桜舞い散る春に佇む乙女

1 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 01:53
分割ものです。
2 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 02:30

ぱん、という音が全てのはじまりだった。

今になって思えば―もう少し他のやり方もあったと、思う。
でも、今あの状況に置かれたらやっぱり同じことをするだろう。

あの時、私は
愛する人。
のために
愛するもの。
を捨てたのだ。

だから、だから私はそのまま、彼女の首にかけた指に力を、ちからを――――
3 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 02:32
赤く染まった頬とは対照的に冷たく、諦めきったあの子の瞳にふと光が宿る―それが憎らしい。
ふ、と指を離す。
どさりと落ちる身体。
そのまま、踵を返し倉庫を出た。

怒り、ではない。
心の中は冷えきっていた。
悲しみ、とも違う。
涙は既に乾いていた。

さよならは言わない。

これが、はじまり。
全てのはじまりはここから。
4 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 03:42


朝起きて向かう先は学校よりも仕事場の方が多くなってしまっていた。
制服を纏った同世代の子たちが家を出るよりも早くから、ケータイと財布だけをポケットに突っ込んで電車に乗り込む。
時々、そんな自分自身に溜め息が出そうになるけど、もうとっくに諦めはついている。

ただあの日以来、モーニング娘。としての仕事がある日は、ものすごく面倒臭いなぁと思うようにはなったけれど。
まあそんなことを言えばあの子の方がよっぽど行きたくない病にかかっているだろうけど。
なんて自虐気味に苦笑してみる。


―分かってる。
そんな風にどこか昨日見た夢の話のように思ってみても何も変わりはしないってことくらいは。
自分の手を見る度にまだ指先はあの日込めた力の痕が赤く残っているように思えていた。

気を奮い立たせるようにそのてのひらをぐっと握り締める。
それを待っていたかのように、電車は目的地に到着していた。
5 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 03:42
ホームと改札を潜って、人込みに溶け込む。
この瞬間が一番好きかもしれない。
私もこの風景の一オブジェとして存在しているような気分になれたから。

けれどそれも長くは続かない。
集合場所である事務所付近になると、いつともなく視界にあの子が映り込んでしまうから。
あの子の隣には、いつも彼女の姿があった。
彼女は大切なものを守り抜く騎士気取りなのかもしれない。
だとすれば悪者は私だろう。

彼女は信じるだろうか。
私に言わせれば、あの人以外の全てが悪なんだという事を。

それよりも、あの人は信じてくれるだろうか。
私はただ、あなたのことを、何よりも、他のどんなものよりも大切にしたいと思っただけなのだという事を。
6 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 03:42
「あ…よっすぃー」

ほぼ全員が集まっている輪の中から、控えめに声を掛けられた。

「お、おはよう…」
「…はよーございます」

この感じ。
この感じはあの日以来ずっと続いている。
あなたさえも私を真っ直ぐ見てはくれない。

あなたは信じてくれませんか?
私はただ、あなた以外の何も欲しくはないだけなんです。

あなたはそれを信じてはくれませんか?
ねぇ、安倍さん―。
7 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 04:29
「はい。じゃあ今日の収録は別々なんでさくらとおとめに分かれてください。」
マネージャーの声に、「ナイト」が―あの子のそばから離れる。
ぎろりとこちらを睨み、名残惜しそうに「お姫さま」に話しかける。
「安倍さん。じゃあ何かあったらケータイに連絡ください。」
「うん。藤本も、頑張ってね。」

ざらり。
暗い心の奥から、一瞬何かが身を翻し浮かび上がり―また沈む。
忘れていた感情が瞬間、甦る。
嫉妬―なのか。これは。
そんなものはもう、捨てたはずなのに。どこまで私はあの人を―
8 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 04:31
頭を振り、思考を切りかえる。

そう、あの時に私は捨てた、あの人への感情を。
もう、あそこにいるのは安倍さんじゃない。ケガレた別の生き物。
この指で絞めて私は―美しかったあの子とあの子への思いを殺した、はず。
9 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 04:33
♪〜
ケータイの着メロが、思考のループを突然断ち切る。
メール。
『ちょっと相談したいことがあるの。今日、終わったら会えない?』
梨華ちゃんだ。
振り向くと、口の前に指をあてて内緒のポーズ。
あまりといえばあまりのお約束に、思わず笑みがこぼれた。

止まっていた時が動き出したかのように、喧騒が戻る。
やっと二つに分かれたグループがそれぞれ、別の方向に歩き出す。
いくつかの視線が絡み合い、ほどける。
10 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 04:34

急に涼しくなった風に、身を縮める。
枯れ葉を落とし始めたゴツゴツした木の幹が、ますます寒さを強く感じさせていた。
11 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/18(土) 07:58
なかなか見ない組み合わせ
続きに期待
12 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 22:27
≫11さま

早速のレス、有難うございます。
ゆっくりの更新となると思いますが、どうぞ長い目で見守っていただければ幸いです。
13 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 22:29
こなすだけになった仕事を終えて、ケータイで時間を確認する。
薄暗い空の下に場違いな青色が映える。

「7時、か…」

思ったよりも早く終わってしまった。
梨華ちゃんの方はもう終わっただろうか。
メールを打とうかと再度ケータイに視線を落とすと、後ろで声がした。

ゆっくりと振り返ると、あの人がいた。
14 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 22:30
なにやら楽しげに誰かと電話をしているらしい。
まあ、相手はおおよそ彼女なのだろうけど。

あの人の口許が、安心したように緩むのが見える。
彼女の言葉が、あの人の顔をそうさせているのかと思うと胸の中で何かがちくりと痛んだ。
こんな些細な事で毎度ダメージを受けていたら持たないだろうなあとは思う。
私もいい加減、あの人を視界に収めるのをやめればいいのに…。
15 名前:1982 投稿日:2003/10/18(土) 22:30
と、未だ一言も打っていないでいたケータイが勝手にメールを着信した。

『終わった?』

短いなぁ、もぉ。
愛想も色気もないよなぁ、梨華ちゃんって。

『終わったよ。今ドコ?』

折り返されたメールには、さほど遠くない場所が提示されていた。

正直、梨華ちゃんが何を考えているのかは分からない。
梨華ちゃんだって私と以前のように交遊を持っていく気ではないだろうし、なのに何故今日はこんなに「いつも通り」なのだろう。
それを不審に思いながら、そっちへ向かうという返事をして、ケータイをポケットに収めた。

踵を返す。

あの人を見ないように心掛けて歩く。

それなのにすれ違う瞬間、あの人は確かに私を見ていた。
16 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/19(日) 13:30
これは続きが楽しみだ。
17 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:36
≫16さま
有難うございます。
末永く見守っていただきますよう、お願い申し上げます。
18 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:37
「あのこと」の前はみんなでよく行った喫茶店。
ごっちんと保田さんの卒業発表の日も、藤本の加入が決まったときも。
薄暗い店内と遅くまで開いてること。
大事なことを相談するには、ちょうどよかった。
幸せな、思い出。

でも、もう私が娘。の未来について話すことはない―だからこの店に足を踏み入れることもないと思っていた。
なんで梨華ちゃんはここを選んだんだろう。その無神経さに、腹が立った。
19 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:39
カラン。
青い窓ガラスとキャンドル、古めかしい内装。一瞬マネキン人形の中に紛れ込んだような錯覚を覚える―そんなことすら、懐かしく感じる。
あれからそんなに日は経っていない筈なのに。
20 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:40
喫茶店に入るには遅い時刻。
人影はまばらで、奥のボックス席から手招きしている梨華ちゃんを見つけることは難しいことではなかった。
どさりと身体を席に投げ出す
と、梨華ちゃんの隣、彼女の影の中に人がいるのに気づいた。
「飯田さん・・・」
身を縮めている梨華ちゃんを睨みつける。
いつも通りを装って私を呼び出したのは、こういうことか。つまりは、
21 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:41
「騙したわけ?」
「違うの。飯田さん、よっすぃ〜に言いたいことがあるって。
 ほら、よっすぃ〜、『あのこと』以来娘。の中でなんか浮いてる気がして。
 それで、ね?」
一生懸命。
悪気はない。
だからこそ、人を苛立たせることもあることを―この子は知らない。

「でも、普通に言ったんじゃよっすぃ〜来ないんじゃないかって。だから―」
「だから、相談事があるって嘘ついたんだ。」
まっすぐな心を、毒を含んだ言葉が切り裂く。沈黙がおりる。
「・・・ごめんなさい。」
「石川、謝んなくていいよ。カヲが頼んだんだし。」
「・・でも!」
22 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:43
「いいよ、梨華ちゃん。話したいことがあるのは飯田さんなんでしょ。早く行きなよ。」
さらに残酷な言葉を、吐きつける。
これから行われるであろう醜い言葉のやり取りを彼女に見せたくないという気持ちも、どこかにあった。
飯田さんが梨華ちゃんの顔を見て頷く。梨華ちゃんが、立ち上がる。
「・・・じゃあ、飯田さん。よろしくお願いします。」
そのまま立ち去る彼女の後ろ姿はどこかお芝居じみていて―遠いところにいる人のように、思えた。
23 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:44
席に座りなおし、また言葉を吐く。言葉の刃。
「何の用ですか?」
大きな瞳が、じっとこちらを見据える。
「ヨシザワさ。帰ってきてくれないかな?」
分かったようで分からない言葉、いつものことだ。
「・・はっ。帰るも帰らないも、私はずっと娘。にいますよ。」
「違う。『あのこと』からヨシザワの心は遠いところに行ってる。カヲは、そう思う。」
かわせない。だから黙るしか、ない。
「帰ってきてよ、メンバーはみんな、寂しがってる。」
「そんなことないでしょ。けっこううまくやってるじゃないですか。」
24 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:45

人の背中に隠れて脅えたようにこちらを見る目。電話をしながら、緩ませる口元。
―あの人の姿が脳裏に浮かぶ。
25 名前:1982 投稿日:2003/10/19(日) 14:46
「そうですよ。うまく、やってます。私なんかに関係なく、うまくやってますよ。」
しぼりだした言葉に、彼女は頭を振る。
「違う。少なくとも、私は―寂しい。」

コーヒーカップを持つ飯田さんの手が、震えていた。
26 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:37
その手を見ながらも、あなたが取り戻したいのは以前の私なのかそれとも以前のあの人なのか、と思ってしまう。
答はきっと後者であろうとは思いながらも最後の言葉が心に引っ掛かる。
寂しいだなんて言われると、困る。

あの人へ感情を除けば、私はこの人に最も好意を持っていたから。
それを恋かと問われれば躊躇いなく否定する事は出来たけれど、この人が大切かと問われれば、
それを否定出来る自信はなかった。

お互いが次の言葉を言いあぐねているのを知ってか知らずか、澄ました顔をした店員が私に氷水を差し出した。
飯田さんが小さく息を吐いて、明らかにほっとした表情をしたのが見えた。
それには気付かなかったことにして、「同じものを」と極力威圧しないよう平静を装い注文した。

笑顔ひとつを振り撒いて店の奥へと舞い戻っていく姿が見えなくなるのを見届ける。

そしてまた、沈黙。
27 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:37
暫くして、私の前にも湯気をくねらせるコーヒーが届くと、よくやく彼女の口から次の言葉が発せられた。

「ヨシザワは、いいの?」
「いいも何もないでしょう」
「そうだけど、そうじゃなくて…」

困った時の顔は、どことなくあの人に似てるなあと思う。
こうやって眉間に皺を寄せて、そのくせ無理して笑おうとするから、泣きそうな顔になる。
長い時間一緒にいれば似てくるのだろうか。
まさか。夫婦じゃあるまいし。
28 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:37
「…あのね?
 今から言う事はカヲがリーダーだからじゃない。
 カヲが、思ってる事だから、そういう意味で受け取ってよ…?」

私の心が、何とかしてこの人の空気に飲まれないよう努力しているというのに、そんな言葉を言われては
全て帳消しになってしまう。
私の思考は簡単に自分自身を誤魔化す事を止めてしまった。
この人の言葉に、聞き耳を立てたがっている。

