連れかえり
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月01日(火)19時45分30秒
- 参考文献
・「異邦人〜fusion」 西澤保彦 集英社
・「片想い」 東野圭吾 文藝春秋
・「スノウ・バレンタイン」 吉田直樹 祥伝社(「不透明な殺人」所収)
また、西澤保彦FanClub内「西澤日記」(ttp://www.studio-rose.com/nishizawa/diary.html)を、
「異邦人〜fusion」の製作過程を始めとして、大変興味深く拝読させていただきました。
この場を借りてお礼申し上げます。
- 2 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時45分53秒
- 『第一章 朝の召集』
楽しかったの?
- 3 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時46分29秒
- 一
ぽん、と空気銃から放たれたような形をした雲が、太陽を半分隠していた。
そのせいか日差しは柔らかく、時折吹き付ける風も、初夏のそれにしては柔らかく心地よい。
真っ直ぐに伸びた電信柱の影を飛び石を渡るように移りながら、
番いの雀が嘴をついばみあって飛んでいった。
「おうおう、おあついねぇ」
隣を歩いていた矢口が、いかにも物欲しそうな語調で云うのがおかしかった。
「雀に嫉妬したら人間終わりだよ」
「いやぁ、嫉妬の二つや三つもしたくなるよ。
きっと天下太平だよ、あの雀たち」
いいなぁ、この世の春だよなぁ、と本気で呟く矢口はどう見ても中学生で、
私は知らず知らずのうちに彼女の頭を撫でていた。
百四十五センチ前後の身長は、百六十を越えている私からすると、
何をするにもベストの位置に当たる。
何より、私は矢口を子供扱いするのが好きだった。
「また子供扱いする」
「子供だよ、あーかわいい」
そう云う私に向かって矢口は舌を出してきた。
逐一言動が幼い事に本人は気づいていないのかもしれない。
- 4 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時46分58秒
- 「だけど、後藤がドタキャンしたくらいで雀に八つ当たる事もないでしょうに」
柔らかい金の髪を梳きながらそう云うと、矢口は露骨に不機嫌な顔をした。
「ドタキャンなんて初めてなんだよ。
それに怒ってるわけじゃない、心配なだけ」
矢口はそう息巻く。
何が心配なのかはよくわからなかったけれど、
朝っぱらから突然人を叩き起こしておいて怒ってないもないものである。
「カオリ、今日遊ぼう。
どこでもいい、つーか飲もう。
焼き鳥焼き鳥、よし、今から行くね」
- 5 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時47分35秒
- 酔っていると云っても誰も疑わないであろう支離滅裂な言葉を独特の高い声で浴びせかけ、
挙句の果てには私の返事も聞かず本当に家に押しかけてくるのだから、
どうやらご機嫌は急斜面を滑り降りているらしい。
私はその道連れ、不満の捌け口である。
髪は撥ね、思考の状態もニュートラルで低速運転状態ながら、
何の因果かそんな大役を仰せつかってしまった以上、何処かへ飲みに行かざるを得ないのだけれど、
私は朝方から開いているような豪気な店とは馴染みがない。
すると、
「オイラ一軒知ってるから、そこ行こう。
今日はあれだ、妙に手持ちがあるから奢ってあげるよ」
軽い調子で吐かれた言葉に対して複雑ではあったけれど、気を回すのもうざったいかと思い、
素直にご相伴に預かることにしたわけだ。
- 6 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時48分19秒
- 「どれくらい歩くの?」
私も矢口も車どころか免許すら持っていない。
それはもちろん飲んでしまったら車に乗れない、などと云う酒飲み根性爆発な理由ではなく、
強いて云えば相性だとか意識の問題だとか、つまりはそう云うことだ。
自転車ならあるにはあるが、飲みに行くのに自転車を使うのは私の美意識に反する。
それは矢口も同一の見解らしく、二人で飲む時は専ら、近場の居酒屋で済ませていた。
「ここからなら十五分くらいかな」
十五分なら大した距離ではないと思われるかもしれないが、
私は矢口の言葉に眉を顰めてしまった。
- 7 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時48分49秒
- と云うのも、私が全く歩き慣れていないからで、
私達行き付けの居酒屋は、私の住んでいるマンションから徒歩で二分の位置にある。
更に、特別歓楽街に近いわけでもないのになぜか、
私のマンション周りではここ一、二年で開発が進み、
まるで雨後の筍のようにコンビニを始め薬局、スーパー、銭湯、パチンコ等々が乱立し、
どころか職場さえも、同じマンションの上のフロアと云う恵まれようだからだ。
ふくらはぎが張ってしまわないか、心配が頭を掠めるが、
そんなことを云ったら矢口にどれだけ罵られるかわかった物ではないので、
無論口に出したりはせず、黙って矢口の後についていった。
- 8 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時49分32秒
- 二
矢口真里との関係を、私はいくつか持っている。
一番表層的且つ一般的な関係と云うと、やはり大学の先輩後輩と云うことになるのだろう。
最も私は既に卒業しているので、先輩後輩と云う呼び名が正確かはわからないけれど、
付き合いが深くなった第一の理由はやはり、大学でほぼ毎日顔をつき合わせていたからに違いない。
私達は、同じサークルに所属していた。
「同性愛研究推進教育同好委員会」と名付けられた、
実態のわかるようなわからないようなサークルである。
入会条件は簡単で、同性に興味があることのみ。
初期会員は私と、それに顧問が一人。
後に矢口ともう一人、新しい会員が入ってくるのだけれど、
すべて女性であり、男性の入会希望者は私の在籍期間の四年間、
ついぞ一人として現れることはなかった。
- 9 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時49分58秒
- サークルの活動内容は、基本的には話し合いである。
同性の魅力を熱く語ったり、過去の体験談を赤裸々に告白したりと、
一歩間違えれば中学生の他愛無い噂話に落ちてしまいそうなものだけれど、
その辺りはさすが大学生、デリケートな問題と云う事もあって、
討論の内容は至って真面目、話しこんで部室(と称した空き部屋)で一夜を過ごすこともままあり、
ついには論文を作成して発表にまでこぎつけた実績もある。
しかし一方でやはり大学生と云う事もあって、
気が付いたら胸の中で矢口が息を荒げていたりと、小さな間違いを起こした事もある。
服は着ていたとは云え、顧問でもない先生に見つかった時は本当に焦ったものだった。
当時はサークルごと握りつぶされたらどうしようと肝を冷やしたものだったけれど、
よくよく考えてみれば、多少の間違いでサークルが消されることはなかったのだろう。
頭の固い、或いは古い教授連は、明らかに私達を煙たがっていたのだから、
好き好んで排他的サークルを催している人間を、
一般サークルに放り込むような真似などするはずがないのだ。
- 10 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時50分47秒
- 煙たがられていたのは、サークルを主催している顧問の先生も同様だった。
顧問である中澤先生は普段から自分はレズビアンであるということを公言して憚らない快活な人で、
学内で見かける時にはいつも隣に女の子をはべらせていた。
「何でこんな可愛い子に興味がわかへんのかな」が口癖の珍妙な先生だったけれど、
頭脳は教授連の中でも図抜けて優秀らしく、
なんでも海外の専門的な研究機関から、正式に研究員として呼ばれた事もあるという。
「何で海外で研究しなかったんです?」
当時その話を訊いてすぐ、矢口は疑問をぶつけていた。
私も同じ気持ちだった。
先生の発表した学論は枚挙に暇がなく、しかもそのどれもが学術的価値を認められている。
もう日本にいる必然性も必要もないと、半ば呆れ気味にそう云われていたものだ。
海外へ出れば、今以上の知識を得、今以上に名が広がるのは疑いようのないことだった。
- 11 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時51分12秒
- ところが先生の回答はとんでもないものだった。
「アタシってあれやね、大和撫子でないとこう情欲が湧かないというか、
端的に云うとアメリカンやイタリアンだとね、抱く気が起きんのよ」
しかしそんな話がサークルの外に漏れることはなく、先生の授業はいつも人気があった。
心理学科に授業を持つ先生の中でも、彼女の授業の出席率は、やはり図抜けていた。
中澤先生は切りたくても切れない、そんな事情も、
サークルの存亡に有利に働いていたのかもしれない。
- 12 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時51分45秒
- 矢口との間にあるいくつかの関係で、最も深いものと云ったら、
やはり肉体関係を置いて他にはない。
少なくとも私は、同じ性癖をもつ人間を見つけたからと云って所構わず唾をつけるようなことはしない。
ましてや同じサークルに長い間在籍していれば、いい面はもちろん、
悪い面だって埃のようにわらわらと出てくる。
それらをすべて見過ごし、ただ己の欲望のために手を掛けることができるほど、
私は自分に忠実ではないし、また忠実になるほど欲求不満だったわけでもない。
けれど、矢口はすべてにおいて魅力的な女性だった。
もちろん悪い面がないわけではなく、むしろ目を凝らせば悪い面しかなかった気もする。
それでも、彼女は──少なくとも私を惹きつける──魅力を持っていた。
- 13 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時52分37秒
- 「ねぇカオリ」
部室に二人きりで、中澤先生から手ほどきを受けた論文の製作にかかりきっていた頃だから、
私が四年、矢口が二年の春先の時だ。
つと、矢口がこんなことを云い出した。
「ヤグチはさ、裕ちゃんとカオリしか、知らないんだよね」
肝心な部分が抜け落ちてはいるけれど、云いたいことは分かる。
裕ちゃんとは中澤先生のことであり、つまり矢口は、
同性愛癖を持っている人間を、私と先生の二人しか知らないということを云いたいのだ。
「そういう場合ってさ、やっぱり、どっちかなのかな」
「何が?」
今度は矢口の言葉の意味がわからず、私は訊き返した。
矢口は云いにくそうに手にしていたボールペンのノックの部分で頭を掻くと、
「だからさぁ、そう云うことだよ、そう云うこと」
- 14 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時53分08秒
- この時、既に私は矢口に対して、上記の間違いを犯していた。
そのせいか、そう云うことがどう云うことなのかの察しはすぐについた。
しかし、そう簡単に答えられる類の質問ではなく、
また私自身、そんなことを考えた事はただの一度もなかった。
私達のような性癖をもつ人間は、当然ながら、男性に興味を持つ人間と比べて格段に少ない。
それはそのままイコールで、選択肢が少ないということに結びつくのではないか。
つまり矢口が云いたいのは、私達同性愛者には、選択権に縛りがかけられているのではないかと云うことだ。
考えてみれば至極真っ当な疑問で、それもかなり重大な問題のはずなのに、
私は矢口の話を聞くまで考えた事もなかった。
それは、近くに矢口がいたことと無関係ではないだろう。
惚れていたか、と訊かれたら即座に肯定は出来ないけれど、
矢口が側にいることで安心していたことは確かだった。
世間の重大な問題から目を背ける、一種の現実逃避だったのかもしれない。
- 15 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時53分33秒
- 「カオ、交信してる交信してる」
矢口の笑い声で飛んでいた意識が戻った。
見ると、矢口は人の悪い笑みを浮かべている。
「云っとくけど、カオリが嫌いだとか云ってるんじゃないんだよ。
ただ、どうなのかなぁって思っただけ」
いかにも悪ふざけです、と云った物云いに腹が立ったのか、もう覚えていない。
ただ、私は焦るような早口でこう云っていた。
「じゃあ、何でそんなこと云うの?」
驚いたような表情でこちらを見つめて来る矢口にぶつける言葉が止まらなかった。
「何も、今云うことじゃないじゃん。
今じゃなくても、もっと後とか、一杯云う機会はあるじゃん」
支離滅裂もいいところだ、と、別の人格が遠くから冷たい目で私を見ている気がする。
矢口を怒るのは完全に筋違いだ。
それにもっと後に云われても取り乱していただろうことは、容易に想像がついた。
結局私は、矢口にそう云われたことが怖かったのだ。
矢口に、私自身を否定されている気がして。
- 16 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時53分51秒
- 「…ごめん」
相変わらずぎゃあぎゃあと喚きたてる私の言葉の間を縫って、矢口が呟いた。
その言葉に喚くのをやめると、矢口は黙って立ち上がり、ドアの方へ向かおうとした。
「逃げるわけじゃないって」
私が云いたそうにしているのを見抜いたのか、普段と変わらない微笑で矢口は云い、
ドアまで到達すると、隣に立てかけられていた一本の竹の棒を、
ドアのレールに噛ませ、つっかえ棒にした。
古い教室は作りも原始的で、それだけでこの空間は密室になる。
矢口はその単純な作業を終えると戻ってきて、無言で私の膝の上に潜り込んだ。
小さな矢口はまるでマトリョーシカのように、ぴたりと私の内に納まる。
私は拒絶するのも忘れて、ただ矢口の行動を見つめるだけだった。
- 17 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時54分15秒
- 「泣かないで」
しばし沈黙が支配していた教室の静寂を矢口が破った。
小さな矢口の手が私の頬に触れて、初めて私は自分が泣いていることを悟った。
矢口の手を払おうと首を振っても、矢口はしっかりと私の頬に手を密着させている。
「怒らないで、カオリ」
「怒ってない」
「怒ってるよ」
「誰のせいで…」
「ヤグチのせいだよ」
その言葉に、私は首を振るのをやめて、矢口の方を見た。
普段の明るい姿からは想像もつかない、暗い海の底のような瞳の色をしていた。
「カオをね、怒らせるつもりじゃなかったの、ホントだよ?」
「だから、怒ってない」
「じゃあ、何でそんな怖い顔してるの?
