折れた剣

1 名前:名無し読者 投稿日:2003/12/13(土) 18:21



2 名前: 投稿日:2003/12/13(土) 18:25
 風が凪んだ。
  歪んだ月が、円になった。
   剥がれそうな平べったい黄色の円盤。
  剣が静かに水面を撫でた。
 剣が折れた。
3 名前: 投稿日:2003/12/13(土) 18:27
 ◇

 それすらも――

 ◇
4 名前: 投稿日:2003/12/13(土) 19:04
「月が紅いわあ」
 一人の雲水が空を見上げて嘆息する。五重の塔にかかった月は、朱塗りの梁にも
劣らないほど赤味を増していた。
「いつものことやね」
 もう一人の雲水は、興味なさそうに天蓋を正し、提灯を持ち直した。なかの蝋燭
はひるっと揺れ、二人の雲水の影が暗い夜道に伸び縮みする。瓦斯灯でさえ既に消
え果ててる時刻だ。道は当世大流行の石畳ではなく、未だ砂利敷きだ。なにげない
風を装ってはいるが、二人は音を最大限に殺すよう羽毛で細工された直足袋を着け
ている。
「紅い月の出る夜に血は流れ」
 橙色の提灯の火に照らされた二人の衣服には、うっすらと赤茶けた染みが散って
いる。真っ白い雲水の恰好をしているが、携えているのは尺八よりは細く、長い。
「お月さんが赤いから血が流れるんか、血が流れるからお月さんが紅くなるんか」
「お天道さんかてわからへん」
 二人の雲水は、足早に道を急いだ。

 月はあかあかと片田舎の城下町を照らしていた。
5 名前: 投稿日:2003/12/23(火) 22:16
 ◇

6 名前: 投稿日:2004/01/01(木) 13:43
 ぞふぞふ。
ぞふぞふ。
 ぞふぞふ。
ぞふぞふ。
 ぞふぞふ。
ぞふぞふ。
 ぞふぞふ。
ぞふぞふ。
 ぞふぞふ。
ぞふぞふ。
 ぞふぞふ。
ぞふぞふ。
 ぞふぞふ。
  ぞふぞふぞふぞふぞふ……。
 …………。
…………。
7 名前: 投稿日:2004/01/01(木) 13:44
 ◇
8 名前: 投稿日:2004/01/01(木) 21:46
 かじかんだ手で掬った雪を、血に塗れた刃に擦り付ける。雪は体温で解け、刃の
表面を洗うが、すぐにまた軟らかく凍り付く。
 目ばかり大きい痩せた少女は、はぁっと白い息を、血のせいばかりでなく赤くな
った手に吹き掛け、曇った刃をこすってしゃりしゃりするものを振り払う。
 吹雪のさなか、雪上に散った血の染みは少しずつ白く、その痕跡を消していく。
板張の塀に囲まれ細く長く続く路地に倒れ伏すひとりの男の亡骸をも。吹雪を凌ぐ
にはあまりにも薄い作務衣の前をかき抱き、少女は骸に手を伸ばした。
 丹前と刀の鞘を引き抜き、その丹前を羽織ろうとして少女は顔をしかめた。血と
雪でぐっしょり濡れて、ひどく重たくなっている。少女は念入りに丹前を改め、血
のついていない箇所で刀を拭った。黒鉄で打たれた刀は昏く光る。少女は魅せられ
たように暫く刀を見詰めてる。