「…分かりました」
29 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:37
飯田さんの言葉と自分の心の声に観念して、仕方なく視線を上げる。
重なった飯田さんの視線が、あまりにも真剣なものだったから、危うく怖気づきそうになる。
引きかけた顎を何とか思い留まらせた。

「ヨシザワも思ってるんだろうけど、確かにあたしはヨシザワよりも、なっちが大事。
 あの子が暗い顔してるとカヲも辛いし、いつも笑ってて欲しいって思ってる。
 でも、なっちのためとかじゃなくて、前みたいな関係に戻りたいの。
 あたしは、ヨシザワもいないと嫌なの。
 これから先だって、前みたいにヨシザワと馬鹿な話とかして笑い合いたいよ」

何故、飯田さんは今にも泣き出しそうな顔をしているんだろう。
何故、私はこんなにも苦しいんだろう。
30 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:37
「いないと、やだよ…」

その言葉を最後に、遂に泣き出してしまった飯田さんを目の前に、私は唖然としてしまった。

知ってしまった。
私が思っていた以上に、きっと飯田さんが思っていた以上に、私がみんなと過ごした時間は長かったんだ。
私がどんなに決心しようとも、あの人の事を心の中から完全に排除出来ないでいたのも、
もしかしたら同じ理由なんじゃないだろうか、と思った。
例えば仮に、あの人の騎士が他の誰かであれば現状は違っていたかもしれない。
この、今私の目の前で顔を覆っている飯田さんだったら、矢口さんだったら、何かが変わっていたのかもしれない。

けれどそこまで考えて、自分に呆れる。
31 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:38
それは限りなく希望的観測で、どんなにそう想定してももう現状は変わらない。
あの人は騎士に彼女を選んだ。
いや、そもそも選択肢は初めからひとつしか用意されていなかったのだ。
でもそれも運命なんだろう。

あの日、私はあの人の全てを手に入れようと思っていたけれど、それは叶わない運命だった。
あの人は私のものにはならない運命だった。
あの日、あの人の目に宿った光の主は、あの人の騎士となる人は、藤本である運命だったんだ。
32 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 02:38

飯田さんの言葉がこじ開けようとした私の心が再び閉ざされようとするのを感じていた―
33 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 22:28
――いつのまにか、眠ってしまったらしい。
気がつけばテレビは深夜のくだらないバラエティーを映していた。
横を見れば一心に映画を見ていたはずのあの人も、ぐっすりと眠っている。

くすり、と笑みが零れる。
テレビを消し、中途半端に寝たせいか痛む頭を抱えつつ台所に立ち水を飲む。
窓の外は、もう暗い。
34 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 22:28
まだあの人は起きる気配を見せない。
勝手知ったる他人の家とばかりに持ってきたタオルケット。かけようとする手が、止まる。
じっと顔を見下ろす。
可愛い。
年上の人にこんなことを言うのもなんなんだけど、やっぱり―可愛いんだな。
35 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 22:31
かさり。
タオルケットをかけた弾みで、首筋があらわになる。
天使のような寝顔とはあまりに不釣合いな、赤い痕。それが、目をさす。
まだ消えていないんだ。
ぞわり、と心の中が波立つ。
この気持ちが何なのか―分からないけど、波立つ。
36 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 22:32
横に座り、痕をじっと見つめる。
指の跡がくっきりと残っているのが、分かる。
すっ、と指を差し出し跡を撫でる。
一度、二度、三度。
ゆっくりと、撫で続ける。
37 名前:1982 投稿日:2003/10/20(月) 22:32

月が明るかった。
コップに残った水が月の光を反射して、きらきらと、とてもとても綺麗だった。
38 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/21(火) 06:12
おもしろいです。
これから、どうなっていくのか楽しみです。
39 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/23(木) 01:01
なちみきはほとんどないので期待したい。
40 名前:1982 投稿日:2003/10/23(木) 04:36
>>38さま
有難う御座います。
以降も楽しんでいただけるよう頑張りますので。
>>39さま
有難う御座います。
期待を裏切らないよう、いい意味では裏切れるよう頑張ります。
41 名前:1982 投稿日:2003/10/23(木) 04:37
その跡に唇を近づけようとすると、小さな寝息が聞こえてきた。
なぜかそれが拒んでいる合図のように思えて体を引いた。

息を吐いて、何もない天井を見上げる。
視界の端、壁に長い影が伸びていた。
それは美貴だけど、美貴じゃない。
美貴じゃ、ない――
42 名前:1982 投稿日:2003/10/23(木) 04:37
さっきまでの幸せな気持ちが吹き飛んでしまって、下を向けば涙が零れるんじゃないかってくらいに悲しくなっていた。
けど、それに気付いたみたいに、美貴の手を、ぎゅっと、温かいものが包んだ。

「…」

その手を握り返して彼女を振り返った。
きっとまだ夢の中で、無意識に手を取っただけだろうなって思いながら。

「何?どうかした…?」

なのにこんな風に真っ直ぐ美貴のことを捉えて、まだ頭は目覚めてないはずなのに、なんでそんな風に言ってくれちゃうんだろう。

可愛くて、愛しくて、だけど、そうじゃなくて。
好きだ。と、あなたの全てが好きだと告げたい衝動に駆られる。
けど、それは出来ない。絶対。
美貴がそれを言ったら、全部が終わっちゃうような気がするから。
43 名前:1982 投稿日:2003/10/23(木) 04:37
「…。
 何でもないですよ」

喉まで出掛かった言葉をぐっと飲み込んで、体の一番奥へと押しやって、笑顔でそう答える。

そうだ。
言っちゃ駄目なんだ。

「まだ、寝ますか?
 それとも――」

安倍さんの前髪を掻き揚げてあげると、くすぐったそうに、照れ臭そうに微笑んだ。

「…もうちょっとだけ、そうしてて欲しい、て言うのは…?」

だから美貴も笑うんだ。

「いいですよ」
44 名前:1982 投稿日:2003/10/23(木) 04:37
嬉しそうに瞳を閉じる。
それに引きずられるようにして美貴も視界を閉ざす。

こんな日々は、あとどれくらい続いてくれるだろう。
あとどれくらいで自由になれるだろう。

色んな感情を押し詰めた心の中はもう、何も受け付けられないくらいにごちゃごちゃと入り組んでいた―
45 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:02
心の中で、影が踊る。ゆらゆらと―ゆらゆらと。

もし、この気持ちが本当の恋とやらから生まれたものなら、どんなにか楽だろうに。
美貴は、この人を愛しながらも―この人を見ていない。
美貴が見ているのは―この人の瞳に映る、この人を愛し抱きしめた―あの子
安部さんの身体に寄り添い、その匂いに包まれながらあの子の匂いを探している自分が―憎い。
46 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:05
でも今はもう少し、この薄暗い霧の中でまどろんでいたいと思う。
たとえ、その霧が心をだんだんと、腐らせていくものだとしても。
今は、今だけは―このままで。
47 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:05
痕に触れた手を、ぐっと握り締める。
心の中で影がまたゆらりと、動いた。
48 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:06

―どうして彼女を好きになったんだろう。
 彼女が思うのは私ではなく、勝てるはずもないだろうに―
49 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:08
「・・・野、紺野?」

思考が、途切れる。
「どうした。大丈夫か?」

「・・・はい。すみません。ちょっとぼんやりしてました。」
急速に現実感が戻ってくる。
相変わらずやなぁ、とふにゃりとした笑みを浮かべる―中澤さん。
そう。レッスンの後、中澤さんに呼び出されてレストランに来ていたんだ。
突然、耳に喧騒が戻ってくる。
人のざわめき、食器の音、そして―
「ここな、窓から庭が見えるのが評判やねん。ほら、水車とか灯篭とか。」
ちょっと水車の音大きすぎるけど、と彼女は笑った。
50 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:12
「まぁ、そのせいで別の客に話を聞かれることもない―紺野。賢いあんたのことや。私が単にあんたと食事しとうて連れ出したんやないことぐらい、分かるな。」
顔から笑みを消し、彼女はまっすぐにこちらを見据えた。
「ぐちゃぐちゃした前置きは好かん。単刀直入に聞くで」
「・・はい。」
「娘。になにが起こっとるんや?」
「・・・・」
やはり、気づいているのか。
「どうもな、変な空気が流れてるんや。そらな、同じ年頃の子ぉが15人も一緒にいて、なんも起こらずいつも仲良く過ごしてるとは思わん。それは私自身がよぉ知っとる。」
喉が渇くのか、何度となく水を口に運ぶ―この人も戸惑っている。それが分かる。

「けどな、今度のは違う。なんか、娘。全体が浮き足立ってる感じや―なっちも、カヲリも。」
この人は―「あのこと」を知らない。だから、余計に戸惑うのだろう。

「―教えてくれんか、紺野。娘。に何があった。」
51 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 11:15
料理が運ばれてくる―言葉が、途切れた。

また、喧騒が戻ってくる。
ひとのざわめき、食器の音、そして―水車がまわる音。

ガタンガタンとまわる音が耳をうつ。
ぐるぐると、ぐるぐると。
夜の帳が落ちた庭で、水が光を反射し輝いて見える。
ひたすらにまわりつづける。
ぐるぐると、ぐるぐると。

まわる水車を見つめる私を、中澤さんは不審そうに眺めていた。
52 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 23:11
雲を食べているみたいだった。
きっと、そこそこ値が張る料理なんだろうけど何を口に運んでも味なんてしなかった。
それでも、こうしている間は、中澤さんの顔を見ずに済むからその手を止めなかった。

「…私じゃ役に立たん、か」

ぼそりと。
小さく、独り言のように中澤さんはそう漏らした。

思わず顔を上げてしまった。
だけど視線が交わらなかったのは、中澤さんが俯いているから。

照明の光を吸収してきらきらと光るようにして綺麗な髪が揺れる。
そのダンスが軽やかなだけ、中澤さんの心は不安や悲しみばかりがうごめく闇に支配されて行っているのかと思うと胸が痛んだ。
言ってしまえば、中澤さんの心も私の心も少しは救われるのかもしれない、と気持ちは揺らぐ。

だけど、言えない。
中澤さんは誰よりも大人で、初代リーダーだし、もしかしたら今の状況を打破してくれるかもしれないけど。
だけど、言えない―
53 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 23:11
結局無言のまま、レストランを出た。
中澤さんは遠い空を見上げて、寒そうに肩を縮こまらせる。

「…すいませんでした…。
 その、せっかく、誘ってもらったのに…」

私がそう言うと、中澤さんはポケットに押し込めていた手を片方抜き出して、私の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
まっすぐに見つめられる瞳。
その奥には、このレストランに入った時からずっと不安の色を携えたままで。

「…ん、ええよ。
 ほら、そんな顔せんの」

なんで、そんな風に微笑えるのだろう。
なんで、そんなにやさしいのだろう。
54 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 23:11
「送ってはいけんけど、タクシー拾って帰るんやで?
 危ないから…」

すっと腕が引き戻された。
中澤さんの右手はまた、上着のポケットの中に納められた。

「おやすみ」

中澤さんはさよならの代わりにそう言って、ぼんやりと輝く街の中に消えていく。
その後ろ姿を見送って、踵を返す。

何度も、何度も謝って。
心の中で、何度も何度も謝った。

だって私は彼女を好きになってしまったから。
彼女が苦しみ続けるなら、私もせめて同じ苦しみの中に漂っていたいと思った。

可能性なんてゼロに等しいとしても、それでも僅かでも希望があるなら信じたかった。
彼女が私に振り向いてくれるかもしれないと。
だから、言えなかった。
この全てが、入り組んだこの道が舗装される事が怖かった。
この中にいる事が、私にとっての唯一の希望だったから。
55 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 23:12
街灯の眩しさに、ふと顔を上げると、いつの間にか遠くまで来てしまっていた。
中澤さんと別れたレストランはもう影も形もない。
それどころか、この道を進んでもその先に私の家はない。

そういえば、何故中澤さんは私に訊いたんだろう。
仕方なく来た道を引き返しながら、そんな疑問を抱え込んだ。

街灯から外れても、足元には影が伸びていた。
月が、いつもよりも精一杯、光を放っていた――
56 名前:1982 投稿日:2003/10/24(金) 23:12
――飯田さんとよっすぃーを喫茶店に置いてきたのはいいけど、気が気じゃなかった。

