなり注目集める主役にもなるんだけど…不思議と「中心」にならない。あちこち軽快に元気づける、風みたいな人。自由だなあ、って思う。
「それにさ、なにより自分が面白いからやってるんだよね……あらよっと」
石黒さん、手近にあったお客さん用の丸椅子を引き寄せて腰掛けた。
ささっと脚を組んだ膝に頬杖ついて、こっちを見上げてる。
「お? そういやこういう場面、初めてだねー。いままで、わたし立ちっぱで軽く話すだけだったもん」
「ああ、そうでしたね」
「よっしゃ。いい機会だから語っちゃおう」
はい?
「あなたとは一度ちゃんと語ってみたかったんだよね。ほら、ちょうどこんな落ち着いた感じのときにさ」
そう言ってぐるりと首をめぐらす石黒さん。
わたしもつられて、右手の床から天井、そして左手の床までぐるっと見回してみる。
あはは、確かにいい雰囲気ですよね。
お店の奥、だいぶ黒ずんだ勘定台の天板をはさんで、わたしと石黒さん。中央列の棚と勘定台との間の狭い通路をふさいで、石黒さんは居心地よさげに椅子に腰掛けてる。冬の午後に他のお客さんもいないし、ヒーターのゴーって低い音だけが響いてて。
ちょっとの間…ほんの五六秒、二人して味わってみた。
- 815 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:14
- ◆◇◆
「ね?」とこっちにうなずいて見せてから、石黒さんは続けた。
「…と、ね。あらためて始めますと、自分が好きな場所をお世話できるのって、すっごくやりがいがあるもんよ?」
「ははあ」
「わたし、『いい場所』に鼻が利くんだけどね……このお店も、このお店がこさえてる場所も、わたしが好きな場所なわけさ」
「おそれいります」
「いえいえ」
今度はゆったり優しい目だ。
充実してるんだものね、「本業」でも。
「いま教えてる学校も、でしたよね」
「んーと。嫌いじゃない、な」
「また。狙ってもぐりこんだって言ってたじゃないですか」
「……へいへい。じゃー好きってことで。うん。やりたいようにできるし退屈しないしねー」
そのとおり。石黒さんが教えてる高校は「自由」ってことでも知られてる。服装でも髪型でも学内・学外生活でもおよそ縛りがなくて、その結果を生徒に引き受けさせる。生徒と学校がお互いをシビアに信用する関係。優良校ならではなんだけど、生徒を自由にさせつつフォローして要所で締めてと、先生もかなりレベルが高くないとつとまらない。石黒さんにぴったりだ。
その評判を学生時代から聞いて目をつけてたという石黒さん。教育実習の段階から母校でもないのに乗り込んで足場固めした、なんて彼女らしい。そしていまも、やりたいようにやってるみたい。
「学校っていう「器」が出来合いだから、ほんとに『身になじむ場所』かっていったらちょっと違うけど。でもね、いい職場だな。バカはそりゃ多いけど、バカである自由もあれば、バカをバカって言う自由もある」
うー…困るな、そう言う表現は。
「あ、ごめん…えーと、話戻すね? その、好きな場所があるっていいことでしょ。この店でもお勉強会でも、職場でも…好きだよね。いくらでも身体が動くよ」
「たくさんあるわけですね、好きな場所…」
「もちろんこのS市自体もね」
わ、すごい。
でもよく言ってたよね、そういえば。
「だから越してきたんだし」
「あー、そうなんですよね」
- 816 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:14
-
一昨年の初春、大学卒業前から引っ越してきた石黒さん。
親戚がS市に住んでる関係で、ずっと前から年に何度も来ていたらしい。この土地を気に入ってここで暮らすと決めて、あとはいまの職場の教員募集にあっさりパス。好きな土地のいい職場ってわけ。
初めてこのお店に来たときから今と同じだった。黒ずくめで自信たっぷりのざっくばらん。高二手前のわたし、びっくりしちゃった。もう馴れたけど、初めて会ったときの印象は今もくっきり残ってる。二十代後半かと思ったらまだ大学も卒業してないとわかってまたびっくり。
「あなたもわたしと同じ気持のはずだけどな。このお店が好き、このS市が好き、だからいろいろ動こうと思えるって」
「ええ、そうです」
うん。わたしはこの街とこの店がとても好き。
「ねー。で、そんな四代目がいるからいいんだよね。このお店」
「はい?!」
『四代目』ってわたしはまだ候補なのに…じゃなくて。
「石黒さん?」
「あなたみたいに自分が生まれ育った土地を好きな子、なかなかいないよ? もちろんここが好きって子はたくさんいるだろうけどさ、あなたのはこう、折り目正しいんだよね」
「折り目正しい、ですか」
変わった言い回しだなあ。
「そ。純粋に『好き』って気持から始まって、それをきちんと筋道つけた言葉にして、考えて。さらに! 現状肯定じゃなくて「いい方向」にもっていこうってしてるんだもん。住んでる土地をだよ? そんな子いないって」
なんか恐縮です。
「この店自体が昔からそうだってのは聞いてたけどね……S市を自分たちで育ててくって連中の拠点になってたって。考えて動く連中の。言葉遊びのヒョーロン屋には死を! そして、わたしの目の前の四代目。伝統は健在、ですな」
「わー、嬉しいです」
ふふふ。得意得意。
石黒さんは膝を組み替えると、首をコキっていわせて話し続けた。
- 817 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:15
-
「わたし、世話焼きが好きって言ってもね、S市に来る前はちょっと違ったよ。大学のサークルとかゼミ、OB会をまとめたり学祭を運営するくらい…身の回り感覚ばっかり。だからここに来てびびったね。あんたら『歴史・政治・経済』相手にガチでがっぷり四つ相撲やってんだもん。それも楽しそうに。足もと固めて目線は遥か。すげえ、って思ったね」
「あの、まあやれることを精一杯ってだけですけどね」
「なにをおっしゃる…ともかく石黒先生、思いました。一枚噛ませてくれ!って」
そんなふうに思ってくれてたんですねえ。
「そうだよ。考えて動いて変えていく、それってすごく新鮮だったもん」
なるほど。でも…あれ?
「でも石黒さん、およそ投票なんか一度も行ったことがないって前に言ってましたよね?」
「そりゃそうだよー、コストとリターンを計算したら絶対そうなる」
……石黒さん、そう言う考え方はどうかと。
ここまでわたしはからかわれてたんでしょーか。
「石黒さん?」
「うぅ……えーと、あれだね、いまはまだ準備中っつーか……うん、投票以外にもカードはたくさんあって、そっちのほうが重要というか、その、なんだ。ま、正直痛いところ衝かれたわけだけど」
また煙に巻こうとしてるなー。
「いまは! あなたの話ね」
「はいはい」
巻かれてあげましょう。
「あなたのその「正しさ」、凄いわけ。石黒先生が返しに困る直球投げられる人、まずいないよ?」
「そういうもんですか」
「そういうもんです。人生も現実も変えられるんだっていうのを感じるよね。ものすごい楽観的。前向き以上の、強靭な楽観主義」
楽観主義って。わたしのこと、からかってません?
