海のうた
- 1 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月05日(土)06時20分05秒
- どうも、飼育某所で小説を書かせてもらっているものですが、リフレッシュを目的に
別ジャンルの作品を書こうかと思います。
お目汚しになるかと思いますが、どうかよろしくお願いします。
- 2 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時21分33秒
小さな頃から、わたしは人と話すのが苦手だった。
いや寧ろ苦手と言うよりも、わたしの中に「人と話す」という選択肢がなかっただけかもしれない。とにかく、わたしは誰ともコミュニケーションを取ることなく幼少期を過ごした。
- 3 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時22分11秒
- 困ったのは親のほうだ。
「希望に満ちた、美しい人になりますように」とつけられたその名が、この表情に乏しく言葉を滅多に話さない子供の首に重くぶら下がっているだけの存在に成り果てているのだ。当然のことながら、親たちはわたしを希望に満ちた美しい人にすべく様々な努力を施した。結果、わたしはとあるカウンセリングを受けることになった。
- 4 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時22分43秒
- 「いいかい、お嬢ちゃん」
その人の良さそうな医者は、わたしの顔を覗き込んで言った。
「ある森の中に、一匹の山羊がいたんだ。その山羊は首に、大きくて重たい時計を提げていた。きらきらと光る綺麗な、けれども決して役に立たない時計。森のみんなは、口々にこう言う。『重そうだね』『変な時計だね』『それ、役に立ってるの?』…」
わたしは事前に与えられていたビスケットをつまみながら、医者の話を聞いていた。何となく、話の落ちを想像しながら。
- 5 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時23分16秒
- 「ある日、山羊はどうしても喉が渇いて仕方なかった。幸いなことに、山羊は自分のねぐらから少し歩いた場所に清い小川が流れていることを知っていた。だけど、川のほとりまで来て山羊は自分のぶらさげている時計が酷く邪魔なことに気付いたんだ。この時計をつけたままでは、水に口をつけることができない。ってね」
水を飲むために、時計を放り出すことを強いられる山羊。
そして、その時わたしが口にしていたビスケットは、最初に「何でもいいから今日きみがどんなことをしたのか、話してごらん」と言われた後に出されたものだった。
わたしは次の日、その医者のカウンセリングを受けることを強く拒否した。
- 6 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時23分47秒
- それから先も、無口な子供はある日急に熱が出たりして饒舌になった挙句に無口でもお喋りでもない普通の少女になるはずもなく、無口なままに時を過ごした。それで特に不便なことはなかったし、もちろん友人などできっこなかったが、逆にいじめられたりすることもなかった。
- 7 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時24分24秒
- 「漬物石」、そう呼ばれたことがあった。
小学校の高学年の頃だろうか。
勿論直接言われたわけではない。
偶然、クラスの男子がわたしのことをそう揶揄しているのが聞こえたのだ。
成るほど相違ない。辺り障りのない、大して役にも立たない、漬物石。
まったく上手いことを言う。
余程自分でも気に入ったのだろう、その夜わたしは23回「漬物石」と呟いてから眠りについた。
- 8 名前:序章 投稿日:2003年07月05日(土)06時24分54秒
そうしてわたしは、高校一年の夏を迎えた。2003年のことである。
- 9 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月05日(土)21時44分18秒
- 更新終了です。
- 10 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月06日(日)19時29分50秒
- なんか重そうな話の予感…更新期待してます
- 11 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時42分02秒
- わたしの住む町は、海に面している。
かつては漁業で栄え、次に埋め立てによるマンション建設で栄え、最終的に平成不況によって凋落した。華やかなりし時の名残はなく、海からは腐ったヘドロと重油の混ざった匂いがした。
- 12 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時42分48秒
- そんな不快な匂いにむせ返りながら、わたしは家の玄関を出る。家の前には色褪せたマンション群が聳え立ち、その隙間からは海風ともビル風とも取れる強烈な風が吹き荒んでいた。強風によって乱された前髪を整えながら、高校のある方向へと歩き出す。
- 13 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時43分23秒
- 海の方角から昇る太陽は、狂暴な眼差しでわたしの体に影を刻む。
この四月から毎日のように繰り返されるこの所為は、夏に近づくにつれより一層激しくなっていた。しばらく海沿いの道路を歩くと、わたしと同じ制服を着た生徒たちの群れに出くわす。彼女たちもまた、頭上の眩い光によって影を打ち込まれていた。ただほんの少し、わたしの打ち込まれた影のほうが色濃いような気がした。
- 14 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時43分53秒
- 真っ直ぐに校舎に向かって続く通学路。
交わされる、楽しい会話。おはようの声。
わたしには無縁の世界だった。
わたしはこの学校に友達はいない。それはまるで川の水が高い場所から低い場所へと流れるように自然なことなのかもしれないし、或いはまったく恣意的に行われていることなのかもしれない。
ただ歴史という観点から説明すれば、
わたしの周りには「友達」と呼べる人間は存在したことがなかったし、
そういった「友達」は今現在も存在していないし、
多分これからも存在することはないのだろう。
- 15 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時44分29秒
- 校門をくぐり、階段を昇り、教室に入る。
同じことの繰り返し。
昨日のような今日。今日のような明日。
でもそんな繰り返しのような毎日を過ごしているのは、わたしだけじゃないはず。
昨日とは違う今日を望むこと自体、贅沢なことなのだ。わたしはそう思う。
だから、今日も黙って自分の席に座る。
席に座りさえすれば、後は時が出口まで運んでくれる。
- 16 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時45分05秒
- けれどその日は、そう簡単にことは進まなかった。
一時間目の、英文法の時間のことだ。
四十がらみの英語教師が話す、堅苦しい英単語の羅列にぼんやりと耳を傾けていると突然、大声で叫ぶものがあった。
「ああ、もう終いや終い!」
甲高い、関西弁。わたしの記憶が正しければこの空間で関西弁を話す人物は一人しかいない筈だった。
英語教師は何事かと言った感じで、教科書に落としていた目線を上げた。
「こないな日本人しか使うてない英文法が何の役に立つねん? もうアホかとバカかと。でぃすいずあぺーん、なんて言うてるんは荒井注だけで充分やっちゅうねん!」
そのお団子頭の女生徒は、まるでこの授業が自分の生命を脅かそうとしているとでも言いたげな表情を作ってそう言った。
暫しの間、水を打ったような静寂。そして教師は、努めて冷静にこう言った。
「それで…何が言いたいんだね、加護くん?」
加護亜依、というのがその少女の名だった。
- 17 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時45分47秒
- 彼女のことは、よく憶えていた。
学校という閉鎖された社会においてはいつの日も、転校生ほど注目されるものはない。
加護亜依もまた最初は、そういった転校生の一人だった。
彼女がこの学校にやって来たのは、ほんの一ヶ月前のことだ。
- 18 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時46分17秒
- 「加護亜依です。奈良の高田っちゅう場所から来ました。よろしゅうお願いします」
独特のイントネーションで自己紹介を終えた後、クラスの担任は予め決められた場所に
彼女を割り振ろうとした。しかしそれを彼女はきっぱりと拒否したのだった。
「先生。うち、あそこに座ってもええですか?」
加護亜依が指差したのは、教室の左隅。そこには正方形の角が欠けたように、席が一つ分なかった。
「しかし、机と椅子が…」
「そんなん、余った場所から持って来たらええやないですか。うち、何かが欠けてるの、気になってしゃあないんです」
しばらく困惑していた担任教師だが、やがて隣の教室から一組の机と椅子を運んできた。「ゆとり教育とは何か」という題名の新書を持っていそうな教師だった。そんなことはわたしにとってどうでもいいことだったけれど。
この日を境に、彼女は普通の転校生ではなくなった。
- 19 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時48分05秒
ともかく転校初日にして問題児視された加護亜依は今再び、問題を起こそうとしていた。
何が言いたいんだい、と窘められた彼女はしかし怯むことなく、
「何が問題? 全てが大問題やないか! この無駄な行為が、うちを消費させていくんや! まるで大きな氷の塊がかき氷機で削られてくみたいにな! それを無理やり押し付けるんが教育か! 教育って何やねん!」
と吠え続けた。
教室の反応は様々だった。
隣同士で囁き合うもの、冷たい視線を投げかけるもの、いつも通りの行動をとるもの…
わたしはいつも通りに、流れる音に耳を傾けていた。無味乾燥な英単語が、意味不明な少女の言葉に変わっただけだ。
- 20 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時57分39秒
- 「言っている意味がよくわからないが、とにかく座りたまえ」
教師の眼鏡の奥に潜む苛立ち。知ってか知らずか、加護亜依はさらに演説を続けた。
「絵に描いた象徴たちやロックンロールは死んだ…教育も今、死んだんやな。もうええ、もうええっちゅうねん! 生きた鎖で縛られるんならまだしも、死んだ鎖で縛られとうないわ!」
「いいから、座りたまえ!」
「ホンマ、話にならんわ。ほなさいなら!」
怒気を帯び始めた教師を他所に、加護亜依はぽんと教室を飛び出してしまった。
- 21 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月12日(土)15時58分20秒
全ての行動に、理由があるとは限らない。
どこかの哲学者の遺した言葉だ。
彼はこうも言った。
全ての行為に理由を求めるのは、一枚の布に空いた穴を塞ごうとして糸を詰めた挙句別の場所に穴を作る行為に似ている。と。
理由なんて、結局は自分を納得させるためだけに生み出された都合のいい産物だ。わたしは、そう思う。
だから。
加護亜依の後を追って教室を出た理由を説明することは、わたしにはできない。
- 22 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月12日(土)16時02分02秒
- 更新終了。
>>名無しさん
ありがとうございます!
我ながらのうざったい文体なので、レスが貰えるとは思ってませんでした(涙)。
期待に答えられるよう頑張ります!
- 23 名前:token 投稿日:2003年07月12日(土)20時20分51秒
- 初めまして。
うざったい文体だなんてとんでもない。無駄のない描写でさくさく読めます。
>10 名無しさん様も言っておられるように「なんか重そうな話」の内容には、
こうした文体がベストだと思います。
いきなりコテハンでレス差し上げるのは、それこそ、うざったいでしょうが、
次回を期待しつつ、まったりお待ちしております。頑張ってください。
- 24 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時11分42秒
教室を出たのはいい。
加護亜依が教室を飛び出すのとは違い、わたしが教室からいなくなったところで誰も気に留めるものなどいないから。
それよりも。
これからどうするか。
行動を起こしたのはいいが、家に帰る気分でもない。第一、鞄が教室の中に置き去りだ。瑣末な問題なのかも知れないが、わたしは増水した川の中州に取り残された子猫のことを想うが如く、鞄のことが心配だった。
幸いなことに次の授業が体育だったので、それまで屋上で時を過ごすことにした。
- 25 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時12分43秒
階段を伝って、屋上に昇る。
空は、人を馬鹿にしたようにどこまでも青かった。
コンクリートの床に、直で寝転ぶ。
既に熱気を帯び始めた感触が妙に気持ち良かった。
中学生の頃は、こうやって時々は屋上で暇な時間を潰していたものだった。暇な時間、とはいえ教室ではちゃんと教師が授業を行っていたのだが。
気が向いた時には、日が暮れるまで屋上で空を眺めていた。染み渡るような青が、時間が経つに連れ赤みを帯びてゆき、やがて菫色にくすむ行程を見つめるのは本当に飽きなかった。少なくとも、教室にただ居るだけよりはずっと。
高校に入ってからは、屋上に行く回数は減っていた。それはきっと「枕が変わると眠れない」といった類の理由なのだろう。しかし実際にこうして屋上に上がり寝転ぶと、これはこれで悪くなかった。
きっと日本中の高校にはその数だけの屋上から見える空の種類があって、それぞれが違った感じになっているのだろう。もしわたしが日本中の高校の屋上を渡り歩いた感想を本にしたら、少なくとも二、三人は物珍しさに手に取るかもしれない。
そんな下らないことを考えていると、顔の上に何かが降ってきた。
- 26 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時13分46秒
それは昼下がりの縁側で寝そべる猫の欠伸のように、緩慢に続いた。
五回目で、顔に当たったそれを摘んでみる。
消しゴムのかすだ。
八回目で、消しゴムのかすがどこから飛んでくるのか、首を捻って確かめてみた。
それは屋上からさらに梯子を昇った、貯水タンクのある場所から投げられていた。
わたしは再び顔を空に向け、目を瞑る。
十三回で砲丸の投擲は終わり(多分消しゴムを使いきったのだろう)、消しゴムの主はけん、けん、という篭った金属音を立てて梯子を降りた。
「あんなあ…こう言う場合、自分のほうから『ねえ、あなたどうしたの』って声かけるんが普通やろ」
閉じていた目を開け、声のしたほうを向く。
眩しい逆光を背に受けて、お団子頭の少女が円らな目を細めて仁王立ちしていた。
- 27 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時14分29秒
狙撃手・加護亜依はわたしが寝そべっている場所のすぐ側までやって来て、そこに腰掛けた。
彼女の顔を覗いて見る。白い肌に、黒目がちな瞳と薄く引いた口紅が良く似合っていた。女の子、という言葉がよく似合いそうな顔だと思った。
「自分…何してるん?」
加護亜依は多分これがわたしと話すはじめての機会だというのに、何故か親しげな態度で話しかけてきた。
「ビタミンDの生成補助」
わたしは大真面目な顔をして、そう言った。
そっか、ビタミンDか。ビタミンDは大切やもんなあ…加護亜依はそう一人ごちた後、
「え…と、辻さんやったっけ? さっき教室でうちが言うてたこと…どう思った?」
と聞いてきた。
どう思ったか。特に何も思わなかったので、
「絵に描いたシンボルたちやロックンロールは死んだ。教育も死んだ。死んだ鎖には縛られたくない」
と彼女が言ったことを復唱してみた。
- 28 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時15分21秒
- 「せや。で、感想は?」
二度目の催促。しつこくブザーを押す新聞販促員を見ているような気分になったので、正直に答えることにした。
「意味のない言葉の羅列。単なる語呂合せ」
別に彼女の発言自体を否定しているわけではなかった。意味のない言葉の羅列が意味のない文章であっても、意味がないことを根拠に存在価値を失うはずがない。意味のない、単なる語呂合せな事象をこの世から取り除けば、一体どれだけのものが残ると言うのだろうか?
わたしの言葉を受け、加護亜依は激怒するか、さもなくば落胆するかと思った。だが、彼女は破顔一笑、
「ああ、あんなん、全く意味なんてあらへんわ。授業がめっちゃ眠たなってな、口から出任せ言うたったねん」
と言った。
まさか本当に意味のない言葉だとは。いや、目的があったから意味はあったのか。
- 29 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時15分53秒
- 「ところで」
加護亜依は急に真面目腐った顔をした。
「何で自分はこんな場所で寝てるん?」
振り出しに戻る。彼女の顔にそう書いてあるような気がした。
わたしが黙っていると、
「それはフェアやない。うちは胸の内を全て晒したんや。対価として、自分もうちの質問に答える義務がある。ちゃうか?」
と詰め寄ってきた。何だそれは、とも思ったが彼女のいう事も一理あったので、わたしは少し考えてから、
「完全な正方形だった一角が欠けた。だから、左右対称に直した。これでどう?」
と答えた。
「上等や」
加護亜依は鼻の頭に皺を寄せて、笑った。
- 30 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時16分41秒
日が昇り、気温はぐんぐん上昇していく。
わたしと加護亜依は、屋上のさらに上に設置された貯水タンクに腰掛けながら、校庭のさらに奥に見える海を眺めていた。青黒い海が砂浜を食んでいる景色は、それほど悪くはなかった。遠くから見れば、大抵のものは美しく見えるのだ。
頭上へと降り注ぐ熱線は、大量の汗をもたらしていた。ふと横を見ると、加護亜依が自分の鞄をもそもそとやり出した。出てきたのは、奇妙な生物のイラストが描かれたカフェオレのパック。余程水滴がついていたのか、彼女の右手は雫が垂れるほど濡れていた。
「変な絵」
わたしはその奇妙なイラストを見た素直な感想を述べた。
「保田圭っちゅう新進のイラストレーターが書いたんやて」
カフェオレのパックに書かれているからにはきっと、牛の絵なのだろう。芸術と言うのは本当に懐が深い。
- 31 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時17分18秒
- 加護亜依は器用に歯でパックについていたストローを千切り、それからそのまま注入口に差し入れた。乳琥珀色の液体がストローを昇ってゆく。
ふと、彼女は咥えていたストローから口を離し、わたしの鼻先に突き出した。
「飲む?」
口紅の所為で、先が紅く色づいたストロー。そう言えばわたしは生まれてこの方、化粧と言うものをしたことがない。理由は簡単、必要ないからだ。
でも。きっとこれは暑さのせいなのだろう。世の中には、太陽が眩しかったからと言って見知らぬ人をピストルで撃つ人間だっているのだ。わたしがその時一瞬だけ、化粧がしてみたくなっても、何ら不思議はない。
わたしは無言でカフェオレのパックを受け取り、ストローに口付けた。
コーヒーと、仄かな口紅の匂いがした。
- 32 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時18分18秒
校舎に響き渡る、鐘の音。
一時間目が終わる合図だ。
「辻さんって下の名前、何て言うん?」
それまで黙って海を見つめていた加護亜依が、口を開く。
「希美。美しい、希望を持った人になるようにって親が」
そう言ってわたしは鼻で笑った。無意識のうちに嘲笑めいてしまうのは、何故だろう。それはきっと今のわたしが、希望のない美しくない人だからだろう。
加護亜依は少しだけ考え込む素振りを見せた後、
「なあ。今から自分のこと…『ノノ』って呼んでもええか?」
と言った。
「ノノ? わたしが?」
わたしは素朴な疑問を口にする。すると彼女は、
「自分なあ、『希美』言う時になあ…カツゼツが悪いんやろな、『ののみ』に聞こえんねん。せやから、『ノノ』。な、ええあだ名やろ?」
とさも数世紀前から決まっていた事実のようにそんなことを述べた。
- 33 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時19分16秒
- わたしのカツゼツが悪い。
それは不思議な感じだった。今まで、誰もそんなことに気も留めてくれなかったからかもしれない。『漬物石』に、カツゼツもへったくれもないだろうから。
そんなわたしの表情を拒絶と受け取ったのか、
「あかんの? じゃあ代わりにうちのこと、『あいぼん』て呼んでもええから」
と見当違いなことを口にした。多分、その名前では呼ばないと思った。
「じゃあ、わたし…そろそろ帰るから」
体育の授業の準備でもぬけの殻になった教室。そこに人が戻ってくるまでまだ大分時間があるにも関わらず、わたしはそう宣言した。
「さよか。うちは…昼寝でもしてから帰るわ」
加護亜依は貯水タンクの上に寝転がり、そう言った。
- 34 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時19分48秒
- 平凡な毎日の中に紛れ込んだ、異質な一日。
わたしはそう思った。生まれてから今の今まで、人と関わることが殆どなかったわたし。それが今日、初めて話したばかりの人間にあっさりと崩されようとしている。自分のアイデンティティを奪われるような、感覚。馬鹿らしい。案山子でいることにわたしは存在理由を感じているとでも言うのだろうか。
とにかく、今日は降って湧いたように訪れた、特殊な日。そう思うことにした。だからわたしは、無言のままで梯子を降りてゆく。冷たい金属の感触が、靴越しに足を伝わった。
「またな、ノノ」
背後から声をかけられる。
でもわたしは、それに対する答えを用意しなかった。
- 35 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時20分33秒
冷房の効いた教室は、窓から日差しが差し込んでいるにも関わらず冷蔵庫のように冷気に満ち溢れていた。主のいない、32組の椅子と机だけの無機質な空間。
けれど、わたしにとってはここが生徒たちで占拠されている時とそうでない時に大した差などないように感じられる。
それは、わたし自身が無機質だから。
彼女たちのいる世界とは、繋がっていないから。
わたしを取り囲むありとあらゆるものや事が、無機質なものとしてしか映らないから。
- 36 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時22分12秒
教室に漂う冷気は、わたしの脳を正常に戻してくれる。
屋上で経験した、奇妙な時間。
何を思って加護亜依はわたしに接近したのか。わからないし知る必要もないとは思うけれど、きっと夏の暑さがそうさせたのだろう。お互いに、どうかしていたのだ。
気でも触れていなければ、庭先に転がっている石に口を利こうとは思わないし、石が口を開く事もないだろう。
まるで、白昼夢。
わたしは、そう思う事で屋上での一件を片付けようとした。夢ならばそれ以上その夢について想いを巡らす必要がないからだ。無駄なものはできる限り排除する、それがわたしのこれまでの生き方だったし、これからもそうしていかなければならないのだ。そうやってこれまで、色々なものを捨ててきた。
言葉、人間関係、暖かな眼差し…後はもう名前さえ思い出せない。
その忘却の行列に、加護亜依を加えればいいだけの話ではないか。然して、問題はない。
自分の机の脇に引っ掛けてある鞄を手に取り、教室を後にする。
鞄は、冷気によって芯まで冷え切っていた。
- 37 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時22分51秒
予想通り、次の日から加護亜依がわたしに親しげに話しかけてくるようなことはなかった。彼女はいつものように気だるそうに授業を受けているだけだった。
昨日の出来損ないのような今日が、また訪れ始めた。
わたしも時々は加護亜依の残した言葉を思い出していたけれど、それはあくまでも「言葉」であって彼女自身とは切り離された存在だった。
無駄な行為が、自分を消費する。そう彼女は言った。きっとあの日屋上で言ったように彼女にとってはただの語呂合わせなのだろうけど、その気まぐれはわたしの心に別の何かを植えつけていた。
- 38 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時23分26秒
昨日に劣る今日。今日より劣る明日。そうやって、一日一日が薄れてゆく。
それは消費に似ている。
中学生の時に読んだ本がある。
二十歳を過ぎた主人公が、今までの自分を振り返り「随分遠いところまで来てしまった」と呟く場面が深く印象に残る、そんな小説だった。
当時のわたしには理解できなかったけれど、今思えばあれは日々の摩滅を意味していたのではないだろうか。
加護亜依の言葉に当てはめると、それこそが無駄な行為。つまり、生きること自体が…無駄な行為。たかが十六年しか生きていないけれど、その十六年間を振り返り、思う。
今までのわたしの人生に、少しでも有益なことなど、あっただろうか?
ならばいっそのこと自らの手で、この無益な一生に終焉を迎えさせてあげれば良いのだろうか。それは瞬時に却下される。考えてもみて欲しい。家の壁に自ら体を打ち据えて、砕け散る漬物石。
御伽噺の末席にも加えて貰えないことだろう。
- 39 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時24分44秒
だからわたしは、黙って日々、消費されてゆく。
- 40 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時26分11秒
学校は終業式を迎えようとしていた。
わたしの高校では一年生は夏休みに学年旅行という行事を催すらしく、こうして終業式が終わってもクラスの生徒全員が教室に残されているのだった。
ざわつく教室。仲良く肩を並べておしゃべりする生徒たち。
ふと、わたしの脳裏に過去の記憶が甦る。
あれ辻さん、あなたはどこの班にも入らないの?
ねえ誰か、辻さんを仲間に入れてあげて。
先生、あたし辻さんなんか班に入れてあげたくないです。
そんなこと言わないで。辻さんがかわいそうでしょ? じゃああなたは? 三人しかいないから、辻さんが入ったら丁度いいでしょ?
えー、わたしも嫌です。わたしたち、三人がいいんです。
あらあら、困ったわねえ…
- 41 名前:「第一章」 投稿日:2003年07月15日(火)16時26分53秒
色褪せたフィルムが流れ終わった時には、わたしは教室を出ていた。
わたし一人がいないからと言って、何かに支障があるとも思えない。
足は、真っ直ぐ屋上に向かっていた。
階段を昇り切り、外に出る。
迎えてくれる、青い空とそれを丁寧に写し取ったような青い海。
肌を灼く、夏の太陽。
そして、頭上から降り注ぐ甲高い声。
「自分、遅いなあ。待ちくたびれてもうたわ」
声のするほうを仰ぎ見る。
お団子頭の少女が、目を細めて笑っていた。
- 42 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月15日(火)16時31分31秒
- 更新終了。
で、早速ミスが。
35の、
32組の机と椅子→36組の机と椅子
…でないと正方形にならないんで。
- 43 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月15日(火)16時48分20秒
まあ辻主人公作品自体少ないようなので何とも言えないんですが、
いま自分が書いている「辻希美」って既存の作品にない感じになっていると思います。
(キャラにあってない、とも言えますが)
イメージとしては、彼女が時折見せる「しれっとした表情」。あれが永続的になっている
感じです。
賛否両論あるかとは思いますが、是非感想聞かせてください。
>>tokenさん
空板の某有名作品にて何度もお名前を拝見していたので、そんな方からレスが
頂けるとは恐縮です。
読みやすい、って言われると凄く励みになります。ありがとうございます!
(実は自分も空板に拙作を晒しているので…)
- 44 名前:token 投稿日:2003年07月15日(火)21時43分18秒
- 更新お疲れ様です。
>そんな方からレスが頂けるとは恐縮です。
とんでもない!私は空板にはレスしているだけですから。作品の方は金板で書いていますが、
まだ一作目ですので、そんなこと言われるとこちらが恐縮してしまいます。
この作品の辻さん、良いです。
お馬鹿でも、天使のように純真でもなく、外界をシニカルに見ている
傍観者といったところでしょうか?新鮮で面白いと思います。
そんな彼女はあいぼんとの出会いでどう変わっていくのでしょうか?
続きが大いに気になります。
- 45 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時28分10秒
わたしの足は自然に貯水タンクの上へと導かれていた。
青い空、白く熱された雲、灼けた鉄板の感触。そして。
加護亜依の笑顔。
全てがあの日と同じだった。
梯子を伝い、加護亜依の隣に座る。
「毎日、ずっと待ってたんやで」
意外な発言。ずっと、とはわたしと彼女がはじめて話した日からということなのだろうか。
「そうなんだ」
わたしはそう言うと、遠くに見える海へと視線を向ける。頭上の太陽が乱反射し、海面にいくつもの瞬きを映していた。
- 46 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時29分07秒
「なーんてな。ホンマは、あんまり期待してへんかった。ただ、何となくノノがここに来たらええなあ…そう思うてた」
加護亜依がにかっと笑う。左の犬歯がすきっ歯みたいになっていた。
「そう言えば…」
わたしはふとあることを思い出す。
「加護さん、今日休みだったはずじゃ」
わたしの記憶が確かならば、終業式前のホームルームで担任の教師が「加護は…風邪で休みか」と言っていたはずだった。
「ああ…おばあちゃんの声真似使うたったわ。『亜依が風邪をひきまして…今日は休ませてくれませんか?』ってな」
彼女はそう言って、塩辛い声を出してみせた。
「それよりええんか自分は。大事な連絡事項があるかもしれへんで?」
「ううん、いいんだ。わたし、別に学年旅行になんか行かないから」
「ふうん…まあ、ええんちゃうか? うちも行かへんから、何とも言われへん。友達もおらへんのに、無理して出てもええことないし」
友達がいない。わたしにとっては最早体の一部のような当たり前の事象。けれど人の口から改めて聞かされると、他人の日記を読んで聞かせられるような気分になった。
- 47 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時30分38秒
本当に暑い。
この前もそうだったけれど、今日は輪をかけて暑かった。
ここに来てから数分、すぐに制服は汗で貼りついた。
「しかし、ホンマ暑いなあ」
「そうだね」
ぽつり、ぽつりと続く会話の合間に挿入される、そんな台詞。会話の内容は、先頃行われた期末テストの結果とかどの教科が得意だとか、そういう他愛もないものだった。わたしがこんなに人と話すこと等、過去の記憶を探っても見当たらない。どういうわけなのか。夏の暑さか。いや、もっとちゃんとした理由があるような気がした。
- 48 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時31分11秒
- 「ねえ、いいかい?」
加護亜依が急に立ち上がり、言った。彼女の使う標準語は、どことなくイントネーションがおかしかった。
「きっかけは些細なことでいい。それこそがらくたみたいな、周りの誰もが振り向かない出来事でも。でも、そんなきっかけが、世界のありとあらゆる事象を構成しているんだ。もしこの世から些細なきっかけ全てを排除したら、世界はまるでジグソーパズルをひっくり返したみたいにバラバラに瓦解するだろう」
彼女は妙な調子で、下の無人の群集に向かって演説した。
「…何が言いたいの?」
「つまりや。これから喫茶店にでも行かへん? そういうことや」
断わる理由が特になかったので、わたしは彼女の提案に従った。
- 49 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時32分05秒
無人の教室から鞄を回収し、わたしは加護亜依に連れられて駅前へと続く道を歩いていた。アスファルトの照り返しが頬を突き、その刺激は汗となって流れてゆく。
「加護さん」
わたしは彼女に、兼ねてから気になっていたことを聞いてみようと思った。
どうしてわたしを屋上で待っていたのか。
わたしの中のどういう要素がそうさせたのか。
引っ越す前の高校では多分人気者だったであろう(とわたしは考える)彼女が、とうしてわたしに接触を図るのか。思えばこれほど不可解な出来事はない。
「何や?」
「どうしてあの日、わたしに話しかけたの?」
あの日。加護亜依が意味不明なことを喚いて教室を飛び出した日。釣られるようにして屋上に向かったわたしに、彼女は声をかけた。
何故?
その理由を、わたしはそのまま記憶の下水溝へと流そうとしていた。でも、こうしてどういうわけか喫茶店へと一緒に行こうとしている。夏の暑さの所為、などという人をくったような理由ではもう、片付けられない。
- 50 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時32分45秒
- 「まあまあ、話は喫茶店に入ってから」
だが、加護亜依はそう言って質問をはぐらかした。わたしはこういう、勿体つけは好きではない。その奥に大したものがなければ尚更のことだ。
「それより」
わたしの心を知ってか知らずか、彼女は別の話題を切り出す。
「加護さん、って呼ばれるの…新鮮やな」
駅に近づくにつれ、人通りが増えてゆく。これから先も関わりあうことがないような人たちと、何度もすれ違った。
「新鮮…? よく、判らないけど」
「自分は知らんと思うけどうち、転校してから殆ど上の名前ですら呼ばれてないんやで」
そう言うと加護亜依は少しだけ、悲しそうな顔をした。
「まあうちにも責任あるんやろうけど、大抵は「大阪」とか「大阪の子」。うちは大阪ちゃうねん奈良やねん言うても、それは変わらへんかった。ホンマは名前で呼んで欲しかったんやけど、結局うちが名前で呼ばれることはなかった。もう正直しんどくなってな、うちからあいつらに話しかけるのやめたねん」
- 51 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時33分29秒
わたしは暫く彼女の話を聞いていたが、思ったことがあったので言ってみた。
「名前なんて、ただの記号だよ」
「おもろいこと言うなあ。してその心は?」
予想外に加護亜依はその話に食いついてきたので、わたしはその意味について話すことにした。ここから駅までの道程は、短いようで案外長い。
「親は、子に願いを託して名前をつける。でも、子がその願いを望んでいなければ、願いは忽ち呪いとなる。そんな不確定なものは抱えたくないし、だったらそういう要素は一切排除して名前をただの識別番号として認識したほうが遥かに楽」
加護亜依はしばらく眉を潜めていたが、やがて呆れたように、
「自分、ひねた考えしてんなあ」
と言って肩を竦めて見せた。教室であれ程ひねた演説をした人間に言われたくないが、事実わたしの考えかたはひねているのだろう、反論はしなかった。
- 52 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時34分06秒
不意に、加護亜依が立ち止まる。
「着いたわ。ここや」
わたしは彼女が見た建物に目を移した。
白塗りの、小さな喫茶店。駅前だけは立派な建物が並ぶこの通りにおいて、異質な存在。けれども不思議に心休まるような何かが、存在しているような気がした。
ドアノブに手をかけ、先を行くお団子頭が扉を開く。
心地よい涼気が、火照った体を迎え入れてくれた。
- 53 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時34分55秒
こざっぱりとした内装。その色は外観と同様、白に統一されていた。
「あらあいぼん、今日は随分早いんだね」
奥から出てきた背の高い女性。年の頃は二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。艶やかな黒髪と、大きな瞳が印象的だった。
なじみの喫茶店、きっとそんなところだろう。
「今日は終業式言うたやろ」
加護亜依は言うより早く、カウンターの一席に飛びついた。椅子の高さが高過ぎて、両足が所在無さげにぶらぶらと揺れている。きっと彼女と同じ位の背格好であるわたしも、座ればあんな感じになるのだろう。
わたしは迷わず、窓際のテーブルに腰掛けた。
- 54 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時35分45秒
「ノノ、何そんなとこに座ってんねん。早よこっち来いや」
そんな無神経な呼びかけを無視していると、
「あいぼん、お友達?」
と女性が加護亜依に聞いてきた。
「ああ…いつも話してたやろ? ノノや」
女性がテーブルに近づき、まじまじとわたしの顔を凝視した。大きな濡れた瞳に見つめられると、何だか妙な緊張を感じずにはいられない。
「ふうん…話に聞いたより素直そうな、かわいい子じゃない。あたしは飯田圭織。この喫茶店の店主やってるの。かおりんって呼んでいいよ」
彼女はぽってりとした唇を横に広げ、にっと笑った。普段加護亜依はわたしについて何を話していたのだろう。
わたしは窓の外の世界を覗く。
眩しい光が、喫茶店のテーブルをゆらゆらと照らす。まるで、別世界に迷い込んだようだった。
- 55 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時37分33秒
「ところで御注文は何に致しますか、お客様?」
飯田さんは、かしこまった顔になって加護亜依に聞いてきた。
「何やかおりん。うちら、もうそんな仲とちゃうやろ? いつもの持ってきてや、いつもの」
「いつもの…?」
首を傾げる飯田さんに猶も加護亜依は、
「いつものっちゅうたら、いつものに決まっとるやないか。大人の苦味を適度に含んだ、あれや」
と焦ったように要望する。
飯田さんはああ、昨日言ってたあれねとだけ呟いてから、
「のんちゃんは? 何にする?」
とわたしのほうを向いて訊いてきた。多分、わたしのことなのだろう。
- 56 名前:第一章 投稿日:2003年07月21日(月)18時38分06秒
- 「…じゃあ、アイスティーお願いします」
何故「のんちゃん」なのかを問うことなく、注文の品を告げた。わたしがノノだろうが、のんちゃんだろうが、辻希美だろうが、その違いを求めることに大した意味なんてないのだ。それは大量生産される商品のシリアルナンバーの違いについて考えることに似ていた。
飯田さんが奥へと引っ込んで行く。カウンターに両肘を突いていた加護亜依が、突然わたしのほうへ向き直る。
「どうしてあの日、自分に話しかけた…やったか」
わたしが駅前通りを歩いている時に問うた、質問。わたしは無言のうちに頷く。
- 57 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月21日(月)18時54分18秒
- 更新終了。
というわけで、いいらさん登場。
>>tokenさん
そう言って頂けると非常にありがたいです。
お馬鹿で純粋な「ののたん」も勿論好きなのですが…
- 58 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月21日(月)19時03分26秒
- さっき初めて読んで、寝て、また見たら更新されてた
嬉や嬉や〜
一歩ひいて世界を見れるのの、いいっすね
お気に入りにいれときます
- 59 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月21日(月)19時04分43秒
- すいません、、、
逝ってきます
- 60 名前:10です 投稿日:2003年07月21日(月)19時36分10秒
- やはり物事を色んな面から考えられるののは新鮮です。
そんなののに自分は賛成派です!
