アゲハチョウ
- 1 名前:対星 投稿日:2004/01/26(月) 02:34
- この場をお借りしてアンリアル中編を書かせていただきます。
よろしくお願いします。
レスは歓迎です。アドバイス・感想などありましたら何なりと。
- 2 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:36
- 窓ガラスが結露で濡れてる。きっと外は寒いんだろうなぁ。
こんな日は起きていてもベッドから出たくない。
まだ1時間ある。もう少しこのままでいよう。
あ。そういえば今日は個人錬の日だ。
あぁーあ。正直面倒だなぁ。
でも下の子たちが真面目に来てるんだから私もいかなくちゃ。
いいかげん起きて行く準備しよう。
- 3 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:38
- リビングに下りて朝食を食べる。ヨーグルトにトースト。
朝から練習がある日はいつもこんなかんじ。
お母さんはまだ起きてこないし、自分で用意するのは面倒くさい。
どうせ眠くて味覚もはっきりしてないんだからこれで充分。
それにしても今日は寒い。
平年よりも暖かい一日になるでしょう 天気予報のお姉さんは
笑顔でそう言い放ったけど、とても信じられない。
こんな時、私服の学校に行っていればよかったと後悔する。
制服は夏は暑く冬は寒い。自分の意志で調節するには限界がある。
「行ってきます」
誰も聞いていないのは分かっているけど、そう言って家を出た。
私の通う風炉学院高校までは家から1時間半かかる。
中等部から通っているから早起きにも電車通学にももう慣れた。
もっと遠くから通っている子もいるし普段はこの距離に何も感じないけれど
朝錬のある日は疎ましく思う。特に冬は。
- 4 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:39
- でも朝錬がある日は良いこともある。
電車がすいているから確実に座れる。
こんなクレイジーな時間に通勤・通学する人はなかなかいない。
それにこの時間だとあの人に会える。時もある。
会えないときのほうが多い。ここ何週間かはずっと会えてない。
まぁ会うっていっても一方的に見てるだけなんだけど。
どうせ会うことはない。そう分かっているのだけれど
あの人が乗ってくる駅が近づくとどうしても身構えてしまう。
無意識に窓の外に目をやり、ホームにあの人の姿を探す。
- 5 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:42
- あっ。あれってもしかして...
まさかとは思ったけれど、やっぱりあの人だった。
ドアが開いて車内に乗り込んできた彼女の服装は
以前見かけた彼女の服装とは何か少し違った。
緑のショートコートに紺のショートパンツ。紫のレッグウォーマー。
モノトーンの車内にあって、彼女の服装はかなり目立つ。
すごい色彩感覚だなぁ。相変わらずお洒落さんだ。
私にはとてもまねできない。
冒険を怖がる私はいつも気がつくと黒い服を着ている。
可もなく不可もない。そんな格好。
はじけた格好をしてみたいけれど、梨華ちゃんのように
趣味が悪いとからかわれるのはごめんだし。
茶色に染め上げた肩までの髪がすごくきれい。
あのバッグ、ポーターの新作だ。
帽子かわいいなぁ。どこで買ったんだろう。
あのストールどうやって巻いたのかな。
- 6 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:43
- こんなに朝早く家を出てさすがに眠いのか、彼女は車内に空席を見つけると
すぐにそこに座って眠ってしまう。
私としてはそのほうがじっくり観察できてありがたい。
神奈川の住宅地から東京の中心へと伸びるこの路線は
ゆっくりと、それでいて確実に乗客を増やしていく。
だんだんと車内は混んできて、斜め向かいの席に座った彼女が
次第に見えなくなってくる。
わざわざ席を立って移動するのは不自然だし、少し残念だけど
今日はこれであきらめることにする。
久々に会えたんだから、それだけで満足しないと。ばちがあたるよ。
- 7 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:45
- 学校のある駅につくまでの時間は有効活用することにしている。
特に座れた日は。
1時間あればけっこうなことができる。本を読んだり予習をしたり。
今日は個人錬に備えてスコアを読み込むことにする。
自分の曲のことはだいたい分かっていると思うんだけど、
中学生だけでやる曲については正直あやしい。やばいなぁ。
今日の個人錬で教えなきゃいけないのに。
私の所属する管弦楽部では楽器ごとに先輩が後輩を指導する。
私のやっているオーボエはマイナーな楽器である為か人数が少ない。
中学1年の頃そのアットホームな雰囲気に引かれオーボエを選んだ。
音色は綺麗だし、意外にいいパートをもらえるし、
あのときの選択は正しかったと胸を張っていえるのだけれど
先輩がみんな引退した今、オーボエの最高学年は私1人なので
後輩の指導は1人でしなくてはならない。けっこう負担だ。
でもみんな素直でかわいいからそれはそれで楽しくもある。
- 8 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:47
- フーンフーンフーン フフッフフッフフー
『ファランドール』のメロディーは耳になじみやすい。
オーボエはけっこうメイン部分を走らされてるな。
紺ちゃんは大丈夫だろうけど、理沙ちゃんはどうかな。
ここで音でないと全体がくずれてしまう。
秋のコンサートでは序盤に音を外して最後まで立て直せなかった。
「コンサートを台無しにした」
影でけっこう言われていたのを知っている。
理沙ちゃんは顔には出さないけれどかなり傷ついていたと思う。
あれはちゃんと練習を見てあげられなかった私たちの責任だ。
後輩にあんな思いを二度とさせたくない。
しっかり練習しないと。
- 9 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:49
- ベッドでもたついていたせいで時間はかなりギリギリ。
かなり急いでいかないと確実に遅刻する。
ちょっと早めに席を立ち、ドアの前にスタンバイ。
ドアが開くと同時にエスカレーターへ。ここでもたつくのはかなり痛い。
今日はスムーズにいってる。このまま改札を通って。走れば間に合う。
あれ?なんかおかしくない?私荷物二つ持ってたよね?
教科書が入っている学校指定のバッグにオーボエケース。
あ。オーボエケースがない!
あわてて階段を下りてホームに走ったけれど、電車の姿はもうなかった。
- 10 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:50
- どうしよう。オーボエがなかったら練習できないじゃん。
次の駅に電話しなきゃ。あ、番号わかんないや。
こういうときは鉄道事務所にかけたほうがいいのかな。
とりあえず駅員さんに言うべきかも。
あー。こんなときはどうしたらいいんだろう。
なんであの時オーボエ持ってないことに気づかなかったんだろう。
あんな大切なもの忘れるなんてほんとありえないよ。
- 11 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/26(月) 02:52
- 「あの」
私の様々な思考は突然の一言でさえぎられた。
こんなときに何なの? そう思いながら振り返るとそこには彼女がいた。
「これ」 彼女の手には私のオーボエ。
「えっなんで....」
なんであなたが持っているのか。なんで私のものだと分かったのか。
私の思いは声にならなかった。
オーボエを手にして呆然としている私を見てにっこりと微笑むと
彼女はホームの反対側のエレベーターへ歩いていった。
「ありがとうございました」
彼女の背中にそう叫びたかったけれど、またしても声にならなかった。
彼女の笑顔は私の目の奥に焼きついてしばらくなくなることはなかった。
- 12 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/01/26(月) 23:45
- むむむ、おもろそう。
些細なことですが理沙でなく、里沙ですよ
- 13 名前:対星 投稿日:2004/01/29(木) 23:40
- 最初にお礼をさせていただきます。
>12
レスありがとうございます。ほんと嬉しいです。
うわぁ。理沙だって...._| ̄|○
- 14 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/29(木) 23:42
- 風が強い。春なんだよなぁ。そんな当たり前なことを考えてみる。
気持ちいいからもうちょっとこのままでいよう。
せっかくセットしてきた髪が崩れるはいやなんだけど。
春の東京駅は人であふれている。
サラリーマンに家族連れ、卒業旅行風の高校生。カップルも多い。
うらやましいな。私も彼氏と旅行したいよ。ってかその前に彼氏が欲しい。
それにしても遅いな。そろそろ着く頃なんだけど。
もしかしたら迷ってるのかな。2月にも来たんだからそれはないか。
電話かけてみようかな。
あっ。いた。ミニスカートにボストンバッグ。たぶんあれだ。
- 15 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/29(木) 23:45
- 「ひとみちゃーん」 ん?反応なし?気づいてない?
「ひ と み ち ゃ − ん !」 こっちに気づいた。
手振ってる。しかもかなり激しく。あ、バッグ落とした。
そんながんばって走らなくたっていいのに。
相変わらずかわいいなぁ。あんな格好してるのにね。
「ひさしぶりー」
「あゆみー。会いたかったよー。何年ぶり?」
「2年ぶりぐらい?」
「そんなになるか」
「この前来たとき何も言わずに帰っちゃうんだもん。寂しかったよ。」
「あはは。ごめんねー。あんま自信なくってさ。あわせる顔がなかったんだよね」
「無事合格なさって。おめでとうございます」
「ありがとうございます。さすがに2浪はしゃれになんないからね」
- 16 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/29(木) 23:46
- いとこの瞳ちゃんはこの春波浪大学に合格し、地元の新潟から上京してきた。
私が小さい頃は夏休みのたびに彼女の家に遊びに行っていた。
2つ年上で面倒見がよく頼れるお姉ちゃんタイプの彼女は
私にいろいろな遊びを教えてくれた。
山を探検したり、川に潜ったり、田んぼでかえるを追いかけたり。
彼女の家の周辺は都会育ちに私にとってワンダーランドだった。
はじめは彼女の家に生息する動物や虫をみては泣いてばかりいたけれど
彼女のおかげで夏休みの新潟旅行は一年で一番の楽しみになった。
中学に入ってから部活や勉強が忙しくなって遊びに行くことは
なくなったけれど、彼女とは電話やメールで頻繁に連絡を取っていた。
- 17 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/29(木) 23:51
- 「今日はどうするの?うちくるの?」
「ううん。とりあえずアパート行って荷物片付ける。
久々におじさんおばさんにも挨拶しときたいんだけどね。」
「そっか。じゃあ私も手伝うよ」
「いいの?やっぱりあゆみはいい子だ」
「はじめからそのつもりだったんでしょ」
「あ、ばれた?」
「だってひとみちゃん一人でアパートまで行けないじゃん」
「東京の電車は複雑でわかんないだよね。これからどうしよう」
「そういえば入試のときはどうしてたの?」
「移動は全部タクシー使いました」
「やるね〜」
「あれ東京ドームでしょ?ほんとにあんな形してるんだね」
本当はどんな形をしてると思っていたのかしら?
「東京の真ん中にもこんな大きな川あるんだねー」
川じゃなくって堀だってば。
電車から見える風景に瞳ちゃんは興奮気味。表情がころころ変わる。
つられて私も嬉しくなる。普段から見慣れている私にとっては何てことないのだけど。
- 18 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/29(木) 23:54
- 別の電車に乗り換えるため駅を出る。
「あーっ!これアルタでしょ!」
「そうだよ。よく知ってるね」
「ちょっと中入っていこうよ」
「別にいいけど。なんで?」
「だって会いたいじゃん。タモさんに」
あまりにはしゃいでる彼女をみていると何も言えず、エレベーターに乗り込む。
お昼やーすみはウキウキウォッチング
本当にウキウキといった様子で
そう口ずさんでいる彼女はとても20歳とは思えない。
でも当然スタジオアルタには入れないわけで。
「なんでー。ひどいよー」 瞳ちゃんは本気で悔しがってる。
“いいとも!”の画面下にでる『観覧募集』のテロップは見たことないのかな。
- 19 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/29(木) 23:56
- 私鉄に乗り換え彼女のアパートに向かう。
「なんかこの沿線懐かしい感じがするねぇ」
「そうだね。レトロな感じで」
「いいなぁ。私もこんな所住みたいなぁ」
「じゃあ一緒に住むか」
「いいの?ありがとう!」
「ちゃんとおじさんの許可もらえたらねー」
「それさ、ダメって言ってるのと同じだよ。うちのお父さん厳しいから」
「じゃあさ、たまに遊びにきなよ」
「うん。そうする」
春の電車は日が差し込んでただでさえ暖かい上に暖房が効いている。
イスに座るともう大変。足元のヒーターがものすごくいい仕事をする。
眠いなぁ。
なんか静かになったと思ったら、瞳ちゃんもうとうとしている。
新幹線に乗って疲れたのかな。
ほんと気持ちいいな。私もこのまま寝ちゃおうかなぁ。
- 20 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/30(金) 00:01
- 私たちがまどろんでいる間も電車は順調に運行を続け、
私が気がついたときにはすでに目的の駅が見えていた。
そろそろ降りなきゃ。やばいやばい。
「ひとみちゃん。降りるよ」
「!」
いきなり目が開いてこっちがびっくりした。
そういやこの人はすばらしく寝起きが良いことを自慢する人だった。
- 21 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/01/30(金) 00:03
- 改札を出て少し歩くと彼女の新居に到着した。
彼女も私もあまり方向感覚はよくないし、初めて来る場所だったので
無事につけるか心配だったけれど、迷わなくて良かった。
「「あれ?」」 鍵を開け中に入ると驚くべき状況が目に入った。
「これ、どういうこと?」 部屋には家具が完璧に配置されていた。
「わかんない」 引越し屋さん、ナイスセンスだ。
人手が不要になり手持ち無沙汰になった私は、荷解きに精を出す彼女を尻目に
この部屋のチェックを念入りに行うことにした。
彼女の新居はアパートと呼ぶにはもう少し立派な部屋だった。
駅から徒歩5分、8畳の1DKでフローリング、風呂・トイレ別、鍵は2つ。
そして何より日当たりがよい。ここに住みつきたい。本気でそう思った。
- 22 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:08
-
- 23 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:09
- 気がついたときには既に日は暮れていて、夕焼けがやけに眩しかった。
「あーゆみー。起きろー」
「もう起きてるー」
「ご飯作ったけど、どうする?食べてく?」
さっきから感じていた良いにおいの正体はこれか。そういえばお腹空いたな。
「えー。ちゃんと食べられんのー?」 そういいながらも
彼女が作るものがおいしくないはずはないことはよく知っている。
献立は肉じゃが、鯵の塩焼き、お漬物、味噌汁。なんか懐かしいなぁ。
新潟にいくと晩ご飯はいつもこんな感じだった。
正直うちのお母さんが作る洋食よりこういう純和食って感じのご飯の方が私は好き。
「今日はなんにも手伝わなくってごめんね」
「別にいいって。初めから期待してないし」
「なにそれー」
「ここまで連れてきてもらっただけで十分だって」
- 24 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:11
- 「それにしてもよくこんないい物件見つけたね。ここからだったら
乗り換えもないし、4月からは一人で大学通えるよね」
「....ん〜。どうだろう」
「へ?なんで?」
「いや、そりゃ多分駅までは一人でも大丈夫だよ。でも駅からキャンパスまで
一人じゃ歩けないと思うんだよね」
駅から大学まではほぼ一本道。あそこで迷う人はなかなかいない。
とは思うけど...。瞳ちゃんならやりかねないな。
なんてったってこの人は、おばあちゃん家から自分の家までの
徒歩10分の距離で迷ったことがあるツワモノだ。
「それじゃあさ、あたしが学校まで案内してあげるよ」
「いいの?」
「今日何もしなかったお詫びってことで。いつがいい?」
「明日」 即答だ。
「へ?あしたぁ?」 思わず声が裏返る。
「明後日ガイダンスあるんだ。それまでに一人で行けるようになりたいんだ」
そういうことならしょうがない。喜んで引き受けよう。
本当は明日は一日練習に費やすつもりだったんだけど。
- 25 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:12
-
駅までは一人で行ける という彼女の主張を受け入れて、
本日の待ち合わせは波浪大学の最寄り駅。
ここの駅は本当に人がいっぱいいる。さすが学生街。雰囲気が若い。
待ち合わせの時間から5分たったけど、彼女は一向に現れない。
見かけによらずきちんとした性格の彼女が遅刻することは珍しい。と思う。
寝起きの良い彼女に限って寝坊なんてありえない。はずだ。
きっと電車に乗れてないんだと思う。
昨日あんなに念入りに時刻表をチェックしていたのに。
一路線しか入っていないあの駅で乗り間違えなんてできるのだろうか?