「物事は変えられるし変えていいんだっていう、強烈な確信ね」
あ、そうなんだよね。
確かにわたし、そうだ。
「それは…そうかもしれません」
「でしょー?」
「ですね」
「しかも古本屋さんがそれをやるってのがまたね…そんなのありなんだ!って目からウロコばりばりよ。生きてる感じ、ここの本たち」
石黒さんにそう言ってもらえると、ますます自信がつくなあ。
- 818 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:17
-
「知識は現実を変えられるんだっていうの、ありますね」
「そして、変えるんなら知識にもとづかなきゃだめだ、でしょ」
「はい!」
そうですとも。
「やっぱりわたし、信じてるんですよ。『人間は動物だが賢い動物である。考へて其社会をどこ迄も改造して行ける動物である』――」
「――『神を懐い死後を信じ得る動物である。さうして其以外の何物でもない』……か。いいこと言ったもんだよね、あの爺さん」
にやりと笑う石黒さん、かっこいいなあ。
とにかく賛成してくれて嬉しいです――
「たとえ根拠レスの与太話を山ほど書き散らしたとしてもさ」
「…………」
「あ、ごめんなさい」
「いえそんな…」
言わないほうがよかったのかな?
そんな気持が顔に出てしまっていたのか、石黒さんはちょっと気まずそうにした。
「いや、ほんとごめんなさいね……えっと、真面目な話し、いまの言葉、後半まで含めて本当にあなたにぴったりだと思うよ。うん。素直に思うもん、あなたそのものだって。物事どんどん変えていけるんだって信じてて、でも変わらないものに手を合わせる気持も持ってて…理性と信心っていうのかな…二つ合わさってるところがね、さすがだなって」
わ、それはなんか嬉しいなあ。
「まあ、あなた自身はわからないだろうけど」
ありゃ?
「わからないで無自覚天然にやってしまえるところが、またさすが。うん、あなた自身は絶対にわからないだろうな」
うーん。これはやっぱりからかわれてるんでしょうか?
「そこが眩しくってさ、ついつい余計なことを言ってしまいたくなるわけですよ、石黒先生は」
からかわれてるんだろうなあ。
目の前の人は相変わらずニヤニヤしてるし。
とか思ってたら、すいっと立った。
「…よしと、きちんと語れた。さて用事かたさないと。んじゃ見てくるわ」
「あ、はい」
そうそう、今日は普通にお客さんでした。
- 819 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:17
- ◆◇◆
「ごゆっくりどうぞ」
「ん、どうもー」
入り口近くまで歩いていく彼女。
そして棚にすいーって目線をすべらせる。なんか鼻歌が聞こえてきそうな軽い調子だ。お目当てをじっくりじっくり選ぶ…わけじゃなく、すぐに棚からスイスイスイと抜き出して、何冊も脇に抱えた。
すぐに隣に移ると、またさっさと抜いて、また隣。その次は振り向いて背後の棚。
それから勘定台まで運んでくると、よっこい庄一、とか言いながらかなりの束をどさって置いた。その小ボケをあっさり流したらちょっと残念そうにして、ふふふ。
「まだ持ってくるから待っててねー」
「あ、はい」
また棚に向かっていって、またさっと選び出して、また持ってきて。
フロアの中央列、その向こう側、さらに奥の区画と、勘定台と棚の間を何回か往復する。
みるみるうちに台の上が一杯になって、わたしの前にちょっとしたバリケードができた。
「これまで目をつけてたやつ、そうざらえ」
「はは…なるほど」
「ついでにきょう初めてお目にかかったやつもさらっちゃう。今年大流行した言葉をもじって言えば『びびび買い』。『ひらめき買い』ともいう。あ、こっちは来年の流行語ね」
また懐かしい言葉を…素直に『衝動買い』と言いましょうよ。
でもこれが、父から聞いてたアレか。
「年の終わりの恒例行事って感じですね」
「まーね」
一昨年も去年も同じ感じだったらしいもんね、わたしはその場にいなかったけど。
それにしても…優に四十冊以上。
あらためて聞いてしまう。
「またすごい量ですね」
「先生やってるからねー」
うー…ん。そればっかりとはとても思えない。
ファインマン、ワインバーグ、アトキンス、ハイエク、アロー、スティグリッツ、ミンスキー、マッカーシー、チャーチランド、ピンカー……ニーダム、ルフェーブル、ダーントン、ターケル、エリアーデ…モノーにローマーにウィルソン、フルディ…菅江真澄、荻生徂徠、富永仲基、内藤湖南、尾佐竹猛、福本和夫、安藤孝行、石母田正、東畑精一、福田歓一、高田保馬、廣末保、木村資生…デネット、チャーマーズ、ノージック、竜樹……
- 820 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:18
-
わかってたつもりだけど、あらためて濫読のバケモノ(失礼)みたいな人だなあ…いや、ちがう。この人の中では一貫してるんだ。
とりあえず、目の前のバリケードを片側に積み上げてまずはスペースを確保。
「わたしは勝つために読んでるからね」
「勝つため、ですか」
「『真理は万人によって求められることを自ら欲し』てるかも知れないけど、万人が真理を求めてるとは限らないものね。万人が芸術を愛してるわけでもないし。そこに勝算がでてくるってわけ」
ですから石黒さん、そういう考え方はどうかと…
「てのは冗談半分として…半分本気ね…いやともかく「正統どころ」をちゃんとわきまえとかないと、ってさ。それが一番効率いいし面白いし」
「正統ねえ」
「本当に面白くて強いのは「正統」でしょ? 異端・奇説って一見面白そうですぐに飽きる。なにより敗ける」
でもそう言いきれないのも混ざってるような…ていうかそもそも正統ってなにって話だし。やっぱり引っかかるな。
「まあそんな高尚な話じゃなくてさ。素朴に、言語が思考を枠付けますとか環境ホルモンが大変ですとかグローバル経済反対とか、そういった与太を蹴飛ばしときたいってのがあって。「スタージョンの法則」じゃないけど世の中クズだらけなんだから、自分から好き好んでクズつかみたくないじゃん」
なるほど。
「そっから始まって、やっぱ勝つためなわけですよ。少し前から税制・財務も勉強中。現実に勝たないと」
「現実、ですか」
「そ。なにかが変わらなきゃ意味がないってね」
「ですね」
そんな話を聞くとさっきのことがやっぱり気になる。
気になりますとも。
バリケードどかして手前を空けた天板に身を乗り出すと、石黒さんを覗き込んだ。
「あの、石黒さんさっきの話ですけど」
「はい?」
「投票しないっていう…」
「ぐはあっ!…ちょっとなに…また?」
苦しそうに胸をおさえちゃって。
「『準備中』って言ってたじゃないですか」
「あ、うん…」
それってつまり…
「もしかして、投票するんじゃなくされる側になるってことですか?」
「ほえ?」
それならわかるもの。
- 821 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:19
-
「いますぐじゃなくて五年後とかに。市議選出て、あと三十代で市長とか…」
「…」
「不確かな一票で人に託すより自分が動かしてしまえって感じですもん、石黒さんは」
「………」
「で、そのためあちこち地盤固めしてるとか…」
「…………」
「現実に勝つ、現実を変える、ですよね?」
「……………」
「石黒さん?」
えーと、なんか固まってしまってるんですが。
あ、動いた…え?! なになに?
