氷上の舞姫〜Final stage〜

1 名前:みや 投稿日:2003年06月29日(日)21時54分26秒
白板からの移転です
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/white/1034436450/

前スレのあらすじ>>2-4 に示しておきます。
主要な登場人物 >>5
とりあえずこの二点を見ておけば、このスレからでも話は分かると思います。

メインは、フィギュアスケーターの石川とりんね のお話。

本編は6から
2 名前:前回までのあらすじ 投稿日:2003年06月29日(日)21時56分13秒
<前スレのあらすじ>

 フィギュアスケーターの石川は、オリンピックの出場権を目指して、全日本選手権に出場
するが、懸かっている物の大きさのプレッシャーから、二度の転倒などで力を発揮出来ない
まま3位と敗れてしまう。
 その全日本で、石川に勝ちオリンピックの出場権を手に入れたのはりんねとあさみだった。

 長年苦労を重ねてきたりんね。
 彼女は、フラワースケーティングクラブ設立時から残る唯一のメンバー。
 オリンピックへ賭ける夢は、彼女一人のものではない。
 亡くなった友と誓った夢でもあった。

 敗れた石川はその後精彩を欠いていく。
 それを救ってくれたのは、スケート場に現れた、加護と市井だった。
 素人の彼女達に滑りを教えているうちに、力を取り戻してくる。
 そんな中で彼女が出場した四大陸選手権では、石川の友人で世界ナンバーワンのスケーター
ヒッキー・ウタダに次ぐ二位に入った。
3 名前:前回までのあらすじ 投稿日:2003年06月29日(日)21時57分14秒
 オリンピックに挑むあさみとりんね。
 元々スケーターを目指していたわけではなく、ハプニング的にスケートを初めてここまで
上り詰めてきたあさみは、せっかくのオリンピックだと言うのにいまいちモチベーションが
上がらない。
 結局15位に終わる。
 一方のりんねは、かつてない集中力を見せた。
 ショートプログラムでは三位、メダルを期待されたフリーで、最高の演技をするものの
わずかに及ばず四位。
 滑りへの満足感とは裏腹に、メダルを手にすることは出来ず、そのことで返って人の目
を集める存在となっていった。

 オリンピックが終り、今シーズンの残る大きな大会は世界選手権のみ。
 オリンピックでのりんねの滑りをまじかに見て、あさみの意識が変わり始める。
 滑りたい。もっと滑りたい。
 疲れを抱えたままハードな練習を続けたあさみは、足首に大怪我を負う。
 世界選手権への出場は絶望となり、補欠繰り上がりで石川にその座が回っていった。
4 名前:前回までのあらすじ 投稿日:2003年06月29日(日)21時58分02秒
 世界選手権への出場を知らされた石川は、コーチである飯田に一つの思いをぶつける。
 トリプルアクセルが跳びたい、と。
 飯田が現役時代に跳んで以来、十年の時を経て、いまだに続くものがいない。
 飯田に続く二人目となるべく石川はチャレンジを開始する。

 あさみと裏腹に、滑りへの力がなくなっていたりんね。
 夢をかなえて、満足の行く滑りも出来、その先の目指すものが見えて来ない。
 世界選手権を目の前に、りんねはホームリンクである北海道の牧場を離れ上京する。
 東京で、振り付け担当の夏まゆみに会っていた。

 決戦の時が、目の前に迫っている。
5 名前:主要な登場人物 投稿日:2003年06月29日(日)21時59分46秒
<主要な登場人物>

石川梨華・・・日本のトップスケーター。主役の一人。世界選手権へ挑む。
戸田鈴音・・・通称りんね。日本のトップスケーターで主役の片割れ。オリンピックでは4位。世界選手権では?
木村麻美・・・通称あさみ。りんねと同じチームの一員。オリンピック15位。りんねへの影響力大。
飯田圭織・・・石川のコーチ。かつての世界チャンピオンで、女性唯一のトリプルアクセルジャンパー。
里田舞・・・・通称まい。りんね、あさみと同じフラワースケーティングクラブの一員。二人よりは力は落ちる。
ヒッキー・ウタダ・・世界のトップスケーターで石川の友人。オリンピックでは鮎浜咲に敗れてしまう。
加護亜依・・・石川のいるスケート場によく遊びに来る中学生。
市井紗耶香・・加護の家庭教師。石川梨華の大ファン。
辻希美・・・・・冬休みに加護の家に遊びに来てた中学生。
夏まゆみ・・・・石川やりんねの演技の振り付けをするトップコレオグラファー。
小林尋美・・・通称ひろみ。亡くなったりんねの友人。同じチームでオリンピックを目指していた。


以下、続きをどうぞ
6 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時03分01秒
 夏がりんねを連れて行ったのは、スケート場そばの焼肉店だった。

 「りんねにはこういう店のがいいだろ、かしこまったところより」
 「そうですね。でも、ここでも十分かしこまってる感じですけど」
 「まあ、それなりのお店だからね。一応、北海道から出て来たお客様だから、りんねと言
えども」

 場末の焼肉屋のような脂っこい感じはせず、すこし薄暗い照明の中、落ち着いた雰囲気の
店作りになっている。
 席に着くと、夏が適当に見繕って注文をした。
 りんねは、ドリンクを自分で頼んだ以外は、黙って夏に従っていた。

 飲み物だけすぐに運ばれてくる。
 夏には中ジョッキ、りんねにはウーロン茶。
7 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時04分34秒
 「とりあえず、乾杯」
 「とりあえずですか?」
 「そう、とりあえず、りんねのオリンピックでの活躍に乾杯」
 「ありがとうございます」

 グラスを合わせ、口へと持っていく。
 一口だけ含んで、すぐにコースターへとグラスをおいた。

 「東京って、都会ですねー」
 「当たり前だろ、東京なんだから。」
 「何度も来てはいるんですけど、一人で来るとやっぱり、なんか怖いですよ、人多いし、
ごみごみしてるし、みんな歩くのはやいし」
 「そりゃあなあ、田舎の牧場とは違うさ」
 「一人でいると、すごい孤独感かんじますね。周りに人がいるから余計に」

 二人のもとに、タンとカルビと野菜の皿が運ばれてきた。
8 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時05分37秒
 「りんねっていくつだっけ?」
 「このまえ二十二になりました」
 「二十二かあ。それくらいの年で東京で一人で頑張ってる奴ってたくさんいるぞ。地方か
ら出てきて、見知らぬ人達ばかりの町の中で一人で暮らしてるような、そんなのが、たくさ
ん」
 「いるんでしょうねえ、きっと」

 二十二歳、ちょうど、大学卒業の年齢に当たる。
 人生の岐路に立つようなそんな時期。
 フィギュアスケートの選手達も、本当のトップ選手以外は、日本ではこのタイミングで
引退していくことが多い。
 陸上競技やメジャーな球技などとは異なり、フィギュアスケートの選手達をスポンサード
する企業はまず無い。
 りんねのようなケースは、非常に稀なことであった。
9 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時06分36秒
 それを、りんね自身も知っている。
 自分の、いまの恵まれた環境。
 その中で暮らすことの出来る幸せ。
 こうやって、たった一日でも一人で外に出てきてみると、余計それを実感させられる。

 二人の箸はよく進んだ。
 北海道で良質な肉を食べなれているりんねの舌を十分に満足させるほどの味。
 肉を焼きながら語る話題の中心は、日高の牧場での暮らしのことだった。

 「りんねは、ほんと牧場好きだな」
 「はい、大好きですよ」
 「まあ、そのイメージを、あの振り付けにも入れてるんだけどね」

 鉄板から、最後の一枚の肉をとり、タレをつけていたりんねは、振りつけ、という言葉に
反応して顔を上げた。
10 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時07分13秒
 「さて、お腹が一杯になったところで、本題に入ろうか」

 そう言った夏は、ジョッキに残っていたビールを一気に空けた。

 「りんね自身は、どう思ってるわけ? 自分の演技」

 タレの皿でころがしていた肉に、りんねは再び視線をやる。
 夏の言葉が途切れると、りんねは、肉をそのままに箸をおいた。

 「よくわからないから、先生に見てもらったんですよ」
 「違うだろ。わかってるんだろ」
 「先生の口から言ってください。感想」
11 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時08分14秒
 薄暗い部屋のなか、鉄板の火が消されすこしづつ熱が冷えている。
 夏は、すこし躊躇した後言った。

 「りんねの思ってることと一緒だと思うよ、私の感想」
 「一緒ってどういうことですか? はっきり言ってください」
 「じゃあ、まあ、今日の滑りに関してだけ言えば、オリンピックの時と比べて下手、全日本
の時と比べても下手、というか、くらべるまでもない」
 「そうですか」

 りんねは表情一つ変えずに夏のこの言葉を聞いた。
 思っていたそのままだった。
12 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時09分16秒
 「技術的なことだけ言えば、去年のシーズン最初の頃よりずっといいと思うよ。でも、問題
はそこじゃないんだろ」

 りんねは答えない。
 一瞬、夏に向けていた視線を落としたが、すぐにじっと目を見つめ、続く言葉を待っていた。

 「なにも訴えてくるものが感じられない。ただ滑ってるだけ。自分で分かってるんだろう
けど、はたから見て、やる気あんのかこいつ? って感じだよ」

 りんねは、ため息を一つはいた。

 「先生は、何でもお見通しなんですね?」
 「だれでも分かるさ、それくらいは」

 タレに浸かった肉へ箸を伸ばす。
 意味もなく肉をタレの中で泳がせながらりんねは言った。
13 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時10分09秒
 「頑張りたいんですよ。頑張りたいと思うんですよ」
 「頑張りたい気持ちがあるのに頑張れないってことか?」

 りんねは小さくうなづいた。

 「石川がな、トリプルアクセルの練習再開したってよ」

 部屋の光の量が足りず、夏からはりんねの表情ははっきりとは読みとれない。
 それでも、石川の名前が出て反応があったのは分かった。

 「今度のあいつは強いと思うぞ。挑むものがあるからなあ。日本のチャンピオンとして
じゃなくて、補欠繰上げの立場だし。で、りんねは、なんで頑張りたいんだ?」
 「それは」
 「あさみのため、とか言う?」
 「えっ?」
14 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時12分36秒
 言葉が続かなかった。
 りんねが頑張りたい理由、まさに、そのこと。
 怪我の直後、目を真っ赤に腫らしたあさみを見た時に感じた想い。
 出場出来る自分が、きっと頑張らなければならない。

 「はーあ。いつも誰かの為なのな。まあ、その誰かの為に滑りたい! って気持ちは悪く
はないだろうし、そう強く自分の中で思うなら、それがパワーになって、オリンピックのあ
の演技になったんだろうけどさ。でも、そろそろいいんじゃないか?」

 すこし声のトーンを落とした夏に、りんねが聞く。

 「そろそろってなにがですか?」
 「そろそろ、自分のために滑っても。自分の挑戦したい何かのために滑ってもさ、いいん
じゃないかってさ」
 「自分のため、ですか?」
 「そう」

 夏は、深くうなづいてから続けた。
15 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時15分34秒
 「りんねは、もっと出来ると思うんだよな。オリンピックの演技は、あの時点でのパー
フェクト、満点な演技だったけど、もっと出来ると思う。私の中にもそんな次の、もうち
ょっと難易度上げたプログラムのイメージも出て来たしさ。まあ、ようは、りんねのやる
気次第ってことよ。今の問題点は、技術的な云々じゃなくて、その気になれるかなれないか」

 りんねのグラスの溶けた氷が、からんと音をたてた。

 「りんね、自分の中からエネルギー作れないと、これから先きついぞ」

 答えを返すことがりんねには出来なかった。
 あさみのために頑張りたい。
 今の状態でのこの気持ちは、りんねの中から沸きあがってきた想い、というよりは、
あさみにたいする義務感だった。
16 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時18分21秒
 「もっと上を目指せよ。もっと高いレベルのものを、コンスタントに出していけるように。
りんねにはそれだけのものがあるんだから」

 りんねは、自分のオリンピックでの滑りを思いだしていた。
 牧場のビデオで見た自分の滑り。
 この演技者は、本当に自分なのだろうか? そう感じたほどの高い完成度を誇ったあの演技。
 あれ以上、そんなものがありえるのだろうか?
 そんな滑りを、これから追いかけるなんてことが出来るのだろうか?
17 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時19分27秒
 「次の曲のイメージとか、かなり出てきてるんだから、無駄にしないでくれよ。この冬は
まだ、世界選手権もあるけど、来シーズンも頼むぞ」

 夏の問いかけ。
 目の前の試合よりもさらに心配なこと。

 「はい」

 りんねは、ささやくようなかすかな声で、それに答えた。
18 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年06月29日(日)22時20分17秒
 「お待たせしました、いちごプリンとティラミスにございます」

 ウエイトレスがデザートを持ってやってきた。
 二人の前には、メルヘンの甘さを持ったようなお菓子が置かれた。

 「まっ、そういうわけだから。頑張れよ」
 「はい」

 スケートの話はこれで切り上げて、あとは、二十二歳の女の子と三十代の先生のお菓子談
義に花が咲いた。
19 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時17分37秒
 翌日、りんねは昼間に昨日と同じリンクへとやってきていた。
 今日は、夏はいない。
 一般客の滑走時間に、練習をする。
 いつも、田中コーチについてもらっている時と同じようなメニューをこなす。

 ジャンプもステップもスピンも、りんねを指導してくれる人は誰もここにはいない。
 一人で練習し、一人で考え、一人でチェックする。
 そんなりんねを、一般客や周りの選手達が興味深く見つめていた。
20 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時18分37秒
 いつも、広いリンクで練習しているりんねにとって、人ごみの中で隙間を見つけてそこで
ジャンプをしたり、ステップを刻むというのは、思っていた以上に神経を使う。
 いつのまにか、滑ることに対して必死になっていた。
 そのことに、休憩時間を撮ろうとリンクから上がった時にりんねは気づいた。

 カバンから取り出したペットボトルを口にしながら、人の多いリンクを見つめる。
 よろめく女の子の手を取り、得意気な顔をする中学生位の男の子がいる。
 ダブルフリップが跳べなくて、半べそをかきながら必死に練習をしている小学生がいる。
 きれいな女の子を挟んで、ある意味必死な男の子二人、という風景を作り出している、
大学生らしき人がいる。
 リンクの中で、多くの人達が入り乱れていた。
21 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時20分28秒
 再びリンクに戻る。
 自分が見られている、という緊張感があった。
 氷の上にいた時間、二時間。
 ひさしぶりに、練習したな、という気持ちになっていた。

 練習を終え、更衣室に入ったりんねは、小学生の選手達に囲まれた。

 「これからずっと神宮で練習するんですか?」
 「ううん。今日で帰るよ。いつもは北海道にいるんだ」
 「世界選手権がんばってください」
 「ありがとう」
 「どうやったら、きれいにステップ踏めるんですか?」
 「先生の言うこと聞いて、頑張って練習してれば出来るようになるよ」

 一人一人に優しく答える。
 りんねの顔にも自然と笑みが浮かんでいた。
22 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時21分15秒
 帰りの飛行機、りんねはずっと窓の外を眺めていた。
 一時間半の間、ずっと。
 遠い西の空から夕暮れを作り出している太陽、時折通り過ぎる雲、はるか下にある地上。
 住宅地、森の木々、海・・・。
 陽が落ちて、家々の明かりが作りだす夜景が見える。
 それらを飛び越えて、北海道へ。
 帰りの飛行機、りんねはずっと窓の外を見つめていた。
23 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時21分55秒
 日高に帰りついたのは、もう夜も遅い時間だった。
 月の光を雪が反射して薄っすらと明るさがある牧場。
 つい、数時間前には都会の喧騒の中にいたとは思えないほどの静けさがりんねをつつむ。
 冷たい風を背中に受けながら、りんねは宿舎のドアを開けた。

 「ただいまー」
 「おかえり、遅かったねえ。ご飯はどうする?」
 「食べる食べる」

 食事係のおばさんがで迎えてくれた。
24 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時22分51秒
 「おかえりなさい。どうでした? 東京。あっちはもうあったかかったりするんですか?」
 「ううん。結構ねえ、寒かったかな。でも、桜がもうすぐ咲きそうなんだって。テレビの
天気予報でやってた」

 食堂では、お風呂上がりで赤と薄いピンクのチェックのパジャマに身を包んだ里田が髪を
梳かしながらお茶を飲んでいた。

 「あさみは?」
 「あさみさん、多分もう寝てますよ」
 「そっかあ」

 りんねは荷物を置き、そのまま食堂の椅子に座った。

 「成果ありました? 東京まで行って」
 「うーん、どうだろう? 夏先生とはいろいろお話出来て楽しかったけどね」
 「先生なんか言ってました?」
 「まあ、いろいろ言われたよ」

 りんねに与えられた問いかけ、はっきりした答えは出せていない。
25 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時23分30秒
 「おまたせ。簡単だけど」
 「いただきまーす」

 りんねの前に、ご飯とジャガイモの味噌汁、それに玉子焼きとカルビ焼肉、サラダが置か
れた。
 あっ、また焼肉、と一瞬思ったが、りんねは口にしなかった。

 「うん。おいしい」

 焼肉を一切れ食べ、そう口にした。

 「私も、もう寝ますね」
 「うん、おやすみー」

 里田は二階に上がって行った。
26 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時24分39秒
 大人数が座れるテーブルで、りんねは一人で食事をとっている。
 食堂のおばちゃんが、厨房での片付けを終え、そんなりんねのもとへとお茶をもって
やってきた。

 「おばちゃん、いつもありがとね」
 「どうしたんだい、急に」
 「うーん、なんとなく。なんか急に思ったの」

 りんねは、お昼からなにも食べていない。
 空港でお腹が空いたな、何か食べようかな、と思ったけれど、おばちゃんの顔が頭に浮か
んで、なにも食べずに牧場まで帰ってきた。

 「昨日さあ、東京で一人ぼっちで寝てたらさ、なんか、寂しかったんだ。それでね、うん、
なんとなく」
 「ここは、いつでもみんないるからねえ」
 「うん」

 食堂はテレビも消され、夜の静けさが流れている。
 時折、どこかの部屋のドアの音が聞こえてもくる。
 従業員達が出入りしているのだろう。
 りんねは、ゆっくりと箸を進めている。
 おばさんも、のんびりとお茶をすすっていた。
27 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時25分15秒
 サラダの皿が空になり、カルビ、玉子焼き、ご飯と食べ終えて、最後に味噌汁を飲み干した。

 「ごちそうさまでした」
 「お粗末さまでした」

 りんねは湯飲みを持つ。
 すこし冷めたお茶が飲みやすくて調度いい。

 「はぁーー」
 「どうした? ため息ついちゃって」
 「うーん。もうね、ここに来て四年半か、なんて思ってさ」
 「そうか、そんなになるかい」
 「うん。いろんなことあったなあ」

 お茶を置いて、りんねは頬杖をついた。
28 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時25分58秒
 「りんねちゃんには、はらはらさせられたり、心配させられたり、いろいろあったねえ」
 「私、そんなに心配かけたかなあ?」
 「ただ試合で滑ってるだけだって心配だってのもあるしね。オリンピック前の張り詰めて
る時なんか壊れちゃうんじゃないかと不安で不安で。りんねちゃんがこうやってここでくつ
ろいでるのも久しぶりだねえ」
 「そういえばそうかも。ずっとあわただしかったしなあ」

 りんねは、お茶をすすった。
29 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時26分55秒
 「まだ大きな大会が残ってるんだろ?」
 「うん。あと一個」
 「あさみちゃんは、ホント残念だったねえ」
 「うん。すごいショックだったみたい」
 「でも、もう、練習してるんだろ。強いよねえあの子はホント。りんねちゃんも強いけど」
 「滑るのはまだ無理だけど、上半身の筋トレとかやってるみたい。うん。あさみは強いよ。
私は弱いけど」
 「あさみちゃんの強さは、りんねちゃんやまいちゃんがそばにいるからってこともあると
思うよ。一人だとふさぎ込めるけど、みんなでいると落ち込むのも難しいからねえ」
 「はやく治るといいな、あさみの足」
30 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時27分32秒
 そう言ったりんねは、あくびを一つした。

 「眠くなってきちゃった。お風呂入って寝るね」
 「おやすみ」
 「おやすみ」

 りんねは、階段を上がり部屋へと向かった。
 突然昔のことを思い出した。
 ひろみのことを。
 ひろみを失い、一人ぼっちだった頃を。
 一人で歩けない自分と、一緒に歩き出してくれたのがあさみだった。
 やっぱり、自分は弱くて、あさみは強いんじゃないかなあ? と思った。
31 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時29分07秒
 部屋のドアを開けると、中は真っ暗だった。
 足音をたてないように静かに中へと入っていく。
 廊下の電気で手元が見えるように、ドアはすこし開けておいた。
 あさみと里田は、もうすっかりと眠っていた。
 りんねは、荷物を置き着替えを取りだす。
 お風呂の準備を済ませ、たちあがった。
 りんねは、里田のベッドに歩み寄った。
 里田は、布団にくるまり静かに眠っている。
 続いて、あさみのベッドに近づいた。
 寝返りでもうったのか、あさみの布団がベッドからずり落ちそうになっている。
 りんねは、布団をかぶせなおしてやった。
 あさみの顔に、りんねも顔を寄せてみると、穏やかな寝息が聞こえた。
 りんねの頬が思わずゆるんだ。
32 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月02日(水)22時30分26秒
 着替えを抱えて、りんねは部屋を出た。
 あさみの寝顔が脳裏に浮かんだまま。
 世界選手権では、あさみのために、牧場のみんなのために頑張ろうと思った。
 夏先生の言葉とは裏腹に、また、大切な人のために頑張ろうと思った。
33 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年07月02日(水)23時15分47秒
みやさん、お久しぶりです&新スレおめでとうございます。
しばらく読みふけりつつROMってました。
リンネさん平気でしょうか?大きな舞台で全力を尽くすと燃え尽きちゃう人多いみたいですが、日本を代表する選手として実力を発揮して欲しいです。
世界選手権では梨華ちゃんと金メダルを争って欲しいです。
がんばれ!リンネさん!!
では、次回更新も楽しみに待ってます!!!
34 名前:マナ 投稿日:2003年07月04日(金)23時15分23秒
今、検索で来た者です。
す、すごい… 時間も忘れて最初から読みふけってしまいました。
とにかくスゴイですね…。物語にどんどん引き込まれていきました。
それぞれの今後が気になります。
あ〜!!早く続きが読みたい〜!!!
35 名前:作者 投稿日:2003年07月10日(木)21時10分10秒
一週間待ってみたところで、再開します。

>ななしのよっすぃ〜さん
世界選手権はもうすぐ始まります。
どうなるんでしょねー。

>マナさん
検索って、どこから何を引いて来たんだろ〜?
こういう言葉が一番うれしく感じたりします。
これからもよろしくお願いします。
36 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時11分22秒
 シーズンを締めくくる大会、世界選手権。
 オリンピックシーズンであるにもかかわらず、今回は世界のトップ選手はすべてエントリー
していた。
 アベナチーしかり、ヒッキー・ウタダしかり、そして、オリンピックチャンピオンの鮎浜咲
も参加する。
 世界最高峰の戦い、第二ラウンドといったところ。
 そこに、悲劇のヒロインとされるりんねと、新生石川梨華が挑んで行く。
37 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時12分17秒
 石川が試合会場となる長野に入ったのは、女子シングルの始まる三日前だった。
 ここへ来るまで、結局、一度もトリプルアクセルは跳べていない。
 飯田は、コーチの立場から見て、そろそろ潮時だと思っていた。
 前の試合から二ヶ月ほど経っている。
 試合感覚も薄れがちな部分もあるので、それを取り戻す方向へと練習を持っていきたい。
 ただ、その方向へと石川の集中力を持っていける自信がなかった。
38 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時12分52秒
 調子は悪くない。
 通し演技の練習でも、トリプルアクセルの部分以外はそつなくこなしている。
 表現力がおざなりになることもない。
 飯田は判断をつけられずにいた。
 トリプルアクセルを辞めさせてもやる気を保っていてくれるだろうか?
 もしくは、アクセル部分が跳べないのを承知でプログラムに組み入れるか?

 去年までの飯田なら、迷うことはなかった。
 転倒することを容認するなどありえない。
 それが、今は迷っている。
 石川の気持ちが見えるようになった分だけ、迷いは広がって行った。
39 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時14分16秒
 二日前の練習が終わる。
 飯田のもとに、大会本部から組み分けの連絡があった。
 世界選手権では、予選―ショートプログラム―フリーの三回滑る。
 予選はA-B二組みに分かれ、各選手がフリープログラムと同じ四分間の演技を
し、各組み上位15名が通過する。
 ショートプログラムでは二分四十秒の間に決められた八つの要素を組み入れた
演技を行ない、上位24選手がフリーへ。
 フリー演技は四分間、いくつかの規制はあるものの、基本的には自由に演技を
行なうことが出来る。
 各回の順位に、予選は0.4、ショートプログラムは0.6、フリーで1.0を掛けたも
のが順位点となり、順位点の合計が低い順に順位が決まる。
40 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時16分36秒
 飯田は、大会本部から送られてきた組分けを石川に見せた。

 「ずいぶん偏ってますね」

 石川は予選B組の最後から五番目。
 同じB組にはオリンピックの銅メダリスト、イモイモ・アベナチーと同五位で、この大会
を最後に引退するコーユー・ワザカナーがいる。
 オリンピックの一位・二位の鮎浜咲、ヒッキー・ウタダは共にA組、りんねもA組に入って
いた。

 「まあ、人のことはあまり気にするな」
 「このオーダー表見ると緊張してくるんですよ」
 「試合モードに入ってきた?」
 「はい」
 「じゃあ、そろそろ、決めないとな」

 飯田がそう言うと、石川は持っている組み分け表に目を落としたまま、飯田に背中を向けた。
41 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時17分16秒
 「石川」

 飯田は背中に向かって声を投げかけた。

 「跳びたいんですよ、わたし」

 背中を向けたまま石川は答える。
 その小さな声は、広いリンクの上へと消えて行った。

 「石川」

 もう一度呼びかけると、飯田は石川の背中に歩み寄った。

 「跳べないんですか、私?」
 「それは、分からない」

 無人のリンクを見つめる石川の後ろで、飯田はうつむく。
 石川の気持ちが分かっていても、飯田は決めなければならない。
42 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時18分54秒
 「おまえ、すごい成長したよ。この一ヶ月で、すごい近づいた。でも、近づいたけど、届い
てない」

 石川は振り向いた。
 持っていたオーダー表を、両手で飯田の胸元へと突き出す。
 眉を寄せて不安そうな目を飯田に向けた。
 飯田は、オーダー表を受け取り、その紙で石川の頭を軽く叩いた。

 「そんな顔するなよー」
 「でも・・・」

 石川は、また背中を向けた。
 リンクサイドのバーにもたれかかり、氷の上へと視線を送る。

 「わかってるんです、自分でも。もうそんな時期じゃないんだって。だから、先生がはっきり
言ってください。先生が、先生がやめろっていうなら、うん」

 最後まで、言葉はつながなかった。
 大きく一つ息をはいてから、バーの上の両手に自分の額を乗せた。
 もういちど、今度は小さな息をはく。
 顔を上げ、飯田の方へと向き直った。
43 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時19分53秒
 「分かった」

 飯田は、小さくうなづく。
 石川もうなづいた。

 「トリプルアクセルの練習は、今日限りで終り。明日は、通しでフリーをやって後は軽い
調整。アクセルは忘れる。いいな?」

 飯田は、石川の目を見つめた。
 唇を噛み、考え込むかのように視線を飯田の胸元へ落とした石川は、まばたきを三回して
から答えた。

 「わかりました」

 それだけ言ってうつむく石川の頭を、飯田はぐしゃぐしゃとなでた。

 「そんな顔するなよー。何も一生跳ぶなって言ってるわけじゃないだろー。一夏鍛えて、
それからやれば来シーズンには跳べるって」
 「でもー・・・」

 うつむいてごにょごにょ言っている石川を、飯田は抱きしめた。
44 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月10日(木)21時22分06秒
 「お前強くなったよこの一ヶ月で。綺麗にもなった。表現力豊かにもなった。アクセルは
まだ跳べないけど、他のジャンプも高さが出てきて安定感が出て来た。だから、そんなにがっ
かりするな」

 石川の頭をぽんぽんと叩きながら飯田は言った。
 石川は顔を上げると飯田と目が合った。
 さっと、一歩下がり、飯田の元から離れる。

 「先生に抱きとめられたってうれしくないですよー」

 眉を寄せて自分を見る石川に飯田は言った。

 「抱きとめてくれる男の子いないくせに」
 「うるさいです!」

 石川はふてくされてそっぽを向く。

 「恋をすると、表現力がつくって言うぞ」
 「出逢いなんかないですよ、どうせ」

 石川は、飯田に背を向けてリンクの方へと目を向けた。
 その後ろで、飯田はちょっと鼻で笑っていた。
45 名前:マナ 投稿日:2003年07月11日(金)16時59分03秒
今読みました。
一つ一つの言葉が深いですね…。
石川さんにも、りんねさんにも頑張ってほしいです。
ちなみに、検索テーマは「里田舞」で来ました。
まいちゃん好きなんです♪
46 名前:作者 投稿日:2003年07月13日(日)23時18分33秒
>マナさん
googleで里田舞を検索してみたら、三枚目と上の方に出てきてびっくりしました。
里田さん、微妙な扱いですいません・・・。
47 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月13日(日)23時20分05秒
 石川達の後の時間に練習するメンバー達が着替えを終えリンクへと上がってきた。
 石川が滑っていた時よりも、国外の取材陣が増えている。
 今大会最大の注目を集めている選手の一人である。

 「梨華ちゃん、久しぶり」

 入ってきたのは、ヒッキー・ウタダだった。

 「元気そうだね」
 「うん。昨日は着いて早速お寿司たくさん食べちゃったよ。やっぱ日本のお寿司はうまい
ね、アメリカのより」
 「今回は来ないと思ったのに。まさか、お寿司食べるために来た、なんて言わないよね」

 リンクの壁越しに話す二人。
 日本の、アメリカの、ヨーロッパの取材陣達のカメラの格好の的となっている。
 ヒッキーは、石川の言葉を聞いて、一瞬足もとのスケートシューズに目線を落としてから
答えた。
48 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月13日(日)23時22分55秒
 「まだ、終わらせたくなかったから、今シーズン」

 めずらしく、声のトーンが弱かった。

 「そっか」
 「うん」

 二人の雰囲気がすこし澱んだ。
 うつむき加減になった顔を上げてヒッキーが言う。

 「ま、そう言うわけだから、お互い頑張りましょう。負けないけどね」

 ヒッキーが手を差し出した。

 「やってやろーじゃないの」

 石川は、ばしっとはたくようにヒッキーの手を握った。
 集まった報道陣のカメラのフラッシュが、その瞬間にいっせいにたかれていた。

 「それじゃね」
 「うん」

 ヒッキーは、石川のもとを離れリンクの中へと滑りいる。
 その姿を石川はじっと見つめていた。
49 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月13日(日)23時24分32秒
 ヒッキーの姿は、練習のこの時でさえも女王としての風格があるように石川には映る。
 軽いアップとして、リンクを周回しているだけでも、その存在感は圧倒的である。
 石川は、振り返り飯田に向かって思わず言った。

 「せんせーい」

 哀願するようなその表情と声に、飯田は呆れながらも言葉をかえした。

 「なんだよ、なんなんだよ、その情けない声は」
 「お願いしますー」

 両手をあわせ頭を下げる。
 飯田は、引きつった笑いを見せながら言った。
50 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月13日(日)23時26分06秒
 「わかった、わかったよ! 明日、明日二十分だけな。それがホントの最後のチャンスだぞ」
 「ありがとー。だから先生大好き」
 「あー、もう石川! 気持ち悪いから離れろ!」

 飯田に抱きついた石川は、満面の笑みを浮かべている。
 そんな石川にあきれ返りながらも、飯田は内心、そんなに嫌な感じではなかった。
51 名前:名無し君 投稿日:2003年07月15日(火)20時52分02秒
更新お疲れです。
終にトリプルアクセル!!のお目見えか?
なんかすっごく良い感じです。楽しみに待ってますので・・
52 名前:マナ 投稿日:2003年07月16日(水)16時14分36秒
今見ました。
トリプルアクセル飛べるんでしょうか?
石川さんガンバレ〜!!