実は私も小説をここで書かせて頂いているのですが、作者さんの文章力はかなりのものだと思います。
期待していますのでこれからも頑張って下さい
- 61 名前:token 投稿日:2003年07月21日(月)21時40分06秒
- 更新お疲れ様です。
>子がその願いを望んでいなければ、願いは忽ち呪いとなる
そうですよね。聞いた話ですが、偉人にちなんだ名前を付けられた子が
学校の成績が良くなくて、名前負けしてる、なんて言われた頃もあったとか。
名前って自分じゃ選べませんからね〜。
では、次回も楽しみに待っております。
- 62 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時50分28秒
しんとした喫茶店。
多分コーヒーを淹れているのだろう、飯田さんが奥で作業をしている音だけが小さく鳴り響いていた。
「…何でやと思う?」
わたしには答えることができなかった。想像すらつかない。
何故なら、前例がないから。
どんな目的にしても、今までわたしに近づいて来たものなどいただろうか。
誰もいない。大きく、溜息をついた。
「わからない」
「わからないか。じゃあ教えたる」
加護亜依がカウンターの席から飛び降りるようにして近づく。そしてわたしの目の前まで来ると、しゃがみ込んで目線を合わせた。
打算ばかりしてそうなのに、澄みきった綺麗な目。
「それはなあ…自分にはうちにはない、何かがあると思ったからや」
謎は、さらに深まった。
- 63 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時53分02秒
- 加護亜依にはないわたしの何か。
それは一体何なのか。
わたしは辻希美として生まれ、そして辻希美として生きて来た。彼女もまた、加護亜依なりの生き方をしてきたのだろう。
それは幾つかの要素の絡んだ、膨大な阿弥陀籤。ただ、それだけのことではないのか。
「難しい顔してるな。でも、そうややこしいことやあらへん。人間は自ら欠けてるもんを補うために、色々思考錯誤すんねん。今回のこともその一端と思ってくれればええ」
そして加護亜依は相好を崩し、
「ま、でも簡単に言うたら…自分と友達になりたかった、そういうこっちゃ。簡単やろ?」
と笑って見せた。
友達。わたしの人生において必要ではなかった存在。
「…少し、考えさせて」
それだけ言うのがやっとだった。
驚き、戸惑い、疑い、そして混乱…
心の中はまるで数種のスパゲティーをかき混ぜたようにぐちゃぐちゃだったけれど、たったひとつだけ確かなことがあった。
わたしの目の前に、手が、差し伸べられている。
- 64 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時54分20秒
「まあ…いきなりそんなん言われても、ようわからんやろな。今日から夏休みやし、うちはいつもここにおるから、気い向いたら会いに来てや」
加護亜依は、照れ臭いような顔をしてそう言った。無言のうちに頷くわたし。そこへ、トレーにグラスを載せた飯田さんがやって来る。
「何だあいぼん、そっちに座るの?」
「何言うてんねん。カウンター席はうちの特等席やろ」
彼女は降り立った時と同じように、軽やかな身のこなしでカウンターの椅子に座り直す。その様子はなんとなく木に飛び付くリスを思わせた。
「はい、のんちゃんはアイスティーだったよね」
テーブルに置かれるアイスティー。中の氷が、窓際の日光を跳ね返していた。
- 65 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時55分01秒
- 「で…あいぼんは、これでしょ?」
そして、白い湯気を立てるカップを加護亜依の目の前に差し出した。
「せ、せやせや! やっぱ大人の女はコーヒー、それもブラックに限るわ!」
彼女は不自然な笑顔を作ったまま、コーヒーカップに口をつける。刹那、苦味が顔中を走ったような表情をした。
「のんちゃんがいるからって、無理しちゃって」
飯田さんがくすくすと笑い声を漏らす。すると加護亜依は、
「…コーヒーも飲めへんようじゃ、うちの夢は叶わなへんのや」
と不服そうに呟き、またコーヒーを飲んだ。
- 66 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時56分04秒
夢。
それが眠る時に脳裏に浮かぶ映像ではないことくらい、わたしにだってわかる。
希望の先にあるもの。
今のわたしとは、最も縁遠い場所にあるもの。
- 67 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時57分51秒
そんな「夢」という言葉を、加護亜依は口にした。
「前から思ってたんだけどさあ…コーヒーとあいぼんの夢って、どういう関係があるの?」
「…それはかおりんにも、秘密や」
悪戯っぽい表情。そしてそれはわたしにある事実を突きつけた。
言動は少し風変わりだけど、彼女は背伸びもすれば夢も見る、ごく普通の少女であることを。
そんな、15、6の少女に当たり前のように備わっている資質を、わたしは持っていないということを。
別に悲しくはない。羨ましくもない。そこにあるのは、厳然とした事実。
使い捨てカメラに自動巻き戻し機能がないように。
携帯電話に電話線がないように。
- 68 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時58分36秒
それから先は加護亜依が一方的に喋り、飯田さんは時折相槌を打ったりわたしにわかりやすいように説明してくれたりしていた。
気がつくと、テーブルはいつの間にかオレンジに染まっていた。
「そろそろ、帰らなあかん時間やな」
すとっ、と小さな体が降りる音。
「うちはもう帰るけど、自分はどないする?」
「わたしは…もう少し、残ってる」
右腕の時計に目をやる。いつもなら、まだ書店か図書館にいる時間。
「さよか。じゃ、またな。明日も、ここで待ってるから」
加護亜依はそう言い残して喫茶店を後にした。
- 69 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)15時59分35秒
飯田さんはカウンターの中で洗い終えたコーヒーカップやらグラスやらを拭いていた。特にこれと言って何もすることのないわたしは、ぼんやりとその後姿を眺めていた。
わたしと加護亜依がこの店に入ってから数時間、一人の客すらやって来なかった。目立たない場所にあるにしても、それは普通ではないように思えた。
「お客さん、全然来ないでしょ?」
考えを読み取ったかのように、飯田さんはそんなことを言った。本当のことなので、わたしは小さく頷いた。
「近くにさ、大規模なチェーン店があるんだ。お客さんはみんな、そっちに流れちゃう。まあ、死活問題じゃないからいいんだけどねえ」
飯田さんは真っ白な布で、グラスを磨きながら言う。
- 70 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時00分07秒
- 「あたしが短大を卒業する頃にね、お父さんが急に死んじゃって。お父さんは北海道で事業をしてかなり儲かってたから、莫大な遺産が入って来た。使い道も特に思い浮かばなかったから、取り敢えず喫茶店でもやってみようかな、なんて。そんな半端な気持ちだから、流行らないのかなあ」
飯田さんの顔がくっきり映し出されてしまうほどに、綺麗に磨かれた曲面。
テーブルクロスの、目に染みるような白。外壁、天井、床…どこにも、これと言った落ち度は見当たらない。
では何故…とはわたしは考えなかった。きっと当の本人が幾度となくそう思っただろうし、わたしがそれについて考える理由も権利もないから。
それから再び、沈黙。
飯田さんのグラスを拭くきゅっ、きゅっ、という音が静寂に色を添えていた。
- 71 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時01分16秒
喫茶店を出る頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
「あいぼんと一緒に待ってるからさ、また来なよ」
飯田さんは屈託のない笑顔で、わたしを見送ってくれた。
胸に去来する、不思議な感情。
今まで誰にも、気にも留められなかった。
それが何故だかはわからないけど、二人の人間がわたしに関わろうとしている。
特に、加護亜依。彼女は、どういうわけか「友達になろう」などと言い出した。まるで、天気がいいから散歩に出よう、みたいな軽い口調で。
手は差し伸べられている。あとは、その手を取るだけだ。
でも、そのやり方が、わたしにはわからない。
どうやれば…いいんだっけ…
それは多少ながらも、喜びを含んだ戸惑いだったのかもしれない。甘い香りのするそんな気分に浸るのは、悪くないことだった。
でも、それは還るべき場所に近づくにつれ、薄れてゆく。
理由は自分が一番よく、知っている。
- 72 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時02分03秒
赤煉瓦作りの、一軒家。
きっと近所の他の家と比べ、立派なものなのだろう。
入れ物が立派でも中身まで立派とは、限らないが。
ともかくわたしはいつもするように、その重い木の扉を開けた。
「ただいま」
返事はない。いつものことだ。
足元に目を向ける。出ている靴の中にあいつの靴はないことが、わたしの胸を少しだけ休ませた。この時間にあいつが帰っているとは思わなかったけれど。
そう、わたしはいつも、あいつの影にすら怯えている。
- 73 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時03分10秒
母親のいるであろうダイニング・キッチンには入らず、そのまま二階のわたしの部屋へと向かった。「ただいま」は、一回でいい。
朝から主を失っていた部屋は、蒸せ返る熱気と共にわたしを迎えてくれた。机、ベッド、本棚とテレビしかない簡素な部屋。とても女子高生の部屋とは思えない。
正面奥の窓を開け放った。温度差の所為だろうか、外から流れ込む空気は妙に涼しかった。それは昼間の喫茶店での出来事を、想起させる。
まるで、夢のような出来事だった。そう思うのも、今日で二回目。
それは現実と乖離している出来事だからだ。
誰からも声をかけられない。そうして時が過ぎてゆく。二十歳をとうに超えたある時に、「随分遠くまで来てしまった」、そう呟く。それがわたしのそれまでの、現実。
いつまでこのファンタジーは続くのだろう。入り口があれば必ず出口が存在するように、始まりがあればきっと終わりもまた訪れるのだろう。それが夢を指しているのか現実を指しているのかは、わからないけれど。
部屋の電気をつけぬまま、ベッドに身を任せた。
- 74 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時03分58秒
横になってから、どれくらいの時が流れたろうか。
下の騒々しさに、目が醒めた。
あいつが帰って来た。身が縮まる。
ゆっくりと階段を昇る足音が聞こえる。それは確実にこの部屋へと近づいていた。
クルナ。
アッチイケ。
ワタシニ、チカヅカナイデ…
開かれる、扉。
「希美、ご飯出来てるって」
暗闇に浮かぶ、凍れる月。
かつてはお姉ちゃんと呼んでいた、存在。
「うん、わかった…」
言葉とは裏腹に、わたしの精神は激しく磨耗する。
- 75 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時05分34秒
母と姉と、そしてわたしの食卓。
けれど、その場にわたしは存在しないに等しい。
少なくとも、母親の視線は姉だけに注がれているようだ。
「でね、景子が言うの。あんたはまかり間違ったら未だにガングロギャルやってるよって」
どういう経緯から姉の友人がその台詞を言ったのか知らないけれど、少なくとも彼女は優等生として高校時代を過ごしていた。家の外でも、そして中でも。
姉の視線は母にも、わたしにも公平に注がれる。けれど、彼女がわたしに話を振ることは決してない。いるものを無視するのではなく、いるものを視界に入れながらいないものとして扱う。この点において彼女は天才だった。
- 76 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時06分20秒
存在を消された上での食卓。わたしは恐怖によって、椅子に釘漬けられていた。
出来れば姉と一緒に食事など取りたくない。そう、学校の教室からわたしがいなくなっても誰一人気にも留めないように、母親も同じように考えるだろう。だが、姉は決してそれを許さないだろう。
姉はわたしを呼びに行く。ご飯だから下に下りなさい、と。強制はしないだろう。でも、従わざるを得ない何かがそこにはある。その得体の知れない何かにわたしは怯え、そして恐れていた。
「ねえお母さん、お父さんいつ休み取れるって?」
「確かお盆辺りに取れるって言ってたけど」
「じゃあさ、みんなで旅行にでも行こうよ。久しぶりに親子水入らずで」
「そうねえ…」
「留守番は希美がするから。ね?」
耳の奥が、キーンとした。
- 77 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時09分54秒
食事を終え、わたしが自分の部屋に戻ってから少し経った時。
隣の部屋から聞こえる、扉の締まる音。
姉もまた自分の部屋に戻ったのだ。
そして徐に聞こえてくる鍵盤の音。姉は小学校の時からずっと、ピアノを習っていた。
わたしはベッドに潜り込みながら、姉の指によって叩かれる白と黒に彩られた鍵盤を思う。交錯する二つの色が、心に爪を立てるような不快な旋律を奏で続ける。
- 78 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時10分44秒
白は曇り一つない、希望の色。
黒は深く塗り込められた、絶望の色。
白と黒はお互いにもつれ合い絡み合い、更なる深淵へと落ちていった。
ユメ、ユメ、ウツツ…ユメ、ウツツ。
- 79 名前:第一章 投稿日:2003年07月24日(木)16時23分08秒
- 更新終了です。
ここで第一章は終了、次回更新から第二章に入ります。
・・・某文子さんが妹同様、らしくない感じです。ガングロ云々がせめてもの抵抗。
>>58名無しさん
どうもありがとうございます!
一歩ひいたのの、好評なようで嬉しいです。
ジャンルは違えど狩にあったバトルロワイヤルもの(題名は失念)に出てくる
辻希美、実はとってもお気に入りなキャラです。一歩引いた、という意味では
共通しているかもしれないです。
>>60 10さん
いろいろな角度から物事を考えられる辻希美。
実物もそういう面があるかも、と思ってしまうのはひいきの引き倒しでしょうか?
期待にこたえられるようこれからもがんばりたいと思います。
- 80 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月24日(木)16時31分44秒
- あ・・・名前がタイトルのまま。ごめんなさい。
何せレスを三つももらうのが初めてのことでして。
(空板のもうひとつのやつが最高二つ…)
では気を取り直してレスの続きです。
>>tokenさん
名前は自分では選べない。確かにそうなんですよね。
但しペンネームの類ならいくらでも…
あだ名というのも、命名されるものの一つですね。
- 81 名前:10 投稿日:2003年07月25日(金)18時51分40秒
- 更新お疲れ様です。
( ´D`)<………
家の環境も良くないみたいですね。。
ってか姉…むかつ(ry
加護との関係もいい感じです。
- 82 名前:token 投稿日:2003年07月25日(金)21時53分05秒
- 更新お疲れ様です。
お姉さんですか。辻ちゃんにとっても厄介な相手ですねー。
加護ちゃんの夢とコーヒーの関係も気になります。
次回も楽しみにしています。
- 83 名前:名無しさん 投稿日:2003年07月26日(土)23時56分13秒
- 更新お疲れ様です。
今日初めて一気に読みました
すごくひきこまれる世界感です
続き期待!
- 84 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時23分05秒
遠くから聞こえてくる、ピアノの奏でる音色。
ゆっくりと演奏されていたそれは突然駆け出したみたいに、テンポを速めてゆく。ついていけなくなった音符たちが零れ落ちるように、不協和音と化した。狂ったような旋律は、やがて音の全てが崩れるようにして終わりを迎えた。
目の前が血の色に染まる。わたしの体から流れる生温い水が、鍵盤を汚してゆく。
夢と現実を結ぶのは、赤い嘘。
- 85 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時23分54秒
ひどく嫌な夢を見たような気がした。
寝汗が悪夢の痕跡のように、体中に張りついていた。わたしは迷わずシャワーを浴びることにした。
振り蒔かれる熱を帯びた水流と湯気が、ぼんやりとしていた感覚を元に戻そうとする。
きっと姉のピアノの演奏を聞きながら眠ったのがよくなかったのだろう。姉のことも好きではなかったが、彼女が奏でるピアノはもっと好きではなかった。理由はわからない。けれど、いつだってそれはわたしの心を粟立たせた。
体を拭き、自分の部屋に戻る。窓の外から見える空は、ほんの少しだけ明るくなっているように見えた。まだ夜は明けてない。
今日から学校もないと言うのに、早起きにも程がある。
再び、ベッドに戻り布団を被った。
なかなか眠りに就けないのを無理に抑えつけるようにして、わたしは意識の崖を転がり落ちた。
- 86 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時24分36秒
そんな風にして寝たものだから、目覚めは最悪だった。
最悪の気分を引き摺ったまま顔を洗い歯を磨き髪を整え、家を出た。とにかくあの家には無駄に長く居たくはなかった。
わたしの足は図書館へと真っ直ぐに向かう。飯田さんの喫茶店に行くことも選択肢の中にないわけではなかった。でも言われた次の日に早速店に行く姿は、まるでおあずけを食らっていた犬が餌に齧り付くのに似ていた。
誰からも声をかけられず、寂しかったのか。いや、そんな感情はただの一度も抱いたことはない。そのことを、自分自身に証明したかったのかもしれない。
- 87 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時25分09秒
天高く昇る太陽が、目に眩しい。
駅や学校のある方向とは、逆向きに歩いて行く。
マンションの列が途切れ、青空によって綺麗に着色された海が顔を覗かせる。漂う風の匂いはやはり濁っていたけれど、限りなく青い空と青い海と輝く太陽は体に残る不快感を汗とともに流してくれた。
- 88 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時25分44秒
海を埋め立て巨大な墓石のような住居群を作り上げた市が次に成したことは、市民が利用する施設の完備だった。わたしがこれから向かう図書館も、その一つだ。
しがない漁師町から、周辺地域の中心都市へ。目的の為に彼等は林を切り開き、田や畑を潰していった。だが、バブルが弾けることによってその欲望は潰えた。結果、維持するだけでも膨大な赤字を生み出すだけの豪華過ぎる施設だけが残ったのだ。
でも、そんなことはわたしにとってどうでもいいことだった。図書館は膨大な時間を消費するのを手助けしてくれる、友のような存在だった。彼がどのような出自だろうと、問題はないのだ。
- 89 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時26分20秒
立て札にはこう書いてあった。
「館内改装のため、八月七日まで休ませていただきます。 市立中央図書館」
実に簡素な、わかりやすい説明。
つまりはこういうことだ。
わたしは、図書館には入れない
- 90 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時27分20秒
行き場を無くした迷い羊が向かう先は一つしかなかった。
昨日、加護亜依に連れられて来た場所に一人、立つ。
ドアノブを握る手が、震えた。そう言えば、わたしが自ら他人と接触を試みるのはこれがはじめてのことだった。
からんからん。
頭上で小さな鐘の音が響く。ドアの頂部に取り付けられていたのであろう、はじめ来た時には気付かなかったことだった。
ふとカウンターに目をやる。
そこに加護亜依は、いなかった。
- 91 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時27分56秒
「のんちゃん、いらっしゃい」
カウンターの中にいた飯田さんに、声をかけられる。
「…こんにちは」
慌てて頭を下げるわたしを見て飯田さんはゆっくりと微笑み、
「好きな場所に座ってていいよ。あいぼんは今、レッスン中だからこっちに来るのはお昼過ぎになると思う」
と言った。
「レッスン…」
「あれ、あいぼんから聞いてなかった?」
わたしは首を横に振った。
「あ、そうなんだ。でもきっとそのうち本人の口から聞けるんじゃないかなあ。ところで、今日のご注文は?」
「アイスティー、お願いします」
飯田さんがカウンターの奥にある厨房に引っ込む。店内にいるのはわたしだけみないな状態になった。
- 92 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時28分34秒
どうしてここに来てるんだろう。
すぐに、そんな気持ちに襲われた。
何かを期待しているから?
わたしは何かを期待しているの?
突如目の前に差し出された、柔らかな手。
それを握った時、何かが変わる?
わたしが、変わる?
さっきまでの暑さの所為か、考えがうまくまとまらなかった。
「はいどうぞ。おかわり、自由だからね」
飯田さんがやって来て、アイスティーの満たされたグラスを置いていった。透明な容器にびっしりとついた水滴が、テーブルに零れ落ちる。
- 93 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時29分12秒
この場所には確かに本は無い。けれど、図書館に匹敵するくらいの静けさがある。
そんなことを思いながらアイスティーに口をつけていると、
さらさらという、紙に何かを擦りつけているような音が聞こえた。音のする方を振り返ると、飯田さんがわたしのことを凝視しながらスケッチブックに何かを書いていた。
「何を…しているんですか?」
「のんちゃんの絵を描こうと思って」
飯田さんはまったく悪びれることなく、はっきりそう言った。
聞きたいのはそんなことじゃない。絵を描いているのはわかる。鉛筆とスケッチブックを使って壁に釘を打ち付けるものなど、そうはいないだろう。問題は、どうしてわたしを描いているのかということだった。
でも飯田さんにそれを質すことはしなかった。
もし仮に反対したとして、一体何の意味があるというのだ。
- 94 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時29分49秒
飯田さんの被写体になっている間、わたしは昨日そうしたように窓の外に視線を投げかけていた。
今日も天気がいい。
青空に君臨する君主は、地表に這うもの全てを照らし出す。光は街も街路樹もアスファルトも行き交う人も、素晴らしいものに見せてしまう。ただそれはただの幻想に過ぎず、結局は何一つ変わってないのだろう。それでもそんなものを遠くから眺める行為は決して退屈ではなかった。
- 95 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時30分25秒
「うーん…」
それまで作業に没頭していた飯田さんが、急に唸り声を上げる。そしてスケッチブックの一枚を破り取ってゴミ箱に捨ててしまった。
「やっぱり昨日会ったばかりの子を描くのって、難しいかも。ほら、よく公園の入り口とかで『あなたの似顔絵描きます』なんて立て札立ててる人いるじゃん。圭織、憧れるな。だって、初対面の人の似顔絵なんて絶対描けないもん」
飯田さんはそう言って苦笑した。
「飯田さんは絵をよく描くんですか?」
「うん。これでも大学では美術を専攻してたからね。あいぼんがこっちに来てからは、専らあいぼんばっか描いてたけど…見る?」
頷いた。多分、彼女の描く加護亜依がどんなものか知りたかった、ただそれだけのことなのだろう。
- 96 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時31分08秒
飯田さんは数冊のスケッチブックをわたしに手渡してくれた。
表紙からしてよく使い込まれた感のあるそれは、ずしりと手に重い。恐る恐る表紙を開くと、そこには線画で描かれた加護亜依がいた。
わたしに絵の素養があればもっとうまく説明できるのかもしれないのだけれど、生憎そんなものは持ち合わせていない。けれども、飯田さんの絵から感じられる何かが確実にわたしの心に伝わっているような気がした。
確かに技術的な観点からすれば、上手いとは言えないのかもしれない。だけど、彼女が描いた加護亜依は、どれも生き生きとしていた。
正面から描かれた顔、横顔、全体像、コーヒーカップに口をつける姿。そのどれもが、今にも動き出しそうなリアルさに満ちている。しかもそういった感じが、ページが進むにつれ強まっていく。まるで鉛筆が、絵に少しずつ命を吹き込んでいるように。
「どう? あんまりうまくないっしょ?」
飯田さんに声をかけられ、わたしは我に帰った。
- 97 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時31分41秒
「いえ、そんなことないです…」
わたしにはそう言うのがやっとだった。
「ありがと。お世辞でもうれしいよ」
飯田さんにスケッチブックを返した。その時に、彼女の手に指が触れる。温かみのある、感触。この指が、あの躍動感に溢れる絵を生み出したのだ。
急に、ゴミ箱の中の丸められた紙が気になった。
あの紙には、どんなわたしが描かれていたのだろう。
加護亜依のような生き生きとしたわたしを想像してもたけれど、うまくいかなかった。
そんなことを考えていると、喫茶店のドアが開いた。
「おおっ、ちゃんと来てるやんか!」
加護亜依は黒目を丸くさせながら、わたしの座っているテーブルへと近づいてゆく。
- 98 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時32分45秒
加護亜依は昨日と同じくカウンター席に腰掛けると、
「あーもうヘトヘトや…かおりん、何かスカッとしたもん頼むわ」
とうめいた。
「あいぼん、今日はコーヒーはいいの?」
「アホ言うな、このクソ暑いのに、コーヒーなんか飲めるか。早よ、キーンと冷たいのん持って来てや」
「はいはい」
飯田さんは苦笑すると、スケッチブックを持って厨房へと戻っていった。
「ノノ、堪忍やで」
「え…何?」
急に目の前で謝りだした加護亜依に、わたしは困惑した。すると彼女はお団子頭を上げて、こう言うのだった。
「昨日うちは待ってる言うたのに、自分のこと待たせてもうた。ほんまは歌のレッスン、午後からやってん。でも先生の急な用事で朝からになってもうたんや」
歌のレッスン、と彼女は言った。そういう教室に、きっと彼女は通っているのだろう。わたしはそのことについて、追及したりはしなかった。でも、例によって加護亜依は一人で勝手に喋り始めた。
- 99 名前:第二章 投稿日:2003年07月31日(木)03時33分37秒
- 「歌のレッスンだけやない。ダンスの教室にも、演技指導の教室にも行ってんねん。毎日、ちゅうわけにはいかんけどな。歌の先生はたまたまこの近くに住んでんねん」
「そうなんだ…」
「何でか、知りたいやろ」
加護亜依が顔を近づける。別にそんなに知りたくはなかったけれど、勢いに流されて首を縦に振ってしまった。
すると彼女は勿体つけたような含み笑いをしてから、3回ほど「どないしよか、教えたろか」という言葉を繰り返した。
そして、急に真顔になって、
「うちな、アイドルになりたいねん」
と言った。
- 100 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月31日(木)03時38分40秒
- というわけで更新終了。
同時進行していたもう一つの作品のエンディングを書いていたので、
文章のあちこちに粗が…ひええ。
>> 10さん
このむかつ(略)な姉は後々も話に絡む予定です。
辻加護の関係…どうなっていくのやら。
書いてる本人も楽しみです。
- 101 名前:作者名未定 投稿日:2003年07月31日(木)03時44分38秒
- >>tokenさん
やっかいですよ、この姉は。
個人的な感想としては、一緒に暮らしたくない…
コーヒーについては、後々。まあ、なあんだって感じだとは思いますが。
>>83 名無しさん
ありがとうございます!
世界観ですか。主人公の雰囲気に合わせた感じにはしてるつもりですが、
実際のところどうなんでしょう。
これからも読んでいただければ此れ幸いです。
- 102 名前:token 投稿日:2003年08月02日(土)13時01分52秒
- 更新お疲れ様です。
お代わり自由で、店長さんがスケッチのサービス。う〜ん行ってみたいな、このお店。(笑)
でもマジで、辻ちゃんを描いた飯田さんのスケッチが、いつの日か完成しますように。
そして加護ちゃんの夢はアイドル!お話の展開が楽しみです。
- 103 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時01分54秒
「なあ自分。Rock-kissって、知ってるか?」
わたしは首を振る。そこへレモンスカッシュをお盆に載せた飯田さんがやって来た。
「あいぼんはRock-kissのメンバーになりたいんだよね?」
すると加護亜依は顔をくにゃっとさせた。
それから彼女によるRock-kissについての説明が成された。
kame、sayu、re-na、mikiの四人によるバンド形式をとったグループであること。
プロデューサーであるイエロー☆マンによる様々な仕掛けによって、爆発的大ヒットを飛ばし続け同世代の人間から支持を得ていること。
先頃メインボーカルのmikiがRock-kissを脱退、新しいメンバーを公募していること。
そしてそのオーディションに、加護亜依自身が応募していること。
- 104 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時02分56秒
- 「一次審査は書類選考やねん。最終選考は夏休みが終わる頃言うてたから、もうそろそろ結果通知が来てもおかしくないんやけど…」
そう言って、彼女は少しだけ不安な表情を見せる。いつも自信たっぷりに物事を語る姿しかみたことのなかったわたしにとって、それは意外なものに映った。
「あいぼんなら大丈夫だって。だって毎日頑張ってるじゃん」
「…せやな。うち、頑張ってるもんな」
加護亜依はグラスにストローを挿し、口をつけた。吸い込まれる、気泡たち。
「それが、加護さんの夢なの?」
わたしには理解できなかった。理解できないものは無視すればいい。今まではそうしてきた。けれども、わたしの口はひとりでに開いていた。
「そうや。うちは絶対Rock-kissのメインボーカルになったんねん」
力強い視線でわたしを射る加護亜依。彼女の瞳にはきっと、燃え盛る希望の炎が宿っているに違いない。ただ、わたしにはその暖かさを感じることが出来ないだけで。
- 105 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時04分00秒
加護亜依はレモンスカッシュを飲み干すと、家の用事があるからと言って帰って行った。
飯田さんが再び、テーブルの前にやって来る。
「のんちゃん、おかわり…いる?」
わたしはかぶりを振った。今はどんなに冷たい飲み物も、熱い煮え湯の様に感じられることだろうから。
アイドル。硝子のように壊れやすい、偶像。何故そんなものになりたがるのだろうか。加護亜依が抱く夢や希望がそこにあるとは、到底思えなかった。
一度、街頭のテレビでアイドルが歌っている姿を目にしたことがある。目の前の観衆に向かって微笑むその姿は、何か不自然な気がした。笑えない時でも、笑わなければならない。何かを強いる時には必ず、代価としての何かが失われる。きっとそれは決して小さなものではないだろう。
- 106 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時04分34秒
- 色々なものを失って、彼女は一体何を得るのか。得たいのか。そうまでして得たものは、果たして本当に価値のあるものなのだろうか。わたしには理解できない。理解できないものをいつまでも心に留めておくことはない。そのアイドルは、わたしの記憶から虚ろいでいった。
そのアイドルに、加護亜依はなりたいと言った。そのことにわたしは少なくとも、迎合以外の何らかの感情を抱いているのは確かだった。
失望している?
わたしは加護亜依に、若しくは彼女の夢に何かを期待していたのだろうか。
嫉妬している?
アイドルになりたいという儚げな夢を抱くことの出来る加護亜依を、妬ましく思っているのだろうか。
わからなかった。そして誰かが丁寧に答えを教えてくれることも、白山羊が答えの書かれた手紙を運んでくることもなかった。
ただ疑問は、闇に沈んでゆくのみだった。
- 107 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時05分14秒
わたしはまるで、牢獄にいるようだ。
時々、そう思う。
光も挿さぬ独房に、鎖で繋がれている。
いや、闇に覆われているのだから鎖に繋がれているかどうかもわからない。ただ、体の自由が利かないことだけは感覚で判る。
一体誰がわたしをこの暗くて寒い場所に放り込んだのだろう。
きっとそれは、わたしのよく知っている人物だ。
- 108 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時05分55秒
「のんちゃん、どうしたの?」
飯田さんの声で、現実に引き戻された。
「いや、何でもないです」
「そう? さっきからずっと口、開けっぱなしだったよ」
言われてはじめて、自分の口が開いていることに気付く。癖なのだろうか。今まで指摘してくれる人などいなかったのだから、確認の仕様もないが。
窓の外は、いつの間に暗くなっていた。空を暗く重たそうな雲が覆っている。もしかしたら、ひと雨来るかもしれない。
「加護さんは…アイドルになるのが夢なんですね」
何気にぽつりと呟いた言葉だった。でもそれを、飯田さんが拾う。
「うん、はじめてあいぼんがここに来た時から言ってたことだから。あの黒目をらんらんに輝かせちゃってさ。『なあかおりん聞いてや、うちアイドルになりたいねん』なんて言うんだよ。きっとあの子の小さな頃からの夢なんだろうね」
小さな頃からの夢。飯田さんの言葉は砂混じりのキャンディーの様に、いつまでも口の中に溶けずに残っていた。わたしは小さな頃に、何を見ていたのだろう。
- 109 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時06分40秒
- 「ねえのんちゃん。のんちゃんは将来の夢とか、ないの?」
飯田さんはまるで小学校の先生のように、そう聞いてきた。
「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえ見ない」
わたしの返答は、それだった。以前どこかで読んだ小説の引用だ。
「それはのんちゃんの心が、暗いってこと?」
「わかりません。でも、その言葉が真実なら…きっとわたしの心は暗いんでしょうね」
確かなことが言えないのは、人の心の明るさを知らないから。いや、もしかしたらそこには最初から何もなかったのかもしれないが。
飯田さんが、わたしのことをその大きな目で捕まえる。そして、
「のんちゃんは…あたしに似てるかも知れない」
と言った。
「似てる? わたしと飯田さんが?」
「うん。だって…」
飯田さんがそう言いかけたその時だ。
入り口のドアが、からりと音を立てて開かれた。
- 110 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時07分30秒
その女の人は全身を露に塗れさせていた。外に目を移すと、水鉄砲のような勢いの雨がアスファルトに叩きつけられている。いつの間にか雨が降り出したらしい。
「圭織、久しぶりね」
服についた露を払いながら、その人は言う。
「圭ちゃん」
飯田さんは笑顔で「圭ちゃん」と呼んだ女の人に微笑みかける。気のせいか、それは少しだけ強張っていたような気がした。
「ここ、座っていい?」
その人は濡れそぼった傘を傘立てに挿すと、カウンターの席に腰掛けた。
「元気にしてた?」
「うん。おかげさまで忙しい日々を送ってるわ。圭織の方は…」
「見ての通り。お客も殆ど来ないしねえ」
そう言って飯田さんは肩を竦めた。
「ねえ圭織。絵は…絵はもう描いてないの?」
その人の問いに、飯田さんは静かに首を振る。その時の飯田さんは、これまで見たことのない寂しそうな顔をしていた。
- 111 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時08分49秒
- 「そんな。圭織はあたしなんかより全然上手いんだから…」
「天下の保田圭にそう言われるのは嬉しいけどさ、才能がないものをいつまでも続けてもしょうがないっしょ。だったらまだ寂れた喫茶店の女店主やってるほうがましだよ」
背中を向けていたのでわからなかったけれど刹那、確かにその人は凄い形相で飯田さんを睨んでいるような気がした。
周りからじわじわと凍っていく空気。飯田さんは悲しげな表情を浮かべたままだった。
- 112 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時09分31秒
- どれくらい時間が経っただろうか。
その緊張を解こうとしてか、その人は語気を弱めてこう言った。
「圭織。あたしね…この間ある小説の挿絵を描く仕事を頼まれたんだけど、圭織…代わりにやってみない?」
それでも、飯田さんは首を横に振るばかりだった。
「そう…でもそのクライアントは急ぎの仕事じゃないって言ってたし、第一圭織の絵のタッチが一番合うと思うんだ。返事はすぐじゃなくていいけど、待ってるから」
その人はそう言い残すと、ゆっくりとした足取りで喫茶店を去って行った。
わたしは飯田さんに視線を向ける。
「あはは、圭ちゃんのやつ、何も頼まないで帰っちゃったよ」
今にも零れ落ちそうな、砂の彫像のような、微笑み。
- 113 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時10分13秒
俄か雨が止んだ頃に、わたしは喫茶店を後にした。
飯田さんはずっと何かを考え込んでいたようで、わたしが店を出るのも気付かなかった。
何故わたしと飯田さんが似ていると言ったのか。そして何故あの知人らしき女性に絵を描いてないと嘘をついたのか。
何一つ、問い質さなかった。きっと飯田さんの中ではわたしと彼女は似ているのだろうし、絵を描いていないというのも真実なのだろう。他人の真実を、土足で侵入してまで打ち砕く趣味は毛頭ない。
けれど、わたしの心は荒荒しく撫でつけられた絨毯の様に、けばけばしく逆立っていた。
- 114 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時10分51秒
その日は真っ直ぐ家には帰らず、近所の本屋に立ち寄った。暇潰し以外の目的で本屋に入ったのは、初めてのことだった。
わき目も振らず、タレント本が陳列されているコーナーへと向かった。
本棚の前に立つむさ苦しい男を押し退ける様にして、目当てのものを探す。男は弱々しく何かをもごもごと呟きながら、ほかの場所へと去って行った。
それはすぐに見つかった。
「Rock-kissのすべて」
そんなタイトルの本だった。陳腐なネーミングだ。公式のファンブックというわけではなく、どこかの酔狂が編纂したものらしい。わたしはその本を一頁一頁。丁寧に開いてゆく。
- 115 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時11分32秒
はじめにメンバー四人のフォト・ショット。どこにでもいるような中高生にしか見えなかった。続いて個人の写真へと移ってゆくがその印象はまったく変わらない。
写真部分が終わると、何人かのライターによるRock-kissの歩んだ歴史がこれでもかという具合に書き綴られていた。
2002年4月、彼女たちはイエロー☆マンが選考を担当するオーディションによって選ばれた。続いて6月、デビューシングル「葬列」で初めてマスコミの前に姿を現す。十代の少女が歌うには聊か過激過ぎる歌詞、歌番組における彼女たちの傍若無人な振る舞いは意外にも同世代の共感を得、瞬く間に彼女たちを時代の寵児へと押し上げていった。
文章の中でライターが数人のファンにインタビューしていた。彼女たちのファンは殆どが女の子で、口々にこう言うのだった。
「Rock-kissはちょーいけてる」
「彼女たちはあたしたちの気持ちを代弁してくれる」
「彼女たちは、あたしたち自身だ」
- 116 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時12分16秒
胡散臭い、としか言いようがない。これではまるで新興宗教だ。
わたしは溜息をつきつつ、本を閉じて乱雑に本棚に押し込んだ。いつの間にか傍らに並んでいた女子高生の二人組が、横から手を伸ばしてわたしがさっきまで読んでいた本を手にとっていた。少なくとも捏造記事ではなさそうだ。
加護亜依が何故アイドルを目指しているのか。それを知る為にここへやって来た。手がかりは何一つ得られなかったけれど、不思議な感覚だった。
理由がわからなければ、それが通り過ぎるまで待つ。少なくとも今までのわたしはそうだった。けれど、現実としてわたしはここへやって来て、あまつさえRock-kissの本を手に取って読んだ。
- 117 名前:第二章 投稿日:2003年08月08日(金)16時12分57秒
- わたしも何かを模索しているのだろうか。
多くの物事には入り口があれば、出口もまたある。わたしはそう信じている。出口のないものは大抵は中身が淀み、腐ってゆく。まるで花瓶を満たす水のように。
だからわたしは、わたし自身の出口を探しているとでも言うのだろうか。中身が腐り始めていることに気付き、今更動き始めているのだろうか。
何故だか、ひどく恐ろしかった。
- 118 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月08日(金)16時18分22秒
- 更新終了。
夏の暑さと、執筆の行き詰まりにより量が少なめです…
ところでこの作品が某所にて紹介されていたので、腰を抜かしました。
>>tokenさん
こんな喫茶店、現実にあるんかいな。
でも作者の近所に、殆ど客の来ない喫茶店が実在してたりします。
今回は飛び道具の説明にかなりの時間を要しました。
- 119 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時36分08秒
本の話をしよう。
わたしがはじめて本に出会ったのは、物言わぬ漬物石になってからしばらくたったある日のことだった。
周りの人間と殆ど話すことがなくなってから、わたしは静かな場所を求めるようになった。校舎の屋上もその一つだったが、雨の日にはさすがに屋上で寝そべるわけにはいかなかった。そういう時は、貝のように教室でじっとしているしかなかった。
わたしがはじめて学校の図書館を訪れたのも、銀糸のような雨が降り注いでいた日だった。昼休みの教室が余りにも煩かったので、校舎内をぶらついた果てのことだった。
いささか古びた感のある図書館の造りは、却って好感をもたらしていた。
つるりとした床から、板張りの床へと足を踏み入れる。床から、書架から、滲み出る静けさ。館内に人はまばらだった。
わたしはすぐにこの場所が気に入った。
- 120 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時36分54秒
- 机に座っているだけでは能がない。まずは本を探そう。そう思ったわたしが向かったのは文学作品が収められている書架だった。図鑑や伝記でも良かったはずなのに、何故文学作品だったのか。今となっては思い出すこともできない。ただ、忘れてしまったということは、それ程大した理由ではなかったのだろう。
そういった過程を経て、一冊の本に出会った。
その本は小学校の図書館に置くには似つかわしくない、文字のびっしり詰まった小説だった。けれど、迷わずその本を開いた。苦痛はやがて麻痺することを、既に知っていたから。
- 121 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時39分17秒
- 無名の、外国の作家だった。後で調べてわかったことなのだが、彼にとってわたしが読んだ小説が唯一の代表作だった。そんな本がどうして遠く離れた異国で翻訳され、出版されたのかはわからない。それについて説明したり語る必要もないだろう。
彼の文章は読み辛かった。そして物語の筋は支離滅裂だったし、さらに言えば主題らしき主題もなかった。だけどわたしの心を捉えて離さないものが一つだけ、あった、
それはいくら手に掬っても掬いきれないくらいの、憎悪。彼は作中においてありとあらゆるものに憎しみを向けた。敵役はもちろんのこと、主人公やヒロイン、果ては道端に転がっている空き缶にまで、満遍なく。
非生産的で、不毛な小説。それが自然と手に馴染んだ。瞬く間にわたしは本の虜になった。
- 122 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時39分56秒
- もっともこれらの考察は今のわたしのものであり、小学生時分のわたしがそう考えていたかどうかは定かではない。単純に言えばたまたま自分にあった小説を見つけ、それ以来図書館に足繁く通うようになった、そういうことなのだろう。
ちなみにその小説はもうその図書館にはない。わたしが借りたままだからだ。そして小6の春に姉によって古新聞の束とともに捨てられた。
思い出とは、えてしてそんなものである。
- 123 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時40分51秒
家に帰り、そのまま眠りに就いた。
加護亜依の夢、飯田さんの抱えている何か、そしてわたし。
今日はもう何も考えたくなかった。
これまでわたしはうまくやっていたはずだった。
それがどうして今になって、色々なものが崩れていくのだろう。
わたしのしてきたことは間違いではない。
いや、間違いだったから加護亜依の差し伸べる手に眼差しを注いでいるのだろう?