邪魔なら、ヤグチのこと跳ね除ければいいじゃん。
カオの力なら、ヤグチを除けるくらい簡単でしょ?」
矢口の口調は強く、けれどそれは駄々をこねる子供の口調だった。
気付けば、海の底のような瞳に涙が浮かんでいる。
矢口は言葉を切り、首を振り、その瞳を、ゆっくりと閉じた。
- 18 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時54分37秒
- 「何?」
少し冷静な思考を取り戻していた私は、
今の状況を正確に把握することができ、そして焦った。
矢口は膝の上で、瞳を閉じながらこちらを向いている。
この状況はまるで、恋人同士のそれではないか。
「なんなの、矢口…」
焦りと云うより、恐怖だった。
矢口は一言も発せず、ただ閉じた瞳をこちらに向けている。
それは、誘い以外の何物でもなかった。
「なんでもない。
カオの好きなようにしなよ」
「好きなようにって…」
「云われたとおりにするよ、降りろって云ったら降りる」
矢口は相変わらず瞳を閉じたまま、潤んだ声でそう云った。
- 19 名前:第一章 投稿日:2003年07月01日(火)19時55分00秒
- 「矢口…」
冷静な思考を取り戻しては、やっぱりいなかったのかもしれない。
その言葉の後、私は左手を矢口の背に回した。
ぴくと小さく矢口の身体が揺れたのがわかる。
それを見た私は、喜んでいた。
明らかなに、矢口に手を掛けることを嬉しがっていた。
もう、ストッパーのある場所など振り切っているのだ。
「そのままでいなよ」
矢口が頷く。
私は空いていた右手を自分の口に持っていくと、人差し指をスッと下唇の上を滑らせた。
うっすらと人差し指が濡れる。
一つ息を呑んでから、その人差し指を、矢口の下唇へと持っていった。
ゆっくりと、指が矢口の唇の上を這う。
濡れた指はまるで舌のように官能的に、矢口に絡みついた。
「カオ…」
矢口の声がか細く震えた。
「嫌だったら逃げな」
それだけ云って、私は矢口の肩に手を掛けた。
夏はまだ遠いのに、白い肌は細かい汗の粒を湛えて、天井の蛍光灯に煌いていた。
矢口は、逃げなかった。
- 20 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月01日(火)19時56分24秒
- 更新は十日に一回程度。
分量は二十レス前後。
興味が湧きましたらお付き合い下さい。
- 21 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月03日(木)01時17分52秒
- たいへん魅力的です。
- 22 名前:読み人 投稿日:2003年07月03日(木)14時19分04秒
- ヤグカオでこれわ・・・
ステキスギデス
- 23 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時20分04秒
- 三
十五分の道程は、案外辛いものではなかった。
ここだよ、と矢口に示された時には、もう着いたのかと思ったほどだ。
そこは居酒屋と云うよりはバーで、洒落た外観は朝陽にそぐわない気もしないでもない。
OPENの札のかかったドアを押し開けると、店内は暗く、
ジャズらしき音楽が小さな音量でかかっていた。
- 24 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時20分28秒
- 「いらっしゃいませ」
人のよさそうな笑顔を作ったマスターが声を掛けてきて、カウンターへと私達を促した。
店内には客はいない。
平日の午前と云うことを考えると当たり前だという気もする。
私は椅子に腰掛け、膝にハンドバッグを置いた。
「ドライマティーニと…」
カウンターの椅子に腰を下ろした矢口はそこまで云うと私の方に視線を向け、
「何にする?」
「同じものを」
私がそう云うと、マスターは黙って頭を下げ、準備に取り掛かった。
すぐに、黄金色の液体を二人の前に差し出す。
「うちのマティーニはベルモットが強いレシピとなっていますので、
お気に召さないようだったら作り直させていただきます」
わざわざマスターは丁寧にそんな言葉を付け加えてくれたけれど、
結果からするとそれは要らぬ心配だった。
とにかく舌触りが滑らかで、マティーニ特有の心地よい酩酊感がふわりと広がる。
これならいくら空腹でも悪酔いはしなさそうだ。
「美味しいです」
私の言葉にあわせて矢口も頷くのを見て、マスターは人のよい笑顔を作った。
- 25 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時20分55秒
- 矢口はペースが速かった。
やはり機嫌はよくないらしく、いくつか注文した料理に手をつけるのもそこそこに、
ガンガンとカクテルを注文していく。
それも強いカクテルばかりを頼んでいるせいで、見る見るうちに頬が染まっていった。
私が通算で三杯目のエンジェルフェイスを飲んでいる時、
通算で十一杯目のホワイトルシアンを飲みながら、ついに虚ろな目で語りだした。
「ごっつぁんは怪しいんだ」
青息吐息のその言葉に生気はなかった。
「いつからよ」
「実は結構前から…」
「心当たりはあるの?」
「いや…。
だけど、なんか、誰かいる気がする」
「誰かって誰が?」
「知らない、知らないけど、でも誰かいるよ。
ごっつぁん少し明るくなったし、今日だって、申し訳なさそうにしてたけど、
何となく嬉しそうな感じもしたし、ていうか、ごっつぁんはあんなに可愛いんだから、
誰かに目をつけられてることだって十分にありえるわけだし、
でも、ヤグチの事嫌いになられちゃうと嫌だし…」
酔っ払いの口から繰り出される言葉の一つ一つに対応していてはとてもではないが追いつかない。
そして、大部分はノロケだ。
私は最後に一括して大きく頷いた。
- 26 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時22分55秒
- 「でも、あの後藤が矢口を裏切る──裏切るってのも変だな、
矢口に対して後ろめたいようなことをすると云うか、
そんなことができるタイプの人間とは思えないんだけど」
「それはオイラもそう思う。
でも、ごっつぁんの様子が変なのは確かなんだよ」
ホワイトルシアンを空けた矢口は、グラスホッパー、とカウンターに向かって叫んだ。
お喋りモードに入るつもりらしい。
「ごっつぁんて、嘘下手じゃん?」
「そうだね、すぐ態度に出るよね」
「うん、正直でいい子なんだけどね。
だからさ、やっぱり少しよそよそしいかなって思うわけよ」
「ずっと傍にいた身としては?」
私の言葉に何か云おうとして、しかし矢口は言葉を飲み込んだ。
まんざらでもないのだろう。
心なしか嬉しそうな顔をして、グラスホッパーを受け取り、口をつけた。
- 27 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時23分33秒
- 「何とかさ、調べられないかなぁ」
グラスから口を離した矢口は、悲痛な音を湛えてそう漏らした。
少なくない量の酒が入っているとは云え、どちらかと云うと酒豪の部類に属する矢口である。
空腹も手伝って軽くは酔っているだろうけれど、
自分が口にしていることすら理解できていないほど、意識を失っているとは思えない。
口をついて弱気な言葉ばかりが出てくるのも、すべて自分の意思によるものに違いない。
後藤の存在がどれほど矢口の中で大きいのか、まざまざと見せ付けられている恰好だ。
とは云え、ここはそれを茶化して場を明るくする雰囲気でもない。
私が返答に窮し黙って酒を口に運んでいると、矢口の方から尋ねてきた。
- 28 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時24分41秒
- 「カオリはどうしたの?」
「うん?」
「だからさ、こんな時。
こういう事はなかった?
カオリ達も、二年くらい付き合ってたんでしょ?」
ああ、と過去を掘り返す。
無かった訳がない、いや、それどころか月一くらいで恒例行事になっていた感すらある。
マンションに入って開口一番に相手をなじった回数など、
両手両足の指では到底足りない。
嗅いだことのないいい匂いがするね、昨日は遅くまで何やってたの等々、
言葉のレパートリーも情けないほど豊富にある。
物が飛んだ事も一度や二度でなかったし、
口を突いて出てくる愚痴や文句を垂れ流したままカプセルホテルの薄い布団で寝た事もあった。
それでも、結局二年以上一緒にいたわけだ。
- 29 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時25分11秒
- 「特に、何をしたわけでもないけどね」
全くアドバイスになっていないことはわかっていながら、
創作をでっち上げるわけにもいかない。
そう云うと矢口は意外そうな顔をした。
「何もって?」
「ホントに何も。
向こうの機嫌が悪かったら話さなかったし、こっちの機嫌が悪かったら応えなかった。
腹が立ったらいないものだと思って扱ってたし、向こうもそんな感じだったから。
それでも、揉めてから二日もすれば仲なんて戻るもんだよ。
ウチラと違って今までの二年は何もなかったんでしょ?