石黒さん、ふいに顔を寄せてきたと思ったら、真面目な顔でわたしの両肩にポンって手を置いて。
で、ハァーってため息つきながらガックリ首を垂れた。
あの、なんでがっかりなんです?
「…………」
震えてる?
「………………く…くくっ…ぷっ…」
こらえてますね…笑いを。
「ぷはぁ〜、しんどかったあ」
で、顔を上げてこれが第一声。
「なんですそれ」
「ははっ…は〜あ、あなたやっぱ面白いわ」
「いえ、ですからなんです」
「ほんっと面白い人。まさかそうくるとはね〜…さっすが」
いやぁ愉快愉快、なんて楽しそうに笑いながらふらふらーって後ずさると、また丸椅子にどっかり腰掛けた。
「気持ちいいなあ…そうそう、そうだよね、あなたからしたらそうなるでしょうとも……それでこそ四代目。全っっ然ガードしてないとこやられたけど…不意打ちじゃないね…真っ直ぐ詰めてきゃ確かにそうなるわな。しっかし、さっき『きちんと語れた』と思ってたの甘かった……石黒先生、真っ向唐竹割にされちゃいました。わはは」
「はあ」
わけがわからないでうなずくと、石黒さん、しゅたって右手を上げて手の平こっちに宣誓ポーズ。左手はありもしない聖書において。
「えーっとね。出馬は100%ありえません、と有権者の皆様に宣言しまっす。もう絶対」
「ですか」
「あの、石黒先生はですね、そういうガラじゃないというか、はっきり言や器じゃないのです。言ったでしょ、真ん中に立つ器じゃないって。あなたもわかってるはずだよね」
なんとなくわかりますけど。
- 822 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:19
-
「それによそから来た者だし…いや、いまはS市の人間のつもりだよ? ただわたしの勝手な感覚でね、『自分は“外の人間”』てのを、この先ずっと持ち続けるんだろうなって思うわけよ。S市の者だけどちょびっとよそ者…ていうか、どこにいようと、なにしてようと、なんかよそ者。そりゃもうしかたない。そういう人なわけ、石黒先生は」
なんだろう、かっこいい、以上にすっきりした表情。こんな石黒さん初めて見る気がする。
でも言ってることはわかる、と思う。
「よそ者っていうか…石黒さん、風みたいって思います」
「おー、そりゃかっこいい」
嬉しそうに笑った。
「あとね、いまの仕事気に入ってるし。あなたが四代目って立ち位置を気に入ってるのと近いね、きっと。あなただって四代目やめて政治家なるつもりはないでしょ?」
「まだ四代目「候補」ですけど…いえ確かに」
「ね?」
「はい…」
「まーお互い自分なりにやってきましょうや…よしと」
区切りつけた感じで、石黒さんは椅子から立ち上がる。
「さて、お会計いかほどで?」
「あ…はい。えーと、ちょっと待ってくださいね……二千円と千八百円と、三千三百円…」
一冊一冊、裏表紙見返しに貼り付けた発売票を剥ぎとって、レジに打ち込んでいく。
一方の石黒さん。また近づいてくると、勘定台に右腕を乗せて身体をあずけてきた。ぐいっと寄せられる、いつもの真面目くさったふざけた表情。
「なあ、ちょいと聞きてぇんだが、いまなんどきだい?」
「午後二時四十分です。二千三百円、三千五百円、五千二百円…」
「…もう一度、いまなんどきだい?」
「四千円、二千六百円、千二百円…」
「……」
石黒さん、ちょっと不満顔だ。
「いまなんどき…」
「はいはい落語はいいですから」
「よかった、通じてたんだー」
「……値段、間違えて高くしても知りませんよ?」
「すみません」
しゅんとしちゃった。でもすごくわざとらしい。やれやれ。
それから延々と打ち込み続けて、ようやく最後の一冊も。ふう。
- 823 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:20
-
「お待たせしました以上で…十二万四千五百三十円になります」
「ぎゃーす?!!」
うわぁびっくりした。
石黒さん、目をギョッと見開いてる。昔のハリウッド映画に出てくる女優みたいに喉もとに右手を当てるジェスチャー付き。
「なにびっくりしてるんですか」
「ハラピロゴイ!」
「なに懐かしい奇声あげてるんですか」
本気なのかふざけてるのか、わかりにくい人だよねまったく。
「マジっすか?」
「マジです」
あとさき考えずにこれだけの量を持ってきてたんだったら、わたしのほうがびっくりですよ。
「アパートの家賃三か月分だよー」
「そうでしょうね」
「あ、あんまりだ…」
「泣かれましても」
よよよ…って本当に口に出して床に崩れて見せる石黒さん。
これまたわざとらしい。こういうところが生徒にも好かれるんだろうなあ。
とにかく床の彼女に声をかける。
「どうせすぐに取り戻せる先行投資じゃないですか。順調にいってるんでしょ?」
「え?!」
「石黒さんの学校、副業にうるさくないし」
「……知ってた?」
「想像はつきますよ。あの◆×って人…あとよく見かける@♯って名前も実は…」
「あー、はいはい」
あっさり立ち上がってくれた。
「いやうん、内緒にするこたないんだけどさ。確かに職場や生徒に知れてもなんの問題もないし…でも言わぬが花っつーか。いまの状態が気持いいんだよね。いろんな自分がいるのがさ」
「はいはい」
「えーと…十一万八百八十円、ね。それでは諭吉さん、さよーならー」
結局あっさり払ってもらえたわけだけど、なんとも楽しい回り道でした。
「では百二十円のお返しです…あの、アパートまでお届けします? 後日うちのクルマでってことになりますけど」
「いや、きょう持って帰っちまうよ。すぐ読みたいしね」
「え、でもこんなに…」
「大丈夫大丈夫。ちょっと待ってて」
そう言うとすぐに入り口に走っていって外に出ていった。
ちょっとしてまた入ってきた石黒さん、口笛吹きながら肩に結構な大きさの木箱をかついできた。『じゃがいも 北海道産』とか印字されてるそれを床に降ろして、軽くポンと蹴飛ばしてみせる。
- 824 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:20
-
「実家から荷物送られてきたときのなんだけど、頑丈だし手頃な大きさでいろいろ入れられてね、重宝してるんだ」
「で、これに入れて荷台に縛ってく、と」
「そゆこと」
ぽんぽんと手際よく箱詰めしていく。隙間にはわたしが新聞紙を持ってきて詰め物にした。
最後に上から蓋かぶせると、石黒さんは、箱に片足乗せるとかっこつけたポーズを決めてこっちを見た。
「きょうはほんとに面白かったなー、あなたと話せて」
「はい、わたしも楽しかったです。石黒さんって面白いんだもん」
だってなにしろふざけてて…あれ?
「……いや、あなたのほうがよっぽど面白いから」
「え? 変ですかね、わたし」
「変だよー」
まっとうにやってるんですけど?
