娘たちの挽歌
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月24日(日)00時05分36秒
- 久しぶりに長いの書きます。
完結めざしてがんがります。
- 2 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時07分31秒
- 《策略》
長和2年(1013)平安京、禁裏。
「何者だゴルァ! 」
ひとみは持っていた槍を、黒装束の曲者に突きつけた。
すると『黒装束』は、懐剣を抜いて反撃を始める。
深夜だというのに、騒ぎを聞きつけ、続々と衛兵がやってきた。
それでも『黒装束』は、まったく観念するようすがない。
「これで終わりだ! 」
ひとみは槍を持ちかえると、柄の先で『黒装束』の腹を突いた。
その一撃は、みごとに水月を突き、『黒装束』は崩れるように倒れた。
ひとみが『黒装束』を足で押さえつけてミエを切ると、
恐る恐る見ていた女中衆から、黄色い歓声がわきあがった。
- 3 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時08分08秒
- 「ひとみさまーっ! 」
ひとみは笑顔で女中衆に手をふると、『黒装束』の襟首をつかんで引き起こした。
近衛兵である以上、腕っぷしの強さは必須条件で、槍や弓の技術も要求される。
そんなひとみなので、曲者を生け捕りにするくらいは、いたって簡単なことだった。
「よっしゃー! たっぷり締めあげてやるからよ! 」
このところ、平安京では極端な不景気となり、
人々は、その日の食事にも、こと欠くありさまだった。
よって、禁裏(御所)に忍びこんで、盗みをはたらく輩も多い。
ものを盗むだけならよいのだが、女中衆をさらったり、
火をつける不届き者までいるので始末が悪かった。
「ひとみさま、お手柄でございますな」
同僚の麻琴は、大きく口を開けながら、ひとみを誉め讃えた。
- 4 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時09分09秒
- 当時、平安京には近衛府という役所があり、禁裏(御所)の警備を行っていた。
禁裏には女中(女性事務官)も多くいるので、女性の近衛兵も存在していた。
その女性近衛兵の中に、禁裏女中衆に大人気のひとみがいたのである。
彼女が女中衆に人気があったのは、やはりその男前の風貌からだった。
彼女が長女の吉澤家は、代々近衛府役人の家柄で、あまり偉くはなかった。
だが、堅実な仕事には定評のある家であり、多くの忠誠者を輩出している。
そんな家柄にもかかわらず、ひとみは近衛府の採用試験に、ほとんど補欠で合格した。
体力や剣術、美貌は問題なかったが、一般常識問題を全く理解していない。
そこで、実践警備につく前に、個人的な訓練を行うこととなった。
ところが、ひとみの無知・ヴォケぶりは、目を被いたくなるようだった。
「都の治安維持部隊を何という?(答:検非違使)知るかってーの! 」
「比叡山延暦寺の開祖は誰?(答:最澄)どこかのクソ坊主だよ! 」
「仏陀の本名は?(答:ゴータマ・シッダルダ)ダライ・ラマ? 」
「遣唐使の廃止を決定したのは?(答:菅原道真)偉い人! 」
- 5 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時09分55秒
- こんな調子なので、近衛府の事務方は頭を抱えてしまう。
近衛兵といえば、腕がたつ以上に、頭がよくなくてはならない。
そこで苦肉の策として、式部省の鬼と呼ばれる裕子を教育係に据えた。
裕子は公家である中澤家の長女で、式部省の役人だった。
三十路になろうとも浮いた噂がなく、巷では「鉄の女」とか、
「結婚をあきらめた女」とまで呼ばれていた。
「うちが裕子や。ビシビシいくで」
近衛府の裏に小さな小屋があり、ひとみはそこで、
鬼の裕子からのシゴキをうけることになった。
それも毎日、早朝から深夜までだった。
「うう―――、本を見ると眠くなって―――」
「起きんかゴルァ! 」
裕子の『教育』は熾烈をきわめていた。
一般常識を体に覚えこませることを実践している。
それは、まちがえるとムチでなぐるというものだった。
とにかく頭が悪いひとみなので、その小屋からは、
四六時中、ムチの音が聞こえていた。
- 6 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時10分38秒
- 「さて、もう3ヵ月目や。仕上げは式部省行ってやるで! 」
式部省といえば、時の摂政、藤原道長の傘下で台頭しはじめた組織だった。
朝廷の中枢機関である太政台とは、犬猿の仲とされている。
それというのも、一条天皇の皇后の座をめぐって、
藤原道長の娘彰子と中宮定子との冷戦が続いていたからだ。
中宮定子一派の清少納言(枕草子の作者)は秀才であり、
天才肌の紫式部を毛嫌いしていた。
運悪く、吉澤家は藤原一派ではなかったため、
式部省内で、ひとみに対する風当たりは、かなりきついものだった。
裕子の教育は拷問に近く、ひとみは心労が鬱積して行った。
「平将門は自らを何と名乗ったんや? 」
「ええと―――皇帝だったかな? 」
「『新皇』やヴォケ! なんべん言わすんやアアン! 」
「ギャァァァァァァァー! 痛い! 」
動物も調教によって、あらゆることを学習してゆく。
ひとみも裕子の『教育』で、あるていどまでは学習していった。
ところが、あまりにきびしく『教育』されてしまったので、
ひとみは精神面に、その反動がでてしまった。
ときどき発作をおこし、ブチキレてしまうのだ。
- 7 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時11分23秒
- つい先日も、何かの拍子に発作が起きてしまい、太った公家の姫に襲いかかり、
「楊貴妃はきれいな顔して豚を食い」と言いながら焚き火に放りこんでしまった。
運良く豚姫は軽いヤケドですんだが、この危険な近衛兵は評判になってしまい、
上層部では、何とかしてクビにする計画が進んでしまったのだった。
「皇太后さまに夕餉を」
女中の一行は、恭しく列をつくり、皇后の膳を持って廊下を通る。
そして、ひとみの前を通ろうとしたとき、運悪く彼女は発作を起こしていた。
焦点の定まらない目をしながら、女中衆に槍を突きつけたのだ。
悲鳴をあげながら逃げまわる女中衆を引き倒すと、素っ裸に剥いてしまう。
「このキツネどもがァ! シッポを見せろアアン! 」
正真正銘の女中衆であるから、シッポなど生えているわけがない。
公家である大谷家から奉公に来ている雅恵などは、
下半身が大きいというだけで、ひとみに執拗に責められた。
- 8 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時12分00秒
- 「立派なケツしやがって! 何か産んでみろゴルァ! 」
妊娠すらしていない雅恵に、何か産めるわけもない。
それでもひとみは、雅恵の尻を叩きながら、何かを産まそうとする。
何かを産もうにも産めない雅恵は、ひとみを振りほどいて逃げだした。
「わァァァァァァーん! 」
こうなったひとみに、もう何も怖いものはない。
皇太后に献上する食事を、全て自分で食べてしまった。
禁裏内でこのような狼藉は、即刻死罪が原則だったが、
ひとみはあまりにも女中衆に人気がありすぎた。
そこで、ひとみが所属する近衛府の上層部では、
彼女を解雇する口実を探していたのだった。
- 9 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時13分00秒
- ある日、ひとみは左近衛大将に呼びだされた。
室町時代以降、官職名は売りに出されてしまうのだが、
この当時は、実在の地位を表していた。
したがって、左近衛大将ともなると、武官の頂点に近い。
そんな偉い人に呼びだされたのだから、ひとみは嫌でも緊張していた。
近衛兵としては下っ端の彼女は、禁裏表近衛府の桟敷に座ったまま、
最高司令官である左近衛大将が現れるのを、ひたすら待っていた。
茣蓙こそ敷いてあったが、デコボコした砂利がスネに食いこみ、
ひとみは耐えがたい痛みと必死に戦っていた。
ひとみが朝から待っているのにもかかわらず、
大将が姿を見せたのは、すでに夕刻になってからだった。
「そなたが噂のひとみでおじゃるな? 話は他でもない」
白い石が敷きつめられた桟敷は、秋の夕日に染まっていた。
比叡山の山頂付近では、きれいな紅葉が始まっており、
もうじき、平安京にも恵みの秋がやってくるのだろう。
「はあ? 」
左近衛大将である『たいせー』の話によると、
最近、平安京郊外の村に鬼が出没し、
若い娘をさらって、その生き血を飲み、肉を喰らうのだという。
簡単な話、ひとみにその鬼を、退治しに行けというものだった。
- 10 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時13分38秒
- 「鬼? ―――でございますか? 」
「さようでおじゃる。何でも、古城に棲んでいるとか」
腕に自信があるひとみでも、『鬼』と聞くと怖くなってしまう。
噂に聞く鬼というのは、とても大きくて額から角が生えている。
赤い体で髪はクシャクシャの茶色で、ものすごい怪力だという。
そんな怪物を相手に、まだ少女であるひとみが勝てるのだろうか。
「辞退するわけには参りませぬか? 」
「辞退するなら、近衛から去るのじゃな」
左近衛大将のたいせーは、ひとみが鬼に食われるか、
近衛府を辞めるか、どちらかだろうと思っていた。
どちらにしろ、鬼騒動には、討伐部隊を編成中だ。
「この不景気じゃ辞められねーしなァ」
ひとみは泣く泣く、鬼退治を引き受けてしまった。
- 11 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時14分24秒
- 《鬼》
翌日、ひとみは鎧を身につけ、一間半の槍と太刀、脇差を持ち、
重い足どりで鬼が出没するという平安京郊外の村へと向かった。
人を喰らうほど凶暴な鬼と戦うのだから、こんな重装備でも不安だ。
それ以前に、相手が鬼であるから、まったく勝てる気がしなかった。
「ああ、何てことになっちまったんだろう」
ひとみは逃げだしたい気持ちでいっぱいだったが、
家のことを考えると、投げだすわけにはゆかない。
さらに、禁裏の女中衆に大人気のひとみであるため、
ここでオメオメと逃げ戻るのは口惜しかった。
「まだ18だってのによ。短い人生だったな〜」
こんなことになるなら、近衛兵になんかなるんじゃなかった。
そうした後悔の念が、次から次へと沸きあがってくる。
どうやら、潔く鬼に食い殺されるのが、ひとみの運命のようだった。
- 12 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時15分10秒
- そのころ、鬼退治の若侍が来るという知らせを受けていた村では、
村人全員が街道に並び、歓迎式典の準備をしていた。
農作物を荒らす動物の被害であれば、村が何とかしなくてはいけない。
しかし、相手が鬼ともなれば、村で解決できる問題ではなかった。
「来られたぞ! 立派な若武者じゃ! 」
村人の笛と太鼓で陽気な音楽が奏でられると、
若い娘たちが輪になってめでたい踊りを披露する。
ひとみが、なにごとかと驚きながらやって来ると、
村人たちは割れんばかりの拍手で出迎えた。
「これは頼もしいお方じゃ! 」
「きゃー! 男前よ! 」
ひとみは自分が歓迎されていることを知ると、
鬼退治も忘れて、ついつい盛りあがってしまう。
ひとみは、こういった陽気な性格だったので、
まったく人に嫌われるということがなかった。
同僚の近衛兵たちにも、ひとみは好かれている。
それは何ものにも換えがたい財産だった。
- 13 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時15分47秒
- 「あらよいよい! 」
ひとみが娘たちに混ざって踊りだすと、
村人たちは異様な盛りあがりになってゆく。
ひとみは娘たちと楽しく踊りながら、
退屈な歓迎式典へと入っていった。
「かったりーこたーいいよ。オレが鬼を退治してやるからよ! 」
「お願いいたします。娘を鬼に―――」
話を聞くと、さらわれた娘は3人だそうだ。
16歳の愛と希美、15歳の亜依という娘らしい。
ひとみは大風呂敷を広げ、歓待されることにした。
どうせ鬼が相手では、勝ち目がないに決まってる。
てきとーに戦って、逃げてしまえばいい。
そして、鬼の逃げ足が速いことにしてしまえばよかった。
- 14 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時16分33秒
- ひとみは浴びるほど酒を飲み、若い娘たちといっしょに床についた。
やがて深夜になり、祇園精舎の鐘の音が聞こえる時刻になると、
絹を裂くような女の悲鳴が、静かな村の中に響き渡った。
「ひとみさま! 鬼でございます! 鬼が出ました! 」
「ふえっ? そんじゃ、今度はオレが鬼だな」
いきなり起こされて寝ぼけているらしいひとみは、
かくれんぼをしている夢でもみていたのだろう。
いきなり両手で目をふさいで、数を数えはじめた。
「寝ぼけんじゃねーゴルァ! 鬼を退治するんだろうがアアン! 」
ドンチャンさわぎをした手前、鬼に立ちむかうのが務めだ。
まさか、鬼が出たからといって、ここに来て逃げだすわけにもいかない。
ひとみがおっとり刀で外へ出ると、路地から小さな影が飛びだしてきた。
鬼に追われた子供だと思ったので、ひとみはその影を抱きとめる。
太刀を抜き、あたりを警戒するひとみだったが、どうも様子がおかしい。
そこで子供の顔を見てみると、見たこともないような顔つきをしていた。
- 15 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時17分14秒
- 「うひゃー! お前、鬼っ子か? 」
ひとみが驚いて『子供』を離してしまうと、
そいつは脱兎のごとく逃げていった。
普段は頭の回転が遅く、後手を踏むひとみだったが、
この時だけは瞬時にある結論に行きついた。
あの『子供』であれば、素手でも勝てるに違いない。
ここは『子供』を拉致して、親鬼と交渉すればよいのだ。
まさか鬼とはいえ、我が子を見捨てる親などいないだろう。
そこで我が子かわいさのあまり、丸腰で出てきた鬼を捕らえ、
六条河原で公開処刑をとり行うのだ。
「そうと決まれば、逃がすかっての! 」
秋の澄んだ星空の下、道端ではコオロギが鳴いている。
ひとみは全速力で『子供』を追いかけていった。
- 16 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時18分00秒
- ひとみが鬼の『子供』に追いついたのは、
中秋の名月に照らされた古城の目の前だった。
捕まえた『子供』の首に太刀を押しあて、
抵抗させないようにすると、ひとみは勝利を確信する。
だが、『子供』を羽交い絞めにしたひとみは、
どうもおかしなことに気づいた。
「柔らかい―――ってことは、おめー女だったのかァ? 」
ひとみは月明かりに、『子供』の顔を照らしてみる。
すると、子供だとばかり思っていたのは、
どうやら小柄なメスの鬼のようだった。
生きたままメス鬼を捕らえたとなると、
これだけで大手柄は間違いない。
このまま見世物にしてもいいし、
天皇か太政大臣に献上すれば、
今後の出世は間違いないだろう。
- 17 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時18分38秒
- 「おめー、何て名前だ? 」
「help! ―――help! 」
「へう? 変わった名前だな」
ひとみがメス鬼を抱えて戻ろうとすると、
いきなり3人の影に囲まれてしまった。
囲んだ3人からは、殺気こそ感じないが、
どうしても行かせないという固い意思が感じられる。
ひとみは太刀を振りあげ、囲んだ者たちを威嚇してみた。
「どけ! こいつがどうなってもいいのかゴルァ! 」
「待ってください! これは誤解なんじゃ」
その声の主は、持っていた松明に火をつけた。
すると、小柄な少女が3人いるではないか。
どうやら、村からさらわれた娘のようだ。
- 18 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時19分21秒
- 「あん? おめー、テッテケテーじゃねーか? 」
越前訛りの少女は、ひとみの家に出入りしている娘だ。
たしか、近郊の村から草履を売りにきていた。
近衛兵は広大な禁裏内を徒歩で警備するため、
検非違使とともに草履の消耗が早い。
少女が持ってくる草履は、いたって丈夫なので、
ひとみは愛用していたのだった。
「吉澤のひとみさま? 」
少女は目を丸くして、完全武装のひとみを見あげる。
彼女は『愛』といい、その早口なしゃべり方から、
ひとみは『テッテケテー』と呼んでいた。
- 19 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時19分53秒
- 「そういえば、ここはおめーの村だったなァ。
―――ってオイ! おめーは鬼に食われたんじゃねーのか? 」
「ちがうんじゃ」
「ミカちゃんは優しい人なのれす! 」
「連れて行ったら許さへんで! 」
てっきり鬼に食われたと思った娘が生きている。
しかも、さらわれたはずの3人娘は、こともあろうか、
このメス鬼を庇っているではないか。
ひとみは何が何だか分らなくなってしまった。
「オラたち、連れてこられたときは、おったまげたけど」
「ミカちゃんは、とってもかわいそうなのれす」
「とりあえず、中に入らへんか? 」
娘たちが生きていたのなら、この鬼も悪者ではなさそうだ。
ひとみは警戒しながらも、古城へと入ってゆくことにした。
- 20 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時20分39秒
- 《優しい少女》
古城の中は、思ったより整理されていて、
それなりに快適な暮らしができそうだった。
部屋の片隅には、米や野菜が入った籠が置かれ、
見たこともない容器に入った血のような液体がある。
さらには、燻製にされたイノシシの後足が吊るしてあった。
「ミカちゃんの話を聞いてあげてくらさい! 」
希美という少女は、泣きそうな顔でひとみに懇願した。
あたりには他に誰かいる気配がないので、
ひとみはミカと呼ばれるメス鬼を解放する。
すると、ミカは怯えながらも、これまでのことを説明した。
「私はミカ=トッドといいます。スコットランド人です」
ミカの話によると、彼女はシルクロードを旅する商人の娘で、
唐の国で黄金の国(日本)の噂を聞き、船で渡航しようとしたらしい。
ところが、日本海で暴風雨に襲われ、船は転覆してしまったそうだ。
彼女はワインの入った樽につかまって、若狭に流れついたのだという。
- 21 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時21分18秒
- 「そうか。外国人だったのか」
鬼とは白人の男性の特徴に酷似している。
日焼けした白人の肌は真っ赤になってしまうし、
髪は茶色で細いため、すぐにボサボサになってしまう。
日本人に比べ、圧倒的に背が高く力も強い。
そして、顔の彫りが深く、鼻や額が高いため、
いつの間にか角といった話になったのだろう。
「人の血なんて飲みません。これはワイン。ブドウ酒なんです」
動物の肉を食べる習慣のなかった日本人は、
獣肉を喰らう異国人を恐ろしい怪物だと思った。
そして、話が大きくなって、尾ひれまでつき、
人の肉を喰らうということになったのだ。
「よかったら、飲んでください」
これで断っては小心者と思われるかもしれない。
ひとみは恐る恐る一口だけワインを飲んでみた。
すると、山ブドウ汁のように甘くはなかったが、
果実酒独特の香りが実にすばらしい。
- 22 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時21分59秒
- 「こいつはうめーな」
後に織田信長も愛飲したというワインは、
果物好きの日本人に合っていたのかもしれない。
ひとみはおいしいワインを味わい、
鬼にされたミカといろいろな話をした。
「でもよ、何でこいつらを誘拐したりしたんだよ」
ひとみの質問に、イノシシの生ハムを切っていたミカの手が止まる。
当時の日本には、少し山に入ると大きなイノシシがいた。
農作物を荒らすイノシシは害獣で、定期的に駆除が行われる。
ほとんどは犬の餌になるのだが、猟師の中にはイノシシを味わう者もいた。
ミカは落とし穴でイノシシを捕まえ、ハムを作っていたのだった。
「それは―――淋しかったから」
ミカは慣れない土地に漂着し、不安で仕方なかった。
若狭の漁村では彼女を見るなり、村人が逃げてしまった。
あわてて山へ逃げこみ、この古城にたどりついたのだった。
とにかく誰かと話をしないと、誰かに殺されると思っていた。
- 23 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時22分45秒
- 「女の子なら、いきなり襲ったりしないし」
ミカはシルクロードを行き来する旅商人の家に生まれたせいか、
女性を襲う野蛮な男を数多く見てきたのだった。
紳士だと思って気を許すと、いきなり襲ってくる男もいる。
だから男には気を許せないというところがあった。
「そうだなァ。都には女に飢えた連中もいるからよ」
夜の平安京は思ったより治安が悪く、
強盗・強姦・殺人といった凶悪犯罪が横行していた。
そのために、応急的に検非違使が組織され、
凶悪犯を根絶やしにしている最中だった。
ミカの判断が正しかったのは、決して都に入らず、
郊外の古城に潜伏していたことろだ。
もし、都の荒れ寺などに隠れていたとしたら、
悪党連中の餌食になっていただろう。
「それに、この子たちの食べものが―――」
数十代も米を食べてきた日本人は、どうしても肉食に慣れていない。
3人の娘たちもイノシシを食べたが、やはり米が恋しくなってしまう。
そこでミカは夜になると村に潜入し、わずかばかりの米を盗んでいたのだ。
ミカが盗んだ米は微量であるため、これまで誰も気づかないほどだった。
- 24 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時23分33秒
- 「でもよ、こんなことをしてたら、鬼だってことで退治されちまうぞ」
「―――帰りたい。生まれ故郷のスコットランドに」
ミカは泣きながら胸に手を当てた。
暴風雨で船とともに親を失い、ミカは失意のどん底にいる。
故郷に帰りたくても、彼女には海を渡る船がないのだ。
唐政府と国交があったので、日本人も碧眼を知っている。
だが、ここでミカが平安京へ行ったところで、
朝廷が船を提供するとは思えなかった。
「ミカちゃんは、とってもありがたい神さまを連れてきたんや」
亜依は胸に十字を切りながら、手を組んで目を閉じた。
するとミカは、ポケットの中から十字架を取りだして見せる。
ひとみは初めて見る外国のロザリオに、何か熱いものを感じた。
- 25 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時24分13秒
- 「これはイエスさまです。私たちを救ってくださる神の子なのです」
ミカはひとみに、イエス=キリストの話をした。
ひとみに宗教の話は難しすぎて分らなかったが、
その熱心な姿は日本の坊主の比ではない。
心からキリストを信じ、生活の一部になっていた。
「オレは頭がわりーから、よく分んねーけどよ。この国じゃ仏さまだな」
日本にも古来の宗教があったのだが、仏教の伝来とともに廃れていった。
原始的な宗教は多神崇拝であり、三大宗教のように単神崇拝ではない。
三大宗教が世界へ進出していったのも、わかりやすいからだった。
そして、その底辺にあるのは、来世では万民が平等という教えだ。
「むずかしく考えることはありません。ただ、信じればいいのです」
ミカは優しく、ひとみにキリスト教の心を教えた。
そんなミカに、ひとみは癒されている自分に気づく。
さらわれた娘たちが家に帰らないのも、
ミカの優しい心に触れたからだろう。
3人の娘は、自分の意思でここにいるのだ。
- 26 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時24分53秒
- ひとみはワインを気にいってガブ飲みし、
朝方には完全に酔いつぶれてしまった。
そんなひとみを、ミカは優しく介抱してやる。
ところで、ワインで酔いつぶれると、
翌朝は、ものすごいことになってしまう。
ひとみは昼近くになって目を覚ました。
「うっ! ここは? 」
天井は荒れていたが、壁はきれいに磨かれている。
布団を敷いている床に、秋の陽射しがさしこんでいた。
その光線の中を、小さなホコリが無数に浮遊している。
4人の少女の寝息が聞こえ、ひとみはここが古城だと思いだした。
「寝ちまったんだな」
ひとみは昨夜のことを思いだしていたが、
それと同時に、激しい頭痛に襲われる。
とにかく胃がムカムカして気分がわるく、
ブドウの腐ったような臭いが消えない。
そして、妙にノドが乾いていた。
- 27 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時25分30秒
- 「うげっ! 二日酔いだァ」
ひとみは寝床から起きあがれず、頭を抱えて痛みと闘っていた。
心臓の鼓動とともに、激しい痛みがこめかみから脳天て突きぬける。
その気配を感じてか、ミカは目を覚ましてひとみに声をかけた。
「どうしたんですか? ―――二日酔い? 」
「ああ、ちょっと寝かせてくれ」
ミカは心配そうな顔をしてひとみを見ていたが、
ただの二日酔いと分かると、声をだして笑った。
その笑顔は、やはり日本人とは違っていた。
しかし、とてもきれいなかわいい顔だった。
「笑うんじゃねーよ」
「Sorry。ごめんなさい。でも、安心したわ」
朝方まで起きていたせいか、3人娘は昼になっても目を覚まさない。
ミカは客人であるひとみのために、二日酔いに効く雑炊を作った。
これはひとみも食べたことがあるユッケジャンクッパだった。
当時、首都である平安京には朝鮮半島の帰化人も住んでいたため、
一部では、こうした料理も浸透していたと思われる。
- 28 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時26分17秒
- 「く―――食えねーよ」
ひとみはまったく食欲などわく状態ではなかったが、
せっかくミカが作ったのだからと、一口だけクッパを食べてみた。
すると、そのおいしさに、頭痛も忘れてついつい食べてしまう。
秋とはいえ、唐辛子が入ったユッケジャンクッパを食べれば、
否応なしに汗が噴きだしてきた。
「うめーな。おかわり! 」
ひとみはミカのユッケジャンクッパを気にいり、
大きなドンブリに3杯もおかわりをした。
腹がふくれたひとみは、床の板の上に寝転がる。
あまり行儀のよいことではないが、
消化には理想的な体勢だった。
「ふーっ、食った食った」
これだけ豪快に食べてもらうと、作ったミカも嬉しい。
食器をかたづけながら、嬉しそうに微笑んでいた。
- 29 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時27分11秒
- 「ひとみさん、二日酔いはどうですか? 」
「二日酔い? あれ? 気持ち悪くねーし、頭も痛くねーや! 」
ひとみは跳ね起きて首を回してみる。
二日酔いで苦しんでいるときは、
こんなことをしたら地獄の苦しみを感じてしまう。
ところが、さっきまでのつらさが、
まるでウソのように消えてしまった。
「治ったのね? よかったわ」
「わーい! ミカちゃん、ありがとう! 」
ひとみが喜んでいると、3人娘が目を覚ました。
食欲をそそるクッパの匂いに、食いしん坊の希美の腹が鳴る。
ひとみが3杯も食べたクッパは、この3人も知っていた。
- 30 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時27分52秒
- 「ミカちゃん、ののもクッパが食べたいのれす」
「はーい、待っててね」
ミカは大忙しでクッパを作り足した。
食べ盛りの娘たちばかりなので、
ミカは四六時中、ご飯を作っている。
まるでツバメの親になった気分のミカは、
餌をほしがって大口を開けるヒナに食べさせた。
「二日酔いがよ。ぴたっと治っちまったんだ」
二日酔いは肝機能が正常化すると、瞬く間に治ってしまうものだ。
それには胃に何かを入れる刺激が必要だったし、
汗をかいて新陳代謝を促すのも効果的な方法だ。
「ミカちゃんは、頭がいいんじゃ。オラもミカちゃんみたいになれんかの」
「まあ、何でもいいや。とりあえず、ガキどもは一度家に帰れ」
ひとみはとりあえず娘たちを家に戻し、
心配している連中を安心させようと思った。
そして、ひとみは正規の手続きをして、
早急にミカを保護することにしたのだった。
- 31 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時28分22秒
- 「それじゃーよ、明日にでも迎えにくるからな」
「はい、待ってますので」
「それにしても日本語がうめーな」
「唐で日本人から教わりました」
ミカには人を惹きつける魅力があった。
ひとみは娘たちを連れて村に戻ると、
大歓迎を受けて持ちきれないほどの贈り物をもらう。
ひとみはそれらを大きな布で包み、肩にかついで都に戻った。
- 32 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時29分02秒
- 《怒りと悲しみ》
翌日は朝から肌寒く、あいにくの雨模様だった。
この時期、とてもすごしやすい秋の平安京も雨霧に煙っている。
ひとみの直属の上司から間接的に報告を受けた左近衛大将は、
予想外の結果に、烈火のごとく怒っていた。
なぜなら、鬼を退治してこなかったばかりか、
漂流者を勝手に保護する約束をしたからだ。
左近衛大将は、雨が降っているというのに、
威圧的にひとみを桟敷に引きだし、まるで罪人のように扱った。
「勝手な約束などしおって! しばらく謹慎しとけ! 」
「待ってくれよ! ミカちゃんには今日中に行くって言ってあるんだよ! 」
ひとみはミカを迎えに行かねばならない。
このまま自宅で謹慎になってしまったら、
何があろうと家から出ることができなかった。
ミカが淋しい思いをしてしまうと思うと、
ひとみはいても立ってもいられない気分だ。
- 33 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時29分48秒
- 「安心せえ。今ごろ、麻琴とアヤカが行っておるわ」
「なんだ。それならそうと言ってくださいよ」
ひとみは胸をなでおろし、雨に濡れながらもため息をつく。
左近衛大将の話を聞いたひとみは自宅で謹慎をするため、
とりあえず、近衛府にある自分の荷物の整理をしていた。
彼女はこれまでに何度も謹慎処分を受けているせいか、
近衛府に置いてある自分の荷物の整理も慣れたものだ。
日没になると、ひとみは荷物を持って家に帰ることにした。
「はいやァ! 」
ひとみが笠をかぶって禁裏の入口にきたとき、
2騎の実戦装備をした近衛兵がやってきた。
それは古城までミカを迎えに行っているはずの、
ひとみの同僚でもある麻琴とアヤカだった。
「ひとみさま、左近衛大将の詰問はいかがでした? 」
麻琴はひとみを心配していた。
なぜなら、低い身分である麻琴の耳にも、
ひとみを失脚させる話が入っていたからだ。
そんな穏やかではない噂が流れだすようでは、
ひとみの解雇も決定的にちがいない。
- 34 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時30分32秒
- 「クビになっちまうのかなー。ところで、ミカちゃんはどうした? 」
「ミカ? あのメス鬼のことでしょうか? 」
「メス鬼ならここに」
アヤカは2頭の馬で引きずってきた麻袋を開け、
中から泥と血にまみれたミカを引きだす。
2人はミカを生け捕りにして麻袋に押しこむと、
こともあろうか馬で引きずってきたのだった。
「ミカちゃん! 」
ひとみは自分の目を疑った。何でミカがこんな姿に?
驚いたひとみは、二人を押しのけてミカを抱きあげた。
ミカは薄目を開けてひとみを見ると、わずかに微笑んでみせる。
雨あしが強くなり、禁裏門の石畳を雨が叩いていた。
「何てことを―――てめーら! 」
ひとみは太刀を抜くと、麻琴とアヤカに襲いかかった。
豪腕のひとみに攻められては、麻琴とアヤカでは歯が立たない。
必死に止める門番を殴り倒し、ひとみは二人をボコボコにした。
- 35 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時31分14秒
- 「ミカちゃんが死んだら、てめーらも覚悟しとけよ」
「そんなあ―――あたしたちは、左近衛大将の命令だったんで」
「仕方なくやったのよー! 」
馬に引かれたミカは重傷だったが、出血少ないので、何とか助かりそうだ。
雨が降っているため、地面が柔らかくなっていたのが幸いしたのだろう。
ひとみはミカを抱きあげると、とりあえず家に連れて行くことにした。
そのとき、数十人の近衛兵たちが、ひとみを取り囲んだ。
「鬼は渡してもらうぞ。首を刎ねて六条河原に晒してやる」
左近衛大将のたいせーは、何が何でもミカを殺すつもりらしい。
鬼を退治するという行為が、朝廷の権威の象徴でもあった。
つまり、鬼ではないと分っていても、異物を排斥することが、
当時の朝廷の政策だったと言ってよい。
「冗談じゃねーよ! ミカちゃんは鬼なんかじゃねーだろうが! 」
「やむをえぬ! ひとみともども、鬼を成敗せえ! 」
左近衛大将の命令であるから、近衛兵も逆らうわけにはいかない。
しかし、相手は男でも敵わない豪腕のひとみだ。
近衛兵たちは消極的に攻めながら、ひとみを説得してみる。
- 36 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時31分54秒
- 「その者を渡して謝られい! わしがお許しを乞うてやる」
ひとみは太刀で、近衛兵たちの槍をかわした。
約束した以上、何があってもミカを守る。
それが正しいことであると、ひとみは信じていた。
「ひとみさま! 私はよいのです。こうなる運命だったのでしょう」
ミカはひとみから離れ、近衛兵に取り囲まれた。
ひとみは必死にミカを救おうとするが、運悪く太刀が折れてしまう。
近衛兵たちは一気にひとみに飛びかかり、押さえこんでしまった。
「何がいいんだ! 殺されちまうんだぞ! 逃げろ! 逃げるんだよ! 」
ひとみは抵抗するが、数人に手足を押さえこまれ、
まったく身動きをすることができなかった。
ミカは怯えるようすもなく、ロザリオを出して握りしめた。
「すまぬな。これも命令じゃ」
「見れば若い女子ではないか」
近衛兵たちは憐れに思ったが、命令には逆らえず、
目を瞑りながら、あるいはそむけながらミカに突きかかった。
ミカは数人の槍を受け、苦しそうに顔をしかめながら倒れる。
血の海の中で苦しんでいたミカは、ひとみと目が合うと、
小さな声で「ありがとう」と言ってこときれた。
- 37 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時32分42秒
- 「うわあーーーー! 何が鬼だ! 何が征伐だ! こんなもん、虐殺じゃねえか! 」
ひとみは泣き叫び、近衛兵たちを突きはなしてミカを抱きあげた。
外国人というだけの理由で、目の色や髪の色が違うというだけで、
たまたま日本に漂着したというだけで、ミカは殺されてしまった。
「普通の女の子じゃねえか。何で殺されなきゃいけねえんだよ」
ひとみはミカを抱きしめ、ただ泣くことしかできなかった。
何の騒ぎかと、近くにいた検非違使たちがやってくる。
しかし、近衛兵たちに追い払われてしまった。
「さあ、鬼の首を取るのじゃ! 」
「ざけんじゃねえ! 」
ひとみの怒りと呼応するように、雨模様の空に雷鳴が轟いた。
稲光りに照らされたひとみの顔は、憎しみに満ちた表情をしている。
あんなに優しくていい娘を、左近衛大将は平気で殺してしまった。
ほんとうの鬼は、左近衛大将の中にいたのだった。
- 38 名前:第一章 ひとみ編 投稿日:2003年08月24日(日)00時33分12秒
- 「許さねえ。ぜったいに許さねえぞ! 」
ひとみは近くにいた近衛兵から槍を奪い取ると、
薄笑いを浮かべる左近衛大将の胸を一突きにした。
左近衛大将のたいせーは、心臓を貫かれて即死する。
一介の近衛兵であるひとみが左近衛大将を殺したともなると、
間違いなく死罪になってしまう。
「ひ―――ひとみどの! ここはお逃げなされ! 」
「われらは応戦したが、敵わなかったことにする」
近衛兵たちも、ひとみに同情的だった。
鬼と呼ばれた少女は、間違いなく人間だ。
近衛兵たちは、その目で確かめたのだ。
「―――ミカちゃん」
ひとみは息絶えたミカを抱きあげ、都から出ていった。
その後、ひとみがどうなったのかは、誰も知らなかった。
- 39 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月24日(日)00時34分21秒
- ひとみ編終了です。
次回は『なっち編』になります。
- 40 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月24日(日)14時01分26秒
- ひとみ編大量更新お疲れさま〜ミカちゃんが可愛そうです・・。
次はなっち編ですね。
楽しみに待ってます。
- 41 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月25日(月)20時28分54秒
- >>40
うわァ! いきなりレスしていただいて、とっても感激してます!
- 42 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時30分09秒
- 《ワガママ娘》
長和元年(1012)の平安京。
梅雨が明け、暑い季節の中、安倍晴明が娘のなつみは、
多くのくだらない縁談にうんざりしていた。
彼女は毎日、50人もの花婿候補と面接しなくてはならない。
都で大人気の陰陽師の娘だけあって、断っても断っても、
次々に縁談が舞いこんでくるのだった。
「イケメン全部、女グセが悪いべさ」
額に汗を浮かべたなつみは、ため息をついて足を投げだす。
さすがに陰陽師の娘だけあって、なつみは占いが得意だ。
占いといえば、どこか怪しげだが、方位学から姓名判断、
天文学、風水を駆使した立派な分析学をやっていた。
その結果は、9割もの確率で当たっている。
なつみは優秀な呪術師でもあった。
- 43 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時31分13秒
- 「なっちねえちゃん、また占いしてたの? 」
安倍家のなつみの部屋は、池に面した南向きで、
夕方ごろになると涼しい風が入ってくる。
しかし、昼ごろにはうだるような暑さになった。
なつみは浴衣一枚になって、少しでも涼をとろうとしている。
浴衣とは入浴するときに着るものだったが、
あまりに暑いので、こうした使い方もできた。
「占っても占っても、ろくな男がいないべさ」
「まったく高望みなんだから」
なつみの妹の麻美が、少しつりあがった目を向けた。
何をやらせても平均点以下の麻美は、
何度も晴明に「出てゆけ」と言われている。
そんな麻美を、なつみはとてもかわいがっていた。
- 44 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時32分01秒
- 「光源氏さまみたいに男前で、源頼光さまみたいに強く、
藤原頼長さまみたいにお金持ちはいないべかねえ」
「いるわけねーだろっての! 」
今も昔も変わらず、高収入・高学歴・高身長がもてはやされる。
現代においても、理想の結婚相手は、公務員か一流企業が多い。
身長が185センチ以上で、年収が1千万円以上だそうだ。
それでいて、年齢が30歳くらいというのだから、
残念ながら、そんな男など、この世に存在しない。
「言いきれるべか? 言いきれるべか! 」
「ちなみに『光源氏』は実在の人じゃないからね」
幸せな結婚とは、収入や世間体、イケメンがすべてではない。
長男よりも次男坊。夫元気で留守がいい。月給運搬人。
女が楽をするには、『損して徳とれ』の精神が大切なのだ。
中には縁がなくて相手に恵まれない男も存在するだろう。
しかし、そんな理想的な男など、まず見つからなかった。
- 45 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時32分46秒
- 「現実を受けいれなさいよ。陰陽師の娘が姫さまになれると思う? 」
人気一流、家柄三流では、良縁などくるわけがない。
せいぜい殿上人の妾になって、望まれない子供を産むか、
うだつのあがらない陰陽師の嫁になるのが関の山だ。
「どこかのアフォ男に嫁入りするんだべかねえ」
なつみは道具を放りだし、仰向けに寝転がった。
自分の部屋であるため、誰に遠慮をするまでもない。
そんななつみを、麻美はため息をつきながら、
「行儀がわるい」と言って起きあがらせる。
「なっちも、もう二十歳をこえたっしょ? おとうさんがうるさいべさ」
平安当時、16歳にもなれば、嫁入りするのが普通だった。
しかし、後年のように、それほど世間を意識するものではない。
平安時代は私生児があふれた時代でもあり、
その救済機関として、寺社が発達したとさえ言えるのだ。
自由恋愛、夜這いといったことが日常的に行われており、
宗教的道徳観念に縛られない時代でもあった。
- 46 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時33分33秒
- 「焦ることはないよ」
まだ18の麻美は、のんびりした口調で言う。
たしかに18歳では、それほど結婚をあせることもない。
だが、その言い方が気にいらなかったのか、
なつみは横を向いて、不機嫌そうに口を尖らせた。
「とにかく、ろくな男がいないんだべさっ! 」
容姿端麗、頭脳明晰といった、最高の男を得ることが、
適齢期のなつみにとって、当面の目標だった。
しかし、そんな男など、平安京にはいなかった。
ふてくされて座りこんでいたなつみだったが、
ふと何かを思い、嬉しそうな顔になってゆく。
「そうだったべさ。ねえ、またやろうよ」
なつみは立ちあがると、麻美の肩に手を乗せる。
ところが、麻美はその手を振りほどき、
なつみが散らかした占い道具を片づけはじめた。
- 47 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時34分41秒
- 「またおとうさんに叱られるよ。あたしなんか、出ていけって言われたんだから」
ムダだとは分っていても、麻美はなつみに意見してみる。
なつみは言いだしたら、誰の意見もきかないところがあった。
「いいから行くべさ。理想の殿方を見つける旅に! 」
なつみは脱走の常習犯で、これまでに何度も家出している。
そのたびに陰陽師の父・晴明に連れもどされていた。
だが、今度の旅は自分自身のためなので、なつみにためらいはない。
最高の伴侶を見つけるためには、待っていてはいけないと思ったのだ。
「かんべんしてよ」
麻美はなつみのワガママにつきあいきれない。
いくら実の姉の誘いとはいえ、家出につき合うほど暇ではなかった。
おまけに呪術師としては、なつみの方が優秀であるため、
あまり親に反抗ばかりしていると、
ほんとうに追いだされてしまうかもしれなかった。
「だーめ! なっちを一人で行かせるべか?