 ――この刀は人斬りよ。千人斬りの魔剣よ。

 ふいに耳に、足元で倒れてる男の声が蘇り、少女はびくっとしたように身を震
わせた。それから、腑に落ちないといったふうに首を振り、刀を鞘に納める。

「さようなら兄上」

 一瞥さえせずに言い残し、少女は路地を去る。あとはただ雪ばかり――
9 名前: 投稿日:2004/01/01(木) 21:46
 ◇
10 名前: 投稿日:2004/01/09(金) 01:50
 収穫を終えたばかりの稲から出た炎は、折りからの強風に煽られ、瞬く間に集落
中を紅蓮に染めあげた。
 木と紙で出来た家屋が火に爆ぜる音が、まるで拍手のようだ。
「……おかあさん!」
 長い髪が焦げるのも構わず、少女は、燃えるさかる家屋に舞い戻ろうとしては、
倒れる壁や崩れ落ちる屋根に躊躇い、まだ屋内に戻る道筋を捜しあぐね、踏み留ま
り――、するのを繰り返していた。
 眠れぬ夜に寝返りを打ち、うとうとと夢路に入りかけたところで炎に気付いた。
反射的に家の外へ逃れたはいいが、村のどこもおそろしく静かに炎に呑まれつつあっ
た。丑の刻か寅の刻か――まだ陽の明ける気配のない、人が起きるには早過ぎる時
刻だ。慌てふためいた少女が家人を起こしに戻ろうとしたときには、もう遅かった。
「お義母さん、おかあさん……」
 少女はようやく路地に貯められた防火用水に上掛けを浸し、それを頭からかぶっ
て家屋に突入せんといざ、足を踏み出し――
 どこからともなく現れた影のようなものに鳩尾をしたたかに殴られ、息を詰ら
せた。意識を失う前に少女が聞いたのは、西のほうの訛りのある大人の女性の呟
きだった。
「――こんなつまらんとこで勇者様を失うわけにはいかんねん」
 ――つまらない? ここは少女が生まれ育った村だった。生まれて一生を過ご
す村だった。農作に明け暮れるのが詰まらない暮らしだと少女は思わない。それ
に来年には収穫祭にだって参加できる。少女はまだ心に決めた男衆はいなかった
けれども、村の男衆の誰かと恋に落ち、そして契りを結んでそして――
 しかし少女の抗議の言葉は発せられることはない。次の瞬間、延髄に強い衝撃
を受け、少女はあっさりと意識を失った。

