Rica Del Fuoco

1 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時14分09秒

Rica Del Fuoco
― 火のリカ ―


2 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時14分53秒

Ouvertura
序曲

3 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月04日(木)17時15分36秒
時間は止まっていた。
暗かったのか明るかったのかさえ定かではない。
直線。
真っ直ぐな直線。
ただ、それだけが視界に飛び込んできた。
天井から真っ直ぐにピンと張った太い紐。
迷い無く。
そう、迷いの無い直線。
少女にはそのように見えた。
それはあたかも父の真っ直ぐな生き方を象徴しているのかもしれなかった。
そして、その生き方による末路をも。
その直線の終点にあるもの、だらしなく垂れ下がっているそれは……

父さん……

やっとの思いでつぶやく。
少女はただ呆然としてその直線に見入っていた。
どれくらい、そうしていただろう。
やがて少女は、机の上で書きかけのまま置かれた紙片に気づいた。
そう、たしかに机の上だ。
それさえ、今、ようやく気づいた。
そして、そこに書かれているのは……
4 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時16分02秒
父さん……

少女はもう一度つぶやいた。
まっすぐを貫いて生きた末の結末は、何と滑稽なことか。
それは悲劇というよりはもはや喜劇に近かった。

少女の表情からは何らの感情も読み取れない。
だが、胸のうちでは今、まさに怒りの焔が静かに燃え盛ろうとしていた。
それは冷たく凍る蒼白い炎のように、静かに、しかし激しく燃えあがるのだ。
そして、父をこのような目に会わせた者達に裁きが下されるその日まで、
決して燃え尽きることはない。

少女は父の遺書をそっと畳んで封筒に入れ直すと両手で大切そうに包んだ。
この内容を公表すれば、やつらは…
いや、だめだ。
少女はかつて父であった肉塊に向かって静かに誓った。

父さん…
待ってて……
5 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時17分03秒

Atto T
第一幕

6 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時18分01秒

La Traviata 
椿姫―道を踏み外した女―

7 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時18分21秒
里田まいはぼんやりと天井を見つめていた。
薄ぐらい部屋のこと、何が見えるというわけではない。
不思議と現実味の感じられない状況に虚脱しているのかもしれない。

客の男は現役の女子高生だと知って急に気前が良くなった。
シャワーを浴びながら、浜崎あゆみ(のつもりらしい)の鼻歌で機嫌のよさを表現している。
男からは既に5枚を前渡しで受け取っていた。
このまま帰ってもよいのだ。
この後に約束されている5枚をふいにする覚悟があるのなら。

だが……
まいには欲しいものがあった。
そして、それは自分が高校生であるうちに手にするべきものだ。
今、このときに輝くため。待っていてはするりと手のうちから逃げていってしまう。
8 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時18分43秒
5枚で満足してしまうわけにはいかなかった。
金回りのいい客だ。
リピータにしなければならない。
いたずらに手を広げるのは頭の足りない、小便くさいガキのやり方だ。
援助というのはもっとスマートにやらなければならない。
そう、自分のようにだ。

大体、見ず知らずの不特定の男たちとやること自体がまいには信じられない。
病気の問題もある。
そして、それ以上に回数を増やしていけば、危険な男に遭遇する可能性が高まる。
手を広げるのは危険だ。
一番、望ましいのは、小数の富裕な顧客を抱えることだ。
そうすれば、病気の心配もないし、情報が漏れる心配もなくなる。
それなりの地位にあるものは、自分の尻尾を掴まれまいと慎重になるものだ。
9 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時18分56秒
そして、まいにはこの男をリピータにする自信があった。
若さ、スタイル、美貌…そのすべてが自分に備わっているとは言わない。
胸の大きな女を好む者もいれば、幼女のように小柄な子を好む者もいる。
自分より奇麗な子もこのビジネスのライバルにはいる。
それにも関わらず、まいには一度相手をした男には必ず、もう一度自分を指名させる自信があった。
テクニックはある。だが、ときに少女の世慣れた仕種を好まないものもいる。
まいはケース・バイ・ケースで相手に合わせ、臨機応変に対応することにしていた。

たかが援助といって侮ってはいけない。
トップを張るにはそれなりの企業努力というものが必要なのだ。
それを勘違いして逆恨みするガキにはきちんとお仕置きしてくれる仲間もいる。
バックアップは完璧だ。
10 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時19分09秒
そして……
まいはむくっと半身を起こすとバッグからコンタクトの容器のような小さなケースを
取り出した。持ち物検査ではそう説明している。
蓋を開けると、ドロップのような小さな錠剤を掌に一粒転がす。
さて、どうしたものか。
口でするのが好きな男なら、今から口に含んで溶かして置かなければならない。
奉仕されるより、自分がリードして女を悦ばせるのが好きな男なら、今から服用して
置かなければならない。
また、ごくたまにではあるが、スキンを装着せずに生の感触を楽しみたいという男がいる。
もちろん、安全日であることが前提だし、病気も恐いから、滅多に受け入れることはない。
それでも、これと思う男には許すこともある。
その場合、事前に膣口内に挿入しておく必要がある。
11 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時19分22秒
なにしろこのくすりは効くのだ。
これを使って喜ばなかった男はいない。
その瞬間に頭が弾けそうなほどの快感を得たと訴えた男もいた。
男のくせに登り詰めたあげく、失神してまいに介抱されたものもいた。
そして……
なにより、まい自身の感度が桁違いによかった。
まいには男たちにとって、これがどれほど「いい」か理解を共有していた。
当然だ。
まい自身がこのくすりの効果を嫌と言うほど実感していたのだから。

これを使ったときのまいは驚くほど激しかった。
そして驚くほど多くの体液が溢れ出た。
まいが愛し合ったあとは、シーツを換えるだけでは済まないのではと思うほど
それは熱く滴ってベッドを濡らした。
12 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時19分35秒
まったく凄いくすりだ…
そして、これを調達し、まいに渡した真希という少女の底知れぬ存在感。
真希に注意されたことを思い出す。

『これを使ってるのがバレたらお終いだよ。』
『うん。』
『やつら、くすりを目当てにやってくるからね。くすりだけじゃ全然、旨味がないんだ。
あんたとやるからいいんだって思わせなきゃ。』
『…うん。』
『だから、これはあんたにだけしか渡さないよ。ドジを踏みそうな子に渡したら、
バレてあたしたちのビジネス自体が危ない。』
『真希ちゃん…』
『頑張って稼いでちょうだい。お金はいくらあったって邪魔にならないんだから。』
『うん…親に迷惑かけられないしね…』
『そうだよ…特に今は経済的に厳しいから…
遊ぶ金、親にせびるほどあたし達はガキじゃないんだし……』
13 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時19分48秒
真希がこのくすりをどこから調達してきたのか、まいは詳しいことを知らされていない。
また、知りたいとも思わなかった。
必要以上に干渉しないことが友情を保つ秘訣だと悟ったのは最近のことではない。
あるいはそれは友情と呼べるようなものではなかったのかもしれないが、
かといって本当の友情とは何か知らないまいには知る術もなかった。

不思議と真希自身はくすりを使った形跡がない。
これはまいの専売だから…と口を濁すばかりだが、どうやら彼氏に義理だてしているらしい。
彼氏とのときにも使うことはないという。
偽者の快感じゃやだから、と言う真希の顔は、本当にその男に心を奪われている様が明らかだった。
まいにはその表情がなぜか愛らしく感じられた。
くすりどころか、真希は援助さえやらなかった。
それだけ心を通わせている相手だということなのだろうか。
14 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時20分01秒
まいは真希の彼氏を知っている。
正直なところ、真希には不釣合いだと思った。
なぜこんな男と、とは聞かなかったが、婉曲にもっと格好のよい男と付き合う気はないのか、
訊ねたことがある。真希の答えがふるっていた。

『あいつに援助する子のことどう思うって聞いたんだ、そしたらね…』
『そしたら?』
『考え込むんだよ、あいつ。適当に答えりゃいいのにさ。』
『で、何て答えたの?』
『本人が後悔しないと確信できるならいいんじゃないか、って。』
『ええっ、何かふつーじゃん。』
『あたしもそう言った。けどね、あいつは違うっていうんだ、それはふつうなんかじゃないって。』
『どうして?』
『それはね、援助をしたという事実は決して消えないからだって。今は悪いことだと
思わなくてもね、あとで本当に後悔しないかよぉく考えて見るんだって。それはすごく
難しいことなんだって。』
『そうかなぁ…』
15 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時20分27秒
不満げな顔のまいに真希は諭すように話したものだ。

『例えばさ、もし自分の子供ができたときに、自分は心に疚しいことがないと胸を張って
言えるか、って言われたらさ…言えないよね。』
『子供かぁ…』
『もし本当に大切に思う人ができたとき、相手のために申し訳なく思うかもしれないような
ことは止めといた方がいいんだって…言ってくれたんだ…あいつ。』
『で、真希はあいつに申し訳ないことはしたくないと。』
『うん。』

その笑顔は隠れてしまいたくなるほどまぶしかった。
自分にもそのような男が現れれば、あるいはこのように得体の知れない飢餓感に悩まされる
ことはなかったのかもしれない。まいは羨ましく感じると同時に、何か充たされない自分の
空虚さを思い知らされる気がして嫌だった。その虚ろな空乏を埋めるためには奇麗な
アクセサリーや趣味のよい洋服で体を飾りたてる必要があった。ちょっとやそっとのお洒落で
その空虚な間隙が埋められることはない。金はいくらあっても足りないのだ。だから、まいは
今日も援助に励む。
16 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時20分42秒
さてと……
そろそろ用意しておかなければならない。
まいは今日の客は自分で攻めたいタイプだろうと踏んだ。
女子校生という肩書きを喜ぶ男達の大半がそうだったからだ。
加えて胸のふくらみや短い丈のスカートから覗いた太股をちろちろと値踏みするように
落とされた視線。奉仕を好む男はどちらかというと体のパーツよりは顔の表情を覗き込む。

まいは飲みかけのウーロン茶のペットボトルからキャップを外すと、錠剤を口に放り込み、
次いでペットボトルを上に傾けて一口で喉の奥に流し込んだ。
早く効くくすりだ。
男がまいの上半身を弄(もてあそ)ぶうちに効果が現れるだろう。
男が指を下半身に這わせる頃には、すっかり潤って滑らかにその指を受け入れるはずだ。
そして、それはまいにとっても声を出さずにはいられないほどの強烈な快感を与えるはずだった。
17 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時20分56秒
シャワーの音が止んだ。
相変わらずあゆの鼻歌は聞こえてくるが、そのキーは心の昂ぶりを反映してか、幾分、
調子が外れているようだ。ドアノブが回される音に続いて、男がタオルで髪を拭きながら
浴室から出てくる。まいはわざと毛布にくるまり背を向けて男を待った。
恥ずかしがるそぶりは誰にでも有効というわけではなかったが、大抵の男には好まれる。
男の興奮した息遣いを首筋のうしろに感じた瞬間、まいの理性は吹き飛んだ。

二時間後、疲れ切ってベッドに伸びたままの男を置いてまいは部屋を出た。
援助のときはいつもそうしている。
自分、というよりは世間体を重んじる男達がそれを望んだ。
服を着て部屋を出ようとする際、呼びとめられ、再びまいを指名するにはどうしたらいい
と尋ねられていた。男がリピータになるであろうことは確実であった。
まいは真希が持つ、例の呼び出し専用プリペイド端末の番号を告げた。
18 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時21分31秒
男の満足した様子と金回りの良さから、次の指名を比較的早く入れてくることが予想された。
きっと真希は焦らすだろう。
今日は都合が悪いとか、何とかうまいこと言い繕って焦らせるだけ焦らすはずだ。
そして、何回か繰り返した後に、親にばれそうだから援助はもうやめると告げるのだ。
もうまいの体から離れられなくなった相手は言い値で払ってくれる。
ぼろい商売だった。

そして、このようにビジネスの旨味を存分に享受できるのは、ひとえに真希のおかげだと
思っている。真希の凄みはビジネスに貪欲ではあったものの、決して欲張り過ぎない点に
あった。そして、その徹底した秘密主義。
驚くことにまいは自分以外の人間で誰が関わっているのか、まったく知らされていなかった。
たとえ誰かが下手を踏んで補導されるようなことがあっても、ネットワークが一網打尽に
されることはない。また、顧客は真希のことを知らないから、真希に類は及ばない。
トカゲの尻尾切りではないが、兵隊の補充はいくらでも利く。
恐ろしいばかりに真希は頭が切れた。
19 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時21分46秒
だが、何のために真希がそんなことをしているのかわからない。
稼ぎの一部を上納させているわけでもないし、例のくすりも仕事の前に一錠くれるだけだ。
今のところ金を取るつもりもなさそうだ。
よくはわからないが、まいには真希が何か大それたことを考えているように思えた。
20 名前:  投稿日:2003年09月04日(木)17時23分54秒
Ouvertura>>2-4

Atto T
La Traviata>>5-19

21 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月04日(木)19時12分54秒
オペラ的な演出に惹かれました。期待。
22 名前:名無しAV 投稿日:2003年09月04日(木)21時14分22秒
引き込まれる展開ですね。
続きが楽しみです。
23 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時47分13秒
23_
Dies Irae
怒りの日

24 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時52分04秒
厚生労働省医薬食品局審査管理課専門官、里田宗男は元同僚の葬儀に職場を代表する形で出席していた。
正直なところ、本人とて出たくはなかった。なにしろ遺影から静かな笑みを返してくる男は
省の罪を一人で背負って死んでいったようなものなのだから。
自殺だった。自宅で首を吊って逝ったことが伝えられたとき、やりきれない思いを抱く一方で、
どこかほっとしたのもまた事実だった。
発見したのは中学生のひとり娘だという。同じ年頃の娘を持つ里田としても他人ごととは思えなかった。
里田自身、死んだ同僚に対して後ろめたいところはないものの、これ幸いと責任をすべて彼一人に押しつけ
問題の解決をはかろうとした省を代表する立場からか、遺族からの視線がやけに冷たく感じられた。

お焼香のために足早に棺のもとに赴くと喪主である母親の横に座っていた娘が顔を上げた。
里田は凍りついた。その視線。死んだ同僚の目許にそっくりだった。そして、さらに彼をたじろがせたのは、
娘の放つ視線の冷たさであった。それはまるでかつての同僚が里田を睨み付けているかのように彼を凍りつかせた。

あのとき、同僚は技官らしい率直さで一人、抵抗していた。
25 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時52分48秒
『危険です。非加熱製材は即時回収し加熱製材の承認を急ぐべきてす。』
『そうは言ってもねぇ。非加熱製材が使えないと、血友病患者が十分な治療を受けられなくなる可能性も…』
『だからこそ、加熱製材の承認を急ぐべきなんです。』
『君もわからん男だな。今、そんなことをしてみろ、製薬会社は大赤字だ。しかもミドリ十字の社長は
元薬務局長の後藤さんだぞ。そんな不義理ができるわけないだろう。』
『患者の命よりも天下りのポスト確保が優先というわけですか。』
『言葉を謹み給え、君はもう帰っていい!処分は追って通知する。』

なおも抵抗しようとした同僚を抱き抱えるようにして会議室から連れ出そうとした里田らに向けた彼の視線。
娘が今、彼に向けている意志はそのときのものと同じだった。
なぜ俺を助けない…なぜ悲劇を救おうとしない…
悲しみとも怒りともつかない重く暗い視線に射すくめられて、里田は顔から血の気がひくのを感じた。
どれくらい立ち竦んだだろうか。あるいは何時間にも感じられたが、実際のところはほんの数秒というところだろう。
里田は灰を投げ散らすと、お悔やみもそこそこに逃げるようにその場を立ち去った。
26 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時53分19秒
葬儀場を後にした里田が数歩も行かないうちに肩を叩かれた。彼を追ってきたのだろう、
やや息を切らせながら、顔見知りの製薬会社の人間が声を掛けた。

「里田さん…来てるとは…思いませんでしたよ…」
「貧乏くじさ。それは君も一緒だろう。本当に悪いやつはいつだって高みの見物さ。」
「おやおや、穏やかじゃありませんね。」
「君はあの娘の表情を見なかったのか?」
「そりゃまぁ…」

男は罰が悪そうに口篭った。
直接の罪はないとはいえ、やはりその遠因をつくった企業の一員として、一家の大黒柱を失い
悲嘆に暮れる家族の姿を見るのは忍びなかったのだろう。

「ところで…」

男は、一刻も早くその話題からは逃れたいとばかりに話しを逸らす。
27 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時53分55秒
「例の新薬、個人的にあの方に評価を依頼してたんですが、試料を返していただいてないんですよ。」

死んだ同僚の名を出して、死者を貶めるような男の口ぶりに里田は不快なものを感じた。

「おいおい、公務員に内職を頼むとはいい度胸だな。下手すりゃ懲戒免職だぞ。」
「いや御高説ごもっともなんですが、なかなか正規のルートでは承認いただけないのが実状でして…」

里田は相手の卑屈さ、あるいは慇懃無礼と言い換えた方がより正確であろうその態度が嫌いだった。
だが、振り返ってみれば、自分達、役人の尊大な態度にもその一因があると思い直し、
やや自嘲気味につぶやいた。

「ふ、まぁ俺も奇麗ごとを言えた身ではないが。」
「いや、それでですね…非公式にお願いしたものですから、御家族の方にそういうものがないかと
尋ねるのもなかなか難しいものでして…」
「それはまた、大変なことだな。」
「いや、それで里田さん…あの、申し上げにくいんですが…」
28 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時54分58秒
わかっている。
自分に家族への確認を頼もうという虫のいい話しだろう。
里田は男が少し哀れに思えたが、やんわりと断った。

「悪いな。あの娘の表情を見ただろう。『なぜ父を助けなかった?救わなかった?』そう問うている目だ。」
「里田さん…」
「あきらめろ。レシピは残ってるんだろ?またつくればいい。」
「しかしコストが…」
「既に数十人の死者を出し、さらに数千人がいつ発病してもおかしくない死の病を広めたんだ。
その張本人である企業が倍賞金の心配をするのでもなく、さっそく新薬の心配か…
お前ら、いつまで俺達にたかるつもりだ!」

いい加減、相手の悪びれない態度に腹を据えかねていたものが、ここへきて爆発した。
自分に製薬会社を責める資格など無い。それはよくわかっている。

だが……
29 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時55分32秒
死者の尊厳を侵すこの男のやり方には我慢がならなかった。
同僚がどれほどの思いを抱えて死んでいったか。
残された家族の悲しみはどれほど深いか。
想像力の欠如、あるいは他者の痛みに対する鈍感さがときとして、どれほど罪深いか、こいつは知らない。
いや、知っていて尚、この態度であるとすれば、さらに質が悪い。

「あきらめるんだな…」

里田はそれだけ言い残すと、まだ何か言いたそうな男を置いて足早にその場を立ち去った。
しかし……
男の話したひとが本当なら、試料を回収する必要があるだろう。
どのような薬品かは知らないが、下手に投棄されては二次的な薬物被害をひき起こす
可能性もある。
気は進まないが……
里田は事務所から電話で確認することにした。
立ち去ったばかりだ。今から引き返せば、直接会って確認できる。
だが、里田はもう一度、あの少女の厳しい視線に直面できる自信がなかった。
30 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時56分22秒
それにしても……
里田には納得できなかった。
自分がもし同じ立場だったとしても、可愛いひとり娘を置いて死に行くことはできないはずだ。
そして、あの状況で自殺すればすべての罪を被らされることは自明の理だった。

なぜだ……
里田は同僚の死にはまだ隠された秘密が存在するのではないかと訝(いぶか)しんだ。
31 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)00時57分01秒
Atto T
Dies Irae>>23-30

32 名前:  投稿日:2003年09月06日(土)01時03分38秒
>21 名無しさん
ありがとうございます。
そのような雰囲気を目指してます>オペラっぽい

>22名無しAVさん
レスありがとうございます。
ご期待に添えるよう頑張りますです。

33 名前:名無しさん 投稿日:2003年09月06日(土)01時54分08秒
期待の炎が燃え上がってます。
34 名前:名無しAV 投稿日:2003年09月06日(土)18時40分17秒
ふむ、どう発展していくか続きが楽しみです。
35 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時24分22秒
Recondita armonia
妙なる調和

36 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時24分52秒
いつものように河原の河川敷に座って絵筆を握る。
いつものように・・・
そう、いつも通りひとりだ。
誰に煩わされることもなく、ひとりでいることに没頭できる貴重な時間。

もうじき西の空が黄金色に染め上がる。
土手の向こうに日が暮れていく。
河縁から土手の向こうに沈む夕日を見上げるその瞬間。
梨華はここ数日、沈み際の太陽が置いていく残滓(ざんし)の様を
写し取ることに魅入られていた。

昼と夜の境界。
その線上に訪れる一瞬が織りなす光の妙技。
なんとか画用紙の上にその印象だけでも留めたい。
そう決意はしたものの、未だ納得できる形でその目標が達成
されることはなかった。
37 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時25分39秒
あるいはそれが実現されることは永遠にないのかもしれない。
ターナーが蒸気機関車の吐く水蒸気に映る光の一瞬を捉えたように。
モネが水に映る日の出の残映を印象という言葉で鮮烈に切り取ったように。
そんな風に自分が描けることはないのかもしれない。

それでもいいと思っている。
梨華にとって、絵に描くことが最終的な目標ではないし、
実際、自分のことを絵描きだと考えたことなど一度たりとない。

梨華が絵を描くようになった理由・・・
それは単に人に接することなく、ただ一人で没入できる作業
であるからにすぎなかった。

そして、自然を観察するのにあまり不自然でない姿だから・・・
そう、梨華はただ見ていたかっただけ。
感じたかっただけだ。
38 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時26分26秒
刻々と変わる空の色。雲に映る光の照り返し。
風が梢を渡り、木々がざわめく音。
星たちのささやき。
肌を刺すような空気の冷んやりとした感触。
朝靄の中、雑草の葉先から滴る一降りの雫。

すべてが不思議に満ちていた。
自然の神秘に満ちた力に触れている限り、
梨華は自らの存在をもまた肯定してもらえたような、
何か満ち足りた感覚に浸れる。

そうしたものすべてを感じることで、
この世界の不思議さの一端でも理解できたら。
自分がこの世に生を受けた、その理由が理解できたなら。
自分のような歪(いびつ)なものがどうして誕生してきたのか・・・
39 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時27分06秒
それがわかるまでは、こうしていつまでも眺めているつもりだった。
梨華はそのためにすべての人間関係を断ち切っている。
いや、断ち切ってしまったがために、
こうして空を眺めるようになったのか・・・

今となっては定かでない。
だが、自ら人と積極的に交わることを避けてきた、
その事実だけは変わらない。

風の色が変わった。
水鳥が一斉に羽ばたくと、黒い塊となって西方へと飛んでいく。
まるで太陽を追いかけてでもいるように。
当の太陽は、もう今すぐにでも土手の向こうに沈もうとしているのに。
40 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時27分37秒
もうじきだ・・・
土手の端と落日の輪郭が触れ会うその一瞬、
その端境で両者が溶け合い不思議な形に空間を歪ませるはずだ。
実際に空間が変形するわけではない。
だが、光の波長が干渉して起こす映像はまさしく、
そこが歪んでいるかのように錯覚させる。

もうすぐだわ・・・

梨華は息を止めて、その瞬間を見守る。

きた・・・

絵筆を握る手に力が込もる。
パレットの上で混ざりゆく赤と黄色。
油彩画特有の粘り気のある色調で画用紙を駆け抜ける筆線。
川岸の土手が萌黄色に染まるその瞬間を確認しようと顔を上げた
瞬間だった。
梨華は視界に飛び込んできた予想外の光景に息を呑んだ。
41 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時28分11秒
聖者・・・

沈みゆく日輪を背負い、
まばゆいばかりの光を頭部の後方から燦々と放つその姿。
そう、それはまさしく宗教画に描かれる聖者そのものだった。
はっ、と我に帰った梨華は慌てて絵筆を握り直すと
色彩を調整する手間さえ惜しんで、
ひたすらその現象を、印象を紙の上に留める作業に注力した。

その少女・・・
そう、少女だった。
白いワンピースと短めに切り揃えられた金色の頭髪。
夕風にひらりと翻るスカートの裾を気にもせず、
迷いのない直線で地面をまっすぐに踏みしめている二本の脚。

逆光ではっきりとは確認できなかったが、何かを探しているのか
左右に振られる頭に従って、亜麻色の髪がさわり、ふわりと揺れて
額を撫でる。そのたびに髪と髪との間でキラキラときらめく粉の
ような光の塵がより一層、彼女に神性を感じさせた。
42 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時29分13秒
探しているものが見つかったのか、見つからなかったのか。
その視線は今、まっすぐに梨華を捉えていた。
痛いほどに力強いまなざし。
強い意志を感じさせる視線に射抜かれて、思わず視線をはずしそう
になるが、梨華は描き続けた。

気付くと少女は既にいなくなっていた。
探していたのは何なのだろう。見つかったのか。
あるいは、ただ単に河原の風景を眺めていただけか。
すでに夕闇が辺りを包み始め、風が素肌に冷たい。

梨華は今しがた描き上げたものを凝視した。
色彩を調合する暇も無く、ひたすら原色で紙の上に描きなぐった
それは、鮮血のような赤と檸檬のような黄色が野蛮なほどに烈しく
せめぎあい、梨華の眼球を刺激した。まるでフォービズムの画家が
敬虔な聖者を題材に宗教画を描いたような。
43 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時29分51秒
マチスの宗教画、と口にしそうになり梨華は自嘲気味に微笑んだ。
ありえない。
偉大なる先人と自分を比肩しうると一瞬でも見なしたこと自体、おこがましい。

だが・・・

もう一度、今描き上げたばかりの踊るような色彩の筆致を目でなぞった。
梨華は思う。

主題の聖性と手法の暴力性が矛盾なくキャンバスの上で折り合えるなら、
あるいは自らの生もまた、いずれどこかで現実に収斂していくのかもしれない。
そのように敬虔な気持ちで自己の存在と向き合えることができるならば。
44 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時30分27秒
土手の向こう側に消えた夕日が残した茜色が次第にくすんで闇に
溶け込んでいく。そして、手元が確認できなくなるほど薄暗くなる
まで、梨華はそれを見つめていた。

帰ろう・・・

テレピンオイルで絵筆をすばやく洗い布で穂先を拭い終えると、画材道具をまとめて
立ちあがった。河原を後にして、斜面を登る足取りが妙に軽い。
土手を登り切ると、左右を見回すが既に暗くなった河沿いの道を
通る者は見当たらなかった。

右手の道を川下に向かって歩くと、ぽつぽつと街燈が灯り始める。
見慣れた街の風景が、今日は優しく感じた。一日の終わりに向けて、
このように満ち足りた気持ちで帰途に着けるのは、悪くない。

その日、梨華は初めて人物画を描いた。
45 名前:  投稿日:2003年09月07日(日)05時34分28秒
Atto T
Recondita armonia>>35-44

46 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時23分28秒
Si. Mi chiamano Rica
私の名はリカ

47 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時23分50秒
吉澤ひとみは校舎裏の指定席でタバコを取り出すと火を探した。
上着のポケットには入っていない。スカートの方を弄(まさぐ)ると奥底に
使い古した100円ライターを見つけた。カチっと音を立てて着火しようとしても
小さな火花が虚しく散るだけで一向に火が着く気配はない。
(ちっ、ガス切れか……)
仕方なく立ちあがろうとしたところ、人が来る気配を感じ慌てて身を縮めた。

(誰だ、こんな時間に……)
授業中のはずだったが、あるいはもう休み時間に入っているのかもしれなかった。
別に盗み聞きをするつもりはないが、だんだんと人の気配が近づいてくるに連れ、
ひとみはその場を立ち去る機会を逸してしまった。
教師は言うに及ばず、生徒にも見つかるのは避けたかった。風紀委員等に告げ口を
されないとも限らない。今更、喫煙の現場を抑えられたからといって、別段困る立場に
いるわけではなかったが、それでもこれ以上余計な波風を立てられるのは嫌だった。
48 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時24分07秒
ざわざわとした様子から、複数の人間が近づいているのを確認する。
ちょうどひとみからは死角になるところでざわめきが止まった。
なにやら空気が穏やかでない様子にひとみはそれとなく耳をそばだてた。

「だからあんたは、これ以上目立つなっつってんの。」
「お前、ちょっと誉められたからっていい気になってんじゃねえよ。」
「ごめんなさい…」

(いじめ…か?ガキのやることだな…)

いじめられっ子のか細い声が聞こえた。
いやになるほどステレオタイプで陰湿ないじめ。
ひとみはそれ以上、聞き耳を立てる意欲を失い、ひたすら連中が立ち去るのを待つことにした。
もちろん、いじめを容認するつもりは毛頭ないし、実際、かなりむかついてもいたが、
かといって正義の見方を気取り、出ていって仲裁するつもりもなかった。
49 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時24分23秒
「お前、もう部室来んな。目障りなんだよ。」
「もう来れないように画材、燃やしちゃおうよ。」
「ああ、そうすれば良かったんだ。美貴ちゃんあったまいい。」
「やめて、お願い…それだけは許して…」

(なんだ…美術部の藤本か…ったく、性質の悪いやつだ…)

相変わらずの弱者いじめにうんざりしながらも、面が割れているため余計に出難くなった。
弱々しい声を震わせて哀願する生徒には同情するものの、それは寧ろ逆効果というものだ。
藤本は泣いて許しを請う弱者をいたぶるのが大好きなのだ。
三度の飯よりも好きだといって過言でない。
その藤本に睨まれるとは不運な奴だ、といじめられている生徒に対し申し訳程度、
憐憫の情を覚える。
50 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時24分40秒
それにしても藤本を怒らせるほどだ。絵の腕前は確かなのだろう。
人間としては最低だが、藤本の絵の実力は確かだった。
実際、フランスあたりから海外留学の声がかかっているとも聞く。
教師や一般生徒の前では品行方正なお嬢様を演じているだけに、その噂を額面通り
受け取るわけにはいかなかったが、彼女の実力自体はひとみも認めている。

(そんなできる奴、まだうちの高校にいたっけ?)

自身、元美術部員として校内の上手所は大方押さえているつもりでいた。
それほどの実力を持ちながら、今までひとみのアンテナにかからなかったのなら、
新入生か転校生ということになるはずだ。
ひとみは段々といじめられている生徒に興味を抱きつつある自分に気付いた。

(ふん…ま、退屈凌ぎにはもってこいの話題さ。)
51 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時24分59秒
「画材燃やす前にちょこっとおしおきしようかしら?」
「そうね…どうする気?」
「ちょっと、あぶって見る?美貴ちゃん。」
「いわゆる”焼き”ってやつね。素晴らしいんじゃないかしら?」
「よし、タバコ貸せよ、おい。」

(さて…どうすっかな…)

「やめて…火は危ないよ。」

いじめられている(はずの)生徒が声を上げたようだった。
その割には落ち着いた感じの、しかし幼さの残る鼻にかかった声が
凛として響き、ひとみを驚かせる。

(知らない声だな…それにしても…)

ひどく落ち着いている、とひとみは思った。
そして、その落ち着きは余計に藤本一派を怒らせるだろう。
あまり気乗りはしないが、いじめられているのがどんな奴か見たいという
好奇心の誘惑には勝てない。
そろそろ正義の味方が登場する頃合だ。
52 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時25分15秒
「このやろう!ふざけんのも大概にしろ!」
「おっと、火があるなら貸してくれないか?」
「だ、誰だよ、お前は?」

今、まさに火のタバコを相手の肌に押しつけようと腕を取っていた茶髪の生徒が
目を剥いた。気勢を削がれてタバコを持つ右手のやり場に困っている。
その横でいち早くひとみに気付いた藤本が叫んだ。

「よ、吉澤…こんなとこで何してんだよ…?」
「それは、こっちの台詞さ。いい年こいて、いじめっこでもあるまいよ。」
「な、なんだと?」

目つきは険しいが、その瞳の奥に若干、怯(ひる)んだような色の変化が窺えた。
なにしろ実戦経験はひとみの方が豊富だ。
本物の不良を前にして未知の恐怖に脅えているのは明らかだった。
いいだろう。修羅場をくぐった真の不良の怖さを思い知らせてやる。
53 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時25分31秒
「やるかい?」
「くっ……」

ひとみはスカートの腰のあたりに潜めていた剃刀を指に挟むと蚊でも追い払うように
ひらっと手の甲を内から外に返して一閃させる。剃刀の薄い刃が藤本の横にいる生徒の
持つタバコの先端を掠めた。
はらはらとタバコの灰がゆっくりと地面に落ちる様子を皆が見つめる。
ひとみが口を開くまで、静寂が支配した。

「また、先生に泣きつくか?」
「このやろう……」

言葉こそ威勢はいいが、藤本の顔面は蒼白だった。
傍らの生徒は呆然自失の状態からようやく脱し、じわじわと後ずさったかと思うと、
くるりと踵を返して教室の方へと一目散に駆けていった。その顔に張りついていた恐怖が
残像となり、残った者の不安感を増幅する。
もう少しひとみの手元が狂っていたら、タバコの灰ではなく、自分の指が落とされていた
のかもしれないのだ。無理もあるまい。
54 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時25分49秒
「覚えてろよ……いくぞ!」

その場に冷静な者がいたら、思わず吹き出したくなるほど陳腐な捨て台詞だったが、
ひとみを含めてそんな余裕をもつ者は一人もいなかった。
強がってはいるが、ひとみとてひとつ間違えば人を傷つけかねない刃物を振り回し、
かつ、平常心を保てるほど落ち着いているわけではなかったのだ。
藤本の号令で蜘蛛の子を散らすようにばらばらと逃げていく連中を目で追いながら、
内心、ひとみもほっとするのを自覚した。

「――あの……ありがとう…」

か細い声に反応し振り向くと、今しがたまでいじめられていた張本人がにっこりと
微笑んでいる。知らない顔だった。
新入生?それにしてはたたずまいに初々しさが欠けている。
転校生か。おどおどとした所作や伏し目がちに訴えるような表情がやや弱々しい印象を
与えるものの、顔の造作は整っている。美少女といってよかった。
55 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時28分26秒
「あんた、転校生かい?」

ひとみの質問に首を横に振ると、少しだけ明るい表情を浮かべ少女は答えた。

「うんん。ちょっと病気で学校休んでたから…あなたよりお姉さんよ…きっと。」
「出戻りってわけか?」
「うふふ…それよりあなた…」

目の前の少女はどこか引っ掛かるところがあるのか、ひとみの顔を凝視している。
どこかで会ったことがある、というのなら記憶のどこかに残っていそうなものだが、
ひとみ自身、この少女を目にした記憶はなかった。
(お嬢さん、惚れるなよ…)
と真剣に考えるほど阿呆ではないつもりだ。
だが、次に少女が告げた言葉にさすがのひとみも目を丸くした。

「ううん。おもしろい人ね、あなた。」
「おもしろい?オレが?」

ひとみは調子が狂うのを感じた。
56 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時28分46秒
「あんた、オレが恐くないのか?」
「うんん。あなたは優しい人だもの。」
「オレが…優しい……?」
「うん。とっても。」

ひとみは返す言葉が見つからず、指に挟んだままの剃刀をじっと見つめると慌てて
元の場所にしまい、かわりにタバコを取り出した。火をつけようとしてライターの
ガスが切れていることに気付く。

「ち、忘れてた…火がないんだった。」

悔しそうに右手に挟んだタバコを掲げて見つめた次の瞬間、起こった出来事に
ひとみは目を疑った。ぼっと音を立てて小さな光を灯した指先。流れる一筋の煙。
それは自然にタバコの先端が火を灯したように見えた。
ひとみは、向かいの少女に視線を移すと狼狽を悟られないよう低い声で質した。

「おまえ、何かやったか?」
57 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時29分07秒
黙ったままニコニコと微笑む少女の態度自体が肯定の意志を表しているようだった。
それにしても一体どんな仕掛けなのだろう?ひとみの興味はつきなかったが、合理的な
説明を求めるのは難しいような気がした。さらに問い詰めることはあきらめた。

「やれやれ。おもしろい手品だな。」
「久しぶりなの。」
「何が?」
「火が灯ったの。」

噛み合わない会話に少女の精神状態を疑い始めるひとみだが、面と向かって言うわけにも
行かない。無性にタバコが吸いたくなった。フィルタの部分をくわえると深く息を吸い込む。
肺に広がる充実感。

「私ね…昔から何か嬉しいことがあると火を灯しちゃうの…」
「そいつは物騒な性癖だな。パイロマニアってやつかい?早い話が放火魔だ。」
58 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時29分23秒
ひとみは携帯灰皿に灰を落としながら、少女の話しを聞くともなしに聞いていた。
虚言癖があるのか、少女の話す内容はだんだんと現実離れしていくようだった。
だが少女は真剣らしく、さらにその眼が熱を帯びていくのがわかる。

「マッチとかで火をつけるわけじゃないよ。自然に火が灯るの。」
「お嬢ちゃん、自然に発火するような物質があるにはあるが、そうおいそれと手に入る
もんじゃない。」
「信じないの。」
「何をさ?」
「人から親切にされてさ、何か心がほっと暖かくなるときってあるでしょ?」
「あるね。」

ひとみは、一生懸命、何かを訴えようとする少女の様子に何かひかれるものを
感じ始めている自分に気付いた。
つまり、それはひとみ自身久しぶりに覚えた感情だったから。
同年代でこんな風に臆することなく、自然にひとみに接する相手がいなくなって久しい。
それは自分がすさみ始めた時期と軌を一にしているのだが…
59 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時29分43秒
「あるでしょ、心に火が灯ったって瞬間。」
「そうだな。」

どうやらこの娘は心に火を灯すだけでは済まなくて、他に何か燃やさないことには
気が収まらないらしい。それが自然に発火するものなのかどうかはわからない。
ただ、確かなのは、少女の心に灯ったのと同様、ひとみの胸にもほのかに明かりが灯った
というその事実だけだった。

ひとみは何だかおかしくなって、タバコの火を灰皿に押しつけて消すと、
くくくっと笑いを噛み殺した。少女はそれが気に入らないらしい。
頬を膨らませて食って掛かるようにひとみを問い詰める。

「何よ、何がおかしいの?」
「くくっ…いや、なんでもないよ。」
「ああっ、感じわるっ、何よ、ちょっと!」

幼女のように無邪気で天真爛漫な様子がさらにひとみの急所を突いたものか、
もうおかしさがとまらなくなって今度は大口を開き声を上げて笑った。
60 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時30分01秒
「あっはっはっ、あんた、おもしろいな。」
「もう、なによう!タバコ喫ってたの言いつけちゃうんだから!」
「いや、それは困る…くくっ…頼むよ。」

屈託のない笑い。久しぶりだった。笑い方を忘れてしまったのかと思うくらいに。
自覚はなかったが、もう随分とこんな心の暖まる触れ合いから遠ざかっていたことに
今更ながら気付いた。ささくれだっていた心の内面が少女とのやりとりのうちに穏やかに
丸みを帯びてくるのがわかる。ひとみは少女の名を問うた。

「あんた、名前は?オレはひとみ。吉澤ひとみだ。」
「い、石川梨華よ。」

急に真顔に変わったひとみに気勢を削がれ、言葉に詰まる梨華という少女。
ひとみは、その名前を心のうちで反芻した。

(梨華…リカちゃんか…)
61 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時30分13秒
「いい名前だ。ところで、あんた授業に戻らなくていいのか?」
「もう遅いしいいよ。保険室で休んでたことにする。中澤先生、優しいし。」
「そんなことしてるとオレみたいな不良になっちまうぜ。」
「ひとみちゃんは不良なの?」

ひとみは絶句した。
ひとみちゃん…まさか自分を、昔はともかく、今の自分をそんな風に呼ぶ者がいるとは。
だが、この少女が自分のことをそう呼ぶのはむしろ自然な気がした。
気を取り直すようにひとみは訊ねた。

「ところで、あんた、絵を描くのか?」
「えっ…?じゃあやっぱり昨日の…」
「?」

再び不思議モードに突入したかと思える噛みあわない会話にひとみは首を傾げた。
梨華はひとみの反応が期待していたものとは違う、というように目を伏せて
声を落とした。

「なんでわかったの?」
62 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時30分29秒
やや落胆した様子でひとみに尋ねる姿が妙にいじらしく感じられた。
上目がちに自分を見つめる瞳が少しだけ潤んで見えたのは気のせいだろうか?
ひとみは妙に意識してしまう前におかしな想像を頭の中から振り落とした。
無論、実際に頭をくるくると回したわけではない。
声を落として意識を切り替えることに集中した。

「藤本が画材燃やしちまうぞ、って脅してただろ…あいつが認めてるなら、
相当描けるはずだ。」
「ひとみちゃん…藤本さんとお知り合いなの?」
「お知り合いさ。これでも美術部の幽霊部員なんだぜ。」
「ええっ、意外ぃ。」
「なんだと?失礼なやつだな。」

二人は顔を見合わせた。
何がおかしい、というわけでもないのにひとみは吹き出さずにはいられなかった。
まったく、このリカちゃんときたら口の減らないお嬢さんだ。
つられて梨華も顔を綻ばす。
ふふ、と微笑む表情は不思議とひとみの心を和ませた。
63 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時30分45秒
二人が大きな声をあげて笑い出すと同時に始業のベルがなった。
ハッ、と口に手をあてて振り返る梨華にひとみが声をかける。

「授業…出ろよ、まだ間に合う。本当に不良だと思われると損だぞ。」
「うん、そうする。」

ためらいながらも素直に肯き、梨華はその場を後にした。
校舎の角を曲がる際、名残り惜しそうに振り返る梨華に笑顔で片手を軽くあげて応える。
梨華は安心したように表情を生きかえらせると、角の向こうに姿を消した。
彼女の後ろ姿を見送ると、一人ぽつんと取り残されたように感じ、ひとみはなぜか寂しくなった。
さて、どうしよう……
64 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時35分07秒
考えるまでもない。
自分がこの学校で行ける場所といったら限られている。
ひとみの足は自然と保健室へと向かっていた。
丁度、保健室へと向う廊下に差しかかったとき、
ひとみは保健室の扉を開けて誰かが出てくるのを見て慌てた。
落ち着いてよく見ると違うクラスの後藤らしい。
ひとみは立ち止まって、後藤が通り過ぎるのを待った。

落ち着いた歩調で後藤が近づいてくる。
優等生らしく、学園指定の内履きでキュッ、キュッと音を立てる歩き方にひとみはどこか
こそばゆいものを感じて減らず口を叩きそうになる。だが、当の後藤はひとみに視線を
合わさず、何も目に入らないかのような態度でひとみの横を通り抜けていった。
ひとみはその髪の毛からふわりと匂い立つ甘い香りに思わず振り返った。
65 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時35分22秒
(痩せたな…)
ひとみはなぜかその香りが不愉快に感じられて不思議だった。
甘く蕩けるような芳香。
だが、それはどこか頽廃的な腐臭と紙一重の危うさを示しはしないか。
自分を見ようともしない後藤の態度はいつも通りだったが、その瞳に映る虚ろな光にも
またどこか危ういものを感じずにはいられなかった。

ひとみはフゥッと息を吐くと保健室の扉を開いた。

「ちわっす。」
「何や、またじぶんか?」

養護教諭の中澤が机から顔を上げて振り向く。
きつい言葉を返したのとは裏腹に、その表情は柔らかかった。
66 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時38分50秒
「今日も繁盛してるね。今、後藤が来てたでしょ?」
「自分、知り合いか?」
「親同士はね。オレはあんまり付き合いはないよ。」
「ふーん…ま、学園一の美人で優等生と学園の鼻摘まみモンじゃあ月とすっぽん、
身分が違いすぎるっちゅうこっちゃな」
「ひでえなあ」
「それにしても珍しいやん、二日連続で登校とは。」
「教師のせりふじゃないよねぇ。」

挨拶代わりの軽口を叩くと、ひとみは机に向かって何か書き込んでいる中澤の向かいに
勢いよく腰を降ろした。

「これが続くんやったら、今の言葉は取り消すで。」
「しばらく続けてみよっかなぁ…」

中澤は驚いたように顔を上げて、ひとみの顔を穴が開くほど見つめ、
そして額に手をあてた。
67 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時39分16秒
「大丈夫か、じぶん?熱あるんちゃうか、ん、どっか痛むとこないか、え、ゆうてみ。」

矢継ぎ早に言葉を繰り出し、ひたすらぼけまくるその態度はまったく教師らしくない。
ひとみは軽く中澤の手を振り払い、笑いながら応えた。

「まったくぅ、信用しねぇな。そんなだから、生徒がぐれるんだろうが。」
「いやぁ、ゆうちゃん、びっくりや。どないしてん?」

ようやくまともに話しができる状態になったと見て、ひとみは切り出した。

「中澤先生、石川梨華って子、知ってる?」
「ああ、今度、復学した2組の子やろ。」
「よく、ここ来んの?」

ようやく驚きから解放された中澤は、だんだん話しが飲み込めてきた。
68 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時39分37秒
「じぶんほど頻繁ではないけどな。まだ経過見なあかんし、定期的には来てもうてんで。」
「経過って…あの子、なんか病気でもしてたの?」
「ああ、軽い結核性の菌に肺をやられてな。一年ほど休学して療養しとった。」
「結核かぁ…」

その割には頬や二の腕のはふんわりと丸い曲線を描いていた。
制服のシャツの上からでもはっきりと隆起していのがわかる胸のふくらみなど、豊かな
肉付きで健康そうな印象を与えたが、人は見かけではわからないということなのだろう。
ひとみには病弱なようには見えなかった。というより、病人に特有の精神的な暗さを見い
だせなくて意外だったのかもしれない。

「絵、描くらしいね。あの子。」
「ああ、療養ゆうたかて、安静にしてるだけやからな。体力使わん程度に何かしてな、
それこそ退屈で死にたなんで。」
「かなり巧いらしいぜ。」
「さよか。うちも美術部薦めたってん。なにせ体力つこたらあかんよってな。」
「ふーん。久しぶりに寄ってみるか。それまで暇だし授業でも出よっかな。」
「え…?」
「邪魔したな、せんせ。」
69 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時40分02秒
言い置いて、ひとみはすっくと立ちあがり、呆然と見送る中澤を後に保健室から去った。
しばらくして、我に返ると中澤は自分の額に手をあててつぶやく。

「うち、熱あるんかな…吉澤が授業やて…」

それにしても…
中澤は心がざわめくのを感じた。

(おかしなことは言ってないはずやな…)

そっと心の中で先程の会話を反芻してみる。
大丈夫、変なことは言っていない。
中澤は胸を撫で下ろした。
いずれ広まるであろうこととはいえ、
ものごとにはタイミングというものがある。
中澤は心得ていた。
そう、まだ伝えるべき時期ではない。
石川が入院していたのは精神病院だと生徒に告げるのは。

それがいつになるのか現時点において定かではないながらも、
そう遠くではないことを中澤は予感していた。
70 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時40分23秒

71 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時40分32秒

72 名前:  投稿日:2003年09月08日(月)13時41分00秒
Atto T
Si. Mi chiamano Rica>>46-69

73 名前:名無しAV 投稿日:2003年09月08日(月)22時43分16秒
遂にタイトルの意味が・・・
続きが楽しみですとしか言えない。
74 名前:名無し読専 投稿日:2003年09月08日(月)22時53分50秒
引き込まれました!面白いっす!
自分も続きが楽しみです
75 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:10
O mio babbino caro
私のお父さん

76 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:11
梨華はベッドに潜り込むと静かに目を閉じた。
今日、起こった出来事を振り返ってみる。
美術部の藤本に呼び出され、もう少しでひどい目に会わされそうなところを
ひとみという少女に助けられた。

自分では不良だと言っていたけれど…
梨華には彼女が本当に悪い娘だとは思えなかった。
それどころか、心のまっすぐなものだけが持つ、魂の強さのようなものさえ感じた。

復学して以来、年がひとつ上ということで遠慮があるのか、クラスの生徒が話し掛けて
くることは殆どなかった。かといって、梨華から話し掛けるということもない。
遠慮しているのは梨華の方かもしれなかった。

それだけに、助けてもらった上、少しでも話しができたことに梨華は喜びを感じた。
77 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:11
――明日も会えるといいな…美術部にも入ってるって言ってたし…
友達になれるかな…ね、お父さん、梨華ね、今日すごく素敵な子と知り会えたんだよ…

梨華は嬉しいことがあるとよく父に語りかけた。
もちろん、母には何でも相談するし、頼りにしている。
でも、本当に嬉しいことは一番に父に報告したかった。
梨華は父が大好きだった。
今は梨華の心の中にしかいないと母は言うけれど。
でも父は絶対、どこかから梨華を見守ってくれてると思っていた。

そして…
まぶたを上げて暗闇の中でじっと目を凝らす。
トレーの上のろうそくがぼぉっと小さな火を灯した。
心の温もりで火を灯す不思議な能力…
ひとみは信じたかどうかわからなかったが、紛れもなく、これは梨華に備わった力だった。
78 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:11
心に灯した暖かい感情と相似形の炎が眼前にぼぉっと浮かび上がった。
久しぶりの焔(ほむら)。或いは、と淡い期待を抱いてはみたものの、
やはり消えてはいなかった。その絶対零度の現実を前にして、束の間の喜びは
氷のベールで覆われたかのように緩やかに燻(くすぶ)って、やがて消えた。

父が他界してまもなく母が骨董屋で探してきてくれた銀の燭台は、古いものらしく、
かなり使い込んである様子がうかがえた。手入れは良い。まだまだ長持ちしそうだった。
最近は役立つ機会もめっきり減っていたが、久しぶりに小さな明かりを灯し、
燭台は嬉しそうにゆらゆらと長い影を揺らした。

梨華はろうそくのほのかな明かりを感じながら再び目を閉じた。
父の温もりに触れているような懐かしさに安心したせいか、数分後には静かに
寝息を立てていた。その頬には涙が伝い一筋の線を落としていた。
79 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:12
ψψ

80 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:12
なすすべもなく立ちすくんでいた。
目の前では全身火だるまになった人間がのたうち回っている。
梨華は恐怖のあまり、助けを呼ぶこともできず、ただ立ち尽くしていた。
先程まで楽しかったはずの光景は一転して地獄絵と化した。

ごめんなさい…ごめんなさい…おとうさん

父だった。
震えながら叫ぶ自らの言葉に、それが父であることを理解した。
自分の目の前で紅蓮の炎に包まれて激しく燃えあがる父の姿。
だが、その影は今や灰燼と帰し、最後の瞬間を迎えようというこの状態でなお、
まだ何かを梨華に伝えようとしていた。
81 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:13
…り…か…
燃え盛る腕を梨華の方に差し出して、何かを伝えようと口を広げる父。
その表情を既に半ば灰と化した顔から読み取ることはできなかった。

なに…おとうさん…なに…?
熱さを堪えて必死で耳を傾けようとしたが、想像を絶する熱さに耳がじりじりと
焼けて燃えあがりそうな感触に脅える。耐え切れず、思わず顔を背けるが、
炎は容赦なく襲いかかり、凄まじい唸りを上げて梨華の背後から全身を包み込む。

おとうさん…あつい…あついよ…
痛みにも似た強烈な熱に包まれ意識が朦朧としてくる。
混沌に飲み込まれそうになりながら尚も父に許しを請い続ける自分を意識した後、
急速に光が遠ざかった。
後にはただ闇だけが残った。
82 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:14
ψψ

83 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:14
目を開けると天井が近かった。
夏でもないのに汗だくになって荒い息を吐く。
楽しいことのあった日は必ずといってよいほど父の夢を見た。
あるいはそれは戒めであったのかもしれない。
人と必要以上に親しくなってはならないという、警告なのかもしれないと思う。
自分には、人と親しくなる資格がないのか。
自分には人を愛する資格がないのか。

答えはわかりきっていた。
質問するまでもない。
自分には資格がないのだ。

父を殺してしまった娘に普通の人と同じように幸せに暮らす資格などないのだ。
ふとした折りに父の焼け死ぬ生々しい記憶がよみがえり梨華を凍りつかせることがあった。
84 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:15
梨華はベッドの前に跪き、胸の前で掌を合わせた。
夢にうなされた後は、そうしなければ心が落ち着かなかった。
クリスチャンというわけではない。
正直なところ、梨華自身にも誰に向かって祈りを捧げているのかはっきりとはわからなかった。

それは既に他界して10年以上経つ父に向けてのものなのかもしれない。
そうだとすれば、それは祈りというよりもむしろ父との対話といった方が正しいかもしれない。
だが、その相手が誰であれ、人として不完全な自分が今日も大過なく生きることができた。
そのことを感謝する気持ちの表出は誰のためでもない。
自分のためなのだということを梨華は自覚していた。
85 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:16
『足りないことを嘆くよりも、与えられたことを喜びなさい。
自分には何もないと悲嘆に暮れるのなら、生きていることを思いなさい。
生きていることが苦痛なら、苦痛に思っている自分が存在していることに安堵しなさい』

生前、父が繰り返し梨華に語った言葉を思い返す。
クリスチャン…ではなかったと思う。
聖書も持ってはいなかった。
だから、それは父なりの人生観だったのだと梨華は思っている。

そしてその言葉通り、梨華は自分に与えられた能力に感謝した。
何のために授かったものなのか、未だに判然としなかったけれど。
でも、この能力でいつか人のために何か良いことができるのではないか、
そう考えることで、自分を鼓舞するしかなかった。生きるために。

梨華は目を閉じて祈りを捧げ始めた。
86 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:18
Atto T
O mio babbino caro>>75-85

87 名前:  投稿日:2003/09/10(水) 11:22
>73 名無しAVさん
いつもレスありがとうございます。
タイトル…ベタですみません(汗
登場人物が出揃うまで、もう少しかかりそうです。
気長にお付き合いいただれけば幸いです。

>74 名無し読専さん
初レス(ですよね?)ありがとうございます。
おもしろいなんて言っていただけると調子に乗りそうですw
よろしくお願いします。
88 名前:名無しAV 投稿日:2003/09/11(木) 01:31
ホント今更なんだけどクロスファイアみたいですね。
89 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/11(木) 03:28
>88
野暮なレスつけんなよ。
90 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:56
Una furtiva lagrima
人知れぬ涙

91 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:56
「あら、おかえり。」

ひとみは家に着くとみちよさんの呼びかけを無視して二階の自分の部屋に駆けあがった。
亜依はもう帰っているらしい。
階下からTVの音が聞こえた。亜依の好きなアニメだった。

あいつも、まだ友達できないのかな…

つらいのは自分よりもむしろ亜依の方かもしれない。
転校したばかりで周りは知らない生徒ばかりだ。
そして家に帰れば…
亜依が家に引き篭もるようにしてTVばかり見ているのは自分にも責任の一端があるように思えた。
かといって、自分にはどうすることもできない。
92 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:57
――そろそろ潮時か…これじゃガキみたいだしな…
ぶらぶらしてんのも飽きたし……

どうやら、ひとみはあの梨華という少女が相当気になっているようだった。
なにせ、すべての授業に出席したあげく、放課後、部室にまで顔をだしたのだから。
驚く部員や脅える藤本一派の中に、ひとみはあの顔を探したがいなかった。
ひどく落胆して、部長の飯田に梨華は来ていないのか尋ねると、今日は病院らしいと答えた。
梨華を探してきたように思われるのも癪なので、絵筆やパレットなどの手入れを済ませて
ひとみは部室からひき上げた。

――久しぶりに描いてみるか…
93 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:57
梨華の出現は退屈なひとみの生活に何か新しい刺激を与えてくれそうだった。
筆を置いて久しいが、絵を描くことに飽きたわけではないし、ただきっかけが
掴めなかっただけなのだと思う。
一番、描きたかった対象はもう描くことはできないけれども。
でも、梨華というおもしろい素材はそんなひとみに新たな創作の意欲を掻き立てるに
十分な何かを秘めていた。

――新しいキャンパス、買わなきゃ…

ひとみは梨華と連れだって買い物に行く姿を思い浮かべたが、なんだかいけないことを
想像しているような気がして、少し赤面した。

――まぁ、いいや。

ひとみは階下に降りると、台所に声をかけた。
94 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:58
「みちよさん、ご飯まだ?久しぶりにフルで学校出たら、腹減ったよ。」

みちよは台所でまな板の上の野菜を刻んでいた手を止め、びっくりしたようにひとみの
顔を見つめていた。
ひとみの方から声をかけて来ることなど滅多にない。
最近では、もう母親らしく振る舞うことはあきらめていたが、どんな些細なことであっても
ひとみから自分に呼びかけてくれることは嬉しかった。

「す、すぐ用意できるよって、待っててな。今日は茸のハンバーグやで。」
「お、やったね。早くしてよぉ。」

なるべく不自然にならないように話したつもりでも、緊張は隠せなかった。
もちろん、ひとみもそのことには気付いている。
だが、もともとみちよさんを嫌っていたわけではない。
ただ、お母さん、と素直に呼べない自分が嫌だっただけだ。
母と呼ぼうとすると今でも、喉が乾いてうまく言葉が出てこない。
みちよさんには悪いけれど、しばらくこのままで通すしかなさそうだった。
95 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:58
ひとみは居間でTVを見ている亜依の横にどっかと座った。
台所でのやりとりを聞いていたのだろう、亜依も小さな目を見開いて、もの問いたげに
ひとみを見つめていた。

「亜依、友達できたか?」

TVの方を向きながら、ぼそっと尋ねるひとみに亜依はどう答えたらよいか逡巡しながらも、
学校の友達の名前をいくつかあげた。

「ん、うん。ののにあさ美ちゃんにマコっちゃんに、それから…」
「そうか…よかった…」
96 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:58
相変わらずひとみの視線はTVの方を向いていたが、その口調はしごくやさしかった。
亜依にもひとみの気持ちは伝わったようだ。
自分を見つめる視線に少しだけ打ち解けたものを感じた。

みちよの連れ子である亜依に対しても、父に反抗している立場上、そっけなく振る舞う
ことが多かったが、ある意味、自分と同じ立場にある亜依には同情するところもあった。
関西から出てきたために友達もなかなかできないらしい様子を心配していただけに、
あだ名で呼べるほど仲の良い友達が学校で出来たことを知って安心したのは確かだ。

ひとみは梨華という少女の出現が行き詰まっていた自分達、家族の状況さえ一変させよう
としていることに気付き、いよいよ彼女に惹かれていく自分を感じ始めていた。
97 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:59
ψψ

98 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:59
亜依は真剣だった。
ひとみを見つめる視線に思いを込めた。

助けて…ひとみさん…

だが、ひとみは気付いていなかった。
亜依が送ったメッセージに。
いくら鈍いとはいえ、いつものひとみならその違和感に気付いていたはずだ。
だが、そのとき、ひとみは何かよほど嬉しいことがあって心が高揚していたのだろう。
亜依の心の叫びは見過ごされた。
99 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 13:59
学校で友達ができたのは本当だ。
最初は辻希美だった。全校集会などクラス別に並ぶとき、普段は名前順なのだが、
体育では身長順にならばなければならない。
最近の発育がよい中学三年生の中で、ひときわ小ささが際立っていたのが、ののこと辻と
亜依の二人だった。小さいことではどちらも、それなりにプライドがあったせいか、当初、
どちらがより小さいかで揉めた。それがきっかけで、打ち解けるようになったのだ。

紺野あさ美と小川麻琴は亜依と同じクラスで席が近かった。
物静かな二人はどこかのんびりとしていてクラスで浮いていたが、
転校生の亜依にとってはむしろそれが近づきやすい雰囲気を与えていた。
席が近いもの同士、三人は、お昼の弁当をともに取ったりして自然と固まるようになり、
次いでそこに辻が加わることで、今ではひとつのグループを形成している。
100 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:00
ひとみが思っているほど、亜依は学校で孤立していたわけではなかった。
部活にも所属していた。
亜依は合唱部に入ることにした。
もともと歌が好きで前の学校でも所属していたし、
その学校はNHKの合唱コンクールでも県大会の常連で、
昨年は関東甲信越大会にも出場した実力校だったからだ。

亜依は、少しだけ希望を持っていた。
前の学校では、ソプラノのパートリーダーを務めるくらいの実力を認められていたからだ。
もちろん、地区大会を突破できるかどうかという奈良の田舎の中学校だけにその水準は
知れている。県大会突破を目指すこの学校では、中くらいということになるかもしれない。
101 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:00
それでも、亜依は本番の舞台で歌えることに希望を寄せていた。
実力校だけに部員の数が多く、三年間、活動しても一回もステージに上ることなく、
会場で仲間の合唱を聞かなければならない生徒も多いのだ。

亜依は実力通り、本番でステージに立つレギュラーに選ばれた。
課題曲と自由曲の間に数人の交代が認められるが、その交代要員でさえ飛び越しての
レギュラー入りだった。
それだけに、選出から漏れた生徒はもちろん、レギュラーの中でもそれら落選組の生徒に
同情するものは多く、亜依は苦しい立場に立たされた。
102 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:00
いじめは陰湿だった。
登校すると下駄箱に上履きがなかった。
亜依はスリッパを借りたが、上履きは昼休みまでにトイレの便器で見つかった。
それでも亜依は泣かなかった。

部活では楽譜のコピーが亜依の分だけ改竄(かいざん)されていた。
譜面の読める亜依が正確な音の高さで歌っても、みんなから微妙にずれていた。
おかしな響きがするとは思ったが、まさか自分の楽譜だけが異なるとは気付かない。
指導教師に指摘されてもまだ、何がおかしいのかわからなかった。
自分はまちがっていないはずだと反論し、心象を悪くしたようだ。
結局、亜依の楽譜だけが異なっていることがわかったものの、
次の練習から、交代要員に回された。
103 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:01
レギュラーから外れたことで収まるかと思われた嫌がらせはさらにエスカレートした。
練習場所の変更を知らされない。
話しかけても誰も口をきかない。
教師の指揮棒が折れていたことがある。
知らない間に亜依のせいにされていた。怒り狂う教師に向かって必死に説明しても、
かえって怪しまれ、怒りに火を注ぐ結果になった。
次の日、亜依は交代要員からも外された。

ののやあさ美、麻琴たちは慰めてくれたが、亜依の悲しみが癒されることはなかった。
亜依は合唱部を辞めた。
放課後は早々に帰宅し、家にひきこもることが多くなった。
母が再婚したため越してきた新しい家にも亜依は馴染めなかったが、それでも
部屋を与えられたことで、自分の居場所だけは確保できた。
104 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:01
母の再婚相手は背の高い人で亜依にも優しく接してくれた。
亜依は父親は本当の父だけだと思っていたけれど、母が悲しむからその人のことを
「お父さん」と呼んだ。新しい「お父さん」は喜んでくれた。
だが、「お父さん」の娘であるひとみさんは喜んでいなかった。

ひとみさんは、それまで学校の成績も良い優等生だったそうだ。
だが、再婚がよほど気に入らなかったのだろう。
わざと男の子みたいな乱暴なしゃべり方をしたり、髪の色も金色に染めるなどして、
不良になろうとしていた。

「お父さん」へのあてつけのつもりなんだ、と亜依は思った。
ひとみさんは本当のお母さんを一昨年、亡くしている。
きっとお母さんが大好きだったんだろう。その気持ちは亜依にもよくわかる。
105 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:01
亜依は、「お姉さん」と呼んで怒らせるのが恐いから散々悩んだ挙げ句、
「ひとみさん」と呼んだ。
それが気に入ったのかもしれない。ひとみさんは、不愛想であんまり話し掛けては
くれなかったけど、ときどき、学校のことなどをぶっきらぼうに、どう?と尋ねる
ことがある。

亜依のことは気遣ってくれているようだった。
母のことはさすがに「お母さん」とは呼ばない。
だが「みちよさん」と呼んで、無視するといった風ではなかった。
怒りはひたすら「お父さん」に向けられているらしかった。

「お父さん」とはもう、ここしばらく口もきいていないし、たまに二人が「遭遇」すると
一触即発といった緊張感に家中が覆われる。
そして必ず激しい口論に発展するのだった。
それが嫌なのだろう。
ひとみさんはなるべく「お父さん」と会わないよう、向こうが早く帰ってきそうなときは、
知らないうちにどこかへ出かけていた。
106 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:02
もともと不良ではないし、頭のいい人だから、特に悪い仲間に入った様子もなかった。
けれども、やはり格好が派手だ。
それなりに悪ぶっているので友達はどんどん離れていったようだ。
それが、またひとみさんを傷つけた。
悪循環だが、親と友達、両方に裏切られた気がしたのだろう。
傍から見ても、苛ついているのがわかり、触れれば噛みついてきそうだった。

鋭利な剃刀のように尖っては、盛り場などで不良に絡まれ、
危ない目にも何回かあったようだ。
幸い、大きな怪我をすることもなかったが、学校からは完全に問題児のレッテルを
貼られてしまった。
亜依はひとみさんに相談できたら、とずっと思っていた。
107 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:02
お母さんは新しい生活に慣れるのに大変そうだったし、なにしろひとみさんのことでは
心を痛めていた。
ひとみさんが、自分に対して怒りをぶつけてくるのなら、まだしも対処のしようがあったが、
ほとんど無視といった状態では、取りつく島もなかった。
そんな状態で、お母さんに心配をかけるわけにはいかなかったのだ。

亜依は今、自分の周りで起ころうとしていることが信じられなかった。
恐かった。
誰か、助けて…
叫び出したかった。

自分の心の中にそっとしまっておくには、それはあまりにも重すぎた。
だって、亜依は人を殺してしまったのだから…
108 名前:  投稿日:2003/09/12(金) 14:02
Atto T
Una furtiva lagrima>>90-107

109 名前:名無しAV 投稿日:2003/09/12(金) 18:41
人間関係が見えてきましたね。
これらがどう作用するのか楽しみです。
110 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:52
E scherzo od e follia
…冗談かタワゴトか

111 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:52
高橋愛は真希を前に緊張していた。

「それ、本当なの?」
「ハ、ハイ…あの、見たって人がいて…」

真希は考え込んでいた。
そんなはずはない…そんなはずは…
きっと、この子か、あるいはそのまいを見た、と言っている子が間違っているのだ。

「う、うち…後藤さんを裏切るなんて、許さんねっから…」

少し、いや相当になまっているため聞き取りづらいが、言いたいことはわかった。
この子もきっと、好き好んでそんなことを伝えに来たわけではないのだろう。
いつものように、ご注進の好きな真希の取り巻きの誰かが入れ知恵したに違いない。
こんな純朴そうな子が…
112 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:53
「証拠がないわ…」
「し、証拠なら、あります。まいさんの、指…見てくんなせ…」
「指がどうしたの?」
「指輪が…おそろいの指輪、してますから…」

ほっとした。
違う…
彼は指輪なんてする人じゃない。

真希は優しく微笑んで、愛に礼を述べた。

「ありがと。でも、私、まいを信じてるから…じゃね。」
「は、はい…」
113 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:53
愛もほっとしたようだった。
何しろ真希は恐い。
大きな製薬会社社長のご令嬢にして、成績優秀、スポーツ万能の才色兼備。
自然と周りが立てているうちに今では校内で隠然たる勢力を築いている。
本人が望むと望むまいと、彼女の後ろだてを頼む取り巻きが引きも切らない。
教師までが彼女の顔色をうかがう始末だ。
真希の後ろ姿を見送ると、愛は足どりも軽く、教室へと戻った。

誰もが彼女の顔色をうかがうこの学校にあって、彼とまいだけは違う。
そう真希は信じていた。
まいは奔放な性格だ。
ともに父親が厚生省の技官ということもあり、二人は幼少の頃から親しくしていた。
真希の父親が退職して今の会社に社長として迎えられて以降も二人の関係が大きく
変わることはなかった
社長令嬢などという肩書きなど、微塵も気にする様子はなかった。
自分に対する絶対的な自信がそう振る舞わせるのかもしれない。
不思議な子だった。
114 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:53
彼にも似たような雰囲気を感じた。
大勢でいることが苦しいと言わんばかりに孤独が似合っていた。
真希には自分と同じタイプの人間に思えた。

恐らく二人は真希を介してしか会うことはないはずだった。
それにまいの好みは彼とは違うタイプのような気がする。
彼とつきあってることを告げたとき、まいは首を傾げていた。
真希ならもっと格好いい子とつきあえるのに…
彼女の興味の範疇には入っていない、そう感じた。
それで安心していたのかもしれない。

彼のことは信じていた。
その信頼は何があろうとも揺るがない。
彼のことは自分のように孤独を共有する人間にしか理解できないのだ。
恐らく、まいを妬んだ取り巻きの一人が仕組んだ他愛もない噂に過ぎないのだろう。
ばかな話しだ。
そんなことで得られる信頼などないというのに。
115 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:58
真希は、あの訛っていた子がひどい目に会わなければいいが、と心配しかけ、
いや、そうじゃない、と思い返した。
結局、誰も仲間はずれにはなりたくないんだ…
孤独を恐れるものに真の安寧は訪れない。
自分を信じて、嫌なことは嫌、と言える勇気が持てない弱さでは、
この後の学園生活を始終、仲間の輪から外されることに脅えながら暮らさなければならない。
そして、その弱さは、学園生活だけに限らず、一生つきまとうものだ。
真希はこの先のことなど考えたくもなかったが、自分もまた一生、こんな疎外感に
苛まれなければならないのかと自問し、その自明過ぎる答えのやるせなさに唇を噛んだ。

116 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:58
ψψ

117 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:58
「珍しいじゃん、真希があたしの帰り待っててくれるなんて。」
「雨の日はひどく感傷的でひとりが寂しくなるのさ…っていうか、傘入れてよ。」

ハハ、そんなことだと思った、と屈託なく笑うまいにやましいところはなさそうだった。
やましいだなんて…
まいを少しでも疑っていた自分が、自分の弱さが嫌になる。
真希は心の中に生じた罪悪感のような感覚を払拭するために慌てて話題を逸らした。

「まい、あのくすり、最近ちょっと使い過ぎじゃない?」
「ん?」
「副作用とかあるからさ…しばらく控えた方がいいよ…」

目を細めて強い意志を発し、自分を絡め取ろうとするまいの視線に真希はたじろいだ。

「い、いや…まい、最近、痩せ過ぎなんじゃないかと思って…食欲ないんじゃない?」
「真希…あんた、私に説教でもする気?私だけ痩せたんで妬んでんじゃないの?」
「そんなつもりはないけど…」
118 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:59
まいの目は既に据わっていた。
くすりの影響だろうか。話題を変えるために思いつくまま口から出た自分の言葉に対する
まいの過剰な反応に真希は驚いた。
使いすぎだ…感情を自制できなくなってる…
典型的な症状…
真希は判断した。

あれは、使いすぎると本人が自覚しないうちに、精神の抑鬱が激しくなる。
麻薬や覚せい剤のように依存性が生じることもあるのかもしれない。
真希は、このくすりがそんなに恐ろしいものだとは思っていなかったけれど。
ただ、まいの尋常でない精神状態を目の当たりにして、危険な兆候を感じた。
いけない、すぐに止めさせなければ…

「しばらく、くすり止めよう。もちろん援助もさ。」
「あんた、何考えてんのよ。もう少しで目標金額に到達するのよ…今さら、止められないわ。」
「ちょっと、休むだけだからさ…止めろ、ってわけじゃなくて……」
119 名前:  投稿日:2003/09/16(火) 23:59
まいは細い目を吊り上げて、怒気を発した。

「何よ、邪魔する気!?」
「そうじやなくってぇ…」
「私はやるわよ!くすり、ちょうだいよ!」

くすりのせいなのか、それとも何か他の要因によるものなのか。
真希はまいの豹変ぶりに戸惑っていた。
この症状は…まさか…
真希はこのくすりを分けてくれた人からは、麻薬などのたぐいではないと聞かされていた。
だが、もう一度確認しなければならない。
まいの様相はあまりにも似過ぎている。
そう…覚醒剤常用者の症状に…

「あんた、私が痩せてあんまりきれいになったから心配なんでしよ?自分の彼氏、
取られるんじゃないかって。心配しなくても、あんなダサいやつ、取るわけないじゃない。
もっとも、向こうから言い寄ってきたら知らないけどね。」
「……」
120 名前:  投稿日:2003/09/17(水) 00:00
挑発的な言葉を繰り出すまいに対し、頭のなかではくすりのせいなのだと判ってはいても、
先程、訛った少女の忠告を警告を聞いたばかりだ。
猜疑心がむくむくと頭をもたげてくるのを、真希はどうすることもできなかった。

「どうしたの?蒼い顔しちゃって。安心して。友達なんだから…だから、くすりちょうだい、
ねぇ、くすりぃ…」

挑発的な態度から、今度は急に媚びるような、懇願するような調子に変わった。
やはり精神の状態が安定していないらしい。
もしあのくすりが覚醒剤か、それに近い類のものだとすると、依存度はかなり進行している。

一方で真希の顔は、まいが言うとおり、血の気が引けて、蒼白になっていたのだろう。
その言葉を額面通り受け取ったつもりはなかったが、ぶるぶると声が震え、なかなか言葉に
ならなかった。

「ま、い…ねぇ、まい…約束して…あと一回だけ…一回だけあげるから、そしたら、
しばらく休んで…お願い…」
121 名前:  投稿日:2003/09/17(水) 00:00
最後は涙声に聞こえた。
懇願しなければならないのは自分の方だった。
まいが…親友が廃人になってしまったら、自分のせいだ…
真希は決意した。
もう、あのくすりを分けてもらうのは止めよう…

だが、ふぅっと息を吐いて、前髪をかきあげた左の手に光るものを認めて、その決意は
揺らいだ。

なに…今の…?

真希はその左手の薬指にはまった銀色の小さな指輪を見咎めた。

「ま、まい…なに、それ…?」
「えっ…ああ、これ?客のおやぢにもらったんだ…つけろってうるさくて…あれ買うまでの代用。」
「だって、左手の薬指だよ…」
「ん?ああ、真希はロマンチストだもんね…うざいナンパとかこれ見せりゃ一発で引くし、
便利だよ。」
122 名前:  投稿日:2003/09/17(水) 00:01
真希は心臓が激しく動悸するのを感じた。
どくん、どくんと脈打つ音は、まるで他人の心臓に耳をそばだてているかのようにひどく
はっきりと聞こえた。
考え過ぎだ…まいはそんな子じゃない…
彼が指輪なんかするはずがない…
真希は湧きあがる疑惑を吹き払うように、頭を左右に強く振って、まいに伝えた。

「ね、次で最後にしてね。そうでないと、まいが壊れちゃいそうで…」
「う、うん…次で目標届きそうだし…もう、くすり必要ないよね…」

本当にそうであってくれればよいが…
弱々しく微笑み合うどちらもが、その言葉を信じてはいないようだった。
123 名前:  投稿日:2003/09/17(水) 00:02
Atto T
E scherzo od e follia>>111-122

124 名前:名無しAV 投稿日:2003/09/17(水) 18:45
後藤さんの頼れる物が切ないですね
125 名前:名無しさん 投稿日:2003/09/19(金) 16:10
壊れていく里田さんが儚げでよいです。
126 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:37
La calunnia e un venticello
陰口はそよ風のように

127 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:38
最初はいい気味だと思っていた。
自分をいじめた天罰が下ったんだ。
そう信じていたわけではない。本当はただの偶然なのだろう。
ただ、そのあまりのタイミングのよさに、そう思うと痛快だっただけだ。
最初に亜依をいじめたグループの一人が万引きでつかまったときは単純にそう思った。

だが、二人目、三人目と続くうちに亜依は段々と恐くなってきた。
四人目が下校中、走ってきた車に接触して軽い脳しんとうで病院に運ばれたときには、
もう、おもしろがっている余裕はなかった。
何かが、自分の意志で動いている…

殺そうとしたつもりはない。
死んでしまえばいい。
悔しさに、そう心の中で唱えたことはあったかもしれない。
けど…本当に殺してなんてお願いしてないよ…
128 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:38
亜依は、あえて自分の意志を汲んでいるらしい何者かに向かって叫びたかった。
直接、手を下したわけではないし、殆どの場合、事故、あるいは本人の不注意であり、
亜依が介在する余地などありえない。それでも彼女達の不幸を願った時点で、
責任の一端は自分にあるような気がして、亜依は苦しんだ。

加えて、事情を知るものは亜依が何かしたとまでは思わなくとも、やはり気になるのだろう、
露骨に仲直りしようと言い寄ってくるものや、気持ち悪いとさらに自分を遠ざけるもの、
反応は様々だったが、すべて、亜依を畏れての行為であることは明白だった。

麻琴やあさ美は気にするなと言ってくれる。ののは知ってか知らずか、相変わらず、
脳天気に八段アイス食いにいこ、と誘ってくれる。
だが、亜依は彼女達まで、自分の妄想に巻き込んでしまいそうで、自然と遠ざけてしまう。
129 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:39
「あいぼんのせいじゃないよ…」
「そうだよ、あいつら悪いことばっかしてたから、罰があたったんだよ。」
「うん…ありがと…」

たしかに、亜依が陰名師か何かの類でもなければ、いじめっこに天註を加えることなど
できそうにない。
そんなことは中学生なら誰でもわかっている。
それでも、亜依をいじめた子供達が次々に災厄に見舞われているという事実は確かだった。
そして事実は記号化されて、単純な因果関係へと還元され易い。
記号化されないと自らの世界観における位置づけが不明瞭で甚だ心許ない。
だから、人は単純な図式化を好む。

亜依に関わる人間は災難に会う。

これだけで十分だった。
亜依の孤立はますます深まっていった。
そして、亜依自身もだんだんと、彼女達に復讐したのは自分の意志だったという錯覚に
陥ってゆく。それでも、亜依が正気を保っていられたのは、三人の友達が変わらず接して
くれているからだった。
130 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:39
だが、それも長くは続かなかった。
亜依をいじめていたグループの主だったものは、既に何らかの事故に遭遇していたが、
その中のリーダー格のものだけが、まだ無傷だった。
誰もが不思議がる中で、その少女だけは、自分にやましいところなどひとつもないと
嘯(うそぶ)いていた。
だが、内面の崩壊は進んでいたのだろう。
情緒不安定な状態が顕著になり、奇矯な行動が目立ちはじめた。

授業中に突然立ちあがり、奇声を発したかと思うと教室を飛び出して廊下を走り出す。
合唱部の発声練習中、蛙を締め殺したような、とても人間の発するとは思われぬ音で
呻き声をあげる。
そして、ついに誰もが恐れていた事件が発生した。
131 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:39
下校途中、ぶつぶつと呪文のようなものをつぶやいたかと思うと、突然、何か恐ろしい物に
魅入られたかのように、ぶるぶると振るえ出し、それから逃れるかのようにもの凄い勢いで
車道に飛び出した。交通量の激しい幹線道路であったことが災いした。
猛スピードで走ってきた大型トラックの運転手には避ける暇もなかっただろう。
跳ね飛ばされた少女の体はゴム鞠のようにぽーんと大きく跳ねると、地面に叩きつけられ、
さらに急ブレーキをかけたものの制動距離の範囲で動いてきたトラックに轢かれる形となった。
余りにも無惨な死に様だった。
胴の辺りで奇妙に歪んだ体からは内臓が飛び出し、
血まみれになって尚、その表情は凍えるような笑みを湛えていたという。
132 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:39
亜依のショックは測り知れなかった。
恐い…というよりは、もう次に死ぬのは自分だ、と宣告されたような底知れぬ恐怖。
そして、必死で慰めようとする三人の友達の言葉さえ、もはや受け付けることはできなかった。
自分に関わったものには死が訪れる。
この期に及んで、亜依でなくとも周りの誰もが、そう信じて疑わなくなったのだ。
亜依は、かろうじて残る理性でぼんやりと考えていた。

のの、あさ美ちゃん、マコっちゃん
ごめんな……
うちに近づいたらあかん…
もう、遅いかもしれんけど…

亜依は、自分から三人と袂(たもと)を分かっていった。
133 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:40
ψψ

134 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:40
少女は亡くなった級友の葬式に出席していた。
いよいよ自分の番になって焼香のために遺影の前へと進み出る。
亡くなった級友は四角い縁の中でようやく安息を得られたとでも言うように
晴れやかな笑みを浮かべていた。

「くすり」の威力は絶大だった。
向精神薬の副作用として生じる著しい倦怠感…厭世感と言い換えてもよいかもしれない。
そして、何者かに付きまとわれているといった過剰な被害者意識。幻聴や妄想。
死因は打撲によるショック。
誰も怪しむものはない。

実験としては悪くない結果だ。
少女は静かにほくそえんだ。
傍から見たら、いかにも悲しげに映るであろうその表情の奥にさても恐ろしい
貌を隠しているとは、誰気付くこともない。
恐らく少女の内面を知った瞬間、その思いは凍りつくであろう。
135 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:40
実験…
少女はそう位置づけていた。
死んだ彼女には少しだけ同情しないでもない。
何しろ、亜依が転校してくるまではレギュラーの座をほぼ確実にしていたのだから。
靴を隠すのもいい。やや古典的な手法だが。
楽譜にいたずらするのもかまわない。むしろセンスの良ささえ感じる。

だが、その後がいけない。
彼女はやり過ぎた。
亜依の父親は実の父でなかった。
転校してきたのも母親の再婚が原因らしい。
どこから調べたものか、彼女はそれを知り、使えると思ったのだろう。
136 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:40
人の痛みがわからぬものはどこまでも残酷だ。
亜依に向かって彼女が吐いた言葉。

血は争えない。
泥棒猫の子はやっぱり泥棒だ。

これで彼女の運命は決した。
本人のことならともかく、親のことで責めるべきではなかったのだ。
どのみち彼女が生きていたとしても、これから、どれだけ多くの人がその心ない言葉によって
傷つけられることか。
彼女はああなって然るべき人間だったのだ。
そして、彼女をあのような人間に育てた親もその咎(とが)を負うべきだ。
137 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:40
「くすり」を服用させるのは簡単だった。
何しろ、自分を除くいじめっ子達が次々に不幸な目にあってゆくのだ。
もちろん、それらの仕掛けも少女が行ったものだが。
傍目から見ていても、次は自分の番だと思わざるを得ない。
精神的に追い詰められたとき、人は救いとなりそうなものにすがりつくものだ。

宗教の勧誘を行うなら、そういう人を狙うべきだ。
悩みを抱えると人は正常な判断ができなくなる。
世界中で自分だけが不幸だ。
そう、思っている人間ほど御し易いものはない。
138 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:40
あなたの悩みを解決してあげます。
こんな言葉に過去、どれだけの人が欺かれ、奈落のそこへ突き落とされて行ったのだろう。
正常な判断力を伴ったものならば、決して陥ることのない陥穽に喜んで嵌まりゆく人々。

少女が狙った子はすでにその領域に片足を踏み込んでいた。
簡単だった。背中を一押しすればよかった。
誰にも相談できなかったのだろう。
哀れな娘はひとしきり、亜依に対する呪詛を吐き続けた後、いとも簡単にそのくすりを服用した。

効果は抜群だった。
効能を読む限り、その即効性には疑いがなかったが、やはり実際に服用した人間の反応ほど
参考になるデータはない。
139 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:41
少女は自信を深めた。
このくすりは使える…と。
そして、その効果は実際のところ絶大だった。

父さん…

少女は静かに誓うと亡くなった娘の遺影に向かい、静かに手を合わせた。
その様子には悲しみを耐える友人以外の何者をも見出せなかっただろう。
娘の家族が少女に深々と頭を下げるのを見て、少女はさらに愉快になった。

もはや壊れているのが誰なのかは明白だった。
だが、少女は自分では気づかない。
少女自身にも新たな災厄が降りかかりつつあることを…
140 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:41
Atto T
La calunnia e un venticello>>127-139

141 名前:  投稿日:2003/09/24(水) 13:41
>124名無しAVさん
いつもレスいただきありがとうございます。
毎回は返レスできませんが感謝しております。

>125名無しさん
ありがとうございます。里ちゃんの写真集発売に期待してます。
142 名前:名無しAV 投稿日:2003/09/24(水) 19:44
膨らんできたな…。続きが楽しみです。
143 名前:名無し読者 投稿日:2003/09/25(木) 05:28
珍しくまいたんがメイン?で出てきてるみたく嬉しいです。
いままでは、どんな小説でもまいたんの扱いはしょぼい役ばっかだったし。
144 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:10
Giovanni traviati
非行少年、非行少女

145 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:10
「おい…わかったのか?」
「いえ…まだ…」
「なにやってんだ、てめえは?ちんぽついてんのか、ああ?」

男は吐き捨てるように言うと、いらだたしそうにタバコの箱を無造作に開けて一本を取り出した。
さっと火を差し出す少年に鋭い目を向けるともう一度尋ねる。

「で、あの女には近づいたんだな。」
「はい…けど、あいつ、プライベートでは使わないとかって。
粋がってんだかよくわかんないんすけど。」
「バカヤロウ!あれだけのものを持ってて使わないってのは、自分の持ってる物が何か
理解してる証拠だろうが。女のひとつやふたつ落とせないで極道が務まるとおもうなよ。」
「ハイ…スンマセン…」
146 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:10
少年は内心、不貞腐れながらも、目の前でふんぞりかえっている男の機嫌を損ねないよう、
見かけ上、殊勝な態度を装った。
真希と関係を持ってから、既に数ヶ月が経っている。
だが、一向に真希は例のくすりを使う気配はなかった。
男の言うとおり、彼女自身、くすりの恐さを十分理解していると見てよいだろう。
恐らく、彼女が卸しとしてくすりの流通の中枢を担っているに違いない。

不思議なのは、製造元だった。
最近、よく流入してくる北朝鮮からのものではない。
以前、主流だった台湾、中国製はめっきり影を潜めた。
大体が、北朝鮮の拉致騒ぎ以来、海洋の警備体制が厳しくなって、
覚醒材の取引量自体が激減している。
147 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:11
逆に言えば、今は供給不足の状態と言えた。
需給の逼迫している今ならば濡れ手に粟(あわ)のボロい商売が約束されている。
不況でどこの組もしのぎは厳しい。
少年を前に男の目の色が変わるのも当然と言えた。

このくすりのルートを押さえられれば金バッチは確実だ。
そして、男の出世は少年にとっても悪い話ではなかった。
極道の世界とて引き立てるものがいなければ出世はおぼつかない。
才覚一本で頂点に上り詰める大立者がいない、とは言わないが、
希であることは一般の企業社会と変わるところはない。
大部分の若輩が出世しそうな先達を頼って機嫌をうかがうのは珍しい光景ではない。
148 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:11
「ですがアニキ、あの社長、本当のこと、言ってんすかね?真希んとこの女がくすり、
使ってるなんて…あいつ、かなりいいとこのお嬢さんですよ、どこにそんなルートが…」
「だから、お前はバカだっつってんだよ。いいとこのボンボンってのはなぁ、
簡単に海外でもどこでも行っちまうし、多少の麻薬くらいはすぐに覚えっちまう。
やつらは自分が薬中になるなんてこれっぽっちも考えねぇ。税関だって、やつらには甘い。
ルートはいくらでも辿れるのさ。」
「海外…っすか…」

少年は考えた。
どうも違う…真希にそんな派手な遊びの匂いは感じない。
たしかに真希はそこそこ大きな会社を経営する社長の娘だとは聞いている。
だが、真希の生活は質素そのもので取り立てて高級ブランドで着飾るということもなかった。
そこが手強いところでもあるのだが。
あるいはそれこそが本当の金持ち、ということなのかもしれなかったが、
自らの境遇を考えれば、そのような立場の人間が何を考えているのか、
少年に理解する術はなかった。
149 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:11
はっきりしているのは、真希が海外でちょっとばかしハメを外すお嬢さま、
というタイプではないことだ。
海外旅行でちょっと…というルートは考え難い。
第一、大麻やガンジャのようにタイに行けば誰でも簡単に手に入れられるというような代物ではない。
例のくすりを使って信じられないほど凄いセックスをしたという社長の話を信じるならば、
その効力とスピードから、相当の純度、かつ非常に効率的な製法で錠剤化されている。
よほど大規模な施設を保持した製造元が背景にあるはずだ。

だが、真希からは一向にくすりのくの字も聞き出せないでいる。
彼女の心象を損ねてはいけないと思い、裏社会の匂いを感じさせる話題は努めて避けていたが、
このままでは埒(らち)が明かない。
150 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:12
だが少年とて、手をこまねいてばかりいるわけではない。
真希の友人に売りをやっているという女がいた。
名前は何と言ったか…まい…そうだ、里田まいだ。
少年は思い出してにんまりと表情を緩めた。
もちろん俯いているから男には見えないはずだ。
対面ばかり気にする男の前でできる表情ではなかった。

真希自身は売りをやっていない。
お高く留まっている、というわけでもないのだが、かといって不良というわけでもない。
真希が何を拠り所に生きているのか、少年には不思議だった。
取り立てて生活に不満もないのだろうが、かといって満足もしていない。
刺激…を求めているわけではないのだろうが、
かといって平穏な人生を望んでいるようにも見えない。
151 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:12
捉えどころのない真希の存在感を少年は持て余し始めていた。
物欲に乏しい真希は少年の手に余る。
彼女がくすりを入手できる立場にいることはつかんでいる。
だが、そこから先を手繰り様がなかった。
なにしろ、真希自身は使わない。
少年との行為も極めてノーマルだった。
もちろん、その感度が悪い、ということではない。
むしろ、良すぎるほどに敏感な性がくすりを必要としていないのかもしれない。