おねえちゃんが心配じゃないんだべか? アアン! 」
こうして麻美は、泣く泣くなつみにつきあうことになった。
今も昔も、ワガママな女には困ったものだ。
- 48 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時35分20秒
- 陰陽師とは陰陽道を駆使するももののことで、
けっして魔法を使うような怪しいことはしない。
しかし、物部氏の末裔でもある安倍一族は、
あるていどの魔法や超能力を使うことができた。
摂政である藤原道長は、安倍晴明の力を借りて、
政敵を斃し、ここまで出世してきた男だった。
「美海はおるか? 」
晴明は自分の部屋に、呪術を得意とする美海を呼んだ。
館の奥にある晴明の部屋は、いつも瘴気に満ちている。
噂によると魑魅魍魎の類が、晴明に救いを求めているのだという。
「これにおりまする」
美海はあまり気配を感じさせない娘だ。
まだ少女だったが、その呪術には晴明も驚いた。
安倍配下の中では、最も物部氏の血を濃く継いでいる。
晴明をもってしても「敵でなくてよかった」と言わせた娘だ。
- 49 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時35分53秒
- 「なつみが脱走する気のようじゃ。今回ばかりは止められん。
すまぬが、なつみたちを陰で支えてくれんだろうか」
晴明が考えていたのは、なつみが気づかないように、
もっとも信用できる美海に守らせることだった。
美海であれば、なつみに気づかれないような動きもできる。
やはり晴明も娘がかわいいのだろう。単なる年ごろの娘の親だった。
「承知いたしました」
そう言うが早いか、美海は再び気配を感じさせずに部屋を出ていった。
- 50 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時36分49秒
- 《なつみの力》
西の空が染まり、ヒグラシが鳴きはじめたころ、
安倍家の裏口から二人の影がでてきた。
二人は頭巾を被り、ツギのある着物を着ている。
この格好では、誰が見ても安倍家に出入りの百姓に見えるだろう。
「これで誰もなっちだとは思わないべさ」
「今度こそ追いだされちゃうよ。責任とってよね」
麻美は晴明から勘当されると確信している。
いくら姉のなつみに言われたとしても、
2人して脱走するのだから、ただではすまないだろう。
麻美くらいたくましければ、どこでも生きてゆけるとは思うが。
- 51 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時37分35秒
- 「なっちが守ってやるべさ」
なつみは確証のない約束をした。
とにかく晴明はなつみに甘いので、
恐らく実行される約束とは思われるが。
「動きやすいけど、ぜんぜんオシャレじゃないよ。この着物」
「文句言うんじゃないべさ。さあ、行くよ」
理想の結婚相手を探すことが、今のなつみの悲願である。
麻美にしても、退屈な生活から逃げたい気持ちがあった。
脱走は親に悪いと思いつつも、冒険したくなる年ごろだ。
型にはめられた生活しかできなかった2人にすれば、
社会や親に対して、精一杯の反抗だったのかもしれない。
なつみは妹の麻美を連れ、平安京から外へ出ていった。
- 52 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時38分22秒
- 平安京から離れると、いきなり淋しい場所になってしまう。
すでに陽は山の向こうに隠れ、東の空には夜の色が漂いはじめている。
山陰道に続く道の両脇には、うっそうとした雑木林がつづいていた。
こんな場所では、夜盗や山賊が現れるのも不自然ではなかった。
検非違使の活躍によって平安京から駆逐された悪い連中は、
こうした郊外に活動の場を移したにすぎない。
「なっちねえちゃん、ちょっと淋しい場所にきたね」
山賊に襲われたら、若い娘であるから、まちがいなく犯されるだろう。
そして持ち金全部を奪われ、人目につかない場所で殺される。
こうして若い命を散らした娘が、どのくらいいたのだろうか。
当時の旅は、それこそ命がけだった。
「そうだべね。タヌキに化かされないうちに通りすぎるべさ」
そんな2人の後ろから、気配を消した美海がついてくる。
彼女は人としての気配を消しさっているため、
山賊はもちろん、タヌキでも気づかないだろう。
この芸当ができるのは、晴明門下では美海だけだった。
- 53 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時38分54秒
- (うん? 山賊か。なつみさまと麻美さまなら心配ないわね)
美海はなつみと麻美の能力を知っている。
なつみはこれまで、多くの霊や魑魅魍魎と闘ったことがあった。
それを抑える力があるので、相手が人間ならもっと楽だろう。
麻美にしても、なつみほどではないが、それなりの力を持っていた。
山賊や夜盗の類であれば、まったく心配には及ばない。
もっとも、相手が大人数だと、いくらか心配だった。
「なっちねえちゃん、帰ろうよ」
とうとう麻美は、怖くなってべそをかいてしまった。
今から帰って晴明にわびれば、それほど叱られないだろう。
麻美にしてみれば、ここまで来ただけで気持ちが晴れた。
また明日から退屈な日々を送るかもしれないが、
住みなれた家に帰りたくなったのだ。
「何言ってるべさ! なっちは理想の殿方をみつけるの! 」
二人は早足で雑木林を通りすぎようとした。
そのとき、いきなり目の前に男が顔をだす。
すでにあたりには夕闇が訪れてきており、
近寄らないと誰だか分らないくらい暗くなっていたが、
男の好色に満ちた顔だけは判別できた。
驚いた麻美は、悲鳴をあげてしまう。
- 54 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時39分36秒
- 「へへへ―――久しぶりの女だな」
男は逃げだした麻美の腕をつかんだ。
なつみが見まわすと、数人の男がやってくる。
なつみと麻美は百姓の姿であるため、
この男たちも金品を奪う気ではないだろう。
そうなると、男たちの目的は女の体だけだ。
「悪ふざけはやめるべさ。そうじゃないと、なっちは怒るよ! 」
「なっちねえちゃん、助けて! 」
男たちは嫌がるなつみを羽交い絞めにし、
まだ幼い麻美に襲いかかる。
いくらなつみがお人よしでも、
かわいがってる麻美を襲う男たちは許せない。
悲鳴をあげる麻美を見て、なつみはタガが外れてしまった。
「南方の火の神よ。我がまわりを焼きつくせ―――」
なつみがそう呪文を唱えると、彼女を押さえていた男たちが、
無残にも黒こげになって足元にころがった。
そしてなつみは、麻美の着物を脱がそうとする男に近づく。
- 55 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時40分25秒
- 「帝釈天よ。そなたの力の一部を使うことを承知せよ」
なつみが男の背中に印をきると、
そいつは全身をケイレンさせながら息絶えた。
(ほう、帝釈天印を使われるとは)
美海はなつみが新しい技を覚えたことに感心していた。
なつみが使った帝釈天印は、魔物を懲らしめる技だ。
人間のように脆い体に使っては、相手を即死させてしまう。
まだまだ未熟な技だったが、山賊相手には効果覿面だった。
「う―――うわァァァァァァァー! 化け物だァァァァァァー! 」
麻美を押さえていた男は、仲間の死に驚いて、
脱兎のごとく逃げだしてしまうが、なつみは許さない。
胸に印をきり、光の玉をつくると、走ってゆく男に投げつけた。
光の玉は男を追いかけ、背中から体の中に入ってゆく。
そのとたん、男の上半身が爆発してしまった。
「なっちねえちゃん! 何もここまでしまくても! 」
麻美は問答無用に男たちを殺してしまったなつみを非難した。
悪者ではあったが、彼らには彼らの言い分があるだろう。
それも聞かずに殺してしまうのは、麻美には耐えられない。
- 56 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時40分56秒
- 「麻美を犯したときに、この黒こげが仲間割れを起こすべさ」
「えっ? 」
「なっちも麻美も殺される。男たちは同士討ちの運命だべさ」
なつみは捉まれたとき、それだけの状況が見えていたのだ。
日本一の陰陽師の娘だけあって、その能力は計り知れない。
攻撃呪文のほかにも、なつみには多くの能力があった。
「苦しまないで死ねたんだべさ。結果オーライっしょ? 」
「まあ、そうだけど―――」
なつみは麻美についたほこりを払い、襟元をなおすと、
すっかり暗くなった山陰道を歩きだした。
山陰道とはいっても、当時の街道など、
せいぜい牛車や手押し車が通れるほどの広さしかない。
また、平安京にこそ人口が集中していたが、
郊外になると、極端に人がいなくなってしまった。
(相手は山賊。遠慮はしないってか)
美海は2人の『気』を感じとりながら、静かに後を追う。
この2人であれば、山賊くらいなら怖くないだろう。
しかし、問題は魔物に襲われたときだった。
- 57 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時41分56秒
- 《魔物退治》
すっかり夜になると、二人は摂津の国に入っていた。
このあたりは、早くから農地としての開拓が進み、
平野部を利用して、大規模な稲作が行われている。
台風の被害も少なく、都に近い穀倉地帯だった。
「野宿するには寒すぎるね。どこかで宿を借りようよ」
二人は田のあぜ道を通り、数軒の集落に行きつく。
あたりでは、コオロギがメスを得るために大合唱をしている。
麻美は灯りのついている農家の戸を叩いてみた。
すると、中から警戒した男の声が聞こえてくる。
それは何やら、かなり興奮したような声だった。
「立ち去れ! 夜盗もしくは狐狸の類であろう! 」
「いえ、旅の者です。一晩、泊めてください」
「ウソをつけ! こんな夜更けに、娘が出歩くわけがない! 」
なつみは首を振った。
どうやら、この家は夜盗の被害にあったらしい。
一度でも夜盗に押しいられたことがあると、
よほどお人よしでないかぎり、夜に戸を開けることはない。
- 58 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時42分35秒
- 「ケチ! 」
麻美は精いっぱいの悪態をつくと、
なつみといっしょに集落をあとにした。
(さて、なつみさまは―――)
美海はなつみの『気』を探ろうとはしない。
なぜなら、なつみくらい呪術に長けていると、
自分の『気』を探られることに気づくからだ。
(夜通し歩いて、どこかで休む。まあ、安全なことだけど)
美海は自分ならそうするだろうと思った。
- 59 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時43分19秒
- やがて、平野部を通りすぎると、淋しい山道へとはいってゆく。
夜通し歩いて、どこかの神社や寺で休むのもよい。
暑い日中よりも、涼しい夜を歩く方が疲労は少なかった。
「山を越すべさ。そうしたら淀川っしょ」
麻美は疲れていたので、野宿でもいいから休みたかった。
しかし、なつみは一晩かけて山を越すつもりでいる。
こんな夜更けに山に入るのは、ほとんど自殺行為だった。
山賊や夜盗の危険に加え、狐狸に化かされるかもしれない。
もっとも恐ろしいのは、魔物に襲われることだった。
「山賊が出るよ」
麻美はこんな夜更けに山へ入るのが怖い。
二人で押し問答をしていると、
なつみが山の中腹に灯りを見つけた。
「お寺があるべさ。泊めてもらおうよ」
こうした寺に泊まってみるのはいいが、
翌日の勤労奉仕は、全て麻美の仕事になる。
なぜなら、とにかくなつみは早起きが苦手で、
誰かに起こされないかぎり、いつも昼まで起きないからだ。
女が寺に泊まる場合、勤労奉仕は掃除などが多かった。
- 60 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時44分09秒
- 「泊めてくれるといいんだけどね」
麻美は一抹の不安を感じていた。
先日もなつみといっしょに脱走した際、
なぜか大原の寺では宿泊を断られた。
夜更けに女だけで寺に宿泊を乞うのは、
ついつい狐狸の類と思われてしまう。
安倍晴明はキツネの子と言われているので、
あながち外れではなかった。
(うん? あの寺は)
美海は寺に僅かな邪悪な『気』を感じていた。
恐ろしい魔物の『気』ではなかったが、
あまり近づかないほうがよいかもしれない。
「頼んでみるべさ」
なつみは寺に泊めてくれるのが、あたりまえだと思っている。
たしかに寺というところは、万民に開放されるべき場所だ。
困った人に利用されてこそ、本来の寺院としての役割を果たす。
ところが、夜盗が多いとの理由だけで、旅人を泊める寺は激減した。
出家というのは、財産や家柄から脱却し、仏に近づくのが目的なのに、
寺には夜盗に狙われるような財宝が山ほどある。
このこと自体が問題であるのに、人は常に都合のよい解釈をした。
- 61 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時44分52秒
- 「こんばんはー! 泊めてほしいべさー! 」
なつみは境内に入ると、大声で住職を呼んだ。
すると、どこからともなく、怪しげな坊主が現れた。
坊主は二人を見ると、本堂に行けと言う。
麻美には何か嫌な予感がしていた。
「やっほー! 泊まれるべさ! 」
なつみはゾウリをぬぎ、真っ暗な本堂に入ってゆく。
灯油に火をつけ、なつみはうれしそうに布団を敷いた。
麻美ですら怪しげな気配を感じているというのに、
なつみには、まったく警戒するそぶりもない。
「なっちねえちゃん、何を考え―――」
「いいから寝るべさ。今日はつかれたっしょ? 」
なつみは麻美の話を、さえぎるように言うと、布団に入ってしまった。
- 62 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時45分52秒
- どのくらい時間がたっただろう。麻美はふと目をさました。
どうやら暗い本堂の中を、何かが歩きまわっているらしい。
横ではなつみが寝息をたてているので、それは他の誰かだった。
「今日は娘が二人だな。これは腹にたまるぞ」
ボソボソと話す声は、人の声には聞こえない。
それは何かの動物の鳴き声のようだった。
もしかすると、凶悪な魔物がいるのかもしれない。
麻美は枕もとにある懐剣に手を伸ばした。
その手をつかんだのは、眠っているはずのなつみだった。
「放っておくべさ。何もできないっしょ」
なつみはのんきに寝返りをうつ。
だが、麻美にしてみれば、怖くて仕方ない。
化け物に襲われて食べられては、身もふたもないからだ。
この時代は、まさしく百鬼夜行の時代だった。
「さて、大人から食うかな? それとも子供から食うかな? 」
化け物は二人の足もとにやってきた。
なつみはまったく無視を決めこんでいたが、
とにかく麻美は怖くて仕方ない。
恐怖が頂点に達し、麻美ははね起きると、
化け物めがけて木魚を投げつけた。
- 63 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時46分40秒
- 「きーーーーーーーーーーーーーー! 」
木魚は化け物に当たり、とてもいい音がした。
化け物は逃げようとするが足にきており、
少しだけ歩くと、ばったり倒れてしまった。
このていどの魔物であれば、まったく恐れることはない。
麻美は少し臆病になりすぎていたようだ。
「騒々しいべさ! もう! 放っておけって言ったっしょ! 」
なつみは起きあがって灯油に火をつけた。
すると、そこに倒れていたのは化け物ではなく、
頭に大きなコブをつくった小さな子ダヌキだった。
なつみは子ダヌキを抱きあげると、優しくコブをなでてやる。
そうしているうち、驚いたことに子ダヌキのコブが小さくなってゆく。
なつみは他人の傷を癒すことができた。
「ごごご―――ごめんなさい! 」
気がついた子ダヌキは、泣きながら2人にあやまった。
その仕草がかわいらしく、なつみは抱きしめてしまう。
子ダヌキは、なつみの笑顔を見て、少しだけ安心したようだ。
麻美も安心したようで、布団の上に座りこんでいる。
- 64 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時47分34秒
- 「まったくイタズラっ子だべね。和尚さんもグルっしょ? 」
なつみが言うと、さきほどの坊主が、ばつが悪そうに現れた。
頭をかきながら苦笑する坊主は人間のようだが、
これには、どういった理由があるのだろうか。
「うむ、法力のある女子とは思っていたが」
和尚は荒れ寺の住職だが、いよいよ食うものに困り、
たまたま寺に棲みついた身寄りのない子ダヌキと結託し、
寺に泊まった旅人を驚かせては、持ち金をくすねていたのだった。
荘園制度が発達したため、口分田が変に変えられてしまい、
以前は立派だったこの寺も、次第に廃れていったのである。
こんな寺にも、貴族社会の歪みが影響していた。
「この寺は方位が悪いべさ」
夜が明けると、なつみは寺の階段の位置や本尊の向き、
各方角に置く花や飾りものなどを、ていねいに指導した。
こうした方位学にしたがって、気分一新改装してみると、
意外に運勢が変わって、運気がやってきたりする。
2人は裏山で見つけたヤマイモと米で朝食を作り、
和尚や子ダヌキといっしょに朝食を食べた。
- 65 名前:第一章 なっち編 投稿日:2003年08月25日(月)20時48分11秒
- 「さすがに女子じゃな。久しぶりに美味しい朝食にありついたわい」
このクモスケ坊主も、食べてゆけるだけ寺が再興したら、
きっと優しい昔の和尚さんに戻ることだろう。
身寄りのない子ダヌキを哀れに思う、根は優しい坊主だったのだ。
なつみと麻美は、一宿一飯の礼として、運気の宿る札を本堂に張る。
これで、少なくとも今よりは、生活が楽になることだろう。
「今日も暑くなりそうだべね。それじゃ、お世話になったべさ」
なつみと麻美は、和尚と子ダヌキに見送られながら、
日本一の男を見つけるために、西へと向かっていった。
(まあ、かわいいものだわ)
美海は持ってきた干し米をかじりながら、2人の後を追っていった。
- 66 名前:名無しさん 投稿日:2003年08月25日(月)20時50分15秒
- なっち編終了です。
次回は『圭織編』になります。
- 67 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時10分23秒
- 《黒い女》
真っ黒な袴に羽織を着た女は、夜だというのに、
漆黒の闇の中で、迷うことなく馬を疾走させていた。
山陰道の裏道にあたる、細く曲がりくねった道を、
女は恐ろしいくらい大きな黒馬に乗って走っている。
その巨大な馬の背高は6尺(約1.8メートル)ほどもあり、
普通の馬よりも2尺(約60センチ)近く高い位置にあった。
女を乗せた黒馬は、森に入ると1寸先も見えないというのに、
さらに速度をあげて走っていた。
「どうどう! どうー! 」
女は馬を停止させると、意識を集中して方角を見定めた。
そして、荒れた道を古城に向かって、馬を走らせていった。
- 68 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時11分21秒
- 古城では松明が焚かれ、数人の男が交代で見張りをしていた。
平安京に遷都されて200年あまりがたち、それ以前の古城は荒れはてている。
それでも雨露をしのげる場所として、山賊たちが棲家としていたのだった。
仮にも城塞であるから、立地条件としては、大軍に攻められても平気だ。
しかし、老朽化は騙すことができず、居城としての役割は果たせない。
「このところ、源頼光が山賊征伐をしてたけど、下火になったみたいだな」
「おう、助かるよ。源頼光が相手じゃ、うちの頭だって敵わねーからよ」
源頼光は古今東西最強の武将と言われていた。
1度として負けたことがなく、敵に背を向けたことがない。
その強さには、毘沙門天が降臨したとさえ言われていた。
「源頼光がきたら、俺は逃げるね」
「こんな山奥まではこねーだろ? 」
そこへいきなり、巨大な馬に乗った女が現れたのだから、
城門にいた男たちは驚いて、腰を抜かしてしまった者までいた。
「『袴垂まこと』の隠れ家はここか? 」
女は馬に乗ったまま、腰を抜かした男に聞いてみた。
しかし、男は槍を向けて、女が誰なのか聞くのがやっとだった。
- 69 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時11分57秒
- 「て―――てめーは誰だ! 」
見張りの男の声を聞き、古城からは大勢の男たちがでてきた。
それぞれに武器を持ち、またたく間に女を包囲してしまう。
これだけ大人数の山賊に囲まれると、かなりの恐怖感がある。
だが、女は余裕の表情で馬から飛びおり、再び全員に聞いた。
「おめーらは質問に答えればいいんだよ! 」
女の迫力に、男たちは完全に呑まれてしまっていた。
山賊の巣窟へ、女がひとりだけでやってくるとは、
いったい誰が予想できただろう。
「こ―――このアマ! 」
ひとりの男が女の羽織をつかんだ。
そのとたん、男は手から煙をだして悲鳴をあげた。
手に大ヤケドを負った男を抱え、その場の全員が数歩退く。
女は羽織の男につかまれたあたりを払うと、
困ったような顔で笑った。
「バ―――バケモノだ! 」
男たちは古城へ逃げこもうと、狭い城門に殺到する。
女は飛びあがり、男たちの頭を踏みながら城内に入っていった。
- 70 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時12分40秒
- 古城の奥の間では、今日さらってきた若い娘を、
この山賊の頭である『まこと』が手篭めにしている最中だった。
泣きながら抵抗する女を素っ裸に剥き、まことは挿入しようとしている。
そんな緊迫した雰囲気の中、黒羽織の女が彼の顔を覗きこんでにっこり笑う。
「どわァァァァァァァァァァー! てめーは誰だゴルァ! 」
驚いたまことは、近くにあった太刀をつかんだ。
せっかくの楽しみを邪魔されたまことは、
この女を叩き斬るつもりらしい。
だが、女はまったく警戒することはない。
「とりこみ中に悪いな。こっちも急ぎの用だ」
「ふざけやがって! 死ね! このアマ! 」
まことは太刀を抜くと、上段から女に斬りつけた。
女はべつに臆することもなく、羽織の袖で太刀を受ける。
すると、太刀は真っ赤に焼けて飴のように折り曲がってしまった。
「あちちちちち―――あちー! 」
まことは太刀を放し、ヤケドした手を振って冷却しようとする。
女の背後には、まことの手下たちが集まってきたが、
まったく手をだすことができなかった。
女は懐から布袋をとりだして、まことの前に放った。
その重い金属音からして、袋の中は金か銀が入っているらしい。
- 71 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時13分20秒
- 「私は出雲石黒家の筆頭の彩だ。じつは、おまえに頼みたいことがあってな」
袴垂まことは半貴族半山賊という、珍しい生活をおくっていた。
べつに山賊といったヤバイ仕事などをしなくても、
あまりぜいたくをしなければ悠々自適の暮らしができた。
それなのに、なぜ山賊をやっていたのかというと、
それは持って生まれた性質にほかならない。
つまり、略奪と殺戮が好きだったのである。
「こいつは前金だ」
彩は懐から、もう一袋だして放った。
まことは袋の中を調べてみる。
すると、中には黄金色の金が入っていた。
こんな大金は、まことですら見たことがない。
「すげー! これで前金かよ」
「成功報酬は、この倍をだそうじゃないか」
ここにある金だけでも、まことの全財産の数倍はある。
この金を使えば、もっといい武器が手に入った。
それで、もっと略奪と殺戮を楽しむことができる。
そんな嬉しい話が舞いこんできたのだから、
まことは彩の話に集中した。
- 72 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時13分54秒
- 「丹後の国府を襲撃してほしい」
「―――そいつはできねえよ。源頼光がだまってねえからな」
仮にも一国の国府を襲撃しようものなら、
恐らく平安京から討伐軍がくるだろう。
しかも、不敗神話を持つ最強武将の源頼光が、
百戦錬磨の精鋭を連れてくるに決まってる。
いくら200人からの手下を持つ袴垂まことでも、
けっして、たちうちできる相手ではない。
生け捕りになって、六条河原で磔になるのが関の山だ。
「名乗らねば誰の仕業か分るまい」
彩はしゃがんで上目づかいにまことを見た。
きれいな顔をしているが、彩はどこか冷酷な雰囲気がある。
「できれば」彩が言った「皆殺しにしてくれ」
それは依頼ではなく、ほとんど命令だった。
「わ―――分った。任せてくれ」
まことが承諾すると、彩はにっこりと笑って、
まるで風のように古城から去っていった。
- 73 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時14分38秒
- 《弓》
丹後国府を預かるのは、中級貴族である飯田家の面々だった。
飯田家長女の圭織は、今年22歳になるが、まだ良縁に恵まれない。
それというのも、美人ではあるのだが、このうえなく背が高いのだ。
おまけに弓の名手で、クマでさえ射殺す腕だから始末がわるい。
これでは、どんな男でも尻ごみしてしまうだろう。
「う〜ん、圭織的には、こっちの弓がいいな」
丹後国府は狭いところだったが、みごとな弓道場を持っていた。
それは圭織が父の丹後守に、熱心に進言したからだった。
幼いころから弓が好きだった圭織は、その戦略価値を熟知している。
当時の合戦では、弓の射合いから始まり、足軽戦へと移行していた。
最終的な決着こそ一騎討ちだったが、弓の射合いで有利になれば、
足軽戦で敵が崩れてしまうものだった。
そのため、圭織は弓の稽古を兵士に命じていたのだった。
「圭織さま、この弓は三人張りですぞ」
弓の指南役は、圭織の力にあきれていた。
三人張りとは、大人が3人で弦を張った弓のことで、
並みの力では射ることができない。
この弓は、特に力の強い男が張ったものであるから、
『弦を引くにも3人がかり』と言われていた。
- 74 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時15分34秒
- 「なんかさー、矢が短いのよね」
圭織はこの大きな弓を射るには、通常の矢では短いと感じていた。
そこで、特別に1.5倍の長さの矢を作らせてみた。
矢を長くするには、飛行を安定させるために、太くしなくてはならない。
矢を太くすれば重くなってしまうのだが、この弓で射れば関係がなかった。
「これこれ! この感触よ! 」
圭織は矢を思いきり引くと、2寸厚の杉板めがけて射かけてみた。
すると、20間(約36メートル)も離れているというのに、
矢は杉板を貫通して、その10間も後ろにあるカエデの木に突きささった。
紅葉した葉が舞い、圭織は満足した笑みをもらす。
「圭織さま、もはやこれは弓ではありませんな」
圭織が気にいった弓で射た矢は、とにかく飛行距離と威力が違う。
すべてが1.5倍といった感じで、実戦では敵に恐怖をあたえるにちがいない。
圭織の世話をしているのが、侍女の美貴だった。
美貴は美濃にある荘園の娘で、圭織が気にいって連れてきたのだ。
さすがに土豪の娘らしく、ナヨナヨした感じではない。
圭織が弓を教えると、またたく間に上達していった。
- 75 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時16分12秒
- 「う〜ん、そこの握りがね―――」
圭織は弓の握り方について、美貴に注意しようとした。
弓というものは、左手の握り方がしっかりしていないと、
どこへ飛んでゆくか分らないシロモノだった。
どうしても、矢を射ると同時にブレてしまうからだ。
「握りがどうかしましたか? 」
「つま先に―――」
「妻が先に死んだら男ヤモメですよ」
「だから、つま先に力を―――」
「圭織さま、それを言うなら指先です。つま先とは足のことですよ」
圭織がひとつ注意する間に、美貴は3回もツッコミを入れている。
ツッコミもいいかげんにしないと、意外に圭織はキレてしまう。
彼女が恐ろしいのは、むくれた顔のときではなく、笑ったときなのだ。
- 76 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時16分51秒
- 「あははは―――ねえ、笑って! 」
「えっ? 」
弓の的に縛りつけられた美貴は、必死の形相で悲鳴をあげていた。
圭織は美貴の頭の横や脇の下を狙って、三人張りの弓を射ている。
圭織の放つ矢は、恐ろしいほどの唸りをあげて飛来してきた。
あんな矢が頭に命中したら、刺さるどころか破裂してしまうだろう。
「お許しを! 圭織さまーっ! 」
美貴は泣き叫ぶが、圭織は秋の西日を背に受けながら、
うす笑いをうかべながら、矢を射つづけたのだった。
- 77 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時17分40秒
- 秋ともなれば、栗の木の実が食べごろになる。
圭織は竹の棒で栗を落とし、カゴいっぱいに収穫した。
これを炭で焼いて食べると、甘くて美味しいのだ。
「美貴、炭をおこしてくれるかな? 」
「はーい、おこしました」
美貴は横になっていた備長炭を、タテに起こしてみた。
その備長炭を、圭織は凝視してニッコリと笑う。
美貴にしてみれば、かなりおもしろいボケだったが、
圭織はこういった冗談が大嫌いだった。
「あははは―――ちょっと甘えてもいいのかな? 」
圭織はカゴの中味を美貴の頭からぶちかけた。
カゴの中味はイガのある栗の実である。
美貴は激痛に悲鳴をあげた。
「刺さってる! 刺さってる! 痛いよーっ! 」
頭に栗をつけた美貴は、必死に逃げまわっていた。
なぜなら、圭織が弓を持って狙っていたからである。
圭織は美貴の頭についた栗を、器用に矢で射落としていった。
- 78 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時18分31秒
- 圭織が剛弓であるのに対し、美貴は張りの弱い弓を使っていた。
これだと射程は短くなるが、美貴は放物線を描いて的に命中させる。
矢じりを砥いでおけば、それでも殺傷力はあるだろう。
放物線を描いて命中させるのは、熟練技といってもよい。
何しろ、すべて勘が頼りになるからだ。
「圭織さま、こうすれば、塀の向こうの敵まで狙えますよ」
弓道場で練習をしていた美貴は、放物線を描いて矢を射ってみた。
この射方であれば、障害物を越えるので、城攻戦には有利だろう。
しかし、野戦では矢防板があるので、あまり意味がなかった。
「そうだけどさー、圭織には必要ないよ」
「なぜですか? 」
圭織は困ったように首を傾けると、三人張りの弓で土塀を狙って射てみた。
すると、矢は低い土塀を貫通して、つないであった牛の尻に命中する。
圭織の弓であれば、放物線を描く必要などなかったのだ。
「ね? ―――あれ? 」
「わァァァァァァァァーん! 」
尻に矢が刺さり、怒った牛は土塀を跳びこえ、
赤い着物を着た美貴を追いかけまわしていた。
- 79 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時19分14秒
- 《襲撃》
秋の色が濃くなっていったある日の明け方、
圭織は大勢の兵士の大声で目を覚ました。
ようやく鳥たちが活動を始めるくらいの時刻で、
まだ青っぽい光が、障子を通して部屋にとどいている。
平安京が平和になる一方、地方の治安が悪化する中で、
諸国府はいつの間にか城塞化されていた。
その国の利益がすべて集まる場所であるから、
山賊にとっては犠牲覚悟で襲いたい場所にちがいない。
そんな危険があったので、国司はそれなりの備えをしていた。
「どうしたのよー、寝られないじゃん」
あまりの騒がしさに、圭織は寝巻き姿のまま、
こんな時間に何ごとだろうと廊下に顔をだしてみた。
秋の明け方であるため、少しばかり寒いのか、
圭織は綿入りのハンテンを着ている。
すると、ものものしい甲冑を着た男たちが、
慌しく走りまわっているではないか。
非常事態であることは理解できたが、
圭織は安眠を邪魔されて機嫌がわるい。
ふくれっ面をしていると、転がるように文官が走ってきた。
- 80 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時19分59秒
- 「賊が攻めてきました。姫さまは安全な場所へ」
文官が圭織を誘導しようとしたとき、すでに彼女は甲冑を着はじめていた。
いくら非常事態とはいえ、飯田家の姫に戦をさせるわけにはゆかない。
圭織を案じた文官や侍女たちは、何とか思いとどまらそうと必死になった。
「なりませぬ! 姫にもしものことがあったら―――」
そこへ走ってきたのは、甲冑を身にまとった美貴だった。
彼女は弓矢と薙刀をかつぎ、圭織が支度するのを待っている。
敵が城内に乱入してきたら、命に代えても圭織を守らなくてはならない。
文官や侍女たちは、美貴に圭織を説得するように頼んだ。
「見て分るとおり、この戦は篭城戦でございます。
篭城というものは、女子供にいたるまで、闘うものと思いますが」
美貴の言うことは正しかった。
人数的に不利であれば、城塞を頼りにするしかない。
つまり、城塞が破られれば、勝ち目がないのである。
篭城戦で敵を追いはらっても、戦略的な勝利にはならない。
しかし、生存こそがすべてに優先するという現実がある以上、
死なないために、全員で城を守るしかないのだった。
- 81 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時20分39秒
- 「わしは弓の射方など知らんぞ」
文官は泣く泣く、武器を持って闘うことになってしまった。
楠流戦法が浸透する前は、篭城は最終手段と言われていた。
戦国時代のように、たえず兵糧を備蓄していれば話は別だが、
国府ていどの要害では、長期戦になったときに食糧の問題がある。
知らせを受けた朝廷が援軍を出発させるまで、
当時は半月ちかくの日数が必要だった。
「それなら槍をお使いください。近くの敵を刺すだけのことですよ」
篭城戦の場合、至近では弓が使えないため、
どうしても槍が活躍することになる。
土塁や空掘を這いあがってくる敵は、
槍で突くことしかできなかったのだ。
「さ〜て、山賊の類でしょう? 追いはらってくるね」
圭織は甲冑をまとうと、押入れから長い矢をとり出し、
床の間に立てかけてあった巨大な弓を持って部屋を出てゆく。
圭織は美貴に誘導され、正面の櫓を目指して走った。
侍女たちは慌てて後を追うが、圭織はスルスルと櫓に登ってしまった。
- 82 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時21分17秒
- 「へえ、ずいぶんと大人数じゃん」
山賊たちは矢防板にかくれて、少しづつ国府に近づいてくる。
あまり接近させてしまうと、長槍で突かれることになるだろう。
接近戦になると、いくら城塞があるからといって数に負けてしまう。
そうなると、いっきに攻めこまれてしまうかもしれなかった。
「追っぱらいましょう」
そう言った美貴の目の前に、賊が放った火矢が刺さり、
彼女はひどく驚いて、腰をぬかしてしまった。
半分は前方に意識を集中していないと、流れ矢で負傷することになる。
圭織は美貴に教えていたのだが、つい忘れてしまったようだ。
「注意しなきゃダメだよ」
圭織は火矢を抜き捨てると、三人張りの弓に矢をつがえ、
接近してくる矢防板めがけて放ってみた。
それは通常の矢とちがい、矢防板を紙のように貫いてしまう。
しかも、矢防板を持った男の胸を貫き、その後ろの男の腹まで貫いた。
そして3番目の男の太股をえぐり、地面に突きささったのである。
- 83 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時21分57秒
- 「そんな! に―――逃げろー! 」
山賊たちは常識はずれの弓矢に、射程外まで退却することにした。
逃げおくれた数人が、圭織の弓で射殺されてゆく。
その矢の恐ろしさは、人体を貫いてしまうことだった。
普通の矢であれば、体に突きささることはあっても、
全て貫通してしまうといったことはおきない。
「あれは神弓なのか? 」
まことにとっては圭織の弓の威力が、
まるで神の力のように見えたのだ。
山賊をやりはじめて数年になるが、
まことはこれほどの弓を見たことがない。
その矢は甲冑の金属部分を貫くときに、
矢じりとぶつかって火花がでる。
射られたものはけっして倒れたりせず、
そのまま走っている最中に死んでいた。
「頭、出直しましょうや」
「そうだな。このままじゃ全滅しちまう」
まことは作戦を練りなおすことにした。
- 84 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時22分36秒
- 圭織は少なくとも20人を射殺していた。
その弓の威力に、味方の兵たちも戦慄してしまう。
それでも、圭織の弓に怯えて射程外まで逃げた山賊に対し、
兵たちは気をとりなおして鬨の声をあげる。
「あれが大将だと思うんだけどね。届くかな? 」
「遠すぎますよ」
せいぜい30間(約54メートル)なら狙える距離だったが、
その倍近い距離ともなると、弓での狙撃は困難だった。
運よく命中したとしても、致命傷を負わすことはムリだろう。
それが弓の限界とも言えた。
「やってみるね」
圭織は50間(約90メートル)先の男に狙いを定めた。
これほど遠く離れてしまっていては、
普通の弓では決して届く距離ではない。
しかし、圭織は自分の腕と弓の能力を信じ、
深呼吸をしながら気を集中させてゆく。
『ぜったいに命中する』と言いきかせ、
圭織は無心で矢を放った。
- 85 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時23分14秒
- 「野郎ども! 引きあげ―――はがっ! 」
圭織が放った矢は、まことの頭を貫通し、
横にいた男の胸に突きささって止まった。
大量の血と脳漿を吹きだしながら、
まことは大の字に倒れた。
「わァァァァァァァー! 頭がやられたァァァァァァァァー! 」
統率するものが死ぬと、あとは烏合の衆である。
山賊たちは武器を捨て、クモの子を散らすように逃げていった。
袴垂まことの、ほんとうにあっけない最期だった。
- 86 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時28分59秒
- 圭織編終了です。
次は真里編になります。
つたない小説ですが、感想や批評をいただけたら嬉しいです。
まだ、ほんの出だしですので、本編は第二章からになります。
- 87 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月27日(水)19時30分22秒
- 真里編はシリアスな展開ですので、これに懲りずに読んでください。
- 88 名前:きゃる 投稿日:2003年08月30日(土)03時27分25秒
- もしかして二章から全部の話がつながるんですか?
更新楽しみに待ってますねo(^-^)o
- 89 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月30日(土)18時46分15秒
- >>88
レスありがとうございます。
そのとおりです。
第一章は娘たちのオムニバスストーリーで終わりですね。
とりあえず、第一章は次の梨華編で終わりになります。
- 90 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月30日(土)18時47分17秒
- 《丹後国分尼寺》
丹後国分尼寺は、じつに400年もの歴史があった。
国府というものができる前、日本の地方行政は、
すべて国分寺や国分尼寺が行っていたのである。
国府での行政が始まっても、国分尼寺だけは、
まったく廃れずに、寺院として機能してきた。
なぜなら、国分尼寺こそが領民の救済機関だからだ。
あるときは駈けこみ寺として、またあるときは乳児院として、
あるときは虐待被害者救済施設としての役割があったのだ。
「真里ちゃん、絵里をお願いね」
まだ5歳になったばかりの真里に、赤ん坊を背負わせるのは酷だった。
しかし、そうでもしないと、尼僧たちは食事を作ることができないのだ。
- 91 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月30日(土)18時48分04秒
- 真里と絵里は捨て子だった。
どちらもヘソの緒がついた状態で、
国分尼寺の前に放置されていたのだった。
多くの望まれない子供が殺されるというのに、
この2人は捨てられただけ幸運だったのだろう。
捨てた親にしても、わが子を殺すのが忍びなく、
わざわざここまで捨てにきたにちがいなかった。
「美帆ねえちゃん」
真里はひとまわり年上の美帆を慕っており、
いつもくっついている気弱な子だった。
そんな真里にも絵里という妹分ができて、
子育ての手伝いをしていたのだった。
- 92 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月30日(土)18時48分51秒
- 美帆は運動神経がよく、真里に宙返りや木のぼりを教えた。
小柄な真里だったが、おおらかな美帆に根気よく教えられ、
いつの間にか軽業師のようなことができるようになっていた。
雨漏りがして困るときも、真里がスルスルと屋根へのぼってゆき、
痛んでいるところや、壊れたところを修理してしまう。
そんな真里は尼寺のみんなから、とてもかわいがられていた。
「寒くなってきたね」
15歳になった真里は、年明け早々にも剃髪して尼になる予定だった。
とても小さな尼僧だったが、真里の坊主頭もかわいいことだろう。
真里が剃髪することは、美帆と妹分の絵里が、とても楽しみにしていた。
「真里ねえちゃん、剃髪したら頭が寒くなるね」
「そうだなー、きっと寒いんだろーな」
元気で明るい真里がいると、尼寺全体が楽しくなった。
先代が亡くなると、美帆が住職となり、若い尼僧ばかりになる。
若い力が集結し、丹後国分尼寺は、活気に満ちあふれていた。
尼僧や真里たちを含めると、30人もの大家族である。
真里と絵里、そして住職の美帆は、縁側に座って晩秋の夜空を見ていた。
- 93 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月30日(土)18時49分33秒
- 「美帆ねえちゃんは、何で尼さんになったの? 」
「それは―――」
美帆の家は貧しかった。
食べものにも苦労するくらいで、極貧のひとりだったのだ。
美帆が12になったとき、父親は彼女に客をとることを命じた。
「とにかく、家を出たかったの」
美帆のことを知った先代の住職は、国司と相談し、
この尼寺で預かることにしたのだった。
毎日客をとらされていた美帆は、死ぬことまで考えた。
それだから、この尼寺に保護されたときは、
とても嬉しかったのである。
「ここにいれば、つらい思いをしなくていいし」
多感な少女時代を、男の慰み者ですごすのは、
ひとりの女として、とてもつらいことだった。
仏門に入るということは、女を捨てることだが、
美帆にはそれが、少しも悲しくはなかったのだ。
- 94 名前:第一章 圭織編 投稿日:2003年08月30日(土)18時50分25秒
- 「そうだよね。食べていけるし」
尼寺ということもあり、門前に捨て子というのも珍しくない。
ところが、多くの子供は死んでから捨てられていた。
そんな不幸な子供を、真里たちは火葬してから埋葬している。
狭い尼寺の境内では、多くの死体を埋葬することができなかったし、
疫病で死んだ死体は、病原菌の宿主になるからだった。
「さあ、明日は麦踏みをするわよ」
尼寺では裏山に小さな畑を作って、
そこで麦や野菜を栽培していた。
米は国府から必要なだけ届けられていたし、
野菜は近所の信心深い人々からの寄進がある。
けっしてぜいたくな暮らしはできなかったが、
誰も飢えることはなかった。
「絵里、もう寝ましょうね」
数日前まで鳴いていたコオロギも、すでに死にたえたのだろう。
朝になると、きびしい寒さの日が増えていった。
冬を越すための焚き木や炭を、そろそろ準備しておかねばならなかった。
- 95 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時51分56秒
- うわっ! 名前欄をまちがえてました!
- 96 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時52分44秒
- 《尼寺全滅》
「いいか? 金めのものをいただいたら、女はこの場でかわいがってやれ。
ぜったいに連れて帰るんじゃねえぞ。アシがついたら終わりだからよ」
好色な笑いを浮かべる男たちは、50人にものぼっていた。
みな、略奪と強姦を目的に、丹後国分尼寺までやってきたのだ。
寺社を襲うのは、これまで山賊たちも自粛していたのだが、
いよいよ生活に困りだし、背に腹はかえられなくなったのである。
この国分尼寺には、冬を越せるだけの食糧もじゅうぶんにあった。
多くの生活物資も完備され、それこそが略奪の対象となる。
とくに、これからの季節を考えると、暖かい布団は必要だった。
「このご時世に、女ばかりだとはマヌケだぜ」
尼寺では女ばかりであるため、国司に警備を要請していた。
ところが、そんな面倒なことは、国司としてもやりたくない。
陳情のたびに、国司は曖昧な返事ばかりしていた。
国府を預かる国司にしてみれば、生産性のない尼寺など、
なくなってしまった方がよかったのである。
その分を使って上司にワイロを贈り、出世したかったのだ。
- 97 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時53分18秒
- 「尼寺の灯が消えましたぜ」
手下の報告を受けた山賊の頭領は、もう少しだけ待つことにした。
誰もが熟睡したときを狙うのが、もっとも理想的な襲撃方法だからだ。
子供や年寄りは斬り殺し、若い尼僧を強姦して殺す。
そして持てるだけの食糧と生活物資を運びだすのだ。
「寒いな。早く女を抱きてえぜ」
頭領は手下の好色な意見を尊重してか、
少々早いが、襲撃することにした。
どうせ相手は非力な女たちだったし、
国府からは3里(約12キロメートル)も離れている。
ここで明け方まで暴れたところで、
国府軍がやってくるのは夜が明けてからだろう。
当時の軍の機動性など、そのていどのものだった。
- 98 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時54分54秒
- 熟睡していた真里と絵里のところへ、美帆が泣きながら飛びこんできた。
驚いた真里は悲鳴をあげて飛びおきるが、絵里は目を覚まさなかった。
美帆は絵里を抱きあげ、真里の手を引いて裏口から逃げようとしている。
ようやく意識が正常に戻った真里は、何が起こったのか美帆に聞いた。
「賊が攻めてきたのよ! 早く逃げるの! 」
3人は裏口に走ったが、そこには2人の山賊が待ちかまえていた。
山賊たちは誰も逃がさない鉄壁の作戦を実行してきたのだった。
美帆は真里と絵里を抱きしめ、何とかして逃がそうと考える。
しかし、相手が男2人なので、どうすることもできない。
「女はこっちへ来い! ガキには用がねえ! 」
2人の男が美帆の腕をつかみ、引き寄せようとした。
真里は男の腕に噛みついて、何とか美帆を救おうとする。
ところが、松明で肩を殴られ、真里は痛みに倒れこんだ。
- 99 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時55分50秒
- 「真里ねえちゃん! ―――このっ! 」
絵里は松明を持った男の股間を蹴りあげた。
幼い絵里では、男と闘っても勝ち目はない。
そんなときには、急所を蹴り上げてやればよい。
どんなに力が強い大男や太刀を持った武士でも、
これをやられては襲うことができなくなった。
悶絶する男をよそに、絵里は真里を抱きおこす。
「このガキ! 」
美帆をつかんだ男は、太刀をぬいて2人に襲いかかる。
これには真里と絵里も、恐怖に足がすくんでしまう。
ところが、美帆は足に抱きついたため、男は転んでしまった。
「逃げなさい! 早く! 」
「離せ! このアマ! 」
男は何度も美帆の顔を殴った。
歯が折れ鼻血がでても、美帆は決して離そうとしない。
美帆は真里と絵里だけは、何としてでも救いたいと思っていた。
仏門の身ではあったが、死んでしまえばそれまでだと、
美帆は常に考えていたのだった。
「美帆ねえちゃーん! 」
真里と絵里は、後ろ髪をひかれる思いで裏口から脱出した。
- 100 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時56分47秒
- 2人は山に逃げこみ、けもの道を走った。
何度も転び、崖から転落しそうになりながら、
とにかく見つからないように逃げまわった。
「―――もうダメ」
絵里は小さな沢のところで、疲労に勝てず座りこんでしまった。
真里にしても、足の感覚がなくなってしまっている。
裸足で山中を走りまわったのだから、2人とも血だらけだった。
「絵里、もうじき夜明けだよ。何とかしないと」
山中の明け方は、かなり気温が低下する。
こんな寝巻き姿だと、寒くてたまらないだろう。
真里は近くに山陰道があるのを思いだし、
とりあえず、そこまで行ってみることにした。
- 101 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時57分30秒
- 耐えがたい寒さがやってきて、2人は震えながら下山してゆく。
やがて、視界が開ける場所までくると、粗末な小屋が見えてきた。
どうやら山仕事をするための休憩小屋のようで、
2人は迷わず中へ入っていった。
「真里ねえちゃん、藁があるよ」
「薪もあるね。火を熾そう」
2人は小屋の中で火を熾し、藁でゾウリを作った。
こんな粗末な小屋の中でも、火にあたっていれば暖かかった。
やがて鳥たちのけたたましい声が聞こえだすと、
外がしだいに明るくなってくる。
そんなとき、絵里は真里のケガに気づいた。
「真里ねえちゃん、ひどいケガ! 」
真里は松明で右肩を殴られ、ひどいヤケドを負っていた。
幸い汗をかく季節ではなかったので、膿むことはないだろう。
絵里は真里のヤケドの手当てをはじめた。
「うっ! すっかり忘れてたよ」
真里は強がったが、この傷だけは決して忘れない。
体だけでなく、心にまで傷つけたこの傷を。
- 102 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時58分23秒
- 2人は陽がのぼると、小屋にあったボロきれをまとい、
作ったばかりのゾウリを履いて尼寺の方に歩いていった。
まだ危険かもしれないが、2人にはゆくアテもないのだ。
山陰道は、たまに旅人が通るくらいで、閑散としている。
ススキ野原の上を飛んでいた赤トンボも、
もう活動する季節ではなかった。
「真里ねえちゃん、あれ」
絵里は遠くを指差している。
真里が視線を向けると、真っ青な秋晴れの空に、
一条の煙が立ちのぼっていた。
あれは国分尼寺があった方角だ。
「い―――急ごう! 」
2人は山陰道を走りだした。
- 103 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時59分07秒
- やはり、そうだった。
国分尼寺は完全に焼けてしまっていた。
周囲には全裸になった尼僧たちの死体が転がっている。
数人の村人が、焼け跡に向かって手を合わせていた。
あたりには国分尼寺が燃えた煙の臭いに混じって、
血の臭いと男の臭いが漂っている。
それは吐き気がするほど嫌な臭いだった。
「そんな! 」
真里は泣きながら、必死に探していた。
2人を育ててくれた大好きな美帆。
体をはって真里たちを助けようとした美帆を。
どの死体も大勢に犯されたあげく、首を絞められていた。
中には異常な性癖を持つのもいたようで、
無残にも解体されている死体があった。
- 104 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)18時59分41秒
- 「美帆ねえちゃん! 」
真里は冷たくなった美帆の死体をみつけた。
美帆の死体は体中にアザがあり、ひどく殴られたようだった。
おそらく、真里と絵里を逃がしたため、執拗に責められたのだろう。
特に顔はアゴが砕かれ、メチャメチャになっていた。
「こんな―――ひどい―――ひどすぎるよ」
女であるがゆえに、陵辱されて殺される。
そこには人間としての威厳など存在しなかった。
男たちの欲望の犠牲になった女たちは、
冷たい躯になって屍をさらしていた。
強奪するだけなら、まだよかったが、寺を焼き、
陵辱して皆殺しにするなど人間のやることではない。
「美帆ねえちゃん」
いつもは元気で明るい真里も、このときばかりは号泣した。
美帆は真里にとって、姉であり母でもあったのだ。
絵里は野辺に咲く野菊をつみ、遺体の上に置いてゆく。
昨日までの『家』が灰となり、『家族』が殺されてしまった。
- 105 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時00分27秒
- 真里と絵里は遺体を埋葬すると、捨てられていた袈裟を着た。
そして、数人の村人といっしょに、かんたんな葬儀をおこなう。
般若心経しか知らない真里は、他のお経を唱えられなかった。
それでも、心から美帆たちを弔ったのだった。
「どこへゆくんだ? 」
村人たちは、この幼い2人を案じていた。
村で育ててやりたいが、自分たちも食べるのがやっとだ。
貴族以外の人間の命など、虫ケラと同じ時代だった。
「これ、尼寺を襲った者は、いずこにおるのかの」
この時間になって、ようやく国府軍がやってきた。
指揮官は面倒くさそうに真里たちに聞いた。
国府を預かる以上、こういった事件には対応しなくてはならない。
そこには正義感などというものはなく、ただのお役所仕事だった。
- 106 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時01分07秒
- 「いまさら―――いまさら何だっていうのよ! 」
真里は指揮官にかみついた。
何度陳情しても、国司は尼寺を警備しようとしなかった。
そのあげく、尼寺は全滅してしまったのだが、
国府軍の指揮官は、わびることすらしない。
「ふん、賊は逃げたようじゃな。ひきあげるぞ」
国府は本気で賊と闘おうとも思っていなかった。
その証拠に、引き連れてきたのは、たった10人である。
国府軍は何をするわけでもなく、国府に帰っていった。
真里の悲しみは怒りに変わり、国司と山賊を憎んだ。
「まちがってる。こんな世の中、まちがってるよ! 」
真里は絵里と2人で、どこへともなく去っていった。
- 107 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時01分42秒
- 《女盗賊》
大きな月が顔をのぞかせる深夜、禁裏の屋根の上を、
小さな二つの黒い影が動いていた。
『静』と『動』を使い分ける影に対し、
もうひとつの方は、どこかぎこちない動きをしている。
素早く動いた小さな影は、近衛兵の死角に入って、
もうひとつの影に、小声で指示をだしていた。
「絵里、こっちだよ」
真里は黒装束に身を包み、禁裏の宝物庫の屋根の上にいた。
さすがに禁裏の中だけあり、その警備は厳重だった。
真里は見まわりがいなくなると、屋根から飛びおり、
音もたてずに宝物庫へと侵入していった。
- 108 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時02分15秒
- 「絵里、出口を警戒しな」
「さすがに禁裏だと緊張しちゃう」
「何言ってんのよ。2度目だろーっての! 」
2人は数日前、禁裏に侵入したのだが、
あまり高価なものを盗むことができなかった。
それで、今回は宝物庫から盗むことに決めていたのである。
禁裏の宝物庫といえば、遣隋使や遣唐使によって、
中国大陸から持ちこまれた数々の財宝が眠っていた。
「さてと、どれにしようかな」
真里は換金できそうなものを漁り、黒い風呂敷に包んだ。
こういった作業は迅速に、かつ丁寧にしなくてはならない。
せっかく盗んだものがガラクタだったら、目も当てられないからだ。
禁裏の宝物庫なので、売れないガラクタはないだろうが、
あまり珍しすぎてもアシがついてしまった。
- 109 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時03分02秒
- 「こんなもんでいいかな? さあ、行くよ! 」
仕事を終え、真里と絵里が宝物庫から出たとき、
運悪く近衛兵とはちあわせしてしまう。
これには双方ともに驚き、腰をむかしたのだが、
真里たちは捕まると首を刎ねられる。
近衛兵が驚いている間に、二人は逃げなくてはいけなかった。
「曲者じゃあー! 」
二人は宝物庫の屋根に登り、屋根伝いに逃げた。
そんな二人を、近衛兵たちは容赦なく弓で射る。
このままでは検非違使に連絡され、包囲されてしまうだろう。
絶体絶命のピンチだったが、真里には逃げきれる計算があった。
- 110 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時03分40秒
- 「しょうがねーな。チーちゃん! 来ておくれ! 」
真里が夜空に向かって叫ぶと、鞍馬山の方角から、
真っ黒な影が一直線に飛んでくるのが見えた。
それは近づいてくるにつれ、巨大な鳥であることが分る。
驚いたことに、両翼が軽く5間(約9メートル)もある怪鳥だった。
「化け物だ! 射落とせ! 」
「そうは行くかってーの! 」
真里は巨大な鳥に回収されると、懐から白い粉を出して上空から撒いた。
白い粉は松明に照らされ、キラキラと輝きながら落ちてゆく。
この白い粉を吸いこむと、少しの間、体が動かなくなってしまう。
いわゆる、シビレ薬の一種だった。
「あひゃひゃ? しびれる」
近衛兵たちは、体に力がはいらず、地面に倒れてしまった。
そんな禁裏をよそに真里と絵里は、怪鳥に吊るされて丹後の国へ戻った。
- 111 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時04分11秒
- 丹後の山奥の岩屋が真里たちの家だった。
そこには真里と絵里のほかに、10人ほどの子供がいる。
口減らしで捨てられたり、親が殺されたりした子供たちだ。
「あっ、真里ねえちゃん。おかえりー! 」
子供たちは眠っていたが、真里が帰ってくると、
気配を感じて目を覚ましてしまったようだ。
怪鳥を巣穴に入れ、岩屋の中に入ってゆくと、
子供たちが真里と絵里に抱きついてくる。
緊張で強ばっていた二人の顔も、
可愛い子供たちの笑顔に癒されてゆく。
- 112 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時04分53秒
- 「いい子にしてたかな? 」
あれから真里と絵里は、この岩屋へ住みついた。
ある日、変な玉子をみつけたので、真里は岩屋に帰って暖めてみた。
すると、とてもかわいらしいヒナが生まれたのだった。
2人は『チーちゃん』と名づけ、そのヒナをかわいがっていた。
ところが『チーちゃん』は、またたく間に大きくなり、
いつの間にか2人を乗せて飛べるほどの大きさになってしまう。
雑食性のところをみると、どうやらキジの仲間のようだった。
真里が「てめーのエサくらい、てめーでとってこい」と言うと、
『チーちゃん』はクマやオオカミをとって食べるようになった。
「はー、疲れた」
真里は平らな石に座ると、焚き火の灯りで今日の獲物を確認する。
彼女たちは奪った品を売り、その金で米を買い、生きていたのだった。
食べ盛りの子供たちに、ひもじい思いをさせたくないので、
真里と絵里は、危険を省みず、夜盗のまねごとをしていたのだ。
- 113 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時05分56秒
- 「真里ねえさん。畑の方に行っています」
絵里は弓と懐剣を持ち、岩屋を出ていった。
彼女たちは近くに小さな畑をつくり、
そこで食べられるだけのものを栽培している。
ところが、このところイノシシに畑を荒らされるのだ。
畑を荒らされるのは、深刻な問題だった。
「明日は町に行って買出しだねー」
真里は黒装束を脱ぎ、袖のない浴衣姿になる。
その右肩には、大きなヤケドのあとがあった。
- 114 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時06分35秒
- あれから2人は、小さな畑で粟や麦を栽培し、
それを食べてきたのだが、尼寺がなくなったというのに、
どういうわけか、捨て子があとを絶たない。
すでに死んでいる子供は埋葬し、生きている子供は真里が保護した。
いつの間にか、二人は10人の子供を抱えるようになってしまった。
小さな畑では10人の子供を養えるわけもなく、
二人は夜盗のまねごとを始めたのだった。
「この世の中がいけないのよ」
真里は子供たちの寝顔を見ながら、淋しそうにため息をついた。
平安時代は貴族の世の中と言われているが、その反面、
被支配者階級の者は、地獄の苦しみを強いられていたのだ。
- 115 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時07分16秒
- 真里は奪った金品を持って、丹後の国府近くの店に売りに行った。
あまりにも高価なものや、アシがつくものは、決して処分しようとしない。
思いがけないところから、真里が夜盗であると判明してしまうからだ。
そんなことにでもなったら、すぐに討伐されてしまうだろう。
今日も絹の布や短剣、仏像などを持って商人の家を訪れた。
「いやあ、真里ちゃん。今日は何を持ってきたんや? 」
「この間は足もと見やがって! 今日は高く買ってくれよ」
真里は元気がいいので、商人もかわいがっていた。
商人は明るい場所で、真里が持ってきたものを鑑定する。
どれも高価なものばかりで、商人は砂金を真里に渡した。
「そうやったな。そんじゃ、今日はこれでええやろ? 」
「げげっ! こ―――こんなに? 」
商人が真里に渡した砂金は、何と5袋にもおよんだ。
砂金が1袋もあれば、10年分の米が買える時代だった。
これでしばらくは、食べるものに困らないだろう。
- 116 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時08分02秒
- 真里が米や塩をかついで岩屋に戻ると、
絵里が傷だらけの旅人を介抱していた。
どうやら男は旅の途中で山賊に襲われ、
重傷を負ってここまで逃げてきたらしい。
真里は虫の息になってしまった旅人から、
思いもよらない話を聞くことができた。
「『はたけ一派』は―――昔、尼寺を―――皆殺しにした―――」
『はたけ一派』とは、極悪非道の山賊として、丹後南東部で恐れられている。
旅人を襲うのはあたりまえで、町に出ては略奪や殺人をくりかえしていた。
つい先日も、地頭屋敷を襲い、老若男女11人を虐殺したのだった。
『はたけ一派』は少人数の山賊だったが、ここにきて勢力を拡大し、
300人近い丹後有数の山賊となっていた。
「あれは『はたけ一派』の仕業だったの? 」
真里の脳裏には、あの悲惨な光景がよみがえってきた。
若い尼はもちろんのこと、全ての女性が犯されて殺されていた。
中には解体されてしまった尼もいて、そこは地獄のようだった。
- 117 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時08分42秒
- 「許せねーよ。ぜったいに許せねーよ! チーちゃん! 」
「真里ねえさん、どこにゆくの? 」
絵里は涙を溜めた真里が気がかりだった。
緻密な計算を得意とする真里だから拙攻はしないだろう。
しかし、実姉のように慕っていた美帆が殺されたのだ。
真里は感情的になると、我を忘れるところがある。
「決まってるだろ。『はたけ一派』を見つけるのよ! 」
「待って! ひとりじゃ危ないよ」
「おめーは残ってろ! 」
真里が妹分の絵里を岩屋に残したのは、
自分に何かあったときのことを考えてだった。
もし、真里が死んでしまったとしても、
絵里さえいれば子供たちは生きてゆける。
盗賊のマネゴトをして禁裏に侵入するときでも、
何かあったら絵里の身代わりになる覚悟をしていた。
- 118 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時10分00秒
- 「オイラに何かあったら、あの子たちをたのむからね」
「―――真里ねえさん」
真里は怪鳥に乗り、空から『はたけ一派』の棲家を探すことにした。
雲ひとつない秋晴れだが、1000間(約1800メートル)上空は身を切るほど寒い。
それでも真里は、寒さなど感じないくらい怒りに燃えていた。
何の罪もない尼寺の人たちを、陵辱したあげくに殺した男たちを探す。
そして、必ず復讐するのだと、真里は固く決心していたのだった。
「やっぱし、空からじゃダメなのかなー」
はるか上空から山賊の棲家を探すのは、海に落ちた針を探すようなものだ。
それでも真里は、自慢の目を使って、怪鳥の背中から下を凝視していた。
『はたけ一派』の縄張りを偵察すると、真里は怪しげな洞窟を発見する。
当時、人が住めるような洞窟には、必ず人が住んでいたのだった。
- 119 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時10分38秒
- 「あ、誰かいる。チーちゃん、ちょっと下げてくれる? 」
真里は怪鳥に高度を下げるように言った。
下から見ると、怪鳥は大きなトンビにしか見えない。
棲家の洞窟の入口で見張りをしていた山賊は、
上空を大きな鳥が飛んでいるのに気づいた。
「おう、トンビが飛んでるな」
そいつが呑気に空を見上げたときだった。
怪鳥は男めがけて急降下し、一瞬にして捕らえてしまったのだった。
すぐに上昇した怪鳥は、拉致した男を握って離さない。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃー! た―――助けてー! 」
男は太刀で怪鳥の足を切ってしまおうとも思ったが、
この高さから落ちると即死はまぬがれない。
どうしようか困っていると、翼の横から真里が顔をだした。
- 120 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時11分11秒
- 「太刀をよこしな。この鳥のエサになりたくなかったら、暴れないことだね」
「わ―――わかった」
真里は空中で男に尋問をした。
男は自分が『はたけ一派』であることを認め、
5年まえの尼寺襲撃を白状した。
みんなの仇『はたけ一派』は、あの洞窟にいる。
とにかく復讐しないかぎり、真里の心の傷は癒えないだろう。
「そこまで聞けばいいや。解放してほしい? 」
「もちろんだ! 解放してくれ」
「―――いいわ。チーちゃん、この人を放してあげてよ」
真里の言うことは何でもきく怪鳥は、
とても素直に男を解放してやった。
ただし、そこは1000間(約1800メートル)上空である。
男は泣き叫びながら急降下していった。
「仇討ちするよ。―――美帆ねえちゃん」
真里は小さな声でつぶやくと、怪鳥といっしょに岩屋へ戻った。
- 121 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時12分04秒
- 《仇討ち》
真里は数日間岩屋を空けると、痩せ馬に荷物を積んで帰ってきた。
荷物の中には米や干魚もあったので、絵里や子供たちは喜んでいる。
真里は都会である摂津まで、買出しに行っていたのだった。
「真里ねえさん、何を買ってきたの? 」
絵里は真里が買ってきた袋の中身が気になっていた。
炭は暖をとるのに必要なのはわかるが、ほかの袋が何か分からない。
真里は絵里の質問には答えず「ちょっとね」と言ってはぐらかす。
そんな中、真里はひとりで岩屋の裏に穴を掘りだした。
「ここには何があっても、ぜったいに近づかないこと。いいね? 」
真里は子供たちに、怒ったような口調で言った。
やがて、真里はその小さな穴に屋根をかぶせ、