 次に少女が目覚めたときには、すでに太陽は高く昇り、火は殆ど収まっていた。
村は眠りに落ちたまま焼け果て、生き残ったのは少女ただ一人だった。
11 名前: 投稿日:2004/01/09(金) 01:50
 ◇
12 名前: 投稿日:2004/01/11(日) 04:08
「かおねえちゃん! みて!」
「ほしだよ! ながれぼし!」
「すごいよ、いっぱいだよ!」
 子供たちに袖を引かれ、飯田の圭織は渋々空を見上げた。子供たちには悟られて
はなるまいと驚いたふうを装ったが、圭織はそんなことはもうとっくに承知のこと
だった。星辰の運行には決まりがあって、太古からの連綿と飯田地方に伝えられた
物見法で、殆どすべての動きは事前にわかっている。圭織は物見法を識る十人のう
ちの一人だった。もっともすでに飯田に人の姿はない。かつて観測所だった物見櫓
も火事で焼け落ち、何とか無事救いだせた遠見鏡も圭織のすぐ上の物見だった圭が
持ち去って、そのままだ。
 遠見鏡のない観測所が立ち行くはずもなく、圭織たち物見も四散した。圭織も、
手相も人相も見ない変わった占い師として生計を立てていた。
「いよいよ“激”が始まるのね」
「劇って、何の? 大道芸人たちがここにやってくるの?」
「あたし知ってるよ! だいどーげいにんって、人さらいなんだよ」
「ひとさらいって、なに?」
「人をさらうんだよ。子供を連れてっちゃうんだよ」
「うっそだあ」
 圭織の呟きを聞きとがめた子供が騒然とする。圭織は苦笑する。
「みんなは心配しなくてもいいの。良いことは良い、悪いことは悪いってちゃんと
知ってれば、何も心配することはないの」
 圭織の長い髪が風になびく。
 暗幕のように昏い空を、幾条もの光が切り裂くように、雨のように流れていく。
13 名前: 投稿日:2004/01/11(日) 04:08
 ◇
14 名前: 投稿日:2004/01/12(月) 19:27
「きれいだ…」
――あいちゃんは、きれいだ。
 客の声が、幼馴染の声に重なる。派手な着物を崩して、男が性急に身体を抱き
寄せる。桜の彫りものがうねり、まるで吹雪いているようだった。外のように。
 彼女の身体は幼いながらも、殆ど成熟の兆を見せていた。細いながらも、腰は
瓢箪のようにしっかりとくびれ、柔らかくゆたかに続く。男の掌は乱暴に着物の
下に潜り込み、彼女の肩を肌蹴させた。
 乱れた鬢が、彼女の白い肌にまとわりつく。彼女は悩ましげに溜息を吐いた。
「…寒い」
 男は障子の向こうに目をやった。かすかに窓に映った影に眉をしかめる。
「今宵は随分冷えやがると思ったら、雪か」
 男は乱暴に薄い蒲団を掴むと自分と彼女を包み込んだ。
「これでいいだろ?」
 男は蒲団のなかで乱暴に彼女の帯を解き、素っ裸にする。自分は半分着衣し
たまま、荒荒しくことに及ぶ。
「あ…」
 彼女の口からは短い声が漏れる。顔が見えないなら、誰でも同じだった。な
らばせめてこの瞬間だけでも恋しい人のことを思い浮かべたって罰は当たるま
い――彼女にはもはやそれが恋なのか何か分からなくなっていたけれど。
「なぁ、おれが身受けをしたら、俺と一緒に来てくれるか?」
「…」
 彼女はここだけ、きっぱりと首を振った。彼女が強情そうな目をしていること
を、男は少し意外に思った。閨のなかでは、あんなに――
「ははっ……畜生。きれいなだけでちっとも愛想のない……」
15 名前: 投稿日:2004/01/12(月) 19:28
 ◇
16 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/01/14(水) 04:35
読んでます!
頑張ってください!!
17 名前: 投稿日:2004/01/21(水) 01:58
 巻かれたぼろが、はたはたと風に踊る。弓なりに歪んだ杖をつきながら
痩せた少女が一人、歩く。往来の人々は、なんとはなしに彼女を避けた。
彼女の伸びっぱなしのもつれた髪からのぞく瞳が、彼らを威圧していた。
彼女のなかに生命がもしまだあるのだとしたら、唯一この瞳だけがその場
所だった。腕も足も殆ど肉がそぎ落ち、関節だけが不恰好な膨らみ衆目に
晒している。裸足の足の爪も割れ、乾いた血も泥もないまぜになって素肌
にこびりついている。
 市場の店先から溢れる野菜や果物や魚や肉や餅や串団子や煎餅や飴を、
それでも強い意志で殊更無視しながら、彼女は歩を進める。
 彼女の背丈には合わない尺の杖は、彼女の歩みの助けにはなっていない。
むしろ彼女から生命を吸い上げているかのようだった。
「きったねぇな。こっちくンじゃねェよ」
「ここは金持ってるやつが来るところサ。おめぇみてぇのは別ンとこ行きな」
