たとえ話

1 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)17時51分01秒
紺野さん視点です。
よろしくお願いします。
2 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)17時54分33秒
人間って結局、どんなことにも慣れてしまうと思うんです。

少し固い感じがしますか?うーん……じゃあ、とてもいいたとえがあります。
実際のところ、たとえというか私の置かれてる状況になるんですけどね。
3 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)18時00分35秒
まず、事の始めはこんな感じでした。
日にちは毎日のようにラジオで聞いているんで分かるんですけど、
2004年の6月23日の水曜日。
最近じゃ、“ろくにーさん”なんて略されたりもするみたいです。
まあそれはいいんですけど。
4 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)18時12分59秒
水曜日と言えば、何の日かもう分かってますよね?
そうです。ハロプロワイドの収録日です。おじゃマールシェ、紺野です!
もう浸透しましたかね?いまいちですか?
んー…何がいけないのかなぁ?…あっと!話がそれてしまいましたね、すみません。
とにかく!4,5人の男の人がのそのそと収録中のスタジオに入ってきたんです。

もちろん驚きはしました。だけど、たまにあるといえばあるんです。
スタッフのみなさんがわざと台本にない事をして、私たちを驚かせるってことが。

何何!?何がはじまるの?って感じでした。
キャスターの中澤さんも、ピーマコ小川…これもあまり浸透してるとは思えないんですけど、
って、ああ!またですね。とにかく二人も同じだったっていうことは、顔を見れば分かりました。
5 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)18時17分35秒
本当に異変だと気付いたのは、
「おい、カメラを止めろ!」っていうスタッフの誰かの叫びにも近い声でだったんです。

のそのそとフレーム・インしてきた数人の男性は、
いわゆるシコミじゃなかったんです。

そして次の瞬間には、その手の中に拳銃が握られている事に気付いたんです。

急に辺りが沈黙に満ちました。
6 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)18時25分06秒
ちょうどですね、いいところだったんです。
というのは、突撃リポーターの腕の見せどころだったんです。
もちろん「なんで拳銃を持って入ってきたりしたんですかぁー?」なんて意味じゃないですよ?
死んでしまうんで。

これからVTRに入るところだったんです。
それで例の、「突撃、おじゃま!」ってポーズを取っていたところだったんです。
あまりの出来事にそのまま固まってしまいました。
コントみたいですよね?タイミングといい、リアクションといい。
だけど現実にあんなことが起きると、誰も笑わないんですとねぇ。
うーん、勉強になりました。
7 名前:紫苑 投稿日:2003年09月02日(火)18時31分13秒
そうなると、だれも抵抗なんてしないし、行方を見守るしかなくなるんですね。
何が起こっているのか?この人たちは誰なのか?なんでこんな事をするのか?
もうみんなの頭の中は、疑問符でいっぱいでした。私もそうでしたから。

一応特技になっている空手を見せてやろうなんて気は、頭をかすめもしませんでしたし、
それどころか、自分が空手を習っていたことすら、ずーーーーっと隅のほうに追いやられて、
今思い出したくらいです。
ましてや、ジャンピング・スクワットなんて何の役にも立ちません
8 名前:紫苑 投稿日:2003年09月03日(水)17時44分45秒
そう、それで、です。私たちはスタジオの一箇所に集められました。
カメラマンさんも、ディレクターさんも、ADさんも、マネージャーさんも、みんなです。
そうすると、監視がしやすいからだそうです。頭がいいですね。
残念なことに、手元にメモ帳がなかったので、メモをするわけにはいきませんでした。
残念です。

中澤さんはイライラしているし、まこっちゃんはオロオロしているし、
私は…んー、思いつかないですけど、気が気じゃなかったのは確かです。

イライラ、オロオロときたから、私の心情もそんな感じで表せたらよかったんですけど
…まだまだですね。あれ、マダマダ?…だめだ、つながってないや。
リポーターっていうのは、そういうのがポンポン…これもだめだ。
そう、ポンポン出ないといけないと思うんです。
とういうのは…って、どうしてこう、話がそれるかなぁ?順々に説明していきたいのに。
そんなオバケとかいたりして!だとしたら、娘。のまわりには大量にいますよ、きっと。
名前、名前かぁ。何て名前にしようかなぁ。…すみません、今のはわざとです。
9 名前:紫苑 投稿日:2003年09月03日(水)17時58分11秒
監禁、監禁なんですかねぇ。別に両手両足を縛られていたわけでもなく、
トイレも比較的自由に行けましたし。
付き添いに拳銃を持った男の人がついてきたことを除けば、悪くはなかったです。
食事も十分に与えられましたし、そう、これポイントなんですけど、
菓子パンをくれたんです!これは嬉しかったですねぇ。
浮かれすぎて、中澤さんに怒られてしまったくらいです。

そうそう不思議なことに、それだけ自由だったのに、テレビとかラジオとか、
そういうものは一切ダメだったんです。これはつらかったですねぇ。
自分たちが巻き込まれている事件が、どういうふうに流されているか分からないんですから。

もっと不思議なのは、犯人グループさん−こう言ったら中澤さんに、
「そんなもんに“さん”つけんでええねん!」ってオバサン口調で怒られました−も、
見聞きしようとしないんです。たまに誰かと連絡をとってはいたんですけど。
10 名前:紫苑 投稿日:2003年09月03日(水)18時08分12秒
不思議なことは他にもたくさんありました。
窓から外をのぞいてみても、警察官のみなさんや、
報道の方たちがいらしてる様子がないんです。つまり、レポーターは私一人です。えへへ。

警察と言えば、この事件が起こった時に楽しみにしてたことがあるんです。
あ、これはまたおこられるから内緒でお願いします。
あのー、あるじゃないですか、よく。
ほらぁ、ドラマなんかで、「君たちは完全に包囲されている。無駄な抵抗はやめて出てきなさい!」って。
でも、それがないんです。

そりゃあ、私だって、三日も四日も何にも起こらなければ変だと思いますよ。
まこっちゃんは、「きっとまだ誰も気づいてないんだよ…」
なんて言ってましたけど。
11 名前:紫苑 投稿日:2003年09月03日(水)18時14分03秒
考えてみれば、不思議なことはまだまだあります。

どうして中澤さんがお嫁に行けないのかだとか、
どうしてまこっちゃんは気を抜くと口が半開きになるのだとか、
どうして私の鼻は呼吸が苦しくなるとピクピクしてしまうのかだとか、
どうしてこの人たちは日本語を話さないのかだとか…なんですか?
止めないでくださいよ、今いいところなんですから。

この人たちって誰かって?もちろん犯人グループさんです。
12 名前:紫苑 投稿日:2003年09月04日(木)14時24分10秒
あれ、知らなかったですか?でも、恥じることはないですよ?
私も初めは日本人だと思いましたから。

私のせい?ああ、じゃあそういうことにしておきますよ。
でも、私は人のせいにはしません。
その人達が東洋人だったんで、間違えたんです。

これも日本が島国だってことが影響してるんですかね?
日本で東洋人の顔を見ると、どうしても日本人だと思ってしまいますもんねぇ。
…今、いいこと言いましたよ?
13 名前:紫苑 投稿日:2003年09月04日(木)14時33分58秒
正直、もうみなさん限界にきてました。
自分たちが置かれている状況が分からないことほど、ストレスがたまるものはないそうです。
誰と会話をしても、なぜか怒鳴られてしまうんです。
いやぁなことになってきたなぁと思いました。

この頃になると、もう中澤さんに話しかける勇者はいませんでした。
それどころか、固まって座らされているっていうのに、
中澤さんを中心にドーナッツのように、円になっていたんです。
誰が言い出した訳でもないのに、みんな等間隔で中澤さんに触れないようにしていたんです。

さすが中澤さんですよね。尊敬しちゃいます。
みんな、“銃よりそっちで死ぬ可能性のほうが高い”と考えたんだと思います。
14 名前:捨てペンギン 投稿日:2003年09月04日(木)23時09分37秒
途中レスですいません
おもしろいです
続き期待してます
15 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月05日(金)14時13分19秒
監禁されて六日目のことです。

誰もがそのうち起きるに違いないと思ってたことが、
いきなり、それもすごい勢いで起こりました。

中澤さん、大爆発です。

それは、朝の食事をとっている時でした。
それまでは与えられた食卓を囲んで、黙々と食事を口に運んでいました。
前出のとおり、食べ物には意外と不自由してなかったので、
何を食べるか選べるほどでした。

16 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月05日(金)14時21分51秒
私も、いつものようにパンによってもたらされる至福を、
文字通りかみ締め、かみ締めすぎて口の中の水分を全部持っていかれ、
飲み物を探していました。

あたりを見回すと、先に食事を終え、
床に座り一息ついてるまこっちゃんの手の中に、ウーロン茶を確認しました。
よし、と思って立ち上がろうとして、そっちに目を奪われていた私の視界の端を、
何かが飛んでいくのを見ました。
17 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月05日(金)14時27分21秒
UFOです!いや、違います。
振り返るととそれは、つい今しがたまで目の前にあった食卓でした。

「もう堪えられんわ!」中澤さんはそう叫びました。

食卓は放物線を描き、スローモーションで床へと落ちていきました。
ニュートンがこの場にいたら、万有引力を思いついたに違いありません。
それくらい見事な光景でした。
18 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月05日(金)14時31分29秒
それから中澤さんは、ゆっくりと立ち上がり、
銃を構えた見張り役の人のほうへ踏み出しました。

そうするとなんと、床に落ちた私のパンを踏んでしまったのです!

思わず言いました。「中澤さん、私のパ」
「こんなところに置いておくほうが悪い!」前にも経験があるかのごとく、
すばやく切り捨てられました。
19 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月05日(金)14時40分08秒
そして、その男の人の胸ぐらをつかんで、叫ぶように言いました。
「いいかげんにしろや、ボケッ!」
あまりの勢いに、その人はあっけにに取られたように、中澤さんを見ました。
「いいかげんにせいや!」中澤さんはもう一度言いました。

その中澤さんの言葉と勢いに乗るように、男性スタッフのみなさんも抵抗を始めました。
あるいは、“ここで動かないと後で中澤さんに何されるか分からない”と思ったのかもしれません。
私もそのくちでした。

…といってもできることがないので、まこっちゃんと二人で、
中澤さんの倒したテーブルを元通りになおすという作業をして、
いそがしく働いているふりをして、その場を乗り越えようとしました。
20 名前:紫苑 投稿日:2003年09月05日(金)14時46分12秒
>14 捨てペンギンさん

どうもありがとうございます。
読んでる人がいない気すらしていたんで、うれしいです。
21 名前:ハルカ 投稿日:2003年09月05日(金)20時22分56秒
裕ちゃん強っ!!!

おもしろいですねぇ、好きですよこういうのも。
頑張ってくださいまし〜!
22 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時14分18秒
しかし、勇ましく見えた中澤さんも、
現実を直視しなければならない事態が起こります。

もみ合っていたスタッフの人が、
犯人グループさんの一人に殴りかかろうとした時です。
殴られそうになったその男性が、クルっと後ろを振り返りました。
その視線の先にはリーダー格らしい、体格のいい、よく日に焼けた男性がいました。
そして、その男の人はゆっくりとうなずきました。
23 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時20分02秒
殴りかかったスタッフも、
相手の様子がおかしいことに気がついたのか、目線を追いました。
そして、その先に自分に危害を加えるものが何もないことを確認すると、
もう一度相手を見ます。

相手も、もう自分のほうに意識を戻しています。

再び振りかぶると、今度はその勢いのまま殴りつけようとしました。
…しかし、その腕は相手のところまで届くことはありませんでした。
24 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時26分30秒
パン、パン、と、ドラマやゲームなどで聞く音とは全く違う、
むしろ爆竹に近いような銃声が二度しました。
こんな状況でなければ、銃声だとも気付かなかったと思います。

「きゃぁぁぁぁぁーーーー」
そんな叫び声をあげて、まこっちゃんが戻しかけていたテーブルを、
再びひっくりかえしました。

中澤さんはそのスタッフのもとに駆け寄り、血まみれになった腕をつかみました。
さらに胸に顔を当て、それでもだめだと、顔のあたりに手をあて、
呼吸しているかを確かめました。そして静かに涙を流しました。
25 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時31分22秒
私の頭の中も動転してました。
まこっちゃんが倒したテーブルをなおしながらも、
いろいろなことが駆け巡ってました。

それは恐ろしいことでした。
劇的だったからではありません。劇的ではなかったからです。

顔色も変えずに人が人を撃ち、その撃たれた人が崩れ落ちた。それだけです。
それだけの間に、人が一人この世から亡くなってしまったんです。
26 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時35分17秒
目に映った印象から言えば、中澤さんの力によって宙に舞った食べ物が、
次々と地面に叩きつけられ、潰れていく場面のほうが強いくらいでした。

それだけにショックです。
人が死ぬなんてことは、もっと大げさで、もっとためらいや、
それこそ世界が壊れてしまうような大きなことだと思っていたからです。
27 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時43分16秒
この人たちは、立てこもりのセオリーにも―そんなものがあれば、ですが―反しています。
人質を殺せば、警察官もこれは危険だということで、
乗り込んでくる可能性も高くなります。
そもそもそんなものが到着すらしていないんですけど。

自分たちの危険度数がぐっと増すようなことを、
眉も動かさずにやってのけました。罪の重さも全然違います。

それは危険を恐れないというよりも、
自分たちに危険はないとでも思っているかのように映りました。
何かがおかしい。その感は揺るぎないものになりました。

だけどまこっちゃんは相変わらず、
「こんなことが起きているのに、誰にも気づいてもらえないなんてひどいよね」
って泣きながら言っています。
28 名前:たとえ話 投稿日:2003年09月08日(月)15時45分34秒
こんなことが起きて、私たちに抵抗する気力はなくなりました。

前よりも重たい沈黙が、
相変わらず部屋の片隅に集められた私たちの上におりていました。
29 名前:紫苑 投稿日:2003年09月08日(月)15時50分50秒
>21 ハルカさん

ありがとうございます。
すみません、いただいた感想とは別の方向に行ってしまいました(苦笑
見捨てずに付き合っていただければ幸いです。
30 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月08日(月)16時39分15秒
――
31 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/09(火) 14:54
監禁が始まって十六日目、これまでで一番理解しがたいことが起こりました。

それは、一本の電話から始まりました。
いつも通りにリーダー格の男の人のところに、
誰からとも知れない電話がかかってきました。

いつもの光景ということもあり、特に誰も反応しませんでした。
私がそっちのほうを見ていたのも、全くの偶然です。
それで例の通り、その男性は、
何語か分からない言葉を携帯電話に向かって投げかけていました。

すると、声の調子が一気にあがり、顔がみるみるうちに赤みを帯びていきます。
32 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/09(火) 15:03
これはすごい、と思いました。
『笑っていいとも』のコーナーの中に、顔を赤くする特技で、
グランプリを決めたりしていたのがあったんですけど、それに出られるんじゃないかなぁ。

私もそういう、目に見える特技が欲しいんですよね。
いつも、「特技は何ですか?」って質問に困るんです。空手といっても、そん
「…ちゃん。紺ちゃん」
肩を持って揺さぶられる振動と、呼びかける声で我にかえりました。
まこっちゃんがなんだか思いつめたような顔つきでこっちを見てます。
「ねえ、紺ちゃん。何が起こってるんだと思う?」

33 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/09(火) 15:10
気がつけば、いつもと違う口調の激しさに、
全員がかたずを飲んでリーダー格の男の人を見つめています。

そうだったそうだった。
興奮したその男の人は、それを閉じ込めるように電話を切りました。
犯人グループさんたちまでもが、その一挙手一投足に目を凝らしています。
そして、一泊置いた後、男性が結論らしきものをポツリとつぶやきました。
34 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/09(火) 15:15
こまくが破れるかと思いました。割れるような歓声です。

犯人グループさんたちが、一斉に声をあげました。
肩を叩き合い、涙ぐんでる人までいました。
そして、思い思いの喜びの表現が終わると、
全員で同じ言葉を繰り返し叫ぶようになりました。――腕をあげ、全身で。
35 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/09(火) 15:19
私たちは、完全に置いてけぼりです。
昨年、目の前で優勝された巨人軍のようです。

あっ、これは勢いだけなんで気にしないでいいですよ?

こうして私たちは何故か、監禁十六日目にして開放されました。
36 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/10(水) 16:08
えっ、どうして?って思いませんか?これがその一番理解しがたいことです。
今までしてきたこと――人を殺してまで――が、何の意味があったのか。
あっさりと外へ連れ出され、
どこへでも行け、というようなジェスチャーで送り出されました。
失礼な話ですよね?

久しぶりに踏み出した外の世界は、なんだかチグハグでした。
いや、表面的には何も変わってはいませんよ?
妙な違和感はあっても、それが何なのか分からなかったくらいですから。

ビルが崩れていたり、昼なのにあたり一面が暗い、
というような世紀末的な変化ではないってことです。
もっと人為的な、悪意をたっぷりと含んだものです。

私の頭の中では、帰り道の間中鳴り響いていた、
私たちを送り出した時の犯人グループさんの笑い声に、それが象徴されていました。
37 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/10(水) 16:22
監禁されていた人、みんながみんなそうだったんですけど、頭が飽和状態でした。
ぬけがらと言ってもいいかもしれません。

何かが起こっていることだけは分かっても、
それが何なのか考えようとする人はいませんでした。もちろん、私もそうです。

開放されても、警察に通報しようとする人はいませんでしたし、
会話さえ交わしませんでした。
無言で、それぞれの帰路へとついたんです。

マネージャーさんの運転する車の中で、考えていることは一つでした。

――休みたい。何も考えたくない。安全な巣の中で、すべてを消し去るように眠りたい。
38 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/11(木) 12:34
家に着くと、おとうさんやおかあさんや妹が、
生きていたことを心から喜んでくれました。
やっぱり家族っていいものですよね。

なんだか、この数日間についての違和感はありましたけど、
そのしっぽをたぐる余裕はありません。

訊きたいことはいっぱいありましたし、向こうもそうでしょうけど、
それを振り切るように自分の部屋に戻り、泥のように眠りました。

だから本当のことを言えば、変わり果てた世界を目の当たりにしたのは、翌日でした。
39 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/11(木) 12:48
えっと、最初は何だったけなぁ?
おはよう、キッチンにいたおかあさんにそう声をかけると、
おかあさんは泣きそうな目をして、私を抱きしめてくれました。
それから…そうそう、テレビでした。

土曜日の朝はこれを観ないと始まらない!
っていう感じのアニメがあるんですけど、それが映らないんです。
仕事がある時はビデオをとってまで観てるのに…。
ああっ、そういえば何回か見逃しちゃったなぁ。

何回チャンネルを回そうとしても、さっきからやってるニュースから動かないんです。

「おかあさん、テレビ壊れちゃってるよ?」
そう言うとおかあさんは不思議な表情を浮かべました。
口を半開きにして、なんだか言葉を探しているような、そんな顔です。

……ああっ、もしかして!思いました。
とうとうアレがきちゃったかな?そう思うと体が震えてきました。

40 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/11(木) 15:02
私と同じように、いつまなんだかのんびりしていて、
いつかくるんじゃないかとは思っていました。
小さい頃の思い出が次々とよみがえります。

夜、眠れなくなった私の手を、一晩中握っていてくれたおかあさん。
初めて友達とケンカをして、泣きながら帰ってきた私の頭をなでながら、なぐさめてくれたおかあさん。
そんな時、おかあさんが必ず私にいう言葉がありました。
“いい?あさみ、人の心
「あさみ!どうしたの?あさみ!」
意外としっかりとした声でおかあさんが言いました。
41 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/11(木) 15:18
「あれ、壊れたんじゃなかったの?おかあさん」
「何わけの分からないこと言ってんの!それよりあさみ、あなた何も知らないの?」
「失礼ね。波平さんとおフネさんがお見合い結婚だってことくらいは…」
「そうじゃなくて!」意外とするどいつっこみがかえってきました。「あなた、
監禁されていたんでしょう?」

その言葉には正直、驚いちゃいました。くやしいですけど。
それと同時にいくつかの疑問も生まれます。
「えっ、どうして知ってるの?昨日は何も話さないで寝ちゃったし…
分かってたならどうにかしてよぉ。十六日間も…」
まただ…。おかあさんがまた、あの表情を浮かべました。
ああっ、もしかして!思いました。とうとうアレが…。

今度私の思考を破った声は、おかあさんではありませんでした。
会話に入るタイミングを逃して、中川家のお兄ちゃんよろしく、うなずいているお父さんでもありません。
それはさっきからつきっぱなしになっている、テレビでした。
その…残念ながら…えーと、ハ、ハゲてしまっているアナウンサーはこう言いました。

「日本が北朝鮮領になってから、約一日が経ちました」
42 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/16(火) 15:03
◇◇◇
43 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/17(水) 15:58
これがもう半年前の話です。それからは生活がガラっと変わりました。
身近なところだと、モーニング娘。は解体されてしまって、影も形もありません。
みんなそれぞれに、学校や就職先へと新しい生活を余儀なくされました。
私も普通の高校生です。

思えば、どうしてこんなことに気づかなかったのか、ってなりますよね。
全てが静かに、かつ、迅速に起こったらしいです。
つまりどういうことかと言うと、国会や、外務省、警察、自衛隊、
テレビ局、ラジオ局、空港、その他日本の頭ともいえる組織で、
私たちが体験したようなことが起こってたらしいんです。

そうするとどうなるか。もちろん現場がどうなるかは、知ってのよおりですよね?
おとなしく待機、です。
それが同時に行われれば、何もかもが機能しなくなります。
それは当然首相官邸でも行われていて、
総理大臣が北朝鮮側の要求に署名するまでに、十六日間かかったというわけです。

いやー、よほど前から考えられ、実行もされていたんでしょうねぇ。
相当の人員を日本に送り込まないといけないですし、
比較的ですけど、混乱も少なかったんですよぉ、これが。
特に街が戦火に包まれたということもなかったですし、次の日からは日常生活です。
44 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/17(水) 16:09
…というと語弊がありますね。はいはい、それは違います。
制限はたくさんあります。
電車にもそんなに自由に乗れないくらいですから。
通学や通勤で使うには、政府公認の許可証が必要です。
だから、遠くの街まで行くことはほとんどなくなりました。

車を使うにしても、ガソリンの値段が急激に上がってしまって、とても手がでません。
大部分は、本国に輸送されてしまっているらしいんです。
そういうことで言えば、生活も前ほど楽ではありません。
これもさっきの理由とかが関係あるらしいです。
もともと、農業があんまり盛んじゃなかったですからねぇ。

じゃあ、全然日常生活じゃないじゃん、なんて言いたくなりますよね?
それが不思議なところなんです。
外から見れば急激な変化に見えても、内側からはそうでもないんですよ。
だから私、人間って結局、どんなことにも慣れてしまうと思うんです。
45 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/17(水) 16:42
あれ?なんかどこかできいたことのあるような…。
これがデジャ・ヴってやつですかね?
なんだかロマンチックな感じがしますよね、デジャ・ヴって!
生まれ変わる前の記憶だったりして!きゃあー!そうするとどうなるかな?
うーん、こうしてもう一度見直してみると、あんまりロマンチックな言葉じゃないからなぁ。
それを精一杯飾り付けてみると…ヨーロッパかな。

国王の度重なる重税に、貧しくも美しい少女ASAMIは、ほろりとこぼす。
「人間って結局」…違う気がするなぁ。

ふと意識を自分の部屋に戻すと、異様に小さい女の人がいます。
私のベッドに寝転びながら、マンガを読んでいます。
なんて身長のわりに態度のでかい人なんだ、と感心していると、その小人が私の視線に気づきました。
「ああ、終わった?」
「終わったって、何がですか?えぇと…そう、矢口さん」
「いやいやいや、今あんた、明らかに人の名前忘れてたでしょ?それから、人と話してるとき、
いきなり止まるの止めてくんない?紺野、三十分近くもどっか行ってたよ?
ホント、何回呼びかけても反応しないしさぁ」

おっとっと、忘れてた。どうしてこんな話を始めたか。
理由もなくいきなりこんなたとえ話なんかしないですよね。
そうそう、きっかけはこの、矢口さんのいきなりの訪問だったんです。
でも…。

「で、何のお話でしたっけ?」
「…えぇ!?もう一度言うよ。えぇ!?じゃあどうして、
あんなにも長い時間どこかにトリップしてたのよ?」
「それなんですよね。それがどうしてだったか…」
「だからぁ」頭痛でもするのか、額に手を当てながら矢口さんは言いました。
「モーニング娘。をなんとか復活させようって話!」
46 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/18(木) 14:16
めまいを感じました。それがどんなに恐ろしいことかは矢口さんも知ってはいるはずです。
あくまで知っては、ですけど。
「オイラさぁ、色々と考えたんだけど、やっぱり音楽がないとダメなんだよ。
音楽というか、歌ってたいんだって気づいたんだよね」
「そのことは…」言葉が出ませんでした。
「ああ、卒業した人も含めてさぁ、…あんまり遠くで暮らしてる人のところには、
ほらぁ、行けないけど、誘おうって思ってるんだよね」

その時、不思議な感情ですけど、頭に血がのぼるのを感じました。
矢口さんがそんな時、まず訪ねるであろう人の顔が浮かんだからです。
「そ、そのことま、さか、中澤さんに…」混乱で言葉がうまく出てきません。
「うん、言ったよ。でも裕ちゃんふぬけちゃってダメだね。
だからオイラがいっぱい集めて、それを見せれば裕子も…」
「――帰ってください!」自分でも驚くぐらいの大声が出ました
47 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/18(木) 14:20
その私の態度のいきなりの豹変に、驚きながらも、
どこか予想していた様子で矢口さんは続けました。
「紺野がそう言うんだったら帰るけど、また来るからね。
あの日、オイラはオフだったから何が起こったのかは知らない。
だけど、それでもオイラはあきらめないよ」
そう言うと、小さい体をヒョイっとベッドから起こし、
階段へと消えていきました。

思いました。今の政府に逆らうことがどんなに恐ろしいことか、矢口さんは知らないんだ。
思いました。スタッフの男の人が亡くなった時、
中澤さんがどんなに自分を責めたか、矢口さんは知らないんだ。
「紺野〜!!」表から呼ぶ声がします。急いで窓を開けます。
するとそこには、小さな体全体を使って叫んでいる矢口さんが…あれっ?
「いるいるいる!何あさっての方向見てんのよぉ!
ずぇっっったいにオイラ、あきらめないからねぇぇ!!」
そう言い切ると矢口さんは、確信のあるような足ぶりで去っていきました。
思いました。それでも理想のある人は美しいもんなんだなって。
48 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/22(月) 12:39
それからの日々はまるで白日夢のようでした。

いろいろなことを考えましたし、自分が何をしたいのかが段々と浮き彫りになってくるのを感じました。
それと同時に、よみがえる恐怖。
それに私たちが歌ったからといって、何になるというのでしょうか。
占領されてからというもの、日本の芸能界は一新されました。
それは、日本人の堕落した精神の一端を担っていたから、という理由からでした。
正直、何のことだか分からないんですけど。

それと、どうしてこんな事件がほったらかしにされているのか。

難しいことは分からないんで、思いっっきり省略しますね。
結局は、日本が嫌われていたからだそうです。
49 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/22(月) 12:44
そんなバカな、ですよね。…オヤジギャグを言うかどうか迷いましたけど、やめにします。
同盟国であるアメリカは、イラン戦争の影響で戦争に抵抗があります。
それに、戦争にはお金がかかりますよね?
この金額は莫大なもので、日本との貿易が生み出す利益なんかよりも大きいらしいです。
その二つと日本救出を天秤にかけた結果、世論という国民感情は前者に傾いたそうです。

“これが他の国だったなら、結果は違っただろう”なんてラジオ放送も耳にします。

アメリカがそんな感じなら、他の国なんかどんなふうか想像つきますよね?
特にアジアなんかでは、議論の中心がそんなところにはなかったらしいです。
それは国が近いだけに、自国をいかに守るか、だそうです。

日本が占領されたのは仕方がない、だけど、それ以上は好きにさせない。
そんな考えでまとまっているんだそうです。
第二次世界大戦が尾をひいているそうです。
いやぁー、うらまれてますねぇ。
50 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/22(月) 12:47
その結論がどうなったか、ですか?
なんと、“刺激しないように静観しよう”ということなんだそうです。

これらの情報は、比較的自由になっているラジオからです。
ラジオが唯一、検疫をかけきれない情報源なんです。
でも、ひどいと思いませんか?
この様子だと、何年間この状態が続くか分かりません。
世界はいったい、ヒトラーの出現から何を学んだんでしょう?その時とまったく同じ対応です。

…これもラジオで誰かが言っていたことなんですけど、
こんなの混ぜとくと、頭がよさそうに見えるかなぁなんて思ったもんで。

結局、日本に有利な行動をしてくれているのは、国連だけです。
と言っても、“激しく講義し、遺憾の意を表する”と並べるだけで、
何かが起こりそうというわけでもありません。
国連も世論が逆風なのに、動くわけにはいかないのが実情だそうです。