「ヨシザワをさ、呼び出して欲しいんだ」
て言った飯田さんの顔は穏やかだったけど、それが逆に不安で。

居ても立ってもいられず、ケータイの着信履歴の中からあの人の番号を探す。


受話器の向こうで4回続いたコールが切れて、どこか眠たげなあの人の声が聞こえた。
57 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/25(土) 12:40
やばいくらいおもしろい。
今一番気になるお話だ。
58 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 20:56
》57さま
過分のお言葉を賜り、有難うございます。
ご期待に沿えるかどうか分かりませんが精一杯努力いたしますので見守っていただければ幸いです。
59 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 20:59
「・・梨華ちゃん?」
不機嫌そうな声に、思わず知らず声が震える。
「よっすぃ〜!あの・・」
「心配してくれたのは分かるよ、ありがと。でもね、もう二度としないで。あんなことも―電話も。」
ブツッ。
短く、絶縁が告げられた。

視界が、歪む。
世界が、転がる。

「よっす・・ぃ〜・・」
カチン。アスファルトの地面に携帯が落ちる音が、響く。
60 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:01
こんな―こんな彼女は知らない。
どうなってしまったのだろう、彼女は。
どうなってしまうのだろう、娘。は。

そのまま、そのまま―世界が倒れていくのを私は呆然と―

「・・危ない!」
聞き覚えのある声に、我にかえる。
「何してるんですか、石川さん!」
気がつけば道路に倒れようとしていた私を、誰かが支えてくれていた。
「どうしたんです、こんなところで。」
仲間の、声。いつも聞いている声なのに―なぜか、懐かしい。
「・・・紺野こそ、どうし、て?」
彼女の色白の顔に、車のライトがあたり一瞬輝いて―そしてまた、暗くなった。
61 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:02
「・・落ち着きましたか?」

公園のベンチに座った私に、暖かいコーヒーを手渡しながらこの子は微笑む。
「うん、もう大丈夫。・・ごめんね、心配かけて。」
暖かさが手のひらから全身に、ひろがる。
乗る者のいないブランコがひとりキィコキィコと音を、立てる。
風が、黒い幹がむき出しになりつつある木からまた葉を剥ぎ取っていった。
62 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:03
「・・・なにがあったか、聞かないの?」
「聞きません。多分、私がここにいる理由と同じでしょうから。」
「・・安倍さん、とよっすぃ〜の、こと?」
「はい。中澤さんに呼ばれました。」
コーヒーを一口、口に含む。
「あったかい・・。そう。中澤さんにも、心配かけちゃってるんだ。」
だめだなぁとつぶやく。眉毛が八の字になっているのが、自分でも分かる。
「分からない―んだよ。よっすぃ〜や安倍さんの考えていること、がね。」
63 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:04
あの日、マネージャーに取り押さえられながら冷たい目でこちらを睨みつけたよっすぃ〜。
首の痕を隠しながら、いつもどおり笑う安倍さん。

私の世界が、歪みだしたのは―あの時から。
「このままだと、娘。がおかしくなっちゃう―そんな気がする。」

「―おかしくなって、困ることがありますか?」
64 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:05
一瞬、耳を疑う。
「・・え?」
「娘。がおかしくなって、困ることがありますか?」
「だって・・」
「私は困りません。いっこうに。」

今、気づいた。
この子の瞳―黒く、印象的な瞳。
そこに宿る光は―安倍さんやよっすぃ〜と同じ光。
65 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:07

愛する人。
のために
愛するもの。
を捨てた―瞳。

もしかしたら、彼女たちよりも深いかもしれない―暗い、光が宿る瞳。
66 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:08
さっきまでの温もりがその瞳に吸い込まれたかのように、すぅっと身体が冷えていく。
コーヒーの缶が、落ちる。
温かい液体が地面に広がり、うっすらと水蒸気があがる。
「こん、の・・・?」
「安倍さんや吉澤さんもきっと同じだと、思います。」

視界が、歪む。
世界が、転がる。
67 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:09

こんな―こんな彼女は知らない。
どうなってしまったのだろう、彼女は。
どうなってしまうのだろう、娘。は。
68 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:09
さっきまで頼もしかった黒い瞳が、得体の知れぬ魔物のように見えて、くる。
身体が、震える。
轟。
木の葉が、私と彼女の上に振りかかる。
そして。
彼女が何かを言おうとするのを聞かず、そのまま振り向き―私は逃げた。
69 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:10
息が、苦しい。
どんなに速く走っても、あの瞳が追いかけてくる。
よっすぃ〜の冷たい瞳が。
安倍さんの笑みを浮かべた瞳が。
紺野のもの言わぬ瞳が。
どこまでも、追いかけてくる。
コワイヨウ―コワイヨウ。
涙が自然と溢れ出す。足が、絡む。
電車に飛び乗り、家に帰り着いても震えと涙と吐き気が止まらなかった。
70 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:11

私はその日、幼い日のように蒲団の中で震えて眠った――
71 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:12
――石川さんが落としたコーヒーの缶を塵箱に捨てる。
カランというその音は、深夜の公園では意外に大きく聞こえた。
木の葉をもうすっかり落とした黒いゴツゴツした木―桜の側にある石のベンチに、一人で座る。
手のひらにあたる―石の冷たさが、今の私には気持ちいい。
そのまま、横になる。冷たさが全身に広がる。
この冷たさは―あの人のようだ。
きゅうっと胸の奥が疼く。
これは恋、というようなよいものではない。人を獣にする―劣情。
痛む胸を、手のひらで覆う。
「・・とさん。ん・・・」
つかのま、私は獣に―堕ちる。
72 名前:1982 投稿日:2003/10/25(土) 21:13
風がまた強くなってきた。
轟、とうなるその音が私には、耳の奥に残る水車の音のように―聞こえていた。
ただひたすらに、ぐるぐるとまわる水車の音。

ガタンガタン、ぐるりぐるり。
ガタンガタン、ぐるりぐるり。
73 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:20
――まるで巻いたネジが止まっていく時みたい、ゆっくりとてのひらの動きが停止した。
目を開けると藤本はこっちを向いて眠っていた。
眠ってる時でも表情は読めない。
いつも藤本は無機質な顔をしてる。
まあ、それがいいところかもしれないけど。
74 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:20
さっきまで頭を撫でてくれていた手をタオルケットの中に仕舞ってあげる。
外気に触れて体温よりも冷めてしまっただろうそれの熱に、やさしさを感じてしまう。

藤本がなっちを好きじゃないって事は分かってるつもり。
もしもこの日常からあの日だけを綺麗に切り取って外してしまえたら、きっと今みたいに隣に藤本が寝てる日は来てないと思う。

だけど藤本は知らない。
最初はお互い、埋められないものを埋めるように手を取り合ったけど、なっちはさ、もうそれを埋めなくてもいいと思ってる。
だって、それを埋めてしまったら、藤本はなっちの隣から消えてしまうだろうから。
75 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:20
手を、繋ぐ。
あと何度繋ぐことができるか分からない藤本の手を握り締める。
いつの間にか藤本のてのひらのあったかさが、なっちのと一致するくらいにまで回復していた。

「ねぇ、藤本。
 いつまでなっちの傍にいてくれるの?
 いつまで、守ってくれる?」

どうしてだろうね…。
あの人のこと、好きだったはずなのにね。
藤本がやさしいからいけないんだ。
藤本が―。

「ねぇ、藤本ぉ。
 やめるなら今のうちだよ…。
 だって、なっちは、藤本を好きになり出してるんだから」
76 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:21
――今日はやけにケータイが忙しそうに活動する。
いい加減にしろよな、と思いながら通話ボタンを押した。

「何?」

投げやりに返事をする。

「あ、吉澤さん」

またしてもメンバーからか。

自分が画面に表示されていたはずの名前を確認しなかった事は棚に上げて溜め息をついた。
空を見上げる。
風が強いらしく、雲の流れが目に見える。
77 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:21
「今、時間ありますか?」
「…何の用?」

月を雲のカーテンが覆う。
ふ、と、一瞬の間に街中が大きな闇の中に消えた錯覚がした。
例えば、蓋の閉じられた箱の中のような、この街自体がその箱の中のように真暗な密室になったのかと思った。

「吉澤さんは、もう戻らないですよね?」

…なんだまたその話か、とうんざりした。

「…ああ、そうだよ」

飯田さんのくだらない話を聞いたお蔭か、随分と棘のあるトーンで声が出た。
78 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:21
「じゃあ、最後までちゃんと悪者でいてくださいね」

それは、どういう意味だろうか。
真意に辿り着けず、思わず、ほぼ漆黒に塗り上げられている景色に視線を揺らす。

ビューっと強い風が吹いて、どこからかブランコの金属音が聞こえてきていて、凍えそうだと言わんばかりに木々もざわめいていて、
塵箱が揺れているのか、カランカランと空き缶たちがぶつかり合う音もこの騒ぎに加わる。

そのパーティーを嗅ぎ付けた月が、姿を見せた。
纏っていたはずの灰色のドレスを脱ぎ捨てて。
星を鏤めた空を纏って姿を見せた。
79 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 04:21
私の視界の先には、その全てを従えてきたらしい女の子が姿を見せた。
彼女はケータイを持つ手を下ろし、私をまっすぐ捉える。

「約束しましたからね」

距離は、遠い。
彼女はそもそもそんなに大きな声は出さないはずで、実際今だって独り言並みの声量だったはずなのに。
その言葉は弾丸ライナーで私の耳に届いた。
不敵に緩む口許と一緒に――
80 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 20:00
「おはようございます。」
言ってはみたものの、誰もいないのは分かっている。
今日も一番乗りだ。

テープレコーダーを置き、曲をかける。
練習開始。
この前、夏先生に言われたことを思い出しつつ、手足を動かす。
タン、タン―タン。
静かな部屋にただ、自分の足音だけが響く。
朝の、急に秋めいてきた冷気が肌をさす―それが、気持ちいい。
81 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 20:04
娘。の様子が変なのは―うすうす、気づいている。
卒業とか分割とか―勿論、関わっているのかもしれないけどそれとは違う、何かもっと深いところで揺らいでいるように思う。

不安、というものを感じないといえば嘘になる。
加入してすぐの時には感じていたぬくもりが、急速に冷めていくように思うから。

苛立ち、というものがないわけでもない。
憧れの、あの人―石川さんの不安そうな顔を見ることが多くなったから。
82 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 20:05
でも私が動いてどうなるものでもないと、思う。
そう。六期として入ってきたばかりの私が―メンバーとしても、人間としても幼い私が動いてどうなるものでも―ない。
今、私がするべきことは、メンバーとして、少しでもあの人の不安を無くせるよう努力すること。
娘。を支えていけるよう、ダンスや歌の技術を上げること。
新しく任せられたユニットを引っ張っていくこと。

そうすることで、あの人の不安が少しでも減って、あの人の笑顔が少しでも見られれば、嬉しい。
83 名前:1982 投稿日:2003/10/27(月) 20:06
だから―だから今日も私はひとりでステップを踏み、歌を唄う。
「・・負けたく、なか。」
先輩に。
同期に。
不安に。
焦りに。
苛立ちに。
この―思い通りにならない世界に、自分に。

「負けたく、なかよ。」
84 名前:名無し読者 投稿日:2003/10/28(火) 00:40
毎回更新をチェックして、私も1番期待しております。
なっちとミキティの絡みがとてもいいです。
応援してます。
85 名前:1982 投稿日:2003/10/31(金) 01:34
>>84さま
温かいお言葉を有難う御座います。
そう言って頂けると励みになります。
86 名前:1982 投稿日:2003/10/31(金) 01:34
廊下を走る音がひっきりなしにしている。
ダンスレッスンの開始予定時刻はもうとっくに過ぎてしまっている。
辻さんは小川さんと話をしている。
田中は道重を引き連れて自主練。
飯田さんは外でマネージャーさんと深刻そうな顔してお話中。

梨華ちゃんは未だ姿を見せず、か…。

まぁ、このままだと梨華ちゃん抜きで開始になるんだろうけど。
ケータイが繋がらない。家にはいない、らしい。誰にも連絡もなし。
何か、あった、とか?
けどそれなら誰かしら知ってそうなもんだけどなぁ。
こっちじゃないにしても、あっちの誰かが。
87 名前:1982 投稿日:2003/10/31(金) 01:34
いい加減床に体育座りじゃじんじんしてくるから仕方なく立ち上がって屈伸をする。
鏡越しに辻さんと目が合った。
びくっとしたようにしてそれは逸らされる。
…まるで美貴が何かしたみたいじゃない?