「おぅ聞いてンのかよ」
 いかにも傾いた格好の男衆が三人ばかり、往来に出て、彼女を取り囲んだ。
彼女は振り向きざまに杖を払う。ボロボロの杖から真っ黒な刃が飛び出す。
男衆は息を呑む間もなく全員、撫で斬られる。
 彼女はぼうっとしたような瞳で死体を眺め、刀を逆手に持って振り上げた。
「やめな」
 未だ息のある男衆に振り下ろされようとした刃が天秤竿に振り払われた。
真っ黒な前掛けと腰にぶらさがった大小さまざまな包丁。魚屋だった。魚屋
は一呼吸で竿を彼女の鳩尾に鮮やかに入れる。
 崩れ落ちた彼女を見て、魚屋は再び竿の両側に桶を吊るし、ついでとばか
りに彼女と刀も一緒に担ぎ上げた。
「えーキンメにブリ、ホウボウにキンキ、ハタハタ、アラ、アンコウ、ムツ、
マカジキぃ、旬のおさかなはいっりませんかぁっ」
 魚屋は何事もなかったかのように、悠々と修羅場を去った。
18 名前: 投稿日:2004/01/21(水) 01:58
 ◇
19 名前: 投稿日:2004/01/22(木) 01:20
「ここって……色街だったんですか」
「何を今更」
「だってあまりここ通らないし、通ってもいつも昼間だしで。人気ないし
ちょっと荒んだ感じのするころだなぁって不思議に思ってて、それで」
「家賃が安いんです」
 首もとまで釦で止められた風変わりな外套を着込んだ二人組が、ぼそぼ
そとしゃべりながら横丁を歩く。
 格子の向こうで、艶やかな着物を着崩した女性たちが、すがるように通
行人に手を伸ばし精一杯の媚を売る。どれだけ客を取れたかで彼女たちの
わずかばかりの稼ぎが決まるのだから必死なのだ。
 裾を引かれて思わず悲鳴を上げた青年を背が低いほうが冷ややかに見る。
「構われたくないのでしたら、格子から離れたらいかがでしょう?」
「けど道が狭くってそれも、う、うわ、ちょっとねえ」
「夜道は危険だから送りますって言ったのは貴方ですよ? 私は毎日通って
いる道なのに」
 背が低いほうはもう、裾を取られて娼妓にしなだれかかられてる同僚には
構わず馴れた足取りで夜の街を歩み抜ける。
 娼妓舘の一隅に借りた三畳ほどの小さな部屋。それに続く小径で、いつも
彼女は立ち止まる。
「……」
「……」
 女郎小屋の奥にいる娼妓といつも目が合う。彼女は他の娼たちのように、
通りを往来する男衆には目もくれず、いつもどこか心ここにあらずの態で
壁に凭れている。今日もまだいる。何故だかそのことに彼女はホッとして、
喘ぎ声や軋む床の音が煩い自室に戻った。
20 名前: 投稿日:2004/01/22(木) 01:22
 ◇
21 名前: 投稿日:2004/02/15(日) 16:08
「銘を入れる代わりに咒が切ってある……」
 直接剣に触らないように幾重にも織った布越しに見えた銘は、神代文字で刻
まれていた。軽く鯉口を切っただけでも、その禍々しい呪力が感じ取れた。
「いわゆる魔剣……それも、剣を鍛えた段階ですでに呪われている」
 圭織は早々に剣を鞘に戻し、丁寧に布袋に包みこんだ。布には南来真経が綴
られており、剣の魔力を辛うじて抑えることができる。
「それに材質も普通じゃなかった。あれはたぶん隕鉄……」
「インテツ?」
 魚を捌きながら、女が問うた。法被姿に腕まくりをして、茶色く陽に灼け
た短い髪をねじり鉢巻でいなせにまとめている。魚屋だった。
「隕石に含まれた鉄。月や太陽と一緒。天から落ちてきた石のこと」
「火山の噴石じゃなくて?」
「ええ……あんな金属は、この地上には存在しない」
「おまえさんが知らないだけじゃなくてかい?」
「……」
 圭織には、自分が知らない金属・鉱石の類はないと断言もできたが、飯田
に古より伝わる禁断の知識のことをやすやすと説明するわけにはいかなかっ
たので、押し黙った。
「……一丁あがりっと」
 圭織が答えようが答えまいが構わない軽い調子で魚屋は包丁をだん、と俎
板にたたきつけ、手早くアラや骨などの屑ものを始末した。
「ちょっくら出前に行ってくらー。おねーさんはちょいとそのコを見ててく
んな」
「いやよ。なんで私が?」
「占い師なんてどうせ暇なんだろ。まぁ夕飯は期待しててくんな。いい青背
のがはいってっからさ。とにかく任せたよ」
「ちょっ……待っ……」
 圭織が止めるのも聞かず、言い残すやいなや魚屋は捌いたばかりの魚を入
れた桶を持ち上げ、草履をさっとひっかけて走り去った。石畳を草履が擦る
音が去ると、圭織はため息をついた。
 奥の畳間のボロ布団に寝かしつけられた痩せ細った少女が“激”で重要な
役割を担うことはわかっていた。いっそその前に圭織の手で始末するべきか。
 否。
 始末しないといけない。