ウチラなんて一番最初のイザコザは四日目だったからね」
私が云い終わるのを待たず、露骨に矢口は顔をしかめた。
- 30 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時25分33秒
- 「それ凄いね」
「そうかな」
「それって恋愛なのかな?」
矢口の言葉は意外だった。
「違うか?」
「わかんないけど、オイラが連想してるものとは違う」
矢口の連想している恋愛とはどういうものだろうと、少し考えてみた。
矢口の性格からすれば、常に笑いの耐えない、一緒にいて楽しい人と、
一秒たりとも離れたくないと云う思いを引きずりながら週末を待つ、とこんな感じだろうか。
困った時は話し合いで解決するのかもしれない。
それを裏付けるように、矢口が訊いてきた。
「カオリは、一緒にいる間楽しかったの?」
そう云われて、また少し考える。
彼女の作る料理は美味しかったし、お金の使い方も常識の範疇だった。
気詰まりを感じる事も一度もなく、お互いの機嫌さえよければ、助け合って生活できていた。
することやしないこともしていたし、倦怠期の夫婦でもなし、
それを義務だと思ったことや億劫だと思った事もない。
矢口の理想とは掠りもしていないけれど、私は彼女といることに不満はなかった。
「楽しかったよ」
だから、私はそう答える。
矢口は複雑な顔をして、残っていたグラスホッパーを一気に空けた。
- 31 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時26分23秒
- 四
矢口との肉体関係を得てから数日、お定まりのように、
私達二人の間にはあまり好ましくない空気が漂っていた。
そしてこれもありがちで、その原因は間違いなく私が一手に担っていた。
要約すれば、自己嫌悪である。
成り行きとは云え、矢口を抱いた。
その事実が妙に重たく私にのしかかり、それどころかやるせなさまで引き連れてきたものだから、
矢口の姿を見ると、相手の表情を確認する間もないまま、身体は回れ右をする技を会得してしまっていた。
情けない。
一丁前に自分を批判している自分が嫌いだった。
矢口とはあれ以降話をしていない。
矢口がどう思っているのか──もちろんよく思っていることはないだろうけれど──
私はそれすら知らないままに、自分を苛めていた。
- 32 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時26分48秒
- そんなこんなで一週間が過ぎた頃、矢口に待ち伏せを食らった。
授業を終えマンションに帰り、エレベーターに乗り込んでみると、小さな先客がいたのだ。
「おいカオリ」
回れ右をしようにも、既に扉の閉まったエレベーターは密室である。
トンネル効果が発動することに賭けて扉にぶつかっていくのも面白いと云えば面白いのだけれど、
実際そんな考えは頭をよぎりもしなかった。
ただただ焦ってしまい、
「何でアンタがここにいるのよ?」
「待ってたから」
「何で待ってんのよ?」
「カオリが逃げるからじゃん」
「何で逃げるのよ?」
「はぁ?」
こんな調子で一向に要領を得なかった。
- 33 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時27分12秒
- とにかくわざわざ私のマンションまで来て待っていたと云う矢口を追い返すわけにも行かず、
とりあえず部屋に上げた。
家主より先に、散らかってるね、と云い捨てやがった目の前の小さい奴は、
どうやら先のことをあまり気にしている風でもない。
「悪かったわね」
「オイラが通い妻になって掃除してやろうか?」
と思っていたら奇襲を食らった。
私が言葉をなくすと、矢口は冗談だよ、とそっけなく云った。
「掃除して欲しかったらカオリが通って来い」
わけがわからない。
「何云ってるのかわかんないよ」
「動揺してるんだよ。
襲われた女の家に一人で乗り込んでるんだから」
また言葉をなくした私に、冗談だってば、と今度は笑って云った。
- 34 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時28分17秒
- 矢口をリビングに通しておいて、私はキッチンへと入った。
インスタントのコーヒーを入れていると、お構いなく、と云う声が聞こえる。
その声にも無駄な力は入っておらず、どうやら矢口は本当に気にしていないらしい。
段々と肩肘を張っていた自分をバカらしく感じ始め、
カップに湯を注ぎながら、私は比較的穏やかな気持ちで叫んだ。
「矢口さー、本当に何しに来たの?」
「報告ー」
「報告?」
カップを直接両手で持ちリビングに入ると、矢口はソファでくつろいでいた。
カップを渡して、立ち上がろうとする矢口を押し止め、私は床に地べたに腰を下ろす。
テーブルに常備してあるスティック砂糖を一本引き抜きながら、矢口に訊き直した。
「報告って何?いいことでもあった?」
「あった」
私に倣ったのか砂糖を流し込みながら、矢口はもったいぶらず云った。
なんにでもはきはきと折り目をつけた行動を取るのは矢口の特徴の一つだった。
「恋人が出来た」
だからその言葉も、普段の何気ない言葉と同じように、ごく自然に矢口の口からこぼれた。
- 35 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時28分44秒
- 「恋人…」
口をつけようと口元まで運んでいたカップを離し、呟きながら矢口を見た。
矢口は柄にもなく視線を合わせようとせず、しきりにカップをいじっている。
その仕草は幼くそして女らしく、何故だか子供を見守る母のような気持ちが湧き上がっていた。
「それは当然…」
「もちろん」
女性なのだろう。
矢口は、同性しか愛せないレズビアンに近いバイセクシュアルだ。
「どんな子なの?」
「二個下の、同じバイト先の子でね。
来年はうちの大学に来て、サークルにも入ってくれるって。
やっぱさ、裕ちゃんとか、有名じゃん」
「かわいい?」
「かわいい」
恥ずかしげもなくそう云った矢口の頭を、知らず知らずのうちにくしゃくしゃと撫でていた。
なんだよぉ、と暴れる矢口を押さえ込んで、
「おめでとう」
そう云うと、矢口は少しはにかんだ様子で笑った。
- 36 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時29分31秒
- 「ごっつぁんって云う子なんだけどね、本名は後藤真希って云う子なんだけど。
もうね、凄いかわいいの。
ちょっと身体が弱くて、うちのバイトでも座りの事務の方をやってるんだけど、
ヤグチが大学のこと話したら、凄い目を輝かせて話聞いてくれてね」
話を聞きながら、また、矢口とじゃれながら、私は冷静な自分に気付いていた。
ここ一週間自分の胸の中で暴れている奴から逃げ回っていた人間とは、我ながらに思えない。
まるで熱病が見せた幻のように、身体を重ねたという事実は遠い過去のこととなって、
私の中で溶け出し流れ去ってしまったらしかった。
今はただ、彼女が出来たと喜ぶ矢口を、心から祝うことが出来ている。
- 37 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時29分54秒
- 「でもカオリ」
「ん?」
「…ごめんね」
急に私の胸の中で矢口が萎れた。
先日のことを云っているのは明白だった。
私は矢口を開放し、やはり母親が子供を諭すように、噛んで含める話し方をした。
「いいって。
新しい子…ってのも変だな、その子と仲良くやりなよ」
矢口は黙って頷き、それから普段通りの企み深い笑みを向けてきた。
「でも好きだよ、カオリのこと」
「バカ、そう云うことは云うもんじゃない」
小突く真似をすると、矢口は身を捩って逃げ出した。
その笑顔はやはり矢口らしくて、ああ私は矢口が好きなんだなと改めて実感する。
ただしそれはあくまで友愛の情であり、
そしてまた、口にする事もなく、時間は流れていった。
- 38 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時30分30秒
- 五
グラスホッパーを空けた瞬間、矢口は酒に毒でも盛られていたのかと訝らなければならないほど、
綺麗に九十度の弧を描いてカウンターに沈没した。
あまりの音の大きさに、
何かの仕込みかバックヤードに引っ込んでいたマスターが慌てて飛び出してきたほどだ。
「大丈夫ですか?」
勢い込んで云うマスターに事情を説明すると、それならこのまま寝かせて起きましょうかと提案してきた。
「いいんですか?」
「ええ、どうせ昼から酒を飲みに来る客などいませんし」
目の前に朝っぱらから飲んでいる客がいるにも拘らず、マスターは人のいい笑顔で云った。
私は肩を竦めるよりない。
「臨時休業にしたところで文句を云うお客さんもいませんしね。
私にも時間が出来て感謝したいくらいですよ」
それならば初めから夜だけの営業にすれば、と云うことはきっと云ってはいけないのだろう。
私は頭を下げ、一緒に休ませてもらってもいいかを尋ねた。
朝早く矢口に叩き起こされたせいで、眠気が最高潮に達してきていた。
- 39 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時30分51秒
- 「構いませんよ。
酒が飲みたくなったら、適当に抜き出して作って飲んでくださっても結構ですから」
そう云うとマスターはいそいそとエプロンを脱ぎ出した。
人がいいと云うのかなんと云うのか、もうよくわからない。
空調はそのままにしておきます、とだけ云い残して、マスターはバックヤードに消えた。
程なくして裏口付近から、バイクの走り出す音が聞こえた。
本当に行ってしまったらしい。
なんと楽天的な、と思わずにはいられなかった。
私達が強盗でも働いたら──今の状態ならば空き巣だろうか──どうするつもりなのだろう、
と余計な心配までしてしまいそうになる。
しかし、そんな思考も長くは続かなかった。
早起きが祟り、猛烈に眠い。
隣から聞こえる矢口の寝息が、脳の中枢神経を締め上げているような、
何かの拷問のように、私に眠りを強要してきた。
が、拷問と違うのは、私自身も眠りを嘱望していたところだ。
誘われるがまま、私は机に突っ伏した。
- 40 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月03日(木)23時32分06秒
- 字数制限と連続投稿規制に弾かれまくり。
>>21>>22
レス有り難うございます。
- 41 名前:タケ 投稿日:2003年07月07日(月)17時06分45秒
- かおやぐ?やぐごま?
とにかく面白いです。
続き期待
- 42 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月08日(火)00時33分19秒
- ごっちんがどのように描かれるのかが楽しみです。
- 43 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時53分08秒
- 『第二章 八月の暑さと悪魔』
どうする?続ける?やめる?
- 44 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時53分47秒
- 一
目覚めは唐突に訪れた。
目が覚めてみると、嫌に冷たい空気が私の身体に纏わりついていた。
学生時代に親に横っ面を引っ叩かれながら起こされたことを思い出しながらうっすらと目を開けると、
辺りは暗く、頭上からは、なにやら摩訶不思議な言葉が聞こえてくる。
寝ぼけた頭で状況を理解できないまま、私は軽く首を左右に振ってみた。
暗いせいで状況を把握することは出来なかったけれど、唯一つ、確信したことがあった。
ここは、バーではない。
- 45 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時54分18秒
- 何?じゃあ何だここは?
冷静にバーではないことを確認してから、急に私は不安に襲われた。
どこだここは?私はバーで眠っていたじゃないか。
突然辺りの風景が一変したことで混乱した私は、落ち着きをなくし、
先程より大きくかぶりを振り、周りを見た。
両隣から直線状に、ワインレッドの背もたれ付きの椅子が伸びていた。
私の隣には人はおらず、左側には二席ほど間を置いて、女の人が座っている。
こちらの挙動不審な様子を気味悪がっているらしく、チラチラと視線を飛ばしてくる。
その視線から逃げるように右側を見ると、そちら方面には人は誰も座っていない。
眼前にもその椅子の海が広がり、瞼の上で何かの明かりが明滅を繰り返している。
椅子に腰掛けている人の数は少ないらしく空席が目立ち、
先ほどからひやりとするのは頭上で唸っている冷房のせいなのだと察しが付いた。
目の前では、大きなスクリーンに映し出された男女が、唇を重ねていた。
映画館だ。
そう結論付けるよりなかった。
なぜか私は、バーで眠っていたはずの私は、目を覚ますと映画館にいた。
- 46 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時55分10秒
- 現場がわかっても、状況がわかったわけではなかった。
私は映画の最中である事も気にかけず、慌てて映画館の外に出てみた。
途中、受付のおばちゃんが物珍しい目で私をねめつけていたけれど、気にしている暇も余裕もない。
外に出ると、ねっとりとした纏わりついてくるような暑さが漂っていた。
夏だ。
初夏では、バーに入るまでの道中を歩いた季節ではない。
何だこれは。
私は自分の見ているものが信じられず、大急ぎで両目を擦ってみたが、
多少風景が滲むばかりで、大きな変動は起こらない。
夢か、そう思って頬をつねってみても、痛みはしっかりとやってきた。
夢ではないのだ。
夢ではないと云うことは、現実なのだ。
そんなわかりきったことを頭の中で反芻した。
どこだここは?今はいつ?いや、私はどうなった?そもそも私は私なのか?
