エウロパ
- 1 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時35分04秒
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- 2 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時35分58秒
■1■
- 3 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時36分56秒
埠頭に、一隻の巨大なクルーザーが係留されている。
純白で、隅々まで丁寧に磨き上がられており、船体に小さな波がぶつかって弾け、
それが朝日を反射している様子が美しかった。
もっとも、私は、どうしてもこの船が好きになれない。
以前に、一度つんくさんから自慢げに見せて貰ったことがあった。やたらと
勿体ぶっていたわりには、私の周囲にいる人はみんな見せて貰っていたよう
だったんだけど。そして、みんなも一様に私と同じような感想をその船に
持っていたようだった。
その時私は、船体に、つんくさんをアニメ調にデフォルメしたイラストがでかでかと
描いてあるのを見て、つい笑ってしまったのだが、つんくさんはそのイラストが
心から気に入っているようで、不躾な私が笑ったのも好意と受け取ったみたい
だった。こうしてアニメのつんくさんと顔を合わせるのは、その時以来だが、
私が大分変わってしまったのに対して、アニメつんくさんはほとんど変わって
いない。変わっているのはちょっとだけ、隣にパートナーが加わっていることだけだ。
- 4 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時39分19秒
つんくさんの隣に、同じタッチでデフォルメされた、金髪の女性が描かれている。
私もよく知っている人。中澤さんだ。
あ、今は寺田裕子か。
私は、二人の結婚を祝福するに吝かではなかったが、このイラストをペイントした
船は、どうしても受け入れがたかった。
うまく言えないが、…身も蓋もなく表現するとバカップル丸出しというやつだ。
仲良きことは美しいのだが、端から見ると、いくら身近な人たちだとしても厳しいものがある。
昔でいう、三原じゅんことコアラみたいなキャラでワイドショーで喋っている
二人を見て、悲しくなった覚えがある。事務所の先輩にそんなことを話したら、
何を今更、と逆にからかわれてしまったのだが。
とはいうものの、これからこの船に乗って、中澤さん──名字が変わっても、
この呼び方のほうがやっぱりしっくりとくる──の愛の巣に行かなくては
いけないのだったが。
- 5 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時40分13秒
眠たかった。ろくに寝る時間も与えられていない上に、ここのところはずっと、仕事とは
関係のない厄介事を背負い込んでしまっている。お陰で、一週間に八時間でも
眠ることが出来ればいい方だった。そんな状態だったから、せっかくのこうした
集まりでも、ずっと寝ていてしまうかもしれない……いや、今の私にはそんな
図太い神経はもう残っていないか。数年の間に削って削って削り取られて、
ちょっとでも張りつめたらすぐに切れてしまいそうだ。切れてしまいそうで
切れずにもっているからこそ、こうしてまだ正気を保っていられるのかも
しれなかったが。
- 6 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時40分56秒
毎夜、薄暗い部屋で、白髪の背の低い、ずんぐりとした男と向かい合っている間、私は
頭の中で数字を数えるのが習慣になってしまっていた。これといった法則を決めず、
ランダムに行ったり来たり、飛んだり跳ねたりさせる。ただ秒針の動きにあわせる
ことだけがルール。気付かないうちに法則が生まれてしまったら私の負けだ。
男は顔を下に向けて、上目遣いでじっと睨みながら話す。額には瞬きをする
たびに三本の深い皺が刻まれ、脂ぎった肌が絞られているような薄気味悪さを
覚えた。そんな感情を表情に出すようなことはしなかったが。
充血した目でじっと見られながら、男は思いだしたように、疲れただろう、と
訊いてくる。私は頭の中で無茶苦茶な数字をカウントしながら、いいえ別に、と
答える。男はそれで満足したように、またすぐにいつもの話に戻る。私の周辺で
起きる出来事に興味を持っている視線は、私自身は空虚な中心としてそのまま
突き抜けてしまっているようだった。
- 7 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時41分53秒
- 私は腕時計を見た。
待ち合わせの時間まで、あと二十五分もある。
予定時間より早く到着してしまう癖は、二十歳を超えた今でも直っていない。
周りは感心してくれたものの、私自身がそれで得したことなど一度もなかった。
時間より遅れれば現場が迷惑するが、時間より早いとタレントが嫌がる。
結局、損な役割を演じさせられるのが、マネージャーという職業なのだった。
タレントをやっていた頃は気付かなかったことを、ここ何年かで徹底的に叩き込まれ、
最近ようやくマネージャーという仕事の大変さが理解できたような気がする。
ちょっと違うかもしれないけど、子を持って知る親の恩、みたいな、そんな感じ。
もっとも、今日はプライベートな集まりということだったので、普段のように
一緒に行動しているわけじゃなかったけど。
- 8 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時42分53秒
- 本当はいつもみたいに一緒に来てもよかったんだけど、彼女の方が嫌がった。
「だってまた早く起こされるの、やだもん」
と、気怠い声でそう言われた。
確かに当たっていた。忙しい彼女が、一分でも多く寝ておきたい、というのはよく分かる。
いや、分かっているようでもうなにも彼女のことなんて分かってないのかもしれない。
自分のことにかまけている間にいつしかずっと遠ざかって行ってしまって、今では
もう月の辺りまで逃げていってしまっている。私にとってもう彼女は月の裏側の
ような存在になっているのだろうか。
- 9 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時43分51秒
- 月の裏側、という名前のカクテルがあった。深い青色に、鮮やかな赤いチェリーが
浮かんでいる。太陽の光が及ばないということなのかは分からない。
いくつかの不可思議な形をした光源だけで、そこは薄暗かった。固く小さな
テーブルを挟んで向かい合って、お互いのよく見えない顔から目を逸らそうと
無駄な努力をしていた。静かな店内で流れている音楽は、ただ静寂をより静寂へ
近づけるために流されているとしか思えなかった。密集した音がミュートされて、
残響だけが干渉しあって不吉な波を沈黙の隙間に広げていた。
相手の顔を見たくないのは、そこに顔がないからで、顔がない空間を見てしまうと、
ここが夢の中であることに気付いてしまうからだ。夢の中で夢に気付くと、自然と
目が覚めてしまう。私はこの沈黙した夢が好きだった。薄気味悪くはあっても、
いつもの強烈な光と熱とノイズに包まれた夢に引きずり込まれないだけマシだった。
もしこの空間から出れば、耐え難い空間が拡がっているのだろう。……
- 10 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時44分31秒
- 彼方へ目を向ける。空と海が、まっすぐな薄膜に区切られている。それは
眠りについて閉じられている瞳のようにも見える。
輪郭のはっきりした雲は、その重みで瞼を押さえつけているように、真っ青な
空に悠然と浮かんでいる。それは死体を覆う布のように白く、厚みがあるようで
とても薄っぺらく感じる。
- 11 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時46分15秒
「吉澤〜」
向こうから自分に呼びかける声が聞こえた。
振り返ると、懐かしい顔が見えた。
こうして顔を合わせるのは、二年ぶりくらいだ。
「保田さーん」
私は笑顔で手を振った。
保田さんは手を振り替えすと、意地悪そうにいった。
「なんだよ、せっかく圭ちゃんって呼んでくれるようになったと思ってたのに」
「いやあ、もうずっと久しぶりだから、やっぱり緊張しますよ」
「お互い接点もなにもないからね」
保田さんはそういうと、自嘲的に付け加えた。
「なっちとか石川みたいに、テレビで見ることも出来ないし」
「でも、保田さんはたまに雑誌で見ますよ」
「たまに、は余計だろ」
「うーん、じゃ、ちょくちょく」
「って、変わらないような気もするけど」
保田さんはそういうと笑った。
- 12 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時48分41秒
◆
昔々、あるところにモーニング娘。というアイドルグループがあった。誰もが
知っていて、でも誰もが口にしたがらない、そんなグループだった。
始まりがあれば終わりがある。そんなことはものの道理として私だって理解
していないわけじゃない。でも、やっぱり、永遠に続くって思ってた時間が
いきなり絶ちきられると、どうしていいのか分からなくなってしまう。
- 13 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時50分39秒
- 最初のきっかけは、多分五回目のメンバー増員だったと思う。ソロで歌っていた
藤本美貴と、新しくオーディションで選ばれた三人の少女。
でも、そのことに関して、私が反発を覚えるというようなことはなかった。
そもそも私が今こうやってモーニング娘。というグループで歌っているのも
オーディションがきっかけだったわけだし、小さな変化はたくさん起こる
かも知れなかったけど、根っこの部分はしっかりと守られる。そう思っていた。
その時の追加が全ての原因だとは思わない。多分、誰も気付かないうちに
根っこの部分がだんだん腐ってきていて、でもみんな目に見える部分にしか
注意してこなかったから、ようやくそのことに気付いたときにはもう手遅れ
だったのだろう。
でもそれは事務所が悪いとかつんくさんが悪いとか自分たちが悪いとか、
ましてやなにも知らない新しいメンバー達が悪いとか、そういう話じゃない
と、今では思う。
誰がなにをどうしたって、終わるものは終わる。それは、宿命ってやつだろう。
- 14 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時52分48秒
- 2003年の秋。モーニング娘。というグループは消滅した。
もちろん、解散したわけでもないし、ましてや全員死んだりしたわけじゃない。
ただ、実質的な形を、その時に失った。
でも、私もメンバーのみんなも大したことだとは思ってはいなかった。よくある
構造改革の一つ。当時の総理大臣が言ってたみたいに、より良き道を進むための
改革は恐れてはいけない。私たちもそう考えて、不満がなかったって言えば
ウソになっちゃうけど、でも前向きに受け入れていた。
モーニング娘。がなくなり、変わりにさくら組とおとめ組という二つのユニットが
生まれた。分割は建前で、実際には不要な部分を切り落としただけ、なんて
陰口も叩かれたりしたけど。
十五人のメンバーは、二手に分かれて曲を出し、TV番組で歌い、ツアーを
やり、自分たちの番組でも分かれて収録するようになっていった。
変革を恐れるな。進むべき道はない、しかし進まなくてはいけない。ある
映画監督の言葉だ。私たちはそれに従って、黙々と目の前の闇へ足を踏み出して
行った。道が闇に包まれていたのか、私たちが盲目だったのかは、よく分からない。
- 15 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時54分21秒
- 第三の変革。2004年の春に再び新しいメンバーが追加された。安倍さんの
卒業が発表された時点で予想できたことだった。と言うよりも、誰かが卒業
してから新しいメンバーが入ることは、私たちにとっては活動の一環として
確立してしまったようなものだった。ただ、これまでと異なっていたのは、
あらかじめ事務所が拾っていた女の子を、前年の秋頃から入念に自前の番組枠で
プロモーションした上での、満を持しての追加したということだった。
このために、藤本美貴の参加という前例を作っておいたのかな、とその時は
思ったりした。時期的には、ちょうど分割も大して盛りあがらず、ファン自体も
分裂し混乱状態にあった頃だったので、新しいメンバーには自然と注目は
集まっていた。今から考えると、あげたりさげたりと実に周到なプロモーションを
やってると思う。大したもんだ。
- 16 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時58分08秒
彼女たちと入れ替わるように、すでに発表済みだった安倍さんと、それに
合わせるようにして飯田さんと矢口さんは卒業していった。
それより前に、二人ともCMであったりTV出演であったりと、それぞれが
グループとは関係のない形でのソロ活動を展開するという布石もあったので、
それほどの驚きもなかった。卒業イベントではお約束のようにみんな泣いて
いて、それが演出とは私は思わなかったけど、正直なところ私自身には
ほとんどなんの感慨もなかった。そのことで周囲から、直接的にではない
にしても変な評判が立ったりしたけど、どうでもよかった。それが現実だ。
というわけで、結果として、私も含む四期メンバーがグループ内での最古参
となった。けど、はっきり言って、嬉しくもなんともなかった。ここまで
バラバラにされて、あちこちのパーツをすげ替えられてもなお、そんな
グループに愛着を保つことなんて出来るだろうか。
- 17 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)21時59分19秒
- 何かのマンガでこんな例えを読んだことがある。愛車が事故で壊れました。
飛行機のパーツを全体の八割使って修復させました。さてそれは車でしょうか
それとも飛行機なんでしょうか。
私は飛行機で街をドライブしたいとは思わない。それは他の三人も同じだった
と思う。といっても、走ろうと思っても走らないという現実もまたあったんだけど。
- 18 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)22時01分08秒
はじめの分割が一旦終了し、次のシャッフルで私と梨華ちゃんはそれぞれの
グループのリーダーになった。辻加護はまた別のグループで、二人してリーダー的な
存在となっていた。思いつきでつけられたようなグループ名は、忘れてしまった。
しかしもうそんなことはどうでもいいことだった。やる気の無さは一番上に
いる私たちから、下のメンバーにも水のように流れ落ちて、染み渡っていった。
もともと新しいメンバーにしても、このグループで一生歌い続けようという
意志なんてなかったのだろう。そんなメンバーが構成するグループが、ファンを
得られるはずもない。それに、もはや金のためだけに無理矢理つぎはぎの
キマイラのような状態でだらだらと生きながらえさせられている私たちが、金を
得られないのだとしたら、延命装置を取り付けている意味なんてなくなってしまう。
- 19 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)22時03分53秒
とはいっても結局最後まで解散という言葉を使うことはなかった。
十年、二十年たった後にひょっこりとまた再始動させられるのかもしれない。
昔に共演したことのある、私が生まれたころに大人気だったらしいアイドルグループの
ことを考えて、もし自分が同じように意味のないリユニオンをしなければならない
とするなら、隠居する方がマシだとすら思ったことがある。必死で生き残ろうと
いう人に大して失礼な言い方だけど、それが私の率直な本音だ。といっても、
当時にそこまで考えられるほど、私たちの誰にも余裕なんて残されていなかった。
- 20 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月01日(月)22時05分08秒
- 続く
- 21 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月02日(火)20時49分35秒
- キタ━(゜∀゜)━!!
ゆっくり更新してくれると思い出しながら読めるから嬉しい。
- 22 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月03日(水)15時43分56秒
- お、何やらいい感じですね。
のんびり更新お待ちしてますね。
- 23 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時45分31秒
今日ここへ来るはずのメンバーのことを考えると、誰もが自分の思わない場所で
足踏みを続けているような状態が続いているような気がしてしまう。私自身の
ことも含めて、そう思う。
それでも、事務所から気に入られているメンバーはまだマシと言えた。人気なんて
実力で勝ち取るものでもファンから与えられるものでもなくて、特定の数人の
話し合いから作られるものだと言うことを、私は知った。知らなくてもいい
ことではあったのだが。
- 24 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時46分16秒
安倍さんは、卒業してすぐに女優の仕事を始めた。スケジュールの融通が
きくようになったお陰で、今までは無理だった連ドラの仕事も入れられる
ようになったのだろう。
すでに実績もあったし、かつてのように時間に追われることもなく、じっくりと
腰を据えて仕事に取り組めるようになったように見えた。元アイドル、という
ネガティブなイメージは未だに一部には残ってはいるものの、キャリアを重ねて
行くに連れてごく当然の成り行きのように評価も高まっていった。周囲も
安倍さんが女優をメインの仕事としていくことに疑問は抱いていないように
見えた。もっとも、本心ではどう思っているかは分からない。歌が好きだった
安倍さんは卒業してからまだ一枚もCDを出していない。
それが、あくまで歌が好きな故に、片手間での歌手活動をしたくはないと
いう本人の意志なのか、単に事務所側の都合なのか、私には判断することは
出来なかった。
- 25 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時46分46秒
外側から見ていて分かることは、安倍さんが以前にも増して、感情を表面に
出すことが少なくなっていったということだけだった。演技以外の場所でも、
全てが芝居に律されているかのように感じられることもあった。
- 26 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時47分33秒
梨華ちゃんは、バラエティ番組によく呼ばれるようになった。
と言っても、深夜番組が多かったけど、どこへ行っても彼女はお姫様扱いされていた。
ただ座って笑っているだけで、その場の絵として通用しているかのように、
周囲は振る舞っていた。
積極的に発言をするわけじゃないけど、娘。時代から時間をかけてキャラクターを
作り上げてきたお陰で、違和感なく受け入れられるのも早かったようだ。
トーク番組では一言二言でちゃんと世界を成立させていたし、台本のある
コント番組なら、そつなく与えられた役をこなした。
いつの間にか、梨華ちゃんも自分のポジションを確立していた。言い方を
変えれば、たまたま空いていた席にうまく滑り込んだだけとも言えるかも
しれなかったけど。
- 27 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時48分35秒
事務所からあまりサポートを受けられなかったメンバーは、それぞれの道を
生かす方に進んだ。
飯田さんは、目立たない場所だったが、イラスト付きのエッセイの連載をいくつか始めた。
イラストもエッセイもそれほど上手いとはいわれてなかったが、二つセットにすると、
独特のセンスが出てくるらしく、それなりに評価はされてるみたいだった。
女優宣言した保田さんは、余裕のあるスケジュールを無駄にせずに使っていた。
暇さえあればスタジオへ出かけて、いろいろと勉強しているようだった。また、
独学で作曲とアレンジの勉強をしたあと、ミュージシャンとして自立した。
周囲の人たちのバックアップに支えられながらも、ちゃんと自己主張する
場所を自分で作り上げた形だった。
実のところそれほど売れているわけではなかったが、専門誌などでは意外に
好評だったらしく、メジャーでの活動は続けられている。全体的にCDが
売れなくなっている時に、少ないながらも確実な固定ファンを想定することの
出来るミュージシャンは、レコード会社の方からは重宝されているらしい。
- 28 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時49分09秒
すでに個人での活動を開始していたごっちんは、私たちの解散にあわせたわけ
でもないだろうけど、同じくらいのタイミングで引退を表明していた。彼女が
十九歳になったばかりの頃だった。
引退会見でも、彼女は多くを語らなかった。ただ、大学に進学すること、復帰は
あり得ないということを、淡々と喋った。その姿は、いつものままのごっちんで、
全くと言っていいほど変化は感じられなかった。
そのせいか、しばらくはマスコミで、様々な憶測が乱れ飛んだ。
そのほとんどが、なんの根拠もない内部抗争とか、事務所との金銭云々とか、
弟がどうのこうのとか、豪邸の借金がなんちゃらとか、出鱈目なものばかりだった。
といっても、それは仕方がない。
いちばん身近にいたはずの私たちにも、ごっちんの引退理由は分からなかったから、
周りがいくら詮索しても、真相はわかりっこないのだ。その時にも、その後にも
何度も会って話す機会はあったけど、不思議とその話題には入り込めないような
雰囲気が、自然と作られてしまっているような感じだった。
多分、話してくれる時が来れば、自然と話してくれるだろうと、私は信じていた。
- 29 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時49分58秒
同じように、辻もまた解散と同時にこの世界から去っていった。
一度だけそのことについて辻と話したことがあったけど、本人にしては大した
ことでもないように、なんともあっけらかんとしたものだった。
はじめからそれほどこの世界にこだわりは持っていなかったのかも知れない。
引退後のごっちんと辻がよく会っている、という話を聞いたときは少し意外だった。
以前の二人は、それほど一緒にいたわけでもなかったから。
辻が、ごっちんと同じ大学に進学した、と聞いたときも、ビックリした。
- 30 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時51分12秒
矢口さんと加護は、云い方は悪いけど、ずるずると芸能界に居残っているような感じだった。
加護は、子供キャラを捨てたあと、進む方向性をずっと決めかねているみたいだった。
ドラマに出ても、バラエティに出ていても、いつも居心地が悪そうだった。
周囲の求めるものと、自分がやりたいことが、噛み合っていないみたいだった。
矢口さんは、活動の場所をラジオに移していった。
今は、FMで昔やまだひさしさんのやっていた枠で、DJをやっている。
私は、ラジオの矢口さんのキャラは余り好きじゃなかった。
ただ意味なくはしゃいでるようにしかきこえなかったからだ。ひとまず
甲高い声とインパクトの強い言葉で時間を埋め尽くしておけば、それで
いいといったような放送だった。
グループの中での、明るくて楽しいキャラクターと表面上は似通っていたが、
私にはただ嘘寒いパフォーマンスとしか受け取れなかった。
そんなことを矢口さん本人にいったことがあったが、矢口さんは笑って、
「それはよっすぃーが歳取ったからだよ」
といって笑った。
今の中学生とかには、これくらいのテンションがちょうどいいんだそうだ。
- 31 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時51分52秒
相変わらず口が軽いというか、不用意な発言ばかりしていろいろ問題も
起こったりしていたのだが、そうした面も含めて、矢口さんは一定の
ファン層を確立しているみたいだった。
ただちょっと舌鋒鋭すぎるようで、テレビにはあまり呼ばれないみたいだった
けど。それはそれでカッコいいといえばそうかも知れない。
ただ、私から見ると、加護と矢口さんはどう見ても現状には満足がいっていない
ように見えた。具体的に不満を垂れ流すようなことはなくても、それは漠然と
感じられた。
そして、好き放題言っているこの私はというと、……。
- 32 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時52分44秒
- ◆
「吉澤さあ」
保田さんはコンクリート製のプリンのようなカタマリに座って、脚をぶらぶらさせている。
「事務所にいって、こっちに少しお金回して貰えないかなあ」
「自分でいえばいいじゃないですか」
私は海の方を見ながらいった。水面は静かに揺れていた。
「私がいったって絶対出してくれないっての。金にならない企画なんだから」
「不況が続いてますからね」
「ホントだよね。去年なんてアルバム三枚も出したのに、全然儲かってないもん」
「あれ、三枚も出してましたっけ?」
「おーい、送ってやってるんだからちゃんと聴けよ。一生懸命つくってる
んだからさあ」
保田さんはそう言って、軽く私の腰を蹴った。
「いやあ、私にはちょっと、ああいう音楽はよく分からないです」
保田さんには悪いけど、一枚目のアルバムは途中で寝てしまった。
二枚目のアルバムはうるさすぎて途中で消した。
それ以来、保田さんのアルバムは聴いていない。内緒だけど。
- 33 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時53分35秒
- 「吉澤でも分かるレベルじゃないと売れないってことか」
保田さんはそう言うと苦笑した。
「今ものすごいバカにされたような気がしたんですけど」
「そう?」
とぼけた調子で言うと、鞄からミネラルウォーターを出して少し飲んだ。
文句を言いながらも、今の仕事に充実して取り組んでいる様子が、保田さんから伝わってきた。
少しだけ、それが羨ましく感じた。
- 34 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時54分22秒
「それで、あんたの調子はどうなのよ」
保田さんは潮風に目を細めて、こっちを見ている。
「相変わらずですよ。忙しすぎて死にそうです」
「石川のマネージャーでしょう、大変だよね」
「ええ、まあ…」
私は口ごもった。
保田さんの言ってるのは、最近ずっとワイドショーで取り上げられてる、彼女の
スキャンダルのことだった。
ある大物俳優との密会をとある写真週刊誌に盗み撮りされたのが先月のこと
だった。定期的にこの世界に出てくる、ありがちなゴシップだ。
それ自体はまあ、大したことではない。確かに清純派なイメージはあったけど、
いつまでもそれで引っ張れるとは思っていなかった。
まずかったのは、その俳優が妻子持ちだったということだ。
しかも、その奥さんは主婦層から支持の高い女優さん。
梨華ちゃんは、新しいワイドショーの標的として、連日リポーターから
追い回されるようになった。皮肉なことに、それをきっかけにして知名度は
これまで以上に高まっていった。
- 35 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時55分00秒
タレントを守るのがマネージャーの仕事。それは分かっていたけど、時々
全部投げ出して、逃げたくなるときがある。
お互いの関係が変化しても、変わらずに親友でいる梨華ちゃんだから、続けて
いられるんだろうな、と思っていた。
いや、変わっていないと思っているのは私の方だけかもしれないけど……。
しかし、なによりも痛々しかったのは、梨華ちゃんが本気で彼のことを愛して
しまっているみたいだったこと。
彼の女癖の悪さはこの世界では有名で、誰が見ても、遊び半分だっていうのは
分かっているのに。
梨華ちゃんはずっと男性に対しては奥手で、それが逆に深くのめり込む結果に
なってしまったのかも知れない。
そう分かっていても、私にはどうすることも出来なかった。
自分の無力さに、歯がみするだけだ。
- 36 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時55分31秒
「そういや、今日は一緒に来たんじゃないの?」
周りを見回しながら、保田さんが訊いた。
「私と一緒だとあんまり寝られないらしいです」
私はそう言うと肩を竦めた。
「ああ……あいかわらず、眠れないんだ」
「ええ、あまり薬には頼りたくないんですけどね……」
ここのところ、覚醒と睡眠の区別が曖昧になっているような気がする。はたから
見ている限りでは、少しぼんやりしている程度であまり変化は感じていない
らしく、余計な心配をかけられるのが嫌だから黙ってはいたのだが。
「保田さんは? 矢口さんと一緒に来るかと思ってましたけど」
「それでもよかったんだけどね。昨日、たまたま近くでイベントに出てたから」
保田さんはそう言って、側に置いてあるサックスのケースを示した。
矢口さんの番組は、保田さんがプロモーションできる唯一の番組といってよかった。
そのお返しって訳じゃないだろうけど、保田さんは矢口さんに曲を書いたり
していた。あまり売れてなかったけど。
ちなみに、矢口さんの曲は音楽に疎い私でもよく分かった。
- 37 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時57分30秒
「それにしても、どうなのよ、あのイラストは」
保田さんはクルーザーの方を見ながら言った。やっぱり私と同じような風に
思っていたようだ。当たり前だけど。
「最悪ですよね」
私はストレートに感想をいった。保田さんは軽く頷くと、話題を変えた。
「彩さんと明日香は来ないんだって?」
「ええ、そう聞いてますけど……理由は知りませんが」
「ふーん、じゃ、ハピサマの時のメンバーってことか……」
保田さんはそう言うと、複雑な表情で俯いた。
ああ、またあのことを思い出させるような会話になったな……、と、私は
少し後悔した。皆、必死になって忘れようとしているのに、忘れることなんて
出来るはずがなかった。
私はどう返していいのか分からなかったが、幸いなことに保田さんはすぐに
笑顔に戻って振り返った。
- 38 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時58分04秒
「なーんか歌わされそうな雰囲気で嫌だなあ」
「絶対歌わされますよ。いいじゃないですか、保田さんは現役なんだから」
「この歳になってわっはっはとか言ってらんないよ。アホらしい」
「ああ、確かに」
「それに、絶対セリフのところで、『プロデューサーをやってる寺田光男さん』
とか変えていわされるんだよ」
「うわ、寒……」
私がオーバーにリアクションしていると、遠くからまた懐かしい声が聞こえてきた。
「おーい、圭ちゃん、吉澤」
私たちが振り返ると、ギターケースを抱えた市井さんが手を振っているのが見えた。
市井さんは、一度たいせーさんとの三人のユニットでデビューしたけど、全く
成功しなかったので、事務所から離れた二年くらい前からはずっとソロで歌っている。
ギターも歌もあまり上手くなかったけど、熱心なファンの人たちがついて
いてくれるみたいで、順調にミュージシャン生活を送れてるみたいだった。
去年には、たった一人だけでツアーを回ったりして、結構話題にはなっていた。
- 39 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時58分34秒
「紗耶香、早かったじゃん」
保田さんは普段の調子を変えずに言った。
同業者だから、なにかと会う機会も多いのかもしれない。
「お、圭ちゃん、すっかり売れっ子になっちゃって」
「はぁ? なに言ってんの」
「ちょこちょこいろんなとこに曲書いたりして、結構小金持ってるんじゃないの?」
「ないない。そっちこそ、経費かかってなさそうだから、かなり入ってるんじゃない?」
「そんなことないって。苦しいのはお互い様」
そう言うと、私の肩を叩いていった。
「吉澤はどう? もう仕事には慣れたの?」
「ええ、まあ、それなりには」
私は、相変わらずな市井さんのペースに押され気味だった。
私たちが入ってからすぐに卒業していたし、そのあともほとんど会うこと
なんてなかったのに、どうしてこんなにフランクなのか、不思議だ。
それでも、市井さんのキャラクターのお陰か、あまり不愉快ではなかったけど。
- 40 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時59分14秒
それから五分くらいして、ごっちんと辻が揃ってやってきた。
二人とも、今風の学生っぽい服装で、全然元芸能人の匂いはしないのが、
なんとなく悲しくもあった。
もっとも、二人から見た私もそうなのかもしれないけど。
辻は19になって、ごっちんよりも背が高く、スマートになっていた。
街やキャンパスを歩いていても、あの辻希美だと気付かれたことは一度もないらしい。
逆に、ごっちんはあまり変わった様子はなかった。
お陰で、今でもサングラスと帽子は外出の必需品となっている。
まあ、それもちゃんとファッションとして着こなしていたから、いわゆる芸能人の
プライベートルックみたいな不自然さは全然なかった。
「あー、プッチモニはこれで揃ったわけだね」
ごっちんが私たちを一人ずつ見て言った。
「そういやそっか」
市井さんは言われて初めて気付いたみたいだった。実は私もそうだった。
プッチモニ、と言う名前自体がもうかなり久しぶりに聞くものだったわけだし。
- 41 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)20時59分48秒
「それに引き替え、タンポポはダメだね」
保田さんが笑いながら言ったとき、向こうの方から甲高い声で突っ込みを入れるのが聞こえてきた。
「おい! 何がダメだって!?」
振り向かなくても分かる。矢口さんだった。
声は聞き慣れてはいたが、あらためて彼女のファッションはずいぶんなものだと思った。
ここにはミュージシャンも二人いるけど、矢口さんが一番ミュージシャンっぽい格好をしていた。
ラジオなのになんでそんなにド派手な格好をする必要があるのか、って番組のゲストに
言われてたことがあったけど、要するにそれが素なのだった。
デーモン小暮さんの素顔みたいなものかな。違うか。
「遅いよー、って、うちらが早いだけか」
「そうだよ」
保田さんが言うのに、矢口さんが時計を示しながら口を尖らせた。
「ジャストだよ。なに? みんなそんなに暇なわけ〜?」
皮肉っぽい感じだったが、悪意は感じられない言い方だった。
それが、今の矢口さんの芸風になっている。毒舌だけど愛される感じ。
時にはそれが通用しない相手から痛い目にあわされることもよくあるけど。
- 42 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時01分06秒
- 「悪かったわね、暇人で」
「いいじゃん! 圭ちゃんはそれでいっぱい呑みにいったり出来るんだしさ。だって
吉澤なんて忙しすぎてやばいんだろ? ほら、あの……」
「矢口、やめなよ」
調子に乗って喋っている矢口さんを、市井さんが止めた。
といっても、別に私は構わなかったんだけど。こういう話をされるのは
ここんところしょっちゅうだったから。
「いや、いいですよ」
私は言った。そのすぐ側で、ごっちんは私たちのやりとりなど全然気にしていない
ように、辻に話しかけていた。
「うちらはめちゃめちゃヒマだよねえ? 授業もそれほどあるわけじゃないし」
「そうですね。後藤さんは三年だから、私はそれよりは多いと思いますけど」
辻は、以前の舌足らずな口調ではなくて、しっかりした感じで応えている。
- 43 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時01分40秒
「大学ってそんな楽なもんなの? 実際すごく大変そうなイメージがあるんだけど」
気まぐれな矢口さんは、すぐにそっちの方へ話題を移した。
「いやー、ていうかうちらはノートとか過去問とか楽勝で手に入るからさ」
ごっちんが悪びれもせずに言うのに、矢口さんが笑い声をあげた。
「ああ〜、引退してもタレントパワー炸裂ってやつ? おいしいよねえ、
そういうのって」
私は、そんな風に元メンバーたちが談笑しているのを、他人事みたいに見つめていた。
なんとなく、自分はあの輪の中に入って行けないような、そんな気がした。
なんでかは分からないけど。
やっぱり、どっちつかずの感じでずるずるしてるのがよくないのかなあ、とも
思うことがある。
別に、マネージャーという仕事自体が好きでやっているわけでもないし、
その先の展望なんて全然ない。
かといって、すっぱりと以前のキャリアから離れることも、出来ないでいる。
- 44 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時02分20秒
マネージャーになると言ったときも、梨華ちゃんの担当になりたいと言ったときも、
当然のごとく周囲からは反対された。
私自身、なんでそんなことをやりたがったのかよく分からない。今では、
なんとなく、思いつきだけでずっと行動してきたような気がしている。
私がそんなことをすれば、周囲にとっても迷惑な話だろうし、誰よりも
梨華ちゃんが嫌だろうということは分かる。
どこへ行っても当然のごとく好奇の目で見られるし、あちこちで陰口を
囁かれていることも知っていた。ひょっとしたら、私は自分を追い込む
ことに快感を覚えるようになっているのかもしれない。
夢を見ているときに、時々突拍子のない行動をとって目覚めたときに唖然とする
ことがあるが、私はモーニング娘。がなくなってからずっと白昼夢を見ながら
過ごしているような気分だった。
あるいは、現実から目を背けたいだけで、無意識的にそう感じるようになって
しまっていたのかもしれない。
しかしそれは他のメンバーにしても同じことのはずだった。なのに、今日
こうして前向きな姿を見せられると、自分の姿が途轍もなく格好悪く見えて
しまって仕方がなかった。
- 45 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時03分09秒
「よっすぃー、なに一人でクール気取っちゃってんだよ」
矢口さんがからかうように声をかけて、私は慌てて考え事から戻った。
「ねー、なんか変な感じ」
ごっちんまでそんなことを言った。
「いや、ほら、海がキラキラ光って綺麗だなー、なんて」
私が適当に誤魔化そうとするのに、なぜか辻がかなり冷静に突っ込んだ。
「よっすいーは、いつの間にそんな飯田さんみたいなキャラクターになったんですか?」
「飯田さんって…」
私はちょっとショックで口ごもってしまった。
大体、こういうタイミングで本人が来たりするんだよな、なんてぼんやりと
思ったりしてしまったが、当たった。
- 46 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時03分58秒
「お〜い」
向こうの方から、黒ずくめの服装にサングラス、長髪黒髪というゴシック系の
出で立ちの飯田さんが手を振って歩いてきていた。
なんでこんな服装をしているのかというと、単に今付き合っている彼氏の
影響だったりする。
インディーズではそこそこ人気のあるヴィジュアル系バンドのギターの人で、
ライブでも飯田さんがしょっちゅう目撃されてたから、このことはみんな
知っているはずだ。
それはいいとしても、やっぱり目立つ格好のお揃いで街を歩くのは止めて
欲しい、と思ったりした。
ただでさえ二人とも長身で目立つわけだし。そんなことをラブラブの二人に
言ってみたところで、無駄なんだけど。
- 47 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時05分11秒
「なんか今私の悪口言ってたような気がしたんだけど?」
いきなりそんなことを言う。やっぱりエスパーなのか、単なる被害妄想なのか。
「言うわけないじゃん! 言いがかりはやめろよ」
矢口さんが相変わらずの調子で返す。
「あー! そう言えば矢口、こないだまた圭織のことネタにしてたでしょ?」
飯田さんが言っているのは、ラジオの一コーナーのことだ。
「え、ええと、そんなことあったかなあ」
そう言ってとぼけてる間に、今度は標的を保田さんに変えたみたいだ。
「それとさ、圭ちゃん!」
「なによ?」
保田さんは急にこわい顔で睨まれて、ちょっと退き気味だった。
「こないだ、雑誌のレビューで、うちのバンドのアルバムけなしてたでしょ!」
うちの、といっても飯田さんが参加しているバンドというわけじゃない。
うちの彼氏がギターを弾いているバンド、というのを略しているのだろうか。
- 48 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時05分45秒
「別に貶してないよ」
「だって、なんかよく分からないことをいろいろ書いた後で5点とかって」
「まあまあ」
市井さんが、ちょっと興奮してるような飯田さんを宥めた。
「せっかく久しぶりに集まったんだからさ、そういう話はなしにしようよ」
「けどさあ、こういう時じゃないと言えないじゃん」
「今日くらいは忘れようって」
「そんなこと言っても…」
飯田さんがまだ何か言いたそうにしてたのに、ごっちんがまた関係ないことを辻に言った。
「今来てないのって、タレント組の三人?」
「と、中澤さんですね」
「ちょっと、後藤」
飯田さんにはそれも気に掛かるセリフだったらしい。
「圭織だってまだタレントだよ」
「えぇ〜、そうかなあ」
「そうだよ。だってスカパーの番組とか出てるよ」
「じゃあそれでもいいや」
ごっちんは大して深く考えもせずに言った。
飯田さんはちょっと不満そうだったけど、黙って保田さんの横に座った。
- 49 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時06分31秒
「圭織、あんたそんな格好で暑くない? もう五月だよ?」
暑がりの保田さんが言った。
「大丈夫。これが今のスタイルだし。北海道育ちだから暑さには強いんだよ」
それは逆だろう、と誰かが突っ込むかと思ったけど、誰も言わなかった。
時計を見る。もう待ち合わせの時間から十分ほど回っていた。
- 50 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)21時07分20秒
- >>21>>22レスありがとうございます。
週一くらいで更新していく予定。
- 51 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/10(水) 00:21
- そろそろ話が動きそうな予感…
- 52 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:29
-
◆
タレント組(飯田さん以外の)は結局二十分近く遅刻して、次々にやってきた。
加護は、一人でタクシーに乗ってやってきた。昨日は深夜の生バラエティーに
ゲスト出演していたらしく、ずっと眠そうにしていた。
安倍さんと梨華ちゃんは、事務所の車に乗って二人でやってきた。
私は、ひょっとして梨華ちゃんは来ないんじゃないかと思ってたから、それを見て
胸を撫で下ろしていた。なんでそんな心配をしていたのか、自分でもよく
分からないんだけど。
「よっすぃー、遅れてごめんね」
私の顔を見て、そう言った。
「どう? よく眠れた?」
私は、ちょっと意地悪くそう言ってみた。
「うん。今日はレポーターに追い回されたりとかなかったし…」
梨華ちゃんは、ちょっと言い辛そうにそう呟いた。
「さすがに、つんくさんのプライベートな集まりまでチェックしてるわけ
じゃないってことかあ。詰めが甘いよなあ」
矢口さんは、そう言ってまた可笑しそうに笑った。
確かに、つんくさんはもうプロデューサーとは言っても、旬が過ぎた存在で
あるというのは否めなかった。
今では、むしろ企画もの中心の色物プロデューサーと言った方が正確かも知れない。
人気とは別に考えれば、市井さんや保田さんのほうがよっぽどミュージシャン
らしい仕事をしているように、無知な私でも思えた。
そして、無知な私にはどっちのほうが価値のある仕事なのかずっと分からない
のだろう。別にそれでも構わないとは思う。
- 53 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:30
-
「ていうか、主催者の裕ちゃんたちが一番遅れてるのってどういうことよ?」
飯田さんは呆れたように言った。
「ああ、なんか、つんくさんが来られるかどうか分からないから、ちょっと
遅れるかもって言ってた」
安倍さんが言うのに、また飯田さんが突っかかっていった。
「なんでそういうことを最初に言わないのよ」
「だって、訊かれなかったから」
安倍さんは相変わらずだ。
なんというか、無防備で、意識しないうちに敵を作ってしまうような態度や言動。
ただ、最近は、それも飄々とした個性にうまく変えていっているような気がする。
といっても、自覚してやってるようには見えないから、それもまた天性の
ものとして成長させていけてるんだろう。
「裕ちゃんも連絡くらいよこせっていうんだよなあ」
矢口さんが芝居がかった調子で言いかけた時、向こうの方から車が走ってくるのが見えた。
「おーすまんすまん。やっぱダーリンは忙しくて遅れるって」
クルーザーの運転手と一緒に出て来た中澤さんは、慌てて集まっている私たちを見回しながら言った。
「ダーリンねえ……」
保田さんが低い声で呟き、口を歪めたが、中澤さんは全く気にせず、ハイテンションな
まま私たちを促した。
「さ、みんな乗ってや! 今日は水入らずで飲み明かそう!」
- 54 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:30
-
港からつんくさんの島(つんく♂アイランド…というらしい。どーでもいいけど)までは、
クルーザーで四十分くらいかかる。
私は、甲板から海の様子をぼんやりと眺めていた。
雲一つない晴天で、穏やかな海と青い空が水平線で分けられている景色は、
なんとなく心を落ち着かせてくれた。
船の中では、自然にそれぞれのグループに分かれて、思い思いの時を過ごしているように見えた。
保田さんと市井さんは、相変わらずCDが売れないことを愚痴ったりして
いたが、それでも楽しそうな感じだった。
安倍さんと加護は仕事の話なんかをしていた。
飯田さんはまた矢口さんになにか言っていたが、矢口さんはいつもの感じで軽くかわしていた。
それを見て、中澤さんが面白そうに笑っていた。
ごっちんと辻は多分大学の話しでもしてるのだろう。
私は、梨華ちゃんと一緒に居てあげたかったが、どことなく一人でいたそうな
オーラが出ていたので、こうしてさみしく甲板に出て来ているわけなのだが。
- 55 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:31
-
潮風にふかれながらタバコを吹かしたりしていたら、船からごっちんが出て来て、
黙って私の横に並んだ。
水平線は静かな水面の延長でまっすぐに切り取られている。が、じっと見つめていると
それが微かに歪んでいることに気付く。
「よっすぃータバコなんて吸うんだ」
欄干にもたれ掛かって私と同じ方向へ視線を投げだしていたごっちんが、独り言の
ように呟く。
「はは…。まあ、いろいろストレスがたまるからね」
私は苦笑すると、携帯灰皿にそれを捨てた。
「私さ、船ってダメなんだよね。すぐに酔っちゃう」
そう言うと、だらーっと腕を洗濯物のように投げ出して、力無く笑った。
「大丈夫?」
「うん。…よっすぃーは変わんないな」
「え? どうして?」
「几帳面だしさ。気遣いが出来るっていうか」
ごっちんはそう言うと、私の肩を叩いた。
「あんまり頑張りすぎんなよ〜」
「…そんな風に見えるかなあ」
私は努めて明るい調子で言ってみた。
「見えるよ〜。肩凝ってんじゃないの?」
そう言うと、私の後ろに回って肩を揉んでくれた。
「あー、気持ちいい…」
私はついバカみたいな声を出してしまう。
それを聞いて、ごっちんはおかしそうに笑った。
「よっすぃー、老けすぎ」
「しょうがないじゃんか」
しばらく、黙ったまま二人で変わらない景色を眺めていた。
あまり久しぶり過ぎると、却って話題は膨らまないものなんだな、なんて思ったりした。
こっちはいろいろと訊きたいこともあったけど、どこから切り出していっていいのか分からない。
多分、ごっちんもそうなのだろう。あるいは、なんとなく遠慮してくれてるのかも知れないけど。
何も考えていないように見えて、本当はすごく周りに気をつかってくれる人だから。
- 56 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:32
-
水平線が、だんだんと歪んでいく。あれは当然の事ながら地球の輪郭の一部
なんだから、歪んでいて当たり前なのだ。じっと見つめていると、そのまま
だんだんと曲率が増していって最後には球体の中に閉じこめられてしまう
ような気分になってくる。
「私さ」
ごっちんが、水平線の方を見つめたまま口を開いた。
「やっぱり、辞めてよかったなあって、今日思っちゃった」
「…」
そんなことを言われても、私にはどう返していいのか分からない。
大体、ごっちんが引退した理由だって、私たちの誰も知らないんだから。