 だが圭織にはどうしても、それができなかった。
22 名前: 投稿日:2004/02/15(日) 16:11
 ◇
23 名前:正誤訂正 投稿日:2004/02/16(月) 01:15
正誤訂正
>>14
×閨(ねや)→○褥(しとね)
>>21
魔剣という記述以外のすべての剣→刀

>>16
ありがとうございます。お気持ちだけで嬉しいです。どうぞお構いなく。
24 名前: 投稿日:2004/02/16(月) 01:56
 ぞふ。
 ぺたん。
 ぞぞ。
 ぺたん。
 ぞ。
 ぺたん…

 少女は歩を止めて、来た道を振り返る。樹木に囲まれた細い山道だ。みど
りが妖しく揺れる。落ちかけた陽が針のように細い葉を、だいだい色に染め
あげていた。
(……風もないのに……)
 少女は唾を呑んだ。喉がからからに渇く。竹筒を切っただけの簡単な水筒
はもう空だった。焼け残った無人の神守に備えられた餅も、もう十も残って
いない。両親を失った少女が、初めて村に連れて来られたのは十五年前、四
つのときだ。それから村を出たことは一度も無い。この道が隣村まで続くこ
とは知ってはいたが、どれだけかかるのかさえ知らなかった。
 三日三晩歩き通してまだ着かないことを考えると、道を誤ったのかもしれ
ない。少女は、狭い村の中でさえ迷うことがあった。
(……音が……)
 
 たっ。たっ。たっ。
 ざ。ざざ。ざ。

(……着いてくる……)
 それが何かはわからない。ただ少女は恐怖にかられて走り出した。走り
出した足は、もう止めることはかなわない。肺のなかが熱く燃えるたび、
恐怖が募っていく。

(……追い、つかれる……)