でも相手は瞳ちゃんだからな。何があってもおかしくない。
「あ、もしもし瞳ちゃん?」 電話してみることにした。
「あゆみ?」 たぶん焦ってる。そんな感じの声。
「いまどこ?」 きっと新宿か所沢。
「新宿」 やっぱり。
待ってるからねー。 そう言って電話を切った。
所沢まで行ってなくて良かった。
- 26 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:14
- 「あーゆみー」 待ち人到着。待ち合わせの時間から15分オーバー。
でも瞳ちゃんにしては上出来だと思う。
「ごめんねー。なんか乗り過ごしちゃってさ」
「でもちゃんと一人で来れたね」
「うんっ」 ほんとに嬉しそう。この人はいくつなんだろう。
まぁそういうとこがかわいいんだけど。
「この道ずーっと歩いていけば大学に行けるよ」
「ずっとって、どのぐらい?」
「15分ぐらいかな。20分あれば確実に着くんじゃない?」
「えー?そんな歩くの?」 1時間歩いて高校に通っていたのは誰だろう。
「歩くのつらいんならさ、地下鉄使えば? 1駅乗れば
キャンパスの近くまで行けるよ。160円かかるけど、3分ぐらいで着くし」
「なんかそれ微妙に高いな」
「講義遅れそうなときとか使えば?便利だよ」
「うん。そうする」
素直に私の言うことを聞いている彼女を見ていると、なんだか不思議な気分になる。
昔と立場が逆転している。
あの頃田舎の暮らしに戸惑っていた私に彼女がいろいろ教えてくれたように、
今度は私がこっちでの暮らし方を教えてあげないと。
- 27 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:15
- 駅から大学までのびるこの通りは歩道が狭く、実際以上に人が多いように感じられる。
「なんか人多いねー。今日もなんかあるの?」
「今日はまだ少ないほうだよ。講義始まったらこんなもんじゃないよー」
「えーほんと?やだなぁ」 とかいいつつ全然嫌そうじゃない。
新潟とは全く違った東京の雰囲気が新鮮で、楽しくて仕方がないらしい。
人も物も多くてゴミゴミした印象のこの街は正直あんまり好きじゃないけれど
瞳ちゃんと来ると違ったものに見えてくる。
「ここのラーメン屋さん学割あるんだよ。学生証見せると100円安くなるの」
「ここのパン屋のメロンパン超おいしいの」
「あそこのCD屋さんたまに半額セールとかやるんだよ」
「ここの本屋さん、2階は自転車売ってるんだよ。外からじゃわかんないけど」
「向こうに見えるカレー屋さんの店長がかっこよくてね」
私はこの近くの予備校に通っていて、この街はよく知っている。
私の通う風炉学院はこの近くにあるから、もう自分の庭といってもいいぐらい。
嬉しそうに隣でうなづいている瞳ちゃんを見ているとなんだか私まで嬉しくなって
ついつい口数が多くなってしまう。
- 28 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:15
- 徒歩15分の距離は喋りながら歩くにはけして長いものではなく、
気がつくと目の前にはキャンパスが見えていた。
「なんかすごいねぇ」 大学のシンボルともいえる
レンガ造りの講堂の立派さに瞳ちゃんは少し驚いている。
「先月来たばっかりじゃん」
「あの時はさ、試験のことで頭がいっぱいで目に入らなかったんだよね」
学校まではしっかり案内したんだから私の任務はこれでおしまい。でもいいんだけど
せっかくここまできたのにこのまま帰るのはもったいないから
瞳ちゃんと一緒にキャンパス内を歩いてみることにした。
「建物古いね〜。由緒あるってかんじ」
「この銅像写真でよく見るけど、ほんとにあったんだね」
「なんか大学ってかんじ」
相変わらず瞳ちゃんはハイテンション。キョロキョロしながら歩いている。
見るからに新入生といったかんじの彼女はちょっと目立つ。
かわいいし面白いのだけれど、正直ちょっと恥ずかしい。
- 29 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:17
- とても広いように感じられたキャンパスも歩いてみるとそれほどの広さはなく、
すべてを回るのにあまり時間はかからなかった。
「ところでさ、32号館ってどこ?明後日のガイダンス、そこでやるらしいんだけど」
この近辺によく来るとはいえ、私もキャンパス内に入るのは初めて。
どこが何号館なんてことはまったく分からない。
そもそも32もの数の建物がこの敷地内に存在していただろうか?
とりあえず正門前の構内案内図で位置を確認。しようと思ったけれど。
「...あのさぁ。32号館って...」
「...ないねぇ」
どこをどうさがしても32なんていう大きな数の表示はない。
「ほんとに32号館だったの?2とか3とかの間違いじゃないの」
「確かに32だったよ」
「本当にぃ?」
「本当だってばぁ」
- 30 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/01(日) 22:18
- 二人で話しててもらちが明かないので、南門の守衛さんに聞くことにした。
「あの32号館って...」
「あー。32号館なら文キャンの方だよぉ」
新入生はよく間違えるんだよね などといいながら明らかに笑っている守衛さん。
...恥ずかしい。
波浪大学にはキャンパスが3つある。
駅のそばにある理工学部のキャンパスに、経済学部や法学部のあるメインキャンパス、
そしてそこから5分ほど歩いたところにある文学部のキャンパス。
メインキャンパスは本キャン、文学部のキャンパスは文キャンと呼ばれる。
文学部の授業や催しはほぼ文キャンのほうで行われている。
このことはけっこう有名なはずなんだけど。
32という数字を聞いて気づかなかった私も悪いんだけど、
それにしてもこの人は.....。
4月から講義も始まるのに本当に大丈夫だろうか?
それ以前に受講科目の登録はちゃんとできるのだろうか?
昔はもうちょっとしっかりした子だったような気がするのだけど。
- 31 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/04(水) 19:49
- 丁寧な文体が凄い好みです。更新がんばってくださいっ!
- 32 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:11
- >31
ありがとうございますっ!頑張りまっす!!
好みって。 (/∀\)キャー!
その一言であと3ヶ月は楽しく過ごすことができそうです。
- 33 名前: 対星 投稿日:2004/02/05(木) 23:13
- やばい。名前変えるの忘れた。浮かれすぎてました。
- 34 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:16
- さっきの一件のせいか、瞳ちゃんはやたら大人しい。
そうなるとなんとなく私もしゃべりずらい。
本キャンから文キャンまでは徒歩5分。
たいした距離じゃないはずなのに黙って歩くと長いものにかんじられる。
話題が欲しくて辺りを見回すと、前方に桜並木が広がっていた。
それはさっきまで気づかなかったのが失礼なほど美しかった。
「ねぇ、瞳ちゃん。あれみて」
「あー。すごーい。きれー」 瞳ちゃんの顔も華やいだ。
春の風は強い。昨日ほどではないけれど今日もそれなりの強風。
あの桜も例年通り、きっとすぐに散ってしまうんだろう。
でも1週間後の入学式まではきっときれいに咲いている。
こんな絵にかいたような桜並木を通って新生活をスタートさせる彼女が
なんだか少しうらやましい。
- 35 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:19
- 本キャンよりも手狭な文キャンはすぐに一周することができた。
32号館の位置も無事に確認した私たちはお昼ご飯を食べることにした。
せっかくだから学食で。
新しくメニューも充実している文キャンの学食。文カフェと呼ばれ、
文学部以外の学生もわざわざお昼を食べに来ることがあるほどの
人気スポットらしい。
「あゆみー。あそこパイナップルがあるよー」
「ケーキの種類、すごくない?」
食べ物を目の前にして瞳ちゃんはご機嫌。心なしかデザートのところしか
見てないような気がするんだけど。なに食べるつもりなんだろう?
- 36 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:20
- 先に会計を終え、席を確保して待っていた私のもとに戻ってきた彼女のお盆には
カレーライスと大量のパイナップル。やっぱりこうきたか。
「パイナップル、すごい量だね」
「なんかね、すごい安かったの」
「それにしてもなんでカレー?他にいろいろあるのに」
「わかってないなぁ。あゆみは。学食つったらカレーでしょ」
なんで? と思ったけど、やたら得意げな彼女にツッコむのはやめておいた。
「ところでさ、あゆみのは何なの?」
「ロコモコ」 学食にロコモコなんて。珍しいから頼んでみた。
「ロコモコ?何それ?」 なんだろう?
「ハワイヤン」
「そっか」 なんだかこの説明で納得されちゃったみたい。
- 37 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:22
- 「瞳ちゃん文学部だったんだね」
「うん。言ってなかったけ?」
「聞いてないよ。さっきびっくりしちゃった」
「意外だった?」
「うん。意外だった」
瞳ちゃんに文学少女のイメージはない。そりゃ話題になった小説ぐらいは
読むのかもしれないけれど、文学部に入学するほど読書好きとは思えない。
「本当のこと言うとね、学部はどこでも良かったんだ。ここの大学に
どうしても入りたかったから、理工以外の全部の学部受けたの。
それで文学部に引っかかったから文学部に入るってわけ」
「あ、そういうこと」
「うん。そういうこと」
なんだかこの説明にはすごく説得力があって、私は納得した。
ハワイヤンと言えばパイナップルでしょ そういうと瞳ちゃんは
パイナップルを分けてくれた。ロコモコは学食の割にはおいしかったけれど、
パイナップルは少し甘さが足りないように感じられた。
- 38 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:24
- 大きな窓が特徴的なここの学食は、日が差し込んできてとても暖かい。
気持ちよくてまた眠ってしまいそうになったけれど、2日続けて居眠りするなんて
瞳ちゃんにからかわれそうだから、我慢することにした。
それでもやっぱり眠いものは眠い。向かいのテーブルに載っているバッグがかすんで見える。
多分あれはポーターのリュックトート。かわいいなぁ。買うならやっぱりネイビーだよね。
そういえばあの人も同じの持ってたよなぁ。
最近見かけないなぁ。どうしてるんだろう。
肩までの茶髪で、首が長くって、姿勢が良くて....
あれ? あの人....
後姿しか見えないけど、あれはきっと、いや絶対あの人だ。
もう出て行くみたい。トレイを持って出口の方へ歩いていく。
背中がどんどん小さくなっていく。
追いかけなきゃ。
- 39 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:26
- 瞳ちゃんを置き去りにしたこと、今日はこのあと瞳ちゃんが
うちに挨拶をしに来ると言っていたこと、食べ終わった食器を片付けていないこと。
その他いろいろに、あの人を追って乗り込んだ地下鉄の車内で気がついた。
あーあ。やっちゃった。ほんと申し訳ない。後でメールしなきゃ。
あの人はいつものバッグのほかに白いブリーフケースを持っている。
珍しく大荷物。今日は何かあったのかな。
学食にいたけど、波浪大学の学生なのかな。年齢的にはおかしくないけど。
それにしてもこの人は座れるとすぐに寝てしまう。疲れているのかな。
黄色いニットに紺色のカーゴパンツ。インナーの緑のドットがすごくきれい。
この前と違いあんまり目立つ格好ではないけれど
今日も相変わらずおしゃれだ。
足細いなぁ。っていうか身体全体が細い。うらやましいなぁ。
寝てるときでも背筋はきれいに伸びてるんだよね。すごいなぁ。
- 40 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:28
-
あ、やばっ。
いつものように向かいの座席に座りぼんやりと眺めていると、
彼女が突然目を開けたので目が合ってしまった。
驚いて慌てて目をそらした。
私が一人であせっているうちに彼女は電車を降りていってしまった。
そういえばここはいつも彼女が乗ってくる駅。そうか。
やっぱりここに住んでたんだ。それともこの近くでバイトしてるのかも。
新たな情報を得られて少し得した気分でいると、目の前のイスの下に
ブリーフケースが置かれていることに気づいた。
たぶんあの人のだ。間違いない。
追いかけなきゃ。
- 41 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/05(木) 23:30
- 電車が次の駅に到着すると急いで上りの電車に乗り換えた。
まだ1駅しか行っていない。大丈夫。急げば間に合う。
そう自分に言い聞かせて彼女の降りた駅までたどり着いたけれど
ホームにも改札にも彼女の姿はなかった。
どうしよう。
こんなときはどうしたらいいんだろう。
最寄の警察署に届けるべきかな。鉄道事務所に電話した方がいいかも。
やっぱりここの駅の駅員さんに渡すのが一番いいんじゃないかな。
いろいろな考えが浮かび、様々な選択肢を思いついたけれど、
彼女のブリーフケースは私にはとても大切なものに思えて
それを他の人に渡してしまうことには抵抗があった。
あまりいい方法でないことは分かっていたけれど、とりあえず私が預かることにした。
- 42 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:26
-
- 43 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:27
- 寒い。今が春休みの真っ最中であること疑いたくなるほど寒い。
これから部活の練習に出なければ行けないから、制服着用。
足元は当然ルーズ。いまどきルーズなんて恥ずかしいんだけど
防寒にはこれが一番。中学生の頃にはいていたのを引っ張り出した。
ただ今の時刻は8時15分。
あの人のブリーフケースを拾ってしまったあの日以来、私は毎朝
彼女がいつも乗ってくる駅のホームのベンチで彼女が来るのを待っている。
今日で5日目。
待っているとはいったけれど、彼女が来ることはないことは薄々感づいている。
去年まではいつも7時20分ごろにこの駅に着く電車に乗ると必ず
彼女が乗ってきたけれど、今年に入ってからそれは珍しいことになっていた。
オーボエを拾ってもらったあの日以来、週に2回はこの時間の電車に乗っているけれど
ここで彼女を見かけたことはなかった。
やはり今日もあの人はいっこうに現れない。
そろそろ電車に乗らないと練習に遅れてしまう。
今日はこれであきらめることにしよう。
- 44 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:30
-
地下鉄における遺失物は一日に数十件にのぼるという。
然るべき所に届けたところでこのケースが無事にあの人のもとに届くとは限らない。
大切なものが入っているのだとしたら、それではあまりに申し訳ない。
あの時そう思ったから今私の手元に彼女のブリーフケースがあるのだけれど。
私の行動は果たして正解だったのだろうか。
ここで待っていてももう二度と彼女に会えることはないんじゃないか。
おとなしく駅事務所なり警察署なりに届けておくべきだったんじゃないか。
私の誤った行動のせいで彼女はいま困っているんじゃないか。
後悔と自責思いが私の頭を支配し、それ以外のことが何も考えられなくなる。
ここ数日ずっとこんなかんじだ。
春休みに入ると部活の練習が増える。普段からやってるオーボエパートリーダーの他に
最高学年であるが故の管弦楽部全体の仕事もしなくてはならなくなる。
練習計画の打ち合わせ、練習場所となる教室の確保や鍵の管理、
教職員会議や文化部部長会議からの連絡事項の確認と徹底.....挙げるときりがない。
それに顧問と部長・副部長で行う幹部会の頻度も高くなる。
どれも一つ一つは些細なことなのだけれど、重なるとけっこうキツい。
名前だけとはいえ副部長だからそれなりに責任もある。
いいかげんにあの人のことでなく部活のことを考えないと。
- 45 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:32
-
今日は4月末にあるコンサートに向けた全体練習の日。中等部と高等部が
一緒に活動する管弦楽部は、全員が揃うとけっこうな人数になる。
すべての楽器をそろえるのは初めてだから、さっきからつっかかってばかりいる。
「ビオラ遅い。はい今の三拍目から」 さっきので良いと思うんだけど。
顧問でもある指揮の中澤先生はやたら弦楽器に厳しい。
初心者が多い管楽器に比べて経験者ばかりの弦楽器はレベルが高い。
中澤先生が弦楽器ばかりに厳しいのはそれだけ期待しているから。
それはオーボエ担当の私にとって少しうらやましく、そしてまた悔しいこと。
弦楽器だけで聞かせる部分で止まっている間、私たち管楽器担当はやることがない。
私は鞄とともにロッカーに入っているブリーフケースのことを考えていた。
どうしたらいいんだろう。
- 46 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:34
-
「ちょっと柴ちゃん聞いてる?」 梨華ちゃんの声で我に返る。
この人は先輩である私を柴ちゃんと呼ぶ。もちろん敬語なんて使わない。
「柴田さんしっかりしてくださいよ」 中1の理沙ちゃんにまでツッコまれた。
その隣では紺ちゃんがニコニコと笑っている。
管弦楽部は文科系のわりに厳しいと校内では言われているけれど、厳しいのは弦楽器だけ。
管は一つのパートの人数が少ないから、自然と上下関係もゆるくなる。
「それでねぇ、この前の土曜日にぃ」 梨華ちゃんの声は高く、よく響く。
「そこ。静かにしいや。自分のパートやなくてもちゃんと聞いとけ」
中澤先生のタクトの指した方向に座っている私たちに、みんなの注目が集まる。
これだけの人数の視線が集まると、かなり痛い。
- 47 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:34
- 「はぁ〜」 口からはため息しか出ない。
怒られてからは真面目にやったから、今日の練習はかなりつらかった。そのうえ
みんなが休んでいる時間にも中澤先生と部長の福田さんとでパンフレットについての
打ち合わせをしていたから余計に疲れた。
二人とも普段は優しくておちゃめな人なのに、部活のこととなると人が変わったように
厳しい顔になる。幹部会ではいつもびくびくしてしまう。
「もぉ〜。さっきは柴ちゃんのせいで怒られちゃったじゃん。
よっすぃにはからかわれるしミキティにはバカにされるしごっちんはかばってくれないし、
大変だったんだからぁ」
いや、どう考えたってあれは梨華ちゃんの声がうるさいからだって。
- 48 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:35
-
- 49 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:37
- 家に帰ってから、一人でゆっくり考えた。その結果
『ケースの中身が緊急を要するものだったら警察署へ、
そうでもないものだったら駅事務所へ届ける』という結論に達した。
人のものを勝手に見るのは悪いことだ。でもこの場合は仕方がない。
そう自分にいいきかせてケースを開いた。
分厚いB5サイズの冊子にA4のクリアファイル。ケースの中身はこれだけ。
冊子のタイトルは『波浪大学経済学部 科目要項』
あの人はやっぱりあそこの大学の学生だったようだ。しかも経済学部。
波浪大学はけっこうな名門校。その中でも経済学部は一番の難関。
すごいな。頭良いんだ。
ついでだからクリアファイルの中も見てみることにする。
『経済学部年間行事予定』『履修制度変更のお知らせ』『健康診断日程』....
ファイルの中は書類でいっぱい。
『経済学部3年 村田めぐみ』 これってあの人の名前?だよね?
村田さんって言うんだ。名前ひらがなだ。かわいー。
『履修科目申請書』 なんかこの紙分厚くない?マークシートだし。
なんかこれ、大事な書類っぽい。名前まで印刷されてるし。
絶対あの人に届けなきゃ。 でもどうしたらいいんだろ?
- 50 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:38
-
「で、どうしたら良いと思う?」 いろいろ不安はあるけれど、
瞳ちゃんはあの人と同じ波浪大学の学生。何かいいことを思いつくかも。
そう思って彼女の携帯にかけてみた。
「どうだろうねぇ」
「ちゃんと考えてよ」
「考えてるって。だって履修申請書だよ?あれがないと科目登録できなくて
1年棒に振ることだってあるんだよ」
「えっ本当?やばいじゃん。それ」
「やばいねぇ」
「なんか確実に届けられる方法ってないの?」
「あ、大学の事務所に預けてみれば?名前まで分かってるなら
連絡とって本人まで届けてくれるんじゃない」
それだ! やっぱり瞳ちゃんは頼れるお姉ちゃんだ。
なんだかんだいってしっかりしている。
- 51 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:39
-
- 52 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:40
- 次の日私は朝一番に波浪大学に向かった。
経済学部の事務所の場所が分からずかなり迷ってしまった。
業務開始すぐに訪れた制服姿の女子高生に、事務所の人たちはとても驚いていた。
拾ったものを6日間も黙って持っていたことを怒られると思っていたけれど
反対にかえってこちらが申し訳なくなるほど感謝された。
多分あのファイルはあの人の元に届くだろう。
私は落し物を拾った人がやるべきことをきちんとできたと思う。
これで全部終わった。
あの人と関わることはもう二度とないだろう。
『村田めぐみ』
せっかく知った名前だけれど、それを呼ぶことはきっとない。
視界がぼやけてきた。頬に生暖かい感触があった。触れてみると濡れていた。
涙が出ている。
きっとこれは花粉症のせい。ついに発症してしまったようだ。
- 53 名前: まちわび まちさび 投稿日:2004/02/10(火) 00:40
-
- 54 名前: 対星 投稿日:2004/02/10(火) 00:49
- ようやく第1話柴田編終了です。
レス下さった方、読んでくださった方、どうもありがとうございます。
- 55 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/10(火) 19:28
- 更新お疲れ様です。毎回にやけつつ読んでますw
第2話も楽しみにしておりますので、頑張って下さい!