では今までのわたしは一体何だったのだろう。
認めるわけには、いかなかった。
- 124 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時42分11秒
気がつくと、わたしは部屋の中で座っていた。
パステルカラーに彩られた、四角い空間。
部屋の中を漂う、大小のボール状の物体。そのうちのひとつが、ぱちんと弾けた。
中から現れたのは、ピエロの格好をした男。その男の顔には、見覚えがあった。
「イエローマン」
「そう、僕の名前はイエロー☆マン。国民的アイドルのRock-kissを育てた天才プロデューサーだよん」
イエロー☆マンは満面の笑みを浮かべ、丁寧にお辞儀をする。
思わず頭痛がした。何なのだろう、この世界は。
「ところでお姉ちゃん。悩みがあるね」
イエロー☆マンはわたしに近づき、訳知り顔でそう言った。
- 125 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時42分51秒
- 「悩み…何のことですか?」
「はいはい隠さない。おじちゃんは知ってるよ」
そんなことを言いながら、彼が部屋に浮いている桃色のボールを指差した。さっきと同じように、軽い音を立てて弾ける球体。
現れたのは、加護亜依の姿。しかしすぐにそれは霧のようになって消える。
「お姉ちゃん、あの子のことが気になってるだろ?」
「気になってるって…」
「勘違いすんなよ。別に恋愛感情ってわけじゃない。女同士の恋愛なら他所でやってくれ、女呼んで揉んで抱いていい気持ち、ってなもんだ」
目の前のピエロは下品な笑みを浮かべつつ、さらに話を繋げた。
「あの子はわたしにないものを持ってる。それが羨ましくて仕方がない、そうだろ? 別に否定はしないさ。互いにないものに惹かれる、それが人間関係ってやつさ。でもあんたは素直にあのオッパイガールの差し伸べる手を握ることができない」
- 126 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時43分35秒
- 「違う」
わたしは即座に否定した。
「…違うとは?」
「わたしは手の握り方がわからないだけ。それがわかれば…」
「いや、違うねえ」
今度はイエロー☆マンが首を振った。心が、苛立ちはじめる。
「怖いんだろ。今までの自分を否定したくないんだ、お姉ちゃんは。今まで自分が頑なに守り通してきたことが全部無駄になっちゃうのが、嫌なんだろ?」
「違う!」
大きく、叫んだ。わたしはそんな人間じゃない。でも彼は、肩を竦めて皮肉っぽく笑うだけだった。
「こんなとこまで来て意地を張るなよ。俺はあんたのことを責めてるわけじゃないんだ。俺はあんたがこんな風になった原因を知ってる。原因は…これだろ?」
宙を浮いていた赤い球体が、割れる。
- 127 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時44分17秒
- それは、ピアノ。姉の部屋に置いてあるものと一緒だった。身が竦み、全身の毛が逆立つ。体の血という血が逆流してしまいそうな気がした。
「お願い…やめて」
体を支えきれなくなって、膝を床に落とす。
「いいや。止めないよ…僕。ピアノじゃ判り辛いだろうから、もっといいもの見せてやるよ。見えるだろう、あの黒い大きなやつが」
恐る恐る視線を上方に向ける。それは周りのやつよりも一際大きな、どす黒い球体だった。全身から冷や汗の吹き出る思いだった。
「じゃ、これを割っちゃうよーん。いーち、にの…」
「やめてっ!!!」
ぱちん。
- 128 名前:第二章 投稿日:2003年08月10日(日)00時45分02秒
頬を朝日が刺す。
それにしても本当に嫌な夢だった。
昨日の夢もそうだが、今日の夢には趣味の悪さがそこはかとなく漂っていた。
きっとあんな本を読んだからだ…
わたしは昨日本屋で立ち読みしたRock-kissの本の内容を思い出す。プロデューサーの写真など一枚も載っていなかったけれど、何となくピエロの格好が似合いそうな人物だと思った。それがダイレクトに夢に反映されたのだろうか。
夢の内容などはどうでも良かった。大抵の騒音は、耳を塞げば聞こえなくなる。
もうあの喫茶店には行くまい。
寝汗で湿った布団の中で、そう思った。
- 129 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月10日(日)00時47分19秒
- 本日二度目の更新終了。
中途半端だったので二章を終わらせてみました。
- 130 名前:token 投稿日:2003年08月10日(日)09時10分32秒
- 更新お疲れ様です。
う〜む。油断してたら一回分見逃していました。
画伯は名前だけの小ネタだと思ってたら、ご本人登場!しかも飯田さんと関わりが。
なんか飯田さんもいろいろと事情持ちなようですし、この先辻ちゃんとも大きく
絡みそうな予感も。
辻ちゃんも随分加護ちゃんに影響を受けているようですね。夢の中で苦しんでますね。
では、次回からの第三章を楽しみにしております。
- 131 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月11日(月)19時09分04秒
- 今日はじめて最初から読ませていただきました。
お子様キャラじゃない辻。逆にリアルですごい引き込まれます。
- 132 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月16日(土)14時29分36秒
-
駄目で元々、中央図書館まで足を運ぶ。
しかし、やはり入り口には無神経な立て札が立てられているだけだった。
わたしは諦めて、別の場所を探すことにした。
- 133 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月16日(土)14時30分34秒
雲行きが怪しい。
昨日の晩からだろうか、風も強くなってきている。
台風が近づいているらしい。家の近所で立ち話をしていた主婦たちがそう言っていた。
家には戻れない。かと言って加護亜依や飯田さんの待つ喫茶店にもいく気にはなれなかった。あの場所にいたら、わたしがわたしでなくなってしまいそうだ。
駅前に新しい本屋がオープンしていたことを思い出した。クーラーが効き過ぎて、立ち読みには適さないというのが第一印象だったが、背に腹は替えられない。
喫茶店を通らないように、遠回りをして駅を目指した。
それが、いけなかった。
- 134 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月16日(土)14時31分14秒
その白い小さな物体は、死角に組まれた箱の中で震えていた。
人がその場を通りかかる度に、みぃ、みぃ、とか細い鳴き声を上げる。
スーパーマーケットの隣にある空き地の隅に、子猫は捨てられていた。
そして例に洩れることなく、わたしが通りがかった時にも子猫はみぃ、と鳴いた。
つい反応し、段ボールの中身を覗き込んでしまう。
段ボールの中身が子猫だったことを知らずに不用意に侵入した視線は、中の住人としっかり目が合ってしまった。
黒い、滑らかな宝石のような瞳。その輝きはわたしに昔のことを思い出させた。
- 135 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月16日(土)14時31分48秒
中学校に上がったばかりの、雨上がりの朝。
家の近所に、生まれたばかりの子猫が捨てられていた。
小さな鳴き声に導かれ、わたしは思わずふやけた段ボールに近づいてしまった。
下から見上げる円らな瞳には、僅かな混じり気すらなかった。
触れたら、暖かいのだろうか…
だが、答えは出なかった。
目の前を過る、黒い影。
大きな黒い猫が、子猫の首根っこを捉える。その動きは意外なまでにスローモーションだったけど、私の体はまったく動かなかった。
弱肉強食、自然の摂理…様々な言葉が浮かんでは消えていったけれど、それ以上のことは考えなかった。
- 136 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時33分20秒
そして今目の前に小さく佇む、か弱い生き物。
この生き物がこれから先どうなるか、予想するのは独裁国家の末路を想像するよりも容易いだろう。
空を見上げる。
低く垂れ込めた雲が泥水のようなうねりを見せていた。やがで強い風と雨が子猫を襲い、温もりを奪い、死の世界へと連れていくだろう。またはそれすら待たずに、いつかの黒猫のような略奪者に貪られるか。いずれにせよ、未来はないに等しかった。
- 137 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時33分50秒
- わたしが拾えば、子猫は助かる。
ふとそんな考えが頭を掠めた。何故? 何のために? ちっぽけなヒューマニズム? それとも過去の自分への贖罪? 両方とも有り得ない答えだった。
わたしが子猫を無視すれば、子猫は死ぬ。
他の誰かが拾う、などという偶発的幸運を考えるのはただの逃げだ。何故? 何のために? 自分で飼うのが煩わしいから? それ以前に子猫を飼うことに何の意味も見出せないから?
- 138 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時34分26秒
- 仮にわたしが子猫を見捨てたとしよう。それを見ていたクラスメイトで学級委員の高橋さんが影で非難するかもしれない。悪意だ、わざと子猫を見捨てたんだと。
だけど、それが譬え悪意だったとしても、誰がわたしを咎めることができよう。悪意など、この世には満ち溢れている。意味のあるものも、そして意味すら持たないものも。その有象無象の悪意の中から、どうしてわたしの悪意だけが蔑まされなくてはならないのか。
子猫はわたしのことを無垢な瞳で見上げ続ける。
どうかしてる。今までのわたしなら躊躇することなく通り過ぎていっただろうに。そう、あの日のように遠ざかっていく黒猫の背を見つめながら。
- 139 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時34分59秒
- しかし傍観者は、運悪く捕まった。
よくよく考えればここはスーパーマーケットの隣。そういう可能性を頭に入れなかったわたしが悪いのだ。
「あれ…こんなところで何してるの?」
子猫とわたしを覆う、大きな影。
思わずわたしは後ろを振り返った。その買い物袋を抱えた人は、わたしの顔を見ると満面の笑みを浮かべた。
「やっぱりのんちゃんだ」
飯田さんだった。そして飯田さんはわたしの背後の物体を目ざとく見つけるのだった。
- 140 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時35分39秒
何でこんなことになっているのだろう。
隣には嬉しそうに買い物袋を抱える飯田さん。そして。
わたしは子猫の入った段ボール箱を持たされていた。
「この猫、うちで飼うから」
飯田さんは子猫を見つけると、すぐにそう言った。
「そうですか…」
厄介事に巻き込まれそうな雰囲気だった。彼女たちから逃げたくてここまで来たのに。そう思い踵を返そうとすると、
「のんちゃん」
と呼び止められた。
「…何ですか?」
「圭織、買い物袋で手が塞がってるからさ」
わたしは少し考えてから、
「子猫を買い物袋に入れればいい」
と言った。飯田さんは、
「素敵な提案だね」
と言いつつ子猫が座ったままの段ボールをわたしに持たせた。
- 141 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時36分32秒
鉄道の走るガード下を抜けて、駅前通りに入る。
風はますます強くなり、行き交う人々の足も自然と速くなっているような気がした。
「ねえのんちゃん、圭織にさっき会った時…やばっ、て顔したでしょ?」
晴天の霹靂。だがわたしの口は自動書記のようにすらすらと言葉を口にする。
「別に飯田さんに会ったからそんな顔をしたんじゃないんです。ただ…ただ本当に急だったから…」
「そっか」
飯田さんはわたしの嘘をそのまま受容したのか、それ以上は何も言わなかった。
- 142 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時37分04秒
- それからしばらくして、もう少しで喫茶店に到着する、そんな時に再び飯田さんに声をかけられた。
「あのさ」
「えっ、何…ですか?」
飯田さんの表情は怖いくらい真剣だった。
「あのさ…明日からも、喫茶店に来てくれないかな? のんちゃんの絵が、書きたいんだ」
唐突なまでの申し出に、わたしは困惑した。
どうしてですか、何でわたしなんですか、加護さんじゃだめなんですか…言いたいことは色々あったけれど、何一つ口に出せなかった。いつからだろう、無口を決め込んでいるうちに本当に言いたいことも言えなくなってしまった。
- 143 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時38分06秒
「相模湾上の南50キロメートルを北東に進む台風9号は、間もなく三浦半島に上陸する見込みです。現在関東地方北部・南部ともに大雨洪水暴風警報が、沿岸部では大雨洪水暴風波浪警報が発令され、山沿いの地域や沿岸部の一部では非難勧告が出されて…」
- 144 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時38分42秒
ラジオから聞こえる、抑揚のない冷たい声。
飯田さんが店の奥から引っ張り出したラジオが引っ切り無しに台風情報を伝えている。
わたしと飯田さんと子猫が店に入ってすぐ、空から親の敵のように大粒の雨が降り出した。唸るような風の音と、叩きつける雨音が何とも奇妙なハーモニーを奏でている。ラジオのアナウンサーの声を合わせて、素晴らしい三重奏だ。
子猫は飯田さんの出した小皿に注がれたミルクを一生懸命に舐めている。結果的にわたしがどうしようが、子猫は生き長らえる事が出来たわけだ。
「のんちゃん、おなか空いたでしょ? 圭織が何か作ってあげるよ」
厨房の奥で飯田さんの声がする。
わたしは否定しなかった。事実、本当におなかが空いていたからだ。
- 145 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時39分21秒
幸せそうな湯気を立てて目の前に現れたのは、ニンニクと唐辛子のスパゲティだった。
「あいぼん以外に料理作ったのって、久しぶり」
飯田さんはそう言って苦笑した。この店は、いつから客足が途絶えているのだろう。
「いただきます」
わたしは丁寧にお辞儀してから、目の前の皿にありついた。いただきます、ごちそうさま、帰って来た時のただいま…必ず言いなさいと最後に母親に言われたのはいつの日だったか。わたしは今の、空気の様に自分を扱う母親を想像し、それが記憶にないほど遥か昔の出来事だったということに気付いた。
- 146 名前:第三章 投稿日:2003年08月16日(土)14時40分06秒
- 「…え、えっえっちょっと待ってよのんちゃん!」
これからスパゲティーを食べようとするわたしに、飯田さんが待ったをかけた。
「どうしたんですか?」
「あのねえ、普通ペペロンチーノにチーズなんてかけないっしょ?」
飯田さんの凝視する先に目をやる。わたしの右手に握られている、粉チーズの缶。
ペペロンチーノにチーズかけたって、いいだろー。
どこかの間抜けなアイドルが確かそんな歌を歌っていたような気がするけど。
わたしは素直に、緑の缶をテーブルに戻した。
- 147 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月16日(土)14時48分49秒
- 少なめ(いつもか…)更新終了。
で、さっそくですが途中までの「作者名未定」を「第三章」に脳内変換希望。
頻繁に更新できる作者さんたちが羨ますい。
>>tokenさん
保田画伯登場。もちろんこの後も登場予定。
そして変わりつつある、変わりたくない、そんな辻です。
夢の中の描写は苦労しました。元ネタ知ってる人いるかなあ…
>>131 名無しさん
ありがとうございます。
辻のキャラクター、意外に好評なようで一安心です。
- 148 名前:token 投稿日:2003年08月16日(土)20時50分20秒
- 更新お疲れ様です。
もしかして飯田さんは、嘗ての自分の姿を辻ちゃんの中に見ているのでは。
なーんて、勝手に妄想を広げています。でも何だか切なくなってきますYO。
では、次回も楽しみにしています。
- 149 名前:名無し。。。 投稿日:2003年08月19日(火)13時59分20秒
- cp分類スレで知って今日はじめて読ませていただきました。
ここの辻ちゃん何かいい感じですね。
今後この辻ちゃんが加護をあいぼんと呼ぶ日は来るのでしょうか?
更新楽しみにしています。
- 150 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時44分28秒
雨は強くなっていく一方だった。
食事をとったらすぐに店を後にしようとしたわたしを、雨と風が足止めする。
いや、本当に出て行きたかったら、濡れ鼠になるのを覚悟で出て行くべきなのだ。
なのにわたしはそうしない。きっとそれは甘えの表れなのだろう。
遠くで聞こえる、かりかりという鉛筆を走らせる音。
飯田さんがわたしのことを描いているのだろうか。そう思いつつ彼女がいるほうに首を傾けると、その予想は間違っていたことに気付く。
飯田さんは目の前でミルクに夢中の子猫を描いていた。軽い落胆のような気持ちを抱いていると、彼女と目が合ってしまった。
「のんちゃん?」
「…いえ、何でもないです」
飯田さんに気付かれないようにそっと目を伏せる。そんなわたしに、彼女は優しく語りかけてきた。
- 151 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時45分28秒
- 「雨の日は…絵を描かないことにしてるんだ。沈んだ心が、絵に出てきちゃうから」
「でも今…」
「ああ、軽い線画みたいなものだったら大丈夫」
そう言って飯田さんは描きかけのスケッチブックを見せてくれた。確かにそれはどちらかと言えばイラストに近いものだった。
「でもね」
飯田さんの表情が引き締まる。怖いくらい真剣な表情なのに、どこかに愛すべき何かがあるような気がした。
「あいぼんや、のんちゃんの絵はお天気のいい日に描きたいんだ」
わたしは思った。
わたしと飯田さんは、全然似ていない。わたしなんかに似てるなんて、飯田さんがあまりにも可哀想だ。
- 152 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時46分14秒
騒がしい少女がやって来る頃には、天気は大荒れになっていた。
「ああああああ! もう酷い目に遭うたわ!!」
バケツの水を被ったように悲惨な姿で現れた加護亜依は、店に入るなりそうまくし立てた。
「あいぼん、頭が横山ノックになってるよ」
「ホンマか!?」
飯田さんに指摘され、化粧室に入る加護亜依。前髪が凄いことになっているのに気付いたのか、しきりに「かおりん、タオルタオル!」という声が聞こえて来た。
数分後。飯田さんにドライヤーとタオルを貸してもらった加護亜依は、大げさに事の成り行きを説明した。
「ちゅうわけで、うちの傘は大空高く舞いあがったんや。お陰でご覧の通りやわ」
「…きっと神様も傘が欲しかったんだね」
「何アホなこと言うてんねん。それよりうちおなか空いたわ、早よ何か食べるもん出して!」
飯田さんははいはいと生返事をして厨房へと消えてゆく。必然的に店内はわたしと加護亜依だけになった。
- 153 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時47分19秒
- わたしの中だけで流れる、気まずい雰囲気。元はと言えば、彼女に会いたくなかったから喫茶店を避けていたのだ。それが何の因果かその張本人が目の前にいる。眩暈のする思いだった。
すると例の子猫が、みぃ、と鳴いた。
「あれ、子猫やんか。どないしたん?」
そこではじめて子猫の存在に気づいた加護亜依は、意識をわたしから子猫へと向けた。
「駅の反対側で、飯田さんが拾ったんだ」
飯田さんが、という部分を強調したつもりだったが、
「ノノが拾ったんか。この雨の中や、ノノが命の恩人やな」
と加護亜依は勝手に解釈してしまった。
ミルクをすっかり平らげた子猫は、白い毛に覆われた体を加護亜依の指に摺り寄せた。
「あいぼーん、いつものやつ出来たよ!」
飯田さんが、トレーに丼を載せてこちらへやって来た。早速指定席であるカウンターに腰掛ける加護亜依。
- 154 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時47分52秒
- 「せやせや。お好み焼きどんぶり、かおりんもわかるようになったやないか」
お好み焼きどんぶり、という珍妙なメニューに思わずわたしは眉を顰めた。
「ノノも食べる?」
「…いい」
わたしは彼女の好意をやんわりと断わる。
「そうか? 美味いんやで。奈良中のご家庭に愛されつづけてるんやけどなあ」
「まいったね」
飯田さんが両手を上げて肩を竦めた。
- 155 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時48分44秒
「ところでこの子猫の名前、もう決めたんか?」
唐突に加護亜依がそんなことを言い出したのは、わたしが手元の文庫本に集中しはじめ、飯田さんがわたしたちの洗い物に取りかかろうとしていた時だった。
「そう言えばそうだね。これからうちで飼うんだし」
「なあ、今からこいつの名前決めようや」
飯田さんが閣議に加わる為に、キッチンから姿を現す。
わたしはその輪には加わらず、目の前の文庫本を消化することに専念していた。
「りんごとか良くない? それか、かもも」
「何やそれ。りんごはともかく、かももって訳わからへんわ」
「えーっ、じゃああいぼんは何がいいの?」
「ごなつよ、これで決まりや」
「全然可愛くないじゃん。もっとかわいい名前つけようよ…ニーチェとか」
「どこがやねん!」
名前とはただの記号である。辻希美も加護亜依も飯田圭織も、全部記号。純粋に個々の区別をするためだけに存在すべき代物。だから、第三者の願いとか意向とか、そういうものは一切絡んではいけないのだと思う。
- 156 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時50分08秒
- 希望を持った美しい人。そんな人はいない。だからわたしの名前にはまったくと言っていいほど意味がない。どうせ意味がないのなら名づけることを諦めるか、或いは…
「いわし」
わたしの発した一言に、二人が顔をこちらに向ける。
「もしかして、猫の名前?」
「猫が…いわし?」
飯田さんと加護亜依は顔を見合わせ、それから大きな声で笑いはじめた。
「ノノー、自分面白過ぎるわ」
「のんちゃん、猫の名前がいわしって…有り得ないから」
至って真剣だった。意味がないのなら、名前をつけないか又はその存在に一番近くて遠い名前をつければいい。猫はいわしを食べるけれど、絶対にいわしにはなれないから。
「じゃあのんちゃん命名で、この子の名前はいわしに決定」
飯田さんは子猫のいわしを抱き上げた。まだ小さな猫は、飯田さんに身を任せるかのようにして、時折みぃ、と鳴いた。
- 157 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時50分46秒
加護亜依が今日の歌のレッスンの内容について、流暢に話す。
先生に声質が少し弱いので腹筋を鍛えたほうがいいと言われたことや、新しく与えられた課題曲、Rock-kissのオーディションについての話。
つけっ放しのラジオはいつの間にか歌のリクエスト番組を流していた。タイミング良く、Rock-kissの曲がリクエストされる。
- 158 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時51分50秒
「続いては神奈川県にお住まいのチャンポンチャンさんからのリクエスト。『みなさんこんにちは、今日はRock-kissの新曲、常闇をリクエストしたいと思います。今うちらの間ではRock-kissが凄く流行っていて、特にmikiちゃんが人気です。わたしもmikiちゃんのように上手に歌を歌えたらいいなって思います。それより今回の新曲はmikiちゃんにとっての最後の曲、凄く思い入れが深いです。それでは、眉毛…ビーム! P.S 眉毛ビームはうちの学校で流行ってるギャグです…』。チャンポンチャンさん、どうもありがとう。眉毛ビームですか。何か強烈なビームっぽいですね。今度妹にやってみようかと思います。ところでmikiちゃんはこのシングルを最後にRock-kissを卒業、ソロデビューが決まってるのでチャンポンチャンさんも応援してあげて下さいね。それではRock-kissで、『常闇』」
- 159 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時52分44秒
加護亜依はそれまでしていた話をぴたりと止め、ラジオから流れるRock-kissの曲に集中していた。彼女の瞳は熱を帯び、肌さえも紅潮している様に思えた。
わたしには能動的に楽曲を聴くという習慣がない。だから曲の優劣をつけることが出来ないし、「この曲はどこにでも転がっているような陳腐な曲」という評価を下したとしてもそれが本当に正しいものかどうかわからなかった。譬えその評価が揺るぎ無いものだとしてもそれはわたしのフィルターを通した結果であり、決して他人に強制するようなものではないことは理解していた。
「これ、Rock-kissの曲や。なあ、ええ曲やろ?」
曲が終わると、興奮覚めやらぬ加護亜依がわたしに訊いてくる。
「…わからない。こういう曲、あまり聴かないから」
「そうか」
彼女は幾分落胆しているように思えた。わたしは話題を変えるために、前から気になっていたことを訊ねる。
- 160 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時53分27秒
- 「加護さんは、Rock-kissのどういうところが好きなの?」
一番知りたいことだった。
加護亜依の夢である「アイドルになること」。その根源が彼女の答えにあると思っていた。
今までわからないこと、理解できないことは全て無視してきた。それがわたしの生き方だったから。でも今は、彼女の答えを知りたい。ついさっきまで彼女に会いたくないと思っていた自分の気持ちがまるで嘘みたいだった。
「あんなあ、Rock-kissのプロデューサーっちゅうのんがおるんやけど」
「イエロー☆マン?」
「よう憶えてたな」
加護亜依は眉を上げて驚いて見せた。あんな夢を見せられて、忘れてしまう方が難しい。
「で、そのイエロー☆マンがええ詩書くねん。言葉に熱がある…何やろな、生き生きしてるっちゅうかなあ。かっこええ言葉や奇を衒った言葉とはちゃう何かがあるんやろうな、きっと。絶対この人の歌、歌いたい…そう思ったんや」
- 161 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時53分59秒
- 「言葉に、熱がある」
わたしはその言葉を復唱する。
言葉とは、ただの伝達の手段。わたしにとっての言葉は、ヘアピンや歯磨き粉、靴下とそう変わらない。やがて消費されて消えてゆくもの。そう思っていた。
今手にしている本だってそうだ。本で感動するなんて有り得ない。本の中にある言葉ですら、わたしには消耗品だ。
孤独とわたしを繋ぐ連結器具。それがわたしにとっての本の存在理由。
「せや。ノノもいっぺん聴いてみ」
わたしは曖昧に頷く。わたしが楽曲をそういう観点から聴くことはないだろうから。
たぶん。
- 162 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時54分52秒
「五時になりました。ニュースをお伝えします。まずは台風関連の情報からです。大型で並の強さの台風9号は4時過ぎに千葉県犬吠埼を抜け、現在は銚子沖海上を北北東に進路を変えています。これから明日未明にかけて北海道に再上陸する恐れがあり、周辺地域では警戒を強めています。なお、今回の台風による被害は…」
- 163 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時55分51秒
アナウンサーが抑揚のない声でニュースの原稿を読み続ける。
言葉はただの伝達道具だ。ただの道具だから、感情や温もりなど必要ない。そんなものがなくても、確実にわたしには台風が過ぎ去ったという情報が伝わる。それ以上でも、それ以下でもない。
「雨も収まったことやし、そろそろうちに帰ろうかな」
加護亜依はそんなことを言いながら、いわしと遊んでいる。
「そうだね。もしかしたらまた雨、降るかもしれないからのんちゃんもあいぼんと一緒に帰りな」
わたしは少しだけ思案してから、飯田さんの案に従うことにした。雨の中傘もささずに帰るのはあまりいい気分ではなかったし、加護亜依にもう少し深く彼女の目指すものについて訊きたい気もあった。
自分が崩れていくのが怖いのなら、崩れなければいい。足に力に入れるようにして、身を縮こませるようにして川の流れの中に居れば、流されることはないだろう。それがわたしがこの場所に来てから今まで考えてきたことの答えだった。
- 164 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時56分35秒
- 「じゃあかおりん、ごちそうさん。お代はうちがRock-kissのボーカルに選ばれたらまとめて返したるさかい」
「何いってんの」
おどける加護亜依のお団子頭を、飯田さんは軽く小突いた。そんな様子を少し離れた場所で見ていたわたしの足元に、不意に暖かい感触が伝わった。
足元を見る。白くて小さい、ふわふわした何かがわたしの足元に頭を擦り付けている。いわしだった。
「お、いわしがノノに懐いとる」
加護亜依が目ざとくそれを指摘した。
- 165 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時57分05秒
- 「のんちゃん、抱いてみたら?」
飯田さんの言葉が、過去の出来事を想起させる。
温もりを確かめる前に奪い去られてしまった、小さき存在。
心の中で首を振る。
いわしからそっと、足を離した。寄らば大樹を失った白くて小さな生き物は、所在なさげにわたしを下から見上げる。
その視線が痛くて、無理に歩を進めた。
「飯田さん、御馳走さまでした」
そう言って飯田さんに代金を渡そうとしたけれど、やんわりと断わられる。昨日も一昨日もそうだった。そして今日も。でも飯田さんの表情が曇っていたのは、それの所為ばかりではないような気がした。
- 166 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時57分42秒
吹き返しとでも言うのだろうか、今日はいつも以上に海側から運ばれる不快な臭いを強く感じる。普段海に触れることのない大都会の子供たちは、この臭いを潮の香りと勘違いしてしまうのだと、どこかの本に書いてあった。それは悲しいことなのかもしれないけれど、反面幸せなことなのかもしれない。
偶像はいつの日も儚い。そのことを指摘するのは、例えば大都会の子供たちにこの臭いがヘドロの臭いだと教えることと同じだろうか。
- 167 名前:第三章 投稿日:2003年08月23日(土)23時59分14秒
かつて天才と呼ばれたアーティストがいた。彼は楽器の演奏から作詞作曲、編曲に至るまで全て自らの手でやってのけていた。自分の楽曲に最高のクオリティーを求めるその姿こそ、天才という名の偶像なのだった。
しかし彼はその偶像に拘るあまり、自分に対しても、そして他人に対しても厳しくなり過ぎた。やがて彼は人間不信に陥り、ストレスは過食症という形で表に現れた。スタッフに大量の菓子を買いに行かせ、レコーディングの最中にそれを頬張る。彼のダンスに適したスリムな体はやがて贅肉に蝕まれ、その姿を見た完璧主義者の彼はさらにストレスを溜めていった。
そして彼は突然、アーティストシーンの表舞台から消える。
次にファンの前に姿を現した時、彼は信じられないような肥満体と化していた。復帰後のコンサートで披露した切れの鈍いダンス、脂肪で潰れた喉。ファンは失望し、天才と言う名の偶像は無残に崩壊した。
- 168 名前:第三章 投稿日:2003年08月24日(日)00時00分07秒
日本から遠く離れた異国での出来事。
でもこれはきっと万国共通の共通認識だ。偶像はいつの日も、儚く脆いものなのだろう。そのような存在に何故加護亜依はなりたがるのか。Rock-kissのプロデューサーが放つという、生きた言葉。それに感動したというだけでは説明のつかない何かがあるような気がした。
「ノノ、さっきからどないしたん?」
加護亜依がわたしの思考を遮る。
「ううん、何でもない」
なるべく素っ気無く、そう答えた。
彼女に異国のあるアーティストの話をすることは、海に疎い都会の子供たちに「潮の匂い」の真実を教えることくらい無粋で不幸なことなのだろう。
- 169 名前:第三章 投稿日:2003年08月24日(日)00時01分13秒
- 空は相変わらず曇っていたけれど、もう雨は殆ど降っていなかった。もう少しすれば雲間から灰色でない色が顔を覗かせるだろう。
「辻さんと加護さんじゃない」
駅前の通りを歩くわたしたちに、後ろから声をかけるものがいた。わたしは声だけでそれが誰だかをすぐに知ることが出来た。今すぐにでも走って逃げたい気分だ。
しかし加護亜依はその逃げ道を平気な顔をして潰す。
「誰や思うたら、学級委員さんやないか」
二人が向き合う形になるものだから、わたしも声のするほうを振り向かざるを得ない。
意志の強さを表すような、真一文字に引かれた唇と尖った顎。
黒縁眼鏡の奥の瞳は、訝しげにわたしたちのことを見据える。
「二人が一緒だなんて、珍しいこともあるんだね」
学級委員の高橋さんは、棘のびっしり生えたような言葉をわたしたちに絡ませはじめた。
- 170 名前:作者名未定 投稿日:2003年08月24日(日)00時06分06秒
- 更新終了です。
>>tokenさん
辻ももちろんですが、飯田さんもまた大きな悩みを
抱えていたり…まあ人間誰しも悩みの一つや二つ
くらい、といった感じではありますが。
>>名無し。。。さん
ようこそお越し下さいました。
そうですね。
それはのちのちのお楽しみということで。
- 171 名前:名無し読者。 投稿日:2003年08月24日(日)10時55分01秒
- お、展開が楽しみ。
ココの辻さんはもう徹底して…なんですなー。
- 172 名前:token 投稿日:2003年08月26日(火)12時53分32秒
- 更新お疲れ様です!
ちりばめられた小ネタにクスクスと笑ってしまいました。
ごなつよ、なんだか懐かしい単語ですね。
そしてイエロー☆マン、ただ者じゃない予感が!
では、次回を楽しみにしています。
- 173 名前:名無し読者 投稿日:2003年08月26日(火)20時18分50秒
- おもしろいです!この辻ちゃんもいいですねぇ。
続き待ってます。
- 174 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月26日(火)20時49分53秒
- >>173
ageレスはやめてください。sageで・・・
- 175 名前:ナナシ 投稿日:2003年08月30日(土)18時25分54秒
- おもしろいです!読み応えもありました。
辻ってより紺野ぽいですよね。
- 176 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時33分23秒
高橋愛。
わたしや加護亜依と同じクラスの、優等生。
成績優秀、所属するバレエ部では期待の新人と持て囃され、その上整った容姿を持っている。出る杭は打たれるか、もしくは人が集まりそれを守る。高橋愛は持ち前の器用さで、自らの存在を後者へと持っていった。そんな彼女がクラスの中で実権を握るのは、ごく当然のように思えた。
だから加護亜依が転校してきた時に、高橋さんはあらゆる手を使って彼女を潰しにかかっていた。それはもう、ただの傍観者であるわたしにさえ露骨に感じ取られるように。転校初日の人を食ったような発言に心酔しかけた人間もいたことはいた。けれども高橋さんによって、いとも簡単にその芽は摘まれていった。
それはきっと、高橋さんが加護亜依の事を脅威に思っていたからだろう。自分の地位を揺るがしかねない、危険な存在。彼女をそう位置付けたからこそ、高橋さんは総力を挙げて加護亜依を孤立化させたのだ。
表向きは善良な優等生。その完璧なまでの自己演出は、わたしのよく知っている何かにとても良く似ていた。
- 177 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時34分12秒
- 「別に。自分には関係あらへんやろ?」
加護亜依は、高橋さんの放った荊の道を踏み散らすようにそう言った。
「それともあなたたち、前から友達だったとか…」
「そうや、ノノはうちの友達や。それがどないしたん?」
ごく当たり前の事だとでも言いたげに、加護亜依が胸を張る。
友達。
別に肯定も否定もしない。
ただ一つ。早くこの場から、離れたい。そう思わせる原因は全て高橋さんにあった。
「友達」という言葉を受けて、高橋さんはしばらく「ふうん」とか「そうだったんだ」とかいう台詞を交互に発していた。きっと彼女の頭の中では、次の手が練られているのだろう。そういう感じが見て取れるのもまた、堪らなく嫌だった。
完全に孤立化させた加護亜依が、わたしと関係を持っている。そのことに高橋さんは驚いているに違いない。よもや漬物石とつるむとは、思ってもみなかったのだろう。
- 178 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時34分55秒
- 「辻さん」
不意に名前を呼ばれ、そこでわたしははじめて高橋さんを見た。
「どうして終業式の日のホームルーム、席を外したの? 学年旅行の班分けをする、大事なホームルームだったのに。先生、困ってたわよ」
言葉はあくまでも優等生のもの。でも、そのどこかに悪意がある。まるで綺麗なハンカチでぎらついたナイフを包み隠しているような。
今までわたしのことなど気にも留めていなかった高橋さんが、何故こんな発言をするのか。わたしだけにこの話題を振っていることから、充分過ぎるくらいに伝わる。
「わたし、学年旅行は行かないから」
はっきりと、自分の意思を伝える。
「…そういうことされると、困るんだよね」
「困る?」
わたしは高橋さんにそう訊き返した。
「だって、クラスの中に一人でも不参加者が出るなんて…クラス内の調和が乱れるじゃない。学級委員として、そういう自分勝手な行動は黙認できないよ」
海風がわたしの顔を撫でる。とても不愉快だった。
- 179 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時36分13秒
- 「はん、都合のええ話やな」
加護亜依が呆れたように言い放つ。
「加護さんは黙っててよ。これはあたしたちクラスの問題なんだから」
高橋さんは何食わぬ顔をして、そんな台詞を吐いた。言うまでもないが、加護亜依も立派なクラスの一員だ。つまり、彼女の目的は明白だ。
「さよか。せやけど、ノノも学年旅行なんか行かん言うてるやんか。こんな無駄なことしてる暇あるんやったら、今から取り巻きたちと学年旅行の計画練ったらどうなん?」
「あんたには訊いてない!」
突然の事だった。それまで嫌味なほどに温厚な態度を示していた高橋さんが、声を荒げてそう言ったのだ。
「必死やな」
「何ですって!?」
「二人とも、やめて」
勝手にヒートアップする高橋さんに、あくまでもそれを逆撫でする加護亜依。とにかく、自分の意思をはっきり伝えようと思った。争いに巻き込まれたくないからか、加護亜依を庇いたいのか、理由はわからないけれど。
- 180 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時37分27秒
- 「高橋さん。クラスの和がどうのこうの、って言ってたけど…わたしが今まであなたたちに無視されてきたことで、クラスの和に乱れがあった? 寧ろわたしをいない存在として扱うことでクラスの和が保たれてきたと思うけど」
「え、何言ってるの辻さん…」
高橋さんの表情が、困惑で歪む。何も知らないとでも思っていたのだろうか。
「とにかく、わたしは学年旅行には行かない。それだけ」
わたしは踵を返し、前に進む。後ろから、加護亜依らしき足音がついて来る。高橋さんがわたしたちを呼びとめる事は、なかった。
- 181 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時39分03秒
加護亜依とは、海辺へ向かう道の曲がり角で別れた。
「さっきのノノ、カッコ良かったで」
別れ際に彼女はそんなことを言って、笑っていた。
わたしが自分の家に向かって歩き始めても、彼女はずっとわたしに手を振っていてくれた。雲間から挿す赤い光が、曲がり角に立つ少女の影を伸ばしていた。
- 182 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時39分35秒
- 潮風に吹かれながら家路へ向かう間も、加護亜依の言葉が頭を離れない。
ノノはうちの友達や。
喫茶店で加護亜依に友達になってくれ、と最初に言われた時。その時には無かった妙な感情が今はあった。
一体この気持ちは何なのだろう。不思議な感じがした。今までの経験から割り振ることのできないような、そんな感情。
それが何を意味しているのかはわからない。それがわたしにとってプラスの感情なのかマイナスの感情なのか、それすらも。ただ、その感情がどういうものなのかを考えること自体は、悪くは無かった。
けれど。
- 183 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時40分06秒
- 遠くから聞こえてくるピアノのメロディーに、全てはかき消されてしまう。
その旋律は、確かにわたしの家から聞こえてくるものだった。
そしてピアノを演奏しているのは。
かぶりを振った。いつもならバイトでこの時間には絶対帰ってきていないはずなのに。台風の影響だろうか。そんなことを考えている間も、赤い煉瓦の家は段々と近くなってくる。
ともかく、今更駅の方角へ戻るわけにはいかなかった。
- 184 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時41分08秒
二階の窓が開け放たれていた。下からは窺い知ることはできないが、ピアノを弾いているのは間違いなくあいつだろう。心の中に暗澹たるものを秘めつつ、玄関を潜った。
「ただいま」
いつものように、返事は無い。足元に視線をやると、一組の白いスニーカーが並んでいた。この汚れひとつない靴を見るといつも、思い切り踏みつけてグシャグシャにしたくなる。もちろん、実行になど移しはしないが。
物音を立てないように、二階へと移動する。ピアノの演奏は何時の間にか止んでいた。
あいつには会いたくない、話したくない。そう強く願えば願うほど、その願いは裏切られる。あともう少しでわたしの部屋の前、というところで隣の扉がゆっくりと開いた。
「希美、帰ってたの」
相変わらず温かみのない表情だ。本当にわたしの姉なのだろうか、昔は顔を合わせる度にそう思っていた。
- 185 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時41分43秒
- 「うん…」
わたしは彼女となるべく目を合わせないように、小さく頷いた。大して暑くもないのに、背中からどっと汗が吹き出てきて、服の布地と肌が貼りつく。
「あまり外をぶらぶらしないで。母さんが心配してたから」
ダレノセイ?