まいのことは例の少女が伝えてきた。
誰だかわからない不気味な存在。
ある日、突然、それは少年の横で鳴った。
助手席に乗った一台の携帯端末。
見覚えがないデザインに違和感を覚えながらも少年は受話器を取った。
少女はそうやって真希の存在を教えた。
以来、その携帯を通して少女は真希の情報を少年に与え続けている。
152 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:12
何の目的があってそのようなことをするのかわからない。
恐らく、くすりの利害関係に絡むのであろうことくらいは察しがついた。
何らかの形で自分を利用しようとするその意図は気に入らなかったが、
少女の与えてくれる情報が有益であることは疑う余地がなかった。
だから、少年は真希を誘惑した。

少女の与えてくれる情報は確かだった。
くすりの噂を辿ると必ず真希に行き着いた。
怪しい、と睨んだ少年は真希を追った。
だが、真希は尻尾をつかませない。
狡猾…というよりは、それを利用する気がまったくないかのような態度に
少年は苛立ちを隠せない。
153 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:12
焦った少年が、真希にくすりのルートを吐かせるためなら、多少、
手荒い方法も辞さない、と思い切った行動に出ようとした矢先の出来事だった。
少年は携帯を通して少女の声を聞いた。
女…ではないと思う。
あの声はまだ子どもだ、と少年は思う。

子どもの忠告になぜ自分が従ったのかわからない。
だが、その言葉には妙に説得力があった。
少年は、方針を変えることに決めた。
真希の懐に入り込むのだ。
物で釣れないのなら心を奪うしかない。

ストレートに近づいた少年に対し、真希は驚くほど素直に反応した。
少年は真希の恋人になった。
154 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:12
だが、それもまた手詰まりに陥りつつあった。
少年は焦った。
何より、自分が真希にはまりつつあることを意識していた。

後藤さんに溺れないでくださいよ…

少女の忠告を鼻で笑った自分かの若さが疎ましかった。
たしかに、真希は魅力的だった。
このまま、ずるずると関係を続けていれば、今度は自分が真希から離れられなくなるだろう。
潮時だった。
少年は少女からまいの情報を得た。

ピンと来るものがあった。
少女の話によればまいは売りをやっている。
そして、さらに都合のいいことにまいは性に貪欲だった。
155 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:13
中年男性との行為でもそれなりに楽しんではいるのだろう。
だが、やはり衰えを知らない若い少年の激しさには売りでは味わえない刺激があった。
まいは少年との行為に溺れた。
少年は手応えを掴んだ。
そろそろ、くすりを使う。
そんな予感があった。

もちろん、自らくすりの存在を仄めかすようなことはしない。
そんな必要はなかった。
まい、みずから、凄い興奮剤がある、と匂わせるくらいだ。
少年との快楽をさらに追求したい欲望にまいが逆らえるとは思えなかった。
淫乱…
少年は吐き捨てるように言った。
そう、まいは淫乱の売女だ。
あんな女を利用したところで良心の呵責を覚えることはない。
だが、真希は…
156 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:13
少年は金色に染めた髪を左手でかきあげながら、なぜか憤っている自分に狼狽した。
その怒りの対象がはっきりしないことにさらに苛立つ。
くしゃくしゃに頭を掻き毟る左手の指に何か金属様のものが光った。
少女に勧められるまま、まいに買い与えたペアリングの片割れ。
真希の前では決して着用しないように告げたものの、
少年に溺れきったまいが素直に言うことを聞くとは思えなかった。

それにも関わらず自分までが指輪を外せないでいるのはなぜか…

後藤さんに――溺れないでくださいよ…

少女の言葉が少年の脳裏で響いた。
少年はさらに頭を強く振って、その残響を頭の中から追い出そうとした。
157 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:13
――溺れないでくださいよ…

少年は激しく腕を交互に素早く突き出して、目の前の空間を殴りつけた。
その見えない敵の姿を倒そうとする表情には鬼気迫るものが宿っている。
やってやる…
少年はつぶやいた。
既に賽は投げられた。
走り出した運命は止められない。
例え真希が壊れるようなことがあっても…
少年は唇を噛み締めた。

――溺れないで……

少女の声が自分を嘲笑しているかのように頭の中で響いた。

158 名前:  投稿日:2003/09/30(火) 20:14
Atto T
Giovanni traviati>>144-157
159 名前:名無しAV 投稿日:2003/10/01(水) 20:10
このトライアングル……萌え
160 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:29
Credo in Dio crudel
無慈悲な神の命ずるままに

161 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:30
告げ口の次はメールだった。
内容が内容だけに真希がどな反応をするかわからず怖かったのだろう。
チクる行為も卑劣だが、そのやり方もまた最低だった。
フリーメール、いわゆる捨てアドで送りつけられたメールが語った内容は
怪しげで取るに足りないものと思われた。
だが、最後の一言に真希はカチンときた。

「飼犬に手を噛まれた寝取られ真希ちゃんへ」

いかにもバカにしたその文面に真希は送信者の悪意を感じた。
まるで自分には何もできないだろうと高を括っているような態度は真希のプライドを刺激した。
文面の向こうに送信者のニヤついた顔が透けて見えるようで悔しかった。
気がつけば、真希は学校からまいの帰りを尾けていた。
162 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:30
彼が現われるはずはないという願いにも似た気持ち。
そして、もしやと疑う思いが胸の中で交錯する中、真希はふと、
自分が異常な行動に出ていることに気付いて愕然とした。
くすりに溺れているまいを見下していたはずの自分。
くすりに依存するまいを蔑んでいたはずの自分。
だが、今、自分がしていることは何だ?
真希は自分もまた壊れかけていることに気付き戦慄した。

まいが渋谷に出ること自体、さほど珍しいことではない。
だが、109やセンター街などの女子高生が集まる場所には寄りつかないはずだった。
出会い系サイト絡みの犯罪が増えて大分下火になったとはいえ、
若い女の子を好む男性の数が減少するわけではない。
163 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:30
「まるきゅーはおやじのたまり場だから」
そう言ってまいも警戒していたはずだ。
直接交渉を求めるおやじとそれをうまいこと利用したい娘の欲望が渦巻く場所。
良客を厳選しているつもりでもばったりそんなところでばったり出くわすことがないとも限らない。
安い女に見られてはまいの商品価値が下がるし、
第一、直接交渉などという行為を恥ずかしげもなく行う男に無防備な姿をさらすことは危険だった。

その危険な場所にまいは入っていく。

正直、真希自身、渋谷という場所が苦手だった。
下町で生まれ育った真希にとって渋谷はどこか遠い存在だった。
股間で物を考えているようなバカ面を下げてすぐに声をかけてくる男達は鬱陶しいだけだったし、
どこから湧いて出てくるのかと思える若い女の子の集団は不気味なだけだった。
その場所に今、真希はいる。
164 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:31
まいは109に近づいていった。建物に入るのかと真希は身構える。
だが、まいはそんな真希の思惑をはぐらかすかのように
そのまま入り口を通り過ぎて道玄坂を登り始めた。
真希は段々と嫌な予感が胸のうちに渦巻いてくるのをどうすることもできなかった。
そうこうしているうちにもまいの細くて形のよい脚は忙しく回転して坂をしっかりと登っていく。

真希の悪い予感は当たった。
まいは坂を登り切る途上、交番のある角を右手に下る細い路地へと入り込んだ。
円山町だ。
まいは勝手がわかると見えて道を確かめる風でもなく、まっすぐに目的地へと向かっている。
そして、一町ほど歩いてホテル街のすぐ手前に差しかかったとき、まいが右腕を上げて手を振った。
その先、まいが小走りに駆けて向かうその先…
真希の視線は釘付けになった。
165 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:31
ホッ、と真希は胸を撫で降ろした 。
まいが向かった相手は背広を着た中年で彼とは似ても似つかない男だった。
仕事を取っていたのか…
安堵したのも束の間、不快な気分が込み上げてくる。
真希は思った。
自分を通さずに勝手に仕事を取るなんて。
後できつく叱っておかねば。
単独での仕事はリスクが大きい。
まあ今日はいい。
客の手前もあるだろう。

すっかり安心し切った真希が踵を返して帰ろうとした瞬間。
視界に入った光景に真希は目を疑った。
中年男は弾かれたように前のめりになってまいの背後へと飛び出た。
まいの後ろから頭ひとつ高い影が現われてその肩を抱いた。
真希はとっさに塀に貼りついて電信柱の影に隠れた。
目だけを出して覗くが気付かれた様子はない。
166 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:31
中年男はまいの方を振り返って何か捨て台詞のような物を吐くと、
真希の方へずんずんと向かってきた。
慌てて顔を引っ込めて息を潜めた。
心臓がドク、ドク、と鼓動する音が聞こえそうだった。
見たい。確かめたい。
あの背の高い人影は、まいに寄り添って肩を抱いたあの腕は誰のものだったのか。
10、9、8、…
真希は頃合を計った。
3、2、…よしっ!
思い切って顔を覗かせると脂ぎった中年男の顔がすぐ目の前にあった。
167 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:31
「ひっ…」
「おぉっ、ラッキー!」
さきほどの中年男だった。
男は叫ぶと右手を突き出して人差し指と中指を立てた。
「これでどう?な、前金でどうだ?」
真希は拳を握り締めた。
自分でもかなり険しい顔つきをしているのがわかる。

「あん?デーマンじゃだめ?じゃこれでどうだ!」
男は右手の薬指も立てて小鼻を膨らませた。
「これ以上は無理だぞ!」
真希は拳が震えるのをどうすることもできなかった。
「なんだよ、援交待ちのくせにもったいぶってんじゃ――」
グシャッ、と何かがつぶれるような音がして男は地面に転がり込んでいた。
両手で顔を覆ってのたうち回っている。
真希はハァ、ハァ、と荒ぐ息を抑えながら拳を見つめていた。
168 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:31
――感触がまだその手に残る。
熱い血のたぎりはさらに真希の野生を駆り立てた。
右脚を思い切りよく振ると革靴の爪先を男の股間めがけて鋭く突き上げた。
ぐっ、とうめき声を上げた男が股間を抑えて蹲るのを視界の片隅に収めると
真希は前方に視線を定めた。
二人の影は既にない。
「ちっ…」
真希は舌打ちすると、つぶれた鼻からだらだらと流れ出る血を眺め顔をしかめた。
軽く脚を振り上げてもう一度その顔の中心に固い靴の爪先を叩き込むとすぐに真希は走り出した。
メリッと軋むような音が聞こえたような気がしたが知ったことではなかった。

なだらかな斜面を下るとそこは既にホテル街の一角だった。
だが、二人の影はない。
真希はそこいら中を盲滅法に走り回った。
だが、いくら走っても二人は見つからない。
真希はあせった。
169 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:32
ふと周りの視線が自分に集まっていることに気付いた。
昼間まだ日の高いうちにホテル街に来るような連中のくせに他人の中傷には余念がない。
おどおどとした態度でうつむき加減に歩くカップルの蔑むような視線を感じると
真希はまたしても暴力的な血が沸々と湧き上がってくるのを感じないわけにはいかなかった。
角を曲がってきたばかりのカップルが真希の横を通り過ぎた。

「やぁねぇ。近ごろの高校生って昼間からこんなとこ来るのかしら」
振り向きざまにちらっと投げられた視線に真希は反応した。
聞こえよがしに吐かれた言葉は自分に向けられたものだ。
そう気付くとまたしても握った拳がぶるぶると震え出す。
170 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:32
「ああ。男の方もまだ高校生かな?」
「私服着てたから違うんじゃない?大学生くらい?」
「昼間っから女子高生とやろうなんてふてえやつだ」
「あぁっ!ちょっと何よ、それ!」

ハッ、としてカップルが通ってきた角を曲がった。
すぐ左手にホテルがある。真希は入り口の門にへばりついて中を覗いた。
細身で背の高い後ろ姿は紛れもなく彼のものだった。
まいが甘えるようにその肩にしなだれかかかっている。
真希は呆然と二人の後を見送ることしか出来なかった。
171 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:32


背の高い男と細身の女のシルエットがホテルの入り口に吸い込まれる様にして消えた。
真希はそれを見てもまだ信じられなかった。
まさか彼が自分を裏切るなんて。
いや、ありえない。
彼はそんな人じゃない。
彼はきっと…

そうだ、そうに違いない。
くすりを渡さないことに腹を立てたまいが意趣返しのつもりで誘惑したに違いない。
真希はふいに刺すような鋭い痛みを覚えた。
キリキリと刺し込む胸の痛みはやがて激しい憎悪へと変わった。
172 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:32
許せない。まいは許せない。
後藤は人影のない路地へ入ると鞄から携帯を取り出し番号を探した。
こんなことにしか役に立たない男だ。
自分からかけることはないと思っていたため、その番号はメモの底にひっそりと沈んでいた。
男はすぐに出た。

「あ、あたしだけど」
真希は電話の向こうでしきりにマジっすか!と繰り返すバカにつき合う気はさらさらない。
手身近に用件を告げると、向こうは急に推し黙り、
しばらくして本当にいいんですか、と舌舐めずりしそうな口調で確認した。
「あたしに二度言わせる気?」
携帯を握りながら勃起しているであろうバカとそれ以上言葉を交わす気力もなく、
真希は「じゃ、よろしく」と短く告げて通話を切った。
173 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:32
吐き気がする。
あんな最低なやつと口を聞かなければならなかったことに。
いや、むしろあんなバカを使ってやろうとしている自分の行為に。
だが、そうでもしなければ自分自身の手でまいの首を締め、殺してしまうかもしれない。
胸のうちに抱えた激しい情念を真希は他にどうやって処理していいかわからなかった。

だが、そんなにも激しく怒りながらも、
彼にその矛先を向けようとしない自分が不思議だった。
その気になれば男達を使って彼を殺す、
あるいは少なくとも二度と女を抱けないような体にすることくらいはできた。

だが、そんなことをする気はさらさらない。
それどころか、どうやって彼の心を繋げとめようか。
気がつけば、そのことばかりに腐心している自分がいた。
そろそろ、あれを使う潮時だろうか…
真希は危険な賭けに出ようとしていた。
それもほとんど勝ち目のない賭けに…
174 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:33


まいは走っていた。
息が切れる。
脚が重い。
もう限界だ。
目の前にはコンクリートの壁。
つまり、まいは追い詰められたことになる。
後ろから追っ手が迫った。

もういい…
まいはその場にへたり込んだ。
制服のブラウスは破れて肩がはだけている。
ここまで助けを呼ばなかったわけではないのだが、
関わり合いたくないとばかりに早足で立ち去られるのが落ちだった。
追っ手は次第に間合いを詰めていた。
175 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:33
余裕の表情で一歩一歩近づいてくるリーダー格の猿に似た顔の男は
冷たく光るナイフに舌を這わせながらギラギラとした目つきでまいの裸肌をねめまわしていた。
「えへっ、まぁいちゅわぁ〜ん、いいことちまちょうねぇ〜」
そう言いながらナイフを口に挟むと男はベルトをはずしてズボンのジッパーを降ろした。
遅れてやってきた仲間の連中もカチャ、カチャと競うように音を立て
ズボンを脱いで下半身を顕わにしようとしている。

リーダー格の男がパンツを脱ぎ去るといきり立った赤黒いものが鎌首をもたげた。
大きい、というほどでもない。
だが、形がよかった。
見事に反り返った茎の部分の上に乗った部分の傘が大きく開いている。
こんな場面でなければ思わず手にとってしげしげと眺めていたかもしれない逸物だが、
今日に限ってはおぞましく不快感以外のどのような感情も催さなかった。
176 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:33
男は手も添えずに逸物を動かしては、ピタッ、ピタッ、
と腹を叩きながらまいに近づいてくる。
「いや…やめて…」
既に力のない声はすべてをあきらめていた。
「くわえろよ」
男は血走った眼をまいの露出した胸のあたりに向け、
ぐへへ、と薄気味の悪い笑みをこぼした。
歯並びの悪さはそのまま知性の欠如を現しているようだった。

男は相変わらずピタ、ピタ、と太鼓のバチのように腹を叩いているそれを、
まいの口元に近づけた。
一瞬、顔を背けたがすぐ目の前にナイフの切っ先を突きつけられて、
まいは恐怖のあまり硬直した。
顔から血の気がサーッ、と引いてただただ、その鋭い先端から目を離すことができなかった。
ゆっくりと動く白刃の反射する煌きを目で追うとそれはまいの鼻先まで近づいた。
177 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:33
「ひぃっ!」
思わず後ずさると背中がざらざらとした壁の表面に当たる。
ナイフの尖端はまいの顔を避けてさらに肩の方へと向かった。
ザリッ…
さらに後ずさろうとするとヤスリのような壁の細かな凹凸でまいの肌は擦られ傷ついた。
男はナイフをまいの肩に乗せるとその尖った先をブラのストラップの下に喰い込ませた。
プチン、と音を立ててストラップが切れ、左の肩が顕になった。

形の良いまいの胸がカップからこぼれると、青筋を立てて隆起した男の欲望は
下腹に吸いつくように上を向いたまま先端から透明な液を滴らせた。
男はりんごでも掴むかのように荒々しくまいの胸を揉みしだいた。
「痛いっ!」
のけぞると壁で背中を擦る。
「しゃぶれよ…」
興奮のため喉が乾いているのか声がかすれていた。
178 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:34
弾力ある感触が気に入ったのか、男はゴム鞠でもかまうかのように
しきりにまいの胸ををもてあそんだ。
ギュッと握ったかと思えば、掌の腹のところでまいの乳首をころころ転がす。
そのすべてのしぐさが乱暴で、
まいは男が胸を掴むたびにちぎれるのではないかと思うほどの激痛を覚えた。
「痛いっ、痛いよ…」
「早くしゃぶれ、っつってんだろが!」

バチン、という激しい音と衝撃にまいは目がくらんだ。
頬にじわじわと熱が広がると強烈な痛みが襲ってきた。
まいは思わず頬を押さえた。
まいの意志とは関係なく涙がぼろぼろとこぼれ出した。

痛い…とにかく痛い。
何が起こったのかわからないほどの痛みに気付けば頭髪を引っ張られていた。
「しゃぶれや、ごるぁ!」
目の前でどす黒い肉の塊が踊っていた。
まいは反射的にその先端を口に含んでいた。
「おぅっ!」
弾かれたように左右から男の仲間がまいに飛びかかってきた。
そこでまいの記憶は途切れた。
179 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:34
次に気付いたとき、まいはコンクリート壁際の砂利道にほぼ全裸で転がっていた。
ボロ布のように薄黒く汚れたブラウスが腕の部分を残してすべて引きちぎられ、
胸は完全に顕になっていた。
腰の周りにはスカートが引きちぎられて乱雑に絡みついていた。
四肢にまんべんなく浮かんだあざはまいの体に加えられた暴行の激しさを示していた。

うぅっ…
呻き声を上げるのさえ苦痛だった。
どこがどう痛いのかわかないほど全身に痛みと火照りを感じた。
瞼には何かベトベトしたものがこびりついて手で掬うとねばねばとして糸を引いた。
立とうとしても力が入らない。
少し体を動かそうとしただけで気絶しそうなほどの激痛が全身に走った。
下腹に鈍い鈍痛感じたのは再び体を起こそうと腹筋に力を入れたときだった。
段々と各部の痛みに区別がつくようになってくると
何かいまだに犯され続けているような異物の挿入感がある。
180 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:34
こわごわ手を伸ばしてまいは思わず、ひぃっ!と叫んで上半身を起こし、
その場所を覗いた。
うっ…
涙が出た…
痛みよりも、汚された怒りよりも、それよりも…
果たしてこれが人間に対する仕打ちだろうか。
まいは嗚咽を漏らした。

腹腔の振動によって局部から何かがゴトリと音を立てて落ちた。
まいの中心には無数の石ころが詰め込まれていた。
ゴトリ、またひとつ、ゴトリ、と落ちるたびにまいの中で何かが壊れていくようだった。
血に塗(まみ)れた石の塊が生き物のように這い出ていく様は、
まるで異形の化け物を産み落とす鬼女のごとき印象をまいに与えていた。
181 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:34
うっ!とうめきながら立ち上がろうとしても筋肉が言うことをきかない。
体のどこかを動かそうとするたびに激痛が走った。
それでも苦痛に耐えながら立ち上がったとき、すでにまいは人間ではなかった。
少なくともその内面において、人間であることを既に放棄していた。

普通なら立ち上がることさえできぬ満身創痍の体を支えているのは
今や激しい怒りと復讐の念だけだった。
あんな獣(けだものの)のような連中をけしかけて
まいにこんな仕打ちを加えられるのは一人しかいない。

まいはその人物に対する激しい憤怒の情を糧として
貪り食うようにどこへ向かうともなく、ただ突き進んだ。
この酬いを必ず…
怒りの業火がその胸のうちを焼き尽くすまで、まいはひたすら歩き続けた。
182 名前:  投稿日:2003/10/07(火) 20:34
Atto T
Credo in Dio crudel>>160-181

183 名前:名無し読専 投稿日:2003/10/08(水) 00:58
久しぶりに覗いてたら大量更新されてた!
それにしても凄い展開になってきましたね。まいちゃん。。。
続き楽しみにしてます。
184 名前:名無しAV 投稿日:2003/10/08(水) 12:06
この輪と別の輪がどう絡んでくるのか非常に楽しみです
185 名前:名無しAV 投稿日:2003/10/10(金) 01:30
里田の写真集が出たばかりなだけに、この描写は結構・・・。
186 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:45
Va tutto bene
すべては順調に

187 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:46
少女はほくそ笑んだ。
まいは壊れた。
そしてまいを壊した真希も…
あとは勝手に自滅してくれるだろう。
後藤真希、社長令嬢。
その肩書きが地にまみれるのもそう遠くないはずだ。
真希は一線を超えてしまった。
今まで自重していたくすりの服用も時間の問題だった。
男はうまくやってくれた。
やつにはまだ真希を引きとめてもらわなければならない。
真希が完全に壊れるまで。

娘がくすりのために壊れたと知るのはどんな気分だろう。
少女は冷たい笑みを浮かべた。
それも自分が社長を務める会社の開発したくすりで。
くっ、くっ、くっ、……
笑いが止まらなかった。
当然の酬いだろう。
なにせ危険だとわかっている輸入血液を使用させて血清剤を製造し続けた男だ。
これくらいでは生ぬるいくらいだ。
まあいい。
少女は真希を利用してまいを追い詰めることができたことに気を良くしていた。
188 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:46
おもしろいように駒が動く。
操っているのは自分だ。
だが、犯罪の痕跡はどこにも残らない。
少女はまず一人、と指を折った。
真希で二人目、そして……吉澤ひとみ。
憎んでもまだ余りある吉澤、あの男の娘。
先妻の喪も開けぬうちに再婚して新しい妻を迎えるとは厚顔にもほどがある。
そして、何と言ってもあの男は父を裏切った。
それが許せない。

父の日記に吉澤への恨みつらみは書かれていなかった。
死ぬ間際まで父は吉澤を親友だと思っていたのだから。
だが少女にはわかった。
吉澤は父を売ったのだと。
その証拠に吉澤は父の死後、局内で昇格している。
あの男には最高の苦しみを与えねばならない。
そのためにも吉澤ひとみは最高の形で壊さなければならない。
そう、最高の形で……
189 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:47
今はまだ、そのときではない。
後藤真希は自滅するか、あるいは里田まいが何らかの手を下すだろう。
それを見届けてからでも遅くはない。
いや、その前に……
少女は加護亜依の不安げな表情を思い出した。
どうしてだろうか。
加護に対してだけは積極的に何かアクションを起こそうという気になれなかった。
今や戸籍上は吉澤の娘であるのに。

まあ、いい。
どちらにしても加護は今、自らを追い込んでいる。
少女が何らかの手を打つまでもなく自壊していくに違いない。
ゴホッ、ゴホッ……
少女は激しく咳込んだ後、いまいましげに毒づいた。
どうも悪い風邪が流行っているようだ。
加護亜依……やはり放って置くわけにはいかないだろうか?
答えは出そうにない。
それがより一層、少女をいらいらさせるのかもしれなかった。

ゴホッ、ゴホッ……
咳が止まらない。
少女は加護の思い詰めた表情を思い出してなんだか胸が締めつけられるように感じた。

ゴホッ、ゴホッ……
咳は止まらない。
190 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:47


授業の終わりを告げる鐘が鳴るともう生徒達は立ち上がってがやがやと騒ぎ始めている。
午前最後の授業。
つまり昼食の時間だ。
亜依の学校は中高一貫の女子校で昼食はカフェテリアで取れるようになっている。
もちろん、弁当の持参も認められていて天気の良い日には中庭で談笑するグループの姿も
ちらほら見られた。
亜依と辻、小川、紺野は弁当組だった。
例の事故以来、亜依が時分の殻に篭りがちになったこともあり、
以前のように一緒に遊ぶことはなくなったものの昼食は一緒に取っていた。

いつものように亜依が弁当箱を下げて辻の席に近づくと、
辻が罰の悪そうな顔で「ごめん」と一言つぶやくように告げた。
「どしたん?」
「今日、お母さんが起きるの遅かったから弁当ないんだ」
遅れてやってきた小川もなんだかもそもそしている。
紺野が「購買でパン買えば?」と促してもまだ辻は席を立とうとしない。
「あ、あたしもお弁当、今日ないんだ…」
「じゃあマコっちゃんも辻さんと一緒に――」
そのとき廊下から突然声が聞こえた。
191 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:48
「おぉーい、つじぃーっ、おがわぁーっ、早くしろよー」
ガタン、と椅子を下げて大きな音を立てると辻は立ち上がり「ごめん!」と言い置き
教室の出入り口で待つ生徒の方へと向かっていく。
追随しようと振り返った小川の腕を紺野が掴んだ。
「マコっちゃん!どういうこと?」
「ご、ごめん…今日お弁当ないって言ったら、あの子たちに誘われちゃって……」
辻の手を引いて小川に来い、とばかりに大きく手を振る生徒たちの顔ぶれを見て合点がいった。

理由はわからないが他のグループとの諍(いさか)いからか、
最近、しきりと自分達の仲間を増やそうとしている連中だ。
普段なら相手にもしない相手に平気でそんなことのできる神経が紺野には信じられない。
亜依の今にも泣き出しそうな顔を見て紺野の表情がこわばった。
192 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:48
「断らなかったの?」
問い質す紺野の声は厳しい。
「え、ええっと、……」
うろたえた小川は、おろおろした様子で辻と加護の間で交互に視線を走らせては
どちらについたものか戸惑っている。
見かねた加護が消え入りそうな声で告げた。
「約束したんだったら、行かないと悪いよ……」
小川はほっとした顔を隠すこともできず「ごめん」と一言、言い残すと
タタッ、と駆けて辻の方へ向かった。

紺野は自分が悪いことをしたみたいに恐縮して「ごめん」と短く謝った。
「あさ美ちゃんもいいよ。あの子たちに誘われたんだったら……」
「なに言ってんの!」
紺野がたいそうな剣幕で怒り出す。
「マコっちゃんも辻さんも誘ってもらったから断れなかっただけだよ!
いつもはあいつら、わたし達のこと無視してるくせに」
「でも……」
心配そうに自分を見つめる亜依に対し、紺野は「大丈夫!」と微笑んだ。
193 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:49
「明日はきっと一緒に食べるよ。あいつらといたって楽しくないもん」
「あさ美ちゃん……」
瞳を潤ませて「ごめんね」とつぶやく亜依に対して、
紺野はひたすら「大丈夫、大丈夫……」と繰り返してなだめようとした。
ニコッ、と笑い「行こっ」と告げる紺野に向かってこくりとうなずくと亜依は黙って後に着いた。
廊下の先の方では辻と小川を誘った連中が騒がしくカフェテリアへと向かうのが見えた。
辻と小川はグループの誰かと楽しそうに談笑していた。

「あさ美ちゃん……」
「ん?」と問い返す紺野に対し、亜依は「ありがとな…」と短くつぶやき、
それから何回も「ありがとな」と繰り返した。

次の日。亜依は学校に来なかった。

194 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:49
――――――

――――

―――


195 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:49
Atto T
Va tutto bene>>186-194

196 名前:  投稿日:2003/10/13(月) 07:51
>143 名無し読者さん
ありがとうございます。
貴重なご意見、参考にさせていただきます。

>183 名無し読専さん
レスありがとうございます。
少量更新ですみません。
次回はがんばります。

>184-185 名無しAVさん
いつもありがとうございます。
鋭い突っ込みにビビってます。
お手柔らかにお願いします。
里ちゃんの写真集は買いました。
やっぱり凄かったです(何が?
197 名前:名無しAV 投稿日:2003/10/13(月) 17:58
うわぁー面白い!オペラ座の怪人みたいだ!
美味しいところがたくさんありすぎて続きが楽しみです。
頑張ってください。
198 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:02
Addio fiorito asil
さらば、愛の家

199 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:02
電車は空いていた。
四人掛けのボックスシートには他に乗客もない。
亜依は周りを見回して特に咎められるような視線のないことを確かめると、
思い切って窓を引き上げた。
冷夏とはいえ、省エネのためか冷房の温度が比較的高めに設定されている車内は蒸し暑く、
亜依には少し息苦しく感じられた。

窓を開けると涼しい風が入り込んだ。
亜依はほっ、と息をついて窓際で汗をかいているジュースの缶を握った。
冷んやりしとた感触に、冷静さを取り戻したような気がしたのは一瞬のことだった。
プルトップを引いてプシュッ、と音がしたのと同時に電車のドアが閉まった。
ガタン、とひとつ大きく揺れて電車がゆっくりと走り出すと車窓の風景が流れる。
亜依はジュースを喉に流し込んで缶を窓の下の小さなテーブルに置き、窓の外を眺めた。
200 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:03
思えばこの風景を前に見たのはそれほど遠い昔の話ではない。
母親に連れられて二人で上京したのはつい半年ほど前のことだった。
亜依はずっと二人で暮らしていくのだと思っていた。
母と別れた父は好きだったけれども、
両親がもはや一緒には暮らせないことを亜依も理解していた。

だから、亜依はおかあさんと二人で暮らしていくのだと思っていた。
東京に出ることになったのは母が大学の先輩を頼って職につくためと説明された。
だが、東京に出て実際に母が勤めに出たのはわずか三ヶ月ほどのこと。
職を世話してくれた大学の先輩、という人を紹介された翌週には
すでに新しい父になる人なのだと確信めいたものを抱くようになっていた。
亜依は別れた父を裏切るような気がして胸が痛んだ。
201 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:03
母が父と別れたときにはすでに「新しいお父さん」と結婚することを
決めていたのではないかと思った。
そう思うと一層、父が哀れに思えた。
誰にも相談できず一人思い悩むうち、気が付けば新幹線に乗り込んでいたのも、
そんな父に対する親近感によるのかもしれない。
亜依の孤独を理解してくれるのは父しかいないように思われた。

電車はローカル線らしく各駅に停車していく。
見覚えのある風景が目に入るたび、亜依の心の霧は少しずつ晴れていくように感じられた。
遠くに見える山々の緑が目に沁みた。
くっきりと浮かび上がる山の稜線をぽっかりと浮かぶ薄雲がところどころ遮っている。
夏の強い日差しを受けて光る駅舎の瓦屋根のまぶしささえ、なんだか懐かしく感じられた。
202 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:03
だんだんと四肢の感覚が体内によみがえってくるのを亜依は意識した。
やはり、亜依は生まれ育ったこっちで暮らすべきなのだ。
すうっと深く息を吸うと蒸せ返るような夏草の匂いに軽いめまいさえ覚える。
亜依はその薫りに濃厚な生の息吹を感じた。
要するに。亜依は生き返ったような気がしたのだ。

ひとみさんや新しいお父さんとの暮らしの中で
亜依は自然に振る舞うことをどこか怖れていた。
無論、ひとみさんや新しいお父さんが自分を気遣ってくれていることはわかる。
萎縮していたのは母に気まずい想いをさせないため…と言えば聞こえはいいが、
要するに亜依は新しい家で嫌われたくなかったのだ。
203 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:03
ただでさえ、学校ではいじめられている。
その上、家の中にまで居場所がなくなるのが怖かったのだ。
だから、胸のうちに押し込めてきたものかもしれない。

だが、それももう限界だ。
これ以上、耐えられそうにない。
そう考えたとき、自然と脚は駅へと向かっていた。

母が亜依の名義でつくってくれた銀行口座には
毎年のお年玉や入学祝いなどが入れられていたため、
決して少なくはない金額が残っていた。
新幹線に乗って父のもとへと帰るくらいの余裕はあった。
204 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:03


駅からの道を亜依はバスに乗らず、徒歩で行くことにした。
久しぶりの故郷の景色をしっかりと目に焼きつけたいと願ったこともあるが、
ゆっくり歩いていれば友達に会えるのではないかというほのかな期待からの行動だった。
田舎とはいえ、皆が声を掛け合うほど親しくしていたわけではない。
商店街を通って「亜依ちゃん」などと声をかけられることもないのだが、
それでも売り場に知った顔を見かけるとほっとした。

そのたびに、やはり自分は生まれ育ったここで暮らすべきなのだ、
との思いを強くしつつ父にどう切り出したものか悩むのだった。
すでに授業は終えているはずの時間帯だったが、
運の悪いことに駅前の商店街を抜ける間、一人の知り合いにも出会わなかった。
205 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:04
もうじき商店街を通り抜けてしまうというところで亜依は振り返り、
誰か通りを歩いていないかキョロキョロと見回してみたが、
生憎と知った顔を見ることはなかった。

やや落胆しながら、それでもかつてバスでよく通った道を歩いていく。
駅前の商店街が過ぎればあとはぽつぽつと民家が並ぶだけの田舎町だった。
幹線道路沿いに進むと時折生け垣に囲まれた大きな家が目についた。

瓦屋根を乗せた木造の大きな家屋は旧家でもあるのか、
そう思うと門構えも何やら立派に見えてくる。
表札に書かれている名文字をぼんやりと眺めながら歩くと、
何件かの家が同じ名字であることがわかった。

この辺りの土地を所有していた昔の地主の家柄なのかもしれない。
パスで通っていた頃にはわからなかったが、
この辺りにはそのような旧家が偏在していた。
亜依は目から鱗が落ちるような新鮮な驚きを覚えた。
206 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:04
大きな民家がまばらに点在する集落を越えると
道はいよいよ草深い山の中へと分け入ってくねくねと蛇行し始める。
高い木々が道端に落とす黒々とした影が歩行者にはありがたい。

亜依はふぅ、と軽く息を吐いてバス停のベンチに腰を降ろし額の汗を拭った。
木々の間を抜けて吹くさわやかな涼風が心地好かった。
足許には木漏れ日の落とした斑模様が点々と光り、
そこだけ地面の色が白く変色しているように見えた。

この山を登って下れば亜依の住んでいた住宅街まで
もうそれほどの距離はないはずだった。
いわゆる新興住宅地。
亜依が小学校に進む頃に開発されたばかりの新しい住宅街だった。
亜依の家は第一期に分譲されたもので当初はまだ戸数も少なく、
遊び相手にも事欠いていた覚えがある。
207 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:04
宅地を造成するために切り開くためにまだ工事車両が忙しく立ち回る中、
亜依はパワーショベルで削られた小高い山の側面が
赤々とした地肌を晒しているのを恐々見上げていた。
昨日まで山だったところが次々に切り開かれ、
家が建てられていく様を見ているのは楽しかった。

当初、数十軒しかなかった住戸の数はあっという間に数百軒に膨れ上がっていった。
亜依は街並みが成長する様を見ながら育った訳で、
その場所に強い愛着を覚えるのも無理からぬことではあった。
今だに新しい生活の場になじめないのもそのせいかもしれない。

やや勾配のきつい坂を登りきると眼下に住宅地の街並みが広がって見える。
いつのまにかすっかり高度を下げた太陽を後ろに背負う形で歩いていた。
208 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:04
足許に伸びる長い影を追いかけるように早足で下ると
夕映の照り返しでピンク色に染まる家々の壁が迫ってきた。
住宅地が近づくに連れて懐かしさが胸に込み上げる。
そろそろ父も会社を出てくるだろう。
亜依が家に着く頃には帰宅しているはずだ。
そう思うとより一層、胸が弾んだ。

亜依は一人で暮らしている父のことを思った。
不器用な父のことだ、食事はすべて外食だろうか。
きちんと栄養を取るように言わないと。
得意ではないが、父のためなら何かつくってもいい。
こう見えても女の子だ。
209 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:04
卵焼きくらいなら…
亜依は先日、家でつくった黒焦げの塊を前に途方に暮れるひとみさんの顔を思い出し、
慌ててその言葉を打ち消した。
そう、卵料理は難しいのだ。
プロのコックだってまずは卵を割るところから始めるというではないか。

そうだ、カレーくらいなら亜依だって…
と考えて、やはりスプーンを右手に固まっているひとみさんの呆然とした表情が浮かんできた。
亜依はうなだれて手料理はあきらめることにした。
新しい父と母が二人で観劇に出かけた夜は亜依が何か作らざるを得ない。
食事はまあいい。外で食べればいいのだ。
210 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:04
掃除はどうだろう?掃除機はきちんとかけているのだろうか。
ゴミはちゃんと捨ててるだろうか。
洗濯は?

心配の種はつきない。
なにしろ、亜依は父が家事をやっているところなど見たことがないのだ。
それが両親の離婚した一因であることに亜依は気付いていないが。

坂を下りきる頃には日が背後の山の向こう側に落ちて辺りには薄闇が広がり始めていた。
ぽつぽつと灯る家々の明かりに亜依は胸が締めつけられるほどの懐かしさを覚えた。
住宅街に入り、家々の間をぬって歩くとどこからか夕飯の匂いが漂ってくる。

今日はカレーか…
香辛料の利いたおいしそうな香りに亜依は思わず唾を飲み込んだ。
そういえば大分、お腹が空いてきた。
考えてみれば朝、家を出てから食事らしい食事も取っていない。
211 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:05
早く家に帰って、お父さんと食事に行こう。
逸(はや)る心に急かされるように亜依は歩調を早めた。
あの角を曲がればもう家はすぐそこだ。
そう思うと父が帰っているか急に不安になった。
だが、そのときはそのときだ。
父が帰るまで待てばいい。

亜依はドキドキしながら亜依の家の隣にあたる家の角を曲がった。
恐る恐る自分が住んでいた家を見上げる。
明かりは灯っていた。
亜依はほっとした 。

隣の家からは夕食のいい匂いが漂ってくる。
何か中華らしいけれども料理の種類まではわからなかった。
亜依はゆっくりと歩を進めると、家の前に立ってしばし逡巡した。
212 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:05
いきなり帰ってきて怒られないだろうか。
急に不安になる。
離婚が決まる直前の時期、両親のいさかいが絶えない頃。
学校から帰って家の前に立ち、よくこうして家に入るのをためらっていたことがある。

中から激しい口論の声や激しく泣き叫ぶ母の声が盛れ聞こえていた。
娘にそんなところを見せたくないと二人が考えているらしいことに薄々感づいていたからだ。
それならいがみ合うこと自体を止めてくれればいいのに、と何度も思ったが、
二人の仲が修復不能なところまで来ていることもやはり亜依なりに理解していた。

ともあれ、亜依は今、家の前に立っている。
諍(いさか)いの声は聞こえないけれど…
213 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:05
亜依は突然、強い違和感を覚えた。
中華料理に使われているらしいにんにくの強い香りが鼻についた。
風向きによるのだろうか。
隣の家の前を通ったときよりも匂いが随分はっきりと感じられた。
そして、見上げた2階の窓には明かりが……

亜依は嫌な予感がした。
そういえば父一人でいる割にはやけに明るいと感じていた。
カーテンの閉まった窓から中の様子はうかがえないが、
2階の部屋は以前、亜依が使っていた。
そして、庭に面したリビングの軒下にはまだ取り込まれていない洗濯物が……

数が多すぎる。
訝しく思った次の瞬間、
カーテン越しに黒い影が浮かんだのを見て、亜依はとっさに身を隠した。
門柱赤ら目だけを出して覗くと、誰か知らない女の人が洗濯物を取り込んでいた。
214 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:05
お手伝いさんでも雇ったのだろうか……
亜依の不安は高まるばかりだ。
お父さん……

「ご飯よ!」
女性の声が夕飯の支度ができたことを告げると、
バタバタと階段を降りる音に続いて「また中華かよ」という男の子の声が聞こえた。
「こら、文句ばっかり言ってないで食べなさい」

ハッとした。
お父さんの声だ!
亜依は門柱にぴったりと体を寄せて体を震わせた。

なぜだかわからない。
いや、わからないわけじゃない。
認めたくないだけだ。
父が既に再婚して暖かい家庭を築いていることを。
だが亜依は……
215 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:05
明かりを灯した自転車が一台、亜依の横を擦り抜けていった。
その後をぼんやりと眺めながら、亜依は途方に暮れた。
今更、父の前に顔を出すわけにはいかなかった。
だが、一目でいいから父の姿を見たい。
亜依はどうすればそれが適うかを考えた。

夕闇は深まり、亜依の姿を路上の街灯がぼんやりと照らしている。
昔、いたずらでよくやったように
ピンポンダッシュで角から覗けば父の姿を望むことができるだろうか。
だが、そんなことをしてもさっきの女の人が出てくるだけのような気がした。

どうすればいい。

やっぱり、事情を説明して父に会わせてもらうしかないのだろうか――
いや、だが、父がせっかく掴みつつある幸せを壊すわけには――
216 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:06
亜依の思考はぐるぐると同じところを行ったりきたりの無限循環に陥った。
考えている間にも時間は刻々と過ぎていく。
どうしよう…、どうしよう…

亜依はついに呼び鈴に手を掛けそうになった
腕を上げてインターフォンのボタンに指を伸ばす…

と、突然後ろからその腕を掴まれた。
ひっ、と叫びそうになる亜依に
「しぃっ!」と声を立てないよう注意するその掌の感触は暖かかった。
おそるおそる振り返った亜依は危うく声を上げるところだった。

「ひとみさん……」
「やっぱ、ここだったか……」
ひとみさんは優しく微笑んでいた。
「その様子じゃお父さんにはまだ会えてないな」
こくりとうなずく亜依の目から涙が一粒、ぽろりとこぼれ落ちた。
217 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:06
ひとみさんは目で大丈夫、というように合図すると呼び鈴を押そうとして手を止めた。
「えっと……お父さんの下の名前と…それから会社での役職はなんだっけ?」
亜依が告げるとひとみさんは軽くうなずいて深呼吸した。
呼吸を落ち着けるとひとみさんは意を決したように姿勢を正して呼び鈴に指を伸ばした。

ピンポーン、という戸建て住宅らしい典型的な電子音のチャイムに続いて
「ハイ、どなた?」と尋ねる女性の声が聞こえてきた。
おそらく新しい配偶者のものだろう。
ひとみさんは「すみません。夜分、恐れ入ります」と屈むようにして
門柱のインタフォンに顔を寄せている。

「会社のものですが加護係長はいらっしゃいますでしょうか?
忘れ物がございましたので至急お届するよう上司から言付かりまして…」
縦板に水とはうまく言ったもので、
淀みなく話すひとみさんの堂々とした態度に亜依は脱帽した。
218 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:06
「――はい、ええ、直接お渡しするように申しつけられておりまして」
「少々、お待ちください」と告げて女性の声が途切れると
ひとみさんは片目を閉じて亜依に目くばせした。

亜依はひとみさんに促されるまま、門柱の影に隠れた。
こんな風にこそこそ隠れるいわれはないのだが、
前妻の連れ子が姿を見せてはやはりまずいのだろう。
そう考える程度の想像力は亜依にも備わっていた。

気のなさそうな音とともに玄関の戸が手前に小さく開き、男性の目が覗いた。
「あ、加護係長、夜分、恐れ入ります」
ぺこりと頭を下げる金髪のショートカットに心当たりがないためか
亜依の父はドアの影から顔だけを出してなおも様子をうかがっている。
219 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:06
「社に忘れ物をした覚えはないんだが…」
疑わしげに問いかける相手に向かってひとみさんはつつ、っと近寄り小声で告げた。
「会社にはないかもしれないけど東京に忘れてきたモノがあるでしょ?」
「えっ……」
その言葉に思い当たる節があったのか家の奥を不安げに振り返ると、
ひとみさんを追い立てようとでもするように玄関から出て後ろ手にドアを閉めた。

「ちょっ…ちょっと待ってくれ…」
言葉の端々に狼狽している様子がうかがえる。
門柱から小さく結ったお団子頭が覗いているのに気付いているのかいないのか。
突然の来訪で心の準備ができていないことを差し引いても、
その面持ちに実の娘との再会を前に喜ぶ父の姿を見ることはできなかった。
220 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:06
亜依はそれでも早く父と言葉を交わしたかった。
父が自分のことを疎ましく思っているなどとは夢にも思っていない。
お父さん……
そう叫んで早くその胸に飛び込みたかった。

ひとみさんの促すままに父は門の外へと連れ出され、
壁際で所在なげにたたずむ自分の娘の姿を認めた。
潤んだ瞳で見上げる亜依。
その視線を父の目が捉えた。

「ジブンの親権はみちよに預けたはずや。もう来たらアカンで」
「……」
喉まで出かかった言葉がつかえて出てこない。
ひとみさんは唖然とした表情でそのやりとりを眺めている。
「お父ちゃん、再婚してん。せやからもう、ジブンには会われへんで」
そう言い置くと父は二人に背を向けてスタスタと玄関に向かった。
221 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:06
ガチャン、と大きな音を立ててドアが閉まっても
二人はその場から動くことができずにいた。
亜依は一言も発することができなかった。
ひとみさんは亜依の肩に腕を回した。
くしゃくしゃに歪められ、うつむいた亜依の顔から涙が滴り落ちた。

「帰ろう……」
ひとみさんの言葉に黙ってうなずくと亜依は元来た道を辿り始めた。
知らぬ間に月が上がっていた。

月明かりに照らし出されてぼんやりと山の稜線が浮かび上がる。
とぼとぼと歩を進める亜依の傍らでひとみさんは黙って歩いた。
222 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:07
住宅街を抜けるとバス停の標識が街灯に照らされているのが見えた。
ベンチの上に女の子がひとり座っている。
小学校の低学年くらいだろうか。
誰かを迎えにきたのかもしれない。
運のよいことにほどなくバスはやってきた。
駅からの客が何人かぱらぱらと降りてくる中に目指す顔を見つけた少女はまっすぐに走り寄った。

「パパぁ、おかえりー」
「おおっ、ただいまー」
父親に抱きつく娘。
娘をだっこして疲れた体に再び生気を取り戻した父親。
はしゃいで話しかける娘に相好を崩して答える。
どこにでもあるありふれた風景。
223 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 10:07
その様子をぼんやりと見つめる亜依の手をひとみさんはギュッと握った。
バスに乗り込んでなお、
親子の姿を見送る亜依の掌をひとみさんは両手で包み込むと穏やかな声で告げた。

「お姉ちゃん、…って呼んでいいんだぞ」
街灯が親子が並んで歩く姿を薄ぼんやりと照らしている。
窓の外を見続ける亜依に向かってひとみさんは繰り返した。

「お姉ちゃん、って呼んでいいんだからな」
亜依は放心したように窓の外を見つめている。
ひとみさんは掌で包んでいた亜依の小さな手をギュッと握り閉め
誰に言うともなくつぶやいた。

「いいんだからな……」

やがてバスは走り出し、親子の姿は遠のいて豆粒のように小さくなった。
それでもなお、振り返ってその姿を目で追い続ける亜依の手を
ひとみさんはただ強く握っていた。
224 名前:  投稿日:2003/10/20(月) 16:32
Atto T
Addio fiorito asil >>198-223

225 名前:名無しAV 投稿日:2003/10/20(月) 21:30
それぞれの愛の形が見えました。どれも本物の愛ですね
226 名前:名無し 投稿日:2003/10/31(金) 01:11
期待保全。
227 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:54

Atto U
第二幕

228 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:54
Scusate
お許しを
229 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:55
「あさ美ちゃん…」
「ん?」
下駄箱の前で呼びかけられて振り向くと小川の顔があった。
見るとその肩越しに辻の頭も覗いている。
「ねえ、もう帰るの?」
罰の悪そうな顔は今日、亜依が休んだことに多少なりとも
責任の所在を感じているせいたろう。
だが、紺野はあえてそのことに触れるつもりはなかった。

既に十分過ぎるほど二人は罰を受けている。
そのしょうすいしきった表情を見れば、
今日一日をどのような思いで過ごしたかわかろうというものだ。
もちろん二人は今日、昨日の連中と昼食をともにしてはいない。

「あのね、あさ美ちゃん…」
何かを切り出そうとしては、言い淀む煮えきらない態度に
辻がしきりと小川の脇腹をつついては急かす。
紺野としては何が言いたいのか痛いほどわかるだけに
助け船を出してやりたいところだが、そこはじっと我慢。
言いにくいことだからこそ、本人の口から出てこなければ意味がない。
230 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:55
「あいぼん、今日、休んだよね…」
「うん」
「あれって、やっぱり…」
そう言ったきり口篭る小川を見かねて辻が横から口を出す。
「あいぼんに謝らなきゃ。誤りたいの」

さすがに辻だ。
単刀直入。
紺野はそんな辻のシンプルな思考法といい、
小川の気遣いといい、どちらも嫌いではない。

「気にしてないとは思うけど…」
この辺り紺野もやさしい。
「悪いと思ってるなら謝ったら?」
「うん、あさ美ちゃん……」
まだ何か言いたそうにもじもじする小川を再び辻が小突いて促す。
紺野はその様子がなんだかおかしくて顔を綻ばせてしまう。
231 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:55
「なに?」
にこやかに微笑む紺野の表情に安堵したのか、
ようやく小川が口許を引き締めて視線をまっすぐに向けた。
紺野は少しどきどきしながらその言葉を待つ。
「ごめん…あたしたちが悪かった。もう勝手に他の子とお昼の約束とかしないから」
「へ?」なんだそんなこと…と思わず口走りそうになり、
慌てて紺野はその言葉を心のうちに押し止めた。

よほど堪えたのか、二人とも今日一日、
休み時間も席に止まって誰かと雑談することさえなかった。
紺野自身は昨日の亜依の落ち込みようが気になって、
自分に対しても小川と辻が罪悪感を抱いていることまで思いが至らなかった。
考えてみればたしかに随分と失礼な話ではあったが、
今更そんなことを蒸し返してみても始まらない。
もとより、紺野は二人が心変わりしたなどと信じてはいなかったのだから。
232 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:55
「私は全然、気にしてないよ。それより――」
と言いかけて紺野はハタと気付いた。
自分が気にしないのは当たり前だ。
そもそも二人が他のグループに誘われてホイホイ着いていった原因が
自分にあるとは思っていなかったのだから。
自分もまた亜依に対して、存外、冷めた見方をしていたことに気付かされ、
紺野自身、今、初めて罪悪感のようなものを覚えた。

「――ごめん…私にもそんなえらそうなこと言う資格ないよ。みんなで謝ろう」
「あさ美ちゃん…」
ゴホン、ゲホン、と辻が咳込んだ。
慌てて小川が背中をさする。
「大丈夫?」
「うん…ゴホッ、ちょっと風邪かも…」

紺野もつられたようにゴホン、と咳込んで小川がさらに慌てた。
「あ、あさ美ちゃんも!」
「う、うん。悪い風邪流行ってるから、マコっちゃんも気をつけないと」
「えへ。バカとなんとかは風邪ひかないって言うから」
「あたし、バカだけど風邪ひくよ……」
辻の言葉に残りの二人は固まった。
233 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:55
「の、のんつぁんはバカじゃないよ…」
慌ててフォローする二人だが、
事実、辻の成績はお世辞にも褒められたものではない。
対して小川は「バカ」と自称するほどひどい成績ではなかった。
むしろクラスではトップの紺野に劣るとはいえ、それほど遜色ない成績を常に残している。
聞きようによっては、嫌みとも受けとめられる発言だったが、
幸いにして辻はさほど気にしている気配もない。
単に小川の発言が事実に即していないことを指摘したかっただけのようだ。

「それよりさ…」
小川としては早く本題に戻したい。
紺野も「うん、それで」と先を促す。
二人の様子にさして不信な思いを抱くことなく、辻が後を接いだ。
「今日の授業のノートとかさ…」
「うん、あたしのノートじゃ、あいぼん、授業の内容わかんないだろうしさ…」
「あさ美ちゃんなら字が奇麗だし、
よくまとまってるからコピーとってあげたらよくわかるかなあ、って…」
234 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:56
そういうことか。
紺野はくすっ、と笑みを漏らすと明るい調子で応えた。
「私もそうしようかと思ってたの」
二人の表情がパッと明るくなった。
「なぁんだ、早く言ってよぅ」
「あさ美ちゃん、一人で行こうとしてたの?ズッコいじゃん?」

屈託のない様子で突っ込む二人の現金な態度に苦笑しつつ、
紺野はやはり明るい態度で応えた。
「うん…なんか二人してずっと私のこと見てたからそろそろ来る頃かな、
と思って待ってたの」
「ええっ?じゃあ、うちら、まんまとあさ美ちゃんの罠にはまったってこと?」
「おおっ、策士よのぅ」
小川の明るい表情に後押しされて「ぬかったな麻琴!」と調子に乗る紺野。

「罰として先陣を申し遣わす」
「へっ?」
目を見開いたまま固まる小川にはてなマークを顔面全体で表現している辻。
紺野はにこにことした顔で声のトーンを変え、今度はゆっくりと優しい調子で二人に告げた。
「あいぼんにはマコっちゃんがまず謝るんだよ」
235 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:56
「ええっ?!」とおおげさなリアクションを返す小川に辻がニヤニヤと笑いかける。
「マコっちゃん、がんばってね」
「辻さんもだよ」
紺野が命ずると辻もまた「へっ?」と言ったその口のまま固まった。
「あいぼんに悪いと思ってるなら二人で謝って」

真剣な紺野の口調に二人も表情を引き締めてうなずかざるを得ない。
そうこうしている間にも何人かの生徒が下駄箱と紺野の間を擦りぬけていく。
立ち止まる三人の様子を興味深そうにうかがっては
何事もなかったように去っていく同級生の後ろ姿を目で追いながら紺野がつぶやいた。

「行こう」

無言でうなずいた二人を背に紺野は歩き出した。
校舎を出ると既に傾きかけた秋の日が足許に長い影を落としていた。
歩きかけて二つのやはり長い影が動いてもうひとつの影に並んだのに気付いた。
横を見ると小川が微笑んでいる。
紺野も微笑み返すと黙ったまま二人は歩き続けた。
小川の向こうでは辻ががさごそとカバンをまさぐって携帯を取り出している。
236 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:56
「あ、お母さん?うん、わたし。今日、遅くなるから…ん?
え、違う。友達が学校休んだからノート届けに…
えっ?違うって、わたしのじゃないって…うん。はい。バイバイ」

パタンと閉じて携帯をカバンに放り込むと辻はやや前にいる二人の後を追いかけた。
「もう、失礼しちゃうよね。『あんたのノートなんか見せてもしょうがないでしょ?』だって」
憮然とした表情で憤ってみせる辻に二人はぎこちない笑みを返すにとどまった。
再び三人は固まって歩き出した。

亜依の家を知っているらしい紺野が先頭に立ち
二人はなんとなくその後にしたがっていく。
駅に出て電車を二本乗り継いで亜依の家に着くまでそれから三十分ほどかかった。
着いたときには既に日が暮れて辺りを夕闇が包んでいた。
237 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:56
しばらく躊躇した後に小川が意を決したように呼び鈴を押した。
インターホン越しに来訪の旨を告げると母親らしき人が出て亜依は居ないと答えた。
三人は落胆しつつも亜依がどこかに出かけて気晴らしでもしているのなら
それでよいと感想を言い合った。

帰りも余り会話ははずまなかった。
辻と盛んに咳込んで、紺野もつられる様にゴホゴホとむせた。
二人とも疲れた様子で、電車の窓から既に暗くなった外の気色をぼんやりと眺めていた。
三人が自宅に帰宅したときは完全に外は暗くなっていた。
亜依とひとみが帰宅したのはそれからさらに数時間後のことである。
238 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:57


激しく浮き立つ心とは裏腹にひとみはなかなか梨華に話しかけられずにいた。
第一クラスが違う。
ただでさえ校内では一目置かれる存在であるひとみが、
わざわざ他の教室まで押し掛けていたら梨華の立場はない。

そもそも何の理由で梨華を尋ねればいいのかひとみにはてんで見当もつかない。
ときどき廊下ですれ違うことはあるが、
声をかけようとしている自分に気付きハッとしてしまう。

向こうは向こうではにかんでいるのか
ひとみの姿を認めると伏目がちに俯いてススっと急ぎ足で通り過ぎてしまう。
嫌われているわけではないのだろうけれどひとみとしては内心穏やかでない。
239 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:57
やはり、ここは絵を描くというその一点を頼りに放課後、
美術室で粘らねばならないかと一念発起。
藤本一派の迷惑そうな視線を顧みることなく、
だらだらと居座る姿のけなげさも下級生の失笑を買うばかりだ。
半ば呆れられながら、それでも、いつか梨華は現われんとばかり、
いつしかひとみは筆を取っていた。

とりあえず目についた彫像のデッサンを始めればそこはさすがに上級者だ。
鉛筆一本で深い陰影を描き出すその手技に感心の声しきりである。
「うわあ、やっぱ吉澤先輩、巧いですねえ」
そう言ってしまった後輩の一人は厳しい視線を向ける藤本の表情に気付き、
慌てて自分のイーゼルを立てた場所へと戻っていく。

ひとみが何か言い返す前に去られてしまったお返しとばかりに
わざと藤本に向かってしゃべりかける。
「そう言えばさ。みきてぃお気に入りの梨華ちゃんって子いたじゃん、あの子どうしたの?」
いかにも嫌そうな顔でそっぽを向く藤本の様子にしてやったりのひとみだが、
梨華の近況を知りたかったのは本心だ。
240 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:59
誰か教えてくれる親切な同輩はいないかと首を回したところで、
藤本の機嫌を気にしてか視線を合わせる者もいない。
しかたない、とあきらめて再び画帳に向かおうとしたところで肩をポンと叩かれた。
「びっくりねえ。よっすぃ、ホントに改心したんだ!」
ひとみが慌てて振り向くとそこにはこれまた滅多に顔を出さない顧問の保田がいた。

「なぁんだ。圭ちゃんか。脅かさないでよ」
「裕ちゃんからは聞いてたけどさ、本当に出てるとは思わなかったからびっくりしたよ」
「ええっ?そのためにわざわざ出てきたの?」
「だって近来まれに見る快事だもん」

そう言ってケラケラと笑う保田はこの学校のOGで今は美大に通う学生だ。
いたずら書きのように細い線で描かれた
具象とも抽象ともつかぬ奇妙な線描画の味わいが評価され、
保田は一躍画壇の寵児となっていた。

本来なら高校の美術顧問などを引き受けている場合ではないのだが、
そこは生来の面倒見のよさからか、
あるいは一旦、引き受けたからにはという律義さゆえか。
どちらにしても、ひとみが毎日のように部室に顔を出すのと同様
珍しい人の登場ではあった。
241 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:59
「あ、圭ちゃん知ってる?すごい巧い子が復学して美術部に入ってきたこと」
「知ってるわよ。あの子、いろんなとこで入賞してるから。
青田刈りじゃないけど、狙ってる美大の関係者も多いみたいだし」
「へーえ、そんな凄い子だったんだ。どうりで藤本が――」

「ああっ!保田さんじゃないですか!珍しいですね、そうですよね!
しばらく見ないと思ったら、こないだは上海ですって?
もー、先輩もいよいよ国際的な活動開始じゃないですか、凄いなー、もうほんと」

一気にまくしたてたのは、つい先日、ひとみにやり込められたばかりの藤本である。
ひとみがニヤニヤと遠慮のない視線を投げかけるのを無視して
さらに話しかけようとする藤本を保田が制した。

「みきてぃ、久しぶりじゃん。元気してた」
「そりゃーもう、元気すぎて――」
「吉澤さん!」
顔を赤らめて声を大きくする藤本にも
ひとみはどこ吹く風と受け合う気配はない。
242 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:59
二人の仲がよくないことを承知している保田は立場上
「まあまあ」などと仲裁の言葉を挟みつつ
なんとかこの場を穏便にまとめようと別の話題を探した。
「そういえばさ。よっすぃ、あんた、あの石川って子、知ってんの?」
ん?という顔をしてひとみは答えた。

「知ってるも何も――」
「ああっ!保田さん、そういえばあれですよね!
今度の線描派展はパリでやるんですよね!すごいなあ、点描派の聖地パリで――」
「みきてぃ!」
さすがに温厚な保田も声を荒げた。

しゅんとする藤本を横目にひとみはしれっとした顔つきで
何事もなかったように話を続ける。
「なんか体弱いんだってね。
療養中の手慰みで絵を描き始めたって中澤先生に聞いたけど」
「なあんだ、知ってたのか。まだ通院してるらしいから、
部に顔を出すのはまだ先になるんじゃないの?」
243 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 15:59
「へーえ。そーなんだ…」
ひとみはわかったのかわからないのか、
呆けたような顔で画架に置いた画帳をただじっと見つめる。
「その様子だとみきてぃも石川のことは知ってるんでしょ。
あ、同じクラスなんだっけ?
裕ちゃんからも、まだ病み上がりだから注意してあげてね、って言われてるから気をつけて…」
そう言いながら保田はひとみの描く静物画を覗き込んだ。

「うーん……余計な線が多いわね。ほらここ、陰影が曖昧になっちゃってる。
何か考えごとでもしながら描いてたんじゃないの?集中しなさい」
「へっ、圭ちゃんにはかなわないね」
ひとみはペロッと舌を出して照れ笑いでごまかした。
内心は文字通り舌を巻いていたのだが。
本当に保田にはかなわない。

ひとみはまさに心ここにあらずいう状態でただ、
筆を動かしていただけなのだから。
傍らでは何だかわけもわからないまま悪者になってしまった藤本が
居心地悪そうにたたずんでいた。
244 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:00
「さーて、今日はあんまり気が乗らないから帰ろっかな。
圭ちゃん、またきてよ。今度はしっかり描くからさ」

「毎日出てればそのうちまた来るかもね。
まじめにやれば、ちゃんと描けるんだから頑張りな。
みきてぃみたいに日展に出せとまでは言わないけどさ」

「いやー、みきさまにはかなわないっすよー」
凄い目つきでにらみつける藤本の形相にひとみは肩をすくめた。
「くわばら、くわばら」とつぶやきながらさっと立ち上がり、
手早く画帳を閉じて画架を畳み始めた。

準備室に画架を片付けに行くと、後輩のひとりがつつ、っと寄ってくる。
「先輩、もう帰るんですか?」
残念そうな響きのこもった口調にひとみの人気の高さがうかがわれた。
滅多に顔を出さないがさばさばした性格のひとみを慕う後輩は多い。
もちろん、藤本の前でそんな気配をおくびにも出すわけにはいかないが。
245 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:00
「ああ。なんか気が乗らない」
「石川さんが来ない…からですか?」
「えっ?なにそれ。か、かんけーないじゃん」
形ばかりの否定は見透かされている。
なおもニヤニヤと笑みを浮かべる後輩の表情にひとみは簡単に降参した。

「まあね。あの子がどんな絵を描くのか気になったし…それだけだよ」
「それはわかります」
「で、本当にあれから部室には来てないの?」
それが気になるだけに今度は単刀直入に聞いた。
後輩も心得たもので「それがですね」と眉根を寄せて声を潜める。

「一回、来るには来たんですが…」
「はーん」
わかった、とばかりにひとみはひとり合点して深々とうなずいた。
「相変わらずの美貴帝だね」
「ええ、あいかわらずの美貴様でして」
246 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:00
要はこうだ。
一応、美術部員としての務めを果たそうと放課後にやってきた梨華を
藤本が剣もほろろに追い返してしまったという話。
聞けば先日、体育間裏でひとみが下手に手を出してしまったがために
今でも梨華は藤本からねちねちといじめられているという。

悪いことに梨華は藤本と同じクラスだ。
クラスでもいい女王様っぷりを発揮している藤本のこと。
あの調子で下駄箱の靴を隠す、お昼の輪に入れてあげないなど幼稚な嫌がらせ三昧。
どうりで保田が梨華の話題に触れようとする度に割って入るわけだ。
教師や有力な先輩の前では猫を被っている藤本らしいといえばらしかった。
そのわかりやすさがひとみは嫌いではない。
むしろそんな藤本をからかうことを痛快にすら感じる自分が最近は少しこわい。

ここのところひとみが頻繁に部室に顔を出すのは
どうやら梨華を待つためだけではなさそうだった。
現に今もさっそく新たな嫌がらせを思いついてワクワクと期待に胸を膨らませている。
247 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:00
「先輩?なんかいやに嬉しそうですね」
後輩が思わず尋ねたくなるのも無理はなかった。
ひとみはまさに喜色満面といった面持ちで答えた。
「まーね」
それにはやはり梨華をなんとかして引きずり出さねばならない。
ひとみは堂々と梨華を誘う口実ができたことに満足した。

「さて、それじゃあ今日は明日に備えて帰るとしますかね」
「先輩、なんか企んでますね?」
「人聞きの悪いこと言わんでくれたまえよー、きみー」

軽く後輩のおでこを小突きながらひとみは軽やかなステップで準備室を後にした。
帰りがけ、「圭ちゃん、それじゃ」と保田に軽く手を振ると
もちろん藤本に伝えるのも忘れなかった。
「じゃ、みきてぃ、またあしたね」
苦々しげに顔をしかめた藤本の予想通りの反応に気を良くして
ひとみは足取り軽く部室を後にした。
248 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:01
やれやれといった面持ちで肩をすくめる保田の横。
藤本が脱力したようにぼそりとつぶやいた。
「また…来るんですかね…」
「いやそうね」

目を見開いて藤本は必死で否定する。
「いや、そんなことないですって!でも、あの子気まぐれだし、また来るのかなって、
素朴な疑問ですよ!それだけですから!」
「そんな必死こいて否定しなくたっていいからさ」

保田はそんな藤本が可愛くてしかたないらしい。
目を細めて嬉しそうに告げた。
「なんか今の雰囲気悪くないなーと思うし」
保田は遠い目で語った。
「うちらの頃は完全に個人プレイで他人はライバルとしか思えなかったからさ…」
今だってそうです、という言葉を飲み込んで藤本は保田の感慨にしばしつき合う。
249 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:01
「なんか仲間って感じだよね。よっすぃといい、みきてぃといい」
勘弁してくれ、と内心毒づきながらうなずく藤本の微妙な表情に保田は気付かない。
「石川って子、裕ちゃんからも気をつけて見守るように言われてるの。よろしく頼むわね」
「ハイ、保田さん。部員のことは私に任せてください」

満面に笑みを浮かべ歯が浮きそうな台詞を吐きながら、
藤本はどこか焦りを感じていた。
吉澤ひとみが復帰し、そしてまた、石川梨華という新たなライバルが現われた。
一度は追い返したものの、保田の手前、二度、三度というわけにはいくまい。
厄介な種を持ち込んでくれた保田に恨めしそうな視線を向ける藤本。
その厳しい表情に気付かず、保田は上機嫌で他の部員の間を回り始めた。
250 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:01
藤本も気を取り直して自分の作品に向かう。
日展に出品する大事な作品。
ほぼ完成しながら最後に一筆、二筆加えるべきか迷っている。
その作業を加えた後の出来あがりをイメージしながら藤本は悩んだ。

保田もその点に関しては軽々しくアドバイスしようとはしない。
芸術を志すものとしての礼儀であろう。
すでに藤本の悩みは単なる技術的な見地を超えている。
あとは創作芸術上の極めて高度な判断になる。
そう保田が判断したからに他ならなかった。

藤本はじっと画面を眺め続ける。
このままでは画竜点睛を欠く。
かといって下手に筆を入れれば一気にバランスが崩れる。
どうするべきか。
251 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:01
黙考したままいたずらに時は過ぎる。
気がつけば、すでに部員はいなくなり
藤本のみが傾きかけた秋の日が入り込む教室内に一人ぽつねんと残されていた。
慌ててキャンバスを降ろしてイーゼルを片付けると藤本は教室から出て出口へと急いだ。
あまり遅くなると玄関に鍵が掛けられてしまう。

廊下を早足に進むと階段へと曲がる角に一人の生徒の姿が消えていくのが見えた。
その横顔は藤本のよく知る誰かに似ているような気がした。
不思議なことに校舎を出るまで他の生徒の姿を見なかった。
大急ぎで先に帰ったのかもしれない。
藤本は深く考えず帰途についた。

その晩のことである。美術室が燃えた。

252 名前:  投稿日:2003/11/01(土) 16:03
Atto U
Scusate>>227-251

253 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:51
Il vano sospettar nulla giova
いたずらに疑うことは何の役にも立たない

254 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:51


出火したのは夕刻のことらしい。
窓から噴き上がる炎に近所の住人が119番通報したのが夜の8時頃。
消防車が急行して一時間に渡る放水の末、鎮火したのが9時過ぎのこと。
場所は南校舎3階東端の美術室。
幸いにも残っている生徒はいなかったため火事に巻き込まれる者はなかった。
教員が何人か残ってはいたものの職員室は北校舎である。
外部の人間が通報するまで居残った職員が気付かなかったのも無理のない話ではあった。

美術室とその準備室が全焼しただけで隣の書道教室は放水の余波を受けて
水浸しになった程度の軽微な被害で済んだ。
だが、それでも失われた資産の中には取り返しのつかないものもあった。
生徒たちが半年以上かけて描き上げてきた作品が業火のもとに焼き尽くされ
文字通り灰塵に帰してしまったのだ。
255 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:51
収まらなかったのは藤本である。
日展に出品するため、毎日遅くまで残って仕上げようとしていた力作が
完成間近のところで灰となってしまったのだ。
推薦による美大への進学をほぼ確実としている藤本ではあるが、
日展での上位入賞で進学後の活動に弾みをつけたかっただけにこの痛手は大きい。
出品の期限が締め切られるまで、まだ多少の時間があるとはいえ、
本人が納得のいく作品を描き上げるだけの余裕はない。

その裏表の激しい性格から必ずしも人間的に好かれているわけではないが、
画家としての腕は確かなものがあった。
藤本の才能は彼女と距離を置くひとみでさえ認めていたほどだ。
人格的な問題を多々抱えながらも美術部の部長として部員を束ねていられるのも
ひとえにその才能のおかげだった。
他人はともかく、本人がそう感じていたことは確かだ。
256 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:51
それだけに才能あるものに対して藤本が激しく敵愾心を燃やすのは当然ともいえた。
石川梨華への攻撃は藤本なりの危機感の現われであった。
その気性の激しい藤本の出展作品が燃えてなくなった。
怒りの矛先をどこへ向けてよいやらわからず
ただ闇雲に周囲に対して当たり散らしては見るものの一向に気は晴れない。
怒りの対象が見つからないことで余計に鬱屈とした気持ちが募るばかりだ。
そんな中、ある噂がまことしやかに囁かれ始めた。

出火の直前、美術室に梨華の姿があったという。
梨華にとって悪いことに、その日、珍しく美術室に立ち寄ったのは本当だった。
たまたま忘れ物を取りに寄っただけ、との本人の弁だが、
普段、部室に立ち寄らない梨華の言葉だけに訝しく思われるのも当然と言えた。
257 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:52
藤本は当然、梨華の仕業と考えた。
石川梨華には部室を燃やすための立派な動機がある。
自分をいじめた藤本への復讐。
そのために藤本が心血を注いで仕上げようとしていた作品に火を着けた。
それだけではすぐにバレると見て、部室ごと燃やしたに違いない。

人一人殺すために戦争を起こした将軍の話を思い出したわけではないだろろうが、
木を隠すには森、と考える藤本の思考はブラウン神父並みの冴えを見せた。
しかし、藤本にはその推理をかざしておおっぴらに梨華を糾弾できない事情がある。
そんなことを言い張ったら、自分が梨華をいじめていたことが露見してしまう。
放火の実行犯である梨華の罪状を白日のもとにさらしたい気持ちは山々だが、
そのために大学の推薦を取り消されては元も子もない。
258 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:52
すぐにでも新しい作品を描き上げて出品しよう
などと前向きに考えることのできないところ、いかにも藤本らしかった。
冷静に考えれば少しいじめられたくらいで学校に火を着けるなどという
大それたことができるはずもない。

だが、何しろ実際に梨華をいじめた藤本のこと。
心のどこかで抱えている後ろめたい思いが思考を
どうしてもネガティブな方向へと導いていく。
罪悪感、との認識まではないにしろ、
自分が怨まれてしかるべき、との自覚だけは確かにあった。

それが梨華の犯行説へとつながる短絡的な思考形態は逆に言えば単純で、
その竹を割ったような性格は愛すべき長所と言えないこともないのだが、
この場合はその単純さがあだになった。
かくたる証拠がないとはいえ、
梨華らしい姿を見たものがいるというのは心強い情報だった。
藤本の思考はいかにして梨華に復讐するか。
この一点に集中していた。
259 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:52
間の悪いことに別の噂が並行して囁かれ始めた。
梨華が通っている病院は市の郊外にある大きな総合病院だ。
そして、たまたまその病院で彼女を見かけたという生徒の話が
ごく内輪ではあるが徐々に広がり始めた。

梨華が診察を受けていたのはその病院の精神科だという。
真偽のはっきりしない話だけに尾ひれがついておもしろおかしく脚色され、
噂だけが一人歩きしていった。

やれ、石川梨華は火を見ると興奮するらしい。
中学時代に強姦されて精神がおかしくなったらしい。
はては薬物依存症の克服のために通っていたのだと言い出す始末。

隠れてひそひそと交わされた会話の内容とはいえ、
いずれ本人の耳に入るのは時間の問題だった。
あまりにも酷い内容だけにむしろ人の好奇心を刺激するのか、
噂は瞬く間に校内に広がっていった。
260 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:52
ひとみがそれを知ったときには、
すでに生徒の大半が噂になにがしかの信憑性を認めていた。
流布するうちに自然とつじつまの合わない設定が淘汰されて
いくつかの合理的な説明のつくエピソードを組みあわせた
ストーリーとしての整合性を持ちあわせていたのだ。

この段階で噂を否定できる材料はなかった。
学校を休みがちな梨華の人となりがよく理解されていなかったことも
噂の信憑性を増すために寄与した。
つまりひとみは生徒の大半が「放火犯は石川梨華」との漠然とした
確信を抱いている状態でこの噂を耳にしたことになる。

ひとみもまた梨華の行為ではないかとひそかに危惧を抱いていた。
無論、他の生徒一般が信じる噂とは別の根拠からである。
ひとみは梨華が自分の眼前で不思議な技をつかって
煙草に着火した瞬間を実際に目にしている。
261 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:52
手品か何かだと無理矢理自分を納得させてはいるが、
実際に梨華が何らかの能力を保持している可能性を
完全には退けられないでいた。

梨華と言葉を交わす機会を模索していた矢先だけに
今回の騒動で再び梨華が学校に足を向けにくい状況が
出来上がってしまったのは痛い。

実際に梨華が何らかの過失で美術室を燃やしてしまったのか、
ひとみには定かでない。
だが、仮に梨華が本当に何らかの要因で火を着けてしまったのだとしたら、
藤本が黙っていないであろうことは容易に想像できた。

ひとみとて藤本が日展への出品作品を仕上げるために
毎日根をつめていた事情を知っている。
同情すべき余地は大いにあった。
しかし噂を耳にして、放火は梨華の仕業だ
と藤本が信じ込んでしまったらどうだろう。
262 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:52
作品の完成のために注いでいた情熱が
それとは180度異なる方向に向かってしまうのは恐らく避けられない。
藤本はそういう女だ。
ひとみはやはり美術を志すもののひとりとして
藤本という人間をその作品からよく理解しているつもりでいた。

彼女の自らの情熱を注いだ作品に対する愛着が痛いほどによくわかる。
それだけに許せないはずだ。
今の自分に可能な限りの英知を尽くし、
その世界観を塗り込めた渾身の作品が跡形もなく消え失せてしまったのだ。

藤本の怒りはそれが向けられるべき具体的な対象を求めるだろう。
そんな最中、梨華が放火犯人だ
という噂がまことしやかに囁かれたらどうだろう。

藤本ならずともその情報に飛びつくのではないか。
そして、梨華が犯人だと信じてしまったからには、
何らかの形で報復せざるを得ないのではないか。
263 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:53
ひとみはそれを恐れた。
今まで彼女たちが梨華に対して加えてきた子供だましのいじめとは
異なる次元で陰惨な復讐劇が始まろうとしている。

ひとみは確信した。
そう思ったときには歩き出していた。
火事の処理が終わるまでは南棟に近づかないよう告げる
注意書きがあちこちに貼られている。

各教室への連絡や警察、マスコミ、市の監督部門などへの連絡のために
忙しく立ちまわる教員や生徒会の連中の間をかいくぐって、
ひとみは目的の場所へと近づいた。

ひとみは職員室のドアを開けた。
264 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:53


朝。
辻は亜依の背中を見つけると猛ダッシュで追いかけた。
どすん、という衝撃に亜依が「どわっ!」と前のめりに転びそうになると
慌てて辻が後ろから腰に回した腕を引き上げる。
亜依が振り返ると辻が八重歯を見せて満面の笑みを浮かべていた。

「あいぼん!元気?」
「の、のの…どうしたん?えらく早いじゃん…」
「えへへ。早起きするとご飯がおいしいんだよ」
「朝から幸せそうだね…」
呆れたように言いながらもなぜか頬の緩む亜依。
その姿に頓着することなく辻ははしゃいだ。

「いやあ、それにしてもさ。こないだあいぼんち行ったときいい匂いしてたなあ。
お母さん、料理うまいでしょ?うらやましいなあ」
「え?ののがうちに来たときあったっけ?……って、ああ、あのとき?」
あのときとはもちろん、亜依が父を訪ねて帰った日のことである。
265 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:53
辻にもちろん悪意はない。
それどころか母親の料理がうまいと褒めることで、
むしろ亜依をはげまそうという意図さえ感じられる。
わかってはいても表情がこわばるのを亜依はどうすることもできなかった。
辻がそれに気付いていないことがせめてもの救いではあったが。

「うん、せっかくも完璧に授業を記録したわたしのノートで
休んだとこもばっちり勉強してもらおうとおもったのに残念だっ――」
「あ、それ助かる。貸して貸して!絶対、貸してな!」
言い終わらぬうちに亜依が懇願すると辻は慌てた。

「え?まだいるの?あ、そ、そりゃそうだよね…
ちゃんと習ったとこ自分で勉強しとかないとね…」
「後でノート貸してね。助かるわあ。
あさ美ちゃんかマコっちゃんに借りようと思ってたけど、
彼女らにノート借りたら悪いしなあ。いや、ほらも勉強家じゃん?
ふたりとも。勉強の邪魔したらいけないし、いや、ほんと助かるわあ」
266 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:53
亜依にすっかり頼りにされて今更引き返せない辻は最悪の場合、
自分のノートを差し出すしかしょうがないと覚悟を決めた。
肝心の授業の内容が描いてあるはずの場所に先生の似顔絵とそれが髭を生やし、
頭が禿て進化していく様が丁寧に描かれているだけの話だ。
それが亜依に役立つかどうかはまた別の問題である。

辻がそう覚悟を決めようとした丁度そのとき。
「おはよ」
立ち止まる二人に紺野が声をかけた。
「ラッキィー!」「へっ?」
歓声を上げる辻を紺野が不思議そうに見つめる。
亜依はニヤニヤしながら二人の肩をポンと、叩いた。
もちろん、辻のノートが当てにならないことは百も承知だ。

「ごめんね。心配かけて。
あ、出来ればノートはあさ美ちゃんが借してくれたら嬉しいかな?」
「いいよ、そんなこと。だってこないだ、あいぼんの家に届けようとしてたんだし」
267 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:54
「ありがと。ののから聞いた。いや、ほんとありがとね。
うちのおかあちゃん、ったらお茶も出さずに門前で追い返しよってからに、
ほんま気ぃ利かんやっちゃで」
あはは、と紺野が笑って答えた。
「出かけてたみたいだし無理ないよ。それより早く行こう。遅刻しちゃうよ」
「やばい、やばい。休んだばっかりだし」
二人が早足で進み出すと辻が慌てて追いかけてきた。
並んで歩きながら、ゴホゴホとしきりに咳込む。

「のんちゃんもなかなか風邪直らないね。私も人のこと言えないけど」
辻が比較的場所を選ばず定期的に咳込むのに対し、紺野は頻度こそ少ないものの、
ときとして発作を起こしたように激しく咳込む傾向にあった。
どちらがどう、とも言えないけれども、周りが気を遣っているのは確かである。
「風邪はくすりじゃ治らないから、安静にしとかないとね」
亜依の薀蓄に辻がほぅ、と感心してみせた。
268 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:54
「くすりで治るんじゃないの?咳止め薬とか飲むと咳止まるよ?」
「症状を一時的に抑えているだけだからね。
根本的な疾病の原因を駆除してくれるわけじゃないから…」
紺野がすかさず説明すると亜依も便乗してフムフムとうなずく。
本当はそこまで詳しくわかっていたわけではないのだが。

「そ、そういえばさ。高等部でボヤ騒ぎがあったんだって!知ってる?」
気まずい雰囲気を払拭しようと紺野が話題を切り替える。
「あ、知ってる、知ってる。朝、近所の人が『放火みたいだから気をつけて』って言ってた」
「美術室なんでしょ?あたし、文化祭のときに展示を見に行ったことある」
「え?のんつぁんが?」

目を丸くする二人にてへへ、とだらしなく口許を緩め辻は説明する。
「近所のお姉さんが『将来、有名になりそうな天才的な生徒がいるから
サインもらっといで』って言うからさ」
辻らしい、とホッと胸を撫で降ろす二人。
269 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:54
「で、サインはもらえたの?」
小川の問いに辻は笑顔で答える。
「うん。『ケメコ』って書いてもらったよ」
「ケメコぉ?」

いかにも胡散臭い匂いのする名前に小川は
眉根を寄せて紺野と顔を見合わせている。
紺野もキリコの名前くらいなら聞いたことはあるがケメコとは初耳だ。
「それで、辻さんはサインもらえたの?」
「うん。あれ、値打ち出るかなあ。今、結構、有名になってきて
パリとかニューヨークとか世界中回ってるって聞いたけど」

「ケメコなんて聞いたことないなあ。あさ美ちゃん、知ってる?」
「ううん、知らない。ケメコって日本人なの?」
「うん。日本人の女の人だよ。本名は保田圭」
「はあ?なんでケメコなの?」
呆れ顔で聞き返す小川に、辻は「だってケメコなんだもん」
と口を尖らせるばかりだ。
270 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:54
「その保田さんが高等部の美術部出身ってこと?」
結論のみで話の途中を端折る辻の説明を補完すべく
紺野が質問を投げると辻がうなずいた。

「うん、そう。だからその美術室が燃えちゃったりしたら、
ケメコの母校ってことでテレビとか取材に来ちゃったりなんかするかなあって」
「そんなマイナーな画家の母校にまで来ないでしょ?いくら放火とはいえ」
「放火ねえ…放火なんだ」

ひとり自問する紺野に顔を向けて小川が不思議そうに言う。
「放火しか考えられないでしょ。火の気のある場所でもないし」
「うん、でもね」
紺野は何か思うところがあるらしい。
小川と辻の促すような視線に応えて紺野は説明した。
271 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:54
「美術室でしょう?ってことは絵の具とか薬剤とか置いてるんだよね?」
「うん…絵を描いてるんだから、絵の具とかは置いているんだろうね」
まだ言わんとするところの見えない小川はどこかしっくりしない表情で相槌を打つ。
紺野はそのおかげか随分と舌が滑らかに回るように感じた。
辻は黙って紺野を見つめている。

「油彩画っていろんな材料を使うんだけど、色によっては、
極度の乾燥状態に置かれると自然発火する物質を含んでいるものもあるんだって」
「へえっ、あさ美ちゃん、物知りぃ!」
小川が感心したように叫ぶと、辻も目をぱちくりさせて同意する。

「昨日は乾燥してたかどうかわからないけど、
必ずしも放火とは限らないんじゃないかなー、と思って」
「そっかあ、放火魔が学校に入り込んでわざわざ3階の端っこの部屋に火を着けた
と考えるよりはその方が自然だよねえ」
272 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:54
辻の言葉に紺野が驚いた。
「美術室って3階なの?」
「そうだよ」と辻が答えると小川も不思議そうに目をしばたかせた。
「放火で3階まで行くってのは考えられないね、たしかに」
「うん。内部の関係者でない限り、わざわざ一番遠くて逃げ道のない部屋に向かうなんて――」
言いかけて紺野は口を紡ぎ上を仰いだ。

「内部って…」
小川の不安げな声が紺野の心理を代弁していた。
辻がおそるおそる口を開く。
「生徒の誰かが火を着けたってこと…?」
「そういうことに…なるのかな…」
自信なさげに答える紺野の腕を小川が取って「行こ」と教室に向かうよう促した。
辻も慌てて後を追うと三人を追い立てるように始業5分前のベルが鳴った。
273 名前:  投稿日:2003/11/12(水) 01:55
Atto U
Il vano sospettar nulla giova>>253-272

274 名前:名無しAV 投稿日:2003/11/12(水) 21:40
少しそれぞれの距離が近づいたかな。それぞれの事象がどう絡んでいくか楽しみ。
275 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/15(土) 16:10
いつも楽しみに読ませてもらってます。
記憶の片隅にあったのを探し回っちゃいましたよ。
276 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:03
Come dal ciel precipita
天より影の落ちるは

277 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:03


ターゲットが立ち上がったと同時に矢口真里は伝票を掴んでいた。
もう一方の掌には釣りのいらぬよう、
消費税も含んだ丁度の金額のコインが握られている。
相手の動きを見失わぬよう視線をロックしたままゆっくりと自分も立ち上がる。
レジに向かい伝票とともに金を置いてすぐにその場を立ち去った。

ターゲットの青年はスターバックスの店を出ても
まだ行き先が定まらぬというようにキョロキョロと左右を見回して
ようやく右手の歩道を歩み始めた。
その歩調はゆったりとして遅い。
ブラブラとした歩き方を見ているだけで矢口などはイライラしてしまう。

それは単に尾行しにくいという業務上の難易度の問題以上に
より深い人生感に根差すものであるようだった。
きびきびとした行動を心がける無駄の嫌いな性格である矢口にとって、
無目的に生きているようにしか見えないこの青年のふらふらとした行動パターンを
生理的に受け付けないようだった。
278 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:03
矢口にとって厄介なことに、青年がふらふらと足を止めるたびに
自分も携帯でしゃべる振りをして足を止めなければならなかった。小柄な身長と童顔に見られることを逆手にとって
昼間の繁華街をうろついて目立たぬようギャルの風体を装っている。

しきりに携帯を耳にあてて「ええーっ、マジー?ちょーウザいじゃん?」
などと通話している振りをしてトロトロと歩くことが不自然でないように演出してはいる。
だが所詮架空の通話だけにいつまでも相槌だけを打っているわけにもいかず、
そもそも尾行中だけに通話の内容だけに気を取られるわけにもいかない。

時折、携帯を閉じてはテレテレと歩く間、格好が格好だけに声をかけてくる
それこそ「ちょーウザい」男たちに隙を与えてしまうのが困りものだった。
丈の短いセーラー服のスカート、
金髪に派手なメークと見た目は一頃流行った「なんちゃって女子高生」などより
よほど女子高生らしい。
279 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:04
あまり近づいて面相を覚えられても困る。
かといって目を離した隙に決定的な行動を起こされては最悪だ。
普段なら単独行動などありえないのだが、
間の悪いことに新宿の華僑コネクションを追っていたチームの捕物が大詰めを迎えていた。

中国人ルートを根絶やしにできる千載一遇のチャンスとあって
ほとんどの捜査官がそちらの応援に向かっている。
矢口とて本来はそのような華々しい現場に加わりたい気持ちはあるのだが、
さすがに武器を携行している殺し屋のような連中が相手では矢口の出番はなかった。

実際のところ、高卒の学歴で捜査官として現場に出ていられることだけでも
驚くべき出世ではあるのだが。
ともあれ矢口はターゲットの青年を雑踏の中に見失わぬよう懸命に目を凝らして
30メートル程も離れた後方からその後ろ姿を見つめている。
280 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:04
青年は相変わらずフラフラとした足取りで
あちらこちらの店を眺めたりしては突然立ち止まったり
といった様子で一向に落ち着かない。
と思われたところいきなり右手のゲームセンターへと入った。

矢口は見失うまいと急いで駆け出した。
ゲームセンターの入り口が垣間見えた、と思った瞬間、
その腕を取られて傍らの狭い路地へと引きずり込まれた。
「ちょっ――」
「静かに」
どすの利いた声に心臓が凍りつく。

バレたか…
額に油汗が浮かぶ。
短い人生だった。
悔いがないと言えば嘘になる。男の子とデートだってしたかったし、キスもしたい、
あんなこともこんなことも。
281 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:04
こんな事になる前にせめてもう一度だけ…
死ぬ間際にせめて片思いに終わった初恋の相手を思い浮かべたい。
そう願いつつ目を閉じようとした矢先。
くるりと身を回されて眼前に近づいたその顔に矢口は思わず声を上げた。