急流のように言葉が押し流されてきては、脳の片隅に引っかかる。
どれもこれも確認すべき大事なことだ。
しかし、どれが最も大事なのかわからない。
何を確認すべきなのかわからない。
冷静さを失った頭では、何をどうしていいのか、全く見当がつかないでいた。
- 47 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時55分44秒
- 「ちょっと、嬢ちゃん嬢ちゃん」
いきなり後ろから声をかけられて、私は物凄い勢いで振り返ってしまった。
見ると、先ほどの受付のおばちゃんが、驚いた表情でこちらを見ていた。
「なんですか?」
「何でそんな鬼気迫る表情をしとんね。
それよりとりあえずお金お金、映画代払ってや」
そう云っておばちゃんはちょこんと両手を差し出す。
私の混乱に一層拍車がかかりそうになるのを何とか押しとどめて、
私は確認をするようにゆっくりと言葉を繋いでいった。
「お金ですか?映画だから、前払いじゃないんですか?」
「他はそうだろうよ、でも、ウチは後払い。
アンタだって金払わずに入ったじゃないか」
叫び出したい衝動に駆られるのをまた何とか堪える。
もう頭は焼きつく寸前だ。
「すみません、お金払いますから、少し待っていただけますか」
私はおばちゃんにそう断って、目を閉じた。
考えを落ち着けるためだ。
その成果が早速出たのか、私は肩にぶら下がっていたバッグの存在に気が付いた。
- 48 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時56分40秒
- 「すみません、お金、いくらですか?」
しばし瞑目したまま考えた後、私はそう云っておばちゃんを見た。
少し落ち着きは戻ってきていた。
「千円だよ」
「はい、すみません」
バッグから財布を取り出し札を手渡すと、おばちゃんは満足げに館に戻ろうとしたけれど、
寸での所で私が引き止めると、不機嫌そうな顔をこちらに向けてきた。
「なんだい?」
「えーと、今から少し不思議なことをお訊ねしてもいいでしょうか?」
その問い自体からして不思議なことは十分承知していた。
事実、おばちゃんはキョトンとしてこちらを見ている。
「…ダメって云ったらどうするんだい?」
「困ります」
「…云ってみな、なんだい?」
おばちゃんは諦めにも似た口調で、身体ごとこちらに向けてきた。
「えー、まず、ここは昭和映劇ですね?」
「そうだよ」
何をわかりきったことを、と訝るおばちゃんだったけれど、
私は安堵から一つため息をついていた。
後払いの映画館と云うものに覚えがあったのだ。
これでいくつか発見があった。
まず、この場所を私は知っていると云うこと。
- 49 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時57分10秒
- 「それと、今日の日付を教えて欲しいんですけれど…」
この質問には、流石におばちゃんは不満と云うより不安げな顔を見せた。
やばいぞこの女、最近の暑さでねじが飛んだか、と目が雄弁に語っているけれど、
今更臆して背を向け逃げ去るわけにも行かない。
苦行にも似た嫌な沈黙が続いた後、
「今日は八月四日に決まってるじゃないか。
それとも何かい、私の知らない間に太陰暦が採用されたのかい?」
皮肉っぽいというより皮肉そのものと云った感じだった。
「いや、そんなことはないと思いますけれど…」
ない、と断言できない己が辛い。
おばちゃんはもううんざりだと云った感じで背を向けたが、
私はその背中にもう一つ質問を浴びせかけた。
「あの、西暦は何年ですか?」
おばちゃんはもう私の顔も見たくないらしく、吐き捨てるように背を向けたまま云った。
「二千三年に決まってるじゃないか」
それきり、おばちゃんは肩を怒らせながら館へと戻ってしまった。
しかし私は現時点でかなりの情報を得たことに満足し、
おばちゃんの背中に向かって、無言で頭を下げた。
- 50 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時58分21秒
- 映画館から離れ、近くの公園の木陰に身を寄せた私は、現在の状況の整理を始めた。
まず、今いる場所は映画館近くの公園。
これは間違いようがない、何せ自分で確認している。
次に時間は、腕時計を見ると十二時半を回っている。
正しいのかどうかははっきりとはしないけれど、目安程度にはなるだろう。
続いて、私は誰か。
これも自分で確認している。
念のため髪を触ったり腕をつねったりしてみたけれど、
どうやってみても私は私、飯田圭織であることに間違いはなさそうだった。
そして最後、これが最も感じなことだけれど、今はいつなのか。
おばちゃんの云うことを信じるならば、今は二千三年の八月四日と云うことになる。
二千三年の八月四日。
私は声に出してそう云ってみた。
もしそれが本当なら、私は過去に来ていることになる。
バーで眠った時間から遡ること二年の過去へ。
- 51 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)01時59分03秒
- 今のところ、それを確認する術はない。
けれど、私はおばちゃんを疑ってはいなかった。
なぜなら、嘘を付く理由がない。
私に日付を偽って教え、得することなど何もないからだ。
得すると云えば、おばちゃんは私から映画代の千円を巻き上げたが、
まさかそのためだけに私をバーから連れ出し、映画館に寝かせ、
日付を偽ったなどと考えるのは牽強付会にも程がある。
最もその過程はそれ以前に、季節が違うと云うことで葬られているわけだけれど。
「と云うことはだ」
自分を鼓舞する意味も含めて、私ははっきりと声に出した。
認めるよりないらしい。
どうやって、また何故かはわからないけれど、私が過去へ来てしまったことを。
それも二年前の夏へ。
- 52 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時00分03秒
- 二
バッグをあらかた調べてみても、なくなっているものはなかった。
服装にも変化はない。
財布には、一万円札が二枚と千円札が二枚、それと千円程度の小銭が入っていた。
それも記憶の限りでは減っていない。
どうやら、私が身につけていたものは、私と一緒に過去へと飛んできたらしい。
当たり前と云えば当たり前なのかもしれないけれど、これはありがたかった。
とりあえず、私はタクシーを止めるために大きな道へと出た。
先ほどの映画館が昭和映劇であるなら、場所に心当たりがある。
タクシーが通りかかるのを待ちながら、私はこの不思議な現象をもう少し突き詰めて考えてみようとした。
- 53 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時01分17秒
- タイムスリップ。
この言葉を当てはめざるを得ない現象の渦中に私が放り込まれたことはどうやら間違いないらしい。
それは、目の前に大きく居座っている建物からも確認することができた。
平成座の古びた建物に青いシートがかけられ、つなぎに黄色いヘルメットのおじさんたちが、
なにやら設計図らしきものを覗き込みながら談笑している。
きっと取り壊しの算段だろう。
平成元年の幕開け早々にこけら落としのされた平成座は、
この夏──二年前の夏──に、十五年と云う短い歴史に幕を閉じる。
既に私のいた時代には、跡地にはパチンコが建っていることからも、
今の時代が過去であることの傍証になった。
- 54 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時01分49秒
- しかし。
おかしな言葉だけれど、こんなものなのかと云う感じは否めなかった。
タイムスリップと云えば、
教科書でしか知らないような大昔へ飛んでしまって四苦八苦すると云うイメージがある。
田舎に建った超高層ビルのように、一人だけその時代の色に馴染まず、
見るもの聞くものに混乱し、手探りで進んでいくと云うイメージがある。
けれど実際は馴染まないどころか、ほとんど現代と変わらない、極近い過去に飛んできた。
タイムスリップを論理的に解明、説明できるとは思わないけれど、
どのくらい過去へ、或いは未来へ飛んでしまうのか、それには法則でもあるような気がしてならない。
- 55 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時02分33秒
- などと余計なことを考えていたら、タクシーを一台見過ごしてしまった。
私は頭を一度小突いて、目の前を通る車に目を凝らす。
もっとも、タクシーに乗った後のことを深くは考えていなかった。
とりあえずはマンションに行こう。
そう思ったものの、マンションに行くと、色々と厄介なことがあるかもしれない。
まず、こちらの時代の私に逢ってしまうかもしれないと云うこと。
いや、もしかしたらこちらの世界に過去の私はおらず、いるのは現在の私だけなのかも知れない。
けれど、それはきっとないだろう。
そうすると、色々な矛盾や綻びが山と出てきてしまう。
つまり、もしこの世界にいる私が私一人だけならば、元々この世界にいた私は何処へ行ってしまうのか。
考えれば考えるほどに頭が痛くなりそうだ。
なので、私はすべてを簡単に考える事にした。
- 56 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時02分56秒
- 私が異端なのだ。
ここは、私が生きて生活していた二年前に間違いない。
そこで私は何不自由なく、不思議な体験に出逢うこともなく、平穏に生活していた。
もちろん、もう一人の自分とばったり出くわした事もない。
そしてきっと出くわしてはいけないのだ。
過去を変えてはいけない。
よく耳にする言葉だけれど、まさか自分が体験することになるとは思わなかった。
私はやってきたタクシーをやり過ごした。
マンションにいくのはやめた。
焦って行動しても仕方がない。
じりじりと照りつける太陽を避けながら、そしてもう一度冷静にことを見つめなおすため、
私は近くにあった喫茶店に飛び込んだ。
- 57 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時03分33秒
- 喫茶店はよく冷房が効いており、席は空席が目立った。
なぜか見覚えのある内装をしている。
戸惑いながらも私は窓際に席を取り、やってきたウェイトレスにアイスティーを頼む。
ウェイトレスが戻って行った後、私は鞄からペンとメモ帳を取り出し、
今わかっている事の書き出しを始めた。
まず、二千三年八月四日。
二千三年と云うことは、こちらの私は大学四年生だ。
カリカリとペンを走らせる。
矢口が二年で…。
と、そこまで書いて、私は動きを止めた。
矢口が二年で、私が四年。
その言葉が頭の片隅に引っかかる。
矢口が二年で私が四年の夏。
春先には矢口に恋人が出来たという話を聞き、晩春には論文を発表した。
そして…。
- 58 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時03分56秒
- どこかの神経がぷつりと切れてしまったかのように、私は身動きをとれなくなっていた。
ウェイトレスはそれに気付かなかったのか、言葉をかけてアイスティーを置いていった。
氷がカラン、と音を立てたけれど、その音が嫌に遠くに聞こえた。
二千三年八月、何故忘れていたんだろう。
いや、忘れたわけではない。
忘れるわけがない。
突然のタイムスリップに、ちょっと記憶が混乱しただけだ。
私は慌てて自分に言い訳をし、頭に浮かんできた言葉をメモ帳に書き留めた。
「自殺」。
そう。
その時に起こった事と云えば、自殺じゃないか。
- 59 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月10日(木)02時05分24秒
- 一週間ほど書けずにいたら、書きたいことを忘れていた。
洒落にならない。
>>41>>42
レスありがとうございます。
- 60 名前:読み人 投稿日:2003年07月10日(木)03時53分10秒
- 思わぬ方向に展開してますね…
楽しみです。
- 61 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月10日(木)21時09分53秒
- なにー!そう来たか!そうなのか!
- 62 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時21分05秒
- 三
二千三年の八月は、自殺の当たり月とも云うべき悲惨な月だった。
私達の大学関係者が三人、学外の知り合いが一人、立て続けに自殺を試み、
そのうち二人が命を失っていた。
一人目は市井紗耶香と云う、当時大学へ入学したての一年生だった。
自宅で首を吊っていたと先生は話した。
「自殺ぅ?」
その話を部室で聞いた私と矢口は声を揃えてそう云った。
先生は頷いてから、意外そうに眉を顰め、
「おかしいか?」
「おかしいよ、アイツが自殺だって?
殺しても死なないような奴じゃん」
矢口がまくし立てる。
「カオリもそう思うでしょ?」
「そうだね。
自殺なんてバカのすることだって云うタイプだからねアレは」
「なんやなんや、穏やかやないな」
私たちが二人して過激なことを云うものだから、
先生も興味を引かれたのか、身を乗り出して話を聞き始めた。
- 63 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時21分37秒
- この当時、市井の名は学内全体に浸透しており、
その名前を知らないものはいない、と云っても過言ではないほどになっていた。
理由はいくつかあり、まず父親が然る大物政治家であること。
彼女はそれを鼻にかけ、ことあるごとに口にしていた。
「うちの親に頼めば、出来ないことなんてないんじゃないかな」
政治家の家らしく金回りがよく、
またボーイッシュながら女として完成されたスタイルを保持していた彼女の周りには、
いつ見ても、親衛隊よろしく数人の男が取り巻いていた。
「ヤバイ、疲れた。
誰かアタシの荷物持ってくれない?」
周りの男に大して荷物も入っていなさそうな鞄を持たせ、自分は手ぶらで歩く。
その尊大な態度は学内にすぐさま知れ渡り、入学から僅か一月で、
彼女は大多数の生徒から嫌われる対象へとなっていた。
- 64 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時21分58秒
- しかし、極一部の人間の中では、彼女は神格化されるほどの人気を誇ってもいた。
「おい、聞いたか?市井に金払ったらヤれるって」
「ああ、アイツ五万で二発だとか云ってたな」
彼女は特定の恋人を持たず、男遊びに溺れるタイプの人間だった。
金を払えばヤらせてくれる、また、彼女自身が気に入った人間に対しては、
親の力なのだろう、目の玉の飛び出るような額を積んで、ペット同然に扱う、