そういうわけで、この占領は、少なくみつもっても何十年かは続きそうだというのが世界の意見です。
51 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/22(月) 12:50
そんな中、私たちがどうしようというんでしょう?
目立った動きをすれば、どこかに連れて行かれ、
簡単に殺されてしまうそうです。理由はいりません。
戦時中の不敬罪のようなものです。

おかしなものですよね。
今はまた、それを日本人の警察官が取り締まっているんですから。

そう、それでも私はこの生活に慣れてしまったんです。
人間、その生活に慣れると、動くのが怖くなります。
矢口さんが話を持ち出した時に、一番最初に感じた恐怖は、
それだったのかもしれません。

それとも、もしかして――モーニング娘。時代、
あれほどまでに頭の回転の速さを見せていた矢口さんです。
何か考えがあるのかもしれません!
52 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/22(月) 12:52
「えっ、別になにもないよ」
訪れた矢口さんは、こともなげに言いました。
それどころか、言い放ちます。
「あはは、紺野、意外と考えてたんだねぇ〜。もしかして、ヤル気マンマン?」
このチビ…おっと、あらぬ言葉がよぎりそうになりました。
奥歯をかみしめて、激情が過ぎていくのを待ち、ようやく言いました。
「じゃあ、捕まっちゃうじゃないですか」
「言われてみればそうだねぇ…。どうしよっか?」
このチ…。深呼吸、深呼吸。
「あははは、紺野、鼻がピクピクいってるよ?」
ふふふふふふ。ためしに殴ってみようかな?
そんな感情をどうにかやりすごし、言いました。
「でも、おんどれは…いや、矢口さんは今、
希望がないってことが分かりましたよね?それでもやる気なんですか?」

そう言うと、初めて矢口さんは真剣な顔つきになりました。
そして、いろいろなことを思案するように、天井に視線を移しました。
私は黙ってその様子を見守ります。なんだか鼓動が早くなるのを感じました。

“何かが始まる!”そんな予感が体を駆け巡ります。
53 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/22(月) 12:55
再び視線が私のほうに帰ってきた時、その予感は現実へと姿を変えました。

「やる。それでもやるよ。たとえ意味はなくても、
何かを変えることはできなくても、何も始まらなくても、それでもやる」

息を飲みました。矢口さんの目には、はっきりと決意の色が浮かんでいたからです。
「今はオイラも、紺野も、日本中の人が希望をなくしてる。
だけど、世界や日本を変えることはできなくても、
目の前にいる、歌を聞きにきてくれた人たちを元気にすることぐらいはできるんじゃないかな」
「矢口さん…」
「小さいことしかできなくても、それが絶望的でも、やろうよ、紺野?」

矢口さんの目に涙が浮かんでいるのを見て、私の目にもそれがあるのを感じて、
はっきりと矢口さんの言葉がうわべだけじゃないことを確信しました。
なぜなら…。

…だって、私の胸にも今、希望が生まれたんですから。
54 名前:紫苑 投稿日:2003/09/22(月) 17:05
「マターリ語るスレ」に『たとえ話』の名を挙げてくれた方、
どうもありがとうございます。

作者本人が書き込む雰囲気ではないので、
ここを読んでくれる事を祈って、お礼を言わせてもらいます。
55 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/25(木) 15:51
そうと決まれば話は早いです。あとは計画をたてるだけですから。
なんだか場違いで、不謹慎かも知れないですけど、
こういう時間は楽しいものです。

なんだか、自分の国が他の国の占領下にあるなんて信じられないほどです。
こういう時間をもっと持ちたいと思うのは、
国の状況と一緒に苦しんでいないというのは、
自分をこれまで育ててくれた大地への侮辱でしょうか?
いや、許してくれると思います。

…だって私たちには、
あとどのくらいこんな時間が用意されているのかすら分からないんですから。

「それで、どうしましょうか?例えば…誰をさそうか、とか」
思えば私は、矢口さんがどれくらい動いたのかも知りません。
「うーん、まずなっちは無理なんだよね。北海道に帰っちゃったから。
それと、六期はこんなことに巻き込みたくない。まだ日も浅かったわけだし…。」
56 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/25(木) 15:54
「飯田さんは?」
「…は、東京に残ってる。何回か交渉に行ったからね。
メンバーが集まれば何とかなりそうなかんじかなぁ。なんたってリーダーだしね」

「都内近郊…あっ保田さん!」
「圭ちゃんねぇ…。千葉って言っても意外と距離あるから、
まださそってないなぁ。でもまぁ、なんとかなるでしょ」

「あっとは…後藤さん」
「ごっつぁんは何か反応よくないんだよね。
なんか、“うーん”、とか、“でもぉ”、とかばっかりでさ。
ってことで沙耶香もきっとだめだね。これまた行けてないけど」
「どうしてですか?」
「だってあの二人は…ってまぁ、とにかくよ」

「じゃあ、ええと…他に誰がいましたっけ?」
「明日香とあやっぺはもう無理として、四期と五期か」
「ああ、そんな人たちもいましたね」
「おまえ五期だろ!…とまぁ軽くツッコんでおいて、と。」
さすが矢口さん、ペースを乱しません。
57 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/25(木) 15:56
「石川はどっちつかず。人が集まれば何とかなるかなぁってくらいだね。
巻き込みたくない気もするし。で、よっすぃーもまだ行ってない。
加護は実家に帰っちゃったから無理で、
辻は乗り気じゃない。家族に猛反発くらってる感じだね、あれは」
「…はい」
「で、高橋は福井。新垣は六期と同じく年齢的にちょっと、ね。
小川は東京に残ってるんだけど、もう全然無理」
「そうでしょうね」やっとまとまりました。
「で、私のメモによると、加わる可能性がありそうなのは、
飯田さん、保田さん、石川さん、吉澤さん、
それと、矢口さん、私、以上六名でよろしいですか?」
「うんそうそう、その六人…ってアンタ、メモってたの!?」
と、一応リアクションはとってくれたものの、元気がない感じがしました。
そして、何故だか矢口さんは深い沈黙の中へと沈み込んでしまいました。
58 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/25(木) 15:59
仕方がないので、私はそのメモの清書に入りました。
ええと、飯田さん、保田さん、………で、後藤さんと市井さんはできてるっと。
それから…私のボケ二つに対して、
矢口さんは二回とも、うち一回はノリながらツッコんでくれたっと、よし!

そんなふうにメモ帳の内容を煮込んでいると、矢口さんはおもむろに口を開きました。

「あとは裕ちゃん」
「………」
「ねぇ、紺野。どうしたらいいかな?
あの後も裕ちゃんのところ行ったんだけどさ、
ちょっと普通じゃないんだよね」
「………」
「普通の話をしてる分にはなんともないの。でも…でもね、
話がモーニング娘。をもう一回ってことになるとすごく怒るの。
『そんなこと、死んでも口にするな!』って」
「………」
「なんだかオイラ、悲しくなっちゃてさ…」
「………」
「だけどさ、裕ちゃんは必要だと思う。少なくともオイラには必要なんだよね…」
59 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/25(木) 16:02
あの時の情景が脳裏に浮かびます。
すでに息絶えたスタッフの体をから、
引き剥がされるように部屋の隅に戻った中澤さん。
服や体に付いた血を拭おうともしないで、ただ子供のように泣いていました。
そして嗚咽交じりの声で繰り返します。

私があんなことしなかったら、と。

そんな中澤さんを責める人なんて、もちろん誰もいませんでした。
いつか戦わないといけないんだろうなぁとは思っていましたし、
その突破口は中澤さんしか考えられません。
そう、謝るとしたら私たちのほうだったんです。
中澤さんを責められる人なんか誰もいなかったのです。

ただ一人、一番きびしい人がそれを許してはくれなかったのです。

――それでも、それだけに。

「矢口さん」唾を一つ飲み込みます。
「次、中澤さんのところに行く時、私も連れていってください」
60 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/29(月) 15:04
十二月二十日。私と矢口さんは中澤さんの家へと向かいました。都内とはいえ、徒歩では
相当時間がかかります。それを思うと矢口さんの熱意が感じられました。神奈川の家から、
メンバー集めのために何度東京へと足を運んだんでしょう。最初に家に来た時、いい加減
な気持ちだと思ったのを申し訳なく思います。
61 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/29(月) 15:05
「はぁ〜。それにしても寒いね、紺野」
白い息を吐き出しながら、矢口さんが言いました。
「本当ですね。北海道でもこんなに寒いことはなかったですよぉ」
「はい、それはない」
おざなりな感じでした。でもツッコんでくれたので、一ポイント追加。
「もしかして、緊張とかしてます?」ピンときました。
「えぇ?別に。何で裕ちゃんと会うのに緊張しないといけないのよ」
口ではそう言ってても、いつもより気持ち早口になっています。
「そうですか。ならいいんですけど」
完全に見つけちゃいました、矢口さんの癖。

62 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/29(月) 15:06
世間の印象はどうなのか知らないですけど、矢口さんには近い人が必ず口にする、そんな
特徴があります。せーの、“気づかいの人!”そんな人なだけに、人の話をいい加減に聞い
たりすることはめったにありません。それが最近二回もそんなことがありました。その二
回に共通していること、それは、中澤さんのことを心配している時です!…前提条件とし
て、私が嫌われてなければ、ですけど。

「はぁ」小さなため息を吐き、矢口さんが急に立ち止まります。「着いたよ」
「ここ…ですか?」見上げます。
「そう、ここ」
63 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/29(月) 15:08
それはとても立派なマンションでした。高級マンションと言われて、どんなものを頭に思
い浮かべますか?そう、それです。これはかなりコスイ税金対策をしているな。そう当て
をつけた時、ふと思いました。

「中澤さんって今、どんな仕事をしてるんですか?」
「ああ…裕ちゃんは何にもしてないよ。裕ちゃんに限らず、学生じゃない子は新しい仕事
なんてやりにくいでしょう。オイラもそうだし。顔が売れる商売だったし、ある程度働か
なくてもいいくらいのたくわえはあるしね」
「そうですか」
そうあいずちを打ちながらも、心では同意していませんでした。

…ますます臭い。マルサの血が騒ぎます
64 名前:たとえ話 投稿日:2003/09/29(月) 15:09
「なんだかさぁ、気分が乗んないんだよね」
高級マンションにありがちな自動ドアのインターホンの前で、矢口さんはつぶやきます。
「じゃあ、私が押しますから、部屋の番号教えてくださいよ」
「ジューっと肉を焼く、だから…1029」
「?変な覚えかたですね。はい、じゅーと、にくをやくっと」

「……はい」
インターホンの高い音に続いて、中澤さんの不機嫌そうな声が聞こえてきましたが、いつ
ものことです。
「おじゃマールシェ、紺野です!」
「……プツッ」
「ちょっと中澤さん、中澤さん!?」
「…もういいよ。オイラがやる、紺野」矢口さんは力なくそう言いました。

65 名前:紫苑 投稿日:2003/10/02(木) 12:52
中澤さんの機嫌は、思いのほかよかったです。ただ部屋がビールの缶でいっぱいだったのも、私のメモに載ることにはなってしまいましたけど。こういうことの積み重ねが、意外と大事なんですよ?迷いませんか?お歳暮に何を送ろう、とか。今丁度シーズンなんで思いついたんですけど、その慣習は前ほど豪華な物ではないにしろ残ったみたいです。国名は朝鮮民主主義人民共和国になっても、日本人の心は心ですもんね。

中澤さんは矢口さんと私が一緒に来た時点で、何の話か分かっていたはずです。そしてそれだけに、その話になるのを意識的に拒んでいる様子がありありと見えました。会話に空白ができるのを嫌うし、できるだけ自分が話そうとしているのにそれが見えます。だからなんていうか、話づらかったんでしょうね。私たち二人も。お互いの最近の生活についての話を、氷の上をすべるように、取りとめもなくしていました。
66 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 12:53
「…んとに、裕ちゃんはビールばっかり飲んで」
「そんなん言うても他にやることもないやん?テレビもクソ面白くもないニュースだけやし」
「それはそうだけどさ。ホント、バラエティ番組とか観たくなるよね」
「私はアニメ…」
「そうそう。前は裏側とか見えて、観るのやめたりしてたけどな」
「なんか贅沢な悩みだったよね」
「だけど、私が思うに…」
「せやなぁ。今思えば、ってやつやけどな」
どうやらこのスケートリンクは、私には合わないみたいです。
「だけどさぁ、本当にいろんなことが変わったよね…」
「まあな。馴染んでもうたけどな」
67 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 12:58
矢口さんがチラッと横目で中澤さんを見ます。それが中澤さんの表情を探る様子だったの
で、“来る!”って思いました。中澤さんにも私たち二人の緊張感が伝わったのでしょう。
少し体を固くした感じがしました。だけど、今度のリアクションはこれまでとは違いまし
た。あきらめたような感じがします。そして、言葉を待つように矢口さんを見つめ返しま
した。

何気なくかかっていたCDも、その役目を終えたように小さな音をたてて止まりました。
秒針の音が、人の心を急かすように時を刻みます。呼吸音も聞こえるほどの静寂です。そ
して矢口さんが決意を表すように、スゥっと小さく息を吸いました。
68 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:00
「で裕ちゃん、あのことなんだけどさ」
「…うん」
やはり予想はしていただけあって、優しい口調でした。それに矢口さんはホッとしたみた
いで、それならばここで全てを話すべきだと腹を固めたようでした。一息に言います。
「やっぱりオイラ、やめないよ。それに…それに裕ちゃんの力を貸して欲しい」
「………」
中澤さんは深呼吸を一度すると、ビールに手を伸ばします。
「それで私に何をして欲しいわけ?」
「それはまだ…だけど、やらないといけないことだと思う」
苦笑するように唇の端をヒョイっと上げ、少し首を振ると、言います。
「それは…それで私が死んだとしても?」

矢口さんは少なからずショックを受けたようでした。今までの中澤さんは、そんなことは
やめろ、と繰り返すだけで具体的な話にはならなかったからです。その胸の内にあった思
いに触れたからでしょう。
69 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:02
「それは自分の出した指示によって、大切な仲間が死んだとしてもか?指示を出してない
としても、言い出したならその人の分の責任も負わなくちゃならんよなぁ?それを矢口、
アンタは背負えるの?あとに残された家族や恋人に、何か言えるの?」
「でも中澤さん…」
「オマエもや、紺野。紺野は実際に見たよな?そのくらいする政府やねん。本人だけのこ
とやない。その周りの人間の一生までをダメにしてしまうねん」
「………」
「アホな真似はもうよせ、な?」
70 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:04
中澤さんは缶の中に残っていたビールを一気に飲み干すと、それをクシャっと握りつぶし
ました。
「それに、な。それをして何になんねん?そんなくだらないことで殺されたり、そこまで
いかないとしても、逮捕されたりして、一生を棒に振るうようなことか?」

矢口、と中澤さんが矢口さんの肩に手を置こうとしました。しかし、その手は金縛りにあ
ったようにピタリと止まりました。顔を上げた矢口さんが、顔をクチャクチャにして泣い
ていたからです。肩を震わせ、しゃくりあげるように泣く矢口さんに、明らかに中澤さん
は動揺していました。そして矢口さんは、中澤さんの手を振り払うと部屋から飛び出して
いきました。
「矢口!」中澤さんがそう叫ぶのに反応もせずに。

71 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:05
いやー、驚きの連続でしたねぇ。えっ、私ですか?私はあまりの展開の早さについていけ
ず、ボーゼンとしていました。恥ずかしながら、ですけど。それに中澤さんが出してくれ
たおかしもまだ食べ途中だったので、矢口さんを追いかけるわけにもいきません。

中澤さんは対応に迷っている様子でした。どうするべきか。混乱した頭で出した結論はこ
うです。“とにかく今は、矢口を追いかけなければいけない”。そう判断すると、酔いを
覚ますためか、蛇口から水をコップ汲むと、それを一気に飲み干し、コートをつかみました。
72 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:06
「中澤さん!」私は言いました。
中澤さんが鋭い目つきで私の方を振り返ります。
「あの、おかし…もっとありますか?」

中澤さんの力が抜けていくのが見えました。甲子園球場名物、ジェット風船のようにゆっ
くりとフローリングに崩れ落ちます。シューという空気が抜ける音さえ聞こえそうな、見
事な模写でした。そして、脱力した様子で言いました。
「…ある意味、大物やな」
73 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:07
約十分後。目の前にあるものをたいらげ、私は腰をあげました。
「あの、じゃあ、帰ります」
「おう、なんかいいもの見せてもらったわ」
何のことを言っているのかよく分からなかったですけど、あいまいに笑って部屋を出まし
た。更年期障害でしょうか?
「ああ!ちょっと待って。」
リビングから、靴をはこうと悪戦苦闘している私にそう言うと、中澤さんはコートを玄関
まで持ってきました。
「これ、矢口が忘れてったから。ホント、何も着んと…。まぁ、その辺で紺野のこと待っ
てる思うから、これ渡してやり?」

74 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:09
それを受け取りながら、なんとなく矢口さんのことを思いました。矢口さんは何故、泣い
ていたんだろう。何故このコートさえ忘れてしまうほどに取り乱したんだろう。“それで
も絶対にあきらめない”そう言い切った矢口さんの、凛とした姿が脳裏に浮かびます。何
があの矢口さんをそれほどまでに傷つけたんだろう。

ふと顔を上げます。中澤さんの視線は私にはありませんでした。それは私に渡したコート
の方に注がれていて、その目はとても悲しそうに、弱々しいものでした。

何故中澤さんは、こんな目をしているんだろう。一番傷つけたくないであろう人を傷つけ
るようなことを口にしたんだろう。そんなことをしておいて、何故今になって悲しそうに
するんだろう。さっきから頭を巡っている矢口さんの映像に、中澤さんの勇ましい姿や、
血まみれで、悲しみを押し隠そうともしない姿が重なります。
75 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:10
私はあることに気づきました。自分の中に異物感があります。それはふつふつと大きくな
り、私自身を飲み込んでしまいそうなくらい、熱く、大きくなりなりそうでした。それを
吐き出さなければ歩けなくなりそうだと思いました。
76 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:12
「中澤さん…」
ん?といった感じで私を見ます。
「私、思うんですけど…。中澤さんは悪くないと思います。むしろ感謝」
「何が分かる!?」中澤さんは怒鳴るように言いました。「アンタに何が分かんねん?私の
せいで人が死んだんや!それを」
「それでも!」続けます。「…決断した人を恨むような人はいません。あんまりみくびらな
いでください」
「………」
「たしかにまわりの人は悲しむかも知れません。それでも私たちは、何も犯罪を犯すわけで
はありません。法律上は犯罪かもしれないですけど、誰かを傷つけたり、悲しませようとし
てやることは一つもありません」
「………」
「残されたまわりの人たちにかける言葉はないかも知れません。だけど、本人が本当に満足を
していれば、それに勝るものはないと思いませんか?それに…」
77 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:13
中澤さんは言葉をつまらせた私を、心配そうに見つめます。この優しい人にあの言葉を言
っていいのでしょうか?本当は私なんかよりずっとそのことを知っていて、だからこそわ
ざと、その一番言いたくない言葉を使ってまで私たちを止めようとした、そんな人に。

…いや、言うべきだ。一時期傷ついたとしても、一度その膿を外に出さなければならない。
こういうものは驚くべき性質を持っている。仮面を付けていたつもりが、どちらが素顔で、
どちらが安物で、即席で作った仮面なのか分からなくなってしまうものなのだから。
78 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/02(木) 13:15
「…それに、私たちがやろうとしているのは、決してくだらないことなんかじゃないはず
です。人を元気にする。それだけのために私たちは、いろいろなことをやってきたじゃな
いですか。それが生きていく上でどれだけ大切なことなのかを、本当は知ってるじゃない
ですか!」

失礼します、そう言い残すとドアを開け、中澤さんの家を後にしました。そのドアが閉ま
った後、向こうから聞こえる中澤さんの嗚咽に胸が刺される思いでした。そして思いまし
た。中澤さんが加わることはないだろう、と。

79 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/03(金) 17:34
マンションのエントランスを出て、歩き出した時です。
「遅かったじゃねぇかよ」
ただでさえ小さな体をさらに縮込ませて、寒さに耐えている小人がいました。
「矢口さん、そんなところで何してるんですか?」
「何してるじゃねぇよ!すぐに追いかけてこいよ!凍え死ぬかと思ったよ!」
大げさなチビだ、と思いました。…いや、思っていません。矢口さんはそんな私の手
からコートを奪うように取ると、急いで着ました。まるで猿だ、とは思いません。
80 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/03(金) 17:36
「ふ〜、本当に死ぬかと思ったよ。で、どうだった?」
先に歩き出した矢口さんが、振り返るようにして尋ねました。
「どうって…何がですか?」歩き出します。
「いやいやいや、紺野が話をするっていったから、今日は来たんでしょ?それを気がつい
たらオイラが口火をきらなきゃいけない、みたいな空気作られるし…あの後、話したんで
しょ?」
「いや、あの、おかしをいただいていて…」
「………」矢口さんの握りこぶしが小さく震えています。
「いやだなぁ、何怒ってるんですか。私がそんな、自分のことばっかり考えてるわけない
じゃないですか」
「…そうだよね。はは、オイラ一瞬、ショックを隠しきれなかったよ。オイラがあんなに
寒い思いをしてる時に…」
「じゃあ、これ、矢口さんの取り分です」ポケットから戦利品を出します。「中澤さんが
矢口さんを追いかけようと私から目をはなしたスキに、目の前のやつをくすねてやったん
です。自分の分はちゃんと食してきたんで、これは全部矢口さんの物ですよ。」
「………」
「いや〜、苦労しましたよ。なんせ、相手はあの中澤さんですからね。これも矢口さんの
ためならば!と思って…」
「うがあぁぁぁ〜」
何故か、ポカリと頭を叩かれました。優しさって難しいですね?
81 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/03(金) 17:37
「でも、ですね」体制を立て直します。「一応話はしたんですよ?」
「へ〜、どうゆうふうに?」
「中澤さんは悪くないって」
「うん…話が見えない」
「でもそれはまぁ、どうでもよくて…」
「えぇ!?…まぁいいや、いちいちツッコんでると話が進まないから」
「中澤さんは」
「うん」
「加わらないと思います」
「……そっか」
82 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/03(金) 17:39
そのまま会話がなくなって、二人して黙ったまま歩きました。首元を吹き抜ける風は冷た
く、白い吐息は夕焼けの空へと滲んでいきます。だいだい色に染まった街並は、まるで絵
画のようです。なんだか誰かが描いた絵の中を歩いているみたいで、不思議な気分でした。
そこには確かに人が歩き、雑踏や店のシャッターを閉める音などが響いているっていうの
に、何故か現実感が欠落していました。照らしている陽の色が違うだけで、こんなにも見
え方が変わるものでしょうか?だとしたら、やはり大きな顔をして歩いている人間なんて
小さなものです。この土地が今どの国の物であろうと、陽は必ず照り、人の心を優しく包
み込むんですから。
83 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/03(金) 17:40
別れ間際になって、矢口さんが口を開きました。
「でも裕ちゃんの言葉にはドキッとさせられたよ。もしオイラが誘ったせいで誰かが死ん
だら、なんて考えてなかったからね」
「それに、あの言葉ですよね?」
「うん…でも冷静になって考えれば、心から言ってたんじゃないって分かるけど」
「そのことで、私…中澤さんを傷つけてしまいました」
「………」
「でも、そうするしかなかったんだと思います。もしかたらなあなあで加わってくれるか
も、って可能性を完全に消してしまいましたけど、中澤さんのためにもそうすべきだと思
ったんです」
「よく分かんないけど…それでよかったんだよね?」
「はい!」
「じゃあ、よし!」
84 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/03(金) 17:41
その勢いで別れの挨拶を済ませると、お互いに帰路につきました。何もかもが上手くはい
かないけど、前に進んではいる。そう考えると、もう一度身が引き締まる思いがしました。

…だけどその時の私には、これから始まる大事業に鼻息を荒くするばかりで、立ち止まり、
悲しそうな目でこちらを見ている矢口さんに気づく余裕すらなかったのです。

85 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:51
何もかもがうまくいっているように見えました。保田さんは私と矢口さんが熱意を持って
頼み込んだら、不安を少し残しながらも応じてくれましたし、そのことを飯田さんに話し
たら、「もう止まれないんだね」とヒロインっぽい発言の後に、加わってくれることを約
束してくれました。

吉澤さんに至っては、「待ってました!」と言わんばかりの食いつきようで、こっちが不
安になるくらいでした。事実、矢口さんは言いました。「もっとよく考えたほうがいいん
じゃない?」って。そしてこれだけのメンバーがいて、どうにか形になりそうだから、と
いうことを示し、石川さんの説得に当たりました。石橋を叩いて渡るように、じっくりと
した交渉が必要でしたけど、これもなんとかクリアーしました。

こうして、モーニング娘。の活動可能なメンバーが出揃いました。
86 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:54
リーダーはもちろん飯田さんのままなんですけど、話し合いは自然と言いだしっぺの矢口
さんと、この中では一番初めに相談された私の間で主に行う形になりました。それを飯田
さんや他のメンバーに報告するということには、誰からの異論もありませんでした。なん
とかなるような気がする、そんな風が私たちの心の中に吹き始めた一月の中旬、私と矢口
さんと飯田さんはある人のところを訪ねました。私たちの活動には、絶対に必要な人です。

「よう来たな」その人は言いました。
どうもおひさしぶりです、と私たちは口々に言い、頭を下げます。その人も笑顔でそれに
応えてくれ、まぁ、座れや、と私たちをソファーへと促しました。その事務所の応接室は
とても広く、私たちに意外な感じを与えました。

87 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:54
「―――というわけで、もう一度活動するのに力を貸していただけませんか?」
飯田さんが打ち合わせをしていた通りに、かつ、熱を帯びた口調で言いました。

するとその人は、ちょっとええか?と私たちに断りをいれた後、胸のポケットからタバコ
を取り出し、火をつけました。ゆっくりとした動作で、まるでフランス料理のソムリエの
ように、しっかりと味を確かめるように煙を吸い込みます。
88 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:55
迷っている?私はなんとなく直感でそう思いました。時間はその動きを止め、世界とこの
部屋を切り離したように沈黙が流れました。ただしその内側、鼓動や思考はどんどんと緊
張感を高めて、痛いほどでした。事実、その人は迷っていたのです。私が予測していた迷
いとは別の次元のところで。

その人、つんくさんは言いました。
「悪いけど、それはできん相談やなぁ…」
89 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:56
「どうしてですか!?」まず矢口さんが声を荒げました。
「まぁ、落ち着けや、矢口」
つんくさんはクールダウンしろという意味なんでしょう、手招きをするように手を振りま
す。「おまえらは勘違いしてるんや」
「勘違い?」飯田さんが復唱します。
「そうや。北朝鮮もそれほどアホやない」
「あの…」疑問符だらけです。「どういう意味で、ですか?」
「さすが紺野やな、ええ質問や」
「えへへ」
「えへへじゃない!」矢口さんは今日も絶好調みたいです。
「まぁ聞けや。おまえらの言い分はこうやな?今の日本人は希望をなくしてる。だから、
その希望を自分たちの歌や踊りでもう一度取り戻してほしい、そうやな?」
「はい」嫌な予感からか、矢口さんは小さな声でした。
「それはもう必要がないってことや」
「そんなの圭織…」わいてくる感情に言葉がつまったようでした。「私は納得できません!
日本人は奴隷のように、なんの楽しみもなく生きればいいって言うんですか!?」
90 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:57
つんくさんはその怒りをさえぎるように、灰皿に置いておいたタバコを再び手に取り、そ
れを深く吸い込みました。飯田さんもその様子を見て、平常心を失った自分をいなしめる
かのように深呼吸を一つしました。

「そういう意味でもない」つんくさんが煙とともに言葉を吐き出します。「もっと分かり
やすい意味で、や」
私たちは顔を見合わせました。ですけど、誰の表情にもひらめきの輝きはありません。
91 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/06(月) 16:58
「分からんか?」つんくさんは煙にむせるように肩を揺らして笑います。
「分からない、です」私が代表して答えます。
「そうか…じゃあ教えたる。つまりは、夢を見せてくれるのはおまえらやなくてもええっ
てことや」

急な角度からきた衝撃に、私たちは言葉を失いました。
92 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:02
「それじゃあ…それじゃあつんくさんは、もう私たちに魅力は感じないってことですか?」
初期メンバーなだけにショックが大きかったんでしょう。飯田さんの目には涙が溢れてい
ました。
「……違う。そうやない。俺にもどうしようもでけへんことや」
「………」
「北朝鮮側から正式に依頼があった。俺は北朝鮮側が用意した日本人の女の子をプロデュ
ースする」

スーッと意識が遠くなったような気がしました。
93 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:03
「そん、な。おかしいじゃないですか!どうしてオイラたちが活動できなくなったのに、
命令を下した側が新しいアイドルを用意するなんて!」
「おかしくてもそれが現実や。さすがに日本人が抱えてる慢性的なフラストレーションに
気づいたってことやろ。さらにそのアイドルが北朝鮮の素晴らしさを説けば一石二鳥や。
マイナスが大きなプラスに転じるやろ?」
「………」言葉もありません。
「そこで白羽の矢が立ったのが俺や。まぁ、これは誰がやっても当たるようになってる仕
事やけどな。集団心理を煽れば人気は出るし、ライバルもおらん。ということは金にもな
る。やらん手はないやろ?」
94 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:05
“つんくさんが向こう側に立った。”その衝撃は予想以上に重かったようで、飯田さんと矢
口さんは涙腺が崩壊したかのように涙を流しました。いつも無条件で味方だったつんくさん
が協力の手を差し伸べてくれないどころか、敵に回ったのです。計画が先に進まなくなった
ことなんか問題じゃありません。絶対的な信頼をよせていた相手がいなくなることへの涙で
した。私たちにとってつんくさんは、本当に親のような存在だったのです。