「それそれ。変じゃなさすぎて変すぎるから。誰でもどっか偏ってるもんなのに、あなたバランスとれすぎ…「正しい」にもほどがあるってかさ。いや、わかんないだろうな。わかるまい」
またそんな一人で納得して。気になるじゃないですか。
そういえばきょうずっとこんな感じだ。
「そんな四代目、みんな大好きだからさ。そのままでいてちょーだい。つーか変わりようがないだろうけどね、あなたは」
「はあ」
「面白いや、変わってるや、はは」
「……」
さて、と言って石黒さんは勘定台のヘルメットを取ると、シールドをはねあげて片腕を通した。
「よっしゃ、気合入れてこう!」
あ、手伝います。
「まーまー、そこにいなさい、まかせなさい」
「そんな無理しないほうがいいですよ?」
「んー、いける。たぶん………どりゃっせいっ!」
わ、すごい。腰おとしたと思ったら一息に肩まで持ち上げちゃった。細く見えるのになあ。
ちょっと足元がよたついてるけど、でもすごい安定感。
「おっとと…ね? 石黒先生は大丈夫…いや、いいから四代目はそこに座ってなきゃダメよー、あんたがいてこその『悠現堂』なんだからね? あんたは座ってる、見送り禁止!」
そのまま、ほいほいほい、ってすたすたドアに向かっていく。
そしてヘルメット通した手でドアを開けて。
- 825 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:21
-
「んじゃまたそのうちねー」
「え…あ、あの、ありがとうございましたー!」
「おいーっす、こっちこそありがとー、ヘンテコ正統派四代目!」
“ガチャ”
“ヂリン…ヂリン…リン”
石黒さん、去っていった。
残ったわたし、少しポケっとしてしまった
最後に言ってたあれ。人のこと『ヘンテコ正統派』って…なんですそれ?
うーん、わからない。
わたしって変なのかなー。いいんでしょうか、このままで。
どうしようもないんですが。
いまの気持、爽やかで、グチャグチャしてる感じ。
なんかすっかりかきまわされちゃったな。
なんといいますか。
きょうは、『悠現堂』をいたずらな風が吹き抜けていきました。
- 826 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:22
- ◇◆◇◆◇
『あなたのほうがよっぽど面白いから』
『ほんっと面白い人』
『ヘンテコ正統派四代目』
……うーん。
午前中からちょっと考え込んでしまう。
この前石黒さんから言われたこと、やっぱりよくわからない。
まともにまともに、やってきてるはずなんだけど。それは確信あるんだけどな。
きょうだってこうしてお店の仕事をしてるわけだし。
わたしは大学が冬季休業に入ったから、経理・会計の勉強の合間にできるだけお店にいさせてもらってる。お客さんが入ってないときでも、山のような在庫資料のデータを帳面からこつこつパソコンに入力したり、やることはいくらでもある。
いまお客さんは、わたしと同じくらいの年の女の子が一人だけ。
彼女は向こうの棚でじっくり読んでるみたいで、わたしも落ち着いて自分の仕事。単純作業で大切な作業、目録作り。手書きから電子化するのは先が見えないほど骨が折れる…大昔の役所資料とか、どうせ滅多に動かないんだけど。
…あれ、ここちょっと読みづらい。なんて書いてるかわからないな…現物見ないと。
店内すみっこのそのまた最上段・天井近くにある古びた未刊行資料に、脚立を立てて手を伸ばす――
“ガチャ”
“ヂリン…ヂリン…リン”
「ごめんくださーい」
あ、この声……
「いらっしゃいませ…石川さん?」
「あー、こんにちは福田さん。やっぱはまってますねー」
「?…ありがとうございます…」
とりあえず資料を持って降りると、脚立をたたんですみっこに片付ける。
ドアを開けて入ってきたのは、紙袋を提げたいかにも“女の子”という感じの知人…石川梨華さんだった。このお店に来たのは初めてだし、これまで二回くらいしか会ってないんだけど、とにかく知り合い。
それにしてもまたマフラーも手袋も帽子も…そのピンクのコート、どこで売ってたんだろう。目がチカチカする…いえいえ。厚手の冬物パンツだけでも焦げ茶色なのは救いが…いや、それはそれでどうだろう?…いえいえ。
けどどうしたのかな、入り口のところで立ち止まってちょっとためらってるみたい?
「石川さん?」
「えーと…あの子たちは…」
- 827 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:23
- 「ああ。ははは、亜依ちゃんも希美ちゃんも来てませんよ。大丈夫です」
「いえその、わたしはあの子たち好きですよ…」
そう言いながら、ほっとしたように入ってきた。
「辻ちゃんは好きだし、加護さんもいい子だと思うし…二人そろったときちょっと…」
以前、あのコンビにしつこくスカートめくりされて本気で怒ってましたもんねえ。
「でもあの子たちも、いつもいつもってわけじゃないですよ。それにもう落ち着いてきましたし」
「ええまあ、そうでしょうとも…」
そして安心した石川さん、「わー」とか「へー」とか言って珍しそうに店内をぐるって見回しながら、ゆっくり歩いてくる。その特徴ある高い声も、仕草も、少し色黒なところも…というか顔立ちからして「可愛らしい」をそのまま形にしたような人。
「やー、わたし一度ここに来てみたかったんですよー」
「それはそれは」
「古本屋さんって初めてで。どんなところかなって思ってたんですけど、すっごくいい雰囲気ですよね。これまでマンガとかで見て想像してたのと近い感じというか…素敵です」
そう言っていただけると嬉しいです。
「あとやっぱり福田さんですよね」
「は?」
「あのですねー、ここに来たかったのはもちろんですけど、“ここの福田さん”に会いたかったんですよ」
「ここのわたし、ですか」
「脚立のぼって棚から本出してるところからして、すっごいはまってましたもん。いまも。さすが四代目候補ですよね。福田さんがお店番しててよかったー」
ああ、それは本当にありがとうございます。
石川さんって顔立ちも可愛らしいんだけど、こんなふうに聞いて嬉しいことを言ってくれる「いい子」な人だ。年はわたしとほとんど同じで、つい最近わたしのほうが一コ上になったばかりなんだけど、可愛らしい人だなって思う。
「で、ですね。まず先に用事」
そうそう、っていかにもなジェスチャー付きで石川さん。提げていた紙袋をこちらに差し出した。
「あの、これちょっと遅れ気味っぽいですけど、お歳暮です」
「え、それはまたわざわざ…」
「いやーそんな。というかですね、姉からのお届けものと思ってください。『お世話になってるから』って言ってましたし。ほんとは姉が来るべきなんですけど。で、……屋のきんつば」
- 828 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:23
- あ、確かに中のこの包装紙のこれ…両親の好物。
けど、お姉さんからの届け物ですか。あのお姉さんから。
「飯田さん…お姉さん、お元気ですか?」
「あーもう、元気も元気。あの人はいつだって『圭織ちゃん』ですよ」
“やれやれ”という感じに、でもいかにも楽しそうに、この人はお姉さんのことを話す。