昼夜問わず、籠もりながら作業をするようになる。
心配した絵里が声をかけても、「近寄るな」というだけだった。
秋の冷たい雨が降る日も、真里は握り飯を食べながら、
穴に籠もって何やら怪しげな作業を続けている。
3日ほどたった朝、絵里が朝餉のしたくをしていると、
いきなり大きな音がして、真里の悲鳴が響きわたった。
- 122 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時12分58秒
- 「真里ねえさん! 」
絵里が穴に近づくと、あたりには煙がただよい、
中からススだらけになった真里が這いだしてきた。
真里は全身から煙をだし、ヤケドをしているようだが、
絵里の顔を見て苦笑したので、たいしたことはないだろう。
「あははは―――硝石の量をまちがえちゃた」
真里が穴の中で作っていたのは、
木炭と硫黄、そして硝石が原料になるもの。
それは現代でいう黒色火薬だった。
尼寺にいたころ、中国の曲芸団がやってきて、
いろいろな芸を見せてくれたのだった。
好奇心が旺盛な真里は、中国人から話を聞き、
自分で火薬を作ったことがある。
きつい焼酎をかけると、火薬が火を噴くのだった。
- 123 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時13分32秒
- 「真里ねえさん、何を作ってるの? 」
「爆弾。こいつが完成品だよ」
真里は絵里に、玉子くらいの大きさのものを見せた。
これは短い導火線のついた原始的な手榴弾で、
中の火薬が爆発し、破片が周囲に飛びちるのだ。
紐を引きぬくと、導火線に引火する仕組みになっている。
真里は『手投げ爆弾』を森の中に投げてみた。
大きな爆発がおこり、3間(約5.4メートル)近いブナの木が倒れてしまう。
黒色火薬なので、21世紀の高性能爆薬の破壊力とはわけがちがった。
それでも、ブナの木を吹きとばすだけの力がある。
これを大量に生産して『チーちゃん』の背から平安京を爆撃すれば、
たった1日で日本の歴史を変えられるだろう。
「うわー、真里ねえさん、すごいね」
絵里は真里の技術に、嬉しくなって笑みをもらした。
爆発の音を聞きつけて、好奇心旺盛な子供たちがやってくる。
その子供たちを、2人は「危ない」と言って岩屋に戻す。
その仕草は親ネコが子ネコを引きもどすようで、どこか微笑ましい。
「これでみんなの仇を討つのよ」
真里は確かな手ごたえを感じていた。
- 124 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時14分14秒
- 真里と絵里は、数日たったよく晴れた日の朝、
『はたけ一派』の棲む洞窟へとやってきていた。
夜通し悪事をはたらいた『はたけ一派』は、
おそらく疲れはて、正体なく眠っているだろう。
入口には見張りがいるので、そう簡単には近づけない。
2人は風下から、しばらくようすをうかがっていた。
「見張りが邪魔だよなー」
「手投げ爆弾でやっつけちゃえば? 」
「中の連中が起きちまうだろーが」
真里は考えたあげく、ひとりで風上へと移動した。
風上で動くときは、細心の注意が必要になる。
なぜなら、ちょっとした音でさえ、風に流れて届いてしまうからだ。
真里はススキの草の陰から、見張りの男を監視した。
- 125 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時14分46秒
- 「―――女の匂いがする。気のせいかな? 」
体臭がときに数百間もとどくことは、あまり知られていない。
風向きや気温などの条件が整うと、思いがけない距離にまで臭気を運ぶのだ。
見張りの男はあたりを見まわすが、どこにも女の姿はない。
どうも変だと首をひねったとき、男は体の力が入らないことに気づいた。
しばらく不自由な体と格闘していたが、男はやがて座りこんでしまい、
じきに座っているのも億劫になって、とうとう寝転がってしまった。
「あひゃ? 何らろーな」
真里は風上から、例のシビレ薬をまいたのだった。
シビレ薬を吸いこんだ男は、体が麻痺して地面に転がってしまう。
これで真里は安心して、妖しい洞窟に近づくことができた。
「さて、奥に投げいれないと」
真里はかついできた数珠つなぎになった手榴弾の紐を引きぬき、
洞窟の奥へと投げ入れると、大急ぎで安全な場所に走った。
真里が木の陰に飛びこむと同時に轟音が響き、
洞窟は激しい落盤で埋まってしまった。
これだけ派手な落盤なので、中にいた者は助からないだろう。
ここに真里は、美帆たちの仇を討ったのだった。
- 126 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時15分50秒
- 「―――やったね。真里ねえさん」
「これでよかったんだよね」
真里は復讐を遂げたのだが、どこか虚しさが残った。
復讐や報復だけでは、けっして気持ちがはれるわけではない。
それが新たな憎しみを生み、報復合戦は永久に続いてゆくのだ。
「帰ろうよ。真里ねえさん」
仇を討った真里と絵里だったが、どうも気が晴れない。
はたして、仇を殺すことだけが復讐なのだろうか。
心情的に仇を憎むことで、悲しみを和らげることができる。
だが、仇を殺してしまったら、憎む相手もいなくなるのだ。
さらに、仇討ちだけを目標に生きてきた者にすると、
そこでプッツリと緊張の糸が切れてしまうのだった。
「そうだね。チーちゃん! 」
真里は怪鳥を呼び、予備に持ってきた手榴弾を持ち、
岩屋に帰ることにしたのだった。
- 127 名前:第一章 真里編 投稿日:2003年08月30日(土)19時18分08秒
- 真里編終了です。
>>90->>94は真里編が正解です。すいませんでした。
次は梨華編になります。
- 128 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時40分56秒
- 《いじめられっ子》
山のように背負った薪に火をつけられ、
急な坂道を、梨華は泣きながら走っていた。
まるでカチカチ山のタヌキみたいな梨華に、
薪拾いに来ていた全員が爆笑していた。
「いやー! たすけてぇー! 」
もうじき、きびしい冬がやってくるので、
今のうちに焚き木を用意しておかねばならない。
そのため、梨華たちはキノコ狩りのついでに、
冬用の薪拾いをやっていたのだった。
「もうーっ! 誰よぅ! 」
梨華は近くの沢に飛びこみ、事なきを得ていたが、
背負った薪に火をつけるとは、イタズラにもほどがある。
こんな調子で、梨華はいつも誰かにイジメられていた。
イタズラをされて、必死に逃げているのが印象的で、
梨華はいつの間にか『走る尼さん』と呼ばれるようになった。
- 129 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時41分36秒
- 梨華はさる貴族の子だったが、母親は卑しい身分だった。
そのため、母親が病死すると、尼寺に預けられてしまったのである。
梨華のいる比叡山の麓の尼寺には、そういった子供たちが多くいた。
どの子供も、好きで尼寺にいるわけではないので、
ウサ晴らしに梨華をイジメていたのである。
梨華にはイジメられっ子としての資質があった
そんな梨華を庇っていたのは、優等生のあゆみくらいである。
あゆみは誰にでも優しいので、寺ではみんなから慕われていた。
「梨華ちゃん、気にしないのよ」
「うん。ありがとう。あゆみちゃん」
あゆみにしても、梨華にかまってばかりはいられない。
優等生ということで、やる仕事が山のようにあるのだ。
そんな隙をついて、イタズラっ子のあさ美と里沙がでてくる。
子供のイタズラの延長ではあったが、だからこそ残酷だった。
- 130 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時42分14秒
- 梨華の寺での仕事は、台所で料理をすることだった。
尼寺であるため、一般の男性は立ち入り禁止になっていたが、
お供物を献上する場合にかぎり、裏口からの出入りが許されていた。
「ゲホッ! 煙くて嫌だわぁ」
食事を作るためには、まず火起こしをしなくてはならない。
まず、乾燥したオガクズに、火打石の火花を浴びせて火種をつくる。
それを和紙などで、少しづつ火を大きくしてゆくのだ。
やがて薪に火を移すのだが、このとき、大量の煙が発生する。
寒い冬でも狭い台所は、換気をしていないと一酸化炭素中毒になってしまう。
「今日の献立は、おカユとお味噌汁ねぇ」
梨華は料理がうまくない。
住職は梨華の苦手なところを克服させたくて、
不得意な食事のしたくをさせている。
最初は食べられるようなものではなかったが、
最近では、それなりに食べられるようになってきた。
- 131 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時43分00秒
- 「ダイコンを持ってきました」
若い男が数本のダイコンを持って、台所の裏口を開けた。
台所は土間で、配膳するところだけが板の間になっている。
尼寺であるため、男は板の間にあがることができなかった。
「ごくろうさまですぅ。ありがたや、ありがたや」
梨華は合掌しながら、献上された大根を受けとる。
すると、男は梨華の手をつかんで放さない。
それどころか、男は梨華を抱きしめたのだった。
「お―――おやめください。仏罰が当たりますよぉ」
「梨華ちゃん、ちょっとでいいから、その胸で―――」
男が法衣をめくりあげると、梨華の豊満な胸がこぼれ落ちる。
興奮した男は梨華を押し倒し、胸を鷲づかみにしてしまう。
「いやァァァァァァァァァー! 」
梨華のカン高い声は、超音波となって男の鼓膜を襲った。
男の鼓膜は激しい振動に、ものすごい痛みを伴ってしまう。
その痛みに耐えられず、男は転がるように逃げていった。
- 132 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時43分33秒
- 「はぁ、助かったぁ」
梨華は法衣を直すと、男が持ってきた大根を睨む。
きっと、あの男は大根をとどけるふりをして、
梨華を襲うのが目的だったのだろう。
そう思うと、梨華は腹がたってきたのだった。
「もう! 男なんてぇ! 」
梨華は大根の束を蹴ったが、意外に重くて硬い。
彼女の足の指の間接が音をたてた。
「あいたたたたた―――」
ドジでいじめられっ子の梨華だったが、
すぐに落ちこんでしまう自分を変えようと、
なにごとも前向きに考えるようにしていた。
ほかの子からいじめられるのも、
自分が可愛くて妬まれているからだと思い、
ドジは誰でもやらかすものだと考えていた。
- 133 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時44分17秒
- 尼寺であるから、朝や晩のお勤めというものがある。
ようするに、仏さまに感謝のお経をあげるのだ。
この時間が、梨華たちにとっては、最高に退屈なときだ。
今日も朝食の前に、朝のお勤めが行われていた。
「観自在菩薩――――色即是空空即是色―――」
抑揚のない平坦なお経、一定間隔で打たれる木魚の音に、
子供たちは催眠術にかかったように眠くなってしまう。
梨華の左右に座っている里沙とあさ美は、自然と舟を漕ぎだした。
やがて、二人は梨華に寄りかかると、寝息をたてはじめた。
(ちょっとー! こんなところで寝ないでよぉ)
梨華は二人を押しもどすが、またすぐに寄りかかってしまう。
朝は日の出前に起きなくてはならず、夜は客がくれば遅くなる。
そんな毎日を送っているので、子供にしてみれば寝不足なのだ。
日中、暇な時間もあるのだが、子供はこうした時間に遊んでしまう。
- 134 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時44分48秒
- 「オホン! 」
この寺では最高権力者の夏門院まゆみ尼は、
背後で聞こえる雑音に注意するつもりで咳払いをした。
ところが、里沙と麗奈は熟睡寸前といった状態であり、
梨華は必死になって起こそうとしている。
そんな雑音と気配に、夏門院まゆみ尼は、
しだいにイライラしてきたのだった。
(ふたりとも起きてよぉ)
「誰だゴルァ! 」
夏門院まゆみ尼は、持っていた木魚を打つバチを投げた。
それを眉間に受け、顔面を押さえ、のたうちまわる梨華。
その横では、里沙とあさ美が目を覚ましてキョロキョロしていた。
「この罰あたりがァァァァァァァァァー! 」
夏門院まゆみ尼の鉄拳が飛んだ。
- 135 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時45分25秒
- 昼近くになり、門前町には梨華と里沙、あさ美の姿があった。
3人は朝のお勤めでの不謹慎な態度を責められ、
夏門院まゆみ尼が罰として買い物に行く旨を命じていた。
門前町とはいえ、三流の尼寺では、その規模も小さなものである。
清水寺などとは違い、朝夕に買い物客で賑わうていどだった。
「あのばあさん、本気で殴ったよ」
里沙は頭にできたコブを、痛そうになでている。
少し目の寄ったあさ美も、まゆみ尼に頭を殴られ、
里沙に負けない大きなコブをつくっていた。
「骨折するほど殴らなくてもいいのにね」
夏門院なつみ尼は、二人の頭を殴り、
こともあろうか手の指を骨折してしまった。
まゆみ尼は、すでに齢40を越し、
更年期障害のイライラもあったのかもしれない。
それにしても、この二人のイタズラには、
誰よりも被害を受ける梨華が迷惑していた。
- 136 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時46分21秒
- 「あたしなんか顔なのよぉ! 」
梨華は泣きそうな顔で振りかえった。
彼女の眉間は青くなって腫れている。
木魚のバチが直撃したのだから、
それは痛かっただろう。
「梨華ちゃんが騒ぐからじゃん! 」
「そうだそうだ。このヴォケ女! 」
年下の少女からもいじめられる梨華だったが、
子供の言うことであるから、あまり気にしていない。
そんな梨華を標的にしてイタズラをするのが、
ほかでもない、この二人だった。
「あさ美ちゃん、ニワトリがいるよ」
「ほんとうだ。足を結ばれてるね」
門前町の店には、絞められる前のニワトリがいた。
日本では牛や豚は食べないが、ニワトリをよく食べた。
仏門の梨華たちは、魚肉を食べることができない。
そのかわり、牛乳をよく飲んだのだった。
- 137 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時46分52秒
- 「やろうか? 」
「うん」
二人は店先のニワトリを、梨華の襟首に押しこんだ。
いきなり何かが背中に入ってきた梨華は、驚いて振りかえってみる。
すると、そこには彼女が大嫌いなニワトリがいるではないか。
「きゃあァァァァァァァァァァァァァァー! 」
梨華は人々が行き交う門前町を、矢のような速さで走りぬけてゆく。
この速さに驚いた背中のニワトリは、夢中で梨華の頭をつついた。
そのようすを見ていた町の若い衆は、背中のニワトリがうらやましい。
「いいなあ。おれもニワトリになりてーよ」
「梨華ちゃん、ニワトリに襲われてねーか? 」
「ニワトリがいいのか? あの体をもてあましてるんだなあ」
梨華が泣きながら走ってゆくのを見た里沙とあさ美は、
その必死な姿が面白くて仕方ない。
こんな調子で、梨華はいつもイジメられていた。
- 138 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時47分25秒
- 《ガマンできないイジメ》
ニワトリのイジメは、かなりこたえたようで、梨華は寺に戻ると、
台所の片隅にうずくまり、声を殺して泣いていた。
こんなイジメを受ける梨華だったが、彼女は弱い自分を変えたかった。
そこで、とにかく前向きに生きようと決心していたのである。
イジメられても前向きに生きるというのは、
かなりむずかしいことではあったが。
「みんな、梨華がかわいいからイジメるんだわぁ」
そう考えると、いくらか気持ちが軽くなってゆく。
これを前向きというのかどうかは別問題として、
梨華はかなりおめでたい性格だと言ってよいだろう。
単に『走る色黒巨乳尼』であるというのに。
「そうよぉ! ほかの子は殿方に襲われたりしないわぁ」
梨華を襲った男は、かわいいから襲ったわけではない。
男でも入れる台所に、たまたま梨華がいたからである。
里沙やあさ美では幼すぎたし、男たちから大人気のあゆみは、
まったく隙がなくて、襲おうにも襲えなかったのだ。
- 139 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時48分01秒
- 立ち直りの早い梨華は、嫌なことは忘れて前向きに考えることにした。
イジメられることは悲しいが、仏教の教えの通り『業』であると割りきり、
梨華はすべてを受けとめてゆこうと思ったのである。
しかし、現実はそれほど甘くはない。梨華へのイジメはエスカレートしていった。
ある日、梨華が台所の掃除をしていると、例の2人組みがやってきた。
「ねえ、梨華ちゃん。あんたのおかあさんって、山童なんだって? 」
「山童? サイテーじゃん」
里沙はニヤニヤしながら、梨華の顔を見あげた。
山童(やまわろ)とは呪術を生業とする人種で、
各地の山奥で、ひっそりと暮らしていた。
かつて蘇我氏に破れて歴史から消えた物部氏の末裔とも言われ、
常人にはない特殊な力をもっているらしい。
当時、山童は二級国民であり、卑しい身分とされていた。
労働や納税の義務から解放されていたわけだが、
早い話が人間として扱われていなかったのである。
そんな山童の子だと分ると、イジメの対象になった。
ただし、人種問題ともなると、それはただのイジメではなく、
立派な差別問題に発展する可能性があった。
- 140 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時48分49秒
- 「どうりで黒いと思ったよ! この非人が! 」
あさ美は梨華を突きとばした。
山童は縄文人の血を引いているといわれ、
色黒の肌を持っているとされていた。
日本人は多くの民族の混血だったが、
どちらかというと色白の黄色人種である。
里沙も決して色白とは言えなかったが、
梨華にくらべると、はるかに白かった。
「そ―――そんなこと、関係ないでしょう」
梨華は母親が山童だということを、
ほかの子供に知られたくなかった。
平民でもいい。母親が山童でさえなかったら、
こんな尼寺になんか来なくていいのだ。
ところが、どこで情報を仕入れたのか、
あさ美と里沙は、それをイジメの材料にした。
「あたしはね。山童といっしょに暮らすのなんて嫌なの」
「そうよ。出ていってくれないかな」
そんな3人の話を聞いていたのが、
高貴な家の出であるあゆみだった。
彼女は尼僧になるために預けられたのではなく、
修行のためにやってきた姫さまだった。
- 141 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時49分38秒
- 「いいかげんにしなさい! 」
あゆみは、あさ美と里沙の梨華に対するイジメが気になっていた。
前向きに生きようとする梨華に、2人は執拗なイジメをくり返している。
君子危うきに近寄らずという教育を受けてきたあゆみだったが、
こういったイジメだけは許せなかった。
「あゆみさん」
あゆみは誰からも一目おかれているので、
あさ美と里沙もバツが悪そうな顔をする。
この2人のイジメは、完璧な差別であり、
正義感の強いあゆみは、激しい怒りを感じていた。
「言っていいことと悪いことがあるわ。梨華ちゃんに謝りなさい! 」
あゆみが怒るのもムリはない。
梨華の母親は山童かもしれないが、
彼女自身は山童ではないのだ。
いくら片親が山童だからといっても、
梨華は梨華であって、イジメられる理由にはならない。
- 142 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時50分15秒
- 「でも―――」
「山童といっしょに住むのは嫌だし―――」
これが2人の本音ではないだろう。
山童を差別するなど、それは大人の考え方だ。
大人の考えを逃げ口上に使うなど、
とても卑怯なことだとあゆみは思った。
「山童について何を知ってるの? 言ってごらんなさい」
「それは―――」
2人は子供なので、山童についての知識など持っていない。
梨華をイジメる材料として情報を得ていたにすぎないのだ。
ここで梨華の立場を考えられれば、あゆみも立派な大人である。
ところが、つい興奮して2人を追いこんでしまい、
他に考えが行かないところが、まだまだ子供だった。
- 143 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時51分00秒
- 「理由も知らないで、そんなことを言ってるの? 山童だって人間なのよ」
「あたしは―――あたしは人間だもん! 」
梨華は歯ぎしりしながら、大粒の涙をこぼしていた。
生まれてきた子供は、親を選ぶことができない。
どうしようもないことで差別が行われるというのは、
本人もまわりの人間も、すべての人を不幸にした。
「梨華ちゃん、ごめんなさい。あたしそんなつもりで―――」
「生まれてきたくなかったよぉ。でも、生まれちゃったんだもん! 」
あゆみは梨華を傷つけてしまったと思い、どうしたらよいか分らなくなってしまう。
あゆみにも頭のどこかで、山童に対しての差別意識があったにちがいない。
差別は知識として自然に蓄積され、何気ないひとことを産んでしまうのだ。
「梨華ちゃん! 」
「たしかにあたしのおかあさんは山童だったよ。
でも、おとうさんは―――おとうさんは石川中務大輔だもん! 」
梨華は泣きながら寺を飛びだしていった。
あゆみは「梨華ちゃん! 」と叫んで後を追うが、
梨華の足に追いつくわけもない。
自己嫌悪に苛まれながら台所へ戻ってくると、
そこに2人の姿はなかった。
かわりに夏門院まゆみ尼が立っていた。
- 144 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時51分34秒
- 「梨華はどーした? 」
「それが―――」
あゆみは正直に話をした。
まゆみ尼も梨華へのイジメを憂いている。
だが、尼僧であるまゆみは、これも『業』だと割りきってしまう。
仏教には輪廻転生という考え方があり、前世で悪事をはたらけば、
より深い『業』を背負って生まれるというものだ。
すべてを憐れむ仏さまにしては、かなり過酷なものを背負わせる。
前世の記憶がないかぎり、それこそが差別といえるのではなかろうか。
「梨華の『業』は重いものだな。私も体調さえ戻れば」
更年期障害は女の機能が終われば、自然と治ってしまうものだ。
いくら仏門の身であるとはいえ、女に生まれた以上、
その機能が終わるというのは淋しいものなのだろう。
まゆみ尼は肩を落としながら、奥へと帰っていった。
- 145 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時52分19秒
- 《仕返し》
梨華は口惜しくてしかたない。
子供は親を選ぶことなどできないのだ。
好きで山童の子になったわけではない。
ほかの何でも梨華は耐えられたが、
出生だけがガマンすることができなかった。
梨華は泣きながら賀茂川まで走ってくると、
ススキばかりになった土手に座りこんで号泣した。
曇天の空は、今にも雨がふりだしそうで、
近くの民家では主婦が慌しく洗濯物をしまっている。
「あたし―――何のために生まれてきたの? 」
どんな生き物でも、理由があって生まれてきた。
仏教では、そのように教えている。
たとえ、カマキリに食べられているバッタでも、
食べられるのが目的で生まれてきたのだ。
バッタを食べたカマキリは、モズの餌になってしまう。
そのモズは、病気を媒介するネズミを捕食する。
すべては人の役にたつ自然界の営みなのだ。
尼僧のはしくれである梨華は、そのことくらいは知っている。
だが、人間のもろい心は、そんな教えすら否定してしまう。
- 146 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時53分00秒
- 「―――許さない。ぜったいに許さない! 」
梨華は憎しみがわきあがってきた。
痛いほど手をにぎりしめ、怒りに震えていた。
いくら理論を学んだところで、感情を抑えられるものではない。
それを煩悩であると、いったい誰が言及できるだろう。
疑問や怒りがなければ、向上心がないのと同じだ。
「梨華は復讐するわぁ! 」
人間であるから理性もあるだろう。
だが、ときに理性は吹き飛んでしまうことがある。
どうしてもガマンできなくなったとき、
理性はもろくも感情に負けてしまう。
それが人間の弱さであり、おもしろさでもあった。
梨華は復讐を決意し、コブシを握りしめて尼寺へ帰ってゆく。
もうじき雨が降るのを予告するかのように、
川のそばではカエルが鳴いていた。
- 147 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時53分37秒
- 初老に達し、情緒不安定な夏門院まゆみは、
あゆみに告発されたあさ美と里沙に説教をしていた。
だが、更年期障害による鬱な精神は、
気力を維持させるだけの力がなかった。
「気をつけなさいよ」
まゆみはそれだけ言うと、2人を釈放してしまった。
罪の意識などない2人は、あまり叱られなかったことが嬉しい。
2人は廊下の拭き掃除をしながら、梨華の話をしていた。
「あのヴォケ、もう帰ってこないんじゃない? 」
「だって、帰るところがないのよ。戻ってくるわよ」
梨華が帰ってきたら、またイジメてやろう。
あさ美と里沙は、そんな相談をしていた。
- 148 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時54分09秒
- やがて夕餉の時刻となり、全員が食堂に集まった。
夕暮れの空に雷雲がたちこめ、遠くで鳴りはじめている。
今日の夕食は、雑炊と吸い物、そして漬物だった。
全員が配膳を受け、仏に感謝してから食事となる。
梨華は全員の表情を、据わった目で観察していた。
「いただきまーす! 」
あさ美や里沙などの幼い者が、真っ先に食べはじめる。
雑炊といっても塩味なので、オカユとあまり変わらない。
ただ、野菜やイモが入っているので、人気の献立だった。
「うっ! この味は! 」
あゆみは吸い物をひとくち飲むと、驚いて梨華を見た。
するとまゆみも、雑炊をひとくち食べて梨華をにらんだ。
ほかの連中は、美味しい雑炊と吸い物を満喫している。
「梨華、この味は何だ! 」
まゆみは額に血管を浮かべながら立ちあがった。
何ごとかと思って、尼僧たちがざわめきだす。
すると梨華はおもしろそうに笑いだしたのだった。
梨華が考えたのは、あくまで『復讐』である。
ここにいる全員を、吼えさせてやりたい。
梨華は嬉しそうに立ちあがって話を始めた。
- 149 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時54分53秒
- 「変わった味でしょう? 何を入れたと思う? 」
「これは肉の味です。梨華ちゃん、魚肉は禁忌でしょう! 」
あゆみは両家の子女だけあり、魚肉の味には慣れていた。
まゆみも出家する前には、魚肉を食べていたのである。
魚肉を食べるのは、仏門の者として忌み嫌われることだった。
「肉は肉でも、これは羅生門の人の肉よぉ」
これには食べていた全員が、庭に飛びだして吐いた。
しかし、あゆみはまったく動じなかった。
この吸い物の味は山鳥だったし、雑炊はサケの味にちがいない。
「このバチあたりめ―――うがっ! 」
まゆみは梨華を殴ろうとしたが、更年期障害による貧血で倒れた。
慌てた尼僧たちがまゆみを抱きあげるが、まだノドを鳴らしている。
さすがに人肉を食べさせられたとなると、吐き気をおさえられなかった。
「あははーっ! 山鳥とサケだよーん! 」
梨華が雑炊と吸い物のナベをひっくりかえすと、
吸い物の中にはトリガラ、雑炊の中にはサケの切り身が入っていた。
- 150 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時55分36秒
- 「てめー、よくも! 」
里沙は怒って梨華に飛びかかる。
だが、梨華はナベで里沙の頭を一撃した。
「あさ美がいなきゃ、あんたなんて怖くないのよぅ! 」
あさ美は梨華にいっぷく盛られ、庭でケイレンしていた。
あまりの惨劇に、その場の全員が凍りついている。
梨華は気を失った里沙をかつぐと、五重塔に入ってゆく。
そして屋根まで登ると、てっぺんに里沙をしばりつけた。
「あははーっ! 避雷針ごっこだよぅ! 」
そのとたん、すごいカミナリが鳴り、下で見ていた全員が悲鳴をあげる。
運よく落雷はしなかったが、この轟音で里沙が正気にもどった。
梨華は地上に降りてくると、ケイレンしているあさ美をハダカにする。
拳法を知っているあさ美だったが、いっぷく盛られてしまったため、
抵抗らしい抵抗すらできない状態だった。
- 151 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時56分08秒
- 「ひゃめてくりー! 」
あさ美はシビレ薬を盛られ、全身がマヒしてしまっている。
そんなあさ美に、梨華はウルシの樹液をふりかけた。
しぶきを浴びただけでカブレてしまうウルシの樹液だ。
全裸にふりかけられたら、ものすごいことになるだろう。
「助けてーっ! 」
避雷針にされた里沙の泣き声を聞きながら、
いじめっ子2人に復讐した梨華は、
とても満足したような顔をしていた。
そんな梨華の顔が、あゆみには泣き顔に見えた。
「梨華ちゃん、もうやめて」
「あゆみちゃん―――ありがとうね」
とうとう大粒の雨が降りだし、梨華はズブ濡れになってゆく。
あゆみも裸足のまま庭に飛びだすと、梨華の手を握って泣きだしてしまう。
- 152 名前:第一章 梨華編 投稿日:2003年09月01日(月)00時56分39秒
- 「あたし、梨華ちゃんにひどいことを―――」
「ううん。助けてくれて嬉しかったよ」
「―――行かないで」
あゆみは懇願したが、梨華は首をふりながら下を向く。
これだけの騒ぎを起こしたのだから、もう尼寺にはいられなかった。
後悔などしていない。梨華はけっして後悔しないと誓ったのだ。
「あゆみちゃん、立派な姫さまになってね」
そう言うと、梨華は雷雨の中を走り去っていった。
- 153 名前:名無し弟 投稿日:2003年09月01日(月)01時00分27秒
- 梨華編は終了しました。
これで第一章は終わりになります。
第二章は、一週間後くらいから始めたいと思ってます。
これからも、よろしくおねがいします。
- 154 名前:きゃる 投稿日:2003年09月02日(火)04時02分20秒
- 五つの物語がどう絡んでいくのか楽しみですo(^-^)o
- 155 名前:名無し弟 投稿日:2003年09月03日(水)19時58分49秒
- >>きゃるさん
最後までつき合っていただけると嬉しいです。
漢字知らなくてすいません。
- 156 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時11分24秒
- 《拉致》
なつみと麻美の後方を歩く美海は、魑魅魍魎の類を始末していた。
この時代、魑魅魍魎たちが跋扈する世の中だった。
彼らが人間に危害をくわえるのは、地獄の苦しみから解放されたいがため。
つまり、自分の身代わりほしさに、力の弱い人間を襲うのだった。
若い娘が2人で旅をするなど、魑魅魍魎のえじきになるようなものだ。
「悪霊退散! 」
美海が玉串を振ると、彼女のまわりでうごめいていた怪しい気配は、
風のように上空へ舞いあがると、空の彼方に消えていった。
瘴気が去ると、これまで気配を殺していた虫たちは、
いっせいにメスを得ようと合唱を始めだす。
これで美海は、今日になって3回目の魑魅魍魎退治だった。
若い娘の気配と匂いに誘われ、邪悪な気配が集まってくる。
それが飽和状態になる直前を見計らって、美海はまとめて追いはらっていたのだ。
「はーっ! 疲れた」
美海は陰から身辺警護をするのが、どれほどたいへんかを思い知らされた。
魑魅魍魎はもちろん、山賊からも2人を守らなくてはならない。
少人数なら2人にまかせておけばよかったが、大人数の場合、
あるていどは事前に、粛清しておく必要があった。
- 157 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時12分11秒
- 「―――またかよ」
背後から数人の男たちがやってくる。
目的は金銭と女の体だろう。
美海は気配を殺して男たちを観察した。
どうやら十数人の団体さんらしい。
ここは少し間引いた方がいいだろう。
「待て。私が相手になろう」
「うわっと! いきなり出てくるんじゃねーよ」
「お前たちの考えは分るが、あきらめるのなら命だけは助けよう」
美海は事前に警告しておく。
ほとんどありえないが、中には美海の力を感じ、
一目散に逃げてゆく者もいたからである。
だが、今回も警告は無意味に終わった。
- 158 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時12分46秒
- 「まずはこの女からやっちまえ! 」
男たちが美海に襲いかかってきた。
しかし、美海はまったく動じることがない。
あらかじめ結界をはっているので、男たちははじき飛ばされてしまう。
結界というと万能のように思えるが、人間の『気』を阻止するものであり、
刀や槍などの道具を使われると、平気で貫かれてしまうものだった。
「残念だけど、死んでもらうわ」
美海が呪文を唱えると、彼女の指先から半透明の糸のようなものがあらわれ、
まるで意思を持ったように動き、男たちにからみついてゆく。
それはクモの糸のようだったが、伸縮自在で体から離れない。
「何だこいつは」
「電撃放出! 」
美海が叫ぶと、カミナリ並の高圧電流が放出され、
男たちは黒こげになって即死した。
美海は『糸』を回収すると、持っていた水をひと口飲み、
袋から干し米を出してかじりはじめる。
「ああ、お腹がすいた。体力使うよね」
美海は薄暗い森の中を、なつみと麻美についていった。
- 159 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時13分27秒
- なつみと麻美は、美作から出雲に入っていた。
どこの国にも、なつみが理想とする男がいない。
源頼光のように強くて藤原頼長のように金持ち、
それでいて、光源氏のように美男子な男。
そんな男を探すのは、人魚を見つけるより難しいだろう。
それでも、なつみは情報を仕入れては、噂の男を見にいった。
「何が美作の光源氏だべさ。なっちより背が低いっしょ」
「だから、男は見てくれじゃないっての! 」
2人が海岸に出ると、そこは噂の鳥取砂丘だった。
かつて、須佐男命が草薙の剣を突きたて、
不毛の大地にしてしまったと言われている場所だ。
もうじき季節風が吹き、一日中、砂嵐となってしまう。
しかし、まだ残暑が残る季節なので、
視界の果ては逃げ水となっていた。
「ここが鳥取砂丘だべね? 昼間は暑いけど、夜は寒いって話しだべさ」
なつみは顔に布をあて、日焼けに気をつけている。
十代のころとはちがって、この歳になると、
シミに気をつけなくてはならなかった。
麻美が照りかえしで目を細めていると、
いつの間にか目の前に、黒い羽織を着た女が立っていた。
- 160 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時14分00秒
- 「安倍晴明が娘たちだな? おとなしくしてれば、悪いようにはしないよ」
「誰だべさっ! 」
なつみと麻美は、女の『気』をさぐろうとするが、
どういうわけか、まったく掴むことができなかった。
だが、この女の力を察知したのが、離れた場所にいた美海だった。
(この女は! )
美海がなつみと麻美を助けようと、砂丘に飛びだそうとしたとき、
いきなり若い女が現れて、彼女を突きとばした。
美海は側転しながら間合いをとって身構える。
ところが、女はとても素早く、すでに美海の背後をとっていた。
「うがっ! 」
女は美海の背中から太刀を突きさした。
美海ともあろう者が、たった一瞬で負けたのだ。
- 161 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時14分36秒
- 「うふふふ―――悪く思わんでね。あんただけは殺しとかんとな」
(―――何者なんだ)
「うち? みんな『ゆきどん』って呼んどるわ」
女は美海を刺した太刀をぬく。
美海は倒れたが、女の足に印をきった。
すると、女の足の甲に、いくつもの小さな切り傷ができた。
「痛いな。悪あがきはせんこっちゃ」
女は太刀を突きたてるが、美海は忽然と姿を消してしまった。
美海くらいの力があれば、瞬間移動で脱出することもできるだろう。
トドメをさしそこなった女は、あたりを見るが美海の姿はなかった。
「逃げた? まあええわ」
女たちの目的は、なつみと麻美の拉致であるため、
美海が逃げたところで、追うようなことはしない。
それどころか、美海によって2人を拉致したことが、
晴明に伝わるので、ちょうどよかったのだった。
- 162 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時15分16秒
- 深手を負った美海は、美作まで瞬間移動したところで倒れてしまった。
山陰道ではあったが、美作の山道であるため、まったく人通りがなかった。
美海は『気』を集中して傷を治そうと思ったが、あまりにも重傷である。
急所こそはずれていたが出血も多く、美海は気を失ってしまった。
「お腹すいたよぅ」
そこにやってきたのは、尼寺から出奔した梨華だった。
尼寺を飛びだしたのはいいが、梨華には行くアテもない。
美作に尼寺があると聞いてきたのだが、
そこは丹後国分尼寺と同じことになっていた。
尼寺からくすねてきた米も底をつき、
梨華は昨日の朝から水しか口にしていなかった。
「あちゃー、行き倒れ? 」
梨華は美海に近づいてみた。
何か食べものを持っていたら、もらってしまおうと思ったのである。
何もせずに食べものだけを盗むのは気がひけるので、
かわりにお経でも唱えてやろうと思った。
「―――ぎゃーてーぎゃーてーはーらーぎゃーてー」
梨華は般若心経を唱えながら、美海の懐をさぐってみる。
懐剣やお札、鏡がでてきたが、これといった食べものがない。
梨華があきらめかけたとき、腰につけた袋に気がついた。
- 163 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時15分51秒
- 「わぁ! 干し米だわぁ! 」
梨華は持っていた椀に干し米を入れると、
持っていた水を注いでそばに置いた。
干し米は炊いた米を乾燥させたものであるから、
こうして水に漬けておくと、おかゆになるのだ。
そして、ガマンできずに、袋に入っている干し米を、
カリカリとおいしそうにかじりだしたのである。
「おいしーっ! 梨華、シ・ア・ワ・セ。うふっ」
梨華が夢中で干し米を食べていると、美海はその気配で目を覚ました。
ここは身を守ることが先決だが、まったく殺気を感じないので、
体も傷ついていることだし、少し様子をみることにした。
すると、汚い尼僧姿の若い女が、自分の干し米を食べているではないか。
美海は妙に腹がたって、目の前にある梨華の足をつかんだ。
「こいつ! 」
「キャアァァァァァァァァァー! 」
いきなり足をつかまれた梨華は、驚いて逃げようとした。
しかし、足をつかまれているので、すぐに引きもどされてしまう。
梨華は地面に爪のあとを残しながら、必死に逃げようとした。
まさか、死体に足をつかまれるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
- 164 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時16分29秒
- 「てめー、人の食べものを勝手に食いやがって! 」
「ごごごご―――ごめんなさーい! 成仏してよぅ! 」
「死んでねーっての! 」
美海は梨華を引きよせて、生きていると伝えた。
だが、梨華は美海を見て、死体が生きかえったと思ってしまう。
それはそれで、すごく怖いことだったが、
どういうわけか、梨華は納得しておちついた。
「よ―――よかったですね。生きかえって」
「だから、死んだんじゃねーっての! 」
美海は説明するのだが、梨華は空腹から思考が停止しており、
すっかり干し米を食べ終わって、ようやく事態を理解した。
しかし、なつみや麻美が拉致されたということは、
なかなか理解できなかったのである。
- 165 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時17分04秒
- 「何でその―――なつみさんと麻美さんが拉致されたんですかぁ? 」
「何でって言われても―――とにかく大至急、安倍晴明さまに報告しないと」
美海は平安京に『気』を送りたかったが、
これだけ重傷だとそうもいかない。
ここはひとつ、梨華に連れていってもらうしかないようだ。
「だから、私を都に―――」
「どうもー! それじゃあ! 」
梨華は面倒に巻きこまれたくなかった。
まして、都に戻るなんてことができるわけがない。
何しろ梨華は都から逃げてきたのである。
梨華が逃げようとすると、美海は足をつかんだ。
「は―――離してぇ! 」
「逃げるんじゃねーゴルァ! 食い逃げか? アアン! 」
「お経をあげたじゃないですかぁ! 」
「ざけんじゃねえ! 死んでねーっての! 」
梨華は美海に拉致され、泣く泣く平安京に向かうことになった。
- 166 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時18分29秒
- 《紗耶香と真希》
平安京で天然痘が流行して以来、朱雀大通りの南端に位置する羅生門は、
いつの間にか死体を捨てる場所として、人々に定着してしまっていた。
当時の平安京は、いたるところに死体が転がっており、とても不潔な場所だった。
治部省では定期的に死体を片づけていたのだが、それでも羅生門は死体だらけになる。
羅生門には『死体を捨てるな』とか『不法投棄監視中』という張り紙がしてあった。
「すっかり陽が短くなったね」
『秋の陽はつるべ落とし』と言われるほど、秋の夕暮れは短い。
検非違使の父を持つ真希は、雨の八条通りを紗耶香と歩いていた。
これだけ治安が悪いのだからと、2人の親は娘に剣術を習わせている。
力の強い真希は、合戦用の野太刀を操り、何でも叩き斬ってしまう。
それにくらべ、姉貴分の紗耶香は、刃の薄い鋭利な太刀で、
急所を突くのを得意としていた。
- 167 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時19分06秒
- 「そうだね。賀茂川の堤のカエデも、そろそろ紅葉してるんじゃないかな」
紗耶香は藤原一門、市井家の長女で、悠々自適な生活をおくっている。
2人は幼馴染で、身分こそちがうが、姉妹のように育ってきた。
紗耶香は2歳年下の真希をかわいがり、いつもいっしょに遊んでいた。
今日も剣術の稽古の帰りに、ダンゴを食べてから帰ることにしたのだった。
「なに? もう店じまい? 」
雨が降っているせいか、美味しいと評判のダンゴ屋は、
日暮れとともに店じまいをしてしまっていた。
このところ、四条以南の下京では、
夜になると死体を捨てにくるものが多いので、
かかわり合いになりたくないのだろう。
真希の父は、夜盗の取り締りだけでなく、
死体を捨てにきたものの取り締りまでやっていた。
「うわっ、いちーちゃん。臭ってきたよ」
南風が吹くと、死体遺棄の中心でもある羅生門からの死臭が、
体にこびりつくような湿った風に乗ってやってくる。
定期清掃近くになると、その死臭は下京を被いつくしていた。
「仕方ないね。今日は帰るとしよう」
2人は朱雀大通りを、自宅のある三条に向かって歩いていった。
- 168 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時19分53秒
- 三条につくころになると、とっぷりと日が暮れてしまっていた。
日中は暖かいのだが、夜になると盆地の宿命で、すぐに冷えてくる。
薄着の2人は寒さに震えながら、自然と早足になっていた。
そんな2人の前へ、松明を持った男たちが現れた。
「これ娘たち。もう夜だというのに、どこへゆくのだ」
「貴様ら何者だ! 」
紗耶香は腰の太刀に手をかけた。
野太刀を背負っていた真希は、それを見て慌てて柄を握る。
男たちは身構えながら、自分たちの身分を明かした。
「検非違使でござる! もしや市井さまの姫では? 」
男たちが検非違使と聞き、2人は胸を撫でおろした。
帰りが遅くなってしまったので、夜盗の類かと思ったのだ。
特に真希は、父親の同僚たちなので笑顔になっている。
紗耶香はすかさず検非違使たちの労をねぎらう。
- 169 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時20分27秒
- 「これはご苦労さまです。いかにも私は市井家の紗耶香です」
「紗耶香さまということは、おめー真希坊か? 大きくなりやがって」
検非違使のひとりが真希の頭をなでた。
真希は憶えていないが、この男は彼女の父と親しいようだ。
それにしても、検非違使が集団でいるとは、何かあったのだろう。
不審に思った紗耶香は、検非違使たちに話を聞いてみた。
「何かあったのですか? 」
「はい、左近衛大将さまが賊に討たれまして」
左近衛大将といえば、紗耶香に手をだそうとした男だ。
中宮定子の縁者で、横暴な男でも有名だった。
紗耶香は難を逃れたが、いつか殺してやろうと思っていた。
左近衛大将を殺したくらいでは、市井家はまったく困らない。
何しろ時の権力者、藤原道長の縁者なのだ。
「左近衛大将っていえば、あのスケベったらしいおじさんでしょう? 」
真希は紗耶香を襲おうとした左近衛大将を嫌っていた。
彼女の的を得た言葉に、検非違使たちからは失笑がもれる。
そこへやってきたのは、右近衛府の衛兵たちだった。
- 170 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時21分06秒
- 「なにをやっておるか! 賊を探さんか! この検非違使どもが! 」
近衛兵ともなると、検非違使とは身分がちがう。
検非違使たちは近衛兵たちに殴られ、中には蹴られるものもいた。
こんな一方的な暴力に、ついに紗耶香がキレてしまった。
「殴ることはないだろう! このバカ者! 」
紗耶香が暴れだすと、真希も加わって殴りあいになる。
検非違使からも『紗耶香さまを助けろ』とか、
『真希坊を救え』といった声があがり、
ついには大乱闘に発展してしまった。
「うっ、くそっ! 」
紗耶香は近衛兵に顔を殴られ、鼻血をだしてしまった。
それを見ていた検非違使は、慌てて大声で怒鳴った。
「市井の姫さまが顔を殴られたぞ! 」
これに仰天したのが近衛兵たちだ。
藤原道長縁者の姫さまを殴ってしまったのだから、
ひとつまちがえば打ち首である。
松明の灯りを頼りに紗耶香を見てみると、
そこにいたのは、まちがいなく市井家の姫さまだった。
- 171 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時21分36秒
- 「ひゃーっ! これは姫さま! とんだご無礼を! 」
衛兵たちは転がるように逃げだした。
真希は懐から手ぬぐいを出し、紗耶香の鼻血を拭う。
紗耶香は軽傷だったが、鼻血が着物を汚してしまった。
高価な着物が鼻血で汚れては、シミがついてしまうだろう。
「姫さま、すぐに洗わねーと」
検非違使たちは近所の家を開けてもらい、紗耶香の着物を洗おうとした。
だが、紗耶香は検非違使たちの厚意だけ受けとることにした。
安い着物ではないが、紗耶香はもっと多くの高価な着物を持っていた。
「俺たちのために」
検非違使たちは紗耶香に感謝していた。
たとえ低い身分であっても、紗耶香は誰にでも公平に接している。
そのせいか『市井家の姫さまは、きさくなお方だ』と評判になっていた。
紗耶香にしても、幼いころから真希と接してきたので、
身分というものが、いかにくだらないものか分っている。
実際、貴族などより、平民たちの中にすばらしい人間がいた。
- 172 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時22分21秒
- 「もう平気よ。鼻血は止まったから」
紗耶香が笑うと、検非違使たちに安堵の表情がうかぶ。
その後、検非違使たちは大勢で、紗耶香と真希を家まで送った。
その道中、紗耶香は検非違使たちと、さまざまな話をしたのだった。
「えっ? 近衛兵が左近衛大将を討ったんですか? 」
「はい、何でも吉澤家のひとみという女子らしいですよ。
俺たちは非番だってのに、逃げた女子を探してたんです」
「吉澤家のひとみって、あの壊れた衛兵よね? 」
さすがに公家の姫だけあって、紗耶香はひとみを知っていた。
禁裏の女中衆に大人気の、男前の女近衛兵で、
興奮すると頭がはじけてしまうという評判だった。
自分を襲った左近衛大将が死んだことは嬉しいが、
紗耶香はひとみと吉澤家が気がかりだった。
どうにかしてひとみを助けることはできないか、
母の従兄弟にあたる道長に相談してみるつもりだ。
- 173 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時22分51秒
- 「いちーちゃん、知ってるの? 」
「うん、槍を使わせたら、左近衛府随一だってさ」
当時の槍は戦国時代のように長くはなかったが、
それでも2間(約3.6メートル)以上はあった。
黒田節で使われるような槍は飾りの域を出ない。
槍はあくまで野戦用の武器だったのである。
狭い場所で闘うときに使われたのは、もっぱら太刀や薙刀だった。
「もったいないね。それだけの腕なのに」
降りしきる雨の中、一行は三条通りを歩いていった。
- 174 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時24分08秒
- 《旅は道連れ》
美海を背負った梨華は、山陰道を京に向かっていた。
当時の山陰道は、人とすれちがうのがやっとの広さだった。
ほとんどが山道の山陰道では、森や林を通らなくてはならない。
こんな場所で誰かに襲われたら、助けを呼ぶこともできなかった。
このあたりで山賊に追いかけられたこともあり、梨華は怖くてしかたない。
「あのぅ、このあたりで、山賊さんに追いかけられたんですけどぉ」
「山賊? ほれっ、これを使え」
美海は梨華に懐剣を渡した。
懐剣を渡されたところで、梨華は使い方も分らない。
それ以前に、梨華は尼僧の端くれなので、殺生はできなかった。
彼女にとって唯一身を守る手段が、逃げることだったのである。
逃げ足には自信のある梨華だったので、それは強力な武器だった。
- 175 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時24分46秒
- 「こんな物騒なもの使えませんよぉ」
梨華は渡された懐剣を美海にかえした。
刃物といえば包丁くらいしか使ったことがないので、
梨華が持っていたとしても役にたちそうもないからだ。
それならば、たとえ深手を負っていたとしても、
使いなれた美海が持っている方がいいだろう。
美海は梨華から懐剣を受けとると、ため息をついた。
「だったら山賊にやられちゃうぞ」
「なななななな―――何をされちゃうんですかぁ? 」
「強姦されて殺されるに決まってんだろうが! 」
この2人のように若い娘であれば、まちがいなくそうなるだろう。
特に美海は今、『力』を使うことができないのだ。
普通の人間であれば死んでいるケガだったが、
美海は『力』を集中して致命傷から脱していたのである。
この無防備なときに襲われたら、それこそどうしようもない。
- 176 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時25分25秒
- 「そそそそそそ―――そんなに怖い人たちなんですかぁ! 」
世間知らずで能天気な梨華は、山賊は金品を奪うだけだと思っていた。
そんなお人よしで紳士な山賊など、この世には存在しないというのに。
だが、これまで尼寺で育ってきた梨華にしてみれば、
そんな恐ろしい人間がいるとは信じられない。
「人間の欲というのは、恐ろしいものだよ」
略奪・強姦・殺害という3要素は、人間の欲から生まれる。
数千年もの間、人間は欲に正直に生きてきたのだった。
- 177 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時25分59秒
- 美作から丹後に入ると、中小山賊がウヨウヨする場所だ。
行きに美海が退治したものの、まだまだ多くの山賊がいる。
2人は森や林の中を、用心しながら進んでいった。
「だから待てっての! 」
いきなり誰かの叫び声が響きわたり、梨華は驚いてとびあがった。
梨華の背中の美海は、山賊かと思って懐剣を握りしめる。
逃げようとする梨華を思いとどまらせながら、美海は前方を凝視した。
すると、そこでは男前の女が、3人の子供に囲まれているではないか。
「モメごとみたいですよぉ。かかわり合いにならない方が―――」
「行け! 行って止めるんだよ! 」
梨華の背中から飛びおりた美海は、彼女の背中を小突いて向かわせる。
美海が梨華を向かわせたのは、男前の女に恩を売りたかったからだ。
こんな臆病な梨華では、都まで戻れるかどうか不安だったのである。
そこで、強そうな男前の女を引きいれれば、道中が安心だと思ったのだ。
- 178 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時26分36秒
- 「や―――やめようよぉ。ケンカはよくないわぁ」
梨華は恐る恐る近づき、4人を仲裁しようとした。
これまで、イジメられることはあっても、
梨華はケンカの仲裁などしたことがない。
どうすればケンカを止められるか分っていなかった。
「じゃかましいわゴルァ! 」
「ヒィィィィィィー! 怖いよぉ! 」
逃げだす梨華の襟首をつかんだ美海は、
とりあえず話だけでも聞いてみようとした。
なぜなら、怒鳴った少女は手に短刀を持っていたからだ。
「子供がそんなものを持つんじゃないよ。いったい、何があったの? 」
「あいぼん、もうやめようよ。ののは帰りたいのれす」
「やっと見つけたんやないけ! ひとみはミカちゃんの仇やで! 」
亜依・希美・愛の3人は、殺されたミカの復讐をしようとしていた。
どうやら3人は、ひとみがミカを嵌めたのだと思っているようだ。
特に亜依は、ひとみに対して殺意を抱いているらしい。
だが、希美と愛は復讐に消極的だった。
- 179 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時27分14秒
- 「話を聞けっての! 」
「ミカちゃんの仇やァァァァァァァァー! 」
亜依はひとみに突きかかって行った。
しかし、腕には自信のあるひとみである。
片手で亜依の手首をつかむと、軽くひねってしまった。
亜依は短刀を奪われて草むらに転がった。
ひとみは誤解であるため、亜依にケガをさせたくない。
そんなひとみを見て、美海は事態が呑みこめてきた。
「きゃー、男前だわぁ」
梨華はひとみを見て、うれしくなってしまう。
尼寺にはひとみのような男前がいなかったし、
迫ってくる男は、誰もが好色な顔をしていた。
そんな梨華は、ひとみを見て胸が高鳴るのを感じた。
「くそっ! 覚えてろー! 」
「あいぼん、待ってー! 」
亜依と希美は逃げていったが、どういうわけか愛は残っていた。
美海は愛に殺気がないことから、ちがう目的があるのだと分った。
愛が逃げずに残った理由は、真実を知りたかったからである。
亜依が思いこんでいるように、ひとみがミカを嵌めたのなら、
刺しちがえても仇を討とうと思っていた。
- 180 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時28分06秒
- 「テッテケテー、オメエは逃げねーのか? 」
「ひとみさま! オラ、真実が知りたいんじゃ! 」
「やはりそうか。あんたが吉澤ひとみね? 」
美海は左近衛大将が殺された事件を、知らせを受けて覚えていた。
彼女には定期的に、安倍晴明から使者が送られていたのである。
女とみれば誰にでも手をだそうとする左近衛大将が殺されたので、
美海は祝杯をあげるほど喜んでいた。
何しろ美海も昨年の冬、用事があって禁裏に行ったとき、
危うく左近衛大将に犯されそうになったことがあったからだ。
「そうだけど、てめーは誰だ? 」
「安倍晴明門下の美海といいます」
ひとみは正直にミカの件を話した。
そして、自分が左近衛大将を殺したことも。
左近衛大将という上級貴族を殺してしまったので、
ひとみは都に帰ることができなかった。
- 181 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時28分40秒
- 「そんなことがあったとは―――」
愛はひとみの話を信じた。
ひとみはウソをつくような人間ではなかったし、
左近衛大将が殺されたことは愛も知っていた。
「ミカちゃんは―――オレが丹波の国分寺に埋葬した」
ひとみは辛そうに、ため息をつきながら座りこんだ。
あんなに優しくて罪もないミカを、ひとみは救うことができなかった。
すでに陽が暮れかかっており、どこかに宿を探す必要がある。
そんな夕方の淋しげな陽が、ひとみの顔を照らしていた。
「ひとみさまのせいじゃないわ。オラ、話が聞けてよかった」
「そおですよぉ。悪いのは左近衛大将じゃないですかぁ」
愛と梨華は、悲しそうな顔をするひとみをなぐさめた。
死んでしまったミカは別にして、いちばん悲しい思いをしたのは、
ほかならぬひとみだったのを、利口な愛は理解していた。
つまらない誤解だったので、これで愛は一安心する。
何が何でもミカの仇討ちをしようとする亜依を、
愛は説得しようと思っていた。
- 182 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時29分10秒
- 「チビたちがオレを殺したいのも分るよ」
「そんなぁ、ひとみさんは悪くないですよぉ」
ついつい梨華は、ひとみの横へ行って手を握ってしまう。
問題が解決しそうで喜んだのは、ほかでもない美海だった。
このまま行けば、ひとみと愛が動向することになる。
こんな世の中だから、ひとりでも多い方が心強かった。
「それなら、早く行こうじゃないの」
美海は嫌がる梨華の背中に飛び乗り、ひとみと愛を促した。
スネに傷のあるひとみと梨華は、平安京にこそ帰れないが、
目的の郊外の村までなら、何とか同行することができる。
これで野宿も心配ないと、いつしか美海は笑顔になっていた。
- 183 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時29分49秒
- 5日後、一行は平安京郊外の村についたが、そこに亜依の姿はなかった。
亜依はひとみに復讐するため、家出をしていたのである。
さすがに亜依についていかなかった希美が、一行を出迎えた。
粗末な農家だったが、ここは希美の家だった。
両親は遠いところから来た娘の友人をもてなす。
一行は温かい食事をとりながら、詳しい話をした。
「そうか。亜依はいないのか」
ひとみは誤解されたままなのが嫌だった。
亜依が真実を知り、それでも殺そうというのなら、
ひとみは死ぬ覚悟ができている。
ところが、希美は思いがけないことを言った。
「あいぼんは、ミカちゃんの仇討ちじゃないのれす」
希美の話によると、亜依はミカと輸出入の独占契約を結んでいた。
つまり、ミカが無事に帰還できたら、ひと儲けたくらんでいたのである。
しかし、ミカが殺されてしまい、その話はご破算になってしまった。
亜依はミカの復讐と言いながら、自分の復讐をしようとしていたのだ。
- 184 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時30分26秒
- 「困った子ねぇ」
梨華はひとみに寄り添いながら、おいしそうに雑炊を食べていた。
その横で、愛が美海の傷の手当てをしている。
美海は応急処置こそしたが、消毒などは行っていなかった。
この時代、怖いのは出血などより感染症だった。
「キャアァァァァァァァー! ほ―――骨が―――骨が見えとるわ! 」
愛は美海のケガを見て悲鳴をあげた。
美海は元気そうだったが、かなりの重傷なのである。
『ゆきどん』の剣は、肋骨に突きささっていたのだ。
「うるさいヤツだな。さっさと消毒しろ」
美海は『気』を集中しているため、ほとんど痛みを感じていない。
それでも、確実に体が弱ってきていた。
早急に平安京へ戻り、本格的な治療が必要だった。
- 185 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月06日(土)19時31分13秒
- 「これからどうするのれすか? 」
希美はひとみの今後が心配だった。
左近衛大将を殺してしまったのだから、
いまさら京に戻ることはできないだろう。
このまま戻ったりすれば、待っているのは打ち首だった。
「オレは都に帰れないしな。―――梨華ちゃんは? 」
「えーとぉ、―――ひとみちゃんといっしょにいたいなぁ」
梨華にしても、京に帰ることはできなかった。
それならば、ひとみといっしょの方が心強いし、
何より梨華は、男前の彼女に恋心を抱いていたのだ。
「収まるべきところに収まったか」
美海は愛に消毒をしてもらい、少しは安心できるようになった。
そして愛と希美の2人に、晴明の家まで送ってもらうことにする。
こうして、美海はようやく、晴明に報告することができたのだった。
- 186 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時30分48秒
- 《選ばれし娘》
下級役人である検非違使の家は、豪邸とはほど遠い長屋だった。
どこかの役人の寮のように、一等地にある団地とはわけがちがう。
それでも、まだ三条に住める検非違使は恵まれた方だった。
なぜなら下京(四条以南)は死体だらけで、死臭が漂う町だったからだ。
「おばさん、真希はいる? 」
紗耶香は久しぶりに真希の家にやってきた。
藤原道長が左大臣になってから、市井家はみるみる出世してゆく。
いつの間にか寝殿造りの家となり、紗耶香は姫さまになってしまった。
それまでは近所の子供と遊んでいた彼女だったが、
姫さまと呼ばれるようになると、そうもいかなくなってしまった。
そんな姫さまである紗耶香がやってきたのだから、
後藤家ではたいへんな騒ぎになってしまう。
- 187 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時31分23秒
- 「これは市井の姫さま! こんなむさ苦しいところに」
「やめてよ。昔みたいに『紗耶香ちゃん』って呼んでよ」
紗耶香は自分が姫さまだとは思っていない。
貧しかった時代には仲がよかった近所の人も、
ちょっと親が出世しただけで縁遠くなってしまう。
彼女はそんな世を悲しく思っていたのだった。
昔の感覚でつき合ってゆけるのは、
彼女にとって真希だけになってしまった。
「そうかい? それならそうするよ。真希ー! 紗耶香ちゃんだよー! 」
形式ばらずに、人情味があふれる長屋の生活を、紗耶香は羨ましく思っていた。
貴族の暮らしなど、型にはめられてばかりで、まったく自由というものがない。
公式に外出するときなどは、必ず牛車に乗らなくてはならず、
あまりの遅さにイライラしてしまう。
- 188 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時32分05秒
- 「はーい。いちーちゃん、いらっしゃい」
真希は紗耶香を土間の縁に座らせ、沸かしたばかりの麦湯を持ってきた。
本格的なお茶が庶民にまで普及するのは、これから500年以上後のことだ。
あいかわらず袴姿で紅もささない紗耶香は、よく少年にまちがえられる。
先日も藤原邸に遊びにゆき、庭に植えた柿の木に登っていると、
下男に柿泥棒とまちがわれ「このガキ! 」と言われたという。
紗耶香が市井家の姫だと分り、下男はコメツキバッタのように謝ったそうだ。
「真希、式部省から呼び出しがきてるんだけど、何かしなかった? 」
紗耶香と真希は、どういうわけか式部省から呼び出しを受けていた。
式部省といえば、多くの式典などを司る部署であり、女性が多いことから、
いつの間にか女官には『式部』という呼び名がつくようになった。
『源氏物語』の作者でもある紫式部も、本来は式部省の女官ではなく、
入内した道長の娘、彰子のつき人だったのである。
- 189 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時33分07秒
- 「式部省? アオダイショウを投げこんだのは民部省だし。
ガマガエルは中務省だったかな? たしか牛糞は―――」
真希はこれまで、こういったイタズラを数多くやっていた。
最近になってからは、真希も年ごろの娘になったので、
さすがに、こんなひどいイタズラはやっていない。
だが、幼いころは、すさまじいイタズラをやっていたのだ。
紗耶香も幼いころは、真希以上におてんばだった。
近所の松の木に登り、まっさかさまに落ちたことがある。
誰もが死んだと思っていたが、彼女は奇跡的に助かった。
- 190 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時33分41秒
- 「そんな昔のことは時効じゃないの? 最近だよ。最近」
真希は腕を組んで考えてみるが、式部省へのイタズラには記憶がない。
紗耶香にしても、式部省から呼びだされるような心あたりがないのだ。
ひとみが左近衛大将を殺して逐電したので、代わりの近衛兵を補充するなら、
左近衛府から話がくるにちがいない。
「行ってみるしかないよ。いちーちゃん」
そんな話をしていると、真希の母親が柿を持ってきた。
この時代、まだ柿は珍しかったが、秋の風物詩になりつつあった。
柿が大好物の紗耶香は、嬉しそうにかぶりつく。
姫さまの食べ方ではなかったが、上品ぶった食べ方よりも、
どういうわけか美味しく感じられるのだった。
- 191 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時34分12秒
- 紗耶香と真希は、式部省の奥の間に通されていた。
薄暗くて厳粛な空気が漂う中、2人は緊張で固くなっている。
2人がくる前には香が焚かれていたようで、
どこか花の香りに似た匂いがしていた。
「いちーちゃん、祝詞みたいな声が聞こえるよ」
真希は声を押し殺して、紗耶香に言ってみた。
式典を司るのが式部省の仕事であるから、
担当者が祝詞の練習をすることもあるだろう。
だが、それなら神社から神官を呼んでくればいい。
「そりゃ式部省だから―――むっ! 」
紗耶香は背後に何者かの気配を感じた。
それは人間というより、狐狸の類に似ている。
殺気こそ感じないが、相手が狐狸の類だと、
いきなり攻撃してくる場合もあった。
紗耶香は太刀をつかんで引き抜こうとした。
- 192 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時34分44秒
- 「そいつを抜いたら首が飛ぶで」
その女の声に、真希が驚いて飛びあがる。
紗耶香は片膝をつき、太刀を構えたまま、
背後から横へきた小柄な女をにらんでいた。
ところが、女はべつに恐れるでもなく、
真希の横を通って2人の前に座った。
見たところ、ごく普通の女ではあったが、
先ほどから紗耶香は特別な気配を感じている。
紗耶香は警戒しながら、この怪しい女を観察してみた。
「たいしたもんやな。うちの気配が人とちがっとったんやろ? 」
「眷族の気配を感じたもので―――これは失礼いたしました」
紗耶香は警戒を解かずに、太刀だけは横に置いた。
最悪は懐剣もあるので、これで対処できそうだった。
女は警戒している紗耶香を安心させるため、
持っていた懐剣を、離れた場所に放り投げる。
丸腰の小柄な女であれば、紗耶香も警戒を解かざるをえない。
- 193 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時35分55秒
- 「うちは摂津稲葉家の貴子や。人はキツネの子ゆうとるわ」
「ほんとうにキツネの子なんですか? 」