「ああっ!」
「しっ!静にして!」
「けっ、け、け、け――」
相手はものすごい眼光で睨みつけた。

「静かにしなさい!」
「け、圭ちゃん!」
相手の女はそのまま現行犯で逮捕できそうなほどの凶悪な形相で矢口を威嚇した。

「あんた、気付かれてるわよ」
「えっ?何?どゆこと?」
矢口はその小さい目をパチクリとしばたかせて
女の顔を穴があくほど見つめるしかなかった。
282 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:04
「ったくいいかげんにしてよね。
あんたがへまするとこっちまで警戒されちゃうじゃないの」
「ひょっとして、そっちもあの子、追っかけてた?」
「見りゃわかるでしょ!」
どうやら間の悪いことに女もターゲットの青年を追っているようだった。
女の名は保田圭。
警視庁捜査一課の捜査官である。

「まあ、あいつがここに入ったら当分出てこないし逃げられる可能性は低いけどね」
「でも気付かれてるって」
「あんたの身分まで確認してるわけじゃないでしょ。
阿呆そうなコギャルが目に入ったって程度だけど…」
それでも十分まずいことは矢口にもよくわかった。
人相を覚えられてはもはや尾行を続けるのは難しい。

保田がどこまで本気で言っているのか定かではないが。
矢口本人は気付かれている気配をまるで感じなかった。
もっとも相手が気付かぬ振りをして待ち構えていないとも限らない。
保田の言葉を完全には否定できないのが悩ましかった。
283 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:05
しかし、桜田門が動いているということは、まんざら脈のない話ではなさそうだ。
矢口は警戒感を強めた。
保田はどこまで知っている。
ここは日頃の恨みつらみをひとまず忘れて情報を共有すべきだろうか。

普段なら桜田門との捜査協力など、矢口の独断で決められる問題ではないが、
状況が状況だけに即断を迫られていた。
もっとも「気付かれている」という保田の言がはったりであるならばその限りではないが。
そのような捜査官同士の駆け引きが日常的に行われてきた結果、
今日に至る両者の険悪な仲が築かれてきたのであれば残念、
というか阿呆らしいと言わざるを得ない。

矢口個人にはどちらが手柄を立てるなどといった旧時代的な発想はない。
もとより組織の中での出世などおぼつかない身ではある。
仮に矢口が功名を立てたとて局内の誰かが代わって栄達の身を立てるだけのこと。
それがバカらしいとか、悔しいという思いも矢口の中にはない。
284 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:05
矢口にとってくすりのルートを断つことが最終的な目的であり、
そこに至る努力の積み重ねの結果として、なにか華々しい成果がついてくるならば、
それはそれで構わないと思っている。

「まあ、いいわ…ちょっと来なさい」
保田は表情を緩めて着いてくるよう促す。
矢口はその変わり様に対してどう対処してよいか戸惑った。
「来なさい――って…あの子、目を離していいの?」
「ここはあいつのバイト先よ。
もっともそれは表向きの話で裏では何を企んでるかわかったもんじゃないけどね」
「じゃあ、やっぱりあいつ――」
「しぃっ!そこまで。続きは場所替えてやるわよ。情報交換といこうじゃないの」

保田はそう言って踵を返すと、表通りへと歩き出した。
矢口は慌ててその後を追う。
通り際にゲームセンターの中をちらりとうかがうと、
例のターゲットの姿がたしかに見えた。
285 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:05
こちらに背を向けて両替機のメンテを行う姿は普通の好青年だ。
だが、この青年には別の姿があることを矢口は知っている。
広域暴力団Y組の下部組織の一員として覚醒剤の取引きを仕切る
若手の出世株であることを矢口の組織は掴んでいた。
そして、おそらく保田も。

矢口はすたすたと早足で前を歩く保田の後ろ姿を眺めながら
桜田門はどこまで知っているのだろう、と訝しんだ。
上司からは警視庁とバッティングする可能性について特に注意を受けていない。
ということは互いに別のルートからこの青年へと辿りついた可能性がある。

矢口は新たな情報が得られる可能性に気持ちが高揚してくるのを感じた。
場合によっては共同戦線を張れるかもしれない。
矢口は時折後ろを振り返って自分の姿を確認する保田の様子に
なんとなく親しみを感じ始めていた。
286 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:05
歩幅が違うせいかどうしても遅れがちになる。
その背中を追う様子は傍から見てどう映るのだろう。
保田のスーツ姿は何か固い職業を感じさせるし、
自分の姿はどう見ても昼日中から街をうろつくプチ不良娘だ。

きっと街中で生活指導の怖面の教師に補導されたコギャル女子高生に見えるのだろうな、
と思うと矢口はなんだか楽しくなってきた。
たしかに保田には教師然とした風格のようなものが備わっている。
矢口は再び離れてきた間隔を詰めようと再び歩を速めた。
保田はしばらくして通りを渡ると少しもと来た道を戻るかたちで
丁度ゲームセンターの向かいにあたる位置にあるマクドナルドへと入っていった。
287 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:05
注文を終えて3階に上がると窓際の咳に陣取る。
向かいのゲームセンターの入り口が見渡せる。
監視には絶好の場所と言えた。

「で。そっちはどこまで知ってんの?
あいつがY組系下部組織で売り出し中のチンピラだってことは?」
矢口は黙ってうなずきながら、手に持ったシェークのストローをズズッ、と吸い上げた。
「比較的小規模な組だわ。Y組系ってこと以外、
特にどうということもない末端の組織だけど、最近、妙に羽振りがいい」

「うん。あそこは規模的に流通をまとめるのは無理だから、
二次卸として他の組にブツを卸そうとしている。
圭ちゃんはあいつが接触した方の組から情報を?」
保田は大きな瞳をギロリと見開いてうなずいた。
妙に迫力のある顔はやはり刑事向きなのかもしれない。
コギャル然とした自分の風貌ではやはりやくざと立ち回るのは荷が重い。
288 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:06
「こっちはね。卸元から」
保田の瞳がキラリと光った。
矢口は一瞬、ぞくっと震えた。
知らなかったらしい。
だが、おそらくこの情報はすぐに保田を落胆させてしまうだろう。
なぜなら……

「ないよ。圭ちゃん、ない。卸元はうちらがマークしているの知ってるから、
うかつに動けないんだよ。だからあの子の組が接触したとき、そこは断ってるんだ。
今、北朝鮮ルートは沿岸の警備も厳しくなってるから、当分仕入れるのは無理だって」
保田の表情から見る見る生気が失われていった。

そこまで落胆することもないのだが、期待が大きかった反動なのだろう。
矢口は続けた。
「それでもあいつの組は流通チャネルにちょっかいを出し続けてる。
てことは何かあるんだ、きっと」
「そうね。ただ、それがどこなのかはまったくわからない。
まだ現物を実際に卸した形跡はないからね」
289 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:06
「うん。ただ、このところ中国ルートも北朝鮮ルートも海自が頑張ってるから、
なかなかブツを卸せない。とにかく現物を押さえないことには
薬物指紋もとれないし出所がつかめない」
「なにか今までにないルートを奴等が確保しているとしたら…」
保田の瞳に不安の色がよぎった。
矢口も同調してうなずく。

「やっかいなことになるね…」
そのまま二人とも黙り込んで視線を窓の外に移した。
まだ昼間だというのに高校生らしき男子生徒や女子生徒が制服を来たまま
悪びれた風でもなく堂々とゲームセンターに入っていく様子を見て
保田がため息をついた。

「はぁっ……時代も変わったわねえ」
「何よ、圭ちゃん。おばさんくさいよ、言ってることが」
「おばちゃんだわよ。わたしにはあんただって若い子なんだから」
「いや、おいら実際に若いし」
「矢口!」
そう言って凄んでは見せるものの、すぐに笑顔で矢口の額を小突くあたり、
保田は案外この年若いパートナーが気に入っているのかもしれない。
290 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:06
当の矢口にその気がなくとも実質上、
二人はすでに互いをパートナーとしての共闘体制を築きつつあった。
コギャル然とした矢口は若者の集まる盛り場に自然に溶け込むことができる。
一方で保田にはその鋭い眼光でやくざ者とも対等に渡り合う凄みがある。

二人は自らにないものを互いに補い合うことで理想のパートナーとして
今や共同捜査に踏み込もうとしていた。
あるいは共通のターゲットが動かないことに対する焦りのようなものが
その背景にはあったのかもしれない。

末端の流通組織にあたりをつけるばかりで
一向に覚醒剤の現物を動かさないターゲットの動きは確かに不自然だった。
矢口にはターゲットの余裕しゃくしゃく、
といった態度にどこか引っ掛かるものを感じていた。
291 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:06
「おっと」
保田が声を漏らした。
矢口も黙ってうなずく。
二人の見ている前で派手な金髪の女子高生が駆けて来たかと思うと、
飛び込むような勢いでゲームセンターへと入っていった。

「今日も来たか…毎日、熱心だこと」
「あの子の彼女でしょ?可愛そうに、気付いてないのかな」
「そんなこと言っていいの?あの娘の親父さん、もとあんたんとこのお偉いさんだよ」
「知ってる…何かあったら後藤さんもただじゃ済まないだろうね。
もっとも、あの娘がターゲットの取引に絡む可能性はほとんどないと思うけど」

矢口はズズッとシェークを吸い上げると再び、窓の外に目を凝らした。
と走ってきた女の子の後から見覚えのある姿が近づく。
「あっ、あの子…」
「知ってるの?」
矢口はうなずいた。
「もと先輩の娘さん――」
292 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:06
「『もと』ってことは?」
「うん、こないだ亡くなったの。自殺だった…」
矢口は葬式でお焼香をあげている。
その際に見た娘の挑むような目つきが脳裏から離れない。
あの少女の姿を見間違うことはなかった。

「理由はわからないんだけどね。キャリアの人なのになぜかうちの部に来ててね、
おいらが入ったばかりの頃、よく指導してくれた…」
「そう…」
保田はしんみりとした話が苦手なのか、矢口の目を直視せず、
再び視線を窓の外へと向けている。
保田の頼んだコーヒーはすでに冷たくなったのか、湯気を立てることもなく、
静かにその黒い液面を揺らしていた

「高卒だからってバカにしないイイ人だったよ…
こないだも製薬会社から妙なサンプルを預かったんだ、
って連絡くれたばっかりだったのに…あ、別に変な関係じゃないからね。
おいら、中年男なんて趣味じゃないし」
矢口はなんだか口調が湿り気を帯びてくるのを感じ、慌てて取り繕った。
293 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:07
保田は否定も肯定もせず、軽く微笑むとやさしく、
「いい人だったんだね」と矢口に向って告げた。
「うん。いい人だったよ」
素直に返す矢口は窓から娘の様子を窺いつつ答える。
「娘さんも可哀想だけど…何やってんだろ?」

少女の挙動は明らかにおかしかった。
まるで誰かを見張ってでもいるような…
「!」
矢口はハッと気付いた。
後藤というターゲットの彼女と少女の制服は同じ学校のものだ。
二人には何か接点があるのに違いない。

だが、それがターゲットの動きに関係があるかどうか。
矢口には判断がつかなかった。
「ねえ圭ちゃん…」
「んん?」
保田も感じるところがあったのだろう。
答ながらも窓の外をしっかり注視していた。
294 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:07
「うちら、しばらくコンビ組む?」
「……」
保田は少女から目を離さずに沈黙した。
考え込む、という様子ではない。
やがてゆっくりと開かれた口から漏れた言葉はしかし、そっけなかった。

「わたしの邪魔さえしなければね。組んであげてもいい」
「どっちがぁっ!」
そう言いながらも矢口はどこか嬉しさを隠し切れない。
自然に頬が緩むのを感じた。

このヤマは何かある。
追いつづけるには共闘した方がいい。
矢口の直観がそう告げていた。
そのためのパートナーとして保田は得がたい人材だ。
295 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:07
「なにか臭うのよね、なにか…」
さすがに保田も伊達に刑事を勤めているわけではない。
捜査官としての直感は矢口の見込んだ通りだ。
「矢口、これはキツいヤマになるかもよ…」
「望むところさ」

矢口は体のどこからか震えてくるのをどうすることもできなかった。
それが武者震いなのか。
それとも先の展開が読めないことに対する漠然とした不安によるものか。

いずれにしても賽は投げられたのだ。
もう後戻りはできない。
その先にどんな危険が待っていようとも。
保田と一緒なら乗り切れる…ような気がした。

「矢口真里、厚生労働省関東信越厚生局麻薬取締部取締官、
ただいまより警視庁捜査一課強行犯一係保田巡査部長の指揮下に入ります!」
「大げさよ、あんたは。まあ、よろしくね」
そう言って差し出された保田の手を握るとなんだか温かく感じた。

再び目を窓の外に向けると、少女の姿はすでになかった。
296 名前:  投稿日:2003/11/27(木) 23:07
AttoU
Come dal ciel precipita >>276-295


297 名前:名無しAV 投稿日:2003/11/28(金) 17:45
そうだったのか……。
うむ、続きが楽しみとしか言えない
298 名前:名も無き読者 投稿日:2003/11/28(金) 21:22
更新乙彼です。
だんだん全体が見えてきた感じですかね…
次回も楽しみにしてます。
299 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/30(日) 03:09
う〜んおもしろい・・
300 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:00
Una donna a diciotto anni de'e saper ogni gran moda
18歳ともなれば女も世知に長け

301 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:00


授業が終わると飛び出すように校門を抜けた。
脇目も振らず挑むような姿勢で歩いていく真希の姿に同級生も声をかけられない。
それほど真希は急いでいた。
繁華街に入ると人込みで歩く速度が落ちる。
それが真希にはいらだたしくてかなわない。

ときどき物欲しそうな視線をくれてくる男子高校生を無視しながら進む。
髪を金色に染めているくらいで、
取り立てて奇抜な格好をしているわけでもないのに真希の姿は人目を引いた。
短いスカートから覗くすらりとした長い脚はそれだけでも魅力的だったし、
なにしろ髪をなびかせてさっそうと歩く真希の姿は異性ならず、同性からも
半分やっかみの混じった視線を奪うのに十分な魅力を備えていた。

そのような外部の視線を特に意識することもなく真希はひたすら歩み続ける。

302 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:00
真希は満たされなかった。
まいを痛めつけた挙げ句に残ったのは苦い感触だけ。
気が晴れるどころかさらに不安感は増した。
真希が手を下したことに気付いたのか気付いていないのか。
確かにまいの存在は退けたはずなのに心なしか彼の反応はそっけない。

真希はあせった。
彼の心が自分から離れていくのが怖かった。
体を合わせていても以前のような充足感は得られなくなった。
真希は自分の技術が未熟なために彼を満足させられないのかと悩んだ。
まいに仕事を斡旋するような子供離れした行為を平然と行う行動力を持ちながら
真希の男性経験は意外なほど少なかった。

コンプレックス。
そう言えないこともない。
男女の関係が必ずしも肉体の繋がりのみに依存するものでない。
頭ではわかっていても経験の絶対値が低い真希の場合、
どうしても劣等感のようなものを抱かざるを得ない。
303 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:00
思えばまいに対して抱いた嫉妬の感情もさかのぼればその辺りに
根本的な原因を見つけることができそうだった。
まいに彼を奪われてしまうという漠然とした不安は、
経験に基づく豊富な技術という概念を具現化したまいに対する
畏怖とも嫌悪ともつかぬ複雑な感情のもたらしたものであった。

皮肉なことに真希が彼を悦ばせようとベッドで大胆に振る舞うにつれ
彼の反応は余計に醒めていくようだった。
口で奉仕するのもいとわなかったし、
獣のような体位で交わることも辞さなかった。
以前なら嫌悪していたはずなのに、自ら腰を振ることさえためらわなかった。

それでも彼が容易に真希になびかなかったのは、ひとつには
彼自身が性戯に対してそれほど初心ではないことによるようだった。
真希は性に対して大胆に振る舞うようになってからわかってきたことがある。
彼は決して経験が少なくない。
むしろ豊富な経験を積んでいるような余裕さえうかがわれる。
304 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:01
それが真希の不安を余計にあおった。
他のどんなことでも真希が引け目を感じるような謂われはなかったのだが、
こと性に関する経験の絶対的な少なさは強烈なコンプレックスとして真希を苦しめた。
今までに付き合ってきた女性達を彼がどのように悦ばせてきたのか、
その手つき、指先の微妙な力加減ひとつから感じられる。
その度に真希は狂おしいほどの嫉妬に駆られてもだえ苦しんだ。

皮肉なことに真希が大胆に振る舞うにつれて彼の性戯が巧みになっていった。
悦ばせるつもりのはずが逆に開発されて、気付けば自分はこれほど淫乱だったのか
と気恥ずかしくなるほどの愛液を滴らせていた。
体で彼を引きとめるどころか、彼との行為に逆に溺れていく真希。
今や彼を自分に引きとめるためならどのような行為をもいとわない。
そのような状態に陥るまでさほど時間はかからなかった。
305 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:01
自ら使うことだけは厳しく律してきたはずのくすり。
そのくすりを真希はいよいよ解禁するつもりだった。
まいに使用させることでその効果のほどは確認済みだ。
問題は副作用だが、たしかに依存症のような傾向は一時見られたものの
それほど病的なものではなかった。

多用しなければ問題はないと踏んでいた。
真希にこれを卸してくれた人物は副作用の危険性について特に言及はしていなかった。
まいも適量を保っていた間は何ら問題はなかった。
服用し過ぎておかしくなった間、真希はまいにくすりを与えていない。
彼との行為では使用できないはずだった。

そのまいより彼を満足させることができないなどということは
真希のプライドが許さなかった。
性に関しては経験豊富なはずの中年男たちを夢中にさせたくすり。
それをもってして彼を繋ぎとめられぬことはない。
真希は自分が段々とおかしくなっていることを自覚せぬまま、
なぜかそう強く確信していた。
306 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:01
道路の反対側に例のゲームセンターが見えた。
彼は今日もそこでバイトをしているだろう。
若い女の子が多い職場だ。
真希のいない間に彼が他の女の子と話している姿を想像するだけで、
激しい嫉妬に駆られ、胸をかきむしりたくなる。
ついつい走り出してしまうのは気が気でない証拠だ。

横断歩道の信号が点滅している。
急いで渡ると一目散にゲームセンターへと向かって走り出す。
翻るスカートから覗く脚の付け根の白さがまぶしく輝いて見えた。
その健康的な肉体の与える印象故にだろうか。
段々と蝕まれつつある真希の精神状態をその外見から推し量るのは難しそうだった。
307 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:01
だが、その瞳の奥に宿る不穏な色に気づくものが一人だけいた。

少女。

その少女は一定の距離を保ち、真希に気づかれぬうちに背後から着実に忍び寄っていた。
仮に真希の精神状態が安定しているときであっても気づかれることはなかっただろう。
それほど、少女の尾行は堂に入っていた。
少女は真希がゲームセンターに入るのを確認して満足げに微笑むと、
何事もなかったようにその場から立ち去った。


308 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:01


少年はいつものようにゲームセンターのカウンターに入ると
メーカーのロゴが入った制服に着替え、両替機のチェックを始めた。
鍵を錠に差込み、捻ろうとしたとき、その向こうに見えた人影に視線を奪われた。
久しぶりに見る顔だった。
以前は毎日のように通っていたはずだが、
ひどく場違いな雰囲気だったので印象に残っている。

場合によっては付き合ってもいいと思うほどの美少女ではあったが、
どこか人を寄せ付けない固い雰囲気があった。
昼間からここにたむろする大概の女子高生とは違う
まっとうな人間の放つ空気が煩わしかったこともあり、自ら声をかけたことはない。
309 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:02
何かのトラブルがあって、それ以来、姿を見せなくなったように記憶している。
チンピラと諍いを起こしたのだ。
雰囲気がこの場には似つかわしくないこともあり、
美少女であるにも関わらず、声をかけらけることは滅多になかったのだが、
その日は運が悪かったのだろう。ナンパしようとしつこく絡む男がいた。

少女は無視し続けていたのだが、そのうち男がキレてナイフを取り出した。
驚いたことに少女は冷静だった。
「あんたバカじゃないの」
可愛らしい顔からは似つかわしくない低いトーンの声だった。
そのやけに落ち着いた調子が余計に男の怒りに火をつけたのだろう。
取り出したナイフに引っ込みがつかなくなったのか、
それを少女の眼前に突きつけて何かわけのわからないことを口走っていた。
310 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:02
次の瞬間。
何が起こったのか少年にはわからなかった。
いきなり男がナイフを落とし、握っていたはずの手首を押さえて蹲った。
押さえた指の間から血が滴るのが見えてようやくわかった。
少女は剃刀を仕込んでいて、それを一閃させたのだ。

ほれぼれするような手際だった。
あの度胸と腕なら極道でもそこそこの地位にのし上がれるだろう。
堅気の人間、とばかり信じていたため余計に驚きは大きかった。
普通の女子高生が剃刀などを仕込むことはありえない。
そしてあの慣れた手つき。
少年はそれなりに実践を積んだものの落ち着きを少女に感じた。

脱兎のごとく店を飛び出した少女。
呆けたように男の様子を見つめていた連れが慌てて追いかけていった。
それ以来、彼女が店に現れることはなかった。
ほとぼりを冷ますために現れなかった、ということではないのだろう。
少女に男を恐れている気配はまったく見られない。
311 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:02
それにしても、と少年は思った。
どこか違和感を覚える。
いつもと感じが違う、と考えて気づいた。
少女は制服を着ている。

いつもは私服で来ていたはずだ。
少女の制服姿を見るのは初めてだった。
そして、その制服は――

「おはよっ!」
いきなり背中を押されて少年はつんのめりそうになった。
振り返ると見慣れた制服の色が目に入る。
「――おっ、と。真希か。驚かすなよ」
そう。
少女の制服は真希の着ているものと同じだった。
少年は顎で真希に少女を示した。
シューティングゲームに夢中になっているらしい少女がこちらに気づいた様子はない。
312 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:02
「知ってるか、あの娘?」
心なしか真希の表情が曇ったように見える。
「……知らない。なに、好みなの?」
「そういうわけじゃないけどさ。お前の学校だろ、あの制服?」
「そうだね。でも知らない」
頑なに否定するのは何かある証拠だ。

少年は真希が少女のことを知っている、と感じた。
だが言いたがらないのは何かいわくがあるのだろう。
それ以上、突っ込んで勘繰られても困る。
なにしろ、今、真希とはいい感じで進んでいる。
あと少しでくすりを持ち出すところまで来ているのだ。
こないだ、まいに対して真希が取ったような短絡的な行動に出られては困る。

おかげでまいのルートはつぶれたが、その効果は確かにあった。
嫉妬による対抗心から自らもくすりを使うことを期待してのまいとの情事だったが、
まさかあれほどに苛烈な行動に出るとは思わなかった。
育ちはいいはずなのに、その激情に抑制が効かない。
だから素人は怖い、と少年は思う。
313 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:02
「それよりさ、今日は早く上がれるんでしょ?」
「ん?わかんね。最近、トラブル多いから遅番まで付き合ってくれ、って言われるかも」
「そんなあ。今日は特別の趣向があるのになあ」
上目遣いで媚を売るような目つきに少年はピンと来た。
いよいよ真希はくすりを使う気だ。

「そうは言ってもなあ…」
そうとわかったからにはがっつく必要はない。
向こうがその気になったのなら後は焦らすだけだ。
少年も駆け出しとはいえ、裏の世界に生きる者。
心理的な主導権をここで確定させておくつもりだった。

「ええっ、あたしそんなに我慢できないよぉ」
可愛くしなをつくる仕草は誘っているつもりなのか。
少年は最近の真希の積極的なベッドマナーを思い出して思わず下腹部が熱くなるのを感じた。
できれば、今すぐにでもホテルに直行したい。
女には慣れているつもりの少年だったが、真希との行為には度し難い悦楽を覚えた。
だが、少しでも物欲しげな姿勢を感づかれた途端に主導権は向こうに移っていく。
ここが正念場であることに少年はもちろん気づいていた。
314 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:03
「まあ何もなければ早く上がれるかもしれないし…
とりあえずどっかで時間つぶしててくれよ。
あんまり客としゃべってると店長にしかられんだよ」
「ええっ、つまんなぁい」
唇を突き出して不満を表明する仕草もどこか艶めいている。
少年は今やジーンズからはみ出しそうなほど固く膨張した部分をもてあましていた。

「じゃまた後でな」
そういって無理やりにでも背を向けてその場を去らなければ
真希に欲情していることを悟られそうだった。
背中ごしに聞こえる「つまんなぁい」という声の明るい調子に安堵しつつ、
少年は作業に戻った。
315 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:03
諦めたのか真希がまとわりついてくる様子はない。
両替機のキーを回して空けると紙幣の束を取り出して、100円玉を補充する。
強盗などに隙を狙われぬよう当然、周囲への注意は怠らない。
蓋を閉め、鍵を掛け終えるまでは気が抜けない。
すべての作業を終えて鍵を保管場所に収納してようやくホット一息つく。

裏の世界の住人だとはいえ、本当の修羅場を潜ったことなど
数えるほどしかないのだからそれも無理からぬことではあった。
もっとも緊張を要する作業を終えたことで精神が弛緩したのか、
さきほどの少女の様子が気になった。
さっきまで少女がいたはずの場所に視線を移して少年は驚いた。
そこには真希が少女と親しげに話しこむ姿があった。

316 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:03


「いいのかなぁ。放火で停学処分の不良さんがこんなとこに出入りして」
「不純異性交遊してる誰かさんよりはマシだと思うけど」
背後からかけられた言葉にひとみは振り返らず、食い入るように画面を見つめたままだ。
真希のいることを予め確認していたのか、驚いた様子はない。
「ついでに言っておくと『放火』じゃなくて『不審火』だから。
学校が生徒の喫煙によるボヤだなんて世間に対して認めるわけないし」
「どっちでもいいけど、えらい余裕じゃん。あんたんち大変なんでしょ?
父親の再婚相手がバツイチ、しかも子持ちでさ」
ひとみにさして動揺した気配はない。
相手の無遠慮な言い方にはすでに耐性ができているといった感じだ。
317 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:03
「大変なのはお互い様じゃん。あんたんとこにも来てるんでしょ?
右翼の街宣車とかいやがらせ電話とか」
「……」
話し掛けられたことで手許が狂ったのか、最後の機体をやられてゲームが終了した。
ひとみはさして落胆した気配も見せず、ゆっくりと体を捻って真希の顔を見上げた。
「お父さん元気?」
「元気だよ。殺してやりたいほどね」
真希のしれっとした言い方にひとみは「お互い苦労するね」と肩を竦め
「人殺しの親を持つとさ」と続けた。

「あたしには関係ないけどね。あんなやつの一人や二人いなくなったって
世界は回ってくわけだし」
「生活困るじゃん?」
「大丈夫。保険金たんまり掛けてあるし。っていうか、今、あの人殺されたら
あたしが一番、怪しいかもね」
ひとみはフンと鼻を鳴らして「シャレにならないね」と吐き捨てるようにつぶやくと
再び100円玉をゲームに投入し、プレイボタンを押した。
318 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:03
ちろちろと店内のあちこちから寄せられる視線を持て余しつつ、
真希はひとみのプレイするゲーム画面に見入っていた。
ギャラガ、とかいう古いタイプのシューティングゲームだ。
宇宙船で敵を撃ちまくるという単純極まりないスタイルが受けたのか、
近頃リバイバルし、オリジナルを知らない若い世代にも人気がある。

真希の存在など眼中にないと言わんばかりの態度で
一心不乱にゲームに没入するひとみ。
だが、いつもなら軽くクリアするはずのステージで
巨大敵艦にあっさりとやられしてしまうあたり、
あるいは真希の存在を相当に意識していたのかもしれない。

「で、何か用?あんたがここにいると野郎のナンパ攻撃かわすのがウザいんだけど」
すでに声をかけたくてうずうずしているニキビ面をいくつか視界の片隅に捉えて
ひとみはいかにもうんざりといった口調で真希に告げた。
「気が合うじゃん。あたしもあいつらうぜーと思ってたとこ。
場所替えてゆっくりお茶でもします?」
319 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:04
ひとみは眉を顰めた。
こんな台詞はまったく真希らしくない。
だが、ある意味、その自分勝手な主張は変わっていないとも言える。
「彼氏がバイト終わるまでの暇つぶしってか?ごっちんらしいね。相変わらずだ」
「よっすぃと一緒なら楽しい時間が過ごせてよ。オ、ホホホホ」
お蝶夫人でも気取ってるつもりか
気色の悪い笑い高笑いを続ける真希の態度にひとみは負けを認めた。

「わかったよ。行きゃいいんだろ?お姫様」
「そーゆこと。さ、いこいこ」
しぶしぶ、といった形で立ち上がるひとみを急かすように真希は両掌を広げて
下から煽るような仕種をしてみせた。
いちいちそういう仕種が様になる。
学園の女王として君臨する所以だ。
320 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:04
ひとみはなんだかバカらしくなってきたが、一言だけ、付け加えるのを忘れなかった。
「まいのこと、聞かせてくれる?」
その名前を口にした瞬間、真希の表情が一瞬、
凍りついたように固まったのをひとみは見逃さなかった。
だが、間を置かずに返された真希の口調に深刻な色は微塵も感じられなかった。

「もちろんだよ。うちらの大事な幼馴染じゃん」
「その言葉を信じられるんだったら嬉しいんだけどね」
明らかに信じていない、という素振りで
ひとみは真希に先立ってゲーム台に群がる人込みを縫って店の外へと歩を進めた。
自分の背中を射抜くような鋭さで突き刺さる真希の激しい視線を感じながら。

321 名前:  投稿日:2003/12/01(月) 15:04
AttoU
Una donna a diciotto anni De'e saper ogni gran moda>>300-320


322 名前:名無しAV 投稿日:2003/12/01(月) 21:28
ふむふむ、こうなってくると、他に出てくるキャラクター達がどう動いて行くのか楽しみで仕方ない。
勿論少年も含めて。
323 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:29
Il sospetto
疑惑

324 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:29


里田は娘の状態について医師からの説明を受けるために
廊下でもう随分長いこと待ち続けていた。
平日の午前中は待ち合い所の椅子、診察室の手前に置かれた椅子に
座りきれないほどの患者でごったがえしていた。
里田自身、娘が暴行を受けたことによるショックからは立ち直りつつある。

だが、娘の肉体的な傷はともかく精神的な深手を思うと
未だにその状態に慣れるということはなかった。
自分の犯した罪のために娘が犠牲になったのだとしたらなおさら。
今までも脅迫まがいの電話や家の窓に石を投げこまれ
「人殺し!」と罵られることは多々あった。

確かに里田は間接的に非加熱製剤の採用を後押しすることで、
血友病患者のHIVウィルス感染という惨事を招いた責任を負っているのかもしれない。
だが、それはあの時点でより多くの患者のために
血清剤を確保するという視点にたった上で下した結論であり、
それが必ずしも巷間言われているように製薬会社と結託したためではない。
325 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:30
少なくとも里田はそう信じていたし、
そのことで良心の呵責を感じるということはなかった。
娘が卑劣な手段で暴行を受け瀕死の重傷を負うまでは。
最初、その知らせを受けたとき、里田は驚くよりも、
恐れていたことが現実の災厄として降りかかった事実に
逃れられない自らの罪業を呪った。

娘が犯された、という非道な事実を前に里田はうろたえた。
娘の身を案ずるよりも前に自らの身が想像した以上に
危険な状況に置かれていることに気付いたのだ。
自分の家族というだけで残虐な行為を強いられた娘への憐憫の情はもちろんある。
だが、それよりも恐ろしかったのは、実際の行為に出るほどに
HIV感染者とその家族の恨みは深いという事実を眼前に付きつけられたことである。

たとえ結果としてではあれ、非加熱製剤の採用を推進することで
血友病患者のHIV感染を広めてしまった自らの罪を拭うことができない
という厳然たる事実に今更ながら気付いてしまった。
里田娘がHIVキャリアに感染させられたのではないかと懸念した。
だから、連絡を受けてすぐ病院に駆けつけたとき、
まず、医師に話したのはそのことであった。
326 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:30
HIVは血液などの体液によって感染する。
まいが感染させられたのであれば、
医師や看護師がまいの血液にまともに触れた場合、二次感染する恐れがある。
行政とはいえ医療に携わるものとして当然の配慮であった。

幸いにして検査結果は陰性だった。
潜伏期間があるとはいえ、HIV感染の可能性は限りなく低いと思われた。
まいを襲った連中がHIVに感染したキャリアとは無関係、
ということが捜査の段階でわかってきたこともある。

当初、警察もHIVに感染した血友病患者の線を疑っていたようだった。
だが、常識的に考えてありえないことは里田にもすぐわかった。
HIVキャリアは、カクテル療法と呼ばれる3種の薬を服用することで
ある程度AIDSの発症を抑えられる。

個人差はあるにしても体に負担をかけるこの療法を続けている患者が
いかに役人と製薬会社を怨もうとも、
精神的にも体力的にも少女を暴行できるような状態にないことは明らかだった。
だがそれでも里田は自分に対する怨念のようなものが
娘への凶行を許したのだと信じて疑わなかった。
327 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:30
里田は職場を離れた。
厚生労働省を退職したものには大抵製薬会社から声がかかるもののだが、
里田にはそれがなかった。
薬事行政において影響力を行使できる立場になかったこともあるが、
なにしろスキャンダルの渦中の人間ということで敬遠された節がある。

もっとも誘われたところで里田にコネで再就職するつもりなどなかったのだが。
役所からの天下りは会社として見ればメリットはあるのかもしれないが
現場にとっては受け入れ難いものだ。
里田にはそんな気苦労を引き受ける気は端からなかった。

里田は薬剤師としてフランチャイズのドラッグストアで職を見つけた。
収入は随分と下がったが、それでも心の安寧には代え難かった。
娘の受けた心の傷を思うと喜んでばかりはいられなかったのだが、
それでも以前のように脅迫観念に脅えることはなくなった。
328 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:30
皮肉なことに娘のために職を投げ打って献身する夫の姿によるものか
冷えきっていたはずの夫婦仲に回復の兆しが見え始めた。
こうして娘の病状を見舞いに出かける自分を送り出す妻の声がまだ耳に残る。
少し前なら考えられないことだった。

病院の廊下は窓が少ないせいか妙に薄暗く、
あるいは大勢の患者による淀んだ空気のせいもあるのだろう
里田には妙に息苦しく感じられた。
せめてもの救いは娘の病室が南向きで日当たりがよいことだった。
秋の日差しを受けて白く染まる部屋全体の雰囲気は明るく感じられた。
娘自身の体調はすこぶる良好に見うけられた。
精神的な痛手から回復するにはまだ時間が必要なのだろうけれど。

里田は先程、病室で娘と交わした会話を思い出した。

329 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:31
「大分よくなったようだな。顔色がいい」
「動かないからね。太ったからそう見えるのかもよ」
「太る余裕があるのなら結構なことじゃないか」
そうは言っても里田には娘が太った様には見えなかった。
顔色がいい、というのはあながち嘘でもない。
だが、その心に受けた傷の深さはとうてい推し量れるものではない。
それでもこうして言葉を交わせるほどには回復したことに里田は大きく安堵した。
入院当初、体に受けた傷の深さもあって、
自分の殻に閉じこもってしまっていたことを思えば大きな進歩だった。

「何かほしいものはないか?病院の食事はまずいだろう?」
「大丈夫だよ、パパ。どうせ動かないんだから、美味しいもの食べたって太るだけだし」
「そうか、いや、食べ物でなくたって本とかCDとか――」
「パパったら」
アハハ、と笑う娘の声が耳に痛かった。
親に対して気遣っているのか無理に明るくはしゃぐ様子が痛々しい。
だが一方で、これが本来のまいの姿なのだ
と納得したがっている自分に里田は苦笑せざるを得ない。
330 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:31
仕事一辺倒で家庭を顧みなかった里田が
娘の快活に笑う姿を見たのは随分と久しぶりのような気がした。
里田の希望的観測に過ぎないのかもしれないが、
あるいはまいもまた、今回の事件で変わったのかもしれなかった。

里田には気にかかることがあった。
「なあ、まい。嫌なら言わなくてもいいんだが…」
今、どうしても聞かなければならない、というほど重要なことではない。
だが、里田にはなぜか引っ掛かっていた。
娘はやや警戒するような表情を浮かべるものの
「なに?」と無理やりつくったような明るい笑顔で答える。

「母さんが心配していた。最近、ブランドもののアクセサリをよく身につけていたって」
まいが目を伏せたことでやはり何かあったのだ、と里田は思った。
その表情に浮かんだ虚ろな影は今回の事件に何か関係があるのに違いない。
「お前がどうやって手に入れたかは問わない。
だが、それがもし俺へのあてつけだったのなら、俺はお前に謝らなければならない」
「やめてよ、パパ」
まいの苦しそうに吐いた言葉が里田の胸を締め付ける。
331 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:31
里田は深く追求するつもりはなかった。
今は娘が帰ってきてくれた。それだけでいい。
「心配かけたな。でも、もう大丈夫…だと思う。あそこにいる限り、俺は自分自身を
偽らなければならなかった。今は素直に認められるよ。理由はどうであれ、
俺自身も被害の拡大に間接的に関与してしまった事実は拭えない」
「パパ…」
「すまなかった。まいも母さんも辛い思いをしたんだろう。
辛いのは俺だけじゃなかったはずなのにな…」

「もういいよパパ」
そう言ってまたしても微笑むまいの表情のぎこちなさに、
里田は救われるような気がした。
それでも罪の意識からは逃れられない。
332 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:31
里田もまた視線を落として椅子の上に積み上げられた雑誌やノートの束を見つめた。
と、その一番上に置かれているノートの名前に目がいった。
「吉澤、ひとみ…ひょっとしてこれは…」
「ん?ああ、よっすぃ。休んでる間のノート、持ってきてくれたみたい」
「よっすぃ…吉澤さんの娘さんが来ていたのか」
「うん。わたしが寝ている間だったみたいだけど…」
よっすぃ。吉澤の娘。その呼び名も随分、久しぶりのような気がした。
思えば官舎にいた頃は娘たちの仲がよく、家族間で行き来もしていたはずだ。
里田と吉澤、そしてあの後藤家でさえも。

その名前に反応してしまう自分の浅ましさが嫌だった。
里田と吉澤は同期入省だった。
先輩には後藤がいた。
同じように昇進して同じようなタイミングで結婚して官舎に入り、
やはり同じようなタイミングで子どもを授かった。
333 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:31
だが、才気溢れる後藤が出世街道を駆け上がり、
二人は後藤に引き立てられるようにしてその後を追った。
そして旧薬務局長を経て中堅製薬会社ミドリ十字に社長として迎えられた
後藤の後を目指し切磋琢磨する二人、という構図が出来上がりつつあった矢先のこと。
血友病患者に投与する血液製剤に関する大失態が発覚したのだった。

事件後、二人の処遇は大きく変わった。
審査管理課長へと昇進したのは吉澤で里田は相変わらず専門官のままだ。
傍から見れば出世競争からの落伍と見えないこともないのだろう。
里田自身、気にしていないといえば嘘になる。
だが、同僚の自殺という苦い結末を迎えた後で出世することは
彼の死を踏み台にしているようで里田には気が引けた。
今では、退職したことを心から正解だったと思っている。
334 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:32
それにしても…

吉澤の娘が来ていた。
そのことに里田は動揺した。
たしか、吉澤とその娘は激しく反目していると聞いていた。
正義感の強い性質なのか、
あるいは先妻が亡くなって間もないうちに後妻を娶ったことに対する反発なのか。
それまで優等生だった吉澤の娘が急に荒れ出したと聞いたのはもう大分、前の話だ。
吉澤が娘のせいで学校に呼び出されて困るなどと話しているのを聞いた覚えがある。
娘の素行にはほとほと手を焼いている、とこぼしていたはずだ。

その吉澤の娘とまいの間に未だに交友関係があるとは意外だった。
最近、ブランド物を身に纏い、生活が派手になってきた娘に影響を与えていたのは、
あるいは吉澤の娘のせいなのか?
里田の疑問に答えるかのようにまいが口を開いた。
335 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:32
「パパ、何か勘違いしてるでしょ?よっすぃは不良じゃないよ。よく停学喰らうけどね」
「でも吉澤さんからよく学校に呼び出されたと聞いているよ?」
「熱いからさ、よっすぃは。うちの生徒が他校の不良に絡まれたりしてるの見ると
ほっとけないみたい」
「喧嘩…か?」
「うん。強いみたいだよ。男の子でも結構、やられたやつ多いみたいだし」
里田はうむ、と唸ったまま腕組みをして考え込んだ。
吉澤の娘の奔放な生き方は型に嵌った父への反発なのかもしれない。

まいはどことなく吉澤の娘に好意を抱いているような口ぶりだったが、
体制に迎合する役人根性丸出しの父親に反発する娘への同情
といったようなのものがその根底にあって介在していたのかもしれない。
だとすれば里田には耳の痛い話でもあった。
336 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:32
まい自身、父親である自分の仕事に対し、世間で言われるような尺度で
反発を示したことはなかった。
だが、それは形として示さなかった、というだけの話であり、
心の奥底で父の態度を軽蔑していなかった、ということにはならない。
あるいは、そのような複雑な感情が娘を妖しげな行為に駆り立てたのだとしたら、
その責はやはり自分が負うべきだろう。

里田はかなりの確度で娘が援助交際を行っていると推測していた。

それを責めようとは思わない。
今回の事件で本人も懲りているだろうし、
第一、心身ともに深い傷を負った後で再びそのような行為に
身を染めることはないはずだから。
間違いは誰にでもある。
非を責めるよりはまず傷を癒すことに専念しなければ。

「吉澤の娘さんは母親似だったかな…」
「うん。若くて綺麗な人だった。よっすぃによく似てた」
「そうか…」

それっきり話すこともなく、里田は娘の病室を後にした。
娘が気を遣っているのが明らかにわかっていたため、
それ以上、精神的に疲れさせたくなかったのだ。
337 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:32


338 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:32
「――さん、里田さん。いませんか?」
「ハ、ハイ!」
里田は慌てて腰を上げると自分を呼んでいる看護師の後に従った。
診察室に入って軽く会釈すると医師が自分の前に置かれた丸椅子を里田に進めた。
「里田…まい、さんですね?」
「ハイ。娘です」

里田は医療関係者の放つ高圧的な雰囲気が嫌いではない。
医師も接客業とよく言われるが、人の命を預かるという気概を持って働く
プロフェッショナルが愛想を振り撒くものではない。
それが里田の元厚生省出身者としての矜持であり、
職人気質を感じさせる医師に対しては仲間意識もあり、つい好印象を擁いてしまう。

「まいさん、膣内壁の状態は大分よくなりましたね」
里田はホッとした。
「ありがとうございます」
医師はその様子に頓着せずに続ける。
「裂傷による感染が心配だったんですが、今のところ特に問題はありません。
これはちょっと言い難いのですが…」
「ハイ…どうぞ」
339 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:33
里田は覚悟していた。
性交渉の経験に関してだろう。
処女のまま、あんなひどいことをされたのなら、
傷はもっとひどかったはずだし、なにしろ精神的に立ち直れたかどうかわからない。
「比較的刺激に対する耐性ができていたようです。内壁の修復ペースも速い。
今回に限っては、経験が良い方向に作用したわけですので…ええ、あまり、
その娘さんには…」
「わかっています。娘のことは信頼していますから、それで叱ったり
批難したりするつもりはありませんよ」
「懸命です。中にはそういうことで娘さんを責めるお父さんもいらっしゃいますからね」

医師は言い難い台詞を切り抜けてホッとしたのか、急に口調がくだけたものになった。
里田は気にしない。
「では、もうじき退院できそうですか?」
「ええ、外傷に関しては問題ありません。あとは――」
「精神的な傷の深さ…でしょうか?」
正直、里田にはそれが一番気懸りだった。
若い体だ。傷が癒えるのは速いだろう。
だが、それと反比例するかのように心の傷は回復しがたいものだ。
それは里田自身の経験からも用意に理解できることだった。
340 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:33
「ええ、それもあるんですが、まいさんの場合、精神的に強いものがあるのか、
私どもではその点、あまり心配はしておらんのです。むしろ――」
「むしろ?」
里田は乗り出すようにして医師の言葉に耳を傾けた。
一体、精神的な外傷のほかに何が問題だというのだろう?
「HIV観戦の恐れがあるとお知らせいただいたので、血液検査を行ったことに関してはご存知ですね?」
「ハイ。私がお願いしたことですから」
里田は先を促した。

「妙な結果が出ましてね」
「妙な…」
「ええ。MAの数値が以上に高いのです。
薬務局におられたのならこの意味はおわかりでしょう?」
「エ、MAが…」
里田は言葉を失った。
MAとは塩酸メタンフェタミン。早い話が覚せい剤の主要な成分だ。
だが俄かには信じがたい話だった。
娘にそんな傾向はまったく見られないではないか。
341 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:33
「な、何かの間違いではないですか?禁断症状はまったく見られないじゃないですか?」
「ええ。だから我々も判断しかねているのです。『妙な結果』というのはそこですよ」
まさに「妙な結果」だった。
塩酸メタンフェタミンの残留血中濃度が高いということは、
恒常的に覚せい剤を服用していたとしか考えられない。
メタンフェタミンは肉体的な依存性こそないものの、精神的な依存性は高く
一定量以上のくすりを服用し続けることにより当初の覚醒効果に耐性が生じる一方、
激しい禁断症状に陥るのが常である。

「我々もこれをどう考えてよいのかわからないのです。まいさんに禁断症状は見られない。
恐らくMAに対する強烈な耐性があるのか、あるいは何らかの物質が作用を抑えているのか…」
「どうすれば…」
里田は途方に暮れた。
「わかりません。まいさんが気付かないうちに摂取してしまっているのかもしれないわけですし…」
医師の方もまた困惑を隠そうとしなかった。
暗に警察に通報するには状態がおかしすぎる、と伝えているようにも受け取れる。
里田にとって、唯一、それだけが救いだった。
342 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:33
「ともかく経過を見ましょう。遅効性の体質なのかもしれないですし、
体の方の傷が完治したからといってすぐに退院させるのは危険です」
「…考えさせてください」
やっとのことでその言葉を搾り出すと里田は亡霊のようにゆっくりと席を立ち上がり、
医師に謝辞を述べるのも忘れて呆然とした様子で診察室の扉を潜りぬけた。

「まい…」
里田は廊下に立って、病棟へと続くその奥を見つめたが
再び娘と冷静に対面する自信がなかった。
一体、娘はどこまで深く足を突っ込んでいるのだろう?
札付きの不良だという吉澤の娘がやはり悪影響を及ぼしているのだろうか?
わからない。
里田は諦めて歩き出そうとした、その瞬間。
343 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:34
「!」
里田はあることに気がついた。
同僚の自殺、場違いな弔問客、娘の交友関係…
すべてが符合する…かのように思えた。
里田の感が正しければ、それらの符牒はすべてあるひとつの事柄へと導かれる。
わからない。
里田にはその考えが正しいと考える根拠がほしかった。

急いで病院の外へ出ると携帯を取り出して、電源をオンにした。
病院の中では、携帯は使えない。
ある番号を押すと相手が通話口に出るのをひたすら待つ。
呼び出す間のコールが無性に長く感じられた。
そのまま永遠に相手が出ないのではないか、との想いが過ぎった瞬間、
通話口に相手が出た。

344 名前:  投稿日:2003/12/08(月) 20:34
Atto U
Il sospetto>>323-343


345 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/08(月) 23:45
いつも読んでいます。というか今一押しの注目作です。
いろいろな事が繋がり見え始めてきましたね。
更新いつも楽しみにしています。
頑張って下さい!
346 名前:名無しAV 投稿日:2003/12/09(火) 17:52
どうなるのやら……暫らく黙っていよう
347 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:18
Cosi fan tutte
女はみなこうしたもの

348 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:18


体育館の裏手に人影はなかった。
二時間目の授業時間中ということを考えれば至極当然の状況ではあった。
自分を呼び出した相手はまだ来ていない。
梨華は手持ち無沙汰に校舎を囲む高い外塀の上に覗く空を見上げた。
秋らしく深い青に澄み渡った空の端にたなびく鰯雲が
誰かの吸う煙草の煙を連想させた。

こうしていると今すぐにでも
ひとみが潅木の茂みから現われそうな気がするから不思議だ。
当の本人はどういう理由でか、
停学を食らって自宅に謹慎中だとわかっているのに。
学校から公式に発表されたわけではないから本当の理由はわからないが、
噂ではひとみの煙草の不始末が原因で出火したと言われているようだった。

梨華にとってもあの事件は残念だった。
積極的に部活動に関わるつもりはなかったものの、
それでもあのひとみが絵を描いている姿を
遠目からでも見ることができるかと期待していただけに。
349 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:18
あの火事があった日、梨華は偶然、美術室に立ち寄っている。
教師にことづけられて文化祭関連の配布物を渡しに行ったのだ。
いつもならまだ部員の残っている時間帯であったが、
その日に限っては梨華が訪れたとき、その場には誰もいなかった。

だからひとみの煙草の不始末による出火という噂に対して、
梨華は否定的な見方をせざるを得なかった。
第一、本人は悪ぶっているつもりで煙草をひけらかせて見せるが、
梨華はまだひとみが実際に煙草を吸っている場面を見ていない。
最初にこの場所で会ったとき、
思わず梨華が火を着けてしまった煙草も結局吸わずに捨ててしまっていた。

ひとみが偽悪的な態度を取るのは恐らく
潔癖過ぎる性癖の裏返しなのではないかと梨華は推測していた。
しきりに悪ぶってはいたけれど、
結局、梨華を救ってくれたのはひとみだった。
その事実はひとみがどう理由を着けようとも変わるわけではない。
350 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:18
ひとみが煙草の不始末で自らが絵を描く場所を燃やしてしまうなど
到底考えられることではなかった。

藤本に呼び出されたとき、梨華はすでに覚悟を決めていた。
今回だけはどうやら本気で藤本は怒っているらしかった。
同情すべき点はある。
日展に提出する予定だった労作が灰塵に帰してしまったのだ。
藤本ならずとも悔やんで余りある結果であった。

藤本がどうやら自分を疑っているらしい、と気付いたのはつい最近のことだ。
梨華はまさか自分が放火の犯人として疑われているなど想像もしていなかったのだが、
運悪く梨華が美術室から出るところを見ていた者がいたらしい。
梨華としては教師に言付かって配布物を届けに行っただけの話なのだが、
タイミングがタイミングだけにそうは受け取らない者もいるのだろう。
351 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:19
放火であるなら早く犯人を捉えない限り、
今後もそのように理不尽な疑いを抱かれたまま学園生活を過ごさねばならない。
一年の休学から復帰してようやく、
一学年下の生徒達とも織り合えるようになってきたその矢先だけに、
それは避けたかった。

であるならば藤本の誤解は解いておく必要があるだろう。
怒りに我を忘れて突飛な行動に出る心情は理解できないこともないが、
その怒りのはけ口として利用されるのを黙って見過ごすほど
梨華もお人好しではないつもりだった。

すでに日課と化した感のあるいつものねちねちとした嫌みであれば
黙って看過することもできただろう。
しかし、藤本の才能を妬んで梨華がその絵に火を着けた、
などという世迷い言を藤本が間に受けているのであれば徹底抗戦するつもりでいた。
352 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:19

いつものわたしじゃないぞ…

そんな風に自分を励ましては見るものの、
やはりひとりで怒り狂う藤本を相手にするのは心細かった。
体格では自分の方がやや勝っているかもしれない。
だが、俊敏そうな藤本の立居振舞はその運動能力の高さを示しているように思われた。
であれば梨華には分が悪い。

ここにひとみがいれば…

思わずそう考えてしまう自分の弱さが嫌だった。
ひとみには関わらない。
そう決めたのは自分ではなかったか。
ひとみと一緒に過ごしていればついつい気が緩んでしまう場面もあるだろう。
そうなればいずれ恐ろしい惨事を招くことになる。
時折、夢に出てくる父の映像は今も瞼の奥に焼きついて離れることはない。
恐らく一生、あの悪夢から解放されることはないだろう。
もう二度と、大事な人が炎に包まれて死にゆく場を目の当たりにするのは嫌だった。

353 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:20


風が吹いた。
潅木がかさかさと揺れる。
赤や黄に色づいた葉が風に煽られてひらりはらりと舞い上がる。
やがて地面に落ちた枯葉はざわざわと波のようにさんざめいて梨華の足許に押し寄せた。
がさごそと枯葉を踏み締める音とともに近づく人影を梨華は視界の片隅に留めた。
木枯らしとともに一人現われた藤本は無言のまま梨華の眼前に正対した。
射るような視線はまっすぐに梨華の瞳を貫く。
そのギュッときつく締められた口許に固い意志が凝縮されているかのようにさえ感じられた。

梨華もまたその瞳をにらみ返した。
戦いの火蓋は切って落とされた。
「梨華ちゃん、何で呼び出したかわかってるよね」
「ぜんぜん。デートのお誘いじゃないってことくらいしか。ね、みきちゃん」
これほど忌み嫌っている間柄ながら互いに「ちゃん」づけで呼び合うあたり、
見ようによっては滑稽であると同時にまたそらぞらしく、
キーンと凍りつくほどに張り詰めた雰囲気をもたらした。
354 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:20
「言うじゃないの」
フッ、と藤本は片頬を釣り上げて不敵な笑みを浮かべた。
余裕綽々、と見えてその実内心では予想外の梨華の抵抗に困惑を深める藤本。
おかしい。これは心に疾しさを抱えるものの態度ではない。
あるいは確信犯的に放火に美意識を見出している変態なのか。
とにかく無理押しでなんとかできる相手ではなさそうだ、
それだけ理解すると藤本は様子をうかがう戦術に切り替えた。

「美術室の放火事件、あんたが疑われてること。知ってんでしょ?」
黙ってうなずく梨華。
だが、すぐに口を開いてその噂を否定する。
「先生に頼まれて文化祭の配布物を届けただけだよ」
「そのついでにちょっと火ぃ着けてみたってわけね」
「だから違うって!」
355 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:20
その怒気に藤本は少しだけ怯んだ。
まさか梨華がこのように大声で感情を表現するとは思っても見なかったからだ。
藤本は毎日ねちねちといじめても一向に抵抗しない梨華の態度に
いつしか感情のない人形のような印象を抱いていた。
何を言ってもへらへらと曖昧に微笑んでやり過ごすその態度は逆に藤本に不快感を与えていた。
害意のないとわかっている相手に対して執拗に絡み続けたのはそのせいだ。

感情のないはずの従順な人形が突然、牙を剥いたのだから
藤本にとってはまさに晴天の霹靂だった。
それでもカッ、と相手を見据えて睨み付けるだけの胆力は備わっていた。
ぐっと腹に力を入れて目に力を蓄える。
そうでもしなければ梨華の迫力に気圧されそうだった。
356 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:20
「あたしは信じてないんだからね!吉澤が自分の煙草の不始末で出火させたなんて。
学校はうやむやにさせちっゃたけど、あんなのあんたを庇うためだって考えれば――」
「ちょっと待って!」
大声で藤本を遮る梨華の態度に藤本は違和感を覚えた。
虚を突かれて困惑している様子がありありと窺える。

「なんでひとみちゃんが私のこと庇うの?なんで?」
「知らない。あたしの方が聞きたいわよ!何なの、あんたたち?どういう関係なの?」
藤本自身、混乱しているせいかもともとの目的とは大きく離れた方向に
話が進もうとしていることに気づかない。
あるいは、最近の藤本のいらいらはすべてそのことに起因しているのか。
ともあれ、今はそんなことに思い至る余裕は両者にない。

「私は、ひとみちゃ、いや、吉澤さんは…」
梨華も考えがまとまらないのかうまく言葉が出てこない。
その様子に藤本はさらにいらいらを募らせてしまう。
吉澤ひとみが何のつもりでこの娘を庇うのか。
357 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:21
気に入らない。
何が気に入らないって、
あの吉澤ひとみが自分よりもこの娘に興味を抱いていること。

気に入らない。
自分を蔑むような、見下したかのようなあの目つき。
気に入らない、自分はこの娘より下だというのか?
この娘の描く絵に自分の作品は及ばないとでも言うのか?
気に入らない、気に入らない。とにかく気に入らない。

藤本は今やはっきりと気づいていた。
自分は吉澤ひとみに嫉妬している。
そして、そのひとみが認めた石川梨華という存在に。

許せない。
吉澤ひとみがライバルとして認めていいのは自分だけだ。
こんなどこから湧いて出たともわからない色黒の女に
うつつを抜かす吉澤ひとみなんて許せない。
358 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:21
ひとみが意識していたのは自分だったはずだ。
少なくともこの女が現れるまでは。
だめだ。やはりこの女は排除しなければならない。
この女がすべての元凶だ。
日展も吉澤ひとみも。
すべてはこの女に奪われたのだ、この色が黒いくせにやたら胸ばかりデカい女に。

もはや言い掛かりとしか言いようのない理由を頭の中に並べて、
藤本は眼前で困惑したような表情を浮かべて戸惑う梨華への敵愾心を募らせていった。
庇う…庇った。吉澤ひとみはこの娘を庇ったのだ。
自ら停学、いや恐らく退学処分を受けることさえ厭わずに。
藤本には目の前にいる貧相な女にその資格があるとは到底思えなかった。

「何でよ?何でなの?あんたは吉澤ひとみに何をしたの?」
「こっちが聞きたいって!…ひとみちゃん、いや、吉澤さんが自分から名乗り出たの?
ねえ、そうなの?」
藤本には梨華の態度が意外だった。
そんなことは当然理解していると思っていたから。
359 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:21
ひとみが名乗り出ていなければ真っ先に疑われていたのは梨華なのだ。
その立場からして、当然ひとみの行動の真意は伝わっているものと思い込んでいた。

フッ…

乾いた笑みが口元から漏れた。
藤本はなんだか疲れがどっと押し寄せて肩から力が抜けていくのを感じた。
梨華はわかっていなかった。
ひとみの自己犠牲にも近い行為の意味を。
ばからしい。まったくもってバカだ。
こんな女のためにどうしてそこまでする必要がある。
藤本はなんだかひとみが哀れに思えてならなかった。

「なんだ…あんた、本当に…」
「何よ!」
頬を膨らませて反発する目の前の少女の無邪気さが憎らしく感じられた。
360 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:22
こんな子どものために…
頬が引き攣って痙攣したように中途半端な笑みを貼りつかせた。
「そっか…そうなのか…フフッ…」
「何よ!呼び出しておいて勝手に納得しないでよ!わけわかんないんだから!
ちょっとは説明してくれたっていいでしょ!」

藤本はフゥーッ、と大きく息を吐くと肩を竦め
お手上げ、とでも言うように両掌を拡げて天に向けた。
「ひとつだけ言えるのは――」
「何よ、もったいぶらないで早く言いなさいよ」
藤本は相手にせずあきらめたように首を横に振って答えた。
「つまり――あんたはおこちゃまだってこと。吉澤ひとみがなんであんたなんかを
庇うのかは謎だけど、とってもナイープだということだけはわかったわ」

「ナイーブ…」
「おばかちゃん、って意味のね」
「な、何を――」
「じゃね」
そう言って立ち去る藤本を梨華はただ呆然と見送るしかなかった。
361 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:22


藤本の態度はまったく解せなかった。
なぜ自分がバカ呼ばわりされなければならないのだろう。
そして、執拗に藤本が繰り返していた「なぜあんたなんかが――」という台詞。
あれではまるで吉澤ひとみに選ばれた梨華に対して嫉妬しているようではないか。
嫉妬――と考えて梨華ははたと気付いた。

藤本はひとみに対して何か特別な感情を抱いているのではないか。
であれば、粘着ともいえる態度で
子どものようないじめに走る気持ちもわからないではない。
いや、理由として理解できるというだけで
到底、受け入れられない事実ではあることには変わりはないのだが。

それにしてもあの藤本が同性であるひとみに惹かれているとは…
おそらく藤本自身は気付いていないのかもしれない。
わかっていないからこそ、あのように荒れるのではないか。
梨華はそう結論付けるとなんだか藤本の態度が妙に可愛らしく思えてきた。
362 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:22

好きな人を取られた、と思い込んでいじわるするなんて…

くすっ、と笑みがこぼれる。
吉澤ひとみならば仕方がないか。
不思議な話だが、あの少女の瞳には何か人をひきつける光がある。
もちろん梨華としてその例外ではない。
だから困惑している。

そして藤本も同じ思いを持て余しているのだと理解した瞬間、
今まで抱いていた不快な想いがすべて氷解し、
同志を見つけたようなどこか面映い不思議な連帯感をさえ感じた。
であるならば、一番、罪深いのは――

「ひとみちゃん、だよね…」
思わずつぶやいていた。
二度と口にしてはいけないと自らに課していたその名前。
その名を唱えただけで胸の内に灯る火の優しさ、その温もり。
363 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:23
梨華は少しだけ、一度だけ、誓いを破ることにした。
ひとみがなぜ、出火の当事者だと名乗り出たのか不審に思っていた。
だがそれは自分を庇うためだったと知った上で尚、知らぬ振りを通すことはできない。
ひとみに礼を尽くさねば。
そして、できることならば藤本の想いを伝えるのだ。
そう、それでいい。

梨華は藤本ならばひとみと吊り合うだろう。
ともに美術の才能を秘めたもの同士だ。
自分のように人としての枠から外れていることもない。
そう、それでいい…

梨華は藤本とひとみが仲睦まじく語らう姿を想像しただけで
胸の内から暴れ出そうになる想いを必死で抑えつけると、大きく深呼吸した。
苦しい。まだ息苦しい。胸が締め付けられるようだ。
どうしたっていうんだろう。
わかってるはずだ。ひとみは人間だ。
だが、自分はそうではない。
364 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:23
自分じゃだめなんだ…
そう強く思い込まなければひとみに会ったときに自分の行動を制御できる自信がなかった。
大丈夫。一度だけ。ただ礼の言葉を送るだけ。
その言葉を告げるために会わなければ。
会って今度こそ、適わぬ想いなら断ち切らなければ。

自分自身に引導を渡す。
ただそれだけのことがとてつもない大事業に思えて
梨華は途方に暮れた。
もう何千回、何万回の呪ったことだろう。
このような体に生まれついたことを。
その限りない負の感情を今また、梨華は抑えることができなかった。

365 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:24
Atto U
Cosi fan tutte>>347-364


366 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:25
久しぶりにお礼を。
みなさんのレスにはいつも感謝しております。
毎回お返しできずに申し訳ありません。

>226名無しさん
保全ありがとうございます。

>275名無し読者さん
ありがとうございます。しかし……

>298名も無き読者さん
ありがとうございます。
367 名前:  投稿日:2003/12/11(木) 17:25
>299名無し読者さん
どうもです

>345名無し読者さん
ありがとうございます。頑張ります。

>197,225,274,297,322,346
名無しAV様
いつもレスいただきありがとうございます。
そう言わずにぜひ>暫らく黙っていよう

今後ともよろしくお願いします。
368 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/13(土) 16:56
更新楽しみにしております。
がむばって下さい。
369 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:33
Die Grenzen
境界

370 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:33


ひとみは病院を出てしばらくすると立ち止まり、
その白い要塞のような巨大な建造物を振り返った。
見上げるとまいが窓から顔を覗かせて手を振っている。
ひとみも手をかざして大きく振り返した。
やがてきびすを返すと商店街へと続く下りの坂道を駆けるように降りて行く。

こないだ見舞ったときよりもやはり心身ともに回復しつつあることを感じた。
久しぶりに見たあの明るい表情。
ひょっとすると入院前よりも快活さを取り戻してさえいるかもしれない。
以前のまいには明るく振る舞っていながらもどこか後ろ暗いところがあるのか、
時折その表情に深い影の差すことが多かった。
だが、ひとみが見舞った際、まいの表情は何かふっ切れたような清々しさをたたえていた。

まいとこれだけ素直に話ができたのは久しぶりだ。
ひとみとまい、そして真希の三人遊んだことが遠い昔の出来事のように思えた。
それほどまいと真希とは疎遠になっていた。
なぜだろう?
371 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:34
いつからだろうか。
ひとみは記憶のひだを手繰るようにしてまいとの思い出をひとつひとつ振り返った。
幼少の頃の思い出には、まいとともに必ず真希の姿があった。
三人は大体においていつも一緒だった。
今では考えられないことだけれども、泣き虫で他の子に泣かされたひとみを慰めるのは
まいの仕事だった。真希はその頃からどこか一人超然とした雰囲気を漂わせており、
いじめられることもない代わりに他者と積極的に関わろうという意志を
あまり感じさせない子どもだった。

三人でいったい何をして遊んでいたのか今となってははっきりと思い出せない。
とにかくひとみの記憶の中では、自分がいつもいじめられて泣かされており、
それを慰めるまい、という構図しか浮かんでこないのだった。
その映像の中で真希の占める位置ははなはだ心許なかった。
真希は一体、自分達にとってどういう存在だったのだろう?
372 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:34
気づけば一緒にいた、という以外、まいのように自分と積極的な関わりが
あったように感じられないのもまた真希らしいと言えなくもない。
中学のときまで、三人は家が近いこともあり、ともに行動することが多かった。
小学生の頃から同じ私立の中等部に持ち上がりで、真希と同じクラスにいたこともあったのだが、
部活や勉強で個々人の活動が忙しくなるに連れて他に仲のよい友達ができるようになると
三人の間は次第に疎遠になっていった。

真希の父が製薬会社の社長として民間に降りて官舎を出るまでは近所ということもあり、
それなりに会話は続いていたように思えるのだが、高等部に上がる頃には
すっかり関係は途切れており、すれ違っても軽く会釈する程度の間柄になってしまっていた。
その真希が先日、ゲームセンターで遊んでいた自分に声をかけてきたのも
また何かの符牒なのだろうか。ひとみは思う。
373 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:34
自分が二人から離れていった一方、まいと真希はそれなりの関係を保っていたようだ。
特に高等部に上がってからは再び、以前のような親密さで
行動をともにする姿をよく見るようになったように覚えている。
だからまいが入院したと聞いたとき、
それに対する真希のあまりにも無関心な様子に疑心を抱いたのだった。

真希ははっきりとは言わなかったが、まいには含むところがあるようだった。
ひとみの聞いていないようなことまでべらべらとしゃべり続けた。
聞いていない、というよりはむしろ聞きたくない話題だった。
真希の話によれば、まいは援助交際に手を染めているとのことだった。
入院するほどの大怪我を負ったのは、きっとそのトラブルによるのだろうと。

ひとみにはわからなかった。
真希とまいは友人であるはずだった。
親友と呼べる仲ではなかったのかもしれない。
だが、真希がひとみに対してまいのことを語る姿は、怪我を負って入院している
友人に対する態度には見えなかった。
374 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:34
まいへのあからさまな蔑視の表情は思えば昔から様々な場で目にしていたのかもしれない。
ただ、それが何なのか、今の自分のようには判断するこどかできなかったというだけで。
幼い自分にとって理解不能だったその表情は単に真希の得体の知れない不思議さとして
記憶の底に置き捨てられていたようだった。

だが、先日の真希の様子は記憶の中にあるどの姿とも違って見えた。
どこかおかしい。
それは真希が声をかけてきたときに既に感じていたものだった。
それが絶対的な違和感、そして嫌悪感へと変わったのは、
口角泡を飛ばして、まいについての本当かどうかわからない
悪口雑言を並びたてる真希の姿を目の当たりにしたときだった。
ひとみは寒気を感じた。以前の真希ではない。
何かが違う。だが、具体的にどこがどう違うと自信を持って言えるほど
もう真希とは近しくなかった。
以前、廊下ですれ違ったときに感じた据えた黴のような臭い。
そして今、品のない口調でまいを罵倒し続ける真希の濁った瞳。
腐った魚のどろんとした眼にも似た腐臭にひとみは耐え難い想いを抱いた。
375 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:35
男のせいかもしれない。
ひとみは真希がゲームセンターのバイトの少年と付き合っているらしいことを
真希の言葉の端々から読み取った。
自分がゲームに昂じている最中に鋭い視線を投げかけてきたあの少年…
おそらくまっとうな人間ではないだろう。
あそこの店はたしかなんとかいう組の息がかかっているはずだった。

父親への反発から街中を徘徊している間、ひとみは好むと好まざるとに関わらず
裏の事情には通じるようになっていた。
ゲームセンターなどに入り浸ると、聞きたくもない話を囁きかけてくる
ろくでもない連中は引きもきらない。
ひとみはただ一人でいたいだけなのに。
最初のうちは適当にあしらっていたが、
あまりの鬱陶しさに近寄らないよう告げると連中の態度は一変した。

へらへらと薄ら寒い笑みを浮かべていたはずの顔が怒りの余り紅潮する様を見て
ひとみは本当に「血が上る」という状態はあるのだな、と場違いな思いを抱いていた。
連中がナイフを携帯していることはわかっていた。
そして簡単にそれを振りかざすことも。
不思議と怖さは感じなかった。
376 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:35
何も考える必要はなかったからかもしれない。
やらなければやられることはわかっていた。
そして、そのような場では先に仕掛けた方が断然有利だということも。
やるべきことが最初から決まっていれば何を迷うことがあるだろう。
ひとみは躊躇せず、忍ばせていた剃刀を一閃させた。
敵が持っていたナイフを取り落とし、血溜りにうずくまる姿を確認するまでもなく、
ひとみは脱兎のごとくその場から逃げ去った。

そのような修羅場を前にすると生き返ったように目を輝かせる人間がいる。
ひょっとして自分もその類かと考えたことがある。
だが、どうもそういうわけではなさそうだった。

感動は何もなかった。
自分が勝負に勝ったという感慨も、また相手が復讐に来るのではないかという恐怖も。
ただ、そんなことになったら厄介だという面倒くささだけ。
面倒くさい。
何もかもが面倒くさかった。
父のこと、学校のこと。
377 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:35
そんな中で出会ってしまったあの少女の存在だけが
ひょっとすると今の自分を支えているのかもしれない。
気が付くとそんな風に考える自分がいた。
別にあの少女に恋してしまったとかそんなおもしろいことではないのだろう。
ただ、現実の世界との関わりが面倒くさいとしか思えなかったときに
忽然と現れたあの少女との邂逅にはやはり、何か特別の因果を感じないでもない。

体育館裏で梨華に会って以来、ひとみは積極的に他者との関係を修復しつつあった。
一度は遠のいたはずの現実世界との関わりを梨華の存在が引き寄せたようにさえ思える。
それは梨華と関わりたいとする好奇心のなせる業だったのかもしれない。
あるいは心の奥底にあった「他者と関わっていたい」とする欲求が
梨華という存在を通して表れてきたものか。

ひとみにとってはどちらでも構わなかった。
ただ、梨華と関わることがなければ継母の連れ子である亜依を追って
奈良まで下ることもなかったし、
こうしてまいを見舞いに訪れることもなかっただろう。
それだけは確かなことのように思えた。
378 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:35
まいの表情は穏やかだった。
『自業自得――かもしれないからさ』
そう言って笑うまいの表情に屈託はなかった
その口から実際に援助交際を行っていた事実を聞いてさえ、
まだひとみには信じられなかった。

なぜ、そのようなことをする必要があったのかひとみにはわからない。
あるいは必要性などどうでも良かったのかもしれない。
単に自分の存在を汚してしまいたかっただけで。
それはひとみにも思い当たることだった。
まいの父は事件後、省を辞めている。
それを恥ずかしそうに話す表情はとても綺麗だと思った。
少なくとも今の自分にできる表情ではなかった。

『真希をさ…怨むつもりはないよ』
まいは穏やかな口調でそう言った。
実際、まいの表情に翳りはなかった。
真希がまいに何をしたのか、ひとみにも大体の想像はつく。
だが、それに対する恨み言はとうとう一言も聞けなかった。
代わりにまいの口から出てきたのがその言葉だった。
379 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:36
まいはこうも言った。
『真希を救えるのはね…よっすぃだけだと思う。他の人だとあまりにも真希の立場に
影響されてしまうから…だから、誰の言葉も信じない。でも、よっすぃなら…』
死ぬほどの目に遭わされながら、なお真希のことを案ずる姿に
ひとみは信じがたいものを見た思いがした。

真希はまいを襲わせた張本人だ。
まい自身、はっきりとは言わないし、真希もそこのところはぼかしていたため確証はない。
だが、真希のまいに対する必要以上の悪意とまいの話した内容から推測する限り
真希が命じた犯行と考えるのが自然だった。

ひとみは黙って聞くしかなかった。
『正直、入院した直後は殺してやろうと思ってた。物騒だけどね、もうそればっかり考えて。
どうやって殺してやろう、とか。あはは、バカみたいだね』
当然だ、とひとみは思った。
真希を殺してやりたいほど憎んだとて誰も咎めはしなかっただろう。
まいが真希のことを殺してやりたいほど憎むのは当然のことなのだ。
380 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:36
『でもね、なんでかわかんないけど、親父が省を辞めたって聞いて肩の力が抜けたっていうか…
あ、ごめん。よっすぃの前でこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど…』
まさか、と言って笑ったつもりの自分の表情が果たして
その意図した通りになっていたかひとみには自信がなかった。
今でもまだ無理に笑みをつくろうとすると肩頬が引き攣るような気がする。

『よっすぃは強いから……だから、自分を見失わずに済んでると思う。
でも真希やあたしは弱いから…弱いから何かに縋らずにはいられないんだ。
真希もああ見えて弱いんだと思う。だから――』
助けて上げて、と繰り返すまいの表情が真剣なことにひとみは気づいてうろたえた。
自分だとて決して強いはずはない。

煙草の不始末で美術室燃やしちゃったんだよ。
自分自身を揶揄するように言ったところでまいは笑って取り合わなかった。
ただ一言。よっすぃがそんなことするはずないよ、と。
381 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:36
ひとみは肩を竦めるしかなかった。
交流が途絶えてから随分と時間が経つはずなのに時を感じないのは
やはり幼馴染であることの気安さからなのだろうか。
たしかに二人の関係は変わっていないように思えた。
まいは相変わらずひとみを庇護してくれる存在であり続け、
自分はその恩寵に縋ることで生きることを許される矮小な存在。

ひとみはその関係が嫌いではなかった。
むしろ以前は心地よいとさえ感じていたものだ。
その心地よい関係に真希を含めた三人がまた戻れる日が来るのか
ひとみには甚だ心許なく感じられた。

382 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:36


まいを見舞った病院からの途上、ひとみは商店街の中ほどでふと足を止めた。
ひとみや美術部の部員が画材を調達している画廊がある。
絵の具や絵筆、キャンパスなどの画材は奥の棚に並べられており、
手前の狭いスペースの両方の壁には売り物の絵画が飾られており
ちょっとしたギャラリーといった風情になっていた。
もちろん名の通った画家の作品が展示されていることは希で、
地元の愛好家が描いた売り物にもならないような作品がほとんどだった。

店としては人に見られる場所に素人が描いた作品を飾ることで
絵を描くという行為に対する動機づけを与えることが目的であった。
自分の描いた作品を他者の目にする場所に展示してもらえる。
それだけでも絵筆を握る人間にとっては大きなはげみになるのだった。
店側としては、そうした素人愛好家の美術熱が高まることで
画材が売れればそれでよいと考えているようだった。
383 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:37
とはいえ中には素人目にみても優れた作品が希にある。
もとがアマチュアの描いたものなのでそれほど値が張るわけでもない。
で気がよければ売れる、ということが知れ渡ると腕に自信のあるアマチュア画家が
頻繁に作品を持ちよるようになった。
とはいえ狭い小さなスペースだ。
持ちよられた作品すべてを展示することはできない。
自然、出来のよい作品だけが選べられて展示されることになり、
この画廊に飾られることがアマチュア画家達にとっては
ひとつのステイタスのようになっていった。

ひとみ達の先輩である保田もここで展示されたことがきっかけで
世界に飛び出していった。
高校在籍時、保田の独特な筆致による線描画は教師にも理解されず、
単にデッサンの下手な生徒との評価に甘んじていた。
それがどういうわけかここの店主の目に止まって展示されると
驚くような値が付いた。
384 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:37
最初は世の中には変わった人がいるものだという程度の評価だった。
だが、次に展示した保田の作品にまたも高値がつき、
その上、名のある美術雑誌に取り上げられたともあり、
保田の名は一気に広まっていった。
そのきっかけとなったこのギャラリーは自ら筆を握ることのない
地元の美術愛好家にとってさえ大きな存在となった。

絵を志す生徒にとってここに飾られることが夢を実現させるため
第一の大きな目標となっっていった。
憧れの存在、とも言えるかもしれない。
だからひとみはその前を通るとき、展示されている作品に視線を向けた。
もはや習慣、というよりはむしろ反射運動に近い。
作品が入れ替わっていたら必ず立ち寄って眺めていくことにしている。
ひとみだって今はまともに筆さえ握っていないけれど
ここに飾られるチャンスを窺っているうちの一人だ。
どんな絵が新たに飾られたのか気にならないわけがない。
385 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:37
そして今日、またしても展示されている作品は大きく入れ替わっていた。
「ラッキー」
思わず口をついて出てくる程、ひとみは上機嫌だった。
ここのところ美術室の出火、そしてそれに伴う停学、
そしてまいの大怪我と明るい話題がなかった。
今日はまいを見舞ってその元気な姿を確認したばかりだ。
ひとみには世の中が少しずつ良くなっていくような、
そんな気分で帰途に付いたばかりだ。
ギャラリーの展示作品が刷新されたばかりのところに出くわすとは
幸先のよい出来事に思えたのだ。

「こんちは」
入り口で声を掛けるが誰も出てくる気配はない。
店主は奥で読書に耽っていることが多いことをひとみはよく知っている。
気にせずに新しく架け替えられた作品を一瞥してひとみは感嘆の声を上げた。
386 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:38

すごい…

ひとみはその絵の放つ迫力に息を呑んだ。
画面いっぱいに広がる燃え立つような深紅。
その濃淡による陰影がなにか混沌とした世界を彷彿とさせる。
さらにところどころ見え隠れする黄や緑、様々な原色が下地となって
微妙なグラデーションを形成し、作品に立体感と奥行きを与えていた。

ここのギャラリーに抽象画が展示されることはそう珍しいことではない。
だが、多くはモンドリアンの亜流だったり、クレーの焼き直しだったりと
その原型が作品を通して透けて見えてくるようなものばかりで、
印象に残るものは少なかった。

だが、これは違う。
強いて言えばロスコの手法に似たようなものを微かに感じないでもないが、
たとえそうだとしてもこの絵の持つ迫力までもが失われることはない。
筆致は荒々しく、そして繊細だ。
その筆の勢いにはリズムが感じられた。
ときに激しく、そしてときに濃密に。
ただ色彩が描かれている作品なのに感覚に大きく訴えてくるのは
恐らくそのリズムに拠るのだろう。
387 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:38
ひとみは完全にその絵の迫力に呑まれて作者を確認するのを忘れていた。
この町にこんな凄いものを描く人がいたんだ。
ひとみは嬉しくなった。
誰だろう。
そして作品の下部に申し訳程度に表示されたタイトルと作者名を見て
ひとみはあっ、と声を上げた。

 石川梨華『Die Grenzen』

ドイツ語で「境界」と名づけられたその絵の作者は、
まさにひとみが切望していた石川梨華、その人であった。
388 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:38
「驚いた?」
びくっ、として振り向くとこの店の店主、飯田圭織が立っていた。
飯田はまだ若いくせにどこか老成した雰囲気を漂わせている。
「驚いたさ。この作者にはね」
「知り合い?」
今度は飯田の方が驚いたようだった。
ただでさえ大きな瞳をさらに見開いて近付けてくる顔面の迫力に
ひとみは思わず顔を背けたくなった。
もちろん、実行するわけにいかないのは百も承知だけれど。

「うん。うちの生徒。なんか病気の療養で休学してたらしいんだけど、最近、復学してきたらしい」
「ああ、そういえばそんな感じだったわね。色は黒いけど、どこか退廃的な雰囲気で」
さすがに観察眼が鋭い、とひとみは思った。
保田を見出した眼力は健在だ。
389 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:38
「やられたなあ…こんな絵を描く子だとは思わなかった。もっと大人しい静物画とかだと思ってたのに」
「私もね、最初見たときは信じられなかったの。こんな凄いの描ける人がこの町にいたんだ、って」
飯田が驚くくらいだから、実力は確かなのだろう。
ひとみは少しだけ嫉妬に近い感情が芽生えてくるのを感じつつ、
それでも梨華がこれだけの絵を描けるのだという事実に震えるほどの喜びを覚えた。

ひとみは直観していた。
彼女とは深いところで価値観を共有できる。
おそらく彼女とは話ができる。
それは同じ価値観を共有しないその他の人々にはいくら説明しても
伝わらないことが梨華ならば言わずとも伝わる、ということだ。
その喜びは何事にも替え難い。
ひとみは久しぶりに昂奮して頬が紅潮するのを隠せなかった。
390 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:38
「あっ、知り合いなら丁度いいわ。この子、絶対好きだと思うんだけどさ…」
「ん?」
ひとみは軽く問い返しながら、まだ梨華の絵を眺めていた。
見れば見るほど味わいが深まるような気がする。
「よっすぃは興味ない?マチスが来るんだけど?」
「マチス?」
ひとみは思わず声が裏返るのをどうすることもできなかった。
マチスといえばアンリ・マチスに決まっている。
その作品がどこに来るって?

