そろそろ市井さんを許してあげようよ!!
- 1 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時40分17秒
- 『そろそろ市井さんを許してあげようよ!!』
前スレ(金板):
http://m-seek.net/cgi-bin/read.cgi/gold/1049096397/188-
金板で書いていたものの続きです。
このスレで完結する予定ですのでよろしくお願いします。
- 2 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時40分58秒
- ◇
ぐぐっ…… くぐっ……
闇の中、静寂を縫ってくぐもった唸り声だけが響く。
くぐっ…… ぐぐっ……
すぅっ… すぅっ… すぅっ…
よく聞けば複数の人間が立てる吐息の音、あるいはもう少し注意深く耳をそば立てれば心臓の鼓動さえ聞こえたかもしれない。
あるいは暗闇に蠢(うごめ)くもそもそとした物体の影を空気の揺らぎとして感じることができたかもしれない。
だが、この場にいる誰一人としてそのようなことに注意を向ける者はなかった。
これから来るであろう人物。
その人に対する複雑な思い。
それぞれが抱えるその強力な思念だけがこの場を支配していた。
「来るかな…?」
ついに耐え切れなくなって、そのうちのひとりが口火を切った。
「……」
んぐっ… んぐっ…
そばにいるらしい人物はしかし、だんまりを決め込んだようだ。
一方で、短くくぐもったうなり声が何かを訴えるように地を這っている。
シュッと何かが鋭く空を切り裂いた。
淀んだ空気が一気に凝固する。
「……」
声の主は諦めたのか再び沈黙の中に自らの存在を塗り込めた。
- 3 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時41分20秒
- くぐっ…… くぐっ……
淀んだ臭気のように地を這っていたうなり声は再び元のリズムを取り戻し、静寂と闇の支配する奇妙な秩序へと立ち返った。
あと少しでもこの静寂が続くならその場の誰もが発狂してしまっていたであろうほどの凄絶な無音の状態。
何か得体の知れないエネルギーが身を縮め、爆発の瞬間を狙って息を潜める。
その閑静は突然破られた。
ガラ、ガラという大きな音ともに扉が開けられて外光が差し込む。
「誰っ!?」
細く震える声がその人物が抱く恐怖の大きさを物語っていた。
すうっ… すうっ…
待ち構えていた者たちの呼吸が荒くなる。
バチッ、と音がして世界が現われた。
右腕で目を覆う相手の様子が手に取るようにわかる。
くぐっ… く、くっ… くくっ…
唸り声ではなかった。
それは待ちかねた獲物が現われた喜びを隠せずに獣が喉を鳴らした音に酷似していた。
- 4 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時41分36秒
- ◇
市井は余りのまぶしさに思わず顔を覆った。
目が眩(くら)んだ。
視界が元に戻るまでしばらくかかるだろう。
市井は相手の狡猾さに激しい憎悪を掻きたてられたが、一方で、相手が姿を隠すつもりのないことを知って希望をつないだ。
勝機はある…
正直、扉を開けた瞬間、ショットガンで噴き飛ばされる可能性も考えないではなかった。
だが、その首はまだこうして市井のさほど中身が詰まったとは言い難い頭を支えている。
相手が自分の殺傷のみ狙っているわけではないことを知って市井は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「誰!?」
ガランとした空間に市井の声だけが響く。
まるでステージでスポットライトを浴びているような感覚に市井は戸惑った。
ライブの直後だけにやや掠(かす)れて抜けが悪いのが残念に思えた。
目が慣れてきた。薄目を開けて腕を降ろす。
狭い視界の向こうには立ちはだかる二人の人間とその足許に横たわる黒くて長い物体とが見えた。
「元気そうだね」
「!」
市井はその声に一瞬、心が凍りつきそうなほどの驚きを覚えた。
- 5 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時41分54秒
- 「ユ、ユウキくん…」
「久しぶりだね。まずは凱旋公演おめでとう」
「あ、あなた…」
目を足許に落とすと黒い何かの物体と思われた何かがもぞもぞと動く。
市井はハッとした。
「ソニン!?」
猿轡(さるぐつわ)を噛ませられたソニンが体を黒い布で包まれた簀巻きの状態で横たわっていた。
何かを伝えようとでもするように必死でその体を動かそうとしている。
八の字に垂れ下がった眉毛の下、市井を見つめる瞳が潤んでいる。
市井はその視線をしっかりと捉えてうなずくと、再び眼前の敵に向き合った。
「何のつもり?ソニンを放しなさい、警察を呼ぶわよ!」
「妙なまねをするとソニンの命はないよ」
シャキッ、という乾いた音が響く。
背後でもうひとり別の人間が白刃を煌(きらめ)かせるのを見て市井は肝を冷やした。
やつらは本気だ。チッ、と舌打ちしながら市井は後悔した。
一時間のうちに自分が戻らねば警察を呼ぶよう車の中の少女に告げてある。
タイミングが悪ければソニンはおろか麗奈まで危険に巻き込んでしまうかもしれない。
市井は焦った。
- 6 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時42分09秒
- 「もう一度聞くわ。何のつもり?」
「市井さん…自分の心に聞いてみなよ。やましいところは何もないと言い切れるかい?」
「やましいこと…?わからない…、あなたが何を言っているのか、私にはわからない…」
ユウキの背後からヌッ、と姿を現した人物の形相に市井は戦慄した。
「あんた…」
咄嗟に名前が思い出せない。
誰だったか… ええっと…
「お久しぶりですね、市井さん」
そうだ、吉澤、吉澤ひとみ、…この女が吉澤ひとみだ。
市井は鈍く光る刃をひらひらと翳(かざ)しながら、ありえないほど厳しい眼差しを自分に向けるかつての後輩の変わり果てた姿に心を痛めた。
この子は壊れている…
市井は内戦終了直後の高麗で、このように激しい憎悪に満ちた目で犯罪に走る脱走兵の姿を少なからず見ていた。
不平分子の掃討任務。内戦後にはよくあることと割り切っても、かつてともに戦った仲間を撃つという行為は信じられないほどの精神的苦痛を配下の正規兵達に与えた。
もちろん命令を降す将校にとっても苦痛は同様である。
忌まわしい思い出を記憶から引きずり出されて眼前に示されたような居心地の悪さに、市井はどのように反応してよいか戸惑った。
- 7 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時42分25秒
- 吉澤とはほとんど共に過ごしたという記憶がない。
自分に対してありったけの憎悪をぶつけてくるこの後輩が後藤や保田と過ごした時間を市井は知らない。
だが、後藤の死に対して自分にその責任の所在を求めて吉澤が激しく糾弾した事実を市井はもちろん知らない訳ではない。
あの痛ましい事故による犠牲者を弔うため。
そのために、時期尚早と言われながらも来日を決めたのだから。
だが、あの事故を機に娘。から追放されたかつての後輩が市井を見る目、その目に宿る光の冷たさはどうだろう。
市井はその凍てつきそうなほどの視線を受けとめてなお、その場に踏み止まる自信が徐々に揺らいでいくのをどうすることもできなかった。
すべての責を負うべき元凶として激しく糾弾する吉澤の無言の怒り。
吉澤の翳(かざ)すバタフライナイフに映る凶々しいほどの白光。
その冷たさがいつ自分の体を貫くのか、市井はある種、恍惚とも呼べそうな奇妙な陶酔感に理性を失いつつある自分をどこか遠くから見つめていた。
まるで、その白刃が自分を差し貫くことで後藤の死という重たい枷(かせ)からようやく解放されるとでもいうように…
- 8 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時42分42秒
- ぐぐっ… ぐぐっ…
市井に近づこうとしては吉澤に蹴飛ばされ、ごろごろと芋虫のように転がるソニンの姿が哀れに思えた。
後藤を助け、自分を助けるために奔走してくれたはずの恩人がまるで虫けらのように扱われている。
どうして、この人がこんな目に合わなければならないのか…
辛うじて踏み止まった理性がその理不尽な事実から目を背けることを許さない。
市井は怒りが恐怖に勝っていくのを感じた。
「私に言いたいことがあるのはわかったわ。でも、この人に罪はないのよ!あなたが一番よく知ってるでしょう?そのことは」
「わかってるよ…そんなことは。もちろん、ソニンを殺したりするつもりはない。あくまでも市井さん、あなたをここに呼ぶための餌だからね」
「じゃあ、目的はすでに果たしたわけでしょ?解放しなさい。今ならまだ引き返せるわ」
「引き返す?」
ユウキの目が険悪な光を帯びた。
「引き返すつもりなんか、端からないさ。それは彼女も同じだ。ねえ、そうだろ、ひとみ」
「ああ…」
吉澤はよく砥がれたと思しきナイフに視線を預けたまま、気のなさそうな返事を寄超した。
- 9 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時42分57秒
- 「市井さん、あんたを――」
ヒュッと市井の右頬を風が掠(かす)める。
「――殺して、私も死ぬ」
熱い、と思って当てた手にぬらっとした感触を覚えた。
痛みは不思議とやってこない。
いい腕だ。
市井は妙なところに感心した。
神経の通う皮膚の下層まで達するか達しないかの微妙な表層をかすめてナイフは飛んでいった。
戦場であれば感心している間にしっかりと銃でお返しして、腹の風通しをよくしてやるところだ。
だが、なぜかこの後輩に対しては隙を見せてしまう。
市井は自らが果たせなかった教育係としての責務を後藤と保田が引き継いでくれていたことにどこか面映いような、それでいて誇らしいようなむず痒さを感じた。
血が頬の上を滴って垂直に線を落とす。
「吉澤…たしかに私は、後藤を助けられなかった。けど…」
- 10 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時43分13秒
- ヒュッ、ともう一方の頬を風が切った。
「聞いてないよ。あんたの戯言なんか」
遅れてジンとした痛みがやってくるところは最初の一投とまったく同じだった。
やはり吉澤の腕は確かだ。
市井は、それを嬉しく感じる自分が随分と呑気に思えたが、相対する吉澤の表情はそのような感情を表に出すことを許してくれそうに無かった。
「あんたが、ごっちんを見殺しにしたんだ。あたしはそれを許さない」
「聞いてよ!吉澤!」
「いやだ!聞きたくない!」
「ひとみ、聞いてやれよ。死ぬ前に言い残したいことくらい、誰でもあるだろ?」
ユウキがぼそりとつぶやいた。
その目は吉澤と違って、なぜか生気を感じさせなかった。
腐乱した魚のような濁った目…
市井は病んでいる、と思った。
後藤の最期を看取ったただ一人の肉親。
その最期の言葉を伝えられる口を持った唯一の人間。
その貴重な記憶を持つ男が壊れようとしている。
- 11 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時43分30秒
- 市井はそれが口惜しくてならなかった。
その責任の一端を感じて、廃人と化そうとしているユウキを責める気にはなれない。
それどころか後藤への想いを断ち切れない三人がその死を巡って、なぜ、このような茶番を演じなければならないのか、まったくもって理解できなかった。
そろそろ、幕を下ろさなければならない、このような悲劇…いや、喜劇には。
すでに、貴重な青年の命が奪われている。
さらなる血の生贄を後藤が欲しているとでも言うのならば、自らの進退を考えないでもない。
だが、この二人も、まさかそんなことを後藤が求めていると本気で考えているわけてばあるまい。
「吉澤…私は、昨日、ご霊前に報告してきたよ。後藤の死に関して、私にやましいところはない、って」
「嘘だ!ごったちんを見殺しにしたのはあんただろうが!」
「ひとみ、落ち着けよ」
「うるさい!」
吉澤はギリギリと歯を軋ませて怒りの感情を顕(あらわ)にしていた。
ユウキはその所作を気の抜けた声で諌めるが、吉澤には馬耳東風。
一向に聞き入れる様子は無い。
- 12 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時43分59秒
- 「あんたが、自分のデビューにかまけてなければ、ごっちんが処刑されるなんてことはなかったんだ。そうだろ、ユウキ?」
「ああ。真希ちゃんは笑ったんだ。あんたのデビューを告げたとき、そのときだけにっこりと、微笑んだんだ。それをあんたは…」
「その口で散々、罵ったらしいじゃないか。『肥え太った豚のような女』、『独裁者、金正日に取り入ったイルボンの小悪魔』、『民主主義の敵は今、粉砕された』、北朝鮮も真青なスローガンじゃない?革命の英雄、偉大なる将軍様の市井先輩」
「それが後藤の意志だったからだよ」
「ふざけんなよ!うぜぇんだよ、保身のためにごっちんを貶(おとし)めんなよ!」
「保身のためじゃないよ…それが彼女の…後藤の望んだことだったんだ」
「お前…よくもぬけぬけと…」
悪びれない市井の態度に吉澤は疑念を抱いたのか、ナイフを持つ手から力が抜けて一瞬、だらりと腕が垂れ下がった。
だが、すぐに気を取り直したように再び、攻撃を仕掛けられるよう構え直す。
- 13 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時44分11秒
- 「言いたいことはそれだけかい?ユウキ、そろそろやるよ」
「待って…ユウキくん、あんたはそれでいいの?」
市井はユウキの反応を待った。
吉澤は一瞬、迷いのような表情を見せたものの、すぐに元の鉄面皮に戻ってしまった。
すでに聞く耳を持たない姿勢を明確にしている吉澤よりは、ユウキを攻めるのが得策のように思えたのだ。
吉澤はユウキの指示を仰いでいるように見えた。
「真希ちゃんは…真希ちゃんは…」
ユウキは既に半分、壊れかけているのだろう。
ドブ川の澱んだ流れを思わせる濁った瞳の色が落ち着き無く、左右に揺れる。
ひょっとして、この男…
「ユウキくん、ちょっとあんた――」
「うるさい!死ね」
吉澤が我慢できずに振りかぶった。
やられる…
ギュッ、と目を瞑った瞬間右肩に激痛が走った。
ぐぅっ…
苦痛に耐え切れず膝から床面に崩れ落ちた。
嬲り殺すつもりか…
- 14 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時44分34秒
- 市井は目を見開いて正面に立つ殺人者の冷酷な視線を真っ直ぐに受け止めた。
その瞳に燃え盛る憎悪の炎はこの場にいる全員を飲み込んで燃やし尽くさなければ気がすまないと言わんばかりの激しさで市井を包み込もうとしていた。
所在なげにぼんやりと吉澤を見つめるユウキの姿が視界の片隅に映った。
と思った次の瞬間、第二陣の攻撃が市井の左腕を襲った。
ぐはぁっ…!
右肩と左腕に穿(うが)たれた深い傷から、だらだらと血が流れ出す。
傷を中心とした一帯がただ、ジンジンと疼く痛みとしか感じられなくなる中、市井は自分の最期を覚悟した。
かつて天才的美少女と言われたその姿が殺人者の冷酷な表情を纏(まと)って市井の前に立った。
- 15 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時44分50秒
- 「まだ死ねないよ」
傷の痛みが体全体でズキン、ズキンと脈打つためか、吉澤の声がひどく遠く聞こえた。
「殺さないよ。楽にはね…」
舌なめずりしそうな声の調子に市井は思った。
ひょっとして、この娘は性的に興奮しているのではないかと。
だが、間断的に訪れる激痛にそのような雑念はすぐに振り払われた。
死ぬ…
戦場でさえ、決して訪れることのなかった死の足音が今、確かに聞こえた気がした。
市井は生まれて初めて、死に対する恐怖を覚えた。
- 16 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時45分07秒
- ◇
「ハ、ハイ…わかりました。よろしくお願いします」
麗奈は緊張に震える指でOFFのボタンを押すと、携帯を畳んでバッグにしまい込んだ。
「どうでした?」
運転手の問いかけに麗奈は顔を上げて答えた。
「ハイ…パトロールに回ってる車で現場に一番近い車を呼び出すそうです」
「そう。この辺だと水上署の管内だから、警邏の車も割と早く到着するんじゃないかな」
「そうだといいんですけど…」
「ま、あなたまで巻き込まれちゃ大変だから。ここは警察にまかせた方がいいね」
「ハイ。そうします」
麗奈はすっかり萎縮して、シートに張り付いていた。
市井が呼び出されて入っていったのは、ここからすぐ先にある倉庫なのだが、怖くてとても様子を見に行く勇気は無い。
一刻も早く保田が到着してくれるのを待つしかない。
電話でさえ、かなりしどろもどろの返答で110番の受付の警官にいたずらと判断されなかったのが不思議なくらいだ。
『パトカーを寄越す』と言ったのだから、まさかそんなことはないだろうが。
実際の警察官を前に、ことの顛末を説明することが果たして自分にできるかどうか、麗奈は不安だった。
- 17 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時45分23秒
- 車の排気音やタイヤが路面を擦(こす)る音が聞こえる度に顔を上げて周囲を見渡すが、保田を乗せていると思しき車はなかなか到着しない。
(早く…保田さん、早く来て…)
パトカーの方も今日は他所で事件でも起きているのか、なかなか捕まらないようだ。
麗奈は段々、自分がうまく説明できなかったためにいたずら通報と判断された可能性に思い至り、悶々と思い悩んだ。
ドン、ドン…
突然、反対側の窓を叩かれて、麗奈は飛び上がりそうなほどの恐怖を覚えた。
車の音には注意していたはずだ。
少なくとも電話を終えてから、一台もこの近くを通らなかったはずだ。
ということは、つまり…
「運転手さん!どうしよっ!出して!殺される!」
「えぇっと…お嬢さん、呼んでるみたいですよ」
「いややっ!人殺しの誘拐犯の顔なんか見たくなかと!」
「私はテレビで見たような気がするんですけどねえ…」
えっ…
- 18 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時45分39秒
- その言葉に麗奈はようやく落ち着きを取り戻し、恐る恐る反対側の窓越しにドアをコンコンと叩きつづける人影を見やった。
「い、いしかわさん…」
「ああ、その子だ。暗くて顔がよくわからなかったけど、その子に違いないよ。あなたと同じモームスでしょ?早く、開けてあげなきゃ」
そう言って。運転手はロックを解除して後部座席のドアを開けた。
「麗奈!大丈夫?怪我は無い?」
「何言ってんの、石川?田中さんは大丈夫でしょ。それより警察はまだなの?」
石川と保田が早口で交互に叫ぶその勢いに麗奈は圧倒された。
「あ、あの…」
「麗奈!ちょっとおいで。どこの倉庫に入ったのよ?」
「だから、石川は慌てないで。警察が来てからでないと危険だわ」
麗奈は声を出すタイミングを逸して、呆然と二人のやり取りを見守っている。
「田中さん?ぼおっとしてないで、早く教えて。警察はまだなの?」
保田が尋ねてくれたのでようやく麗奈は口を開くタイミングを得た。
「ええっと、あの――」
- 19 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時45分55秒
- そのとき、突然、背後の倉庫から銃声が三発聞こえてその場に居る皆が凍りついた。
「ま、まさか…」
「や、やすださん…」
「紗耶香…紗耶香が危ない…」
保田は気もそぞろではない様子で従性の聞こえた方角から目を離さない。
「石川、あんたはここにいて警察が来たらすぐに誘導してちょうだい」
「保田さん!ダメですよ、危険すぎます!」
「石川、紗耶香が…紗耶香が死ぬかもしれないの…威嚇のつもりで発砲しただけなら問題ない。けど…」
「保田さん…」
「頼んだわよ!」
そう一声、短く言い残すと、保田は体を翻して、意外な身のこなしで夜の闇に溶けていった。
「い、石川さん…保田さん、大丈夫でしょうか?」
「大丈夫…大丈夫、絶対、死なせないから…それより警察は?麗奈、警察はまだなの?!」
「パトカーを回してくれるって言ってたんですけど…でも、もう大分経ったけど来ないんですよ」
「もぉう、ぜんっぜん、役に立たないわね。保田さん大丈夫かしら…」
石川は心配そうに保田が消えた方向を見やったが、たまたま電燈の照らさない死角に紛れて進んだのか、その後ろ姿を見つけることはできなかった。
- 20 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時46分10秒
- 「もぉお、ちゃんと警察にここの場所のこと説明したんでしょうね?なんだったらもう一回、私が――」
「しっ!」
そう言いかけて遮られた石川は一瞬、ものすごい形相で麗奈を睨みつけたが、遠くから聞こえるサイレンの音にハッとして、車から離れてその方向に目を向けた。
「来た!来ましたよ、石川さん!」
「そ、そうね…でも…」
「?」
麗奈は石川を見上げ、続いて車の前方に近づきつつあるパトカーを見つめた。
だが、一瞬、浮かんだ安堵の色ははたちまちのうちに立ち消え、すぐに驚きの表情へと変わった。
パトカーのチカチカと点滅するランプにホッとしたのも束の間。
今度はその数の多さに二人は呆然と立ち尽くした。
(な、なんでこんなに…)
- 21 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時46分24秒
- やがて到着した十台近い、車から、何人もの警官が飛び出してきて、石川たちの方へと向ってきた。
中で背広を来た指導的な立場にあると思しき人物が、石川の前で立ち止まり、丁寧な口調で尋ねた。
「警視庁第六機動隊第七中隊長青島警部です。通報された田中麗奈さんでいらっしゃいますか?」
石川はしばし呆然とその人物の顔をまじまじと見つめた後、思い出したように指で麗奈を指差して「こ、この子です」とやっとのことで告げた。
無理もない。
有名な俳優によく似た端正な容貌は石川を魅了するに充分だった。
その引き締まった表情から発せられる低音の甘い声に石川は緊急を要する現在の状況をすっかり忘れてしまったようだった。
代わって、ひとり冷静を保つ麗奈が警部に相対して、状況を説明すると、警部は二、三、質問を挟んですぐに救出活動に取り掛かった。
- 22 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月25日(月)20時46分38秒
- 「第一小隊は潜行して状況の確認。続いて第二、第三小隊を配置。第三小隊は容疑者の位置を確認後、退路を断つこと。合図により第一小隊は突入し、被害者を確保。第二小隊は弾幕を張って第一小隊の援護。以上、全員配置につけ」
きびきびとした動きで、装備に身を固めた警官たちが配置に着くのを小気味よく眺めていた石川の表情が突然、引き攣った。
咄嗟に掴んだ麗奈の腕がぎりぎりと締められる。
「い、石川さん…?」
だが、石川が厳しい眼差しを向けるその先に見たものは麗奈の心をも凍りつかせた。
音も立てず、静かな足並みで次々に倉庫へと移動していく警官たち。
彼らが担いでいる長い道具。
それは明らかに狙撃銃と思われた。
石川と麗奈はこの先に待ち受ける展開を思い胸が締め付けられた。
(保田さん…)
二人はただ、固唾を飲んで見守るしかなかった。
- 23 名前:56 投稿日:2003年08月25日(月)21時04分45秒
- 新スレおめでとうございます。
まさかここまでの長期連載になるとは思わず、「息を詰めてます」などと書いてしまいました。
いよいよクライマックスですね…。また息を詰めます。といいつつ…。
- 24 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時03分29秒
- ◇
「さて、次はどこにしようか?」
勝ち誇ったような声が市井の頭上から降ってきた。
ひょっとして…と考えかけて市井は否定した。
確かにこの娘には生身の体を切り刻むという行為に興奮しているのかもしれない。
だがそれを変態的な性的嗜好と解釈するには、市井はノーマル過ぎた。
いずれにしても激痛に跪(ひざまず)いたままの市井に抗する術はない。
「やめろ…後藤が…悲しんでるぞ」
「何を――いててて!誰だよ、お前は?!」
知らぬ間に何者かが吉澤の背後に回りこんでいたらしい。
不意をつかれた吉澤はナイフを持つ腕を捕まれて自由を奪われている。
「お嬢さん、そこまでだ。まだ、殺してもらっちゃ困るんでな」
これまた、何時の間に現れたのか、ユウキの横に背の高い男が立っていた。
サングラスに映る照明の反射が男の冷酷な表情を際立たせているように感じられた。
「どういうことです?」
訝しげな声で問いただすユウキの声に心なしか不安の色が滲んでいる。
彼にとっても予想外の出来事だったに違いない。
男はユウキを無視したまま、市井に正対した。
- 25 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時04分16秒
- 「よぉっ、サヤカ同志。久しぶりだな」
「?」
市井にはわからなかった。
どこかで会ったことがあるだろうか?
裏の世界を感じさせる匂いを芬々(ふんぷん)と漂わせるこの男。
たしかに、自分が娘。を脱退せざるを得なくなった背景には母親の男だったチンピラの影があった。
だが、自分が直接、あの男に会ったことはないし、第一、この男はあんな小物とは似ても似つかないほどの貫禄を感じさせる。
裏の世界でもかなり高位にいる人物だろう。
そんなゴツい奴に「久しぶり」と言われる覚えはなかった。
「わからないようだな」
歌うように朗々と響く声にはどこか嬉しそうな気配さえ感じられる。
「市井…」
言いながら男はサングラスを外した。
「俺だよ」
「!」
思い出した。
「お、お前…」
「やっと思い出したか、ん?」
「な、何の真似だ…」
ユウキは今や所在なげに二人のやり取りを見つめている。
吉澤は男の手下に羽交い絞めにされて動けないままだ。
- 26 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時04分49秒
- 「生きていたのか…」
市井は苦しげに息を吐いた。
「延亨黙(よんひょんもく)…」
市井は驚いていた。
まったくわからなかったのは、この男が日本語で話していたせいだろう。
そして、軍服を脱いだこの男の雰囲気…
それはまるで、日本のやくざか、中国系のマフィアとしか思えない裏社会の人間の身が発するものだった。
「ハッ、ハ、ハハハ。革命軍の英雄、市井准将も落ちぶれたものだな。得意の色仕掛けも日本では通用しないか?」
「私はもう軍人じゃない…それに」
「それに…何だ?」
市井は苦しそうな表情を浮かべて息も絶え絶えながら、やっとの思いで吐き出した。
「私が准将になったのは色仕掛けでも何でもない…」
「ハッ、ハ、ハ、ハ。それは失礼した。お前が将軍様の前で素晴らしく悩殺的な踊りをお見せしたと思っていたが、どうやら俺の記憶違いだったようだな」
「……」
市井は傷の痛みと恥辱による怒りを抑えるために歯を食いしばって耐えるしかなかった。
- 27 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時05分19秒
- ふと、この男が話す流暢な日本語に疑問を覚えた。
いや、それ以前になぜ、この男が日本にいるのか、そして、ユウキと吉澤を従えているのか。
考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだった。
「なぜ、俺がイルボン(日本)にいるのか不思議か?当然の疑問だな。高麗は海を隔ててすぐそこだからな」
市井は同意した。
近い。近すぎる。
金正日一派がまず脱出を量ったのは中国の瀋陽である、との見方では高麗防諜省、韓国国家情報院ともに一致していた。
その先は恐らく東南アジアのどこかの島にでも移ったのだろうと予測されていた。
なにしろ金はある。
スイスの銀行から少しずつ引き出されていた金は様々なルートを経由して最後にはその行方が掴めなくなっていた。
平壌に戻ったとき、金永南との雑談で金正日が「イルボンにいる」可能性について話し合ったことはあったが、まさか、本当に潜伏しているとは思わなかった。
- 28 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時06分00秒
- 「近いから危険だ、と考えるのはいかにも素人が陥りそうな浅はかな結論だ」
延亨黙はいかにも嬉しそうな表情を浮かべながら市井に告げた。
「市井、俺と組め。悪いようにはしない」
「あんたと…組む?」
「ちょっと待ってよ!」
吉澤がたまらず声を上げる。
「うるさい。大事な話をしている。子どもは黙ってるんだ」
「ユウキ!」
吉澤の懇願するような叫び声に押されて、延亨黙を問い詰めようとしたユウキは、逆に軽くあしらわれて体勢を崩し、床に尻餅をついた。
吉澤はユウキの名を叫んだために口を塞がれて、しばらく足掻いていたがやがて力尽き、呆然とその姿を見つめるのみであった。
ユウキは戸惑うような視線を延へと向けたが、当の本人は眼中にないと言わんばかりに市井を見据えていた。
- 29 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時06分44秒
- 「あんたと組む…だと?」
市井は意味がわからない、とでも言うようにその言葉を反芻した。
実際、延亨黙がどういう風の吹き回しでそんな提案をするのか、皆目、見当もつかなかったのだ。
「我々もイルボンで暮らす以上、いろいろと世話になっている方面も多くてな」
「…やくざか?」
「察しがいい!」
延亨黙は市井の反応に対して満足げに微笑んだ。
「蛇の道は蛇、というからな。どうだ、俺のイルボンマル(日本語)も捨てたもんじゃないだろう?」
「…蛇とは言いえて妙だな。確かに」
「フッ、ハッ、ハ、ハ」
上機嫌なのには理由があった。
「ちくしょう…」
市井もそれは理解している。
だから動けない。
「どうせ逆らうことはできんのだ。それならパートナーとして大々的に組むというのはどうだ?」
延亨黙は握手のつもりか右手を突き出した。
もちろん、市井にこの蛇のような男の手を握るつもりなど毛頭ない。
だが、好むと好まざるとに関わらず、市井が延の言葉に従わざるを得ないのは明らかだった。
- 30 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時07分33秒
- くぐっ… く、くぐっ…
その理由。
市井が従わざるを得ないその理由としてしか、自分の存在意義が見出せないことに抵抗するかのように、床の上のソニンが短い呻き声を上げた。
「ソニン…」
市井は自分が延に逆らえないことを頭ではわかっていた。
だが、生理的には到底受け入れられないだろう。
ソニンを助けるためにどんな条件を持ち出すのかわからないが、最悪の場合、刺し違えることも含めて覚悟を決めなければならないと思った。
そう、金正日の前でこの男を辱めたあの夜と同様に。
「待ってください、延同志!こいつは、市井は我々の手で始末させてくれる約束では?!」
再びユウキが食い下がった。
どうあっても、市井を裁くのは自分と吉澤なのだという確固とした意志。
だが、その意志がここでは裏目に出た。
「うるさいと言っているだろう!」
ニヤニヤと口元を緩ませて弛緩していた延の表情が一変した。
- 31 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時08分12秒
- 「…ご苦労だったな」
「よ、延同志…そ、そんな…」
市井は何の感情も感じさせない酷薄な表情が再び緩められるのを見て、心臓が凍りつきそうなほどの恐怖を覚えた。
延が掲げた右手。
そこには黒く冷たい光を放つ金属が握られていた。
「お、おい…まさか」
耳を劈(つんざ)く爆音。
三発だった。
後には硝煙の焦げ臭い空気と銃口から棚引く煙。
市井の瞼には懇願するユウキの表情が焼きついていた。
あっ、あぅ、あ、…
咄嗟に反応できず、ただ口をパクパクと上下させた。
こわごわといった様子でゆっくりと視線を降ろす。
だらんと伸びた細長い四肢が目に入った途端、市井は目を瞑り、その先を見るのを躊躇した。
- 32 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時09分04秒
- 「おお゛―っ!お前らぁっ!」
猛烈な勢いで吉澤が自らを拘束する腕を振り払おうと躍起になっていた。
はぁ、はぁ、と熱い息を吐く様子が目を閉じていても伝わってくる。
市井は勇気を振り絞って少しずつ、目を開く。
(ユ、ユウキ…)
血溜まりが目に入った。
「うっ…」
思わずギュッと目を閉じた。
(ユウキ…ユウキ…)
「市井よ、わかっただろう。お前は俺に従わざるを得ない」
(ユウキ…ユウキ…ユウキ…)
固く閉じられた目から幾粒もの涙が流れ落ちた。
「…ユ、ユウキ…」
知らずとその口から嗚咽が漏れる。
涙はとめどなく流れ落ちる。
「ユウキ!ユウギィ゛ーッ!!」
市井の口から搾り出された声は、聞くものの胸を引き裂きそうな悲痛さを帯びて倉庫の高い天井に反響した。
- 33 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時09分34秒
- んぐっ、くぐぅっ!
ソニンは転がったまま、何が起こったのかを確認しようと必死で体を動かそうとしていた。
「離せよ!コノヤロウ!離せ――」
ガクッと吉澤の体が崩れ落ちた。
「煩い奴だが、こっちにはまだ商品価値があるからな…」
延亨黙の拳銃で後頭部を打たれた吉澤は気を失って倒れ込んだようだった。
「お、おまえぅわぁーっ!!」
市井は獅子のような咆哮を上げたが、対する延亨黙はおもしろそうに眉をピクリと上げただけだった。
「市井よ。勘違いするなよ。こいつは既に出来上がっていた。ヤク中だ。放って置けば目を背けたくなるほどの苦しみを伴って死んでいく」
「な、何を…」
「こいつは、貴重な商品に手を出した薄汚い鼠だったってことさ」
「そ、そんな…」
「ちょっとばかり荒っぽい安楽死ってとこだ。気にするな。奴の目を見ただろう。ありゃ末期症状だ」
そんなばかな、と市井は思った。
同じ死線を潜り抜けて北朝鮮という国の崩壊から最後までを看取った男が薬なんかに溺れるとは市井には信じられなかった。
目の前に居るこいつはユウキの死をも冒涜している…
激しい怒りに市井は段々と息遣いが荒くなっていくのを感じた。
- 34 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時10分23秒
- 「…薬に頼らざるを得ない状況、というのもあることを理解した方がいいな、お嬢ちゃん…」
ふと、ニヒリズムの権化のような男の顔に浮かんだ寂しげな表情を市井は見逃さなかった。
「戦場でも後方にいて安全を保証されていたお前にはわからんことかもしれんが…」
「何を――」
「動くな!」
市井の頬を銃弾が掠めていった。
「おい、そこの鼠。耳に穴があるなら出て来い。これ以上、体に穴の数を増やしたくなければな」
延亨黙の死線は市井を超えてその後方、さらに遠くへと向けられている。
市井は頬に残る風圧の痕跡を擦(さす)りながら後ろを振り返った。
しばらくの沈黙の後、延の命令により照らされた入り口近くに置かれた重機の影から何者かが現れた。
「紗耶香…?無事なの?」
「圭ちゃん?!」
「紗耶香?生きてるのね?紗耶香!」
市井は声の聞こえる方向に踏み出そうとして、再び自分のすぐ脇を掠めた鋭い衝撃にビクッと奮えて立ち止まった。
苛ついた声が背後から追いかける。
「動くなと言っただろう。そこのお前、こっちに出てくるんだ.」
- 35 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時11分07秒
- 延亨黙は自分の存在を忘れたかのように振舞う二人の態度に怒気を含んだ声を震わせ、今にも切れそうな危険な雰囲気を漂わせていた。
それを察知したのか、保田が静かにゆっくりと前へ歩を進める。
ほとんど市井に並ぶほどの位置まで近づいて、ようやくその人物の顔と名前が一致したらしく、延亨黙は大げさに驚いて見せた。
「ほう。こいつは驚いた。アムネスティの大立者がこんな場末の倉庫に何の用かな?」
(…紗耶香…誰?)
(…延亨黙…)(…こいつが…?)
