ビッグクランチ V
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月17日(火)02時04分08秒
T http://mseek.xrea.jp/sky/1041613129.html
U http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/sky/1047139649/
- 2 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)02時05分26秒
† NO-SIDE †(承前)
- 3 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時06分03秒
51.エンゼルフィッシュ
- 4 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時06分39秒
……
平屋の小さな校舎には誰の気配も感じなかった。私の立てる足音だけが
ただ寂しく響いて消えていった。
整然と並ぶ窓からオレンジ色の夕日が射し込んで、無表情な私の横顔を照らし
出していた。乾き切った空気が、目に痛かった。
校長室から職員室の前を横切って、薄暗い廊下を二度曲がって、校庭と立ち並ぶ
教室に挟まれた廊下を進んだ。教室に辿り着くまで誰とも擦れ違わなかった。
嬉しくも悲しくもなかった。ただ薄く涙の浮かんだ顔を見られなかったことが
救いだと感じた。話しかけるのを恐れる病は、これまでも発作的におとずれた。
洗面所で顔を洗って、水飲み場でうがいを三回した。喉の奥に巣くった
薄気味悪い影は、それでも消えていってくれなかった。
- 5 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時07分25秒
- 教室に戻ると、美貴が一人で居残っているのが目に入った。
その日、美貴が残されるように言われていることはなかった。美貴が施設から通って
いることは知っていた。私の母が施設の職員だったからだ。だから、美貴が
面白くもないそこへ帰りたくないでだらだらと居残っている気持ちは、分からない
でもなかった。
美貴については、それ以外にもいろんな噂が耳に入ってきていたけど、それほど興味は
惹かれなかった。もともとそういう陰口の類は好きじゃなかった。ただ、
美貴が自分たちよりも年上で事情があってクラスが同じになっている、という
話が少し気になったことはあった。
普段から年上の女の子と話す機会がなかったから、憧れのようなものも
あったかもしれない。
美貴は私と机を並べていた。前から五列目で、最後尾だった。美貴は窓際の
席だった。私は小学校の四年にあがってからずっと美貴と机を並べていたが、
声をかわしたことはなかった。
美貴は誰とも話そうとはしなかった。私は美貴以外のクラスメートとは全員と
喋ったことがあった。私以外のクラスメートも、多分美貴と話したことの
ある人はいなかったと思う。
だから、私が教室へ戻っても、美貴は振り返ろうともしなかった。私は
机にぶら下げたままになっている鞄を取ると、美貴の方を一瞥した。
- 6 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時08分06秒
- 美貴は黙々と机をナイフで削っていた。美貴がナイフを持ち歩いていることは
学校中で有名だった。
定期的な持ち物検査の度に没収されていたが、教師が生徒の持ち物を没収した
ままにしておくと「マスコミ」がうるさいという理由ですぐに返された。
その繰り返しだった。
美貴は他人をナイフで傷つけるようなことはしなかったが、誰もが美貴の
持っているナイフを怖がっていた。私も怖がっていた。皆が美貴に声を
かけようとしないのも、そんなことが原因じゃないかって思っていた。
私はなんとなく美貴が机を削っていく様子を見つめていた。古びた木の机には、
いつから彫り続けられているのかは分からないけど、かなり複雑に入り組んだ
模様が刻まれていた。あちこちで分岐し、ねじくれて、絡み合い、交錯して
いた。どこか今の私の心境にぴったり合っているように見えた。
- 7 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時08分53秒
- そう思ったとき、美貴がふと顔を上げた。私と目が合った。私は困ったように
口を歪めた。なにも言葉は出てこなかった。窓から差し込んでくるオレンジ色の
夕日が、美貴の顔と机とナイフを照らし出していた。
美貴は何度か瞬きをすると、亜弥、校長室に行ってたの、と声をかけた。私が
喋らないから、しかたなしに声を出してみました、といった感じだった。
それが私が美貴の声を聞いた最初だった。美貴がクラスで休み時間でも
授業中でも声を発するのを聞いたことがなかった。
私はただなんとなく無視するのもいやだったから、うん、とだけ答えた。美貴は、
そう、とだけ返すと、また机にナイフで傷を付け始めた。
私は、すぐ隣に座っている美貴の机がこんな状態になっていることになんで
ずっと気付かなかったんだろう、と不思議に思った。掃除の時にでも、窓際で
オレンジジュースを飲んでいるときでも、気付いたっておかしくなかった。
- 8 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時09分32秒
- 私は帰らずにしばらく美貴が机を彫るのを見つめていた。美貴はそれ以上
私と話すことを思いつかないようだった。仕方がないので、私が口を開いた。
なにやってるの?
美貴は顔を上げずに、地図を作ってるの、とだけ答えた。地図? 私は首を
傾げた。日本のどこにも、世界のどこにもそんな汚くグチャグチャに混乱した
街なんて存在するわけない、と心の中で思った。
そう、地図。東京の地図。美貴が言った。
私は少し笑って、東京のどこ? と訊いた。美貴は、分からないけど、東京の
全体、と答えた。私には、美貴の言う意味がよく理解できなかった。全体って
全部ってこと? でもそんなんじゃないよ、私航空写真で見たことあるもん、
と私は言った。けど、美貴は淡々と表情も変えずに、私にはこう見えるんだ、
と言った。そんなもんなのかな、と私は一度は納得しかかったけど、やっぱり
普通に考えればおかしかった。
- 9 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時10分15秒
- 美貴はこの話題を続けるのがいやだったのか、私に、校長室に呼ばれたって、
なにか悪いことでもしでかしたの? と訊いてきた。美貴に訊かれて、私は、
そう言えば、なんで校長室に呼ばれたんだろう、と今更疑問に思った。
私は、遅刻も、無断欠席も、宿題忘れも、喧嘩も、万引きも、カンニングも、
教師への不適切な言葉遣いも、なにも悪いことはやらかしてなかった。
私は、別になにもしてない、と答えた。美貴は顔を上げて私を見つめた。
なにもしてないのに呼ばれたの? と私が心で考えているのと同じような
疑問を口にした。
私は、うん、多分なにもしてないと思う、と自信なさげに答えた。でも
なにもしてないのに怒られるの? 美貴は言った。私は別に怒られては
いなかった。怒られなかったよ。と私は言った。じゃあなにしに行った
のよ。美貴は少しイライラしているようだった。私は校長室での出来事を
思い出して、気分が悪くなった。あまり口に出したくはなかったけど、美貴を
イライラさせるのも怖かった。咄嗟に口を開いて出て来たのは、「親指」と
いう言葉だった。
- 10 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時11分00秒
- 親指? 美貴は眉を顰めて怪訝そうに繰り返した。うん、あれは、親指。私は
困ったように言った。言ってから、急に吐き気がした。それを飲み込むと、
涙が零れた。美貴は神妙な面もちになって、私を見つめていた。私はばつの
悪そうな表情になると、涙を拭こうとポケットに手を入れてハンカチを
引っ張り出した。
その時、乱暴に引っ張り出したので他に入っていたものも全部床へ落ちて
しまった。色褪せた千円札が、皺だらけになって三枚入っていた。なんで
そんなものが入ってるんだろう、と一瞬考えて、それから、ついさっき
校長室でもらったものだ、と思い出した。
美貴は千円札を拾い上げると、私の手に握らせてくれた。私はなんだか
よく分からないけど恥ずかしさで顔が赤くなった。夕日のお陰でそれが
目立たなかったことに、私は感謝した。
- 11 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時11分31秒
- そのお金、美貴が言った。校長にもらったの? 私はなんで美貴がそんな
ことを分かるのか不思議だった。うん、と私は頷いた。涙は止まってくれ
なかった。美貴の口調が硬くなっているのに、その時は気付けなかった。
親指は、美貴が言った。どっち向いてた? 上? 下? 私は美貴の質問が
よく理解できなかった。意味はすぐに分かったけど、なぜそんなことを
知りたがっているのかが分からなかった。私は思い出したくないことを
賢明に思い出した。下。と私は答えた。下向きに、垂れ下がってた。全く
力が感じられなかった。親指といえばお父さんのことなのに。
- 12 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時12分07秒
- 美貴は溜息をつくと、刺繍もなにも入ってない白いハンカチで私の涙を拭った。
親指。美貴が呟くように言った。上向きの親指は、グッド。すごくいい意味。
下向きの親指は、ファックオフ。喧嘩売ってるの。だから下を向けるときは
覚悟しないといけないんだ。
美貴は言うと、ナイフをポケットに仕舞って、鞄を持って教室を出ていった。
美貴の鞄には、小さなイルカのキーホルダーがぶら下がっていた。それだけが、
なぜか強く印象に残っていた。
私はしばらく夕日の中でぼんやりと突っ立っていた。どれくらい時間が
経ったか分からないけど、鞄を持って教室を出たときにはもう外は暗く
なっていた。
校舎を出て、交差点の向いにあるコンビニで、トマトジュースを買った。
真っ赤な液体を一気に喉の奥へ流し込むと、ようやく吐き気が消えた。
ポケットには二千円と、小銭で八百円くらい残っていた。私はもう一度
コンビニへ入ると、表紙にエンゼルフィッシュの写真がついた日記帳と
ボールペンを買った。これまで、日記なんてつけたこともなかった。
- 13 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時12分45秒
- 家に戻ると、私は真新しい日記帳の一ページ目に、こんなことを書いた。
はじめて美貴ちゃんと話した。
地図と親指の話をした。
ナイフが欲しくなった。
その日はなかなか寝付けなかった。いやな夢が呼んでいるような気がして、
怖かった。夢の中に現れたのはピンク色の蛇だった。つるっとした鱗から
トマトの酸っぱい匂いが漂っていた。真っ赤なトマトがなんでピンク色になって
いるのか不思議に思って、それから悲鳴を上げた。その声で私は目が覚めた。
- 14 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時13分18秒
- 額に浮いた汗を拭って、カーテンを開けると雨が降っていた。朝食はいつもと同じで、
目玉焼きとトーストと牛乳だった。私は牛乳の白濁した液体を口にすることが
出来なくなっていた。お母さんが心配して声をかけてくれたけど、私は、
お腹の調子が悪いから、とだけ言って誤魔化した。
学校はいつもの通り騒がしかった。私は自分の席に鞄を置くと、となりの
美貴の机を見た。
東京の地図は信じられない複雑さで、ちょうど右半分だけに刻まれていた。昨日は
気付けなかったけど、左半分はきれいなままだった。未完成の地図なのだろうな、
と私は思って、それから、美貴にどう話しかけようかとあれこれと考えた。
不思議と、楽しい気分になってきた。
- 15 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時14分05秒
- 始業のベルが鳴っても、美貴は姿を現さなかった。美貴が遅刻をすることは
今までになかった。よく覚えていないけど、欠席もほとんど無かったような
気がする。
私は心配そうに後ろの入り口を見つめていたが、いっこうに姿を現す様子は
なかった。ドアに寄りかかって、二人の男子が昨日見たアイドル番組に関して
くだらない雑談を続けていた。私以外の誰も、美貴の不在に気を留めて
いないようだった。
担任の教師が出席簿とチョークの箱を持って姿を現すと、教室のあちこちに
散らばっていた生徒たちが無言で自分の居場所へ戻っていった。空いている
机は美貴のものだけだった。
前髪を垂らして若作りしている四十代の教師が、抑揚のない声で出席を取り始めた。
浅井。有田。飯島。伊東。井上。
私はカウントダウンが近付いてくるような気分で、後ろの扉から視線を
そらせなかった。
- 16 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時14分46秒
- と、がらがらと耳障りな音を立てて、美貴が姿を現した。髪も服も鞄も
びしょぬれだった。雨に濡れただけでなるような状態じゃなかった。なにが
起こったのか分からなかった。
私はなにか声をかけようとして口を開いたけど、次の言葉が見付からなかった。
美貴は周囲からの冷たい視線を振り払うように早足で進んでくると、じっと
視線を逸らさないでいた私の前で立ち止まった。
ポケットをまさぐると、白いハンカチでくるまれたものを私の机の上に
転がした。刺繍もなにもない無地のハンカチは、赤黒い染みで汚されていた。
机の上でめくれあがったハンカチの中には、親指があった。皺だらけの
黒ずんだ皮に包まれた、柔らかくて気持ちの悪い親指だった。根本から
切り取られて、赤い断面は不思議と滑らかだった。骨がなく黒い小さな
穴が空いていた。吐き気はしなかった。私が目を上げると、美貴は笑って
親指を上向きに立てた。
- 17 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時15分18秒
- だれかが悲鳴を上げた。それがきっかけになって、教室中が大混乱になった。
教師が髪を振り乱しながら駆け寄ってきて、美貴をうしろから押さえつけた。
美貴はなんの反応もせずに、左右の教室から飛び込んできた二人の教師に
腕を掴まれたまま、教室を連れ出されていった。
私は騒々しい教室の中でずっと黙り込んでいた。心配そうな表情のクラス
メートが声をかけてきたが、私の耳を素通りしていくだけだった。
しばらくすると、保健室にいる白衣のおばさんがやってきて、私を連れて
行った。その日は昼過ぎまで保健室で過ごして、給食だけ食べて家に戻った。
おばさんがずっと話しかけてきて、私もなにか答えていたような気がする
けど、覚えていなかった。
- 18 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時15分48秒
- 帰りに、コンビニでトマトジュースを買って、文房具屋でナイフを買った。
残りのお金で買えたのは、小さな折り畳み式のナイフだったけど、もの
凄く嬉しかった。
体育倉庫の裏から校長先生が見付かったのは、私が家に戻ってすぐだった。
その時にはもう雨は止んでいた。
校長先生の身体には199個の穴が空いて、血はほとんど流れ出してしまって
いた。
地図の続きはそっちで出来上がったんだ、と私は思った。
夕食の席で、お母さんは近所に起こった血腥い事件について興奮気味に
しゃべっていた。
- 19 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時16分41秒
- その夜、私は日記帳の二ページ目にこう書いた。
美貴ちゃんからプレゼントをもらった。
小さなナイフを買った。
これで、美貴ちゃんのために地図の穴をあけよう
200個目の穴。私からのプレゼント
それが、私のつけた最後の日記だった。その夜はぐっすりと眠ることが
出来た。夢の中には、もう蛇は出てこなかった。
次の日、教室の隅から机が消えていた。誰もそのことを気にしているクラス
メートはいなかった。私は、半分だけ刻まれた東京が燃やされる様子を
想像した。
始業のベルが鳴った。担任が入ってきて、淡々と出席をとった。細川さんの
次に私の名字が呼ばれた。私は二時間目が始まる前に校舎を出た。
- 20 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時17分14秒
- 美貴と再会したのは、それから半年たった時だった。そのために、私は
1個だけ穴を開けた。私たちにはもう、地図は必要なかった。
私はずっと心に決めていた通りに、美貴に親指を立てて見せた。美貴は笑って
同じようにした。
そこで、私ははじめて、ありがとう、と声に出して言った。
- 21 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時17分49秒
……
罵声を浴びながら群衆が右往左往する中を駆け抜けていくと、あっという間に
誰の姿も見られなくなった。
恐らく騒ぎ好きのほとんどの連中が球場へ駆けつけるか、都内にばらまかれた
大型テレビの前に群がっているのだろう。誰も自分に関心を向けるものは
いない。自分が関心を持っているのも、たった一つのことだけでしかない。
松浦は次第に動悸が速くなり息が上がっていくのを感じていたが、それでも
速度を緩めようとはしなかった。限界点にはまだまだ余裕があるはずだった。
しかし、そこを振り切ってしまう前に抑えることが出来る自信は、今は
なかった。
気を紛らわせるように、頭は静止したように思考へと沈んでいく。藤本は、
自分が知っている彼女と同じように、恐らくなにも考えずに、ただ自分の
操作通りに人間が道を踏み外していく光景が面白いだけで動き回っている
のだろう。容易に想像することが出来る。
- 22 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時18分31秒
- 以前から、彼女がよく口にしていたセリフを思い出す。自分より上にある
ものを見つけてしまうと、必ずそいつに裏切られる。それは、神さまでも、
優れた理想でも、夢でも、目標でも、正義でも、悪でも、同じことだ。
だから私が信じるのは自分がその場で見つけられる愉しみだけ。朝起きて、
喉が渇いている時にレモンティーを飲み干したときの快感とか、蒸し暑い
夜に浴びる冷たいシャワーとか。絶対裏切らないでしょ? 自分にとっての
世界って、それだけで作っちゃえばいいと思わない? どうせみんなが
幸せになるなんて無理なんだから。
世の中には二種類の人間がいて、それは、モノを作る人間と、ものを壊す人間。
でも東京にいるのは壊す側の人間ばっかり。なんでかって、それはそっちの方が
楽しいからだよ。分かるでしょ?