「…ということは、つんくさんは私たちを密告するということでよろしいですか?」
「紺野、あんた冷静すぎ!」
「でも、今の内容はメモさせてもらったんですけど、立場的にはそうしないといけません
よね?」
「しかもメモってたのかよ!」
鼻水を垂らしながらも自分の仕事をする矢口さんには、ヒキつつも敬意を表します。
95 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:05
ポカーンとした顔をしていたつんくさんも、我にかえり、笑い出しました。その笑いが嫌
味のない、実にあっけらかんとした笑い方だったので、なんとなくホッとしました。それ
でも、その笑いがあまりにも長かったので、だんだん気味が悪くなって、私と矢口さんは
居心地が悪いような気分のまま、つんくさんの顔を見つめていました。あっ、飯田さんは
とっくに違う世界の住人です。

「おもしろい」つんくさんはただそう言いました。
96 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:06
相手がつんくさんじゃなかったら、「あんだけ笑ったんだから、おもしろいのは分かってる
よ!」と矢口さんはつっこんでいたことでしょう。隣の矢口さんが少しウズウズとして見え
たのは、おそらく私の見間違いです。

「よう自分の立場を理解してるようやな。その通りや。だけどな、俺にも感情っちゅうもん
がある。今回は通報せん。だから、おまえらも用が済んだんならもう帰れ」
97 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:07
私たちはソファーから腰を上げました。これ以上どうしろというんでしょう。先頭の飯田
さんがフラフラと歩き出し、この国のものではない言葉をボソボソとつぶやきながらドア
を開けようとしました。
「おお、そうや」つんくさんが声をかけます。「これでよかったら持っていけや。完成度
が低くて北朝鮮には渡せん出来のもんやけどな」
つんくさんは笑いを見下したようなものに戻し、私たちの足元になにかを放りました。応
接室の厚いカーペットに衝撃を吸収されながらも、カシャッという小さな音をたてたそれ
は、カセットテープでした。
「だけどこの先、俺の活動のジャマになるようなことがあれば、俺は容赦なくおまえらを
叩き潰す。こっちも金もらっている以上、プロや。公私混同はもうない」
98 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/09(木) 17:07
その振る舞いと言葉に腹をたてた矢口さんは、「馬鹿にしないでください!」と顔を赤くす
ると、飯田さんを押すようにして部屋を出ていきました。

応接室の重厚なドアは、重々しい音を立ててつんくさんと私たちを遮断しました。そしてそ
のドアは、もう二度と開くことはないのでしょう。
99 名前:つみ 投稿日:2003/10/09(木) 22:13
ほう・・・
見入ってしまう作品ですね。
100 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/10(金) 16:16
100!
101 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 14:59

102 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:00
「とりあえずライブをやろう!」
そう言い出したのは吉澤さんで、場所は私の部屋でした。
「ライブをやろうよ!」くりかえします。
「あのさぁ、よっすぃー、気持ちはわかるんだけど、オイラもそんなことを言っては紺野
に冷たいリアクションを」
「いいですねぇ、やりましょうよ!」
「おおい、おかしいだろ!なんでオイラの時とそんなに違うんだよ!」
「まぁまぁ、矢口さん。よっすぃーにはよっすぃーなりの…」
「石川は黙ってて!」

実にいつも通りの会話でした。この日は、吉澤さんが提案があるから全員集合!と言い出
して、話し合いが行われました。飯田さんは向こうの世界に行きっぱなしだし、保田さん
は、「よっすぃーのことだから大したことじゃない」という名言を残し、参加を拒みまし
た。そういえば、保田さんとはあんまり会っていません。一人忙しそうにしている人です。
103 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:04


「でも、あの時と今では話が違います」私はポテトチップスを口に運びながら言います。
「どう違うっていうの?」と小さいのが尋ねてきます。
「あの時は、ある程度他人任せにできると思ってたんですよ」
「いい?紺野。人に迷惑かけるのが一番…」
「うん。だから石川は黙ってて?」
黒いのは「もう、なんでよぉ、まりっぺぇ」と、きしょいのに変化します。
「つんくさんが動いてくれれば、場所の確保とか、音響の問題とかも解決しやすいと思っ
てたんです。だけど、そうはいかなくなっちゃったじゃないですか?だからどんなことを
すればいいか、自分たちで考えないといけないところまできてると思うんです」
「まあ…なんでもいいからやろうよ、ライブ」と、吉澤さん。
「だから、それを話してるんだろ!もうオイラ大変だよ!一人じゃ対処しきれないよ!」
頭を抱える矢口さんはコミカルで、本当に煙をふきそうでした。
104 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:05
「まあまあ」挙句の果てには、私がなだめ役です。「それで活動といえばライブですよね?
それをどうするか具体的にしましょうよ」
その提案にみんな、腕を組んだりして、おのおの意見を出そうと必死になりました。特に
太いの…これはしゃれにならないんでやめときます。吉澤さんはすごかったです。でんぐ
りがえしをしたり、逆立ちをしたり、文通相手に一方的に返事を打ち切られブルーになっ
てみたり、笑わせようと必死になりました。

わかったことはたった一つ。とても単純なことでした。私たちは実に無力で、無知だ、ということです。いつもどこか上のほうで決まった会場に、身一つで行くだけでした。
105 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:06
「とりあえずなんでもいいから、とっかかりみたいなもんを探そうよ」矢口さんは言いま
す。「どんなちいさなことでもいいからさぁ」
「じゃあ、あの…」石川さんがおずおずと手を上げます。
「おっ、どうした。石川。なんかあるの?」
久しぶりに話を聞いてもらえそうで、石川さんは嬉々としています。
「私、ライブハウスに行くべきだと思う。あそこならスピーカーとかあるし、そういうの
に詳しい人もいるじゃん?どう?一石二鳥じゃない?」
何がおかしいのか、石川さんは自分の意見にうけ、息をつまらせながら言いました。
「……うん。うん、いいね。何もおもしろいことはなかったけど、石川の言うことはもっ
ともだと思う。みんなはどう?」
「ちょっとぉ、まりっぺ。どういう意味よぉ」
「うん。だから石川は、言うこと言ったら黙っててくれる?」
矢口さんの采配には、時々ほれぼれとします。
106 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:06
それまででんぐりがえしをしたり、逆立ちをしたり、クララ気分で、立ち上がったことを
みんなによろこんでもらおうとしていた吉澤さんの表情が明るく輝きました。
「イェー!じゃあ、行こうか?」
「いや、無理無理。まだ話もまとまってないし…」
振り向きながらつっこんだ矢口さんの目にとびこんできたのは、もうすでにロックンロー
ラーのモノマネを始めている吉澤さんの姿でした。
「もう、よっすぃー。よっすぃーは考えなすぎだよ?絶対そんなんじゃいつか痛い目にあ
うんだから…。ねぇ、聞いてる?」
真剣に説教を始めた石川さんを尻目に、矢口さんは言いました。「で、紺野はどう思う?」

107 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:07
恐ろしい。そう思いました。何がって?もちろん、この小さな司令塔こと、矢口真里さん
です。
「オイラは、あながち悪くないと思うんだよね。だってさぁ…」
石川さんというウザキャラと、話を聞かない吉澤さんがぶつかる。普段の矢口さんならつ
っこまないはずがありません。
「ライブハウスの人なんか、音楽が好きじゃないとできないしさ…」
それが話のジャマであると認識した途端にこの対応です。
「それに、こんなこと好きそうじゃない?ロックってもともと反体制から生まれたってど
こかできいたことがあるような気もするし…」
マイナスとマイナスを掛け合わせ相殺、いや、話がスムーズになるぶんプラスにしたんで
す!

「うがぁぁぁー!話をできるやつが誰もいねぇぇぇーーー!」
矢口さんの中の何かが壊れた瞬間でした。
108 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/15(水) 15:12
>>99 つみさん

見入ってしまいますか、ありがとうございます。
これからも目が離せないくらいに頑張りますので、よろしくお願いします。
109 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:24

110 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:25
「待ってな。今開けるから」そう言うと、私のお父さんより年上だと思われるおじさんは、
ポケットから鍵を取り出し、ジャラジャラと一つを選び、鍵穴に差し込みます。ガチャン、
という鈍い音をたてて鍵は開きます。「どうぞ」おじさんは一つ小さく咳払いをすると、ド
アを解き放ちます。それは、私たちがはじめて入るライブハウスでした。
111 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:25

112 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:26
「あれっ?なんか貼り紙がしてあるよ?」そのライブハウスに着いた時、まず矢口さんが
それに気づきました。

地図に載っていて、名前をきいたことのある程度には有名なライブハウス。その条件にあ
てはまって、一番都合がいいと思われるところがここでした。もっと考えてから行動をし
たかったんですけど、吉澤さんに押される形で、その足でここまで来させられたのです。
113 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:28
「どれどれ、えーと、………あ、なんかダメっぽいよ」
入り口のシャッターの貼り紙まで小走りに近づき、その内容を読んだ矢口さんが言います。
「うっそだー。」吉澤さんもあわてて駆け寄ります。
「だからよっすぃーは考えなさすぎだっていったじゃん…」石川さんはなぜか悲しそうな
声です。そういうところがキショイと言われるゆえんなんでしょう。

一足遅れて私もその輪の中に加わります。確かにシャッターには白い紙が貼ってあり、そ
の上に黒いマジックでなにやら書き込まれていました。
114 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:29
“閉店いたします。この政変に伴い、ロック音楽が禁止されました。よって、閉店を余儀
なくされ、営業を続ける訳にはいかなくなりました。今までどうも…”

そしてそのお決まりの口上に続いて、連絡先と住所が載せられていました。どうやら、こ
の近くに住んでいるみたいです。

「どうする?」矢口さんが不安そうに言います。
「どうするってどういうこと?行くに決まってんじゃん」吉澤さんの勢いは止まりません。
「そうですよぉ、矢口さん。せっかくここまで来たんだし…」石川さんも同意します。
115 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:30
私には矢口さんの躊躇の理由がよくわかりました。私たちは壁にぶつかりすぎました。特
に、精神的な支えとなるような人に縁がありません。でもこの計画を成功させるには、
―――何をもって成功と言えるのか、分からなくなりつつありますけど―――ライブハウ
スの方からの全面的な協力が必要です。つんくさんですら叶わなかったそれが、見ず知ら
ずの人に得られるとは思えません。そしてその人の人柄によっては、私たちの計画は水泡
に帰すどころか、全員捕まってしまうかも知れないのです。
116 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/16(木) 16:31
矢口さんが暗い表情のまま、私を見ました。その顔はあきらかに私の意見を求めています。
私はゆっくりとうなずきました。今私が不安げな顔をすれば、矢口さんの感情はよけいに
揺らぐでしょう。

そして、私たちは紙に書いてある住所を探して歩くことになりました。電話は大事な話の
時は使わないようにしているからです。

―――後になって考えてみれば、矢口さんの頭の中には、常に中澤さんの言葉が巡ってい
たのでしょう。“それは…それで私が死んだとしても?”
117 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/21(火) 14:06
見つけ出したそこは、あの、その、オンボロなアパートでした。思えば、私たちの周りに
はお金持ちが多いみたいですね。新宿なんて一等地にも、こんなところがあるんですね?
妙なところで感心しちゃいました。みなさん洗濯機は外に出してあって、ドロボウさんと
かがいないのか、他人事ながら少し心配です。

一人ずつしか通れないさびた階段を順番に上り、紙に記してあった202号室の前に立ちま
した。思わず固唾をのみます。石川さんが必死になってチャイムを探しましたけど、そん
なものは影も形もなさそうです。仕方がないので、誰がノックをするか、じゃんけんで決
めることになりました。七回目のあいこの時です。
「うるせぇな!」中から低い怒鳴り声がします。
118 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/21(火) 14:08
身をすくめました。ここまで不快感を前面に出した罵声に、私たちは慣れていません。や
がて乱暴に目の前のドアが開けられました。そのおじさんは私たちを見て、少しギョッと
したようでした。半年前までこととはいえ、私たちはテレビに映らない日はないアイドル
グループだったからでしょう。

「な、なんだよ。おまえらは…たしか…」
119 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/21(火) 14:09
口ごもったおじさんは、声から想像した姿ほど恐ろしい顔はしていませんでした。ただ、
どこか普通のサラリーマンではないのは分かります。別に革ジャン皮パンをはいているっ
てわけじゃないですよ?髪も黒で、染めている様子はありません。やせていて、長身だか
らでしょうか?でもやせてる、背の高い中年男性なんて、どこにでもいますよね。不思議
だなぁ、スーツを着ている姿が想像つきません。
120 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/21(火) 14:11
「あ…の、貼り紙をみたんですけど…」矢口さんが緊張しているのか、のどを鳴らしてか
ら声を出します。
おじさんはそちらを見ます。太く濃い眉毛がピクリと矢口さんを捕らえて動きました。
「で、何か用なのか?こっちは何が何だか分からねぇが」
「知恵を…貸して欲しいんです」
「知恵?ますます分かんねぇな。学歴がある奴でも捕まえて聞け。こっちは高卒だ」
「そう、じゃなくて」矢口さんは息を吐きます。「学校じゃ教えてくれないことなんです」
「それなら男にでも教えてもらうんだな」
やらしいことを言っている意識もないんでしょう。あくび交じりにサラッと言ってのけま
した。
121 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/21(火) 14:12
そんな探り合うような空気に業を煮やしたのか、吉澤さんが矢口さんと交渉窓口を代わり
ます。
「はっきり言えばいいじゃん。おっさん、あんたの経営してたライブハウス貸してよ。あ
とさぁ、機材とか分からないから、その手も貸してよ。私たちライブやりたいんだよね」
「……ライブ?」
「そう、ライブ。私たちの場合だと、歌って躍るから、後ろでオケを流してくれればいい
からさ。後は…照明とか、ミキシングとかかな。どう?」

おじさんはそれを聞いて笑い出しました。私と矢口さんは顔面蒼白でした。ただでさえ慎
重に行動をしないといけない場面で、あの言葉づかい。
122 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/21(火) 14:13
「おまえらは何にも分かってないみたいだな…」おじさんは目を光らせて言いました。
「えっ、別にそんなことないけど?」吉澤さんも返します。……いや、分かってないだろ。
ニヤッとおじさんはシニカルな笑みを浮かべると、部屋着というか、寝巻きというか、と
にかくそんな格好のまま、私たちをかき分けるようにして歩き出しました。
「まぁ、分かってないとしてもすぐに分かる。ボヤッと突っ立てねぇでついて来い。拒否
できる立場にねぇことぐらいは分かってんだろ」

ガニ股で肩を揺らしながら歩くその後ろ姿を、私たちは不安な気持ちで見つめました。カ
ンカンという、その階段を降りていくその音は、私たちの未来に忍びよる、黒い影の足音
のように私たちの体に響きました。
123 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/27(月) 14:34
 
124 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/27(月) 14:35
真っ暗闇の中で私たちがとまどっていると、急に蛍光灯に灯りがともり、部屋の姿をあら
わにしました。目の前に現れたのはステージです。ギターやベース用のものでしょうか?
アンプがごろごろと置かれ、真ん中にはマイクスタンド、その後ろにはドラムセット。い
くつもの有名なバンドが、無名時代にここで、夢を実現させるために楽器をかき鳴らし、
声を枯らしたのでしょう。でも……。

「どうだ。いくつかある間違いの中でも、まず一つ分かっただろ?」
その通りです。これは私たちが想像していたものとは全く違いました。
「何故かこういうところに初めて来た奴は、みんなそんなふうに勘違いしてるもんなんだ
けどな」
「おっさん」吉澤さんはステージに乗ります。「本当にここがそうなの?」
よくあること、とでもいうように、おじさんは肩をすくめます。
「ああ、そうだ。歌って躍るって言ってたけど、ここじゃそんなことはできない」

そう、ライブハウスっていうのは、とてつもなく狭いところだったんです。
125 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/27(月) 14:36
「で、でもさぁ、これじゃあ六畳くらいしかないじゃん。こんなステージであの有名なミ
ュージシャンとかが演奏してたっていうの?」
吉澤さんの疑問はみんなの疑問でした。サッとおじさんに注目が集まります。
ニヤッとおじさんは癖であるらしい、シニカルな笑みを再びその顔にはりつけます。
「そうだ。その通り。客席含めても、おまえらが普段ライブをしてた会場の、ステージの
半分もねぇだろうな」
「あ、あの、それにステージに段差が…」と矢口さんが言います。
「そう、ほとんどない。客はみんな、おまえさんだったら見下ろす形になるだろうな」
矢口さんがかるくにらむのをものともせずに、おじさんは声を出さずに笑います。

何だか少し気分が悪かったのも事実です。いなかからでてきた転校生の心境とでもいうん
でしょうか。見るもの全てがめずらしく、きょろきょろしている私たちを、そこに慣れ親
しんだおじさんが笑ってる。だけど私たちはそれを気にして、格好をつけている場合では
ありません。いなかものということを恥じていては、その場所に慣れることはできません。
126 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/27(月) 14:38
「で、他の分かってないことっていうのは何ですか?」私は一番恐れながらも、決して避
けては通れない言葉を口にしました。
するとおじさんのまゆげはピクリと動き、その視点は安定する場所を探すように動きまわ
り、やがておじさんのななめしたの床に落ち着きました。
「まぁ、そうだな…。北朝鮮もそれほどバカじゃないってこった…」
私の顔は一瞬、血の気が引いたかも知れません。同じ言葉を言われたことを思い出したか
らです。何と言って私たちの要求を断ろうか迷っていたつんくさんの、裁決の第一声に選
んだ言葉。
「どうしてここの表に、あんな貼り紙をしてたと思う?」
「それは…ライブをやりたい人のためなんじゃないですか?」
おじさんは顔のしわをより多くして笑います。「おじょうちゃん、正解だ。だけど俺が聞
きたいのは、そんなガキみたいなことじゃねぇ。政府がライブを禁止してるのにあんな貼
り紙をしてたら、通報されてお終いじゃねぇのか?」
127 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/27(月) 14:38
少し考えます。「でも、純粋におじさんに連絡を取りたいって人のためかも知れないし…」
「そう、それもあるな。だけど、正解は違う。あれはな……政府の命令であそこに貼って
あんのさ。治安を乱そうとするやつをあぶり出すためにな」

バタッという音が後ろでしました。それは石川さんがその場に崩れ落ちる音でした。私に
もその気持ちははっきりと分かりました。足はガタガタと勝手に震えるし、不思議な事に
体が熱く、どうしようもないほど熱をもっていきます。目の前はグラグラと揺れ、自分が
本当に自分の足で立っているのかどうかすら分かりません。
128 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/27(月) 14:39
「つまり」どこか遠くのほうでおじさんの声が聞こえます。「全国、どこのライブハウスの
シャッターの上にも、持ち主の住所が貼ってあるってわけだ」
重い頭を振り、窓を探します。誰か一人でも逃げられるような窓を。正直、無駄な努力で
す。何と言っても、ここはライブハウスなんですから。でも混乱しきっている頭の中は、
そこまで回転しません。
「おじょうちゃんの最初に言ったように、ライブをやりたい奴のためにな」
おじさんはそう言うと、入り口のほうまでツカツカと歩いていき、後ろ手に鍵を閉めまし
た。ガチャン。開いた時と同じ音を立てて閉まるその錠前の響きは、私たちを絶望へと導
くのに充分でした。
129 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/29(水) 00:03
更新乙。あぁこれからどうなってゆくんだ。
130 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:46
「俺も政府から受けるその援助の金で暮らしてる。そう、上に逆らえば生活ができないっ
てわけだ。俺も今の生活に満足してる。もともとこのライブハウスもたたもうと思ってた
ところのあの事変だ。俺にはこれ以上ないっていうくらい、素晴らしい贈り物だった」
おじさんの独白は、人工的に静かなこの空間では、体の中に染みこんでくるような気さえ
しました。

ある程度の覚悟をしていたにしても、私たちはまだ何もできていません。矢口さんと初め
に確認し合ったこと。“小さなことしかできなくても、それが絶望的でもやる。”私たち
はその認識すら現実的ではなかったのです。小さなことすら始められない。それが今この
瞬間に、私たちに下された判決です。
131 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:47
思わず、矢口さんの顔を見ました。不思議と表情のないその顔に、私の絶望感はより増幅
されました。人間、本当にどうしようもないことを悟った時には、あんな顔になるものな
んでしょうか?そして、ゾッとしました。おそらくは、私も同じ表情をしていることでし
ょう。

うつむき、目を閉じました。形にならないさまざまな思いが、ユラユラとポジション争い
でもするかのように、大きくなったり、小さくなったりします。走馬灯、とでも言うんで
しょうか?全くこの場に関係のないようなものまで、私の思案の主導権を握ろうとでもす
るように現れます。

やがて、それらも落ち着くと、私は違和感の中にいました。

―――私はふと、おじさんが沈黙していることに気づきました。
132 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:49
私たちを上手く監禁して、目論見を聞き出した。後は電話をすればおじさんの仕事は完了
です。私たちには抵抗の意思もありません。なのに、です。

おじさんの体は、震えていました。いや、揺れていると言ったほうが近いかも知れません。
もしくは、私の視力が異常をきたしているのかも知れません。
133 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:51
「おい、そこのおまえ!」
おじさんは、私を指差しました。そしてその口調は、熱を帯びていました。私には何故か、
その口調が本来のおじさんの姿なんじゃないかというような気がしました。押し殺し切れ
なくなった感情。
「おまえはこの半年間、俺が何回この作業をしたと思う!?」
私は口を開こうとして、止めました。おじさんは私に答えを望んでないと分かったからで
す。

「聞いて驚くなよ?ゼロだ。全くのゼロだよ!今まで民主的な安全圏の中で、自由を歌っ
てた奴らは一人も来なかった。俺はそのことに対して腹が立ったよ。それと同時に、何故
腹が立っているのか分からなかった。仕事は楽になるし、政府からはそれでも金をもらえ
る。最高な環境なはずなのにだ!」
おじさんの叫び声の他には、何もありません。まるで自分を含めて、この場には生き物が
いないような妙な気分です。ただ、少しずつ。少しずつ死んでいた自分の体が、意識を持
ち始めるのを感じます。
134 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:52
「何不自由のない生活の中、ある日気がつくと、俺は逆転していた。幸福なふりをしてい
ながらも、その一方で潰された感情がたまっていったんだと思う。俺は、…俺は生きがい
っていうのをなくしちまったんだと気づいた。」
何と形容していいか分からない空間が生まれました。絶望に麻痺した頭の中に、その言葉
が浸透するまでの時間です。私たちはお互いに顔を見合わせます。誰も何も言いません。
「おまえらはどうするつもりなんだ?」
「どうするって」矢口さんは、まだ何が何だか分からないといった様子です。「さっき言
った通りです。ライブをやりたいんです」
「それで、どうする?」
「どうもこうも…ないですけど」
「どうもこうもない?じゃあ、どうしてライブなんかやりたいと思ったんだ?」
「それは…単に歌いたいっていうのと、それを観てくれた人を元気にしたいっていうこと
ですけど」
135 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:54
おじさんは腕を組んで考え込みました。私たちの本意をつかみ切れない、そんな感じのす
る沈黙でした。私たちの本意は言葉通りだと、どうしたら証明できるでしょう。長考の末、
おじさんが出した疑問符は、私たちにとっても本質を突くものでした。
「もし、もしもおまえらが、誰からも見向きもされなくてもそれを続けるか?」

つんくさんの言葉を再び思い出します。“別に夢を見せてくれるのは、おまえらやなくても
ええ。”それは、私たちの成功がなんなのかを分からなくしました。自分たちがやらなくて
も、同じ事を、それも公認でやる人がいる。それでも私たちが、この計画を白紙に戻さなか
ったのは何故なんでしょう?
136 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:55
それは、一番大きな理由としては、矢口さんの言った通りなんでしょう。自分たちがやり
たいからやる。なんだか、とても利己的に聞こえるかも知れません。それだけに、私たち
はゴールがどこにあるか分からなくなってしまったんです。それ以外になんかあるでしょ
うか?それだけで私たちは、法律を犯すという覚悟ができたというのでしょうか?

「それでもやります!」
その甲高い声に私は振りかえりました。なんと、その力強い声の主は、石川さんでした。
「モーニング娘。に入って、私は変われたんです!私にとってモーニング娘。じゃないと
いけないように、応援してくれてた人たちの中にもそういう人がいると思います!モーニ
ング娘。は、そんな力を持ったグループだったと思います!」
137 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:57
無駄に力の入った空回りのような口調に、私たちは不思議と心が晴れる気分でした。あは
ははは。そうだ、そんな当たり前の事を忘れちゃってた。私たち自身、モーニング娘。じ
ゃないとだめなんだ。

「その、通りです」矢口さんは、力強く言います。
「………」
「どうなんだよ、おっさん。力、貸してくれんの?」
「……おまえらは、人を信用しすぎる」その口調は、再び熱を持っていました。「俺がどう
してライブハウスをたたもうと思ったか分かるか?中途半端なバンドしかいなくなったの
と、ファンっていうもののいい加減さにウンザリしたからだ。あいつらは、新しいバンド
が出ると、あっさりとそっちに鞍替えしやがる。そんないい加減なもんに、若いやつらの
人生を左右されるのを見たくなくなったからだ!」
「それでもいいよ」吉澤さんは、ツカツカとおじさんに歩みよります。「それでもいい。少
人数でも、ゼロじゃない限りやる。それでどう?」
138 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 16:58
おじさんは何か言いた気に、口をモゴモゴとさせました。けれど結局、口にしたのは一言
でした。
「本当に、本当に待っていてくれているやつなんてのは、一握りだぞ。それでもいいのか?」
誰一人、迷う人はいませんでした。笑顔さえ浮かべながらうなずきました。
139 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 17:00
瞬間、おじさんはなつかしいものを見るような目をしました。しかし、すぐに普段のシニ
カルな顔つきに表情を戻し、「じゃあ、こっちに来い」と言いながら、小さな事務所のよう
なところまでスタスタと歩き出しました。そこは、私が立っていたところのすぐ近くを通
り抜けなければなりませんでした。それだけに私はおじさんのつぶやく声が聞こえました。

―――まさか俺を本気にするのが、バンドじゃなくてアイドルだとはな。

私たちは、お互いに笑顔を見せ合いました。そして、その背中についていきました。
140 名前:たとえ話 投稿日:2003/10/29(水) 17:00
141 名前:紫苑 投稿日:2003/10/29(水) 17:03
>>129 名無し読者さん

モチベーションが下がってきたところだったんで、
本当に励みになりました。どうもありがとうございます。
142 名前:紫苑 投稿日:2003/10/29(水) 17:04
 
143 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/30(木) 00:05
読んでてドキドキする。
先が全く読めませんね。
続き楽しみにしています。
144 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/30(木) 00:23
更新乙。 ガンガレ〜柴苑さん。 そして続きが気になる。
145 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/30(木) 00:23
更新乙。 ガンガレ〜柴苑さん。 そして続きが気になる。
146 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/30(木) 03:22
うん こういう熱いの好きですよ
応援してます作者さん
147 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:05
 
148 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:06
それまで会場を包んでいたSEがやみます。そこでボリュームが一気に上げられ、流れ出す
イントロ。同時に幕が上がり始め、それに伴う歓声。私たちは、私たちの姿が観客席に見
える前から、それに合わせておどり始めます。歓声の大きさに、高鳴る期待の鼓動。そし
て幕が上がりきり、歌い出しで正面を向いた時、私は見ました。

会場を埋め尽くす人、人、人。

そこにはあの頃と変わらない空気がありました。客席とステージ上が一体になる高揚感。
はっきりと感じました。私たちが欲しかったもの。そして共有したかったものは、この感
覚なんだって。
149 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:07
軽やかなリズムはスムーズに会場中をすり抜け、誰しもの体と心をゆるやかにします。緊
張がとかれ、人は体を揺らし、声を上げます。それが舞台の上の私たちに届き、私たちの
心は震え、感動が声に伝わります。相乗効果に次ぐ相乗効果。

なんとも形容しがたい感情が私たちの中からあふれだし、それを来てくれた人たちと交換
し合う。全てのプラスの力が発散されているこの場面。“人を元気にする”という形のな
いものを表すとしたら、この瞬間のことを言うんだと思います。
150 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:07
一曲目が終わると、間を開けずに流れる二曲目のイントロ。よりいっそう、高くなる歓声。