小声で市井に尋ねる保田の声を聞きとがめて、延亨黙が吠えた。
「本人の前で噂話とは感心せんな。もっとも既に――なんだ?」
異変に気付いた延亨黙は口を閉じて言葉を止めた。
機敏な動きで柱の影に入り込むと、入り口の方向を窺うようにして背中を柱に張り付けた。
部下に目で様子を探るように合図する。
- 36 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時12分09秒
- 何かが近づいてくる様子を察知して、保田は市井に耳打ちした。
(警察がやってくるわ…早く物影へ)
(でもソニンが…)
保田はソニン、と市井が口にしながら見やった方向にちらっと視線を走らせた後、表情を変えずに短く告げた。
(とにかく、隠れないと)
そう言いながら市井の手を取って、手近な柱の影にサッと滑り込んだ二人を銃声が追うことはなかった。
すでに威嚇する余裕さえ失った延亨黙一味の沈黙はそれでも不気味だった。
サワサワという音を立てて何かが倉庫に近づきつつあるのは、もはや市井や保田の耳にも明らかだった。
ザ、ザッ、という音がいきなり止んで、一瞬の静寂が辺りを包む。
と、突然、拡声器による大音声が倉庫内に響き渡った。
「警視庁第六機動隊だ。この場は既に我々が包囲した。犯人は人質を解放して速やかに前に出なさい」
- 37 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時12分46秒
- 市井はその場に漂っていた緊張感がふっと和らいだような気がした。
保田と市井はこれから何が起きるのか息を詰めて見つめているというのに…
不用意にも――市井にはそのように見えたー―延亨黙はひょっこりと柱の影から姿を表した。
「…なんだ、誰かと思えば――」
その途端、割れるような銃声が轟き、市井は咄嗟に目を閉じて両耳を抑えた。
機関銃などの連続掃射によるダダダダ、ダ、というイメージよりは、ゴォーッというジェット機のエンジンが噴射したような一塊の轟音が風圧とともに直接ぶつかってくる感覚に近い。
目を閉じていてもツーンと鼻に突き刺さる火薬の匂いで、物凄い量の銃弾が発射されたことがわかった。
耳を押さえたまま身を縮めて待つ時間が数時間にも感じられた。
キーンという耳鳴りが止み、恐る恐る瞼を開けると、白く霞んだ煙の向こうへと踏み出す武装した警官の姿が見えた。
「な、何が起こったの?」
保田は展開の早さに頭の回転が着いていかないようだった。
市井に尋ねる口調は戸惑いに満ちていて、保田にしては珍しく頼りなげに感じられた。
- 38 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時13分36秒
- 「あいつ…殺られたみたい…」
白煙の向こうで始まったらしい現場検証に市井はやや苛立ったような表情を見せ、そして、ハッと気付いたように前に飛び出した。
「ソ、ソニンは?ねぇっ!ソニンは無事なんですか?!」
「さ、紗耶香…」
慌てて追いすがろうとした保田の脚はしかし、過度の緊張のためかすぐには動かず、前につんのめるような形で膝から崩れ落ちた。
飛び出した市井の前をすぐに数人の警官が塞ぎ「立ち入らないで下さい」と告げて、上司らしき男を呼んだ。
「お怪我はありま――」
呼ばれた男は市井に怪我の有無を確認しようとして、すぐに腕の傷口に気付いて部下を呼んだ。
「おい!すぐにこの人を病院へ運んでくれ!お嬢さん、傷の処置後に窺いますので詳しい経緯については後ほど」
そう言うと、すぐに飛んで来た部下に市井を渡した。
「えっと…あの、ソ、ソニンは大丈夫ですか?それから…」
警官二人の運んできた担架に乗せられるのを一瞬、拒んで、まだ霞の残る倉庫の置くの方に目を凝らすと、誰かが叫ぶ声が聞こえてきた。
「警部!人質と思われる生存者がいます!」
- 39 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時14分09秒
- 市井はソニンの無事を確認したかったが、早く担架に乗るよう促す警官の言葉に後ろ髪を引かれながらも、白いキャンバス地の布の上に体を横たえた。
「紗耶香…後のことは私が連絡するから、傷の手当てを早く…」
何時の間に起き上がったのか、保田が市井の耳元で囁く。
「ソニンは大丈夫みたい…それより、自分のことを心配しなさい」
後ろを振り向きながら告げる保田の声に緊張が解けたのか、はたまた体を横たえたことで急に眠気が襲ってきたのか、市井は意識がぐらりと揺れて体がストンと闇の中に落ちる感覚を最後に意識を失った。
担架を運ぶ警官二人は市井の様子に危急を要すると見て、急いで立ち上がると車に向かって歩き出した。
保田はその行方を目で追うと、傍らで警官が質問していることにようやく気付いた。
「水上署のものですが。調書を取らせていただけますか?いえ、時間はかかりませんので…」
保田はその質問の主を手で制して、一瞬、心配げな顔を倉庫の奥に群がる警官の群れに向けた。
- 40 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時15分10秒
- 「ソ、ソニンは大丈夫ですか?」
「ああ、人質の女性ですか?衰弱が激しいようですので精密検査のために彼女も病院へ収容します」
「犯人は…犯人はみな死んだのですか?」
「あれだけの弾を喰らって生きてるとは思えませんな。この匂いでお察しください」
たしかに現場には硝煙の焦げ臭い匂いのほかに何か吐き気を催させるような不快な臭気が漂っていた。
それが血の臭いだと気付いたときには、保田は膝から崩れ落ちていた。
咽喉を通って押し上げてくる苦いものを我慢するすべもなく、その場に蹲(うずくま)り、警官が擦(さす)る手を背中に感じていた。
「いやぁ、我々でもああいうものはなかなか慣れませんから。若い女性では仕方のないことですよ」
しきりに背中を擦る警官の手がなんだか、自分のブラの線を確認しているようで嫌だ、と保田は思った。
「大丈夫ですか?」
優しい口調で掛けられた声にさえ、どこか下心を感じて穏やかでない。
だが、その手がなければ、とても正気を保ってはいられないほどに今の自分が混乱していることを保田は意識していた。
- 41 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時15分52秒
- 「だ、大丈夫…もう大丈夫です」
ゆっくりと立ち上がりながら、ハンドバッグに手を入れてティッシュを探す保田の目の前に一枚のハンカチが差し出された。
綺麗にアイロンされたらしく折り目のついたそれは清潔そうで、保田は一瞬、意図を量りかねた。
「どうぞ…」
それが自分の口元を吹くように差し出されたものと知って、保田は恥ずかしさを感じるよりも前に、なぜか差し出した警官に好意を抱いてしまう自分を戒めた。
「す、すみません…」
しかし、警戒する頭の中の声とは裏腹に、素直に差し出されたハンカチで口元を拭った保田は「洗濯して返しますから」と告げながら、最高の笑顔(と自分の考える表情)で警官の顔を見上げた。
長身の年若い警官は保田の笑みを怪訝な表情で受け止めながら「では署までご同行願います」と事務的に告げて車へと案内しようとした。
保田は一抹の寂しさを覚えながらも、病院へと運ばれる市井とソニンの状態を思い起こし、背筋を伸ばした。
一刻も早く自分の調書を終えて、彼女らに付き添わなければならない。
- 42 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時16分35秒
- 意識のしっかりしている市井はともかく、ソニンは精神的なダメージも大きいだろう。
早足で歩く警官の背中を目で追いながら、保田は倉庫の奥で上がった嬌声をぼんやりと聞き流していた。
(おぉい、この女、生きてるぞ…)
(なんだ、こいつ?犯人の一味か?)
(聞いてないな…)
(とにかく病院に収容だ、気を失っている)
(どっかで見た顔だけどな…)
(ああ、そういえば…)
だが、保田が倉庫の外に出たときにはすでに中の喧騒は言葉として認識されるにはあまりにも渾然としており、遂に聞き取られることはなかった。
保田はハンカチを渡してくれた若い警官に促されるまま後部座席に座り込むと、薄雲を通して朧に霞んだ月の黄色い明かりを映し出す海面の揺らぎに目を留めた。
波の小刻みに揺れる様子に合わせて楕円形の黄色がギザギザの形に崩れてはまた円形へと収束する姿を眺めていると、結局、物事はなるようにしかならないのだと、保田らしくもない感慨を抱いた。
やがて、無線で連絡を取る声に続いて車がゆるやかに発射すると、後には黄色い月が粉々に砕け波間に溶けたその残滓だけが残って黒一色の水面を漂っていた。
- 43 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時17分11秒
- 倉庫の中では検死を終えた延亨黙の原型を留めていない嘗て顔だった部分と、そして死後硬直の始まったユウキの蝋人形のようにほの白い顔が並べられて検死解剖のために運ばれるのを待っていた。
傍で倒れていた吉澤の安否を確認するために一瞬、その体がユウキの横に並べられたが、すぐに担架に乗せられて運ばれていった。
瞳を開いたままのユウキの顔は現場を煌々と照らすライトの光を反射して白く光っていた。
その顔に浮かんだ表情は穏やかで、特に苦しんだ様子は見受けられなかった。
むしろ死によってようやく救われたと捉えることもできないではない。
それほどその表情は解放感に満ちていた。
- 44 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時17分56秒
- あるいは、延亨黙の言葉は正しかったのかもしれない。
吉澤なら気付いていただろう。
たしかに生前のユウキはどこか死に急いでいるようなところがないではなかった。
一刻も早く、姉のもとへと旅立ちたかったのか。
それとも、吉澤の体を抱きながら姉と繋がる夢想に溺れる罪の意識からようやく逃れることができるという贖罪の意識からか。
その真意をもはや誰も知ることはない。
ただ天国で彼を向かえるはずの姉、後藤真希を除いては。
ボォーッ、と遠くで汽笛の音が聞こえた。
誰も惜しむことのないユウキの死を哀れむように。
その短い生涯にサヨナラを告げるかのように。
- 45 名前:名無し娘。 投稿日:2003年08月30日(土)03時20分35秒
- >23 56さん
いつもレスありがとうございます。
長くなっちゃいましたねw
あと少しですので、もうしばらくお付き合いのほどお願いします。
- 46 名前:56 投稿日:2003年09月01日(月)20時53分47秒
- ユウキ…嫌な予感はしてたんですけどね…。
前作での彼を思い出すと、きついです。でも…見届けました。
胸騒ぎいまだ治まらず。どうなるんだろう…
- 47 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時24分11秒
- ◇
水上署で事情聴取を終えたときには既に12時を回っていた。
保田が署の入り口を出たとき、二人は呼び出されたマネージャの車に乗り込んでいた。
近づいて車の窓に顔を寄せると、疲れきったのか石川の肩に頭を預けて寝入る麗奈の横顔が街灯の明かりを受けて青白く見えた。
疲れているだろうに、麗奈の肩を抱いてマネージャと明日以降のスケジュールについて相談しているに違いない石川の姿が保田の目にやけに健気に映った。
コン、コンと窓を叩くと石川がハッとして振り向いた。
「保田さん…今、終わったんですか?」
「うん。大分かかったの、聴取?」
保田は窓を下ろした石川と二言三言、交わした後、顔見知りのマネージャに「お世話をかけます」と声をかけると「あんたも大変ね」と笑って返された。
夜中に呼び出されるそっちの立場の方がよっぽど大変だろうに。
だが、保田は無言で微笑み返し、二人に向けて「お疲れ様」と告げて離れると、テールランプが見えなくなるまで車を見送った。
- 48 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時24分33秒
- 麗奈と石川は未成年ということもあり、また芸能人としてあまり長時間拘束することは好ましくないと保田が申し入れたにも関わらず、個別に呼び出されて多岐に渡る質問を受けたらしい。
その点が保田は不満だった。
現場に居た自分はともかく、麗奈や石川が質問されて答えられる範囲は限定されていたはずだ。
保田自身の聴取が比較的あっさりと終わったのに対し、二人のうち、特に石川の取調べ時間が長かったのはひょっとして担当の刑事の趣味ではないかと勘ぐったりもしたが、石川のぐったりした様子を見るとそんな下世話な想像すら申し訳なく思えた。
(ともかく)
保田は思った。ソニンの無事を確認できて安心したのは確かだ。市井も無事、病院に収容されたらしい。
そして、誰かもう一人、現場に居合わせたという少女の存在…
恐らく、それは吉澤だろうと保田は見当をつけていた。
彼女も市井と同じ病院に運ばれたのだろうか?そして、怪我の具合は…?
気になることは多かったが、質問して答えてくれるような内容でもない。
保田はただ想像するしかなかった。
それでいい。
事件は終わったのだ。
- 49 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時24分49秒
- だが、今後のことを考えると果たしてこれでいいのか、という思いが保田を悩まさないでもない。
ソニンを拉致して市井を呼び出した主犯が誰なのかはっきりしなかった。
あの激しい銃撃により犯人側はほぼ全員が命を失ったはずだ。
その中にユウキが含まれるのか、ほかに誰がいたのか、保田は何も知らされないままだった。
市井が収容された病院を教えてもらえなかったのも不満だ。
ホテルにアンテナを張っていれば、退院後に本人を捕まえることは難しくないが、それにしても釈然としないことが多かった。
ただ、これ以上、この件については詮索しないほうが賢明であることは確かだ。
自分を含め、今回の事件に巻き込んでしまった石川や麗奈のためにも。
タクシーが到着した。
保田は「ご苦労様です」と言って乗り込むと自宅近くの有名なビルの名を告げてそのままシートに体を預けて目を閉じた。
車の加速が背中に心地よい。
- 50 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時26分10秒
- うつらうつらしかけたところで保田はある重要な事実を思い出し、ハッと目を覚ました。
(麗奈と石川…)
二人は市井との接触を事務所から固く禁じられていたはずだった。
それどころか、自分が連れまわしたせいで市井との接触はどころか、裏社会の絡んだ大規模な抗争事件に巻き込んでしまった。
保田はハァッと深いため息を吐いて、窓際に顔を寄せ車窓の景色をぼんやりと眺めた。
青山界隈の通りはまだ人通りが絶えず、深夜であることをあまり意識させない。
時間の概念を無くしたかのように人込みでごった返すファミレスの混雑を窓の内側から覗き見て、あの人たちは一体、何を生業としてこんな時間に…と考えようとして止めた。
彼ら彼女らから見れば、自分とて、やはりこんな深夜に徘徊する妖しい女の一人でしかないのだろう。
特に今日のような事件に巻き込まれた後では、自分が非の打ち所の一点もない完全無欠な人間だと言い張る根拠を探すのは難しかった。
- 51 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時26分25秒
- 信号待ちで止まった車の横をまだ十代半ばと思しき男女が紅潮した顔を隠しもせず、だらしない姿で歩いている。
妙な形に絡ませた腕が粘着的な性の嗜好を感じさせて見る者に不潔感を覚えさせた。
少なくとも、保田に最悪の印象を与えたのは確かだ。
女がぶんぶんと振り回すバッグのブランドを判別して保田は眉を顰(ひそ)めた。
ヴィトンの新作だ…
高校生の年頃が持って似合う類のものではなかったし、ましてや酔っ払って男に卑猥な接触を許す性的にだらしない女性が持つことを許される品物とも思えなかった。
ヴィトンの極東地域担当者にこの場面を見せて、日本での拡販政策を撤回させたい衝動に駆られた。
供給を増やしても価格の落ちることがない稀有な財貨であるギッフェン財。
教科書でしかお目にかかれないような珍しい品目のサンプルが貧相な女の手元でブラブラと揺れている。
暖簾としてのブランド。
その価値が極東の島国において浸食されつつある事態にヴィトンの経営幹部は果たして気づいているのだろうか?
保田は思った。
ヴィトンのバッグは止めよう、と。
ブランド好きの保田としては、これは苦渋の決断だった。
- 52 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時26分42秒
- 信号が変わって車が動き出した。
ぐるぐると回されて失墜していくブランドの価値が後ろに流されていくのを横目で見ながら、保田は麗奈と石川が罰せられるかどうか考えた。
彼女らに今回の件で処分が下されるとは考えがたいものの、やはり、自分から何らかの形で事務所側に説明を入れておく必要があるだろう。
保田はなんとなく気が滅入るのをどうしようもなかった。
社長の瀬戸は嫌いではなかったが、実務家としてその杓子定規な人柄は、あまり評価していなかった。
つまり確実に何らかの嫌味を言い渡されるであろうということ。
それを考えると、保田は憂鬱だった。
やがて指定した場所に到着すると、保田はメーターの表示よりもやや額面の大きな紙幣を数枚差出し、無言で車を降りた。
今度はテールランプを見送らずに歩き出した。
ここでもやはり、酔客らしいカップルが保田の前を歩いている。
- 53 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時26分55秒
- 保田は急にひとりぼっちになったような寂しさを感じて無性に誰かに会いたくなった。
だが、冷静に考えると、市井はどこの病院に収容されたかもわからないし、石川は疲れ切った顔に笑顔を浮かべながら帰宅した。
頼みの矢口も今夜に限っては、近寄らない方が無難だ。
今や事務所の中枢にまで上り詰めてしまった准経営管理職待遇の矢口に今夜のことを探られては麗奈と石川の立場がない。
そして、今、いちばん会いたいはずの人物は…
海を挟んだ隣国の土の中だ。
保田は足を止めて、丁度差し掛かったコンビニへと入ると、缶ビール数本とそこそこ飲めることがわかっている銘柄の赤ワイン一本とを籠に入れてレジへと向かった。
バイトの青年がバーコードを読み取りだしてからつまみがないことに気づいたが、あえて買う必要性は感じなかった。
- 54 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時27分11秒
- (つまみは…)
「1900円からになります」
(あんたとの思い出だ…)
反射的に紙幣を二枚差し出すと青年が機械的にお釣りを返し、仮面として固定したような笑みを浮かべながら「ありがとうございます。またお越しください」とやはり機械的に発声した。
空調の効いた店から外へ出ると、むわんとした空気がやけに重く感じられた。
(今夜は飲み明かそうか…)
保田は空を見上げた。
梅雨空に星はなく、時折霞む雲の陰から申し訳なさそうに顔を出す月の灯りだけが、ぼんやりと保田の顔を照らした。
(あんたと差しでね…)
コツコツと刻まれる保田の足音が舗道に響いた。
保田の心は幾分、軽くなったように感じられた。
だが、どんよりと湿った空気はやはり重たかった。
- 55 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時27分36秒
- ◇
目が覚めると白い靄(もや)に包まれていた。
ココハドコダ…
ハッ、と体を起こそうとして腕に激痛が走るのを覚えた。
そうか、ここは…
白いカーテンが四方を囲むベッドの上で市井は両腕に巻かれた包帯の痛々しさをどこか他人事のように眺めていた。
何時かはわからないが、午前中であることは確かだろう。
朝の検温を済ませた後で看護師の運んできた、食パン一枚と牛乳パックにオレンジ一個という簡単な朝食の残骸がまだキャビネの上に置かれたままだった。
正午を過ぎていればいくらなんでも片付けているだろうという適当な思い付きだったが、白いカーテンを通してぼんやりと差し込む明かりの柔らかさが何となく午前の日差しを感じさせていた。
「ちょっと失礼!」
ひょいと顔を覗かせた看護師は朝、自分の検温に訪れたのと同じ顔だった。
「ごめんね!個室が少なくって。相部屋になっちゃうけど、あなたは今日の午後か明日には退院できるから、ね?」
「は、はぁ…」
「若い女の子だし、おしゃべりしてれば気も紛れるし、ね?」
語尾に「ね?」とつけるのが口癖のようだった。
- 56 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時27分46秒
- 特に迷惑にも感じなかったし、自分の横に誰が運ばれてくるのかにも興味はなかったが、事件のことを煩く詮索してくるようなタイプだったら嫌だな、と思った。
「それじゃ、市井さん。あなたは腕の外傷だけだから、自由に動けるから何かあったらお願いね」
「はぁ…」
それって職務怠慢じゃ?とは思ったものの、空調が効いて冷んやりと涼しい病室で額から汗を滴らせてベッドを運んでくる忙しそうな看護師の様子に市井は何も言い返せない。
看護師がしきりと話し掛けている新入りの患者は首まで毛布を掛けられており、自分よりも重い怪我あるいは病気であることが察せられた。
「じゃ、吉澤さん。何かあったら、隣の市井さんにお願いして、ね?体に変調を感じたらナースコールで呼んでもらうから」
「よっ!…」
「あら、知り合い?なら、丁度いいわ。市井さん、よろしくね。この人、後頭部打撲で精密検査の予定だから、何か急変する聴講があったら、遠慮なくコールしてください。お願いします」
そういうことか…
市井は職務怠慢だなどと一瞬でも考えた場分が恥ずかしかった。
- 57 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時28分00秒
- ベッドの上を覗いて見ると、吉澤はまだ寝ているように見える。
自分を傷つけた張本人ではあるけれど、さほど憎しみを感じないのが不思議といえば不思議だった。
ユウキを失ったショックは大きかった。
自らが傷ついた程度の些事にいつまでも拘泥しているわけにいかない。
強がらなければならない理由が痛いにはあった。
吉澤が昏倒した理由も延亨黙の銃床による後頭部への一撃というよりは、ユウキを失ったことによる精神的ショックではないかと勘繰ったりもした。
だが、それは吉澤が起きてみないとわからない。
「あ、朝ご飯、全部食べられたの?大丈夫みたいね。午後に先生が問診に来るけど、それで問題なければ帰れるから」
「警察の方はもういいんですか?」
「特に何も言われてなければ、ね?」
そう言うと看護師はトレイを片付けて足早に病室から去っていった。
警察病院の職員としては、あまりにもぞんざいな対応に思えたが、実際、昨晩、簡単に聴取を行った刑事からも退院後のことについては特に何も指示はなかった。
- 58 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時28分15秒
- 宿泊しているホテルの名前も告げてあるし、離日の予定も伝えてある。
逃げも隠れもするつもりはないし、聴取のためであればもう一日くらい滞在を延ばしてもいい。
だが、市井には、そうはならないだろうという予感めいたものがあった。
はっきりとした確証があるわけではないが、そんな気がする。
どういうわけかはわからないが、日本政府の意思として、高麗政権とは敢えて事を荒立てることを巧妙に避けている印象を受けていた。
保田の話によれば、後藤に関する言論統制などもその一例だということだが、吉澤の偏執的とも言える異常な憎悪にそうした外交政策の歪みを見出すことは間違っているとは思えなかった。
市井は吉澤の寝顔をぼんやりと見つめた。
白い肌。整った鼻梁。薄い唇。
美人としての条件は揃っている。
その彼女が何の因果で自分の命を狙わなければならなかったのか…
市井は不思議、という言葉でしかその奇妙な心持を言い表すことができなかった。
- 59 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時28分30秒
- 「お前もさ…ある意味、犠牲者なんだよな…」
市井は眠り続ける吉澤に聞かせるともなしにひとりつぶやく。
「後藤はさ…大したやつだったよ…たしかに私はあいつを助けられなかった。けどね…」
市井は急にバカバカしくなって「やーめた」と一声吐き出すと、パタンとベッドに体を投げ出した。
「あいててて…」
怪我していることを忘れていたわけではなかったが、思った以上に傷は深かったようだ。
この分では、今日中に退院できるかわからない。
「あー、いて。ったく、あんたが妙なこと考えなきゃ、こんなことにはならなかったんだからね。もおっ!」
強がってはみたものの、眠っている患者相手の啖呵では迫力も知れている。
自分自身、それがわかっているだけに余計に腹立たしい。
天井を眺めると古い病院らしく染みが目立つ。
それがまたロールシャッハだかなんだかの心理テストで使うような模様に見えて落ち着かない。
たかだか図形の分際で人の心を見透かそうという大冗談に構えた態度が偉そうでムカついた。
- 60 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時28分44秒
- 「…あんた、生きてたんだ?」
ビクッ、と反応して首を隣のベッドに向ける。
「…起きて…たの?っていうか、生きてて悪かったわね。おかげさまでピンピンしてるわよ」
憎まれ口を叩くのは照れを感じたせいだろう。
吉澤が昏睡したままの植物状態というわけではなかったことにどこか安堵している自分が不思議だった。
「それより続きを教えて…」
吉澤もやはり、寝たまま首だけをこちらに向けてくる。
心なしかその瞳は幾分穏やかで、昨晩目にしたはずの憎悪の炎は跡形もなく消え去っていた。
「続きっていうと?」
「私が犠牲者だっていうとこから…」
「…ああ、それ?情報は操作される運命にあるってことさ…」
「わかんないよ」
「今から話すよ」
市井はなんだか昔からの知り合いと話すかのように振舞える自分にある意味感心していた。
そして、殺そうとしていた相手に平然と話し掛けることのできる吉澤に対しても。
- 61 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時29分11秒
- だが、二人の間に介在していた憑き物のようなものが落ちたと考えれば別段、不思議でも何でもないような気がするのもまた事実だ。
市井はまだ気付いていないが、二人の間には昨日、互いの絆を深めるような出来事が確かにあった。
意識に上ることを巧妙に避けてはいるものの、ユウキの死が互いを近づけていることに二人が気付くのは時間の問題だった。
「あんたさ…」
「ん?」
二人の目が合った。
市井は一瞬、言うべきか迷ったが、吉澤を縛る頚木から解くにはやはり言うしかないのだ、と考えた。
「ユウキと付き合ってたんだろ?」
「…」
吉澤はこちらに向けていた頭を戻して天井を見つめる。
無言は肯定のしるしだ。市井は構わず続けた。
「何か…感じなかったか?あの子は麻薬に溺れるような子じゃない」
「わかんない…けど…」
「けど?」
市井は延亨黙がユウキを撃った直後に見せた寂しげな表情を思い出した。
やつはユウキが悩んでいたことを知っていた。
そして、そこから逃れるために薬へと逃避したことも…
市井の想像が正しければ、それはおそらく…
- 62 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時29分29秒
- 「ユウキが抱いているのは私じゃないって…わかってたよ」
「あいつ下手だったの?」
あはは、と力のない笑い声をあげて吉澤は否定した。
「強かったよ。何回も求められた。今、考えると、薬のせいかな?とも思うけど」
「ユウキはあんたに何を求めてたんだろうね…」
「さあ…何となくだけど、安らぎたいのかなぁ、と思った」
市井は吉澤がユウキのことを話すとき、柔和な顔つきになるのを見て胸にちくちくとした小さな痛みを感じた。
まるで古傷があるのを思い出したとたんに疼き出したみたいに。
「よく胸に顔を埋めたまま長いことじっとしてたよ。なんかお母さんになったみたいだった。そんなに胸、ないのにね」
「私はよりはあるだろ?」
「市井ちゃんと比べられてもね」
「おい、その呼び方…」
やめろ…と言いかけて、市井は唇を噛み締めた。
寂しいのは自分だけじゃない。
- 63 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時29分41秒
- 「ごめん…でも、一回、言ってみたかったんだ。どんな気分かな?って」
「あんたが気に入ったんなら、そう呼べばいいよ」
だが、吉澤はうえを向いたまま首を小刻みに揺らした。
「ううん。やっぱ、やめとくよ。気持ち悪いもん。なんか、ブルブルって来た」
「お前なぁー」
市井は吉澤の顔を睨みつけようとしたが、当の本人が満面の笑みをその顔いっぱいに浮かべているのを見て、呆れつつもすっかり気勢を削がれてしまった。
「ま、いいや。とにかくユウキが苦しんでたのは確かだね」
「わかるの…?」
吉澤は怪訝な表情を浮かべて市井の顔を凝視した。
「まあね。一応、戦友だし、あの子の姉思いは嫌になるほど知ってるし」
「ふーん…私にはわかんない。でも、なにか不思議だった。あいつ、バックについてる連中のこと、すごい嫌がってたもん」
「バックって…延亨黙のことかい?」
「ヨンヒョンモク、って言うんだ、あいつ?」
吉澤は霧が晴れたとでも言うように目を輝かせて聞き返した。
- 64 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時29分56秒
- 「じゃあ、あいつが『御前さま』なのかなぁ…?」
再び上を向いて考え込む吉澤に今度は市井の方がせっつくように尋ねた。
「『御前さま』って?」
吉澤はひょいと首を回して市井の顔を見つめた。
「ん?ああ、なんか連中の一番偉い人、っーか、一番悪いやつだよね。よく携帯で呼び出されて、『誰?』って聞いたら、『また御前さまだ…』って吐き捨てるように言ってたから…」
「ふーん…」
市井はしばらく考え込んだ。
吉澤はその様子をつまらなそうに眺めては再び市井が口を開くまで辛抱強く待ちつづけた。
やがて得心したように市井がうなずくと吉澤は目を輝かせて「何かわかった?」と咳き込むように尋ねた。
市井はゆっくりと首を傾けると厳かな表情で告げた。
「それは延亨黙じゃないね…」
「じゃ誰?」
吉澤は眉をひそめて聞き返す。
- 65 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時30分10秒
- 「恐らく…」
「うん」
「後藤を最後まで愛しつつ護れなかったヘタレ野郎」
「何それ?それって――」
あんたじゃん、と言いそうになり、吉澤は慌てて口を閉じた。
代わりに「バッカみたい」と呆れたように告げるとそれっきり上を向いて沈黙した。
市井は寂しげに口元を緩めて誰にともなくつぶやいた。
「まるで私みたいだね」
ハッ、として市井の方を振り返ると目を細めて吉澤に弱々しく微笑みかけた。
「でも私と違うのは同じ顔をした弟にまで手を出したってとこかな」
「それって…」
ようやく吉澤にも見当がついたらしい。
思い当たる節はあったのだろう。
吉澤が再び沈黙の中に沈むとその場の空気が重苦しい雰囲気に包まれた。
市井はそんな吉澤の様子に頓着することなく、淡々とひとり語り続ける。
- 66 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時30分26秒
- 「不思議なのは、あんな最低なやつなのに後藤が好意を抱いていたらしいってこと」
吉澤は目を閉じて耳だけを欹(そばだ)てている。
「後藤が死を選んだのは、あいつを助けるためでもあったかも――」
「嘘だ!」
かっ、と目を見開いて半身を起こそうとした吉澤は胸に掛けられた毛布を跳ね上げたところで、頭の傷が痛むのか、すぐに肩から落ちて顔を枕に埋めた。
「あつっ、いてて…」
「無理すんなって。あんたの方が重傷かもしれないんだから。検査の結果が出るまでは安静にしときなよ」
吉澤はそれでも何か言わなければ気がすまない、とでも言いたげにほほを膨らませて市井に抗議を続けた。
「なぁ、吉澤。私もよくはわからないんだけど、平壌での最後の日々、後藤は幸せだったんだと思うよ」
「そんなこと…」
「まぁ、聞きなって。私らにとって祖国ってなんだと思う?」
「えっ?」
吉澤は急に思ってもみない質問を浴びせられて戸惑った。
- 67 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時30分40秒
- 日本人なら日本が祖国に違いない。
だが、市井はそんなことを答えさせるつもりで質問したわけではもちろんない。
というか、答えを期待しての質問でさえなかった。
吉澤は市井の期待したとおりの反応を返している。
市井は日本人にとって「祖国」という意識が稀薄であることを吉澤に思い起こして欲しかった。
「うちらにとって『日本』って国はあって当たり前でしょ?でも、後藤にとってはそうじゃなかった」
「ごっちんが在日だってのは、死んでから初めて知ったよ」
「そう、あそこの家は複雑でね。後藤以外の家族はみな帰化してるのに、後藤だけがなぜか朝鮮籍のままだった」
吉澤は真剣な面持ちで市井の顔を見つめている。
「朝鮮学校で受けた民族教育のせいかどうか今となってはわからないが、多分、当時の北朝鮮の人間以上に後藤はあの国を祖国として愛してたんだと思う。私らには到底想像もできないことだけどね」
「平壌で…北朝鮮で一緒に住んでたんでしょ?」
吉澤は遠慮がちに尋ねた。
あるいは、そんな些細な思い出さえ共有できなかったことに対してのこだわりがあるのかもしれない。
- 68 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時30分55秒
- 「ああ、住んでた…こんなことを言うと不謹慎だけど…楽しかったよ。最初のうちは」
「最初だけ?」
素直に耳を傾ける吉澤には、もはやヒットマンとしての殺伐とした雰囲気は一切、感じられなかった。
「ああ。すぐに私が強制収容所送りになってしまったし、それに後藤はあのときすでに…」
「すでに、何?」
吉澤は身を乗り出しかねないほど市井の話に集中していた。
「いや、祖国に殉じる心積もりでいたのかなぁ、って」
吉澤は市井の方に向けていた顔を天井に向けてぽつりと語った。
「…そうやって、ごっちんのこと話されると、スゴイ胸が痛い。チクチクする」
吉澤が表情を曇らせるとまるで太陽が隠れてしまったように空気の色が変わった。
少なくとも市井にはそう見えた。