- 56 名前: 第2話 投稿日:2004/02/13(金) 03:09
-
『雲ゆき』
- 57 名前: 第2話 投稿日:2004/02/13(金) 03:12
-
涙が止まらない。目が痒い。鼻水が垂れてくる。何だか頭痛もする。
去年から薄々感づいてはいたけれど、どうやら私は花粉症らしい。
マスクはしているのに症状は一向に軽くならない。
春って嫌だな。はやく夏になれば良いのに。あ、夏も暑いから嫌だ。
北国出身者には東京の生活はつらい。
こっちに来てから花粉症になった。東京よりも明らかに木が多い
地元ではなんともなかったのに。大気汚染とアスファルト舗装のせいだ。
木にとって暮らしにくい環境だと花粉が多く飛ぶ。らしい。
昨日テレビで言ってた。
上京したての頃はテレビや雑誌でしか見たことのない光景にドキドキして
毎日が新鮮だったけれど、1年間東京で暮らしているうちに
日々の生活の中で感動を味わうことはなくなった。
空気の汚さにも、街を行き交う人の多さにも、物価の高さにも既に慣れた。
自分はずっと前から東京に住んでいたんじゃないか。あまりに慣れすぎて
そう疑いたくなることすらある。これはさすがに誇張だが。
- 58 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:14
-
先月私はあこがれの波浪大学商学部に合格した。
ここまで来るのはかなり大変な道のりだった。
親元を離れ、一年間東京の予備校に通った。
地元の北海道とは180度違う、大都会東京での一人暮らし。
高校とは大分レベルが違う、難しい授業。
毎日何かしらの試練と発見に出会い、息つく暇のない一年だった。
大変だったけれどそれなりに充実していて楽しかった。
大学受験が終わり、それまでの私の生活の大部分を占めていた勉強から
開放されると、私には何もなくなった。
テレビを見たりゲームをしたり。日がな一日ボーっとすごしている。
2ヶ月前まではこんな生活を夢見ていたけれど、いざやってみると
3日で飽きる。
- 59 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:16
- 入学前の1ヶ月は本当に微妙な時間。
手続きとかガイダンスとかその他いろいろがあるから、北海道に帰る時間はない。
そう思っていたのだけれど、実際はまったく忙しくない。
こんなことなら早めに飛行機のチケットを確保しておくべきだった。
春休み真っ最中のこの時期はなかなか混んでいるようで、
いまからチケットを取ることは難しい。
ばぁちゃんいまなにしてんのかなぁ。かぁちゃんに会いたいなぁ。
私の入学する波浪大学はかなりの難関大学。自分で言うのも何ですが。
うちの地元から波浪大にいくなんていったらもう大騒ぎ。
電話で合格を伝えると、かぁちゃんもばぁちゃんも本当に大騒ぎして
喜んでくれた。私は受かったことよりも2人が喜んでくれたことのほうが
ずっと嬉しかった。
東京に出てきてからもう1年。室蘭には帰っていない。
夏休みで結果が決まるんだから そういってお盆は帰らなかった。
大切な追い込みの時期だから そういってお正月にも帰らなかった。
帰りたいなぁ。
- 60 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:17
-
一人で部屋にこもっていると気分が滅入る。
何かしたいなぁ。何かないかなぁ。
とりあえず携帯のメモリーをいじってみる。誰かいないかなぁ。
こんなときに地方出身者はつらい。
高校の友達で東京に来ている子は少ない。その上この一年忙しさにかまけ
ろくにメールもしていなかったから、いま遊んでくれるような子はいない。
予備校の友達には連絡しにくい。自分だけ実力以上の大学に
合格しちゃったから、なんとなく気まずい。
そもそも友達自体が少ないことに問題がある。
こんなときは一人カラオケに限る。昨日も行ったけど。
- 61 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:18
- 電話がないのは いつから でしょう♪
いきなり携帯がなってびっくりした。しかも着ウタ。こわいって。これ。
「もしもーし」
「あ、マサオー?」 携帯から聞こえてくる懐かしい間延びした声。
「村っち久しぶりー。どうしたの?」
「そろそろ受験終わったでしょ?久々に遊んでもらおうと思って」
やっぱり持つべきものは友達だね。
- 62 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:19
-
村っちこと村田めぐみとは高校時代からの付き合い。引っ込み思案で
友達を作るのが苦手な私にとって数少ない親友と呼べる存在。
とはいっても学年は私よりも1つ上だから、先輩にあたる。
今は波浪大学経済学部の3年生。
波浪大の看板学部と名高い経済学部に現役で入った彼女と
本キャンのお荷物と呼ばれる商学部に一浪して入る私。その差は歴然。
それでも彼女の態度はいつも飄々としていて、そんなことを微塵も感じさせなかった。
彼女と会うのは本当に久しぶり。9月以来だから、半年ぶり。
東京に来たばかりで友達もできずホームシックにかかっていた頃
よく遊んでもらった。
こっちでの生活に慣れ、予備校の勉強が忙しくなってからは
気晴らしに付き合ってもらうことはなくなったけれど
こうして大学に受かったのもあのとき彼女に支えてもらえたからだと思う。
- 63 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:20
- 村っちが待ち合わせの場所に指定してきたのは波浪大文学部の学食。
春休みで授業はないのに大学。しかも経済学部の彼女には縁の薄い文学部。
わざわざこんな場所を指定したことには、来月からここに通うことになる私に
大学を案内しようっていう意図があるんだと思う。
こういうさりげない配慮に彼女の優しさを感じる。
私の通っていた予備校から波浪大は駅2つの距離だから、
本キャンにはたまに来ていたけれど、文キャンに来るのは今日が初めて。
地下鉄の駅から本キャンとは逆方向に向かう。なんか新鮮。
桜並木がキレイ。ドラマのワンシーンに使われてそう。
人の波がカラフル。文学部には女の子が多いからかな。
こじんまりとした文学部キャンパスは、規模が大きくて雑然とした印象の
メインキャンパスとはずいぶん雰囲気が違った。
波浪大の無骨なイメージにそぐわない、華やかなかんじ。
本キャンもいいけど文キャンもいいなぁ。
- 64 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:23
- とりあえず文学部キャンパスまでは来てみたものの、肝心の
学食の場所が分からない。
こっちにあるのは明らかに体育館だし、あっちは教室。
この狭いキャンパスのどこに学食があるのだろう。
あ、やばい。いま私きょろきょろしてた。
地方から出て来た新入生みたいだ。地方から出て来た新入生なんだけど。
ここで立ち止まっているのは恥ずかしい。
あそこにいる守衛さんに聞こうかな。学生に聞くのはなんかやだし。
いやでもそれこそまさに地方から出て来た新入生だ。やめとこ。
なんか案内標識みたいのがあるといいんだけど。ないな。
どうしよう。
- 65 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/13(金) 03:23
-
「あー、マサオくんじゃないの」
立ち止まったままでいる私の背中に後ろから声が飛んできた。
ナ行が言えてない。この声は明らかにあいつのだ。
「おー村っちー。久しぶりー」
振り返った先には私にそっくりと評判の笑顔があった。
- 66 名前: 対星 投稿日:2004/02/13(金) 03:29
-
ようやく登場人物が出揃いました。
>>55
どうもありがとうございます。ニヤけて下さっているとは.....w
自分にとって最高の褒め言葉です。嬉しいかぎりです。
更新頑張ります。
- 67 名前: 対星 投稿日:2004/02/17(火) 11:46
-
文学部キャンパスの学食は私が立っていた入り口からすぐの所にあった。
メインキャンパスの食堂のような独立した建物を想像していたから
教室と同じ建物の中に学食があることに気づかなかったのだ。
まさかこんなに分かりやすい場所が分からなかったなんて。
恥ずかしいから村っちには言わないでおくことにいよう。
- 68 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:48
- 文学部キャンパス学生食堂。通称文カフェ。
波浪大学でもっとも女子の比率が高い文学部にあって、さすがに
ここには女の子受けしそうなメニューが多い。だけど私は
村っちオススメの麻婆豆腐ともやしサラダという地味極まりない
メニューを選んだ。
麻婆豆腐は普通においしいけど、もやしサラダはなんだかなぁ...。
これって単にもやし茹でただけじゃん?味しないって。
こんなもんばっか食べてるからそんな痩せるんだよ。
- 69 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:48
-
「それでさ、恐竜が進化したものが宇宙人なんだって」
「へぇ〜。宇宙人かっこいいなぁ」
「あとさ、恐竜って色ついてるじゃない?絵本とか図鑑とかの中では。
でもね、あれって人間が勝手に想像してつけてるだけで
本当はどんな色してたか分かってないんだよ」
「じゃあ今うちらが思ってる恐竜の姿はほんとの姿じゃないんだ」
「そうなのよ」
目の前のご飯そっちのけで村っちは熱弁を振るう。
大学でのサークルのこと、授業のこと、会ってなかった半年間のこと、
村っちと会うにあたっていろいろと話したいことはあったのだけれど、
実際に彼女と喋っているとどんどん彼女のペースに巻き込まれて
気がつくとなんだかよく分からない話をしていた。
- 70 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:49
- 「でね、ピラミッド作ったのも宇宙人なんだよ」
「ピラミッドってエジプトの?」
「そう。それ。 あの形は上空から見てないと作れないんだって」
「へぇ〜。すごいねぇ。宇宙人」
村っちはキレイでおしゃれだから黙っていればそれなりなのに
喋るとかなりおかしい。不思議ちゃん。変人ともいう。
こんなに頑張って宇宙人の話をするおねえさんはちょっと探しても
見つからない。
- 71 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:50
-
「村っちすごいねぇ。宇宙人博士だ」
「なんかね、昨日テレビでやっててさ」
「あぁやってたねぇ。9時から10chだったけ?」
「そう。それそれ」
「私その時間ドラマ見てた気がする。村っちドラマ見なかったんだ」
「見たよ」
「へ?」
「宇宙人は録画しといたの。それで12時ぐらいから見た」
「じゃあ寝たのは1時とか?」
「いや、そのあと借りてきたDVDとか見てたから、2時半ぐらい」
「夜更かしさんだ」
「最近ドトールのバイト辞めたじゃない?早起きする必要もなくなったからさ」
「あの8時からのやつ?」
「あれさ、開店は8時だけど7時半から準備してたんだよね」
「ふーん。そりゃ早いなぁ」
- 72 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:51
-
「でもさ、そんなに夜更かししてたら昼間眠くなんない?」
「そりゃもう。今春休みだから授業中に睡眠とることもできないし」
「講義中は起きてようよ」
「最近電車の中とかですぐ眠っちゃうんだよねぇ」
「大丈夫?乗り過ごしたりしない?」
「それは大丈夫。たまにしかしない」
「たまにするんだ」
「それよりね、忘れ物がすごいのよ。なんか起きたらもう降りる駅なわけよ。
で、急いで電車降りて気がついたら荷物持ってないの」
「ははは。さすが村っち〜」
- 73 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:52
- 「笑い事じゃないんだって。この前なんて大変だったんだよ。
今年の科目登録の書類一式、電車に忘れてきちゃってさぁ」
「履修申請書とか講義要項とか?」
「あとゼミの時間割と発表の課題プリント」
「やばいねぇ。それで村っちちゃんと単位取れるの?」
「取れないねぇ」
「えっ?そうなの?」
「科目申請の用紙なくしたら再発行しなきゃいけないじゃない?
それにだいたい1週間かかるから1次登録に間に合わないのよ。
2次登録だとあんまいい授業は残ってないからさ」
「へぇ〜。そういうもんなんだ」
高校の頃だと自分で何もしなくても時間割は与えられた。
予備校では多少のミスはあっても大目に見てもらえた。
大学では誰も面倒を見てくれない。すべての手続きを自分で
こなさなければいけない。今まではそういう自主性に憧れていたけれど
自分ですべての責任を負わねばならないのは厳しいことだ。
私は上手くやっていけるのかな。少し不安だ。
- 74 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:53
- 「でもね、なんかすごいの」
「へ?」
「私が忘れた書類がね、学部の事務所に届いてたの」
「へぇ〜。それはすごい」
「しかもね、その時忘れたものが全部そろって戻ってきたの。
何もなくなってなかったの」
東京は物も人も多いから、そこで生きているとどうしても周囲に
関心がなくなってしまう。
室蘭から上京してきて以来ずっと、いや室蘭にいた頃から、
東京の人は冷たいと思っていた。
でも、どこにだって良い人はいるんだね。
- 75 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:54
- 村っちが食べ終わるのを待って、私たちは学食を出た。
このあと村っちは文キャンを案内してくれるんだろうと
私は密かに期待していたのだけれど、バイトがあるから、と言って
彼女は帰ってしまった。
そのわりには駅とは反対の、住宅街の方向に歩いていったけれど。
- 76 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/17(火) 11:56
- 仕方がないから一人で文キャンを散策してみることにした。
方向感覚に自信はないけれど、こんなに狭い敷地の中で迷うことは
ないだろう。そうタカをくくっていたら、さっそく私の身長より
少し高いぐらいのフェンスに行く手を阻まれた。
目の前にある新しい建物に入りたいのに、入り口までの行き方が分からない。
フェンスの向こうに見える自動ドアがとても遠くに感じられる。
中に人がいるのが見えるから、どこかに通路があるはずなのだけれど
どうしてもそれが見つからない。
全面ガラス張りのその建物は、レンガ造りの校舎が多い波浪大学にあって
とても珍しく、そして魅力的に見えた。
けれどこのフェンスがある限り、その中には入ることができない。
私は諦めて今来た道を戻ることにした。
些細なことなのに何だかとても悔しい気分になる。
私がもう少し身軽で運動神経も良かったら、こんなフェンス飛び越えて
あの建物の中に入れるのに。
- 77 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:47
-
- 78 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:48
- 去年の今頃、いやもっと前からかなり最近まで
大学に入りさえすれば何もかも手に入ると思っていた。
勉強に行き詰ったとき、人間関係が上手くいかないとき、
なにか困難に出会うと大学に入ったあとのことを想像して気を紛らわせていた。
授業にバイト、サークル活動。大学生活はとても忙しい。
毎日のようにコンパがあり、家には寝に帰るだけ。
そういう日々を想像していた。
たくさんの友達に囲まれ、何事にも積極的に取り組む
高校時代とは想像もつかないような活発な自分。
4月になったらそういうもの生まれ変われると思っていた。
大学に入りさえすれば劇的な変化がおこりステキな日々が訪れる。
そう信じて疑わなかった。
- 79 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:49
-
この春なんとか合格して、『大学生』になった。
けれど自分には何の変化も起こらない。ステキな日々も訪れない。
去年の今頃と大して変わらない毎日。
厳しい授業がなくなった分、予備校時代より充実感がない。
まだ仲良い友達もできていないから、上京したてのあの頃と同じくらい
一人で居る時間は長い。
相変わらず引っ込み思案で人見知り。全く変化なし。
「ガイダンスは行っても意味ないよ。私ずっと寝てて内容なんて
覚えてなかったけど全然支障なかったし」
「健康診断は大変だよ〜。ディズニーランドなみに並んでるからね」
村っちのアドバイスをきいて入学前のイベントはほとんどサボった。
密かに楽しみにしていた入学式は風邪をひいて欠席した。
その為か、どうも大学生になったという実感がわかない。
未だにアンケートの『職業』の欄にさしかかると『予備校生』の
項目を探してしまう。
- 80 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:51
- けれど私の気持ちなんてお構いなしに大学のスケジュールはこなされていく。
昨日からとうとう授業まで始まった。
昨日の科目は『会計論』と『経営学入門』、『西洋史』。
いかつい名前から分かるようにすべて大教室で行われる講義。
いかにも大学ってかんじで少し興奮した。
内容もそれなりに面白いものでかなり楽しかった。
けれどこの感動を共有する相手が居ない。
このままじゃいけない。友達を作らないと。
生まれ変わることはできないにしても、引っ込み思案なところを少しは改善しないと。
- 81 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:52
- 授業開始2日目にして危機感に似た焦りを感じ、今日は早めに登校してみた。
当然のように一番乗り。
昨日の授業は3つとも大教室でのものだったから話しかける雰囲気に
ならなかったけれど、今日は違う。
次の授業は『奈良美術研究』。
テーマカレッジといって全ての学部の全ての学年の学生が取れる授業で、
規模は20〜30人。シラバス参照。
これぐらいの規模なら私でも何とか誰かに話しかけるぐらいのことはできる。と思う。
いろんな人がいるだろうから、その中で誰か一人ぐらいは仲良くなれる人が
見つけられる。ような気がする。
大丈夫、きっと大丈夫。
- 82 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:53
-
それにしても少し早く来すぎたみたい。もう10分経つのに誰も入ってこない。
そういえばこの授業2限だったり。
早めに来ることができる早起きさんは1限もとってるだろうから
どうしたって授業開始ギリギリに来る。
2限から登校の人は朝が苦手な人だろうから授業開始ギリギリに来る。
そうすると全員ギリギリにならないと登校しないのでは?