- 23 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時19分04秒
- 廃ビルの窓を蹴破り、澱んだ空気の中へ飛び込んだ。強烈な腐敗臭が全身に
まとわりついて来る。闇の中で状況を確認することは出来なかったが、そこが
死体置き場になっていることは分かる。崩れかけた組織が足の下で潰れるのが
伝わってきたが、大した出来事ではない。なにかが潰れ、なにかを吐き出した
としても、気にかけるようなことではなかった。
過剰な栄養を得た雑草が生い茂っている裏庭をジャンプして、鉄条網を飛び
越えた。気兼ねなしに破壊をしながら望み通りのルートを選べるというのは、
この状況の中で唯一の僥倖かもしれない。
松浦は、なにが自分をそこまで駆り立てるのか、まだきちんと理解しては
いなかった。もしかして、永久に理解など出来ないかもしれない。ただ、
藤本と自分との関係に決着をつけなければならないということは、二人が
袂を分かってからずっと予感していたことだった。松浦には、藤本に暴力の
愉悦を教えたのは自分だという認識を、最後の日記をつけた夜から途切れず
に持ち続けていた。あの時の、放課後の会話がなければ、藤本のナイフは
今でも机に向かっていたかもしれない。彼女の地図が血塗れになったのは、
血で汚れた道を歩むようにと手引きをしたのは、自分の責任だ。
- 24 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時19分43秒
- 藤本が一切信用していないものを、松浦は捨てきれずにいた。
それははっきりとした形を持っているわけでもなく、概念や理論で言い表せる
ものでもなかったが、存在だけは否定しようのないものとして感じられた。
というよりも、むしろ否定そのものの存在なのかもしれない。藤本が今のまま
利用されて消されるのなら、それ以前に消してしまった方が「美しい」、と
松浦は思う。
松浦の持っている地図も、藤本と同じで血塗れになっている。が、そこには
なんの愉悦もなかった。あるのは、形にすることの出来ない美学、輪郭を
持たない存在そのものだった。
- 25 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時20分19秒
□ □ □ □
ぶっ壊れて鳴りっぱなしに鳴っているクラクションに対抗するように、腰を
浮かせたまま保田は運転席で喚きながらハンドルを叩いていた。
デタラメに突き出たり穴が空いていたりする道路にタイヤを取られそうに
なりながらも、狭い裏路地を危険な速度で走り抜けていった。
シートベルトにしがみつきながら、市井は天井にアタマをぶつけそうになり、
苛立ったように叫んだ。
「おいっ、もっとちゃんと運転しろよ!」
「道路にいいなさいよ! ちょっとくらいの振動は我慢しなさい!」
保田も負けずに怒鳴り返す。倒れかかっている電柱にぶつかり屋根が歪んだが、
スピードを落とさずに一気に路地を抜けた。死体を漁っていた野犬の群が、
間抜けな声をあげながら散っていくのがバックミラーに映っていた。
「来るときはこんなんじゃなかっただろ!」
「こっちの方が近道なのよ!」
二人の怒鳴り声の掛け合いを聞き流しながら、紺野はじっと通信機の小さな
ディスプレイの映像から目を離さずにいた。矢口が告げた約束の時刻、十二時まで
もうわずかしかなかった。
- 26 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時20分51秒
- 「新垣っ!」
突然保田に名前を呼ばれて、助手席で縮こまっていた新垣がビクッと顔を上げた。
「な、なんですか?」
弱々しい声はあっという間にクラクションのノイズにかき消される。
保田は罅だらけになったフロントガラスに顔を向けたまま、
「あんた矢口からなにか聞いてないの!?」
「いえ……、なにも」
「マジでっ!?」
そう言うと同時に、また車体が大きく跳ね上がった。市井は天井にアタマを
ぶつけ、メガネを落とした。
「こらっ……!」
「紺野、球場はどんな感じなの!?」
市井の声は無視して、ディスプレイに見入っている紺野へ声をかける。
「ま、まだなにも……お客さんばっかり映ってます」
「え!? ったく、カメラやってんのあの二人でしょう?」
「そうだと思います」
「分かってないなー、客が一番見たいのは勝負寸前の緊張感だろうって……」
「下らないこと言ってないで、ちゃんと前見ろよっ!」
- 27 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時21分21秒
- いつの間にか紺野の手元のディスプレイを覗き込んでいる保田に、市井が
悲鳴のように言った。反射的にブレーキを踏み、ゴムとアスファルトが摩擦する
耳障りな音が数秒間響いた。その拍子に、どのような力が働いたのか鳴り続いて
いたクラクションの音が止まった。
目の前を流れる浅い川が、真っ黒な水面に月の光を反射させていた。
- 28 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時21分51秒
□ □ □ □
ステージ上にあがった黒服たちは、中澤も含めて八人だけだった。反対側の
ステージに集まっているのも、矢口を含めて大体似たような数だった。
玉座の上で足を組んでいる矢口の左右に控えているのはアヤカとミカだった。
二人とも、以前は中澤の部下だった人間で、それ以外にも見知った顔は
何人か見ることが出来る。
矢口は不敵そうな笑みを崩さないまま、鷹揚に両手の指を組み替えたりしている。
自信に満ち溢れている態度の根拠がどこにあるのか、側近の誰も分からない
でいた。ほんの数日前までは過剰なほど神経質に周囲の状況を気にかけていた
のと同じ人間とは到底思えない。
- 29 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時22分23秒
- ステージから見下ろせる周囲の風景は、まさに人間の海だった。だだっぴろい
空間に隙間なく人がひしめき合い、そこかしこで小さなトラブルが散発して
いる。冷たく乾いた空気の中に皮膚から立ち上る熱気と蒸気が混じり合って、
ゆらゆらと揺らめいていた。
客席に紛れている仲間がどれくらいいるかは、まだ把握できてはいなかった。
が、中澤側が潜り込ませている人間を圧倒できるほどの勢力がいるとは考え
にくい。特に、ステージ上からも目立って見える外国人達はみなニダーだった。
「あの子供がいない」
ソニンが一人の組員に耳打ちする。中澤は笑いながら振り返ると、
「もう遅いから寝たんちゃうか?」
「それならいいんですが……。他にも、もう一人気になる人間がいるんですけど、
見付からないんです」
「どうせちんけなゴロツキやろ?」
「油断は禁物ですよ。カゴアイは、見つけ次第射殺します。でないと危険です」
- 30 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時22分59秒
- 緊迫したソニンの声に、中澤は肩を竦めると、
「そこら辺は自分らにまかすわ。うちは矢口とカタつけに来ただけやからな」
凍り付くような低音で呟くと、再び向かい合ったままの矢口へ視線を戻した。
全身満艦飾で煌めいている姿は、それだけで見るものを無性に不快にさせる
パワーを持っていた。ゴージャスは一歩踏み外せば悪趣味の領域へと入って
しまうが、目の前の女は一歩どころかその極北まで踏破してなお満足が
いっていない様子にすら思える。中澤は舌打ちするとその場で唾を吐き捨てた。
一万人近くがひしめき合っている球場からの喚声が、突然さらに大きく盛りあがり
渦を巻くようにして上空へと拡がっていった。ステージ上の大型ディスプレイに
表示されている角張った数字が、0:00と祭りの開始を無感情に伝えていた。
- 31 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時23分32秒
- 「よっしゃ」
中澤は周囲を固めていた黒服たちから抜け出すと、首と手首の関節をほぐした。
矢口も挑発的なニヤニヤ笑いを崩さないまま、悠然と玉座から降り立った。
アームにぶら下げられた集音マイクが、二人の上へ降りてくる。凄まじい
喧噪の中に、スピーカーからの黙示録的なBGMが混じり合った。
「始める前に、一個確認しておきたいんだけどさ」
増幅された矢口の声が響く。ひどく緊張感に欠けた、砕けた口調だった。
「うちらの家、燃やしたのはあんたたちなのか?」
中澤が口を開く。慌てて音響係がマイクを近づけようとして、鉄パイプの
鉄柱にぶつけて派手な雑音が響く。観客は待ちかまえたようにブーイングを
あげるが、中澤は気にかける様子もなく、
「知らんな。って言うても、あんたが信用するかはわからんけどな」
そう言って肩を竦めると、
「そもそもあんたらが勝手に居座ってただけやろ? みっちゃんの家に」
- 32 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時24分08秒
- 中澤の言葉は無視して、矢口は続けた。
「も一個。うちらをツブしたいのは、あんたがこの街を仕切りたいからなのか?」
下らない質問だ、と中澤は心の中で唾棄した。もうとっくに、そんな野心は
失ってしまっていた。が、暇を持て余した群衆が自分になにを求めているかも、
よく分かっていた。
「興味ない……といいたいとこやけど、結果的にはそうなるかもしらんな」
「よく言うよ……。ヤクザの分際で公安の偉いさんと手を結んで権力狙ってた
癖によ! 二度もおいらにツブされて、辛抱きかなくなったんだろ!?」
甲高い哄笑が響く。分かりやすい挑発に客席は再び怒号に包まれるが、中澤は
ただ苦笑して嘆息しただけだった。
- 33 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時24分43秒
- 「あんたはやっぱうちが見込んだとおりの人間やったな……。器も身体も
ちっさすぎて涙出てくるわ。おちょこ矢口やな」
「へっ、それがあんたの遺言か?」
「もうつまらん能書きのたれあいはやめて、とっととはじめようや」
そのセリフに、球場の興奮はピークに達する。局地的な熱狂は、闇に包まれた
東京中に響き渡り止まることはないように思えた。
- 34 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時25分19秒
□ □ □ □
青白い光となって渦巻いている高エネルギーの分子の奔流は、何度もぶつかり合い
乾いた音と共に飛び散っては消えていった。
緩やかな三角形となって傾いている高架線の下で、一人の観客もなく果てのない
破壊衝動のぶつかり合いは続けられていた。
そこにはなんの目的もなく、ただ目の前の敵を破壊しようという、極めて
純度の高い攻撃への欲求があるだけだった。
- 35 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時25分58秒
- 吉澤は滑るように移動すると、遊ばせていた左手でジャンプした後藤の足首を
掴んで放り投げた。空中で身を捩りながら、後藤は際どいバランスで大地を
踏みしめると間髪入れずに放たれた警棒の一閃を受け止めた。吉澤は、後藤が
不用意にジャンプしたがる癖を無意識で捉えていた。攻撃力としては、鉛を
仕込んだブーツからの一撃はかなり強力ではある。だが、後藤はその力に
頼りすぎているようだった。
至近距離での打ち合いが続く。後藤の動きは素晴らしくシャープだったが、
上背のある吉澤に次第に押されていく。壁際に近付き、後藤は右へとジャンプを
しようとするが吉澤が足を伸ばして牽制した。仕方なしに、後藤は再び
その場で宙を舞った。黒く細かい傷が無数に付いたブーツが、自分の喉元へ
近付いてくるのが吉澤に見えた。次の瞬間、咄嗟に左腕でそれを受けていた。
前腕の骨が折れるのが分かったが、今の吉澤は痛みなどは感じなかった。後藤が
空中でバランスを崩したところを、吉澤は見逃さずに、すくい上げるようにして
警棒からの攻撃を放った。青白い光が尾を引いて、警棒に描かれた翼のある蛇が
その中で舞い踊っている光景を幻視した。鋭いエネルギーの流れは、そのまま
後藤の左腕を上腕の中央から切断して通り過ぎた。残光の中に、真っ赤な血が
飛沫をあげるのがスローモーションで見えた。
- 36 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時26分46秒
- 「……っ!」
後藤はそのまま地面へと叩き付けられると、腕の断面をコートに押しつけたまま
転がるようにして遠ざかっていった。
切り離された左腕は、くるくると鮮血を撒き散らしながら空中で三回転して、
吉澤の足下へ転がった。
「あ……」
一塊りの血液が、吉澤の頬にぶつかり拡がった。生温かく饐えた匂いが、
過去の無数のフラッシュバックを呼び寄せた。
その瞬間、手元の青白い光は消えた。痙攣したまま埃だらけになっている
左腕の側には、同じように光を失った漆黒の警棒が転がっていた。
後藤は血の跡を残しながら、ずるずると身体を引きずるようにして遠ざかろうと
していた。微かな呻き声と嗚咽が、俄におとずれた静寂の中を伝わってきていた。
- 37 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時27分18秒
- 「ごっちん」
その名前を呼ぶのは吉澤は二度目だった。そこにはなんの衒いも悪意もなかった。
「だ、大丈夫……?」
言うべきではないと分かっていたが、考えるよりも先に口をついて出て来てしまって
いた。後藤はなにも聞こえない様子で、ただ膝と右手を地面にこすりつける
ようにして、絶望的な移動を続けていた。
「あの、わ、私……」
狼狽えたように呟きながら、吉澤は警棒を腰に収めると後藤の後を追った。自分の
左腕が不自然に歪んでいることには、まだ気付いていなかった。
身体の影になった場所で拡がり続けている血だまりが、出血の危険性を
物語っていた。吉澤はなぜか血を踏みつけないようにして近付き、うつぶせに
倒れたままの後藤を見下ろす格好になる。
- 38 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時27分51秒
- 「ちょっと、ね、……」
その時、後藤の身体が裏返り、身体の中央で正確に五回の光が明滅した。
銃声が静寂を切り裂き、火薬臭い煙が鼻腔をくすぐった。
吉澤は、恐ろしく鮮明なフラッシュバックが網膜の裏に蘇っていくのを見ていた。
背後で炎が暴れ回り、コート越しに背中を灼いた。熱と冷気が混じり合わない
空気が気管に痛く感じた。目の前には数台のベンツ、黒服のヤクザたち、
石川の悲鳴、平家みちよの背中が血に染まり、そして、銃声が四回聞こえた。
身体が四本の焼けこげた鉄柱で貫かれたように感じた。
だが、今は。
- 39 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時28分29秒
- 「防弾か」
感情のない後藤の呟きが聞こえる。吉澤は殴られたような衝撃が残っている
腹に手をやった。黒いコートにはもう五つの焦げ臭い穴が加わっていた。
後藤はニッと笑うと、古めかしいリボルバーを右手から落とした。
「あんたの勝ち」
小声で言うと、そのまま仰向けに倒れた。血液を失った顔は、ロウのように
白く滑らかだった。
「ごっちん!? ちょっと、大丈夫? ねえ、ごっちん!」
吉澤は自分の行動が理解不能であることは分かっていた。だが、ついさっき見た
フラッシュバックのような光景は、二度と繰り返したくなかった。
「ごっちん、私、ごめん、あの……、すぐに連絡して、助けに来てもらうから、
今、すぐ、知り合いの、あの」
縺れそうになる舌で懸命に話しかけながら、吉澤は通信機を取りだした。頼れそうな
人間は柴田しか思いつかなかったが、それでもこのまま後藤を放置しておく
ことは出来なかった。
- 40 名前:51. 投稿日:2003年06月17日(火)02時29分02秒
- 通信機から雑音が漏れ、すぐに消えた。吉澤が声を出そうとした瞬間、耳元から
意外な相手が声をかけてきた。
「あ、吉澤? 元気にやってる?」
「い、飯田さん? どうして……?」
「あのね、加護のことなんだけど、圭織が自分で行くからもういいや。のんちゃんにも
そういっといて。じゃーねー」
吉澤が何か言おうとした途端、その声は途切れた。
静寂の中で、後藤の途切れがちな呼吸の音だけが、微かに聞こえていた。
- 41 名前:更新 投稿日:2003年06月17日(火)02時29分39秒
51.エンゼルフィッシュ >>3-40
- 42 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)02時30分11秒
流します
- 43 名前: 投稿日:2003年06月17日(火)02時30分50秒
……
- 44 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月17日(火)06時17分14秒
- ゴトー、弱ぇ
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2003年06月17日(火)15時08分53秒
- >>44に同意。拍子抜け…
- 46 名前:名無しAV 投稿日:2003年06月18日(水)18時02分44秒
- 点と点の距離が近付いている。
最後までもう喋る言葉が見つかりません。ただ続きを期待。
- 47 名前:名無し読者(コーヒー) 投稿日:2003年06月18日(水)22時10分02秒
- まずは新スレおめでとうございます!
始めの吉の英語が無かったのがさびしかったですが・・・w
まだまだ先の読めない感じで興奮しっぱなしです。
ラストまでしっかりとついて行かせて頂きます!