と云ったまことしやかな噂が流れ出し、愚かな男どもは掌を返すように彼女の前に跪いた。
恋人が彼女に陶酔し、わかれざるを得なくなったカップルも十では利かない。
「あんな奴、死んでしまえばいい」
そんな言葉が、彼女の話題になると極自然に出ていた。
多数の男が彼女を支持し、すべての女が彼女を拒絶した。
そしていつしか、女同士の会話で、彼女の名前が出る回数は少なくなっていた。
- 65 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時22分35秒
- 「ふーん、全然知らんかったわ」
話を聞き終えた中澤先生は、よく出来た作り話を聞いたと云った風に、満足げに頷いた。
目ざとい矢口が噛み付く。
「信じてないだろ?」
「信じてないわけやないよ。
実際そういう噂は耳にしたことあるしな」
「なんだ、知ってたんじゃん」
「知ってたわけやなくて、噂や噂。
アタシ授業してへんしな」
確か彼女は経営学部だったはずだ。
心理学科に講義を持つ先生に面識がなくても無理はない。
「でも、それがホンマの話やったら嫌な女やな」
「本当だよ、最悪だよ、ね」
矢口が振ってきたので答える。
「一回すれ違ったらわかるけどね、頭かち割りたくなるよ」
学内のほぼ中央にある総合棟の中のレストランですれ違った時のことを思い出しながら云った
私の言葉に、二人は軽くあとじさった。
「云うねぇ、カオリ」
「カオリがそこまで云うなら相当なもんなんやな」
失礼な、と思わないでもなかったけれど、どうやらわかってくれたらしいのでよしとした。
- 66 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時23分07秒
- 「ほんなら、自殺なんておかしいなぁ」
先生がタバコに火をつけながら呟いた。
この先生の咥えタバコの姿は本当に様になっている。
「絶対おかしい。
殺されたって云ったら一も二もなく信用するけど、自殺なんてありえないね」
「自殺ってのは決定なの?」
私が訊くと、先生は煙を吐き出しながら云った。
「いや、ただ自室で首を吊っとったからなぁ」
「ギソウコウサクだよ」
いかにも初めて使いましたといった感じのたどたどしい喋り方で云う矢口がおかしい。
そして、私には矢口の気持ちが少しわかる気がした。
「…矢口、殺されてて欲しいと思ってるでしょ?」
「当たり、流石だね」
顔を見合わせてニヤリとする二人を、先生は怪訝そうな顔で見つめていた。
- 67 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時23分38秒
- 「おいおい、聞き捨てならんな」
「深い意味はないよ。
少なくとも私はね」
「オイラだってないよ」
「じゃあ、殺されてて欲しいってどう云うことや?」
先生が灰になったタバコを灰皿に押し付けながら云うと、矢口はあっさりと答えた。
「だって、自殺なんて許せないもん。
人生メチャクチャとまでは云わないけどさ、
大学生活があいつのせいでメチャクチャになった子なら山ほどいるよ。
そんな子達を差し置いて勝手に死ぬなんてふざけるなっつうの」
口調は厳しいものだったけれど、ね、と向けられた視線は優しいものだった。
きっと市井のことなど考えてもいないに違いない、と思う。
矢口が考えているのは、被害にあった子達の方に決まっているのだ。
「そう云うこと」
私が相槌を打つと、先生は苦笑しながら頭を掻いた。
「なんちゅうやつらや」
「慈悲深いオイラ達にそこまで云わせるような人間だったんだよ」
- 68 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時24分02秒
- *
そうだ、そうだ。
私は頭の中で反芻した。
記憶が戻ってくるのが実感としてわかる。
燻っていた炎が一瞬にして燃え盛るのにも似た高ぶりも覚える。
市井が死んだ月だ。
そして私は懸命に記憶を手繰り寄せ、その日付を割り出した。
一日。
市井が死んだと訊かされたのは、一日だ。
慌てて私はその事をメモ帳に書き込む。
意味があるのかよくわからなかったけれど、手は止まらなかった。
市井について書き終えると、ようやく終わったかと云うようにまた、
埋もれていた記憶が掘り起こされ日の目を見る様子が身体全体に伝わってきた。
あれは…。
- 69 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時24分24秒
- *
翌日。
学内は思ったほどの騒ぎにはなっていなかった。
女子はもちろん無関心、と云うよりもしかしたら知らないんじゃないかと思わせられるほど、
普段となんら変わらない過ごし方をしている。
男子の方は、やはり女子ほど冷静ではいられないらしい。
四、五人で固まって何かを話し合っている集団があったり、
写真に向かって涙を流し「僕は君のことを心から」云々と騒いでいる奴がいたり。
何だかなぁ、となぜか妙に情けない気持ちで部室に入ると、
矢口が大口を開けて間抜けな顔でこちらを向いていた。
「何、矢口どうしたの?」
私が訊ねても矢口は小さく首を振るばかり。
そして、自分の背後にある窓を指差した。
「何?なんかあんの?」
少し不安を感じながら、いまだ反応のない矢口の横を通りすぎて外を見てみると、
窓に身を乗り出した男子学生が見えた。
- 70 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時24分45秒
- 「何やってんの、あれ?」
その男子学生は半身を窓の外に投げ出し、なにやらワーワーと喚いている。
吹きさらしの風が吹きつけ、服の裾がはたはたと揺れている。
下を見ると、小さな人だかりが出来始めていた。
皆上を見上げて口々に何かを云いあっているらしく、
ぱっくりと開いた口を見下ろすことが出来る。
「矢口、アレ何してんのよ?」
振り返って矢口を見ると、まだ腑抜けたように口を開けている。
いい加減、矢口の様子が普通でないことに気付いた私は窓を離れ、
矢口に駆け寄り身体を大きく揺らした。
「矢口、矢口、どうした?」
「…アホだ」
「は?」
「アホだよ、あんなアホ見たことねぇ…」
そう云い終わると、矢口の身体が小さく震え始めた。
何が何だかわからないけれど、直感が危険を知らせている。
「矢口、どう云うこと?」
訊ねると、矢口は例の男子学生を指差した。
「アイツ、市井の後を追って死ぬとか云ってるんだよ」
- 71 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時25分04秒
- 矢口の言葉を聞いて、私は振り返ってみた。
そう云われてみれば、死んでやると連呼しているらしい。
心なしか身体が外に傾いでいる。
下から不安げな声が聞こえだした。
「カオリ…」
震えた声で矢口が云った。
私が再度振り返ると、矢口は自らを両腕に抱きながら、細かい振動を続けていた。
普通でないことは一目だった。
「矢口…」
離していた手を髪と肩に掛ける。
細く流れるような髪はふるいに掛けられているかのように細かく揺れ、
歯が鳴る音も聞こえた。
「…怖い」
「何が?」
「…カオリ」
「何?」
「カオリだったら、後を追おうって思う?」
- 72 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時25分58秒
- 四
「お願いだよぉ」
なっち──安倍なつみは、よくそんな言葉を口にした。
心底困ったように眉を顰め、私の服の肘の辺りをきゅっと握り締め、
ふるふると小さく首を振りながら。
「何が?」
「…もぅ」
私がからかうように云うと、彼女はすぐに拗ねた。
「わかってるでしょう?」
「うん、わかってるわかってる。
くっついてなよ、ちゃんと?」
「うん」
白い肌をした顔に、ほの暗い蒼を忍ばせながら、彼女は私の左腕に自らの右腕を絡めた。
- 73 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時26分25秒
- *
彼女は私のマンションの前で蹲っていた。
冬、冷たい夜風がコート越しにも辛い中、彼女は薄いジャンパーと破れたジーンズだけと云う出で立ちで、
小さく身を震わせていた。
アレは銭湯の帰りだったと思う。
まだ私のマンション周りに筍が生え出していない頃だったから、
辺りは夜相応に薄暗く、相応に静かだった。
着替えやら洗面用具やらを詰め込んだハンドバッグを片手に、
まだ少し湿り気の残る髪を夜風で乾かしがてらマンションに戻ると、
生垣に覆われた、丁度道路からは死角になる辺りから、女性のすすり泣くような音が聞こえた。
何だ?
私は少し不思議に思いながら、音の出所を探した。
生垣の内側はマンションの敷地内だ。
だからと云うわけではないだろうけれど、私には恐怖感や焦燥感と云ったものはなかった。
「誰かいますかぁ…」
密やかな声を出しながら散策を続けているうち、彼女と出くわした。
- 74 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時27分05秒
- 一目見て、普通ではないとわかった。
それは彼女が泣いていることからもある程度はわかっていたが、
やはり服装を見て、その思いに拍車がかかる。
手荷物はなく、上下ともどことなく普通ではない雰囲気を醸し出している。
言葉は悪いけれど、浮浪者、或いは…。
「どうしました?」
ただし、その身なりはなおいっそう、私の中から危機感すら取り去った。
どうしたって襲われそうにないし、万が一襲われても容易には負けない。
そんな安心感が、私に声を掛けさせたのかもしれない。
- 75 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時27分33秒
- 彼女は私の存在に気付いていなかったらしく、声をかけると身体を震わせて顔を上げた。
いや、身体を震わせたのは寒さのせいだったのかもしれないけれど。
向けられた表情は暗く、瞳にはうっすらと涙を浮かべている。
「どうしました?」
もう一度訊ねると、彼女は鼻を啜りながら立ち上がろうとした。
しかし、足を負傷しているのか、顔を歪め、座り込んでしまう。
「大丈夫ですか?」
私が駆け寄ると、彼女は目を見開き、悪魔でも祓おうとするかのように強く首を振った。
その勢いに気圧されて私は歩みを止める。
彼女の眼光は鋭く、獲物を狙う猟犬のような色を湛えており、
私達の間に、見えない壁が生まれてしまったような距離感を感じた。
- 76 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時27分56秒
- 息を詰めていたせいで時間が長く感じられたけれど、実際にはものの五分と云ったところだったらしい。
その間に彼女の瞳の色が猟犬の鋭さを失い、代わりに私を値踏みするような疑り深い物に変わった。
そして更に疑いも消えたらしく、殊更力ない、助けを請うようなものへと変わり、
「ごめんなさい」
鼻を啜り、比較的はっきりとした口調でそう云った。
「ごめんなさい、失礼な態度をしてしまって」
「いえ、それは構いませんけど、大丈夫…じゃないですよね?」
彼女は情けないと云った風に弱々しく笑みを作り、右足をさすった。
見ると、シャツを破ったような即席包帯を巻いている。
闇に紛れていたので詳しくはわからなかったけれど、もしかしたら赤く染まっているのかもしれない。
「とりあえず、ウチに上がってください。
五階ですけど、歩けます?」
そう云いながら、私は彼女の側により、肩を貸した。
小柄な人だったので、少し背を屈めて捕まりやすいようにする。
すみません、と小さく呟き、彼女の手が肩に回ってきた。
どのくらい外にいたのか、彼女の身体は氷のように冷たかった。
- 77 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時28分16秒
- 部屋に入るまで言葉はなく、エレベーターの上昇する際の機械音がやけに耳についた。
五階に着くと、角部屋まで彼女を伴いながら歩く。
辛そうな呼吸が耳に張り付き、私はそっと彼女の横顔を盗み見た。
明かりの下で見ると、愛嬌のある顔立ちがよくわかる。
同時に、その顔が埃や泥に薄汚れている事も。
何故汚れているのか、それを一番に訊かなくては彼女に申し訳ない気がして、
しかしそう簡単に訊ける事柄でないことは予想がつき、私は話しかけられないでいた。
彼女を部屋に入れ、リビングに座らせて、私はキッチンに入った。
暖かい飲み物を何か、と思って台所を探ってみると、生憎ティパックの紅茶しかない。
紅茶でもいいかと訊ねようとリビングを覗き込むと、
彼女もキッチンを窺っていたらしく、バッチリと目が合った。
「紅茶でいい?」
訊くと、彼女は申し訳なさそうに身を縮め頷いた。
- 78 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時28分47秒
- 紅茶に浮かべておいたレモンスライスを受け皿に取り除きながら、彼女は訊ねてきた。
「一人暮らしですか?」
そうだ、と云う意味で頷いてから、そう云えばさっきは敬語を使わなかったことに気付く。
彼女が幼く見えるのが原因なのかもしれないと思いながら、私は訊ね返した。
「おいくつ?」
「二十歳です」
「二十歳?」
同い年か。
少々意外な気がした。
「同い年だね」
彼女もそう思っていたらしく、私の言葉に顔をあげ、カップを置いた。
「同い年なんだ…」
「老けてる?」
意地悪く訊くと、そう云うわけじゃない、と慌てて首をふるふると振る。
その仕草はやはり幼く、同い年と云われると少し哀しさすら感じる。
相対的に自分が歳を取って見えるからだ。
「凄い大人っぽい。
なっちなんか子供っぽいから、羨ましい」
しかし彼女も全く逆の同じような悩みを持っているらしい。
そう思うと楽しくなったけれど、ふと、耳慣れない言葉に気づいた。
- 79 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時29分33秒
- 「なっち?」
「あ、うん、そか」
何事か一人で納得し、うんうんと頷いてから、彼女は云った。
「なっちってのは、名前なの。
安倍なつみって云います、よろしくね」
いつしか敬語ではなくなっている。
もちろんそれは望むところだった。
「飯田圭織、よろしくね」
「カオリ…うん、よろしくね」
差し出された手を握ると、そこは血が巡り直したかのようにほんのりと暖かかった。
- 80 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時29分55秒
- 同い年と云うことですっかり打ち解けた私は、懸案の言葉を口にしようとした。
「なっちは…」
「ん?」
が、言葉が途中で途切れ、不自然な状態で宙を彷徨ってしまう。
見ると彼女は不思議そうな顔をして、私を見つめていた。
頬が少し熱い、赤くなっているかもしれないと思うと、より頬が熱くなる。
「いや、なっちって口に出すとこそばゆいなぁってね…」
「あはは、そっかな?