オマエノセイダ。
オマエノイルイエニハ、イタクナイ。
「うん、わかった」
それだけ言って、足早に自分の部屋へと入った。
必要なものだけ揃っているシンプルな部屋。わたしはパイブベッドに身を投げ出す。何かの悲鳴のように軋む、金属音。
憂鬱な気分を少しでも紛らわそうと、今日あった出来事を順になぞってみる。
- 186 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時42分28秒
- スーパーマーケットの隣の空き地で子猫を見つけた。
飯田さんに偶然会って、成り行きで喫茶店に連れて行かれた。
台風がやって来た。
ずぶ濡れの加護亜依が喫茶店に入って来た。
猫に、いわしという名前をつけた。
帰り道に、学級委員の高橋さんに遭った。
楽しい絵日記が書けそうだった。今自分が置かれている状況を除けば、の話だが。
- 187 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時43分03秒
- 高橋さんが姉に似ている、という考えを撤回したい。姉はもっと狡猾で、そしてより残忍だ。わたしはあっという間に家族というカテゴリーから追い出されてしまった。そのくせ自分はわたしと両親を結ぶ唯一の掛け橋面をしているのだから驚く。
そこまで考えてから、ある疑問が浮かんだ。何故わたしは、姉によって孤立させられているのか。高橋さんと加護亜依の関係をそのままわたしたちに当て嵌めると、姉にとってわたしは脅威の存在だったことになる。
そんな馬鹿な。
このわたしに、姉が嫉妬するようなどんな要素があるというのだろうか。考えるまでもなかった。
ならばどうして姉はわたしを孤独へ追いやったのか。ただの悪意か。世の中は悪意のかたまりだ。その有象無象の悪意の中に理由のない悪意があっても、驚くことはない。いや待て。そうだ、わたしは問題の大前提について考えを巡らせてはいない。
姉は「いつ」、わたしを孤独に追いやったのか?
- 188 名前:第三章 投稿日:2003年09月01日(月)00時43分43秒
頭に鈍い痛みが走る。
まるで頭皮を突き破ろうとしている何かを、無理やりに押し戻してしまうような感覚。
そうだ、わたしがこのことについて考えると、いつも決まって頭痛が引き起こされる。
そして脳裏に残されるのは、真っ赤に染まったピアノの鍵盤。
わたしは考えるのを、やめた。
物事に入り口があるのなら、出口だって必ずある。でも今は多分、光を見出す事はできない。
- 189 名前:作者名未定 投稿日:2003年09月01日(月)00時52分22秒
- 少ないですが、きりがいいので更新終了です。
次回更新まであまり間はあけないと思います…たぶん。
>>名無し読者さん
ありがとうございます!
展開が楽しみ…なんて本当に嬉しいです。
ここの辻は徹底して…ですが、「辻希美」だ、ってところを見せたいです。
>>tokenさん
小ネタを入れてしまうのは作者の病気です。
この病気のせいでもう一つの作品もグダグダに…反省してます。
イエロー☆マンはモデル有りです。アフロのあの人じゃないですよ。
- 190 名前:作者名未定 投稿日:2003年09月01日(月)00時59分47秒
- >>名無し読者さん
ここの辻のキャラ、はじめはどんなもんかな…って迷ってたのですが。
そう言っていただけると、何だか自信がついちゃいますね。
これからもよろしくです。
>>名無しさん
お手数かけます…
>>ナナシさん
いつか絶対言われると思ってました(汗)。
確かにイメージからすれば紺野系なのかもしれませんが…
辻の隠れたプライドの高さとか、そういう部分が出せたらな、と思ってます。
- 191 名前:token 投稿日:2003年09月01日(月)12時44分18秒
- 更新お疲れさまです。
辻ちゃんの周辺、いろいろ前途多難な予感。
あいぼんと共にがんがれ!
では、次回を楽しみにしています。
- 192 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時45分35秒
台風が過ぎ去った後の翌朝の空は、丁寧に磨かれた鏡のように澄みきっていた。
誰にも何も言わず、家を出る。
昨日行くのはやめよう、と決めたことが嘘みたいに足が軽やかに喫茶店へ向かう。
自分は変わらない。自分を変える事は、今までの自分を否定することになるから。でも、わたしの中の配線は、色々な場所で絡み合い幾つもの結び目を作っている。加護亜依の夢、飯田さんの絵、猫のいわし…その結び目をひとつひとつ、丁寧にほどかなければならない。それはきっと今まで煩わしい事全てを無視してきた、反動なのかもしれない。
- 193 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時46分27秒
喫茶店のドアを開ける。飛び込んでくる冷たい風が体を取り巻く熱を奪っていくのが、とても心地良かった。
店の中には飯田さん、そして加護亜依がいた。
何故加護亜依が? わたしはそう思った。記憶が正しければ、彼女は歌のレッスンに行っている時間だった。それとも、今日は休みなのだろうか。
「あれ、どうして、って思うてるやろ。顔に出てるわ」
開口一番、加護亜依は悪戯っぽい目をしてわたしをからかう。彼女と接触してからはじめて知ったことなのだが、わたしは思ったことが顔に出てしまうようだ。わかりやすい性格で、舌足らず…嫌なキャラクターだ。
「…歌のレッスンは、お休みなの?」
「これから行くとこや。けどその前に…」
そこでやっと、加護亜依が後ろ手に何かを隠していることに気付いた。
「のんちゃんにそれを見せたいがために、レッスン受けに行く前に喫茶店に寄ったんだよね?」
カウンター越しの飯田さんが、加護亜依が隠しているものに視線をやる。
- 194 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時47分54秒
- 「あっ、かおりんまだ言うたらあかんで! うちが直接ノノをびっくりさせたるんやから」
「はいはい」
後ろを振り向き牽制する加護亜依。飯田さんはそんな彼女の様子を、微笑ましげに見つめていた。
「…オホン。これ、今朝うちのポストに入ってたねん」
無造作にわたしに差し出される、大きな茶色い封筒。
「見て、いいの?」
加護亜依が頷くのを確認してから、封筒を受け取る。ぱさりとした軽い感触。わたしは恐る恐る封筒の中身を覗いてみた。中には、一枚の紙が入っていた。
紙を取り出し、紙に書かれている内容に目を通す。
加護亜依の受けたオーディションの、一次審査通過の通知だった。わたしにとってはただの紙切れでも、彼女にとってはどんなものよりも重いものに違いない。
- 195 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時48分31秒
- 「…おめでとう」
それしか言えなかった。普通の人ならもっと気の利いた言葉を思いつくのだろうけど。「成功とは結果ではかるのではなく、それに費やした努力の統計ではかるべきだ」とか。
しかし加護亜依はそんな陳腐な祝辞に、
「ありがとうな。やっぱりノノにおめでとう言われるのが一番嬉しいわ」
と素直に喜んでくれているようだった。純粋な喜びから生み出される、心からの笑顔。わたしは物心がついてから心からの笑顔を見せたことが、あったのだろうか。
「ねえあいぼん、そろそろ行かなくちゃまずいんじゃない?」
「…しもた! じゃ、うちもう行くわ。レッスンの帰りにまた寄るから、待っててや!」
そう言って、ねずみ花火のようにあたふたと加護亜依は喫茶店をあとにした。
- 196 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時49分31秒
「凄いねあいぼん。本当に一次審査、通っちゃうんだから」
飯田さんは感心したような感じで、わたしに話し掛ける。
「そうですね…」
「うん。なにものかに成る、って感じだよね」
なにものかに成る。
わたしは飯田さんの言葉を頭の中で反芻する。
なにものかに成るというのは、つまりは成長することなのだろう。ならば、わたしには無縁の言葉だ。何故なら、わたしは自分というものを変えようとは思わないから。
ということは、わたしは「なにものかに」成らないのだろうか。いや、それとも成れないのか。
- 197 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時50分20秒
- そんなことを考えつつ、いつもの窓際のテーブルについた。テーブルの上ではいわしがひなたぼっこをしている。普通の飲食店なら問題ありなのだろうが、ここは幸か不幸か客はまったく来ない。しばらく、いわしと相席をすることになった。
窓越しの太陽の光が、ちりちりと肌を焼く。ただ、冷房が適度に効いていることもあって、それほど苦痛ではなかった。
今日の小説は、恋愛小説だった。
癌に蝕まれ余命幾ばくもない少女と、その恋人の物語。生きるということ、そして死ぬということの狭間に押し潰された二人は正気と狂気の境界線を彷徨い、最後に二人だけの答えを見つけ出す。そういう話の筋だった。
わたしにとって、物語の内容は何の意味も成さない。それは文字がただの情報伝達の記号でしかないからだ。ではどうして本を読むのか。知識の吸収か、それとも自分に対する何かの罰のつもりなのか。
とにかく、わたしにとっては「恋」も「生きる」ことも「死ぬ」ことも、何の共感を与えることがないことだけは確かだ。自分の中で形にならない、と言い換えたほうがわかりやすいだろうか。
- 198 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時51分05秒
- しばらく文庫本に視線を走らせていると、カウンターのほうから鉛筆が擦れる音がする。
飯田さんが絵を描いている。対象がわたしなのか、それともいわしなのかはわからない。けれども今日は天気がいい。飯田さんが真剣に絵を描いているらしいことは、わかっていた。
- 199 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時52分15秒
「できた」
飯田さんがそんなことを言ったのは、もうすぐ昼を迎えようとしていた時だった。
わたしは文庫本から目を離し、飯田さんのほうを向く。彼女は発した言葉とは裏腹に、決して満足しているとは言えない表情をしていた。
「あの…見せてもらえますか?」
線の細い硝子細工を扱うように、そう言った。でないと、またこの前のように即座にごみ箱に捨てられそうだったから。
「うん、いいよ…」
実際に捨てるつもりだったのだろう、わたしに声をかけられた飯田さんは仕方なしにといった感じでスケッチブックを手渡す。
白い世界に描かれる、儚げな線で象られたわたし。はじめて喫茶店に来た時に見せてもらった、加護亜依の絵と同じようなタッチでその絵は描かれていた。
- 200 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時53分13秒
- 紙の上に移し取られたわたしは、弱々しく微笑んでいた。少し下がった眉毛、垂れ気味の瞳、ふっくらとした頬…何だかちょっと、情けない顔だった。飯田さんから見たわたしは実際にこんな感じなのだろうか。個人の感想はともかく、絵の完成度としては先に見た加護亜依の絵たちと大差ないように思えた。
「…どうも」
わたしはスケッチブックを飯田さんに返す。すると彼女は、一言こう言った。
「うまく…描けないんだよね」
「でも、加護さんを描いた絵とあまり変わらないように見えましたけど」
素直に感じたことを述べてみる。けれど飯田さんの絵に対する遣る瀬無さは止まらない。
「ううん。駄目なんだ。のんちゃんが帰ってからも、一人でずっと絵を描いてるんだけど、全然思ったように描けない」
飯田さんは険しい表情をして、溜息を吐いた。スケッチブックの紙が剥がされ、そのままごみ箱に捨てられる。
- 201 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時53分54秒
- わたしの絵に対する素養がないからだろうか、見た目には何の問題もない、絵。だけど、描く側の人間にとっては満足のいかない作品だったのだろうか。それとも、別の何かがあるのだろうか。
そんな時だ。鳴らずのドアの鐘が、からからと音を立てた。
- 202 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時54分46秒
店に入ってきた客には、見覚えがあった。
飯田さんの知り合いで、そう、確か名前を保田圭と言ったはず。
「あ…圭ちゃん」
その記憶を裏付けるように、飯田さんは彼女の名前を呼んだ。
つり上がった大きな猫目、そして自信に満ちた顔つき。はじめて彼女を見た時にわたしは、「強いひと」だなと思ったけれど、その印象は今回も変わることはなかった。
「この前の件ならお断りだよ」
「ううん。今日は仕事の打ち合わせの帰りに寄っただけ」
保田さんはそう言うと、カウンターの一席に腰をかけた。
「コーヒー。ブラックでお願い」
「わかったよ」
飯田さんはコーヒーを淹れるために、キッチンの奥へと移動する。保田さんの目は、必然的にわたしへと向けられた。
- 203 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時55分32秒
- 「あなた、圭織の知り合い?」
「いえ、クラスメイトが…ここの常連なんです」
「そうなんだ」
しかし保田さんは言葉通りには、わたしを解放してくれない。その意志の強そうな瞳で、相変わらずわたしを見続けている。
「あの、何か?」
わたしは怪訝そうな顔を作ってそう言った。すると保田さんは慌てたように、
「いや、何となく圭織の妹に似てるなあって思ったから」
と言いながら眉尻を下げた。
「飯田さんに、妹さんがいるんですか?」
「そうよ。知らなかったの?」
知るはずがない。そう言えば、わたしは飯田さんのことを何一つ知らなかった。
「今頃は北海道で大学生してるんじゃないかなあ…」
保田さんがそんなことを言っているうちに、飯田さんがコーヒーを持ってこちらにやって来た。
- 204 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時56分31秒
- 「はい、お待たせ」
「楽しみだわ。圭織、昔からコーヒー淹れるの上手かったものね」
「またまたあ。持ち上げても何も出ないぞ」
笑顔で会話を交わす飯田さんと保田さん。はじめて会った時には気付かなかったけれど、二人は昔からの親友なのかもしれない。そう思わせる雰囲気が、彼女たちにはあった。
「ねえ圭織」
「ん?」
保田さんが再びわたしのほうを向く。
「この子さあ、圭織の妹に似てない?」
わたしにしたのと同じ質問を飯田さんにぶつける。飯田さんは少しだけばつの悪そうな顔をして、
「まあ…そう、かな?」
と言った。
「顔が似てるってわけじゃないんだけどさ。何となく雰囲気が似てるって言うか」
- 205 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時57分08秒
- 「うーん、お父さんが死んでからは妹と会ってないからねえ」
飯田さんが眼を上に向けている間に、保田さんがカップに口をつける。
「…これ、おいしいわね。圭織、また腕上げたんじゃない?」
「伊達に喫茶店のマスターしてないからね」
得意げな飯田さんに、目を細める保田さん。一口、また一口とコーヒーを口にする保田さんの表情はさすが大人、といったものだった。この場に加護亜依がいたら、どんな顔をするだろうか。
いわしは夏の強烈な日差しに嫌気がさしたのか、テーブルからカウンターの下へと移動していた。いわしの毛の色である白は光を反射し、逆に黒は光を吸収するという。飯田さんがわたしのことを思うように描けないのは、紙の色が白だからなのかもしれないと思った。まあ、黒い紙にスケッチをする人間などいないし、譬え黒い紙に描いたとしても白い紙と何が変わるかと言えば、何も変わらないだろう。
- 206 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時57分59秒
それまでの和やかな空気が変化を見せたのは、保田さんがあるものに気付いたからだった。
「あれ、これって…」
「ちょ、ちょっとそれは!」
飯田さんが制止するも間に合わず、保田さんはスケッチブックを手にしてしまった。
スケッチブックをゆっくりと、慎重に開いてゆく保田さん。その顔つきは既に、プロのものへと変化している。
虫眼鏡で焦がしたような時間が、過ぎてゆく。飯田さんはこの前と同じような、何だか物悲しい表情をしていた。水を打ったような静寂に、スケッチブックをめくってゆく乾いた音が色を添える。
- 207 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)12時58分42秒
- 一方保田さんの表情は、目まぐるしく変化していった。ある場面では驚き、別の場面では感嘆したような溜息を吐いた。わたしが見た時には「伝わるものがある」としかわからなかった何か。それが保田さんには、ダイレクトに伝わっているのだろう。
どれくらいの時間が経っただろうか。一通り絵を見終わった保田さんは、ぱたんと大きな音を立ててスケッチブックを閉じると、それを飯田さんに渡した。
「何だ…絵、描いてるじゃない」
「お客が来なくて何もすることないから、暇潰しにね」
飯田さんの言葉が、何だか酷く弁解じみて聞こえた。
保田さんはこの前のように、仕事の依頼を持ちかけてくることはなかった。それはこの前飯田さんにきっぱりと断わられていた所為なのだろう。少なくともわたしはそう想像していた。あの行動を見るまでは。
- 208 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)13時00分53秒
カウンターの横に置いてある、小さなごみ箱。保田さんは、飯田さんがコーヒーカップを下げている間にごみ箱から丸められた紙を取り出し、そして自分のアルタートケースに仕舞ったのだ。きっと保田さんはスケッチブックの最後を見た時に、金具に不自然な破りかすでも発見したのだろう。ごみ箱の中にあった絵の存在に気づいてしまったのだ。
わたしは保田さんの一連の行動を目撃しておきながら、一言も声をかけることはできなかった。彼女の行為に口を出す権利なんて、わたしにはない。飯田さんへの裏切り? 保田さんの行為が飯田さんにとってどんな効果をもたらすかもわからないのに、裏切りとはどういうことか。
- 209 名前:第四章 投稿日:2003年09月01日(月)13時01分31秒
- そんな考えがぐるぐると頭を巡っている間に、保田さんと目が合ってしまった。気まずい瞬間。だが、それは保田さんからの一方的な視線によって質を変えられた。
保田さんがわたしを見つめる眼差し。それはこちらを共犯者に仕立てるような性質を持っていた。事実それについて問い質したり、咎めたりしなかったのは確かなのだから。言わば二人しか知らない秘密を勝手に作られてしまったようなものだ。
「あっ。これから事務所に戻らなくちゃいけないんだ。またコーヒー飲みに来るから」
飯田さんが戻ってくるなり保田さんは、いそいそと帰りの準備をして店を出ていってしまった。急な出来事に、訝しげにわたしと顔を見合わせようとする飯田さん。
わたしはもう読んでしまったはずの文庫本を再び開くことで、それを無視した。飯田さんと目を合わせたが最後、何もかもがばれてしまいそうな気がしたから。
- 210 名前:作者名未定 投稿日:2003年09月01日(月)13時06分01秒
- 昨日に引き続き、更新終了です。
昨日の分と合わせてこれでやっとまともな更新量になった気が…
>>tokenさん
早速のレス、ありがとうございます。
家庭の事情はですねえ、そのうち細かい描写があるとは思うのですが。
もう少し先の話でしょうか。
- 211 名前:token 投稿日:2003年09月01日(月)22時48分59秒
- 連日の更新お疲れ様です!
お昼休みにカキコしたら危うくニアミスするトコでした。
加護ちゃんも飯田さんも、お話がいよいよ動き出しそうですね。
次回も楽しみです。頑張って下さいね。
- 212 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時13分10秒
喫茶店から戻ってくるなり、加護亜依は朝の喜びそのままにわたしたちに接してきた。
「まあイエロー☆マンも見る目があったっちゅうことやな。この百年に一人の逸材をほったらかしにする人間なんて、こっちから願い下げやし。ある意味逆オーディションって感じや」
いわしを膝の上に載せて、カウンターで得意げに語る加護亜依。
「へえ。で、二次審査はいつなの?」
「今日からちょうど二週間後や。会場まで直接足運んで、プロデューサーに見てもらうねん。まあ、うちなら楽勝やろな」
飯田さんが加護亜依とそんな事を話している間、わたしは窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
今日は本当に天気がいい。雑居ビルの隙間から顔を覗かせるクリアブルーが、目に染みる。だけどわたしの心は鬱々として晴れなかった。
- 213 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時13分57秒
- 加護亜依が一次審査通過を喜んでいるのを見ると、途端に飯田さんの言葉が大きく膨らんでいった。
何者かに、成る。
加護亜依はアイドルに、成る。
では、わたしは?
心の中で首を振る。漬物石が、何に成ると言うのだ。
今のわたしは何者でもないし、きっとこれからも何者にもなれないだろう。ふとその時、わたしには希望がないのではなくて、希望が見えないのかもしれないと思った。両者に何の違いがあるかと言えば、蛞蝓と蝸牛くらいの差しかなさそうだが。
「ノノ、何ぼおっとしてんねん」
背中を、ぽんぽんと叩かれる。振り向くと、お団子頭が歯を見せて笑っていた。
- 214 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時14分29秒
- 「何…?」
「あんなあ、今から海に行かへんか?」
「海?」
わたしは家の近所の腐臭塗れの海の臭いを思い出す。
「加護さんは海が珍しいの?」
「そんなんちゃうわ。あんなあ、うち、ええ穴場見つけたねん」
ここに引っ越して来たばかりの加護亜依が知っていて、地元生まれのわたしの知らない場所。そんな場所が存在するはずはないのだが、何故か自身有り気な彼女の表情に、少しだけ興味が惹かれた。
「そうだね。夏だっていうのに若い子がクーラーの利いた喫茶店で一日中、ってのもどうかと思うし。二人とも、行って来なよ。折角のお客を二人も逃すのは痛いけどさ」
飯田さんも笑ってそんなことを言う。それに合わせるように、いわしがみぃ、と鳴いた。
「ほら、いわしも『早よ行け』言うてるし」
そんな馬鹿げた理由づけが、最後のひと押しになった。
文庫本を閉じて、ゆっくりと席を立った。
- 215 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時15分10秒
見慣れた街の景色も、加護亜依に先導されると何だか違って見えるような気がした。
彼女なら、本当にわたしの知らない場所に連れていってくれるかもしれない。そんな御伽噺のような淡い期待が、少しだけあった。
駅前通りを抜け、昔海岸線だったという道路に出る。目の前に見えるのは海ではなく、物言わぬ墓石のような住宅棟の群れだ。
「こっちや」
加護亜依は老朽化した住宅棟の方向を指差す。確かにそちらの方角には海があるけれどもそれは決して穴場などではなく、わたしのよく知る汚れた海だ。
何だか期待を大きく裏切られたような気がした。すると自分でも意識せず訝しげな表情になっていたらしく、
「大丈夫やて。きっとノノも驚くから」
と言われてしまった。とにかく、行くしかない。そう思いつつ、彼女の後ろについて横断歩道を渡りはじめた。
- 216 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時15分40秒
- 住宅棟の奥はさらに新しい住宅棟を建てるらしく、方々に建築資材が積み置かれていた。確かこの先はコンクリートの更地になっているはずだが、新しく建築計画でも持ち上がったのだろう。
余っているスペースは有効に使わなければならない。それがこの街の市長のスローガンだったような気がする。わたしが生まれる前から市長だった人間だ。そうして「余ったスペース」である海や砂浜や防砂林は潰された。しかし結果として海は汚れ、腐ったヘドロの臭いは住民離れの原因の一つを作った。
わたしは思う。市長は悪意を持ってそんな計画を建てたのだと。そうでなければ、自らの首を締める真似などできやしないだろうから。
- 217 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時16分20秒
その場所を見せられた時、わたしは目を疑った。
そこにはこの地では見られなくなって久しい、砂浜があった。
「どや、凄いやろ?」
隣で加護亜依が得意げにしていることなど、まったく目に入らなかった。この場所はそれだけ、わたしの意識を引きつけていた。
住宅棟に入った時からずっと続いていた、古びたコンクリートは足元で切れ、そこから先は砂浜になっていた。そして驚いた事に、打ち寄せる波もどことなく澄んでいるように見えた。それにいつもなら鼻をつく、ヘドロと重油のブレンドされた臭いも感じられなかった。
まるで、昔にタイムスリップしたかのような感覚。そんな有り得ない事を考えてしまうくらいに、目の前の光景は信じ難きものだった。
- 218 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時16分57秒
- 「何でもな、ここに人工の海浜公園を作るみたいやで。その前に、コンクリートで覆われとった場所を剥いでみたら、この通りやった、って感じやな」
そんなことを言いながら、加護亜依が切れ目のコンクリートの部分に腰かけた。つられて、わたしも隣に腰を下ろす。
「海はええなあ。さっきはあんなん言うたけどうち、奈良生まれの奈良育ちやから、やっぱり海が珍しいねん」
照れたように加護亜依は言う。
「わたしも…こんな海は珍しいよ」
彼女に対抗したわけではないけれど、わたしも似たようなことを口にした。事実、自分の中の海というものは、こんなに綺麗なものではなかった。
- 219 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時17分31秒
- 「ほな、二人とも珍しい同士やな」
「珍しい同士って…」
何故だろう、加護亜依の言葉がおかしかった。そして知らないうちに、それは笑みとなってわたしの顔に現れた。
「おっ、また珍しいもん、見れたわ」
「え、何が?」
「自分、今笑うたやろ」
言われてみれば、そんな気がした。確かにわたしは彼女の言葉に反応した。加護亜依が驚いている何倍も大きく、驚いた。人の言うことがおかしく思えるなんて、どうしてしまったのだろう。わけがわからないので、取り敢えず綺麗な海を見たから、ということにしておいた。
- 220 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時18分17秒
太陽が少しずつ、少しずつ西に傾く。
遠くの海が、きらきらと光った。いくつもの輝きを散りばめたそれは、まるで海の鱗のようだった。
すぐ近くで打ち寄せる波もまた、太陽の光を跳ね返す。太陽と海の反射が織り成すハーモニーは、どこまでも美しかった。
「ノノ、聞いてもらいたいこと、あるねん」
海を見つめたまま、不意に加護亜依がそんなことを言う。波の音がざざざあ、と響いた。
「喫茶店で言うてたこと…あれ、嘘やねん」
「…嘘?」
彼女は小さく頷いた。いつも見せるような自信に満ちた姿は、そこには見当たらない。
「全然、余裕なんてあらへん。一次審査通過の郵便が来るまで、ずっと怖かったんや」
「……」
「落ちるかもしれへん。落ちたらどないしよう。そんなことばっか、考えてた。書類にああ書けば良かった、あんなこと書いたらあかんかったかな、とか。一度そう考えたら、もう夜も眠れへんかった」
- 221 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時18分57秒
- 加護亜依は、相変わらず滑らかな海面を見据えたままだった。一見するとそれは海を睨んでいるようにも思えたが、それは強がりなのかもしれない。彼女はわたしが想像していたよりも、遥かに繊細なのかもしれない。
「うちは正直ノノ、あんたが羨ましい」
急にわたしのほうを向く加護亜依。
「あんたはうちにないもん、持ってる。どんなに努力したかて、得られへんもんを。うちにはそれがあらへんから、その代わりにアイドルになろうとしてるんやろな」
「わからないよ。わたしにあって、加護さんにないものなんて存在しないように思える。仮にそんなものがあったとして、それは何?」
少しの間が、あった。潮風が、頬を撫でる。
「それはな、強さや」
- 222 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時19分41秒
- 「つよさ…」
「何て言うたらええんやろな。とにかく、ノノは強いねん。うちがここの高校に転校した時から、そう思うてた。はじめはうち、ノノが周りから酷いイジメに遭うてると思ったねん。けど、よくよく見るとそれは間違いやった。ノノは、孤高なんや」
「そんなこと、ない」
強く、否定した。大きな買い被りだと思ったからだ。
「わたしは強くなんか、ない。わたしは何も、知らない。わたしは、臆病だ。数え上げたらきりがない。もしも加護さんにわたしが強く見えるとしたら…それはしなやかさのない強さなんだよ、きっと」
「なあノノ」
熱の篭もった瞳に晒される。
「自分の弱い部分を素直に見つめられる、それも強さのうちなんやで」
そうじゃない、と思った。やはりわたしは弱いし、色々なものを避けて生きている。きっとそれは礼賛されるべきものではないのだろう。ただ。
そこまで自分のことを観察してくれる存在が、素直に嬉しくもあった。今までそんな人は、ただの一度としてわたしの前に姿を現さなかったから。
目の前にいるこの少女は、もしかしたら「友達」と呼んでもいい存在なのかもしれない。
- 223 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時20分26秒
液体状の夕焼けが、海に流れ落ちていた。
空は真っ赤に焼け落ち、水に溶け込んだオレンジは波と共に砂浜に打ち寄せる。
「はは、何時の間に日が暮れてしもた」
そんなことを言いながらも、加護亜依の両の目は緋い夕陽に注がれていた。わたしもまた、ゆっくりと水平線に身を沈める太陽から目が離せずにいた。それ程、目の前の夕陽は美しかった。
海風が、段々と強くなってゆく。それはひゅるひゅると音を立て、乾いた砂を巻き上げ、わたしの髪をたなびかせた。
「なあ」
「何?」
「海が歌ってるの、聞こえへん?」
少し考えてからわたしは、
「海風が、そういう風に聞こえてるってこと?」
と加護亜依に訊ねた。かぶりを振る加護亜依。
- 224 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時21分09秒
- 「ちゃう。ほんまに海が、歌ってんねん」
わたしは耳を澄ませてみた。けれど、それはやはりただの風の音にしか聞こえない。
「詩的な、表現だね」
そんなわたしの受け答えを加護亜依は、
「せやろな。うちも最初ここに来た時は、何も聞こえへんかった」
と笑った。
「でもな、何度かここに来るうちに…そう聞こえるようになったんや。海鳴りはもちろん、波の音や、風が砂を撫でる音、波が砂浜の砂に染み込んでゆく音…そんなん全部が、歌声みたいに聞こえてくんねん」
「わたしも、海のうたが聞こえるようになるかな?」
無意識のうちに発した言葉だった。多分、今までのわたしならきっと鼻で笑っていたことなのだろう。海の歌が聞こえるなんて、余りに非現実的過ぎる。譬え歌っているように聞こえたとしてもそれはそういう風に聞こえるだけで、実際に海が歌っているわけではない。そう切り捨てていたことだろう。
- 225 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時21分50秒
- でもその時は、心から海のうたが聞きたいと思った。そして海のうたを聞くことの出来ない自分が、ひどく出来損ないのような気がしてならなかった。
「大丈夫や。ノノも、きっと海のうたが聞こえるようになるから」
加護亜依は優しく微笑むと、すっと立ち上がった。そして、歌を歌いはじめた。
とても、澄んだ声だった。
それはまるで天空に伸びる、透明な弦(いと)。
いくつもの弦は互いに共鳴し合い、伸びやかなメロディーを形作る。
海のうたは聞こえなかったけれど、彼女の歌声はしっかりとわたしの心に響いた。
- 226 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時22分34秒
歌い終わった加護亜依は、小さくお辞儀をした。
「…歌、うまいんだね」
「当たり前やろ。ボーカルのオーディション、受けてるんやから」
にかっと笑う彼女の表情に、砂浜に来た時の憂いはもうなくなっていた。
低く沈む夕陽がわたしたちを照らし、夕陽色に染め上げる。その所為だろうか、頬が妙に熱かった。そして体に残る火照りが、思わぬことを口走らせた。
「わたしは…何者なんだろう」
「ん?」
「加護さんはアイドルになろうとしてる。じゃあ、わたしは? 何者になることもできないし、何者かになる方法をしらない。わからない。ねえ、どうしたらいい?」
加護亜依の顔から、笑みが消えた。
言ってはならないことを言ってしまったのだろうか。わたしの胸に後悔が走る。この悩みは、やはり自分の胸の内に留めておいたほうがよかったのだろうか。
- 227 名前:第四章 投稿日:2003年09月07日(日)15時23分16秒
- 「…ゆっくりで、ええやないか」
沈みがちな気持ちを、彼女は再び拾い上げる。
「うちはたまたま、なりたいもん、見つかった。ノノはこれから先何を見つけるかわからんけど、でもそんなに焦ることないんとちゃうかな」
「…うん」
納得したわけじゃなかった。でも、自分の言いたいことを言うことができて、少しだけ心が楽になったような気がした。
加護亜依の言うことを信用すれば、わたしはこれから先、何者かに成ることができる。もちろん、根拠などどこにもないだろう。だけど今は、その言葉が嬉しかった。
そしてわたしたちは、オレンジ色の太陽が完全に海に融けるのを見送ってから喫茶店へと戻っていった。
- 228 名前:作者名未定 投稿日:2003年09月07日(日)15時26分09秒
- 更新終了。
>>tokenさん
物語が半分まで進んだところで、ようやくそんな感じです。
次回からは更新のペースアップを心がけて。
- 229 名前:token 投稿日:2003年09月08日(月)12時33分12秒
- 更新お疲れさまです。
ついにこのお話の大きなキーワード、「海」来た〜って感じです。
あまり無理をなさらずに、でもペースアップも大歓迎です。(w
次回も楽しみです。
- 230 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:50
-
瞬く間に月日は過ぎてゆく。
わたしは毎日のように、飯田さんの喫茶店に通っていた。
図書館は既に改装を終えていたけれど、昔のように足繁く通うことは無かった。それは多分、わたしと孤独との距離が広がっているからだろうと思った。喫茶店に行けば、加護亜依や飯田さんやいわしが目を向けてくれた。
それでも孤独という存在が決して消えたりしないのは、わたしの中にある厳然たる事実が根を張り蔓を巻きつけているからだろう。耳に残るピアノの旋律、赤く染まる視界。思い出そうとしても思い出せない、過去の呪縛。
- 231 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:51
-
飯田さんは、わたしが喫茶店を訪れる度にわたしを対象にしたスケッチをしていた。彼女がその作業をはじめると、周りの空気が瞬時に変わる。描く側の真摯さや、描かれる側の緊張が入り混じったような、特殊な雰囲気。それはある意味わたしと飯田さんだけが共有できる世界観であり、その世界観に入り込むことの出来ない加護亜依は常に不平を漏らしていた。
「なあかおりん、たまにはうちのことも描いてえな」
「うん、のんちゃんの絵が完成してからね」
「…ったくいつになったら完成すんねん。描いては捨て、描いては捨てやったらホンマ、自然環境保護を訴えてるおっさんが泣くで」
加護亜依にそんな皮肉を言われても、飯田さんはわたしの絵を描き続けていた。彼女の言葉通り描いては捨ててしまうので絵を見ることはできなかったけれど、そのうちある疑問が胸に湧く。
飯田さんは本当にわたしのことを描いているのだろうか。
どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、毎日一心不乱にスケッチブックに向かう飯田さんの表情を見て、思ったのだ。まるで、自分の魂を削り取っているかのようだと。そしてそうまでして飯田さんが描きあげるものは、けっしてわたしの絵なんかじゃない。もっと大事な、それこそ彼女自身を変革させてしまうようなものなのかもしれない。憶測に過ぎないのかもしれないけれど、そう思った。
- 232 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:51
-
加護亜依は相変わらず明るく、元気だ。
彼女は朝早く喫茶店に顔を出し、すぐさま歌のレッスンの先生のところへ行き、そしてレッスン帰りに再び喫茶店を訪れる。
加護亜依はわたしや飯田さんに、色々なことを話してくれた。歌のレッスンの先生が少しおかまっぽいことや、同じレッスンに通っている子が余りにも下手なので割り箸を咥えさせられて発声練習していること、発音が悪くて猫の鳴き声の真似をさせられている子のことなど…
彼女の話は聞いていて、本当に飽きなかった。大抵は片手の文庫本を開きながら聞いていたのだけれど、それはある種の照れ隠しなのかもしれない。
そして彼女の話を聞く度に、わたしは痛感するのだ。
もし、彼女のように自分が饒舌で、周りに明るさを振り撒くことの出来る人間だったら、と。
加護亜依は明らかにわたしにはない一面を持っていた。それが正直羨ましかったし、憧れた。それでもわたしは、自分の過去を否定することはなかった。
陳腐なプライド、なのかもしれない。でも、わたしが幼い頃から「漬物石」を通したことに何の意味もなかったなどとは思いたくなかった。
わたしは加護亜依と出会って、自分がプライドの高い人間であると言うことを認識させられたのだと、思う。
それが似つかわしいものであるかどうかは、別として。
- 233 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:52
-
猫のいわしは、気がつくといつもわたしの足元で寝そべっている。
小さな温もりが、わたしの体に染み渡る。
けれど、いわしを抱き上げたり一緒に遊んであげたりすることはなかった。そうしてはならない、という思いが強くわたしを支配していたから。一度は見捨てようとした人間が、掌を返したかのように可愛がるなんて、有り得ない。
だから、わたしのほうから足を離した。
わたしは、いわしを可愛がるべきではない。
自分で生み出した言葉のはずなのに、いつかの、誰かの言葉とぴたりと重なる。
人間はその記憶が辛いほど、痛いほど、苦しいほど、その記憶を洗い流そうとする。
自浄作用。
防衛本能。
逃避行為。
様々な言葉があり、様々な解釈がある。
そのどれに当て嵌まるのかはわからないけれど、確かにわたしにはそれは存在していた。
思い出せないという事は、きっとそれは思い出さないほうがいいのだろう
- 234 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:52
-
漏斗で不純物を取り除いたような天気が、毎日のように続いた。
今年は記録的な猛暑、という言葉があちこちで聞かれる。
今年は記録的。
それでもわたしたちの日常は変わらない。
飯田さんの喫茶店は相変わらず閑古鳥で、
暇な時間の中、かつては絵だった紙屑はごみ箱を埋めてゆき、
加護亜依はオーディションに通過するためにレッスンを受け続け、
そしてわたしは喫茶店に通い続けた。
- 235 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:53
-
こんな本を読んだ。
大学生と、文房具屋の女店員と、母子家庭の少年。
三人は万引きという共通の背徳行為によって絆を得る。
束の間の休息。三人だけの、居場所。
けれどそれは単なるモラトリアムに過ぎないと気付いた、少年を除く二人は次第に少年と距離を取り始める。それに気付かない、哀れな少年。
その本の内容が、わたしたちの何かに重なった。
何故?