石川さんのお姉さん、結婚して『飯田』圭織さん。わたしや、特に希美ちゃんが深いお付き合いをしてる。高名な画家というかアーティストというかで、とにかくとてもマイペースな不思議な人だ。お店に飾ってる絵を描いてくれた人でもある。
「はは、『圭織ちゃん』ね…わかります」
「おととい、旦那連れて一週間前からドイツ旅行中って国際電話があって。いきなり旅先からですよ? 『年明けに帰るけどお土産なにがいい?』とか言うんだもの、福田さんからお歳暮に素敵な画集いただいといて全然お構いなし…あっ」
石川さん、ちょっと“しまった”って表情。
でも、ふふ、やっぱりね。
「…あのー、それ、あくまでも『姉からのお届け物』ということで…」
「ええ。『飯田さんから』ありがたくいただきました。両親にも間違いなくそう伝えます。でも飯田さん、うちの両親の好物ちゃんとご存知だったんですねえ、すごいすごい」
ちょっと聞いてみたくなる。
石川さん、また困った顔。
「…その、辻ちゃんに聞いたことがあったんで…いやもちろん圭織ちゃんが辻ちゃんに聞いたことがあったということで…」
はは、ごめんなさい。
この人は、ここらへんで気を回すし思いやりのある、やっぱ「いい子」なんだよね。みんなに好かれるだろうなー、と思う。
でもわたしはそれ以上に、この人の正直なところが好きだけど。わたしも正直に生きてるつもりだけど、彼女の正直さはわたしとちょっと違う感じで…元気で清々しいところがとても好きだ。
ともかくご丁寧にありがとうございます。
わたしはちょっと石川さんに失礼して、勘定台の向こうの奥の間に頂き物を置きにいく。
『飯田さんからの』お届け物ね。ふふ。
あと、そうだ、お茶も淹れてかないと。
- 829 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:24
- ◆◇◆
売り場に戻ると石川さん、棚に並んだ本の背表紙に指を走らせながらきょろきょろしてた。その雰囲気はもう「お届け物」しにきた「いい子」を一時停止した感じ。ちょっとリラックスしてもらえてるみたい。
わたしは勘定台にお茶とお茶菓子を置いて、丸椅子を準備。
「お急ぎじゃないですよね? ゆっくりしていってください」
「わー、ありがとうございます」
うん。「おかまいなく」じゃなく「ありがとう」と言ってくれる、こんなところも好きだよね。
「なるほどね、お客さんがただ買っていくだけじゃなくて、こんな風にちょっとゆったりできるようになってるんだー。いいですよ、いい雰囲気」
「ありがとうございます」
両手で湯飲みを持ってお茶をすする石川さん。声をちょっと落としてくれてる。
店内のもう一人のお客さんはずっと本を読んでいるから、わたしもあまり気を使わないでいいだろう。
「あの上の絵、いい雰囲気ですね」
石川さんはわたしの後ろに掛かってる絵を指差した。
「入ってすぐに気がついたんですけど、ここにぴったり。あの絵が福田さんとこにはまってるのって、嬉しいなあ」
「ああ、こちらこそ飯田さんの絵をいただけるなんて光栄というか。両親も喜んでます。お客さんがたにも評判で」
なにしろ展示会で評判になった絵だもの。それも飯田圭織さんの。ただ譲ってもらえるなんてありがたいし恐縮だし、と。
お姉さんを誉められて石川さんも嬉しそうだな――
「あの、福田さん。その、圭織ちゃん…姉のことなんですけど」
「あ、はい」
かしこまった感じでなんでしょう。
「あの人、抜けてますけどほんとは気遣いする人ですから…お歳暮・お中元みたいなお約束ごとにお構いなしなだけで。福田さんにお土産買ってくるって話してましたし」
ああ…。
「わたしも飯田さんの人柄は承知してますよ…やさしい人ですもんね。それにお歳暮もなにも、素晴らしい絵をいただいてましたし」
「そう言っていただけると嬉しいですー。よかったー」
- 830 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:25
- ほんと嬉しそう。姉思いだなあ、石川さん。
安心したみたいにお菓子をパクパク食べて、お茶を飲んで。
そしてちょっといたずらっぽい目をして言った。
「まーでも、わけわかんなくてイラってくるときもしょっちゅうですけどね」
「…あははは」
「ほんとですよ? 福田さんにだってなに買ってくるか…マトリョーシカ人形とか買ってきかねないですよ。木彫りの熊とか」
それはありうる。
「以前、沖縄土産が『東京ばな奈』のお菓子でしたから」
「…それも飯田さんらしいですけどね」
「ということで、あらかじめフォローです。まったくあの人はほんと世話の焼ける…やってらんねっつーの」
そう言ってまた湯飲みを手にする石川さん。
だんだん正直な彼女が出てるみたい。
「それにしても石川さん、お姉さんのこと大好きで大事にしてますよねえ」
「ゴホッ…ちょっ、なんですか…むせちゃった」
「あ、ごめんなさい…でも、そうですよね?」
「えっと、そんなあらためて真っ直ぐ聞かれるとびっくりだけど…そうですよ」
うん、正直正直。
「なにしろわけわかんなくて、ヘンテコで、理解できないところもいっぱいで…でも大事な姉ですよね。あの人はわたしの一人だけのお姉ちゃんで、わたしはあの人のたった一人の妹で……ありゃ、なに語ってるんだろ」
「いや、いいことじゃないですか。いいことを言うの、いいことですよ。本当のことは大事なことです」
「う……そうこられるから調子が狂うというか、さらけ出しちゃうというか…」
はい?
「いやなんでも…えーと、じゃ本当のことついでで言うと、福田さんには姉がお世話になってるなーと感謝してますよ、この妹は」
「お世話だなんて…」
「あの人、ぽわーって現実離れしてるから、福田さんっていう現実感と安定感の塊みたいな人とのお付き合いが大事なんですよ」
「えーと、ありがとうございます」
誉め言葉だったのかな、いまの。
「よくヘコまされてるみたいですしね。前に一度ひどく落ち込んで泣いてたことがあって…わたしがまだ福田さんのこと知らなかったときですね…その時は“大事なお姉ちゃんを泣かせるなんて誰だか知らないけど許せない”なんて思ったもんですけど――」
- 831 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:25
- それを言われると申し訳ないといいますか。
「いやいいんですよ。あとでちゃんと事情を聞いたら正しいのは福田さんのほうだったんだから。わたしはいつだって圭織ちゃんの味方だけど、正しいのは福田さん。で、どんどん正しくヘコましてくださいね」
「ヘコみますよねえ、飯田さん」
「大丈夫大丈夫。あの人立ち直り早いし。いつでも支える妹がいるし」
結局そこに行き着きますか、姉思いの妹さん。
「まったく姉思いで可愛くていい子なことですよ、石川梨華ちゃんは」
またずいぶんと正直さんになったことで。
あ、もうお茶もお菓子もなくなりましたね…
「じゃーちょっとゆっくり見させてください」
「ええどうぞ」
- 832 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:26
- ◆◇◆
立ち上がった石川さん……
その場で立ったままぐるーり一周、見回してため息ついて。あれ?
あの、お店の奥のここら辺は、年表とか史料集とか行政資料とかばかりであまり見て楽しくはないと思いますよ。というか困った顔はなんででしょう?