アップテンポな曲が続いたこともあって、二月だっていうのに会場はもう熱気に包まれ、
私たちもファンのみなさんも、汗にまみれていました。

準備にかけた、約二ヶ月間。あせりと不安。裏腹の期待感。忘れかけていた感覚が次々と
私を襲いました。自分たちでしなければならないことも以前と比べて、ものすごく増えま
した。人数に合わせて振り付けも変えなければいけませんでしたし、歌うパート、曲順…。
それが苦労だったのかは、今はもう分かりません。
151 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:09
二曲目が終わって、飯田さんが「こんにちはー!」と通る声で言うと、一拍おいて、「モー
ニング娘。です!」と全員で声をそろえます。会場からは割れるような歓声。私たちも、そ
して、ここに着てくれた誰もが思ったに違いありません。帰ってきたんだ、と。

それから、一人一人のMCに入りました。今までとは変わったことの一つに、これもあります。
台本をなくしました。なので、誰が何を言うか知らないので、思わず聞き入ってしまいます。
順番が巡り、私の番にくると、私は思ったことを素直に口にすることにしました。
「こんなに集まってくれるとは思いませんでした。これからも頑張りますので、どうかよろ
しくお願いします」

こんな単純な言葉に、ファンの方たちは他の人の時と同じくらいの歓声で応えてくれます。
言葉は、その内容だけではないんだと思いました。
152 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:12
そうやって私たちが知っていそうで知らなかったことを確認するうちに、ライブは進んで
ゆき、安全のために一時間未満と決めていたライブは、ギクシャクとしたものとはまた違
う緊張感を保ったまま進みます。無駄のものを極限まで削ぎ落とし、必要なものをみがき
上げた結果はそんなふうに現れました。

比較的振り付けが少ない曲に差し掛かった時、矢口さんが私に耳打ちをしました。
「裕ちゃんがいる」
えっ、と矢口さんを見返したときにはもう、矢口さんは指定の場所に戻り、コーラスパー
トを取っていました。だけどその視線の先、会場の一番後ろのドアの横に、腕を組んでい
る金髪の女性がいました。そしてそれは、間違いなく中澤さんでした。

私はなぜだか、泣き出したい気分になりました。
153 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:13
どうして楽しい時間っていうのは、こうもスピードを持っているんでしょう?気がつくと、
ラストの曲目も終わり、私は客席に向かって手を振っていました。約500人。今の私たち
に集まってくれたその人たちの声がします。ありがとう。使い古されて安くなったその言
葉は、新しい意味を持ちました。

ステージの照明と幕が落ち、会場は明るくなります。それでもアンコールは鳴り止みませ
ん。私たちは控え室、と言っても本当に狭いものですが、そこで私たちを呼ぶ声を聞いて
いました。それは不謹慎ですが、とてもうれしいことでした。会場に残る時間が多ければ
多いほど、私たちだけではなく、観客の人たち自身の危険も高まります。それなのに、と
思うと言葉につまるほどでした。
154 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:14
私たちは顔を見合わせると、うなずきました。一斉に腰をあげると、ステージへと向かっ
て歩き出しました。ひそかに決めていたことを実行するためでした。アンコールがあれば、
することがある。

ステージに上がり、幕が再び上がると、私たちは驚くことになりました。ほとんど人数が
減っていません。これにはメンバー全員が驚きの表情を浮かべました。そして、これから
することの結果に確信を持ちました。
155 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/05(水) 15:15
「みんなの声、よく聞こえたよ!」矢口さんは涙声です。「本当に、本当にここまで来るの
に、大変なことがいくつもありました。これからもあると思います。そんな時、支えになる
であろう、みんなも支えにして欲しい、そんな曲をやります!」

私たちはみんな、泣き顔のまま笑い合いました。このことに一番抵抗していた矢口さん。だ
けど、実際にステージに上がるとそんなことは吹き飛んでしまう。その気持ちはよく分かり
ました。結局、人が頭の中だけで作り上げているものなんて、強いプラスの力の前では吹き
飛んでしまう程度のものなんだと、私は確信しました。

矢口さんは続けます。「じゃあ、聞いてください。新曲です」
156 名前:紫苑 投稿日:2003/11/05(水) 15:23
>>143 名無し読者さん

>読んでてドキドキする。
うれしい言葉です。自分も好きな作品を読んでいる時、
そういう気持ちになるんで。

>>144-145 名無し読者さん
率直な応援、ありがとうございます。
…名前こそ間違ってますけど(笑
皮肉じゃなくて、ニヤリとしました。

>>146 名無し読者さん

なんだか、レスを煽るような事を書いて申し訳ありませんでした。
ただもう、モチベーションは戻ったので、心配ないです。
本当にどうもありがとうございました。
157 名前:145 投稿日:2003/11/05(水) 18:55
うぉっ。名前を間違えるなんて本当にすいません。紫と柴が似てるもんだから。←いいわけ。
更新乙です。そして自分は逝ってきます。
158 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:22
「なんかもっと…インパクトが欲しいな」おじさんはそう言いました。

それは初ライブを一ヶ月前にひかえたある日でした。ライブでやる曲目も固まってきて、
振り付けも最終段階までまとまってきています。おじさんのつてで、照明などのあやつれ
る人たちの目処もつきました。そんな時期になってです。

ダンスレッスン、といっても先生がいるわけではないですけど、その合間の休憩中、みん
なそれぞれにそこら辺に座り込んでいます。ここはおじさんの知り合いの人が所有してい
る倉庫で、今は使用していないその場所を提供してもらっています。そういうことなので、
さびて動かなくなった車や、部分部分のちぎれたタイヤなどの散乱には目をつぶってくだ
さい。
159 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:24
「インパクト、ですか?」
保田さんは首から下げたタオルで汗をぬぐいながら、息を整えます。
「そう、インパクト。モーニング娘。が復活する。それだけでもいいかも知れないが、も
っと武器になるようなものが欲しい。前までと同じことをくり返してるだけよりも、もっ
と」
「そうですか…。例えばどんな?」
「そうだな、そう、新曲があるとか」
保田さんは首をふります。「私はその時いなかったんですけど、つんくさんに断られたらし
いんですよ。それもかなり激しく」
おじさんは矢口さんのほうを見ました。矢口さんはあの時のことを思い出したのか、少し不
機嫌な顔つきになり、うなずきます。
おじさんは、そうか、とだけ言いました。
160 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:24
今この国で暮らしている人の習慣、付けっぱなしになっているラジオ。この場でもそれは
例外ではありません。その放送がCMに切りかわりました。そこからは、今度デビューする
アイドルの子の歌が流れ、つんくプロデュースの後押しがなされていました。文部省推奨。

街ではこの子のポスターがいたるところに貼られ、ニュースばかりのテレビ番組の中で、
急にこの子の歌と映像がはさまれたりしています。比喩ではなくて、今や国民で彼女を知
らない人はいません。世界でも、それは少数派に属すると思います。
161 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:25
「それよりも…」飯田さんは話題を変えたがります。「おじさんのほうは本当に大丈夫なん
ですか?私たち、いつもしてたようにライブができるんですか?」
おじさんは相変わらずの苦笑。
「ああ。今までのお前らからもらった映像をチェックしてみた。そうして分かったことはこ
うだ。バックの音は、インストのCDだな。音飛びとかがたまにあっただろ?それで分かった」
「CD、ですか」
「ああ、そうだ。これなら楽でいい。他のことに神経をそそげるからな」
162 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:26
話が途切れ、誰かがため息をつきました。不思議な連鎖反応。ため息の人間味を帯びた響
きは、人を物思いにふけさせる効果があります。私はこの一ヶ月間のことを考えました。
お客さんをどうやって集めるか。これはある程度、賭けです。そして、おかさなくてはい
けないリスクです。私たちが選んだ手段は原始的な方法でした。ビラ配り。駅前で、不特
定多数の人に明るい声でティッシュなどに広告を挟んで手渡す、あれです。ただ一つ違っ
ていたのは、誰にでも配ればいいわけではないということでした。信用できる人。友達や、
知り合い。その人がまた、信用できる人にだけ…。というスタンスです。もちろん、知り
合いの知り合い、その時点で私たちとは全く関わりがなくなります。それがリスクです。
163 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:27
矢口さんを見ます。私にはいつの間にか、自分自身に混乱が生じると矢口さんを見る癖の
ようなものができてしまいました。体にたとえると、瞬発力のようなものをもったその考
え方は、人の迷いをぬぐってくれるような気がします。その矢口さんは、小声でなにやら
保田さんと会話をしていました。とても深刻な話のようで、聞かれたくなさそうだったの
で私は視線を地面に戻しました。思い出して、愉快な気分になるのを感じました。リスク
について話していた時の矢口さんのセリフ。“信頼するってことは、裏切られても文句を
言わないってことだよ。自分の信頼できる人を信じようよ。その人は私たちにとっても信
頼できる人にしか声をかけないって。”
164 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:28
声が降ってきました。「それで、なんかないか?」
「そんなこと言うなら、おっさんが考えればいいだろ?」
口の悪い吉澤さんをたしなめるように、隣に座っている石川さんはブツブツと注意します。
おじさんは聞こえないように、手元にある機器をいじる手を止めません。

身震いを一つしました。レッスンの後、すぐにコートを羽織ったことは羽織いました。そ
れでも今年の冬の寒気は、その隙間から体温を奪います。北海道でもこんなに寒かったこ
とはないですよ。…心の中で思っただけでは、さすがに矢口さんのつっこみもありません。
165 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:28
私はかじかんだ手をポケットに入れました。その瞬間、忘れていたものを思い出す時の高
揚感がありました。目覚めの良かった朝のような、静けさをまとった集中力。辺りがきゅ
うにはっきりと見えるような感じ。
「あの…」裏腹にボンヤリとした声でした。「新曲なら、ありますよ」

みんなの唖然とした視線を感じました。
166 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/07(金) 15:33
>>157 145さん

いえいえ、本当にうれしかったですから。
これからも読んでいただければ幸いです。
167 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/07(金) 19:39
更新乙です。
168 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/12(水) 14:55
「えっ、それって…」飯田さんが言います。「紺野が作ったってこと?そんなことするんだ
ったら、じゃあ、圭織、絵描くよ?」
「ライブ中に?いやいや、想像すると面白いけど、それは…ない!」
矢口さんにはっきりと否定された飯田さんの背中には、なんだか哀愁すら感じました。
「オッケー、それならオレも作るぜぇい!」
テンションを上げた吉澤さんの発言は、満場一致でスルーです。
169 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/12(水) 14:56
私は腰を上げて、トコトコとおじさんのところまで行きました。おじさんはようやく手を
休め、私を見上げます。
「ちゃんと…理論が分かったうえで作ったんだろうな?」
「ええ、もちろんです。デモテープがあるんですけど、何か、かけるもの…」

おじさんは、正気か?というような目つきを残し、やがて何かを決意したようにフーッと
大きく息を吐くと、倉庫の端のガラクタが積んであるところまで足を運びました。そこか
ら何かをつまみ上げ、ンッというように私に差し出しました。
「これで充分だろ?」
170 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/12(水) 14:57
それは旧式のラジカセでした。私はうなずいて目礼を返すと、それを唯一の電源である、
壁際のコンセントまでそれを運びました。みんなも、あれこれと興味の多分に交じった意
見を出しながら集まってきます。

壁際に置かれたラジカセを中心に、私たちは半円を描くように腰をおろしました。この生
活の始まりを告げた事件を思い出し、少しクスリとしました。こういう習性というのは、
自然と身につけるんでしょうか?例えば…日本で一番売れたシングルが『およげ!たいや
き君』だって、何故か誰もが知っているように。不思議ですよねぇ。
171 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/12(水) 14:57
私がそんなことを考えながらテープをセットしていると、矢口さんは言います。
「いや、何ニヤニヤしてるの?ちょっとキモイよ?」
「どうしてだと思います?」
「えっ?」
「たいやきくんを釣った人が、塩水を含んだたいやきを食べたの」
「うん、相変わらず会話がつながらないね」
「ああ、それはね」保田さんが口をはさみます。「当時もそうとう言われてたよ」

ちょっとそのリアルタイムっぽさが嫌でした。この人、サバ読んでるのかなぁ?芸能通の
血が騒ぎます。
172 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/12(水) 14:58
スチャッという小さな音をたて、テープがラジカセの中にすべり込みます。私はそのふた
を閉め、再生を表す三角マークのボタンを押しました。ジーッというホワイトノイズにも
似た雑音が、期待感をあおります。それはおじさんも同じようで、興味がないふりをしな
がらも、その作業の手は止まっています。

誰かの喉を鳴らす音が聞こえてきました。コクン。私自身も、実は同じ気持ちでした。静
かに、裏腹に興奮した胸中のまま、第一音を待ちます。
173 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/12(水) 14:58
短い時間が流れました。

矢口さんが口を開きました。「……あきらかにB面だよね?」
私は無言で立ち上がると、曲の入っているほう、A面の巻き戻しを始めました。
174 名前:紫苑 投稿日:2003/11/12(水) 15:00
>>167 名無し読者さん

あ、どうも。レス乙です。
175 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/12(水) 17:42
この話、好きですよ〜。

ライブついに成功したんですね。
1人1人のキャラクターがおもしろいです。

カップリングなんかもあるんでしょうか?
それとも、友情物語なんでしょうか?
なんにしろ、楽しみですw
更新頑張ってください。
176 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:21
「いや、紺野。今のいい曲だったよ?」
「ええっ!?流れてない流れてない。何か聞いちゃったよ、圭織!」
矢口さんは、必死に飯田さんをこっちの世界に繋ぎとめようとします。メンバー愛という
のがどういうものか、思い知らされたような気がしました。私もいつか、あんな立派な大
人になれるでしょうか。

旧式ラジカセは、キュルルルというまぬけな泣き声を上げ、スピードの遅い巻き戻し作業
に必死です。その音のもつ脱力感がメンバーにも伝染したように、一気に空気がゆるみま
す。ちょうど…そう、授業が終わったような雰囲気です。まぁ、中にはとっくに卒業して
いる年齢の人もいますけどね。…こういう毒も交ぜてみたり。
177 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:22
「本当に大丈夫なの、紺野?」サバ読み疑惑は、心配そうに言います。
「完璧です」
「そっか、それならいいんだけど…」
分別を知った対応に、私の疑惑の目は、ますます鋭さを増しました。

吉澤さんはもう興味をなくした様子で、でんぐりがえしをしたり、逆立ちをしたり、病気
の子供の為にホームランを打ったりしています。対する石川さんは石川さんで、その場面
にひどく感動しています。この二人は放っておいて、と。
178 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:24
何かに引っかかっているような音の後、ガチン、完了の判でも押すようにラジカセは止ま
ります。巻き戻しがなされました。正気に戻った石川さんに連れられて、吉澤さんも渋々
元の位置に戻ります。このスラッガーも保田さんとは逆の意味で、年齢を詐称しているん
じゃないでしょうか?これからは、そういうなあなあになりがちなところに、メスを入れ
ていこうと思います。

私は、今度はしっかりとA面であることを確認すると、ふたたび再生ボタンに手を伸ばし
ます。なんだか、さっきまでの神々しいまでの雰囲気はどこかに消え去ってしまって、誰
も期待していないのが分かります。いっそのこと、もう一度B面をかけてやった方が受け
るかも知れない。そんなことすら頭をよぎりました。いわゆる、テンドンってやつです。
まぁ、そんなのはどうでもいいんですけど。さっきと同じ、カチリという音の後、テープ
特有のノイズがすべるように流れ始めました。
179 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:26
数秒後、弦楽器が静かなイントロを奏で、鍵盤がその間を縫うように鳴り始めます。おじ
さんを含めたみんなの顔つきが変わりました。

それは、テンポのゆっくりとしたバラード曲でした。とてもきれいなメロディー。それで
いてフックもきいていて、絡みつくように耳に残ります。ピアノの弾き語りのような状態
から、一つずつ楽器が増えていき、サビ部分ではその音圧は最高潮に達します。間奏のあ
いだもその緊張感は張りつめたままで、すみからすみまで神経がいき届いていて、気が抜
けません。ストリングスとピアノのお互いを高め合うようなフレーズ。低音もゆったりと、
そして確実に曲を盛り上げます。それからうねるみたいにして転調し、メロディーは感情
を吐露するように少し荒くなり、跳ねるようにリズムの裏を刻むピアノ。そして、ユニゾ
ンでのこの曲一番の高音とともにサビに戻ります。そのサビは、周りの演奏やコーラスラ
インが変わっているのか、先程のものとはまた違った迫力があります。あまりの力強さと
メロディーの鋭利さに、肌が切れそうな気すらしました。そして最後、ピアノは失くした
ものを取り戻したかのように、何が一番大切かを悟ったように、穏やかに一音一音を宝物
のように奏でます。演奏者がゆっくりと鍵盤から手を離すのが見える気すらしました。そ
の音は名残を惜しむかのようにか細く響き、やがて空気に溶けるように消えてなくなりま
した。

沈黙が倉庫内を包みました。誰もが口を開けずにいます。鳥肌が立ち、背中を寒気のよう
なものがジンジンと通り過ぎます。
180 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:26
「これを…」石川さんは魂の抜けたような声でした。「紺野が作ったの?」

私はブンブンと首を横に振りました。正直な話、みんなが褒めちぎるであろう、十分間く
らいはそう嘘をつき通そうと思っていました。けれどこの曲を聞いて、そんな気持ちは全
く起こりませんでした。予想していたものと全然違う。空気を変えてしまう程の旋律。
181 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:27
「こいつはスゲェな…」おじさんはラジカセの前まで来ると、再び巻き戻しを始めました。
矢口さんは、夢でも見ているような顔つきで言います。
「紺野、これ、どうしたの?」
「私も実は…驚いてるんですけど」
「ちょっとオイラ、曲聞いてここまで感動したことないよ」
「私も、です」
「知り合いの人にでも作ってもらったの?でも、こんな曲を作れる人がそんな、無名でい
るわけがないし…」

私は、意志とは無関係で震える手をギュッと握りました。数ヶ月前、この手でつかんだ物。
182 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:28
「この曲を作ったひとは」息を吸うと、言いました。「…つんくさんです」
「つんくさん!?」
矢口さんは素っ頓狂な声を上げます。
「そうです。あっ、別に個人的に会っていたってわけじゃないですよ?」
「いつ…いつ作ってもらったの?」
「作った時期は…ちょっとわからないんですけど」
「じゃあ、いつこれを受け取ったのよ!?」矢口さんはあきらかに焦れています。
「あの日ですよ、あの日」
「あの日?」
「そう、あの日」

あの日――つんくさんに私たちの活動の支援を断れた日。つんくさんは私たちの足元に向
かって、不出来なテープを投げてよこしました。そのあまりの対応に、矢口さんは憤慨し、
飯田さんを急かすようにして応接室から飛び出していきました。私はというと、それを拾
い上げると、コートのポケットに入れました。これ、もらってもいいんですよね?ああ、
好きにせえ。小さく頭を下げると、私は二人の背中を追うように部屋を後にしたのでしたぁ〜。
183 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:29
「したのでしたぁ〜」
「こ、紺野」私の説明が終わると、矢口さんは興奮した様子でした。「あの状況で、よくカ
セットなんか拾ったわね。プライドがないの!?」
「そりゃあ、私だってくやしかったですよ。でも…」
「でも?」
「尊敬する、古畑任三郎さんも言ってたんです」
「えっ、古…何て!?」
「“もらえるものは、ゴミでももらえ”って!」

矢口さんはその場に崩れ落ち、飯田さんも口をポカーンと開けました。もしかして、私が
成し遂げた偉業に腰が抜け、言葉をなくしたんでしょうか?心配しなくてもいいですよ?
これからも先輩後輩の関係は変わらないですから。
184 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:30
「あ、でも結果オーライじゃん?」
吉澤さんは失礼にも、私が悪いことをしかけたようなことを口走ります。そっか、これが
嫉妬ってやつですね?
「まあ、そうだね。紺野、よくやった!」
保田さんはさすがに年齢を偽っているだけあって、自分には果たせなかった大業を素直に
祝福してくれます。
「そ、そうだね。紺野、えらい…えらいよ」
石川さんの、腫れ物に触るような対応には傷つきました。途端、自分のとった行動が過ち
だった気すらしてきます。

巻き戻しが終わったテープをもう一度みんなで聞きました。二度目でもその新鮮さは失わ
れることなく、もう一度聞きたい、そんな気にさせられます。
185 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/17(月) 15:33
「とにかく、新しい武器ができたってことだけは間違いないな」おじさんはようやく興奮
からさめたらしく、おさえた口調で言いました。
「オイラ、反対!」
「どうして?いい曲じゃん」めずらしく、吉澤さんが矢口さんの説得に当たります。
「曲はいい。でも、反対!」
「しょうがないおチビさんだなぁ。そっか、おこづかいか。いくら欲ちいのかな、真里ち
ゃんは?」
「うんとねぇ、3000万円!……違う!そうじゃなくて!つんくさんが失敗作だなんて言っ
たもんを、オイラたちがやるのがいや!」
「それは、つんくさん自身に見る目がなかったってことでいいんじゃないの?それから、
口をついて出た金額にはひいたよ?」

おじさんはそんな二人のやりとりを見て、やれやれといった様子で頭に手を当てながら言
いました。
「じゃあ、アンコールがきたらやる。こなかったらやらない。それでどうだ?」



186 名前:紫苑 投稿日:2003/11/17(月) 15:37
>>175 名無し読者さん

どうもありがとうございます。そう言っていただいて、
本当に嬉しいです。
カップリングかどうかは、微妙です。
あ、萌えないことだけは確かです(w
187 名前:代理人 投稿日:2003/11/17(月) 18:31
すごくおもしろいですっ!

ところどころにはさまれた小ネタ(?)が最高です…。

カップリングは微妙ですか。。
でも、いろんな意味ですでに萌えてます♪

次も期待してます
188 名前:代理人 投稿日:2003/11/17(月) 18:31
今さらですが…。

sage忘れ。ショックです、すいません(汗)
189 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:24
アウトロのピアノが鳴り終わった瞬間、水を打ったように静かだった客席から、割れるよ
うな歓声が巻き起こりました。涙で顔をグシャグシャにしている人。全身を使って叫んで
いる人。少しでも近くにという思いからか、手を私たちに向かって伸ばす人。それら全て
が交じり合い、にじんで区別がつかなくなりました。そのかわり、その光景を凝縮したも
のが雫となり、頬をつたいます。

色々なことがあったけど、“ろくにーさん”以来、私が涙を流すのは初めての事でした。つ
らいことは数え切れないくらいあって、死ぬかもしれないと思った事も何度かありました。
矢口さんと決意し合った時も目頭が熱くなったのを思い出します。そっか、私ってそういう
感情で泣くタイプだったのか…。

自然と娘。の一人一人と抱き合い、観客席に向かって手を振りました。意味なんてない。
だけど私たちは、これからもこれを続けていくんでしょう。
190 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:25
矢口さんは涙をぬぐい、息を整えると、人に気を使う性格をいかんなく発揮しました。
「今日はどうもありがとうございました。本当に幸せでした。でも、すみやかに退場して
ください。ここのホールは、無許可で使用しています。誰一人として捕まって欲しくない
んです。よろしくお願いします」

私たちもその言葉を無駄にしないように、ステージを後にしました。背中を包む声援は、
まるで太陽みたいに気持ちを暖かにします。
191 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:26
そしてそのまま、裏口に駐車してあった車に乗り込みました。最低限の人数でスタッフさ
んを構成したかいもあって、ワゴン車二台で全員が移動できます。

動き出した車内は興奮のるつぼで、笑い声が絶えません。みんながみんな、同じ話を身振
り手振りを大きく、繰り返します。そして、それをまたみんなが笑います。あんなことも
あった。こんなこともあった。運転席で黙々と車を操作しているおじさんは、その会話に
参加しないで、虚勢を張っていました。どうしてそれが虚勢か分かるか、ですか?

…バックミラー越しの表情を見れば一目瞭然です。
192 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:27
「あの…本当によかったんですか?」
助手席の保田さんは、シートベルトを窮屈そうに少しずらします。
「何がだ?」
「機材のことです。回収しなかったじゃないですか?金銭的な問題とか」
「ああ、前にも言った通り、何の問題もない。今の世の中じゃ、あっても役に立たんか
らな。そのくせ、全国のライブハウスにはいくらでも眠ってる」
「………」
「どうした?」
「本当に、何から何までありがとうございます。あの会場のアイデアだって、私たちだ
けじゃきっと…」
おじさんはいつもの笑いを取り戻し、いつも以上に大げさにハンドルを切ります。
「まあ、そりゃあそうだな。主体思想とやらの講演でしか使われなくなった公民館を無
断で使っちまおうなんてぇのは、おまえらの発想にはねえかも知れねえな」
193 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:27
保田さんは、笑っては失礼だというふうにこらえていました。けれど耐え切れなくなった
みたいで、無邪気に破顔します。おじさんも気分の良さを隠すのを止めたようで、新曲の
メロディーを口笛で吹きました。

誰かがそれに合わせて歌い出し、最後には合唱になりました。信号待ちで並んだ隣の車の
ドライバーが、ギョッとした目でこちらを見ます。それが愉快で、みんなの歌声はさらに
大きくなります。笑い声の混じった歌声。信号が青になり、走り出す瞬間、おじさんがリ
ズムに合わせて、二回クラクションを鳴らしました。それは車自体の笑い声のように響き
ます。
194 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:29
歌が終わり、車内がまた今日のライブの雑談になると、矢口さんが私に話しかけました。
「本当に…始めてよかったね」
「そうですよね。本当に」
「あの、ね。最後の曲が終わって、会場を後にする時さ」
「はい」

矢口さんは照れ笑いを浮かべました。

疑問符が私の頭の中でともり、表情にもそれが表れたんでしょう。矢口さんはこっちを見
ないようにして、なおかつ、わざとぶっきらぼうにした口調で言いました。
「裕ちゃんね、泣いてたよ」
「えっ、それって…」
「うん、感動したみたいだった。ははは、ザマーミロ。裕子を泣かしてやったぜ!」
「そうですか!嫌ですよね、年をとると涙腺がゆるくなって」
「ホントホント。待ってろよ、裕子!泣きすぎてシワクチャになるくらい涙流させてやる
からな!」
195 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/19(水) 16:30
私たちは自分たちで涙を流すくらい笑いながら、いつかを頭の中に描いていました。ステ
ージ上で無邪気に笑っている私たち。その輪の中に中澤さんがいる、いつか。

オンボロなワゴン車は、体をキシませながら、ゆっくりと坂道を上っていきます。冷たく
立ちそびえるビルが行く手ををさえぎろうとしても、ワゴンは無関心にその間をすり抜け
ていきます。笑い声のクラクションを鳴らしながら。
196 名前:紫苑 投稿日:2003/11/19(水) 16:38
>>187-188 代理人さん

楽しんでもらえているとしたら、本当に嬉しいです。
age、sage は、本人も適当にやっているんで、適当にどうぞ(w
天使の歌声のラスト、楽しみにしています。
自分には無いものがあるので、うらやましくもなりつつ。
197 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:21
ライブを始めてからというもの、反響は予想もしないほど大きなものでした。まだ三回や
っただけだというのに、ラジオで私たちの名前が出ない日はありません。全てがクチコミ
で広がり、波及していきました。特に、新曲への興味は日増しに高まっていく感じです。
異口同音に、“今までの娘。の曲で、一番いい”との評価だからです。音源を発表してい
ない事が、ますます期待感を煽る結果になっています。

そんなわけで私たちは今、家に帰ることができません。おじさんのお友達が経営している
ペンションで共同生活を送っています。おじさんとは、一緒にバンドでプロを目指した仲
らしく、いたるところに楽器が置いてあります。主な客層もバンドの合宿などが目的の人
で、スタジオを完備しているのもありがたいところです。この世の中では商売はあがった
りらしいですけど。
198 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:23
部屋は二人一組。私と矢口さん。石川さんと吉澤さん。飯田さんと保田さん。さして話し
合いをしたわけでもないのに、すんなりとこういう部屋割りになりました。

同じ部屋だけに、ちょっとした変化にも気づくのは当然なんですけど、それ以上に矢口さ
んがこのごろおかしいんです。ここ二、三日間はピークでした。心がここにない感じ。こ
んな矢口さんは見たことがなかったので、少し驚きました。だけど、私は甘かったんです。
ピークと思われたのは、八合目で、頂上はまだ先に、つまりは今日にありました。

今は昼食の時間で、食堂にみんな集まっているんですけど、全体の空気がどんよりと沈ん
でいます。原因はもちろん、矢口さん。運ばれてきた食事に全く手をつけません。それど
ころか、終始無言です。
199 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:24
ズズズーっと吉澤さんがスープを飲む音が、やけに大音量に聞こえました。まるで一流レ
ストランにでもいるみたいに、誰もが音を立てないように食事をします。ナイフが皿に当
たろうものなら、パルプンテを唱えた勇者一行のように、みんなして身をすくめます。違
った角度から言うと、バクダン岩に出くわしたみたいな心境です。とりあえず、ドラクエ
ネタでまとめてみました。

でも、みんなはいいんです。私なんて、朝からこの緊張状態を強いられています。まるで
はぐれメタルを……もういいですね。

そしてこの状態の何が一番つらいかと言うと、理由が分からない事です。
200 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:25
その事について、私たちは…話がちょっと飛ぶんですけど、アイコンタクトって知ってま
すか?サッカー選手などが味方選手と目を合わせるだけで、どう動いて欲しいかとかが分
かるという、あれです。なんだか嘘くさい話だなぁ、と思っていたんですけど、それの実
在が今、証明されています。

誰が矢口さんに話を切り出すか。食卓は戦場と化しています。今はその義務が、吉澤さん
の上にあります。慌てた吉澤さんは、一番なすりつけやすい相手、つまり石川さんに視線
を返します。なるほど。そういった様子で、私たちも義務の視線を石川さんに移します。
保田さんはそれに参加していないので、義務は四人の間を乱反射しています。
201 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:26
石川さんは一番押し付けやすい相手、つまり後輩の私にそれをすべり落とそうとしました。
私は小さく首を横に振ります。石川さんを除いた二人が賛同するみたいに、うなずいてく
れました。この瞬間、ルーレットの針は動きを止めました。

石川さんは、なんでよぉ、と小さくつぶやいた後、渋々と矢口さんに声をかけます。
「あのぉ、矢口さん、元気ないけど何かあったの?」
「………」
「………」
「………」
「……ハッピィ(はあと)」
「………」

絶望的な間の悪さで復活したチャーミー。その行く末は直視できないものとなりました。
本来なら、「ハッピィなのはオンドレの頭じゃ、ゴルァ!」ぐらいの事があってもおかしく
ありません。私でも今の石川さんの発言には、イラッとしました。それなのに……。
202 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:28
飯田さんは、一人俯瞰で見ている保田さんに目をつけました。
「ちょっと、圭ちゃんもなんとかしてよ。年長でしょ?」
「うう…ん、放っておきなよ。そういう時もあるでしょ」
少し考えた後、飯田さんはポツリと口にします。
「…ちょっと、何かあやしい」
飯田さんのレーダーが何かを捉えました。素直な保田さんはその言葉にビクッと反応して
しまいます。落とした、飯田さんはそう思ったに違いありません。追い討ちをかけます。
「怪しい。あやしい。アヤしい。アヤシイ。ケイチャンガナニカヲカクシテイル。ケイチ
ャンガナニカヲカクシテイル。ケイチャンガ…」
「隠してない!隠してないってば!」
ホラー映画で次の瞬間には殺される人のように、保田さんは耳をふさぎながら命乞いをし
ます。

チッ、ねばりやがったか。こういう状態になっては、さすがの飯田さんもメンバーを殺め
るわけにはいかず、押し黙りました。
203 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:28
沈黙のまま時間が流れます。食器はもう取り払われ、暖房の機械的でありながら優しい音
だけが場を支配しています。なんとなく、本当になんとなく誰もが席を立つ機会を脱して
しまった感じです。そして、不幸にも保田さんはまだ震えています。

ため息を一つつきました。こんな矢口さんを見たの、初めてです。おかしい事は今までに
も何回かあったけど、それは全部………。
204 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:29
思い出そうとしたわけではなく、ただ映写機がフィルムを写すように、記憶を細切れに走
らせていた私は、大きく目を見開きました。そうだ、もしかして!