わたしや加護亜依はもう、子供ではない。飯田さんに至ってはもう立派な大人だ。それなのに、どうして本の内容が重なるのだろう。
それはきっと、わたし一人が逃げているから。
加護亜依は、アイドルという夢に向かって戦っている。
飯田さんも、多分絵を描くという行為によって、何かと戦っているのだろう。
ではわたしは?
わたしは何と戦えばいい?
わたしには何が出来る?
どこかの中身のないアーティストみたいに、結婚したり新婚旅行に行ったりフランスとかノルウェーとかニューヨークでいちゃいちゃして、それで子供を作って育てようみたいな単純な考えではきっと打破できない答えなのだろう。
- 236 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:54
-
それは晴天の霹靂だった。
ある日わたしがいつものように喫茶店に行ってみると、扉の前に張り紙が貼ってあった。
「二、三日、留守にします。 店主」
飯田さんに急用でもできたのだろうか。
とにかく、そういう事情があるからには喫茶店には入れない。店内の涼しさをある程度期待して炎天下を歩いて来たわたしは、軽く途方に暮れた。
蝉の声が、わたしの意識にざらざらと鑢をかける。ただ、いたずらに。
- 237 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:54
-
そんな時。
わたしの背後で、大げさに驚く声がした。
「何やねん、かおりんの奴、休むなんて一言も言うてなかったやん!」
振り向くとそこには汗まみれが一人、立ち尽くしていた。
「おうのの、自分も待ちぼうけかいな」
「うん…飯田さん、どうしたんだろう」
「どうせ電波の交信中やろ」
口ではそんなことを言いつつも、加護亜依の表情には不安の色が見えたような気がした。
「ま、考えてもしゃあないか。ノノ、これからどないする?」
しかしそんな一抹の不安を掃いて捨てるように、彼女は訊いてきた。
「どうするって、加護さんはこれからレッスンなんじゃないの?」
「今日はなあ、久々にお休みやってん」
とにかくここで突っ立ったままでいても仕方ない。わたしは加護亜依にある提案を示すことにした。
「…良かったらでいいんだけど、中央図書館にでも行かない?」
彼女は少し難しい顔をしていたがやがて、
「しゃあないな。ほな、行こか」
と肩を竦めてみせた。
- 238 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:55
-
久しぶりの中央図書館は、相変わらずの大仰な姿でわたしたちを待っていた。
「はあ…この町にもこないな施設、あったんやな」
加護亜依がはじめて見た、といった感じで溜息をつく。きっと本当にここを訪れるのは初めてなのだろう。
「中をみたらきっと、もっと驚くから」
彼女にそう言ってから、自動ドアを潜り抜ける。
冷たい空気が、体中を駆け抜けた。
懐かしい感触を全身で感じながら、わたしは心の中でそっと呟いた。
…氷の棺。
密かにこの場所を、そう呼んでいた。
- 239 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:56
-
大理石と硝子で構成された、静寂の空間。
その中で生命を感じさせるものはただの一つも、ない。
観葉植物から図書館で働く職員から、ここを利用する人間に至るまで。
冷気の充満した空間は、まさに氷の棺だった。
四角く括られた木の枠内で、本だけが静かに目を冥っている。
構図は、改装前よりも一層確かなものになっているような気がした。
「加護さん、ここに座ろうよ」
わたしはいつも座っていた、窓際の席に腰掛けて彼女を呼び寄せる。まるで喫茶店の時とは立場が逆なようで、それが何故か楽しかった。
「ん、ああ…」
落ちつかない様子で、加護亜依もまたわたしの真向かいに腰かけた。椅子に座ったあとも辺りをしきりに見まわしている彼女に、わたしはこう言った。
「書架から持ち出した本は、ここで自由に読むことが出来る。本のジャンルは場所ごとに分かれてるから…それとも、案内する?」
「頼むわ。うち一人でこんな広い場所に入ったら迷子になりそうや」
わたしは快く了承した。
心に感じる、違和感を無視しながら。
- 240 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:57
-
人文、社会科学、自然科学、スポーツ…
冷気に包まれ眠る本の場所を紹介しながらも、わたしの体は確実に大きな違和感を感じはじめていた。まるで、靴底に小石が入り込んだ時のように。
「まるで、養鶏場の冷凍庫みたいやな」
加護亜依が、そんなことを呟いた。
「…行ったこと、あるの?」
「ああ。正確には『養鶏場跡』やけどな」
それから彼女が、養鶏場跡のことについて話してくれた。
「うちの地元にでっかい養鶏場があったんやけど、鶏舎で火事があってな…よくニュースとかでやってる、天然ケンタッキーフライドチキンみたいなやつや…で、結局その養鶏場は潰れてもうたねん。後に残る冷凍庫だけが、うちらのええ遊び場になったっちゅうわけや」
図書館の中はやはり静かで、静謐な冷気に包まれていた。わたしと加護亜依の足音が、こつ、こつと館内にこだまする。
- 241 名前:第五章 投稿日:2003/09/14(日) 10:57
- 「でもなあ、ある日とうとう気付いてもうたんや。一見ただの建物に見えるその建物は…鶏の名残に塗れとった。一日中そこで遊んでると、鶏臭さが体中に染みついた。時々、ばさばさっ、ちゅう羽音が聞こえた。一番気色悪いのは機械類を取り外したはずやのに、建物全体が凍えるみたいに寒かったことや」
わたしには加護亜依が何を言いたいのか、何となくわかったような気がした。多分、彼女もまたこの図書館に入った時からわたしと同じような違和感を感じていたのだろう。
「ここな、その養鶏場の冷凍庫に何となく…似てんねん」
- 242 名前:作者名未定 投稿日:2003/09/14(日) 11:00
- 更新ペース上げると言ったばかりなのにこの体たらく。
近日中に追加更新します。
- 243 名前:作者名未定 投稿日:2003/09/14(日) 11:02
- >>tokenさん
最初からこの場面は頭に描いていたので、
後はいつそれを出そうか、って感じで書いてました。
海の描写は特に力を入れているつもりです。
- 244 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:24
-
結局わたしたちは、一冊の本を読むこともなく図書館を後にした。
これまではそんなことは一度もなかったのに、今では入ること自体に抵抗を感じてしまう。何故だろうか。
もしかしたらわたしは、自分でも気付かないうちに変わりはじめているのかもしれない。
以前はあの図書館が、わたしにとっての安らぎの地だった。
温もりのない静けさ、冷気に満ちた空間。
譬え耳を澄ませようとも、人の足音、息遣いひとつ聞こえてこない場所。
それが、心に安定を齎していた。
けれど、何故だか今ではそれらの要素全てを拒否してしまっている。
わかっていることは、もう図書館で時間を浪費していた頃の自分ではないということ。それから、変わらないと思っていた自分自身が、大きく変わり始めているということ。
人は簡単には変われないと言う人間がいる。
その一方で、人は簡単に変わってしまうと言う人間もいる。
どちらが善で、どちらが悪か。またはどちらが正しくて、どちらが間違っているのか。
はっきりと論じることなどできないし、また論じる権利もないだろう。
ただこれだけは断言できる。
わたしは、変わりつつある。
- 245 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:25
-
図書館から、再び喫茶店への道を戻る加護亜依とわたし。
もちろん行くあてなどない。ただ、歩かずにはいられなかった。立ち止まるだけで、汗が噴き出しそうだ。
「なあ、これからどないする?」
わたしは首を振る。普通ならお互いの家へ、という感じになるのだろうが加護亜依はともかくわたしは彼女を自分の家に招き入れるつもりはなかった。あの息苦しい場所が自分の家だという事を、知られたくはなかった。
透明な空は太陽の光をいっぱいに吸い込んで、熱気の塊を降り注いでいた。木々の上からは、しゃわしゃわという蝉の鳴き声が聞こえてくる。夏は、あくまでも暑さを目一杯に表現していた。
「あ、そや」
急に加護亜依が立ち止まる。その顔はぱっと輝いていた。
「どうしたの?」
「自分、今いくら持ってる?」
不躾にそんなことを訊いてきた。わたしは自分の所持金をそのまま彼女に伝える。月に一度は、父親からはそれなりの小遣いを貰っていた。それが唯一の、父親とのコミュニケーションだった。
- 246 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:26
- すると加護亜依は自分の財布の中身を確かめてから、
「海、行こか」
と言った。
咄嗟にこの前彼女が連れて行ってくれた不思議な場所を思い出していた。汚れきった海にたった一つだけ存在する、綺麗な場所。
ただ、あの場所ならばわざわざ所持金を聞く必要などないわけで。
まさか、この街から遠く離れた場所にでも行くつもりなのだろうか。その予測は、正しかった。彼女はここから電車で一時間あまり行った場所の海水浴場の名を挙げたのだ。
「そんな場所へ…どうして?」
「決まってるやん。遊びに行くねん」
海水浴場で遊ぶ。これまでのわたしを取り巻く環境とは、無縁の世界だった。第一、最後に海水浴に行ったのはいつの話だろう。気の遠くなるような昔であることだけは確かだった。
- 247 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:27
- 「うちら、夏やっちゅうのに夏らしいことなんて何一つしてないやん。やったら、海水浴場にでも行って、夏をエンジョイしたろ思うてな」
わたしが「はい」とも「いいえ」とも言ってないのにも関わらず、
「ほな、早速駅に向かうで!」
と無理やりわたしの腕を引っ張っていった。
ぐいぐい引っ張る強い力。
はじめからそうだ。わたしはこの力には、逆らえない。
- 248 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:28
-
駅に着くなり加護亜依は、わたしの財布を奪い取って二人分の切符を買った。
「何ぼけっとしてんねん。別にピンハネなんてしとらんから。ほら、早よせんと電車出てまうで」
呆気に取られるわたしに切符を手渡し、彼女は電光掲示板を指差した。
確かに、あと数分で一番早い電車が出てしまう。
急かされるように改札を潜りぬけ、階段を駆け昇った。隣のホームからの発車のベルが、けたたましく鳴る。自分たちの乗る電車のそれではないのに、何故か気持ちが焦らされた。
人もまばらな車内に駆け込む。ぎしっと音を立てさせて、座席に体を沈める加護亜依。
「ふぅ、間に合ったなあ」
「そんなに急がなくてもいいのに…」
そう言うわたしも、息が乱れている。少し落ち着いてから、加護亜依の隣に座った。肩越しに、彼女の帯びた熱が伝わってくる。
- 249 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:29
- 「ねえ加護さん」
「ん? 何やねん。おしっこやったら電車ん中にトイレあるから」
「加護さんは、これから行く場所に行ったことあるの?」
すると彼女は野暮なことは訊くなと言った具合に、
「うちも初めてや。ま、あいぼんとののの冒険、ちゅうとこか」
と胸を張った。
「何それ」
「ええやないか。物語にタイトルは必要不可欠やろ」
周りの空気を引き裂くような、発車ベル。
扉がゆっくりと締まり、電車はレールを滑らかに滑っていった。
- 250 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:29
-
山を越え野原を抜け、電車は海岸線沿いをひた走る。
電車と平行するように太陽や空はスライドし、ひたすら灼熱の青を振り撒いていた。
「なあ、海行ったら何しよか?」
うきうきした表情を浮かべながら、加護亜依はわたしにそう訊いてきた。
答えられず口篭もっていると、
「そや! スイカ割りしよ!」
と突飛なことを言い出した。
「…西瓜なんて、持って来てないよ」
「そんなん、向こうで買えばええやろ。砂浜で目隠しして、棒でパッカーン! って割んねん。楽しいでえ!」
「そう…かな」
二人でやる西瓜割りはあまり楽しそうではなかったけれど、加護亜依が言うと、本当に楽しそうな気がしてこなくもなかった。
- 251 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:31
- 本当に海で遊ぶなんて、久しぶりのことだった。でもその記憶がないということは、はじめての経験と言い換えてもいいのではないだろうか。加護亜依に乗せられているのだろうか、不思議に胸が高鳴った。
「水着…持ってくればよかったな」
聞こえないように言ったつもりだったが、案の定地獄耳には聞こえていたようで、
「はは、やめとき。自信なくすで」
と自分の胸に視線を下ろして加護亜依は言った。
今まで大して気にはしてなかったが、確かに彼女のそれは大きそうだった。それに比べると。
彼女は、それまで気付かなかった嫌なことまで気付かせてくれる。
- 252 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:31
-
どこまでも続く、海岸線。
海の色も心なしか明るい色になっていっている気がした。
時折通る海水浴場らしき砂浜では、ぽつぽつと人が泳いでいたり寝そべっていたりビーチバレーをしたりしていた。
波は青く、太陽は白く輝き、反対側の窓からは深い緑が映えていた。わたしの住む町では、もう失われてしまったものばかりだ。
「そろそろ、着くんとちゃうかな」
加護亜依は自分の腕時計を見ながら、そう言った。
車内の親子連れや大学生らしき団体、浮き輪を持った子供たちもいそいそと電車を降りる準備をしている。その点、わたしたちは楽だ。何しろ手ぶらで来ているのだから。
徐々に減速し、ぷしゅううう、と音を上げながら小さなホームに停車する電車。
わたしの町とはまったく別の、世界。
- 253 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:32
-
ぎらぎらとした夏の太陽は、快くわたしたちを迎え入れてくれる。
海の方角から吹いてくる風は、紛れもなく海の匂いがした。
「なあ、スイカ買いに行くで」
西瓜。すっかり忘れていた。
しかし、海水浴場以外何もなさそうなこの場所に八百屋などあるのだろうか。
「ない…と思うけど」
「んなわけあるかい。海言うたらスイカやろ。アメリカ大陸を発見したコロンブスが上陸してすぐにスイカ割りをはじめたくらい、由緒正しきもんなんやで」
「そんな話、聞いたことない」
わたしが呆れながら、海に向かう人の群れに目を移していると、見つけた。
こんな場所に八百屋が堂々と店を構えていたのだ。
「ほら見てみい! あるやないか!」
加護亜依は勝ち誇ったような顔をして、八百屋の方に走っていった。需要があれば供給もある、ということか。
- 254 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:33
-
八百屋の軒先に青々とした西瓜が並んでいる。
加護亜依はそれらを一つずつぽんぽんと叩きながら、耳を近づけて何かを確かめていた。どうやら中身が詰まっているかどうかを確かめているらしい。どうせ割るなら、中身の有無など関係ないだろうに。
「いらっしゃい! うちの西瓜は全部中身が詰まってるぜ、お嬢ちゃん!」
店の奥から、黒々と日焼けをした店主らしきおじさんが現れる。
「ほんまかいな。そんなんうまいこと言うて、うちらにスカスカのやつ売りつけようっちゅう魂胆やないやろうな?」
「馬鹿言うな、こっちは客商売よ。客にありったけのサービスするのがうちのモットーだぜ」
「言うたな。せやったらええもん、買わせて貰うでえ?」
こんなやり取りを、どこかで見たことがある。テレビで、大阪の主婦が店主相手に値段の交渉を行っている場面だ。
- 255 名前:第五章 投稿日:2003/09/21(日) 14:34
- そしてわたしの予想通り、二人は値切りの交渉に入った。
「お嬢ちゃん、そりゃあちょっと厳しいなあ」
「何言うてんねん、この前行った隣町の八百屋はもっと安い値段で売ってたで」
「でもその値段じゃ商売上がったりだぜ…」
「男やったらケチくさいこと言いなや。こんな可愛い女子高生二人がわざわざ遠く離れたこの場所でスイカ買いに来てるんやでえ?」
結局店のおじさんは、加護亜依の言い値でスイカを売ることになった。
- 256 名前:作者名未定 投稿日:2003/09/21(日) 14:36
- 近日中とは、一週間後のことを言う(トリビア)。
有限不実行な上に更新量も少ないので、おち。
情けないやら恥ずかしいやら申し訳ございません(by政伸)やら。
- 257 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/03(金) 15:43
- 今日いっきに読みました。面白いです。
この後がぜんぜん予想出来ませ。
気になって眠れないです。
- 258 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:23
-
海水浴場は、これでもかと言うくらいに人で埋め尽くされていた。
「何やねんこれ…スイカ割りどころか横にもなられへんわ」
西瓜の入った袋をぶら下げて、加護亜依は溜息をつく。
「どうする?」
「どうするもこうするもあるかい! こうなったら無理にでも海を満喫したるで!」
水着姿の人間が殆どの中、普通に服を着たわたしたちはかなり浮いていた。加護亜依がそのことに気付くまで、少しばかり時間が掛かった。
「ねえ加護さん。あっちに、入らない? 人が空くまでそこで待っていようよ」
わたしは海水浴場の端にある、一軒の海の家を指した。海の家の中ももちろん人で溢れていたが、砂浜ほどではなさそうだった。
「…せやな。昼時やし、何か食べよ」
どうやら単に引っ込みが付かないだけのようだ。珍しくわたしの意見に賛同してくれたお団子頭は、どことなく哀愁を漂わせながら海の家へと歩いていった。
- 259 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:24
-
テーブルについたわたしたちは、それぞれの食べたいものを注文した。とは言え、メニューには焼きそばやかき氷くらいしかなかったのだが。
結局二人とも、かき氷にしていた。いくら日光が遮られているとは言え、蒸せ返るような熱までは遮断できないのだ。必然的に体は、冷たいものを欲していた。
わたしたちの格好が奇異に映るのか、遠慮なくじろじろと見る人々。加護亜依はそんな無遠慮な視線一つ一つに、
「アホか! そんな下着みたいな格好しくさって、町中やったらうちらがまともやっちゅうねん!」
と悪態をついていた。
「加護さん、ここじゃわたしたちのほうが異物だから」
「まあな…」
そう言いつつ、加護亜依はかき氷を口へと運んだ。わたしもイチゴシロップをかけられた氷に刺さるスプーンに、手を伸ばす。ひんやりとした感触が、指に伝わった。
それからしばらく、かき氷を食べながら二人で海を眺めていた。透き通る青に照り返された熱気は、かき氷を赤い水に変え始めていた。
- 260 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:25
- ふと、加護亜依が言った。
「それにしてもホンマ海なんて…久しぶりやなあ。奈良におった時に、箱作の海水浴場に家族で遊びに行って以来やわ」
多分、何気なく言ったつもりだったのだろう。だけど、その二文字はわたしの心に引っ掛かった。何事もなかった風に努めようとしたけれど、結局は無駄な努力に終わる。
「…自分、どないしたん?」
ううん、何でもない。
この一言が、言えなかった。
当然なのかもしれない。何でもなくなど、ありはしないのだから。
わたしは、加護亜依の問いかけに対し、食べかけのかき氷に視線を注ぎ続けることで返答した。それくらいしか、できなかった。
「なあのの」
「何?」
加護亜依の顔を見ないまま、口を開く。
- 261 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:26
- 「いつでもええ。辛いことがあるんやったら、うちに相談しい。具体的には何にも出来ひんかもしれへんけど、絶対何かの力にはなったるから」
かき氷へと向ける視線が、強まった。
わたしの存在を無視する、両親。
わたしの上に圧し掛かる、姉。
全部、ぶちまけたかった。そんなことをしたって、目の前の少女を困らせる結果しか生まないことはわかっていたけれど。
「いつでも、いいんだよね?」
二つのお団子が上下する。
「うん、わかったよ」
わたしは相変わらず、かき氷から視線を外せずにいた。このままの状態で視線を外したが最後、目の前の赤い水のように何かが流れ落ちてしまいそうだったから。
「かき氷、溶けてまうで。早よ食べや」
「あ、うん」
その一言が、わたしの緩んでいた何かを戻す。
再び手に取った金属製のスプーンはひんやりと冷たく、赤いかき氷は舌を刺すように甘かった。
- 262 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:27
-
日が落ちるにつれて強くなっていく海風は、行楽客たちを確実に減らしていた。家族連れやカップルたちがひと組、またひと組と浜から上がってゆく。
「そろそろ、ええかな」
加護亜依がそんなことを言いながら、わたしに目配せした。
水着を着ていない二人組が、砂浜で西瓜割り。その光景は異様なものがあったが、そんなことはどうでもよかった。
わたし自身、西瓜割りという行為に惹かれはじめていたのかもしれない。
それはきっと、現実からの逃避そのものだったから。
「うん、やろう」
席から立ちあがったわたしは加護亜依に向かって、両手を差し出す。勘のいい彼女は、すぐに床に転がしていた西瓜を渡してくれた。
ずしりとした、感触。
八百屋のおじさんの言う通り、中身が詰まっているのだろう。
でもわたしには、その重さが何か別の意味を持っているような気がした。
重い西瓜を持って、浜へと移動するわたしたち。
- 263 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:27
- 加護亜依の背中を見つめながら、何となく思う。
どうして、西瓜割りごときで胸が高揚するのだろう。
理由は自分でもわかっていた。それは、西瓜割りに別の何かを期待しているから。
西瓜が割れたところで、周りの環境が変化するわけでも、自分自身が変わるわけでもない。
確かにわたしは以前と比べ、変わったのだろう。でも、そう言い切るには決定的な何かが足りないような気がした。
それをたがが西瓜割りで埋め合わせる。そう、非常に馬鹿げたことだ。そんなことで何かが変えられるのだったら、世界の首脳たちはずっと西瓜割りをしていればいい。
- 264 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:28
-
気がつくと、もう砂浜の手前まで来ていた。家の近くの砂浜と比べ、靴のまま足を踏み込んだらそのままずぶずぶと沈み込んでしまいそうだった。
「靴、脱ごか」
「そうだね」
結局わたしたちは、素足になることにした。靴と靴下を取り去った加護亜依の白い足が、目に眩しい。対してわたしの足はくすんだ色をしていたが、そんなことはどうでもいいことだった。
足を砂につける。すぐに焼けるような熱さが襲いかかった。
「あちあちあちっ! 乙女の柔肌が!」
そんなことを言いながら、辺りを駆け回る加護亜依。そんな様子でさえ、とても楽しげに見える。
- 265 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:29
- 「自分、よう平気やなあ」
「うん、まあ」
「足の裏の皮、分厚いんとちゃう?」
「さあ」
と言いつつ、わたしも足の裏にしがみつく灼けた熱には辟易していた。それでもじっと堪えていたのは何故だろう。これくらいのことで悲鳴など上げられない、などと思ったのだろうか。もしかしたら熱いとはっきり言うことこそ、本当の勇気なのかもしれないのに。
まだまばらに残っている人たちを掻き分け、ようやく西瓜割りができるくらいのスペースを確保する。砂地の上に青い西瓜を置くと、余程わたしたちが珍しいのか、人が集まりはじめた。
- 266 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:30
- 「どっちが割る?」
「加護さんが割ったほうがいいよ。西瓜を割ろうって言い出したのは、加護さんなんだし」
「せやな。ほな、お言葉に甘えて」
加護亜依は、肩にぶら下げていたバッグから棒切れと目隠し用の鉢巻を取り出した。棒はひと振りで西瓜を割るには充分の太さだ。
そんな用意をしている間に、周りにはいつの間にかギャラリーを形成していた。
「たかがスイカ割りやっちゅうのに、大げさやな」
言葉と表情の一致しない加護亜依。人前に出ることをまったく厭わないのは、さすがはアイドルを目指しているだけのことはある。彼女は西瓜との距離を取るために、徐々にわたしから離れてゆく。
不意に、心臓が飛び跳ねるような鼓動を感じた。棒と、西瓜を見た時からずっと感じていた小さな不安が、急に芽吹きはじめたような気がした。
- 267 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:31
- 「よーし、じゃあ行くでぇ!」
目隠しの鉢巻を巻き終えた加護亜依が、こちらに向かって叫んだ。砂をかき分け、移動する足。
西瓜。
棒。
叩き割る。
砕け散る。
頭の中を、黒い影が蠢いているような気がした。西瓜割りという儀式はわたしの未来ではなく、過去へと繋がっている。そのことに、今の今までまったく気づいていなかった。
「ノノ、どっちや!?」
「ここ、ここだよ!」
わけのわからない重圧に負けないよう、大きな声を出した。けれども、そんなものはただの強がりに過ぎない。
- 268 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:32
- どこからともなくピアノの演奏する音が聞こえてくる。幻聴だ。幻聴だとわかっていても、メロディーは決して消えてはくれなかった。
不協和音。何度も何かを鍵盤に叩きつけるような、鈍い音。白い鍵盤を侵しはじめる、赤い液体。どこからか、危ない、と叫ぶ声がした。
どすっ、という鈍い破壊音。
腰の力が、奪われるように抜けた。重力に従い、わたしは尻を砂地に落とす。加護亜依の棒が、わたしの目と鼻の先で振り下ろされたのだ。というよりは彼女が接近していることに気付かなかったために、いつまでも西瓜の後ろに突っ立っていたわたしが悪いのだけれど。
落ちつきを取り戻そうとするわたしに、ある光景が映る。
真っ二つに砕かれた西瓜と、流れ落ちる汁。
その赤さが、わたしに何かを思い出させた。
簡単だった。まるで、ヒューズが飛ぶように。
そこで完全に、意識が途切れた。
- 269 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:33
-
見たことのある、四角い空間。
そこにわたしは一人で立っていた。
悪趣味な色合いは間違えようがない。
「いるんでしょ?」
床の一部が盛り上がり、現れたのはスチュワーデスの格好をした中年男性。イエロー☆マンだ。
「あてんしょんぷりーず」
「…何、その格好?」
「流行ってんだよ」
イエロー☆マンはわけのわからないことを言って、肩を竦めた。
「それよりだ、お嬢ちゃん。そろそろ、時期が来てる」
「時期?」
「つまり、モラトリアムは終わりを迎えようとしている…ってことだ」
顔を顰めるイエロー☆マン。皺の多さが、言葉以上の何かを語っているような気がした。
「わからない。モラトリアム、って誰のために? 誰が終わりを決めたの? わたしは、あなたが何を言っているのか、理解できない」
「悲しい過去に縛られ、飛べないモスキート、か」
イエロー☆マンは一人ごちて、わたしに背を向ける。
「答えはそのうち出て来る。一つ残らず。あとは…自分がどう処理するか。殻を破るか、破らないかはお嬢ちゃん次第さ」
それだけ言い残して、イエロー☆マンは周りの景色と同化するように消えていった。
- 270 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:34
-
目を開く。
木目調の天井が見えた。
心配そうな黒目が、わたしのことを見つめる。
「気付いたんか」
「…あれ、わたし」
「スイカ割りの途中で、気ぃ失ったんや」
「そう、なんだ」
「もう大変やったんやで。変なナンパ男が『大丈夫? ぼくが介抱してあげるよ、年も同じくらいだしバスケット部だし実際青春してるし背が179!』とか言うて近づいて来たりして。まあ、うちが追っ払ったんやけど。それからここまで運ぶのに、苦労したんやで」
背中に感じる、固い畳の感触。
どうやらわたしは海の家の畳の間で寝かされているようだった。
- 271 名前:第五章 投稿日:2003/10/03(金) 23:34
- 「でも、良かったわ、気がついて。うち、ノノが倒れた時はほんまどないしようかと…」
加護亜依の黒目が、心なしか潤んでいるような気がした。それが嬉しくて、可笑しかった。自然とわたしの表情に、笑みが零れる。
「ふふ…」
「な、何や、何がおかしいねん! せっかく人が心配してるのに…」
「加護さん、ありがとう」
今度は急に顔を赤らめる加護亜依。
「な、何やっちゅうねん急に!」
「今日はいろいろあったけど、楽しかった」
「そ、そやな」
今は、忘れたかった。現実から目を背けて、友の背に寄り添っていたかったのだ。
譬えそれが、期限付きの猶予であったとしても。
- 272 名前:作者名未定 投稿日:2003/10/03(金) 23:37
- 更新終了。
>>257 名無し読者さん
ありがとうございます。
この先どうなるか、作者にもさっぱり…
なんてことはなく、ある程度は考えていますが。
- 273 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/05(日) 16:05
- 更新ご苦労様でした。今回も面白かったです。
何と言うか文章にヴォリュームがあって読み応えがあります。
少しずつ加護に心を開いて行くののにも萌えです。
感想は少ないけど沢山の人が読んでると思うので頑張ってくださいね。
- 274 名前:token 投稿日:2003/10/06(月) 00:39
- 更新お疲れ様です。
イエロー☆マン、彼の登場は辻ちゃんの心境の変化の先触れでしょうか。
次回をまったりお待ちしてます。
- 275 名前:ななし 投稿日:2003/10/07(火) 23:53
- 初めて感想かきます。
今、一番注目しているのが「海のうた」です。
固定観念に囚われない自由な発想で
娘。小説の歴史と発展に大きな影響をあたえる
一作と成るのではないでしょうか。
がんがってください。
- 276 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 02:56
- 世の中は、悪意に満ち溢れている。
それはいつだってわたしたちの周りに空気のように存在し、そして様々な影響を及ぼす。
理由のある悪意。そして理由のない、理不尽な悪意。
前者よりも、寧ろ後者のほうが圧倒的に多いのかもしれない。
そういう不条理によって、わたしは漬物石になり加護亜依は孤立させられ飯田さんの喫茶店は流行らず、豊かな海は埋め立てられた。
一つ一つの小さなものならば、抗うことができる。きっと昔の人たちはそうしてきたのだろう。けれど、時を経るに従い不条理は爆発的に増えていった。最早人は、理解のしようが無い力に抵抗するのに疲れてしまったのだろう。
- 277 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 02:57
-
いわしが死んだ。
そのことを知ったのは、わたしたちが海から帰って来てすぐのことだった。
閉まっているはずの飯田さんの喫茶店が煌煌と明るかったので、不審に思った加護亜依が喫茶店に寄ろうと言い出した。店に入ってみるとそこには真っ赤に目を腫らした飯田さんがいた。いわしは、白いバスタオルの上で置物のように丸く固まっていた。
「明日の店の準備をしようと思ってお店に寄ったら、いわしが血を吐いてて…」
飯田さんは、たどたどしい口調でそう言った。
「何でいわしが死ななあかんねん、世の中もっと先に死んでええ奴なんてぎょうさんおるやろ、何でや、何でやねん」
加護亜依はいわしに向かって何度も何でやねん、何でやねんと繰り返す。円らな瞳からは、ぽろぽろと涙が零れていた。
わたしの目からは、何も流れなかった。
飯田さんはきっといわしが死んでいるのを発見した時から泣いていたのだろう。目の前の加護亜依も、泣いている。それなのに、わたしはまったくと言っていいほど泣けなかった。
- 278 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 02:58
- どうしてわたしは泣くことができないのだろう。考えてみた。わからなかった。きっと心の中まで漬物石になってしまったのだ、という馬鹿げた一意見は即座に却下された。
恐る恐る、いわしの亡骸に手を伸ばす。
いわしがはじめて喫茶店を訪れた時に、わたしの足に擦り寄った温もり。
決して自分からは、求めなかった感触。
でもそれは、今やどこかに奪い去られてしまっていた。
掌にはごつごつとした、冷たい肉の感触。
そこでやっと、いわしがもうこの世にいないことを実感した。
猫にせよ人にせよ、有限である命。
死んだら土に還るだけのそんな当たり前の光景が、何故悲しいのか。それが悲しいのなら、人は朝日が昇るたびに涙し、屁をする度に涙しなければならない。
理不尽だ。そう思うからだろう。死はいつだって理不尽だ。ニュースで報じられる、色々な形の死。実のところ、理由のある死なんて一つもないのかもしれない。人間の勝手な論理なのかもしれないが。
- 279 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 02:58
- 「いわしを、土に還そう」
不意に口をついて出た言葉だった。わたしのほうに二つの視線が集まる。
「そうだね」
「せやな」
二人は特に反論することもなく、そう言った。
どうしてわたしはそんなことを口走ったのだろう。いわしに対して僅かな涙すら流せない言い訳だろうか。それとも、死の存在を自分の中で普遍化したかったのだろうか。でもきっとそこに、理由なんてないのだろう。
- 280 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 02:59
-
飯田さんにレンタカーを借りてもらい、そして日曜の夜に三人でいわしを埋めに行った。
示し合わせたように、空からしとしとと雨が降り始める。
こんな時のためにレインコート、買っておいたんだ。飯田さんはそう言った。誰も笑わなかった。
車の中では誰も、一言も話さなかった。トランクの中には青いキャンピングシートに包まれたいわしが入っていた。車はさながら霊柩車のようだった。
途中でディスカウントショップに立ち寄り、スコップを三本買った。
「何に使うんですか?」
女三人にスコップの組み合わせが余程珍しかったのか、レジ打ちの若い男が話しかけてきた。
「ご先祖さんの遺した埋蔵金、掘り返しに行くねん」
「へえ、面白そうですね」
愛想笑いを顔に貼りつけたまま、加護亜依に言う男。
「嘘や。ほんまは、あるものを埋めるのに使うんや」
「埋める? 何を?」
「…死体」
マニュアル通りの笑顔が、少しだけ崩れる。わたしたちはそんなことは気にも留めず、店を出て行った。
- 281 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:00
- 車の中に戻った途端に、加護亜依はけたけたと笑い始めた。
「なあ、さっきの男の表情。アホみたいやったなあ。ぽかーんって、音が出そうなくらいにびっくりしとったわ。ええ気味や」
しかし車が走りはじめると再び、重苦しい沈黙が訪れる。雨粒が塗された窓越しには、滲んだネオンや街灯の光が見えた。
降りしきる雨は、車のフロントガラスにもびっしりと付着し、それはワイパーによって払われる度に筋を作って流れ落ちていった。そんな光景が目の前で、何度も繰り返される。それが何故か、悲しかった。
車はひたすら濡れた路面を走り続け、段々と光の少ない場所へと移動していった。飯田さんはいわしをどこに埋めに行くつもりなのだろう。そう言えばどこへ向かっているのか、聞いていない。そう思った時に、
「なあかおりん、どこまで行くねん」
と加護亜依が聞いてきた。
「…人造湖」
飯田さんはそう言って、ある湖の名を挙げる。この地方一帯の水瓶とされている湖だった。
- 282 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:00
- 「こっちにきてから、圭ちゃん…ほら、この前喫茶店に来た女の人。あいぼんは知らないか。圭織の友達で、保田圭って言うんだけど」
「保田圭って…あの保田圭!? 変な絵書くイラストレーターの!」
素っ頓狂な声を上げる加護亜依に飯田さんは、
「変な絵って…あれでも業界では高い評価を得てるんだから」
と窘めた。
「とにかく、その圭ちゃんと紅葉見にピクニックに行った場所なんだ。これから向かおうとしてる場所は」
不意に、バックミラーに映る飯田さんと目が合う。飯田さんは何故か、気まずそうに視線を逸らしてしまった。一瞬だけ垣間見た瞳には、暗い翳りがあったような気がした。
それからまた、言葉が車内から消滅する。加護亜依がどさくさに紛れて買ったらしい、ビスケットを袋から取り出して食べ始めた。コーヒーとバター・クリームとメイプル・シロップの三種類のやつだ。やがて彼女はわたしに箱ごとビスケットを差し出す。外国製らしいそのビスケットを一口齧ると、それは粉っぽい上に舌が焼けそうなほど甘かった。
「かおりんにもあげてや」
加護亜依が小声でそう言った。確かに彼女よりわたしのほうが、ビスケットを渡しやすい位置に座っていた。
「飯田さん」
わたしは飯田さんに声をかけてから、ビスケットの内箱を少しだけ出して渡そうとした。それに気付いた飯田さんが、前方を見ながら手探りでビスケットを取ろうとする。しかし飯田さんの手はビスケットではなく、箱を持っていたわたしの手に触れてしまった。
飯田さんの手は、息を呑むほど冷たかった。
- 283 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:01
-
湖畔にあるレストランの駐車場に、車を停める。時計の針は九時を回っていた。
閉店にはまだ早いはずの時間だったが、レストランに明かりはなかった。もちろん、辺りには人の気配などまるでない。夜の人造湖など、誰も訪れないからだ。
車を降りる。夏にしては鋭すぎる空気が、肺を刺した。
「あそこがええんとちゃう?」
一緒に降りた加護亜依が、道路を隔てた林のほうを指差す。飯田さんは無言で頷くと、車の中からフードつきのレインコートをわたしたちに渡してくれた。肌を襲う雨から身を守るために、それを急いで羽織る。
「はは。ノノ、よう似合っとるわ。座敷童子みたいやで」
もう一人の座敷童子が、ふざけてそんなことを言った。
飯田さんが車のトランクを開ける。ガバッ、という大げさな音がそこら中に響いた。
- 284 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:01
- 「いわしは、わたしが運びます」
それは、いわしを埋めに行くと決まった時から心に決めていた事だった。飯田さんは運転席から降りると、トランクまで移動して中のいわしを抱きかかえた。
ごわごわとしたビニール地に包まれたいわしを、受け取る。いわしの体は予想以上に重かった。
「重いけど、大丈夫?」
「大丈夫です」
「わかった。じゃあスコップは圭織とあいぼんで持つから」
そう言う飯田さんの表情は、何故だかとても柔らかだった。
じゃあ、さっきの冷たい手は何だったのだろう。瞳に映る翳りは、何だったのだろう。わたしにはそれらのことが、飯田さんが店を臨時休業した事と関係しているのかもしれない、そう思えてならなかった。
- 285 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:02
-
林に入ってから、わたしたちはいわしを埋める場所を探し続けた。
埋める場所など、どこでも良かったのかもしれない。でも、わたしたち三人が揃って納得した場所でないと、いわしを埋めてはいけないような気がした。林の中を歩いている時もずっと無言だったけれど、それは暗黙の決め事だったように思えた。
無言で歩き続けるわたしたちの姿は、傍から見ればまさしく葬列そのものだったろう。確か加護亜依の好きな「Rock-kiss」の歌に、そんな題名の歌があったような気がする。本人に聞こうと思ったけれども、きっと歌いはじめるに違いないのでやめておいた。
夏らしくない寒さだったが、いわしを抱えて歩いているうちにコート内に熱が篭もってきた。いわしの重さによって、腕の筋肉も強張り始めていた。
何て重いのだろう。そう思った。
死んでいるのだから当たり前だ、とかそういう次元の問題ではなく。
いわしが死んだということは、肉体から魂が失われたということ。ならば魂の分だけ、肉体は軽くなるはずだ。なのに逆に重くなるとは一体どういうことなのか。
- 286 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:03
- 死という名の重みか。
死という事実をわたしが感じている、重みか。
そんな答えの出ない問いかけを、ずっとしていた。ぐるぐると回転する思考は、黒人の少年を追い回す三匹の虎を思わせた。少年の登った木の周りを虎たちはぐるぐると回り続け、最後にはバターになってしまう。子供の頃はあまりにも馬鹿げていると感じたその結末も、今では何となく信じられそうだった。
「自分、何ぼけっとしてんねん」
「のんちゃん、ここでいいよね?」
加護亜依と飯田さんに、同時に声をかけられた。あと一歩の所で脳がバター化しそうだったわたしは、嫌が上にも我に帰らされる。
林を形成する木々の中でも一際大きな、巨木と言っても差し支えないような木が目の前にあった。
- 287 名前:川o・-・) 投稿日:川o・-・)
- 川o・-・)
- 288 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:04
- 「きっとこの木はさ、森の主なんだよ。いわしを守ってくれるんじゃないかな」
飯田さんが、不思議なことを言う。森ではなく林なのでは、とも思ったが「林の主」では語呂がおかしいので言わなかった。
「かおりんは相変わらずやな。まあうちもいわしをここに埋めるのは、賛成や。この木は、いわしの墓のでっかい目印やで」
加護亜依がそんなことを言いながら、目を細めて笑った。
わたしは空を見上げる。
晴れた日には、きっとここから青い空が見えるのだろう。
混じり気のない青に届かんばかりの、いわしの墓標。
もしかしたらいわしの魂は、まだこの手の中に留まっているのかもしれない。地中に埋まったいわしの魂は、巨木を伝わりそして天へと昇ってゆく。そういう想像も、悪くはなかった。
「うん。ここに…しようよ」
そう言いながら、いわしを木の根元に安置した。
そしていわしを埋める穴を掘る作業が、はじまった。
- 289 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:05
-
雨で地盤が緩んでいると思いきや、穴掘りはなかなか捗らなかった。
地面は純粋な土だけではなく、大小の石混じりで形成されていた。そのためすぐにスコップの先がきぃん、と甲高い金属音を上げる。
スコップの先を上手く利用しながら石を穿り返し、再び柔らかい地面にスコップを突き立てる。背の高い飯田さんはともかく、平均よりだいぶ低いであろうわたしと加護亜依には骨の折れる作業だった。
体が徐々に熱くなってくる。気温が高くないのにも関わらず、次から次へと汗が滴り落ちてきた。時折目の中に入りそうになるそれを手で拭いながら、また穴掘りに集中する。それの繰り返しだった。
- 290 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:05
- 穴を掘り始めてから数分が経過した。わたしたちが三人がかりで作った穴は縦にこそ長いものの、深さはいわしを埋めるには充分ではなかった。相当、下の地盤が固いらしい。
わたしの息は完全に上がっていた。普段大した運動などしていない上に、本ばかり読んでいる日々を過ごしていたから当然といえば当然なのだけど。それに引き換え加護亜依はどうだろう。汗で前髪を張り付かせながらも、スコップが土を掬う速度はまったく衰えていない。歌のレッスンは体力もつくのだろうか。
「のんちゃん、ちょっと休んでもいいんだよ」
そんな様子を見かねたのか、飯田さんがそんなことを言ってきた。けれどわたしの手が止まることはなかった。
何も考えず、しゃにむにスコップを振るった。視界は極度に狭められ、穴と、スコップの先しか見えなかった。時々、スコップが撥ねた土砂が顔を直撃する。けれどもわたしは最早土砂や汗や吹き付ける雨粒の一切を手で拭わなかった。拭うよりもまず、穴が掘りたかった。
- 291 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:06
- 飯田さんも加護亜依も、無言で穴を掘っていた。もちろん、わたしもだ。
頭が熱によって麻痺し始めたのか、何故穴を掘っているのかがわからなくなってきた。いや、一体わたしは何を埋めるために穴を掘り続けているのだろうか。
そんなに大きく掘って、どうするつもり?