- 48 名前:名無し読者 投稿日:2003年06月21日(土)15時20分56秒
- 松浦と藤本の過去にはそんな事が…
それぞれの決着、楽しみです
- 49 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時54分55秒
52.Piercing Voice
Two thieves
Strung up
One knife
One cut
Two doors
One shut
_____Darshan
- 50 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時55分32秒
- 辻に手を引かれるまま、安倍なつみは一キロほど引きずられるように走ったあと
ついに耐えかねたように路上にへたり込んだ。先に駆け出していた松浦の
姿はとうに見えなくなっており、人の集まっていた場所から離れた辺りは
すでに暗い闇に包まれている。
ちょうど走り出してきた球場と安倍たちが生活していた河原の集落との中間に
近い場所で、緩い勾配の坂道を小高い丘と崩れた大型百貨店の廃墟が左右から
挟んでいた。陸橋が崩れ落ちてバリケードのように道路を垂直に塞いでいた。
「もう、ダメ、息が、しんどい……」
心臓を抑えながら少し大袈裟に言う。もし福田がいれば、体内の増加した
乳酸を減らして心臓に頼らず全身に酸素を行きわたらせてくれているだろう。
そう考えると、安倍は余計に寂しくなった。
- 51 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時56分07秒
「もうちょっとですから、頑張って下さい」
辻が手を引っ張りながら言う。額から溢れた汗があっという間に冷たい空気に
冷やされ、安倍はブルッと体を震わせた。
「なっちはね、あんたとかと、違って、そんな、頑丈な、身体じゃ……」
白い息の塊が浮かんでは消える。瞼からこぼれ落ちる汗が目にしみた。辻が
まったく疲労した様子のない涼しい表情なのが腹立たしかった。
「というか、辻、こっちの、方向で、あってるの、?」
少し呼吸も落ち着いてきたようだった。安倍は周囲を見回す。慌ただしく
駆けだしてきてしまったので気付かなかったが、松浦が姿を消した方向とは
違っているような気がする。いや、確実に違う。
- 52 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時56分45秒
- 辻は丘の上にある、常緑樹に囲まれた公園へ指を向けると、
「あっちに辻の乗り物があるんで、それ使いましょう。安倍さんもう限界
みたいですし」
「乗り物? なに、そんなの、クルマとか、持ってるの、?」
「行けば分かります」
いちいち説明するよりも見た方が早いと言うことか。安倍はもう、目の前で
なにが起こっても驚かない自信があった。
錆びた鎖が巻き付いたような関節を無理矢理動かしながら、安倍はまばらに
雑草が覆っている丘を登っていった。足がすべり、咄嗟に手を伸ばして掴んだ
タンポポが根本から千切れた。
「あっ、ごめんなさい……」
条件反射的に声に出す。辻は安倍の声を聞き流しながらすいすいと丘を登って
行ってしまった。
- 53 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時57分26秒
丘の上は、小さなブランコとベンチと水飲み場しかない寂れた公園だった。
辻は箱のような公衆便所の建物の裏へ回ると、軋んだ音を立てて「乗り物」を
引きずってきた。一回り大きなサイズの三輪車に、卵形のサイドカー。
安倍は猫だましにあったようにパチパチと目を瞬かせると、がっくりと肩を落とした。
「どうせそんなことだろうと……」
「とにかく乗って下さい。話はそのあとにしましょう」
「はいはい」
辻が可愛らしい柄のついたサドルに跨ってハンドルを握る。安倍はのろのろと
卵形のサイドカーに身体を潜り込ませると、T字型の取っ手に手をかけた。
「ちゃんと掴まってて下さい」
「それで、亜弥ちゃんはどこに」
安倍が言いかけた途端、激しい突風が顔全体にぶつかってきた。サイドカーを
ぶら下げた三輪車は、わずかに大地から身体を浮かせたまま高速で丘から
道路へと滑り降りていき、砂埃を撒き散らしながら崩れた陸橋を飛び越えて
行った。耳の奥にエアポケットが生まれたような感覚に、軽く眩暈がした。
- 54 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時57分58秒
- 「……っつ」
くらくらとしながらなんとかして細目を開く。左右の灰色の風景がもの凄い
スピードで後方へと押し流されていく。辻は舞い上がった髪を靡かせながら、
真剣な横顔でハンドルを握っていた。その時はじめて、安倍は辻の造作が
恐ろしく整っていることに気付いた。
「……ねえっ、辻ちゃん!」
安倍がヒステリックな声をあげるのに、辻は冷静に返した。
「なんですか?」
「矢口が、なにをやろうとしてるのか、分かったのっ!?」
ずっと訊こうと思っていたことをやっと口に出す。辻は瓦礫の山になった
立体交差を跳ね上がりながら、
「はい、矢口さんは」
- 55 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時58分29秒
- と、突然目の前の光景が反転した。慣性のままに安倍はサイドカーから
投げ出された。寸前に、三輪車のライトに照らされた十字のシルエットが
目をかすめていた。それは、腕を左右に広げたスマートな人間の姿のように見えた。
背中からアスファルトに叩き付けられ、のたうち回りながら激しく咳き込んだ。
直角に宙へ舞い上がった三輪車は、紡錘型の円を描きそのまま地面へ叩き付け
られた。バラバラになった部品が辺りに舞い散り、続いて人間の体が落ちてくる
鈍い音が聞こえてきた。
「……ん……」
全身を激痛に苛まれながら、安倍はずるずると体を起こそうとした。
無意識のうちに縋れる手掛かりを探している手が、細く硬いものにぶつかった。
くらくらする脳に視界を歪められながら、安倍はゆっくりと顔を上げた。
右手で握りしめていたのは人間の足首だった。そして、その先には忘れようと
しても何年も忘れられなかった顔の一つが、微笑を浮かべて見下ろしていた。
- 56 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時59分08秒
- 「か、圭織……」
安倍が言うのに、飯田は手を翳すと地面へ貼り付いたままだった安倍の身体を
引っ張り上げた。ぼんやりとした柔らかい空気に包まれたような感覚。その力は
驚くほど強く、しかし優しかった。
「奇遇だね、なっち」
まるで、街中で偶然擦れ違ったクラスメートにかけるような口調で言う。
安倍は何か言おうと口をパクパクさせたが、動悸に合わせた空気が抜けていく
間の抜けた音が響いただけだった。
「三人で集まるのって、もう五年ぶりか」
飯田の横顔は、バラバラになり炎上している三輪車の明かりに照らされて、
ほとんど非現実的な幻覚にしか見えない。
安倍は、横目にその炎を見て、ようやく言葉を発した。
「つ、辻ちゃんは……」
「あー、のんちゃんなら心配ないよ。またすぐ直してあげるから」
そう言うと、記憶の中と変わらない笑みを浮かべる。
「じゃ、行こうか」
- 57 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)18時59分46秒
□ □ □ □
地上は、太陽の燃えさかる轟音や、分厚い大気が渦巻く音に満たされたノイズに
覆い尽くされている、胎児が泣きわめくのは、突然耳を聾するそのノイズに
驚き恐怖するからだ。しかしそれはすぐに忘れられ、鼓膜を圧迫す風景になり……
一万人近い群衆があげる怒号に包まれて、中澤は意味もなくそんなホラ話を
思い出していた。子供の時に父の夜話として聞かされ、無性に恐ろしかった
記憶が残っている。
度を超したものは限りなく無に近付いていくのだろうか。目の前で足を広げて
胸を反り返している矢口を見つめながら、中澤は誰もいない静寂の中に
立っているような気分になっていた。
- 58 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時00分18秒
- 二人が銃弾を撃ち尽くすまでやりあっても、恐らく勝負がつくことはない。
矢口は言わずもがな、中澤もこの距離で小さな頭を撃ち抜くほどの腕は
持っていない。矢口が防弾などの備えをしていないことはあり得ないだろうから、
やはり最後はヤクザらしく決めることになりそうだ。
腹に挟んであるドスの存在が、逸りそうになる精神を抑えてくれている。
これまで誰の血も吸ったことのない、父から譲り受けたドスだった。手入れは
一時たりとも欠かしたことはない。もしこれで息の根を止められるなら、
矢口にとっても自分にとっても本望だろう。中澤はそう思った。
- 59 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時00分52秒
- 矢口が拳銃を抜く。華美に飾り立てられた拳銃はライトに照らされてキラキラと
悪趣味な光を放っている。大型ディスプレイがその姿を拡大し、さらなる
盛り上がりを見せる。
中澤が抜いたのは地味なオートマチックだった。漆黒の外観はそのまま
両者の風体を反映しているように見えた。
矢口が腕を上げる。中澤も不思議と落ち着いた気分で、拳銃を構えた。
と、光り輝く矢口の拳銃はそのまま正面を向かずに持ち上げられ、銃口が
そのまま金髪の隙間に見えているこめかみに押しつけられた。
「……なんや、どういうつもりや」
構えを崩さずに中澤が呟く。
矢口は銃口をこめかみに押しあてたまま、白い歯をむき出しにして笑った。
「あぼーん」
銃声。マイクで拾われアンプで増幅されたそれは何台もの巨大スピーカーに
流され、球場全体を震わせた。怒号の渦が一瞬流れを止めたように感じられた。
「矢口……?」
微かに開いた口から小さな言葉がこぼれ落ちた。瞬きもすることも出来ず、
中澤は不可思議なからくりが眼前で暴かれるのをぼんやりと見つめていた。
- 60 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時01分44秒
- 「ひあぁっ」
ぶら下がるようにしてカメラを覗き込んでいた高橋が、甲高い悲鳴を上げて
後ろへ転げ落ちた。
小川はレンズ越しに矢口の頭が吹き飛ばされる映像を見た。彼女の目の奥で、
それはスローモーションで一部始終が繰り返された。奇妙な既視感と共に、
記憶の中の映像とそれは結びつけられた。
今でもとっておきのスクープとして持ち続けている、加護亜依が消滅する
瞬間のスナップショット。
頭部を失った矢口の小さな身体は、衝撃に身を任せてその場で回転すると、
ごろっと電池の切れたおもちゃのように横たわった。
首のあった断面からは血は流れず、青白く光る粒子が砂塵のように舞い上がっていた。
アヤカたちも目の前の異常な出来事に、戸惑ったように顔を見合わせている。
中澤はなおも拳銃を構えたまま、ぐっと息を飲み込んだ。
首を失った身体は、そのまま風化していくように細かい粒子となって舞い上がり
空気中に溶けて消えていく。
その時、奇妙な空気が支配した球場に、耳馴染みの甲高い哄笑が響き渡った。
中澤にとってそれはもはや禍々しさが音となって形象化したものにしか
感じられない。その場で耳を塞いで蹲ってしまいたかった。
- 61 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時02分27秒
- ステージ上に設置された大型モニターに、フェンスにもたれ掛かった矢口の
姿が映し出されている。場所は、どこかの屋上のようだった。デニムの
ジャケットにミニスカートという地味な服装で、髪は金色ではなくいつの
間にか落ち着いたブラウンに染め直されている。
その隣に、筋肉の塊のような黒人の大男が控えている。肩の上には、右眼を
サングラスで覆ったスマートな少女が腰をかけ、無表情に成り行きを見下ろして
いる。側には加護がふわふわと浮かんでいたが、眠っているようだった。
まだ困惑を隠せない群衆たちへ向かって、笑いをかみ殺しながら矢口が声を発した。
「どうだ? 前座としちゃなかなか盛りあがっただろ?」
スピーカーが爆音に耐えかねたように震える。ステージ上の人間たちは
固唾を飲んで次の言葉を待ち、球場は再び凄まじい喧噪が覆い尽くしている。
「さて、これからショーの本番と行こうか! 東京を汚す中澤組とニダーの
公開処刑! カモーン! イッツ・ショータイム!」
- 62 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時02分58秒
- 甲高い声で矢口が言うのと同時に、サングラスの少女がピアニストのように
髪に隠されたパネルを叩いた。
次の瞬間、球場のあちこちに積み上げられていたゴミの山から、何台もの
『眼』が飛び出してくる。瞳孔の開いたその奥から放たれた熱線が、球場の
群衆の中に散らばっていた組員の身体を貫いていった。
「危ないっ!」
呆然とディスプレイから目を離せずにいた中澤の背中にソニンがぶつかって
いった。刹那、折り重なって倒れた二人を掠めて熱線が通り過ぎていく。
- 63 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時03分42秒
□ □ □ □
「……」
こぼれ落ちそうなくらいに目を見開いて、紺野は小さな液晶ディスプレイを
じっと見つめ続けていた。悪路を乱暴な運転で突き抜けていくバンは絶え間なく
下から殴り続けられているような状態だったが、それでも強く視線を突き
刺したままシートの上で凍り付いていた。
「なにっ? 紺野、向こうでなんかあった!?」
保田が怒鳴る。小さなスピーカーからは群衆たちの怒号もシャーシャーという
小猫の威嚇の声程度にしか聞こえてこない。市井は助手席の背もたれに
抱きついたまま、保田へ喚き続けている。助手席の新垣は、両手を固く
握りしめて、それでも決然とした表情で前を見続けている。
- 64 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時04分17秒
- 「紺野っ!」
「あ、はい」
ディスプレイの中では、混乱した群衆たちが逃げまどい、その隙間を『眼』から
放たれる熱線が貫いていっている。
紺野は条件反射的に保田に返したものの、まだこの状況をどのようにして言葉にして
伝えればいいのか、途方に暮れることしか出来ない。
ポケットに入っている拳銃にそっと触れた。冷たく硬い感触が一つの決断を
促しているように、紺野には感じられた。
- 65 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時04分59秒
□ □ □ □
中途で崩れ落ちている陸橋の階段に立って、松浦はようやく息を整えた。
L字型に構えられた総合病院の入り口には、自動小銃を構えた金髪とモヒカンの
コンビの歩哨が固めている。恐らく、裏口も含む全ての門が同様にされている
のだろう。だが、松浦にとってはそんなことはどうでもよかった。
この巨大な病院の中にどれだけの仲間が待ちかまえていたとしても、目標は
ただ一つしかない。もしすでに手遅れな状態になっているとしても、ここで
歩みを止めるという選択肢はすでに抹消されていた。
両腕を交差させて、ボロボロの枯葉色のコートへ突っ込む。両脚を揃えると、
階段の上から跳ね上がり空中で回転しながらアスファルトの上に舞い降りた。
乾いた着地の音に二人の歩哨が振り返り、誰何することもなく自動小銃を
構え人差し指をトリガーにかける。だが、それが動くより先に病院の正門に
血の塊がぶつかり弾け飛ぶ。真っ赤な疾風は迷いなく屋上へ向かい駆け上がっていく。
- 66 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時05分45秒
□ □ □ □
光と音を失ったゲームセンターは、奇怪な博物館にしか見えない。
加護亜依は傷だらけのプリクラの機械にもたれ掛かったまま眠っていたが、
突然不快そうに顔を歪めると、目を開いて喚き散らした。
「ああぁーっ! かったるい! なんやねん! 栄養よこせやぁぁ!」
誰もいないアーケードに、幼く金属的な声だけが反響していく。騒々しく
眼と耳に突き刺さる風景は戻ってこない。
背後から何かの気配を感じて、加護は面倒臭そうに首を捻った。
ゲームセンターの奥の闇に誰かが立っているのが見える。ついさっきまで、
周囲には人の気配は全く感じられなかった。奥の地下に続いている階段は
破壊された機器やケーブルによって塞がれていた。
加護はだらしない笑顔を浮かべると、大儀そうに立ち上がり声をかける。
「おい、誰かしらんけど、なんの用や?」
「それ、返してもらうよ」
胸の辺りまで垂れ下がった長髪が揺れた。長身の白衣を纏った女性は、手を差し出した
ままふわっと浮かび上がり、加護の目の前に舞い降りた。
- 67 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時06分15秒
- 「アホか」
加護はキッと表情を引き締めると、女性に向かって手を翳した。周囲の
ドラムのゲーム機やUFOキャッチャーが粉々に崩れ落ちたが、女性は
呆れたように笑いながら、加護のことを見下ろすだけだった。
「……あん?」
はじめて不安げな様子で口を歪める。女性はそのまま近付くと、加護の腕を
掴みねじ上げた。
「イタイイタイイタイ! イタイがな! なにすんねん!」
「子供が変なオモチャ拾っちゃうと、ロクなことがないからね」
そう言いながら、加護の身体ごと女性は宙へ舞い上がる。
打ちっ放しのざらざらした天井へぶつかる寸前、二人は姿を消す。沈黙が
戻った空間に衝撃の余波だけが微かな振動として残っている。
- 68 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時06分56秒
□ □ □ □
「ふぁっ」
宙に浮かんだまま眠り込んでいた加護が、突然ハッと目を見開いた。それから、
何度か口をパクパクさせると、ふっと消滅した。
しかし、ディスプレイに映し出されている狂宴に目を奪われている矢口には
全く気付かれることはない。藤本は相変わらず、薄い笑みを浮かべたまま
矢口のことを見つめている。
「っておい、カメラなにやってんだよ、裕子を映せよ裕子を! まだ生きてるのか?
ちっ、誰もカメラんとこにいねーんじゃねーかよ、このっ!」
苛立ちを隠さずに呟き続けている矢口に、藤本がおかしそうに声をかけた。
「『眼』にはちゃんとプログラムしてありますから、心配しなくても大丈夫ですよ」
「そ、そうか?」
「ええ。これでもう矢口さんは勝利者ですね。ステキです」
そう言うと、かるく拍手をしながら口笛を吹いた。
一人だけによる寂しいパチパチという喝采が、虚しく屋上に響いて消えて
いった。誰も拍手に加わるものはいなかった。
- 69 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時07分38秒
- 「しかし、こりゃすげえな……」
食いつくようにディスプレイに見入りながらも、矢口はその場の異状に
ようやく気付きはじめていた。
中澤組とニダーだけにプログラム攻撃を仕掛けるはずの『眼』が、無差別に
群衆や矢口の仲間へも熱線を放っている。焼けこげ、内臓を破壊されてとうに
絶命しているはずの人間が、群衆の中で無数の身体に押しやられ、まるで
生きているようにゆらゆらと逃げまどっていた。そんな生々しい亡霊が
その場には何人もひしめき合っているように見えた。
カメラの前を、自動小銃を乱射しながらアヤカが通り過ぎていく。服のあちこちが
熱線の掠めた跡で焼き切れ、引き裂かれていた。
「……おい、なんか様子がおかしいんじゃないか?」
矢口が低い声で呟くのに、ボブのスキンヘッドを撫で回しながら藤本が言う。
「いえいえ。理想の結末ですよ。矢口さん、やっぱり期待通りです」
そう言いながら、ボブの肩から飛び降りる。矢口は眉を顰めて振り返ると、
ためらいがちに口を開いた。
「お前、……」
「期待通りのバカでしたね、サイコーに笑わせてもらいました」
右手を挙げると、再びサングラスのパネルを操作する。細い指が、滑らかに
耳元で踊った。
- 70 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時08分24秒
- ディスプレイからの悲鳴と絶叫のコラージュが一際高まる。いくつかの『眼』が
群衆の輪の中に飛び込んで自爆したのだ。
すでにそれほど広くない出入口には人間たちが殺到し、大混乱となっている。
そこへ待ちかまえていたように『眼』が侵入し、強力な爆破で死体の山を
築き上げた。外側からすでに封鎖されている出入口は血と肉でバリケードで
内側からも固く閉ざされた。
「なんだって……?」
「どうします? なにも知らないままゴキゲンで死ぬか、全部タネ明かし
してから、後悔たっぷりで地獄に堕ちるか」
- 71 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時08分56秒
- 藤本が言いかけたとき、階下へ通じる扉の奥で太い雄叫びが響いた。
二人が振り向いた瞬間、扉が弾けると同時にバラバラに切り裂かれたボブの
肉片が弾け飛んできた。太い腕が転がり、胴体は中央が破れ、内容物を
撒き散らしながら転がった。もう一体の身体には数本のナイフが突き立てられ、
全ての関節の動きが封じられていた。
血煙の中から姿を現した人間を見て、藤本は声を出して笑った。
「おおー、グーッドタイミング! 約束通りこれから秘密その2を話して
あげようとしてたところ」
脳天気なその声にも、松浦は鋭い表情を崩さないまま足を引きずって近付こうとした。
が、数歩歩いたところで力尽き、その場に膝をついてしまう。返り血で
ドロドロになった顔面に、口の端から一筋の血が垂れ下がっていった。
- 72 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時09分37秒
- 「お、お前まさかここまで全員……」
矢口が唖然としたように言う。藤本はさほど驚いた様子もなく、
「ふん、ラスボスに辿り着く前に体力使い果たしちゃ世話ないよね」
嘲笑的に笑いながら、指を二本突き立てて満面の笑みを浮かべる。
「秘密その2」
ピースサインの向こうには、突き刺すような視線を逸らさない松浦が見える。
藤本は軽く息を吐くと、口を開いた。
「えーっ、お二人がご大層な理念を持って下らない椅子の奪い合いに利用されてた
ってことはもう話したよね?