「私は…悔しかったんだと思う。あんたを追ってあんな国――あ、ごめんね。革命前のキタチョーセンの方だよ――あんなとこへさえ行かなければ、って。あんたさえいなければ…」
市井は古傷があるのを思い出しただけでなく、それがじくじくと痛み出すのを感じた。
- 69 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時31分13秒
- 吉澤はそんな市井の様子を横目で見ながら淡々と続ける。
「私たちはもっと仲良くなれたのに、って…」
「吉澤…」
「あはは、ごめんね。でも、多分、一生、この思いだけは消すことができない。あんたには、いっぱいあるごっちんとの思い出を私はつくることさえ許されなかったんだから」
「思い出があるからこそ、辛いこともあるよ…」
「辛い思いさえできない私には羨ましい限りだけどね」
「吉澤…」
市井は掛ける言葉さえ見つけられなかった。
自分だけではない。
後藤を失って心に深い傷を負ったのは…
しかも吉澤は体を合わせたユウキまでも失っている。
その悲しみの深さは市井にも推し量ることはできそうになかった。
だが…
「吉澤…」
「?」
吉澤は瞳の色で問い返した。
「私を許してくれとは言わないよ。ただ、後藤の意志は汲んでやってほしい…」
「ごっちんの…意志…?」
吉澤は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔で市井の言葉を待った。
- 70 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時31分36秒
- 「たしかに、あんたには後藤との思い出は少ないかもしれない。けどさ、あんたにも見ることはできるんだ」
「…」
吉澤の寄せる真剣な眼差しに市井は手応えを掴んだ。
「後藤が自らの死を選んでまで願ったあの国の未来をね」
「あの国の…未来…?」
吉澤は放心したようにただ、言われた言葉を繰り返した。
「ああ。後藤が死を賭して護ろうとした民族の誇りと尊厳を、あの国の未来をあんたは見ることができるんだよ。だから…」
「だから…?」
市井はニッコリと微笑んで告げた。
「おいでよ、高麗に」
「私が…高麗に?」
「ああ」
市井は力強くうなずいた。
- 71 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時31分50秒
- 「あんた自身の目で、後藤が開こうとした国の未来をしっかりと見て、感じておくれよ。後藤が望んだ新しい国の息吹をね」
「ごっちんが…望んだ…」
「そうさ。後藤の死が無駄だったかどうかあんた自身の目で確認するんだ」
「私が、高麗に…」
「ああ。けど、その前に片付けなくちゃならない問題がいっぱいありそうだな。まずは、あんた、その怪我治さないと」
言われて急に傷の存在を思い出したのか、吉澤は後頭部に手を当てて痛そうな素振りを見せた。
だが、その晴れやかな顔にはどこか、迷いの吹っ切れたような清々しさが感じられた。
それっきり黙りこんで何やら必死に考えている風の吉澤だったが、やがてすぅーっ、という綺麗な寝息が聞こえてきて、眠りについたことを悟った。
憑き物は果たして落ちたのだろうか。
市井は少し考えて、ふっ、と笑った。
(愚問だな)
憑き物など最初からいやしない。
あるとすれば、日本と高麗の間で何事かを企む魑魅魍魎のような輩の妄念だろう。
市井は果たして、吉澤がそうした妖怪変化のような悪党の存在に気付くことができるだろうかと想像してみた。
- 72 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時32分06秒
- ふふっ…
自然と笑みが漏れる。
(愚問だったな…)
この子は頭がいい。そして、強い信念に裏付けられた行動力。
市井はこの娘の回復した後が楽しみだ、と思った。
吉澤の胸のすくような大活劇をニヤニヤと想像しているうちに、やがて市井も眠気を催した。
瞼の落ちようとする力に抗しきれず目を瞑ると、すぐに眠りについた。
夢の中で吉澤は誰か小さな少女を護るために必死で戦っていた。
悪党を倒して近づいた少女に吉澤はやさしく声をかけ、そしてどこか遠くを指差してそこへ行くのだ、と告げているようだった。
市井にはその少女が麗奈のように思えた。
なぜか馬上の人となった吉澤は夕陽に向って消えて行く。
麗奈はその姿を目で追いながら強い決意のこもった表情でうなずくのだった。
- 73 名前:名無し娘。 投稿日:2003年09月03日(水)11時50分43秒
- >46 56さん
早速のレスありがとうございます。
現実のユウキにはもう少し芸能界にいてほしかったんですよね。
そんな恨みつらみが反映されてしまったかもしれませんw
多分、あと二、三回の更新で終わると思いますのでお付き合いください。
- 74 名前:56 投稿日:2003年09月06日(土)15時37分54秒
- 保田がやっぱりかっこいいなあ。うれしいです。
今回、市井と吉澤の語らいで、前作の後藤がまた思い出されてきて…しんみりしました。
しかしなにか明るさを感じさせる展開ですね。
あと二三回とのこと、しっかりついていきます。
- 75 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 15:59
- ◇
「んじゃまあ、マコっちゃんの腰の完治を祝って…」
「カンパーイ!」
各々がグラスを前に掲げてカチンと合わせると小川が「でへへ」とふやけた笑みを漏らし、続いて照れを隠すように「どうも、どうも」と後頭部に手を回しながらまるで三平師匠のようにへこへこと皆に頭を下げて回った。
「おめでとう」「よかったねえ」「もーいたくなかとですか?」とそれぞれが情のこもった言葉で小川の退院を祝う中、片隅では異質な言葉が飛びかっていた。
「いったらきまーす!」
「こら!そのカルビ、うちの置いたやつやんか!のののやつはそっち、そっち!」
「いいじゃん、細かいこと言ってると禿るよ」
「やかましいわ!誰が美川憲一やねん!」
「こら!美川さんに失礼でしょ?っていうか……」
保田はあきらめたよに力のない言葉を漏らした。
「…大体、なんであんたたちがいるのよ…」
- 76 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:00
- 辻と加護はそんな保田の声などどこ吹く風とばかりに目の前の焼き肉を腹に収めるのに忙しい。
すぐに紺野や小川などメンバーの中でも一、二を争う大食娘、二人が乱入すると鉄板の周囲はさながら戦場のような阿鼻叫喚の地獄絵と化した。
ギャー、ギャーとうるさく騒ぎながら箸で肉を突っつき回す辻と加護。
黙々と職人のようにひたすら肉を網の上に置いては触手を伸ばす辻加護の魔手を厳然と箸でブロックする紺野と小川。
自然と内部での力関係のようなものが垣間見られて保田には興味深かった。
そんな中、麗奈はひとり淡々と箸をつける石川と保田に挟まれてビールを注いでみたり、薬味を取ってみたりと甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
最初は挨拶もろくにできなかったと石川から聞いていただけにその成長ぶりに眼を細める保田である。
なおもじっと麗奈の横顔を見つめていると、その視線に気がついたのか、ハッと保田の方に振り向いて「何か?」というように首を傾げて見せた。
「あんた、大丈夫だった?マネージャに叱られなかった?」
「少し…っていうか、大分、叱られました」
- 77 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:00
- 屈託のない笑顔で答えるが、こっぴどくやられたのだろう。
麗奈の向こうから石川がしかめっつらを左右に振って「そんな生やさしいものじゃぁない」と知らせている。
「不思議なことにさ。紗耶香と吉澤、警察病院で偶然、同室になってね…それでなんか意気投合したらしい」
「ええっ?!よっすぃと市井さんがですかっ?!!」
石川がすっ頓狂な声を上げて周りを驚かせた。
「もーぅっ!梨華ちゃん、うるさいよ!」
「そーや!他のお客さんに迷惑や」
「石川さん、もう少ししっかりていただかないと」
「だ、大丈夫ですよね?石川さん、そんな変な人じゃないですよね…」
自らの所行を棚に上げた辻加護の遠慮ない非難や紺野の控え目な口調ながらも辛辣なコメントを差し置いて、石川にはなぜか、小川の力ないフォローが気に触ったらしい。
- 78 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:00
- 「ちょっと!小川!何、日和ってんのよ、あんた!そんなだからいつまでたっても日の目が当たらないんでしょ!」
「い、石川さん…」
「もう、あんたは大体おかしいんだよ、いっつも口開けて、ぼぉーっ、としてんだから!ちゃんと口閉じてシャキッとしなさいよ、シャキッと!」
「い、石川さぁん…」と弱々しく訴える小川は今にも泣きそうな顔をしている。
さすがに保田は大人である。「まぁまぁ」と取り成して小川を慰めにかかった。
「石川も言い過ぎよ。確かに言われてみれば小川っていっつも口開けてるけどさ。おもしろいわよね、この子」
せっかくの保田の好意もフォローにはなっていなかったらしい。
いつ崩れてもおかしくない半泣きの小川を見かねて、麗奈が「お、小川さん、いい人ですよ、そんな怖か顔で怒っとうと皺が増えますよ、いしかぁさん」と言えば、石川は売り言葉に買い言葉。
「失礼ね。保田さんじゃないんだから、バカなこと言わないでよ」
「石川!どういう意味よ!」
ここまで比較的穏当に場を収めようと尽力してきた保田だが、ここへきて石川の暴言に気色ばんだ。
- 79 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:01
- 自分を通り越して剣呑な雰囲気が高まるのに危機感を抱いた麗奈は急場を凌ぐために、必死で話を元に戻そうと努めた。
「そ、それで、市井さんと吉澤さんはどうなったんですか?」
「うるさいわね。そんなことはどうでもいいのよ、今は――」
「あぁ゛ーっ!!」
突然、加護が大声を上げた。
「な、何よ?」
びっくりしたとばかりに皆が振り向くと、ここを先途とばかり辻が骨つきのカルビをしこたま自分の皿に蓄えているところである。
「のの!じぶん、何しとんねん!」
「ちっ、見つかっちゃった…」
「辻さん、ずるいよ!カルビなくなっちゃったじゃないですか?」
「こうなったら、もう…」
麗奈が重々しく皆の言葉を引き取った。
「市井さんに本場の焼肉に連れて行ってもらうしかないですね」
- 80 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:01
- おおっ!と歓声が上がった。
呆気に取られてその遣り取りを眺めていた保田はプッと噴出すと、堪えかねて大声で笑い出した。
「アッハッハ、あんたたち変わってないわね」
「保田さん、ちょっとは叱ってくださいよ、この子達、相変わらず衣装さんに迷惑かけっぱなしなんですから」
「そういう石川もちょっと頬のあたりがプニプニしてきたんでないの?」
「や、保田さん!言うに事欠いて…」
話がまた大きく脱線したところで麗奈が軌道修正に入った。
「ところで、ソニンさんは大丈夫だったんですか?」
保田は「そうそう」と手を叩いて何か言いたげな石川から視線を外して麗奈に向けた。
「ソニンだけど…」ビールを一口呷(あお)って「元気になったよ」と告げた。
「怪我とかなかったとですか?」
「うん。大分、衰弱はしてたみたいだけど、二、三日点滴落として安静にしてたら体の方は回復したみたい。ただ、精神的な痛手は…ね…」
保田は視線を落として、最後は口篭った。
麗奈は気になって仕方がない。
- 81 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:01
- 「保田さん…教えてください。私たち、車の中にいたから、あのとき何が起こったのか、未だによくわかってないんです」
そう言ってから「ね、石川さん」と横にいる自分に同意を求める麗奈の視線を受けて、石川は咳き込むように保田に詰め寄った。
「そうですよ!大体、警察も聞くだけ聞いといて何も教えてくれないんですから!」
今まで言葉にすることはなかったが、石川も余程その件については腹に据え兼ねていたらしい。
何しろもともと、状況が掴めていなかったところを保田に引き回された上、事件に巻き込まれ、挙句の果てに知らないことを根掘り葉掘り尋ねられて疲労困憊の極みにあったのだ。
深夜まで拘束された挙句に何も知らされないのでは割りに合わないと、石川が愚痴をこぼすのも無理のない話ではあった。
「ああ、じゃ、ここだけの話にしてほしいんだけどさ…」
保田は天井を見上げて考えながら、言葉を慎重に選んだ。
「本来、これは知ってちゃいけないことなんだからさ……ま、あんたたちの口の堅さは信用してるから言うけど、絶対、他言無用よ。この場にいない他のメンバーにもね」
- 82 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:02
- 保田の瞳の色が真剣味を帯びて鋭く光った。
それに呼応するかのように、今までおちゃらけていた辻加護でさえ真剣な表情を取り戻す。
紺野も状況がわからないなりにうなずいて心得たところを示している。
メンバーのプライベートから芸能界の雑多な情報まで、こと世間に漏らしてはいけない守秘事項に関して、モーニング娘。メンバーの口の堅さは申し分なかった。
結局、それが漏れたときに一番、困るのが自分達自身であることを何回かの情報漏洩事件で懲りているせいもあるのだろう。
保田は秘密保持に関し、この場にいる者に限っては、全幅の信頼を寄せていた。
「さて、どこから話せばいいかな…」
皆が真剣な顔つきで話しに集中しようとしている中で、小川の口がやはりぽっかりと開いていることに気づき、思わず突っ込みたくなるこころを抑えて保田は続けた。
「発端はやはり後藤の死だった」
ごっちん、と小さくつぶやいた加護のつぶらな瞳の奥で影が揺れた。
その名前にはやはり、ここにいる麗奈以外のメンバーを惹き付けずにはいられない重力がある。
- 83 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:02
- 「高麗政府が裁判で後藤に死刑判決を下したのはまったくの政治的判断だったわ。それに関して、私たちも尽力はしたけど、力及ばなかった…」
思い出すとつらいのだろう。
心なしか保田の顔色がすぐれないのを見て、麗奈はなんだか胸が痛いような、それでいて先を聞きたくてたまらないような妙な気持ちになった。
「保田さん、あの時期、テレビとかよく出てましたもんね」
「格好よかったよね。一時期、ノーベル平和賞も夢じゃない、とか言われてたし」
「そんなこともあったわね」
小川と紺野が懐かしげに振り返るのを保田は軽く受け流し、既に泡の消えたグラスの黄色い液体を一口啜って咽喉を潤すと、再び後藤の件に立ち戻った。
「そんなときね。ある議員から呼び出されたのは」
張り詰めた雰囲気に皆が息を呑んだ。
保田は何か重要なことを告げようとしている。
辻の箸からつまんでいた肉がぽとりと皿の上に落ちた。
「これ以上、後藤の助命嘆願を運動するのはやめてくれ。そう、言われたわ」
保田は今度はグラスごと飲み干して、ごくっ、と咽喉を鳴らした。
- 84 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:02
- 「そ、それって…」
「外交関係もいろんな利権が絡んでるらしくてね」
顔色一つ変えずこともなげにさらりと言ってのける保田に周囲のものはどう反応してよいのか戸惑うばかりだ。
小川が口を開けたままなのは相変わらずだか、隣の紺野までもがぽかーんとした表情で自分を見つめているのに気づき、保田は苦笑した。
「いやまあ、そんな映画みたいに格好いい話じゃあないのよ。別に脅されたわけじゃないし」
保田はやや刺激が強すぎたとみて、口調を変えてなるべく穏やかに聞こえるように努めた。
彼女ら自身、後藤に関する言論統制まがいの禁則を課されているだけに、その信憑性を疑うべくもないのだろう。
自分の話に真剣すぎるほどの態度で望む彼女らの姿に保田は少なからず罪悪感を覚えた。
滅多にないオフの日に聞かせたいたぐいの話ではなかった。
とはいえ、メンバーである石川と麗奈が関わっているだけに、最低限の事実は伝えておかねばならない。
保田は周囲が送る真剣な眼差しに負けぬよう、再び気合を入れなおした。
- 85 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:03
- 「そのときはまだ、高麗政府も日和見で後藤の死を求める世論と私たちに代表される西側諸国の人権団体からの圧力の間で日ごとにその方向性が微妙に変わってた時期だった。その議員に呼び出されたとき、ついに高麗政府が腹を決めたのかと思ったわ」
保田が言葉を止めると、最近、勉強していただけに一番、その辺りの事情に詳しい麗奈が質問を挟んだ。
「保田さん。こないだの話では、日本の外務省もODAとか円借款とかちらつかせて高麗にプレッシャーかけてたんでしたよね?」
「そう。途中まではね。ただ、私がその議員に呼び出される前後から、割とニュートラルな態度に変わってきて…要は日和ってたんだけどさ。最初は日本人としての後藤の助命を最優先、って感じで動いてたはずなんだけど、後藤が朝鮮籍であったことに意義を唱える議員なんかも現れて、段々と腰が引けていった印象ね」
麗奈は納得できたのかできないのか、黒目がちな目をくりくりと回しては保田の言葉に聞き入っている。
- 86 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:03
- 「高麗政府自体もその時期には、態度を決めていた節が窺えるわ。おそらく、後藤の意志が強かったんだと思うけど」
「ごっちんの意志って…?」
石川が不安げに聞き返す。
「つまり、後藤さん自らが死を望んでいたということですか?」
恐る恐る尋ねる紺野の様子に保田は優しく微笑んで答えた。
「そうね。後藤は自分の死によって、高麗という国が自立した国家として機能することを望んだ…そう、紗耶香から聞いたわ」
「市井さんから…?」
加護が意外そうな声を漏らした。
初耳という反応を示す表情の多いことに保田は落胆した。
「そんなことも知らされてなかったんだものね…吉澤が紗耶香を怨んでも仕方のない状況だったのかもしれない…」
「あの頃は、保田さんとの接触も今とは比べ物にならないくらい、厳しく監視されてましたし…」
ぽつりとつぶやく石川の言葉に辻が反応した。
「なんか、よっすぃが可愛そうじゃん」
- 87 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:03
- 「そうだね」
保田は力なく微笑んで、それでも先を続けた。
「吉澤はある意味、犠牲者と言えなくもない。正確な情報を得られていれば、犠牲者が出ることもなかった」
自分達の眼前で繰り広げられた惨劇を思い起こしたのか、うつむいて無言になるメンバーにちらりと視線を流した。
「ただ、紗耶香も公式の場では決して後藤の『真意』について語ることはなかった。紗耶香自身の口で後藤を罵倒していたのは確かなの。そうした表面的な情報から判断する限りでは吉澤が紗耶香に嫌悪感を抱いても不思議ではなかった。ただ…」
ごくり、と喉をならして小川がジュースを飲み込む音が響いた。
険しい顔を向けて石川が赤面している小川を小声で叱責する。
「帰国していたユウキが吉澤に接近しなければあんなことにはならなかったと思うと気が重いわね。あの子が一番可哀想といえば可哀想なことをした…」
「ユウキくんはあの場にいたんですか?」
実際に吉澤とユウキが一緒にいた場面を目撃している石川は心配そうに尋ねる。
- 88 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:04
- 「うん。警察との銃撃戦で命を落としたわ」
「そんな…」
密かに思いを寄せることもあったのだろうか。
加護が湿っぽい声を漏らすと、つられて紺野と小川も眼を潤ませている。
辻は挑むような顔で保田を見つめていた。
「間が悪かった…としかいいようがないわね。紗耶香と袂(たもと)を分かって日本に帰国したユウキが旧北朝鮮系の暴力団に眼をつけられなければ…」
「ユウキくんは結局、暴力団とつながりがあったんですか?」
「うん。警察の見方では旧北朝鮮系の裏社会の内部でも抗争があって、紗耶香の首を取ることでその内部での勢力を高めようとする動きがあったんだとか」
「裏社会内部…での勢力争い、ですか?」
「うん。『男を上げる』ってやつね。紗耶香はその筋では大分、怨まれてたみたいだから」
「市井さんが…ですか?」
「紗耶香はよくも悪くも革命の象徴だからね。紗耶香の名前の持つ求心力がなければ内戦の厳しい時期を耐えられなかったと言われてるわ。実際に戦場で槍突きあわせた仲ではないけれど、戦った相手ならば、その存在の大きさは憎んでなお余りあるものじゃなかったかしら」
- 89 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:05
- 保田のグラスが空いているのを見て、麗奈が新しいビールの瓶を取って注いだ。
こぽこぽとグラスの上辺からはみ出しそうなほどに泡を立てて麗奈がビールを注ぎ終わると、保田は短く「ありがと」と告げて再び話し始めた。
「警察もその動きは察知してたみたいでね。紗耶香が呼び出されたって通知を受けて機動隊を出動させている。やくざどドンパチになることは覚悟してたわけね」
「ユウキさんはその銃撃戦の巻き添えになった、ということなんですか?」
「残念ながら」
保田はちっとも残念そうに見えない表情を変えずに、麗奈の質問に対してさらりと言ってのけた。
麗奈はしばらく考え込む素振りを見せたが、すぐに保田が言葉を接いだのを見て再び話を聞く体勢に戻った。
「不幸中の幸って言うべきか…吉澤はお咎めなしで済みそうな気配なの。紗耶香に刑事告訴する意志がないから」
「病院で相部屋になったことのがよかったんですかね?」
「さあ、そこまでは紗耶香に確認してないけど…そうならなくても、紗耶香は告訴するつもりはなかったんじゃないかな。なぜ、って言われても困るけど…これは私の勘」
一同ほっとしたところで、保田はそこで話を打ち切った。
- 90 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:06
- 「ハイ、じゃあ、この話はここでおしまい。いい?くれぐれも他言無用よ。それより、ちょっと、この麗奈ちゃんがいきなり新曲でメイン取ったんですって?ちょっと、私でさえ、なしえなかった偉業をこの子がやっちゃったてのは先輩としてどうなのよ、小川?」
「へっ、わ、私ですか?え、ええっ…そりゃ、まぁ凄いなぁっていうか…」
「ちょっと、小川?あんた、後輩に先越されたのに、そんなへらへらしてる場合じゃないでしょ?ちょっとは悔しいです、って表情くらい見せなさいよ!」
今までの経緯から大体、予想の範囲ではあったが、案の定、小川に振られた途端、石川が噛みついてきた。
「あっ、はい、あぁっ…」
そして、こちらも予測の範囲内ながら小川が大口を開けて固まっている。
モーニング娘。おとめ組の新たな名物となりつつある石川小川ラインの攻防(というか、一方的に小川がやり込められるだけなのだが)に一同やんやの喝采である。
辻などは早速調子に乗って「ぃよっ、小川屋!」などと歌舞伎の大見得よろしく、屋号まで叫び出す始末だ。
保田は切り替えの早さに驚くとともに、一方で頼もしく思う気持ちを言葉にしたい衝動に駆られた。
- 91 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:07
- 「小川って、幸せね。いい先輩を持ったわ、感謝しなくちゃ」
「は、はぁっ…」
当の本人は何か嵐でも通り過ぎたか、というような顔で頭の切り替えに苦労している様子だが、そんな姿もまた保田には好もしく映った。
「そうでしょ?小川って、いい先輩持ったわよねぇ、感謝しないと。ねぇ、保田さん?」
「誰もあんただって言ってないでしょ!石川!あんた、最近、調子に乗って先輩風吹かせてるらしいじゃないの!ちょっとそこに座りなさい!ほら、正座して!」
「や、保田さぁん?そんなぁ…」
久しぶりによみがえった幻の師弟愛復活に場は最高潮を迎えた。
「ええぞっ!おばちゃん!もっとガッツン、ガッツン、いわしたれ!」
「梨華ちゃんにはいい薬だぁねぇ」
辻加護が調子に乗ると、控えめながら紺野も「おごれる平家は久しからずと…あっ!」
その失言を聞き逃す保田ではなかった。
「ちょっと、紺野!みっちゃんがどうしたって…?」
とすごむや、すかさず手招きして紺野を「こっち、来なさい、こっち!」と呼びつける。
- 92 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:07
- 「ハイッ…」
泣きそうな顔で石川と座る場所を交換した紺野は既に出来上がりつつある保田に燃料たるアルコールを補給し続ける麗奈の甲斐甲斐しいしぐさを恨めしそうに見つめながら、ねちねちと絡みつくような保田の小言に耐えた。
紺野のミスのおかげで危うく保田の説教地獄の悪夢から逃れられた石川。
まさに一寸先は闇、という言葉を噛み締めて小川につぶやいた。
(小川っ…こんな風にだけはなっちゃだめよ。いいわね?)
(ハイッ…石川さん、肝に銘じました)
保田と石川によってもたらされた美しき師弟愛の血脈はしっかりとモーニング娘。に流れ続けているらしい。
小川は保田の後ろで退屈そうにあくびを漏らす麗奈の姿を見とがめ、注意しようか迷ったが、結局、止めることにした。
今までの流れからして、今、麗奈を注意した場合、間違いなく、保田の非難の矛先が自分に向かうであろう事は自明だったからだ。
小川もやはり、ゆっくりとではあるものの、芸能界にいることの厳しさを学ばないというわけでもなかったのだ。
- 93 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:07
- ◇
まるで乃木大将の指揮した203高地に散ったあまたの戦士の屍を見るかのような光景に麗奈微妙な表情で小川と顔を見合わせた。
「…凄かですね…モーニングの宴会はいっつもこげん、凄かですか?」
「今日はテンション高かったね…保田さん、嬉しかったんじゃない?市井さん、無事に戻ってきたし、吉澤さんも捕まらなくて済みそうだし」
「それにしても…」
麗奈は眼下に広がる光景から目を逸らせない。
海獣のように高いびきで寝転がる保田と石川。テーブルを挟んで加護と辻がやはり、むにゃむにゃと何事かつぶやきながら夢の中である。
テーブルの上はまるで嵐が過ぎ去った後のように見るものの心を凍らせずにはいられない惨状を呈していた。
取り皿から飛び散ったたれがテープルのそこかしこにべったりとした黒い染みを浮かばせている。
鉄板の上には焼け爛れた肉の残骸、野菜の形を保ったまま炭と化した黒焦げの塊。
零れたジュースのつくる水溜り。
矢折れ、剣の刃こぼれるまで力を尽くして戦った攻防の激しさは、まさにモーニングの宴会史において語り継がれるだろう凄まじさを露呈していた。
- 94 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:08
- 「辻さんと加護さんはマネージャさんが運んでくれるとして…」
紺野が途方にくれたような顔でお腹を擦っている。
「マコっちゃん…これ…」
「あさ美ちゃん、それより…」
「保田さんと石川さん、どうしますかね?」
麗奈の案じる通り、すでに自立している保田、モーニングの一員とはいえ、私生活では一応、大人メンバーの一人としてマネージャの監視下にない石川。
この二人を起こして帰途に着かせるのは難儀だった。
保田はともかく、石川の寝起きの悪さは折り紙つきだ。
マネージャさえしり込みするほど険悪だというから恐ろしい。
とりあえず、誰が保田を起こすか、じゃんけんで決めることにした。
負けた二人は石川の担当である。
「じゃーん、けーん…」振りかぶる拳に力が入る。
「ぽんっ!」と降ろした麗奈の掌が平に開かれた真上で、ぷるぷると握った拳を震わせている二人は「あぁっ!」と声を上げて悔しがった。
- 95 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:08
- 「しまったなぁ…石川さん、こわいよぅ」
「しょうがないよ。マコっちゃん、起こそう」
小川と紺野は諦めモードで恐る恐る石川の耳元に顔を寄せる。
「いしかぁさんっ…」と優しく囁く紺野の頭の上で小川が「麗奈、気をつけ――」と言おうとしたときには既に遅かった。
保田を起こそうとした麗奈が「保田さん…」と肩を二、三回、軽く叩いた途端にガバッ、と起き上がった保田が逃げる間も与えず麗奈に抱きついて唇を貪った。
「んむっ、むぐっ…ギャーッ!!こん変態がぁっ!!」
思わず両手で保田を突き飛ばしたのが効いたらしい。
保田はドスン、と畳の上に背中を叩きつけた後、むくっと起き上がり、何事もなかったように一言、
「ああ、よく寝た。なんか若返った気分」
呆気に取られて固まっている紺野と小川、涙目で睨みつける麗奈の顔を不思議そうに見回すと、足元でいぎたない寝姿を晒している石川に目を留め眦(まなじり)を決した。
「石川ぁっ!起きなさい!」
つま先で横腹を突付いてなお「うっさいって…」などと寝惚けているのを見て保田は石川の臀部にややドライブ気味の角度で蹴りを入れた。
- 96 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:09
- 「ぃてっ!誰よ?!」
ほとんどない眉毛を吊り上げて薄目を開けて虚空を睨みつける表情はそれだけでも凶悪だ。
さらに上目遣いの三白眼が自分に向けられて紺野などは思わずヒャッ!とつぶれた声で悲鳴を漏らす。
「石川ぁ、起きたの?」
目の前に保田の顔がぬぅっと突き出されて石川はようやく上起用を把握したらしい。
「うわっ」、と短く叫ぶとひょいと飛び起き、「さ、帰りますか」などとしらっと言ってのける。
この辺の変わり身の素早さがモーニングたる所以か、と感心する麗奈に保田が「ほらっ、あんたも帰るわよ」と腕を取る。
「石川はマネージャ来るまで、後のメンバーよろしく。それじゃ、またね」
呆然と見つめるメンバーを尻目に悠々と店の出口へと向う保田、そして保田に腕を掴まれたまま恨めしそうな視線を残して去っていく麗奈。
- 97 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:09
- ふたりの姿が見えなくなってしばらくしてから、ようやく呪縛が解けたように小川が口を開いた。
「麗奈も唇処女は保田さんに奪われちゃったか…」
「自分と一緒にしない方がいいんじゃない?麗奈の方が都会に住んでた分、あんたより進んでたっぽいよ」
「ええっ…そうですかぁ?」
石川の意地の悪い突っ込みに対して、不服そうに頬を膨らませる小川に紺野が蒼白な顔面を寄せて何事か口走った。
「ええっ!」
紺野から渡された小さな紙片を慌てて確認すると確かに「お勘定」という文字が見える。
「締めて4万8千円です、って…保田さんのご馳走じゃなかったんでしたっけ?」
「ぉあっ、ち、ちょっと、小川!保田さん、呼んで来て、早く!」
「ハ、ハイッ」と小川が慌てて外に飛び出したが、既に後の祭り。
たまたまクレジットカードを保持していた石川がこの場は立て替えることで収まったが、マネージヤが迎えに来るまで、三人が放心したように無言で過ごしたのは言うでもない。
そして、辻加護がマネージャ到着まで爆睡し続けたことも。
- 98 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:10
- ◇
麗奈は保田とともにタクシーの後部座席に座り込むと、その横顔を見つめた。
道見ても酔っ払っているようには見えない。
先ほどの醜態はあるいは擬態だったのか…
で、あれば、この先の展開を考えると…
「田中さん、疲れたでしょ?悪かったわね、遅くまでつき合わせて」
麗奈が妄想を膨らませていると意外に冷静な保田の声が横から聞こえた。
「い、いえっ…あのっ…楽しかったです」
振り向くといたずら猫のような目が麗奈に向けて大きく見開かれている。
「えっと…でも…」
「なに?」と効き返す保田の声は穏やかだ。
「不思議に思ってることがあるんです」
「いいよ、言って」
「私…警察に電話するとき…」
「うん」
- 99 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:10
- 「市井さんの名前言ってないんです…」
「…」
保田はしばらく黙り込んで前を見つめた。
特に狼狽したような様子は見受けられないが、それでも、何か言葉を慎重に選んでいるような気配に麗奈は、身構えた。
「田中さん…紗耶香が無事に戻ってきたし、吉澤にも前科はつかない。それでよしとしましょう」
「保田さん…あの議――」
「ああっ!」
突然、保田が大声を上げたので、麗奈はびっくりして口を開けたままの状態で固まっていた。
「お金払ってくるの忘れちゃったわ…あちゃー…石川、怒ってるだろうなぁ」
「保田さん…」
麗奈はすっかり気勢を削がれてそれ以上、聞く気力を失ってしまった。
「ところで田中さん?」
「は、はい…」
- 100 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:10
- 急に保田に振り向かれて麗奈はドギマギした。
まさか、そんなことは…と理性が否定するものの、唇の記憶は自然に尻を浮かせて保田から距離を取らせている。
「後藤の件については、大体、納得できたの?」
「えっ?…あ、はい…」
予想外のまともな質問に麗奈は口篭もった。
後藤の死に関して、その真意がわかったことは収穫だった。
そして、それに纏(まつ)わる様々なきな臭い動きも。
「やっぱり…」
保田のきらきらと光る瞳が麗奈を吸い込みそうなほどに見開かれている。
「後藤さんは素敵な人やったな、と…」
「そう…」
麗奈には一瞬、その瞳が湛えた大きな水面が揺れたように感じられた。
だが次の瞬間、保田の顔を見上げたときには、満面の笑みを浮かべて、麗奈に語りかけていた。
- 101 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:11
- 「明後日の便で紗耶香が帰国するの。田中さん、午後のスケジュール、空いてるわよね?」
「は、はい…たしか」
あらかじめ、判っていたのだ。麗奈はその周到な用意に脱力した。
「紗耶香を見送ってくれないかな?あの子、きっと元気出ると思うの」
「私が…ですか?」
麗奈には少し、意外だった。自分は何も役に立たなかった。
むしろ、迷惑をかけただけに過ぎない気もする。
だが、麗奈としても、市井にもう一度会ってお礼を言いたかった。
保田はひょっとして、そこまで読んでいただろうか?