今日は、柳原尋美さんの命日ですね…。
ご冥福をお祈りします。
53 名前:作者 投稿日:2003年07月16日(水)23時01分06秒
>名無し君さん
トリプルアクセルどうなるでしょう?
難しい技ですしねー

>マナさん
そうですね。
みなさんに安全運転をお願いしたいな、とか思ってしまいます。
ご冥福をお祈りします。
54 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時01分41秒
 翌日、りんねが長野入りした。
 今回も、田中コーチの他、里田にあさみも一緒に来ている。
 世界選手権が日本で開かれるせっかくの機会である。
 里田やあさみとしても、見送る手はなかった。
55 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時04分08秒
 りんねはさっそくリンクに入る。
 同じ時間帯、同じリンクに、石川の姿もあった。
 二人は、特に言葉を交わすことはない。
 コーチである田中と飯田の位置関係も、リンクの中で対角線になるような場所にいて、一
番遠い。
 それでも、自分の練習には集中しながらも、その合間合間にそれぞれ相手の方へと目が向
いてしまうことがある。
56 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時07分02秒
 りんねより、やや早い時間にリンクに入っていた石川は、トリプルアクセルの練習をは
じめた。
 一回、二回、続けて転倒する。
 立ち上がり、ジャンプを試みては転倒する。
 コーチのもとへ戻り、アドバイスを受け、また跳ぶ。

 ジャンプへ挑む石川の姿と対称的に、りんねは優雅なステップ、さらにスピンのパートを
練習している。
 フィギュアスケートのもっともエレガンスな二つのパート。
 スポーツと言うよりも芸術の世界が氷の上に現されていた。
57 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時07分43秒
 石川はややうつむき左手を額に当てている。
 飯田と約束をした20分の制限まで、もう時間が無い。
 飯田のいるところとは反対サイドの隅に立った。
 両手を腰に当て上を見上げる。
 電灯がいくつか光っていた。
 試合の時のような眩しい光は無い。
58 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時09分12秒
 じっと前を見据えて、石川は滑り出した。
 氷を蹴り加速をつけていく。
 リンク中央まで来た時、右足で反動をつけ左足で氷を蹴り上げた。
 まわる、まわる、三回まわる。
 残りの半回転を加えきる滞空時間はなかった。
 四分の一回転足りずに転倒した。
59 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時10分39秒
 りんねが、リンクのはじからステップを刻んでくる。
 軽やかに、やわらかく、うつくしく。
 やがて、リンク中央までやってくる。
 一連のステップはここで終わる。
 両手を腰に当てて、そのまま田中コーチの元へと滑って行こうとするりんねは、そこで石
川とすれ違う。
 石川は、転倒して這いつくばった状態から体だけ起こし、氷の上に座りこんだ形になって
いた。
 その石川を、りんねはちょうど見下ろすようにして横を通り抜ける。
 二人の視線がぶつかった。
60 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時11分52秒
 視線を先に外したのは、滑っているりんねの方だった。
 石川は唇を噛み立ち上がる。
 飯田コーチの方へと戻って行った。

 「時間だな」

 飯田の言葉に、石川は何も答えない。
 黙ったままの石川を見つめたまま、飯田も言葉を続けない。
 静かな間が、そこに浮かんだ。
 その静寂を破ったのは飯田だった。
61 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時13分01秒
 「最後のチャンス」

 そう言って、人差し指を示す。

 「泣いても、わめいても、騒いでも、暴れても、スケートやめるって言い出しても、これ
が最後のチャンス」
 「はい」

 石川は、石川らしからぬ低い声で返事をする。

 「信じろ、今までやってきたこと。跳べると信じて、最後に一本、行ってこい」
 「はい」
62 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時14分38秒
 答えた石川は、再びリンクの内側を向いた。
 石川の目の前には広いリンクが広がっている。
 氷の上には石川、りんね、それと数人の外国の選手だけがいる。
 目を瞑った。
 イメージの世界でその氷の上でトリプルアクセルを跳ぶ。
 リンクの中央で、イメージの世界の石川は三回転プラス半分の回転を十分にして、着地も
完璧に決めて見せた。

 目を開く。
 石川は滑り出した。
 跳ぶ。
 絶対に跳ぶ。
 それだけを念じて。
63 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時15分52秒
 氷を蹴り加速をつけながらも、体の力を抜く。
 踏み切りに入る直前、両手、両足にぐっと力を込めた。
 跳び上がる。
 高い。
 これまでにない高さがある。
 最高点を過ぎ下りてくる。
 回転は、三回転半、十分に足りた。
 右足で氷の上に舞い降りる。
 シューズのエッジの向きも進行方向と平行になり、形はパーフェクト。
 しかし、それでも、立ちきれずに転倒した。
64 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時17分09秒
 高さと回転の衝撃に体がついていかなかった。
 跳ぶ意識の強さが、下りる意識の欠如につながった。
 倒れたまま石川は氷を両手で叩いた。
 後すこしだったのだ。
 初めて三回転半、十分に回転が足りるジャンプをした。
 あとは、下りるだけだった。
 出来なかった。
65 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時18分07秒
 立ち上がり飯田の元へと戻る。
 眉を寄せながらも目は笑っていた。

 「惜しかったな」
 「くやしーー!!!」

 そう言って二人は笑った。
66 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月16日(水)23時18分57秒
 「納得した?」
 「納得はいかないですよー」

 そう言いながらも、石川は笑顔だった。

 「また、一夏超えてからやろうな」
 「はーい」

 飯田の元、石川は世界選手権の本当の最終調整に入った。
67 名前:マナ 投稿日:2003年07月18日(金)13時08分22秒
ん〜石川さん惜しい!
これは世界選手権に期待ですね。
68 名前:マナ 投稿日:2003年07月19日(土)17時19分18秒
書き忘れ…
ちょっと遅れたけど、あさみさんお誕生日おめでとうございます♪
69 名前:名無しくん 投稿日:2003年07月19日(土)22時14分45秒
んー更新期待です!
70 名前:作者 投稿日:2003年07月19日(土)23時15分17秒
>マナさん
レスはなるべく“sage”マークにチェックを入れてお願いします。
更新無しで上に上がってしまうと、他の作品の作者さんや読者さんに申し訳ないんで。

>名無しくんさん
更新しますです。
71 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時16分42秒
 その日の夜、石川とりんねはそろってテレビ出演した。
 世界選手権を放映する局の、ちょうど試合の時間に五分ほどの出演。
 コメンテーターを務めている松浦亜弥と三人で、簡単なトークを繰り広げることになった。
 綺麗どころスリーショットに、余計な司会者はおかない方がいいという局の判断でもある。

 「今日は本当にお忙しいところ、わざわざ来ていただいてありがとうございます」

 簡単な挨拶。
 それなりにテレビ慣れしている石川、スタジオの雰囲気にまったく慣れていないりんね。
 それぞれ、軽く頭を下げる。
 カメラから見て左端に、コメント振りをする松浦が座り、画面中央に当たる位置には、オ
リンピックに出場したりんねが座った。
 石川は、コメンテーターから離れた右端の席になっている。
72 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時17分45秒
 「戸田さんの演技は、松浦もオリンピックの時見てたんですよ。もう、ホントすごくて、
私、フィギュアスケートあんまりわからないんですけど、でも、涙出て来ちゃって、もう、
すごい、すごいって」
 「ありがとうございます」
 「真夜中なのに、友達にメール送りまくっちゃいましたよ。すごいすごいって。なんか、
かわいらしさの部分なんかは、松浦も、負けてないかな? とか思うんですけど、もう、そ
の、大人の女性の美しさっていうかかっこよさって言うか、そういう部分が、素人の松浦に
も伝わってくるすごい演技で、感動しました」
 「ありがとうございます」

 主役そっちのけに語る松浦に、りんねはただただ頭を下げるだけ。
 石川は、だまって何度かうなづきながら聞いていた。
73 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時19分24秒
 「それで、それでもメダルが取れなかったのは松浦的には納得行かなかったんですけど、
戸田さん自身ではどう思ったんですか?」
 「メダルは、欲しいとは思いましたけど、でも、私はあの演技が出来ただけで満足して
ます。メダルまでもらえちゃったらばちがあたります」
 「でも、すごい演技したら、メダルがもらえるのって当たり前だと思うんですけどー」

 ぱっちりした目でりんねの顔を松浦が見つめる。
 りんねも、松浦の方をしっかりと見返して、はっきりした声で答えた。
74 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時21分07秒
 「あの演技は、なんていうか、その、私だけの演技じゃないんです。あれは、ずっと頑張
ってきた目指してきたオリンピックで、神様がくれたプレゼントだと思ってます」
 「神様? ですか?」

 松浦は小首をひねる。
 石川も、りんねの表情をうかがっていた。

 「はい。あの演技が、もう、私へのご褒美なんです。それで、その上メダルまで欲しがっ
たバチがあたります」
 「じゃあ、自分の力じゃなかったってことですか?」

 いままでの即答とは異なり、ここで、りんねは一瞬考えてから答えた。
75 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時23分43秒
 「うーん、自分の力じゃないって言うか、自分の中のものをパーフェクトに出させてくれ
たって言うか、そんな感じです」
 「そうですか。世界のトップの選手の言葉は、松浦にはちょっと難しいですけど。じゃあ、
今度の大会の目標は?」
 「今回は、形に残る物を持って帰りたいと思います」
 「それは、メダルってことですか?」

 カメラが、三人全景から、りんねのアップへと切り替わる。
 ADの掲げた“カメラを見てコメント”のスケッチブックを見て、りんねは顔を向きなおし
答えた。

 「メダルに限らず、気持ちとしては何でもいいんです。とにかく形として触れることの出
来るものを持って帰りたいと思います」

 形として残るもの。
 持って帰りたい理由があった。
 一緒に喜んで欲しい人達が、りんねには今、たくさんいた。
76 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時24分18秒
 「はい、じゃあ、石川選手。って、改めて言うの恥ずかしいなあ。えーと、実は松浦と
石川選手はお友達なんですよねー」

 カメラに向かって松浦が説明する。
 石川は、黙って微笑んでいた。
 こうした形でや、バラエティ番組など、いくつかの場面で松浦と石川は共演してきた。
 そのつながりから、二人は仲がいい。

 「ええ、まあ」
 「緊張してる?」
 「なんか、亜弥ちゃんがいつもと違って輝いてる感じで、ちょっとしゃべりにくいかな」
 「そんな、いつもは輝いてないみたいじゃないですかー」

 テレビ用の丁寧語と、普段の二人の口語がまじりあって、見ている方にはすこしこそばゆ
い雰囲気をかもし出している。
77 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時25分44秒
 「じゃあ、本題。石川選手と言えばトリプルアクセル、なわけですけどー、どうですか?
跳べそうですか?」

 このままお友達空気を拡大させるのはよくないと松浦は判断して、丁寧語のインタビュアー
口調に変えた。

 「それは、わからないです」
 「うーん、じゃあ、本番のプログラムには、トリプルアクセルは入れてきますか?」

 ここでカメラが石川一人をアップに映す。
 石川は、一呼吸置いてからゆっくりと答えた。

 「それも、わからないです。ぎりぎりまで考えて、飯田コーチと相談して決めます」

 視線は、カメラより少し下だった。
78 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時26分48秒
 「じゃあ、今回の、目標としては、どんな感じですか?」

 松浦が、彼女独特の一言一言区切るような口調で石川に問いかける。

 「目標は、石川梨華の演技を見てもらいたいなって思ってます」
 「そのままじゃないですかー」

 おもわず友達モードが一瞬松浦に入る。

 「トリプルアクセルもあるんですけど、石川はそれだけの選手じゃないと自分で思ってる
んで、そんなところも見てほしいなあと思ってます」
 「なんかこう、金メダルが取りたいとか、誰かに勝ちたいとか、無いの? そういうタイ
プでしょ梨華ちゃん、石川選手!」

 ディレクターが、迫力に気おされたように松浦アップカメラを中継に選んでいる。
79 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時27分22秒
 「それで結構失敗してるから、今回はそういうの無しで。とにかく自分の演技をする。その
自分の演技をしっかりと見てもらう。これが今回のたったひとつの大きな目標です」

 自分自身に言い聞かせるように、石川はゆっくりと語った。

 「はい、お二人共力強く、大会への抱負を語ってくださいました。ありがとうございました」
 「ありがとうございました」
 「ありがとうございました」
 「二人並んで表彰台の上に立てると、松浦は信じてるので頑張ってください」
80 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時28分41秒
 放映は終わった。
 まもなく九時、十六歳の松浦もお仕事から解放される時間。
 スタジオからの去り際、石川に松浦が声を掛けた。

 「梨華ちゃん、ご飯食べよ」

 呼び止められて石川は振り向く。
 あえて無表情を作りながら。

 「私焼肉がいい、梨華ちゃんは?」

 石川は答えない。
 頑張って無表情を保ったまま、松浦のことを見つめる。
81 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時29分17秒
 「あれ? どうしたの? 熱でもある? うーん、わかんないや」

 石川の表情にもひるむことなく、松浦は石川に近づき額を合わせた。
 それから一歩下がり石川の顔の前で手を振る。

 「もしもーし、石川梨華さーん、おきてますかー? 起きてたら焼肉食べに行きますよー。
起きてなかったら置いて行きますよー」

 石川はとうとう耐え切れなくなって笑い出した。

 「あややにはかなわないよ」
 「でしょー、さ、いこっ」

 松浦が石川の腕を取り歩き出した。
82 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時29分55秒
 「あのさあ、わたし、大事な試合前の選手なんですけどー」

 松浦は歩みを止める。
 人差し指を顎に当て、一瞬考えてから言った。

 「帰る?」

 そう言って松浦は石川の顔をのぞき込む。
 腕をからませたまま、石川の胸元からのぞき込む。
83 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月19日(土)23時31分45秒
 「ご飯はまだ食べてないからいいけどー」
 「パスタにしよっか?」
 「お店知ってるの?」
 「しらなーい。焼肉のお店もしらない」
 「全部適当?」
 「うん」

 また、二人は歩き出した。
 結局のところ、二人の泊まっているホテルのレストランで軽く食事を取ることに落ち着いた。
84 名前:名無しくん 投稿日:2003年07月20日(日)18時42分01秒
更新お疲れ様です!
松浦とのからみもおもしろいですね!
続きを期待して待ってます!
85 名前:マナ 投稿日:2003年07月21日(月)14時07分42秒
松浦さん…かわいい(笑)
sageをクリックすればいいんでしょうか?
すみません。今後からそうします。
86 名前:作者 投稿日:2003年07月22日(火)22時59分53秒
>名無し君さん
松浦パワーに作者も振りまわされてます。

>マナさん
そうです。sageをクリックすれば、上に上がらなくなります。
87 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時01分08秒
 夜景が一望出来るホテルの最上階。
 街の夜景というよりも、遠くにそびえる山々の影が窓の外には薄っすらと見える。
 白熱灯の明かりが照らす落ち着いた雰囲気の店は、情報誌で女の子に受ける店、という特集
にいかにもでてきそうな感じだった。

 「何にする? ピザもいいし、スパゲエティも食べたいし、ドリアもいいなあ。全部頼ん
じゃおっか?」
 「試合前にそんなに食べられないよ」
 「冗談に決まってるじゃーん」

 松浦のペースに石川がついていけない。
 饒舌なのはつねに松浦のほう。
 あれにするこれにすると、しゃべり続けてようやく注文が決まる。
 石川はペペロンチーノスパゲティを、松浦はピッツァマルガリータを頼んだ。
88 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時02分16秒
 「試合前なのにいいの?」
 「自分が連れてきたんでしょー」
 「そうだけどさあ、別に嫌がらなかったし」
 「昼間の試合だったらあれだけど、夜だから」
 「そっか」

 松浦は窓の外を見た。
 山々の影と並んで、反射して映った自分の顔が見える。
 窓に顔を近づけて、にっと笑ってから、小さくうなづいた。

 「梨華ちゃんてさあ、やっぱりすごい人なんだよねー」
 「どうしたの?」
 「そんな弱そうでさ、笑ってるだけしか能がなさそうなのに、実は世界のトップ選手だっ
たりするんだもんね」
 「わたし、バカにされてるのかな?」
 「褒めてるんだよー、これでも。サインもらおうか、とか思っちゃうもん」

 松浦は、水と並んで置いてあった紙タオルの袋を破り、手を拭き出す。
 それを見て、石川も同じようにした。
89 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時03分18秒
 「それで、どうなの? トリプルアクセルは」

 テーブルの真ん中まで顔をつき出して、松浦は石川の目を見つめる。

 「無しだって。練習で一度も跳べなかったから」
 「そっかあ。見たかったけどなあ。じゃあ、さっきのはテレビ局の人にあいまいにしてっ
て言われたんだ」
 「そうじゃないんだけどね」

 水の入ったグラスについた水滴を石川は指でいじっている。

 「そうじゃなくて?」
 「うーん、なんか、アクセル無しって、自分で言いたくなかった」

 両手でグラスを持ちふーっと一息はいてから、そう言った。
90 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時04分10秒
 「でも、しょうがないんじゃないの? 出来ないんでしょー」
 「そうなんだけど」
 「自分で言ってだじゃん、トリプルアクセルだけじゃない石川梨華を見て! ハートマーク
三つみたいな」
 「そんなに気持ち悪い言い方してないよー」
 「してたしてた。いつの時代の人? ってくらいの感じで」

 松浦は石川のものまねをしながら話している。
 両のほっぺに人差し指を当てたりしてオーバーアクションを見せていた。
91 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時05分05秒
 「私さあ、全部見て欲しいんだよね」
 「全部?」
 「うん。全部。トリプルアクセルも跳びたい。その上で、スピンもステップも他のジャン
プも、いろんなパートの細かい振りつけとか、全部見て欲しいの」
 「うん。わかる」

 自分を見せる、という意味では石川と松浦には大きな共通点がある。
 歩いている道は違うけれど、多くの人の前で演じると言う意味では同じ。
92 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時05分57秒
 「フィギュアスケートって、珍しいスポーツなんだよね。あんな大きな会場でさ、たった
四分間だけど、その四分間は会場にいる全員が私だけを見てくれる。私だけのためにリンク
がある」

 語る石川の言葉を、松浦はうなづきながら聞いている。

 「それがすごいことなんだって、全然知らなかった。全然わからないで、ただ滑ってた。
でも、それってすごいことなんだって、なんか思ったんだ最近」

 石川は、椅子に深く座りなおした。
 頭を背もたれに乗せ、松浦よりもはるか遠くを見つめている。
93 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時07分13秒
 「ファンですって言ってくれる人がいて、私の演技が見たいって言ってくれる人がいて、
私のために振りをつけてくれたり、私のためにいろんなことを教えてくれる人がいたり、な
んか、私って幸せだなって思った」

 石川を見つめていた松浦が視線を落とす。
 松浦も、環境としては同じようなところにいる。

 「だから、だから、跳びたかったんだ、トリプルアクセル。ダメって言われちゃったけど」

 ふぅーとため息を一つはいた。

 「あややにも見て欲しいんだ、私の演技。全部見て欲しいんだ。みんなに、世界中に、私
が石川梨華だ! って演技を見て欲しいの」
 「ふーん」

 松浦が、いたずらっ子の目で石川を見た。
94 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時08分17秒
 「顔にやけてるよ」
 「え?」
 「梨華ちゃん、スケート好きなんだねー」
 「そうかなあ?」
 「緊張してるかな? なんて思ってお食事誘ってみたけど、なんだ、全然元気じゃん。心
配して損した」

 唇をつき出してふくれっつらをして見せる。
 石川はそれを見て微笑んでいた。

 「梨華ちゃん大人だね。なんか年の差を感じたよ」
 「どういう意味!?」
 「あ、いや、そんなんじゃなくて、ホントに。私もさ、いろんな人に見てもらうお仕事だ
けど、そんなこと考えたことなかったもん」

 トップアイドルとして活躍する松浦は、ファンの数も取り巻きの数も、国内に限れば石川
よりもはるかに多い。
95 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時09分06秒
 「予言します。梨華ちゃんはきっと優勝する」
 「そんなこと言わないでよー」
 「大丈夫だよきっと。なんか、わかる」
 「勝手にわからないでよ。結構ドキドキしてるんだから」
 「いい感じの緊張感だよきっと」

 松浦は一人でうなづいていた。
 トリプルアクセルを跳べない石川梨華。
 跳びたい想いを抱えながらも、アクセルを封印して試合へと望む。
 跳びきれなかった後悔と、今持っているもの自体もきちんと出せるか分からない不安も抱
えている。
 試合がどうなるかは分からない。
 いい結果が欲しい、いい滑りがしたい、けど、出来るか分からない。
 そんな石川は、目の前の松浦に向かって言った。

 「晩ご飯、誘ってくれてありがと」

 松浦なりの気遣いがうれしかった。
 今晩、ぐっすり眠れそうな、そんな気がした。
96 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月22日(火)23時11分11秒
 「お待たせいたしました、ピッツァマルガリータのお客様」
 「はい」

 松浦の前にピザの皿が置かれる。

 「おいしそー」
 「梨華ちゃん切って」
 「はいはい」
 「半分こして食べようね」

 食べ物が届くと同時に、二人の間には休日の午後のような雰囲気に包まれた。
 世界を相手に戦う前の、束の間の休息。
 石川は、暖かな空気に取り囲まれていた。
97 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年07月22日(火)23時33分55秒
みやさん、更新お疲れさまです。
ひっそり、読ませていただいているつもりでしたが、
「私さあ、全部見て欲しいんだよね」
という石川さん。日本のファンには選手の演技ではなくて選手だけを見に行く人が多いです。
純粋に演技だけを見る人はいないと思いますが、全選手の演技を静かに見たいものです。
トリプルアクセルだけでない、石川梨華の演技を想像しつつ、あやゃの予想が現実のことになるように願いつつ、次回更新も楽しみに待ってます!!
98 名前:作者 投稿日:2003年07月29日(火)22時35分59秒
>ななしのよっすぃ〜さん
選手が、「私、アイドルじゃないんだけど」みたいな気持ちになっちゃうようなファンの人ってけっこういますよねー。
興行的にはそういう人達に支えられちゃってる部分もあったりして、複雑な感じもありますが。
99 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時45分09秒
 りんねが予選の舞台に立ったのは、まだ陽も高々と出ている時間だった。
 予選A組の四番目。
 有力選手の中では、一番最初の登場となる。
100 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時46分25秒
 りんねは、オーダー表を見て、ずいぶん不利な組み分けになってるなあと思った。
 今回の目標、形として残るものを手に入れること。
 言いかえれば、三番に入ることである。
 そのためには、出来れば予選は二位までに入っておきたかった。
 この組み分けで言えば、それを達成する為にはヒッキーか鮎浜か、どちらか一人の上を行
かなければならない。
 その上、滑走順が早かった。
 りんねがこの順番でいくらいい演技をしても、採点者はヒッキーや鮎浜のために高得点を
残しておかねばならない。
 いい順位に入りにくい条件がそろってしまっていた。
101 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時46分57秒
 「りんね、あまり気負うな。いつもの通りでいいからな」
 「分かってます。大丈夫です」

 りんねの順番がまわってくる。
 田中コーチと軽く言葉を交わしてからリンク中央へと向かった。

 「ナンバーフォー、リンネ・トダ、ジャパン」

 会場から拍手が起こる。
 りんねは、両手を広げてその拍手を受けながらリンク中央に向かった。

 「なんか貫禄でてきちゃいましたね」

 スタンドで見ている里田が言った。
 隣に座るあさみはそれには何も答えない。
 けれど、同じことを思っていた。
 あさみの目は、思わず右足のギブスに向かっていた。
102 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時47分32秒
 曲は、ラフマニノフのピアノコンツェルト二番。
 オリンピックでの、あのスタンディングオベーションを受けたプログラムである。
 まだ予選の、しかもこの早い時間に来ている客は比較的少ない。
 それでもここに集まっている人、というのは、ほぼすべてがりんねの演技を見に来ていた。
 あの、オリンピックの演技の再来を期待していた。
103 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時48分44秒
 りんねの滑りは、合格点を出せるものだった。
 七回の三回転ジャンプのうち、序盤に二つほど二回転になったもののあとの五つは成功さ
せ、五種類すべての三回転を入れている。
 ジャンプ以外のパートも無難にこなし十分に満足の出来る演技である。
 ただ、オリンピックの、あの神懸かった演技と比べると、やはりどうしても落ちる印象を
受けてしまう。
 観客達も大きな拍手は送るものの、心を抜き取られるほどのインパクトを受けてはいなか
った。
104 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時50分04秒
 りんねは笑顔で観衆に手を振りながら花束を拾い上げる。
 やがて、リンクサイドの壁際まで行き、ファンから差しだされる色紙に何枚かサイン
をした。
 最後に、りんねの胸元あたりまでしか身長のない子と握手を交わして頭をなで、Kiss
&Cryへと向かう。
 演技が終わってからずっと笑顔だった。
105 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時50分43秒
 採点がコールされる

 テクニカルメリット
 5.6 5.5 5.5 5.3 5.6 5.7 5.6 5.6 5.6

 プレゼンテーション
 5.7 5.6 5.6 5.4 5.6 5.6 5.7 5.6 5.5

 順位
 1  1  1  1  1  1  1  1  1

 あたり前のように、この時点でのトップに立った。
106 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月29日(火)22時53分36秒
 控え室に戻ろうとしたりんねは、通路でテレビのレポーターにつかまった。