早めに来ても意味ないじゃん。
何やってんだ、自分。
- 83 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:55
- どうしたもんだろう。
授業開始は10時40分。あと20分どうやって過ごそう。
携帯の充電は残り少ない。大学には時計が少ないから
充電が切れるとかなりの支障が出る。メールもゲームも危険だ。
今日は3限の『簿記』の教科書やらワークやらがかさばるせいで
何も本を持ってきていない。
こうなったら教科書でも読むかな。
・簿記は企業の財産の増減・変化を帳簿に記入する方法である。
・企業の営業活動には様々な財貨が必要となり、またそれは変化する。
・企業は財産管理のためにその変化を正確に記録しなければいけない。
教科書、その名も『簿記』、の冒頭3ページから読み取ったことはこの3点。
うやうやしくハードカバーでやたら重くてかさばるこの本は
遠まわしで読みづらく、そして退屈だ。
はじめ3ページ読んだだけで読む気をなくした。
今度から枕元にこの本を置いておくことにしようと思う。
どんなに寝付けない夜でもこれを開けばきっとすぐに眠れる。
- 84 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 17:57
-
ガチャッ
急に響いた大きな音にびっくりした。
私しか居ない教室はひどく静まり返っていて、かすかな音でもよく聞こえる。
でもそれにしたってドア開けるだけなのに大きな音たてすぎでしょう、あなた。
どんな男だよ。全く。
振り向いてみてびっくりした。そこに居たのは女の子。
オフホワイトのスプリングコートにミニスカート。黒のロングブーツ。そして網タイ。バッグはヴィトン。
ギャルっちい。なんか怖い。
髪の色、やたら明るいし。まぁ私もあんまり人のこと言えないんだけど。
やばっ
室蘭ではもちろん、予備校でも珍しかったギャルファッションに
目を奪われていたら、彼女と目が合ってしまった。
あわてて逸らしたけれど、一瞬にらまれたような気がした。
やっぱ怖いな、ギャルは。
- 85 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/21(土) 18:00
-
二人きりの教室。
私一人だったときよりも静か。彼女が携帯をいじる音まで聞こえる。
この狭い空間に二人きりなのに互いに何も行動がない。
なんかこのかんじ、やだなぁ。これならまだ一人のほうが気楽でいい。
さっきはあんなに教室に他の誰かが入ってくることを望んでいたのに。
ただいまの時刻10時23分。授業開始まであと17分。
2限が終わるのは10時30分だから、あと当分二人っきり。
気にしないでいようとは思うのだけれど、やはり気になる。
見ないでいようとは思うのだけれど、やはり目が行ってしまう。
簿記の教科書を読むふりをしながら、同じ列の反対側に座った彼女を盗み見る。
爪が長い。あれじゃ日常生活に差し支えるんじゃないかな。
そんな爪を器用に使ってボタンを押す彼女の指の動きは驚くほど速い。
45度下の角度に顔を向けて携帯を操作する仕草はとても様になっている。
さすがギャル。
- 86 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:23
- 「えー、まずはじめに奈良美術とはですね、6世紀前半の仏教伝来から
8世紀末の平安遷都までの飛鳥・白鳳・天平時代につくられた、
仏教美術を中心とした美術のことですね。この時代の美術は、韓半島や
中国大陸との密接な関わりのなかで生成し、そしてまた展開したために
ですね、・・・・・」
この授業の講師の先生はおじいちゃん。少しみだれた白髪頭も
間延びした話し声も歳相応といったかんじで好感が持てる。
しかもテーマが奈良美術。美術は見るのも描くのも彫るのも大好きだ。
高校時代は美術部に所属していたぐらいだし。
とくに奈良時代のものは独特の味があって好き。この優しい顔した
仏像たちは本当に救ってくれそうな気がする。
楽しいなぁ。なんかいい授業取れたかも。
- 87 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:24
-
「というわけで、今回は初回ですからね、発表のグループを決めます」
ん?発表ってなんだ?
配られた資料の中の仏像の写真に見入っている間にすっかり乗り遅れたようだ。
発表なんてするんだ。
面倒だけど、楽しいかも。だってテーマは奈良美術。
へぇ〜、グループ発表なのね。なんか高校時代みたいだな。楽しそう。
けっこうこういうのから仲良くなったりするんだよね。
このチャンスは生かさなきゃ。絶対ペアの子と友達になってやる。
「グループ分けは私のほうでさせてもらってよろしいですか?
じゃあ発表させていただきます。
Aグループ、大谷さん、斉藤さん。Bグループ、佐藤さん、渡辺さん
Cグループ、・・・・」
しょっぱなから自分の名前が呼ばれてちょっと焦った。
多分この組み分けは名簿順。村っちいわく、3・4年生が単位調節のために
取ることが多いオープンカレッジでは、1年生は希少らしい。
そうすると出席番号も早くなってしまうようだ。
- 88 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:25
-
「では、グループごとにこのプリントの中からテーマを選んでください。
グループごとに座ったほうがよろしいですね。
大谷さん、どこですか?ああ、そこね。じゃあAグループはあそこで。
佐藤さん、どこに居ますか?それではBグループは・・・・」
グループとはいってもメンバーは2人。相手はかなり重要となる。
私といっしょになるのは誰だろう?
なんか2列目のパーマの子な気がするなぁ。名前呼ばれたときちょっと反応してたし。
もしかしたら後ろの列のウルフヘアーの男の子かも。髪型似てるし。類は友を呼ぶっていうからね。
まぁ、どんな子でもいいや。とりあえずいい子なら。
- 89 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:26
- 「それではみなさん、自分の席へ移動してください」
先生の合図とともに教室の約半数の生徒が席を立つ。私は移動しない方。
どんな子が私の隣に来るんだろう?
パーマの子は席を立つ気配がない。名前呼ばれたときのリアクションは私の勘違いだったみたい。
ウルフの子は後ろのほうへ歩いていった。残念。彼でもないみたい。
ほとんどの生徒が指定された場所に移動し終わっているというのに
私の隣はいまだ空席のまま。
もしや斉藤さん、いきなり初日から欠席?多分1年生なのにいい度胸だね。
発表のテーマも決めるらしいから、来てもらわないと困るんだけど。
あ、あの子まだ立ってる。本日二番乗りの彼女はまだ席に着けずにいる。
どうしたんだろう?自分の場所、分かんないのかな。
でもそんなかんじでもないな。なんかこっちに向かって歩いてきてるし。
2列前の彼の隣が空いている。きっとあの子とペアなんだろう。
- 90 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:28
- ガタッ かすかに机が揺れた。
あの時とは違い、音そのものは小さかったけれど微かながら振動が
伝わってきたので、あの時と同じぐらいびっくりした。
隣の席に目をやると、朝の彼女が座っていた。
もしかして、斉藤さんってこの人?私この人とペアなの?
楽しい発表とそれをきっかけにした新たな友情の構築。
ついさっき思い描いた楽しい授業像が崩れていく音が聞こえた。
最悪だ。
こんな人とは絶対に仲良くなれない。さっきも睨まれたし。
教室はざわついている。
みんなペアになった子とどこかぎこちないながらも楽しげに喋っている。
いいなぁ。
一緒になにかするからには、それなりのチームワークが必要になる。
今のうちに何とかちゃんと話せるぐらいの関係を築いておくべきだ。
頭ではよく分かっているのだけれど、どうしても話しかけられない。
第一、彼女はまた45度下の角度を向いていて、私と目すらあわそうとしない。
これは拒絶の意思表示と考えるべきだろう。
これじゃどうしたって仲良くなんてなりようがない。
和やかな雰囲気の教室の中にあって、私たち二人のあいだには
張り詰めた空気がひろがっていた。
- 91 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:29
-
「それでは今から紙を配りますのでね、そこに名前と発表テーマを書いてください。
書き終わって提出した人から解散してください」
おじいちゃんが教室全体を回り、紙を置いていく。
渡された紙には『氏名』の欄が二つと『テーマ』の欄がひとつ。
本当に二人でひとつのことをしなくちゃいけないんだ。正直、気が重い。
とりあえず氏名の欄の下のほうに自分の名前を記入して、
隣の斉藤さんに紙を回した。
『斉藤 瞳』
ギャルい外見に似合わず、斉藤さんはかなりの達筆。なんか気合の入ったかんじの字だな。
心なしか字が濃い。筆圧が強いのだろう。あんな長い爪して
よくそんなに強くペンが握れるな。さすがギャルだ。
- 92 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:31
-
名前を書き終わるとすることがなくなった。私たちの間に再び険悪な空気が流れる。
きまずいなぁ。なんか話しかけないと。いいきっかけとかないかな。
斉藤さんの服装はかわいい。私もそれなりに服装には気をつかっているけれど、
その話題はきつい。趣味が違いすぎる。
爪きれいだな。きちんと手入れしてある。長いだけじゃないんだ。でもこれも
話題として不適当。広がりに欠ける。
なんかいいにおいするな。気持ちよくなるかんじ。もしやフェロモン?
って、香水ですよね。当然。さすがギャル。
お互いに楽しめて、広がりのある話題。
必死になって探しているけれど、そんなもの全く見つからない。
そもそも私たち二人に共通する興味事項はありそうにない。
あ、奈良美術があるか。
でもなぁ。初めて話す話題が授業のことってのはなぁ。なんかあまりにも
無機質なかんじがして、これからの関係が悪くなりそうだし。
まぁそもそも斉藤さんとこれから何らかの関係を築けるかってとこが
大いに疑わしいわけなんだけど。
困ったな。
- 93 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:32
-
記入すべき欄は3つ。既に埋まっているのは2つ。
私たちはどうしてもあとひとつが埋められない。というか、埋めようともしていない。
とりあえず話し合わないとテーマは決められない。
私たちは全く行動を起こしていない。これではいつまで経っても決まらない。
どうしたもんだろう。
席を立って教卓向かう人がちらほら。周りのグループはもう決まり始めているようだ。
私たちも早くしないと。というか、早く話し合いを始めないと。
とりあえず、話しかけないと。
「あの」
「なんかこの中でやりたいのある?」
私が勇気を振り絞って発した声は思いのほか小さく、同時に発せられた
彼女の声にかき消されてしまった。
斉藤さんの声は少し低く、はっきりしていた。さすがギャル。
「あの、これ....」
恐る恐るプリントの興福寺仏頭を指差した。
高校の修学旅行で京都・奈良に行ったとき間近で目にし、そのあまりの迫力に
のみこまれそうになって以来、思い入れのある仏像。
美しいその顔は、首から下を失いぼろぼろにされたことに関して
私達を責めているようにも感じられる。
この仏像を見てから、私は奈良美術に関心を持つようになった。
- 94 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/23(月) 00:33
-
「じゃあそれで」
それだけいうと斉藤さんは『テーマ』の欄に『興福寺仏頭』とかいて
教卓へ向かった。
私の希望だけで決めちゃってよかったのかな。悪いことしちゃったかも。
でももしかしたら斉藤さんはテーマなんて何でもよくてさっさと決めて早く帰りたかったのかもしれない。
うん。その可能性が高い。
- 95 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/24(火) 21:41
- 小説おもしろいです!!
斉藤さんはギャルなんですね〜でも人見知り?
どういう風に関係が変わっていくか楽しみです。
- 96 名前:対星 投稿日:2004/02/26(木) 04:48
- まずはお礼を
>>95
どうもありがとうございます!! 楽しみだなんて。
モチベーションが倍増いたしました。
こんなスレですが、また見に来ていただけると嬉しいです。
というわけで今日は更新量も倍増。
- 97 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:49
- 世界は動いているから、自分は能動的に動かなくても
周りの景色はおのずと変化していく。ここ数日でそう実感した。
語学のクラスで沢山の友達ができた。
テーマカレッジのときのように意気込んでいったわけではなかったのに。
バイトの面接にすんなり受かった。
なんとなく見かけた広告に応募しただけ。面接時間は驚くほど短かった。
何日か前まで私を悩ませていた事柄は順調に片付いていっている。
世の中は案外簡単に渡っていけるものなのかもしれない。
- 98 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:51
- バイト先はアパートと学校のちょうど中間ぐらいにある宅配ピザ店。
通うのに便利だし、シフトの融通は利くし、時給もいい。それに食費も浮く。
チェーンは違うもののピザ屋のインストアは高校の頃すこしだけ
やっていたことがある。
適当に決めた割には自分にあった条件のところが決まったと思う。
インストア要員として採用されたけど、原付免許はもっているから
デリバリーもできないことはない。おかげで普通より少し高い時給がもらえるらしい。
無理して取っておいてよかった。
室蘭にいた頃は高校に通うときも札幌に行くときも原付に乗ってたけれど
最近は乗っていない。ブランク1年。
東京の道は車が多くて原付なんて乗れやしない。
本当にデリバリーに行かされることになったらどうしよう。
今からちょっと練習しとかないといけないな。
- 99 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:53
- 今日は初めてのバイトの日。
初めてだからということで顔合わせと簡単なトレーニングだけ。
マネージャーとは面接のときに会っていたけれど、店長と会うのは今日が初めて。
少し緊張しながら、『店長室』と書かれた扉をノックした。
室蘭にいた頃の店では店長は50代のおじさんだったから
きっとこの店の店長もそんな感じだろうと思っていたのだけれど、
出てきたのは小柄な身体と大きな目が特徴的な若い女性だった。
「大谷雅恵と申します。よろしくおねがいします」
「あー、聞いてるよー。店長の稲葉です」
....ん? 若い.....かな?
スパイラルパーマと全体的に明るい色調の服装から、若く見えたけれど
よく見るとそんなに若くはないような気もする。
「大谷さん、あだ名とかってある?」
「へ?」
「友達とかからはなんて呼ばれてるの?」
「あの、マサオとかマーシーとか。そんなかんじです」
- 100 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:54
- マサオまたはマーシー。
そうつぶやきながら、稲葉さんは机の上に陣取っている20本近くあるとおもわれる
ポスカをとっかえひっかえしながら一生懸命に何か書いている。
そのあいだ私は放置。なんだこの人は。
「できたっ!」
いきなり大声で叫んだかと思うと稲葉さんはかなりの得意顔で
パスポートサイズの画用紙をくれた。
『マサオ(マーシー)』
画用紙いっぱいに書かれている。やたらとカラフルだし。
これってもしや名札?
「その辺にネームプレートがあるから、その下にそれ、貼り付けとき」
「...あの、でも....」
「お客様から見えないとは言っても名札は大事やん。
親から貰った名前なんやから大事にしいや、マサオ」
変な理屈だけど、とりあえず言われたとおりに名札はつけておくことにした。
- 101 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:55
- よく分からない店長との顔合わせのあと、私はマネージャーに引き渡されて
トレーニング。
「店長、どうだった」 どうといわれても。
「明るくて素敵な人だと思いました」 これが模範解答。
「まじで?あのテンションついてけなかったでしょ?」 なんだ。ばれてる。
「はい。実はあんまり」 もう正直にいこう。
「で、店長の名前、聞いた?」
「稲葉さんですよね?」
「あー、そっちじゃなくって下の名前の方」 なんだったかな。名乗られてはいないような気がするけど。
「タカコさんでしたっけ?」 たしか名札には『稲葉貴子』とあったような。
「ははは。やっぱそう読むよね、普通。でもねあれ、アツコって読むんだよ」
「え?あれでですか?」
「覚えといた方がいいよ。間違えるとまじ切れされるから。クビが飛ぶことだってあるし。
大谷さんの前にやってた子もね、それでクビになったの」
- 102 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:56
- 今日のトレーニングメニューはピザの種類の説明。
この店のピザのサイズはMとLの2種類。
Mサイズが直径25センチ、2〜3人前で8カット。
Lサイズは直径36センチ、3〜5人前で12カット。
生地の種類も2つ。ふっくらして風味豊かなハンドトスと
薄いイタリアンタイプのスーパークリスピー。
これぐらいは前から知ってた。ピザ大好きだし。
4つのフレーバーが一枚で楽しめるクアトロは4種類。
生ハム・シーフード・ポテト・かにの『バカラ』。かにはずわいがにらしい。
たまご・チキン・アスパラ・ポテト・ナスの『ボンバー』。あれ?5つ?
サラミ・チキン・ポテト&ベーコン・シーフードの『バスターズ』。おいしそう。
ポテト&カレーコーン・シーフード・コーン&ベーコン・たまごとカレーの『キッズ』。
子供にはとりあえずコーンとカレーを与えとけばいいらしい。
他にもいろいろ説明されたけれど、覚えているのは初めの4つだけ。
あとはもう集中力が続かなかった。メニュー多すぎ。
通常メニューだけで30種類以上ある上に季節限定メニューが入る。
それにメニュー外のトッピングもお客様の要望に応じて作るらしい。
全部覚えるのは無理だ。うん。諦めよう。
デリバリーの説明はされないままバイト初日は無事終了した。
もしかしたらデリバリーなんてすることはないのかも。そうだったらいいな。
店長はよく分からないけれど悪い人ではなさそうだし、
マネージャーや他のバイトもみんなやさしかった。
試食と称して食べさせてもらったピザもおいしかったし。
これから楽しくできそうだ。いいバイト見つけたかも。
- 103 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:57
-
- 104 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 04:58
- ステキな気分のままアパートまで帰りたかったのに、それを阻む物が私の手にあった。
今日は朝から空が暗かった。天気予報でも昼過ぎから雨と伝えていた。
2色に分かれた自慢の髪が濡れるのはいやだから、傘を持っていくことにした。
ここまでは良かった。
初めてバイトに行った。初日のトレーニングは無事に終わった。
マネージャーは、早く覚えられるように、とパンフレットにメニュー一覧、
『電話対応マニュアル』やら『衛生管理のススメ』なんて冊子まで
ご丁寧に持たせてくれた。早くこの店に慣れたい私としてはありがたい。
これも良かった。
けれどここで問題発生。
いただいたものが多すぎて鞄に入りきらない。外は雨だから、
このままでは教科書やノートまでもが濡れてしまう。新学期早々それはいや。
- 105 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:00
- 鞄の中身、なにか減らせないかな。
濡れてもいいもので、直接手に持っていてもおかしくないもの。
ペンケースはだめ。ビニールだから濡れてもいいけど手に持つのはおかしい。
メイクポーチもだめ。ヘアワックスもだめ。MDケースもだめ。
あ、これなんかいいかも。
天気に関係なくなぜかいつも鞄の底に入っている折り畳み傘。
これなら手に持っいても不自然じゃないし、何より濡れてもよい。
鞄から傘がなくなればすべての荷物がちょうど良く鞄に収まる。
よし。これにしよう。
ちょうどいいものが見つかったと思って喜んでいたのだけれど、
よく考えてみると二つも傘を持って歩くなんて不自然きわまりない。
車内ではあんまり気にならなかったけれど、電車を降りて歩いていると
やたら周囲の視線を集めているような気がする。
こんなことならまだペンケースにしておくべきだったかも。
でもここで立ち止まって鞄をいじるのは更に目だって恥ずかしい。
駅から部屋まで公称徒歩8分。本当は10分ぐらいかかるけど、
急いでいけば7,8分で帰れるだろう。少しの辛抱だ。
- 106 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:01
-
あれ、あの人....。
ホームから下りる階段の人並みの中に見慣れた色が見つかった。
ひときわ目立つ淡い色は、会社帰りのサラリーマンが作り出すモノトーンの中で
ひどく目立っていた。
あれは多分斉藤さん。テーマカレッジで私と一緒に発表する人。
もしかして斉藤さんもこの近くに住んでるのかな。
やっぱり類は友を呼ぶ。って、別に友達じゃないし。むしろ険悪だから。
- 107 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:02
- 鞄と傘(それも2本)とで今日は両手が塞がっている。
こんな時にこのまま改札まで行ってしまうのは危険極まりない。
自分の通る番までにうまく定期が出せず、流れを止めてしまう可能性が高い。
上京してから1年経つというのにいまだに自動改札は苦手。
どうしてもちょうどいいタイミングで入ることができない。
しかもこの時間は人が多い上、みんな何だかいらだっていて怖い。
こんな時は急がずあせらず、人の波が去るのを待つのが賢明だ。
私が流れから離れて鞄から定期を出そうと奮闘している間に、
斉藤さんの姿は見えなくなっていた。
自動改札通れるんだ。もしかして東京の人?