洋服中のポケットを、叩くようにして確認します。ない、ない、ない。あれがない。ふと
天井――その先には私と矢口さんが宿泊している部屋があるはずです。――を見上げ、走
り出しました。
「紺野、どうしたの!?」
私の背中を目がけて、飯田さんの声が届いてきました。私は足を止めると、興奮で泳いだ
目をそっちに返します。
「い、いえ、ちょっと気になる事ができて。あの、みなさんはそこに座っていて下さい。
あの…すぐ戻りますから!」
205 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:31
そこには、正に“唖然”とした空気が漂っていました。私はそれを振り切るように踵を返
すと、階段を一段飛ばしで駆け上がります。足のリズムと同じか、もしくはそれよりも早
く鼓動が鳴ります。

ドアを押し開け、自分のベッドの横。そこに置いてある大きなバッグを手に取りました。
チャックが小気味のいい音をたてて開きます。私はつまっている衣服などをかき分けるよ
うにして探しました。それだけではとてもラチがあかず、バッグを逆さまにして、中のも
のを全部フローリングへとこぼします。私の生活必需品は床中に広がり、最後にバサッと
羽ばたくみたいにそれが落ちてきました。

急いで手に取ると、急く気持ちのままページをめくりました。十二月後半。ちゃんと日付
けを記入しているわけではないですけど、感覚にまかせてそのへんのページを探します。
あの日、確かに同じような事を考え、結論づけたはず。震える指でページをめくると、思
った通りのところに、思った通りの内容がありました。もれそうになる笑いをなんとかこ
らえ、呼吸を整えます。
206 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/25(火) 14:32
誰かが以前、私に言いました。そんなメモばっかり取って、特に役に立たないでしょ?っ
て。私は、あいまいな笑みをを浮かべるしかありませんでした。でも今、その子に会った
ら言ってやりたい気分です。ほらね、役に立つ事もあるでしょ?って。

そのページには、見慣れた私の字でこう書いてありました。

“矢口さんの様子がおかしい時は、中澤さんに関係している可能性が高い”
207 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/28(金) 15:05
階段を静かに降り、食堂に入ると、視線が私に集まってきました。そしてそれは次に、胸
の前でしっかりと握りしめているメモ帳へと下がってきます。

私は自分が元いた席に座ると、真正面に位置する矢口さんに、はっきりと言い放ちました。
「矢口さん、隠していることは、中澤さんのことですよね?」
矢口さんは、一瞬顔色を失くします。そして、さまよった目線を隠すように目をつむり、
顔を手で覆います。
当たった。そう思いました。今するべきなのは、確信でもあるように、自身満々で言い切
る事。
「つらいのは分かります。保田さんにしか言えなかったんですもんね」
208 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/28(金) 15:06
誰も口をはさめない緊張感がそこにはありました。手をほどき、まぶたを開いた矢口さん
の目は、今にも泣き出しそうなものです。

数秒間矢口さんは私を見据え、何かを言い出そうとして、…止めました。そして今度は、
机の上に突っ伏します。それは、見ているのも痛々しいほどの重みを持っているように感
じました。矢口さんはその重みに耐え切れず、体を食卓にあずけた。そんな印象を与えます。
209 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/28(金) 15:07
「……もういい」保田さんは優しい顔つきで、矢口さんの背中をポンポンと叩きました。
「もういいんだよ、矢口。ね、みんなに話そう?」
矢口さんはその体勢のまま、首を横に振ります。
「そう?じゃあ、私が話すよ。それは矢口にも止められないよね?」
その言葉に反応して、矢口さんは顔を上げました。その表情は、何とも言えないものでし
た。色々な感情が複雑に入り混じっている、そんな表情。ただ一つを取り上げるとすれば、
泣くのを必死に我慢しているのがうかがえました。

それを見て、保田さんはクスリと笑いました。ああ、思います。その笑みは私には決して
できない、年を重ねた人の見守るような微笑です。人を安心させ、心の奥底をさらけ出さ
せるような、不思議な魔法。その効力に魅入られたように、矢口さんは保田さんにしがみ
つき、泣きじゃくりました。―――まるで子供みたいに。
210 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/28(金) 15:08
胸元に顔をうずめている矢口さんの頭をなでながら、保田さんは私たちに向き直りました。
「まずは…何から話すべきかな。そう、全く関係なく思えるかも知れないけど、モーニン
グ娘。がなくなってから、私がしてたことから話さないとダメだね」
「保田さんがしていたこと、ですか?」
私は完全に聞き役に徹する事に決めました。そんな私を見て、やっぱりさっきのような魅
力的な笑みを保田さんは返してきます。
「うん、そう。私はいつか日本を出るつもりで、英語を必死に勉強してたんだ。もちろん、
元々好きだったっていうのもあるけどね。それで、その話も具体的に進んでたの。その、
コネっていうのかな?私に英語を教えてくれた白人の人なんだけどね。その人自体、国外
に出られるくらいの権力を持った人だったの。元モー娘。ってことで私についてくれたん
だと思うけど」
「………」
「それでね、私はそれを直前になって断ったっていうわけ。その人が国を出る時、一緒に
連れて行ってくれるって申し出をね」
211 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/28(金) 15:09
「どうして」当然の疑問だと思います。「どうして止めたんですか?そんなチャンス…」
保田さんは肩をすくめます。それこそ、外国の方がやれやれというリアクションをするみ
たいに。
「あんたたちが誘ったんでしょ?一緒に娘。を復活させよう、って」
私は言葉が出ませんでした。
「あんたたちがそう言ってきた時、正直、迷ったよ。とんでもないことを言い出すなぁと
思ってね。でもそれと同時に、自分を必要としてくれてうれしかった。もしかしたら、私
は日本でやり残したことがあるんじゃないかって気になったの。それだけ」

保田さんは、本当に小さな事のように自らの決心を言ってのけました。こんな事をいえる
人が、何人いるでしょうか?私は矢口さんが思い悩んでいる訳を探ろうとした自分が、幼
く感じられました。………だけど。だけど、この先にはもっと大きな事が待ち受けていそ
うな予感がします。とても大切な事が。
212 名前:たとえ話 投稿日:2003/11/28(金) 15:10
「その話に、どう中澤さんが絡んでくるんですか?」
その私の言葉に、保田さんは目を落としました。自分を頼ってくれているその人、矢口さ
んへと。顔をうずめたままの矢口さんは、肯定も否定もしません。保田さんは決意を新た
にすると、私を見返します。
「ある日さぁ、裕ちゃんが家に来たんだよね。あんたたちから聞いた話を考えると、二人
が裕ちゃん家を訪ねた後だね」
「中澤さんが、保田さんの家を?」
保田さんはうなずきます。「何かつらそうでさぁ、多分誰でもよかったんだと思う。一緒
にお酒を飲んでるうちに、お互いの半年間の話になって、私が亡命をキャンセルしたって
言ったらさ…」
私は、思わず唾を飲み込みます。
保田さんは、息を大きく吐くと言いました。
「裕ちゃん、“それ、私に変わってもらえる?”って」
213 名前:ハルカ 投稿日:2003/11/28(金) 23:56
続きめっちゃ気になります!すごい読んでるんで頑張ってください!
214 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/01(月) 14:56
おじさんの友達であるペンションのオーナーが、人数分の紅茶を運んできてくれました。
こういう緊迫した話題の中に入る時どんな顔をしたらいいか、長年の客商売で身につけた
であろう伏せ勝ちな目で、淡々とカップをテーブルに並べます。

保田さんはそれを手に取ると、軽く湯気の上がる表面に息を吹きかけ、カップの端に口を
つけます。そして息をつくと、顔を上げた矢口さんに「飲みな?」と言いました。矢口さ
んはコクリとうなずき、大人しく紅茶を口に運びます。私ものどが乾いていた事に気がつ
き、暖かくなったカップを手にしました。紅茶の苦味が、今は心地いいように感じます。
215 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/01(月) 14:57
半分程までに減ったカップを置き、一息ついていると、保田さんは再び口を開きました。
「矢口はちょくちょく裕ちゃんと連絡取ってて、本人から直接聞いたらしいけど」
「もしかして、その出発日っていうのが…」
「うん。実は今日、なんだよね」
私は矢口さんの方を見ました。
「それじゃあ、矢口さん。何してるんですか!?」
泣き尽くして落ち着いた矢口さんは、怪訝な表情を浮かべて渡しを見返します。
「どうしてこんなところにいるんですか?見送らないと!」
「そんなの」矢口さんは言います。「そんなの無理だよ。何のためにオイラたち、ここに隠
れてるんだよぉ」
「捕まらないためです」
「そうでしょ?やっぱ無理じゃん。裕ちゃんもそれを心配して、みんなには言うなって口止
めしたんだと思うし…」
216 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/01(月) 14:58
急な話の展開に、残りの三人は顔を見合わせています。それでも、多分。希望的観測を口
にする事にしました。
「じゃあ、ライブはどうしてするんですか?」
「えっ、それは…」
「大切な事だからですよね?私たちにとって」
矢口さんは少し考え、首をたてに振りました。「うん、そう。そうだね」
「これもライブ以上に大切な事じゃないですか?」
「………」
「私たちがやろうとしているのは、そんな立派な事じゃないと思います。日本を去る中澤
さんを見送る方が、よっぽどしなくちゃいけないんじゃないですか?……特に、矢口さん
にとっては」

私の言ってる事は、甘いと言われるかも知れません。でも私たちは、何かを失うために動
き出したわけではありません。プロ意識が足りないというのなら、私たちは、もうプロで
はありません。限られた時間の中で、自由に動く事ができ、自由に動いてもいいと思うん
です。
217 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/01(月) 15:00
部屋は静まりかえり、誰も決断を下せません。こういう時。そう、こういう空気の時に、
私たちはいつもこの人の素晴らしさを知るんです。
「よーし、じゃあ、リーダー命令だ!みんな、初代リーダーを見送りに行くよ?」

矢口さんは飯田さんを見上げ、保田さんはそんな矢口さんの背中をドンと叩きました。吉
澤さんと石川さんも異論はなさそうです。私たちの上で光を遮断していた黒雲は消え去り、
太陽はその顔をのぞかせました。
218 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/01(月) 15:01
「ったく、お前らには本当に世話を焼かされる」おじさんはいかにも不満タラタラな声を
上げます。「ガソリン代もバカになんねぇんだぞ?」
「すみません。だけど、あの…」
そんな保田さんの言葉をさえぎるぎるように、おじさんは続けます。
「じゃあ、早く表へまわれ。時間は間に合うんだろうな、おちびちゃん?」
言葉を向けられた矢口さんは、初め、戸惑った表情を見せ、それから。

―――それから、ここ最近曇ったままだった顔をほころばせ、うなずきました。
219 名前:紫苑 投稿日:2003/12/01(月) 15:09
>>213 ハルカさん

とてもありがたいです。本当に。
キャストがきちんと決まってなかった最初の頃、
ハルカさんのレスがなかったら、中澤さんは小川さんと同じく、
最初の場面にしか登場しなかったかも知れません(笑

できれば、これからも読んでくれれば嬉しいです。
220 名前:ハルカ 投稿日:2003/12/01(月) 20:23
いやはや、あの時レスしておいてよかったと心から思いました(笑)

なんだか感動しそうな予感w
いつも展開が予想できないので、ドキドキしながら読んでたんですよね。
これからも読ませていただきます。
221 名前:名無し 投稿日:2003/12/01(月) 20:31
更新乙
222 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 15:54
車が日本に残った最後の米軍基地、横須賀キャンプにたどり着くと、門の前で停止を命じ
られました。おじさんがウインドウを開けると、英語の質問が飛んできます。チンプンカ
ンプンといったおじさんの隣で、助手席から保田さんがそれに答え、質疑応答らしきもの
が繰り広げられます。車内は、保田さんに対する尊敬のまなざしにあふれました。

停車を命じた外国人男性は、保田さんの発言の内容を確認するためか、設置された電話を
手に取りました。そして会話が終わり、受話器を置くと、私たちに通るようにジェスチャ
ーで示します。保田さんがその男性に向かって何やら叫ぶと、男性も何かを言います。今
の何ですか?私がそう尋ねると、基地内と言っても広いからね。保田さんは答えました。

それから、おじさんは保田さんが指示する通りに車を走らせ、木々の間を抜けると、ヘリ
ポートらしき広い空間にでます。止めてください。保田さんはそう指示を出すと、私たち
の方に振り返り、言いました。
「着いたよ。ここからは歩かないと」
223 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 15:55
保田さんが戻した視線の先に、小さな飛行機が一台たたずんでいます。その周りには何人
かの人影が見えます。

あの中に中澤さんがいる!そう思うと、車が動きを完全に止めるまでの時間もわずらわし
く、私たちはスライド式のドアを開け、車外へと跳び降りました。

遮るものがないせいか、風が歩きにくいほど強く吹いています。その中を、みんなでひと
かたまりになって、鉄の機体目指して走り抜けます。段々と近づくにしたがって、人が判
別できるようになり、男の人と話している金の髪の毛、中澤さんを見つけました。

と、先頭を走っていた矢口さんが、急に足を止めました。私たちは転びそうになりながら、
それに合わせてなんとかスピードを殺します。
224 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 15:56
矢口さんのは、ポカーンと口を開いていました。どうしたの?誰かが声をかけても、その
表情は固まったままで、一点を見つめたまま動きません。ゆっくりと腕を上げ、手は何か
を指差すみたいに、人差し指を突き上げます。…あれって。矢口さんは言いました。

中澤さんは私たちの存在に気づき、驚愕の表情を浮かべました。そしてそれから、あきら
めにも似た、優しい顔つきになります。その中澤さんと会話していた男性が、つられてこ
っちを見ました。どんな感想を持っていいかすら分かりません。体が一瞬、逆立つような
感覚だけは感じました。その人はつんくさんだったんです。

つんくさんは中澤さんに一言二言残すと、私たちの方へ近づいて来ます。思わず体を固く
して、身構えます。いや、違いました。矢口さんだけはそんなつんくさんには目もくれず、
すれ違うようにして、中澤さんに飛びつきました。中澤さんも、しっかりと両腕で抱きと
めます。
225 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 15:58
「何、緊張してるんや?」
つんくさんの言葉に、私は動揺を抑え、言い返します。
「罠、ですか?私たちを捕まえるための…」
つんくさんは苦笑し、首を横に振るだけです。
「じゃあ、どうしてこんなところにいるんですか?それに、活動のジャマになれば、容赦
なく叩き潰すって、そう言ったじゃないですか」
「そう、言ったな」つんくさんは苦笑を消しません。「中澤は関係ない。今回の活動に加
わってへんやろ?だったら、ただの旧知の仲や。見送りに来ても何も変やない」

つんくさんはゆっくりとした足つきで、その場を後にしようとします。
「それに」私は言いました。「それに、活動のジャマにはなっているはずです。つんくさ
んがプロデュースしている、あの子のコンサートの客足は落ちてるそうじゃないですか!?」
つんくさんは足を止め、「確かにな。だけどあの時、俺はこうも言ったはずや。俺にも感情
がある。そやから、中澤の見送りぐらいはさせたる」
そこで言葉を切ると、口調が変わります。
「……言うとくけど、この次はないで。現場でぶつかった時には、何の躊躇もせえへん。ラ
ジオでお前らの事を取り上げた番組も、どうにかして潰していくつもりや」
そう言うと、今度こそ振り返る事もなく、影を小さくしていきます。
226 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 15:59
「ねぇ、そんなことより裕ちゃん」
飯田さんの言葉にハッとしました。保田さんは、握手を求めて近づいてきた白人男性にし
きりに頭を下げ、お礼らしきものを言っています。これが例の、保田さんの先生なんでし
ょう。そんな二人を尻目に、中澤さんと矢口さんの方へと駆け寄ります。
「みんなには言うな、言うたのに…」
中澤さんは両腕で抱きしめている矢口さんに、ささやきます。
「オイラだって頑張ったんだよ?でも…」
また泣いている矢口さんに、中澤さんは、「分かった。もうええから」と涙を手の甲で拭
い、頭をなでます。

良かれと思って取ったその行動は、ますます矢口さんの暖かな部分を刺激したようで、矢
口さんは、堰を切ったように涙を流し、中澤さんにしがみつく腕に力を込めます。
227 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 15:59
「ひどいですよ、中澤さん!」
「どうして黙って行っちゃおうなんてしたんですか!?」
石川さんと吉澤さんは、声を揃えます。
「そうだよ。圭織なんて、初めから一緒にモーニング娘。を支えてきた仲じゃん!」
そんな三人の言葉に、中澤さんは心底申し訳なさそうに言いました。
「ゴメン、ゴメンな。だけど、反対の立場だったら、あんたらもそうしたと思う。自分の
事なんかで、モー娘。が潰れたらって考えたら」
「つんくさんは、どうしてここに?」
私の質問に、中澤さんは悲しそうに笑います。
「あんたらにはどうか知らんけど、私にとっては恩人のままや。生活を一変させたほどの
な。せやから、私が呼んだ」

さっきのつんくさんの言葉は本当だったんだ、と思いました。私たちと同じように、ただ
暇乞いをしに来たんだ。
228 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 16:01
「本当のこと言うと…それだけやないな」中澤さんはポツリとこぼします。「あんたらに言
わなかった理由。それだけやない」
私は見てしまいました。中澤さんの頬を、細く、透明な水滴が音もなく、すべるように流れ
ていくのを。
「カッコつけたかったんや!それがあんたらのせいで台無しや。こんな、見送られて、涙ま
で流して、全部台無しや」

中澤さんの強がりは見事に失敗し、途中から言葉は聞き取れませんでした。それでもなお、
気丈な中澤さんは何かを続けようとしましたが、それもまた失敗に終わります。私たちが矢
口さんの外側から中澤さんの体を包み込んだからです。大切なものを何かから守るみたいに。
その一番原始的な方法、壁をつくるように。
229 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 16:01
「ね、ねえ、裕ちゃん」矢口さんの声は、嗚咽に途切れます。「お、お願いだから、行かな
いで?お願いだ、から。行っちゃ、やだ」
中澤さんは無言で首を横に振ります。
「どう、して?オイラは、裕ちゃ、んがいないとダメなんだよぉ」
中澤さんは、もう一度首を振ります。その代わり、最後の最後までこらえていた理性の部分
が壊れたのでしょう。悲しそうに何度もかぶりを振り、声を上げて泣きました。その雫が矢
口さんの頬に落ち、矢口さんは声を発する事もままならなくなります。

保田さんの先生が、申し訳なさそうに、ひとかたまりになって泣いている私たちに声をかけ
てきました。保田さんは目をゴシゴシとこすると、何やら返します。保田さんは悲しそうに
その話を打ち切ると、言いました。
「時間……だって」
230 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 16:02
風はますます強く、コンクリートで固められた地面の上を切り裂きます。時間、距離、そ
の他いろいろなものを私たちと中澤さんの間から奪い去るように。

自分が一番大人なんだから。中澤さんを見ているとよく目にするそんな態度で、中澤さん
は気持ちを落ち着かせます。
「カッコつけるも何もないな。私は逃げるんやから。あんたらのことを耳にすると、嬉し
い反面、つらいねん」
中澤さんは自嘲気味にもう一度言います。
「私は逃げるんや。日本からも、あんたらからも。……自分自身からも。」
231 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 16:03
それは違う。そう思いました。本当に逃げる人というのは、心を遮断します。何も考えな
いようにして、その場でのほほんと暮らすはずです。傷ついていないフリをして、自分を
責めることをやめます。深く自責の念が刺さった中澤さんにはきっと、時間が必要なんだ
と思います。中澤さんという人を知っている私には分かります。

そして、少し沈黙した中澤さんは、矛盾したことを口にします。
「でも。でも、もし、いつか私が自分の中でケリがついて、戻ってきたとしたら…」
232 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 16:04
本当に時間が迫ってきたんでしょう。乗り込む人は全員飛行機に乗り込み、私たちを急か
すような英語が飛び交っています。それでも矢口さんは、中澤さんを離そうとしません。
私たちは二人の結びつきの強さを、今更になって思い知らされました。

中澤さんは、矢口さんの腕をゆっくりとほどくと、顔を自分の方に持ち上げます。そして
最後の言葉は、矢口さん一人に向けられました。
「―――その時はまた。また、仲間に入れてくれるか?」

矢口さんは、泣きはらした顔でうなずきます。何度も。何度も。何度も。…何度も。
233 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/05(金) 16:05
そんな矢口さんの体をもう一度抱きしめ、中澤さんは私たち一人一人に視線を配ると、泣
き笑いのような表情を残し、機内へと姿を消しました。

無理をきいてくれたんだと思います。それを待ってたとばかりに機体はうねり声を上げ、
地面と水平に走り始めました。私たちはその風圧に負けないように、中澤さんの名前を叫
び、スピードを上げる飛行機を追いかけます。そして機体はやがて、鋼鉄の体をフワリと
浮かし、一度旋回し、姿を小さくしました。

手を振り、待ってますからねぇー!私はそう言いました。その隣で矢口さんは泣き崩れ、
みんなも何かを叫んでいます。ポカンと広がった平面の上で、私たちは空に向かって、叫
び続けました。いつまでも。

薄暮のオレンジ色の世界の中、いつまでも。
234 名前:紫苑 投稿日:2003/12/05(金) 16:18
>>220 ハルカさん

本当に嬉しいお言葉です。
ストーリーに影響を及ぼした責任、
ちゃんと取ってくださいね?(笑
どうなるか、見届けてください。

>>221 名無しさん

口ベタながらも、読者の存在を知らせてくれる。
そんな漢(おとこ)の背中を感じます。
救われています。
これからもよろしくお願いします。
235 名前:代理人 投稿日:2003/12/05(金) 19:34
更新、お疲れ様です。

そして、読んでいただいたことに照れてみたり…。
いえいえ、私の作品のことなどどうでもいいんです。

更新されてて、うれしかったです♪
裕ちゃん…切ないですね。
そして、紺野さん大好きですw

何か意味不明なコメントですね…。
えっと、
次も楽しみにしてます。
236 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:15
それからも私たちのライブは、日本各地で突発的に行われました。…と言っても、こっち
は念入りに下調べを重ねているんですけどね。世間的には、って意味です。その度に私た
ちは名声にも似た評価をされ始めました。それに反比例するかのように、つんくさんの仕
事は、失敗続きになっているのが見て取れます。

だけどテレビでは相変わらず、私たちの存在を否定するように、映像や情報が放送された
ことはありません。それでもラジオには取り上げられ、会場にはお客さんが入るので、本
人である私たちのとっても、どっちが本当なのか混乱しそうになります。

そういう時は初心に帰ればいいと、いつからか思うようになりました。目の前にあるもの
を信じる。目の前にいる人を元気づける。それだけは嘘偽りがありません。

だけど、私は知っています。経験上知っていることがあります。それでも人は、どんなこ
とにも慣れてしまう。思えばそんな単純なことでした。それは時に人に安心感を与え、緊
張でトゲついた心を癒してくれます。だけど、別の側面。それも確かにあるんです。
237 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:16
「ちょっとぉ」石川さんは言いました。「マジメにやろうよぉ。よっすぃーは本当に考えな
すぎだって、いろんなこと」
「大丈夫だって。梨華ちゃん、年取ったらしわ増えちゃうよ?」

いつもなら石川さんが小言を言い、それを吉澤さんが流して終わるはずの会話。本番直前の
日常風景でした。……この時までは。

「はぐらさないで!」
そんな石川さんの強めの言葉が気に障ったのか、吉澤さんは首から下げていたタオルを不快
気にバタバタさせます。
「はぐらかしてなんてない!おかしいのは梨華ちゃんだよ。今まであたしはこんなふうにや
ってきたんだし。自分のやり方を押し付けないでよ」
「押し付けるつもりなんてないよ?だけどさぁ…」
「押し付けてんじゃん。だけど何?」
「………」
238 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:17
この時になってようやく、呆気に取られていた飯田さんが「はい、そこまで!ケンカしな
い!」という声を上げました。

二人が本気で言い合うなんてめずらしい。今日のライブのMCのネタができてホッとしまし
た。嫌いではないんだけど…苦手なんですよね。話す言葉を決めるのが。そう一人でほく
そ笑んでいると、矢口さんが隣に座りました。
「めずらしいね。あの二人がケンカするなんて」
「ええ、でも助かりましたよ、これで」
「…うん、だから紺野の話はどこにいるか分かんないって」

私はMCのことを言ったらパクられるかも知れないので、黙ることにしました。本当に矢
口さんときたら、手癖が悪いというか、油断も隙もないですからね。中澤さんの家から
はお菓子をくすねたり、つんくさんの事務所ではテープを………それは私でした。
239 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:18
「ホント、ケンカなんかしてる暇、ねぇつうの」
「そうですね」私は赤面しながら、適当に相づちを打ちます。
「なんたってオイラたち」
矢口さんの癖は、本当に分かりやすいです。これも未来の自分の為にメモに取ることでし
ょう。中澤さんについての熱い話をする時のそれ、興味を押し殺した口調。
「裕ちゃんが帰ってくるまで頑張んないといけないんだからね!」

…全然殺し切れてないですよ?その言葉は飲み込むことにしました。

リハーサルが終わって、開演を待っている控え室でも、二人は口をききません。だけど雰
囲気はさっきまでとはまるで違います。どちらも仲直りしたいけど、その第一声に迷って
いる感じ。私たちの暗黙の了解として、本当に仲違いしたのでなければ、本人同士に任せ
ようというのがあります。
240 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:19
そうこうしている内に、私たちを呼ぶ声が高まってきました。楽屋内がそわそわとし始め、
みんなが壁にかけられている時計をチラチラと見ます。それぞれの方法で緊張をほどくか、
もしくは高めています。

そして、最後の仕上げです。

「じゃあ、いくよ?」
そう言うと、飯田さんは右手を差し出しました。私たちはバラバラと自分たちのそれを重
ねます。ライブ前の恒例行事。
241 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:20
飯田さんは、息を深く吸い込みます。最大限まで肺に酸素を送ると、ピタッと全ての活動
をとめます。直後、鍛えられたのどから声がしぼり出されました。
「がんばっていきまーっ!」
「しょい!」
私たちは応えるように声を上げます。

その共同作業は、人を高揚させる作用があります。血液が体中を循環し、その高まったス
ピードで体温を押し上げるのが分かります。ステージを最高のものにするために、一番い
いコンディション。その状態に今あります。