 「戸田選手お疲れ様でした。どうでしたか今日の出来は?」
 「あ、あ、ありがとうございます。今日は、うん、そうですね、まあ、よく、滑れた
と思います」
 「いいスタートが切れましたか?」
 「そうですね。大きなミスもなかったし、無難な感じで」
 「ショートプログラムへ向けての抱負は?」
 「ショートは一つのミスが命取りになりますけど、あまりそういうことを考えずに積
極的に滑れたらいいと思います」
 「どうもありがとございました」

 りんねの世界選手権、まずは無難なスタートを切った。
107 名前:マナ 投稿日:2003年07月31日(木)16時34分08秒
いよいよ世界選手権スタートですね。
りんねさんが目標を達成できるといいですけど…。
次回更新も楽しみにしてます!
108 名前:作者 投稿日:2003年07月31日(木)22時14分15秒
>マナさん
世界選手権、けっこう長くかかりそうです。
気長にお付き合いください。
109 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時15分10秒
 同じ頃、Bグループで最後から三番目という比較的遅い時間になる石川は、まだ別リンク
での調整中だった。
 トリプルアクセル無しのプログラムを演じることになっている。
 練習では、二回通しで滑って二度共ノーミスだった。
 調子はすこぶるいい。

 「石川、そろそろ上がろう」
 「もうちょっといいですか?」
 「なんか気になるところでもある?」
 「いや、そうじゃないんですけど、なんか、もうちょっと滑りたいなーって」

 そういう石川の額を、飯田は右手で軽く押しながら言った。

 「今日試合だってわかってるのかー? 調子いいうちに上がっとけ」
 「はーい」

 石川も飯田も笑顔が絶えない。
 悲壮感も重圧も、この場にはまったくなかった。
110 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時15分56秒
 飯田の運転で石川が会場へと向かっている頃、A組の方の演技が進む。
 りんねはずっとトップを保っていたが、十一番目の滑走者ヒッキー・ウタダがノーミスの
演技をして5.8〜5.9を並べてトップに立つ。
 その後、最後から二番目に出て来たオリンピックチャンピオン鮎浜咲は、不本意な出来に
終わった。
 ジャンプは、三回転−三回転のコンビネーションジャンプが三回転−一回転になった以外
は問題はなかった。
 問題があったのは、スピンである。
 フライングスピンに入る踏み切りの際に、氷の割れ目にエッジを引っ掛けて転倒していた。
 通常ならありえない失敗。
 不運としか言い様がなかった。
111 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時16分40秒
 浮かない表情をした鮎浜がKiss&Cryにつくと得点が発表された。

 テクニカルメリット
 5.7 5.6 5.5 5.6 5.1 5.7 5.6 5.7 5.7

 プレゼンテーション
 5.7 5.6 5.7 5.7 5.4 5.7 5.8 5.8 5.8

 順位
 2  2  2  2  3  2  2  2  2

 一人を除いては全員りんねよりも鮎浜へ上の得点をつけた。
 転倒があっても、総合的な印象で言えばりんねよりも上であるという判断が下されている。
 

 結局、予選A組では、一位がヒッキー、二位:鮎浜咲、三位:りんね となった。
112 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時17分18秒
 会場に着いた石川は、ちょうど電光掲示板に映されたそのA組の結果を確認した。

 ヒッキー一位か、さすがだ。

 ただ、それだけ思った。
 すぐに控え室に入る。
 自分の順番までは、リンクの製氷なども含めて二時間近くあった。
 軽いストレッチをしながら、自分の出番を待っていた。
113 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時18分27秒
 周りにいる選手がすこしづつ出ていく。
 さらに時間が経つと、戻ってきて衣装から着替えて帰るものもいる。
 そんな入れ替えが続く中、石川の気持ちも次第に高まってくる。
 やがて、最終組に当たる石川の組みへコールがかかった。
 六人がリンクに向かいアップを始める。
 石川がリンクに上って最初にしたことは、中央まで滑って行き会場を見渡すことだった。

 ひろいなあ。

 ゆっくりと会場を見渡し、そう感じる。
 観客の数も、この後のペアフリーを控えて、早い時間のりんねのころよりも大分増えている。
 そのまま、リンクセンターで回転速度を上げていきスピンをする。
 プログラムの最後に入っている高速のスクラッチスピン。
 回転を止め決めのポーズを取ると、拍手の音が聞こえてくるような気がした。
114 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時19分47秒
 この人達に私だけを見て欲しい。
 この人達の拍手が欲しい。

 そんな思いが、だんだんと石川の中で大きくなっていっていく。

 六分間のアップが終りリンクを後にした。
 やっぱり大きな舞台は格別だ、と心がワクワクしてくる。
 控え室で、廊下の隅でストレッチをしている間も、どことなく笑顔に見えるような表情をしていた。
115 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時20分39秒
 石川の滑走順がめぐってくる。
 この時点で予選B組では、5.4〜5.6の得点を並べたコーユー・ワザカナーがトップ、
二番手には二度転倒しながらも、プレゼンテーションで点を伸ばしなんとかまとめた
イモイモ・アベナチーがつけている。

 前の選手の得点がコールされている間、石川は飯田と最後の打ち合わせをした。

 「トリプルアクセルはなしですか?」
 「何いまさら言ってるんだよ。無しっていっただろ」
 「わかってますよー。ちょっと言ってみただけです」

 石川は口をとがらせて言った。
116 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時21分33秒
 「久しぶりにあれやろうか?」

 飯田のこの言葉に、きょとんとした顔をする。

 「緊張しないおまじない」
 「別に緊張してないですよ」
 「初心に戻る意味でさ。昔よくやってたでしょ。元々緊張しないおまじないだったけど、
あれやるとなんかうまく滑れるって」
 「そうですね。いつからやらなくなったんでしたっけ?」

 子供じみたおまじない。
 でも、昔はよくやっていた。
 よく効いていた、そんな気がするおまじない。
117 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年07月31日(木)22時22分24秒
 「いろいろあったけど、頑張ってきたからさ、精一杯滑っておいで、自信もって」
 「はい」

 場内で、石川の名前がコールされた。
 石川は、手のひらに人という字を三回書いて飲みこんだ。
 試合のたびにがちがちになって、何にも自分を出せなくなっていた頃、飯田先生に教えて
もらったおまじない。
 人の字を飲みこんだ時、小さな自分を思い出した。
118 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時10分10秒
 リンク中央で、石川の演技は始まる。
 緊張はなかった。
 やるぞ! という気持ちが心を占めている。
 大きな舞台にいる心地よさがあった。

 出だしコンビネーションジャンプ。
 ベートーベンの月光のゆったりとしたリズムの中、トリプルルッツ−トリプルトーループ
を決める。
 難易度の高いコンビネーションが決まり、会場から大きな拍手が沸いた。
 石川は、この拍手を感じ取る余裕がある。
119 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時11分12秒
 次のジャンプまでの間のたおやかな振り付けパート。
 やわらかさで優しい振りが石川の優雅さを浮かび上がらせる。
 石川自身も、自分の演技に深く入り込んでいった。

 二つ目のジャンプ、トリプルフリップ。
 予定では、うまくいっていればここにトリプルアクセルが入ることになっていた。
 石川の体に、そのプログラムが残っている。
120 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時11分47秒
 加速をつけて前向きに滑ってくる。
 フリップジャンプは、その後左足で急ターンして跳ぶが、そのリズムがほんの一瞬遅れた。
 体の中に染み付いていたトリプルアクセルの前向き踏み切りのイメージが、石川にターンの
タイミングをほんの一瞬遅らせた。
 遅れたなら遅れたでそのタイミング跳べばいいだけのこと。
 しかしここで石川は、条件反射的に遅れたリズムを取り戻そうと、無意識に踏み切りのタイ
ミングをはやめた。
 その分、ターンしきれていない状態で、右足をつき踏み切る。
 跳びあがった直後、体の軸が進行方向から大きく横にずれる。
 着地は当然うまく出来ず、そのまま横に倒れた。
121 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時12分25秒
 すぐに立ち上がる。
 なんで、こんな転びかたしたんだ?
 一瞬そう思うが、すぐに切り替える。
 その後の演技は特にミスはなかった。
 三回転ジャンプはすべて決まり、スピンパートでは大きな拍手ももらった。
 世界の舞台に帰ってきた石川の、最初の四分間の演技が終わった。
122 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時13分33秒
 パーフェクトではなかったけれど、石川としては満足いく出来ではあった。
 会場の拍手に答える。
 リンクから上がってくる時、飯田と目が合うと舌を出して苦笑いを見せた。

 「一回とちっちゃいました」
 「アクセルが頭に残ってただろー」

 飯田はさすがに転倒の原因を見抜いている。
 飯田に言われて、石川はもう一度舌を見せた。

 採点結果がコールされる
123 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時14分12秒
 テクニカルメリット
 5.6 5.6 5.6 5.7 5.6 5.4 5.5 5.6 5.6

 プレゼンテーション
 5.7 5.7 5.6 5.8 5.6 5.5 5.5 5.7 5.6

 順位
 1  1  1  1  1  2  1  1  1  1
124 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月03日(日)23時15分31秒
 九人中八人のジャッジが石川にトップをつけた。
 転倒があっても総合的な技術面、表現力においてアベナチーやワザカナーより上という
評価が下された。

 採点結果が伝えられると石川は立ち上がり、観衆達に大きく手を振った。
 その姿を、飯田は隣で微笑みながら見つめていた。

 予選B組は、残りの二人が滑り終わっても上位の順位はそのまま変らず、一位に石川、
二位にはコーユー・ワザカナー、三位にイモイモ・アベナチーが入った。
 石川にとっては上々の滑り出しとなった。
125 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時13分20秒
 二日目、ショートプログラム。
 上位六人が滑る最終組に、りんねも石川も含まれていた。
 この六人の中に入っていることが、メダル争いの最低条件。
 世界に挑む、という言葉の“世界”に当たるのがこの六人と言えるだろう。
126 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時14分44秒
 リンクの上では、最終グループのアップが行なわれている。
 六人の中で最初の滑走順となるのは、予選A組三位のりんね。
 こういった世界レベルの試合はまだ二試合目の彼女。
 オリンピックでは、アップの段階で舞い上がっていた彼女も、今は周りを意識することすらない。
 静かに自分の世界の中で、振りの確認をしていた。
127 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時15分55秒
 二番目は予選B組二位のコーユー・ワザカナー。
 五年前のこの大会で世界チャンピオンとなった彼女にとって、この試合が最後の大会となる。
 大ベテランとして、試合経験は豊富であるが、過去にこの大会でメダルを取ったのはその五年
前の優勝の時だけ。
 最後にもう一花咲かせたい、という執念にも近い気持ちが迫力を表に現している。
128 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時16分59秒
 三番手は予選A組二位の鮎浜咲。
 予選ではスピンで不覚を取ったが、オリンピックチャンピオンとしてこの試合に臨む彼女
は、今シーズンの二冠を奪い、名実共に女王になるべく、SPでの逆転を狙っている。
129 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時18分10秒
 四番目には予選B組一位の石川梨華。
 世界選手権の出場四度目であるが、SPの段階とは言え、最終グループで滑るのは初めて
の経験である。
 世界レベルの試合では、四大陸選手権の二位が最高で、世界選手権では昨年の七位まで
しかない。
 この六人の中では、もっとも実績が劣るのが彼女だった。
130 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時19分27秒
 ラス前に滑るのは予選B組三位のイモイモ・アベナチー。
 世界選手権、オリンピックで彼女は安定した成績を収め、毎回必ず最終組には入ってくる。
 今回のオリンピックでは銅メダルを獲得、また、過去の世界選手権でも二回銅メダルを取
っているが、その上となると、どうしても厚い壁を破れないでいる。
 今度こそは、という気持ちは常に彼女に宿っている。
131 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月06日(水)23時20分02秒
 最終滑走者は予選A組一位のヒッキー・ウタダ。
 この大会、現在三連覇中。
 しかし、ミス・パーフェクトと呼ばれる彼女も、オリンピックでは勝てなかった。
 世界一は自分なんだ、フィギュアスケートの世界を引っ張るのは自分なんだ。
 その意識が、リンクの上での存在感を際立たせていた。
132 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年08月07日(木)20時52分46秒
みやさん、更新お疲れ様です。
いよいよ世界選手権もショートプログラム。
実績とか成績とか関係なく納得のいく精一杯の演技を全選手にして欲しいです。
そして願わくば、審判!公正な判断を!
続きも楽しみに待ってます!!!
133 名前:作者 投稿日:2003年08月09日(土)22時40分40秒
>ななしのよっすぃ〜さん
全選手が納得の行く演技、というのはどの世界でも難しいですよねえ。
さて、ではショートプログラムの始まりです。
134 名前:作者 投稿日:2003年08月09日(土)22時41分29秒
 六分間のアップが終り、りんねを残して他の五選手は引き上げる。
 一日おいた明後日のフリーへ向けて、いい順位で臨むために大事な大事なショートプログラム。
 ジャンプ、スピンなどの各要素に要素点が振り分けられているこのショートプログラムは、
ミスの得点への影響がフリーよりも大きい。
 正確さが、より試されると言える。
135 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月09日(土)22時42分21秒
 最終グループの一番目に滑るりんねは、上位選手の結果を知るよしがない。
 自分がどんな滑りをすれば、どれくらいの点を取れば上位に出られるかを知るよしがない。
 上位選手五人を残しているのは、トップに出る為には点が伸び切らず苦しい順番だが、上
位をキープする、という意味では余計なプレッシャーを感じずにすむいい順番だった。
136 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月09日(土)22時43分57秒
 神への怒りを示すりんねのショートプログラム。
 彼女の選んだアランフェス協奏曲は、感情の現し方が難しい。
 その上、怒りのパートを主にしているため運動量が多くなり、後半にスタミナ切れを起こ
す危険もある。

 りんねは、そんな心配をよそに快調な滑り出しを見せた。
 最初のコンビネーションジャンプが決まると大きな拍手が起こる。
 観衆達は、全員りんねの味方だ。
 悲劇のヒロインという代名詞を、この大会で払拭して欲しい。
 余計な代名詞抜きで、すばらしい滑りをするスケーター戸田鈴音として生きていってほしい。
 そう、神に祈りながら、りんねの示す神への怒りを見ている者もいる。
137 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月09日(土)22時45分02秒
 締めくくりに当たるダブルアクセルを決め、りんねの顔に笑顔も浮かぶ。
 二分四十秒、ノーミスだった。
 オリンピックのショートプログラムに匹敵する滑り。
 フィニッシュポーズをきめたりんねに会場から大きな拍手と数多くの花束が降って来た。

 「まい、これ投げてきて」

 観客席にいたあさみは、投げやすいようにとおもりをつけられた花を里田に託す。
138 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月09日(土)22時45分47秒
 「りんねさんにだったんですか?  後で手渡せばいいじゃないですか?」
 「いやぁ、なんかさあ、他の人達と同じようにリンクに花束投げてみたいんだよね」
 「アドレスカードとかつけちゃったりします?」
 「バカ言ってないで、投げてきてよ。引き上げちゃうだろ」
 「はーい」

 ファンの中には、花束の中に自分のアドレスカードを入れている人もいる。
 りんねは、そんなファンには短いながらも一筆添えていつも礼状を送っていた。
139 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月09日(土)22時47分46秒
 「いい出来だったな」
 「はい、なんか氷もよく滑って、すごい気持ち良かったです」

 Kiss&Cryに戻ったりんねは田中コーチと言葉を交わす。
 コーチもりんねも終止笑顔が絶えない。
 りんねは、抱えている花束の中にメッセージカードを見つけた。
 英語で書かれたそれには、花畑牧場の住所とあさみの名前が記されていた。

 あさみのやつ、ホントは誰に送るつもりだったんだこれ?

 そのカードを取り出し、田中コーチに見せる。

 「あいつ、自分もスケーターだって自覚ないのか?」
 「あさみらしいじゃないですか」

 そんな話しをしている中に、りんねの採点がコールされた。
140 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月09日(土)22時50分02秒
 テクニカルメリット
 5.7 5.7 5.7 5.8 5.7 5.8 5.6 5.7 5.8

 プレゼンテーション
 5.8 5.8 5.8 5.8 5.7 5.8 5.6 5.8 5.7

 順位
 1  1  1  1  1  1  1  1  1  1  1


 残りが五人もいる中で、テクニカルメリットで三人、プレゼンテーションにいたっては
六人も5.8をつけている。
 この段階では、これ以上望むべくもない得点だった。

 得点に対して、また大きな拍手が送られる。
 りんねは立ち上がり、観客席に向けて両手を大きく振って、それに答えた。
141 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年08月11日(月)18時16分53秒
みやさん、更新お疲れ様です。
どの競技でもそうですが、全選手が後悔なく自分の演技ができることは確かに無いですよね。
無いものねだりとは知りつつも、その選手のできる最高の滑りを期待してしまいます。
リンネさんは、満足のできる滑りができたのではないでしょうか。
悔しさを知った選手は、大きく育つもの。後半に出てくる石川さんにも期待です。
では、更新、楽しみに待ってます!!
142 名前:作者 投稿日:2003年08月12日(火)22時54分06秒
>ななしのよっすぃ〜さん
りんねさんはそうですね。
本人も満足しているように見えます。
石川さんははたしてどうなるでしょうか?
143 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)22時55分15秒
 続いてはコーユー・ワザカナー。
 りんねの上には出ておきたい彼女としては、重圧のかかる場面。
 それでも、重圧にはなれている彼女は、それに押しつぶされたりはしない。
 力なりの演技をしっかりとしてきた。
 ただ、得点はテクニカルメリットで5.4〜5.6、プレゼンテーションで5.5〜5.7と今一歩
及ばなかった。
144 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)22時55分46秒
 鮎浜咲がリンクに上がる。
 彼女にとってのライバルはヒッキーただ一人でしかない。
 りんねがどんな滑りをしようと、それが意識の中に入ってくることはない。
 冷たい表情を崩さないまま、演技をスタートする。
145 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)22時56分58秒
 出番を待つ石川は、リンクに通じる通路にいた。
 心臓の鼓動が高鳴る。
 おちつけ、おちつけ、おちつくんだ。
 目を瞑り、呼吸を整える。
 世界に挑んできた自分が、初めて世界の中で戦う緊張感。
 心への問い掛けが止まらない。

 私はこの中で滑る資格はあるの?
 私はこの中で滑る力はあるの?
 私はこの中で滑って観客の人達に認めてもらえるの?

 ここは、昨日とはまるで違う世界。
 石川は、ステージに上がる前から戦っていた。
 自分を押しつぶそうと襲ってくる何かと戦っていた。
146 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)22時58分10秒
 りんねは、衣装を身につけたまま控え室のモニターを見ていた。
 後、四人。
 コーユー・ワザカナーの得点がコールされた時、そうつぶやいた。
 鮎浜咲の姿が映し出される。
 曲は、タイタニックのオリジナルサウンドトラックからのアレンジ。
 十九世紀の舞踏会を意識したという衣装が映える。
147 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)22時58分51秒
 鮎浜の演技を観客席から、あさみと里田は見つめる。
 ジャンプ、スピン、ステップ、どれを取っても超一級品。
 スケーティングそのものが、フィギュアスケートを志す人達へのお手本となるものな上、表
現力は演劇の世界で一人芝居をしても通用するだろうと言われるほどのもの。
 身を乗りだして見つめていた彼女達は、鮎浜の演技が終わると背もたれに寄りかかり、大き
なため息をはいた。

 「すごいね」
 「ええ」

 それだけ言葉を交わし、もう一度ため息をついた。
148 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)23時00分38秒
 鮎浜と入れ替わりに、石川がリンクに上がる。
 胸のドキドキはまだ収まらない。

 鮎浜の採点がコールされる間、石川はリンクの片隅の飯田コーチの元へと滑りよった。

 「せんせい」
 「なんだよ、その、捨てられた子猫みたいな目は」
 「なんか、ドキドキするんです」
 「当たり前だろ。これだけの人の前で期待されながら演技するんだから」
 「でも」
 「大丈夫だって、緊張してる自覚があるくらいなら」

 飯田はそう言って、石川の両肩を揺さぶる。

 「私、大丈夫ですか?」
 「大丈夫!」
 「私、滑れますか?」
 「滑れる!」
 「私、跳べますか?」
 「跳べる!」

 一つ一つ、飯田は肯定していく。
149 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月12日(火)23時01分20秒
 その間に、鮎浜の採点が終わった。
 テクニカルメリットでは5.9が六人、プレゼンテーションでは5.9を四人がつけた。
 ジャッジ全員一致で一位をつけ、りんねを上回りトップに立った。

 「石川、おまじないしていけば大丈夫だから」
 「はい」

 場内に石川の名前がコールされる。
 石川は、左手に人の文字を三回書きこんでそれを飲み混んだ。

 「行ってこい」
 「はい」

 力強く返事をして、リンクへと飛び出した。
 石川梨華が、初めて世界の内側の一人として滑る。
150 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時25分38秒
 曲は、アヴェ・マリア。
 リンク中央に立つ石川は、ドキドキを抱えながらも、もう恐れの気持ちはない。

 跳ぶ、跳ぶんだ、という意識で滑って行く。
 コンビネーションジャンプはきっちり決めた。
 ジャンプの高さは誰よりもある。
 昨日失敗したトリプルフリップも、しっかりと決めてきた。
 ショートプログラムの採点要素を一つ一つこなしていく。
 スピンの速度も十分にある、ステップパートもリズムよく滑る。
 最後のダブルアクセルも、トリプルで跳びたいなあ、と思う余裕を持ちながら跳んだ。
 着地の姿勢が羽を広げた蝶のような美しさだった。

 締めくくりのスピンから演技を終える。

 終わったー、と思った。
 ほっと一息はくと、笑顔が浮かんだ。
 世界の舞台での初めてのチャーミースマイルだった。
151 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時26分40秒
 胸に手を当て、王侯貴族の令嬢のような、ひざを軽く曲げる挨拶をリンクから四方の観衆
へと向けてする。
 飯田は、そんな石川の姿を無表情に見ていた。
 笑顔はなかった。

 Kiss&Cryに戻ってくる。
 持っていた花束を半分飯田に渡そうとした。

 「おつかれ」
 「せんせい、持ってくださいよ」

 笑顔で口をとがらせる石川を見て、飯田の表情もすこしだけ緩む。
 花束の二割ほどを申し訳程度に飯田が受け取って、二人は席に着いた。
 石川の得点がコールされる。
152 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時27分44秒
 テクニカルメリット
 5.7 5.7 5.8 5.7 5.6 5.6 5.8 5.7 5.6

 プレゼンテーション
 5.4 5.5 5.6 5.5 5.3 5.4 5.6 5.5 5.4

 順位
 3  3  3  3  4  4  3  3  4
153 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時28分37秒
 得点は、石川がイメージしていたほど伸びず、二人を残してこの時点でショートプログラム
だけで見ると三位につけた。
 石川の笑顔が消える。
 悪い点では無い。
 技術点は5.6以上が並んでいる。
 現に、コーユー・ワザカナーよりも上の順位を保っており、世界のトップの一員として恥
ずかしくないものである。
 それでも、石川は自分の演技はもっと点が伸びるはずだと感じていた。
 それだけの演技をしたつもりだった。
 解けない数学の難問を前にしたように、?マークを頭の上に浮かべている。
 会場では、イモイモ・アベナチーの名前がコールされていた。
 石川と飯田は、Kiss&Cryを離れた。
154 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時29分45秒
 「なんでか分かるか?」

 控え室に戻る通路の中で、飯田が石川に問い掛けた。
 石川は、歩く速度を落とすことなく、そのまま進んで行く。
 しばらく歩いてから、首を二回横に振った。

 「意識が、全部ジャンプにいってたからな」

 石川は、空気を飲みこんで立ちどまった。
 飲みこんだ息をゆっくりと吐き出す。

 「まだまだですね」

 彼女らしからぬ低い声で飯田に言葉を返す。
 石川の姿は控え室の中へと消えていった。
155 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時31分43秒
 最後から二番目、イモイモ・アベナチーは苦しい滑りになっていた。
 常に安定した成績を上げ、ヒッキー、鮎浜に次ぐ地位にいた彼女。
 それが、今シーズンに入ってから日本勢の猛烈な追い上げにあっていた。
 年末のNHK杯では、石川、りんねに及ばず四位に終わっている。
 オリンピックでは、なんとかりんねを押さえ込んで銅メダルを獲得したが、今回は予選で
石川に遅れを取った。
 ショートプログラム、負けられない、という意識が強く働く。
156 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時32分42秒
 ここまでの四人は、目だったミスも無くいい滑りをみせていた。
 その上へ出る為には、ミスは許されない。
 小さなミスも許されない。

 あどけない笑顔が人気の彼女から、豊かな表情が奪われていく。
 恐れを抱きながらのスケートでは、観客を魅了することは出来なかった。
 プログラム中盤のトリプルフリップは二回転になり、終盤のダブルアクセルも、ただのシ
ングルアクセルへとなり下がる。
 演技を終えた彼女の表情はがんの宣告をされた入院患者のようであった。
157 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時33分25秒
 最終滑走者のヒッキー・ウタダがステージに上がってくる。
 真打の登場。
 二十歳という実際の年齢以上に大人の色気を感じさせている。
 体調は万全、勝利への意欲も万全、演技への思いも強い。
 手の届かなかったオリンピック金メダルの代わりになるものを求めて、いまここにいる。

 演技のスタートから、全開のスケーティングで飛ばす。
 疾走感のあるステップはりんねらと比べて勝るとも劣らない。
 ダイナミックなスパイラルは、アメリカ選手の伝統を引き継ぐ美しいもの。
 演技に引きこまれ、見る者は息を呑む。
158 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時35分17秒
 すべてが順調なはずだった。
 すべてうまく行くはずだった。
 ミス・パーフェクトなはずだった。
 それが崩れたのは、最後のジャンプとなるトリプルフリップ。
 ふわりと着地したそのジャンプの回転は、二回だけだった。
 控え室でモニターを見ていたりんねや石川も思わず声を上げ立ち上がる。
 0.5点の減点となる転倒とは違い、二回転であってもジャンプの一つしては認められる。
 それでも、技術点からいくらかの減点は避けられない。
159 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時36分33秒
 ヒッキーは、そのジャンプのあとは綺麗にまとめた。
 三連覇中であることに恥じない演技ではある。
 芸術性の高さは誰にも否定することは出来ない。
 ただ、どうしても、ジャンプの回転不足、その一点へ印象が集約されてしまう。

 ヒッキーは、演技を終えると堂々と胸を張り、それから深々と頭を下げた。
 いくつかの花束を拾い上げ、リンクサイドの色紙を持つ何人かへサインをしてやる。
 女王としての態度を示しながら、Kiss&Cryへと戻ってきた。

 採点がコールされる。
160 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時39分10秒
 テクニカルメリット
 5.6 5.6 5.5 5.7 5.7 5.6 5.7 5.6 5.7

 プレゼンテーション
 5.8 5.8 5.7 5.8 5.8 5.9 5.8 5.7 5.7

 順位
 3  3  4  3  2  3  2  3  3
161 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時40分43秒
 プレゼンテーションでは5.9を一人、5.8も五人のジャッジがつけたものの、テクニカ
ルメリットが伸び切らず、順位としてはりんねの下、石川の上という位置づけになった。

 ヒッキーは、花束を抱えて控え室へと戻ってくる。
 それを出迎えたのは石川だった。

 「おつかれさま」
 「うん」
 「どうしたの?」
 「どうしたのって?」

 ヒッキーは、持っていた花束をベンチに置くと、自分もそこに座った。

 「ジャンプ」

 石川はヒッキーを見下ろす形になりながら言った。
162 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時41分17秒
 「あんなこともあるよ」

 冷めた調子で答える。

 「たまには失敗することだってある。仕方ない」
 「もっと落ち込んでるかと思った」
 「まだ、終わってないし。明後日が勝負。でしょ? お互い」
 「強いね、ヒッキーは」
 「そんなことないよ。梨華ちゃんに逆転されるんじゃないかって、心の中はドキドキです」

 そういって笑うヒッキーの横に座った石川は、まだこの人には追いつけないのかなあ? 
と思っていた。
163 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月15日(金)22時43分03秒
 ショートプログラムを終え、予選とのトータルでは一位は鮎浜咲、二位にヒッキー、三位
にりんねがつけている。
 石川はその下の四番手で、さらにコーユー・ワザカナー、イモイモ・アベナチーと続く。
 フリーで自力での逆転の可能性を残すのはりんねまで。
 石川が優勝を狙うには、鮎浜がフリーの順位で三位以下になる必要がある。
 冷たい氷の上での熱い熱い戦いは、最後の時へと向かっていた。
164 名前:名無しくん 投稿日:2003年08月16日(土)02時21分04秒
更新おつかれです!
最終戦楽しみです!
165 名前:作者 投稿日:2003年08月22日(金)22時19分53秒
>名無しくんさん
最後のフリー演技の前に、休日が一日入ります。
最終戦はもうしばらくお待ちください。
166 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月22日(金)22時21分14秒
 次の日は休養日だった。
 大会としては男子シングルのフリーだけおこなわれ、女子は休みである。
 明日へ向けて、各選手それぞれに調整をし時間を過ごす。
 練習をしている日本選手の元へ、夏まゆみが訪れた。
167 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月22日(金)22時22分00秒