真希は目を丸くして貴子を見つめている。
もし、貴子がほんとうにキツネの子だとしたら、
真希は生まれて初めて会う異人類だからだ。
そんな真希の率直な質問に、貴子はおかしそうに笑った。
「キツネやないけど、近いもんの子なんやろな」
「―――山童。でしょうか? 」
山童(やまわろ)とは呪術を生業とする山岳民族で、
当時の日本では二級国民的な扱いをされていた。
物部氏の子孫であるとか、縄文人の生き残りだとか言われているが、
その実態は、まったくもって謎につつまれている。
「うちも詳しくは知らんのや。けど、そういった類なんやろね。きっと」
摂津稲葉家といえば、吉備氏と所縁のある家柄で、
格式からゆけば、市井家など足もとにも及ばない。
そんな良家の女が、山童の血をひいているとは、
世の中は分らないものだった。
- 194 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時36分37秒
- 「なんだ。本気にしちゃったよ」
真希は口惜しそうに唇をとがらせた。
同じ哺乳類なので、人間とキツネの遺伝子は似ている。
しかし、たったひとつの遺伝子がちがっただけで、
混血が生まれることなど、ぜったいにないのだ。
「ところで、私たちを呼ばれた理由は? 」
「少し早いけど、夕餉でも食べながら話をせえへんか? 」
貴子が合図すると、夕食の膳を持った女中たちが入ってきた。
紗耶香は式部省に女官が多いとは聞いていたが、
この稲葉家の貴子が2人を呼んだ張本人とは意外だった。
女が女を呼んだのであるから、きっと同性に関することだろう。
勘の鋭い紗耶香は、そのように分析していた。
「いちーちゃん! 岩魚だよ! 」
式部省といえど、役人の夕餉など質素なものだった。
岩魚の塩焼きにダイコン葉の煮物、ネギだけのお吸い物、
それにクラゲの酢の物だけが献立である。
それでも検非違使の家に育った真希にしてみれば、
白米を食べられるだけでも至高のぜいたくに感じた。
- 195 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時37分30秒
- 「たいしたもんやのうて、すんまへんな」
紗耶香の家であれば、このくらいは朝餉でも食べていた。
夕餉ともなると、これにヤマイモや山鳥が加わり、
季節の食べ物が2皿はついていたのである。
春にはぜんまいやタケノコ、夏にはウリ、
秋にはキノコやもろこし、冬はふきのとうなどだ。
「酒もあるで、気楽にやってや」
式部省の中で「気楽にやれ」と言える者など、そう多くはいないだろう。
それを平気で言うのだから、式部省内でも貴子の地位は高いにちがいない。
平安時代である今でこそ貧乏だが、かつては一世を風靡した吉備家の縁者である。
貴子は式部省内でも、きわめて重要な仕事を任されていたのだった。
「貴子さま、お話を伺いましょうか」
紗耶香は貴子に呼びだされた理由を尋ねる。
すると、貴子の眼光が鋭くなり、紗耶香は思わず息を呑んだ。
小柄で力も弱そうな貴子だったが、紗耶香は強い力を感じていた。
その力とは腕力ではなく、ふしぎな力であるのはまちがいない。
- 196 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時38分09秒
- 「安倍晴明は知っとるな」
安倍晴明を知らない者など、この平安京にはいないだろう。
陰陽師の頂点に君臨し、天皇にもお目通りを許された男だ。
貴子と同じく、キツネの子であると言われていた。
「晴明さまが? 」
「その娘に、なつみと麻美いう姉妹がおる。その娘たちがさらわれたんよ」
貴子は紗耶香と真希を睨むように言った。
平安京を魑魅魍魎から守る安倍晴明の娘をさらうとは、
敵も一筋縄ではいかない連中のようだ。
「単刀直入に言うと、その娘たちを助けだしてほしいんや」
「おかどちがいでは? 私たちは普通の女子ですよ」
紗耶香は貴子の言う意味が分らなかった。
そんな仕事であれば、左右近衛府に任せればいい。
平安京内のことであれば、検非違使までいるのだ。
紗耶香と真希は、腕にこそ自信はあったが、
人質を無傷で救出することなどしたことがない。
- 197 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時38分54秒
- 「だからこそ頼んどるんや。
敵もアホやないで、屈強な武将が行ったりしたら警戒するだけやろ? 」
貴子の言うことも一理あるが、あまりにも情報が少なすぎる。
2人の娘はどこにいて、どんな敵に監禁されているのか。
敵の規模はどのくらいで、支援体制はどうなっているのか。
少なくとも、これくらいの情報がなくては話にならない。
「2人は今、出雲の旧国分寺跡に監禁されとる。敵は原則的に見張りが2人だけや。
結界をはられとるで、2人の安否までは分らん。こんくらいでええか? 」
貴子は紗耶香が考えていることを見通していた。
さすがにキツネの子と言われるだけあって、
貴子にはどこか特殊な力があるのだろうか。
それとも、貴子は紗耶香に承知させるために、
あらかじめ先まわりしていたのだろうか。
紗耶香にとって、そんなことはどうでもよかった。
「私も真希も、家族と相談せねばなりません」
「相談したところで、結果は見えとるわ」
貴子は裏で手をまわしているらしい。
紗耶香や真希が帰宅して両親に相談すると、
意外なくらいあっさりと許しがでるのだろう。
官僚が得意とするのは『根まわし』と相場がきまっていた。
- 198 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時39分56秒
- 「たった2人では、山賊にも勝てるかどうか」
「山陰道の大手山賊は、先月、源頼光が退治しとるわ」
要するに、紗耶香と真希のために、山陰道を整理してあるらしい。
ここまで用意されてしまっていては、断るに断れないだろう。
紗耶香は断りきれないと悟り、受諾する方向で考えだしていた。
ところが、真希は出雲までなど、行けるわけがないと思っている。
小規模な山賊くらいなら、2人で追いはらえるだろうが、
問題は源頼光ですら苦しめられた魑魅魍魎の類だった。
「その頼光さまが、魑魅魍魎に苦しめられたじゃん」
真希は山陰道で頼光が苦戦した魑魅魍魎のことを、
人づてに聞いて知っていたのである。
頼光は夜な夜な現れる魑魅魍魎に苦しみ、
陰陽師である加茂広行の助けを借りたという。
「安心せえ。お前たちの剣を、破邪の剣にしたるさかい」
貴子は自信を持って言った。
ここまで自信を持って言うからには、
貴子の計画は緻密に練られているのだろう。
退屈な平安京での暮らしにもあきていたので、
ここはひとつ、貴子の話に乗ってもよさそうだった。
- 199 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時40分38秒
- 「剣をこれへ」
真希が半信半疑で素直に剣をさしだすと、貴子は重い野太刀を引きぬく。
そして懐から筆を出すと、何やら呪文を唱えながら刀身に文字を書いていった。
墨があるわけではないので、刀身に書かれた文字については読めなかった。
貴子は真希に野太刀を返すと、今度は紗耶香の太刀にも同じことをした。
「これで破邪の剣となったで。試してみるか? 」
そう言うが早いか、貴子は印をきって邪気を放出した。
すると、その邪気の中から、恐ろしい魑魅魍魎たちが姿を現す。
真希は悲鳴をあげながら、紗耶香の後方へ隠れた。
紗耶香は太刀を持って身構えている。
「さあ、破邪の剣を使ってみいや」
「この魑魅魍魎どもめ! 」
紗耶香が太刀を半分まで抜いたとき、
どういうわけか刀身が眩い光を放ち、
おびただしい数の魑魅魍魎たちは、
断末魔の悲鳴をあげながら消えてしまった。
- 200 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時41分19秒
- 「消えた! 」
「ちょっと念を入れすぎたようやな」
貴子は必要以上に念をこめてしまったようで、
太刀を抜きさる間もなく、魑魅魍魎たちを消滅させてしまった。
これが貴子の力の正体だと分り、紗耶香はどこか安心している。
ただの騙りではないという安心感、そして期待感だった。
「これで魔物は平気やろ? さて、果物でも食べようやないの」
貴子は何ごともなかったかのように、
合図をして果物を持ってこさせた。
この時期、アケビや柿、山ブドウが旬である。
3人の前に運ばれてきたのは、そろそろ終わりの桃だった。
「いちーちゃん、桃だよ! 」
真希はたった今、恐ろしい魑魅魍魎を見たというのに、
すでに気持ちをきりかえて、桃に興味をしめしている。
これが真希の長所でもあり、短所でもあった。
桃はすぐに傷んでしまうので、当時は高価なものだった。
真希のような検非違使の娘では、めったに食べられるものではない。
それこそ1年に1度、一家で味わうことしかできなかった。
- 201 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時41分52秒
- 「断れないようですね。貴子さま」
「分っとるやないの」
紗耶香はおいしそうに桃を食べる真希の横で、
あまりにも強引な依頼に困惑していた。
きっと、かなり危険なことになるだろうし、
真希と2人だけでは、どうしても不安がある。
かといって屈強な武将は連れて行けないのだから、
どうしようかと考えていた。
「忘れるところだったわ。この石を渡しとくで」
貴子は麻の袋から、玉子くらいの石を取りだした。
合計4個の石には、何やら文字が書いてある。
3個には『は』『む』『う』とあり、1個だけは何も書かれていない。
真名(漢字)ではなく仮名になってしまうのは、
貴子が女性であるから仕方ないのだろう。
「これは? 」
「占いをしたとき、でてきた字やな。うちも何の意味か分らへん」
貴子がくれた石であるから、お守りにはなるだろう。
また、手ごろな大きさなので、石つぶてとしても使えそうだった。
- 202 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時43分05秒
- 食事を終えると、貴子は雑談をはじめた。
とりとめもない話をしていたのだが、
紗耶香はふと、吉澤ひとみのことを思いだした。
左近衛大将を殺したのだから、捕まれば首を刎ねられるだろう。
「貴子さま、吉澤ひとみという者をご存知でしょうか? 」
「ああ、あの件やろ? 左近衛大将に厳罰がくだったで。死んでからの話やけどな」
藤原道長は左近衛大将が、漂流者の娘を虐殺した話を知り、
烈火のごとく怒って、死者だというのに厳罰を言いわたした。
思いあまって左近衛大将を殺したひとみには、
無罪とまでは行かなくとも、かなり軽い刑が確定している。
左近衛大将の家族は納得できないかもしれないが、
勝手に漂流者を惨殺するなど、許されることではなかった。
- 203 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時43分42秒
- 「それは何よりですね。あの左近衛大将は―――」
「女グセが悪くて、権力志向やったしな」
評判の悪い左近衛大将は、殺されてあたりまえだったのである。
左近衛大将が死んで、喜んだ若い娘は多いことだろう。
藤原一門ではない『たいせー』を左近衛大将にしたのは、
藤原道長の意思ではなかったので、近々交代させる予定になっていた。
女グセが悪いだけで更迭するわけにもゆかず、
藤原道長にしてみれば、今回の事件は渡りに舟だった。
- 204 名前:第二章・なっち姫救出之巻 投稿日:2003年09月07日(日)19時44分22秒
- こうして日が暮れると、貴子は2人を帰した。
手をまわしてあるので、2人は明日の朝に出発するだろう。
3人の膳が片づけられると、部屋に裕子が入ってきた。
「ごくろうさんやったね。どや? 手ごたえは」
裕子は貴子の上司にあたり、式部省では最高幹部のひとりだ。
鬼の異名をとるが、若い後輩を熱心に指導する優しい女でもある。
裕子と貴子は歳も近いので、個人的なつきあいもあるらしい。
「紗耶香は使えますわ。真希は未知数って感じやね」
貴子は感じたままを言った。
すると裕子は貴子の肩に手を置き、
祈るような声を絞りだした。
「あの2人だけが頼りやしな」
「そやね。早く安心して一杯飲みたいわ」
鼻で笑う裕子と目が合い、少しおおげさに笑う貴子だった。
- 205 名前:名無し弟 投稿日:2003年09月07日(日)19時46分25秒
- 今回はここまでです。
なるべく早く更新します。
- 206 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:41
- 《契り》
紗耶香と真希は翌日の早朝、家を出発して山陰道に入った。
夏は涼しくて気持ちのよい時刻だったが、この季節ともなると、
息が白くなって頬が赤くなるほど寒かった。
山のいただきでは、真っ赤に染まったカエデが見てとれる。
もうすぐ、平安京にも厳しい寒さが訪れるだろう。
山陰道も平安京の近くでは、大きな道路になっていたが、
すぐに、やっと人がすれちがえるくらいの広さになってしまった。
「真希、いよいよ都から離れるよ。山賊に気をつけないと」
あたりは雑木林に囲まれており、まったく視界のきかない場所だ。
紗耶香は剣術の腕こそ一流だったが、実戦で使ったことがない。
そうした不安が、彼女を臆病なほど慎重にさせているのだ。
真希ほどの腕前であれば、あまり心配はいらなかったが、
紗耶香としては、かわいい妹分を守らなければという気持ちが強かった。
- 207 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:43
- 「山陰道は先月、源頼光さまが山賊を掃討されたじゃん」
真希は寒そうに、手をこすり合わせながら言った。
源頼光は古今東西、最強の武将と言われている。
金太郎で有名な坂田金時や羅生門の鬼と闘った渡辺綱を従え、
平安京付近の山賊を、ことごとく退治していた。
連戦連勝の源頼光を、巷では『不敗将軍』と呼んでいる。
その頼光が山陰道を平定していたのだから、
もはや山賊など存在しないと思われた。
「真希は山賊のことを知らないね。山賊には縄張りがあるんだよ」
空白地帯が発生すれば、山賊が存在するかぎり、
どこからともなく、そこを縄張りにするものが現れる。
需要と供給が成りたっている以上、仕方のないことだろう。
- 208 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:43
- 山賊とは山に棲んでいるというのはまちがいで、
その多くは、平安京や都会近郊に集まっていた。
なぜなら、旅人から奪った金品を処分して現金化する必要があり、
そういったことは、都会の店や平安京でしか行えなかったからだ。
したがって、山賊は平野部のほうが出没しやすいのだ。
「自分たちの縄張り? まるでクマみたいだね」
クマなら人を見たら逃げてゆくが、山賊は人を見れば襲ってくる。
特に若い女であれば、金品を奪うばかりでなく、体を要求するだろう。
大人数の山賊なら数十人に犯され、そのまま死んでしまうのだった。
人間の命の値段など、まったく安い時代だった。
そのせいもあり、2人は慣れない男装をしている。
男装の利点は、とにかく動きやすいことだった。
「真希、囲まれたよ」
紗耶香は包囲されている気配を感じた。
あたりは雑木林で、まったく視界のきかない場所だ。
真希は背中の野太刀に手をやり、周囲を見てみるが、
人の姿など、まるで見ることができない。
- 209 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:44
- 「どこ? 」
どういうわけか紗耶香は、こうした野生の勘を持っていた。
きっと、どこかで山童の血でも入っているのだろう。
市井家は新興の貴族であるから、あまり家系も分っていない。
紗耶香は腰の太刀に手をかけ、あたりの『気』をさぐった。
「離れるな! 」
紗耶香が太刀をぬくと、まわりから数人の男が現れた。
どの男も裸に胴をつけており、すぐに山賊とわかる姿だ。
男の中には、短いが槍を持っている者もいるので、
戦闘になったときには、それが少し厄介だった。
「へえ、どうりで女の匂いがすると思ったぜ」
「男の姿だが、中味は女だってか? 」
この季節、どうしても汗をかいてしまう。
そうすると体臭が漂い、女であることが分ってしまうのだ。
臭気は思ったよりも、遠くまでとどくものである。
遠目からだと紗耶香も真希も男装をしているせいか、
少年のように見えるのだが。
- 210 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:45
- 「み―――道を開けろ! さもなくば、命の保障はしない! 」
紗耶香は精いっぱい山賊たちを威嚇してみたが、
そんなことを彼女がやったところで怖気づく相手ではない。
以前、仲間がなつみに殺されているというのに、
山賊たちは数日もたつと忘れてしまう。
当時は山賊とて生きるのに必死であり、
周囲の状況を分析する暇などなかった。
恐ろしい死に方をした仲間たちのことなど、
考えている余裕がなかったのである。
「元気のいい女だな。まずはお前からかわいがってやろう」
男は紗耶香の太刀など恐れず、平気で近づいてきた。
これが剣術を稽古している紗耶香だと分っていれば、
この男は少しだけでも長生きすることができただろう。
紗耶香は反射的に、男の胸に太刀を突き刺した。
「うぐっ! 」
刃先が心筋を破壊する感触を手に受けると、
紗耶香は刃を滑らせながら太刀を引きぬいた。
こうすることによって刃の周囲の肉を切り、、
太刀が抜けなくなってしまうことがなくなるのだ。
主力の太刀が抜けなくなってしまったら、
紗耶香はまったくの丸腰になってしまう。
胸を刺された男は、心臓を破壊されて即死した。
- 211 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:45
- 「このっ! もう許さねえ! 」
槍を持った男が、仲間の死を知って上段に構える。
相手が槍では、紗耶香の太刀では勝負にならない。
どうにかして刃先を避けることを考えていた紗耶香の前に、
いきなり真希が踊り出ると、槍ごと男に太刀を浴びせた。
とにかく頑丈で重い野太刀であるから、男は袈裟がけに斬られて昏倒した。
「真希! 」
真希にケガをさせてはいけないと思い、
紗耶香は真希を引きもどして、ほかの男に太刀を浴びせる。
男は喉笛を切られて、大量の血を吐き出しながら倒れた。
極度の興奮と緊張が瞳孔を拡大させ、敵の姿しか見えなくなる。
2人は必死で山賊たちを斬り殺していった。
「真希! 真希! だうじょうぶ? 」
紗耶香は山賊全員を斬り殺すと、真希を抱きしめて怒鳴った。
これほど興奮している自分に、紗耶香は動揺していた。
初めて人を斬り殺したのだから、それもムリはないだろう。
返り血で真っ赤になった自分の手を見て、
彼女はとにかく怖くて仕方がない。
「走って! 早く! 」
紗耶香は真希の手を引いて、とにかく走りに走った。
目的は、その場から少しでも遠ざかることなので、
どこへ向かったわけでもない。
- 212 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:46
- 2人は脱水症状になるまで走った。
紗耶香は小川を見つけると、顔をつけて腹いっぱい水を飲む。
そうでないと、脱水症状で死んでしまうかもしれない。
大量の汗をかいた2人は、とにかく浴びるように水を飲んだ。
「真希! 真希! 」
紗耶香は思いだしたように真希を抱きしめる。
真希を抱いていれば、少しは気分が落ちつく。
紗耶香は真希を抱いたまま、川岸に寝ころがった。
雲ひとつない秋晴れの空。清らかな小川のせせらぎ。
遠くで鳴くモズの声が、どこか淋しかった。
「もうだいじょうぶだよ。いちーちゃん」
これだけ紗耶香が怯えるとは、
いくら真希でも夢にも思っていなかった。
人を殺すのは真希も初めてだったが、
どこか醒めた感覚が支配している。
この時代、人の命など、虫ケラと同じだった。
- 213 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:55
- 「怖いんだよ。―――私自身が」
「そんなに怖がらなくても―――うぐっ! 」
真希の唇は、紗耶香の唇でふさがれた。
あわてた真希は、突きとばそうとするが、
紗耶香の力は強かった。
紗耶香は真希の帯を解き、懐に手を入れる。
そこには汗だくの、大きなふくらみがあった。
「い―――いちーちゃん! 嫌だよ! あうっ! 」
紗耶香が胸の先端を口に含むと、
これまで抵抗していた真希の体の力がぬけていった。
誰も見ていないので、紗耶香は真希を全裸にしてしまい、
自分もすばやく着物をを脱ぎ捨ててしまった。
2人は肌を寄せあい、小川に体を浸けてゆく。
火照った体には、冷たい水が心地よかった。
- 214 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:55
- 2人は何度も絶頂を迎え、互いに求めあった。
陽が傾き、あたりにヒグラシの鳴き声が響くようになると、
紗耶香はゆっくりと起きあがった。
2人の白い肌が、秋の夕日に染まっていた。
「いちーちゃん、ひどいよ―――」
真希はけだるそうに言った。
だが、その声には紗耶香を非難する意思が感じられない。
紗耶香は髪を解き、少し深くなったところで頭を洗った。
その背後から真希が抱きついてくる。
「なーんてね。―――待ってたのかもしれない。こうなるのを」
真希は紗耶香の背中に頬をあてた。
2人は幼いころから一緒に育ち、まるで姉妹のようだった。
身分の差こそあれ、真希は紗耶香を慕っていたのである。
紗耶香は真希を、目の中に入れても痛くないほどかわいがっていた。
そんな2人が年ごろになり、体を求めあうようになるのは、
ごく自然なことだったのかもしれない。
「―――真希」
紗耶香は振りかえって真希を抱きしめた。
- 215 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:56
- 《合流》
その日の夜は丹波の国分寺に泊まることにしたが、
久々の女の客人であるため、2人は大歓迎されることとなった。
国分寺の僧とはいえ男である以上、若い女が来れば嬉しいのだ。
寺は天井が高いので、線香臭いのを除けば、夜も涼しくて寝やすい。
若い坊主から老齢の住職の話に深夜までつき合わされ、
2人が床についたのは日付が変わってからだった。
「何で? 何でなのよ! 」
朝方、紗耶香の声で真希は目をさました。
それは彼女の寝言らしかったが、ひどい悪夢のようで、
紗耶香はひどい寝汗をかいていたのだった。
真希は苦しそうな紗耶香を見ておれず、
とにかく起こしてみたのである。
すると紗耶香は、泣きながら真希に抱きついてきた。
「あたしが―――あたしがいたの」
どうやら紗耶香は、自分と話をする夢を観たらしい。
もうひとりの自分と逢うと、その人は死んでしまうという。
そんな話を人伝に聞いたことのある真希は、
紗耶香を抱きしめてベソをかきだした。
「夢だよ! いちーちゃん! 夢なんだよう! 」
初めて人を殺してしまったので、そんな夢を観たのだろう。
真希は紗耶香の温もりを感じ、どこか安心していた。
- 216 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:57
- 2人は炊事を手伝い、朝食をとると丹波国分寺を後にした。
このまま何もなければ、明日の晩には丹後国府につけるだろう。
休憩をとりながら一晩中歩くか、どこかで休むかは思案のしどころだった。
2人はクマ笹の中の小径を、赤トンボに歓迎されながら歩いてゆく。
すっかり成長したススキが、2人の背より高くなっていた。
「天気がいいから丹後の国府まで行こう」
源頼光の活躍で、山陰道の大手山賊は退治されてしまった。
わずかばかりの山賊は、身を隠して無事だったが、
寺社を襲って金品の強奪をする事件が後を絶たない。
「丹後の国司さまは、いちーちゃんの知り合い? 」
「うん、飯田っていうおじさん。たしか、圭織って名前の姫さまがいたよ」
飯田丹波守の娘、圭織は、もう22歳だというのに嫁にいっていない。
それというのも、かなりの天然であり、男がついてゆけないという。
つい先日も嵐の中、丹波国分寺の五重塔へよじ登り、天の声を聞いたらしい。
そんな女のいる国府が、はたしてほんとうに安全なのだろうか。
「圭織さまって、あの背の高い姫さま? 」
真希は圭織が都にいるころ、見かけたことがあった。
紗耶香や真希にしても、決して背の低い方ではなかったが、
圭織は並の男よりも、はるかに大きかったのである。
目の下にクマをつくり、どこかボーッとしている女だった。
- 217 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:58
- 「そうそう。雲をつくような大女なんて言われてたね。
つまらない話で、みんなが引いちゃうと『ねえ、笑って! 』なんて言ってた」
そんな話をしながら2人が山陰道を歩いてゆくと、
これまで道端で鳴いていた虫の声が、突然やんでしまう。
すると、いきなり笹の中から、刃物を持った尼が出てきた。
その尼は短剣を向けながら、困ったような顔で脅してくる。
だが、それはまったく脅しにはなっていなかった。
「えーとぉ、てめえらぁ、有り金ぜんぶぅ、よこしやがれぇ」
「ハァ? 」
どうやら、この若い尼は、何とかして追いはぎをするつもりらしいが、
どこをどうまちがえたのか、まったくサマになっていない。
2人は首をかしげながら、「おかしな尼だ」と言って通りすぎようとする。
すると、その尼は泣きそうな顔で、懇願するように言った。
「あのぉ、無視されると困るんですけどぉ」
「うーん、お金がほしいの? お腹すいてるみたいだね。これ、あげるよ」
真希は丹波国分寺でもらった干し米を渡した。
干し米をもらった尼は、嬉しそうに小躍りをする。
真希は人の役にたてて、満足そうな顔をしていた。
- 218 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:59
- 「もう、見てらんねーよ! やい! テメエら―――げげー! 市井の姫さま! 」
ひとみと梨華は、生きてゆくために山賊のマネゴトをしていた。
腕っぷしの強さでは、誰よりも自信のあるひとみであるから、
こういった仕事をすれば、まず食べものに困ることはないだろう。
しかし、近衛兵が山賊になったなどとは、とてもみっともない話だった。
「ひとみさん? 」
紗耶香は尼の後ろから現れた男前の女を凝視した。
どうやら、左近衛大将を殺して出奔した吉澤ひとみのようだ。
左近衛府では有名なひとみだったので、紗耶香も何度か見たことがある。
ひとみにしても、市井家の姫さまくらいは知っていた。
「やべー! 逃げるぞ。梨華ちゃん! 」
ひとみは梨華の手をとり、慌てて逃げだした。
紗耶香はひとみと話がしたかったので、
何とか呼びとめようとしたが、2人の足は速かった。
「ちょっと待ってよー! 」
紗耶香はとっさに、持っていた石をとりだした。
すると、『う』と『む』の石が光っているではないか。
おかしなことがあるものだと思いながら、
紗耶香は石を投げつけてみた。
- 219 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 19:59
- 「この距離じゃ当たらない―――って当たったよ」
紗耶香の投げた石は、一直線に2人へ向かってゆき、
こともあろうか頭に命中してしまった。
ひとみと梨華は、もんどりうって転んでしまう。
2人が頭をおさえて痛がっていると、
紗耶香と真希が駆けよってきた。
「吉澤ひとみさんでしょう? 左近衛大将の件、情状酌量で減刑されるそうよ」
「ジョジョーで弁慶? 何だ? そりゃ」
ひとみにむずかしい言葉は通じない。
紗耶香は頭の悪いひとみにも分るように、
3歳児と話すような言葉で説明をした。
ところが、ひとみは悲しそうに首をふった。
「オレはいいけどよ。吉澤家のことを考えるとな―――」
代々、数百年も続いた近衛兵の家柄で、
こともあろうか左近衛大将を殺したともなると、
勘当どころのさわぎではないだろう。
ひとみが家に戻ろうものなら、一家心中にもなりかねない。
- 220 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:00
- 「それに、梨華ちゃんもいるし」
「―――ひとみちゃん」
梨華はうれしくなって、横にいるひとみの手を握った。
ひとみが追いはぎをするのは、容易いことである。
しかし、梨華も自分の食い扶持くらいは稼がないといけないと思い、
見よう見まねで追いはぎの練習をしていたのだった。
「いちーちゃん、肩いいね」
真希は紗耶香が投げた石が、正確に命中したことを讃えた。
だが、40間(約72メートル)以上も離れたところに、
肩がいいだけで、ふたつの石が命中するのだろうか。
紗耶香は、そういえば石の文字が光っていたことを思いだす。
「ふたりとも、この石の文字に何か心あたりは? 」
ひとみと梨華は、自分たちの頭に命中してコブをつくった石を見つめる。
ひとみの頭に当たった石には『う』と書かれており、梨華の方は『む』だった。
2人は首をひねりながら、書かれた文字を考えていた。
すると、真希はそれとなく考えを口にしてみる。
- 221 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:00
- 「尼さんは『無』じゃないかな? 無我の境地。なんちゃって」
意外に真希の言うことは、当たっているかもしれない。
尼とはいえ仏門の身であるから、無我の境地は至高の修行といえる。
男前のひとみにうつつを抜かす梨華への警告だったのかもしれない。
しかし、そうなると、ひとみの『う』については説明できなかった。
「ひとみちゃんの『う』はぁ? 」
「あんたは左近衛府だったでしょう? だから右近衛府に再就職かな? 」
かなり強引な解釈だったが、その可能性は否定できない。
ひとみは私闘ということで左近衛府こそ懲戒免職になったが、
少し期間をおけば、右近衛府に就職活動することができるのだ。
今も昔も、行政というのは縦割りの社会だった。
「吉澤家は代々、左近衛府の役人だっての! 」
左近衛府をクビになったひとみが、右近衛府へ就職することはできても、
吉澤家は左近衛府の役人の家柄なので、かんたんに離れることができない。
世襲制が一般的だった当時としては、何よりも家柄が重要視されたのである。
したがって、長男=後継ぎというのは、決して一般的な考え方ではなかった。
なぜなら、弟の方が能力を持っている場合もあったからだ。
- 222 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:01
- 「ともあれ、この石は意味があって命中したんだと思う」
紗耶香は自分の肩の限界を知っている。
このくらいの大きさと重さの石であれば、
せいぜい20間(約36メートル)くらいしか投げられない。
そうなると、この石は自らの意思で命中したことになる。
試しに『は』の石を真希に投げてみるが、まったく当たらなかった。
「これも何かの縁じゃないかな」
真希は同い年の2人と、いっしょに行きたいようだった。
紗耶香にしても、真希と2人だけよりは心強い。
渋るひとみと梨華を説得し、紗耶香は食糧の安定供給を条件に、
2人を仲間に迎えることにしたのだった。
「それじゃ、丹後に向かおうじゃねーか」
ひとみは旅人から奪った数本の太刀をかつぎ、先頭をきって歩きだしていた。
- 223 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:02
- 《2人の女》
出雲にある石黒家では、彩とキツネ顔の女が囲炉裏で食事をしていた。
キツネ顔の女は平充代(たいらのみちよ)といい、桓武平氏一族である。
桓武平氏といえば、平将門を輩出した家柄で、関東に勢力を広げた武士だった。
充代は平将門の血を受け継ぐ者で、朝廷に対しては少なくない恨みがある。
彩と組んだのも、朝廷への復讐をするためだった。
「それはオオカミの肉やろ? 」
充代は酒を飲みながら、彩がかぶりつく肉を見て言った。
この時代、動物の肉を食べるのは野蛮人と思われており、
一般人は鳥肉までしか食べることはなかった。
タンパク質の摂取量が少ないため、日本人は短命だったのである。
「それがどうした? 私には肉が必要なのだ」
彩が自分の『力』を維持してゆくには、良質のタンパク質が必要だった。
『力』を発揮するのに、菜食がよいなどというのは迷信にすぎない。
彩が『力』を発揮するのには、相応の体力が必要とされている。
それには栄養の少ない菜食では、体がもたないのだった。
- 224 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:02
- 「あんたは『力』など持たんでもええと思うんやけどな」
「じょうだんじゃない。私はこの力を得るために、魔物と契ったのだ」
石黒家は出雲地方の豪族で、昔は天皇家ともつながりがあった。
彩は目をむいて充代をにらむ。その迫力に充代は戦慄を覚えた。
魔物と契った彩は、人間以上の力を手にいれたのである。
すべては一族のためだった。
「申しあげます」
障子の向こうに、誰かがやってきた。
彩は「うむ」と障子を開けることを許可する。
障子を開けたのは、大きなつり目の女だった。
この女は圭といい、中国拳法を知っている。
『ゆきどん』のような素早さはなかったが、
泣く子も黙る一撃必殺のとび蹴りをもっていた。
「例の集団ですが、呪術師の報告によりますと、確実に増強しております」
「ふん、やつらごときに何ができる」
もう彩には恐れるものがない。
紗耶香と真希が仲間を見つけたところで、
誰も彼女を止めることはできなかった。
彩はオオカミの肉を食いちぎると、
すっかり骨だけになった足を囲炉裏に捨てる。
その囲炉裏へ、あたりの瘴気が集まり、
またたく間に骨を食べつくしてしまった。
- 225 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:03
- 「計画をじゃまする者どもは排除するんや」
「圭、寺田に岩屋を攻撃させるんだ」
彩も山賊に丹後国府を攻撃させたりして、
紗耶香たちの増強を阻止しようとしていた。
これだけの『力』を持つ彩であるから、
べつに紗耶香たちが怖いわけではない。
少しでも不安を除去しようとしていただけだ。
「しかし、岩屋には子供たちがおりますが」
「それがどうした? 一気に踏みつぶせ」
彩に情けなど、あるわけがない。
手下にした前丹後国司の寺田など、
ただの捨て駒にすぎなかったのである。
そんな冷酷な彩に対し、圭は不満を持っていた。
「では、そのように」
圭は無表情だったが、子供まで殺そうとする彩の態度に、
反発以上のものを感じていたのだった。
障子を閉めた圭は、ため息をつきながら、
配下の者に、彩からの伝言を寺田に伝えるよう言った。
- 226 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:04
- 「子供まで殺さんでも―――」
さすがに充代も生身の女である以上、
罪もない子供を殺してしまうのに抵抗があった。
目的が真里であるなら、彼女を殺せばよかったのである。
それを全滅させるなど、極悪非道と呼ばれても仕方ない。
「かわいそうか? そんな感情など必要ない」
「―――そやけど」
彩が背負っているものは、誰よりも重いものだった。
燃えるような彩の目の奥に、どこか淋しそうな色がある。
魔物と契り『力』を得た彩は、女の幸せを捨てていたのだった。
同性の充代にしてみれば、それ以上、彩に意見するのが酷に思えた。
「私は鬼になった。何か文句はあるか? 」
「あんたの好きなようにすればええ」
充代はどこか、やりきれない気持ちを感じていた。
そんな充代の気持ちを悟ってか、彩は血まみれの自分の手を見る。
オオカミの血で真っ赤に染まった手は、血管が浮きあがり、
少女のころのような柔らかい手ではなかった。
- 227 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:04
- 「充代、私は女を捨てたのだ。それは―――」
「もうええ! ―――ええんや。分っとるから」
彩の女らしい顔を初めて見た充代は、そう言うのが精いっぱいだった。
すると、彩は充代をにたみつけ、声をふるわせながら言った。
「お前に何が分る? 最初の男が魔物だったんだぞ」
彩は充代をにらみながらも、目に涙をためている。
魔物と契り、『力』を手にしたのはいいが、
二度と人間の男とは契れなくなったのだ。
彩にも好きな男のひとりくらいはいただろう。
愛する男の子供を産み、幸せな生活をおくることを、
彼女は幼いころから思っていたにちがいない。
「うちには分らへんかもしれんけど、あんたがつらいことは分るで」
「つらくなんか―――」
「うちの前だけなら泣いてもええで」
「さ―――酒をよこせ! 」
彩は充代から酒を受けとると、器に口をつけて一気に飲み干した。
当時の酒はドブロクから搾っただけのもので、白く濁っていた。
醸造酒としてはきつい部類に入り、そう量を飲めるものではない。
彩は一気に飲んでしまったので、むせかえってしまった。
「女子はいつの時代も、ほんまにつらいもんやな」
充代はため息をつきながら、彩の背中をさすった。
- 228 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/13(土) 20:06
- 今日はここまでにします。
明後日には第二章終了の予定です。
- 229 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:51
- 《丹後国府》
4人は荒れ寺で一夜を明かすと、丹後国府に向かって歩いていった。
丹後国府は旧道沿いにあるので、今の山陰道から道を外れる必要があった。
4人が狭い旧道に入ってゆくと、いきなり山賊の集団と出会ってしまう。
かなりの大人数なので、ここは隠れてやりすごすことにした。
(いちーちゃん、合戦のあとみたいだね)
(そうだね。ケガしてるヤツもいるし)
負け戦のようで、山賊たちは肩を落として通りすぎてゆく。
誰もが無口で下を向き、中には泣いている者さえいた。
希望を失った目をしているのが、とても印象的である。
山賊たちが通りすぎると、4人は隠れていた笹の中から這いだしてきた。
「向こうからきたよな。国府はだいじょうぶか? 」
ひとみは国府の方角に、少しばかりの煙を発見した。
国府が燃えているとしたら、それは一大事である。
負け戦のはらいせに、山賊たちが国府に火を放ったのだろうか。
それを見た紗耶香は、国府へ急行することにした。
- 230 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:52
- 「急ごう! 」
紗耶香が国府に向かって走りだそうとしたとき、
彼女は誰かにぶつかって尻餅をついてしまった。
紗耶香の前には、たしか誰もいないはずである。
驚いて見あげると、そこには数人の山賊がいた。
「へへへ―――女じゃねーか」
「キャアァァァァァァァァァー! 」
山賊のひとりが、近くにいた梨華を抱き寄せた。
ところが、これに怒ったのがひとみである。
大切にしている梨華を襲う者に容赦などしなかった。
「その汚い手を離せ! 」
ひとみは男の顔面に鉄拳をくらわせた。
男の近衛兵でも勝てないひとみの一撃である。
梨華を拉致した男は白目をむいて昏倒した。
こうなると女をみつけて浮かれていた男たちも本気になり、
太刀を抜いて襲いかかってくる。
しかし、山賊などひとみの敵ではなかった。
- 231 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:52
- 「槍がねーから太刀かよ。まあ、いいか」
槍が得意なひとみだったが、山賊相手に本気をだすまでもない。
野太刀を抜くと、先頭の男の左腕を切り落としてしまった。
さらに、つづく男の太股に突きさし、いっきに戦意を喪失させる。
殺してしまうのは簡単だったが、あまり梨華に地獄を見せたくなかった。
「に―――逃げろー! 」
残った男はケガした者を抱え、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
これだけ強い者をクビにしようとは、左近衛府も頭が悪いものだ。
ひとみを門番にすれば、上訴しようという地方勢力が禁裏に押しかけても、
片っ端から昏倒させてしまうことだろう。
いちいち地方豪族の解文を受けとることもない。
「怖かったよぅ」
梨華はひとみに抱きついて甘えていた。
そんな2人を見ていると、紗耶香はどこか、
自分と真希のようであるような気がしてしまう。
そんなことを思いながら、紗耶香は苦笑してしまった。
「いちーちゃん、国府に急ごうよ」
真希に促され、一行は丹後国府へと向かっていった。
- 232 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:53
- 一行が丹後国府に到着したのは、すでに陽が傾くころだった。
あたりには死体が散乱し、合戦場そのものの風景である。
国府からは炊事と思われる煙があがっており、
そろそろ夕餉の準備を始めているらしかった。
「いちーちゃん、みんな矢傷で死んでるみたい」
真希は数十人の死体が、矢傷によるものだと言った。
丹後国府は小高い丘の上にあり、周囲は視界のよい野原である。
ところどころに岩こそあったが、大軍が身を隠せる場所ではなかった。
国府の守りは思ったよりも強固になっており、難攻不落の様相だった。
「オイ、こいつを見てみな」
ひとみはヤケに大きな矢を持っていた。
通常の矢の1.5倍もあり、そのまま武器として使えそうである。
ここから国府までは50間(約90メートル)以上はあるので、
すさまじい飛距離をもつ弓で射たのだろう。
「あれぇ? 何か書いてありますよぉ」
梨華は矢羽の下に、何やら文字が書かれているのを発見した。
何しろ柄が太いので、細い筆であれば、
文字を書くことができそうである。
真希は書かれている文字を読んでみた。
- 233 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:54
- 「いろんな夢、話したね 〜圭織語録より〜 」
「―――圭織だ」
紗耶香は頭を抱えてしまった。
こういった意味もないことをするのは、
飯田家の姫、圭織くらいのものである。
そのとき、紗耶香は殺気を感じて振りかえった。
「危ない! 」
紗耶香はとっさに真希を突きとばした。
空気を切り裂く音がして、大きな矢が飛来したのである。
矢は紗耶香の肩をかすめ、梨華の法衣に突きささった。
あわてて岩のかげに隠れるが、梨華だけは身動きがとれない。
矢が法衣を地面に固定してしまったからだ。
このままでは、次の矢のえじきとなるだろう。
「いやァァァァァァァァー! た―――助けてー! 」
「梨華ちゃん! 」
ひとみは飛びだしていって矢を引きぬき、
梨華を連れて岩かげに戻ってきた。
そして、その矢を紗耶香に見せる。
通常の矢のような重さではなかった。
- 234 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:55
- 「なんだ君は! 〜圭織語録より〜 」
「あたしたちを山賊さんだと思ってるのぉ? 」
梨華は泣きそうな顔で紗耶香に聞いた。
圭織はあまり目がよくないので、
この4人を山賊だと思っているらしい。
法衣を着た梨華は別として、他は男の姿なので、
遠目からは不審者に映ってしまうのだろう。
「そうだね。きっと」
「国府から狙ってきたのかな」
真希は信じられない顔をしている。
それもそうだ。ここまでとどく弓矢など存在しない。
仮にとどいたとしても、それは放物線を描くはずだ。
しかし、この矢は空気を切り裂きながら直進してきたのである。
しかも、真希の心臓を狙っていた。
「か―――圭織なら不可能じゃないね」
この岩のかげにいれば、当面はだいじょうぶだろうが、
暗くなるまで動けないので困ったものだった。
こうなった以上は、圭織に一刻も早く、
敵ではないことを知らせなくてはいけない。
- 235 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:56
- 「どうすんだよ。このまま―――げっ! 」
次に放たれた矢は、岩の上部を破壊してしまう。
圭織が射る矢の力こそ、想像をはるかに超えていた。
生命力の強いイノシシは、弓矢では即死しないとされている。
だが、圭織が放つ矢だったら、クマでも即死するだろう。
「逃げようよぉ」
梨華は怖くてしかたない。
しかし、背を向けて逃げたら最後、
背中を一発で終わりになるだろう。
ここは何か他の手をうたなくてはいけない。
「ここからじゃ届かねーしな」
ひとみは『う』と書かれた石を握りしめる。
その石を見て、紗耶香は「もしや! 」と思った。
例の『は』と書かれた石をだしてみると、
やはり文字が光っているではないか。
「いちーちゃん、その石」
「うん、やってみよう。これが圭織だったら、当たるはずだからね」
紗耶香は「圭織に命中しろ! 」と念じながら、
『は』と書かれた石を思いきり投げてみた。
もちろん、岩のかげから圭織は見えない。
それでも、『は』の石が圭織を意味するのであれば、
ぜったいに命中するはずだった。
- 236 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:57
- 「ぎゃー! 」
石は何かに引かれるように、途中から加速していった。
そして何かに当たる音がして、直後に悲鳴が響いたのである。
命中したのが圭織であれば、しばらく弓を持てる状態ではない。
こことぞばかりに、紗耶香は大声を出しながら走っていった。
「圭織さーん! 市井の紗耶香だよー! 」
紗耶香が走ってゆくと、櫓から大勢で弓矢を向けていた。
国府の兵たちは女の声だったので、矢を射ることをためらっている。
もしこれが男だったとしたら、まちがいなく射殺されていただろう。
「紗耶香? あははは―――紗耶香だったんだ。何してるの? 」
圭織は額から血を流しながら、命中した石を握りしめていた。
やはり『は』の石は、圭織を意味していたのである。
圭織の知り合いと分り、兵たちはため息をつきながら弓矢をおろした。
「中へ入れてくれない? 死ぬところだったよ」
「あははは―――ごめんね」
こうして4人は、何とか丹後国府に入ることができた。
- 237 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:57
- 中秋の名月が夜空に浮かび、4人は風呂に入ってから食事にした。
市井家の姫さまがやってきたのだから、国府では歓迎の式典が開催される。
退屈な式典が終わると、4人は別室で飲みなおすことになった。
このころになると、圭織もお役御免となり、
いっしょに楽しい時間をすごすことができる。
ほろ酔い気分のひとみは、とてもリラックスしていた。
「こうして酒を飲むなんて、何ヶ月ぶりだろーな」
「は―――般若湯ですよねぇ。あたしも少しなら―――」
仏門に入った者は、原則的に魚肉や飲酒を禁じられた。
しかし、多くの寺の僧たちは『般若湯』と名づけて、
なかば公然と飲酒していたのが実態だった。
梨華も尼寺にいるとき、かくれて料理酒を飲んだことがある。
あまりおいしいとは思わなかったようだが、
悪い子になったようで、妙に興奮していた。
「圭織さん、あたしたちが旅をしてる理由だけど」
紗耶香は圭織に旅の目的を告げた。
こんな極秘事項を告げるのは、かなり危険なことである。
圭織なら心配ないだろうが、どこに敵の情報網があるか分らない。
まちがって敵に知られたりでもしたら、
人質の命はないものと考えなくてはならなかった。
- 238 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:58
- 「安倍晴明さまの娘がさらわれたって? 」
圭織の大声に、4人はいっせいに口に指をあてた。
『は』の石が示した者であるから、紗耶香は秘密を口にしたのである。
こんな話を『敵』に聞かれたとしたら、それこそ一大事だった。
国府の奥の小さな部屋ではあったが、少し大きな声はつつぬけである。
圭織は慌てて口をおさえたが、それほど驚くべきことだった。
「最初は私と真希だけだったの。でも、この石が仲間を見つけてくれたわ」
紗耶香は残りの何も書かれていない石を取りだした。
石は仲間を見つけると光って合図を出し、
その者のところへ飛んでゆくのだった。
そのままでは飛んでゆかないので、
補助的に投げる必要はあったが。
「ちょっと待ってよー! 圭織も仲間にならなくちゃいけないの? 」
これで圭織が加われば、鬼に金棒というところだろう。
どこか分らない圭織だが、あの弓の力は魅力だった。
遠くの敵を狙撃するには、圭織の力が必要だったのである。
圭織にしてみれば、わざわざ危険を冒してゆく必要もない。
何しろ国司の姫さまであるから、生活に困ることはないのだ。
- 239 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:59
- 「失礼します。圭織さま、旅の用意をしておきました」
そこへ入ってきたのは、圭織の世話係の美貴だった。
どういうわけか、圭織が旅に出るしたくをしていたのである。
紗耶香は不思議なことに首をかしげたが、
自分たちがトントン拍子に救出部隊になったことを考えると、
それも貴子の力なのではないかと思ってしまった。
「どうしても旅に出したいワケね? 」
圭織は美貴をにらみつけた。
彼女がにらんでいるときは、まだだいじょうぶである。
恐ろしいのは怒ったときではなく、笑ったときなのだ。
それが予想不能の飯田圭織なのだった。
「いえ、けっしてそのような」
美貴は自分でも、どうして旅のしたくをしたのか分らない。
何となく、圭織の旅のしたくをしなくては、と思ったのだ。
それが運命というものであれば、圭織は受けいれざるをえない。
圭織は困ったような顔で考えていたが、ついに決心したようだ。
「ようするに、圭織もいっしょに行けばいいんでしょう? 」
圭織は運命にさからうことをやめた。
ここでさからって、行くことをやめたら、
後悔するような気がしたからである。
こうして、仲間は5人になった。
- 240 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 09:59
- 《石の意味》
翌日、飯田丹後守に見つからないように、一行は早朝に出発した。
丹後国府に寄ってよかったことは、圭織を仲間にできたからだけではない。
多くの食糧や武器、薬草などを調達することができたからである。
槍の達人であるひとみは、すばらしい槍を手にいれて嬉しそうだ。
「こいつは短いけどよ、その分、扱いやすくていいや」
1間半(約2.7メートル)の槍は、もちろん合戦用ではなかった。
槍というと振りまわして闘うと思われがちだが、
いざ合戦となると、最初はこれで殴りあったのである。
最初から本気で突きあったりしたら、それこそ数分で決着してしまう。
数人が殴り殺されると、興奮して突きあいが始まり、死者が急増する。
このままでは負けてしまう劣勢側の大将は、
仕方なく「ヤアヤア、我こそは―――」と名乗りをあげるのだ。
したがって、合戦用の槍は長くて重いのが普通だった。
「それは警備用の槍だからね」
圭織はひとみに、警備用の短い槍を渡していたのだ。
道中に戦いとなるのは、ほとんどが遭遇戦であるため、
合戦用の長い槍は扱いにくくなってしまう。
近衛兵だったひとみには、警備用の槍の方が合っていた。
- 241 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:00
- 「弓の圭織さんに槍のひとみ、野太刀の真希と来れば、怖いものはないね」
紗耶香はこの頼もしい仲間が嬉しくて仕方ない。
だが、どうして何もできない梨華も仲間になったのだろう。
梨華といえば、お経を唱えることくらいしかできない。
あとはニコニコ笑っているくらいの存在だった。
「そういえばさー、梨華ちゃんって何かできるの? 」
紗耶香の考えていることを悟ってか、真希が梨華に聞いてみた。
これは梨華にとって、最も触れられたくないところだった。
ひとみには槍があり、圭織には無双の弓がある。
真希には野太刀があり、紗耶香には統率力があった。
しかし、梨華には何もないのである。
「―――足には自信がありますぅ」
「それは頼もしいことだよ」
紗耶香は足が、いかに大切かを説明した。
『七人の侍』の中でのセリフのように、
合戦と言うのは走って走って走りぬいて、
走れなくなったときが死ぬときなのである。
足に自信があれば、それだけ生きていられるのだ。
死なないことこそが、全てにおいて勝ちなのだった。
「逃げまわるだけでいいんですかぁ? 」
攻撃力あってこその機動力なので、単に『走る巨乳尼』では何の意味もない。
紗耶香は梨華に、場合によっては囮にでもなってもらおうと思った。
- 242 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:01
- やがて、一行は赤トンボが舞い踊るススキ野原に出てきた。
あたりには木がなく、広大なススキ野原になっている。
すると、圭織が立ち止まり、悲しげな顔で悲惨な過去を語りはじめた。
「ここには昔、国分尼寺があったの。賊に襲われて全滅したらしいわ」
飯田家が国司として赴任したとき、まだ焼け跡が確認できた。
しかし、それから2年がすぎ、あたりはススキ野原になっている。
圭織は悲惨なようすを、近所の村人から聞き、涙を流したのだった。
「聞いたことがあるわ。源頼光さまが山陰道の山賊を征伐された原因でしょう? 」
紗耶香は5年前の惨劇を、人づてに聞いて憶えていた。
当時の国司である寺田丹後守は、怠慢な執政を理由に、
藤原道長に解任され、夜逃げ同然で平安京から出ていった。
「美作でも同じでしたぁ。同じ尼として悲しいですぅ」
道から少し入ったところに、いくつか石が積んである。
それは惨劇による犠牲者の墓のようだった。
梨華は懐から数珠を取りだし、お経を唱えはじめた。
その声に反応するかのように、頭上では赤トンボが舞う。
ほかの4人も頭をたれ、殺された尼たちの冥福を祈った。
- 243 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:02
- 女が3人寄れば、いつまでも話が尽きないと言われている。
とにかく、いつの世でも、女たちは話が好きなようだ。
一行は女ばかり5人であるから、必ず誰かしら話をしている。
しかも若い娘ばかりなので、魑魅魍魎までが集まってきた。
「すごい瘴気だね。真希、ちょっと清めよう」
「はーい」
2人は前後に移動し、破邪の剣を抜いて念じる。
貴子が『気』を入れた破邪の剣は、いつでも抜群の効果をしめした。
これまで黒い霧のように、あたりを覆っていた邪気が、
忽然と消え去ってしまうのだった。
「南無阿弥陀仏」
梨華は念仏を唱え、魑魅魍魎たちを憐れんだ。
すべてを憐れむのが、ほかでもない仏の道なのである。
カトリックで行われる悪魔払いや神社での厄払い。
仏教では救済が目的であるため、払うという考えがなかった。
これだけありがたい教えをもつ宗教を利用した権力者は、
現世での極楽浄土を満喫したのだった。
- 244 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:02
- 「どうでもいいけどさー、もうじき日が暮れるよ」
圭織は野宿だけは嫌だった。
除虫菊を燻して蚊を遠ざけてみても、
耳元でコオロギに鳴かれては寝るどころではない。
せめて無人の寺や神社でもあれば、
そこに泊まりたいと思っていた。
「もうじき美作じゃん。このあたりに泊まれる場所なんてあった? 」
真希はこのあたりに詳しい梨華に聞いてみた。
すると、泊めてはくれなかったが、炭焼き小屋があるという。
これから寒くなると、炭の需要は天井知らずとなるので、
この時期は忙しいことだろう。
「行ってみようよ。何せ圭織さんは国司さまの娘だからね」
一行は国分尼寺跡をすぎると、炭焼き小屋への小径に入っていった。
- 245 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:03
- 『はたけ一派』を全滅させた真里と絵里は、
怪鳥に乗って岩屋へ帰るところだった。
どこか殺伐とした思いにため息をつき、
真里は怪鳥の背中で寝ころがった。
すると、懐に入れてあった手榴弾が、
次々に転がり落ちてゆくではないか。
導火線に火をつけないと爆発しないようにはなっていたが、
強い衝撃があれば爆発しないとも限らない。
「真里ねえさん。手投げ爆弾が」
「べつにいいよ。こんな森の中に、人なんていねーんだから」
真里は日暮れの近い空を見上げ、目を閉じて風を切る音を聞いていた。
- 246 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:04
- 炭焼き小屋への小径は、うす暗い森を通ってゆく。
ジメジメした場所にはヘビがいるので注意が必要だ。
緊張しながらあたりに注意し、森の中を歩いてゆくと、
梨華は何かが上空を飛んでいるのに気づいた。
「あれは―――何? 」
「鳥じゃんか―――って、でけー! 」
全員が上を見ると、とてつもなく大きな鳥が、
ゆっくりと空を飛んでいるではないか。
木々の隙間から見る鳥は、まるで大凧のようだった。
ところが、大きな鳥から何かが落ちてくる。
それは、誰もが鳥の糞だと思った。
「あははは―――ウンコしてるー」
圭織がそう言った瞬間、落ちてきたものが地面に当たって爆発した。
先頭を歩いていた真希は、次々に落ちてくる爆弾に驚き、
絨緞爆撃の中を泣きながら逃げてきた。
- 247 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:04
- 「うわァァァァァァァァァァァァーん! 」
「もう頭にきた! 」
圭織は弓で怪鳥を射落とそうとする。
しかし、あまりに上空であるため、
圭織の弓の腕をもってしても届かなかった。
紗耶香は真希に抱きつかれていたが、
念のために例の石を確かめてみる。
すると、何も書かれていない石が、
脈打つように意思を示していた。
「届くか! 」
紗耶香は石を放り投げた。
すると、石は意思を持ったように怪鳥へ向かって加速する。
石は方向を変えて怪鳥の頭を直撃したあと、背中にぶつかったようだ。
「いてっ! 誰だゴルァ! 」
誰かの怒鳴り声が聞こえると、そこに恐怖がやってきた。
怪鳥が白目をむき、急降下してきたのである。
太さ1尺(約30センチ)もある木々をなぎ倒し、
怪鳥は一行のところへせまってきたのだった。
- 248 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:07
- 「うわァァァァァァァァーん! 」
全員が蜘蛛の子を散らすように逃げだした。
中でも足の速い梨華は、またたく間に見えなくなってしまう。
比較的、落ちついている圭織は、
回転しながら飛んでくるものを抱きとめた。
それは完全に目をまわした真里だった。
「あら? 人だったの? 」
次の瞬間、今度は少し大きなものが飛んできて、
さすがの圭織もふき飛んでしまった。
どうやら、あとから飛んできたのは絵里のようだ。
「み―――みんなぁ! ケガはない? 」
梨華は遠くの大きな木のかげから声をかけた。
石が頭に当たって墜落した怪鳥は、完全に失神しており、
なぎ倒した木の下からひとみが出てきた。
あまりの恐怖に、ついにひとみがおかしくなってしまう。
「焼き鳥食いてー! 」
ひとみは完全に失神した怪鳥を槍でつついてみる。
慌てた梨華がひとみを止め、大事にはいたらなかった。
紗耶香は真希といっしょに起きあがり、
あたりを見まわして墜落事故に戦慄する。
怪鳥は幅5間(約9メートル)長さ20間(約36メートル)
にわたって木をなぎ倒していた。
「いたたたた―――ひとりなら何とかなったけど」
圭織は目をまわした2人を抱きあげた。
- 249 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:08
- 「てめー! 何のうらみがあって石なんか投げつけんだよ! 」
正気にもどった真里は紗耶香にくってかかる。
彼女の額には、大きなコブができていた。
絵里と怪鳥も意識を回復し、全員が一安心していた。
「何言ってんのよ! あんたが無差別爆撃したんでしょうが! 」
真希は爆撃の恐怖に、まだヒザが震えていた。
たしかに、手榴弾を落としてしまったことは、
どう考えても真里が悪い。
それにしても、弓矢でも届かない上空まで石を投げるとは、
絵里は紗耶香の肩に驚いてしまった。
「ちがうの。この石は自分で飛んでゆくの」
ひとみは『う』、梨華は『む』、圭織は『は』の石を出す。
真里が何も書かれていない石をさしだすと、
どういうわけか共鳴をはじめるではないか。
どうやら4個の石は、目的の人物に命中したようだ。
「でもさー、何でオイラだけ何も書いてないの? 」
真里は自分に命中した玉子くらいの石を見て、
何も書かれていないことに疑問をもった。
そこで真希が、思いつきのこじつけ話をはじめた。
- 250 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:09
- 「梨華ちゃんの『む』は無。ひとみちゃんの『う』は右。
圭織さんの『は』矢の羽。あんたのは―――わかんない」
「あたしは紗耶香。こっちは真希。あんたの名前は? 」
「オイラは真里、こっちが絵里。それからチーちゃん」
真里は誤爆でケガ人が出なかったことを喜んだ。
もし、誰かが死んでしまったりしたら、それこそとり返しがつかない。
とりあえず誤爆を謝り、岩屋へ案内することにした。
ところが、怪鳥はどういうわけか、梨華を追いかけまわしていた。
「た―――たすけてぇー! 」
「あははは―――チーちゃん、梨華ちゃんを気にいったみたい」
しゃべることはできないが、人の言葉を理解する怪鳥は、
どうやら本気で梨華を好きになってしまったようだ。
しかし、梨華は鳥が苦手で仕方ない。
ひとみとの三角関係は、目が離せなかった。
- 251 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:10
- 《危機一髪》
墜落現場から岩屋へは、1里(約4キロ)の距離だった。
絵里が怪鳥に乗って先に岩屋へもどり、ほかの6人は歩いてゆく。
根性抜群の『チーちゃん』であれば、全員を乗せて飛べるだろう。
しかし、あまり低空だと、誰かに弓で射られる心配があった。
「えっ? 真里は尼寺の生き残り! 」
圭織は話を聞いて驚きをかくせなかった。
村人の話では、幼い女の子2人だけが生き残ったと聞いたが、
それが真里と絵里だとは、何たる偶然なのだろう。
真里は仇討ちの話をし、ポツリともらした。
「山賊だって、ちゃんと警備されてれば、襲わなかったと思う。
悪いのは―――あの国司だよ。今の国司は善人みたいだけどね」
真里は圭織が国司の娘だとは知らないので、
思ったまま、好き勝手なことを言ってしまう。
それでも父の悪口がでてこなかったため、
圭織は胸をなでおろしていた。
「よかったなァ。圭織さん」
ひとみがニヤニヤしながら圭織の肩をたたいた。
- 252 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:10
- 岩屋にやってきた紗耶香たちは、子供たちに出迎えられた。
遊びざかり、イタズラざかりの子供たちは、客人が珍しくて仕方ない。
動物や子供というのは容姿よりも、心を見ようとするのだった。
そのため、紗耶香や真希に抱きついてくる。
「あははは―――かわいいな」
ひとみは片方で髪を結んだ女の子を抱き上あげた。
子供は人の本質を見抜く天才であるから、
臆病でいじめられっ子の梨華の性格を見抜くのに、
それほど時間はかからなかった。
「キャアァァァァァァァァァー! 」
飼っているアオダイショウを首にかけられ、
梨華は脱兎のごとく走ってゆく。
その姿がおかしかったのか、子供たちは笑いころげていた。
親に捨てられた不遇の子供たちではあるが、底抜けに明るい。
そんな子供たちを大切に育てている真里は、
ほんとうに心の優しい女だった。
「あんたたち、いいかげんにしなさいよ! 」
真里に一喝され、子供たちは舌をだした。
ここでは真里が姉であり、親なのである。
時には厳しく、時には優しく子供たちを育てていた。
- 253 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:11
- 「ウワァァァァァァーン! アゴを噛まれたよぉ」
毒ヘビではないが、動物の口の中には雑菌が多い。
放っておくと、傷が膿むことがあるので消毒が必要だ。
絵里は苦笑しながら、梨華のアゴの消毒をはじめた。
「真里、こんな場所では危ないよ」
紗耶香は、この岩屋では敵がきたときに対応できないと感じていた。
怪鳥がいるので弱小山賊では手出しができないだろうが、
数十人の組織化された山賊であれば、かんたんに攻略しいてしまうだろう。
防衛的な構築ができる場所でもないし、別の場所へ移動した方がいい。
紗耶香はそう感じていた。
「危ないって? 」
「国分尼寺」
圭織は真里と絵里が暮らしていた国分尼寺を言った。
国分尼寺には防衛施設が乏しく、かんたんに攻め落とされてしまった。
この時代、生きてゆくためには、相応の知識と腕が必要である。
紗耶香は子供のひとりが持っていた仏像を取りあげた。
- 254 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:12
- 「こういうものを持っていると、山賊に目をつけられるしね」
「こいつは隋から贈られた如来像じゃねーか! 」
ひとみは近衛兵時代、禁裏の宝物殿で、
この仏像を何度か目にしたことがあった。
それがこの岩屋にあるということは、
真里たちが盗賊ということになる。
ひとみは反射的に真里に槍を向けた。
「な―――何で知ってんのよー! 」
「たっぷりしめあげてやるぞゴルァ! 」
あわてふためく真里の襟くびをつかみ、ひとみはにらみつけた。
これまで何人もの賊を逮捕し、きびしい取り調べで知られるひとみだ。
素直に白状した者に関しては、寛大な処置をしていたのだが、
口を割らない者は拷問でしめあげていたのである。
生活苦で食べものを盗もうとした少年がおり、
ひとみは彼を『迷いこみ』ということで釈放した。
逆に盗んだ金品を売り払って一旗あげようという者は、
六条河原ゆきのきびしい処置をしていたのだった。
「あんたはもう近衛兵じゃないでしょーが」
「あっ、そうだったなァ」
真希に指摘され、ひとみは笑いながら真里を放した。
- 255 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:12
- 夜になると、岩屋には寒さがやってきた。
やはり山の中なので、寒暖の差が激しいのだろう。
数日前までは涼しかったのだが、今日はかなり冷えていた。
そのため、子供たちは怪鳥といっしょに寝ている。
なぜなら、怪鳥の羽の中は、とても暖かいからだ。
夜がふけても娘たちは焚き火を囲み、話をしていた。
「そーか。そうだよな。これだけの子供がいるんだからよ」
ひとみは今の世の中、子供を養うのが、
どれだけたいへんであるか知っている。
物価が上昇するわりに賃金はあがらず、
平民は貧困に喘いでいたのだった。
「だから、よくないとは思いつつも、夜盗のマネをしてたの」
真里の話は切実で、誰もが納得していた。
真希などは「夜盗イイ! 」とまで言う始末だ。
だが、そんな生活など長続きするわけがない。
圭織は不憫な子供たちを救済できないものか、
あらゆる可能性を考えていた。
「そうよねぇ、これまでは尼寺で引きとってたんだもんねぇ」
救済施設である国分尼寺が全滅してしまったため、
丹後には子供を引きとる場所がなくなってしまった。
だからこそ、真里と絵里は自分たちで子供を育てているのだ。
- 256 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:13
- 「圭織さん、国府で何とかならない? 」
紗耶香は子供たちの件を、国司に委ねようと思った。
しかし、口分田制が崩壊し、荘園制度が発達したため、
国司が徴税する量が激減してしまったのである。
ここにきて10人もの子供を受けいれるなど、
ほとんど不可能に近い状態だった。
「国府で預かることは不可能だと思う。山賊が攻めてきたでしょう?