つんくちゃんのカワイイ歩兵たちに都知事からの刺客が潜り込んでるんじゃないかって
私は容疑者の一人、安倍なつみをつけ回してた。安倍さんが都知事と通じてるって
言う話はもう矢口さんにも話したけど、元はといえばつんくが私にテキトーな
推理で言っただけのはなし。大体そもそも私が都知事の息がかかってたわけ
だからさ、こんなあり得ない話もないってくらいで」
矢口は引きつったような表情でフェンスに背中を押しつけて、両手を十字に
広げてしがみついている。風がフェンスを揺らし、矢口の髪を揺らした。
- 73 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時10分12秒
- 「都知事はつんくが本命をズバリ当ててるか思いっきり勘違いしてるか
どうなのかを私を使って調べたかったってわけ。結果はどうだったのか?
残念ながら、つんくちゃんの読みは大外れ。安倍なつみはなんでもない、
ただの高邁な理想に溢れた革命家でしたとさ。そんな都知事の計略に乗るような
目先が利く人間じゃない。まーよくも悪くも鈍くさい人間だったわけ」
「おい、だってお前……」
矢口は呆然としたように声をあげる。藤本はニヤニヤと笑いながら言葉を継いだ。
「だって、そう説明すれば矢口さんだって安倍さんを殺した自分に言い訳が
出来るじゃないですか。ちょっとの間だけでも自分を許せたんだから、私に
感謝して欲しいですね。……でも実際には、もっとショッキングな現実が
待ってるわけですけど。わくわくするでしょ?」
矢口も松浦も、黙り込んだまま藤本の言葉に聞き入っている。松浦の全身は
かなりひどい状態だったが、ギラついた視線だけは鋭敏に藤本へ突き刺さって
いた。が、藤本は気付きもせずに饒舌に言葉を転がし続ける。
- 74 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時10分47秒
- 「犯人は誰だったのか? 名探偵ミキティは推理しました。なーんてね。
本当は都知事からのメールで私も知ったってわけ。頭のいい山崎オジサンは、
一番怪しまれない方法で内乱のタネを持ち込んで、見事に花咲かせました。
大成功ー、ってプラカード持って出て来たかっただろうね。だって、当の
本人でさえ気付いてなかったんだからさ。こんな完璧な計略もなかなかないよ。
もちろん、プラカードを持ち込むのはゼティマの銃撃戦の真ん中でね、安倍なつみが
血塗れになって倒れた瞬間なんてどう? 演出としてはサイコーじゃない?」
「……」
矢口が息を呑む音が、松浦には痛々しく聞こえる。藤本はそんな表情の変化が
おかしくて仕方ないと言った様子で続けた。
- 75 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時11分24秒
- 「けどそのあとまた意外な展開でね、都知事はもう少しだけそのマヌケな
内通者に仕事してもらおうと思ったわけ。使えるものはとことん使え。これさ、
都知事が立候補したときの資源保護のスローガンだったよね。人的資源にも
応用してるなんてさすがだって思わない? そいつは前の仕事から受け継いだ
人脈と武器を使ってちょっとした組織を作っていた。じゃあ、裏切り者つんくと
通じていた中澤組一派とか、いつの間にか手を組んでた外人集団のニダーを
潰すのにいっちょ使ったれと。そしてその結果は……」
「……う、嘘だ」
震える声で、矢口が呟く。藤本は笑みを浮かべたまま、矢口に向きなおって
最後通告をするように人差し指を突き立てた。
「都知事は、中澤とも繋がりがあるチャラチャラしたバカが反政府組織にいるのに
目を付けて、そいつを使ってやろうって思ったんだろうね。それで、財界の
偉い人の娘を巧みに近づけて、本人が気付かれないうちに行動をコントロールして
しまう装置を取り付けた。なんだっけ? マルコボーロ・スコープだかなんだか、
そんな名前の装置。細い血管に触れてれば接続完了。矢口さん、あなたの
お気にのピアス、それ、貰い物ですよね?」
- 76 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時11分59秒
- 矢口はハッとしたように耳元に手をやった。シルバーのリングピアス。確か、
去年のクリスマスに新垣から、海外の父親から送ってもらったものだといって……。
「そ、そんなの、嘘だ、……嘘だっ!」
絶叫しながらピアスをコンクリートに叩き付けると、底の厚いブーツで踏み潰した。
複雑な機構が破壊される細かい音が、足下から微かに聞こえてくる。
藤本は声をあげて笑うと、矢口の目を見据えた。つい先刻までの自信に満ちた
光は消え失せ、黒目がちの瞳が不安げに揺れ動いていた。
- 77 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時12分33秒
- 「自分のアタマで考えて行動したつもりでも、所詮そんなの勘違いの錯覚でしか
ないんですよねー。なんかそんな本むかし読んだことある。私には関係ない
ことなんですぐ忘れちゃったんですけどね。
ま、まともに考えれば、いくら大物の娘だからってそんな簡単に大量の武器が
集められたり、あれだけ派手に動き回っても逮捕もなにもされなかったり、
不自然に思いますよねえ? それか、別にコントロールとかなくてもどうせ
バカだから気付かなかったかもしれませんよ。矢口さん」
「嘘だ、嘘だ……」
フェンスに指を絡めたまま、矢口はガクガクと震え小声で意味のない言葉を
繰り返しているだけだった。怯えたような両目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
- 78 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時13分08秒
- 「じゃあ、ミキティ、亜弥っぺと一緒に復習ターイム。一つ、革命ごっこはつんくの
権力欲しさに利用されました。一つ、でもアタマのいい都知事はバカな
メンバーを使ってそれを潰しました。一つ、そのバカなメンバーは、ずっと
都知事のために一生懸命、昔の恩人とか親友とかを殺し、仲間を殺し関係
ない大勢の人間も殺し……」
「やめろっ! や、やめてくれ、お願いだ……」
鋭い矢口の声に、藤本は声を止めると、哀れむような眼で振り返った。
矢口はおぼつかない足取りでふらふらと後じさっていった。後方のフェンスは
破れて、そのまま遥か下の地面を見下ろすことが出来る。藤本は抑えたような
笑い声をあげると、軽く髪を撫でた。
「飛び降ります? それなら私も手間がはぶけていいけど」
「美貴っ!」
ずっと沈黙を守っていた松浦が、耐えかねたように怒鳴り声をあげた。
藤本はやれやれといった様子で肩を竦めると、
- 79 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時13分38秒
- 「亜弥、これでやっと勝ち組負け組がハッキリしたね」
「……本気でそんなこと言ってるの?」
「やっかみは勘弁してね。これでも私、カラダ張って頑張ってきたんだからさ」
わざと甘えた声でいいながら、膝をついたままの松浦の側にしゃがみ込んだ。
「でも惜しかったねー。秘密はその2でお終い。3まであるとかテキトーに
自信満々で言ってたけどさ。あんたの勘もかなり鈍ってるんじゃない? ま、
どーでもいいか。すぐ死んじゃうんだし」
「……」
- 80 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時14分10秒
□ □ □ □
急勾配の狭い路地を抜けると、いきなり病院の裏門へ出た。保田は慌てて
ブレーキを踏む込み、アスファルトとゴムがこすれあって悲鳴のような高音の
嘶きをあげた。市井は耳に突き刺さるノイズに顔をしかめた。バンはひしゃげた
門にフロントから突っ込み、ガラスを罅だらけにして停車した。精悍だった
顔つきは無惨に歪んでいることだろう。
「お待たー」
保田はふざけたように言うと、荒く息を吐いている市井の背中をさすった。
「お前なあ、絶対畳の上じゃ死ねねーぞ……」
「お褒めにあずかり恐縮。さ、あんたも来る?」
笑いながら助手席で固まっている新垣に声をかけたとき、後部のドアが
乱暴に開かれる音が響いた。
- 81 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時14分41秒
- 「紺野?」
三人が振り向いたときには、すでに門を軽やかな動きで飛び越えて、開けっ放しに
なっている裏口の方へ駆けだしていた。
「お、結構運動神経いいんじゃん。意外」
軽口を叩きながらも、保田が驚いて後を追おうとする。が、新垣に腕を
掴まれて動きを止めた。
「私も行きます! 矢口さんのことなら、私も……!」
「あ、そ、そうか」
新垣の手錠を外そうと手を伸ばしたときには、すでに市井も紺野に続いて
裏口へと駆け込んで行ってしまっていた。
- 82 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時15分17秒
□ □ □ □
阿鼻叫喚の坩堝となった球場で、中澤は拳銃を乱射しながら逃げまどう
群衆に揉まれていた。もう何機の『眼』を破壊したかは把握してなかったが、
それでも一向に熱線の攻撃は止まることなく続き、断続的に爆音が周囲から
響いてきている。
「中澤さん……」
弱々しい声が聞こえて、足首が掴まれる。眼を下ろすと、アヤカが傷だらけに
なりながら這い蹲って助けを求めている。
中澤は腕を伸ばすと、アヤカへ肩を貸した。右の腿からどす黒い血が流れ落ちていた。
「落ち着け。大丈夫、まだ助かる」
「すいません、私……」
「下らんことは喋るな」
小声で言うと、上空へ飛来してきた『眼』を拳銃で撃ち抜き、ポケットから
新しいマガジンを引っ張り出した。
- 83 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時15分52秒
- 高橋は泣きわめきながら、群衆の足下をすり抜けるようにして逃げまどっていた。
と、見慣れた人間が同じようにして地面を転がっていくのが目に入る。
「まこっちゃんっ!」
絶叫しながら飛びつくのに、小川は驚いてカメラを落としそうになってしまう。
「あ、愛ちゃん、よかった無事で」
妙に落ち着いた口調でいう小川に、高橋はもの凄い早口で捲し立てた。
「なんでこんなときにまたカメラだのスクープだのってもうまこっちゃんそんな
おかしいでなんで逃げようってマジでもう出口もう見えねえで爆発があっちでえ
私どっちに行ってもを人人人人……」
- 84 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時16分25秒
□ □ □ □
「まあでも、これだけ都知事に貢献したんだから、ひょっとしたらいい感じで
使って貰えるかもしれませんよ? なんなら私が口ききましょうか?」
嫌みったらしく言う藤本に、矢口は怯えたような視線を向けたまま立ちすくんでいた。
ふらふらと後じさると、途中で千切れて落ちているフェンスに手をかける。
高い壁を舞い上がってくる風が矢口の髪を乱した。耳元に光っていたピアスは
もうなくなっている。
- 85 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時16分57秒
- 「どうします? 政府のために働きます?」
「ふ、ふざけるなっ!」
震える声で怒鳴りつける。藤本はニヤッと笑うと、
「ま、そうでしょうね。バカはバカなりに、カッコつけたがりますもんね」
「誰が、……誰が、政府なんか……」
「分かってませんねー。矢口さん、今回の件で一番貢献してる矢口さんなん
ですよ? ほらー、もっと自慢しちゃいましょうよ。私も自慢したいしぃ」
矢口はなにかを言おうとして口を開くが、発するべき言葉を見つけられないようだった。
ディスプレイからは、絶え間なく球場からの狂乱の光景が伝えられてきている。
薄い雲を通した淡い月の光が、ぼんやりとした影を足下から伸ばしている。
藤本はディスプレイの映像を一瞥すると、硬直したままの矢口へ視線を戻した。
「さてと」
- 86 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時18分19秒
- 数発の銃声がその場の空気を切り裂いた。矢口の身体があちこちで真っ赤に
弾け、生臭く饐えた匂いを撒き散らした。
「んっ……」
口を開こうとして、喉の奥から血液が噴き出す。矢口は身体を押さえたまま
膝をつくと、粉々に崩れ落ちている屋上への入り口を見つめた。
「あ」
藤本が振り返ると、震える両手で拳銃を構えている紺野の姿が目に入った。
銃口から細い煙が棚引いている。紺野はまだ熱の残っているそれをすべらせるように
地面へ落とすと、崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
「あーあ。無理しちゃって」
へらへらと笑いながら、藤本は再び矢口へ向きなおった。
「どうですか? ヒトに撃たれる気分は」
- 87 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時18分49秒
- 奔流のように流れ続ける血を両手で押さえながら、矢口は感情を失った双眸で
紺野と向かい合っていた。口角から溢れ出している血が、灰色のコンクリートに
点々と鮮やかな泉を広げている。
「紺野!」
息を切らしながら屋上へ駆け上がってきた市井が、紺野を後ろから抱きしめた。
それから、目の前で血塗れになっている矢口、その側に腕を組んで立っている
藤本を見て、息を呑んだ。
藤本はふっと鼻を鳴らすと、なにも言わずに肩を竦めた。
強い風が吹き、コートの裾を舞いあげて細長い脚が剥き出しになった。
- 88 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時19分22秒
- と、市井の背後から俊敏な動きで侵入してくる影があった。紺野が落とした拳銃を
拾い上げると、藤本の防弾のコートの隙間へ残りの銃弾を撃ち込んでいた。
「なっ……!」
突然の出来事に、藤本は反応することが出来なかった。義足に二つの穴が空き、
精密に組み立てられた金属繊維と動力部を破壊した。
「外したか……!」
保田は床を転がりながら舌打ちした。藤本は左脚でジャンプすると、素早く
立ち上がっていた保田の鳩尾を殴りつけた。
「つっ」
罅の入っていた肋骨が完全に折れたのが分かる。保田は身体をくの次に折り曲げると、
痛みを紛らわすようにアタマをコンクリートへこすりつけた。
「弱っ! なに? 弱すぎっ!」
動揺を隠すように藤本は大袈裟な声をあげると、機能しなくなった右脚を
引きずりながらよたよたと後ろへ下がろうとした。
- 89 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時19分52秒
- 保田に続いて、新垣が屋上へ姿を現す。広がり続ける血の海の中心で蹲って
いる矢口を認め、大声をあげた。
「や、矢口さん……!」
狼狽えたように叫ぶ新垣に、藤本は大声で笑った。
「バカじゃん! なに今頃になってあんたたち集まってんの? なんかの
記念日かなんかかよ。もう終わったんだよ、全部!」
喚き散らしながらフェンスまで後じさろうとする。その時、なにかが背中に
ぶつかってくるのが感じられる。生臭い血液の匂いが鼻を突いた。耳元で、
甘ったるい猫なで声が囁きかける。
「秘密その3、私が教えてあげる」
- 90 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時20分23秒
- 身を捩って押しのけられる前に、松浦は鋭いナイフで藤本の腹を抉っていた。
「ずっと愛してた」
「な、に、……!」
灼けるような痛みが腹部から全身へ拡がっていく。
奇妙な形で抱き合った二人は、ディスプレイからの怒号をBGMにぎくしゃくとした
踊りを舞った。松浦は熱い血液を浴び続けている両手でナイフを握り直すと、
もう一度深く藤本の身体へ穴を穿つ。
「ホントはね、二人で新しい地図を描きたかったんだ……。そのために、私、
ナイフを買ったんだよ」
「は、なせ……」
「二人で死んだら、二人で生まれ変われるかな」
そのまま、一つになった二人の身体は引き裂かれたフェンスの隙間から
落下していった。
雲の切れ間から顔を覗かせた月だけが、二人を見送っていた。
- 91 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時21分13秒
52.Piercing Voice >>49-90
- 92 名前:52. 投稿日:2003年07月04日(金)19時22分05秒
- >>44名無しさん
( ´ Д `)<ごめんねー……
>>45名無しさん
ご期待に添えず申し訳ないです……
どうもそっちの(どっちだ)ジャンルは苦手みたいです。
>>46名無しAVさん
ずいぶん期間が空いてしまってすいません。
次回で本当に完結します。
>>47名無し読者(コーヒー)さん
ありがとうございます。前スレで終わるはずだったんですが、なかなか難しいです。
1の文面はいろいろ考えたんですが、なにも見付かりませんでした。
とりあえず今回のエピグラムがそのかわりってことで……。
>>48名無し読者さん
短編で書こうと思ってたエピソードなんですが、吸収させてしまいました。
決着、書きながら賛否両論かなーと冷や汗たらしてますが、どうか生暖かく見守ってください。
- 93 名前: 投稿日:2003年07月04日(金)19時23分08秒
次回更新で完結します。ただ少し期間があいてしまうかもしれません……
- 94 名前:名無し読者(コーヒー) 投稿日:2003年07月05日(土)08時13分57秒
- 更新お疲れ様でした。お待ちしてました!