 リンクの上ではあちこちに華が咲いている。
 その華の中で、最初に練習を切り上げてきたのはりんねだった。
 着替えを済ませると、夏の元へ挨拶に向かった。

 「こんにちは」
 「もうおわりか?」
 「ええ。なんか、一試合で三回滑るっていうのがつかめなくて」

 ショートプログラムの前に予選がある試合というのは、世界選手権くらいなもの。
 この大会初出場のりんねには、そんな経験はなかった。
168 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月22日(金)22時22分34秒
 「疲れとかあるの?」
 「うーん、疲れっていうか、なんて言うか。同じ演技を二回同じ試合でするって感覚も分か
らないし」
 「頭ぐちゃぐちゃとかいう?」
 「そんな感じですよもう。なんか、マスコミの人とかもたくさんいるし」

 りんねはため息をつく。
 そんな様も、どこかからかカメラで映されている。

 「でも、調子はいいんだろ? 昨日なんかいい滑りだったじゃんか」
 「ええ、まあ」
 「やる気はちゃんと戻ったわけだ」
 「はい」

 力強くりんねがうなづく。
 夏は、りんねの顔を見て、いい目をしてるなと思った。
169 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月22日(金)22時23分38秒
 「もっと、プレッシャー感じてるかと思ったよ」
 「感じてますよ十分。休養日なんか挟まずに、続けて滑りたかったですよ」
 「勝負どころだな」
 「もうはやく滑り終わりたいです」

 懇願するようなりんねの表情を見つめて、夏は微笑む。
 トップに立つ者の誰もが通った道。
 フリープログラムを滑り終えるまでの間、自分の上にのしかかる重圧と戦い続ける。
 無我夢中の、ひろみに捧げきっていたオリンピックのときとは違い、現実と向き合いなが
らの重圧との戦い。
170 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月22日(金)22時24分40秒
 勝ちたい、メダルが欲しい、形に残るものが欲しい。
 出来るだろうか? きっと、出来るはず。
 でも、今までうまく滑りすぎた、明日こそ大きなミスが出てしまうかもしれない。
 いや、みんな見てるんだ、いい滑りをしなきゃ。
 だけど、鮎浜やヒッキーよりいい滑りなんて、簡単に出来ない。
 梨華ちゃんに抜かれたらメダルだって取れない。
 大丈夫だろうか?
 だめ、余計なこと考えるな、無心で滑るんだ。
171 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月22日(金)22時25分21秒
 四六時中頭の中で繰り広げられる葛藤。
 りんねなら、乗り超えられると思うから、夏は余計なことは言わない。
 最後に誰が勝つかは分からないけれど、少なくとも重圧につぶされて消えてしまうような
選手ではないと認めている。

 「まあ、ゆっくり眠れ」
 「それが一番不安です」

 そう言って、りんねは頭を下げ去っていった。
172 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時36分25秒
 同じ時間、石川は氷の上での練習を続けていた。
 ステップやスピンを中心に確認をしている。
 ジャンプの練習はほとんどなかった。
 一回一回飯田コーチと確認しながら練習をこなす。
 笑顔はここにいない。
173 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時38分08秒
 りんねよりも一時間長く滑っていた石川がリンクから上がると、マイクを持った松浦に
つかまった。

 「はい、それでは、練習を終えた石川選手にお話をうかがいたいと思います。調子はい
かがですか?」
 「特に、良くも悪くもないです」

 亜弥ちゃんに丁寧語で質問されると変な感じだなあ、と思いつつ石川は質問に答える。

 「練習ではあまり、ジャンプはなかったみたいですけど、明日は、トリプルアクセルはど
うするんですか?」

 石川は、ベンチに座る飯田の方へチラッと視線を送ってから答えた。

 「それは、明日になってから考えます」
 「今の段階では決まってないということですか?」

 この前言ったじゃないかー、と心の中で叫ぶものの、テレビモード相手ではそれを表に
出すことは出来ない。
 石川も、それなりにテレビモードの答えを返す。

 「はい。本番のお楽しみということで」

 質問している松浦の方は、テレビ用に作ったものではない笑みを思わずこぼしていた。
174 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時39分56秒
 「じゃあ、テレビを見ているファンのみなさんへ一言」

 テレビの向こう側にいる石川のファン。
 これまでの石川は、そんな存在がほとんどイメージ出来ずにいた。
 今は、すこし分かる。すこしだけ分かる。
 自分を見ていてくれる人が、確かにテレビの向こうにもいるんだ、ということがすこしだ
け分かっている。
 今日の夜放映されます、というカメラ横のカンニングペーパーを確認して石川はしゃべり
出した。

 「明日は、結果はどうなるかは分からないけれど、精一杯の石川梨華の滑りをしたいと思
います。テレビを通しても伝わるような演技をしたいと思うので、是非、私の演技を見てく
ださい」
 「お疲れのところ、ありがとうございました」

 カメラが止まる。
 同時に、松浦が両手を合わせて石川に謝りだした。
175 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時41分32秒
 「ごめん、アクセルの話し持ち出して。聞いてるのにもう」
 「しょうがないよ。亜弥ちゃんもお仕事なんでしょ」
 「梨華ちゃんもこっちの世界来ない? 芸能界でもやっていけると思うよ」
 「私は無理だよー」
 「大丈夫。歌さえ出さなければ平気」
 「それは言わないでー!」

 去年のオフシーズン、テレビでの露出もかなり多かった石川は、その流れでシングルCD
を一枚出している。
 ただ、そのCDはまったくといっていいほど売れなかった。
176 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時42分36秒
 「とにかく、頑張ってね。松浦、はっきり言って、期待してます」

 芝居がかった口調でそういいながら右手でガッツポーズを作って見せる松浦に、石川は苦
笑いしながら言葉を返す。

 「すごいプレッシャー掛けられてる気分なんだけど」
 「大丈夫大丈夫。転んだって死にゃあしませんぜ兄貴」

 芝居口調を松浦は続ける。

 「まあ、頑張るよ」
 「それじゃねー」

 スタッフを従えて松浦は去って行った。
 一人残された石川の元へ、飯田がやってくる。
177 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時43分48秒
 「亜依ちゃんから電話あったよ」
 「え? 切っちゃったんですか?」
 「うん。だって、インタビュー中だったし」
 「そんなぁ」

 飯田の顔をうらめしそうに見上げる石川の姿は駄々っ子のようだった。

 「男子のシングル見てからホテルに来るってさ」
 「えー。ご飯一緒に食べようと思ってたのにー」
 「そう言うなって。あの子達はフィギュアスケートを見に来たんだから」
 「お茶くらいなら付き合ってくれますかねー?」

 食い下がる石川に、飯田の顔もほころぶ。
178 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月23日(土)21時45分30秒
 「あんまり遅い時間まではダメだぞ」
 「はーい」

 ころっと笑顔に表情を変えた石川に、げんきんな奴だと思いながらも、試合の合間のこん
な日に、これだけの余裕を見せてくれることが頼もしくも、飯田は感じていた。

 ホテルへ戻った石川は、加護と市井の到着を心待ちにしながら、食事をしたり、テレビを
見たりとのんびりと過ごす。
 はた目にはリラックスして過ごせているように見えた。
 九時過ぎ、市井から電話が入る。
 試合会場を出たばかりというその電話からは、興奮気味な加護の声が隣からよく聞こえて
きていた。
179 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月24日(日)20時05分19秒
 同じ頃、りんねは一人部屋で過ごしていた。
 テレビもつけず、部屋の中にはエアコンのモーターの音だけが聞こえる。
 部屋の中を歩いたり、ベッドに座ったり、寝転がったりと落ち着かない。
 時折ため息をつく。
180 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月24日(日)20時06分15秒
 りんねは、不安や重圧と一人で戦っていた。
 胸のあたりにかきむしりたくなるような感覚がある。
 すこしでも自分を落ち着かせようとゆっくりと腹式呼吸をするも、その感覚はまったくか
わらない。
 隣の部屋にいるであろうあさみや里田の元へいけば、すこしは気持ちも楽になるだろうは
ずなのに、りんねはそれをしなかった。
181 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月24日(日)20時07分23秒
 みんなに頼らずに、一人で乗り越えなきゃ。
 もっと、強くならなきゃ。

 いつも誰かがそばにいてくれた。
 りんねを支える誰かが、いつもそばにいてくれた。
 だから、今、ここまでの高みに上ってきている。
182 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月24日(日)20時08分24秒
 ここから先は、自分の力で歩いていかなきゃいけない。
 りんねは、そう思っていた。
 自分の力で、どこまで出来るのか見極めたい。
 自分の力で、形に残るものをもってかえって、牧場のみんなに喜んで欲しい。
 あさみに、里田に喜んで欲しい。
 ひろみにも、助けを求めちゃいけないんだ。
 自分の力で、一人で歩いていかなきゃいけないんだ。
 私は、もう、そういうところに立っているんだ。

 りんねの長い夜は続く。
183 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時51分45秒
 石川は、市井達がホテルに着く頃を見計らって、ロビーへと迎えに出た。

 「梨華ちゃーん」
 「亜依ちゃん元気だねえ。どうだった? 生のフィギュアスケートは」
 「なんか、もう、すごい。すご過ぎや。花束投げる人とかたくさんおって。うちも、明日
梨華ちゃんのとき絶対、投げるからな」
 「うん。ありがと」
 「それでな、なんかな、旗とか横断幕とか作ってる人もおって、なんかすごいんよ。うち
も、横断幕作りたいんやけど、明日、材料集めて、うーん。出来るかなあ?」
184 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時53分10秒
 石川は加護の頭をなでながら市井に語りかけた。

 「食事はもう済ませたんですか?」
 「ええ。簡単なのだけなんで、ちょっとお腹は空いてますけど」
 「じゃあ、どこかで軽く食べません?」
 「どうする? 亜依ちゃん」
 「食べる食べる」

 三人は、そこから目に付いたフロント奥にあるレストランにそのまま入った。
185 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時53分49秒
 「亜依ちゃん何食べる?」

 一つしかないメニュー表を、石川は加護に向けてみせる。
 市井も、隣に座る加護を見ながら微笑んでいた。

 「うーんとな、アイス。うーん、やっぱりケーキにしようかな。でも、ハンバーグとか食
べちゃおうかなあ」

 メニューをめくり頭を悩ませている。
 なかなか決まらない加護に、痺れを切らすこともなく、石川と市井は優しい目で見つめて
いた。
186 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時54分42秒
 「この時間にたくさん食べると太っちゃうよ」
 「うーん。そやなあ。うーん。どうしよー。ケーキかアイスかなあ」
 「じゃあ、私がケーキ頼むから、亜依ちゃんはアイスにしなよ。分けてあげるから」
 「ホンマ? 先生、ホンマにええん?」
 「うん。私もアイス半分もらうよ」

 加護と市井の会話を目の前にし、石川の顔もほころびっぱなし。
 結局、加護はチョコレートアイスとりんごジュースのセット、市井がチーズケーキとコー
ヒーのセット、石川はオレンジジュースを頼んだ。
187 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時55分34秒
 「亜依ちゃん、電車間違えずにちゃんとこれた?」
 「これたよー。うち、電車くらい一人で乗れるもん」
 「でも、市井先生と一緒に来たんでしょ」
 「亜依ちゃん、ちゃんと自分で乗り換えとか分かってたもんねー」
 「うん」

 平和な光景。
 まるで家族旅行の一幕の様。
 石川の心も和む。

 「会場って、すごいたくさんの人がおるんな。それがみんな、拍手とかしたり、花束投げ
たり、なんかすごいや。表彰式の時とか、段の上に乗ってる人、みんなすごい幸せそうな顔
やし。梨華ちゃん、あんな中で滑るんやろ。それだけでもうすご過ぎや」

 小さな体で大きな身振りをまじえて加護は話す。
 そんな中に、飲み物とケーキにアイスが運ばれてきた。
188 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時56分10秒
 「梨華ちゃん、明日トリプルアクセル跳ぶん?」
 「うーん。わからないや。あしたにならないと」

 石川はここでも、テレビで答えたのと同じ答えを返す。

 「そっかあ。うち、跳んで欲しいなあ。それでばっちり決めて、金メダル取るんよ」
 「亜依ちゃん、あんまり石川さんにプレッシャー掛けちゃダメだよ」
 「あ、そっか。ごめん。でも、梨華ちゃんならきっと、あの今日段の上で幸せそうな顔し
てた人達の仲間になれると思うよ」
 「ありがと」

 加護の顔を見ながら石川は微笑んだ。
189 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時56分54秒
 「先生、ケーキ半分ええ?」
 「うん。いいよ」

 市井のケーキの皿と加護のアイスの皿が交換される。
 世界の演技を初めて目の当たりにしてテンションの高い加護は、ケーキを食べながらもし
ゃべり続けた。

 「なあ、あの横断幕とか、旗とかって、滑ってる人は自分のだ! って分かるん?」
 「うん。舞い上がってさえいなければ結構分かるよ」
 「やっぱうれしいの?」
 「自分のがね、たくさんあるとうれしいよ」
 「そっかあ。じゃあ、うち、明日頑張って作る」
 「大変だよいまからじゃ」
 「大丈夫」

 にっこりと加護は天使の笑顔を見せていた。
190 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時57分58秒
 ケーキとアイスの皿が空っぽになる。
 途端に、加護が大きなあくびをした。

 「亜依ちゃん眠い?」
 「うーん、ちょっと眠いや」

 リスのように目をこする加護に顔を近づけて石川が語り掛ける。

 「部屋に戻って寝る?」
 「眠い・・・」
 「戻ろっか」

 市井が、加護の頭をなでながら言った。

 「市井さんは、もうお少しお話しましょうよ」
 「うーん、じゃあ、亜依ちゃん送ってまた戻ってきますね。行こ」
 「梨華ちゃん、おやすみ」
 「おやすみ」

 加護はそう言うと、また一つあくびをして出ていく。
 石川は、加護に向けて右手を振った。
191 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時58分34秒
 二人が去って、一人残された石川はぼんやりと時間を過ごす。
 レストランの中は、比較的閑散としていた。
 アルコールメインでない店が繁盛する時間はもう過ぎている。
 ため息を一つついて、石川は深く背もたれに寄りかかった。

 明日、最後かあ。

 一人になると思い出す。
 明日のこと。
 石川は明日のフリースケーティングの最終滑走者として滑ることが決まっていた。
192 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)21時59分29秒
 「おまたせしました」

 市井が戻ってきた。
 石川の表情がほころぶ。

 「いいんですか? 早く寝たりとかしないで」
 「いいんです」

 オレンジジュースのグラスに石川は手を伸ばした。

 「なんか、不思議な感じです。世界のトップ選手とこうやってお茶飲んでるなんて」
 「あんまり気にしないで下さいそういうの」
 「難しいですよ。元々ファンだったから。今も、ホントはすごい緊張してます」
 「なんか、お見合いみたいですね。ホントのお見合いがどういうのか知らないけど」

 そう言って、二人で笑い合う。
193 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時00分32秒
 「私、結構小心者なんですよ。ホントは紅茶が好きなのに、眠れなくなりそうな気がして
こうやってオレンジジュース飲んでる。別にカフェインに弱いわけじゃないのに。普通なん
です、私。あんなすごい人達の中で滑ってるのが不思議なくらいに」
 「もしかしたら、結構みんなそうなのかもしれないですね。戸田さんとか、ウタダさんと
かも、遠くから見ると人間離れしてる感じだけど、近くで見ると、普通だったりするんです
かね?」
 「みんな普通、かなあ?」

 一緒に焼肉を食べるヒッキー、一緒に公演したりんね、そんな姿を思い出す。
194 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時01分57秒
 「プレッシャー、感じてるんですか?」

 市井の問い掛け。
 十八歳の石川、十九歳の市井。
 加護のお姉さん的存在として振舞う市井の姿は、石川から見て頼りがいのあるものに映る。
 年が近く、フィギュアスケートの関係者でもない市井だから、話せてしまうことがある。

 「私、フィギュアスケート大好きなんです。ずっと滑っていたいんです。みんなにすごい
って言われたい。みんなに感動して欲しい。ずっとずっと、滑っていたい」

 目の前の市井ではない何かに語りはじめたような石川の話しを、市井は黙って聞いている。
195 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時03分19秒
 「でも、ずっとアマチュアで競技会に出続けることは出来ない。ジャンプはやがて跳べな
くなるし、この緊張間の中で滑り続けることに耐えられなくなる日がいつか来る。そうして、
プロになっていくんです。プロのスケーターとして、世界でショーを公演するようになって
いくんです」

 目の前にはまだ見えないけれど、いつの日か訪れる未来。
 石川の目はそこまで見ている。
196 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時04分45秒
 「オリンピックでメダルを取ったり、世界選手権でメダルを取ると全然違うんですよ、プロ
になった時。日本で一番ってだけじゃ何にもならない。世界の大会でメダルを取ってるとお仕
事がたくさん来るんです。ずっと、スケート続けられるんです」

 プロになると、女子、男子、アイスダンスやペアという垣根はなくなり、全部集まって
ツアーをまわる。
 四種類の競技の歴代のトップ選手が集まると、かなりの人数になり、実績のないものは
仕事にあふれることになる。
 小さく息をはき、それから石川は、自分の胸の中にある大きな思いを語りだす。
197 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時05分27秒
 「欲しいんです。メダルが」

 そう言って、石川は一瞬目を瞑る。
 唇を噛んだ。
198 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時06分41秒
 「リンクの上では、誰にも負けたくない。りんねさんにも、ヒッキーにも、誰にも負けた
くない。そして、メダルを手にして、ずっとずっと、ずっと滑っていたい。人の演技なんか
関係ないなんて嘘。自分の演技を見てもらえれば十分なんて嘘。全部嘘。みんな失敗すれば
いいと思ってる。自分だけうまくいけばいいと思ってる。弱いんです、わたし」

 石川は視線を落とした。
 一瞬の沈黙の後、市井が言葉をつないだ。

 「やっぱり、石川さんすごいですよ。今、欲しいものがあってそれを手に入れるために
頑張ってて、その上そんなずっと先のことまで考えてる。私なんか全然ないですよ、将来
の夢とかそういうの。どこかに就職できるかなあ? とかその程度」
 「そうじゃないです。ただ、私が臆病だから、ずっと先のことまで考えちゃうだけです」

 首を振る石川に、市井は続ける。
199 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時07分26秒
 「石川さん、一個だけ間違ってると思う。自分の演技を見せたいなんて嘘って言ったけど、
それ違うと思う。だって、メダルを取って、プロにもなってずっとスケート続けたいって、
それって、ずっとみんなに自分の演技を見て欲しいってことじゃないんですか?」
 「わからないです。もう、全然」
 「石川さん、ホントにスケートが好きなんですね。こんな重圧受けてても、それでもスケート
続けて、メダルが欲しいその理由もスケートをずっと続ける為」
 「スケートは、好きです。うん。確かに、それは、間違いないです」

 石川が笑みを浮かべる。
 氷の上の自分を思い浮かべるのは好きだった。
200 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時08分21秒
 「大丈夫ですよ。って、素人の私が言うのも変なんですけど。スケートが好きで、ずっと
練習して来たんだから、氷の上に立っちゃえば、きっとそういういろんなもやもやが消えて、
石川さんの滑りが出来るんじゃないかなあ」

 市井はコーヒーカップを口に持って行き、残りを一息に飲んだ。
 カップをソーサーに置くと、瀬戸物のぶつかる音が、二人の間にこぼれた。

 「市井さん、私の演技どう思いますか?」

 市井の目を見て問いかける。
 石川に見つめられ、すこし狼狽しながらも市井はすこし考えて答えた。
201 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時09分23秒
 「専門的なことは分からないですけど、すごいなって思いますよ。なんだか分からないけ
れど、訴えてくるものがあるんですよ。その感じが好きです。ジャンプももちろんすごいっ
て思うんですけど、私は、石川さんはジャンプよりも表現力の人だと思ってます」
 「明日、ムーンライトソナタを演じるんです。知ってますか? ベートーベンが作ったん
ですけど、この曲を書いた時、もうほとんど耳が聞こえなかった。なのに、体と頭に残った
記憶の音だけでこんなすごい曲を書いたんです。この曲で、この月の光で暗闇を照らしたい。
そう、思うんです。そう思うんですけど、でも、私がそんなこと言う資格があるのかなって、
自信がない。私には、耳が聞こえなくなっても作曲を続けられたベートーベンの強さはない。
スケーターとしての強さも、技術も足りてない気がするんです。そんな私が、誰かに何かを伝
えたいって思って、伝わるのだろうかって、不安なんです」
202 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時10分05秒
 ぽつぽつと言葉を切りながら、それでも途切れることなく石川は胸のうちを語りつくした。
 市井はつばを飲み込む。
 世界のトップ選手の胸のうちが自分の前で語られている。
 それこそ、自分が石川に何か言う資格があるのだろうか? と自問自答しながらも答えを
返した。

 「伝わるかどうかは、明日滑ってみないと分からないですよきっと。でも、石川さんのベ
ストの滑りができれば、きっと伝わると思う。石川さんに出来ることは、明日精一杯滑るこ
とだけじゃないですか?」
 「トリプルアクセルなしでも、みんな私を見てくれるのかなあ?」

 石川は遠くを見つめている。
 市井の後ろに、ファンと呼ばれる多くの人を見ている。
203 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時11分12秒
 「トリプルアクセルって、やっぱ特別な技じゃないですか。跳べたらすごいし、跳べなくても、
チャレンジするだけですごいし、それに挑む人が注目を浴びるってのは確かだし、石川さんもそう
いう目で見られると思うけど、でも、それだけじゃないじゃないですか。私も、亜依ちゃんも、
多分、明日見に来る多くの人も、トリプルアクセルだけ見に行くんじゃないんですよ」

 市井の言葉を石川は視線をテーブルに落として聞いている。
 スケートの専門家以外の人と、こんなにスケートの話しをしたことはなかった。
 これまで、それほど深く話したことがあるわけではない市井に、いつのまにか誰にも話さない
ような胸のうちまで吐露していた。
204 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時11分48秒
 「市井さん。石川なら出来る! って、そう言ってください」
 「私でいいの?」
 「はい。市井さんがいいんです」

 二人は、座りなおすと背筋を伸ばした。
 お互いに相手の目を見る。

 「石川なら出来る。絶対出来る。石川梨華なら絶対出来る」

 そこまで言うと、市井の方から目を離した。

 「なんか、恥ずかしいなあ」
 「そうですね」

 十八歳と十九歳の二人の華やかな声が、レストランの中に響いた。
205 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時12分26秒
 「ごめんなさい。なんか、いろんなこと話しちゃって」
 「いいですよ。世界のトップに立つ人もいろいろ大変なんだなあ、って分かりました」
 「だからトップなんかじゃないですって」

 そう言って、また笑い合う。
 二人共、無邪気な笑顔だった。
206 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月27日(水)22時13分14秒
 「ありがとう。おかげで結構すっきりした」
 「どういたしまして、私でよければ、いつでもお話聞きますよ。サインと引き代えに」
 「サイン上げたじゃないですかー」
 「じゃあ、今度ヒッキー・ウタダのサインもらってきて下さいよ。仲いいんですよね」
 「結構大変なんですよ」
 「いや、冗談だから、別にいいんですけど」

 最後の戦いを控えた夜。
 石川のおごりで支払いを済ませ、二人はそれぞれに部屋へと帰っていった。
 よく眠れそうな、そんな気が石川はしていた。
207 名前:名無し読者の一人 投稿日:2003年08月28日(木)04時22分38秒
石川さんらしい気持ちの浮き沈みに(・∀・)ニヤニヤしっぱなしw
ん〜先が待ち遠しいです
208 名前:作者 投稿日:2003年08月31日(日)22時42分38秒
>207
テンポよく先へ進めたらいいなあ、と思っています。
209 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時44分00秒
 夜中、りんねは眠れずにいた。
 明日への不安、重圧、りんねの眠りをそれらが妨げる。
 暗闇の中ベッドに座り壁によりかかった。
 月明かりが薄っすらと差しこんでいる。
 左足を伸ばし、右足のひざを抱え込んで、ひざがしらに額を乗せた。
 部屋は暖かい。
 閉め切った部屋が息苦しく感じられた。
 ベッドから降り、窓際へ。
 窓を開けると、一陣の冷たい風が部屋へと流れ込んだ。
 りんねの髪が揺れる。
 窓の外のテラスへと出た。
 隣のテラスには、あさみが立っていた。
210 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時45分44秒
 「外は寒いよ、りんね」

 松葉杖を抱えたあさみが、りんねに向かって微笑んだ。

 「ずっと起きてたの?」
 「うん。なんとなく」

 りんねもテラスのバーにつかまる。
 二人共、遠くに薄っすらと見える雪山のシルエットへと目を向けている。

 「オリンピックの時と逆だね。あの時はりんねが先に起きてたんだよね」

 りんねはあさみの方を見る。
 あさみは、ちらっとりんねの方へと視線をやり、すぐに前に戻した。

 「私も起きてたから。まいの奴、寒いのに窓あけたままテラスにでるんだもん。話してる
のは聞こえてたよ」
211 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時46分36秒
 りんねも、あさみから視線を外した。
 二人とも黙り込む。
 まだ冷たい長野の風が、二人の間を通り抜けた。
 静かな時が流れた後、りんねが切り出した。

 「あさみってさあ、確か犬の調教師になるのが夢だったよね」

 テラスに乗せていた手を離し、あさみはひじを乗せて頬杖をつく。
 一つ息を吐いてから言った。

 「言ってたなあそんなこと」

 牧場に来て、まだフィギュアスケートを本格的に始める前、あさみは犬ぞりのレースによ
く出ていた。
 まだあどけなかったあさみは、調教師になるんだと、みんなとの食事中によく言っていた。
212 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時48分26秒
 「私があさみの夢を奪っちゃったのかな?」

 あさみの方を見ることなくりんねは言う。
 あさみも、りんねの方を見ることなく答えた。

 「違うよ。私が選んだんだ。いろいろ考えて、スケートを選んだのは私なんだ。辞めよう
と思えばいつでも辞められたし、今だって辞められる。でも、辞めないでスケートを続けて
るのは私なんだ」
 「調教師はもういいの?」

 答えまでにすこし間が合いた。

 「犬は好きだし、牧場は好きだし。だから、スケートよりもそっちを選ぶ日が来るかもし
れないけど、今は、いいかな。どうしてもなりたくなったら、そしたら、なるよ、調教師に」

 誰かに押し付けられたわけでもない、今歩いている自分の道。
 最初のキッカケはなんであれ、あさみは自分で選んでここにいる。
213 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時49分05秒
 「今は、はやく滑りたい。とにかく滑りたい。りんねに一歩でも半歩でも追いつきたいん
だ。夢、なんてはっきり思ってるわけじゃないけど、強いて言うならそれが今の夢かな」

 あさみは、そう言って笑みを浮かべたが、その顔はりんねからは見えなかった。

 「夢って、なんなんだろうね」

 りんねはつぶやく。
 髪を風で揺らしながら、りんねは地上を見つめた。
 ホテルの中庭が明かりに照らされ、若い芽をつけたいくつかの樹木が見えた。
214 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時50分25秒
 「私の夢は、オリンピックに出ることで叶ったんだ。私の夢。私達の夢かな? とにかく
叶ったんだ。いい滑りもした。自分ではあれ以上ありえないと思った」

 私の夢。
 りんね一人のものじゃなかったりんねの夢。
 それはもう、叶えてある。

 「もう、いいかなって思った。だけど、世の中の人は言うんだ。悲劇のヒロインって、
私のことを。メダルが取れなかったから悲劇のヒロインって。みんなはっきり言わないけ
ど、牧場のみんなもそう思ってるのかなって思った。メダルを持って帰れば、みんなもっ
と喜んでくれるのかなって思った」

 りんねの台詞、一つ一つあさみの耳に入ってくる。
 何も言葉を挟むことなく、ここまであさみはただ聞いていた。

 「明日、結果が出なかったら、みんながっかりするのかなあ? なんて考えると怖いんだ」
 「もうやめようよそういうの」

 りんねの言葉に、初めてあさみが口を挟んだ。
215 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時52分07秒
 「りんねはさあ、ずっとひろみさんのために頑張ってきた。それは、ひろみさんのためっ
てだけじゃなくて、もちろん自分自身の為でもあったんだと思う。でも、それはもう終わっ
たんだよ。メダルを取ったらさ、きっと牧場のみんな喜んでくれると思うよ。うん、たぶん
ね、間違いない。だけど、もういいじゃん、そろそろりんねがやりたいようにやってよ。
りんねのさあ、行きたい方へ歩いて行ってよ」