「こんなこと言っちゃいけないのかも知れないけど、なんか辛そうだしさ。
……なっちはよく分かんないけど、梨華ちゃんとか加護とか」
「……そう見えるかな」
私はごっちんの言うことにはあまり同意できなかった。
本人がなにを求めていて、何を苦しんでいるかなんて本人以外には分かるはずは
ないと、私は思っていた。例え表に現れてきている疲労のようなものがひどく
見えたとしても、それだけで全てを判断してはいけないような期がしていた。
誰もが今の自分に対して真剣に取り組んでいるはずだと……、私は無邪気に
信じているのだった。
- 57 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:32
-
そんな私の考えを読んだように、ごっちんは続けた。
「やらされてる感じって、すごい出てるよ。周りから押されて、仕方なく
だらだらとこなしてるように見える」
いつになく、彼女の舌鋒が鋭く感じられる。
「そうかな……。まあ、私はずっと一緒にいるから、ああいう感じが普通に
見えちゃってるのかもしれないけど」
私はなんとなく自嘲的なトーンで呟いた。
「でも、よっすぃーはあんまりそんな感じじゃないけど」
「いやあ、多分一番バテバテなのって私だと思うよ」
そう言って大袈裟に伸びをした。
「よっすぃーは今の仕事を楽しんでるんじゃない? 私にはそう見えるな」
「どうだろう…。追い込まれてる状況なんかは、私が最悪だと思うけどね」
ごっちんが言うのに、私ははぐらかすように返した。
気を遣ってくれたのかどうかは知らないけど、どうも、自分が持ち上げられる
経験というのはしばらくなかったので、戸惑ってしまう。
「よっすぃーは生き生きしてるよ。やっぱりさ、梨華ちゃんのこと好きなの?」
遠慮のない問いかけに、酷く狼狽した。
「好きというか…。まあ、親友というか、やっぱり同期だし、いろいろ気に
かかることも多いから、…」
そんな私の様子に、ごっちんはまた笑った。
「でも、そういうのっていいよね。羨ましい」
ごっちんはそう言うと、海の方へ目を向けて嘆息した。
- 58 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:33
-
言われてみれば、ごっちんには同期のメンバーというのはいない。
そういう部分で、私たちに対して複雑な感情を抱いていたとしてもおかしくはない。
「あのさ、ずっと訊こうと思ってたんだけど……」
私がそういいかけたとき、船の中から矢口さんが出て来て、声をかけた。
「おい! 二人してなに内緒話してるんだよ!」
「え〜、別にやばい話なんてしてないよ。ねえ?」
ごっちんに話を振られて、私も慌てて返した。
「そ、そうだよね。なんというか、近況報告みたいな?」
適当に言ったのに、矢口さんは妙に意地悪く突っ込んでくる。
「怪しいなあ〜。二人とも、芸能人じゃなくなったからって、言いたい放題
してるんじゃないの〜?」
「やぐっつぁんだって好き放題いってんじゃん。ラジオでさ」
ごっちんが言った。
「あれはいいんだよ! 別にノリでやっちゃえば後から勝手に盛りあがって
くれるんだからさ。楽でいいだろ?」
矢口さんが上機嫌で言うのに、私もつい乗ってしまっていた。
「でも、矢口さんのトークってほとんど下ネタじゃないですか」
「うるさいよ! 下ネタでもエロネタでも、リスナーが乗ってくれればいいんだって!」
明るくそう言って、また船の中に戻っていった。
下ネタとエロネタって同じなんじゃ…。
なんとなく雰囲気を壊されたような気がしていたが、ごっちんは大して気にしても
いないようで、矢口さんに続いて船の中に戻った。
私は、またなんの変哲もない海の方へ目を戻した。水平線がさらに少し歪んで見えた。
- 59 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:34
-
つんく♂アイランドは想像していたのとは違い、ちゃんと開発はなされていた。
もっとも、鬱蒼と深緑に覆われた無人島のような光景を想像していた私の頭の
ほうが逆に問題ありなのかも知れないが。
桟橋から見上げた屋敷は、意外に(つんくさんにしては)普通で、ちょっと妙なものを
期待していた私にとっては物足りなく感じた。
まあ、ドイツのお城みたいなものが霧に囲まれて聳えていると想像していた
私もどうかと思うが……、つんくさんだったらなくはないのが恐ろしい。
それこそ、夫婦の似顔絵を描いた旗が棚引いていたとしてもおかしくない。
というかそれくらいやっていて欲しかった。
屋敷の周囲は、深い常緑樹に囲まれている。島全体は山のように中央部が
盛りあがっているので、屋上からの光景は、多分緑に覆われた美しいものだろう。
ただ、屋敷の門まで、山奥の神社のような長い階段が続いているのを見上げて、
ちょっとげんなりしてしまったが。
私たち十人を降ろした後、クルーザーはまた港へと戻っていった。
これで、私たちは誰も逃げ出すことは出来なくなったわけだ、と冗談半分で呟いて
みてから、なぜか軽い寒気を感じた。
- 60 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:34
-
ふと横を見ると、矢口さんが携帯をいじりながらぼやいている。
「圏外かよ〜。まいったなあ…」
「当たり前やろ」
中澤さんが呆れたように言った。
「連絡取れないとまずいようなことがあるわけ?」
そう言ったのは安倍さんだ。まだ階段の中程なのに、大分息が上がっている。
「いや、そういうわけじゃないけどさ。何かあったらどうすんだろって思って」
「一応、無線機があるけどな。まだ一度も使ったことはないけど」
「え? 電話も引いてないわけ?」
保田さんが驚いたように言った。
「ああ、だって、せっかく二人だけの愛の世界やんか。あれこれ邪魔が入るのが嫌やねん」
「あー、はいはい」
「けどさあ、矢口、何かって、例えばどんなことよ?」
全然疲れた様子もない飯田さんが矢口さんに訊いた。
「ほら、酔った裕ちゃんがみんなを襲い始めたりしたら困るじゃん」
「アホか。うちは超ハッピーでラブラブな新婚さんやで。なんで襲わなあかんねん」
中澤さんは苦笑した。未だにそんなイメージで見られているのがちょっと不満そうだった。
ということは、昔のあれは本当に欲求不満の解消でやっていたってことか…。
- 61 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:35
-
屋敷には、ひょっとして「つんく♂ハウス」なんて名前が付いてるんじゃないかって
思ってたけど、さすがにそれはなかった。
が、中澤さんによると、そういう案も出たらしいが、ピンクハウスと響きが
似ているという理由で却下したそうだ。
関係ないじゃないか。
「なんかいい名前が思いついたら、ダーリンに教えたってや」
そんなことを言われたりしたが、気に入られたら気に入られたで自分のセンスを
疑ってしまいそうなので、多分教えることはないだろう。
外から見て想像していたのと比べると、それほど中は広いという印象はなかった。
門から屋敷にかけて拡がっている広場が、素晴らしく手入れの行き届いた雄大な
ものだったから、それとの比較でそう思ってしまったのかも知れない。
さすがに、装飾的な扉を開くと、すぐ目の前に拡がっているエントランスホールと
中央に構えている幅の広い飾り階段には、やっぱり金持ちはすごいなとは
思ったりはしたのだが、それも想像できる範囲のことで、正直期待以上の
ものではなかったのが、個人的に不満だった。
- 62 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:35
-
広間は二階まで吹き抜けになっていて、屋根には典型的な金持ち趣味のシャンデリアが
ぶら下がり、よく分からないが、どこかの有名な芸術品を模写をしたような
宗教的な絵画が、なだらかな曲線を描いている天井の全面に拡がっている。
屋敷全体は凹の字型をしているらしくて、左側に張り出している部分の一階は
全体がパーティールームになっていた。
右側は、つんくさんのプライベートスタジオになっていて、最新鋭の機材が揃い
いつでもレコーディングに入れる状態らしい。
と言っても実際に使っているのかどうかはよく分からない。
二階は客室になっていて、中庭側の部屋からは、派手な噴水やつんくさんと
中澤さんが踊っている姿を象った銅像などを見下ろすことが出来る。
まあ別に見たくはないんだけど。
- 63 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:37
-
「はぁ〜、やっぱいい機材持ってるなあ。羨ましい…」
スタジオに入ってあれこれいじり回しながら、保田さんはさっきから溜息のつきっぱなしだった。
中澤さんは、うちらが招待する側だから、と言っていたのだが、安倍さんたちの
提案で、自分たちで料理などの準備をしたい、ということになっていたので、
何人かのメンバーは厨房へ入ってパーティーの準備を進めていた。
そこには、メンバーだけで水入らずで過ごしたい、という気持ちも入っていたのだろう。
個人的には、つんくさん御用達の一流コックに作って欲しいな…なんて思ったり
もしていたんだけど、アットホームな雰囲気のパーティーというのも嫌いではない。
正直、梨華ちゃんはあまり厨房に入れたくはなかったのだが…。
まあそれでも、料理番組のレギュラーを持っているタレントでもあるわけだし
──現場ではそれほど動いてはいないのだが──、そこらへんは多少プライドを
保っていたりするのかも知れない。
料理の出来ないメンバーは、それまで適当に屋敷の中を散策していた。
私は保田さんについてスタジオルームに来ていたのだが、ずっと感心しきりの
保田さんとは違って私にはよく分からないので、早くも退屈してしまっていた。
- 64 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:37
-
「つんくさんがここに引き籠もっちゃいたいって理由もなんとなく分かったな」
私が不安げにチラチラと見ているのも気にせずに、保田さんは勝手にパソコンを
起動させていたりしている。
「いいんですか? あんまりいじらない方が…」
「大丈夫だって。でもさあ、こんなのを独り占めするのってずるいよねえ。
もっとみんなに開放すればいいのに」
「開放したって、そうそうここまでは来られないでしょう」
「それはそうなんだけどさ」
ブツブツ言いながら勝手に音を出し始めてしまった保田さんを心配そうに見ながら、
私はよく機能が理解できない機械類に囲まれた周辺をざっと見回した。
- 65 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:38
-
パーティールームでは、何人かがバラバラに自分の時間を過ごしていた。
飯田さんはノートパソコンを開いて、何か書き物をしている。多分、自分の原稿だろう。
市井さんはハードカバーの小説を読みふけっている。
辻は、英語のテキストと辞書を開いて、生真面目に勉強をしている。
ゴールデンウィーク明けに試験でもあるのだろうか。
加護は、部屋の隅にあるソファーに横になって眠っている。そう言えば、ずっと眠そうにしていた。
そんな光景を見て、私はなんとなく寂しくなってしまった。
昔の楽屋であれば、みんなしてじゃれ合って、他のタレントさんから苦情が来る
くらい騒々しかったのに、今では誰もまったく無関係の人々みたいに、静かに
時間が流れている。
それが、私たちの成長したということだとしても、今の私にはあまりポジティブに
受け止めることが出来なかった。
私が戻っても誰も興味はなさそうに、自分のことに没頭していた。
私は、中庭に面した窓を背にして、椅子に座った。悪趣味な彫像を見たくなかったからだ。
厨房のある方からは、あれこれと楽しそうに話している声が漏れきこえてくる。
私もあっちのほうに混じろうか……。と言っても、ぶきっちょな私が向こうへ
行ったとしても、足手まといになるだけだろうから無理なんだけど。
- 66 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:38
- そんなことをぼんやりと考えながら、自分はどう時間を過ごすべきかあれこれ
思案を巡らせていたら、二階から戻ってきた矢口さんがけたたましい声を
あげて部屋に入ってきた。
「おい! なんだよ、通夜みたいな雰囲気じゃんか! せっかくなんだから
もっと盛りあがっていこうぜ!」
この人は良くも悪くも変わっていない。そう思うと、少し安心した。
「よっすぃーは料理は手伝わないわけ?」
ざっと部屋の中を見回して、皆の様子を窺った後、矢口さんは私に話しかけてきた。
確かに、この中で一番絡みやすいのは私なんだろうな、と思ったりした。
空気が読めないのか、空気に敏感なのか、よく分からない人だ。
- 67 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:39
-
「私は料理できないですよ」
「なんかでも、メンバーでやってるの見るとさ、『モーニング刑事』とか思い出すよ。
よっすぃーは見たことある? モーニング刑事」
「昔見ましたけど……」
私は、私が入るずっと前の初々しい先輩たちの姿を思い出して、つい笑ってしまった。
「まあいいや。それよりもさ、二階って行った? あのつんくさんと裕ちゃんの
像って上から見ると……」
「矢口」
ハイテンションで喋り続ける矢口さんに、飯田さんが低い声で言った。
「うるさい」
「なんだよ。今日くらい仕事なんて忘れてさ、みんなで…」
「時間がないんだよ! いいじゃん、別になにしてたって」
飯田さんはそう言うと、矢口さんを睨んだ。
ちょっと険悪な雰囲気が漂ったけど、結局矢口さんのほうが折れたみたいだ。
「書き物なら、二階に図書室があるんだからそっちでやれよな」
小声で呟きながら、また部屋を出ていってしまう。
私はそんな矢口さんの後ろ姿と、部屋の皆の様子を見比べた。
今にも喧嘩になりそうな感じだったのに、みんなは相変わらず我関せずと
いった様子で、自分のことに熱中している。
私は嘆息すると、矢口さんについて外へ出ていった。
- 68 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/15(月) 22:40
- >>51
レスありがとうございます。展開遅くてゴメソ
- 69 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/16(火) 01:07
- 放置してしまうよりは、どれだけゆっくりでも
更新があったほうが何倍も嬉しいです。
作者さんのペースで頑張ってもらえれば。
応援してますよ。
- 70 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/16(火) 01:21
- どこかで読んだことがと思ったら、狩からの移転だったのですね
- 71 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:50
- 「みんな、雰囲気変わっちゃってるよねえ」
広場をぶらつきながら、矢口さんも私と思っていたのと同じようなことを言った。
屋敷の前に拡がっているこの広場は、ちょっとした公園くらいの広さはあり、
手入れの行き届いたブーゲンビリアの花壇が美しかった。
まだ五月だったが、気温はすでにかなり暖かくなり、ちらほらと小さな蝶や
ハチなどが飛び交っている光景も見ることが出来る。ついさっき、全自動の
スプリンクラーが水を蒔いた後で、午後の日差しがうっすらとした虹を
湿った空気の中に浮かべていた。
晴れ渡った空から降り注ぐ日光は、すこし肌に痛かったけど、それでも屋内の
なんとも言えない空気に比べれば、ずっと心地よかった。
「やっぱり、時間が経っちゃうとしょうがないんでしょうか」
私が暗く言うのに、矢口さんはまた笑った。
「まあでも、変わってないっちゃ変わってないよね。逆に昔の方が変だったのかもよ」
「でも、なんかああいう感じってやですよ」
「座らない?」
矢口さんは花壇の側に並んでいた丸い石を払うと、ちょっと脚を浮かせて座り込んだ。
私も隣の石に座った。私にはちょうどいい高さだった。
- 72 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:51
- 「そんなこと言って、はじめは、どっちかと言えばよっすぃーのほうがあんな
感じじゃなかった? そんな記憶があるんだけどさ」
「そんなことないですよ」
「だってほら、プッチモニの楽屋では喋んないとか、そんな話してなかったっけ」
「ああ……。そう言えば、そうかもしれないですね」
なんとなく昔のことを思い出して、少し懐かしい気分になる。
思い起こしてみれば、はじめの頃の私はあまり騒ぎの輪の中に入ることは
比較的少なかったかも知れない。
気付いてみれば一番バカみたいなことばかり言うようなキャラクターになって
しまっていたけど、それが自分の本来の姿だったとは今でも思えない。
かといって無理して演じていたという風でもなく、あの頃は純粋にバカな
ことをして騒ぐのが楽しかった。偽りのない感情のように思えるものでも、
時期によってまるで変わってしまう。本当の自分なんてどこにもあり得ないの
だろうと、なんとなく思った。
「みんないい年なんだから、昔みたいにバカ騒ぎしてるってのもおかしいのかもね」
矢口さんはそう言った後、ちょっと自嘲的に続けた。
「私だって仕事じゃなかったらこんなんなってないと思うよ」
「バカみたいなキャラは、職業病みたいなもんですか」
「まあそんなもんかな……って、ちょっとはフォローしてくれよ! こっちが
自虐でいってるんだからさ」
と言っても、やっぱり矢口さんは楽しげな感じだった。
天性のものなのだろうな、と思う。それをちゃんと仕事として生かせて
いけるんだから、矢口さんは幸せなのだろう。
- 73 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:52
- 「あれだよ、集団で居ると逆に出てこなかったような本性が、みんな出て
くるってやつだろ。普段見せない顔っつーか」
「本性って…」
私が呟くのに、矢口さんはまた笑った。
「ああ、どうもラジオやってるとさ、インパクトの強い方にボキャブラリーを
選んじゃうんだよな。悪い癖だね」
「いや、別にいいんですけど」
「こんな調子じゃ、つんくさんが来たらガッカリするかもなあ」
それには私も頷いた。
逆に、つんくさんが現れて、また昔みたいな調子が戻ってくれればいい、
とも思ったけど、あまり期待できないかもしれない。
- 74 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:52
-
夕食の準備が出来たのは五時過ぎ頃だっただろうか。
中澤さんが用意してくれていた食材が充実していたのと、やはり女性なのだろう、
それなりにみな料理の腕を磨いていたらしく、素人にしてはそれなりに見られる
メニューが並んでいた。
とはいうものの、てんで統一感のないメニューだったのはいかにも「らしい」感じが
して、微笑ましかったのだが。
私は、矢口さんと別れた後も、しばらくぶらぶらと庭園を散策していたのだが、
突然中澤さんの声がそこらじゅうに響いてきたのには驚かされた。
まあ、これだけ広い屋敷なら、そういうシステムは必要不可欠なのかもしれない。
昼間に軽く一悶着あったので、そんな雰囲気が残っていたら嫌だなと思っていたが、
飯田さんも矢口さんもからっと忘れてしまったようにしていたので、安心した。
考えてみれば、それくらいでなければ私たちが集まることによって、暗い影が
落ちることは防げなかったような気がする。
私自身はどうだろうか……。うまくあの出来事を表面から払拭できている
だろうか……?
- 75 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:52
-
「それじゃ、まあ中途半端なメンツやけど、一応再会の乾杯でもしとこうか」
中澤さんが普通のサイズよりも二周りほど大きいワインボトルを開けながら
言った。確かマグナムと言うんだっけか。
「中途半端ってどういう意味よ」
お約束のように飯田さんが噛みつく。
「や、歴代メンバーが全員揃ってないって意味やで。別にここに集まった
メンバーが中途半端って言いたいわけちゃうよ」
「まあ当たってなくもないけどね」
安倍さんがしみじみと呟いた。
「そう言うネガティブな話も、とりあえずアルコールを入れてからにしようや。
辻加護はまだ二十前やけど…、ま、ええか」
「今時何言ってるんですか」
辻がちょっと笑いながら言った。確かにそうだ。未だに二人のことを子供として
見てしまうような感覚は、いかにも中澤さんらしかった。
「モーニング娘。再結成を祝して、かんぱーい!」
冗談半分で中澤さんが言ったのに、私は少しノスタルジックな気分になった。
もし、今このメンバーでまた活動しよう、と言われたらどうなるだろう。
多分、というか絶対に無理な話なのかもしれないけど、それでもあの時のような
充実した日々が返ってくるかもしれない、というはかない希望を信じたい
気持ちになった。
もちろん、そんな気恥ずかしい思いを開陳したりしない程度には、私も
大人になっていたし、現実問題として、私たちに向けられるであろう視線は、
耐え難いものになるだろう。
- 76 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:53
-
「よっすぃー」
左隣に座っている加護ちゃんが話しかけてくる。
……もう十九なのに、ちゃん付けはちょっと失礼かもしれない。
「なに?」
「向こうのサラダ、取ってくれない?」
そう言うと、小皿を差し出した。確かに、大皿のサラダには届かない位置だ。
「うん」
私は普通に頷くと、ついでに、やはり離れた場所に座っている安倍さんと
市井さんにもサラダを取り分けてあげた。
保田さんは加護の正面に座っていたんだけど、「私はあとでいいよ」と言って断った。
「ありがとう」
加護は少し早めのペースでワインを呑んでいる。ついさっきまで寝ていたので、
少し顔がむくんでいるようだった。
「やっぱり、仕事とか忙しかったりするの?」
特に話しかける話題も見付からなかったので、適当にそんなことを訊いてみた。
話題がなくても喋り続けられる矢口さんはやはりすごい。あまり羨ましい才能ではないけど。
「うん…、ま、下らん仕事ばっかやけどな」
テレビでは絶対に見せない調子で、低い声で毒づいた。
関西弁キャラは、一時期バラエティ番組で使い始めたこともあったが、評判が
悪かったのかすぐに止めてしまっていた。
いや、あれはキャラと言うよりも素を出そうとしていただけなのかもしれないけど。
- 77 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:54
- 「昨夜かて、明け方まで六時間の生放送の司会やで。それに若手なんて司会無視で
目立てば勝ちみたいな連中ばっかやし。どないせいっちゅうねん」
言うまでもないけど、「若手」芸人でも皆加護より年上だ。
「けどさ、加護もちゃんと場の空気が読めるようになってるんだよね」
安倍さんが話に割り込んできた。
「びっくりしたよ。ああ、成長してるんだなって」
「そうですか?」
加護はそう言われても、なんとなく不服そうな様子だった。
娘。の頃は、ミニモニのキャラもあって、ずっと成長することを禁じられて
きたわけだけど、それが今では全く逆になってしまっている。
かといって、未だに昔のような暴走キャラを求められる場面も少なくない。
そんな矛盾した要求が、彼女のストレスを増大させているんだろうな、と私は思う。
「少しは昔の私たちの気分も分かったんじゃないの?」
そう言ったのは保田さんだ。保田さんは、いつから普通に煙草を吸うように
なったんだろう。市井さんも当たり前のようにふかしている。
一応軽い銘柄にしているのは、喉のことを考えたプロ意識の現れなのかも
しれないけど。私はいつも重いのを吸ってるから。
「嫌っちゅうほど分かりました」
加護はそう言うと苦笑した。
「でも、あんまり落ち着いちゃった加護ってのもなんだか違和感あるんだよね」
安倍さんが言った。
「やっぱさ、変なタイミングで訳わかんないことを言ったりするのが、加護の
キャラだったりするわけでしょ」
相変わらず天然というか、悪意なく人の気にしていることを言ってしまう。
もっとも、加護の方はそれほど気にした様子もなく、
「ちょっとそれも飽きられてるかなって、自分では思ってるんですよ」
「自分でそう思ってても、なかなか周りが受け入れてくれないってこともあるんだよね」
今まで黙っていた市井さんが、独り言のように呟いた。
- 78 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:54
- 「私もさあ、再デビューしたばっかりのころは結構悩んだりしたよ」
「へえ、初耳」
保田さんが意外そうな顔をして、右隣の市井さんの方を見た。
「そうだっけ?」
「うん。だって全然そんな感じじゃなかったじゃん。すごく楽しそうだったよ」
「なんだよ、親友のくせに、微妙な心の機敏が分かってないなあ」
「あんたそんな繊細な性格じゃなかったでしょ」
「失礼な…。火!」
市井さんはわざと偉そうな調子で言うと、煙草をくわえた口を突きだした。
保田さんも苦笑しながら、ごついジッポのライターでちゃんと火をつけてあげている。
なんとなく、ああいう関係性が羨ましい。男同士の友情に近い雰囲気を感じた。
「傲慢な言い方かもしれないけどさ、やっぱり私が変わろうとしてるのに、
ファンの人がついてこれないっていうことがあるじゃん。そういうのが、
ちょっと重たく感じた時期もあったんだよね」
「お馴染みの、アイドルかアーティストかってやつ?」
ちょっと馬鹿にしたように保田さんが言った。
「うん。圭ちゃんもそういうので悩んだ時期ってなかった?」
「いやあ、私はアイドルってみられてなかったもん。ファンからもね」
「あ、そっか」
「納得するの早いっての」
楽しそうに喋っている二人から目を離して、私は正面の辻の方に顔を向けた。
昔ほどではないにしても、黙々と料理を口に運んでいる姿は、私の記憶している
辻とそれほどかけ離れたものではない。
可愛いと言うよりは美人と言った方がいい風貌になっても、そんな辻の様子に、つい頬が緩んだ。
と、私の視線に気付いたのか、ふと顔を上げて不思議そうな目で私を見つめた。
- 79 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:55
-
「? 顔になにかついてる?」
私の笑顔を見てそう思ったらしい。私は手を振って、
「いや、なんだか辻はそれほど変わってないなって思って」
「なに、急に」
ちょっと照れくさそうな様子で、笑いながら言った。
「こっちの話や。気にすんな」
加護が、少し棘のある口調で言った。辻の表情が微かに強張ったように見えた。
「まあね、私はそっちとは別の世界の住人だもんね」
「誰もそんな言い方はしてへんやろ」
加護は皮肉っぽい調子で言う辻の方を睨んだ。が、辻は軽く肩を竦めただけだった。
「なになに? また喧嘩?」
安倍さんがいつもの調子で言った。大分酔いが回っているようで、楽しげな様子だ。
「子供の喧嘩なら止めるけど、大人同士の喧嘩なら止めないよ」
保田さんも突き放したようにそう言う。加護も場の空気を察したのか、イライラした
ようにグラスに残っているワインを呷った。
「お、いいね。もう今日は嫌なこと全部忘れて飲んじゃえ」
楽しそうに言って、保田さんが加護のグラスにワインをつぎ足した。
その時、テーブルの向こうから矢口さんの声が挙がった。
「おーい、あんまりメンツが固まっちゃうと面白くないから、席替えしようぜ! 席替え、席替え!」
脳天気な口調に、保田さんと安倍さんは苦笑すると、目配せをして立ち上がった。
私は少し迷ったが、隣の加護が皿をもって立ち上がったので、動かないことにした。
「へっ、さすが芸能界の合コン女王らしい発想やな」
低い声でそう毒づくのがきこえた。加護には、あまり飲ませない方がいいかも
しれない、とちょっと思った。
- 80 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:55
-
梨華ちゃんが側に来るかな、と少し期待したんだけど、外れたようだ。
どうも、今日ずっと梨華ちゃんから避けられているような気がしているのだが、
考えすぎだろうか。
まあ、私とは仕事の時はずっと一緒にいるわけだから、今日くらいは離れて
いたい、と考えたとしても不思議はないんだけど……。
単に仕事のパートナーという存在となってしまっていたら寂しい。
離れた席で笑っている梨華ちゃんを盗み見ながらそんなことを考えていると、
加護のいた席に座ったごっちんが耳打ちしてきた。
「やっぱ気になる?」
動揺しているのを気付かれるのが嫌で、慌ててワインを流し込んだ。
「ね、よっすぃー梨華ちゃんのこと避けてない?」
ごっちんが小声で言った。第三者から見ればそういう見方も確かに成り立つ。
「別に…。たまたまでしょ」
「あー、またあんたたち二人で内緒話してる」
正面に来ていた飯田さんが言った。顔が真っ赤に上気して、意味もなく
セクシーな雰囲気を振りまいている。
気怠そうに髪を掻き上げる仕草を見て、この人は天然で男を狂わせる女性だ、
と中年のおっさんみたいなことを思ったりした。
「ふふふ、なにを話してたか、気になる?」
「なんだよ、思わせぶりだなあ」
「今夜ね、ドッキリでも仕掛けようかな、みたいな計画だったらどうする?」
「おい! 冗談でも止めてくれよ」
そう言ったのは矢口さんだ。さっきまで市井さんと同期話でもしていたの
だろうが、さすがにこういう話題には食い付きがはやい。
- 81 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:56
-
「お化けとか、そういうの昔から苦手だもんね、矢口っつぁんは」
「ダメなんだって、マジで! それに、よっすぃーだってそういうの絶対悪のりするだろ?」
「いやあ、ははは……」
私はどう返していいのか分からず、とりあえず笑っておいた。
「大丈夫だって、今のよっすぃーはそんなテンションじゃないから」
ごっちんが言った。確かにそれは否定できない。
「なんでー、よっすぃーも一緒に盛りあがろうよー」
飯田さんはもうぐだぐだになっている。
「だってさあ、絶対になっちとか圭織のこと避けてるじゃーん。そういうの
って感じ悪いよねー、感じ悪い!」
いきなりそんなことを大声で言うのに、一瞬場の空気が凍り付いた。
と、安倍さんが強張った表情で立ち上がって言った。
「圭織、それちょっとひどい言いがかりじゃないの?」
「なにがよー。ほんとのこと言っただけじゃん」
「圭織こそ、なっちのこと避けてんじゃないの?」
激しい調子で言う安倍さんを、保田さんが宥めた。
「なっち、とりあえず座りなよ」
渋々椅子に座り込む安倍さんに、飯田さんがろれつの回っていない口調で言った。
- 82 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:56
-
「大体ね、なっちは絶対圭織たちのこと馬鹿にしてるよ。分かるもん、そういうの」
「なにそれ。意味分かんないよ!」
「事務所がさあ、ちょっと可愛がってくれてるからって、なんか勘違いしてんじゃないの?」
「……」
一瞬、間が空いた。が、すぐに矢口さんが大袈裟な声を挙げて沈黙を破った。
「こら! 圭織、いい加減にしなさい!」
そう言いながら、何か言いたそうにしている飯田さんの口を押さえて、続けた。
「もうねえ、酔っぱらいはおとなしくしてないとダメだって! ほら!」
矢口さんは半ば強引に飯田さんを立たせると、食堂の外へ連れ出していった。
ああいう空気になったときの回収の速さは、さすがだ、と私は他人事のように
観察者になりきって思った。
本当は、今みたいな状況で動かないといけない仕事をしているのは私なのだが。
「ま、圭織もちょっと疲れて、荒れてるみたいだからさ、気にしない方がいいよ」
保田さんが安倍さんにそう言っていたが、多分飯田さんの言ったようなことを
思っているメンバーは少なくないだろう。
私だって、……そういう不満がないといえば嘘になる。
- 83 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:57
- しばらくすると、矢口さんが一人で戻ってきた。
「圭織は? 大丈夫なんか?」
中澤さんが訊いた。
「うん。飲みすぎたみたいだから、シャワー浴びてくるって」
「そっか」
自分の席に戻った矢口さんに、辻が冷静な口調で話しかけた。
「いろいろ大変ですね」
「え? ……いや、なんか昔からそんな役回りだよな」
「そういえばそうですよね」
「まあな……って、お前他人事みたいにいうなよ! 誰が一番厄介だったと
思ってるんだよ、まったく」
矢口さんもいつものテンションに戻ったようだ。辻は、それに微笑で応えながら、
ワインをちびちびと飲んでいた。
- 84 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:57
- 「ね、裕ちゃん」
市井さんが、急に離れた場所に座っている中澤さんに、大声で話しかけた。
「なに?」
「なんかさ、音楽とかかけない? 会話がちょっと途切れがちになってきたみたいだからさ」
市井さんらしい気遣いだな、と思った。
「あー、いいんじゃない」
ごっちんがすぐに同意した。
「分かった。どうする? 娘。の曲でもながすか?」
「いやー、それは勘弁」
矢口さんが大袈裟な身振りで嫌がってみせる。
「なんで? いいじゃん」
そんな矢口さんのリアクションに、保田さんが心外そうに言った。
「やだよー」
「タンポポ1でも聴こうか?」
「いいですね。センチメンタル南向き聴きましょうよ」
安倍さんが言うのに、梨華ちゃんも楽しそうな様子だった。
私はそれを見て、少し安心した。
- 85 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/23(火) 22:59
- >>69>>70
レスありがとうございます。
狩のからはいくつか重要な変更点があるので、こちらを読んでいただければ幸いです。
- 86 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 04:53
- 今日初めて読んだけど面白いなぁ〜。
青春が遠い日の花火な自分には
吉澤の語りに漂うノスタルジーが堪りません。
激しく期待。マターリと待たせて頂きます。
- 87 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:09
- 日が落ちると、外は隙間のない闇に包まれていた。邸の周辺は柔らかな照明に
よって浮かび上がっていたが、少しでもそこを離れれば、深い森の中で
完全に視界を奪われてしまいそうだ。
私は酔い覚ましのために、バルコニーに出て夜風を浴びながら、淡いライトで
ぼんやりと照らされている中庭を見下ろしていた。
食事を終えた後も、皆パーティールームに残ってだらだらと酒を飲んだり
お喋りをしたりしていた。
階下からは、微かにそこで流れている音楽のリズムが、低音だけを残して
伝わってきている。
重たい煙を吸い込むたびに、目の前の小さな火種が暗闇の中で明滅していた。
私はポケットから手帳を出すと、いつもそこに挟んである、昔の集合写真を
開いて見つめた。
- 88 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:10
-
与えられたものが大きければそれだけ、失ったときの虚しさも比例して大きくなる。
2000年頃に撮影したその写真では、私はまだぎこちない素人の顔をしている。
フラッシュが焚かれ、カメラマンに呼びかけられて、みな笑った。
私も笑おうとする。でも笑えていない。
怒られる。集合写真で一人がうまく笑えないと、全員分をやり直さないと
いけないからだ。必死になって笑顔を作ろうとするが、やっぱりそれは
どこか強張っていて、無理矢理口角を釣り上げたデスマスクのような表情に
なってしまう。
いつから自然に笑顔が作れるようになったのだろう。特訓なんてしたことはない。
気が付いたらいつも笑顔でいて、その延長でうまく笑えるようになっていた
のかもしれない。今いつも、すぐに貼り付けられるような看板のための
表情じゃなくて、純粋で、潔白だった。
- 89 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:10
- 誰がなにを考えているかなんて分からない。梨華ちゃんだってそうだ。
芸能人なんてそれが仕事なんだから。本音を見せる必要なんて、どこにもない。
でもあの時の私たちは違っていた、……と、今では自信を持って言えなくなって
しまった。今の私の愛想笑いは、あの時のフラッシュの前で戸惑っていた
笑顔からは、どのくらいの隔たりがあるんだろう。
こめかみに痛みを感じる。力の抜けた指から、火の消えかけた煙草が滑り落ちて、
うっすらと埃の積もったバルコニーの床へ転がった。私はそれを拾い上げて
携帯灰皿に押し込むと、溜息をついて屋内へと戻って行った。
- 90 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:11
-
陶器だかガラスだかが割れる音と、悲鳴混じりの嬌声を聞き流しながら、
私は薄暗い通路が続いている二階をぶらぶらと歩き回った。
薄暗い通廊には奇妙な圧迫感があり、二階にいるのにまるで地下通路を
彷徨い歩いているような気分になる。
不規則に弱い光を投げかけている球形のオイルランプは、細長いSの字型を
したランプ受けに支えられ、その先には真鍮製の蛇の模型が据え付けられている。
先の細いガラス製のランプ。つんくさんがこんなアナクロ趣味だとは知らなかった。
それとも、ホラーっぽい演出で来客を脅かそうとでもしていたんだろうか。
いたずら好き、というか、なにがなんでもヒトを脅かし続けてないと安心
できないんじゃないかって思うこともあるつんくさんだったら、全くあり
得ない話ではないな、と少し思った。
- 91 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:11
-
一カ所、ランプとランプの間がひどく空いている場所がある。そこの壁に、
一枚の大きな絵が飾られている。全体的に古色蒼然としたこの空間の中で、
その絵の内容はまったく場違いなものだった。
私なりにタイトルを付けるとするなら、……エイリアン大宴会か、異星の
ワルプルギスか、地球外の地獄か……。うまく言い表せない。
多分どこかのペテン師にひっかかって、いい値段で売りつけられたに決まってる。
私の一番嫌いなタイプの、アート臭さと自意識過剰な雰囲気が濃厚な、目立つ
要素のみで組み立てられた安手の落書きだ。が、それでも本人が気に入って
いるなら、まあいいんじゃないだろうか。
- 92 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:12
- 凹の字型の、右側の張り出した一番突き当たりまで歩いてみた。
装飾的な分厚い扉が微かに開いて、隙間から光が漏れだしているのが見える。
本当は反対側を見て回ったらすぐ階下にでも戻るつもりだったのだが、興味を
惹かれてしまい、音を立てないように扉の隙間を広げて中を覗き込んだ。
それほど広い部屋ではないようだった。二階はほとんどの部屋が客室に
なっているのだが、その部屋は一番突き当たりを全て使用しているので
客室の四倍くらいの広さはありそうだった。
高い天井すれすれまで届くような巨大な本棚が、いくつもズラリと並んでいる。
ここは図書室なのだ。確か、昼間に矢口さんがそんなことを言ってたような
記憶が残っている。
- 93 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:12
- 部屋の中央に、十人くらいは座れそうな細長い机が置かれていた。一応
奥には窓もあるようだったが、すぐ前に大きく枝を広げた大木がそそり立って
いるので、恐らく昼間に来ても薄暗いのだろう。さらに周囲を威圧感のある
本棚に囲まれていては、落ち着いて読書なんて出来そうになかった。
ざっと見渡しただけでも、本のほとんどは分厚く皮で装丁された豪華な
全集本や百科全書、あるいは古びた稀覯本などで、実用的なものではなく
自慢のコレクションとして設えたものだと考えた方がよさそうだった。
そんな辛気くさい空間で一人で作業していたのは飯田さんだった。机の上に、
おそらく自分の客室から持ってきた小さな燭台を置いて、黙々とノートパソコンに
文字を打ち込んでいる。その横には四分の一ほど減っているブランデーの
ボトルも置かれていた。どこから持ち出してきたんだろう。
- 94 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:13
- 飯田さんは私に気付いたようで、ふと顔を上げた。私はばつの悪そうに
目礼を返したが、飯田さんはあまり気にした様子もなくまた仕事に戻った。
なんとなく歓迎されていないようなムードは鈍感な私にも察せられたけど、
一瞥で追い返されてしまうのもシャクにさわるので、そろそろと歩いて
いって飯田さんの隣の椅子に座り込んだ。
弱々しく揺れる蝋燭の炎とディスプレイからの弱い液晶の光に照らし出された
飯田さんの横顔は、何とも言えない非現実的なオブジェにも見えた。
- 95 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:13
-
私は小声で話しかけた。
「ここって電気ないんですか?」
「いや、私もの書く時っていつもこうしてるから」
振り向かずに言う。それほど迷惑がっていそうな口調でもなかったので、
私は調子に乗って話を続けた。
「でも、こんなのどこにあったんですか? ひょっとして私物とか」
「この燭台? これね、地下の突き当たりのところに置きっぱなしだったから
私が拾ってきたんだ。昼間にみんなで料理の準備してたときに、私地下の
お酒の倉庫にワイン取りに行かされて」
「ああ、じゃあこのブランデーも」
「うん。自分にお駄賃、みたいな」
そう言うと、手元の小さなグラスに継ぎ足して、一口含んだ。
「吉澤も飲む?」
「いえ、私はいいです」
「あれ? 吉澤ってお酒ダメだったっけ?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど、下で大分飲んじゃって、さっき
バルコニーに出て冷ましてきたばっかなんですよ」
「ふーん」
飯田さんはつまらなそうな顔で言うと、五本の蝋燭の立った燭台を手に取った。
小さな炎が揺れて、黒く細い煙を引きずっていく。
- 96 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:14
- 「これ見つけたときさあ、ちょっと不思議だったんだよね」
「え? どうしてですか?」
「だってさあ、もし行きにこれ持って、その明かりで地下の倉庫に行った
なら、なんでそこに置きっぱなしにするの? 帰りにも絶対必要になる
はずでしょ。地下は暗いし、結構足下危ないし」
「飯田さんはどうやって行ったんですか?」
「私は懐中電灯を借りていったから。でもこれ持っていったヒトはその時に
懐中電灯の電池がなかったりとかしたんだろうね。で、地下のランプをつける
のも面倒だし、燭台を持って、さっと行って、用事を済ませてさっと帰る
つもりだったんだろうけど……」
そこまで言うと、目を見開いたまま黙って私のことを見つめた。蝋燭の
炎を反射した飯田さんの黒目に、私は背筋に寒気が走るのを感じた。
昔からよく分からない話をしょっちゅう聞かせてくれていた飯田さんだった
けど、こんな風にストレートに怖がらせようとしてくるのは初めてだった。
私はその場の空気に飲み込まれないように、必死になって飯田さんの意図を
探ろうとした。
- 97 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:15
-
「……あのう、ひょっとして作ってません? 話?」
「作ってないよー。わざわざこんな小道具用意してまで、なんであんたを
脅かさないといけないのよ」
「いや、なんかどっかのネタに使おうと思って、それで効果を試そう、みたいな」
「違うっての。大体作るならもっと上手いこと作るよ。このお屋敷なんて
これからの怪談シーズンにはもってこいの舞台になりそうだし。それこそ
鎧に入ったドクロが、カタカタカタって」
右手で形を作って実演してみせる。弱い光に投影された巨大な影が、図書室の
本棚に映し出されて不気味に蠢いた。
ただ、惜しむらくはそれがドクロではなくキツネだったことだ。
- 98 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:15
-
「そだ、こういうのどうかな。つんくさんは裕ちゃんにナイショでこのお屋敷に
愛人を連れ込んでたの。で、二階のどこかの部屋に隠しておいて、そこから
出さないで可愛がってた。でも、ある日裕ちゃんはその娘の存在に気付いて、
つんくさんが島を出るときに置いていった生活品を全部処分してっちゃう
のね。でもその娘はつんくさんに言われたことを守って、ずーっと二階から
降りないで我慢し続けてた。でもそれが限界になって、夜中にこっそり部屋に
あった燭台を持って、屋敷中を食傷と水を求めて彷徨い歩いた。で、地下の
倉庫の前まで辿り着いてそこで力尽きた。今でも夜中に地下に潜ると、か細い
女の人の声で水を下さい、水を下さい、って……」
なんとなくイヤな雰囲気になってきたので、調子に乗って喋っている飯田さんを
遮るようにして話題を変えた。
- 99 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:16
-
「わ、私、てっきり、シャワーを浴びた後、部屋に戻って寝ちゃったのかと
思ってましたよ。やっぱり原稿って夜中の方が捗ったりするんですか?」
話の腰を折られて飯田さんはちょっと口を尖らせたが、
「ま、そうだね。暗くして空気を整えないと気分が乗らないっていうか」
「お香を焚いたりとか?」
「うん。あんた結構分かってんじゃん」
「ええまあ」
じゃあ私にも素養ありってことか。やだな。
「ここじゃ無理でしょうけど」
「私だってホントは仕事なんて持ち込むつもりじゃなかったよ」
飯田さんはそう言って苦笑した。
「今朝急に電話貰ってさー、ほら、このあいださ、田中がちょっと話題に
なったりしたじゃん。それと前のことと絡めて、なにか書かないかって」
含みのある笑い。私はあまりその話題には乗りたくなかった。
- 100 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:17
-
「一応元メンバーとしてどうですか? みたいな。ま、私は仕事になれば
なんでもいいんだけどね。これで原稿のネタ一つ出来たし、けっこう続け
られそうな感じだしさ」
「……割り切ってますね。私はそんなドライに仕事するのは無理っぽいです」
適当に逃げをうちたかったのでそんなことを言って苦笑いをしてみせたのだが、
飯田さんはアルコールの力も手伝ってか、また食事の時のようなテンションが
蘇ってきてしまったようだった。
「私なんて、今はもう事務所との関係なんてあってないようなもんだからね。
自由っていいよ。不自由することもあるけどさ、でもやっぱ自由だよ。
食事の時はなんか圭織ひとりだけ悪者にされちゃったけど、絶対内心で
同じこと思ってるメンバーだって一杯いるはず。大体、吉澤だってそうだよ」
- 101 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:17
- なんで私の気持ちを断言されてるんだろう。
確かに私にも飯田さんのような気持ちがないって言えば嘘になるけど、ずっと
それを言い訳にしたらいけないって思って、あえて意識には出さないように
努力を続けていた。
飯田さんに言ったらまた怒らせちゃいそうだけど、それを言い訳にして
逃げ場所にしてしまったら、結局それは自分自身に敗北したことになって
しまうような気がしたから。ちょっとカッコよすぎるかもしれないけど。
みんなの置かれている現状を、私は詳しく知っているわけじゃない。
梨華ちゃんは別としても、飯田さんや保田さんのように、事務所からも
距離を置いてしまって、普段もあまり交流することの少ないメンバー
だったらなおさらだ。
だから、私にはなにを飯田さんがそこまでこだわっているのか、あまりよく
分からなかった。
同じグループの中で待遇の差がはっきりしていた数年前だったら、まだ
分かったかもしれない。でも、その時は自分の感情をストレートにぶつける
ことなんて、私たちの誰にも許されてはいなかった。
- 102 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:18
-
「あ、でもよっすぃーもいつの間にか事務所側の人間になっちゃったんだよね。
つまんないなー。よっすぃーはこっちの味方だってずっと思ってたのになー」
飯田さんは充血した大きな目でじっと見つめてきている。大分崩れ始めて
来た口調から、そろそろ退散した方がいいと判断。酔っぱらいは苦手だ。
「じ、じゃあ、私ちょっともう戻ります」
「あ、ちょっとぉ、まだ言いたいこといっぱい残ってるんだけど」
「いえいえ、仕事の邪魔してすいませんでした。私、あの、ちょっとやりかけの
ことがあるんで、失礼しまーす」
背後からまだ飯田さんが絡んでくる声が聞こえてきたが、無視して小走りに
図書室を出ていった。階下は、いつの間にか静まりかえっていた。
- 103 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/30(火) 22:19
- >>86
レスありがとうございます。頑張ります。。。
- 104 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/13(月) 19:00
- 待ってますよ〜。
- 105 名前:名無し。。。 投稿日:2003/10/14(火) 01:33
- 続きまだ〜?