嫌だったらなんて呼んでくれてもいいよ、なつみでも何でも。
あ、カオリって呼ばれるのも嫌?」
「ううん、全然構わない」
そう答えながら、頭の中では彼女の渾名を反芻していた。
なっち、なっち。
自信がついたところで口に出してみる。
「なっちは…どうしてあんなところにいたの?」
また少しどもった。
あー、と天井を仰ぐと、下からけらけらとなっちの笑い声が聞こえた。
そして、紅茶もらえる?とカップを差し出してきた。
- 81 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時30分22秒
- 空になった彼女のカップに紅茶を注ぎなおしてからリビングに戻ると、
なっちは居住まいを正していた。
ありがと、と小さく呟いてカップを受け取った彼女はそれに口をつけず、
まるで鏡でも見ているように水面を見つめ続け、
それから思い出したようにふっと顔を上げた。
その瞳の色は物悲しさを訴えており、彼女の瞳はさながら万華鏡のようなものだなと感じた。
「…予想、つく?」
自虐的な含みを孕んだその言葉に、私は一瞬たじろいだ。
彼女の瞳がまたその色を変え、そこに諦めの色が浮かんだからだ。
彼女の瞳は本当に万華鏡のように色を変えていく。
「…なんとなく、はね」
答えるべきか少し迷ったけれど、嘘を付いても仕方がなかった。
夜も更けている頃に、生垣の内側ですすり泣いている知らない女の人、
しかもその服が嫌にぼろついているとなれば、嫌でも浮かんでしまう想像があるのは仕方がないではないか。
「多分ね、当たってるよ」
なっちは淡々とした口調で云った。
「…されちゃった」
言葉の末尾は掠れていた。
- 82 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時30分47秒
- されちゃったのが何か、聞くまでもないし、訊けるわけもない。
私は、予想された言葉とは云えやはり驚き、動けないでいた。
なっちはわざとらしく大きく音を立てて紅茶を啜り、ほうっと息を吐き私の方を見た。
「…帰るね」
会話の前後の繋がりを全く無視した言葉だった。
「え?」
「帰る、紅茶ありがとね。
美味しかった」
それはインスタントだよ、などと云う場違いで間抜けなことしか考えられなかった。
そんな阿呆な状態の私を尻目に、なっちは立ち上がり早々と玄関に向かう。
私は慌てて立ち上がり、彼女の背中に向かって云った。
「なっち」
振り返った彼女に、私は自分の携帯電話の番号を叫んでいた。
彼女は一瞬目を見開いたあと、寂しそうに、けれど柔らかく笑った。
「覚えた」
そして、お返し、と云いながら数字の羅列を暗唱した。
「覚えた?」
頷いた私の頭の中では先頭の数字と最後の数字がぐるぐると追いかけっこを続けている。
そのせいか妙に呆けた表情をしていたらしく、口開いてるよ、と彼女に指摘されてしまった。
- 83 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時31分53秒
- 玄関で靴を履いている彼女を見ながら、あ、と思った。
信じられない。
私は自分の気の利かなさを恥じながら、ちょっと待っててと云い捨て、
自分のクロゼットからコートを一枚引っ張り出してきて、彼女に手渡した。
「私のサイズだから大きいかも」
所々破れているような薄着で返すわけには行かない。
大きさに構っている場合ではないだろうと思いながらそう付け加えると、
ナンパの常套手段だね、と云われてしまった。
心のうちを見透かされたようで少し焦った。
「借りるね、ありがと」
彼女が袖を通すと、やはり少しサイズが大きく、
しかも焦げ茶などと云う地味なデザインだから、彼女にはあまり似合っていなかった。
彼女はそれでも、あったかいよ、と云いながら、くるりと一度身体を回転させ、私の方を見た。
- 84 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時32分20秒
- 「ありがとねカオリ、いろいろと」
「いいってことよ」
彼女はぺこりと頭を下げると、外に出た。
夜風はいっそう強くなっているらしく、細い隙間から冷気が忍び込んでくる。
私が身を震わせると、ごめんごめん、と云いながらドアを閉めようとし、
しかし思いとどまったように再度扉を少し開け、悪戯っぽい笑みで云った。
「さっきさ、普通になっちって云ってくれたね」
じゃあね、と云って彼女は今度こそドアを閉めた。
人一人分、温かみの抜け落ちた室内は妙に肌寒く感じる。
私はまたもや間の抜けた面構えでその場に立ち尽くしていた。
最後のセリフに、私は完全に参っていた。
彼女に思考回路の中枢を刺激されたようで、
あまり深く考える事も出来ないまま、自分の目の前にふらふらと漂っている現実を掴み取った。
それは鏡のように私の顔を映しており、そこには幾度か見たことのある種の顔をした私が映っていた。
色ボケの顔だった。
- 85 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時32分41秒
- *
彼女は翌日、コートを返しに来た。
律儀に携帯に連絡を入れて、今から行く旨を伝えられた時、
時刻は夕方から夜の境目と云った頃合で、私はあまり深く考えず口に出していた。
「ご飯、ウチで食べない?」
いいの?と戸惑い気味な彼女の声が聞こえ、
私は聞かれぬよう含み笑いを押し殺しながら当然と答えた。
その時の顔はきっとだらしなく溶けていたことだろう。
彼女に惹かれていることを隠し通すのは、自分自身にすら不可能だった。
ただ、それを悟られることだけは絶対にいけない。
その程度の分別はわきまえているつもりだった。
「なっちさえよければね」
「うーん、それじゃご馳走になろっかな」
心なしかなっちの声が嬉しそうに聞こえた。
重症だ。
- 86 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時33分09秒
- 彼女は電話から十五分ほどしてやってきた。
コートを差し出しながら、その視線がふらふらと彷徨っていることに気付いた。
「どうしたの?」
「いい匂いするね」
「ああ、ラーメンかな。
北海道風バターラーメン」
「北海道風?
カオリ北海道の出身なの?」
「そうだよ、なっちも?」
「だべ」
そう云って彼女は笑った。
変な云い方だけれど、堂に入った訛り方だった。
そう云えば、私は彼女のことを何一つ知らないのだった。
「ごめんね、ご馳走になっちゃって」
「いいよ、どうせ一人暮らしなんでしょ?」
「そう、ここの帰りについでに買い物行かなきゃなぁと思ってたところだったんだよ」
助かったよ、と云う彼女をリビングに上げた。
ふわり、と嗅ぎなれない芳香が彼女の髪から漂っていた。
- 87 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時33分37秒
- 対面に座り、土鍋に二玉ぶち込んだラーメンをつつきながら、詮無いことを話した。
彼女の出身が室蘭であること、大学は違うこと、一人暮らしは疲れると云うこと等々。
汚れの落ちた彼女の肌はやはり白く、脚の包帯も取れていた。
それに少し安心したせいか、私は少し饒舌になっていた。
「恋人とかいるの?」
云い訳がましいのを承知で云わせていただければ、このセリフは挨拶のようなもののつもりだった。
私達くらいの年齢では、やはり興味がある事柄だ。
ただし、配慮が足りないのが現実だった。
私は、自分の性癖を棚に上げて、と云うより自分を中心として、そんな質問をしてしまったのだ。
彼女は箸を止めると、辛そうに息を吐き、弱々しい笑顔でこちらを見つめてきた。
「…なっちね、子供は二人くらい欲しいなぁって思ってたの」
そして、意外なところから手裏剣を飛ばしてきた。
- 88 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時34分02秒
- はぁ、としか答えようがない。
彼女は続ける。
「女の子がよかったのね。
二人とも女の子でもいいくらい。
育てるのって大変かもしれないけどさ、なっち、子供好きだし、大丈夫だと思うの。
自分で云うのもなんだけどさ、ほら、なっちってどっちかって云ったら家庭的じゃない?」
じゃない?と問われても答えようがないけれど、答える必要はなさそうだった。
彼女は今、彼女自身に向かって話をしているのだから。
「だからね、子供はすごい欲しいの」
でもね、と彼女は寂しそうに云った。
「…子供つくるのは、もういいかな、なんてね」
- 89 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時34分25秒
- 彼女にそこまで云わせてしまったことを、心の底から悔いた。
生涯で一番自分を嫌いになった瞬間に間違いない。
「ごめん…」
穴があったら入りたいどころの騒ぎではない。
今から穴を掘り始めようかと真剣に考えるほど、責任を感じていた。
思い出したくないことを無理矢理に掘り起こさせてしまったのだ。
「ごめんね…」
「いいよ、気にしないで」
なっちが膝立ちで擦り寄ってきて、私の頬に手を添えた。
下から覗き込んでくる瞳は、今度は硝子玉のように何の感情も表していなかった。
「…カオリ、綺麗」
彼女の薄い唇からぽろりとこぼれた、と云う形容が一番しっくりと来る。
その言葉は山彦のように震えながら私の耳に届いた。
「え?」
「綺麗…」
なっちの人差し指が伸びてきて、私の唇に触れた。
ピン、と張り詰めていた糸の一本が切れたかのように、私の身体がピクリと震える。
その反応が面白かったのか、なっちは嬉しそうに笑いながら、何度も指を往復させる。
そのたびに身体が震える。
- 90 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時34分45秒
- 「嫌?」
下から覗き込んでくるなっちの瞳が艶っぽい。
吸い込まれそうになるのを堪えながら、ふるふると首を振ると、なっちは息だけで笑った。
「綺麗で、かわいいんだね」
誘惑されているのにやっと気付いた。
仕返しだろうか、なっちの笑みは少し意地が悪い。
なっちは小さく息を吸い、押し出すように云った。
「カオリとだったら…」
次の言葉には想像がついた。
想像はついたけれど、それを留めることは出来そうにない。
諦めにも似た、妙な気持ちで私は次の言葉を持った。
「カオリとだったら、子供、できないね」
自然と、無意識のうちに首が横に振れた。
「でも、もういいや、子供」
声が少し近くで聞こえた。
なっちの唇が薄く開き、ゆっくりと近づいてきている。
もういいや。
私もそんなことを思いながら、彼女を待った。
何がもういいのかわからないまま、私達は唇を重ねた。
- 91 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時35分04秒
- 五
「お客様?」
ウェイトレスに声を掛けられて、私は我に帰った。
一口も手をつけていないアイスティーが大汗をかいている。
ウェイトレスが奇異な目でこちらを見つめているのに、頬が熱くなった。
なんでもないです、とウェイトレスを追い払ってから、私は二、三度頭を振り、
もう一度この状況を思い出した。
喫茶店だ、冷房がよく効いている。
目の前にはメモ帳が広げられており、そこには幾つかの単語が並んでいる。
私の筆跡に違いない。
そうだ。
私は喫茶店で考えをまとめていたんだった。
市井の自殺のこと、それからなっちのこと…。
ゆっくりと記憶が起き上がってくる感覚がある。
見ると、手の甲にうっすらと汗をかいていた。
- 92 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時35分24秒
- ふぅ…と一つため息をつく。
身体全体が不自然に強張っている気がした。
何が私の身体を縛り付けているのか、原因は明白だった。
「なっち…」
言葉にして吐き出してみても、身体がほぐれる気配はない。
彼女の呪縛が、私を縛り付けている、そんなことすら思ってしまう。
呪縛、そう、彼女もまた、八月の悪魔に魅入られて自殺を試みたうちの一人だった。
そして、命を失ったうちの一人でもあった。
- 93 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)17時36分30秒
- 連続投稿規制辛い、ちょい疲れた。
>>60>>61
レスありがとうございます。
- 94 名前:読み人 投稿日:2003年07月15日(火)19時53分04秒
- 更新乙。
なにやらすごい話になってきた・・・
めちゃくちゃ面白いです。
- 95 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時45分35秒
- 申し訳ない、一レス飛ばしてました。
>>71の次に以下が入ります。
そしてお詫びに連続更新。
「…何の事?」
そう聞いたすぐ後、わっと後ろで歓声が上がった。
何か動きがあったらしいけれど、それどころの騒ぎではなかった。
「…オイラ、追えないよ」
「ん?」
「オイラ、ごっつぁんが死んじゃっても追えないよ」
小刻みに身体を震わせながら云う矢口は普段以上に小さく見えた。
「…そんなこと、考えなくてもいいよ」
慰めのつもりで云った言葉は矢口の耳には届いていないらしかった。
「…カオリは?」
「そんなこと…」
「カオリは、安倍さんの後を追える?」
*
「なっち…」
意識が遠のくのがわかった。
- 96 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時48分07秒
- >>92より
『第三章 壊れっぱなし』
なんでこんなことしたのかな?
- 97 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時48分49秒
- 一
自殺を試みた二人目は、私達の極身近にいた。
その一報を知らせてくれたのは、部室の隅で蹲っていた矢口だった。
昼過ぎ、採っていた講義を終え、部室に顔を出すと、矢口が噛み付かんばかりの勢いで、
「…裕ちゃんが病院に運ばれた」
え?と問い返す暇すら与えず、矢口は矢継ぎ早にまくし立てた。
「裕ちゃんが、自宅で手首を切ったんだって!