最高に研ぎ澄まされたシンパシーが漏れるのを恐れるみたいに、私たちは舞台までの廊下
をゆっくりと歩きます。言葉も発しません。一つ一つの動作を確かめるように、定位置に
つきました。
242 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:21
軽やかでありながら早いリズムと共に幕が上がると、私たちが必要とし、必要としてくれ
ているものが姿を現します。何の不安もありません。この光景はいつも、私を奮い立たせ
てくれます。事実、色々な障害を乗り越えてきました。私はモーニング娘。に補欠ながら
合格した時と同様、夢を叶えたんだと思います。敗者復活。その言葉が似合うこのグルー
プ、メンバーを愛しています。

中澤さんの事を考えます。あの人も今、違う場所で戦ってるんでしょう。私たちと中澤さ
ん、その二つの戦場が一つになる時を思い、私は歌います。
そして、さらにいつか。平和が訪れた時。今は活動を共にできていないメンバーも加わっ
て、完全なモーニング娘。に戻る時を思い、私は歌います。

それが何十年後のことであっても。その頃には必要とされていないとしても。
243 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:22
私たちはいつのライブからか、形式を取り払う事にしました。というのは、アンコール。
一旦舞台袖に引っ込んで…などとやってる暇がないからです。ラストには必ずあの曲を歌
い、それで終わらすようにしています。もう矢口さんも反対はしないですし。

そしてその曲の間中、会場はいつも静寂に包まれます。音がざわめきなどをホールの外ま
で押し出してしまうようにも感じます。一切の悪意も拒む、そんな雰囲気が張りつめます。
今日もそれは変わりません。人が溢れるくらいにいる中での静寂は、それだけで力をもっ
ています。少なくとも、私の全身に鳥肌を立たせる程度には。

これからの時間、後どのくらいこうしていられるんでしょう?終わりの日は、どんなふう
に私たちに訪れるんでしょう?それを考えると、恐怖はもちろんありますけど、この瞬間
瞬間が愛しく思えてきます。

もう少し。―――いや、できるなら永遠に続いて下さい。
244 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/16(火) 15:23
また今日も素晴らしい日だった。そんなふうに呼ばれて終わるはずの一日でした。アウト
ロのピアノが途切れ、私たちが全員で頭を下げ、ステージを後にしようとする時まではそ
うでした。

それに伴い、失くした声を取り戻したように上がる歓声もまたその一部です。では、何が
そうでなかったかと言うと………。

顔を上げた私たちは、ようやくそれを察知しました。五人くらいの男性が、ステージに上
ろうとしています。何故だか分かりました。制服を着ている訳でもないのに、普通の人と
の相違点をを挙げられもしないのに。

―――警察官に違いない。

その認識が身体の隅々までに浸透すると、覚悟していた事とはいえ、顔が青ざめ、足が地
につかなくなっているが分かりました。
245 名前:紫苑 投稿日:2003/12/16(火) 15:27
>>235 代理人さん

どうもありがとうございます。
キャラクターを褒められるのは意外で、
とても嬉しかったです。

レスした通り、その名前、いいと思います。
246 名前:代理人 投稿日:2003/12/16(火) 20:24
ここで言うのは、自分の宣伝のようで嫌なのですが……。
(↑自意識過剰)
レス、ありがとうございました。
アドバイスしていただいた通り、この名前を使わせていただきます。


更新、お疲れ様です♪
気になるところで切られてますね…。

しつこいですが、ここの紺野さんが好きですw
可愛らしいボケとか、毒舌なところとか、ひとつひとつの考え方が…。

次も、楽しみにしています。
気になって仕方ないです
247 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/16(火) 22:21
更新乙です。これから紺野さん達はどうなっていくんでしょう。次も待ってます。
248 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:03
私利私欲。それが人間の弱点だと、どこかで聞いた事があります。

警察官が舞台へ上って来そうだと言うのに、私は一瞬、そんな事を考えていました。心臓
も締め付けられたように、キリキリと痛みます。だけど言ってみれば、その程度でした。
動揺はしていても、冷静な判断は下せそうです。

正直、私たちにはほんの少し、余裕がありました。

警官隊が来ているのなら、この場から誰も出られないように封鎖すればいいんです。だけ
ど、その様子はありません。それなら、こんなふうに不用意にステージに上がろうとする
わけがありませんから。
249 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:04
どうしてこの人たちは、こんな行動をとったのか。それはきっと、手柄を自分たちだけの
ものにしようとしたからだと思います。その為に、誰にも悟られないようにゆっくりと、
長い時間をかけて最前列まで移動してきたんでしょう。

観客席から、悲鳴にも似た声が上がります。目の前でモーニング娘。が捕まってしまう。
そう考えたんでしょう。急に、自分たちが現実から剥離されたような感覚に陥りそうにな
ります。まるで、ミュージカルでも演じているみたいに。麻痺してしまいそうな五感を、
頭を振って繋ぎとめます。

私たちを捕まえようと躍起になっている人たち、そのうちの二人がステージ上に立ちました。
250 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:05
私たちが会場を選ぶ時の、最大のポイント。それは、逃げ道の確保です。ここで言えば、
舞台袖に入り、階段を駆け上がると、鍵のかかる部屋があります。そこまで逃げ込めば、
空き家である隣家と非常に密接しているので、窓からそっちに移り、その表に停めておい
た自動車で逃げる事が出来ます。

非常にスレスレです。それでも、今なら何とか間に合うと思いました。

私たちは駆け出します。身体が熱を持ち、どこか体調を崩したようにフラフラな足取りで。
運は確実に私たちの手の中にあります。警官隊が押し寄せなかった事もそう。そして、初
めに舞台に上った二人が、誰を捕まえるかの判断に迷ったのもそうです。

小さな希望に、胸を撫で下ろします。逃げ切れる。
251 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:06
―――と、私は観客席から突然上がった、吉澤さんの名を叫ぶ声に振り返りました。

朝の事を思い出します。吉澤さんと石川さんのケンカの理由。小学生の避難訓練じゃない
んだから、確か吉澤さんはそう言いました。

吉澤さんは一人だけ、大幅に私たちから遅れています。

きっと、とっさに逃げ道の場所を思い出す事が出来なかったんでしょう。みんなが動き出
してからの反応。そうすると、どうなるか。子供の頃鬼ゴッコをした事のある人なら、全
員が同じ答えを口にすると思います。

“遅れた相手に的をしぼる”
252 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:07
吉澤さんの足は、娘。の中ではかなり速い方に分類されます。それでも成人男性と競うに
は無理がありました。吉澤さんと追手の差は、みるみる内に縮まります。私は思わず立ち
止まります。

吉澤さんが振り返りました。私に頭を向ける形になったので、その表情をうかがい知る事
はできません。しかし、そんなものを見なくても知り得るものはあります。吉澤さんはき
っと、あきらめてしまったんでしょう。本人にそのつもりがあるかはともかく、走るスピ
ードがガクンと何かにぶつかったかのように落ちます。

追いついた男性が、吉澤さんに手をかけます。
私は、思わず目をつむりました。
253 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:08
思いがけない衝撃に、私はすぐに目を開きます。一瞬、何が起きたのか、理解する事はで
きませんでした。ただひとつの事実として、吉澤さんが私の胸の中にいます。

私は顔を上げました。とっさの出来事で、何を考え、何を思ったのかは思い出せません。

そこには石川さんがいました。そしてその体勢から、この状況を作ったのは石川さんに間
違いありません。直後、石川さんは惰性の力によって、二人の警察官の身体に激しくぶつ
かり、巻き込むようにして倒れこみました。

その瞬間、私の頭の中で回線がつながり、遮断していた世界で何が起きたのかを悟ります。
254 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:09
石川さんは私の後ろから吉澤さんに向かって駆け寄り、そのままの力で、吉澤さんを私に
向かって引っ張ったんです。私が目を開けた時、ねじれるような不自然な格好をしていた
のは、その為だったんです。

私は、これで終わりだと思いました。石川さんを犠牲にして、自分だけ逃げる気は起こり
ません。どんなふうに終幕の日が訪れるか、これがその答えです。こんな幕の引き方も悪
くないと、自分に言い聞かせ、覚悟を決めます。だけど―――。

石川さんは顔を上げました。それは、私の目にはスローモーションに映りました。そして
その表情を見た途端、私の考えは百八十度変わっていたんです。しかし、そのこびりつい
て離れない石川さんの顔を見ることが出来たのは、一瞬でした。
255 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:10
二人が石川さんの背中から覆い被さり、遅れてきた三人もタックルをするように襲い掛か
ります。大袈裟にも見える激しい取っ組みで、石川さんの華奢な身体は頑強な男性たちの
人垣に阻まれ、見えなくなりました。私たちの目の前でそれは起こったんです。

私は吉澤さんの身体を必死につかみ、引きずりました。
「離せよ、紺野!離せ!」
その言葉を無視して、腕に力を集中させます。
「離せったら!離せ!ちくしょう、離せよ!!」
本気で抵抗する吉澤さんは、駄々っ子のように泣きながらわめきちらします。私も泣き崩
れてしまいたい気持ちをなんとか押さえ込み、その感情のはけ口として、より吉澤さんを
引っ張る腕に力を込めます。
「どうして!?どうしてだよ、梨華ちゃん!悪いのはあたしだっただろ!どうして、どう
して助けたりなんかするんだよ!?」
256 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:11
その時になって、異常に気付いた飯田さんが戻ってきて、吉澤さんを引きずるのを手伝っ
てくれます。
「どうして、どうしてなんだよ!?梨華ちゃん!どうして…」吉澤さんの言葉は、嗚咽に
途切れます。「どうして、そんな顔するんだよ!!」

そう、あの瞬間、石川さんは確かに嬉しそうに笑ったんです。
なんとも言えない、とても満ち足りた表情で―――。
257 名前:たとえ話 投稿日:2003/12/19(金) 19:11
 
258 名前:紫苑 投稿日:2003/12/19(金) 19:14
>>246 代理人さん

実のところ、名前をそれに勧めた理由の一つに、
作品を追いやすいというのがあります。
ほとんどは、レスした通りの事からですが。
259 名前:紫苑 投稿日:2003/12/19(金) 19:17
>>247 名無し読者さん

いつもどうもありがとうございます。
弱音を吐いた辺りから、ずっと来て下さってますよね?
ラストまでどうか、よろしくお願いします。
260 名前:代理人 投稿日:2003/12/21(日) 12:32
切ないです。
すごく、胸が痛くなりました。

更新、ずっと楽しみにしています。
261 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/26(金) 02:06
今日いっきに読ませていただきました。
紺野さん視点からの書き方もいい味だしてて、すごい面白いです。
石川さんやモーニング娘。がどうなってしまうのか、続き楽しみです。
262 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/27(土) 17:23
このスレを今さっき見つけました。
なんでもっと早く読まなかったんだろうって後悔してます。
もの凄い引き込まれます。更新頑張って下さい。
263 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 17:55
小さい頃、砂で小さな山を作って、そのてっぺんに木を刺して始める遊びがありました。
遊び方は至って簡単で、木を倒さないように山を崩していく。それを順番に続けていくと、
必ずどこで枝は転がるみたいにして倒れます。支えをなくしたら、何だってそうなるに決
まっています。何だって……。

車内はあらゆるものを押し殺し、あらゆる感情を内包していました。それを支えと呼んで
いいのかは分かりませんけど、今はまだ、泣き崩れてはいけない事を誰もが知っています。

理由の一つは、責任。私たちは今、石川さんの家に向かって車を走らせています。どんな
顔をして会いにいけばいいか分からなくても、ご家族に報告をしなければなりません。謝
罪の言葉も見当たりませんし、自分がどんな行動をするのかすら見当がつきません。いっ
その事、感情のままに激昂し、罵ってくれたらと思います。

私は視軸を窓際に移しました。そこにある、もう一つの我慢の理由。

吉澤さんは赤く染まった目をしっかりと見開き、窓の外にその視線を置いています。
264 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 17:57
誰よりもつらいはずの吉澤さんが、無言で降り注いだ罰のようなものに耐えているんです。
悲しみと自責に浸り切ってしまいそうな思考の流れをせき止めているんでしょう。それは
睨みつけるような強い眼差しで。震えるくらいに握りしめた掌で。口内を噛みしめる力で。

涙が自然とこぼれてしまうのを止められない瞬間はあります。どんなにこれからの事や他
の事を考えようとしても、その記憶に石川さんはいつも、ひょっこりと顔を出すんです。
場違いな事を言って周りを苦笑させるたり、自分だけしか笑っていない話を長々としたり、
力を抜くべきところで無駄に力説したり……。

そんな事を思い出していると、また車内の光景が少し滲みました。私は慌てて顔を自分の
接している窓の方へ向けます。
265 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 17:59
そして石川さんはモーニング娘。の素晴らしさを誰よりも知っていて、私たちがボンヤリ
としか分かっていなかったその感情を、一人明確に持っていました。答えを見失いかけた
時、得意の空回り気味な口調はやけにすんなりと心にしみ込みました。その愛すべき性格
や頑張りが、時々煩わしく感じる事はあっても、本当に正しいのは石川さんだってみんな
が知っています。それでも石川さんは得意気な顔もせず、時には間違っていないはずの自
分が落ち込んだりしていたんです。

止まらなくなった涙を、服の袖にこすり付けます。みんながそうしているように、声だけ
は出すまいとお腹に力を込めます。それでも抑えようもなく震える口唇から、いつそれが
漏れてしまってもおかしくありません。紙一重。そうとしか表現出来ないところで、私た
ちは足を踏ん張っていたんです。今はまだ、泣き叫んではいけない。

不意に車はその動きを止め、小さな振動を残すと沈黙しました。
266 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:01
「着いたぞ」
おじさんのつぶやくような声でやっと、ここが石川さんの実家の目と鼻の先である事が分
かりました。不思議な事です。ずっと車外の景色を目にしていたというのに、その風景が
急に目の前に現れたかのように感じます。
「あの…ここ…」それは保田さんも同じようで、呆けたような口調でした。
おじさんはいつもなら皮肉るであろう場面ながら、「おまえらの指定した場所に間違いな
い」とだけ言います。そして事実、間違いありません。

一見平静な日々と同じに見えます。だけど今日は何か小さな動作の一つ一つに違和感があ
りました。車が停まれば、みんなはいつもすぐに次の行動に移るのに、今日はそれに決心
が必要な気がします。ほんのコンマ何秒にも満たないズレで、私たちはまるで油の切れた
ロボットのようです。
267 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:04
私が自動車のドアを開こうと手を掛けると、肩に何かが乗せられました。振り替えるとそれ
は吉澤さんの右手で、その目には決意の光が宿っています。
「あたし一人で行く」
言葉の意味が分からず、怪訝な顔をしたであろう私に、「あたし一人でいい。みんなは悪くな
いから。…この事に関してはそうだから」と繰り返します。
「何バカなこと言ってんの!」
声を荒げた飯田さんの目を、吉澤さんは怯まずに見返します。
「そうさせて下さい。お願いします」
「そうはいかないよ。私たちにだって責任はあるんだから」
「そんなものありません。あたしが梨華ちゃんの忠告をちゃんと聞いて…」
「それはそうかも知れない!」
「………」
「それだけに、一番苦しんでるのはよっすぃーだとも思う。だけどそうはいかないの。全
員で石川を誘っ…石川のご両親にしてみれば巻き込んだんだから」目をそらして黙り込む
吉澤さんに、飯田さんは続けます。「それに、私たちも苦しいの!責任だなんて言葉使っ
たけど、本当はそうじゃないの!誰かに謝りたくて仕方ないの、仕方ないのよ…みんな」
268 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:06
中澤さん。私は今は遠くにいる、凛としたたたずまいの彼女を思い出していました。私た
ちもまた、自分を許せなくなりそうです。特に爪が突き刺さるほどにこぶしを固めている
吉澤さんは、あの日のあなたに重なります。あなたの家を訪れた時の私の言葉は正しかっ
たと思います。それだけは確信があります。そして…。私は今の心理状態では認めない訳
にはいきませんでした。そして中澤さん、あなたの言葉もまた、一つの真実だったんですね。

押し黙った吉澤さんの背を押すようにして、私たちはトボトボと石川さんの実家へと向か
いました。重い荷物を引きずるように足取りは鈍く、世界が沈んで見えます。

インターホンを目の前にして、空気はさらに重みを増しました。合図でもあったように私
たちはみんな立ち止まり、そびえるその建物を見上げます。ジャリっという誰かが小石を
踏む音がやけに耳に残りました。気温は急激に下がり、冷たい風が体温を奪います。

飯田さんが決心したように視線を強いものに変えると、その長く細い手をチャイムへと伸
ばします。人差し指がボタンを押し、スッと離れると、一テンポ遅れて何度か、インター
ホンの音が石川さんの家に響きました。私は目をつむり、時間が来るのを待ちます。何度
か聞いた石川さんのお母さんののんきな声。何よりも胸を刺すであろうその声を待ちます。
269 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:08
しばらくして、飯田さんが首をひねりました。私たちの間にも疑問符が広がります。
「誰も…いないのかな?」
飯田さんはつぶやきに矢口さんが応えます。
「そうかもね。しょうがないけど、いきなり来たし」
「そう、だよね。ちょっと待とうか」
嫌な予感。何度となく味わった経験からか、その感覚が鋭くなっているのを感じます。そ
して今、こんなところで何が起こるはずもないのに、肌がザワつきます。
「なんか…悪いことが起こりそうな気、しませんか?」
その私の問いには、誰も応えません。その代わり、そう言っていいのか分かりませんけど、
石川さんの隣の家から人が出てきました。待ち伏せ。どうしてそんな事に頭が回らなかっ
たのだろうと思います。私たちに緊張が走り、一斉にそちらを見ました。
270 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:10
思惑に反して、それは女の子でした。…と言っても、私と同じくらいの年齢かも知れませ
ん。その子は私たちに気づくと、一瞬、ハッとしたような顔をします。そして周りを見回
すと、顔に手を当て、迷っていると思われる仕草をしました。

「あの…」保田さんは女の子が出てきた家を指差し、声をかけます。「ここの家の子?」
「そう、ですけど…」
「ですけど、何?」
「いえ、あの、けどじゃなくて…」

そのちょっとオドオドとした様子に、こんな時ですけど、少し親近感を覚えました。少な
くとも、これなら待ち伏せされていたという訳ではなさそうです。
271 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:13
「あの、モーニング娘。ですよね?」
「うん、そう。そうだけど…」
「どうして梨華ちゃんがいないんですか?」
その素朴な疑問に保田さんは口唇を噛み、言葉を失くします。だけど彼女はそんな保田さ
んや私たちの表情にに気づく様子もありません。
「あたし、梨華ちゃんとは小さい時から知り合いなんですよぉ。だから、いてくれたら緊
張しなくてすむかな?なんて」
「……今はちょっといないんだ。ゴメンね」
彼女は慌てて手のひらを交差させます。「あっ、と、とんでもないです。でもまぁ、仕方
ないですよね、あんな事があったらここに来たくないのも」
「あんな事って、何かあったの?」
「えっ!?もしかして、知らないんですか?」

保田さんはこっちを見ると、目で何か知っているかどうか尋ねてきました。私たちもまた、
無言で首を横に振るのを見届けると、女の子に向かって静かにうなずきます。

女の子は、申し訳なさそうな顔と消え入るような声で言いました。
「モーニング娘。がライブ始めてすぐ、梨華ちゃんの家族全員、どこかに連れていかれち
ゃったん…です」

誰が初めだったのかは分かりません。私たちは駆け出していました。いきなりの事でとま
どっている彼女に保田さんは、電話借りる、とだけ言うと、自分も最後尾から走り出しま
す。盗聴や逆探知なんて、その時の私たちの頭の中にはありませんでした。

―――それよりも、それよりも!
272 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:15
十数分後、最後の順番だった矢口さんが電話を終え、女の子の家から出てきました。そし
てその顔は、この場の誰もがそうであるように、泣き顔でした。
「…ダメだった。やっぱり繋がんない、繋がんないよぉ!」

私たちが活動を始めて、ペンションに移り住んだ頃、家族はどこかに連行されたのでしょ
う。そして……。

「すみません!」女の子は言います。「それから一ヶ月くらいはお巡りさんが梨華ちゃん
家を張ってて、だけど梨華ちゃんは帰って来ないし、知ってたんだぁと思ってホッとしてて…」

誰も彼女になぐさめの言葉をかける事は出来ませんでした。もちろん彼女に対する怒りな
んて感情はどこにもありません。みんなそれ以上に、力を失っていたんです。
273 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/09(金) 18:17
石川さんが捕まって、世界が沈んだように感じていたのは間違いでした。私たちが気づい
ていなかっただけで、世界はとっくに沈んでいたんです。逆探知や盗聴を恐れて連絡を取
らないようにしていた時間、それは偽りの中でのお遊戯会のようなものだったんです。

「オイラたち、夢を見ていたかっただけなのに」矢口さんの泣き叫ぶ声が胸に突き刺さり
ます。「……それってそんなにいけないことなのかなぁ?」

おじさんが一人一人の身体を起こし、車へと肩を貸して連れて行きます。そしてそれは私
の番になり、夢遊病のような頭で、引きずられながらボンヤリと考えていました。

―――石川さん。私たちはどうしたらいいですか?もう一度、あの耳に障るような甲高い
声で、無駄に力の入った口調で教えてください。どうしてあの時、あんなふうに笑えたん
ですか?

支えを失くした私たちは泣き崩れ、砂で積み上げられた防壁から転落していきました。
274 名前:紫苑 投稿日:2004/01/09(金) 18:20
>>260 代理人さん

待っててくれてありがとうございます。
重い話を書いてる時は、自分でも胸が痛いです。
275 名前:紫苑 投稿日:2004/01/09(金) 18:26
>>261 名無し読者さん

紺野さん視点にした事が、その言葉で報われました。
最初のうち、書きにくくて何度後悔したか(笑
276 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/09(金) 18:27
石川さんどうなるんですか?
ハッピーエンド希望!!
続き期待してます
277 名前:紫苑 投稿日:2004/01/09(金) 18:33
>>262 名無し読者さん

また新しい読者さん!!
結構長くて読みにくい文章の一気読み、お疲れ様です。
本当に本当に励みになります。
これからも見捨てずにお願いします。
278 名前:紫苑 投稿日:2004/01/09(金) 18:44
>>276 名無飼育さん

こんなに早くレス付いたの初めてで、なんか照れます(笑
そうですね…その二つについては、お言葉通り、
続きを読んでくださると嬉しいです。
どうもありがとうございます。
279 名前:代理人 投稿日:2004/01/09(金) 22:15
家族…ですか。
今回も重かったです。

でも、やっぱりおもしろいです。
どれぐらいの時間がたっていたのか、また最初から読み直してきます…

なかなか来れないのですが、本当に楽しみにしてます!
続き、お待ちしてます。
280 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/12(月) 23:56
更新乙です。いつもみてますよ。
281 名前:名無し 投稿日:2004/01/13(火) 02:09
中澤さんが矢口さんを救う展開・・・・期待・・・・してます。
何か切なすぎる。
282 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:36
一週間の間、私たちは何も手につかず、ただ失望と戦っていました。みんなの家族もそう
であったように、石川さんのそれからについても何の情報もありません。存在しなかった
かのように全ては闇の中です。私たちはこの国の恐ろしさを改めて思い知らされ、手の届
かないところにある身近な人たちを思っては泣くばかりです。

そんな日々の中、みんなが自分たちの部屋から出て、久しぶりに顔をそろえたのには訳が
ありました。おじさんが話すことがある、そう口にして食堂に集合をかけたからです。
283 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:38
暗い顔をした私たちは、力なくイスに腰を下ろしていました。例外なく色々な事を考えた
果てに、疲れきっているのが見て取れました。何故だか目を合わせないようにしていたの
は、悲しみを分け合う事が出来ないからでしょう。それぞれ家族が連行されたからといっ
て、それはやはり、それぞれなんです。メンバー内で共有していない数少ない物の、その
中でもっとも大きいと思われる部分。

それを証明するように、誰かがポツリと始めた石川さんの話になると、止まらない感情が
次から次へと吐き出されます。会話の最中に気づいて唖然としたのは、私も含めてみんな
が過去形で話している事でした。言葉の関係で仕方がないと言えばそうなんですけど、そ
んな事で妙にショックを受けます。
284 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:39
「祐ちゃんの言ってたこと……本当になっちゃったね」
矢口さんの言葉に私はギクリとします。
「オイラには石川が捕まったこと、背負えなかったよ。…今でさえどうすればいいか分か
んないんだから」
「…中澤さんは、こんなにも苦しいものを抱えていたんですね」
矢口さんは力なくテーブルをコツンと叩きます。
「んっとにオイラって考えなしだ。いつも感情でものを言って…。よっすぃーのことは言
えないよ」

名前の挙がった吉澤さんはと言えば、あの事件以来、今までが嘘のように無口になってし
まいました。部屋と心にできてしまったスペース。それを持て余して、絶え間ない悲しみ
の中でもがいているように見えます。いったい部屋に残った石川さんの荷物に、何を思っ
て過ごしているのか。それを考えると胸が痛くなります。それでも部屋を変えるという申
し出を断る吉澤さんの胸中にどんな思いがあるのか、それは誰にも分かりません。
285 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:40
「…これから、どうしたらいいんだろう?」

そんな矢口さん言葉は、抱えている喪失感を端的に表していました。もう終わりにする。
話し合われた訳でなく、メンバー内にはそんな空気が漂っています。それほどに失ったも
のはとても大きく、……大きなものでした。

だけど、それを言い出せる人はいません。口にしたくないというのと、ここで止めてしま
ってはおじさんに申し訳ない。そんな感情もあるんでしょう。中途半端な私たちの夢に乗
っかったせいで、自分まで政府にマークされてしまっているであろう人。
286 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:43
おじさんは不自然なほどゆっくりとした動作で部屋の様子を見渡しています。その表情は、
痛みに耐えているようにも感じました。年月の経った古い傷の鈍い苦痛。シワを寄せるよ
うに歪めるその顔は、そんな印象を与えました。やがてそれをスッと胸のうちにおさめる
と、おじさんは立ち上がり、いつも通り無愛想な、不思議に優しい声を出します。
「……おまえらはよくやった。よくやったよ」
どの言葉から口にすればいいか。ポツポツと悩みながら話す姿勢に、飾りのない思いを見
ます。
「どうにもならない状況っていうのは、ある。どんなに固い絆で結ばれていようとも、そ
れ以上の力に叩きのめされるような、そんな時はあるもんだ。俺はこんな場面を昔にも見
たことがある。夢と現実のぶつかる瞬間。何十年前かもう忘れちまったが、そういうこと
があった。そして俺たちは……」
おじさんはチラッと部屋の端に視線を流しました。つられるみたいにそれを追った私の目
に飛び込んできたのは、目を伏せているペンションのオーナーの姿でした。
「俺たちにもどうしようもない壁だった…それは」
287 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:44
その瞬間、私の頭の中にはある映像が映っていました。それはまるで、保存状態の悪いセ
ピア色の映画のようでした。時々画像が乱れたり、音が途切れたりしながら何かを話し合
っている人影は、今よりもずっと若いおじさんたちのものです。

テーブルを囲んで座り、言葉少なに何かを議論している姿は今の私たちに重なり、どうし
ても失いたくないものをあきらめる失意が満ちています。テーブルの上の灰皿からは煙が
上がり、不健康な空間を際立たせ、重い空気を表しているようにも感じました。

すると、その灰皿が重力と反発するみたいに少し浮き上がり、空中で逆さまになり、中身
の吸い殻をテーブルに吐き出して動きを止めます。一人の男性―――それは若い頃のおじ
さんでした―――が怒鳴り散らし、その右腕をテーブルに叩き付けたせいです。おじさん
の目には光るものがあって、そのままの勢いで立ち上がり、その場からどこかへと振り返
ることもなく歩き去ります。

夢をあきらめる瞬間。それを目の当たりにしたような気がした瞬間、おじさんたちがどう
してここまで私たちを支えてくれるのかが分かった気がしました。
288 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:46
「おまえらがそう望むなら」現実のおじさんはしゃがれた声を一度区切ります。「いつか
捕まるまで、一緒に逃げてもいい。車がなけりゃどうにもなんねぇだろうしな」

全員がおじさんを見つめていました。最初に会った時の約束。決して止めないという条件
を破ろうとしている私たちなのに。私たちを守らないといけない立場でもないのに。守れ
ば自分の危険も多くなるというのに。繰り返し大きな力に敗れ、それでも私たちを許し、
守ろうとしてくれる。そんな人をみつめていました。

おじさんはあごの端で部屋の隅を示します。「あいつも危なくなるまでここにいてもいい
って言ってくれてる。そしていよいよ危険が迫ってきたら俺の車で逃げればいい。そうし
ても誰も責められないくらい―――それくらいにおまえらはよくやった」