もうただただ驚愕・・・唖然・・・
何度生唾を呑んだ事か・・・
次回更新での完結(BIG CRUNCH)が来て欲しかったり欲しくなかったりw
- 95 名前:名無しAV 投稿日:2003年07月05日(土)23時38分25秒
- ぬは……。ある程度予想できた範囲のはずの話なのに、なんて言うんですかこの昂揚感。
すげー…そんな言葉しか本当に浮ばない。ジェットコースター以上の加速と興奮を味わえた。
高等な麻薬をやったみたい。勿論やったことなんて無いけど。
あー陳腐なレスしか付けれずにスレ汚しの気がしてしょうがない嫌悪感。
面白すぎる話の前には馬鹿は跪くしかありません。土下座しながら最後の時を待たせて頂きます。
- 96 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年07月06日(日)23時54分39秒
- 作者さま、更新お疲れ様です。
第3の秘密・・・。あやゃ!!かっこ良すぎです。
でも、主人公のよっすぃ〜は梨華ちゃんを取り戻せるのか?
更新を楽しみぶ待ってます!!
- 97 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月09日(水)10時46分53秒
- そういえば主人公はよっすぃ〜だった、すっかり忘れてた。
- 98 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時09分08秒
53.散/種
- 99 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時09分42秒
いつの間にかストーブの燃料は燃え尽きて、じわじわと奥の大広間にも外の
冷気が浸透してきていた。
チョコレートの棺桶に突っ伏したまま、柴田あゆみはうとうとと夢の世界へ
片足を突っ込んでいた。少しずつ伝わってくる寒気に、無意識に身体を
ブルッと震わせた。外で起きている喧噪とは無関係に、この場はどこまでも
深い静寂に覆われていた。
と、なんの前触れもなくいきなりそれは起こった。
顔にハンカチをかけられて横たわったままだった石川の身体が、突然跳ね上がって、
看板を覆っていた薄いベニヤの板を捲り上げた。たまらず、柴田の身体は
畳の上に転がされた。
柴田はなにが起こったのか即座には理解できず、眠たげに目を瞬かせながら、
棒のように突き立っている石川の身体に視線を釘付けにした。
次の瞬間、古びたビデオテープのように石川の身体はブレると、目の前から
消失した。跡形もなく、ヒラヒラと舞い落ちるハンカチだけが残された。
- 100 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時10分20秒
- 「……え?」
唖然と口を開いたまま、柴田は呆けたように声を出す。
石川の消えていった空間が再び陽炎のように震えると、再びブレるようにして
硬直した身体が還ってくる。石川は俯いて長く息を吐き出すと、尻餅を
ついたまま目を見開いている柴田を一瞥して、もう一度嘆息した。小脇に
黒いファイルボックスを抱えているのが見えるが、柴田にはそんなことに
気を向けている余裕はなかった。
「生身の瞬間移動は、超疲れるんだよ……やってらんない」
それは石川の声ではなかった。口調は冷たくシニカルで、低く落ち着いたトーンの
声は、誰に向けられるでもなく言葉を並べていった。
「もう一回だけ。頑張ろうか」
棺桶から足を踏み出すと、柴田へと歩み寄って手を差し出した。
「成り行きで悪いけど、あなたに面倒見てもらっちゃっていいかな?」
「な……、なにを……?」
そう呟きながらも、反射的に柴田は差し出された手を握り返してしまっていた。
石川はニコッとお馴染みの笑顔を浮かべると、
「それはまた後で。海の上に落ちちゃったらごめんね」
直後、二人の姿は大広間から消えていた。冷え切った殺風景な部屋には、
場違いなほど可愛らしいピンクのチョコレート看板だけが残された。
- 101 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時10分52秒
□ □ □ □
冷たい感触が頬に一つ感じられた。それは続けざまに捲り上げられた腕を
打ち、薄いコートを通じて背中を続けざまに濡らした。吉澤は厚い雲が
覆っている空を見上げた。大粒の雨が、重みに耐えかねたように一斉に
舞い降りてきている。ついさっきまで出ていたはずの月は、いつの間にか
雲の影に隠されて、薄い光しかこの場へ届けてくれていない。
身体に受けた衝撃は未だ熱を持って残っている。汗と脂で湿った髪が雨に
濡れて、顔面にまとわりついてくるのを邪魔そうにかき上げる。目の前に
倒れていた影は、ゆっくりと闇の中へ遠ざかって行っていた。アスファルト
を激しく雨粒がうち続け、闇と共にほんのわずかな距離の視界さえも奪っていた。
- 102 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時11分27秒
- 「……」
逡巡したのはほんの一瞬なのだろうか、とても長い時間、吉澤は自分がぼんやりと
立ちすくんでいたように感じている。目の前の影を追うことはもうしなかった。
すでにそれは過去の事象でしかなかった。後藤が放ったリュックはまだ腐敗した
クルマの下に転がっているはずだ。吉澤は闇の中で自分の居場所を確かめる
ように、強く足を踏み出した。アスファルトに染み込んだ雨が跳ね、汚れた
ブーツを濡らした。
「私は、なにを……」
考えもせずに、そんな言葉が漏れた。ふと振り返ると、いつの間にか気配だけを
残していた影は消えていた。
- 103 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時12分08秒
- 「なにやってんだ私は……」
小さく漏らした声は、突然の雷鳴によってかき消された。一瞬の放電が
辺りを青白く照らし出し、茶色く腐って穴だらけになった車体を浮かび上が
らせた。吉澤は雷鳴に打たれたように突然走り出すと、車体の下に転がって
いたリュックを拾い上げた。頑丈な布で覆われたリュックはほとんど濡れて
いなかった。車体に手が触れて、崩れかけた坑をさらに広げた。パラパラと
落ちていく鉄錆が、雨に濡れてコートの袖にまとわりついてきた。
「ちぇっ」
意味もなく舌打ちをして、車体を殴りつける。拳はそのまま腐敗したシャーシを
突き抜け、ゴミを撒き散らした。再び雷鳴がなり、泥と鉄錆と雨でドロドロに
なったコートの袖を一瞬だけ照らし出した。
- 104 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時12分43秒
- 「まだ私は……、誰にも勝ったわけじゃない」
吉澤は腕を引っこ抜くと、リュックから携帯PCを探り出して、おぼつかない
手つきで起動させた。たちまち、自動的に無数の情報が立ち上がり、更新
されていった。
アスファルトに点々と残る血痕は、雨によって流されていく。吉澤はもう、
その方向を振り向こうとはしなかった。
- 105 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時13分23秒
□ □ □ □
屋上にいる五人は、ただ呆然としたままお互いの顔を見交わしていた。いつの間にか
流れてきた雲から大粒の雨が降り注ぎはじめても、誰も身動きが取れずに
不安げに視線を彷徨わせることしか出来ないでいた。
硬直したままだった新垣が、ふと何かに背中を押されるようにして矢口の元へ
駆け寄っていった。両手で小さな身体を抱いて、膝をついた足下に雨水と
混じった血の池を広げ続けながらも、矢口は虚ろな目を見開いてじっと
球場からの映像に見入っていた。
「矢口さん!」
新垣からの呼びかけに、矢口は上目遣いで彼女の顔を見つめた。長い黒髪は
二つ縛りでぶら下がり、雨水を滴らせていた。耳元にはなにも光るものはなかった。
それを確認すると、矢口はふっと弱々しげに笑った。
「だ、大丈夫ですか……。あさ美ちゃん、なんで……?」
新垣の声に、矢口は顔を上げた。絶望的な瞳で新垣の不安そうな目を見つめると、
また力尽きたように目を伏せた。
- 106 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時13分56秒
- 紺野はまだ全身の震えが止まらずに、自分で自分のカラダを両腕で締め付けて
いた。潤んだ両目を見開いたまま、じっと矢口から視線を逸らそうとはしない。
鳩尾を押さえたまま、呻き声を上げて保田がよろよろと立ち上がった。フェンスに
手をつきながら移動すると、松浦と藤本が墜ちていった裂け目から下を見下ろした。
「おい、なにやってんだよ」
背後から市井の声が聞こえる。保田は舌打ちをしながら向きなおると、
「あいつが顔につけてた機械だよ。あれがないと、『眼』が止められない」
もう一度下を見下ろす。遥か下で折り重なっている二人の上にも、この雨は
降り注いで、醜い痕跡をゆっくりと洗い流しているのだろう。
「あの、バカが……」
大型モニターからは、絶え間なく球場の地獄絵図が届けられてきている。『眼』が
暴れ初めてから大分時間は経っていたが、沈静化する気配は見られない。
- 107 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時14分49秒
- 市井の肩を借りて、保田が戻ってくる。
「どうする? 球場に戻って……」
「戻ったってどうしようも出来ないよ」
保田が言うのに、背後から微かな声が投げかけられた。
「おい」
矢口の声だった。真っ白く乾いた皮膚が顔面を覆って、まるで死人のように見える。
「裕子は……、中澤裕子はまだ生きてるか……?」
全員が大型のディスプレイへと目を向けた。倒されたカメラからは混乱した
情景の一断片しか伝わってきていない。
「ここからじゃ分からないよ」
保田が言う。矢口は血塗れのカラダを抱えたまま、目を閉じている。額から
瞼へ水滴が伝い、あごの先から糸のように流れ落ちていた。
「なんか、目が見えなくってさ」
新垣が恐る恐る矢口の肩へ手を置いた。矢口はビクッと全身を震わせると、
もう一度、傷口から感覚が抜け落ちてしまわないように両腕を強く締め付けた。
- 108 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時15分27秒
- 「矢口さん、わ、わたしは……」
掠れた声で紺野が言う。が、言葉は途切れたままあとはただ空気を吐き出すこと
しか出来なかった。
側まで来ていた保田が、紺野の肩に手を置く。しかしそれに気付いた様子もなく、
目を大きく見開いたまま矢口から視線を逸らそうとはしない。
「紺野、あのさ」
保田が言いかけるのに、市井が袖を引っ張った。
「おい」
「なんだよ」
「なにを言うつもりなんだよ」
「それは……」
保田がなにを言おうとしているのか、市井には分かった。
しかし、それを止める必要はなかった。次の瞬間、甲高い悲鳴が沈滞した
空気を切り裂いて響き渡った。
「矢口っ!」
聞き慣れた声。懐かしい声。しかし、あり得ない声。
全員が声の聞こえた闇へと視線を向ける。安倍なつみが、血塗れで蹲っている
矢口の元へ駆け寄っていった。
紺野は安倍の姿を目で追いながら、その全てがまるで夢の中の出来事のように
感じられていた。夢の中で、安倍は矢口に駆け寄り、血に染まった小さな
身体を抱きしめていた。
「お願い、お願い……」
呟き声が聞こえる。矢口は俯いたまま、その声を聞いていた。彼女も紺野と同じように、
すでに現実と夢の境目が失われてしまっているようだった。
「矢口、大丈夫だから、すぐに、すぐになんとかなるから……」
- 109 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時16分13秒
- 呪文のように、自分自身に言い聞かせているのか、矢口への言葉なのかは
分からずに呟き続けている。
安倍の開かれた手のひらは傷口に張り付いている矢口の手のひらを覆うように
してあてがわれている。小さな矢口の手から溢れ出す鮮血は生暖かい感触を
安倍の両手に残す。そこから舞い上がる錆び付いたような匂いに、安倍は
狂わせられていくような気がした。そしてそれでも構わない、と思っていた。
「光を……」
意味のある言葉ではなかった。無意識の奥底から零れ落ちた言葉が、薄く
開かれた唇の隙間から飛び出してきただけだ。たった一粒の言葉の種子は、
そのまま空気の中に拡散し、ゆっくりとやさしく包み込む。
淡く青白い光は赤黒い海の中から粒子となって生まれ、それぞれが広がり
繋がりあって一面を覆った。安倍に包まれた矢口の小さな身体は、光の
膜に包まれたさなぎとなり、定型を失ったまま血の跡だけを残して舞い上がった。
「……明日香?」
どこからも声は聞こえてこない。光の塊は流線型を保ったまま渦をまいて
上空へと舞い上がり、水滴が水面にぶつかるときのようにある一点で弾けた。
安倍も、その場の四人も呆けたような表情で不可解な現象を見守っていた。
光の欠片はタンポポの綿毛のようにヒラヒラと闇夜に無数に浮かんでいた。
生暖かい風が吹き、固まっていた綿毛を散らした。安倍の血塗れになった
両手にも、いくつかぼんやりとした光を放つ綿毛が張り付いている。血だまり
の出来た床には、矢口の身につけていた地味な上下とブーツが、びしょ濡れに
なって取り残されているだけだった。
- 110 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時16分50秒
- 「矢口……?」
安倍の呟きは、次の瞬間に大気を切り裂いていった甲高い悲鳴によって
かき消されてしまう。反対側の闇から、泣き声をあげながら少女が書け
だして来る。ついさっきの安倍と同じように、なんの前触れもなく。
「おばちゃぁん……! 助けてえ」
少女は、鳩尾を押さえたまま身体を曲げていた保田に縋り付くと、コートの袖に
涙まみれになった顔を押しつけて泣きじゃくった。
二つ縛りにして、前髪を垂らした髪型と、子供っぽい明るい色の服装は、
忘れようとしても忘れることの出来ないものだった。
「おばちゃんって……」
保田は連続して起きた目の前の事象に思考をズタズタにされた状態で、ただ
自分に縋り付いてきている加護亜依の頭を撫でてやることしか出来なかった。
行き場を失ったいくつもの視線が、フラフラと屋上を彷徨った。加護が泣き
ながら指さしている方向から、スマートなシルエットが浮かび上がり、音もなく
近付いてくる。彼女は、右腕に黄色いクマのぬいぐるみを抱えている。
同様にして、安倍の現れた反対側の闇からも、全く同じ姿が滑るようにして
近付いてくる。彼女は手ぶらだった。
- 111 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時17分31秒
- 「な、……なに……?」
震える声を漏らしたのは市井だった。その場にいる全員が見守る中で、二つの
シルエットはそのまま安倍の側でぶつかって重なり合い、一つになった。
「さてと」
長い髪を弄りながら、白衣の女性は薄く笑みを浮かべながら周囲を見回した。
「圭織……矢口は、どうなったの……?」
膝をついて血に染まった自分の身体を抱きながら、安倍は不安げな瞳で側に
立つ飯田を見上げた。
飯田は答えずに、混乱が続いている球場の様子を映し出しているモニターを
一瞥すると、手のひらを表にして空中へ差し出した。辺りを漂っていた光の
綿毛が、いくつか寄り集まってきて手のひらの上で球体に固まった。
「矢口……まずは自分の後始末からかな」
そう言うと、球体にふっと軽く息を吹きかけた。光は再び無数の綿毛となって
弾け、今度は風任せではなく意思を与えられたスピードで散っていった。
- 112 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時18分17秒
- 「おばちゃん、あいつがいじめんねんっ! なんとかしてやっ」
鼻を啜りながら、涙声で加護が喚いた。保田は困惑したように自分に縋り付いて
来ている加護と飯田を見比べた。
飯田は苦笑いを浮かべながら振り返る。加護はまたひっと細い悲鳴を上げると、
なにやら関西弁の罵倒語を早口で捲し立てた。
「うるさいなあ」
飯田はふっと宙に浮かび上がると、滑らかな動きで近付いてくる。加護は
慌てて保田の背後に隠れた。
「ち、ちょっと」
仕方無しに保田が口を開く。飯田は宙で静止したまま、大きな両目を見開いて
保田と向かい合った。
「あ、……あんたが誰かよく知らないけど、あんまり……小さい子をいじめない
ほうがいいんじゃないかな……」
自分でも奇妙なことを言っているとは自覚している。飯田はふっと相好を
崩すと、黄色いクマのぬいぐるみへ視線を落とした。
「知らないってことはないと思うけど」
飯田は小声で言うと、首を傾げて、
「まいいや。さてと、どっから始めようか……」
そう言うと、その場にいる人間に順番に視線を巡らせた。新垣、市井、紺野、
加護、保田。それからまた安倍へ顔を向けた。
- 113 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時19分01秒
- 空気は闇の中で硬直してしまったように感じられる。市井は背後から紺野を
抱いたまま、ゆっくりと後じさった。新垣は落ちつかない様子で視線を
ふらつかせていた。
「圭織……矢口に何をしたの」
床に手をついたまま、安倍が低い声で訪ねる。飯田は、どこから説明すべきか
思案するように、気怠そうな仕草で顎を撫でた。
「まずはお礼かな」
飯田はそう言いながら、新垣と加護を続けて指さした。
「お礼っていっても別に何もないけど、とりあえずB装置をばらまくのに
協力してくれてありがと。あれだけあれば充分だよ」
「びーそうち……ってなんですか」
新垣の口調はまた落ち着いたものに戻っていた。加護は涙目で飯田を睨み付けた
まま、なにも言わなかった。
「これだよ。これ使っていろいろ作ったでしょ? 食べ物とか、薬とか」
加護が常に離さずにいたクマのぬいぐるみを示す。飯田は空中で手を離した
まま、ぬいぐるみを浮遊させた。その周辺も、やはり青白い光の粒子に
包まれており、活性化された状態であることを示している。
- 114 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時19分33秒
- 「知るかっ!」
保田の背中に隠れていた加護が、さっと顔を出して怒鳴ってからまたすばやく
隠れる。新垣は不気味に浮かび続けているぬいぐるみから目を逸らさずに、
言葉を継いだ。
「それは、加護さんがいつも持ち歩いてたもので……、加護さんはいろいろ、
ケガとか病気を治したりとか」
「あー、それ全然あの子とは関係ないよ」
新垣の声を遮って、飯田は笑いながら言った。