- 106 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:52
-
パーティーが行われていた正餐室は、明かりも半分ほど落とされて、つい
さっきまでの喧噪が嘘のように静まりかえっていた。
私が扉の隙間から覗き込むと、梨華ちゃんが一人でテーブルを拭いていた。
他には誰の姿も見ることが出来ない。人がいなくなってしまうと、その空間は
記憶しているのよりも何倍も広く果てしないように感じられる。
ふと顔を上げた梨華ちゃんと目が合ってしまった。そのまま出ていって
しまうのも、逆にもの凄く意識しているようで気まずい。仕方なしに、私は
無駄に豪華な扉を押すと部屋へ入っていった。
- 107 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:53
- 「みんなは?」
「矢口さんはシャワー浴びるって言って出てった。安倍さんとあいぼんは
あっちで食器洗ってる」
梨華ちゃんは顎で厨房の方を示しながら言った。
私はなんとなくそんな仕草に笑ってしまっていた。
「他のみんなは自分のお部屋に……ってよっすぃーなに笑ってるのよ」
「いや、相変わらずしゃくれてるなー、って」
「ひっどーい。もう、手伝って」
唇を尖らせて、布巾を私の方に投げつけた。
「はいはい」
私は床に落ちた布巾を拾い上げると、側に置いてあった洗剤を多めに吹き付けた。
しばらく、二人して黙り込んだまま作業を続けた。
細長いテーブルは思った以上に広く、拭いても拭いても無限に続いていき
そうな感覚になった。冷たく、つるつると滑らかに磨かれ、目をつぶって
歩き続けていけばそのまま途切れずに、雲の向こうの天国にまで行けて
しまいそうなくらいだ。
- 108 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:53
- 厨房の方からは甲高い二人の話し声と、食器の触れ合う硬質な音、水の弾ける
透明な音が混じり合って聞こえてきていた。
あれだけの量の食器を、喋ったりじゃれ合ったりしながらじゃ当分こっちに
戻ってくることはないだろうな、と私は少し残念に思った。
こういう具合に二人きりで広い空間に放り出されてしまうと、逆になにを
話していいのか分からなくなってしまう。改めて仕事の話などをするわけにも
いかないし、プライベートなことを話せる雰囲気でもない。
それに、今の梨華ちゃんの顔を見ると、条件反射であの俳優の顔が浮かんできて
しまうのだ。いくら頭からそのことを振り払おうとしてみても、その映像は
しつこく私にまとわりついて、離れようとはしない。
- 109 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:54
- 名前でも情報でもないし、声や仕事やキャラクターなどでもなく、彼のことは
私の中で単なる映像に過ぎなかった。網膜の裏にいつの間に貼り付けられた
一枚の写真。擦っても擦っても、それを剥がすことは出来ない。
その裏と表に、膜のように梨華ちゃんの映像も重なってしまっている。
視覚の仕組みとか、記憶の仕組みなんて私にはよく分からない。本屋で適当に
心理学の本を立ち読みしたこともあったが、関係妄想とか強迫観念とかの
いかにも重苦しい四字熟語とか、変な呪いの経文のような横文字ばかりが
意味も分からないまま通り過ぎていくだけで、却って不安定な気持ちは
増大して行くばかりだった。
- 110 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:54
- こめかみがまた刺すように痛む。視神経の通り道で、なにかが暴れているの
だろうか。こびりついた映像が、そこで腐敗しているのだろうか。
眼球を掴んで、視神経にまとわりついているそいつを引きずり出して、ひと思いに
刮ぎ落としてやりたい気分だった。でも、手を伸ばした瞬間、そいつは
まだ生きていて、素早く脳の奥まで逃げ込まれてしまうかもしれない。まだ
こめかみで満足させておく方が安全なのかもしれない。
「よっすぃー」
遠くの方で呼び声が聞こえる。いや、すぐ側でこの耳障りなアニメ声は
喋り駆けて来ている。
「同じとこばっか拭いても意味ないよ」
私はハッとして顔を上げた。いつの間にかテーブルの端に肘をついて、立ち止まって
しまっていたらしい。よかった。天国までは続いてなかったみたいだ。
「ごめん。ボーっとしてた」
適当に誤魔化すように言うと、苦笑いを浮かべる。
大人がよく使う表情だ、と梨華ちゃんに揶揄されたことのある笑顔。でも
癖になってしまったものを止めるのは難しい。
- 111 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:54
- 「大丈夫? なんか疲れてるみたいだけど」
眉を八の字にして、心配そうな顔で覗き込んでくる。
ああ、タレントに余計な心配をかけられちゃ、マネージャー失格だ。また
事務所から説教される。
「いや、なんかまだアルコールが残ってるみたい……」
言い訳っぽく返しながら、私は小学生が適当に掃除を終わらせようとするように、
ざーっと細長い机を撫でると布巾をもって洗面所へ歩いていった。
テーブルの上には数本の白い平行線が、端から端まで残された。
後ろ手に扉を閉じても、彼女の不安げな視線はまだ後頭部に張り付いて
いるように感じられる。こうしてまた一枚の映像が記憶の底に残される。
- 112 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:55
- 自室は青白い光のなかで凍結しているように見えた。窓からは庭を淡く照らし
出しているライトと、澄んだ空気を透過してくる星空の光が射し込んで、
生活感の欠けているスイートの姿を浮かび上がらせていた。
私は手探りで壁に手を這わせると、プラスティックのスイッチを押した。空気が
ひび割れるような音を伴って、真っ白い蛍光灯の明かりが目の前の情景を一変
させた。私は驚いて目を閉じた後、瞼をかるく撫でながらゆっくりと目を開いた。
思っていたよりはずっとまともな部屋だった。私のつんくさんに対する先入観が
ひどすぎるだけだからかも知れないけど、むしろ味気なく機能第一に作られた
様相に逆に違和感を覚えたほどだ。
- 113 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:56
- セミダブルサイズのベッドは清潔感のある白いシーツで覆われ、その向かいには
映るのかどうかわからないが大きめのワイドテレビが据え付けられている。
窓の側の一角にはシンプルだが洒落たデザインのナイトテーブルが置かれ、
アールヌーボー調の流麗な銅製のスタンドが立っている。普段仕事で寝泊まりする
ようなホテルなどよりも、はるかに恵まれた状況ではある。もっともこんな辺鄙な
場所まで来てビジネスホテルまがいの寝床だったらどうだろう、とどうでもいい
ことを考えてしまう。私はいいとして、やはり芸能人を続けているメンバーには
不興を買うのではないだろうか。もっともつんくさんがそこまで気を遣って
設計したとは思えないけど。
そう考えてから、もちろん私はすでに芸能人ではないからさほど気に留めないだろう、
と考えて、また気が滅入った。私はあくびを噛み殺しながら後ろ手に扉を閉じると、
あまり広くないバスルームに入り、前面に大きな鏡を構えた洗面台に向かった。
- 114 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:56
- 赤い印の方へ蛇口を下げると、ありがたいことに暖かい湯が流れ出してきた。
私は少し乱暴に顔を洗うと、真新しい白のタオルで水滴を拭った。それでも、
こめかみに残る痛みは消えて行ってくれなかった。
唇を噛んで、鏡の中の自分と向かい合う。自分自身を客観視することは不可能だ。
だが、五年前と比べてそれほど外見の変化はないように見える。むしろ、娘。の
メンバーとしてバリバリに活動していた頃の方が、いろいろな精神的な動揺を
反映して、激しく外見を変化させていたようにも思える。
今の自分、吉澤ひとみとはなんなのだろう。もはやかつてのようにちやほやされる
ことなんてない。社会人として、いやむしろ一般社会以上のやくざな社会で
生きることを自ら決断したのだ。かつてのぬるま湯に浸かっているような
生暖かいリアクションは、外見とはなんの関係もない。ただそうした役割を
演じていたに過ぎない。内実はこの世界では一ミクロンの価値も持ち得ない。
理解はしているつもりだったが、それでもまだ全てを納得し受け入れるまで
にはほど遠かった。
- 115 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:57
- いつからだろう、自分の身体がまるでモノのように感じられるようになって
いたのは。それぞれが機能的なパーツだと考えればそれだけ苦痛も減る、
そんな思いこみから必死に自分に言い聞かせてたのかもしれない。両手は
握手をするため、両脚は駆け回るため、頭は愛想笑いとお辞儀のため、両眼は
見るべきものだけを見るために、どこかの青空市場で調達してきた道具に
過ぎないのだと。道具なら、使わなければタダのゴミなんだから、ボロボロに
なるまで使い込んでやるのが正しい選択だった。
鞄からノートパソコンを取り出すと、ナイトテーブルに向かう。部屋の照明は
明るく、スタンドの明かりは必要ないように思えたが、意味もなく柔らかな
植物が絡み合っているようなデザインのライトを灯した。オレンジ色の茫洋と
した光が、どこか私の心境とシンクロしているように見える。私は部屋の
明かりを落とすと、薄暗い中でノートパソコンのスイッチを入れた。
- 116 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:58
- 日記を付け始めたのはこの仕事を始めて一年ほど経ってからだ。日記と言っても
普通の若い女の子がつけるような、心境を綴ったりポエムを詠んだりするような
洒落たもんじゃない。可能な限り無機質な過去のカタログだった。私の手帳には、
未来の予定がびっしりと書き込まれている。日記はその逆に、過去の記録を
蓄積させていく。
なぜこんなことを始めたのかは分からない。ただ、一日の終わりに手帳に横線を
引いて、日記に一日の記録を残すことで、精神的な落ち着きが得られることは
確かだった。それなら続けても損はない。
日付を打ち、朝からの行動を淡々と打ち込んでいく。改行もなにもしない。もし
小学生の宿題の日記だったら怒られそうな文面だ。朝、6時に起床。事務所に
電話。朝食はスライスしたゆで卵にサラダ、トースト、牛乳、関連する芸能の
ニュースは……。
- 117 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:58
- 時々、自分がもの凄いスピードで螺旋階段を駆け上がっているような気分に
なることがある。いくら上っていっても、自分の見られている世界は二次元で、
同じ場所をくるくると回り続けているだけ。上っていると思いこんでるのは
自分だけで、本当はなにも変わっていない。ただ焦燥感に駆られながら、
ひたすら体力を消耗していって死に向かっていく。もしそうなら、上へ行っても
下へ行っても同じことなら、果てしなく堕ちていってしまったほうがどれほど
楽だろうか。
いや、すでに、私が駆け上がっているつもりの階段は、気付かないうちに
下へ向かって伸びていっているのかもしれない。私の立っている位置を
測るような指標なんてないから、どこへ向かっているかなんて分からない。
- 118 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:59
- 飯田さんから聞かされた話を書き終えて、作業を終える。正餐室の細長いテーブルの
ことが頭に残っていた。私はいやな記憶を振り払うように頭を掻きむしると、
ノートパソコンの電源を落としてベッドに倒れ込んだ。頑丈なマットはしっかりと
私の身体を受け止めてびくともしないでいる。柔らかくいい匂いのするシーツに
顔面を何度もこすりつけるが、依然として眼の奥に張り付いている痛みの
種は消え去ってくれない。
仰向けになり天井へ目を向ける。部屋の隅からの光が波状になってうっすらと
拡がっているのが見える。光と影の濃淡が薄れて消えて行く先を追っていくと、
真っ白い壁の上で不自然に歪んでいる。目を細めて見つめるとそれは影では
なく染みのようで、実際には染みではなく壁の裏からなにかがじんわりと
浮かび上がってるようにも見える。殺風景な客室に飾られた絵画だろうかと
思うが、一度目を閉じてからまたよく見るとそれは白い壁に描かれたなにか
不可解な一連の図形の組み合わせだった。
- 119 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 01:59
- 私は上半身を起こすと、目を擦って一目では理解しがたいその絵を見つめた。
それは地図だった。現代の合理的に記号化された地図ではなく、中世の
航海図のような、架空の旅行記の挿し絵のような不可思議な筆致で描かれ
ていた。中央に、歪んだ波紋のように描かれているのはこの島に間違いは
ないのだろうが、周囲を取り囲んでいるのは海ではなく、どこかの街の
ようだった。平仮名でもアルファベットでもなく見たことのないような
単純だが見慣れない文字がならび、複雑に張り巡らされた街路に註釈を
付け加えていた。
光と影が、不自然な蠕動を繰り返している。揺れ動いているのはしかし
私の眼の方なのだろう。地図に重なるようにして投げかけられている影は、
ゆっくりと壁の中に浮かぶ島を移動させているように見える。不安定な
エネルギーが移動する島を揺らし、その振動が光と影を交錯させて縮小
コピーされた地図の中の分身も同じように移動させているのだろうか。
- 120 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 02:00
- ベッドの上でぼんやりと壁を見つめたまま私は半分夢の中へ入っていた
ようだった。しかしその夢ははるか昔からの記憶を呼び覚ましてくれる
ものとも感じられた。私は瞼の上から眼球を揉みほぐすと、つまらない
妄想を振り払うように乱暴に頭を振った。二年ほど前に動きやすいように
短くしたままの髪が目の前に垂れ下がり、オレンジ色に滲んだ薄暗い室内
を覆い隠した。まだしばらくは眠れそうになかった。
- 121 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 02:01
- >>104>>105
レスありがとうございます。相変わらずのろのろでスマソ
- 122 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/15(水) 09:47
- 少しずつ物語が動きそうなヨカーン。
いつもながら奇麗な文体だなぁ。
自分のペースで頑張ってくださいね。
期待してます。
- 123 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/20(月) 09:43
- この後誰かが殺されるみたいな…
- 124 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/24(金) 11:35
- 某所で見失ってからやっと発見
続きも期待してます
- 125 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:11
- ベッドの下に放り出してある鞄を拾い上げる。いつどこで手に入れたかも
覚えていない鞄はかなり使い込まれ、疲弊しているように見える。仰臥した
身体の上に乱暴に中身をぶちまけると、必要だが、つまらないものばかり
が雪崩落ちてくる。私はその中から、一つの小さな物体を拾い上げる。
一辺五センチほどの立方体。つるっとした肌触りはガラスのようだが、それにしては
非常に軽く、ほとんど紙細工のように感じられる。表面は硬く、剥き出しで
雑然とした鞄に放り込んであってもまったく傷一つついていないし、埃や
汚れも付着していない。
立方体の中にはちょうど面に接するようにして球体が閉じこめられている。
ぼんやりとした光を帯び、なんとも形容のし難い色をしている。エメラルド
グリーン、スカイブルー、透明に近い純白、純白に近いクリーム色、いずれに
しても寒々しい感覚を呼び起こすような波長を放射している。球体の周囲は
暗闇に覆われている。立方体そのものは透明なのだが、球体の周囲の隙間を
埋め尽くしているのがなんなのかはよく分からない。液体なのか、気体
なのか、特殊なゼリー状の物体が流し込まれているのか。
- 126 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:12
- ベッドに仰臥したまま、スタンドの淡い光を浴びて私はそれを弄んだ。この
謎めいた物体を手に入れたのは半年ほどまえだ。つまらない地方のロケへ
同行したときに、空き時間に町はずれの雑貨屋をうろついていたときに眼に
とまった。
素朴な民芸品の陳列の中で、冷たく無機質なそのオブジェは明らかに異彩を
放っていた。黒い背景に浮かぶ冷たい球体。インテリアとしてもこれほど
無愛想で風情のないものは少ないだろう。しかし、私はむしろそのどうしようも
なさに惹かれた。惹かれた、というよりも呼ばれた、と表現した方が正確
かもしれなかった。その時の心境はあまり覚えていないのだが。
- 127 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:12
- 眼を細めて球体をじっと見つめていると、だんだんと頭が溶解していくような
感覚が、頭頂部の左右を繋いでいる部分を中心にしてそこから生暖かい液体が
流れ出すようにして、それが全身に張り巡らされている神経の隅々にまで
拡がっていく。眼の奥で暴れていたなにかも、粘性の視界の中で包まれて
押し流されて行ってしまうように。私はいつしか、痛みを感じるたびにこれを
繰り返すようになっている。
その作用がどんな神経生理学に基づくものなのか、その作用でどんな変化が
起きているのか、その作用がどんな影響を齎すのか、そんなことは私には
どうでもいいことだった。いつも私を悩ませる痛みを追い払ってくれると
いうそれだけで、私には充分だった。
- 128 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:13
- 痛みを感じるたびに繰り返し、まどろみの中に日常の全てを溶かしていって
しまうと、自然と瞼は落ちて、その裏側に闇を背景にした球体が張り付き
拡がっていくのだった。こうして痛みを感じるたびに、私は冷たい球体の
中へ逃げ込んでいくことで、いつものように、私の安定を保証してくれて
いるこの装置に囚われて、球体の中に閉じこめられるような錯覚をおぼえる。
繰り返し、痛みの中で揺らめいている黒っぽい、時に生命のような、時には
冷たい無機物のように硬く無表情な、塊を見つめる。それは真っ黒い虚無の
残像かもしれないし、私の精神の奥に巣くっている名状しがたい不安定な
蓄積が積み重なりそこから腐敗した有機体から舞い上がる粒子を多く含む
気体のように噴出している揺らめきの残像かもしれない。
- 129 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:13
- 塵だらけの彗星のように尾を引いて視界を飛び回り、冷たい球体と瞼の間に
拡がる光の海の中でデタラメな方向に回転したりぶつかり合ったり染みの
ように拡がったり硬い一点に修練したりするが、いつしかそれぞれが太陽系に
連なる惑星たちのように軸を一にした起動を回り始め、渦のように光を黒い虚無の
流れでかき消していき、やがて私もその軸にあるブラックホールへ落ちていく
感覚につつまれる。
ゆっくりと視神経から引きずり出されるように思考は溶解し、上半身、下半身の
力も粘性の透明な膜に包まれて消化され、不愉快な肉体を置き去りにした
まま純化された感覚だけを離脱させるようにして流れ落ちていく。私は
繰り返し繰り返し、ぐずぐずになった空気を撫で回し、それがやがて抵抗を
失っていくとともに再び全身の感覚が戻ってくる。瞼を通して痛いほどの
光が網膜を灼く。ゆっくりと目を開くと足下には熱せられたアスファルトがあり、
都市の表皮に照り返された強烈な白昼の日光が逃げ場もなく全ての空間を
覆い尽くしている。
- 130 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:13
- 朦朧としたアタマを揺さぶるように天を仰ぐと、巨大な熱源が空の半分ほど
を覆い、緻密に区画整理された街は果てしなく同じ光景を反復し地平線の
彼方へと消えていっている。
作り物のような並木が地平線に消えるまで立ち並んだ街路、起伏もなく、
濃淡も汚れもなく単調に伸びている街路には、見渡す限り誰もいないし、
誰かがいたような気配も感じられない。ただ私一人が立ちつくしているだけで、
その場は今ここへやってきた私のために一瞬にして全てが準備されたように
すら見える。
標識などのような具体的な場所を指し示す指標などはどこにもなく、建物は
ただの直方体の箱でそれぞれを区別するようなものはなにもない。都市と
いう概念だけを雑多な要素をそぎ落とすことで立体化して無際限に広げて
いったような風景だけがそこにはあり、ここでは私の存在だけが唯一の
ノイズとして影を殺そうと燃えさかる太陽から無慈悲な光を浴び続けている。
- 131 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:14
- 私は全身に感じられる痛みを伴った熱に呻きながら、なにも考えることも
出来ずに、当てもなく足を踏み出す。太陽と熱のキャッチボールを続けている
アスファルトの抵抗を感じながら、私は脚を引きずり進み続ける。
人影が見える。どこか角張った人影だ。地味ではあるが高級で落ち着いた外観の
スーツを纏い、悠然たる歩調でゆっくりと近付いてくる。上半身は不思議に
反り返っているように見える。その角度が私を苛立たせる。
カラダの真ん中を貫いてぶら下がっている太いネクタイが、微かに揺れて
いる。小さな頭部に比べて首は太く、顔もまた角張っており、その中央に
あるのはぽっかりと口を開いた虚無だった。黒い塊が渦を巻いて、笑い
かけてくる。
深い坑に呼ばれるままに、私はつま先を浮かせる。実体のない身体はふわりと
浮かび上がり、透明な膜になって空気と一体化する。風、波、私は質量の
ない襞の集積になり、男の身体を包み込む。私の中で、男は溶解して虚無を
吐き出す。私の中で、虚無は広がり再び光のない世界へ私を引きずり込む。
- 132 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:14
- 「なんど同じことを繰り返せば気が済むんだ」
疲れ果てたような無気力な声に、私はめんどくさそうに目を上げる。
薄暗く狭い室内に、小さく古びた机が一つおいてある。それを挟むように
して、私と向かい合っているのは、見飽きた初老の男の顔で、私はうんざり
して溜息をつく。室内は男の吐き出した安タバコの煙でもうもうとした
空気で埋め尽くされている。机の上には、吸い殻が山のように積み上げられた
灰皿が三つ、白熱灯のランプに照らされて並んでいる。灰皿から意図のように
立ち上る煙は男の白髪と同じ色をしている。
「なにがですか」
私は男の顔を見るのが嫌で、視線を彷徨わせる。一つしかない窓は小さく、
天井近くのすみにつけられている。窓から覗ける空は血のように赤く、それも
夕日のような暖かみのあるものではなく無機質で残酷な赤だった。
「思い出してみればいい」
男は言うと、また新しいタバコに火をつける。私は眉を顰めると、苛立たし
げに机を人差し指でこつこつと叩く。
- 133 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:15
- 「いつになったら、放免してもらえるんすか」
窓から誰かが覗いている。私が目を向けると、そいつはさっと素早く身を
隠してしまう。
「記憶に残ってるんだろう……? 目を閉じれば浮かんでくるだろう」
そう言うと鼻の穴から煙を吐き出す。また狭い室内の空気が澱む。
私は男に言われたように目を閉じてみる。瞬間、瞼の裏に血腥い色彩が氾濫し、
いくつかの断片的な映像が折り重なるようにしてフラッシュバックする。
「ああ、思い出した」
私は耐えかねてすぐに目を開く。少ない白髪を油で撫で付けたアタマが煙越しに
揺れ動いている。男は俯いて、薄汚れた資料に目を落としている。
「お前は何を見たんだ?」
「分からない……説明しようがないです」
「都合よく出来てるんだな、お前の脳味噌は」
悪意を込めるわけでもなく男は言う。男の口調は、いつでもただ疲れ果てて
いるように響く。
- 134 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:16
- 息を吸い込むと、まとわりつくように重たく、麻薬臭い空気が喉の中を
渦巻くようにして通り過ぎていった。澱んだ空気はそのまま血流に溶け込んで
私の全身を駆けめぐった。気分が悪くなり、胸を手で押さえた。
「はやくここから出ていきたいか?」
男が言う。私は充血した目で男を睨む。男の言うとおり、この場所に長く
止まっていてはカラダが煙と油じみた空気に汚染されてしまうような気が
していた。
「……じゃ私がやったってことでいいっすよ」
投げやりな口調で言うのにも、男はほとんど反応することはない。以前にも、
なんども同じような言葉を男に向かって言ったような感覚がある。そして、
男もやはり聞き飽きたようにうんざりとした仕草で、体内を通過して濁っ
た煙と一緒に、溜息を吐き出しただけだった。
「それは違うな」
「違う?」
「お前は、今どこにいるんだ?」
- 135 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:17
- その言葉に、私はまた窓の方を見上げる。先刻から見え隠れしていた窃視者は
逃げずにその場に止まっていた。顔全体を覆っている、人を食ったような
黄色いスマイルのお面のせいで、正体は分からなかった。背後には、やはり
鮮烈な赤い空が拡がり、他の光景はなにも見ることが出来なかった。
「私は、今、……」
思い出せなかった。どこか、遠く離れた場所、外の社会から隔絶された場所、
孤独な場所に、やってきていることは漠然と思い起こせたが、それがどのような
場所なのか、茫漠としたイメージでしか浮かべられずにいた。
「記憶をなくしたふりをすれば、憐れんでもらえるのかもしれないな」
男の嘲笑的な言葉にも、私はなにも言わずに目を伏せることしか出来ない。
- 136 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:17
- 「尾行されていたことは? 覚えているだろう」
「ええ……どうせ、あんたたちがしてたんでしょう」
私が面倒くさそうに返すのに、男は表情を変えずに首を振った。
「我々よりもずっと前からだよ。尾行とは正確な言い方じゃないかもしれない
がな。監視、とでも言った方がいいかもしれない」
「はあ……」
そう言い変えられても、記憶にないことには変わりはない。
「知らないっすね」
そう言いながら、指先で小鼻を拭った。まとわりついた脂が白熱灯を反射して
気味悪く光っていた。
「それもまあそうだろう。なんといっても、監視してた方だってそのことを
すっかり忘れていたんだからな」
「なんすかそれ」
呆れたように呟くと、私は脱力したように笑った。男は表情を変えずに、
わずかに眉根をあげただけだった。
- 137 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:18
- 私は筋肉の硬直した首をほぐすように伸ばすと、もう一度小さな窓を見やった。
そこには誰もいなかった。赤い光とともに、風が枝を揺らすような、無機質な
砂が流されていくようなサラサラという乾いた音が微かに流れ込んで来ていた。
目の前の男に視線を戻す。男はまた手元の資料を俯いて見つめている。乾いて
くすんだ色の肌は死人の皮膚のように見えて、その表面には皮脂が溶け込み
白濁した汗がびっしりと滲んでいる。せわしなく左右に動く眼球がふと
上を向き、私と目があう。充血し、葉脈のような細い血管が澱んだ瞳を
取り囲んでいる。
「まあいい」
男は顎を撫でながら言う。
「また会おう」
- 138 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/31(金) 17:19
- >>122>>123>>124
レスありがとうございます。
- 139 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:31
-
目覚めはいつものように唐突で、覚醒によって立ちきられた映像の残骸が
記憶の表面を飛びかっていた。薄いレースのカーテンを通して、白っぽい
朝日が部屋に差し込んできている。仰向けに天井を見上げたまま、私は強く
眼を閉じて全身を伸ばした。またあのまま眠ってしまったのか……。自己
嫌悪に苛まれながら、のろのろとベッドから降りる。澄んだ空気だけが、
普段とは違った心地よい朝を包んでいた。
部屋はひどく散らかっている。それほど耐性のないアルコールと、不安定な
気分のせいか、いつも以上にひどい夢だった。いくら頑張っていやな記憶を
遠ざけようとしても、夢の中ではしつこく絡んできて、いやになる。
- 140 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:31
- 私はぶつぶつと訳の分からない不満のカタマリのような音を吐き散らしながら、
床に散らばっているものを片っ端から鞄に投げ込んでいった。そして、ぼんやりと
頭の奥に残っている風景を振り払おうと首を振り回した。脂じみた髪が
顔面にぶつかって、頬に張り付いた。ああ、そういえば寝る前にシャワーを
浴びておこうと思っていたのに、忘れていた。前髪を振り払うついでに
ムチャクチャにアタマを掻きむしったら、色褪せた髪が数本指に絡まって、
根本の方が黒ずんでいた。
球体の閉じこめられた箱を拾い上げる。眉を顰めると、他のガラクタと一緒に
鞄に放り込んだ。苛立ちは消えていない。昔だったらわけもなく叫びながら
廊下を駆け回ってるところだけど、そんなことももはや出来ない。屈託と倦怠。
昔はこんな言葉知らなかった。言葉に封じ込めてしまえば、なんとなく
もやもやがカプセルに封じ込められたような気分になり多少は楽になった
ような気がする。もちろんまやかしでしかないのだけど。
- 141 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:31
- 壁際に転がっていた歯磨き一式の入ったケースを拾い上げると、バスルームへ
行って顔を洗った。今日も健康状態には異状はなし。鏡の中の眼を見つめながら
そう呟く。歯ブラシを口に突っ込んでから、隅の方に真新しいセットが
用意してあるのに気付いた。サービス精神旺盛なのはつんくさんなのかその
奥さんの中澤さんなのか。まあどっちにしても私にはあんまりそういう気遣いは
必要ないわけだ。そもそも私の方が気遣いをしなければならない立場なわけで、
そんな人間が自分の面倒も見られなくてどうする。
溜息をつくと窓際まで歩いてカーテンを開いた。光の加減からすると六時前後と
いったところだろうか。漠然と予想して、テレビの上にある装飾的な置き時計を
見る。六時七分。西暦二〇〇七年五月十六日。こんな時間、まだみんな寝て
いるだろう。ただでさえ昨日あれだけ騒いだわけだし。
- 142 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:32
- 二度寝出来るような器用な体質はどこかになくしてきてしまった。私は
窓を開くと、なにもないバルコニーに出た。早朝の冷たい空気が肌を包み、
内面の淀みを押し流して行ってくれるような清涼感を感じる。
私の部屋は凹型に張り出した左サイドの、中庭に面した三部屋の中央にある。
昨夜には注意してみることはなかったが、こうして見下ろしてみると改めて
つんくさんの美的感覚というものがよく分からなくなってくる。長方形の
中庭の中央に円形の噴水があり、その中央に全裸のつんくさんと中澤さんが
絡み合っている彫像があるのだが、その噴水から屋敷の方に向かって細長い
花壇が伸びており、先端から左右に斜めにまた伸びている。昨日には気付かなかった
ことだが、真上から見るとちょうど中庭に大きく♂と描かれているのだった。
- 143 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:33
- 彫像はあまり丁寧な手入れはされていないようで、表面にはうっすらと埃が
覆っていた。噴水も水の流れが止まって、今はただの溜め池のようになって
いる。水面には落ち葉や昆虫の死骸などが浮いて、その上もやはり薄い膜の
ような埃が覆っているのだろう。風もなく、静かな水面は微動だにせず
澱んだまま凍り付いてしまっているように見えた。ふと、ここからなにか
投げ入れて波紋でも起こしてやろうという衝動に駆られたが、生憎なにも
手頃なものを持ち合わせていなかった。
私は眉を顰めると、ポケットから潰れた煙草の箱をひっぱりだして、一本を
くわえた。その時、着替えもせずに眠っていたことに改めて気付いた。胸元の
ボタンを外すと、事務所によく来る営業マン(三十前半でかなり禿げ上がり、
赤ら顔でひどく肥満している、愛想笑いの得意な男だ)がよくやるように
パタパタと仰いだ。緑が多く人間の少ないこの土地の空気は、マイナスイオン
だかなんだか知らないが、眼下の景色のおぞましさとは対照的に、すばらしく
心地よかった。
- 144 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:33
- 窓を開け放したまま室内へ戻ると、バスルームで手早くシャワーを浴びた。
それから持参したTシャツとジャージを身につけて、ようやく落ち着いた
気分でベッドにあぐらをかいて座り込んだ。Tシャツは今事務所が必死に
なって売り出そうとしている、女の子一人と男二人という編成のアイドル
バンドで、長ったらしい横文字の名前を略してCUNTだかSCABだかPUSだか
よく覚えてないがそんな感じで呼ぶようにお達しが出ていた。私はここのところ
ずっとその貰い物のTシャツを来ているので、首元なんかひどくよれよれに
なっていて全体的に色褪せていた。確かヴォーカルの子はハロープロジェクト
キッズから選抜されてそれを番組で追っかけたりしていたが、あまり興味は
湧かなかった。
あぐらをかいたまま背筋を伸ばして、今日一日の過ごし方を取り留めもなく
考えてみる。こんな早い時間ならまだみんな寝ているだろうし、下へ行っても
誰もいないだろう。あるいは家主の中澤さんくらいは起きているかもしれないが、
彼女と二人きりで談笑している自分をイメージするのは不可能だった。あるいは
一方的にのろけ話を聞かされるハメになるかもしれなかったが、それと
気まずい沈黙のどっちが嫌かというと、なかなか難しい選択だ。
- 145 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:33
- ふと正面を見ると、テレビの真っ黒い画面と向かい合っていた。そう言えばこの
テレビはちゃんと映るのだろうか。なにしろ日本海の孤島だ。いきなり
北朝鮮の番組でも映り出すかもしれない。つんくさんだったら海底アンテナを
引っ張ってくるくらいのことはしそうだ。飽食のせいかルックスもすこし
向こうの独裁者と被ってきてるし……。最近中高生のあいだで流行ってる
趣味の悪いギャグマンガに、ぶよぶよの独裁者を腹の出た栄養失調の飢餓民
たちが宮廷から引きずり出して、生きたまま食い荒らして堅そうな縮れ毛で
シーハーしてる話があったが、うちの売れないタレント連中が同じように
つんくさんを、なんて想像して気分が悪くなった。
私はベッドから降りるとテレビのスイッチを押した。ついでに下の引き出しを
開くとやたらと使途不明のボタンが多い扇形のリモコンが入っていた。
テレビにはなにも映らない。やはりただの飾りかとも思ったが、リモコンで
適当にチャンネルを回すと色鮮やかな映像が映し出された。どうやら空き
チャンネルになっていただけらしい。
番組は北朝鮮でもロシアのものでもなく、ちゃんとした日本の番組だった。
私はすこしガッカリする気持ちもあったが、ベッドの上に戻ると少しヴォリュームを
下げてからザッピングを始めた。平日のこの時間だ。どのチャンネルも朝の
情報番組ばかりやっている。
- 146 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:34
- 毎朝の見慣れた顔がアップになり、私はチャンネルを繰る手を止めた。すでに
それなりに地位のあるポジションに着きながらも未だに蝶ネクタイで芸能
ニュースを伝えている軽部アナが、いつものように暗い口調で淡々と原稿を
読んでいる。背景に映っているセットが、LSD幻覚じみたパステルカラー
多用のぐにゃぐにゃしたオブジェで埋め尽くされているので、余計に彼の
姿が陰々滅々としたものに映る。
『……続いては、続報が入っています元モーニング娘。の田中れいなさんの
話題です。昨日田中さんはまた記者会見を開き……』
画面が切り替わる。どこかの撮影所の駐車場だろうか。待ちかまえていた
報道陣やカメラマンに取り囲まれて、顔をしかめながらも質疑応答に応じて
いる田中の姿が映し出される。
私は脱力したようにがっくりと肩を落とした。どの仕事場に行ってもこの
話題は振られる。大体最近の周囲の話題と言えば、梨華ちゃんか田中のこと
ばかりで、いい加減うんざりしていた。なぜ触れられたくないと分かって
いるくせに、彼らは古傷を抉るような真似をしてくるのだろう。もちろん
それは、田中も含めて他のメンバーも同じことだろうが、おかれている状況
を察知することにかけてのみ長けているハイエナのような連中だからこそ、
私や田中がターゲットになるのだろうか。
- 147 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:34
- 彼女とまともに会って話したのはそれこそ二年近く前のことだが、事務所の
廊下やTV局のロビーなどで擦れ違うことはしょっちゅうあった。そのたび
にお互いちょっと気まずそうに目礼しながら、なぜか知られていない秘密を