相応の軍備を増強しなくちゃいけないのよ」
「げげーっ! 国府の姫さま? 」
真里は圭織が国司の娘だと知ると、
冷や汗をかきながら失言がなかったか思いだす。
前国司の寺田は怠慢な男だったが、
圭織の父は領民にも評判がよかった。
「少しは蓄えもあるし、私たちはここで暮らします」
絵里は子供たちと別れるのが嫌なようだ。
それもそうだろう。ここでは全員が家族なのだ。
裕福な村や荘園をまわれば、子供をひとりくらいなら、
なんとか引きとるところもあるだろう。
だが、バラバラになってしまうことは、
とても淋しいことにちがいなかった。
- 257 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:14
- 「かといって、ここでは―――むっ! 」
紗耶香は近くにあった水を使って焚き火を消した。
いきなり真っ暗になったせいか、梨華はひとみにだきついた。
紗耶香は真希に野太刀を渡し、入口まで行って身構える。
だれもがその行動に、戦慄をおぼえていた。
「かなりの人数だよ。ひとみ、真希、用意はいいね? 」
「ねえ、真里ちゃん。灯油はある? 」
視界がきかないと、圭織は弓が使えない。
そこで、布に灯油をしみこませて火をつけ、
かがり火にしようというのだった。
当時の灯油は現代のような石油ではなく、
ナタネ油など植物油が主流だった。
「梨華ちゃん、子供たちをたのむぜ。ちょっと暴れてくるからよ」
ひとみが槍を片手に飛びだしてゆくと、
圭織は火矢をつくり、気配を感じる方に射てみた。
火矢であるため、体を貫通するようなことはなかったが、
射られた男は3間も後ろに吹っ飛んで絶命した。
- 258 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:14
- 「かかれー! 」
「上等じゃねーかゴルァ! 」
ひとみは槍で次々に敵を刺し殺してゆく。
紗耶香と真希も、太刀を抜いて飛びだしていった。
岩屋の入口には圭織が立ち、真里と絵里に矢を運ばせていた。
「どりゃー! そんな刀じゃムダだよ」
真希は上段から敵の刀ごと頭を叩き斬った。
重くて頑丈な野太刀であれば、たいていのものは叩き切れた。
真希とは対照的に、紗耶香は俊敏に動きまわっている。
刃の薄い太刀であるため、あまり頑丈ではないからだ。
相手が少人数なら急所を狙えるだろうが、これほど大勢だと、
とりあえずケガをさせるのが限界のようだった。
「あははは―――多いねー」
圭織はおもむろに矢をつかむと弦にあてがい、キリキリと弓を引いてゆく。
そして放たれた矢は、重力に負けることなく直線に飛行してゆき、
敵の胸を貫通して背後にあった岩に突き刺さった。
その破壊力に、見ていた真里と絵里が悲鳴をあげた。
「あ―――あの、よければこの矢も」
絵里は圭織に、自分が使っていた矢を渡した。
圭織が使う長い矢ではないが、ここで使うには充分だった。
圭織は絵里が持ってきた矢を見ると、信じられない指示をだす。
- 259 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:15
- 「矢羽根でいいから、圭織語録を書いて。まずは『朝の太陽ちょっとまぶしいけど』」
「か―――書くんですか? 」
「まずは、内容だけ書いて、下に『〜圭織語録より〜』って書くのよ」
圭織は目を丸くする絵里に言いながら、自前の矢を放ってゆく。
絵里は仕方なく墨汁と筆を持ってくると、矢羽根に圭織語録を書いた。
その矢を圭織に渡すと、次の『圭織語録』を書くように言った。
「次は『そをね』『そうね』じゃないからね」
そんな圭織をよそに、ひとみは大活躍をしていた。
背後にまわった敵には、槍の台尻で突きくずした。
ひとみの槍の腕は本物であり、真里たちを驚かせる。
これだけの腕を持つひとみを解雇しようなど、
左近衛府は、ほんとうにもったいないことをした。
「ウオォォォォォォォォォォー! 」
すでに20人以上はやっつけていたが、
それでも襲いかかってくる者がいる。
さすがのひとみにも、疲れが出はじめていた。
紗耶香と真希も、大人数を相手に戦っている。
多勢に無勢では、いつまでもつか分らなかった。
- 260 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:16
- 「圭織さん! こいつを矢につけてよ! 」
真里は岩屋に隠してあった手榴弾を持ってきた。
圭織の剛弓であれば、手榴弾を50間(約90メートル)は運べるだろう。
圭織は矢じりで手榴弾を突き刺し、それを射ることにした。
真里が手榴弾のヒモを引くと、圭織が集団の中へと撃ちこむ。
手榴弾の爆発が起きると、周囲の数人が倒れていた。
「あははは―――おもしろいねー! 」
圭織はこの戦法が気にいったようである。
この攻撃がきっかけとなり、敵の戦意が落ちてゆく。
中には逃げだす者もいて、敵はすぐに減ってしまった。
「テメエが大将かゴルァ! 」
ひとみは甲冑姿の男に突きかかった。
しかし、疲れているせいか、男にかわされてしまう。
そこで紗耶香と真希も斬りかかるが、
男は難なくよけて太刀を浴びせようとした。
「危ない! 」
圭織はとっさに絵里から矢を奪うと、男めがけて矢を射た。
これが圭織用の矢であれば致命傷だったかもしれないが、
男の肩に直撃しただけで止まってしまったのである。
圭織が次の矢を射ようとしたときには、男は彼方まで逃げていた。
「あれは寺田! 」
真里はコブシを握りしめた。
寺田は前丹後国司であり、いくら陳情しても無視した男だ。
その寺田が襲ってきたことで、真里は憎しみが再燃したのだった。
- 261 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:17
- 《全員での旅立ち》
岩屋が襲われたとなると、国府に助けを求めるしかなかった。
そこで真希は、国司に手土産を持たすことを考えつく。
真里が売却できなかった盗品を、山賊が持っていたことにしてしまう。
その山賊を国府軍が退治したことにすれば、国司は大手柄となるのだ。
それを国司の娘である圭織が手紙にしたのである。
夜が明けると、絵里と子供たちは、引越しの準備を始めた。
「問題はどうやって国府にとどけるかだよ」
真希は圭織の書いた手紙を届ける術を考えていた。
全国指名手配中の怪鳥『チーちゃん』は使えないし、
飼っている痩せ馬では国府に着く前に死んでしまうだろう。
しかし、今夜にも再び攻撃されるかもしれないので、
早急に国府へ手紙をとどける必要があった。
「大切な手紙ですよねぇ。あたしがとどけますぅ」
「ひとりじゃ危ねーよ」
梨華ほどの速い足であれば、馬と同じくらいの速さは計算できた。
なにしろ彼女は『走る巨乳尼』と言われたくらいなのである。
国府までの10里半(42.195キロ)なら、梨華は昼までに往復できるだろう。
だが、ひとみは梨華がひとりだけでは、とにかく心配でならない。
梨華は足だけは速いが、この中では最も弱いのだ。
- 262 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:17
- 「だいじょうぶよぉ。山賊さんたちも、あたしの足には追いつけないもん」
梨華の足の速さは折紙つきだ。
通常の人間では、まず追いつくことができない。
それが逃げ足ともなると、もっと速くなったのである。
筋肉の力だけでなく『気』が足を動かしていると思われた。
「梨華、頼んだよ」
紗耶香は梨華に太刀を渡した。
尼僧の梨華に太刀は扱えなかったが、
破邪の剣として必要だと思ったのである。
梨華はそんな紗耶香の心づかいが嬉しかった。
「はい! 必ずとどけますぅ」
そう言うが早いか、梨華は自慢の足で走っていった。
その速さに、圭織や真里は目を丸くして驚いている。
これまで、逃げることだけが、梨華の武器だった。
そのため、誰も追いつけないほどの速さになったのだ。
「梨華ちゃーん! 気をつけてなー! 」
ひとみは梨華が心配でならない。
だが、梨華の最大の武器である逃げ足は、
どんなものよりも確実に体を守ってくれる。
木々の間から差しこんでくる朝日に照らされながら、
梨華は風のように森の中を走っていった。
- 263 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:18
- 娘たちは怪鳥と協力して死体をかたづけ、
痩せ馬に引越しの荷物を積みこんでいた。
間もなく正午になろうとしたころ、
汗だくで息を切らせた梨華がもどってきた。
「と―――とどけてきましたぁ。すぐに来るそうですよぉ」
昼から国府を出たのでは、徒歩なら夜になってしまう。
そうなると、兵たちは馬に乗ってくるにちがいない。
圭織はその旨を紗耶香に伝え、出発を促したのだった。
なぜなら、ここで圭織を見た兵たちは、
何とかして連れ戻そうとするだろうからだ。
「そうだね。出発しよう」
梨華から受けとった太刀を帯に差し、紗耶香は出発することにした。
なつみと麻美が拉致されて1年が経過しようとしているので、
それほど急ぐ旅でもないが、あまりグズグズもしていられない。
早く2人を救出して、冬になる前に帰京すべきだった。
「絵里、子供たちをたのんだよ」
真里は紗耶香たちと、いっしょに行くつもりらしい。
絵里としては、真里の目的を確認する必要があった。
この子供たちにしてみれば、真里が姉であり母なのだ。
絵里は真里が危険なことに首をつっこむつもりなら、
体をはって阻止しなければならないと思っていた。
- 264 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:19
- 「真里ねえさんは? 」
絵里の質問に、真里は目を伏せて横を向いた。
彼女がこういったしぐさをするときは、
何かしら内に秘めた考えがあることが多い。
15年もいっしょにいて、それを知っている絵里は、
真里がよからぬことを考えていると悟った。
「―――寺田を殺してくる」
真里は陳情を無視して尼寺を見殺しにし、
この岩屋まで襲った寺田を許せなかった。
しかし、絵里はめずらしく真里に反発する。
これには真里も驚いてしまった。
「復讐が何になるのよ! 『はたけ一派』に復讐してどうだった? 」
復讐が何も解決しないことは、真里も分っているはずだった。
それなのに、寺田に復讐しようという真里の考えが気にいらない。
彼女がここまで怒ったことは、これまで一度もなかった。
なぜなら、絵里は真里と離れるのが淋しかったのである。
「そ―――それだけじゃないよ! 安倍晴明さまの姫さまを救うお手伝いもしなきゃ」
そんな真里と絵里とのやりとりを聞きながら、
どうしようか困っていたのが怪鳥である。
国府にゆけと言われたら真里の命令は絶対だ。
ところが、大好きな梨華とは離れたくない。
そこへやってきたのが恋敵のひとみだった。
- 265 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:20
- 「てめーは国府に行って、見世物にでもなれってんだ」
人間の言葉を理解する怪鳥『チーちゃん』は、それでなくても機嫌がわるい。
そこを恋敵のひとみに悪態をつかれたので、とうとうブチキレてしまった。
頭にきた『チーちゃん』は、ひとみの頭をつつき、蹴りをいれたのだった。
「いてーなゴルァ! やるってのかアアン! 」
売られたケンカは買ってしまうのがひとみだった。
自分よりも大きな鳥を、ひとみは果敢にも殴りつける。
こうなると、お互い興奮してしまい、殴り合いの大ゲンカになってしまった。
腕には自信のあるひとみだから『チーちゃん』も苦戦してしまう。
ケンカといっても、仲間同士であるから、殺気はまったく感じない。
だから紗耶香も、あえて止めようとはしなかった。
「や―――やめようよぉ」
怖くて足が震えながらもケンカを止める梨華をよそに、
ひとみと『チーちゃん』はとっくみ合いになった。
鳥に負けてはなるものかと意地を示すひとみに対し、
『チーちゃん』は恋敵を潰して強さを誇示しようとしている。
互いに一歩も引かず、日本拳法のように頭をつけ合って殴り合いをした。
「つ―――つえー! 」
ひとみが鼻血をだしながら倒れると、『チーちゃん』もその場に倒れてうなっている。
お互い渾身の力で殴り合い、限界まで闘ったが、ついに力つきてしまった。
ハラハラしながら見守っていた梨華は、圭織といっしょに介抱をはじめた。
- 266 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:20
- 「てめー、なかなかやるじゃねーか」
「ウギャー(おめーもな)」
これだけ互いに殴りあうと、どういうわけか相手を認めてしまう。
それが友情へと変化するのに、そう時間はかからなかった。
『チーちゃん』はひとみの肩に羽を置き、抱きよせて親愛の証をする。
ところがこのとき、『チーちゃん』は驚愕の事実を知ってしまう。
ひとみの胸が『チーちゃん』の脇腹に当たったのだった。
「ウギャァァァァァァァー! (おめー、女だったのかァァァァァァァー! )」
『チーちゃん』の驚きようはなかった。
てっきり男だと思って、限界まで殴りあった相手が女とは、
さすがの『チーちゃん』も思わなかったのである。
子供に通訳されたひとみは、真っ赤になって怒った。
「てめー! オレが男だと思ってたのかよ! 」
『チーちゃん』が誤解していたのも仕方ないだろう。
何しろ、ひとみはこれだけ男前なのだ。
それに袴姿であれば、誰だって女とは思わない。
しかし、男にまちがわれたひとみは激怒していた。
「ウギャー! (すいませんでしたー! )」
平あやまりの『チーちゃん』に、ひとみは膨れっツラだった。
その光景がおかしかったのか、梨華は笑いころげてしまう。
すると、ひとみも笑いだし、『チーちゃん』も笑った。
- 267 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:21
- こうして紗耶香と真希、ひとみ、梨華、圭織、真里の6人は、
出雲国分寺跡に拉致されているなつみと麻美を救出に出発した。
問題の『チーちゃん』は、何かの役にたちそうなので、
真里にまかせて連れてゆくことにした。
「真里ねえさんのバカァァァァァァァァー! 」
背後では絵里が泣きながら叫んでいた。
真里の泣きそうな顔を見ながら、
紗耶香はどこか不安を感じている。
寺田を殺したら、真里には何も残らないのだ。
「―――ごめんね。絵里」
西に傾いた日差しが、木々の間からせつなく差しこんでくる。
すっかりと減った虫の声に送られながら、一行は出雲へと向かっていった。
- 268 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 10:22
- 今晩にも更新して、第二章を終わらせます。
- 269 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:35
- 《待ち伏せ》
彩は石黒家の屋敷で、呪術師に晴明の動向を探らせていた。
すでに、出雲国分寺跡に監禁されたなつみと麻美を救出するために、
紗耶香たちが仲間を引き連れて向かっているのは分っている。
ここで紗耶香たちを血祭りにあげてしまうのもよかったが、
それは最終的な目的ではない。
部屋では護摩が焚かれ、数人の呪術師が祈祷を行っている。
その背後で、彩は腕を組んで瞑想にふけっていた。
「彩さま、大宰府から念が送られてきました」
呪術師は目を閉じ、自動書記で紙に筆をはしらせる。
その内容を、彩は腕を組んでながめていた。
護摩の炎が彩の顔を、妖しく照らしている。
送られてきた念を書きとった紙を読み終えると、
彩は護摩を蹴って屋敷に火を放った。
呪術師たちは、驚いて廊下に転がりでてゆく。
「全員、大宰府へ移動しろ。有紀! 」
彩が『ゆきどん』を呼ぶと、彼女は風のようにあらわれた。
その目にも止まらぬ素早さは、人間とは思えないほどである。
彩は素早い『ゆきどん』をかわいがっており、
一族でもないのに、側近につけていたのだった。
- 270 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:36
- 「もうじき連中がやってくる。寺田に死守させろ」
「承知しました」
『ゆきどん』と入れかわりにやってきたのが充代だった。
彼女は彩が屋敷に火を放ったと聞き、慌ててやってきたのである。
出雲の石黒家といえば、かつて天皇と姻戚関係にあった家柄だ。
そんな歴史のある家を燃やしてしまうのは、充代にははばかられた。
「ええんか? 先祖代々の屋敷やろ? 」
「こんな家に未練はない」
天井まで火に包まれた屋敷を、彩は一瞥して出ていった。
充代は圭たちに指示をだしてから、屋敷から外へでた。
旧家の石黒家には、歴史的な品が多く保存されている。
こうしたものを灰にしてしまうのは、もったいないと思ったのだ。
炎に包まれる旧家は、何かが終わったような感じがする。
それが歴史なのか、血族なのかは分らなかったが、
彩は今、『石黒家』から解き放たれたのだった。
「私は国分寺跡に寄ってから行く。先に大宰府へ行け」
彩は巨大な馬に乗り、国分寺跡の方向へと走り去っていった。
- 271 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:36
- 紗耶香たちは、これといった敵とは遭遇せずに、
すんなりと出雲に入ることができた。
たしかに、山賊に追跡されることはあったが、
圭織が鏑矢を放つと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「このあたりに魔物の気配はないけど、殺気をおびた念があるみたい」
「殺気をおびた念? 」
真希には紗耶香の言う意味が分らなかった。
ようするに、相手は殺意をもった人間ということである。
相手が人間であれば、よほど大人数でないかぎり、
ひとみや圭織が活躍することができた。
紗耶香や真希も加勢すれば、鬼に金棒である。
それに、大軍であればあるほど、真里の手榴弾が敵を撹乱した。
「うっ! すげー念だ。オイラ、頭が痛くなってきた」
真里は少しふらついて、横にいた圭織にささえられた。
勘の強い真里は気分が悪くなっていたが、
ほかの者も頭が重くなるほどの『気』を感じていた。
川を渡ったころから、梨華は泣きそうな顔をしている。
それほどきつい『気』だったのだ。
- 272 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:37
- 「圭織さん、前の方なんだけど」
紗耶香は敵意と憎しみをもった者たちが、
はるか前方から近づいてくるのを感じている。
このままいけば、必ず遭遇してしまうだろう。
どうしても破らなければならない敵であれば、
ここで闘うことも必要になるにちがいない。
「視界が50間(約90メートル)くらいよね。射程距離よ」
川をはさんだ前方に、紗耶香は憎しみの念を感じている。
ここで敵を迎え討つのが得策のように思われた。
川と足場の悪い河川敷、そして土手があるからだ。
圭織の弓で川の中の敵を射る。
そして、河川敷には、上空から真里が爆撃を行う。
ひとみや紗耶香、真希は土手を登ってくる敵と戦えばよかった。
「よし、ここで迎撃しよう」
紗耶香はススキの草むらに隠れ、この場で敵を殲滅する作戦をとった。
圭織は自慢の長い矢20本を置き、絵里からもらった短い矢30本を腰につける。
そして、筆を取りだし、例の『圭織語録』を書きはじめたのだった。
とにかく変わっている女だったが、理解不能といった方がいいだろう。
- 273 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:38
- 「来るよ! 」
紗耶香がいうと、誰にも緊張がはしった。
爆撃担当の真里は『チーちゃん』の背中に乗り、
すでに離陸体勢に入っている。
すると、槍をかついだ男が見えてきた。
その男に合図され、後方から百人以上の男たちがあらわれた。
「多い! 」
紗耶香は撤退を視野にいれて作戦を考え直した。
このままでは、全滅とまではいかなくとも、
甚大な被害が出てしまう可能性があるからだ。
「しょうがねーな。オレも弓を使うかァ」
そう言うとひとみは、かついでいた袋から弓矢を取りだした。
これには、その場の全員が驚いてしまった。
左近衛府きっての槍の達人とは聞いていたが、
ひとみが弓を扱えるとは知らなかったからだ。
「よっすぃー、弓なんか使えるのぉ? 」
「あたぼうよ! 近衛兵は弓も練習するんだぜ」
ひとみが取りだした弓は、あまり大きくないものだった。
もちろん、合戦用の弓ではなく、近距離用のものである。
ひとみの腕で、この弓ならば、せいぜい20間(約36メートル)
くらいしか狙うことができなかった。
- 274 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:39
- 「そうだった。ひとみは近衛兵だったんだ」
紗耶香は忘れていたので、儲けたような気分になった。
しかし、ひとみは矢を20本しか持っておらず、
やはり槍での活躍が多くなりそうだった。
「圭織さん、川の中の敵を狙って。ひとみは川から出てきたヤツ」
「諒解! 」
やがて、先頭の男が川にさしかかると、まず、最初に真里が離陸をはじめた。
つづいて圭織が普通の矢を持ち、男に狙いを定めて射程に入るまで待つ。
これだけの大人数の場合、まず、先頭集団(物見)に渡河させるのが基本だ。
一気に主力が川を渡ってしまったら、この時とばかりに奇襲されるからだ。
「思ったより浅いな」
川の深さはヒザくらいまでしかない。
これなら、10間(約18メートル)の川幅なので、
またたく間に渡りきってしまうだろう。
ひとみが弓矢を持っていなかったら、
作戦は失敗に終わっていたかもしれない。
「射程に入ったから射るね」
圭織は緊張感のない声で、無造作に矢を放った。
その矢は心臓に命中し、男は声をあげる間もなく、
川に倒れこんで流されていった。
- 275 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:40
- 「田吾作がやられたァァァァァァァァー! 」
先頭の男が矢で殺され、兵たちに動揺がはしる。
ここで意気消沈してしまうと、一気に攻めこまれてしまう。
基本的な兵法を知る寺田は、ここが指揮官としての腕のみせどころだ。
寺田は先頭に走り出ると、大声で後続の士気を鼓舞した。
「敵は少人数や! かかれー! 」
寺田の号令がでると、兵たちは槍を構えて渡河してきた。
それを圭織が次々と矢で射殺してゆく。
無事に渡河した男たちに、今度はひとみの矢が襲った。
それでも数人が土手にやってきたので、
紗耶香と真希が応戦していった。
「もう! 面倒くさい! 」
圭織は長い矢をつかむと、渡河を終えたばかりの男を射った。
すると、その矢は男の胸を貫通し、渡河していた後続の腹を射抜く。
さらに、その後ろの男の太股を串刺しにしたのである。
圭織は嬉しそうにコブシを突きあげたが、隣にいたひとみは仰天した。
「す―――すげー! 」
弓矢というものは、近距離だと人の体を貫通することはあったが、
それでも後続の者に刺さって止まってしまうものである。
20間も離れたところで、しかも2人を貫通するなど前代未聞だった。
- 276 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:40
- 河原に上陸した敵を上空から爆撃していたのが、
『チーちゃん』に乗った真里だった。
真里は手榴弾の紐を引き、一呼吸おいてから投下する。
すると、手榴弾は敵の頭上で爆発してしまい、
地面で爆発するよりも多くの被害を与えるのだ。
「ようそろー、投下! 」
すぐ近くで手榴弾の爆発に遭った者は、
笠のアゴ紐を強く締めていたせいか、
首が吹きとばされてしまった。
頭に多くの手榴弾の破片を受けた者は、
昏倒して頭を強打すると、瓜のように割れてしまう。
「うわァ! 痛そうだなー」
真里は上空から、手榴弾で爆死する者を見て顔をしかめる。
上空からの爆撃は、寺田勢を動揺させるには充分な効果をしめした。
爆死する仲間を見た寺田勢の兵たちは、一気に戦意を失ってしまう。
逃げはじめる寺田勢を追撃する紗耶香や真希は、
おもしろいように勝つことができる。
それが合戦というものだった。
「おのれ! こうなったら、魔物をくりだしたるわ! 出でよ魔物たち! 」
寺田は太刀で地面に印をきり、呪文を唱えた。
すると、地面が裂け、そこから恐ろしい魔物たちが姿を現したのである。
これには梨華が悲鳴をあげ、逃げだしてしまう。
真里も恐怖のあまり、『チーちゃん』の高度を上げてゆく。
なにしろ、その魔物は身の丈3間(約5.4メートル)もあるのだ。
- 277 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:41
- 「どうすんだよ! オイ! 」
さすがのひとみも、魔物が相手では怖気づいてしまう。
紗耶香と真希は、破邪の剣をかざしてみるが、たいした効果はあらわれない。
4匹の魔物は寺田の前に立ち、恐ろしい叫び声をあげていた。
「どや、この小娘どもが! 岩屋での借りはかえさせてもらうで! 」
「いちーちゃん、ヤバイかもしれない」
「あははは―――あたしもそう思ってたんだ」
こうなったら、36計、逃げるが勝ちである。
2人が逃げだそうと思ったとき、光る矢が魔物に突きささった。
魔物は胸を貫かれ、苦しそうにヒザをつくと、そのまま倒れて息絶えてしまう。
誰もが負け戦だと思っていたのだったが、それを覆したのが圭織だった。
「へえ、護符をつけた矢でも効くんだね。そうだ! これを破魔矢って呼ぼう」
圭織は矢に護符を結び、即席の破魔矢を作っていたのだった。
通常の矢では効果がないが、護符を結ぶことで魔物に効くらしい。
後方支援の弓矢が魔物に効果があると分れば、紗耶香と真希は、俄然勇気がでてきた。
- 278 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:42
- 「真希、いくよ! 」
「よっしゃー! 」
2人の太刀は破邪の剣なので、魔物には効果がある。
魔物に太刀を浴びせると、青白く光を放つのだった。
紗耶香が魔物の腕を切り落とすと、真希が飛びあがって袈裟がけに斬る。
圭織の次の破魔矢も、別の魔物の眉間に命中した。
「まさか! 」
これだけ強力な魔物が倒されてゆき、寺田は驚愕した。
兵士たちは雑魚だったが、この魔物たちは別格である。
自信をもってくり出した魔物が通用しなかったので、
さすがの寺田は逃げることしかできなかった。
「観念しろ! 」
「こんなところで死んでたまるけ! 」
紗耶香と真希に行く手をさえぎられ、寺田は太刀を抜いて応戦する。
寺田の腕は2人以上だったが、圭織の弓が狙っていた。
絶体絶命の寺田は、逃げるためには手段を選ばない。
懐から毒の粉末をだすと、2人に浴びせたのだった。
「あぐっ! 目が―――目が見えない」
紗耶香と真希は毒が目に入り、その場に倒れてしまった。
圭織が矢を放つと、寺田は一目散に逃げていった。
- 279 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:42
- 「おい! だいじょうぶかよ! 」
ひとみは倒れた2人が心配で、すぐに駆けよってきた。
2人を川まで連れてゆき、毒の粉末が入った目を洗わせる。
圭織がやってくると、真里も着陸して2人を心配した。
とりあえず、毒消しを飲んで様子をみるしかなかった。
「ごめんね。逃がしちゃったよ」
紗耶香は次第に視力が回復する目で、すまなそうに真里を見た。
寺田を逃がしたのは残念だったが、また斃す機会はあるだろう。
それよりも、真里は2人の体の方が心配だった。
「ううん、そんなことより、早く毒消しを飲んで」
真里は2人に毒消しを与え、視界のきく土手へ誘導した。
即効性の毒消しが効いたのか、2人は次第に快方へ向かう。
圭織とひとみが警戒し、真里が横になった2人を看ている。
2人の回復を待っていると、逃げだした梨華が戻ってきた。
大好きな梨華が帰ってきたので、『チーちゃん』は大喜びである。
しかし、仲間を見捨てて逃げた梨華に、圭織がきびしい口調で詰め寄った。
「どうして逃げたの? ねえ、どうして? 」
「いいじゃねーか。梨華ちゃんは尼僧なんだからよ」
圭織の真剣な表情に、梨華は下をむいたままだった。
ひとみは梨華を庇おうとするが、そんな雰囲気ではないようだ。
この場の雰囲気を変えるには、誰かが違う流れにしなくてはいけない。
そんな勇気のあることができるのは、この中にはいなかった。
- 280 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:43
- 「ススススス―――スンマソン! オイラも逃げちゃったよ! 」
真里は『チーちゃん』の高度を上げて逃げたことを白状した。
これで少しは場が和んできたのだが、圭織は梨華をにらんだままである。
何とかしなくてはと思い、紗耶香と真希も逃げようと思ったことを白状した。
「圭織さん、じつは―――」
「あたしたちも逃げようと思ったの」
そんな2人の言葉に、圭織は震えながら持っていた弓を落とした。
紗耶香はこれまで、こんなに怒った圭織を見たことがない。
圭織が本気で怒れば、なにしろこの体格である。
血の雨が降るのは確実だと思われた。
「ご―――ごめんなさい! こ―――怖くてぇ」
ついに梨華は泣きだしてしまい、ひとみと『チーちゃん』が駆け寄った。
誰もが怖かったはずだ。あんな魔物など、これまで見たこともない。
紗耶香は何とかして、圭織の怒りを鎮めなくてはいけないと思った。
「圭織さん、だから―――」
「やっぱり? あたしも怖くてさー」
「ふえ? 」
泣いていた梨華は、予想外の圭織の言葉に、驚いて彼女を見上げた。
すると圭織はヘナヘナとヒザをつき、震える手で落とした弓を拾い上げる。
どうやら、圭織は怒っていたのではなく、梨華に聞いてみたかっただけらしい。
考えてみれば、圭織が本気で怒ると、必ず笑うのであった。
「護符の矢が効かなかったら、あたしも逃げてたよ」
全員がすさまじい疲れを感じ、圭織に背をむけた。
なったく人騒がせな女。それが圭織だった。
- 281 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:44
- 《無事救出?》
出雲国旧国分寺。ここは、なつみと麻美が幽閉されている場所だ。
国分寺跡といえば聞こえはいいが、本堂などは焼けおちてしまっており、
ところどころ雨もりがするような、崩れかけた小屋があるだけだった。
最高の男を探して旅にでて1年。2人はこともあろうか拉致されている。
狭い場所で何ヶ月も暮らしていたため、なつみは別人のように太りだした。
もともと、節制しようという考えがないので、痛いくらいの体型になっていた。
「お腹がすいたべさ」
拉致されている部屋の破れた障子からは、秋のさわやかな風が入ってくる。
6畳2間の狭い小屋の中で、なつみは切ないほどの空腹を覚えていた。
日の出(秋だから6時くらいか)のころ、なつみは朝食に大徳寺納豆で1合、
生玉子で1合、焼き魚で1合の米を食べ、味噌汁を2回もおかわりをしていた。
それにもかかわらず、まだ正午前だというのに、彼女は空腹をうったえている。
なつみは3食で9合の米を食べないと気がすまない。
妹の麻美も、なつみと同じだけ食べていた。
「かんべんしてくれとです。配給とです」
拉致された2人の世話をしているのは、
さゆみに麗奈という2人の娘だった。
幽閉場所にくる配給米は1人1食1合の計算なので、
この4人に毎日余裕をもって2升の米が渡されている。
ところが、この2人が毎日1升8合も食べるので、
世話係2人の分は1日で2合しかなかった。
- 282 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:45
- 「カボチャの美味しい季節じゃないですか。カボチャが食べたい! 」
麻美も好物の南瓜にこだわっている。
しかし、まだ若い世話係2人の判断では、
いきなり献立を変更するわけにはいかない。
2人はなつみと麻美をなだめていた。
ところが、なつみは空腹にたえきれず、
ついに暴れだしてしまったのだった。
「お腹がすいてイライラするべさ! 」
なつみは麗奈を突きとばして壁を蹴った。
すでに、拉致されていたころの着物は入らず、
なつみは太ったおばさんから着物を借りていた。
体重が増えたぶん、力も強くなっていたなつみは、
世話係2人が同時に飛びかかってもおさええきれない。
「でも、まだお昼前ですとよ」
「それがどうしたべさ! ご飯を持ってこい! 持ってくるべさァァァァァァァー! 」
ついに、なつみは暴れだした。
ここまでくると、禁断症状に近いようだ。
なつみはさゆみをボコボコにすると、
びびりまくる麗奈の頭を壁に打ちつける。
強打した麗奈の額はパックリと割れ、
大量の血が吹きだしてきた。
慌てて止めにはいった麻美を投げとばし、
なつみは据わった目で睨みつける。
- 283 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:45
- 「食べ物をよこせ! 」
そこへやってきたのは、さゆみたちの頭である彩だった。
彩は忙しい中、2人の処遇を決定するため、ここに寄ったのである。
彩はさゆみに耳うちをすると、そのまま部屋をでてゆく。
さゆみはため息をつきながら、なつみを見下したように言った。
「もう、あんたに用はなくなったけん。帰ってええちょですよ」
「じょうだんじゃないべさ! それだったら、この呪いを解くのが先決っしょ! 」
「―――呪い? とですか? 」
麗奈はなつみが呪われているとは知らなかった。
もちろん、それは麗奈にしても初耳である。
麻美もなつみが呪われているとは知らない。
いったい、なつみがかけられている呪いとは、
どういったものなのだろうか。
「誰も呪いなんかかけてませんよ」
「ウソつくんじゃないべさァァァァァァァー! この体を元通りにしてよ! 」
なつみは自分で太ったのに、呪いのせいにしてしまっていた。
たいした運動もしないで、馬並に食べれば、誰だって太るものだ。
それを呪いのせいにするとは、なつみの自己中にもあきれてしまう。
最高の伴侶を探すために旅にでたなつみだったが、
こんな痛い体型では、男は見向きもしなくなるにちがいない。
- 284 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:46
- 「もう、つきあいきれませんよ! 」
さゆみと麗奈は、なつみと麻美を置いてでていった。
普通、こういった人質は、用がなくなれば殺されるものだが、
それもないので、この2人は殺す価値もないということになる。
それはそれで、ちょっと悲しいものだった。
「待つべさ! ちょっとー! 」
「なっちねえちゃん。帰っていいんだってさ。帰ろうよ」
麻美もいくらか太ってはいたが、まだ若いせいか、
なつみのように痛い姿にはなっていなかった。
激太りしたなつみは、太らない麻美がおもしろくない。
さらに、空腹なので、いつもより機嫌がわるかった。
「あんたはいいべさ! 呪われてないっしょ? ないっしょ? 」
「だから、なっちねえちゃんは呪われてないんだっての! 」
「呪いじゃなかったら、こんなに太るわけないべさァァァァァァァー! 」
同じ姉妹ではあったが、ほんとうにつきあいきれない。
麻美はワガママななつみにため息をついた。
- 285 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:47
- 彩たちが引きあげて少ししたころ、紗耶香たちがやってきた。
敵の気配や殺気を感じないので、一行は不思議に思いつつ、
そのまま、こっそりと国分寺跡へと入っていった。
国分寺跡はススキ野原の中にあり、周囲には壊れた壁、
ほったて小屋、伽藍の跡などが点在している。
一行はとりあえず、ほったて小屋へと入っていった。
「いちーちゃん、場所を移動したんじゃない? 」
「くそっ! どこへ行ったんだろう」
そのとき、真里の目の前に現れたのが、目の据わったなつみだった。
真里はなつみににらみつけられ、仰天のあまり固まってしまっていた。
唸り声をあげるなつみは、きっと誰がみても戦慄したことだろう。
「食べものよこすべさァァァァァァー! 」
「出たな! ブタのバケモノ! 」
真希は野太刀を抜いて、咆哮するなつみと対峙した。
なつみの激しい『気』は、紗耶香ですら気分がわるくなる。
それは『食』にこだわる意地汚い欲望だった。
「キャアァァァァァァァァァァー! 」
真里は驚きのあまり、持っていた『手榴弾』をなつみに投げつけてしまう。
なつみは食べものかと思い、4個の『手榴弾』を手にとってみた。
そのようすを見ていた紗耶香は、とっさに真希と真里を抱きしめて伏せた。
- 286 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:47
- 「危ない! 伏せろ! 」
このとき、梨華は逃げだしていたし、ひとみは麻美を抱いて伏せていた。
なつみは『手榴弾』が危険なものであることを察知し、大慌てしている。
それに気づかず、じっくり状況を把握しようとしていたのが圭織だった。
次の瞬間、大音響が連続して4回も起きた。
「だ―――だいじょうぶ? 」
真っ先に起き上がったのが、紗耶香に庇われた真希だった。
粗末な小屋は屋根が落ち、全員がガレキの下に埋まっている。
目の前を覆うホコリが消えたころ、ひとみが起きあがり、
続いて紗耶香、麻美、真里がホコリまみれの顔をあげた。
「何よ! いきなりどうしちゃったワケ? 」
爆風で吹きとばされた圭織は、梨華を押しつぶして軽傷ですんだ。
この時点で、もっとも重傷だったのは、圭織に押しつぶされた梨華のようだ。
いや、最後まで『手榴弾』の近くにいたのは、なつみだったのである。
誰もが変わり果てたなつみを想像した。
「あうううう―――今のは―――きいたべさ」
なつみは頭に突きささった木っ端を抜きながら、ヨロヨロと立ちあがった。
これだけ至近にいて命が助かったのは、ほんとうに幸運だったのだろう。
しかし、近くで4発の爆発を受けたなつみは、白目をむいて倒れてしまった。
はげしい爆風と衝撃波、飛散した破片が木っ端を吹きとばし、
それがなつみに襲いかかっていたのだった。
- 287 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:48
- 「お―――おねえちゃん! 」
麻美はなつみに駆けより、失神した彼女を抱きおこす。
なつみは気を失っていたが、軽傷だと分り、みんな胸をなでおろした。
紗耶香は『気』を探るものの、付近に邪悪な『気』は感じられない。
どうやら、敵は2人を置いて、どこかへ移動したようだった。
「拉致したヤツはどこにいるんだよ」
ひとみは槍を持って、あたりを見まわすが、
どこにも敵が潜んでいる気配がなかった。
すっかり弱ったコオロギが、最後の賭けで鳴いている。
この虫たちが死にたえると、ここにも寒い冬がやってくるのだ。
「もう、帰っていいって言われました」
「え? 」
予想外の展開に、紗耶香は開いた口がふさがらない。
紗耶香たちは寺田と戦って、ここで最終決戦と思っていた。
ところが、敵はネコの子1匹いないのである。
結果的に2人を救出できたので、目的は果たせたのだが、
どうも納得できない幕ぎれだった。
「あっけないというか、なんというか」
圭織は疲れはてた顔で苦笑した。
- 288 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:49
- 紗耶香はなつみを袋に入れ、4人でかつげるようにした。
そうでもしないと、なつみは食べものを欲しがって暴れるからだ。
紗耶香と真希、ひとみ、梨華でかつぎ、都に帰ることにした。
「食べものよこすべさァァァァァァァー! 」
「うるせー! これでも食ってろ! 」
ひとみは袋の中にトカゲを放りこんだ。
なつみは食べものかと思ってつかんだものの、
それがトカゲだと分ると、ものすごい悲鳴をあげる。
それは5里(約20キロ)四方にとどくくらいの声だった。
「ギエェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェェー! 」
なつみは袋の中でトカゲを握りしめたまま、
泡を吹いて失神してしまったのである。
「やっと静かになった」と言いながら、
ひとみは何ごともなかったように歩いてゆく。
「そんじゃ、チーちゃんは岩屋で待っててね」
真里は『チーちゃん』を岩屋に戻すことにした。
何しろ全国指名手配中の怪鳥であるから、
まちがっても都まで連れてゆくことはできない。
『チーちゃん』は梨華と別れるのが淋しくて、
ついつい泣き声をあげてしまった。
こうして一行は、紆余曲折を乗りこえ、
紅葉の始まった平安京に帰ることができたのだった。
- 289 名前:第二章・なっち姫救出の巻 投稿日:2003/09/15(月) 19:51
- これで第二章・なっち姫救出の巻は終わりです。
次は第三章ですが、なるべく早く更新したいと思います。
よろしくおねがいします。
- 290 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 20:48
- 大量更新お疲れ様です。
第三章も楽しみにしています。
- 291 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/16(火) 19:59
- なっち……(泣
- 292 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/28(日) 01:55
- 更新お疲れ様です☆
第三章も頑張ってください!