「S市のね、K美術館。ほらロスコとかステラなんかを常設展示してる」
「ああ、醤油の町ね。あそこにマチスが来るの?」
ひとみはなんだか盆と正月が一遍に来たみたいだ、と少しもったいないようにさえ感じた。
マチスは好きな画家の一人だ。
特に赤い部屋の色彩感覚はその鮮やかさに圧倒される。
梨華の燃えるような赤にも共通する何かがありそうだ。
K美術館にマチスが来ると聞けば喜ぶだろう。
391 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:39
「そのチケットがあってね。よっすぃ、いる?その子にぜひ行ってほしいんだけどさ」
「いる!行きます、っていうか絶対渡す!ちょーだい!」
現金なものでひとみは両手を差し出して物乞いのようにチケットをせびっていた。
「もう、そんなにがっつかなくたって、ちゃんとあるから!」
そう言ってエプロンのポケットから封筒を取り出した飯田は何枚かを抜くとひとみに差し出した。
「一、二、三……四、五…六、六枚。六枚っと…えっ!?いいの、六枚も貰って」
いいの、と言いながらもひとみはそそくさと後ろ手にチケットを持ち替えている。
返す気はさらさらないらしい。

「友達の学芸員がその美術館にいてね。なんかノルマがあるらしくって。
カオ、可愛そうだから買ってあげたの」
「マチスならそんなことしなくても売れそうだけど…」
「それがそうもいかないらしくてね…前売りである程度実績上げないと
次から独自企画を立ち上げられないって」
ふーん、とうなずくひとみは多すぎるチケットを持て余しながらも早速、
梨華の他に誰を誘おうか考え始めていた。
392 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:39
「よっすぃ、それ渡すついでにさ、その子にたまにはこっちにも顔出すように伝えといてよ」
「いいよ。っていうか、体丈夫じゃないみたいだけど?」
「ふぅん、そうなんだ…じゃ、よろしく頼んだわよ」
そう言うと飯田は早くも客を置いて再び奥へと引っ込んでいった。
まったく商売っ気のないことこの上ない。
客を置いてさっさと引き上げてしまうとは。

ひとみは呆れつつも、梨華に会う機会を提供してくれた店主の大きな後姿に感謝して、
もう一度、梨華の絵を見上げた。
それにしても、とひとみは考えた。
("Die Grenzen"か…『境界』って何の境界なんだろう?)
その答えはやはり作品の中にしか存在しないのだろうか。
ひとみはさらに注意深く見るものを焼き尽くしそうなほどの光彩を放つ
梨華の作品全体に目を配った。

心なしかさっきよりもさらに色の濃淡による陰影がはっきりと
浮かび上がってきているような感覚に捕らわれた。
その陰影がどういうわけか一瞬、炎のように煌いたと思った次の瞬間にはもう
その形をどこにも見出すことはできなかった。
393 名前:  投稿日:2003/12/16(火) 10:39
Atto U
Die Grenzen>>369-392


394 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/17(水) 14:14
おもろい 応援してます
395 名前:名無しさん 投稿日:2003/12/17(水) 18:05
毎回大量更新おつかれさまです。
思いっきり引き込まれはまっちゃってます。
楽しみにしてるんであせらず頑張って下さいね
396 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:12
Papa Haydn
パパ ハイドン

397 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:12


風が強い。寒い。
痛いほどに乾燥した風が頬を叩く。
鞄を握る右手はかじかんで既に間隔がない。
早く家に帰って温かいココアでも容れて飲まなければ風邪をひいてしまいそうだ。

ここ数日、異常気象のせいだろうか。
本格的な冬にはまだ遠いはずの晩秋だというのに寒波が押し寄せて
二月中旬並みという記録的な寒さが続いている。
気温の激しい変化と乾燥した空気も災いしてか
亜依の学校ではインフルエンザが猛威をふるっている。

辻と小川も既にダウン。
クラスの大半が欠席しており、あと二人休めば学級閉鎖という状況。
紺野と顔を合わせて自分達が休めばズル休みにならないね、
などと半分真剣に話し合ったばかりだ。
もっとも亜依は本気だったが、優等生の紺野の場合は
単なる冗談に過ぎなかったのだろうけれど。
398 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:12
通りを渡って角を曲がり、まっすぐ進めばもう家だ。
亜依は最後の横断歩道を渡るとバイクのハングオンを気取って
勢いよく体を傾け電信柱の外周を旋回した。
と、視界に妙なものが映った。
前方の未確認物体を警戒して急ストップをかけるが勢いのついた体はすぐには止まらない。
おっと、っと、と。
前のめりにならながら二、三歩踏み出してようやく静止すると
前方の未確認物体に目を凝らした。

妙な物体、と見えたのは丁度亜依の家の前を行ったり来たりしている人影だった。
どうしよう?
亜依は急に心細くなって体を縮こまらせた。
空き巣?それとも強盗?
いや、こんな白昼堂々と家の前を行ったり来たりするバカな強盗がいるはずもない。
では何だろう…

ハッ、と亜依は思い当たった。
ひとみさんに聞いたことがある。
こちらの家に引っ越してくる以前、投石による窓ガラスの破損や無言電話、
壁のいたずら書きなどが頻繁に繰り返されたこと。
父親の犯した罪を考えればしかたがない面もある、
とあきらめたようにただ嵐が通り過ぎるのを待っていたという。
399 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:13
だが、嫌がらせは次第にエスカレートし、
ついには帰り道で待ち構えてひとみに掴みかかる者が表れた。
暴力行為に及ぼうとする危険な輩が家の周りを徘徊するに及んで
父親もさすがに引っ越すことを決意したという。

亜依は目立たない様に電柱の影に隠れ、
相変わらず家の前で立ち止まっては引き返そうとしてまた止まり
という行為を繰り返す変質者の様子を注意深く観察した。
女だった。
それもまだ若い。
そして遠目からでは断言できないが、どうやらまだ学生らしかった。
紺色の地味なデザインのコートが亜依の判断を鈍らせた。

色黒なのは活動で屋外にいることが多いせいだろうか。
亜依はひとみからストーカーまがいの偏執的な社会活動家の女性の話を聞いていた。
その女性は四六時中、家の周りを徘徊して
ゴミを出せばその内容まで暴いて調べるという徹底振り。
ある日突然、ひとみの前に表れて「あんたやってるでしょ?」とひとみに向かって言ったという。
400 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:13
驚いたひとみがポカンとして二の句を告げられずにいると、
勝ち誇ったように言い放ったらしい、生理が来てないから妊娠してるのだろうと。
ゴミから生理用品を取り出して周期を計算していたという話に
ひとみは怒るよりも呆れてしまったという。
人の汚物を採取してる暇があるなら公園でゴミ拾いでもしていた方がよっぽど社会に
貢献できるのにねえ、と楽しそうに話すひとみの笑顔に屈託はなかった。

あの女もそのたぐいの人間だろうか。
そう考えてみると細く切れ長の眼はどことなく落ち着きがなく
精神的に不安定な様子、と取れないこともない。
亜依は不安を募らせた。
どうしよう、中にはお母さんがいるはずだ。
お母さんの生理用品など漁られた日には亜依は恥ずかしくて生きていけない。
それだけは自分のものを漁られるよりもまだ生臭い感じがして嫌だった。

どうしよう、どうしよう…
時間だけが無為に過ぎていく。
手はかじかんでとっくの昔に感覚がない。
寒い、凍えて死にそうだ。
そうだ、あの女には感覚がないのか?
401 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:14
亜依よりもずっと前から家の前でああやってうろうろとしている
女の鈍そうな感覚がうらやましかった。
寒さはどんどん亜依の内側に侵食して体中が凍りつきそうな感覚に
もはやガタガタと歯が鳴るほどに奮え出した。
限界だ。

亜依がストーカー女への恐怖を振りきって前に出ようとした瞬間、肩を叩かれた。
「よぅっ」
「ひっ!」
びっくりしてさらにガタガタと歯を鳴らすと
「どうしたんだよ、えらく震えてるじゃん」と聞きなれた声が。
おずおずと振り返ればひとみが不思議そうな顔で見つめていた。

「お姉ちゃん!変質者だよ、ほら!」
亜依の指差す方向を一瞥するなり、ひとみは大声をあげて笑い出した。
「なんで笑うの?さっきからずっとああやって家の前を行ったり来たりしてるんだよ!
変質者だって、絶対!」
亜依が力説するたびにそれがおかしいのかさらに腹を抱えて
ひぃひぃ呻き声を上げる姉、ひとみ。
402 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:14
困惑する亜依にはかまわず、ひとみは「よしっ」と気合を入れてすたすたと歩き出した。
慌てて後を追う亜依は何が何だかわからない。
何しろ変質者めがけて突進する姉の様子はあからさまに嬉しそうだったから。
「よぅっ、梨華ちゃん」
ハッ、として振り向く変質者、もとい梨華ちゃん…梨華ちゃん?ん?
亜依は寒さでかじかむ手をギュッと握り締めてひとみの背中から顔を覗かせて
再びその色黒の女性を注意深く観察した。
心なしか戸惑っているように見えるのはやはりどこか後ろめたいところがあるからだろうか。

「あ、あの、わたし…」
「寒いのによく来たね。入りなよ、お茶でも入れるから」
(ええっ!)
亜依はひとみの脇腹を小突いて小声で告げた。
(ええの?変質者ちゃうの?)
答える代わりにポカッ、と亜依の頭を拳骨で軽くつついてひとみは玄関を開けて
「ただいま」と告げ、続けて「お母さん、お客さん。お茶入れて」と畳み掛ける。
亜依もしかたなく「お邪魔します」と丁寧に挨拶する梨華のあとから、
ただいま、と小声でつぶやき、後手に玄関の扉を締めた。
403 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:15
「あらいややわあ、ひとみちゃんのお友達? いらっしゃい、よう来てくれはって」
すたすたと二階に上がろうとするひとみの制服の裾を握りながら
梨華は関西弁を操る妹と母親の存在に戸惑いを隠せない様子だった。
「わ、わたし、お邪魔しちゃ悪いから――」
「何言ってんのさ、今から帰ったらそれこそ感じ悪いじゃん。
それより、手、冷たいよ。早く上がって暖まりなよ」

亜依は母親にすがるような視線を送った。
だが、初めて連れて来た友達の前で「お母さん」とひとみが呼んでくれた
嬉しさの余韻に浸る母に亜依の思いが届く気配はなさそうだった。
「す、すみません。すぐ帰りますから…」
「まあまあ、そう言わんと、ゆっくりしてってくださいねえ」
そう言って、台所に下がった母の後ろ姿を恨めしそうに見つめると亜依は
ハァッ、と大きく息を吐いて諦めたように自室へと向かった。
404 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:15
まったく妙なことになったものだと嘆息する。
ストーカーでなかったのは良かったとして、姉に来客など
今までなら考えられないことだった。
奈良の件以来、姉とは随分、打ち解けることができた。
停学中にはさらに親しくなれたと思っている。
こんなことを言っては不謹慎だが、できればもう少し
停学期間を延ばしてくれてもよかったとさえ亜依は思う。

そんな最中に現れた来訪者に亜依は良い印象を持てなかった。
姉の妙に馴れ馴れしげな態度も気になった。
ひょっとするとこれは嫉妬というやつなのだろうか。
姉妹の間柄で嫉妬というのもおかしな表現なのかもしれないが、
せっかく自分にとって大切な存在になりつつある姉の関心が
他の人間に移ってしまうのは嫌だった。
少なくとも亜依の目の前では。
405 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:16
(よっしゃ…)
亜依は腹を決めた。
(あの色黒が妙な気ぃ起こさんように――)
制服を脱いで普段着のジャージに着替えながらも亜依は気が気でない。
(――うちが見張っといたる…)
パン、パン、とお尻を叩いて上着の裾を伸ばすと亜依は勇んでひとみの部屋へと向かった。

ドアの前でしばし思案。
中からは楽しそうに歓談する声…ではなく、一方的にひとみがしゃべる声が聞こえてくる。
なんだか好きな女の子を初めて家に連れてきてはしゃいでる男の子みたいだ。
亜依の前では見せたことのないひとみの浮かれた姿を前に心がぎしぎしと音を立てて痛む。
拳を握り締めると、亜依は軽く息を吐いてトン、トン、とドアをノックした。

「はーい、どうぞ」
「お邪魔しまーす」
ドアをあけてするりと亜依が滑り込むと「なんだ、あいぼんか」とやや落胆したようなひとみの声。
母親がお茶を運んでくれるのを期待していたらしい。
「ええやん、お姉ちゃんが綺麗なおねえちゃんを襲わへんように監視したんねん」
「なんだよ、それ」
くすっ、と梨華が笑い声を漏らすのを聞き逃す二人ではない。
パッ、と自分の方に振り向く二人の視線に顔を赤らめながら「だって…」と梨華は言い訳する。
406 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:16
「ひとみちゃんがあんまりいいお姉さんだから、おかしくって…」
確かに梨華でなくともひとみのそんな姿を見られることは滅多にないだろう。
特に学園での硬派ぶりを見慣れている人間にとって意外な姿であるには違いない。
「ちぇっ、なんだよそれ。オレはいいお姉さんだよなあ、あいぼん」
「まあな。停学中は大分、遊んだったしな」
「遊んでやったのはこっちだろ!」

ぷっ、と今度は噴き出した。
と見る間にアハハ、と声を上げて笑っている。
口元を隠して必死で堪えてはいるが、今にも腹を抱えて転げ出しそうな気配に
亜依はニヤッ、と笑って片頬を吊り上げた。
「梨華ちゃん言うんか、あんた。なめとったらあかんで、
こう見えてもうちのお姉ちゃんは停学中、公文のプリント100枚こなしてたんやからな。
そんじょそこらの不良とは格が――イテ、テテテ」

「あほなこと言ってないで早く宿題しろ」
ひとみに耳をつままれて亜依は中腰になった。
梨華はといえば、ようやく笑いが収まったのか、涙を流して喜んでいる。
ハンカチで目尻を抑えながらなおも亜依の耳をつまんで
部屋から引きずり出そうとするひとみを中腰になって制した。
407 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:16
「可愛そうじゃない。乱暴はよしなよ」
「そうや!暴力反対!白熊反対!」
「ちっ、しようがないな。今日は梨華ちゃんの顔に免じて許してやるか…」
そう言いながらもまだ未練がましく亜依を邪魔そうに見つめるのはやはり、
梨華と二人きりになりたい気持ちのなせる業なのだろうか。
そう考えると亜依はますます切なくなる。

「あいーっ!お盆持っていってちょうだい!」
またタイミング悪く下から母が呼び掛けてくる。
「あかん、今、大事な話の――」
「行って来い!」
「ああ!何すんねんな!もぉっ!」
今度は力ずくで押し出されてしまった。
こうなっては仕方がない。
早くお茶を用意して再び割り込むまでだ。
408 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:17
そんな亜依の姿を横目に二人はなんだか真剣な雰囲気で
「それでさ」などと話し込む素振りを見せている。
亜依はダダダッ、と階段を駆け下りて「お母さん、どれ?」と母を急かす。
指し示されたお盆を持って今度はタン、タン、とゆっくり上がると、
姉の妙にかしこまった声が聞こえた。
「――いや、そ、それはさ…」
「嬉しかったよ…でも、ひとみちゃんが煙草なんかあの部屋で吸うはずがないって
みんなわかってると思う」
「いや、でももうそれで学校は処理しちゃったわけだし…」

なんだか歯切れが悪いな、と亜依は思った。
言ってしまえばいい。
目の前の女の子を助けるためだって。
それくらいのことは亜依にも理解できた。

姉は煙草を吸わない。
煙草とライターを机の引出しに、それもわざと見つかりやすいようなところに
入れてあるのは知っている。
だが、それは義父に対するあてつけのようなもので、
実際に吸っている場面を見たこともないし、第一ひとみには喫煙者の匂いを感じない。
中等部でも隠れて煙草を吸っているものが何人かいるが亜依には臭いですぐにわかった。
ひとみは喫煙者ではない。
409 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:18
「わたしが疑われてるってことはなんとなくわかってたけど、そんなに大変なことだ
っていう実感がなくて…でも、もしひとみちゃんがわたしのことを疑って、
それでかばってくれたんだとしたら、わたしじゃないよ。それだけは本当だから…」
「そっか…」
ひとみは下唇を突き出してフゥッと前髪を散らすとさらに続けた。
「それを聞いて安心したよ。別にみきてぃのことは気にもならなかったけど、
あれがあるから…」

あれ、という言葉に梨華は反応してうつむいた。
「なんか嬉しいことでもあったのかな、と思っちゃって」
「そっか…そうだったんだ。ひとみちゃんって優しいね。でも、そんなに制御不能なのう――」
と言いかけて梨華は亜依の方を振り返った。
亜依はキョトンとした表情で梨華とひとみを交互に見つめている。

「うん。まあ、でもよかったよ。そうでないなら別にいいんだ。
みきてぃには可哀想なことしたけど」
「ねえ、ひとみちゃん…藤本さんのことなんだけど」
ん?とひとみが首を伸ばすと梨華は言い難そうにうつむいた。
亜依はなんだか蚊帳の外に置かれたようでおもしろくない。
だいたい、きてぃちゃんとか藤本ってなんの話だ?
410 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:18
「みきてぃなら心配ないよ。梨華ちゃんへのいじめの方法考えるくらいなら、
今頃、次の作品に取りかかってるって。ああ見えて才能はあるん――」
「ひとみちゃん、藤本さん、ね。ひとみちゃんのこと…」
梨華の話をどうとらえたのかひとみは一人合点してうなずき「わかってるって」
と余裕で受け流す。

「それよりさ、梨華ちゃんの絵、見せてもらったよ。凄いじゃん?
ギャラリー飯田に飾ってもらえるなんてさ」
「見たの?」
「ああ、凄い絵だった。抽象画にそれほど詳しいわけじゃないけど、
色彩の構成といい筆の置き方による効果とかよく考えられてると思ったよ」
梨華は面映いといった風情で視線を落としてうつむいている。
心なしか頬が紅潮しているように見えるのは寒さのせいばかりでもあるまい。
411 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:18
亜依はまたしても話の見えない寂しさを感じた。
ひとみの話す内容ではどんな絵なのかまったくわからないし、
そもそも実物を見たところで亜依に絵の良し悪しなどわからない。
「いやあ、それにしても驚いた。正直、梨華ちゃんがあんな知的な絵を描けるとは――」
「なによ!」
照れ隠しなのかわざと頬を膨らませ凄んで見せる。
「わたしがバカだって言いたいの?」
ひとみは平然として「まさか」と取り合わない。

「でもさ」と続けるひとみの比較的まじめな態度に梨華もそれ以上、
騒ごうとはしなかった。
「抽象画を描き慣れた人の筆使いではないな、と」
梨華は切れ長の目を見開いて驚きを表現してみせた。
「よくわかったね」
「うん」ひとみは淡々と続ける。
「自分もそうだったからさ。具象画を描く人の抽象画にはどこかやっぱり癖があるよ」
412 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:18
亜依はいよいよおもしろくない。
手持ち無沙汰にお茶受けの菓子をひとりで摘まみながら
ひとみの買った雑誌などをパラパラとめくっている。
と、ひとみが急に「そうだ!」と思い出したように立ち上がり、
机の上をがさごそと探り始めた。
亜依が呆れたようにその背中を見つめていることも知らずにひとみは何かを探している。

「ええっと…あった!これこれ」
探しものは見つかったのか、ひとみは上機嫌で梨華に向かい
「ジャーン!」というかけ声とともにチケットのようなものをその眼前に差し出した。
「――マチス…マチスが来るの?しかも『赤い部屋』?」
「そう。圭織にもらったんだ。梨華ちゃんにぜひ渡してくれ、って頼まれて」
「えっ、わたしに?」
梨華はなぜ飯田が自分を招待してくれるのかわからずに戸惑っているようだ。
413 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:19
「うん、なんかK美術館の学芸員と知り合いらしくてさ。あ、それで――」
さらにひとみは複数のチケットをかざして見せた。
「まだあるからさ、ふじも――」
「ああっ!うちも行きたい!絶対行きたい!」
突然、割りこんできた亜依の妙に張りきる姿に二人は完全に虚を突かれた。
亜依としては必死である。
このまま二人を放置すれば、亜依を置き去りにして出かける算段を始めるだろう。
それだけは絶対に許せない。

「あいぼん、わかってんのかあ?これ、遊園地じゃななくって美術館の招待状だぞ。
それも現代絵画のコレクションで有名な。あいぼんが楽しめるような印象派とかの作品は
ほとんどないんだぜ」
「ええやん。お姉ちゃんの解説つきやったら多少はわかるやん。それともなにか?
姉ちゃん、現代絵画の解説はようせーへん、ちゅうことか?」
「なに?聞き捨てならんな、誰ができないって、誰が?
こう見えても現代絵画は得意分野だ。あいぼんに教えるくらいは屁でもないね」
414 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:19
言い切ってから亜依の笑みに気付いたのだろう。
しまった、という表情を浮かべては見るがもう遅い。
見事に亜依の術中に嵌まったひとみは、梨華に顔を向けて
てへへ、とばつが悪そうに照れ笑いを浮かべた。
「いいじゃない。妹さん、連れてってあげなよ。残念だけどわたしは――」
「いつがいいかな?えっ、早いほうがいい?そうだよね。じゃあ、来週の日曜はどう?」
「だからわたしは――」
「梨華ちゃん!」
「……」

急に真面目な顔をつくったひとみの態度に、梨華は口をつぐんだ。
ひとみが表情を引き締めて真剣な眼差しを向けると弛緩していた空気が張り詰める。
亜依は息を潜めて二人の視線が絡むのを見つめた。
「梨華ちゃんが行かなければあたしは行かない、亜依も行かない。そうなるとせっかく
貰ったチケットが無駄になっちゃうんだ。圭織に悪いと思わない?」
ええっ?と梨華は困ったような表情を浮かべる。
人に迷惑をかけるのはさすがに気が引けるらしい。
だが、ひとみの態度はあまりにも強引だ、断わろうと思えば断われるはず。
亜依は梨華がどう出るか見守った。
415 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:19
「正直、マチスは見たいの…でも――」
「じゃあ、決まりだ!」
ひとみはすかさず叫んで梨華に続きを言わせなかった。
顔一杯、満面の笑みを湛えるひとみに梨華はそれ以上、何も言えない。
亜依は姉の強引さに呆れる一方で、なぜか胸を撫で下ろしている自分に気付き、
不思議に思った。

姉が梨華にべったりする姿は見たくない。
だが、梨華に断わられて落胆する姿はもっと見たくない。
そういうことなのだろうか?
亜依にはよくわからなかったが、とりあえず姉が喜んでいる様子なので
それに同調することにした。
ところで…

「なあ、お姉ちゃん?」
ん?という顔でひとみが振り向いた。
亜依は姉が持つチケットの数を目測する。
「それ、あと何枚あんの?」
「ああ、全部で6枚あるんだ。残りは美術部の――」
「なあなあ、それ、うちの友達呼んでいい?ののとマコっちゃんとあさ美ちゃん。
それで丁度6人やし」
416 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:19
「ええっ?遠足に行くんじゃな――」
と言いかけて、ひとみは考え込んだ。
S市のK美術館といえば、風光明媚なロケーションが売りもののひとつで、
敷地内に散策路まであることを思い出したからだ。
「遠足か…悪くないかもな」
「決まりや!よろしくな、梨華ちゃん!」
「えっ?ええ…」
梨華は急な展開に戸惑いつつも嫌そうな素振りではない。
むしろ、ひとみと二人きりでないことにホッとしている様子でもある。

「よっしゃ。そうと決まったら、姉ちゃんはうちらにきちんとガイドしなあかんねんから
ちゃーんと勉強しといてや。うち、宿題してくるわ」
亜依はパッ、と立ち上がるとジャージの裾を引張って皺を伸ばす。
「ほな梨華ちゃん、ゆっくりしてってや」
じゃ、と短く言い置くと、亜依は部屋のドアをパタンと締めて行ってしまった。
「なんだ?あいつ…」
呆然と見送るひとみの横で梨華もそろそろと立ち上がった。

「それじゃわたしも帰るね」
「えっ、もう帰るの?」
「ご飯の用意しなくちゃ」
そう言って立ち上がる梨華をこれ以上引き止める理由も無く、
ひとみはしぶしぶドアを開けて梨華を先導した。
417 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:20
「悪かったね。なんか強引に誘っちゃったみたいで」
「ううん」
靴を履きながら梨華は瞳にむかい微笑んだ。
「あいぼん…だっけ?妹さん、可愛いね。関西弁」
「ああ、いろいろあってね」
ひとみは梨華が帰る気配を見せたため、見送りに出てきた義母の方をちらりと振り返った。

「まあまあ、お構いもせんとごめんなさいね」
「いえ、お世話になりました。それじゃ、ひとみちゃん」
ぺこりと頭を下げてドアを開ける梨華を慌てて追いかけるひとみ。
「ああ、送ってくよ。最近、物騒だから」
「いいよ。寒いから」
「送っていき。ほんま、この辺も物騒やから、ね」
母親にそう言われ送り出された二人は既に日が落ちてほの暗い道を
街灯の明かりを頼りに歩き出した。
418 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:20
風は止んだようだ。
それだけでも寒さは随分と凌ぎ易くなったように感じられる。
梨華は黙ってただ黙々と歩き続けるが、ひとみにはその沈黙が苦痛ではなかった。
川原の土手に近づいて、ようやくひとみがぽつりとつぶやいた。
「ねえ梨華ちゃん、あの絵のタイトルはどんな意味なのかな?」
「あの絵?」
梨華はキョトンとした目でひとみの顔を振り返る。

「ギャラリー飯田に飾ってあったあの絵だよ、"Die Grenzen"『境界』っていうタイトル」
「ああ、あれは…」
梨華は視線を流して冴え冴えとした星明りを水面に移して光る河の流れに目を凝らした。
最初にひとみと出会った場所。
あのとき川岸から土手を見上げていた梨華の前にひとみは忽然と姿を現した。
その姿は天使が光を纏って降臨したかのように見えた。
もちろん、ひとみは梨華が見つめていたことなど知らないのだろうが。
419 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:20
「あれはわたし自身のこと。わたしと外の世界を隔てるもの、というか…」
「外の世界…か…なんていうか、内省的なイメージだね」
「うん。絵を描いてると自分を見つめ直せるような気がするの。わかるでしょ?
わたしは普通じゃないから…」
梨華は不安げにひとみの目の色を窺った。
「普通じゃないなんて言うなよ。梨華ちゃんはどこもおかしくないよ。あれはあれ。
誰に迷惑がかかるわけじゃなし。おかしくなんかないよ」
ひとみは照れがあるのか梨華の顔を見ることはせず、川面に映って小刻みに揺れる
星々の瞬きに注視しているようだった。

「ねえ、梨華ちゃん」
「なぁに?」
ひとみは言い難そうにうつむいていたが、やがて意を決したように梨華に切り出した。
「あれ。もう一回、見せてくれないかな?やっぱりただの偶然ってこともあるかも
しれないし。梨華ちゃんがそう思い込んでるだけってことも――」
「いいよ。見せてあげる」
遮るように梨華は言い放った。
420 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:23
その表情は何かを決意しているのかどこか厳しく張り詰めてはいる。
だが、決して重苦しい雰囲気は与えなかった。
「梨華ちゃん…」
不安そうに見つめるひとみの視線を背中に受けて梨華はゆっくりと土手を降りて
川岸と向っていく。
呆然とその動きを見送っていたひとみは、慌てて梨華の後を追って土手を駆け下りた。
とくとくと流れる川の音が水の冷たさを連想させて、急に寒くなったようにさえ感じる。

梨華は腰を屈めて何かをごそごそとかき集め始めた。
枯葉だ。ひとみが「手伝おうか」と声をかけるが梨華は聞こえないのか
一心不乱に作業に没頭している。
やがて充分な量が集まったとみえ、川岸の岩の上に立つと「見てて」と短く言い放ち、
落ち葉でいっぱいの両掌を空高く掲げた。
ボッ、という音とともに空中に舞い散る落ち葉の一枚一枚に火が灯った。
421 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:23
「うわっ…」
ひとみはその美しさに目を奪われた。
小さな火を灯した落ち葉の群れがひらひらと自らの体を煌かせる様が川面に映り、
二人の顔を明るく照らした。
ひとみは目の前で繰り広げられている幻想的な光景に目を奪われた。
それらの炎は水面の上でまだ消えることなく、波にまかせてゆらゆらと揺れている。
いくつもの小さな明かりがその光を水目名に映しながら川面を下っていく姿は
精霊流しのようにどこか厳粛な雰囲気を醸し出して、二人の口数を減らした。

「きれい…」「うん…」
ひとみは梨華の肩が震えているのに気付き、そっと腕を回した。
一瞬、びくっ、と大きく震えた肩はすぐに温もりを取り戻す。
ゆっくりとした肩の上下動から梨華の落ち着いた呼吸の動きが伝わってくる。
小さな火を灯しながら川面を流れていく落ち葉の明かりが梨華の顔の上に
ゆらゆらと揺れる影を落とした。
その様子が余りにも儚げで、ひとみはつい肩に回した腕に力を込めてしまう。
422 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:23
「いたっ…」
少し顔を顰めて縋るような視線を向ける梨華の表情に
ひとみはなぜか悲しみを覚えた。
「ごめん…」
「ううん、大丈夫」
ひとみは背中に密着する自分の胸の鼓動が梨華に伝わっていないか心配になるくらい、
胸の動悸が激しくなってくるのを感じた。
そのまま梨華がどこかに消えてしまいそうで怖かった。

「消えないね…」
「うん。信じた?」
「ああ、こうしてずっと見ていたいな」
「うふふ。それは無理」
「消えちゃう?」
「消えちゃうね」
「そっか…」
ひとみは名残惜しそうにその最後の光の残滓を見つめつづけた。
ひとつ消え、ふたつ消え。
やがて最後のひとつがこの世に最後の別れを告げるかのように
ゆっくりと炎を揺らせて消えるさまにひとみは知らずと拍手を送っていた。
423 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:23
「ハイドンの『告別』みたいだ」
「なにそれ?」
「パパハイドンがご主人様のいる前で演奏した曲。
蝋燭の火を灯して演奏者がひとりずつ火を消して立ち去っていき、
最後にただ一人、聴衆であるご主人様、エステルハージー公が残されるという具合」
「寂しいね」
「うん。家族のもとに帰りたい楽団員の気持ちを汲んでパパハイドンが考えた趣向らしいよ」
「優しい人だったんだね」
「ああ。なにしろ『パパ』ハイドンだから…」

最後の炎が消えてしまうとまた冴え冴えとした夜の冷気が二人の間に忍び寄る。
ひとみは梨華の体が再び小刻みに震え出すのを感じた。
温もりを与えようと試みる。
ひとみは梨華の肩に置いた掌で包み込むように肩から腕の辺りをゆっくりと擦った。
冷たい腕。あんなに暖かな火を灯すことができるのに…
ひとみは梨華の腕を擦り続けた。
「大丈夫だよ、ひとみちゃん。大丈夫」
梨華は泣きそうな声で大丈夫、と繰り返した。
「でも冷たくなってる。さあ、早く帰ろう」
そう言って梨華の体を押し出すようにしてひとみは歩き出した。
424 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:24
「ねえ、ひとみちゃん…」
「なんだい?」
「ひとみちゃんって、パパハイドンみたいだね」
「はあ?なにそれ」
ひとみは不満げに答えた。
一応、まだ女の子を止めたつもりはない。
ハイドンは嫌いではなかったが。
「優しいし、みんなから好かれてるし」
「みんなからねえ…とてもそうは思えないけど」
ひとみは自嘲気味につぶやくとタタッと駆けて土手をのぼる階段の手前で止まった。
手を差し出して梨華が握るのを待つ。

「ありがとう…やっぱり優しい」
「今だけかもよ。結婚したら餌は与えないタイブだったりして」
「ひとみちゃん、わたしと結婚したい?」
「な、なに言ってんだよ?!」
ひとみは思ってもいない言葉に狼狽した。
冗談だとわかってはいても、なぜか梨華の前では意識してしまう。
「あがるよ!」と言い捨てると梨華の手を引いてスタスタと階段を上りきった。
425 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:24
「ここでいいよ。あとは人通りの多い道だから一人で帰れるし」
「いいよ、危ないから家まで送るよ」
「うんん。大丈夫、お母さんも妹さんもきっと心配してるから早く帰ってあげて」
「あんたのこと置いてく方がよっぽど心配だよ」
そう言われても梨華は取り合わない。
大丈夫だから、と頑として譲らない態度にしまいにはひとみも諦めた。

「意外に強情なんだな」
「芯が強いと言って」
「よく言えばそうだね」
「悪く言えば?」
意地悪く聞き返す梨華の耳元に口を寄せてひとみは小さくつぶやいた。
「この頑固者」
「もおっ!」
怒った振りをして頬を膨らます梨華の仕種にひとみは安堵した。
「それじゃ、気をつけて」と笑顔で返すと、ひとみはくるりと反転して
もと来た道を駆けて行った。
426 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:24

(パパハイドン…か)

梨華はその歴史上の作曲家の偉業こそ知らないものの、
その語感がなんとなく気に入って、口の中で転がすように何回も呟いてみる。
ひとみの背中が闇に紛れて見えなくなるまで見送ると
梨華は踵を返して人通りのある往来へと足を向けた。

なんだか体が火照る。
梨華は先ほどまでひとみが手を置いていた肩の付け根の辺りに掌を置いた。
その感触を確かめるように包み込む。
やがて得心したようにひとり「よしっ」と気合を入れて歩を進め始めた。
ぽつぽつと灯る街燈の明かりを頼りに家路を急ぐ。
足許を照らすナトリウムランプのオレンジが今日はやけに鮮やかに見えた。


427 名前:  投稿日:2003/12/19(金) 23:24
Atto U
Papa Haydn>>396-426


428 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:00
Un bel di, vedremo
ある晴れた日に

429 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:00


「あ、ほら見て!リス、リスだったよ今の!」
タタ、タ、と駆けて行く亜依を慌てて追いかける二人。
晩秋の傾いた日差しが逆行になってひとみの視界を遮る。
「おーい、あんまり遠くに行くなよ!」
「わかってるって」
そう言い置いて亜依は急いでまたリスを追いかけていく。
仲間うちで一人残された少女は遠慮がちにピクニックシートの隅で縮こまっている。

少女は級友の亜依に誘われてひとみや梨華とともにS市のK美術館に来ていた。
すでに日は高く、真昼の太陽がやや斜めの角度から柔らかい日差しを伸ばしている。
昼食のためにシートを広げたところで、亜依が見つけたリスを二人の級友がともに追いかけていった。
「えっと…動物はあんまり興味ないの?っていうか中学生にもなってリスを追いかけ回すのも
どうかと思うけど」
「ちょっと風邪気味なものでして…」
430 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:00
少女が風邪気味であるのは本当だ。
近頃は微熱がひかず、少し気圧が変わるとすぐに咳が止まらなくなる。
今日は秋にしては温かい陽光の下にいるせいか、奇跡的に体調がよいものの調子に乗るのは危険だ。
それにターゲットとしてのひとみの人となりを探るいい機会でもある。
「悪かったね、亜依のわがままに付き合わせちゃって」
「いえ…楽しいです。こんな大勢で出かけること滅多にないですし、それにお二人とも
絵に詳しいからすごく勉強になるし」

秋の日差しが草の上に敷いたピクニックシートに反射してまぶしい。
少女はわざと俯き加減に目を逸らしてひとみと目が合うのを避けている。
「絵が好きなの?」
珍しく梨華が口を挟んだ。
午前中、ひとみと梨華が交互に常設展示されている作品を解説しているとき、
ほとんど説明を聞かずにキョロキョロと視線を泳がせていた三人に対し、
この少女だけは真剣に耳を傾け、時折、質問さえ挟んでいた。
美術に対する関心は隠しようもなかった。
431 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:01
「ええ。興味はあります。もともとシュールレアリスムなんかは好きで
画集も買ったことはあるんですが、現代絵画は難しくって…」
シュールレアリスム、という言葉にひとみが反応した。
「やっぱマグリットとかダリとか?」
「いえ、私が買ったのはロベルト・マッタっていう人のものなんですけど」
「え、何それ?」「しっぶー」
同時に二人は声をあげた。
マッタも知らないなんて…とは言わない。

少女自身、そのマイナーな画家の名を知るようになったのはごく最近のことだ。
日本であまり知られていないシュールレアリストの名に聞き覚えがないからといって
ひとみと梨華を馬鹿にするつもりは毛頭ない。
たとえ、ひとみの父が少女の父を死に追いやった同僚のうちの一人だったとしても。
そして、少女が復讐の対象として近い将来、何らかの手を下すことになる相手だとしても。
432 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:01
「なんだ梨華ちゃん、知らないの?マッタといえば去年、亡くなったチリ出身の画家だよ。
マッソンと並んでシュルレアリスムの底辺を広げた人材として最近、日本でも評価が上がってるよ?」
少女はひとみに対する評価を見直さなければならないと感じた。
公平に見てマッソンを知っている高校生はそう多くない。
「ええっ、だって知らないもん」
一方、そう言って頬を膨らますこの女は何なのだろうか。
少女は未だにこの二人の関係がよく理解できていない。
理解できるほどの説明をひとみの口から聞けていないせいでもあるが。

亜依にはもとより複雑な人間関係を説明する気も能力もない。
かといって個人的な関係に踏みこむには勇気がいる。
少女はひとみに同意を示した。
「そうですよ石川さん、マッタは最近、日本でも人気に火が着き始めているんです」
「ええっ、そうなの?知らなかったのわたしだけ?」
「梨華ちゃん、美術を志すものとして勉強不足だよ」
433 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:01
ひとみは面白半分にからかっている。少女にはその表情の動きでよくわかった。
ロベルト・マッタを知らずに責められるいわれはない。
対する梨華はそれがわからないのかいきり立つ。
「もおっ、そんなマイナーな画家知らないのがそんなに悪いの?」
「悪いさ。マッタの素晴らしさについてせっかく語れると思ったのに、
知らないんじゃ興ざめだよ。ねえ?」
「そうですね」
少女もしたり顔でうなずいた。

このひとみという女にはなぜか人を引き付ける磁場のような作用がある。
少女は復讐の対象としてひとみからは一定の距離を保つつもりでいたのだが、
気が付けばそのペースに巻きこまれている。
おそらく梨華という少女も同様にひとみに巻きこまれたのではないか。
少女は梨華に自分と同じ匂いを感じとっていた。
だからつい、ひとみに同調したい気分になってしまう。
434 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:01
「マッタを知らないなんて、まったくどうかしてますね」
「マッタくだよ…」とつまらない洒落を飛ばしたところで二人は気付かない。
いらぬ恥をかく前にひとみは続けた。
「マッタを知らないことで梨華ちゃんがいかに人生の貴重な時間をロスしているか
ここはひとつゆっくりと論じ合おうではないか!」
ひとみは得たりという顔で少女にニヤリと微笑む。
うっかり油断しているとその笑顔に体ごと引きずりこまれそうだ。
それほどひとみの微笑みは魅力的だった。

「もーぉ、二人してからかってるんでしょ?いじわるなんだから」
ひとみは「だって、ねえ」とつぶやき、ニヤニヤして少女と顔を見合わせた。
少女は迂闊にも視線を合わせてしまった。
その瞬間、しまったと思ったがもう遅い。
少女はひとみに合わせて「ねーえ」と楽しそうに応えていた。
心の中でなぜこんなことをしているのかと自問しながら。
435 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:01
梨華はからかわれていることにようやく気付いてしきりに「もぉ」を連発している。
自分よりも年上の女性がすねている姿というのは見ていてあまり気持ちのようものではないが、
梨華の場合、不思議と絵になるというか、違和感なく、自然に振る舞っている様子が不快でなかった。

天真爛漫というのだろうか。
そのように自然に感情を露出できる梨華に対して少女は複雑な想いを抱いた。
先程、似たような匂い、と感じたのは思い過ごしだったのだろうか。
ひとみは機嫌を損ねてそっぽを向いた梨華に「ごめん、ごめん」となだめかけている。
少女はその様子になぜか不快感を覚えた。

嫌…嫉妬……まさか?
少女は自らの心を疑った。ぞっとしない話だ。
あまつさえ父の復讐相手に好感を抱いてその上、嫉妬だと?
冗談じゃない、と少女は気持ちを張り詰めた。
大体、女性を相手に嫉妬とはばかばかしい。
436 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:02
だが、目の前で「知らない!」と顔を背け続ける梨華を嬉しそうになだめるひとみに対して
もくもくと心の奥底から湧いてくるこの感情を少女はうまく整理することができなかった。
「あーあ。あかんかった。すばしっこいな、リスっちゅうのは」
「でも野生のリス見たの初めて!めっちゃ感動した!」
「うん、野生のリスなんて滅多に見られないし…」
よいところに亜依と仲間が戻ってきた。

「あ、なんや?梨華ちゃん、またすねとんかいな?仲がええほど喧嘩するっちゅうけどホンマやな!」
「お前は何を勘違いしてるんだよ。芸術上の議論を戦わせてたところなんだぞ、ねえ?」
「あ、はい…」
少女は同意を求められ、慌てて返事をした。
「そんなこと言ってるとせっかく梨華ちゃんがつくってきてくれたお弁当、食べさせてもらえないぞ」
「そんな殺生な!うち、もうお腹ぺこぺこや」
「あ、お弁当なら私も…」
仲間の一人が大きく膨らんだトートバッグから四角い包みを取り出すと梨華が切り出した。
437 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:02
「それじゃお昼にしましょ。あいぼん、ほら、そこ場所空けて。
あなたももうちょっと詰めてくれる」
さきほどまで子供のようにすねていたのが嘘のように
梨華が仕切り始めたのを見て亜依が少女に耳討ちした。
「な、世話女房みたいやろ、梨華ちゃん。ああやって姉ちゃんたらしてこんでうちの財産を…」
「こら、亜依!馬鹿なこと言ってないで手伝え!」
「いたっ!何すんねんな!暴力反対!チャイルドアブユース反対!」

小突かれて悪態をつく亜依の生き生きとした様子を見て、
またしても少女は取り残されたような寂しさを感じた。
いつのまに仲良くなったのだろう。
以前は家のことをあまり話したがらなかった。

亜依の母親が再婚したために義父の実子である血のつながらない姉がいるとは聞いていた。
学校でもどこか自信のない様子で家庭の複雑さを
その小さな一身に背負っているかのような印象さえ与えていた。
それがいつごろからか急に何かふっ切れたように明るくなった。
お姉さんと美術館に行くから、と誘われて不思議に思ったが、
仔犬のようにひとみとじゃれる姿に少女は納得した。
438 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:02
姉と和解したのだ。
それが何を契機としたものか少女にはわからない。
だが、まるで生き別れた姉妹が空白の時を取り戻すかのようにじゃれ合う姿に
少女はある意味で自分に近いものを認めた。
まるで餓えたように己の愛情をむき出しのままぶつけてくる亜依を
ひとみはしっかりと受けとめている。
それが少女にはたまらなく寂しく感じられた。

「なあ、なんか梨華ちゃんのつくったこれ…」
少女はタコさんウィンナーを箸でつまむ亜依の顔を振り返った。
「トイレの匂いせえへん?」
ボソッ、とつぶやいた言葉ではあったが、瞬間、その場が凍りついた。
「お、お前…」
ひとみもとっさに否定の言葉が出てこない。
あるいは同じことを考えていたのか。
鼻が効かない少女には判別のしようがない。
しかたがないから少女があえて反論した。
439 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:02
「え?別に匂いませんよ。おいしそうです、いただきます」
そう言ってウィンナーをつまむ少女を見つめる梨華の瞳は潤んでいる。
呪縛が解けたようにみなが梨華の用意したおかずに箸を着け始めた。
ひとみがまた亜依を小突く。
今度は亜依も反発せずにおとなしくウィンナーを頬張った。
「そ、それにしてもさー」
慌ててフォローするひとみの声は上ずっている。
それに気付いて微笑む梨華の姿は既に平静を取り戻しているようだった。

「生マチスはやっぱ凄かったなあ、あいぼん、ちゃんと見てたか?」
「失礼な!うち、めっちゃ感動した。あれ見てうちの進む道は画家しかないな、と」
「あほか」
「あほちゃう!マジやで、うちは。丁度姉ちゃんの画材道具も揃っとることやしな」
「貸さないぞ」
「貸してえや、可愛い妹の頼みやないか」
「マチスのまねしてカドミウムとかコバルトの入った高い色の絵の具で一面塗られた日には
いくら金があっても足りないからな。自分の小遣いで買え」
「ケチ!りんしょく!しゅせんど!とーへんぼく!」
440 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:02
とーへんぼくが何かわかっていないらしい亜依の言葉に迫力はなかった。
それにしても少女の気持ちは揺れた。
来てしまったのは失敗だったか。
少女は亜依とひとみの姉妹に対して、必要以上に近づき過ぎてしまったことを後悔した。
「ねえ、あなたはどうだった、マチスの絵?」
かしましい姉妹の口喧嘩を呆気に取られて見守る二人の級友に同情しつつ、
梨華が用意してきた出汁巻き卵をつついているとその作成者が親しげに尋ねてきた。

「どう、といますと?」
少女はこの梨華という少女もなんとなく苦手だった。
先程は話の流れからついついフォローするような発言を行ってしまったが、
もとよりひとみと仲の良さそうなこの少女に好意を抱くいわれはない。
「あなたが『赤い部屋』に対してどんな感想を抱いたか気になるの?」
「『赤い部屋』っていうんですか、あの絵?すごく奇麗だなと思いました」
少女としてはそれ以上、絵画についての意見を表明するつもりはない。
月並みな感想は打ち切りの意志表示だ。
441 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:03
「それだけ?」
梨華は食い下がる。少女は訝しく思った。
自分が何か鋭い批評眼を持っているとでも考えているのなら買いかぶり過ぎだ。
「奇麗」よりもう少しましな意見くらいは出てくるかもしれないが、たかが知れている。
少女に技法上の知識はない。
マッタを好んで見る理由は頗る感覚的なものだ。
技法や論理への共感からではない。

さらにいえば原色を多用して感覚に訴えるマチスの手法は言葉に現しがたい、
と少女は無意識のうちに理解しているのかもしれない。
ただ、この場でそれを説明するのは千の言葉を費やしても難しい。
少女は半ば頑なにさきほどの言葉を繰り返した。
「ええ、『奇麗』ってため息しか出ませんでした」
「あの燃えるような赤にあなたが何かを感じなかったとは思えないんだけど…」
少女はなんだか見透かされているような心持ちで落ち着かなかった。
梨華は自分に何を見たというのだろう?
いやな予感がする。
442 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:03
「あの『血のような赤』と言った方が正確かしら――?」
そう言いながら微笑む梨華の細い眼が描いた緩やかな弧のラインがやけに恐ろしく見えた。
まずい、この女は危険だ…
少女の中に巣食う野生がそう告げていた。
「な、何を……」
心臓がどくどくと脈打つ。
間違いない。
この女には何か特殊な能力が備わっている。
恐らく、少女の意図していることをある程度まで正確に理解しているに違いない。
確信めいた恐れが少女を恐慌に陥れそうになった瞬間――

「あっ、梨華ちゃん、あれ!」
ひとみが指差した方向を見ると美術館のテラスを降りてひとの人影がこちらに向ってくるのが見えた。
少女は顔その影が近づいてもその顔に見覚えはなかったがその出で立ちは目立った。
小ぶりの頭に斜に載せたベレー帽は小粋な印象を与える。
さらにライトブラウン地にイエローの入ったチェック柄のニッカボッカ、
白いカーディガンを羽織ってゆっくりと歩む姿は英国風の狩猟装束のようにさえ見える。
もちろん少女にその印象が正しいかどうか判断する術は無い。
443 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:03
「みきてぃ…」
「ひとみちゃん、呼んだの?」
「まさか…」
驚きのあまり、ひとみは呆然と藤本がの歩む様をただ見つめていた。
「あら、ごきげんよう。相変わらず仲がよろしいこと」
「なんだってみきてぃが…」
と質そうとしてひとみははたと気付いた。
「圭織か…」
「ご名答!」

誇らしげに答える藤本に邪気はない。
ただ、散歩のついでにフラッと現れた。そんな感じだ。
「なにも同じ日に来なくてもいいのになぁ」
「あら、会期を考えたら来られるのって、もう今週末くらいしかないんじゃない?
別に偶然でもなんでもないわよ」
「そういえばそっか…もう少し考えとけばよかった」
「何よ!そんなに邪険にすることないじゃない。ねえ、あんたたち中等部の子?」
「ハ、ハイ…」
ひとみと藤本の関係がいまいち把握できず、
どのように答えてよいかわからず曖昧な返事を返す。
それでも藤本は「ふーん」と小首を傾げるだけで頓着する様子は無い。
444 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:03
むしろ気になるのは梨華の態度のようだ。
仔細ありげに俯いたままの梨華の顔うなじにちろちろと視線を走らす。
「あんたたち、どーいう関係?」
「どういうって…友達だよ」
「よっすぃに聞いてない、あたしは梨華ちゃんに聞いてんの。ね、どーなのよ?」
「……」
梨華は黙って項垂れたままだ。
少女にはそれが先ほどまで自分を追い詰めようとしていた同じ人物の態度とは思えなかった。
無論、少女にもこの三人の関係はわからない。

ただ、この「みきてぃ」とひとみらの呼ぶ人物が二人にとって
天敵のような存在であることをおぼろげに感じ取っているだけだ。
「なぁんか怪しいなあ…」
その言い方自体がなんだか因縁をつけているみたいで怪しい、と少女は思ったが、
無論言えるわけもない。
この「みきてぃ」という人は不思議な迫力を備えている。
445 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:03
「なあ、みきてぃ。もう火事の件は許してよ。新しい作品、手がけてるんだろ?」
少女はようやく合点がいった。
高等部のボヤ騒ぎで被害にあったという美術部のエースだ。
梨華が縋るような目線を送るが、藤本と対峙しているひとみは気付かない。
そんなひとみのやや苛立った様子にも藤本はフン、と鼻を鳴らして気に留める様子もない。

「あたしがそんな細かいことにいつまでも拘ってると思ってほしくないわね」
「だってみきてぃ、いつも細かいじゃ――あ、いてっ!」
「おだまりっ!」とひとみに蹴りを入れる女帝ぶりには実際に拘っている様子は見られない。
ならなぜ?と問いたげな視線を送るひとみに対して藤本は勝ち誇るように言い放った。
「今度のテーマは『炎』よ。萌えるような赤が基調になるはず。
マチスの『赤い部屋』は絶対に見逃せないのよ」
446 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:04
「なんだ。嫌がらせじゃなくて、本当に見に来たん――いてっ、痛いって!」
再び蹴りが見事にひとみの鳩尾に決まって上機嫌な藤本は吐き捨てるように言い切った。
「見てなさいよ。日展だけが画壇の登竜門じゃないんだからね」
「みきてぃ…」

その言葉に反応して梨華も俯いていた顔を上げる。
両手を腰に当てて仁王立ちで挑む藤本の姿を少女らはただ呆気にとられて見上げるしかなかった。
「圭織んとこに飾られてるあんたの絵!」
ビシッ、と音がしそうなほどのしなやかさで自分に向けられた藤本の指先に
梨華は思わず「ひっ」と声を上げて後ずさった。
「いつまでもあんたの絵が掛かってると思ったら大間違いよ!」
そう言い捨てると藤本はくるりと踵を返して颯爽と立ち去った。
一同声も出ず、ただ見送るばかりである。
447 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:04
「かっけー…」
「うん、あの人格好いいね」
「誰?ねえ、あいぼん、っていうかお姉さん誰ですか、あの人?」
呪縛から説かれたかのように中学生たちが口を開いた。
ひとみは苦りきった顔でその後姿を視界に留めながら「藤本」とぶっきらぼうに答える。

梨華はホッと胸を撫で下ろした様子で、ひとみの傍ににじり寄ると何事か、耳元で囁いた。
その仕種に少女はまたしても胸の疼きを覚える。
さきほど藤本に感じた一陣の風のような爽やかさは既に消え去り、
またじめじめと湿っぽい感覚が胸の底でわだかまるのを少女はどうすることもできなかった。

石川梨華…

この女とはいつか蹴りをつけなければならない。
なぜかそんな気がした。

448 名前:  投稿日:2003/12/25(木) 18:04
Atto U
Un bel di, vedremo >>428-447


449 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/26(金) 04:30
素晴らしいです
応援してます
450 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/27(土) 14:16
一気に読んでしまった。
役者が揃ってきたようで、これからが楽しみ。
451 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/13(火) 04:47
期待保全
452 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:25

Atto V
第三幕


453 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:25
Che gelida manina
冷たい手

454 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:25


矢口真里が里田の死を知らされたのは暮れも押し迫った12月のことだった。
保田の管内で発見された不審な男性の死体が発見されたのはそれより遡る
11月中旬のことである。
今は使用されていない廃工場で死体を発見したのは取り壊しのために訪れた解体業者だった。
刺殺であった。
矢口に情報が伝わるまで時間が掛かったのは男性の身元が判明するまで時間が掛かったことに加え
真希との関係がすぐには浮かび上がってこなかったことによる。

里田の家族から捜索願いが出されていなかった。
というか出せる状態にはなかった。
あろうことかその唯一の家族である娘がまた失踪してしまっていたからである。
娘は真希の幼馴染みであり、同じ高校に通っているはずであった。
だが真希を追尾している中でそのような異変の兆候はまったく感じられなかった。
保田から知らされて一番不審に思えたのは友人であるはずの里田が失踪して
なお変わらない真希の態度であった。
455 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:26
あるいは友人、という意識さえ真希にはないのかもしれない。
矢口はそう思い始めていた。
超然とした、あるいは動じない、そのような言葉では表現できない不思議な空気を真希はまとっていた。
学園内ではちょっとした女王様を気取っている、という情報はある意味で正しく真希の状況を語る一方、
ある意味では間違っている。
真希は女王様を気取っているのではなく、女王そのものだったのだ。
本人が意識しなくとも周りが自然にそうした態度を取らざるを得ない。
真希にはそうさせる何か泰然とした雰囲気のようなものが備わっていた。
456 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:26
少年のルートを追う動きは年の瀬が押し迫るに連れていよいよ活発化していた。
ゲームセンターの少年のもとに毎日通い詰める真希の行動パターンに変化が見え始めたのである。
以前は少年のバイトが終わってからファーストフードの店で時間を潰して帰宅する二人であったが、
矢口が監視を開始してから一週間ほど経ったある日、ついにホテルへと向かうのを確認できたのだ。

妙齢の女性としてそのような場所に貼りついて監視を続けることに抵抗のないこともなかったが、
仕事と割り切ることで二人の情事を覗き見ているかのような罪悪感からは辛うじて逃れることができた。
二人がホテルで過ごす時間、矢口は食い入るようにそのホテルの入り口を凝視していた。
どこから表れてくるのか、人目を避けるようにひっそりと目立たぬよううつむき加減で
しずしずと門をくぐる中年男性と若い女性のカップルが入ると思えば、
まるでコンビニにでも入るかのようなあっけらかとした態度の若い恋人同士のカップルがいる。
457 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:26
二十歳を過ぎた女性としてそのような場所に入った経験がないとは言わない。
しかし、それにしても監視を続けるわずか一、二時間の間にこれほど多くの人たちが
自らの欲望をまさにこれから吐き出すその場に立つと、どこか人間の二面性を見せ付けられるようで
思わずそこから立ち去りたくなる衝動と戦わねばならなかった。

それでもなお、矢口をしてその場に留まらせていたのは、
覚醒剤犯罪に対する激しい憎悪であったかもしれない。
矢口は麻薬取締官としての研修中に覚醒剤の恐ろしさを嫌というほど見せ付けられてきた。

口から泡を噴きながら刑務所の床上をのたうちまわる末期中毒受刑者の姿。
面会に訪れた自分の母親を判別できず罵ることしかできない少女。
それだけではない。
錯乱して刃物を振り回し、自らの子供をめった刺しにして死に至らしめた母親の事例。
くすり欲しさのあまり売春を重ねることで善悪の区別がつかなくなり自分の父親、中学生の兄、
小学生の弟すべてと関係して家庭を崩壊させた中学生の少女の末路など。
458 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:26
耳を塞ぎたくなるような忌まわしい事例を山ほど聞かされて、
麻薬取締官はくすりに対する激しい憎悪と麻薬・覚醒剤の根絶のため
命をも厭わない厳しい使命感を植え付けられる。
特に感受性の豊かな矢口のような年代ではそれら一種の洗脳に近い教育手法の影響を強く受けざるを得ない。
自然、矢口のくすりを憎む心は人一倍激しく、そしてその使命感は熱く燃えたぎっていた。

その矢口がホテルの前に貼りついてカップルの姿をぼんやりと眺める行為に
やるせない想いを抱いたとしても咎めることはできないだろう。
男女の関係を知らない矢口ではない。
当然、中に入ったカップルが何をしているかは理解している。
そして、自分がそうした男女の営みを外から指を加えて見ていなければならないという
間抜けな立場にいることを一瞬でも、馬鹿らしいと考えなかったといえば嘘になる。

矢口だとて人並みに愛がほしい。愛されたいという欲求はある。
だが、そのような個人的な感情を仕事の場でいつまでも引きずる矢口ではなかった。
くすりのルートを根絶するという大義を前にして、矢口は再びホテルの監視に集中した。
459 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:27

trrrrr...,trrrrr,,,,

ハッ、と気付くと携帯が着信音を鳴らしていた。
「ハイ、矢口です!」
「どう、後藤の様子は?」
「圭ちゃんかぁ…」
「ご挨拶ねえ。里田の情報、聞きたくないの?」
「あ、聞きたい、聞きたい!もぉ圭ちゃん大好き!」
「現金ねえ。ま、いいわ。後藤の父親が以前、里田の上司だったことは知ってるわよね?」
「うん、ちょっと待って――」

矢口はうなずきながら携帯を肩と耳で挟みメモをとり出す。
里田の情報は貴重だ。
少年と後藤の追尾だけでは捉えきれない何か重要な背景が見えてくるような気がしている。
「――いいよ」
矢口は保田に話すよう促した。
460 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:27
保田の話ではこうだ。
里田が失踪する直前、後藤にコンタクトしていたのはほぼ間違いないらしい。
用件はわからない。
いや、わからない、とはミドリ十字社長である後藤は言わない。

『訴訟の動きがあると里田が言うんでね』

訴訟とは血友病患者に対する非加熱製剤投与によりHIV感染した患者による動きである。
後藤が旧厚生省の薬務局長時代、すでに米国ではその危険性が指摘されていたにも関わらず
加熱製剤ではなく、非加熱製剤の投与を推進したことへの責任を問う動きが
いわゆる人道弁護士などの働きかけにより広がり始めていた。

もちろん、訴訟の対象が後藤一人であるはずはなく、現厚生労働省、
非加熱製剤投与を推進するよう提言した帝国大学の安倍教授、
そして非加熱製剤の製造販売を続けたミドリ十字の三者に及んでいる。
後藤はその中でも特に患者からの強い恨みを買っている。
461 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:27
非加熱製剤推進の決定を下した張本人であることに加え、
当事者であるミドリ十字に天下りして社長に収まるという見識の無さを疑われたからであった。
さらに言えば後藤が薬害による災厄を放置させたのだとしたら、
今回が初めてではないことも患者側の神経を逆撫でするひとつの理由となっている。

後藤の課長時代、有名なサリドマイド薬害事件が発生している。
サリドマイド含有睡眠薬を服用した妊婦の多くが奇形児を出産した悲劇は
センセーショナルな報道により、大きな社会問題にまで発展した。

そのまさに当事者であったのが当時、薬物製剤課長であった後藤である。
不思議なことに長い裁判を経て最終的に国が敗訴してなお、
後藤が降格などの処分により省内での出世をはばまれることはなかった。
そこに患者側は何かうさんくさいものを感じとっている、ということなのだろう。
462 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:27
矢口にとっては部署が異なるため直接の関係はなく、ほぼ他人といっていいが、
それでも同じ省の大先輩と言えないこともない。
その大先輩が多くの患者を自らの政策ミスにより多くの犠牲者を生み出したことについては
忸怩たる想いを抱いている。もっとも本人に罪の意識はないらしい。

『血友病患者すべてに投与できる薬の量を確保するためには
非加熱製剤が当時としてはベストの選択だった』

後藤だけでなく、厚労省の見解はその点で一致している。
それはよい。
矢口だとて過ちは犯す。
463 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:27
問題はその過ちに気付いていながら自らの立場に固執するあまり、
多くの人に災厄をもたらし続けたことにある。
厚生省、とくに当時後藤の率いていたチームは米CDCより度重なる警告を受けていたにもかかわらず
その事実を秘匿しようとした。

その意志決定を下したのはおそらく後藤だ。
だけでなく、後藤にはその事実を知りながら非加熱製剤を販売するミドリ十字が
大量に抱えた在庫を捌くまでその事実を隠し続けようとした節がある。
そこに矢口は救いがたく深い闇を見る。
464 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:28
「――っと、矢口聞いてる?ねえ?」
ハッ、と我にかえった。
「ごめん、圭ちゃん。それで里田が接触したのはもちろんそれだけが理由じゃなんでしょ?」
「うん。それが判然としないのが悩ましいとこでね」
悩ましい、と告げる保田の声はなんだかハスキーでそれこそ矢口には悩ましく感じられた。
それほど年が変わるわけではないのにえらい違いだ、と考えてふと矢口は思った。
保田はいったい、いくつくらいなんだろう?

ひどく年寄りくさいことを言うかと思えば肌のなどは意外に艶めいていたりする。
その年齢不祥なところが矢口にはまた好もしく思われたりもする。
「加えて里田の娘の失踪でしょ?もう頭痛いわ」
「里田の娘って…」
「そう。後藤真希と同じ学校。昔からの幼馴染みらしい…」

保田はもったいぶるかのようにわざと声をひそめて矢口に問いかける。
「ねえ、矢口…何か臭うと思わない?」
「里田の娘が失踪…圭ちゃん、それに後藤真希が関わっているとでも?」
「ありえない話じゃないの。もともと随分仲がいい二人だったらしいんだけど、最近になって妙だったって」
「妙、って…?」
465 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:28
すでに矢口の想像力の範疇を超える展開だった。
矢口の戸惑いを感じるはずもない保田は淡々と続ける。
「どうもね、仲違いしてたみたい」
それが嬉しいのか、と思えるほどに保田の声ははずんでいた。
「原因がどうやら男…らしいのね」
気のせいなんかじゃない。
明らかに保田は嬉しそうだった。

矢口は呆れつつも適当に相づちを入れて次の言葉を待った。「例のゲームセンターのあの子、ほら、ちょっとイケメンの」
「ああ、あれ?でもまたなんで……」
「考えてみなさいよ。後藤はミドリ十字社長の娘、里田も厚生労働省に勤める父親がいる。
そしてあの子はくすりのルートを見つけたくてお尻に火が着いている――」
「ああっ!」
矢口は思わず手を叩いた。

そもそも真希と少年がどのようにして知り合ったか定かではないが、
その理由については大体の想像がつく。
つまり『くすり』を製薬会社、あるいは厚生労働省が掴んでいると
少年の属する暴力団が判断したのだ。
そう考える何かしらの根拠があるに違いない。
粗暴ではあるがやくざは決してバカではない。
当てずっぽうで動いて無駄足を踏めるほど彼らにも余裕はないのだから。
466 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:28
「じゃあ、あの子、くすりのために後藤と里田の娘に近づいたってこと?」
「ご名答。最初、後藤に当たってみたもののなかなか尻尾をつかませない。
それで里田のルートを探ろうとした。そんなとこじゃないかしら…」
「そっかぁ……」
矢口にはもうひとつ、別の異なる考えが浮かんだ。

あるいは少年はまいのことは全く当てにしていなかったのではないか。
つまり、なかなか真希がくすりの出所を明らかにしないため、
まいにちょっかいを出すことで真希の焦りを誘ったのではないかと。
だが、それでは里田の父が殺された説明がつかないような気も――

――いや、違う?

違う。なんだろう、今、一瞬、訪れた違和感は?
里田は後藤、つまり真希の父に何事かを告げたために殺されたと考えるのが妥当だ。
後藤の父は限りなく黒に近い心証である。
真希が父親のルートでくすりを手に入れているのなら、後藤はそれを決して表に出したくはないはずだ。
里田の父は何らかの形でそれを知っていた。
467 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:29
そして、真希がくすりに手を出しているから注意する、
あるいはそれをもとに脅しをかけた、ということでもよい。
いずれにしてもそういう内容を里田が後藤に告げたのなら…
矢口は自分が通話中であることも忘れて深くうなずいた。

「里田が殺された説明がつく…」
「ちょっと、矢口!あんた、何一人で納得してんのよ?私の推理を聞きな――」
「わかった!わかったんだよ、圭ちゃん!」
保田は反応しなかった。
受話器の向こうでポカンと大口でも開けているかのような間が空いた。

「圭ちゃん、里田が後藤を訪れた理由はきっと後藤の娘がくすりを扱ってるからって
注意するよう伝えるためだよ!」
「や、矢口…あんた、どうしてそれを……?」
「いや、後藤と付き合っておきながら里田の娘に手を出した理由だよ。
里田は後藤に会いに行った直後に失踪しているんでしょ?
つまり、その後すぐに始末されたと見て間違いない。
後藤が里田を殺さねばならなかった理由。つまりそれが――」
468 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:29
「娘がくすりをどういうわけか見つけて横流ししちゃったというわけね!」
「いや、必ずしもまだ組に流してはいないのかもしれない。
組にはそれらしき動きがまだないもの。
ただ、後藤の娘がくすりを何らかの形で入手しちゃったのはまず間違いないだろうね」
「そっかぁ…娘の内偵を進めたいとこだけど未成年だし証拠もない。難しいところね」

保田の声は興奮から醒めて現実を見つめると相変わらず見通しが厳しいことを示していた。
矢口自身も後藤の娘、真希がくすりのルート確立を狙う組と供給者と思しき製薬会社の間で
重要な役割を演じつつあるとの見方にかなり手ごたえを感じている。
だが一方で、その確証を得るための手続きの煩雑さを考えると胸中複雑だった。

「とりあえず今は、あの子の動きを追うしかないわね。後藤の娘の方はまだ学生だし…」
「うん。監視を続けるよ。圭ちゃんもそっちが落ち着いたら応援よろしく。また連絡ちょーだい」
「オッケー。悪いわね、それじゃ」
469 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:29
通話を終えて携帯を閉じてもまだ矢口には拭いきれない違和感が残っていた。
一体それが何なのか、わからない居心地の悪さを感じながら
矢口は捨て看板の影に潜み派手なネオンを煌かせ始めたホテルの入り口を見つめ続けた。
寒さに震える指先にはぁっ、と息をかける。

コートのポケットに両手を突っ込んでもその冷え切った指先が震えつづけるのは
きっと、夜気と一緒に忍び込んだ寒さのせいだけではないのだろう。
矢口は狂ったように光の乱舞を続ける眼前のイルミネーションに目を向けた。
煌びやかな光の明るさはその場所に集う者たちの心の闇の深さを覆い隠す。
そればかりでなく、その光の妖しさは内部で行われているはずの
胡乱な営みのいかがわしさを思わせるようで嫌だった。

矢口はじっと待つ。
二人はまだ出て来ない。
矢口は寒さで心が凍りつく前に二人が現れることを祈った。
470 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:29


保田は矢口との通話を終えると続けて履歴からある番号を探し出し通話ボタンを押した。
「もしもし…」
相手はすぐに出た。
「そう。わたしです――ハイ、ええ例の麻薬Gメンです。ええ……」
相手が少し間を空けた。
保田は厳しい表情で虚空を見つめている。
そこに相手がいるというわけでもないのに。

シンプルな部屋に丁度らしいものはほとんど見受けられない。
見ようによってはそれが若い女性の部屋とはとても思えないほどに殺風景だった。
「――あ、ハイ。そうです――いえ、知っているわけじゃないです。
ただ恐ろしく頭が回ることだけは――」
話が拡販に触れると保田はやや自信なさげな表情でやはり視線を宙に浮かせた。
その視線の先はふらふらとして落ち着かない。
471 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:29
「――ええ。やはり後藤の娘のようです――わたし?わたしですか?」
保田は急に自分に話が振られたことで戸惑った表情を浮かべた。
眉間に皺がよるような動きはなるべく避けているつもりだが、
心理的な動揺に際して咄嗟に対処できるほどの経験を積んでいるわけでもない。

通話の相手が突きつけているらしい厳しい内容に保田の渋面はさらに硬くなった。
「――あることはあります。ただ……」
保田はあることに思い悩んでいるようだった。
そんな保田の困惑をよそに相手はさらに追い詰めてくる。
保田はついにその要求を認めざるを得なかった。
「――わかりました。やってみます。やってはみますけど、それで何かがわかるとは――」
相手が激しく言い返されたのか保田は肩を竦めて「ハイ…」と小さく答えるのがやっとだった。
しばらく相手の激しい叱責に耐えると保田はか細い声で「わかりました」と答え携帯を閉じた。
472 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:31
その目は虚ろで何の光をも宿していないように見えた。
あるいはその視線のはるか先に結像した対象の姿が余りにも朧で儚かったためかもしれない。
「後藤真希…か……」
保田はうわ言のようにつぶやくと、慌てて鞄から後藤に関する資料を取り出して確認を始めた。
既に目を通してあるものがほとんどだが、中には捜査に特別関係があるとは思えない雑多な資料も混じっている。
どうやらそれら見落としていた知りようにも隈なく目を通す必要がありそうだった。

保田はその中に生徒の名簿があることに気付きハッとした。
通常、学校側は生徒のプライバシーを考慮して、名簿のような資料は出し渋る傾向にある。
特にこの学校のように官僚や一流企業トップの子弟が多く通う有名校とあっては。
保田は一応、その名簿の上に視線を走らせた。
後藤の他にいくつか知った名前もある。

里田まい…
473 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:31
殺された里田の娘だ。
この子もまだ失踪中で行方がつかめないという。
未成年の女子高生がどのようにして身を隠しているのか。
想像ができるだけに保田は同情を禁じえない。

あるいは既に彼女も殺されて…
保田は頭を振ってその想像を打ち消した。
彼女は保護しなければならない。それも早急に。
でなければ…
保田はもう一度目を閉じて頭を左右に振った。

気を取り直してもう一度名簿に視線を落とす。
ふと、ある名前が目に止まった。
474 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:32

これは…

保田は見間違いではないかと思い目を凝らした。
どうやら間違いではないらしい。
だが何か少しおかしい…
しばらく考えてある結論に辿り着いた。
やはりそうだ。おかしくはない。
むしろその事実が彼女であることを雄弁に物語っている。

「いしかわ…」

保田は名簿を掴んでその名前を凝視した。
手が震えてびりびりと紙が鳴っても保田の目はその部分に吸い寄せられたように動かなかった。
気付けばとうに日が落ちて薄暗い部屋の中は街燈の明かりが差し込んでいた。
暖房を入れていない一人の部屋はひどく寒い。
だが保田は自分が寒さに震えていることを忘れてでもいるようにじっと名簿を掴んだまま動かなかった。
その視線はどこか遠いところに焦点を合わせているのか力なく宙に泳いでいた。
475 名前:  投稿日:2004/01/13(火) 17:32
Atto V
Che gelida manina>>452-474

476 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/14(水) 10:56
まいちゃんが心配だ・・・
477 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:08
La traviata near
黒い椿姫

478 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:08


真希は自分の手首ほどもあろうかという太さにまで膨れあがり
時折ピクッ、と脈打つ少年の怒張を両掌で握り締めていた。
無造作に長い手足をベッドの上に放り出し仰向けに横たわる少年の脚の間に蹲って
真希はその中心部を一身にまさぐっている。
引きしまった尻を突き出して顔を股間に埋めるその姿だけでも視覚的な刺激は十分だったが、
おそらく少年がそれを楽しむ余裕はないであろう。

真希の掌にその欲望の中枢を委ねた今、少年の全感覚はその一点に収斂している。
独特のリズムで握った手を上下させると思わず少年が「うっ」と呻き声をあげる。
真希はその様子が嬉しくてついその硬い肉塊に頬ずりしてしまう。
普段ならこの程度で少年が無防備に自らの快感をさらけだすことはない。
無論、真希の技術がすぐれているためでもない。

真希はついにくすりを使用していた。
少年がシャワーを浴びている間に口中にタブレット錠のくすりを含み
唾液で十分に溶かしておいた。
その上で少年のまだ平静を保っていた分身を口に含み舌で十分に攪拌した。
479 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:08
徐々に硬さを増すのが好きで真希は常に最初はこの行為から始めることにしている。
いつもと違うことに少年が気付いたのは
すでにその欲棒が真希の舌技により十分な硬度を得てからだった。
もともと口でいらうのが好きな真希ではあったが、
今日はとくにねっとりと絡みつくような舌の動きが冴えた。

尿道を舌の先で刺激することで粘膜からくすりが吸収されるのを助けた。
少年は体の芯から熱を帯びてくるような不思議な感覚に思わず声を上げていた。
いつも冷静で決して快楽におぼれることなく、
常に性の場でも主導権を握る練達した男の姿はすでになかった。

「ね、いいでしょ?」
いたずらそうに微笑んで上目遣いに自分の喘ぐ姿を見つめる真希の表情は
蠱惑的で少年はどこか抗い難いものを感じた。
「こんな硬くなってる……すごい」
そう言って天井に向かって高く屹立した肉茎を両手で擦りながら
頬ずりする真希の表情は陶酔に浸っている。
480 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:08
うっとりとした表情を浮かべている真希自身、くすりの催淫効果により
早くもその中心が潤ってくるのをどうすることもできなかった。
「ねえ?してあげるね」
ついに痺れを切らした真希は掌を上下に動かす速度を早めた。
そしておもむろに赤黒く膨らんだ亀頭を口に含み、再び舌を激しく回転させる。

「おっ、おい…うぉっ、あ、ああ、ちょっ、ちょっと待て――」
少年はあまりの快感に愛撫を止めるよう告げたが真希は一向に頓着せず、
ひたすら舌と掌による攻撃を続けた。
たまらず少年はうっ、と短く声を漏らすと真希の頭をつかんで腰をせり上げた。
真希は少年の動きに合わせてその太い幹を根元までくわえ、キュッと口をすぼめる。

すると茎の直径がずんと広がり、
どくんどくん脈打って真希の口内に白いほとばしりを噴出させた。
射出を終えてなおぴくぴくと間歇的に根元の方からその熱い液体を汲み上げる太いポンプは
まるで爬虫類か何か得体の知れない生き物が体の一部を切断されて
なお蠢いているかのような生々しさで自らの存在を主張し続けていた。
481 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:08
真希はまだ口内で熱さを失わないその生命の源を漏らすまいときつく口を窄(すぼ)め、
リズムに合わせて亀頭の裏側に這わせた舌をギュッと押し出す。
少年の先端からだらしなく漏れてくるぬめぬめとしたものを懸命に吸い上げ、
やがて最後の一滴までも絞り尽くすとゆっくり口を窄(すぼ)めたまま
顔を上げてニッ、と微笑んだ。

口もとからだらりと白いねばねばとしたものが滴って
真希のつんと上を向いた形のよい乳房の上で止まった。
やがてそれもゆっくりと線を引いて下ろし、真希の胸から下腹へと下ってゆき、
最後には脚の付け根の辺りの黒い茂みへと消えていった。

「いっぱい」
嬉しそうに告げる真希の口からはさらに大量の白い粘液がだらだらと漏れて
白髭のようにあごの周りを覆った。
「いっぱい!」
満面の笑顔でそう叫ぶと真希は少年の体にパッと覆い被さり、
頭を両手で挟み口を近づけた。
482 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:08
「お、おいっ!なにす――」
真希の意図を図りかねて反応が遅れた少年は真希の口づけをまともに受けた。
舌を差し込まれて自らの放出した一部を大量に摂取して
そのおぞましさに言いようのない不快感を覚えた。
「む゛!んぐっ!ぷはぁっ!なにすんだよ!」

やっとのことで真希の顔を引きはがすと
少年はペッ、と口中に溜まった生臭いものを吐き出した。
真希は嬉しそうに嬉々として「いっぱい」を繰り返している。

くすりのせいで頭がおかしくなったか。
そう思えるほど少年には真希の幼女然とした態度は異常に思えた。
少年はもう一度ペッ、と口の中のねばねばしたものを吐き出した。
汚い。唾液と白い粘液にまみれた真希の姿態に一瞥をくれると
少年はようやく冷静になった。
483 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:09
それにしても…
すごいくすりだ、と少年は嘆息しあらためてくすりの威力に目を見張った。
これはいける。少年は確信した。
これほどの即効性と効力あるドラッグは今、市中でほとんど入手できないのではないか。
少年が以前、遊び半分に嗅いでいたクラックなど比べものにならないほどの手軽さと実用性だ。

このくすりのすごいのは何といっても感覚だけが鋭敏になるところだ。
他のドラッグの使用はどうしても実生活で支障を来す。
ところがこのくすりは行為に耽っている間こそ、
その感覚に体が支配されるような快感の増幅作用を伴うが、
一旦、行為を終えればその他の感覚に異常はない。

真希の様子が今もっておかしいのは女性である彼女の性は
まだ一連の行為において上りつめる途上にあり、
その感覚から開放されていないことによるものかもしれない。
執拗にまとわりついてくる真希を無造作に払いのけながら少年は思った。
484 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:09
再び彼の力なくうなだれた分身をしきりにいじる真希を今度は満足させる番だ。
フェラチオだけでこれだけ昂ぶる真希の様子を目の当たりにしたばかりだ。
これから真希の敏感なところを攻めたてたら一体どれほどの反応を示すのか。
そう考えると少年の分身は早くも勢いを回復し、むくむくと欲望の鎌首をもたげてくる。

敏感にそれを察知した真希は両手でそれを握り締めて早くもはぁはぁと喘ぎ始めている。
「こらっ、まだだ、まだ。シャワーを浴びるまでおあずけだ」
発情した犬でも追い払うように手の甲で真希を払いのけると
少年はすっくと立ちあがり、シャワー室へと向かった。
慌てて負いかける真希。

「ねえ、早くしようよ」
「シャワーかかれよ」
「いいよ。この匂いがいいんじゃん」「変態か?おまえ」
少年は呆れながら真希の手を引いてバスタブへと導いた。
あらためてその口もとから首の辺りをよく見ると
白く粘ついたものがこびりついて乾き始めていた。
485 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:10
俗に『いか臭い』と言われたり、あるいは『栗の花』に例えられる生臭さが鼻孔を刺激した。
自分が放出したものでありながら歓迎する気にはなれない。
勝手なものだとその浅ましさを笑いながらシャワーの栓を開いて温度を調節する。
「ほら、入れよ」
真希はへらへらと薄ら笑いを浮かべたまま、大儀そうに脚を上げてバスタブへと入った。

少年は手のひらで温度を確認すると栓を大きく開いてノズルから勢いよくお湯を噴出させた。
みるみる湯気が広がって足もとから真希の体を包んでいく。
「かけるぞ」
そう言って白く汚濁したものが付着している下腹部の茂みにシャワーをあてていく。
「ひゃっ、くすぐったい!」
「バカ!よけるなよ」
「だぁって、くすぐったいんだもーん」
真希の呂律はすでに怪しくなっていた。

シャワーのノズルを下腹部から徐々に上へとずらし、脇腹から胸にかけてお湯で流していくが
放出してからすでに時間の経った精液はなかなか拭い落とすことができなかった。
少年はやや苛立って、ノズルを左手に持ち変えて乳房の周りを集中し流しながら
同時に右手で乳房を手のひらで包み、ゆっくりと撫でまわした。
486 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:10
「あんっ、ちょっ、たんま…ちょっ…あぁっ…」
少年は手のひらの真ん中で真希の乳首が硬く尖るのを知って、
さらにそれをころころと転がして感触を楽しんだ。
「んっ、は、は、はぅん…」
「おいおい、こんなに固くおっ立てやがって。おまえは本当に好きものだな」
「いやぁ、すっごい気持ちいいの!ん、んん…」

身をくねらせて快感に耐える真希を少年は逃そうとはしなかった。
右手でそのたわわに実った果実のような乳房をいらいながら、
左手を下腹部の茂みに向けるとそこはすでに潤って少年の指を迎え入れた。
ぬるっ、とした感触とともに中指がそこに吸い込まれると真希は「んっ」と短く声をもらし、
快感とも苦痛ともつかぬ感覚に眉根をよせて顔を歪めた。

「おい、そんなに絞めつけんなよ」
少年はむさぼるように指を咥え込む真希の貪欲さに
体ごと吸い込まれてしまいそうな恐怖さえ感じて思わず指を引き抜いていた。
スポッ、という音が聞こえそうなほどの勢いで指が抜けると
真希が「うっ」とうめいて体を仰け反らせながら少年にしがみついた。
一瞬、敏感な箇所に指が触れてしまったみたいだ。
487 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:10
「ん、ぬはぁっ!…はぁ……はぁ……」
しばらくの間、真希はぜえぜえと荒い息を吐いていたが、
やがて呼吸を整えると満面の笑みを湛え再び少年に挑んできた。
「バカヤロウ、まだ早いだろ」
「…だって…はぁ…凄くイイんだもん…」

今の刺激で早くも気をやってしまったらしい真希はぐったりとして少年に体重を預けている。
まだ口もとに白くねばついたものをこびりつかせている真希の顎をつかんで引き寄せると
少年はシャワーを浴びせて顔全体をごしごしとこすりその白濁物を洗い落とした。
真希は顔面を手のひらでさっと拭うと「ぷはぁっ」と息を吐いて
少年の腰に手をまわして下腹を密着させる。

「やっぱすごいよ!だってこれ、ほら――」
そう言って少年の下腹部に手をまわすとすでにいきり立った熱い塊は
鋼のような固さで真希の脇腹を叩いていた。
真希はいかにも嬉しそうな笑みを浮かべそれを握り締めた
488 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:11
「ねえ、ここで一回しようよ…」
耳もとに真希の熱い吐息を落とされると
少年は自らの理性が吹き飛ばされそうになる危険を感じ、慌てて体を引き剥がした。
「バカ。ゴムもないしやばいって言ってんだろ」
「いいよ、ゴムなんて。あたし今日安全日だし」
「そういう問題じゃねえんだよ」

これ以上、真希にその欲望の先端をいじられるといつ暴発してしまうかわからない。
少年は真希を遠ざけたままシャワーを自分に向けて
熱いお湯で下腹部を洗い清めるとタオルを腰に巻いてバスタブから出た。
「おまえも早く来いよ」
そう言ってさっさとベッドに向かう少年にベエッ、と舌を出してはみるものの、
欲情に火をつけられて体の火照りを静められない真希は慌てて自分もタオルをつかみ後を追った。

ベッドの上ではすでに少年が横臥してその猛々しくそそり立つ肉塊の先端を宙に突き出していた。
神々しいほどの輝きで屹立する欲望の巨嶺を前に真希の理性は地上を離れ、
ひたすらその頂をめざし、獣のような咆哮を上げて突進した。
火のような勢いでむしゃぶりついてくる真希を少年の理性が一瞬確認したのも束の間、
やがて少年自身も内部からほとばしる熱いエネルギーの噴出にいつしか我を忘れ、
ただその欲望を真希の豊満な肉体へとぶつけていた。
489 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:11


白く揺れる煙。
焦げたような臭い。
どこかで聞いたような少女たちの甘ったるい歌声。
なんだろう…
どこかで確かに聞いたことがあるのに思い出せない。
もうちょっとで思い出せそうなのに…
真希はだんだんと意識が覚醒してくる中で白くぼんやりと霞んだ視界が開けてくるのを
人事のようにただぼぉっと観察していてた。

体が重い。
感覚が戻ってくるとともに痺れをともなった気だるさはいよいよ全身を覆った。
疲れている。
消耗し尽くしている、と言っていい。
真希は瞼を開けていることさえ億劫だ、とでもいうように瞳を閉じようとした。
「おいっ、いいかげん起きろよ」
少年の声で現実に引き戻される。
テレビではなんとかいうアイドルグループが鼻にかかった甘い声で下手糞な歌を踊りながら歌っている。

真希は画面に目を凝らした。
下着の見えそうなほど短いスカート。
夏でもないのに水着のような衣装。
典型的なアイドルという以上に何もひきつける要素はないはずだった。
それでもなおも画像を追いつづけてふと気付いた。
その中の一人が似ているのだ。
490 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:11
豊満で上をつんと向いた形のよい胸。
スカートから直線的に伸びたすらっとした長い脚。
二重まぶたの下にはぱっちりと開いた大きな瞳。
すっとまっすぐ筋の通った鼻の下、ややぽってりとした唇が蠢く様は
若い男性に淫らな想像を抱かせずにはいられいほど艶めかしく、
一方で同性からは不興を買いそうな品のなさに通ずるものがあった。

無論、真希にとってそんな印象はどうでもよい。
見過ごせなかったのは、その外見があまりにも似すぎていたことだ。
真希はその少女に失踪中のまいの姿を重ねている自分に驚いた。
「おい、出るぞ」
少年の声に振り返ると、すでに服を着て帰り支度を始めていた。
その瞬間、もうまいに似たその少女への意識はすでになかった。

「ちょっと待って」
返事を返すのさえだるくてしかたがない。
真希は二度の激しいエクスタシーにより驚くほど体力を消費していた。
疲れ切ってベッドに横たわるうち、ついまどろんでしまったらしい。
「時間だぞ」
さすがに延長してもう一度、という気分にはなれなかった。
これ以上、あんな凄い快感の持続に耐えうる体力は残っていそうにない。
491 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:11
慌てて下着を身につけていると後ろから声がかかる。
「なあ。いい加減、教えてくれてもいいだろ?」
「何?」
真希はブラのホックがなかなか止まらないことにいらだちを覚えながら煩わしげに答える。
くだらないことに気をとられてなかなか指先が言うことを聞かない。

「くすりのことだよ」
パチッ、と音が立てて弾けたブラの紐が背中にあたって跳ねかえる。
真希は背中で両手を背中に回したまま、少年の言葉を待った。
「くすり…の何を?」
「何って?決まってんだろう」
少年のふてぶてしい様子に今さら違和感は覚えなかった。

すでに堅気でない匂いをこの男は発散し過ぎている。
少年の出自が気になるほどすでに真希はうぶではいられなくなっている。
より月並みな言葉で表現するならば、真希は少年の虜になっていた。
いや、少年との行為に囚われているのか…
その辺は自分の中でもかなり曖昧になっていることを真希自身、意識していた。
492 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:12
「どっから調達してんだよ?」
きた。
胸がどきどきする。
そんなことを知ってどうするのだろう、と考えるには真希は経験が豊富すぎた。
恐れていたことが現実になったというのに現実味が薄いのは
少年に対する根拠のない信頼のような想いのせいかもしれない。
今となっては儚い期待でしかないのかもしれないが。

危ない橋を渡ろうとしているのかどうか、真希には今ひとつ実感が湧かない。
ただ、嫌な予感がしたのは確かだ。
「どこって…内緒――ちょっと痛い!離してよ!」
いきなり凄い力で手首をつかまれて真希は恐怖に駆られた。
必死で振りほどこうとするがさすがに男の力にはかなわない。
真希は今、初めて少年を恐ろしいと思った。
少年に対して抱いていたイメージが音を立てて崩れ落ちていく。

「ガキの使いじゃねぇんだ…素直に吐けよ」
目つきの鋭さはすでに素人のものではない。
隠していた牙を剥き出しにして野獣が襲い掛かる凄まじさに真希の理性は麻痺しそうになった。
突然、何かわからない激しい衝撃を受けて視界が真っ暗になった。
493 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:12
気が付けば床の上に跪いている自分がいる。
衝撃により麻痺していた神経の営みがじわじわと回復してくるに従って頬に痛みが伝わってくる。
熱を帯びたようにじんじんと脈打つ痛みに真希は現実を悟った。
そう。彼女は見事に嵌ったのだ。少年…いや、この羊の皮を被った狼の策略に。
恐らく背後に何か後ろ暗い組織が控えているのだろう。
もう逃れられない。

痛い!
髪を掴まれて頭を引っ張られた。
「どこから調達してるんだ?!あっ?言えや、ごるぁ!」
耳が割れそうなほどの音量で真希の頭に直接少年の言葉が響く。
「言う、言うから助けて…」
それだけ言うのがやっとだった。
「許して…お願い、許して…うっ…ゆ、許して…」
涙声で真希はひたすら許しを乞うた。

くすりのために精神が高揚したことによる反動なのか、
幼児のようにひたすら恐れ慄く様子はしかし、少年の手綱を緩めるには至らなかった。
「だから早く言え、っつってんだろうが!」
少年は容赦なく真希を攻め立てる。
ひぃっ!と声を上げて真希は頭を抱え床に蹲った。
どすっ、という鈍い音に続いて差し込むような鋭い痛みを脇腹に覚えた。
494 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:12
少年に横腹を蹴られて真希は、ひぃっ、ひぃっ、と呻きながら
アルマジロのように体を縮こまらせて必死で防御しようとする。
もちろん、その程度の防御が今や暴力のプロとして正体を現した少年の前で役に立つはずもなく、
臀部や大腿部にどすっ、どすっ、と三度四度の攻撃を受けて真希の感覚は完全に麻痺していた。

もはや許しを請うためなら何でもするだろうと思われる真希の状態を確認して、少年は尋ねた。
「誰だ?お前にくすりを卸しているのは誰だ?」
「…こ…の…の、こ…」
「聞こえねえよ!」
もう一度、靴の先を脇腹に潜り込ませると真希はひぃっ、と悲鳴をあげてから短く答えた。

「女の子!知らない女の子から連絡が来て…ね、ほんと!嘘じゃないの!ね、信じて!」
真希はあまりにも荒唐無稽な話に少年が怒り狂うのではないかと恐れていた。
だが、次の攻撃を恐れてさらに体を丸めて縮こまった。
「……」
だが、不思議と少年に反応は見られない。
恐る恐る頭から手を離し、少年を振り返ると茫然自失の体でつぶやく姿に目を疑った。
495 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:12
「…のこ…女の子だと?」
「うん、携帯でメールが来て、それで連絡があると学校で…」
「学校?」
少年の目が再び活力を取り戻して光った。
「う、うん…連絡があると保健室で受け取ることになっていて…」
「その女の子、『椿姫』と名乗っていなかったか?」

「えっ?!」
今度は真希が驚く番だった。
いや驚き、という言葉では言い尽くせないほどの衝撃を真希に与えた。
なぜ、それを知っている?一体、なぜ?
「やはりそうだったか…」
「なんで?なんで知ってんの?なんで?」
真希は半ばパニック状態に陥って、ややヒステリックに叫び続けた。

そんな真希の様子にはお構いなく、少年は再び正気を取り戻して尋ねてくる。
「保健室…と言ったか?で、保健室には養護教諭か何かがいるだろう、そいつはグルなのか?」
「えっ?な、中澤先生は多分、知らないと思うけど…」
「じゃあ、どうやって受け取るんだ?」
「先生には私の持病の薬、とか何とか説明してるみたい…見かけは普通の錠剤みたいだし」
496 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:12
「その先生とやらに話を聞く必要がありそうだな」
「止めて!それだけは絶対に止めて!先生は関係ないんだから!」
真希は必死になって叫んだ。
中澤を巻き込んではいけない。

すでに理性が麻痺した状態でなお中澤を庇う、
というよりは学園の関係者にこれ以上、関わりを持たれたくない、
という意識の為せるわざかもしれなかった。
真希にはまだ、普通の高校生としての生活を捨てるつもりなどはさらさらなかった。

「じゃあ、お前が調べるんだ。『椿姫』がどうやって保健室にブツを届けているのかをな」
「わかった…私が聞くから、だから絶対に学校には…」
「俺もそこまで野暮じゃねえ。
その代わり、納得のいく答えが得られなかった場合は……わかってるだろうな?」
真希はごくりと唾を飲み込んでうなずいた。
単なる脅しではない迫力がその言葉、表情から窺えた。
497 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:13
真希は覚悟を決めた。
もう逃れられない。
であれば、あとは正体不明の謎の少女の身元を暴いて彼女に委ねるしかない。
もともと好奇心から『椿姫』と名乗る怪しい人物からの接触を拒まなかったのは自分だ。
まいでその効用を試した罰を償わねばならない。
そのまいの行方も気になるところではあるが…

真希は少年の厳しい視線の前に居住まいを正さざるを得なかった。
今は、まいのことよりもくすりのことだ。
『椿姫』から渡されたくすりの在庫は底を突いている。
いずれ近いうちに連絡が入るはずだ。その機を逃さずに一気に畳み掛ける。
真希の覚悟をその沈黙のうちに悟ったのか、少年はフン、と鼻を鳴らして短く告げた。

「時間だ。出るぞ」
「うん」
ガチャリ、と音をたてて大きく開かれたドアから廊下に出ると
その寒々とした光景に一気に心が凍てつくようだった。
薄暗い照明のもと、ひんやりとした廊下を歩く少年の靴音がコツコツと響き渡り、
余計に寒さを際立たせる。
498 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:13
俯いたまま少年の跡を歩いていく真希の心のうちにいつのまにか
言いようのない寂しさとともに、
まいに対する行為への激しい後悔の念が沸き起こった。

戻れるものなら戻りたい…

なぜか真希はひとみの顔を思い出した。
彼女なら、決してこのような薄汚れた世界に足を踏み入れることはないだろう。
そう思うと、無性にひとみに会いたくなる気持ちをしかし真希はどうすることもできなかった。
ひとみと会うわけにはいかない。
ひとみをこのような危険事に巻き込むわけには…

だが、それでも、真希はひとみならばひょっとして自分をこの状態から
救い出してくれるかもしれない、との淡い期待をどうしても捨てきることはできなかった。
ひとみなら…との想いはしかし、少年の「忘れるな」という一言で打ち破られた。
499 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:13
「必ず調べろよ、『椿姫』のルートをな」
そう言ってホテルの門をくぐると雑踏に紛れ、少年の姿は消えてしまった。
真希は呆然と立ち尽くし、その姿を見送るしかなかった。
風の冷たさにようやく自分を取り戻すと、
真希は俯いて諦めたように足を踏み出した。

ぞくっ、するような寒さに体の震えが止まらない。
コートの襟元を締めて外気の侵入を防ごうとする。
だが、それでも一向に震えが止まらないのは、
凍てつくような心の闇の深淵を垣間見てしまったせいかもしれなかった。

自分は一体、どこまで転げ落ちていくのだろう…

真希は何を頼りに歩いていけばよいのかわからなかった。
ぼんやりと見上げると建物に囲まれた空は限りなく小さくて、
道を示してくれるはずの星を見ることは適いそうになかった。
代わりにホテル街のネオンが寒々と煌いて真希の心に突き刺さった。
痛い、と感じるよりもただひたすら寒かった。
500 名前:  投稿日:2004/01/19(月) 11:14
Atto V
La traviata nera>>477-499


501 名前:名無し読者 投稿日:2004/01/20(火) 00:21
こんなに先が楽しみになる小説もヒサブリです。
502 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/21(水) 14:04
今日初めてここを知って、一気に読みました。
すごいです。何で今まで気づかなかったんだろう・・
続きが楽しみです。
503 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:01
Dove andaro il vero?
真実はどこへ消えた?