「…」

いや、まさか。
けど、もしかして、何か知ってる?

「…。
 辻さん」
「な、何…」
「梨華ちゃん、来ませんね?」
「あ、うん…」
「…何かあったんですかねぇ」
「し、知らない、けど…」
「…美貴、何かしましたっけ?
 何で今日、そんなに怖がられてるだろうなぁ?」

わざとらしくそう言って近付く。
そしたらまた、視線が逸らされた。
88 名前:1982 投稿日:2003/10/31(金) 01:35

決まった。
辻さんは梨華ちゃんがいない理由を少なからず知ってる。
それには美貴が絡んでる、もしくは美貴には知られたくないような事。
89 名前:1982 投稿日:2003/11/02(日) 22:15
そんなことは―ないか。
辻さんと同じような視線を背中に感じて、苦笑する。
梨華ちゃんがいなくなったのが今の娘。の状況と無関係なわけがなく、そして美貴は不本意ながらその状況をつくった一人ということになって、いる。
その結果が、彼女たちの責めるような脅えるような視線というところだろう。

苛立ち、というよりむしろ可笑しさが先に立つ。
なにか言おうと口を開いたとき、マネージャーがダンスレッスンの開始を告げた。
まぁ、いいか。
今の美貴は彼女たちにどう思われようと、どうでもいいから。
うーん、ともう一度伸びをした。
90 名前:1982 投稿日:2003/11/02(日) 22:26
「・・はい。じゃあ、明日は歌も入れてやるんで各自今日やったところは完璧にしとくように。」
トレーナーの声が終了を告げる。
ばらばらと散っていくメンバーを視線の端で捕らえながら、少し残っていきますんで、とマネージャーに言う。
身体を動かしているときだけは、少し落ち着くように思うんだ。

西日がさす中、もう一度、ステップを踏み始める。
あの日、あの人から差し出された手をとったときから、美貴は少しづつ腐っている―そう思えてならない。
恋ではないにしろ、あの人が嫌いなわけではない―むしろ、あの人と自分の心を騙し続けている自分がひどく憎い。
あの人につく嘘が―少しずつ自分を腐らせる、そんな感じだ。
その苛立ちから逃れるため、あの人に抱きしめてもらうそのためにまた嘘をつく。
悪循環。
91 名前:1982 投稿日:2003/11/02(日) 22:27
ふいに、部屋の壁の鏡に映る自分が、どうしようもなく醜いものにみえてきて―身体が止まる。

耳の奥がざわめく。
鏡の中の美貴が、笑みを浮かべている。
部屋中のたくさんの鏡の中のたくさんの美貴が、美貴を嘲笑っている。
92 名前:1982 投稿日:2003/11/02(日) 22:28
幻覚だ―幻覚じゃなければなんだというのだ。
自分に言い聞かせる。
でも、この醜い美貴の、醜い笑みは―真実なのだろう。
耳鳴りが、止まない。
いまや、はっきりと嘲笑の響きと化したそれが、美貴を責めたてる。
勝てぬ戦いを仕掛けた自分を。
嘘をつき続ける自分を。
ワタシヲワタシガワラッテイル。
名づけられぬ感情が、こみ上げる。
じっとりとした汗が、まるで身体を縛る鎖のように全身から噴き出す。
立っていられない。
動悸が激しくなり、膝を突く。
なんだ―これは。
93 名前:1982 投稿日:2003/11/02(日) 22:29


まるで燃え盛る炎のような真っ赤な夕焼けが、窓の外から私を覆っていた。

94 名前:1982 投稿日:2003/11/02(日) 22:31
突然に。
ガチャリという音が、静かな部屋に響く。幻聴が消え、鏡の中の美貴は沈黙する。
慌てて顔を上げる。
開いたドア、立ち尽くす少女、黒い髪の毛、白い肌、丸い瞳。
「・・・紺野。」
95 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/04(火) 00:10
せつない・・・。すごく続きが楽しみなお話です。
作者さんがんばってください!これから毎日チェックします(w
96 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:05
>>95さま
有難うございます。
なるべくコンスタントに更新できるよう頑張りますので。
97 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:06
カチャッ、と控えめな音を立ててドアが閉じられた。
部屋の中には美貴と紺野と、鏡の数だけの二人の分身だけ。

「何?どうかした?
 ああ、小川さんならもう帰ったけど…」
「…」

答えはなくて、ただ、ひどく冷えた笑顔を浮かべていた。
何て言うか、血色のない笑顔を。

「…それともここでで練習する予定だったとか?
 なら、美貴もう帰るから使ってよ」

慌てて立ち上がる。
壁に置きっぱなしだった鞄を拾い上げて、紺野の横を通りドアノブに手を掛けようとした時だった。

ガンッて音がした事以外、一瞬何が起こったのか分からなかった。
98 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:06
右手には紺野の手の感触がある。
あれだけ嘲笑っていたたくさんの美貴の名残りさえ今は見えない。
目の前には紺野の顔。
黒い瞳が美貴の視界全てを支配している。
他には何も見えない。
背中がじんわりと痛みを感じさせ始める。

停止してしまった脳が活動を再開した。
だけど声は出なかった。
紺野の唇に声の出口は塞がれてしまっていたから。

すぐに押し返そうと思えばできたはず。
なのにそれを躊躇ってしまったのは、この、紺野の目と美貴の目が合い続けていたからだろうか。
99 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:06
中に引き込む形のドアに背中を押さえつけられたままの状態は変わらず、唇だけが離された。

「私、欲しいんです」

相変わらず口許に笑みが浮かんでいた。

「何を…?」
「藤本さんを」


美貴は、どんな顔をしていたのだろうか。
どんな顔で紺野の言葉を聞いたのだろうか――
100 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:07
そんなに溜め息をつくくらいなら行けばいいのに、と思う。
ケータイをポケットから取り出してボタンをふたつみっつ押した所でやっぱりやめてポケットに仕舞い直す。
かれこれもう4回目か5回目にはなる。

おとめのレッスン場になってる部屋の方向を見つめては溜め息。
それを見てる私に気付いて慌てて目を逸らす。
行くなら行く。メールか電話するならする。
決断力が足りないと思う。
101 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:07
彼女に足りないものが決断力だとしたら私に足りないのは罪悪感かそれとも良心あたりだろうか。

―あぁ、まただ。
彼女を見ると、喜怒哀楽全部が入り混じって気分が悪くなる。
自分の感情を制御できなくなりそうになる。
そしてまた、自己嫌悪。
お決まりのパターンと化してきてる。

仕方なしに腰を上げて部屋を出た。
廊下は思ったより冷えていて首を竦めたけど、よっぽど、中にいるよりはましだった。

廊下を歩いていると後ろでドアの開く音がした。
小さな足音が私のそれと乱雑なリズムを刻み出した。
102 名前:1982 投稿日:2003/11/04(火) 16:07
やばい、笑える。
振り返らなくてもそれが彼女の足音である事を把握できる自分に。

だけどふと、込み上げてきていた笑いが止まる。
彼女の足音は確実に私と同じ方へと進んでいる。
隣にいつもの足音はない。

会いに行く事もメールも電話も諦めたのだろうか。
未だかつて一度もそんな事はなかったはずだ。
こんなに近くに彼女の騎士はいるというのに、声も掛けずに帰る?

何故?
素朴な疑問が浮かぶ、と同時に足も止まってしまった。
それに倣うようにして、彼女の足音も止まった。
103 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:27
少しの言葉。そして再び塞がれる唇。
胸の奥のなにかが、ぱしゃんと音を立てた。
怒り―なのだろう、そのまま美貴の口を塞ぐぷっくりとした唇に思いきり歯を立てる。
唇を押し返すやわらかさ。そしてぷちり、という音。
舌がぬめりとした感触をとらえ、独特の匂いが鼻腔の中に広がる。
104 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:29
それでも彼女の目は笑っている。
その笑みが、怒りを増幅させる。

右手を押さえつけている手を払いのけ、突き飛ばす。
床に倒れる彼女の白い足が目をさす。
一瞬、心が波立つ―のを抑える。
残るのは後ろめたさ。
白い肌。その上に、唇の下から首筋にかけてのところに、赤い一本の線が描かれている。

まるで人形だ。
105 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:30
その気持ちを読み取ったわけではないだろうに、彼女は自動人形のごとく首を傾げる。
「どうしました?藤本さん」
荒い息をつきながら、切れ切れになった言葉を吐く。
「紺野、わけわかんないよ。一体、何の冗談?」
「冗談じゃありませんよ―私は藤本さんが、欲しい。藤本さんが好きなんです。」
「はあ?気持ち悪いよ。」
苛立ちがそのまま、言葉になった。
106 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:31
それでも彼女の目は笑っている。
黒い瞳が、じっとこちらを見つめている。
自分の中の欲望を―見透かされている気がする。
あの子の肩にもたれかかったとき、あの人の隣で眠っていたとき―美貴が抱いていた欲望に、この子は気づいているのか。
接吻というかたちで示された欲望を拒否できるほど、あなたはきれいな人なのかと嘲笑っているのか。

ああ―また耳鳴りが戻ってきた。
うるさいうるさいうるさい笑うな、笑うな、笑うな――
「笑うな!」
言葉が先だったのか、手が先だったのか―覚えていない、分からない。
思わず鞄を放り投げ、彼女の頬を叩いていた。
107 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:32
それでも彼女の目は笑っている。
これは恐怖なのか苛立ちなのか怒りなのか。
笑みを浮かべた彼女を―いつの間にか馬乗りになり握りこぶしで殴り続けていた。
これは八つ当たりだと心のどこかで声がする。
メンバーに何をしているんだとも言う。
仕事に差し支えるからやめろとも言う。
でも、やめられなかった。
夕日はもうとっくに落ちているのに、美貴の目の前は真っ赤に染まっている。
血のような夕焼けのような―赤。

「あんたに―なにが分かるのよ。」
動作が止まり、肩で息をしながら呟く。うわ言のように、繰り返す。
108 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:33
それでも彼女の目は笑っている。
耳鳴りが激しくなり、頭の中がざわざわする。まるで虫が這い回っているみたいだ。
もう、自分が何をして何を言っているのかも分からなかった。
ふわふわとした現実感のない感触。他人が喋っているかのような自分の声。
黒い欲望が―心の中に翼を広げる。

「・・・あんた、私が欲しいんでしょう―分かったよ。抱いて―あげる。」

ひどく乱暴にくちづけ、首筋に舌を這わせる。
猛獣が獲物を食いちぎるような、動作。

そのとき、心の奥で悲鳴がした。
それが理性の声というものだと知ったのは―だいぶ後の話。
109 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:34
耳鳴りが、止む。
車の走る音が絶え間なく響く。
なんのいたわりも愛情も感じさせない指が、彼女の身体を這う。

そのとき。
それでも。
それでも、彼女の目は笑っていた――
110 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:35
私はきっと―駄目な人間なんだろうと、思う。

いつも、なにかにすがっていないと生きていけない。
その人を駄目にするまでにすがっていないと生きていけない。
それは中学生のときのあの体験のせいなのか、生まれもったものなのかは分からないけど。
すがりつき、しがみついてどろどろに甘い感情の波で相手を包み込み、駄目にしてしまう―それが、私の癖だ。
111 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:39
愚かだと、思う。

そうやってひとの人生を奪うことを、何度繰り返してきたのか。
もう、そういうのは終わりにしたかった。
あの子の翼を私が折り取ることは、したくなかった。
あの子の未来は、人生はあの子のものだと思った。
だからあの時、別れを告げた。
でも、もう遅かったのかもしれない。
あの時のあの子の激情が―嬉しかった自分が、とても嫌だ。