私は目頭が熱くなるのを止める事は出来ませんでした。そして再び、モーニング娘。を復
活させてよかったと、心から思いました。失くしたものと秤には掛けられなくても、行動
した事で手にした物もちゃんとあったんだと気づいたからです。自分でも忘れそうになっ
ていた事を思い出します。私たちは何かを失うために動き出したんじゃありません。
289 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:48
私は、言うなら今しかないと思いました。あきらめの空気が流れていた一週間。その中で
芽生えた新たな感情。バカバカしくて、人に話せば笑い飛ばされてしまうような、そんな
か細くて、だけど信じられないほど強い力。そう、力。
「―――本当に。本当にありがたい言葉ですけど、私たちはこれからもライブを続けるべ
きだと思います」
一様に驚いた顔がこちらを向きます。あらゆる道を絶望にふさがれたこの状況で、こんな
ことを言い出すんですから、それも仕方がありません。それでも最初に矢口さんやおじさ
んと誓った事を守りたい気になっていたんです。
「人を元気にして、夢を見続けましょうよ!それがどんなに絶望的…」
「そんなの無理!」矢口さんはかつての自分の言葉を否定します。「あの時、オイラは分
かってなかったんだよ。紺野が裕ちゃんのことを思って、帰れって言った通り」
「でもその言葉は、少しは分かってた私に希望をくれました」
「希望だとか夢だとか言っても、そんなんじゃどうにもなんなかった!」
矢口さんは大きくかぶりを振りながら、私の目を見ずに言います。
「現に石川は捕まってる!その後の消息すら分かんない!これが現実でしょ?どんなにが
んばっても、ダメなことはあるんだよぉ!それとも、夢が現実に勝つことがあるとでも言
うの!?」
290 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/22(木) 20:49
おじさんはまた古傷に耐える表情を浮かべ、悲しみの底にいる矢口さんを見つめ、ペンシ
ョンのオーナーは目を伏せたまま、感情を殺そうとつとめています。吉澤さんは顔を両手
で覆い、保田さんは不思議そうに私を見つめ、飯田さんは矢口さんの肩に手をかけます。
そして矢口さんは今にも泣き出しそうに口を曲げています。

そんな静かな空間に、私の声は意外なくらい響きました。
「―――そんなの、石川さんが教えてくれたじゃないですか」
291 名前:紫苑 投稿日:2004/01/22(木) 20:57
>>279 代理人さん

自分でも見直した結果、
時間、はっきりと書いてなかったですね(笑

>>280 名無飼育さん

ありがとうございます。
とてもとても感謝しています。

>>281 名無しさん

こういう展開は嫌ですよね。
書くのにも時間がかかってしまいます。
292 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/28(水) 15:04
時間とは不思議なもので、人の気持ち次第で速度を変化させます。つまり何が言いたいの
か、せっかちな方はそう尋ねると思います。まあまあ、落ち着いて深呼吸でもしてくださ
い。はい、吸ってぇ〜。吐いてぇ〜。……癒し系でいこうと思ったのにこれじゃまるでお
医者さんですよね?う〜ん、どこで間違えたのかなぁ?……まあ、いいや。私がお医者さ
ん…じゃなくて癒し系になってる間に話がそれてましたね。言いたいのは、それからの日
々を速く感じたという事です。

活動はますます活発になり、今では三日に一回ほどのペースになっています。

もちろんヤケになった訳でも、保田さんがボケた訳でもありません。ましては、飯田さん
が壊れた訳でもないです。元々ですから。メンバーで話し合った結果、そうしようと決ま
った事です。
293 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/28(水) 15:05
ただし、経験から何も学ばない私たちではありません。みんなが一番望んでるであろう歌、
その一曲。それだけをやってすぐに撤収するものへと移行しました。

どこからか不満の声が上がるのを覚悟していた私たちに届いてきたものは、驚くべき事に
賞賛でした。家族が連行されてしまった事実は知られてなくても、大勢のお客さんの目の
前で取り押さえられたからか、石川さんが捕まったという情報はラジオから流れています。
そんな事も少なからず影響しているんでしょう。前と変わらない、それ以上の暖かい声援
の中、私たちは歌うことが出来ます。
294 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/28(水) 15:11
燃え尽きる瞬間のろうそくのような勢い。終幕へと向かう存在だけが持つそんなスピード
を誰もが感じ、引き込まれているような面も客観的に見てあったんだと思います。最高潮
に思えた私たちのラジオでの報道と人々の興味はますます加熱し、膨れあがり、今にもは
じけそうになってきました。

そんな風潮を察知したんでしょう。ついに私たちの名前が国の公式情報機関であるテレビ
から、機械のように突っかかりのアナウンサーの声で読み上げられました。もちろんそれ
は名誉などというものから遥かに距離を置いた、国の転覆を企てるテロリストとしてです。
こんな生活が始まった時、テロリストは相手だったのに、言葉の意味っていうのは反転し
うるんでしょう。

そしてもう一つ重要な事。国の威信をかけた発表が告げられたんです。

「政府は今日、モーニング娘。の名前で知られる組織が都内で国家政権転覆煽動行為を計
画しているとの情報を受け、これに対する鎮圧を宣言致しました。場所は特定出来ていな
いものの、パトロール隊を大幅に増強し、警官隊を待機させる方針です。これまでもこの
テログループは犯行をくりかえし―――」
295 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/28(水) 15:14
「どっちに転んでも向こうが得するようにできてるね、これ」
「……?どういう意味ですか?」
手に乗せたパンにバターをぬりながらの保田さんのつぶやきを聞き逃しませんでした。
「わざわざこんな情報流す必要ないでしょ?」
「ああ、親切ですよねぇ」
「…違う!」保田さんは完璧になったトーストを口に含みます。「あんまりつっこみとか
得意じゃないんだからさせないでよ」

オイラの仕事取んないで、圭ちゃん。そんな矢口さんのおどけた口調に笑い声が上がり、
保田さんも仕方なさそうに肩をすくめます。取らないよぉ。その言葉にかぶさるように、
年を取ると不安になるって言いますもんねぇ、そうかき回したのは吉澤さんです。それよ
りね、圭織は思うの…。うん、それおそらく関係ない話だよね?年、年ってねぇ、あんた
たち―――。

朝食の席は騒々しいと形容される雰囲気が広がり、隣のテーブルで食事しているおじさん
が苦笑し、オーナーが人の好い笑顔を見せています。

昨夜は雨が地面や窓に音を立てていて、その単調なリズムに包まれるように眠りにつきま
した。それでも窓の外は、雨が続いたここ一週間が嘘のように晴れ渡っています。まるで
憂鬱と呼ばれる天気の埋め合わせでもするように、朝露が太陽を反射し、光を七色に散ら
します。
296 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/28(水) 15:16
「それで、さっき何か言ってましたよね?」
「さっき…ああ、つまりね、私たちが放送を観て計画を変更しても構わないってこと」
私は首をひねります。
「人を集めておいて中止にしたら、信用も期待も地に落ちるでしょ?くじいておきたいの
よ、このバブルのようなものを。それにもし、計画を実行したらそれこそ一網打尽にでき
るチャンスだし。娘。の存在を発表するメリットが生まれたって訳。皮肉にも大きくなっ
たおかげでね」
「はぁぁ、無駄に年取ってないですねぇ」
「いや、と、年ぃ!?……だからつっこみは苦手なんだって!」

さっきからこの東洋人女性はつっこみつっこみって何を言ってるんでしょうかね?人が真
面目な話をしてるっていうのに。困ったもんです。

「まぁ、今更どんな行動取られても、どうするかなんて決まってるしね」
矢口さんの視線の先にあるテレビは、もう違うニュースに切り替わっていました。
297 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/28(水) 15:17
今日のライブ会場へと向かうための準備をして、矢口さんが私たちの部屋に鍵を掛けよう
とした時、私はちょっと待ってもらう事にしました。不思議そうな顔の矢口さんを尻目に
もう一度部屋に入り、窓から見える景色、家具の位地や色、そしてひとつひとつに残った
思い出を胸にしまい込みます。

そんな私の様子にいぶかしげに近づいて来た矢口さんは、不意にその意味に気付いたらし
く、小さな声を上げました。
「…そっか、ここに戻って来るのも最後かも知れないんだね」

マヌケな行動ですけど、二人で何度か深呼吸をした後、笑いながら部屋を後にします。
298 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/29(木) 19:04
自動車で何度か会場を通り過ぎ、目で確認した限りでは不審な人物を発見出来ませんでし
た。それでようやく車から降り、裏口から中へと入ります。全員で人が潜めそうな場所を
探り、当面会場の外側も内側も安全そうな事に胸を撫で下ろしました。

ライブを始めてからの鉄則の一つ、準備中に明かりを点けない。それを今回も守っている
ため、暗闇の中を荷物を抱えながら歩きます。足元は体育館の床みたいな素材らしく、踏
み出すごとにキュッ、キュッという少しなつかしくなった、体育の授業中のような音がし
ます。

薄暗い館内に荷物をおろすと、あの日から恒例になった事を始めます。
299 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/29(木) 19:06
「じゃあとりあえず、逃げ道をもう一度確認するよ」
飯田さんは髪をかき上げ、歩き出します。背丈ほどの高さにあるステージに手を伸ばし、
軽やかに舞い上がる様は、ひいき目無しに華麗でした。

みんなも次々とそれに続き、私もギリギリでつっかえながらも、舞台の上に立つ事が出来
ました。それでもやっぱり……。

ピョコピョコと飛び跳ねては弾き返されている人がいます。言うまでもないですよね?ク
ロボッコルこと矢口さんです。何度も弾かれてはその度に、アウッ、という声を上げ、ス
ゴスゴと回り道をを始めたその姿は、ひいき目無しにみじめでした。
300 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/29(木) 19:08
ステージからの逃走経路をゆっくりと歩きながら確認します。飯田さんは細かく気をつけ
るべき箇所を声に出し、指でさし示します。その行動は、石川さんが確かに私たちの輪の
中にいた証のようにも思えました。きっとそんな面もあるんでしょう。人が人と関わり合
い、心を通じ合せ、時には通わなかったりしながら自分を形成していく。私も誰かの中に
足跡を残せているんでしょうか?もしも出来ているんなら、暖かなものであったらいいと
思います。それこそずっと目指してきた、元気が出るような。

この会場は少し変わった構造をしていて、ホールを一階として、その上は四階建てのオフ
ィスビルになっています。騒音の問題とか勝手に心配しそうになりますけど、それが原因
なのかどうなのか、今では全く会社が入っていません。そして階段で地下にも行け、そこ
は荷物搬入口なのか外へと繋がっていて、それが今回の出口という訳です。

私たちはその道筋を頭に叩き込むと、おじさんたちの作業を手伝います。と言っても機器
の事は分からないので雑用ですけど。ただネジを一つ巻き、コードを一つ繋ぐ度に自分た
ちでライブを作っているんだと実感する事ができます。キャアキャアと騒ぎながらそれを
する私たちに、おじさんは苦笑しているんですけどね。
301 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/29(木) 19:11
私たちが手伝えるものが無くなると、控え室へと向かいました。

結構スペースのある室内に歓喜の声を上げ、場所取りのようなものが始まりました。持ち
よったお菓子を広げ、昼食も間近だっていうのに手を伸ばします。特に誰がって言われた
ら、それはまあ……私…ですけど、そんな事はどうでもいいんです。みんなです、みんな。

「やっと一段落ついたね」矢口さんが息をつきます。
「うん、圭織、もしかしたらあの作業天職かも知れない。芸術性を感じるの」
新しい道を歩き始めそうな飯田さんに、矢口さんは言葉が出ません。
「なんかぁ、創り上げるっていうのかな?今までは圭織、色彩のきれいなものばっかり追
い求めてた気がする。だけどああいう鉄骨の…」
「それより」危険な空気を察知した保田さんが言います。「楽しみだね、今日も。なんだ
か声の調子いいんだよね」
「圭織もそうなの。これはきっとミューズが降りて来ててね…」
「え、う、うん。そうだ、紺野はどう?」溺れかけた人を助けに行き、その人にしがみつ
かれた保田さんはSOSを出しました。
「ええ、完璧です」
「紺野も?実はオイラもそうなんだよね!めずらしくみんな気が合うねぇ。そうだ、よっ
すぃー。よっすぃーはどうなの?」
期待を込めて、振り返りながら話し掛けた矢口さんが目にしたものは、敬愛する江頭さん
タイプの三点倒立に挑戦している吉澤さんの姿でした。
矢口さんは脱力しながらつぶやきます。
「……うん、絶好調みたいだね」
302 名前:たとえ話 投稿日:2004/01/29(木) 19:13
そんな会話を交わしてからしばらくして、矢口さんは立ち上がり、窓から外を眺めました。
朝と変わりなく、一点の曇りもない晴天です。矢口さんは自分でもそう気づいていないで
あろう自然な笑顔を浮かべ、ほっぺたをガラスに押し付けるようにして見入っていました。

そんな矢口さんのところに近づきます。
「ほんっと娘。って変わってる人が多くて大変ですよね。飯田さんはあんなだし、絵里ち
ゃんは壁が好きだとか言い出したことがあったし、矢口さんはガラスが……って何やって
んですか?」
「失礼なことを言うなよ!別にガラスが好きなわけじゃないよ!」
「いやいやいや、かなり好きですよぉ、その体勢は」
「体勢で決めるな!ガラスの向こうにだって物があるじゃん!オイラはこの景色が」
「まあまあ、じゃあ、後は若い者にまかせて…」
「むしろそれを言いに来たんだろぉ!」
私のいいところの一つに、人の趣味に口を出さないという事があります。優しく矢口さん
の肩を二度叩くと、笑顔を向けてその場を後にしました。
「ええっ!?オイラ見逃してもらったのぉ!?違うって、違うんだよ、紺野ぉ!!」

―――今日もまた悩める仔羊を救い、紺野あさ美は次の旅へと出るのだった。そんなナレ
ーションの後ろでは、しつこくも自分の弱さを認められない矢口さんの声が鳴り響くのでした。

「だから、違うんだってばぁぁぁぁーーーー!!」


303 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/05(木) 00:16
今回はほのぼのしてますね。
相変わらず紺野さんの毒舌も冴えてるし、
飯田さんの壊れっぷりもまた面白いw
304 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 20:55
大きく息を吐いて、壁に掛かっている時計を見上げました。そんな自分の行動にもう一つ
息を吐き、保田さんに尋ねます。
「あの、今、何時ですか?」
保田さんは手にしていた本にしおりをはさみ、左腕へと視線を落としました。
「えーと、うん、そろそろ時間だね」
「どのくらいあります?」
「約十分。何かしたいことでもあるの?」
いえ、そうじゃないんですけど、そう答えると自分の荷物をあさります。確かどこかに電
池が入っていた事を思い出したからです。
305 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 20:57
脇のポケットからそれを見つけ出し、踏み台としてイスを用意すると、壁で勝手に時間を
止めている時計に手を伸ばします。かぶった埃に私の手の形が残り、その両腕の中で時計
は小さな鼓動を刻み始めました。それが役目でありながら、正確な時間を知らない長針と
短針に時刻を教えてあげていると、下から保田さんの声がします。
「こんなところの時計合わせても、ライブが終わったら、また誰も見なくなるんだよ?」
私がその問いに答えずに無言で作業を続けている間、背中にはずっと保田さんの視線を感
じていました。それは、同じ事を考えているからだと思えました。
「なんとなく、そんな気分になったんですよ」
「…そう。まぁ、便利は便利だからいっか」
保田さんはそう口にすると、再び自分の定位地に戻った時計を見上げます。表面に蛍光燈
を反射させたグレーの掛時計。

手が埃まみれになった私は、踏み台にしたイスから飛び降りると、そのままお手洗いへと
向かいます。ドロドロになった両手ですけど、不思議と不快ではなくて、ちょっと誇らし
い気分にさえなっていました。ちょうど、落とし物を交番に届けた時に近い感覚です。で
すけど、そのままでステージに上がる訳にもいきません。トイレに入ってすぐ脇の鏡の付
いた洗面台。ひんやりとした水で洗い流すと、鏡を見つめました。

ライブの開始時刻まであとわずか。
306 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 20:59
楽屋へと戻ると、みんなはもう準備を終え、輪になっていました。その中に身体を入れ込
むと、並んだシルエットの段差、矢口さんのアニメ声が聞こえてきます。
「遅いよ、紺野!どんなのしてたんだよぉ」
「何にもしてないです。おじさんみたいなこと言わないでくださいよぉ、いやだなぁ」
「えへへ、お嬢ちゃん、パンツ売っ」
「じゃあ、いきますよ?がんばっていきまーっ」
「つっこめよぉ!!それに、紺野が言うのかよぉ!?」
そんなふうに笑いながら話してた私たちは忘れていました。時としてこの世の中には、冗
談が通じない相手が存在するという事を。
「じゃあ圭織、リーダー失格ってこと?」
泣き出しそうな飯田さんを矢口さんが必死になだめます。私たちがモーニング娘。に入る
前、こんな場面をテレビで見たような気もしますけど、気のせいでしょう。
307 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:00
楽しそうな事には必ず乗っかって来る吉澤さんは、こんなチャンスを見逃しません。
「もう面倒くさいからあたしが言うよ?がんばっていきまーっ」
「圭織ね、リーダー、クビなんだって。やっぱり裕ちゃんがいな」
「いやいやいや、圭織、誰としゃべってんの?誰もいない、誰もいないよ、頭上には!!」
矢口さんは、必死に飯田さんをこっちの世界に繋ぎとめようとします。メンバー愛という
のがどういうものか、思い知らされたような気がしました。私もいつか、あんな立派な大
人になれるでしょうか。

保田さんはそんな私たちをまぁまぁとなだめると、飯田さんに向き直りました。
「あんまりふざけてるとお客さん待たせるよ。こればっかりは他の人にやってもらったん
じゃ気分でないしね。やっぱり締めるべき人に締めてもらわないと」
正直、異論はありません。みんながみんな本心はそのようで、照れ笑いを隠し切れない表
情を浮かべ、ソロソロと手を円の中心へと伸ばします。
308 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:02
その言葉を受けた飯田さんは急に現世へと戻ってきて、握りしめた手を口に当て、咳払い
をします。目をつむり、大きく呼吸をした後、そのままの表情で言いました。
「……でもみんな、頼りないリーダーかも知れないけど、支えてくれてアリガトね」
飯田さんの手が、壊れ物に触れるような仕草でソッと重なりました。

途端、弾けるような暖かい想像が胸を包みます。それは、円陣を組んでいるこの体勢がモ
ーニング娘。という一つの生き物の姿なんではないかというものでした。飯田さんの口に
した言葉は私を含めた他のメンバーの苦笑を誘うもので、口に出さないまでも、誰もが思
っているに違いないんです。“それはこっちのセリフだよ”って。
309 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:03
ちょうど円のように循環した支え合い、補い合いで私たちはここに立っていて、中心で組
まれた手はこの生物の心臓です。持ちよった事情はそれぞれに違っても、確かに今、一つ
に集まったモーニング娘。というものが存在しているんです。

飯田さんは目を開きました。確かめるように一人一人に目を合わせ、一番最後の私を見つ
め終わると、視線はしっかりと重なった結束のシンボルへと下りてきました。
「がんばっていきまーっ!」
「しょい!」

声が聞こえます。ステージへと向かう私たちに、声が聞こえました。
310 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:04
危険が伴うモーニング娘。のライブ。もちろんそれは望むところではありませんが、観客
の方たちの身の保証はできません。人が安全を欲しがるのは自然の心理です。でも、観に
来てくれる人たちはいて、守ってくれる人たちがいて、私たちがいます。

きっと本当に欲しいものなんて、こんなちっぽけな事だったんだと思います。

もしも日々の生活が明るく楽しいものだったとすれば、こんな条件ではこの場所に人が集
まるわけがありません。だってそうなら、そんな毎日を満喫すればいいんですから。ここ
にいる一人一人が何かに疲れ、元気をなくし、希望を失っていたんでしょう。

それならば私たちの出番です。他のどんな事が誰かに劣っていたとしても、人を元気にす
るのに関しては負けません。そのためにずっと、ずっと必死に駆け回ってきた私たちです
から。

―――そう、なんたって私たちは、モーニング娘。なんですから!
311 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:06
ステージに立つと歓声はひときわ高くなり、暗闇に目が慣れていなくて、メンバーの姿す
らろくに見えない中でも、一人ではないんだと認識する事が出来ます。

ライトがフェイド・インするように滑ってくると、ピアノのイントロが鳴り始め、会場は
静寂に包まれ、私たちは歌声をのせます。

不意にこの曲を初めて聞いた時の感覚がよみがえりました。背筋に電流が走るような、ゾ
クッとした音のない興奮。楽屋のみんなの言葉は嘘ではなかったようです。いつも以上に
一人一人の声がでていて、曲に感情豊かな命が吹き込まれているように感じました。どう
して声が重なるなんてどうでもない事が、こんなに気持ちいいんでしょうか。……それに
もきっと意味なんて無いんでしょう。そこにはそんなのどうでもいいと思える、光のよう
に明るいパワーがあるだけです。
312 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:08
サビに入る瞬間、矢口さんがチラリと私を見ました。その視線の意味に気付き、私は苦笑
します。全員でのユニゾンになるキメのポイントのここで、数日前のライブで私が遅れて
しまったからでしょう。

矢口さんもまた、私の苦い笑いを見て取ると、満面の笑みを浮かべ返してくれました。見
詰め合いながら心の中でちゃんと拍子を取り、せーの、声に出さないながらも明らかにそ
の言葉を意識し、正面に目線を戻し声を出します。

お腹に力を込め、会場の隅々にまで届くようにと声帯を震わしました。いえ、もっと遠く。
生まれてからここまで来るのに出会った人。これから先に出会うはずだった人。支えてく
れた人。分かり合えなかった人。道が違ってしまった人。引き裂かれてしまった人。そん
な大切な人、全員に届けばいいと思いました。
313 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:11
一回目のサビが終わり、ピアノが転調を迎えようとしている時でした。観客席の最後方か
らの鋭い光に、私は思わず目を細めます。暗闇を刺し貫くような閃光。

開け放たれたドアからライトがいくつも当てられ、その明かりの前には整列している黒い
人影が見えました。人間味がないほど整然と並んだ影。その方向に観客の人たちが次々と
振り返り、悲鳴らしきものを上げ始めると、演奏がピタリと止まります。

ステージの前方斜め上に設置されているミキサールームの窓からおじさんが顔をのぞかせ
ます。そして何かをインカムを通じて私たちに話そうとした時、拡声器によって増幅され
た声量がそれを遮りました。
「君たちは完全に包囲されている!」
「あ、見れた」
思わず漏れたつぶやきを、矢口さんが拾ってくれました。
「見れたって、なにが?」
「あの、まだこんなことになる前、このセリフを聞いてみたいなぁって思ってたんですよ」
「ああ、分かる分かる。でもまさか被害者じゃなくて、加害者として聞くなんてね。……
こんな時に呑気だなぁ」
「矢口さんだってそうじゃないですか。いつまで小人のマネしてるんですか?」
「あ、スベッてる?じゃあそろそろやめ…って二十一年間やり続けてたのか、オイラは!?
どんな目で紺野に見られてたのか心配だよ」
314 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:13
警官隊の声は響き、私たちの行為がどれだけ人の道にはずれているかを説き続けます。光
を遮るために引かれた黒いカーテンで窺い知ることは出来ませんけど、きっと窓の外も似
たような状況に違いありません。言葉通り、完全に包囲され、出入り口は全て塞がれてい
るんでしょう。

「どうする?」おじさんの声がしました。「今逃げれば間に合うかも知れねぇぞ?」
おじさん自身も信じていない口調に、私たちは苦笑します。
「でも、本当にどうしよっか?このままここにボンヤリ立ってるのも芸がないよね」
そんな矢口さんの何気ない物言いに、みんなが数秒押し黙った後、飯田さんがロボットら
しからぬひらめきの表情を浮かべました。
「ちょっと圭織、いい考えがある!」
「いい考え?」と、私たちは声を揃えます。
すると、飯田さんは得意げに人差し指をピンと立てました。
「そう、歌うの。どこまで歌えるか分からないけど、今日のお客さんはちゃんと曲を聞け
てないでしょ?だから、歌うの!」
矢口さんは笑い出します。誰の確認も必要ありません。「なんだか圭織らしいね。……う
ん、それで決まり決まり!」
315 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:15
私たちの会話は会場には流れてなくても、おじさんの耳には届いてるはずです。それなの
に矢口さんはミキサールームの方に向かって、大きく腕で丸を作り、ピョンピョンと飛び
跳ねました。保田さんが、きっと見えてないよ、と意地悪な事をを口にすると、矢口さん
は保田さんのお腹を叩くフリをします。そして私たちは笑います。

お客さんたちも舞台上の私たちの普段と変わらない様子を見ると、少しずつ、ほんの少し
ずつ落ち着きを取り戻し始めました。外にもそれが伝わったんでしょう。拡声器の語調が
動揺したように荒くなります。
「抵抗しても無駄だ!どうして……どうしてあきらめない!?」
316 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:16
私たちは分かり切っているという感じで顔を見合わせて笑い、その言葉には応えませんで
した。それっきり軍隊調の大音量は絶句するように沈黙し、代わりにイントロが流れてき
ました。客席の視線が一斉にこちらに集まります。

あたかもそれが合図だったかのように、ついに警官隊の突入が始まり、客席の最後尾では
慌ただしいもみ合いが始まります。

石川さんが捕まり、家族がとっくに連行されていた事が発覚してからの一週間。私はずっ
と石川さんの笑顔の訳を問いかけていました。返事は戻ってくるはずはなく、それはとて
も長く、真綿で首を絞め付けられるような時間でした。どうしてあんな状況で、満足以外
の何も混ざっていない微笑みを浮かべられたのか。ある日私が気付いた事は、とても単純
なものでした。

―――あの瞬間、石川さんは他のどんな事よりも吉澤さんを救いたかったんだ。
317 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:17
それはあまりにも簡単で、それでいて何よりも難しいんでしょう。だけどそれを出来る人
を、私たちは知っています。現実がどんなに土足で入ってこようとしても、一つの事を信
じ続ければ、決して踏み込めない領域が心に生まれると思うんです。

私たちの場合、それは今、歌をうたう事です。
どんなに無意味に見えても、人が元気である事の大切さを歌い続け、踊り続けるんです。

たとえば、ひとりぼっちで少し退屈な夜、淋しいのはあなただけじゃないんだって。
たとえば、人生ってすばらしいものなんだって。
たとえば、みんな夢の途中なんだって。
たとえば、夢は絶対に叶うんだって。
たとえば、……たとえば、どんな絶望の中にも必ず希望はあるんだって!
318 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:19
私たちの最後の歌が終わり、波がひくようにアウトロのピアノが鳴り止むと、拍手が巻き
起こり、それはやがて歓声へと変わりました。心のこもった、地鳴りのような声援。

私が呆然とその光景にたたずんでいると、いつの間に近づいて来たのか、保田さんに肩を
叩かれました。口をポカーンと開けた私の表情を軽く笑って注意した後、保田さんはフイ
ッとあごで観客席のある場所を指し示します。

―――そこにあったのは、警官隊を必死に押し返そうとしている人たちでした。私たちが
最後まで歌い切る事が出来た理由。その理由が広がっていました。

時計だ、と私は思いました。私たちにも残せたものはあるかも知れない。それはとても小
さな事で、楽屋の時計に電池を入れるのとそう変わりはないでしょう。それでも確かに何
かは残せた。唯一の理由が達成された今、思い残す事はありません。
319 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:21
「……終わったね」
矢口さんがポツリと、でもどこか暖かみのある声で言います。
「終わりましたね」
そう私が応えると、矢口さんは両腕を頭の後ろで組み、足をゆっくりと交互に動かします。
「結局なにも、ナーンにも大きなことなんてできなかったね、我ながら。っていうかする
つもりもなかったけど」
「はい、でも……」
「そう、でも始めてよかった。それだけは言える」
力強いその言葉に引っ張られるように矢口さんの顔を見ると、その視軸は客席の方にあり、
だけどお客さんを見ているにしては、やけに高いところに注がれていました。

矢口さんは急にステージの最前部まで駆け出し、それが助走であったかのように大声を出
します。
「裕ちゃんゴメン!!オイラたちもたなかった。裕ちゃんが帰ってくるまで頑張ろうと思
ったけど、無理だった。……だけどね、後悔はしてないよ!」
突然客席に向かって大きな声を上げた矢口さんに、みんな一同にびっくりします。それか
ら冷やかすように背中を押します。
320 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:22
よし、吉澤さんはそう口にしたかと思うと、一歩目を踏み出し、矢口さんに続きました。
「梨華ちゃぁーーん!!あの時はあたしが間違ってた、ゴメンねぇ!それにありがとう!
助けてくれてありがとねぇーーー!!」
それからふとトーンを落とし、口の中だけで言葉をかみ締めるようにします。
「あたしも胸を張って梨華ちゃんに会える。……歌、うたい続けたよ」

そうだね、と飯田さんが吉澤さんの頭をポンポンとなでます。背の高い二人のシルエット
は、それだけで見とれてしまいそうなぐらい見事です。こんな場面にあってさえ、もしく
はこんな場面だからこそなのかも知れません。娘。のメンバーで良かったという思いが込
み上げてきました。
321 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:24
ずっと声援を送り続けてくれているお客さんに向かって手を振り始めた時、インカムに雑
音が走りました。思わずミキサールームを見上げます。たくさんの音や光のせいで気付き
ませんでした。そこはもう、窓から侵入した警官隊のグループに覆われていました。

何かがぶつかるような音。怒声。そんなものがマイクを通して、機械的な割れを伴って響
いてきます。そんな中、不意におじさんの、耳慣れてしまったしゃがれた声が時間の無さ
を示すように早口で届いてきました。
「楽しかったぜ、それなりにな!」

誰かにマイクから引き裂くように押さえられたのか、おじさんの声が遠くなります。離せ!
そんなおじさんの声が響くと、人が壁にぶつかる鈍い音の後、もう一度おじさんは言葉を
口にします。
「おまえらに会えてよかった。俺はあのまま、夢の残骸にしがみつきながら死ぬまで生き
てくはずだった。おまえらは、間違いなく一人の人間を元気にしたよ。俺は、―――なん
たって俺は、今度は現実ってやつと戦ったんだからな!」

それが最後でした。インカムはプツッという電子的な途切れ音を残し、それっきり何も聞
こえなくなりました。
322 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:25
「あの、本当にありがとうございました!」
聞こえてるはずもないのに、保田さんはそう叫び、ミキサールームに向かって頭を下げま
す。私たちも心を込めてそれに続きます。私たちだけじゃ本当に何も出来ませんでした。

確実に終幕の足音が私たちに迫っています。それぞれの思惑が交錯しているこの場は、ま
るで燃えているように感じました。それは、自然が作り出した力強い赤。そんな異常な状
況の中、私は不思議と静かに落ち着いていました。集中力にも似た、正反対にボーッとし
ている時にも似た、とにかく穏やかで、なつかしさのようなものの中にいました。
323 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:26
頭をよぎったのは、家族の姿でした。

お父さん、お母さん。巻き込んじゃってゴメンね。そんなつもりじゃなかったんだけど、
考えが足りなかったみたい。小さい頃からずっと言われ続けてきた言いつけだけは守っ
たんだけどね。色々と言わなきゃいけない事はあるけど、私ももうすぐそっちに行く事
になりそうだから、そこで謝る事にする。だけどね、これだけは今言わせて?