「うん、あなたにもう一度会いたいって、言ってたから…」
だが、保田の屈託のない様子からは、そのように深読みした気配は感じられなかった。
麗奈は快諾した。
「はい、喜んで」
保田は心に染み渡るような笑顔で麗奈の気持ちに応えた。
- 102 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:11
- 「…保田さんも一緒に見送るんですよね?」
「ん、私…?」
保田は忘れていた、というように言い繕った。
「ごめん、その日はちょっと別口があってね…それであなたにだけはどうしても見送ってほしかったんだけど」
それから、顔を寄せて真剣な目つきになった。
「でさ、お願いがあるんだけど…」
「はい…」
「紗耶香にね……」
――――――――――――――――
その伝言の内容を聞いて麗奈は首を傾げた。
「それでいいんですか?」
「うん。言えばわかると思うから」
「わかりました」
そう言って、麗奈は今聞いたばかりの文言を口の中で繰り返しつぶやき、忘れぬようしっかりと頭の中に刻み込んだ。
10回目を超えたあたりで、隣から静かに寝息が聞こえてくるのに気づいた。
その寝顔はすっかり安心しきった子どものように邪心を感じさせない。
麗奈は目を閉じたままの保田に向ってつぶやいた。
(おやすみなさい…)
- 103 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/09(火) 16:27
- >74 56さん
いつもながらレス痛み入ります。
なんだか懐かしいスタイルに変わって少し戸惑ってます。
現実の市井の方は相変わらずの綱渡り状態であちらの方が小説よりも見ててドキドキハラハラしてしまうわけですがw
こちらも負けじと頑張りたいと思います。
というわけで、次回の更新で終わりたいと思いますので、少し時間が空くかもしれません。
よろしくお願いします。
- 104 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/10(水) 20:43
- いつも楽しみに見てます。
もうすぐ終わりそうなのがさみしいような・・・
- 105 名前:56 投稿日:2003/09/16(火) 00:18
-
「受け継がれる血脈」…ああ、本当にこうであってほしいなあ、と思った情景でした。
それにしても次で最終回ですか。
なんか、あと一山二山どころかいくつも山場がありそうな密度で、一度の更新で終わるとはとても信じられないのですが…見届けさせていただきます。
- 106 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:05
- 開け放たれた障子戸の向こうには夕景に薄墨を流し込んだような夜闇が広がりつつあった。
梅雨の合間、一瞬だけ顔を覗かせた青空も今は夕闇に染まって昼間の熱さを残すのみである。
さらさらと筧から流れる水音が涼しさを醸し出す中、時折、聞こえてくる鹿脅しのカッコーン、という音がさらに静けさを際立たせる。
赤坂のとある料亭。
その一室では中年の男が二人。差し向かいで杯を重ねていた。
とはいえ銚子を傾けているのは一方の男だけで、もう一方はもっぱら相手の差し出す杯を受けている。
自然、二人の間の力関係が見て取れる構図となっていた。
悠然と構えている方の男は倨傲とも言える尊大な態度でしきりに杯を傾けている。
- 107 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:06
- 「それにしても、今回の処理は粗忽に過ぎたものだ。君らしくもない」
「恐れ入ります。ただ、怪我の功名といいますか。よからぬことを企んでいた不穏因子を一掃できたのは、不幸中の幸いでした」
「不穏…というと。あれかい?北との独立した販路を画策していたとかいう…」
「仰せの通りで。今回の件で連中も先生のお力を嫌というほど見せつけられたわけで、今後、舐めたまねはできますまい」
「そうだといいのだけどね」
- 108 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:07
- 先生と呼ばれた男は食膳の手前に置かれたさわらの煮つけを丁寧にほぐすと品の良い所作で口に運んだ。
立ち居振る舞いのさわやかさからは、育ちの良さが感じられる。
二世議員ならではの清潔感は逆に言えばどこか芯の弱そうな印象にも繋がりかねない。
そのイメージをある程度払拭できた、と言われたことで男の機嫌は戻った。
そこにまだ二世議員ならではの弱さが内包されていることに男は気付かない。
- 109 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:07
- 「しかし、彼らの存在も重たいと言えば重たいね。中国から打診してきたときにはどうしたものか途方に暮れたものだが、あんな事件が起こるようだと、まだまだ気が抜けないからね」
「いえいえ、もう金輪際、先生に御迷惑をおかけするようなことにはなりません。私が身をもって保証しますから」
「君の保証は宛てにならないことがわかったばかりじゃないか」
男は少しすねたように言い捨てると、杯の残りをぐぃっ、と飲み干した。
すかさず、男の視界の中心に杓が差し出される。
「もう、いいよ。それより、君、全然、飲んでないじゃないか」
男が差し出す杓に相手はおおげさにしゃちほこばって、両手で杯を掲げた。
「いや、恐縮でございます」
「それにしても…」
- 110 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:07
- 男は放心したように障子の間から覗く中庭を見つめていた。
石灯篭に灯された火が箱庭を幻想的に浮かび上がらせている。
「青島君は大分、派手にやったようじゃないか。あまり人が死ぬのは好ましくないんだけどね」
「いえ、何分、相手も拳銃を所持していることですし、曲がりなりにも軍隊上がりの連中ですから…」
「それにしたって、あんなに派手にやる必要があったのか…」
男は枝豆を摘まんで口の中に放り込んだ。
「ん…?」
ふと、視線を中庭に戻すと廊下の片隅に仲居がちょこんと座っている。
落ち着いた外観の割に見たところまだ年は若そうだ。
男は根が軽率なのか、そういう場合に声をかけずにはいられない。
「はて、呼んだかな?記憶にないが…おい、君。何か用かね?」
「はい、先生。用事というのは他でもない、後藤の件で」
「な、何?き、貴様、何物だ?」
落ち着き払った仲居の態度に対して声を荒げた男の狼狽した姿はいかにも滑稽だ。
- 111 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:07
- 「後藤の件とは…そうか、君はモーニング娘。の…」
「先生」と呼ばれた当人にまで無視されては、男がすたるとばかりに気色ばんで立ち上がろうとするが、肝心の「先生」がそれを許さない。
「君、少しは静かにしたまえよ。珍しいお客さんじゃないか。君、君もそんなとこにしゃちほこばってないで、こちらに来たまえ」
「いえ、私は後藤の件さえ、先生に約束していただければそれでいいんです」
「く、言わせておけば…」
「だから、君は少し黙っていてくれ」
男は虎の威をかる何とやら、といった態で「先生」の手前それ以上、大きく出ることもなくすごすごと引き下がった。
「で、後藤といえば、後藤真希だね。彼女について何の話だい?」
「ごっちんの…後藤の名誉回復をさせてほしいのです」
「ほう、名誉回復!」
男はさも愉快そうに、杯を傾けて中身を飲み干した。
「高麗との国交樹立も無事成立し、円借款を始めとする経済援助も円滑に進み今や高麗の政情は安定しています。日本との関係もすこぶる良好…」
「うん。おかげ様で両国の関係は良好だ」
- 112 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:09
- 「高麗は今や高度成長に向かって突き進んでいます。もはや近い過去の一ページに多少の修正が入ったとして、誰も気にはとがめないでしょう?」
「君、それは違うよ。彼女は前政権の独裁者、金正日の代理人ともいうべき存在として、独裁政権のイメージを墓の中へ持っていってくれたんだ。そう、おいそれと歴史を覆せるもんじゃない」
「高麗国民はもう、そんな細かいこと覚えちゃいないと思いますけどね。とにかく、私は――」
仲居はすっくと立ち上がると、後ろに回していた手をさっと顔の高さに掲げた。
- 113 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:09
- まぶしい、と感じたと同時にパシャッ、という音が聞こえて「先生」の向かいに座っていた男が立ち上がり、蒼白な顔を仲居の方に向けた。
「な、何者だ?おい、警備の人間はどうした?おい?」
「先生、これ何かおわかり?」
仲居の女は警備の人間を呼ぶ声に動じることなく、「先生」に向かって告げた。
案の定、誰も近づいてくる気配はない。用意は周到。そう思わせるに十分な演出だった。
男は自分が孤立していることを悟ると唇を噛み締めてその場に立ち尽くした。
女は自分と「先生」以外の人間がその場にいることなど忘れたようにひたすら正面を見つめる。
- 114 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:09
- 「これ『iショット』ってやつ。今の写真、私の知り合いに送っときました。私が直接その人に会って止めなければ、30分後にはそのままインターネットに流れるって寸法。もちろん、私の用意した記事の文面とともにね」
「な、なんだと…」
噛みついていた男の口調が明らかにためらいを含んだものへと変わった。
「ふーん」
一方で「先生」と呼ばれている男はやや興ざめしたといった風情で自分を脅迫している女を見つめた。
この期に及んで、まだこの女が料亭の仲居であると信じるほど世慣れていないわけではない。
それにしても、どこか人ごとのように事態を静観している態度からは、やはり二世議員ならではのおっとりした気風のようなものが滲み出ていた。
女もあるいはそうした男の性格を把握し、力づくで抑え込もうとはしないだろうとの読みがあったのか。
「となかく、私が『先生』にお願いしたいのは…」
若い女には似ぬ落ち着きで正面から男と対峠すると、最後通牒を叩きつけた。
- 115 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:10
- 「これから『後藤真希ってチョーイイカンジー』とかいう、ちょっと頭の足りなそうな女の子がたさくん出てきても大目に見てほしい、ってことです。おわかり?」
「確約はできないけど…」
男はおもしろくなさそうな、それでも女の物怖じしない態度にはどこか好感を抱いているといった顔つきでしぶしぶながら応じる気配を見せた。
「いやいやながら」というその態度自体、あるいはポーズに過ぎなかったのかもしれないが。
「じゃ、そういうことで、先生、ひとつよろしく!」
そういうと女は裾をたくし上げて背中を見せると、ふわりと舞い上がり、中庭に降り立った。
- 116 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:10
- 呪縛を解かれたように男が動き出した。
「おい!誰か!誰かいないか?」
「やめたまえよ、みっともない。君だって、下手に騒がれたら困る身分だろう?」
「し、しかし、先生…」
「大丈夫。彼女は下手なことはしやしないよ。君も聞いただろう?」
男は急に不安げな色を瞳の奥にたたえた。話を聞いていなかったと見える。
「なんだ、気付いてなかったのか…彼女はモーニング娘。…いや、元モーニング娘。のひとりだ。名前は…」
目の前の男は話が見えずに目をパチクリと閉じたり開いたりしている。
- 117 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:10
- 「そうだ!吉澤、吉澤ひとみだ!」
男はパチン、と手を叩いて嬉しそうにつぶやいた。
「そうか…彼女が…」
感慨深げにうなずく男に対して、相手は不思議そうに尋ねた。
「先生は、その…よく御存じですね?」
「僕?」と聞き返した男の瞳はいたずらそうに光った。
「僕はほら、モーヲタだから」
「?」
男には見当もつかない広い世界が政治の奥の方にはまだまだ広がっているようであった。
吉澤ひとみはまんまと逃げ果(おお)せた。
- 118 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:11
- ◇
ひらりと塀を乗り超え、スマートに降りてきた吉澤にライトを灯していない一台の車がするすると近づいてきた。
ドアを開いてすばやく収容すると、即座に発進する。
狭い路地を抜けて大通りに出るところでライトを灯し、一気に加速する。
みるみるうちに車は赤坂を抜けてため池から六本木に向かおうとしていた。
「一旦、東名乗って横浜町田から16号で上る?」
「うんん。いいよ、向こうがその気なら、所轄はあんまり関係ないもん。あの写真見た?」
「うん。一人はわかったけど…」
- 119 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:11
- 「もうひとりが警視庁の公安部長。その気になれば公安は刑事部と違って横の繋がりが蜜だからね。警視庁でも県警でも動かせちゃう」
「へえっ…大物の密会だったんだぁ」
「警察庁長官を狙えるエリートのポストだからね。『先生』には弱いんだよ」
吉澤はシートを倒して、体を倒すと、ふうっ、と一息吐き、運転者の横顔に向かって告げた。
「別にこんなことする必要もなかったんだろうけどさ。これで、ごっちんについて何を語ろうと言いがかりをつけられることはないと思うよ」
「よっすぃ、やるじゃん。あんたに本気出されてたら今頃、私なんか死んでるね」
「じょーだん、ぽい、よ」
- 120 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:12
- 吉澤は特に照れるというわけでもないけれど、どこか遠くを見るような眼差しでソニンを見つめた。
「ねえ、気付いてた?ユウキが薬、打ってたこと…」
ソニンは運転に集中するためか、あえてフロントガラスの向こうを見つめたまま答えた。
「監禁されてたから、断言はできないけど…」
丁度、車が首都高の入り口に差しかかったため、ソニンは窓を降ろして高速カードを差し出した。
ありがとうございまぁす――公団の老人が機械的に返す声を再び閉まるウィンドウが遮ると同時に車がトップスピードに乗った。
- 121 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:12
- 「…目の焦点が合ってないと感じたことはある…」
「薬はともかく、ユウキが本気で市井さんを殺る気がないのはなんとなく、わかってた。ソニンを監禁したのもひょっとしたら、寂しかったからじゃないか、って思ったんだ…」
ステアリングを固く握ったまま微動だにしないソニンの固い表情を見つめたまま、吉澤はふぅっ、と息を吐いて、窓の外に視線を向けた。
「ソニンはさぁ…」
ぽつりとつぶやいた言葉にソニンは反応しない。それでも吉澤は続ける。
「韓国籍なんだよねえ…祖国って、どんな感じ?たしか、走ったよね、番組で」
- 122 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:12
- ソニンは前方を法廷速度でトロトロ走って後続を詰まらせていた車を追い抜くと再び左車線に移った。
視線はやはり前に向けられたままだが、吉澤の言葉が引っ掛かっているらしい気配は窺えた。
「走ったね…なんで、そんなこと聞くの?」
「いや、市井さんがごっちんが死んだのは祖国への想いからだ、なぁんて言うからさ。しょーじき、うちら日本人に祖国とか言われてもイメージわかない、っつうかぁ――」
「私にもよくわかんないのよ、実は」
とはいえ、ソニンは吉澤の言葉に明らかに動揺しているようであった。
「もともと籍は韓国だけど、あの年まで行ったことはないし、言葉だってわかんないし。在日っていったって、昔ほど差別がひどいわけじゃないから、実際のとこ、ほとんど意識したことなんてなかったのよ」
「それが韓国に行って変わった?」
「変わった…っていうか、わかったの。私、やっぱり、韓国人なんだ、って。自然に泣いてた。不思議ね、今まで全然、意識したことなんてなかったのに。だから…」
「だから?」
吉澤は興味深げに険しい顔つきでハンドルを手繰るソニンの横顔を見つめた。
- 123 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:13
- 「わかる気がするの。後藤さんが祖国に寄せる想いって。私の場合は行こうと思えばいつでも行けるから、特に祖国っていっても特別な存在ではなかったけど、後藤さんにとっては普通は行けなかった国でしょ、昔の北朝鮮って。行けないだけに、より一層、募る想いっていうか、あったと思うし」
「ふーん」
吉澤は気の抜けたような返事を返すばかりだが、内心ソニンの話した内容にひどく衝撃を受けていた。
やはり、自分には見えていない世界がある。
それは自分自身が国を離れて初めてわかるたぐいのものかもしれなかった。
市井に「高麗を見てくれ」と言われたとき、どこかピンとこなかったのはそのせいかもしれない。
吉澤は市井の言葉のせいで、意識の底の方にある何か重たい記憶が燻(くすぶ)り始めているのを感じて落ち着かない気分だった。
「やっぱ、行かないとわかんないのかな…」
「何が?」
「ごっちんが…護ろうとした…、ってのは違うか。んんっと、いや、あ、そうか、ごっちんが愛した祖国、うん、これだね」
「ああ、そういうこと」
ふふ、とソニンが笑みをこぼした。
- 124 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:13
- 「今さら何言ってんのよ。それにしてもさ…」
ソニンはちらっと、胸元をはだけてリラックスする吉澤に視線を落として今度は、ぷっ、という感じの含み笑いを漏らした。
「あんた、和服似合わないわねぇ」
あ、ははは、と大声で笑う頃には既に大泉ジャンクションを超えて関越道へと入ろうとしていた。
吉澤はフン、と鼻を鳴らしたまま、再び窓の外を眺め、車内に沈黙が訪れた。
それっきり、都内で吉澤の姿を見かけたものはいなくなった。
- 125 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:13
- ◇
成田空港第二ターミナルは平日の夕刻とあってビジネスマンらしき背広の男達でごったがえしていた。
学校の授業が終わってすぐ制服のまま駆けつけた麗奈は市井の姿を探して、キョロキョロと周囲を見回した。
保田に聞いていた待ちあわせの場所、出国者入り口横の大型テレビ前の待ち合い所に市井の姿は見えなかった。
フライトのチェックインに手間取っているのだろうか。
麗奈は航空会社のカウンターまで戻って確認してみることにした。
(たしか、JALやって聞いたけど…)
- 126 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:14
- JRの駅からエスカレータを上がって入った右の方にJALのカウンターが固まっている。
ファーストクラス、エグゼクティブクラス(要はビジネスクラスなのだが)の奥にエコノミークラスや団体向けのカウンターが並んでいた。
さすがにどのクラスの席を取っているのかまでは聞いていないので、順番に見て回るしかない。
夕刻は欧州への便が多いせいか、どのクラスのカウンターにも長い列が連なっており、市井の姿はなかなか見つけられなかった。
ファースト、ビジネス、と順に見て回ったが、市井らしき姿は見られない。
エコノミーのカウンターに目を向けると長蛇の列が並んでいた。
- 127 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:14
- 見るとやや時代遅れの服装に身を包んだ三人の中年婦人が懸命に航空会社の係員に何事か説明している。
係員は言葉が聞き取りづらいのか、何回も聞き返すが一向に埒が明かない。
どうやら外国人らしかった。後ろに並んでいるビジネスマンたちかが腕の時計を気にしつつ、苛々しながらその様子を見守っていた。
日本人と変わらない顔かたち。その外見からして、中国人か韓国人と見当をつけたが、その垢抜けないファッションから、どうやら中国人らしいと見当をつけた。
それなら中国語のわかる係員を呼ぶか、日本語のわかる中国人に助けを頼めばいいのに、と麗奈は思うが、もともと気の利かない性質なのか、それとも中国語のできる者がいないのか、当の係員は困り果てた顔で何か一方的にまくしたてるばかりで一向に事態が解決しそうな様子は見られなかった。
いい加減、見ている方が苛々してきたところで、トントン、と肩を叩かれたのに気付いた。
「?」
振り返ると市井の顔がそこにあった。
「よ、待たせた?」
「い、いえ…今来たばっかりです」
「それにしては、チェックインカウンタをえらく熱心に見てたね」
- 128 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:14
- 「え、いや、その…」
なんだかドギマギしてしまったのは、市井の顔がとても輝いて見えてしまったからに違いない。
「まだ時間あるし、お茶でもしよっか?」
「ハイ…」
うなずいて着いて行く麗奈だが、どうにも勝手が違って戸惑ってしまう。
「私、千葉県なんだけどさ、成田ってあんまり来たことないのね」
「わ、私もです…」
「田舎だからさ…って、私なんかが言うのもおこがましいんだけど、千葉の中でもやっぱ、成田ってすげー田舎なんだよね」
「なんとなくわかります」
「だからどうなんだっていうこともないんだけどさ」
アハハ、と笑う市井の顔を麗奈はまぶしそうに見つめた。
夕食時とあって、食事の場所はどこも混雑していたが、それでも目ざとくカフェテリアに空いている席を見つけた麗奈が駆けて行って席を取り、二人は腰を落ち着けた。
それぞれ自分の飲みものを買ってくるとどちらともなく口を開いた。
「あの…」「えっと…」
二人は顔を見合わせて、大声で笑った。
- 129 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:14
- 「何よぅ」「何ですかぁ」
年齢差以上の落ち着きを市井に感じて、どこか気後れを感じていた麗奈であったが、会うたびに親近感が増していくような気がするのはやはり、実際の年が六つしか離れていないことによるのかもしれなかった。
とはいえ、老けている、というわけではないながらも、市井が普通の19歳より落ち着いて見えたのもまた確かだ。
「麗奈ちゃんはさ、同期っているの?」
「ハイ、私の他に二人。道重さゆみと亀井絵里の二人がいます。あと、藤本美貴さんと」
「そう、うちらと同じだね。同期ってライバルでもあるんだけど、やっぱ仲間だからさ、大事にしないと…」
「市井さんは保田さんと矢口さんですよね」
「そう。うちらは特に繋がり、っていうか、絆が深いかもしれない。なにしろ、最初の追加メンバーでしょ?最初に結成したときのメンバーは別に追加に合意してたわけじゃないから、冗談じゃない、ってんでもう端から相手にしてくれなかったし、ファンはファンでうちらのこと無視したり、加入阻止!とかいって反対運動起こすしでさ」
麗奈はさらっと言ってのける市井がなぜかとても格好よく思えた。
- 130 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:15
- 「私たちはもう追加が当たり前になってからだから、先輩たちもやさしかったし恵まれてたと思います」
「なっちも?」
「えっ?」
麗奈は意味がわからなかった。安倍も優しかったのか、と聞かれたのだとわかったのはしばらく呆然と市井の顔を見つめた後だった。
「は、はい。安倍さん、優しいですよ。わかんないことあったら、何でも聞いてね、って」
「ふぅん。なっちも大人になったもんだね」
「市井さんは何か…」
麗奈はみなまで言ってしまうことに躊躇した。
できれば、市井にその言葉を引きとって欲しい、との言外の含みを持たせて。
なにしろ、麗奈はまだ安倍と一緒に仕事をする中だし、何と言っても大先輩だ。
「あったよ、ありましたよぉ。なっちはねぇ、一見、にこにこしてやさしそうなのがフロックでねぇ…」
「フロック…ですか?」
「そう。大変でしょ?悩んでることあったら言ってね、って話しかけてくれるから、寄る辺のない私たち追加メンバーとしては嬉しいじゃない?味方だと思って、裕ちゃんや彩っぺのこと言っちゃうわけよ。いじめられてたからね」
「そ、それで…?」
- 131 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:15
- 市井は手許のアイスコーヒーを一口すすると、眉をひそめ真剣な表情で見つめる。
麗奈は思わず身構えた。
「言っちゃうの。本人に」
「えっ?」
麗奈は信じられない、という表情で市井の顔を穴が開くほど見つめた。
信じられるはずがない。あのやさしい安倍さんが。
麗奈だって短いとはいえ、生き馬の目を抜くと言われる芸能界で禄(ろく)を食(は)んでいる身だ。
下心があって近づいてくるものかそうでないか、麗奈なりに判断できるつもりでいる。
だが、大先輩である安倍がそのような恐ろしい性根の持ち主だとはどうしても麗奈には信じられなかった。
「とても想像できないよね。まさか、相談に乗ってくれた善意の人がチクるなんてさ。おかげでさらにいじめはエスカレート。私と矢口はまだ若かったからともかく、圭ちゃんなんてホントひどかったからね。よく辞めなかったよね。もう、絶対、負けるか、っていう意地だけみたいな」
- 132 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:15
- 市井は妙に饒舌だった。
こんなことを後輩に話して聞かせる意図は何なのか。
麗奈はその真意を量りかねた。
「ホント…よく頑張ったよ…でもね、今になってみるとわかるんだ。なっちがそうしたのも。いや、そうせざるを得なかったのも」
市井は遠くを見るような目で麗奈の肩の上辺りを見つめていた。
別に水子が乗っている、というわけでもないのだろうが、なんとなく肩が重くなったような気がして落ち着かない。
「怖かった、と思うんだ。なっちもね。ほら、なっちいじめられてたでしょ?中学のとき。だからさ、そーいう、いじめ、っていうか敏感になってたと思うんだよね。ほら、下手に私たちと仲良くしてるとこ見られて詰問されたりしたんじゃないかな。裕ちゃんと彩っぺのこと、なっちとカオリも怖がってたから」
そう言うと、市井はまたアイスコーヒーのカップを口許に寄せて視線をあらぬ方向に向けた。
麗奈は言葉を挟める雰囲気でないため、ひたすら市井の言葉を待ち続けた。
- 133 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:16
- 関係者でありながら、まだ馴染みきっていない相手には話し易いのだろうか。
考えてみるが、麗奈には想像もつかない高みから自分達を見下ろしているであろう市井の立場はただただ遠く感じられるだけだった。
「なんで、こんなこと話してんだろうね、私?麗奈ちゃんって、なんか不思議。ついつい、話したくなっちゃうんだよね。聞き上手って感じ?」
「…って、言われても…」
麗奈にはよくわからない。
ただ、初対面のときから、保田にしろ市井にしろ、妙に自分を気に入ってくれたように思えるのは確かだ。
市井はしゃべり疲れたのか、それ以上、話しかけてきそうな気配を見せなかった。
麗奈はそろそろ切り出す頃合だと思った。
「市井さん…保田さん、来られなくて残念でしたね」
「ああ、圭ちゃんはもう、何度も会ってるし今更ねえ…」
照れながらも市井が寂しく思っているのは確かだ。麗奈にはわかる。
「保田さんから、伝言があるんです」
「ん?」
「あのですね――」
- 134 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:16
-
- 135 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:16
- 麗奈が言い終えると、市井は「バカね」と一言吐き捨てるようにこぼした。
照れ隠しのためか、わざと俯いて怒ったような顔をつくっている。
市井は何かが零れ落ちるのを避けるように今度は上を見上げた。
しばらく、そうやってから徐(おもむろ)に正面を向いて麗奈に微笑みかけた。
「圭ちゃんに言っといて。『今度会ったらコロす!』ってね
「えらくまた物騒ですね」
「言えばわかるのよ」
麗奈はなんだか羨しくなった。
そして無性にさゆみのことが懐かしく思われてしかたがなかった。
- 136 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:16
- ◇
埠頭を渡る風は湿気を含んで重く感じられた。
気をつけていないと横髪がすぐにペッタリと頬に貼りついてしまう。
燃えるような夕日が西の果てに沈もうとして、長い日差しを海面に投げかけている。
水面が揺れるたびに反射してキラキラと瞬く光が点々と照らす保田の顔のまぶしさに吉澤は時折、目を伏せてこみ上げてくる感情をやり過ごさなければならなかった。
吉澤は顔を上げて保田の瞳を正面から見つめた。
心なしか以前よりも肌の艶がよくなっているようだ。
娘。にいた頃よりも生き生きとした表情が次々に浮かんでくる。
きっと、充実した生活を送っているのだろうと考えると、何だか羨しくなって決心が鈍るようだ。
見透かしたように保田が諌めにかかる。
「帰りたくなったんじゃないでしょうね?あんたがいつまでもそんなことだと後藤も浮かばれないよ?」
「圭ちゃん…相変わらず厳しいね」
「あったりまえでしょ!もう、あんたたち二人にはどれだけ迷惑かけられたことだか…」
「圭ちゃん…」
吉澤はなぜかしんみりとしてしまう自分をどうにもできなかった。
- 137 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:17
- 海外へと旅立つのは初めてというわけではないが、港からの船出というシチュエーションが必要以上に郷愁を掻き立てるのかもしれなかった。
夕陽が西の空を紅く染め上げる。
「紗耶香とは話ができたの?」
唐突に核心を突いてくる聞き方は変わっていない。
吉澤はなぜ、保田から遠ざかっていたのか考え出すと悔しくて眠れなくなりそうだったので、無理にその考えを頭の中から押し出した。
「したよ。ごっちんが体張ってまで託したあの国の未来ってやつを見ろ、って」
「紗耶香も難しい立場だからね」
保田が横に顔を向けると一陣の風が吹き抜けて長くはないその髪に瞳が隠れて表情がわからなくなった。
「知ってたの?」
「何を?」
保田は頭を下から振り上げて、乱れた髪を後ろに流した。
- 138 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:17
- 「この船――」
そういって見上げた船の横腹には大きく「万景峰」とハングルで書かれている。
白い船体が海の光を映して薄紅色に染められた。
保田はまぶしそうに手を翳してその文字を確認した。
「ユウキも――この船に乗って日本から発ったこと…」
「……」
吉澤も黙ったまま保田の目線を追った。
そんな感傷的な理由ではないはずだった。そんな理由では。
所持金が底をついて航空券を買うほどの余裕がなかったというだけのことなのだが、保田にそう言われてみれば因縁めいたものを感じないでもない。
「タイミング良かったよね。この船ももうすぐ引退。ビジネスマンや観光客が増えたお陰で元山(ウォンサン)への航路は高速船に変わる」
「ユウキの見た風景も、もうじき見られなくなる……か」
「うん。あいつが姉貴を追って日本を出たとき、まだ事態があんなにややこしいことになるとは誰も思ってなかった。私もまだ娘。にいたし…」
「ユウキは…ユウキは今ごろ天国でごっちんと仲良くしてるのかな?」
保田はフッ、とにやけた笑みを片頬に浮かべた。
- 139 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:17
- 「後藤にコブラツイストでもきめられて喚いてんじゃないの?」
「プッ、そうかもね」
顔を見合わせて笑う二人の間に時の隔たりは感じられなかった。
二人の間にいるべき人が不在であることを除いては。
屈託のない笑顔の底に拭いきれない寂しさが残ることを知る二人であればこそ、笑い飛ばせる話であったかもしれない。
保田は目を細めて船の舳先、そのまた向こうに停まっている車を見つめた。
「ソニンはまだ眠ってるの?」
「うん。東京から新潟まで、運転しっぱなしだったから疲れたみたい」
「病み上がり…ってわけでもないけど、点滴打ってた人間に無茶させちゃダメじゃないの」
「そりゃわかってるけど…私だって、何か役に立ちたかったんだよ。メンバーには迷惑ばっかりかけちゃったし…」
「吉澤がそんな殊勝な心の持ち主だとは知らなかったわ」
「圭ちゃんは、私のこと誤解してると思う」
- 140 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:17
- 頬を膨らませて抗議する吉澤の姿に保田は二ヤッと嫌らしい笑みで答えると、急に真顔になって声を顰めた。
「ところでさ…紗耶香のことだけど…」
話を戻された吉澤はどんな顔をしてよいのかわからず、膨らませた頬を中途半端にしぼませて、母親の説教を嫌々聞かされる子供のような戸惑った表情を浮かべている。
保田は単刀直入に告げた。
「そろそろ市井さんを許してあげようよ」
「圭ちゃん…」
吉澤は当惑したような視線を保田に向けた。
「今ごろ、同じ台詞をね、成田で田中さんが紗耶香自身にも告げているはずだわ」
「田中さん…って?」
「新メンバーよ。第6期のね。後藤のことを知りたいっていうんで、いろいろとね…」
「許すとか…私は…」
考えがまとまらないのか、しどろもどろになりながらも必死で言葉を捻出しようと試みる。
- 141 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:18
- だが、まともな文章になり得ないのは、やはり心のどこかに蟠(わだかま)りがあるせいなのだろうか。
保田は優しく包み込むような態度で吉澤に接している。
それは吉澤自身が向き合って生きていかねばならない業の深さを保田が知り尽くしているからでもある。
再び修羅の道を歩むのか。
それともその犯した罪の業の深さ故により深く確かな生を求めての巡礼の旅となるのか。
保田には知る由もない。
それは吉澤自身が選ばなければならない人生の岐路であるはずだ。
だが、保田は短いとはいえ市井(しせい)の人よりも凝縮された生を生きた先達として吉澤に告げることはできる。
吉澤には生きてほしい、と。
「赦してやんなよ。あんた自身をもね。あんたたち二人とも、後藤のために傷つき過ぎたよ」
「私は…市井さんは…」
「紗耶香は充分苦しんでる。あんたも苦しんだ。それでいいじゃない?」
「私は…」
保田は再びどこを見ているのかわからないような遠い目で昔語りのように淡々と語り続ける。
- 142 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:18
- 「紗耶香と自分を同一視してた部分があるんじゃないかな?あんたは後藤を護りたいけれども、護れる立場にない。自然、紗耶香に自己の理想を投影した。けれども、理想のはずである紗耶香は後藤を護れなかった。それどころか、その死を罵倒している。許せない。そして、その許せない対象は紗耶香であり、自分自身でもあった…吉澤、あんた…」
「…」
吉澤の視線は仙人のように達観した表情で遠くを見つめる保田の瞳に吸い寄せられた。
「紗耶香を殺して、自分も死ぬつもりだったんでしょ?」
「なんで…わかったの…?」
保田は鋭い眼光で睨みつけるような視線を吉澤に返した。
- 143 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:18
- 「ふん。最近、心理学に凝っててね。素人の俄か分析だから当てにならないことこの上ないけど、まー、あんたの場合はわかりやすいわね」
「そっか…圭ちゃんも勉強してんだね」
寂しげに俯く吉澤に保田はわざと厳しく答えた。
「当たり前でしょ!世の中はどんどん進んでんだからね!あんたがこれから見に行く高麗だって、いつまでも昔の北朝鮮のままじゃない。後藤が夢見た民主社会への移行は、経済的な豊かさが増すに連れてどんどん実現化の方向に向かってるんだから」
- 144 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:19
- 「そっか…ごっちんは、やっぱ頑張ったんだね」
「後藤だけじゃないよ。紗耶香もユウキも、あそこで寝てるソニンもね。」
吉澤は振り返って遠くに見える車の中で寝ている人のことを思った。
「私も…」
それから、くるりと首を戻してわざと明るい調子で保田に答えた。
「私も頑張らなきゃ、だね」
「そうだよ……吉澤!」
保田はどこか張り詰めたような表情で吉澤に号令した。
- 145 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:19
- 「もうひとつの夜明けに向かって漕げ!」
「漕げって…?」
吉澤は真顔でおかしなことを言い出した保田に辟易するやら、保田らしいと安堵するやら、また、なにやら自分を元気付けてくれているようなその態度に愛を感じるやら、いろんな感情がドッと、一時に押し寄せてくるのを心の中でうまく処理できず、曖昧に首を傾げて微笑んだ。
「"Row your boat"だよ、吉澤!もうひとつの夜明けは近いぞ!」
「っつーか、私、船乗りじゃーないし…」
「うるさい!漕げったら漕げ!あんたは何のために船に乗るんだ?もうひとつの夜明けを見るためじゃなかったのか?!」
「もうひとつの…夜明け…か」
悪くない、と思った。
吉澤はそのフレーズが気に入った。
- 146 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:20
- 「ようそろ!吉澤、もうひとつの夜明けに向かって漕ぎます!」
「違う!アイ サー!キャプテン!だ、吉澤!」
「圭ちゃん、英語の発音悪すぎ。それに日本人なら『ようそろ』って言った方が格好いいじゃん?」
「うるさい!漕げったら漕げ!そして二度と戻ってくんな!」
「なんだよ、それ!む〜かつぅくぅっ!」
「私の英語にケチつけるなんて百年早いのよ!」
「ひどいもんはひどいよ!」
「うるさい!もー二度と帰ってくんな!」
「ふん。ぜってー帰ってきて、また発音チエックしてやる。それまでせいぜいNOVAでも行って磨いとけば?」
「うるさい!今度会ったらコロす!」
二人は顔を見合わせ声を上げて笑った。
やがてその声が埠頭に迫る闇のしじまに溶けて消えたとき、巨船がボォッと汽笛を鳴らして出港が近いことを告げた。
吉澤の旅が始まろうとしていた。
- 147 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:20
- ◇
「圭ちゃん、お疲れさん…」
「それはこっちの台詞だよー、ソニンも大変だったねー。もう体の方はいいのー?とかいって車の運転、頼んじゃったりなんかして」
保田を乗せたソニンの車は夜の関越を走り出した。
保田が乗る車だけには乗りたくない、という生前の後藤の意志を汲んだか汲まずか。
自ら帰路も運転を買って出たソニンの申し出を断わる理由もなく、保田は多少の罪悪感を覚えつつその好意に甘んじた。
ほとんど他の車を見ないほど空いている高速道をソニンの車は軽快に飛ばしていく。
スキーシーズンにはまだ遠いこの時期、関越道が混むことはない。
- 148 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:21
- 「ああ、そーいえば圭ちゃんも免許取ったんだってね。運転頼めばよかったかなー、あはは」
「いいって。そんな気ぃ遣わなくても。私自身、まだ怖くて高速なんか走れるような気がしないし」
「あははー。こんなん、慣れだってー。練習しないといつまで経っても運転できないよー」
昨夜に続いて夜間の長距離運転だというのにさほどの疲れも見せず、ソニンはしっかりとした姿勢でハンドルを握っている。
「それにしてもさー」
保田相手だと甘えが出るのかどうしても語尾が延びる。
- 149 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:21
- 眠いわけではないのだろうが、保田にはそれが気になって仕方がない。
ソニンが眠気を催さないように保田はガムを差し出した。
「あ、サンキュ。あの子も変わってるよねー」
「あの子って、吉澤?」
「うん」
ソニンはガムをクチャクチャ噛みながら、視線はまっすぐに伸びる道路の先へと向けている。
「市井さんを殺そうとしてたんでしょ?それが何だかすっかり、意気投合しちゃったみたいでさー」
「根はおんなじだからね。紗耶香も吉澤も」
「うん?」
保田がわざとはぐらかすような言い方をしたためか、ソニンには伝わらなかったようだ。
問い返すような視線を受けて、保田は説明せざるを得なかった。
- 150 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:21
- 「行動原理、っていうのかな?あの子たちの行動はすべて後藤の死がベースになっているの。やれ、後藤の死は高麗のために云々、後藤が死んだのは紗耶香のせいで云々」
「難しい年頃だねー」
「あんただって、同じくらいでしょ?」
「ちょっと上かなー」
「ま、それを言ったら、私だってちょっと上なだけだけど」
「いや、圭ちゃんの場合は…」
「何よ!喧嘩売ってんの?!」
- 151 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:22
- 最近、年齢ネタに対して耐性がなくなってきたことを意識している保田ではあるが、ソニンにまでそう言われては立つ瀬がない。
だが、当の相手は「くわばら、くわばら」と暖簾に腕押し。
端から相手にしないソニンでは真面目に怒るのもバカらしい。
気を取り直して説明を続ける。
「いや、もう、後藤の死に対して腫れ物に触るような微妙な扱いしなくてもいいんじゃない?ってことよ。うん」
「それで、あの『先生』に一芝居、打ってもらったわけ?」
「……」
保田は目を細めると鋭い眼光でソニンを睨みつけた。
「吉澤には言ってないでしょうね?」
「もちろん。そんな可愛そーなことしないよ、私。圭ちゃんみたいな腹芸できないし」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。私が黒幕みたいじゃん」
「ある意味そーなんじゃないの?市井さんの件だって、前もってあの『先生』通して警察と連絡取ってたわけだし」
「違うって!」
保田は必至になって取り繕った。