 そこまで言うと、あさみはテラスに両手を置きそこに額を乗せ、目を瞑った。
 あさみが大きく息を吐いたのが、りんねの耳にまで届いた。

 「でも、あさみだって私にもっと頑張れって望んでたでしょ」

 あさみが怪我をする直前の、二人の会話を思い出す。
 追いかけていけば追いつける道にいて、そうあさみは言っていた。
216 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時53分21秒
 「私は、明日りんねに世界一になって欲しい。鮎浜にもヒッキーにも梨華ちゃんにも勝っ
て世界一になって欲しい。そう思ってる。けどさ、それは私が勝手に思ってるだけで、それ
をりんねが叶える必要ないよ」
 「そんなこといまさら言われたって・・・」
 「もっと、自由になっていいんだと思うりんねは」
 「わかんないよ。そんなこと言われても」

 また、二人は黙りこんだ。
 風の音、風で揺れる木々の音、それだけが二人の周りを包む。
 空気が冷たかった。
217 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時54分00秒
 「とりあえず、明日頑張ってみたら。結果がどうでも、何か見つかるかもよ」

 あさみがりんねの方を見てそう言うと、りんねもあさみの方を見た。

 「うん、とりあえず、目の前の明日かな。こんなチャンスめったにないもんね。みんなに
見て欲しいな」

 りんねはどこまでいっても、みんなの為なのかな? とあさみはこの言葉を聞いて思った。
 自分は、余計なことを言ったのかもしれない。
 そう思いながらも、あさみは後悔する気持ちなかった。
218 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年08月31日(日)22時54分51秒
 「そろそろ寝なよ」
 「あさみは寝ないの?」
 「もうちょっとしたら寝るよ」
 「そっか。じゃあ、寝るね。うん。おやすみ」
 「おやすみ」

 りんねは部屋に入っていった。
 一人テラスに残されたあさみは、遠くの山々の影を見つめながら、りんねの明日を思った。
 りんねに、明日表彰台に上って欲しいと、心底思っていた。
219 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月06日(土)23時21分33秒
いよいよクライマックスかぁ
なんだかこっちがドキドキしてきたw
220 名前:作者 投稿日:2003年09月07日(日)01時03分20秒
>219
ありがとう。
なかなか大変なフリーになっていきそうです。
221 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時04分07秒
 世界選手権女子シングルフリー。
 最終グループのアップ。
 氷の上には世界最高峰の六人が上がっていく。
 世界一を争い、メダルを争い、六人のスケーターがしのぎを削る。
222 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時09分20秒
 自力で優勝が可能なのは、現在三位のりんねまでだった。
 一位の鮎浜の順位点はここまで、0.8、0.6の1.4点。
 二位のヒッキーは、0.4、1.8の2.2点、三位のりんねは1.2、1.2の2.4点。
 フリーでは、順位×1.0が順位点として加わり、合計の順位点が少ない方が上位
となる。
 得点が並んだ場合は、フリーでの順位が良い方が上位に入るルールだった。
 四位の石川は、0.4、2.4の2.8点の順位点で、優勝するためには石川がフリーで
一位になり、鮎浜が三位以下になる必要がある。
 五位のコーユーワザカナーは、0.8、3.0の順位点3.8、六位のイモイモ・アベナ
チーは1.2、3.6の順位点4.8と、メダルを奪う為にはかなり厳しくなっていた。
223 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時12分56秒
 第三グループ最後の滑走者の採点がコールされている間、最終滑走者の六人はリンク入り
口で時を待っている。
 誰も、互いに顔を見るものはいない。
 視線を氷の上に向けた六人が一所に集まっている。
 お互いに意識しないはずはなかろうに、誰も、互いに顔を見るものはいない。

 採点コールが終り、最終グループがアップに入る。
 リンクの上に、六つの華が散って行った。
224 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時14分13秒
 氷の上でのアップの時間は六分。
 それぞれ、衣装の上にジャージを羽織った格好で滑る。
 すでに体を温めるアップは、これまでの待ち時間で済ませていて、氷の上に出て行くと同
時に、技術的なチェックに入る。
 ジャンプのタイミング、スピンでの加速のつけ方、スパイラルのスピード感。
 気になる部分を試す。
225 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時14分59秒
 りんねは、プログラム終盤のダブルアクセルを二回続けるパートを演じていた。
 スタミナがきつく、ステップの速度が落ちたりジャンプの高さがなくなりがちなところ。
 アップの時点でそのことを意識しておく。
 滑走順は最後から三番目。
 試合前の緊迫感は抱えながらも、この中に混じっても気後れすることはない。
 もう、立派な世界のスケーターになっている。
226 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時18分40秒
 石川は、コンビネーションジャンプのチェックに余念がない。
 出だしのリズム、それを崩して敗れ去った全日本選手権の反省もある。
 三回転−三回転の難しいコンビネーションを綺麗に決めている。
 難しい、と言われ自分でもそう思っているジャンプがあまりにも綺麗に決まるものだから、
ちょっとしたいたづら心が生まれていた。
227 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時19分37秒
 フリー演技に巻き返しを期すヒッキー・ウタダは、六人の中央をスパイラルで横切って行く。
 アメリカ選手独特の、滑走距離の長いスパイラルで、アップ中にもかかわらず観衆の拍手を浴
びていた。

 そのヒッキーの目の前、進行方向をわざわざさえぎる形で、鮎浜咲がトリプルルッツを跳ぶ。
 着地が決まったそのすぐ横を、ヒッキーが肩をかすめるかのように滑りぬけた。

 六人のうち、五人がリンクの片側に集まるような形になり、石川の前に広い空間が広がった。
 おあつらえ向きな状況に、おもわずにっと微笑んでから、石川は氷を蹴り加速をつけはじめた。
228 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時20分21秒
 右足、左足、交互に氷を蹴りつける。
 徐々に速度が上がって行き、やがて氷を蹴るのを止め、左足のエッジに体重を乗せた。
 右足を後ろに引き、両手を下げると同時に左ひざを折る。
 前向きに滑ったまま、体重を強く、強く左足にかけ、右足と両手を振り上げる反動を感
じたまま左足で氷を蹴る。
 今までのジャンプと、感触が明らかに違った。
 両腕を胸の前で交差させた空中姿勢で回転する。
 一回、二回。
 最高点を過ぎて下り初めてから三回目。
 さらにもう半回転加え、三回半まわって、舞姫が地上に下りてきた。
 着地の右足に、通常のジャンプの倍近い衝撃が加わる。
 石川は、その衝撃に耐え、決してスマートとは言えない、崩れそうな形になりながらも、
倒れることなく右足一本で着地を決めた。
229 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時21分08秒
 アップ中のハプニング。
 ここ十年誰も決めたことのないトリプルアクセルを、最終アップの段階で石川梨華が決め
て見せた。
 たまたま、石川に目を向けていた運のよい観客だけが目撃したトリプルアクセル。
 一人、また一人と拍手をしながら立ち上がる。
 試合の場面でない、ただの練習での技に対しての、異例のスタンディングオベーションが
会場に広がっていった。
230 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時22分30秒
 ああ、跳んじゃった・・・。
 着地を決めた石川は、すごいことをしたという実感はなく、ただ、いたづらを見つかった
子供のように戸惑っている。
 沸きあがる会場をきょろきょろと見回してから、なんかやっちゃった、と思い、照れ笑い
をした後、何事もなかったかのように滑りだそうとしたが、その前にヒッキーが滑りよって
きた。

 「すごいね」

 たまたま、石川のトリプルアクセルを見ていたヒッキーが、石川に握手を求める。

 「あ、ありがとう」

 ぎこちなく石川が右手を差しだすと、ヒッキーはそれを強く握った後、石川の両頬に祝福
のキスをした。
231 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時23分30秒
 その光景を鮎浜はチラッと一瞥するだけで横を滑りぬけて行く。
 彼女も、石川のトリプルアクセルはしっかりと見ていたが、それに対してなんらアクショ
ンを取ることはなかった。

 りんねは、レイバックスピンをしているさなかに、突然会場が沸きあがっていったので何
事だ? と見回している。
 石川とヒッキーの姿を見て、だいたい何が起こったのかの見当をつけていた。
 足だけでステップを刻みながら、しばらく石川とヒッキーの方を見ていたが、やがて視線
を外すとダブルアクセルを跳んだ。

 ヒッキーは、石川へキスをするとすぐに去っていった。
 何ごともなかったように自分のアップへと戻る。
 トリプルルッツ−トリプルトーループを跳び、あっさりと決めてみせていた。
232 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時24分15秒
 会場の拍手を一身に受ける石川は、まだとまどいながらちょこちょこ頭を下げている。
 どうしよう、ちゃんと挨拶した方がいいのかな? アップ中だし、でも、私への拍手だよね。
 おろおろ、といった感じの石川の姿は滑稽ですらあった。

 そんな石川の目の前を、サーキュラーステップを刻んでいるりんねが通り抜ける。
 その姿を見て、ようやく自分を取り戻した石川は、観客を頭から外しアップへと戻る。
 二、三秒、目を瞑ってから滑りだした。
 ジャンプを跳ぼうか、と思ったけれど考え直す。
 滑りながら手足の軽い振り付けをして、そのあとスクラッチスピンに移った。
 すこし、気分が高揚してくる。
 回転速度を上げながら、頭にあるのは、トリプルアクセルを跳んだんだ、ということだけ
になっていった。
233 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003年09月07日(日)01時25分11秒
 放送が入る。
 英語で、続いて日本語で。
 六分間のアップの終りが告げられた。
 最終グループ最初の滑走者、イモイモ・アベナチーを残し五人はリンクから上がって行く。
 リンクの出入り口で近づいても目を合わすことはない。
 石川は、ヒッキーと並んでリンクから上がっていったが、目を合わせることも、言葉をか
わすこともなかった。
 シーズンを締めくくる戦いが、いま、始まる。
234 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003年09月07日(日)19時10分45秒
みやさん、更新お疲れ様です。
いよいよ最後の滑り。普段どおりのチカラが出せないから、悲劇や奇跡が起こると信じてます。
石川さんの努力が実を結ぶんでしょうか?石川さんが氷上の舞姫になれること願って!
そして、リンネさんがオリンピックの疑惑の判定の雪辱ができることも信じて、更新を楽しみに待ってます。
235 名前:作者 投稿日:2003/09/13(土) 00:10
>ななしのよっすぃ〜さん
フリースケーティング、見守っていてください。
236 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:18
 シューズを片手に歩く石川は、少しづつ自分のしたことの実感が沸いてきていた。
 トリプルアクセル、跳んだんだ・・・。
 思い出す、空中の感覚。
 思い出す、着地の感覚。
 自然と顔がほころぶ。
 廊下の角を曲がると、そこにいたのは飯田だった。

 「先生」

 声をかけてきた石川を見下ろして、飯田は微笑む。

 「跳べちゃいました」

 試合前、という雰囲気のまったくない甲高い声で石川が喜びをあらわしている。

 「跳べたな」

 飯田は、一言だけ言葉を返した。
 たった一言だけでも、思いは大きい。
 二人の横をジャージを羽織ったりんねが歩いていく。
 軽く腕のストレッチをしながら歩いて行くりんねにチラッと視線をやってから飯田は言った。
237 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:19
 「もう一回、跳べるか?」

 質問が意図することはたった一つ。
 石川は、当然それを理解している。

 「跳びます。跳ばせてください」

 跳べます。 とは答えなかった。

 「よし、じゃあ、構成をすこし代えよう。しっかり頭に入れろよ」
 「はい」

 二人は控え室へと消えて行く。
 トリプルアクセルをいれるために、ジャンプの構成をプログラム全体で組み代える。
 残りの短い時間で、最後の最後のつめをする。
 手に入れられなかったオリンピックの代わりになるものを得るため、最後の最後まで石川
はもがき続けていた。
238 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:20
 会場では、イモイモ・アベナチーの演技が終り、採点のコールがされていた。
 テクニカルメリットが5.0〜5.3、プレゼンテーションは5.1〜5.4と、得点は伸びきらない。

 続いて舞台には、これが引退ゲームとなるコーユー・ワザカナーが上がって行く。
 自分の滑走順まで後二人となったりんねは、廊下の隅でジャンプの空中姿勢の確認をしている。
 りんねのあとに、鮎浜咲、石川と続く滑走順。
 体を動かさずにいられなかった。
 座ってストレッチなんかしていたら、何かに押しつぶされそうになる。
 重たい息をはきながら、何度も何度もジャンプを繰り返す。
239 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:22
 次の滑走者ヒッキーは、すでにリンクサイドで準備を終えていた。
 シューズを履き、出番に備える。
 終盤に入ったコーユー・ワザカナーの演技に目をやりながらも、頭の中にあるのは石川の
ことだった。
 自分に匹敵する力を持ったスケーターはこれまでにもいた。
 現にオリンピックでは鮎浜に敗れ、今の順位も鮎浜よりも下だ。
 今回のショートプログラムでは、ミスがあったとは言えりんねよりも下の得点になっている。
 でも、自分の力を完全に出しきれば、同等はありえても負けることはなかった。
 それが、自分の目の前で、自分には出来ない技を見せられた。
 初めて、自分に出来ない技が自分の目の前で演じられた。

 跳ばれたら、負けちゃうかなあ。

 コーユーワザカナーの演技が終わる。
 花束を拾う小間使いの少女達が次々にリンクへと入っていった。
 ヒッキーも、それに続きリンクへ。
 余計なこと考えてもしょうがない。
 そう思いなおし、石川のことを頭から外す。
 軽やかに、トリプルトーループを跳んだ。
240 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:23
 コーユーワザカナーは、三回転ジャンプ五種類のうち、ルッツジャンプで一度
転倒し、さらにもう一度試みて二回転に終わっている。
 そのせいもあり得点はテクニカルメリットが5.0〜5.5、プレゼンテーションで
は5.3〜5.6で、この時点でトップには立ったが、さらに上位に出るには苦しい得
点だった。
 優勝争いは、残りの四人に絞られる。

 石川は、飯田との打ち合わせを終えた。
 入り口のドアをひくと、入ってこようとするワザカナーとぶつかりそうになり
一瞬立ち止まる。
241 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:24
 「ソーリー」

 一歩引いた石川の横を、ワザカナーが軽く右手を挙げそう言って通り抜けた。
 演技を終えたワザカナーの柔和な表情が目に入る。
 石川は、ドアのぶを持ったまま、控え室の中へ進んで行くワザカナーを見ていた。
 先に演技を終えていたイモイモ・アベナチーと笑顔で握手をかわすワザカナーを確認して、
石川は部屋を出た。

 おつかれさまです。

 誰にともなく、石川は小声でそうつぶやいた。
242 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:27
 氷の上ではヒッキーの演技が繰り広げられていた。
 ここまでの二人とはレベルが違う。
 会場全体を引きこんで行く。

 「すごい」

 加護がつぶやく。
 ボキャブラリーの少ない中学生からこぼれる言葉はストレートなものだけど、ヒッキーの
演技をこれ以上的確に表したものもなかった。

 あさみは、ヒッキーの演技を見ながら唇をかむ。
 ストレートラインシークエンスからトリプルフリップ。
 迫力があり、かつ、華麗な技。
 いつか自分も。
 体がうづく。
243 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:29
 リンクサイドにりんねが出て来た。
 ヒッキーの姿を見ながら、リンク入り口に向かう。
 りんねに一番近い所で、ヒッキーがダブルアクセルを跳んだ。
 表情を代えることなくりんねは、リンク入り口に座り、スケートシューズを履く。
 両足の靴紐を強く強く結んだ。
 立ち上がる。

 ヒッキーの演技は、もう締めに入っていた。
 デスドロップからスピンへ。
 ビールマンスピン、レイバックスピンを経て、スクラッチスピンへ。
 スピンのシークエンスで演技を締める。
 途中のミスは、トリプルループが二回転になった一箇所だけ。
 完璧とはいかなかったものの、ミスの印象を消し去るほどのインパクトを持った演技だった。
 スピンを終え、ヒッキーの演技が終わると、会場が沸きあがった。
244 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:30
 花束が次々と投げ込まれるリンクの中央で、ヒッキーは両手を上げて観客に答える。
 満足のいく演技だった。
 女王の貫禄を背負いながら、四方の観客に向かって優雅に頭を下げる。
 そんな、ヒッキーの舞台の中に、りんねが入っていった。
 拍手を受けているヒッキーを尻目に、軽くダブルアクセルを跳んだ。

 リンク入り口近い位置でストレッチをしている石川の耳には、観客達の拍手や歓声が聞こえ
て来る。
 目を瞑って太ももやふくらはぎを伸ばす。
 ヒッキーへの観客達の賛辞が、どこかよそ事のように感じていた。
 石川の出番までは、あと十分あまり。
245 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:33
 花束を抱えたヒッキーはリンクから上がりKiss&Cryへと向かった。

 リンクの上から小間使いの少女達も次々と下がって行く。
 舞台の準備が整い始めていた。

 ヒッキーの採点がコールされる。

 テクニカルメリット
 5.8 5.9 5.9 5.8 5.8 5.8 5.7 5.8 5.8 5.9

 プレゼンテーション
 5.9 5.9 5.9 5.8 5.9 5.8 5.8 5.9 5.9 5.9

 順位
 1  1  1  1  1  1  1  1  1

 プレゼンテーションでは7人の5.9を並べて、圧倒的な強さを示しヒッキーがトップに
立った。
246 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/13(土) 00:34
 舞台の主役が、りんねへと交代する。

 「ナンバートゥエンティートゥー リンネ、トダ、ジャパン!」

 会場でコールされたりんねは、舞台の中央へと向かった。
 観客達の拍手で迎えられたりんね。
 リンク中央をゆっくりと旋回すると、やがて動きを止める。
 演技が始まる直前、一瞬の静寂が訪れた。

 リンクの上はいつでも広い。
 たった一人、りんねだけが氷の上に立っている。
 りんね一人のために、今この氷の舞台がある。

 長かったシーズンが、これで終わるんだ。

 自分の力で滑ろう。
 自分の力を信じよう。

 リンク中央、胸に手を当ててそんなことを思った。

 曲は、ラフマニノフのピアノコンツェルト二番ハ単調Op18
 自分の半生を重ねて演じる。
 独奏ピアノの静かな和音でりんねのシーズン最後の演技が始まった。
247 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:26
 りんねの選んだこの曲が生まれるまでには秘話があった。
 曲の完成から遡ること四年。
 ラフマニノフは、交響曲第一番と言う曲を生み出していた。
 この曲が、彼に、人生初めての挫折を味あわせることになる。
248 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:27
 軽やかなステップを刻んだ後、りんねは最初のコンビネーションジャンプを成功させた。
 トリプルループ-トリプルループのコンビネーションは、これまでのどの演技者のコンビ
ネーションよりも難度の高い組み合わせ。
 着地を決めたりんねの表情は自信に満ち溢れている。
249 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:28
 廊下の片隅に石川は座っていた。
 軽いストレッチをしながら頭の中に自分の跳ぶ姿を思い描いている。
 氷の舞台からはまだ、遠い。
250 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:28
 ラフマニノフの交響曲第一番は、サンクトペテルブルグにて行なわれた初演で酷評を浴びた。
 それまで紅い絨毯の上を歩くような人生だった彼へ、手のひらを返したように音楽会の権威者
やマスコミからの批判が浴びせられる。
 ラフマニノフは、作曲の筆をおいた。
 活動の気力を失っていった。
251 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:29
 弦楽器のユニゾンが奏でるゆったりとしたテンポの旋律の上をりんねが歩いて行く。
 そのままのテンポで入ったセカンドジャンプ、トリプルフリップが、踏み切りのキッカケ
をつかみそこねただの一回転ジャンプになった。
 会場からはため息がこぼれる。
 りんねは、表情を変えることなく滑り続けた。
252 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:29
 一階席中央に座るあさみも、表情を変えることなくりんねへ視線を当て続ける。
 ファンでもあり、目指す先の姿でもあり。
 そんなりんねの姿を、ただじっと見つめている。
253 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:30
 ラフマニノフは、やがて心身ともに喪失し神経症にかかっていく。
 ノイローゼ状態が限界に近づいた彼は、一人の医師を頼った。
 その医師の元で治療を受け、催眠療法を受ける。
254 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:30
 曲は中盤に入ってくる。
 失敗の後、心配された三つ目のジャンプにあたるトリプルサルコウを難なく決めると、
そのままリンクの端まで滑って行き構える。
 見せ所のストレートラインステップシークエンス。
 リンク中央を進んで行くりんねの滑りは、観客の笑顔と拍手をさそう。
 コミカルな味も加えた振りが、りんねの魅力をさらに引きたてている。
255 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:31
 リンクに近い席で加護は言葉もなくりんねの演技を見つめていた。
 難しいことなんかわからない。
 トリプルアクセルがすごいのはわかるけど、細かい技術のことなんか分からない。
 だけど、世界のトップの滑りを目の当たりにして、加護も氷の世界に引きこまれていた。
 梨華ちゃんのライバルとか、日本人とか、好き嫌いの範疇を越えてりんねの世界に、もう
入っていた。
256 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:32
 催眠療法を受けたラフマニノフは、すこしづつ力を取り戻して行く。
 「あなたは満員の聴衆から拍手喝采を浴び、何度もステージから答礼することになる」
 医師の暗示は、信じるものを失っていた彼に、再びペンを取らせるまでの力を与えた。
 そうして生まれたのが、このピアノコンツェルト二番である。
257 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:33
 残り一分。
 テンポの速い独奏ピアノの音色が、りんねのステップを加速する。
 蝶が羽ばたくように大きなスパイラルでリンクを斜めに横切ると、デスドロップからスピンへ。
 女性のたおやかさをふんだんに表現したレイバックスピンが、会場の光を集めて輝く。
258 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:33
 スピンを終え、再び滑りだす。
 ここで、予定していたトリプルトーループを序盤に失敗したトリプルフリップへと変更した。
 着地までパーフェクトに決めて見せ、りんねに笑みが浮かぶ。
 演技中にプログラムを変更することで、五種類の三回転ジャンプをすべて決めてきた。
259 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:34
 残りは三十秒。
 最後の見せ場となるステップ。
 サーキュラーステップをリンク中央の審査員席の目の前から刻み始める。
 ステップに合わせた観衆達の拍手を受けながら、四分の三の円を描いたところで前を向き
踏み切る。
 豪快なダブルアクセル。
 さらに、もう半円を軽く滑りもう一度ダブルアクセル。
 跳べ、跳べ、跳ぶんだ! というジャンプの勢いが観客にまで伝わっていく。
 着地を決めたりんねは、無意識のうちに小さな握りこぶしを作っていた。
260 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:34
 ダブルアクセルを決めたそのままのリズムでリンク中央へ。
 フィニッシュとなるスクラッチスピン。
 回転するごとに徐々に速度の上がるそのスピンは、回転するごとに拍手も大きくなってい
く。
 やがて、曲とともにりんねの動きが止まり、演技が終わる。
 動きを止めた一瞬後に、りんねは大きく息をはき両手を胸に当てて前屈みになってから顔
を上げた。
 観客達が、一人、また一人とゆっくりと立ち上がっていく。
 その波が会場に広がっていき、拍手の音が響き渡る。
261 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:35
 リンク中央のりんねは、観客達の拍手に大きく両手を振って答えていた。
 会場のそれぞれ四方向に、膝を折り頭を下げてから頭の上で両手を振る。
 今日は涙はない。
 笑顔に包まれたりんねは、自分のために会場から次々と投げいられる花束を拾いながら、
Kiss&Cryに引き上げて行く。
 拍手は鳴りやまなかった。
262 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:35
 リンクの片隅で、石川も拍手を送った。
 りんねの演技の終盤になって石川はジャージを羽織ったまま廊下からリンクへと出てきて
いた。
 あんなステップが自分にも出来たらなあ、と冷静に思う。
 りんねがリンクから引き上げるのを見て、自分も一旦廊下へと消えていった。
263 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/16(火) 22:36
 客席のあさみは立ち上がり、りんねに拍手を送っていたが、会場の中ではいち早く席につ
いていた。
 松葉杖を抱えながら、どうしても自分の右足のギブスに視線を送ってしまう。
 りんねはすごいという気持ち。
 自分もそこに立ちたいという気持ち。
 あいまぜになった感情が、胸のあたりをかきむしりたくなるような形であさみのなかに現
れていた。

 りんねの得点がコールされる。
264 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/18(木) 08:40
活字だけなのにりんねの演技に引き込まれる感じがする
265 名前:作者 投稿日:2003/09/19(金) 22:10
>>264
ありがとうございます。
そう言っていただけると大変うれしいです。
266 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:12
 テクニカルメリット
 5.5 5.6 5.6 5.6 5.8 5.7 5.5 5.7 5.7

 プレゼンテーション
 5.8 5.9 5.7 5.7 5.8 5.7 5.7 5.7 5.9

 順位
 2  2  2  2  2  2  2  2  2
267 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:13
 鮎浜、石川の二人を残して現在二位。
 九人のジャッジの誰一人からもヒッキーの上の点はもらえなかったけれど、りんね
は笑顔だった。
 観衆達の拍手がまたも送られる。
 それに答えて、左手で花束を抱えたままりんねは、右手で大きく手を振っていた。

 りんねはKiss&Cryから離れ、田中コーチから自分のジャージだけ受け取るとリンク
サイドに残った。
 リンクには、二十三番目の滑走者、鮎浜咲が上がっている。
268 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:13
 控え室では、周りからちらちらと見られながら、その中心にヒッキーが座っていた。
 りんねの得点がコールされて、小さく一つ息をはく。
 演技の緊張から開放されても、まだ、張り詰めた空気の中にいた。

 石川は、自分の荷物が置いてある廊下の片隅にまた座り込む。
 白いスケートシューズを抱えて、こつんとそのかかとの部分をぶつけ合った。
 四分後、最後の滑走者としてリンクに上がる。
 密度が高く、重たい空気に覆われながら、石川も戦いはじめていた。
269 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:15
 リンクの上の鮎浜咲は存在感が濃い。
 誰よりも濃い存在感でカルメンを演じる。
 優勝を賭けた滑り。

 滑り出しから順調。
 コンビネーションジャンプも迫力十分。
 貫禄というものを背負ったような滑りで観客の目をひきつける。
 中盤、トリプルルッツが二回転になるミスが出たものの、その後もリズムを狂わせるこ
となく演技は続く。
270 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:16
 リンクサイドのりんねは、鮎浜の演技をじっと見つめ、ジャンプが、ステップが決ま
るごとに拍手を送っている。
 あれは自分にも出来る。
 あんな技術は自分にはないな。
 得点はどうだろう?
 頭の中にかすかにそんなことを浮かべるけれど、表情がかわることはない。

 鮎浜の演技が後半に差しかかる頃、石川もリンクサイドに姿を現した。
 チラッと、演技に目をやるとすぐに視線を外し、リンク入り口近くに歩いていき座
り込む。
 カルメンの楽曲を耳で聞きながら、スケートシューズへ足を通し、ゆっくりと紐を
結ぶ。
 両足の紐を結び終ると、両手でかるく太ももを叩き立ち上がった。

 観客を魅了した鮎浜の演技も終盤を迎える。
 ステップからデスドロップそしてビールマンスピンへ、さらに軸足を代えての
ビールマンスピン。
 世界で彼女しか出来ない、軸足を代えての連続スピンは最大の見せ所。
 そこから軽くステップを刻み、カルメンさながらに、鮎浜自身が二回両手を鳴ら
して演技が終わった。
271 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:17
 鮎浜の演技が終わると、リンク入り口にいた石川の肩が叩かれる。
 石川が振り向くと、そこには飯田がいた。
 石川は自分のジャージを脱ぎ飯田に預ける。
 飯田は何も言わずに受け取った。
 鮎浜への花束が次々に投げ込まれているリンクへ、石川が入っていった。

 リンクサイドのりんねは、演技を終えた鮎浜に拍手を送っていた。
 厳しいかなあ? などと思いつつも拍手を送る。
 得点の予想をしようとして、自分の点がはっきり思い出せずにやめた。
 そんなことを思いながら鮎浜を見つめていたりんねは、すぐそばのカメラが自分を映して
いるのに気づき、笑顔を浮かべながら右手を軽く振った。
272 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:17
 鮎浜がリンクから下がって行く。
 舞台の主役が石川へと移る。
 氷の上に残っている花束を、小間使いの少女達が次々と拾って行く中を、石川はゆったり
と滑りながら、軽く半回転のジャンプを、踏み切りと着地だけ三回転のイメージで跳んだ。
 一度、一秒ほどの間目を瞑り、リンク中央へと向かう。
 そこから会場全体を見回すと、リンクサイドの飯田の元へと戻ってきた。
273 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:18
 「先生」
 「うん」
 「私跳びます」
 「うん」