でも自宅通学でこんなに近いところすんでる人ってあんまりいないよね。
ああみえてけっこうお金持ちの家の子なのかな。バッグはヴィトンだし。
人が少なくなって平和を取り戻したのを見計らって改札へ向かう。
これなら大丈夫。多少もたついても誰にも迷惑をかけないですむ。
自分も平静を保ったままでいられる。
- 108 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:04
- 改札を出て、階段を上がると駅南口には人がいっぱい。この人たち
傘持ってないのかな。朝から曇ってたし天気予報でも雨ふるって言ってたのに。
あまり大きくないこの駅にしては珍しい人の渦の中に、またしても
あの後姿を見つけた。
もしかして斉藤さんも傘持ってないのかな。
貸してあげようかな。ちょうど私2つ持ってるし。
- 109 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:06
- でもなぁ。
たいして仲良くない子にもの借りるのってなんか微妙だよね。余計なお世話かも。
でもなぁ。
ここで待ってたとしたって雨は当分やみそうにないし。
ここの駅は東京にしては珍しく傘を売っていない。コンビニは少し離れた
ところにしかない。
このままじゃ家帰れないんじゃないかな。それだったら貸してあげたい。
でもなぁ。
この前の授業でも全然喋ってくれなかったし。それ以前に目も合わせてくれなかったし。
もしかしたら私、斉藤さんに嫌われてるのかも。
別に嫌われるようなことは何もしてない。とは思うんだけど。
そういうことって結構あるしなぁ。
それなら私から傘借りるなんて嫌だよね。多分。
でもなぁ。
部屋に帰るにはどうしたって斉藤さんの目の前を通らなくてはいけない。
こんなあからさまに余分な傘持ってるのに、傘がなくて困ってる知り合いを
無視して通り過ぎるってのはどうだろう。あまりにかんじ悪い。
さすがにそんなことはできない。
でもなぁ。
そもそも斉藤さんが私のこと覚えてるかどうかってのが謎なわけで。
知らない人からもの借りるのなんて嫌だよね。普通。
でもなぁ。
- 110 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:07
- いろいろな考えが浮かんでは消える。
頭は動いているけれど、そのあいだ身体は斉藤さんの3m手前で止まったまま。
あっ。やばい。
斉藤さんと目が合ったので、あわてて逸らした。
さっきまであまりに夢中に考えていたから、そのあいだずっと斉藤さんを
凝視していたことに気づかなかった。
もうこうなったらいくしかない。
このまま黙って通り過ぎることはできない。
斉藤さんが私のことを覚えていなかろうと、私のことが嫌いだろうと関係ない。
「あの、これ、使ってください」
手に持っていたビニール傘を手渡した。というより、押し付けた。
折り畳み傘ではなくビニール傘を渡したのは、そのほうが彼女が気楽に
借りられると思ったから。
- 111 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:08
- のどから絞り出した声は少しかすれてはいたけれど、以前とは違って
ちゃんと音になった。と思うのだけれど。
斉藤さんはなんだかわけが分からない、といったような表情。
やっちゃったなぁ。
いまの状況はかなり微妙。私の行動は失敗だったらしい。
やっぱり私のことなんて覚えてなかったのかな。少し寂しいけどしょうがない。
それにいきなり傘出されたら、そりゃ戸惑うべ。さっきのはちょっと唐突すぎた。
- 112 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:09
- またしてもテーマカレッジのときと同じ微妙な空気がながれている。
ここで何か喋れればいいんだけど、この状況で何を?
『テーマカレッジ、同じのとってるよね?』
とりあえず怪しいものではないこと、一応接点があることを伝えたい。
でもなぁ。
名乗ったところでどうなるもんでもないしな。余計気まずいって。
『この近くに住んでるの?私もこの辺なんだけど』
うん。自然でいいかんじ。
でもなぁ。
斉藤さんは私のことなんて覚えてないわけで。知らない人にいきなり
そんなこといわれるなんて。
どんなナンパだよ? って思われるだけだよね。これは却下。
『雨強いね。傘2つあるから良かったら使ってください』
うん。これが模範解答。
でもなぁ。
雨が強いこと、私が傘2つ持ってること、そのうち1つを貸そうとしてること、
全部いわなくたって分かってるでしょ。
普通の状態でも会話の糸口を見つけられなかった私に、この微妙な状況下で
当たり障りのないことを上手に喋るなんて不可能だ。
- 113 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:10
- しばらく続いたこの沈黙はなんだかたまらく居心地が悪く、このままでは
半永久的に続くような気がしたから、私は早足で立ち去った。
少しかんじ悪いかな、とは思ったけれど、あのままあそこで
にらみ合っているよりは少しはマシな気がした。
- 114 名前: 雲ゆき 投稿日:2004/02/26(木) 05:12
-
- 115 名前:対星 投稿日:2004/02/26(木) 05:21
- 第2話マサオ編終了です。
レスを下さった方、読んでくださった方、どうもありがとうございます。
読み返してみるとやたらとミスが多いです。すみません。
なんかよく分からない と思われた箇所はきっと作者が間違えたところです。
新垣の名前なんて2回も間違えてるし。
>>12 名無し募集中。。。様
せっかくご指摘下さったのに本当にすみません。
こんな作者ですが見放さないで頂けると幸いです。
- 116 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/26(木) 13:56
- メロンの中編は初めて見ます。
今後楽しみにしています。
- 117 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/08(月) 11:57
-
- 118 名前: 第3話 投稿日:2004/03/08(月) 19:30
-
レインボウ
- 119 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:31
-
さっきのは何だったんだろう?
私は自分の身に起きた出来事をまだに理解できないでいた。
あの子は大谷さん。
この前と同じアディダスのスニーカーにHEMのミニボストン。それにあの金髪。
あまりしっかりと顔を見ることは出来なかったけど、間違いない。あれは大谷さん。
- 120 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:33
- 駅南口で私はただ雨がやむのを待っていた。
左手には自分への合格祝いに貯金をはたいて購入したバッグ。
ずっと欲しかったもので、どうしても濡らしたくなかったから
雨の中を帰る気にはなれなかった。
雨は一向にやむ気配がなく、むしろどんどん激しくなっていくような気がした。
これじゃいつまで経っても帰れない。
べつに急ぐ用事もないけれど、このままじゃさすがに困る。
どうしたもんかなぁ。
狭いスペースにかなり多くの人が雨宿りをしていたけれど、
携帯を取り出して助けを求める人が多い。
いいなぁ。
新潟から上京したばかりの私には、迎えに来ることができる範囲に
家族や友達はいない。
こんなときに自分が一人なんだなぁって実感する。
- 121 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:34
- どうしようかなぁ。 駅から部屋まではそう遠くない。
全力疾走すればバッグはそんなに濡れないと思う。
けれど足元はロングブーツ。あんまり早くは走れない。
でもこのままずっと待ち続けるわけにはいかないし。
「あの」
後ろから聞こえた声に振り返ってみると、そこにいたのは大谷さん。
大谷さん、なんでここにいるんだろう?この駅使ってるのかな?
ってかなんで私に声かけてきたんだろう?この前は何にも話してくれなかったのに。
「これ、使ってください」
え? 今なんて?
もしかしてこの傘、貸してくれるの? 使っちゃって良いわけ?
でもそしたら大谷さんはどうするの? 帰れなくなっちゃうよ?
たくさんの?が頭に浮かんだ。
どれから聞いたらいいのか、どれなら聞いてもいいのか考えあぐねて
私が何もいえないでいるうちに、大谷さんはいなくなってしまった。
- 122 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:34
-
- 123 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:38
- 授業開始後2回目の火曜日。今日は嫌になるほどの快晴。
こんな日に傘なんて持って歩くのは恥ずかしいけれど仕方がない。
私と大谷さんの接点は火曜2限のテーマカレッジだけ。
先週の金曜日に借りた傘は今日じゃないと返せない。
窓から見える講堂の時計は10:20を指している。
だいたい先週と同じぐらいに教室に着いたことになる。かなり早め。
当然ながら、彼女はまだ来てない。
つまんないなぁ。
一人きりの教室では携帯をいじるぐらいしかすることがない。
大谷さん、来ないなぁ。
- 124 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:39
- ドアが開く音がして、人が入ってきて、それが一人、二人と増えていって。
なんだか教室がそれらしい雰囲気になってきた。
上から高速で落ちてくるブロックを積み上げながらもそんな空気を感じていた。
液晶右上に表示された数字は10:42。もう授業開始時刻は過ぎている。
大学の講義は規定の5分後に始まって5分前に終わる。
聞いていた話は本当だったみたい。
- 125 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:40
- 「えぇと、それでは今日はですね」
大して広くない教室にはもったいないマイク越しの声で我にかえる。
なんだ先生いるんじゃん。ってか授業始まってるし。
あわてて携帯を閉じて視線を上げた。教室中を見渡してみるけど、2色のアタマは見つからない。
大谷さん、休みなのかな。せっかく傘持ってきたのに。
これ、また持って帰るのか。やだなぁ。だってこんなに天気いいんだよ?
こんな日にビニール傘なんておかしいでしょ。どう考えても。
「そこで蘇我稲目は自身の権力確立のために仏教を利用しようと考えたわけです」
は? 蘇我稲目って誰よ?
なんだか知らないあいだに授業の方向がおかしいことになってる気がする。
この授業って『奈良美術研究』ってタイトルでしょ?
蘇我って確か大化の改新で倒された人たちじゃなかった?
大化の改新って奈良時代よりけっこう前よね? この人、奈良美術と関係あるわけ?
受験は世界史で受けたから日本史はあんまり詳しくない。もともと日本史はあんまり得意じゃなかったし。
だからあんまりつっこんだ話をされるとついていけない。レジュメを見てもいまの話の概要がつかめない。
そもそもメインキャンパスでやる授業を取りたいってだけの理由で登録したこの授業。
正直、奈良美術なんてものにあまり興味はなかったりする。
困った授業取っちゃったな。
- 126 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:41
-
どうせ聞いても分からない先生の話を聞き流すことに決め込んだら、
不思議とそれ以外の音が良く耳に入ってくる。
カリカリカリカリ
ん? なんか書いてる?
全くもって意味が分からないこの授業でノートなんてとる人もいるんだ。
すごいなぁ。こんなところにも真面目な学生がいるのね。
あっ
あまりにもびっくりして声を上げそうになった。危ない危ない。
いまどき珍しい勤勉な学生はいったいどんな顔をしているのかと思って
隣を見ると、そこに座っていたのは大谷さん。
いつの間に来たのだろう?
彼女の手元のわら半紙にはたくさんの細かい字が躍っている。
へぇ。真面目なんだ。こんな格好してるのに。
人を見かけで判断しちゃいけないんだね。
- 127 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:42
- それにしても大谷さんの耳はすごいことになってる。
ピアスは2つしかついてないけれどそれ以外にも穴らしきものが見える。
あれってもしかして切れたあとかな? きっと痛いんだろうなぁ。
ここから見えるだけで6個も穴がある。右耳も合わせるといったいいくつ
穴があいてるんだろう?さすが東京の人は違う。
耳に負けじと髪もすごいことになってる。
ただの金髪じゃない。頭半分は金髪で、もう半分はオレンジ。どっちもかなり鮮やか。
こういう髪色ってどうオーダーすればできるわけ?
こんな奇抜なアタマだけどすごく似合ってる。かっこいい。かわいい。
あ、爪は何もしてないな。やたら短いし。
素爪ってのもいいかも。自然な感じで。かわいいし。
横顔キレイだな。
顎と鼻のラインがものすごくキレイ。まつげ長い。美白。
顔のパーツもキレイだけど、それ以上にまっすぐ黒板を見つめる表情がキレイ。
なんかいいなぁ。夢中になってるって感じで。
- 128 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:43
-
あれ? なに? どうしたの?
大谷さんがなにやら慌てているように見えるのは気のせいではないはず。
やたら激しくシャーペンをノックし、ガチャガチャと音を立てペンケースをあさる。
もしかして芯が切れたとか?
「あの」
小声で呼びかけてみるけど反応なし。無視かい。ってか気づいてない?
「あの」
予想以上に大きい声が出て自分でもびっくりした。
教室の半分ぐらいの生徒がわざわざ振り向いてこっちを見てる。
先生もなんだか授業中断してるし。
- 129 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:44
-
「えー、そこで崇峻天皇は」
一瞬の沈黙の後、授業は再開されて教室は元の状態に戻ったけれど
大谷さんはさっきからずっと固まったまま定まらない視点でこっちを見ている。
その顔、怖いんですけど。
黙ってシャーペンの芯を2本差し出したら、ようやく状況が呑み込めたみたい。
驚いた顔をして、顔の前で左手をひらひらさせてる。
たかがシャーペンの芯ごときに遠慮することないのに。
自分は雨の日に傘かしといて。
なんだかいろいろ面白くて私は思わず笑ってしまった。
あれ? いま、もしかして大谷さんも笑った?
この人、こんな風に笑うんだ。
真剣な顔もいいけど笑った顔もいいな。ううん。笑顔の方がずっとかわいい。
- 130 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:46
- 気がつくと、私と彼女の間に取り残されていた2本のシャーペンの芯は
なくなっていた。
大谷さん、使ってくれたんだぁ。
そう思うと、そんな些細なことに胸がなった。
「さっきは」
先生の話が終わり、荷物をまとめていると隣から声がした。
ざわつく教室でもはっきり聞こえるほどの大きさ。少しハイトーン。
大谷さん、こんな声してたんだ。ちょっと意外。
「ありがとう。すごい助かった」
最後の方は良く聞き取れなかったけれど、多分こんなかんじのことを
言ったような気がした。
「こっちこそ」
「へ?」
「この前の金曜日。どうもありがとう」
机の下にかけておいたビニール傘を取り出して手渡す。本日の目標、これにて達成。
「ああ、わざわざどうも」
- 131 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:48
- 「それじゃあ」
そう言い残して大谷さんは席を立つ。
え? 何それ? もう帰っちゃうわけ?
せっかく少しは仲良くなれたと思ったのに。
「雅恵ちゃん」
当然のように出て行こうとする大谷さんを呼び止めようと思って
無意識に出てしまったのがこれ。いきなり下の名前で呼ぶかな、普通。
ろくに喋ってもいないのに。なれなれしいにも程がある。
大谷さんはさっきと同じ表情。これは明らかに戸惑ってる。
「あのね、金曜日、雨が降ってて、アタシほんとに困ってたのね。
傘はないし足元ブーツだし誰も迎えに来てくれないし、大変だったの。
なんか雨は強くなるばっかりだし、傘は売ってないし
もうこのままずっと駅にいるんじゃないかとか思ちゃって」
気まずさを取り繕おうとして思いつくまま喋る。何言ってるんだか
分からなくなってきた。 あーもう。
焦るとやたら手ばっかり動く。自分でもテンパってるのがわかる。
「で、あのとき傘かしてもらえてほんとにありがたかったのね。だから、
お礼といっちゃなんだけど、一緒にお昼食べない?アタシがおごるから」
ふぅ。言いたかったことはだいたい言えた。一気にまくし立てたから
息がしんどい。
- 132 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:49
-
「あ、ありがとう」
大谷さんはちょっとどもってふっと笑った。やっぱりこの笑顔、かわいい。
「でもべつにおごってくれなくていいから。さっきのでおあいこってことで」
え? いま私、やんわりと断られた? 大谷さん、私のこと嫌いなのかも。
ついさっきまで口きいてくれなかったわけだし。
「じゃあどこ行く?」
え? 今の、どういうこと?
「今の時間からだと多分学食が空いてるから、学食にしない?」
うん? 一緒に行くの? さっきのは拒否されたわけじゃないって思っていいの?