- 152 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:22
- 「そんな生易しい相手じゃないもん。紗耶香の件は人名に関わることだし、吉澤の件では『ちょっと元気のいい娘が伺うかもしれないから』って挨拶しといただけなんだし。素直に吉澤のこと返してくれたんだから、あれは吉澤の手柄なんだよ!」
「わかった、わかった。ムキにならなくていいって。圭ちゃんはもー、優しいんだから」
「だから…」
保田は段々とソニンを相手に真面目に接するのがバカらしくなってきて、深いため息をついた。
- 153 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:23
- 「ハァッ…バカな後輩と真面目すぎる同期を持つと苦労するわぁ…あんたくらい、いい加減に生きられりゃ、みんな幸せなんだけどねー」
「あっ!それは国籍差別ってやつですかぁ?アムネスティのお偉いさんとしては、そりゃ重大な失言ですよー!」
「何、言ってんのよ!あんたのパーソナリティのことでしょ?誰も在日差別なんかしてないわよ!」
「ヘイヘイ。わかってますって」
悪びれないソニンの態度に保田は脱力せざるを得ない。
ぐったりとくたびれて半身をシートに投げ出すと保田はしばらく目を閉じて黙り込んだ後、携帯を取り出して、メールを打ち出した。
やがて携帯をしまうと顔を車窓に向けてソニンに問い掛けた。
- 154 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:23
- 「ソニンさ…」
「何?」
ソニンは屈託を感じさせない朗らかな口調で応じた。
保田は窓の外を向いたままだ。
「あんた、中学生と高校生くらいの女の子を連れて韓国で本場の焼肉食べさせてくれる気ある?」
「へっ?何?何の話?」
何か胸騒ぎがするのかソニンの声にやや上ずった響きが入り混じった。
保田は相変わらず漆黒の闇に顔を向けたまま続ける。
- 155 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:23
- 「モーニングの若手メンバーがさ、本場の焼肉食べたいって。私はソニンならいい店知ってんじゃないかって推薦し――」
「ちょっ!止めてよ!止めて!若手って、辻ちゃんとか加護ちゃんも入るんでしょ!?止めて!ぜぇったい、止めて!」
「和田さん、好きそうじゃない?そーいう企画?」
「好きよ!大好きだからヤバいんじゃない!止めて!ぜぇーったい、止めてよね!」
「もう和田さんに――」
振り向いた保田は喜色満面の笑顔で告げた。
「――メール打っちゃったんだよね」
「……」
ソニンの顔からサーッと血の気が引いたのを確認すると、保田は満足そうな笑みを浮かべ、再び体をシートに預けた。
しばらくすると、スゥーッ、スゥーッ、と安らかな寝息が聞こえ始めた。
ソニンはハンドルを握り締めた。
長い夜になりそうだった。
- 156 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:24
- ◇
麗奈は一心不乱に机に向っているさゆみの頭をちょんと小突いた。
その真面目くさった顔を見るとちょっかいを出さずにはいられない。
最近はどうもそういう癖がついてしまったようで困る。
迷惑なのは小突かれる方のさゆみなのだが、とにかく麗奈も困る。
「なにっ?」
慣れたものでさゆみも最近は、顔も上げず反射的に口ずさんでいる。
麗奈の行為に何も意味がないことをわかっているから特に聞き返す、という感じでもない。
机を挟んだ向こうでは亀井が大振りの手鏡と睨めっこをしている。
こちらも見慣れた光景だ。
「まぁだアンケート考えとっと?」
「毎回、同じ答えじゃ芸がないし」
見ると例の『尊敬する人は?』の項で躓いているらしい。
「適当でよかよ」
「適当じゃだめよー」
亀井が手鏡を睨みながら口を挟む。
見ていないようで見ている。聞いていないようで聞いている。
油断がならないと麗奈は思った。
- 157 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:26
- 「ローテーションさせればよか。こないだはママやったけん、今回は――」
麗奈は急に思いついた、といった風に既に書き終えたアンケート用紙を大判の茶封筒から取り出して睨みつけた。
『尊敬する人は?』の回答欄には、さっと勢いのある筆致で書かれた文字が躍っている。
『後藤真希さんです。信念を貫いた生き方がチョー格好いい(はぁと)』
勢いで書いてしまったが、マネージャに査閲されて書き直さなければならないかもしれない。
そのときはそのときだ。
麗奈は保田に出会ってから強くなれたような気がしていた。
そして 『後藤真希さん』 と 『です。』 の間に∨の印を入れて急いで書き足した。
- 158 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:27
-
『と市井紗耶香さん』
- 159 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:27
- さゆみは相変わらず紙と真剣に向かい合っている。
亀井は手鏡に向って前髪を一本ずつ引張っている。
麗奈はまたしてもさゆみの頭を小突きたくなって困る、と思った。
その代わりに亀井の前髪を眉毛の上で切り揃えられたらさぞ爽快だろうと思った。
だがそれでは亀井が困るだろう。
それは困る。
やりたいことができない世の中はなんだか息苦しくて困る――――
- 160 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:28
- ――――はずだが、不思議と息苦しさは感じない。
麗奈はもう一度書いたばかりのアンケート用紙に目を留めて、それからさゆみの横顔を眺めた。
取り澄ましてちょこんと乗っかった頭が小憎らしくなった。
麗奈は困る、と思った。
今度は少し息苦しく感じた。
――本当に困る、と思った。
- 161 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:28
-
- 162 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:28
-
- 163 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/16(火) 19:28
-
『そろそろ市井さんを許してあげようよ!!』
―― おわり ――
- 164 名前:56 投稿日:2003/09/21(日) 02:33
- 完結お疲れさまでした。
遅いレスでごめんなさい。読み終えてしばらく余韻に浸っていて、また最初から読み返してました。
まず、主人公・田中のキャラがなんともいいですね。「広田先生」なんて、鹿児島人の「西郷先生」みたい。道重への対抗心も愛らしい。この若い個性がなんとか自分の言葉で考えて歴史を受け継ぐ物語に、力強い希望を感じました。「後藤に置いてかれた」という前作の衝撃がこの続編で昇華されて、決着をつけられた思いです。タイトルにまたもやられました。そしてラストシーンの爽やかさ。
他のキャラの造形も見事。市井・保田はもちろん、リーダー飯田の葛藤や石川の焦燥感が生き生きと描かれていて、さらに小川・道重・亀井といった若い世代も魅力的。直接出てこない矢口の現在での位置付けも、なるほどなあ、と嘆息(もう一つの「天才矢口」ってとこですな)。「世代間継承」がこの作品のテーマの一つと読みましたが、それが娘。自体に見事にはまってますね。
- 165 名前:56 投稿日:2003/09/21(日) 02:34
- それとやはりユウキと吉澤。二人の狂おしい情念は、前作が前作だけに、十分理解できるものでした。ユウキは残念でしたが、他に道はなかったんでしょうね…。再生した吉澤には彼の分まで力強く進んでほしいと思いました。その前途、苦難であれ興奮であれ数奇なものとなるのでしょう。
しかし今回もまた世界の作りこみが凄まじいというか。現実を取り込みつつもう一つの世界をシミュレートする密度の高さには圧倒されます。この奥行きの深さと広がり。ドロドロな裏がありまくりだし。今回の作品自体はきちんと完結してるのに、この世界はさらに続いて行くのだろうな、と思わされる仕掛が山ほど埋まってますもんね…。凄い。何度でも読み返さずにいられません。これを機に、前作もまた読み返そうと思います。
最後にもう一度、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
- 166 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/24(水) 20:16
- >104 名無し読者さん
レス遅れて申し訳ありません。静かに見守ってくれる読者さんのお陰で無事、完結できました。読んでいただき、ありがとうございました。
>105,164-165 56さん
終わりまで読んでいただいただけでも有り難いことですが、丁寧な感想をいただきお礼の言葉もありません。つくづく、私はよい読者さんに恵まれ、非常によい環境のもとで書くことができたのだなと実感しています。56さんにいただいた感想はもう、作者としてそこまで読み込んでいただけるかと感謝の気持ちでいっぱいです。拙い表現だとか、まずい文章だとか小説の構成としてこれはどーよ?といった不満もたくさんあることと思いますが、あえてその辺は目を瞑っていただき、作者をモチベートする言葉だけを選んでいただいたのだと思います。本当にありがとうございました。
- 167 名前:名無し娘。 投稿日:2003/09/24(水) 20:17
- 後藤の死に関して、前作で言葉足らずな面があったため、新メンバーがその真意を探るという大雑把な筋立てを思いつき、軽い気持ちで始めたのが意外に伸びてしまいました。スレまで立てる予定はなかったのですが(恥。)後藤が不当な裁判にほとんど抗弁せずに死を受け入れる、という姿勢には実在のモデルがあります。冒頭の「広田弘毅」がそれです。前作を書いている間、なんとなく誰かに似ているな、と感じたものの、その原因がわからなかったのですが、終わってからはたと気付きました。広田についてぜひ書いておきたいと思ったのが同郷である田中を選んだ理由でもあります。広田については城山三郎の「落日燃ゆ」が裁判の経過などを詳細に記述していますので参考までに。
田中(というか6期)については正直、キャラクタの造形にまで至らず、反省することしきりです。かといって他の登場人物の造形がうまくいってるかというと、そんなこともないわけですが。ただ、先輩風を吹かす石川というのが自分の中で大ヒットでして、この辺は非常に楽しんで書くことができました。
最後にもう一度。長いことお付き合いいただきまして本当にありがとうございました。
- 168 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/02(木) 12:21
- ついに完成しちゃいましたね。
作者さんお疲れ様でした。
もし次作を書かれるなら教えて下さい。
- 169 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/05(水) 21:47
- 一応保全
- 170 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/06(土) 19:11
- 新作待ち保全
- 171 名前:闇への光 投稿日:2003/12/26(金) 18:42
- 初投稿させていただきます。
つい最近発見して 市井ちゃん、お隣の国からデビューだってさ!!から
そろそろ市井さんを許してあげようよ!! を一気に読みました。
後藤の態度には本当に広田弘毅を思わせるものが漂います。
彼は一切、自己弁明をせず助命嘆願の署名が10万も上ったものの彼は
「自分には戦争をとめられなかった責任がある」と言い
刑場の露と消えてしまった人とは作者様もご存知だと思います。
さらに、保田の態度を見ますと東京裁判で被告人全員の無罪を訴えた
パル判事を思い出させます。
「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、
また理性が虚偏からその仮面を剥ぎ取った暁には、
その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら
過去の賞罰の多くに、その心を変えることを要求するであろう。」
作者様もご存知とは思いますがこの言葉は当時
世に受け入れられませんでした。
つづく
- 172 名前:闇への光 投稿日:2003/12/26(金) 18:43
- そろそろ市井さんを許してあげようよ!! の序盤の飯田の態度も
一般人の心理を見事に描いていると思います。
そして市井の境遇も不幸なものですが 新政府の正当性をアピールするために
友を罵倒しなければならないという人間社会の真理だと思います。
勝てば官軍・負ければ賊軍 を見事に描いている傑作だと素人ながら思いました。
自分もこの作品に触発されて東京裁判を座談会形式で書いてやろうかな
って一瞬マジで思いました。でも人気がでさそうにないのでやめときます。
作者の次回作を楽しみに待たせていただきます。
長くなりましたが失礼いたします。
- 173 名前:名無し 投稿日:2004/01/21(水) 20:43
- 新作(サイドストーリーとか)期待
※焼肉ツアーとかでも
- 174 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:05
-
- 175 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:05
- 短編をひとつあげます。
- 176 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:07
-
『いっしょに、ねっ。』
- 177 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:07
- 公園で小石を蹴っていたら雨が降り出した。
遊んでいたほかの子たちがきゃーきゃー叫びながら
蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。
私は持っていた傘をさして、再び足元の小石を蹴り始める。
ひとつ、ふたつ。
みっつめを蹴り損ねてブランコに当ててしまったところで
雨の勢いが強くなった。
よっつめを探すころには足許の窪みに雨水が溜まり始めて
私は蹴るのを諦めた。
これからどうやって暇を潰そうか。そう考えて雨足の強まる
空を見上げたところで早貴ちゃんが現れた。
- 178 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:08
- 「ごめんね」と荒い息を吐きながら現れた早貴ちゃんの靴下には
泥が跳ね上がって汚れていた。走ってきたんだ。まだ約束の時間には
遅れていないのに。きっと私の姿を見て駆けてきたんだろう。
早貴ちゃんはそういう子だ。
「待った?」と心配そうな顔で訊ねる早貴ちゃんの眉は下がっていて
とても悲しそうだ。私はこの表情に弱い。
「うんん。今、来たとこ。行こっか?」
「うん」
パッ、と拡がる笑顔に一瞬、雨が止んだのかと錯覚しそうになる。
早貴ちゃんが嬉しいと私も嬉しい。だから、30分前から来ていた
ことは言わない。早貴ちゃんはきっと気にする。
- 179 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:08
- 平日の午後。歌やダンスのトレーニングに通い始めて一年半以上
になる。同じ4年生同士。早貴ちゃんとはいつもこの公園で待ち
合わせていっしょに通ってきた。それも、もうじき適わなくなる。
キッズの活動がいよいよ本格的に始まる。
並んで歩き始めて気が付いた。早貴ちゃんの傘は随分と大きい。
すぐに大きくなるから、と思ってお母さんが大きいのを買って
くれたんだろう。でも早貴ちゃんはなかなか大きくならない。
だから傘はすっぽりとランドセルまで覆って早貴ちゃんを隠す。
今日はいつにもまして早貴ちゃんの姿が小さく見える。私には
傘で隠れた早貴ちゃんの表情が見えない。
早貴ちゃんは新ユニット「ベリーズ工房」に選ばれなかった。
- 180 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:08
- 「あ、あのさ…」
私は傘で隠れた早貴ちゃんの表情を想像しながら話し掛けた。
「うん?」
蝶が羽を広げるように傘を大きく開いて早貴ちゃんが上目遣いに
尋ねるような表情で見上げる。私はその表情にも弱い。
「あ、あれはスターティングメンバーだから、だからさ…あの…」
私は言ってから、しまった、と思った。バカバカ、バカゆりな。
だからいつもひとこと多いって言われるのに…
早貴ちゃんの表情が崩れるかと思って身構えると、意外にもニコッ、
と微笑んで「うん」と応えてくれた。私はホッ、と胸を撫で下ろした。
「でもさ…」と再び眉を寄せてうつむく早貴ちゃんの表情に
再び胸がドキドキする。
「友理奈ちゃんが心配だよ。だって――」
「うん?」と今度は私が尋ねた。
「桃チャンが友理奈ちゃんいじめないか――」
あっ、と私は声を上げていた。ああ、そのことか。
早貴ちゃんが心配するのには理由がある。
桃チャンはいじめっこだ。
- 181 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:08
- 桃チャンがその本領を発揮し出したのは、ZYXに入ってから。
それまでは、ちょっと口うるさいお姉さんという程度の印象は
あったものの、それほど嫌な人ではなかった。
加入してすぐ撮影した映画で桃チャンは清水サンとともに主役
に選ばれたし、キッズの主力の一人であることは、本人も回りの
人も認めていたはずだ。だから、桃チャンが自分より立場の劣る
メンバーを特に敵視する必要はなかったんだと思う。
雲行きが怪しくなってきたのは、多分、矢島サンが急に綺麗に
なってしまったからだ。何があったのかわからない。でも私にさえ
矢島サンがすごく綺麗になったことはわかった。正直に言うと、
それまで矢島サンはどことなく影が薄かった。だから、桃チャンは
全然、気にしてなかったんだと思う。ライバルとしては。それで
余計に焦ったのかもしれない。
- 182 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:09
- 「さき、矢島サンが泣いてるの見ちゃったから…」
早貴ちゃんは心配そうに
「友理奈ちゃんも背高くてスタイルいいから――」
だから狙われそう、と言い終えないうちに、歩道のすぐ近くを
トラックが水しぶきをあげながら走り抜けていった。「キャッ」と
言いながらも、早貴ちゃんは傘を道路に向けて泥が跳ねかかるのを
防いでくれた。おかげで私は汚れなかったけれど、早貴ちゃんの
髪の毛が少し濡れた。額から水滴が一滴落ちる。
「ありがとう」
私は「へへっ」と照れ笑いする早貴ちゃんの頭をハンカチで拭いた。
桃チャンのやり方は陰険、かつ巧妙だった。
最初、桃チャンは矢島サンにすごく親切だったらしい。それまで
影が薄く、あまりキッズに溶け込めてなかった矢島サンにはそれが
嬉しかったに違いない。二人はすぐに打ち解けて仲良くなった。
それで少し気が緩んでしまったのかもしれない。
- 183 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:09
- ZYXの曲はとても格好よくて踊りが激しい。だから練習でみんな
へとへとになってしまう。特に矢口さんはモーニング娘。や一人での
仕事も夜遅くまでたくさんあるからキッズ以上に疲労の度合いが大きい。
休憩のときはひたすら座り込んで氷を食べていたようだ。
そんな矢口さんを見て桃チャンが矢島サンに「見てアレ」って
囁いた。矢島サンは普通に「矢口さん大変だね」って答えてたんだけど、
それで許してくれる桃チャンじゃない。「やっぱ年だよね」って笑った
桃チャンに矢島サンはどう反応してよいか困ったって。
「年だよね、おばさんだよね」って繰り返し言われて、矢島サンは
嫌だったらしいんだけど、桃チャン、ああいうときはしつこいから。
それで矢島サンもつい、「そうだね」って言っちゃったんだって。
- 184 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:10
- その場はそれで済んだんだけど、どうもそれから矢口さんが
矢島サンに冷たくなったみたいなんだ。原因はもちろん、桃チャン。
以前から「矢口さんみたいに踊りがうまくなりたい」とゴマを擂ってた
桃チャンのこと。今度のこともきっと裏で告げ口してたに違いない。
ホント。桃チャンは怖い人だ。
矢島サンはそれですっかり参ってしまったらしい。せっかくのテレビ
出演でも妙に元気がなかったのはそのせい。えりかサンが庇ってなかったら、
今ごろ矢島サンはキッズを辞めていたかもしれない。それこそ桃チャンの
思う壺だったんだろうけど――
信号待ちで足を止めた。早貴ちゃんは鼻歌を歌いながら足でステップを
踏んでいる。メロディは白いTOKYO…ZYXの曲だ。早貴ちゃんはホントに
歌ったり踊ったりするのが大好きなんだな。小さな体をゆすりながら、傘の
柄を上げたり下げたりして「最近、髪型、変えたね〜♪」と歌う早貴ちゃん
の声に私も「格好よく、なったよ〜♪」と被せた。早貴ちゃんが振り返り
ニコッと笑う。信号が青に変わった。
- 185 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:10
- ZYXで標的にされたのは矢島サンだけじゃない。唯一5年生で抜擢
されためぐちゃんが次に狙われた。狙われたって言うのもおおげさだけど、
桃チャンの場合、ホントにマジ、シャレになんないから。あれは一緒に
行動してみなきゃわからないと思う。
めぐちゃんも本来は大人しいタイブだから、桃チャンにしてみれば
大したことない、って感じだったと思う。でもめぐちゃんは凄かった。
化けた、っていうのかな。それまで私といっしょに出たドラマでは
それほど目立つ漢字ではなかった。どちらかといえば雅ちゃんが一番
目立ってて、私やめぐちゃんは添え物って感じ。年下の私にもいばらない
控えめな性格は好きだったけど、大人しい性格は、あまり芸能界向き
じゃないな、って思ってた。ところが…
- 186 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:10
- 最初にびっくりしたのはZYXのダンスを初めて見たとき。うまい。
体のキレ、っていうのかな。桃チャンやえりかサンももちろん上手い
んだけど、レベルが違う、って感じ。めぐちゃんひとりだけ、矢口さんと
遜色ないくらいに弾んでた。私には歌もキッズでは一番、うまく感じ
られたし。それが間違ってなかった証拠に、セカンドシングル「白い
TOKYO」では、終にめぐちゃんがメインに抜擢されていた。
あれは正直、矢口さんにもおもしろくなかったんじゃないかと思う。
もちろん、矢口さんは大人だから、そんな素振りは見せないけど。
でも、桃チャンはそういう心の機微がよくわかってて、巧みに突いて
くるんだよね。なにかと辛く当たってはめぐちゃんが嫌になって自分から
メインを降ろしてくれるよう泣き付くのを待ってたみたい。
- 187 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:10
- 矢口さんは急がしくてキッズと一緒にいる時間はそれほど長くない
から、実態はわからない。スタッフの人たちも大人だし、キッズは
仲良くやってるとしか思ってないだろうし。で、めぐちゃんを助けて
くれたのはまたしてもえりかサンだった。ただ、手放しでは喜べない
んだよね。
えりかサンは会社が運営している音楽学校出身だから、割と優遇
されているみたいなんだ。だから、桃チャンもえりかサンに対しては
あり強い態度に出られないみたい。もちろん、そーいう立場にある
ことをえりかサンは意識している。
えりかサンが親切心からめぐちゃんを助けたわけじゃないことは、
私たち下級生メンバーにもわかるんだよね。えりかサンは桃チャンを
ケンセイしてたんだと思う。めぐちゃんがメインに選ばれたこと自体は
決しておもしろいはずはないから。
- 188 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:11
- でも一番、不気味なのはやっぱり清水サンかな。体はちっちゃい
けど、とても気が強くて頭がいい。あの人は多分、そうやって誰が
ZYXで、いやキッズの中で抜け出ていくのか、しっかりと見極めて
いるんだと思う。付かず離れず。桃チャンが勝ち残るなら桃チャンに。
えりかサンならえりかサンに。
ただ、今度入ったBerryz工房は梨沙ちゃん以外、抜け出た子は
いない。その梨沙ちゃんもクォーターの血が入ったお人形さんの
ような外見以外、実力は決して高くない。ダンスや歌で手間取れば、
センターを明渡すのも時間の問題かもしれない。もちろん、私だって、
真ん中で歌いたい。今度は桃チャンを抑えられる人がいないから、
本当にヤバイかもしれないんだ。それを早貴ちゃんは心配している。
「友理奈ちゃん…わたし…」
早貴ちゃんは何か思いつめたような顔で私を見上げた。雨足が
強くなって、傘を傾けた早貴ちゃんの肩が濡れている。私は慌てて
自分の傘を早貴ちゃんの肩の上に差し出した。
- 189 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:11
- 「わたし、がんばってBerryzに入るからね!友理奈ちゃんが
いじめられないようにわたしが守ってあげるからね!」
私は思ってもみない言葉に即座に反応できずにいた。早貴ちゃんの
瞳が静かに、でもしっかりとした強い光をたたえているのがわかる。
私は唇を噛んでじっとその目を見つめた。
早貴ちゃん…
私は早貴ちゃんの純粋さに腹が立った。Berryzに入ったら、
ライバルなんだよ。人のこと守ってあげる余裕なんてないんだよ。
早貴ちゃんだってライバルになるんだよ…
でもその真剣な眼差しに気圧されて、口に出すことはできなかった。
こんなちっちゃい早貴ちゃんが、私を守る、って言ってくれている。
私は……ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
- 190 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:11
- どうする、ゆりな……?
雨礫が傘の上を叩く音が太鼓のように響く。
ドン、ドン、ドン…
ドン、ドン、ドン…
私の心臓も早鐘を打つ。
ドン、ドン、ドン…
ドン、ドン、ドン…
決めた。私は声に出した。
- 191 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:12
- 「早貴ちゃん…がんばろ、いっしょにがんばろ」
「うん、いっしょに」
「約束だよ、絶対Berryzに入るんだよ」
「うん…」
私は力を込めて早貴ちゃんの瞳を見つめた。
「いっしょに、ねっ!」
- 192 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:12
-
―― おわり ――
- 193 名前:名無し娘。 投稿日:2004/01/23(金) 19:27
- >168 名無し読者様
ありがとうございます。
レス遅れて申し訳ありません。
気の利いた短編でも上げてからレスしようとのんびり構えていたらこの体たらくです。
>169-170 名無し読者様
保全ありがとうございます。
>171-172 闇への光様
丁寧な、そして深い洞察に基づいた的確な感想をありがとうございます。
広田を知っている方に読んでいただればと思っていただけに望外の
喜びです。作者が描こうとした内容を見事に読み取って頂き、とても
嬉しく思います。本当にありがとうございました。
>173 名無し様
ありがとうございます。
ご期待に添えなくて申し訳ありません。
次も短編かな…(自信なさげ)
- 194 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/28(水) 09:17
- 久しぶりの更新だ、と思ったら意表をついたのがきましたね。
さわやかに萌える(?)お話でした。
皆さんもう大分キッズを受け入れたようですね。
わたしも熊井は可愛いと思います。
次の短編もたのしみにまってます。
- 195 名前:闇への光 投稿日:2004/01/29(木) 21:25
- お久しぶりです。短編を読んでみましたが 名無し娘。さんは人の弱いところを
表現するのが見事だと思います。
「そろそろ市井さんを〜」の方では飯田が今回は桃チャン(キッズはぜんぜん知
らないんです)が該当していると思います。
前者は前にも述べましたが当時や今の日本人の意見の代弁を、後者は上の人に気
に入られたいという「人間の弱さ」がうまく表現されています。
そしてその対極にあるのが前者では保田、後者では早貴だと思います。
そして前者では「知りたい」という知識欲、後者では「友情」が「弱さ」を打破する。
それから私に「深い洞察」なんて物はありません。ただ素直に思ったことを書いているのに過ぎないのですから・・・
- 196 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:54
- 短編をあげます。
- 197 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:55
-
『歪みシリコン』
- 198 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:57
- 一.
「けっ」
俺は火を着けたばかりのキャスター・マイルドを床に叩きつけた。
しけてやがる。
だから国産は嫌いなんだ。
JTなんざ早いとこフィリップ・モリスに買収されちまえばいい。
そうすれば競争力のない日本の養葉農家なんぞあっという間に淘汰される。
消費者はうまい煙草が吸えさえすればそれでいいんだからな。
「おいおい潤、まあそうカッカすんなよ。いいじゃん、モームスじゃん」
「だからなんなんだよ」
俺の苛々は収まらない。
ニノのやつは例の三流雑誌を机にポンと投げ出した。
次にやつが吐く台詞は容易に想像できる。
- 199 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:58
- 「で、おまえ、本当にやったの?」
プッ。やはりそうきたか。
だからおまえはガキだっていうんだ。
「童貞みたいなこと言ってんじゃねえよ。俺がやらねえわけねえだろ」
「プッ、やったの?マジで?いやぁ、漢だねえ、潤。おまえもうボランティアの域、達してんだろ、それ?」
ぬっ殺すぞ、うるぁ。
「い、いや…モームスなら他にいくらでも可愛い子いるのになぁ……なんて」
俺は視線だけでニノを制した。
こいつは口だけでまったく気合ってもんが入ってねえ。
- 200 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:58
- 「おまえはだからオリキの豚どもに舐められんだよ。二十歳過ぎて小僧もねえもんだ」
「オリキ」ってのは「オ」っかけに「リキ」入ってる俺らのファンのことだ。
たいてい気合の入った不細工な女が多い。
まあ、やつらがニノを「小僧」と呼びたくなる気持ちはわかるけどな。
「俺は来るものは拒まずってえ寛容なポリシーだからな」
「オリキは拒むくせ――」
「糞豚の話は止めろ!」
「……ごめん」
俺はしょっちゅう付きまとっては俺の行動を束縛するあの豚どもが大嫌いだ。
ファンサービス?
ハァッ?って感じだね。
そんな嘘っぱちは翔にでもまかせとけばいい。
俺はあのデブで不細工なくせに厚顔な豚どもが大嫌いだ。
今、手元にマシンガンがあれば弾倉に弾がなくなるまでオートで打ちまくりたい気分だぜ。
まったくあいつらは人間じゃねえ。
- 201 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:58
- あの醜い地球外生命体どもに比べれば小川麻琴は少しはマシだった。
それだけの話だ。
肉便所?
うまいこと言うじゃねえか。
あのくだらねえバカ雑誌に書いてあった記事は当たらずとも遠からずだ。
俺があんなブスを相手にしてねえのは確かだ。
だが、ムカついてしょうがねえ。
なんだってこんなに苛つくんだ。
- 202 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:59
- 「でもヤバいんじゃない?ジャニーさん、最近、こういうの気にしてるし」
「ジャニーさんよりメリーさんだろ。ジャニーさんはもうわかってないよ多分」
「なんだよ?翔くん、わかったようなこと言うじゃねえか」
翔は慶応でいちおう学生なんてものをやってるから言うことが小賢しい。
こいつもオリキが苦手って点では俺と同類だ。
だが、俺に言わせればまだまだ甘い。
あんなうじ虫どもは早めにぶっ殺すに限る。
地球の資源には限りがあるんだ。
あいつらに吸わせる空気さえもったいない。
やつらが吐き出す二酸化炭素の分だけ、確実にオゾン層は破壊されてるんだからな。
俺ってエコロジストだろ、なあ?
とにかく。
慶応なんて出なくても世の中の道理には俺の方が明るいってこった。
こいつにはそれがわかっちゃいねえ。
「いや、ゴマキの弟のこともあるからさ。あんときはうちの舎弟も上げられちゃっただろ?あんなのが出たらモームスだけじゃなくて、俺らもヤバイってことさ」
そんなことはわかってる。
わかってるんだ…
- 203 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:59
- 「まあ今回は小川だったから、メリーさんもまさか本気じゃないだろ、ってことでお構いなしなんだからさ。そこは理解してた方がいいんじゃないの?」
「ちっ…まあ、メリーさんのお咎めがないのは正直助かるけどな」
なにせメリーさんは俺らの命のひとつや二つ、いつでも持ってける人だからな。
嘘じゃねえぜ。
ジュニアでお痛したやつで人知れず行方のわからなくなった奴を俺は何人か知っている。
メリーさんは半端じゃねえ。
それだけは確かだ。
「おいっ!潤!噂をすればあの子だぞ!」
あん?やべえ…マジだ。
ニノのやつ、そんなはしゃぐんじゃねえよ。
畜生。また来やがった。
仕事場には来るなっつってんのに。
みっともねえ。
っつーか、俺が喜んでるみたいじゃねえか。
「じゅ〜ん、ちゃん♪」
おいおい、こら、このデブサイク。
勘違いするなよ。
俺はしかたなくおまえと遊んでやってるだけなんだからな。
なんだ、そのへらへらした顔は。
口開けんなよ、口。
- 204 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 20:59
- 「バカかおまえ?まさか雑誌に書かれたの知らないわけじゃないだろうな?」
俺は一応確認したさ。
このバカの場合、本気で知らないこともありうるからな。
「でへへぇ。公になったから、いいじゃん、とか思ってぇ。これで公認カップルでしょ?」
「バァカ。だからおまえはデブで考えなしだっつーんだよ。おまえ、なんて書かれたか知ってんのか?」
「ん?潤とマコの熱愛発覚じゃないの?」
はぁっ……
めまいがするぜ。
このバカだけは死んでも直りそうにねえ。
っつーか死んでくれ、マジで。
「いいか『肉便所』だぞ、『肉便所。』おまえは俺に相手にされてないのにヤルだけの存在だって書かれたんだぞ」
「へっ?そーなの?」
だめだ。こいつわかってねえ。
「いやー、あたし気にしないよ。潤とあたしってラブラブだしぃ♪」
うわっ、このやろ!
腕なんか組むんじゃねえ!
仲がいいみたいじゃねえか。
勘弁しろ、マジで。
「ふざけんなよ。やべえんだよ、マジで。メリーさんに見つかったら、今度こそただじゃ済まねえ」
「メリーさんの羊?」
「おい……」
- 205 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:00
- 俺は思い切り脱力した。
こういうやつだよ、こいつは。
「まあいい。何しに来たんだよ?今日はオフじゃねえだろ?」
「わあっ、覚えててくれたんだぁ。嬉しい!そろそろ潤、溜まってきたんじゃないかと――」
「バ、バカ、こいっ!こっち!」
俺は慌ててこのバカの手を引っ張って「ウォーッ!俺もやりてー!」とか「早速一発かよ!」と下品極まりない矯声をあげてはやし立てるメンバーににらみを聞かせた。
「ぬっ殺すぞ、うるぁ!」
「ぎゃははは、照れなくていいぞぉ、潤ちゃん!」
「漢やのぉ、潤!」
- 206 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:00
- ちくしょう。どうなってんだ?
俺の眼力が急に衰えちまった。
まったく、こいつといるとろくな目に会わねえ。
なんだか触れるものみな、ぐにゃぐにゃのへらへらになっちまう。
やっぱ、モームスはすげーぜ。
こんな隠しダマ持ってやがんだからな。
まったくすべてを無力化してしまう細菌兵器みたいなやつだぜ。
「ねえ、潤、どこいくの?」
「うるせえっ!おまえは黙ってついてくりゃいいんだよ!」
つい語気を荒げてしまう。
いけねえ、いけねえ。
アラシのジェントルマンたる俺さまが。
ったく、こいつといると調子が狂う。
- 207 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:00
- 「ねえ…いいよ、あたし。トイレでも…」
「トイレって…」
一瞬こいつが何を言ってるのかマジわからなかった。
っていうか…
「おいっ!ふざけんなよ。厨房じゃあるめーし、四六時中おっ立ててるわけじゃねーんだぞ、俺は」
「えぇっ、でも潤、好きでしょ…」
わけがわからん、とでもいうよいに頬を膨らませて首を傾げている。
まるっきりおばさんだな。
しかし…
こいつはこいつなりにいろいろ考えてるらしい。
まったく見当はずれなのはいつもの通りだが。
「あっ!潤、忙しいでしょ?そうでしょ、そうだよね?ねっ…」
大声で叫んだと思えば今度は耳許で声をひそめる。
- 208 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:01
- 「口でしてあげよっか…この辺の影で」
「ばっ、バカやろう!」
俺は天を仰いだ。
ごめんなさい、俺の不信心をお許しください。
これからまじめにお祈りするから、どーかこのバカを二度と俺の前に現れないよう――
「いいの?」
「えっ?」
俺はドキッ、とした。
まさか読心術?
「本当にしなくていいの?」
はぁっ…
俺は神に祈る気力さえになくして説明することにした。
どうも神様はあてにするなと言ってるらしい。
- 209 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:02
- 「おまえさぁ、もうちょっと建設的に考えろよ。おまえなんか、俺は何とも思ってないたんだからさ、本命の彼女と腰が抜けるくらいすげーセックスしてるから、あたしは必要ないのかしら、とかよー」
「えへへっ、いいんだ…」
この期に及んでへらへらしてやがる。
こいつアホだな。
ホンマもんのアホ。
「潤があたしのこと本気でないの知ってる…でもあたし、潤のこと好きだから」
アホ…
「あたし、潤のためなら何でもするよ」
…こいつはアホだ。
本当にアホだ。
「何でもするんだな?」
俺はこいつの手をつかんだまま顔を覗き込んだ。
「う、うん…」
俺の眼力はまだ有効だったみたいだ。
このやろう、目を逸らしやがった。
- 210 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:02
- 「じゃあ、頼むから…」
あいつは植えた狼の前で脅えた兎のように潤んだ瞳で俺を見あげた。
なんて目つきなんだよ。
この期に及んでブルったみたいに急に言うのが恐くなっちまった。
心に重い蓋みたいなもんが圧しかかったみたいに言葉がでてこねえ。
ちくしょう。ムカつくぜ。
俺はすべてを振りきるように腹の底から声を絞り出した。
「今すぐ俺の前から消えてくれ、今すぐにだ!」
あいつは一瞬、挑むような視線を俺に返したかと思うと、
すぐに身を翻して走り去った。
あんなデブなのに随分と身軽に走るんだな。
わけわかんねえ。
俺はなんかとても疲れてしばらくその場を動く気にならなかった。
- 211 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/16(月) 21:02
- 泣くかと思ってた。
だが、あいつは泣かなかった。
目に涙はいっぱい溜まってたけど。
あいつは歯を食いしばって、涙があふれるのをこらえてた。
なんだか拍子抜けだ。
ちくしょう。
緊張して損したぜ。
まったく、気が抜けちまった。
俺はキャスターの残りを取り出して火を着けた。
ちっ、まずいや。
それでも俺は吸い続けた。
やけに目にしみる煙だぜ。
俺はやっぱり口に合わないその煙草を放り投げて靴の底で踏みつけた。
ちくしょう…
急に怒りが込みあげてきて俺は猛烈にその煙草を踏みつけた。
何回も、何回も。
いい加減、足の踵が痛くなるまで。
散々、踏みしだかれた煙草は無残にも巻き紙がすっかり破れて煙草の葉を撒き散らしていた。
靴の底についいた葉をアスファルトにこすりつけて落とすと俺はその場を立ち去った。
楽屋に戻ったが、部屋にはもう誰も残っていなかった。
- 212 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:03
- 二.
「なんだよ潤、いけてねーじゃん。どうしたんだよ?」
「そうだよ。なんかつまんなーい」
少しは黙ってくれ。
ニノの甲高い声が耳に痛い。
俺の気分がいまいちすぐれないことくらい判れよ。
こいつの連れがまたニノに輪をかけて鈍感なだけに期待するだけ無駄ってもんだが。
「あーなんか俺、調子わりーんだわ、そろそろ帰っかな」
「えー、まだ来たばっかだし、潤、全然、歌ってないじゃん。歌おうよ、ほら、ニノなんか入れてよ」
「ああっ、ええっと…潤、ホントに大丈夫か?」
連れよりはさすがにましだったか。
俺の体調心配してくれるなんてよ。
とにかく、なんもやる気が起きねえ。
「ああ、俺いいからおまえいれてくれよ」
「ええっ、ニノなんかもう3曲も歌ったんだからー、潤、ノリ悪いよ、もー雰囲気ブチ壊しって感じ?」
ニノには悪いが俺は強烈に殺意を催した。
ダメだ。
これ以上、ここにいたら俺はこいつを殺してしまう。
- 213 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:04
- まったく、モデルだかなんだか知らないが針金みたいに細っちい見てくれ以外はなんも取り柄のないやつだぜ。
こんなやつと一緒にいるくらいなら…
…………
俺の思考は糞詰まりにでもあったみたいにパタッと止まっちまった。
こんなやつと一緒にいるくらいなら何だってんだ?