そんなに深く掘って、どうするつもり?
誰のために、掘り続けているの?
いわしだけのためではないのかもしれない、たぶん。
- 292 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:07
-
そしてようやく、墓穴は完成した。いわしどころか、わたしたち全員がすっぽりと入ってしまうくらいの大きな穴である。
「これ、掘り過ぎとちゃうん?」
「深い場所のほうがいわしも落ちつくよ、きっと」
わたしも飯田さんの言葉に同意した。溜めが大きければ大きいほど、魂も高い場所まで行けるような気がしたから。
いわしを持ち上げ、穴の中心に移動する。わたしの腰近くまで隠れてしまうくらいの深さだった。よくもここまで掘り下げたものだ。おかげで穴から出る時は加護亜依と飯田さんの手を借りることになってしまったが。
- 293 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:07
- 雨の音が、細かく、けれども確実にわたしたちの耳に届いていた。木々の葉を触る音、地面を撫でる音、そしてレインコートが弾く音。葬送曲に相応しいと思った。
「じゃあ、土を被せるよ」
そう言ってスコップを再び手に取ろうとした飯田さんに、加護亜依が待ったをかける。
「お祈りの言葉、まだや」
「お祈りの言葉ねえ…そうだなあ」
どこか別の世界と交信しはじめたような顔をする飯田さん。
「あかん。かおりんやったら変な詩的な言葉になりそうや。ここはひとつ、ノノに頼むか」
「え?」
「え、やないやろ。こういう時のために、本読んでるんやろ?」
勿論違うのだけれど、反論すると長くなりそうなので素直に従った。わたしはカントの言葉を引用することにした。
「無限に善とみなされるのはただ一つ、それは善なる意志である。いわしよ安らかに眠れ」
二人は少しの間だけ顔を見合わせ、それから瞳を閉じて祈った。
- 294 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:08
- そしてわたしたちは掘り返した土を元に戻す作業をはじめる。細かく砕かれた分だけ、掘り返した時よりも楽な作業だった。数分後には穴は跡形もなく消えてしまった。
「いわし…またね」
「元気でな」
飯田さんと加護亜依が、地中深くに眠るいわしに声をかける。
わたしは、いわしに声をかけなかった。いや、かける資格などないのだ。あの日いわしを見殺しにしようとした人間が、どんな言葉をかけられようか。
生前の温もりより、死後の冷たさ。
それがわたしに与えられるもの。
「あんたなんか、部屋の隅で縮こまってればいい」
はっきりと、声が聞こえた。
遠い昔に聞いたことのあるような、そんな台詞。
目の前の加護亜依や飯田さんが言ったのではなく、過去に誰かが言った言葉。
雁字搦めに固く結ばれた鎖が、解けかかっている。
しかし鎖に指をかけると、ひどい頭痛が襲いかかった。まるで本当に血が流れ落ちているかのように、どくどくとこめかみの部分が脈を打つ。
「ノノ、どないしたん?」
「ううん、何でもない」
わたしたちはここに来た時と同じように、ほぼ無言のまま、林を抜けていった。頭痛は徐々に治まっていったけれど、心に広がった黒い波はいつまで経っても退いてはくれなかった
- 295 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:11
-
人造湖を発った時には、かなり遅い時間になっていた。でも加護亜依は予め飯田さんとドライブに行くと行っていたと言うし、わたしはわたしで心配する者など誰一人いないので全く問題はなかったが。
車が加護亜依の家に着くと、彼女の祖母が出迎えてくれた。
加護亜依をそのまま年老いたような顔をしていて、やはり黒目がちな瞳が印象的だった。
飯田さんとは既に顔見知りだったようで、お互いにお礼やら挨拶やらを交わしていた。
そんな様子をぼんやりと眺めていたわたしの視線が、加護亜依の祖母のとぶつかる。
「あなたがノノちゃんね。いつもうちの孫がお世話になって。これからも亜依と遊んであげてね」
「は、はい…」
わたしの曖昧な返事に、彼女は目を細めて微笑んだ。その後ろでは加護亜依が真っ赤な顔をして何やら文句を言っている。
上がってお茶でもという誘いを丁重に断わり、わたしたちは車に乗り込んだ。
段々と遠ざかってゆく友の姿。いつまでも手を振り見送る彼女に、胸が熱くなった。だけど、それを遮るのは、黒い影。
- 296 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:12
- 極力、何も考えないようにした。別に頭痛が嫌だったからではない。痛みなどより何かを思い出す事のほうが、余程怖かった。飯田さんに話しかけたのも、自らを掠れた記憶から遠ざけたかったからかもしれない。
「飯田さん」
「なあに、のんちゃん?」
「どうして今朝は、店を閉めていたんですか?」
バックミラーの飯田さんの瞳が、暗くなる。
こうなることは薄々は感じていた。
行きの車の中で飯田さんの瞳に翳りが見えたことや、彼女の手が有り得ないくらいに冷たかったこと。それはいわしの死や降りしきる雨が原因ではないのは、わたしにもわかる事だった。
- 297 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:12
- 原因を聞くという行為は、相手の心を抉ることを意味する。誰かを傷つけることで自分の傷の痛みを紛らわせるのが卑劣な手段であると指摘されても、わたしは否定することはできないだろう。
それでも、飯田さんにそのことを聞かずにはいられなかった。
飯田さんの答えを、じっと待っていた。すると彼女は、言葉の代わりに雑誌のようなものを渡してくれた。それとともに、車を道路脇に寄せてエンジンを切った。
「その雑誌の116ページを、開いてみて」
車内灯をつけながら、飯田さんがわたしにそう指示した。飯田さんは一度も振り返らなかったけれど、その背中には何かの決意のようなものが感じ取れた。
ゆっくりと雑誌を広げると、そこには見たことのある絵が書いてあった。
- 298 名前:第六章 投稿日:2003/10/22(水) 03:13
- 「これは…」
わたしが口を開いて言葉を出しかけた時、飯田さんが急にこちらを振り返った。
「そう、これはのんちゃん。未完成の、のんちゃんの絵」
「飯田さんが出したんですか?」
ゆっくりと飯田さんは首を横に振る。その表情は湖の底のように深く、寂しかった。
そしてたった一つの出来事が思い浮かぶ。飯田さんに隠していた、出来事。
ごみ箱に捨てられていた、飯田さんのスケッチ。それを保田さんが拾い上げ、こっそり持ち帰ってしまったということ。
「少し、走りながら話そっか」
飯田さんは正面を向き直り、エンジンをかける。
夜の闇が、ゆっくりと車内を満たしていった。
- 299 名前:作者名未定 投稿日:2003/10/22(水) 03:17
- 更新終了。
>>276-298
- 300 名前:作者名未定 投稿日:2003/10/22(水) 03:26
- >>273 名無し読者さん
文章にボリュームがあるなんて言われると、
恐縮してしまいます。
次も期待に添えられるよう、頑張りたいです。
>>tokenさん
どんなに辛いことも、いつかは乗り越えなくてはならない。
もちろん、辻にもその時はやって来ます。
それをどう書くかが大事なところですね。
- 301 名前:作者名未定 投稿日:2003/10/22(水) 03:28
- >>ななしさん
いや、そこまで言われると恥ずかしくて穴から
出られなくなってしまいます(汗)。
とにかく、がんがります。
- 302 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/24(金) 15:46
- 更新お疲れ様でした。
今回も読み応えがあって楽しめました。
バターになるトラの話し懐かしかったです。
チビクロサンボでしたっけ?
次回も更新、楽しみにしています。
- 303 名前:token 投稿日:2003/11/08(土) 20:29
- 更新お疲れ様です。
今回も読み応え充分の量と質ですね。凄いです。
このエピソードを読んで、かつての自分の体験を思い出しました。
で、ちょっと鬱、入ってます。(苦笑)
まあ、それだけいろいろ考えさせられる素晴らしい作品って事です。
では、次回も楽しみにしています。
- 304 名前:第六章 投稿日:2003/11/13(木) 23:58
-
「夜のタクシーってさ、夢の国へ運んでくれるような気がしない?」
「夢の国…ですか」
飯田さんにいきなりそんなことを言われ、わたしは戸惑う。加護亜依ならきっと「またかおりんの交信が始まったわ」とでも言うのだろう。
「圭織ね、小さい頃から夜のタクシーって好きだったんだ」
飯田さんは車をアスファルトに滑らせながら、そんなことを言った。
「何かさ、いつもは見慣れた景色が夜になると凄く新鮮に感じられてさ。そんな景色の中をすいすいと走っていくタクシーに乗ってると気持ち良くて。どこか別の世界へと連れてってくれる、そんなイメージ持ってたな」
「……」
「もちろん子供心にもそれが叶わない夢だってことはわかってて、だからふかふかした座席に凭れ掛かって、いつまでもここにいたいのにって、そう思ってた。けれど結局、タクシーは目的地に着いちゃう。当たり前のことなんだけど、悲しいよね」
わたしは素直に頷いた。物事には必ず始まりと終わりがある。それこそ入り口と、出口が存在しているように。そこに悲しいという感情が付随してくるかどうかは、別の問題だとしても。
- 305 名前:第六章 投稿日:2003/11/13(木) 23:59
- 飯田さんは一呼吸置いて、意を決したように再び話を始めた。
「圭ちゃんとは、何でも話し合える仲だった。お父さんが死んだ時にも真っ先に圭ちゃんに相談した。絵をやめるって言った時にはひどく反対された。結局圭ちゃんの言うことを聞くことは出来なかったけれど、圭織、凄く嬉しかった」
保田さんの話をする飯田さんは、本当に嬉しそうだった。だけどその眼差しは既に遠い過去を見つめているようでもあり、そしてそう感じたことは、正しかった。
「でもね。だからこそ、そんな圭ちゃんだからこそ…やったことが、許せないんだ」
その時車の室温が少しだけ、下がったような気がした。
「一昨日の夜にね、圭ちゃんから電話があったんだ。さっきの雑誌を今すぐに買ってきて、って。わけわかんなかったから『何で?』って聞いたら、買ってみればわかるって。電話を切った後に、慌ててコンビニに駆け込んだよ。何だか凄く、嫌な胸騒ぎがしたから」
車はいつの間にか、海岸沿いの道路に出ていた。海沿いの道は、点在する民家と街灯の他は光というものが存在しない。圧し掛かるような闇の中、飯田さんの双眸だけが鈍く光った。
- 306 名前:第六章 投稿日:2003/11/14(金) 00:00
- 「のんちゃんの絵を見つけるのは簡単だったよ。だって、圭織が自分で書いた絵だもん。雑誌のいちコーナーの紀行文の挿絵になってたのんちゃんの絵を見た時ね、すぐに圭ちゃんの仕業だってわかった。だからね、圭ちゃんに電話したんだ」
「それで、保田さんは何て…」
「圭ちゃんは、落ちついて理由を説明してくれた。あたしが捨てたスケッチを拾って持ち帰ったこと、知り合いの出版社の人に頼み込んでイラストとして掲載してもらったこと…そしてその行為が何よりも、圭織のためにやったってこと」
わたしは飯田さんの、バックミラーに映る瞳を見つめる。それはまるで、波一つ立っていない静かな湖のようだった。
「勿論そんなことを言われても、納得できなかった。圭織のイラストを勝手に持ち出して、しかも一番望まない形で雑誌に掲載された。どうしてそんなことするの、圭織のためだなんて勝手なこと言わないで。ありったけの言葉で、圭ちゃんを詰ったよ」
そんな飯田さんの言葉に、わたしは考えたことを言ってみた。
「飯田さんが保田さんを責めるのは、当然の権利だと思います。結局何を言おうと保田さんは許可なく絵を持ち出したことには変わらないから」
飯田さんは車の前方を覆う闇を見つめながら、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。それは保田さんへの負の感情からなのだろうと思ったけれど、その中に潜むもう一つの感情をわたしは感じずにはいられなかった。
- 307 名前:第六章 投稿日:2003/11/14(金) 00:00
- 「そうだね…今は多分、圭ちゃんを許すことができないと思う。でもね、今度のことは自分がひた隠しにしてたことを改めて見つめ直すきっかけなんだと思う」
「どういう…ことですか?」
恐る恐る、聞いてみた。氷の彫像のように冷ややかで、儚い、けれど力強い光を放っている。目の前の飯田さんに、そんな姿を見たような気がしたから。
「圭ちゃんの話を聞いた時、凄くいらいらして、感情が止まらなくて。それは自分の絵を勝手に持ち出されたこと、勝手に雑誌に掲載したことへの憤りだと思ってた。でも、それは全然違ってたんだ」
訪れる、束の間の沈黙。けれどその静寂は、後に語られる事実を色濃く際立たせた。
「圭織はさ、怖かったんだよ」
「怖かった?」
「うん。何者かに成ることが。もしくは何者にも成れないかもしれないことが」
飯田さんのかつての言葉を思い出す。加護亜依がオーディションの一次審査を通った時に飯田さんが発した、言葉。
「圭織の言葉をひと通り受け止めた圭ちゃんは、こう言ったんだ。圭織は怖いんだねって。人の評価を受けるって行為が、人の目が怖いんだねって」
窓に映る光の流れが、徐々にゆっくりになっていく。
「あたし、何も言えなかった」
車が、防波堤の脇に寄せられた。
- 308 名前:第六章 投稿日:2003/11/14(金) 00:01
-
四方の窓が開け放たれ、ひんやりとした空気が流れ込む。いつの間にか雨はすっかり止んでいたけれど、風は雨上がり特有の柔らかな埃っぽい匂いを車内に運んでいた。
「結局、色んなものから自分自身を守ってただけなんだよね。父親が死んだから、絵描きになるのを諦めて。自分の限界を知りたくなくて。でも最低限のプライドだけは守りたいから、スケッチだけは続けてて。でもそれはきっと夜のタクシーにどこか遠くまで運んでいって欲しいっていうのと一緒なんだよね」
飯田さんは運転席に思い切り背を凭せ掛け、大きく息を吐く。
「でもね。どんなに現実から目を背けても、何も変わらない。最初からわかってたことだけど、気付かない振りをしていたこと。圭ちゃんは、それを教えてくれた」
きっと、飯田さん自身が自らの身を切り裂くような思いで吐き出している言葉。でもそれは、同時にわたしをも切り裂く言葉。何故飯田さんがわたしと似ていると言ったのか、それがはじめて理解できたような気がした。
- 309 名前:第六章 投稿日:2003/11/14(金) 00:03
- 飯田さんが、わたしのほうを向く。そこには最初に垣間見た翳りなど、どこかに消え失せてしまったかのようだった。
「のんちゃん。人はみんな、臆病な生き物なんだよ。知ってた?」
「そうでしょうか。臆病な人もいれば、そうでない人もいるかと思いますけど」
飯田さんは笑って首を横に振った。
「最初から勇ましい人なんて、いないの。でもね、勇気のある人は臆病さを克服しようと努力するし、勇気のない人は臆病なまま。だから、圭織は臆病さをこれから克服していこうと思うんだ」
「臆病を克服するって、どうするんですか?」
わたしの設問には、「じゃあわたしはどうやって臆病を克服すればいいんですか?」という意味合いが少なからず含まれていたかもしれない。
目の前を塞ぐ黒い影を振り払う方法。
過去の記憶に縛られた自分自身を解放する方法。
だけど、その期待はあっけなくかわされる。
- 310 名前:第六章 投稿日:2003/11/14(金) 00:03
- 「圭織にもわからない。けど、これだけは言える。何者かに成ろうって思わなきゃ、何者にも成れないってこと。圭織には、何者かに成ろうって意志が足りなかったんだね」
「何者かに成る、意志ですか」
窓の外からは、さらさらとした波の音が聞こえてきた。その絹に包まれたような音を聞きながら、わたしは自分自身に問う。
わたしは、何者かに成れるのだろうか?
そのためには色々なことを解決しなければならないし、より多くのことを受けとめなければならないのだろう。
「のんちゃんも成れるよ、絶対に」
わたしの表情から何かを読み取ったのか、飯田さんは子供を諭すような言い方でそう言った
- 311 名前:作者名未定 投稿日:2003/11/14(金) 00:05
- 更新終了。
>>304-310
間を空けた上に少ない量で申し訳ないです。
- 312 名前:作者名未定 投稿日:2003/11/14(金) 00:10
- >>名無し読者さん
トラがバターになる話は、作者の小さい頃から好きな話でした。
黄色がぐるぐる回ってバターになるという、視覚的な楽しさとか。
何でトラがバターになるのか、という論理的な問題などどうでも
良かったのです。
- 313 名前:作者名未定 投稿日:2003/11/14(金) 00:13
- >>tokenさん
今回は量は…ごめんなさい。
自分も身近な友人の飼っていた動物の死を
目の当たりにした経験があります。
譬え作中の辻加護のように接した時間は短くとも、
やはり別れというものは辛いものです。
- 314 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:39
-
「じゃあ、またね」
そう言って飯田さんは帰って行った。
赤レンガの家の前に、一人だけ取り残されるわたし。
この家の中には、もう入りたくなかった。
今まで必死になって目を背けていたもの、閉じ込めていたものがそこには、あるから。
それでも、逃げるわけにはいかない。
飯田さんが自分の弱さと戦うと宣言したように、わたしもいつかはその弱さと対峙しなければならないのだろうから。
ゆっくりと、玄関のドアを開く。家の中は既に、静まり返っていた。
父も母も、そして姉も寝てしまったのだろう。
両親はともかくとして、今のこの状態で姉には会いたくなかった。
真冬の白く小さい月のようでありながら、低い空に現れるような赤い大きな月のようでもある、姉の存在。それは冷たく、そして異様だった。
- 315 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:39
- 音を立てないようにして、階段を一段ずつ昇った。どうしてだろう、学校の階段は十三段しかないんやで、という加護亜依の言葉を思い出した。死刑囚の昇る絞首台への階段も十三段なのだという。
死への十三階段。
昇った先は天国か、それとも。
そんなことを考えているうちに、木の擦れる音が耳の奥に届く。
天使のような仮面の裏に溢れんばかりの悪意を持つ、存在。
全身から、冷たい汗がゆるりと流れた。
- 316 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:41
-
「随分遅かったんだね、のん」
わたしは自分の耳を疑う。
目の前にいる姉が口にした、かつてわたしが呼ばれていた名前。
記憶の海の奥底に沈んだ、朽ちかけた名前。
ある時を境に、呼ばれなくなった名前。
「うん…友達と遊びに行ってたから…」
その場凌ぎの言葉を残し、自分の部屋に戻ろうとする。けれどそれは、たった一言で阻止された。
「ちょっと待って」
振り返ると、そこには冷ややかな表情があった。冷たく、鋭い真冬の月。わたしだけには時折見せていた、本当の素顔。
「のんに友達がいるんだ」
姉は心底意外だ、と言いたげな顔でそう呟いた。
- 317 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:42
- どういう意味なのだろう。まるでわたしに友達など存在してはいけないような、そんな口ぶりにも聞こえた。
それでも、そんなことはどうでも良かった。今は目の前の存在からただ、逃げたかった。
ネエ、ドウシテ?
ドウシテオネエチャンハ、ワタシヲコンナメニアワセルノ?
心の底から湧きあがる、疑問と感情の交じり合った激流。わたしはそれを口にすることはできなかった。その疑問の解答が何であれ、彼女はこれからも周りには太陽のような笑顔を振り撒き、わたしには温もりのない月光を浴びせ続けるだろう。
「明日、早いんだ。もう、寝るね」
居たたまれなくなって、もう一度足を踏み出した。一分、一秒たりとも側にはいたくない。得体の知れないものに水底に引き摺り込まれたような、そんな状態。体からは急速に酸素が失われ、わたしの視線はまっすぐ、水面へと注がれていた。無我夢中で重い水を掻き、酸素に満ちた世界を目指す。けれど。
- 318 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:43
-
自分の部屋のドアノブを握ったところで、もう片方の腕が掴まれた。全身に鋭利な刃物を撫でつけたような感触が広がる。
「でもね、その友達とはもう付き合わない方がいいわ」
突然の出来事と言葉に、思わず振り向いてしまう。
そこには今まで見たこともない、姉の貌があった。地表を満遍なく照らし出す太陽でも、天高くひと睨みするような月でもなく。
いや、嘘だ。わたしはたった一度だけ、彼女のこんな表情を見たことがある。それを教えてくれたのは、幼い頃に植えつけられた恐怖。
「…どうして?」
喉までせり上がってきた恐怖を抑えるようにして、姉にそう問う。突然理不尽なことを言われているわけだし、理由を訊くのは当然のことだ。でも、その当たり前の権利を行使したのではなく、ただの逃避。それが全てだった。
- 319 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:44
- 「こんな夜遅くまで連れ回すなんて、ろくな友達じゃないわ。ねえのん、お父さんとお母さんを心配させないで。あなたが家に寄りつかないことを、二人とも心配してるのよ?」
そうさせたのは、一体誰だと思っているのだろう。もちろん、そんなことは口には出さなかったのだけれど。
「今日は…たまたま遅くなっただけ。多分もう、こんな時間に帰って来ることはないから」
握り締めたままのドアノブを、思い切り右に回した。濁った金属音をきっかけにドアを引き、そのまま身を部屋へと投げ出す。
ばたん、と大きな音がするくらいにドアを閉めた。
これ以上、姉が何かを言って来ないように。
これ以上、恐怖がこの身を蝕まないように。
- 320 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:47
-
深呼吸をして、部屋を見渡す。冷たい風を、頬に感じた。部屋の窓が開いている。どうやらわたしの留守中に親が部屋の換気をしてくれたようだった。
そこでわたしははじめて、部屋の中が仄かに明るいことに気付いた。電気もつけていないのに、光が差し込む理由。
窓際に歩み寄り外を覗く。夜空には半分になった月が雲間から顔を覗かせ、煌煌と輝いていた。
千切れそうなほどの力でカーテンを引き、窓を閉めた。それから、ベッドの布団の中に潜り込んだ。
白と黒の鍵盤。そこから滴り落ちる、赤い水。
ピアノに頭を叩きつけられている少女。
皮膚が裂ける。頭蓋骨に直接、鍵盤の音が伝わる。
そしてそれは、何度も繰り返される。
理不尽な罰を受けている少女。それは紛れもなく、わたしだった。
- 321 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:48
-
布団と体を密着させるようにして、出来るだけ外気にあたらないようにした。気を抜くとピアノの音が聞こえてきそうな気がしたし、熱を奪う月光が差し込みそうな気がしたからだ。
早く、一刻も早く眠りにつきたかった。また夢の中にイエロー☆マンが現れて、わけのわからないことを言ってくれないだろうかと思った。けれど眠りの波は訪れなかったし、イエロー☆マンも現れなかった。
そんな中、土に埋められたいわしのことを思い出した。
いわしも今のわたしのように、光も届かない地中深くで身を縮こめているのだろうか。魂は既に肉体を離れているのかもしれないが、肉体は土の中にあることには変わりない。
いっそのこと、わたしもいわしのようにこの布団の中で朽ち果ててしまえばいいとすら思った。そんなことを考えるのはいわしにとって失礼極まりない話なのだろうけど。
結局、あの林の中に何を埋めに行ったのだろう。少なくとも、わたしはいわしの他に別のものを埋めに行ったのだと思う。寧ろ埋めると言うより、棄てると言った方が正しいのかもしれない。
けれど結局、棄てることは叶わなかった。
姉の顔を見た時に溢れ出した、原初の記憶のような恐怖。
それはいつか夢の中でイエロー☆マンが見せた、黒い大きな塊を思わせた。
塊を外に出すための出口はなく、塊は淀み腐り、眩暈のするような香りを放つのだろう。それはとても恐ろしいことだった。
- 322 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:48
-
はじめて、心の底から加護亜依に会いたかった。
会って、答えなど出してくれなくてもいいから、話を聞いて欲しかった。
- 323 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:49
- ・
- 324 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:49
- ・
- 325 名前:第六章 投稿日:2003/12/06(土) 00:52
- 更新終了。
>>314-321
今回もまた、更新少なめです。
実はちょっとスランプ気味だったり…
- 326 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/16(火) 04:09
- 辻の心情にだいぶ変化がでてるね
あんま焦んないでがんばってね>作者さん
- 327 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/06(火) 15:59
- 加護ちゃんのことをフルネームで呼ぶ辻ちゃんがいいです
- 328 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:26
-
翌朝は、昨夜の寒さが嘘のように蒸し暑かった。
けれども、夏は確実にその形を失っていっているように思えた。
だからというわけではないけれど、その朝はいつもより少し早めに家を出た。無論姉に見つからないようにするためでもあったけれど、理由は他にあった。
加護亜依の顔が見たかった。
彼女に会って、力を貰いたかった。
姉はあの日以来一度も見せなかった牙を、再びわたしに向けようとしていた。それは脅しではなく、単なる警告なのかもしれない。それでも、心の芯を凍てつかせるには充分なくらいだった。
はじめて加護亜依に会った時に感じていた、わたしにはないもの。それはきっと何者かに抗う強さだ。常に周りに対して抵抗することもなく沈黙を続けていた人間には決して得られないものだ。それが今、無性に欲しかった。
絶望に、押し潰されないように。
遠くに見える希望の光を、見失わないように。
- 329 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:27
-
海側から昇ってくる太陽の日差しは相変わらず鋭く、熱い。それでも、夏休みに入った頃よりは幾分和らいだものになっていた。空気も少しずつだが、夏の勢いを失ってきている。道路沿いの街路樹では、蝉が間延びした鳴き声を上げていた。
こうして季節は、移ろいゆく。夏が去り、秋が過ぎ行き、冬が終わり、春が通り過ぎ、そしてまた夏が訪れる。
わたしたちはあといくつ、夏を迎えることが出来るだろうか。
そんなことを考えているうちに、見慣れた喫茶店の前までやって来た。一応時計を確かめる。加護亜依が喫茶店にいてもおかしくない時間だ。
彼女の目指してるオーディションの最終選考の日が近づいている。自分に何が出来るかなんてたかが知れているけれど、声をかけることくらいはできるはず。そう思った。
自分が加護亜依に縋りたい気持ちへの代替行為に過ぎないのかもしれない。黒煙のように忍び寄る後ろめたさに目を背けているだけなのかもしれない。でも、それを否定する気はさらさらなかった。
いつものように、ドアノブに手をかけ、そしてゆっくりと引いた。頭上のベルが、小さく冷たい音を立てる。
- 330 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:28
-
加護亜依は、いなかった。
綺麗に白で塗装されたカウンターの向こうで、飯田さんが微笑みながらわたしを出迎えてくれたけれど、その向かいにいるはずのお団子頭はどこにも見当たらなかった。
「おはよう、のんちゃん」
「おはようございます…あの、加護さんは…」
わたしの問いに飯田さんは視線を上に向けてから、
「さあ。今日はレッスンがあって来れないんじゃないかな」
と言った。すかさずわたしの脳裏に疑問が走る。
今日はレッスンの日ではなかったはずだ。なら、どうして。
昨日が冷たい雨の中での作業だ、風邪をひいたのかもしれない。いや、ただ寝坊しただけのことなのかもしれない。
いくつかの可能性が浮かんだけれど、考えてみても仕方ないことだった。ここで待っていれば、必ず答えは出るだろうから。
気持ちを落ちつけて、辺りを見まわす。いつもと変わらない、白で統一された内装。自分と加護亜依と飯田さん以外は滅多に入ってくることのない、存在することを許された空間。だけど。
- 331 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:29
- わたしは昨日の出来事を思い返す。
「圭織は臆病さをこれから克服していこうと思うんだ」
飯田さんは確かに、そう言った。もしかしたらこの場所は、そう遠くないうちになくなってしまうのかもしれない。
「…のんちゃん、圭織の顔に何かついてる?」
言われて、意識を引き戻す。知らず知らずのうちに、飯田さんの方向へ視線を漂わせていたようだった。
「いえ、ちょっと考え事をしてて」
わたしはかぶりを振ると、窓際のテーブル席についた。
テーブルの一部が窓からさし込む日の光によって、日向色に染まっている。その色彩は嫌が上にも、いなくなってしまった存在のことを思い起こさせる。
いわしの死という、一つの事実によってわたしは変わらないものなどないということを知らされた。変わってほしいものも、そしてそうでないものも。漬物石はいつまで経っても漬物石というわけではなく、ネバーランドもいつかは終わる。飯田さんはこの店を畳むし、加護亜依はブラウン管の世界へと旅立つ。
窓際から、空を眺める。真夏の光線をいっぱいに広げた青いレンズは、透明な艶を湛えていた。
- 332 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:30
-
飯田さんは熱心にスケッチをしているようだった。わたしは特に表だって意識することはなく、手元の文庫本に視線を走らせる。
それでも、わかる。さらさらという、鉛筆をスケッチブックへと擦りつける音。その音に少しの濁りもないことが。それまで覆い被された黒い布のようなものが、すっかり取り払われた、そんな気さえした。昨日の飯田さんの言葉を聞いている所為かもしれないけれど、わたしの耳にはそう聞こえたような気がした。
そんなことを考えながら、文庫本を読み進める。
- 333 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:30
- 強化プラスチック素材で出来た特殊警棒を振るう、闇試合のスター選手。だけど彼女は移ろいゆく日々の中で、かつての輝きを失っていた。
そんなある日、彼女は街角で不良に絡まれていた少女を助ける。そこから、彼女の人生は大きく変わり始めるのだった。
だけどわたしは、その物語に入り込むことができなかった。前に進もうとしているのにも関わらず、後ろで誰かが袖を引っ張っている。理由はわかっているけれど、あまり気持ちのいいものではなかった。
わたしは加護亜依が来ないから、不安になっている。
どうして彼女は来ないのだろう。どういう理由で彼女は来ないのだろう。来ないなら来ないで連絡ぐらいしてくれてもいいのではないか、そう思った時に自分が携帯電話を持っていないことに改めて気がついた。
今まで自分には必要でなかったもの。自分にとって意味を成さないものが、ここに来てはじめて意味を持ち始めていた。それと同時に、わたし自身がどれほど彼女に依存しているかということもまた浮き彫りにされていた。
飯田さんとは、まったく逆の道を歩きはじめている。
- 334 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:31
- 文庫本の中では主人公が港の倉庫で大乱闘を繰り広げていたけれど、そんなことはもう全く頭の中には入ってこなかった。
文字を追ってる時間よりも、ただ漠然と余白を眺めている時間のほうが多くなった。いつになったら加護亜依は来るのだろう。そのことばかりが、頭の空白を埋めたがる。
そんな状況を飯田さんに悟られまいと、必死に本を読んでいる振りをする。幸い飯田さんはわたしをスケッチするのに熱中しているようだった。
視線を、本から壁にかかっている時計へと向ける。短針が12の数字を刺そうと、小刻みに震えていた。喫茶店に来てから僅か数時間しか経っていない。
手元にはまだこの物語の中・下巻が残っていたけれど、与えられた時間はきっと長く感じられるだろう、そんな予感を抱いていた。
- 335 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:32
-
結局、夕方になっても加護亜依は来なかった。
何とかして三冊の本を読み終わったものの、大地震が来て小さな革命家と三十路の女ヤクザが対決して工作員同士が心中、博士が助手を破壊して世界を無に帰そうとするというわけのわからない話になってしまった。
眩暈のするような思いで、本を閉じる。目を瞑ると、意味のない文字の羅列が浮かび上がる。それらがまるで蛇のように瞼の内側をのた打っていた。
「できたよ、のんちゃん」
声をかけられ、カウンターのほうへ顔を向ける。飯田さんの絵が完成したようだった。
恐る恐る近づき、スケッチされたそれを見てみる。
俯いたように文庫本を読む、わたしの姿だった。その内容は、保田さんによって掲載された時の絵よりも一層洗練されているように思えた。
何が変わったかと問われれば、絵に対する知識のないわたしには答えられないかもしれない。だが、感覚がそう訴えかけるのだ。自らの体を覆う皮膚の、さらに一枚上にある何かが目に見えない感覚を伝えるのだ。それが錯覚か否か、今のわたしには間違いなく、錯覚でないと断言することができただろう。
- 336 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:32
- 「凄いです…前に見せてもらったスケッチとか、あの、保田さんが持ち出したわたしの絵と比べても、何かが違うような感じがします」
絵を見た時に感じたありのままの感情を飯田さんに伝えようと、稚拙な言葉を繋ぎ合わせた感想を口にした。
「うん。圭織でも何か吹っ切れたなーって感じで書いてたもん。でもさ…」
飯田さんはわたしににっこりと微笑みかけてくれた。その表情とは対照的に、でもさの一言がひっかかるわたしの表情は決して晴れやかなものではなかった筈だ。
「のんちゃんさ、本を読む振りしてずっとあいぼんのこと心配してたでしょ?」
わたしはゆっくりと、項垂れた。
きっとこの人はわたしの姿をスケッチするのと同時に、心の有り様まで描いていたのだ。
- 337 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:33
-
窓から挿す橙色が、店の中を明るく染める。
小学校の半ばくらいだろうか。一人で公園で遊んでいて、いつの間にか夕方になってしまった時のことを思い出した。その時は取るに足りないごく当たり前の日常だと思っていた。けれど本当は柔らかく熱を持った夕陽が嫌いだったのかもしれないし、孤独を一層強調する夕闇が嫌いだったのかもしれない。
ただ今は、目の前に話を聞いてくれる人がいる。無闇に夕陽を疎んじたり夕闇を憎んだりする必要は、ない。
「…不安、なんです」
わたしはテーブルの、オレンジと白の境目を見つめながら、そう言った。
少しの沈黙。
視線を、正面の飯田さんに向ける。飯田さんは、目を細めながら次の言葉を待っていた。わたしは俯きながら、話さなくてはならない言葉を模索する。
- 338 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:34
- 「毎日、ここに来れば当たり前のように加護さんがいて…でも、こうして加護さんのいない時間を過ごして…気付いたんです。わたし、自分でも自覚できないようなところで彼女に支えられてたのかもしれないって。そう考えたら、これから先もしも加護さんがいなくなることがあったら、どうすればいいんだろうって」
自分が加護亜依に依存してしまっていることを公表するような発言だった。でもそれは事実だったし、飯田さんの前では恥ずかしいことでもなんでもなかった。それが正しいことかどうかは、別として。
「昨日、飯田さんは臆病を克服するって言ってたのに…わたしはその逆で…きっとわたしは臆病だから、加護さんに依存しているだけなんですよね?」
「それは違うと思うな」
予想もつかない飯田さんの言葉。思わず、顔を上げた。
「違うって…どういうことですか?」
- 339 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:34
- 「例えばね。圭織が絵を描く仕事に就くとするでしょ? その時に、もちろん自分の力でも頑張るんだけど、多分周りの人の力を借りたりすると思うの。それは友達だったり、もし圭ちゃんのことを許すことが出来たら、圭ちゃんに助けてもらったりするかもしれない。でもね、それは臆病だから人に頼るってこととは違うんじゃないかな」
飯田さんがわたしのことを見つめる。その瞳の光は、横から挿す夕陽と同じくらい力強く、暖かかった。
「ううん、臆病だからこそ人は人に頼るのかもしれない。お互いの欠けてる部分を埋め合って、支え合えるからこそやっていけるんだろうね。それは、臆病さに背を向けることと根本的に意味が違うと圭織は思うんだ」
「そう…なんでしょうか…」
「のんちゃんは、もっと人に頼ることを覚えた方がいいかな」
にっこりと微笑む、飯田さん。そんな表情に優しさを感じながら、想像する。
もし、自分の身にあんなことがなかったら、わたしはもっと人に依存してしまう…いや、良く言えば誰にでも甘えられる人間になっていたのかもしれない。庭に佇む漬物石ではなかったのかもしれない。「たら・れば」を考えれば限はないけれど、そんな夢想は悪くはなかった。
「明日はあいぼん、来るといいね」
その言葉にゆっくりと頷く。店内の橙色は薄れていっても、心に灯った暖かな光が途絶えることはなかった。
- 340 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:35
-
暗闇を照らす、街灯と商店から洩れる照明の隙間を縫うように、わたしは駅前の商店街を歩く。
わたしは今の今まで、ずっと一人で生きていると思ってきた。漬物石は庭先に晒されるだけで、そのままゆっくり風化していく、そう思っていた。
そんな時、加護亜依が目の前に現れた。彼女はわたしに、色々なことを教えてくれた。その時は何かを学んでいるなんて思いもしなかったけれど、雨水がゆっくりと染み込んでゆくように何かが変わっていった。
自分にない彼女の良さ。そして彼女の言う、彼女にはないわたしの良さ。それが何なのかは未だに良くわからないけれど、もしそんなものが本当に存在しているのなら、お互いに共有すべきものなのだろう。
- 341 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:35
- 駅前の広場にさしかかった辺りで、見たことのある人影を発見した。一人、二人、三人、四人。そう言えばそろそろ学年旅行の出発日のはずだ。きっと旅行に必要な品物を買い揃えにでも来たのだろう。そんなに近くでもなかったし、わたしは気付かない振りをしてその場を通り過ぎようとした。
でも、狡猾な優等生はわたしをざらつくような声で掴まえた。
「あら、辻さんじゃない」
「高橋さん…」
足を止めてから、ゆっくりと彼女たちのいるほうへ歩く。これから何が起こるのかはある程度予想出来たけれど、決してその場から逃げたいとは思わなかった。
いずれは、決着をつけなければならないのだろうから。
- 342 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:35
-
・・・
- 343 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:36
- ・・・
- 344 名前:第七章 投稿日:2004/01/20(火) 02:36
- ・・・
- 345 名前:作者名未定 投稿日:2004/01/20(火) 02:42
- 更新終了>>328-341
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
またしても、間を空けた割には更新量少な目です。
>>326 名無し読者さん
心情の変化は、気をつけて書かないとただの支離滅裂さんになってしまうので
凄く気を遣ってます。
変化が自然な感じで見えたなら幸いです。
>>327 名無し飼育さん
そこは作者のこだわりです。
気に入っていただけると嬉しいです。
- 346 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/21(水) 05:58
- 初めて読みました。すごい面白いです。
ネタ的な物の入れ方も好みです。
頑張って下さい。
少し気が早いですが、全ての更新が終わった時に、
文庫本のネタバレをしてくれると嬉しいです。
- 347 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/25(日) 03:20
- 文庫本でニヤニヤしてしまった。
あれを辻さんが読んでるなんて!