共有しているような、共犯者のような不可思議な心持ちになった。同じ
グループで活動していたころよりも、むしろ距離は縮まったような気さえ
したのだが、私が一方的にそう感じているだけで、田中の方はどう思って
いるかなんて分からない。
今テレビの中に映っている田中は、前にテレビで見かけたときよりも少し
頬がこけて、痩せたように感じる。それがまたシャープで鋭敏な雰囲気を
造り出していた。ミラーのサングラス越しに表情を窺うことは出来ないが、
金色に近い髪を弄りながら落ち着いた口調で喋るその口元には不敵とも言え
そうな笑みが浮かんでおり、それがまたメディアを通じて増幅された、ダークな
イメージとして流布されるのだと思うと、他人事ながらもう少し器用な生き方を
すれば楽なのにな、などと余計なことを思ってしまう。
- 148 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:35
- もっとも、本人に直接そんな先輩風を吹かせて処世術を吹き込んだりは
しないし、彼女ならいつもの感じで適当に受け流されてしまうだろうから、
無駄なことだと分かっている。それに、今ではごく普通にそんな安易で右顧左眄
したようなみっともない考えを持ってしまう自分に対する嫌悪感というもの
も強く持っているわけで、それに彼女だったらはっきりそのことを指摘して
くるかもしれないし、そうなったらそうなったでそれなりに傷ついてしまうで
あろう自分がリアルに想像できてしまうのが、さらに嫌だった。
今テレビや雑誌で田中を追い回している連中は、自分たちが壮大な探偵小説の
登場人物にでもなったつもりで、巨大な謎に息を荒げて挑みかかっている
つもりでいるのだろう。私たちがいくら嫌がって見せても、小説の登場
人物には読者から逃れる権利なんて保証されているわけがないし、渦中の
人物が渦から逃れるためには、渦そのものを消し去らないといけない。そのため
には、私たちもまた否応なく終わりの見えないゲームに参入せざるをえない。
しかし、それが解答編のないミステリーだということは、みんな漠然と
気付いているはずで、このゲームは……ほとんどのミステリーがそうで
あるように……全員が死に絶えるまで続けられるのだ。
- 149 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/16(日) 21:35
- 続く
- 150 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/01(月) 11:35
- 話に引き込まれるなぁ 続きも期待してます
- 151 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:56
- 私が、あまりこんなことは言うべきではないかもしれないけど、分割後は
私と別のグループで活動することになった田中は最後までよく分からない
娘だった。よく分からないのは他の二人の六期のメンバーにも言えること
だったけど、田中の分からなさは二人のものとは異質だったような気が、
今となってはしている。
六期として入ってきた三人……藤本も含めれば四人だけど、彼女たちは、
みなとても早く、メンバーととけ込めているように見えた。少なくとも、
私たちや、五期の四人よりは早かったんじゃないだろうか。ファンからの
受け入れられ方は具体的にはよく分からなかったけど、同じように早かった
んじゃないかと思う。もっとも、すでにそこに反発しても意味ないって
いうような諦念もセットになっていたことは否定できないが。
- 152 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:56
- グループの一員であること以外に確たる足場を持っていなかった、おそらく
私たち以降のメンバーということになるんだろうけど、彼女たちは解散という
事態に直面して、改めて自身とそれを取り巻いている状況について見つめ直す
ことに直面させられたのではないかと思う。少なくとも、私はそうだった
し、少し話す機会のあった他のメンバーも同様だったはずだ。そんな中で、
結局チャンスを与えられず、かといってこれといった目標も持っていなか
った何人かのメンバーは、芸能界という特殊な場所から去っていった。むろん、
私自身もそうだったが……。むしろ私の残りかたなどは実に未練たらしい
もので、グループでの活動を全うした上で一つのストーリーを終了させる
という決断が出来るというのは、世間一般の意地の悪い見方とは違って私には
実に潔く美しいはずだったが、私にはそうした作られた物事に反撥したい
という気持ちが、どこかにあったのかもしれない。それがなんの意味を
持つのか、いまだに分からないけど。
- 153 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:56
- しかし、そうした状況の中でも、田中は残ったのだった。それも私たちの
誰とも異なる方法で、成し遂げた。彼女がなにを考えているのか、なんの
ためにモーニング娘。に、芸能界に入ってきたのか私にはよく分からない。
ただ漠然とした華やかな世界への憧れなのか、もっと具体的な目標が早く
から見えていたのか、それとも、私には想像もつかないような、内面的な
ものがあったのか。……。
- 154 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:57
- 解散後しばらくは田中はなにもしていなかった。かといって一般人としての
生活に戻り高校に通ったりするわけでもなく、ただ事務所の名簿に名前だけを
連ねて、それでも月に一度くらいは回ってくるどうでもいいような穴埋めの
仕事を適当にこなす以外には、暇を持て余しているはずだった。うちの
事務所は、多少はそうした存在を許容してくれるような懐の深さ(といって
いいものか分からないが)を持ち合わせていた。
かといって、無駄な時間と金にあかせて、タレントたちと遊びまくって
いたというわけでもないようだった。私がちょうどマネージャーの仕事を
始めた頃に気付いたのだが、彼女は意味もなくテレビ局や事務所などに
出入りして、フラフラとあちこちを歩き回っていた。一応、小さくはない
事務所所属の芸能人であり、追い返されるようなことはなかったものの、
やはりいろんな場所で迷惑がられているという話は伝わってきていた。
- 155 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:58
- 事務所の方が、機会を見て本人に問いただしてみても、あの世代特有の
抑揚のない口調で、別に、とか、なんとなく、とか意味のない説明を繰り
返すだけで、まったく要領を得なかったようだ。たまたま私がついていった
スタジオで見かけた時に、軽く声をかけてみたこともあったが、田中は
同様にむにゃむにゃと説明にもならない言葉をいくつか並べて見せただけ
だった。
- 156 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:58
- そんな風にして一年ほどが過ぎた頃、何の前触れもなく、突然思いついた
ように田中は動き始めた。当時、世界初の、特殊な訓練を受けていない
民間人による宇宙旅行というものが政府の援助を受けた複数の企業によって
計画されており、それでもまだ危険性が高いというので専門家からも反対
意見が多く出されていたのだが、その公募されている乗務員の一人として
田中が立候補したのだ。もちろん乗りたいというからといってすぐに採用
されるものでもないし、そもそも危険すぎるというので周囲からの反対も
大きかった。しかし、これまであまり積極的に自分の意見を表明することの
なかった彼女が、このときにはまるで別の人格に入れ替わったように強く
このプロジェクトへの参加を切望したのだった。
- 157 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:59
-
事務所にしてみても、あまりやる気もなく使い道のないタレントを温情だけで
飼い殺しておくことに痺れを切らしかけていた頃であり、こうした国を
挙げての、注目度の高いプロジェクトへの参加となれば、タレントとして
の大きなアドヴァンテージとなる。加えて、本人の熱心な働きかけにも
動かされたのか、高い競争率の中でも事務所の支援やスポンサー活動など
もあわせて、田中は二十人の民間乗務員の一人として採用されることに
なった。当然のごとく最年少であり、芸能界からも唯一の参加ということ
で、逆にいえばそれだけ危険性の高いものであったということなのだが、
彼女の参加は大きな注目を集めた。
しかし、周囲からの反応には、冷ややかな物の方が多かった。例によって、
落ち目のタレントによる命懸けの売名行為だとか、そもそもなぜ突然宇宙に
行きたいなんていいだしたのか、神懸かりじゃないか、なんて揶揄する
ようなメディアも多かった、テレビでも、田中れいなは新興宗教の教祖に
でもなるつもりなのか、なんてよく分からないことを言われたりして、私の
ような無責任な人間はそうした反応を観察しているだけで面白がっていた
のだけど、当の本人といえばいつも通りで、全く意に介している様子は
なかった。尤も、参加が決定したからといって大袈裟に喜んだりするよう
なかわいらしさもまたなかったのだが、私がたまたま見かけなかっただけ
かもしれない。
- 158 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 22:59
- 記者会見の席においても、他の参加者たちがそれぞれの言葉で宇宙旅行に
対する熱い想いを吐露する中で、田中だけは淡々とマイクに向かって少ない
言葉をぽろぽろと零しただけだった。ややうつむき気味で、カメラに向かって
目を合わせようともしなかった。どこか、死地へ赴く兵士のようにすら見えた。
単に奇抜なことをやって目立ちたいだけなんじゃないか、という意地の悪い
質問にも、無表情で一言、「そう思うなら別に私は構いません」と答えて
失笑を買っていた。
が、私がテレビで中継を見ていて唯一表情の変化を見せた瞬間があった。その場に
いる誰もがそんな微細な変化には気付かなかっただろうが、いくら短期間
とはいっても、同じグループで仕事をしていた仲間のことだ、恐らく見て
いた他のメンバーも、その変化には気付いたことだろう。
- 159 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:00
- 「旅行」は山梨県にある発着場から宇宙空間へ出て、月面に降り立った後
それぞれの「足跡」を残して帰還する。要するにただ往復するだけなのだが、
特に専門的な知識を持ち合わせていなくても、前人未踏の途轍もない道程で
あることは、いくら不勉強な私でも想像がついた。
『今回のプロジェクトは多くの専門家からも時期尚早であって、特に発着時の
事故の危険性が極めて高いと言うことが指摘されていますが、そのことへの
恐怖はありますか?』
そう問いかけたのはある新聞の記者であって、当然田中に対する質問では
なくもっと「まともな」参加者への質問だったのだろう。しかし、急に
目の覚めたように素早くマイクに向かい、その記者を見据えて回答したの
はこれまで一貫して体温の低かった田中だった。その場にいた全員が呆気に
取られてる中、田中は迷いのない口調で言い放った。
「私はむしろそれを望んでいます」
たちの悪い冗談だと受け取られたのだろう。記者たちや参加者たちは戸惑い
気味に顔を見合わせた後、やれやれと言った様子で笑い声をもらした。
しかし、私はそう言った瞬間の田中の表情を見逃していなかった。まるで
その言葉が一種の予言であるように、自信に満ちた笑みを口角に浮かべたのだ。
そして、その予言は的中した。さらに、予言されなかった一つの出来事が、
その時の田中の言葉に、闇に閉ざされた峡谷のような深みを与えた。
- 160 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:00
-
……
黒ジャケットのポケットに両手を突っ込み、かったるそうに身体を揺らしながら
記者たちに受け答えをする田中は、私の記憶の中の姿とそれほど異なっている
ものとは感じられない。しかし今となっては、その立ち振る舞いや意味のない
単語の呟きも、全てが重要な指標として扱われるようになってしまっている。
相変わらず田中の言ってることは分からない。多分あの場所でマイクを突き
つけているレポーターたちも、彼女を取り巻いている関係者たちも、分から
ないに違いない。そしてなにが分からないかということもまた分からないから、
好き勝手に自分たちで言葉の空白を補完して、どうでもいいような解釈だけを
際限なく増殖させていくことになる。
- 161 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:01
- 私は、分からないことは同じだとしても、その分からなさについては自分なりに
分かっているつもりだった。要するに田中にはコミュニケーションしようと
いう意図がそもそもないんだと、今になって思う。他の年少メンバーたちが
私たちと会話するときには、それなりに気をつかってか合わせてくれるような
努力は見せてくれていた。しかし田中はそういうことをしない。端から
見れば一番打ち解けて、仲よさげに言葉を投げ合っているように見えて、
それはただの反射的に空気を読んだ上での反応でしかなかったのだ。
そしてそれは今の状況でも変わっていない、と思う。変わったのは彼女を
取り巻く周囲の状況だ。田中はもはや、かわいいアイドルの少女ではなく、
そうなれば、同じ言葉を発しても別の文脈の中に、勝手に置かれてしまう。
- 162 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:01
- 二〇〇六年の一月。年始のどこか浮ついた気分の中で、国民的なお祭り騒ぎは
始まった。開始の合図は、やや大きすぎる爆発音によって告げられた。
それは、厳選された二十人の民間乗務員を乗せたスペースシャトルを、大気
圏外に押し上げるエネルギーの、祝祭的な開放だった。そして、それから
ちょうど一時間後にもう一度巨大な爆音が鳴り響いたのだろうが、幸か不幸
か、その周囲には衝撃を音に翻訳してくれる大気の層が存在しなかった。
- 163 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:02
- その日、私はたまたまオフを貰い自宅でぼんやりと過ごしていた。正午近くまで
読みもしない本をパラパラとめくったりして時間を潰した後、「笑っていいとも」で
騒いでいる加護を見ながらサンドイッチを齧っていた。その時、お馴染みの
フレーズが鳴り白い文字でニュース速報が画面の上方に映し出された。必要
最小限の情報のみ、
「民間人20名を乗せたスペースシャトルが大気圏離脱直後に爆発、乗務員の
生存は未確認」
- 164 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:02
- その時私が思いだしていたのは、記者会見の席で田中の浮かべた笑みだった。
自分でも不思議なほど、動揺は少なかった。どんな感情を持ってどう反応
するのが一番適切なのか、私には咄嗟に判断することが出来ず、ただあの
時に見せた笑みと発言がいつまでも記憶の中に張り付いていて、離れずに
いたそれだけが反射的に浮かび上がってきていた。しばらくしてから、私は
事務所からの電話を受けて、ようやくことの重大さに気付くことが出来た。
- 165 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:03
- 国を挙げての大騒ぎが始まった。責任のなすりあい、推理小説じみた果て
しない原因究明の議論、仮説、妄想、関係者たちへの取材攻勢、等々。私は
どこかそんな騒動を遠い国の出来事のように眺めていた。「被害者」の関係者
の一人として私自身もマイクを向けられることもあったのだが、なにをどう
受け答えするのが「正解」なのかは全然分からなかったし、私の姿が再び
テレビ画面の中に戻ってくる機会にはならなかった。それがいいことなのか
悪いことなのかは分からないけれども、多分いいことなのだろう、と私の
すぐ横で模範的な芸能人的リアクションを見せている梨華ちゃんの姿を見て、
思った。ああいうことが無意識に出来なければ、何千万もの視線の前に
晒される資格などはないのだ。
- 166 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:04
- 「ね、梨華ちゃん覚えてる?」
取材陣や野次馬の群を抜け出してタクシーに乗り込んでから、私は訊いてみた。
「なにを?」
「田中がさ、記者会見の時に言ったこと」
「ああ……なんか変なこと言ってたよね」
梨華ちゃんの表情は複雑だった。この悲劇的な事態を、それも今の自分とは
深く関わってはいないけれど全く無関係とも言えない微妙さを、どう自分なりに
受け止めるべきなのかまだ結論が出せていない、だから出来ればあまり話題には
しないで欲しい、といったニュアンスを含んでいる表情であることを、私は
理解した。そして、私はそこで会話を止めた。
しかし、それはまだ、これから起きる思い出したくもない悲劇──を装った
笑えもしない喜劇かもしれなかったが──の、幕開けに過ぎなかった。
- 167 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:04
- 時間が来たのだろうか、大柄なガードマンらしき男が取り囲んでくる取材陣を
押しのけ、不満そうな声の挙がる中を、田中はのろのろと歩き始めた。それでも
なおマイクを突きつけて質問を投げかけてくる記者は後を絶たなかったが、
田中は眉一つ動かすことなく平然と黙殺していた。
冷たい反応しか返ってこないことなんて行く前から分かっているはずだ。私は
どちらかと言えば、こんな意味のない仕事に駆り出されている記者たちに
同情してしまう。まあ自分がタレントをやっていたころだったら絶対に
そんなことは思わなかったことだろうけど。
二人の男に挟まれるようにして、田中は頑丈そうな黒の外車に乗り込んでいった。
私はなんともいえない気分のまま、テレビを消そうとリモコンを取り上げたが、
その時、テレビの画面に映し出されたものを見て身体を硬直させた。まただ。
フラッシュの光で一瞬映った車内の田中の口元に、またあの笑みが浮かんでいる。
- 168 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:05
- >>150
レスありがとうございます。もうちょっとペースをあげていきたいところですが。。。
- 169 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 23:14
- ありゃ、ochi失敗。。。
- 170 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/16(火) 21:50
- 何処へ向かっているのかが全くわからない。
巨大すぎて、恐ろしさすら感じる。
頼むから完結させてけろ
- 171 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:09
- 田中が「帰還」したのは爆破事故から一週間した後だった。それもまた、
メンバーの追加や、脱退や、分裂や、解散や、突然のロケットの爆発と
同じようにして、何の前触れもなく訪れた。
その当時の記憶は、私自身曖昧な状態だ。急に仕事が多忙になったことや、
人付き合いも増えたこと、他にも、思い出したくないような辛い仕事も
多くあったことで、いつしか無意識的に、外面の私と内面の自分とを切り
はなして生活をしていくことを、覚え始めたころだった。ロクに眠る時間も
取れず、一日中夢と現の中間にいるようなふわふわとした気分で、手帳に
びっしりと書かれた時間の輪切りだけが唯一の現実の足掛かりになっていた。
- 172 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:09
- その時は、明け方だった。私は事務所の待合室のソファーに横になって、
コートを毛布がわりにして短い仮眠を取っていた。半覚醒の状態で扉が
開く音を聞いたときは、電話番のバイト君かと思っていたが、人の気配は
私のもとへつかつかと歩み寄ってくると、私の肩を揺らした。
気怠そうに呻き声を上げながら、私は滑り落ちそうになり、慌てて手すりに
縋り付いてソファから身を起こした。私を見下ろしているのは、咄嗟には
誰だか分からなかった。小柄で地味な服装。ちょっとした小旅行から帰って
来たばかりの中学生のようにも見えた。
- 173 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:10
-
視界をハッキリさせるためになんどか強い瞬きをして、顔に被さっていた髪を
乱暴に掻き上げた。彼女は見慣れた気の抜けたような表情で、寝起きの私の
マヌケな姿を見下ろしていた。私はそれでもまだなにが起きたのか把握し
きれずに、意味もなく口を開いたり閉じたりした。
田中は肩を竦めると、記者会見の時と同じように一瞬だけ口角に笑みを見せて、
「すいません。遅れました」と言った。
- 174 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:10
- お祭り騒ぎは再度開幕された。これまでが悲壮感の漂う陰険な質のもので
あったことの反動だったのか、新しく始まった祭りは狂躁的で、なにより
宗教的だった。ほとんどの人間が無責任かつ無意識にその祭りに参加して
いたように、私には見えた。冷めていたのは、私たち身近な人間と、当の
田中本人だけだったかもしれない。それもまた、今までと同じだ。
自分の身になにが起こったかについて、田中はなにも具体的には語らなかった。
というよりも、語ろうとしてもそれを説明するのに必要なボキャブラリーを
ほとんど持ち合わせていないように見えた。失語症的に、彼女はポツリ
ポツリと意味ありげな単語を零すだけだったが、祭りの燃料としてはそれ
だけでも充分すぎるほどだったのだろう。いや、逆に空白の多い言葉は
いかようにも解釈が可能であって、多くの人々が白い画面に自分の欲望を
好き勝手に投影していくことが出来たのかもしれない。
- 175 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:11
- 本人はなにも説明する必要はなかった。透明な中心を巡って、無数の解釈と
反論と事実と妄想と悪意と信仰と好奇心とが積み重ねられ、その隙間に
田中はその場で思いついた意味のない単語を流し込むだけで、カリスマに
なることが出来た。彼女の言っていた「望ましい」状況がこれであったのか
よく分からない。そもそも本人がそんな発言をしたことを覚えているか
どうかも疑わしかった。
記憶喪失を患っているという解説をもっともらしく語る精神分析医もワイド
ショーに登場していたが、私にはそうは見えなかった。少なくとも、私の
知っている田中れいなは、昔からああいう人間だった……ような気がする。
……
- 176 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:11
- 軽部アナはすでに引っ込んで、若い今人気があるらしい新人さんが担当
する、別のコーナーへと移っていた。
もし昼のワイドショーであれば、田中の発した言葉を巡ってまた解釈の
廃墟が生み出されるのだろう。私はやたら甲高い声の女子アナがハイテン
ションではしゃいでるのを一瞥すると、アタマを抱えてテレビを消した。
さて、どうしようか。そう言えば、私はまだこのつんく御殿のほとんどを
見ていないことを思い出した。せっかくの機会だし、なにかの話のタネには
なるだろうから、皆が寝静まっている今のうちに回っておこうか。別に他の
メンバーと一緒に散策しても構わないのだが、昨晩飯田さんに凹まされた
ばかりでもあったので、やはり一人で行ったほうがよさそうだ。
- 177 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:12
- 廊下に出るとぶらぶらと中央の階段まで歩いた。夜の暗闇の中ではあれだけ
不気味に長く感じられた廊下も、朝の透き通った光の中ではあっというまに通り
過ぎていってしまう。一階からの吹き抜けのエントランスは、前面の採光
ガラスからの光に溢れ、ドーム型天井に描かれたレンブラント風の宗教画と
あいまって、無駄に壮麗で神秘的な光景に見えた。
私は装飾的な欄干に凭れると、しばし圧倒的な光の海へ身を委ねた。考えて
みれば、このような都市から隔絶された場所なのだから、昨晩の夜空など
どれだけ美しかったことだろうか。酔いつぶれて寝てしまったことを今更
ながら後悔する。もっとも、予定ではあと二回の夜はここで過ごせるはず
だったから、そんなに焦る必要はないのだが。
- 178 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:12
- 反対側の客室エリアから、バタンと扉の閉じる音が微かに聞こえてきて、私は
目を開くと姿勢を正して、振り向いた。直角の曲がり角から辻が顔を出した。
「あ、……おはよう」
少し当惑したような表情で辻が言う。
「おはよう。早いね」
私は言うと、軽く手を振った。この挨拶は、気心の知れた人対応用……と
自分の中で分類されている。そんなことを考えて、また自己嫌悪に陥った。
今の仕事に携わるようになってから、どうも数パターンの定型文しか使い
分けていないような気がしてくる。
パッと見た瞬間、辻のことが辻だと分からなかった。まだ完全に目が覚めて
いないからだと思ったが──アタマのハッキリしている状態というのが
分からなくなってかなり経つのだが──、それを別にしても、一度ついて
しまったイメージというのはなかなか拭い去ることが難しい。尤も、私に
とっての辻は引退会見の時のまだ成長途上の姿でしかないから当然なのだが。
- 179 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:13
- それ以降私信で写真なども見せては貰っていたものの、あの濃密な数年間の
あいだに植え付けられたイメージは崩れようがなかった。
さすがに彼女もつんくさんの用意したパジャマは着たくなかったようで、
Tシャツに短パンという私と似たような格好をしている。辻は伸びをし
ながら私の隣に立って、同じようにエントランスからの光に眼を細めた。
横に並ぶと、ほとんど私と身長は変わらない。脚なんかはむしろ私よりも
長いし、顔も小さいんじゃないだろうか。赤い短パンからすらっと伸びて
いる脚をなんともなしに見つめながら、この女性をちゃんと成長させて
やらなかった芸能界はひどく損をしたな、と思わざるを得なかった。
- 180 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:13
- 「なんかさ、あんまりやることないよね」
辻はそう言いながら軽く髪を撫でた。声質そのものは変わっていなかったが、
トーンやリズムなどは全く面影は残っていない。どこへ言っても名前を
言わない限り気付かれることはないというのも道理だ。同世代と比べても、
会話も仕草もずっと大人びている。
以前に電話で会話したときに、冗談半分で、
「横の方に堪ってたのがやっと縦に解放されたんじゃないの?」
なんて言って怒られたことがあったが、周囲からの抑圧でそのように成長が
蓄積(?)されるようなことも、今の辻の姿を見てるとあり得るんじゃ
ないか、と本気で思ったりする。
私は辻の横顔に視線を向ける。しかし顔の造作自体はほとんど変化していない。
「なに?」
「別に」
気楽に話せる相手とは言っても、話題がないのではどうしようもない。
- 181 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:13
- 「ここってテレビ映るんだね」
辻が言う。
「みたいだね」
「さっきまたれいなちゃんが出てたよ」
「……」
- 182 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:14
- 私は俯いたまま口ごもる。辻はそれほど田中のことには興味がない様子で、
「まあでも……よくああいうニュースって途切れないもんだよね」
「そう、だね」
と、今度は反対側のエリアから扉の閉じる音が聞こえた。どうやら私が考えて
いるよりも、みな健康的な日常を送っているのかもしれない。
角から目を擦りながら現れたのは加護だった。どうも私の間の悪さというものは
生まれついてのものなのだろうか? 昨日のパーティーの席での、辻加護の
微妙な雰囲気を思い出して、私は逃げ出したい気分になった。過去に仲が
よかった分だけ、気持ちのすれ違いがあったときの反動は強くなる。
- 183 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:14
- 「おはよーさん」
加護は力のない声で言うと、私と辻を一瞥してすっと目の前を通り過ぎて行き、
これまで気にも留めていなかった西側の、凹型の底辺に当たるエリアに
通じている扉を開いた。それからもう一度ちらっと振り返ると、意味ありげ
に顎をしゃくってからその部屋へと入っていった。
「ふーん」
意味もなく辻が声をあげる。私が振り向くと、辻も振り向いていた。顔を見合わせて、
やがて辻が苦笑を浮かべると肩を竦めた。
- 184 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/02(金) 21:15
- >>170
レスありがとうございます。
今年中の完結を目指します。。
- 185 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/21(土) 14:04
- 今年中ワラタ マターリ待ってます
- 186 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:39
-
私は先に立って加護の入っていった部屋の扉を開いた。そこはだだっ広い
サロンルームで、加護はマッサージチェアにぐったりと横になっていた。
「へーえ、こんなとこあったんだ」
室内を見回しながら、辻が感嘆の声をあげる。私は奥までいってブラインドを
あげると、部屋へ日光を招き入れた。南向きの壁は一面がガラスで覆われて、
格子状になった透明な部分とレンズガラスの部分が煌びやかな日光を招じ
入れている。つくづく、この孤島の閉鎖空間は骨休めをするには至れり尽く
せりに設計されていると感心させられてしまう。
- 187 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:39
-
高い天井に見下ろされたこのサロンには、加護の横になっているマッサージ
チェアの他にも、大きなコンポに膨大な量のCD、大画面テレビにDVD、
ゲームソフト、その他にもビリヤード台や全自動雀卓、部屋の奥には小さな
バーまで用意されていた。脈絡のなさがいかにもつんくさんらしいが、疲れ
の溜まった身体を休めるための空間としては、申し分のない環境だ。
「あーしんどい」
マッサージチェアに揺られながら、加護はかったるそうに言った。
「しんどいなら寝てればいいのに」
壁の一角に埋め込まれた巨大なCDラックを物色しながら、辻が振り向きも
せず小声で呟く。微量の棘が含まれた言葉だ。
- 188 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:40
-
まったく余計なことを……。私は内心で眉を顰めながら、辻と加護へ視線を
やった。加護はぐったりと横たわったまま、無地でつるっとした質感の
天井を見上げている。夜間に使われるための照明は、裏側の一面に埋め
込まれているのだろう。
加護にも、辻の言葉は当然耳に入っているのだろうが、どんな言葉がもっとも
短くかつ的確にダメージを与えられるのか、あれこれと思案している段階
みたいだ。
- 189 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:40
-
まったく気が進まなかったが、この場は一応大人の私がとりなすような
発言をすべきなのだろうか? そう思いながら辻の後ろ姿へ目を向けたとき、
加護がやけに間延びした声で言った。
「毎日毎日仕事でしんどいわ。こんな時でもないとゆっくり休まれへん。
ええな、誰かさんは暇そうで」
その言葉に、辻は振り向きはしなかったけど一瞬表情を強張らせた。
- 190 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:41
-
対照的な二人を見比べながら、つまらないことを考える。
結局、十年前のスタートから折り返し地点──というのが的確なのか分から
ないが──まで、ずっとこの二人はセットで扱われてきたわけだ。私たち
の同期として、一度確立されていたグループのカラーを塗り替えたのも、
どちらか一人ではなくあくまでコンビとしてだったし、ミニモニという
現象も、それ以降の分離してのユニット活動も、要するに、どちらかが
自主的にこの無為なビジネスからドロップしない限りは、二人がバラバラ
にキャラクターを育てていくということは考えられなかった。
というより、求められていなかった。少なくとも、表層を売りさばく側と、
それを消費する側にとっては、そうだったはずだ。
- 191 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:41
-
変わらずにいることは、望み通りに変わっていくことと同じくらいに難しい。
というより、不可能だ。しかし求められるのは変化のない安定した状態で
あって、二人が望まれていたキャラクターの安定は、一人だけに求められ
るものよりも過酷だったんじゃないかと、今では思える。
わずかな変化のずれでさえ、増幅された倍の歪みになって、キャラクター
の崩壊に繋がってしまうのだから、歪みをそれと気付かせないためには、
どちらかが途中で降りることがはじめから必然だったはずだ。それが辻で
あって加護でなかったというのは、単なる偶然だとしか思えない。しかし、
当の二人にとってはそんなことは分からない。
- 192 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:42
-
辻が、芸能界に居残りそれなりに活躍している加護に対して、感情的に
含むところを持っているのは確かだろう。さほど野心溢れるタイプとして
この世界にやってきたというわけではないにしても、あれだけの成果を
残した人間が全てをリセットさせるということは、なまなかな感情で決断
できることではない。そしてそれを一番よく分かっているはずの加護も、
当然辻に対しての複雑な感情を抱いているはずだ。
一時期は、それこそこの二人の区別が付くことがファンになる一線とも
言われたりしたこともあったが、今となっては逆に共通点を見つけること
の方が難しい。
それは だが、辻が一方的に変化しただけで、辻が変化しすぎなのに対して
加護はあまりにも 変化しなさすぎなだけなのだ。お互いにとって、そう
することが正解だったから、どちらかが正しいとかそう云うことではない
と、私は思う。
- 193 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:42
-
実際には、加護にしても、ある程度はそれは成長もしているし、大人びた
部分も見せるようにはなっているものの、それは加護が仕事の場において
求められるキャラクターから逸脱しない程度の、ほんのささやかなもので
しかなかった。それこそ、辻が今に残しているかつての面影と同じ程度に、
ささやかなものだ。
お互いの屈折した感情が、そのまま屈折した自意識に結びついてしまって
いるように、今の二人は見える。仲がいいとか悪いとかじゃなくて、まるで
一人の人間が相反する感情に悩まされるみたいに、二人のあいだの相克は
生まれてきているようだ。
私が簡単に仲裁の言葉をかけられないでいるのも、お互いがお互いを強く
意識しているのが、それこそ当事者たち以上によく見えてしまうからこそ、
というのもあるような気がする。
- 194 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:43
-
……もちろん私にだって私自身のことはまったく見えてはいないのだけど。
二人に対してこうやっていい加減な分析まがいのことをやってしまえると
いうのも、ただ私はこの二人よりほんのちょっとだけ大人になっているの
だと……そう信じたい気持ちがどこかにあるからかもしれない。要するに、
背伸びしているのだ。必要以上に難しい言葉や表現を使いたがる高校生と
まったく変わることはない。
- 195 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:44
-
「でー、今の女子大生はどんな音楽が流行っとんねん。ちっとののたんの
レコメンでも聴かせてくれませんか」
巻き舌を強調した、似非DJもどきの発音で言われる、レコメンというの
は、矢口さんがラジオでよく使っている言葉だった。加護の挑発混じりの
リクエストに、辻は冷たい眼で一瞥をくれると、軽く背伸びして一枚の
CDを引っ張り出した。
セピア色のジャケットはどこか記憶の中に残っているものだったが咄嗟に
は思い出せず、私は事務所がいま必死に売り込もうとしている、田舎者の
アイドル候補生のいつも来ているスウェットの、地味な色調を思い出して
しまっていた。
- 196 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:44
-
スピーカーから流れ出したのはミニモニが世に出た時の楽曲だった。今に
なって聴くと、やたら装飾過多で耳にいたいオーケストレーションだった。
それ聴きながら、加護は大袈裟な声で天井を仰いで笑った。
「自分ギャグのセンスあるな」
「ギャグじゃないよ。だって私たちにとっては大切な思い出の曲じゃん」
辻が生真面目な表情で言う。私には、それが意図した揶揄なのか天然で
そう思っているのか判断することは出来ない。
加護は身を起こすと口を歪めて返した。
「思い出? そらあんたにとってはそうやろな。けどうちにはまだこことは
今の仕事は地続きやねん。まだこんなん求められてやっとるわけや。な?