俺はあまりにもくだらないことを考えそうな自分にもーれつに腹がたった。
くだらねえ。
「ちょっとぉ、もうニノなんか言ってよ!こいつムカつくぅ!」
俺が無視し続けるのに耐えられなくなったのか、このハリガネ女がキィキィとよく鳴きやがる。
バシッ!
俺が机に叩きつけたカラオケのリストが派手な音を立てて束の間の静寂をもたらしてくれた。
ブラボー、第一興商。
分厚いリストだけは一級品だ。
「帰るぜ」
俺が立ちあがりかけたときだ。
ニノの携帯が鳴った。
「あっ!モームスじゃん?ニノ、止めてよ。趣味悪い」
「ちょっと黙って!聞こえない…うん、潤?いるよ」
- 214 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:04
- 「何だよ、俺に用事かよ?」
「あっ、ちょっと、ちょっと待って……うん……えっ?小川さんが?」
「小川が何だってんだよ!貸せ!」
俺はさっぱり要領を得ないニノの携帯を取りあげ、相手に話しかけた。
「おい、俺だ。小川がどうしたんだよ?」
相手はまったく感情のこもらない声で小川が俺のオリキに捕われた、と告げた。
「あのやろう…」
最近、様子がおかしいとは思っていた。
だが、こんな手段に出るとは予想外だ。
大体、やつら、小川なんて相手にしてなかったはずだ。
それにしても……
電話の向こうの相手はやけに落ち着いている。
俺はそれが気になった。
「小川は大丈夫なんだろうな?」
――相手はナイフを握っている。ヤバいかもしれない。
何だと?
「警察呼べよ!俺に電話してる場合じゃねえだろ!」
――呼ばない
なぜだ?
――興味がある
何にだ?俺に興味?
「おまえはニノのオリキのはずだろう…?」
――どこまで歪んでいるか確かめたい
ふざけんな。
もーれつに腹が立った。
- 215 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:05
- 「小川がヤバいってのに何、日和ってんだ、てめえ?!」
――連絡はした。警察に通報するかどうか、後は自分で決めろ、やつはおまえを待っている。
自分で…俺に決めろってのか?
――テンパってる、早くしないと手遅れになる
なんだってんだ…
俺は途方に暮れた。
「おまえは俺に何を求めてるんだ?」
――オリキって何なんだろうな?
「何、言ってんだ?てめえ?俺に聞くな、バカが。オリキなんざ豚以下のゴミだろうが」
――ニノもそう思ってるのかな?心の底では…
「……」
言葉が出てこなかった。
俺がオリキを嫌ってるのはファンなら誰もが承知している。
だが、一見、ファンに対して愛想のいい、ニノやサトシさんのファンでも不安はあるはずだ。
こいつは試そうとしているのか。
俺がオリキと小川のどちらを取るか。
そいつを試そうとしているのか?
- 216 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:05
- 「俺らがオリキには手を出せないことを知ってて言ってるのか?」
――そうだとしたら…?
相手はせせら笑うように告げた。
「もし、俺がファンに手を上げたら…」
それがメリーさんにバレたら、俺は終りだ。
芸能人ではいられなくなる。
二度とな。
――Show the flag……
旗幟を鮮明にしろ。
そういうことか。
――やつを犯罪者にするもしないも……
「俺しだい…」
――そういうこと、とにかく連絡はしたから
相手は場所を告げると俺が聞き返す間もなく電話を切った。
携帯をマジマジと見つめる俺にニノが尋ねてくる。
「潤、小川さん、大丈夫?」
「ニノ、行くぞ」
「行くって…どこへ?」
俺は答える前に既に動き出していた。
「ちょっ、ちょっとぉ!ニノ止めてよ。小川って何よ?あのモームスのデブのこと?ニノは関係ないじゃん?」
「だって、危ないんだろ、潤?おい、ちょっと…」
俺は脇目も振らずにボックスを後にした。
すまねえニノ。
せっかくのオフを台無しにしちまったな。
だが、こいつは行かなきゃならねえ。
- 217 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:05
- 俺は通りに出てタクシーを拾うと場所を告げた。
「高速使いますか?」
「お願いします」
タクシーはすぐに走り出した。
俺は一瞬、サイドミラーの中にニノが追いかけてくる姿を見たような気がした。
本当に見たのかどうかわからない。
あるいは追いかけてほしかっただけなのかもしれない。
どうでもいい。
スピードを上げてフロントガラスに迫ってくる高速のセンターラインが目に入ると
そんな想いはすぐに流れる風景とともに後ろに消えていった。
俺は前だけを見ている。
ちくしょう…もっとはやく…
気が付くと手に汗が滲んでいる。
俺は自分でもびっくりするくらいに緊張しているようだった。
- 218 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:06
- 三.
タクシーは街中の古びたマンションの前で止まった。
俺は万札を一枚渡すと、釣も受け取らずに車を飛び出した。
そのマンションの一室には以前にも来たことがあった。
オリキたちが集会なんかで使ってる部屋だ。
タレントとの密会に使わせてもらったこともある。
だが小川を連れてきたことはなかった。
すぐに足がつく自分達のネジロに連れ込んだことでやつらの覚悟が知れた。
俺はキーを挿してロックを外すと中に滑り込んだ。
「来たぞ」
「潤…」
俺のオリキが三人。
リーダー格のやつがベッドの上で腕を組み俺を睨みつけていた。
小川は両腕を後ろで縛られ、口にガムテーブを貼られていた。
残りの二人に挟まれて、右隣のやつからはナイフを咽喉元に突きつけられている。
「その物騒なモノをしまえよ」
「潤が言うことを聞くならね」
腕組みをしながら俺に話し掛けるやつには目を向けず、
俺はナイフを持つ女に対し繰り返した。
切っ先が震えている。
小川の目に怯えは感じられない。
怖がっているのはむしろ、こいつらだ。
- 219 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:06
- 「おまえ、その手つきだと、マジで刺しちまうかもしれねえぞ。怪我させる前に引っ込めろよ」
「無視すんなよ!このヤロウ!」
やつがブチ切れた。
ヤベえな。
ナイフを持つ手の振幅が大きくなってきた。
早いこと片付けねえと。
「おまえ、何様だよ!ナカマとやるときだって、ここ貸してやったじゃんかよ!俺らだって、タレントの恋愛に理解がないわけじゃねえんだよ!それなのに何だよ、こいつは?!」
やつは小川の髪を掴んで頭をぐらぐらと揺らした。
小川は気丈にも叫び声ひとつあげない。
もっとも口を塞がれているだけの話かもしれないが。
やつの剣幕にビビって、片割れがナイフを引っ込めたのは救いだった。
「ナカマクラスなら俺らだって、諦めがつくんだよ。タレントじゃ仕方がねえ。でも、こいつは何だよ?こんなデブで不細工な女なら俺らの方がマシだろ?なんでだよ?なんで俺らじゃだめなんだよ?」
やつは小川の頭を壁に叩きつけると、俺に詰め寄った。
「ねえ、潤?お願いだよ。こんなの相手にするのだけはヤメてよ。ひどいよ」
- 220 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:06
- 「それがおまえの望みか?」
「この不細工におまえなんか相手にしてない、って引導渡してくれればそれでいいんだよ」
「俺がいつ、こいつを相手にしたよ?三流紙の記事を本気にするほど――」
「バックレんなよ!」
やつがまた切れた。
ちっ。
さすがにオリキともなると情報網は侮れねえ。
俺らの身辺情報に限って言えば、CIA並みの収集力だ。
いや、マジで。
「おまえが何度もこいつと会ってることくらい知ってんだよ!フザケんなよ!おまえ、ファンを何だと思ってんだよ!」
「お客様は神様だよ」
「死ねよ!」
ゴスッ、と鈍い音がして小川の体が弾け飛び壁にぶつかって崩れ落ちる。
やつの蹴りが縛られたままの小川の腹にキマった。
憎悪を剥き出しにして、俺に食いかかるやつの剣幕に後の二人は完全にビビっていた。
まあ、こんなイッちゃったやつ相手に逆らえねえよな。
俺はこいつさえ片付ければ何とかなると悟った。
だが、そろそろ蹴りをつけねえとマジヤベえ。
俺は覚悟を決めた。
- 221 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:07
- 「お前は何が望みだ?俺に抱いてほしいのか?ヤレっつーなら、ヤってやるよ。服脱げよ」
「ザケんなよ…こんな豚女抱いた汚ねえ手でさわんじゃねえよ!」
やつは差し出した俺の手を振り払った。
ったくワケわかんね。
「言ってやってよ!こいつに!この女、潤に相手にされてないの全然わかってないんだから!おまえなんかただのヤリ女だって言ってやってよ!こいつ、ちょームカつく!」
やつは再び、小川の髪を掴んで揺すり始めた。
ゴツ、ゴツと壁に頭がぶつかるたびに小川の口から悲鳴とも嗚咽ともつかないくぐもった声が漏れる。
俺がやつを止めようとした瞬間、背後から声がかかった。
「もう止めなよ。殺す価値もないだろ、そんな女」
やつの手が止まる。
振り返るとニノのオリキが立っていた。
連絡をくれた女だ。
緊張していたせいか前方ばかりに気を取られていたらしい。
背後にこいつがいることにまったく気が付かなかった。
- 222 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:08
- 「潤、こいつはバカだけどさ。それでもオリキとして気持ちはよくわかるんだ。あんたもジャニタレならケジメくらいつけなよ」
「どういうことだ?」
すっトボケても無駄だということはわかっている。
だが、俺にも心の準備は必要だ。
「フッ。妙な芝居しなくたっていいよ。この豚に遊びだってことをわからせてくれればイイのよ」
「こいつ、何だってこんなにお前ら怒らせたんだ?」
俺にはよくわからなかった。
ナカマのときには部屋まで貸してくれたくせに。
- 223 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:08
- 「あんたって遊んでる割には肝心なトコで人の気持ちがわからないんだね?」
ニノのオリキごときが何を説教垂れやがる。
だが、今はこいつと話さなきゃ埒があかねえ。
目の前で荒い息を吐いているやつはすでにイッちゃってるからな。
「この豚、遊びでもいいって言いやがったんだ。そんなに潤のアレがイイんだってよ。まったく、芸能人としてのプライドも何もねえ。ただのメス豚だよ」
本気でムカついてるのか。
吐き捨てるように語気を荒げて小川に対する嫌悪を露にするこの女どもの態度に、俺はなんとなくわかってきた。
なぜ俺がここにいるのか。
そのわけが。
- 224 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:08
- 「じゃあ、そろそろ終りにしようぜ」
「ああ、さっさとケリつけてよ。あたしらも暇じゃないんだし」
おまえらが暇でなくて、誰が暇なんだよ。
突っ込みたくてウズウズしたが、さすがに言える空気じゃねえ。
っつーか、マジで終りだ。
心なしかやつらの雰囲気が変わった。
期待のこもった視線を感じるぜ。
ナイフを握ってたはずの女の手には何もなかった。
ったく。人気者はつらい。
「フッ。まったく、おまえらは俺に求めすぎなんだよ…」
「潤…」
意識して表情を和らげた俺にやつが歩みよる。
目が潤んでるな。
ホントにおまえは求めすぎだ。
「だが、そいつは何も求めなかった」
一瞬にして場が凍りついた。
やつは驚きで目を見開いている。
- 225 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:09
- 「遊びでも何でもねえ。俺はこいつに惚れてる」
続いて起こる映像が頭に浮かんだ。
血が上ったやつの顔が見る見る真っ赤に膨れ上がる。
そして今度は俺に詰め寄るんだ。
フザケんな!バカ!腐れ外道!だから歪って言われるんだ!
散々、俺をなじるとやつは小川に向かって拳を振り上げる。
その手を掴んで俺は――
バシッ!という大きな音に場は再び静まり返った。
俺は自分の掌を見つめている。
確かに今、大きな音が鳴ったな…
掌が熱を帯びてジンジンする。
掌が膨れ上がってまるで野球のグラブでもはめているみたいだ。
目の前の女は頬を抑えて床に崩れ落ちていた。
時計のコツ、コツと時を刻む音だけが耳に届く。
このまま永遠に地獄のような静寂が続くのかと絶望しかけたときに声が聞こえた。
「それがあんたの答えってわけね」
また背後からだ。
それを機に俺の足元から嗚咽が漏れる。
嗚咽は次第に悲鳴になり、泣き叫ぶ声はやがて意味不明の咆哮となって俺の耳を突き刺した。
- 226 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:09
- 「くっだらないやつっ!」
憎悪のこもった呪詛を背中に受けながら俺はゆっくりとベッドの上にあがり、小川の口からガムテープを剥がした。
腕の方はかなりきつく縛ってあるらしく、すぐには解けそうにない。
「痛むか?」
小川は悲しげな瞳を俺に向けて首を横に振った。
俺は小川の腰を抱いてベッドから卸した。
「立てるか?」
無言のままうなずいて立ち上がる小川の肩を抱いて、俺はドアに向かった。
やつらに手を出してくる様子はない。
「あんたっ!わかってんの?もう終りなんだよ!あんた本当に歪んでんね!」
一人元気なのはニノのオリキだろう。
そんなことはわかっている。
俺は歪だ。
ファンに手を上げるなんて俺らしいじゃないか。
数分後にははニノ担の間で知れ渡り、
一時間後にはファンの間に広がるだろう。
そして、明日には…
俺は振り返らずに告げた。
「メリーさんに誉めてもらおうなんて思っちゃいないさ」
- 227 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:09
- 俺は左手でノブを掴みドアを開いた。
ギィーッ、と軋んだ音を立ててドアが閉まると、俺は黙って小川の腰を抱き、表まで歩いた。
マンションの入り口を街灯の薄青い灯りがほの白く照らしていた。
「潤…」
悲しい。
本当に悲しい瞳が俺を見上げている。
涙が溢れそうだ。
何でおまえが泣く?
泣きたいのは俺のはずなのに。
「怪我はないか?」
小川は答えずにただ、首を横に振った。
その激しさに涙がこぼれて飛び散った。
俺はその頭を両腕で胸に抱え込んだ。
心臓の鼓動と小川の嗚咽と。
二つの音は混じりあって歪んだノイズとなり、俺の思考を狂わせる。
「悲しい顔すんなよ。俺が嫌いか?」
小川はただ遮二無二首を横に振って俺の胸に顔を埋めた。
やっぱりどこか狂っている。
俺がこんなことを言うはずはない。
すべてノイズのせいだ。
歪んだ――歪んだノイズのせいだ。
- 228 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:10
- 薄明かりの中、雪のように白い小川の頬が震えている。
街灯にしてはやけに明るい。
見上げると空にぽっかりと月が浮かんでいた。
冬空に瞬く星の煌きは急に寒さを思い出させた。
「これでガマンしろ」
上着を脱いで肩にかけ、腰に腕を回すと小川が俺の肩に頭を乗せた。
「寒いか?」
やっぱり首を横に振って答える小川の腰を抱く腕に力を込めた。
夜気の冷たさが俺を苛むように包み込む。
それでもこの温もりがあればそれでいい。
「帰るか」
こくり、とうなずく小川の頭を俺は撫でた。
明日はまだ遠い先のように思えた。
- 229 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:10
- 四.
「何をしたかわかってるんだろうね?」
「ハイ…覚悟はできてるっす」
メリーさんはいかにも頭が痛い、というようにこめかみを手で押さえた。
「あんたはもう少し頭がいいと思ってたんだけどね。少なくとも女絡みのトラブルについては安心してたのに…」
「すんません…」
俺は本気で申し訳ないと思っていた。
育ててくれた事務所に恩を仇で返すような幕引きになっちまったことだけは心残りだった。
「まあ、怪我させたわけじゃないし今回だけは…」
俺はオヤッ?と思った。
ジャニーさんが好々爺然とした顔つきでメリーさんの横に座っている。
「というわけにはいかないね、やはり」
ジャニーさんは相好を崩さぬまま、言い切った。
そうだろうな。
俺はホッとした。
筋を通すジャニーさんの意向は揺るがない。
俺はその原則を貫こうという頑固さが嫌いじゃない。
- 230 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:10
- メリーさんは苦虫を噛み潰したような顔でジャニーさんに詰め寄る。
「おまえさん、何とかならないのかね?潤はまだ若いんだし、あんただって若い頃は――」
「大概の悪さは何とかするがファンからそっぽを向かれたらこの商売は終りだよ。悪いけど、ファンに手を上げた行為は事務所として決して許すわけにはいかないのさ」
「おまえさん…」
メリーさんは落胆したというように項垂れた。
なんか、本当に申し訳ない。
「それにしても…」
とても歓迎すべき出来事ではないと思うのだが、ジャニーさんはやけに上機嫌だ。
まあ、俺一人くらい抜けたところで事務所が大打撃を被ることはないとはいえ、
喜ぶようなことじゃないはずだが…
「おまえさん、この記事」
そういってすべての発端になったあの三流紙をパンパンと叩いて示した。
「まだ、してないんだろ?小川麻琴とは」
「いや、そんなことは…」
俺は思わず口篭った。
そんなこと格好悪くて言えるわけないじゃんかよ。
困るぜ、マジで。
- 231 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:10
- 「あの子らも切なかっただろうねえ」
あの子ら、ってのはきっと俺担のオリキのことだろう。
俺には到底、やつらを許せそうにないが、年寄りは寛大だ。
「潤がやらない、ってのはよっぽど大事にしてる証拠だからねえ…」
ま、そういうことなんだろうな。
耄碌してそうなくせに人を見る目に曇りはねえ。
まったくたいした爺さんだぜ。
「向こうさんは個人のプライバシーにはうちほど感知しない主義らしいから、あんたが気をつけるんだよ」
メリーさんはさすがに女性らしく、小川の身を案じている。
あの事務所はフザケてんのかマジなのかよくわからないが、
お咎めは特にないらしい。
小川がこれからもモームスを続けるのなら、当然の配慮だろう。
それくらい、俺にもわかっている。
「避妊のことは心配してないけど、ホラ、モームスってヲタクが煩いから」
「それは注意しますよ」
俺だってキモさではオリキに引けを取らないモーヲタに狙われたくはない。
- 232 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:11
- 「まあ、体には気をつけてね。後のことはまた連絡するから」
ジャニーさんはそう言うと立ち上がって、俺に近づいた。
「まったく、おまえさんがいなくなるなんて心が張り裂けそうだよ」
そう言いながらケツを撫でるジャニーさんの掌の感触もこれでおしまいだと思うとなんだか感慨深いものがある。
と、思ったら調子に乗って前まで揉んでやがる。
けっ。
こいつに心を許すなんてまだまだ甘かったぜ。
この欲惚けジジイめ。
「お世話になりました」
俺は深々と頭を下げてお辞儀するとドアが閉まるのを確認し、会長室を後にした。
そのまま事務所のオフィスに顔を出して、挨拶でもしようかと思ったが、止めておいた。
そんなのは歪と異名を取る俺らしくねえ。
- 233 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:11
- 事務所のビルから出て通りを歩き出すと、待たせていたタクシーの後部座席に滑り込んだ。
「怒られた?」
「ああ。晴れて失業だ。そのうち『夢を掴みたいから』とかなんとかわけわからん理由で脱退の発表があるだろ?」
「潤…」
申し訳なさそうな表情で俺を見つめるな。
眉根を寄せるとこいつは本当に不細工になる。
笑え。
おまえは笑っていればいい。
「心配すんな。いつかこうなるだろって思ってた。おまえのせいじゃねえ」
「でも…」
顔を伏せると顎の辺りの肉が弛んで見えた。
っつーかもう少し痩せろ、おまえは。
車窓に目を移して風景に見入っているとしばらくして腕を引っ張られた。
意外と立ち直りが早いのか、伏せていた顔を上げて、おもむろに尋ねてくる。
「これからどうすんの?」
「遠慮ってもんがねえな、おまえは」
笑って答えたが、どうするという当てもない。
「しばらくはプーだろうがよ。とりあえず…」
「とりあえず?」
「パソコンでも買うかな」
「パソコン?」
- 234 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:11
- 小川は真剣な眼差しで穴が開きそうなほど俺の顔を凝視している。
そんな驚かなくてもいいぜ。
翔ほどじゃねえが、俺だって学がないわけじゃねえ。
暇になったら、とりあえずパソコンくらいは買おうと前から考えてただけの話さ。
「じゃあさ」
小川の瞳が急に輝きを増した。
なんだよ、おまえ、わかってんのか?
パソコンだぞ?
ロリコンとかスポコンとかそんなんじゃねーんだぞ?
本当にわかってんのか?
「CPUはインテルのプレスコットにしようよ。ペンティアム4の3.4ギガ。SOIに歪みシリコン採用!ハイパースレッドだよ!キャッシュも増えてるし、ALUも増設だって――」
「お、おい…」
何が起こったんだ。
俺はイリュージョンでも見てるのか?
モームスだぞ、こいつは?
っつーかひょっとして――
- 235 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:11
- 「おまえってかしこい?」
小川は口を閉じて鼻の穴を膨らませた。
「岡女では4位でしたが何か?」
「な、何…?」
なんなんだよ、いったい?
っつーか岡女って何だよ?
おまえの学校か?
学校で4位ならすげーじゃんか、マジやべえ。
「と、とりあえず…」
俺はなんとか冷静さを取り戻そうと努めた。
「そ、その歪みシリコンってのは何だ?」
俺はその「歪み」というキーワードにだけ敏感に反応していた。
もちろん、他の言葉はすべてスルーだ。
んなもん覚えてられるわけがねえ。
「歪みシリコンはね、シリコンを引き延ばして引っ張り応力により、シリコン結晶の原子と原子の間隔が広くなっているシリコン。電子の有効質量が小さくなり、移動しやすくなることで、デバイスの高速動作が可能になるの」
- 236 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:12
-
?????
なんだ?何かの呪文か?
一体、何をしゃべったんだ、こいつは?
俺は急に息苦しさを覚えて今すぐ、車を降りたい衝動に駆られた。
マズイ。
膨らんだままのこいつの鼻の穴に吸い込まれそうだ…
「……っつーか、何が歪んでるわけ?」
たっぷり10秒くらいの沈黙を措いて、俺は尋ねた。
俺は徹底してそのキーワードにこだわった。
それ以外の言葉を喋った瞬間、またこいつは俺を異次元に引きずり込もうとするだろう。
そうは問屋が卸さねえ。
っつーか「歪」こそが俺のアイデンティティーなわけで。
「んとね、シリコン格子が歪むことで原子間の間隔が広がって――」
「つまりあれか?要は――」
俺は慌てて言葉を挟んだ。
またぞろ妙ちきりんな呪文を聞かされちゃたまらんからな。
この呪文は確実に俺の思考力を奪っちまう。
- 237 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:12
- 「――歪んでることがイイってことだな、おい?」
今度は向こうがたっぷり3秒は俺の目を見つめた。
もう鼻の穴は開いていない。
その代わり普段は細い目を思いっきり見開いている。
「そう!潤って、やっぱ頭イイ!凄いね!」
「いや…」
こいつ……
嫌味で言ってるわけじゃねーよな…
「…たいしたことねえよ」
「そんなことないよ!潤ってば、やっぱ格好いい!」
そう言って抱きついてくる小川を受け止めながら俺は車窓の外に視線を向けた。
冬だってのに、日差しがひどく眩しく感じられる。
なんだかやたらポカポカするのは俺を包んでいる体温のせいだけじゃないらしい。
街を行く人々の装いが存外、春めいてきたのに気づき、
俺は何となく焦りを感じた。
4月になればこいつはまた学年が一つ繰り上がる。
これ以上、こいつに引き離されるわけにはいかねえ。
俺は「歪みシリコン」とやらに感謝するとともに、やはりそのなんちゃら言う
シーピーユーのパソコンを買わなきゃならないんだろうな、と考えた。
- 238 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:12
- 「歪んでても…いいのか…」
思わず口をついて出た言葉に、小川が、ん?という感じで顔を上げた。
そしてまた例のへらへら笑いを浮かべて俺にチッ、チッ、と指を振って見せる。
「違うよ、潤」
「えっ?だっておまえ――」
「歪んでる『から』いいんだよ」
パッ、と世界が開けたように感じた。
眼前にはフロントグラス越しに湘南の海が冬の日差しを受けて煌いている。
その広い海の先にはまだ見ぬ俺とこいつの未来がある。
歪んでるとか、歪んでないとか。
関係ねーよな。
くすくす、と俺の首に抱きついたままで小川が偲び笑いを漏らした。
「何だよ?」
「そういえばさ…潤って歯並び悪いよね」
なんだよ、そんなことか…
「歪んでる…って言うやつが多かったな。俺の性格が歪んでるからだ、って」
「ならその『歪んだ』とこがいいんじゃない?それが潤だもの」
「ふーん…」
- 239 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:12
- 俺は再び窓の外に目を移した。
眩しい。
それは日差しの眩しさというよりも、
今、俺の腕に抱かれているこいつが発する輝きのせいだ。
おまえ、光ってるぜ…
もちろん、そんなこと言えるわけねえけどな。
海岸線はどこまでも延びて彼方の水平線と溶け合っている。
天でもない、地でもない。
どこでもない未来へと俺たちを誘う。
だが、俺にはひとつだけ確かな未来が見える。
それはどこへ行こうとも、必ずこいつが横にいるってこと…
感傷的に流れる風景を眺める俺の胸から規則的な呼吸の音が聞こえてきた。
「けっ」
思わず声を漏らしてしまったが、決して不快なわけではない。
むしろ、俺はその規則的なリズムで寝息を立てるこいつの顔に
何か神々しいほどの表情を見てしまってドギマギした。
- 240 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:13
- 「お疲れのようですね」
珍しくタクシーの運ちゃんが声をかけた。
「あ、ええ…」
俺はなんと答えてよいかわからず口篭ってしまった。
普通の人との会話には慣れてねえ。
「その人、ええっと…紺野ちゃん?紺野ちゃんでしょ?」
プッ、と俺は思わず噴き出しそうになった。
「いや、違いますよ」
紺野ちゃんか…
あいつが聞いたら、頬を膨らませて憤慨するだろうな。
もちろん、鼻の穴全開で猛抗議だ。
「あ、そう…でもさ」
「はい?」
「モームスの誰かによく似てるって言われない?」
に、似てるだって……
は、腹が痛え。
俺はさすがに同情し始めた。
モームスの誰かって、おい…誰だよ、おっさん?
- 241 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:13
- 「いやー」
だが、俺はこいつの名誉のために言ってやった。
「言われませんよ。モームスなんかに入れとくにはもったいない女でしょ?」
「ふーん。誰かに似てるような気がするんだけどねえ」
「気のせいじゃないっすか?」
「そんなもんかねえ…」
「そんなもんですよ」
運ちゃんはすぐに興味をなくしたように前方を見据えた。
海が目の前に迫ってくる。
とりあえず、海辺のうまいレストランで食事でもしようか。
メリーさんとジャニーさんの前に立って緊張したせいか腹が減ったな。
ステーキでも食うか。
いや、海鮮でロブスターってのもいい。
こってりした中華も捨てがたい、
焼肉もいいな…
- 242 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:14
- ふと、抱えている小川の首筋が目に入った。
二筋の線が綺麗に並んで走っている。
…………
やっぱ和風懐石にしとくか…
激しく同意!
とでも言うようにフロントガラスを通してまぶしい光が俺の目に飛び込んでくる。
一面銀色に光る海のまぶしさに俺は目を細めた。
冬場にしては凪いでいるせいか平坦な海面が銀紙のように見える。
ノイズのようにざらついた光の反射が目の奥をくすぐる。
なぜだかわからないが、自然に笑みが漏れた。
胸の辺りから聞こえるすぅーっ、すぅーっ、という音が妙におかしい。
小川は当分、起きそうになかった。
- 243 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:14
-
―― おわり ――
- 244 名前:名無し娘。 投稿日:2004/02/18(水) 12:37
- >>194 名無飼育さん
感想ありがとうございます。
正直、読んでくれる人がいるのだろうかと思ってましたので安心しました。
読んでいただけただけでもありがたいことです。
ASAYANを彷彿とさせる「よろしくセンパイ」の演出に久しぶりに見入っています。
ついつい新鮮に感じて書いてしまいましたw
>>195 闇への光さん
丁寧な感想をありがとうございます。
またしても鋭い分析をいただき、頭が下がります。
小学生って大人が思うよりもいろいろなことを考えているんだと思います。
彼女らを通してそうした大人社会の縮図みたいなものを語れないかと思ったしだいです。
「素直に思ったことを」書いているようで、やはり根底に鋭い批判精神のようなものを感じます。
常日頃から意識せずにそうした視点で物事を見ておられるのだと思います。
今回のものは駄作企画に出そうとして大幅に容量を超えてしまったのでこちらに上げました。
駄作なので許してくださいw
それではまた。
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/22(日) 17:41
- やべー、こんなタブー満載の歪んだ視点の娘。小説を読めるなんて……。
作者様にはいつも驚かされます。
現行の作品も頑張ってください。
- 246 名前:闇への光 投稿日:2004/02/22(日) 20:37
- 今回のテーマは「歪み」ですか・・・。
「歪んでる『から』いいんだよ」ってのが少しなるほどと考えさせられました。
歪みがあるから真直ぐなものがあるという二個対立はみんな意外と分かっている様で分かってないんですよね。
彼は威厳もなく、惨めでみすぼらしい (遠藤周作 深い河 より) ってのが頭に浮かびました。
- 247 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:32
-
短編をあげます
- 248 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:33
-
二人の擲弾兵
- 249 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:33
-
*
- 250 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:33
-
Da weinten zusammen die Grenadier
Wohl ob der klaglichen Kunde.
Der eine sprach: "Wie weh wird mir,
Wie brennt meine alte Wunde!"