それで今、病院へ運ばれて、意識不明で…」
「何で…?」
「知らないよそんなの!」
矢口は学部長に聞いたと云った。
先生の発見された状況から、運ばれた病院に至るまで詳細に。
「カオが来るの待ってたんだよ、今から病院行ける?」
矢口がすくっと立ち上がり訊いてきた。
もちろん私は頷き、入ったばかりの扉からすぐに飛び出した。
- 98 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時49分14秒
- 大学前でタクシーを捕まえ、病院へ向かう間、
私達は二人揃って落ち着きがなくそわそわとしていた。
それも仕方なく、先生と自殺、それは水と油以上に相容れないものに思えるからだ。
こう云うと市井と同じように聞こえてしまいそうで甚だ遺憾だけれども、
先生もどちらかと云えば「自殺する神経がわからない」と云うタイプの人である。
しかしそれは決して「自殺する奴はバカだ」などと云う短絡的思考から来るものでないことだけは
お伝えしておかなければならない。
先生は本当に、「自殺する神経がわからない」のだ。
「なぁカオリ」
いつだったか、矢口もおらず、部室に私と先生の二人きりだった時のことだ。
机に肘を付き、自分の顔を包み込むようにしながら、先生が訊いて来たことがあった。
「死にたいって思ったことあるか?」
「は?」
思わず訊き返すと、いや、そんなに気にしんでと付け加えながら、
「アタシの友達がな、たまに死にたくなると云うようなことを云うのよ。
アタシには、全然そう云うのがわからないからなぁ」
- 99 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時49分37秒
- 私はその問いに少し考えた。
生まれてこの方死にたいと思ったことはない。
けれど、その気持ちはわからなくもない気がする。
「ないけど、でもわかる気がする」
「ないのにわかるん?」
そう問い返されると困ってしまうけれど、でもわかる気がするのだ。
口では説明しづらいのだけれども。
「だって、物事が嫌になることはあるでしょ、先生も?」
「ああ、まぁそれくらいはな」
「死にたいってのは、その程度の気持ちがちょっと大仰になっちゃってるだけじゃないかな。
もう何もかも嫌になって、最初に浮かぶ言葉が死ぬなんじゃないかなぁって」
喋っていて、自分でもなかなかの事を云っているのではないかと云う気になる。
事実先生も納得したように唸り、
「なるほどなぁ、そんなもんかもなぁ」
「もしかしたら、カオリの今の考えは楽観的過ぎるかもしれないけど、
でも、案外そんなものかなぁとは思うよ。
不謹慎だけど、死にたいと死ぬは別物だからね」
「せやなぁ」
先生はうんうんと何度も頷いていた。
- 100 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時50分02秒
- タクシーを降り、病院の廊下を歩いている最中にその事を矢口に話すと、
矢口はへぇ、と意外そうな声を出した。
「裕ちゃん、そんなこと考えてたんだぁ」
病院に向かっている間、矢口の携帯に連絡が入り、先生が一命を取り留め、
更に意識が戻ったという情報が入った。
先生は死にたいと思ったのだろうか、それすらよくわからないけれど、
少なくとも死ぬことはなかったわけだ。
一安心と云っていい。
ちなみに、凶器は先生の私物である果物ナイフと云うことだった。
「…今回の事に関係あるのかなぁ」
矢口が呟く。
「さぁ、でも、聞いたのかなり前だからねぇ」
そうは云いながら、全く無関係ではないだろうなとは思っていた。
きっと頭の片隅かどこかに、そのことが引っかかっていたのだろう。
「先生に訊いたら、話してくれるかもね」
「つうか話させるよ。
心配掛けやがってあのアホ教師が」
矢口はぷりぷりと怒っていたけれど、その怒り方は微笑ましく、
私は噴出すのを堪えるのに苦労した。
- 101 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時50分35秒
- 看護婦さんに教えられた病室へ向かう。
到着すると、矢口がわざとらしく大きく息を吐いた。
それからそろりとドアを引く。
細く光がこぼれ出してきて、その後からおうおうと云う声が続いた。
「来てくれたん?二人とも」
先生は上半身を浮かせて、嬉しそうに笑顔を寄越してきた。
間髪いれず矢口が噛み付く。
「バカ裕子!
なんで手首切ったりしたんだよ!」
開ききっていなかった扉を押しのけるようにして中に入った矢口は、
今にも先生の首を締め出さんばかりの勢いで向かっていき、先生の頭をがくがくと振り出した。
「痛い、矢口痛いがな」
「アホテメェコノヤロウ、いっぺん死ね」
「カオリ、見てへんで助けんかい、死ぬ死ぬ」
「カオリ止めるなよ、一度殺してやる」
とても病院とは思えない物騒な会話でやりあう二人を見ていると、
自然と顔が綻び、声が漏れてしまった。
- 102 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時51分02秒
- 「とにかく、元気そうで何よりでした」
殺しに来たわけではないので、とりあえず矢口を引き剥がし、
むせ込んでいる先生に向かってそう頭を下げた。
「別に、病気とかやないからな。
ここさえ直ってしまえば、あんたらともなんも違わへんからなぁ」
そう云って先生がひょい、と見せてくれたのは、右手だった。
手首の辺りを五センチほどの包帯がぐるりと回っている。
砕けた調子で話せていたものが、やはり生々しいものを見せ付けられると、
多少尻込みしてしまう。
「傷口が浅くて助かったわ。
もうちょっと深くてもう五分遅かったらやばかったって」
そう云って先生は包帯を撫でたりしている。
いたっ、と思わず顔を顰めてしまった。
私の様子に気付いたのか、先生は楽しそうに
「痛くあらへんよ、ほらほら」
そう云って子供みたいにぶんぶんと腕を振り回したりしている。
- 103 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時51分29秒
- 「とりあえず」
どうにも他人事な先生に腹が立ったのか、矢口が低い声で云った。
「訊きたい事は山ほどあるんだ。
まず、自分で通報したんだろ、裕子?」
その云い方には有無を云わさぬ迫力があって、
矢口の言葉の対象でないはずの私ですら身を縮めてしまいそうになる。
その上呼び捨てではどっちが年上かわからない、
とそこまで考えて、はて、いつから矢口は先生を呼び捨てにするようになったのか、
と少し場違いなことを思ってしまった。
「いや…」
云いよどんだ先生の頬を掻く姿を見て、ようやくそんなことを考えている場合ではないと思い直した。
それより明らかに重大な事実が発覚したからだ。
「自分で通報したの、先生?」
「ああ、カオリには云わなかったっけ?
朝からわかってたことらしいんだけどね。
手首を切った、動けないから助けて欲しいって携帯から電話してきたって」
- 104 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時51分49秒
- なんだか変だ。
その情報を得た時の感想はそれだった。
行動がちぐはぐ過ぎる。
矢口も当然それには気付いているらしく、詰問調で詰め寄る。
「自分で連絡するくらいなら、そんなことしなきゃよかったんだ。
逆に、死ぬつもりなら連絡する必要なんかさらさらない。
裕子の行動は矛盾してるよ」
先生は全くそのとおりと云った感じなのか、うな垂れて返答する様子を見せない。
矢口は間髪いれず続ける。
「傷だって浅いんだろ?
大体、右手を切ってるってのがおかしいんだよ。
お前右利きじゃないか、何で右手で左手首を切らなかったんだよ?」
ついに呼び方がお前に変わった。
矢口が怒っているのがよくわかり、それでも冷静さを失っていない事もよくわかる。
そうなのだ。
右手首を切っているのは明らかにおかしい。
左手でナイフを握るのと右手でナイフを握るのでは、利き腕の関係から、
当然力の入り具合が全く違ってくる。
先生は矢口も云ったとおり右利きだ。
死にたいと思うなら、右手で左手首を切るほうが理屈に合う。
- 105 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時52分21秒
- 「…病院来る前にカオリから聞いたんだけどさ、
裕子、死にたいと思ったことあるかとかカオリに聞いたんだって?」
矢口が先生の右腕を掴みながら訊いた。
「…それで、こんなバカなことしようとしたの?」
矢口の声が震えている。
はっとしてみると、肩をも震わせていた。
「矢口…」
「悪いなぁ、矢口」
先生が空いている左腕で矢口の頭を撫でる。
細い髪が流れるように揺れる。
そして絶え間なく手を動かしながら、顔だけをこちらの方に向けてきた。
「カオリ、やっぱりわからんかったわ」
そう云った表情には、何もかもを達観しているような穏やかさがあった。
憑き物が落ちたような、と云うか、着込んでいた鎧を脱ぎ去ったような爽やかさがあった。
「手首切ったって痛いだけやわ。
切り損やで、切り損」
「当たり前だろアホ」
矢口の憎まれ口におお怖い、とおどけて見せる先生は、もういつもの先生に戻っていた。
自殺する神経がわからない、と云ってのける、快活な先生に。
- 106 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時52分53秒
- 二
メモ帳をめくりながら、先生の自殺未遂の日付を割り出していた。
八月三日。
市井の自殺の興奮冷めやらぬ近しい日のことだった事もあり、日付の割り出しは容易に出来た。
そうすると、と私は喫茶店のレジカウンターに置かれている卓上カレンダーを見る。
何度確認しても、八月四日。
先生はあの自殺未遂のあと、一週間の入院を経て学校へと出てきた。
つまり八月十日、とメモ帳に書き込む。
私と矢口はその間毎日病院に通っていた。
先生は全くもって元気で、
ベッドに縛り付けてこっちが申し訳なくなってくると看護婦さんが笑っていたことを思い出す。
昼ご飯ももう少しいいモノが食べたい、早く退院したいとぼやくことしきりだったと…。
「あれ?」
何かが引っかかった。
昼ご飯、看護婦さん、ぼやき…。
なんだったか、何かが思い出せそうなのに、あと一息出てこない。
もどかしい思いでようやくアイスティーに口をつけると、それはすっかり温くなっていた。
- 107 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時53分57秒
- 引っかかっている何かに思い当たらないまま、一旦それを横に除けておいて、
私は今からすべきことを考えなければならなかった。
いきなり過去に飛ばされたのは、理不尽だけれどまぁいいとしよう。
問題はなぜ過去に飛ばされたかだ。
しかし、それはある程度わかる気がした。
なぜなら、飛ばされた季節が夏だからだ。
現在、と云うか二年後の私は、初夏を過ごしていた。
それは間違いない。
なのに、飛ばされた先が夏であるということは理由は一つしか思い当たらない。
解決しろ、止めろと云うことだ。
なっちが自ら命を絶った理由を、また、自ら命を絶つような真似をさせることを。
- 108 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時54分29秒
- *
知り合って二日目に、お互い同意の上で口付けを交わしてしまった以上、
そのままただの友達です、と云うわけには当然行かない。
翌日、あまりの腑抜けぶりに大学へいく意欲を失っていた私のところに、
なっちから電話がかかってきた。
「よーす」
独特の挨拶をするなっちの口調は柔らかく、昨日の事態に動転したり、
どこかの誰かのように腑抜けている気配は見られない。
私が言葉を返すと、なっちはころころと笑い出した。
「やる気ないね」
「ほっとけ」
電話口でさえ見抜かれてしまうとはよほどのことだ。
私は気を引き締めるため自らの頬をぱちんと二度はたいた。
「目が覚めたかい?」
「おかげさまでね」
「それはよかった」
- 109 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時55分04秒
- 「で、何用?」
少しはマシになったようで、声にも力が入った。
なっちはうーん、と唸っている。
云いにくいことかと思って身構えると、全く大したことではなかった。
「今日暇かい?」
「ん?そうだね、暇と云えば暇」
「大学は?」
「なっちこそどうしたのよ?」
「なっちは今日は休みさね。
カオも暇ならさ、今晩ご飯食べに行こうよ、奢ってあげる」
「おお、いいねぇ、サンキュ」
我ながら馴れ馴れしいと云うか、とても知り合って二日とは思えない気軽さだけれども、
お互いそれを不自然にも不快にも感じてはいなかった。
ありきたりの言葉だけれども、波長があったと云うのだろう。
なっちの行動一つ一つが、私の中の欠けている部分にはまり込んでくるとでも云うのか、
二人で一人、と云う言葉が思い浮かんだ。
- 110 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時55分23秒
- 「だからさ、六時にそっち行くね」
「ん?何でうちに来るの?」
「カオの家のすぐ側だから。
歩いて五分も掛からないんじゃないかなぁ」
へぇと思った。
この時はまだ辺りは静かなものだったから、そんな近くに料理屋があるとは思わなかったのだ。
「なっちの家って近いの?