504 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:01


ひとみと梨華の関係は亜依らとともに
S市のK美術館を訪れてからも特に変わることはなかった。
芸術的な観点からは大きな刺激を受けたのは確かだ。
マチスの作品を生で見られる機会はそう多くはない。
色彩そのものが意志を持つかのように画面の中でせめぎあうフォービズムの大胆な作風。
その先駆者としてマチスの偉大さをあらためて実感できたことは大きい。

巨匠の作品において傑作といわれる『赤い部屋』の迫力は完成後数十年を経てなお、
色褪せることはなかった。
目指す作風は異なるものの、マチスやロスコ、ステラといった先達の魂を揺さぶるような
創作にかける情熱はひとみだけでなく、梨華やあの藤本さえ圧倒した様子だった。

あれ以来、藤本が梨華に対してちょっかいを出さなくなったのもいい傾向だった。
ひとみは藤本が新作の作成に没頭していることを知って好ましく思った。
梨華に対するいじめがなくなったことだけでなく、
才能を認めるライバルの闘争心に火が着いたことが嬉しかった。
505 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:01
一方で梨華とはまた静かな関係に戻った。
美術館への小旅行が二人の関係を進展させるなんらかのきっかけになれば、
との目論見は見事に外れたことになる。
それでもひとみはかまわない。

相変わらず通院を続ける梨華は部活に顔を出すことはなかったが、
それでも廊下ですれ違えば会釈を返すくらいには他人行儀でなくなっていた。
少しずつでいい。あせる必要はない。
日々の営みにおいて少しでも梨華との距離を縮めていければ。
そう自分に言い聞かせて無聊(ぶりょう)を慰める毎日である。

亜依は何を思ったか冗談でなく、本格的に油彩画を始めようとしていた。
好きだったはずの合唱の方は、雑多な厄介事があって巻き込まれたこともあり、
二学期のうちにすっぱりと止めていた。
部活に出られず退屈していたこともある。
加えて美術に詳しい友人が身近にいたことで
共通の話題が増えたこともうまく作用したのかもれしない。
506 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:02
ひとみとしては、亜依がその場の勢い、
あるいは場を盛り上げるための冗談として「油彩画を始める」
などと言い出したと思い込んでいただけに、存外、
本気で取り組むその姿勢には驚きを隠せなかった。
以前よりも頻繁に自分の部屋に顔を出しては、やれ筆の洗い方を教えろだの、
絵の具を貸せ(といったところで返すつもりはないに決まっている)だの、
煩わしいことこの上ない。

とはいえ、そうした姿勢に必死で自分とコミュニケーションを取ろうとする態度が
見え隠れするだけに邪険にもできず、嬉しい反面、戸惑いも多く、
胸中複雑なものがあった。
自然、ひとみとしても範を示すため作品に対して真剣に取り組まざるを得ない。
美術教室が火災により焼失してしまってしばらく滞っていた部活も
下級生を中心に再開されようとしていた。

学校側に掛け合ってグラウンド横の使用されていない運動部の部室を押さえてある。
今度は鍵をかけてきちんと管理するとの条件付きでなんとか画材を置くスペースを確保。
中には放置されていたままの机や椅子、
何の競技に使われていたものか穴だらけのネットのようなもの、
またそれを立てるためと思しきポールのようなもの等などが無造作に積み上げられていた。
507 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:02
雑多な廃棄物を焼却場まで運び出す際にはその体格を見込まれてか
真っ先にひとみに声がかかった。
掃除のときにだけお呼びがかかることに対してひとみが不満の意を示すと
後輩が笑って言った。
「石川さんも手伝ってくれるそうですよ」

無論、かかる非礼については不問に付し、嬉々として馳せ参ずるひとみである。
ひとみだけでなく、なぜかOGの保田までもが駆り出されて手伝っているところを見ると
下級生にはなかなかの策士がいるようである。
ただし、策士、策に溺れるとはよくいったもので、最後の詰めが甘かった。

梨華は結局、来ていなかったのである。
もちろんひとみによる抗議もむなしく梨華はとうとう来なかったし、
結局のところひとみは働かされた。
持病の状態がよくないのか、同じクラスの藤本によれば、
ここのところ学校を休むことも多いという。
この日も梨華は通院のため欠席、という話だった。
508 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:02
落胆したひとみを励ますように保田は陣頭指揮を取り、発破をかけた。
保田の手際よい人員配置と下知により、作業はシステマテイックに進行した。
主に机などの運搬を担当するひとみら「男前部隊」に対し、
藤本らは箒で床を掃いたり、雑巾掛けをしたりと甲斐甲斐しく働く「おとめ部隊。」
梨華のいない怒りを作業にぶつけるひとみの獅子奮迅の働きにより、
掃除は予想外に早く終わった。

何も置かれていない部室は案外広く、また念入りに雑巾掛けを行ったためか、
清潔感さえ漂う出来にひとみらは目を細めた。
仮の住まいにはもったいないほど快適な空間に仕上がっていた。
「これならいつでも画材を置いて写生に出かけられるわね」
保田の言葉に一同静かにうなずいて同意を示した。

さすがに部員全員がこの部屋に篭って作業するゆとりはない。
災い転じて福となす…ではないけれども、
この機会に自然光のもとで風景なり建物なりの写生を行うことを保田は提案していた。
「よし、後は錠前を買ってきて取り付ければ明日から稼動開始ね」
「今日はじゃあ、これでおしまいですか?」
疲れ切った顔で下級生の一人が尋ねると
保田は「うん…」と首を傾げてからみなの顔を見回した。
509 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:03
「錠前を買いにいくついでに甘いものでも食べに行かない?
みんなが頑張ってくれたから、まだ時間あるし」
「行きます!駅前のコージーコーナーでケーキ、ね?」
「それもいいけどさ。三丁目のカフェ・アヤヤで午後ティーってのはどう?」
保田は労う意味もあってか、妙に機嫌良く宣言した。
「賛成!」
「よし、じゃ決まり」

そう言って早速、商店街に向けて歩き出す保田に生徒たちは従って行く。
ひとみもすぐに追いかけて保田に並んだ。
「意外に早く終わったね。明日から早速、描き始めるかな」
「よっすぃが頑張ってくれたからね、ありがと。それにしても――」
保田はその鋭角的な輪郭の顔いっぱいに笑みをたたえてひとみを見上げる。
「――えらく気合入ってんね。よっすぃらしくないじゃん?」

いたずらそうに目尻を下げて微笑む表情からは別段、
からかうような意図も見うけられない。
こういう失礼な物言いにはすでに慣れている。
「家にいると妹がうるさくってさ。それより――」
ひとみは特に気にする風でもなく、
先輩でありながらどこか少年のような中性的な容貌を残す保田の頭をくりくりと撫でた。
510 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:03
「――カフェ・アヤヤまでいくんだったら、ギャラリー飯田に寄りたいな」
「あそこ最近、絵を入れ換えたんだって?」
「うん。梨華ちゃんの絵が展示されてる」
保田は目を見開いた。
「あの石川の?」
「そう。"Die Grenzen"っていう赤を基調にした抽象画だよ」

「あの子、抽象絵画なんて描くんだ」
「普段は具象画みたいだけどね。あ、そういえば他にどんなの描いてるのか聞いてなかったな
…圭織に聞いてみよ」
ふーん、と保田は考え込むような物腰で、それっきり黙り込んだ。

ひとみはそんな保田にあえて話しかけることはせず、
後ろを向いては藤本相手に軽口を叩いてみたりとせわしない。
藤本は梨華との関係について尋ね、ひとしきりひとみを嫌がらせたので
一同は大いに沸いてさらにひとみをからって道中の慰みとした。
511 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:03
カフェ・アヤヤのアフタヌーン・ティーは申し分なかった。
藤本の新作にかける情熱だとか、学園に刑事が訪れるが放火犯の目処が着いたみたいだ
といった話題に華を咲かせているうちに二時間ほどがあっという間に過ぎた。
喋りたらずに雑談を続ける者を残し、ひとみは保田とともに店を後にした。

二人の行き先はもちろんギャラリー飯田だ。
藤本にも声をかけたのだが、次に行くときは自分の絵が展示されるときだ、
と啖呵を切った手前、本人も引けなくなったのだろう。
それをまた後輩たちが囃し立てたので藤本の名誉を重んじて置いてきた次第。

保田はギャラリーの一番目立つ場所に設置されている梨華の絵を一瞥して
「うーん」と唸り、目を細めて遠目からじっくりと観察した。
やがて一人合点したように何度もゆっくりうなずくと、
さらに作品に近づいて慈しむようにその筆致を視線でなぞった。
512 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:04
どれくらいの時間そうしていたのか定かではない。
ひとみもまた二度目でありながら、
その不思議な迫力を秘めた梨華の作品に魅入られていた。
「悲しみと怒りの混在した理不尽なエネルギーの凝縮」
ふいに保田が作品の印象について語り出した、と思ってそちらを見やると、
どうやら保田は目を閉じて静かに瞑想している風であった。

おそらく作品の語りかけてきた言葉を頭の中で反芻し、
観念の世界に入り込むことで作品そのものと対峠しているのだろう。
保田の鋭い観察眼にはひとみもひとかたならぬ敬意を抱いていた。
「触れれば今にも血を噴き出しそうな…怒り?それとも――」
ひとみには段々と保田が作品という人格を前に精神鑑定でも始めたように思えてきた。
「――この燃えるような赤は…炎、炎なの?」

炎、ということであれば、藤本が次に描くと言っていた題材だ。
だが、ひとみにはこの絵がたしかに赤くはあるが
とても炎を直接的に描いたようには思えなかったのだ。
だとすれば保田はこの絵に一体、何を見ているのだろう?
ひとみはなんだか保田が物質を見ることで、
それに触れた人の記憶まで透視するというサイコメトラーのようだと思った。
513 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:05
保田が梨華の記憶を垣間見ているのであれば、
たとえそれが保田という人格において形成された観念の中で結像された映像であれ、
その内容について知りたいという欲求に駆られた。
大体、ひとみは梨華の過去、いや現在についてさえほとんど知らないに等しい。
作品を鑑賞する上で必ずしも創作者についての背景知識が必要だとは思っていない。
むしろ逆にそれが鑑賞眼を曇らすことさえあるだろう。

だが、ある種の作品と向き合ったとき、
そう、たとえばそれが作者の個人的な内奥の吐露であったとき、
作者がどのような状況にあってその絵を描かざるを得なかったかを知ることは、
より深く作品を理解することにつながる可能性をひとみは否定できない。
その意味で保田が梨華について何かを知っているならば、
むしろその背景について知りたかった。

「圭ちゃん?」
ひとみが尋ねると保田はゆっくりと目を開いて「よっすぃ」と答えた。
視線は相変わらず作品の上に置かれたままだ。
「大事なことを思い出したの…」
「圭ちゃん?あ、圭織、丁度よかった――」
奥から出てきたオーナーの圭織は大きな目を瞬かせて保田とひとみを交互に見つめた。
514 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:05
「行かなきゃ…」
圭織の存在に気付いていないのか、保田はそう言い残すと、
まるで何かに憑かれているかのように、すぅっとひとみの横を通りぬけていった。
「まったくもう…」
「どうしたの?明るい間に来るなんて珍しいじゃない」
「うん。新しい部室の掃除が早く終わってさ」

圭織は「ふうん」と気のない返事をよこすと出入口の方を見やって尋ねた。
「で、今の人誰?」
「はっ?圭ちゃんじゃん、圭織、年いってボケた?」
「知らないわよ。圭ちゃんじゃないよ。あんたこそ白昼夢でも見てたんじゃないの?
あんな人知らない」
「ええっ!」

ひとみはわけがわからなくなった。
今、さっきそこにいたのは確かに保田だ。保田圭だ。
だが、保田を発見し、世に出した圭織は違うと主張している。
これは何だ?ひとみはわけがわからなくなった。
いや、少し横顔をちらっと見ただけだから、見間違いということもありうる――
515 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:05
「見間違いじゃないわよ。圭ちゃんはもっと背が高いもの。
あの人、随分とちっちゃかったじゃない」
相手にそう出られてはいたしかたない。
とはいえ、ハイ、そうですかとすぐに割り切れるものではない。
「じゃあ誰、誰なんだよ?一体、誰なのさ?」
「よっすぃ、ちょっと落ち着いて――」

「これが落ち着いてられるかよ!圭ちゃ――あの女ははっきり紹介したんだよ、
自分のこと『OGの保田圭です』って」
「――でも、あの人が圭ちゃんであるはずはないの…
だって私は圭ちゃんの描くところをこの目で見てるんだから…」
「わたしだって見てるよ、圭ちゃんの一筆描き…
あの落書きみたいでそれでいて味わいのある絵が圭ちゃんのものでないはずは…」

「ちょっと待って…ストックがあるはずだから」
そう言い置いて圭織は早足で奥へと戻っていった。
ひとみは例え様のない不安に押し潰されそうになりながら、
ただひたすら圭織が再び現れるのを待ちつづけた。
バタバタと騒がしい足音を立てて、圭織はすぐに戻ってきた。
516 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:06
「あったよ、ローマ賞取った作品の習作!」
「どれ見せて!」
ひとみは乗り出すようにして圭織が広げた真・保田圭作とされる習作を凝視した。
子供のいたずら書きのような輪郭の犬と思しき対象が
広い紙面の真ん中にちょこんと描かれている。

「むーん…迷うな…たしかにこんな描線ではあった…けど…」
ひとみは、記憶を手繰りながら目の前の作品と照合した。
一度、部員同士でふざけあって人物画を描き合ったことがある。
そのとき、たまたま来ていた保田――と名乗る人物――
にひとみは自分のデッサンを描いてもらった。

世界的に有名な画家の筆使いを盗んでやろうと、
ひとみは張り切ってその筆捌きに見入っていた記憶がある。
彼女の筆の運び方…どうだっただろう?

ひとみは集中した。
デッサン用の鉛筆を握る彼女の指、
小柄な彼女が大きな画帳を広げて眉根を寄せて自分を見つめる表情。
息を止めてその一挙一動をじっと開けたままで乾いた瞳を見開いて観察したあのとき。
果たして彼女が描いていたのは…
517 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:06
「違う!」
ひとみは突然叫んだ。
思い出した。彼女の絵は一筆で描いたものではなかった。
線描とはいいながら、デッサンの際、彼女の握った鉛筆は何度か上下、左右を往復した。
対するに今、目の前にのっぺりとした間抜けそうな面を晒している犬もどきの描線は
しっかりと迷いなく、一回の筆の運びにより描かれたものだ。

「違うよ、圭織。少なくともあの人は世界的に有名な『保田圭』じゃない」
圭織は微妙な感情をうまくあらわすことができず、
引きつったような奇妙な笑顔を浮かべて困惑した様子を隠さなかった。
あの人物が保田でないことは今やはっきりした。

だが、そうであれば今までひとみが「保田圭」と信じて疑わなかったあの人は誰なのか?
現実の不条理に対してこれ以上、考え込むと頭が破裂してしまいそうだ…
と脳が判断したに違いない。
ひとみは急にどっと疲れを覚えるとともに眠気を催した。
518 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:06
「まったく、どういうことなの?圭ちゃんはもっと目がギラギラしてて、
狙った獲物は逃がさない、って感じの鋭い目つきで――
いや、狙った男はことこどく逃してるらしいんだけど。ねえ、聞いてんの?」
圭織の叱責にもひとみはまともに反応できそうになかった。
とにかく脳が考えるという行為を拒否している。

「圭織…寝かせて」
そう言うのがやっとで、ひとみはバサッ、と圭織に覆い被さった。
「ちょ、ちょっと…」
背丈は圭織の方が少しだけ高いのだが、
ずっしりと圧し掛かるひとみの体躯は自分よりも相当に重く感じられる。

「もぉお…」
ひとみには悪いが、細身の圭織にはこのずっしりとした肉塊の感触がひどく許しがたく感じられた。
「ちょっとはダイエットしなさいよね…」
本人に聞こえよがしにつぶやいてみるが、ひとみは一向に目を覚ましそうにない。
519 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:07
「もう…」
圭織は仕方なく、ひとみを抱えて引き摺りながら奥の部屋へと運んでいく。
「本当に重いんだから!」
泣きそうな顔で叫ぶが、ひとみはだらんと腕を伸ばしたまま、
その全体重を圭織に預けたままだ。
圭織はまるで人生の重みを抱えたまま底なしの泥沼に嵌ったような感覚に陥った。
軽く揺すって起こそうと試みる。

 ………
  ………

人生の重みはずっしりと腕に沈み込み、簡単には降ろせそうになかった。

520 名前:  投稿日:2004/01/27(火) 23:07
Atto V
Dove andaro il vero?>>503-519

521 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/28(水) 00:02
意外と言うか、意表を突かれたと言うか…
今後の展開が楽しみです。
522 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/06(金) 13:00
初めて読みました。
息をのむ展開に、目が話させなくなっています。
お体にお気をつけて頑張って下さい。
523 名前:名無し読者α 投稿日:2004/02/07(土) 21:17
これからどうなってゆくのか楽しみです。
524 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/17(火) 20:21
この作品を発見して一気に読んでしまいました
面白いですね
散在していた点が徐々に線と結びついてきて目が離せません
これからも頑張って下さい 楽しみにしています
525 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/02(火) 15:06
作者さん元気でいらっしゃしますか?
526 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:48

Notte e giorno faticar, per chi nulla sa grader
夜も昼も、満ち足りることなき主人のために駆けずり回り

527 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:49


神奈川県西部S市のK大学病院。
その内科や小児科などの一般外来とは入り口の異なる
やや奥まった位置に精神科診察室がある。

梨華は診察室に面した廊下の長椅子にひとり座っていた。
母の診察が終わるのを待っている。
暖房のよく効いた院内の暖かさについ、うとうとしてしまい
手に持っていた文庫本を落としそうになる。

すでに外来患者の診察受付は午前中で終了しており、
廊下で診察を待つ患者や付添う近親者の数も多くはなかった。
西に面した廊下の窓からは午後の日差しが差し込んでまぶしい。
梨華は落としかけて閉じてしまった文庫本のページをめくって、
読んでいた箇所を探そうとした。

「いしかわ…」
梨華は聞き覚えのある声に振り向いた。
その声は…

懐かしさに思わず顔がほころぶ。
予想通り、そこには見知った顔があった。
「お久しぶりです」

本当に。
梨華は随分と久しぶりに会うような気がしたが、冷静に考えてみれば、
前回、ここで会ってから、それほど時間が立っているわけでもない。
一年には満たないだろう、と思っていると「一年振りね」と向こうから口にした。
528 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:49
「そんなになりますかね?」と首を傾げる梨華に
相手は「そうよ。ご無沙汰じゃない」と大きな目を細めて言う。
「お母さんは?」
「診察中です」
「そう。あの……」

相手は何か話を切り出そうとして言い淀んだ。
どうにもこの人らしくない煮え切らない態度に梨華は苦笑しつつ
「どうしたんですか?」とつい尋ねてしまう。
「石川はまだくすり、飲んでるの?」
梨華は、えっ?という感じで一瞬、鼻白んだが、
すぐ何事もなかったように「いえ」と短く答えた。

「今は母の分しかお薬はいただいてません。私のほうは大分、落ち着いたので…」
「そう、それはよかった」相手はそれを聞いて心底安堵した
とでもいうように、今日、会ってから初めてその表情を緩めた。
一体、この人は何をそれほど心配していたのだろう。
梨華はなんだか急にそのきまじめさが愛しく感じられるとともに、
どこかおかしくて自然に笑みをこぼした。

「保田さん…でいいんですよね?」
「こっちが本物だからね」
「よかった…じゃ紗耶香さんはまだ…?」
「『保田圭』を名乗って暮らしてるわよ」
529 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:50
保田は苦笑した。
梨華としては曖昧な笑みを浮かべざるを得ない。
最初に二人の『保田圭』から挨拶されたときは、ギョッとしたものだ。
話は複雑だった。

妹の「紗耶香」の方が外界反転性受容症候群とかなんとかいう
非常に珍しいタイプの統合失調症の事例だという。
自己の同一性を保つための方便として姉である「保田」になり切ること。
唯一、社会生活を平穏に送るために有効と診断された結果の行為であった。

当時、まだ駆け出しの巡査であった保田は妹の紗耶香のために忙しい中、
暇を見ては顔を出していた。
紗耶香がどうしてあのような症状を引き起こすまで自分を追い詰めていったのか
梨華は詳しい話を聞いてはいない。

だが狂気の淵に身を沈めてしまった紗耶香はともかく、
少なくない入院費を支払うために警察官として働きながら、
通院して紗耶香を支える保田の心労は図り知れないほど大きかったに違いない。

自らも精神を病んだ母との生活で疲弊していた梨華にとって、
ある意味似たような境遇にある保田に対して親近感を覚えたとしても
不思議でなかった。
530 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:50
最初のうち、互いのプライバシーを配慮してか、
患者の症状や家庭の環境について腫れ物に触れるような態度で接していた二人。
だが、年が近く若かったせいもあるだろうか。
二人は次第に打ち解けていった。

保田が現代美術の世界で時代の寵児として脚光を浴びていたことも直に判明した。
だが、美大への推薦入学が決まっていたにも関わらず、
保田は就職し、家計を支える道を選んだ。
代わりに『保田圭』の名で進学したのが妹の紗耶香である。
世間的には『保田圭』は順調に美術界の頂点を目指して
坂道を駆けあがっているように見えた。

「不思議ですね」
「ん?」
「紗耶香さんにもともと才能があったとはいえ、まったく疑われることなく、
作品は同一人物の手になるものとして人格の連続性を肯定されているんですから」
「あの子の方が才能はあったのよ。ただ、過信してしまったんだと思う」
梨華の言葉に保田は遠い目をして答えた。

実際に保田の言う通り、紗耶香の絵には同じ線描の手法を用いながら
どこか儚い印象が拭えなかった。
同じ美の道を志すものとして、そして常に自己という存在を見つめ、
世界と対置してきたことで育まれた梨華の感受性は
保田と紗耶香の違いを克明に感じとっていた。
531 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:50
ただ、梨華には保田のいう紗耶香の「過信」が何を意味しているのか、
そこまではわからなかったし、また敢えて聞くこともなかった。
だが、今日は保田自ら話そうとしている。
「あの子がまだ中学生だったときかな。パリへの留学の話が出たの」
梨華は黙ってうなずきながら先を促す。
そこまでは以前にも聞いていたような気がする。

「もちろん才能がある、って言ったって、中学生だし、
学校では一番うまいという程度だから、外から声がかかるレベルじゃない。
けど紗耶香には自信があったのね」
自信家の尊大なイメージは今の紗耶香…『保田圭』を演じている今の紗耶香にはない。
美大への進学を考えて芸術コースのある高校への進学を進めたけど、
いきなりパリに行くって」

保田は思い出すとつらいのか、顔を伏せて床をじっと見つめている。
暗みがかった灰色とくすんだ青っぽい灰色の正方形が
格子状に並んで一松模様をなしている。
梨華はただひたすら正方形を数えてすごした去年の今頃を思い出した。

たしか482個…

数字までしっかり覚えているのは数えた回数が半端ではなかったことを示している。
だが、その記憶は曖昧で、すでに風化しつつある。
現実の比重が高まるにつれて過去は記憶の隅に追いやられ
そしてやがては風化して消えていく。
532 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:50
梨華はふと思った。
保田もこの正方形を数えたことがあったのだろうか?
尋ねれば即座に正確な数値が帰ってきそうに思え、
今すぐ質問したい誘惑に駆られたが必死で思いとどめた。

保田が口を開く。
「ごめんね。こんな話つまんないよね」
「そんなことないです。でも紗耶香さんのこと聞くのは…ちょっとつらいです」
「そうね…ごめん」

そう言って保田は急に表情を緩め「そういえばさ」と話題を換えようとした。
「ハイ」
梨華にはその気持ちが痛いようにわかる。
つられて無理矢理口の端をつり上げて笑顔をつくった。
「どうしたんですか?」
「うん…あのね…」

屈託ない梨華の笑顔を前にしてもまだ、保田は言いあぐねている。
さすがにおかしいと感じて梨華は尋ねた。
「どうしたんですか?」
「うん…石川さ、学校戻れたんだね。おめでとう」
「ありがとうございます……」
だが、わざわざ祝いの言葉を与えるためだけに来られるほど保田も暇ではあるまい。
「お祝いを言いに来てくれた…ってわけじゃなさそうですよね?」

梨華の質問に保田は深くうなずいて認めた。
「同級生に後藤って子がいるでしょ?」
梨華は少し考えて「同じクラスじゃないですけど、後藤っていう子ならいたと思いますよ」
「後藤真希ね」
「ええ、たしかそんな名前です」
533 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:51
梨華の怪訝そうな表情を見て保田は「ああ」と投げやりに応え
続けて「そんなたいしたことじゃないんだけど」と取り繕うようにつけ加えた。
「後藤ってどんな子?」
梨華は首を傾げて考えながら「うーん、あんまりよく知らないんですよね」
と申し訳なさそうに応える。
保田は予想していたのか「そう」と短くつぶやき、
さして落胆した様子もなく「でさ」と続けた。

「紗耶香の症状、覚えてる?」
「えっと、『保田さん』になる前のですよね?ええ、もちろん」
梨華は戸惑いを表情に浮かべつつ保田の問いに応じた。母親の症状が悪化して梨華の手に余り、
一時期、梨華までが入院を余儀なくされていた時期がある。

入院していた期間自体はそれほど長くはない。
だが、母親の症状悪化に伴う心身の疲労は激しく、
結局、一年間、学校を休む結果となってしまった。
精神疾患に苦しむ母親との生活による目に見えない精神的肉体的な疲労の蓄積。
心身ともに衰弱した梨華の様子を見かねた医師の忠告による入院であった。
そのため、退院間際の比較的症状の安定した患者と相部屋になった。
そのときのことを保田は尋ねている。
534 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:51
病を克服して一般社会への復帰を図るためのリハビリと考えればよいだろうか。
紗耶香は退院を間近に控えており、梨華と同じ病室に入れられていた。
「最初はびっくりしました。くすりを服用している間はまとも――
――ごめんなさい、正常な判断ができるのに、効果が切れると…」
梨華は口篭もった。

「いいのよ」
保田は力なく視線を落としている。
当時のことを思い出すだけで憂鬱になるのかもしれない。
精神疾患は伝播する。間違いなく。それは梨華が身をもって体験していた。
「ひどかったなぁ。地獄だよね。
こっちが良かれと思って、それも慎重に選んでかけた言葉が
あの子の脳内ではことごとく罵倒に変換されてるっていうんだから」
力のない笑顔は時間が経った今も到底、冗談では済ますことができないほどの
ダメージを保田に与えたことを示している。梨華はそう感じた。
535 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:51
「私もびっくりしました。初対面でいきなり
『あんたもわたしのことバカにしてんの!』って凄まれて」
梨華の言葉にうなずく保田の表情はやはりすぐれない。
「珍しい症状だって、先生も仰ってました。
普通、妄想とか幻聴は自分のいないところで言われてるんじゃないか、
っていう不安から進展していくらしいんですけど――」
「紗耶香の場合は、最初から猜疑心のフィルタがかかってたからね」
「ええ。私、もうひたすら『すみません』って謝ってました」

ふふっ、と声を立てて保田が笑った。
梨華の平身低頭して謝る様子がおかしい、と後に聞かされたもののピンとこなかった。
自分がどれだけ滑稽に見えるか気遣う余裕もないほど紗耶香は荒くれていたのだから。
「くすりもまだいいやつが認可されてなかったしね」
「ええ、メジャー系のおくすりはどうしてもいろんな副作用がありましたからね。
体調悪くなると、気分的にもよくないでしょうし」
536 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:51
苦い思い出だった。
梨華は母が頻繁に手が震えるなどのパーキンソン症状に悩まされていたことを思い出した。
欧米ではもっといい薬が流通している、
と医師から聞かされるたびに日本の行政を怨んだものだ。
副作用を大幅に軽減したジプレクサなどのすくりが認可されたのは、
それからしばらく経ってからのことだ。

「オランザピンには互いに助けられたわね」
「ええ。イイライリリーさまさまですね。向こうの製薬会社の底力ってやっぱり凄いです」
「うん。日本の製薬業者なんて火の車だからね。大学の偉い先生の言うとおり動いた挙句
HIVウィルスをばら撒いちゃうんだから程度が低いにもほどがある」
梨華は保田らしくない皮肉のこもった響きに違和感を覚えた。
単なる嫌味、に留まらず憎しみさえ込められたように感じられるその口調に
梨華は言葉を継げずにいる。

「あのミドリ十字って会社の社長、あんたの同級生のお父さん」
唐突に言葉を投げて梨華の反応を見るのは変わらない、保田の癖だった。
「あの後藤さんがですか…」
「おおっぴらに言う人はいないだろうけどね。あの学校には大分、寄付もしているみたいだし」
537 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:51
梨華は口を噤んだまま考えた。
たしかに後藤という生徒がまるで腫れ物に触れるかのように扱われていることには気づいていた。
だが、そんな背景があったとは今の今まで、気づかなかった。
いや、気づけるはずはないのだ。
そんなことを梨華に告げる友人など誰もいないのだから。
いやそうではない、梨華は思い返した。
告げることの出来た可能性のある一人を除いては…

「まだ報道もされてないから知らないだろうけど、これから大変だよ」
「どうしてですか?」
「HIV、つまりエイズウィルスに感染した血友病患者がいよいよ実名でマスコミの前に出るからね。
当事者がメディアで語りだしたら、ただじゃ済まないだろうね」
「よくわかんないんですけど…まずいんですか?その、ミドリ十字は?」
「血友病患者のHIV感染被害者が団結して訴訟の準備を進めてるからね。
あんただって、非加熱製剤を投与された血友病の患者さんたちが連中の不手際で
ウィルスに感染させられたこと知ってるでしょ?
国と企業、それから大学の責任はとことん追求されるわよ」
投げやりに言ってのける保田の態度は憎悪に充ちていた。だが、なぜ?
梨華は返答に窮した。
538 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:52
「保田さんは…どうして、そう…えっと、詳しい、んですか?」
躊躇いがちに尋ねる梨華の瞳を保田はきっ、と見据えた。
「いろいろ汚い工作してるからね。たまたま覚醒剤・麻薬ルートの捜査なんかに
関わっちゃったから、知ってしまったけど、あいつら本当にえげつないんだから」
梨華はさらに詳しく聞いてみたい誘惑に駆られつつも、これ以上、
刺激して激昂されてもかなわないと考えて、当り障りのない話題に切り替えようと
必死で頭を働かせた。

「え、えっと…で、さ、紗耶香さんの経過は順調ですか?」
「ん?」保田は一瞬、何のことだとばかりに大きく目を見開いたが、
すぐに「ああ」と声をあげて続けた。
「もう、元気よ。こないだも何か美術部の生徒連れて喫茶店行ったって自慢してた」
「美術部の生徒というと…?」
梨華は胸騒ぎを覚えた。まさか、そんなことは…
「そのまさかでさ」
保田は梨華の考えることなどお見通しだと言わんばかりに、
にやりと笑みを浮かべながら続けた。
539 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:52
「石川んとこの美術部らしいよ。わたしは石川も入ってたのかと思ったけど、
いない、って言うからさ。その代わりカオリのギャラリーであんたの絵、見たって」
「ええっ?あれ、見られちゃったんですか?恥ずかしいなあ」
「誉めてたよ、すげー、って。あれ見てからまた創作意欲湧いたらしくてさ。
いい傾向なんだけど、あんたさ…」
「はい?」

保田の大きな瞳がじっと自分を見つめている。
そう思うともう梨華は落ち着かない。
「あんまり学校に溶け込んでないの?」
「えっ?いや、そんなことは…」
つい節目がちに視線を落としてしまったことで、保田に何か勘ぐられてしまっただろうか。
梨華自身、学校生活にはそこそこ順応していると自負しているのだが、
保田にそう詰め寄られては、なかなか自信をもって言い切ることも憚られる。

「もっと美術部とか参加したら?おもしろそうな生徒がいるって言ってたよ」
きっと吉澤ひとみのことだろうと梨華は考えたが、あえて名前を出すことはしなかった。
その「おもしろそうな生徒」のために部活動を敬遠しがちであることを説明するのは
どうにも難しく思われた。
540 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:52
なんとかその話題から離れたい一心で、梨華は唐突に切り出した。
「保田さんは、その…まだ絵は描いてるんですか?」
「ん?もう全然。時間もないしね」
「もったいないじゃないですか。あんなすごい才能が――」
「石川!」
突然、語気を鋭くして会話を遮った保田の剣幕に梨華は驚いた。
「や、保田さん――」
「――ご、ごめん。びっくりさせちゃって…」
保田は自分自身の行為に戸惑っているかのように、うつむいてしばし押し黙った。

「ごめんなさい。何か失礼なこと言っちゃったみたいで…」
自分のせいで保田を怒らせたと見た梨華はとりあえず場を収めるために謝ることにした。
「ごめんね…あんたのせいじゃないの。ただ、今はあの子が『保田圭』だから」
「じゃあ、紗耶香さんは本当に保田さんの名前に馴染んで…」
保田は苦しそうな表情を浮かべて、こくりとうなずいた。
梨華は驚きを隠せない。
「本当にそうするとは思っても見ませんでした…でも、ずっとそのままの状態を続けられるんですか?」
梨華の問いに保田はやはり苦しげに答えた。
541 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:52
「わからない。でも今はあの子には『保田圭』としての生活が必要なの。それだけはたしかなの」
梨華は深刻な表情を浮かべてうなずいた。
保田の言葉に嘘はないようだ。
にわかには信じ難い話だが、心に傷を抱えている人間が想像もつかないような行為に出て、
それがまた一見して普通に見えてしまうことが確かにある。

実際、梨華の母親も誰かと電話をしていると思って何気なく聞いていたら
どうやら相手が父らしいと気付いて背筋が凍りついた覚えがある。
紗耶香が心にどんな闇を抱えているのかはわからないが、
『保田圭』という鎧をまとわなければ自分の内なる世界から外へと足を踏み出せないのならまとえばよい。
奇妙だとか気色悪いとか感じる以前に、梨華自身が自らをさらに忌まわしい存在と捉えているために
共感こそ呼びさえすれ、紗耶香のような者の存在を蔑むことができるはずもなかった。

「石川はわかってくれるのね」
「はい。そういうことがあることは容易に想像がつきます」
梨華の言葉に意を強くしたのか保田の目が生気を取り戻した。
「石川、悪いんだけどさ、今度つきあってくんない?」
「何にですか?」
542 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:52
やや不安そうに尋ね返す梨華に保田は慌てて手を振って怪しいことではないと否定する。
「そんな変なことじゃないって。後藤って子のこと…うんん、それより中澤っていう擁護教諭ね」
「中澤先生が何か…?」
不安げな影が梨華の表情によぎる。
中澤は梨華が学園で信頼を寄せる数少ない理解者の一人だ。
その中澤に何か後ろ暗い影があるなどと考えたくはなかった。
「いや、別に問題があるわけじゃなくて…
その中澤先生と後藤って子がどういう関係にあるのか知りたいだけなの」
「後藤さん…?」

梨華は首を傾げるようにしてしばし考え込んだ。
そういえば保険室に梨華が向かうと入れ違うようにして真希が出てくる姿を何度か見かけたような気はする。
そのときは単に後藤もやはり自分のように何か持病のようなものを抱えていて
頻繁に保険室を訪れなければならない体質なのだろうといった漠然とした印象を抱いただけだった。
だが、考えと見ると真希が保険室に出入りしているのはいつも授業と授業の合間の短い休み時間であって、
治療を受けたり、休んだりした形跡はなかったように思う。
少なくとも梨華が保険室を訪れたときに真希が寝ていたことはなかった。
543 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:53
「何か…あるんですか?」
「い、いや、単なる裏づけ捜査っていうか、あれよ。例の放火犯。
別に後藤って子や中澤先生を疑っているわけじゃないんだけど、
その中澤先生っていう人が気になる証言を残しているものだから…」
「気になる証言って何ですか?」
梨華は別に何か特別な答えを期待したわけではない。
ただ、なんとなく。相槌のようなつもりで。
それだけに保田の答えた内容は余計に梨華を傷つけた。

「あんたを見たって言ったのよ」
保田の顔から表情が消えた。
「知らなかったの?」
「……」
「出火する前にあんたが美術室から出てくるのを見たって」
口を開こうとする。
だが、言葉にならなかった。

自分が疑われている?
それも信頼していたはずの中澤の証言によって。
梨華の心はいたく傷ついた。
「放火の方は結局、吉澤って子の捨てたタバコの残り火が原因ってことで、
学校側がそれ以上の捜査を望まなかったせいもあって、捜査は中止。
あんたはそれで命拾いしたんだよ」
544 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:53
梨華は愕然とした。
単なる噂に過ぎないと思っていたが、まさか自分が本当に警察に疑われていたとは。
ひとみの機転がなければ今頃は容疑者として取り調べを受けていただろう。
その過程で梨華が精神科医に通っていたことが露見すれば…
考えるだに恐ろしかった。

禁治産者として実刑は免れるかもしれない。
だが、そんなことになれば二度と学園の生活に戻ることは許されないだろう。
梨華が想像していた以上に事態は深刻だったのだ。
今更ながらひとみへの感謝の念を新たにするとともに
梨華は自分を放火犯と印象づけかねない中澤の証言に戸惑った。
そもそも美術部に文書を配布するよう自分に命じたのは中澤ではなかったか。
梨華の中で中澤に対する疑惑が黒雲のようにむくむくと沸いて頭をもたげ始めた。

「保田さんも…私を疑っているんですか?」
梨華の言葉に保田は鋭いまなざしを返し「まさか」と短く応えた。
だが、すぐにうつむいて視線を落し、
ぼそりとつぶやくように漏らした答えは梨華の心を一瞬にして凍りつかせるに十分であった。
「ただ、またお母さんの症状が悪化したのならば…と考えなかったと言えば嘘になるかな」
545 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:53
「保田さんまで…でも信じてください。私はやってません」
「あはは、何言ってんのよ。今のあんたの状態見て疑う気なんてさらさらないわよ。
ただ、入院してたときの姿が印象に残ってたから…」
「私、そんなに疲れ切ったような感じでした?」
「うん。なんか人生に疲れ切った、って顔してたわね。
傍から見てるとお母さんの方がむしろ元気であんたが患者かと思う始末で」
「ええっ、ひどいですね。ま、でも、あのときは本当に疲れ切ってましたから。それにしても…」
梨華は胃の辺りに重くのしかかるような痛みを感じた。

中澤は一体、何のためにそんな茶番を…
「うん。中澤という教員にはやはり何かある。そして後藤とのつながり…」
「保田さん…?」
「ん?」
梨華は決意した。
「私、協力します。中澤先生と後藤さんのこと調べるの」
保田の片頬がピクッ、と震えたように反応した。
「危険だわ。一般人、それも未成年にそんなこと警察の立場で依頼できるもんじゃないわね」
「じゃあ、個人的な立場で。友人である保田さんのために私は調べます」
「石川…」
保田は顔を伏せて思い悩む素振りを見せた。
546 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:53
危険なのか?
放火がもし中澤の仕業ならばかなり危険な賭けになるかもしれない。
負ければ恐らくすべてを失うほどに過酷な賭け。
だが、保田がどう言おうとすでに梨華の心は決まっている。
自分をはめようとした中澤。その真意を探らずにいられるほど梨華はお人好しではないつもりだった。
許さない…との強い思いに突き動かされている自分に気付き梨華は意外に思った。

強くなった。強くなれた。
きっとそれはおそらく…一人じゃないからだ。
梨華は保田の答えを待つ。その瞳に堅固な意志を宿し、その言葉を待つ。
やがて保田は苦渋の決断を迫られた中間管理職のような渋面を上げて梨華の瞳を見つめた。
「危険よ。だから危ないまねはしないで。絶対に当人たちには気付かれないように慎重に」
「わかってますよ。で、保田さんが本当に知りたいのは何なんです?
中澤先生と後藤さんの関係なんて漠然とした内容じゃないんでしょう?」

保田は梨華の変わり様に目を見張った。
驚くべき変化だ。
保田の知っている梨華はもっと弱々しく、女々しく、
支えていなければふらふらと飛んでいってしまいそうな儚い雰囲気を漂わせる女の子だった。
547 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:53
だが、目の前にいるこの少女の凛とした涼しげなまなざしはどうだろう。
自分をじっと見つめているその瞳はしかし、強い意志の力を宿し、
静かに燃える焔のような淡い光をちらちらと瞬かせている。
「石川…あんた、何があったの?」
「何がですか?」
「強くなったわね……」
「そうですか?」

ニコッ、と微笑む梨華の笑顔は鋭角的に突き出した顎の形状とも相俟って、
随分と精悍な印象を与えた。
保田には心なしか肌の色がまたさらに黒さを増したようにさえ感じられる。
その印象は戸外で過ごす健康的な時間の使い方を思わせて悪くなかった。
保田はフッ、と息を吐いて目をつむる。
ごまかせない、と思った。

「くすり…が蔓延してるのは知ってる?」
「くすりって…まさか?」
「うん、多分、その想像で間違ってない。今、中高生の間で怪しげなパーティが流行ってるの…」保田は梨華の顔に当惑したような表情が浮かんだのを見て言い直した。
「あっ、あんたはあまりそういうの詳しそうじゃないけど…とにかく流行っててね」
「そういうパーティの場で使う子がいるんですか?」
548 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:54
梨華の方は頓着した様子もない。
話の趣旨は理解したらしく、眉間に皺を寄せて真剣な面持ちで尋ねてくる。
保田は意味ありげに深々とうなずいた。
「MDSAとかタブレットタイプのものが増えてるから服用するのに抵抗ないみたい。
注射したり鼻から吸引だと見るからに怪しいし、格好悪い。
大麻やガンジャみたいにタバコみたいに煙で吸うのも不健康っぽい。
最近はタバコ吸わない若者増えてるしね。でも錠剤なら…」
「風邪薬でも飲むように気軽に服用できると…」
「そういうこと。でね」

保田は満足げにうなずくとさらに表情を曇らせる梨華に追い討ちをかけるように告げた。
「その後藤さんが何やら怪しい動きを見せている。だが、あの子の行動パターンからして
学校の外でそーいう怪しげな人と接触している様子はない――あ、あの子のの彼氏はやくざなんだけど、
そのやくざはシロね。後藤からくすりを巻き上げようとしてるくらいだから――つまり後藤は」
「学園内部で調達…その相手が――」
「ご名答」
保田は満面に笑みを浮かべて答えた。
549 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:54
「それをあんたに探ってほしいわけ」
明るさを増す保田の顔とは対照的に梨華の表情はさらに陰りを帯びた。
「大丈夫でしょうか…?」
「危険よ。それに民間人、しかも未成年にこんなこと依頼すること自体、
違法だからあんたはそんなことに巻き込まれるいわれは全然ない」

「でも中澤先生が何か怪しげなことを企んでいるのは確かなんですよね…
悪く取れば私を放火犯に仕立て上げようとしたわけだし」「悪く取らなくても客観的に見て、そうでしょうね」
保田の言葉に梨華はあらためて意を強くしたようだった。
重く圧しかかる不安を払いのけようと自らを鼓舞するように目を見開いて保田の瞳をしっかりと捉えた。

「そうであれば私はもう巻き込まれているんです。これは私の問題です」
「そう?それならば協力は惜しまないけど…覚えておいてね」
保田はいたずっぽく片目をつむって微笑んだ。
「民間人に捜査の情報を漏らすのも違法行為だから。つまり、あんたと私は一連託生ってわけ」
「なんか…悪いことするみたい」
「わたしの場合、違法なのは確かだから」
550 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:54
笑顔を引っ込めて保田は唐突に真剣な表情で懐から手帳を出して何かを書き殴ると
ページを破いて梨華に渡した。
「わたしの連絡先。危ないと思ったらすぐに電話しなさい」
「保田さん…」
「それじゃ。お母さん、早く良くなるといいわね」
そう言って立ちあがると保田は後を振り向かず、まっすぐ歩き去った。

梨華は後ろ姿を見送りながら保田の境遇を考えた。
将来を嘱望されていた天才画家。
ほとばしる才能。
止まるところを知らない独創性。
意志を持った曲線…
保田を賞賛する声は未だに衰えることはない。
『保田圭』を襲名した紗耶香の腕が決して姉に勝るとも劣らないことをそれは示しているのだろうか。

梨華にはわからない。
ただ、昨年入院していたときに受けた印象では、紗耶香の描線には迷いがあった。
保田の名を名乗ることで迷いがふっきれたというのならそれはそれで素晴らしいことなのかもしれない。
梨華には他人の人生を生きる、ということがどういうことなのか想像もできない。
だが、そのために自らの芸術に対する誇りまでも失ってしまったのであればそれは悲しいと思う。
551 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:54
梨華は診察室のドアを眺めた。
まだ母の診察が終わる様子はない。
ここのところまた状態が不安定になってきたようだ。
この間も梨華を自分の母親と間違えてしきりにごめんなさい、ごめんなさい、と謝るので閉口した。
まるで梨華が折檻でもしたみたいに。
そのくせ、次の瞬間にはケロッ、と忘れて今日の夕食は何だっけなどと尋ねてくる。

ボケる年ではあるまいし、長年付き合ってきた神経症となら何とか対処のしようもあるのだろうが、
症状が今までと違うために、どこか不安だった。
父がいない梨華にとって母だけが唯一血の通った肉親である。
その母に何かあれば梨華は天涯孤独の身の上。
精神状態の安定しない母との生活は確かに梨華の精神にも大きな負担を与えてきた。
それでもやはり母は母であり、梨華にとってなくてはならない存在であることだけは確かだった。

「保田さんに…」
梨華は誰にともなくつぶやいた。
「紗耶香さんしか残っていないように…」
視線を落とすとまたしても暗い濃灰色と青みがかった石灰色の格子の連なりがまたしても目に入った。
視線をそのコントラストに沿って這わせるとなんだか眠気を催してくる。
552 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:55
梨華はふと思った。
保田はひょっとして数を数えたことはなかったのではないか。
紗耶香のために仕事以外の自分のすべての時間を捧げていた保田。
その保田に床の模様をじっくりと観察するような余裕はなかったのではないか。
そんな暇があれば寝ていたのではないか。

そう考えると保田が紗耶香の床横で寝ていた姿を何度か見かけたような気もする。
それさえ本当に見たのかどうか定かではない。
梨華は段々考えるのがおっくうになってくるのを感じた。

眠い。
考えるのは後にしよう。
考えなければならないことは山ほどある。
だから今は頭を少しでも休めておかなければ…
梨華は深い沼の底にゆっくりと沈んでいくような感覚に身を任せた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
暗い暗い闇が自分を搦め取って深みへと運んでいく感覚を最後に梨華は眠りに落ちた。
553 名前: 投稿日:2004/03/04(木) 18:56

Atto V
Notte e giorno faticar, per chi nulla sa grader
>>526-552

554 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/08(月) 01:06
なるほど。そうやって繋がってるのか・・・。
555 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:49

Rosa chinensis
庚申薔薇

556 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:50
「吉澤ひとみぃ……」
放課後の美術部仮部室。
ものすごい形相で睨みつける女に対し、ひとみは目を逸らさずに正対した。
剣呑な雰囲気を察してか、部員達が時折送ってくる視線が頬に突き刺さる。

こちらに落ち度はないはず…
考えたところでなぜ、この人がそれほど怒りに震えているのか皆目見当もつかない。

だが、ひとみにそして不思議ではなかった。
なんとなく、こんなことになるのではないかと心のどこかで感じていた。
それがこうして目の前で現実になったことで逆に安堵のような気持ちさえ覚えてしまうから不思議だ。
ひとみは少し視線を落として目の前の人物から目を逸らした。
薄暗い部室の床の上に埃が積もっているのを見つけ、
後で後輩に掃除させなければ、と思った。

もちろん自分で片付けようという気は毛頭ない。
そんなひとみの様子に焦れたのか目の前の相手は
今にも鋭い牙を剥き出しにしてひとみに襲い掛かろうとしている。
呼吸が荒くなってきたのを感じてひとみは不意に視線を戻した。
相手は口を開きかけたところだった。
557 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:50


何か嫌な予感があったのは確かだ。
朝、登校する途上、犬の糞を踏みつけてしまったのが発端だった。
いつもはもう少し遅くに家を出てくるのに、
今日に限って一緒に歩いていた亜依に見られたのも間が悪かった。
まさに「うん」のつき、という落ちで散々、亜依に笑われたのはまだしも我慢できる。
だが、あのぬちゃっ、とした得も言われぬ感触が登校して上履きに履きかえるまで
足の裏につきまとって離れなかったのは耐え難かった。

まだ新鮮だったらしいそれは感触もさることながら、
臭いのほうも亜依の期待を裏切るものではなかったらしい。
中等部の校舎に向かう亜依が名残り惜しそうにひとみを振り返りつつ去る
最後の瞬間まで「くっさぁ!」を連発していった。
とりあえず道路の脇に生えている草などでこすっては見たものの、そこはさすがにできたての逸物。
ねちゃねちゃとした本体はそこそこ取り除いたはずなのに臭いだけは如何ともし難い。
さしものひとみもこれには参った。
まずひとつ、下校するまでの憂鬱の種ができた。
悪いことは重なるもので、ひとみの不運はそれだけに止まらなかった。
558 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:51
宿題を忘れたことに気付いたのは授業が始まるまさに直前だった。
「ああっ!やばい!」
隣の席の生徒が呆れたようにまぜっかえす。
「ええっ?ひとみ、やってこなかったの?せっかくひとみ向けに――」
「ちょっと、ノート貸してよ!ねえったら!」
だがひとみの願いも虚しく、英語の女教師はガラッ、と大きな音を立てて教室に入ってきた。
「鋼鉄の処女」という名誉なのか不名誉なのかわからぬあだ名を
生徒から献呈された三十路手前の独身女性教師は
おもむろに英語の教科書を開くと、開口一番、
「はい、じゃあ宿題の答え合わせからいきまーす。ええっと…」

解答させる生徒をあてるために教室を見回す教師。
その視線をかいくぐるため机に伏せて体を縮めるひとみ。
両者の勝敗は3秒で決した。
「はい、じゃ吉澤ひとみ。Stand up!」
「は、はい。え、ええっと…」
「一番目の例文、英訳してみて」
と言われてもひとみにはどの文を指しているのかすらわからない。
見かねて隣の生徒がノートを差し出してくれた。

『@私に力があればリカを助けられたのに』
559 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:51
「はぁっ?」
ひとみは慌てて口を押さえた。
教師は怪訝な表情を浮かべながらなおも忍耐強くひとみの解答を待ち構えている。
なんだこれ?
過程法…だということはわかる。
だが、この例文。
この固有名詞は何だ?
しかもなんで自分があてられている?

ひとみは問題の難しさ、というよりはその奇怪な状況自体を訝しむあまり、
なかなか構文を頭の仲で組み立てることができなかった。
「吉澤?やってきてなくてもこれくらいあんたならできるでしょ?」
「は、はい…ええっと」
ひとみは慌てて例題の文章に取り組んだ。
とりあえず固有名詞の問題は置いておいて。
「"If I had power, I could help Rika."」
「惜しい」

ちっ、しくじった。時制か…
ひとみは心の中で舌打ちした。
「それは過程法現在。現在の願望でしょ?問題の時制は――」
「仮定法過去完了ですね」
「そう。では――」
「はい、"If I had power, I could have helped Rika."です」
「ご名答。じゃあ次、Aの問題は――」
560 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:52
ふぅっ…
なんとか切り抜けたがヒヤヒヤものだ。
教師は次の問題をひとみの隣の生徒に解答させている。
「次、『たとえ私に力があったとしてもリカは助けられなかったでしょう』
はいこれ『たとえ〜としても』という構文が味噌ね」
「はい、"Even if I had power, I could not have helped Rika."です」
「正解!今日はテンポよく進むわね。この調子でいくわよ!」

女教師は上機嫌でさらに進めた。
「はい、じゃB、『私に金があれば、リカは助けられただろう』」
それにしても…
ひとみはその固有名詞を連発する教師の無神経さに辟易した。
たまたまこのクラスに「リカ」という名前の生徒がいなかったからいいものの、
梨華のクラスであれば大問題だ。
もっとも、クラスによって固有名詞だけすげ換えている可能性もないではないが。
いずれにしてもひとみにとってありがたい例題でないことだけは確かだった。
561 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:52
その影響を引きずってか授業に身は入らず、
梨華のことをぼんやりと考えて過ごしてしまった。
彼女が部室に現れることはあるのだろうか?
病院に通っているとはいうものの、どのような病気を抱えているのか、
それすらもひとみは知らない。
HIVのキャリアなのだ、と心ない陰口を叩くものもいる。
たしかに一見して梨華にいわゆる病人らしい症状は見られない。
それだけに余計いらない詮索をしてしまうのがつらいところだ。

そんな調子で終始ぼんやりとした表情を浮かべて授業の内容はほとんど上の空。
話を聞いていないことを咎めるためだろうか。
教師がつかつかと歩み寄ったことにひとみは気付かなかった。
「吉澤」
ハッ、として見上げたときにはアイアンメイデンと異名を取る女教師の偉容が聳え立っていた。
この教師は背が高い。
「ハイ?」
「吉澤さ……」
おもむろに腰を屈めてひとみの耳許に顔を寄せる教師。
二言三言彼女がささやくとひとみの表情が一瞬にして変わった。
ハトが鉄砲豆をくらったような表情、とでも言えばよいだろうか。
562 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:52
「はぁ?」
ひとみの戸惑いをよそに教師は満面の笑みを浮かべて軽く拳を握り
「ガンバ」とつぶやくように言い捨てると身を翻して悠然と教室を後にした。
まるでいかがわしいものでも見たような目つきで教師の後ろ姿を見送るひとみに隣の生徒が話しかけてくる。
「ねえ、何言ってたの?」
興味津々といった様子でひとみにがっついてくるこの生徒のデリカシーのなさに内心苛つきながら、
それでも誰かに話さずにはおれない気持ち悪さをひとみは感じていた。
「応援してる、って」
「きゃあ、やっぱり!」

想像していた通り、といった風情であたりまえのようにはしゃぐこの生徒の様子に
ひとみはとうとう我慢できずに尋ねた。
「ねえ、あんたたち、いったい――?」
「あの先生ね、『マリみて』のすっごいファンで、同人誌とかも書いてるんだって」
「あぁ?何それ?」
「マリみて知らないの?」
「知らん」
ファーストコンタクト…
二人はひとみにとって未知の領域からの来訪者だった。
それも明らかに怪しげな領域からの。
563 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:52
「今度見てみなよー、おもしろいんだから。でさ…」
「なんとなくわかったから、いいよ。それよりメイデンはオレの何を応援してるって――」
「決まってんじゃない!」
生徒は興奮したようにひとみを遮って告げた。
「あたしたち『ひとみとリカの紅薔薇姉妹を応援する会』結成したのよ!でメイデンは顧問。
っていうか、旗上げした張本人でもあるのさ」
「だから梨華ちゃんとあたしの何を応援するってんだよお…」
ひとみは体の力がへなへなと抜けていくのを感じた。

まったく、こいつらは…
「テレビの見すぎだって…」
「テレビよりもロマンチックだって!とにかく、あたしたちみんな応援してるんだからね!」
そういって周りを見れば、したり顔でうなずく級友たち。
「あちゃぁ…」
「頑張ってね!ひとみ!藤本になんか負けちゃいやよ!」
「だから何でミキティが…」
「あ、次の授業始まっちゃう。それじゃ」
「あ、おい――」
564 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:53
何事もなかったかのように教室を出ていく級友たちの後ろ姿を見送りながら、
ひとみも慌てて次の授業の教科書とノートを取り出した。
次の授業は選択の物理だった。
ったく……教室を出て廊下を足早に歩きながらひとみは考えた。
やっぱり今日はついてない。

そして今、ひとみの前には藤本がいる。
「なんなのよ!一体なんだってのよ!?」
「こっちが知りたいよ」
ひとみが憂鬱な気分を抱えて部室に顔を出した瞬間、藤本からのいきなりの先制攻撃。
それまで散々、他の部員に当たり散らしていただけに藤本のボルテージはすでに最高頂に達している。
ただでさえ塞いでいたひとみと勝負になるはずもない。
早くも戦意喪失したひとみに藤本は容赦なく牙を剥く。
ひとみは藤本と戦う理由を見つけることすら億劫で仕方がなかった。

「わたしが何であんたと石川の恋路を邪魔する悪者になってんのよ!
レズでもなんでも好きなことやってりゃいいでしょ!」
「ミキティさすがにそれは言いすぎ――」
565 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:53
力なく笑みを浮かべながら窘めようとした言葉はしかし、
藤本の剣幕の前にあっけなく掻き消された。
「それだけならともかく!よりによってあんたと私が――うぅっ、
思い出しただけでも吐き気がする!あいつら一体、どういう神経してんの?!」「だから何が――」
「私がよりによってあんたを……あんたにケソウしてるから、
あんたを奪い取るために石川をイビってるとか言われてんのよ!思い出しただけでも腹が立つ!」

言葉だけでは収まらないとみえ、藤本の拳がシュッ、シュッと空を切る。
「ははーん。それなりに筋の通ったシナリ――いてっ!
ミキティやめろよ!だからそんな物騒な噂が一人歩きするだろ!」
「それだけじゃないわよ!」
ひとみは藤本に殴られた頭をさすりながら、
そんなことで何をそんなにカリカリしているのだろうと訝しんだ。
藤本はたしかに嫌みで空気の読めないところはあるものの、
侠気のようなものさえ感じられるほどに存外さっぱりとした気質である。
566 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:53
その藤本が噂ごときでそれほどいきり立つ理由がわからなかった。
たしかに人をアニメだか漫画だかのキャラクタにあてはめてはしゃぐ連中を気色悪いとは思う。
しかし、さきほどの教師にしたところで隣の席の生徒にしても悪気はないのだろうし、
基本的には無邪気な遊びだ。
ひとみには藤本の怒りが理解できなかった。

「腹立たしいのは石川よ、石川!」
最近は「梨華ちゃん」と呼んでそれなりに打ち解けたところも見せていただけに
「石川」と呼び捨てにするあたり、怒りの激しさがうかがえる。
「梨華ちゃんがどうしたのさ?」
「石川よ!そんな変なこと言い出したのは!
『ひとみとリカを応援する薔薇兄弟のなんとか会』とかいう馬鹿な連中が石川のこと炊きつけたのよ。
そしたら……」

「そしたら…?」
藤本は処置なし、というように首を横に振って答えた。
「石川は言ったわけよ『ひとみちゃんを本当に愛してるのは美貴ちゃんだから』とかなんとかあのバカヤロウ!!」
しゃべっている間にも思い出すと感情が昂ぶるのか、再び怒りを爆発させる藤本。
ひとみは一瞬、表情を忘れたように藤本の顔を見つめた後、必死で笑いを堪える。
567 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:53
「な、なに…?ミキティ、り、梨華ちゃん…、り、り、梨華ちゃんがそう言ったの?ぷ、ぷ、ぷぷっ」
「何よ?何がおかしいのよ?笑いごとじゃない、っつーの!こらっ!笑うな!」
藤本はひとみのリアクションが不満でしかたがない。
ひとみを牽制しようとしてかしきりににらみを利かせている。
だが、その努力も虚しく、ひとみはついに爆発した。

「ぶぁっはっは!!ばっかじゃねえの!うひゃあっ、おっもしれえ!梨華ちゃんサイコー!!最高カッケー!!」
「なんだと!やんのか、ごるぁ!」
「うひゃっ!ひゃっ!や、やめてぇ、もう!ひぃっ!おもしろすぎ!あんたたち、さいこーっ!
もぅ、ブラボー、って感じ?!」
「あのねえ……」
さすがに文字どおり腹を抱えて笑い転げるひとみに凄んでも意味がないと悟ったか、
藤本は今度は説得にかかった。
「あんただって、困るでしょ?そんな変な噂流されたら?」
「いや。ぜんぜん?」
「何でよ?」
568 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:53
さすがに怪訝そうな表情を浮かべる藤本にひとみは容赦ない。
「だって、この場合、わたしにケソウしてるのがミキティで、梨華ちゃんと取り合ってんでしょ?
わたしは別に…ぷっ…どノーマルなわけだし」
「な、何よそれ?私だけが変態みたいじゃない…」
「そうそう、それ。要はミキティが変態だと思われるだけだから、わたしはぜんぜんオッケーって感じ?」

なおも、ププッ、と笑いを堪えきれないひとみの様子にさすがの藤本も首をうなだれた。
「ちっくしょう…あのバカども…」
「ま、すぐ飽きるって。どうせテレビか何かの影響でしょ?」
「うん、多分……」
藤本もその「マリみて」とかいうアニメについて、よくは知らない様子だった。
作品に没頭しているのだろう。
いい傾向だと、ひとみは思った。

「最近のアニメは1クール12話くらいでしょ?ほっときゃすぐに飽きるって」
「そうだといいんだけど……」
「だいじょぶ、だいじょぶ。それより……」
「何よ?」
再びひとみに返した視線は随分と投げ槍だ。
「梨華ちゃんの誤解を解きにいかないとね」
「はぁっ?」
569 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:53
藤本は耳を疑った。
こいつマジ?
だが、ひとみは来たばかりだというのに平然と帰り支度を始めている。
「ね、ねえ…確認させてもらっていい?」
「何さ?」
ひとみは邪魔をするなとばかりに邪険に扱うがその挙動のひとつひとつが藤本の目には怪しく映る。
「ホンッ――とに、石川んとこ、行くの?」
「そうだよ。そういう愉快な誤解は速効で解いておくに限るね、うん」
満面の笑みで答えるひとみに藤本はやや同情を禁じ得ない、といった風情でゆっくりと告げた。

「よっすぃさ…」
「ん?なに?」
「梨華ちゃん、今日も病院だよ…」
「あっ、そ」
「いいの?」
「何が?」
「梨華ちゃんの通ってる病院、知ってんの?」
「あぁっ!知らない!!知らないよ!」

調子に乗って勢いづいた割にどこか抜けているのはやはりひとみの愛される所以だろう。
藤本はここへきてようやく主導権を握ったとばかりに片頬を吊り上げて意味ありげに微笑んだ。
「知りたい?」
「うん、知りたい」
ひとみの無邪気な答えに対し、藤本は満足げにうなずいた。
570 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:54
「よろしい。教えてしんぜよう…」
「うん、うん」
満面の笑みを浮かべて勢いよく首を振るひとみの姿が、藤本には、だんだんと哀れに思えてきた。
藤本はにじりよってひとみの顔を見上げた。
その距離30cmほど。
ひとみは思わぬ接近にドギマギしたが、顔には出さず平静を装った。

近くで見ると藤本の瞳はキラキラと輝いて奇麗だ。
ミキティって奇麗な顔してんだ…
至近距離で女の子の顔などまじまじと見たことのないひとみは物珍しさも手伝って、
肌の艶から、毛穴の様子まで思わずしげしげと眺めてしまう。
小さくてつるつるとして実に滑らかな肌。
自分の肌とは随分、違う感じだ。

思わず頬を寄せてすりすりしたい気持ちに駆られたが、慌てて押しとどめる。
そんなひとみの内心の動きを当然察することもなく、藤本はひとみの目を覗き込み小声で囁く。
「…あのさ、驚いちゃだめよ」
「大丈夫だよ」
早くしろ、と言わんばかりに急かすひとみ。
藤本は哀れむような色を瞳にたたえながら告げた。
571 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:54
「梨華ちゃんの通ってる病院、S市のK大学病院。そこの精神科」
「えっ…?」
ひとみは絶句した。
「だから、精神科、精神病院だよ。クラスのみんなはもう知ってる。建前上は知らないことになってるけど」
「せ、精神病って…で、でも、梨華ちゃん、ぜんぜんマトモじゃん?極めて正常じゃん?」
あまりの驚きに藤本から視線をはずしたまま戻せないひとみ。
動揺するひとみの姿に「大丈夫」とはげますよに声をかける藤本の表情は真剣そのものだった。

「たいしたことないみたいよ。予後の経過を見るのと、たまに薬をもらうくらいだって」
「予後の経過って…」
「去年一年休んでたのって、心労が祟ったみたいね。彼女のお母さんが本格的な統合失調症らしくて」
「じゃ、お母さんの看病疲れで?」
「うん。精神病は伝播する、って言うじゃん?やっぱり、ああいう人相手にしてるとモノ凄いストレス溜まるし、
その一方で、自分のお母さんだから、面倒は見なければならない。高校生には重すぎる現実だよ」
「そうだったんだ…」
572 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:54
呆けたように虚空に視線を泳がせるひとみの目の前で、
藤本は両手をパチン、と合わせて、再び顔を覗き込んだ。
「だいじょぶ?」
ハッ、としたように自分の顔を見つめるひとみに藤本はやさしく微笑みかけた。
「だからさ。多分、いかない方がいい」
「う、うん…」

ひとみは恥じた。
そんな大事なことを知らずに今まではしゃいでいた自分に。
なんだか藤本が急に大人びてまぶしく感じられた。
少なくとも、以前のいじめっ子でないのは確かだった。
「それはともかく、石川って最近、おかしなこと始めてさ。みんな心配してんだよね」
「何?」
今度の反応は速かった。
精神科、と聞いた後だけに、ついつい嫌な想像をしてしまう。

「後藤さん、ってさ、あんた、幼な馴染みなんでしょ?」
「へっ?ごっちん?う、うん…」
意外な名前にひとみは出鼻を挫かれた。
一体、何でまたごっちんが…
ひとみは藤本に続きを促す。
573 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:55
「梨華ちゃん、後藤さんのこと調べてるみたいよ。
もっとも、クラスの人に片っ端から聞いて回るもんだから、
後藤さんの友達がいらんこと言うな、って圧力かけちゃって。
聞いてもしゃべんないから、知りたいことはほとんどわかってないみたいだけど」
「ごっちんの…何を調べてるんだろう?」
「あの子、援助やってるでしょ?」
「えっ?ええっ!!」
「なんだ、知らなかったの?」

ひとみは今度こそ、腰が抜けそうになった。
自分とは縁遠い存在なったとはいえ、そこは幼馴染みだ。
援助交際と聞いて、やはり冷静ではいられない。
「私も詳しくは知らないけどさ、なんか凄いうまいことやってるから、
全然、足つかないらしいよ。これはまだ石川には言ってないけど」
「そうか…よかった」
梨華はそんなことを調べてどうするつもりなのだろうか。
ひとみはわけがわからなかった。
「だからさ、あんたのわかる範囲で教えてあげたら?」
「うん…」
藤本の気持ちがありがたかった。
574 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:55
それにしても…
「梨華ちゃん、そんな状態でよく、ミキティがわたしのこと好きだなんて――イテッ!」
「ちゃんと言っときなさいよ!私がどノーマルだってこと!
その後であんたたちが乳繰り合おうがどうしようが、私の知ったこっちゃないんだからね!」
藤本の一撃がボディに決まったところで、
ひとみはなんだか藤本という人間が好きになり始めている自分に気付いた。

もちろん、横腹の痛みにマゾヒスティックな快感を覚えたから、というわけではない。
本当はやさしい子なのだろう。
でもそれを内側に秘めて表にはなかなか現さない。
偽善家ぶるのを嫌っているのだろうか。
そのさりげないやさしさの発露にひとみは藤本の人間としての大きさを垣間見るような気がした。

「さんきゅ、ミキティ。じゃ梨華ちゃんち行ってみる」
「場所知ってんの?」
「うん。そんなこともあろうかと調べておいた」
「ふーん」
「じゃ」
自分に背を向けて部室を後にするひとみを目で追う藤本の表情に影が射したことなど、
無論、ひとみが気付くわけもない。
575 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:55
「あっ、よっすぃ!」
藤本は何かを思い出したらしく、慌ててひとみを追いかけた。
部室を出てグラウンドを見渡したものの、ひとみの姿はすで豆粒ほどに小さくなってしまった。
「ったく、もう…」
その姿が針の先ほどに小さくなるまで見送ると、藤本は肩を落としたまま部室に戻った。

「後藤の手下が石川に目ぇつけてる、っつーの」
誰に言うともなく、漏らした言葉は狭い部室にこもって陰鬱に響いた。
藤本はなんだか急にやる気を失って、器材を片付け始めた。
「やってらんねーよ」
背中を丸めて帰り支度をする藤本に後輩が声をかける。

「あれっ?藤本先輩、もうあがるんですか?」
「ん、気が乗らないっていうかぁ」
ドアに手をかけながら、藤本は何かを思い出したようにゆっくりと後輩の方へ振り向く。

「あんたのクラスにさ、後藤のグループに入ってる子いるでしょ?」
「えっ?ああ、あのお姫さまのですか?いるにはいますけど…」
「ちょっと紹介してくんない?」
「え、ええ…別にかまいませんけど…」
576 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:55
訝しむ後輩の声に藤本は「あ、別にたいした用事じゃないんだけど」と取り繕う。
それがさらに疑念を抱かせるであろうことがわからないほど鈍い藤本ではなかったが、
今日に限ってはやはりどこか調子が悪いのか、後手後手に回ってしまう。
「知ってる…んですか?高橋って子なんですけどね…合唱部にいる」
「うん、あのえらくなまってる子でしょ?」
藤本はその高橋という生徒をよく知っていた。
この学校の合唱部はかなりの実力らしく、
全国規模のコンクールやオーケストラとの共演などもある。
その世界ではそこそこ名の知れた存在らしいことは
同じ文化系のクラブに所属するものとして多少なりとも知ってはいる。

高橋は下級生ながらその中心的な存在でソロパートなども受け持っており
、学内ではかなり目立った存在といえた。
出る釘は打たれるというが、その活躍を面白く思わないものも当然いる。
実力が伴っているため、あまり表立って言われることはないが、
下級生でありながらそのように抜擢されたのは、
後藤の後ろ盾があるからではないかとやっかみ半分の噂があることも藤本は知っている。
577 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:55
「あの子、クラスではどうなの?」
さりげなく聞いてはみたが答えはすでにわかっている。
「ああ、浮いてますよ。休み時間中は本ばっかり読んでます。暗い、っていうか…」
期待した通りの答えだった。
藤本は満足げにうなずきながら一人言のようにつぶやいた。

「後藤の仲間とも当然、うまくいってないだろうね、そりゃ」
はっとして顔を上げた後輩に対して子細ありげに目くばせすると
藤本は画材一式を肩にかけて部室のドアノブに手を伸ばした。
「それじゃ紹介の件、よろしく」
そう言いながら立ち去ろうとして再び何かを思い出したように振り向いた。
578 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:56
「あ、後藤の取り巻きには気付かれないようにね。じゃ、よろしく」
「は、はい…」
呆然と見送る後輩の視線を背に受けながら
藤本は今度こそドアを開けると振り向かずに立ち去った。
後輩は藤本の後ろ姿が視界から消えると今さっき先輩と交わしたばかりの会話を振り返り、
その内容のありえなさに思わずにんまりと邪気のない笑みを浮かべた。

ありえない…『あの』藤本先輩が人のために動くなんて…

くすっ、ともう一度含み笑いを漏らすと、
後輩は休めていた手を再び動かし始めた。
冬場にしては柔らかい日差しが部室の狭い窓から足許を照らしていた。
閑散とした午後の部室でさらさらと筆を動かす音だけが聞こえていた。

579 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 18:56

Atto V
Rosa chinensis >>555-578


580 名前:名無しAV 投稿日:2004/03/17(水) 21:00
お。藤本さんの心境の変化、行動、楽しみ。面白い
581 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/29(月) 18:28
流れが変わり始めた・・・
楽しみにしています
582 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:51

Mai dell'angela
天使のマイ

583 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:51


収録の待ち時間の間、
里田まいはモニタを眺めながらぼんやりと物思いに沈んでいた。

慌ただしく過ぎていく毎日。
仲間とはそこそこうまくいっていた。
それぞれの過去についてあまり詮索しない二人はまいにとって居心地のよい存在だった。
逆に言えば、表面上のつきあいに過ぎないのかもしれないけれど、
内面に深く踏み込まれたくないまいにとってはほどよい距離感とも言えた。
こうして何の悩みもなく平穏な日々を送れることが不思議だった。
隣でやはりモニタのプレイバックを眺めながらチェックに余念のないマネージャを横目でうかがう。
今の振りはよくないとか、ここはカメラ目線を決めなければだめだ、
などといちいち手厳しいが、まいにはそれが煩わしいとは感じられなかった。
思えばあてもなくふらふらと街をさまよっているときに声をかけてくれたのはこの人だった。

どうせ父が死んで帰る家もない。
半ば自暴自棄になっていた自分に声をかけてくるのがろくな人間でないことくらいはわかっていた。
風俗でも何でもいい。
とりあえず寝床さえ与えてくれるならかまわなかった。
そんななげやりな態度のまま連れて行かれたのが今の事務所だった。
584 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:51
そこがあまり売れないタレントを扱う芸能プロダクションだと知ってもさして驚きはしなかったが、
意外にも真摯な相手の態度にまいは逆に面食らった。
まいの理解ではゲーノーカイというところは嘘と虚飾に満ちていて、
背後には必ず暴力団のバックがついているものと相場が決まっている。
成りあがるためにテレビ局やら広告代理店のお偉いさんに平気で身体を売ることを考えれば
まいの理解の中では取りたてて風俗と変わらない世界であったのだ。

どうしてもゲーノーカイ、という言葉にはいかがわしいイメージがついて回る。
その業界に属する小さいとはいえ一企業の社長が女性であり、
しかも普通のおかあさん然とした雰囲気を与える風貌にまいはまず、
すっかり毒気を抜かれた。
嘘の履歴を用意していないでもなかったのだが、いずれバレることではある。
そもそも、自分の予想と随分勝手が違うことに戸惑ったまいはすっかり余裕をなくしていた。
正直に父が殺されたことや帰る家のないことを告げると人情家らしい女性社長は
同情からなのか、それともゲーノージンとして素質があると見込んでしまったのか。
ともかく、まいの採用を即決してしまった。
585 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:51
その日からまいは同じ事務所に所属するあさみ、みうなと同じアパートで共同生活を始めた。
二人ともどこの田舎から出てきたのかと思うほどあか抜けない風貌だったが、
歌手として成功する夢を朴訥とした語り口で懸命に伝えようとする姿には好感がもてた。
まいは家を出てから始めて心静かに寝る場所を得た。
少女三人の生活は不思議と心が安らいだ。

売れないながらもそれなりに仕事でバタバタと走りまわる日々は
適度な披露と心地好い眠りをもたらした。
CDショップや電気量販店などに販促の依頼で回るのも特に辛いとは思わなかった。
まいは自分の中で何かが確実に変わりつつあることを感じ取っていた。
586 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:52
「たいへん!誰か来て!」
突然の叫び声がまいを追憶から現実へと引き戻した。
みうなが血相を変えて楽屋に飛び込んでくる。
二人はカメラテストのためスタジオのステージに立って照明などの微調整に協力しているはずだった。
「どうしたの?」
「あさみちゃんが、あさみちゃんが落ちて…」
「あさみがどこから落ちたって…まさかステージから?」

まいとマネージャは即座に立ちあがり楽屋のドアを開けた。
うろたえながらもみうなは二人の後を追って廊下に出た。
「あさみは!あさみは大丈夫ですか?」
マネージャがスタジオに向かいながら早くも大声で確認すると、
ADらしい若手のスタッフが駆けよって「こちらです」と案内した。

「あさみ!」
「大丈夫か?どうしたんだ?」
ステージ下に横たわったあさみは右脚を抱えてうずくまっていた。
マネージャの声に気付いたのか気付かないのか。
あるいは反応できないほどに痛みが激しいのか。
まいはあさみが抱える右脚の腿の部分を凝視した。
587 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:52
どこかにぶつけたのか黒ずんだ痣が痛々しい。
おそらく内出血によるものだろう。
そして悪くすれば…
「ちょっと、ちょっとごめんなさい」
為す術もなくあさみを取り巻いて呆然と立ち尽くすスタッフ。
その列を掻き分けてあさみの側に寄って跪くと、
まいは「大丈夫」とつぶやいてあさみの大腿部を優しく包むように掌を翳した。

「触らないで!安静にしといた方が――」
「しっ!」
まいは唇に指を当てて静かに見守るよう促した。おまじない程度にもならないかもしれない。
だが、あさみは大事なパートナーであり、
今、まいにできることは救急車が来るまで痛みから気を逸らしてやることだけだ。
「大丈夫、大丈夫だからね…」
まいは目を閉じて集中した。
何がどうなるというわけではない。
だが、今、自分ができる最善のことをしようと考えたとき、自然とこの行為に及んでいた。

まいの額から汗が滲む。
心なしかあさみの表情から苦悶の色が薄らいだように見えた。
「あさみちゃん、しっかり!」
「う、うん…」
みうなの呼びかけに答えたところを見ると、幾分か痛みは和らいだのだろうか。
だが陶器のようにのっぺりとした顔面はすっかり血の気を失って蒼白に沈んでいた。
588 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:52
「大丈夫、大丈夫…」
目を閉じて呪文のように唱えるまいを周囲は不安げに見守るが、
当のあさみはそれで大分、元気づけられたのか、マネージャの顔にようやく気付くと
「ごめんなさい」と小さくつぶやいて、ぽつぽつと状況を説明し始めた。
口を突いて出てきた言葉には後悔の念が滲んでいた。
あきらかに不注意だったという。

みうなとともに振り付けを通してカメラテストを終えると気が抜けたのか、
あさみはついつい照明のライトに見入ってしまい、足元をおろそかにしてしまった。
気が付いたときには、足を踏み外してステージ下に落下していた。
何か硬い台のようなものにしこたま脚を打ちつけた、
と感じた次の瞬間には地面に転がっていた。

激しく痛い、という感覚だけがあさみを支配し続けた。
何が起きたのか、どこを怪我したのか、まったく考える余裕はなかった。
ただ、痛い、という感覚だけが体の中心を貫いていた。
ようやく脚を怪我したのだ、と判別できたとき、
まいが掌を翳して祈るように目を閉じている姿が目に入った。
骨が折れている、と確信したものの、不思議と慌てることはなかった。
むしろ、まいがいることに深い安堵感さえ覚えた。
589 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:52
そうやって話しているうちに再びあさみの頬に赤みが差してきた。
自分の太腿に掌をあてがったまま、目を閉じてひたすら何事か念じている様子のまいを一瞥すると
あさみは再びマネージャに顔を向けて「ごめんなさい」と頭を下げた。
「謝らなくていい、大事なければいいが…」
根がまじめなのか、マネージャはこれから山ほどこなさなければならない事後処理のことよりも
あさみの身体を気遣っているようだった。

もっとも、到底売れっ子とは言えない彼女達だけに、
代替不可能なスケジュールなど無きに等しいという状況ではあった。
とはいえ、活動早々の事故とあっては、
無名のアイドルが再浮上することは不可能に近い大きなダメージであることは確かだ。

この場で一番、最初に現実的な思考に立ち戻ることができたのは
皮肉なことに怪我をしたあさみ本人だった。
取り返しのつかない失態を冒してしまった自らの不甲斐なさに、
あさみは唇を噛んで悔しがった。
590 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:53
あさみの瞳から一滴の涙が零れ落ちようとしたとき、おもむろにまいが顔を上げた。
その表情は一仕事終えたとでもいうような充実感と清々しさに充ちていた。
「大丈夫。あさみの脚、大丈夫だよ」
「ありがと。でも多分、折れてる。複雑骨折でなければ頑張って早く治すけど…」
気休めにしてはやけにどうに堂々としたまいの態度が気にはなったが、
それでもあさみはまいの気持ちが嬉しかった。
「大丈夫だって――あ、担架が来た、あさみ、大丈夫だからね」

そう言ってあさみから離れるとまいは消防署の救命士が作業できるよう場所を空けた。
殊勝な顔つきで「お世話になります」と頭を下げようとするあさみに対し
「ハイ、安静にして」と軽くあしらいつつ
きびきびとあさみを担架に乗せて運び出す一連の作業に見入りながら、
まいは急に激しく疲労を覚えて足許がふらつくのをやっとのことで支えた。
身体が重い。
まるであさみの無事を祈るために精根尽き果てたようだ。
自嘲気味に笑うと担架で運ばれていくあさみを目で追いながら、
マネージャに切り出した。

「とりあえず今日の収録どうします?」
「中止にせざるを得ないだろうな」
591 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:53
「制作サイドの安全対策に突っ込んでくださいね。それで貸しにしとかなきゃ切られ損になっちゃう」
呆けたような顔でしげしげとまいを見つめながら、マネージャは「しっかりしてるね」とつぶやいた。
同意を求めるような表情でみうなに顔を向けて「僕はとりあえず病院に同行するから」と告げると、
再びまいの方を振り向いて「あとは頼んだよ」と言い置いて担架の後を追った。

「まいちゃん…」
不安げな表情で自分を見つめるみうなの腰のあたりをポン、と軽く叩いて、
まいはとりあえず楽屋へ戻り、着替えて事務所に戻るよう促した。
弱小事務所の悲しさで身の回りのことはすべて自分で処理する癖が身に着いているだけに、
マネージャの不在に戸惑いはしても、途方に暮れることはなかった。
加えて妙に世慣れたまいが今後のスケジュールや事故の処理についてスタッフと交渉してくれたお陰で
みうなはほとんど不安を感じることなく、その場を立ち去ることができた。
ただ、そうやって不甲斐ない自分をリードしてくれるまいの顔色が優れないことだけは気に掛かったが。
592 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:53
「あさみちゃん、大怪我じゃなれけばいいね」
帰りの電車を降りて事務所への道を歩き始めて、ふと思い出したとでもいうようにみうなが切り出した。
アイドルとはいえ無名の新人だけに移動はすべて公共機関である。
帰りの道すがら、終始俯いて無言だったのはそれだけみうなが思い詰めていた証拠だろう。
考えてみれば、あさみとみうなはまいよりも早くから共同で生活を始めている。
初対面のとき、まるで姉妹のようだ、と感じたことをまいは今さらのように思い出した。

実のところ、この年頃を常にともに過ごす仲というのは非常に難しい。
自意識が肥大化しだすのに加えて、その裏返しなのか他人の瑕疵がやたらと目に付く。
血を分けた肉親でさえ疎ましく思える思春期の若い二人が共同生活を送るというのは
ある意味拷問に近いとさえまいは思う。
ところが、この二人にはストレスを感じている様子がまるでなかった。
よほどうまが合うのか、
それとも、夢のためには自己を律することのできる強い精神力の持ち主なのか。
まいには、そんな二人の関係が羨ましかった。
593 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:53
みうなは年上のあさみを尊敬し、あさみはみうなに対し厳しくも優しく接する。
ほどなく二人と打ち解けることができたまいもさすがに二人の間に入ることはできなかった。
そんなみうなだけにあさみの怪我を心配するのは当然だろう。
まいはその不安を払拭するように努めて明るく振舞った。
「大丈夫。きっとあたしたちよりも早く事務所に戻ってるよ」
「まさか…少なくとも骨折は間違いないだろうし…」

みうなはまいの戯言にはつきあえないとばかりに軽く受け流して、怪我の具合を案じている。
「ホントだって……もぉっ、信じてないな?」
「あれ見たでしょ?あの黒い痣。あれものすごい打撲の痕だよ?
あれだけの衝撃でぶつかって骨が折れてないって言う方が――」
「そんなのあったっけ?」
「もぉうっ!」
みうなにはふざけているとしか映らないまいの態度が不謹慎極まりないように思えた。
自分を励ましてくれるつもりでいるのかもしれないが、物事には限度というものがある。
あまりに真剣さを欠いたまいの態度はみうなにとって気持ちの良いものではなかった。
まいには歩を早めて自分よりも先に進むみうながとても可愛らしく、
そして少しだけあさみが羨ましく思えた。
594 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:54
「大丈夫だって…みうながこんなに心配してるんだから。
神様があさみに大怪我なんてさせるわけないって」
少しは反省したのか、努めて優しい口調で後ろから追いかけて来たまいの声に
みうなは泣きそうな顔で振り返って「本当?」と問い掛けた。
「本当だよ」
まいは歩を進めてみうなに寄り添うと腰を抱いて顔を耳元に寄せ「大丈夫」とつぶやいた。
「大丈夫…」
今度は自分に言い聞かせるように。
まいは気力を奮い立たせるようにして重い足を運び続けた。

「えっ?どうして?!」
事務所のドアを開けて開口一番、みうなは素っ頓狂な声を上げた。
「だから言ったでしょ?」
にやにやと意味ありげに微笑むまいの言葉を無視して、みうなはあさみに駆け寄った。
「ホントに?ホントに大丈夫なの?骨折れてないの?」
「うん。軽い打撲だけだよ、ごめん。心配かけたね」
その声にみうなはもう嗚咽を押さえ込むこともできず、あさみに抱きついていった。
「おぉい、大げさだなあ。大丈夫だって…」
595 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:54
「よかったぁ、これで私たち、まだ路頭に迷わずに済むね。
今回の収録、事故ってことで仕切り直しになったから」
まいの声にマネージャが立ち上がった。
「本当かい?」
「ええ。きっちり、安全対策の不備についても念を押してきたから、悪いようにはしないと思いますよ」
「不幸中の幸いだなあ。里ちゃん、ありがとう」

「どういたしまして。ところで社長は?」
「ああ、タイミングが悪いなあ。営業で北海道だよ。今日は地元局の偉い人招いて接待してるはず」
「ま、知らぬが仏ともいいますし…」
ホッと胸を撫で下ろすマネージャの様子を微笑ましげに眺めながら大げさに答えると、
まいはあさみに向き直った。

「よっ、不死身の女。これで箔がついたじゃん」
「まい……ありがと」
今まで押さえ込んでいた感情を吐き出すように啜り上げるみうなを抱きながら、
あさみは照れくさそうに礼を述べた。
「礼を言われるようなことはしてないけど…あ、あさみ、痣大丈夫?痣?
あんまり残ってたらミニスカ穿けないよ?ミニスカ!」
596 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:54
くくっ、と笑いながらあさみはスカートの裾をたくし上げた。
収録中の事故だったため、あさみはまだ衣装のままだ。
みうなも気になったのか急に身体を離して、あさみの大腿部に注目する。
「あっ!」
「ほぉら、言った通りでしょ?」
そこにはみうなが見たはずの黒々とした大きな痣はなかった。
「嘘!だってわたし、確かに見たもん!」
「じゃあ、もう消えたんじゃない?」
「そんなあ……」

目の前の状況がまだ信じられないというようにみうなはあさみの太腿を凝視した。
だが、どれだけ見つめても痣が浮かびあがってくることはない。
なおもあさみの大腿部を真剣に見つづけるみうなの様子がおかしいのか、
まいは笑いを堪えきれない様子であさみに何やら目で合図を送った。
まいに応えて肩をすくめ、呆れかえるそぶりを見せながらもみうなに注ぐ視線は優しかった。
「みうな、なんかオヤジみたい…」
「え、ええっ!?」
慌てて顔をあげ、二人の顔を交互に見比べながらみうなは必死で否定した。
597 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:54
「そ、そんな…な、何がオヤジなんですか?」
「だってねえ」
「ねえ」
二人は示しあわせたようにうなずくと、慌てふためくみうなにとどめを刺した。
「あさみの太股がいくらセクシーだからってねえ…」

言われてみれば、ただでさえ短いスカートの裾を腰のあたりまで捲り
白い脚のつけねを披露するあさみの格好は、
状況によっては艶めかしいと言えないこともない。
みうなは急に気恥ずかしくなったのか、慌てて
「いやっ、そんなつもりは、えっと…いや、なんていうかわたしはただ怪我の具合が心配なだけで、
そんな、い、いやらしいつもりは全然――」

「プッ、あたりまえじゃん!みうな、ちょー、おかしい!さいこー!」
「え、ええっ?!ええっ?なに、なに?なんなんですか?もーいったい!」
からかわれていると気付いたときにはすでにマネージャも含む周囲の爆笑を誘っていた。
ひとり茹でだこのように真っ赤な顔で、ええーっ、もう、なに?とむくれる顔がまた可愛らしくて
まいなどは吹き出してしまう。
598 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:55
「ギャハハハハ」と大口を開けて笑うあさみが脚をパタバタと動かす様を見て
さすがにマネージャが止めに入った。
「おいおい、そろそろお開きにして帰る支度をしなさい。
あさみもたまたま運がよくて大事なかったとはいえ、怪我は怪我だからな。自重しなきゃ」
「はーい、じゃ帰ろっか。みうな?」
「はい?」
「先に帰ってお風呂沸かしといて」
「はーい」
みうなは素直にうなずくとあさみの荷物をまとめて一緒に持ち帰った。
三人の住むアパートは事務所から歩いて5分程の近さだ。

その後ろ姿を見送るとあさみが今度はまいに手を貸すよう頼んだ。
「骨は大丈夫なんだけどさ、打撲が結構きつくってね…」
「ハイハイ。あさみちゃんの脚にでも何にでもなりますよぉ」
「あはは、じゃ二、三日、奴隷になってくれる?」
「けっ、ちょーしこいてんじゃねーぞ、おい」
まいが凄むとあさみは「うひー、まいちゃん、ちょーこわい!」などとふざけて相手にしない。

だがマネージャが「それじゃ、戸締まり頼んだよ」と言い残し、二人を置いて出ていくと、
あさみは急に真顔になってまいに尋ねた。
「ところでさ…」
「うん?」
「まい、あんた何した?」
599 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:55
「えっ?何って…何のこと?」まいは急にドギマギした。
あさみは気付いてるのか?
「知ってるんでしょ?あたしの骨、完全に折れてたこと?」
「そ、そんなの知るわけないじゃない…」
まいは慌てた。
明確な意図があってした行為ではなかったが、あさみが無傷で現れたことから、
何が起こったか一応は把握しているつもりではいる。
だが、あさみ本人にそれを指摘されてしまうと、いよいよ抜き刺しならぬ状況に陥りそうで恐かった。

「あたし、北海道で犬ぞりやってたんだよね…」
まいは無言であさみの顔を窺っている。
「転んで骨折したことあるから、骨が折れた感覚ってわかるんだ。
なんか激痛だけが走っててさ、自分の脚じゃないみたいな感じ…」
まいは同意することもできず、ただ「うん」と短く相槌を打つに留まった。
あさみはそんなまいの様子をおもしろそうに観察している。

「完全に折れたと思った…まいが手を当ててくれるまでは…」
それっきりあさみも口を噤んでしまったため、二人の間には重苦しい空気が立ち込めた。
まいはどうしてよいかわからず、
とりあえずあさみから視線を外して壁に掛かった時計を見つめる。
600 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:56
すでに夕飯を取るべき時間をとうに過ぎていることに気付くと、
思い出したように胃の辺りがキュッと鳴ったような気がした。
「ねえ、お腹空かない?」
突然、静寂を破るまいの質問にあさみは戸惑いつつも「そういえば…」と同意する。
「料理面倒だし、何か食べてく?ほら、『亀喜』のオムライス、あれ行こうよ?
何かすっごいお腹空いたし」
「でも、みうなが何かつくってるかも…」
「電話してみる」
まいが電話をするとみうなは丁度、風呂を沸かす準備を終えたところだった。
再び事務所まで戻るよう指示すると少しゴネているのか
まいが受話器にじっと耳を当ててみうなの言葉に耳を傾けている。