 リンクサイド、会場中が鮎浜の採点を待つさなか、石川と飯田だけが別の世界にいる。
 誰の目も向けられない中で、最後の打ち合わせを行なう。

 「なんとか言ってくださいよ」

 そう言って石川は、ごく自然に微笑んだ。

 「石川。なんかさあ、もう、ここに立ってるだけで、すごい、もう満足な気分なんだ」

 飯田は、会場を見渡した。
 空席の無いその会場は、二万の人で埋まっている。
 石川梨華へと向けた旗や横断幕もそこかしこに見られた。
274 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:20
 「私、石川のコーチやっててよかったよ」

 飯田は、石川の方へと視線を戻し、目が合うと笑みを見せた。

 「まさか、最後の最後、アップの最中にアクセル跳んじゃうとはなあ」
 「私もびっくりしましたよ」

 会場では、鮎浜の得点がコールされていた。

 テクニカルメリット
 5.7 5.7 5.8 5.8 5.9 5.7 5.6 5.7 5.9

 石川と飯田の二人の耳には、そのコールはほとんど届いていない。
275 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:20
 「好きなように滑っておいで。トリプルアクセルの石川梨華。ジャンプだけじゃない
石川梨華。全部見せておいで。みんな見てるから」
 「はい」

 鮎浜の得点のコールが続く。

 プレゼンテーション
 5.7 5.8 5.8 5.9 5.9 5.8 5.7 5.8 5.8

 順位
 2  2  2  1  1  2  2  2  2  2

 鮎浜はフリーで二位、総合でもヒッキーの下になり現在二位。
276 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/19(金) 22:21
 「ナンバー、トゥエンティーフォー リカ、イシカワ、ジャパン!」

 ここまでのフリーは、一位がヒッキー、二位に鮎浜、三位にりんね。
 石川は、フリーでトップに立てば、逆転で総合優勝となる。
 メダル圏内に届くには、りんねより上の得点が必要とされる。

 石川は、自分の名前がコールされ、息を一つはいた。

 「先生」
 「ん?」
 「私も、先生の生徒でよかったと思ってます。でも、まだ、ここにいるだけじゃ、満足じゃ
ないんです」

 それだけ言うと、手のひらに人の文字を三回書き飲み込むおまじないをし、リンク中央へと
向かった。
277 名前:みっくす 投稿日:2003/09/19(金) 22:26
更新おつかれさまです。
ずっと読ませていただいていましたが、
はじめてレスします。
なんかリアルタイムで読んじゃったみたいです。
梨華ちゃん優勝に向かって頑張れ〜〜。
278 名前:ななしのよっすぃ〜 投稿日:2003/09/20(土) 21:09
みやさん、更新お疲れ様です。
ジャンプ・プレゼンテーション。本人の石川さんの魅せる最高の氷上の舞姫を期待して、石川さんの演技を静かに見守ってます。
では、次回更新も楽しみに待ってます!
279 名前:作者 投稿日:2003/09/22(月) 22:10
>>みっくすさん
リアルタイムだー。
もうしばらくお付き合いください。

>>ななしのよっすぃ〜さん
いつもどうもです。
石川さんの演技を、しっかりと感じとって下さい。
280 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:13
 両手を広げ、リンクを照らす光をすべて受け止めながら舞台の中心に石川は立った。
 会場から市井と加護が見つめる。
 観客席も、最終滑走者を受け入れる氷つくような緊迫感が張り詰める。
 加護でさえも、言葉を発することなく、手のひらにじんわりと汗をかきながら、じっと視
線をリンクに落としていた。

 あさみと里田も観客席に座っていた。
 りんねのメダルが掛かった、最終滑走者石川の滑り。
 梨華ちゃんのパーフェクトな滑りはどれだけすごいんだろう?
 そんなことをあさみは思いながら、リンクサイドに衣装のまま立つりんねの方へと目を
やった。
281 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:13
 りんねは静かだった。
 もう、結果はりんねの手を離れている。
 彼女自身は、もはやどうすることも出来ない。
 このまま終われば三位、石川が上にいけば四位。
 また四位かもしれないな、と思いながらも、トリプルアクセル見たいなあ、とのんきに
思う部分もある。
 りんねは穏やかだった。

 ヒッキーは、控え室でモニターを見ていた。
 最終滑走者の演技に、自分の優勝がかかっている。
 アクセルを跳ばれたらやばい、と思う競技者としてのヒッキーと、トリプルアクセルを
見たい、という観客としてのヒッキーがそこに同居している。
 自分の周りを包む重めな空気に、また、一つ息をはいた。
282 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:14
 リンクサイドの飯田は、ただただ、石川が笑顔で帰ってきてくれることを願っていた。
 自分がトリプルアクセルを跳んでから十年。
 後に続いた者はいない。
 競技者としての自分に満足を感じ、引退してから八年が経っていた。
 石川のコーチになってからは六年経つ。
 中学に入りたての、まだ完全に子供だった石川を、初めての生徒として見てから六年経つ。
 石川が出会って最初に言ったのが、トリプルアクセルが跳びたい、ということだった。

 おまえ、よく頑張ったよ。今日までずっと。

 スケーターとしての完成は、まだ遠い。
 これからも、ずっと自分の生徒として石川を見ていたい。
 そんな中の、通過点の一日として、今日、石川の笑顔が見たかった。
283 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:15
 世界選手権、女子フリー、最終滑走者石川梨華の演技。
 ベートーベンのムーンライトソナタ。
 注目のトリプルアクセルは、プログラム二つ目のジャンプに織り込まれている。
 出だしのポーズを取った石川の元へ、曲が降りてきた。
284 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:17
 ゆったりとしたピアノ音の中、石川が舞踊る。
 柔らかな手足の振り付けが、リンクの上の空気を揺らす。
 静かな静かな出だし。
 月明かりの優しい光を、石川の表現力があますことなく映し出す。

 長い助走を取った。
 リンクの隅まで滑って、後ろを向く。
 トリプルルッツ−トリプルトーループのコンビネーションジャンプ。
 ジャンプの着地までも優雅さを示した石川に、会場から大きな拍手と期待が寄せられる。

 次は、トリプルアクセル。
285 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:18
 滑っている石川の心拍数も上がっていた。
 会場で見守る市井や加護も、控え室のヒッキーも、リンクサイドのりんねも、コーチの
飯田も、みな、心拍数が上がっていた。
 リンク全体が息を飲む。
 会場全体が息を飲む。
 すべての人が期待して待つ、石川梨華のトリプルアクセル。
286 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:20
 間の振り付けもおざなりにすることなく石川の演技は進行する。
 息を潜めて見守る観衆の前で、アクセルの助走に入る。

 跳べる。

 自分に言い聞かせた。
 頭の中にこだまする声。

 跳びたい。

 石川の想いの結晶。
 愛するフィギュアスケートの一つの結晶。
 トリプルアクセル。
287 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/22(月) 22:21
 後ろ向きに滑る石川が、両手を広げてタイミングを計る。
 左足のエッジを回転させて前向きに。
 やや左に体を傾かせ、円を描き回転のための遠心力を稼ぐように滑りながら、ひざを小さ
く折ると、右足を引いた。
 両手も一旦下ろす。
 そこから、両手の反動、右足の反動をつけて、左足で氷を蹴り、跳びあがった。
288 名前:みっくす 投稿日:2003/09/23(火) 07:50
更新お疲れ様です。
いやー、こっちまで手のひらにじんわりと汗をかきながら、
心拍数が上がるかんじです。
どういう決着になるのかな?
289 名前:名無しくん 投稿日:2003/09/23(火) 13:47
あぁぁぁ!終に・・・
期待しつつ更新お待ちしております!
このスレが今一番楽しみです!がんばってください
290 名前:M.ANZAI 投稿日:2003/09/25(木) 13:27

いよいよ…。

久々に書き込みいたします。
楽しみに読ませてもらってます。
291 名前:作者 投稿日:2003/09/28(日) 20:04
>みっくすさん
心拍数上がりっぱなしで、決着を見守っていてください。

>名無しくんさん
そう言ってもらえるととてもうれしいです。

>M.ANZAIさん
本当にお久しぶりです。今後もよろしくお願いします。

さて、世界選手権の決着です。


292 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:06
 高かった。
 高いジャンプだった。
 今までの石川のどのジャンプよりも高かった。
 高く、力強く、美しい空中姿勢。
 会場中の祈りを受けて跳んだ石川のトリプルアクセル。
 高さも回転も十分だった。
 ジャンプの美しさまでも兼ね備えていた。
 下りてくる。
 左足を後ろに伸ばし、右足を地に着く。
 ほとんど完璧だった。
 しかし、着地が、着地だけが決まらなかった。
293 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:06
 高く、回転速度の速いジャンプの空中姿勢を最後まで保ち切る力が、まだ足りなかった。
 氷に下りる直前には、弾き飛ばされるように体が外にかしぐ。
 自分の体重と、高さの重みと、外への遠心力を、石川の右足一本では支えきれなかった。
 石川梨華は転倒した。
294 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:07
 倒れこんだ石川の姿がリンクの上にある。
 アイスアリーナは、すべての人のため息で覆われた。

 飯田は、石川から一瞬視線を外し、自分の足元を見ると、すぐに顔を上げた。
 リンクのバーにつかまって演技を見ていたりんねは、大きく息をはくと、バーに両手を乗せ
前のめりになりその上に顔を乗せた。
 加護は、あー、と声を上げ、石川を見つめ続けている。
 その隣の市井は、天を仰いでいた。
 あさみは、石川の転倒を見て、腕に抱えた松葉杖を強く握り締めている。
 里田は、ため息をはき、そのままリンクを見つめていた。
 ヒッキーは控え室で、椅子に深く座りなおし、隣においていたタオルで両手のひらを拭いた。
 石川は、すぐに立ち上がる。
295 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:08
 演技は終わらなかった。
 石川の演技は、トリプルアクセルで転倒しても、まだ続く。
 月光のプログラムは、四分かけて一セット。
 ジャンプだけの石川梨華ではない。

 流れるようなステップ、蝶の舞うスパイラル、リンクを一杯に使って石川のスケートは続く。
 たった一人で、すべての視線を受け止める。
 再びジャンプ。
 トリプルフリップは華麗なもの。
 先ほどの転倒のイメージは、観衆達の脳裏からすっと消えていく。
296 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:08
 音の転調、テンポが上がったピアノ音に合わせ、石川のステップが刻まれる。
 楽譜に乗せた音符と同じテンポで、石川の足が動く。
 会場からも、オーケストラの指揮者のように、石川のステップを先導する手拍子が送られ
ていた。

 テンポが戻る。
 柔らかな月の光に戻った。
 レイバックスピンをする石川の元へ、月光が降り注ぐ。

 ダブルアクセル、トリプルループ、トリプルサルコー、ジャンプを次々と跳ぶ。
 石川の舞は、すべてを引込んでいく。
297 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:09
 演技終盤、最後のジャンプとなるトリプルルッツを跳んだ石川は、表情が急激に和らいだ。
 張り詰めた緊張感から開放される。
 残り十五秒、最後の静けさが覆うリンクの上で、石川は微笑を浮かべながら情緒豊かな演
技を見せた。
 締めくくりのスクラッチスピン。
 徐々に回転幅が狭まり、速度が上がっていくと、それにつれて会場からの拍手も大きくな
っていく。
 一本の光の束が最大限の速度を見せて回転するながで、ムーンライトソナタの曲が止まる。
 同時に、石川も回転を止めフィニッシュを決めた。
298 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:11
 会場から万雷の拍手が降り注ぎ、観衆はスタンディングオベーションで石川の演技を讃える。
 トリプルアクセルが決まらなくても、石川梨華の演技は、観衆を立ち上がらせるものだった。
 市井や加護は当然として、あさみ、里田までもその中にいる。
 会場の光を受けた石川のムーンライトソナタは、観客達の中に確かに伝わっていた。

 リンクに花が投げ込まれる。
 その投げ込まれる花の中心には、一番大きな華が咲いていた。
 喜色満面の笑みを石川は浮かべている。
 会場のあちこちに向かって、両手を広げ大きく振る石川に浮かんだ笑みは、一点の曇りも
無く、嘘偽りの無いチャーミースマイルだった。
299 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:11
 「すごい! 梨華ちゃんすごい!」
 「うん。すごいね」

 拍手をしながら加護と市井は言葉を交わす。

 「亜依ちゃん。亜依ちゃん。花束。花束」
 「あっ、忘れとった。行って来る」

 演技に入り込んで、花束をリンクに投げ込むのを忘れていた加護が、慌てて階段を下りて
いった。

 リンクサイドにいるりんねは、石川の演技が終わると観客達と同じように拍手をしていた。
 ひがみもねたみも不安もなく、素直な心地だった。
 勝ったか負けたかはわからない。
 でも、自分には出来ないいい演技だと思った。
 もっとも、自分の演技を石川が出来るとも思っていない。

 控え室のヒッキーは、石川の演技が終わると大きく息をはき天井を見つめた。
 優勝は、まだ、確信出来ない。
 採点を待つ時間が、やけに長く感じられた。
 心臓の鼓動は高鳴る。
300 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:12
 Kiss&Cryで飯田は石川が戻るのを待つ。
 飯田も笑顔だった。
 アイスロボットなどと言われ、表情が無いスケーターと言われていた昔のことが嘘のよう
に、飯田はやわらかい笑顔で石川を待っていた。

 石川は、花束を自分で拾い集めながらリンクサイドへと向かってくる。
 ファンに呼び止められ、差し出された色紙に次々とサインをしながら帰ってくる。
 そんな石川を、係員が早く戻るようにと促す。
 自分の前に集まるファン達に、笑顔で手を振りながら、石川はようやくKiss&Cryに戻って
きた。
301 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:13
 「満足した?」

 飯田が石川に問いかける。
 石川は、小間使いの少女から渡された大量の花束の一部を飯田に渡しながら答えた。

 「アクセル、下りれませんでした」

 そう答える石川は、それでも笑顔だった。

 「でも、やってよかったな」
 「はい」

 飯田は、石川の頭に手を乗せる。
 石川は、飯田の方を見て微笑んだ。


 会場に石川の採点がコールされる。
302 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:14
 テクニカルメリット
 5.6 5.7 5.7 5.6 5.5 5.8 5.7 5.8 5.7

 プレゼンテーション
 5.6 5.8 5.7 5.8 5.6 5.8 5.7 5.8 5.6

 順位
 4  3  3  3  4  3  3  3  4

 最終滑走者である石川の採点が終り、最終順位が確定した。
303 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:14
 1位 ヒッキーウタダ       (0.4 1.8 1.0)  3.2
 2位 鮎浜咲           (0.8 0.6 2.0)  3.4
 3位 石川梨華         (0.4 2.4 3.0)  5.8
 4位 戸田鈴音         (1.2 1.2 4.0)  6.4
 5位 コーユー・ワザカナー  (0.8 3.0 5.0)  8.8
 6位 イモイモ・アベナチー  (1.2 3.6 6.0)  10.8

 結果的に、フリーの順位がそのまま最終成績に反映された。
304 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:15
 Kiss&Cryに座る石川は、自分の採点がコールされ、電光掲示板に順位が示されたのを見て
顔を覆った。
 そのまま、何も言葉が出て来ない。
 隣に座る飯田コーチが、何も言わずに石川の肩を抱き、頭をぽんぽんと二度軽く叩いた。
 石川は、そのまま飯田の胸に抱かれる。
 石川を抱きとめる飯田も、涙を頬につたらせていた。
305 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:15
 リンクサイドにいたりんねは、石川の得点と最終順位を確認すると、表情を変えずにそ
の場を立ち去った。
 控え室に続く通路をゆっくりと歩く。
 石川の元へ向かう何人かの記者とすれ違った。
 りんねを追い越して、何人かの外国人記者がヒッキーのいる控え室へと向かっていった。

 りんねが控え室に入ると、ヒッキーと鮎浜が記者達に囲まれた中で握手をかわしていた。
 その姿をちらっと横目で見て、すぐに自分の荷物の方へ向かう。
 りんねの姿に気づいたヒッキーが、記者達をかき分け歩み寄ってきた。
306 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:16
 「コングラッチュレーションヒッキー」

 日本語発音の英語で、目の前に現れたヒッキーを祝福する。
 テンションが高く満面の笑みを見せるヒッキーの前で、りんねも笑顔を見せた。
 ヒッキーは、サンキューと一言言ってから右手を差し出した。

 「四位入賞おめでとう、でいいのかな?」

 ヒッキーの言葉に、りんねは驚きの表情を見せる。

 「日本語しゃべれるんだ、私」
 「あ、ありがとう」
 「りんねのステップすごくいいね。明日楽しみにしてるよ」
 「ありがとう。優勝おめでとう」

 明日は、世界選手権最終日、上位成績者によるすべてを締めくくるエキシビジョンがある。
 りんねはしっかりとヒッキーの手を握った。
 その姿を、たくさんのカメラが収めていた。
307 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:16
 控え室に石川が戻ってきた。
 頬を涙でぬらし、多くの記者に囲まれたまま戻ってきた。

 「おめでとう」

 控え室の入り口近くまで石川を向かえたのはヒッキーだった。

 「優勝おめでとう」

 石川もヒッキーへ一段階上の祝福をする。

 「惜しかったね、アクセル」
 「うん。次は、跳ぶ」

 石川は鼻をすする。
 ヒッキーが手に持っていたタオルを石川に渡した。
308 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:17
 「アクセル跳ばれてたら負けてたかな?」

 満面の笑みを浮かべるヒッキーに対し、タオルを目に当てながら石川が答えた。

 「跳んでも負けてたよ多分。セカンドマークが届いてないもん」

 二つ目にコールされることからセカンドマークと呼ばれるプレゼンテーションの得点。
 石川は、このプレゼンテーションが5.6〜5.8と、ヒッキーの5.8〜5.9と比べて落ちる。
 トリプルアクセルを跳んで、テクニカルメリットでヒッキーを上回っていたとしても、
まだ、届かない。
 薄くはなったけれど、まだ確実に、ヒッキーや鮎浜と石川の間には壁があった。
309 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:17
 「三位おめでとう」

 改めてヒッキーがそう言って右手を差しだす。
 石川も顔からタオルを外し、ヒッキーの右手に合わせた。

 「化粧が、化粧が崩れちゃうよー」

 二人の周りにカメラが集まっている。
 涙を浮かべたままの石川の、女の子らしいこの言葉に、カメラマン達の間にも笑いがおこ
っていた。

 控え室では、メダリスト三人それぞれの周りでフラッシュが焚かれている。
 そこへ、大会の役員がやってきて、ヒッキー、鮎浜、石川に対しリンクの上での表彰式が
始まることを告げた。
 三人が出て行く。
 それについてカメラマン達も出ていった。
310 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:19
 控え室はすっかり静けさを取り戻した。
 報道関係者は姿を消し、数人の選手がいるのみである。
 部屋に残されたりんねは閉じられたドアの方をちらりと見て、小さなため息をついた。
 自分のロッカーに向かいタオルと着替えをとりだす。
 エアコンのモーター音が部屋に響いていた。
 りんねは、誰もいない奥のシャワールームへと消えて行く。

 シーズン最後の世界選手権が幕をとじる。
 氷上の舞姫達の季節が終わろうとしていた。
311 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/09/28(日) 20:20


*********************************
312 名前:作者 投稿日:2003/09/28(日) 20:21
世界選手権はここまでです。
今日の更新も、当然ここまでです。
313 名前:作者 投稿日:2003/09/28(日) 20:22
残り4〜5回の更新で完結を迎える予定でいます。
もうしばらくお付き合いください。
314 名前:名無しくん 投稿日:2003/09/28(日) 20:42
更新お疲れです!
後、4〜5回で完結ですか・・
寂しいですが、がんばってください
315 名前:みっくす 投稿日:2003/09/28(日) 23:02
更新おつかれさまです。
えきしびじょんもきたいしてます。
316 名前:作者 投稿日:2003/10/02(木) 22:37
>名無しくんさん
もう少しだけお付き合いください

>みっくすさん
エキシビジョンは(ry
317 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:37
 世界選手権は、最終日のエキシビジョンをもって、すべてのプログラムが終わった。
 試合の緊張から解き放たれた、大会の上位選手だけで行なわれるエキシビジョンは、参加
するだけで名誉なことであり、ファンからの人気も高い。
 りんねはアルゼンチンの英雄を描いた曲、エビータを情熱的に演じ、石川は普段なら絶対
選ばないような曲をあえてということで、tATuの All the things she said を選んだ。
 優勝したヒッキーが、NEVER WALK ALONE でテロの悲しみを語り、平和への祈りをささげ
て世界選手権の幕が閉じられた。
318 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:38
 エキシビジョンの翌日に北海道へ戻ったりんねは、そのさらに翌日に、ロッジへ向かった。
 花と、チーズと、茹でたジャガイモを持って。
 ようやく春が近づいて来たこの時期は、雪が少しづつ溶け初め、小さな川を作りせせらい
でいる。
 凍りついた雪をじゃりじゃりと踏みしめて、丘を上がってきたりんねは、ロッジのドアを
開けた。

 暖炉に火を焚き、花を差し換え、部屋にたまったホコリを雑巾でふき取る。
 焚いた火でロッジがようやく温まった頃、カバンからタッパーを取りだした。
 塩を軽く振って、茹でジャガイモを口にする。
 りんねは、写真をじっと見つめたまま何も言わなかった。
319 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:38
 一つ目のジャガイモを食べ終えて立ち上がる。
 南側の窓辺に立ち、冬の終りの景色を眺めていた。
 どれくらいの時間が経ったろうか、やがて枯れ木の中から一匹の狐があらわれた。
 りんねと狐は視線を合わせる。
 狐は小首をかしげてから窓際に近づいてきた。
 テーブルにおいてあったチーズを取り、りんねはドアを明け外へ出た。

 「元気だったか? ビット。久しぶりだなあ」

 狐の前にかがみこむ。
 両手のひらを合わせ、その上にチーズを乗せて狐の前に差し出す。
 狐は、また小首をかしげてからりんねの持って来たチーズにぱくついた。
320 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:39
 「おいしいか? そうか。もう、おまえにチーズ上げたりも出来なくなるからなあ」

 雪の上にチーズを置き、少しづつくわえていく。
 そんなビットの姿を見て、りんねの顔も自然にほころんだ。

 「元気でいるんだぞ」

 りんねが右手を伸ばしビットの頭をなでる。
 やさしく、やさしく、ビットの頭をなでる。
 初めて、りんねはビットに触れることが出来た。
321 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:40
 「ビットー! もー、長いことずっとお前に触りたかったんだぞー! 最後の最後にやっ
とだよ。おまえも、りんねさんと別れるのが悲しいか? 悲しいのか? そっかー。そうな
のかあ」

 調子にのってりんねが両手で抱きしめようとすると、ビットは後ずさりして、りんねとの
距離をとる。

 「もう、最後くらい抱かせろよ」

 そう言って、りんねはさらに体勢を低くしビットと目の高さをあわせる。
 りんねがビットの顔をのぞきこむと、ビットはりんねではなく、その背中の方を見つめて
いた。
 りんねは、振りかえりその視線の先を見る。
 そこには、あさみが立っていた。
322 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:40
 「よっ! この子がビット?」

 あさみは、右手を上げてそう言うとりんねの方へと歩み寄ってきた。

 「知ってるの? 話したっけ?」
 「三人がさ、話してるの聞いてたから。それで、一度来てみたかったんだよね、ここ」

 一心不乱にチーズをかじるビットの前にあさみもかがみ込む。
 あさみが、右手を伸ばしビットに触れようとすると、いつものようにビットは体を震わせ、
さっとよけてしまった。

 「ホントに触らせてくれないんだ」
 「でもね、さっき触らせてくれたんだよ」
 「ホントに? いいなあ」
323 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:41
 りんねが持っているチーズをあさみが一つもらい、ビットに上げてみる。
 少し大きめな塊を右手のひらに乗せてビットの方へと向けるが、ビットは一度顔を上げて
そちらを見るだけで、あさみの方に近づくことはなかった。
 ふてくされたような顔をして、あさみはそのチーズを自分で食べた。

 「足はもう大分いいの?」
 「うん。次に行く時にギブス取れるって言われた。」
 「そっか」

 ビットをめでつづけるりんねの横で、あさみは立ち上がる。
 チーズを食べているビットと、優しい顔で見つめるりんねの間を、春の風が吹き抜けて
いった。
 ビットはチーズを食べ終えると、二人を交互に見てから背中を向けて去って行く。
324 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:41
 「ばいばい、ビット」

 ビットは、ちょこっと二人の方を振り返ると、また、すぐに前を向き森の中へと消えていった。

 「ビット、ばいばーい。元気でいろよー。ばいばーい」

 雪景色の中にビットが消えてしまっても、りんねはまだ両手を振り声を投げていた。

 「なんか、さあ、永遠の別れみたいに見えるんだけど」

 あさみがそういうと、りんねは森に向かって振っていた手を下ろし言った。
325 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:42
 「永遠のお別れかもしれない」

 あさみがりんねの横顔を見つめる。
 りんねは、高い位置にある枝の方を向いて一つため息をつくと、ロッジへと歩いて行った。
 ドアの前に立ちあさみの方を振り向く。
 松葉杖で危うい足取りをしながら自分の方へと歩んでくるあさみに向かって言う。

 「牧場、出ていこうと思ってる」

 あさみは立ち止まる。
 松葉杖を両脇に抱えたままりんねの方を見た。
 高くなってきた陽射しが二人の間を照らす。
 遠くで鳥の声がした。

 「そっか」

 そう言って、りんねの顔を見つめると、また歩き出した。
 あさみが、ドアの前まで近づくと、りんねはロッジの中へと入って行く。
 木のはじける音のする暖炉の前まで行き、火に手をかざした。
326 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:42
 あさみもロッジの中へと入る。
 さっきまでりんねが座っていた、テーブルからすこし離れて置かれている椅子に座った。
 目の前には写真が置かれていた。

 「なんとなく、なんとなくそんな気がしてた。そんな風になる気がしてた」

 背中を向けたままのりんねに、あさみは静かに言う。
 両手で目の前の写真立てを持ち、胸の前まで持ってきて見つめた。

 「ちょっとりんねの頭の中探ってみようかな、なんて思ってたんだよね。それで、足引き
ずってここまで来てみたらこれだもんなあ。まさか、もう決めてていますぐ、なんて思わな
かったよ」

 写真を見ながらあさみは話していた。
327 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:43
 「いつ・・・、いつ、決めたの?」

 声のトーンが落ちた。
 りんねが立ち上がる。
 あさみは、一瞬だけりんねの方を見て、すぐに視線を写真に戻した。
 りんねは、あさみの方を向くことなく、そのまま窓際に向かい、森の木々を見つめた。

 「帰りの飛行機かな。もっと、強くなりたいって、そう、思ったんだ」

 小鳥が窓の外へとやってくる。
 ビットの食べ残したチーズを囲みチュンチュンと鳴いている。

 「ここに来てもう、四年かな。いろんなことがあった。つらいことも悲しいこともたくさ
んあった。いっぱいいっぱい、たくさん、いろんなことが、ホントにたくさんあった」

 窓の外の森の向こう側にいろいろな景色が見える。
 いろいろな景色が、いろいろな時間が、たくさんの人が見える。
328 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:43
 「ここは、牧場は、すっごくいいところだよね」

 そう言ってりんねは、あさみの方へと振り向いた。
 あさみは、力なくうなづいた。

 「ここは日高の山奥で、冬なんか一杯雪が降って、だけど、それだけど、なんかすっごく
あったかいんだ」

 窓によりかかり、りんねはあさみを見つめる。
 はじけるような声を残して、窓の外では小鳥達が飛び去っていった。

 「だから、出ていこうと思う」

 暖炉の炭がはじける音がする。
 部屋の空気は静かで、それでいてあたたかかった。
 あさみはゆっくりと二度、三度まばたきをする。
 テーブルにひじをつき、両手を合わせてその上に額を乗せた。
 あさみの視界には、昔のりんね達が映るフォトスタンドが見えていた。
329 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:44
 「ここにさあ、もう一つ写真おいていいかな?」

 昔の三人を見つめながらあさみが言う。
 りんねがあさみを見つめ続けていると、あさみも顔を上げりんねの方を見て言った。

 「三人で写ってる写真。りんねと私とまいと。三人で写ってる写真」

 言ってから、またすぐに写真へと視線を落とす。
 りんねの立つ南側の窓から、日の光が差しこみテーブルの半面ほどを照らしていた。
 光の部分に、写真は置かれている。

 「うん。そうだね」

 りんねは小さな笑顔を見せた。
 あさみは、写真立てを手元に引き寄せ三人を見つめる。
330 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:44
 「スケートは」

 あさみは、これだけ言っていいよどむ。
 写真立てを置いた。
 テーブルに前のめりになっていた体を起こし、りんねを見つめた。

 「スケートは、続けるんだよね」

 視線が交錯する。
 二人とも目をそらさない。
 お互いを見つめたまま、りんねが答えた。

 「もっと滑りたい。もっとうまくなりたい。もっといい演技がしたい。だから、一人立ち
しようと思ってる。東京で、一人で頑張ってみようって、そう思ってる」

 そこまで答えると、あさみの方から視線を外し、大きなため息をはいて、天井を仰ぎ見た。
331 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:45
 「東京かあ。遠いね」
 「うん。遠い。遠くて、人が多くて、全然馴染みのない場所で。多分、あんまりあったく
ない場所。だから、そこで頑張ってみようかなって」