Der andre sprach: "Das Lied ist aus,
Auch ich mocht mit dir sterben
そのとき擲弾兵たちはともに泣いた
悲しい知らせのために、
一人が言った、
「なんて悲しいんだ、
なんて古傷が痛むんだ!」
もうひとりが言った:
「歌は終わった、
私もともに死にたい
――Die Grenadiere Heinrich Heine
- 251 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:34
-
*
- 252 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:39
- 「あのぉ…」
背後からの声に座ったまま振り向くと、丁度目が合う位置にその子はいた。
小さい。この子、最初に見たときからほとんど背が伸びてないんじゃ…
「どいてくれません?ここ、あたしたちの部屋なんで」
可愛らしい声に反して刺々しい嗣永桃子の言葉に想像は中断された。
「えっ?なにそれ?聞いてない――」
「これくらい読めないんですか?」
コン、コン、と楽屋のドアを叩いて貼ってある札をこれ見よがしにこちらに見せる。
あの茶色い髪は夏焼雅だ。
その札には黒いマジックで大きく『Berryz工房様』と書かれていた。
「えっ?でも聞いてないし、大体、人数が――」
「とにかく決まってるんで移ってもらえませんか?」
「お前らなあ、いいかげんに――」
嗣永に詰め寄ろうとする矢口を遮るため、私は慌てて立ち上がった。
腰を屈めて嗣永に懇願する。
「ここが一番広い部屋だって知ってるでしょ?だからモーニングが使って――」
- 253 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:40
- 「うるさいな!早く出てってよ!人気ある方がいい部屋取るなんてあたりまえでしょ!」
私の言葉はまだ中学生になったばかりの嗣永桃子の叫びにかき消された。
藁をもすがる気持ちでマネージャの顔をうかがうと諦めたように視線を落し、首を横に振るばかり。
「わかったわ。でもちょっと待って、荷物を――」
「荷物なら、ホラ!」
ドサッ、という鈍い音とともに私たちの荷物が廊下に放り出された。
夏焼雅って子、結構、力持ちなんだ、と妙なことに感心しているうち、その手下みたいな子供たちがどんどん荷物を外に運び出していく。
「あっ――」
声をかけるタイミングを逸した私たちは気がつけば、嗣永に背中を押されて楽屋の外に追い出されようとしていた。
「お、おいっ、お前!」
「矢口、落ち着いて」
私は慌てて矢口を抱きかかえた。
「離せよ!カオリ!」
「大人が本気で子供を相手にするんじゃないの」
尚ももがいて私の腕を振りほどき、嗣永に鋭い視線を向ける矢口を制しながら、私の視線は、あの子を探していた。
- 254 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:40
- マネージャと何か話し込んでいたらしいその子は私の視線に気付くと、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。
「飯田さん、すみません…こっちへ」
目の動きで楽屋の外を示すと、先導するつもりか、私たちを振り返りながら先に廊下へと出て行く。
私は「ほら、いくよ」と矢口を促し、手を掴んだまま部屋の外へと向った。
「失礼しました。出入りが激しいので舞台に一番近い楽屋をBerryzにあてがってもらえるよう頼んだらこうなって…」
視線で楽屋のドアを示しながらすまなそうに頭を下げるその子に私はあえて文句をつけるつもりはなかった。
「いいよ、気にしてないから」
「何言ってんだよ、カオリ!ここは昔からおいらたちの楽屋と決まって――」
「矢口!」
私は矢口を一喝するとその子、清水佐紀に謝った。
- 255 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:41
- 「ごめんね。ちょっと疲れてるから苛ついてて…ただ、あなたたちも…ね?」
Berryzのキャプテンである清水は「すみません」と涼しげな声で詫びると楽屋の方をちらっと振り返り、
「桃と雅にはよく言っておきますから」と答えた。
「大体、お前らなぁ――」
尚も何か言わなければ気が済まない矢口の気持ちはよくわかるものの、
私は「じゃ、お願いね」と清水に短く告げ、矢口の手を引張ると自分達の荷物を拾うよう促した。
「すみません、私も手伝います」
「あたりまえ――」
「いいよ、大丈夫」
「カオリ!」
清水に当たりたい矢口の気持ちはやまやまだが、ここは一旦、落ち着くためにも本人には引き取ってもらった方がいい。
- 256 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:41
- 「ええ、でも申し訳ないですし…」
「いいの。疲れてるでしょ?ね…」
私は無理やり笑顔を作ってごまかしたつもりだが、清水の怪訝そうな表情は納得していないことをあからさまに告げていた。
ダライラマのように悟りきった態度で抹香臭い雰囲気を漂わせている娘だが、その冷静沈着な性格はリーダーの資質として申し分ないと思う。
特にBerryzのように暴走しがちな子供たちを束ねなければならない立場としては。
私はこの子だけは大人として遇しているつもりだった。
「ハイハイ、いつまでも廊下に突っ立ってんじゃないの。じゃね」私は、清水の尻を叩いて楽屋に押し込むと、黙って荷物を運びにかかった。
- 257 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:42
- 「カオリ…」
傍で阿修羅のような形相で楽屋のドアを睨み付ける矢口。
と思うと表情は一転して崩れ、今にも泣き出しそうな顔を向けて情けない声を出す。
「おいら、もうやだ…」
「泣き言言わないで。それにそんなこと言える立場でもないし」
そう。私たちはもう偉そうなことを言える立場にはなかった。
なぜならこのツアーのタイトルは、
『Berryz工房2004秋―暴れちゃうぞ!―』
私たちモーニングはゲストとしての出演なのだから。
モーニング娘。自体のツアーは今秋からなくなっていた。
- 258 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:42
- 正直なところ、半年前には、こんなに早く立場が逆転するとは想像すらしていなかった。
モーニングの勢いが以前より衰えてきたことは自覚していたものの、それでもCDはそこそこ売れていたし、コンサートの収支は悪くなかった。
なっちの脱退はうまく切り抜けた。
少なくとも表面上は大きな影響はないように見えた。
だが続く辻加護の脱退で、様相は一変した。
今、考えればあれは意図されたものだったのだろうか。
そこからは坂道を転がるように落ち続けた。
モーニングの衰退に歯止めがかからなくなった。
今まで辻加護がいるならば、と出演させてくれていた番組からはお声がかからない。
子供向けの雑誌からも見放された。
- 259 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:42
- 替わって子供たちの支持を得たのがBerryz工房だ。
事務所の総力を投じて行われたプロモーションは半端じゃなかった。
3月から3ヶ月連続でシングルをリリースするとその勢いを駆って7月にはアルバムも。
この春から夏場にかけてテレビをつければほぼ毎日、彼女達の姿が画面から飛び出してくる、と言っても過言ではなかった。
夏休み中の全国縦断コンサートですっかり子供たちの人気を不動のものにした彼女達はハローにおける勢力地図をも完全に塗り替えてしまった。
モーニング娘。はハローの一ユニットに成り下がった。
そして今、私たちはコンサートに"出させて"もらっている。
もちろん、メインであるBerryz工房のサポートとして。
- 260 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:43
- ◇
「ねえっ…ねえ、カオリったら…」
「んんっ?」
ついうとうとしてしまった。
待ち時間が長すぎるのもつらい。
モーニングの若手や矢口はBerryzのバックで踊るため頻繁に出入りがあるが、私はデカ過ぎてバランスが悪いらしい。
外された待ち時間の間、ついつい寝てしまうわけだ。
矢口に起こされて周囲を見回すと、今は私と二人だけ。
若手はまたまた駆り出されているらしい。
「考えてくれた?あれ」
「ああ、あれ?マジだったの?」
私はその話を切り出されて急に目か冴えた。
思わずもう一度辺りをうかがってしまう。
それほどこの話はデリケートなんだ。
「マジも大マジだよ。スポンサーも付いたんだ」
「スポンサーって…もうそんなに?――」
進んでるの?と続けようとして言葉にならなかった。
「だって和田さんだって、結局は事務所の子会社の社長ってだけだよ」
「だからこそのスポンサーだよ。うちのメインバンクとか業界の偉い人とかにも話は通したって」
私は低い声で唸った。
まさかそこまで矢口が真剣に考えているとは思わなかった。
- 261 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:44
- 「カオリ、まだ捨てたもんじゃないんだよ、モーニングは」
内心の動揺を見透かしたように矢口が弁明する。
「それにMBOって知ってる?前みたいに上の方針を押し付けられないようにうちらも経営に参加するんだ」
「えっ?」
私は思わず聞き返した。
「"Management Buy Out"つまり従業員であるうちらがハーモニープロの株式を山崎さんから買い上げるんだよ」
「そんなお金…ないことはないけど、でも…」
「うん。正直おいらもマンションの頭金に使っちゃったから、蓄えは少ない。でもお金の問題じゃないよこれは。うん」
矢口は話しながら頻りと自分を納得させようとでもするようにうなずく。
「そんなとこまで…」
「そうだよ。うちらが経営者として方針を決めれば昔みたいに歌中心のモーニングに変えられるかもしれないんだよ。第一、あの人が手を貸してくれるのも今の音楽界があまりにも歌をなおざりにしてるからっていう理由なんだし」
- 262 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:44
- 私は逆に話が進み過ぎていることに疑念と不安を抱いた。
通常、移籍したり独立するときは所属する事務所に何らかの見返りを渡さなければ円満に去ることはできない。
そこで揉めると、結局、業界から干されて消えていくことになる。
すでに6年間もこの界隈のまずい水を飲んできた矢口にそれくらいのことがわからないはずはない。
この場合、アップフロントには何も残らない。
もともとただ同然のハーモニープロの出資金額を受け取るだけだ。
残るのは恥辱と拭えない不信感。
双方にとって円満な解決とはとてもいかないだろう。
それにやはり…
「矢口。確認しておくけど、和田さんが引き受けてくれるのはモーニングだけなんでしょ?」
「うん。カオリもおいらも梨華ちゃんもよっすぃもミキティもゴロッキもみんなだよ」
「圭ちゃんや裕ちゃんはどうなるの?メロンは、ココナッツは、カントリーは?」
「そ、それは…」
言える筈がない。さすがの矢口も口篭もった。
なっちやごっちん、あややはそれでもなんとか生きていけるだろう。
辻加護の"W"は飛ぶ鳥を落とす勢いだ。何の心配もない。
- 263 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:45
- だが、私たちがごっそり抜けたらBerryzだけでハローの屋台骨を支えられるわけがない。
腐っても「モーニング娘。」だ。
仮にモーニングの移籍がうまくいったとして、残された者が不幸になるのでは意味がない。
「ハローごと引き受けてくれるわけじゃないよね。たしかにアップフロントにいてもモーニングが以前のように中心に座ることはないのかもしれない。けどね…」
矢口の瞳を見つめる視線に力を込めた。
少したじろぎながらも矢口はしっかりとそれを受け取ってくれる。
私は慎重に言葉を選んでしっかりと告げた。
「沈んでいく船から真っ先に逃げていくような真似をしたくないの」
「カオリ…」
視線を落として矢口の肩が震える様子を目に留めながら、私は尚も続けた。
- 264 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:45
- 「それに…」
私は隣の楽屋の方に目を向けた。
「あの子たち、まだ幼いわ。私たちが育ててあげないと――」
「カオリ、あいつらが影で何言ってるか知ってんのかよ?デカいとかコワいとかキモいだけじゃないぞ!『ばばあは早く辞めてほしいよね』とか言われてんだぞ!カオリは悔しくないのかよ!」
矢口は目に涙を溜めて私に詰め寄った。
その瞳には怒りを宿して。
嬉しかった。
矢口が私のために憤ってくれている。
「ありがと」
「カオリ…」
矢口のまっすぐな視線が痛い。
私はその目を直視できずに楽屋のドアを気にする振りをして顔を背けた。
- 265 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:45
- 「でもね、あの子たち、きっとわかってくれる。今は少し勘違いしてるとしてもね」
矢口は口元を締めたまま再び睨みつけるような厳しい視線を送ってくる。
私は笑って受け流しながら、尚も矢口を宥めようとした。
「自分のことでいっぱいいっぱいだと思うの。あの忙しさでしょ?義務教育で学校もそんなにサボれないし、疲れてるから」
「カオリ、甘いよ…」
「そうかもね」
私は矢口の肩に手を掛けた。
「でもね、私は逃げちゃいけないの。モーニング娘。のリーダーとしてね」
「カオリ…」
行き場のない怒りを胸の内に収めながら悶々と悩みつづける日々。
それは嘗て私たちの誰もが経験したはずの思いなのに。
だが、知らないうちにトップに駆け上がり、そしてまた、知らない間にトップから転げ落ちてしまった私たちは、そんな自分と向き合う術をすっかり忘れてしまっている。
- 266 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:45
- あせらない
おこらないいばらない
くさらない
まけない
私は石井リカさんがハローを去る前に残していった言葉を繰り返した。
「あおいくま、覚えてる?」
「忘れてた…」
顔を背けて私から視線を外した矢口の表情が影に隠れた。
その様子からは何を考えているのか窺うことはできない。
「負けちゃダメだよ、矢口。逃げ出しても何も変わらないよ、何も」
「……」
私が暗に誰かのことを思い出すように仕向けた、ということはない。
結果としてそう聞こえたとしても。
そして、矢口が果たしてあんな風になってしまった同期を胸の内に描いていたかどうか。
それは私には計り知れないことだ。
- 267 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:46
- しばらくの沈黙の後、ステージでの出番を終えた若いメンバーたちが著しく疲労した様子で楽屋に戻って来た。
楽屋が狭い方に移ったことに気付いた様子は微塵もない。
それほど疲れきっているんだ。
それぞれ椅子に体を預けたまま言葉も発せずに背もたれに寄りかかる姿を見ていると、なぜだか、私は自分が今さっき矢口に話したばかりの言葉に自信を持てなくなった。
憔悴しきったメンバーの顔を見てしまうと、これでいいのかと自問せざるを得ない。
負けそうになる自分を感じてしまう。
矢口の言葉が悪魔の誘惑のように耳の裏で囁く。
―――昔みたいに…
――歌中心のモーニングに…
- 268 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:46
- 私は誘惑を退けるように頭を二、三回振ると、パン、パン、と頬を叩き、リハーサルのために気合を入れ直そうとした。
「みんなー、おいでえ!」
私が部屋の中央で右手を前に突き出したが誰も腰を上げようとしない。
と、矢口だけがするすると寄って来て、私の腕を下げた。
「カオリ…もう、いいよ」
そう言ってすぐに席に戻って体を投げ出した矢口にそれ以上、何も言うことはできなかった。
石川やよっすぃは、終始、視線を床に落として、口を開くことはなかった。
自分の身の振り方を床の模様から読み取ろうとでもするかのようにじっと。
5期と6期は何かに怯えるように隅の方に固まって身を寄せ合っている。
唯一、藤本が伸びをしながら「ああっ、かったりぃ…」と吐き捨てるようにつぶやく声だけが聞こえた。
私もまた、倒れ込むように椅子に体を預け、目を閉じて手の甲を瞼の上に置いた。
ひんやりとした感触に少しだけ慰められたような気がした。
- 269 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:46
- ◇
矢口からの誘いはそれからも何度となく続いた。
一度は和田さん本人からも。
その都度やんわりと断るものの、回を重ねるたびに言葉が現実味を増していくのが聞いていてつらかった。
『みきてぃも石川もよっすぃも、みんな賛同してくれてる。もちろん、5、6期のメンバーも』
私以外のメンバーは比較的早い段階から矢口と示しあわせていたようだ。
もちろん、そんなことで私の意志が揺らぐことはない。
最期の誘いを断ったとき、矢口は哀れむような視線を隠さなかった。
さんざん宥めて、すかして、そしてそれでも私の意志を翻すことができないと悟ると、矢口は深い失望感と逆にほっとしたような開放感からか妙にカラッとした表情をつくり「じゃしょうがないね」と笑った。
寂しそうな笑顔だった。
今はそう思いたい。
- 270 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:46
- それからしばらくして、会長に聞かれた。
「お前は和田のとこに行かなくていいのか」
ぼそっとつぶやくような声からは憔悴しきった様子がうかがえた。
いつもの陽気さがすっかり影を潜めている。
それで私は、ああ、矢口は成功したんだな、と思った。
不思議と悲しさも寂しさも感じなかった。
ただ、私の前途には何もなくなったのだと思った。
その茫洋とした掴み所のなさに眩暈がした。
それきり音沙汰がないことを特に不審には思わなかった。
向こうも新たなスタートを切るための準備でそれなりに忙しいのだろう。
和田さんのことだ。
きっと奇抜なアイデアで彼女たちに試練を与えてくれることだろう。
そう考えると、少しだけ羨ましいような心持ちになる。
不思議、といえばどちらの事務所からも何の発表もないことくらいだった。
それさえも電撃発表のための布石と考えれば辻褄は合う。
だが、水面下で何かが行われているにしては静かすぎた。
普通、これだけの大きな動きがあれば何らかの形で耳に入ってくる。
今回に限っては何も聞こえてこない。
それだけが頭のどこかに引っ掛かった。
- 271 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:47
- 私の生活には何の変化もなかった。
なっちやごっちん、あややのソロ組は相変わらず活躍していたし、辻加護の"W"はモーニングの人気を肩代わりするかのように昇り調子だった。
そしてBerryzはハローの新しい顔として事務所の大プッシュのもと、多忙な毎日を送っていた。
まるで時が私だけを迂回して流れていくような。
そんな静かな時の流れの中で、私はゆっくりと朽ちかけていく自分を見つめていた。
- 272 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:47
-
- 273 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:47
- 会長から一人で来るよう呼ばれたとき、私は少なからず動揺した。
ついに来たか、という恐れにも似た思い。
一方で、まるで一日千秋の思いでこの日を待ち詫びてでもいたかのように、ようやく来たかと胸を撫で下ろすような気持ち。
それぞれの思いが胸のうちで複雑に絡まってせめぎ合う。
私はこの苦しさから早く逃れたかった。
会長の口から発せられた言葉は、だが、私の想像からかけ離れたものだった。
「矢口な」
そこでしばらく言葉を止め相手の反応を見る。
そういうことが好きな人だった。
「切られたらしいぞ」
私が何の感情も示さないのが不満なのか、さらに付け加えた。
「高橋と藤本以外の5,6期も一緒にだ」
それでも無反応な私の観察に飽きたのか、視線を逸らして投げ捨てるように言った。
「お前も考えとけ」
- 274 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:48
- それだけだった。
だがそれだけで十分でもあった。
会長の表情がすべてをかたっているように思えた。
澱んだ空気。
私は深い憤りと失望に視界がひどく歪んでいるように感じた。
会長と私の間の空気だけ周囲と微妙に光の位相がずれているようだった。
「ずるいですね」
しばらくの沈黙の後、ようやく口に出た言葉がそれだった。
何かを言わなければ、と無理やり抽出したかのように芸のない言葉。
だが、私にはその言葉しか思い浮かべることはできなかったのだ。
実際のところ。
私の意図したところを即座に理解したと見えて会長は何も答えなかった。
ただ、薄気味の悪い目つきでにやにやと私を見つめていた。
私は居心地の悪さから、さらに恥ずかしい言葉を積み重ねなければならない状況に追い込まれた。
- 275 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:48
- 「はっきり言ってくれればいいのに…そんな回りくどい方法でしか私に伝えてくれないんですか?」
最後はまるで懇願のような響きを帯びていたに違いない。
そんなやり方が私の最後の誇りを粉々に打ち砕いたことなど、この人に理解できるよしもなし。
また理解してもらおうとも思わなかったが。
「お前がどうしようとそれはお前の勝手だ」
会長はさもつまらなそうに何かの書類にサインを済ませると秘書を呼んで手渡した。
それから、まだいたのか、と言わんばかりの目つきで再び私に視線を向けると、
「すまんな。これでも最大限、お前に敬意を払ったつもりだ」
そしてそれっきり机に向かうと、二度と私に目を向けることはなかった。
私は深い喪失感と、それからほんの少しだけでも矜持を保てたことへのちっぽけな誇らしさとを胸に抱えながら秘書の開けたドアを通って会長室を後にした。
- 276 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:48
- そして、少しだけ逡巡した振りをするために麻布の界隈をぶらぶらと歩いて回ると、事務所に取って返し、会長室のドアを叩いていた。
会長はやはり爬虫類のような目でにやにやと嫌らしい笑みを浮かべ、私を迎え入れた。
- 277 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:48
-
- 278 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:49
- ◇
矢口から「会いたい」というメールをもらったのはそれから数時間も経たない、その日の夕刻だった。
どんよりとした曇天のもと、一雨来そうな気配を感じた私は傘を一振り握ると約束の場所へ向かった。
矢口のマンション近くの公園は都心に位置しているせいか、普段からほとんど人気がなく、内輪の問題を話すにはうってつけの場所だった。
公演に抜ける坂道を登る途中、危惧していた通り、ぽつり、と一滴の雨が零れたかと思うと、後は堰が壊れたように大粒の雨がざーっ、と溢れ出した。
激しく討ちつける雨滴はアスファルトを叩いて変拍子のような奇妙なリズムを奏で始めた。
公演の入り口からすでに矢口の小さな姿が震えているのが見えた。
矢口は傘も差さずにブランコにのって雨に打たれるに任せていた。
「矢口…」
私の言葉にハッ、として顔を上げた矢口の顔面からは涙のせいか、あるいはこの雨で流されたのか、黒いマスカラとファンデーションが溶け出して見るも無惨な状況に陥っていた。
- 279 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:49
- 「顔拭きなよ」
私はハンカチを差し出すとともに、矢口の上に傘を掲げた。
うわっ、と泣き声とも呻き声ともつかない音を発しながら、矢口は私に抱きついてきた。
ギーッ、と耳障りな音を立てて主を失ったブランコが所在なさげにゆらゆらと揺れている。
私は、白いコートに黒いマスカラが着いちゃうな、などとひどく冷静に考えていた。
「カオリ…ごめん、どうしよ…おいら…おいら、あいつらに…っ、うっ、……」
責任感の強い矢口のことだ。
自分だけでなく、巻き添えを食らった後輩の処遇にさぞ思い詰めたことだろう。
さすがに自殺したりすることはないと思っていたけれど。
でも、心配していたのは確かだ。まず私に連絡してきたのは正解だった。
いや、圭ちゃんには相談したのかもしれない。
タイミング的にはもうちょっと早く連絡できるはずだったから。
とにかく、まずは矢口を宥めなければ。
- 280 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:49
- 「大丈夫。大丈夫だよ、矢口。これは手の込んだリストラだったけど、でもみんな大丈夫だから。矢口も5,6期も、みんな大丈夫だから」
「カオリ?なんで?なんで知ってるの?それに…大丈夫じゃないよ!みんな、契約更改されないって…おいら、おいら……」
最後は言葉になっていなかった。
「全部会長が仕組んだこと。和田さんを利用してモーニングの主要メンバーだけ引き取らせて後はリストラ」
「どういうこと?まさか…和田さんもグルだったってこと?」
私は首を横に振った。
「わからない。和田さんは利用されただけかもしれないし。ただ、和田さんにいろいろ吹き込んだ業界とか銀行のエラいさんは納得づくだと思う」
あくまでも私の推測でしかないが。
だが、会長に問い詰めて否定しなかったのだから、確かなのだろう。
それはそれで……ムカつく。
- 281 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:50
- 「Berryzを中心に据えた今のハローではモーニングの人員は余りにも重たすぎる。けど自分の手は汚したくない。切るなら切るで何かマイナスイメージを与えてから…そんなところなのかな」
「独立が…マイナスイメージ…ってことなの…?」
「多分、お金のことで揉めて…っていう具合に持っていくんじゃないの?よくわかんないけど」
私は随分と投げやりになってきていることに気づき、我ながら苦笑した。
たしかに。国民的アイドルがお金のことで揉めたらイメージダウンだ。
いや、「かつての」国民的アイドルか。
たしか私達の「ライバル」だったらしき人がそんな感じで消えていったはずだ。
最近、カムバックしたとかしないとか。
そんなこと、今となってはどうでもいいけど。
- 282 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:57
- 今やモーニングに興味を抱いているのは一部分のマニアだけだ。
実際、そうしたスキャンダルさえ、宣伝効果を狙っていたのかもしれないと思うとぞっとしない。
「でね。とにかく。いろいろ画策してうるさい矢口や不人気で不要な5,6期メンバーは切られますよ、ということを見せたかったの」
「見せたかったって…誰に?」
聡明な矢口らしからぬ態度ではあるけれど、自分が当事者として渦中にあるだけに冷静な判断ができないのかもしれない。
本来であれば、一番最初に、矢口が気付きそうな仕掛けではあったのだけれど。
「一番、高給でありながら一番不要なメンバーですよ」
「…?って…まさか!えっ!かっ、かっ――」
「そう。そのまさかよ」
ご名答。さすが矢口。
なっちが相手じゃ、こう素直に理解してもらえたかどうか。
もちろん、なっちがこんな茶番に巻き込まれる筋合いはまったくないのだけれど。
- 283 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:57
- 「ど、どういうこと?それじゃ、カオリ――」
「うん。晴れて引退の身ですよ。もう、契約更新しない覚書に署名してきちゃったしね」
どちらでもよかったのだろう。会長にとっては。
それが自分を裏切った矢口たちであろうと私であろうと。
ただ、私の提案をすんなりと受け入れた態度を見ると、始めからこちらの結末を予想していたようには思える。
それはそれでいたくプライドを傷つけられる話だ。
「う、嘘だよ!カオリ辞める必要なんてないよ!ごめん、おいらのせいなんだね!今から会長のところに行って――」
「止めて!!」
ビクッ、と小刻みに矢口が震えてる。
行き場のない捨て犬のように土砂降りの雨に打たれた矢口の姿はこれ以上に見るに耐えないものがあった。
早く終わらせて帰ろう。
でも、何処へ?
- 284 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:59
- 「矢口…老兵は死なず、ただ消えゆくのみ、っていうよ」
「カオリ…」
「ただモーニングを愛して、守り続けたいと願ったこの老兵は――」
言葉が途切れた。
矢口の顔がくしゃくしゃになる。
聞いて。たったひとりの観客なんだから。
後世に、この名台詞を残せるただ一人の証人なんだから…
「ただモーニングを愛して、守り続けたいと願ったこの老兵は、静かにみんなの前から姿を消します」
激しく討ちつける雨の轟音だけがこの寂しい老兵を見送る拍手として鳴り響いた。
- 285 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:59
- 矢口はもう、わけもわからずにびしょ濡れの頭を振り回して、私の白いコートを掴んで揺らしている。
数々のメンバーを大観衆の前で送り出して来たこの私が、今、たった一人の観客を前に歴史の舞台から立ち去ろうとしていた。
かつて華々しくモーニングから巣立つ仲間達を送り出した大舞台は、今はもう……ない。
Berryzメインのステージでおざなりなセレモニーを行うくらいなら何も無い方がましだ。
それがショービジネスに携わるものとして、せめてもの情けだったと思う。
傘を叩く雨音が激しくなった。
そう、ここは一番盛り上がる場面だ……
- 286 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 17:59
- 私はモーニングという禁断の実を口にしてしまったために、不死の肉体を経て、死ぬことのあたわぬ苦しみを背負って生きなければならない化け物にでもなったような気がしていた。
実際、最後のあたりでは老醜を晒して生きる化け物のような扱いさえされていた。
もちろん、私自身は不老不死ではないし、体もそれなりに成長している。
だが、メンバーが卒業し、一人一人が卒業後に自分の道を切り開いていく姿を眺めながら、死ぬに死ねない苦しみは――
その呪いのような重圧から今、解放される――という清々しさは微塵も感じなかった。
ふと矢口に視線を落とした。
呪縛から解き放たれた目で見ると、汚らしい髪を振り乱して自分に取り縋るこの矮小な体がなぜか醜く感じられた。
- 287 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 18:00
- ただ、代わりにこれから自分と同じ思いを抱いて生きて行かねばならぬ矢口の哀れさだけが胸に沁みた。
ひょっとして今、私はあの日、矢口が私に向けていたような目で彼女を見ているのかもしれない。
そんな私の心の形がすでになくなってしまったことを知ってか知らずか、矢口はコートを掴んで揺すり続けていた。
「私の歌は……終わったよ」
聞こえているのかいないのか。
私のコートを掴む矢口の腕が震えている。
その背中がどんどん小さくなっていくように感じられた。
雨は冷たく、そして容赦なく、二人の老兵を打ち続けた。
- 288 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 18:00
-
- 289 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 18:01
-
二人の擲弾兵
終
- 290 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/10(月) 18:15
- >245 名無飼育さん様
レスありがとうございます。
見つかって怒られないかドキドキしました。
ぜひご内密に。
>246 闇への光様
いつも丁寧な感想をありがとうございます。
「歪」をも包容してしまう小川さんの懐の深さが少しでも伝えられたのであれば幸いです。
今回の短編も第13回短編集「斜陽」に出そうとして間に合わなかったものです。
内容が暗いのは(略
- 291 名前:56 投稿日:2004/05/10(月) 22:02
- あー、なんてこった! しばらく遠ざかっていたら短編がたくさんあがってたじゃないですか。しかも、むの凄い異色作ばっかり。べりえも意表を衝かれ(でも納得)ましたが次は究極の…いやいや。これでこそsage作品。作者さんやっぱ凄い。
今回の、やばいですやばいです。作者さん緻密でリアルすぎるから。自分、冗談じゃなく泣きましたよ。いわゆる『感動作』での涙はありがちだけど、深く静かな疲労感と救いのなさでリアルに泣くなんて、初めてでした。どうにもならんしみじみ涙。びっくり。しかもこの主人公でしょ? この人でこの役柄でこのストーリーって……はまり過ぎ。最高。最高にひどい。はまり過ぎといえば矢口もまさしくそうですねえ…あの天才矢口がなあ…。終盤の心情描写がほんと生々しい。清々しくないし「矮小な体」って…。ここらへん鳥肌っす。
圭ちゃん卒業作品の(羊です)あの力強さと爽やかさはどこへいっちまったんだ〜! と叫びたいくらいはまりました。
短編にいまさら気がついたせいで取り乱して長文過ぎました、すんません。
これからも期待しております。
- 292 名前:名無し娘。 投稿日:2004/05/12(水) 21:52
- >圭ちゃん卒業作品の(羊です)
は、どこで読めるのでしょうか?
- 293 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/18(火) 15:46
- >>292
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Bass/9575/iroiro/1049187894.html
- 294 名前:292 投稿日:2004/05/19(水) 22:08
- 293さんありがとうごさいます。
- 295 名前:闇への光 投稿日:2004/05/20(木) 21:43
- なんだか実際にありそうな話ですねえ・・・。
「プッチモニ」や「ごまっとう」なんてありましたがどうなったんでしょうか。
なんだか飯田の態度に信念を感じました。
人気がなくなればすぐ消えていくこの世界・・・。残酷ですね。
まあ、それを覚悟して彼女らはいるのでしょうけど。
- 296 名前:名無し娘。 投稿日:2004/08/16(月) 17:45
- 作者です。
近々、短編をあげます。
- 297 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/19(木) 01:37
- おお、待ってます
- 298 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:11
-
- 299 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:12
-
『八月のクリスマス・T』
- 300 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:13
- ◇
冷蔵庫を開けておや、と思った。
上段に入れておいたはずの寿司が見当たらない。
いつものように外食してから帰るつもりだったが、昨日、飲んだ帰りに勢いで買ってきた
折り詰めがあることを思い出しそのまま帰宅したのだった。
嫌な予感がして振り向くとテーブルに向って宿題をする娘の肩のあたりのシルエットがい
やに固まっている。
「おい」
びくっ、と震えた様子に確信した。
俺は腹が空いているせいもあり優しく諭す気にはなれなかった。
「痛い!やめてお父さん!やめて」
父親の食べ物に黙って手を出すような卑しい娘に育てた覚えはない。
口よりも先に手が出ていた。
仕事から帰ってビールを呷りながらゆっくり味わうはずだった。
楽しみを一瞬にしてふいにされた怒りは理屈で制御できるはずもなく、一瞬のうちに俺の
手は娘の髪の毛を掴んでいた。
娘はその取り澄ました表情を顰めて許しを乞うている。
- 301 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:13
- 「ごめんなさい!もうしないから!だから離して」
俺は掴んだ髪の毛をぐいと引張って娘の顔をテーブルに押し付けると耳に口を近づけた。
「人のモノを勝手に取ったら泥棒だと教えたはずだ」
「ごめんなさい!お父さん!ごめんなさい!」
ガツッ、と鈍い音を立てて娘の頭がテーブルの上で跳ねるのと同時に甲高い泣き声が耳に
突き刺さった。
うるさい。
「なんで黙って食べたんだ?」
質問に答えずテーブルに突っ伏して泣き叫ぶ娘の姿に俺はうんざりしながら、再び髪の毛
を掴んで振り回しそうになる自分を必死で宥めた。
「ご飯のお金はちゃんと渡してあるだろ?」
やや声のトーンを落としたのが効いたのか、娘は上目遣いで俺を見上げる。
これ以上ひどい目に遭わせられないかびくびくとしながら様子を窺っていた。
俺はその小動物のような狡猾さの垣間見える仕種が嫌いだった。
その嫌な表情から目を背けた。
- 302 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:13
- 「…だ、って…っく、お、なかが…すい、て…な、なに、も…な、かった…っく、から…」
ひっく、ひっく、としゃくりあげながらの言い訳は聞きづらかった。
大方、昼食と夕飯のために渡してある金でスナック菓子でも買ってしまったのだろう。
小学生にもなって幼児のような衝動を抑えられないとは。
「もういい。早く寝ろ」
俺は疲れて缶ビールを一つ握ると自分の部屋に引篭った。
胸につかえる後味の悪さをビールの泡で流し込もうとしたが、余計に胃がムカムカして気
が滅入った。といっても最近では気の休まる時間などほとんどなかったのだ。
仕事はうまくいっているとは言いがたかった。
娘のせいにしたくはないが、家庭に心配の種を抱えて仕事に専念できるわけもない。
同期や後輩が自分よりも昇進していくのを見るにつれ、胸の奥に何か重いものがつかえて
いく。
それがまた、娘の顔を見ると苛つく一因であることはわかっていた。
- 303 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:14
- 夏休みに入ってまた一段とストレスが募っていた。
小学校が休みに入ってしまうと娘は近くの学童保育で一日を過ごす。
昼食のパンを買うだけの金は渡してあるし娘がそれについて不満を漏らすことはない。
だが、弁当を持参する他の子供の親に対して俺自身、どこか引け目を感じていた。
そのせいか、娘の何気ない態度に俺を責める気配を感じて気持ちがささくれ立つのをどう
することもできなかった。
そんな俺の内面の苛立ちを悟ってか、娘から不満らしきものを口に出すことはない。
友達が家族でどこそこに出かけたなどという話もしない。
そもそも、俺と娘の間にはほとんど会話というものがなかった。
どこかびくびくしながら俺の顔色を窺うようになってしまったのも仕方がないことなのか
もしれない。
そんな風におどおどした娘の態度は俺自身に原因があるのかもしれないと思っても、やは
り好きになれなかった。
そのくせ、俺は自分が親らしいこともできずにいることにどこか焦りを感じていた。
俺はいつも誰かに責められているように感じているのだった。
- 304 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:14
- そんな罪悪感を払拭しようとするつもりだろうか。
俺は娘の宿題を見るという理由を無理やりこしらえてリビングに戻った。
何か口実がなければ娘と話すきっかけさえつかめない。
多くの親がどうやって自然に子供と会話することができるのか俺には不思議だった。
階段を下りてリビングの方を見るとドアから光は漏れていなかった。
既に暗くなったリビングはほど諍いを起こしたしんとして静まり返り夏だというのにどこ
かひんやりとした空気さえ感じさせた。
娘はいなかった。
子供部屋を覗くとすでに寝息を立てている。
頬に残る涙の筋に胸が痛んだ。
いつも後悔するのにそれでも手が出てしまう。
やはり俺は親として最低だった。
- 305 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:14
- 己の立場を直視できずに俺は娘の部屋をぐるりと眺め回した。
何か大きなものが机の上に投げ出されているのが目に入った。
書きかけのスケッチブックだろうか。
大きく開かれた白い画用紙には何か線のようなものが描かれていた。
手にとって目を細めるとそれは俺の視界を直撃した。
ハッ、と息を呑んだ。
「 死 ね 」
見開き一面に拡がった「死ね」という言葉に込められた憎悪の激しさに俺は血が逆流して
髪の毛が逆立つほどの怒りを覚えた。
だが。
この描線は何か違う。
と、急にある考えが芽生えて急速に血の気がサッ、と引き俺は顔色を失った。
これは俺に向けられた言葉ではない…
そうではなく、むしろ…
- 306 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:15
- 俺は娘のことを何ひとつ知らないのだと思い知らされた。
娘はいじめられていたのだ。
妙におどおどとした態度は俺に脅えていたのでなく、陰湿なイジメに必死で耐える姿であ
ったのだ。俺は体から力が抜けるのを感じると同時に激しい喪失感に襲われた。
- 307 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:15
- 床に就いたものの悔しくて眠れなかった。
娘がいじめられていることにも気付かないほど無関心であった自分に猛烈に腹が立った。
そして毎日を脅えて過ごしながら誰に相談することもなく、ひとり孤独と戦ってきた娘の
心情を思うと胸を掻き毟りたくなるほどの焦燥感に駆られた。
唯一、心を開いて安心できる立場である父親に相談するどころか、たかが寿司の折り詰め
を食べたからというだけで髪を掴まれ罵られた娘。
冷蔵庫に残っていた寿司を食べてしまったのもいじめの相手に食費を取られたからかもし
れない。
そう思うと娘が不憫に思えて仕方がなかった。
俺は激しい自己嫌悪に陥るとともに何とかしなければ、と考えた。
そのまま一睡もせずに明け方まで考え続けた。
- 308 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:15
- 翌朝。
食卓で顔を付き合わせた娘に俺は話しかけた。
「今度の日曜日、ディズニーランドでも行くか?」
娘はきょとんとした顔つきで俺を見つめ、それから悲しそうに首を振った。
「いい。お父さん忙しいし」
無理も無い。
日曜は仕事と称して部屋に閉じこもり娘の相手をすることなどここ数年はまったくなかっ
たのだから。
「遠慮しなくていいんだぞ。夏休みなんだし」
一瞬、「じゃあ」と瞳を輝かせた娘はすぐにうつむいて「やっぱりいい」と口をつぐんだ。
「ディズニーランドでなくたって、どこでもいいんだぞ。あんまり遠くだと困るけどな」
- 309 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:17
- 俺は必死だった。
一睡もせずに考えた結果がこれだったのだ。
子供といえばディズニーランド。
安易な提案ではあったが、俺も必死だった。
素直に娘が乗ってくるとは端から考えてはいなかったが、何としても外へ連れ出すきっか
けがほしかった。
「買い物とかでもいいぞ。何か欲しいものがあるんじゃないか?」
ここまで来るとさすがに何かおかしいと感じたのか、娘もなにやら考え始めたようだった。
これはマジメに検討するに値するオファーなのか。
疑り深いのはそれほど俺が子供を顧みてこなかった証拠だ。
期待して裏切られることを警戒しなければならないほど信頼のない父親。
だが俺はその事実と向き合わなければならない。
- 310 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:17
- 「あのさ…」
視線が俺とテーブルの間を上下する。
言おうか言うまいか悩んでいるようだった。
もう一押しだ。
「言ってみろ。頭ごなしにダメだとは言わないから」
「じゃあね!」
娘が顔をガバッと上げてまっすぐに俺を見返した。
「ダブルユーのコンサート行っていい?」
「?」
俺は言葉に詰まった。
コンサートはいい。
だがその「ダブルユー」というやつは何だ?
- 311 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:17
- こないだまでミニモニだモームスだと騒いでたはずなのに。
不思議そうに目をぱちくりさせる俺がわかってないと踏んだ娘は自ら説明し始めた。
それもいつもと違って楽しそうに。
要するに「ダブルユー」というのはモームスを辞めた辻加護の二人が組んだ新しいユニッ
トらしい。
辻加護なら俺でも知っている。
娘の部屋にはミニモニのポスターが張ってあったから。
もっとも、どちらが辻でどちらが加護かまでは覚えていなかったが。
「お父さん知らないの?」
ぼおっと聞いていたら最後にはそんな台詞まで飛び出した。
よっぽど好きなのだ。
いかにも自慢げに話すその様子に俺は自然と頬が緩むのを抑えられなかった。
だが、そこまで話して娘の表情に再び影が差した。
- 312 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:18
- 「でも多分無理…」
悲しげに視線を落とすその様子に俺はわずかに残る父性本能らしきものが呼び起こされる
のを感じていた。
なんとしてもコンサートに連れて行く。
「なんで無理だと思う?」
俺は努めて冷静に尋ねた。
いつもなら回りくどい娘の話し方に癇癪のひとも落としているところだ。
今日だけはその愚を繰り返すまい。
「だってコンサートのチケット取れないもん…」
そうだろうか?