そして今、傷を舐めあうように寄り添った藤本を私は駄目にしつつある。
人生の四分の一をその中で暮らしてきた娘。をこれ以上壊したくない。
もう、これからは藤本とも距離を置こう。
そう決めた。
112 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:40
ケータイをむりやり鞄の中にねじ込むと部屋を出た。

――なんて、ことだ。
目の前をあの子が、歩いている。
感情を押し殺す、溢れ出るものを―封じ込める。
蓋をしなければ、これは溢れ出てあの子を溺死させるだろう。
必死に必死に、押さえ込む。
113 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:41
キュッ、という耳障りな音がする。
あの子の足が止まる―こちらを振り返る。
笑え笑えいつものように。
そうすればやり過ごせる。いつものように笑え笑え、ワ・ラ・エ。
自分に必死で言い聞かせる。
ほんの少し、頬の筋肉をあげればいいこと。それ以外の何ものでもない―営業用の笑みを浮かべる。普段どおりの言葉を言う。

「よっすぃ〜、じゃあなっちも帰るからね、ばいばい。」
114 名前:1982 投稿日:2003/11/06(木) 09:42
すっかり短くなった日は、暮れようとしている。

もう―こんなことは終わりにしたかった。

だから、私はそのまま再び歩き出した。
よっすぃ〜は立ち止まった、ままだった。
115 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/07(金) 00:19
なんだかものすごいことに・・・。あやなちはどうなってしまうのでしょうか。
文もうまいですね、とてもうまい。
最初からもう一度読み返すことにします。
116 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/07(金) 00:20
あやでなくみちなちでした(v 申し訳。
117 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:11
>>115-116さま
有難う御座います。
二重にボケて頂き、ツッコミ冥利に尽きます。
「みっちゃんかよっ」
有難う御座いました。
118 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:12
彼女の時間は動き出したと言うのか…?
―ざわっと、心臓、首、後頭部に何かが駆け上がって行くような感覚がした。
孤独感?罪悪感?解放感?
そのどれもが的確じゃない。
119 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:12
分からない。
ずっと、ずっと見続けてきたはずなのに、ずっと、ずっと想い続けてきたはずなのに、その笑顔が本物なのかどうか全く判別がつかない。
彼女はそれほどまでに得意だっただろうか。
笑顔も、振られたてのひらも、全部、繕う事――
120 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:12
――朝から、昨夜から切りっぱなしだったケータイの電源を久しぶりに入れる。
着信履歴も、メールも、見事に3人以外のメンバーやマネージャーさんからで埋め尽くされている。
安倍さんからメールがあったのは、予想外と言えば予想外だったけど。

心臓に左手を当てて、ひとつ、ふたつ、深呼吸をする。
121 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:13
怖かった。
あんな紺野を見たのは初めてだったから。
悔しかった。
よっすぃーの事も、安倍さんの事も、―紺野の事も、全部、守れない。助けられない。
自分には何も出来ないんだって思い知るだけの、「時」。
こんな時のための仲間なんだと思ってた。
だけど、こんな時にさえ私は役に立たないんだって思い知る。

そして、逃げ出してしまった――。

駄目だなぁ、私って。
だけど、還りたい。
全然、私の力なんかじゃどうしようもないんだとしても、それでも―。
嘘なんかじゃない。
122 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:13
ケータイをポケットに仕舞って、空を見上げた。
空のオレンジが、焦げ付くように夕闇に飲み込まれていく。
昨日は、私の心と比例していたけど、今日は違う。

変わらなきゃいけない。
変えたいなら、私自身も変わらなきゃいけないんだって、気が付いた。
123 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:13

「…おかしい、よね、なんか…」
あの日の事を言ってる訳じゃない。

「うん…」
ののもそれを感じてる。

「このままなのかな、ずっと…」
まこっちゃんも。

「…さぁ」
愛ちゃんも。
124 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:13
「…もう駄目なのかも知れないね」
「うん…」

いつもなら、駄目じゃないって誰かが言ってたはずなのに、今はもう誰も言えない。

「これから、どうなるんだろうね」

答は誰にも分からない。
加護もののもまこっちゃんも愛ちゃんも。

不安だけが大きくなっていく。

知ってる。
加護だけじゃない。
みんな知ってるんだ。
きっともう、加護たちの力じゃどうしようもないんだって事。
125 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:14
「…せっかく来たんだし、歌お」
「あ…うん。そだね…」

愛ちゃんと一緒にページをめくってたののは、下唇をかんで、リモコンを押し始めた。

おっきな画面に表示されたのは、抱いてHOLDONME!の文字。

ののは何も言わずに歌い出したけど、それだけで十分だった。
だから加護も、ページをめくって数字を探した。

ののが歌い終わって、マイクを差し出す。
それを受け取って、画面を見つめた。


ちょこっとLOVE

126 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:14
その後にののがたんぽぽを歌い出したのを見て、ふたりもラブマシーンと恋のダンスサイトを入力した。

かえりたかった。
憧れてたあの頃に。
その中に、加護たちがいる、そんな時に――
127 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:14
自分の右手を見て、覚醒した。
自分のこの乱れた呼吸が何を意味するのか。
すっかり更けてしまった窓の外の景色が何を意味するのか。
物音ひとつしない耳の奥と心の中、それが何を意味するのか。

答なんて考えるまでもない。
ゲームオーバーだ。
128 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:15
例えば、紺野がこれを誰にも言わないとしても、見た目には現状に何ら変わりないんだとしても、もう美貴はゲームオーバーなんだ。
耳の奥で小さく、小さく、だけどずっと聴こえていたあの子の声を振り切って、安倍さんの声も振り切って、紺野を抱いた。
あの日以来、いやたぶんそれ以前からずっと、唯一大切にしていたと言っても過言じゃないものだったはずなのに、それを捨ててしまった。
もう、美貴の中に、純粋なんて呼べるものは何ひとつ残っていない。
129 名前:1982 投稿日:2003/11/14(金) 06:15

目の前には、紺野の笑う顔が見える。
これは幻なのだろうか、それとも――
130 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 01:56
いや、もう幻かそうでないか―それすら、今の美貴にとっては意味をなさない。
見分けることは出来そうもないし、しようとも思わない。

何かが崩れる音がする。
いつのまにかずれ始めた歯車が動き続けて悲鳴をあげ、結果壊れた―そんな感じだ。
ばらばらと、壊れる。
131 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 01:58
汗で濡れたはだけたシャツ。
足に冷たさを送り続ける、冷え切った床。
Gパンの布地。
額に張り付く、髪の毛。
そんな当たり前のものの感触が、急速に嘘くさくなっていく。

世界が、遠い。
一瞬目覚めた理性とやらが、また深く深く沈んでいく。
もうなにも美貴の心を動かすことはない、だろう。
引き返せない道を選んでしまったから。
132 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:00
サヨナラサヨナラサヨナラミンナ。
コンナトコロデオワカレナンテホントウニツライケド。
サヨナラサヨナラサヨウナラ。
133 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:00
ぐぉん。

それは外を走る車の音だったんだろうけれども、美貴には世界が傾く音のように聞こえて。
傾いた体はそのまま目の前にいた紺野に、覆い被さるかたちになる。
彼女の顔を両手でつつみ、また激しく口づける。
ふっくらとした彼女の身体を抱きしめる。
みんなの汗が染みこんだレッスン室を汚している。そんな背徳感すら、今は無い。
抱き合っているのに身体の芯から冷えていくようだ。
だから、余計に強く彼女を抱く。
愛撫の音も、吐息も車の音にかき消されて―なんだか自分が機械になったような、そんな気がした。
134 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:04
月はいつのまにか雲に隠れ、真っ暗。
窓の外の景色は、覗き込んだ紺野の瞳と同じ色だった。
もうとっくに落ちた日は、ずっと昇ることはないように、思えた。
135 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:05
――やれば出来るんだよ、うん。
紅茶を飲みながら、思う。
暖かさが喉をおりていくと共に、少し自信が持てた。
もう終わりにするんだ。全部、全部。
そうすれば昔の娘。に、ふざけて笑って歌って踊って―楽しかったあの頃に、きっときっと還れる。
136 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:05
あの子たちには未来がある。もう―私の我儘に付き合わせるべきじゃ、ない。
吉澤の、へにゃりとした笑みが、浮かぶ。
藤本の、ちょっと上目遣いの照れ笑いが、浮かぶ。
ああ―藤本には、悪いことをしてしまった。
あの子が引き返せるうちに終わらせたい。
まだ、きっと大丈夫だから。
そう。きっとまだ大丈夫。
今なら娘。は壊れてないから。
今ならまだ娘。を動かす歯車はまわっているはずだから―
137 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:06
コップを片手にカーテンを開け、外を見る。
真っ暗だった。
もうとっくに日は落ちて月は隠れ、暗い空が街の光を足元にひれ伏させていた。
でも―きっと日は昇ると信じていた。
だからその暗さの中に、日が昇ると共にはじまる数え切れない未来が潜んでいるように、見えた。
138 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:07
日はもうすっかり落ちていたけど、どうしても今日中に見ておきたかった。
タクシーを飛ばし、たどり着いたのは―懐かしいあの場所。
あの、お寺。
もう一度、見ておきたかった。
私たちが同期として出会った場所。
私たちが娘。として歩き出した場所。

どこから間違えてしまったのか。もう、今となっては分からないけど。
でもあの場所で出会ったのは間違いじゃなかったと、信じたいから。
139 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:12
がしゃ。
足元に積もった木の葉が音を立てる。
もう、寺務所の人は帰ったみたいで静かだった。
聞こえるのは静謐を更に際立たせる虫の声だけ。
月の光の中に浮かび上がる寺をじっと見つめる。

数分だったと思う。
時が、全てのものが、止まった。
140 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:13
そして―私は寺に背中をむけ、振り返らずにもと来た道を歩き始めた。

がしゃり、がしゃり。
木の葉を踏みしだきながら一歩一歩、歩く。
あの場所を忘れなければ―出会えたあの時を忘れなければ、まだ大丈夫だ。
まだ、やり直せる。
あの日に戻ることは、出来ないけれど。
あの日から始まる今を―未来を変えることは出来るはず。
そう思ったわけじゃない。

そう信じたかった。
141 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:15
月が、雲に隠れた。
暗い。
真っ黒に染められた世界。
吐きだす息の白ささえ、見えない。
音も光もほとんどないこの世界に、私はただ足音だけを刻む。
がしゃり、がしゃり。
タクシーの待ってるところまで、ケータイの表示画面の緑の光だけを頼りに歩いた。

着いたとき、身体は芯まで冷え切っていたけど−その寒さは決してヤなものじゃなかった。
142 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:16
「―出してください。」

東京に戻る道をたどりながら、保存しておいた昨日のメールをもう一度読んだ。
安倍さんからの、メール。
143 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:16


ごめん。



この、一言だけ。
144 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:17
正直、加入して今まで安倍さんとちゃんと話したことはない。
「あのこと」以来ますます疎遠になって、メールなんてもらったことなくて。
だからこの一言に、凄く重いものを感じた。
145 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:18
どれくらい、画面に見入っていたんだろう。
電話機能に変える。

一瞬、目を閉じる―瞼の裏にあのお寺の姿が、浮かぶ。
そして、今までさんざん悩んで押せなかったあの番号を押した。
何回かの呼び出し音の後に聞こえる懐かしい声。
146 名前:1982 投稿日:2003/11/16(日) 02:19
「・・中澤さん?石川です。はい、はい。あの、ご相談したいことが。」

車は東京に入っていた。
いつもより街の光の明るさが強く感じられた。
真っ暗な空の下で街は必死に覆いかぶさる闇を払いのけようとしているように、見えた。
147 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:10
目の前には石川。
人の姿がまばらなファミレス。
更けていくだけの夜。

それは、いつだったか紺野を呼び出した日に似てた。
呼び出した相手は言うてくれんかったって言うのに、今度は、私は関わらん方がええんかもしれん、て
思い出したその頃合を見計らったみたいに、向こうから、聞いて欲しい、と言われてる。
148 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:11
最初っから石川に訊いとけば良かったんやろうか?
―いや、違うな。
たぶんあの日やったら誰に訊いても同じやったと思った方がええやろう。
石川か、それとも娘。自体か、どっちかは分からんけど、確かに何かがあの日とは変わってるような気がする。

「…中澤さん」

コーヒーの湯気越しに、石川の顔が上がったんが見えて、私も顔を上げた。

真っ直ぐな目に、ちょっと驚かされる。
149 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:11
鞄の中でケータイが何度となく切れては鳴り、を繰り返していた。
それに気が付いたのは、もう紺野の体に這いつく力も失くし出した時だった。

紺野を抱いても何も感じない、痛くも苦しくもならない心に支配されていた体が、限界信号を出し始めた脳の支配下に戻ったからだろう。

ただ、頭の中は空っぽだ。
何ひとつ、そこには存在しない。
150 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:11
いつの間にか、その音は切れてしまっていた。
まるで、世界が美貴を諦めたみたいに。

何か大事な事を忘れていたような気もする。
けど、今は何も考えられそうにない。

真っ白なままの頭の中が、風邪を引いた時のようにガンガンとしているのを堪えながら、窓の方へ向かう。
足元が覚束ない。窓の外の世界でキラキラと輝くネオンにピントを合わせる事が出来ない。

鍵を開けて、窓を開放する。
この心と一致するような冷たい、冷たい風が吹き込んでくる。
151 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:11

車のクラクションが響き渡る。
いつもと変わらない夜。
置いてきぼりにされた美貴――
152 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:12
―繋がらない、か。
どうしたんだろ。いつもなら、時間ない時でもすぐに出てくれてたのに。
何か、あったのかな?