- 348 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:10
-
「今日は加護はいないみたいね」
高橋さんは、値踏みをするようにわたしを睨めつけながらそう言った。肩の大きく出た、ワンピース。数本の肩紐が阿弥陀籤のように肌の上で複雑に交差していた。
「もう、あんな口は叩かせないから」
続けて、彼女の口から夏の空気に似つかわしくないざらりとした台詞が発せられた。
「…別に加護さんがいたから、あんなことを言ったわけじゃない」
「強がらないでもいいのよ。だって今まであなたは、教室の隅で置物のようにしてたじゃない」
高橋さんの発言に、周りの取り巻きたちがせせら笑う。
「確かにわたしは、ただの置物だったのかもしれない。雨が降ろうが、風が吹こうが、微動だにしない、置物。でも、もうその役目もお終い。わたしは、置物であり続けることを、やめる」
訝しがる彼女たちの表情は、次のわたしの言葉によって歪む。
「あなたたちには、相変わらず置物であり続けるかもしれないけれど」
「なっ…」
「コイツ超ムカツク!」
「辻の癖に生意気なんだよ!」
口々に喚きたてる取り巻きたち。色とりどりのアクセサリーと洋服に飾り立てられた彼女たちは、喧しく飛びまわる極楽鳥のようだった。
- 349 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:11
- 「そんな余裕でいられるのも今のうちね」
けれど、高橋さんだけは余裕の笑みでわたしのことを見て言う。
「あたし、知ってるんだから」
逃げ切れたと思っていた小動物を掴まえた、そんな表情だった。
「加護のヤツ、Rock-kissのオーディション受けてるんでしょ?」
わたしは答えない。加護亜依から口止めされているわけでも、彼女自身が秘密にしているわけでもない。ただ、彼女の口以外から告げるのは相応しくない。そう思ったからだ。
「ふうん…答えないんだ。ま、いいけど。あたしの友達がさあ、Rock-kissの1次オーディション会場に行った時に加護を見たらしいんだよね」
黒い衣装を身に纏った少女は、まるでバレエの踊りのようにわたしの目の前を往復した。目だけはしっかりと、わたしを見据えながら。
「あいつが受かろうが落ちようがあたしの知ったことじゃないけどさあ、どの道学校にはいられないよねえ。となると、残されたあなたは…どうするの?」
彼女の歩みが、止まる。正面の軽く吊り上がった瞳は、獲物を狙う狩猟者のそれに似ていた。
「一…加護と一緒に学校からいなくなる。二…大人しくあたしたちのグループに入る。さあ、どっち?」
「愛、本当のこと言ってあげなきゃダメじゃん」
「あはは、ゴメンネ。グループに入るって言っても、立場は奴隷。あたしたちのパシリ、って感じかな」
高橋さんは薄く笑って、そんなことを言った。
- 350 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:14
- 加護亜依のいない学園生活、を考えた。確かにわたしは今まで、たった一人でやってきた。誰も手を差し伸べてくれなくても、何の差支えもなかった。周囲の凍える空気は心まで凍てつかせ、結果何も感じなくなった。
けれど、 加護亜依はそんなわたしの心を溶かしてくれた。それは春の日差しのような緩やかなものだったかもしれないけれど、確実に内に巣食っていた氷の闇を消し去っていった。そして、わたしは側に誰かがいてくれるという喜びを、知ってしまった。
加護亜依がいなくなると言うことは、再び孤独の世界に放り出されることを意味していた。彼女に会うまでは普通にそんな環境を受け入れてきたのだ、大丈夫、上手くいく。それは悪魔の囁きにしか過ぎない。自分の弱さに背を向ける行為でしかないのだ。
それに、ここで挫けるようでは、一生あの人の呪縛からは逃れられない。
わたしはゆっくりと、右手を高橋さんの顔の前に差し出す。指で、「3」の形を作って。
「な、何よそれ…」
突然の行為に面食らったのか、高橋さんは顔を引き攣らせながらも馬鹿にしたような表情を作った。後ろの少女たちも、怖くて気が動転してんじゃん、とかこいつバカだよバカ女だよ、とかサマージャンボバカじゃん、と囃し立てていた。
けれどわたしは、構わずに口を開く。
- 351 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:14
- 「三…わたしは、絶対にあなたには屈しない。自分より弱い人間を集めて、崇めさせて、それで自分の弱さを繕っているような人には。卑劣な手を使って自分の立場を揺るがす人間を潰そうとする人なんかに、わたしは絶対に負けない」
掲げていた手を、ゆっくりと下ろす。高橋さんの顔は、憤怒のためか猿のように真っ赤に染まっていた。
踵を返し、その場を離れる。後ろから様々な種類の怒号が飛び交ったけれど、それはわたしの耳には届かなかった。
- 352 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:32
-
家に帰ると、見慣れた靴がないことに気がつく。それはわたしに大きな安堵をもたらした。今日はあの事を思い出さずに済む。過去の傷が剥き出しにされた時からの不安がゆっくりと溶け去ってゆく。
このままずっとあいつがいなければいいのに。
そう考えることすら、きっと逃げなのだろう。
それでも、今の私に彼女と正面からぶつかり合うだけの強い心はなかった。
勇気のないライオンはどうやって魔女に勇気を貰ったのだろう。
古びた話を思い出し、首を振る。
二階へと登る階段の途中にある小窓から吹く夜風は、夏なのにも関わらず肌寒く感じられた。
- 353 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:33
-
翌日。
加護亜依は、喫茶店に来なかった。
「おかしいわねえ、あいぼんが二日もこっちに来ないなんて」
最終オーディションの日はすぐそこまで近づいていると言うのに。彼女の身に何かあったのだろうか。
思わず首を左右に振る。そんなことを考えても仕方ない。わたしの不安は杞憂に終わり、今すぐにでも「ごめんなあ、ちょっと体調悪かってん」と笑いながら喫茶店に入ってくるかもしれない。
飯田さんは相変わらずスケッチに精を出している。ここは喫茶店なのか、はたまたアトリエなのか。店の内装はどちらとも呼べるように白に統一されているのかもしれない。
わたしにも飯田さんのように何か打ち込めることがあったなら、この不安を打ち消すことが出来ただろうか。そう言えば、わたしには趣味と呼べるものが一つもない。読書など、孤独な時間を消費するための行為に過ぎない。
果たして本当にそうなのだろうか。理由はともあれ、孤りのわたしの側にいたのは紛れもなく膨大な数の書物だった。わたしはもっと、鬼を自らの内に棲まわせる女子高生や体の浮いてしまうアイドル、肉体の殆どを機械化した賞金稼ぎたちを愛すべきなのだろう。
もしも自分に読書がなければ、他にどんな趣味を持つことが出来たろう。手が以外に器用だから、お菓子作りに向いていたのかもしれない。他愛もない夢想に過ぎないけれど、時間潰しにはちょうど良かった。
- 354 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:33
- けれどもそれにすら飽きてしまうと、目の前には荒涼たる砂漠しか映らなかった。不安という名の、見通しのまったく利かない砂漠。気を紛らわそうと飯田さんのほうへ顔を向けると、それまで懸命にスケッチブックに絵を描いていた彼女が顔を上げた。
「できた」
「絵が、ですか?」
「のんちゃん、おいで」
飯田さんに促され、わたしはカウンターに移動する。スケッチブックには、真っ直ぐにこちらを見据えた柔らかそうな猫が佇んでいた。いわしだった。
「この絵を見ていると、いわしが死んだなんて信じられないですね…」
「そうだね。生きてる時に描いてあげればよかったかな」
でも、いわしはもうこの世にはいない。わたしと飯田さんと加護さんで、小雨降る森に埋めたのは、紛れもない事実なのだから。
そこでふと思う。わたしたちは、いわしと一緒に何か別のものを埋めていた。穴を掘り、そして埋める時にそう感じた。ならば。
加護亜依は、一体何を埋めたのだろうか。
「…ずっと怖かったんや」
あの場所で彼女が口にした言葉を、思い出した。
もしかしたら。
わたしの体はもう、動いていた。
「ちょ、ちょっとのんちゃん?!」
遥か後方に、飯田さんの声とドアベルの音が聞こえた。
- 355 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:34
-
空に輝く太陽が路地に、光と影の網目を作り出す。
その中を、ひたすら記憶だけを頼りに走っていた。
もしもわたしの考えが正しければ、今度はわたしが加護亜依に手を差し伸べなければならない。いや、差し伸べたいと言ったほうが今の自分の気持ちに一番近いのかもしれない。
走っていた。今すぐ、彼女に会わなければならない。そんな気がしてならなかった。
夏は移ろいゆくはずなのに、何故か頭上の光は相変わらず力強くて、すぐにTシャツを体に貼りつけさせた。でも、そんなことなどまったく気にならなかった。
足を動かす。
汗をかく。
額の汗を拭う。
繰り返しだった。
何故か「走れメロス」を思い出した。友人を助けたくば、というやつである。大袈裟な、と頭の中で一笑に伏そうとしたけれど、できなかった。
それは、夕陽が沈んでしまったら、本当に加護亜依が死んでしまうような気がしたから。
彼女が、いわしのいる世界に行ってしまうような気がしたから。
走っているうちに、段々と不安になってくる。
頼りにしていた記憶が、あやふやなものに変わっていく。
それでも走ることを止めるわけにはいかなかった。
- 356 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:35
-
幕切れはあっという間に訪れた。
普段大して運動もしていないわたしの横腹の痛みが、限界に達していた。
道路脇の塀に、背中を預けるようにして座り込んだ。
息をする度に痛む、やわな肉体。
頭の中にまで、荒い呼吸音が伝わっていた。
背中越しに伝わる塀のひんやりとした感触は、すぐに温いそれへと変えられてゆく。
空を、見上げた。
雲一つない空。広がる青は、どこまでも遠く。
視界の端に、緑が見える。わたしが座っている場所はどうやら塀の内側に植えられた木の木陰になっているらしい。
蝉の鳴き声が、そこかしこに降り注ぐ。記憶が正しければ、この鳴き声は油蝉のものだ。夏が、もうすぐ終わる。
わたしと加護亜依が出会った、夏が。
背中が冷えていくのを確認してから、ゆっくり立ち上がる。
もう、息は苦しくはなかった。
- 357 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:37
- 更新終了。
>>348-356
中々大量更新、とはいかないものです…
- 358 名前:第七章 投稿日:2004/02/06(金) 00:41
- >>346 名無し飼育さん
どうもありがとうございます。
今になって新規の読者さんを獲得できるとは思いませんでした。
文庫本ですか。
前にさりげなく出した作品も含めて、最後に解説したいと思います。
- 359 名前:作者名未定 投稿日:2004/02/06(金) 00:43
- >>347 名無し飼育さん
そうなんです。
辻さんはあれを読んでいたんですね。
ただしまったく頭に内容が入ってこなかったみたいですが…
もちろん作者もあれのファンです。
- 360 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 13:57
-
どれだけ歩いたのかは覚えていない。
けれども、あの夜に見た記憶にある家の造り。
わたしはどうやら加護亜依の家にたどり着いたようだった。
彼女に、どんな言葉をかけようか。
ただそれだけのことに、頭を巡らせる。
玄関前の予鈴にそっと手を伸ばした。
かちり、という微かな音ともに電子音が鳴る。
数秒後。
「どなたですか?」
柔らかな声が響いてきた。
「あの…加護さんのクラスメイトで、辻って言いますけど」
「ああ、ちょっと待ってて下さいね」
「はい…」
そこまで来ると、全てが終わったような気がしてわたしは思わず天を仰いだ。
雲一つない空は、太陽の光線に熱せられて綺麗な青を滲み出させている。
そっと、目を伏せる。瞼の中にまで熱が篭もっているような気がした。
目の前のドアが開く。
出迎えてくれたのは、加護亜依の祖母だった。
「あら、あなただったの。さあ、どうぞ上がって下さいな」
あの夜に見た人懐っこい笑顔に誘われて、わたしは家の中に入っていった。
- 361 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 13:58
-
「…自分、どないしたん? プールにでも行ったんか?」
部屋の中で待ち受けていた加護亜依は、予想外に元気そうだった。汗まみれのわたしを見てそんなことを言う始末である。
「外、暑くて」
わたしの口から出たのは、安堵かそれとも落胆か。とにかく、走ってここまで来たことは伏せておこうと思った。
加護亜依の部屋は意外とシンプルな作りになっていた。ただその分、彼女の勉強机(殆ど芸能関係の書物に埋もれていたが)の横の壁に貼ってあるRock-kissのポスターは大きく目を引く。反対側には採光用の小窓があり、桟では小さな観葉植物が陽光を跳ね返して緑を燃え立たせていた。
「あんまりじろじろ見んといてや。お宅拝見かっちゅうねん。さ、早よそこに座り」
彼女はベッドの縁に座り、フローリングの床にちょこんと置かれたピンクの座布団を指差した。わたしは、それに素直に従うことにした。
- 362 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 13:59
- 加護亜依の祖母が、液体の満たされた二つのグラスを持ってくる。薄紫色に色づいたそれはわたしにささやかな涼しさをもたらした。
「ゆっくりしていってね」
彼女は孫の友達が遊びに来たのが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべてそう言った。
ばたんと扉の締まる音。加護亜依はベッドから降り、床に置かれたちゃぶ台ほどの大きさのテーブルに身を寄せた。
「それにしても自分、ようここがわかったなあ」
「うん、この前飯田さんが加護さんを送る時に覚えてたから…」
しかしその記憶がおぼろげだったお陰で、家を捜し当てるのに時間がかかってしまったけれど。その言葉は発せられることなく、グラスの中の液体とともに呑み込まれる。ソーダの泡が、やけに喉にひりついた。
「そう言えば」
そんな気持ちを紛らわそうと、わたしは別の話題を持ち出した。
「昨日高橋さんに会った。この前みたいに突然声をかけられて」
「あいつ、どうせろくでもないこと言うてたやろ」
黒目に皺を寄せる、加護亜依。わたしは何も言わずにただ頷いた。
「まったく…キーキーよう喚くわ。まるでお山の大将やな。ちゅうかオラ山の大将か」
「オラ山の大将って…」
「高橋、確かに美人やけどちょっとオラウータンっぽいやん」
昨日の、歯を剥き出しにした高橋さんの真っ赤な顔を思い出し、噴き出す。加護亜依の言っていることはあまりにも的確だった。
- 363 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 13:59
- 「でもな、ノノ。自分も結構美人さんの部類に入るんやで。見た目ちょっと取っ付きにくくて、冷たい印象があるんやけどな。うちは、笑ってるノノの顔のほうがだらしなくて好きやで」
「そうかな…」
突然そんなことを言われ、戸惑う。誰にも言われたことのない、言葉。そもそも自分の顔がどうなっているかなんて、大して興味もなかった。
「もうちょっと、笑ったらええ。そうすれば、クラスでNo.2の美人になれるで」
「じゃあ、ナンバーワンは?」
わたしの問いに、加護亜依は自信たっぷりに自らを親指で指した。その様子があまりにも大袈裟だったので、高橋さんがオラウータンに似ている話よりもさらに笑った。加護亜依も、笑っていた。
部屋の中に、暖かい色が満たされてゆく。
でもその空気は、わたし自身の言葉によって壊される。
「ところで、昨日はどうしたの? 飯田さんの喫茶店に来なかったから…」
小さな赤ちゃんのように笑っていた顔に、一筋の青が引かれた。
何となくそうなってしまう予感はあった。一緒に話している途中から。
でも、思い切って言うことにした。
後悔したくないから。
彼女との関係を、ありきたりな「友達」にしたくはなかったから。
- 364 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:00
-
「な、なんでそんなこと聞くん?」
加護亜依は平静を取り戻そうと、わざとおどけた顔をして聞いてきた。
「そらあいぼんさんはこの街のスーパーアイドルや。一日会わへんだけで、みんなの心が萎んでまうのも仕方ない話やで」
わたしはそれには答えず、ただ目の前のグラスを見つめていた。グラスについた雫が、薄紫を反射させながらするりと落ちてゆく。
「でもな、毎日喫茶店に行かなあかんって決まり事もないわけやし。こう見えてもうち、多忙なんやでえ? 鏡の前で笑顔チェックしたり、新作のモノモネも考えなあかんし…」
「Rock-kissの最終選考って、もうすぐだよね?」
その言葉は、彼女の饒舌を封じるには十分過ぎるくらいの威力があった。
しん、と部屋が静まる。
- 365 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:00
- まっすぐに、加護亜依を見つめた。
彼女はすぐに視線を逸らす。
沈黙の隙間から、時計の秒針の音やら氷の融ける音やらが漏れ聞こえてくる。
その中にきっと、加護亜依の心臓の鼓動が入っていたことだろう。
その状態に堪え切れなくなったのか、彼女は火の出る勢いでまくし立てはじめた。
「あーもう何やねん! せや、確かにRock-kissの最終選考はもうすぐや。せやけどそれが自分と何の関係があんねんな! 自分、関係ないやろ? オーディション受けるんもうち、Rock-kissになるのもうちや! それを何でおまえにどうこう言われなあかんねん!」
彼女の言葉に応えることは、しなかった。
「大体な、自分そんなキャラちゃうやん、人がどんなに苦労してようが「そんなものは無駄だ」っちゅう感じで斜に構えとるキャラやろ? そんなやつが急に心配したみたいな顔して、気味悪いっちゅうねん! うちは自分の力なんて借りんでも一人でやってけるねん! 同情なんていらへんわ!」
ポケットから便利な道具を出してくれる、漫画のキャラクター。
「うちは、うちは大丈夫やねん…うちは…」
ピンチの時に限ってどうでもいいものしか出なくて、あせって次から次へと道具を放り出す。
「…でもな、本当はな…」
だけど、最後の最後に本当に欲しい道具を、探し当てる。
「うち、怖いねん」
穏やかな、けれども本当に心細そうな表情で、彼女はぽつりと漏らした。
- 366 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:01
-
先ほどまでとは違う種類の沈黙が、わたしたちを包んでいた。
薄く色のついたような、そんな沈黙。
そういった毛布のような沈黙に身を委ねるのは、決して悪くはなかった。加護亜依も同じ気持ちらしく、ほんの一時の安らぎを感じているようだった。
「うちは、Rock-kissのボーカルになりたくて今まで頑張ってきた。あのプロデューサーの書く言葉が、好きやから。あのメンバーと一緒に、歌歌いたかったから。そのためなら、何でもやった。うちの時間なんて、いらへんかった。持ってる時間全部、歌やダンスのレッスンのために使うた」
それでも身を包んだ毛布からは、いつかは出なくてはならない。自らそれを剥ぎ取った彼女の表情は寒々しく、不安に震えているように見えた。
「せやから…それが全部わやになるのが、怖いんや」
窓からの日の光が、加護亜依の頬を照らす。光に晒された彼女は涙を流していなかったものの、泣いているように見えた。
同じだ、そう思う。形こそ違えどわたしと彼女の抱えているものは、非常に似通った形をしていた。
わたしは加護亜依に逢うまで、自分は物言わぬ石であるのは既成的事実で、それこそが当たり前のことなのだと思っていた。太陽が東から西へと沈むように。水が高い場所から低い場所へと流れるように。
けれど、それは大きな間違いであることに彼女は教えてくれた。凍りついてしまった大地が、朝日を浴びてゆっくりと緩んでゆくように。彼女はわたしに外の世界という存在を教えてくれた。
だから、今度はわたしが。
- 367 名前:川o・-・) 投稿日:川o・-・)
- 川o・-・)
- 368 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:02
- 「大丈夫だよ」
震える小さな肩に手を置き、言った。
「加護さんは、大丈夫だから」
加護亜依は黒目を大きく見開いて、わたしをじっと見つめていた。そのつややかな表面は、心なしか潤んでいるように見えた。
「歌も、ダンスも、一生懸命に頑張って…Rock-kissのことがこんなにも大好きで。そんな加護さんが、オーディションに受からないわけがないよ」
「せやけど、そんなんわからへん…」
「そうだね。先のことは、わからない。少なくとも、あなたを納得させられるような根拠をわたしは持ってない。でも」
言葉など、ただの記号の羅列。そう思っていた。彼女に会うまでは。
でも今は、言葉に魂が宿っているという戯言を信じたかった。
「わたしは、あの海岸であなたの歌声を聴いた。あなたの言う海のうたは聴くことが出来なかったけれど、あなたの歌の良し悪しくらいはわたしにだってわかる。譬え、あなたがRock-kissのオーディションに受からなくても…あなたは必ずいい歌い手になる。それだけは根拠がなくても、断言できる」
あの日の出来事を思い出す。確かにわたしは、オレンジ色に染まった空へと彼女の透明な歌声が響き渡るのを見た。その時に感じたことを、彼女に伝えたい。それが、彼女の不安を拭い去ることができるのなら。
「あなたは、きっと何者かに成れる」
- 369 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:03
- 加護亜依は、大きく溜息をついた。まるで凝り固まっていた何かを、一気に吐き出すかのように。
「ノノは…強いな」
「ううん」
わたしは首を振る。
「わたしは…弱いよ。でも、わたしだけじゃない。加護さんも、飯田さんも。高橋さんだって、本当は弱いのかもしれない。人間はみんな、弱い生き物なんだよ、きっと。でも、加護さんも言ってたじゃない。弱さに気付くことに、本当の強さがあるって。自分の弱さを認めた人たちだけが、本当の意味でお互いを支えることができる。わたしはそう思う」
飯田さんに教えられたこと。それは決して傷の舐め合いなどではなく、弱さや痛みを知った上での支え合い。
「…せやな。ノノの言う通りかも知れへんな」
加護亜依は肩を竦めて、そう言った。
「うち、もうちょっと…がんばってみるわ」
わたしは何も言わず、頷いた。自分の言葉が彼女の救いになったかどうかはわからない。けれども、目の前にいる少女の表情からは憂いが消えていた。それだけで充分だった。
- 370 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:04
-
それから数日が過ぎた。
わたしはいつものように、飯田さんの喫茶店で彼女が来るのを待っていた。飯田さんが近日中に店を畳むので、せっかくだからここで発表を待とうということになったのだ。
そう、今日はRock-kissの最終オーディションの合格発表日なのだった。
「はい、のんちゃん」
持参した文庫本に目を落としていると、飯田さんに声をかけられた。
「どうしたんですか?」
文字列に注がれる視線を遮ったのは、一枚の肖像画。
わたし自身だった。
「本当ならあいぼんが来た時に見せようと思ったんだけどね」
そこには、真っ直ぐに前を見つめる一人の少女の姿があった。この前見せられた時には、ただ凄いという感情しか湧いてこなかったのだが、今は違う思いが自分自身を支配していた。
「これ、わたし…ですか?」
そう。飯田さんの筆によって描かれた紙上の少女はあまりにも力強く、とても自分だとは思えなかったのだ。
- 371 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:05
- 「そうだよ。これが今の、のんちゃん自身だよ」
わたしは思う。飯田さんが大きなものを手に入れたが故に、絵にもそれが伝わっているのだろうか。それとも、本当にわたし自身が変わったのだろうか。確かに、思い当たる節はあった。けれどもそれが自分の血肉になっているどうかは、確信が持てなかった。
「その絵、あげるよ」
「えっ?」
「きっとのんちゃんが持ってたほうがいいと思うから」
にこりと微笑む飯田さん。彼女の言っていることはきっと正しいのだろうし、自分自身、この絵を持っていたほうがいいような気がした。
ふと、時計を見やる。時計の針は十二時を回ろうとしていた。
窓からの太陽の光が、日ごとに夏を失っているような気がする。あと何日か経てば、八月が終わり九月になる。いろいろなものが、変わってゆく。
飯田さんは、絵の道を目指す。
加護亜依は、アイドルを目指す。
わたしは、何に成れるだろうか。
何にも成れないかもしれないとは思いたくなかったけれど、具体的な成りたい何かがあるわけでもなかった。ただ、その答えは加護亜衣がオーディションの合格通知を持ってきてからでも遅くはないと思った。
- 372 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:05
-
店の外を満たす車の喧騒。
それが突然、弾かれたように大きくなった。
得体の知れないものを引き裂くようなブレーキ音と、鈍い衝撃。ガラスの砕ける音。
嫌な予感がした。
わたしは手に持っていた文庫本を握り締めたまま、店の外に出た。
ガードレールに衝突したらしき車を、たくさんの人だかりが囲んでいた。
救急車を呼べ、そんな声が聞こえてきた気もするけれど、そんなことはどうでもよかった。人の波を掻き分ける。嫌な予感は加速的に膨らんで行く。他の知らない誰かだったらいい。ひたすらそう願った。
だが願いは、叶えられなかった。
- 373 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:06
- 。
- 374 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:06
- 。
- 375 名前:第七章 投稿日:2004/03/08(月) 14:08
- 更新終了
>>360-372
これで第七章は終了です。
次回から、最終章に移ります。
- 376 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/08(月) 21:26
- うわあーーー!どうなっちゃたんですか?
気になって仕方ありません。悪い予感が・・・
更新お待ちしております。
- 377 名前:川o・-・) 投稿日:川o・-・)
- 川o・-・)
- 378 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/03/09(火) 17:41
- スレ違い(;゚д゚)マズー
- 379 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 15:45
- 初カキコです。少し前からこの小説の独特の世界観と文章の心地よさが好きでした
最終章楽しみにしてます
- 380 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/17(水) 16:25
- 気になるよーーーーーーーーーーーーーーーー
あいぼん・・・・
- 381 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/25(日) 06:42
- 保全
- 382 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/12(水) 19:29
- ほぜむ
- 383 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/27(木) 22:28
- 保
- 384 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/08(火) 23:27
- 早く続きが見たいです。がんばってください。
- 385 名前:作者名未定 投稿日:2004/07/01(木) 23:42
- 長らく更新できなくて本当に申し訳ないです。
これから、毎日少しずつでも更新していく予定です。
放置の上に次が最終章なので、ひっそりとやっていきます。
細切れな更新になると思うので更新終了書き込みなどはしませんが
予めご了承ください。
それでは、改めてよろしくお願いします。
- 386 名前:・ 投稿日:2004/07/01(木) 23:45
-
わたしが外に向けて何かを語るのは、これが最後になるだろう。
世界はきっとわたしの言葉など必要としていないだろうし、誰もそんな不要なものを聞きたがらないだろう。
だが、わたしには全てを語る義務がある。
もしも言葉が血となり肉となり、言葉そのものに命が宿るのなら、喜んで全ての言葉を吐き出そう。
- 387 名前:・ 投稿日:2004/07/01(木) 23:45
-
物心がつき始めた時のことだ。
そう、わたしが漬物石として扱われるようになった時のこと。
世間との交流を一切遮断したわたしの友は、専ら自分の作り出した妄想であり、哲学だった。もちろん年端もいかない子供の考えることだから、たかが知れてはいたのだが。
わたしには、街を行き交う人々の頭上に浮かぶ、黒い球体が見えた。
ちょうどソフトボール大の、ふわふわと浮かぶその球体はわたし自身の理念によって見出された、いや作られたものだった。
黒く艶やかな球面には、この世のありとあらゆる悪意が凝縮されていて、それが負荷に耐え切れなくなると破裂するのだった。
しかしながらわたしはその黒い球体が破裂する瞬間を目撃したことは、ただの一度もなかった。それどころか、その球体自体を目で確認することすらできなかった。ただ、そこに球体があるのだ、という漠然とした感覚だけがあった。
- 388 名前:・ 投稿日:2004/07/01(木) 23:46
- ある時、ふと思った疑問。
毎日のように伝えられる、人の死のニュース。
事故、病死、殺人、自殺。
まるで何かの決まりごとのように、命が失われてゆく。
それらはどうして秋の長雨のように絶え間なくこの地上に降り注ぐのだろうか。誰にも聞くことはできなかった。その頃既に姉には得も言われぬ恐怖を抱いていたし、他の人間に聞いたところで夏の熱さで地面から這い出たみみずのように無視されることは簡単に予想できたからだ。
だから、わたしは自分で答えを模索することにした。幼い考えが導き出したもの、それは誰もがいつ死んでもおかしくないという状況に置かれているということだった。頭上にはいつも死の粒子が浮遊していて、ある日突然その人の命を飲み込んでしまう。そう信じて疑わなかった。
やがて学校の図書館に通いはじめ、本から知識を吸収することを覚えるまではその馬鹿げた考えはわたし自身を支配していた。単純ながらも完結した世界。それでも、徐々にわたしはその幼稚な方程式を忘れていった。
- 389 名前:・ 投稿日:2004/07/01(木) 23:47
-
でも、とわたしは考える。
黒い球体はあの時、加護亜依の頭上ではじけてしまったのではないかと。
- 390 名前:・ 投稿日:2004/07/01(木) 23:49
-
最終章「海のうた」
- 391 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/07/02(金) 09:55
-
窓を開ける。
すぐに夏の青い空が視界に飛び込み、熱せられた空気が強烈な光とともに飛び込んでくる。8月ももう終わりに近いというのに、その日はまるで夏の初めのようにぎらぎらとしていた。一度は死に絶えたと思しき蝉たちまでもが狂ったように鳴く姿に、わたしは思わず苦笑した。
窓の下では、大きな麦藁帽子を被ったわたしと同じくらいの歳の子が、えっちらおっちらと照りつけるアスファルトの上を歩いている。いつもならその子と同じように、自分もあの場所を目指して灼熱の道を歩いていたはずだった。
五感が、悉く薄れているような気がした。
硝子の双眸は鮮やかな色彩を感じることはなく、はりぼての耳は波の音や蝉の声を聞き取ることができず、遮断された鼻腔は何の芳しい香りすら捕らえられない。まるで全てが、灰色に塗り潰されたみたいに感じられる。
首を振る。とてつもなく嫌な感情が、体を駆け抜けそうになった。そんな悪意から自分自身を隔離するように、窓を閉めた。
久しぶりに、クローゼットの中から制服を取り出す。制服の色と喪服の色がこんなにも似てるなんて、思いもしなかった。
昨日を境に、加護亜依は永遠にわたしの元から失われた。
- 392 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/07/02(金) 09:56
-
一体どういう経緯を経て今自分がここにいるのかすら、よく覚えていない。飯田さんと一緒に救急車に乗り、病院でひたすら血のように赤いランプを眺めていた。儚い灯りが消えた頃には、何もかもが終わっていた。涙すら出なかった。いや、このことについてわたしが悲しみという感情を抱いているのかすら怪しい。
いわしの時と同じだ。わたしは思う。得体の知れない何かがある日ひょいと、加護亜依を奪い去って行く。取り残された自分にできることは、ただ空を見上げることだけ。黒い球体に対して、またしてもわたしは無力だった。
部屋にかけられている時計を見る。飯田さんとは、斎場で待ち合わせている。車で一緒に行くこともできたけれど、今日はいわしを運んだ、加護亜依と一緒に運んだあの車には乗りたくはなかった。
でも、そんな些細な抵抗も無駄に終わるだろうことはわかっていた。
この町で、彼女を感じさせないものなど、何一つないのだから。
制服に着替え終わり、部屋を出る。
家は、まったくと言っていいほど静まり返っていた。きっと両親も、そして姉もどこかに出かけているのだろう。それはわたしをひどく安心させた。
音のない空間では、空気が深海の水のように重く纏わりついてくる。それをゆっくりとかき分けながら、階段を降り、家を出た。それでも、心に絡みついた何かを振り払うことはできなかった。
- 393 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/07/02(金) 09:56
-
海に程近い道を歩いて、駅のある方角へと歩く。
通り沿いのマンション群はいつもにも増して暗く佇み、まるで巨大な墓石のように見えた。墓石と墓石の隙間から吹く嫌な臭いを感じなかったのは、不幸中の幸いなのだろうか。
太陽は家の窓から覗いていた時と同じように、まっすぐな光を地表に投げつけていた。でも、これはきっと最後の輝きだ。夏は確実に終わりに近づいているし、力強さは終わりを強調する意味合いしか持っていなかった。もう海に遊びに行く者もいなければ、日に焼けた姿の者もいない。いたとしても、それは過ぎゆく夏の背中を遠い目で見送り続けるただのノスタルジーだ。
余計なことは考えたくなかった。少しでも考えたら、わたしは今の自分と必ず向き合わなければならない。ただの逃避なのだろう。いつかは必ず立ち向かわなければならないことも良く知っている。
ただ、今日だけは。
今日だけは、そんなものとは向き合いたくはなかった。そのことが、臆病さを克服することとは真逆の行為であろうとも。
わたしが何故涙を流さないのか、などという理由など。
- 394 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/07/03(土) 15:47
-
駅前の通りに辿り着く。
飯田さんの喫茶店がある通り、そして。
事故があったというのが、ガードレールの変形によって辛うじてわかる程度で。
その他は何の変哲もないただの往来だった。
この場所に来るまでに、彼女は何を考え、何を思っていたのだろうか。
今となってはもう、知ることすらできない。
ふと目をやると、ひしゃげた鉄柱のもとに花が手向けられていた。
その花が、わたしに眩暈を引き起こさせた。まるで歩みを妨げるかのような、揺れ。天と地が入れ替わりそうな激しい脱力感に、思わずしゃがみ込んだ。
息が苦しい。額や脇の下、背中から冷たい汗が流れる。動悸が、不自然なリズムを刻み続けていた。
「大丈夫ですか?」
背後から声をかけられた。知らない初老の男性だった。
「気分が悪いようですが…」
親切心から声をかけてくれているその男性を、何故だが睨みつけずにはいられなかった。そんな自分が嫌で堪らなくて、駆け足でその場から逃げ去った。
収まらない激しい動悸が、一つの事実を訴えかけていた。
加護亜依は死んだ。
なのにわたしは、生きている。
- 395 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/07/03(土) 15:47
-
電車の中は、さらに彼女との思い出で溢れていた。
あのアスファルトが溶け出してしまいそうに暑かったあの日。
わたしと加護亜依は海へと足を運んだ。
水着も持って行かないで、西瓜割りだけして帰った。何のために海に行ったのかわからなかったけれど、不思議と心は満たされていた。
車窓から景色をぼんやりと見る。
電車の速度によって、景色は左から右へと流されてゆく。
こんな風に、彼女との思い出も遠いどこかに流されてしまうのだろうか。
「ノノ」
少し甲高い、親しみの篭もった彼女の声。
流されてゆく。彼女の声が。
彼女との、思い出が。
- 396 名前:( ‘д‘) 投稿日:( ‘д‘)
- ( ‘д‘)
- 397 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/13(金) 08:59
- ネタバレ乙
- 398 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/13(金) 11:45
- ho
- 399 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/18(水) 05:50
- ・・・これで完じゃないよね?