 少女は杖を構えて振り返った。中空から何かが降りかかってくるのと同時
だった。

 かぽん。

 鹿脅しのような間抜けな音が周囲に響いた。ぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ。
そして葉擦れのような音が山中に広がった。
25 名前: 投稿日:2004/02/16(月) 01:57
 ◇
26 名前: 投稿日:2004/02/17(火) 00:49
 開いた障子から月光が降り注ぐ。行灯も点けぬ薄暗い部屋のなか、片腕が
ぬうっとボロ布団の中から突き上げられた。握られた拳が、より月光を求め
るかのように緩やかに、まるで咲きこぼれる菊の華のようにひらく。銀色の
明かりに照りかえって、それはまるで一本の白い菊のようだった。
 さらに月光を求めるように、腕は高く、より高く突き上げられる。するり
と布団は床に落ち、細い肩が現れ、首が続き、だらりと垂れ下がった頭と、
鎖骨の浮いた首筋が、まるで今まさに磔にされようとする罪人のように力な
く続く。それは、最初に現れた手首に枷が嵌められ、上から引っ張り上げら
れたかのような奇妙な光景だった。
 やがてほっそりしたと形容するには痩せすぎた少女の全身が現れ、細い足
首がゆったりと茶色く日に焼けて毛羽立った畳の上におろされる。左足、そ
して右足。両足が畳に着いたとたん、急に重力が戻ったかのように少女は腕
をぶらんと下ろし、乱れた髪の下からぎらりと輝きばかりが強い瞳を覗かせ
た。
「ぁあぁ……ぁにぅえ……ぇえぇ」
 自分の呻いた言葉にどんな意味があるのか。少女はずきずきする頭をかき
むしった。ずるっと何本もの髪の毛が抜ける。その長さと量に少女は寒気を
覚えた。
 ここはどこで、いまはいつで、自分は誰なのか。
 思い出せなかった。ただ、あるのは強い喪失感。あるべきものが手元にな
い強い不安。
「……あにうえ……」
 その姿を求め、少女は部屋の隅々を見渡した。どこにもない。自分の横で
確かに息づいていたあれの気配がない。わからない。ああ、身体がとても重
くて死にそうだ。少女は肉のない腕を畳中に這い回らせた。
27 名前: 投稿日:2004/02/17(火) 00:50
 ◇
28 名前: 投稿日:2004/02/19(木) 03:21
 じゃっ、と白濁した湯が、道の傍に止められた夜鳴き蕎麦屋から放射状に
撒かれた。湯が道に描いた円の上に、皮製の沓が踏み込む。屋台の主が視線
を挙げると奇妙が外套を着込んだ人が困ったように自分を見ていた。
「今日はもう店じまい?」
 やけに甲高い声だ。同い年ぐらいかもしれない。屋台の主は肩を竦めた。
夜明けも近いこんな時間にまだ成人もしていない、それも女が出歩くなんて
世も末だ。他人のことを言えた義理でもないが。
「もう七ツだし。いま火を落としたとこ」
 相手もおやというように主を見返す。ここを河岸に仕事をする夜鳴き蕎麦
屋は多いが、彼女ほど年若い者はいない。そして彼女ほど不味い蕎麦を作る
屋台もない。
「1杯ぐらいなら、なんとかできるかも」
 そう言うと主は手早く、茹で残った麺を湯でほぐして器に盛る。それを見
て、客は慌てて席に座った。なんとかできないほうが客のためかも、みたい
なことは思っても顔には出さない。それが商売の秘訣だ。
「こんな時間に来るなんてお客さん、これからどっか?」
「いえ… 少し調べ物をしていたら夕餉を取り損ねちゃって」
 主の問いに客は言葉を濁した。
「調べ物って? そういえばお客さん、変わった格好してる」
「制服みたいなものですね。皇立天文研究所の。便利なので外出するときは
たいていこれを着てます」
「便利?」
「下に何を着てても隠れますから」
「あー…」
 蒲鉾、刻み葱、刻み揚を乗せて、出汁をかけて完成。割り箸を添えて、
客の前に出す。それから屋台の始末の続きを始めた。
29 名前: 投稿日:2004/02/19(木) 03:21
「コウリツテンモン研究所、ねぇ…。聞いたことないなあ」
「最近出来たばかりですから」
 ぞぞっ、最初に汁をすすって、客が応えた。
「どんなことしてんの?」
「天体観測ですね。西方伝来の望遠鏡で星の運行を記録したり、こういう」
 客は外套から黒っぽい石を取り出して主に渡した。表面はつるっとして白
い筋が幾重にも走り、少し木魚に似た形をしている。撫でるとほんのりと暖
かくなるようだ。
「隕石なんかを拾ってきて成分を調べたりしてますね」
「へえ。むつかしそうだね」
「むつかしい? とんでもない」
 ぞっ。客は最後の一口まで蕎麦をすするって、器を置いた。綺麗に全部を
平らげている。そういう客は、とても珍しい。たいていは半分以上を残して
去っていく。茹で過ぎの麺、ぬるい出汁、悪くなる一歩手前の具と、何をとっ
ても最悪の食材を揃えてあるのだ。しかし客はとくに気を悪くした様子もな
く手を合わせた。
「ごちそうさま。天文学はとても面白いですよ。医術と違って実利的ではあり
ませんが、最先進の学問ですから。……おいくらでした?」
「いらない」
「はい?」
「お代はいらない。代わりにこの石、ちょうだい。これなんか… なんか、
すごくいい… ダメかな?」
 下から見上げらるように見つめられて、客は困ったように溜息を吐いた。
「……いいですよ。どうぞ」
30 名前: 投稿日:2004/02/19(木) 03:22
 ◇
31 名前: 投稿日:2004/05/30(日) 09:26
「毎度ありぃっ」
 勢いよくそう勝手方に挨拶して一礼すると、魚屋は空になった天秤桶を担ぎ
上げてる。だが、数歩あるいたところで、彼女は眩暈に襲われた。原因は判っ
ている。空に浮かぶあの紅い尾を引いている星のせいだ。あれが空に現れたの
が一年前。彼女の眩暈も一年前から頻繁に起こっている。眩暈が起こるのは常
に夜、晴れた日、真っ赤な星がくっきりと見える日に限られていた。
 どうやら星はどんどん近くなってくるようだった。いつかそのうち地上に落
ちてくるのかもしれない。今日見上げた紅い星はどうも、月の半分ほどにも大
きく見える。ぐらぐらする身体を壁に預けて、魚屋は空を仰ぐ。
「まことっ!」
 ふいに声をかけられ、魚屋はぎょっとしたようにぐるりを見渡した。通りに
はまだ人気がない。ここは夜の街なのだ。