何か、かぁ…。

藤本も、もうこういうの、やめようって思い出してくれてる、とか?
なんて、それは都合のいい考えだよね。
153 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:12
…うん。だけど、もう終わらせる。
ツヨクならないと。
もうすぐ、娘。を卒業するんだし。
その前に、自分のこの手で、終わらせたい。終わらせてみせる、絶対。
出来ない事なんて、ないはず。
154 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:12
月のない空の、遥か遠くへ視線を飛ばしながら、藤本さんは壁に凭れ掛かっていた。
僅かに見える顔には、疲労感以外の何も見つけられなかった。

「…藤本さん」

その綺麗な顔を汚してしまいたい。歪ませたい。

「藤本さん…」

その瞳に映るのは、いつでも私じゃないと嫌なんです。
例え温度のない瞳だとしても、いいんです。
だから、だから、もっと、もっと私を見てください。
155 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:12
私の声を無視して、藤本さんは鞄を手繰り寄せてケータイを取り出した。
ぼうっと、顔の一部が青く照らされる。

藤本さんは、その画面を見つめて、微笑った。
窓から入ってくる風のように、ひんやりとした笑顔だった。
それはどこか似ていた。
鏡の中にいる私と。
似ていた、けど――
156 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:13


今までありがとう。




157 名前:1982 投稿日:2003/11/19(水) 06:13
――もう、還れない事くらいとっくに知っていたのに。
美貴はもうゲームオーバーなんだって事を知ってるのに、涙が止まらない。
込み上げてくるものを飲み込もうとしても、それが嗚咽になって吐き出される。

還りたい。還れない。還りたい。還れない…
ずるい、ずるいよ、安倍さん…ずるい…ずるい…。

気付かなかった。そんなの、こんなの…。
嫌だ、嫌だよ、安倍さん…。
今気が付いたから。ねぇ、安倍さん。待って。美貴を切り捨てないで。お願いだから…。

どうしようどうすればいいあなたを手放したくないんですこの先もずっと傍にいたい隣にいたい許して欲しいなんて言わないから嫌いにならないでなんて言わないからただ隣に置いてくれるだけでいいからそれは叶わない事ですかねぇ安倍さん安倍さん安倍さん――
158 名前:名無し読者 投稿日:2003/11/20(木) 01:51
うわー、なっちとミキティどうなるんでしょう?
なんとかいい方向にいってくれるように期待。
159 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 00:51
≫158さま
どうもレス有難うございます。
どうなるかは・・・見守ってやってくださいませ。
160 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 00:52
相変わらず、世界は暗い。

あの人の嗚咽の声だけが響いて。
あの人をそこまで動かせる彼女がとても憎くて。

ぎり。
唇を、噛む。
塞がっていた傷が、開く。
生ぬるい液体が溢れ、流れる。
金臭い匂いが口の中に、むわっと広がる。

これは―獣の臭い。
161 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 00:54
これは―迷いの香りやな。

鼻腔の中にひろがる匂いを確かめながらぐいっと、あおる。
また―量が増えてる。
自嘲。
石川から話を聞いて―もうひと月になるのか。
すっかり冬になって、いる。

それにしてもあの子の、あんな真剣な目を見たのは久しぶりだった。
162 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 00:55
「・・・けどな、石川。あんたの気持ちはよぉ分かるが―あんたにとって辛いことになるかもしれんで?」
「構いません。」
「あんたの大事な人に罵られ、嫌われ、去られることになるかも―知れんのやで。」
「かまい、ません。そうやって迷って結局全部を駄目にしてしまうよりは、私は娘。を守りたい。」
163 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 00:56
冷たく言い放ったように見えるその、言葉の端々に逡巡の跡が残っていた。

だから、余計に悩む。
知っているから。
悩んで、迷って、傷ついて―夢を抱えたまま去っていった仲間たちを知って、いるから。
あの子達にそんな思いはさせたくはない。

だからなにも出来ない―その出来ない自分にまた、腹が立つ。
「くそっ!」
かちん。
机に強く置いた盃が揺れ、中の液体が零れる。
きつい匂いが、また鼻腔をついた。
164 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 00:59
くん、と冬の匂いが鼻腔をついた。

髪を乱す風が、冷たい。
明日はまた―仕事だ。
マンションのベランダから夜の街を見下ろしながら、思う。

ひと月前の、あの笑顔の日から安倍さんは変わった。
脅えなくなった。
迷わなくなった。
―何かが吹っ切れたんだと、思う。
165 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 01:00
歩き始めたあの人の背中をただ私は見つめるしかなくて。
『あのこと』に囚われた私はただ見送るしかなくて。

全てが楽しかった日々はあの言葉で終わった。
全てを否定した日々はあの微笑みで終わった。
166 名前:1982 投稿日:2003/11/30(日) 01:02
私の中の狂気は今や―どんなかたちをとることもなく、どんなかたちもとれないままにどろりと胸の中に横たわっている。

びゅう。
風はますます、冷たい。
167 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:37
浮かんでは消えて、近付いては離れる。
手を伸ばせば届きそうに思えるのにすり抜けられて、俯けばすぐそこに足元が見える。

真っ白な光の中のような世界では、美貴と安倍さんだけが存在していて、それ以外、何ひとつも存在していない。
安倍さんまでの距離がどれくらいあるのかを測る術すらなくて、ただ、どれだけ走って追い駆けようとも追い付けはしない。
彼女はいつものように笑っていて。
美貴はいつも彼女の事を苦しそうな顔をして見ていて。
美貴が息を切らせて立ち止まると、彼女も立ち止まって、振り返る。
目が合って、微笑まれて、逃げられる。
終わりのない追いかけっこが、ずっとずっと続いていた。
168 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:37
いつも朝目が覚めると、眠る前よりも疲れていた。
こんな季節なのに背中や足に衣服がへばり付くほど汗をかいていた。

てのひらをズボンにこすり付けて汗を拭う。
背中を伝う汗も、まだその夢が脳の奥で微かに続いているような感じがしている事も気持ち悪くて、ベッドを抜けてシャワーを浴びに向かう。
169 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:37
洗い流せたらいいのに。
それが出来ればどれだけ楽だろう。


けど、きっとそれは出来ない。
だから、だったら、と、美貴は紺野を抱く。
洗い流す事は不可能なら、塗り潰してしまえばいい。
そうすればきっと今よりは楽になれるはず。
170 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:38
悪い夢が続くから、その度紺野の体に自分のそれを重ねる。
彼女を追い駆けようとする自分を、もうそんな気力さえ残らなくさせてしまいたい。
171 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:38
――街を吹き抜ける風に吹かれ続けてそのうち指先の感覚がなくなっていくみたいに、ゆっくりと、
けど確かに心の中でしていた金切り声が聞こえなくなっていった。

一月近く続いたあの夢はもう影も形もなくなっていた。
それは、少しずつ麻薬を投与されて体中が麻痺していくようなものだったと思う。
紺野の体は美貴にとって充分な効力を発揮する麻薬だった――
172 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:38
出口のない真暗な道。
目の前には何があるのかそれとも何もないのかすら分からないただ真っ黒な世界。
一歩歩き出す毎に、すぐ後ろで扉の閉まる音がする。
その音が響く度に深く深くなっていくような闇の黒色。
時々、耳鳴りのように幻聴のように安倍さんの声が聞こえる。
173 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:38
右も左もない。
上も下もない。
本当は前も後ろもないのかもしれない。
そんな世界を私は独り彷徨い続ける。

安倍さんの声は決して希望ではなかった。
その世界で光り輝くようなものではなかった。
錆びたナイフのように、私の体に心にギザギザの切断面を残していく、そんなものだった。
174 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:39
いつまで続くんだろう。
いつまで私は安倍さんに捉えられたままでいればいいんだろう。

未だ夢の中の私はそこから抜け出す方法を見つけられないでいる。
見つけない限り終わらないとでも言うのだろうか。
175 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:39
今日もまた私は当てもなく歩き続けるしかない。
今日も聞こえる彼女の声がいつしか悪魔の囁きのように思えていた。


176 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:39

避けられているんだ、という自覚はあった。
そりゃあ急にあんなメールを送っちゃったから仕方ないよねって思ってた。
177 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:39
どこかで優位に立ってるような気分になっていたのかもしれない。
私があの子にさよならを告げたんだっていう、まだあの子の方は私にいくらか未練があるはずなんだっていう、
そんな優越感みたいな余裕みたいなものが私の中のどこかしらに存在していたのかもしれない。

だけどそうじゃなかった。
あの子はもうとっくに、私に愛想が尽きていたんだ。

あの子は、あの日の事も忘れて、私との事も些細な事だったみたいに過去にして、別の人に心を向けてしまっていたんだ。
178 名前:1982 投稿日:2003/12/14(日) 04:40
私だけしか知らなかったはずの唇が私じゃない人に触れてる。
私をやさしく抱きしめてくれてた腕が私じゃない人を抱きしめてる。

何もこんな所で、私に見つけてって言ってるみたいな場所でそうする事ないのに。
何故かすごく悲しかった。
もう藤本なしでやっていくって決めてたはずなのに、目に映るものを心が受け入れたくないって叫んでるみたいだった。
悪い夢なら覚めて欲しいって――
179 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/15(月) 14:22
やった〜更新されてる。
続き楽しみにしてます。
180 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:41
「―とりあえず、おめでとう、な。そんで―おかえり。」

薄暗いバー。カウンターの片隅。
傍らに座る、あの子に告げる祝福の言葉。
181 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:42
「ありがとうございます。姐さん。」

薄暗い中でも分かる、細面の顔に浮かぶ光。
未来をつかんだ者を照らす、希望の光。
なんだかとても懐かしいもののように―思える。
泣きたくなるような郷愁。
みんな―みんな幸せだったときへの。

それを打ち消すために―また、呷る―
182 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:44
―その手が、?まれた。
「もう、やめといたらどうですか。」

温かい手のひら。暖かい言葉。
はぁっ。
漏れる吐息。
堰を切りそうな感情を、抑える。
今日だけはこの子の未来を祝い、たいから。

「はは、そやな。うん、ありがと。」
冗談めかして、答えた。
183 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:47
「―なにがあったかは、知りませんし、聞きませんけど。」
首を傾げると、黒くした長い髪の毛があの子の首筋をぱらりと覆う。
細い、細い体は、いつも抱きしめてあげたいと思っていたあの頃と少しも変わってなくて。

「悩むことはええことですけど。でも悩みすぎて、誰かを傷つけることを恐れすぎて何も出来ないというのは―よくないと思うんですよ。」
でも―なにかが違う。
「誰も傷つけずに、生きることなんか出来るはずないんやから。どうせなら、自分の信じる道を選んだほうがええて―姐さんはあの時、そう言うてくれましたよね。」
184 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:48
ああ―この子は大きくなった。
「だから―私は、踏み出しました。みんなを悲しませることは分かってましたし、つらい思いもしましたけれど、でも今はそれでよかったと、思います。」

冷たい風の中に、飛び出して―この子は大きく、強くなったんだ。
「私が今、もし歌うことが出来なくなっていたとしても、あの時決めたことを後悔してないと思いますよ。」
185 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:49
支えようと思っていたのに、支えられたのは私。
抱きしめようと思っていたのに、抱きしめられたのは私。

「だから―姐さんも、頑張ってください。踏み出す気持ちが、大事なんやないですか。」
そう言って、あの子は笑った。
どこか困ったようなその笑顔は、変わってなかった。
186 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:52
「うおっ、寒っ。・・どうもすまんなぁ。あんたを祝うつもりが―なんか励ましてもろて。」

マフラーを巻きつけながら、あの子はまた笑う。
「いえいえ、なんかえらそうなこと言うてもうて、すみません。」
じゃあ、と頭を下げてあの子は私の家と逆方向の駅に向かう。

雪混じりの風が、強い。
飛ばされそうになるマフラーを抑えつつ、私は言った。
187 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:52
「ありがとうな!」
びゅう。
「―っちゃん!」

風が強くてちゃんと伝わったのかは分からないけど、あの子は振り返り、また会いましょうと手を振った。
冷たい、凍てつくような空気の中で、彼女に?まれた手首だけがなんだか温かくて。
「・・踏み出す、気持ちか。」

私は、踵を返し―歩き始めた。
188 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:53
みんな幸せだったころにはもう戻れないかもしれないけれど。
悩んで、なにもせずに―傷ついて、傷つけるよりは、
前に進んで傷ついて―傷つけるほうが、いい。

どんな明日が待っているかは分からないけれど。
みんなの未来に。
みんなの明日に。
幸多からんことを。
189 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:54


Merry Christmas.