「だからオムライスだって。うん、そう『亀喜』のオムライス、ほら、ボリューム満点の」
『亀喜』いうのはまいがお気に入りの洋食屋だ。
オムライスはボリュームがあり、二人前の量があるのではないかと言われている。
見かけによらず食の太い彼女達にとって味や見かけよりも
まずは料理の価格とボリュームが何にも増して重要であった。
さすがに食べ盛りの伸び盛りである。
『亀喜』のオムライスと聞いて、みうなも重い腰を上げる気になったらしい。
601 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:56
まいは「じゃ、早くおいで」と促して電話を切った。
「来るってさ。みうなもお腹空いてたみたい」
あさみは満足そうにうなずいてまいに訊ねた。
「あの子は食べるからねえ。知ってた?『亀喜』のおじさん、あたし達が入るといやあな顔すんの?」
「えっ、何?あ、そうなの?こんな可愛い娘が三人も来るってのにねえ」
「だからさ。デビューしてテレビとかバンバン出るようになってあのおやじの鼻を明かしてやりたいのさ」

「サインしてあげてもよくってよ…とか?」
「キャハハハ、そうそう。あたしらのお陰でテレビとかが取材に来るようになったら楽しいよね。
『ここがカントリー娘。さんデビュー前によくいらした"亀喜"だそうです』
とか言っちゃって」
「私たちが今あるのも『亀喜』の一人前で二人前のボリュームがあるオムライスのお陰です、
って宣伝してあげるよ」
「みうななんか、マジであそこのオムライスなかったら飢え死にしてるかもよ」
バタンと音がして二人がドアの方向に顔を向けるとみうながボヴセンと立ち尽くしていた。
「えっ…?亀喜のオムライスなくなっちゃったんですか…?」
602 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:57
二人は泣きそうな顔で立ち尽くすみうなの姿にしばらく目を奪われ、
やがて顔を見合わせると堰が切れたように爆笑した。
「ギャハハハハ!みうな!みうな!死ぬなよ!まだ亀喜のオムライスあるからな!」
「みうなさいこー!オムライスがキミを待ってるぞー!さあ、行くか?」
「オッケー!おしっ、みうな行くぞ!」
バン、とまいに肩を叩かれてまだ釈然としない顔つきのみうな。
その手をあさみは黙って握り、顔も見ずにつぶやいた。

「腹減ったな」
「……ハイ!」
みうなはどういうやり取りがあったのかわからないながらも、
少しだけ腰を落としてあさみに肩を貸そうとした。
「いいよ。打撲だけだから」
「でも…」
断わられて心配そうに見つめるみうなの視線をまともに受けてしまったあさみ。
なんだか可哀想になってついつい「じゃあ、ちょっとだけ」とみうなの肩に腕を回す。
603 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:57
「おーい、早く行こうよ!お腹ペコペコ」
「今行くよー」
まいが呼ぶ声にそう答えつつも、なかなかその距離はつまらない。
まいはやけにでこぼこな二人が寄り添って歩く姿をしばらく見つめた。
歩き難い体勢ながら、
それでも肩を寄せ合って何か耳打ちしながらゆっくりと歩く二人の様子に気付くと、
まいは慌てて体を回転させて前を向いた。
意味もなく「おーし!」と叫ぶと伸びをして少しだけ後ろを確認する。

二人が近づいたことを確認すると、再び前を向いて歩み始めた。
冷たい風に髪が舞い上がる。まいは慌てて襟元を締めた。
冬の寒さが身に染みるはずなのに、なんとなく心は浮き立っていた。
春は近いかもしれない…
まいはここ何年かで初めて春が待ち遠しいと思った。

604 名前: 投稿日:2004/03/29(月) 21:57

Atto V
Mai dell'angela>>582-603

605 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/30(火) 03:15
幸せになって欲しいなぁ
606 名前:名無し読者 投稿日:2004/04/03(土) 02:06
不思議な力が・・・
その理由に悲しい事情があって欲しくないなぁ。
少し心配で気がかりです。
607 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:51

Cahnson de l'adieu
別れの曲

608 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:52


夕刻の音楽室。
人気のないがらんとした教室に少女はひとりたたずんでいた。
先程までの喧騒が嘘のように静まりかえった室内にいると寂しさを通り越して
恐怖すら感じさせる。
あるいは防音処理を施したこの部屋ならではの効果かもしれなかった。
約束した人物はまだ現れていない。

中等部の音楽室、と確かに言ったはず…
少女は相手が聞き漏らした可能性に思い至り、少なからず不安になった。
訛りのせいなのか、自分の言葉が必ずしも相手に伝わっていなかったという経験は
一度や二度ではない。
その結果少女は無口になった。

少女は教室の後方の壁に掛かる時計を見上げた。
待ち合わせの時刻を5分過ぎても約束の相手は姿を見せない。
高等部の音楽室に移動しようかとドアに手を伸ばしかけて少女は思い止まった。
会いたいと言ってきたのは向こうの方だ。
こちらの指定した場所にやってこない以上自分が動く必要はない。
そんな風に待ちあわせひとつで生真面目に考えてしまうこの少女の性格からして
人と待ちあわせるという行為に向いていないらしかった。
もちろん、少女にそのような自覚などない。
609 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:52
少女は後方の壁面でオレンジ色に染まるモーツァルトの肖像画を一瞥すると、
コンサートグランドの前に座り鍵盤の蓋を持ちあげた。
不規則に並ぶ白と黒の配列を見るとささくれだっていた少女の心はようやく丸みを帯びた。
右手の人差し指をHの鍵盤に置くと、少女はショパンのエチュードを弾き始めた。
ゆったりと流れるようなどこか懐かしさを誘う旋律が誰もいない教室に鳴り響く。
少女の独特なフレージングにショパンが時折戸惑ったような表情を見せる。
そんな作曲者の戸惑いなどおかまいなしに少女の指先が紡ぎ出す音のうねりはやがて
寄せてはかえす波となって夕刻の陽の光を受けてきらめいた。

波が静かに引くように左手の16分音符の連なりがディクレッシェンドの彼方に消えていく。
残照のような響きに耳を傾けながら少女はペダルに置いた足を一瞬、放す。
瞬間、訪れた静寂はしかし、今度は一転して軽やかで快活そうな音の戯れに打ち破られた。
明るい長調で奏でられたフレーズがすぐさま短調で繰り返される様は光と影のように
少女の内面の逡巡を示しているかのようだった。
610 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:57
揺れる想いはやがて半音階を積み重ねた音の壁に塗り込まれて姿を消した。
再び最初の静かな楽想が戻ってきたときには、すでに少女の内なる神秘を垣間見る術はなかった。
寄せては返す音の波はやがて晩秋の海辺にひとりたたずむかのような寂しさを残して
ディミヌエンドの底深く沈んでいった。
余韻に浸るように長いことペダルから足を放さなかった少女がようやく顔をあげて
演奏が終わったことを示すと、パチパチと芝居がかった拍手の音が聞こえた。
少女が目を向けるとそこには約束の人物がいた。

「うまいね。音大でも目指してるの?」
「いえ、あの……藤本さん、ですか?」
少女はその人物の問いには答えず、逆に相手が待ちあわせの相手、藤本美貴であるか尋ねた。
「フッ、たしかに変わってる。ごめんね、わざわざ呼びたてて」
「いえ。それよりどんな用件でしょう?」
少女はいかにも事務的に話を進めようとする。
その様子は藤本に評判通りの変わり者という印象を与えた。
611 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:58
「まあそう急かさないでよ高橋さん。あなた、後藤とは仲いいんでしょ?」
高橋と呼ばれた少女は一瞬、眉根を寄せて何を今更、という顔をしてみせたが、
すぐにもとの無表情に戻り「ええ」と短く答えた。
「どこまで知ってるかわかんないんだけどさ…後藤の援交の話」
『援交』と聞いても高橋は動揺するそぶりさえ見せない。
無表情のまま自分を見つめる相手の態度に藤本は気後れさえ覚えた。
これは手強いかもしれない、と藤本は気を引き締め、今度は言い方を変えた。

「ごめん、言葉が悪かったかな。つまりなんだ…
なんか大人の人とのデートを仲介したり、と…そーいうことなんだけど」
「ええ。してますね」
「えっ?ああ、あ、そう…」
あっさりと認める高橋の態度に藤本は拍子抜けした。
思わず「あ、そう」などと間抜けな受け答えをしてしまう。

「え、えっと…どんな感じ?お小遣いはいくらくらいもらってるとかさ」
「私はやってないからわかんねっすけど…5万円とか、多い人は10万円とか…」
「10万円!」
うらやましい、とは思わなかった。
その程度の対価でこの美貴様の身体を差し出すなどありえない。
藤本は嫌悪感をあらわにしつつさらに尋ねる。
612 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:58
「どうやって見つけるの?いや、そういう相手って」
素朴な疑問だった。
自分たちの父親に近い世代のそれも金回りの悪くない男性と知り会う機会が
そう頻繁に転がっているとは考えがたい。
まさか父親からの紹介というわけでもあるまいし。
悪いジョークだった。
藤本は自分の父親が娘とさほど変わらない少女を相手に
いやらしい行為に及ぶ姿を想像しただけで吐き気がした。

「ああっ、なんか会員制の出会い系サイトにリベート渡して紹介してもらってるらしいんですよ」
「あのさ…聞いていいかな?」
「ハイ?」
藤本は先程から気になっていた。
目の前にいる高橋という少女はその訛ったしゃべり方から地味な印象を受けがちだが、
その容姿はかなり整っていた。
いや、もっと端的に美しいと言ってもかまわなかった。
ただ、本人が意識してそうしているのか、
その朴訥な雰囲気は少なからず野暮ったい印象を与えている。
そして、こんな虫も殺さぬような顔をした少女がまさか…
という疑念を晴らしたい欲求に理性が耐えられなかったのだ。
613 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:58
「あの…あなたも……その…」
さすがに相手の目を直視することができずに、藤本は高橋の上履きの爪先あたりに視線を落とす。
ときたま顔を上げてちらりとその表情を窺うが、高橋は相手の言わんとしていることを
理解しているのかいないのか、無表情のまま藤本の顔を凝視している。
やがて「ああっ!」とようやく気付いたというように弾むような声を漏らすと、
コロコロと玉を転がしたような軽やかな笑い声をあげた。
「まさか!」

藤本はホッ、と胸を撫で降ろした。
頭の中でそういうことをする生徒がいる、とわかっているつもりではいても、
実際に対面するとなるとそれはまた別の話だった。
もし、高橋があっさりとそれを認めてしまっていたらおそらく言葉を失ってしまっていただろう。
藤本にとって真希らは明らかに異世界の人種だった。

「それに援交してたのだって里田さんとかごく一部やし、後藤さん自身はしないから…」
「里田?」
「ええっ…里田さんが何か?」
藤本は考え込んだ。
里田が失踪してからすでに一ヶ月以上経つ。
行方はいまだにわからなかった。
614 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:58
父親が殺されていたことから事件に巻き込まれた可能性もあるということで
警察も行方を追っていたが捜索は遅々として進まなかった。
テレビに出ていたという噂もあったがすぐに立ち消えになった。
だが、里田が援交していたという事実には何らかの事件性を認めざるを得ない。
ひとみのために何らかの情報を得ようと動いていた藤本だったが、
ここへきて好奇心がむくむくと頭をもたげてきた。

「里田ってさ…なんでそんなことしてたの?」
「わかりません。事情は人それぞれですから。ただ……」
「ただ何?」
藤本は思わせぶりに言葉を引っ込める高橋の態度に内心苛つきながらも、
努めて穏やかな表情を維持した。
ただでさえ恐いと言われる自分の表情が険しくなったらどうなるか
わからないほどバカではないつもりだった。

「里田さんはおやぢ受けする、っていうかリピータ定着率が異常に高い、
って聞きましたけど」
「リピータ?」
「ええ、同じ人が繰り返し里田さんを指名するんです。
そりゃ里田さんが魅力的ってことなんでしょうけど…」
615 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:58
それだけではない。
そう言いたげにわざとらしく言葉を切る高橋のどこか粘着を感じさせる話し方に
そろそろ我慢がならなくなって藤本は単刀直入に尋ねた。
「何かワザでも使ってたの?里田のやつ?」
「ワザ…ですか?」
質問の意味を図りかねてか…いや、顔を赤らめたところを見ると
明らかに何か藤本の意図したこととは別の解釈をしているようだが…
高橋は必要以上に力んで否定した。

「そんなワザなんちゅー立派なもんじゃないですけど!…えっと…くすりを…」
「くすり?」
藤本は穏やかでない話題に眉をひそめた。
くすりといえば覚醒剤や麻薬、あるいはそれに近いドラッグのことだろう。
近ごろでは法に抵触しない「合法ドラッグ」というようなものも若者の間で広まっているというが、
そんなものをこの学校の生徒が入手していたとは。
ましてやそれを売春のSEXのために服用していたなど俄には信じがたい話だった。
それを里田が使っていたとは。
616 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:59
いずれにしても軽々しく話すべき内容ではないし、
そこまで言うからには何らかの根拠があるに違いない。
藤本は厳しい口調で質した。
「それで…その『くすり』とやらはどんなやつなの?まさか覚醒剤や麻薬じゃないでしょうね?」
「それはないです、それは。合法や言ってましたから。あれは…たしか後藤さんやったかな」
「後藤が調達してきたってこと?」
「ええ」

高橋は悪びれもせず、まるで真希が夕飯の材料でも調達してきたかのような気軽さで答えた。
それはそれで藤本には解せなかった。
仮にも高橋は真希の庇護を受ける立場ではないのか?
「あんた、いいの?」
「何がですか?」

この高橋という少女としゃべっているとどうも調子が狂う。
かわいい顔をしているくせに頭のネジが一本、どこかに飛んでしまったのではないか
と思えるほどに自分の立場というものを理解していないように思える。
藤本はあまりに状況を理解していないらしい高橋の無防備さに溜まりかねて
ついつい忠告めいた言葉をかけてしまう。
617 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:59
「あのさ…あんた、一応、後藤の仲間なんでしょ?
後藤について何か聞かれても言うなっ、て言われてるんじゃないの?」
高橋は一瞬、フッ、と蔑むような表情を浮かべたかと思うと、
急に真顔になって藤本に挑むような視線を投げかけた。
「仲間?笑わすわ。そんなん、思いもしよらん。所詮、捨て石やよ、あたしは」
「捨て石?」

「後藤さんやら上の連中になんかあったら身代わりになるらしいわ。
今回ばかりはヤバいかもしらんですね」
「身代わりって…」
「知っててわざわざこっちまで呼び出したじゃないんですか?
あいつらも中等部まで監視してるわけじゃないですからね」

驚いた。
高橋は自ら裏切りという行為を
――この場合、裏切りと言ってしまってかまわないだろう――意識している。
高橋のグループ内における立場を考えればその主流派への反発から
少しは連中に都合の悪いことも話すだろう、という藤本の目論見は見事に当たった。
いや、当たりすぎた。そこが藤本には引っ掛かる。
そして真希という女の周到さとそれを知りつつなお
彼女のもとを離れるつもりのない高橋という少女の不思議さを思った。
618 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:59
彼女らは一体、何のつもりで自ら破滅へと突き進むような行為に身を染めているのだろう。
ただ、それがどういう理由であれ、後藤真希という一人の少女が中心にいることは確かだ。
それが後藤真希、という存在のおもしろさであり、不気味さでもあった。
まるで周りのすべてのものを吸い込もうとするブラックホールのような負のエネルギー。
真希の放つ負のエネルギーが少女たちを破滅へと誘っているのは確からしく思えた。
高橋はその闇の触手から逃れられずにいる。
里田もあるいはまた…

藤本は、はたと思い直した。
里田はどこに消えた?
「で、話を戻すと…里田はその合法ドラッグみたいなのを使って…なんて言うの?
トリップしたみたいな状態でおじさんの相手をした、とそういうこと?」

「ええ…何か里田さん本人というよりは相手に吸収させるようなことを言ってましたけど…」
「じゃあ里田がハイテンションでぶっとんだ行為をするんじゃなくて、
客のおじさんが勝手にトリップしてくれるのを里田の魅力にすり換えた、ってことか…」
「そういうことらしいです。一度、里田さんを相手にしたお客さんで
もう一度里田さんを指名しない人はいなかったくらいで…」
619 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:59
藤本はどこか違和感を覚えた。
何かおかしい。だが、一体、何が?
おかしいといえば高橋の態度だった。
高橋の教えてくれた内容は後藤のグループの中枢にいるものしか知るはずのない内容だった。
主流派からははずれているはずの高橋がなぜ、そこまで詳しく知っているのか。
藤本の目が光った。

「なんでそこまで知ってるの?」
「なんでと言いますと?」
高橋はとぼける気なのか、それとも矛盾に気付いていないのか、
相変わらず目を大きく見開いてびっくりしたような表情で問い返す。
藤本は目を細めて「あんたハブられてんでしょ?知るはずないよね」と短く告げた。

「ああっ!」と思い出したように高橋。
「弱みをつかもうと思って」
「弱み?」
藤本は高橋が何を言い出したのか判じかねて、一瞬、ポカンと口を開けたものの、
すぐさまその言わんとしたことを理解して、表情を引き締めた。
「復讐でもする気?」
「……」
高橋はそれには答えずにただ、にんまりと口の端を上げて笑った。
底冷えのするような恐ろしい笑みだった。
620 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 10:59
「そ、そんなに嫌いなら離れればいいじゃない…そこまでしてあんな連中とつるまなくても――」
「素直に辞めさせてくれる連中だと思いますか?」
高橋の顔に貼り付いた切り絵のような表情は変わらない。
それが藤本には能面のように感じられて一層、恐怖感が増した。

「そ、そういえば辞めた子いたっけ…?」
「辞めた人はいましたよ…去年の三年生でしたけど。後藤さんが援交させようとしたの嫌がって…
結局、無理矢理、強姦まがいの方法で売春強要された挙げ句、学校も辞めちゃいましたけどね」
「ご、強姦?」
藤本は二の句が告げなかった。
そもそも援交でさえ問題なのに、強姦となると暴力行為だし完全に犯罪だ。
そんなことがこの法治国家である日本で許されるはずがなかった。

「嘘でしょ?」
「あたしが嘘なんかついて何の意味があるんですか?本当ですよ」
「でも…」
藤本は考えた。
「本当なら、それだってすごい弱みになるんじゃないの?」
621 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:00
高橋は少し首を傾げて考える素振りを見せながら、
その実、予め答えを用意していたかのように澱みなく答えた。
ただ藤本の困惑した顔を見たいがために逡巡する振りをしただけ、とでもいうように。
「ダメですよ。ダメなんです」
「だから何で…?」
高橋はやけにきっぱりと否定した。
問い返す藤本の方がなんとなく萎縮してしまうほど自信ありげな態度で。

「後藤さんの家は学園にかなりの援助…つまり寄付金を積んでますから、
学園が後藤さんに何らかの処分を下すなんてことは考えられんです」
「でも、さすがに暴力が絡んだら…」
「ああ、後藤さん自体は絶対に手は下さないですからね。そんなの脅しにもなりゃせんよ」
軽くいなすような口調が藤本には逆に恐ろしく感じられた。
自分と同い年の少女が一人の生徒の進退にまで影響力を行使できるなんて。
普通なら信じられない話だが、こと真希に関しては何があってもおかしくないと思えた。
だから余計に怖い。
622 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:00
「そのくすり…っていうかドラッグの線は弱みになるの?」
「わかりません。モノによります」
「合法ドラッグじゃ、法に訴えるわけにはいかないものねえ…」
藤本が嘆息すると、高橋は口の端をつりあげてニヤリと笑った。
不思議に思って「ん?」と確認するように眉を動かすと高橋は笑いながら答えた。
「いや、合法でもかまわんですよ。だって後藤さんちのお父さんはホラ……」
高橋は言葉を切って、再び意味ありげにフフッ、と笑った。

藤本は合点した。
なるほど。
後藤の父は製薬会社の社長だと聞いている。
その娘が合法とはいえドラッグに手を出しているなどというネタに
マスコミが飛びつかないはずはない。
それでなくてもあの会社はHIV感染者を大量に発生させた責任を問われ
下手なことはできないというのに。
社長の娘がドラッグ売買に絡んでいるとなれば大変なスキャンダルだ。
実際に真希が絡んでいるとすれば。
623 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:00
そこまで考えて藤本はハッとした。
石川はなぜ、この件を追っている?
ひょっとしてマスコミに知り合いがいて探るように頼まれた…とか?
いや、それはあまりにリスクが大きすぎる。
もしそうだとすれば単なる知り合いではあるまい。
ということは、まさか、石川は――

「あのっ?」
「ん?あ、ごめん…」
藤本は気が付けば高橋を目の前にすっかり考え込んでいた。
「もう、いいですかね?あたし、そろそろ帰らないと…」
「えっ?ああ、そう…そう、ねえ…」
藤本はこんなことを果たして石川に、
いやひとみに教えてよいものか判断がつかなかった。

高橋は帰るつもりなのかすでに半身をドアの方に向けている。
透き通るような白いうなじがちらっとのぞいた。
夕映えの中、桃色に染まる肌はドキッとするほど艶めかしい。
藤本は同性に対し性的な衝動を覚えてしまった自分に戸惑った。
624 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:00
「あ、あの…」
「はい?」
慌てて告げるべき言葉を手繰ろうとして藤本はつい尋ねてしまう。
「高橋さんは…えと、付き合ってる子とかいるの?」
「はいぃ?!」
語尾をつり上げて驚きの大きさをあらわすとともに、高橋は目を見開いて藤本を見つめた。
「い、いや…そ、そんな変な意味じゃなくて、つ、つまり、ええっと――
ああ、何言ってんだわたし!」

あはは、と高橋は笑って「あたしなんか」と答えた。
「付き合うどころか友達もようおらんから」
「でも、あなたそんなに可愛いのに…」
くすっ、とまぶしそうに目を細めながら微笑んで
「藤本さんは――」
と続ける高橋の顔によぎった表情を藤本は忘れられそうになかった。
「いい人ですね」

「えっ?」
「それじゃ、失礼します」
どう反応してよいかわからず戸惑う藤本を残し、
高橋はくるりと身を翻して音楽室を後にした。
意味がわからない。
いや、自分がいわゆる「いい人」でない、ということではない。
問題は、あの表情だ。
625 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:00
絶対的な孤独、という表現が当てはまるなら、
まさにそのような表情を浮かべた高橋が自分に対してなぜ
「いい人」などという言葉を投げかけたのか、そこにある。
藤本自身は「いい人」たる資格は十分保持している可能性は否定しない。
だが、あの表情
――世界のすべてから拒絶されたかのようにぞっとするほど暗い影を落としたあの表情――
を浮かべた少女が口にするにはふさわしくないものに思えた。

あれは、世界の誰をも信用しない目だった。
猜疑心に満ちているというだけではない。
何に対しても希望を見出せない絶望の縁に立たされた者だけが
その瞳に宿すであろう絶望の深淵を藤本は目の当たりにしてしまったのだ。
その高橋が「いい人」という言葉に何を託したのか、あるいは何を拒絶したのか。

藤本は目を瞑って軽く首を横に振った。
考えても仕方がない。
情報は引き出した。
あとはひとみにそれを伝えるだけ…
そう考えて、なぜかしっくりこないのが藤本には不満だった。
626 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:00
そういえば…
高橋が弾いていたあの曲、あれは何という曲だったのだろう?
おそらくショパンか何かだと思うのだが、
音楽にそれほど詳しくない藤本にはっきりとしたことはわからなかった。
高橋のあの表情とあいまって、彼女が弾いていたの曲のフレーズがどうにも耳に付いて離れない。
夕陽の照りつけた川面をたゆたう浮き船に身を任せたかのような心許なさ。
まるで二つの異なる思いの間で揺れ動く自分の心がオレンジ色に染まる音楽室の壁面に
ゆらゆらと浮かびあがるような不思議な感覚。

もう一回、あの曲を聞けるだろうか…?
藤本はもう一度首を横に振った。
なぜだかわからないが、もう二度と、
あの静謐な音楽を聞くことはできないような気がした。

壁はオレンジから紅へと染まり、
差し込む光量の落ちた室内では急速に闇が広がり始めていた。
なんとなく寒気さえ感じられ始めた藤本の後頭部を突然、大音量の塊が殴りつけた。
終業を告げる鐘の音だ。
もっとも中等部だけに生徒はすでに帰宅していない。
帰れと言われているのかと思うと不快だったが、押し寄せる不気味な空気には抗しようがなかった。
627 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:01
歪んだスピーカーの音に共鳴したピアノの琴線が耳障りな音を立てて藤本を急きたてる。
教室の奥に並んだ楽聖たちの肖像画に目を合わさないよううつむき加減に振返ると、
藤本は開け放たれたままのドアに向かって直進した。
一瞬、背後の空間が気になったものの、
迷いを振り払うように後ろ手でピシャリとドアを閉めた。

薄暗い廊下を走りながらも、ピタン、ピタン、と弾む自分の足音に藤本は安堵感に包まれた。
北側の窓から入り込んだぼんやりとした街灯の明りが小さな矩形となって足許を照らす。
藤本はふと、今ごろ家でのうのうとテレビでも見ているだろうひとみを想像して腹が立った。

ただでは――

階段の明りを灯して二段跳びで駆け降りながら藤本は思った。


――教えないからね
628 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:01
やがて階段を降り切って下駄箱の横を抜けると出口に向かった。
すでに暮れかけた夕日に照らされて校門の前でたたずむ二つの影を認めたような気がしたが、
藤本が校門をくぐる頃にはどちらへ向かったのか、路上に生徒の姿は見られなかった。
藤本はふーん、とつぶやきながら家路を辿った。
急に書きかけだった作品の経過が気になった。

あの音楽――
藤本はあの微妙な揺らぎを感じさせる音楽に何かを得たような気がしていた。
それを早く作品に反映させたい。
そう思うと先程まで感じていたひとみへの漠然とした怒りも忘れていた。
藤本はぽつぽつと点り始めた街灯の明りを頼りに家路を急いだ。

629 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:01


高橋が校門をくぐると一人の少女が自転車を傾けてこちらに向かってくるのが見えた。
自分を認めて微笑む表情に疲れた様子は見えないが、
ほつれた髪は決して少なくない時間、風に弄ばれていたことを示していた。
もともと癖の強い髪の毛だけに奇麗に揃っているよりは
多少ウェーブのかかった状態を見ることの方が多かったが、
それにしても今日はまた盛大に暴れている。

学則で禁止されているはずのパーマを疑われることが多く、
定期的にストレートをあてているようだったが、効果のほどは定かではなかった。
それほど時間をかけたつもりはないがずっと待っていたのだとすれば退屈だったろう。
藤本という上級生を相手につい饒舌になってしまった自分を高橋は恥じた。
もともと大きくない目をさらに細めて満面の笑みを浮かべて近寄るその少女に対し、
高橋は愛しさの篭った声でその名を呼んだ。

「麻琴…」
「愛ちゃん、早かったね」
「いんや。遅くなってすまんかった。大分、待っとったか?」
「んん、それほどでも」
元気そうな返事の割によく見ると青黒い隈のような色の浮かんだ目許に高橋は疲労を見て取った。
まずい、と思った。
630 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:02
高橋はもう一度、麻琴、と少女に向かって呼びかけ、
「ごめんな、はよ帰ろ。自転車、あたしがこぐから後ろ乗ってええよ」
とハンドルを握ろうとした。
「いいよ、いいよ。一緒に歩いて帰ろ」
「でも麻琴、あんた疲れとるやろ?顔に出とる」
高橋の労わる様子にも頓着せず、麻琴と呼ばれた少女はハンドルを握り返し、
再び高橋に奪い返されないよう転がし始めた。

「藤本さん…だっけ?」
少し進んでから振り向きざまに尋ねる少女に対し、高橋は「うん」とうなずいて前方を見据えた。
「何のことかわかっとらんみたいやけど」
少女は高橋を一瞥すると無言のまま次の言葉を促した。
それを察してか高橋はさらに続ける。
「いろいろ聞かれたわ」
「アレも?」
「うん、アレも……」
「どうだった?」
「うん」と言ったまま立ち止まった高橋を少女は少し行き過ぎてから振り返った。

街灯の下に高橋の顔がほの白く浮かび上がる。
透き通るような肌の色はむしろ高橋自身の命の儚さをさえ思わせて
少女は思わず駆け寄って抱きしめたい衝動に駆られた。
「愛ちゃん…大丈夫?」
「うん……」
高橋はやはり動かない。
631 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:02
「愛ちゃん……」
自転車ごしに心配そうな様子で見守る少女の気配を察して、
ようやく高橋は顔をあげて微笑みかけた。
つくり笑顔はぎこちない頬の動きを白く浮かび上がらせた。
空虚な映像はやがて白い闇に溶けて消える。
少女が慌てて自転車を放り出し、近寄ろうとする姿に高橋は声を荒げた。

「麻琴、自転車!」
「え?だって――」
ガシャン!と音を立てて転ぶ自転車を高橋は何事もなかったかのような素振りで
立て直すためにハンドルを握ろうとした。
自然にやはり自転車を起こそうとする少女と手が触れ合う。
その冷たい感触に高橋はハッ、として少女の顔を見つめた。
「麻琴…手…」
「愛ちゃんこそ…冷たい」
「はよ、はよ帰ろ。あんたは後ろ乗って」
高橋は今度は少し強引にハンドルを奪って、少女を荷台に座らせた。
632 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:02
「でも、重くない?」
「そんなことあんたが心配せんでいいよ。ほら、しっかりつかまって」
少女が腰に手を回すと、そのひんやりとした感触に高橋は胸を痛めた。
こうやってまた、少しずつ…

邪念を振り払うように頭を横に振ると、高橋はペダルをこぎ始めた。
夜のしじまを縫って二人の少女を乗せた自転車が駆け抜けていく。
その薄白い二人の肌が残す残像は形さえ定かでない
雲のようなぼんやりとした軌跡となって夜の闇に浮遊した。
しっかりと自分の背中に頬を寄せる少女の温もりがようやく感じられて、
高橋は必死でこいでいた足を少しだけ緩めた。

自転車のライトが照らす小さな空間だけが、自分と少女の居場所のように思えて切なかった。
再びぺダルを踏む足の力を強めると、
ダイナモが発奮して少しだけ二人の未来を明るく照らしてくれる。
今はそれだけでも高橋にとって小さな、そして束の間の幸福のように思えて愛しかった。

633 名前: 投稿日:2004/04/13(火) 11:02

Atto V
Cahnson de l'adieu>>607-632


634 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/15(木) 18:31
読んでます。いっつも。
そろそろ何か見えてきそうで目が離せません。
635 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/23(金) 22:33
小高ハァ━━━━━━ ;´Д` ━━━━━━ン!!!!萌えまくりです
636 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:31

Ultimo atto
最終幕

637 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:31

Io son l'amore
私は愛

638 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:31


一人暮らしは寂しい。
厳密に言うと一人ではないものの、
母がこの家で占めていた領域はそれなりに大きかったのだと改めて気付かされた。
ウサギ小屋であったはずの家はからんとして梨華の許容できる範囲を大きく超え
寂寞とした空間を際限なく広げているように見えた。
先日の診療で要入院と診断を受けた梨華の母はその日からK医大病院に収容されていた。
梨華は一人でこの家を守らねばならない。

コホン…

咳をしてもひとり…

現代国語の授業で習ったばかりの一句がつい口を突いて出た。
不意に訪れたセキリョウカンは梨華を苛んで孤独はさらに深まる。
黙って何もしないでいると気が狂いそうだった。
いや、気が狂ったことは……ある。
母との生活に疲れて精神が疲弊し切った状態で梨華もまた入院を余儀なくされたことが。
だが、考えてみると父を失って以来、母が側にいないという経験をするのは初めてだった。
快方に向かっている兆候はまったくなかったものの、
それでも以前のように激しい妄想や幻聴に悩まされることはなかっただけに意外な診断だった。

学校で授業を受けている間はまだよい。
だが、この暗い冷え切った家に帰ることを思うと帰りの足取りは重かった。
自らに課した禁を破って美術部に立ち寄ることも考えたが、今さらどんな顔でひとみに顔を会わせたものか。
グランド脇の仮部室に美術部が移っていた間、梨華の足が何度かそちらに向きかけたこともあるのだが、
焼失した美術室が修復され、部活もまた高等部の校舎に戻ってしまった今、おいそれとそちらに向かうことはできなかった。
ひとみの機転により、梨華が何らかの処分を受けることはなかったものの、
中澤の心ない発言により、梨華を疑うものが未だに存在しないとは限らないのだ。
639 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:32
保田に頼まれてそれとなく真希の動静について探っていたが、芳しい情報は得られていなかった。
自分の聞き方が悪いのか、それとも後藤について何かしゃべると問題でもあるのか。
尋ねた生徒は一様に口を閉ざしてこう言うのだ、

『ごっちんのこと探るのは止めた方がいいよ』と。

何かどう、というわけではないのだが、真希という存在の難しさを梨華は実感していた。
梨華自身が直接脅されたということはない。
だが、話を聞こうとした相手の目に脅えのようなものが感じられたのは確かだ。
真希という少女が学園全体にとってとてつもなくセンシティブな存在であることはもはや疑いようもなかった。
だがそれだけに梨華は真希が何か後ろ暗い行為に手を染めている可能性は高いと確信していた。
たとえそれが保田が言っていたようなドラッグの売買というようなことではなくとも。
いずれにしても今のやり方ではいつまでたっても真相に辿りつくことはできそうになかった。

やり方は…ないこともない、のかもしれない。
ひとつ、気になることを教えてくれた人がいた。
真希についての質問には答えず、その代わりに、あの人に聞けば?と梨華に勧める。
あの人とは、真希の幼馴染みで、梨華とも親しい人だと言う。
何のことはない。
吉澤ひとみ、その人だった。
その名を聞いて胸が踊ったのも束の間、梨華はすぐに自分を諌めた。
これ以上、ひとみを自分の周辺に巻き込んではいけない。
しかも幼馴染みとはいえ真希には黒い影がつきまとっている。
ひとみを危険な目にあわせるわけにはいかなかった。
ただでさえひとみには借りがある。
この上さらに迷惑をかけることに関してはさすがの梨華もジクジたるものがあった。
640 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:32
午後の柔らかい日差しが台所の窓から差し込んで食卓を照らす様をぼんやりと眺めた。
台所の流し台を背にした梨華から見て右の端にあたる場所には、
塩や胡椒などの調味料を乗せた丸い回転型のトレーが置かれていた。
テーブルの端で鈍い光を放つ銀色の器はまだ父が存命中に母がマレーシアで買ってきたロイヤルセランゴールだった。
素材は銀でなく、錫(すず)だというが梨華にはくすんだ光を放つ銀色の金属という程度の認識しかなかった。
とにかく何か手先を使う仕事を、との医師のアドバイスにより母がせっせと磨き上げたおかげで、
買ってから十数年経つというのに手アカで汚れている様子はない。
砂のように粒の荒い表面はどちらかというと白金のように薄白い光を集めて目に優しかった。

その手前には伊万里のティーカップが二脚、逆さに置かれて埃除けの布巾を被せられている。
上下に走る朱色のラインに挟まれた真ん中の部分は青地を背景に赤や緑、黄などさまざまな原色がひしめき合って
縦横無人に走りまわる白や黒の描線と見事な調和を保っている。
梨華の器には梅の咲き誇る春の庭園に鶯の遊ぶ様が明るい色調で描かれていた。
母の器、そして今は使う主のいない父の器にも同様の彩色でさまざまな小鳥が描かれて四季折々の風情を楽しませる。
まったくこの伊万里という工芸品は素晴らしい。

陶器、という実用性を遥かに超えて人の心を捕らえて離さない美しさを
掌で包めば隠れてしまいそうな僅かな空間に封じ込めてしまった。
この器の来歴について梨華はまだ母から詳しいことを聞いていないが、
名のある工匠の手になるものであろうとそうでなかろうと梨華にとってさしたる違いはない。
このような優れた工芸品が何世紀も前に九州佐賀は有田村などという辺鄙な場所で生み出されたことを考えると、
いかに即物的な梨華といえども、ロマンのかけらくらいは感じざるを得ない。
641 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:32
梨華は先日、ひとみらと訪れたK美術館で見たマチスの絵画を思い起こした。
洋の東西を問わず優れた芸術が時空を超えて訴えかけてくるものの本質は一体、何なのだろうと考えた。
唐代の景徳鎮、李氏朝鮮の利川を経て肥前有田で華開いた陶磁器のひとつの完成形ともいえる古伊万里。
そして欧州に伝わった伊万里がさらにマイセンの白陶磁を生み出すとは。原色の荒々しさそのままに飼い馴らされない野生の色彩を
見るものに襲いかかりそうな激しさでキャンバス上に表現したフォーブの画家たち。

そのどれもが梨華の心を揺すぶって動かさずにはいないのはなぜだろうと考えないわけにはいかなかった。
それはどこか深いところで梨華がこの世に生を受けた意味に繋がっているのではないかという漠然とした期待を抱かせた。
だから、梨華は自ら筆を握る。
ここしばらく、遠ざかっているものの、やはり、生きている限り、梨華が自然と向きあって生きざるを得ない限り、
キャンバスに向かい、自己と向き会う行為からは逃れられないだろうことを確信していた。

だが、今は……

母親のいない虚な空間が膨張していく圧力に押し潰されそうな閉塞感に抗するのが精一杯だった。
梨華は立ちあがって、階段へと向かった。
642 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:32
自分の部屋に入ると窓を開け放つと冷たい外気が流れ込んで淀んだ思考さえ掃き清めてくれそうな錯覚さえ覚える。
梨華はふと思いついてCDラックの前で立ち止まった。
あるCDのケースに人差し指をかけて半分ほど引き出したまま、その先の行動に自信が持てなくてしばし逡巡する。
果たしてこの曲を聞きたいのか、それとも聞きたくないのか、自分ながら判断がつかなかった。
そのCD、マリア・カラスの歌うオペラ・アリア曲集は生前、
父が好んで聞いていた曲を収録していると知って数年前に買ってから手つかずのまま置いてある。
つまり、梨華自身はまだその曲を聞いたことがないのだ。

「どうしよう……」
伸ばした指がわずかに震える。
思い切って指先に力を入れると斜めに傾いだケースがさらに傾いてストンと掌に収まった。
勢い余って隣のCDまで落としてしまったが、梨華は気付かずにそのまま手に取ったケースを見つめた。
フィルムに包まれたままのケースの表には女性のモノクロ写真が大きく表示されている。
これがマリア・カラス、という人なのだろう。
母によれば20世紀最高のプリマ・ドンナだという。
プリマ・ドンナとは言うなればファースト・レディだ。
つまり、歌劇の世界における「最高の女性。」
その最高の女性が歌う「亡くなった母に」という曲が父のお気に入りだったと聞いたのは
母の症状がひどくなって付き添う梨華もまた入院を余儀なくされる直前であった。
梨華はフィルムを剥いでケースからジャケットを取り出した。ジャケットは薄いブックレットになっていてカラスのプロフィールや各曲の簡単な説明文が寄せられていた。
「亡くなった母に」という曲はジョルダーノの作曲した「アンドレア・シェニエ」というオペラのアリアだった。
643 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:33
18世紀末のパリを舞台とするこの歌劇で、没落貴族の娘マッダレーナは革命政府に捉えられた主人公の詩人
アンドレア・シェニエを救うため、かつての使用人で今は革命政府の大立者となったジェラールに
彼の命を乞うためにこの「亡くなった母に」を歌う。
革命を叫ぶ人々に母を殺され、家を焼かれてからの苦労とシェニエに生きる力を与えられたことを
切々と訴える格調高いアリア、ということらしい。

梨華はその梗概に今まで自分が漠然とこの曲を避けてきた理由を見つけた。
まるで梨華そのものではないか。
父と母、という大きな違いはあるものの、二人の生き様は、肉親を焼死させたあげくに唯一残った保護者に
精神が崩壊するほどの心に深い傷を負わせてしまった点でほぼ一致していた。
若いマッダレーナを育てるために使用人のベルシという女性が売春婦として生活を支えたと歌われる内容は、
自分が母に強いた精神的苦痛そのものを示しているように思えた。

梨華はCDをケースに戻し、再びしまいこもうとして手を止めた。
あるフレーズが気になった。
"Io son l'amore"
『私は愛だ』
えらくまた大げさな。
というよりも、こんなことを本気で言う人が実際にいたらギャグにしかならない台詞ではある。
だが、大体、イタリア人やらスペイン人やらラテン系の人々はそもそも表現がオーバーだし、
この程度で丁度よい、というか普通なのだろう。
マッダレーナには自らが「愛」だと、豪語してはばからないシェニエがいた。
今、この薄倖の少女の境遇を自分に重ねてしか見られなくなった梨華にとって、
シェニエにあたる人物を思い浮かべないわけにはいかなかった。

とにかく。
聞いて見なければ話にならない。
644 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:33
梨華はおそるおそるディスクを取り出すと、プレーヤーのイジェクトボタンを押した。
静かなモータ音とともに飛び出したトレーの中心の突起にCDの穴を合わせて押し込むと再度イジェクトボタンに指を置いた。
ローダがトレーを吸い込むと待ってましたとばかりにディスクが回転する音が聞こえ、
それに合わせて、曲数を示すLEDインジケータが0から12へと変わり、続いて演奏時間を示す57:32という表示を映した。

ディスクに針を落とすと――と言いたいところだが、光学システムでは残念なことに実際に針が辿るべき溝もなければ
その微細な振動をリニアに増幅してノイズのサァーッと言う音の立ちあがるなんとも言えず懐かしい響きは失われて久しい。
生前、父がLPレコードを聞くときに梨華は好んで針を置かせてもらった記憶がある。
あのレコードプレーヤも結局、今ではCDプレーヤに取って替わられてしまった。

一曲目が始まる。
雑音の混じったオーケストラの前奏に続いて艶やかでボリュームのある女声が静かに抑えた感じで
あまり音程の動きが無い音符の軌跡をゆったりとなぞっていく。
梨華は悪くないと思ったものの、どうしても先の曲に注意が向いてしまい集中できない。
かといって前の曲を跳ばすこともできない妙に律義なところがあった。
二曲目。
今度は前の曲よりも多少、音に動きがあって激しいイメージだ。
だが、気が付けば梨華の目はどうしてもライナーノーツの3曲目の解説と歌詞の対訳を追っていた。

"Io son l'amore"
"Io son dio"
『私は愛』
『私は救い主だ』
どうしてもそのフレーズが気になってしかたがない。
梨華はカラスの声が長く伸びて静かに消え入る様に耳を澄ませた。
いよいよ始まる。
梨華はその最初の音に全神経を集中させた。
645 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:33


呼び鈴を押す手を下ろすと、ひとみは二階を見上げた。
何回か押したものの、中から誰か出てくる気配はない。
一方で二階の窓は開け放たれており、先程からオペラのような曲が大音量で流れ出した。
居眠りでもしていて気付かないのだろうか。
それにしてはやけに大きい音だ。
近所からの苦情が心配になるほどに。
あれで寝ていられるほどの図太い神経の持ち主は、おそらく藤本くらいだろう。
藤本、という名を思い出してひとみはハッ、とした。
訪問の目的を完全に忘れている。
藤本が聞き出してくれた後藤に関する情報を梨華に伝えるためだ。

ひとみは玄関のドアノブに手を掛けると何の気なしに左へ回してみた。
ガチャッ、と鈍い音を立てて、ドアは開いた。
「ええっ?!マジ?」
なんとまた物騒な。
たまたま開けたのがひとみであったからよかったようなものの、
下手をしたら、強盗に押し入られて命を落とす可能性さえあった、
「無用心だなあ」ひとみはドアを明けてその内側に滑り込むと後ろ手にドアを閉めた。
ついでに鍵もかけて。
たしか、母親が入院して誰もいないはずだ。

「ごめんくださーい……」
玄関口から問い掛けても誰も応えない。
「あのーっ?」
ひとみは「ちっ」と舌打ちして、玄関先から家に上がろうかどうしようか一瞬躊躇った後、素直に上がることにした。
二階の会場からはいよいよ大オーケストラの伴奏を伴って脂ののった鮪のようにこってりとしたソプラノの声が聞こえてきた。
「あれっ…?」
ひとみは驚いた。
堂々としたソプラノに混じってすすり泣くような歌声が聞こえてくる。
ひとみは迷わなかった。
靴を脱ぐとまっすぐに階段を上っていく。
音の聞こえる方向を見上げると、部屋の扉は開け放たれていた。
「梨華ちゃん!」
そのままバタバタと部屋に駆け込む。
ひとみは一瞬、ハッ、と息を呑んでその光景を見つめた。
646 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:33
その神々しいまでの情景。
部屋の中では石川が両手を広げ、まさにオペラのプリマ・ドンナのようにステレオに合わせて歌っていた。
閉じられた瞳には涙が溢れて今にも零れ落ちそうだ。
「梨華ちゃん…」
ひとみは声を掛けそびれた。
何かとてもまずいものを見たような気がする。
すぐに踵を返して去った方がよいのだろうと頭でわかっていても、体が動かない。
むしろ梨華の方がひとみに気付いて、目を見張った。
その瞳に訪れた輝きをひとみは決して忘れられそうにない。

「ひとみちゃん!あなただったの?!」
「り、梨華ちゃん…」
熱に浮かされたとしか思えない大げさな態度にひとみは困惑を隠し切れない。
一方で、どこか精神的に脆い様子を曝け出している梨華はCDに合わせて歌詞カードのようなものを見ながら、
一生懸命、歌い、そして、それをひとみに伝えようとした。
「ねえ、あなたが言ってくれたの?ねえ?『私は愛、微笑を浮かべて希望を持ちなさい』って?」
ひとみには答える術がない。
梨華は勝手に捲くし立てる。
「ねえ、言ってよ!『もっと生きろ』って。『私は一人じゃない』って言ってよ!杖になって私を導いてくれるんでしょ!
ねえったら、ねえ!!」
ほとんど絶叫に近い声で詰め寄り、ひとみの襟首を掴んで揺さぶりながら、
梨華は尚も朗々と歌い上げるソプラノに耳を傾けていた。

"Fa della terra un ciel....ah!"
最後に高い音で「アーッ!」と伸ばすところで梨華もまた目を閉じて掴んでいたひとみの襟首を放し、叫ぶように声を重ねた。
ひとみはただ、その様子を見守るばかりだ。
そして、梨華は、
"Io son l'amore, Io son l'amore!"
『私は愛』と歌い終えてその場に崩れ落ちた。
647 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:34
「梨華ちゃん!大丈夫?」
慌てて肩を抱くひとみの腕の中で梨華は嗚咽を漏らした。
ひとみはどうしてよいかわからずに、ただただ背中を擦るばかり。
スピーカからは次の曲が流れ始めたが、梨華はもう聞いていないように見えた。
ひとみは考えた。
梨華は何を歌っていたんだろう?
『私は愛』とは何を意味するのか…
この状態では梨華に聞くこともままならない。
ひとみは途方に暮れた。
せっかく梨華の家に訪れて、どさくさ紛れとはいえ、部屋にまで上がりこんだのにこの状態では…
とにかく、梨華を落ち着かせることが先決だと思った。
だから、ひとみはひたすら梨華の背中を擦り続ける。

しばらくそうしているうちに少しは落ち着いてきたのだろうか。
しゃくりあげるたびに大きく上下していた背中の動きが収まってきた。
ひとみは梨華の母親の状態がよくないと聞いていた。
二人きりで暮らしている梨華にとってはさぞ不安なことだろう。
精神的に参っているのだとすれば、このままここにおいておく訳にもいかない。
さて、どうしたものか…
ひとみが思案していると、抱えていた梨華の体から力が抜けていくのがわかった。
オペラのアリアをバックに気持ちよく寝息を立てている梨華の無防備な姿を覗き込む自分にひとみはなぜだか罪悪感を覚えた。
別に、何をどうしようという下心があるわけでもないのだが。
そもそも、ひとみは極めてノーマルで、そっちの趣味はない。
648 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:34
「さて…」とにかく。
ひとみは梨華の体を抱え上げてベッドに運ぼうとした。
重い。
病欠していた事実から病人のほっそりとした体格をイメージしていたひとみは慌てて腰を落として全身に力を入れた。
意外にしっかりとした骨格と肉付きとどこか儚げな印象の接点が見出せず、
ひとみはその現実の生々しさになんとなく先ほどから感じている罪悪感の理由がわかったような気がした。
それはおそらく梨華の豊潤な肉体に若い男性が催してしまう類の劣情とは異なるものだった。
自身、男性ではないひとみにとって正確なところはわからないが、多分、違う。
今までどちらかというと、もっと深く知りたいと願っていた梨華の生活範囲に
余りにも急に接近してしまった故の戸惑いに近いかもしれない。

自宅を訪問してしまっただけに留まらず、成り行きとはいえ、家にまで上がりこみ、
さらには梨華の部屋で彼女自身を腕に抱えて介抱している。
そのような展開を予想していなかったひとみのこころの準備が整っていなかったこともあるが、
それよりも梨華の意志とは無関係にここまで入り込んでしまったことを叱責されやしないかと恐れる気持ちが大きかった。
梨華をベッドに降ろすと、ひとみは「ふうっ」と大きく息を吐いた。
「重いよ…」
額に滲んだ汗を手の甲で拭うと窓から入り込む風がひどく冷たく感じられた。
ひとみは立ち上がって窓を閉めると、相変わらずソプラノの高い声を流しつづけるCDプレーヤを止めて電源を落とした。
ベッドの上で眠る梨華の様子を窺おうとして視線を落とすと、床に何かが落ちている。
屈んで拾い上げるとCDのケースだった。
「『椿姫』……なんだろう?」
ひとみはケースを裏返して、曲目を確認した。
649 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:34
「オペラか…梨華ちゃん、オペラ好きなんだな。意外」
考えてみれば梨華のプライベートに関わる部分は何一つ知らないと言っても過言ではない。
ひとみは今さらのように梨華の部屋をぐるっと見回して、その殺風景な風景に感心した。
見事なほどに無駄にものがほとんどない。
自分の部屋もおよそ少女らしいとは言えなかったが、梨華の部屋に比べればまだしもましと言わざるを得なかった。
あまりにも殺風景な部屋。
そんな印象を受けてしまったのはおそらく…

「漫画も置いてないんだもんな、梨華ちゃん…」
仕方なく、ひとみは書棚から適当に本を引き出すとページをパラパラと捲り始めた。
余りに専門用語が多すぎて何が書いてあるのかわからないので表紙を確かめれば「患者と家族のための精神分裂病薬物療法」とある。
「うひゃぁっ」
ひとみはたまらず本を書棚に押し戻した。
落ち着いて背表紙の文字を眺めてみると、分裂病や薬物に関する書物が多く並べられているのがわかった。
梨華の家庭環境を考えればさして不思議ではない書揃えだが、まるで自分の父親の本棚を髣髴とさせる景観にひとみは辟易した。

ひとみは梨華が目を覚ますまでどうやって時間を潰そうか途方に暮れた。
まさかこのまま夜が更けて朝がくるまでこのまま寝つづけることはないだろうが。
腕の時計で時間を確認すると、ひとみは静かに寝息を立てて横たわる梨華の顔を見つめた。
先ほどは梨華の異常な行動に面食らったが、こうして寝顔を見ていると、そんなことがあったことさえ嘘のように思えるから不思議だ。
次に目覚めるときには、本人さえ何があったのか忘れてしまっているだろう、と思えるほど安らかな寝顔だった。
その平和な表情を眺めているうちにひとみもいつしか眠気を覚えて、ベッドの脇に蹲り、膝を抱えて頭を埋めた。
眠りに落ちる寸前、家に上がるとき、ドアを閉めて施錠したかどうか気になったが、
今さら起き上がるのも面倒でスゥーッ、と落ちるような感覚に身を任せた。
どこからか時計のコツコツと時を刻む音が聞こえた。
ああ、時計くらいはあったんだ、と頭のどこかで意識したのを最後にひとみは深い眠りに落ちた。
650 名前: 投稿日:2004/04/30(金) 17:34

Ultimo atto
Io son l'amore>>636-649

651 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/04(火) 20:20
これからどうなってゆくのか楽しみです
652 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/18(火) 22:32
もう最終章か・・・
653 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:03

L'ombra della traviata
椿姫の影

654 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:03


「ふーん…そんで梨華ちゃんがうちに泊まることになったっちゅうわけやな」
「ああ、あんな状態で一人残すわけにはいかなかったからさ――っていうか、お前、何時
だと思ってんだよ?もう寝ろよ。明日の時間割合わせたのか?」
すでに時刻は午後10時をまわっている。
最近の若者にとってそれほど遅い時間帯とは言い難かったが、一刻も早く梨華を休ませた
いひとみは一向に自室に戻る気配の無い亜衣の無神経な態度にいらいらを募らせつつあっ
た。
ひとみ自身も精神的肉体的両面の疲労が大きく、できれば早く床に就きたかった。
そのためにも、早く二人きりになってあの話を梨華に告げなければならない。
そう思って焦るせいか、つい言葉が刺々しくなってしまう。
「うわっ、お母ちゃんみたいなこと言いよんなあ」
「当たり前だ。第一、お前がいたら梨華ちゃんが眠れないだろ?疲れてんだから少しは気
を遣えよ」
「ひとみちゃん、悪いよ…亜衣ちゃんも心配してくれてたんだし…」
「そんな玉じゃないよ。おもしろがって聞いてるだけだし」
「んなことないわ!」
「もう早く寝ろよ!」
「ああ、ねーちゃんずっこいわ!二人でこれからお話したりして楽しく過ごすんやろ?ず
っこい!」
655 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:04
修学旅行か何かと勘違しているらしい亜衣の無邪気さが疎ましくもあり、また微笑ましく
もあり、なかなか強く「出て行け」と言えない自分がもどかしかった。
だが、傍らで力なく微笑む梨華の憔悴しきった様子を見るにつれ、さすがにきつい調子で
言ってしまう。
「そんな元気あるわけないだろ!見てみろ、梨華ちゃんの疲れた顔!」
ひとみにそう言われた亜衣が顔を覗き込むものだから梨華は気恥ずかしくなって俯いた。
それに疲れた顔、と言われて顔を上げたままでは自ら誇示しているようで情けない。
「あ、ほんまや…」
亜衣は梨華の目の下が薄く隈取でもしたかのように黒ずんでいることに気付いて言葉を失
った。
たしかに梨華の様子を見ればこれから同じ布団に包まって好きな人のひとを話したり…と
いう雰囲気でないことだけは確かだった。
亜衣は素直に謝った。
「ごめんなさい…うち、ちょっとはしゃぎすぎやった」
「ううん。大丈夫だよ、心配かけてごめんね」
「梨華ちゃんが謝る必要はないよ。さ、そういうことだから、亜衣は早く寝な」
「うん。おやすみ」
そう言ってしょんぼりとした様子で俯きながら別れを告げる亜衣の姿が妙にしおらしく感
じられてひとみはつい「ああ、おやすみ」と優しい声をかけてしまう。
「可愛いね」とつぶやく梨華の声に一瞬「え?」と聞き返したが、答えを待たずに「うん」
と短くうなずいた。
「家族っていいよね」
ひとりごとのようにぽつりと投げかけられたその言葉にひとみは思わず顔を上げてその横
顔を見つめた。
656 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:05


「あの…さ、…」
「何?」
邪気の無い梨華の様子を見るにつれ、ひとみはなかなか切り出せなくなってしまっていた。
藤本から伝えられた真希に関する情報は胸にずっしりと重くのしかかり、梨華に告げる以
前にひとみの中で消化し切れていないように思えた。
それがまた説明を長引かせそうで気が進まない。
「例のごっちんの件…」
梨華は「ああ」という顔をしてわずかにうなずき、ひとみの言葉を待った。
「ごっちんさ…」
ひとみの言葉はつい途切れがちになってしまう。
梨華は黙ってひとみを見つめている。
「最近、あまり評判よくないんだよね」
「うん。私もなんとなくそれは感じた」
梨華がなぜか哀しそうにつぶやくのを受けてひとみは救われたような気がした。
疎遠になって久しいものの、ともに過ごした月日はかけがけえのない記憶となってひとみ
という人間を形作る根幹を成している。
その自らの深いところに堆積している懐かしい記憶を共有するはずの真希が穢れてしまっ
たと認めることは自らの過去をも否定することへと繋がるようで、意識しているわけでは
ないものの、どうしても腰が引けたような具合になる。
できれば関わりたくない。

学園に通うほとんどの生徒が本音では真希と関わりたくないと考えているだろうが、それ
以上にひとみの拒絶感は強かったはずだ。
できればあのように堕ちた真希の姿さえ見たくない。
一時はそれほどまでに激しい嫌悪さえ覚えたものの、今は逆に真希がどこまで落ちて行く
のか底の見えない恐怖を感じて、どうにかしなければと焦るばかりで気持ちが空回りして
落ち着かない。
そうしたひとみの内面の苦悩を感じ取ってか否か。
梨華もやはり、真剣な面持ちで耳を傾けているように見えた。
「かなり悪いよ。ま、それを放置してる学校にも問題あり、なんだけどさ…」
ひとみは一言告げる度に休みを置いた。
657 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:05
「まず、援交。それから、くすり。これはまだ売買してるわけじゃないみたいだけど、少
なくとも服用しているメンバーが少なからずいる。ただ、それがどういう素性のものかは
グループの誰も知らない。おそらく…」
「おそらく?」
梨華は先を促すように聞き返した。
ひとみは何事もないかのように、淡々と振る舞い続ける。
「おそらく、ごっちんが直接、調達しているんだろうという話。他の誰もこの件について
は詳しいことは聞いていないらしい」
「ひとみちゃん……」
「ん?」

梨華の腑に落ちない、という表情を見て、ひとみはなぜだか胸が騒いだ。
ひとみにとって梨華の行動もまた腑に落ちないことだらけなのだが、まずは梨華の知りた
いことに答えるのが先決だ。
その後で可能であれば……
ひとみは梨華の言葉を待った。
「後藤さんのグループって、どういう存在なの?なんか誰に聞いてもまともに答えてもら
えなくって…関わるのは止めたほうがいい、って言われるばかりで…」
ひとみはうなずいた。
「どういう、っていうか……難しいことじゃない。ふつうに仲のいい友達のグループだよ。
ただ、中心人物にかなり問題がある、という以外」
「後藤さん…に?」
「ああ」

ひとみは視線を落とした。
なんだか告げ口をしているような嫌な気分だ。
だが、まいが失踪してしまった今、真希について語れるのは自分しかいない。
その思いがひとみをして重い口を開かせる。
「もともと悪い子じゃなかったんだ…」
そんな風に真希のことを話す自分の嘘臭さが嫌だった。
誰だって最初から悪い子なはずがない。
だが、そんな風にしか真希については放せそうになかったのだ。
「やっぱ、あの事件からかな…アレ以来ごっちん…いや、わたしたち、みんな変になっち
ゃった。アレっていうのは、その――」
658 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:06
梨華はただひとみの言葉に聞き入っている。
真希のことを話していながら、どこか自分を庇うような言い方になってしまっているのに
気が付いて、ひとみは言葉を濁した。
当事者の身内でありながら被害者意識の抜けない自分の甘さだと思った。
それがどこか高みから真希を見下しているような態度に繋がっているのであれば、自分も
相当に嫌な奴だな、とひとみは自嘲気味に自らの態度を省みた。
「――血友病患者への非加熱製剤投与によるHIV感染疑惑って知ってる?」
「えっ?」
唐突に話題を振られた梨華はひとみが何を言ったのかわからずに「えっと…何の感染だっ
け?」と問い返すのがやっとだった。

「えっとね…」
ひとみは、まず自分と真希、そしてまいの父が厚生労働省に務めていた関係で同じ団地に
住んでいたことから説明し始めた。
いつも一緒に遊んでいたこと。
いじめられては、まいに庇ってもらったこと。
中学以降、疎遠になったこと。
真希の父がひとりエリートキャリアとして出世、民間の製薬会社に社長として天下ったこ
と。
父親の寄付により、真希が学園内で隠然とした勢力を築き上げていたこと。
そして、高等部に進学した直後に発覚したあの事件により、三人がそれぞれのやり方で父
親に反抗し始めたのではないか、という自分の憶測――

――「憶測」としかひとみには言えなかった。
真希やまいとそのことについて特に話し合って決めたわけではないから。
だが、ひとみは確信していた。少なくともまいについては。
絵に描いたような不良を演じようとした自分の場合ほど判り易くはないかもしれないが、
まいの自らを傷つけるような行為が本人には意識されない自傷的な行動であるのは確かな
ように思えた。
659 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:07
真希については、まいに比べて今ひとつ自信が持てなかった。
ひとつには、真希のまいに対する残虐な行為がある。
自分達の父が犯した非社会的行為に対して義憤のようなものを感じたのだとすれば、反抗
の態度はもっと違った発露の仕方をしたはずだという思いがある。
そして、あのまいへの残虐な行為。
もともと本人が持つ資質のようなものがなければ、人間味のかけらも感じられないあのよ
うな行為を許せるはずが無かった。
この点で、ひとみは真希が使用していたというくすりの影響について考慮しなければなら
ないのだが、果たして、それが本当なのかひとみに判断する材料はなかった。
どういうわけか、ひとみには真希が人間的な優しさを見せてくれたという記憶が欠落して
いる。

「それで、後藤さんと中澤先生はどう繋がるのかな…?」
ポロッ、と梨華の口が滑ったのをひとみは聞き逃さなかった。
「中澤先生?」
「えっ?あ、うん…」
言うはずではなかったのに、つい、口にしてしまった。そんな感じだ。
疲れていると、頭の中で考えていることを喋っている自分に気付いてギョッ、とすること
がある。
梨華の披露困憊した様子を改めて確認させられてひとみは焦ったが、それにしても「中澤」
の名前が出たことに驚きは隠せなかった。
「なんで中澤先生の名前が…?」
「理由は特にないんだけど…後藤さんがくすりを調達してるとするなら、学園内で受け取
るのが一番、安全かなって…」
「たしかに中澤先生は養護教諭だけど…」
「論理が飛躍し過ぎなのはわかってるの。けど、学園の外で調達しているとすれば、本当
にヤクザとか犯罪者の世界だし、それはちょっと…」
「うん。さすがにそこまで裏の世界に嵌まってるとは思えないな」
660 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:08
そうは言ったものの、ひとみには自信が無かった。
すでに犯罪者―それもかなり凶悪な―顔負けのことはやってのけている。
それに、真希を虜にしているあのゲームセンターの少年の存在。
あの少年が絡んでいるのだとすれば、彼を媒介していわゆる合法ドラッグというやつを調
達したと考える方が自然だ。
少なくとも中澤を経由したルートよりは。
「ないんじゃないかなあ…あの中澤先生だよ?」
だが、梨華の表情は変わらない。
ひとみの知らないところで何か信ずるに足る理由があるようだった。
「美術室の焼失で私を直前に見た、って発言したの、中澤先生だよね?」
ひとみは梨華の顔を見つめた。

「それで疑ってるの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
梨華はもどかしそうに答えた。
「あれって、実はくすりのことに関係あるんじゃないかなって思ったの」
「それにしても…」
突飛過ぎる、とひとみは考えた。
まっとうな教員である中澤がドラッグを生徒に売りつける理由がわからない。
特に、保健室に入り浸っているひとみからすれば、中澤が悪事に加担していると考えるこ
と自体、抵抗がある。
661 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:08
「ないよねえ…」
「そうかなあ…」
持論を捨てきれないらしい梨華とこれ以上、やりあうのは得策ではない。
そう判断するとひとみは、話を切り上げることにした。
「もう。寝ようよ。疲れてるしさ」
「うん…」

納得のいかない顔つきは変わらないものの、それでも疲れと眠気には勝てないのか、ひと
みに従って素直に床の用意をする梨華は今にも倒れ込みそうな気配だ。
自分の体より一回り大きなひとみのジャージを身につけた梨華の姿はどこか幼さを感じさ
せて微笑ましい。
「梨華ちゃん、消すよ」
「うん」
ひとみは梨華が布団を引き終わったのを確認して部屋の明かりを落とした。
暗闇に目を凝らすと梨華の横顔がぼんやりとすぐ近くに浮かんでくる。
目が慣れて梨華の体全体が見えた頃には既にスゥーッ、スゥーッという規則的な寝息を立
てて、掛け布団が上下に浮き沈みしていた。
「疲れてたんだな…」
ひとみはクスッ、と笑うと目を閉じて、隣から聞こえる寝息に聞き入った。
それからしばらくして、ひとみもまた眠りに落ちたとき、梨華の頬にひとすじの涙が滴り
落ちたことを知る由もなかった。

662 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:10


「で?ごっつぁんがどないしたて?」
「ですから…」
梨華はもう何度同じ説明を繰り返したかわからないほどに途中から茶々を入れては話を逸
らせる中澤の老獪な態度にいい加減、すべて放り出して逃げ帰りたい気分になりかけてい
た。
暖簾に腕押しとはまさにこんな感じだろうか。
とにかく、押しても引いても核心に触れるどころか逆にどんどん離れてくいばかりで埒が
明かない。
単刀直入に訊ねる梨華の質問の仕方がまずいのかもしれないが、それにしても相手が悪す
ぎるようだ。
失礼な質問に対して怒るようであればまだしも、何を思ってか、のらりくらりとかわし続
ける中澤の態度に、梨華はいい加減根負けしそうな気がしていた。

「教えてください…後藤さんは、後藤さんに何をやらせようとしてるんです?いくら中澤
先生と仲がいいからって、保健室に入り浸りすぎです。おかしいですよ?後藤さんはどう
見たって健康そのものなんだから」
「あんなあ、人を見かけで判断したらあかんよ。健康そうに見える子の方が逆に癌に侵さ
れてぽっくり逝ってまうんやからな」
「ですから、そういう話をしているんではなくって…後藤さんが…後藤さんがくすりを売
買しようとしてるんだとすれば、そんなこと唆すのは中澤先生以外にありえないじゃない
ですか?」
「そら、風邪薬くらいやったら、保健室に買い置きがあるしなあ。横流しできんこともな
いけど」
「ああ、そうじゃなくって!」
663 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:10
梨華の苛立つ様子を楽しんでいるかのように中澤の方は余裕綽々。
やはり直接、中澤本人に確認したのが間違っていただろうか。
梨華は自分の判断が甘かったこと思い知らされて、すっかり自信を喪失していた。
それほどまでに中澤、いや大人と子供の差は大きい。

「あんた、どうでもええけど、次の授業始まるんちゃう?」
「そんなこと言って誤魔化そうとしたって――」
と言いかけたところで、スピーカから聞こえてきた鐘の音に梨華は跳び上がった。
「あっ、いけない!次、理科室で実験だったんだ!」
「ほれ、言わんこっちゃない」
中澤の嫌味にも耳を貸さず、化学の教科書を抱えると梨華は「失礼しました!」と言い捨
てて脱兎のように飛び出していった。
おもしろそうにその後姿を眺めていた中澤は「いやあ、元気やなあ」とひとりごちて机に
向った。
664 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:10
しばらく何か書類らしきものを書き綴りながら中澤は「なあ」と呼びかけた。
「あんたはええの?次の授業?」
「別に…」と寝惚けたような声を出しながら衝立の向こうから現れた真希は、膝の埃を払
いながら中澤に尋ねた。
「あの子、石川梨華だよね?」
「ああ、そうや。さすが、可愛い子には目が無いなあ、ごっちん」
うしろを振り向かず机に向ったまま、答える中澤の表情は真希に見えない。
だが、抑揚の無いその声の調子で状況を把握していることは容易に窺い知れた。
「最近、あたしのことやけにしつこく嗅ぎ回る女がいる、っていうから、どんな子かと思
ったら…」
「お痛はあかんでえ、お痛は」
「あはは。やっちまいますか?って子もいたんだけどね。うちの子たち、ほら、血の気が
多いから」

屈託の無い様子で話す真希の様子にも無言の背中で答えた中澤はしばらく筆を動かし続け、
それからようやく書類から顔を上げてゆっくりと後ろを振り向いた。
「やっちまったら…もう、手に入れへんで。アレ、『持病の薬』」
真希の顔つきが変わった。
いや、目の色が変わったというべきか。
いずれにしても、真希に生気が戻ったことには変わりがない。
中澤は、背筋に冷たいもが走るのを感じた。
不思議と恐怖は感じなかった。
むしろ、ぞくりと身震いするような感覚と言えばよいだろうか。
「手に入らないって…どういうこと?」
低音の声が下腹に響いて中澤は思わず中心が潤うのをどうしようもなかった。
自分より年はずっと若いのに妙な迫力がある。
冷たく突き放すような声の響きはすでに高校生のものではなかった。
665 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:11
「わかってるくせに…」
中澤はわざと焦らすかのように言いよどんだ。
もちろん真希にはわかっている。
ただ、それを口にするのが怖いだけだ。
恐らく、その瞬間に恐ろしい行為へと突き進まざるを得ないのだから。
そして、中澤ももはや今の立場に安住しているわけにはいかなくなる。
わざともったいぶったような態度を取るのは、二人が充分過ぎるほどわかっているからだ。
それを口にした瞬間、最早、後戻りできないことを痛いほど理解しているからだ。
だが、真希は――口を開いた。
「あの子がくすりを……?」
「そうや……何や、知らんかったんかいな?」
真希は一瞬、言葉を失ったが、すぐに気を取り直して中澤に詰め寄った。
「石川梨華…あの子が…?でも、それなら尚更なんであたしのこと、聞かなきゃならない
の?」
「知らんがな。ただ……」
「ただ…何?」

縋るような後藤の視線をやんわりとかわして中澤は答えた。
「何のつもりであんたにくすり渡しとんのか知らんけど、あれを売買されては困るような
ことでもあるんちゃうか?」
真希の目がギロリと剥かれた。
特撮映画に出てくる怪獣のようだ、と中澤は思った。
徐々に人間を脱しつつあるその中身と変わらない外面上の美しさが妙にアンバランスで、
それがさらに真希に対する恐ろしげな印象を増幅させているように思えた。
「それなら、尚更、あたしにあんなもの押し付ける理由がわからないよ…セックスのとき
に使うとすごくいい、とか言っちゃってさ」
真希は一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を上げて再び中澤に詰め寄った。
「でも信じられない…あの子、高校生だよ?一体、どこから調達してくるの?」
「あんたも高校生やがな…」
呆れたように突っ込みつつ、中澤は続けた。
「母親が精神科に通っとる。それにあの子自身も入院歴がある。その間に薬剤師か医者を
たらし込めば――」
中澤は粘ついた視線を真希に投げて「――不可能ではないわな」と言い捨てた。
「そんな感じには見えなかったけど…」
666 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:12
そう言いつつもすでに次に打つべき手を頭の中で巡らせているのが中澤にはよくわかった。
末恐ろしいガキだ。もちろん、口に出しては言えないが。
「でも何の理由であの子はあたしにくすりを渡すわけ?今さらだけど、わけわかんない」
納得できない、とその眼が語っている。
当然だろう。見ず知らずの女子高生が自分に合法ドラッグを渡してくる。
思い当たる理由はない。
それでも好奇心に負けて服用してしまった真希の負けだ。
今さら、相手が同じ学園の生徒だからといって取り乱す必要もない。
だが真希にはそれがかなり衝撃的な事実だったようだ。
「何かおかしい…おかしいよ、あの子」
「言うたやろ。母親に精神分裂病の既往歴があるって。今も通院しとるし、あの子もつま
り――」
「精神に問題アリ……ってこと?」
「……」

中澤はわざと視線を外して、窓の外に向けた。
真希はまだ胡散臭げな表情を引っ込めない。
納得がいかないのだ。
「けど、そんな都合よく、売れ筋のドラッグを手に入れられるもんなのかな?くすりに関
する知識だってないわけでしょ?」
「教えたったわい」
「裕ちゃんが?」
「ああ」
真希の眼に侮蔑の色が浮かんだ。
「最っ低…」
「その最低の人間からもうたくすりに嵌っとるのはどこの誰やろな?」
「……」
真希は返事をせず、射るような鋭い視線で中澤を睨みつけ、それからプイと顔を背けた。
「で、あの子、なんで、あたしにくすりを降ろしたくなくなったわけ?」
「知らんがな。直接、聞いてみいや」
「ふーん…」

真希は表情を変えぬまま中澤に背を向けるとドアに手をかけた。
それでいて梨華に対して何をするのか判りきっているだけに、中澤には余計に恐ろしく感
じられた。
「たしかに…あの子なんだろうね?」
「ああ……」
「わかった……じゃ」
そう言い捨てると真希はドアを開けて保健室を出て行った。
その後姿を見送ってようやく、中澤は人心地がついたような楽な気持ちになった。
真希を相手にするのは疲れる。
こちらに疚しいところがあるのであれば尚更だ。
667 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:12
Trrrrr―,trrrrr―, trrrrr―
気が休まる間もなく、携帯が鳴った。
「メールか…」
携帯の画面を操作してメール受信フォルダを開いた中澤は、その差出人の名前を見て表情
を強張らせた。

『椿姫』

まるで梨華、そして真希とのやり取りを見ていたかのような絶妙のタイミングだ。
中澤はフッ、と笑みを漏らし、替えたばかりの携帯の広い液晶画面に向ってつぶやく。
「相変わらずやってくれるな、あんたは…」
真希にはくすりの供給元『椿姫』の正体が梨華であるかのように伝えている。
だが、その実、中澤自身、『椿姫』の正体など未だに把握していない。
梨華ということにしておけば、真希が始末してくれるだろう。
美術室の小火で梨華に疑いをかけさせるのに失敗したのは痛かった。
あそこで梨華は精神病患者のため何をするかわからないと印象付けておけば、後々、すべ
てを梨華の仕業に仕立て上げることができたのに。
吉澤ひとみは余計なことをする。

『椿姫』が学園内の誰かだろう…というところまでは見当をつけていた。
真希にははっきりと伝えていないが、中澤にもまた頻繁にメールを送ってくるのだ、「彼女」
は。
だが、その先はお手上げだった。
大体、どうやって敵が自分のメールアドレスを調べたのかさえわからないのだから始末に
終えない。
踊らされているという点では、真希だけでなく中澤もまた一緒だった。
思えば不思議な縁だ。
最初は性質の悪いいたずらだと思った。
中澤は机の左側に位置するキャビネットの三段目を見つめた。
メールの主はそこにくすりを置いた、と告げた。
やがてそれを「後藤真希」が引き取るために現れるであろう、とも。
果たして後藤真希はやってきた。
彼女自身、やはり『椿姫』からのメールを受け取っていた。
それがすべての始まり――ではなかった。

中澤裕子には後藤真希を憎む理由があった。

668 名前: 投稿日:2004/05/20(木) 23:14

Ultimo atto
L'ombra della traviata>>653-667


669 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/06/03(木) 17:01
おもしろい
670 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:20

Il pipistrello
こうもり
671 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:22


首都高を降りたところでダッシュボードに置かれた携帯が鳴った。
信号は赤。
前の車のブレーキランプが赤くボンネットを照らしているのを確認して保田はハンズフリ
ーシステムのスイッチを押した。
接続時の雑音とともに周波数の高そうな音声が流れてくる。
もともとキーの高い声調だとは思っていたが、緊張しているせいかさらに甲高く感じる。
保田は相手の硬さを取り除くために意識して砕けた調子で話しかけた。
「久しぶり。何かわかった?」
相手は、あのですね、を連発しながら、それでも要領よく話をまとめて保田に伝え始めた。
保田は時折「うん」とか「それで」といった言葉を挟みながらも相手の流れを断ち切らな
いように聞き役に徹した。
しゃべり始めると止まらないタイプなのか、信号が青に代わり次の交差点で止まるまで相
手は話し続けた。
顔を上げるとワンボックスカーの高い背中が前面の景色を遮断している。
再びフロントガラスを通して差し込む光が赤く車内を照らすのに合わせて保田はくちを開
いた。
「そう。とにかく、ありがとう。何か危ない目に会わなかった?」
その働き労い、自分を気遣う保田の声に相手が二言、三言返した。
保田は一瞬、頬を緩めて「よかった」とつぶやくように漏らし、すぐにまた表情を引き締
めた。
「とにかく、これ以上、突っ込んで聞いてもらう必要はないから。何か危険な兆候があっ
たらすぐに連絡して」
電話の向こうで相手がうなずく姿を目の当たりにしているかのように保田は目を細めると
「じゃ」と短く言い捨てて受話器を置いた。

赤い光が落ちてフロントグラスの前に空間が広がった。
前を走る車両のブレーキランプが灯ると保田もまた心のシフトを落としてふぅっ、と息を
吐く。
たった今、梨華が伝えてきたばかりの内容を頭の中で反芻した。
672 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:23
真希がくすりを扱っているのは確かだ。
もっとも売買にまでは踏みきっていない。
慎重なのか、それともただ己の欲望にしたがってくすりの享楽に身を委ねているのか。
だが、真希自身が望まなくとも真希に寄生する少年の存在がそれを許さないだろう。
真希とその周辺のごく限られた人間しかその効力は定かでない。
実態さえ明らかでない未知のくすりを狙って広域暴力団が暗躍する。
おそらく真希と少年は性行為を通じてその効力を確認しているのだろう。
そうでなければ、暴対法施行以来、表面上、薬物の取り引きからは遠ざかっていた連中が
あれほどあからさまにルートの再構築に取りかかるはずがない。

保田は正直なところ梨華が何か重要な情報をもたらすとは何ら期待していなかった。
むしろ予想通り、計画通りといってよい。
梨華に期待していたのは情報の収集ではなく、真希に無言の圧力をかけることだ。
梨華は十分に役割を果たしてくれた。
こちらが何も知らないことは向こうも把握していない。
不安に駆られて動き出せばしめたものだ。
後は真希、そしてその背後にいる組が動き出すのを待つばかりだ。
真希の薬物ルートを探られたことで連中は必ず何らかの動きを取るはずだった。
そのために梨華に危害が加えられることだけは避けなければならない。
保田は自分の可能な範囲で梨華の身辺に気を配るつもりでいた。
だが、それにも限界はある。

梨華には彼女自身に周辺への注意を怠らないよう促したつもりだった。
だが、保田の意が通じたかどうかはなはだこころもとなく感じた。
梨華に電話をかけなおそうとダッシュボードから携帯を取りはずしてリダイアルの操作を
行おうとしたところで、前面の視界が開けた。
後ろからクラクションを鳴らされて信号の色が変わったことに気付き、保田は慌てて携帯
を置いてハンドルを握り、ブレーキペダルから足を放し、アクセルを踏み込んだ。
タイヤを鳴らして車を発進させると、すぐに加速して見る見る前の車との車間が縮まった
サイドガラスに街の点々とした明かりが映り、一筋の帯のように流れていくころには梨華
に電話をしようとしていたことなどすでに忘れていた。
673 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:23
保田は高層ビルの谷間を抜けて目指す場所へと着実に近づいていった。
その硬くこわばった表情からは何らの感情もうかがうことはできなかった。
次の交差点で左折して、曲がってすぐに左手のビルの脇に車を停めると、保田は車から降
りて紅潮した頬を夜風にさらした。
夜はまだ若く、時は無限の可能性を秘めているかのように見えた。
だが、保田は自分に残されている時間が残りわずかであることを悟っていた。
「紗耶香……」
思わずつぶやかずにはいられなかった。
世の中は不公平だ。
だが、不平を口にしたとて何になる。
保田はやはり表情を硬く引き締めてビルの夜間通用口を潜っていた。
長い夜になりそうだった。

674 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:25


保田の車が路の脇に寄せて駐車したため、矢口は保田をやり過ごしてから慌てて車を脇に
停めた。
バックミラーで確認すると保田が車から降りてくる。
上を向いたりして少しぼんやりとした様子で車の横に立ち止まっているが、矢口に気付い
た様子はない。
保田はこれから起こるであろう出来事に心を奪われているようだった。
矢口は迷った。
追いかけるべきか。
守衛の頑張っている通用口にちらっと目を向けた。
捜査への協力を求めるか。
だが、保田は犯罪の容疑者ですらないし、もちろん逮捕状があるわけでもない。
そして何より、保田とその背後にいる人物に矢口が尾行していた事実をつかまれる恐れが
ある。

迷っている間にも保田は通用口へと入っていく。
自然と体が動いた。
助手席に投げ出したピザの空箱を握り車を飛び出す。
保田が中に入り廊下を右に曲がったのを確認して守衛に声をかけた。
「こんんばんわぁ、ツジカゴピザでぇす」
「何階?」
「ハイ、3階の鈴木さんに」
「ごくろうさんです」
675 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:25
若い女性であるためか、守衛はまったく警戒せずに矢口を通した。
ホッ、としたのも束の間。
保田を見失っては話にならない。
矢口は先程、保田が曲がった角で右方を見渡した。
その先はエレベーターホールになっているようだった。
すでに保田の姿はない。
慌てて駈けより、エレベータの階層表示を見上げる。
動いているのは一基だけだった。

19,20,21,22…
22階でエレベータは止まったままになった。
すかさずボタンを押すと1階に止まっていたエレベータのドアが開き矢口は乗り込んだ。
22階を押してドアを閉じると加速がついて体がぐん、と宙に持ちあがるような感覚に少し
気分が悪くなった。
緊張しているのかもしれない。
だが、ここまでの展開があまりにも唐突すぎて現実感に欠けているのもまた事実だった。
とにかく、矢口は未だに信じられないでいる。
なぜ、保田がこんな場所を訪れているのかを。
このビル、この建物はミドリ十字の本社ビルだった。
つまり真希の父が社長を務める企業の本丸である。
そして…
矢口はエレベータの各階部門表示をもう一度見つめた。
22階…社長室だけがフロア全体を占めていた。
保田は社長、つまり真希の父に会うためにやってきたと考えるのが自然だった。
そして、その推定を裏づける保田の過去をすでに調べ上げている。
矢口は保田を疑っていた。

676 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:26


「で?間違いないのか?」
少年の問いかけに対し真希は「うん」と短くうなずき、続けて加えた。
「裕ちゃんは…そう言ってた」
「そうか…」
少年はしばらく考え込むようなそぶりで真希から視線をはずし、手に持ったリボルバー式
の携帯をジャックナイフのようにカシャッと開いては閉じ、また開いては閉じといった行
為を繰り返した。
真希はほっとすると同時に体の力が抜けてベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
やがて少年の携帯が開くカシャッという音が途切れた。
顔を上げて覗くと、少年が携帯を耳に当てて回線が繋がるのを待ちながら、やや苛ついた
表情で虚空を睨みつけている。
やがて通話口の向こうに現れたと見え、表情が引き締まった。
「おう、俺だ。ちょっと頼まれてくれ…」
少年は真希の話した内容を要領よく説明した。
時折、相手が投げてくる質問に対して返す答えは短く的を射ていた。
用件が伝わったと見えて満足げに通話を終えようとしたところ、最後に何か尋ねられたら
しい。
おもむろに顔を上げると真希の方を向いて尋ねた。

「おい、名前なんだっけ?教えて」
「名前って…あの子の?」
「そいつしかいねーだろ」
少年の機嫌が回復不能なほど悪化しないうちに真希は即座に答えた。
「石川梨華、リカの"リ"は"梨"、"カ"は"中華"の"華"」
真希が視線を落としたまま力なく答えると、少年は真希と梨華の通う学園の名前と場所を
告げ、真希に顔を向けて「おい、写真持ってるか?」と尋ねた。
真希がおそるおそる首を横に振っても、さして落胆した風でもなく、後で梨華の顔が判別
できる写真をメールで送らせる旨を告げて携帯を閉じた。
真希は少年が何をしようとしているのか、大体の見当はついていたが、それでも尚、聞か
ずに入られなかった。
677 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:27
「どうするの?」
少年は口元を吊り上げて冷たい笑みを浮かべ、楽しそうに答えた。
「どう、って…決まってんだろ?まずは現場を抑える。いきなりとっ捕まえたところでバ
ックれるに決まってっからな」
「もし、違ってたら…どうするの?」
上目遣いで問いかける真希の消沈した様子に頓着することなく、少年は意気揚々と告げた。
「そんときはお前んとこのせんせーに自家談判よ。嘘こいちゃった罪はデカいぜ」
ふっ、と再び唇の端を吊り上げて笑う少年の瞳の奥で瞬いた冷たい光に真希は身震いした。
真希には中澤が嘘を吐くとは思えない。
だが、それと同じくらい、梨華がくすりを卸す理由も思い当たらなかった。
「結局、その梨華って女が『椿姫』だったってわけか…さんざん、おちょくりやがって…
遊んでくれた礼はたっぷりしなきゃならねーだろうな」
「ヤバいよ、あの子は。普通の子だよ?」

真希の忠告をせせら笑うように少年は腕を伸ばし、裸のままの乳房を掴んだ。
「普通の子があんなヤバいブツをどうやって手に入れんだよ?」
そう言われると真希には何も答えられない。
そのまま乳房を弄り始めた少年の手わざに下腹部が熱く潤うのがわかる。
先ほど思い切り気をやってしまったばかりだというのに、またしても頭をもたげてきた欲
望を抑えつけようと真希は必死で抵抗した。
その気配を察したのか、少年が熱く蠢く中心に向けてぬるっ、と指を滑らす。
拒みたい気持ちとは裏腹に飢えた体は潜り込んできた少年の中指を貪欲にくわえ込んだ。
「んっ!」
思わず声が漏れた。
脳髄を突き抜けるような快感にシーツを掴んで耐えようとする。
少年は一瞬の間断もなく、差し込んだ指をぐりぐりといやらしく回転させると同時に、余
った親指の腹の部分ですでに充血してつんと固く上を向いた真希の突起を擦り始めた。
「はぅっ」
まともに声を出すことさえできないほど、強烈な感覚が真希の身体を貫いた。
まだくすりの効力が残っていたらしい。
真希はくすりに対する耐性が備わってきたためか、その効果が持続しないため使用量を増
やしていた。
678 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:28
禁断症状の兆候はいまだに見られないものの、頭の中ではこれ以上、服用する量を増やせ
ば危険であることは承知しているつもりだった。
だが、少年の性戯が巧みなせいか、あるいは、真希の身体が激しく渇望しているためか。
気が付けば少年と夜を共にするたびにくすりの服用量が増えていく事実に、真希はだんだ
んと自分を制御できなくなっていくようで怖かった。
全身に走る快感が脳の大部分を支配するにつれ、自らの危険を訴えようとする意志はその
うねりの中で埋没し、意識の底に沈殿しようとしていた。
「んぁっ、あっ、あっ!」
少年の指が熱い蜜壺の中を捏ね繰り回すのと同時に先端を尖らせた真希の乳頭を口に含ん
だとたんに真希の意識は吹っ飛んだ。

次に気が付いたとき、真希は頬に何か粘ついたものが貼りついている不快感と泥水の中に
沈み込んだような激しい疲労感とで身体を起こすことさえできなかった。
ふー、と深く息を吐く音がすぐ傍で聞こえた。
続いて乾いた臭いが鼻を突いた。
少年は真希をこれだけ喘がせてそのありったけの体力を奪い尽くしたばかりだというのに、
すでにジーンズを穿いてベッドに腰掛け涼しい顔で煙草の煙をくゆらせていた。
「お前、なんともないのか?」
「?」
頭の回転が鈍ったようだった。
真希には少年の言っていることの意味がわからなかった。
「くすりだよ、くすり。禁断症状とかねーのかよ?」
「ああ、それ…」
真希は口を開くのさえ億劫になるほどボロボロに擦り切れて老婆のようにしゃがれた声で
返すのがやっとだった。
「特に、ない…と思う」
「飲まないとイライラしたりしねーのか?」
それでも尚、執拗に問いただす少年の声がわずらわしかったが、言えるわけもない。
暴力への恐怖心を体に叩き込まれて以来、真希は自然と少年の顔色を窺うようになってい
た。
679 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:28
すでに暴力団との関わりを公然と口にしてはばからない態度には、もはや真希の愛した純
朴な少年の面影は残っていない。
だが少年の暴力に脅える反面、サディスティックに真希を攻め立てる指戯の巧みさとくす
りの効果による相乗作用で真希の性は急速に開発されていた。
頭では早く別れなければならないとわかっていながらも体がうんと言わない。
つまり、暴力をちらつかせて屈辱的な行為を要求されることに対してすら魅力を感じつつ
ある自分がもはや少年に飼いならされてしまったことを不本意ながらも真希自身、認めざ
るを得ないと感じつつあった。
だから、真希はくすりを服用せずにイライラするということはない、と思う。
ただ、少年と肌を合わせることのできない夜に体が疼くことをどう説明してよいか、真希
にはわからなかった。
少年とのセックスイコールくすりの服用、という図式が成立する状態で、果たしてこれが
くすりの副作用ではないと言い切れる自信は無い。
だが、真希の知る麻薬・覚醒剤の身体・精神依存のイメージではなかった。