「ここやよ、うちやよ」
 それに魚屋のことを久しく名で呼ぶ人はいない。彼女は魚屋だったし、魚
屋と呼ばれればそれで用は足りた。しかしこの懐かしい訛りは。
「まこと!」
 そんなふうに彼女を呼ぶのは郷里の人間だけだ。
「愛ちゃん…?」
 女の声は背後からしていた。壁だと思っていたのは透かし細工のある紅い
格子で、その向こうに派手な着物に身を包んだ少女が、否、娼妓がいた。
「いつから、ここに?」
「2、3年前かな。愛ちゃんは?」
「うちは一昨年……こんな近いところにいたんやね……全然知らんかった」
 感慨深そうに愛は溜息を吐いて微笑んだ。もっとも魚屋にはほうっと大
きな溜息を吐いた気配しか感じない。溜息とともに唇に差された紅の濃い
匂いが漂ってきて、どきりとした。魚屋はまだ紅を差したことがない。
「もう行かなきゃ…」
「待って。ねぇ、また会えるかな? いつか」
「いつでも会えるよ」
 魚屋は笑って格子をこつんと叩く。格子の向こうに魚屋の気配が消える迄、
彼女はずっとそこに凭れていた。
32 名前: 投稿日:2004/05/30(日) 09:26
   ◇
33 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/09(金) 02:23
待ってます
34 名前: 投稿日:2004/07/10(土) 08:03
 樹上から飛び掛ってきたのは色とりどりの寒天状のようなものだった。
 大きな塊はすんでのところでかわしたが、欠片のような小さなものがひるり
と右腕に巻きついた。
「…ッ!」
 寒天状の生き物は蛭のように腕に吸い付く。ちくりとした感触のあと、擦り
硝子のように透明だった寒天が赤く染まった。
「あ…ッ」
 慌てて少女は腕を振り払い、寒天を叩き落とそうとする。寒天は小さく千切
れ、左の指にも張り付いた。どこに口があるのだろう、再びちくりとした感触
が少女を襲う。少女は杖を握り締めた。
(いやだ)
 振り返ると、巨大な寒天がぶよぶよと少女に近づこうとしている。丸餅のよ
うな形をしたそれは、歓喜していた。指先に、腕に張り付いたそれから、少女
はそれの感情を理解していた。吸われた血と引き換えるように、少女のなかに
は、それの思考らしきものが流れ込んでいた。
(いやだ、いやだ、いやだ)
 それは歓んでいた。それは長い、永い眠りから覚めたばかりだった。それは
怯えていた。それは震えていた。それは孤独だった。それは飢えていた。それ
は渇えていた。それは寂しかった。それは孤独だった。それは、それはそれは
……
(……い、や……)
 それは歓んでいた。少女の存在に喜んでいた。少女はそれを癒す存在だった。
飢えと渇きを抑えた。孤独が和らいだ。それは、寂しくなかった。ただ、悲し
いかった。自分のなかで死んでいくであろう少女を哀れんでいた。
(……)
 ぞ。
 寒天はゆっくりと少女に近づき彼女を中に取り込む機会をうかがっていた。
異質なものだったが、少女はそれを理解した。ゆるゆると震え、少女を取り
囲むようにその間合いを詰める。
 少女は杖をぎゅっと握り締めた。頭上には紅く尾を引く星が――。
35 名前: 投稿日:2004/07/10(土) 08:04
   ◇
36 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 02:28
「ふぃーっ。今日は冷えるなぁおい」
 戸口を開けるなり魚屋は白い息を吐きながら、大きな声で話しかける。家屋
からは何の応えもない。むッとしたように魚屋は口をへの字に引き結んだ。
「たでーま。今帰ぇったぞー」
 より一掃声を張り上げて、草履を脱ぎ、陽に灼けた畳をずるように歩く。
沈みかけた夕陽が縁側の障子を抜け、魚屋の長い長い影を作る。
「おーい。いねーのかー?」
 間延びした声で魚屋は見世を越え、中の間と座敷のあいだの敷居を越えて
魚屋はきょろきょろと左右を見渡した。
「あれを… どこにやった…」
 ふいに背後から声を掛けられ、魚屋はぎょっとしたように振り返った。開
いた襖に凭れるようにして、少女がいた。その髪に夕陽の橙が照りかえって、
まるで薄のようだ。
「あれ? あれってどれだい?」
「……」
 少女は薄のような頭を掻き毟る。魚屋はちらりと神棚を見た。
『仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不
異空。…』
 一面に般若心経が書かれた真っ白い布で覆われた細長い棒状のもの。『あれ』
だ。怪談など信じてなかったものを。魚屋は溜息を吐いた。占い師があまりに
強く勧めるものだから、耳なし芳一の故事に倣ってはみたものの、それをどう
すればよいのか魚屋には皆目見当がつかない。これだけ欲しがっているのなら
返してやっても良いとも思うし、なんとかに刃物という慣用句も浮かぶ。
「……」
 しまった。自分はどうやらそれを見つめすぎたようだ。魚屋の視線を追って、
少女は神棚を睨んでいた。
37 名前: 投稿日:2004/07/16(金) 02:29
   ◇
38 名前: 投稿日:2004/07/30(金) 01:44
 胸が熱い。
 蕎麦屋はまた懐に手を伸ばし、首から提げた巾着をそっと取り出す。触れる
だけでそれが熱を持っているのがわかる。この中にはあの奇妙な風体の学者か
ら貰った隕鉄が仕舞われていた。
 それが暖かいことを不審にも思わず、蕎麦屋はそれをとても大事なものであ
るかのように両手で包むように持つ。わずかな蕎麦代程度の価値しかない、と
学者に見做された品物であるのに、蕎麦屋はそれに取り付かれていた。何をし
ても気もそぞろな様子で懐に手を伸ばす。客が冗談交じりに「全財産をそこに
仕舞いこんでやがるんじゃねぇのか」と言っても愛想笑いひとつできずに顔を
強張らせてしまう。
 そう、今となってはこの石こそが彼女にとって一番大切なものでさえあった
のだ。
 こんな調子ではただでさえ流行らない夜鳴き蕎麦屋台も、ますます寂れる一
方だった。僅かにいた常連客も皆離れ、今となっては一見限りの客でさえ避け
る有様だった。もうまともな仕入れさえ出来やしない。だが、それでも蕎麦屋
は幸福だった。石を身に着けていると満たされる感じがした。空きっ腹さえも。