笑うしかないやろ? もう今年でハタチになんのに、未だにこれやで?」
「いいじゃん。キャラ確立するのって、大変なんでしょ?」
「せやな。ののがやめたんもキャラに挫折したんが理由やもんな」
- 197 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:45
-
加護のセリフに辻はまた顔を強張らせる。うんざりしながら、私は窓際から
取りなすように言葉を投げかけた。
「加護もさあ、朝からそんなイライラしてたらよくないよ。疲れてるのは
分かるけどさ」
そう言いながらアンプのヴォリュームを下げると、今度は辻に向かって、
「辻も、もうちょっと考えようよ」
「ふん、よっすぃーもマネージャー二年もやってればそんな気遣いも出来んねんな」
加護はシニカルな調子を崩さずに言う。私はムッとして顔を上げる。
「なにそれ」
「あ、怒りっぽいんは変わらずか。すまんかったなー」
「……悪かったね」
口喧嘩しても勝ち目はないことは分かっている。私は憮然とした表情で
ステレオを止めると、適当にCDを物色し始めた。
- 198 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:46
- 「いやいや、よっすぃーはカッコええよ。男前やで、マジで。うん、カラダ
張って梨華ちゃん守ってんねんからな」
へらへらと言葉を続ける加護に、私は手を止めると無言で睨み付けた。
加護は肩を竦めて、またマッサージチェアにだらしなく身体を放り出して、
「怖い怖い。そんなんやとタレントから信頼されへんで」
「すいませんね」
「あいぼん、なんでそんなに突っかかるの?」
堪りかねたように辻が声をあげる。が、加護は表情を変えずに、鼻の下を
撫でると目を見開いて私と辻を交互に見つめた。
「うちはいつも通りやけどな。変わったんは、二人やんか」
加護の言葉には、私も辻も応えることが出来なかった。変わることが悪なのか、
変われないことが悪なのか、私にも、多分二人にも判断することは出来ない
はずだった。
- 199 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:46
-
気まずい沈黙が覆ってしまう前に、私はとりあえずテレビのスイッチを入れた。
結局こうして別の声に頼らないと空気を変えられないというのが口惜しかったが。
画面には、どこの局かは分からないが、ワイドショーではなくドラマが映し
出されていた。サロンのあちこちに設置されている小さなスピーカーが、
サラウンドで安っぽいBGMを大袈裟に鳴り響かせていた。
真面目くさって演技をしている役者の誰一人として知っている顔はいなかった。
時間帯からすると、昼ドラではなく再放送なのだろうが、比較的多くの番組を
チェックしている──というより、させられている──私にも全く覚えのない
番組だった。
- 200 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:47
-
「アホくさ」
一分間だけ黙ってドラマを鑑賞しての、加護の感想だった。残念ながら、私も
それには全面的に同意せざるを得なかった。
「他になんかやってないの?」
「さっきまたニュースにれいなちゃんが出てたよ」
いつの間にか柔らかそうなチェストに座り込んでいた辻が、薄く笑いながら
言った。加護は田中の名前を聞くと、軽く口を歪めた。実際、理由がなんで
あれ「元モーニング娘。」で今もっとも注目されているのは田中であって、
加護も多少はそのことを気にかけずにはいられないのだろう。が、すぐに
また平静の表情を取り戻すと、
「そっか。じゃそれ見ようや」
- 201 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:47
-
「ああ、うん。えーと、リモコンは……」
気が付いたら一人だけ立っている私が、またしても雑用係を任せられてしまって
いる。まったくなにをやっているのやら、どうしようもなく自己嫌悪がまた
沸き上がってくるが、それでも身体は積極的に動いていってしまう。
と、その時右隅の壁に埋め込まれているスピーカーから耳障りなハウリング音が
吐き出された。それはあっという間に全てのスピーカーに感染し、サロンは
四方八方からの金切り声で埋め尽くされた。
- 202 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:47
-
「なに? これちょっと」
「やかましい! なんとかせいや!」
なぜ私が責め立てられているのか分からないが、放っておくことも出来ない。
両耳を押さえると、ひとまず電源を落とそうと慌ててテレビの方へ駆け寄って
行った。サウンドとシンクロするように、安物のドラマの画面も、ギザギザの
ノイズによって無惨に引き裂かれている。
不思議と既視感のある光景だった。電気的な混乱、混線……機械に囲まれて、
常にこうした恐怖と向かい合っていたような……。抽象的な恐怖は、夢の
中の記憶のようにも感じられた。
- 203 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:48
- 「よっすぃー!」
加護の声に、私が腕を伸ばした瞬間、全ての混乱は突然止まった。スピーカー
は沈黙し、テレビ画面は真っ黒い虚無のみを残してチリチリと静電気を
撒き散らしていた。
「……ん? 消えた? よっすぃーが消したんか?」
加護が首を竦めたままの姿勢で言う。私は困惑した表情で振り返ると、
「や、私はなにも……」
「勝手に消えたの?」
辻は不快そうな表情でこめかみを押さえている。そう言われても、私にも
なにが起きたのかまだはっきりとは分かっていない。
その時、客室エリアの方向から、先刻とは別種の金切り声が響き渡った。
安倍さんの声のように聞こえた。が、ノイズの残滓がまだ室内を飛びかって
いて、それがたまたまそのように聞こえたのかもしれない。
私は当惑した表情で辻と加護の表情を見やった。私の幻聴ではないようだった。
- 204 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:48
-
「いまの声って……」
辻の声は微かに震えている。加護は横目で辻を一瞥すると、複雑そうな
表情で口を歪めた。
なにかの異変が起きていることは確かなようだ。私は自分でも驚くくらい
冷静に考えながら、早足でサロンを出た。その時、目の前をなにかが横切った。
液晶の画面をかき乱していたノイズの断片のように見えた。やはり、残滓は
まだここのあちこちに浮遊しているのだろうか。あるいは、ついさっき
聞こえてきた悲鳴の反響だろうか。
手の甲に鋭い痛みを感じた。視線を落とすと、ナイフで撫でられたような
細い傷跡が残っている。ぼんやりと見つめていると、一筋の血が流れ落ちた。
- 205 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:49
- 「……」
腕を上げて、傷口を舐めた。痛みは感じなかった。そこから、ノイズが
血管を通じて、全身に浸透していくような感覚が広がっていった。
「なにしてん」
加護に背中を押されて、ハッとして私は彼女の顔を見つめた。
「……大丈夫か?」
「う、うん」
私は頷くと、扉に手を伸ばした。死体のように白い手の甲から、傷跡は
消えていた。
- 206 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:49
-
邸内はどこも光で満ち溢れているように見えた。どういう設計になって
いるのか分からないが、最も効率的に採光し隅々まで照らし出されるような
構造がここには隠されているのだろう。ちょうど、夜になり照明を落とす
と全ての場所が完全な闇に包まれるのと同じように、だ。
光の中へ歩き出すと、闇の中で澱んでいた血液が全て蒸発していくような
感覚になる。浮遊感。雲の上を歩いているような。
廊下の突き当たりを曲がる。それぞれの部屋の扉が開いて、みな困惑気味に
周囲を見回していた。こういう状況でどう対処すべきなのか、ありふれた
ミステリーなどで何万回も反復されているはずなのに、誰も分からない
ように見えた。
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:50
- 「ナニいまの」
長い髪をうっとおしそうにかき上げながら、側にいた飯田さんが言った。
二日酔いが残っているようで、気分悪そうに繭を顰めている。
「安倍さん……ですよね?」
確認するように、訊いてみた。なんとなく自分の感覚が信じられなくなって
いる。ここに来てからとりわけそう思うようになっていた。
「うなされでもしたんだろ」
そう言いながら横を早足で通り過ぎていったのは、矢口さんだった。
寝起きの顔ではなく、メイクも済ませてあった。驚いた。
「おーい、なっち大丈夫かー」
間延びした声で、奥の突き当たりにある安倍さんの部屋に呼びかけた。扉は
閉じられたままで、何の反応もない。
- 208 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:50
-
「おーい。また寝ちゃったのかー」
扉の前で呼びかける矢口さんを慌てて追った。他のみんなも、ぞろぞろと
集まってくるのが背後から分かったが、誰も切迫感なんて感じていない
ような雰囲気があった。半分が好奇心で、残りの半分は厄介事を疎ましく
思うようなイヤな空気からなっている雰囲気だ。
「なっちー」
がちゃがちゃと鍵のかかったノブを回していると、内側から鍵の外れる
音が聞こえた。矢口さんが身を引くと、扉が開いて安倍さんが顔を出した。
アタマはぼさぼさで、腫れぼったい瞼の隙間に充血した目が見える。左手で
乱れたパジャマを整えながら、部屋の前に集まったみんなの顔を見渡した。
- 209 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:51
- 「あ……おはよう」
「おはようじゃないだろ」
条件反射のように矢口さんが突っ込んだ。さすがに現役だけあって反応が
早い。感心させられる。
「なにがあったんだよ? ただごとじゃないぞさっきの悲鳴は」
「そうだよ」
すぐ後ろからそう言ったのは辻だった。さて私はなんて言うべきか、と
考える間もなく、安倍さんはまたスイッチが入ったようにアタマを激しく
降り始めた。
「すっごい、なんか分かんないけど怖いのがいたの。さっきまで、部屋に。
……」
「夢だろ?」
「違うよっ!」
鋭い声で返す。安倍さんのこんな声を聞くのは久しぶりだ。
部屋を飛び出すと、一瞬どこに行こうか逡巡したのか、小さな虫を襲う寸前の
飼い猫みたいに固まった。が、すぐに、一番無難な人間と判断したのか、
たまたま近くにいたからか分からないが、私の腕を掴むと、強く引き寄せ
られた。
- 210 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:51
- 「あの……大丈夫ですか」
困惑気味に言う。まだなんとなく目がチカチカしている。血に入り込んだ
ノイズが毛細血管の中を飛びかっているのだろうか。
「なんやねんもう……」
聞き慣れた声が離れた場所から聞こえた。振り向かなくても、不快そうに
顔をしかめた中澤さんが見えるようだ。
「あの、安倍さんが……」
そう説明しているのは梨華ちゃんか。彼女の眉の形もまた、ありありと
見える。
ずっと前に、毎日のようにこんな光景を見ていたような気がする。そう
考えると、少しだけ落ち着いた。
- 211 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:52
-
「ちゃんと説明しろよ」
矢口さんがきつい口調で言うのに、周囲の数人が無言で同意したようだ。
安倍さんは、誰かが慰めの言葉を期待しているわけだ。私は彼女のアタマを
見下ろしながらそのことに気付いた。私以外もみな気付いているのだろうが、
誰もそんなことを言い出す気配がなかった。みな、無言で静かな朝を乱された
ことへの抗議を安倍さんへ送っていた。
「変な……ボールみたいなの。水晶玉みたいな……」
戦慄が走った。背中の真ん中、脊髄を超高速で貫いてこめかみから抜けて
行くような。
眼球だけを動かして、周りの皆の反応を伺う。訝しげな表情で、お互いが
牽制し合うように無言のやりとりをしている。視線が波のような軌跡を
残して、染み出した残像が辺りの空気を染めていくようだった。
- 212 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:52
- 「はあ?」
誰の声だろう。飯田さんか。安倍さんは人差し指をなにかに突き刺すように
伸ばして、部屋に向かって振り回した。
「あんなの部屋になかったもん! すっごいやな……いやなものが見えた。
夢じゃないよ。絶対。起きて時間も経ってたし」
「よっすぃー」
急に声をかけられて、私はここでいきなり弾劾裁判の被告にされたら面白い
かもしれないな……などと下らないことを思いついていた。
振り返ると、ごっちんがポケットに手をつっこんで立っていた。地味な
色のスウェットとジャージで、動きやすそうな格好をしている。
「一応……調べないと」
「ああ、うん」
- 213 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:53
-
それが私の役回りなのだろう。容疑者とどっちが楽なのか、よく分から
ないけど、多分どっちでも自分なら納得してしまいそうだ。
「いいですか?」
安倍さんの肩に手を置いて言う。安倍さんはそろそろと、掴んでいた私の
腕を放した。私が無意識に袖についていた皺をならすと、安倍さんは少し
ムッとしたような表情を浮かべた。
- 214 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:53
- このシチュエーションに最もふさわしくないBGMは、一体なにがふさわ
しいだろう。古畑任三郎のテーマあたりだろうか。お喋りな探偵。誰もが
口を閉ざしている中に、得々と知りたくない事実を隅々まで開陳してくれる、
自分のことが大好きな物語の語り手だ。
皆にも見えてるはずだろう。これだけ光が溢れていれば、見たくないもの
だって見えてくるはずだ。採光の良い室内に二人で足を踏み入れながら、
私は目を細めた。
- 215 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:53
- カーテンが開いているのを除けば、ほとんど私の部屋と変わらない。適当に
ものが散らかって、一晩だけの生活感がわずかに残されている。
「なっちさっきなんて言ってたっけ」
緊張感の欠けた口調だったが、あまり気休めにはならなかった。ごっちんは
どんな状況でも同じように私に訊いてくるって分かっていたからだ。
「水晶玉みたいな……」
「あ、そうだった」
部屋の真ん中まで進むと、ごっちんはゆっくりと一周して全体を見渡した。
眩しさから、私と同じように目を細めている。私は、失礼かと思ったが、
バスルームの扉を開いて中を改めた。異変はない。間取りや内装は、私の
部屋と同じだ。
- 216 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:54
- 「なんかあった?」
ごっちんへ声をかけてみる。少し間をおいてから、
「なんもないみたい」
という間延びした声が返ってきた。
- 217 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:54
- 「どうだー? なんか変な生き物でも見付かったか?」
どこか笑いをかみ殺しているような口調で矢口さんが声をかけてきた。
けど、言葉の端には今の状況に対する恐怖が感じられた。それを押し殺す
ために、わざとからかうような態度を取っているのだろう。集団の恐怖は
分与されるもので、一人にそれを押しつけてしまうのが一番いいのだ。ここ
では、安倍さん一人の勘違いということにしてしまえば、それに越した
ことはない。
「いないねえ」
私と入れ替わるようにして部屋の入り口へ向かったごっちんが返している。
私は部屋の奥へ進むと、ベッドに面した壁を見つめた。私の部屋と同じ
ように、そこにもやはり奇妙な絵画が掛かっている。しかし、夜の闇の
中で歪んだ照明に明るみに出されたものとは、大分印象が異なっている。
- 218 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:55
- この島を中心に置き、そこから放射状に歪んだ図形が拡がって行っている
地図……それは同じだ。微睡みながら見た時のようにそれは不規則に蠢きは
しなかったものの、始めに見たときのどこか禍々しいイメージはやはり
共通していた。黒魔術に使われる図形のように、要所に象徴的な楔が打ち
込まれているような、幾何学的なのに不思議と具象的ななにかを浮かび
上がらせて来るような空気を纏っている。なんの変哲もない……とは言え
ないかもしれないが、具体的ななにかが描かれているわけでもないこの
地図から感じられる不快さは、一体どこから来るものなんだろう。
あるいは、独特の歪みや染みのようにつけられた濃淡が、記憶の底にある
光景を無意識に刺激してくるからかもしれない。直接ではなく、じわじわと、
サブリミナル映像のように、少しずつ刺激を与えて、毒を注ぎ、腫瘍の
のように転移させられていく記憶……。
- 219 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:55
- 「どうかした?」
ごっちんの声に、私は目を瞬かせながら振り返った。いつの間にかすぐ
側まで歩み寄ってきている。部屋の外からは、散発的に不安げな声が漏れて
来ている。形のない言葉の塊を沈黙と一緒に混ぜ合わせたような、奇妙に
重たい空気。それを引き裂くようにして、矢口さんの甲高い声が苛立たし
げに投げかけられてきた。
「どうしたんだよ。とりあえずなんか報告してくれよ」
「はい、分かりました!」
イヤな空気を押し戻すように、スタジオで使うような喉を開いて返答した。
ごっちんは一瞬驚いたように目を見開いたあと、薄く笑って肩を竦めた。
「いいね」
一言そう呟くと、先に立って部屋を出ていった。
なにをいいと感じたのか、いまいちよく分からない。
- 220 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:55
- 再び、全員が正餐室へ集まっていた。
苛立っているのは空腹だからだろう、と誰が言いだしたわけでもないが、
全員がまず朝食を摂ろうということに関しては、無言で可決が取られた。
昨夜とは違い、全員が厨房に入り、自分のために食事を準備していた。狭い
場所ではなかったが、さすがに全員が右往左往するとイヤでも身体をぶつけ
あうようになってしまう。そのたびに、不快そうな声がそこかしこであがり、
すぐに消えていった。
- 221 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:56
- 保存用の大きな冷凍室には、真空にパッキングされた調理済みの食品が
無数にしまわれていた。種類も、数も、申し分のない量がある。冷凍室を
覗き込んで軽く口笛を吹いた保田さんは、「なんかこのまま半年くらい生活
出来そうだね」とポツリと漏らした。
私が考えていたこともそんなことだ。不思議と、それはぞっとさせられる
想像だった。逆らうことの出来ない意思の力で、全ては予定通りに自体は
進められているといったような。
死は別の未知の場所へ向かうことではなく、過去へ戻ることだと臨死体験
の本で読んだことがある。光のトンネルの中に見えるのは、懐かしい人々
の顔であり、記憶の中にしかない失われた風景なのだという。それならば、
未知の発見もなくただ同じ一日をすり減らして反復しているだけの私は、
すでに死んでいるようなものだ。孤島で過ごそうと、はるか彼方の星で
すごそうと、変わることはないのかもしれない。
- 222 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:56
- 湯煎の水蒸気で、白く曇った厨房を潜り抜けると、自分の分の皿を持って
正餐室へ出た。飯田さんと保田さん、ごっちんと辻は、すでに厨房を出て
先にテーブルについていた。微妙な距離を取って、四人とも無言でいるのに
合わせて、私も大きなテーブルの一角に、黙って場所を取った。
適当に選んできたのは、普段口に入れることなど想像も出来ないような
鳥肉を使った料理だった。野菜で包まれて、浸み出た汁が皿に薄く溜まって
いる。雉だかなにか、狩でしか捕まえることの出来ない、高価な食材だろう。
加えて、缶詰から取ってきたベーコンの浮いたスープ。手を伸ばすと、テーブル
の真ん中に置かれた籠から、白くて丸いパンを取ろうとした。
- 223 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:57
-
「向こうにまだ残ってるみんなは、怖がってるんだろうね」
私に向かってか、おかしそうな口調で辻が言った。斜向かいに座っている
飯田さんが顔を上げると、不思議そうな口調で、
「なんで?」
「固まってないと動けないんだよ。たぶん。だからみんなで一緒に出て
来ようって思ってるんだ」
なるほど、そんな見方もあるわけか。ということは、ここにいる四人は
なにも恐怖は感じていないか、あるいはそもそも関心がないのか。
- 224 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:58
-
「じゃあ犯人はうちらの誰かだね」
ごっちんが冗談めかして言った。飯田さんはなにか言いたそうに口を尖らせ
たが、なにも言わなかった。保田さんは苦笑すると、
「まあそうかもね」
と投げやりに返した。
- 225 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:58
-
「……」
私は黙って椅子を引くと、パンを齧ってからスープを一口含んだ。加熱し
すぎて舌に痛い。中途半端にぬるいのはイヤなのだ。私みたいなタイプは
料理に向いていないらしい。
「一番いい温度って言うのはある一点に確実に存在するんですね」
料理研究家……と今は名乗っているが、昔はエロVシネ専門の俳優だった、
ハゲ頭の巨漢が、知ったかぶった顔つきで言う。薄い衣装の上にエプロンを
つけたアシスタントの梨華ちゃんが、殊勝に頷いている。ワイドショーが
終わり、夕方のちょうど夕食の準備に取りかかるにはちょうどいい時間帯に、
BGMがわりに流すにはもってこいの番組だ。
- 226 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:58
-
「しかし、実はそこからちょっとずれたあたりの温度が一番気持ち悪い。
ですから、ずっと熱くしちゃったり、逆に冷たくしちゃうほうが楽では
あるわけです。でも、一番いい味でいただくには、無精しないでちゃんと
温度を見てあげないといけないんですね」
「なるほどー」
笑顔で頷く梨華ちゃん。続いて実演です。画面越しに見るのと、スタジオの
隅で遠目に眺めるのとでは、当たり前だけど大分空気が異なる。一旦全部
収録を終えたあと、全てをCGで再現させたような無機質さ。この四角い
窓は二通りの効果を持ったフィルターだ。全てが物語になってしまうか、
全てが静止したガラクタになってしまうか。中間はない。
「なにを見てるんだ?」
高い位置にある小さな窓を見上げていた。空が真っ赤なのは、夕日の色
なのか、いつの間にか地球の空はそういう色になってしまったのか、よく
分からない。
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 00:59
-
視線を戻す。また見飽きた顔と向き合う。初老の、白髪の男。頭につけた
油を顔面にまで塗りたくっているようだ。古びた灰色の机に置かれた照明
と、窓から差し込む血のような光だけが光源だった。
「別に」
「そうか」くたびれた口調も相変わらずだ。「じゃあ質問を変えよう……。
あの時、なにを見ていたんだ?」
「……」
私はなにかに引っ張られるようにして、ふらふらと立ち上がった。背後の
影に消えかけていた男が身を乗り出しかけたが、初老の男が目で制した。
窓を見上げる。二メートルくらいの高さから赤い光が射し込んで来ている。
私が覗き込む寸前に、確かになにかが身を隠したんだ。私がこの部屋に
来るとき、そいつはいつでも顔を出して、ここを覗き込んでいる。
- 228 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:00
- 私は見ているんじゃなくて見られる側なんだ。なのにみんなは逆だって、
そう思いこんでいる。……なぜだ。
男を振り返る。机の上で腕を組んで、じっと正面を見据えている。私の
方は見ていないが、椅子に戻ればまた視線がぶつかるだろう。
背後に立つ男はまたマネキンのように静止している。私がなにかを起こ
さない限り、動く必要はないのだ。死体と変わらない。そして、私が対面に
座っていないときの男もそれは同じなのかもしれない。
男の視線の先にある壁。影のような染みがある。椅子に座った私が、拳銃で
頭を撃ち抜かれたら、ちょうどあんな風な跡が残るだろう。
- 229 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:00
-
「もう夜なんですかね」
椅子に戻ると、私は世間話のように軽く言った。
「さあな」
無表情のまま、男は返す。ここにいる二人には、時間の流れなんて存在
しないのかもしれない、とふと思う。
「分かった」無言でいる私に、男は頷く。「今日からお前に尾行をつけよう」
なにを今更、と思う。尾行なんてとっくにつけられているのだ。気付いて
いないとでも思っていたのだろうか。
意味のないことだとは分かっているが、わざと強い音を立てて、椅子を
蹴って立ち上がる。
- 230 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:00
- 「わたしもう帰る!」
鋭い声と樫財の椅子が床にぶつかる音に、驚いて顔を上げた。すでに全員が
テーブルについて、話し合いを始めていたらしい。動揺しているのを気付
かれないように、目だけを動かして皆の様子を窺った。
安倍さんが紅潮した顔で、テーブルに手をついて立っている。右隣に座って
いる辻が、おどおどと声をかけた。
- 231 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:01
- 「安倍さん、落ち着いて」
「みんななにも気付かないの!? おかしいもん、絶対、ここ」
ああ、この状態になってしまうともう止められないな……と私は他人事の
ように思うが、しかしこの中で宥める役はといえば、自分しかいないこと
に思い当たって、また暗澹たる気持ちになった。それぞれにとってふさわ
しい役回りがあることなんて、気付かないでいる時の方がずっといい。
「帰るっていっても、どうやって帰るんですか」
私が言うのに、中澤さんも困ったように付け加えた。
「今日の午後には……彼が、つんくさんがクルーザーで来る予定やけど……」
- 232 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:01
- なるべくなら面倒事に関わり合いになりたくないという時の表情と口調だ。
今の仕事をするようになってから、いろんな場所でしょっちゅう見かける
ようになった。
やはり、中澤さんももう守る側の人間に入っているわけだ。当たり前だが。
ようやく手に入れた幸福を守ろうという気持ちは、否定なんて出来ない。
「……分かった。じゃあそれまで待つよ」
全員から向けられる視線が辛くなったのか、安倍さんはボソッと呟くと
しぶしぶと椅子を戻して座り込んだ。気まずい沈黙だけが残される。
- 233 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:02
- 私はスプーンを握りなおすと、スープを一匙掬った。息を吹きかけてから、
もうすでに冷め切っていることに気付いた。
気まずい沈黙が、例えば以前の私たちの楽屋に入り込んだとき、どうして
いただろうか。思い出そうとしたけど、無理だった。まさか一度もそんな
ことがなかったはずはないのに、不思議だ。
「あのね」
不意に口を開いたのは、意外なことに飯田さんだった。が、彼女がこの
状況で雰囲気をよくする一言を投下できるとは、申し訳ないが思えなかった。
- 234 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:02
- 「せっかく呼んでくれた裕ちゃんに……つんくさんにもだけど、悪いと
思ったから、言い出せないでいたんだけど」
おずおずと切り出すのに、中澤さんが眉間に皺を寄せて目を向けた。
「気にすんな、そんなこと」
「私も見たの。さっき……なっちが言ってたのと同じようなのを」
全員の関心の有り様が、面白いように拡散したり集中したりするのが、微妙な
空気感から伝わってくる。全員が飯田さんの言葉に反応している。
- 235 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:03
- 私にとって一番自然な反応は、どの程度の動揺なんだろう。もし今この
瞬間に飯田さんではなく私を見ている誰かがいれば、なにかに気付いた
かもしれない。
そんな人間がいるとは思えなかったが。
- 236 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:04
- >>185
レスありがとうございます。
- 237 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/11(木) 01:04
- ochi忘れた。。。。
- 238 名前:名無し読者 投稿日:2004/04/01(木) 06:10
- 続き期待sage
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/06(木) 08:03
- 先が気になりますね
- 240 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:57
- 食事を終えても、自室に戻ろうなんて考えは全く起きなかった。それは
他のみんなも同様だったみたいで、微妙な距離感を保ったまま、正餐室で
無為な時間を過ごしていた。もし予定通りに、つんくさんがクルーザーに
乗って颯爽と姿を現したら、状況が好転してくれるという淡い望みでも
抱いているんだろうか。予定が守られないことなんて、この世界では日常
茶飯事の出来事なのに。まあ、ミスがあっても自分が責任をとらないで
済む芸能人にとっては大した問題じゃないんだろう。
安倍さんはもちろん、中澤さん、矢口さん、市井さん、梨華ちゃん、加護の
六人は、明らかに単独行動をとるのを避けているようだった。誰が言い出す
こともなく、全員で一塊りになって、厨房へ後かたづけに行き、部屋へ
ぞろぞろと戻ってきた。誰かがトイレに行くと言い出せば、一斉に立ち
あがるんじゃないだろうか。大の大人たちのそんなバカっぽい光景を想像
して、私は少し笑ってしまった。
- 241 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:58
- 「なにがおかしいの」
見咎めてそう言ってきたのは梨華ちゃんだった。不安を隠しきれずにいる
様子がありありと伝わってくる。この調子じゃ演技派女優は一生無理だな、
……なんて今更ながらに思う。別に求められないことをやる必要もない
とは思うけど。
「いや別に」
しかし、この緊迫した空気が妙におかしくて、私は笑いが止まらなくなって
しまった。右手で口元を隠して俯いたが、全員の非難がましい視線が集まって
いるのが嫌でも分かる。
- 242 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:58
- 「ごめん……ちょっと、表出てくる」
笑ってはいけない場所、例えば葬式とかで笑ってしまうというのは一種の
精神病だって聞いたことがある。そう言われても、出て来てしまうのはどう
しようもない。
私は音を立てないように廊下へ出ると、ようやく空気が開放されたような
気分になって深く息を吐いた。久しぶりといえば久しぶりの、あの殺伐と
した雰囲気はやはり耐え難いものがある。
しかし、その原因の一端は私にあることは、確からしい。自分で気付かない
うちに、いつの間にか事件に巻き込まれている。これまでと全く同じだ。
学習能力がないのか、そもそもそういう星のもとに生まれついてしまったのか。
- 243 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:58
- しかし、ここに来てなにが起きたというのだろう? なにも起きてない。
ただ全員がなにか奇妙なものを見たということ……それだけが一致している
というだけだ。そうした符号が不吉に感じられるとすれば、それはこの場の
空気が悪いと言うだけの話で……誰の責任でもない、はずだ。
気になることはある。それこそ、全員が目撃したという、正体不明の球体。
私が半年前から「常用」しているそれと、無関係とは思えなかった。
危険なものだという自覚がないわけではなかった。正体は全く不明だったが、
あの透明な立方体に閉じこめられた球体が、……ある種のドラッグに近い
幻覚作用を持っていることは確かだ。しかし、肉体的な影響は今のところ
なにもなかったし──むしろ慢性的な睡眠不足だったそれ以前よりも、健康
状態はマシになっているはずだ──、まして、なにかのウィルスみたいに
そこらに増殖して悪夢を伝染させているなんて、考えられない。少なく
とも、ここが常識の通用する範囲の世界であるなら。
- 244 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:58
- 自室に戻って確認すべきだろうか。不思議と、そうしなければならないような
気分は、正餐室を一歩出た瞬間から高まってきていた。誰か、他の知らない
人間から操作されているような感覚は、今みたいなアタマのハッキリした
状態では、珍しいことだな……とぼんやりと思った。
と、扉の側の壁にもたれ掛かっていた私に、話しかける声があった。
「よっすぃー、大丈夫?」
辻だった。私と同じ目線を見返すと、分かっていても妙な違和感を感じて
しまう。固着したイメージというのは恐ろしい。
「なにが?」
「や、なんか目つきがイっちゃってたから……」
苦笑しながら辻が言う。私は肩を竦めると、
「なんだよそれ」
「昔よくそんな感じだったなーって」
「そうか?」
自分の目つきなど知ったことじゃない。私は目を閉じると、軽く瞼の上
から揉みほぐした。視神経を通じて、直接脳をシャッフル出来たらかなり
気持ちいいだろう……やりすぎると大変なことになりそうだが。
- 245 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:59
- 「昨日はけっこうよく眠れたから。普段寝不足気味だと、逆に寝過ぎたら
目つきが悪くなるのかもしれない」
「そんなことないと思うけど」
なんとなく距離を感じる口調。しかし、今の私にはそっちの方がありがたい。
平静を保ってくれている相手ではないと、落ち着いて話すことも出来ない。
「あのさ」
私は辻の肩に手を置くと、扉から離れた場所まで誘導していった。辻も
なにも言わず、ゆっくりと歩いていった。
- 246 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:59
- 二階の、客室の並ぶ場所へ続く飾り階段の前まで来る。吹き抜けの天井から
目の眩むような日光が導かれて、この場をどこか神聖な場所に見せている。
もともと、そうした意図を持って設計されたものなのだろう。強い太陽が
降り注ぐ孤島に、それを全て受け入れるサンルーフ、壮大な宗教画を一面
に描いているのも、始めて見たときは俗悪な成金趣味としか感じられなかった
のが、全ての要素が集められると不思議と崇高な物にすら見えてきてしまう。
屋内は邸に降り注ぐ光の重力を受けて全てが張りつめているように感じ
られる。屋根を、梁を、柱を圧して、邸中の人やものがそれに感応して
緊張を湛えているようだ。
「外でよっか」
私が考える間もなく、辻はそう言うと左の扉の方へ向かった。
「……そうだね」
恐らく、その方がいいのだろう。
- 247 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 00:59
- カラッとした空気が、肌に心地よかった。丸く仕切られた前庭を無数の
弧を描く花壇で迷路のように細分化している風景は、たっぷりと自然の
残されている空間を人工的で幾何学的なものに見せていた。平等院に描か
れている植物文様、宝相華というんだったか、あれをもっと抽象的かつ
数学的にしたような模様だった。
アスファルトの上に敷かれた赤褐色のタイルや、花壇を組んでいる合成
樹脂の煉瓦などが、野放図に自然の拡がっていくのを抑制している。遠目
に見れば、それは複雑な回路図のようにも、高度な概念を示す象形文字の
ようにも見えるかもしれない。
- 248 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:00
- 花壇には色鮮やかな多くの種類の花が開き、その間をチョウやハチといった
虫たちがせわしなく飛び回っていた。強くもなく弱くもない日差しが、そんな
落ち着いた自然の営みを柔らかく照らし出している。
私は空を見上げた。青く透き通っていて、雲一つない。このままじっと
目を凝らして見つめ続けていれば、宇宙の果てまで見通せそうなくらいだ。
穏やかな風が静かに海面を揺らし、潮の匂いを届けてきている。かすかな
音は、静かに惑星が運動している音のようにすら聞こえてくる。
- 249 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:00
- ふと、ここはすでに地球を離れていて、宇宙の最果てにポツリと浮かんで
いる島なんじゃないか、というような想念に囚われた。知識として私たち
は宇宙空間がつねに夜だと知っている。が、実際に宇宙へ出てみればそれ
は晴れた空のように青く透き通って見えるかもしれないし、一面は海の
ように緩やかに揺れているのかもしれない。
両手の人差し指と親指を伸ばして、空へ向かって長方形を作ってみた。
こうして切り取られた空間の中に、どれだけの星があり、どれだけの人々
……知的生命体と言った方が正確か……が生活しているのだろう。想像
しただけで気の遠くなるような話だ。
- 250 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:01
- 「天気いいね」
辻がそう言いながら私の背中に手をやった。
「大丈夫? ホントに」
どうやら、私は空を見上げたまま花壇へ仰向けに倒れ込みそうになっていた
ようだ。私は照れ隠しにアタマを乱暴に掻いた。髪が一本抜けて、指に
からみついている。薄い茶色が根本へ近付くにつれて黒く沈んでいっていた。
「なんかねー、毎日ずっと仕事続きだったから、一日休んだだけで一気に
ボケがきちゃったのかも」
「……仕事、根詰めすぎじゃないの?」
- 251 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:01
- 心配げに眉根を寄せる。辻にこんな風に気を遣わせてしまうとは。
「まだ若いからー」
おどけた口調で言うと、話を戻した。
「で、なんの話だっけ?」
「ん……」
辻は口ごもると、今私たちが出て来たばかりの邸を振り返った。
装飾的で華美な宮廷風の内装に比べると、外観は驚くほどシンプルで、機能的
とすら言えそうだった。鋭角的な直線と上方からの流線を描くようななだらか
な曲線が、不思議とメカニカルな印象を与えている。
「よっすぃーさ、ここの裏って見た?」
「ああ……」
私は、今朝バルコニーから見下ろした裏庭の風景を思い出した。
「趣味の悪い彫像が」
苦笑しながら言う。が、辻は不思議そうな表情で私を見つめていた。
- 252 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:02
- 「彫像?」
クビを捻りながら辻が呟いた。私は辻のほうを振り返ると、
「うん。つんくさんと中澤さんの」
「……そうだったっけ」
腑に落ちない表情だった。私は今朝見た光景を思い出してみる。記憶違い
や見間違いなんてことはないはずだ。裏の中庭には、ギリシャ彫刻もどきの
肉体美を見せびらかしているような、全裸の二人が噴水の真ん中に立って
エロティックな絡みを見せていたはずだった。
- 253 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:02
- 「確かそうだったと思うけど」
「噴水でしょ? 真ん中に、悪魔みたいのが立ってたけど」
辻が邸を指さしながら言った。ここからはもちろん、中庭の光景は見ること
は出来ない。
「ウソだよ」
「ウソじゃないよ、見たもん」
辻は少しむくれて言い返した。確かに、辻が私にそんなウソをつく理由なんて
ないのだから、と言うことは、辻の言っていることが正しいということになる。
もっとも、私が辻にウソをつく理由もまた、ないのだけど。
あるいは、辻が悪魔に見えたものが私にはつんくさんと中澤さんに見えて
しまったとか。そんなバカな。
- 254 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:02
- 「……まあ、実際見てみれば分かるし」
私はそう言うと、裏へ続く曲線を描いた通廊を歩き始めた。辻はどこか
心配げな表情で私を一瞥すると、横に並んだ。裏庭へは、直進して邸へ
戻り、そのまま裏へ続く扉へ向かった方がはるかに近道だったが、この
島の未踏の領域を一通り通っておくのも悪いことじゃない。そう思った。
邸の側面を取り囲んでいる通廊もやはり曲線を描いており、邸との間は
果物の切れ端みたいな形にスペースが残されていた。表の庭園と同じよう
にやはり花壇が設けられて、春の陽気の中で色とりどりの花を咲かせて
いた。ただ、邸の影となっている部分のためか、心なしか花たちもぐったり
としているように見えた。
- 255 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:03
- 反対側は多少均されただけですぐに森林へと繋がっている。鬱蒼とした
茂みの中は昼間でも薄暗く、夜中に蓄えられた闇をじっと保持し続けて
いるようだった。場所を争うようにしてそれほど大振りではない木々が
建ち並び、地面に近い場所には羊歯類などの草が密生していて、足を踏み
いれた途端に蚊の大群に襲われそうな雰囲気だ。
目で見ただけでは分からなかったが、岸へ向かってゆるやかなスロープを
描いているはずだった。ここへ上ってくるときに歩かされた階段の傾斜
ぐあいから考えると、森の面積はかなりの広さがあるのだろうと想像する
ことが出来る。邸とその周辺を覗いたら、この島はそれ自体が深い樹海
といってもよさそうだ。どのような自然環境で、樹海がそのまま海の真ん中
へ切り取られて来られたのかは、よく分からないけど。
- 256 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:03
- 裏庭は噴水を取り囲む円形と、邸から伸びた一直線の三本の通廊、それは
一本は噴水へ繋がり、左右に拡がったものは左右に張り出した先端への
近道になっていた。中心を貫く通廊はさらに四本の細く区切られて、遠目に
見ると円形が邸から飛び立っているマンガのようにも見えた。
今朝バルコニーから見下ろしたときには♂のしるしのように見えた中庭
だったが、実際にやってきてみるとどこか歪で奇妙なもののように映る。
そして、噴水の真ん中に佇立しているものは、私が見たものとも、恐らく
辻が見たものとも、違っているようだった。
- 257 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:04
- 「ロケット」
辻がボソッと呟くのに、私も無言で頷いた。確かに、それ以外に今二人が
目にしているものを現すのに最適な言葉は、他にはないようだった。
私は、朝に見た光景を思い出そうとした。しかし、それは夢で見た風景の
ように、曖昧で茫洋としたものとしてしか浮かび上がってきてくれなかった。
- 258 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:05
- 「ロケットか……」
困惑していることを気取られないように、なるべく落ち着いた態度を保とう
としながら、私はゆっくりと噴水の周囲を巡った。
放置されっぱなしの水面には、うっすらと埃が積もり、所々に枯葉や小さな
虫の死骸などが浮かんでいた。水面は静かで波一つなく、水は腐敗して
ゼリー状に固まってしまっているようにも見えた。
そして、中央に佇立している像は、まさにロケットだった。三枚の羽を
生やした打ち上げロケットに、抱きつくようにしてくっついているシャトル、
垂直に打ち上げるために編み上げられた支柱、全ては、今にも火を噴いて
煙を巻き上げて飛び立っていきそうなほど、リアルに作り上げられていた。
- 259 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:05
- 「角度で違って見えるとかは……ないみたい」
大きめの噴水を一巡して、私は言った。ゆっくりと歩いて一分ほどはかかる。
しかし、今目の前にしている彫像が見るものの位置によって形を変える
とは、想像することも出来なかった。
「そうみたい」
辻は私ほどそのことを重大なこととは捉えていないようで、顔を上げて
ロケットを見つめたまま軽い口調で呟いた。
しかしこれはなんなんだ。作りは極めて精巧で、細部の細かい機械類まで
緻密に彫り込まれている。マニアックなモデラーが心血を注いで組み立てた
縮小模型のようだ。
どのような隠喩を込めて、こんな場所にロケットの彫像などを築き上げた
のだろう。なにかのメッセージなのだろうか。それとも、単なる悪ふざけ
でしかないのだろうか。
- 260 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:05
- 思い出されるのはやはり、田中のことだ。なんの前触れもなく宇宙へ旅立つ
ことを決め、そして事故に巻き込まれて、帰還した。その間に何が起こった
のかは、誰も知らない。田中も積極的に語ろうとはしなかった。と言うより
も、語るべき言葉を彼女自身が持っていないようにも感じられた。
「やっぱ田中ちゃんの……あれなのかな」
辻も私と同じことを考えていたようだ。
「つんくさんが? ちょっと信じられない」
私はそう言った後、思っていたよりずっと棘のある口調になっていたのに
驚いた。これまで、感情を殺して話すことを訓練し続けていたはずなのに、
ふとしたことでまた昔のように、それが表面に出て来てしまう。
- 261 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:06
- 辻は怪訝そうな表情で私を振り返ると、
「私はあんまりよく知らないんだけど……田中ちゃん、電話しても全然
話してくれないし、ほとんど話す機会もないし」
少し寂しそうな口調で呟く。
「よっすぃーはなにか聞いてたりするの?」
「うーん……」
肯定も否定も出来ない。断片的なものを集積すればそれなりにいろいろと
聞いていると言ってもよかったが、実際になにを聞いたのか、と問われた
ら、私はどう回答していいか分からない。
- 262 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:06
- 「田中さ、ちょっと痩せすぎじゃないの?」
私たちは駅前広場のベンチに座っていた。半ば以上に日が落ちて、街灯が
ぽつぽつと灯りはじめているころだった。無数の人々が小集団に別れて
目の前を往来していった。スーツ姿の酔っぱらいたちや、暇そうなプー太郎
の若者の集団や、人待ち顔の女子高生の集団や、あれこれ。私たちの座って
いる場所は薄暗く、こちらから見渡して周囲から見られないという意味では
絶好のポジションだった。膝の上で開いたノートパソコンのモニターが、
暗い中でやけに煌々とした光を放っていたような記憶が鮮明に残っている。
- 263 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:06
- あれはいつ頃だっただろう……。私がまだ駆け出しのマネージャーで、田中は
タレントとして籍を置いたままなにもせずぶらぶらしていたころだった
かもしれない。あるいはもう少し後のことかもしれない。
「そうですか?」
田中は目を瞬かせながら、頬を撫でた。
「吉澤さんこそ、めちゃめちゃ痩せてません?」
私はキーボードを打つ手を止めると、苦笑した。
「私は昔があれだったから、今くらいがベストなんだよ」
「なるほど」
そう言いながら頷くと、イタズラっぽく笑う。
「納得すんなっての」
私も笑った。目の前を二人組のやくざ風の男が通り過ぎていった。
あの時、私は田中を送るように、事務所から言われていたんだった。しかし
なにを思ったのか、二人してぶらぶらと街の方々を散策して気付いたら
日が落ちていた。駅前には、客待ちのタクシーが列をなしている。あの中へ
飛び込めばすぐにでも今日の仕事は終えられる。
- 264 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:06
- 「だーれも私たちのこと、気付かないですね」
広場を見渡しながら、田中がなぜか楽しそうな口調で言った。
風が冷たかった。寒い。冬なのだ。私のついた溜息は白かった。首には
マフラーが巻いてあって、枯葉を散らしながら吹いてきた風が、髪と一緒
にふわりと端を舞い上げた。
「それはそうだよ。忘れられるのなんてあっという間だもん。特に、うちら
みたくあっという間に有名になったんなら、なおさら」
「吉澤さんは、どっちのほうが楽だと思います?」
思わせぶりな言葉に、私は振り返る。
「なにが?」
「すぐに有名になってすぐに忘れられるのか、ずーっと有名なままでいて
いつまでたっても忘れてくれないっていう方か」
「うーん」
- 265 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:07
- 私は天を仰いで考えた。空気は汚れていて、有害物質混じりのどす黒い雲
が空一面を覆っている。星一つ見えずかろうじてぼんやりとした半月が
弱々しい光を放っているだけだ。
「死ぬまで有名でいるってのはやっぱ辛いかも。でもあんますぐに忘れ
られちゃうってのもさみしいしなあ」
「吉澤さん、はじめにモーニング娘。に入って、あっという間に有名に
なったとき、どんな感じでした?」
「あの時はねえ」
- 266 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:07
- 十年近く前のことだ。さすがに鮮明な記憶として残っているわけではない。
「なんか実感なかったかな。自分なんだけど自分のことじゃないっていうか、
みんなが見てるのは誰か別の人間なんじゃないか、みたいな」
「私もそうでした」
田中は神妙な面もちで頷いた。
「というか、多分別の人間だったんです、あの人は」
「ん? どういうこと?」
メンバーの中では常識的な人間という印象のある田中だったが、時々こんな
ふうに突拍子もなく思わせぶりなセリフを言ったりする。
「私たちはもともと始めの、マスターテープみたいなもんで、あとは勝手に
あちこちで複製されて好き勝手に消費されていくんですよ」
「なるほどね……」
例え話としては分かりやすいような、そうでないような。
「そいつらはもう消費期限が切れちゃったってことか」
- 267 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:08
- 自嘲的に言うと、乾いた髪をかき上げた。広場にはいつの間にか人が増えて
いて、あちこちから低音を強めた音楽が漏れ聞こえてきている。
「そうです。みんな死んじゃったんです」
奇妙に拡散していく感覚は、今でも鮮明に思い出せる。というか、まだ
完全に払拭出来たわけではないようだった。一人で自分の部屋にいて、本を
読んだり絵を描いたりしていても、いつの間にか存在が分裂していって
部屋の壁をすり抜けて、コップの水に垂らしたインクが拡散していくみたい
に、世界の彼方まで薄まりながら拡がっていくような感覚。自分の内側と
外側の境界線が薄れていて、目に見えるもの全てが自分自身のように感じて
しまうようになる。あの時の自分たちは、今どこでどうしているのだろう。
どこかで忘れ去られたまま静かに朽ちていっていくのだろうか。
- 268 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:08
- 暗闇の中に人影が見えて、あっという間に近付いて通り過ぎた。だらしなく
スーツを着崩した中年男が、ベンチの裏の茂みに上半身を突っ込んで、激しく
嘔吐しはじめた。胃酸とアルコールの混じった不快な匂いが鼻を突いた。
田中は眉を顰めて笑うと、白い手でお腹の辺りを押さえた。
「胃が痛い」
「大丈夫? ちゃんと食べてる?」
「ええ、なんとか」
ふと、既視感を感じた。かつて同じようなやりとりをしたような感覚に
襲われたが、具体的な記憶には辿り着かなかった。
「……田中ってさ、むかしからだっけ?」
「なにがですか?」
きょとんとした顔で、私を見上げる。表情によって、釣り目になったり
垂れ目になったりするのがおかしかった。
「胃が痛いっていうの」
「たまにですけどね」
- 269 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:08