- 400 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/18(水) 12:22
- o
- 401 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/27(金) 01:00
- 多分完結では無い思うのですが・・・
どうなるのか気になります。
作者さんにも事情がありますでしょうから、じっくりと待っています。
- 402 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:10
-
斎場の正門に、飯田さんは佇んでいた。黒の喪服が、彼女の長い黒髪に良く似合って見えた。
「のんちゃん」
「大丈夫です…大丈夫です、わたしは」
そう答えるのが精一杯だった。きっと飯田さんだって、想像もつかないくらいの悲しみを背負
っているはずだ。でも、今はその気持ちを汲み取る余裕などない。
わたしたちのいる場所から少し離れた場所に、同じ制服を着た一団が固まっていた。わたしの
クラスの人間だった。
「…みんな集まってるみたいだけど、のんちゃんも行かなくていいの?」
飯田さんの問いに、ゆっくりと首を横に振る。
「あの場にいてもいなくても、一緒ですから」
だけど飯田さんは、縁側にさす陽だまりを見つめるような表情でこう言うのだった。
「行って来なよ」
「え、でも…」
「いいから、ほら、早く」
多分飯田さんには見抜かれていたのだろう。わたしが彼女たちと距離を取りたがるのは、他なら
ぬ自分の弱さから来ていることを。
弱さに気付き、そして乗り越える。彼女との最後の日にそう言ったわたし自身が、ここで背を向
けるわけにはいかないのだ。確かに何のために来たかもわからないような集団と一緒になるのは耐
えがたいことだ。けれど、だからと言ってそこから逃げ出すことはできなかった。他ならぬ
加護亜依の目の前なら、尚更だ。
黒い革靴が、最初の一歩を踏み出した。
- 403 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:12
-
まるで、異物を混入された蟻の群れのような騒ぎだった。
わたしが無言のうちに集団に入り込むと、彼女たちは一様に困惑し、そして何やら囁きあって
いた。さすがの漬物石も葬式には出るんだ、恐らくそんな内容のことだろう。
そんな中、いつもはその中心にいるであろう人物がやけに大人しいことに気がつく。高橋さん
だった。彼女はわたしを一瞥することなく、ひたすら背を見せ続けていた。出席番号はわたしの
すぐ前だ。さすがに本人を前にしてあからさまな態度はとれないのだろうか、それとも駅前での
出来事を思い出して憤怒のあまりに口も利けないのか。
でも、そんな周りの状況なんてどうでもよかった。今はわたしと加護亜依、この間に結ばれた
一つの線を見ていればいいのだから。
やがて、集団の先頭に立つ教師が何やら話をはじめた。その途中にわたしと目が合い、そして
少しの間も置かずに視線を逸らした。あまりに露骨過ぎて、思わず噴き出しそうになった。それ
もほんの束の間のことに過ぎない。
わたしの周りの世界は依然として色を失ったままだ。何に対しても、現実感と言うものが伴わ
ない。だが、それでも沈みゆく夕陽を見送らなければならない。それが彼女に見せることができ
る、最後の強がりだから。
- 404 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:13
-
「ノノちゃん」
葬儀の途中のことだ。わたしは、加護亜依の祖母に声をかけられた。
「あ…どうも」
年老いてはいるが、間近に見るとやはり彼女によく似ていた。そんな彼女が、仔鹿
のような目を細めてあるものを差し出した。
見覚えのある、茶色い封筒。そこには、不思議と封を切られた跡がなかった。
「亜依の机の上にあったんです。多分、あの子が申し込んでたオーディションの封筒
だと思うんだけれど…」
「そうですか」
何故加護亜依は合否発表の封筒を開けなかったのだろうか。その答えはわかりきっ
ていた。傲慢な答えなのかもしれないが、わたしにはそうとしか思えなかった
「是非、見てやって下さい」
「いえ、いいんです」
彼女が封を切らなかった理由。それがわかっていたから、その申し出を断わった。
彼女がこの世にいない今、中身を見ることに意味がないから?
いや、違う。
「わたしだけが、この封筒の中身を見るわけにはいかないんです。封を切らなかった
のは、そういうことなんだろうと思います」
加護亜依の祖母は、黙ってじっとわたしのことを見ていた。まるで、言葉の意味を
ゆっくりと反芻するかのように。この人なら、加護亜依と血の繋がった、そして二人
で一緒に住んでいたこの人になら、理解されるような気がした。
- 405 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:15
- 「それと、お願いが一つだけ、あるんです」
「何かしら?」
「その封筒を、加護さんの棺の中に入れて欲しいんです」
非常識なことなのかもしれないけれど、言った。言わなければいけないことだと、
思ったから。
「彼女の遺品を燃やしてくれだなんて、ひどいことを言っているのは重々承知です。
でも…」
そう言いかけたところで、加護亜依の祖母はみなまで言うなという風に大きく頷いた。
「きっとあの子も、それを望んでるんでしょうね」
「…ありがとうございます」
深く、深く、頭を下げた。その時だ。
腕を強く、掴まれた。ひどく、冷たい手で。
- 406 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:16
-
かつかつと、ヒールの硬質な音が、路面に響く。
わたしの腕を掴んで歩く彼女は、終始無言のままだった。わたしのほうを、一度も
振り返らなかった。
わたしもまた、彼女に何も問わなかった。どうしたの? どこへ行くの? そんな
言葉が彼女には無意味だということはわかっていたし、彼女がどこへわたしを連れて
行こうとしているかを知っていたからだ。
そして彼女に何らかの意図があるように、わたし自身にもはっきりとした意図があ
った。加護亜依が荼毘に伏されるまで、まだ少しだけ時間がある。それまでに白黒を
つけよう。そう思った。
正直、怖くないわけではない。長い間、わたしを支配していた冷たい月。黒く大き
な球体。打ちつけられる頭、流れる生温い液体。青が交錯し黒と白が乱れ赤が不吉な
彩りを添えていた。それでも、なお。
- 407 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:17
-
家の玄関まで辿りついた時に、彼女ははじめて口を開いた。
「お姉ちゃん言ったじゃない。もうあの友達には会ってはいけないって」
「彼女は、死んだよ」
「そう。でも、なっちには関係ないから」
姉が自分のことを名前で言うのを聞いたのは、何年ぶりだろう。そんなことを思いなが
ら、靴を脱いだ。
「今日は、お父さんとお母さんと食事会があるの。のん、あなたにも来てもらわないと困
るわ」
記憶にはまったくなかったが、もしかしたらそんな話をしていたのかもしれない。でも、
そんなことはもうどうでもよかった。
目の前の相手のほうを、向く。相変わらずの冷たい視線。過去の出来事が頭を掠めた。
たぶん、きっかけは驚くほど簡単なことだったのだろう。
けれど結果として姉はわたしの頭をピアノにしたたか打ち付けた。結局病院に行ったの
かどうか、何針縫ったのかまでは覚えていないけれど、激しく焼けるような痛みと目の前
に広がる赤い視界だけは今でも鮮明に記憶に刻まれていた。
その過去の事実はわたし自身に暗い影を落とし続けた。
でもそれももう、終わりだ。
- 408 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:19
- 「…わたしは、食事会には行かない」
言葉は、拍子抜けするくらいに簡単に出た。
姉は一瞬何が起きたのかすら理解していない様子だったが、やがて彼女に出来るであ
ろう最良の笑顔を作ってこう言った。
「どうして? だって、あなただって食事会に行くからなっちについて来たんでしょう?
席だって4つ取ってるし、今更行かないだなんて」
「それでもわたしは、行かない。加護さんが…友達が煙になるのを見届けなくちゃいけ
ないから」
真冬に寒々しい光を放つ、月。それが彼女の微笑に対するもっとも相応しい比喩だっ
た。確かにそこにあるのに、まるで手触りを感じない。
「何を言ってるの? のんは、なっちの言うことだけ聞いてればいいの。 それ以外の
選択肢なんて、一つもないんだから」
どうして? 何で? そんな声はもう、聞こえて来ないし耳を傾けるつもりもない。
わたしは逃げない。
目を背けない。
自分の中に芽生えた抵抗の意志を、この場で打ち立てなければならない。
「わたしは…お姉ちゃんの操り人形じゃ、ない」
その時、わたしにははっきり聞こえた。憤怒の炎が、勢い良く燃え上がる音が。彼女の
月のように冷たい微笑は失われ、激しい憎悪の表情が顕わになった。こんな彼女の顔を見
るのも、多分あの時以来だ。
逃げてはいけない。そう思った。もうわたしはあの時のような何もできない子供では、
ないのだから。
- 409 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:20
-
どん、と肩を押された。
「あなたは操り人形だよ」
黒々とした怒気を帯びているにも関わらず、まったく温度がない声。
「なっちがそうしたんだよ。あなたは邪魔者だったから」
再び肩を押される。わたしは一歩ずつ後退する形になる。
「小さい頃から、ううん、生まれた時からそうだった。あなたがこの世に生を受けてから
すぐに、あたしはあなたに何もかも奪われた」
三撃目は、両手で胸を突かれた。階段の手すりの柱が、背中に強く当たる。
「お父さんの愛情、お母さんの愛情、そして、この家の娘という地位。それを、全部あな
たが、奪ったの」
「何を…」
「なっちは、ただのお姉ちゃんという役職を押し付けられた」
理不尽で、理解しがたい言葉だった。でも、ここでそんなことを訴えたところで彼女の
考えが変わらないであろうことは火を見るより明らかだった。
「お姉ちゃんでしょ、お姉ちゃんなのに、お姉ちゃんだから。なっちにはいつもそんな言
葉がついてきた。息を吸うたびに、心臓が血液を送り出すたびにね。どうしてか。なっち、
考えたんだ。答えは、とっても簡単だったよ」
そう言って、彼女はゆっくりと微笑みかけた。その瞳は、わたしを捉えているようでそ
の実何か別のものを見ていたのかもしれない。
彼女の薄い唇が、形を作る。形は音になり、音は言葉となって脳に直接響いてゆく。
- 410 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:21
-
「答えは、のんがいたから」
- 411 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:22
-
「その家族にもう一人子供がいれば、最初の子供は兄、または姉になる。当たり前のこと
なのかもしれないけどさ、なっちそれが堪らなく嫌だったんだよね」
ふと階段の踊り場に目をやる。踊り場の窓を透過して、透明な光が唯一の光源となって
辺りを照らす。そこには夏なんてものは無かったし、増してや何の手触りすら感じなかった。
汗ばんだ手のひらを、力強く握った。
「だから、あなたを殺した。覚えてるかなあ…覚えてるよね? だってなっちがピアノ弾
くたびに、のんったら青い顔して自分の部屋に引き篭もるんだもん」
脳に降り注ぐ、フラッシュバック。
白い鍵盤、黒い鍵盤。白は夢、黒は現。
ユメ、ユメ、ウツツ。ユメ、ウツツ。
わたしの頭が、夢と現実の狭間に叩きつけられる。
白を染め黒に馴染む赤い血。
わたしの頭を鍵盤に叩きつけた相手は、うれしそうにこう言うのだった、
−あんたなんか、部屋の隅で縮こまってればいい−
これが、わたしの怯えていたものの全て。体を縛りつけ、光の届かない牢獄へ閉じ込めた
ものの、全て。
- 412 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:23
-
「のんは、この家の厄介者。そしてなっちは、その厄介者とお父さんお母さんの
唯一の橋渡し。この図式は、崩したくないの」
でも。
わたしは出逢った。
彼女は、わたしに色々なことを教えてくれた。
彼女は、わたしに色々なものをくれた。
だから、前に進まなくてはならない。
気がつくと、階段を駆け上がっていた。
- 413 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:24
-
もう怖いものなど、何も無かった。
あれほど忌み嫌い、そして怯えてさえいた姉の部屋のドアを開け放つ。
そこにはあの時と同じように、黒く艶やかな色を纏ったピアノが佇んでいた。
ふと目に入った金属製のコート掛けに手を伸ばしたのと、姉がわたしを追っ
て部屋の中に入ってきたのはほぼ同時だった。
「のん、何を…」
答えを示すために、コート掛けの支柱を持ち上げ、そのままピアノに向かっ
て振り下ろす。めりっ、という音がした。それを合図に、頭の中に軽やかな旋
律が流れ始める。
「な、なにを!」
向かってくる姉の手を振り払い、少し形の変わったピアノカバーを持ち上げ
る。晒された白と黒の混じり気の無い世界に向かって、再び支柱を振り下ろし
た。高い音と低い音と柔らかい音と硬い音が複雑に絡みあって崩れ落ちる。
- 414 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:26
- 「ちょっと、何するの!」
気にせず、数度、同じことを繰り替えす。腕が熱くなり、手のひらがひりひりとして、
鈍い衝撃が伝わった。その度にピアノは悲鳴をあげ、白はひび割れ、黒は砕けて床にば
ら撒かれた。
姉がわたしに組みついてきた。手から支柱を離そうと、指の間に無理やり自分の指を
絡ませようとしてくる。でも、もみ合いにすらならなかった。年月の経過が、わたしと
姉の体格差を殆どなくしていたからだ。
「こんなことして何の…やめてよ!」
一瞬姉と顔を合わせる。彼女の顔は朱に染まり、冷たささえ感じさせたものはそこに
はなかった。純然たる怒り、それはわたしの恐れるところのものではない。頭の中では
相変わらず音楽が流れていて、わたしの衝動の曲線を緩やかに上げてゆく。
勢い良く、姉を突き飛ばした。その瞳に浮かぶ色はきっと怒りであり、驚きであり不
可解でえあり恐怖なのだろう。かつてわたしが彼女を見ていた時の瞳の色。けれどそん
なことは、どうでもよかった。
目の前のこれを、壊さなければならない。
それだけを考えて、支柱を振るった。鍵盤が砕けて剥がれ落ち、中の木の部分が剥き
出しになった。手のひらから暖かいものが流れているような感触を感じたけれど、それ
はただわたしが生きているという証拠にしかならなかった。
- 415 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/09/24(金) 07:27
- 「やめてよ! もうやめてよ!!」
さっきから姉が悲痛な叫び声を上げている。そんな必死な彼女を見たことが無い。
今日はきっと忘れられない日になるだろう。
息はとっくの昔にあがっていたし、体のあちこちが痛かった。加護亜依や飯田さ
んと一緒にいわしを埋めに行った時のことを思い出す。そうだ、人間は限界を超え
て体を動かすことができるんだ。ピアノが掠れた音を出さなくなったのとは反して、
わたしの中の交響曲はフィニッシュに向けて最後の上昇を試みる。部屋の隅にあっ
たテレビのブラウン管を、渾身の力を込めて抱えあげた。
「ちょ…」
姉が制止する間もなく、それをそのままピアノの弦が集まっている部分に落とし
た。断末魔のような高い音と弦がぶちぶちと切れる嫌な音がわたしの中の音楽とシ
ンクロし、鮮やかなラストを迎える。かつてピアノと呼ばれた物体はそれっきり、
沈黙してしまった。
「おかあさん、のぞみが、のぞみが…」
そんな姉の声を聞きながら、目を閉じる。真っ白になってしまいそうな意識を
懸命に留めつつ、次にやらなければならないことを考えた。
そうだ、彼女を、見送らなければ。
後ろも振り返ることなく、姉の部屋を立ち去った。
- 416 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/24(金) 21:32
- おお、こういう展開ですか
相変わらず独特の雰囲気に引き込まれてしまいます
最終章とは寂しいですが、ラストまでついてゆきます
- 417 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 16:52
-
斎場に戻って来た時に出迎えてくれたのは、飯田さんだった。
「のんちゃんどこに行ってたの!? あいぼんのおばあちゃんが、のんちゃん
が知らない女の人とどこかに行ったって言うから…」
「ごめんなさい、ちょっと家に戻ってました」
「そっか」
「もう大丈夫です」
そう言って飯田さんに向けて作った笑顔は、彼女にはどう映ったのだろうか。
でも飯田さんは、何も言わないでくれた。
思えばわたしが変わっていったのは加護亜依だけでなく、この人の影響も大
きいのかもしれない。加護亜依のように強烈にわたしを変える力を与えたので
はなく、変わってゆくわたしをゆっくり見守ってくれたのが飯田さんなのかも
しれない。そう思った。
- 418 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 16:54
-
それから加護亜依は、あっけないほど簡単に小さな骨壷に入って
しまった。火葬場の煙突から出る煙もほとんど見えず、飯田さんは
「最近の火葬炉は性能がいいから、煙が出ないんだよね」などと言
っていた。ここでもわたしは彼女の死を実感することができなかっ
た。まあ、例え煙が壮大に出ていたとしても、実感できたかどうか
は怪しいものだけれど。
彼女を見送るはずだったのに、見送る対象を見失ってしまった。
そう感じた。
わたしは迷路に迷い込んでいるのだろうか。それとも、迷い込ん
だ場所は迷路ですらないのだろうか。どんなに入り組んだ迷路でも、
入り口があれば出口も必ず存在する。では、そこが迷路ではない何
かだったとすれば。
火葬場からの帰りの出来事だ。飯田さんと歩くわたしを、待って
いる少女がいた。
「…高橋、さん」
「ちょっと話があるんだ。どこか喫茶店に入って、話さない?」
先に行ってるね、と飯田さんが歩き出す。飯田さんの喫茶店は閉
店し、中はとてもじゃないけど客を招くような状態だったから仕方
がないのかもしれないけれど。
「いいの?」
飯田さんの後姿を見ながら、高橋さんが聞いてくる。
「うん」
「そう。じゃあ、あそこにしようよ」
そう言って、高橋さんは二軒先の店を指差した。飯田さんの喫茶
店の近くにあるコーヒーチェーン店と同じ店だった。
- 419 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 16:56
-
夏も終わろうとしているのに、店内はクーラーのかけ過ぎでさな
がら冷凍庫のようだった。高橋さんは自分の飲み物を注文すると、
待ってるからと言ってさっさと上に上がっていってしまった。こう
いう店に入ったことがほとんど無かったので色々聞きたいことがあ
ったのだが、仕方がない。わたしは営業スマイルを貼りつけた店員
にたどたどしく注文し、それから二階へと続く階段を昇っていった。
「遅いじゃない」
高橋さんは店の一番奥、二人席のテーブルについていた。高橋さ
んと向かい合う様に、席に座った。
とは言え一体高橋さんがどういう理由でわたしを喫茶店に誘った
のかがわからない以上、どんな話をしたらいいのか。この期に及ん
でわたしを糾弾しても意味はないだろうから何か違う話なのだろう
けど。そんなことを思いつつ、目の前のアイスティーについた水滴
を見ていた。
「ねえ…Rock-kissのオーディション、来週結果発表だね」
「え、ああ、そうなんだ…」
高橋さんからそう言った事実を知らされるというのも変な話だっ
たが、高橋さんの口からRock-kissという単語が飛び出すことがそ
もそも変な話だった。よくよく考えれば、女子高生のカリスマ的存
在である彼女たちに高橋さんが憧れていたとしても何の不思議もな
いわけだが。
「あんた、加護の親友やってたくせにそんなことも知らなかったの?」
高橋さんは呆れる様にそう言って、顔を猿のように顰める。加護
亜依が彼女のことをオランウータンに似ていると言っていたことを
思い出した。
- 420 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 16:58
- 「高橋さんも、Rock-kissに興味あったんだね」
わたしがそう言うと、高橋さんは顔を真っ赤にしながら、
「実はね…Rock-kissの1次オーデに行ったのって友達じゃなくて、
あたしなんだ」
と声を潜めた。
思わず顔に笑みを浮かべてしまうのを誤魔化すようにして、目の
前の茶色の飲み物を口にする。飯田さんが作ってくれたアイスティ
ーとは違い、それはあまり美味しいとは言えなかった。
「…みんなには内緒だからね」
「うん」
それから、沈黙が訪れる。わたしが3回、目の前の茶色水に口を
つけ、高橋さんは4回アイスラテを飲んだ。その間にサラリーマン
風の三人組が席を立ち、若いカップルらしき男女が二階に上がって
きた。そうして、ようやく高橋さんが口を開いた。
「まさかさ、加護が死ぬなんて思ってもみなかった」
「…うん」
いわしの死を経験しても、死の身近さを理解できなかった。高橋
さんなら、なおさらだろう。
「だからこれは、罪滅ぼしとか、そんなんじゃなくて…何て言うん
だろ、ゼロに戻すみたいな」
「ゼロに、戻す?」
「そう」
ゆっくりと高橋さんが、頷く。唇が、真一文字に結ばれた。
- 421 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 16:59
- 「あたしは加護が、怖かった。自分の地位を明日にでも奪ってしま
うんじゃないか、転校してきた初日には、そう思ってた。だから、
どんな手を使ってでもあの子をクラスから遠ざけることにした。で
も、加護はそんな状況の中であんたって友達を作った」
それはわたしもまた、高橋さんから遠い存在だったから。でもそ
れは単なるきっかけにすぎないことは、今はよくわかる。
「あんたたちが友達になったことを知ったあたしは、二人の仲を引
き裂こうと思った。やがてはあんたたちに同調する人間がいるかも
しれないから。でも、上手くいかなかった。あたしにはっきり言っ
たよね。卑劣な手を使って自分の立場を揺るがす人間を潰そうとす
る人なんかに、わたしは絶対に負けない、って」
あの夏の日の出来事。わたしは高橋さんに向かって、はっきりと
思っていることを言った。それはきっと、加護亜依がいつも側にい
てくれるという安心感からだったのだろう。
茶色い水が半分近く、なくなっていた。積み重なった氷が溶け出
し、からんという音を立てる。
- 422 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:01
- 「加護の葬式の時、あたしはあんたが来ないと思ってた。仮に来た
としても、あたしたちの列には絶対に加わらないだろう。そう思っ
てた。けど、あんたは来た。もしかしたらあんたは、今まで持って
いた何かを変えたいんじゃないのかなって、そう思ったんだ」
何かを変えたい。それは言い換えれば、何者かに成りたい。たぶ
ん、そういうことなのだろう。まさか高橋さんにそれを指摘される
とは、思ってもみなかったけれど。
「だからあたしもあんたとの関係を、ゼロに戻す。別に友達になろ
うって、言ってるわけじゃない。振り出しに、戻るだけ。そこから
先のことはわからない」
「いい関係にも、悪い関係にもなるかもしれない。そういうこと?」
高橋さんは、頷く。
「それが、死んだ人間への、敬意だと思うから」
加護亜依の死は、高橋さんにとって大きな意味を持ったのだろう。
そう思った。
では、わたしは?
未だ彼女の死の輪郭さえ描けないわたしにとって、彼女の死はい
ったい?
答えなど、出るはずもなかった。
- 423 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:02
-
飯田さんが北海道に帰る日がやって来た。
つまりそれは、わたしや加護亜依の過ごした喫茶店がなくなると
いうことを意味していた。
中にに入ると、カウンターの中の食器やら何やらが全て片付けら
れていて、過去の記憶がなければここが喫茶店であることすら想像
もつかないような状態になっていた。ご丁寧にも窓際のテーブルま
でもが撤去されていた。
「ここ、どうなるんですか?」
「さあ。土地は親類名義だから、何か他の店ができるんじゃないかな」
ここに別の店舗が建つことを想像してみる。例えば、あの色のつ
いた水を出すような、コーヒーチェーン店。まったく足を踏み入れ
ないかもしれない。その一方で、わずかに残された残り香を頼りに
足を運ぶのかもしれない。
「とりあえず私物は全部向こうに送っちゃったからさ、あとは本体だけ」
そこで、ふと飯田さんが手にしているスケッチブックに目がいく。
「あ、これ…電車の中で気に入った風景があったら簡単にだけど描
いておこうかなって」
「電車の中でですか?」
「うん。最初のインスピレーションだけ。あとは、ここを頼りにするの」
そう言って、自分の頭を指差す。飯田さんの頭の中を頼りにする
なんて、どんな不可思議な絵になるのだろう、と加護亜依のような
ことを考えてしまった。
- 424 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:04
- 簡素になってしまったテーブルにはラジオが置かれていて、ひっ
きりなしに流行曲を流していた。一人で片付け作業をする時に、飯
田さんが聴いていたのだろう。
「ここでさ、色んなことがあったよね…」
遠い目をしながら、飯田さんはそんなことを呟いた。
確かにここはわたしたちが積み重ねてきた思い出が多過ぎた。
加護亜依にはじめてここに連れて来られた日、飯田さんは笑顔で
歓迎してくれた。ここで日が暮れるまで文庫本を読んでいた時、加
護亜依は飯田さんと花火の話をしていて、文庫本の内容と混じって
しまい駆け落ちの末焼身自殺した二人が花火のように燃え散るイメ
ージが頭から離れなかった。飯田さんに加護亜依が自分にも料理を
作らせろと我侭を言い、張り切って厨房に乗り込んだ末に出てきた
のは鍋に丸鶏が突っ込まれた珍妙な料理だった。拾ってきた猫のい
わしがわたしに特になついているのを見て加護亜依が嫉妬している
のがおかしくてたまらなかった…
思い出そうとすれば星の数ほど出てくる思い出たち。でもそれも、
喫茶店がなくなるのと一緒になくなってしまう。そんな気がしてな
らなかった。
それなのにも関わらず、わたしは少しも泣くことができなかった。
代わりにできることは、苦しそうな表情を作ることだけだった。
「のんちゃん…」
飯田さんは心配げに声をかけてくれたけど、どうにもならないこ
とはわたし自身がよくわかっていた。暗闇の中を、五指が頼りなさ
げに何かを探している。けれども何も、見つからない。
その時だった。
- 425 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:05
-
ラジオから流れてくる、メロディー。
どこかで聞いたことのある、懐かしい音階。
すぐに、ある場所が目の前に広がった。
「飯田さん、まだ時間、ありますよね!?」
「う、うん。電車の時間が夜だから…」
わたしは、走り出していた。
あの場所を、目指して。
- 426 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:07
-
ブルドーザーの油臭い音が、ひっきりなしに地にへばりつく。
そう、加護亜依がわたしに見せてくれた小さな浜辺は、すでに形
を変えようとしていた。
大きなシャベルが砂を掬い、浜を抉る。どこからか持ち込まれた
コンクリートが、流し込まれる。鉄骨は無慈悲に地を穿ち、海岸線
には再び蓋が施されようとしていた。
「嬢ちゃん、あぶねえからはじっこ行ってな!」
行き交う作業員たちを避けるように、工事現場の隅に移動する。
何もかもが、遠くに感じてしまうような眩暈に襲われた。
あらゆる場所が機械音を発しているというのに、地面は少しの音
すら立てずに、二本の足で立つことを許さないかのように大きく揺
れている。そこには容赦のかけらすら感じられなかった。
大きな、脱力感。それは程なく作業員たちが現場を引き上げた後
も、消え去ることはなかった。時は流れる、全ては変わってゆく、
そして思い出が消えてゆく。
形あるものはいつかは滅びる。それが早いか、遅いかの差でしかない。
中途半端にいびつな形にされた浜に波が打ち寄せ、不細工な音を
立てた。これではもう、海が歌っているようにも聞こえないだろう。現
に耳を澄ませてみても、太った中年が痰の絡んだ潰れた悲鳴をあげてい
るようにしか聞こえなかった。
- 427 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:08
- その場に、座り込む。目の前の太陽は、日中の太陽と夕日のちょ
うど真ん中のような色をしていた。やがて世界は薔薇色のような夕
焼けに照らされるだろう。それでも、この場所が夕日の色に染まる
ことはないように思えた。
過去の呪縛を断ち切った今、わたしがしなければいけないのは、
前に進むこと。もう冷たく暗い独房に引きこもる必要など、どこに
もない。
それでも。
体が、動かない。目が、光の乏しい世界に慣れてしまい、用を成
さない。
どうして?
怖いからだ。恐怖が、原動力を奪っているからだ。
どうすればいい?
わからなかった。ここにきたら何かがわかるかもしれないと思っ
た。でも、当然のように何も得ることはできなかった。わかったの
は消えてゆく事実には抗えな
- 428 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:09
-
「何言うてんねん、あほか自分」
- 429 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:09
-
耳を、疑った。
聞こえてくるはずのない、声。
懐かしい、声。
声のするほうを振り向く。誰もいない。
けれど、そこには確かに、あった。
- 430 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:10
-
そして、うたは紡がれはじめる。
加護亜依が歌っていた記憶を辿っているのか、海風や汐の音がそ
う聞こえるのか、わからない。でも、あの時聞いたうたが、確かに
わたしの中に流れていた。澄んだ音色は天に向かってどこまでも伸
び、その上を綺麗な色のついた音符が昇っているかのようだった。
わたしは、泣いていた。
泣きながら、歌っていた。海のうたを。
太陽はいつの間にか夕陽になっていて、目の前がくしゃくしゃの
オレンジが滲んでいたけれど、構わず歌い続けた。
目から溢れた水が潮風に吹かれ、冷たくなって、やがて乾いてゆ
く。途切れ途切れになってしまうのをこらえて、歌った。
頭の中に流れるメロディーだけを頼りに。聞こえてくるうたと違
って音程はばらばらで、おまけに涙と鼻水でひどく濁っていたけれど。
- 431 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:11
- 「ノノも一緒に歌い。楽しいやろ?」
隣に彼女はもういない。
けれど、瞳を閉じてみる。
そこには色褪せない世界が広がっていて、色褪せない思い出があ
って、混じりけのない海がひろがっている。
波打ち際で加護亜依が、こちらに向かって楽しげに手を振ってい
た。すきっ歯が見えるよ、自分かて八重歯丸出しやん、そんな風に、
目で会話しながら。
いつだって、彼女に逢える。そんな気がした。
- 432 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:12
-
「わたしにも…海のうたが聞こえたよ、あいぼん」
彼女に問いかける。
波にたゆたう夕陽が海に溶け出し、ゆらゆらと揺れていた。それ
がわたしには、彼女の笑顔のように見えた。
- 433 名前:最終章「海のうた」 投稿日:2004/10/12(火) 17:13
-
「海のうた」 了
- 434 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/12(火) 17:24
- 序章 >>2-8
第一章>>11-78
第二章>>84-128
第三章>>132-188
第四章>>192-227
第五章>>230-271
第六章>>276-324
第七章>>328-374
最終章>>386-433
レス返しは後ほど。
- 435 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/12(火) 17:32
- >>397 名無飼育さん
お手数かけます…
>>398 名無飼育さん
作者が遅筆なばっかりに…すいません
>>399 名無飼育さん
勘違いさせて申し訳ないです。
>>400 名無飼育さん
o、ありがとうございます
>>401 名無飼育さん
事情というか、筆が進まなかっ(ry
>>416 名無飼育さん
はい、こういう展開でした。
こう話をすすめるのは最初から頭にはあったんですが。
その前のあれをどうするのかが非常に迷ってしまったもので。
- 436 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/12(火) 17:37
- 一年以上もかかった作品ですが、これで終了です。
夏の間に終わらせようと思ったのが一年過ぎ、それでは今年の
夏までには終わらせようと思ったのが、いつの間にか夏も終わ
ってしまいましたね。自らの遅筆には情けなくて涙が出ます。
本作で一番悩んだのが加護の処遇でした。
実は最後まで彼女をどうするかを悩んでいて、悩んだ末のあれ
でした。更新した日は自分も某ギター侍のようにその月までし
か生きられない覚悟でしたが、大した反響もなく、結果本当に
あれでよかったのか悪かったのか、今でも答えは出ていません。
- 437 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/12(火) 17:41
- というわけで、色々な形の感想もお待ちしています。
中には過激な発言をしたいと息巻いている方もいるでしょうが、
個人的には歓迎ですが案内板でそういう場所があるとのことで
そちらの方にお願いします。とか言いつつレスすらつかなかっ
たらどうしようか、などと小心者丸出しなことを同時に考えて
いたりします。
1年と3ヶ月という、内容に見合わない長期連載ではありました
が、読者のみなさん、そして管理人さんに深く感謝します。
どうも、ありがとうございました。
- 438 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/12(火) 18:16
- 完結お疲れ様です。
自分はこの作品のどこか寂しげで儚げな空気が好きでした。
もう一度最初からじっくり読み直してみたいと思います。
素晴らしい作品をありがとうございました。
- 439 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/13(水) 19:58
- 完結おめでとうございます。そして、お疲れさまでした。
今までにないキャラクターが新鮮で、とても読みがいのある作品だったと思います。
会話の端々にある刹那的な雰囲気が好きでした。
P.S.
空での連載にも期待しております。
- 440 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/10/16(土) 20:20
- 完結お疲れ様です。辻がすごく好きでした。
弱さ、強さ、儚さといった部分がストレートに染みとおっていく感覚がとても不思議でした。
本当にいままでにない読後感がありました。作品の続編を期待するのはわがままですかね・・・
その後も読んで見たいのですが・・・
- 441 名前:闇への光 投稿日:2004/10/17(日) 09:09
- 初めまして。密かに見させていただいていました。
まず完結お疲れ様です。
まずこの作品を見ての感想ですがキャラクターに
関しては自分のイメージとは大きく違いました。
(私が多く見ているのと違うからかもしれません)
高橋が辻・加護に対していやな態度を取っていた理由も
人間だったら一度は考えそうな理由で分かるような気がします。
久しぶりにシリアス系の良作品に出会えました。
言葉足らずな感想ですみません。
- 442 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/22(金) 02:30
- >>438 名無飼育さん
ありがとうございます。
多分もう一度読むことで色々と粗が出てくるかもしれませんが、
その時は是非指摘してください。
>>439 名無飼育さん
今までに無い辻を書いてみよう、というのが本作を書くきっか
けだったので、そういう意味では成功なのかもしれません。
空板は、まあぼちぼちと。
>>440 名無し飼育さん
続編ですか。
書きたいような気持ちもありますが、結局纏め切れずにグダ
グタになってしまうかもしれません。
今のところは、これで完結だと思います。
>>441 闇への光さん
いえ、感想をいただけるだけでもとても嬉しいです。
高橋に関しては、作者自身の底意地の悪さのようなものが
もろに出てしまい、高橋さんごめんなさいな感じでしたが。
- 443 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/22(金) 02:47
- 最後に、内輪ネタ的なネタバラシで終わらせていただきたいと思います。
興味のない方はスルーで。
>>197
癌に蝕まれ余命幾ばくもない少女と〜
某茶砂漠を何となく想像して書いていました。作者さん、ごめんなさい。
>>235
大学生と、文房具屋の女店員と〜
実際に市販されてる小説の筋です。
興味のある方は「海で三番目につよいもの」でぐぐると出てくるかも
しれません。
>>333-335
これはもう、どこからどう見ても「ビッグクランチ」ですね。
最後わけのわからない話になってしまった、というのは辻の頭の中で
という意味です。作者さま、申し訳ないです。
- 444 名前:作者名未定 投稿日:2004/10/22(金) 02:54
- >>353
鬼を自らの内に棲まわせる女子高生
・・・魔鬼なつ(ry
体の浮いてしまうアイドル
・・・さよならエゴイス(ry
肉体の殆どを機械化した賞金稼ぎ
・・・TOWE(ry
もうまんまですね。作者さま方には非常に申し訳なく。
好きさが高じて、ということで見逃していただけたら幸いです。
というわけで「海のうた」はこれにて終了です。
まだスレッドサイズにも余裕があるので、もしかしたらこの前つい
うっかり落としてしまったスレの続きをここでやるかもしれません。
では、その時まで。
Converted by dat2html.pl v0.2