- 293 名前:名無し弟 投稿日:2003/09/28(日) 18:42
- >>290 >>291 >>292
ありがとうございます。
デブネタに安倍さん使ってすいません。
少し書き終わったので更新します。
- 294 名前:第三章〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 18:43
- 《打ち上げ》
なつみと麻美を無事に保護した一行6人は、
貴子と安倍晴明から、たんまりと報奨金をもらった。
ひとみは左近衛府こそ懲戒免職になったものの、
平安京からの永久追放に執行猶予がついた。
吉澤家からは勘当になったが、事実上の無罪となったのである。
「まいったなー、勘当だってよ」
梨華がいた尼寺でも、晴明の娘を救出した偉業が伝わり、
彼女に対する考え方が変ってしまった。
住職の夏門院まゆみは、梨華に戻るよう勧めたが、
彼女は尼寺に帰ることを拒んでいた。
「あたしだってぇ、尼寺には帰りたくないしぃ、どうしようかなぁ」
ひとみと梨華は、三条通りを歩きながら、これからのことを考えていた。
日中は暑いくらいだが、夜ともなると、底冷えがする平安京である。
どこかに落ちつかなければ、寒さにやられてしまうかもしれなかった。
ひとみほどの腕になると、商人の用心棒や検非違使など、
ちょっと声をかければ、仕事に困ることはないだろう。
「とりあえずぅ、検非違使の試験でも受けてみたらぁ? 」
ひとみであれば、ほぼ無試験で採用が決まるにちがいない。
弓・槍・太刀の何をとっても、上級者であることは確定している。
それに安倍晴明の娘を救出したという箔がつけば、
検非違使にとっては、またとない宣伝になるのだ。
こういった豪傑を集めておけば、それだけで都の治安はよくなる。
犯罪の抑止力には、うってつけの人材だった。
- 295 名前:第三章〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 18:44
- 「検非違使か―――ところで梨華ちゃん。検非違使ってなんだ? 」
「ふえっ? 」
梨華は驚いてしまい、ひとみの顔を見たまま動けなくなってしまった。
ひとみに、検非違使なんてむずかしいことが分るわけもない。
世間知らずといったこともあったが、ひとみの無知は強烈である。
そんな2人の背後から抱きついてきたのが、とても小さな真里だった。
「今晩、打ち上げだよ。二条通りにある『ふるさと』だからね」
『ふるさと』という店は、今でいう料亭のようなものだ。
貴族の社交場として機能していたが、どちらかというと、
売春店としての売上げの方が多いようなところである。
当時は女性が出歩くという社会ではなかったので、
こういった店になってしまうのは仕方なかった。
「オウ! おめーが幹事か? 会費はいくらよ」
「あははは―――全部ワリカンだよー」
真里は嬉しくて仕方ない。
なぜなら、式部省の権限で、丹後に領地をもらえたからだ。
いわゆる荘園であり、これで真里たちは、都で暮らすことができる。
真里はこの平安京で、尼寺にすら預けられずに、
親に捨てられて衰弱死してしまう子供の救済施設を造るのが夢だった。
その夢へ限りなく近づいたのだから、浮かれてしまうのもムリはない。
- 296 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 18:44
- 「いじめないならぁ、あたしは行こうかなぁ」
「あははは―――誰もいじめないって。じゃあねー」
真里は三条通りから少し入ったところにある真希の家へと入っていった。
真希は旅の疲れからか、土間に敷いた板の上で昼寝をしている。
真希を見つけた真里は、ススキの穂で彼女の鼻をくすぐってみた。
「んあ? もう、いちーちゃんったら」
「寝ぼけんじゃねーっての! 起きろゴルァ! 」
真里に起こされた真希は、大きなあくびをした。
彼女には少女のかわいらしさと、大人の女の色気が混在している。
そんな真希を真里は、うらやましく思っていたのだった。
どうしても小柄であるため、真里は子供あつかいされてしまう。
『かわいい』とは言われても、決して『きれい』とは言われなかった。
「真里さん? 」
「今晩、『ふるさと』で打ち上げだからね」
真希はコクッとうなずいて、また寝てしまった。
ほんとうによく寝る娘だと、真里はあきれてしまう。
真里は何を思ったか、近くにいたカマキリを、
真希の胸の上に乗せて紗耶香の家へと向かったのだった。
- 297 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:45
- 「紗耶香の家は―――ここだ。―――って、でけーな! 」
貴族の家ともなると、検非違使の長屋とはワケがちがう。
寝殿造りの母屋に、蔵や馬小屋、下男下女たちの家まである。
庭には鯉のいる池があり、すばらしい植木が手入れされていた。
丹後の国分尼寺に勝るとも劣らない広さがあって、
真里は、これが個人宅であるとは思えなかった。
「ここは市井大蔵卿さまのお屋敷だ。お前のような者のくるところじゃない」
「いえ、紗耶香に用があって―――」
真里は軽い気持ちで『紗耶香』と呼び捨てにしてしまったが、
これを聞いた下男は、仰天して腰をぬかしてしまった。
男の驚きように、真里まで驚いて悲鳴をあげてしまう。
真里が逃げようとすると、下男は袂をつかんで離さない。
「姫さまのお知り合いでしたか! これは、とんだ失礼を! 」
男の声を聞いた女たちが走ってきて、
真里を母屋に連れていって足をきれいに洗う。
ワケが分らない真里は、何をされるのかとおびえていた。
やがて、薄暗い部屋に通され、いきなり着物を脱がされてしまう。
「ちょっとー! 全部脱がすこたーねーだろ! 」
真里は懐剣などの武器の検査だと思っていたが、
どうやらきれいな着物を着せてもらえるらしい。
生まれて初めて艶やかな着物を着せてもらい、
真里は嬉しいやら困ったやらで苦笑することしかできなかった。
- 298 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:46
- 「姫さまはお客さまとお会いになっておられます。もう少々、お待ちくださいませ」
真里がキョトンとしていると、麦湯にもろこしが運ばれてきた。
上品な塩味で茹でられたもろこしは、熱い麦湯とよく合う。
真里は嬉しそうに、もろこしを食べはじめた。
彼女が紗耶香を待っていると、障子の外を大きな影が横切ってゆく。
その影のようすから、どうやら女性のようではあったが、
これほど大きな女は、そう多くはないだろう。
「―――圭織? 」
真里はポツリとつぶやいたが、その声に反応したのが大きな『影』だった。
その『影』は障子を開けると、真里を見て怒ったような顔をしている。
どうやら、紗耶香と会っている客人とは、圭織のことだったようだ。
圭織の家は丹後国府であるため、市井家に世話になっているらしい。
これだけ大きな家であれば、圭織が泊まる部屋などいくらでもあった。
「呼んだ? 」
「あははは―――圭織さん。怒ってる? 」
圭織は決して怒っていない。
これが最高にくつろいだ顔なのである。
彼女が怒ったときは、必ず笑い顔になるのだ。
丹後国府では、その変った癖のために、
多くの下男下女が泣かされていた。
- 299 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:46
- 「怒ってないよ。でもさー、どうしてあんたがいるの? 」
「打ち上げの話なんだけど」
打ち上げと聞いて、圭織は真里を連れて紗耶香の部屋へ行った。
紗耶香は床机を枕に『源氏物語』を読んでいる。
これが貴族の姫さまのタイクツな日常なのだった。
圭織や真希がいれば、それだけで時間が潰れるからいい。
だが、ひとりだけで過ごすほど、タイクツなときはなかった。
「ん? 誰かと思ったら真里さんじゃない」
紗耶香は人形のような真里を見て、すぐには誰だか分らなかった。
『馬子にも衣装』という言葉どおり、この姿であれば、
半農半夜盗の真里でも、どこから見ても公家の姫さまである。
この時代、畳というものは珍しく、どこでも板の間が普通だ。
しかし、紗耶香は畳に寝ころがっていたので、
初めて畳を見る真里には新鮮にうつった。
「打ち上げの件なんだけどさー」
真里は話半分で、畳に座って感触をたしかめる。
硬くも柔らかくもなく、手ざわりはよかった。
紗耶香などの貴族たちは、畳に布団を敷いていたが、
一般人たちは板の間にゴザや厚めの布を敷いていたのである。
真里などは、板の上以外で寝たことがない。
- 300 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:47
- 「打ち上げ? ああ、旅の打ち上げね」
紗耶香は旅をした仲間と、楽しい時間をすごしたいと思っていた。
もちろん、落ちついたら、真希と温泉にでも行こうと考えている。
どうせ、いつかは嫁にゆかなくてはいけない身なのだ。
それならば、自由になるうちに、おもいきり楽しんでおきたかった。
「へえ、コイツが畳ってヤツだね? 」
真里は紗耶香を押しのけて、畳の上に転がってみた。
板よりも弾力があるので、背中が痛くないのがいい。
真里はすっかり畳が気にいってしまったようだ。
丹後国府にも畳はあるが、絵里たちを収容する建物には、
そんな高価なものがあるはずもない。
真里は絵里や子供たちを、畳の上で寝かせてやりたかった。
「畳がほしいの? 古くてよければ、蔵にあったと思ったけど」
「いいのー? 」
真里は畳がもらえるので、天にもまい上がる気分だった。
- 301 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:48
- 平安京の三条通りを畳が歩いていた。
いや、畳が歩いているように見えたのは錯覚で、
真里が3枚の畳を背負ってヨロヨロと歩いていたのだった。
「重てーな。コイツはオイラより重いぜ。そうだ! チーちゃ―――
ダメだった。チーちゃんは指名手配中だったんだ。くそっ! 」
真里が重い畳を背負って歩いていると、後方から数人の男が走ってきた。
男たちは真里を囲むと、背負っていた畳を取りあげてしまう。
どうやら、この男たちは、市井家の下男たちのようである。
真里は男たちに囲まれ、これは盗んだものではないと主張した。
「いえ、こんな重いものを姫さまが持ってはなりませぬ」
こんな真里でも、姫さまと言われれば気分がいい。
貴族の娘である紗耶香の友人であれば、
どんな身分の者であっても下男にとっては姫さまだ。
近所で昔から知っている真希であれば、
まだ『姫さま』とは呼ばなかったが。
「だから、姫さまじゃねーっての」
「紗耶香さまからうかがっておりますれば、牛車で丹後までお運び申します」
下男たちは真里が背負っていた畳を、
牛の背中に結わえつけてしまった。
たしかに人が運ぶには、畳3枚というのは重い。
だが、牛であれば、3枚だろうが10枚だろうが、
たいして変らなかったのである。
- 302 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:48
- 「い―――いいよ。オイラ、式部省に泊まってるし、牛は―――」
「まずは式部省でございますな? さあ、こちらへ! 」
「牛は怖いよー! 」
下男は真里を抱きあげ、牛車に乗せてしまった。
牛は『ぶもー』と鳴き、ゆっくりと歩きだす。
圭織ほど大柄であれば、牛など怖くないのだが、
何しろ真里は小さいので、大きな生き物が怖かった。
「わァァァァァァァァーん! 」
真里は牛車に押しこめられ、窓から手を出して悲鳴をあげていた。
平安京が秋の夕日に照らされ、紅葉がさらに色をましていた。
西の山々の間へ、太陽は沈んでゆこうとしている。
そんな時刻になって、真希はようやく目をさました。
すでに日かげには、夜の色がやってきている。
真希は大きく伸びをすると、起きあがろうとして、
何やら自分の胸の上にあるものに気づいた。
それは首をかしげながらカマを砥ぐ、大きなカマキリだった。
「ギャアァァァァァァァァァァァァァァァァー! 」
夕方の平安京に、真希の悲鳴が響きわたった。
- 303 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:49
- 真希が『ふるさと』に到着したころには、すっかり夜となっていた。
店の障子からもれる明かりだけが、暗い夜道を照らしている。
真希が見せに入ろうとしたとき、何かが猛烈な速さで迫ってきた。
それは目を血走らせた牛で、牛車を牽いているらしい。
「もう! 遅いんだから! 」
牛車から紗耶香が身を乗りだし、馬の鞭で牛の尻を叩いている。
驚いた牛は、すさまじい速度で走っていたのだった。
紗耶香は馬の手綱の要領で、綱を引いてみたのだが、
牛の首を動かすことなど、不可能に近かった。
そこで、紗耶香は仕方なく、牛車から飛び降りた。
「ったく! 牛車なんか嫌いだよ」
紗耶香が真希を見てニッコリ笑うと、
その背後を従者が牛車を追いかけてゆく。
暴走する牛車を止めなくてはいけないからだ。
当時の暴走牛車は、現代の装甲車と変わりない。
「いちーちゃん、おはよう」
「『こんばんは』じゃないの? 」
真希はさっきまで寝ていたので、つい『おはよう』と言ってしまった。
これを聞いていた店の人間が、えらく新鮮に感じてしまう。
以来、水商売では時間に関係なく、今日においても、
出勤した者は『おはよう』とあいさつするようになったのである。
- 304 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:50
- 「あははは―――そうだったね」
「うわァァァァァァァァーん! 怖いよー! 」
そのとき、泣きながら走ってきたのは、幹事の真里だった。
彼女は式部省から『ふるさと』に来る途中、
暴走牛車に追いかけられ、青くなっていたのである。
それを察した紗耶香は、真里を引き寄せて牛車の軌道から外した。
その直後、地響きをたてて暴走牛車が通りすぎていった。
「そこの牛車、待て! 待たぬか! 」
従者たちは息をきらせながら、暴走牛車を追いかけてゆく。
牛は重い牛車を牽いているものの、とにかく馬力がちがう。
追いかける従者は、みんな疲れてアゴがでていた。
「頼むね」
紗耶香は従者に牛を任せた。
とにかく、早く牛車を止めなくては、
夜這いをかける貴族を轢いてしまうかもしれない。
そうなったら一大事なので、従者は走るしかなかった。
「こ―――怖かったよお! 」
小さな真里が大きな牛に追いかけられたのだから、
それはさぞかし怖かったことだろう。
真希の胸の上にカマキリを置いた真里が、
紗耶香の暴走させた牛に追いかけられるとは、
これこそが因果応報というやつなのだろう。
「あははは―――中に入ろうか」
紗耶香は笑ってごまかし、店の中へ入っていった。
- 305 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:51
- 《貴子の憂鬱と泥酔者たち》
式部省の奥にある特別な部屋では、
貴子率いる特殊部隊が、何やら作業をしていた。
そこでは数人の陰陽師や呪術師を交代で配置し、
全ての『気』を北九州の大宰府に集中している。
北九州の大宰府といえば、彩たちが向かった先だった。
「貴子さま、頭らしい『気』をとらえました」
「中継せえ」
ひとりの陰陽師が、彩らしい『気』をとらえ、
指揮官である貴子に中継することになった。
これだけ離れた場所で『気』を捕捉するとは、
この陰陽師の特殊能力もケタはずれである。
式部省の奥には、こういった人材が多くいたのだった。
『ふん、朝廷側の陰陽師か。ちょっと多いようだな。間引いてやろう』
貴子は頭の中で、一人の女の言葉を聞いた。
どうやら、陰陽師が『気』をとらえたのを、
相手が察知してしまったようである。
貴子には『間引く』という意味が分らず、
どうしたらよいか、一瞬だけ躊躇してしまう。
だが、彼女は本能的に身の危険を感じ、
陰陽師に『気』を遮断するように命じた。
- 306 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:51
- 「あかん! 中止せえ! ―――この女は! キャアァァァァァァァァー! 」
いきなり、すさまじい念が送られてきて、
貴子は悲鳴をあげて倒れてしまった。
その直後、中継をしていた陰陽師の頭が爆発してしまう。
いきなりの惨劇に、部屋の中は阿鼻叫喚の地獄となってしまった。
「どした? 」
騒ぎを聞きつけ、裕子がやってきて貴子を抱きあげた。
貴子はいきなりきつい念を受けて失神したようだ。
これが普通の人間であれば、犠牲になった陰陽師のように、
即死してしまうのは、まずまちがいのないところだろう。
大宰府のような遠いところから、これほど強い念を送るなど、
ふつうの呪術師では考えられないことだった。
「死体を片づけて、注意しながら仕事を続けるんや」
これだけすさまじい光景を見た直後であるから、
仕事を続けることなど困難であるにちがいない。
それでも裕子は、どうにかして大宰府の様子を知りたかった。
この特殊部隊では、大宰府に敵が集結しているのは分っている。
しかし、そこで何をしようとしているのかまでは、
測りえることはできなかったのだ。
- 307 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:52
- 「ね―――姐さん、相手は強敵やで」
貴子は意識を回復し、苦しそうに頭をふった。
彼女は陰陽師の頭を破裂させるほどの念を送ってきた相手が、
出雲の石黒家、所縁の者であると判断した。
石黒家は有名な地主であり、貴子もよく知っている。
彩が何を企んでいるのか、それだけに的をしぼるべきだ。
「なぜ大宰府なんや? 」
朝廷に反抗するのであれば、奥羽の方がよいに決まっている。
なにしろ前九年の役で、安倍一族はその力を実証したのだ。
関東平野には平将門を支持する勢力も残っていたので、
彩が大宰府まで行って画策する意味が分らなかった。
「姐さん、石黒家を調べてほしいんや。何か分かるかもしれへんで」
貴子は裕子に調査を依頼した。
もし、彼女の勘が当たっていたとしたら、
彩は恐ろしいことを考えている。
このままでは、平安京が火の海になってしまうだろう。
ここは何らかの手を打たなくてはならなかった。
「分った。急いで調べてみるわ」
裕子は貴子の肩に手をあてる。
それだけで、貴子は裕子の気持ちを知った。
『つらいかもしれへんけど、きばりや』
裕子の気持ちを知った貴子は、笑顔でうなずいた。
- 308 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:53
- そのころ『ふるさと』の面々は、全員が泥酔状態だった。
深夜になっても宴会は終わることがなく、鼓腹撃壌が延々と続いている。
完全に酔いつぶれた紗耶香をよそに、ひとみは頭がはじけていた。
「でけーな! オメエは乳牛かっての! 」
ひとみは梨華の胸をつかみ、その大きさに驚いていた。
体で比例すれば、真里がいちばん大きいのだが、
彼女の場合は全体に小さすぎたのである。
胸だけを見れば、やはり梨華がいちばん大きかった。
「あん、仏罰があたるわよぉ」
「何が仏罰だゴルァ! 」
酩酊している梨華は、ひとみに胸をつかまれても、
これといって抵抗したりはしなかった。
同性ということもあったが、梨華はひとみを好きだったのである。
こんなところを『チーちゃん』が見たら、きっと大暴れするだろう。
「梨華ちゃんが襲われてる! 助けなきゃ! 」
泥酔した真希は、ひとみと梨華に抱きついていった。
そんな乱痴気騒ぎをする3人とは対照的に、
圭織と真里は、何やら深刻な顔で話をしている。
しかし、とにかく全員が泥酔しているので、
この2人も、まるで会話にならなかった。
- 309 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:54
- 「オイラもさー、絵里に任せっきりじゃん」
「あははは―――圭織ってかわいい? 」
「そりゃかわいいよ。絵里は妹だもん」
「妹が婿をとったら小姑だよ」
「『チーちゃん』もいるしさー」
「小姑怖くて嫁にいけるかっての! 」
シラフの人が聞いたら、壊れてしまった者の会話と思ってしまうだろう。
ここまで泥酔してしまうと、もはや人の話を聞ける状態ではない。
五感が麻痺してしまっており、おまけに平衡感覚まで麻痺してしまう。
こんな2人の間に乱入してきたのが、斬りこみ隊長のひとみだった。
「おとなしいじゃんか! なあオイ」
ひとみは真里を抱きしめた。
小さい真里は、ひとみにとって子犬と同じ感覚だ。
真里が暴れたところで、ひとみの力にはかなわない。
そんな小さい真里がかわいくなった真希は、
ひとみと取りあいを始めてしまう。
「痛い痛い痛い! 腕を引っぱらないでよー! 」
痛がる真里を無視し、2人は互いに取りあいを激化させる。
真里にしてみれば、いい迷惑だが、こうして触れあうのも嫌ではなかった。
これまで休むことができなかった真里にとって、
年の近い仲間とふざけあえることが、最高の幸せだったのだ。
- 310 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:54
- 「オレの方がおねえさんだろーが! 」
「たった五ヶ月じゃん! 」
「あははは―――あたしがいちばんおねえさんよぉ」
考えてみれば、梨華とひとみ、真希の3人は、全員が長徳元年(995)生まれだった。
梨華が睦月(1月)ひとみが卯月(4月)真希が長月(9月)である。
当時は数字の0の観念がないため、生まれた瞬間から1歳になってしまう。
正月になると2歳になってしまうので、現在のような満年齢の感覚はなかった。
「圭織さんは何月生まれ? 」
真希が真里の奪いあいをあきらめ、一点を凝視したような圭織に聞いてみた。
圭織は酩酊すると、いつもより無口になって、さらにボーッとしてしまう。
少し危ない感じではあったが、他の者よりは『平和的』な匂いがしていた。
「葉月(8月)だよ。あははは―――」
「いいなー、オイラなんて捨て子だから、誕生月なんかわかんねーもん」
何気なく言ったひと言が、その場の雰囲気を暗くしてしまった。
真里以外の者では、ワケアリの梨華ですら親が誰だか分っている。
生まれたときは、みんな祝福されたのだった。そう、真里以外は。
「そうか! 」
そう言って起きあがったのは、潰れていたはずの紗耶香だった。
彼女の胃の中では、岩魚やツグミの焼き物が酒の中に浮いている。
胃壁から吸収できる酒が頭打ちとなり、消化不良状態だった。
いわば危険な状態だったが、紗耶香はニッコリと笑った。
- 311 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:55
- 「あの石に書かれた文字の意味が分ったの」
紗耶香の話によると、誕生月の頭文字だという。
だから梨華には睦月の「む」ひとみには卯月の「う」
圭織には葉月の「は」ということである。
したがって、誕生月の分らない真里だけは、
仕方なく何も書かれていなかったのだ。
「それなら、どうして『睦』『卯』『葉』にならなかったの? 」
真希は漢字を書いてくれた方が分りやすいと思った。
それほど、言葉というものは同音が多いものである。
それが漢字になれば、かなり限定されるからだ。
漢字で書かれていたのなら、真希でも容易に予想できた。
「それは貴子さまが女官だからよ」
当時、仮名は女性が使い、真名(漢字)は男性が使った。
真名を理解するためには、相応の知識が必要だったが、
仮名は音と同じなので、文盲率の低下にひと役かったのである。
貴子は式部省の高級官僚であるから、真名も理解していた。
だが、占術のときは、ついつい使いなれた仮名を使ってしまったのだろう。
「なんだ。オイラ、もっと深い意味があるのかと思ったよ」
真里は例の石を取りだして、まじまじと見つめた。
何の変哲もない、ただの石だったが、意味する娘に、
こいつは引き寄せられるように空を飛んできたのである。
さすがに、誰も誕生月とは分らなかった。
- 312 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:55
- 「梨華ちゃん、アジ食いてーな」
ひとみが言うと、梨華はアジのタタキをとり、ひとみに食べさせた。
紗耶香は真っ赤な顔をしながら、瓶子に口をつけて飲み干してしまう。
これだけ酒を飲むと、幽門が閉じてしまい、胃ケイレンになることがあった。
そうなったら、胃の内容物を全て吐き出しても、絶え間ない吐き気が襲ってくる。
紗耶香は二日酔いの地獄まで、秒読み段階にきていたのだった。
「ところでさー、何で『圭織語録』なんて矢に書くの? 」
真里は圭織が『圭織語録』を書くことを、どうにも理解できなかった。
槍に漢詩を書いている者はいたが、矢に文字を書くとは前代未聞である。
矢に経文を書いて『破魔矢』にするのならば、まだ理解することができた。
しかし、圭織は経文などではなく『圭織語録』を書いているのだ。
「あははは―――何となく」
「な―――何となく? 」
きっと何か意味があると思っていた真里だったが、
飯田圭織という女は、こういう女だった。
いくら理解しようと努力したところで、
常人には理解できない奇行をするのだった。
「酒が足んねーぞ! もっと持ってこいゴルァ! 」
「よっすぃー、口うつしで飲ませてぇ」
こんな乱痴気騒ぎが、深夜まで続いていた。
今も昔も、酒を飲んで騒ぐ若者には困ったものである。
たった一晩の楽しい時間ではあったのだが。
- 313 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:56
- 《敵の正体》
暁が東の空を染めたころ、数台の牛車が『ふるさと』の前に停まった。
この時期の明け方は、予想以上に寒くなっており、牛の吐く息も白くなっている。
盆地である平安京は、夏の暑さが終わると、すぐに寒さがやってくるのだ。
「お連れ申せ! 」
大柄な男が指示をだすと、屈強な男たちが店内に入ってゆく。
誰もがどういうわけか、動くとカチャカチャと音がする。
どうやら男たちは、中に甲冑を着ているようだった。
男たちは酔いつぶれた娘たちを回収してゆく。
すると、店主が目をこすりながらやってきた。
「すいませんが、追加の分のお会計がまだでして」
「式部省の貴子さまにツケじゃ」
ツケと言われ、店主は請求書を持ってきた。
請求書といっても、木簡に金額を書いたものである。
ところが、その金額に男は仰天してしまった。
これはボッタクリだと思い、男は店主に詰め寄った。
「きさま、検非違使に通報するぞ。何だ、この金額は」
ものすごい金額に、男は店主を悪徳業者だと思ったようだ。
だが、この『ふるさと』は、いたって良心的な店と評判であった。
なぜ、このような金額になったのか、男は首をかしげてしまう。
- 314 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 18:57
- 「いえ、それじゃ明細を見せますよ」
店主が明細を持ってくると、男はその注文量に愕然とした。
たった6人であるから、いくら飲んで食べたとしても、
現在の金額に換算すると、せいぜい3万円、
いっても4〜5万円くらいだろう。
ところが、請求金額は20万円を超えていたのだった。
「こ―――こんなに飲み食いしたのか? 」
それは、もはや食事という量ではなく、
人間の限界に挑戦したようなものだった。
ひと口の咀嚼回数を計算しても、
全員が10時間以上食べ続けたことになる。
たしかに旅で体力を使ったのだろうが、
この量は尋常ではなかった。
「はい。それはもう、元気な姫さまばかりで」
6人で飲んだ酒の量は、じつに10升(1斗)にもおよび、
店の料理という料理を片っ端から食べていたのである。
店としてはうれしかったが、また全て仕入れをしなくてはならない。
仕入れというのは、営業以上に疲れるものだった。
「半分を貴子さま、もう半分を裕子さまでツケを頼む」
いくら貴子が高級官僚でも、これほどの支出は痛いだろう。
男は気をきかせて、裕子の名前でもツケをして店を後にした。
- 315 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 18:58
- 回収された娘たちは、式部省の奥の部屋へ寝かされ、
全員が頭痛と吐き気に苦しめられていた。
これほど飲めば、誰だって二日酔いになってしまう。
喉がかわいて水ばかり飲む梨華は、腹が痛くなってしまった。
「お―――お腹が痛いよぉ」
「り―――梨華ちゃん、水の飲みすぎ―――うっ! 」
真希は吐き気に顔をゆがめ、脂汗をかいていた。
まさか、こんな時刻にたたき起こされるとは、
誰もが夢にも思っていなかった。
しかも、式部省へ連れてこられたのだから、
ここで寝るわけにもいかない。
「薬湯でも飲みや」
二日酔いとは仲良しの裕子が、真っ黒な薬湯を持ってきた。
見るからに苦そうなものだったが、これでこの症状が治ればと、
全員がとびついて一気に飲み干してしまった。
弱った胃壁に薬湯が浸透し、徐々に二日酔いが治ってゆく。
「ふーっ、一時はどうなることかと―――げげー! 鬼! 」
ひとみは目の前に、鬼の裕子をみつけて跳びあがった。
条件反射でムチから逃げようとするひとみが滑稽で、
裕子は思わず吹きだしてしまった。
どうしようもないほど無知だったひとみも、
どうやら、それなりに成長をとげている。
そんなことが嬉しい裕子は、自分が歳をとったことを痛感した。
- 316 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 18:58
- 「ここに来てもろうたんは、たいへんなことが起きたからや」
たいへんなことと言われたところで、娘たちは何のことだか分らずにいた。
この重要なことを知っているのは、ごく限られた人間だけだったのである。
その中には、ときの摂政であり、紗耶香の縁者の藤原道長もふくまれていた。
「たいへんなこと。ですか? 」
紗耶香は裕子の表情から、緊迫した事態であることを知る。
彼女はどうも腑に落ちないものを感じていた。
なつみと麻美を拉致したのは、いったい何者なのか。
そして、なぜ簡単に解放してしまったのか。
さらには、なぜ6人全員が呼ばれたのか。
「そうや。もうじき貴子がくるし、くわしく聞いてや」
裕子が窓を開けて外の空気を入れたころ、
あいかわらず人間以外の気配を漂わせて貴子が入ってきた。
すでに朝日が式部省の庭を照らし、秋のさわやかな朝だった。
貴子は全員の顔を見わたし、裕子に目配せをしてから座った。
「初対面の者もおるな? うちが貴子や」
貴子の独特な雰囲気に、梨華は少し怖いと思った。
それでいて、どこか同族の匂いがするのは、
2人には山童の血が入っているからなのだろうか。
それは貴子も感じているらしく、梨華と視線が合うと、
ニッコリと笑って親愛の印としたのだった。
- 317 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 18:59
- 「貴子さま、いきなりどういったことでしょうか? 」
紗耶香は貴子に呼ばれた理由を聞いた。
なつみと麻美を救うときも、貴子は強引に話を進めてしまった。
どうやら2人を救う作戦自体が、何かの試験のように思えてしまう。
そんな紗耶香の考えが分り、貴子は詳しい説明を始めた。
「今から368年前、何があったか知っとるけ? 」
「368年前というと、大化の改新でございましょう? 」
『大化の改新』とは、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足が、
当時の実力者である蘇我入鹿を討った事件である。
これにより、国王としての権威が地に落ちていた天皇家を、
再び政治の中心にすることができるようになった。
「そうや。この事件がきっかけに、天皇家は実権を奪還したんや」
蘇我入鹿は物部氏などの政敵を斃し、豪族としての頂点にまでのぼりつめた。
ところが、中大兄皇子たちの策略にはまり、あえなく最期をとげたのである。
同時に行われたのが、残党狩りという残酷なものだった。
蘇我一族を残しておくと禍根が残るため、生まれたばかりの赤ん坊まで殺した。
「それと今回の騒動には、どういった関係が? 」
大化の改新と平安京に、どういった関係があるのだろう。
紗耶香の知識では、どう考えても結びつかなかった。
これが他の者であっても、特殊な力がないかぎり、
決して結びつくとは思えなかった。
- 318 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 19:00
- 「大化の改新から290年後には、何があったか知っとるけ? 」
「はい、平将門の乱ですね」
「そうやな」
平将門は天皇のひ孫であり、関東東部に勢力を広げた。
そして国府を皆殺しにすると、自ら『新皇』と名乗り、
朝廷と本格的に対決の意思を示したのである。
平将門は従兄弟の貞盛に討ち取られてしまうが、
その怨念は、今もなお平安京を脅かしているという。
「ですから、それと今回の件とは―――」
「関係あるんや。ええか? 平将門や藤原純友が、仕組まれたことだとしたら」
貴子は同時期に朝廷へ弓をひいた2人こそ、誰かに仕組まれたものだという。
当時の国内に、これだけの大乱を起こせる人物など、そう多くはいなかった。
源一族は検非違使や国司など、朝廷の主幹にかかわる仕事をしていたが、
それほど力を持った者は存在しなかったという。
平一族は関東の統治をまかされていたし、吉備一族、橘一族は衰退が著しかった。
そんな中、台頭してきたのが藤原一族であり、いわば将門の政敵である。
「そんな者など、存在するのですか? 」
紗耶香には朝廷に弓をひけるのは、源平藤橘以外に考えられなかった。
ほかにも寺社勢力があったものの、そこまでの力は延暦寺でも持っていない。
平将門と藤原純友は、どう考えても自分で叛乱を起こしたとしか思えなかった。
- 319 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 19:01
- 「おるで。それが、かつて物部氏と呼ばれていた山童たち―――」
「貴子さま! 」
紗耶香は貴子が山童の血をひく者だと知っている。
もし、山童が朝廷に弓をひくのであれば、
貴子にしても『血』にさからうことができるのだろうか。
もっとも、半分は天皇家の血が入っているので、
どちらにしても苦悶するのはまちがいないようだ。
「それと、中大兄皇子に斃された蘇我氏の末裔たちや」
これには紗耶香も驚愕した。
蘇我一族は女子供にいたるまで、根絶やしにされたはずである。
それであるのに、末裔がいようとは、彼女には初耳だった。
かの聖徳太子は、天皇家と蘇我氏との対立を憂いながら死んでいった。
当時の蘇我氏は、平安京の藤原氏よりも、もっと強い存在だったのである。
そんな蘇我氏であったから、一族が滅亡しないように対策を考えていた。
蘇我入鹿は出雲に子供を残したのである。それが後の石黒家だった。
「すると、今回の事件は、蘇我氏の末裔によるもの? 」
貴子は無表情のまま、小さくうなずいて深くため息をもらした。
禁裏の木々の間から、モズの鳴き声が聞こえてくる。
もう少したって秋が深まるころ、モズは獲物を木の枝に突き刺す。
いわゆる『はやにえ』という行動だが、それはどこか、
犠牲者を晒す残酷な行為に似ているところがあった。
- 320 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 19:02
- 「蘇我氏の末裔は、壬申の乱を画策して、仇を討ったんやな」
壬申の乱は大海人皇子(天武天皇)が、兄である天智天皇の死後、
武力によって甥を殺し、家督を継いだ権力闘争である。
これによって、天智天皇の血統は絶たれてしまい、
蘇我氏の末裔は、みごとに仇を討ったことになるのだ。
「けど、復讐はそれだけやなかったんや」
「なるほど、藤原氏への復讐ですね? 」
大化の改新は、中臣鎌足が中大兄皇子に讒言したことが発端だった。
中臣氏は藤原氏と姓を変え、平安京の頂点に君臨しているのだ。
蘇我氏末裔にしてみれば、天皇家よりも藤原氏への憎しみの方が強い。
今回の事件にしても、彩は藤原氏を斃すために動いているのだ。
「そうやな。蘇我氏は藤原一族に、深い怨念を抱いておるわ」
彩たちが平安京を攻撃しようにも、安倍晴明という陰陽師がおり、
結界をはっていたので、手をだすことができなかったのである。
そこで、彩はなつみと麻美を拉致し、晴明の動きを封じようとしたのだ。
そこまでは紗耶香にも理解できたが、なぜなつみと麻美を解放したのだろう。
「貴子さま、敵はなぜ晴明さまの姫たちを解放したのですか? 」
紗耶香の質問に、貴子は少しばかり、ためらいをおぼえた。
珍しく裕子の顔色をうかがい、咳払いをしてから話を始める。
なぜなら、それこそが娘たちを集めた理由だったからだ。
- 321 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 19:03
- 「平安京の貴族が恐れるのは、平将門と藤原純友、そして―――」
「―――菅公! 」
菅公(菅原道真)は頭がよく、実力だけで出世してきた男だった。
ところが、血縁や家柄を尊重する当時の貴族たちの反感をかい、
藤原氏の策略によって大宰府に左遷され、悶死した不遇の人である。
ところが、菅公の死後、平安京では落雷による犠牲者が続出した。
それも、菅公左遷に一枚かんだ連中ばかりが死んだので、
『これは菅公の復讐』という噂がたち、本気で怯えていたのだった。
「そうやな。敵は今、大宰府におるわ」
「まさか! 」
紗耶香は幼いころ、山童の老婆から話を聞いた記憶がある。
それは『死人還りの法』という呪術で、死者の魂を蘇らせる方法だ。
死者には肉体がないため、媒体となる肉体が必要である。
何かに執着する者や、自我の弱い者が適任とされていた。
「『死人還りの法』を使えるんは、行方不明になってる平充代だけや! 」
彩たちは大宰府で、菅公の復活を行っているのだ。
もし菅公が復活すれば、その怨念で平安京を灰にしてしまうだろう。
灯油の保管所や炭小屋に落雷させれば、一気に大火事になるにちがいない。
その混乱に乗じて暴動を起こせば、平安京は潰滅するだろう。
また、この時期は解文(直訴状)を持った農民が平安京に押し寄せ、
国司の悪政を訴えた時代でもある。
各地の抵抗勢力と結託すれば、藤原政権は終焉をむかえるだろう。
- 322 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 19:03
- 「シ―――シビトガエリって何よ! 」
真里は恐ろしい話になってきて、つい怖くなってしまったのだ。
死者が墓から出てくると思った真里は、怖くてしかたない。
たしかに腐りかけた死体が襲ってきたら、恐怖以外のなにものでもない。
真里が怖がるくらいだから、梨華などは青くなって震えていた。
「死んだヤツが生き返るのかァ? よくわかんねーや」
ひとみは実際に見てみないと、どうしていいか分らない。
それは真希も同じであり、まったく現実感がなかった。
どういうわけか、圭織が『死人還りの法』を知っており、
ひとみにも分りやすいように説明をした。
「オイラびっくりしたよ。墓から死体が出てくるのかと思ってさー」
真里や梨華は胸を撫でおろしたが、紗耶香は真剣な表情で貴子を見た。
『死人還りの法』で生き返った者は、恐ろしい呪法を使うらしい。
それが死後に怨霊となって平安京を攻撃した菅公の呪法であれば、
想像もつかないような強さであるのは、火を見るよりもあきらかだった。
「敵の総大将は、出雲石黒家の彩いう女や」
「アヤだかマヤだか知らねーけどよ。このオレが退治してやるよ」
ひとみの槍の腕であれば、勝てる女など存在しないだろう。
しかし、彩は魔物と契り、貴子ですら勝てない力を得たのだ。
生身の人間が勝てるとは、どうしても思えなかった。
- 323 名前:第三章 投稿日:2003/09/28(日) 19:04
- 「油断したらあかん! 彩はもう人間やないで」
「人間じゃねーって? 」
ひとみは彩が人間でなければ、狐狸の類かと思った。
イヌ科のキツネとタヌキは、まだかわいいものである。
せいぜい人を化かしたりするのが関の山だったからだ。
ところが、彩は魔物の力を得たのである。
その力を使ってゆくと、いつかは彩も魔物になってしまう。
それを承知で、彩は魔物の力を手に入れたのだ。
「おおかた、魔物とでも契ったんやろな。残酷な話や」
「話は以上や。大宰府の菅公は、まだ完全に復活しとらん。
ええか? 菅公が不完全なうちに潰すんや! 」
裕子は紗耶香に、彩と対決させるつもりらしい。
だが、紗耶香には、どうも納得できないところがある。
それは、なぜこの面々が選ばれたのかということだ。
何の関連性もなく、それぞれの生きざまもちがっている。
価値観や身分、血統までがちがっていた。
「貴子さま、なぜ我々が? 」
「今は言えん。けど、あんたらしか連中には勝てんのや」
なぜ貴子は理由を言わないのだろう。
それを言ってしまったら、何がまずいのか。
責任感や報酬への魅力は、誰でも持っているだろう。
ここで何を聞こうとも、闘う決意が変るわけではない。
それでも紗耶香は、最悪のことを聞いてみた。
- 324 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/09/28(日) 19:04
- 「大宰府へ行くのを断ったら? 」
「―――みんな死ぬだけのことやな」
ここは、どうあがいても断ることはできそうにない。
きっと、何から何まで根まわしが終わっているのだろう。
この部屋を出たときから、全員が『運命』を背負わされるのだ。
それが不満でも、もう後に引くことはできない。
それだけは、全員が痛感していたことだった。
「ちょっと待ってよー! オイラも行くの? 」
真里は大宰府などという遠いところまで、行こうという気がしなかった。
丹後から都までですら遠く感じたのに、大宰府といえば、その何十倍とある。
ここは何とか外してもらい、救済施設の設立に向けた行動を起こしたかった。
すでに民部省の役人を紹介してもらい、話が具体化しつつあったのである。
当時、平安京から大宰府まで行くのは、ほんとうに命がけだった。
「あたりまえやろ! 」
「誰ひとり欠けても」貴子が言った「敵には勝てへんで」
それは脅しではなく、ほんとうのことであると全員が悟った。
裕子の言うように、菅公がまだ完全でないのだとしたら、
事態は急を要するだろう。
「うちらも後を追うよってな」
貴子は紗耶香たちに出発を促したのだった。
- 325 名前:名無し弟 投稿日:2003/09/28(日) 19:06
- 今回はここまでです。
また、すぐに更新しますので、よろしくおねがいします。
- 326 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:08
- 《亜依と愛》
村に亜依が戻ってきたのは、長月が終わろうとするころだった。
すっかりと秋めいた空になり、虫の声もまばらになっている。
村では刈りいれが忙しく、亜依の帰還を知る者は少なかった。
亜依は仕込み杖を持っており、これでひとみを刺そうというらしい。
そんな亜依を待っていたのは、何とか説得しようとしている愛だった。
「ひさしぶりじゃね。あいぼん」
愛は亜依の家へとやってきた。
亜依の父は彼女が幼いころに死んだ。
以来、母親が彼女と幼い弟を育てている。
亜依はこんな貧しい生活が憎かった。
やっと裕福になれる光明が見えたというのに、
ひとみが来たおかげで、その夢が断たれてしまう。
亜依はそう思っていたのだった。
「あいぼん、ひとみさまは悪くないんじゃ。復讐なんてあかん」
「知るか! あんたは黙っとき! 」
亜依はひとみへの復讐だけが、生きてゆく糧となっていた。
そんな状態では、愛の言うことなど、決して聞こうとしない。
彼女にとって復讐に正当性があろうとなかろうと、
そんなことは二義的な問題だったのである。
とにかく、ひとみを殺すことだけが、彼女の生きがいだった。
- 327 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:09
- 「オラ、ひとみさまから話を聞いたんじゃ」
「だから何やの? もう、構わんといて! 」
亜依が村に戻ってきたのは、ひとみが都にいるという情報が入ったからだ。
武術の達人でもあるひとみを斃すには、正面から襲っても無意味である。
ひとみを殺すには、油断させておいて、背後から刺すしかなかったのだ。
平安京の中では山賊などはいないため、ひとみも油断しているだろう。
すれちがいざまに、隠し持った仕込み杖で背中を刺せば、
たとえ亜依であっても、ひとみを殺せるかもしれなかった。
「話を聞いて! 」
「もうええて言うとるやろ! 」
亜依は愛の制止をふりきり、飛びだして行ってしまった。
愛は亜依の後を追ったが、いきなり出てきた少女とぶつかってしまう。
少女とぶつかった愛は、はじきとばされてしまった。
どちらも、走ってきたのだから、その衝撃は大きかった。
「痛い! 」
はじきとばされて転んだ愛は、ぶつけたヒザを押さえて立ちあがった。
愛にぶつかってきた少女も、地面に打ちつけた頬を押さえて立ちあがる。
愛にぶつかった少女は、亜依に会いにやってきた希美だった。
希美も愛と同じく、亜依を思いとどまらせようとしていたのである。
いくら愛でも、重量級の希美に当たられては、はじきとばされてしまう。
- 328 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:09
- 「愛ちゃん、ごめんね。あいぼんは? 」
「ひとみさまを追って、都に行ったんじゃ」
とにかく愛は亜依を追おうとして走り出したが、
すでに彼女の姿は見えなくなってしまっていた。
亜依は重い荷物や仕込み杖を持っているので、
愛の足であれば、追いつくことができるだろう。
「オラ、あいぼんを追うから! 」
そう言うと、愛は風のように走り去っていった。
希美は顰蹙をかいながらも刈り入れ作業を休み、
丹波国分寺へ確認に行っていたのである。
住職から、ひとみがミカのなきがらを、
泣きながら抱いてきたことを聞いたのだった。
「裏づけがとれたんだよう! ののも行くのれす! 」
裏づけがとれた以上、亜依の復讐を、
断念させることができるかもしれない。
希美は愛の後を追いかけてみるが、
背は低いが人一倍重量級の彼女では、
足の速い2人には追いつかないだろう。
それでも希美は、必死になって走っていった。
- 329 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:10
- まだ陽が高いので、昼下がりには都に着けるだろう。
愛は平安京に続く道を、軽やかに走っていた。
木々の間から秋の淋しげな陽がさしこみ、
足もとに迷彩柄のような影を映している。
愛はひとみも亜依も大好きだった。
(何とかして思いとどまらせないと)
そう思うと、愛の足は自然と速くなっていた。
涼しい木陰でも、愛には汗が噴きだしてくる。
それでも力をふりしぼり、彼女は息をきらせて走った。
その甲斐あって、前方に米粒くらいの亜依が見えてくる。
亜依もがんばって走っているのだが、愛の足よりは遅い。
愛が立ちどまり、大声で亜依を呼ぼうとしたときだった。
「すまんな。ここまで走ってきて」
愛の耳元で女の声が聞こえた。
愛が驚いてふりかえろうとしたとき、彼女は激痛に息を吐いてしまう。
女が突き飛ばすと、愛の脇腹から血が噴きだしていた。
脇腹を刺された愛は、本能的に女から逃げようとしたが、
体に力が入らず、もがくのが精一杯の状態だった。
「た―――たすけて」
愛は自分の脇腹から噴きだす血を見て、もう助からないことを悟った。
16年も生きてくれば、致命傷かそうでないかくらいは、嫌でも分るものである。
血の海となったブナの木の下で、愛は苦しそうに女を見上げた。
枯葉が彼女の耳元に落ち、小さく音をたてていた。
- 330 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:11
- 「恨まんといてな。あんたに死んでもろた方が、仕事がやりやすいねん」
女は落ちついた声で、けたたましく怯える愛に言った。
何とか逃げようとする愛を、女はかんたんに裏返してしまう。
細くて小柄な16歳の少女であれば、大人の女の力ならワケもない。
愛は無表情に見つめる女に、何者であるのか聞いてみた。
「あ―――あんたは―――」
愛の声は荒い呼吸で、ほとんど聞きとれなかった。
それでも女は、愛が何と言ったのか聞きとっている。
おそらく、愛の考えていることが分るのだろう。
「うち? みんな『ゆきどん』って呼んどるわ」
有紀はそう言うと、愛の肩にヒザをかけた。
これで愛は身動きがとれなくなってしまう。
脇腹を深く刺され、もはや瀕死の愛に、
有紀をはねのけるだけの力など残っていない。
それでも有紀は、慎重に愛の胸に短剣を押し当てた。
「すまんな。うちも忙しいで」
その声が愛の聞く最後の音となった。
有紀の短剣は、愛の心臓へと突きささってゆく。
激痛とともに、愛の意識は急速に無へと進んでいった。
愛が最後に見たのは、木漏れ日の中で、
彼女の服で短剣についた血を拭う有紀の姿だった。
- 331 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:12
- 亜依の目に平安京が見えてきたころ、いきなり眼前に有紀が現れた。
亜依では有紀の動きが見切れず、あたかも、何もない空間に、
とつぜん女が現れたように見えてしまったようである。
亜依は小さな悲鳴をあげて驚き、身を硬くして有紀を見つめた。
「うちは、あんたの理解者や。ひとみを狙ってるそうやないの」
有紀は亜依の頭をなでながら、味方である旨を強調した。
そんな有紀に、緊張していた亜依も、次第に警戒を解いてゆく。
たった今、愛を殺したというのに、有紀は冷たいほど冷静だった。
「あんた、誰やの? 」
亜依は警戒を解きながらも、有紀に何者か尋ねてみた。
見知らぬ者が笑顔で近づいてきたときは、良からぬことがある。
そんな常識を、幼い亜依が知っているわけがなかった。
「みんな『ゆきどん』って呼んでるわ」
亜依は有紀が悪い人間に見えなかった。
スラッとした美人で、優しそうな顔をしている。
笑顔で話す有紀に、亜依は好印象を感じていた。
有紀が亜依に接近したのは他でもない。
亜依がひとみを狙っているという情報を得たからである。
有紀は彩の命令で、娘たちを妨害することになっていた。
さらに、彩たちにとって邪魔な裕子と貴子、
そして安倍晴明まで暗殺するよう指示されている。
実行部隊の娘たちは、裕子と貴子が死ねば、
すべて暗礁に乗り上げることになるだろう。
- 332 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:12
- 「うちに何の用やの? 」
「ひとみの情報が入ったんや」
有紀は亜依を使って、ひとみの動きを封じるつもりだ。
ひとみが亜依を殺さないのも、事前に充代から聞いている。
亜依が執拗に攻撃をしかければ、ひとみの行動力だけが遅延するだろう。
6人の娘の誰が欠けても、完全体に向かう道真を斃すことはできない。
結果的に娘たちが大宰府へ到着するのが遅くなり、
彩たちは道真が完全体となってしまうのを狙っていたのだ。
「明日の朝、山陰道を西へ向かうらしいで」
有紀は知りうる情報を亜依に話した。
すっかり有紀を信用した亜依は、山陰道に先回りすることにする。
急いで山陰道へ向かおうとする亜依を、有紀は呼び止めていた。
振りかえった亜依に、有紀は懐から取りだしたものを握らせる。
現金だったら心強いのだが、それは小さな包みだった。
「これを使ったらええ」
「これは? 」
亜依は有紀に手渡された小さな紙包みを見つめた。
かんたんな薬であれば、亜依でも持っている。
この時代、生水による中毒は致命的だったからだ。
しかし、渡された紙包みは、そんなものではない。
- 333 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:13
- 「トリカブト、ヒョウモンダコ、フグを使った毒や」
「どどどどどど―――毒! 」
毒と聞いて怯えた亜依は、包みを落として腰をぬかしてしまった。
ひとみに復讐するとは言いながら、これまで人を殺したことがない。
そんな亜依であるから、毒など恐ろしくて仕方ないのだろう。
有紀は苦笑しながら紙包みを拾い、震える亜依に握らせた。
「この毒を刃に塗るんや。気つけーよ。自分を傷つけるんやないで」
即効性のトリカブトや神経毒のフグを使った毒薬は、
傷口から入ると、すぐに効果を顕す恐ろしいものだった。
通常の毒消しでは効果がなく、まちがいなく死に至る猛毒である。
これは人殺しに慣れていない亜依を楽にさせるためのものだった。
殺すほど深く刺さなくても、ちょっと傷つけるだけで、
この毒がひとみを確実に殺してくれるのだ。
「こここここ―――こんな物騒なもの」
腰をぬかした亜依は、青くなって首を振った。
亜依はひとみを殺そうと思ってはいたものの、
どちらかというと、殺すための旅が目的である。
いざ、ひとみと対峙して本気で殺せるかというと、
亜依にはあまり自信がなかった。
- 334 名前:第三章 投稿日:2003/10/01(水) 23:13
- 「ひとみを殺すんとちゃうんかい! 」
有紀に諭され、亜依は本気でひとみ殺害を決心した。
- 335 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:14
- 《刺客》
その日の夜、有紀は式部省に侵入した。
式部省に潜入するには、それなりの着物が必要である。
軽装の有紀は、式部省の制服である十二単を持っていない。
そこで、現地調達をする必要があった。
有紀は屋根の上から、式部省の廊下を監視する。
ちょうど、警備兵が途切れる時刻に、
仮眠をとろうとする女官があらわれた。
(こいつにしたろ)
有紀は自分と体格が似ているため、
この女官の着物を手に入れることにした。
眠そうな女官が廊下を通りかかると、
有紀はヒラリと屋根から飛び降り、
驚いて声もでない女官の腹に当身をいれた。
「うっ! 」
女官が気絶すると、有紀はすばやく背負って床下に連れこんだ。
有紀はそこで女官を全裸にし、無残にもトドメをさしたのである。
殺された女官は災難だったが、こうもしないと有紀は長時間、
式部省に潜入することができなくなってしまうからだった。
このまま生かしておけば、意識を回復した女官が通報してしまう。
女官にはかわいそうだが、ここは死んでもらうしかなかったのである。
有紀ははぎとった着物を着ると、なにくわぬ顔で式部省内に入っていった。
- 336 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:15
- 式部省は思ったよりも広く、標的の裕子や貴子を見つけるまで、
まるで迷路のような内部を、隅々まで探さなくてはならなかった。
見慣れない顔だと言われても、新参ということで押しきるつもりである。
それでも怪しまれたら、相手を殺してしまえばよかった。
「すみませぬが、中澤式部大輔さまのお部屋は? 」
「新入りか? つきあたりを右、2本目を左で、いちばん奥の部屋じゃ」
人のいい女官は、有紀を疑おうともせず、かんたんに裕子の部屋を教えてしまった。
眉を書いて紅を塗れば、有紀も女官のような感じに見えてしまう。
彼女はあまり高貴な身分ではなかったが、それなりに見えるから不思議なものだ。
有紀は懐に短剣を忍ばせ、裕子の部屋へと向かっていった。
「あいや、待たれよ」
そんな有紀を呼び止めたのは、晴明によって派遣された『りんね』という女だった。
晴明は裕子や貴子が狙われるのを分っており、警護役を派遣していたのである。
ほかの警備兵とちがい、りんねたちは標的を守ることだけが仕事だ。
そのせいか、かすかに漂う有紀の殺気を感じたのだろう。
「裕子さまの部屋に行くそうですね」
りんねにはまったく隙がないので、有紀は身構えることしかできない。
ここで斬りかかっても、おそらく一撃目は回避されてしまうだろう。
この段階でさわぎになれば、裕子や貴子の暗殺はあきらめざるをえない。
有紀は状況を判断し、何とかごまかすことしか考えることができなかった。
- 337 名前:第三章 投稿日:2003/10/01(水) 23:15
- 「はい、何か重要な用事があるとかで」
「部屋にくるように言われたのですか? 」
りんねは優しそうな顔をしているが、威圧的な雰囲気をただよわせていた。
有紀はりんねが裕子の警備役だと気づき、斃さねばならない相手だと悟る。
この狭い廊下では、有紀の特徴でもある素早さが活かされないため、
りんねをどこか広い場所に誘導する必要があった。
「いえ、待っていたのですが、いらっしゃらないもので」
「ならば、こちらの部屋で待たれよ。私がお呼びしますので」
りんねは有紀を近くにある広間に案内した。
灯りをつけようとするりんねに、わずかばかりの隙ができる。
有紀は見逃さず、りんねを斃そうと懐の短剣に手をのばした。
りんねは見るからに優しそうな女ではあったが、
有紀の殺気を感じとる敏感な感受性をもっている。
やはり、安倍晴明が派遣しただけのことはあった。
「なるほど、刺客であったか」
りんねは有紀の殺気を感じ、灯りをつけながら言った。
その『気』には殺気も回避する意思も感じられない。
有紀はりんねの行動が読めず、一気に殺すことができなかった。
りんねには、相手の気持ちを察する特殊な能力があるようだ。
山童の血をひく貴子にも、そういった能力があるので、
おそらくりんねも、山童の血をひく者なのだろう。
そんな有紀の気持ちを察してか、りんねは静かに話をはじめた。
- 338 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:16
- 「ムダなことはせぬことじゃ。裕子さまを殺したところで、蘇我一族の復興はありえんわ」
「何? 」
りんねは灯りをつけると、着物の裾に気をつけながら座った。
有紀は自分を刺客と分っていながら、
りんねがここまで無防備でいるワケが分らない。
有紀は意外すぎるりんねの行動に、
どうしていいか分らなくなってしまった。
「われら物部氏の末裔は、山童などと呼ばれてる。
これが何を意味するか、こなたに分るか? 」
りんねは穏やかに話を始めた。
物部氏は仏教の受容れを拒み、蘇我氏と戦って破れた。
その後、二級国民的な扱いをされるようになったのは、
仏教を否定したため、万民に支持されなかったのである。
一方、蘇我氏の方は石黒家のように、地方ではあったが、
地主として生きてくることができたのだった。
「今の世は藤原の天下。蘇我氏は支持されない。お分かりかな? 」
どうやら、りんねは有紀を説得しようというらしい。
刺客を説得しようということなど、前代未聞である。
それは慈悲の心などといった甘いものではなく、
りんねは有紀を味方にすれば、大きな戦力になると思ったのだ。
相手の考えていることがわかってしまうりんねには、
さすがの有紀もたちうちできない。
- 339 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:16
- 「ば―――万民がどうした! 我らは恨みを―――」
「聖徳太子の念願でもあった蘇我氏との融和。
これを遂げられなかった天智天皇は、一代限りで滅んでおろうが! 」
りんねの話には説得力があった。
物部一族にくらべれば、蘇我一族は恵まれている。
それというのも、蘇我氏は仏教を保護したからだ。
仏教を認めなかった物部氏は、今や二級国民扱いである。
蘇我氏が追われたのは、権力抗争の一環であり、
張本人の天智天皇(中大兄皇子)は一代限りで終わってしまった。
「ならば、復讐はすべきでないと? 」
有紀は意外なほど素直になっている自分に驚いていた。
りんねの前では、これほど心が癒され、素直になれる。
りんねの優しく微笑む顔は、阿弥陀如来のようだった。
このまま、りんねに全てを任せたら、どれだけ楽だろう。
「そのとおり。復讐は復讐を呼ぶだけ。藤原氏の天下も永遠ではない」
「永遠ではない? 」
どんな権力も永遠に続くことはない。それは、歴史を見ればあきらかだった。
蘇我氏や吉備氏、橘氏にしても、決して永遠に栄えることはなかった。
世界をみても、1000年以上にわたって安定した政権を維持した一族はいない。
天皇家にしても、実質的な政治は摂政・関白が行うものであり、
日本国王的な意味合いは薄く、単なる権威・象徴でしかなかった。
- 340 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:17
- 「いつの時代も、権力争いで一族が滅んでゆく」
蘇我氏や物部氏以前の古代国家では、失脚すれば根絶やしにしてしまうため、
末裔などは残っておらず、したがって復讐などということもなかった。
仏教の伝来とともに、一族を根絶やしにする慣習がさびれていき、
遺恨を持った末裔ができるようになってしまったのである。
ありがたい仏の教えも、世俗にまみれた人間の恨みまでは救えないのだ。