「それでいい?」
上手く状況を呑み込めず何も言えないでいると、大谷さんが私の顔を覗き込んできた。
やっぱり近くで見てもキレイな顔してる。
「うん。じゃあそれで」
さっきからずっと続いている動悸を悟られないように
必要以上に大きな声で返事をして、私は彼女と歩き出した。
- 133 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/08(月) 19:50
-
- 134 名前: 対星 投稿日:2004/03/08(月) 19:54
- レスのお礼を。
>>116
ありがとうございます。
ご期待に沿えるか正直疑わしいですが頑張って完結まで更新するつもり
ですので、また覗いてやってください。
- 135 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:08
-
- 136 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:09
-
ピピピピ ピピピピ
もう朝か。
目覚ましのチョコレートを一つ口に入れ、洗面台へ向かう。
顔を洗って視線を上げると、鏡の中にはライオンのような頭をした女が一人。
やばいな。これじゃ学校行けないって。
この部屋にはシャンプードレッサーなんて気の利いたものは存在しない。
ここが一人暮らしの辛いところ。
面倒だけど仕方ない。シャワー浴びることにしよ。
普段なら多少髪がボサボサでも適当にとかして出かけちゃうんだけど、
今日は火曜日。そういうわけにはいかない。
タオルで大体乾かした後、念入りにブローして。仕上げにミストで整える。
よし。こんなもんだろう。
所要時間40分。自慢のさらさらストレートヘアがようやく完成。
- 137 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:10
- 雅恵ちゃんと会うのは2週間ぶり。
ここんとこゴールデンウィークとか何とかいってずっと休みだったから。
休暇は嬉しいけれど、火曜日が休みになるのは嬉しくない。
ゴールデンでもなんでもない一週間が終わり、今日は久々の通常営業の火曜日。
そりゃいつもより気合が入るわけで。
携帯のサブディスプレイが示す時刻は10:32。
普段あんまり使わない地下鉄を使って急いだけど、学校に着いたのは目標の時間よりだいぶ遅め。
時間は十分あったはずなんだけど、服や靴を選ぶのに手間取った。
その上こんな日に限って眉毛が上手く描けない。普段はわりとすんなり決まるのに。
雅恵ちゃんは....まだ来てない。
教室にはちらほらと人がいるけれど、ひときわ目立つあの金髪はその中にない。
雅恵ちゃん、もしかして時間ギリギリにくるタイプなのかな。この前も遅刻してたし。
160円も払って急ぐ必要なかったな。
- 138 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:12
- この前の授業のとき、はじめて話しかけて、一緒にお昼にいって。
初めて会ったときはとっつきにくいかんじの子だな、って思ったけれど
しゃべってみると全然そんなことなくて。けっこう打ち解けられた。と思う。
雅恵ちゃんって呼ぶのもOKもらったし。その割に私は未だに『斉藤さん』なんだけど。
大谷雅恵ちゃん。
商学部一年。北海道のあんまり栄えてない土地の出身で兄弟はお姉ちゃんが一人。
82年2月25日生まれ。私と同じで一浪してるから同い年。
高校の頃は美術部に入っていて、歴史遺産、とくに古代美術が好きらしい。
昼休みと三限の時間で得た情報はこれだけ。
本当は三限も授業があったのだけど雅恵ちゃんには空き時間だってことにしておいた。
一回ぐらい休んでも別にどうってことないでしょ。
- 139 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:13
- 「おはよう」
振り向いた視線の先には大谷さん。
「お、おはよう」
「なにどもってんのさー」
笑われた。恥ずかしいけどなんだかとても嬉しいのは何故だろう?
「斉藤さん、今日も早いね。いつもこんななの?」
「うん。大体は」 そんな訳ない。火曜日は特別。
「へー、えらいんだねぇ」
「そうでもないよ」
「いや、私もね、今日は早く来ようと思ったのよ。でも向かい風が強くってさ」
ん?
向かい風程度で遅れるか? まぁいいや。
- 140 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:15
- 私たちがしゃべっていられるのは授業開始前のわずかな時間だけ。
授業が始まってしまうと雅恵ちゃんはそっちに集中してしまう。
この人は本当に古代美術が好きらしい。この前学食熱く語っていた。
彼女のいうことの半分も理解できなかったけれど
楽しそうにしゃべる雅恵ちゃんの目はきらきらしていて、すごくきれいだった。
雅恵ちゃんは私が座っている4人掛けの机の反対端の席に座る。
約3m。これが私たちの距離。
あえて隣に座らないのはきっとそこまで仲良くないから。
この位置からだと彼女の表情や行動がよく見えるけど、じっと見ていても不自然じゃない。
この距離はけして悪くはないのだけれど、少し寂しくなる。
雅恵ちゃん、今日も一緒にお昼食べてくれるかな。
少しは話せるようになったけど、私たちはそこまで仲が良いというわけではない。
先週は何となくそう言う流れになったけれど今週はどうだろう。
考えてしまうのはそのことばかり。退屈な先生の話は右から左に通り過ぎていく。
- 141 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:16
-
「では今週はこのぐらいで」
先生の一言で教室の空気が崩れる。すっかり休み時間モード。
「再来週からグループ発表が始まりますから、準備しといてくださいね」
これは数少ないきっかけ。思い切って話しかけてみよう。
「もう始まるんだね」
「ね。意外に早いよね」
「そうだね」
「あのおじいちゃん、もっとしゃべると思ってたのに」
「雅恵ちゃん、おじいちゃんって何それー」
「だってあの人、どう見たってあの先生、おじいちゃんじゃん」
「うちらもぼちぼち準備しないとね」
「だね」
名簿の後ろから順に発表することになってるから
私たちは最後。それでも確実に前期中に回ってくるから、早めに用意しないと。
発表は一組15〜20分。一人あたり7〜10分。けっこう長い。そんなしゃべれるかな。
私たちのテーマは興福寺の仏頭。とりあえず見たことはあるやつで良かった。
でも正直このテーマに関して興味も知識もない。発表なんて自信ない。
でもこれは共同作業。雅恵ちゃんに迷惑はかけられない。
今日は文献探しに図書館によって帰ろう。
- 142 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:17
-
「あのさ、今日のお昼さ、一緒に食べない?」
「え?」
「あ、もしかして用事とかある?なら別にいいんだけど」
「ううん。別に」
「何どもってんのさー」
思いがけず雅恵ちゃんのほうから誘ってくれて、びっくりしたけれど
ものすごく嬉しくて。もっと他に何か言おうとも思ったけれど
うまく頭が回らなくて何もいえなかった。
- 143 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:19
- 「バイト代入るまでお金ないんだよね。いいかな?」
雅恵ちゃんの一言で今日も行き先は学食。安いし近いしおいしいし
それに何よりも雅恵ちゃんの希望だし。異存なんてあるわけがない。
「あのおじいちゃんさ、話長いけど授業早く終わらせてくれるからいいよね」
「ねー。それにけっこう面白いし」
「そうだね」
あの授業が面白いとはあんまり思えないけれど、雅恵ちゃんの笑顔を見ていると
不思議にそうなのかもしれないと思えてくる。
「辛いもの好きなんだよね」
そう言って雅恵ちゃんが選らんだのはグリーンカレー。そう言えば先週は担ヶ麺だった。
なんかものすごい匂いが充満してるんだけど。食べ物らしくない色してるし。
「斉藤さん、何にしたの?」
「カルボナーラ」
「へぇ。いいねぇ。斉藤さんのイメージ通りって感じで」
「あ、ほんと?」
「うん。おいしそうだし」
「よかったらさ、雅恵ちゃんこれ食べない?」
「良いの?ありがとう。じゃあこっちのカレーもあげるね」
- 144 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:20
-
「あー、マサオくんだー」
声がした方向に目をやるとこっちに向かって歩いてくる女の子が一人。
マサオくん? ここから見るかぎりこっちの方向にそれらしき男の子はいないんだけど。
女の子はすっごい笑顔で近づいてくるし。どういうこと?
「おー、村っちー」
え?雅恵ちゃん? この子友達なの? ってかそれならマサオって誰よ?
「なんか学校であうの初めてじゃない?ちゃんと授業来てんの?」
「失礼な。村っちこそどうなのさ。3年だからってさぼりまくってんじゃないの?」
「あ、斉藤さん、この人は高校の時の先輩で」
「村田めぐみです」
「なんか村っち元気いいね。キャラ違うよ?」
「えー。そんなことないってば。何言ってんですかマサオさん」
村田さんと笑いあう雅恵ちゃんの表情は本当に嬉しそうで、楽しそうで。
私と二人でいるときには絶対にしない顔。
- 145 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 03:22
- 「で、お名前は?」 いきなり私に話がふられた。
「斉藤です」
「うん。それはさっき聞いた」
「へ?斉藤さんまだ名乗ってなくない?」
「だってさっきマサオが斉藤さんって呼んでたじゃん」
「やっぱ村っち、キャラ変わってるって。普段はあんなボーっとしてるのに」
「で、斉藤さん、下の名前は?」
「瞳です。斉藤瞳」
「あ、じゃあひとみんだね。よろしくね、ひとみん」
ひとみん?それ、もしかして私のこと? そんな風に呼ばれたのは初めて。
この人、ナニモノなの?
いろいろ不審な点はあったけれど、思いっきり笑顔で右手を差し出されたら
よろしくしないわけにもいかない。
なんだか変な人だなと思いながらも、とりあえず私も笑っておいた。
- 146 名前:116 投稿日:2004/03/11(木) 16:22
- 本当に楽しく読ませてもらっています。
1話1話、楽しい話を毎回ありがとうございます。
続き、楽しみにしています。
- 147 名前: 対星 投稿日:2004/03/11(木) 23:30
- まずはレスのお礼から。
>>146
どうもありがとうございます。読んで下さった上、再度レスまで頂けた
嬉しさに卒倒しそうになりました。
いろいろと未熟な点が目立つスレッドではございますが、
よろしければまた覗いてください。
- 148 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:30
-
- 149 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:32
-
村田めぐみというその女性は、その整った顔と大人っぽい雰囲気に似合わず
なかなか個性的な人で、会って早々私にひとみんというあだ名をつけ
自分のことは村っちと呼ぶように言った。
村っちは私たちより一学年上で、大学には現役で入ったから今は経済学部の三年生。
高校の頃は美術部と部室が隣の写真部に所属していて
雅恵ちゃんと村っちと美術部の部長だった人の三人でよくつるんでいたらしい。
雅恵ちゃんは今でこそ金髪メッシュのショートカットだけど、高校時代は
黒髪セミロングにパーマまでかけていたことがあったらしい。その上メガネ着用。
そんな姿、今の雅恵ちゃんからは全然想像できないんですけど。
二人はよく私に話を振ってくれたけれど、楽しそうに思いで話をする二人は
本当に仲良さげで、私はうまく会話に入っていくことができなかった。
せっかくだから、村っちにそう言われて携帯番号とメアドを交換した。
- 150 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:33
-
- 151 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:34
- 「お先に失礼します」
「お疲れー」
「お疲れさまでーす」
ただいまの時刻、10:25。今日のバイトはこれで終了。
これから部屋まで帰るのか。考えただけでちょっと疲れる。
15分歩いて駅まで行って、満員電車に駅3つ分乗って、それから部屋までまた10分歩いて。
約40分の道のり。
もうすぐ5月だけど夜の空気はまだ冷たい。風が吹くとけっこう寒い。
来週からは早めのシフトにしてもらおうかな。
この辺りは住宅街。この時間帯は人も車も少なくてちょっと怖い。夜道は暗いし。
- 152 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:36
- なんか後ろからバイクが近づいてきているのは気のせいじゃないはず。
それだけなら別になんでもないんだけれどあのバイク、やたらスピード
遅いんだよね。私が歩くのとあんまり変わらないぐらい。
もしかしてチカンとか変質者だったり?
やばい。怖い。逃げなきゃ。
走ってみても後ろ私のスピードにあわせてついてくる。
考えてみれば相手はバイク。速く走る方が遅く走るよりもずっと簡単。
どうしたら振り切れるだろう。
急にバイクがスピードをあげ私の横に止まった。
やばい。やられる。
- 153 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:38
-
「斉藤さん?」
「え? 雅恵ちゃん?」
アルミ色のヘルメットが反転するとそこにいたのは雅恵ちゃん。
大きいと思いこんでいたバイクはよく見ると小さいスクーター。
暗くてよく分からないけれなんか見たことある形。
テレビでよくCMしている車種だと思う。
「ところで斉藤さん、何でそんな格好してるの?」
耳を抑えて道の端にしゃがみ込む。それがそのときの私の体勢。
「あはは。何でかな」
まさか後ろから来る雅恵ちゃんをチカンだと思ってたなんて言えない。
- 154 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:41
- 「家、同じ方向でしょ?よかったら乗ってかない」
「いいの?」
「いいよ」
「じゃあお言葉に甘えて」
「危ないから」
雅恵ちゃんはかぶっていたヘルメットを脱いで私に手渡す。
「いいって。そんな。後ろ座るだけだし」
「いいから」
「いや、でも」
「はいはい。顔こっち向けて」
雅恵ちゃんは私の頭をおさえるとヘルメットをかぶせた。
- 155 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:42
- 「もうちょい待っててねー」
ヘルメットはアルミのハーフフェイス。ただかぶっただけでは不安定。
「あれ?なんかうまくいかないな」
アゴひもを結んでいるあいだ、私の鼻先30cmのところに雅恵ちゃんの顔がくる。
心臓が悲鳴をあげている。身体中の血が首から上に集まってくるのが分かる。
この距離、やばいんですけど。
「はい。できた」
「あ、ありがとう」
「斉藤さんてさ、けっこうよくどもってるよね」
「ちゃんとつかまってね」
どうにもこうにも落ち着いてくれない心臓の音が聞こえないように
少しだけ身体をはなして、雅恵ちゃんの腰のあたりに手をかけた。
- 156 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:44
- 「今さ、バイトの帰り?」
「うん。そう。雅恵ちゃんは?」
「私もバイト帰り。斉藤さん、どこで働いてるの?」
「東口に大きいマンションあるじゃん?その裏のファミレス。雅恵ちゃんは?」
「駅前のピザ屋。うちらバイト先も近いんだねー」
「この前さ、ごめんね」
「え?」
「いきなり私の友達が合流しちゃって。村っち、変な人でびっくりしたでしょ?」
「ううん、全然。村っちと一緒で楽しかった」
「ありがとう。あの子もね、別に悪い人じゃないんだよ。ただちょっと、
いや、けっこう変わってるからさ」
バイク二人乗りしているから見えないけれど、多分いまの雅恵ちゃんは
すっごく嬉しそうな顔をして喋っている。きっとあの日みたいに。
- 157 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:46
- 「ほんとあの人、なれなれしくてごめんね。いきなりアドレス聞いたり、
ひとみんとか呼び出したり。気分悪くしなかった?」
「全然。別に嫌じゃなかったよ。それに私、そのあだ名けっこう気に入ってるんだよね」
「本当? あのさ、それじゃさ、私もその、ひとみんって呼んでいいかな?」
「うん。もちろん」
「でさ、私も斉藤さん、じゃなくてひとみんの番号聞いていいかな?」
「え?」
「ごめん。嫌だったら別にいいんだけど」
「嫌じゃない。嫌じゃない。えっとね、090−・・・」
「ちょい待って。降りてからにしてもらっていいかな」
「あはは。そうだよね」
「雅恵ちゃん、バイク乗れるんだね」
「バイクっていうか原付ね。高校のころ免許取ってさ」
「高校で? 早いね」
「うちの地元、まじ田舎だからさ。足持ってないと何も出来ないんだよね」
「これってその頃から乗ってたの?」
「そ。マイ愛車。最近実家から送ってもらったんだー」
- 158 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:48
- 「信号変わってる」
「あ、ほんとだ」
だんだん見覚えがある場所に入ってきた。このままだともうすぐいつも使っている駅に着く。
この時間は永遠には続かない。そんなこと分かっているけどもう少し続いて欲しい。
もうちょっとこの位置にいたい。
「ひとみんの家ってどの辺にあるの?」
「西口からちょっと歩いたとこにスーパーがあるの分かる?その裏なんだけど」
「スーパーってもしかしてダイエー?」
「うん」
「えーっ、まじで?私もその辺なんだ。ほんと近いんだねー」
「ねー」
- 159 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:50
- 「おつかれさまでした」
「ここまで送ってもらって、すごい助かった。どうもありがとう」
「いやいや」
「さっきいってた携帯、教えてもらえるかな」
「うん。いくよ?090−25・・・」
「ちょい待って。ひとみん、いうの早いってば」
「ごめん。じゃあもう一回いうよ?090−・・・・」
「悪いんだけどもう一回いい?」
「私が早いんじゃなくって雅恵ちゃんが打つのが遅いだけじゃない?」
「そうかも」
「携帯かして。自分で入れる」
「おねがいします」
「じゃあ雅恵ちゃんも私のに入力して」
私の番号が彼女のアドレス帳に登録されてからだいぶ経って、雅恵ちゃんの入力が終了した。
このスピードからすると、雅恵ちゃんは携帯初心者。こんななりしてるのに。
文字変換のため必死に携帯と格闘する雅恵ちゃんがおかしくて、
彼女に気づかれないようにちょっとだけ笑った。
- 160 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/11(木) 23:54
-
「じゃあね」
「え?もう帰るの? あがってってよ」
「そんな。悪いって」
「悪くないって。家まで送ってもらったわけだし」
「いいって。じゃあね」
ヘルメットをかぶると、雅恵ちゃんは走っていってしまった。このパターン、
前にもあったな。あ、傘借りたときだ。
来週の火曜はゴールデンウィークに入るから授業はなし。再来週は休講。
次に会えるのはたぶん半月後。もうちょっとしゃべっていたかったな。
今日は曇りなのかな?空を見上げてもちっとも星が見えない。
月はやたらと明るいのに。
そういえばここは東京。星は新潟の半分しか見えないって誰かに聞いたなぁ。
北極星が見つからない。ここからだとどっちが北なんだっけ?
スクーターに乗る前からうるさく自己主張する心臓は一向に静まらない。
雅恵ちゃんが行ってしまった今でも高らかになりつづける。
いつになったら落ち着いてくれるんだろう。
- 161 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/12(金) 18:53
- 更新お疲れさまです。
だいぶ、斉藤さんはマサオが気になりだしてるようですね〜
マサオも表には出さないけど、実は・・・?
村さんの登場にはびっくりしましたが、早く柴っちゃんとも
合流してないかな〜と思ってますw
更新、頑張ってください!!
- 162 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/12(金) 19:39
- おもしろいです!
次回更新楽しみに待ってます〜!
- 163 名前: 対星 投稿日:2004/03/13(土) 21:44
- はじめにお礼から。
>>161
レスありがとうございます!
しっかりと読んでいただけたようで。もう本当に感無量です。
斉大を書くのが楽しすぎてすっかり忘れていましたが、この話の主役は
柴田さんなので。もうそろそろ出てくると思います。
>>162
ありがとうございます。
楽しみだなんてそんなことを言っていただき、嬉しい限りです。
1日3回のハイスピード更新を目論んでいましたが、自分には無理でした。
今までどおり3日に1回程度のペースで行こうと思います。
- 164 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:48
-
- 165 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:48
- ドキドキは結局ベッドに入ってからもおさまらず、昨日はよく眠れなかった。
そのせいか今日は寝坊して、日課のチョコも食べずに家を出た。
もう最悪。
こんな日の授業はサボろうかと思ったけれど、今日は1限と3限に
必修が入っている。面倒だけど行かなくちゃ。
いつもの駅に着いた時点で、1限開始時刻から15分遅れ。
どうせ間に合わない。そんなことは分かっていたけれど、少しでも早く
着きたくて、今日も地下鉄を使うことにした。
これで何度目だろう?