190 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 09:55

雪が、街頭の光に照らされてきらめいて、とてもきれいだった。
寒さを一瞬、忘れるほどに。
191 名前:1982 投稿日:2003/12/25(木) 10:00
182と187の「?まれた」は「つかまれた」です。
漢字が表記されないことに気づきませんでした。申し訳ございません。

>>179さま
楽しみにしていただいているとは恐縮です。
ますますゆっくりの更新になるかと思いますが、どうぞお気を長く見守っていただければ幸いに存じます。
192 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:19
ベッドの中に潜りこんでも、寒さから逃れることはできないようだ。
いつもならきれいに思えるイルミネーションも雪も、今は寒さを増幅させるだけのように感じられて鬱陶しく思える。
安眠できない日が続いたためか、ひどくだるい体にこの寒さは―辛い。

まだ傷口は癒えていない。
ぐじぐじと、心の中に見苦しい痕を残したままだ。
ただ、今では―そのぐじぐじとした痛みが心地よくなっている。
193 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:20
廊下であの人とすれ違うたびに。
あの人に見せつけるように紺野に口づけるたびに。
あの人の驚いたような、蔑むような視線を感じながら倉庫の隅で紺野を抱くたびに。

傷口はまた開く。
そしてその―ざらりとした、じくじくとした、ざわざわとした、感触が、心地よい。
異常だ。
194 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:20
いつもの紺野の耳元での囁きが、甦る。

安倍さんは、ひどい人ですね――
藤本さんを弄んだだけなんですね――
藤本さんはほんとに可哀そうな人ですね――
私は藤本さんのことをずっと、ずっと見てました――
今、藤本さんに抱かれて、とても嬉しいと思います――
もう、他の人を見ないでください、私だけを見て下さい――
私は、藤本さんを絶対裏切りません、藤本さんもそうですよね――
195 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:21
積み重ねられる、言葉。
押し付けられる、愛情。
張り巡らされた、狡知。

マンションの外を、車が通る音がした。
まだ、夜は終わらないのだろう。
196 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:22
膝を抱え、ぐるりと丸くなる。

しばらく、夢をみない。
あの夢だけじゃなく、どんな夢さえ。
眠れないまま夜を過ごし、空が白みはじめるころうつらうつらして―見るのは。
今、私がしてるこの姿勢で、
いつか―生まれ生まれ生まれ生まれて、そのはじめにみた暗さ。
いつか―死んで死んで死んで死んで、その終わりにみるであろう冥さ。
それよりも深い、闇。
いつも、暗い冥い闇だ。
197 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:22
言葉と愛情と狡知に、全ては押し流されて。

暗い冥い闇に、全ては塗り潰されて。

残ったのは――
198 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:23
この、胸の奥の感覚。
痛いような、痒いような、快いような。
渇いているような、飢えているような、ひりつくような。

それが、疼く。
たびに、何か自分と違うものが身体の中に住んでいるような錯覚を覚える。
199 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:24
渇きを、飢えを癒やすために獲物を求める獣。
いつの間にか、美貴の心の中に宿った獣。
いつも抱いている紺野の体に飽いて。
新しい獲物を、求めている。
だんだん分かってきた。
少しずつだけれど。
こいつは。
獣は。
200 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:24
悲しみを。
苦しみを。
憎しみを。
慟哭を。
悲鳴を。
嗚咽を。

喰って、大きくなる。
201 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:26
もう、美貴は疲れてしまった。
いい加減、ぐっすり眠りたい。
そう思った瞬間、久しぶりに眠れる気がした。
奈落の底に落ちて行くように、意識が遠くなっていった――

ぷぁん。
夜の街。
間の抜けた警告音。
202 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:26
髪の毛を、とく。
いろんなことを考える―入浴後のこの時間が好きだ。
クリスマスも一人ぼっちでそうしてるってのはどうかと思うけど。

しんしんと降り積もる雪が窓から見える。
札幌の夜よりもうっすらとした雪。
あの子もどこかで――
203 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:27
「なっちぃ・・」

思わず知らず、その名が口をついて出る。
最近、また少し感じが変わったように思える。
何かをふっきったような。
だから。
安心していいと思うのだけど。
でも。
なぜか不安で。
204 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:28
あの子は、時としてとても傲慢だ。

自分のためにも。
他人のためにも。
それが一番いいと信じて、結局自分も他人も傷つけてしまうことが―ある。
見つめ続けてきたから―踏み出せないまま。
だから、分かる。
だから、思う。
今度もそんなことになったんじゃないかって不安になるんだ。
205 名前:1982 投稿日:2004/01/06(火) 00:29
もう一度、窓の外を見上げた。

札幌と違う雪。
札幌と同じ冬。
206 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/09(金) 23:58
次々に展開されていくお話に引き込まれます。
文にもうならされるばかり。
作者さん、期待してます。

207 名前:1982 投稿日:2004/01/18(日) 00:46
>>206さま
有難う御座います。
そう言って頂けると励みになります。
208 名前:1982 投稿日:2004/01/18(日) 00:46
守りたいものと壊してしまいたいものが同一なら人はどちらの感情を優先するんだろう。
どれくらいか前ならきっと、守りたいって気持ちが勝ったはずなのに。
今、私は――
209 名前:1982 投稿日:2004/01/18(日) 00:46
ぐるりと楽屋の中を見回してみる。
どこにも紺野の姿はない。
あの背中は藤本のだろう。

「…なっち?」
「…ん。何?」
「いや、何か捜してんのかなぁって…」
「捜して―、捜してるけど、大丈夫」

カオリに笑顔を見せて、何気なく楽屋を出た。
勿論目的があって出てきたんだけど、カオリと話す時、心がギシギシ軋むような感じがしてあまり好きじゃないっていうのもある。
それが何なのか、自分では分かっているつもり。
カオリは言わば、私の中に存在する唯一の良心みたいなものだから。
210 名前:1982 投稿日:2004/01/18(日) 00:46
楽屋から出て暫くすると、やっぱりあの子も外へと出てきた。
たぶんどこかで紺野と落ち合うんだろうけど。

私は、急ぐようでもないその足を追う。
211 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:32
追うことは―あとを追うことは愚かだと思う。

立ち去った人を思うことが何になるのか。
過ぎ去った時を思うことが何になるのか。
それは、自分の好きなように作り変えた一人よがりの王国でまどろむことでしかない。
そう思う。
212 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:33
いい例が、この人だ。
彼女の面影を求めて、安倍さんにすがり。
別れを告げられた今になって、安倍さんを想う。
それは人を愛することでもなんでもなく、単に自分の居心地のよいところを求めて彷徨っているだけなのをこの人は気づいていない。

愚かだ。
213 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:34
毎日のように抱く、私のことを愛していないように。
毎日のように想う、安倍さんのことも本当は愛していないのだろう。

この人が本当に愛しているのは―
214 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:35
ぐるぐると同じところを彷徨って。
ぐずぐずと同じようなことを悩んで。

でも。
215 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:36
悩んで壊れそうなこの人を見るのが私は好きだ。
悩んだ末に壊れたこの人に抱かれるのが私は好きだ。
彫刻のような顔が、怒りに青ざめるのも。
短く切りそろえた髪の毛が、絶望に打ちひしがれるのも。
相手を射すくめる眼が、悲しみのために伏目がちになるのも。
細いわりに力のある腕が、私を押さえつけるのも。
爬虫類を思わせる舌が、私の上を這い回るのも。
ぴんとはった指が、私を貫くのも。
大好き。

今も。
埃くさい倉庫の片隅で、
私はこの人に抱かれている。
216 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:37
モテアソバレルカラダ。
あの人はほとんど服を脱ぐことなく、私の体を玩弄する。
優しく左手が、胸の花を愛撫する。
親指の腹で、転がす。
荒っぽく右手が、私自身を蹂躙する。 
人差指と中指で花弁を押し開きつつ、親指で蕾を弾く。

立ちのぼる欲望が、肌寒い空気の中で醜いかたちをえがく。
垂れ流される欲望が、埃や砂利の上に滴りなんともいえない臭いをたてる。
217 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:38
身体は高みに昇りながら、頭の中は深く地の底に沈んでいて。
心は真っ赤に燃え盛りながら、胸の奥はあきれるほど冷めている。

ああ、そうか。
私も、同じなのか。
ただ自分の欲望のために。
何にもならない狡知を張り巡らし、
何にもならない行為をしている。
そう気づいたら、とてもとても悲しくて−

笑ってしまった。
218 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:39
笑い声に、あの人は訝しげな顔をあげる。
説明するのも面倒だったので、私はあの人をまた嬲ることにした。
白い息とともに吐きだされる言葉。

「吉澤さん、怒るでしょうね。」

何を思ったか何を感じたか−あの人は形のよい眉を、しかめた。
219 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:41
眉をしかめたまま、彼女は頭を振った。
まだ目が覚めていないらしい。
押し付けるようにコーヒーを渡す。

「よっすぃ〜、今日昼間から仕事じゃないの?」
そう言いながら、自分もコーヒーを一口飲む。
積もった雪に光が反射して―朝が、眩しい。
220 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:41
ぼりぼりと頭をかきながら顔を洗いにいく彼女の後ろ姿が微笑ましくて、いとおしい。
いとお、しい――

ぽん。
トーストが焼けた。
221 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:42
相変わらず心ここにあらずの体でわしわしと朝食を口にいれる彼女を見ながら、ため息をつく。

「あのさ、よっすぃ〜。」
「ん?」
言ったほうが、いいよね。
「帰って。」
レタスを半分口から出したまま、ぽかんとした表情。その上にもう一度言葉を重ねる。
「帰って。それで―当分、来ないで欲しいの。お願い。」

沈黙が下りる。しゃりしゃりと、レタスを齧る音だけ。
222 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:44
ようやっと野菜を飲みこんだあの子が言葉を吐き出す。
「どういうこと−だか、よくわかんないんだけど。」
やっぱり少し怒ってるなぁ。無理も、ないか。
「よっすぃ〜、うぬぼれるわけじゃないんだけど―私を、私の家を逃げ場にして欲しく、ないの。」
顔を伏せたまま、言葉を連ねる。
「十二月に泊めてくれって言われたときから、なんとなく思ってたんだけど。悩んでる―でしょ?なんでなのかわからないわけじゃないけど。」