「うー…本、いっぱいですねー」
「商売ですので」
「古本屋さんって素敵な響きでここの雰囲気も好きなんだけど…こんなに積み上がってるとどれから手に取ればいいやら」
「ああ、なるほど。そういうの、あるかもしれないですね」
確かにこういった、時代のついた本がものすごい量あるというのは、人によってはとまどうかも。あと、最初から目当てを決めてないとたくさんありすぎてどれも手に取れないとか。いや、わたしはここで育ったからちょっとわからないけど…。
「福田さん、どういう本がおすすめですかねー」
「え?」
「なにか読んでみたいんだけど、なにがいいですか?」
「えっと…いや、それは読む人に決めていただかないと…」
本といっても小説もあれば参考書もあれば技術書もあれば趣味・教養とか、とにかくいろいろで。小説だってSF、ミステリ、ホラー、ファンタジー、恋愛ものとか…。「趣味の本」なら手芸・囲碁将棋・映画・園芸・銅版エッチングなどなど。要するに「なにか本」「とりあえず本」というものはないわけで。
「やっぱそうですよねー…はぁ」
そんなに悲しそうな顔をしないでくださいよ。
「わたし、本は読みたいんですけどねー。字がたくさん詰まってるのって目がチカチカして頭痛くなってくるんですよ。アホ高の高卒だし」
「うーん…」
「あ、こんなこと言われても困りますよね、ごめんなさい。とにかく、読んでみたいとは思うんですよね」
読むと頭痛くなってくる…でも読んでみたい、か。
- 833 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:26
- 「石川さん、あの、本だから特別ってことはないと思いますよ。なんでも一緒で、身体に合う・合わないってありますよ。わたしはシャンソンってなにがいいのか全然わからないですし。それと縁がある・ない、というのもありますから。必要な人が必要なときに必要とすればいいというか…」
「わたし本には縁がないですかねー?」
おっとと。また残念そうに。
縁のある・なしはただそれだけのことで、本がエライわけじゃない、読まない人は読まなくていいし…ってこういうこと言わないほうがいいのかな、四代目候補としては。
とにかく、本も色々なわけで。
「一ヶ月に何冊の本読みますかとかアンケートであるじゃないですか。わたし週刊誌とかマンガばっかりですもん」
「読みたくて読むのが一番ですよ?」
「ああ、そうかなあ。福田さんから聞くとそんな気もするなー」
そうあっさり信用されても。
確信あることしか言わないつもりだけど、やっぱりそこはね…。
「うんうん、福田さんは正解しか出さないですもんね。正論しか言わないっていうか。安心して話せますよ。いまの、自分が本読めないなんて話、きょうすると思わなかったのになんか話しちゃってるし」
「それはどうも」
石川さん、すごく楽しそう。
「確かにムキになって読まなきゃって思うことないですよね。でも読みたいっていうのはそれは本当ですから、その気持は大事にしたいっていうか…」
「ええ、すごく大事だと思います、わたしも」
ほんと、自分の中にせっかくある気持、育ててあげたいものね。石川さんとわたしは違う人間だけど、そこのところは変わらないと思うもの。
そしてますますキラキラする石川さん、わたしも楽しくなってくる。
「なんか読みたいですねー……そうだ、福田さん」
「はい、なんでしょう」
「マンガあります?」
「ええ、はい、置いてますよ」
読みたいと思っていただけました。
わたしが好きな、石川さんのキラキラ前向き。嬉しいです。
そしてマンガとなれば…はい、四代目候補、ご案内いたしましょう。
- 834 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:27
- ◆◇◆
ご案内といってもほんの五六歩、歩いただけだけど。
メインのフロアの、入り口から見て一番右端・奥の棚。科学書とかを集めてある小区画への入り口のところね。
むこうでは相変わらず、先に来ていたお客さんがペラペラと分厚い本のページをめくっている。ときどきこちらをちらちら見てるけど、邪魔にはなってないよね、よし。
「マンガはここの棚です。そんなに冊数があるわけじゃないですけど」
「はーい…ダメもとで言ってみたけど、まさかこのお店にマンガがあるなんて思わなかったな」
『まさかこのお店にマンガが』…ま、古いお客さんに似たようなこといわれますが。
でもいまの石川さんみたいに興味をもってくれるお客さんもいますし。
「じゃ、わたしこっちで座ってますからごゆっくり」
「はいはい」
また勘定台に戻って、ついでにお茶とお菓子を乗っけてたお盆を下げておく。
ここからすぐそばの石川さんの背中、すごく集中してるみたいだな。さてどうなることやら。ちょっとドキドキする。
「えーと…ありゃ、知らない人ばっかりだなー。ずいぶんとマニアックですねー」
え、そうなのかな?
「全然見たことないもの。売れるのかなあ、いやここにあるってことは買った人がいたんですよね」
う…それなりに売れ線を置いてるつもりだったんだけど…
「あ、少女マンガはわかる! いいですよねーこの人の!」
こっちをふりむいて、A5版の単行本をかざして見せる石川さん。
あ、それわたしも好きだな。
「ええ、そうですね。ええ、ええ」
ああよかった。わたしが間違ってたわけじゃないんだ。
マンガは店主である父にわたしが勧めて今年から扱うようになった。
父も世代的にはマンガ世代のそのまた第二世代か第三世代というやつだろうに、これまでずーっと「マンガなんて」って言ってたな。いまもちょっと…。でも活字だろうがマンガだろうが、いいものはいいんだから。
- 835 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:28
- とにかく、隅のマンガの棚についてはわたしに任せてもらってる。店の雰囲気を考えて、地味な…というか落ち着いた感じのだけをそろえるようにして。でも固定読者の見込める良作ばかり。人気と雰囲気とちゃんと考えてるんだ。棚のスペースだってこれ以上広げる気なんか全然ないし……
「ねー福田さん、マンガ、もっと置きましょうよ」
「は?」
「誰でも知ってるような派手なやつドーンと置いたら、絶対もっとお客さん来ますよお」
「えーと、そうかもしれないですね…」
そうかもしれないですけど、今までのお客さんが来なくなると思います、石川さん。
得意げな表情が生き生きしていて、ほんとに可愛らしいですけど。声も大きくなってますし…
「それかいっそ、あれですよ、あれ!」
「…なんでしょう?」
この目の輝き。
猛烈に嫌な予感が…
「エロ本! 売れますよお」
的中。
ああ、なんて可愛らしい無邪気な笑顔だろう。悲しいくらいに…
「こっちの奥のほうの区画をですね、ぜーんぶ成人コーナーにして、そっち系の雑誌やマンガや小説や写真集で埋めてしまうんですよ。ビデオとかDVDも置いて。そっち系どころかあっち系からこっち系まで、ってどっち系だよ!…なーんてね、やー、名案♪」
………。
「それにしても他人のお古のエロ本買う神経ってわっかんないですよねー」
「………」
「男って悲しい生き物ですよねー、サルですよサル。そう思いません?」
「………」
「ま! 梨華ちゃんったらそんなこといっちゃ、めっ。あはは」
「………」
「……あのー」
……あ、ごめんなさい石川さん。うかつに口を開くと余計なことを言ってしまいそうだったので。いけないいけない…うん、もう大丈夫。
飯田さん、さすがあなたの妹さんです。というかあなたより…いやいや。
「やだ福田さん…あの、冗談ですよ? あははは」
「ですよねえ、あはははは」
「そーですよー、あはははは」
「「あははははは」」
ちょっとだけ本気だったんですね、石川さん。
ちょっとだけがっかりしてますもんね。
- 836 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:29
- ……と思ったら。