―――私、生まれてきてよかったよ。産んでくれてありがとう!
324 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:27
不意に右腕にぬくもりを感じました。それは矢口さんの手で、一列に並んだメンバーが、
鎖のようにひとつなぎになっていました。
「応援してくれたみんなに、最後の挨拶」
矢口さんの言葉が届いて来ると一瞬間後、飯田さんが合図をかけます。
「いくよ、せーのっ!」

私たちは繋いだ両腕を振り上げ、飛び上がりました。

その顔には紛れもなく、あの日、石川さんが浮かべた笑顔がありました。
325 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:28





326 名前:たとえ話 投稿日:2004/02/25(水) 21:29
――― たとえ話 完 ―――
327 名前:紫苑 投稿日:2004/02/25(水) 21:30
返レスは、後日致します。
328 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/26(木) 01:06
ちょっと待ったー!!
この後どうなるんですか?
みんなの家族は?石川さんは?
329 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/26(木) 16:25
うん、石川さん気になる。
捕まってしまった後どうなったんですか?
330 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/27(金) 21:39
ここで終わるから良いんだと思うが
救いの無い続きもご都合主義のハッピーエンドも要らんだろ
331 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/28(土) 22:12
ふはー!
ここまで一気に読ませていただきました!
すげー話だった・・・<語彙力0
作者タン(・∀・)イイ!!
332 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:42
女性がそう広くもない室内で一人、苛立った様子で何かを待っていた。

部屋の隅に設置された黒いソファーに腰を下ろしては立ち上がり、立ち上がっては室内を
ウロウロと歩き回って、またソファーへと戻ってくる。あまりにもそんな行動が繰り返さ
れるので、プログラミングされたロボットを見ているように、むしろそんな動きが当然に
思えてくるような光景だった。

三十秒と経たずに部屋を一周してしまうと、彼女はため息と共に再びソファーにドカリと
座り込み、両手で顔を覆い、首を大きく振った。
333 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:43
そんな緊迫感に満ちた室内とは対照的に、日差しはとても静かで穏やかな顔を窓からのぞ
かせている。そしてその向こう側からは、ガラスに隔たれながらも日常の雑音の残り香が
漏れてきた。

知り合い同士が掛け合う気軽な声。また、ここではそれほど親しくない者にも挨拶をする
習慣のようなものがあり、そんな新しく日常に加わったものも届いてくる。雑踏。エンジ
ン音。クラクション。風が草木の間を走り抜ける音。

もしも、観光か何かで今日のこの街に来たとしたら、人に“いつかここに住みたい”と内
心に決意させるであろう、素晴らしい日に思えた。
334 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:45
素晴らしいだけに、痛みが胸を刺す事もある。

平和が嫌いなのではなかった。むしろ彼女ほど望んでいる者は少ないように思えた。問題
は、平和ではない場所があり、そこで苦しんでいる人たちがいる事だ。仲間が戦っている
……いた、事だ。

女性は座っていられなくなり、もう一度立ち上がった。もう何度こうやって繰り返してい
るか分からない。早く結論が出てくれないと、どうにかなってしまいそうだ。

時計を見上げると、なかなか思うように進んでくれなかった長針も、もう話が決着してい
ていい時間を差している。何か問題でもあったのだろうか?不安が胸の辺りを刺激して、
痛みとも取れない鈍い重みをまとわりつかせる。
335 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:46
と、彼女は心拍数が跳ね上がるのを感じた。息苦しさを感じていた静寂。それを切り裂く
ように、廊下を駆けてくる足音が響いてきたのだ。

彼女はその足音の主がこの部屋に入ってくるまでのわずかな時間、それすら我慢が出来な
いようにドアへと近づいたが、それよりも一瞬早く、ドアは反対側から開いた。

乱暴にドアノブを回し、顔を見せたその人物はスーツを身にまとい、満面の笑みを浮かべ
た黒人男性だった。顔色の分かりにくいその表情にも、明らかに赤みがさしていた。
「ユーコ、やったよ。やったんだ!」
事情を知らない者が見れば大袈裟に映るようなガッツポーズを、彼はした。
「プロジェクトが正式に動き出すんだ!」
「えっ、じゃあ……」
「そうだ、国連が日本のために動くことを承認した!」
336 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:48
ユーコと呼ばれたその女性、中澤裕子は、両腕を広げた長身のその男の胸に飛び込んだ。
しっかりと抱き合い、肩を叩き合う。一つの目的を成し遂げた仲間の、純粋な抱擁だった。

中澤の表情からはさっきまでの暗さが嘘のように消え、部屋に二人の笑い声が響く。英語
や日本語、それからもっと動物的な、ただ喜びを噛み締めるためだけに上げる声。

だが、そんな時間は長くは続かなかった。

糸の切れたあやつり人形のように、急に中澤が動きを止める。突然に別の感情が中澤を支
配したのだった。

二人がゆっくりと離れると、中澤は何かに追われてでもいるかのようにキョロキョロと周
りを見回した。
「どうしたんだ、ユーコ?」
中澤はそんな彼の問いに答えず、つかつかとソファーに歩み寄り、その前に置かれたテー
ブルの上のCDを手に取ると、一目散に部屋から出ようとする。

男の目からは、答えないというよりは、聞こえていないように見えた。
337 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:49
ユーコ、ともう一度声をかけようとした男は、とうとうその言葉を発する事はなかった。
すれ違う瞬間に見た中澤の横顔。そこに涙があったからだ。

ついに走り出し、足音を響かせながら廊下を遠ざかって行く中澤の後ろ姿を見つめながら、
男は思った。自分とユーコでは、目的は同じでも、情熱が違ったのだ。あの土砂降りの真
夜中、私の家のドアを彼女が叩いた時から、それは分かっていた。

彼は自嘲気味に中澤から視線を切ると、室内に足を運び、先程まで中澤が座っていたソフ
ァーに腰を下ろす。片手に抱えていた荷物をテーブルに置く音が、やけに響いた。
338 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:51
中澤が日本の元アイドルで、亡命してきた事は、後から知った。もちろん、彼女が訴える
懇願に乗りながらも、自分のしている行為に半信半疑だった。それでもそう、続けたのは、
覚えたてであるらしい拙い英語でまくし立てるその情熱に押されていたからだろう。

何となしにパラパラと資料をめくる。その一枚一枚に自分なりの思い入れがあった。怒っ
てでもいるかのような中澤の強い口調に辟易とさせられた、そんな口論の末に生み出され
た文章。二人の意見が一致し、すんなりと決まった物。とうとうまとまらずに、こういう
考え方もあると、苦肉の策で二つとも発表した部分。

彼は、自分が微笑んでいるのに気がついた。

何に対する笑みなのかは知らない。大きな事業を一からやり遂げた達成感からか、善なる
行動で一つの国の未来を救った満足感からか、もしくはそれによって自分の名声が高まっ
た事に対する虚栄心からか、それは知らない。それでも歌いだしたいくらいに愉快な気分
だった。
339 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:52
ふと、手元の資料を一枚ずつ確認する彼の腕が止まった。停止させたのは、今しがた中澤
がここから持ち去ったCDのジャケットの拡大コピーだった。

そこには大きな赤い文字でこうキャッチフレーズが付けられていた。

“現代のアンネの日記”

自分は政治家なのだし、テープをCD化して欲しいという彼女の相談は的外れ以外の何物
でもなかった。それならそういう仕事の人を紹介しろというのも、また、虫のいい話だ。

彼は腰を上げ、自分のデスクの中に資料を押し込むと、窓際へと歩み寄る。
340 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:53
今の日本は、全世界の注目の的だ。そこで必死に音楽を続けた少女たちという話題性もあ
っただろう。だけど、それだけでここまでになっただろうか。いや、それほど甘い話はな
い。―――そうだ、単純に人の心を動かしたんだ。

ライブ会場での録音で音質は最低。言葉も英語ではない。そんな欠点だらけのこの作品が
ただひたすらに人の心に響いたんだ。

人の心とは国民感情、国民感情とは世論だ。日本を開放する為の唯一のネック、世論が音
楽なんてもんで動くとは!……柄ではないが、人生はすばらしいと信じてみたい気になる。

窓の外は、相変わらずの穏やかな街並み。人が自らや家族の為に汗を流し、ただその日を
精一杯に生きている、何の変哲もない一日。
341 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:54
342 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:56
中澤は走っていた。何処に向かうでもなく、ただただ走っていた。

あの日のライブ会場で娘。の新曲を録音したのは、特に何をしたいという訳でもなかった。
不安や孤独に負けそうになった時、側にあれば辛いのは自分じゃないって思い起こせるから
だ。それは、聴覚で感じるお守りだった。

だけど、三ヶ月前……。

そのニュースを目にしたのは、バイトから帰ってきて、冷蔵庫からビールを取出した時だ
った。ヒヤリングの練習とわずかに得られる娯楽性を求めてニュースを熱心に観ていた。
だけど、あまりにも言葉がつかめない。そんな自分に嫌気がさし、テレビを消そうと決め、
ビールに三口目を付けると、耳から衝撃が走った。

「Morning musume ……」

その単語だけが聞き取れた。いや、聞き取る聞き取らない以前に、反応した。
343 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:57
身体が粟立つのを感じ、画面に張り付くようにして見入った。もちろん連行されていく映
像などはなく、日本、というよりも北朝鮮国内で放送されたニュースを映し、それを英訳
したものを読み上げているというものだ。だけど、元のニュースは日本語。音量をだいぶ
抑えられているにもかかわらず、全てを聞き取れたのは、圧迫感にも似た集中力の賜物だ
っただろう。

それは、テロリスト集団モーニング娘。のメンバーが全員捕まった事を告げるニュースだ
った。国家威信をかけたプロジェクトの成功を称え、躍動する言葉が次々に吐き出される。

中澤には誇らし気にその原稿を読み上げるニュースキャスターが、段々とただの電子信号
に見えてきた。

そのニュースは何度か流されたが、最初に報道された物以上の目新しい情報はなかった。
それはそうだろう。日本国内で暮らしている人たちにも、それ以外の情報は与えられてい
ないに違いがないのだから。
344 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 17:59
電話をつかむと、自分の亡命を手伝ってくれた保田の先生の番号を回した。彼に話を聞い
てくれそうな政治家の住所を教えてもらった時、彼は何か言いた気に言葉を濁したが、き
っと彼もニュースを知っていたのだろう。何も言わなかった。彼が前もって電話しといて
やるという申し出を、直接話した方が伝わるからという理由で断ると、カセットテープを
ポケットに突っ込み、雨の街へと部屋を後にした。

政治家を、と頼んだのは相手が大きければ大きいほどいいと考えたからで、特に意味はな
かった。結果的にそれは願ってもない方向へ転び、娘。の曲を一人でも多くの人に聞いて
もらいたいという願いは、様々な人を巻き込み、どんどんと肥大化していった。

自分も日本から遠く離れたこの地で、共に戦っているんだと思えた。少しばかり時間がズ
レてはいるが。彼女たちの戦いに、自分は遅れてしまったが。
345 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 18:00
―――そう、間に合わなかった。

中澤は、もうこれ以上一歩も走れない事を悟ると、路上に倒れ込んだ。

―――あの国の事だ。きっとあの子たちはもう、この世にはいない。

息が切れて、身体が言う事をきかない。それでもなんとか腕をコンクリートの地面に立て、
力を込めた。フラフラと揺れる足元を確かめるように立ち上がると、ガードレールに身を
任せた。その先には海があり、沈もうとしている陽が世界をオレンジ色に染めている。

あの子たちに最後に会った時もこんな夕焼けの中やったけ。つんくさんが見送りに来てく
れて、その後―――
346 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 18:01
中澤は、つんくと最後に交わした会話を思い出す。娘。たちが自分を見送りに来てくれた
事に気付いた後の、わずかな時間に告げられた真意。

「でも、つんくさん。残念でしたね」
「何がや?」
「あの曲ですよ。娘。にあげちゃって。自分のプロデュースしてる子に提供してたら、娘。
とその子は立場が逆だったかも知れませんやん?」
つんくは肩をすくめると、声なく笑う。
「逆転してたかどうかは知らん。けど売れとったやろな、あの子も」
中澤の怪訝な顔にもう一度笑みを浮かべ、つんくは、はっきりと言った。
「あいつら以外の誰にもあの曲をやる気にならんかったんや。あいつらが使わないなら捨
ててくれてもええ、そう思った。なんたってあの曲は……俺の生涯での最高傑作やからな」

それだけを口にしてその場を去るつんくに、中澤は心の内に頭を下げたのだった。
347 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 18:03
夕日が滲んだ。走る事で感情が溢れ出すのを抑えていたが、それが適わない今、沈みゆく
太陽がまるで、娘。たちを表しているように思えて、中澤は思わず声を上げた。
「みんなぁ!……矢口ぃ!あんたらよくやった、よくやったんや!そんな気はなかった思
うけどなぁ、日本救ったの、あんたらやでぇ!!」

中澤の両腕にしっかりと抱きしめられたCD。そのプラスチックケースの上に、次々と水滴
が落ちる。夕日を反射しているその表紙の写真は、中澤のアメリカ国内に持ち込んだ写真
から選ばれたものだった。

その写真の中の彼女たちもまた、永遠に笑みを浮かべている。
348 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 18:04





349 名前:たとえ話・それから 投稿日:2004/03/05(金) 18:05
――― たとえ話・それから 完 ―――
350 名前:紫苑 投稿日:2004/03/05(金) 18:06
返レスは後日。
351 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/05(金) 18:53
「それから」の前まででも充分完結していた素晴らしい作品だと思ってました。
難しい題材をよくここまで書けるなぁ、と感心して読ませて頂いてました。
「それから」を読んで、また涙が出ました。
352 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/18(木) 19:50
自己保全
353 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:07
けたたましい騒音に引っ張られるようにして、私は目を覚ましました。鳴り続ける時計に
向かって手を伸ばし、何度か空を切ってようやく止めると、大きく息を吐き、静かに目を
開きます。

そこは紛れもなく私の部屋で、見慣れた壁紙がアップで押し黙っています。だけど、ちょ
っとした発見もない訳ではありません。こんなシミあったんだぁって。……どうでもいい
ですね。

身体を反転させるように寝返りをすると、思いました。それにしても、少しは考えてほし
いですよね?デリケートな私としては、こんな大きな音じゃなくても、ちょっとした物音
で目が覚めます。もし心臓が止まったら、誰が責任を取ってくれるんでしょうか?新聞の
見出しを想像して、思わず身震いします。
354 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:09
そんなふうに息巻きながら沈黙した時計に目を向けると、起きる予定だった時間から三十
分も後でした。この目覚しは、止めても五分ごとになるという仕組みなので、どうやら七
回目の挑戦だったようです。

……まぁ、こういうこともごくまれにあります。ごくまれに、ですけど。

薄手のカーテンを透かしている陽の光から、世間ではとっくに日常が始まっている時間だ
ということを知ります。そう認識すると、車の通過音や人の歩く音、幼い子供と親らしい
会話など、色々な生活音が耳を通り抜けていきました。
355 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:10
渇いたのどを小さく鳴らし、天井を見上げると、もう一度強く目を閉じました。二度寝で
も八度寝でもありません。何かを引きずっているような気がして、それに思いを巡らす為
です。

それにしてもよく眠ったなぁ、と思いました。こんなに熟睡できたのは――説得力がない
ことは充分承知で言いますけど――久しぶりで、なんだかとてつもなく長い夢を見ていた
気すらします。
356 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:12
どんな夢だったっけなぁ。水をつかもうとするみたいに、ちゃんと形を捕らえることので
きないモヤモヤが頭の中にあって、なんとかその尻尾を手にしたと思った時。私の思案を
遮るものが部屋に飛び込んできました。
「ほら、あさ美、いつまで寝てるの!」ドアを少し開き、顔だけを見せながらおかあさん
は言います。「今日は大事な日で遅刻できないんでしょう?」
その言葉に私はやっとハッとしました。こうしてはいられない。だけどそれ以上に大事な
ことを確かめる必要もありました。
「ご飯はできてる?」
「とっくにできてるわよ。早くしないと冷めちゃうからね」

ドアが音を立てて閉まり、スリッパが階段を下りていく小気味いいリズムが響いてきまし
た。半身を起こして小さくストレッチ……というか伸びをしていると、確かにお味噌汁の
何とも言えない香りが漂ってきます。身体にもいいと聞くお味噌汁ですが、この場での一
番の効能は、私の準備をする行動速度を飛躍的に上げたことでした。
357 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:13
食卓につき、整然と並べられた料理を目の前にすると、思わず笑みがもれてしまうのを止
めることができませんでした。私の一番好きな光景を言えといわれたら、これを挙げると
思います。もっとこの至福を噛み締めようと頭の位地をグッと下げ、目線をお皿と合わせ
ます。子供好きな人が小さな子に対してそうする心理が私にはよく分かります。
「……何してんの、あさ美?」
情緒を分からないおかあさんのぶしつけな声が届いてきますけど、気にしません。
「ちょっと黙ってて、今いいところだから」
「そ、そう」

そんな神聖な儀式を終え、いよいよ食事を始めようとしていると、テレビを観ていたおと
うさんが、おかあさんに何かを話しかけながら入ってきました。自然、私に気がつき、食
卓に目を落として失礼にも絶句します。
「な、なんで、パンと味噌汁が仲良く並んでるんだ?」
おとうさんの目線はおかあさんに向き、おかあさんが無言で肩をすくめると、それは私に
降ってきました。
何も知らないおとうさんに、私は教えてあげることにします。
「最高の食べ合せだから」
358 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:15
おとうさんは、そ、そうなのか、と言い残すと、おかあさんに何か話しかけていたことも
忘れ、首をひねりながら部屋を出て行きました。おとうさんにとって、今日は記念すべき
一日になったことでしょう。そして、こんな奇跡のハーモニーを今まで知らなかったこと
を嘆きもすると思います。それを思うと少々胸が痛いですが、人の食生活に多大な功績を
残したことに満足を覚え、私は菓子パンをお味噌汁で流し込みました。

ところで、食事をもっともおいしく、長く楽しむ方法を知っていますか?口にずっと含ん
で咀嚼しているなんて、下品な行動ではありません。それはつまり、切り分けるんです。
たこ焼きで言えば、十字を描くように四分の一ずつに裂き、その一つ一つを楽しむ訳です。
みんなはこの至高の……主人公側がいいや。究極の食べ方を馬鹿にしますが、それはさっ
きのおとうさん同様、何も知らないんです。人の無知を責めるくらいなら、私はあえて馬
鹿にされる方を選びます。
359 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:17
そしてここにも真の食事マナーを知らない人がいます。おかあさんは急かすように声を上
げました。
「時間分かってるの?このままじゃ本当に遅れるわよ?」
「そんなのより大切なこともあるの!」
「そ、そう」
丸め込んだ。そうにらんだ私の目論見はやっぱり甘かったようです。
おかあさんは、見えない壁にぶつかったみたいに我にかえります。
「一見正しそうなこと言わないの!どう考えても遅刻しないほうが大事でしょ!」
「うん、まぁ、それはそうだよね」
「み、認めるの?分かってるんなら急ぎなさい」
「でもね、おかあさん」私は目玉焼きを細かくします。「人の心っていうものはね、まず
自分がその行動を精一杯してから、やっと動いてくれるかどうかも知れないような、かけ
がいのないものなんだよ?」
おかあさんはその言葉を噛み締めるみたいに何度か小さくうなずき、感動している様子で
したが、残念なことにまた真相に気がついてしまいました。
「えっ、私が説教されてるの?それにあなた、その言葉は私があさ美に小さい頃から言っ
て聞かせたものでしょ?本当に分かって使ってんのかしらね……」
言いよどむように小さくなっていった口調に、私はちょっとだけ微笑して。それから色々
なことを思い出して、言いました。
「分かってる。本当によく分かってるよ」
ほんの少しの間押し黙ったおかあさんの、そうよね、という予想外の微笑みが返ってきて、
私はなんだか恥ずかしくなってしまって、結局おかあさんの望み通り、大急ぎで目の前の
ものを平らげることになったのでした。
360 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:19
ハロプロワイドの収録のためにスタジオに入ると、何故か娘。のメンバーが勢揃いしてい
ました。今日は休みのはずの人もみんなして、ワイワイガヤガヤと楽しげな会話が聞こえ
てきます。

私が入ってきたことに気づくと、みんなは当然の行動をしているように声をかけてきます。
それに対する私の挨拶もそれに合わせましたが、頭の中では、まさか、という気持ちと疑
問符が同時に浮かんでいました。
361 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:21
私は一番近くにいた石川さんを捕まえました。「あの、どうしてみんないるんですか?」
石川さんは得意そうな含み笑いを浮かべ、説明口調で言い聞かすように人差し指を立てま
す。「いい、紺野?みんなが集まる時ってどんな日?」
「おめでたいことでもあった日、ですかね?」
「大正解!」石川さんは自分の思惑通りに話が進んだ喜びを押し殺そうともしません。
「そういう意味で今日は……って、紺野!?」
石川さんの動作が気に障り、その場を後にしようとした私を甲高い声が追いかけてきまし
た。その声もやはり耳障りでした。私はウンザリとして言います。
「あの、もういいです」
「えぇ〜、最後まで聞いてよぉ!それでね!」
そんな石川さんの早口をかき消すように、ADさんの声が響きました。
「はい、収録に入ります!お三人以外はセットから出てください!」
362 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:23
石川さんはスゴスゴと、どうしていつも私がこんな目に、と地球人一強い人間こと、クリ
リンさんのような独り言をつぶやきながらセットを離れると、私は定位置に着きました。
正直、もう少しで手が出てしまうところでした。本当はADさんに救われたんですよ、石
川さん。そんなことを考えながら、飾りのマイクを手に取ります。

カメラが回るまでのカウントダウンが始まると、中澤さんは小さく二度、咳払いをしまし
た。そんないつも通りでありながらなつかしい癖を目にして、私の中で急に実感が形を成
し始めてきます。そして合図が出された瞬間、正面を見据え、中澤さんは言いました。
「さぁ、日本が日本に戻って、第一回目のハロプロワイドです!」
363 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:25
咳払いの効果なく、少しうわずってしまった声がスタジオ内に響き、失笑が漏れます。中
澤さんはさすがというか、年の功というか、そんな雰囲気に気づいていないそぶりで、冷
静を装いながら原稿を読み上げていき、その自然な滑舌のまま自分の仕事を終えると、メ
ンバーにだけ分かるように得意気な笑みを浮かべました。

そんな中澤さんから振られたまこっちゃんがおがラップを始めると、またもやセットのま
わりからクスクス笑いが漏れてきました。だけど本人、まっこっちゃんはそんなことには
目もくれず、――こっちは緊張のあまり、周りが見えていない様子でしたが――必死につ
たない韻をふみ続けます。
364 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:26
お化粧をとばすためにたかれた強めの照明は私たちを明るく包み、優しい色をしたセット
をはっきりと映し出します。壁を一枚隔てた向こう側からは仲間たちの押し殺した笑い声
が響き、その原因であるまこっちゃんは何度か噛みながらもおがラップをどうにかやり遂
げました。カメラマンさんの後ろに回ったメンバーは、音の鳴らない拍手でそれを称え、
スタッフさんたちの顔も、どれを見ても幸福なものでした。

約束をした訳でも、集合をかけた訳でもないのに集まってくれたメンバー。そんな姿を目
にして、全ての始まりだったこの場所で、静かな興奮を覚えずにはいられません。

―――きっと。私は思いました。これからはきっと、こんな毎日が続いていくんだ。
365 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:28
中澤さんが、まぁ、よくがんばったわ、そう優しい感想を口にすると、まこっちゃんは素
直に照れました。それに対して、気持ち悪っ、そう言った中澤さんはやはりきつい人なん
でしょう。

中澤さんは小さく笑った後、さぁ、この人はどうなんでしょうねぇ、という失礼にあたる
言葉を紡ぐと、私をチラッと一瞥し、カメラに向かって手を伸ばしました。
「突撃レポーターはこの方っ!」

みんなの声を出さないまでに、はやし立てる動作が目に入りました。私を正面から捕らえ
るカメラ。その周りにみんなが集まってきます。手を振ってくるメンバーに笑顔を返すと、
稼働中の赤いランプがそのカメラへと移行します。

私は、まず、ここから始めることにしました。
「おじゃマールシェ、紺野です!」
366 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:29






367 名前:こぼれ話 投稿日:2004/04/06(火) 20:30
――― こぼれ話 完 ―――
368 名前:紫苑 投稿日:2004/04/06(火) 20:47
>>303 名無し読者さん

あまりにも重い展開続きだったので、
息を抜いてもらうためにもああしました。
笑ってもらえたようで、なによりです。

>>328 名無飼育さん

こうなりました。
ヤキモキとさせてすみません。
不満や疑問を持ってくれるのは、実はとても嬉しいです。
ちゃんと読んでくれているんだぁって。

>>329 名無飼育さん

具体的には書きませんでしたが、結末はこうです。
胸をなでおろしてくださいw
369 名前:紫苑 投稿日:2004/04/06(火) 21:03
>>330 名無飼育さん

“完”とした以上、そこまででちゃんと完結しているようにしたので、
その言葉は本当に嬉しいです。
そこまでで終わりとして考えて欲しかったので、
続きの短編ありますと書き込まなかったくらいなので。

>>331 名無飼育さん

いえいえ、こんなに感情を見事に表しているレスは、ちょっとできないです。
震えがくるくらいに嬉しかったです。
作者タン(・∀・)イイ!! ←特にこれがw

>>351 名無飼育さん

丁寧な感想ありがとうございます。
本当に、その言葉に涙がでそうになりました。
その分、『こぼれ話』の反応が恐かったりしますがw

370 名前:紫苑 投稿日:2004/04/06(火) 21:10
>>281 名無しさん

……ってことで、大正解!!
しようとしたネタバレではなく、
純粋な希望に当てられてしまったことで、画面の前で赤面しました。

ストーリー的には『たとえ話・それから』で終わるのが一番で、
それ以降は蛇足だと分かっていたんですが、入り口や語り口があんな感じのため、
初めから『こぼれ話』まで書くつもりでいました。
これからこのHNは他の方とかぶってしまっていたようなので使うことが出来ませんが、
もしかして、と思い、その作品が気入った時には『たとえ話』とは関係なく、
その作品に対するレスを下さると嬉しいです。
もしそれが自分の書いたものではなくても、
レスはその作者さんにとって喜ばしいことでしょうし。

本当に、心から読者の方々に恵まれていた気がします。
尽きない感謝の言葉を胸に。
371 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/06(火) 23:04
こぼれ話がなかったら、作者様をお恨み申し上げるところでした
372 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/07(水) 04:22
くはぁ!
こぼれ話があってよかった!
全然蛇足じゃないですよ!
『たとえ話・それから』で終ってても
十分に素敵な話でしたけど。
やっぱ作者タン(・∀・)イイ!!
373 名前:紫苑 投稿日:2004/04/13(火) 20:17
>>371 名無飼育さん

書いてよかったですw
スッキリとしていただけたなら、光栄です。

>>372 名無飼育さん

この紺野さん口調で悲しい終わり方はないだろうと、こうしました。
もうこの語り口で物語を書くことはないんだと少し寂しくなったり。
読者タン(・∀・)イイ!!

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