 だが、今日の熱さは異様だった。
 蕎麦屋はそっと巾着の口紐を緩める。中からぼうっとした光が漏れ、闇夜に
蕎麦屋のまだ幼さの残る顔を照らし出した。
39 名前: 投稿日:2004/07/30(金) 01:44
   ◇
40 名前: 投稿日:2004/08/09(月) 23:59
 生くさい…。
 天井にまでしぶいた緋色の斑点を見上げながら、さかな屋は溜息を吐いた。
まるで…、さかな屋は思いついたことに苦笑いする、まるで、さかな屋のよ
うだ…。
 人間も、おさかなも、中身の匂いにそう違いはないらしい…。
 彼女は、たくさんのおさかなを捌いてきたし、もし彼女が仏教徒なら牛頭
馬頭に刺叉を突きつけられ、殺生を戒められるのだろう。
 身体を少しずらす。畳に溜まった血がちゃぷっと音を立てる。痛みという
ものは限界を超えるともう、それほどは変わらないらしい。気が狂いそうに
なる痛みを感じているのとは、違う部分で思考することができることを感じ
る。痛みと、おそらくすぐに来るであろう死に、思考は確かに混乱していた。
おそらく彼女にできることはもう何もない。
 これは事故なのだ。
 悲しい気持ちでそう思う。あの痩せた少女はあの魔剣に取り付かれていた。
引き離せば少しはマシになるかと思ったんだけど、どうやら自分の思いあが
りだったようだ…。
 内臓が熱い。少女が魔剣を取り戻し、さかな屋を刺し捨てたのが、半刻程
も前のことだ。切っ先は内臓を傷つけ、おそらく背骨に当たり、欠けた。有
り得ない程の血が流れた。だが彼女はまだ生きていた。人間という生き物の
しぶとさときたら! さかな屋はまた嘲う。さかな以上に生汚いときてる。
 もし自分が少女と関わらなかったら、彼女に無駄な殺生などさせずに済ん
だろうに。今となってはただ、それだけが心残りだった……。
41 名前: 投稿日:2004/08/09(月) 23:59
   ◇
42 名前: 投稿日:2004/08/29(日) 22:42
「なにか?」
 圭織は、ぼうっとしたような表情で門前に佇む少女に声を掛けた。
「おねーさんここのひと?」
「違うけど、ここの人に何か用事? さかな買うなら表に回らないと」
 夢から醒めたような表情で尋ねた少女に、応えながら引き違い戸に手を
掛ける。閂は掛けられていない。もっともこのあたりには、そもそも閂を
掛ける習慣もない。
「ようじっていうか、ぜんぜんそんなんじゃなくって、でもただ、なんか、
その、ちょっと…」
「そう?」
 戸を開けると、暗い部屋からむあっとするような生臭さが漂う。圭織は、
訝しげに懐中提灯を高く翳した。
 陽に焼けた畳。砂壁。破れかけた障子。色褪せた襖。安っぽい木目が浮
き出た品のない天井。そのどれもがどす黒く汚れていた。血だった。
「…麻琴? え、……え? どういうこと……」
 草履を履いたまま土間を越え、圭織は畳にあがった。夥しい血で汚れた
この部屋の主はいない。
「まだ……あたたかいね……」
 すぐ後ろで少女の声がして、圭織は慌てて振り返った。あとを着いて来
たのだろうか、少女が畳の中央を何度も撫でている。そしてぱたんと横に
なり、愛おしげに頬ずりをした。
「ここ……すごくいいきもちがする……」
 提灯の暗い灯りのなか、少女の姿だけが妙にくっきりと浮かび上がって
見えた。少女の懐中が光っている。圭織は息を呑んだ。あの光の正体を、
圭織は知っていた。呪われた星の欠片。
「あなた……それをどこで……?」
「んー……もらった」
「どこで?」
「おみせで」
「どこの?!」
「ののの」
「……ののの?」
「ののの。希美の、あたしのおみせで」
「どうやって?」
「んー……おそばだい?」
「ね、あなた、もうちょっと詳しいことを聞かせてくれないかしら? す
ごく大事なことなの……誰?!」
 ぎっ。戸がほんの僅かに軋んだ音を聞きとがめて、圭織は誰何する。戸
には艶やかな着物を着崩した年若の遊女が佇んでいた。
43 名前: 投稿日:2004/08/29(日) 22:43
   ◇
44 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/01(水) 00:14
やる気ないならやめれば?
45 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 01:28
「いつまで見てはるの? あのコ、伝説の勇者さまとちがうのん?」
「勇者さまやったら、あれっぽっちの夷(エビス)ぐらい一人で乗り切って
もらわんと困んねんけどなー」
「姐さん火事んときは助けてはったやん」
「天災と夷とはまたちょっとちがうねんよ」
 鬱蒼とした森の樹々に隠れるようにして、二人の雲水が囁きを交わす。
六十間ほど離れたところで、夷と呼ばれた寒天状の怪物と、少女が対峙
していた。少女の右腕の、肘から先はすでにない。触れた場所から夷の
身体に吸い込まれようにして溶けてしまっていた。しかし、少女が自分
の腕の惨状に気付いている気配はない。少女と夷は“睨み”あっていた。
「このままやったらあのコ食われてまいますがな」
「それならそれでええねんけど」
「ええって」
「夷がなんで夷って言うんか、あんたも知ってはるやろ。夷は一人の弓と書
く。言い換えたら、ひとつの武器や。吸われるいうことは、あのコと夷は」
 地鳴りのような低い音が二人の会話を遮った。
「なあっ! 今度は何やねんっ!」
「姐さん煩いなぁ。少しは落ち着きなはれ。あんたそれでも雲水か?」
 寒天の表面がゆるやかに蠕動をしていた。ぶるぶると震え、内側から鈍い
光を放ち始め、次第に明るさを増し、少女の身体を包んでいく。
 なりゆきを見守りながら、二人の雲水は息を飲んだ。
46 名前: 投稿日:2004/09/01(水) 01:28
   ◇
47 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/23(火) 23:28
-未完-
48 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/04(土) 02:01
。。。あれから1年。。。

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