「なんか…変だなー」
「?」
「いや、わたし“いい子”だからこんなこと言わないはずなんですけどねえ。ほんときょうはさらけ出しちゃうなあ。福田さんと話してると」
えーと、それは石川さんが正直な人だからだと思うんですけど。
「こんなふうなはしゃぎかた、絶対しないですよ。“いい子”の石川梨華ちゃんだし。このお店の雰囲気好きだから、自分がその空気壊すわけないって思ってたのに…なのに思いついたことそのまま言っちゃって、それがすごく気持よくて楽しいし」
「あの、石川さんも大事なお客さんですから」
いろんなお客さんがいてこその『悠現堂』。
時間は進んでいくし変わるものは変わる。新しいものも入ってくる。
「それ…その感じですね。だからだわ、やっぱり」
「なにがですか?」
「んー、内緒です…とにかくここの棚好きかも。もちょっと見まーす」
くるって棚に振り向いてまた熱心に選び出した。あーこれこれ、とか小声で確かめながらもう一冊二冊と引き出していく。そして――
「あ、こっちもいいですねえ」
「あー、そうでしょう」
彼女が指差した先は、隣の児童書の棚だった。
そしてすぐに、これ懐かしいなあ、と嬉しそうに言いながらまた手にとる。
「これねー…好きだったな」
いままで抱えてたマンガを棚の空きスペースに置いてページを開いた。
「小さいころ好きだったのって憶えてますよね」
「憶えてますよー。『じゃあ、俺は真ん中を歩いてみよう』ってものすごくかっこいい!って思いましたもん。小学校三年生だったかな……あ、思い出した。『二人だけだとケンカするけど、三人いれば誰か二人が残り一人の陰口言うからうまくいく』とか…いま思うと深いこと書いてたんですよね、子供相手の物語に」
「すごくいいのがあるんですよね、確かに」
わたしが言うと、うんうん、って首を縦に振る。
- 837 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:29
- 「この本もだ。この海と空の色使い…というかもう全部だな、なんてにぎやかできれいなんだろう、この中に入りたいって思ってましたよー。これ読んで、目玉焼きは本当はすごくおいしいはずだ!なんて思ったり」
「はは、わたしもです」
「ああ!わたしこれでハチミツ塗ったパンはおいしいものって刷り込まれてるんです、いまだに。『みんなが一ぴきぶん はたらけばいいんだ』…いいこと言ってるなー…」
すっかり夢中になって、取り出しては熱心に話し続けてる。
いまでも新刊で出てるけど、でもまた会えてよかったですね。
「この頃、楽しく読めてたなー…」
「石川さん…」
ふと石川さんはしみじみした表情になった。
「読書感想文とか全然ダメでしたけど、面白いのがいっぱいあったんですよ…」
「面白かったし、面白いですよね」
「福田さんもですか?」
「ええ」
小さいころに「良いもの」「面白いもの」にきちんと触れられたのはすごい幸運だったと思ってる。自分の物差しが固まったんだよね。
一方の石川さんは、パタンと本を閉じて静かにうなずいた。
「このころの気持でまた読んでみようかなー…読みたい気持で」
「いいじゃないですか。きっと発見がありますよ。小さいころにはわからなかったことが」
「ですね!」
また、キラキラ笑った。
- 838 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:30
- ◆◇◆
マンガを四冊と、絵本・児童書を五冊。
手にとって脇に抱えたのを、結局全部持ってきた。
「…五百円、四百円、以上で三千五百七十円です」
「わ、ずいぶん買っちゃった」
石川さん、得意そう。
「これまで雑誌とか買いに本屋さん行っても、ほかに本買おうなんて全然思わなかったのに。きょうは買いたい気になっちゃった」
「ありがとうございます」
「ここ来て、このお店で、福田さんと話してて、だからですねー」
わたしもあなたのお手伝いができて嬉しいです。
それはそうと、やっぱりこの手提げ袋…かっこ悪いですよねえ。
「いや、いいんですいいんです……あの、きょう買ったの、じっくり読みます。で、気が向いたらほかのもまたここで。そのうちいろいろ読みたくなる…かも」
「お待ちしてます」
「“かも”ですからね?」
「はは」
そうそう、そのくらいがいいんです。それが一番なんです。
というか、それ以外ないんです。
「ここのお店が好きなのは間違いないですから。また遊びに来ますね」
「ええ、ぜひいらしてください…あと、お姉さんにもよろしく」
「はーい」
それじゃ、とあらためて言う石川さん。
来たときみたいにお店の中をきょろきょろ見回して、ときどきこっち向いて笑って、すごく楽しそうに嬉しそうにドアに歩いていった。
「じゃ、また」
「ありがとうございました」
“ガチャ”
“ヂリン…ヂリン…リン”
さあ。
長いお付き合いができるといいですね、石川さん。
わたしと石川さんと。
なにより、石川さんと本たちと。
『悠現堂』、いつでもお手伝いいたします。
- 839 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:31
- ◆◇◆
「あの…」
おっと。
ドアのほうを見てたところに声をかけられて、びくっとしちゃった。
いけないいけない、まだお客さんがいたんだった。
向こうの棚の前でずっと本を読んでいた女の子。
「あの、いいですか?」
「すみません失礼しました。いらっしゃいませ」
またきれいな子だなあ。ちょっときつそうだけどでも可愛い感じ。声も可愛かったし。
背丈はそんなでもない…でもわたしよりはちょっと高いかな。
…でもなんでそんなにこっちをじっと見てるんでしょう?
「…えと、そちらをお買い上げですよね?」
「ええ、まあ」
彼女が手にしてるのはハードカバーの古い海外小説。たぶんさっきからずっと読んでいたものだと思うけど。
「…五百二十五円になります」
「はい」
財布を取りだす彼女と、本を袋に入れるわたし。けどこのお客さん、ほんとこっちのこと見てるなあ。とにかく品物とお釣りをお渡ししてと。
「えー、では五百五円のお返しですね。ありがとうございました」
「…」
「あの?」
本をバッグにしまった彼女、まだ勘定台の前に立ってる。
なんだろう。まだなんか用事とか?
「さっき…」
「はい?」
「さっき、すごくにぎやかでしたね」
「あ!…すみません。ご迷惑でしたか」
そうだ石川さんとわたし…しまったな。
もうちょっとわたしが気をつけなきゃいけなかった。四代目候補ともあろうものが。
「大変申し訳ございませんでした。以後気をつけますので…」
「いやなんていうか、その、楽しそうだった」
「は?」
「うん。あの子もあなたも楽しそうでね。新しくお客さんがついたんだなって思った」
「…おそれいります」
苦情じゃないみたい、だね。
「本読みたい、でも読めないって子が、帰るときすごい嬉しそうにしてて。そうして続いていくんですね、このお店」
ありがとうございます…でいいんでしょう、きっと。
というかこのお客さん、こういったお話をしたかったのかな。なんかちょっと表情が固い気がするけど。
- 840 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:32
- 「さっきの様子なら、たとえ近所に新古書店とか出来ても大丈夫そうですね」
「どうでしょう。ここらへんでそういった話は噂もないですからわからないですけど…でも、はい。たとえそうなっても大丈夫だと思ってます」
「…自信があるんですね」
まあ余裕ってことはないですけどね。
「お客さんの層が違うと思いますし。第一、うちはこの土地でこれまで積み上げてきたものがあって、さらに積み上げ続けてますから」
「積み上げ続けて…」
「最善を尽くしてますから」
一言で言えばそういうことです。
「うわっ…やっぱりそうなんだ、なるほどね。正しく正しくやってくんですね、お天道様に恥じることなどなにもなし、と。それで正義は勝つんですよね、はいはい」
え?