「あ、そういやあんたこれどこで手に入れたの?」
飯田に声をかけられ、加護はまたおずおずと保田の背中から顔を出す。
「それは……貰った」
「貰った?」
「両親がパチンコいっとって、私、一人でゲームセンターでUFOキャッチャー
やってたんだけど全然取れなくて、そしたら私と似たような感じの子が来て、
これあげるって」
- 115 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時20分06秒
- たどたどしい口調で説明するのに、飯田は溜息をつくと、
「やっぱり」
「やっぱりって、なにがやっぱりなのよ」
加護の頭を撫でながら、保田が詰問するように言う。飯田は面倒臭そうに
眉を顰めると、手元にぬいぐるみを引き寄せた。
「内輪でね、いろいろ不祥事があったってこと。これだって別にぬいぐるみの
形してる必要もないしさ。多分あんたが喜ぶと思ってそうしたんだろうね。
明日香らしいというか、発想が古臭いというか」
そう言いながらもう一度ぬいぐるみを頭上まで浮かべる。と、それは先刻の
矢口と同じように、光の粒子となって分解して飯田の身体を包んだ。
「こんな感じでね。分子の塊。当たり前だけどさ。でも当たり前じゃない
んだよね」
「……全然、わけわかんないよ」
保田が低い声で言う。黙って飯田のことを見つめている市井と紺野も、同じことを
思っているだろう。
「お、もうついたみたい」
飯田はそう言いながら再び舞い上がり、ディスプレイの前に着地する。いや、
正確には床に足をつけることなく、光を帯びたまま浮遊している。
全員がディスプレイへと注意を向ける。ついさっき矢口の身体から生まれて
飛び立っていった光の綿毛たちが、球場の上空から雨の隙間を縫うようにして
舞い降りてきている。
- 116 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時20分41秒
- 「遠隔操作で起動させることも出来るけど、頑張ってくれた矢口には最後の
仕事をしてもらおうと思ってね」
飯田はそう言いながら、顎を撫でて首をかしげる。その仕草が彼女のクセなのか、
なにか重要な意味を持っているものなのかは分からない。
ひとひらの綿毛が、傷だらけになって倒れた男の身体に触れる。その一点から、
青白い光が全身を被って、無数の光輝く綿毛を男の身体から散らせていった。
同様の光景が、混乱した球場のあちこちで展開され、多くの人間達がその場に
洋服やブーツ、ピアスなどを残したまま光となって舞い上がった。
一塊りの綿毛が宙空へ寄り集まったかと思うと、ミルククラウンのように
パッと開いてそのまま舞い降りた。綿毛の膜は無差別な攻撃を続けている
『眼』を包み込むと、光の中で蒸発させた。また、死体に取り付いた綿毛は
あっという間に全身の組織を組み替えると、再び無数の光の綿毛を生み出し
舞い上がらせた。やがて、ディスプレイの中にはランダムな動きで舞う綿毛と
散発的に狂い咲いたようなミルククラウンの花、それを戸惑った表情で見上げる
人々だけが残された。
「あっ……」
一連の出来事にはそれほどの時間は経過していなかった。しかし、無限に
近い感覚でその映像を見つめていた彼女たちは、紺野のあげたその声によって
ようやく現実へと意識を引き戻された。
- 117 名前:53. 投稿日:2003年07月29日(火)01時21分19秒
- 「どう? キレイなもんでしょ?」
飄々とした口調で飯田が言う。口元にはどこかバカにしたような薄笑いが
浮かんでいる。
「キレイとか汚いとかそういう……」
保田が言いかけるのに、飯田は眉を顰めると人差し指を立てて横に振って見せた。
「汚いのはこの世界だよ」
そう言うと、飯田は安倍の方を振り返った。
「なっちが私にそう言ったんだ。だから、私は汚い世界をキレイなものにしようと
思って、ここに戻ってきたんだよ」
「え、だってそれは」
安倍が驚いて顔を上げるが、その時には飯田はすでに光を帯びたまま上空へと
舞い上がってしまっていた。
「じゃ、私ももう窮屈だからこんなカッコでいるのやめるね。みんなもさ、
一遍やってみたら分かるよ、今の形がどれだけ窮屈だったか!」
大声で言いながら、飯田は夜空を背景に光となって散った。同時に、ひときわ
大きな雷鳴が鳴り響き、空全体を光で覆い尽くした。一瞬、無数の光に
全ての輪郭が一際明確に浮き上がり、再び闇へと沈んだ。
- 118 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時22分30秒
54.はじまり
夜が明けるまでに雨粒を孕んだ雲は風に流されていき、太陽が完全にその
姿を現す頃にはすでにきれぎれになった薄い雲だけが青空に一筋のラインを
残しているだけだった。闇の中で夜光虫のような姿を見せていた綿毛たちは、
日の光の下で本来の姿を明らかにして、活発な活動を続けていた。
半透明な膜となった塊は空気の対流にのってゆるやかに移動し、それらを
取り巻くようにして小さな綿毛たちも都市の隅々へ舞い散っていく。より
大きな集合となったジェル状の塊は不定型な形をくねらせながら、重力に
左右されない川のように細かく張り巡らされた道路の上を、毛細血管の
ように分岐し拡がっていった。東京中の大地を遠からず覆い尽くすことは
時間の問題だろう。
- 119 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時23分03秒
- 瓦礫の隙間から茎のように伸びた先には風向きを読むように花が開き、そこからも
細かい綿毛たちが飛び立っていく。死体の山はいつしかドーム状の工場に
姿を変え、風に舞う膜やパイプの川、不定形ながらも地上での作業のために
組み立てられたかつての生物を思わせる塊を、無数に吐き出し続けている。
半透明な組織は午前中の明るい日光を吸収するように柔らかな光を帯びて、
ゆるやかに東京全体を覆い尽くしていった。
変身と溶解は絶え間なく、東京のあちこちで続いていた。そのたびに、半透明の
組織体やパイプや膜の数は増え続け、大気を埋め尽くすように綿毛は舞い上
がっていった。彼らに日光が必要なのか、綿毛たちは遥か上空へと舞い上がって
律儀に雲を遠ざけていってしまったようだ。あの夜の雨を最後として、一週間
以上も嘘のような晴天が日中を覆っていた。夜になると都市のあちこちに
散った全てが青白い光を帯びて、幻惑的な光景をそこかしこに現出させた。
非現実的な光景の中で、飢えと体力消耗に耐えかねた人間がありえない幻覚を
見ることがあちこちで起こった。大昔の童話のように、力尽きて倒れた
人間の目の前に、光に包まれた豪華な食事が姿を現した。不思議なことに、
全ての人間の好みを把握しているように、あらゆるレパートリーが網羅されて
いるようだった。分厚いステーキは脂を艶めかしく光らせながら、鉄板の
上で食欲を煽るように灼かれる音を立て、艶めいた米は白い湯気を立てながら
豊富に含まれた水分ではち切れそうに見えた。ジャンクフードでさえ、飢えた
- 120 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時23分45秒
- 彼らの目に映るそれは非現実的なまでに豪奢で幻惑的な姿を見せつけていた。
そして、その誘惑に負けて最後の食事を飢えた腹いっぱいに詰め込んでから、
それが消化され血肉になる頃には、彼もまた半透明な光の一部として、限定された
形を失ってしまっていた。
人間に限らず、全ての生命体はそれらに摂取されてしまっているようだった。
空気はいまだ人間が足を踏み入れたことのない草原のように澄み切って、
汚染されていた川は、浄化され透明になった水にいかなる生物も住まわせて
いなかった。腐敗した有機体は細菌もろとも分解させられ、土はいつの間にか
サラサラとした砂漠の砂のように白く大地を覆っていた。崩れたビルや立体交差や
橋などはそのままの形で、表面をうっすらとしたジェルによって固められて、
ドライフラワーのように凍結された姿を残していた。
- 121 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時24分17秒
- 柔らかい風が肌を撫でていった。風は止むことはなく、しかしそれ以上に
強くなることもなかった。気温も湿度も安定して、太陽の光は直接肌を灼く
ことはなく、過不足ないだけの日光を青空から分け与えてくれていた。
まるで、うっすらとした透明な膜によって、空全体が覆われているような
気がする。地表近くではすでに小さな綿毛はほとんど見られなくなっていた。
道路の隅には何本かのパイプが列になって流れ、路上にはたまに球に近い
形をした半透明の巨大な塊が、数本の小さな脚を出したり引っ込めたりしながら
軽やかに通り過ぎていった。
二人の存在に気付いていないことはないだろう、しかし依然黙殺され続けて
いるのは、遠からず彼らからの誘惑に負けて、最後の晩餐を味わった後に
溶解してしまうことを確信しているからだろう、と小川麻琴は思っていた。
球場の混乱で脚を痛めた高橋を支えながら、一週間でどれだけ薦めたかどうかは
分からなかった。それに、東京から出ていったところでどうなるともしれないし、
すでに異変に気付いた周辺からは封鎖済みである可能性も充分に考えられた。
それでも、今の二人はただ北へ向けて歩き続けるしかなかった。歩みをやめる
時は、また東京全体を覆い尽くしている不定形の「それ」と一体化すること
でしかなかった。
- 122 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時25分18秒
- 太陽の位置から正確に時間の経過は分かるようになっていた。歩くと言うよりも、
重力に任せて身体を揺らしながらゆっくり前進していると言った方が正確かも
しれないが、三時間近い歩みから二人はわずかな休憩を取った。パイプを
避けるようにしながら、道端の電柱に背中を凭れさせて、マスク越しに深く
息を吸い込んだ。
「ここってどのあたりやろ」
掠れた声で高橋がいう。全身の衰弱は目に見えるほどひどかったが、懸命に
普段通り振る舞おうとしているのが痛々しかった。
「分からない」
「わからんて、まこっちゃんいつもそればっか」
そう言ってふっと笑った。目を上げると、いつものようにどこからともなく
暖かい食事が二人分、突然沸き上がったように生まれていた。
「またや」
「喉乾いたなあ……」
小川が言い終わらないうちに、コップになみなみと入った白っぽい液体が、
氷を浮かべて現れる。ご丁寧にカラフルなストローまで刺さっている。
「まだあるんだよね、水は」
からかうように言ってみるが、弱々しい声にそれだけの力はない。小川は
鞄からよれよれになったペットボトルを取り出すと、一口だけ舐めた。それから、
高橋にそれを手渡した。
- 123 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時25分49秒
- 「まこっちゃんうち思うんやけどお」
ペットボトルを返しながら高橋が言う。小川はいつものこととは分かっていても、
なにも言わずに頷いてみせる。
「あんなん食べ物とか我慢してもこうやって息吸ったりとかしてたらもうとっくに
伝染ってるんでないかなって。そんならもう我慢とか……」
「それならもうとっくにうちらもあんなんになってるよ」
小川はそう言うと、斜めに傾いた陸橋の上を舞う、半透明な膜を示した。数本の
脚を進化させたそれは、空中を舞うクラゲのように見える。
「けどお」
「空気とかじゃ多分大丈夫なんだと思う。よく分からないけど、そうでなきゃ
あんなにしつこく誘ってこないと思うし……」
目の前の食事はいつ見てもとてもおいしそうな湯気を立て、水分を含んだ
光沢を煌めかせている。茶碗に盛られた白米に、具の多い味噌汁とかぼちゃの
煮物は、どこからリサーチしたのか知らないが小川の大好物だった。
- 124 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時26分22秒
- 「ごはんよりバッテリー欲しいんだけどな」
小声で言ってみる。四日前にカメラのバッテリーは底をついた。わずか四日
程の間であったが、目の前に拡がっている異様な光景は比較にならないほど
その勢力を拡大して、幻惑の度合いを増していた。
「そんなんいらんて」
ムッとした視線を向ける高橋に、小川は力無く肩を竦めて見せた。
「うち、ちっさいころばあちゃんとかに聞かされた地獄より、今の方がずっと
地獄やって気がするわ」
「そんなことないよ。地獄ってもっと痛かったりとかするんじゃないの?」
「脚痛いしもう全身痛い」
「ま、私も地獄とか行ったことないからよく知らないけどさ」
- 125 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時26分53秒
- 小川は言うと、透明な膜に触れないようにしながらふらふらと立ち上がった。
高橋も小川の腕を掴んで、脚を庇うようにして身体を起こす。
「ねえ、うちら以外にどんだけ人間て残ってるんやろ」
よろけるようにして道路の真ん中へ出ていく。高橋の言葉に、小川は溜息をつくと、
「知らないよ。でも、私は絶対に……負けないから」
そう言いながら空を見上げる。嘘のように晴れ渡った空と澄み切った空気は、
小川をただ苛立たせるだけだった。
- 126 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時27分24秒
□ □ □ □
シャボン玉のような浮遊物が、半透明な表面に日の光を反射して揺らめいて
いる。バレーボールほどの大きさのそれはふわふわと浮かびながら、ゆっくりと
安倍の目の前まで泳いできた。不思議そうな表情で覗き込むと、球体はなにかに
反応したかのようにぶよぶよと震えた。安倍は手を伸ばすと、軽くつついた。
「これ、なんの仕事する生き物なんだろうね?」
甘ったるいカフェオレの入ったカップを口に運びながら、安倍は隣に腰を
かけている市井を振り返った。市井は疲れ果てた表情で球体を見上げると、
「知らないよ……。監視してるんじゃない? 前にあった『眼』みたいな
やつかもね」
「あ、じゃ触っちゃまずかったかな」
「そういうことは触る前に言おうよ」
苦笑しながら、安倍に押されてゆらゆらと遠ざかっていく球体を見送った。
- 127 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時27分57秒
- 変わり果てた街の風景にはいまだに市井は慣れることは出来ないでいる。
「なっちはなんていうか、あれだね、環境に適応するのが早いよね」
「そうかな」
飄々とした口調で安倍は言う。
「ていうか、あんまり悩んでも無駄なことは悩まない主義なんだよ、なっちは」
「気楽でいいよね」
「紗耶香もそうしたほうが楽だよ、絶対」
安倍は真顔で言うと、カップを床へと置いた。どこからともなく洗われる
食事は、容器の中身がなくなると自然と半透明に融解し、側を走っている
パイプへ一体化して消えた。
- 128 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時28分27秒
- 二人は大通りに面した、緩やかな斜面の土手に並んで腰をかけていた。この場所
からは変化を繰り返す街の風景が一望できる。地面を縦横に走るパイプや
道路を往来する奇妙な塊、空中を浮遊するクラゲや球体などが、慌ただしさは
ないものの無駄のない働きをこなしている様子は、ずっと見続けていても
飽きることはなかった。受け入れるかどうかは別としても、新しいなにかが
作られていく瞬間を、二人は興味深く見つめていた。
「で、明日香はなにもコメントはくれてないの?」
心地よい陽気と午後の日差しに包まれてうとうととしている安倍に、市井が
声をかけた。安倍はゆっくりと顔を上げると、かぶりを振った。
「全然。あの時に一言かけてくれたのも、本当はなっちの勘違いだったのかも」
「えっ」
市井は狼狽したように目を瞬かせた。
「いや、分かんないけど」
安倍は笑いながら言う。市井は口を尖らせると、斜面で身体を伸ばした。
「無責任だなあ」
「結果オーライだったんだから、いいじゃん」
- 129 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時28分59秒
- 数日前、体力の消耗している安倍が幻覚のような食事を目の前にしている時
に一言、「大丈夫だよ」と声をかけてくれたのが本当に福田だったのか、ただの
幻聴だったのかは未だに分からないでいる。
ただ、二人が他の人間のように「溶解」せず普通にこの場で生活し、変化していく
街の姿を見つめていられるのは、二人とも福田によって身体を守られているから
だろうと、安倍は結論づけていた。
- 130 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時29分41秒
- 「なっちはさ、これからのこととか考えたりしてないでしょ?」
市井が言うのに、安倍はムッとした表情で肩をつついた。
「なによそれー。どういう意味?」
「私さ、今ちょっと迷ってるんだ。ここから出ていくべきなのかどうか」
市井は真っ青に澄み渡った、湖のような空を見上げながら言う。
「ここって、東京からってこと?」
「うん……。別にあてがあるわけじゃ全然ないんだけどね。ここでこうやって
ああいううにょうにょしたのが動いてるのを見続けててもあんま意味ないんじゃ
ないかなーって思うからさ」
市井が言うのに、安倍は少し考えてから返した。
「いいんじゃないかな。……なんかずっと前にも同じような会話したよね、うちら」
「したっけ?」
市井は寝そべったまま振り返ると笑った。
「なっちは? まだ東京に残るつもりなの?」
「うん」
迷いなく、安倍は頷いた。
「だって、圭織と矢口はまだここにいるからね」
そう言うと、大小のシャボン玉が浮かんでいる青空を見上げた。
風もない中で、ゆらゆらと動いているそれは、やがて崩れかけたビルの影に
消えて、再び戻ってくることはない。
- 131 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時30分13秒
□ □ □ □
※匿名の工作員より510号へ※
都内の倉庫で瀕死状態になっていた少年の組織から、ある配列と一致する
化合物が検出された。同所で死体となっていた仲間と思われる二人からは
検出することが出来なかった。(中略)
矢口真里(※)とその仲間が多くの過程で(治療、食料調達、他)、謎めいた
(という表現は不適切かもしれないが)プロセスを経ているという証言が得られた。
それらの過程(※)を経た(接触した)人間の延べ人数は概算で四万人を
上回ると思われる。
……
B装置の理論値によるシミュレーションと(※)との一致【参照】
……
後藤へ