「うちは、―――うちはまちがってるんか? 」
「この世に善も悪もない。勝者だけが正義になる」
勝てば官軍というくらいで、敗者には弁明の余地などない。
どんな虐殺を行ったとしても、大義名分があるかぎり、
それは『退治』ということでカタがついてしまうのだ。
かつて、壬申の乱では、天武天皇側が行った大虐殺を、
平将門の乱では、平貞盛が行った大虐殺を正当化している。
人間の正義など、そのていどのものだった。
「うちは一族の復讐のために、何人も人を殺してきたんや」
「それがまた復讐を呼ぶ。分かるな? 」
どちらかが復讐をあきらめないかぎり、この争いは永遠に続くだろう。
世界の宗教・民族紛争は、同じことになっているのだった。
りんねは決して、一方的な話をしているのではない。
ものごとの本質を突いているので、その話にも説得力があるのだ。
- 341 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:18
- 「ならば、復讐をあきらめろと? 」
「復讐などせずに、女子としての幸せを考えるべきじゃない? 」
「女子としての幸せ―――」
有紀も幼いころ、花嫁衣裳にあこがれた。
強くて優しい男といっしょになり、幸せな生活をおくりたい。
そんなことを考え、目を輝かせていたころもあった。
しかし、女の幸せを捨てた彩と出会い、
そんな甘いことは考えないことにした。
「悪いようにはしない。おとなしくしなさい」
りんねがそう言うと、障子が開いて2人の若い女が現れた。
裕子と貴子を警備している『あさみ』と『まい』である。
やはり安倍晴明の手の者で、美海ほどではないが術も使えた。
引率のりんねには服従していたが、正義感が強すぎるところがあった。
「床下から女官の死体が見つかったよ! 」
「観念しろッ! 」
「やめなさい! 」
りんねが叫ぶと同時に、有紀は天井まで跳びあがった。
そして屋根を突きやぶり、逃げていったのである。
有紀は復讐をあきらめかけていたのだが、
あさみとまいに捕まると思って脱出したのだった。
- 342 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:18
- 「バカ! 何てことを言うのよ! 」
有紀ほどの者を味方にできたら、これほど心強いことはない。
りんねはそう思って、有紀を懐柔していたのだった。
あわよくば、洗脳した有紀に彩を説得させ、
野望をあきらめさせようと考えていたのである。
だが、こうなったら有紀を逃がすのは都合がわるかった。
「事態は最悪。追いなさい! 」
有紀への説得は失敗に終わった。
仲間の美海に重傷を負わせた女であるから、
あさみとまいは、タダではおかないつもりのようだ。
もう、こうなれば、有紀を殺すしかない。
しかし、有紀ほどの腕の者であれば、
あさみとまいも無傷ではいられないだろう。
いや、2人をもってしても勝てるかどうか。
「は―――はい! 」
りんねにカミナリを落とされ、2人は『気』を頼りに有紀を追った。
りんねはため息をつくと、裕子と貴子の警備をしにゆく。
有紀だけが刺客とはかぎらないからだった。
- 343 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:19
- 暗闇の中を、有紀は賀茂川の河川敷まで走ってきた。
とても素早い有紀だったが、あまり体力がある方ではない。
有紀は苦しそうに息をしながら、河川敷を下流に歩いてゆく。
賀茂川の流れは、夏のようにサラサラと涼しげではなく、
どこかネットリとした、冷たさのある音をしていた。
「ハァハァハァ―――ここまでくれば―――はっ! 」
有紀は前方の闇の中に、人の気配を感じて身構えた。
そこに現れたのは、短い袴を穿き、袖のない浴帷子を着た美海だった。
美海は有紀の『気』を感じとり、やってきたのである。
彼女は重傷であるため、こんなところに来れる体ではない。
しかし、有紀が都で暴れでもしたら、たいへんなことになってしまう。
そこで命と引きかえに、有紀を殺しにやってきたのだった。
「あんた、まだ生きてたんか」
有紀にとっては、最も逢いたくない相手だった。
美海の『気』を読めば、必死であることが分る。
身体能力からいけば、有紀の方が強いことはまちがいない。
だが、必死である者は、とんでもない力を発揮することがあった。
「こんどは油断しないわ。覚悟なさい! 」
美海が身構えると、あさみとまいが走ってきた。
3対1となったものの、美海たちが勝てる相手ではない。
有紀はそれほど強い力を持っていたのである。
それでも3人は、有紀と闘うことから逃げなかった。
- 344 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:20
- 「いちおう、りんねさまの話を伝えるわ」
「味方になるなら歓迎する」
あさみとまいは、りんねが望んでいたことを伝えた。
だが、ここで有紀が味方になる意思表示をしても、
美海だけは彼女と闘うことになっただろう。
美海は自分の意地をかけた闘いをしにきたのだった。
「―――彩さまを裏切ることなんかできへんわ! 」
有紀は闘いを避けて逃げようとするが、3人に囲まれてしまう。
りんねに諭され、できれば誰とも闘いたくないのが有紀の本音だ。
しかし、3人は何があっても逃がそうとは思っていない。
刺しちがえる覚悟で闘いを挑んできたのだった。
「あんただけは、ぜったいに逃がさないわ」
「なら、うちも死にたくないし、本気で行くで」
有紀は素早く動いて、まいの短剣をはじき飛ばしてしまう。
短剣がなかったら、まいの胸に穴があいていたにちがいない。
丸腰になったまいは、有紀めがけて印をきるが、
素早い彼女は平気でかわしてしまった。
今の動きで有紀の行動は見切られてしまう。
次に有紀が誰かを攻撃したら、背後をとられるかもしれない。
そんな思いが入り乱れ、しばらくにらみ合いが続いた。
- 345 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:20
- 「―――そんな! 」
「それしかない! 行くよ! 」
あさみとまいは、念で意思疎通をしていた。
まいは手の中で『気』をふくらまし、有紀にむかっていった。
こんなものを至近でぶつけられたら、まず無事ではすまない。
有紀は素早く動いて、まいの背後から短剣を突きさした。
「あうっ! 」
まいが苦痛に顔をしかめ、ヒザをついてしまった。
その瞬間、あさみが有紀の背後から印をきったのである。
これまた有紀は、まいから短剣を引きぬくと、
背後のあさみを袈裟がけに斬ったのだった。
「うがっ! 」
あさみは心臓を切られ、ほぼ即死していた。
しかし、まいは腎臓を刺され、大出血で苦しんでいる。
そんなまいを哀れに思い、有紀はトドメを刺そうと思った。
「今、楽に―――くそっ! 」
あさみは命とひきかえに、不動明王印をきったのである。
そのため、有紀の足は、その場から動かなくなってしまった。
印をきった者が死んでしまったため、そう長くは続かないだろうが、
素早さを武器とする有紀は、致命的な状況となってしまう。
- 346 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:21
- 「美海―――あとはたのんだ―――よ」
囮となったまいは、そう言ってこときれた。
美海は短剣をぬき、有紀に斬りかかってゆく。
だが、有紀の方が剣の扱いには慣れている。
美海の剣をかわすことくらい、片手でできてしまう。
そのうち、印の効力がなくなって、自由に動けるようになる。
そうなったとき、美海が勝つことはありえなかった。
「こうなったら―――」
美海は帝釈天印をきった。
帝釈天印とは、魔物をこらしめる印である。
こんなものを人間にきったりしたら、
まちがいなく即死してしまうだろう。
ところが、有紀は間一髪で結界を張ったのだった。
「結界? 」
「こう見えても、山童の血が入ってるんや」
有紀にも弱くはあったが、こうした術を使う能力があった。
美海の強力な印を防ぐには、あまりもたないくらいではあったが。
しかし、そう長くもたなくてもよかった。
なぜなら、すでにあさみがきった不動明王印の効力が、
しだいに落ちはじめていたからである。
それに気づいた美海は、強力な印をきるため、
すべての『気』を集中させているようだった。
- 347 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:21
- 「動け! 動け! 動くんやァァァァァァァー! 」
有紀は命をかけて、足を動かそうとしていた。
そして全神経を集中し、美海に斬りかかってゆく。
美海は有紀の短剣をよけていたが、背中の傷口が開いてしまう。
大量の血が足まで流れ、美海の足もとに血だまりができてゆく。
そして運悪く足を滑らせ、美海は転んでしまった。
「残念やったな」
有紀の短剣は美海の心臓の上にあった。
もう印をきる時間すらないだろう。
美海の手が少しでも動けば、
有紀はこのまま短刀を押しこむにちがいない。
「勝てなかったか―――」
「もう、誰も殺しとうない。あんたで最後や」
「―――負けたわけじゃないからね」
「負け惜しみは言わんこっちゃ。ほな、さいなら」
有紀はそのまま、根元まで短剣を突きさした。
短剣は美海の心臓を破壊し、その動きを止めてしまう。
血液の循環が止まった脳は、またたく間に酸欠となる。
急速に低下する意識の中で、美海は有紀のやりきれない表情を見ていた。
- 348 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/01(水) 23:22
- (こんな時代じゃなかったら、仲良くなれたかもね)
美海はそんなことを考えながら、ついに息絶えてしまった。
有紀が短剣をぬくと、美海の体が反射でケイレンする。
いくら重傷だったからといって、なぜか美海は弱すぎた。
有紀は血で真っ赤になった短剣を、川に放り投げてしまう。
美海との約束どおり、有紀はもう人を殺さないことにしたのだ。
「―――彩さま、怒るやろな」
有紀が立ち去ろうとしたとき、いきなり背骨に電気が流れるような気がした。
それが何であるか分かったとき、有紀の体は急速にコゲてゆく。
皮膚から筋肉、筋肉から骨、骨から骨髄が沸騰してゆくのが分かる。
美海が『負けたわけじゃない』と言ったのは、このことだったのだ。
(残留思念とは―――油断したわ)
美海は『気』を時間差で使ったのである。
彼女が印をきっていたのは、目の前の有紀にではなく、
数分後の有紀に対してだったのだ。
(まあ、ええか。彩さまに怒られんですむし。これも運命やろ)
有紀はどこか安心したように死んでいった。
- 349 名前:名無し弟 投稿日:2003/10/01(水) 23:25
- また週末には更新します。
よろしくおねがいします。
- 350 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:37
- 《丹波の刺客たち》
同じころ、娘たちは賀茂川での死闘など知らず、
大宰府に向けて出発することになったので、
旅の準備をするため、紗耶香の家へ集合した。
旅の準備といっても、若い娘たちのことであるから、
関心は着物や装飾品のことばかりである。
娘たちは紗耶香の衣裳部屋の物色をはじめた。
「いちーちゃん、何を着て行こうかな」
真希は箱から高級老舗の着物を取りだし、どれにしようか悩んでいた。
真希と紗耶香は同じくらいの体格なので、どれを着ても似合いそうだ。
やはり、貴族の姫さまだけあって、高級な着物や装飾品が並んでいる。
そんな中、紗耶香は各人に似合いそうな着物を選びはじめた。
「圭織さんは背が高いし『鐘幸』(べるさーち)なんかいいんじゃない? 」
『鐘幸』といえば、前衛的な柄と個性的な形が売りの有名店の着物である。
背の高い圭織であれば『栗須亭安泥欧流』なども似合いそうな感じだった。
『鐘幸』の上下に、帯は『完済』あたりで、『笛裸鴨』の履物が似合う。
旅の荷物袋は『夫羅駄』か『愚痴』で決めても斬新だ。
「梨華ちゃんは『地盤視』に『破苗盛』の袈裟なんていいんじゃない? 」
そんな娘たちを尻目に、ひとみは『美技』に『利倍須』の袴を試着してみた。
これに『蘭瀬瑠』の帯をしめたら、都会派の美男子のようになる。
そうなると、足袋は『羅個須手』履物は『内規』が似合いそうだった。
『馬連亭埜』の旅の荷物袋を持ったら、とても男前の着こなしとなった。
- 351 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:38
- 「真希は『殉庫個篠』に『婆禁』の荷物袋なんていいんじゃない? 」
真希も年齢的に子供と大人の中間におり、
『得留雌』や『瑠偉微屯』の荷物袋にあこがれている。
『婆禁』も有名店だったが、いささか地味な感じがした。
それを補う意味でも『件像』の帯などは必須だった。
「いちーちゃんは何で決めるの? 」
「あたしは全部『斜禰瑠』で行こうかな」
『斜禰瑠』は着物から荷物袋、履物、笠、匂い袋まで作っている。
紗耶香の歳で『斜禰瑠』にこだわる女性は少なかったが、
少しでもよいものを着せたい親心で、両親が買い与えていたのだ。
「ちょっとー、何でオイラだけ『美貴破臼』なのよー! 」
『美貴破臼』の着物を着せられた真里は、ふくれながら紗耶香をにらんだ。
宋(中国)の店である『美貴破臼』は、最近でこそ大人の着物を作っていたが、
もともと、子供向けの着物で有名なところだったのである。
いくら小柄であるからといって『美貴破臼』はないだろう。
真里も年ごろの娘であるから『地盤視』などを着たかったのだ。
「しょうがないじゃん。小さい着物はこれしかないんだもん」
小さい真里には、紗耶香が幼いころに着ていた『美貴破臼』しか合わない。
桃色や若葉色など、派手な中間色しかなかったが、それなりにかわいらしい。
旅の準備。というより着物の品評会は、その日の深夜まで続いていた。
- 352 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:39
- 翌日の早朝、娘たちは平安京をあとにした。
昨夜、賀茂川であった若い娘たちの激闘など、
何も知らされないので、彼女たちはまったく知らない。
これだけの大人数で大宰府へ向かう目的にしても、
全員が理解しているとは思えなかった。
相手が生き返った菅原道真であることは分かっていたが、
その強さなど、まるで分からなかった。
「いちーちゃん、寒いね」
震えながら首をすぼめる真希に、
紗耶香は持っていた襟巻きをかけた。
日一日と朝の冷えこみがきびしくなってゆく。
秋というのは、そんな季節だった。
「寒くないかい? 」
「へいき。だって、よっすぃーがいるもん」
そんな4人の後ろからは、あきれた2人が歩いてくる。
身長差が1尺近くもある圭織と真里だった。
2人はベタベタする2組に、開いた口がふさがらない。
女同士であるというのに、まるで恋人同士のようだ。
まだ、ひとみは男のようであるからよかったが、
紗耶香と真希は、どう見ても娘にしか見えない。
きわめて普通の女を自負する2人にとって、
同性愛は異常にしか感じられなかった。
- 353 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:39
- 「まあ、どーでもいいや」
真里は『瑠偉美屯』の荷物袋を頭にかけ、横にいる圭織を見あげた。
圭織は巨大な弓をかつぎ、背中には長い矢を50本も背負ってる。
何を思ったか、その中の1本をとり、圭織は弓を引きはじめた。
圭織が取った矢は鏑矢であったため、放つと唸りをあげて飛んでゆく。
「きゃー」
たいした音でもないのに、梨華はひとみに抱きつく。
紗耶香と真希は、手をつないで圭織を振りかえった。
2組4人に見つめられた圭織は、薄笑いをうかべている。
圭織が笑っているのは、かなり機嫌が悪い証拠だった。
「いちゃつくんじゃねーっての」
平安京から1里(約4キロ)ほど歩くと、
ようやく山間から朝日が顔をのぞかせた。
このまま何もなく、順調にゆけば、
昼すぎには丹波に入ることができるだろう。
今回は特に急ぎの旅でもあることだし、
最低でも1日に10里(約40キロ)は歩かないといけない。
それでも長門まで、16日近くはかかってしまうのだった。
「いいじゃん。別に」
真里になだめられ、圭織は薄笑いを浮かべながら舌打ちをした。
長門国府で落合う予定の裕子と貴子たちは、馬だから楽である。
馬であれば、山陽道を長門までゆくのに、10日もあれば充分だった。
- 354 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:40
- 丹波国分寺までは、平安京から11里(約44キロ)もあった。
かなりの早歩きでも、着くのは夜になってしまうだろう。
国府はさらに4里(約16キロ)も奥にあるので、
いくらとなりの国とはいえ、平安京から2日の距離だった。
「いちーちゃん、やっと丹波に入ったよ」
予定通り昼すぎに、娘たちは丹波に入っていた。
残り国分寺まで5里(約20キロ)となったので、
誰もが嬉しそうにしている。
秋とはいえ、晴れた日の昼間は暑くなるものだ。
紗耶香は顔の汗を、持っていた手拭いで押さえる。
それでも峠さえ越してしまえば、歩くのも楽になった。
「ねえ、真希は何で紗耶香のことを『いちーちゃん』って呼ぶの? 」
圭織は前から気になっていたことを聞いてみた。
たしかに真希は、紗耶香を『いちーちゃん』と呼んでいる。
おそらくは『市井ちゃん』なのだろうが、
年下が年上を呼ぶ呼び方ではなかった。
「『市井のおねえちゃん』が縮まったの」
幼なじみであるため、真希はどうしても、こう呼んでしまうのだろう。
それは舌足らずな幼女にありがちな、ごくあたりまえのことだった。
真希は18歳になったというのに、その呼び方を変えようとはしない。
幼いころからあこがれていた、紗耶香への愛情のひとつだった。
- 355 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:41
- 「梨華ちゃんは、何で『よっすぃー』なの? 」
こんどは真里が聞いてみる。
いきなり風が吹いて枯れ葉を舞い上がらせ、
梨華はそれを手で払いながら理由を話した。
「吉澤の『吉』を呼びやすくしたのぉ」
そんなところだろうとは思ったが『いちーちゃん』にくらべると、
あまりにもくだらないことで、真里は「それだけかよ」とつっこんでみた。
梨華は真里のつっこみに、苦笑することしかできなかった。
この真里のつっこみに対応できるようになれば、梨華も一人前なのだが。
「それはそうと、お腹がすかない? 」
紗耶香が聞くと、全員が肯定するようにうなずいた。
もう6里(約24キロ)も歩きっぱなしであるため、
誰もが空腹とノドの渇きを感じていたのである。
ここまでくれば、あとは平坦な道が続くので、
歩き方しだいで時間をかせぐことができた。
「それじゃ、少しだけ休んで、ごはんにしちゃおうか」
紗耶香の意見に反対する者などいない。
涼しげな水場を見つけた娘たちは、そこで休憩することにした。
清らかな水が染みだすこの場所は、まるで別世界のようである。
ここに集まる生き物は、みんな命を維持するための水を欲していた。
- 356 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:41
- 「白米のオニギリだ! 」
真希は包みを開け、中から大きなオニギリを取りだした。
紗耶香は下女に命じて、オニギリを作らせていたのである。
紗耶香や圭織にとっては、白米など珍しくもなかったが、
ほかの4人にしてみれば、それはたいへんなご馳走だった。
塩味だけのオニギリに、漬物が少しだけという質素な昼食。
6人の娘たちは空腹からか、夢中になって食べていた。
「わァァァァァァァァァーん! 」
そのとき、目の前を3人の少女が泣きながら走っていった。
何ごとかと思った娘たちが、あたりを見ていると、
その後を4人の山賊が、好色な顔をして追いかけてくる。
どうやら、少女たちは山賊に追われているらしかった。
山賊は娘たちに気づくと、少女を追うことをやめてしまう。
3人の少女よりも、6人の娘のほうがいいと思ったのだ。
「えへへへ―――こいつはイイな。娘が6人か」
「うへへへ―――こいつは上玉だぜ」
紗耶香はオニギリを食べながら、真希にアゴで指示した。
どうやら真希に山賊を追いはらえということらしい。
しかし、おいしいオニギリを食べている真希は首を振った。
すると、紗耶香は動こうとしない真希をにらみながら、
こんどは屈強なひとみにアゴで指示をだす。
ひとみも断ろうかと思ったが、どうも紗耶香にはさからえない。
- 357 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:42
- 「しょーがねーな。梨華ちゃん、食べないでよ」
ひとみはオニギリを置くと、指についた米粒を食べながら、
立てかけてあった槍を持って山賊たちに手招きをした。
山賊たちは何ごとかと、ひとみの後をついていったが、
すぐに話がついて5人で戻ってきたのだった。
「オイ、治療費でもくれてやんな」
紗耶香が見ると、ボコボコにされた山賊が立っていた。
山賊が4人ていどであったら、ひとみは素手でもよかったが、
中には意外に強いのもいるので、念のために槍を持ったのである。
しかし、やはり槍を使うことはなかった。
「すいません。治療代だけはらっていただければ」
ひとみにヤキをいれられた山賊たちは、驚くほど腰が低くなっていた。
何しろ、ひとみだけでも、まるで歯がたたなかったのである。
全員が本気で怒ったりしたら、まちがいなく殺されると思ったのだ。
紗耶香は面倒くさそうに荷物袋から金子をだすと、山賊たちに放り投げた。
「あははは―――ありがとうございましたー! 」
山賊たちは金子を懐にねじこむと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
元近衛兵のひとみであれば、山賊4人などワケもなかったのである。
ひとみは当たり前のように座り、またオニギリを食べはじめた。
そこへやってきたのが、山賊たちに追われていた娘たちだった。
- 358 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:43
- 「危ないところを、ありがとうなのれす」
「アアン? おめーは希美じゃねーか」
ひとみは舌足らずの少女を見て、すぐに希美だと分った。
だが、ほかの2人には、だれも見覚えがない。
丹波が弱小山賊の巣窟なのは、3歳の子供でも知っている。
こんな危険な場所に少女が2人だけでいるのは、
どう考えてもふしぎなことだった。
「ののは、あいぼんを説得するのれす」
希美は愛の死体を発見し、そのまま平安京まで行った。
しかし、検非違使に追いだされてしまい、
亜依を探して山陰道にやってきたのだった。
そして運悪く山賊に追いかけられ、
逃げていった先に少女たちもいたのである。
少女たちは希美といっしょに逃げだしたのだ。
「あんたたちは何をしてたの? 」
真希の質問に、2人はしどろもどろになってしまう。
いよいよ怪しい少女たちだと思いはじめたとき、
コロコロした娘が走ってくるではないか。
それはまちがいなく、安倍晴明の長女のなつみだった。
「いたァァァァァァァー! なっちも仲間にしてほしいべさァァァァァァァー! 」
「げっ! ブタ姫じゃねーか! 」
なつみは家出の件で父親の晴明に叱られ、
また家を飛びだしてきたのである。
こんどこそ晴明も本気で怒り、なつみを勘当したのだった。
そんな状況であるから、なつみには娘たちが必要だった。
娘たちにしてみれば、かなり迷惑な話ではあったが、
何しろワガママで強引ななつみである。
同行を断らせるようなことはしなかった。
- 359 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:44
- 「なっちもいっしょに行っていいっしょ? いいっしょ? 」
「でも―――」
「だめなんだべか? だめなんだべか? どうなんだべさアアン! 」
強引ななつみの前に、紗耶香は断ることができなかった。
仲間が多いのはいいことだし、晴明の娘であれば、
ワガママななつみでも、少しは使いものになるだろう。
あまり頭はよさそうにないが、仲間に加えることにした。
「あれ? さゆみに麗奈じゃないべか? 何してるんだべさ」
なつみが現れ、いよいよ正体が分ってしまった2人は、
どうしたらよいか分らなくなってしまった。
2人は彩の手下見習いであり、娘たちを待ち伏せしていたのである。
2人が考えたのが落とし穴作戦だったが、何しろ見習いであるため、
穴を掘っている途中で、山賊に追いかけられることになってしまった。
「おめーの知り合いか? 」
「うん、なっちと麻美を監禁してた子たちだべさ」
なつみ姉妹を監禁していたのだから、2人は敵なのである。
しかし、どう見ても敵としては役不足だった。
娘たちは困り果てて、2人の処遇を考えはじめた。
たった4人の山賊に逃げだした2人であるから、
放っておいても、まったく心配はいらないだろう。
- 360 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:45
- 「この子たちを殺しちゃったら、オイラたちが悪者になっちゃうよ」
「そーだねえ。圭織的には、どうでもいいかなって感じ」
「こいつらもよ。待ち伏せに失敗したんだから、帰れねーんじゃねーの? 」
「放っておきましょうよぉ。弱い子供なんだからぁ」
娘たちが協議していると、さゆみと麗奈は現代っ子ぶりを発揮する。
なつみや希美といっしょに、食べかけのオニギリを食べてしまった。
娘たちの協議が長びくと、安心したのか居眠りを始めるしまつだ。
娘たちの協議が終わると、希美だけが指をくわえて座っており、
なつみとさゆみ、麗奈の3人は、イビキをかいて眠っていた。
「かわいい! 希美ちゃんっていうの? オニギリ食べた? 」
圭織は希美を気にいったようで、泣きそうな顔で抱きしめた。
彼女が泣きそうな顔になっているということは、
とても嬉しいという証拠である。
まったく、むずかしい圭織だった。
「ああっ! オレのオニギリ! てめー、起きろゴルァ! 」
「うふっ、あたしってかわいい」
さゆみは寝ぼけて、普段から思っていることを口にした。
まあ、十人並みの娘ではあるが、自分ではかわいいと思っているのだろう。
あまり、かわいげがないのが麗奈で、眠いところを起こされて舌打ちをする。
自分の欲求に素直であるところは、やはり現代っ子なのだろう。
- 361 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:46
- 「オニギリ食べちゃまずかったんすかー? 」
ひとみはオニギリを食べられてしまい、激怒していた。
子供がやったことだからと、梨華になだめられても、
ひとみの怒りは鎮まることを知らなかった。
槍をつかんで、2人を追いまわしたのである。
これには現代っ子もびびりまくり、ついに逃げだしていった。
「くそっ! こんどみつけたら、タダじゃおかねえ」
まだ怒りがおさまらないひとみは、はやばやと出発の準備をはじめる。
結果的に2人を追いはらうことができたので、紗耶香は満足していた。
全員が出発する準備ができても、なつみは草の上でイビキをかいている。
早朝から起きて娘たちのあとをついてくるから、こんなところで寝てしまうのだ。
「紗耶香、この家畜はどうするの? 」
希美の手をひいた圭織は、熟睡するなつみを見ながら言った。
とりあえず、仲間にすることを決めた紗耶香だったが、
何しろなつみのワガママぶりは有名である。
できれば、このまま先に行ってしまいたかった。
「先に行っちゃおうか」
「待つべさ」
熟睡しているとばかり思ったなつみは、どういうわけか起きていたのだった。
なつみは憤慨しながらも、娘たちといっしょに出かけることにする。
こうして8人の娘たちは、午後の日差しの中、丹波国分寺へ向かっていった。
- 362 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:47
- 《国分寺に宿泊》
なつみと希美が加わり、一行は8人となった。
見習いの刺客が現れたりして時間を費やしてしまい、
丹波国分寺に到着したのは、日没からしばらくしたころだった。
寺というのはおもしろいもので、持参した米や金が多いほど、
宿泊者の待遇がよくなってゆくのである。
娘たちは8人で5升の米と漬物、砂金を手渡していたので、
その待遇は貴族なみになっていた。
「ふー、いい湯でしたぁ」
梨華がもどってくると、圭織と希美が風呂に向かった。
娘たちは大きな部屋をひとつと、寝室を4個あてがわれている。
娘たちが丹波国分寺に到着直後から雨が降りだし、
窓の外では石畳を打つ雨音が聞こえていた。
やがて、寺の屋根から雨水が落ち、水たまりを形成してゆく。
そこへ落ちる水の音が、楽器のように聞こえていた。
「明日は雨みてーだな」
雨の中を旅するのは、そろそろきつい季節になってきた。
しかし、長門の国府で山陽道をくる裕子・貴子と待ち合わすため、
冷たい雨だからといって逗留することはできない。
笠をかぶり蓑をまとって、少しでも前進しなくてはならなかった。
般若湯を飲んで上機嫌なひとみは、規則的な雨音を楽しんでいる。
梨華は障子を開け、真っ暗な中を降りしきる雨をながめていた。
- 363 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:47
- 「間もなく夕餉となります。こちらにお持ちいたしましょうか? 」
かわいらしい小坊主がやってきて、娘たちに食事場所を聞いた。
食堂で食べてもよかったが、あまり若い僧に近づくのはよくない。
修行の身に女の色香は、もっとも避けるべきものだったからだ。
それでなくとも、若い娘が8人も同じ屋根の下で寝ることになる。
いくら修行の身であっても、煩悩が首をもたげてしまう可能性があったのだ。
「そうしてください」
紗耶香が微笑みながら、かわいらしい小坊主に告げる。
小坊主は深く頭を下げると、梨華を見てため息をつき、厨房へ歩いていった。
彼はまだ優しい母親に抱かれ、父親といっしょに風呂に入る年ごろである。
そんな幼い少年が寺に預けられているのは、きっと何かワケがあるにちがいない。
いつの時代でも、子供は大人の都合で悲しい思いをするのだった。
「真希、圭織さんたちが出てきたら、いっしょに入っちゃおうね」
風呂は紗耶香と真希以外、全員がすんでしまっている。
もうじき食事となるので、のんびり入っているヒマはなかった。
そういった意味で言ったのだが、真希は何をカンちがいしたのか、
頬を赤らめてモジモジしはじめてしまったのである。
「何かカンちがいしてない? 」
紗耶香に指摘され、真希は困ってしまった。
つい、紗耶香に求められると思ってしまったのである。
真里はあきれた顔で真希を見ていたが、
紗耶香は優しく微笑むだけだった。
- 364 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:48
- 風呂というと全裸で入るものだと思われがちだが、
日本式の湯浴みは、薄い着物を着て入るものだった。
そのときに着るものが、浴衣と呼ばれるようになったのである。
浴衣を着て入浴し、手ぬぐいやヘチマで垢をこするのが湯浴みだった。
「背中、こすってあげる」
真希は手ぬぐいで紗耶香の背中をこすりだした。
紗耶香の背中は柔らかく、とても白かった。
真希は紗耶香の背中に頬をつけると、
手を前にまわして形のよい胸をつかむ。
紗耶香は真希の手を軽くたたいた。
「こら、寝るまでガマンしなさい」
「はーい」
湯屋の壁にあいた穴には、じつに数十の目があった。
若い僧たちは鼻血をだしながら、外から壁にはりつき、
娘たちの湯浴みをのぞいていたのである。
こんなに若い娘たちが寺に泊まることはメッタにない。
だからこそ、若い僧たちは命がけでノゾキをしたのだった。
「温まったら出ようか」
抱きあって湯船につかる2人を見て、若い僧は体を『く』の字に曲げた。
2人が湯船の中で唇を合わせると、ガマンしきれずに暴発してしまう僧もいる。
ノゾキはいけないことだが、若い僧も健康な男という証拠だった。
- 365 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:49
- 紗耶香と真希が風呂からあがってくると、すでに部屋には食事が運ばれていた。
オカユにカボチャと豆の煮物、山菜の漬物と塩味のすまし汁が夕餉である。
圭織はこれに岩魚の焼き物があればいいと思ったが、寺で魚肉は禁制品だった。
2人が席につくと食事が始まったのだが、質素な食事になつみが怒りだした。
「これだけ? ふざけんじゃないべさァァァァァァァァー! 」
このていどのもので、なつみの食欲を癒すことはできない。
だいいち、オカユなどでは、すぐに腹がへってしまうのだ。
真里は「しょーがねーな」と言いながら、なつみの茶碗に、
持ってきた『秘薬』をパラパラと入れてみる。
なつみはフリカケか何かだと思い、一気に掻きこんでしまった。
「へえ、おいしいね。何を入れたんだべか? 」
「こいつ。ハチの子だよ」
真里は包みを開け、中から蠢くハチの子をつまみあげた。
ハチの子は蜂蜜を食べているので、どこか甘くてホロ苦い。
この当時としては、貴重なタンパク源だったのである。
しかし、生まれてから虫など食べたことがないなつみは、
全身に鳥肌がたって悲鳴をあげてしまった。
「ギエェェェェェェェェェェェー! 」
なつみは大の字に倒れ、そのまま動かなくなってしまった。
当時、ふつうにハチの子を食べる真里やひとみにとっては、
何でなつみが気を失ったか分らなかったのである。
低い身分の者とすれば、ハチの子こそがご馳走だった。
- 366 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:50
- 旅の疲れもあったせいか、娘たちは早めに床についた。
紗耶香と真希、圭織と希美、ひとみと梨華、なつみと真里が同室である。
早めに床についたものの、なつみは空腹で眠れたものではなかった。
さらに、同室の真里も、なつみの腹が鳴って、眠れたものではない。
「おなかすいたべさ―――」
「うっせーんだよ! 早く寝ろゴルァ! 」
どういうわけか、なつみと真里は、すぐに仲良くなってしまった。
自分でも背が低いと思っていたなつみだったが、真里の方がさらに小さい。
なつみはそんな真里のことが、かわいくなったのかもしれない。
それは、どこかオモチャに似た感覚のようだった。
「おなかすいたべさ! こうなったら、あんたを食べてやるぞ〜 」
「キャアァァァァァァァァァー! 」
本気でおびえる真里は、逃げだそうとして足をつかまれた。
とにかく、真里は怖くてしかたない。
本気で腹をすかせたなつみであれば、
ほんとうに食べてしまうかもしれないと思ったのだ。
「あははは―――かわいいべさ」
なつみを真里を抱きしめて頬ずりをする。
陰陽師の娘が人を食べたりするわけがない。
冷静に考えれば、そのくらいはすぐに分るものだ。
本気でおびえた自分が恥ずかしくなる真里だった。
(お―――女の子っていいな! )
なつみと真里の部屋をのぞいていた若い僧たちは、
激しく萌えながら、深くため息をついていた。
- 367 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:51
- そのとなりの部屋にいるのが、圭織と希美だった。
希美は部屋が暗いと怖いらしく、小さな灯りがついている。
圭織はすでに布団に入って目を閉じていたが、
希美は何度も寝返りをうっていたのだった。
「圭織しゃん、もう寝たんれすか? 」
「なあに? 」
圭織は目を開けて、となりの布団の中の希美を見つめた。
希美は今にも泣きそうな顔をしながら、何やら訴えているようだ。
その顔がどういった意味であるのか、圭織は察知してしまう。
圭織は布団をめくり、笑顔で希美を呼んだ。
「いいよ。おいで」
「うん」
希美は嬉しそうに微笑みながら、圭織の布団へと入ってゆく。
見るからに幼い希美は、誰かと肌を接していたかったのだ。
子供というものは、自分を庇護する人間を本能的に察知する。
そして無条件に身を預けるのだから、頼られた方はかわいくて仕方ない。
「ののは夜がきらいなのれす」
そう言いながら、希美は圭織に抱きつき、胸に顔をうずめた。
そんな希美の頭をなでる圭織は、自分も癒されていることを感じた。
(うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉー! 俺も顔をうずめてー! )
2人の部屋をのぞいていた若い僧たちは、希美がうらやましくて仕方ない。
仏門に入った以上は、女性との接触が厳禁となってしまう。
柔らかい女の胸に顔をうずめることこそ、彼らの至上の夢だった。
- 368 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:52
- 般若湯で気分がよくなったひとみは、梨華よりも先に眠ってしまった。
梨華が髪をとかしていると、廊下に小さな影が映るではないか。
梨華はその影が、食事を知らせにきた小坊主だと直感した。
「なあに? 何か用があるのぉ? 」
梨華が障子を開けると、小坊主がうずくまって泣いている。
その声を殺して泣く姿は、梨華の心に残ってしまうようだった。
梨華も尼寺にいたころは、よくいじめられて泣いていた。
「どうして泣いてるのぉ? 」
「―――おかあさん―――おかあさんに逢いたい―――」
小坊主は梨華の大きな胸を見て、別れた母を思いだしたらしい。
こんな幼い子が寺に預けられるというのは、それなりの事情があるのだろう。
梨華にも優しい母がいた。しかし、その母も彼女が幼いころに死んでしまった。
梨華も母に逢いたいとは思うが、それは叶わないことだった。
「かわいそうに。おいでぇ」
梨華は小坊主を優しく抱いてやった。
小坊主は梨華に抱かれながら、無意識に彼女の胸をさわる。
梨華は「こらぁ」と言いながらも、小坊主を容認していた。
(くそっ! 俺もあと15歳若ければ)
ひとみと梨華の部屋をのぞいていた若い僧は、
歯ぎしりしながら自分の年齢を口惜しがった。
大きな梨華の胸は、男なら年齢にかかわらず、
ぜひともさわってみたいものにちがいない。
- 369 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:54
- 若い僧が床下から天井裏にいたるまでいてのぞいていたのが、
やはり、紗耶香と真希の部屋だった。
女同士であるとはいえ、互いに体を求めあう姿は、
若い僧の性的興奮を充分に刺激していたのである。
部屋の中は暗くて、目を凝らしても見ることはできない。
しかし、押し殺した泣き声のような喘ぎが聞こえてきていた。
「いちーちゃん―――すごい」
「真希、大人の体になったね」
2人が興奮してゆくと、若い僧たちの呼吸も荒くなってゆく。
秋だというのに2人の部屋は、異様な暑さになっていた。
それは2人の体温ばかりでなく、僧たちの熱い息も影響している。
煩悩を克服するには、まだまだ修行が足りないようだった。
「若いのう」
70代の住職は、若い僧たちののぞきを、見て見ぬふりをしていた。
罰則を含めた指導をしたところで、修行に身がはいるとは限らない。
若いからこその欲求を阻止するのは、決してよいことではなかった。
ようするに、本人たちの自覚が必要だったのである。
住職は寛容というより、自主性を尊重していたのだ。
(ううう―――菩薩さまじゃ。弁天さまじゃ)
若い僧たちは念仏を唱えながら果てていった。
人を救済する立場になる僧たちの卵を癒す2人は、
とてもありがたい生き仏だったのかもしれない。
- 370 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:55
- 翌朝、若い僧たちは、全員が睡眠不足で目を充血させていた。
そんなことには脇目もふらず、なつみはおのれの食欲を満たすため、
ものすごい速さで朝食の雑炊を食べている。
希美がおかわりしたときには、すでに5杯目の雑炊を食べていた。
「雨かよー、嫌だなー」
窓の外を見た真里がため息をつくと、
なつみはうなずきながら6杯目のおかわりをした。
雨の日の朝は起きづらいものだが、
空腹だったなつみは日の出前から起きている。
マクラを抱いて熟睡中の真里を起こし、
なつみは頭にコブをつくっていた。
「よく食う家畜だなオイ! 」
「誰が家畜だべさ! 」
ひとみに家畜呼ばわりされ、なつみはにらみつけた。
塩味の玄米雑炊は、ほとんどが水分であるため、
かなり満腹になるまで食べても太ることはない。
そのかわり、すぐに腹が減ってしまうものだった。
「みんな、笠と蓑は持ってるよね? 」
紗耶香は『愚痴』や『斜禰瑠』の笠と蓑を娘たちに持たせていた。
ところが、着の身着のままで飛びだしてきたなつみは、
雨の多い季節だというのに、雨具など持っていなかったのである。
そこで例の小坊主を呼び、余っている蓑と笠をわけてもらうことにした。
- 371 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:55
- 「今はこれしかありません」
小坊主は古い蓑と笠を持ってきた。
ところが、なつみはそれが気にいらない。
みんな高級な蓑と笠だというのに、
自分だけが中古の安物だからだ。
「なっちも『斜禰瑠』の笠が欲しいべさ! 」
「ぜいたく言うんじゃねーよ! この偶蹄目が! 」
あまりのワガママに、ひとみが怒鳴り声をあげた。
そんなことが悲しい梨華は、自分の持っていた『愚痴』の笠をなつみに渡す。
『愚痴』の笠をもらったなつみは、とても満足していたのだが、
これには温厚な紗耶香もブチキレてしまった。
「いいかげんにしなよ! もう子供じゃないんでしょう? 」
「オイラだって『美貴破臼』でガマンしてんだぞ! 」
「オレのなんか『部安』だぜ」
生まれたときから大人気陰陽師の娘ということで、
なつみはとにかく甘やかされて育ってきた。
ワガママを言うことが、なつみの日常だったのである。
それを頭から否定されてしまったのだから、
なつみのショックは大きかった。
- 372 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:56
- 「そ―――そうなんだべか? ワガママだべか? 」
なつみは悲しそうな顔をしながら梨華に『愚痴』の笠を返した。
ところが、いくらワガママでも、なつみが悲しそうな顔をすると、
どういうわけか、一気に場が暗くなってしまう。
全員がため息をついたあと、持っていた笠をなつみにさしだした。
「いいんだべか? いいんだべね? ね? 」
なつみは嬉しそうに、紗耶香がさしだした『斜禰瑠』をとった。
おかしなもので、悲しげな顔のなつみに笑顔がもどると、
外で降っている秋の冷たい雨も、気にならなくなりそうだ。
ワガママで意地汚いなつみだったが、その笑顔は見る者を幸せにする。
どこか、ふしぎな力を持つなつみだった。
「さあ、支度をしてでかけよう」
紗耶香の号令で、全員がでかける準備にとりかかる。
荷物を背負い、住職や僧たちに礼を言うと、
娘たちは雨の中を出かけようとした。
すると、例の小坊主が走ってきた。
「おねえちゃん、これ、持っていきなよ」
すっかり梨華に慣れた小坊主は、3合あまりの干し飯をくれたのだ。
干し飯とは水につけておくと、即席のオカユになる保存食で、
時間がない場合は、水を飲みながら、そのまま食べることもできる。
当時、旅をする者の食糧は、干し飯が多かったらしい。
「また、帰りに寄ってくれるでしょう? 」
「うん、約束するよぉ」
梨華が優しく微笑むと、小坊主は嬉しそうに笑顔でうなずいた。
梨華は生まれて初めて、自分を必要とされたのである。
できれば、この寺にとどまっていたかったが、
目的があるので、そういうわけにはいかなかった。
「おみやげ、持ってくるからねぇ」
梨華は小坊主の頭をなでると、雨の中を出発したのだった。
- 373 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:57
- 《丹後国府攻防戦》
丹後国府に寄ろうと言いだしたのは、国司の娘である圭織だった。
丹波から丹後国府へゆくと、少しばかり遠回りになってしまう。
しかし、圭織はもう少し彼女専用の長い矢が欲しかったし、
それを持たせるために、美貴を同行させようと思っていたのだ。
「雨だと山賊がいなくていいね」
真希は山賊に会うのを嫌っていた。
とにかく臭かったし、好色な目に鳥肌がたつ。
山賊も雨がふれば、あまり行動しようとしない。
なぜなら、雨が降ると交通量が減るからだ。
雨の中を旅する者は、とにかく急いでいる。
そんな者は、あまり高価なものなど持っていない。
「夏とちがって、暑くねーのがいいな」
秋の雨は寒さを感じるものだが、夏の不快な雨よりはいい。
歩いていれば体は温まるし、汗をかかずにすむからだ。
ところが、一人だけびっしょりと汗をかいている者がいる。
それは、汗をかきやすい体をしているなつみだった。
これだけの体をしていれば、少し動いただけで汗をかいてしまう。
「なっちは暑いべさ」
ここ数日、なつみは以前の半分も食べていない。
失神したり父親とケンカしたりで、食べる機会がなかったのである。
このままいけば、この旅は彼女の減量にもなるだろう。
- 374 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:58
- 「圭織しゃん、あれ」
希美ははるか彼方に、一筋の煙を発見した。
どうやら、それは国府の方角のようである。
こんな遠くから見えるのだから、朝餉の煙ではないだろう。
そうなると、丹後国府に非常事態が起きていることになる。
難攻不落の場所ではあったが、敵は魔物を召喚するのだ。
「紗耶香! 国府が危ないかも」
圭織が指摘すると、今度は真里が青くなった。
何しろ丹後国府には、絵里と子供たちがいるのだ。
そう簡単に攻め落とされる地形ではないが、
敵の背後を突けば、一気に駆逐できるだろう。
ここは、とにかく急行するのが先決だ。
「紗耶香! 急いで! 急いでよ! 」
真里は血相をかえながら、国府に向かって走っていった。
すると、梨華が走りだし、ひとみと圭織も続いた。
希美と真希、紗耶香が走りだすと、なつみがとり残される。
体が重いなつみは、ほかの娘のように走りだせない。
「早く呪いを解いてもらうべさ」
見当ちがいなことを言うと、なつみはゆっくり走りだした。
少しだけ小降りになった雨が、なつみの顔に当たり、
彼女は「うわっ」と言いながら笠に手をやる。
ほとんど足もとだけを見ながら、なつみは紗耶香の背中を追っていった。
- 375 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 18:59
- この雨降りに丹後国府を攻撃していたのは、
娘たちに2度も煮え湯を飲まされた寺田だった。
寺田は魔物を召喚しており、国府を皆殺しにするつもりである。
ここに絵里たちがいるのを知っての攻撃であり、
少しでも娘たちを、精神的に追いこんでゆく作戦だった。
「国司さま! 奥へ! 」
圭織の父である飯田丹後守は、魔物の攻撃を受けて負傷していた。
いくら50人の精鋭たちでも、相手が魔物では勝ち目はない。
4体の魔物を斃そうと討ってでたものの、逆襲されてしまった。
すでに死傷者は20人におよんでおり、国府が全滅するのも時間の問題だった。
「櫓は死守しましょう! ここが落ちれば終わりです! 」
美貴は正面の櫓に、7人の兵といっしょにいた。
ここから弓で魔物の動きを止めようというのだ。
魔物は動きが遅いので、弓の標的になるだろう。
しかし、相手は強靭な肉体を持っているので、
どこまで通用するか分らなかった。
「準備はいいぞ! 」
櫓の下には、3人の槍を持った兵がいる。
魔物が櫓に気をとられたところで、足を攻撃しようというのだ。
いくら強靭な魔物であっても、足をやられては動けなくなる。
相手は4体もいるので、どこまで通用する作戦か分らない。
それでも、このまま魔物に殺されるのを待つより、
ここは何らかの作戦を行った方がいいだろう。
- 376 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:00
- 「美貴どの、これがありったけの矢です」
若い兵が50本ほどの矢を持ってきた。
美貴はこの矢で、魔物の目を狙うつもりだ。
目を潰されては、魔物でも見えなくなってしまう。
そこで足を攻撃すれば、魔物を斃すことも可能だった。
「やってきた! みなの衆、がんばりましょう! 」
美貴はそう言うと、魔物の顔面めがけて矢を射った。
顔面に矢を射るとは誰も思いつかなかっただろう。
魔物は左目を負傷し、その場にうずくまってしまった。
「動きが止まったわ! 」
美貴が叫ぶと、ほかの兵も後続の魔物の顔面に矢をあびせる。
さすがに、先頭がやられてしまったので、後続は手で顔を保護した。
間髪いれずに槍の3人組が飛びだし、先頭の魔物の足を突く。
槍は魔物のヒザの下に突き刺さり、恐ろしい悲鳴がひびいた。
たしかな手ごたえを感じた槍兵は、ときの声をあげて喜ぶ。
「やったぞー! 」
魔物は足を突かれ、とうとうひっくり返ってしまう。
しかし、3人の槍兵は後続の魔物に叩きつぶされてしまった。
美貴は必死で魔物に矢を放つが、硬い皮膚を貫くことができない。
身の丈、3間(約5.4メートル)もある魔物は、
目の前にある櫓をにらみつけた。
- 377 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:00
- 「美貴どの! 危ない! 」
櫓の兵が叫んだ直後、魔物は手から熱線を放出した。
美貴は矢をつがえたまま、全身が燃えてゆくのを感じる。
熱が脳に伝わるまでの短い時間で、美貴は死を感じていた。
痛みより衝撃、苦しみより絶望が彼女に襲いかかる。
それは恐怖ではなく、無念の思いが全てだった。
(こんなところで死ぬの? 圭織さま、涅槃で待っていますよ)
美貴がいた櫓は紅蓮の炎につつまれていた。
中にいた人間は、誰ひとりとして脱出できない。
ただでさえ少ない兵士が10人も死んでしまった。
もう、武器をとって戦える兵は20人になっている。
今は櫓が燃えているので、さすがの魔物も近づけないが、
崩れてしまえば、国府内に侵入してくるのは確実だった。
「何か手はないのか」
国司は負傷した手を握りしめ、焼け落ちる櫓を見つめていた。
国を守るのが国司の仕事だから、闘って死ぬのは怖くない。
だが、ここには何の罪もない女子供が何人もいるのだ。
自分たちが死ねば、女子供も惨殺されるのはまちがいない。
せめて子供だけでも救うことはできないか、彼は考えていた。
せめてもの救いは、愛娘の圭織がいないことである。
国司として闘う以上、最後まで踏みとどまらなければならない。
圭織がここにいたとしたら、美貴と同じことになっていただろう。
娘の最期を見とどけるなど、親としてはもっとも辛いことなのだ。
- 378 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:01
- 秋の雨は、いっこうにやむ気配すらなく、
夏のあいだに暖められた大地を冷却していた。
丹後の国府は、なだらかな丘の上にあるため、
けっして洪水になるようなことはない。
しかし、この丘から流れ落ちる雨水は、
濁流となって低地へと向かっている。
その濁流がいくらか赤く見えるのは、
死傷者の血が混ざっているからなのだろうか。
「あれは何じゃー! 」
そのとき、雨模様の空に、巨大な影が現れたではないか。
全員が空を見あげて、その正体を確かめようとする。
それが新たな敵であれば、もう勝負は決まったも同じだ。
しかし、その影は動きが速く、誰も確認することができなかった。
「遅いよ! 」
絵里が空を見あげながら、嬉しそうに叫んだ。
陥落寸前の丹後国府に飛来したのは、
全国指名手配中の『チーちゃん』だった。
この危機に『チーちゃん』を呼ぼうと、
絵里と子供たちが念を送っていたのである。
『チーちゃん』が来れば、最悪は子供だけでも脱出させられる。
だが、みんなと家族のように暮らしてきた『チーちゃん』は、
必死の念を感じ、みんなを救うため国府まで飛んできたのだった。
- 379 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:02
- 「おおっ! 魔物が! 」
『チーちゃん』は魔物に体当たりをした。
油断していた魔物は、地響きをたてて倒れてしまう。
これだけきれいに決まってしまったら、
この魔物はしばらく起きあがれない。
「あたしが囮になって1体を牽制します! その間に全力でほかの魔物を! 」
絵里は『チーちゃん』に魔物1体をまかせ、もう1体を引き離すのだという。
国司たちは倒れている2体の魔物に、トドメをさすのである。
うまくいけば、一気に魔物2体を斃すことができる作戦だった。
国司は渡りに舟とばかりに、絵里の作戦を快諾した。
「チーちゃん、そいつをお願い! 」
絵里は『チーちゃん』に指示をだすと、巨大な魔物の足もとに飛びだした。
魔物には殺戮の本能しかないので、足もとの絵里を踏み潰そうとする。
ところが、絵里は真里ゆずりのすばしっこさで、魔物の足もとを駆けぬけた。
亡き美帆には曲芸を教えられ、絵里は真里とともに身軽な動きができる。
凶暴な魔物を牽制できるのは、絵里以外にいなかった。
「こっちだよ。この、うすのろ! 」
絵里に挑発され、魔物は怒って熱線を放出する。
それも間一髪、絵里は側転しながらよけていた。
熱線をかわされ、地団駄踏んで口惜しがる魔物に、
絵里は真里からあずかった手榴弾を投げつける。
こうなったら、意地でも絵里を殺そうと、
魔物は彼女を追いかけはじめた。
- 380 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:02
- 「今じゃ! つづけー! 」
国司は負傷をおして、槍を片手に飛びだしていった。
兵たちも国司に続き、倒れている魔物に槍を突きたてる。
美貴に目をつぶされた魔物は、苦しまぎれに2人の兵を握りつぶすが、
ほかの兵に急所を突かれ、断末魔の悲鳴をあげて動かなくなった。
その横では『チーちゃん』と魔物の死闘が展開されている。
互いに血まみれになりながら、どちらかが息絶えるまで続く。
「次はこの魔物じゃ! 」
「おのれ! 美貴どのの仇! 」
屈強な兵が背中を強打して動けない魔物に槍を突き刺すと、
国司が馬上から三叉の矛で急所を突いた。
魔物は腹を刺され、大量の血を吐きながら絶命する。
美貴の仇を討ち、兵たちは彼女の無念を晴らした。
しかし、彼らのできることはここまでである。
絵里を追いかける魔物へは、手をだすことすらできなかった。
「絵里どのぉぉぉぉぉぉぉぉー! 」
絵里は魔物に追いかけられ、息をきらせていた。
人間の体力では、魔物の果てしない力についてゆけない。
すでに絵里の体力は、限界に達していたのである。
心臓が爆発しそうになり、脳に運ばれる大量の血液が、
音をたてて耳のそばを流れていた。
彼女に聞こえるのは、地面を打つ雨の音と、
この血液が流れる音だけだった。
- 381 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:03
- 「真里ねえさん―――」
絵里は魔物の攻撃をかわし、左に移動しようとした。
ところが、疲労のため、足がもつれて転んでしまったのである。
彼女は慌てて立ちあがるが、その際、ふくらはぎの靭帯を痛めてしまった。
これまでは余裕をもって魔物の攻撃をかわしていたが、
絵里は飛びこまなくてよけることができなくなってしまった。
「しまった! 」
絵里が尻もちをついたとき、魔物はコブシの軌道を修正していた。
一表俵くらいの大きなコブシが、絵里の頭上にせまっている。
彼女がこの一撃をよけるには、あまりにも時間がなさすぎた。
「ねえさん! 」
絵里が身をかたくしたとき、一本の光る矢が飛来した。
その矢は殺気をおびた魔物の肩に突き刺さるが、
それは残念ながら、絵里を即死させるのと同時だった。
- 382 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:04
- 《妹の死》
雨の中を真っ先にやってきたのは、圭織と真里だった。
圭織にはここに親と妹同然の美貴がいるし、
真里にも妹の絵里や、いっしょに住んでいた家族がいる。
何があっても、助けなければいけないという使命があった。
破魔矢を射る圭織は、阿修羅のごとき顔で魔物をにらむ。
「この魔物どもがァァァァァァァァー! 」
息をきらせて圭織と真里が駆けつけたころには、
すでに国府は落ちる寸前で、半分以上が死んでしまっていた。
圭織の破魔矢が刺さった魔物は、その痛みに悲鳴をあげる。
彼女の放つ破魔矢は、魔物の硬い皮膚をつき破ってしまう。
急所に命中さえすれば、魔物でも即死するだけの威力がある。
圭織は魔物を見つめ、薄笑いをうかべていた。
「圭織さんが怒ってるのれす」
むずかしいクセを知った希美は、圭織が激怒しているのを察知した。
圭織が怒ったときは、けっして怖い顔にはならず、なぜか笑うのである。
これだけ怒っている圭織を見るのは、誰もが初めてのことだった。
「絵里! 絵里ー! 」
真里は魔物など目にはいらず、即死した絵里のもとへ走っていった。
このままでは真里が危険なので、圭織は次の破魔矢を手にとる。
しかし、彼女の前に小柄な女が現れ、指をふって牽制した。
圭織の前に出てきたのは、ニッコリと微笑むなつみだった。
- 383 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:05
- 「こんな魔物なんか、すぐに消してやるべさ。あんたは国司さまのところへ」
なつみは圭織が心配しているので、この場を引きうけることにした。
ワガママで自分勝手ななつみだったが、こういうときには頼りになる。
圭織は少しだけ考えたが、後続の紗耶香たちも到着したので、
とりあえず国府内へ行ってみることにした。
「そう、あんたは陰陽師の娘だもんね。―――まかせたよ! 」
圭織はそう言うと、弓をかかえて国府の中へと入っていった。
泣きながら走ってくる真里を殺そうと、魔物は身構がまえている。
そんな魔物を見たなつみは、腹式呼吸を始めていた。
魔物を消す呪文は、大きな声で言わなくてはならない。
「呪! 陽! 鬼! 陰! 魔鬼退散! 」
なつみが印をきると、2体の魔物が消滅した。
さすがに、平安京きっての陰陽師の娘だけはある。
父親で平安京きっての陰陽師、安倍晴明も認めたなつみの力は、
激太りした外見とはちがって、けっして衰えることはなかった。
「なっちの腕は落ちてないべさ。うふふふ―――」
2体の魔物を一瞬のうちに消滅させ、
寺田の魔物召喚能力を封印したなつみは、
自分の技に酔いしれていた。
- 384 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:06
- 魔物と一進一退の死闘を演じていた『チーちゃん』は、
傷だらけになっており、その場に昏倒してしまう。
ひとみが駆けよって抱き上げるが、『チーちゃん』は、
生気のない目を開けて彼女をみつめた。
「しっかりしろよ! 梨華ちゃんもいるぞ! 」
「あの〜、やっぱり、あたしも行かなきゃだめぇ? 」
鳥が苦手な梨華は『チーちゃん』が怖くて仕方ない。
べつに襲われるわけでもなかったが、苦手は苦手なのである。
瀕死の『チーちゃん』にも近寄ろうとしない梨華に、
ついにひとみが怒鳴った。
「来てやれよ! ここまで闘ったんだぞゴルァ! 」
そんなひとみを見ていたなつみは『チーちゃん』の思いを知る。
ひとみに対する競争心と友情、そして梨華に対する純愛。
この怪鳥の前世は、まちがいなく人間だった。
もう、『チーちゃん』には死相が見えていた。
「人間の声で話させてやるべさ」
なつみは『チーちゃん』にかんたんな呪文をかけ、
そのまま国府内へと入っていった。
唖然としてなつみを見るひとみの横に、
とうとう梨華が恐る恐るやってくる。
ここまで鳥が怖いというのは、
きっと恐ろしい幼児体験があるのだろう。
- 385 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:06
- 「やられちまったよ。あははは―――もうダメだな」
「そんな弱気なこと言うんじゃね―――ってオイ! 人間の言葉になってるぞ」
おどろいたことに『チーちゃん』は人間の言葉で話せるようになっていた。
巨大な鳥が人間の言葉を話すとなると、かなり怖いことではあったが、
梨華はどういうわけか、かえって親近感をもってしまったのである。
ひとみはあきれながらも『チーちゃん』の頭を抱き上げた。
「チーちゃん、がんばったねぇ」
「しっかりしろ! この鳥! 」
ひとみはライバルが死の淵にいるのが悲しくて仕方ない。
本気で殴り合い、意地を賭けたケンカをした相手である。
たかが鳥ではあったが、ひとみは友情を感じていた。
梨華は『チーちゃん』の近くにやってくると、