「イライラは…ないけど…」
真希は自分を見下ろす少年の顔を視界に捉えた。
反応が見たかった。
「やりたくて体が疼く感じ」
「けっ、淫売が」
きつい言とは裏腹に少年はいかにも愉快だと言わんばかりのにやついた笑みを浮かべて真
希の桃色に紅潮した頬からうなじにかけてのラインを遠慮の無い白んで舐めまわした。
「やだっ…」
普段の生活において自分より上の目線で話し掛ける立場の人間は父親を於いて他にいない。
それだけに邪険に扱われることが新鮮に感じられてしまうのか、真希は淫乱と呼ばれるだ
けでドキドキしてしまうのだった。
「やだじゃねーよ、会うたびに股開いて誘いやがってよ。お前は本当に三度の飯よりセッ
クスが大好きなんだな?」
「もう、やめてよ…」
真希はそう言いながらも下腹部が熱く滾るのをどうすることもできなかった。
こんなことが知れたら何を言われるかわかったものではない。
680 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:29
真希は無意識のうちに両脇をギュッと絞り、下腹部をガードするかのように臍の下あたり
で拳を握り締めた。だが、真希の期待に反して少年は言葉弄りに飽きたのか、急に真顔に
戻って厳しい口調で告げた。
「確認するが……今んとこ依存性の兆候はないんだな」
「うん、でも…うん。ない、と思う」
「それが本当ならこいつは堅いビジネスになる。麻薬ほど儲からんがな」
「え?でも効果は凄いよ?」
「ああ、それは売りになる。だが、それだけじゃボロい商売とは言えない。麻薬がおいし
いのは禁断症状が出るからどんな高値をふっかけても必ず買うということだ。どんなこと
をしてでもな」
「でも、それじゃ犯罪だもんね。お客さんも死んじゃうし」
「ああ」
少年は開いていた携帯をカシャッと閉じて真希に向き直った。
「その点、こいつは堂々と扱える。効果は折り紙つきだ。客も安心して常用できる。死な
ないリピータを大量に確保できる。ただ…」

「ただ?」
見上げる真希の瞳にまっすぐな視線を返しながら少年は表情を変えずに続けた。
「ブツを大量かつ継続的に確保する必要がある、ってことだ。今みたいにちょろちょろと
小出しにされたんじゃビジネスもへったくれもねえ」
真希は少年が何を言わんとしているかわかるような気がした。
つまり、梨華の存在にこだわるのには理由があるということだ。
「明日、その女の写真送ってくれ。携帯でいいから」
「え?でも学則で禁止されてるし――」
「バカ、そんなんぶっちだよ。写真がなきゃ動けねえ」
真希は少年が梨華を捕らえた後、どうするのか簡単に想像できるだけに、嫉妬とも憎悪と
もつかぬ微妙な感情に襲われた。
そのような卑劣な行為に加担することに対して一瞬、罪悪感のようなものを感じないでも
なかった。
だが、もはや少年の心を自分に留められるのならどんなことでも辞さないという強い想い
を前にして偽善家を気取ることもないのだろう。
もとより、まいに対して自分が冒した行いを考えれば。
「うん。わかった」
真希はもう一度下腹のあたりで拳をギュッと握り締めた。
下腹部の疼きはすでに収まっていた。
681 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:30


エレベータを降りると眼前には赤い絨毯で覆われた廊下がまっすぐに伸びていた。
左側は高級ホテルのような落ち着いたベージュ系の色の壁が続いており、一定の間隔でビ
クトリア調と思しきシンプルな形状のランプが廊下を照らしていた。
矢口は恐る恐る足を踏み出す。
このまのエレベータで降りることもできる。
だがそうはしなかった。
保田が後藤社長、つまり真希の父親と何を話すために来たのか気になって仕方がない。
矢口は跳ぶように絨毯の上を駆け抜けて廊下の奥の方にある社長室を目指した。
「――はわからないというのか?」
「はい。残念ながら…」
「保田くん…何のために私が君を引き立てているかわからんかね?」
「それは充分承知しております、ただ――」
「いいかい?それを探し出すのが君の役目じゃないか」
「はい、それはそうなんですが……」
矢口は慌てて右側の壁にへばりついた。
驚いたことに社長室の扉は開いている。
社長の部屋があるフロアまでのこのこ上がってくるバカはそうはいない、との判断なのだ
ろうか。

たしかにそんなことだと知っていれば矢口もわざわざ登ってきたりしやしない。
二人の声が間近で聞こえるような位置にいながら、身を隠す物が何一つ見当たらないこと
に内心気が気ではなかった。
「里田の件はどこまで捜査が進んでる?」
「迷宮入りでしょうね。動機のある患者側には鉄壁のアリバイがある。それ以外には怨ま
れる理由が見つからない。誰もプロの仕業だとは思っていても……口にはしませんよ。自
分が可愛いですからね」
「そうだろうな。で、奴の娘はどうした?」
「なんとかいう芸能事務所でアイドルの卵みたいな仕事をしてます。事務所の用意したア
パートで仲間と共同生活。父の死というショックから一時的に退避するにはもってこいの
環境です」
「そうか…」
682 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:31
矢口は耳を疑った。
厚生労働省の里田が殺された理由を保田が知っている!
しかも、警察内部では、薄々その実態について気付きつつも未解決の方向へと導いてうや
むやのうちに終結しようとしていると受け止められる保田の言葉。
矢口はそれなりに覚悟は決めてきたはずだが、それでも捜査上のパートナーという関係を
超えて親しみを感じ始めていた矢先だけに、不正を隠し立てしない保田の態度に激しく失
望する自分を感じていた。
唯一、安心できたのは里田の娘が無事にどこかで生き延びているという情報だけ。
それにしても、これだけ捜査上の機密事項を漏らすということは、保田が完全に後藤の影
響下に置かれていることを意味するのだろうが、それにしても理由がわからない。
矢口は無防備に自分の姿を晒すわけにはいかないことを理解しつつも、二人の言葉を聞き
逃すまいとさらに近寄って聞き耳を立てずにはいられなかった。
だが、矢口の思惑に反して、二人ともそれっきり口を噤んだまま開かない。
社長室の壁掛け時計がたてるクォーツ特有のカチッ、カチッ、という音をだけが妙に目立
った。
と唐突に後藤が口を開く。

「ところで、妹さんは元気かね?」
「はい。おかげさまで…」
まるで機械仕掛けの人形のようだ。
質問の内容を聞いているのか疑いたくなるほど生気の無い保田の声がその消沈した様子を
逆に際立たせた。
妹、というのはしばらく精神科に通っていたという「紗耶香」のことだろう。
もっとも、治療上の理由があるらしく、大学では「保田圭」と名乗っているらしいが。
ふぅっ。
矢口は音を立てないように静かに息を吐き、壁に沿って少しずつ後ずさり始めた。
「――ではなかったのかな?」
「はい、――てから大分――らしくて、喜んで――」
会話の内容を把握できないくらいに遠ざかったと判断して、矢口は再び赤絨毯の上を全力
で書け戻り、エレベータに突き当たるとすぐさま下階行きのボタンを押した。
昇降機が上がってくる間も矢口は今にも保田と社長が部屋から出て来やしないかびくびく
してひたすら、早く来い、早く来い、と念じ続けた。
683 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:31
ようやく22階に到達したエレベータの扉が開くまで気は抜けなかった。
時間が時間だけに誰かが乗っているとは思わなかったが、それでもドアがスゥーッと横に
開いて箱の中身が空であることを確認するまでは気が抜けなかった。
急いで乗り込み、1階のボタンを押し、ドアが再び閉まるまでは生きた心地がしなかった。
矢口は今もまだ後藤と二人で向き合っているはずの保田を思い唇を噛み締めた。

何かがおかしい、と感じ始めたのはいつからだっただろうか。それは例えば保田の真希に
対する割り切れない態度であったり、あるいはどう考えても所轄の管轄と思えるような事
件の雑多な情報さえ入手していたりという些細なことの積み重ねによる違和感であったか
もしれない。
なんとなく気になって所轄の警察署にいる顔見知りの刑事に保田のことを尋ねてみた。
そこで保田が美術の方面で非凡な才能を発揮していたことを初めて知った。
美大への進学をどういう理由でか見送り、警察官として奉職する道を選んだことも。
初めは興味本意だった。
なんとなく影のある人だとは思っていたが、何かわけありらしい保田の過去を知るにつれ、
さらに詳しく知りたいという誘惑から逃れることができなかった。
とりわけ矢口の興味を引いたのは妹の存在だった。
保田同様、美術の才能を持ちながらある事件により精神的ダメージを受け、一時は精神科
への入院を余儀なくされたという妹の紗耶香。
その事件、いや事故と言い換えた方がよいのだろうか。
保田が高三、妹の紗耶香が中三のとき、二人は両親を交通事故で失っている。
経済的な理由からか保田はほぼ内定していた美大への進学を辞退したという。
大学側による奨学金の申し出や個人的に援助を申し出た篤志家の好意もすべて断り、何を
思ってか警察官の募集に志願。
その理由は黙して語らないため、本人以外にはわからない。
おそらく妹の存在がなんらかの鍵を握っているのだろう。
そんなところだ。
684 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:32
妹の紗耶香はその後、順調に回復し今では保田の果たせなかった美大への進学を実現し、
精力的に活動しているという。
そうした背景がひとつひとつ明らかになるにつれ、矢口はさらに保田という人間に汲めど
も尽きぬ興味を覚えずにはいられなかった。

だから保田の行動を追い始めたとき、矢口に特別な意図はなかったのだ。
ただ、保田の背中を見ていたい。
そんな素朴な想いによる衝動だったのかもしれない。
真希の側にほとんど動きがないこともあり、矢口には少し頑張れば保田を追うだけの時間
を工面することができた。

保田は妹とともにひっそりと暮らしていた。
灰色の壁が薄汚れた印象を与えるあまり清潔とは言いがたいアパートに二人は住んでいた。
生活は……苦しいのかもしれない。
公務員とはいえ、高卒の巡査長ではたかが知れている。
おまけに妹は何かと物入りで出費の多い美大に通っている。
学費だけは奨学金や授業料の免除で負担を免れたとしても、絵の具や絵筆、キャンバスな
どの消耗品は自前で調達しなければならないはずだ。
そのためには切り詰められるところはとことん切り詰める、ということなのだろうか。
矢口にはまるで人のために生きているかのような保田の生き方にどこか無理があるように
思えて仕方なかった。
そして実際に無理はあったのだ。
かつて美術界でその才能を称賛され、将来を嘱望されていた神童、保田圭。
その未来を偶然の事故により奪われて今は妹のために生きる隠棲者のように暮らす日々が
心穏やかであるはずはない。
そこに付け入る者の存在を矢口はいまさっき確認してきたばかりなのだ。
685 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:32
矢口は考えた。
金だろうか?
それもあるだろう。
後藤は一応、社長だ。
自社の非加熱製剤にでHIVに感染させてしまった血友病の患者たちから集団訴訟を起こさ
れてその先行きは不透明。
とはいうものの、ミドリ十字ほどの規模であれば後藤はかなりの所得を得ているに違いな
い。
だが、それだけではない。
矢口には何かもっと深い理由があるように感じられた。
先ほど保田と後藤が交わした短い会話の中にヒントが隠されていないか?
何かがおかしい…
頭の片隅で考えを整理しようとすると、違和感の小さな塊ががむくむくと頭をもたげて思
考ベクトルを阻む。
やがて頭をもたげて三次元の広がりを得た違和感は次第に人間の形へと収斂していく。
そうか…
矢口にはわかったような気がした。
その人型は矢口の想像する保田の妹、紗耶香の形だった。
686 名前: 投稿日:2004/06/03(木) 23:34

Ultimo atto
Il pipistrello>>670-685

687 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/05(土) 12:27
ストーキングしてる矢口にちょっとワロタ
しかし複雑に絡み合ってますなぁ・・・
688 名前:名無し読者 投稿日:2004/06/18(金) 18:51
続き期待しております
689 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:26
A niuno in terra salvarmi e dato
地上に私を救えるものは何もない
690 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:29


「ちょっ!まこっちゃん!大丈夫?!」
「まこと?ねえ、まこと?」
亜依とあさ美は急に倒れた麻琴の尋常でない様子に取り乱した。
階下で用を足していた辻が戻って部屋の様子を見るなり「あっ」と声をあげた。
急いでカーペットの上に横たわる麻琴の顔を覗き込み、額に手を当てた。
次いで胸に耳を当てて心音を確認する。
「うん、大丈夫。動いてる」
「のの!縁起でもない!」
亜依の抗議に耳を貸さず、麻琴の様子をもう一度ちらっとうかがってからあさ美に話しか
けた。
「ねえ、救急車呼んだ方がよくない?」
「救急車って…そんな」
「熱がある。ただの風邪かもしれないけど、倒れるなんて普通じゃない。呼んだ方がいい
よ」
希美は傍でふてくされている亜依に姉の所在を尋ねた。
「あいぼん、お姉さんどこ?」
「ね、姉ちゃんか…?よ、呼んでくるわ」
慌てて立ちあがり、バタバタと隣の部屋へ姉を呼びに行く亜依の後ろ姿を見送ってから希
美は再びあさ美に尋ねた。
「で、どういう状況だったの?救急隊員の人に聞かれるから思い出して。できるだけ細か
くね」
「う、うん…」
あさ美は麻琴が倒れたときのことを思い出そうとして床に横たわる当人の顔を見つめた。

突然のことだった。
何の前触れもなかった――少なくともあさ美にはそう感じられた。
いつものように亜依がふざけて姉のひとみや梨華のものまねで自分たちを笑わせていると
きにいきなり麻琴がゆっくりと後ろに倒れたのだ。
まるでプツッ、と糸が切れたマリオネットのように。
亜依などは麻琴が自分のギャグに反応して意識を失った振りでもしているのかと勘違いし
て「まこっちゃん、うまいやん!」などと囃し立てていた。
あさ美自身、あまりにもお約束のような麻琴の動きに対して現実に体調の変化により倒れ
たのだと考えるまでに時間がかかったのだ。
そう考えると亜依の態度を決して責められるものではなかった。
本当に。フッ、と意識が途切れたかのように麻琴は倒れた。
その普通でない動きにもっと敏感に反応してもよさそうなものだったが、頭がどうしても
危急の自体であることを拒否するかのように都合のよい理屈をひねり出そうとするのだっ
た。
691 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:29
もし、これが親友の自宅ではなく、電車の中などで誰か知らない人が倒れたのであったら、
あさ美は知らん振りでそのまま電車を降りてしまっていたかもしれない。
「そっか……」
あさ美の話を聞き終えると希美はもう一度麻琴の額に手を当て、それから腕をとって脈を
数えた。
希美の「ん?」という表情にあさ美は身を乗り出した。
「どうしたの?」
「脈が…脈拍数が低下してる…あいぼん!お姉ちゃんは?!」
希美の切迫した表情にあさ美は泣きそうになった。
信じたくないが…ひょっとして麻琴はかなり危ないのかもしれない。
そう思うとあさ美はいても立ってもいられずに立ちあがり、部屋を飛び出そうとした。
と、顔を突き出してきたひとみと鉢合わせになり、思わず頭をぶつけそうになる。
「どこ!」
「大丈夫?熱は?」
亜依の顔に続いて後ろから遊びにきていたらしい梨華の顔が覗いた。
あさ美はとにかく必死で説明しようとする。

「いきなり倒れたんです!フッ、て急に意識がなくなったみたいに」
「貧血なの、この子?」
「わかりません。特に病気だとは聞いてないし…」
不安を隠せないあさ美に対し梨華が年長者らしく落ち着かせようと話しかけた。
「話を聞いてると貧血の症状によく似てるみたい。とにかく今、ひとみちゃんが救急車呼
びにいったから――」
梨華が話し終わらないうちにドタドタと床を鳴らしてひとみが戻ってきた。
「呼んできたよ!後10分くらいで着くって。で、麻琴はどんな具合?」
「眠ってます――って言っていいのか…」
「いびきはかいてない?」
「それはないです」
「じゃ少なくとも脳梗塞ではないね。ただの貧血ならいいんだけど…」
それっきり口をつぐんで考え込むひとみの様子をうかがいながら梨華が「あっ」と声をあ
げた。
692 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:30
「なに?」
「お家の方には、ご両親には連絡した?」
「あっ、してへんわ」
「あいぼん、名簿、名簿!」
「ちょっと待って!」
慌てて飛んでいく亜依の後ろ姿を目で追いながらあさ美が首を傾げた。
「たしかマコっちゃん…親戚の家から通ってる、って聞いてたけど…」
「親戚?」
「はい…実家が遠いから都内の親戚の家から通ってって」
自信なさげに答えるあさ美にひとみは何か引っ掛かるものを覚えた。
「中学生で親許離れて暮らしてるの…?」
「いや、そう言ってたような気が…」
自信がないのかあさ美の方も言い淀んでしまう。
小川麻琴の複雑な家庭環境を知らされて、ひとみはさらに事態が悪い方向へと向かいそう
な不吉なものを感じた。

「あったぁ!、これや、あったで!」
パタパタと名簿をはためかせながら戻ってきた亜依の声に遮られて、ひとみの思考が以上
深く沈んでいくことはなかった。
「『高橋様方』って…ほんとうに親戚の家に同居してたんだ」
「あんたたち、同じクラスなのに気付かなかったの?」
「携帯があるから家の電話番号なんか必要ないもん」
ふくれっ面の亜依を相手にせず、ひとみは携帯を取り出してその名簿に掲載された番号を
押した。
「高橋様って…おじさんか何かなのかな――あっ、高橋さんのお宅ですか?」
ひとみは回線が通じて慌てて態度を改めた。
通話口の相手に見えるわけではないがつい姿勢を正してしまう。
「私、吉澤ひとみと申しますけれど……あの…」
亜依とあさ美は顔を見合わせた。
「お母さんかお父さんはいらっしゃいますか?」
ひとみは相手が何事か言い返しているらしいその内容に耳を傾けている。
「あ、そうですか…では、ええと――」
ひとみが麻琴が倒れて救急車を呼んだ旨を説明し始めた。
693 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:32
「ハイ?」と何回も聞き返すところを見ると相手が取り乱したのか通話が随分と聞き取り
辛くなったようだった。
それでも辛抱強く説明し終えると今度は相手が堰を切ったようにしゃべり出したらしい。
興奮する相手を宥めながら、ひとみもまた何度か聞き返しつつその言わんとしていること
を把握した。
ひとみは搬送される病院がわかり次第、連絡することを約束してどうにか通話を終えると
深く息を吐いた。
「ハァーツ、疲れるぅ」
「で?どうだったの?」
「どう、って…ああ、病気のこと?貧血じゃないかって言ってた…その割にはひどく取り
乱してたような気がするけど」
「貧血はバカにできませんよ」
あさ美が軽く抗議したのに合わせて梨華も心持ちうなずく。
母親ともども病院とのつきあいが長い梨華もまた貧血が決して侮れないことをよく承知し
ていた。

ひとみは横になった麻琴の蒼白な顔を心配そうに見つめて「早く来ないかな」とつぶやい
た。
そうこうしているうちに階下からドヤドヤと人の声が沸きあがり、救急隊員の被る白いヘ
ルメットの頂が見えた。
「あっ、こっちです。お願いします」
緊張した面持ちで見守るひとみ達に軽く会釈すると救急隊員は慣れた様子で麻琴の身体を
担架へに運びながら、そのうち一人はひとみがこの場を代表するものと見て、麻琴の様子
を訊ねる。
ひとみは現場に居合わせたあさ美を呼び出して、なるべく細かく説明するように促した。
すでに亜依や梨華に麻琴の倒れた様子を伝えていたせいか、比較的落ち着いた報告に救急
隊員から特に質問が出ることもなく、そのまま担架とともに階下へと降りていった。
ひとみは居合わせた立場上、麻琴の関係者として病院まで付き添うよう乞われ救急隊員の
後に従った。
その背中を見守りながら、あさ美が心配そうにつぶやく。
「マコっちゃん、大丈夫かな…」
「どこの病院やて?」
「K大学病院だって。バスに乗らないと無理だな」
「とにかく、ひとみちゃんから連絡があるまで待ちましょう。救急車からお家の方には連
絡するみたいだし」
694 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:33
階段を下りて狭いドアから担架が運ばれていくのをじっと注視しながら、あさ美が不安げ
な様子を隠さず誰にともなくつぶやく。
「マコっちゃん、大丈夫だよね……」
「あたりまえや。なんともあれへん」
亜依の強がりはしかしその場の重苦しい空気を一掃するまでには到らなかった。
強がりでしかないことを当人もわかっているだけに、逆にあさ美などは気を遣って「そう
だよね…」と口にしてみる。
梨華と希美は黙ったまま担架とともに救急車の後部に乗り込むひとみの背中を見つめてい
る。
やがて後部のドアが閉められて救急車が静かに発進すると、4人はそれぞれの想いを胸に
黙ってテールランプを見送った。

気が付けばすでに夜の闇が周りを包み込んでいた。
麻琴の安否もやはり闇の向こうにあるように感じられてあさ美は思わず肩を震わせた。
不意に暖かい感触を肩に覚えて振り向くと梨華の顔がすぐ間近に浮かんでいた。
「ひとみちゃんが連絡くれるから…だから今は待とう?ね」
「ハイ…」
俯いて返事をするのがやっとのあさ美の肩を抱いて、梨華は部屋に戻るよう促した。
夜気が次第に冷たさを増して肌に食い込んでくる。
あさ美は暖かい部屋でひとみからの連絡を待つのがなんだか申し訳ないように感じてもう
一度救急車の去っていった方角を眺めた。
蛍光色の街燈が照らす一体は妙にほの白く光っており、夜気の冷たさが制服を通して忍び
込んでくるようにさえ感じられた。
あさ美は気取られないように梨華の横顔を見つめた。
肩に回された腕の温もりが、ただありがたかった。
695 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:35


105号室。ここだ。
少女は病室の番号を目に入れるとドアの右上の壁に掲げられた患者の氏名を確認した。
ナースステーションで教えられた通り、そこにはすでに「小川麻琴」の名札が差し込まれ
ていた。
ドアをノックしようとして少女は躊躇した。
中には今、麻琴が眠っている。
医者は大事ないと言っていたらしい。
点滴を打って意識が戻った段階で詳しく検査するつもりだとも。
たしかに危急を争そう事態ではないのかもしれない。
だが、少女が麻琴の真実を告げてなお「大事ない」などと言えるものだろうか。

いや、言わせない。絶対に。
少女は悔しさに拳を握り締めた。
本当に…本当に大事ないことを祈って。
発症さえしなければ一生をまっとうすることも不可能ではない。
その一言にすがって生きてきた少女たち二人にとって発症を示唆する症状なり兆候はまさ
に死の宣告にも匹敵する重圧を与えた。
少女は麻琴の無事だけをただ祈った。
ドアノブに手をかける。その手がまた止まった。
中には麻琴が、そしてあの女がいる。
少女と麻琴による壮大な復讐劇の終幕を飾るにふさわしい悲劇的な舞台を用意して待ちう
けていたはずの看板女優。
少女はキャスティングと演出に徹することで女優とは最後まで顔を合わせる予定はなかっ
た。
そのシナリオが麻琴の突然の入院により大きく変わろうとしている。
悲劇か、はたまた喜劇なのか。
それがこの芝居をどちらの方向へと導くのか定かでなかった。
ただ神のみぞ知る。そんなものがこの世にいるのならば。

少女はドアを開けた。
パッ、と振り返ったのは紛れもなく吉澤ひとみ、その人だった。
「あ、あなたが――」ひとみは少女の名を尋ねる。
「――高橋さん?」
「はい、高橋愛です。麻琴は遠縁で今はうちに下宿してます。で麻琴は?」
ひとみはその説明で納得したようだった。
黙ってうなずくとベッドに横たわる麻琴の顔に視線を落とした。
696 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:37
「ずっとこの状態ですか?」
「うん。家で突然、倒れてからずっと。お医者さんの話は?」
「聞きました」
愛はひとみに向かってしゃべりながらも視線を麻琴から話さない。
ひとみは一瞬、泣きそうな表情を垣間見たような気がしたものの、すぐに冷静さを取り戻
して表情を変えない愛の気丈さに強い絆を感じた。
それがどのような関係にもとづくものなのかはわからないが、単に遠縁の親戚同士という
だけでは説明できないような何かが二人の間には介在しているように思えた。
「で、まこ…小川さんは何か持病でも?」
「いえ、特に。もともとそんなに丈夫な方じゃないんで貧血じゃないかと思うんですけど、
とにかく……」
愛、と名乗った少女はペコリと頭を腰まで下げながら礼を告げた。
「このたびはご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳――」
「そんなのいいからさ」
ひとみは愛が型通りの挨拶を述べようとするのを遮る。
「失礼だけどご両親は?」
「父が亡くなったので昼間は母が働きに出てまして」

ひとみはハッとして「ごめん」と小さくつぶやき、それから話の矛先を変えようとした。
「えっと…小川さんの実家には?」
「いたずらに心配させてもいけませんから。検査の結果が出てから知らせようと思ってま
す」
「でも、もし万一のことが――」
「吉澤さん」
愛が厳しい表情でひとみを見据えた。
「麻琴のことではご迷惑をおかけしたし、入院のお世話をしていただいて感謝しています。
ですが、ここからは身内の問題ですので…これ以上のご心配は無用です」
「そ、そう……」
愛の厳しい態度にひとみもそれ以上強く言うことはできなかった。
落胆するひとみに対して愛は少しも表情を緩めることなく慇懃に告げた。
「とにかく…とんだご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。お疲れでしょうか
ら今日のところは…」
「今日はどうするの?あなたが泊るの?」
それこそひとみが心配すべき内容ではなかったが、愛はとりたてて気にするそぶりも見せ
ずに「はい、そのつもりです」と答えながらスタスタと歩いてドアを開けた。
697 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:38
「今日は本当にどうもありがとうございました。」
あからさまに帰るよう促されてなお、ここに留まる理由を見つけることはできなかった。
ひとみは素直に引き下がった。
「じゃ、お大事に。まこ――いや、小川さんの意識が戻ったら知らせてね。これ、わたし
のケータイの番号とアドレス」
そう言ってあらかじめ電話番号とメールのアドレスを記載したメモを手渡すと、ひとみは
静かにドアをくぐり廊下へと出た。
ひとみが廊下に出てこちらを振り返ると愛は一礼してドアを閉めた。
ドアノブに手をかけたままひとみの足音が遠くなるのを確認すると愛は一脚だけ置かれた
介護者用の丸椅子に崩れるように腰を落とした。

「ま、こと……」
呆けたような顔でつぶやく様を他の誰かに見られていたら正気を疑われそうなほどにその
表情は弛緩してどのような感情をそこから読み取ることもできなかったであろう。
幸いにしてひとみがいる間だけはその気が狂いそうなほどの不安と焦燥を忘れることがで
きた。
ひとみに対する強い憎悪が辛うじて愛の精神の均衡を保たせていた。
愛にはあの女が真剣に麻琴の身を案じているように見えた。
悪い人間ではないのかもしれない。
だが、そのように弱者をいたわるそぶりを見せられるだけで愛にはその欺瞞的な性癖が透
けて見えるように思え、より一層、憎悪の焔が胸のうちでくすぶるのを感じた。
「あいつに何がわかる…ぬくぬくと温室で育ったあの女に何がわかる…」
愛はギリギリと音がしそうなほどに歯噛みして悔しがった。
698 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:39
吉澤ひとみ、許すまじ……
すでにまともな思考のできなくなった愛の頭の中では麻琴が倒れたことさえひとみの仕業
であるかのような逆恨みとしかいいようのない負の情報へと自動的に変換されていた。
愛は麻琴の寝顔をもう一度振り返った。
鼻から管を挿入されて口から吐かれる息の音と点滴の落ちる音だけが聞こえた。
愛が立ちあがると丸椅子のパイプが帰心でギイッと耳障りな音を立てて余計に静けさを際
立たせる。

愛はふと不安になった。
医者は余計なことを言っていないだろうか。
知られてはいけない、絶対に。
あのことだけは。
麻琴がHIV感染キャリアであることは。

愛は腕時計を掲げて時刻を確認した。
そろそろ主事医がやってくる時間だ。

699 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:41


「では麻琴は無事なんですね?」
思わず聞き返す声の調子が上ずった。
ホッと胸を撫で降ろしたのも束の間、医師の冷徹な声が愛に冷や水を浴びせかける。
「しかし、このままではいつエイズを発症してもおかしくない。小川さんにはカクテル療
法による治療が必要です」
医師にはすでに麻琴がHIVに感染している事実を告げていた。
知らずに誤診されてはかなわないと思ったからだ。
なぜもっと早く、伝えないのかと詰問された。
そしてHIV感染者のように命に関わるウィルスのキャリアが安心して生活するためには
周囲の理解が不可欠だとも。
愛はうなずいた。
「わかってます。でもHIVに感染してることを知られたくないから。だから、麻琴はわ
ざわざこっちへ越してきたんです。周りの理解が簡単に得られるなら最初からそうしてい
ます……」
うつむいた愛に対して、医師の口調はあくまでも事務的だった。
「本来、ご両親に伝えるべきなんだろうけど、あなたがこちらでの保護者だというから言
っておくよ」
愛は顔を上げて不安げな視線を医師に向けた。

「カクテル療法は実際に効果がある。だが、副作用も強い。治療を続けるためには入院も
しなければならないし、学校側や関係者の理解と協力が不可欠だ」
「それはわかってます。けど、麻琴は今まで普通の学生として生活してきたんです……友
達もいます。HIVに感染してるとわかったら、きっと離れていきます。たとえ命が少し
は延びるとしても、死ぬよりもつらい思いをしてまで生きるよりは……」
「それがあなたたちの望みなんですか?少なくともご両親は違うと思いますよ。一日、一
時間、一分でも一秒でも長く生きていてほしいと願うのが親というものです」
「麻琴の両親は…」
愛は言いかけてまたうつむいた。
700 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:42
「死にました。農家だったんですが『エイズの家系から米は買ねえ』って、収穫した米を
農協が引き取ってくれなくなって」
医師は黙って聞いている。
「耕耘機とか耕地整理のために借りてたお金もすぐ返せって…それに麻琴に対する嫌がら
せがどんどんひどくなっていって…」
愛にとっては自分のことを話すよりも苦痛だった。
麻琴を傷つけ、一家を村から追い出した連中は両親の呵責など少しも感じることなく、今
ものうのうと生き続けているのだ。
それを思うと愛は胸のうちが抉られるような痛みに苛まれる。
「いろいろ転々としたらしいです。最後は両親とも日雇い現場で作業車両に巻き込まれて
死にました。事故ってことにはなっていますが…最後はやくざに半ば殺されたようなもの
だと思っています。遺族ではない第三者に多額の保険金が支払われたと聞いています」
そういうお涙頂戴の話には慣れているのか、医師は相変わらず感情をうかがわせない固い
表情を崩さずに聞いた。
「それで遠縁のあなたのところに?」
「そんなところです」

うつむいた愛の様子にも動じることなく医師はやはり麻琴の命の重さを説き続けた。
「お気の毒だとは思います。だが、医師としてみすみす麻琴さんを放置するわけにはいか
ない」
愛は顔を上げキッ、と医師の顔をにらみつけた。
「それだけじゃありません」
「?」
医師は不思議そうな顔つきで愛を見つめ返す。
「お金の問題があります」
「ああ、それなら」
と、医師は相好を崩した。
「試験薬として研究費で落とせるから問題ない。その代わり麻琴さんは被験者いうことに
なるが」
「そんなことしたら、またマスコミがやってきて騒ぎ立てる…麻琴はモルモットやない
の!」
吐き捨てるような愛の激しい口調にさすがの医師もたじろいだ。
701 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:43
「…まあ、突然のことです。すぐには気持ちを整理することもできないでしょう。考えて
おいてください、麻琴さんのために」
「そうします…」
つい熱くなってしまったことを反省してか愛はうなだれて足もとに視線を落とした。
慌てて麻琴の靴を履いてきてしまったことに気付き赤面する。
医師はそんな愛の表情の変化に気付くことなく「ところで…」とさらに続ける。
愛の顔に思わず怪訝そうな表情が浮かんだ。
この上、一体、何があるというのだろう?
だが、その内容はすぐに知れた。
「学校に擁護教諭はいますね?その人にぜひ伝えておかねば――」
「だめです!」
医師は驚いて愛の顔を見つめた。
「そんなことしたら学校にバレてしまいます……」
「そういう問題ではないでしょう」
医師の厳しい声が愛の耳に響いた。

「運がよければ10年以上発症しない例もないことはない。だが、このままでは何か感染症
を起こしただけで命取りになるんだ。学校には配慮してもらうしかないでしょう。医師と
して放置しておくわけにはいかない」
「でも、でも…」
愛のすがるような視線にも反応することなく、医師は表情を緩めることなく愛に告げた。
「あなたも検査を受けてください。これは麻琴さんだけの問題ではない」
「う、うちらを…HIVキャリアを差別するんですか?」
牙をむき出して襲いかかってきそうなほどの激しさで敵愾心を燃やす愛に対し、医師はた
じろきながら、それでも医師としての面目を保つべく威を正した。
「日和見感染の多くは初期の段階で対処していれば助かるケースが多い。カクテル療法に
よる予防が一番だが、定期的に検査を受けるだけでも危険の度合がまるで違う」
「……」
愛には返す言葉が見つからなかった。
「今日はもう遅い。明日、内科で検診を受けてください。それでは」
医師は言うべきことだけを告げると病室のドアを開けて足早にその場を去っていった。
702 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:44
残された愛は途方に暮れて麻琴の顔を見つめた。
「麻琴……」
物言わぬ麻琴の白く透き通るような肌を見ているとつい弱気になってしまう。
やはりカクテル療法というやつを受けなければならないだろうか。
愛は今さっき医師が告げた内容を頭の中で反芻した。

『日和見感染の多くは初期の段階で対処していれば助かるケースが多い』

愛には長生きするつもりなど毛頭ない。
そもそも復讐を遂げてなおのうのうと生き続けられるほど自分に生命力が残っているとは
思えなかった。
後藤家の真希と吉澤家のひとみ。
少なくともあの二人を葬るまでは生きる。死んでも生きる。
その後はなるようになる。おそらく死ぬだろう。それでよい。
だが麻琴はどうだろう?
結果として愛の復讐劇に巻き込むことになってしまったが、自分に対する協力を惜しまな
い麻琴もまた志を同じくする「同志」だと勝手に決めていた側面は否定できない。
愛は麻琴の真意を面と向かって尋ねたことがないことに思いあたり、急に不安が押し寄せ
るのをどうしようもなかった。
もし、麻琴が自分から離れていったら……
考えるだに恐ろしかった。
自分が死してなお、生き続ける麻琴の姿など想像できなかった。
703 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:45

――麻琴、なあ返事してや、麻琴……

狂おしいほどの思いに駆られて愛は思わず心の中で懇願せずにはいられなかった。
ガラスのようにつるりとして生気の感じられない乳白色の肌を眺めていると愛の内面に狂
気とも正気ともつかぬ思いがひたひたと押し寄せてくる。

いっそ、真希、ひとみとともに麻琴をも――

麻琴の首もとに伸びた愛の白い指が小刻みに震える。
ひた、と吸いつくようにその柔らかい感触を指が捕らえた瞬間、電流のような衝撃が背中
を貫いて走った。
床に崩れ落ちた愛はぜぇぜぇと激しくあえぎながら、信じられないといった風情で両の掌
を見つめた。
やがてあふれ出した涙が視界を覆い世界をぐにゃりと歪ませると愛は嗚咽にむせびながら
拳をギュッと握り閉めて床に叩きつけた。
泣かない、泣くものかと気負う心だけが空回りして喉を締めつける。
そう気張れば気張るほど胸が締めつけられ、涙は滴り落ちて愛の頬を濡らした。
孤独という深く暗い淵のほとりに立ち、愛はひとり震えていた。

704 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:46


医師の言葉を聞いて、愛は思わずその場にしゃがみ込んだ。
「どうしました?」
「いえ、なんでも…ちょっと緊張してた、かな?」
「もう一日ほど様子を見て異常がなければ退院してもかまわないでしょう」
愛はほうっ、と大きく息を吐いた。
「よかった……」
「とはいえ、いつエイズを発症してもおかしくないんです。治療の件は本人とよく相談し
てください。落ち着いたら私からも麻琴さんに話します」
愛は麻琴の無事を確認して気が抜けたのか少し表情を緩めて医師に微笑みかけた。
「はい、相談しておきます」
医師は怪訝そうな顔つきで愛の様子に戸惑いながらも「それじゃ」と言い置いてドアノブ
に手をかけたところで動きを止めた。
しばらく何事か考えるかのようにドアノブを握ったままうつむいていたかと思うと急に振
り返り「高橋さん」と呼びかけた。
「あとであなたにお話したいことがあります。診察室に来ていただけますか?」
「?」

「退院後の通院のことなどいろいろと」
「は、はあ…じゃ、あとでうかがいます」
愛が答えると医師は軽く一礼してそそくさと病室を立ち去った。
愛は笑顔でその後ろ姿を見送ると明るい表情そのままに麻琴の寝顔を見つめた。
「麻琴…」
乱れた前髪を整えながら愛は誠に話しかける。
「良かった…ほんま、安心したわ」
愛の呼びかけに応えるかのように麻琴の鼻がひくひくと小刻みに震えた。
「麻琴…」
「ん、んんっ……」
「麻琴!わかるか?あたしや、麻琴!」
「ん、んん…あ、いちゃん?」
「麻琴…」
麻琴は長く寝すぎたためか状況を把握しかねて、まだ半分寝ぼけたような顔つきで不思議
そうに愛の姿を見つめていた。
705 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:47
「愛ちゃん、どうしたの……?」
「どうしたってぇ……あんた何も覚えてへんの?」
「わたし、何で寝てたんだろ…っていうか、ここどこ?病院?ねえ、愛ちゃん?!」
次第に自分の置かれている状況を理解してきたのか麻琴は急に取り乱して愛にしがみつい
た。
「大丈夫やて、生きてるやろ?」
愛の存外醒めた態度が逆に麻琴を落ち着かせた。
「大丈夫って…」
自分の身体を見回して麻琴はつぶやく。
「あ、大丈夫だ」
「せやろ」
愛は意識して普通に振舞おうとしていた。
HIVのキャリアであればいつエイズの症状が発現するか気にならないはずはない。
麻琴もまたそれを畏れているはずであった。
愛が動揺していれば、麻琴に余計な不安の種を与えてしまう。
「先生は何ともないって。それにしてもびっくりしたわ。あんた、吉澤の家で倒れたんや
で」
「えっ…?」

麻琴は記憶を辿ろうとしているのか目を細めて天井を見つめた。
「あっ」
「思い出したん?」
大きな声を出してパンと手を打ったのに応じて愛が尋ねると、麻琴は「あいぼんがONE
PIECEの最新刊、貸してくれるって言ったんだ。ねえ、愛ちゃん、預かってくれてる?」
愛はがっくりと肩を落としてはぁっ、とため息をつき、
「麻琴…」と言うのがせいいっぱいだった。
「ええっ?預かってくれてないの?すごい楽しみにしてたのにぃ」
「知らんがな!」
あまりに能天気な麻琴の態度にへそを曲げた愛はプイと横を向いて口を尖らす。
何を怒っているんだとばかりに首を傾げてなおもチョッパーがどうのゾロがどうのとぶつ
ぶつつぶやきながら恨めしそうに愛の横顔を見つめた。
「あっ!」
「なに?」

突然の声に麻琴は驚いてのけぞり、びっくり顔のまま固まる愛に対し訝しげに尋ねた。
「先生呼ばな」
「先生って?」
まだ寝ぼけているのか麻琴は呑気に構えている。
「お医者さんや」
「ああ……」
麻琴はふーんと口を尖らせた後、急に真顔になって尋ねた。
「ね、いい男だった?」
「知らん!」
愛は呆れたとばかりに立ち上がり、なおもねえねえと食い下がる麻琴を無視してドアに向
かった。
「先生呼んでくる」
「もう、愛ちゃんったらぁ」
706 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:48
甘える麻琴の声を背中に感じながら愛は廊下に出て看護婦詰め所へと向かった。
点滴の容器をキャリアに吊るしてゴロゴロと押しながら老婆がゆっくりと歩いている。
その横を愛はぶつからないように避けながら、なるべく走らないように意識しながらも小
走りに近い速歩きで通り抜けた。
入院歴が長いのか据えたような匂いが鼻腔を刺激して愛を不快にさせた。
ただ死を待ちながら澱んだ時間の中、惰性で生き続けるもの特有の腐臭だと思った。
詰め所に近づくと看護婦の姿が見えた。
何か真剣に書き込んでいるらしい姿を見て少しほっとする。
ここでは時間が正常に動いている。
愛は詰め所のカウンターへと向かった。
707 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:49
「それじゃお大事に」
医者は笑顔で告げると病室を去っていった。
つとめてにこやかに振舞おうとする態度が不審だったが、それよりも麻琴は先ほどから愛
の態度が気になって仕方なかった。
医者を呼びに行って戻ってきてからというもの能面のように固まった表情を崩していない。
何かあるとうかがわせるに十分不可解な態度だった。
「ねえ、愛ちゃん、どうしたの?さっきから、おかしいよ」
「え?何でもないよ。思ったより入院費が高かったからどうしようか考えてただけ」
それを言われると麻琴も黙ってしまう。
生活保護と愛の父が残した保険金で何とかやり繰りしてはいるがそれほど余裕があるわけ
ではない。
健康保険に加入していない二人にとって十割負担しなければならない医療費の重みはまた
格別だった。

「ごめん…これからお菓子、ちょっと控えるね……」
「あんたが気にすることやない」
「でも……」
「本来ならHIV感染に起因する診療はすべてあの連中が負担すべきや。でも訴訟の結果
が出るまで何年かかるかわからん。訴訟団の代表は和解に持ち込む言うてたけど……」
そう言って肩を落とす愛の姿を見るともう麻琴は何も言えなかった。
「裁判……勝てそうなの?」
「わからん。向こうは金にものを言わせて優秀な弁護士を何人も雇っとる。こっちも人権
派の先生が頑張ってくれてはいるけど……」
しばし二人は沈黙の間に沈んだ。
もっとも裁判の結果など二人はそれほど気にしているわけではなかった。
二人にとって制裁は自らの手によって下されなければならない。
もちろん、公正な裁判による社会的な制裁を彼らが受けるのであればそれに越したことは
ない。
だが、その保証が現時点で得られていない以上、何年かかるかわからない上、必ずしも勝
てるとは限らない裁判の結果を待つほどの時間的余裕が自分達にあるとは思えなかっただ
けだ。
708 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:50
「愛ちゃん…後藤さんにメール打ったの?」
「うん、石川が『椿姫』ってことにしてある」
「でも石川さん突っついても何も出ないよ。怪しまれるんじゃない?」
「麻琴」
ん?という顔つきで麻琴は愛の顔を見つめた。
愛は口の片端を吊り上げていかにも意地悪げに訊ねた。
「吉澤やなくて石川やったらええんか?」
「愛ちゃん……」
麻琴は顔を顰め、いかにも痛いところを突かれたという表情を愛の前に晒した。
「石川が邪魔か?」
「そ、そんなこと…」
しどろもどろになって俯く麻琴にはもとより隠し事というものができない体質のようだっ
た。
「麻琴」
「へ?」
顔を上げると愛の厳しい表情が目に入った。
「吉澤は殺る。それは譲れんで」
「愛ちゃん……」
縋るような目つきで訴えかける麻琴に対し「諦めや」と冷たく言い放つ愛。
愛の意志が硬いことはわかっていたものの、あるいはという期待を密かに抱いていただけ
に、麻琴はあっけなく引導を渡されたショックに言葉を返すことさえできなかった。
だが愛の表情にもどこか言い知れぬ辛さを必死で堪えている様子が窺えるはずであった。
いつもなら見落とすはずのない愛の表情の微妙な変化。
気落ちした麻琴が愛の表情に一瞬よぎった翳に気付く様子はなかった。

709 名前: 投稿日:2004/07/26(月) 18:51

Ultimo atto
A niuno in terra salvarmi e dato>>689-708
710 名前:名無しAV 投稿日:2004/07/26(月) 22:14
いいなぁ。高橋さんが泣いたシーンなんて、ほんと伝わってきましたよ。
711 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/04(水) 18:48
うるうる状態で705を読んで泣き笑いしましたです 。・゚・(ノ∀`)・゚・。
712 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/17(金) 04:15
きっとクライマックス
713 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/14(木) 21:40
・・・待つ
714 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/28(木) 18:25
待ってます
715 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:36

Andante con moto
アンダンテ・コン・モト

716 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:37



「うぁっ、こりゃ大量だっ!」
錠剤を収納したシートの束を掴んでその重さを量るかのように顔の上に翳す真希の姿を横
目で見ながら中澤はふんと鼻を鳴らした。
「出血大サービスやな」
「あたしの愛が通じたかな?」
「よういわんわ」
ほほーっ、と奇声を発しながら尚も上機嫌で錠剤の束と戯れる真希に対し中澤はやや醒め
た口調で「なんでやろな?」と問い掛けた。
「ま、あんたの愛とかバカな理由でないことだけは確実やけどな」
「ええーっ、ひどいー、ぶーぶー」
機嫌のいいときは無邪気な一人の少女に過ぎないのに。
中澤は嘆息した。
昨日までの悪鬼のような形相が別人のように思い起こされる。
禁断症状、という類のものではないのかもしれない。
だが、くすりは確実に真希を内面から変えていった。
薬を寄越せ、と凄む真希に対し、中澤でなければとっくに値を上げていたかもしれない。
たとえくすりの調達が自分ではどうにもならないと知っていても。

「気ぃつけや、何かたくらんどんで」
「誰が?」
「向こうさんや」
無邪気に微笑んで「ええーっ、こまるー」などと返す真希の仕種に束の間の安堵を覚えた
ものの、くすりの作用する時間は使うたびに短くなっている。
今回調達したものを真希一人ですべて服用するわけではないだろうし、後どれくらい真希
の機嫌が持続するのかは中澤にも予測がつかなった。
ひとつだけ確かなことはすでに真希が精神的にこのくすりに完全に依存しているというこ
とだった。
そういう意味では向精神薬に近い成分を含んでいるのかもしれなかった。
いずれにしても中澤が自ら服用することはない。
「それにしても」
中澤のつぶやきに真希は無反応だった。
錠剤の数を確認してシートごとにサインペンで記号をつけて台帳らしいものに記帳している。
在庫確認は商売の基本だ。
中澤は続きの言葉を頭の中でなぞった。
(何を焦ってんねや…『椿姫』は)
717 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:37
ここのところ『椿姫』からのくすりの供給が頻繁に行われていた。
真希と恐らく背後にいるであろう裏社会の連中がくすりの販売ルートを確立しようと躍起
になる姿ほを見透かしたような反応であった。
だとすれば『彼女』の狙いは何なのだろう。
いよいよビジネスが軌道に乗ったところでパタリとくすりの供給を止めてしまうつもりだ
ろうか。
くすりが旨味のあるビジネスに育った段階で一気に価格を吊り上げる。
商品の供給を『彼女』に頼らざるを得ない販売チャネルとしては『卸』の言い値で買わざ
るを得ない。

ビジネスとしてオーソドックスな手法ではあるが果たして真希はともかく後ろにいる怪し
げな連中が素直にそんな不利な条件を呑むかどうか。
なにやら風向きがきな臭くなってきたことに中澤は不安を覚えざるを得ない。
ひと悶着は避けられないような気がした。
そんな中澤の疑念に気付く様子もなく真希は陽気に鼻歌まで歌いながら作業を進めている。
718 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:38
「裕ちゃんさあ」
真希が歌詞の一部でもあるかのように間延びした調子で呼ぶ。
「はい?」
「うちらがくすりの売り仕切れるようになったら奢ったげるからね」
「ほぉ、そりゃ豪勢やな」
中澤は内心の動揺を押し隠すように極めて鷹揚に応えた。
「せやけど例のお姫様はどないするんえ?」
「いやー、梨華ちゃんには快く協力してもらうよてーだし」
「『快く』……か?」
「うん、『快く』ね」
真希の口調に何らの含みも感じられない。
だからこそ尚更中澤には恐ろしかった。
自ら仕組んだこととはいえ恐ろしかった。
恐らく梨華は無事では済まないだろう。
よくて香港あたりで一生客を取らされるか…

不思議と憐憫の情は覚えなかった。
人のことより今は我が身。
自らに襲い掛かろうとしている過酷な未来にどう対処すべきか。
そのことで頭の中は一杯だった。
「ねえ、裕ちゃん何が好きー?」
「へっ?ああ、ほんまに奢ってくれるのん?」
「もっちろーん!」
「ほーお、ほなおもっきし高いもん頼まなあかんやん。考えとくわ」
「うん、考えといてー」
中澤は考えねばならなかった。
いかにして自らに降り注ぐ火の粉を払うかを。
梨華が『椿姫』でないことはすぐに明らかになる。
避けられない災禍であればあとはいかにしてその被害を最小に抑えるかに腐心すべきであ
った。
そして中澤はその術を心得ていた。
719 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:38


愛は握っていた左手をそっと開いてみた。
指に絡みつく細く薄茶色の糸状の塊…
それを髪の毛と認めたくない気持ちが言語中枢に働きかけて何か別のものだと思わせよう
とでもしているようだ。
愛は自らの浅ましさに苦笑した。
おそるおそる頭に手を触れてみる。
髪の毛が抜けた箇所は見当がついていた。
手鏡の角度をいろいろ工夫してそれと思しき部分を確認する。
思ったとおり赤く腫れたようにそこだけ隆起して毛髪の群生を忌避している。
愛は思わず右胸骨の下あたりに指を這わせた。
ざらざらとした手触りに嘆息する。
麻琴はまだ気付いていない。
だがいずれわかってしまうだろう。
どのように伝えればいいのか…

愛は苛立ちを抑え切れなかった。
早く、早く始末をつけたい。
それは自分の体がいつまでもつのかという物理的な時間の制約のせいだけではない。
時が経つにつれて麻琴に対する態度が軟化しつつあることへの疑心。
麻琴を自らの計画へと引き込んでしまったことが果たしてよかったのか。
決して答えなど得られぬ問いを発してしまった自らの愚かしさ。
事実、ここ数日、愛は以前なら感じるはずのなかった良心の呵責らしきものに苛まれている。
良心の呵責……
まさか自分にそんなものの欠片ですら残っているとは思いもしなかった。
だが、ときおりどこからか声が聞こえるのだ。
今からでも遅くはない。
しかるべき治療を受ければエイズの発症は抑えられる。
HAARTと呼ばれる多種剤混合治療は信頼に足る実績をあげていると病院の医師は説明した。
そして麻琴にそれを受けさせるように、とも。

愛は断った。
考えるまでもない。
麻琴は愛とともに復讐を果たすのだ。
そのために治療など、延命を図るなどもってのほかだ。
そう思っていた。
720 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:38

だが……

愛は考える。
生きる、ということについて。
命ということについて、考える。
麻琴は生き長らえることができるのだ。
治療さえ行えば、このまま平穏に――いや、平穏ではいられまい。
だが、生きることはできるのだ。
そして、麻琴がそれを望んでいるのだとしたら……
そう考えると、愛の胸は張り裂けんばかりだった。
だが、その一方でまた、独り逝くことに対する恐怖から逃れられない自分がいる。
麻琴が吉澤の娘や学校の友達と楽しげに会話する姿を見せ付けられるたびに覚えた
なんとも形容しがたい胸の塞がれるような感覚。
それが寂しさだと気付いたのはいつからだろうか。
自分の死後、麻琴の心の中に自分が占める位置は次第に隅へと追いやられていくのだろう。
麻琴にとって自分よりもそれら友人達の存在が大きくなっていくことを想像するだに
愛は耐えがたい痛みを感じるのだ。
そして麻琴がそれを望んでいるとすれぱ。
いや、しかし復讐は果たされなければならない……
想いは循環してまた最初から繰り返す。
愛は麻琴に対して相反する二つの欲求を抱きながらその狭間で焦り、苛立ち、そしてその
果たせない相克の彼方にあるかもしれなかった二人の幸せを想い泣いた。

体全体がずっしりと重く感じる。
麻琴は悲しむだろうか。
それさえも定かでない今、ただ愛は急ぐしかない。
時間がない、時間が。
愛は脱毛した部分が目立たないように髪を櫛で梳かし、麻琴の声が聞こえる方へと向かった。
リビングでは麻琴がスナック菓子の袋を片手に携帯で話し込んでいた。
721 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:39
「え、うん。もう全然大丈夫だから。だからまたオムライス食べに行こうね」
愛はむっとして聞こえよがしにつぶやいた。
「オムライスとか気楽な…」
「えっ?」と振り返りすぐに「あ、いや何でもない。ひとりごとひとりごと」と通話の相
手に応える。
愛は麻琴の調子のよさに呆れるだけでなく、どこか言い知れぬ不安を胸の奥に抱えていた。
「うん、本当に大丈夫だから。もうすぐ学校にも行けるからっ!じゃあね!」
30分以上にも渡る通話をようやく終えた麻琴に対し、愛は意地悪げに腕時計をぽんぽんと
叩いて指し示す。
「長すぎ。携帯で長電話せんといて。今月もう2万円超えとるわ」
「ええっ、でも入院の連絡とかいろいろあったから…」
「連絡はええけど友達とおしゃべりすんのに携帯使わんとって。ええか?」
有無を言わさぬ口調に愛が本気で怒っているらしいことを感じ取って麻琴はしおらしく
「ごめんなさい」と項垂れた。

「大事の前やし。なるべく出費は抑えないと」
「そっか…そうだね。プリペイドの分もあるしね」
愛は口を閉ざしたまま深く頷いた。
電話代について同意したわけではない。
その前払いによる携帯電話を利用しての行為に対してである。
「後藤は調子に乗って湯水のように使うとる。あれだけ無茶な使い方して何も副作用がな
いはずないんや。早晩、何らかの異変が起きる。そこにうまく吉澤を――」
一瞬、麻琴の表情によぎった暗い翳は愛の心をもまた曇らせた。
愛は噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。
「麻琴……吉澤は――」
「愛ちゃん。ねえ、吉澤さんは――」
「麻琴っ!」
愛はひどく動揺した。
ぜえ、ぜえ、と肩で息をしながら目の前で項垂れている少女をいかにして宥めるか思案し
ていた。
畏れていたことが現実と化してしまっていた。
麻琴の決心がぐらついているのは明らかだった。
愛は邪念を振り払うかのようにきっ、と麻琴の目を見据え告げた。
722 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:40
「あたし。もう長くない」
麻琴ははっと目を見開いた。
その言葉が何を意味するか、HIVキャリアである麻琴に解らないはずがなかった。
「あ、愛ちゃん…」
震える唇からなんとか言葉を搾り出した麻琴に愛はうなずく。
「発症した…らしい」
そう言って愛はシャツの襟を大きく開いて麻琴に示した。
一見、痣のように見える紫色の斑点が数箇所、白い肌の上に浮かぶ様は死神が残した足跡
のようにも見える。
日和見感染によるものだとすれば愛の余命は長くないだろう。

「ぶ、ぶつけただけなんじゃないの?」
信じたくない気持ちがそんなことを言わせてしまう。
だが、そう問い掛ける自分自身、すでにそんな気休めが通るとは思っていない。
麻琴にはそれを受け入れるための時間が必要だった。
「ぶつけただけかどうか本人がわからんと思うか?」
愛は落ち着いたものだ。
無論、愛とて自らの陥った状況に関して達観しているわけではない。
死が恐ろしいのは誰にとっても自明の理である。
だが、死を恐れる以前に愛にはさらに忌避すべき現実があった。

麻琴の心変わり。
それだけは絶対に避けなければならない。
死ぬのはいい。
覚悟ができているとは言わない。
だが、近づいてくるものは拒めない。
それよりも独り、ただ一人で死んでいくことの方が愛には比べようもないほどに恐ろしく、
想像するだに耐えがたい屈辱であった。
まさにそれだけを愛は恐れている。

それだけを避けるがために、愛はこの機を逃すつもりはなかった。
麻琴の動揺に乗じて再び愛への、いや復讐へ忠誠を誓わせる。
吉澤の娘に対するほのかな好意など自分との強い絆の前では取るに足りないものであると
再確認させるのだ。
723 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:40
「愛ちゃん…」
目に涙を浮かべて愛の手を取る麻琴の態度に愛は応えつつ、内心で会心の笑みを浮かべていた。
これで再び全力で敵に向かうことができる。
二人にとっての正義を賭けた聖戦へと全身全霊を捧げて挑むことかできる。
「時間がない。麻琴の助けが必要や」
黙ってうなずく麻琴の頬に涙が流れ落ちひとすじの線を降ろした。
愛の確信に充ちた態度はどこか神憑っており霊性さえ漂わせている。
麻琴ならずとも誰であれ、今の愛の前ではその威光にひれふさざるを得ない。
そんな印象さえ与えていた。

なるほど愛は焦っていた。
すでに残り少なくなってきたサンプルを惜しげもなく振舞ってしまった今、手元にはもう
ほとんどくすりは残っていなかった。
これで後藤側が何らかの行動に出てくれなければ無駄撃ちに終わってしまうところだった。
幸いにして後藤、というよりもその背後にいるやくざ者が愛の仕掛けた餌に食い付く素振
りを見せている。
石川という少女には悪いがここは『椿姫』の替え玉として踊ってもらう。
その結果、恐らく無事では済まないだろうけれども。
愛は冷静にその後の青写真を描いていた。
早晩、石川梨華がくすりの供給とは何の関係もないことはわかるだろう。
連中もバカではない。
では、一体、くすりはどこから……
そこで登場する真打こそが他ならぬ吉澤の娘、というシナリオだった。
くすりの供給元からの一元的支配という目論見が崩れたとき、その怒りはすべて彼女へと
向かうだろう。
この復讐劇において最も凄惨な末路が彼女を迎えるはずであった。
そして、娘の惨殺によって明らかになるであろう吉澤父への社会的制裁。
娘を失うという精神的な痛手とともにその存在を社会上から抹殺することをもって愛と麻
琴の演出による壮大な復讐劇にようやく幕が降ろされる予定であった。
724 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:40

吉澤ひとみ。

彼女に罪はないはずだった。
不幸にもあの吉澤の娘として生まれついたということ以外。
だが今や、吉澤ひとみその人自体が愛の前に直接的な脅威として立ちはだかっている。
麻琴との絆を引き裂く敵として具体的な実像を伴うひとみに対する複雑な想いは単なる復
讐の枠組を超えたもっと深いところで憎悪とも嫉妬ともつかぬ奇妙な感情と交錯して、や
はり単純には割り切れぬ行動へと愛を駆り立てる。

だが、今はまだ…

愛のエイズ発症に動揺しているとはいえ、今、この時点でひとみに対する具体的な計画を
麻琴に明かしてしまうわけにはいかなかった。
どこか釈然としない気分を残しつつ、愛は自らの描いたシナリオによる復讐劇がいよいよ
佳境に近づいてきたことに対する興奮と緊張を隠せないでいた。
この期に及んで麻琴と自分との絆を信じきれぬ悲しさに愛はまだ気付いていなかった。

725 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:40



ハーフかな、という印象だった。
黒のツーピースを颯爽と着こなしたその姿はアメリカの法廷ドラマなどに出てくる敏腕女
性弁護士に見えないこともなかった。
そして何よりもそのタイトミニから伸びたすらりとした脚の美しさ。
腰の位置を挟んだ上下の比率が自分とは明らかに違う。
同じ日本人とは思いたくない。
そんな心情の表れであるのかもしれなかった。
「紹介しよう。キムラアヤカ氏、スイスのバーゼル本社から派遣された主任研究員だ」
「はじめまして」
「あ、どうも…」
握手のために掌を差し出す仕種もどこか日本人離れしているようだった。
戸惑いが顔に浮かんだのだろう。
「ああ、彼女のご両親はお二方ともれっきとした日本人だが彼女自身はスイス生まれのス
イス育ち。バタ臭いのは我慢してくれ。大丈夫、日本語もしっかりしたもんだ」
「え?いえ、別にそんな意味では…」
保田はつい気を緩めて表情に感情を露にしてしまったことを恥じた。
いけない。相手に余計な情報を与えては。
ゲームでは著しく不利になる。
件のアヤカ女史が自分の不利益になるような存在でないことは先般承知の上だが、これか
らパートナーを組む上でいたずらに相手の気分を損ねてもおもしろくない。
保田は自重した。

「バーゼルがわざわざあなたを送り込んできたことから見て、本社はいよいよ本気だと考
えてよさそうですな」
「社長がお考えになるほど私が重要な位置にあるかは判断しかねますが、今回、取得する
はずの臨床サンプルが市販化に向けて大きく影響するのは間違いないでしょうね」
「保田くん、そういうことだ。現場の処理はすべて君に一任したよ」
「はい。心してかかります」
今度は無表情で答えるのに成功した。
だが、内心では激しく動揺している自分があった。
例のくすりに関するプロジェクトが市販化に向けていよいよ大詰めを迎えている。
未だに癒えない傷を心に残したままの紗耶香をあんな状態に陥れたそもそもの原因である
あのくすり。
それが今、ミドリ十字、いやグリューネクロイツが自社の命運を賭け、その商品戦略にお
ける新たな柱として市場に投入されようとしている。
726 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:41
「あれが…あれが認可されようとしているのですか?」
「まあ認可まではまだ少し時間がかかるだろうが…いずれにしても今回のサンプルが重要
なことは君にもわかるだろう?」
「はい」
保田は短くうなずいた。
なるほど、そうであればバーゼルがわざわざエースを投入してきた理由が理解できる。
保田の私見では例のくすりの認可についてはまだ時期尚早と言わざるを得ないが、
ミドリ十字の失態以来、スイス本社の屋台骨もぐらついてきたらしいと風の噂に聞いている。
いずれにしても何らかの手を打たねば十中八九、ミドリ十字自体は清算の憂き目を避けられない。
青息吐息の経営を何とか支えているだけの状態から脱出する絶好の機会であることは間違
いなさそうだった。
後には巨額の訴訟費用と非加熱製剤によるHIV感染者への補償費用だけが残されてバーゼ
ルの負担となる。
そのHIVに対する抗レトロウィルス剤の開発も同時に進めてはいるが何分、薬害汚染の張
本人ともあって世間の風当たりは冷たい。
まったく異なる分野でヒット商品を生み出す必要性に駆られてスイス本社もこんな無茶な
スケジュールで動いているのだろう。

「それで今回の臨床被験者は?」
保田は努めて冷静を装った。
「はい、こちらが――」
アヤカによって手渡されたリストに目を通して保田は思わずうっ、と呻き声を漏らした。
「こ、これは……?」
「保田くん。君が非常に重要な立場にいることがようやく理解いただけたかな?」
後藤の蔑むような目つきを視界の隅に留めたまま、保田はがくがくと震えて崩れ落ちそう
になる膝をなんとか支えた。
呆然と手渡されたリストを握り締め、アヤカと後藤の顔を交互に見つめることしかできなかった。
事態はすでに保田の想像を遥かに超える次元で動き出していた。
727 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:41



コトコトと何かを刻む音に少女は目を覚ました。
ぼんやりと霞がかかったような視界の向こうに見える後姿。
そのどっしりとした存在感に少女はほっと胸を撫でおろした。
意識は覚醒したものの相変わらず泥水に浸かったような感覚から抜け出せない。
ちらちらと揺れる光を追って顔を上げればレースのカーテンがゆらゆらと揺れている。
ほの白く光る室内の明るさにいつのまにか昼を過ぎていたことを知る。
すでに時間の感覚はない。起きたときの明るさでかろうじて昼か夜かを判断するだけだ。
もっとも、それがどちらであろうとも少女にはどれほどの意味もなさなくなってはいた。
トン、トン、と規則的に刻まれるリズムに、少女は母が朝食を用意してくれた頃のことを
思い出した。

福井の豪農で何不自由なく暮らし、苦労知らずで育った母。
お嬢様育ち、と言ってもいいのかもしれない。
それだけに料理を覚えるまで最初は戸惑いがあったと聞いた。
母の手料理が外で食べるどんな料理よりも美味しいと信じて疑わなかった愛にとって、
笑いながらそんなことを言う態度に母の戯言としか思っていなかったのだが。
今、思えばたしかに母には浮世離れした雰囲気があった。
麻琴などは自分も多分に世間ずれしたところがあると指摘するのだが、あるいは母のそんな
ふわふわしたところを受け継いでしまったのかもしれない。
その母も今はいない。
母にとって父の自殺は重すぎたのだろう。
あるいは自分のなどの理解しえない深いところで母は父を愛していたのかもしれない。
今となっては確認する術もないが。
もうじき母の傍へと逝くはずの愛にとってはどうでもいいことかもしれなかった。

愛は流れてくる匂いに集中した。
ふんわりと漂う永平寺味噌の香りが鼻孔を刺激して今では五感のうちで唯一便りになる臭
覚に訴えると、少女はいたたまれなくなって「ま、こと…」と背を向けて朝飼の支度を続
ける相手に声をかけた。
まな板を打つ包丁の音が止んだ。
呼びかけられた少女はしばらくそのまま立ちつくしていたが、やがて包丁を置いてのそり
と体を回転させた。
728 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:41
「愛ちゃん……起きた?」
「うん、麻琴……」
麻琴と呼ばれた少女はやはりゆっくりと愛の寝る和室に近づきながら「何?」と相好を崩
して尋ねた。
「味噌…いい匂い」
「うん」
愛の視線が宙をさまよっているのを確認しながらも麻琴は体全体で喜びを表現した。
「懐かしい?永平寺味噌」
「うん…でもどこで――」
手に入れた――と愛が尋ねる前に麻琴が「こないだね」と話し始めた。「よし――、いや、
あの友達のお母さんからおすそわけで…」
愛は衰えつつある聴覚でもその言葉だけは聞き逃さなかった。
「吉澤なの?」
「え、いや――、あの…」
「吉澤やのっ?!」
衰弱が著しく、もはや自力では立ちあがることすらままならない人間の口から出たとは思えない
厳しい口調だった。

麻琴はうなだれながら「うん」と蚊が鳴くような細い声で答えるのがやっとだった。
「必要以上に吉澤に近づいたらいかん言うとったやろ?」すぐには返答できなかった。
回答次第では愛の症状が一気に悪化しそうな気配さえあった。
麻琴は言葉を選びながら慎重に答えた。
「愛ちゃん…怒らないで聞いて――」
「まことっ!」
「愛ちゃん、聞いて!」
今度は麻琴も譲らなかった。
語気にこもった決意の程を悟ったのだろう。
その表情までは確認することのできない愛はぼんやりとした視線を麻琴の頭部の辺りに漂
わせた。

「あいぼんから聞いたんだけど、吉澤さんは父親の事件への関与が明らかになった時点で
絶縁宣言したんだって…吉澤さんは全然、悪くないんだよ!それどころかあたしたち患者
には申し訳ないって――」
「キベンや」
愛は一言のもとに否定。
さらに表情を変えずに続けた。
「よしんば吉澤の娘があたしらに同情的だったとしてもあいつが吉澤の娘であることはか
わらん…麻琴、忘れたか?本人ではなく一番大切なはずの家族を失う痛みをやつらに味合
わせてやる。そう、決めたはずや」
「でも愛ちゃん、吉澤さんは…」
「まことっ!!」
怒声を発して気管に負担がかかったためか愛はそのまま激しく咳込んだ。
729 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:42
「愛ちゃん!」
麻琴は慌てて愛に駈けより背中をさすった。その目には涙を浮かべて。
この場はとりあえず愛をなだめなければならない。
麻琴は愛に約束した。
「ごめん、愛ちゃん…ごめん、そうだったね。ごめんね、愛ちゃん…」
苦しそうにぜえぜえと息をする愛のか細い体を抱き締めながら麻琴はごめんねを繰り返した。
「…わかって…くれたか?」
「うん。愛ちゃん、もう言わないから、だから許して…ね、ご飯食べられる?永平寺味噌
のお汁、冷めちゃうよ」
「二度と、二度とそんなこと言わんといてな、麻琴。あたしにはあんたしかおらんのやから」
「うん、うん。じゃ、用意するね。ちょっと待ってて」

そう言って立ちあがり、再び台所に向かい忙しく立ちまわる麻琴のぼんやりとした後影を
目で追いながらも愛は胸の内に溜まったもやもやを払拭することはできなかった。
優しい麻琴のことだ。
口では吉澤をかばう意志を引っ込めたものの内心ではまだ迷いがある、いやむしろ積極的に
吉澤を助けたいと思っているであろうことは想像に難くない。
そう考えると愛は胸の辺りがギリギリと締めつけられるような痛みを感じた。
愛は自分の余命がそう長くはないことを自覚していた。
限りある自分の一生。
その残り少ない生を死と向かい合って生きる最後のときを麻琴というパートナーとともに
過ごすことだけが、愛にとって今や唯一の心の拠り所 となっていた。
麻琴のひとみに対する
態度は心の安寧を根元から揺すぶって不安にした。

一人で死にゆく恐怖。
死、それ自体は恐くない。
むしろ辛いことばかりだったこの世界から解き放たれる喜びを感じてさえいた。
しかし、それは麻琴という僚友が傍らで自分の死を看取ってくれるという安心感があるからだ。
同じ病に蝕まれた者同士、余人には量り知れない苦しさを吐露できる唯一の存在。
おそらく愛が先に逝くことになるのだろう。
そして麻琴も遠からず愛の後を追って来るはずだ。愛には麻琴一人を残す心細さや不安感
はなかった。
730 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:42
一足先にこの不条理な世界から抜け出して死後の世界で麻琴を待つ。
二人にはこの世にもはや未練などないはずだった。あるとすればただ一つ。

人の皮を被ったあのケダモノたちにせめて一矢を報いること。
すでに手は打った。あとは、それぞれの仕掛けが有機的に作用して愛の望んだ通りの反応
を引き起こすかどうか。
その結果を知るまで生きられるかどうか……
そして、あの吉澤の娘に対する麻琴の決心が揺らいでいるらしいことが愛には気がかりだった。

麻琴は優しすぎる。
そして麻琴の優しさにつけ込んでのうのうと生き続ける吉澤ひとみという女が愛は憎いと
思った。
麻琴は騙されている。
父親に反発するのはこの年頃の若い娘として決して珍しい話ではない。
単なる生理的な嫌悪を正義感と混同するその無神経さが愛には腹立たしかった。
ある意味で悪役に徹する吉澤の父よりもなまじ正義漢ぶるその偽善性が愛には許せなかった。
それは興味本意で自分たちの境遇を記事にしようとつきまとってきたあの新聞記者たちに
も通ずるものがある。
傷ついた者の心情などこれっぽっちも考慮せず、土足のまま人の家にあがり込んで自分た
ちには取材する権利があると声高く主張する無神経さ。
そして自分たちの「正論」を主張してしまえばそれで何事もなかったかのように事件のこ
となど忘れてしまう都合のよい正義感。
吉澤ひとみには、あの自分たちだけは絶対的に正しく、決して間違わないと根拠もなく信
じ込む「良識者」たちが漂わせる雰囲気に反吐が出そうなほどの傲慢な空気を感じた。

麻琴の純粋さ。
その無垢な心が吉澤ひとみのような真に邪悪な魂に絡め取られて惑わされているのが愛に
は不憫でならなかった。
麻琴の立ち去った方向から永平寺味噌の懐かしい香りが漂ってきた。
久しぶりに食欲を誘われる匂いだった。
愛は麻琴に向かって手を合わせ、それから目を閉じてこうべを垂れた。
731 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:43
麻琴との出会いはある意味、必然だったのかもしれない。
最初に出会ったのはHIVに感染した血友病患者の集いであった。
今思えば、あの時点で自分に思いあがりのようなものがなかったといえば嘘になるかもし
れない。
感情の赴くままに正義をかざす似非ジャーナリストやあくまでもポーズとして父親の所業
を憎んで見せる吉澤ひとみなどの輩と根元のところでその偽善性は変わらなかったのかも
しれない。
ただ、愛にとっては文字どおり必死のあがきではあった。何かしなければ世間からは血も
涙も無い冷血家族として罵られるのではないかという誇大妄想にも似た焦燥感に追われて
いた。
自分は無垢なのだ、ただ単に父が非加熱製剤の流通を促す愚行を犯しただけなのだ。
そう思い込んで心の安寧を得るには周りの雑音が余りにも煩すぎた。

愛は父を憎み、父が奪ったHIV感染者の未来を嘆いた。
素性を隠したままボランティアとして血友病患者の集いに参加した愛はそこで同年代の少
女の姿を認めてひどく狼狽した。その少女の様子は愛が思い描いていた被害者のイメージ
と大きく異なっていた。余りにもニコニコしているのでひょっとしてこの子は知能の発達
が遅れているのではないかと思ったほどだ。
血友病に関する知識をほとんど持ちあわせていない愛は、当初、麻琴をひどく誤解してい
たことになる。話しかけるきっかけが何であったか、すでに忘れてしまった。気がつけば
麻琴と宝塚の舞台を観に行く約束をしていた。
愛は治療を続けるためには東京に移った方が有利だと麻琴が預けられていた施設の責任者を
説き伏せた。東京にも宝塚歌劇場はある。
そして麻琴は愛の家に移り住んだ。
だが、いまだにその約束は果たせずにいる。

今となっては、そんな約束など果たせる見込みはもはやないのかもしれない。
それでもなお、ことあるごとに「約束だよ、一緒に宝塚、行こうね」と励ましてくれる麻
琴の優しさ。
その優しさに応えるため、愛は少しでも長く生きようと強く思う。
732 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:44
時間が無い。
それを思うと愛は歯痒くて仕方がない。心がギリギリと音を立てて痛む。
時間が、時間が……
愛は一向に動き出さない悠長な相手の出方に内心焦りを感じていた。
真希は一体、どうなっているのだろう?
そしてあれだけくすりを服用しているはずの里田は?
自分たちの思惑に反してターゲットは今ものうのうと生を謳歌している。
愛は自らの生命力が日に日に弱まっていくのを実感していた。
だが、蝋燭の炎は消える直前に一瞬だけ、生涯最高の輝きで燃え上がるというではないか。
残り少ない愛の命が最後に燃やす復讐の焔。
その炎で焼き尽くすのだ。のうのうと行き続ける邪悪な連中を。
だが自分の生命力が目に見えて衰えていくのに対し、罪を贖うべき犯罪者の娘である彼女
らには当然訪れるべき薬物依存の兆候は一向に見られなかった。
あのくすりにはそもそも何の効力もなかったということなのだろうか…

いや、そんなことはない。
愛は心の中で首を振って強く否定した。
父の日記にはたしかにくすりの効果が記されていた。

臨床実験中だというそのくすりの服用により、人間が世にも恐ろしい化け物へと変貌して
いく過程が微に入り細を穿ち詳細に綴られていた。
中でも愛の目を引いたのは父が当時の厚生省からミドリ十字を傘下に納めるスイスのグリュ
ーネクロイツ社のバーゼル研究所に出向していたときに見つけたという臨床結果の記述である。
人目を憚る行為であることを充分承知していたためだろう。
同社は「くすり」の臨床実験をスイスではなく、イタリアはドロミテ山中の片田舎である
コルチナダンペッツォの特別研究所において行っていた。
父が出向中も表向きはそのような施設の存在については開示されていなかったらしい。
社内でも極秘とされていたその「臨調結果」についてなぜ日本の一官僚が知りえたか。
理由はあった。
733 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:44
父の記述によれば、臨床実験の被験者は「東洋人」であったという。
「東洋」=「日本」
そんな簡単な図式ではないのだろうが、黒い髪と黒い目をした「東洋人」であることが
父にその事実を知らしめたと言っても過言ではない。
父は「東洋人」として、アジア系被験者を対象としたデータをたまたま観察する機会を
得ていた。そして、どういうわけか極秘であるはずのその「臨床結果」がファイルの中に
紛れていたのだ。
研究所の職員を殺戮し、腹部を切り開いて内臓を貪ったという東洋の少女(注:原文に
"The oriental girl"としか記述がなかったため)
まるで架空の作り話としか思えない記述だが、愛は父がそんな馬鹿げた妄想に捕われる
人間でないことは良く知っている。
徹底した実証主義者である父は実験による結果とその論理的検証以外によるいかなる仮説
をも信じなかった。それが非加熱製剤を巡る省内の抗争では徒になった。
その父が書き残しているのだ。
まるっきり荒唐無稽な作り話としてしまうには愛は父を愛しすぎていた。

「臨床結果」についての記述は実験の記録などという生易しい表現では到底追いつかないほど
陰惨かつ生々しい描写に満ちていた。
愛は目を疑った。書いてある内容の真偽についてではない。
そのような効果を発揮する「くすり」が存在することに対してである。
これしかない、と愛に思わせるに充分だった。
くすりの最初の被験者。
それはまさに化け物と呼ぶに相応しい存在であった。
734 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:44
ことの発端は生殖機能の経過観察であったらしい。
「らしい」というのは正確な事実を知るものがすでにこの世に存在しないことによる。
経過観察の様子をまさにこれから記録しようとする時点で異変が起こったのだから。
騒ぎに気付いた職員がカラビニエリに通報したが、武装した警官が到着したときにはすでに
研究者、職員含め20人余りの全員がすでに殺されており、そのうち4人が腹部を切り開かれ
内臓が引きずり出された見るも無残な状況で発見されている。
辺りは血の海と化し、肉や内臓の欠片が飛び散るさながら阿鼻叫喚の惨状であったという。
犯人と思しき少女の姿は忽然と消えていた。事態の深刻さを理解した当局は陸軍に応援
を要請し、少女が逃走したと見られるドロミテ山中にヘリを飛ばす一方、大規模な山岳部
隊を編成し、人海戦術で広域網を張った。
氷雪の残る山腹で発見されたとき、少女は全身赤く染まり悪鬼のような形相をしていたと
いう。

生け捕りを命じられ、山岳部隊は警戒しつつ遠巻きにじわじわと囲みながら近づいた。
少女は囲まれたと知るや否や電光石火の早業で部隊の一角を崩し、たちまちのうちに一人
の隊員を血祭りにあげた。
まるで赤子の手をひねるように軽々と。
その時点で隊は生け捕りをあきらめたという。
部隊は散開して少女を迎撃する体制に移行した。攻撃に取りかかる準備が整うまでにさら
に二人の隊員が犠牲になった。
恐るべき身体能力である。
アイゼンやピッケルなどの登山装備を身につけた経験豊富な隊員でさえ滑りやすい氷雪の
上を少女は軽々と跳び渡り、隊員の予想だにしない角度から攻撃を仕掛け、わずか数秒の
うちに確実に命をしとめたという。
この時点で隊員たちの間で恐怖に代わる別のたぐいの感情が芽生え始めた。
仲間である隊員、三人ものの命を奪った怪物や憎しという感情である。隊員たちは雪中に
塹壕を掘り、アソートライフルで少女に集中砲火を浴びせた。
735 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:45
何発かの銃弾が的中した…はずだった。
が、少女は軽々と跳躍して最初の一撃をかわすとすさまじい勢いで庵遮壕に突進し、隊員
たちに襲いかかった。
恐ろしい化けものだった、と後に教われた隊員は語っている。
あっという間にライフルを取り上げられ、左肩の肉を食いちぎられたその隊員が痛みに耐
えつつ、腰に携帯していた登山ナイフを少女の背中に突きたてても、隊員を掴む力は衰え
なかったという。
いや、それどころか隊員の腕を掴む力は余計に強まったようにさえ感じたとも。
掴み合いの死闘を演ずる隊員を援護しようと残りの全員が固唾を飲んで見守る中、別の隊
員が密かに背後から近づいて短銃を少女の頭部に突きつけた。
気付いた少女は上体を反転、左手を一尖させると背後の敵が掲げる短銃を手首の先ととも
にたたき落とした。
手首から先を切り落とされた腕の先からシャワーのように鮮血が噴出するとともに湯気が
立ちあがった。
一瞬視界を失って少女が立ち止まったのを見て遠巻きに囲んでいた隊員たちが一斉にライ
フルの引き銃を引いた。
豪音が響きわたった後にもうもうと白煙が舞いあがった。
視界を遮られて部隊が一瞬、躊躇した隙をついて少女は脱兎の如く囲みを抜け出して氷壁を
駆け降りていった。
それ以来、少女の行方は楊として知れないという。

愛は父の記したこの部分を読んでこれだ、という確信めいたものを感じた。父は帰国した後、
まさかスイスで見聞したこの「くすり」と日本で再開できるとは思わなかったと日記にその
感慨を綴っている。
ミドリ十字がED治療薬としての認可を求めて厚生労働省に申請する、その前段階として
同省技官である父のもとへ届けられたらしい。
父の所見では薬品成分中、メタンフェタミン(MA)――つまり覚醒剤に酷似した組成の
未確認物質がシナプス可塑性を誘引しドーパミン神経系に働いて精神依存を形成する
可能性があると指摘するに留まっている。
あるいは、血液検査などではMAと判定されることもあるのではないかとも。
736 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:45
要は麻薬だ。
だが、それだけにとどまらない邪悪な意志の存在がそのくすりの背後には感じられた。
何がそうさせるのかはわからない。
だが、憎悪の激しさに我を忘れた愛がその邪悪なる存在に絡め取られたのはある意味で
自然な成り行きと言えるかもしれない。
無論、愛は意識していない。

父が非加熱製剤の件で自らの命を絶つことがなければあるいは今ごろ、この「くすり」が
堂々と市販され、市中に出回っていただろうか。
今となっては父に聞くこともできない。
それは父が自殺した本当の理由にしても同じことだ。
だが、すでに聞く必要はないと思っていた。
日記の最後のページ。
そこには父の照会に対する福井の病院からの回答が記されていた。
愛の出産直後、新生児出血症で緊急入院した際の記録。
そこには非加熱製剤の投与を受けた旨が記されていた。
愛はHIVキャリアであった。

以来、愛は復讐のみに余生を捧げてきた。
悪事をはたらいた本人を痛めつけたところでその苦痛はたかが知れている。
本当の苦痛とは本人よりもその身内、家族を本人の前で痛めつけることで生じる無力感と
絶望にある。
家族、特に娘を持つ父親にとっては、子供がくすりによっておぞましい化け物に変質する
のを目の当たりにするのは耐えがたい精神的苦痛に違いない。
愛は父の日記で読んだあの素晴らしく凄惨なくすりの効用に賭けた。
化け物の話が空想の産物であってもいい。
麻薬による薬物依存で充分だ。
薬物中毒者のおぞましい姿自体、まさに化け物と呼ぶに相応しい。
加えて娘が麻薬に溺れるなどという失態が厚生労働省のキャリア幹部にとって許されるはずがない。
父親を失い、母を失った。
そして自らもまた死を待つのみの体となった愛にもはや人間の尊厳などを考慮する精神的
余裕はなかった。
737 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:45
「――ちゃん、愛ちゃん…」
自分を呼ぶ声に振り返れば麻琴がお膳を用意して自分の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫?なんかぼぉっとしてたけど」
「え?あ、うん……それより――いい匂い…んんっ、生き返るわ」
「あはは、愛ちゃんったら大げさなんだから。でもいい匂いだよね。あたしもこのお味噌
好き」
「やろ?うちのお母さんが作ってくれた味噌汁はそりゃもう天下一品やったよ」
「お母さんみたいにうまくはできてないと思うけど…」
心配そうに見つめる麻琴の気配を感じながら愛は味噌汁のお椀を両手で抱えて口に運んだ。
ゆっくりと口に含んでその香りが口中に広がるのを楽しむ。

「んんっ……」
「どう?」
愛の返事を聞くまでは次の作業に取り掛かれそうにない麻琴が真剣な面持ちで反応を待つ。
愛は味噌汁の椀を睨みつけるようにしてその横からの気配を断ち切ることに集中した。
今の愛には麻琴の表情を正視する勇気がなかった。
「おいしい!」
「ホント?」
「うん、ホンマにおいしい!お母さんの味噌汁思い出した」
「よかったあ…実は心配でドキドキしてたんだ」
「ホンマ、美味しいよ。麻琴はいいお嫁さんに……」
言ってすぐに愛は「ごめん」と謝って口をつぐんだ。
「調子に乗りすぎた」
「いいよ、嘘でもそう言ってもらえると嬉しいもん」
「嘘じゃないってば、私は本当に――」
「うんん」
麻琴は首を横に振った
「いいお嫁さんに――なりたかった……だから、愛ちゃんにそう言ってもらえただけで嬉
しい」「麻琴……」

愛にはかけるべき言葉が見つからなかった。
ただ麻琴の気持ちに応えたい、それだけを思って味噌汁を口に運び続けた。
視界が曇った。温かい味噌汁の湯気を通して見る景色はこんなだっただろうか。
急に塩辛いものが鼻の中をツンと通り抜けた。
何の味かわからないくらいに口の中がしょっぱく感じられたときには、大粒の涙が視界を
ふさいでいた。
麻琴の啜り泣く気配を感じながらお椀を抱く愛の腕が震えていた。
738 名前: 投稿日:2004/11/16(火) 19:46

Ultimo atto
Andante con moto>>715-737


739 名前:名無し読者 投稿日:2004/11/16(火) 20:07
キテタ━━━━(Д゚(○=(゚∀゚)=○)Д゚)━━━━━!!!
740 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/11/21(日) 07:53
本当毎回すごいですよね
圧倒されます
741 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:07

Allegro ma non troppo
アレグロ・マ・ノン・トロッポ

742 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:08


「ごちそうさま」
「あ、あ、ほんでな。まこっちゃん、もう退院してて学校にもはよ復帰できそうやねんて。
コンコンが電話して聞いたって」
いつものようにそそくさと席を立ってしまったひとみの空間を埋めようとするかのよう
に亜依の言葉が食卓を充たす。麻琴が入院して以来、梨華もまた実母の症状が思わしくな
いことも重なって家に戻ってしまっていた。加えて長期出張で家を空けていた義父が戻っ
てきたせいで食卓の雰囲気は再び重く沈鬱なものへと変わっていた。亜依はなんとかその
空気を和らげようと孤軍奮闘している。

「結局、貧血やったん?」
「うん。前の学校でも急に倒れたことあってんて。うち、びっくりしたけど、貧血ってあ
んなんやのん?おとうちゃん?」
「ん?そうだなあ」
ひとみについてはすでに諦めているのか黙殺するのみの義父であったが、亜依に対して
は常に優しい笑みを浮かべる。それが亜依にはこそばゆいとともにどこかひとみに対して
後ろめたくもあった。
「貧血は血の病気だからなあ。バカにはできないよ」
「マコっちゃん、大丈夫なん?」
心配そうに眉を寄せる亜依の表情が可愛くて仕方がないのだろう。義父ははっはと快活
そうに笑いながら「大丈夫さ」と答える。

「でもあれですね」
母のみちよはいつもそういう代名詞を多用した抽象的な物言いをする。亜依にはそれが
どこか義父の気を引くためのテクニックのように感じられておもしろくない。
「あの石川さんいう子がいてくれて助かったわ。この子らほんまに慌ててしもうて」
「石川?」
急に義父の表情が固くなったのを見て亜依は体が強張るのを感じた。この人は怒ると高
圧的になって怖い。亜依は母が泣く姿などもちろん見たくない。
「石川…何というんだ?」
「なんやったっけ?」
「石川梨華」
母の乞うような瞳の色に抗することはできなかったし、第一、亜依に梨華の名を義父に
対して秘する理由はなかった。

だが…
743 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:08
「石川梨華だって?」
義父の表情がさらに険しくなったことで亜依は何かまずいことを言ってしまったのかと
後悔した。母も何事かとはらはらしながら見守っている。
「どうかしはりました?」
心配そうに訊ねる母を無視しながら義父はまさかな、とかまずいな、とかつぶやきなが
ら虚空を見つめている。
「えっ、でも梨華ちゃん、ええ人やで」
亜依の擁護を聞いているのかいないのか。何で今ごろ…ぼそっとつぶやいて義父は意を
決したように二人を順繰りに鷹のような鋭い目で見つめ、そして告げた。
「その石川って子な」
二人はこくりとうなずく。
「二度とひとみに合わせてはダメだ」
 亜依は驚いた。

「えっ、そんな!」
「絶対にダメだ!!」
義父の声が身体全体に響いて手先がじんと震える。その剣幕に亜依は思わず身を竦めた。
「で、でも、ひとみちゃん、えらい仲良くしてもうて――」
「ダメだ!!」むきになって叫ぶ義父の冷静さを欠いた態度に何か背景があるのは明らか
だった。ただ、この状況でとてもそれを聞き出す勇気は亜依にはなかったけれども。
「とにかくダメだからな!その子が来ても絶対に家に入れるな、いいな?!」
二人は黙ってうなずくしかなかった。それが本心からではなかったとしても。亜依はと
にかくまずいことになった、と思った。早くひとみに知らせなければ。
「まったくそんなことになろうとは…不愉快だ、とにかく不愉快だ」
そう言われずともすでに身体全体で不快の意思表示をして席を立つ義父の後姿を目で追
いながら、亜依とみちよはただ顔を寄せ合って意味ありげにうなずくことしかできなかっ
た。
744 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:08