カオリも知らないのに、こんなところの料理屋よく知ってるね」
「近いと云えば近いかな、歩いて十五分くらい。
だからさ、一昨日も帰れなくもなかったんだよ」
何気なく云うなっちに、しかし私は息を飲んでしまう。
日が経てば経つほど、一昨日の出来事に生々しさが増す気がするのだ。
それは親密さが増しているからだと云うことに気付くのは、もう少し後になってからである。
- 111 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時55分47秒
- 「でもさ、良かったよ無理して帰らなくて」
「何でさ?」
「カオと仲良くなったんだもん」
今度のなっちの言葉には、頬を赤く染めてしまう。
赤くなったり蒼くなったり忙しい。
電話口の声は明るく続けた。
「今日お店で話そうと思ってたことなんだけど、もう男の人はいいやって気になってたのね、一昨日。
だからさ、見つけてくれたのがカオリで、ホントによかったと思ってる。
もしかしたら、男の人に見つかってた可能性もあるじゃん」
なるほど、気が付かなかったがそれはそうだ。
そしてもし男に見つかっていたら…それ以降を想像すると吐き気がこみ上げてきた。
ただでさえ十分に魅力的な、少女と云っても通じそうな女性が、
小汚い服に身を包み、生垣に身を潜めながら、それでも見つけてほしいと云う風に泣いている。
申し訳ないけれど、私が男だったなら、理性が持たないかもしれない。
もっとも同性愛者の私は理性が持ったのだから大丈夫かもしれないけれど。
「もし男の人に見つかってたら、多分なっち今頃死んでるよ。
だから、カオリが見つけてくれた時はすごく嬉しかった。
あのまま死んでたら、後味最悪だもんね、壊されっぱなしって」
- 112 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時56分11秒
- 壊されっぱなしと云う表現を彼女は用いた。
云いえて妙だと思った。
なんでもない女性が突然壊れ物になる。
それはひどく理不尽で、腹立たしいことだ。
そして残念ながら、それを防護する手段はない。
極端に云ってしまえば、暴行を働いた男は二、三年の服役で許されてしまうのだ。
その程度、と開き直られたら、体力の差もあって、女性が敵う筈がない。
女性の受ける傷の大きさなど、数年で癒える物ではないと云うのに。
「だから、カオリは命の恩人」
彼女にそう云われるとくすぐったい。
囁くような口調はどこか弱さを含んでおり、いつまた彼女の身に危険が及ぶか知れない。
だからこそと云うのか、守ってあげたくなる雰囲気に包まれている。
「ありがとね、カオリ」
「どういたしまして」
じゃあ、六時にいくね、と云い残して、電話は切れた。
- 113 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時56分36秒
- 六時きっかりにドアチャイムを鳴らした彼女が私を伴っていったのは、
予想していた料理屋とは似ても似つかない小料理屋、
いや、正確には居酒屋と呼ぶべきであろう隠れ家的風貌をした店だった。
「ここ?」
私が訊くと、そう、と何事もなく頷く。
もっと小洒落た物を想像していた私としては出鼻をくじかれたような形になったけれど、
美味しいよ、となっちに云われたら逆らうわけにはいかない。
「常連なの?」
「うーん、常連とまでは云わないと思うけどね。
でもまぁ、外で食べる時は大体ここで済ますね」
「お酒飲めるの、なっち?」
「あはは…実はそんなに強くないんだけどね。
ビールだと、中ジョッキ二杯も飲んだらほわっーとなる」
ほわーっとなったなっちを想像して、すぐに打ち消した。
とんでもないことになりそうだと自主規制したに過ぎないのだけれど。
「カオリは?」
「アタシはいけるよ、飲む口」
「そか、でもここは料理も美味しいからさ。
あんまりお酒が入らなくなるかも」
そう云ってなっちは私の手を取り、扉を引いた。
- 114 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時57分01秒
- 客の入りはまばらで、十席ほどの畳席は一つしか埋まっていなかった。
なっちは畳の方には目もくれずカウンターに陣取り、にこにこしながらメニューに目を通している。
「何食べる?」
差し出されたメニューをざっと眺めてからいくつかめぼしいものを決める。
奢りだ、と云われている以上選択肢は二つしかない。
遠慮せずにガリガリ注文するか、慎ましく女性的に小腹を満たす程度にしておくか、だ。
「とりあえずねぇ…モスコ下さい」
私が云うと、なっちは不満げな声と共に頬をぷくりとした。
思わずつつきたくなる衝動に駆られる。
「お酒飲むの?料理美味しいのに」
「口湿らせないと食べれないんだよ」
あはは、などとごまかしてみたものの、結局はどの程度注文しようか迷ったに過ぎない。
変なところでなっちに対する見栄を張りたがるなよ、とまた遠くの自分の声が聞こえる気がする。
「なっち適当に頼んでよ、それ横からつつくからさ」
「いいのかい?」
卑怯にも逃げを打つと、なっちはまんざらでもなさそうに一度鼻を擦り、
まるで西洋の呪文でも唱えるかのようにすらすらと料理名を朗詠した。
- 115 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時57分25秒
- 初めに来た大根サラダをつつきながら、なっちはずっと私の横っ面を眺めていた。
ちらちらと視線を向けてみても、一向にそれを逸らす気配はない。
気になりながら、それでも気にしないようにサラダをぱくついていると、
「カオリ…」
妙に艶っぽい声が聞こえ、私は大根を喉に引っ掛けてしまった。
盛大にむせていると、背中を手が上下する感覚が走る。
「どうしたの?」
あんたのせいだよ、と云いたいけれど云えない。
それは直接的にも比喩的にもそうなのだけれど、
そんなことを問題にする頭のキャパは一瞬にして吹き飛んでいた。
なっちは泣いていた。
いや、泣いていたと云うより、涙を浮かべていたと云うほうが正確なのだろう。
ただ静かに目じりを輝かせているだけで、喚いたり叫び出したりする雰囲気はない。
なんだか神聖な雰囲気すら纏っていて、私はしばし彼女の顔から目を離せないでいた。
「へへ…」
私の視線に気付いたのか、なっちはそっと目じりを拭い、気丈に笑って見せた。
- 116 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時58分00秒
- 「そうだ、カオリ今日うちに来てよ」
少し嫌な沈黙が支配する中、
次に差し出された揚げ出し豆腐を受け取って二人でついばみあっていると、
なっちが素っ頓狂な明るい声で突然云いだした。
「なんで?」
先ほどの涙を見たせいか、恐る恐ると云う感じで私が訊くと、
「ナイショ」
悪戯っぽく、私の鼻の頭を人差し指で押さえつけながらそう云った。
そう云えば、この近くだとか云っていたっけ。
「いいけど、とりあえず今は食べよう、一杯来るよまだまだ」
カウンター越しに軟骨の唐揚げを受け取った私がそう云って横を見ると、
なっちは空中に浮遊している状態の皿から器用に一つをつまみ上げ口に放り込んだ。
「美味しい」
それからビールを煽る。
意識した時には、なっちの頬はほんのりと桜の色に染まっていた。
- 117 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時58分25秒
- 「お、なっち来てる?」
私が茶化すと、なっちはまたビールを口に含みながら、
「来てるねぇ、なんかいい気持ち、ほわほわしてるよぉ」
しなを作って私の肩に雪崩れてくる。
溜息は麦の、髪からは汗と香水の入り混じった、
なんとも挑発的としか云いようのない香りがして、頭がくらくらする。
まだ生中一杯でこれだけ気分がよさそうなところを見ると、
生中二杯云々はきっと強がりなのだろうと思えてくる。
事実私がもう一杯行く?とそそのかしても、
やめとくよぉ、と力ない返事が返ってくるだけだった。
- 118 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時58分58秒
- 程よく満腹になったところで、私達は店を出た。
結局私はカクテルを三杯、なっちは生中を一杯呑んだだけだ。
それでもなっちは暑い暑いと呟きながら手扇でぱたぱたやっている。
「それじゃ行こうか」
なっちに先導されて、夜風が程よく乾いている道を歩く。
いやー、家に人呼ぶの久しぶりだよー、と、
ポツリポツリと点在する空の星に語り掛けるように云うなっちには、
そのまま上に飛んでいってしまいそうな危うさがあった。
さっきの涙の意味はなんだったのだろう。
そんなことをふと思う。
前触れや予兆の類は見られなかった。
なっちは唐突に涙を流したのだ。
何かまずいことを云っただろうか、そんなことを逡巡しながら歩いていると、
「カオ、ぼーっとしてんね」
と云われてしまった。
「悩み事?」
「まーね」
「なっちのこと?」
「まーね」
一本調子の私の返答が面白かったのか、なっちはくすくすと笑った。
- 119 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時59分30秒
- 彼女の家は私の家にとても近かった。
と云うか、見慣れたアパートだ。
背が低く、外装もあまり綺麗でないそのアパートは、夜が濃くなるとその姿を眩ませてしまう。
太陽のようななっちのイメージとはそぐわなかった。
「入って、適当に座ってくれればいいよ」
なっちはそう云うとどこかに引っ込んだ。
水音が聞こえたところを見るとキッチンなのだろう。
お構いなく、とだけ云っておいてから、私は部屋の中を見回してみた。
こざっぱりとして、余計なものがない部屋、と云うのが第一印象だ。
ぱっと目に付くのはベッドとテレビ、ラジカセくらいで、
箪笥は背景色に紛れてしまいそうな地味な色合いをしている。
人形やらぬいぐるみやらはなく、ベッドもよくよく見ればスカイブルーの布団を纏っている。
ともすれば几帳面な独身男性の部屋、と云っても通用しそうだった。
- 120 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)20時59分59秒
- やはりキッチンに入っていたらしく、なっちは涼しげな器と冷茶を持ってやってきた。
なぜか服装もラフなTシャツに変わっている。
「さっぱりしてるね」
「殺風景っしょ?
どっか適当に座ってよ」
差し出された湯呑みを受け取りながら、フローリングに直接腰を下ろす。
座布団なくてごめんね、と妙なところに気を回すなっちをいなして、冷茶に口をつけた。
「…美味しい」
「美味しい?よかったぁ、淹れ方間違えてたらどうしようかと思ったよ」
安堵したような声を出してから、なっちもお茶に口をつける。
大きく頷いたところを見ると成功なのだろう。
なんだかその仕草が、初めて料理を作った小学生みたいに見えて、思わず笑ってしまった。
「…どしたの?」
「ん?かわいいなぁって」
云ってからおや、と思った。
嫌に自然に言葉が出たぞ。
なっちも意外だったらしく、きょとんとしている。
「…カオリって、結構積極的なんだね」
「なっちに云われたくないよ」
照れ隠しの意味も込めて、お茶を一気に飲み干した。
- 121 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)21時00分22秒
- *
「いらっしゃいませ」
ぼんやりと回想の海を彷徨っていたところにウェイトレスの爽やかな声が飛び込んできて、
私は我に帰った。
いつの間にか店内に少し客が増えている。
満席とまではいかないけれど、今新たにお客さんも来たようだし、十分な入りだろう。
そんなことを考えながら何気なく店の入り口に視線をやると、息が止まった。
肝を潰すかと思ったほど驚いてしまった。
そこには、私がいた。
正確には、私と矢口の二人だ。
夏らしく涼しげな格好で、ウェイトレスに先導されて店の奥の方の席へと向かおうとしている。
私は意味もなく背を屈め、確実に彼女らから見えない位置で留まりながら、
必死に記憶の糸を手繰り寄せ、そしてある結論に行き着いていた。
先ほどのひっかかりの原因がわかったのだった。
どおりでこの内装に見覚えがあるわけだ。
私はそっと伝票を取りながら思う。
ここは、先生の見舞いの後に寄っていた喫茶店じゃないか。
- 122 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)21時00分53秒
- 私と矢口に見つからないよう万全を期して店の外に出る。
意味もなく息を詰めていたので、外に出たらまず、大きく深呼吸をした。
日差しは一層強くなっており、すぐにじわりと汗が噴出してくる。
一拭いしてから、慌てて店の前を離れた。
また段々と色々な事がわかってきた。
そして同時に繋がってもきた。
とりあえず、再び先程の公園に戻った私は、木陰により、メモ帳を取り出し書き込みを始めた。
喫茶店で自分の姿を見てから、まるでサツマイモでも掘り当てた時のように、
するすると記憶が戻ってくるのがわかる。
中にはなんで今まで忘れていたんだろうと思うようなことまであった。
例えば、八月八日。
この日は、残り二件の自殺が立て続けに起こった日だ。
何故忘れていたのか、自分で自分に説明がつかない。
そう、八月八日にそれは起こっていた。
一件は未遂として、もう一件は、れっきとした自殺として、私の記憶に刻まれている。
奇しくも私の誕生日に、絶対にあってはならない悲劇が起こってしまったのだった。
- 123 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月15日(火)21時02分10秒
- 投稿失敗や誤字等見苦しくて申し訳ない。
>>94
レスありがとうございます。
- 124 名前:タケ 投稿日:2003年07月16日(水)14時40分21秒
- 更新お疲れ様です
どうしてなっちは自殺したのかが気になりますね・・・
これからも頑張ってください
- 125 名前:読み人 投稿日:2003年07月17日(木)07時14分42秒
- 更新乙です。
いったいどういう結末を迎えようとしているのか、
どういう展開が待っているのか、
さっぱり読めなくてドキドキします。
- 126 名前:◆tc95wOkI 投稿日:2003年07月25日(金)03時36分41秒
- 申し訳ありません、しばらく更新が止まりそうです。
微調整に手間取っている関係と、私生活が慌しくなったことが原因です。
自己保全で繋ぎながら、一刻も早い更新を目指しますので、ご了承下さい。
- 127 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月17日(日)02時39分14秒
- ほぜん
- 128 名前:ほぜん 投稿日:2003/09/20(土) 11:31
- ほぜん
- 129 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/13(月) 01:07
- 魅力的な文体でとても面白い作品ですね。
今後の展開に期待しながら、まったり待ってます。
- 130 名前:名無しさん 投稿日:2003/11/05(水) 23:17
- 知り合いに勧められて読ませていただきました。
すっごく良いです。期待しつつお待ちします。
- 131 名前:名無しさん 投稿日:2003/12/16(火) 15:01
- ほぜん
- 132 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/27(火) 20:08
- hozen
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