あの子と目をあわせたくない−あわせればこの決心が、揺らぐから。
223 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:45
「わからないわけじゃないけど−よっすぃ〜は、その悩みにちゃんと向き合っていないと思うの。」
弱ってるこの子につけこんで、頼られてすがられて、そうなりたいと思う自分に負けそう
になるから。
「だから−勝手だけど、帰って。そんなみっともないよっすぃ〜、見たくないから。」
出来るだけ、冷たく言う。

また下りる沈黙。ぽこぽこと、二杯目のコーヒーが沸く音だけ。
224 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:46
「――分かった。」
立ち上がる。
いつもみたいに、そのまま荷物を担いでドアに向かう。

なにも言わない。
いつもみたいに、服を整えてあげたいけれど。
なにも言わない。
いつもみたいに、髪の毛をといてあげたいけれど。
うつむいたまま、見送る。
225 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:46
「―るかった。」
何か声がしたようにも思えるけれど、それはドアを閉める音にかき消されて。
思わず大きく吐いた息。

一緒に、涙が出た。
226 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:47
「アヤカはいい子だねぇ。」

突然に、後ろから抱きかかえられた。
けれど誰かわかってるから吃驚することもない、代わりにほんわかとした暖かさを感じた。
「起きてたんだ、まいちゃん。」
うん、と頷いて、彼女は荒っぽく私の涙をぬぐった。
227 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:47
「これで、いいんだよね。」
「これで、いいんだよ。」
「よっすぃ〜、私のこと、嫌いになったかな。」
「大丈夫。よっすぃ〜はアヤカのこと嫌いになんか―ならない。」
228 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:48
また、落ち着いたら三人で遊ぼう。
馬鹿みたいに遊ぼう。
遊園地行って。
レストラン行って。
お菓子作って。
ビデオ見て。
夜更かしして。
おしゃべりして。
笑って―さ。

そう言ったまいちゃんの、いつものにこにことした笑顔に―また涙がこぼれた。
229 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:49
こぼれた涙の数だけ人は強くなるというけれど、それなら私はなぜ強くなれないのだろう。

昔の過ちから。
昔の涙から。
なにも学ばずに、また―すがろうというのか、
守ろうとした決心を覆して。

それがどんな結果をもたらすことになるかも知っているのに。
230 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:50
違う、と私は頭を振る。

藤本にすがろうなんて思ってない。
あの子を、娘。を−そして吉澤を守るための決心は揺らいでいない。

卒業を前にして誤解を解いておきたいだけ。
私が、藤本を弄んだわけじゃないことを。
愛していなかったわけじゃないことを。

それを、藤本と紺野にちゃんと話しておきたかった。
231 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:50
だから藤本のあとを尾けた。
きっと彼女は紺野のところに行くはずだから。
ばらばらの活動が増えた今、二人とまとめて話すにはこの方法が一番いいと思ったんだ。

けれど。
今日は事務所の中もなぜか人が多くて―あの子を見失ってしまった。
なんとか見当をつけて来たのは、あんまり使うこともない倉庫がたくさんある階。

「あのこと」があった倉庫も、ここにある。
232 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:51
きょろきょろと周りを見ながら、歩いていると―なんだか寂しくなった。

思いだけが先走り。
いつかあの子を見失い。
行くべき道を踏み迷う。
今の私にぴったりのシチュエーションじゃないか。
233 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:52
ひどく、怖くなってきた。
こんなところにいるからいけないんだ。こんな寒くて、人がいないところにいたら怖くな
るに決まってる。
みんなのところに帰ろう。
紺野と藤本にはまた今度話せばいい。
そう思って踵を返した私の耳は―よせばいいのに、聞いてしまった。
二人の声を。
思ったとおりこの階にいたんだ。

私は、声のしたドアのほうを、振り返った。
234 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:53
振り返ったけれどやっぱりドアは閉ざされたままで、私は荷物を抱えなおし歩きはじめた。
昨日降った雪が、マンションの廊下の上にもまだ少し残っている。

「悪かった。」
出て行くときにいった言葉を、繰り返す。聞こえるはずもないけど。
きっと里田と相談して決めたことなんだろう。
二人に感謝こそすれ、恨む気持ちはなかった。
逃げ場にしてたのは事実だから。

自分の部屋に帰れば、どうしても安倍さんを思い出してしまうから。
安倍さんを想えば、きっと歩み出せない自分がとても惨めに思えてしまうから。
235 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:54
逃げないで向きあう―か。
言葉にすれば簡単だけど、いざとなるとなんて難しいことなんだろう。

急に寒さを感じた。
暖かい部屋から出てきたからだとは、言い切れなかった。
236 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:55
呼び出し音。
「―はい?」
「久しぶりやな。」
きっと昼間からの仕事の連絡だと思ってたから、少し戸惑った。
「中澤さん、ですか。」
「そうや―悪いけどな、ちょっとはやめに事務所に来てくれんか。少し話したいんや。」
237 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:55
なんだか、すごく長いあいだ聞いてなかった声のような気がした。
「・・いいですよ。じゃ、今から向かいます。」

どうせ、娘。のことだろう。
だけど前に飯田さんと話したときより、落ち着いて話せる気がした。
以前より優しい気持ちになれてるのが不思議だった。
時が解決するというやつだろうか。
雪のように。

まさかね、と苦笑しつつケータイを閉じた。
238 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 21:56
閉じたケータイを机の上に置いて、裕ちゃんは言った。
「来るらしいわ。」

ほっとした。
以前のことがあるからもしかしたら話さえできないんじゃないかって思ってた、から。
「もっとはやめに裕ちゃんに相談してればよかったのかも、しれないね。」
ごめん、と頭を下げた。
「いや、あんたの判断は間違ってないやろ。私がリーダーやったとしてもあんたがやったことぐらいしか、でけへんかったと思うし。」

リーダーとしては他に面倒をかけたらあかんと思うのは当然のことや、そう言って裕ちゃ
んは微笑んだ。
239 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 22:00
「・・ありがと。優しいね。」
以前に比べたらリーダーらしくなったと言われるけれど、やっぱりかなわないなぁと思うときがある。今みたいに。

「そうやろ、裕ちゃんこんなに優しいのになんで貰い手ないんやろうなぁ。」
冗談めかして笑う―この強い笑顔に何度救われたか、わからない。
「―石川もしっかりしてきたで。ちゃんと育ってる、安心しぃ。」
「うん。」

気遣ってくれる言葉が、嬉しかった。
240 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 22:03
「昨日はえらい降ったなぁ。」
窓の外を見るともなく見ながら、裕ちゃんは言葉を続けた。

「なっちは来とるんやな。」
「さっき見てきた。いたよ、ちゃんと。」

ちゃんと話したほうがいい。
それが、裕ちゃんと話しあった結論だった。
241 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 22:04
「あのこと」のあと、きちんと話さなかった―話せなかったことが今でも尾を引いている
のだから。
みんなにとって辛い時間を過ごすことになるかもしれない。
でも、きっとそれが過ぎれば―
昔、札幌から出てきたときみたいに希望がある日々が帰ってくる。

そう思いたい。
そう信じたい。
242 名前:1982 投稿日:2004/01/21(水) 22:05
裕ちゃんの隣に行くと、外がよく見えた。
葉が落ちた木に積もった雪は、札幌とは当たり前だけども違って、もうだいぶ溶けていた。

匂わない花。

そんな言葉が、頭をよぎった。
243 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/09(月) 23:48
このお話の空気が大好きです。
最後の一文もすげぇ。しびれました(w



244 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:27
暗かった。
ひたすらに。
手探りで歩いた。
おそるおそる。

「紺野、藤本、いるんでしょおー。」
思わず出した言葉はおかしいほど震えていて、
「ねぇ、話したいことが―あるの。出てきてよぉ。」
妙に反響して、返ってきた。
がちゃん。
何かが足があたる。
まだ、目は慣れない。
245 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:29
「あー、よっすぃ〜。おはよー。」「おぁよぉー」
明るい声が、眩しい。

「おはよ、めぐみちゃんに村田さん。」
ロビーの椅子に仲良く並んで座る二人。ますます眩しく感じられる。
どこで道を踏み間違えたのか―帰る道すらわからないほど迷ってしまった私だから。
この眩しさは、つらい。

「仕事?」
特徴的な前歯を見せた笑顔の問いにうなずく。
「―それから中澤さんにも、呼ばれてて。」
「中澤さんなら上にいたよぉ、なんかいいぁさんと一緒だったにぇ。」
こちらも笑顔―ふにふにとしたなんだかあの人にも似た、陽だまりのような。
飯田さんと一緒か、なるほどね。
246 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:30
「ありがと、二人も仕事?」
「うん、だけどマサオくんと瞳ちゃんが遅れてて。マサオくん方向音痴だから」
「迷ったなら連絡すればいいぉに、意地張って無理にいこぉとするからますます迷うんらぉう。」
めぐみちゃんの髪の毛をいじりながらぼやく村田さんの言葉に苦笑しつつ、手をふって上
に向かう。

何の気なしに言ったんだと思うけど―彼女の言葉がチクリと胸を、刺した。
247 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:31
北海道から出てきた時、彼女が一緒だった。
オーディションに落ちたときも一緒。
デビューが決まったときも一緒。
けど―それからずっと、彼女は先を歩んでいて。

妬ましかったといえば、嘘になる。
憎くなかったとも、言い切れない。
だけども、それ以上に彼女が愛おしくて。

好きじゃなかったといえば嘘になる。
愛してなかったとも、言い切れない。
けれども、それ以上に彼女が憎くて。
248 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:33
好きだと言ってしまえば、彼女に全て屈服したようでプライドが許さなくて。
憎しみを表面に出せば、彼女が遠くに行ってしまうようで心が耐えられなくて。
今思えば、くだらないことだけれども。

ずっと抱き続けたけれど、言葉にすることのなかった思いはいつの間にか漂白されきってしまっていて。
今はもう―彼女の幸せだけを望んでいる。
249 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:35
分かっている。

これが、逃げだってことぐらい。
でも、こんな恋があったっていいじゃない。
分かってるよ―雪は、溶ける。
木に、まるで花みたいに咲いた雪は匂いもしないし、実も結ばない。
ほんの少しの間そこに留まって、太陽の光の前にすぐ溶ける。
偽りの花って言われても―でも、その美しさがそこにあったことは動かしようのない事実。
そんな愛があったっていいじゃない。
250 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:38
「‥カヲリ、カヲリ」
「ん?」
「大丈夫かいなぁ、また交信‥ちゅうんか?あれ、しとったで。」
ちょっと心配そうに、隣に立った裕ちゃんがカヲリを覗き込んでいる。
「‥大丈夫。ちょっと考え事してただけ。うん。」
しっかりしてやぁ、と苦笑しつつ彼女は部屋の外に出て行った。
「あったかいもん、買うてくるわ。」
251 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:39
一人残されて、窓の桟をつかんでいた手のひらをなんともなしに眺めた。
いつの間にか力を入れていたのだろう、真っ白になったそこに桟の形が残っている。

伸ばし続けた指先。
繋がれなかった手のひら。

陽はもう上りきっていた。
今日は暖かくなりそう。
252 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:41
>>243さま

過分のお言葉ありがとうございます。
更新の間が遅れてしまって申し訳ございません。
253 名前:1982 投稿日:2004/02/28(土) 23:55
>>252
更新の間が遅れて→更新の間があいて、もしくは更新が遅れて、ですね。
‥申し訳ございません。
254 名前:1982 投稿日:2004/02/29(日) 00:25
更に訂正を‥

めぐみちゃん→あゆみちゃんですね。
ごめんなさい柴田さん‥ほんとに。伏してお詫び申し上げます。
255 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/03(土) 00:22
雰囲気を壊しそうでレスできなかったのですが一言だけ。
どきどきじりじりしながら待ってます。
がんばってください。
256 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/11(日) 23:55
待ってます。まじで待ってます。
257 名前:1982 投稿日:2004/04/19(月) 06:56
>>255さま
>>256さま

過分のお言葉をいただき有難うございます。
お待たせして申し訳ございません。必ずかならず更新致しますのでもうしばらく猶予を賜りますようお願い申し上げます。

258 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/04(火) 02:28
一気に読みました。2回読みました。ありえないほど面白いです。
更新楽しみにしています。藤本の真の思い人って、誰……?

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