「姉ちゃん、大変や!」
「なんだよ?やぶからぼうに」
ベッドに寝転がってマンガを読んでいたひとみが顔を上げる。と義妹の表情によぎる暗
い影に気付き居住まいを正した。
「どうした?」
真剣な顔つきで訊ねるひとみの横にちょこんと座り、亜依は「あのな」ともったいぶり
つつも真剣な眼差しを向ける。
「お義父さんが梨華ちゃんに会ったらあかんて」
「何?」
「いや梨華ちゃんに会ったらいかんて…」
「親父には関係ないだろ?どういうことだよ?」
思わず言葉も険しくなる。だが、予想していたのか亜依にはまだ宥めるだけの余裕があ
った。
「あ、いやなんか理由があるみたいやけど…」
いきり立つひとみを宥めようとする亜依に対してひとみは「なんだよ!理由って?」と
激しく突っかかる。亜依は予想したとおりの反応に内心苦笑しつつ、先ほどの言葉を繰り
返した。

「い、いや…なんか、わけありらしいねんけど」
「だからそのわけは何だっつってんだろ?」
苛々しているとはいえ、きつい言葉遣いになってしまうひとみに亜依はたじろいだ。姉
妹とはいえ血の繋がりのないことをこんなときに限って意識してしまう。
「あ、あの…ごめんお義父さんに直接聞いて…うち、よう説明せえへん」
すっかり萎縮してしまった亜依を尻目にひとみはすっと立ち上がり、そのまま階下へ降
りていった。
バタンバタンと、乱暴なリズムを刻む足音の激しさで亜依はひとみの憤りを慮った。
しばらくすると内容はわからないながらも激しい言葉のやりとりが耳に入り、亜依はああ、
始まったんだな、とぼんやりと考えた。
梨華に会ってはいけないと強圧的な態度で禁ずる義父の理不尽さも嫌だったが、義理と
はいえ妹の自分の心情を斟酌せず激情の赴くままに怒りをストレートに吐露するひとみの
態度も愉快ではなかった。亜依はなんとなく、心が重くなると身体まで重たくなったよう
に感じた。それは実際に体重が増えたこととは無関係だ、と思う。
何をするのも億劫になり部屋に戻るとすぐさまベッドに身体を投げ出した。
745 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:09
「梨華ちゃんって…」
ふと口にした言葉につい顔を顰める。なんだか嫉妬しているみたいで嫌だ。それでも最
後まで言い切ってしまわないと気持ちが悪い。亜依は自分でも損な性分だと思う。
「なんなんやろ?」
せっかく自分の学園生活がいじめから解放されて平穏を取り戻し、ひとみとの仲も接近
し始めたというのに。突然、梨華という女性があらわれてひとみの関心を周囲のすべてか
ら奪ってしまったようにさえ思える。多少、亜依の僻み心による脚色が加えられていると
はいえ、ひとみが梨華のことになると極端に感情的になるのは傍目にも明らかだ。それが
亜依にとってはたまらなく寂しい。
「姉ちゃんって…」
亜依はごろんと仰向けになって天井を見つめた。
「呼んでいい、って言ったのにな…」
天井に並んだ羽目板の継ぎ目の描く直線が次第にあやふやになってくる。少しぼやけた
視界の中で亜依が想ったその人は、その頃すでに家を飛び出していた。

746 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:09


着の身着のままで家を飛び出したひとみの足は自然とある方向へ向かっていた。冷たい
夜気が肌を刺す。父と諍いを起こして放逐された(もちろん、ひとみは自らの意思で家を
「出た」つもりでいる)のは随分と久しぶりだ。このところいろいろあったとはいえ、梨
華の登場以来、私生活は充実していたといってよい。それが今、もろくも崩れ去ろうとし
ている。
ひとみにとって梨華の存在が必ずしも何にも増して大切だ、ということではない。少な
くともひとみ自身、そうは意識していない。だが、梨華の存在が近頃の充実した生活の根
底にあるというおぼろげな自覚はひとみの意識の底に常にあった。それが父に対する激し
い反発として直情的な行動に自分を走らせていることにひとみはまだ気付いていない。気
付いていないからこそ、何に対して憤ってよいのか判然とせずに居心地が悪い。対象のは
っきりとしない怒りほど始末に終えないものはない。だから、ひとみの足は自然とそこへ
向かっている。

思ったとおり、扉の隙間からは薄い光の筋が漏れていた。否、予想していたわけではな
い。ただ、そこに誰かがいることを別段不思議には思わなかっただけだ。というよりはむ
しろそれを期待していたはずなのに。ひとみの心は建物の前で微妙に揺れている。

夜の校庭は周りを囲む電灯がまばらに灯すわずかな明かりに照らされた桜の樹が亡霊の
ように枯れ枝を伸ばす姿を恐ろしげに浮かび上がらせている。救いといえば気の早い蕾が
点々と枝々を縁取る様が遠い春を感じさせることくらいか。だが、今のひとみにそこまで
周囲の状況に目を配る余裕は無かった。今、すぐそこに灯る明かりのみが重要であった。
ひとみはぶるっと肩を震わせると寒さに押されるようにして扉に手をかけた。
747 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:09
「ちわーっす」
ガタン、と物音がした方向から声が返ってきた。
「よしこ!」
驚いた顔の藤本にちらと一瞥をくれるとひとみは乱雑した部室の様子を眺め回した。
「精が出るねえ」
相変わらずあらぬ方向に視線を走らせながらひとみは藤本に近づいていく。
「どうしたの?」
いきなりの訪問者に驚きながら藤本は次第に落ち着きを取り戻し、再びキャンバスを睨
み付けるようにして作業に戻った。
「どう、はかどってる?」
「どういう風の吹き回しか知らないけど」
藤本はある一点が気に入らないのかしきりに角度を変えてはその部分を眺めながら思案
を続けている。
「おかしな闖入者が現れなければ完成間違いなしだったのにね」
藤本の嫌味な物言いには慣れっこのひとみだが、最近はどことなく愛嬌が感じられるか
ら不思議だった。自分が変わったのか、それとも相手の心境が変化したのか。どちらにし
ても梨華の存在が大きく介在しているのは確かなように思われた。その想いがまたひとみ
の胸の底に苦く重苦しい感情を呼び起こす。

「ちょっと見せてー」
「?」
意外なひとみの要求に藤本は眉を寄せた。製作中の作品を見られたくないからこうして
人のいない時間に描いていることを知らないひとみではない。そして、藤本の中で醸成さ
れつつあったひとみの人物像はそのような要求を突きつける不躾な人格とは対極にあった。

だが…

藤本は考えた。ひとみはこれを見てどのように感じるだろうか。
未完成の作品を人目に晒す恥ずかしさと、ひとみになら、という想いが胸の中で交錯し
た。もちろん、完成後に納得のいくかたちで見てもらえるのならそれが望ましいのは確か
だ。だが、藤本は今夜のひとみの様子に何か切迫したものを感じていた。それが何である
か知る由も無かったが、藤本はなぜか今、この絵をひとみに見せなければならないような
想いに捉われつつあった。
748 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:11
「見てもいいけど…」
藤本はイーゼルからキャンバスを持ち上げながら「後悔してもしらないよ」とつぶやい
た。もちろん、ひとみの耳には聞こえない程度の小声で。ひとみは作品が自分に向けられ
た瞬間、雷に打たれたかのようにその場に立ち竦んだ。二人を包む凄絶な静寂。蛍光灯の
インバータが立てるブーンという耳障りな音が余計に静けさを際立たせた。藤本は自分の
心臓の鼓動が聞こえないかとひやひやしながらひとみの様子を見つめている。

一方でひとみの方はといえば、突然、異世界の扉が開けられたかのような驚きをもって
藤本の作品に対峙していた。その凝縮された空間には一部の隙も与えない濃密な光と影の
連なりがあった。
中央には二人の人物がいる。
まばゆいばかりの光をまとって今にも息を引き取ろうとする若者を抱え悲嘆に暮れる女
性という構図。
ひとみにはピエタと呼ばれるキリストと聖母マリアを描いた宗教画を題材にしているか
のように思われた。だが、抱きかかえられた人物の造形はいかにも中世的で男女の別がつ
けにくい。
そして聖母マリアらしき女性の描写も「母」というにはいかにも若すぎてむしろ少女と
さえ見ることができるほどのみずみずしさや繊細さといった印象を強く与えていた。

「これ…」

ひとみには少女に抱きか抱えられている若者が誰かに似ているように感じられた。
顔や身体の造作が特徴的だというわけではない。だが、全体の発する印象が誰か特定の人
物をモチーフにしていることをその卓越した描写が物語っていた。
「ん?」
絵に描かれた人物を指差しながら自分のほうに振り向いたひとみの目を藤本は泣いてい
るような、いや笑っているような微妙な表情で見つめ返した。
749 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:11
「なんで?」
「んん、なんとなく」
わかったようなわからないような問答ではあったが、二人の間ではたしかに通じたよう
だった。やがてひとみは肩の力が抜けたようにふっと息を吐いた。
「すごいな。やっぱ才能あるんだ、ミキティ」
「えっへん。やっとわかった?」
そう言いながらもひとみに誉められたことはやはり嬉しいのか極力平静を装おうとする
努力にもかかわらず顔銃に広がる笑みを押しとどめることはできなくて中途半端に強張っ
たような妙な表情を浮かべている。
「いや、まじで。みきてぃ画伯なら日展入選も夢じゃ――」
「よしこさ…」
ちゃかそうとするひとみを押しとどめて藤本は急に表情を引き締めた。ひとみはその急
変に戸惑い、「ん?」と眉を寄せて答える。
「まだ後藤のグループと繋がりあんの?」
「ないよ」
ひとみは即座に答えた。しかし藤本はまだ納得がいかない様子だ。

「でも後藤は幼馴染なんでしょ?」
「もう関係ないって」
わざと冷たく切り捨ててはいるものの、ひとみが後藤を完全に無視することができると
は思えなかった。それが藤本にはひどく危うく思えて仕方がない。
後藤についての悪い噂はもはや隠しようがないほど校内に広まっていた。だからむしろ
危ないのはひとみではなく、あの少女なのかもしれない。
「そう言えばね…石川梨華、あの子――」
「梨華ちゃんがどうしたの?」
気色ばむひとみに藤本はやれやれといった調子で諭す。
「あの子大丈夫?後藤の取り巻き連中、石川に焼き入れるとかなんとか息巻いてたけど」
「なんで梨華ちゃんが…?」
「そりゃ、後藤さんのこと堂々と嗅ぎ回って――あ、堂々としてたら嗅ぎ回るとは言わな
いか」
わざと軽い調子で話してもひとみの真剣に覗き込むような表情は変わらない。その真摯
なひとみの様子は梨華への思慕を思わせるようでまた藤本の心に重く圧し掛かる。
750 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:12
「梨華ちゃんが狙われてるっていうの?」
「取り巻きの一人が停学喰らったからね。生徒が噂してるの聞いた生活指導の先生が連中
マークしてたんだって。それで、やつらカンカンになっちゃって…」
「梨華ちゃんがうろうろ嗅ぎ回ったりしなければ…ってか?典型的なチンピラの逆恨みだ
ね、そりゃ」
口調は冷静ながらその怜悧な色を湛えた瞳を細めるにつれ表情は険しさを増していった。
危うい。危険だ。藤本はそんなひとみの純粋さにどこか危ういものを感じた。
「それよりもう帰るけどよしこはまだ残ってく?」
「あ、あのさ…ミキティにお願いがあるんだけどさ」
すっとひとみの顔から力が抜けてはにかむような表情で藤本を窺う。それがまた何か買
い物をねだる子供のようでもあり、藤本は思わず頬を緩めてしまう。

「何さ?」
「今日さ…ミキティんち泊めてくんない?ちょっとわけあり――」
突然、携帯の着信音が鳴ってひとみはジャージのポケットを探った。藤本は返答するこ
ともできず中途半端な状態で固まったままひとみが通話する様子を見守った。
「あ、ミキティごめん――もしもし…えっ?何?!」
ひとみは携帯を両手で抱えて耳元に近付けた。その硬い表情から察するに何かよくない
知らせなのかもしれない。藤本はごくりと唾を飲み込んでその様子を見守った。ひとみが
真剣な表情でうん、うんとうなずくたびに藤本は胸がぎゅっ、ぎゅっと締め付けられるよ
うで苦しかった。
何か得体の知れない不安な気持ちが藤本の胸を押さえつける。藤本にはひとみが通話し
ている受話器の向こうに悪魔のような幻影さえ見えるような気がして落ち着かなかった。
そして、その予感はあながち間違ってもいなかったことがじきに明らかになろうとしてい
た。
無論、藤本はまだ知らない。
751 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:46


「なあ、なんで梨華ちゃんに逢うたらいけないの?おトウさん」
「いや、何で、って言われてもこればっかりはなあ…」
ひとみが飛び出した後の吉澤家では亜依が義父に噛み付いていた。実子であるひとみに
は厳しいがみちよの連れ子である亜依にはひどく優しい義父である。今もその愛娘に眉を
顰められ慌てて弁解しようとするあたり、ひとみに対する態度とは大きく異なっている。
それはひとみの独特な正義観による反抗的な態度によるものでもあろうし、また亜依の人
懐こい性質に負うところもあるだろう。
いずれにしてもこの義父は亜依に甘い。だからつい、普通ならするつもりのない話もつ
いつい亜依の前では漏らしてしまう。
「しょうがないなあ。でも、これは亜依とお父さんの秘密だよ。本当は言っちゃいけない
んだからね」
どうも年齢を10歳くらい間違えているのではないかというくらいのいわゆる親バカ丸
出しの態度で接されて戸惑いを覚えないではない亜依なのだが、今はそんなことも言って
いられない。梨華との接触を硬く禁ずる理由を聞けるのは亜依しかいないのだ。この義父
がひとみに対して話すことはまずないだろう。

「うん。おトウさんと亜依の秘密な」
「うん、約束だ」
そう言って義父は亜依の注いだお茶に口をつけてから語り始めた。
「あれはお父さんが厚生省からの派遣でスイスの企業に出向してたときの話さ。14、5年
前になるかな」
亜依は真剣な表情で相槌を打つ。
「そこでお父さんは薬の研究を手伝っていたんだけれども、丁度、同じ時期に石川という
日本人が客員研究者として日本の大学から派遣されていたんだね」
亜依はハッとして顔をあげ「それって…」とつい口を挟む。
「うん。それが君らの言う『石川梨華』の父親さ」
単なる偶然なのだろうが亜依は何か運命のようなものを感じてその業の深さに眩暈がす
る思いだった。ひとみの父と梨華の父が10年以上も前に邂逅を果たしていた。亜依は義父
の話す内容に集中した。
752 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:46
義父の話はこうだった。
スイスに滞在していた吉澤の父と石川家は日本人同士ということもありすぐに親しくな
った。単身で赴任していた吉澤は妻と娘を連れてきていた石川家をよく訪れたという。娘
の梨華は利発で愛くるしくおじちゃん、おじちゃんと呼んでは吉澤に懐いていたらしい。
ヨーロッパアルプスを望む郊外の家で両家は親交を深めていった。
だが、穏やかな生活は長くは続かなかった。
「あれは梨華ちゃんの誕生日だった…」
義父の視線は遠い記憶の中を彷徨うかのように遠くに向けられていた。実際に狭いリビ
ングの壁の向こうに何かを見ているのかもしれなかったが、亜依にはその対象を推し量る
術もなかった。
「その前からおかしな兆候がないではなかったんだ」
誰にともなくつぶやくように言う義父の様子は苦渋に満ちているというよりはどこか
淡々としていて当事者というよりは観察者のような口ぶりだった。それほど客体化しなけ
れば逆に話せないほどの大きな出来事だったのかもしれない。亜依は義父の話す内容に集
中した。

「それ以前からよく原因のわからない小火が出たり家の外壁が焦げていたりといったこと
はあった」
消防署を呼ぶまでもない瑣事として放置していることに不審の念を抱かないではなかっ
たが、さりとて大事には至らなかったので義父もそれほど気に留めているということはな
かったという。
「後で考えると、前兆だったんだろうな」
 気付かなかった自分を責めるわけではないのだろうが忸怩たる想いを隠す余裕もないの
だろう。義父は偏頭痛に耐えるかのように強張った表情で亜依の後方を睨みつけ、それっ
きり口をつぐんでしまった。
亜依はその様子に何やら雲行きが怪しくなってきたのを感じて胸がきりきりと締め付け
られて辛いような、それでも一刻も早く続きを聞きたいような複雑な想いを噛み締めて義
父が口を開くのを待ち続けた。
753 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:46
10分ほども経っただろうか。
いや、存外1分にも満たない短い時間であったのかもしれない。いずれにしても亜依と
みちよにとっては長い長い沈黙だった。そろそろ息を詰めているのも限界に達しようとし
たとき。
突然、義父が口を開いた。
「知らなかったんだ。あんな薬が開発されようとしているとは…」
その苦悩に満ちた様子から亜依はその先に何が起きたのかわからないながら何かとてつ
もなく恐ろしい運命が石川家に襲い掛かったことを感じ取った。
「あれは――」
義父の拳がギュッと握られて小刻みに震えた。亜依は固唾を飲んで見守っている。
「――あれは悪魔のくすりだ」
明らかに異常な緊張を強いられているその外貌と対照的に落ち着いた口調は内容の深刻
さを寄り一層鮮明に浮かび上がらせるかのようだった。
「石川は、彼は――」
亜依はとうとう我慢できずに口を開いた。

「どうしたん?梨華ちゃんのお父さんがどないしたん?!」
義父は聞こえているのか聞こえていないのか何の反応も示さずに虚空を見つめたまま、
ぼそっとつぶやくように漏らした。
「――えた、あの子が…」
「何したん?梨華ちゃんが何したん?!」
次第に声が高くなる。腰を浮かせかけた亜依の腕をみちよが握り、首を横に振った。
「―やした、あの子は、嬉しかったんだ。喜んだだけなんだ」
「だから梨華ちゃんが何を――」
「亜依!」今度は強く腕を引かれて亜依は椅子の上に引き戻された。
「あかん!お父さん、おかしいやろ!な、大丈夫、あんた?」
だが亜依は知りたかった。梨華が何をしたのか。その耳で聞きたかったのだ。異常な興
奮に包まれて亜依もまた自分自身を抑制できなくなっていた。
「お義父さん!どないなしてん?梨華ちゃんがどないしてん?!」
「石川は私の目の前で――」
亜依はごくりと唾を飲み込んだ。
「――燃えたんだ。ぼおっ、と燃え上がったんだよ」
754 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:47
呆けたような抑揚のない口調で語られたその内容は、だが亜依を沈黙させるに充分な衝
撃を与えた。亜依は「えっ?」と口を開けたまま閉じることを忘れたかのように義父の様
子を見つめている。
「わけがわからなかった。我に帰って急いで消化にあたったときにはすでに皮膚の組織が
原型を留めていなかった。警察と消防署が到着したときには彼はすでに灰同然の状態だっ
た」
「ま、まさか梨華ちゃんが火遊びで?」
亜依は恐る恐る聞いた。
「違う。彼は煙草も吸わなかったし、州警察の現場検分でも着火の原因は結局わからなか
ったんだ。その場に燃え易いものは何もなかった。第一、石川は私の目の前でその直前ま
で――」
再びその悪夢のような光景を思い起こしたのか言葉を詰まらせる義父に亜依はそれでも
訊ねないわけにはいかなかった。

「せ、せやったらどないして……」
「結局、原因不明のまま事故として片付けられた。私もあまりの衝撃にそれ以上原因を追
求する気などなかったし、それよりも突然、一家の大黒柱を失った石川の家族を日本に返
す手配を進めなければならなかった」
義父は亜依の質問には答えずに説明を続けた。亜依は再び口をつぐんで義父の言葉に耳
を傾けた。
「石川の死は悲しかったが、それでもなんとか生活が落ち着いてきたときだ。私はなんだ
か研究所の様子がおかしいことに気付いたんだ」
「おかしいって?」
亜依は今や義父の話す内容にすっかり引き込まれていた。義父の目前で突如として燃え
上がった梨華の父。そして何やらいわくのありそうなスイスの製薬会社グリューネクロイ
ツの研究所での動き。謎に包まれた梨華の過去が今明かされようとしていることに不謹慎
ながら、亜依はその好奇心を隠すことができなかった。
755 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:48
「ああ」
義父は言葉を継いだ。
「なんとなく浮き立っているというか。何か大きな成果を前に興奮しているような、そん
な地に足が付かずにふわふわと研究所全体が妙な空気に包まれていたんだ」
そこで義父は湯のみを握り口をつけ、唇を湿らすと再び話し始めた。亜依は黙って義父
が口を開くのをただじっと待つ。
「私は片っ端から同僚を捕まえては問い質したんだが彼らはへらへらと笑うばかりで一向
に埒があかない。私のようなゲストには関係のない話だというんだ。この連中では話にならんと思った私はターゲットを変えることにした」
「どないしたん?」
亜依の問いに優しく微笑むと義父はそれから真剣な顔つきに戻り、告げた。
「日本から出向していたのは私だけではない。過去に出向経験がある日本人に当たって
みたのさ。そしてある人が教えてくれた」

にやりと微笑む義父の表情が一瞬、恐ろしげに見えたのは気のせいだろうか。亜依はす
っかり義父の話に引き込まれていた。
「グリューネクロイツは――」
義父は一息入れた効果を窺うように亜依の瞳を覗き込んだ。
「――悪魔をつくろうとしていたのさ。そして石川は…」
亜依は聞きたくないと思った。
「石川は悪魔に手を貸したんだ」
言い終えると疲れきったのか義父はテーブルに肘をついて頭を抱え込んだ。亜依の頭の中
では悪魔という言葉がこだまして、じん、と耳の後ろが痺れる感覚を覚えた。亜依は携帯
を弄ると震える指で姉の登録番号を探した。何か恐ろしい災厄が姉に降りかかろうとして
いる。焦る気持ちが指の震えをさらに増幅してなかなか番号を探し当てることができない。
ようやく震えが止まって呼び出した番号は通話中で亜依がいくら掛け直してもずっとその
状態が続いていた。そのうち亜依の脳裏に梨華の顔が浮かぶと、なんだか急に面倒くさ
くなって携帯をしまってしまった。
義父はテーブルの上で両手を組み、祈るように目を伏せて俯いたままだった。
756 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:48


落ちる、落ちる。
色鮮やかな方形。
鉤型、凹凸、さまざまな矩形の連なり。
それらはあっという間に積み重なって、華やかな電子音が鳴り響いた。

ゲームオーバー。

男はもう何回目かのその画面に一瞥をくれると再び視線を元の位置に戻した。その所作
を不審に思うものはいない。傍目にはゲームに昂じているようにしか見えないだろう。事
実、時折、男は思い出したように落下する矩形を操作することもある。目は別の方向に向
けたままで。
夕刻の新宿東口。
家路を目指すサラリーマンが吸い込まれていく一方で、誘蛾灯に群がる蟲たちのように
繁華街のネオンを目指すものを吐き出していく日本一のターミナル駅新宿の東口。その出
入り口を望む銀行の手前に男はもうすでに一時間ほどもこうして立ったまま携帯を操って
いる。
数メートル先のアルタ前には先ほどから男が視線を外さない人物がいた。美しい少女だ
った。男は確かめるように携帯の画面をゲームから待ち受けの状態に切り替えた。頬から
顎にかけての鋭角的な稜線がきりっとした印象を与えていた。やや細めではあるが涼しげ
な双眸からすっと降りた鼻筋は芯の強さを思わせる。薄いけれどもつややかな唇をきっと
引き締めた表情にはどこか凛々しささえ漂って見るものをひきつけずにはいられなかった。

間違いない。

今、自分が追跡し、その一挙手一投足に視線を釘付けにして離さないあの少女に間違い
なかった。男は満足そうに笑みを浮かべると再び携帯のディスプレイ上にゲームを呼び出
した。
757 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:48
制服のまま人待ち顔で佇む女子高生を放っておくのは失礼、とばかりにかれこれ4人目
の男が声をかけるが少女はそのたびに丁寧に断っている。あまりの丁寧さに声をかけた男
たちが恐縮してほうほうの体で立ち去っていくのが男にはおもしろくもあり、また、もし
やと思えば気が抜けなくもありでありがたいものではなかった。
だが男は半ば確信していた。待ち人はおそらく来ないだろう。その証拠に少女は先刻か
らしきりと携帯を取り出しては着信がないか確認している風である。待ち人が来るのだと
したらおそらく現れるであろう新宿駅の東口出入り口にも歌舞伎町方面の交差点にも視線
を向けることはない。ただ携帯の着信を待ち続けている。そんな感じだ。

男は未だに信じられずにいた。このようなごく普通の少女――美しさにかけて普通と言
い捨ててしまうのに多少の躊躇は覚えるもののそれ以外の点でごく普通の少女といって差
し支えないだろう―多少古めかしい言葉で言い換えるならば、そんな堅気の少女にあれほ
ど組が血眼になっても抑えられなかったくすりの流通ルートが担われているとは信じられ
なかったのだ。
良家の子女がくすりや売りを経験すること自体は珍しくない。だが彼女らはやがてそれ
がなかったことのように自らのテリトリーへと帰っていく。

単なる好奇心。

それ以上でも以下でもないはずのものだった。
しかしこの少女がくすりの流通に関わっているとなれば話は別だ。単にくすりを売り買
いするのとは比べ物にならないほどリスクを負う行為であることには違いなかった。男に
少女の拉致を命じた少年の言を信ずるならば、彼女の存在は流通過程のかなり中枢に近い。

今まで覚醒剤を始めとする薬物の供給源としては最近まで北朝鮮だった。沿岸の警備が
厳しくなってからは中国が台頭している。だが、そのいずれのルートも供給を担っている
のはこれ以上ないくらいの極悪人揃いであり、とても少女の手におえるような連中ではな
いはずだった。
758 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:49
北朝鮮の巻き返しなのか?
男は自問した。

否。

そう考えれば、切り立った顎のラインなどからツングース系の顔立ちと見ることもでき
ないではないが、やはり現実問題として彼らが毛も生え揃っていないような少女に数億、
あるいは数十億円にも達する大事な商品を委ねるとは思えなかった。
わからない。
背景のわからない少女を拉致するリスクを前に男は躊躇せざるを得なかった。だが、あ
の少年は彼に命じたのだ。彼女を連れて来い、と。

男の気が進まないもうひとつの理由でもあった。
『あんたは言われたことだけ着実にこなしてくれればいいんですよ』
少年のやけに落ち着いた言葉の響きが脳裏にこだました。
『あんたが理由なんか知る必要はないんですよ』
血が逆流して頬が紅潮するのがわかった。その場で叩き殺してやろうかと握り締めた拳をすかさずつかんだ若頭の掌の感触が今も右の甲に残る。
『……』
無言で自分の瞳をただじっと射通すように見つめたその意味を図るのに時間はかからな
かった。

派手な電子音が意識を呼び戻す。
携帯の画面ではけばけばしい原色の壁が光を放ちながら崩落しようとしていた。男はい
つのまにか右の拳に力を入れて握り締めていた。ゆっくりと親指から一本ずつ開き掌を眺
める。
ふっ、と息を吐いた。
自分はなすべきことをなすだけだ。
男は邪念を振り払うと再び少女の姿を追尾することだけに集中した。

それから何回のゲームオーバーをQVGAの小さな画面は映しただろうか。少女の存在は一
瞬足を止めてはまたぐに歩き去っていく人の波の中で完全に埋没していた。すでに数十分
もこうしてずっとたたずむ男に不審げな視線を寄越すものもいない。無関心さだけが服を
まとって空気のように流れていく。水面に浮き出た葦のようにただ少女と男の立つ場所だ
けが周囲の流れから孤絶していた。
漣が立った。
少女の周辺に微妙な波動が生じたのを男は見逃さなかった。携帯が鳴ったらしい。
男はゆっくりと携帯を閉じるとジーンズのポケットにしまいこんだ。それからゆっくり
と足を踏み出す。男の姿を気に留めるものは誰もいなかった。
759 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:49


背面の有機ELがきらりと光ったかと思うとけたたましく鳴り出した。黒電話の音、らし
いが梨華は生まれてこの方黒電話というものを見たことがないしその音色も想像できない。
にも関わらずそのけたたましさはある種の懐かしさを伴って梨華の心に響く。
それはこの着信音を設定している相手の印象にそのまま重なるからと言えなくもなかっ
た。梨華は苛立たしげに、だが少しにんまりと口元を緩めて通話ボタンを押した。
「もう!何時間待たせるの?」
強気な口調だが、表情は怒っていない。憎めない相手なのであろうことは口調の割に緩
みっぱなしの頬が如実に物語っていた。
「ええっ?まだ歩くのぉ?」
悪態を吐きながらもすでに歩き始めている。アルタ横の路地を抜けてそのまままっすぐ
歩いて行くと歌舞伎町へと渡る大通りに突き当たる。携帯はずっと耳に押し当てたままだ。
その間「もぉ」とか「なぁんで」とかの短い言葉を発しながら歩調が緩まることはない。
どちらかというと早足で進む梨華は人並みを掻き分けるようにすいすいと進んでいく。そ
のきびきびとした行動は水を切って泳ぐ淡水魚のようなしなやかさを感じさせた。

通りに面して立ち止まると一瞬、梨華は聞き返すような素振りを見せた。不意に表情が
厳しくなる。恐らく傍目にはわからない程度の微妙な顔色の変化。梨華は携帯を耳からは
ずすと翳すようにして手前の画面に見入った。
今度はあからさまに顔が強張るのがわかった。メールを見る行為にしてはおかしな体勢
であったが、信号待ちの人込みでその様子を特に不審に思うものはなかった。誰もが先を
急いで信号が変わるのを待ち構えている。車道の信号が赤になると気の早い中年の女性が
もう足を踏み出している。つられて何人かが歩き出すとぱらぱらと人が流れ出し、そのう
ちに対面の信号も青になった。
760 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:49
だが梨華は動かない。
じっと画面を見つめていたかと思うと再び携帯を耳にあてた。そのまままっすぐ前を見
て何やら真剣に話し込んでいる。信号を渡る人々を見送るかのようにじっと前方を見据え
ている。
歩行者用の青信号が点滅して赤に変わった。駆け足で横断歩道を渡り終えた人が対岸の
歩道に到達してその背中が一息ついた瞬間。
梨華はいきなり車道に飛び出した。
すでに動き出していた車がクラクションを鳴らして駆け抜けていく中、梨華は脇目も振
らずに横断歩道を突っ切っていく。
そのまま歌舞伎町へと梨華の姿が吸い込まれていくのを多くの歩道者が呆れ顔で見守る
中、やはり梨華の後ろから飛び出そうとしていた男が一人、呆然として車の流れの前で立
ち尽くしていた。
761 名前: 投稿日:2004/12/07(火) 20:50

Ultimo atto
Allegro ma non troppo>>741-760

762 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/13(月) 10:36
やばいよ、まじやばい。
面白い。続きが・・・
763 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:12

Violetta
ヴィオレッタ

764 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:12


 麻琴はストローを吸い込んで溶けた氷で薄まったオレンジジュースを少しばかり啜ると
再び窓の外に目を向けた。向かいに座った愛は何を考えているのか、時折、携帯で時刻を
確認するほかはじっと麻琴の顔を眺めて続けている。麻琴にはそれが気詰まりで、何か言
葉を発したい衝動に駆られるのだが愛の真剣な思い詰めたような表情を窺う限りそれを許
す気配はない。
 夕方のファーストフード店。さきほどからこうして無言のまま向かい合う二人を、だが、
奇異な目で見咎めるものは誰もいなかった。制服のままこうして何十分でも居座る女子高
生の姿はここ、新宿の駅前では特に珍しいものではなかった。愛がまた携帯に目をやった。
もう何度目になるのか、本人もわからないほど繰り返した行為の後で、愛は麻琴にうなず
いた。まこともうなずいて携帯のリダイアルボタンを押す。相手はすぐに出た。スピーカ
から勢いよく飛び出した声の大きさに麻琴は思わず端末から耳を離して顔を顰めた。打ち
合わせ通りの言葉を発するために口を開こうとした瞬間、緩みかけた頬に痛い視線を感じ
てちらっと視線を正面に向けると、怒りとも哀しみともつかぬ表情が自分に向けられてい
る。麻琴はすぐに弛緩しかけた表情を引き締めるとうなずきながら電話の相手に向かって
告げた。
「すみません、そこじゃなくて歌舞伎町なんですよ。すぐそこなんですけど、ホントごめ
んなさい」
 それから尚も不満の言葉を並べて自分を責める相手にいちいち、すみません、ゴメンナ
サイ、と畏まりつつ麻琴は上目遣いで窓の外を見つめる愛の様子を窺った。その横顔に何
の変化も訪れていないことを確認すると、麻琴もまた窓の外に目を向けた。通話の相手が
携帯を耳に当てたまま移動する姿が目に入った。そして、適度に距離をお置きながら後を
追う男の姿も。麻琴はもう一度目の前の少女の思い詰めたような硬い表情に視線を戻した。
765 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:13
 ここ最近、もうずっと顔色はすぐれない。病状は一進一退だった。その横顔の白さに麻琴
は言いようのない哀しみを覚えた。ファーストフード店の貧弱な明かりの下でその顔色は
必要以上に蒼く見えたのかもしれない。背後から急にけたたましい笑い声が響いた。学校
帰りの女子高生のグループらしいが視線を交互に窓の外と愛に写す麻琴に振り返る余裕は
なかった。不意にある考えが頭に浮かんだ。麻琴には自分の向かいに座る少女がこれ以上
苦しまなければならない理由はないように思えた。
 通話の相手の少女はすでに靖国通りを挟んで歌舞伎町へと渡る交差点に差し掛かってい
た。信号が青に変わって歩行者が渡り出す。少女もまた足を踏み出そうとした瞬間、麻琴
は「そこで止まってください」と告げていた。
「マコト?」
 自分に向けられた鋭い視線を頬に感じながら、それでも麻琴は視線を窓から見える通話
相手――そして、その背後から少女に迫る男の姿から離さなかった。他の歩行者がほとん
ど渡りきり、信号が点滅しても尚、麻琴は動かない。愛が苦痛に耐えるかのように顔を歪
ませて腰を浮かせた。歩行者用信号が赤に変わった。
「麻琴、あんた――」
「今です!渡って!早く!」
 麻琴の口から弾かれたように飛び出した言葉の勢いに押されてか、愛は腰を浮かせたま
ま動くことができず、まさかというように目を見開いて通話を続ける麻琴の姿に見入った。
何か言おうとするのだが、頭の中に次々と押し寄せるさまざまな感情の渦を処理しきれず
に「このっ」と言ったきり次の言葉が出てこない。言葉の出ないもどかしさに愛は麻琴の
腕を掴んで引っ張ろうとする。その腕を振り払い、愛に背を向けてさらに麻琴は通話を続
けた。
766 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:13
「石川さん、逃げて!誰か追っかけてる!逃げて、早く!」
「ま、麻琴、なにしよるん!ま、ま――」
 最後まで言えずに愛はその場にうずくまった。
「――愛ちゃん?」
 麻琴は一瞬、愛の姿を振り帰るとすぐに窓の外へと視線を戻し鋭く叫んだ。
「石川さん、すぐにそこから逃げて!早く――ダメ!止まっちゃダメっ!走って!」
 それだけ言い切ると携帯を閉じて足許にうずくまる愛の肩を叩いた。
「ちょっと愛ちゃん?愛ちゃ――」
 テーブルと椅子の間に屈んで愛の背中を抱き「愛ちゃん?」と尋ねるも返事はない。白
い顔をさらに蒼白にさせて苦痛に耐える愛の表情が麻琴の胸に突き刺さった。ただ荒い息
を吐きながらそれでもまだ混濁した瞳で何かを訴えようと自分の目をまっすぐに見つめて
くる愛のただにらぬ様子に麻琴は居住まいをたださずにはいられなかった。
「わかった愛ちゃん。でも今は――」
 麻琴は愛の顔を覗き込んでうなずくと脇の下に腕を入れて身体を持ち上げようとした。
病人ではあるけれどそれなりに体重はあると見えてすぐには持ち上がらない。同年代の女
子の中ではがっちりした体格に属する麻琴ではあるが、それと筋力とはまた別物なのか、
ぐったりとした愛の体を立たせるのは容易ではなかった。その頃には遠巻きに二人の様子
を見ていた客の一部が席を立って様子を窺っていた。麻琴は見られている恥ずかしさより
も、人がうずくまって苦しんでいるにもかかわらず手を差し出そうとしない都会人の薄情
さへの憤りから頬を上気させた。
 見てないで手伝えよ。胸のうちで言葉を噛み殺すと、麻琴は自ら身をかがめて愛の左腕
を肩に回した。ふんっ、と腰に力を入れると鼻息が漏れた。スクワッドの要領で勢いをつ
けて立ち上がる。すぐに崩れ落ちそうになる愛の背中を抱きかかえ、右腕を脇の下に差し
入れた。期せずして掌に感じた柔らかい感触を持て余して麻琴はふぅ、と軽く息を吐いた。
豊かな肉付きがなぜか悲しく感じられた。本来なら自分などではなく、もっと素敵な男の
子の掌に収まるべきなのに。麻琴はもう一度しっかりと愛の身体を支えるとバランスを取
りながら足を踏み出した。
767 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:13
「ちょっ――」
「?」
 急に体が軽くなったように感じて麻琴は反対側の肩を覗いた。誰もいない。振り返る余
裕はない。だが、後ろから聞こえたのではなさそうだ。とにかく愛を運ばなければと再び
歩みを進めると今度は「ちょっ、ちょっ」と二回、舌を打つ音が聞こえた。立ち止まって、
担いだ腕をしっかりと支えつつ、愛の胸の辺りを回り込む感じで反対側を覗き込んだ。
「歩くんなら声かけてよ」
 小柄な愛の脇の下から茶色い小ぶりな頭が覗いている。
「えっと……」
「ほら、行くよ。やばいんでしょ?下でタクシー拾わなきゃ」
「あ、ハ、ハイ」
 利発そうな瞳に見つめられて麻琴は少しどぎまぎした。いやに馴れ馴れしい態度から知
り合いかもしれぬと重い記憶を辿ったが、あいにくとその顔に見覚えはなかった。
「じ、じゃあ、行きますよ。せ、せーの!」
 タイミングを計って足を踏み出すとやはり独りで担ぐよりも大分楽だ。麻琴は小さな外
見によらず、意外に力のありそうな女性の申し出を心底ありがたいと思った。二人で愛を
運び始めると、周囲を取り巻いていた人々は興味が失せたかのように自分の席へと戻って
いった。狭くて急な店内の階段を何度か休みながら降りたときにはそれでもタクシーが待
ち受けていて驚いた。冷たいようでいてそれでもしっかりと助けてくれる人のいることに
麻琴は都会も捨てたものではないなとひとりごちた。そんな麻琴の感慨を知って知らずか、
小柄な女性は「早く!何してんの!」と叱咤して愛を運び入れるよう促した。ありがとう
と言いかけてその女性がちょこんと奥の座席に座り「早く乗って!」と怒ったように急か
す態度に麻琴はハイとうなずくのがやっとで、口の先で引っ掛かったまま感謝の言葉は行
き場を失ってその胸のうちに飲み込まれた。
768 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:14
かかりつけの病院名を告げてようやく落ち着くと麻琴は愛の手を取って言葉を失った。
その冷たさは麻琴の心臓をもまた凍らせるかと思われた。意識がなくなったこの状態で尚、
梨華を逃がしたことを責めたてる愛の執念に麻琴は言いようのない哀しみを覚えた。
だが悲しみに浸る間もなく、愛を挟んで反対側に座る女性が問いかけてきた。
「ねえ、あのさ……」
 その言葉に麻琴は再び心臓が止まりかけた。 
「あんた、後藤真希のこと調べてた子だよね?」
 麻琴の細い目は見開かれ、その小さな女性のよく光る目に釘付けになった。愛を挟んで
沈黙する二人。道は空いていたと見えて渋滞にかかることもなく、車はスムースに走り続
けた。タクシーのフロントガラスに大病院の病室の灯りが映ってもなお、麻琴はその眩し
さに目を背けるでもなく、ただ呆然と相手の顔を凝視し続けていた。長い夜になりそうだ
った。
769 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:14


 矢口真里はシェイクの残りをストローでずずっと吸い上げ腰を浮かそうとした瞬間、視
界に入ってきた何かが気にかかった。何だろう?今しがた眺めた光景のどこかに見覚えが
あるはずだ。既視感だけを頼りにもう一度周囲をざっと眺め回すが辺りにはどこのファー
ストフード店にもつきものの若い男女のグループや会社勤めのサラリーマンの姿ばかりだ。
矢口が追っているやくざモノの姿などでないことは一目瞭然だった。もう一度。腰を浮か
せて今度はゆっくりと視線を右から左に動かした。だめだ。わからない。あるいは思い過
ごしだったか。矢口は諦めて腰を下ろしかけた。その瞬間に見えた。横顔だ。その横顔だ
った。だが振り向いたのは一瞬。今、矢口の視線はその後頭部に釘付けになった。少し脱
色して薄くなった髪の色に記憶が戸惑ったようだ。そして以前見たときよりも若干、ふく
よかさを増したように思える後姿もまたその少女と確認することを躊躇わせた。
 矢口はどうしたものかと思案した。保田の行動を追ってはいるものの依然として膠着状
態が続いている。ミドリ十字側との連絡が頻繁に行われていること以外、新たな情報はつ
かめていない。また真希の線は少年を介していよいよ組が動き出しそうな気配はあるもの
のいたずらに動いても雑魚が引っ掛かるばかりでターゲットを絞れずにいた。今日も当た
りをつけていたチンピラの追尾が不発に終わったばかりだった。一息入れようと立ち寄っ
た店で偶然、掴んだチャンスと考えたくなるほど切羽詰った状況ではないにしろ、閉塞し
た状況を打破するきっかけと思い込みたい程度に精神が疲弊しているのだろうとは感じて
いた。
770 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:14
 矢口は後藤真希と接触する人間を探っている途上、視界の中にいきなり立ち入ってきた
この少女のことを思った。真希には敵が多い。当初、矢口はこの少女も当然、そうした政
敵(?)のうちの一人だろうと考えていた。だがそれにしては何かが変だった。そのマジ
メそうな雰囲気といい、どこかやぼったくさえ見えるその外見から受ける印象は不良とい
うイメージからは程遠かった。第一、対立する学園内のグループの一員として動いている
にしてはあまりにも無意味な行動に思えたのだ。実際、真希に対して学園内で表立ってこ
とを起こす者はいなかった。それに矢口が観察していた範囲で彼女が真希の尾行中に何者
かの指示を受けているような様子は確認できなかった。意味がわからないながらもそのど
こか切迫した表情に矢口は彼女が真希とくすりを繋ぐ何か重要な鍵を握っているような気
がしてならなかったのだ。捜査感、というほど立派なものが得られるほど場馴れしたわけ
ではないにしろ、矢口の少ない実戦経験からも彼女が何からかの形で真希を中心とする円
の中に取り込まれているであろうことは確からしく思われた。だが、そうだとしたら一体、
何が彼女と真希を結びつけているのだろう。その点に至ると矢口の志向は完全に行き詰ま
った。自分の経験不足が恨めしい。保田と行動をともにできないのは痛かった。彼女なら
何らかの糸口を見つけ出してくれそうな気がする。だが、今となっては、それはできない
相談だった。保田が何を考えているのかわからない状態でこちらの捜査情報を明らかにす
るわけにはいかない。薬害エイズの訴訟騒ぎ操業停止を余儀なくされているミドリ十字が
絡んでいるというのも胡散臭い。
771 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:14
 矢口は少女の向かいにいる、やはり色白で――というよりは蒼白な顔で一心に相手に語
りかける少女の様子に目を奪われていた。今、こちらに後頭部を向けている少女も雰囲気
は垢抜けないもののなかなか可愛らしい顔立ちであったが、こちらから見える少女の顔立
ちは遠目からもあきらかに整っていて、その顔色の白さがまたその美しさに凄みを与えて
いるようにさえ見えた。彼女もまた、真希と何らかの接点を持っているのだろうか。矢口
は声をかけてみたい衝動に駆られた。だが……一体、どういう口実で話し掛けたらよいの
かわからない。自分ではまだまだ若いつもりでいたものの、社会人として働き始めてから
無我夢中で走り続けているうち、気が付けば自分の感性が同年代の学生たちと――年齢の
変わらない進学した友人達とさえ――大きくずれてきたことを感じないではいられなかっ
た。だから矢口は怖かったのだ。声をかけ難い、といえば聞こえはいいが実のところ矢口
は彼女たちが浴びせるであろう視線が怖かったのだ。『なに、このオバサン?』とその表情
で語るであろう彼女達が怖かったのだ。だから矢口の身体は動かない。保田と一緒であれ
ばその矛先は彼女に向かうだろう。『オバサン』という嘲笑は保田に浴びせられたのだと納
得することができた。自分に対する彼女達の視線を意識する必要はなかった。だが……
 矢口が躊躇しているうちに二人の少女は会話というよりも言い争いに近いほど激しく遣
り合い始めた。遣り合う、とは言うものの実際に激昂しているのはこちらに顔を向けてい
る美少女のようだった。真希を追っていた少女は矢口に背を向けたまま何か切迫した様子
で携帯に話し続けている。穏やかでない様子にすぐ近くの席にいる客が二人の方へちらち
らと視線を寄越し始めた。いよいよ声をかけずらい雰囲気になって矢口は天を仰いだ。す
ぐに視線を戻したつもりだった。だが、少女がいない。目を離した一瞬のうちに、こちら
を向いているはずの少女が視界から消えていた。
772 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:15
「なっ……」
 動揺した矢口は思わず腰を浮かせていた。そして見たのだ。その場でうずくまる少女を
渾身の力で起こそうとする彼女の姿を。蒼白な顔色はやはり単に色白というだけでなく、
何らかの体調不良によるものだったらしい。矢口はその身を案じた。どうしたのかねとか、
やばいんじゃないのという声は周囲から漏れ聞こえてくるものの、手を貸そうとする者は
皆無だった。矢口は迷わず携帯を取り出してタクシーを呼んだ。救急車よりもこの辺を流
しているタクシーを捕まえた方が早い。矢口は携帯を閉じてポケットにしまい、すたすた
と二人のもとへ歩み出た。左肩を担いで懸命に運ぼうとしてはいるものの右半身の体がだ
らりと垂れ下がって今にも崩れ落ちそうだった。さっと右腕を掴んで自分の右肩に巻きつ
けるとともに左腕を脇の下に差し入れて身体を支えた。といきなり左半身のみが前に出て
矢口はバランスを崩しかけた。
「ちょっ――」
 思わず声に出して矢口はさらにちょっ、ちょっ、と二回舌打ちして「歩くんなら声かけ
てよ」と告げた。「えっと……」情けない声を出しながら少女が覗き込んでくる。おどおど
とした態度は以前見た凛としたイメージとはかけ離れていた。矢口は途方にくれて懇願す
るような視線をよこす反対側の少女に「ほら、行くよ。やばいんでしょ?下でタクシー拾
わなきゃ」と声をかけた。
「あ、ハ、ハイ」想像していたよりもたどたどしいしゃべり方がさらに少女の幼さを印象
づけた。 二人でなんとか病人を店の前で待ち構えていたタクシーに乗せると矢口はいよ
いよ切り出すときだと思った。
「ねえ、あのさ…」
 続けて放った言葉に対し、少女は期待以上の反応を見せて矢口を満足させた。
773 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:15


 里田まいは差し出された名刺をしげしげと眺めながら、それでもさして疑問に思うでも
なく、スイスなんだあとまるで人ごとような感想を漏らしただけだった。むしろまいの背
後から心配そうに名刺を覗いたり、あるいは名刺の主に対して威嚇的な視線を投げかける
あさみやみうなの緊張した様子がこっけいに見えたかもしれない。
「で、そんな説明で納得する奇特な人間が世間にどれだけいると思ってんの…どぅゆあん
だすたん?」
 まいは自分の置かれている状況を楽しんでいるかのようにその女に――名刺の主は女だ
った――問い掛けた。答えを期待しているのでないことは明白だった。それがまいなりに
見せたせめてもの優しさだったのかもしれない。自分が決して好きであさみやみうなを置
き去りにするのではないことを示すためだけに。
「日本語で大丈夫ですよ」
女は笑いながら続けた。
「それでもあなたは来てくれる…いや、来ざるを得ない。違いますか?」
 ふっ。まいは片頬を吊り上げてとびっきりニヒルなつもりの表情で応えたが、果たして
相手に通じているかは定かでなかった。ただ、絵に描いたようなキャリアウーマン然とし
た雰囲気にも関わらず、なぜかこの女に懐かしさを感じてしまう自分を同どう御してよい
のか戸惑っていただけだ。そして、不本意ながら認めていた。結局、自分はこの女につい
ていってしまうのだろうと。
「ダメです!」
 みうなの声が裏返った。目には涙を溜めている。まいはゴメン、と胸のうちでつぶやい
た。ゴメン、みうな。
「この人は危険です!絶対、行っちゃダメですよ!」
774 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:15
 みうなの暖かさを右腕に感じながら、そしてみうなの右腕を掴みながらただ首を横に振
るあさみの強さに多少の羨望を覚えながら、まいは胸の奥にじんと痺れるような感触を持
て余していた。自らに課された使命を果たす前にこのような人の優しさにめぐり合わせて
くれた神の采配に感謝すべきなのか。あるいは過酷な運命の定めを自分に課した神の酷薄
さを詰るべきか迷いながら。だが、右腕を掴む力の強さが増すにつれ、そしてみうなの気
持ちが掌の熱を通じて伝わるにつれ。まいはやはり神に感謝せざるを得ないのだろうと思
った。
「大丈夫。すぐに戻ってくるから」
「ダメぇっ!!」
 なんと感の強い子だろう。まいは感嘆するとともに、すでに涙で顔の半分をぐしゃぐし
ゃに濡らしながらまいの右腕を振り回すみうなの手に左の掌を重ねて優しく告げた。
「どうにもあたしが行かないと始まらないらしいの…ね、みうな」
 まいは右腕を掴む掌を外し、その豊かな胸に泣きじゃくるみうなを迎え入れた。少しで
も自分の想いが伝わるように。少しでも、このいたいけな少女の傷心が和らぐように祈り
ながら。
「あさみ…みうなをたのんます」
「大丈夫。大丈夫だよ、まいちん。あたしらは大丈夫だから」
 後ろを振り向かずに言い切った。あさみの声が震えるのを背中に感じながら、まいは自
分の胸に埋もれて嗚咽を漏らすみうなの頭を優しく撫でた。振り向くことはまいのささや
かな自尊心が許さなかった。振り向けば自分はきっと泣いてしまうだろう。あさみに対し
て涙は見せたくなかった。それがともに過ごした仲間に対する最後の意地なのか見栄なの
か。まいはどっちでもいいと思った。
775 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:15
「名残惜しいとは思いますが、そろそろ……」
 女の冷静な口調をきっかけに、まいはみうなを立たせた。相変わらず泣きじゃくり、我
を失いかけているみうなの肩を掴んで喝を入れた。
「こらっ、しっかりしろ!しばらくは二人で仕事こなしてかなきゃならないんだからね!
ああっ、とかううっ、とか言葉にならない呻き声を喉の奥から搾り出すようにしてみうな
は最後の抵抗を試みた。
「じゃあな」
 ぽん、とひとつみうなの頭を軽く叩いてまいは名刺の女が扉を開けて待つ黒塗りの大き
な車へと向かった。あさみがみうなを引き止めてくれているのだろう。それ以上、自分の
腕をつかんで引きとめようとする力のないことにまいは安堵するとともに少しばかりの寂
しさを覚えつつ、女の顔をにらんだ。
「やくざのお迎えじゃないんだからさ…もっとこう、目立たない車出せなかったの?」
 何かしゃべっていないと弱さをさらけ出してしまいそうだった。ただ、まいがそう言い
たくなるのも無理はなかった。エレガントな曲線に縁取られた最新型のメルセデスであれ
ばまだしもセレブのお出迎えと呼べないこともなかっただろう。だが、このなんだか名前
のわからないずんぐりとした国産の大型車はいかにも東映のやくざ映画にでも出てきそう
ないかめしい表情でまいを迎えていた。
「ぴったりだと思いますけど?」
 けっ。まいは女に中指をひとつ立てて見せながら悠然と後部座席に滑り込んだ。すぐに
扉が閉まり、反対側の扉から女が乗り込んできた。「お願いします」という女の声に車が音
もなく発進した。後ろ髪を引かれながらもまいは後ろを振り返らなかった。
「お疲れ様です」
 女の言葉にまいは力なく首を横に振った。結局、あさみとはまともに別れの挨拶もでき
なかった。それだけがまいの心にひっかかった。すぐに戻れるとは言ったものの、まい自
身、その言葉をほとんど信じてはいない。
776 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:16
「すごいもんだね。大企業の力ってのは。弱小アイドルのスケジュールくらいあっという
間に調整しちゃうんだから」
「それは多少事実と異なります」
 女はしれっとした表情でまいに向かいながら告げた。
「あなたの活動していたグループは『弱小』でもありませんでしたし、そのため『あっと
いう間』に調整がついたわけでもないのです」
 いちいち細かい齟齬を修正しないと気が済まない性質なのか、女はまいが呆れて「は
っ?」と聞き返すのにさえ「正確にはですね」とさらに説明を加えそうな勢いだった。
「いや、いい。もういいから」
 慌てて止めるまいを不思議そうに見ながら「よろしいのですか?」と首を傾げる女の姿
にまいは不本意ながらどこか可愛らしさを感じてしまい、同時にそう感じてしまった自分
に少なからず戸惑った。次の瞬間、その戸惑いを隠すかのように反射的に尋ねていた。
「あんたって育ちよさそうだね…スイス、だっけ。ずっと向こう暮らしなの?」
「はい。父が商社でいろいろなところに赴任するものですから。たまたまスイスに着任し
ていたときに私が生まれてそのまま現地の寄宿制の学校に通わされて…」
「そのまま向こうで就職しちまった、ってこと?」
「はい」
 まいはふーん、と短く鼻を鳴らしてから初めて手元に名刺をもらっていたことを思い出
し、顔に近づけてその文字を凝視した。
「ぐ、ぐぅ……このuに点々ついたやつ何て読むの?」
「ウーウムラウトですか?ないと発音が『グルー』、あると『グリュー』になります。グリ
ューネクロイツ、もちろんご存知ですよね、お父様の――」
「親父は死んだよ」
 女はハッとした表情で口を押さえながら「ごめんなさい」と謝った。まいはむしろ、そ
の絵に描いたような上品さが可笑しくて、笑いながら構わないと告げ、それからすぐに真
顔に戻り尋ねた。
777 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:16
「で、その世界に冠たるグリューネクロイツの主任研究員さんがあたしを温泉旅行にご招
待…ってわけでもないんでしょ?一体、何が起こってるの?」
「多分、お気づきかと思いますが…」
 まいは軽くうなずいた。気づいている。薄々感づいてはいる。自分の体がおかしなこと
になっていることに。そして、それがおそらくグリューネクロイツ、もしくは子会社のミ
ドリ十字が直接、あるいは間接的に関わっているのであろうということに。だが、それは
一体、どのような症状なのか。そして、グリューネクロイツは一体、どうやって、そして
何のために自分にくすりを仕込んだのか。気づいてはいてもわからない。まいは女の言葉
を待った。
「里田さん…あなたが服用された催淫薬、と思われていたくすり、あれは――」
「あれは?」
「当社が開発中の新薬でした」
 まいは「新薬?」と繰り返し、視線を天井に向けた。
「でもなんだって――」
「少し長い話になります」
 見ると女の表情も幾分険しくなっている。まいは、はぁっ、と息を吐いた。それなりに
ややこしい話になりそうだった。
「ゆっくりでいいから。説明して」
「はい」
 まいはもう一度手元の名刺に視線を走らせた。アヤカ、アヤカキムラ。名前の前に"Dr."
が付いている事を見ると博士号でも取得しているのかもしれない。自分とさほど年齢の変
わらないように見えるこのアヤカという女性が担っているのであろう職務の重さを量りか
ねてまいはその横顔を凝視した。
778 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:16
 と、車が急に止まった。前席の窓が開いて運転手が右手を差し出し、券を取るとすぐに
また発進した。どうやら高速に乗ったようだと思い、まいが車窓の風景を確認すると目の
前には灰色のフェンスが立ちはだかって何も見えない。しばらくするとフェンスが途切れ
て高架沿いに立ち並ぶビルの姿が目前に迫った。ぐん、と加速して車がスピードを上げる
と林立するビルの窓にぽつぽつと点り始めた灯りが夕闇の中、後ろに流れていった。まい
は急に心細さを感じてみうなの泣き顔を思い出した。今度は自分が泣いてしまうかもしれ
ない。
「里田さん…私はあなたの症状を確認するために派遣されたんです」
 まいはアヤカの方に振り向いてその瞳を見つめた。心なしか潤んでいるように見えるそ
の双眸からどのような感情を読み取ってよいのかわからずにまいは「症状…」とつぶやい
た。アヤカはうなずいて、それから微笑んだ。
「あなたのその症状は…私たち研究者にとって救いであり、希望であり、そして福音なの
です」
「……」
 今度は茶化す気になれず、まいは次の言葉を待ってじっとその潤んだ瞳を見つめ続けた。
どうやら泣いている場合ではないらしいと悟ったまいの表情が引き締まった。
「わたしは…真希、後藤真希を救えるかな?」
 アヤカが微笑む。
「そうであることを祈っています」
 ふふ、っとまいも笑みを浮かべた。
「科学者が『祈ってます』か」
「はい」
 もう一度アヤカが微笑むその表情を見てまいはもう戻ることはできないのだ、と今さら
ながらに悟った。自分が巻き込まれてしまったらしい事件は思いも寄らない背景の広がり
をともなって今、アヤカという使者の口をしてまいにその全貌を語らせようとしている。
まいはこの期に及んでなお自分に降りかかった災難――この体の異変が大製薬会社の実験
約によるものであるとは信じられなかった。と同時に振り返ることもせずに別れることに
なったあさみへの思いがこみ上げてきていいようのない寂しさを覚えた。そんなまいの様
子を心配そうに眺めつつ、アヤカはゆっくりと口を開き始めた。
779 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/10(月) 02:17

Ultimo atto
Violetta>>763-778

780 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/15(火) 22:54
いつも楽しみにしています。
781 名前:桃ノ木 投稿日:2005/02/16(水) 09:32
ぼくもどきどきして待ってます。
782 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/09(水) 15:00
ドキドキしながら待ってます。
783 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/11(月) 01:36
やべぇ…おもろい。
続き待ってます。
784 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/26(日) 11:13
続きを楽しみにしています。
785 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/09(土) 01:20
作者さん生存報告だけでもお願いします(つД`)
786 名前: 投稿日:2005/07/10(日) 07:06
作者です。
申し訳ありません。
今月中に更新します。
787 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/13(水) 09:21
ありがとうございます。
いらっしゃるのならば、まだまだ待てます。
788 名前:名無し読者 投稿日:2005/07/15(金) 20:03
楽しみに待っています
789 名前:桃ノ木 投稿日:2005/07/17(日) 00:31
おおおっっ!!
待ってますた!!
よかったっす!!!
790 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:05

La Forza del Destino
運命の力
791 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:09


「ごめんね、ひとみちゃん…でも、私、誰に相談していいかわからなくって…」
麻琴との通話中、突然、走るよう指示されて戸惑いながらも全力で駆け出した梨華は、もう
何度目になるのか、乗り継いだ電車からひとみに電話をかけていた。
「わかった。今は追われてる雰囲気はないんだね?」
 ひとみの言葉に慌てて周囲を眺め回すが、あいにく梨華にはもとから尾けられている感覚な
どなかったのだから、麻琴に逃げろと言われて逃げたものの今も自分が何物かに追われている
のだと感じることは難しかった。
「うーん…私のことじっと見てるような人はいないみたいだけど…」
「とりあえず電車を降りたら、人通りの多い商店街を抜けてわたしの家に向かって――」
 そこまで言ってひとみはハァッと力なく息を吐いた。
「ダメだ…親父がいる」
「え。どうしたの?」
 梨華はひとみが何を言ったのかわからずに聞き返した。
「うちはダメだ。なんか親父がわけわかんない状態だし」
「そう…」
「そうだ、やっぱしミキティにお願いしようかな」
「ミキティって…藤本さん?」
 ゴトンという電車の揺れに体が傾く。慌てて細い支柱を握る手に力を込めるが携帯をもつ手
の震えは止まらない。梨華の声に困惑した様子を感じ取ってか、ひとみが弁解口調で説明を始
める。

「いや、その…なんていうか。親父と喧嘩して家飛び出しちゃったんだよね…で、さっき学校
でミキティに会ったからさ…」
「ひとみちゃんはいいけど私は無理だよ」
「いや、でも…そっか…」
 落胆するひとみの様子が目に浮かぶようで、梨華は思わずふふっと微笑んでから慌てて周囲
の様子を窺った。大丈夫。誰も小娘の電話などに耳を傾けていない。
「いいよ、私もミキちゃんにお願いする。でもどんな顔するかな?」
 さも楽しげな話題を口にしているかのように明るく言い放つ梨華の様子にひとみは救われた
ような気がした。かつて梨華の画材を燃やそうとまでした藤本の家に梨華が泊まる。考えてみ
たら愉快なことのように思えるから不思議だ。こういうのを呉越同舟というのだろうかと柄に
もなく思ってみたりもしたが、国語の得意でないひとみにはよくわからなかった。
792 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:10
「それにしても――」
 梨華の声にひとみの思考は故事成語の世界から現代へと舞い戻った。
「――麻琴はなんだって急にあんなことを言い出したのかな?」
「麻琴には電話したの?」
「うん、でもつながらなくって…だから気になってるんだけど…」
「逆に麻琴の方が心配だね、そりゃ」
「そうなの。病みあがりだし、なんともなければいいんだけど」
 不安げに声をひそめる梨華の声にひとみは慌てて言いつくろった。
「あの子はひとりじゃないから大丈夫だよ。それより、今は自分のこと考えよう」
 つとめて明るく振舞おうとするひとみの態度に梨華はいつのまにかすっかり安堵しきってい
る自分に気付いた。窓の外に目を向けるといつのまにか目的の駅に近づいていた。緊張のあま
り車窓の様子にまで気を回す余裕はなかったのだ。
「あ、もうすぐ着くから悪いけど」
「うん。気をつけて。わたしもすぐ行く」
 短く、じゃ、と言い置いて梨華は携帯を閉じた。近づいてくる駅前のネオンはどこか切迫し
たリズムで瞬いて梨華の胸を疼かせる。不安は払拭されたはずなのに、なぜだか胸騒ぎは収ま
らない。そう思って周囲を見渡してみるもののそれらしい兆候はどこにも探すことはできなか
った。

 駅に到着する旨のアナウンスを聞きながら、梨華は麻琴のことを思った。彼女は何を伝えよ
うとしていたのだろう。そしてなぜ、梨華に降りかかる災厄を知っていたのだろう。想いはし
かしプシュッという気の抜けた音を伴って開いた車両のドアによって掻き消された。仕事帰り
のサラリーマンやOLの人込みとともにホームに押し出されながら梨華は一刻も早くひとみに
会いたい思いに駆られてくたびれた足取りで家路を目指す集団の間を縫うようにして歩を早め
た。どういうわけだかひとみの安否が気遣われて仕方なかった。 
793 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:10


「はっ?見逃した?何言ってんのかわかんねー」
 少年の声に場の空気が張り詰めた。真希は潤んだ瞳で見上げながら次の言葉を待つ。
「だからわけわかんねーって。あんたプロだろ?素人に気づかれて――気づいた様子はないっ
て、現に逃げられてんだろ?バカじゃねーの、こいつ」
 少年の物言いが明らかに挑発的な意図を含んでいることに気づかない真希ではなかったが、
今にも暴発しそうなほどに怒りで顔を紅潮させた男たちを前にして少年の身を案じないではい
られなかった。熱をはらんだ怒気に圧されてか、つい少年に「ねえ」と声をかけてしまう。そ
れでも電話の向こうにいる相手に対して執拗に罵倒し続ける少年の態度に変わりはない。真希
の不安をよそに挑発を続ける少年を見かねて携帯を持つ腕に縋ろうとしたそのとき。すぅっと
伸びた手が静かに少年の腕をつかんだ。少年は予期していたかのように満面の笑顔を向ける。
年かさの男が口を開いた。

「いい加減、勘弁してやれや。それ以上やつをこけにしたら俺にも止められんぞ」
 止められない、というのは罵倒された主が少年に対して募らせた憎悪が駆り立てる行動のこ
とを示しているはずだった。だが、抑揚を欠いた男の口調には年長者らしい落ち着きが感じら
れず、いささか不釣合いな印象を与えた。少年の言葉に苛ついているのはむしろ、自分である
ことを男はわかっていたからかもしれない。無能を嘲られたのは舎弟ではなく、自分なのだと。
そして、その想像は多分、間違っていない。真希は不安げに両者のやり取りを見詰めている。
794 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:11
「若頭(かしら)に言われちゃしょーがねえなあ」
 少年は悪びれもせず「あんた命拾いしたな」と憎まれ口を叩いて通話を打ち切った。真希に
意味ありげな視線を投げかけると続けて携帯のボタンを操作して耳に当てた。短い呼び出し音
の後で出た相手に少年は上機嫌で「そっちはどうだ?」と尋ねる。
 相手の声にいちいち「うむ」とか「そうか」とひとしきり相槌を打った後「引き続き追って
くれ」と言い残して通話をオフにした。真希はようやく少年が何を指示したのか悟り、顔色を
変えた。
「……待って――ね、あの子を巻き込むのは止めて。関係ないじゃん!あの子はくすりに関係
ないじゃん!」
「悪いが若頭んとこの若い衆がへまやらかしてくれたからな。第一、あのガキ張ってりゃ必ず
連絡してくるっつったのはお前だろーがよ」
少年は真希の懇願など意にも介さず男に向き直った。
「若頭、おたくのミス、帳消しにして差し上げますよ」
「おめぇ、いってぇ何企んでんだ?あぁっ?!」

気色ばむ男を目で制して少年は「やだなあ」と軽くいなす。
「保険っすよ、保険。若頭んとこの若い衆が見失ったターゲット。うちでちゃんと抑えとき
ましたから」
「何?」
男の顔つきが変わった。場合によってはこの場で血を見ようかというほどに凄まじく張り詰
めていた空気が瞬時にして淀む。嘲笑、怒り、失望、期待。さまざまな思惑が入り乱れて混濁
した意識の充満した空間は真希に妙な息苦しさを覚えさせた。
「あの女が頼れるのはただひとりだけ…な、おい、そうなんだろ?」
急に話を向けられてはっと振り返るが少年はにやけた表情を正面の男に向けたままだ。
どくっ、と胸の辺りが脈打ったと思った瞬間、視界が一面の深紅で染まった。
795 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:11
「その頼りになる男…いや、女だったけかな?ま、どっちでもいいや。そいつをマークしと
けばあの女が現れるってわけですよ」
 自信に満ちた様子で語る少年を憎憎しげに睨み付けながらそれでもしっかり「何人だ?」と
尋ねるあたり、男もただのちんぴらではなかった。
「何人出せばいい?」
 少女の現れるタイミングで兵隊を繰り出して一気に任務を完遂する。頭の中ではすでに
そんな次善の策が浮かびつつあるらしい。
「全員引っ張ってもらいますよ」
 自分に対して口を開きかけた男を制して、少年は得意満面といってもいい表情で続けた。

「女とはいえ二人分の体を持っていくんだ、人数が多いに越したことはない。それに――」
少年の言葉に耐え切れず耳を塞いだ真希はさらにどくっ、どくっと血流が体内を駆け巡るの
を感じた。そのたびに視界を覆う赤がいよいよ濃さを増す。額に汗が滲んだ。思わずうっと短
く呻いた真希を無視して少年は言い放った。
「どうせ二人ともやっちまうんだ。フルコースで行きましょうや」
「おいおい、滅多なことを口にするもんじゃねえ。俺たちは紳士なんだぜ」
男の言葉に違いねえ、と誰かが相槌を打つと場がどっと沸いて先ほどまでの剣呑な雰囲気が
すっかり吹き払われたかのようだった。荒くれた仕事を前に高揚した気分さえ漂う。
796 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:12
真希は耐えられなくなって少年の腕を掴んだ。
「ねえ、嘘でしょ…ねえ?」
「お前らしくもねえ。幼馴染かなんか知らんがもっとクールになれよ。これはビジネスなん
だぜ」
「でも、あの子は関係ないんだよ…お願いだから…」
「心配するな。ぶつのルートさえ抑えリャ女に用はないんだ。二人とも楽に殺してくれるぜ。
それにしても――いてっ!おい、放せ!」
男に腕を振り切られて真希はハッと我に返った。
「何すんだてめえ…」
 苦しそうに腕を擦る男と自分の両手を交互に見つめる。男の腕に赤い輪状の痣が浮かんでい
た。どうやら自分が掴んだ跡らしいと気付くや真希は自分が壊れかけていく恐怖の前に視界が
再び赤く染まっていくのを感じた。少年が激しく詰る声をどこかで意識しながらも、真希は赤
い世界へと自ら沈んでいくのをどうすることもできなかった。
797 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:12


 中央道を八王子からかなり山中に入ったところで車はインターを降りた。夜の闇は一層深さ
を増して行く手を遮るように見えた。時折山腹に垣間見える怪しげなホテルの看板が光るたび
に陰鬱な気分が募るのを保田はどうすることもできなかった。
「妹さんの気分はどうかね?」
「今は薬で落ち着いていますが…現場でどういう反応を見せるかは見当もつきません」
 後藤のデリカシーを欠いた無神経な言葉つかいに苛立ちながら、そうとは悟らせない淡々と
した口調で保田は答えた。繋いだ手の先で当の本人である保田紗耶香、世間では『保田圭』と
して知られる美術界の新鋭が静かに寝息を立てている。

 心なしかS市郊外のミドリ十字事業所へと近づくたびに握っている紗耶香の手から緊張の高
まりのような脈動を感じたような気がする。薬で眠らされていながらもこれから何が起こるか
を察知しているのだろう。もとより、そうした人間の意識の深層に作用するくすりの臨床試験
に携わっているのだ。そうした反応を見せても不思議ではない。むしろ治験の順調さを物語る
反応ではあった。それが保田には気に入らない。
「第一工場は例の事件以来、閉鎖中と伺っていますが…」
「ふん、外からは完全閉鎖に見えるだろうが研究所だけは稼動中だ。もっとも、あんなものを
抱えて他に行くあてもないからな」
「彼らの状態はどうなんですか…?」
「君の知ったことではない――」
 ハンドルを器用に回転させながら後藤は答えた。二人を乗せた車はくねくねと蛇行する湖畔
の道をスピードも落さずに駆け抜けていく。
「――と言いたいところだが、正直なところかんばしくない」
798 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:12
 予想通りだ。後藤がそこまで素直に答えた点だけは意外だったけれども。なるほど紗耶香を
連れ出すわけだ。保田はそこまでミドリ十字、ひいてはグリューネクロイツが追い込まれてい
ることに言い知れぬ不安を覚えた。
「紗耶香を…紗耶香をどうされるつもりですか?」
 保田はおそるおそる尋ねた。最近では『保田圭』としての生活が軌道に乗ってその精神状態
はすこぶる良好であったとはいえ、過去を思い出させる環境において彼女が見せるであろう反
応は想像に難くなかった。
「無論、その極限値を確かめる。彼女のためだけに核シェルター並の強度をもつ特殊金属の隔
壁を用意したようなものだ。ドロミテの轍は踏まない」
 できればその地名を聞きたくはなかった。保田でさえ耳を塞ぎたくなるような禍々しいその
響きを耳にしてか紗耶香の口からくぐもった呻き声のようなものが漏れた。いけない…保田は
どうにかして、紗耶香をその場に連れて行かずに済ませることはできないかと考えた。だが、
車はすでに山間部を過ぎて集落の中へと入っていく。目的地はもう数分で到達する距離にまで
近づいていた。

「アヤカ氏が探していた重要な治験者というのは見つかったのでしょうか…?」
 保田は現実から目を逸らすために唐突に話題を切り替えた。できれば見つかっていてほしく
ないとの希望も含めて。
「うむ。今ごろすでに現地で我々の到着を待っていることだろう。状態はいいと聞いている」
 万事休す。保田は項垂れた。これで退路は絶たれた。後は幸運を祈るしかない。その治験者
が好戦的なタイプでないことを祈るだけだ。
 保田の想いをあざ笑うかのように車はキィとタイヤを軋ませて人気のない空き地へと滑り込
んだ。
「着いたぞ」
 待ち構えていたかのように、担架を抱えた数人の男たちが走り寄ってきて紗耶香の側のドア
に手をかけた。保田は思わずギュッと手を握り締めてせいいっぱいの想いを伝えようとしたが、
当の本人は達観したわけでもないだろうが、何の反応も見せなかった。パタン、と気の抜けた
ような音を立てて運命の扉は開かれた。
799 名前: 投稿日:2005/08/02(火) 01:14

Ultimo atto
La Forza del Destino>>790-798

800 名前:桃ノ木 投稿日:2005/08/02(火) 18:24
きた!!げたぐり!!
いよいよ点と点が繋がってきましたね!
またどきどきしながらお待ち申し上げます!!!
801 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:50

La Forza del Destino U
運命の力U

802 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:51


赤い河。まいはそんな風に呼びたくなった。運転席と助手席の間から覗くフ
ロントガラスの向こうにはずっと先まで連なった車のテールランプが蛇行して
さながらまいを誘う三途の川のように思えたのだ。隣で時計を気にする女性に
そんな比喩が通じるのかどうか躊躇っているうちに再び車がのろのろと動き始
めた。
「今度は動いてくれるといいんだけど…」
「わたしはかまいませんよ。こんな高級車乗れることめったにないし」

 実際、皮製のシートはまいの体をしっかりと包み込んで快適だったし、外部
の音をすっかり遮断して静かに鳴り響くジャズの調べにもう少し身を委ねてい
たかった。そしてこのリラックスした空間を演出するホスト(女性だけにホス
テスと呼ぶべきか)として如才ない会話で緊張をほぐしてくれるこの外国育ち
の女性の存在は申し分なかったのだ。
「本当にごめんなさい。素直に中央道に入っていればよかったのに」
 相手はまいの言葉にもかかわらずしきりに恐縮している。眉を寄せて申し訳
なさそうに謝るその姿が可愛らしく感じられたので、まいはもう少しその話題
に付き合ってあげてもよいと思った。

「事故ですかね…ラジオで何か言ってません?」
 二人の視線が前方に向けられる前に運転手はラジオの交通情報へとスピーカ
の出力を切り替えた。
『……車両追突事故により川崎料金所から10hmの渋滞……』
「やっぱり……」
「ああっ、ごめんなさい」
「だから、あなたのせいじゃないんだから」
 さすがに鬱陶しくなってきたまいは、話題を切り替えることにした。
「スイス…だっけ?あなたの会社。いつもそんなに時間にうるさいの?」
「そこは精密機械産業の盛んな土地柄ですから」
 よくわからない理由を示されてまいはそれでも、ふーん、と鼻を鳴らして受
け流し、ところで、と水を向けた。
803 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:51
「今日は後藤真希も来るんだったけ?」
「それは…」
 ただでさえ先ほどから垂れ下がった眉毛がさらに落ち込んで相手の困惑を物
語った。
「あ、来ないんなら別に――」
「申し訳ありません。本来であればお呼びするところなのですが、彼女の場合、
日本法人社長のご家族でもありますので……」
 そこはさすがに身内まで被験者として扱うには忍びない、ということか。社
長の娘でなければまた待遇も違ったのかもしれないが。まいは真希とともに体
力測定をせずに済んだことでどこかほっとしている自分に気付き苦笑した。真
希に対するわだかまりは捨てたつもりでいたが、心の奥底ではまだどこかで警
戒している部分があるのかもしれない。人の傷は癒せても自分の傷は癒せない。
また役に立たない能力を授かったものだ、とまいはアヤカに気付かれぬよう密
かに嘆息した。

「やっぱりくすりのせいなのかな…あんな子じゃなかったのに…」
 何気なしにつぶやいて再び視線を車窓に向ける。暗くてよくはわからないが
先ほどからほとんど位置が変わっていないことだけは見て取れる。だからとい
ってまいが焦ることはないが。ふと視線を感じて振り向いた。アヤカがじっと
自分を見つめている。
「幼馴染み…なんですよね?」
「そんな言葉よく知ってたね」
「一応、日本人ですから」
 ふーん、とさして興味のなさそうな反応を示しながらまいはうーんと唸りな
がら両腕をあげて背伸びをするとそのまま仰け反ってシートに背を埋めた。

「昔からずっと一緒だったね。同じ団地に住んでたから。いつも一緒に遊んで
た。わたしと真希と、それからもう一人…」
「吉澤ひとみですね?」
 まいはちらっと横に目線を移した。
「よく知ってるね?」
「はい。一応、日本人ですから」
「答えになってない」
 まいは、ふふっ、と頬を緩めてから続けた。
「泣き虫な子でね…いつもいじめられててわたしがかばってあげてたの。それ
がたくましくなっちゃってね…」
 窓の外を向いたままのまいの横顔をアヤカは黙って見守った。
804 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:51
「でも、本当に強いのは誰だったんだろうね。真希は…あの子はいつも超然と
していていじめなんかとは無縁だったけど…」
 その後の言葉をうまく繋げられなくて詰まってしまったように見えるまいに
対し、アヤカはようやく声をかけた。
「その後藤さんですが…」
「何かあったの?」
「いえ…」
 アヤカは言葉を濁してうつむき、伏目がちにまいの表情を窺いながら躊躇う
様子を見せたものの、それでもまいの真剣な態度にやはり伝えねばならいと意
を決して口を開いた。
「早く後藤さんを保護しないと危険です。くすりの副作用を示す兆候が現れて
きたようです」
「副作用って、真希が?それってわたしのと同じような…」
「それならいいんですが…」

 心配そうに覗き込むまいに対し、アヤカは首を横に振って答えた。
「先ほどの連絡で後藤さんの治験者コードを伝えられました」
「うん…」
「コードネーム、"il diablo rosso"」
 まいは首をかしげた。
「それって…?」
「赤い…悪魔」
 アヤカの焦燥が初めてまいに理解できたような気がした。フロントガラスに
映る赤いテールランプの連なりがまいの不安感を煽る。先ほどまでは心地よか
ったはずのジャズのスウィングが今はただ耳障りでまいを苛つかせた。車はピ
タリと止まったまま動かなかった。

805 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:52


 駅舎の明かりが近づくにつれ気が急くのを自覚した。帰宅する人の群れをか
いくぐりながらひとみは歩を速める。一刻も早く梨華を安全な場所に避難させ
ねば。だが、一体どこに?家には帰りたくない。梨華の家も論外だ。藤本の家
は……ひとみは、藤本に泊めてくれるよう頼んでいたときに梨華からの電話を
受けたことを思い出した。彼女はどんな表情で自分の申し出を聞いていただろ
う。ついさっきまで一緒にいたはずの藤本の様子がどんなだったかすでに思い
出せなかった。
こころよく受け入れてくれるだろうか。ひとみだけならばともかく、梨華も
一緒となると難しいだろう。とはいえ他に行くあてもない。考えているうちに
駅に着いた。ちょうど電車が到着したところなのか、ホームから通勤帰りと思
しき人々が押し出されてくる。ひとみは梨華の姿を探して首を伸ばした。人の
流れに逆らいながらそれでも背の高いひとみの姿は目立つのか、すぐに梨華の
ほうが気づいて手を振った。

「おかえり。大丈夫だった?」
「うん。でもひとみちゃんいいの?」
「こんな状況でほっとけないじゃん。とりあえずいこ」
「うん…」
 来た道を戻ろうとして梨華の手を取り、ひとみはその冷たさに思わず振り返
って顔を覗き込んだ。繋いだままの手は小刻みに震えている。ひとみはもう一
方の手のひらを添えてその冷たい指を包み込んだ。
「覚えてる?最初にあったときのこと」
 梨華は一瞬、口を開きかけたがすぐにうつむいて黙り込んだ。それからため
らいがちに言葉を選びながら上目遣いでひとみに向かいゆっくりと答える。

「タバコまだ喫ってるの?」
「ぅえっ?」
 虚を突かれて奇声を発するひとみをにんまりとした表情で見つめながらさら
に追い討ちをかける。
「それから『オレ』って言ってた『オレ』って」
「あ、あのときは…そういう気分だったんだよ…」
 さすがに思い出して照れくさくなったのか、ひとみはプイと顔をそらして幾
分赤みを増した頬を相手の前に晒すことになった。梨華は上機嫌でくすくすと
笑いを押し殺しながら離れそうになったひとみの手を逆にしっかりと握り締め、
でもね、と続けた。
806 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:53
「ひとみちゃんが優しい人って言ったのはちゃんと覚えてるよ。間違ってなか
った」
「や、止めようよ。こんな駅前でさ…」
 ひとみはもう、周囲の目線が気になって仕方がない。そわそわと落ちつかな
い素振りで早々にこの場から立ち去りたいひとみの手をがっちりとつかんで梨
華は三日月のように湾曲した目じりをさらに下げながら口の端を吊り上げ、い
かにも意地悪そうな表情で告げた。
「だめ。まだ許してあげない」
「な、なんなんだよう…」
 ほとほと弱り果てて情けない声を出すひとみを愉快げに眺めながら梨華は言
ったでしょ、と朗らかに告げた。
「王子様気取るのもいいけど、私の方が年上だってこと、忘れないでね」
梨華は握っていた手を離してひとみのお尻をポンと軽く叩き、さあ、行きま
しょ、と先に立って歩き始めた。

「ちょ、ちょっと待ってよ…だいたい、泣きついてきたの自分のほうじゃん」
 すっかりひねた様子でぶちぶちと恨み言をつぶやきながら、それでもひとみ
はすぐに梨華の後を追った。もう知らないかんねせっかく心配して迎えに来た
のにだいたい麻琴がわけわけんないこと吹き込むから…尚もぼそぼそと相手に
聞こえないつもりで繰言を唱えるひとみの前で急に梨華が立ち止まった。
「ちょっ…危ないじゃん、気をつけて…」
「ね、知ってる人?」
「え、何?」
 正面を向いたまま背中越しに問い掛ける梨華に応じてひとみが後方を振り返
ろうとすると「動かないで」と鋭い声が釘をさす。
「えっ…」
 戸惑うひとみに対し梨華は無言のまま背中で圧力をかけてくる。動くな、じ
っとしていろと。前方に目を向けて見れば駅前の信号が黄色に点滅して赤へと
変わりかけている。

「いくよ!」
「――えっ?」
 脱兎のごとき勢いで駆け出した梨華の後姿に一瞬、気を取られて出遅れたも
のの、ひとみもすぐにその後姿を追って横断歩道を駆け抜ける。凄まじいクラ
クションの音に肝を冷やしながらも赤く光る信号機の下を駆け抜けたときには
すでに車道に勢いよく車が飛び出していた。ぜえぜえと苦しげに息を吐き、膝
に手をついて休もうとするひとみの手をとって、すぐにまた梨華は走り出そう
としていた。
807 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:53
「ええっ?まだ走るの?」
「まだ安心できない」
「っていうか梨華ちゃん、どっち向かって走ってんのさ?」
「そんなこと、私に聞かないでよ!」

 苦しげに言い切ると、たしかにただ闇雲に走り続けているとしか思えない勢
いで駅前の商店街を突き抜けていく。周囲を歩く人の目が気になるが、脇目も
振らず一心不乱に駆けていく梨華の目には入らないのだろう。ひとみは息を切
らせながら後を見失わないようにするだけでせいいっぱいだった。もつれそう
になる脚を必死に回転させて身体を前に進める。やはり煙草はよくないなとい
う思いが頭の片隅をちらっと過ぎったがすぐに目先の苦しさに取って代わられ
た。
それにしても、と一向にスピードが衰える様子のない梨華の走りにひとみは
驚きを隠しきれなかった。病みあがりだったはずの梨華にこうも差をつけられ
てはあまりにも自分が格好悪すぎておさまりがつかない。ボディガードを気取
った手前、なんとか梨華にいいところを見せなければ女がすたる…いや、そん
な表現があればの話だが。

 苦しさから気を紛らわせようと思えば思うほど逆に目先の苦しさに意識が集
中してしまう。苦しくて苦しくて、もう息が止まってしまうのではないかと思
った途端にまた梨華の背中がすぐ目の前に迫った。
「おっと…」
 はあはあと激しく息を吸っては吐くひとみに背を向けて、少しも息の乱れを
感じさせないはっきりとした声で梨華が叫ぶ。
「誰?」
その厳しい口調にひとみは耳を疑った。冬だというのに額から滴り落ちる汗
を手で拭いながら、梨華の前方に存在するらしい何者かの姿を確認するために
目を凝らした。ぞわぞわと何かが近づいてくる気配を察知してひとみは急に寒
さを肌に感じた。
808 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:53
「お疲れさまー、元気だねーキミたちぃー」
 ひどく粘着で耳にまとわりつくような感じの声が耳障りだ。梨華の肩が震え
ているのが見えた。いけない。この連中は危険だ。盛り場をうろついていた頃
に何度かやりあった経験からひとみは危険な匂いを感じ取った。
「梨華ちゃん…こっち…」
 手を引いて引き返そうとするひとみの前に、また何物かが立ち塞がった。
「なんだよ、お…」
 お前らは、と続けようとして近づく腕の先に光るものの存在を確認し、ひと
みは凍りついた。
「ひとみちゃん!この人たち…」

 鋭い切っ先で二人を狙う白刃から庇うようにして立ちはだかると、ひとみは
梨華の冷たい身体を背中に感じた。
「うっひょお、アニキぃー、こいつらすげーマジいい女っすよー、こないだみ
てーにガンガンやっちゃっていいっすかぁ?」
「ばーか。遊びじゃねーんだよ。こいつらに傷つけたら組を敵に回すことにな
んだぜ。いくらおまえらがバカだって、そんくらいわかるだろーが」
「ちぇっ、また女のまたぐらに石突っ込んで遊べるかと思ったのになあ。つい
てねーや」

 その一言にひとみの怒りは燃え上がった。まいをひどい目に合わせたのはこ
の連中に違いない。直接の命令を降したのは真希だとわかっていても、むしろ
目前の絵に書いたような不良たちに対する怒りは消えることがない。一方で、
あのような行為を平気で行える獣のような連中に対する恐怖がむくむくと頭を
もたげてくるのをひとみはどうすることもできなかった。
809 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:54
 助けを求めようと周囲を見回すが、商店街を抜けた通りにはすっかり人影が
途絶えていた。そして、道端には黒い大きなバンが止まっている。ひとみはこ
れから何が起ころうとしているかを理解し、初めて本当の恐怖を覚えた。梨華
は状況を理解しているのかいないのか、ひたすら「アニキ」と呼ばれたリーダ
ー格の男を無言で凝視している。ひとみは梨華が恐怖心からパニックに陥らな
いことを避けようと努めた。背中から震えが伝わらないよう、そのことだけに
腐心した。

 だから目の前の切っ先がだんだんと自分に近づいてくるのをひとみはまるで
スローモーションのフィルムを眺めるような感覚で見つめていた。その邪気に
満ちた先端が自らの腹にあと数センチと迫ってもまだ後ずさることはできなか
った。
「そんじゃ、そろそろ乗ってもらうかー」
「アニキ!乳揉むくらいいいですよね?こいつすっげーいい乳してんっすよ!
たまんねー!」
「やめてよっ!」

 猿のように歯茎を剥き出しにして興奮する下っ端の腕を振り払ってすごむ梨
華を周りの少年達がげらげらと笑い囃し立てた。暗闇でもはっきりとわかるほ
どに突き出た股間を隠すこともなく、なんだよー、さわらせろよーと絡む下っ
端のリアクションがさらに笑いを誘う。ひとみはそのグロテスクな欲望の発露
を前にして吐き気がするほどの嫌悪感を覚えるとともに、梨華をこのような状
況で守れない自分が腹立たしかった。ひとみはいつのまにか背中が熱を発して
いるのに気付き、そっと梨華を振り返った。紅潮した梨華の頬に何か危ういも
のを感じてひとみは不安が胸に渦巻くのをどうすることもできなかった。
810 名前: 投稿日:2005/08/11(木) 02:56

Ultimo atto
La Forza del Destino U>>801-809

811 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/13(土) 22:26
す…すごい楽しい…。
更新乙です。
812 名前:桃ノ木 投稿日:2005/08/18(木) 09:12
ああ。
ますます眼が離せない!!
813 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2005/10/27(木) 17:24
更新されてるの今更気付きました。
続きが激しく気になります……
814 名前:桃ノ木 投稿日:2005/11/25(金) 22:46
作者様、是非続きを・・・
815 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:27
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
816 名前: 投稿日:2006/02/13(月) 20:48
作者です。
近日中に更新します。
817 名前:名無し 投稿日:2006/02/17(金) 15:45
楽しみにしています
818 名前:桃ノ木 投稿日:2006/02/24(金) 22:31
おほー!!
作者様、よろしくお願いします。
819 名前:琉球人 投稿日:2006/05/06(土) 00:47
待っています。
820 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/05/06(土) 01:33
落としておきます
821 名前:名無し 投稿日:2006/08/12(土) 20:11
待ってます
822 名前:あお 投稿日:2006/08/12(土) 22:29
一気に全て読ませていただきました。伏線の張り方が素晴らしいです。続きに期待しております。
823 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/13(日) 05:03
1年ですか。。。

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