傷だらけの顔を優しくなでてやる。
『チーちゃん』は嬉しそうに梨華を見あげながら、
泣きそうな顔のひとみへ話しかけた。
「おめーとは、本気で殴りあったよな」
「しゃべるんじゃねーよ! 今、血を止めてやるからな」
ひとみは持っていた手ぬぐいで『チーちゃん』の傷をおさえた。
しかし、魔物の強烈な一撃は『チーちゃん』の骨まで達している。
ひとみがいくら血を止めようと思っても、けっして止まらなかった。
家族のように育った子供たちを救うため『チーちゃん』は命を投げだした。
- 386 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:07
- 「チーちゃん、死んじゃダメだよぉ」
梨華が羽をにぎると『チーちゃん』は嬉しそうにうなずく。
大好きな梨華に逢えただけでも、幸せだったのかもしれない。
『チーちゃん』は梨華の顔を見ながら、死が迫ってくるのを感じた。
けっして怖くはなかったが、とても残念な気持ちでいっぱいだった。
「梨華ちゃんを―――泣かせるんじゃねーぞ」
『チーちゃん』はひとみの肩をたたいた。
その翼での一撃に、ひとみは鼻血をだしたくらいである。
だが、その力は悲しくなるくらい弱いものだった。
「たのむ。死なねーでくれよ。なあ、鳥」
ひとみにも『チーちゃん』の死が見えてきた。
ガマンしきれずに、ひとみは涙をこぼしてしまう。
その涙に反応するように『チーちゃん』は急激に弱っていった。
もう、何も見えないし聞こえない状態で、
『チーちゃん』は梨華に最期の言葉を伝えた。
「梨華ちゃん、好きだよ。―――梨華ちゃん―――ぐふっ! 」
「死ぬな! 死ぬんじゃねえよ! 鳥ー! 」
『チーちゃん』は愛する梨華の顔を見つめながら、
苦しそうに唸ると、ついにこときれてしまった。
梨華は『チーちゃん』のために般若心経を唱える。
梨華に一目ぼれした『チーちゃん』の最期だった。
- 387 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:08
- 国府内には死傷者ばかりだった。
圭織を見ると、兵たちは安心したように声をあげる。
弓の名手がもどってきたのだから、何よりも心強いのだ。
死者は女たちが庭に並べ、負傷者は子供たちが手当てをしていた。
「ねえ、おとうさんと美貴は? 」
「国司さまはご無事です。―――美貴どのは―――」
圭織は言葉につまる兵の表情から、美貴が死んだことを悟る。
一人娘の圭織にとって、美貴は仲のよい友だちであり妹だった。
そんな美貴が死んだとは、考えたくなかったのだが、
それはまぎれもない事実だった。
「圭織! 」
右手を負傷した父の国司がやってきて、
美貴の壮絶な最期を話して聞かせた。
その話を、圭織は怒りに震えながら聞いていた。
希美がやってきて、圭織の手をにぎりながら見あげる。
圭織の震えは、希美にも伝わってきた。
「よい娘だったのに―――残念じゃ」
国司は美貴を守れなかった自分が情けないようだ。
だが、相手が魔物では、仕方のないことだろう。
圭織の頬を涙がつたうと、希美も泣きだしてしまった。
圭織は弓を地面に叩きつけ、「美貴! 」と叫んだ。
- 388 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:09
- 「このくらいの傷でさわぐんじゃないべさ。ほいっと」
なつみは次々にケガ人を治療してゆく。
彼女の力を使えば、瀕死の者でも全快してしまう。
ただし、すでに死んでしまった者や、
死相が見えている者までは助けることができない。
頭が割れ、脳が見えているような重傷者でも、
なつみが手を触れると、すぐに傷口がふさがり、
元気になって飛び起きてしまうのだった。
「何でこんなことができるワケ? 」
負傷者の介護をしていた真希は、目を丸くしてなつみに聞いた。
なつみは陰陽師の娘というだけではなく、特殊な力を持っている。
おそらく、気を集中して治療するものと思われたが、
自分自身でも、よくは分っていなかった。
「何でだろう。―――よく分んないべさ」
あまり頭のよくないなつみは、そう言ってニッコリ笑った。
そんななつみの笑顔を見て、回復した者は心が癒される。
重傷を負った者は、体と同時に心にも傷を負っていた。
そういった心の傷まで癒すなつみは、まさに天使のようだった。
「あのワガママ女がねえ―――」
紗耶香もなつみの力におどろき、同時に感心していた。
問題を起こすのではないかと心配していた紗耶香だったが、
このなつみの力は、ぜったいに必要になると確信した。
- 389 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:10
- 「国司さまも、ほいっと」
国司の手は骨が見えるほどの重傷だったが、
なつみが指を当てただけで全快してしまう。
このなつみの力に、国府にいた全員が驚いていた。
女たちはなつみに手を合わせ、生き仏として感謝する。
そんな女たちの前で、なつみは嬉しそうにケガ人を治していった。
「―――つかれたべさ」
なつみは土間に座りこみ、ため息をついてしまった。
やはり、気を集中するので、つかれてしまうのだろう。
しかし、今はなつみの力だけが頼りなのだ。
「まだケガ人がおります。お願いします」
文官はなつみを抱き起こし、治療を続けるように懇願した。
なつみは今朝こそ満腹になるまで食べたものの、
昨晩はほとんど何も食べていないのである。
だから、少し気を使っただけでつかれてしまったのだ。
「だったら、おいしいものを食べさせてくれるべか? 」
なつみは交換条件に『丹後の海の幸をたらふく』を提示する。
これに対し、国府の文官は『マツタケごはん』も添付した。
なつみは大喜びで、ケガをしていたネコまで治療してゆく。
その食に対する執念は、恐ろしいほどだった。
- 390 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:10
- 魔物を斃された寺田は、疲労困憊した国司を殺そうと、
1間半の槍を持って国府に突入してきた。
雨が降りしきる中、寺田の形相は鬼のそれに近い。
止めに入った兵は、あっけなく寺田に斃されてしまった。
「死ねやゴルァ! 」
国司に突きかかった寺田の前に立ちはだかったのは、
蓑と笠を脱ぎ捨てた紗耶香と真希だった。
真希が背中に背負った野太刀を引きぬくと、
紗耶香は腰に差した太刀をぬいて構える。
寺田は強敵だったが、ぜったいに敵わない相手ではない。
「真希、今日こそ決着をつけるわよ! 」
3人のまわりを生き残った兵たちが囲む。
だが、誰も手出しすることはできなかった。
手出ししたことが吉となればよいのだが、
紗耶香と真希のじゃまになってしまうかもしれない。
そう思うと、ただ見守ることしかできなかった。
「うん、やっつけちゃおうよ」
真希の野太刀であれば、寺田を真っ二つにできるだろう。
しかし、寺田は剣豪なみの使い手であるため、
生半可なことでは勝つことなどムリだった。
紗耶香は間合いをつめながら、寺田の隙をうかがっている。
寺田の一撃目を受けられれば、真希が斬りかかれるだろう。
- 391 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:11
- 「この娘どもが! 今日こそ地獄に送ったるわ」
寺田にしても、うかつに紗耶香に攻撃をしかけられない。
一撃で紗耶香を斃さないと、真希の太刀を受けることになる。
寺田の持つ薄い刃の太刀では、それごと体を真っ二つにされるだろう。
そうならないためには、まず紗耶香を殺すしかなかった。
紗耶香を斬って返す刀で、真希を斬るしかないのである。
真希が使う重い野太刀では、俊敏な動きができなかった。
「真希! 油断するんじゃないよ! 」
寺田は魔物を召喚する邪法を使うので、
ちょっとした油断が命とりになってしまう。
紗耶香と真希の呼吸がズレてもいけない。
寺田はそこにつけこんでくるはずだからだ。
「圭織しゃん、動かないれすね」
「動かないんじゃないの。動けないのよ」
圭織の言うとおり、互いに隙をうかがっているので、
寺田と紗耶香は動くに動けない状態だったのである。
どちらかが少しでも動いたとき、それが隙になるだろう。
雨が2人の髪をぬらし、アゴから水滴が落ちていった。
互いの呼吸だけが、一定の速度で聞こえてくる。
この呼吸が乱れたときこそ、斬りかかるには絶好だ。
わずかに呼吸が乱れただけでも、一瞬だけ遅れがでる。
そのわずかな時間が、生死を分けるのだった。
- 392 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:12
- 「今や! 」
最初に動いたのは寺田だった。
紗耶香と真希の呼吸が合わなくなっている。
そのわずかな隙をついたつもりだった。
「な―――何ィ? 」
寺田が動いた瞬間、真希は上段から中段に構えを変えた。
紗耶香が寺田の一撃目を、自慢の剣でかわしてしまう。
その直後、真希は叩き斬るのではなく、突いてきたのだった。
寺田の脇腹に、真希の野太刀が深く刺さった。
「とちゅうで構え変えるなんてアリかよ」
真希が野太刀を引きぬくと、傷口から血と内臓がふきだした。
寺田は内臓を体の中へもどそうとしたが、やがて力が抜けて倒れてしまう。
失政を理由に解任されたことを恨み、彩の手下になった寺田は、
ここで自分の命が終わりを告げることを感じていた。
「真希、トドメを」
「待って! 」
紗耶香の声をさえぎるように叫んだのは、
全身打撲で死んだ絵里を背負った真里だった。
血はつながっていなくとも、真里にとって絵里は妹だった。
その絵里が冷たい躯になってしまったのである。
絵里を亡くした悲しみと寺田に対する憎しみは、
何にもたとえようがないほど痛烈なものだった。
- 393 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:12
- 「絵里ちゃん! 」
真希が真里の背中の絵里をみるが、すでにこときれていた。
真里はくちびるを震わせながら、憎い寺田を見下ろしている。
紗耶香には、真里がトドメをさすことを止めた理由が分った。
真里はいくら殺しても殺したりない寺田に、引導をわたそうというのだ。
「真里さん、絵里ちゃんの無念を」
紗耶香は絵里の死体を受けとりながら真里に言った。
寺田を殺したところで、絵里はもどってこない。
そんなことは分っていたが、どうしても寺田だけは、
自分の手で殺したい真里だった。
「絵里とチーちゃんの仇だよ。この鬼! 」
真里は手榴弾を寺田の脇腹に開いた傷に押しこんだ。
内臓が飛びだしてしまった腹の中には、手榴弾が3発も入る。
寺田は苦痛に唸るが、もはや抵抗するだけの力などなかった。
「は―――早く殺せや」
「おまえは肉片になって四散しろ。オイラから何もかも奪いやがって」
真里は手榴弾の導火線に火をつけた。
それを見た紗耶香と真希が、周囲の者を後退させる。
ここは国府の広い庭だったが、手榴弾が3発では、
かなりの破壊力があったからだ。
真里が離れると、寺田の腹の中の手榴弾が爆発した。
- 394 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/05(日) 19:13
- 「おおっ! 」
真里が言ったとおり、寺田の体は肉片となって飛散した。
出世をするため悪政をしき、その野望が頓挫すると彩につく。
そんな寺田も、ここにその生涯を閉じたのだった。
「―――絵里」
真里は絵里の亡骸を抱きしめ、しばらく泣くことしかできない。
そんな真里のそばを離れなかったのが、なつみだった。
なつみは真里の悲痛な思いを感じ、共有していたのである。
そんななつみに、ようすを見ていた真希が話しかけた。
「真里さんの心の傷を治してあげなよ」
「なっちでも、心までは治せないべさ」
なつみは悲痛な声で泣く、真里の背中をなでることしかできない。
いくら特殊な力があるとはいえ、人の心の傷を治すことは、
神仏でないかぎりできないといってよいだろう。
真里の泣き声に刺激されたように、雨が激しさを増していった。
- 395 名前:名無し弟 投稿日:2003/10/05(日) 19:21
- 今回はここまでです。更新は、また週末になりそうです。
次回で第三章は終わりの予定ですが、第四章の途中でスレの容量いっぱいになりそうです。
まだ終わりが見えてこないので、次スレをたてることになると思います。
こんな展開だったら、空板か海板ではじめるべきでした。もうしわけありません。
- 396 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:40
- 《葬送》
雨がやんだのは、夜になってからだった。
ズブ濡れの娘たちは、交代で風呂に入って体を温めた。
そうでもしないと、低体温症で命が危なくなるからである。
かたときも絵里の死体から離れない真里を、なつみは強引に入浴させた。
「絵里が―――絵里が淋しがってるよ」
真里は湯船の中で、泣きながらなつみに訴える。
そんな真里を、首まで湯につかったなつみは、
そばに引き寄せて優しく諭した。
「絵里ちゃんはかわいそうだったべさ。だけど―――」
「だけど? 」
「真里は生きてるっしょ? 」
誰でも身内が死ねば悲しくなる。
それこそ、食べものもノドを通らないほどだ。
しかし、残された者が悲しみにくれていると、
死んだ者は成仏できなくなってしまう。
あまりに引き止める念が強いと、
ほんとうにそうなってしまうと言われている。
なつみは真里に、そういった話をしてやった。
そんな話では、悲しみを克服することはできない。
でも、乗りこえるキッカケにはなるだろう。
- 397 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:41
- 「だから、あんまり悲しむのは、死んだ人によくないべさ」
そんな話をしていた2人のところへ乱入してきたのは、
岩屋で真里といっしょに暮らしていた、家族ともいえる子供たちだった。
いきなり子供たちが乱入してきたので、なつみはおどろいて溺れかける。
そんななつみを尻目に、子供たちは真里に抱きついていった。
「真里ねーちゃん、元気だしてよ」
「もう、真里ねーちゃんだけなんだよ」
絵里と『チーちゃん』を亡くし、いちばん悲しいのは子供たちである。
そんな子供たちが泣くのをやめ、大好きな真里をはげましているのだ。
真里はそれに気づき、悲しみにくれていた自分の甘さを思い知る。
この子たちが自分を必要とするかぎり、何があっても泣くわけにはいかない。
そのことを知った真里は、ここでひとまわり成長したのだった。
「うん。もうだいじょうぶだよ。オイラは」
真里は笑顔をつくりながら、子供たちを抱きしめた。
子供たちが大喜びで湯船に飛びこんだため、
湯につかっていたなつみは、はじきだされてしまう。
なつみは苦笑しながら、洗い場のスノコに座りこんだ。
「子供には勝てないべさ」
どんな慰めの言葉も、純真な子供には勝つことができない。
真里と絵里は、優しい子供たちに育てていたのだった。
人を思いやることができる子供。それは絵里の遺志でもあった。
- 398 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:42
- 生き残った者は、なつみの力によって傷が全快したので、
とりあえず、不眠不休の作業にとりかかった。
壊された塀や櫓を解体し、新しい木材で修復してゆく。
幸運なことに、国府の建物自体は無傷だったので、
修復作業は思ったよりも順調に進んでいた。
「紗耶香、死んだ人は荼毘に付すけどいいよね」
圭織は死者を火葬にするという。
たしかに、死んだ者は体の損傷がひどいし、
埋葬用の桶も足りないありさまだった。
とくに、櫓で焼け死んだ美貴たちなどは、
遺髪すら手に入らない状態である。
火葬にするのは当然の処置だった。
「真里さんの承諾があればね」
縁側に座った圭織の横には、希美が寄りそっている。
希美もまた、妹同然の美貴を亡くしてしまった圭織に、
元気を取りもどしてもらいたかったのだった。
そんな希美がいじらしく、紗耶香は彼女の頭をなでた。
「真希は? 」
「寝てる。どこでも寝る子だから」
真希がよく寝る娘であるのは圭織も知っていた。
真希は寝て元気になり、寝て体や心を治していたのである。
それを、もっともよく知っているのは、やはり紗耶香だった。
- 399 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:43
- 大活躍して死んだ『チーちゃん』を悲しんでいたのが、
次から次へと酒を飲むひとみと梨華だった。
辛い闘いだったが、いちおうは勝利したので、
国府の女たちは祝賀の宴会を用意している。
そんな広間の片すみで、2人は浴びるほど飲んでいた。
「鳥! 死ぬなんて―――ばかやろう」
「チーちゃん、最期に告ってくれたよぅ」
そんな2人のところへ、栗と鮑、昆布が運ばれてくる。
ひとみは酔っているせいか、栗を鮑の殻で打ち割った。
これが発端となって、出陣の際、三方に盛る肴が、
勝栗・打鮑・喜昆布となったのである。
ちなみにこれは『勝って打って喜ぶ』にかけたものだった。
「鳥の焼き物を運びましょうか? 」
一人の女房(女中)が、ひとみに声をかけた。
しかし、今日だけは鳥の料理など禁制品である。
この無神経な言葉に、ひとみは膳をひっくり返して激怒した。
「ざけんじゃねえ! 鳥の焼き物なんか出すんじぇねーぞゴルァ! 」
ひとみが激怒すると、女房は悲鳴をあげて逃げていった。
女房には酷な話だったが、ひとみの気持ちを逆なでしたのである。
散らかったものを拾いながら、梨華は涙をこぼしていた。
いくら鳥とはいえ、本気で梨華を好きになってくれたのである。
最期に告るなどとは、じつに憎い死にざまだった。
- 400 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:44
- 翌朝、犠牲者たちの葬儀が行われた。
こういったときに、尼である梨華は重宝される。
さらに、かの有名な安倍晴明の娘がいるというので、
国府内には付近の村人まで集まってきた。
「観自在菩薩―――」
秋晴れの国府の庭では、死体のまわりに薪が積まれ、
荼毘に臥す葬儀がはじまっていた。
梨華がお経をあげる中、希美はとなりにいるなつみに、
どうしても気になっていたことを聞いてみた。
「なっちしゃん、安倍晴明さまの子供って、ほんとうなんれすか? 」
「そうだけど? 」
なつみは数珠を持ち、梨華の声に合わせ、般若心経を唱えようとしていた。
この時代は神仏混合が進んだ時代でもあり、どちらかといえば神官系の、
陰陽師の娘であるなつみでも、有名なお経くらいは知っていたのである。
仏教の法力と神教の霊力が合わさり、それが陰陽師の力となっていた。
「安倍晴明さまは、寛弘2年(1005)に亡くなったのれす」
「それは、曾おじいちゃんだべさ」
陰陽師安倍家では『晴明』の名を世襲することになっていた。
よって、なつみの父は3代目安倍晴明ということになる。
安倍晴明は85歳で死亡したとされており、じっさいには、
本家晴明の父と、いっしょに考えられていたのだった。
- 401 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:44
- 「でも、ののちゃんには、ほんとうのことを教えてあげるべさ」
なつみは希美がタイクツしていると思い、馬場の陰に連れていった。
晴天のわりに涼しい日だったが、馬場は馬の体温で温まっている。
馬場の外に置かれている干草に座ると、朝日に顔が照らされてゆく。
そんな中、なつみは信じられない話をはじめた。
「ののちゃんは、なんで人が歳をとるのか知ってるべか? 」
成長が終わった人間の場合は、細胞の再生能力が落ちるからだ。
それが老化ということなのであるが、希美に分るわけもない。
希美は少しだけ考えて、自分に分る問題ではないので首をふった。
希美だけでなく、当時の人にしてみれば、そんなことが分るわけもない。
「人っていうのは、体の中に時間がすぎてゆくのを知るものを持ってるの」
ようするに体内時計のことなのだが、希美に理解できるわけもない。
多少のズレはあっても、人の体内時計は暦といっしょなのである。
だからこそ、年齢に応じた顔や体になってゆくのだ。
再生能力が落ちた皮膚は硬くなり、それがシワの原因である。
しかし、まだ16歳の希美にしてみれば、どうでもいいことだった。
「でもね。なっちは人の4倍もかけて歳をとるんだべさ」
人の4倍もかけて歳をとってゆくということは、
なつみはまだ5歳ということになる。
いくらなんでも、そんなことを信じられるわけがない。
なつみはどう見ても、二十歳をすぎている。
わずか5歳の子供とは、体も顔もちがっていた。
- 402 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:45
- 「だから、なっちは88歳なのよ」
「88歳はおばあさんなのれす」
希美に理論的な話をしたところでムダだった。
彼女には3歳の子供でも分るように言わないと、
まったく話が通じなかったのである。
しかし、なつみもまた、頭が悪かった。
「安倍晴明は3代目って言ってるけど、ほんとうはひとりしかいないんだべさ」
なつみの話が真実なら、晴明は200歳ということになる。
平安京へ遷都したのが延暦13年(794)だから、
それから20年後に晴明が誕生したというのだ。
なつみは晴明が嵯峨天皇の御落胤だという。
だが、天皇家の血筋であるならば、
なぜ、こんな特異体質になってしまったのか。
それというのも、嵯峨天皇が手をつけたのは、
なんと、八百比丘尼だというのだ。
「やおびくに? 」
「そうだべさ。おばあちゃんは16のときに人魚の肉を食べて、不老不死になったの」
安倍家の体内時計が人の4倍も遅いというのは、
八百比丘尼が母親であるとすれば納得がゆく。
もちろん、八百比丘尼という名は彼女の死後、
その数奇な運命から命名されたものである。
八百比丘尼は800歳まで生きたというのだから、
この時代もどこかで元気に生きていた。
- 403 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:46
- 「なーんてね。ののちゃんは、今の話をどう思うべか?」
「作り話なのれすか? 」
単純な思考回路しか持たない希美は、すべて真実だと思っていた。
素直といえばそれまでだが、希美の場合は、人を疑うことを知らない。
からかわれたと思った希美は、泣きそうな顔でなつみを見た。
「さあね」
『あったりまえだべさ! 』という答えがあると思っていたのに、
どういったわけか、なつみは曖昧な返事しかしなかった。
希美には、もしかしたら―――という思いこそあったが、
88年もの人生経験を積んだにしては、頭の悪いなつみだった。
- 404 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:46
- 梨華のお経は、そろそろ佳境にさしかかっていた。
なつみと希美ももどってきて、再び葬儀に参列する。
尼寺で育った真里は、唯一知ってるお経の般若心経を唱えていた。
ちなみに、日本仏教に欠くことのできない般若心経とは、
かの有名な三蔵法師玄奘が天竺から伝えた、ありがたいお経である。
「南無阿弥陀仏―――」
梨華が念仏を唱えるようになると、全員が頭をさげて死者の冥福を祈る。
まだまだ駆けだし中の尼である梨華は、あまりお経をおぼえていなかった。
そこで、般若心経など有名どころを唱え、あとは念仏でごまかしたのである。
それでも、きれいな袈裟を着た梨華が木魚を叩きながら仏前に座ると、
それなりに見えてしまうから不思議なものだった。
「お焼香が終わった方は、荼毘の用意をおねがいします」
梨華は生まれてから、葬儀などしたことがない。
それでも落ちついて指示をすると、その通りに人が動いた。
当時の尼の仕事は、法力で死者を成仏させることではなく、
残された人の精神的な介護が主だったのである。
つまり、生きている者が満足すれば、それでよかったのだ。
「それでは、これで葬儀のお経を終わりにします」
梨華はお経を終えると、荼毘の火を持つ者の前に立った。
そこで、少しばかりのお説教をするのである。
あの臆病な梨華がお説教するというのだから、
なつみなどはおかしくてたまらない。
- 405 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:47
- 「戦で亡くなるというのは突然のことで―――」
梨華はもっともらしい話をするのだが、
なつみと希美は笑いをこらえるので必死だ。
タイクツな話に、真希は立ったまま眠っていたし、
紗耶香もボーッとしながら聞いている。
それでも女中たちの中には、すすり泣く声が聞こえた。
「まだ仏さまのもとへ行けない方には、先人の供養をする義務が―――」
ついに希美が吹きだし、しゃがみこんでしまった。
これには近くにいた文官たちが、泣いていると勘ちがいする。
希美の笑いを殺す声が、泣いているように聞こえたのだ。
そう思った文官たちは、涙をこぼしはじめたのだった。
(笑うんじゃないべさ! )
(おかしいんらもん)
(不謹慎だべ―――プッ! ククククク―――)
2人がしゃがんで笑いはじめると、あちこちから泣き声が聞こえてくる。
腹筋がケイレンするほど笑いを押し殺し、2人は涙目になっていた。
その顔が、ハタから見れば本気で泣いたと思われるのだった。
「それでは、点火をおねがいします」
梨華が合図すると、火を持った男たちが薪に火を放つ。
昨日の雨で湿っている薪は、なかなか燃え上がらなかった。
だが、いちど火がつくと、木は瞬く間に大きくなってゆく。
廃材をくべて火を大きくすると、参列者たちは国府内へと移動した。
- 406 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:47
- 「もお! どうして笑うのよぅ! 」
梨華はお説教のときに、なつみと希美が笑ったのを見逃さなかった。
葬儀のお説教は尼僧として、最高に輝ける舞台なのである。
そんなときに笑う2人を、梨華が怒るのもムリはないだろう。
しかし、いじめられっ子の梨華が怒ったところで、怖くもなんともない。
「おかしいから笑ったんらー! モンクあるかゴルァ! 」
希美に逆ギレされ、梨華はベソをかいてしまう。
考えてみればこの3人は、とても大切な役目を持っていた。
なつみは真里を、梨華はひとみを、希美は圭織を慰めなくてはいけない。
そして、一刻も早く大宰府へ行かねばならないのだ。
「圭織さん、構わないからもう一晩泊まって」
紗耶香は圭織と希美、真里となつみを、もう一泊させるつもりだった。
これだけ死人がでたのだから、圭織にもやることがあるだろう。
また、妹が死んだ真里に、あまりムリは言いたくなかったのである。
ひとみも悲しんではいたが、ここはガマンしてもらうことにした。
「ありがとう。それじゃ、出雲国府で待ってて」
裕子と貴子は、山陽道を西へ向かっている。
紗耶香たちと合流するの場所は長門国府に決めていた。
今回、二手に分かれたのは、彩の手下を掃討するためである。
山陰道には見習い刺客や寺田など、多くの仕掛けがされていた。
ところが、山陽道は気味悪いくらいに静かであり、
何の仕掛けもかけられていなかったのだった。
- 407 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:48
- 「うん。それじゃ、あたしと真希、ひとみと梨華の4人は出発するよ」
襲撃された国府へは、周辺の荘園から次々に援助物資が到着している。
その援助物資で再び兵を雇い、丹後一国を守護するのだ。
死んでいった兵たちは忘れ去られるが、それが国司の仕事なのである。
荼毘に臥す火が消えるまで、国府は多忙を極めることになった。
「ぜったいに忘れねえぜ。鳥」
ひとみは『チーちゃん』から遺髪ならぬ遺羽根を切りとっていた。
それを懐に入れ、お守りとして使うことにしたのである。
そんなひとみをかばうように、梨華が優しく寄り添う。
こうして4人は、一足早く丹後国府を出発したのだった。
- 408 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:48
- 《復讐の果てに》
亜依はひとみの行程を知り、但馬・丹後国境近くの山陰道にいた。
予定でゆくと今日の昼すぎに、この場所をひとみが通るはずだ。
山陰道から少し入った場所にあるお堂で、彼女は待ち伏せの用意をはじめる。
髪には米の粉を塗って白くし、糊を顔に塗ってシワをつくっていた。
仕込み杖の刃で映してみると、どこから見ても老婆にしか見えなかった。
「これでええわ」
亜依はお堂の屋根裏に荷物をかくし、山陰道にでると、
道ばたの切り株に座って、ひとみが通るのを待っていた。
どこから見ても、地元の汚らしい老婆であるため、
山賊っぽい男が通っても、まるで無視されている。
山賊に身ぐるみを剥された男が助けを求めるものの、
亜依はボケ老人を装っていた。
(ひとみだけは、絶対に許さへん)
亜依は極貧の家庭に育った。
彼女の父親は暴力的な男で、酒を飲んでは亜依と母親に暴力をふるったのである。
働きもせず、毎日のように酒を飲んで暴れる男が亜依の父親だった。
そんな悪魔のような父親が、彼女が10歳のときに死んだのである。
酒に酔って転んだのが死因とされていたが、亜依はその瞬間を目撃していた。
夜おそくに帰った父と、亜依と寝ていた母が、土間で口論になっていた。
亜依は寝たふりをしながら、一部始終を見ていたのである。
逆上した母が、つけ物石で父の頭を殴るところを。
- 409 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:49
- (もう、貧乏なんてイヤなんや)
着るものにはツギがあり、いつも腹をすかせていた。
栄養失調から成長がとまってしまい、15歳になっても背は低いままである。
そんな家庭だったので、オモチャなど買ってもらったことがない。
コマや羽子板で遊ぶ子供たちを、彼女は遠くからながめているだけだった。
(絶対に幸せになったるんや! )
亜依は9歳のころ、鬼畜の父に売られそうになった。
彼女の父親は酒ほしさに、自分の娘を売ろうとしたのである。
間一髪、村の人に助けられたが、亜依の心に負った傷は深かった。
当時、娘を売る親など、そう珍しいものではなかった。
(金さえあれば、幸せになれるで)
亜依は金持ちになるためには、手段など選ばなかった。
すべては貧困が原因で、彼女は不幸になっていたのである。
少なくとも、彼女にはそう思えた。
(そんなうちの夢を、ひとみは水の泡にしたんや)
亜依は金さえあれば、幸せになれると信じていた。
腹いっぱい、おいしいものが食べられことが、
彼女にとって、金持ちの基準だったのである。
それほど亜依は、いつでも腹をすかせていた。
もう食べられないほど食べたとしても、
彼女は悲しくなるほど空腹だったのである。
亜依がひもじかったのは、腹ではなく心だった。
- 410 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:50
- 待つこと半日、すでに秋の夕暮れが近づいていた。
昨日までの雨がウソのように、きれいな夕焼けがでている。
赤い夕日の中を、カラスが巣に帰るところだった。
(これさえあれば、ひとみを地獄におくってやれるわ)
亜依は毒薬を塗った仕込み杖を握りしめた。
ここから但馬国府までは、まだ10里もある。
この時刻になっても現れないということは、
このまま、待ち伏せをしてもムダだった。
どうやら、本日は誰も現れないようである。
こんな中途半端な時刻にここを通れば、
但馬国府に着くのは深夜になってしまう。
(昨日は雨やったし、遅れとるんやろ)
亜依が立ちあがってお堂に向かおうとしたとき、
遠くから4人の若い女が歩いてくるではないか。
彼女が目をこらすと、その中にはまちがいなくひとみがいた。
(き―――来おったで。どどどどど―――どないしよう)
いざ、ひとみが現れると、亜依は動転してしまった。
亜依はひとみを憎むことを、生きる力にしていたのである。
本気で復讐しようというより、ひとみを追いかけることが、
人生の目標を見失った亜依のできることだった。
亜依は慌てて切り株に座りなおし、ひとみが来るのを待つ。
もともと殺意などないので、ひとみを殺すことなどできない。
悪態をついて逃げだし、またひとみを追うことになるだろう。
- 411 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:50
- 「ほんとうだったらぁ。この奥にお堂があるのよぉ」
このつくったような高い声は、亜依にも聞きおぼえがある。
ひとみを詰問したとき、仲裁に入った尼だった。
どうやら4人は、亜依の荷物があるお堂をめざしているようだ。
「先客がいたら終わりじゃねーか」
「の―――野宿もオツなものよぉ」
娘たちが近くまで来ると、亜依には見なれない顔がいる。
上品そうな娘と、どこか魚に似た顔をしている娘だ。
亜依はひとみを凝視している。男前の娘だ。
「何だよ、ばーさん。オレの顔に何かついてるか? 」
ひとみが視線を感じ、老婆に化けた亜依に聞いてみる。
横にいた梨華は、老婆に気づき、ニッコリと微笑んだ。
誰にでも節操なく、愛想をふりまくのが梨華である。
幼いころには無垢なかわいさがあるものの、
18歳ともなれば、あまり好ましいことではなかった。
「このあたりに、お堂があるというのですが、そんなものがあるんですか? 」
紗耶香は亜依が地元の老婆だと思いこみ、気軽に話しかけてきた。
亜依にしてみれば、そんなことを聞かれたところで困ってしまう。
たしかにお堂はあるが、そこには自分の荷物を隠してあるのだ。
4人に泊まられたら、荷物の回収ができなくなってしまう。
どうしたらよいか考えていると、真希が紗耶香に言った。
- 412 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:51
- 「耳が遠いんじゃないの? 」
「そっか。お・ば・あ・ちゃ・ん! こ・の・あ・た・り・に!
お・ど・う・な・ん・て・あ・り・ま・す・か? 」
紗耶香が耳もとで大きな声をだしたものだから、
亜依は鼓膜が痛み、耳鳴りがしてしまう。
耳が遠いと勝手に解釈してくれたのはよいが、
彼女は耳の痛みで悲鳴をあげてしまった。
「おどろかせてわりーな。ばーさん」
粗野な言葉に、亜依はひとみを睨みつけた。
その目を見たひとみは、おどろいて硬直してしまう。
この憎しみに満ちた目は、どこかで見た目だった。
しかし、それが亜依の目だということは、
どうしても思いだすことができなかった。
(ひとみや―――こいつを殺したら―――どうなるんやろ)
目的を達成したとき、相応の充実感があるのか。
新たな目標を見つけるために、苦しむのではないか。
人を殺してしまった罪悪感に、苛まれるのではないか。
すべてが終わって、自分が廃人になってしまうのではないか。
(どないしたらええんやろ)
亜依はひとみを殺すために待っていたが、
殺人をするなど、怖くて仕方がなかった。
できれば、このまま逃げだしてしまいたい。
- 413 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:51
- 「よっすぃー、どうしたのぉ? 」
梨華が硬直したひとみを心配した。
これを見て、亜依は自分の正体が分ってしまったと思いこんでしまう。
亜依は恐ろしくなってしまい、反射的に仕込み杖をひとみに向けた。
「こここここ―――ここで逢ったが百年目! 」
亜依の声を聞き、ひとみはまったく動けない。
ミカを死なせてしまったという罪悪感を、
彼女は乗りこえられなかったのである。
ほかの3人は何が何だか分らなかったが、
亜依が仕込み杖でひとみに突きかかると、
紗耶香が阻止しようとつきとばした。
「あうっ! 」
決して軽くはないが、小柄な亜依は転んでしまい、
仕込み杖の刃で自分の足を傷つけてしまった。
亜依は自分の傷を見ると、泣きながら血を搾りだす。
これに気づいた紗耶香が、仕込み杖を調べてみた。
「これは! 」
刃先についた血が、みるみる変色してゆくではないか。
それは、かなり強力な毒薬である証拠だった。
亜依の傷は、ほんとうにたいしたことはない。
だが、その傷口は、ドス黒く変色をはじめていた。
- 414 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:52
- 「り―――梨華ちゃん! 毒消しをだしてくれ! 」
ひとみは慌てて亜依を抱き起こした。
懐剣で亜依の傷口を広げ、血で毒を洗い流す。
ところが、亜依の容態は、みるみる悪化していった。
「毒消し! 早くしろ! 」
ひとみは梨華から毒消しを受けとると、包みを開けて亜依に飲ませ、
もう一袋の毒消しを傷口にこすりつけた。
トリカブトくらいの毒であれば、これで助かるはずである。
しかし、仕込み杖に塗られた毒は、こんなものでは効かなかった。
「―――もうええんや」
亜依は猛毒が全身にまわり、助からないことを知った。
おかしなもので、死が近づくと、素直な気持ちになれる。
殺そうとした相手を、ひとみは必死に助けようとしていた。
やはり、ひとみは悪いヤツではない。亜依はそれが分ったのだ。
「よくねえよ! 死んじまうんだぞ! しっかりしろ亜依! 」
「ああっ、あいぼんだったのぉ? 」
何か知らないが、とんでもないことになっている。
真希にしてみれば、いきなりのことで何が何だかわからない。
毒がどうの、この老婆が誰だの言われても、何も知らなかった。
紗耶香は自分が突き飛ばしたことで、亜依が死んでしまうことに、
精神的な衝撃を受けてしまって、まったく動けないでいる。
緊急避難という正当行為ではあったが、罪の意識を感じてしまう。
- 415 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:53
- 「ここまで―――恨んじゃいけなかったんや」
亜依は自分の愚かさを痛感していた。
ミカの仇だと称して、個人的な恨みをひとみにぶつける。
そんな自分勝手な思いが、良い結果を残すわけがなかった。
亜依は自分が嫌な女の子になってゆくのに、
少なからず嫌悪感を感じていたのである。
「しゃべるな! よくなるから! なっ! 」
「あかん―――もう―――目が見えへん」
即効性の毒薬は、すでに亜依の全身にまわっていた。
これだけ強い毒では、まったく手の施しようがない。
亜依は浅くて速い呼吸をしており、もうすぐ死がやってくる。
もし、亜依がひとみを殺していたとしたら、
苦しみを背負って生きてゆくことになるだろう。
それより、自分が死んでゆく方が、亜依にとっては楽だった。
「死ぬんじゃねえよ! 亜依! 亜依! 」
「す―――すまん―――かったな」
もう、亜依は呼吸するのも億劫になっている。
意識も低下し、急速に死の淵へと向かっていた。
復讐する恨みを維持するのは、とても疲れるものだ。
それから解放される亜依の顔には、どこか安堵の色が見える。
それが、ひとみには、とても悲しかった。
- 416 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:53
- 「おまえの敵は、己自身だったのよ」
梨華はそう言うと、亜依のために念仏を唱える。
ありがたい念仏が響く中、亜依は静かに息をひきとった。
なつみさえいれば、亜依が死ぬことはなかっただろう。
だが、現実というのは、こういったものだった。
「―――亜依―――まだ―――まだ子供じゃねえか」
冷たくなってゆく亜依を抱きしめ、ひとみは声をつまらせていた。
これでひとみは、亜依に狙われることはなくなったのだが、
けっして、こんな悲しい展開を望んでいたわけではない。
ひとみは亜依に、真相を話したうえで、分ってほしかったのだ。
「どこか、見晴らしのいい場所に埋めてあげようよ」
真希はそう言うと、近くの竹を叩き切った。
竹を使って、亜依の墓を掘るつもりらしい。
さらには、低木を切って墓標をつくりはじめた。
すっかり陽が落ちるころ、例のお堂の裏手に、
4人の手で亜依の墓が掘られていた。
「南無阿弥陀仏」
梨華の念仏が秋の夜に響いていた。
- 417 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:54
- 《雨降って地固まる》
出雲の国府で、紗耶香たちは後続の到着を待っていた。
問題がないとすれば、後続の4人は明日の朝には着くだろう。
紗耶香たちは出雲国司の勧めで、ゆっくりと骨休めをする。
ところが、ひとみは到着早々、酒を飲みっぱなしだった。
「よっすぃー、あんまり飲んだら、体に毒よぉ」
梨華はいつも明るく、ひとみを諭すように言った。
しかし、ひとみはそんな梨華の態度が気にいらなかった。
不幸な事故で瀕死となった亜依に梨華が言った言葉を、
ひとみはけっして聞き逃していなかったのである。
梨華の「おあえの敵は己自身だったのよ」という言葉は、
ひとみには、あまりにも非情に聞こえてしまったのだ。
「うるせー! おめーには関係ねーだろーが! 」
3間(約5.4メートル)四方しかない小さな広間で、
ひとみは横に座っていた梨華を突き飛ばした。
力の強いひとみに突き飛ばされ、梨華は額を床に打ってしまう。
床に突っ伏し、泣きながら額を押さえる梨華を抱き起こし、
真希は彼女を突き飛ばしたひとみをにらみつけた。
「なんだよ! モンクあるかってんだゴルァ! 」
酔っているひとみは、真希に杯を投げつけた。
これには真希も激怒し、ひとみに飛びかかろうとする。
そんな真希の帯をつかんで放さなかったのが紗耶香だった。
- 418 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:54
- 「放して! いちーちゃん、放して! 」
「落ちつくのよ。真希」
紗耶香は真希を抱きしめ、背中をさすった。
紗耶香に背中をなでられ、真希は次第におちついてくる。
たしかに、こんなことで仲間割れをしている場合ではない。
だが真希は、か弱い梨華を突き飛ばすひとみが許せなかった。
「梨華ちゃんに謝りなよ! 」
「いいの! 」
梨華が泣きながら真希を止めた。
被害者の梨華に止められては、真希は引くしかない。
後ろを向いてアグラをかく真希の頭を、
紗耶香は乱暴になで、下を向くひとみと向きあった。
「乱暴はダメよ。気にいらないことがあってもね」
紗耶香に諭されると、ひとみは何も言えなくなってしまう。
どういうわけか、紗耶香にだけは反抗できないひとみだった。
たしかに、この中ではおねえさんということもあったが、
ひとみは紗耶香にだけは逆らえないことを本能的に察知している。
「―――うん」
ひとみが紗耶香にだけ従順だったのは、理屈をこえたものがあるからだ。
それが何であるかまでは、ひとみには分っていなかった。
- 419 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:55
- 翌日、後続が出雲国府に到着したが、どうも様子が変だった。
あれだけ仲のよかった圭織が、希美と目を合わそうとしない。
そればかりか、真里もなつみを避けているようだった。
それがどういったことであるか、分っている者は紗耶香だけだった。
「のの、つらいだろうけど、聞いてね」
紗耶香は泣きそうな顔の希美に、亜依の最期を話した。
仲がよかっただけに、亜依の死は希美には重すぎる。
広間の床に伏せたまま、希美は号泣してしまった。
そんな希美が泣く姿を見て、真里はつらそうに、
震えながら息を吐いたのだった。
「いやらよう―――あいぼん―――」
冷たい床に染みをつくる希美を抱き上げたのは、
圭織ではなく、ひとみだった。
ひとみも『チーちゃん』の死に続き、
何とか誤解を解こうとしていた亜依まで亡くしている。
そのつらさを、少しでも共有したいと思ったのだ。
「もう泣くな。泣いたって仕方ねーんだ」
ひとみに慰められ、希美は少しずつ落ちついてくる。
亜依のように若い娘の死は、それだけで不幸だった。
死んでゆく亜依が哀れであれば、残された者も哀れで、
耐えがたい悲しみだけが、付近の空気を支配している。
希美は亜依を亡くした悲しさをかみしめていたが、
美貴を亡くした圭織の怒りを癒してやりたいと思っていた。
- 420 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:56
- 「か―――圭織しゃん、お―――お風呂入ろうよ」
泣き止んだ希美は、大好きな圭織に風呂へ行こうという。
希美は圭織を怖がっていたが、いっしょに入浴すれば、
きっと優しい圭織にもどると思っていたのである。
希美にとって、圭織は父母以上の保護者なのだった。
「うっせえんだよ! 」
圭織に怒鳴られ、希美は泣きだしてしまった。
目の中に入れても痛くないほどだった希美に、
圭織は残酷なまでのひと言を言ってのける。
大声で泣く希美を、真希が優しくなぐさめていた。
「ほかに言い方ねーのかよ! 希美がかわいそうだろーが! 」
かみつくひとみを、圭織は薄笑いを浮かべて突き飛ばした。
圭織が笑っているということは、かなり機嫌が悪い証拠である。
これでひとみが殴りかかれば、圭織は迷うことなく弓をとるだろう。
それを知ってか知らずか、紗耶香は2人の間に入っていった。
この娘たちの雰囲気は、誰が見ても最悪である。
こんな状態で菅公を討つことなど、とてもできないだろう。
この場合、仕切る立場にある紗耶香が、何とかするべきだった。
「まあまあ、そう熱くならないのよ」
どんな性格でも、紗耶香は娘たちの代表である。
その紗耶香が仲裁に入ったのだから、どちらも引くしかなかった。
ここで紗耶香に反発しては、今後の行動にも影響がでるだろう。
圭織の興奮が収まると、ひとみも冷静になってゆく。
- 421 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:56
- 「いつまでもメソメソしてんじゃないべさァァァァァァァァァァー! 」
そんな空気を切り裂いたのが、なつみの怒鳴り声だった。
なつみは沈んでいる真里を、非情なまでに突き放したのである。
勝気な真里ではあったが、絵里を亡くした心の傷は深い。
それを否定するような言葉に、真里は怒りを露わにした。
「テメエなんかに分るのかゴルァ! 」
真里は泣きながら、なつみに平手打ちをする。
きれいに頬へ決まった平手は、乾いた音を響かせた。
その痛そうな音に、梨華は顔をしかめてしまう。
頬を押さえたなつみは、真里をにらんでいたが、
そのうち興奮してしまい、ついにブチキレてしまった。
「妹が死んだのは気の毒だべさ! でも、前を向かないとダメっしょ!
これだけ言っても分んないんだべか? どうなんだべさアアン! 」
ブチキレたなつみは、真里の後頭部に両手をまわし、
大声で怒鳴りながら、何度も顔面に頭突きを決めていた。
このままではいけないと、慌てて真希が間に入ったときには、
すでに真里は鼻血を出しながら、白目をむいてしまっていた。
「なっち! 死んじゃうよ! 」
真希はなつみから真里を奪いとり、梨華に預けて介抱させる。
真里の歯が当たったのか、なつみの額からも血が流れでていた。
顔面を真っ赤に染める額の傷を、紗耶香が手ぬぐいで押さえる。
ひとみはドッカリとアグラをかき、一気に酒を飲み干した。
- 422 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:57
- 「こんなんで、敵なんか倒せるの? 」
圭織が吐きすてるように言うと、ふたたび希美が泣きだした。
美貴を亡くした圭織も、喩えようのない怒りに襲われている。
冷静なときであれば、希美の面倒をみてやれるのだったが、
こんなときは、冷静になることなどできなかった。
「いつまでも泣いてんじゃねーよ! 」
この圭織のひと言は、希美の心を大きく傷つけた。
幼なじみの亜依が死んだことを知った希美は、
まだ気持ちの整理がついていない。
そんなときに、大好きな圭織から冷たくされれば、
いくらいつもは明るい希美でもまいってしまう。
「うわーん! 」
希美は泣きながら飛びだして行ってしまった。
これには、さすがの圭織も舌打ちをしてしまう。
イライラして、ついついあたってしまったが、
希美には何の罪もないのである。
それどころか、希美は自分の悲しみをこらえ、
大好きな圭織を癒したい一心だったのだ。
「圭織」
なつみは圭織を促した。
すると、圭織は決心したようにうなずき、
えらい速さで希美を追いかけていった。
- 423 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:58
- みんなのいる広間では、真希が紗耶香をにらんでいる。
真希はこんなときに煮えきらない紗耶香の態度が気にいらない。
娘たちの統括者であるなら、もっと毅然とした態度が必要だ。
それなのに、紗耶香は娘たちを統率するような気配すらなかった。
「いちーちゃん、何を考えてるの? ふざけんじゃないわよ」
紗耶香には真希が怒ることもわかる。
しかし、彼女には彼女なりの考えがあった。
8人も人間がいるのだから、個性の衝突もあるだろう。
そういった衝突を乗り越えてゆけば、何かしらの結果がでるものだ。
紗耶香はいい機会なので、ここで禊を済まそうと思ったのである。
互いの気持ちが分りあえれば、つよい結束力にもつながるのだ。
「真希、怒るんじゃないよ。これには―――」
「見損なったよ。こんな重い空気になっても、自分からは動かないの? 」
真希にかみつかれ、温厚な紗耶香も気がたってしまう。
紗耶香としても、なるべく早く解決してほしかった。
だが、ここで少しでも結果をださないことには、
団結力が必要な娘内に、少なからず禍根を残すことになる。
そうならないためにも、ここで納得のゆく対応がしたかった。
「真希は何も分ってない! 」
紗耶香が席を蹴って退室すると、真希は急に悲しくなってしまう。
若い娘が8人もいれば、派閥くらいはできるにちがいない。
そんなことは、いくら鈍い真希でも分っていた。
- 424 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:58
- すっかり陽の落ちた外は、国府から少し離れると、
予想以上に真っ暗で、足もとすら見えない状態だった。
この暗い中を、希美は泣きながら飛びだしていったのである。
圭織は罪もない希美を傷つけてしまい、はげしい自己嫌悪を感じていた。
「のんちゃーん! 」
希美にもしものことがあったら、圭織は一生後悔するだろう。
暗くなれば山賊や狐狸の類に襲われる危険性もあった。
ひとみや真希くらい強ければ、まだ安心していられたが、
希美は虫も殺せない優しい女の子なのである。
これだけ暗いのだから、希美はどれほど怖がっているだろう。
「まだ、そんなに遠くへは―――」
圭織が息を切らせながら国府の裏手にまわってみると、
灯りの見える場所で希美がうずくまっていた。
夢中で飛びだしてきたものの、あまりにも暗いので、
遠くへ行くことができなかったのである。
圭織は希美に駆け寄ると、おもいきり抱きしめた。
「ごめんね。イライラしてて」
「わァァァァァァァァーん! 」
希美は圭織にしがみつき、大声で泣きだした。
こんなにかわいい希美にあたってしまったのは、
どう考えても圭織が悪いにきまっている。
希美を抱きしめる圭織も、ついに泣きだしてしまった。
- 425 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 18:59
- 気絶した真里を寝室に移し、広間では酒を飲むひとみの横に、
だまったまま、泣きそうな顔の梨華がいた。
梨華はつらそうに酒を飲むひとみが心配でならない。
そんな梨華の気持ちも知らず、ひとみは浴びるように酒を飲んだ。
「もうやめてぇ! 」
梨華は泣きながら、ひとみが持った瓶子を奪いとる。
そして、自分で一気に飲んでしまった。
ひとみは何か言おうとしたが、梨華に背を向けてしまう。
梨華は瓶子を放り投げると、ひとみの背中に抱きついた。
「よっすぃーがいちばんなんだもん! いちばん大切なんだもん! 」
「だからって、死んでゆく亜依に、何であんなこと言ったんだよ! 」
「あいぼん、最期はいい子だったよぅ。
でも、自分自身を分らないと、仏さまが救ってくれないのぉ」
仏さまはすべてを憐れみ、救おうとするのである。
だが、自分の罪や業を理解しないと、救うことができないのだ。
だからこそ、梨華は亜依に自分の罪と業を理解してほしかった。
「ええっ! そそそそそそ―――そうだったの? 」
ひとみは驚いて振りかえり、梨華の両肩をつかんだ。
仏教が伝来して500年近くがすぎようとしており、
人々はありがたい教えを、よく勉強するようになっている。
ところが、ひとみはそんなことなど、まったく知らなかった。
- 426 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 19:00
- 「それが仏さまの教えなんだよぅ」
尼である梨華は、亜依の来世を考えていたのだ。
そんなこととは知らず、竹を割ったような性格のひとみは、
梨華を冷たい女だと思ってしまった。
誤解が解ければ、ひとみの機嫌もなおってしまう。
「あははは―――むずかしいなァ」
苦かった酒が、一転して美味となる。
ひとみは梨華の肩を抱き、美酒を味わうことにした。
口移しで酒を飲ますと、梨華の顔にも笑みがもどる。
こうなると、酒が嫌いではない2人は、泥酔するまで飲んだ。
「おめーのでけー胸を、こんどは直に! 」
ひとみは泥酔し、梨華に襲いかかってゆく。
力の強いひとみに押し倒されては、梨華など動くことができない。
シラフだったら抵抗もしただろうが、梨華もまた酔っていた。
男前のひとみであれば、抵抗する理由などみつからない。
むしろ、梨華にしてみれば大歓迎だった。
「ああん! 仏罰があたるわよぉ」
ひとみは法衣をまくりあげ、梨華の胸を直接握った。
ひとみの手でも、あふれるくらい梨華の胸は大きい。
こんなことは、けっして許されることではなかったが、
梨華は大好きなひとみに触られて、幸せを感じていた。
- 427 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 19:00
- 早々と床に着いた紗耶香のとなりへ、不満顔の真希がやってきた。
別の部屋にしてほしかったが、ここが真希の寝床と決められている。
どこか気まずい雰囲気が部屋に充満し、真希は行灯の灯を消した。
「希美は? 」
眠っていたのかと思った紗耶香が起きていたので、
真希は少しだけ驚いたが、平静を装って布団の中に入ってゆく。
紗耶香の達観したような表情が、真希の気にさわっていた。
「いたよ。圭織さんがみつけた。―――いちーちゃん」
「ん? 」
真希はどうしても確かめねばならない。
なぜ、紗耶香は娘たちの対立を傍観しているのか。
返答次第によっては、2人の仲も終わりになるだろう。
それは悲しいことではあったが、すべては紗耶香の考えだった。
「何でみんなを放っておくの? 」
真希の声には、返答を迫る気迫が感じられる。
冗談を言ったり、ごまかすわけにはゆかない。
紗耶香は布団から出ると、行灯の灯をつけた。
闇から解放された室内は、明るさを取りもどす。
紗耶香が真希を見ると、泣きそうな顔をしていた。
それほど、この答えが重要だと考えているのだろう。
紗耶香はそんな真希がかわいくて仕方ないのだった。
- 428 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 19:01
- 「これを乗りきらないと、ほんとうの団結ができないのよ」
「ほ―――ほんとうの団結? 」
真希は予想外の返答に、目を白黒させてしまう。
紗耶香は真希に、分りやすく説明してゆく。
互いを思いやる気持ち。そして責任を果たす意思。
それを教えるのではなく、気づかせるために、
紗耶香はギリギリまで傍観していたのだった。
「そうだったの。あたし―――バカだよね」
紗耶香の本心を知り、真希は安心したのか泣きだしてしまう。
そんな真希の頭をなでながら、紗耶香も安心していた。
幼なじみの真希が考えることくらい、紗耶香であれば手にとるように分る。
真希が思いつめたら、2人の関係を清算するくらいのことはするだろう。
「バカは今はじまったわけじゃないでしょう? 」
「もう! いちーちゃんったら! 」
抱きついてきた真希の唇に、紗耶香は自分の唇を合わせた。
それを待っていたかのように、真希は紗耶香の懐へ手を入れる。
真希ほど大きくはないが、紗耶香の胸は形がよかった。
真希が胸をなでると、紗耶香は熱い吐息をもらしてしまう。
紗耶香も負けじと真希の胸を攻めようとしたが、
先攻されてしまった分だけ、受身になってしまった。
「ま―――真希」
秋の夜は、2人の吐息とともに更けていった。
- 429 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 19:01
- 寝る前に5個もオニギリを食べ、大の字になって熟睡するなつみは、
誰かが苦しむような、妙な声に起こされてしまった。
何ごとかと思って行灯の灯をつけると、となりの真里が、
布団を握りしめ、寝汗をかいてうなされていたのである。
妹の絵里を失った悲しみが、こんなところにもあらわれていた。
「起きるべさ! まりっぺ! 」
「はっ! ―――ああ、絵里」
起きあがった真里は、布団を抱きしめて泣きだした。
ただでさえ小さな真里が、今日は特に小さく見える。
なつみは反射的に真里を抱きしめていた。
殴り合いをしたことなど、もう忘れていた。
「つらいね。泣けばいいべさ。泣いて忘れられるんなら」
「なっち―――ほんとうはオイラ、こんなに弱虫なんだよ」
どんなに強い者でも、必ず弱いところがあるものだ。
そんな欠陥だらけの不完全体が、人間というものである。
弱さを補うために、人は強くなろうと努力するのだ。
だからこそ人間は憐れであり、尊いのだった。
「完全な人間なんていないっしょ? でも、泣くのはなっちの前だけにするんだよ」
それがどういうことなのか、賢い真里には分っていた。
自分が悲しい顔をしていたら、みんなの気持ちが沈んでしまう。
明るく振舞うのはムリでも、自分に殻さえつくらねばよいのだ。
「ごめんね。なっち」
「もう寝るべさ。オニギリ5個も食べたら胃にもたれて」
「だから痩せねーんだよ! 」という言葉を飲みこみ、
あきれてモノが言えない真里は布団にもぐっていった。
- 430 名前:第三章 〜西へ〜 投稿日:2003/10/11(土) 19:02
- 翌朝、広間では、ものすごいことになっていた。
酔いつぶれたひとみと梨華が、ほぼ全裸でケイレンしていたのである。
急性アルコール中毒と低体温症で、放っておけば命に関わる事態だった。
娘たちは朝食をとるところではなく、慌てて風呂を沸かして2人を温める。
薄い塩水を温めて飲まし、脱水症状を緩和する処置がされた。
「し―――死ぬかと思ったぜ! 」
「何があったのぉ? 」
まだ酒が残っているため、2人は風呂の中で笑いだした。
そんな状態であるから、本日の出発は見合わせることにする。
紗耶香は2人を寝かし、残った6人で話をはじめた。
「希美はどうするの? いっしょに来ても危険なだけだよ」
危険を考え、真希は希美を家に帰したかったが、
ここまで来て1人で帰すわけにもいかない。
とりあえず、ここに置いてゆくのも選択肢ではある。
だが、出雲国府といえど、安心してはいられなかった。
「連れて行こうよ。長門で裕子さまたちと合流すれば、少しは軍勢もいるし」
圭織は残すのであれば、連れていきたいらしい。
希美の存在で圭織が癒されるのであれば、
連れていけない理由は見あたらなかった。
裕子たちは源頼光以下、200人の軍勢を率いている。
一騎当千の強者ばかりなので、それは心強かった。
「それはそうと、お腹がすいたべさ」
「だから痩せねーんだよ! 」
こんどは声にだして真里が言った。
反射的に真里の頭を殴るなつみだったが、
その顔に怒りはなく、満足したような笑みをもらす。
真里は「いてーな」と言いながら、なつみに抱きついた。
「いちーちゃん」
雨降って地固まるとは、じつにいい言葉である。
真希が嬉しそうに紗耶香を見つめた。
- 431 名前:名無し弟 投稿日:2003/10/11(土) 19:05
- これで第三章 〜西へ〜 は終わりです。
続いて第四章になりますが、まだ何も書けていません。
なるべく早く更新しますので、最後まで読んでやってください。
- 432 名前:七市 投稿日:2003/10/18(土) 20:21
- なにやらいいチームになってきましたね。
毎回更新されるのが楽しみです。
- 433 名前:名無し弟 投稿日:2003/10/25(土) 20:52
- >>七市さん
どうもありがとうございます。
残り容量が少なくなったので、後編は別スレたてました。
ひき続き、よろしくお願いします。
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/purple/1067082565/
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