俺にはそうは思えなかった。
一事は飛ぶ鳥を落とす勢いだったモームスとはいえ、最近はほとんどテレビでも見ること
はない。
人気に翳りが出てきたアイドルのコンサートだ。
それほどチケットの入手が難しいことだとは思えなかった。
- 313 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:19
- 「大丈夫、お父さんが取ってあげるから」
「ほんと?」
不安げに見上げる娘の表情は本当に期待していいのか問うている。
これに応えられない男に父親の資格はない。
「大丈夫、お父さんに任せておきなさい」
「うん!絶対だよ!」
俺の自信満々な態度に安心したのか、娘は期待感のこもった熱い眼差しで見つめると「ご
ちそうさま!」と言い置いてそそくさと食器を片付け始めた。
鼻歌交じりで機嫌よく食器を洗う娘に俺はしごくさりげない様子で尋ねた。
「お前さ…いじめとかあるならちゃんと言えよ」
「…」
一瞬、驚いて手が止まったが、再び何事もなかったようにスポンジで皿をぐるぐると拭き
ながら「そんなのないよ」と俺の顔を見ずに言った。
さらに「昼飯ちゃんと食べてないだろ。お金取られたんじゃないのか?」と尋ねた俺に対
し娘は答えた。
「ああ、あれ?」
予期しない笑顔に俺はあれ?と思う。
「ごめん。コンサート行きたくてお金貯めてた」
「お前…」
- 314 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:19
- 俺は思わず抱きしめたくなる衝動に駆られながら必死で耐えた。
「いじめとか…別に?って感じ。それより本物の辻ちゃんに会いたいし」
娘はあっけらかんと言い放つと、手を拭きながら「今日からガマンしないからね」と笑っ
た。
行って来ます、という声を聞きながら俺はひとりポカンとした表情で娘の後姿を見送って
いた。
たくましいものだ。
親はなくとも子は育つと言うが。
それにしてもそのしっかりした態度に我が娘ながら感心した。
こうなれば是が非でもそのダブルなんとかいうコンサートのチケットを入手しなければ。
俺は決意を新たに家を出て会社に向かった。
- 315 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:19
- ◇
「いや、結構、厳しいですよ」
モームスに詳しいという部下の言葉に俺は耳を疑った。
「ええっ?だって人気ないだろ、最近?コンサートのチケットなんか――」
「それが素人の怖いとこですよ。ダブルユーのコンサートは初物ってこともありますし会
場のキャパが小さいですからね。辻加護ヲタにDDまで詰め掛けるからFCでも落選多数。
一般の発売枠は即日完売でヤフオクも高騰してますよ」
やつは何語をしゃべっているんだ?
俺はなんだかわからない臭気の漂う専門用語を前にすっかり毒気に当てられてしまった。
「す、すまんがその"ヲタ"とかなんとか言うのから説明してくれないか…?」
俺は半ばパニックに陥りながら部下の説明に聞き入った。
30歳を過ぎて未だにモームスはおろか、メロンだかスイカだかのわけのわからないアイド
ルにうつつを抜かすいわゆる「オタク」系の男だが、こういうときだけは役に立つ。
逆に言えばこんなとき以外役に立たないわけだが、それでもいないよりはましだ。
こういう男に気前よく給料を払えるのだから、この会社もまだまだ余裕があるということ
なのだろう。
- 316 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:20
- それはともかく。
この「モーヲタ」くんによればダブルユーのチケットは非常に入手が難しいとのことだっ
た。
試しにチケットぴあやその他のサイトも当たったが彼の言う通りどこを見ても完売。
「ヤフオクが手っ取り早いですよ」
という彼の言葉に仕事中にそのヤフーオークションというやつを覗くとかなりの数が出品
されている。
どうやら高値を狙った転売屋が流しているらしい。
見るとステージに近い席など10万円近い値がついているものもある。
どこのバカが落ち目のアイドルなんかにそんな値段を出すのかと訝しんでいると件のモー
ヲタくんが「なっちのときは80万円つきましたけどね」と注釈を入れてくれた。
「なっち」と呼ばれる安倍なつみがモームスの中心メンバーであることくらいは俺も知っ
ている。
- 317 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:20
- とはいえ、あの童顔の娘のどこにそれほどの金をかける価値があるのか俺にはとんとわか
らなかった。
いや、わかりたくもないが。
ともあれ、金さえ出せばチケットを入手できることはわかった。
問題はどの席を選ぶかだ。
モーヲタくんによれば座席の種類は二つあるらしい。
立ってもよい、というよりかむしろ立って踊りたい(?)人向けの一般席。
そして気色悪いオタク系のファンから隔離され、着席が前提のファミリー席。
娘とゆっくり辻加護を眺めるのであればファミリー席がベストだろう。
だが、娘のミニモニ好きを考えれば生身の辻加護に出来るだけ近い方が良いかもしれない。
一体、どちらがよいのか考えているうちに一番上に掲載されていたファミリー席が落札さ
れていった。
- 318 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:21
- 1万5千円…
2階のファミリー席になんでこんな値段を…と思って他を見るとファミリー席自体の出品
はほとんどないのだった。
俺はモーヲタくんを呼んで訊ねた。
「ファミリーってほとんど出てないんだな」
「ステージに近い席と違って高値がつきませんからね。転売屋が手を出さないんですよ。
実需で埋まる席ですから余りませんし」
「しかし、一般席だと周りの大人が立ってしまったら小学生にはステージが見えないだろ
う?」
「できるだけ前の方の席を確保するしかないんじゃないですか?椅子の上に立ってもいい
ですけど危ないですしね」
「しかし、これ……」俺はディスプレイに表示された信じがたい値段を指差して見せた。
ステージ最前席の出品にはすでに10万円を超える価格での入札者がいる。
「ああ、まあそんなもんでしょうね」
モーヲタくんはこともなげに言う。
「アリーナと違って地方のホールは最前が近いですから」
なるほど。
お気に入りのアイドルがすぐ間近に、というわけか。
それにしても高すぎる。
しかも二席分確保したら20万円以上の出費になる。
- 319 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:21
- ばかばかしい。
オークションは止めることにした。
何か他の方法を探すとしよう。
それでダメならば仕方がない。
俺はログアウトして端末の電源を落とすと書類を整理して席を立ち、そのまま帰宅の途に
ついた。
- 320 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:22
- ◇
「いや、すまない。あんなにチケットを取るのが難しいとは思わなかったんだ」
俺は珍しく家で夕食を取っていた。
娘に言い訳するためだ。
オークションでのチケットの法外な値段に呆れた俺は早々と入手を諦めていた。
これが最後のコンサートでもあるまいしまた機会はあるだろう。
そのときを逃さずに正規の価格で入手するに限る。
娘には悪いが今回は流すことに決めていた。
珍しく父親が座る食卓で娘は居心地が悪いのかひたすらおかずを口に運び続けほとんど口
を開くことがない。
普段から食事中にしゃべらないよう厳しくいいつけているせいもあるだろう。
ともかく。
普段、何も父親らしい俺が曲がりなりにもコンサートへ行こうという姿勢を見せたのだ。
娘もおそらくもとより過度の期待はしていなかっただろう。
埋め合わせとしてディズニーランドにでも連れて行けば丸く収まるだろう。
その程度に考えていた。
- 321 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:22
- だが、娘の様子は想像していたどの表情とも違っていた。
「――そう……ごちそうさま」
「おい、まだ残って――」
俺はおかずを残して席を立とうとする態度を咎めようと視線を娘の顔に移し思わず息を呑
んだ。
その頬にぼろぼろと大粒の涙を流し、それでもしゃくりあげることなく何事もなかったか
のように椅子をテーブルの下に戻しながら娘はこう言ったのだ。
「お父さん、ありがとう……」
俺はゆっくりと振り返り自分の部屋へと向かう娘の力ない後姿をただ見送ることしかでき
なかった。
なんだ、あの態度は。
たかがコンサートだろう?
俺は認めることができなかった。
コンサートへ行くというそれだけのことがそれほど娘の中で大きな位置を占めていること
を。
俺は心の中で言い訳を続けていた。
まさか娘は俺がコンサートのチケットを取ってくれると本気で期待していたのだろうか。
いや、そんなはずはあるまい。
今まで何も父親らしいことなどしてこなかったのだ。
端から期待などしていたはずがない。
そんなはずは。
- 322 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:22
- だが。
俺の脳裏に今さっき魂の抜け殻になったような娘の後姿が甦った。
娘は期待していたのだろうか。
こんな父親に期待していたのだろうか。
平日は仕事に明け暮れ、日曜日にどこへ連れて行くわけでもない、こんな父親に。
娘は楽しみにしていたのだろうか。
コンサートで歌い踊る辻加護の様子を想像して昂奮のあまり眠れない夜を過ごしただろう
か。
楽しかったコンサートの様子を友達に話して羨ましがられる自分を想像して頬を緩ませた
りしただろうか。
- 323 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:24
- 俺はもう我慢がならかった。
立ち上がるとすぐに娘の部屋へと向かった。
ドアはそこに入ろうとする何者をも拒むかのように固く閉ざされていた。
俺は扉を叩きながら娘に告げていた。
チケットは必ず入手するから。
大丈夫だから、だから…
その先を言うことなく、俺は自分の部屋へ戻ると早速パソコンを立ち上げてオークション
のサイトにログオンした。
今まさにダブルユーコンサート最前連番二席が落札されようとしていた。
その価格8万円。
俺は早速10万円で2枚と入力してパスワードを叩き込んだ。
画面が変わる瞬間。
固唾を飲んで見守っていると予期しない画面が現れた。
「最高価格に到達しません」
なんだと?
どうやら10万円以上で入札しているやつがいるようだった。
それならこれでどうだ。
俺は即座に15万円で打ち込んだ。
「最高価格に到達しません」
ふざけるな。
俺は画面に向かって叫ぶと頭に血が昇った勢いも手伝ってノータイムで20万円と入力し
ていた。
- 324 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:24
- きたっ!
反射的に「同意する」をクリックして反応を待った。
「あなたが現在の最高価格入札者です」
俺はようやく一息ついて最初の画面に戻った。
画面上の価格は16万5千円と表示されている。
だが安心はできない。
定期的に表示内容を更新しないと最新の状況が確認できないのだ。
更新するたびに残り時間が減っていく。
俺は祈るような気持ちで画面を更新させた。
どうかこのまま終わってくれ……
残り一分、というところで価格が上がっていた。
18万円。
さらに10分の延長。
だが、相手はそれ以上吊り上げてこない。
この値段では落札できないことがわかっているのに。
俺は今度こそやつが諦めてくれることを願いつつ画面を更新し続けた。
最後はあっけなく終わった。
「終了」の二文字を見たときの妙な達成感はまるで一仕事終えたかのような爽快な気分さ
えもたらした。
それにしても…
手強い相手だった。
一体、俺はどんな相手と競っていたんだろう?
- 325 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:25
- 画面上で燦然と輝く180,000という数字を眺めながらしかし俺は首を横にふった。
勝負は終わったのだ。
これで席は確保できた。
しかも辻加護を間近で見ることのできる良席を。
なんだか自分までコンサートが楽しみになってきたようだった。
娘とともに一番前の席で鑑賞するアイドルのコンサート。
一体、どんなことになるのか期待と不安とが一体となったような不思議な高揚感に今夜は
寝付けそうに無かった。
俺は気分のいいときにだけやることにしているグレンフィディックのボトルを取り出すと
氷を入れたグラスに注いだ。
なみなみと注がれたその琥珀色の液体が揺れる向こうに娘の笑顔が見えるような気がした。
- 326 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:26
- ◇
「行かない?どういうことだ!」
俺は思わず激昂していた。
当然だ。
一人当たり18万、二人分で36万円だ。
決して安くはない、というよりは思い切り高価な買い物だった。
それを行かないとは…
いや、金よりもむしろ俺の気持ちをなんだと思っているんだ。
娘はいつも通りの可愛げない表情に戻って頑なに「行かない」と繰り返している。
まるで俺が余計なことをしたとでもいうように。
その目に宿る侮蔑の色を感じ取って俺は手が出そうになるのを必死で我慢しなければならかった。
一体、何が問題だというんだ?!
「お父さん、嘘つくもん。そんな席あるわけないもん」
「だから、オークションで競り落としたと言っただろう?」
「もし本当だとしてもそんなの良くないよ。そんな高いお金払ってるの知ったら辻ちゃん
が悲しむもん」
お前の好きなその辻ちゃんとやらはお前のお父さんの倍以上の年収を稼いでるんだぞ、と
いう言葉が咽喉まで出掛かって慌てて押しとどめた。
- 327 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:26
- 「36万円も出したんだぞ、今さら行かないって何だよ?」
「そんなズルしてまで行きたくない」
「何がズルだよ!何が!」大声で怒鳴る俺の声に娘は身体を縮こまらせてそれでも頑なに
「いやだ、行かない」と繰り返していた。
「もういい!」
俺はせっかく入手したコンサートのチケットを掴むと思い切り力を入れてゴミ箱へ放り込
んだ。
カサッという間抜けな音を立ててゴミ箱に吸い込まれたチケットに目もくれず娘は相変わ
らず蔑むような目つきで俺を見つめていた。
「行きたくないなら行くな!」
バタン!と威嚇するように大きな音を立ててリビングのドアを閉めると自室に戻り鍵をか
けた。
- 328 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:27
- 窓を開けて新鮮な空気を取り入れると倒れるように椅子に腰掛けると深く息を吐き、それ
から時間をかけて吸い込んだ。
蝉の鳴く音が途切れる合間に子供が呼びかう声が遠くから聞こえてくる。
娘もああして外で遊んでくれればと思うが誰に似たのか内向的で家に閉じこもってばかり
いる。
胸の奥でわだかまるもやもやとした想いを吐き出す前に、俺はもう一度深く息を吸った。
あの年頃の子供に特有の潔癖性なのだろうか。
たしかに金ですべてが解決するような社会であることを大人が自ら示してはまずかったの
かもしれない。
俺はせっかくの好意を踏みにじられたような気がして思わず癇癪を起こしてしまったこと
を後悔した。
- 329 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:27
- 子供にあたってどうする。
俺はチケットを金券屋に売ることにした。
とても36万円などという法外な値段で買い取ってくれるとは思えないが。
俺はなにか憑き物が落ちて楽になったように感じられる一方で、コンサートというある種
の非日常空間を共有することで娘との距離を縮めようという思惑が外れたことに少なから
ず失望していた。
娘との距離を測りかねて互いにぎくしゃくとした関係を継続しなければならないかと思う
と気が滅入る。
額から汗が流れた。
俺は涼を求めるために少しパチンコにでも出かけようと思った。
リビングに戻ると部屋にこもったのか娘の姿はなかった。
- 330 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:28
- ◇
同僚の女性が真剣な顔つきで電話を取り次いでくれたときから何か嫌な予感はしていた。
案の定、児童ホームからの連絡は俺にとって辛いものになった。
娘が友達の髪の毛を引っ張って泣かせたというのだ。
幸い相手の女の子に怪我はないというが理由を聞いても泣きじゃくるばかりでわけがわか
らないし娘は頑として口を閉ざし一言も喋らない。
俺は平謝りに謝ってすぐ迎えに行くことを告げると同僚に仕事を頼んで会社を飛び出した。
児童ホームに着くまで気が気ではなかった。
こないだのチケットの件以来、俺と娘は案の定、以前のようにぎくしゃくとした他人行儀
な関係に逆戻りしていた。
家に帰っても気を許せる人間のいない生活はまだ小学生の娘にとって随分と窮屈で重苦し
いものなのだろう。
- 331 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:28
- 悩みがあっても相談することさえできずにひとり悶々と苦しみ続けていたのかもしれない。
あるいはそうと意識することなく日々の鬱々とした想いや不満がひょんなことで爆発した
か…
どう考えても俺に責任の所在がありそうなことはわかっていた。
だが、それを他人である児童ホームの係員にどう説明しよう。
もう二度とこんなことはさせません、と謝らせることはできるだろう。
その場を丸く収めるだけの知恵は小さいながら今の子どもらしく娘も持ち合わせている。
だが、本当に二度と乱暴な振る舞いに及ばないか、と言われて必ずしも俺には確信が持て
なかった。
無責任に聞こえるかもしれないが、娘の扱いについては俺自身が持て余していたのだ。
- 332 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:29
- ホームに着くと娘は椅子の上で抱えた膝の間に顔を埋め込んでいた。
俺はいきなり叱りつけることは避け、とりあえず娘を立たせた。
娘は素直に立ち上がるとやはり俺の方へは視線を向けずにひたすら前方を凝視していた。
だが、その視点はどこにも合っていないように見えた。
鬱屈したエネルギーを発散してしまったせいかまるで魂の抜け殻のように放心している頼
りない姿は俺を不安にさせた。
先生に謝りなさいと娘に諭すと、存外素直に「ごめんなさい」と頭を下げた。
だが、なぜ友達の髪の毛を引っ張ったかについては遂に口を開かなかった。
代わりに俺がすみません、すみません、と謝り、相手の子供の家に連れて行って謝らせま
す、と言ったのだが、そこまでしなくていいですよ、とやんわりと断られた。
相手にしてもできるだけ面倒は避けたいということらしい。
もとより髪を引っ張られるだけの何かの理由は娘よりも相手の子供にあるのだろうし。
俺は何回も頭を下げ、娘の頭も下げさせてホームを後にした。
- 333 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:30
- 帰りの途上、俺は無言でいることの重苦しさに耐え切れず娘に問い掛けていた。
詰問するという風ではなく、バカだなあお前は、といった軽い口調で。
深刻そうな態度を維持するには二人とも余りにも疲れていた。
娘は意外にも口を開いた。
彼女にとっても沈黙を維持しなければならないのは苦痛だったのだろう。
「あいつ、自慢するから…お母さんと一緒にダブルユーのコンサート行くって自慢するか
ら…」
「……」
俺は咽喉の奥が収縮するのを感じた。
言葉が出てくるまでに随分と時間がかかった。
「バカだなあ。お前だって行けたんじゃないか。何も怒ることじゃないだろ?」
「違うの…」
そう言ったまま、娘は俯いてなにか言いにくそうに道端の小石を蹴ったり、縁石の上を平
均台のように渡ってみたりで落ち着かない。
- 334 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:30
- 俺は日の沈みかけた西の空を眺めながらいつのまにか蝉の鳴き声が油蝉のがちゃがちゃと
騒がしい響きからひぐらしのどこか諦めたような調子へと移り変わったことに気付き、急
に寂しさを覚えた。
「もう夏も終りだな…」
「嘘つきって言われたから…」
俺は縁石を渡る娘の足許から路傍へと延びる赤黒い影を目で追いながら次の言葉を待った。
「お父さんが一番前の席用意してくれたけど行くの止めたって言ったら嘘つきって――」
見上げると夕陽に向かって歩く娘の姿が逆光のせいで黒い塊として視界に映った。
「――お前のお父さんがコンサートなんか連れてってくれるわけないって…だから…」
不意に前を歩く黒い影が止まり橙赤色の光の中で陽炎のように揺れた。
蝉の鳴き声が霧雨のようにやさしく辺りを包み込んだ。
蝉時雨というのは本当にあるんだな、とぼんやりとした頭のどこかで考えていた。
- 335 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:31
- 「コンサート――」
まだ夏は終わらない。
少なくともひぐらしが残り短い命の限りその証を残そうと歌い続ける限り。
「――行くか?」
「でも……」
「当日券が出るかもしれないし会場の前で粘ればなんとかなるかもしれない」
「でも……」
「手に入らなかったら仕方がない。それでもいいじゃないか。あのときこうしていれば、
と後になって悔やむよりは当たって砕けよう」
黒い塊はふわっと浮き上がった次の瞬間、見事に着地を決めるとこちらに向き、人として
の輪郭を取り戻した。
「うん、行く」
「ああ、行こう」
- 336 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:31
- 夏はまだ終わらない。
沈みゆく太陽が焦がれるように西の空を燃やす様を眺めながら俺はああ、これが朱夏とい
うものかと思い当たった。
青春、朱夏、白秋そして玄冬へ。
人が迎える人生の節目。
四季の移り変わりに例えた中国の故事に由来するその呼び方が俺は嫌いじゃなかった。
まだ人生の入り口に立ったばかりの娘のために、燃え盛る夏の陽のごとく俺は生きる。
蝉が賢明に鳴いている。
短い夏を生きる己の存在の証を賭けて。
夏はまだ終わらないのだ。
- 337 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:32
- ◇
「チケット、ありませんかあ!」
「チケット買いまあす!」
俺と娘の声が交互に繰り返す中、コンサートへと向かう観客が慌しく通り過ぎていく。
その一方で、もうすぐ開演だというのにホールの横の広場にたむろしてラジカセで踊り狂
っている集団もいる。
彼らはチケットを持っていないのだろうか?
俺は日中の強い日差しがようやく弱まってきたとはいえ、相変わらず強烈な光線を差し込
んでぎらぎらと燃え盛る午後の太陽に手を翳した。
額から噴出す汗をタオルで拭うと、もうじき開演であることを告げながら会場周辺で座り
込んだ観客をホールへと追い立てる係員の姿を恨めしい想いで眺めた。
咽喉はからからだ。
この時間でチケットの余りが出ないともう会場に入ることはできないかもしれない。
ダフ屋が何度目かの交渉をもちかけようとするが俺は鄭重にお断りした。
- 338 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:32
- 当日券はやはり出なかった。
夏休み中、首都圏で最後の公演とあって会場の収容人員が少ないこともあり、チケットは
発売後即完売。
機材の席を開放して追加発売したチケットも即日完売。
世間では落ち目だとなんだと言われているがまだまだ人気はたいしたものだ。
俺は辻加護や知らない女の子の写真を身体中に貼った奇抜な服装のファンを半ば呆れ半ば
感心しつつ横目で眺めながら娘を木陰に連れて行って休ませた。
休み休みではあったが娘も俺とともに日差しの強い戸外で声を張り上げてきただけにその
表情には披露の色が濃く現れていた。
「もうすぐ開演だけど…もうちょっと粘ってみるよ」
「うん……」
正直なところもうチケットの入手は諦めていた。
いつのまにかファンがたろむしていた辺りの場所は公演開始とともに綺麗に空いていた。
後にはラジカセを鳴らして踊りまわる奇抜なファッションに身を包んだ若者数人を残すの
みであった。
- 339 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:33
- 時折知った曲が流れると気になるのか、娘も身体を揺らせてリズムに乗っているのがわか
り、やはりどうにかして会場の中に入れてやりたいという思いだけが募った。
すでに公演は始まり会場の外では祭りの後といった寂しげな雰囲気も感じられるような中、
今さら余ったチケットを譲ってくれそうな客が訪れるとは思えなかったが、それでも俺は
再び強い日差しを受けながら「チケット買います」と書いたボードを掲げないわけにはい
かなかった。
あるいは親としての義務を果たしているのだという自己満足に近い陶酔感に浸っているだ
けなのかもしれない。
だが、娘が木陰で休む間にもときどき聞こえてくるミニモニだかモームスだかの曲に合わ
せて振りつけを賢明に真似ている姿を見ると俺は公演が終わるまで結局こうしてチケット
を求めて立ち続けるのだろうと思った。
- 340 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:33
- 暑い。
脳味噌が沸騰しそうだとはこういう状態をいうのだろうか。
額から汗を流すまでもなく頭のてっぺんから蒸気を噴出しそうなほどに煮詰まっていた。
意識は朦朧としてすでに現実と虚構の境目すら定かではなかった。
だから先ほどすげなく断ったダフ屋が近づいてきたとき、やつは自分を殺しに来たのだと
わけもなく勝手に思い込んでいた。
俺はやつの右手が一閃し懐からすばやく何かを取り出したとき、ああこれで俺も終わりだ
と観念した。
急に画面がモノクロからカラーに変わるといった趣向の映画がある。
目の前の光景はまさにそれだった。
俺は何が起こったのかわからずに、ぶすっとした表情を崩さないやつの顔とその手が差し
出したものを交互に見比べていた。
「だからやるって言ってんだよ」
「えっと…またどういうわけで…」
- 341 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:34
- 俺は急に現実に引き戻されてどういう対応をとってよいか咄嗟に判断できず、随分と間抜
けな口調で問い返していた。
「だからやるって言ってんだろうが!あんたの娘さんだろ、あの子?どうせ余って捨てる
だけだ。金はいらないから持ってけって言ってんだよ!」
「しかし…」
「今どき子供のためにそこまでやる親はいねえよ。さあ、早く持ってけったら持ってけ!
俺も仲間に見られたらやべえんだからな」
見るとダフ屋の仲間らしい連中の姿はすでになかった。
商売上がったりと見て既に現場を引き払ったらしい。
これ以上拒み続けたらせっかくの好意を無駄にしてしまう。
俺は腹を括った。
「ありがたくいただきます」
「おう。楽しんでくれるといいな」
深々と頭を下げて見送る俺の肩をぽんと叩いてダフ屋は悠然と立ち去っていった。俺はな
んだか狐につままれたような釈然としない気持ちを抑えながら娘のもとへと戻った。
- 342 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:35
- 「えっ?」
鳩が豆鉄砲を食らったように驚いた顔を見て俺はようやく現実に立ち返り「急ごう」と娘
を会場へ向かうよう促した。
すでに公演が始まってから30分以上は経過していた。
大好きな辻加護を見られる時間が刻々と過ぎていく。
俺は娘の手を引きながら会場入り口に駆け込んだ。
すでに一人きりで手持ち無沙汰にしていた係員にチケットを渡して半券を受け取ると促さ
れるままに正面入り口のドアへと娘の手を強く握り締め突進した。
娘はきっと口を結んで俺の手を強く握り返してくる。
ドアを開けるとうわぁっという歓声と耳にきんきんと響く甲高い声がスピーカーを通して
耳の鼓膜を揺らした。
- 343 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:35
- 熱気に包まれた会場の雰囲気に圧倒されて呆然とステージの方を見つめる娘の腕を引っ張
りながら、俺は係員に案内されるままステージ前方へと向かっていた。
懐中電灯でチケットを照らしながら係員が先導する。
通路にはみ出して踊り狂う若者たちの間を縫って進むとそこには辻加護の二人がいた。
まさにステージ正面の特等席だった。
娘はこんなに間近で見られるとは思っていなかったのだろう。
呆然とただステージ上の二人を見つめていた。
そのうちホットパンツを穿いたどちらかというと細い方が娘に気付き手を振ってにこやか
に笑いかけた。
娘はわあっと弾けるような笑みを浮かべるとスイッチが入った電動のおもちゃのように両
手をばたばたと力いっぱい振ってその笑顔に答えた。
曲が終わってステージ上の二人が会話を始めても娘はまだ立ち上がったままその様子を見
上げていた。
- 344 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:36
- 地元の食べ物が美味しいとか最近はまっているものは韓国ドラマだとか割とどうでもよい
ような話にいちいち観客が発する奇声に最初はやや脅えていたものの、そのうちに慣れた
のか娘自身もそのうちに大声で二人の名前を呼び始めた。
娘がしきりに名前を呼んでいるらしい辻加護の痩せた方が前列に子供が少ないこともあっ
てか時折会話の合間などに短く手を振ってくれたようだった。
娘はそのたびに俺を見上げては薄暗い照明の中でもそれとわかるほどに紅潮した顔で目を
輝かせ「お父さん!今、手を振ってくれたよ!」と報告するのだった。
俺は正直なところアイドルのコンサートというものに対して偏見を持っていた。
所詮アイドル。
下手な歌に子供だましのパフォーマンスときてはとうてい楽しめるものではあるまい、と。
だが、娘が思い切り楽しんでいるのが伝わってくるせいもあるのだろう。
客席の反応を窺いながら進める二人の会話やステージを縦横に駆け回って歌う二人の姿に
いつしか俺もまた自然と身体でリズムを取って手拍子を打っていた。
- 345 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:36
- 辻加護の二人がステージ脇に引き込んで代わりに娘とそれほど年恰好の変わらない女の子
の集団が出てくるとそれまでのはしゃいていた様子は影を顰め明らかに戸惑っているのが
わかった。
誰?と聞くとぶっきらぼうに「ベリーズコーボー」とだけ告げ、それでも憮然とした表情
でステージを見つめ続けた。
驚いたことにこんな小学生のような子供たちにもすでに固定ファンがついているらしく、
辻加護に勝るとも劣らない声援が送られた。
びっくりして振り返って見ると大の大人が、それも俺とそれほど年が変わらない、いやむ
しろ俺よりも年長ではないかというくらいの立派な大人がスケッチブックのようなものを
掲げながら奇声を発しているのだった。
俺はこんなディープな世界に娘を連れてきたことを半ば後悔し始めていたが娘自身はベリ
ーズなんとかいう少女の集団にもそれなりにシンパシーを感じ始めたのか少しずつではあ
るが手を振ったり、名前を呼びかけたりし始めたようだった。
- 346 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:36
- 俺はステージ上の小学生にはしゃぎまくる大人の観客という異様な状況がさも当然のよう
に進行していく不条理さに抵抗できず、むしろ自分の方悪いのかもしれないという謂れの
ない罪悪感から焦りを感じ始めていた。
子供は順応性が高いのだろうか。
娘は必ずしも若いとはいえない男性ファンの雄叫びに近い応援にも動じず、逆に自ら中心
メンバーらしき美少女に手を振ったり声をかけたりしている。
同じアホなら踊らにゃソンソン…
俺はなんとなく納得すると父親の威厳を失わない程度に身体を動かしてリズムに乗った。
やってみるとことのほか楽しかった。
側に娘がいるという気安さもあったかもしれない。
娘が楽しんでいるその空間の同じ空気を自分もまた共有しているという感覚が何にも増し
て気分を高揚させた。
ひどく自分が乗っていることに気付いてみれば聞いたことのある曲だった。
たしかモームスが歌って大ヒットした曲のはずだ。
子供を連れてきた親へのサービスとしては気が利いている。
俺は娘といっしょにうぉううぉうと叫びながらフレミングの右手の法則のように開いた指
を前に突き出していた。
- 347 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:37
- ◇
アンコールが終わって会場を追い出され、駅に着くまでの短い道すがら、俺は娘と並んで
心地よい脱力感に浸っていた。
まだ蒸し暑さの残る宵の街をそぞろに歩きながら俺はひと夏の終りを告げる蝉の鳴き声に
耳を傾けなぜか感傷的になった。
祭りの後がこんなにも侘しいと感じたのは久しぶりだった。
娘もおそらく同じ感覚を共有しているに違いなかった。
ただその想いをうまく口にするだけの語彙に乏しいというだけで。
かけがえのない大切な時間のいかに儚いことか。掴んだと思った瞬間にするりと手から抜けていく。
だからこそ人はまた生きていけるのだろう。
掴みかけた幸福を再び手にしようとして。
- 348 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:37
- 「楽しかったか」
「うん」
俺の問いかけに短く答え娘はいきなりたっ、と駆け出して自販機の前で止まった。
「お父さん、喉渇いた」
「ああ」
缶ジュースを渡すと娘はプルトップを引いて空けるや否やごくごくと喉を鳴らして一息に
半分ほども飲んでしまった。
俺はその様子を眺めながらウーロン茶をゆっくりと口に運んだ。
冷えた缶の感触が火照った掌に心地よかった。
「お父さん」
「ん?」
一口飲んで冷たいお茶を喉に通すと娘が俺を見上げている。
娘の顔を街灯がほの白く照らしていた。
「クリスマスみたい」
「そうか」
「うん」
俺は黙ってうなずいた。
- 349 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:38
- 娘はとびきり楽しいことがあるとクリスマスみたいと言うのだった。
何年か振りで聞いたその言葉が静かに胸に染みた。
妻と別れて以来久しく聞くことのなかったその言葉
俺は自然と娘の手を取って歩き出していた。
胸の奥に固くこびりついていた何かがゆっくりと剥がれ落ちて静かに流れていくようだっ
た。
無言のまま手をたずさえて歩く二人の間には、だがこの上もなく優しい旋律が流れている
ことを俺は知っていた。
「ふふっ」
「ん?」
何か思い出したのか娘が噴出した。
思い出し笑いというやつだ。
「なんかサンタクロースみたいだなと思って」
「あの太った方の子か?」
「そんなはっきり言っちゃダメだよー、女の子なんだから」
それでもふふっ、と笑っているところを見ると当たっていないわけでもないらしい。
だが確かにあの子には失礼かもしれない。
なにしろこんな素敵な夜をプレゼントしてくれた本当のサンタクロースだったかもしれな
いのだから。
- 350 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:38
- さぁんたーくろーしぃずかーみーんとぅたぁーん♪
娘は繋いだ手を大きく振り回しながら歌い出した。
俺はあの日、ひどく雪の積もったあの朝にただ一筋の足跡だけを残して家を出て行った妻
を思った。
まだ幼稚園に通う娘ひとりを残されて途方に暮れていた日々を思った。
ひたすら母親を求めて泣き続ける娘に対して優しくなれなかった自分を思った。
娘がごねるたび妻に逃げられた甲斐性の無さ詰られているように感じた。
そのたび娘に手を上げては後悔するもののすぐにかっとなってはまた同じことを繰り返し
た。
そしてあの日から何回かの冬を経ながら一度もクリスマスを祝うことのなかった娘の胸中
を思うと胸が焼かれるほどの悔しさに身悶えした。
- 351 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:39
- 駅前の通りで信号を待つ間、俺は汗を拭う振りをして額にハンカチを当てた。
走り去る車のヘッドライトが時折娘の横顔を照らして眩しかった。
揺れる街の灯の中で俺は誰にともなく祈るように思った。
願わくばこの穏やかな気持ちがいつまでも続かんことを。
それが適わないというならば、せめてこの夜を忘れぬように。
俺がふたたび手をあげそうになったとき、この夜に娘が見せてくれた笑顔をいつまでも記
憶の底から掬い出すことができるように。
信号が青に変わると一斉に人が動き出して駅へと向う流れの中、不意に脳裏にコンサート
で聞いたフレーズが流れ出した。
We welcome this happiness tonight……
- 352 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:40
- ふっ、と思わず息を漏らした俺の顔を娘が見上げて言った。
「もう、加護ちゃんに失礼だってば」
「ん?」
信号が変わりそうになって慌てて追う伝歩道を渡ろうとすると、自分の前に「加護ちゃん」
が現れた。
「ああ…」
特攻服に無数の写真をぶら下げているファンの背中だった。
「でも女の子はあれくらいの方が可愛いと思うよ」
「ええっ、でも絶対辻ちゃんの方が可愛いよぅ」
少しむくれた娘の頬が描く曲線に俺はどちらでもいいと思った。
どちらだって。
この夜の幸福を俺はたしかに歓迎していた。
終
- 353 名前:名無し娘。 投稿日:2004/09/07(火) 22:58
- 続きはフリースレに(汗
- 354 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/08(水) 00:29
- すごい。女達のダーヤス「父版」といったところでしょうか。
相変わらず描写が容赦なく的確で密度濃くて。随所で痛いし苦笑い。だからこそ力強い希望を感じられました。待ってた甲斐がありました。Uもほのぼのしてよかったー。サンクスです。
(作者さんに代わって続きを貼っておきます)
緑板「作者フリー 6集目」323から
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/green/1086191650/323-
- 355 名前:tari 投稿日:2004/11/03(水) 02:39
- ochi
Converted by dat2html.pl v0.2