 あさみは、何度も何度もうなづいて、りんねの言葉を聞いた。

 「決めたんだ?」
 「うん」
 「もう、決めたんだ?」
 「うん」

 同じ質問に同じ答え。
 あさみは、テーブルに突っ伏した。
 静かな呼吸の音が、ロッジの中で聞こえる。

 「あさみ?」

 りんねがあさみと向かい合う位置にある椅子の前に立つ。
 テーブルに伏せたままあさみは言った。
332 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:46
 「別に泣いてるわけじゃないよ。うん。ただ、ちょっとね。おいてかれちゃったなあって」

 また、大きく息をはいて顔を上げた。
 りんねはしゃがみこみ、顔だけテーブルから出していて、二人の目線の高さがちょうど同
じになる。

 「卒業式しなきゃね」
 「卒業式?」
 「そう。卒業式。りんねの牧場からの卒業式」

 湿度の下がった部屋の中。
 今度はあさみが立ち上がった。
 もう、扱い慣れた松葉杖を支えに、窓際へと歩んで行く。

 「いつまでいる? 牧場に、いつまでならいる?」

 窓の外を見ながら聞いた。
333 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:46
 「まだ、先生にも言ってないからすぐってわけにはいかないけど、でも、来週の終りに
は出ていこうと思ってる。東京で部屋さがして、一人でやってみようって思ってる」

 今日は火曜日。
 りんねが牧場にいる時間は、あと十日ほどしかない。

 「十日じゃ、一緒には滑れないか。ギブス取れてもすぐは無理だもんなあ」

 視線が右足に行く。
 首を二回横に振ってから窓を開けた。

 「卒業式やろう。久しぶりに、みんなの前でさ。牧場のみんなや、村の人達集めて、
一緒に滑って、演技を見てもらってさ。それがりんねの卒業式」

 あさみはりんねの方へと振り向く。
 窓から入ってきた風が、あさみの髪をなびかせた。
334 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:47
 「そういえば、もうずいぶんやってないね」
 「前やったのは、一年半前かな? もう二シーズン前だよ。なんか久しぶりで楽しみだなー」
 「もうすっかりやる気なの?」
 「あたりまえだよー。最後くらい付き合え。失敗したら卒業させないぞ」
 「えーー」

 本当に困ったような顔を見せるりんねに、あさみは思わず笑い出した。
 それにつられりんねも笑顔を見せる。

 「りんねのジャガイモ頂戴」
 「うん」

 テーブルの隅に置いてあったタッパーにあさみが手を伸ばす。
335 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:47
 「今度はさ、私やまいがここ使っていいかな?」

 ジャガイモをかじり、写真に向かってあさみが問いかける。
 りんねは、タッパーを手元に引き寄せふたを閉めると言った。

 「私がダメって言ったら、つかわないの?」
 「ここは、りんね達の場所だから」

 りんね達の場所。
 あさみがまだ、りんね達になっていない頃のりんね達の場所。

 あさみが、ジャガイモ一つを食べ終えた頃、ようやくりんねが答えた。

 「このロッジは、私達の大切な場所だから。だから、使って。あさみと、まいとで」
 「うん」

 二人の視線がぶつかる。
 お互いに笑いあった。
336 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/02(木) 22:48
 「帰ろっか」

 りんねは立ち上がる。
 あさみは、りんねが持って来たポットのお茶を飲み干した。

 「もう、いいの?」
 「うん。帰ろ」

 りんねの荷物をしまい、二人はロッジを後にする。
 ドアの外へ出るとあさみは言った。

 「写真は置いてくの?」
 「うん」
 「お別れすんだんだ」
 「お別れはしない。ずっと忘れないし、ずっと一緒にいる。でも、もう、なるべく頼らない」

 りんねは、一歩だけロッジの中に入った。

 「バイバイ」

 部屋を見渡してから外へ出る。
 そして、扉を閉めた。
337 名前:みっくす 投稿日:2003/10/03(金) 03:43
う〜ん、ちょっと残念。
りんねちゃん、やっと気持ちの整理がついたみたいですね。
次回も楽しみにしてます。
338 名前:マナ 投稿日:2003/10/04(土) 09:15
お久しぶりです。
りんねさん、行っちゃうんですね…。
なんか寂しいです…。
次回更新も待ってます。
339 名前:作者 投稿日:2003/10/05(日) 22:39
>みっくすさん
今回は石川さんサイドになってます。

>マナさん
りんねさん、行っちゃうみたいですね。
寂しくてもしかたないんでしょう、きっと。
340 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:39
 石川にも旅立ちの時が近づいてきた。
 四月からは東京の大学へと進学する。
 飯田も、それに伴って上京し、コーチとしての活動の幅を広げていく。
 今のホームリンクで過ごす時間は、残り数日となっていた。
341 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:39
 「亜依ちゃん達には言ったの?」

 練習の終りに、飯田が石川に言う。
 汗を拭いていた石川は、飯田の方を向くと、首を横に二回振った。

 「何も言わずにいなくなるつもりかあ?」
 「そうじゃないですけど」

 石川は、メダルを取ったあの演技の後、取材に追われて加護や市井と会ってはいない。
 二人からは、おめでとうメールを受け取っただけだった。
342 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:40
 「市井さんはともかくさ、亜依ちゃんからしたら東京なんてちょっとやそっとじゃ行くこ
との出来ない世界の果てみたいなところなんだから、ちゃんとお別れ言って上げないと」
 「分かってます。分かってますよ。今度来た時にちゃんといいます」
 「いつ来るかわからないだろ」
 「来ますよ、そのうち」

 飯田はため息をつく。
 こういう時の石川は、どうにも信用出来ないでいた。
343 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:40
 翌日、加護が友達を連れてリンクにやってきた。

 「飯田先生、こんにちは」
 「はい、こんにちは」

 リンクで練習中の石川には、ちゃんと声を掛けたりはせず、飯田の方に挨拶に来た。

 「梨華ちゃん、すっと練習しとる?」
 「うーん、もうちょっとしたら休憩だけど」
 「あのな、ちゃんとおめでとう言いたいんよ」

 エンジェルブルーの青いセーターを着て、胸を張って加護はそう言った。

 「大丈夫。石川も亜依ちゃんとお話したいことあるから、練習終わったら待ってるから」
 「うん。わかった」

 加護はうなづいてフロントの方へと歩いていった。

 「二人とも、今日はうちが滑り方教えたるでー」

 そんな光景を飯田は微笑みながら見つめていた。
344 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:41
 リンクの上の石川は、ちょうどスピンの練習をしていた。
 世界選手権が終り、トリプルアクセルは一時封印。
 一夏トレーニングして筋力をつけてから再開ということにしている。
 今は、プロの選手達と混ざって世界を回る春先のツアーに向けて、魅せる演技の練習を積
んでいる。

 レイバックスピンやスクラッチスピンを練習開始時から調子よく決めていた。
 それが、加護が来たあたりから明らかに様子がおかしくなってくる。
 スピンの軸がずれて全体のバランスが崩れたり、回転速度が思うように上がって来ない。
 リンクサイドで飯田は思わず、「わかりやすいやつ」 と毒づいた。
345 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:42
 「石川!」

 右手で頭を抱えて、左手で手招きした。
 神妙な顔つきで石川は飯田の元へ戻ってくる。

 「もう、言うことないは。言っても無駄だから。とりあえず休憩」

 技術的にどうこうという問題ではないことはわかりきっていた。
 石川はリンクから上がってきて、ベンチで休む。

 「ほら」
 「すいません」

 飯田が500mlのペットボトルを石川に手渡す。
346 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:42
 「おまえ、ホント弱いな」
 「わかってますよそんなの」

 うなだれたまま石川は答えた。

 「大事なことは大事なこと。練習は練習。それくらいの切り替えなんで出来ないかなあ?」

 もう、言い返すことさえしなかった。
 リンクからは加護が手を振っている。
 飯田はそれに手を振って答えたが、石川は薄い笑みを浮かべるだけだった。
347 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:44
 石川は練習に戻る。
 後半はステップパート中心の練習。
 先ほどよりは大分まともに近づいていたが、それでも切れがあると呼ぶにはまだ大分遠い。
 結局、いまひとつなままこの日の練習は終わった。

 「冗談抜きで、もうちょっとしっかりしろよな」

 練習を終えリンクから上がった石川に飯田がこう言い放つ。
 石川は、返す言葉もなかった。

 「とりあえず着替えてこい」

 飯田に言われて、石川は軽く頭を下げて更衣室へと消えていった。
348 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:45
 石川の練習が終わったのを見て取った加護もリンクから上がってくる。

 「亜依ちゃんもう終り?」
 「ううん。もうちょっと滑るけど、梨華ちゃん終わったんやろ」
 「うん。今着替えてるよ」

 亜依ちゃん泣いちゃうかもなあ、なんて思いながら、加護の相手を飯田はしている。
 リンクの上の友達二人に、加護は手を振っていた。

 「二人もうまくなったねえ」
 「うちがな、梨華ちゃんに教わったのを、そのまま教えて上げたんよ」
 「そっかあ」

 加護と石川の最初の出逢いは、スケートを教えて上げたことだった。
 それがこの前の冬休みで、今は春休み。
 たった三ヶ月しか経っていないけど、大事な思い出が一杯詰まっている。
349 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:45
 「あっ、梨華ちゃん出て来た」

 更衣室から出て来た石川の元へ、加護がとことこと駆けていく。
 飯田は、ベンチに座ったまま見ていた。

 「梨華ちゃーん」
 「亜依ちゃん元気だね」
 「梨華ちゃん、銅メダルおめでとー」
 「ありがと」

 いつもなら、加護の頭をなでているようなところ。
 今日は、ただ微笑むだけだった。
350 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:46
 「トリプルアクセル、練習の時だったけど、すごかったやん」
 「なんか、跳べちゃった」
 「本番でも飛べてたら優勝しとったかもな」
 「そんなことないよ」

 加護の勢いと対称的に、石川はなんとなくな受け答えに終始している。

 「でも、すごいなー。世界で三番なんだよね梨華ちゃんって」
 「すごくないよ別に」
 「すごいよ。すごいよー。世界で三番なんだよ。梨華ちゃんよりすごい人二人しかいない
んだよ」

 石川は、ただただ微笑んでいた。

 「石川梨華さん。銅メダルおめでとうございます」
 「あ、ありがとうございます」

 改めて頭を下げあう二人。
 なにやってるんだか? と飯田は遠目に見つめている。
351 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:46
 「あ、あのさ、私、もうジム行かなくちゃいけないから」
 「そっかぁ。やっぱり大変なんやね」
 「そんなこともないけど」
 「じゃあ、頑張ってね。またね」

 加護は手を振りながらリンクへと戻っていった。
 それと入れ替わりに飯田が石川の方へと歩いてくる。

 「あんた、言ったの?」

 石川は黙ったまま答えない。

 「いしかわ・・・」

 それだけ言って、飯田は二の句がつけられない。

 「わかってます。わかってますよ。今度亜依ちゃん来た時に言いますよ」
 「昨日もそう言っただろ」
 「もう、ジム行かなきゃ」
 「石川!」

 逃げるように石川は出ていった。
 飯田は、右手で額を押さえ石川をただ見送ることしか出来なかった。
352 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:46
 その次の日、石川が練習を始める時間。
 加護がまたやってきた。
 今日は、一人で、血相を変えて。

 「梨華ちゃん!」

 明らかに怒っている。
 どこから見てもそれが分かる。
 加護に目の前に迫られた石川は、思わず一歩引いた。
353 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:47
 「梨華ちゃん! なんで言ってくれなかったん?」
 「な、なに? 何のこと?」
 「なんで、なんで東京に行くって教えてくれんかったん? なんで?」
 「ごめん」

 小声で石川は答える。
 目線は、足元に落ちていた。

 「昨日、市井先生が教えてくれた。梨華ちゃんが東京の大学に行くって。雑誌とか新聞に
載ってたって。だから、もうすぐ東京に行って、練習も全部そっちでやるって。なあ、ホン
トなん? 梨華ちゃん。嘘やろ? 嘘なんやろ?」

 涙目で必死に叫ぶ加護に、石川はちゃんと説明してやることなんか出来なかった。

 「ごめん」

 そう、一言返すのが精一杯だった。
354 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:48
 「もう、梨華ちゃんなんか嫌いや! 勝手にいなくなっちゃえ!」
 「亜依ちゃん! 亜依ちゃん!」

 加護は、石川に向かって思いっきり言葉を投げつけて出ていった。
 石川は、それを追いかけることも出来ず立ちつくしていた。

 ベンチに座って、飯田は一部始終を見ていた。
 ため息だけついて、足を組んだまま動かない。
 ジャージ姿で呆然としている石川の背中を見つめていた。
355 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:48
 石川は、とぼとぼと飯田の元へと歩いてくる。
 すぐ目の前まで来た石川を、飯田は見上げる。
 石川は何も言わない。
 先に言葉を発したのは飯田だった。

 「はじめよっか。アップしてきな」

 石川は黙ってうなづいた。

 この日の練習はさんざんだった。
 スピンもステップもジャンプも、まるで決まらない。
 魂の抜けた人形が、氷の上をうろついている、そんな様だった。
 飯田も、何を言っても無駄だと思っているから、ほとんど指示も出さない。
 実のない練習がやがて終わった。

 「おつかれ」
 「ありがとうございました」

 言葉すくなに石川は更衣室へと消えて行く。
 飯田は、何も言わなかった。
356 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:49
 石川の着替えを待つ間、飯田はリンクを眺めている。
 ここで飯田が過ごす時間も、石川と同じように残り少ない。
 大学の都合で石川のが先に上京するが、それでも飯田も四月中には東京に移る予定だ。
 飯田自身としても、加護とこのままけんか別れのようになってしまうのは寂しい気持
ちがある。
 そんなことを考えているところに声を掛けられた。

 「飯田コーチ」

 振り向くとそこにいたのは市井だった。

 「どうしたんですか? って、滑りに来たんですよね。ここスケート場なんだし、どう
したってこともないか」
 「違います。そうじゃなくて、亜依ちゃん来ませんでした? 今日」

 飯田はゆっくりとうなづく。
 そこに、石川も着替えを終え戻ってきた。
357 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:50
 「市井さん」
 「あ、あの、亜依ちゃん怒ってませんでした?」
 「怒ってた。勝手にいなくなっちゃえって」

 か細い声で石川が答える。
 市井は、申し訳なさそうに言った。

 「私が余計なこと言わなきゃよかったんですけど。ごめんなさい。石川さんにも飯田コーチ
にもいろんな事情があるのに、亜依ちゃんが失礼なこと言っちゃって」
 「ううん。私がいけないんです。ここを離れて東京に行くのはずっと前から分かってたこと
なのに、なんとなく言いづらくてずるずる来ちゃったから」
 「正直、あんなに怒ると思ってなかったんですよ。よっぽど石川さんのこと好きだったんで
しょうね」
 「ごめんなさい。もっと早く私の口から言えばよかったんだけど」

 二人とも声のトーンがどんどん下がって行く。
 飯田は、そんな二人に口を挟まずに見守っていた。
358 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:51
 「いつ東京に発つんですか?」
 「来週の水曜日です」
 「後五日しかないんですね。それまでここで練習してます?」
 「はい。毎日これくらいの時間には」
 「じゃあ、亜依ちゃん連れて、それまでに来ますから」
 「来てくれるかな?」

 いつも笑顔だった加護の、さっき初めて見た怒り顔を思い出す。
 頭の中で石川はおろおろしていた。
359 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/05(日) 22:52
 「亜依ちゃんだって、このままお別れしちゃうんじゃ寂しいってことくらい分かるはずだ
し、石川さんに会いたくなってきますよ絶対」

 来てくれるだろうか?
 不安だけが胸のうちにある。

 「ごめんなさい。今日これからバイトでもういかなくちゃ。亜依ちゃん連れて絶対来るん
で。あと、亜依ちゃんだけじゃなくて、私も、石川酸や飯田コーチいなくなっちゃうの寂し
いです」

 そう言って、市井は帰っていった。
360 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:05
 翌日も、さらにその翌日も、加護はリンクへとやっては来なかった。
 石川の練習も、小気味いいとはいかないものの、それなりに中身のある練習にはなってい
る。
 集中しきることは出来ていないが、“亜依ちゃんがもし来た時に、ちゃんと練習してる姿
を見せよう。”そんな風に自分に言い聞かせながら練習をこなしている。
 しかし、そんな期待もむなしく、石川がここで練習をする最後の日になっても姿を見せな
かった。

 「来ないですね、亜依ちゃん」
 「まあ、市井さんを信じるしかないだろ。どっちにしても石川が悪いんだから」
 「これ以上気の滅入ること言わないで下さいよ」
 「それはそれとして、練習は練習な」
361 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:05
 休憩を挟んで石川はリンクへと戻って行く。
 今日の練習も、もう終りに近い。
 ツアー用の振り付けの細かいチェックをしている。
 ジャンプよりもスピンやステップに重きをおいたプログラム。
 リンク中央でサーキュラーステップを刻んでいた石川が、突然大きな声を上げた。

 「亜依ちゃーん!!」

 石川が声を投げかけた方を飯田も向く。
 リンクの入り口から逆サイド、観客が見守るような位置に、加護と市井は座っていた。
362 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:06
 石川は一目散に滑っていく。
 逃げようとする加護を市井がしっかりと捕まえていた。

 「亜依ちゃん、来てくれたんだ」
 「あ、あのな、うち」

 言いたいことがうまく言葉にならない。
 市井が加護の肩をぽんぽんと叩いた。

 「思ったこと、そのまんま言ってみな」

 加護が市井の顔を見上げる、。
 目と目を合わせてちょっと微笑んでから言った。
363 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:07
 「あのな、うち、梨華ちゃんがすごく好き。それで、ずっと梨華ちゃんはここで滑ってる
んやと思ってた。そしたら先生が、梨華ちゃんは東京に行っちゃうよなんて言うから、なん
か寂しくてな。そんな大事なこと梨華ちゃん何も教えてくれんし。それで悔しくて、なんか、
怒っちゃった」

 そう言って石川のことを見つめる加護は子犬のようだった。

 「ごめんね。なんか言いづらくてさ。私は、東京の大学で勉強しながらスケートをするの。
だから、ここではもう練習出来ない。明日で亜依ちゃんともお別れ」
 「うん。分かった」

 答える加護は、とってもか弱かった。
364 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:07
 「練習はどうしちゃったのかな、石川?」

 飯田がリンクを半周回って歩いてやってきた。

 「あ、ごめんなさい」
 「亜依ちゃんごめんね。バカな石川が怒らせるようなまねして」
 「ううん。うちが勝手に怒っちゃっただけやし」
 「お詫びに、石川が最後に亜依ちゃんと市井さんのためだけに演技をします」

 市井と加護が顔を見合わせて喜んでいる。
 当の石川は、文字通り当惑していた。
365 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:08

 「ツアーで予定してるやつ。曲かけるからやってみな」
 「うちも見たい!」

 そういう加護を見て、石川も目を細める。

 「じゃあ、やってみます」
 「うん。このリンクでの最後の演技だから、しっかり滑って来い」
 「はい」

 頑張れ、と声を掛ける加護の言葉を背に、石川はリンク中央へと向かう。
 六年間通い続けたこのリンクでの最後の演技。
 滑り収め。
 それを係員も知っているから、一般開放時間にもかかわらず、石川のために曲をかける。
 無名の中学一年生が六年かけて世界のトップスリーまで上って行く過程を見つめ続けたこ
のリンク。
 石川梨華の卒業式が始まる。
366 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:08
 曲は、アヴリルラビーンのSk8er boys
 いつもの競技会とは違うタイプの曲ということで、アップテンポなこの曲を石川は選んで
いる。
 一般客の姿もリンクの上にある中、曲がかかり、石川の演技が始まった。

 六年間の締めくくりの滑りが、まだ、これまで表舞台では見せたことのないプログラム。
 旅立ちってことだよね、おわりじゃなくて。
 そんなことを思いながら、石川は演技をする。
367 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:09
 ジャンプの少ない構成で、序盤からステップのシークエンスが続く。
 世界のトップ選手の演技が突然始まり、リンクの上にいた一般客達は右往左往しながらも、
目を輝かせて石川を見つめている。
 加護や市井も同じだった。

 一分過ぎ、最初のジャンプとなるトリプルフリップを組み込んであるところ。
 ここで、石川は、プログラムの予定よりも長い助走を取る。
 そして、前向きに踏み切った。
 あっ、という観衆達の声の中央で石川は回転する。
 思いつきで入れてみたトリプルアクセル。
 高さはあったが、それでも回転が足りずに転倒した。
 あー、というため息が漏れる。
368 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:10
 石川は、笑顔ですぐに立ち上がった。
 演技を続ける。
 曲のテンポに合わせて、早いリズムでステップを刻む。
 小気味よい動きが見るものをワクワクさせる。
 そして、そんな中でも華麗なスピンやダイナミックなスパイラルといった芸術性も織り交
ぜていった。

 三分半フルコーラスの軽めのプログラムが終わる。
 ジャンプは少なめだけど、スピード感で魅せるいい演技だった。
 観衆からも拍手が起こる。
 試合の時と違って、照れながら手を振る石川が、飯田にはやけに可愛く見えた。

 「梨華ちゃんすごーい」

 加護のそのまんまな感想。
 でも、こういうのが素直にうれしいと感じられる。
369 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:11
 「ありがと」
 「おまえ、なに突然トリプルアクセルなんか入れてるんだよ」
 「なんか跳べそうな気がしたんですよー」

 結局、このリンクでは一度もトリプルアクセルを跳べなかった。
 これからも残る、一つの大きな目標。

 「亜依ちゃん、市井さん、いろいろとありがとう」
 「ありがとうなんてとんでもないですよ。こちらこそ、石川さんと出逢えてよかったです」
 「うちも、梨華ちゃんと会えてよかった」

 リンクの内と外。
 石川が差しだした右手を市井と加護が順に握る。

 「東京でもどこでも、ずっと頑張ってな。うち、応援してる」
 「ありがと」

 石川は市井、加護と笑顔で別れた。
370 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:11
 翌日、引越し荷物が次々と運び出されている石川家に、加護と市井はやってきた。

 「梨華ちゃんの汚い部屋見ようと思ったのに、つまんないの。もう片付いちゃってる」
 「汚くないもん」
 「ホントですか? 実は洗濯物たまっちゃったり、キッチンの流しはお皿が山積みとか、
そういう人なんじゃないですかー?」
 「そんなことないですよー!」

 引越しの荷物運びを全部業者の人にまかせ、三人はあわただしい部屋の中でしゃべって
いる。
 だんだんと、部屋の中は寂しくなっていった。
371 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:11
 「ものがなくなってみると、やっぱりこの部屋って広かったんだなあ」
 「ゴミだらけで狭かったんやないの?」
 「だからぁ、そんなことないって!」

 かわらないやりとり。
 平和なひと時。
 そんな時間ももう終わる。
 部屋が本当に広くなった時、別れの時がやってきた。

 「この部屋も見納めかあ」
 「何もない部屋って、寂しそうですね」

 フローリングの床の上には、三人の姿と、石川の手荷物だけ。
 引越しのトラックを送りだして、石川が駅まで向かうタクシーを携帯で呼び出した。
372 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:12
 「今までありがとうございました」

 空っぽになった部屋に頭を下げる。
 市井と加護もそれに習った。
 部屋を出て鍵を閉める。
 旅立ちの時。

 マンション前の広まったところで三人で座っている。
 春の陽射しが包み込む中、なんとなくそれぞれに思いに浸っている。
 静かな空気の中で時間を送る三人は、ふんわりと包まれていた。
 それを打ち破ったのは、やってきたタクシーだった。
373 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:12
 「さて、行かなくちゃ」

 石川が立ち上がる。
 市井も加護もそれについて立ち上がった。
 タクシーのドアが開く。
 石川は、ドアの前に立ち振り向いた。

 「行っちゃうんやな」
 「そんな顔しないでよ」

 加護は泣きそうな笑顔を見せている。

 「ずっと応援してます」
 「市井さんには、いろいろと感謝してます」
 「そんな、何にもしてないじゃないですか、私なんか」

 住宅街に伸びた一本の並木道。
 加護が市井の手をしっかりと握っている。
374 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:12
 「亜依ちゃんも、市井先生についてしっかり勉強頑張るんだよ」
 「うん」
 「それじゃね。短い間だったけど、今までありがとう。バイバイ」

 石川は、右手を振りタクシーへと乗りこんで行く。
 市井は左手で、加護は右手で石川に手を振り返していた。
 タクシーのドアが閉まる。
 すぐに動き出した車の窓が開き、石川が身を乗りだして手を振っていた。
 二人も大きく手を振り返す。
 タクシーはすぐに加速して行き、市井と加護の元から去っていった。
375 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/06(月) 22:13
 「行っちゃったね」
 「うん」

 加護は、市井の右手を握ったまま離さない。

 「うち、はやく大人になりたい。大人になって、どこへでも自由に行けるようになりたい」

 涙は流さないけれど、笑顔が薄い加護を市井は抱きしめてやった。
 すこし大人に近づいた加護と、平和な大学生市井に見送られ、石川は新しい暮らしへと旅立った。
376 名前:M.ANZAI 投稿日:2003/10/07(火) 09:35

とうとう・・・

最後まで静かに見守っております。
377 名前:作者 投稿日:2003/10/07(火) 22:48
>M.ANZAIさん
もうすぐ、おわります。
もうすぐ。もうすぐ。
378 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:49
 りんねが牧場で過ごす最後の日。
 フラワースケーティングクラブ主催のスケート教室が開かれた。
 本来なら公演の形にするはずのところだが、あさみの怪我が治っていないのでこういう
形になった。

 地元の小学生や、あるいはそれ以下の年齢の子達がまとわりつくようにりんねを取り囲ん
でいる。
 世界のトップスケーターりんね、優しいお姉さんりんね、二つの顔を同時に見せながら、
子供達に滑りかたを教える。
 あさみは、リンクの中に椅子を置きそこに座っていて、全体のしきり役。
 こういう形で地元の人と関わることが初めてな里田は、とまどいながら子供達と接して
いた。
379 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:51
 ほとんど滑れない初級クラスがりんねの受け持ちで、それなりに滑れてフィギュアスケート
っぽいことをしたい、という子を里田が見る。
 わいわいがやがやと子供達の騒ぐ声が始終響き渡る中、スケート教室は大盛況である。
 やがて、子供達への指導の時間は終り、最後にクラブのメンバー達が演技を披露することに
なった。

 先に里田がリンクに上がる。
 これまでに演じたことのあるプログラムの中で、子供でもそれなりに知っている曲を選んだ。
 バッハの、トッカータとフーガニ単調。
 ちゃらりー♪ という出だしでなんとなく有名なあの曲である。

 「子供達に大受けだね」

 リンクサイドで里田の演技を見ながらあさみが言う。
 知ってる曲で演技するまいお姉ちゃんの振り付けを、子供達はまねしながら見ている。
380 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:53
 「まいも、ジャンプだけじゃなくてそういうのも考えるようになったんだねえ」
 「りんねを見てて、ちょっと考え方変ったみたいだよ。先生がいくらバレエ通えって言っ
ても嫌だって言ってたのに、あさみさんの怪我治ったら私もバレエついていっていいですか?
 とか聞いてきたし」

 みんな、すこしづつすこしづつ変っていく。
 それは旅立とうとするりんねだけではなかった。
381 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:53
 「なんかね、人増やすんだって」
 「新しい子来るんだ」
 「うん。ジュニアの子でね、いい子見つけたんだって。あと、もしかしたら他にもシニア
の選手も来るかもしれないって」

 一人が抜けて、新しい選手が入ってくる。
 新しい刺激が、古くからいる者へも変化のきっかけを与える。

 「なんか、ちょっと追い出された気分」
 「自分から出てくって言ったんだろー! 分かってないなー。なんだかんだ言っても寂し
いんだよ先生も、りんねが出て行っちゃうの。クラブ設立からのメンバーで、ここまでやっ
てきたのがいなくなっちゃうんだから」

 りんねはそれには答えずにリンクの里田を見ていた。
382 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:54
 里田の演技は、相変わらず表現力は欠けるものの、ジャンプのダイナミックさは子供達の
目を引きつけていた。
 正式な競技会でも何でもないので、アドリブでジャンプシークエンスを増やしている。
 ダブルアクセル! ハーフステップを刻んでダブルアクセル、そして、リンク中央に軽く
半円を描いてからもう一度ダブルアクセルを跳ぶ。
 アクセル三連発、という派手な締めで、里田の演技は終わった。