- 茂みに上半身を突っ込んだ男は、そのまま微動だにしなくなっていた。あの
まま、自分の吐いたゲロに埋めて、窒息してしまっているのかもしれない。
「将来の不安とか、やっぱり感じたりするんだ」
私が言うのに、田中は首を傾げると、
「うーん……そういうのはあんまりないですけど」
「マジで? 私なんて一日のほとんどそんなことばっか考えてるよ」
これは事実だった。これまでそんなことを考えずに過ごしてきたツケが
回ってきたのかもしれないが、普通の十代が感じているようなことが、遅れ
ばせながら私を悩ませていた。
- 270 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:09
- 「意外な感じですけど」
「そうかな……まあ、確かにそんなこと全然考えてない時期もあったな」
「成長したんですね」
笑いながらいう田中に、私は口を尖らせると額を小突いた。
「偉そうに」
「それってやっぱり、同期で一人だけ残されたりとか、そういうことが
あったからですか?」
なんだろう。今日はやたらと突っ込まれまくっているような気がする。たま
にはこういう会話も悪くはないけど。
「確かにそういうのもあるかもね」
「ちょっと出遅れた感みたいな?」
そういう田中の口調は、からかっているようなトーンではなかった。
- 271 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:09
- 「そりゃ言い過ぎだろ」
冗談めかしていうと、わざとらしく顎を撫でた。気付かないうちに、肌は
とても冷たくなっていた。
「そういうのも、全くないわけじゃないけどさ」
「それで、マネージャーになったんですか?」
不意に問いかけられて、私は一瞬答えに詰まった。
真っ黒な夜空を仰いだ。赤い光点が、チカチカと明滅しながらゆっくりと
彼方を横切っている。
あれは飛行機だろうか。あるいは、宇宙船かUFOかもしれない。
広場の周りは高層ビル群に360度取り囲まれていて、地面からのぼんやりと
した光を受けながら浮かび上がっているように見える。夜中に見るビルは
ひどく透き通って、ふわふわと軽くそのまますっと飛び立っていきそう
なくらい茫洋としていた。
- 272 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:10
- 「なんていうか、中途半端なのってイヤだから。やる気ないならやめろって
昔からよく言われてたしね。やる気ないつもりはなかったんだけど、今から
考えると、やっぱやる気なかったのかなあとか」
「けど、マネージャーだってどうしてもやりたい仕事ってわけじゃない
ですよね?」
田中に食い下がられて、私は柄にもなく狼狽していた。
「なんでだよ」
「さあ……なんとなく、そんな風に見えます」
私はムッとすると、逆に田中に訊き返した。
「田中はどうなの?」
「私は全然ですよ」
特に悪びれもせず、田中は言った。
「でも、なんとなく大丈夫なんじゃないかとは思ってます」
「へぇ……田中ってけっこうポジティブなんだね。知らなかった」
「吉澤さんが意外にネガティブなのも、知らなかったです」
楽しげに切り返してくる。同じグループにいた頃はなんとなく距離感を
解消出来ないままだったのに、解散して、別の道を歩き始めてからやっと
打ち解けられるというのも、なんだか私たちらしい。そんなことを思った。
- 273 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:10
- 「なにやってるんですかね」
広場の方へ目を向けて、田中が呟いた。地面に置かれたスピーカーから
扇情的な音楽が流れ続けていて、その中心で数人が急拵えの祭壇──黄色い
プラスチックの箱やコンクリートブロックなどを積み上げて作られていた
──を囲んで不思議な動きで踊っていた。全員がバラバラに好き勝手な動き
をしているようで、それが遠目から見ると奇妙に調和して見えた。
「踊ってるんでしょ」
夜中の公園や広場では普通に見かける光景ではある。田中はふらふらと
ラリっているようでてきぱきと作業をしているような若者たちを興味深げ
に見つめながら、
「なんかの儀式みたい」
「儀式ねえ」
「UFOでも呼ぼうとしてたりして」
- 274 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:11
- その時私はまたいやな記憶を思い出していた。二年ほど前のことだろうか。
まだ私が気の進まない芸能活動を続けていた頃の一つの仕事だった。
連続ドラマの友情出演と言うことで、一回だけ、全部あわせても十分にも
満たない程度の出番が与えられていた。友情出演と言うくらいだから、多分
重要な役柄でメンバーの誰かが出演していたんだろう。誰だったかとか、
どんな役だったかとかは、もう忘れてしまったけど。ひょっとしたら娘。で
なくて松浦だったかキッズの誰かだったかもしれない。撮影したのは別の
日で、ドラマ内の絡みどころか擦れ違うこともなかったので、特に気に
止めることもなかったのだが。。
ドラマ自体は下らないものだったような記憶がある。深夜よりの時間帯で
やっている、中途半端で自己満足的な作品だった。そうした中から極たまに
当たる作品が出てくることも知っていたけど、この作品に関してはとても
そんな水準のものではなかった。
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:11
- 一話完結の無理矢理な探偵小説的ストーリーに、オカルトネタや伝奇ネタ
などを適当に絡めてごちゃまぜのようなお話をでっち上げていた。私が
呼ばれた回の話もまあ大体そんなようなもので、与えられたのはUFOの
存在を信じているファナティックな女子学生の役だった。とても常人には
理解できないような形而上学的な動機で、付き合っていた大学教授を殺害
して、それから自身も殺害される。始めは私が一方的な被害者と考えられ
ているというような、少し無理矢理なものだった。
いくつかのシーンを取り終えた後、最後に殺害のシーンの撮影に入った。
私は大学教授を演じるベテラン──というより中堅か──の俳優と、人気の
ない研究室内で感情的なやりとりをしたあと、背中を向けてタバコを吹か
している男の背後から手を回して、ペーパーナイフで心臓を突く。
- 276 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:12
- セリフの数は多くなかった。どのみちすぐに死んでしまう役なのだから、
そこまで入れ込んで演じることもないだろう、と私は思っていた。
夜のシーンだった。セットで作られた研究室のなかは薄暗い。しかし、少し
外へ目を向けるとあちこちで目映く照明が光を放っていて、影の存在を
追い立てるようにして隅々まで照らし出している。光の中で闇にいるよう
な振る舞いをするのはあまり気分の良いものではなかった。
研究室内には雰囲気をもりあげるために、様々な訳の分からないオブジェが
並べ立てられていた。あまりにも雑然として脈絡がなく、一体なにを研究
しているのか全く見当もつかない。もっとも雰囲気さえ作り上げることが
出来ればそれで充分なのだろうけど。
発泡スチロールの球体と竹串で組み立てられた幾何学的な立体模型や、輪切り
にされた惑星、垂れ幕のように壁を覆っている星図、一際力を入れて組み
立てられているのは、中央にぶら下げられた宇宙船の模型だった。
- 277 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:12
- 誰がデザインしたものかは分からないが、普通に考えられているような
宇宙船の造形からはかなり隔たっている。強いて言うなら、SF映画に
登場する空中要塞のような感じだった。滑らかな流線型のドームに包まれ
て、内部は二層に分断され、平面部に曲線の複雑な文様が描かれている。
内部の構造は直線的な平面で構成されていて、外部の曲面にぴったりと
内接していた。
いくつものカメラが周囲をせわしなく動き回っている。あのレンズが私の
姿を切り取り、数百万ものコピーを生み出して電波に乗せてばらまくのだ。
どこからの光か、研究室のセットの窓がうっすらとした赤に染まっていた。
怒声が飛びかい、スタッフが慌ただしく駆け回っている。ミスがあったの
だろう。私は首をならしながら、所在なさげに周囲を見回していた。私に
刺し殺される教授を演じる俳優は、悠然とした態度で椅子に座り、タバコを
ふかしている。貫禄ではなく、嫌みったらしさばかりが感じられた。
- 278 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:12
- 「目を閉じると、今でも鮮明に思い出せるだろう?」
古びた机の向かい側に座った男が、いつものように悲しげな表情を浮かべた
まま問いかけてくる。
私は高い場所につけられた窓──外は夜でも昼でも、いつでも真っ赤に
染まっている──から目を逸らすと、膝の上で組んだ手を見つめた。
「イメージトレーニングしましたからね」
台本を読みながら……アタマの中で繰り返し、自分が顔の見えない男を
刺殺する光景を思い浮かべる。何度も。想像の中では全てがリアルで、血は
生暖かく錆びた匂いを放ちながらナイフを握った両手に降りかかる。肉が
裂かれ、深く抉られる重たい感触が両腕を伝わって全身に感じられる。
- 279 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:13
- 「それに、何度も繰り返して見ましたから」
切り取られて、無数にコピーされたシークエンスを、無数の自分自身が
繰り返し目撃している。一度きりの行為は、無限に反復される。
「じゃあ……そろそろ被害者の顔を思い出してもいいころじゃないか」
男は言うと、机に置かれた白熱灯でてらてらと光っている額をハンカチで
拭った。脂は取れずただ拡がっただけだった。
「男の顔は……」
その瞬間にも、記憶の中でも、イメージにおいても男は決して振り返ろう
とはしない。その瞬間以外での記憶には全て鍵がかけられて、一点のみに
近付くことが禁じられているかのようだった。
- 280 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:13
- 「ね、すごいですよ」
田中が私の肩を叩いて、はしゃいだ声で言った。
広場の中心に積み上げられていた祭壇はいつの間にか途方もなく巨大化
していて、夜空に向かって果てしなく伸びて行っているようだった。
あちこちにぶら下げられた照明やサイリュームなどがデタラメな色彩の
光を放ち、その周囲をヒマそうな連中が憑かれたように踊り狂っていた。
ロケットの表面には無数の顔があった。雑誌や新聞から切り取られた写真を
あちこちに貼り付けてある。知っている顔と知らない顔が混じり合って、
なにかのメッセージを送っているようにも見える。いくつかの顔にはひどく
落書きがされたり別の顔から切り抜かれた眼や口などが貼り付けられたり
政治家の首から下をヌードのグラビアに繋げたりして、ボッシュの描いた
地獄のような光景になっていた。
- 281 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:13
- 「バベルの塔ですね」
どこかで聞いたことのある言葉がふと口を突いて出て来た、といった感じで
田中が呟いた。どんな意味の言葉だったか、よく覚えていない。ロケットは
広場をぐるっと取り囲んで見下ろしているビル群に対抗するみたいに、際限
なく伸び続けているみたいだった。
「あとで問題になりそうですね、あんなの作っちゃったら」
田中がおかしそうに言う。もっとも、問題になったとしても大したことには
ならないだろう。いくら巨大なゴミのロケットを作ったとしたって次の
朝に日が昇る頃にはキレイに撤去されていて、存在していたことすら誰も
覚えていないに決まってる。
- 282 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:14
- 「眩しい」
瞼の上を、強い光が通り過ぎていった。一瞬だが、指すような痛みが眼の
裏に残る。
ロケットの先端部分にサーチライトのようなものが取り付けられていて、
無数の尖った光条を広場に撒き散らしていた。表面に貼られた人々はいつ
の間にか抜け出していて、デタラメに組み合わされた不気味な姿のままで
若者たちに混じって踊り狂っていた。音楽はより複雑なリズムになって、
より扇情的な音色で周囲をひたすら煽り立てていた。
「じゃ、私行ってきますね」
そう言うと田中は立ち上がって、ロケットの方へゆっくりと歩いていった。
私は目映い光で影になった彼女の背中を見送りながら、ただぼんやりと
目の前の狂乱の行き着くところを考えまいとしていた。
- 283 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:14
- 「はぁ……」
溜息をついて空を仰ぐ。南中した太陽がつるっとしたロケットの表面を
照らし、透き通るような青空をバックにまっ白な機体が映えていた。
風が草木を揺らす音が耳障りなくらい、辺りは静寂に包まれている。眠たげ
に目を擦ると、首をほぐすようにして周囲を見回した。辻はいつの間にか
邸に戻ってしまっているようだった。私は花壇の縁に腰をかけたまま、また
うとうとと半睡状態になってしまっていたのだろう。
腕を上げてから、時計をしていないのに気付いた。が、太陽の位置から
するともう昼になっているのだろう。どのみち今日ここから出立する手だて
はないわけだから、ただ適当に時間を潰すくらいしかやることはない。
- 284 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:14
- 初夏の草木の青臭い匂いと、花弁から漂ってくる馥郁とした香りが嗅覚を
刺激していた。こんな場所で日向に晒されていたらひどく日焼けをして
しまいそうだ。すでに、肌は熱を持ってうっすらと汗ばんでいる。
噴水に溜まっている水を見る。水面にうっすらと埃が積もり、枯葉や小さ
な虫の死骸などが浮かんでいる。粘りけの多そうな、全く涼しげではない
水だった。
- 285 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:15
- 「……?」
座ったまま姿勢を変えようとしたときに、その水底で何かが光ったよう
だった。一瞬だけ太陽の光を照り返し、私の眼を射たのだ……。円を描く
周辺からほど近い位置で、手を伸ばせば届きそうだった。
立ち上がると、噴水の側まで歩み寄った。静かな風を受けてわずかに揺れ
動いている水面の奥に、小さななにかが沈んでいるのが見える。
私は袖をまくると、水へ腕を突っ込んだ。イメージしていたような、腐敗
した液体が汚くまとわりついてくるような感触はなく、ごく普通の古く
なった水だった。日向で熱せられた肌に冷たさが心地よく浸透していった。
- 286 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:15
- 肘の辺りまで浸かったところで底へ手が届いた。少し手探りをすると、すぐに
それが指に触れた。小さく、冷たくて硬い。私は指先でそれをつまむと、
水底から救い出した。上腕からぽたぽたと滴が伝って、静まりかえっていた
水面に無数の波紋を描いた。同心円上の波は干渉しあって、複雑な文様を
広げていき埃を巻き込んで沈めていった。
腕を一振りして水滴を飛ばすと、指先のものをあらためる。ややサビが
ついている箇所もあるが、金色の表面はほとんど汚れておらず、昼の光を
浴びて煌めいた。古臭い装飾が成されていたが、それは明らかに鍵だった。
- 287 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:15
- 私は中庭を取り囲んでいる邸を見上げた。左右は私たちが泊まっている
客室が立ち並んでいる。一続きのバルコニーからは、ここはほぼ等距離で
見下ろせる場所だった。誰かがこの噴水へ向かって投げ込んだものだろうか。
……探偵ごっこは好きじゃない。しかし、この鍵をまた噴水の水底へ沈めて
なにもなかったことにしてしまうことも躊躇われる。偶然の出来事を深読み
してパラノイアックな布置を作り上げてしまうほど、病んではいないと
自覚はしていたが。……
私は鍵をポケットに突っ込むと、邸へと戻っていった。
- 288 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/28(金) 01:16
- >>238>>239
ありがとうございます。中途半端更新スマソ
続きはなるべく早めに(ry
- 289 名前:名無し読者 投稿日:2004/06/01(火) 12:54
- むぅ、、どうなるんだろう
- 290 名前:名無し読者 投稿日:2004/07/05(月) 14:33
- 焦らされてる…
- 291 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:28
- ある夜──いくつかの同時進行している出来事が、解決にはほど遠いながらも
とりあえずは一段落したころ──、私は疲れ果てて綿みたいになったカラダを
引きずりながら、帰路に就いていた。
例年以上の猛暑、と電気店のCMで連呼されているとおり、日が落ちてもなお
辺りは熱気に包まれていた。今夜もまた眠れないだろう……と私は漠然と思い
ながら、駅から自宅への道を歩いていた。
街灯の白い光が闇夜に溶けだして、その回りを蛾やカナブンや小虫などがせわし
なげに飛び回っている。見るだけで暑苦しさを感じる。
- 292 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:28
- マンションのエントランスに、大きな影が揺れ動いているのが見えた。私ははじめ、
亡霊かと思った。それからすぐに、あれは私を殺しに来た暗殺屋、テロリストでは
ないか、と思い直したが、いずれにしても、なにかそこで対応策を講じようとか、
そんなことをしようと思うには、私は疲労が溜まりすぎていた。
「吉澤ひとみさんですね」
影が声をかけてきた。私はめんどくさそうに影を見上げると、そいつはちゃんと顔が
あって、人間のものに似た目と鼻と口があった。街灯からの光が、額に浮いた汗の
滴ややけに湿った唇をてらてらと光らせていた。
「ええまあ」
私が頷くと、その身長2メートルはありそうな男は、スーツの内ポケットから長方形
の手帳を私に示した。暗がりの中ではほとんどなにも確認は出来なかったけど、
面倒なので頷いておいた。
「ひょっとして気付いているかもしれませんが、我々はあなたを監視させていただいて
います」
手帳をしまいながら、男は抑揚のない声で告げた。
- 293 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:28
- 男の言うとおり……私は気付いていた。ただ、それが事実なのかどうかは分からない
ままだった。男は親切にも、私のパラノイアが妄想でないことを、こうして証明してくれる
ためにわざわざやって来てくれたわけだ。
「それはどうも……ご苦労様」
「なぜ監視下に置かれているか、分かっていますよね」
男の声は低く、アニメの声優さんみたいにやたら朗々としていた。その場の光景が
全てフィクションじみて見える。そう思うと、なんだか自分自身もへたくそな漫画の
キャラクターになったような気がしてくる。
「はあ」
しゃべるのも面倒くさいので、私はため息か同意か分からないような声を出すとまた
頷いた。
「暑いでしょ。ウチ来ますか」
- 294 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:29
- なんでそんなことを言ったのかは分からない。とにかく、私は疲れていたのだ……と
しか、その時のことは思い出せない。
澱んだ空気の詰まった室内も蒸し暑く、冷房のスイッチを入れるとガタガタと耳障りな
音を立てて、埃臭い風を吐き出し始めた。
私はソファにバッグを投げ出すと、私自身のカラダも乱暴に投げ出した。シャワーを浴び
たい気分だったが、男を招き入れていたことを思い出した。
男は明るい部屋の中でも相変わらず影のようだった。持てあまし気味に長身を揺らし
ながら、廊下に立ったまま私を見下ろしていた。
「話を聞かせてもらいたいのだが」
声は紙くずみたいに私の耳の中を転がった。そのまま眠り込みそうになるのをなんとか
抑えながら、私はカラダを延ばした。
「つまらない話しか出来ないっすけど」
「君と、君の後輩や、同僚たちについて」
- 295 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:29
- うんざりさせられる。質問というのはいつだって、相手を指し貫こうという意志をうちに
秘めているんだ。
「ウチの社員のことですか……?」
「話したいならそれでも構わないが、我々は別のことに興味があるんだがね」
男の口調は感情を感じられない。私が普段使っている声のトーンと同質の、無機質
でつるつるの、プラスチックな言葉だった。
- 296 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:30
- 男はポケットをまさぐると、なにかを取り出した。グローブのような手に包まれていて
それがなにかはよく分からない。
「では質問を変えよう」
そう言うと、男の腕が驚くほど長く、象の鼻のように伸びて、私の目の前で馬鹿でかい
手のひらを開いた。
「宇宙に興味は?」
どうだろう。ないといえばウソになる。
しかし、残念ながら今の私が興味を持っているのは、もっと別のことだった。
図書室は空調が効いているのか、冷たく乾いていた。飯田さんが夕べ置きっぱなしに
したままのブランデーのボトルが机の上に残されていた。
本棚に区切られた通廊を、背表紙を確かめながらゆっくりと回っていった。
高い天井の際まである本棚を見上げていると、あの男のことを思い出した。ロボットの
ような男だった。あるいは、本当にロボットだったのかも知れない。
並んでいるのは革装の文学全集だったり、英語の百科全書や画集などばかりだった。
いずれも高価な本なのだろう。ほとんど手をつけられた様子はなかったが、掃除は
欠かさずに行っているのか、埃の海にまみれているというようなこともなかった。
大判の本が並んでいる一角。背にかかれている文字は日本語でもアルファベットでも
ないような、不思議な曲線がのたくって絡み合った謎めいたものばかりだった。
- 297 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:30
- 直観が、このセクションに求めるものがありそうだと告げていた。私は一冊ずつ取り出す
と、あらためていった。謎めいた洋書の数々。ちょうど左からはじめて十冊目で、気に
なる一冊にぶつかった。
存在しない場所の地図の数々。中世以前の、想像の中にだけあった島や、海、最果て
の地に広がっていると考えられた大地が、精緻を極めて描かれている。
図版はどれも鮮明で、羊皮紙に写し出された過去の人々の偏執的なまでのイメージが
アタマをくらくらさせた。
読みとることの出来ない解説には目もくれずに、分厚いページの図版だけを見ながら
めくっていった。どの地図にも、あっさりと読み飛ばしてしまうのはためらわれるような
強烈な磁場を持っているように感じられて、なかなか進んでいってくれない。
- 298 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:30
- 窓から見える空が薄れ始めた。邸は、いまだどこも静まりかえっている。みなただ
なにもせずに、時間が過ぎていくのを待っているだけなのだろうか。
私がそんなことを思ったとき、一枚の地図が目に留まった。
確認するまでもない。私の客室に貼られていたものと同じものだ。
数ページ戻して、その章の始めから一枚ずつ見ていった。同じ雰囲気を持った図版が
12枚。客室の数と同じだ。私の部屋のものは7枚目のもので、今朝見た安倍さんの
部屋のものは1枚目にあった。
この本からコピーが取られたものだろうか? あるいは、この本に掲載されている、その
大元の地図が、それぞれの部屋に貼られているのだろうか。
再び章のアタマに戻り、読めもしない解説文をなんとなく追っていった。ところどころに
アラビア数字による表記があり、そこから推測すると、これは15世紀ごろに作られた
ものであるらしい。いずれにしても、地球上のどこにも存在しない場所を、想像で生んだ
結果の細密な記録なのは確かだ。
- 299 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:31
- なぜそんなことが分かるのかといえば、この地図全てに共通して描かれているのが、
今私たちが滞在しているこの島に間違いないからだ。
いずれも、地図の中央にそれは描かれている。ほぼ円に近い形をした島に、中央に
凹字型の建築物まで詳細に描かれている。
それぞれの地図は、島を除いて全く異なる風景が周囲に描かれていた。もしこの地図
が現実のものであるなら、同じ島が移動し続けているということになってしまう。
しかも、海の上ではなく、全てが地上──だと思われるが、詳しくは分からない──の
一部として、描かれている。
ガリバー旅行記に登場する、宙に浮いた島のようなものを、地図の作製者はイメージ
していたのだろうか。
部屋ではそれほど細かく観察しなかったのだが、唯一その島を除けば、周囲は想像の
産物にしてはあり得ないくらい、地図として精密に描かれている。
縦横に緯線と経線が走り、複雑な等高線が薄く引かれ、読めない文字で各所に解説
が加えられている。
- 300 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:31
- 私はため息を付きながら本を閉じると、棚へ戻そうとしたが、躊躇われた。まだ確認
し足りないことがあるように思えた。
(宇宙から見下ろせば正確に地図が描けるという錯覚?)
一冊分のスペースが空いた本棚へしばし視線を落とすと、整然と押し込まれていた本
たちをちょっとずつずらして、スペースを隠した。この棚へ手をつけるのは、おそらく私が
はじめてなんだろう。どの本も真新しく、ページをめくればインクの匂いが立ち上って
きそうなくらいだ。
地図の載った本を脇に抱えると立ち上がり、図書室を出ようとした。と、机の上に置き去り
にされているブランデーのボトルにまた目が留まった。わずか一口分だけ、なぜか底の方に
残されている。
私は蓋を外すと、残りの飴色の液体を一気に喉へ通した。灼けるような感覚が通り過ぎ、
やがてカラダの奥から熱が沸き上がってくる。
図書室を出る。通廊はすでに薄暗くなり、昨夜の不気味さを取り戻しつつあった。
- 301 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:32
- 自室に本を置き、階下へ降りていった。気付かないうちに6時も過ぎており、時計を見た
途端に空腹がよみがえってきた。
みなまだ正餐室で身を寄せ合っているのかと思っていたが、外れた。正餐室に残っている
のはごっちんと辻だけだった。二人は細長いテーブルの真ん中で向かい合って、チェスを
していた。どこから引っ張り出してきたものか分からないが、立派なものだった。
私が入っていくのにも二人は顔を上げず、ゲームに熱中しているようだった。黙って辻の
隣に腰を下ろすと、しばらく黙って試合を眺めていた。二人とも緊迫した空気を漂わせて
いたのに、なぜ私はあまり面白くないのだろう、と考えてから、ようやくチェスのルールは
全く知らないでいたことを思い出した。
細かく区切られた盤面を、駒がそれぞれの役割を果たしながら動いて、殺し合いを続け
ている。ぼんやりと眺めながら、私はなぜか懐かしい気分になっていた。理由はよく
分からないが。……
- 302 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:32
-
「うあー」
辻が詠嘆の声を上げると天井を仰いだ。どうやら負けたらしい。
「よし。チェックメイト」
ごっちんは小声でいうと軽くガッツポーズをして、手のひらを差し出した。
「ちぇっ」
ぶつくさと文句を呟きながら、辻はその手のひらに千円札を載せた。
「ていうかごっちん強すぎだよー」
「6連敗してやっと気付いたんだ」
ごっちんは相変わらず飄々としている。笑いながらふくれっ面の辻のアタマをなでると、
私の方を向いて言った。
「よっすぃーもやる?」
「や、私ルールしらないから」
私はそう言いながら手を振った。
- 303 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:32
-
「さて、夕食にでもしようか」
ごっちんは立ち上がりながら言った。辻は顔を上げると、
「いいの? 勝手にはじめちゃって」
「ああー……。どうなんだろ」
肩を竦めると、私の方を一瞥してニッと笑う。
「よっすぃーはどう思う?」
「えっ?」
不意を付かれて返答に困ってしまうが、ちょっと考える振りをすると、
「まあ……やっぱみんなで食べた方がいいんじゃないかな」
当たり障りのない返事。ごっちんは頷くと、また椅子へ座り込んだ。
辻はまだチェス盤に目を落としたまま、あれこれと駒を動かしたりしている。納得のいって
いない表情のまま、私の方を見て言った。
「けど矢口さんとあいぼんはまだ寝てるんじゃないかな」
私は今朝の二人の様子を思い出そうとした。が、無理だった。
「そうなの?」
「さっきまでやけ酒あおってたんだよ」
ごっちんが呆れた表情で言う。
「みんなでだけど。二人が真っ先につぶれちゃったから隣の部屋に寝かせたんだけど、
二階に戻ったみんなも食事って感じじゃなさそう」
- 304 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:33
- そうか。ここへ来たときに鼻についたのはアルコールの残り香か。
私の喉にも、さっき嚥み下したブランデーの匂いが残っていたが。
「よっすぃーも中庭で寝てたけどね」
辻がからかうように言う。私は手を振ると、
「寝てたわけじゃないよ」
「ま、いいや。うちらだけで夕食にしよ。お腹空いたし」
ごっちんは言うとまた立ち上がった。
「よっすぃー、下行って圭ちゃん呼んで来てよ」
「下?」
「レコーディング用のスタジオ。また機材いじってるみたい。オタクだよね」
そういえばそんなものもあった。酔っぱらっていじくり回して大丈夫なのだろうか。
「分かった。スタジオって確か、東翼の突き当たりだよね?」
「や、そっちじゃなくて、階下の方」
- 305 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:33
- ごっちんの言葉に、私は驚いた。地下にもスタジオがあったのか。
「地下かぁ……」
「怖いの?」
からかうような口調で言われる。
「なんでだよ」
そうは返したものの、実際、私はこの邸へ深入りしたくないという気持ちが、また
強くなっていた。
恐怖というものではないが……、なにか、あまり触れられたくない感覚を刺激される
ような薄気味悪さが、全体に染み渡っているように感じられているのだ。
「ついでにワインでも持ってきて」
辻がチェス盤を片づけながら言う。
「未成年が」
「気にすんな」
私が肩を竦めるのに、辻はカラダを伸ばしながら笑った。
「下、灯りないから懐中電灯持ってったほうがいいよ」
- 306 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:33
- 暗闇の中で、壁に手を這わせてみる。冷たい煉瓦と漆喰のざらついた感触が伝わって
くるが、それだけだ。
仕方なしに懐中電灯をつけると、クリーム色の光が広がり、奥へと薄れて消えていった。
壁にはS字型のランプ受けがあり、球形の埃のつもったランプが見える。二階の通廊に
あったものと同じものだろう。
地下もおそらく二階と同じような構造になっているようで、凹字型に左右が張り出し、そこ
に区切られた部屋が並んでいる。
右の突き当たりが酒蔵庫だと聞いていた。スタジオは左だ。私はふと、スタジオのある
地下になんで電気が通ってないのかと疑問に思った。が、それほど深い意味はなくて
単なるつんくさんの趣味なんだろう。
なんともぞっとしない空間だったが、私は好奇心もあったので、酒蔵のある左側を先に
回ることにした。懐中電灯で周囲を確認しながら、注意深く足を進めていく。
やはりここにもあった。二階と同じく、ランプとランプの間に広く空いた空間に、一枚の
大きな絵画が飾られている。ぼんやりとした灯りで見ることで、絵画そのものをより
効果的に見せようという意図も、ここにはあるのかもしれない。
- 307 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:34
- 絵のテーマは二階のものと共通しているようだった。お祭り。混乱。饗宴。しかし、二階
で見たものに比べるとなんとなく暗い雰囲気に見える。あるいは、空間の影響が見る側
に現れているのかもしれないが。
実際、そこに広がっているのは享楽の風景ではなく、悪夢の光景だった。理由のない
大量殺戮。あるものは剣やナイフでカラダを刺し貫かれ、刀で胴や手足を切り裂かれ、
血と臓物をまき散らしている。あちこちで爆発が起こり、炎は大勢の肉体を焼き尽くし、
灰にしている。その光景に絶望したものは、それぞれのやりかたで自らの死を選んでいる
ようだ。地上に広がっているのは全てが血塗られていた。
上半分にはそれを見下ろしている存在が描かれている。謎めいた要塞が宙に浮かび、
地上を睥睨している。
円盤(UFOか?)が数機飛び、星々は顔を持っているように描かれていた。地上の人々
がいずれも表情を持たず、影のような存在として描かれているのとは対照的だ。
構図の中心にあるのは、ひび割れた空から全てを見下ろしている一人の人物だった。
神なのだろうか? 背後からの光は後光というようなものではなく、ただ周囲が闇に包まれ
ているためにそう見えているといった感じだ。その人物の顔も、逆光でシルエットになって
しまっているために、よく分からない。シルエットの形が私の中にあるなにかと結びつきそう
な気もしたが、どこかそれを拒ませるような雰囲気が、その絵にはあった。
- 308 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:34
- ぼんやりとした光で細密かつ躍動的(もちろん悪い意味でだ)に描き込まれた絵画を
眺めていると、気分が悪くなってきた。悪趣味にもほどがある。二階の絵画はちらっと見て
そのまま通り過ぎてしまったのだが、あるいはそうするほうが正解なのかもしれない。
酒蔵庫へ続く軋んだ扉を押しながら、私は飯田さんから聞かされた話を思い出していた。
記憶力がどんどん落ちているというのに、都合の悪いときに都合の悪い記憶が蘇って
くることは、年々増えてきているようにすら思えてくる。……うんざりだ。
むろん、この地下室で過去になにがあったとしても──そんなものは飯田さんの悪ふざけ
でこしらえた作り話に決まってるけど──、私は現実的な人間だ。亡霊だの呪いだのと
いった下らない現象なんて相手にする必要はないだろう。そう自分へ言い聞かせた。
- 309 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:35
- 酒蔵の空気は冷たく乾いていたが、妙に重たく感じられた。流れのないまま固まりかけて、
埃を宙に堆積させているようだ。私は強引にかき分けるようにして木製の低い階段を
降りると、一番手近な場所にあったマグナムボトルの赤を二本取って、すぐに戻って行った。
右翼の突き当たり。一階の同じ位置、つまり地下のスタジオのすぐ上がどうなっているか
は……まだ未踏の領域だった。その上、二階は図書室だ。
ノックをしても返事がないので、勝手に入った。この場はさすがに電気が入っているようで、
しかし全体的に弱々しく薄暗かった。
一階のスタジオと比べるとずっと狭く、半分ほどの広さしかなかった。そこがさらに二つに
区切られていて、透明なアクリル壁の向こうがレコーディングブースになっている。
アンプもドラムセットもなく、マイクが一本だけあるところを見ると、歌録り専用のスタジオ
なのかもしれない。
誰だか忘れたけど、歌を録るときには雰囲気を盛り上がるために、わざわざ明かりを
落としたり、燭台を立てたりお香を焚いたりするアーティストもいるらしい。こんな薄気味
の悪い地下にスタジオを作ったのも、そんな意図があるのだろうか。
- 310 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:35
- 保田さんは小さなスツールに座って、ミキシングコンソールに肘をついたまま俯いていた。
寝ているのだろうか?
「保田さん?」
私が声をかけると、保田さんは髪を掻き上げて、振り返りもせずに返した。
「ああ、吉澤か……」
「あの、食事なんで一応」
おどおどと私が言うのに、保田さんは側にあった椅子を引っ張って来ると、私に座るよう
に促した。
なんだろうか。例によってあまりいい予感はしなかったが、無視をするわけにもいかず、
私はワインを置くと保田さんの隣へ腰を下ろした。
「あのー……」
「ここの奥にね、ライブラリーみたいなのがあったのよ」
保田さんはそう言うと、部屋の隅にある小さな扉を示した。
「ライブラリー?」
「記録ディスクがいっぱい。ちゃんと日付順で、キレイに整理されてたけどね」
「それって、なんの記録ですか?」
「うちらのだよ」
- 311 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:36
- 言い終わらないうちに、目の前にあった小さなモニターが光った。
保田さんがいつの間にか手に持っていたリモコンで、スイッチを入れたのだ。
「デビュー当時……というか、デビュー前からのかな。ASAYANのオーディション……
それこそもう10年も前の映像から、解散したあとのそれぞれの映像なんかまで、多分
全部ここに揃ってる」
モニターに映ってるのは梨華ちゃんだった。ごく最近出演した、バラエティー番組の
ものだった。映ってはいないが、私もその場で収録を見守っていたはずだ。
「これは……多分先月のですね」
饒舌な司会者に突っ込まれまくりながらもニコニコと笑いっぱなしの梨華ちゃんを見な
がら、私は言った。
「そうだね。ディスクの日付は4月の2日〜になってる。これが最新」
保田さんはリモコンを操作すると、細かい情報のつけられたインデックス画面へと
切り替えた。
分刻みで放送時間まで記録され、本当に細かい、ちょっとした顔見せ程度の出演──
そういうものが最近は増えていたのだが──まで、律儀にフォローされているようだった。
- 312 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:36
-
「すごいよね、こんだけ集めてあるって。本当は最初からずっと振り返っていきたいところ
なんだけど」
保田さんが目を細めて呟く。私はあまり気が進まなかった。もっとも、それは過去の映像を
見ることが恥ずかしいという部分より、どうしても現状と比較せざるを得ないし、それ以上に
思い出したくもない記憶をいやおうなく呼び覚まさせられることになるだろうから、だ。
「まあでも、今気になるのはそれじゃない」
画面を下へスクロールさせていく。4月の初旬から、中旬、下旬、5月へ……。書き込ま
れた名前は安倍さん、矢口さん、梨華ちゃん、あいぼん……ばかりだ。時折、他の名前
もちらちらと映る。ちょっとしたゲスト出演やちょい役(最近はそんなののほうが多かった
のだが)まで、本当に細かいところまでチェックしているようだ。
そして、
「5月14日……」
「そう」
その日付は、昨日、私たちがこの島へやってきた日のものだった。
だとすれば……誰がここに所蔵されているディスクを更新したのだろうか。
- 313 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:36
-
「中澤さん……でしょうか?」
同じようなことを考えたのだろう。保田さんは黙ってかぶりを振ると、最新の日付にカーソル
を移動させて、映像を呼び出した。
「これ……」
名前の付けられていない、日付のみで記録された映像。
そこに映し出されていたのはまさに……私たちの姿だった。最新の……。
「不思議だよね」
私の反応を窺いながら、保田さんはどこかおかしそうに言う。それが妙に腹立たしかった。
そこに映し出されているのは、まさに私たちの──最新の──映像だった。
船着き場に立って、ぼんやりとクルーザーを眺めている女……私だ。あの場に一番に到着
したのは私だった。つまり、そこからが「始まり」ということだ。
そこへ保田さんがやってきて、市井さんが来て、徐々にメンバーが集まり始める。
クルーザーに乗り、この島へ上陸し、正餐室で食事をし……。
- 314 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:37
- カメラの主が誰なのかは全く分からない。映像は、ほとんど隠し撮りのようには見えず、
むしろ、私たちの方がカメラを意識して演技しているようにすら見える。
そう見えるのは私の記憶の中に不自然な光景として記憶されているからかもしれないが……。
注意深く映像を見ていれば、そこに全員が映っているのは分かる。つまり、撮影者は私
たちの中にはいないということだが……。しかし、私たち以外の人間はここにはいない。
あの場に誰かがいたような気配はなかったはずだ。
「でも、これって……あり得ないでしょう」
平静を装いながら、私は努めて静かなトーンで呟いた。
「私だってそう思うよ」
保田さんは冷たい口調で返す。
「ただね、これ最初見たとき、……」
- 315 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:37
- じっとモニターに見入っている私を一瞥すると、保田さんは口ごもった。
「まあいいや」
「なんですか」
私はわざとらしくガクッと身を落とした。
「気になるじゃないっすか」
「気にすんなよ」
保田さんはそういうと映像を落とした。
「ひょっとして、どっきり企画みたいなので準備されてたものかもしれないしさ」
努めて明るい口調で言うと笑った。が、私はどうしても想像力が悪い方向へ流れて行くこと
を抑えることが出来なかった。
じわじわと見えない膜で自分が覆われていくような気分だ。
「それで、いつになったら監視から解放してもらえるんですか」
耐えかねて、私は苛立ちを隠さずに声を上げる。
私の方から声を上げることはめったになかった。
なにか適当なでっち上げでも持ち上げて混乱させてやろうか、なんて──そんなことをして
も私が損をするだけなのだけど──思うこともあったが、例によって、脂が染みついたような
タバコの煙が満ちた、狭いくせにやたら天井の高いあの薄暗い部屋へ通されると、そんな
気分も一瞬で萎えていってしまう。残るのは、ただ早く時間が過ぎ去ってくれるのを待つと
いうネガティヴな考えだけだ。
- 316 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:37
-
「私もずっとそれを待っているのだがね」
男は悲しげに眉根を寄せたまま、低い声で呟く。そのトーンはいつもと変わらない。
結局またいつもの根比べがはじまるだけか……。数字の羅列。脈絡のない単語を繋ぎ
合わせるという言葉遊び。時間を潰す方法はいくらでもある。長い間こうして決まった時間
引っ張られていることで、つまらないことに習熟してしまった。
「もし」
珍しく話す気分が持続していた。私は口を開く。
「このまま永久に私が黙り続けていたら……どうなりますか」
「それはそれだけのことだ」
男はぴくりとも表情を動かさずに、古びたテープみたいな声で返してくる。
「永久に、お前はこれを繰り返すだけだ」
- 317 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:38
- これは警告なのだろうか? このままこんな生ぬるい方法が続くと思わない方がいいぞと
そういう……ことの、比喩としての永久ということなのか。
男の顔からは全くなにも読みとれない。ただ額に脂汗を浮かべたまま悲しげに、上目遣いで
私を睨み付けているだけ。背中しか見せないもう一人の男など、論外だ。
「時間ならいくらでもある。じっくり思い出してくれ」
思い出す? なにを? 私は思ったが、口には出さなかった。
「あの男の顔を思い出したなら……いつでも我々に知らせてくれ。我々はずっと君のことを
見ている」
見られている。どこにいても、なにをしていてもか。
振り返る必要もない。そこにいるのは確実で、どうせ私には姿を見せないのだろう。
見ることが出来ても、それは影のようなものだ。夢の中で見る男の顔と同じだ。
瞼の裏に残った残像は、時間が経つと影だけを残して消えていく。
不思議なことに、その影だけがずっとこびりついて離れない。まるで瞼の裏に──あるいは
目の奥の、焦点を合わせる点に──穴でも空いてしまったみたいに。
「暗いところいくら見たってなんにも出てこないよ」
- 318 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:38
- 肩を叩かれた。顔を上げると、保田さんがワインを抱えて立っていた。
なにも映ってないモニターには、ぼんやりとした私の姿が映っている。
「食事でしょ。行こう」
結局四人だけでの夕食になった。川みたいに長いテーブルの隅っこに四人だけがいる
光景は、なんだか滑稽だった。……もしさっきの映像みたいに、客観的に眺められて
いるとすれば、そう見えているだろう。
会話が途切れてしまうというようなことはなかった。ごく日常的な生活を送っている四人
の、ごく日常的な会話……。辻とごっちんは大学での他愛ない出来事を楽しそうに
話し、保田さんは音楽の話、私は……以前はなかったような、マネージャー業の裏話
だったり、大人の付き合いを嫌々こなしている話だったり……。
- 319 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:38
-
「よっすぃーはさ」
ちびちびとワインを舐めながら、ごっちんが言った。
「ぶっちゃけ、梨華ちゃんとあの人とのこと、どう思ってるわけ?」
「あ、それ私も訊きたいと思ってたんだ」
辻までのってきた。酔いが回ってきたのか、かすかに頬が上気して、赤くなっている。
「そうねえ……」
私は赤い肉汁のしみこんだ仔羊肉にナイフを入れながら、気の進まない風に言った。
「まあ……、あんまり話題になるようなことは、やめてほしいんだけどね……」
- 320 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:39
-
しかし、私は今まで梨華ちゃんのことが意識の中から消えていたことのほうに、自分
で驚いていた。
彼女は今なにをしているのか……。意外に、自室でのんびり過ごしているのかもしれ
ないけど。
そんな私の考えを見透かしたみたいに、保田さんがワインを呷りながら言った。
「あんたも気遣いすぎないほうがいいよ。石川だってもう大人なんだから」
「はい、でも……」
「気になるもんはしょうがないもんね」
からかうような口調で、ごっちんが言う。
なんだか懐かしいやりとりをしているような気分だった。ほんの数年前までは、こんな
会話が普通だったような、しかしそれももう夢の中の出来事だったような。……
- 321 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:39
-
「責任感じてる部分もあるんじゃないの」
大人びた口調で辻が言う。少し呂律が怪しくなっているせいか、辻もまた昔の口調に
戻ったみたいだった。
「責任って?」
なにも考えずに私は聞き返した。辻は一瞬、まずいことを口にしたかな、というような
表情になると、ちらっとごっちんのほうを窺った。
「ん……いや、ちょっとそんな話をね、さっきしてたから」
「気にしないで。ごめん」
二人の口調からは、それはもう私も含めて了解済みのことで、私に対しては触れない
でいるべきことなのだという──昔の私たちが、公共の場で恋愛の話をしたりする時
のような、そんな感じだ──雰囲気が伝わってきた。
私は困惑気味に二人を見てから、正面に座っている保田さんを見た。
彼女もまた、同じような感覚を共有したような苦笑を浮かべると、肩を竦めた。
どうやらまた、私は気付かないうちに重要なことを忘れてしまっているようだ。
忘却することで一番恐ろしいのは、忘れたことも含めて忘れてしまうこと。痕跡すら
残さずに、完全な無になってしまう。
もう一つ恐ろしいのは、共有しているべきことを忘れてしまうことだ。……
- 322 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:39
- 夕食を終えると、めいめい自室へと戻っていった。
とっくに日は落ちて、表は闇に包まれている。
私は明かりも付けずに部屋へ入ると、バルコニーへ出た。中庭に面した二階から、
噴水の中央に立つ彫像を見下ろす。
どこかからライトアップされているのだろうか。ロケットを象った──見ようによっては
トーテムのようにも映る──彫像は、青白くぼうっと浮かび上がっている。
光源はここからは分からない。あるいは、彫像そのものが光を発しているのかもしれない。
表面に蛍光の塗料でも塗りつけてあるのだろう。
風が草を揺らす音と、遠くから聞こえてくるさざ波の音以外には、なにも聞こえない。
それらの環境音は、むしろ静寂をより完璧なものにするために鳴っているようにすら
感じられる。
この瞬間、邸の中に、いやこの島に私がただ一人でいるとしても、不思議ではない
くらいだった。
- 323 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:40
- 欄干にもたれ掛かって、夜空を見上げる。東京では見られないような、深い闇を背景に
無数の星々が瞬いている。
意識して記憶したわけではないのに、星々の布置は慣れ親しんだものどおりにそこに
並んでいるように見える。もし数多い星の一つでもずれていたら、即座に気付いたこと
だろう……。無根拠な確信がなぜかあった。
記憶のメカニズムは謎めいている。以前テレビで見たことがあるが、脳の中には記憶の
受容体のようなものが点々と存在しており、そこへ砂のような情報が一斉に流れ込んで
くる。運良く受容体に拾われた情報は記憶として残るが、それ以外の大半はそのまま
無意識の底へ沈み込んでいってしまい、記憶として蘇ってくることはない。
しかし、流れ落ちた砂も脳の中のどこかに残されているのは確かなのだ。
ロケットへ向かう道はまっすぐで、驚くほど地味なものだった記憶がある。
それは道ですらなかったかもしれない。緩く張られたガイドロープがそのままなにもない
地面に道を形作っていたようなものだ。
500メートルほど向こうに、細長いロケットが佇立している。空は曇っていて、夕刻の
弱々しい光を浴びて、表面を静かに光らせている。
- 324 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:40
- 背中を押されたような気がした。私は振り返りもせずに、ガイドロープを掴んでのろのろ
と歩き始めた。
ロケットは、大がかりな旅行に行くにしては小さすぎるように見える。私も、ほとんど準備
のようなことはしていない。
周りには誰もいない。人知れず、たった一人で宇宙へと旅立っていくのだろうか。
一歩一歩進んでいくにつれて、ロケットの姿もまた大きくなっていった。
ビックリするほど華奢で弱々しい発着台が、細長いカラダを支えている。強い風でも吹いて
きたら、そのまま倒れてしまいそうだ。
周囲は、見渡す限りなにもない。ポツポツと一塊りの色褪せた草が生えているきりだった。
地面の色は灰色で、乾いた砂に覆われている。踏みしめるたびに、ざらついた感覚が足の
裏から伝わってくる。
地平線の向こうに、霧の向こうで影になっている大きな岩が見える。それだけが、この場所
での確かな指標として存在しているようだ。
- 325 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:41
- 私は振り返った。誰もいない。ただガイドロープに区切られた狭い道が、地平線の彼方
まで伸びているだけだ。
オレンジ色に溶けかけた太陽が、だだっ広い大地に私とロケットの影を延ばしていた。
私は向き直ると、またロケットへ向けて歩き始める。
打ち上げはやはり夕刻に限る。なにしろ、これから向かう先は永遠の夜なのだから。
宇宙空間の闇は、黒ではなく限りなく濃い赤色だと読んだことがある。彼方にある光に
満ちた宇宙からは、波長の伸びきった光しか届かないからだ。
もっとも、地上から見上げる夜空は、ここのような空気の澄み切った場所であっても、所詮
は深みに欠けた黒で塗りつぶされているだけだ。
私はため息を付くと、バルコニーから自室へ戻り、カーテンを閉めた。
部屋の明かりはつけず、仕事机のスタンドのスイッチを入れる。柔らかいクリーム色の光が、
必要最小限の光で周囲を照らした。
デスクの上に昨日作業をしたパソコンが置きっぱなしになっていた。私はそれを開いて、
いつもの作業を始めようかと思ったが、気が重かった。
それに、まだ寝るには早すぎる時間だ。
- 326 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:41
- 私はベッドの上に投げ出してある大判の本を開いた。ベッドの上の壁には、変わらずに
地図が貼られている。本に載っているのと同じものだ。
中央にこの島が描かれ、周囲は正体の分からない多くのものに取り囲まれている。
つんくさんはもともとこの地図の存在を知っていて、似たような島を買って似たような邸
を設計して建てたのだろうか? しかし、なんのために?