本当はこういうことはしちゃいけないことなんだけど、気が向いたら手を
貸して欲しい。場所は、
……
- 132 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時30分44秒
- 液晶ディスプレイから光を落とすと、青白い光に包まれた空間で吉澤は嘆息を
もらした。全身の疲労は長い急速の間に消えていたが、まだこの場から立ち上がる
ことが出来ないでいた。
生暖かい床と壁に包まれた、それほど広くはない空間は、不思議と心を
落ち着かせてくれた。柔らかい感触の床に腰を包まれたまま、吉澤はぐったりと
倒れ込んだまま起きあがろうとはしなかった。どれほどの時間がたったのかは、
地上の光の届かないこの場所では知りようがなかったが、不思議と空腹や
喉の渇きを覚えることはなかった。それは、肌に触れた青白い燐光が直接
身体の奥へ必要なものを送り届けているからだろうと、漠然と吉澤は考えていた。
- 133 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時31分50秒
- 「南の方から、いくつかの太いパイプラインが地下に通っている」
部屋の隅に腰をかけた──というよりも壁の一部から浮かび上がっている、
といった方が正確かもしれないが──女性が、ぼんやりとなにも映っていない
携帯PCへ視線を落としている吉澤へ話しかけた。彼女の外見が飯田圭織と
全くの生き写しであることにも、吉澤は改めて驚いて見せるようなことは
なかった。それだけのエネルギーは、ほとんど残っていなかった。
「……どういうことなんですか、それは」
「頑丈なパイプライン。恐らく震度9の地震が来たとしてもビクともしない
だろう。それは別の施設……恐らく地下の、へと続いているのだろう」
「地震?」
「エネルギー供給を受けている施設がある。それは政府の人間が、あらかじめ
地震を予知して用意していたものかもしれない」
彼女の言葉に、吉澤は弱々しい笑みを浮かべるとかぶりを振った。
「それより、地上はどうなってるんですか?」
「今のところ、C装置は問題なく機能しているように見える。B装置は統率を
保って、地表の有機組織の組み替えを続けている。計算通り進めば、東京は
全世界の再編成のために、遠からずコアとしての機構を固めるだろう」
「ふうん……」
吉澤には、彼女の言葉の持っている意味はあまりよく理解できない。というより、
理解したいとも思っていなかった。
- 134 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時32分21秒
- ここへ降りてきてから少なくとも数日は経っているはずだった。吉澤は、不可思議な
空間とその隅へ悠然と居座っている飯田圭織そっくりの女性に面食らいながらも、
たった一つだけの知りたいことをそのまま言葉足らずにぶつけた。
お互いの言葉が交わらないまま、長い時間無駄なやりとりは続けられた。女性は
苛立った様子を見せることもなく、たまに眉を顰めたり首を傾げたりしながら、
淡々と吉澤の容量を得ない問いかけに熟考し、慎重な言葉を返し続けていた。
「梨華ちゃんがどこにいるかだけが知りたいんです。分かるんでしょう?」
吉澤からの強い口調にも、女性は落ち着いた表情を崩さずに言った。
「分からない。私が知ることの出来るのは、地表のごく限定された場所での
出来事だけだ。恐らく、C装置はまだ穏やかな活動しか行っていない様子だから、
もしお前の言う女性が生存しているのであれば、あるいは」
「C装置って、飯田さんのことですよね」
女性が言いかけるのを吉澤が苛立たしげに遮る。すでに何度も、このような
意味のないぎくしゃくとした会話を続けているような気がする。
- 135 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時32分59秒
- 女性は困ったように眉根をよせると、軽く首を傾げて見せた。
「B装置は恐らく自らの意思で……それがいつ創出されたのか分からないが、
保有者をコントロールして自らの種を散らせた……。どこまでが誰の意思で
行われていたのか、正確には分からない。いくつかの意思が偶然重なり合って、
一つの行動として一致しただけなのかもしれない」
「でも、私は、飯田さんから加護亜依……その、B装置っていうのを持ってる
女の子を、連れてくるようにって言われてたんです」
吉澤の言葉に、女性はまた首を傾げると顎を撫でた。それが、飯田本人の
癖をもしたものであることは、吉澤にはすぐに分かった。今目の前にいる
のが飯田圭織ではないと分かっていても、つい苛立ってしまうのを抑えるのは
難しかった。
「B装置を持っていたのがただの少女なら、お前がいうようなことを……
石川梨華という女性をコピーすることは難しいだろう。それなら、飯田圭織か、
あるいはその指示を受けた誰かが行ったとしか考えられない。あるいは、他に
可能性があるとすれば、A装置だが……」
「でも、……なんで」
「加護亜依という女性からB装置を取り戻すために、混乱を起こすことが
必要だったのかもしれない。しかし、飯田圭織が自らをC装置としてしまえば
その必要はなくなる」
「必要はなくなる、ってことは……」
「B装置の回収を済ませたのなら、飯田圭織が必要のない人間を不活性化させた
状態で隔離している理由はなくなる。だとすれば、すでに開放されている
可能性が高いと私は思う」
- 136 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時33分30秒
- 女性の話を聞きながら、吉澤は全身から急速に緊迫感が抜け落ちていくように
その場にぐったりと腰をつけた。
小さい頃、ずっとヒーローに憧れていた。TVの中で、漫画の中で、彼らは
なんの疑問も抱かずに敵と闘い、悪を滅ぼし、正義を語っていた。
女の子の癖に、助けられるヒロインよりも助けるヒーローになりたがっていた
自分を、周囲は笑った。誰も、正義なんて信じていなかった。世界はもっと
複雑で、でも単純でバカげたことの積み重なりでそう見えてるだけだと、みな
訳知り顔で語っていた。そんな連中を、ずっと軽蔑してきたつもりだった。
柔らかく吉澤の背中を受け止めた壁は、微かなぬくもりを薄いコートを通して
伝えてきていた。まるで人肌に抱かれているように感じられる。
力無く座り込んだまま、吉澤は腰からぶら下がっている警棒を伸ばして、
薄く青白い光の中でじっと見つめた。黒い背景に舞う神話の蛇は、単なる
生命を持たない薄っぺらな色素の連なりでしかなかった。
かつては自分の強さの象徴だった。その警棒は、今となっては自分勝手な
行動の氾濫の中で間抜けに戸惑わされ、無駄に暴れさせられた無力さを示す
バカげたオブジェにしか吉澤には見えなくなっていた。
- 137 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時34分02秒
- 「以前ここへ来た人間も似たようなものを持っていた」
女性がいうのに吉澤はふっと顔を上げた。女性の口元は微かに笑みを浮かべて
いるように見えたが、その理由は分からなかった。
「飯田圭織は持っていなかった。それは生活に必要なものなのか?」
改めてそんなことを問いかけられて、もう一度吉澤は安物の警棒へ視線を向けた。
いくらバカげたものの象徴だとしても、自分はそれを支えにしてきてこれまで
生きてきたことは否定することは出来ない。
「私にとっては、必要なものですよ」
吉澤は笑いながらそう言うと、もう何度繰り返したか分からない動作で、
それを腰へと戻した。
……
- 138 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時34分37秒
- 「地上はもう完全に……征服? されちゃったんですか?」
吉澤の妙な言葉遣いにも、女性は生真面目な表情で少し考えてから返した。
「今のところは組織内での統合的な行動を重視しているように見える。だが、
それが整えば外部に対して積極的に働きかける段階に移ることはあり得る」
「ここは安全?」
「C装置は現段階では地表での勢力を拡げることを優先している。地下へ向けての
行動は全く行われていない。が、実際に侵入が開始されたら、私などはあっという間に
吸収されてしまうだろう」
- 139 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時35分08秒
- 淡々とした口調で、全く表情を変えずに女性は言う。吉澤は顔を上げると、
「怖いとか思わないの?」
「B装置のことは私が一番よく知っている。統合されることは死ではない。
有機体としての活動形態が変わるだけだ。もっとも、今のような私自身の
複数の意思の統合が失われることは、……」
そこまで言うと、女性は言葉を見つけられないようにまた首を傾げた。吉澤は
悪戯っぽく笑いながら、勝手に言葉を繋いだ。
「ムカつく?」
「……正確な表現ではないが、そういうことにしておこう」
言いながら少し笑った。それからまた真顔に戻り、言葉を継いだ。
「しかし、私は今のような統合が長く続くことはないと確信している。以前来た
人間に託した忠告には、飯田圭織は耳を貸さなかったようだ」
「ああ……それ多分私のせいかもしれない」
後藤から力ずくで奪ったリュックは、まだ手元にある。
「いや、私もそれほど期待していたわけではない」
女性が苦笑しながら言うのに、吉澤も肩を竦めた。
「お互い、なかなかカッコよくは決まらないね」
「全くだ」
- 140 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時35分41秒
- 吉澤はもう一度深く息を吸い込むと、ずっと身体を受け止めてくれていた
壁と床から身を離して、ゆっくりと立ち上がり全身を伸ばした。
「しかし、計算通りいかないからこそ、私は意思を持った。私から見れば、
人間を含む有機体の集合はひどく歪だが、それゆえに……」
「かっけー?」
言葉に詰まるのに、心得たように素早く吉澤が声を差し挟む。
女性は顎を撫でながら首を傾げると、
「……魅力的だ」
「ま、そっちのほうがいい言い方だよね」
そう言いながら、頑丈なリュックを背負い、なにかを確認するように腰から
ぶら下がった警棒を軽く握った。
「地上へ戻るのか?」
「うん」
「なんのために?」
- 141 名前:54. 投稿日:2003年07月29日(火)01時36分36秒
- 意外な問いかけに、吉澤は戸惑った表情で振り返った。女性は相変わらず、
少し困ったように眉根を寄せた表情で、じっと吉澤を見つめていた。
「なんでそんなこと訊くの?」
「以前ここへ来た人間は、強い目的意識を持っていた。私にはそう見えた。
しかし、お前にはそれが感じられない。私の勘違いかもしれない。だから、
確認のために質問した」
「ん……」
俯いたまま沈黙が流れる。ぼんやりとした青白い光にも目が慣れてしまっている。
一度強く瞼を閉じてから、また開く。一瞬だけ、強烈な光が目の前を覆い
尽くしたように見えた。
「それは、ここでお終いじゃないから。前に言ってた……ビッグクランチだっけ?」
「ビッグクランチはB装置のことだ」
「終わらせようと……キレイに終わらせようとしてもそんなの無理だって、
私はそう思う。あなたも絶対に失敗するって言ってたし」
「確かに、そうだ」
吉澤は顔を上げると、女性へと笑顔を向けて、手を振った。
「だったら、またはじめるしかないじゃん。なにが出来るか分からないけどさ」
- 142 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時37分27秒
55.アヴァロン
南へ向かう列車内は閑散としていた。窓の外は日が落ちて、高速で背後に
押しやられていく線路沿いの看板が気の抜けたロゴやイラストを一瞬だけ
瞼の裏に残していく。遠景には真っ赤な夕日に照らされた田園風景が、緩やかな
流れで動いている。都心から少し離れてしまえば、もう百年以上も変わらない
光景がこれからも続いていくのだろうと錯覚させられる。
列車が停まり、ぞろぞろと人間達が吐き出されていく。季節外れのコートを
纏い、ぼさぼさの頭を掻きながら、一人の女性が脚を引きずるようにして
売店へ向かった。腰を曲げた姿勢のため髪が垂れ下がり、顔を覆い隠していたが、
その隙間からはチラチラと鋭い視線が見え隠れしていた。
- 143 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時38分11秒
- 売店の店員は顔のほとんどを覆うようなマスクをつけて、なんの効果があるのか
分からないが水中メガネのようなサングラスをつけ衛生帽を被っていた。小汚い
風体でよたよたと歩いている保田に訝しげな視線を送ってきていたが、ポケットから
無造作に差し出したよれよれの紙幣を確認すると、なにも言うことはなく商品を
手渡した。隅につるされたハリガネの棚に並べられた新聞類は、全てが同じ
内容の見出しをそれぞれに扇情的なボキャブラリーとレイアウトで競い合う
ように、恐るべき事態を必要以上に過剰にアピールしているように見えた。
ありったけの新聞とサンドイッチやおにぎり、それとビールを一本だけ買い込むと、
保田はビニール袋をぶら下げたままのろのろと列車内の自分の席へ戻っていった。
車内はただ閑散としているだけではなく、全体的に重たい空気が覆っているように
見えた。首都の壊滅に加えて全く復旧の目処が立たないこと、それによる長い
不況の幕開け、そして、なによりも、原因不明でまるで箝口令が敷かれている
かのように詳細が伝えられていない「感染症」の蔓延、ここずっとなんら
明るい表情になれるようなニュースは伝えられていないのだから、仕方ない
のかもしれない。
- 144 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時38分44秒
- 構内に人を食ったような明るいメロディが流れ、列車はまたゆっくりと走り出した。
程度は異なるとはいえ、みな一様にマスクをしたり手袋やマフラーで地肌の
露出を抑えたり、それぞれの方法で謎の病原体から身を守ろうとしていた。
なんの原因も明らかにされていない以上、具体的な対策はとりようがないのだが、
それでも古典的な方法で対処せざるを得ない感情は共通しているようだった。
彼らは、なんの装備も身につけていない保田が通路を通り過ぎるのに訝しげな
視線を送ってきていた。中には聞こえよがしに声をあげるものもいたが、
保田本人は気にかけることはなかった。あの夜に、目の前で繰り広げられた
光景は今でも鮮明に思い出すことが出来る。あれが感染症やウィルスの類では
ないことは、十分に理解していた。あちこちの県で厳重な検査やいわれのない
隔離などが行われているという情報も入ってきていたが、自分には関係の
ないことだ。
- 145 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時39分17秒
- 加護亜依は窓際に肘をついて、目を閉じて眠っているように見えた。斜めに
差し込んでくる夕日が頬を照らし、幼い横顔をオレンジ色に染めていたが、
チューリップのような帽子を目深に被っていたため、顔はよく見ることは
出来なかった。
保田は隣に座り込むと、ビールのプルトップをあげて新聞を拡げた。その
物音に、加護は薄く目を開くと気怠げな声をあげた。
「なんや、また酒か……」
「こんなもん酒のうちに入らないけどね」
保田は苛立たしげに言うと、細長い缶から一気にビールを飲み干した。コートの
襟越しに、艶めかしく蠕動する喉が覗いていた。
- 146 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時39分55秒
- 加護は深く身を沈めていたシートから身を起こすと、保田の足下に置かれた
ビニール袋から一冊の雑誌を引っ張り出した。表紙には、実際に眼にしていない
人間にはCG加工したとしか見えない東京の変貌した光景が貼り付けられていた。
「よう写真なんて手に入ったな」
「そりゃ、情報なんてどこからだって漏れるもんでしょ」
保田は空になった缶を握りつぶしながら言うと、シートを倒して新聞を
拡げた。
加護はまた窓際の壁にもたれ掛かると、パラパラと雑誌を捲った。ここのところ
ずっと、東京から生還した二人の少女のインタビューが、あちこちのメディアで
取り上げられていた。病院の隔離室近くにも大勢の報道陣が連日押しかけるのに、
病院側が怒りに満ちたコメントを発表していた。
「まこっちゃんと愛ちゃんも有名人やなー」
「あんたもでしょうが」
加護が他人事のように言うのに、保田が呆れたように突っ込んだ。
といっても、小川が撮影したはずの加護の写真は、未だどこにも発表されて
いなかった。加護の存在は、口コミだけで都市伝説のように語られている
にすぎなかった。
- 147 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時40分36秒
- 突如、前の方でざわめきが起きた。白の防護服で身を固めた集団が、ぞろぞろと
車両へと侵入してきていた。先頭の拡声器を持った男が、首からぶら下げた
委任状を翳しながら呼びかけていた。
「お静かに……騒ぎを起こさないようにお願いします! 私たちは正式に
大阪府からの委任を受けて府へいらっしゃる皆様の健康状態を診断させていただいて
います。なお、この診断に関して全ての責任は府へ……」
「白装束集団や」
加護が苦笑しながら言う。保田は新聞の隙間から横目で睨んで、
「あんたもじっとおとなしくしてなさいよ。もう写真だって漏れてるかも
しれないんだから」
「分かってるって」
「ったく、なんで私がこんなめんどくさいガキの面倒見てやるハメになってる
ってのよ……」
「世話んなってます、おばちゃん」
加護は笑いながら保田の肩へもたれ掛かった。保田は顔をしかめると、
「お姉ちゃんって言えっていっただろ」
「あーい」
- 148 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時41分09秒
- 甘ったれた声で加護が言うのに、防護服の一団が二人のもとへやってきた。
「失礼します。ご協力お願いできますか」
「はいはい」
保田は面倒くさそうに言うと、袖をまくって腕を差し出した。一人が手慣れた
様子でアルコールを塗り、血液を採取する。先頭に立った男が、場を取りなす
ように声をかけた。
「親子で旅行ですか? それともこれから帰郷とか……」
「姉妹だっつってんだろ」
ドスの利いた声で睨み付けるのに、男は強張った表情で身を引いた。注射器を
もった看護婦も、唖然とした表情で凍り付いている。
「あ、ごめんなさいね。つい」
慌ててにこやかな表情を作りながら、甲高い声で保田が言う。加護は肩に