 「さて、私の番か」
 「下手な演技したら、もう一年牧場で働いてもらいましょう」
 「なに、これ卒業試験なの?」
 「牧場のみんなも来てるしね。納得出来なかったら卒業取り消し! なんてね」
383 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:55
 りんねの最後の演技。
 四年間共に暮らした牧場の従業員達も、仕事の手の空いている者は全員リンクへと来ていた。
 最後の最後、りんねが選んだ曲目はラフマニノフのピアノコンツェルト二番。
 いま、一番自信を持って滑ることが出来るプログラム。
 オリンピック、世界選手権と続けて四位に入ったこの曲を選んだ。

 リンクを支配していた空気が変わる。
 りんねの雰囲気も、あさみと談笑していた時とは一変する。
 ここでいい演技をしても、メダルも賞金ももらえるわけじゃない。
 それでも、りんねがリンクに上がると、張り詰めた空気があたりを覆う。
384 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:56
 軽やかなステップに始まり、トリプルループ−トリプルループのコンビネーションを決める。
 特に奇をてらうことのないいつもどおりのプログラム。
 それでも、子供達の視線もしっかりと集めている。
 難しいことなんか分からない子供達も、食い入るようにりんねの演技を見つめている。

 「普通に滑って存在感あるんだもん。かなわないですよね」
 「まいだって、ずいぶんとうまくなったよ」

 あさみは本音でそう思う。
 りんねがいなくなれば、だれか新しいメンバーが入ってくるにしろ、自分がこのクラブの
最古参になる。
 こんなに長い間スケートを滑ることになるとは、始めた当初はまったく考えていなかった。
 ましてや、りんねがいなくなってまでも滑り続けるなんてことは、そんな発想すらなかった。
 でも今は、りんねがいなくなっても、自分が辞めるという発想は浮かばない。
 ずいぶんと変わったものだと自分でも思う。
385 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:56
 プログラムの見せ場、ストレートラインステップシークエンス。
 自然と沸きあがる手拍子。
 あさみの目から見れば完璧とも言えるような演技。
 今日に限らない、いつ見てもそう思う。
 それでも、世界一にはなれなくて、メダルも取れなくて、その結果からもっと頑張ろうと
思うりんねがいて。
 そんな高みに、自分も上りたい、いつか上りたい。
 足を治してからの自分への期待は尽きない。
386 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:57
 ホームリンクで滑るのは気持ちがいい。
 プログラムの終盤を迎えて、りんねはそう感じていた。
 あとは、スピンだけで演技が終わる。
 だけど、もっと滑っていたい。
 息は上がっていてきついけど、もっとここで滑っていたい。
 そう思いながらも、スピンの速度を上げていき、やがて最高速になったところで曲が止ま
り、りんねの卒業式も終わった。
387 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/07(火) 22:58
 みんなからの拍手をりんねは浴びている。
 観客の数は大きな試合と比べると桁違いに少ないけれど、拍手がもらえることは同じよう
にうれしい。
 リンク出口まで帰ってきたりんねは、上がる前に一度リンクの方を振り向き見回した。
 四年間お世話になったリンクへも別れを告げる。

 私は、スケートが大好きだから、ここを離れても滑り続けます。

 思い出のたくさん詰まったホームリンクへ誓った。
 だれかの代わりじゃなくて、自分が選んだ自分の道。
 りんねは、別れ道の中の一本の道を、一人で歩き始めようとしていた。
388 名前:名無しさん  投稿日:2003/10/10(金) 18:19
久々に来たら次回最終回ですか。どんなラストになるか楽しみにしてます
389 名前:作者 投稿日:2003/10/12(日) 00:18
>388
おわりです、これで。
最終回は、こうなります。
390 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:19
 東京で暮らしはじめた石川は、引越しやホームリンク移転の挨拶をしに、スケート協会の
理事である寺田の元へと挨拶に訪れた。

 「ご無沙汰してます」
 「おー、石川。わざわざご苦労さん。世界選手権はおめでとうさんな。アクセルも惜し
かったなあ」
 「まだ、トリプルアクセルを跳ぶ力はなかったですから」
 「まあ、座れ座れ。しかし、石川が大学生か。早いもんだなあ」

 石川にソファへと座るように寺田が促す。
 テーブルを挟んで二人は座り、話しをする。
 話題は海外の選手についてや、最近の日本のジュニア選手について、練習環境や来シーズ
ンの試合日程など、ほとんどがスケートに関わること。
 それ以外だと、天気のはなしなど当たり障りのない話題しか二人の間では広がらない。
 そんな会話をしながら、寺田はやたらと時計を気にしている。
391 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:19
 「あの、忙しいなら、もう失礼しましょうか?」

 寺田の様子に気づいた石川がそう聞くと、寺田は慌てて否定する。

 「いや、ええねんええねん。別に急いでるとか、そんなんやあらへんから」

 そう言っているところに部屋の電話が鳴った。

 「ん? ああ。すぐ通してや」

 寺田は電話を切り、すぐにソファに戻ってくる。
392 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:20
 「だれか来るんですか?」
 「ああ。石川もよく知ってるやつやで」

 テーブルに置いてあった紅茶のカップを石川は口へと持っていった。
 だれだろう?
 考えながらカップを置く。
 にやにや笑う寺田は、考え中です、という表情の石川をみて楽しんでいた。
393 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:20
 ドアをノックする音がする。
 どうぞ、と寺田は声をかけ、石川はドアの方を振り向いた。
 扉を開けて入ってきたのはりんねだった。

 「梨華ちゃん!」
 「りんねさん!」

 指ささんばかりの勢いでお互いの名前を口にした二人を見て、寺田は満足そうにソファに
よりかかり、りんねに石川の隣に座るように促した。
394 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:21
 「りんねもついに東京に出て来たか。どうや、すこしは慣れたか? こっちに」
 「いや、全然ダメです。すいません今日もこんな遅くなっちゃって」
 「心配したで。まあええけど。ちょっとづつ慣れていかんとな」

 りんねは、新しいコーチについてなど、これからのことを寺田に相談に訪れた。
 隣に石川を置いて、そんな話しをするのはすこし抵抗があったが、寺田が気にせず話すの
で合わせている。
 寺田が提示した、何人かの新コーチ候補の中から、一人と会うことにして、本題について
の話は終わった。
395 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:21
 「せっかくここで偶然会ったんやから、その辺の店で二人でお茶でも飲んでいったらどう
や? 石川ならそれっぽい店知ってたりするんやろ」
 「そうでもないですけど」
 「まあ、この辺ならちょっと歩けばそういう店にもぶつかるやろ。都会慣れしてないりん
ねに渋谷の歩き方でも教えてやってや」

 代々木体育館に併設された場所にあるスケート連盟からは、すこし歩けば原宿でも表参道
でも渋谷公園通りでも、どこへでもいける。
 二人は、寺田への挨拶を済ませ外へ出た。
396 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:22
 「寺田さん、ああ言ってましたけど、どうします?」
 「それっぽいお店に梨華ちゃんが案内してくれるんでしょ」
 「そんなの知らないですよー。こっちに帰ってきたの久しぶりですもん」

 そんな会話をかわしながら、石川が半歩前を歩いて二人は原宿駅を抜けて表参道方面へと
歩いていった。

 「なんか華やかだねー」
 「こういうところは、表通りよりも裏道に入った方がいいんですよ」
 「そうなのー?」

 石川が一歩前へ跳び出て振りかえる。
 りんねは立ち止まって石川の方を見た。
 都会の先輩とばかりにちょっとだけ得意げな石川が、表参道から横道へとそれて行く。
 りんねもその後をついていった。
397 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:23
 やがて行きついた先には、ガラス越しに店の雰囲気が見えるカフェがあった。

 「梨華ちゃんのよく行くお店なの?」
 「適当に歩いてたら行きついただけですよ」

 四つ年下の石川が二人の空気を仕切っている。
 店に入っていき、ウエイトレスに席に案内されるまで石川が前をあるっていた。

 「何食べよっかなー」

 ケーキが並んだメニューを前に、はなうたが聞こえて来そうなくらいにご機嫌な石川を見
て、りんねは微笑を浮かべる。
 私そう言えばこういうお店に入ったことなかったなあ、と思っていた。
 石川は洋梨タルトとアップルティのセット、りんねはレアチーズケーキとアイスレモンティ
を頼んだ。
398 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:23
 「りんねさんとこうやってリンクの外でお話したことってなかったですよね」

 石川にそう言われ、りんねは両手で水の入ったコップを持ち、大きく背もたれに寄りか
かって言った。

 「そうかもしれない」

 うんうんと、意味もなく何度もうなづく。
 ツアーで競演したこともある。
 同じ試合に出たことは何度もある。
 リンクの上では常に顔をあわせていた。
 だけど、リンクの外で顔をあわせることは、これまでまったくと言っていいほどなかった。

 「そっかあ。私、いつもあさみやまいといたからなあ」

 演技は一人でするけれど、それ以外は、いつもチームのメンバーと一緒だった。
 下の選手に慕われたり、世間の注目を浴びたりしていても、りんねは意外とトップ選手と
の交流が少なかったりしていた。
399 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:24
 「なんで急に東京に出て来たりしたんですか?」

 石川の率直な問に、りんねは笑みを漏らす。

 「梨華ちゃんに勝つため、とか言ってみたりして」

 返す言葉を選びにくい答えに、石川は苦笑したまま何も言わない。

 「まあ、それも本当のっていうか一つの理由なんだけどさ。自分の力でスケートを滑りたい
と思って」
 「自分の力?」
 「うん。誰かのためって頑張って来てさあ、実際そう思ってきたんだけど、でも、本当は、
その誰かにずっと助けてもらって、ずっとすがってたんだよね。だから、そういう存在が見え
なくなって、ぽんっと突き放されて一人になった時、弱いなあってね」

 胸のうちをりんねは笑顔で語っている。
400 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:25
 「自分でどうしたい? って考えた時、スケートが好きだ、ってのだけははっきりわかっ
てさあ。それで、じゃあ、もっとスケートを滑って、もっとうまくなるにはどうしたらいい
? って考えたら、環境変えてみようかなって思ったんだ」

 石川は、黙ってうなづいている。

 「自分の力で頑張ってきた梨華ちゃんとの差が、最後に出ちゃったしねえ。そうだ。改め
て、世界選手権銅メダルおめでとう」
 「あ、ありがとう。でも、あれはたまたまだと思うし。予選の組が逆だったら、りんねさ
んがメダルとってたと思うし」

 すこしうつむき加減に石川が語る。
 世界選手権、三本滑った一番最初の予選で、ヒッキー・鮎浜と同じ組みだったりんねは
三位、それと別の組みに入っていた石川は予選では一位だった。
 もしも、これが逆で、石川がヒッキーや鮎浜の組みで三位になり、りんねが逆の組みで
一位だったなら、得点計算上、最終結果は、りんねのが上の順位になっているはずである。
401 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:25
 「一人でずっと頑張ってきた梨華ちゃんってやっぱりすごいと思うよ」
 「そんなことない。私は、りんねさんがすごいと思った」

 謙遜でもなんでもない石川の気持ち。
 りんねに負けて、オリンピックに出られなかった石川の気持ち。

 「私は、自分しかなかった。頑張るのも、応援してくれるのも、喜ばせたい相手も、全部
自分一人だった。先生はいたけど、それはなんか違って、うん、なんていうか、ずっと一人
ぼっちだった。だから、自分が自信がなくなったり怖くなったりした時に、どうにもならな
くなってた」

 石川は、りんねの胸元を見ながら話している。
 りんねは、話し始めた石川の顔を見つめていた。
402 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:26
 「いつかこの人に負けちゃうかもしれないなあ、って結構前から思ってたんだ、りんねさん
のこと。それで、結局一番大事なところで負けちゃった」

 そう言って石川は、右側の窓の方を見た。
 午後の光が差しこんできて、明かりをつけなくても部屋の中は明るい。
 忙しそうに動くウエイトレスが、石川の視界を横切った。

 「オリンピック前に、りんねさんの昔話とかたくさんやってて、ああ、この人にはもう勝
てないなあ、なんて思ってた。ちょっとうらやましかったなあ、不謹慎だけど。心の中に大
事な人が住んでるりんねさんが」

 りんねのグラスの氷が溶けて、からんと音を立てた。
 思っていた胸のうちを表に出した二人は、ちょっとばつの悪い沈黙に覆われる。
 それを救うかのように、ウエイトレスが二人の元へとやってきた。
403 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:27
 「レアチーズケーキセットのお客様は?」

 石川が右手のひらでりんねの方を示す。
 あたふたと、水の入ったグラスを横にのけて、りんねはケーキを置くスペースを作る。
 二人の前に、甘そうなケーキと紅茶がそれぞれ並べられた。

 「なんか、都会に出て来たんだ、って感じ」
 「りんねさん、あんまり田舎もの丸出しな発言しないで下さいよー」
 「だって、しょうがないじゃーん」

 りんねはそう言うと、両手を合わせていただきます、と言い、ケーキにフォークを伸ばし
た。
 シュガースティックを破り、紅茶に砂糖を流し込み、石川はスプーンでアップルティーに
砂糖を溶かす。
 その、紅茶を混ぜる姿が、りんねにはとても優雅なものに見えた。
404 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:27
 「洗練されてるって感じだね、梨華ちゃんって」
 「そうですか? 言うこともやることも子供っぽいってよく言われますよ」

 石川はカップを口に近づけながら、りんねの方を見ることなく答えた。

 「私、なんか落ちつかないもん、こういうお店。でも、座って、正面に梨華ちゃんを見て
ると、すごいお店に似合っててさあ。なんか、いいなあ、って思う」

 りんねは、もう、皿の上のチーズケーキが半分近くなくなっている。
 ゆっくりと紅茶のカップをテーブルに置いた石川は、タルトに手を伸ばしはじめた。
405 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:28
 「すぐ慣れますよ」
 「慣れるかなあ? うん。でも、慣れなきゃいけないんだよね。こういうお店はともかく、
人が多いのとか、電車が難しいのとか、空が狭いのとか。東京に慣れないといけないんだよ
ねー」

 ケーキの皿にフォークを置いてため息をつく。
 りんねは、ガムシロップを入れずに、アイスレモンティを口へと運んだ。
406 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:28
 「大丈夫じゃないですか? どうしても、東京がダメだったら、りんねさんには帰る場所
があるんだし」
 「そんな気軽な気持ちで来たわけじゃないもん」
 「アーモンドチョコレートの話、知ってます?」
 「アーモンドチョコレート?」

 りんねは小首をかしげる。
 皿の上の洋梨タルトの洋梨だけをフォークに差し、ゆっくりと石川は口へと持って行く。
 その様子を見ながら、りんねはアイスレモンティを口にした。
 りんねのレアチーズケーキの皿は、もうほとんどなくなっていた。
407 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:29
 「私が、飯田先生のところに言った時に、最初に先生にしてもらったんです。アーモンド
チョコレートの話。先生の話って、変なたとえ話が多くて、わけわかんないことも多くてす
ぐ忘れちゃうんだけど、この、最初にしてもらった話だけは、なんか、まだ、私、中学一年
で、一人で新幹線に初めて乗って先生のところに行って、練習前に聞かされたからか、すご
い印象に残ってて覚えてるんです」

 ガラス張りのカフェに、太陽の光が差し込む。
 春の午後の陽光が、テーブルを照らし、石川は窓の外へと視線をやった。
 制服を着た二人の女の子が、腕を組んで歩いている。
 チェックのスカートが、風に揺れていた。
408 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:30
 「私は、石川にこれからいろんなことを教えるし、石川は私から色々なことを聞くと思う
けど、石川はね、アーモンドチョコレートになりなさい。板チョコとか、ホットチョコレー
トになっちゃダメ。アーモンドチョコレートになりなさい、飯田先生にそう言われたの」

 石川は、アップルティを口に含んだ。
 甘いりんごの風味が、りんねの方にまで香ってくる。

 「全然意味わかんないから、なにそれ? って聞きたかったけど、飯田先生大きくて怖そ
うだったし、私、人見知りする方だから、まだ、先生に全然慣れてなくて、聞けなかったん
ですよ。りんねさん、意味分かります? これだけで」

 言葉に出さず、首を横に振るだけでりんねは答える。
 視線を落とし、アイスレモンティにグラスに目をやる。
 グラスのかいた汗が、テーブルも濡らしていた。
409 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:31
 「一年くらい経ってからかなあ。遠征で先生と二人で、おんなじ部屋で寝る時に聞いたん
ですよ。アーモンドチョコレートの意味。ずっと気になってたから」

 そこまで言って、石川は皿の上のタルトにまた手を伸ばす。
 言葉が途切れたところで、りんねも手持ち無沙汰になり、残っていたレアチーズケーキの
かけらを口にした。
 甘くておいしい、なんて、普通に感じてた。
410 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:32
 「アーモンドは芯なんだって、先生、ちょっと考えてから言ったんです。飯田先生のと
ころで、いろいろ学んでいっていろいろと身につけていく。それがチョコレート。だけど、
石川梨華が石川梨華である限り、芯としてのアーモンドがなきゃいけないんだ。芯をなく
して、型にはめられて板チョコになったり、染まりきってどろどろのホットチョコレート
になっちゃダメだって、先生そう言ったんです」

 昔の話。
 石川が飯田に学びはじめたずっと昔の話。
 石川が忘れない、飯田の話。
411 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:33
 「年下の私が言うのも生意気なんだと思うけど、りんねさんの芯は北海道のふるさとで
手に入れたものなんじゃないですか? 東京でもきっといろんな物を手に入れると思うけ
ど、染まりきっちゃダメなんじゃないかなー、なんて思います。田舎ものパワーがなくな
ったりんねさんだったら、全然負ける気しないですもん」
 「ひどいなー。田舎もの呼ばわりー?」

 まじめな表情で石川の言葉を聞いていたりんね。
 田舎者パワーという言葉に、笑顔で言葉をつないだ。
412 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:33
 「でも、そうなのかもしれないね」

 グラスを持って遠くを見る。
 牧場の動物達の姿が浮かんだ。

 「アーモンドチョコレートかあ。飯田先生、うまいこと言うね」
 「でも、先生、いろんなたとえするけど、大体は、わけわかんないですよー」

 それぞれに飯田の姿を思い出す。
 わけの分からないたとえ話、それを必死に語る姿が浮かぶと、二人とも微笑んでしまう。
413 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:34
 「それで、私も、ちょっと思ったんです。アーモンドチョコレートの発展版」
 「どんなの?」
 「私達は、アーモンドって言うか、種なんです。土に植えられた種。いい土なら、いっぱい
養分があって、それをどんどん吸収して育っていける。だけど、もし、種の中身が最初から空
っぽだったら、どんなにいい土でも育てない。それに、どんなすごい養分を与えられても、ど
んな花が咲くかは、種の種類で決まるんです」

 身振りをまじえて語る石川は、年上のりんねを前にちょっと得意げな顔を見せる。
414 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:34
 「うん。なんかそのたとえ分かる」
 「だから、自分がしっかりしてないと、土に埋もれて土に同化しちゃいけない。しっかり
種の中に、いろいろ取り込んでいって、飯田コーチみたいなすごい養分に教わりながら、し
っかり頑張れば、まだ、どんな花かは分からないけれど、きっと咲かせられると思うから。
咲かない花はないと思うから。だから、頑張ろうかな、なんて、ちょっとかっこよすぎです
か私?」

 照れたように笑う石川を前にして、りんねに当たる光がすこし薄れた。
 身を乗り出して石川の話を聞いていたりんねは、背もたれによりかかり小さく息を吐いた。
415 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:35
 「咲かない花もあるよ。花になる前に散っていくことだってたくさんあるんだ」
 「それは、それは、まあ、そうですけど」

 急に言葉のテンポがゆっくりになったりんねに、石川がとまどいながら言葉を返す。
 りんねの表情は、すこし硬くなった。

 「どんなに良い種で、どんなにすごい養分がある土で育っても、花が咲かないこともあ
る。葉っぱをむしられたくらいなら回復できるけど、台風に根っこごと飛ばされたり、花
になる前に人の手でむしられたりしたら、どうしようもない。そんなことはいっぱいある
し、自分は、そんな風にならないで綺麗な花を咲かせたいし、咲かせられると思ってる。
だけど、私は、咲くことが出来ずに消えて入った花を、忘れたくないし、忘れることは出
来ない」

 りんねはこれだけ言うと、小さくうなづいてテーブルの上のアイスレモンティを取った。
 うつむいた石川にも、りんねの言葉の意味はよく伝わっていた。
416 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:36
 「ごめんね、難しい話にしちゃって」
 「そんなことないです。うん。りんねさんの言うとおりだと思います。やっぱり大人だな
あ」
 「それは、おばさん、って意味も込めてるのかな?」
 「そんなんじゃないですよー。ただ、私より、いろんなことを経験してるんだなあって、
ただそれだけです」

 二人の間にある四つの年の差。
 演技とは関係ない場面で、時折見えてくる。

 「おいしいね、ケーキ。時々来てみよっかな、こういうお店」
 「せっかく東京にいるんだから、時折一緒に食事とかしましょうよ」
 「うん。いいね。うん」

 世間が、ライバルだリベンジだ、と煽っても、そんなことは二人には関係ない。
 リンクを離れれば、お互いをよく知っている十八歳と二十二歳の女の子。
 同じ世界にいて、同じ町にいるから、きっとこれからこんな機会も増えて行く。
417 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:36
 「そろそろ出ましょうか?」
 「そうだね」

 席を立つ。
 自然と石川が先にレジへ。
 支払いを石川が済ませ、りんねは財布を探っている。

 「えっと、あれ、いくらくらいだっけ?」
 「800円と消費税だったかな?」
 「あー、細かいのないやー。おつりある?」

 りんねが取り出したのは一万円札。
 石川は、薄く微笑んだ。
418 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:37
 「もう、細かいのないなら、先言ってくださいよー、りんねさんに会計してもらえば済ん
だのに」
 「ごめん」
 「いいです。今日は石川のおごりで。りんねさんの上京祝い」
 「ごめんね、この埋め合わせは必ず」
 「そうですね。じゃあ、パリでフランス料理でもおごってもらおっかな」

 しばらくたては二人ともプロのスケーターに混じったヨーロッパツアーが始まる。
 そんな中の、束の間の休日。

 「高い」
 「フランス料理は冗談ですけど、またお茶でも飲みましょ」
 「そうだね」

 店を離れて二人は表参道へと戻って行った。
419 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:37
 「これからどうするんですか、今日?」
 「部屋のいろんな小物でも買いたいんだけど、どこ行ったらいいかなー?」
 「うーん、一通りそろえるなら、渋谷に出てハンズかロフトなんか行くといいと思いますよ」
 「高くない?」
 「大丈夫ですって」

 表参道で立ち話。
 りんねは、まだ人の波の真ん中で立ち話をすることには慣れない。
 渋谷のどこ? なんて言葉をかわしながらも、あたりをきょろきょろしている。
420 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:38
 「私は、大学の手続き行くのに地下鉄乗るから、こっちなんでここでお別れですね」
 「地下鉄かあ。そんなのもあるんだ。覚えること多くて大変だ」
 「すぐ慣れますよ。別に、地下鉄わかんなくてもなんとかなるし」

 考え込むりんねと微笑む石川。
 春の陽射しに照らされて、二人の新しい暮らしは始まっている。

 「うん、それじゃ、またね。困ったら電話して助けてもらうから」
 「そうだ、りんねさんの携帯聞いてなかった」
 「ごめん、持ってない」
 「携帯くらい持ちましょーよー・・・」
 「ははは」

 力なくりんねが笑う。
421 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:38
 「買ったら電話するよ」
 「はい」
 「ツアーよろしくね」
 「こちらこそ、お願いします」
 「頑張らなきゃね、お互い」
 「りんねさんには負けないですよ」
 「私だって梨華ちゃんに負けてらんないからね」

 力強く言うりんねに、石川が右手を差し出した。
422 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:39
 「これからもよろしく」
 「うん、よろしく」

 握手をかわす。
 雑踏の中で、二人の新しい戦いもスタートする。

 「それじゃ、私行きます」
 「うん。またね」
 「はい、また」
423 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:39
 春の暖かい陽光が照らし、爽やかな風が通り抜ける表参道。
 それぞれの道へ。
 同じ高みを目指しながら、それぞれの道へ。
 長いシーズンが終わり、身の回りの環境も変わり、新しいシーズンへの準備も始まる。
 まだ、果ての見えることのないそれぞれの道へ、二人はまた、歩き出した。
424 名前:氷上の舞姫 投稿日:2003/10/12(日) 00:40

 氷上の舞姫  終わり
425 名前:  投稿日:2003/10/12(日) 00:41

*******************************
426 名前:作者 あとがき 投稿日:2003/10/12(日) 00:42
 184028字
 ワードの文字カウント、全角+半角で数えたこの話しの文字数です。
 400字詰め原稿用紙に換算すると、全部詰めて460枚。
 過去に書いた中で一番長かったのが大体十万字だったので、原稿用紙200枚分伸びました。
 長けりゃいいってもんじゃないですが、夏休みの読書感想文五枚にてこづっていた人間が、
よく、これだけ書けるようになったものです。
 スレ立て日からちょうど一年。
 完結出来て良かった。
427 名前:作者 あとがき 投稿日:2003/10/12(日) 00:43
 石川とりんね、二人を中心に、あさみ、飯田、里田、市井に加護、さらには、ヒッキーまで
出てくるという、マニアックなキャスト。
 さらに、話しの舞台は、フィギュアスケートというマニアックな世界。
 最後までよくお付き合い頂きました。
 本当にありがとうございます。

 心残りは、フィギュアスケートということで、高橋さんあたりがイメージぴったりだった
のですが、世界設定の都合で出せなかったあたりでしょうか。
 しょうがないんですけどねえ、こればっかりは。
 でも、やっぱり残念でした。
428 名前:作者 あとがき 投稿日:2003/10/12(日) 00:44
 今後しばらくは、今立っている別の二つのスレを進めて行きたいと思います。

 みんなの進路希望
 http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/gold/1063462913/

 初めての決断
 http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/green/1065618084/

 花板倉庫にある、初めての夏休み というものから始まるシリーズの第四弾と第五弾です。
 前者が小川主役、後者が紺野主役。
 ここの話とは同じ世界だけど、雰囲気は大分違います。
 よろしければそちらもお願いします。

 本当にどうもありがとうございました。
429 名前:ヒニー 投稿日:2003/10/12(日) 01:11
完結、お疲れ様でした。
感想は初めてですが、いつも読まさせていただきました。
「初めての決断」も面白そうですね。
期待しています。
430 名前:名無しくん 投稿日:2003/10/12(日) 03:30
お疲れ様!です
ずっと楽しく読ませていただいてました。
作者様の更新も速く、とてもあくせくすることなく
読めてよかったです。とても爽快感のあるラストで
すね!他のスレも楽しみにしています。
気が向いたら、続編というか後日談でも書いてくだ
さるとうれしいです。
431 名前:名無しさん  投稿日:2003/10/13(月) 16:10
脱稿お疲れさまでした
改めて普通の人間の普通の成長を描くのがうまいな、と感心してます
新作・別作品の方も期待してます

また別なマニアックなスポーツものも読んでみたいですw
432 名前:名無しちゃん 投稿日:2003/10/14(火) 03:57
お疲れ様デシタ。
初めての夏休みシリーズからROMってました。
自分にとってなじみの無かったスケートですが、
今年に冬はテレビで見てみようと思いました。
この話の加護ちゃんが出る「初めての決断」も楽しみにしてます。
433 名前:M.ANZAI 投稿日:2003/10/14(火) 11:00
連載完結、おめでとうございます。
ここの世界観がとても丁寧に招かれていて心地よく読ませていただきました。
おそらく後日談などはあちらの小さい友達のエピソードなどに盛り込まれるのではと勝手に創造しております。

素敵なお話をありがとうございました。
434 名前:作者 投稿日:2003/10/16(木) 22:43
>ヒニーさん
ありがとうございます。
新規連載の方もよろしくお願いします。

>名無しくんさん
後日談は・・・ この話しは、この形のままちょっと触れたくないなあ、と思っているので、無しの方向で。

>名無しさん
そう言っていただけるとすごくうれしいです。
マニアックスポーツ・・・。スポーツで今イメージしてるのは、高校生のバスケか、昔書いたテニスの短編のその後かなあ・・・。
マニアックなものもまた書いてみたいとは思うので、今書いてる二つが終わったら、また考えます。

>名無しちゃんさん
良かったら見てみてください。選手を一人覚えると興味が持てると思います。
この話しの演技イメージと選曲イメージは、日本の選手で、村主さん、恩田さん、荒川さんといったあたりからいただきました。

>M.ANZAIさん
後日談は、無しの方向で・・・。
って、最初に初めての夏休み書いた時も言ったようなことを思い出しました。
この世界と、今連載中の世界は、もう一年半違うんですよねー。その間に、どうなっていることやら。


一年もの長きにわたってお付き合いいただきありがとうございました。

「フットサルじゃなくて、カバディやれば受けるのに、日本代表も近いのに」と思ったみやでした。

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