あるいは単なる偶然の一致か……考えにくいことだが。
もしかして、この地図、というよりもこの本自体が、古くさいものに見せかけた偽造品なの
かもしれない。わざわざ革装の本を作らせて、図書館の一角にあたかも中世の研究書の
ようにしておいておく。誰かが発見して、奇妙な符合に驚くのを愉しむために……。
しかし、なんのために? 結局行き着くのはそこだ。
「特には考えてないですけど」
田中は私の疑問にも、飄々としてそう答えた。
「でも、……やっぱ、並大抵のことじゃないしさ。なにか、決心に至る理由があったの
かなって、気になるし」
- 327 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:41
- 0時も過ぎて夜もかなり深い時間だった。二人で眠ることなど知らない連中が駅前広場
で騒いでいるのを前に、だらだらと会話を続けていた。
明日もまた事務所から説教されるだろう。管理業務怠慢とかそんなことをあれこれと。
まあアタマなんていくら下げても減るもんじゃない
んだから、どうでもいい。
「昔から宇宙飛行士とか、あこがれてたりしたんですよ」
「そうだっけ?」
意外な感じがしたが、田中なら密かにそんなことを思っていたとしても不思議ではない
ような気もした。
「だから、あのニュース見たときに、チャンスだなって思って」
「けど、恐くないの? 事故の可能性とか……」
「事故?」
- 328 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:42
- 田中は意味ありげな笑みを浮かべて、私を見る。
そうだ、彼女は……“それを望んでいる”わけか。そんな馬鹿な。
「会見で言ったことさ」
「はい」
「どういう意味だったの?」
口べたな彼女のことだ、おまけにあの大勢に囲まれている状況で、うまく言いたいことが
伝えられないでいただけなのかも知れない。いや、そうでなければあのような発言が
出てくることなど、あり得ない。
「そのまんまの意味ですけど」
「……本気なの?」
「冗談であんなこといいませんよ」
悪意でもなく、取り乱したわけでもなく……、むしろ恐ろしいくらい冷静に見えた。
- 329 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:42
-
「けどそれって」
死にたいってこと? と言いかけて、言葉を飲み込んだ。
下手したらそこでも肯定されかねない。それも屈託のない笑みを浮かべながら。
「……なんでなの?」
「確かめたいと思って」
「確かめたい?」
田中は広場の方へ視線を向けた。禍々しい光と音を撒き散らし、理解不能な言葉で
歌いながら忘我の状態で踊り狂っている人々。
夜を通して、体力の尽きるまで彼らは意味もなくカラダを動かし続ける。理由は私には
分からない。
「あの人たちと一緒です」
「……意味分かんない」
「吉澤さん、最近忘れっぽくなってませんか?」
- 330 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:43
- 唐突にそう言われて、私は田中のほうを向くと目を瞬かせた。
「私が?」
「ええ」
「そんなことないと思うけど」
「忘れっぽい、っていうのとは違うかも」
田中は言うと、ちょっと考えてから、
「忘れたこと、夢の中で思い出したりとかするんですよ」
「ああ……そういうのって、たまにあるよね」
なんだかよく分からなかったが、とりあえず頷いておいた。
「だから、夢に見ることってちゃんと覚えておいたほうがいいかもしれないですよ」
- 331 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:43
- しかし、私は夢に見たことも、現実に起きたことの記憶と取り違えてしまったりする。
例えば……以前同じように、田中と夜中に、騒々しく暇な連中が騒いでいる広場で話を
したという記憶は、現実のモノだったのだろうか。
記憶の一部になってしまえば、どちらにしても大した差はないのかもしれない。
どのみち、薄れて消えていってしまうものでしかないのだし、こうして変なきっかけで
思い出したりすることもあるけど、意味のあることじゃない……。
私はベッドに仰向けになって地図を見つめながら、自由に様々な記憶の想起されるまま
にさせておいた。
そのうち眠くなり、夢と記憶がいりまじって、ぐちゃぐちゃになってしまうだろう。
いっそのこと、今までの記憶が全部夢になってしまえばいいんだ……。その方が、きっと
色々なことが、楽になる。
- 332 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:43
- 首を曲げると、床に投げ出すように置かれたバッグが目に入る。
あの中には球体がある。本当にあるのだろうか? 立方体に閉じこめられていたはずが、
勝手に抜け出して、この邸のあちこちでタチの悪い亡霊ごっこでも繰り返して楽しんでる
んじゃないのか。
私はカラダを引きずるようにしてベッドから降りると、ごそごそとバッグを漁った。
特に変わることもなく、それはそこにあった。形容しがたい色を放つ球体。それが透明な
立方体の監獄に閉じこめられている。
閉じこめられたものは、いずれ開かれる……唐突にそんな考えがアタマに浮かんだ。
しかし解放するのは封印した人間が、やはり適任なんじゃないか、とも思う。
封印された記憶を解放するのだって、他の力なんて借りない方がいいんだ。
- 333 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:43
- 私はまた球体を持ってベッドに戻ってしまう。じっと見つめていると、今日の出来事が
両目から吸い出されて、球体へ記憶されていくような感覚になってくる。
ここへ来て二日……正確に言うと一日半が経った訳か……。
ベッドから身を起こすと、球体をいささか乱暴に放った。柔らかい布団の上を転がったそれ
は、ただ静かに沈み込んでいっただけだ。
日記を付けなければいけない。一寝入りするのは、そのあとだ。
- 334 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 00:44
- >>289>>290
レスありがとうございます。
やっと一日半が経過ですが……。
- 335 名前:名無し読者 投稿日:2004/08/15(日) 11:56
- 久しぶりに来たら更新キテター
全然終幕が見えない感じがなんともいいね
- 336 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/13(月) 15:16
- まつてます
- 337 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/03(日) 22:52
- 本当に年内完結できるんでしょうか
待ってます
- 338 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/04(木) 17:14
- メッチャ待ってるよ
- 339 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:18
- 翌朝、思っていた以上に寝起きが爽やかだったのは意外だった。夢は、見ていたの
かもしれないがすでに記憶の彼方へ追いやられてしまったあとだった。
髪をかき上げながらベッドから足を下ろすと、カーテンを開けた。早朝の薄い陽光が
部屋に差し込んできて、私は目を細めた。夜の深い時間、眠りに入りかけた時間と
いうのは伸縮自在で、無限に引き延ばされた次の瞬間にあっという間に圧縮されて
彼方へ放りやられてしまうことがある。
ベッドに腰を下ろして、タバコを一服する。表で煙が大気の中に溶け込んでいくのを
眺めるのは好きだったけど、部屋の中で吸うタバコは好きじゃなかった。私は靄みたいな
頭痛が残ってるのに苛立ちながら、ぼんやりと天井へ昇っていく紫煙を見つめていた。
今日こそ、船は来るだろうか?
なにごともなく、平和で平凡な日常へまた戻っていけるだろうか……、いや、そもそも
そんな日常がかつて存在したのかどうかも、今になっては疑わしいんじゃないか。
- 340 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:19
- 考えては見るものの、私の思考はどうしてもネガティヴな方向へ向かってしまう。
まるで娘。に加入したばかりのころみたいだ、と思った。今では遠い昔の、自分とは
違った他の誰かに聞かされた体験みたいにそれは思い出される。不思議な感覚だった。
ネガティヴさをネタに出来るだけ、梨華ちゃんは余裕を持っていたんだと、今の私は
分かるけど、当時はそんなことすら自覚できていなかったような気がする。
私は半分も吸っていないタバコをもみ消すと、バスルームへ行って顔を洗った。鏡越しに
見る私の顔は、どこかCGを思わせた。血の気がない頬がこけて、充血した両目が
やけにぎらぎらと睨み付けているが、眼球の表面はスプーンの裏側みたいに、ギラついて
いるのに全く奥行きの感じられない冷たい湾曲でしかなかった。表面を形成している
曲線を示す関数の束が無機質に透けて見えるようだった。
ストレスからくるものだろうか……普段、自分の身体のことなんて省みている余裕なんて
ないし、こうした休日こそ労るいいチャンスなのに逆に痛めつけてしまっているとは、
なんとも間抜けな話だ。
- 341 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:19
- バルコニーに出て中庭を見下ろす。ひんやりとした空気が肌に心地よかった。予想して
いた光景はやはりそこにはなく、私が見下ろしている彫像はまた姿を変えている。
そのことがもはや当然の現象のように受け入れられてしまっているのは、これもやはり、
転職してから私が会得した達観のなせるものなのだろうか……、と少し思った。
噴水の中心に立っている彫像は私だった。私は虚ろな目をして、少し上の方を見つめて
いた。腕を伸ばし、背後から誰かを刺し殺そうとしている、まさにその寸前の瞬間を
切り取った姿だった。
私の部屋からでは、私が狙っている人物は後ろ姿しか分からなかった。背が高く、肩は
がっしりとしていて、大人の男性であることは分かった。私の右手に握られたナイフは
肩の上から伸びてそのまままっすぐ喉元へ向かっている。
人生の中でもっとも劇的な瞬間をそのまま凍結して、無数に並べてある美術館の話を
思い出した。展示品はもちろんこれまでの全ての人生と同じだけある。数億、数十億の
人間がそれぞれに、人生に一度しかないもっとも劇的な瞬間を持っていると想像した
だけで、眩暈がしてくる。
- 342 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:19
- 今からダッシュで階下へ降りて、中庭へ出て正面に回り込めば、私の狙っている男の
顔を見ることが出来るだろうか。恐らく無理だろう。その間にまた彫像は姿を変えて
しまっているはずだと、なぜか確信があった。今目を閉じてすこし瞼の上を撫でている
あいだにでも、目の前の光景は失われてしまうのだろう。水面の上に描かれた絵画の
ように、一瞬の間に消えてしまって二度と元には戻らない。溶解した彫像は嘲るように
私を翻弄して、指一本も触れさせないだろう。
私は目を閉じるとそのまま背を向けて、部屋の中へ戻った。デスクの上に置かれた
ノートパソコンは開けっ放しで、電源を落とさないまま眠ってしまったようだ。
手を伸ばして軽くスクラッチパッドを撫でると、真っ黒だったディスプレイに
光が戻ってきた。
開きっぱなしのテキスト。書きかけのまま止まっている日記が右隅に浮かんでいる。
きりの悪いところで断ちきられた文章の末尾に、カーソルが催促するみたいに点滅を
繰り返していた。無限に続いているように見える白い空間と、点滅するカーソルは
いつ見てもうんざりさせられる。しかし、それに誘われるみたいにして結局延々と文章を
打ち続けることになるのもいつものことだった。奇妙な催眠効果があるのか、点滅それ
自体が強迫観念に結びついているのか、よく分からないけど。
- 343 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:20
- まっ白な空間は一つの記憶と結びついている。円形の回廊を、延々と歩き続けている
光景だ。そこは東京の郊外に新しく作られた巨大な図書館の中二階で、一面が透明な
ガラスの壁の向こうでは、学生たちがびっしりと机を埋め尽くして、パソコンをいじったり
コピーしたノートを整理したり、居眠りをしたりしていた。
私はヒマがあればこの図書館へ顔を出していたが、これといった目的があったわけでも
なく、ただ雰囲気が好きだっただけだった。
円形の回廊から一階ホールの展示物を見下ろせる。一際目立っているのは、巨大で
錆び付いた遺物、20世紀のティラノサウルスとでも言えそうなロケットの化石だった。
飛び立つその瞬間に暴発し、乗員を焼き尽くしたロケットの残骸は、先端のみが焼けこげ
て錆び付いた姿で展示されていたが、それでも巨大なものだった。中二階の回廊を
巡りながら、私は地球の周囲を巡る月のように、その無惨なモニュメントを中心に意味の
ない運動を続けていることに思い当たった。
- 344 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:20
- そのときの私は薄くて飾り気のないメガネをかけて、地味な服装で本を持ったまま
くるくると回っていた。机に向かって勉強するという習慣の無かった私にとっては、絶えず
歩き続けているほうが集中できるようだった。
「あの……」
不意に声をかけられて、私は立ち止まって本から目を上げた。
「なにか?」
「えっと……吉澤、ひとみさんですよね?」
見たところ高校生くらいの女の子みたいだった。世代的にはもう私のことは知らなくても
当然な世代だろう。リアルタイムで見てきていた人でさえも私のことなんてほとんど気付か
ないっていうのに。
- 345 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:20
- そんなことを考えると自然と苦笑いが浮かんできてしまう。
「よく知ってるね」
「ええまあ……」
今の私の姿は、その辺の女子大生と大差ない。冴えない服装に、メガネに、根本の黒く
なった洗い晒しのショートカットは好き勝手に荒れていた。
「それ、なんの本読んでるんですか?」
「ああ、これ」
私はついさっきまで目を落としていた本の表紙ををあらためて見直した。分析的地図作成法
についての初心者向け解説書だった。
なんだか照れくさくなって、私は髪をかき上げながら笑った。
「ま、これからはこういう知識もあったほうがいいかな、なんて」
「意外ですね」
彼女はそう言ってから、慌てて取りなすように手を振った。
「いや、変な意味で言ったんじゃないですけど」
「いや、自分でもなんかキャラじゃないなあとは思ってるけど」
- 346 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:20
- 私は回廊の手すりにもたれ掛かると、なんとはなしにロケットの化石を見下ろした。
その時ふと、思いつきで変なことを口にしてしまったようだった。
「実はね、娘。時代のことを小説にしようかとか思ってたりね」
「そうなんですか?」
名も知らない彼女は目を瞬かせながらじっと私を見ている。
「誰か暴露本書きそうだから先越しておいたほうがいいかな、みたいな」
「それでそんな本見てたんですか」
私が脇に挟んだままの本を指して言う。
「うん……なんていうか、いろんなことがいっぱいあったりとか、関わってる人が多かったり
するとちゃんとまとめて書くのって大変じゃん」
喋ってるうちに私自身がその適当な言葉に囚われていくような感覚を覚えていた。
私は手すりに凭れたままランダムに──あくまでランダムだった──そのかなり年季の入った
分厚い本を開いた。
- 347 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:21
- 見開き一面がもの凄い量の情報で埋め尽くされている。4つの座標面は現実の相と妄想の相、
未来の相と過去の相が漠然と重なり合って構成されていて、多くの図象化されたエピソードが
並び、結びつけられている。
「あれ、真ん中穴開いてませんか?」
彼女の言葉に、私は視線を動かした。奇妙な錯視だった。回廊から見下ろせる、錆び付いた
ロケットの残骸が真っ直ぐ本を突き抜けてこちらへ向かってくるような……。隙間なく平面的に
埋め尽くされた地図を見ているうちに、遠近感が狂っていくような感覚に襲われた。次の
瞬間、本のページはまっ白になっていた。あまりにも多くの情報を詰め込みすぎた
結果、容量超過のエラーで全てが抹消されてしまったのだろうか。
私は大袈裟な音を立てて本を閉じた。ミュートの効いたスネアみたいな気持ちのいい乾いた
音が響いた。そのままくるくると本を回転させると、閉じられたページに記された全ての
エピソードが、時間も場所も、現実と妄想も全部一緒くたになってミックスされてしまう
ような気がした。むしろそうしたほうがより真実に近づけるんじゃないか、とも思った。
- 348 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:21
- いずれにせよ、文章を書くなんて、行為自体想像もしたことのないことだった。
雑誌に連載を持っていたこともあったけど、あれは適当なお喋りをライターさんが
起こしたものだ。
なんの情報もないまっ白いスペースと、点滅するカーソルを見ていると、私はその時の
ことを思い出す。
しかし私がなにかを書くことはないだろう……。過去の全ては背負いきれないほど重く、
どこから手を付けていいか分からない。手掛かりのない、やたら巨大なのにふわふわと
軽い球体をつかもうとしても、するっと滑り抜けていってしまうような感じだった。
私はただ途方に暮れることしか出来ない。
だらだらとして取り留めもなく、無駄に長いこの日記の一番古い日付は9月1日になっている。
その日付が、図書館でロケットを見下ろしていたころの日付なのかどうかは分からない。
なにがきっかけで書き始めることになったのか、ただ日常の延長としてはじまりもなにも
意識していないその日の日記からは伺い知ることは出来ない。
- 349 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:21
- それ以前の記録はあったのかなかったのか分からない。その日になにかの出来事が
あって消去したのか、あるいはその日にあった出来事がきっかけで日記をつけるように
なったのか……いずれにしても、その日にある決定的なことが起きたことは確かだった。
不思議なのは、私にその記憶が残っていないことだ。いや、意識して思い出さないように
しているのかもしれない。アクセスしてはいけない記憶……自然な防御反応として、
普通は完全に無意識の奥にしまいこまれて忘れ去られるはずのものが、私の中で
一つの日付が火種になって今でも境界線上で燻り続けているみたいだ。
日記はどう書いたとしても確実に時間通りに並べられているから、記憶に比べると秩序
だっているように見えるけど、果たしてそうなのか、私には自信がない。
記憶は意識の深いところで渾然一体になって、消えたり変形したり混じったり入れ
替わったりしてしまい、想起される全ては現実なのか夢なのか妄想なのか分からなくなる
けど、それは意味もなく起きることではなくてよく分からない無意識の願望が働いた結果
なのかもしれない。日記もそう望めばいくらでも書き換えることが出来るのだ。しかも、
バックスペースを押せばなんの痕跡も残さずに完璧に修正が出来る分、柔らかい記憶よりも
ずっとスッキリとして、一見確からしい偽りのクロノロジーを構築出来る。まっさらで染み
一つない真っ赤なフィクションが。
- 350 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:21
- なにかものを書くというのは、不思議な行為だと思う。正確に書けば書くほど全てがウソ
くさく、非現実的な行動に思えてくる。それが、文章にする価値もないような至極日常的で
ありふれたことばかりであればなおさらだ。
一日の行動を思い出し、整理して文章にして打ち込んでいく。日記を付けている人間
なんてこの地球上に何億人もいるだろう。それは公開されることを前提にある程度まで
調整されたものから、本当に個人的なはけ口としてのものまで様々だろう。
しかし、みな私のように、書けばそれだけ自分自身の過去がフィクションの中へ押し込め
られていくような感覚を覚えているものなのだろうか。
現実と夢の間に浮遊しているような状態で、私はキーボードを打ち続けている。寝る前に
こうした習慣がついてしまってから、夢の中でも薄暗い部屋の中でぼうっと光っている
モニターに向かって淡々と過去を目録化していく作業を続けているようになってしまった。
どちらが現実なのか分からない。ひょっとして今こうしている私も夢の中にいるのかも
しれない。
- 351 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:22
- 夢の中で自分が夢見ていると気付いたらすぐに目が覚めてしまうというのが自然な反応
だと、以前なにかの本で読んだことがあった。
もし気付いてもずっと覚めることがなかったら、ではどのように振る舞うのが一番いいこと
なんだろう。ずっと気付かないふりをしたままあたかも夢を見ているように行動を続ける
ことなのだろうか。自分の夢は自身の王国なのだから、好き放題なんでもやれるという
人もいるかもしれないけど、私はそこまで自分に自信を持って行動することは出来そうに
なかった。
「夢の中で、ほっぺたをつねったりしたことありますか?」
どんな会話の流れだったのか思い出せないけど、田中にそんなことを訊かれた。
「さあ……?」
私は首を傾げた。あるのかもしれないが、夢の内容なんてそんないちいち覚えてない。
- 352 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:22
- 「つねって痛くなかったら夢って分かるっていうじゃないですか。
けど、それでも信じられないとき、どこまでやれます?」
「どこまでって?」
「つねって痛くない。じゃあ次は、安全ピンを皮膚に刺してみる」
田中はなんだか嬉しそうな表情で、言葉を続ける。
「刺しても痛くない。じゃあ、ナイフで皮膚をちょっと切ってみる。痛くない。少し深めに
刃を沈めてみる。痛くない。じゃあ、突き立てて見る」
「そんなことしてるあいだに、目が覚めちゃうんじゃないの」
私がこの話題にはあまり乗り気でないことに気付いたのか、田中はちょっと考えると
話を変えた。
この場にいるのは私たち二人だけだった。事務所の一室で、いつもなら数人の社員さんが
デスクに向かっているはずだったが、なぜか今の時間には全員が席を外しているようだ。
なんとも奇妙で非日常的な空間に見える。散らかった室内。ついさっきまで誰かが
座っていたような椅子たち、灰皿から煙を立ち上らせている吸いかけのタバコ、うずたかく
積み重ねられた書類、デスクの周りの壁にベタベタと貼られた無数のメモ書き、他にも
いろいろな無駄なものたちが、立体感のない書き割りみたいに周囲で息を潜めている。
- 353 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:22
- 「向こうに呼びつけられたときのこと、覚えてます?」
「ああ……」
まだそのことは記憶に新しい。ということは、この会話を交わしている二人はそれから
あまり時間の経っていない場所にいるのだろう。
田中がニューヨークのよく分からない協会の集まりに突然招かれたのは、彼女が宇宙から
帰還してすぐのことだった。地球の片田舎で起こった出来事が、世界中に情報として
伝えられるのは信じられないほど早い。情報のスピードに比べて人間がそれに対応する
のにはずいぶんと時間がかかるんだと、あらためて感心したりした。
そのころの田中にはマネージャーすらついていないような状態で、多分そのせいで私が
同行することになったんじゃないかと思う。
会場は、郊外の見渡すような敷地にあった。日本で言えば地方の公民館か市民会館か
体育館といった趣だったが、スケールが全然違う。向かえの車に乗ってちょっと都心を離れる
と、あっという間に延々となにもない空間の拡がっている未開発の土地に出る。なにも
ないことが却って恐怖感を煽るような場所だった。地平線の彼方に、空気の層で幽霊の
ように薄まった塔の影が揺らめいているのが見えた。
- 354 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:23
- 集まった人々は、後から調べて分かったことだけど、とある宗教団体の人々が中心に
なっていたらしい。日本人の私にはあまり想像できないことだったが、アメリカにはキリスト
教の分派みたいなあやしげな宗教団体──端的に言ってしまえばカルトだが──が、
星の数ほどあると、後で知った。
爆破した宇宙船から生還した田中に目を付けて早々に呼び出したというあたり、それなり
に先見の明のある連中だったということになるだろうか。
ただ、彼らは幸か不幸か私たちが過去にどんな活動をしていたかということは、ほとんど
知らないようだった。興味もなかったのかもしれないが。
名目としては講演会ということになっていたけど、実際には数人の彼らの団体が中心に
なって、幹部たちが田中に質疑応答を行うという形式だった。
付き添いの私は会場の裏の駐車場で田中と分かれた。田中は意味ありげににやにやと
笑いながら、私に手を振ると建物の中へ消えた。
時計を見る。まだ小一時間ほどは暇な時間があるようだ。まったく手持ちぶさたに
なってしまった。
- 355 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:23
- 周囲をざっと見回してみたものの、なにもなかった。なだらかな起伏のある大地には
鮮やかな緑色の芝生が敷き詰められていて、見渡す限りの果てまでそんな静かな
光景が続いていた。裏の駐車場はちょっとした野球場ほどの広さがあって、砕石を
踏みながら横切っていったら足の裏が痛くなった。
日差しが強く、肌がヒリヒリしてきた。
会場のロビーにいくつか露天が設けられていたので、暇つぶしにながめていった。
「あなた、日本人ですか?」
片言の日本語で話しかけられて、私はビックリして振り返った。階段の側の、影になった
場所で小さな露天を開いている老婆が、無表情のまま私へ視線を送ってきている。
- 356 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:24
- 「ええまあ」
シカトすることも出来ず、私は時計を横目に見ながら露天へ歩み寄った。
見窄らしい机の上に、手作りと思われる金属製のアクセサリーがいくつか並べられている。
「私、日本の禅の教理を学びました。あれは、我々にはない発想です」
私は何とも言えない表情で肩を竦めただけだった。そもそも禅が日本人全てが共有して
いるものでもないし、私自身興味を持ったこともない。
老婆は私のことを見ているのかそうでないのか、勝手に話を続けていた。
「ウーの思想は私たちの側にも積極性を求められるものです。ウーの中に積極的な道を
見いだすには一方的な救済の道ではなく私たちの側から働きかけることが必要とされる
のです。ウーは抽象的で蒙昧なものですが、それゆえに全ての私たちに開かれています」
ウー、という言葉が「無」を意味することを知ったのは、ずっと後のことだ。
「あなたの救済はこのウーの形象に投影されます。見えるも見えないも私たちがウーを
いかにして受け入れるかどうかで決まります」
- 357 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:24
- 開演時間が近付いていた。私は老婆とアクセサリーと時計を交互に見ながら、三角形を
描いている自分の視線もまたなにかの啓示なんじゃないかと思ったりした。
説明は続く。耳の右から左に通り抜けて、ざらついた言葉の断片だけが頭の中のどこか
に引っかかり取り残されていく。私の見る世界は私の望んでいるものの投影であり、
見えない場所で全ては刻々と姿を変えていく、見ることの出来るのはほんの僅かに
突きだしている部分だけ、全体を見ようとするためには思考と視線になんらかのフィルター
が必要で、真実はどこにもなくまたどこにでもあり……。
「ええと、じゃ、これもらえますか」
私は適当に一番地味そうなのを選んで指さした。老婆は表情を変えることなく、私の示した
アクセサリーを取り上げると、まじまじと見つめた。
「これは……」
- 358 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:24
- 何気なく指さしたそれは、アクセサリーにしては随分と奇妙な形をしている。
というか、それは鍵だった。それ以外のなにものでもない。ちょっとした装飾が付いて
いてやけに大きかったので実用性はなさそうだったが。
偶然とはいえ、それにしてもまた変なものを選んでしまったな、と思い少し笑った。
老婆はしかし、複雑な表情を浮かべたまま私とアクセサリーを見比べながら、なにか
言いたげに口を半開きにしている。
見慣れないものが突然手の中に滑り込んできたときのような戸惑いの表情。しかし、
私にはそんなことを気にかけているほど、その時は余裕はなかった。
私は苛立たしげに、これ見よがしに腕時計に視線を向けると、
「あの、急いで貰えませんか」
「は、はい」
- 359 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:24
- 強い口調にたじろいだように、おぼつかない手つきで、机の下から紙袋を出しかけたので
私は言葉を継いだ。
「ああ、包装はいいっす。いくらですか」
老婆は、露天のアクセサリーにしてはやや高めな金額をもごもごと口にした。
普通だったらここから値切り交渉でも始めるのが普通なのだろうが、いい加減私には
時間が残っていなかった。ジャケットの内ポケットから財布を出すと、紙幣を一枚引っ張り
出して老婆の手に押しつけた。
「じゃこれで」
言い終えないうちに私はあたふたと裏の控え室へ駆けていった。背後から老婆のあげる
声が遠ざかっていくのが聞こえた。
だだっ広い室内はもう人が出払ってしまっていて、閑散としていた。田中は壁際で腕組み
して、モニターに映っている会場の映像に視線を送っていた。
私が大柄な黒人の女性と入れ違いにして部屋へ入っていくと、田中はなにも言わずに
モニターを示した。
- 360 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:25
- 「吉澤さん、これ、見てくださいよ」
「え?」
というか、こんなところでのんびりしていて大丈夫なのか、と言いたくなったが、私は
田中の側まで行くとモニターを見上げた。
4つほど並んでいるモニターにはそれぞれ別の場所から捉えられた映像が送られて
来ている。3階まである客席を正面から映している映像に私は驚いた。隅までびっしりと
人が埋まり、立ち見の来客が通路上を往来してすらいる。
「すごい人入ってるじゃん」
「うちらの最後の方のコンサートより全然多いですよね」
さらっとそんなことを言った。私はなんとも返せずに、苦笑して肩を竦めた。
「じゃなくて、こっちですよ」
田中はそう言うと、右端のモニターを顎で指した。ステージの様子が映されている。
- 361 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:25
- すでに田中以外の参加者──私たちを呼んだ団体のメンバーたちだったが、壇上に
立って話を始めている。
ステージには放射状に椅子が並べられて、ハの字型に細長い机がおかれ、その上に
名前と役職(というべきなのかもっと別の呼び方があるのか)が書かれたプレートが
おかれていた。
「もう始まってるじゃん」
「呼びに来るまでここで待ってろみたいなこと言われたんで」
そう言うと、田中は首を傾げた。
「っても英語だったんでよく分かんなかったんですけど」
「ああ、そうなんだ」
慌てて損した……文字通りに。ぶっちゃけ私だって、もはや高給取りじゃないのだ。
- 362 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:25
- 「それより、この配置、なんとか変えて欲しいんですけど」
「配置って?」
田中が言うのに、私は改めて舞台上の映像を見上げた。
取り立てて変わったところもない、ありふれた光景のように見える。もちろん、彼らを
含めてここに集まってきている人々は、そうはいえないのかも知れないが。
「私言ったんですけど、なんか通じなかったみたいで」
「なんかおかしいところある?」
「いえ……。でも、なんか違うんです。これじゃ駄目なんです」
が、私は舞台上の光景に、その時目を奪われてしまっていた。ちょうどスライド上映が
はじまり、会場は明かりが落とされてうっすらとした闇に包まれていた。
まるで中空に、見慣れない衛星のように浮かび上がっているのは、青白く冷たい光を
放つ球体だった。この映像に大してどんな解説がなされているのか……耳を澄ませて
みても私には分からない。壇上に立った壮年の男が、熱っぽい口調で言葉を吐きだし
続けている。
- 363 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:26
- 「吉澤さん、だからなんとか言って欲しいんですけど」
田中の言葉に、私はまたすぐに現実に引き戻された。。
「や、私も英語出来ないよ」
「そうでしたっけ?」
「そりゃまあ……」
出来ると思っていたのだろうか。舞台を映しているモニターを一瞥する。唾を撒き散らし
ながら速射砲のように放たれる言葉は何一つとして耳に残らない。
「それ、なんですか?」
手を伸ばすと、田中は私の腕を取った。
「ああ……」
私はずっと握ったままだったアクセサリを、田中の目の前にぶら下げて、インチキ催眠術師
みたいに揺らして見せた。
「暇つぶしに露天見てたら買わされちゃってさ」
「いいですねそれ」
- 364 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:26
- 古めかしい鍵を象ったそれを手に取ると、田中はまじまじと見つめた。
「へえ。田中ってこういうの好きだったっけ?」
「なんか渋いじゃないですか」
「……じゃ、あげよっか?」
なんとはなしに私がそう言うと、田中は無邪気に喜んで、鍵のアクセサリーを
手のひらの上に置いた。
「これ、宇宙から持ち帰ったものとか言ったら、みんなビックリするでしょうね」
いたずらっぽく言いながら田中は笑った。私はぼんやりとその表情を見ながら、やはり
どこまで冗談でどこからが本気なのか未だにつかみきれない、というか、そもそもそんな
区分なんて彼女には存在すらしていないんじゃないかなんて思ったりした。
「って、そんなこと言っちゃやばいよ」
私は慌てて言った。が、田中はなにか企んでいるような表情のままアクセサリーをいじくり
回している。
- 365 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:26
- 大体ここの人たちだって言っちゃ悪いけど妄想と現実と自分ワールドとがごっちゃになってる
ような人たちなんだから下手にそんなこと言ったらまた大変なことになっちゃうような気が
するんだけど。
私が口を開き書けたそのとき、乾いたノックの音が響いた。時間だろうか。
「……誰?」
開きっぱなしだったノートパソコンを閉じると、ひきずるような足取りでドアまで歩いていった。
一歩一歩が泥を引きずってる見たいに重く感じる。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
梨華ちゃんだった。記憶にあるのと同じような、不安の影を残した笑みを浮かべて立っている。
「や、別に……」
困惑してるのはそこじゃないんだけどな、と思ったりしたが、口には出さなかった。
「入る?」
「ううん」
遠慮がちな表情で首を振った。
「表出ようかなって思ったんだけど、なんとなく怖くて……」
こういう時に彼女はとてもいい表情を作る……と私は思っている。
怖いという感覚が妙に新鮮だった。私はもうそうした受容体がなくなってしまってるのかも
しれない。感情がジャッジする以前に、まず目の前の全てを肯定することと、それをどう
やって巧みにかわすか、と、そんなことを考えないといけないことになっている。
- 366 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:26
- 早朝のひんやりとした空気と透き通った陽光。うっすらと霧に包まれた庭を二人で無言で
歩いている。楡の木の緑と初夏の花々の鮮やかな色彩が、整然とした庭園を彩っている。
あり得ないシチュエーションに強烈な既視感を覚えた。
なんだろう、今までにこういう機会なんてほとんどなかったはずなのだが、無数の映像が
脳裏を駆けめぐって、私を混乱させた。
「あのさ」
緊張感の欠けた声に私は少し安心した。
それでなくては、このシチュエーションは……なんだか危険だ。
「なにさ」
「うちらって、どういう関係なのかな?」
- 367 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:27
- なんだそりゃ。私はついさっき頭の中を駆けめぐった不吉なイメージがいつの間にか流出
してこの場を覆ってしまったような錯覚に陥った。
「なんだろう? 恋人同士とか?」
「はあ? マジメに答えてよ」
……釣られてみたつもりだったんだけど、お気に召さなかったらしい。
「マジメに答えると、マネージャーとタレント、ってことになるけど」
「うん」
梨華ちゃんは真剣な表情だった。私はいつもこの表情を見ると笑ってしまいそうになる
のだが、このときは不思議とそんな気分にならなかった。
「他には?」
「んー……。元、同期のメンバーとか、歳が近かったりとか」
「もしね」
言いかけたのを、性急な口調で遮られた。
「ここでなにかトラブルがあっても、絶対私の味方してくれるよね?」
- 368 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:27
- 私は彼女の目を見た。冗談で言っている雰囲気は全くない。どこか、不自然なくらいに
確信に満ちた表情のようにすら見えた。
「どういう意味よ?」
「だって、なんかそろそろそんなことが起こりそうだから」
そんなことと濁されたことも、理解できないでもなかった。
想像力は常に悪い方向へ向かいがちだし、それすらもあっさりと現実の不幸に出し抜かれ
てしまうことがよくある。
「そうねえ」
私は梨華ちゃんから目を逸らすと、天を仰いだまま数歩ほど進んだ。
一羽の海鳥がなにかの合図なのか、薄明の中をくるくると旋回している。飛ぼうと思えば
すぐにでも閉鎖された場所から去っていけるのに、延々と堂々巡りを続けている。
早足で私に追いついてくると、梨華ちゃんは眉根を寄せた表情で私の顔を覗き込んだ。
「ねえ、ちゃんと答えてよ」
「いや……なんか考えすぎなんじゃないの」
- 369 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:27
- 気のない私の言葉にも、梨華ちゃんの表情は変わらない。
「だって、もうみんな限界だよ、きっと……」
上擦り気味の声。ああ、それは分かるよ。大体梨華ちゃんだって限界だから私にそんな
こと言ったりするんだろうから。そんなことを思ったが口には出さず、私はこの場でどんな
言葉を取り繕うのが最適なのだろうかと、いつものような他人の頭で考えていた。
「それでなくたって、みんな思うところがあるみたいだし」
「そうなんだ」
私が思っている以上にその言葉は冷たく聞こえたのだろうか。私を睨みながら梨華ちゃん
は声のトーンを高めた。
「よっすぃーはなんでそんな落ち着いていられるわけ?」
「さあ……」
- 370 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:28
- 「なんか昔からそうだよね」
そんなことを言う。昔のことなんてよく覚えてるもんだ。
「でも、よっすぃーには私の味方してもらわないと困るの」
耳の奥に、嫌と言うほど馴染んでいる甲高い声は、少し掠れて奇妙に揺れているように
聞こえた。
「困るの、って言われても」
「だって、あなたは私のマネージャーなんだから、それが仕事でしょ」
振り向いた瞬間に微風が顔に当たって、反射的に目を細めた。
そうか。なるほど。すばらしく説得力のある意見だと、私は思う。
「それはね、よっすぃーだって、ごっちんとかののとかのほうが仲いいのかもしれないけど」
全てがどこか懐かしく響く。もうそんな風に呼び合ってる状況じゃないのに、痕跡として
だけ残っている、バカみたいな響きを持った言葉が、幽霊みたいにぽろぽろと彼女の
口から飛び出してきているようだ。
- 371 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:28
- 「まあ待ってよ」
私は手を挙げて、興奮気味に喋り続けている梨華ちゃんを制した。
「きっと、もうちょっとすればクルーザーが来るって。心配しすぎだよ」
「私はそんなの信じらんない」
そう言うと、苛立たしげに花壇を蹴った。
「おかしいもん。最初っからきっと、こうなるって決まってたのよ」
真剣になればそれだけ、言葉はセリフじみてきて仕草は下手なお芝居に見えてきてしまう
のは、ずっと前から変わっていない。
だからその時に上擦り気味に興奮した言葉を発している彼女を見ても、多分その深刻さ
はかき消されてしまっていたんだろう。既視感が呼び起こした映像のなかで、私たちは
二人で向かい合って座っていた。薄暗い店内。ブラックライトで辺りは深海みたいに
沈み込んでいて、そのせいか自然に話す声のトーンも低くなっていたので、梨華ちゃんの
声に、夢の中で突然覚醒に切り裂かれたような違和感を覚えた。
- 372 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:28
- 「それって……どういう意味?」
私は自分でもイヤになるくらいくたびれた声で呟いた。気を落ち着かせるためか、大して
飲めもしないアルコールをせわしなく身体へ送り込んでいた。
「ほら、だって出発前に言ってたじゃない」
彼女の顔は、照明の影響かどこか仮面じみて見える。
「墜落して欲しいとか、そんなこと……」
「ああ」
いろんなことで混乱した思考は、酔っぱらったせいでさらに乱れているようだった。
一人の人間が死んだということを、その時の私はうまく受け入れられていなかったような
気がする。受け入れることの出来ない現実があって、しかしそれはどこまでいっても
否定できない事実でしかなく、それが惑乱につながっていたのだろうか。
「でも、最初からって、ていうことは」
私はそこまで言って口ごもった。梨華ちゃんは困ったような表情で、それもまた見慣れた
ものだったが、私を一瞥すると力無く首を振った。
- 373 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:28
- 「そういう意味じゃないけど……」
「けどさ」
私は言いかけて、また言葉を切った。
彼女の視線が、続く言葉を牽制しているように、私には見えた。
胃酸が喉元へ昇ってくるような感覚があった。私は息を飲み込むと、テーブルに肘を
ついて額を押さえた。
「大丈夫?」
「うん、ちょっとね」
苦笑しながら手を振ると、ロボットのように目の前のグラスを手に持って傾けた。
「吐いたりとかしないでよ」
冗談めかした口調でそんなことを言う。
そう言えば、一時期私はよく吐いていた。好きでやっていたわけじゃなくて、付き合いで
飲む機会が増えてしまい、結果的にそうせざるを得なくなったというだけのことなのだが。
いや、それはもっと以前のことだったかもしれない。精神的なストレスから自然とそんな
ことを繰り返していたような、あるいは、純粋に身体のコントロールのためにそうしたことを
していたのか、あるいは、もっと別の理由があってのことなのか、……。
- 374 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:29
- 私はなんとなく顔を上へ向けた。このフロアには窓が無く、それはこの店が地下に
設置されているからだ。
地下からずっと上の階までここは吹き抜けになっている。窓があるのは遙かな高い場所で、
しかも小さな正方形の窓でしかない。ずっと遠くにある小さな窓からは星も月も見ることは
出来ず、ただの真っ黒な正方形でしかない。
遙か高い場所にあるはずの天井は、暗さのせいでほとんど見えない。黒く塗りつぶされて
いるのかもしれない。そのまま夜空へじわっと溶け込んでいっているのかもしれない。その
天井からつり下げられている球体があった。ミラーボールのような華やかなものでは全然
なくて、奥の方から染み出すように漏れてきている青白い光でぼんやりと浮かんでいた。
- 375 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:29
- 「ねえ……、ここから出たい?」
そう言ったのは誰だったんだろうか。私は顔を戻して向かいに座ってる人間の顔をじっと
見返した。しかし、誰なのかはよく分からなかった。地下のフロアは暗くて、空気はずいぶん
と澱んでいた。脂じみたタバコの煙が立ちこめて、肌にまとわりついてくるみたいだった。
「出来れば」
私はそっけない口調で答える。
ふと胸に手をやると、冷たい金属の感触がある。目の前に座っている相手はそれを見て
微笑む。とても見慣れているはずのような既視感と、とても異質なものを投げかけられたよう
な違和感が同時に浮かび上がってくるような、そんな表情だった。
「でも……」
私は握りしめた手を目の前まで持ち上げて、暗闇の中で開いた。どこからか漏れてきている