この人なにかにイラついてるみたい。なんなんだろう。
「あの、どういうことですか?」
「いやなんでもない、ごめんなさい。あたしがね、みんな悪いんでございます」
イラついてるよねえ。これは気になる。
「やっぱりさきほどの話し声、騒がしかったですか?」
「ああ、それは全然関係ないです、はい」
じゃあなんだろう。
「わたしなにか気にさわることしたでしょうか?」
「…心当たりはないんでしょ?」
「ええ」
まったくもって。
「なら当然『よくわかりませんがとりあえず申し訳ございませんでした』ってのもなしなんでしょ」
「はい。身に覚えがないので」
「……はぁ」
なぜそこでため息ですか。
「ほんとそうだよね、あなた。いつでも正しい道進んで、曲がったことしないで。だから謝る理由なんてなーんにもなくて、理由がないからごめんなさいと言うこともない」
「は? 『いつでも』?」
「ずっとそう、ここもあなたも。世の中どう変わろうがこの街はたいして変わらずに、正しいことも変わらずに。お調子者は余裕のつもりで空回りしてて、正攻法が勝つ…なんじゃそりゃ」
- 841 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:33
- ちょっとなんなんだろう?
それにいま『ずっとそう』って。
「あの、どこかでお会いしましたっけ?」
「…」
彼女はふっと肩の力が抜けたようになった。
「……ごめん、なんでもない」
「なんでもないことないですよ。わからないじゃないですか。以前お会いしてるんですよね?」
「あなたはあたしのこと知らないんだよね…」
「ですから教えてください」
「あなたが知らないんだったら、会ったこともないんでしょ。そうに決まってる」
面倒くさいといったふうに髪をかきあげる。
「会ったことないんだけどね、なんつーのか、あなたみたいな正しくて変な人に一方的にイラつくバカも、世の中にはいるってこと。苦手も苦手、なんとかしてくれって。あなたが悪いんじゃないよ、悪いのはそいつ」
「…困りましたね。どうすればいいでしょう」
「え?…あー、つっかかってごめんなさいね。忘れて忘れて」
そうやってうやむやにしちゃいけません。
「でもさっきからの話だとなにか問題があるんですよね? あなたとわたしとの間は。だったらなんとかしないと」
「はい?」
「問題があるなら解決しないとダメじゃないですか」
「……」
「解決しないと。ほったらかしはよくないですよ」
「………はぁ〜」
またため息…いや。
彼女は初めて笑った。きつい表情が一気に柔らかくなったみたいに。
「ったく。あなたはそうなんだよね。そうでした。そんなのわかってたのにさ…てことでこっちは解決したから」
「え?」
「だからあなたのほうも解決ね。わたしのほうが片付いたんだから、ね」
「それはそうですけど…」
解決したというならいいけど。
彼女のほうは、やれやれ、とか言いながら首を回す。
「変な人だよねー…あ、聞き流してね…変で、そのまんまで」
「変、ですか」
「だから聞き流しちゃって…ま、こんなふうに思う人もいるってことで…きょうは確かめにきたんだけど、確かめるまでもなかったな。んじゃ」
「あ…はい、ありがとうございました」
- 842 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:33
- こちらにお構いなしで、すたすたとドアに歩いていく。
なにかふっ切ったみたいなサバサバした歩き方、ハーフコートと防寒ブーツの後ろ姿。こうして見ると小柄なのにスタイルいいんだなー、なんて。
するとドアの前でぴたりと止まった。
「あのー!」
こっちに背中を向けたまま声をかけてきた。
「あなたは正しいから」
「はい?」
「で、それにイラつくやつもいるから」
「あの…」
「結論は『気にするな』だけど。そこへの筋道は宿題ね。以上!」
そしてすぐに右手でパタパタさよならして、ドアを開けて出て行ってしまった。
………
なにがなんだか…あっけにとられてしまった。
変なお客さんだったなあ。
ていうか、「変」ってあの人がわたしに言ってたよね。そういえば石黒さんも。
変わった人に変といわれてしまうのは一体…四代目候補、大丈夫かなあ。
うーん。
考え込んでしまいました。
- 843 名前:「4. Wisdom Chain」 投稿日:2003/12/25(木) 01:35
- ◇◆◇◆◇
また午前中の売り場。
資料整理も掃除もすんでしまって、少しぽけっとしている。
弱い陽射しと蛍光灯、ヒーターの音…その中で考えてしまう。
――おとといのあのお客さん、なんだったんだろう。
『宿題』ねえ。
気にすることもないんだろうけど、お客さんに接していく身としては…なにより四代目候補としてはやっぱり気になる。
わたしの接客なりお店への考えかたに問題あるのかな。これまで考えて気をつけて、誠実にやってきたと思ってるんだけど。それは胸を張れるんだけどな。
いまが問題なのか、だとしてどうすればいいものか。
さてどうしたもんか……
お、ドアの向こうに女の子が一人。こっちを覗き込んでる。
入ってくるのかな? ちょっととまどってるみたいだけど、お客さん?
“ガチャ”
“ヂリン…ヂリン…リン”
お客さんでした。
おずおずってドアを開けて、初めての子か。そりゃこういうお店に入るのはちょっとためらうかも――と思ったら。
わたしを見るとすぐに、たたたたって一直線に小走りでむかってきた。勘定台のすぐ手前でピタっと立ち止まって、こっちを真っ直ぐ見る。えっと、なんでしょう?
「…いらっしゃいませ」
「……」
おや緊張してるのかな? 返事もしない。
それにしても小柄な子だねえ。わたしとどっこいか。
まだ中学生だよね、たぶん。いかにも「子供」って感じだもん。
そしてずいぶんとはっきりした顔立ち。可愛らしいけど、眉はきりっとしてるし鼻がほんのちょっと上向き気味なのがいかにも活発そう。表情自体はっきりしてて意志が強そうで。ちょっと見ただけで感じるもの。入り口からの走りかたまではっきりしてたし。いえ、そんなにお客さんをじろじろ観察するわけにもいかないけど。
……というか、この子もまたさっきから黙ってこっちのことをじーっと見てるよね。なんだろう?
「えっと、なにかお探しですか?」
「あ、はい?」
聞き返されましても。
「ここ来るの初めてなんですよね、お探しの本があるなら…」
「あの!」
さえぎられちゃった。
「はい?」
「お姉さん、ここの人なんですよね?」
はっきり喋るね、この子。
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