1駅分なんてもったいないけれど、定期券買っちゃおうかな。
- 166 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:50
-
「ひとみん!」
声を掛けられて振り向くと、おしゃれメガネさん。
「村っち?」
「おはよう。どうしたの?こんな時間に」
「今日ちょっと寝坊しちゃって。村っちは?」
「道を歩いていたら腰の曲がったおばあさんが重い荷物を持って
横断歩道を渡ろうとしてたのね。それ手伝ってたの」
「へぇ。村っち、優しいんだね」
「ひとみんさ、今日寝坊したってのはもしかして昨日のバイトが遅かったから?」
「うん。それはそうなんだけど・・・」
「マサオくんから聞いたのさ。帰りに会ったんだって?」
「うん。送ってもらっちゃった」
「原付で?」
「うん」
「二人乗り?」
「そうだけど」
「何それーっ!?」
やばい。今の、失言だったかも。雅恵ちゃんと村っちはあんなに仲が良いんだもん
村っちをさしおいて雅恵ちゃんと二人乗りなんてしちゃいけなかったんだ。きっと。
この様子からみると、もしかしてこの二人、付き合ってたりするのかな。
この前の二人の様子からすると、十分考えられる。
ごめん。村っち。
- 167 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:50
- 「マサオいいなーっ!私もひとみんと原付ニケツしたーいっ!」
そっちかよ!?
「これはぬけがけだ。ありえない。マサオずるい」
まだブツブツ言ってる。この人、本当に変な人なのかも。
「ところでさ、ひとみんは朝ごはん食べた?」
「ううん。まだだけど」
「よしっ!今日は真面目に一限でようと思ってたけどやめたっ!ひとみんと
一緒に朝マックだっ!」
「へ?」 何それ?っていうか勝手に決めないでよ。授業出たいのに。
「ちょっと待ってね。今からマサオに電話入れるから」
「へ?」 何それ?雅恵ちゃんも来るの?
「あ、もしかしてひとみん、授業出たい?」
「ううん。出たくない。出たくない」
一限は必修のフラ語。だけどそんなのどうだっていい。
ごめんね、雅恵ちゃん。ごめんね、村っち。 斉藤瞳、またお邪魔します。
- 168 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:52
-
「おはよー」
「マサオおそーいっ」
「これでも急いできたんだって。そもそも何なのさ?こんな朝っぱらから呼び出して」
「『ひとみんと村田の楽しい朝食会』に招待してもらって嬉しくないの?
感謝してもらいたいぐらいなんですけど」
「はぁ?そもそも斉藤さんいないじゃん。どういうことさ?」
トイレから戻ったら、いつの間にか到着した雅恵ちゃんと村っちがなにやら
もめている。客もまばらな朝のファーストフード店2階には不釣合いな
大きさの声を出しているけれど、やたら楽しそうなのは気のせいじゃないはず。
もめてるっていうよりじゃれあってるってかんじ。
ここで私が出ていくのはなんだか2人に悪い気がした。
「あー、ひとみん。おかえり」
村っちが私の存在に気づいた。
「ただいま」
「おはよう、ひとみん」
「うん?なんでマサオまでひとみんって呼んでるんですか?」
「いいじゃん別に。ひとみんがそう呼んでいいって言ったんだから」
「私はいいって言ってない」
「はぁ?なんで?別に村っちは関係ないじゃん」
「私が考えたあだ名なんだから使用するには私の許可もいるんですー」
「意味わかんない。ひとみん、ごめんね。この人、変な人で」
- 169 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:53
- 「そうそう、マサオくん、昨日ひとみんと原付ニケツしたんだってね」
「うん。そうだけど」
「ズルいよー。私もしたーい。原付二人乗りー」
「村っち、免許もってないじゃん」
「ふふん。今の私が北海道にいた頃の私と同じだと思ってもらっちゃ困るね。
持ってるんだなぁ、普通免許。これで自動車も原付も乗れるもんね」
「でもアナタ、原付持ってないじゃん」
「貸してよ」
「運転したことあるの?」
「ない」
「じゃあ嫌だ」
「ってかさ、なんで二人が一緒なの?なんか珍しい組み合わせだよね?」
「電車でね、会ったんだよね」
「ねー」
「だって二人、路線違くない?」
「あ、アタシ今日寝坊しちゃってさ、地下鉄使ったんだ」
「へぇ。ひとみんでも寝坊なんてするんだ」
「一度は起きたんだけど二度寝しちゃって」
- 170 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:54
- 「もしかして車内で村っちと会ったの?」
「うん。そうだけど」
「まじで?へぇ。珍しいこともあるもんだねぇ」
「ん?」
「いやねぇ、この人、電車乗ると絶対に寝るのよ」
「ちょっとマサオ」
村っちの目が意味なく動く。この人は焦ると目が泳ぐらしい。
「座ってても立ってても関係なく寝てるわけよ。しかも爆睡」
「余計なことは言わんでよい」
村っちの視線はますます不安定。なんか見てて面白いな。
「でさ、この前もさ、新学期のとき科目登録ってあったじゃない?その用紙とか
いろいろと電車の中に置き忘れてきたんだよね。それも登録期限の1週間前に」
「恥ずかしいってば」
今度は手まで動いてきた。テンパると手も動くんだ。私と一緒だ。
- 171 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:55
- 「ほんと信じらんないでしょ?でもさ、こっから先がもっと信じらんないのよ」
「もういいでしょ、その話は」
「なんかね、電車で拾ってくれた人が経済学部の事務所に届けてくれたみたいで
それで結局登録とか全部問題なくできたわけ。これってすごくない?」
ん?この話、どっかで聞いたことあるな。確か最近すごく身近で。
「あのさ、その書類、白い半透明のブリーフケースに入ってなかった?」
「うん。確かそうだった」
「やっぱり! でさ、置き忘れたのって田園都市線じゃない?」
「うん。そうなんだけど」
東京は広いところだと思っていたけど意外に狭いのかもしれない。
- 172 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:55
- 「あのさぁ、それ拾ったのって多分うちの従姉妹なんだよね」
「え!?まじで!?」
「すごいな、ほんとに」
「従姉妹って女の子?」
「うん」
「いくつ?」
「17だったかな。この近くに風炉学院ってあるじゃない?そこの高校の三年生」
「ウォウ! それでその子、かわいい?」
「うん。けっこう」
「よっしゃ!」
「あの、村っち?」
「どうしても直接会ってお礼が言いたい、ってその子に伝えてくれる?」
「いいけど」
- 173 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:57
- 「あ、もうこんな時間。私二限の前にレポート出しに行かないといけないん
だよね。そろそろ行かなきゃ」
「村っち!いきなり人のこと呼び出しといて一限サボらしてそれかよ」
「そんなこと言ってマサオくん、授業サボりまくってんじゃん。
火曜の三限の『簿記入門』、一度も出たことないよね?」
「なんで…」
「三年生の人脈をなめてもらっちゃ困るよ。その授業とってる友達がいるの。
二色アタマの女の子がいるよって教えてあげたら、見たことないって言われてさ。
まさかと思って学食行ったらマサオ居るんだもん。しかもこんなかわいい子と
一緒に。びっくりしちゃったよ」
「ちょっと村っち!」
「商学部だと簿記は必修でしょ?あんまサボんない方がいいよ。じゃあねー」
右手をひらひらさせて、村っちは去っていった。
- 174 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/13(土) 21:58
- 「あのさ、さっき村っちが言ってたことなんだけど」
「あー・・・」
「雅恵ちゃん、火曜三限いつもサボってるって」
「それは・・・」
「本当なの?」
「えーと、まぁ。うん。そんなようなとこかな」
「あのね、本当いうとね、アタシもその時間に授業入ってたんだよね」
「へ?」
「雅恵ちゃんと一緒で、ずっとサボってた」
「本当に?」
「本当に」
「あ、そうだったんだ。へぇ。なんか嬉しいなぁ」
目があうと雅恵ちゃんは照れくさそうに少し笑った。
- 175 名前: レインボウ 投稿日:2004/03/14(日) 02:20
-
- 176 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/14(日) 03:03
- 更新お疲れさまです。
村田さんなんだか冴えまくりですね〜まるで博士のようですw
( ‐Δ‐)<ズバリ!!
更新速度気にされてるようですが、作者さんのペースでいいと思いますよ?
まったりペースでもこの物語を長く楽しめる利点もありますし、
放置さえなかったらいくらでも待てますよ〜
ってなわけで、まったりと更新待ちー
こんなに長文で逆にプレッシャーになったらスイマセン…。
- 177 名前: 対星 投稿日:2004/03/16(火) 00:32
- まずはレスのお礼から。
>>176
そう言っていただけると本当にありがたいです。
放置はいたしません!!スローペースですが更新してゆくつもりです。
長めのレス、どうもありがとうございます。
プレッシャーではなく活力になりました!
というわけで、今回更新分からまた新しい話に入ります。
- 178 名前: 投稿日:2004/03/16(火) 00:33
-
- 179 名前: 第4話 投稿日:2004/03/16(火) 00:34
-
オレンジ
- 180 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:35
-
サーブいくよーっ そぉーーれっ
窓から見えるバレーボールの授業は多分中学生。
いいなぁ。若いなぁ。青春してるなぁ。
できることなら私も数学の授業なんて抜け出して、校庭に降りいって
あの中に混じりたい。でも常識も分別も身につけた高校3年生の私に
そんなことできるわけない。
あれ?今アタック打ったの、もしかしてよっすぃー?
何してんの?授業は?
よっすぃーこと吉澤ひとみは管弦楽部の一つ後輩。今年で高校2年生。
こう見えても楽器はフルート。
特技はバレーボール。休み時間になると校庭でバレーボールの輪の中に
混じっている。それにしても授業中はまずいでしょ。さすがに。
また中澤先生に怒られるんだろうなぁ。監督不行き届きとかいって
私まで呼び出すのは本当に勘弁してほしいんだけど。
- 181 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:36
- うーん。窓際の席って最高。この季節はポカポカして本当に気持ちがいい。
「で、ここは105ページの『導関数の性質』の三番目を使うと…」
教壇には数学の石井ちゃんこと石井先生。
石井ちゃんが何か言ってるのはわかるけど、何を言ってるかはわからない。
こんなに天気が良いんだもん。授業に集中できないのも仕方がない。
まぁ、数学がわからないのは別に今に始まったことじゃないんだけど。
それにしても気持ち良いな。暑くなく、寒くなく。
全く理解できない石井ちゃんの数学も子守歌に聞こえてくる。
今日はもう寝ちゃおうかな。どうせ授業聞いてたってわかんないんだし。
- 182 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:38
-
ブブブ ブブブ ブブブ
ん?携帯なってる? マナーモードにしといて良かった。
三回のバイブはメール受信。こんな授業中に誰だろ?
斉藤 瞳
瞳ちゃん?珍しいな。何だろ?
『3月に電車でブリーフケース拾ったよね?それ落とした人があゆみに
会いたいって言ってるんだけど』
え?何?どういうこと?
落とした人ってあの人だよね?すっごい細くて茶髪セミロングで姿勢良くって。
たしか名前は『村田めぐみ』さん。
何で瞳ちゃんがあの人のこと知ってるわけ?
瞳ちゃんと同じ大学に通ってるぽいけど。
- 183 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:38
- 『私も会いたいって伝えて』
瞳ちゃんにはもちろん即行で返信した。
『いつなら放課後空いてる?』
『火曜日と金曜日以外ならいつでも空いてるよ o(^ー^)o』
『その子、月曜日がいいらしいんだけど、それでいい?』
『うん。大丈夫。 d(^∇^)』
『それじゃあ来週の月曜で。時間と場所はあとでメールするね』
そっかぁ。あの人と会えるんだぁ。久しぶりだなぁ。
今度はただ見てるだけじゃなくって喋れるんだぁ。どうしよう。えへへ。
- 184 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:41
-
「ちょっと柴ちゃん、何ニヤニヤしてんの?」
っ。 びっくりしたぁ。
私の顔のすぐ横には梨華ちゃんの顔。いつもながら、この人の距離感は
やたら近い。物理的にも精神的にも。
っていうかなんで高3の教室に高2の梨華ちゃんがいるのよ?
「してないって」
「3時間目に彼氏からメールが来てさ、それからずっとこの調子」
「だから違うって」
「へぇ。柴ちゃん、彼氏できたんだ。それならどうして最初に私に
教えてくれなかったの?」
「彼氏じゃないって言ってんでしょ。
ところで梨華ちゃん、何か用事あってきたんじゃないの?」
「あー、はぐらかそうとしてるー」
「あさみは黙ってて」
「うん。中澤先生がね、柴田呼んで来いって」
「はぁ。やっぱそれか」
「柴っちゃん、また何かやらかしたの?」
「やらかしたのはよっすぃー。ってか、またってなによ?またって」
「あー。そういえばよっちゃん、3時間目の古文サボってた。そのこと?」
「大変だねぇ、副部長」
「もう。梨華ちゃんからもちゃんと言っといてよ」
「えー?なんで私が?」
「だって仲良いじゃん。よっすぃーと」
「別に仲良くなんか・・・」
「んじゃ行ってくるねー」
うるさいクラスメイトと後輩を残し、私は教員室へ向かった。
- 185 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:41
-
- 186 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:42
-
「「失礼しましたー」」
授業サボってばっかりいるツケは結局は自分に回って来るんだぞ
お前この前の中間もあかんかったらしいやん
このまま不真面目な態度をとり続けると付属といえど大学進学も危うくなるぞ
もう高2なんだからいい加減高校生としての自覚を持って、後輩の手本となれ
次やったら親も呼んで面接だからな
とりあえず一通りのお説教が終わって教員室を出た。
遅刻・欠課の常習犯である彼女に対するお説教はなかなかキツいもので
付き添いでしかない私は思わず泣きそうになったのだけれど、
私よりもだいぶ高いところにある隣の横顔は涼しいもの。
本当に反省してんのかな? してないだろうな。
- 187 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:42
-
- 188 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:46
- 月曜日の午後4:30に私が呼び出されたのは、駅から少し歩いた所の
喫茶店。部活帰りに梨華ちゃんとよく行く店なんだけど、今日はちょっと
違って見える。
なくすのが嫌で普段はつけないお気に入り時計を、カーディガンの裾をあげて
確認。4時28分。 うーん。ちょっと早い。かな?
少しだけ余った時間を利用して、身だしなみの最終チェック。
靴。良し。いつものローファーだけど、昨日ちゃんと磨いておいた。
靴下。良し。今日は紺ハイソ。学校指定の白ソックスじゃあの人に会えない。
スカート。良し。今日は今年初めての夏服。おろしたてだからプリーツもキレイ。
スカーフ。良し。ふんわりリボン結び。今日の為に梨華ちゃんから教わった結び方。
セーラー。良し。乱れてない。
髪型。良し。学校帰りだからあんまいじれないけど、これはこれでそれなりに。
笑顔。良し?うーん。ま、こんなもんでしょう。
よしっ!