光を反射してそれは鈍く光る。深い地下と宇宙空間の間に浮かんだ青白い星からの光を
浴びてなのか、高い場所に作られた小さな窓から差し込んでくる真っ赤な光を浴びてなのか。
ああ、これは鍵だ……。この鍵で、この密室からようやく出ていくことが出来るんだろうか。
- 376 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:29
- 「よっすぃさ、それいつごろ買ったの?」
梨華ちゃんが言う。私は視線を落としたまま考える。
記憶の中で多くのことがごっちゃになっていて、うまく思い出すことが出来ない。これを
手に入れたのはいつのことなのか。いや、あるいは。
「いや、多分、昔から持ってたような気がするんだけど……」
確証もなくそんなことを言うが、彼女は、目の前に座ってじっと私を見ている人間は納得なんて
しないだろう。
彼はまた闇と紫煙に覆われた視界の彼方で悲しげに頷くだけなのだろう。恐らく、私の記憶
が確かならば。……。
「いや、これ買ったんじゃなくて、拾ったんだと思うな……」
「拾ったの?」
そう問い返されても、私には答えることは不可能なのだ。
「どこで?」
「確か……。どこだっけかな。噴水の、水たまりの中だったかもしれない」
- 377 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:30
- そう言う私の言葉は、誰も聞いてなかったのかもしれない。二日目の朝食はとても静かで、
しかし一触即発といったような雰囲気の中で進んでいたように見えた。
誰かが気付かないまま欠けているということもなく……表面的にはとても平和な光景で、
温かいスープとパンがある食卓はなんだか作り物のような華やかさを見せていた。
私は鍵をポケットへ戻すと、味気ないプレッツェルを齧った。渇いた口の中に砕かれた
皮が拡がって、少しむせた。慌てて側にあったコップを取って中身も見ずに口の中へ流し
込んだ。赤ワインの芳香が喉の奥から鼻へ抜けて、目の奥を熱した。
「それよりさあ」
ごっちんが言った。彼女は私の目の前に座っていた。頭はぼさぼさで、いかにも寝起きの
まま目を擦りながら出て来たっていう感じだったけど、本人はまったく気に留めていない
様子だった。
「うちらいつになったらここ出ていけるわけ?」
- 378 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:30
- それぞれ別々の空間の中で交わらない会話が飛びかっていたのが、一瞬その一言で
結びつけられたような感じだった。もっと端的に言ってしまえば、彼女はみんなが思って
いても口に出せないでいたタブーに、いとも簡単に触れて見せた。
「さあ……まあそのうち船も来るんじゃない?」
無難な口調で流そうとしたのは、多分安倍さんだろう。
「ちょっとしたトラブルがあったってだけのことだろうからさ、そんな心配することないって」
「そうだよね」
「逆に誰も気付かなかったらオフが長くなってラッキーみたいな」
「でも仕事とかしてないからそういうありがたみは分かんないですけど」
「難しく考えないでのんびりしたらいいんじゃないの」
四方八方からそんな言葉が飛びかってくる。私は手に持ったままのワインをちびちびと啜り
ながら、全員の何気ない言葉の意味を考えないようにするのに必死だった。
「では、今からみなさんに殺し合いをしてもらいます」
冗談めかして言ったのは辻だった。しかし誰も笑わなかった。全ての状況が大真面目に
そんな提案を受け入れているようにすら見えた。
- 379 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:30
- 「私も乗ったー」
ごっちんが脳天気な口調でいう。
「でもマシンガンが欲しいな」
「武器って自分じゃ選べないでしょ」
「そうだっけ?」
「確か。映画しか見てないからよく覚えてない」
「じゃあんたはピコピコハンマーでいいね」
「なんだよそれ」
「日本刀とかカッコよくない?」
「使いこなせないでしょ」
「重そうだよね」
「なんだみんなけっこうノリノリじゃん」
「シチュエーションとしては普通にありでしょ」
「そういう問題かあ?」
「あのさ」
- 380 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:30
- 私が声をあげると、面白いように会話が止まって視線が一方向に集中してくる。私は
出かかっていた言葉がつかかって意味もなく口を開けたままぎこちなく笑った。
「なに?」
飯田さんが言った。
「いや……もしそうなっても逃げようとか考えないのかな、みたいな」
言ってから後悔した。誰もそんな話を大真面目になんてしていないんだ。全てはネタで、
気晴らしの、言葉だけのゲームに過ぎないのに、なにを私は本気にどうでもいいような
提案をしているんだろう。
「逃げることなんて、ムリだから」
ハッとして私は顔を上げた。その声は甲高くて、梨華ちゃんが言ったようにも聞こえたけど、
別の誰かの声のようにも聞こえた。いや、実際には誰もそんなことは言わなかったのかも
しれない。
- 381 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:31
- 「そう思った瞬間に、私は考えることをやめたんです」
壇上で、淀みない日本語で田中が喋っていた。かなりの高齢の通訳が、彼女の言葉を
語られる端から英語へ翻訳してその場を埋め尽くした観衆達へ伝えていった。
私はステージの袖にぼんやりと突っ立ったまま、一人の傍観者として彼女のスピーチを
眺めていた。舞台上の椅子は、田中の指示を飲んで奇妙な形に並べ替えられていた。
ハの字型のありふれた配列ではなくなり、全員の椅子は縦四列に整然と並べられていた。
しかも全員が客席に背を向けて、ステージの奥へ顔を向けさせられていた。
客席から見たら、あたかもシャトルに乗り込んだ乗員達を背後から見送っているような
布陣に見えているのだろう。もっとステージ位置が高ければ、シャトルを首を上げて見送って
いた大勢の人々と同じような姿をその場で再現させられていたのかもしれない。
- 382 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:31
- 「だから私は立ち上がって、歩いていったんです。こう」
客席は静まりかえっている。田中はくるっと背を向けると、左右の椅子の列に挟まれて
出来た通廊をゆっくりと歩き始めた。緩慢な歩調は無重力空間の足取りのようにも見えた。
椅子に座った誰もじっとして、前を見据えている。客席も、なにか神聖な儀式が行われて
いる最中のように、誰も微動だにしない。
奥のスクリーンに何かの映像が投影されているみたいだった。私の立っている袖からは
はっきりとは見えない。ただ光と影の渦が揺らめいている場所へ全員の視線が集中
しているようだった。
私は裏から回ってなにが起きているのか見てみようと思ったが、すぐに思い直して、
さっきまで二人でいた控え室へと戻っていった。
廊下には誰の姿も見られなかった。まっ白で細長い空間がこのまま果てしなく続いて
いるような錯覚に、一瞬襲われた。
- 383 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:31
- 扉に手をかけるが開かない。鍵を閉めてきた記憶はなかった。手首に疲労が溜まって
いるような感覚があり、私は軽くほぐすと、扉の前でしばし呼吸を落ち着かせた。
ノブを握り直し、押して、引いてみる。金属の絡み合う耳障りな音が、微かに奥から
聞こえてきたが、全く動く様子はない。
私は今来た廊下を振り返った。ついさっき自分がいた場所と、時間を正確に思い
出さなければならない……。正確さを失ってはいけない。特に今置かれている
ような混沌とした状況では、なおさら。
私はこの邸の構造を思い出して、思わず笑ってしまった。馬鹿げた記憶違いだ。
モニターのあるスタジオは地下にあってここは一階だった。さっきまで正餐室で
食事をしていたのだから当然だ。
- 384 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:31
- しかし、と私は改めて扉に向きなおって、この建物にしてはずいぶんと無表情で
地味なクリーム色の表面を見つめた。どこかの病院か研究所にあるような扉は
逆に場違いなものに思えてくる。
私はもう一度背後を振り返った。そこもまたまっ白な光景で、ゆるやかなカーブ
を描いている通廊の彼方は見えない。壁には他の扉も装飾もなく、廊下もまた
同様だった。私が背を向けている扉はこのチューブのように密閉された通路の、
ちょうど行き止まりの場所に位置していた。
私は目を閉じると、貧血になったような感覚が足下から拡がってくるのを感じた。
扉に背を付けて、そのままずるずるとしゃがみ込んでしまう。肌に触れる空気は
冷たく乾いていて、ひどく人工的なものに思える。私の足下はひどく不安定で、
波に洗われながらコンクリートとガラスと鉄とプラスチックの塊が崩れ落ちて
行っていて、今にも床は破砕されて飲み込まれていってしまい、湾曲した星の
表面を覆う一面の青い海の底へ沈んでいってしまう。
- 385 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:32
- この細長い道は、ロケットに向かう道に似ている。行く先は一つ。宇宙だ。
左右には壁はなく、空一面には星々の瞬きと無数の人工衛星の放つ光の粒で覆い
尽くされていたが、進める道が一本しか存在しないことは同じだったし、私には
引き返すという選択肢すら残されていない。
私は冷たい空気を飲み込むと立ち上がり、扉へ向きなおった。
- 386 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/07(日) 23:32
- 切り悪いけどここまで。
>>335-338
レスありがとうございます。更新ペースに関しては、本当に申し訳ない。
- 387 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/05(日) 02:06
- 年内完結・・・。
- 388 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/28(金) 02:11
- いつまでも待ちます。
- 389 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/17(木) 11:10
- 気長に待ってるよ
- 390 名前:作者 投稿日:2005/02/22(火) 01:47
- >>387>>388>>389
ごめんなさいごめんなさい_| ̄|○
書き続ける意志はあるので落とさないでいただけると助かります。。。。
- 391 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/25(金) 00:55
- ガンガレ
- 392 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:20
- 隠し持っていた鍵がちゃんと扉に入ったのは、意外には思わなかった。
鍵は不思議なほど手に馴染んでいて、鍵穴に埋まってからは自ら意志を持った
ように自然に動いた。だから、原始的な外見の割に複雑な構造をしていた鍵も
勝手に錠を落とし、扉はあっさりと開放された。
ノブを握ると、ごく日常的な行動であるかのように、私は扉を引いた。
手に滲んでいた汗が乾いた金属に触れて、一瞬で冷えた。冷たさはそのまま
手のひらから腕に広がっていって、全身を覆い尽くしていってしまいそうだ。
深く息を吸い込むと、静かに部屋の中へ侵入し、後ろ手に扉を閉めた。金属が
触れ合い、無機質な音を立ててやがて沈黙した。
室内の明るさは、私の目に痛かった。一瞬、全てが白で埋め尽くされているよう
にも見えた。
- 393 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:20
- 二、三度瞬きをして、足下を確認してからゆっくりと視線をあげた。
それほど広い場所ではない。むしろ、壁一面にものが隙間なく並べられて、室内
の中央にも大きな物体が場所をとっていたので、圧迫感を感じたほどだ。
私は焦燥気味の心を抑えながら、壁に並んでいる物へ歩み寄っていった。
ここには窓もなにもない。どこかで空調が動いている微かな音が聞こえてくる以外は、
静寂が支配している。
一瞬、私はそれがなんなのか、理解できなかった。
あまりにもありふれていて、日常的に目にしているものが、その日常の文脈から
切り離されて示されると、脳が一瞬だけ解釈するのを拒絶するんだろうか、などと
不思議と冷静に考えていた。
- 394 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:20
- エントランスにある柱ほどの太さがあるガラス管――巨大な試験管とでもいえる
だろうか――には微かに青い液体が充填されていて、その中に浮かんでいる
のは、人間の耳だった。形から判断するに、それは右側についていたものだろう。
私は水族館を見て回るように、壁に並べられているガラス管の中に浮かんでいる
ものを、一つ一つ確認していった。
全ては人間の身体だったものの一部……左耳はもちろん、左右の眼球、鼻、
スライスされた胴体、内臓の各部も丁寧に切り分けられて、まるで生きている
ような状態で保存されている。
芸術的とすら言えそうなくらい、美しく分解された人間のパーツが、この異常な
までに清潔な空間で静かに息づいている。
そして、私はこの身体の持ち主を知っていた。これは私なのだ。記憶にあるの
だから、それは確実だった。私の記憶は、常に正確なはずだった。それでなければ、
私は曖昧な記憶に惑わされて、やがて自分自身すら見失ってしまう……。
- 395 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:21
- そうだ、ここは私を生産する工場なのだ。解体されたパーツをそれぞれ複製して、
また元通りに組み合わせることでまた私に戻る。正確に言うなら生産ということ
ではないのかもしれないが、いずれにしても私の解体された身体がここに保存され
ていて、ここの存在が無数の私の存在を、担保しているのだった。
部屋の中央に、最終的な行程で重要となるパーツが、慎重により分けられて、
丁寧にデータ化されるようにして保存されている。脳だ。こうしてみると、やけに
薄っぺらい、半透明なフィルムが無数に巻き取られて、保存液に浸されている。
- 396 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:21
- 頭のデータベースの構造について、以前なにかの本で読んだことがあった。
非常に薄く、しかし切れ目のないベールのようなものが、畳まれるように折り重なり、
襞を造り、それが重なり合っていって脳という塊になっているのだという。
記憶の中にある映像は、そのフィルムに焼き付けられていくが、複雑に襞をなして
折り重なっているので、場所によっては二重写しになったり奥へ追いやられて
ぼんやりとしか見えなくなったり、各所で混乱が起きている。
それも、こうして薄膜を丁寧に剥がして引き延ばせば、全てが一点の曇りもなく
明確に、確実な形で晒されるわけだ。そして、フィルムは無数に複製されて、
別の工房で精密な機械によって折り畳まれて、私の頭の中に格納される。
製造ミスなんて、起こるはずはなかったのだ。
- 397 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:21
- 死なないというのは幸福なことじゃない。
これは私が受けた刑だ。一つの罪にたいして与えられる、一つの刑。
一つの命と引き替えに、私はこれを差し出した。その時は、私は何一つとして、
刑について理解はしていなかったんだろう。
だから、もはや誰も訪れなくなった狭い取調室に取り残されても、私は呑気に
指を鳴らしたりしていた。ひょっとしたら、口笛なんかも吹いていたかもしれない。
天井近くにある、小さな窓を見上げる。
監視の気配はない。終わったのだ。私はこの陰湿な駆け引きに勝った。明日から
はまた自由の身になれる。
しかし、一つだけ不安が残っていた。それは、私が何一つ真実を語っていないことだ。
私にはその時、裏付けのない確信があったはずだ。語られなければ、真実は
真実でなくなる。語られたことが真実になる。
- 398 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:22
- 男たちが出ていってから、かなりの時間が経ったような気がする。
ここには時計がないので分からないが。窓は小さすぎて、表が昼なのか夜なのか
も分からなかった。というか、あの窓は表に通じてなんていないんだろう。いつ
見ても、血のように赤い光が、粘液みたいに漏れだしているんだから。
「あーのー」
私は間延びした声を、扉の向こうへ投げかけた。扉は閉じられたままで、じっと私の
存在自体を黙殺しているようだった。
「そろそろ帰りますけどー、いいですよね?」
言ってから、しばらく待ってみる。やはり何の反応もない。
私は椅子を蹴って立ち上がると、薄汚れた扉をノックして、もう一度だけ声をかけて
みた。
やはり無反応だ。もうここには誰も残っていないんだろう。私はノブを掴むと、外から
閉じられていないことを信じて回してみた。
錆び付いた金属が擦れる音とともに、普通に扉は開いた。私は躊躇することなく、
重たく汚れた空気に満ちた取調室をあとにした。
- 399 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:22
- その向こうに伸びているのは、やはり一本道だった。
私は自分の鮮明すぎる記憶を呪った。まただ。この一方通行の道からはどうやって
も逃げ出すことは出来ない。後戻りすることも不可能だ。
見なくても分かっている。向かう先は荒野に設えられた、ボロっちいロケットの
発着場なのだ。私はそこへ向かう。そして、ロケットの向かう先もやはり、脇道も
なければ後戻りも出来ない一本道でしかない。
「同じ夢何回も見ると、あれこれひょっとして昔ホントにあったことなのかな、なんて
思っちゃったりしますよね」
もう3日くらい、私はまともに睡眠をとっていなかった。だから、田中が軽い口調で
言うのにも、深刻に答えてしまっていた。
「ああ……マジで最近そんな感じ」
- 400 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:22
- 束の間の休息だった。二人して、撤収作業に入っているスタジオの片隅に座り、
タバコを吹かしていた。目の前にはセットから外されたばかりの意味不明な
オブジェが転がっている。なんと形容すべきか分からないが、宇宙要塞のよう
でもあり、UFOのようでもあり、表面はギラギラと悪趣味なくらいに目映い装飾
が施されていた。
これからまた、マネージャーとして現場に向かわなければならない。
梨華ちゃんの例の写真が雑誌に掲載されたばかりで、周囲はバカみたいに
慌ただしかった。3日ほどの間に、もう私の体力も衰弱しきっているはずだったが、
それでもここで倒れることは許されていない。
「どんな夢見るんですか?」
田中が訊くのに、私は溜息をつくと、
「ていうか寝られないからさ、起きて夢も同時に見てるって感じ」
そう言うと苦笑した。田中とはこの近くの廊下で偶然すれちがったのだった。彼女
にしても、やはり渦中の人間であることには変わりはない。
「れいなはけっこう、人を殺す夢とか見るんですよ」
- 401 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:22
- 私は不意打ちを食らったみたいに、ぎょっとして顔を上げた。
田中はそんな私の表情を見て、おかしそうに笑った。
「いや、夢の話ですよ」
「ん……」
一瞬だけ逡巡してから、私は口を開いた。
「ていうか、私もそんな夢よく見るんだけど……」
「そうなんですか?」
意外そうな目で、田中は私を見る。
「なんだろう、けっこう曖昧なシチュなんだけどさ」
あまり重い口調で言うのもおかしいので、わざと冗談めかして言ってみるが、ふと
どこからかの見えない力に躊躇わされた。
確かに、誰に見られているか分からない場所でするような話題でもないかも
しれない。が、
- 402 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:23
- 「それで、どういうふうに殺すんですか?」
どうやら、田中の方はこの話題を切り上げるつもりはないようだった。
「ん、っと、相手の顔は見えないんだけど……後ろ向いてるから。私がこう、
ナイフをもって近寄っていって、背中から抱きすくめるみたいにして、身体に
ぐさっと」
声を潜めて話すと、余計におかしな雰囲気に感じられてしまう。が、田中は
興味深げな視線を向けたまま頷いていた。
「相手は知らない人なんですか?」
「知らない……多分。顔も見えないし、男の人だとは思うんだけど」
知らなくても、その男の記憶は、現実にすれ違ったことがある人間と同じくらい
には、鮮明なものとして残されていた。
大柄で、厚みがあって、中年か壮年かは微妙なところだったが、それ相応の
知性を感じさせるようなタイプだ。
そして恐らく、彼は私に殺されるのを待っている……。常に。
- 403 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:23
-
「れいなのはちょっと違いますね」
田中は言うと、私の真似をしているのか、やけに声を潜めて、
「私の夢は、みんな顔知ってる人たちですから」
「へえ……そうなんだ」
ある予感が、心をざわめかせた。耳の奥で甲高い警告音が鳴っているようだった。
禁忌に触れて、脆いバリアーをシャボン玉のように破裂させてしまう危険な
指先が、どこかから伸びているみたいだった。
「あのさ」
私が口を挟むのと同時に、スタジオの真ん中の方で派手な音が炸裂した。
ガラスが割れ、ベニヤが引き裂かれる耳障りな音が連続して響き、続いて大勢の
叱咤の声と混乱気味の喚声が交錯した。
- 404 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:23
-
「あーあ」
田中はそんな混乱を、楽しそうに眺めていた。
「じゃ、そろそろ時間だから……」
そう言ったのは私なのか田中なのか、よく覚えていない。言い終える前に、また
間抜けなスタッフが足を滑らせて、騒々しい破砕音を響かせた。
「ちょっともう、なにやってんの」
「ごめんごめん」
キッチンの方からの音に、私はぼんやりと顔を向けた。
あたふたと、梨華ちゃんが床に散乱したグラスの破片を拾い集めている。
辻が出てきて、だらしなくテーブルに肘をついている私と目があった。
「よっすぃー、ここって掃除機ってなかったっけ?」
「掃除機? さあ……」
- 405 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:24
- そんなものの存在は、ここ数日頭から消えていた。それだけで、なにか未知の
発明品のような奇妙な響きを持って聞こえた。
「あっちの部屋にあったと思うよ」
キッチンの方から甲高い声が聞こえ、梨華ちゃんが顔を覗かせた。
「あっちってどっち?」
辻が聞き返す。梨華ちゃんは指さしながら、下手な説明を続けている。
「向こうの、あんま使ってなさそうな部屋の隅っこにさ。多分あったと思うんだけど。
よっすぃも見たよね?」
急にそんなことを訊かれて、私は反射的に答えていた。
「うん、見……た」
しかし、私は見ていないのだ。ただ見たと思いこんでいるだけだったのに、それが
いつしか、実際に見たような記憶とすり替わっていた。
頭がこうした詐術を行うことは、よくあることなのだろうか? 記憶の蓄積される
構造が、私には未だによく分からない。
- 406 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:24
- 「よっすぃー、ホントに見たの?」
「ごめん適当に言った」
二人がなにやら文句を言い始めたので、私は面倒だったのでその場を後にした。
コップが落ちて、割れた。
割れたものは、二度と元には戻らない。
そう、確かに彼は私にそう言った。目の前で床にグラスを落として、粉々に
破砕したそれを見下ろしながら、言った。
このグラスを元通りに出来るか? 不可能だ。
君が失ったのもこれと同じだ。壊したのは君自身で、もう二度と元には
戻せない。
私はその言葉を信じなかった。多分、それは間違いだったんだろう。
- 407 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:24
- 部屋を出てぶらぶらと廊下を歩いていった。
午後の淡い光で満たされているエントランスホールを横切って、誰もいない廊下を
突き当たりまで進んでいった。
この部屋も確か入ったことはなかった。何に使われているのか分からない、
薄暗い隅の方に、隠し事みたいに扉が閉じられていた。すぐよこに小さな台が
あって、地味な花瓶が埃を被っていた。
「よっちゃん」
いきなり背後から呼びかけられて、一瞬身体を硬直させた。
振り返ると、安倍さんが壁にもたれかかって、生気のない瞳で私を見つめていた。
表情に笑みは浮かべていたけど、ずいぶんと憔悴しているのは一目で分かった。
それでも、不思議と、彼女の様子からは活力が感じられた。矛盾した二つの状態
が混じり合っているのか、よく分からない。
- 408 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:25
- 「いや、ちょっと掃除機を……」
なぜか知らないが、咎められているような気になってしまって、ついそんな言葉を
言い訳がましく発していた。
「掃除機って?」
安倍さんは屈託ない様子で、首を傾げる。
私は正餐室の方を指さすと、
「梨華ちゃんがグラス落として割っちゃって、それで」
いや、割ってしまったのは辻ちゃんだったかもしれないが。
いずれにしても、壊れた物は戻らないのだから、大した問題じゃないと思うけど。
- 409 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:25
- 「そうなんだ。でもね、その部屋見てもなにもないよ」
安倍さんは私が背を向けている扉を示しながら言った。いつの間にか、笑みは
消えていて、ひどく無表情で冷たい口調だった。
「ああ、そうなんですか」
理由の分からない豹変に困惑しながら、私は狼狽ぶりを隠そうともせず、きょろ
きょろと扉と安倍さんの間で視線を泳がせていた。
「見たんですか? この部屋……」
「うん」
安倍さんは表情を変えずに、うなずく。
「なにもない部屋だよ。本当に、なにもない」
「はあ」
- 410 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:25
- なんだかまた、ありがちな芝居がかった口調になっているのが、気味悪かった。
「ウソだと思ったら、開けてみなよ」
「いや別に……」
「ほらほら」
安倍さんはそういうと、すたすたとドアの所まで近づいて、私の腕を掴むと強引に
ノブを握らせた。
「すごいよ。ビックリするからね」
「はあ」
彼女のテンションがよく理解できないままに、私はノブを捻ると扉を引いた。
果たして、そこは確かに虚無だった。私は驚き、反射的に扉を閉じた。
「い、今のは……」
「だから言ったじゃん」
安倍さんはなぜか誇らしげだった。私は混乱したまま、汗ばんだ手をノブから
放せないでいた。
- 411 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:25
- 「……っこういう、いたずらの部屋なんですよ、多分」
なんせあのつんくさんの邸なんだから、なんだってありだろう。
そうだ。中庭の彫像が見るたびに姿を変えるのも、そうなんだろうし、いくら待って
いてもつんくさんが現れないのだって、そうに決まってる。
「そう思う?」
安倍さんは無表情のまま、そう問い掛けてくる。
「そうでしょう。ちょっとね、でも、ドッキリにしてもやりすぎですよね」
自分の仮説に、今まで思い悩んできたことがなんだかバカみたいに思えてきて、
やけにおかしくなってしまったみたいだ。
「開けてすぐ閉じちゃうから、騙されちゃうんですよ。よく見たらすぐ分かりますって」
- 412 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:26
- 私はそう言うと、もう一度ノブを捻って、扉を開いた。
扉の向こうは暗闇。それも際限なく、果てまで広がっているように見えた。
「ほら……」
暗闇はひどく重くて、分厚いもののように感じられる。
太陽を直に見た瞬間、あまりにも強い光のためにしばらく盲目のような状態に
なってしまうことがあるけど、暗闇もあまりにも強く目にのしかかってくると、やはり
似たような状態になってしまうようだ。
目が慣れてくると、ようやく扉の向こうの様子が見えてきた。
夜空のように、無数の星が見える。しかし距離感は感じられず、瞬くこともなく
べったりとした表面に張り付けられたみたいだ。
ほら、やっぱりこれは、作り物なんだ。
私は苦笑しながら、一歩踏み出そうとしたが、そこでまた足が止まった。
ずっと下の方に真っ白な平面が広がっている。
微かに歪曲してるように見える。真っ白ではあったけど、真っ黒な暗闇と同質の
冷たい感触を、それも放っていた。
- 413 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:26
- 「……でも、掃除機はないみたいですね」
私は狼狽を隠すようにして言うと、後ろ手に扉を閉じた。手は汗でべとべとになって
いて、ドアノブの錆の匂いが移っていそうだった。
「なんでそうやって、知らんぷりするわけ?」
「いや……」
安倍さんの咎め立てるような言葉に、私はどう返していいのか分からない。
「全部よっちゃんが仕組んだんでしょ?」
「仕組んだって……なにをですか」
そんな言葉にも、不思議と冷静に受け止めている自分が不思議だった。
確かに、今みたいな状況だったら、根拠なんてなくても誰かに責任を押しつけ
あったり、私だってそう思ってしまっていても、おかしくない。
だから、安倍さんが言うことにも、私は取り立てて抗議しようとは思わなかった。
「そんなこと言われても、私はなんも知らないんですけど」
「だってこれ、よっちゃんのでしょう」
安倍さんはポケットから何かを引っ張り出した。一瞬、微かな光を反射して
それは煌めいた。
- 414 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:26
- 「あっ……」
見間違えようがない、それは確かに、私の持っている球体だった。
立方体のガラスケースに収められた、小さくて軽くて地味なインテリア。
「知ってるんだから」
「ちょっと待ってください、それ、返してくださいよ」
「よっちゃんがこれ使って、みんなのこと監視してたんでしょ?」
「はあ?」
思ってもみない言葉に、私はなんていっていいのか分からなかった。
安倍さんは、その指摘に私が動揺していると思ったのか、自信に満ちた口調で
続けた。
「地下のライブラリーにあったの。クルーザーに乗って、うちらがここに来てから
ずっと、盗み撮りしてたんでしょ」
「いや……」
私もそれは見ていた。保田さんに見せてもらったのだ。
あれは、つんくさんの私的なコレクションだったはずだ。それは、ここの映像だって
そうなんじゃないのか。
「冷静に考えてください、そんなこと、出来るわけないじゃないですか」
「ふん、もう何言ったって、信じないんだから」
- 415 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:27
- 安倍さんの目はずいぶん怖かったけど、私は球体に引き寄せられるように、
無意識のうちに飛び出していた。
ビックリするような俊敏な動きでそれをかわすと、安倍さんは素早く私の側を
すり抜けて、扉の前に立っていた。私は転びそうになりながら、なんとか身体を
捩って彼女の方へ向き直った。腰が痛かった。
「残念でしたー」
からかうように言うと、安倍さんはほとんど感情もなく、機械的な笑みを浮かべた。
「安倍さんっ、本当にやめてください!」
私もかなり平静を失っていたようだった。身を乗り出しかけた瞬間、安倍さんは
背中に回していた手で掴んでいたノブを回すと、その部屋の扉を開き、私の
球体を投げ入れてしまった。
- 416 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:27
- 「なっ……」
私は慌てて、踏み出しかけていた足を止めた。爪先が痛かった。
「これで大丈夫だね」
安倍さんは言いながら、そろそろと扉を閉じた。乾いた音がやけに耳についた。
「……」
私は何と言っていいのか分からず、ただ妙にやり遂げたような表情を浮かべている
安倍さんを、キッと睨み付けた。
彼女は特に狼狽える様子もなく、後ろ手にノブを握ったまま、そこから動くつもりは
ない様子だった。
- 417 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:27
- 私はそのまま回れ右すると、背後の階段を駆け上がっていった。追うようにして、
安倍さんが声を投げかけてくるのが聞こえたけど、無視した。
螺旋状の階段は、ひどく急勾配で狭かったため、何度も躓いて転げ落ちそうに
なった。邸の隅にこんな階段があったとは今までに気付かなかった。それにしても
長い階段だ。一階分上るのに、こんなに距離があるだろうか? ひょっとして、
二階には通じていなくて、そのまま、屋上なり展望台――そんなものがあるのか
どうか知らないが、もうなにがあったとしても驚かない――なりに直通している
のかもしれない、とふと不安になった。しかし足を止めるつもりはなかった。
ようやく長い螺旋階段を抜けた。薄暗くて短い通廊を抜けると、記憶に残っている
二階のフロアに出た。私は少し安心した。
- 418 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:27
- それにしても、と、私はさっきの部屋のことを考える。
安倍さんの言う、無の部屋だなんていうたわごとを相手にするつもりはなかった
けど、しかし、何らかの意図であのような奇妙な部屋が作られていることは確か
なのだ。
もちろん、単なる悪ふざけの可能性っていうのが、一番大きいのだろうけど。
中庭の彫像と同じで、眼の錯覚のようなものを利用した、下らないアトラクションに
決まっている。
安倍さんが手に持っていて、あの部屋に投げ込んだのは、本当に私の持ってきた
球体だったのかも、分からない。
あれだって、たまたま偶然、そんな風に見えてしまったのかもしれないじゃないか。
ただのガラス製のサイコロなんだろう。だから安倍さんは躊躇いなく放り投げた。
以前見た映画に、こんなセリフがあった。
サイコロを振って、出る可能性のある目は六通りある。
もしそれ以外の目が出たら……? 可能性のないことが起きるというのは、どういう
ことかというと、安定した可能性で保証された世界が、崩壊する前兆なのだと。
下らないSF映画の導入のシーンだった。出ない目の出る世界は虚無に通じている
とか、哲学みたいなフリをして、もの凄く下らないことを大袈裟に論じあげていた。
- 419 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:28
- 私は自室に戻ると、放り出しっぱなしになっている鞄を漁った。
やはりあれは私の見間違いだったようだ……私は、見慣れた、ガラスの立方体に
密閉された球体を確認して、安心した。
急に力が抜けてしまい、球体を持ったままぐったりとベッドに座り込んだ。
そのまま両腕を開いて、背中から倒れ込む。左手の先に、何か硬いものがぶつかり、
顔を向けた。
図書館から持ち出してきた本が、まだそこに置かれている。
そういえば、この本の中に邸の図面が載っていたような気がする。
いや、ただ私がそういう風に見えていただけなのかもしれないが、偶然の類似とは
言い切れないくらいに、それは近い物のように見えた。
- 420 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:28
- ベッドの上で座り直すと、膝の上で本を開いた。
古くさい羊皮紙に描かれていたような地図ばかりが載っている。
パラパラと捲っていくと、すぐに目的のページに辿り着いた。一階、二階、地下の
平面図が、まるでそれぞれが独立した島の地図のように描かれている。
偏執的といってもいいくらいに、どこも細かく描き込まれているその地図の中で、
一箇所だけ非常にシンプルで逆に浮いている場所があった。それは、三つの地図
ともに共通している。右翼の突き当たりの部屋だ。
二階は図書室。地下にはライブラリー、一階には、あの無の部屋があった。
そこは単なる□の空白だった。私はその中に○が描かれているのを想像して、
嫌な気分になった。
- 421 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:28
- 私は溜息をつくと本を閉じた。
どうも、ここに来てから妙なものにばかり気を取られすぎているのかもしれない。
見るもの全てが何かと関連し合っているように思えてしまうのは、危険な兆候だ。
ベッドから降りると、デスクの上に開きっぱなしにしてあったノートパソコンが
目に入った。
日記を書こうとして、結局なにも書けずに放ったらかしにしてあったのだ。
- 422 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:28
- 終了させようとパッドに指を走らせる。真っ白だったはずのファイルに、数行、
なにかの文章が打ち込まれている。
今度こそ
そして、もう一度でと
私は考える
これでおしまいだろうと私は考える
この世界も
つまり、
最後の一つ前の感じだ
すべてがぼける
もう少しで盲だ
それは
頭の中のことだ
いつの間にこんな文章を書いたのか、分からない。記憶にも残っていないが、
今ではもうあまりあてにはならない。……
保存せずにソフトを終了させると、パソコンを落とした。ひどく部屋の空気が澱んで
いるように思えたので、バルコニーの窓を開いて、出ていった。
- 423 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:29
- 眼下に見下ろせる中庭に、円形の泉があった。中庭は三方から正円の泉を
取り囲み、閉じこめようとしているように見えた。
泉の中央には何もなかった。波もなく、湛えられた水は空からの光を反射して
月のように輝いていた。
そうだ、もうロケットは飛び立ってしまった後なんだ。
みな、ロケットに乗って無事脱出していったのだろう。
乗り遅れてしまったのだ、私は。
空を見上げる。突き抜けるような晴天。あまりにも深い青さに、押しつぶされそうな
感覚になる。西から吹いてくる心地よい微風。馥郁たる緑の匂い。周囲から響いて
いる波音。……
- 424 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:29
- 自分がどこに立っているのか、見失いそうになる。螺旋階段を上って展望台へ
上がり、世界を見下ろしている気になる。
季節もなく、自然もなく、生命もない。ただ世界の断片が、欠片が集められて、
空虚な風景を作り出しているだけ。
庭園があり、可愛らしい花が咲き、小さな昆虫が飛ぶ。茨の繁みの向こうに
暗い森があり、その向こうには砂浜があり、港があり、海が広がっている。
あまりにも静かで、平和だった。島を取り囲む海の彼方にも、深い青の空の向こう
にも、この静寂はどこまでも続いていそうに思えた。
終焉。
ふとそんな言葉が頭をよぎった。
まだ地球が球体であることも分かっていない時代、様々な形で世界の果てが
夢想されていた。
今私が立っている場所は、まさにそんな場所のように感じる。
全てが終わり、時間は止まり、あとはただどこまでも静寂が続くのみ。
- 425 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:29
- 急に、説明しようのない焦燥にとらわれて、私は部屋を飛び出していた。
まだ間に合うかも知れない……しかし、何に?
通廊がひどく長く感じられた。同じ場所を無限に回り続けているような。
壁にかけられた奇怪な絵画に、一瞬気を取られる。足をカーペットの上で滑らせ
てしまい、転びそうになるのを慌てて手をついて、身体を支えた。
その表紙に、ずっと握っていた球体が手から落ち、転がっていった。
変形したサイコロのように、それは螺旋階段を転がり落ちていった。
複雑に飛び跳ね、床にぶつかるたびに、それは面を増やして、形を失って
行くように見えた。
6通りしかないサイコロの目。もしそれ以外の可能性が出るなら……?
からからという乾いた音は、複雑な律動を刻みながら階下へと落ちていった。
私はよろけるように階段を下りながら、後を追った。
- 426 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:30
- 一階に辿り着いても、様子は変わっていなかった。
球体はどこにもなかった。消えたのか、どこか見えない場所へ転がり込んで
いってしまったのだろうか。
あんな変形したものなのだから、予期しない場所へ転がっていってしまっても
不思議じゃない。もしかして、どこかからあの無の部屋に消えていったのかも
しれなかった。安倍さんの投げたサイコロを追いかけるようにして。
私は蹌踉として扉の前をすぎ、エントランスを通りすぎた。
陽光は信じられないくらいに透き通っていて、いつも見えているような宙空に舞う
埃もなにもなかった。
光の下を通り過ぎるとき、それを浴びた私も透明になってしまったような気がした。
- 427 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:30
- 正餐室の扉を開く。微風で髪が揺れた。
冗談みたいに細長いテーブルは壁の向こうまで伸びて、果てまで突き抜けていた。
それはここに来るときに歩いた、細長い一本道を思わせた。
後退は出来ない、ただ一歩一歩前へ踏み出していくしかない、一本道。
振り返ることも出来ない。
「よっすぃーさ、難しく考えすぎなんだよ」
「頑張ってればさ、きっといいことあると思うよ」
「頼りにしてるからね」
「ホンマやで、あんた一人で頑張ってるもんな」
「いつ見ても疲れてるみたいだから、ちょっと休んだら?」
「あはは、また溜息ついてる」
「大丈夫だって。心配するなよ」
「今だけだよ! もうちょっとしたら楽になるってば」
「ほら、そんな落ち込まないで」
「いつもごめんね、気ばっかり遣わせちゃって」
声が、耳の側を通りすぎて、消えていく。
聞き慣れた声ばかりなのに、誰が喋っているのかさっぱり分からない。
私はテーブルの一本道を歩いていった。正餐室を突き抜け、空の果てに向かい、
一直線に伸びている。初春の微風が、肌に心地よくて、足取りは不思議と軽い。
- 428 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:30
- 「吉澤さん?」
すぐ横に、並んで歩いている少女が居た。
ずっと知り合いだったような気がするのに、名前は出てこなかった。
「そうだけど」
「なにやらかしたんですか?」
好奇心にみちた、楽しげな表情でそんなことを訊いてくる。
なにをって? 私はなにもしていない。ただ、久しぶりの休暇をゆっくりとすごそうと
思っていただけだ。しかし、私は知らずに答えていた。
- 429 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:30
- 「殺した」
「へえ」
少女はおかしそうに微笑む。なにがそんなに楽しいのだろう。
これから先には、なにも楽しい事なんてないって、知ってるはずなのに。
「誰をですか?」
「誰か……分からない」
しかし、記憶には消えずに残っていた。後ろ姿だけ。
そうだった。私は背後からその男に近寄り、ナイフで刺した。
だから、彼の顔の記憶がない。
「でも、殺さないといけない理由は、あったんだ」
「ふうん」
少女はつまらなそうに鼻を鳴らすと、消えた。
- 430 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:31
- 別に構わない。私は一人でこの一本道を進んでいくだろう。
この心地よい微風は、地球を離れたらもう感じられないんだろうけど。
それだけが、ちょっと心残りだった。
- 431 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/27(日) 21:32
- ■1■ 終わり
そのうち■2■が始まります。
>>391
ありがとう。やれる範囲でがんばりますです。
- 432 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/29(火) 00:42
- 更新されてとても嬉しいです。もう続かないと思っていましたので。
続きいつまでも待ちますので、頑張って下さい。
- 433 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/10(火) 10:35
- いつまでも待ってます
- 434 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/05/27(金) 15:59
- 2部に期待してます
- 435 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/29(水) 20:57
- まだ諦めないにゅ
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