頭をのせたまま、声を押し殺してくすくすと笑っている。
- 149 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時41分43秒
□ □ □ □
No.16
今日も彼らと多くの会話がありました。
彼らは私たちの社会や歴史に非常に興味を持っているようです。私の目を
通して、一日で数十冊の資料を読みこなしています。それでもまだ、彼らは
多くのことを知りたがっています。
彼らは東京で起きていることはかなり正確に把握することが出来ているようです。
しかし、彼らは東京の、仲間と合流することは望んでいないようです。理由は
分かりませんが、彼らは私の意志を尊重してくれています。
彼らの説明は、分からない言葉が多いので直接伝えるのは難しいのですが、
イメージとしては直接理解できます。
東京を完全に封鎖することは不可能のようです。もしあなたたちの説明する
ような、全体を覆ってしまうようなドームが作れたとしても、すでに成層圏
近く上空まで範囲をひろげているらしいです。
- 150 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時42分21秒
- 数日前まであったような彼らの間の戦争(?)、話し合いは終了したようです。
私の身体が突然光り出したり、腕の先が散らばっては戻ったり、といった
現象はなくなりました。
それでも彼らの中で完全な意思(?)の統一は出来ていないらしいです。
今私と直接会話をしているのは数百のグループのようですが、彼らは明確に、
東京をコントロールしている「C」に対して反感を持っています。
今日の報告は以上です。彼らからリクエストがあった関連資料の一覧を
よろしくお願いします。
Risa
- 151 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時43分02秒
- 隔離室のキーボードをすらすらと打ち終わると、新垣里沙はメールを送信し
一息ついた。彼女の意思とは関係なく指先は動いているように見えたが、
文面自体は新垣が考えたものを送信するように「彼ら」からは望まれていた。
それは恐らく、人間同士の信頼関係を重要なものと考えているからだろう、と
新垣は思っている。短期間ではあるが頭の中で直接イメージをやりとりする
形での会話を通じて、「彼ら」とは大分打ち解けられたような気がしていた。
真空を挟んだ数枚の壁で隔離された室内は、毎日のように「彼ら」の要求する
本やディスク類で足の踏み場もないほどだった。新垣はただ目を見開いている
だけでよかった。理解力や吸収力は驚くべきもので、一週間ほどで複雑な
社会構造や現在の情勢を把握してしまったようだ。
- 152 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時43分33秒
- 透明なペットボトルに残っていたミネラルウォーターを飲み干すと、壁に
開いたダストシュートへ放り込んだ。この部屋から出る廃棄物は全て高熱で
焼却され、灰も残ることはない。呆れるほど徹底した衛生管理が成されていた。
もしかしたら、自分の体の中にいる「彼ら」が本格的に活動を始めたら、自分も
即座に火炎放射を浴びて焼き尽くされる準備が出来ているのかもしれない。
だからこそ、「彼ら」は自分との友好的な共存をしているのではないか……
新垣は以前そんなことを考えたこともある。しかし、少なくとも彼女の
直観は、「彼ら」がそんな意図を持っているとは感じていなかった。そして、
新垣は自分の直観を信じた。
東京から救出され、同じ施設に隔離されている人間は新垣以外にも数十人ほど
存在する。その中には、一緒に保護された紺野や、中澤とその部下たちも
含まれていた。
新垣以外に「彼ら」と言葉を交わすことが出来る人間がいるのかは、彼女は
知らなかった。外部の情報はかなり制限されて送られてきていたが、その中には
隔離された人間のほとんどは、厳密な身体検査を繰り返した上で近く施設外へ
出ることが許される、というニュースも含まれていた。
- 153 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時44分03秒
- 「彼ら」と共存している以上、自分は当分、ひょっとしたら一生ここから
出ることは出来ないかも知れない、新垣は漠然とそう思っていた。
だが、「彼ら」から知らされた──イメージとして見せられた、というべき
だろうか──ヴィジョンが東京を中心に具現化されるとすれば、「彼ら」ととも
に自分がその時には重要な役割を果たす存在になるかもしれない。
20世紀の映像記録を収めたディスクをぼんやりと見つめながら、新垣はぼんやりと
そんなことを考えて、一瞬武者震いをした。モニターの中では、白黒の兵士たちが
荒れ果てた戦場を駆け回っている。
「彼ら」が伝えてくれること全てを報告しているわけではないのだ。
- 154 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時44分41秒
□ □ □ □
海からの冷たい風が髪を乱し、中身のないコートの袖をはためかせた。日本海に
面した北の町は未だ肌寒く、口元から漏れる息は一瞬だけ白く染まってから
空気中へ溶け込んで消える。中央の大通りにも人の影は少なく、固いブーツと
アスファルトがぶつかり合う乾いた音だけが淡々としたリズムで無表情な
音を響かせていっている。
空腹だった。左手で頬に触れてみる。肌は乾燥して、ずいぶんと痩せたように
思える。弱い風にわざと煽られるようにフラフラと歩きながら、思わず苦笑いを
浮かべた。先のことを考えると、笑うしかなかった。
- 155 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時45分12秒
- 田舎町の風景は百年前も百年先も変わらずこのままなのかもしれない。なんとなく
そんなことを考えながら、後藤真希は一軒の食堂へと入っていった。昼過ぎで
来客は彼女一人だけだった。コートのポケットから、糸くずの絡まった数枚の
硬貨を探り出すと、一番安い定食の食拳を買った。厨房の奥で暇そうにテレビを
眺めていた店主は、券売機の立てる軋んだ音に慌てて立ち上がった。
厨房からの音を聞き流しながら、後藤は古びたテーブルに肘をつくとちょうど
始まったばかりのワイドショーへ目を向けた。今では完全に封鎖されている
東京の県境付近で保護され、その後あちこちをたらい回しにされ、北海道にある
陸の孤島のような施設に収容されていた数十人がようやく開放される様子が、
録画ではあるが映し出されていた。念の入った検査を何度も繰り返して全く
問題のない状態だと確認されているのに、普段なら一斉に取り囲みマイクを
突きつける報道陣達が一様に及び腰なのがおかしかった。
- 156 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時45分44秒
- じっとテレビを見つめているといつの間にか目の前に食事の並べられたトレイが
置かれていた。後藤は割り箸を取ると口を使って二つに割り、衣の厚いメンチカツに
ソースをイヤと言うほど浴びせかけた。その時、テレビの画面が生中継に
切り替わった。
今朝早くに施設から出た人々が、TV局の用意した大型のヘリコプターで
会見場まで到着したようだった。急拵えに用意された会見場は殺風景で、そこへ
ぞろぞろと入ってくる人々は皆一様に疲れ果てた表情をしていた。
後藤はその中に紺野の顔を認めると、ふと頬を緩めた。
記者達との質疑応答が始まる。が、それは後藤にはどうでもいいことだった。
温かな湯気を立てるご飯にメンチカツを乗せると、身を屈めて一気にかき込んだ。
- 157 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時46分25秒
□ □ □ □
殺風景で無機質な室内には、柴田の向かっているPCは不釣り合いなほど
大袈裟で、そこだけ別の空間から切り取られて貼り付けられたようだった。
ちょうど昼の十二時を回った頃だった。つけっぱなしのTVから、日本からの
昨日の会見映像が映し出されている。柴田はキーボードを打つ手を休めると、
深呼吸をしてから身体をほぐして向きなおった。
画面の中では、記者達からの矢継ぎ早の質問に憮然とした表情で顔を伏せている
中澤が映し出されていた。相変わらずの様子に、思わず笑みが漏れた。
吉澤の姿は見ることが出来なかったのが少し気にかかったが、それほど心配する
必要もないと柴田は感じた。恐らく、吉澤ならうまくやってるだろう。根拠のある
考えではなかったが、直観的にそう思っていた。
- 158 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時46分57秒
- 三階の窓からはニューヨークの街並みが見下ろせる。ビレッジの南にある、
十二番街沿いの六丁目に位置するアパートにはすぐに慣れることが出来た。
地下鉄に乗ってユニオンスクエアの青空市へ行くたびに、そこに群れている
多種多様な人々の顔つきや服装を見ているだけで目が眩みそうになっていたが、
今ではもう慣れたものだった。
石川……柴田には石川の姿を借りた誰かにしか思えなかったが、彼女に腕を
掴まれて、一瞬目が眩んだと思ったら見慣れない街に立ちつくしていた。突然の
明るい光に、ただ目が痛かったことだけを鮮明に覚えているが、それから
あっという間に石川に連れられて、このアパートに落ち着くまでの経緯などは
ほとんど覚えていなかった。
ここがニューヨークであり、東京から一瞬にして移動してきたのだと理解しても、
しばらくは、流麗な英語と的確なボディランゲージを駆使して異国の街で会話を
している石川を、呆気に取られて眺めていることしか出来なかった。
アパートが空くまで小さなホテルで二晩ほど過ごしたのだが、その間にもう
自分の知っている石川梨華は二度と戻ってこないのかもしれない、とぼんやりと
した頭で考えたりもした。
- 159 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時47分30秒
- このアパートに入室してすぐに石川は備え付けのベッドに倒れ込んだ。それから
小一時間ほどの睡眠のあと起きてきた石川は、柴田のよく知っている石川梨華だった。
前後の記憶を全くなくしてしまっていることを除いては。
石川ではない人格……そう表現していいのか柴田にはよく分からなかったが、
彼女は石川が夜中に眠りにつくと現れた。彼女は過去のことについて語ることは
あまり好まないようで、それよりも先のことを考えるべきだと言った。ニューヨークへの
唯一の手荷物であったケースにはいくつかのディスクが入っており、それを元にしての
研究が開始された。と言っても、柴田の頭では到底理解不能なそれを、もっぱら
彼女からの指示で遠く離れた研究所とデータを交換していくだけだったのだが。
自分がなにをやっているのかとか、どこの誰とこうして共同作業をしているのか
ということに興味を抱くことはなかった。ただ、これが重要なことであるという
ことはなんとなく理解はしていた。ここ数日、連日のように世界中のメディアで
伝えられている東京の光景を見るたびに、その確信は強まっていった。
- 160 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時48分03秒
- 「たーだーいーまー」
玄関の方から甲高い声が聞こえてくる。でかい紙袋を二つ抱きかかえた石川が、
フラフラとした足取りで買い物から戻ってきたのだった。柴田は軽くこめかみを
押さえると、またPCへと向きなおって作業を始めた。
「ねえねえちょっとー、柴ちゃん聞いてよー」
柴田は無視して作業を続けているが、石川はお構いなしに、紙袋をダイニングに
大袈裟な音を立てて置くと勝手に喋り始めた。
- 161 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時48分42秒
- 「帰りにね、ちょっと近道しようかなーって思って裏の方の道通ってたんだけど、
そこがなんかすごく薄暗くって、いかにも映画とかで人が撃たれてる感じの
やばい雰囲気だったから、あー失敗したなーって思ったりして、そしたらね、
汚いカッコしたおじさんがさー、もう絶対酔ってるって顔で、昼間なのにありえない
じゃんそんなの。そんなのになんか声かけられちゃって、怖いなーって早足で逃げようとした
んだけとしつこくついてきてね。なんか言ってるんだけど英語ぜんっぜん分からない
からもうふるふる首振ってたら、指はじめ二本立ててたのが三本、四本、って
なってったの。私これであー、って分かって、なんかすごくひどい勘違いされてる
ってもうムカついちゃってー、それで言ってやったのね、私は、そんな5ドルとか
そんな安い女なんかじゃないわ、って。英語でよ。あってるかどうか微妙だった
けど、それでも伝わったみたいで、そしたらなんて言ったと思う、その
酔っぱらい? ねえ、柴ちゃん聞いてる?」
「うん、聞いてる聞いてる」
モニターに向かったまま、柴田は面倒臭そうに返す。なぜか、今はひどく時間が
貴重なもののように感じられる。
- 162 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時49分23秒
- 「そしたらね、そいつ5ドルじゃねえよ5セントだよ、とか言うの! 私なんか
すごくバカにされたような気がしたんだけどー。ね、からかわれたんだよ、それで
もう頭きちゃって。ちょっとー、聞いてないでしょ柴ちゃーん」
窓から流れ込んでくる初春の柔らかい風が心地よかった。柴田はしばし手を休めると、
目を閉じて深く息を吸った。
「聞いてる? ねえ、たった5セントだって! 信じらんない!」
- 163 名前:55. 投稿日:2003年07月29日(火)01時50分00秒
ビッグクランチ 終
- 164 名前:更新 投稿日:2003年07月29日(火)01時50分58秒
- 53.散/種 >>98-117
54.はじまり >>118-141
55.アヴァロン >>142-163
- 165 名前: 投稿日:2003年07月29日(火)01時51分48秒
- >>94名無し読者(コーヒー)さん
またしても長くお待たせしてしまいました。とりあえずこれにて完結です。
完結(BIG CRUNCH)をとくと見届けてやって下さいw
ということで、今までありがとうございました。
>>95名無しAVさん
いやいやもうレス毎回本当に励みになりました。レスがあるのとないのでは
全然テンションも変わってきますし。
更新の度にレスをいただけたお陰でここまで来れたようなものです。いやマジで。
心から感謝することしきりです。本当にありがとうございました。
>>96ななしのよっすぃ〜さん
別のところではほとんど亜弥美貴主役じゃないかなんて言われてしまいましたがw
ラストはいろいろアイディアはあったんですが以上のようになりました。
やっぱり自分の中では主役は吉澤なんで。ということで、今までありがとうございました
>>97名無しさん
主人公の割に出番が少ないという噂も……w
ただ自分の中の主人公の位置づけってちょっと特殊なのかもしれないですが。
それを言ったらこの小説自体なんか変だったりするんですけどw
それはそれとして、今までお付き合いいただいてありがとうございました。
- 166 名前: 投稿日:2003年07月29日(火)01時52分35秒
- ということで、「ビッグクランチ」はこれで終わりです。
読んで下さった皆さん、管理人さん、七ヶ月間ありがとうございました。
- 167 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月29日(火)11時40分11秒
- おつかれさまでした、そしてありがとうございました。
7ヶ月という時間の流れを感じさせない展開に、いつも釘付けにさせられました。
ああ、明日から何を心待ちにして生きればいいのやら(w
ビッグクランチの娘。たちはこれからも逞しく生きていくのでしょう。
ホントに、ありがとうございました。
- 168 名前:名無しAV 投稿日:2003年07月29日(火)19時58分27秒
- お疲れ様でした。言いたい事は山程あるのですが、どうせ512文字に収められるわけ無いので止めておきます。
ただ一つだけ言わせて頂くと、この話が完結してくれてとても嬉しいです。何時も名作と呼ばれてきた話を読んでいると終わって欲しく無いと願うのですが、この話だけは終わって欲しいと願いました。
本当にこの話を書いて頂いて有難う御座いました。とりあえずもう一度頭から読んでみます。もう一度お疲れまでした。
- 169 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月30日(水)20時01分41秒
- お疲れ様でした。
今年の飼育作品の中で、最高に面白かったです。
- 170 名前:名無し読者(コーヒー) 投稿日:2003年07月31日(木)00時59分09秒
- まずは脱稿お疲れ様でしたm(_ _)m
某所で紹介されてからの一気読み後、これほど毎日更新が楽しみだった作品は
初めてでした。こんな面白い物語を書いてくださったことにただただ感謝です。
完結(ビッククランチ)も次への始まり(ビックバン)を感じさせてくれる
展開であったと感じました。
娘。を抜きにしても自分の中での好きな小説の上位になってしまったこの作品を
これからもことある事に読み返してゆくことでしょう。
では自分も完結を知った上での新たな発見をしに、もう一度読み返させて頂きます。
長文感想になってしまって申し訳ございませんでした。では自分もう一度・・・w
本当にお疲れ様でした&素晴らしい作品ありがとうございました。m(_ _)m
- 171 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月01日(金)23時48分49秒
- 完結お疲れ様でした。
自分は頭が足らないので「面白い」「素晴らしい」この言葉しか見つかりません。
『ビッグクランチ』今年の飼育作品の中で一番楽しみな作品でした。
素晴らしい作品をありがとうございました。
- 172 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月06日(土)01時08分35秒
- 保全
- 173 名前:名無しさん 投稿日:2003/10/06(月) 01:11
- ほぜん
- 174 名前:名無しさん 投稿日:2003/12/04(木) 04:14
- hozen
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