気合いを入れて手動ドアを引くと、目的の人たちはすぐに見つかった。
- 189 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:49
- 「あゆみー。こっちこっち」
瞳ちゃんとあの人ともう一人知らない人。うわぁ。髪の毛すごい色だ。
この人も瞳ちゃんの友達なのかな。瞳ちゃんってけっこうすごい。
「この子が従姉妹の・・・」
「柴田あゆみです。はじめまして」
「村田めぐみです。この前はどうもありがとう」
「大谷雅恵です。よろしく」
「マサオくん、あなた別によろしくしなくてもいいよね?」
「どうしても付いてきて欲しいっつったのはどこの誰だったっけ?」
しょっぱなからとばしまくる2人には少し驚いたけれど、
しばらく喋っているうちに見事なコンビネーションから生み出される
ショートコントにきちんと反応できるようになった。
- 190 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:50
-
「あゆみちゃんならあゆみんだね」
「村っちさぁ、この前もそんな風に勝手にひとみんのあだ名決めてたよね?」
「うん。最近流行ってるの。私の中で。かわいいでしょ」
「アタシは気に入ってるよ?ひとみんっての」
「でもそれでいくと村っちは『めぐみん』になるけど?」
「え゛・・・。それは嫌だ」
「いいじゃん。かわいいじゃん。
あゆみん、ひとみん、めぐみん。三姉妹みたいで。」
「え?それじゃマサオだけ仲間外れじゃない?何か寂しいんだけど」
「そっか。ごめん、雅恵ちゃん」
先鋭的おしゃれメガネさんの村田さん。
典型的ギャルファッションの瞳ちゃん。
ボーイッシュで奇抜な格好のマサオさん。
この3人、見た目は全然違うのに、すごく息が合ってる気がする。
それに瞳ちゃんがやたら嬉しそうに見えるのは気のせいじゃないはず。
本当にこの人は分かりやすい。すぐ感情が顔に出るんだから。
瞳ちゃん、小さい頃から全然変わってないなぁ。
- 191 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:52
- 『おしゃれでキレイで知的な大人の女性』
今までずっと抱いてきた村田さんへのイメージ。
実際に喋ってみると、かなり違うみたい。
おちゃめでとぼけてて個性的で。あとすごく舌足らず。これは新しい発見。
今まで私が見ていたのは『たまに同じ電車に乗り合わせるキレイなお姉さん』
であって、『村田めぐみ』さんではなかった。
『キレイなお姉さん』もステキだけれど、『村田めぐみ』さんはもっとステキ。
「ところで、あゆみん」 ぼんやりしていた私にいきなり話が振られた。
「え?私?」
「そう。あなた」 急に改まってどうしたというのだろう。
「あの、何でしょう?」
「さっきさ、あゆみん『初めまして』って言ったじゃない?」
村田さんはさっきまでとは打って変わって真剣な顔。
- 192 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:53
- 「はい。言いましたけど」
「私さ、あゆみんのこと見たことあるような気がするんだよね。
あのさ、いつもすっごい早い時間に田園都市線に乗ってない?」
「はい。乗ってますけど」
「やっぱり!どうりで見たことある子だと思ったんだよね。
あゆみんは私に見覚えない?」
村田さん、ちゃんと私のこと認識しててくれたんだぁ。ほんと嬉しいなぁ。
私が車内でずっと村田さんを見ていたことも言ってしまおうかな。
あー。でもそんなこと言ったら気持ち悪がられるだろうな。きっと。
軽くストーカー行為だもん。よし、黙っとこう。
「いえ、特には」
「そっか。そうだよね。変なこと聞いてごめんね」
一瞬、村田さんの笑顔が固まったような気がしたけれど、
次の瞬間にみた彼女の笑顔は今までのそれと同じものだった。
私が彼女を覚えていたかどうかなんて、彼女にとってはどうでもいいこと。
そんなことで彼女が動揺するわけがない。さっきのはきっと私の勘違い。
- 193 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:55
- 「ムラタはですね、あゆみんの優しさあふれる行動によってかなり助けられた
わけなんですよ」
「あゆみんがいなくちゃ留年するところだったもんね」
「そうなんですよ。というわけでムラタはあゆみんにお礼がしたい
わけなんですよ」
「いや、でも。それだったらもう充分・・・」
マンゴーフラペチーノ、ブルーベリーマフィン、チョコッチップクッキーに
プレーンマフィン。
テーブルの上の並ぶ4つのトレイの中で、私の前にあるものだけが
やたらもり沢山。会計はすべて村田さん持ち。
本当はこんなにいらなかったんだけど、若いんだからちゃんと食べなさい、
とかなんとか言ってマサオさんが持ってきた。
「お嬢さん、大学生の経済力をなめちゃいかんのです」
「アンタ誰だよ」
「あはは。雅恵ちゃん、ナイスツッコミ!」
「ちょっとうるさいよ、そこの一年生コンビ。
あゆみん、なんか欲しいもんとかあったら遠慮せずにお姉さんに言ってみ?」
欲しいものねぇ。なんかあるかな?急にそんなこと言われたって思いつかない。
それにもしここでなんか買ってもらったりしちゃったら、もう村田さんに
会う理由もなくなっちゃうわけで。
「村田さん、経済学部ですよね?」
「うん。そうだけど」
「あの、欲しいものってわけじゃないんですけど」
「ん?何でもいいよ?」
「私数学が苦手なんですよ。このままじゃ付属の大学上がれないって先生に
言われてて。今度の期末テストまででいいんで、私に数学教えてくれませんか?」
- 194 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:56
- 半分本当で半分は嘘。
確かに数学は出来ないし、一昨日返ってきた中間は燦々たる点数だったけれど、
うちの学校の場合それが理由で進学できないなんてことはあり得ない。
これならこれからも村田さんに会えるし、上手くいけば苦手な数学も克服できる。
まさに一石二鳥。 英語で言うならStroke of Luck。
さっきから考えていたことではあるけれど、本当に口に出してしまった大胆さに
自分でも少しびっくり。
「そんなことでいいの?お安い御用だよ」
「ってか村っちにそんな家庭教師みたいなことができるの?」
「口を慎みなさい、マサオくん。これでも去年一年間家庭教師のバイトは
していたんですよ」
「でも私語が多いって言われてクビになったんだよね?」
「なんでそんなどうでもいいこと覚えてるかなぁ」
「まぁでも村っち、数学は得意だから」
「そうそう。マサオくん、たまには良いこと言うね」
- 195 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:57
-
火曜と金曜の部活以外に放課後の予定が出来た。
週に1回、月曜日の村田先生の数学の個別指導。
いつも電車の中でさがしていたあの人と当たり前のように喋れる関係になれた。
それだけだってあり得ないことなのに、これからは毎週会うことが出来る。
遠くからただ見ていることしかできなかった3ヶ月前からは考えられない。
ただ見ることすらも出来なくなっていた1週間前からはもっと考えられない。
嬉しいとか感じる前に、私は今自分がおかれている状況をまだ呑み込めないでいた。
門限を理由に、終わりそうもないおしゃべりを続けるお姉さんたちに
さよならをいって店を出ると、空は既にさっき飲んだマンゴーフラペチーノと
同じ色に変わっていた。
下校中に毎日のように見る夕焼けだけど、今日はいつもよりキレイに見えた。
- 196 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/16(火) 00:58
-
- 197 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/16(火) 22:45
- キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!
ついに四人集合ですね!!
笑顔がかたまった村さんの理由が知りたい…
ひとみんはずいぶん二人の輪に慣れし親しんでるみたいでよかったよかった。
今、一番ハマッてる小説です。
更新ありかとうございましたー
- 198 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:03
- 「はーい。(1)は正解。うん。良くできてるね。でもさぁ、(2)はどうかな。
『 |f(x)|とg(x) によって囲まれる面積』って言われてて、
f(x)-g(x) をそのまま積分していいのかな?その式で出せるのって
こういう形の面積だよね? ここはまずグラフ書いてみよう」
今日から始まった『村田博士の数学講座』(村田さん命名)
これがなかなかわかりやすい。さすが名門波浪大学経済学部。
「うん。正解。それじゃあ問題集69ページの121、122行ってみよう」
村田さんってばけっこうスパルタ。私語が多いって言うから期待してたのに。
村田さんにあんまりバカなところは見せたくない。
さっきの注意通りにグラフを書いて交点を出して積分して。
うん。計算ミスも・・・大丈夫そうだな。
「できましたー」
「ちょい見せてみ?はい。はい。はい。はい。はい。
うん。全部合ってるね。よくできました!んじゃ今日はこのぐらいで」
はぁ。ようやく終わった。これ、けっこう辛い。
『数学教えて下さい』ってのはいい考えだと思ったんだけど、そうでもないかも。
村田さんと毎週合う理由ができるってのはいいんだけど、そのたびに
数学の勉強しなきゃいけないっていうのはなぁ。
- 199 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:04
- 「お疲れさまー」
目の前に差し出されたトレイにはマンゴーフラペチーノ。
「へ?」
「あ、もしかして違うやつの方が良かった?」
「いえ。いただきます。どうもありがとうございます」
「頭使った後は甘いものがいいからね」
満足げににっこり笑う村田さん。
とぼけているように見えるけれど、この人は本当によく気がつく。
そんな一面を見れて私も満足。
思い切って『数学教えて下さい』って言っておいて良かった。
- 200 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:05
- 「村田さんは高校の頃苦手な科目とかあったんですか」
村田さんはホットコーヒーを、私はフラペチーノを飲みながらまったりムード。
とりあえず当たり障りのない話題を選択。
「あのさぁ、あゆみん?」
『村田博士の数学講座』(村田さん命名)のときと同じ、真面目な顔に
少しドキッとする。
「はい。なんでしょう?」
「あゆみんさぁ、私のこと『村田さん』って呼ぶよね?」
「はい。呼んでますけど」
「それさぁ、何か嫌なんだよね。どうも慣れないっていうか。
できればあだ名で呼んで欲しいわけですよ。私としては」
「それじゃ『めぐみん』で」
「あ゛ーっ!それはイヤっ!まじ勘弁して」
「ならどんなのが?」
「村っちとか村っちゃんとか村とかで。お願いします」
「はい。じゃあそうします」
- 201 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:06
- 「さっきの話なんですけど、村田さん、高校の頃苦手な科目とかあったんですか?」
「ちょっとあゆみん。さっき言ったこと」
「あ、すいません。村っちは苦手な科目、何かありました?」
「はい。正解。でもなぁ。敬語ってのもなんだかなぁ。まぁそれはいいや。
村田が苦手だったのは家庭科かなぁ。調理実習とかみんなに迷惑かけてた。
自分的にけっこう上手くできたと思ったクッキーもマサオにあげたら
しょっぱいって言われたし」
「へ?しょっぱいんですか?クッキーが?」
「ね。変だよね。クッキーなのに」
「で、村っちは食べてみてどう思ったんですか?」
「怖いから自分では食べなかったのよ」
「何それー。上手く出来たと思ったんじゃないんですか?」
- 202 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:07
-
「あゆみんさー、今高3なんだよね?部活はもう引退したの?」
「いえ。うちの学校、大学付いてるんで」
「あー。そっかそっか。何やってるの?」
「管弦楽部です。これでも一応副部長なんですよ」
「へぇー。すごぉい。あゆみんは偉いんだねぇ」
「いや、そんなことは・・・」
「楽器は?」
「オーボエです」
「ん?」
「これです、これ。この中に入ってるんですよ。組み立てましょうか?」
オーボエケースを机の上に出すとさっきまで意味なく続いていた
村田さんの動きが止まった。
「私さ、前に電車であゆみんのこと見たことあるって言ったじゃない?
その時さ、あゆみん、これ持っててさ。私すごく不思議だったのよ。
あれは何だろうって。通学鞄は他に持ってるしなぁ、って。
そっか。楽器が入ってたんだぁ」
- 203 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:08
- 通学中の車内で村っちにオーボエケースを拾ってもらったことがある。
多分彼女はそれで私のことを覚えていたのだろう。
あの時村っちが届けてくれなければ大変なことになるところだった。
私がしたことと村っちがしたことは同じ。
なのに私は自分のしてもらったことに関して何もしていないのに
自分のしたことに対してはお礼としてこんなにもいろいろしてもらっている。
申し訳ないとは思っている。
ここで全部打ち明けてしまいたいとも思う。
でも一度覚えていないとかいってしまった手前、しゃべってしまったら
今の関係が崩れてしまうかもしれない。
村っちを騙しているようで忍びないけれど、今までも多分これからも
電車で村っちを見ていたこと、オーボエケースを拾ってもらったこと、
その2つを私はずっと黙っていると思う。
- 204 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:09
- そろそろ帰んないといけないんじゃないの? という村っちの言葉に
まだいいんだけど と思いながらも席を立つ。
今日のお礼とさよならを言って店を出る。
外はもうかなり暗くなっている。
レジ後ろのアナログの時計が示す時刻は6時40分。待ち合わせが
4時ちょうどだったから、私は2時間半以上ここにいたことになる。
2時間半といえばだいたい放課後の部活の時間と同じぐらい。
短いもんだなぁ。練習はあんなにも長くかんじるのに。
- 205 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/19(金) 01:10
-
- 206 名前: 対星 投稿日:2004/03/19(金) 01:10
- レスのお礼です。
>>197
一番楽しみなんてそんなステキなこと言っていただけるなんて
感激です。こちらこそどうもありがとうございます。
- 207 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/19(金) 23:47
- 更新お疲れさまです
村田先生(・∀・)イイ
真剣な目の村さん…見てみたいなぁ〜w
見れた柴っちゃんはもうロマンティック浮かれモード直前?
これからこの二人がどう変わっていくか楽しみです。
- 208 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:16
-
「柴ちゃん、遅―いっ」
いつもどおり教室に入ると、なぜか私の席に梨華ちゃんが座っていた。
いつもいるような気がするけど、ここはあなたの教室じゃないでしょう。
そんな言葉には耳をかさず、彼女は人の席に我が物顔で座っている。
まったくもう。
「昨日柴ちゃんがいなくなっちゃったから、私一人で練習してたんだから」
梨華ちゃんは頬を膨らましているけれど、昨日は部活は休みの日。
早く帰ったことに文句をいわれる筋合いはない。
- 209 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:18
- 「へぇ。練習してたんだ。偉いね」
今日の梨華ちゃんはちょっぴり不機嫌。でも少し褒めてあげれば
すぐに機嫌は直る。長い付き合いで習得したこの人の操縦パターン。
「偉いね、じゃないでしょ!昨日は練習付き合ってくれるって約束してた
でしょ?もしかして柴ちゃん、忘れてたの?」
そうだっけ?そんな記憶はないんだけど。
「ごめん」
忘れてたのだとしたら私が悪い。ここは謝っておかないと。
- 210 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:19
- 「私をほっといて昨日はどこ行ってたのよ?」
あーあ。この人、完全に怒ってるよ。普段おとなしい人ほど怒ると怖いん
だよね。あ、でも梨華ちゃんは別に普段もおとなしくはないか。
「ちょっと昨日は勉強を教わりに行ってまして」
「え?何それ?柴ちゃん塾なんて行ってたっけ?」
「いや、塾じゃなく。知り合いのお姉さんに数学を教えてもらうことになって」
「ふーん。それで?」
「それで?って言われても・・・」
「その人、どういう人なのよ?」
「従姉が上京してきたって言ったじゃない?ほら、波浪大の。
その子の知り合いの人」
「ふーん」
「ほら、もう時間だよ。練習いこ?」
梨華ちゃんはまだ不機嫌。どうしたもんかなぁ、この人は。
っていうかなんで私がこんなにも梨華ちゃんの機嫌とんなきゃいけないわけ?
いい加減もうなれたけど、こういう役回りは好きじゃない。
- 211 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:19
-
- 212 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:20
-
「おはよー」
「あ、おはようございます」
3階の教室から朝錬の会場となる2階の地理教室に降りてゆくと、
部員のほとんどがもう到着していた。練習を仕切らなくちゃいけない
私が一番遅くに来るなんて。
それもこれも梨華ちゃんのせいだ。
- 213 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:21
- 「じゃあ今日は1編の210番やります。みんな開いてー」
コンサートが終わっても管弦楽班には定期的に発表の場がある。
風炉学院はミッションスクール。毎朝礼拝をまもっている。
ということは毎朝讃美歌を歌い、奏楽を聴く時間があるということ。
パイプオルガンの演奏が主だけれど、うちの学校に来るオルガニストは
忙しい人で、週に2回しか来られない。
その他に音楽の先生が週2回、ピアノで演奏をすることになっている。
というわけで週に1回、つまり月に4回の礼拝での演奏が生徒に許される。
その4回のうち2回は管弦楽部の担当。その半分、つまり月1回が
私たち弦楽器パートに与えられた演奏機会。
私たちの担当する礼拝は来週の水曜日。あまり時間はない。
月一回の発表と言うのは多いようであり、少ないようでもあり。
確かに地味なイベントだけれど、コンサートでは弦楽器の陰に隠れがちな
管楽器が全校生徒にアピールすることができる大切な機会。
それに6月には新入生の部活所属が始まる。
今回の礼拝は新入生勧誘の意味でも大切なもの。
失敗はしたくない。
- 214 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:22
-
「んじゃあアタマからいくよ―」
弦楽器が誇るコンサートミストレス、ごっちんことフルートの後藤さんが
立ち上がる。ぼんやりしているように見えるけれど、彼女は相当な実力者。
ごっちんの奏でる音色で全員が演奏開始モードに突入。
「ちょっと待ってください」 その場にいた全員の目が紺ちゃんに集る。
「んあ? 紺野、どしたのー?」
「あの、里田さんたちがいないんですけど」
「まいちゃん、また遅刻かー」
「よっちゃんだっていつも遅刻してるじゃない」
「練習には遅れませんよーだ」
「里田さんだけじゃなくて木村さんと斎藤さんもいないんですけど」
「へ?みんないないの?」
全くもう。本当にしょうがないな、トランペットは。
「じゃあ私ちょっと呼びに行ってくるねー」
こういうのも管楽器責任者である私の仕事。
練習はコンミスのごっちんがいればとりあえず何とかなるわけだし。
あの子達の居場所はだいたい見当が付いている。どうせまたあそこだろう。
- 215 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:23
-
- 216 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:24
-
プ プーププッ プープ プーププップ プーププーププ プーププ
やっぱりここにいた。
「あー。柴っちゃんだー。おはよー」
「もー。三人とも何してんのさ?」
「んー?柴っちゃんこそどうしたの?こんなとこまで来て」
食パンをちぎる手を止めて、あさみが答える。
「どうしたのじゃないよ。もう。今日から全体練習でしょ」
「えー?そうだったっけ?」
「そうだよ」
「ごめんごめん。すっかり忘れてた」
「もー。早く行くよ」
「もうちょっと待ってよ。みうなまだ一番しか吹いてないから」
鳩を追い回す足を休めることなく、まいちゃんが言う。
練習あるっていってるのになぁ。分かってんのかな。この人達は。
- 217 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:25
- 「じゃあ柴田さん、行きましょう」
みうなちゃんがマウスピースから口を離す。良かった。この子だけは
話が通じる。
「ちょっと待て。みうな、二番から転調するとこまだ吹けないんでしょ」
「ばれました?」
「こんな曲が吹けなくてトランペットを名乗れるとでも思ってんの?
はい。今やめたとこからもう一回」
「はーい」
「悪いね、柴っちゃん。ひと段落ついたら顔出すから」
あさみの言葉を完全に信じたわけではないけれど、私は屋上からの
階段を降りていった。どうせ私があのままあそこにいたって、あの三人を
連れてくるなんてことできないだろう。
- 218 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:25
-
- 219 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:28
- 地理教室のドアをあけると演奏は中断されていた。管楽器は全部で17人。
トランペットの3人と私を抜かした13人分の視線が一気に集まる。
副部長という立場上、注目されることにはそれなりに免疫ができているけれど、
今の状況はちょっとなぁ。
「あ、ただいまー」
「あさみちゃん達は?」
こりゃよっすぃーもかなりイラだってるな。
「あ、なんかもうちょいしたら来るって」
「連れて来なよ。柴っちゃんがそんな風だからなめられんだよ?
もっとしっかりしてよ」
全くその通りだ。後輩からの鋭い指摘に返す言葉が見つからない。
- 220 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:29
-
「まぁいいじゃん。トランペットなしでも練習はできるんだから。
さ、始めよ」
気まずさに静まり返っていた地理教室にごっちんの声が響いた。
彼女が立ち上がり、演奏再開。さすがごっちん。次期部長と目されている
だけあって、統率力抜群。かっこいいなぁ。私にはあんなリーダーシップない。
なんだかぎこちない雰囲気のまま今日の朝練は終了。結局トランペットの
3人は最後まで来なかった。
- 221 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:31
-
『もっとしっかりしてよ』
気にすることないよ、なんて梨華ちゃんは言ってくれたけれど、
よっすぃーの言葉は私の頭の中から消えてくれなかった。
練習場所となる教室の確保。練習の初めと終わりにする短い挨拶。
顧問やお世話になっている先生と部の連絡。コンサートのパンフレットや
礼拝で配る解説プリントの編集・印刷。
前任者の市井さんから引き継いだノートに書かれた管楽器責任者の仕事。
『でもね、柴っちゃん。ここにあることより書いてない仕事の方が
ずっと大切だし、大変なんだよ』
半年前、部活を引退する市井さんにノートと一緒にもらった言葉。
引き継ぎノートに書いてあった仕事はそれなりにできていると思う。
だけど書いてない仕事は全然できてない。
しっかりしなきゃ。
副部長として、管の責任者としての仕事を果たさなくちゃ。
- 222 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:32
-
「あなたがたは自分の目の中に丸太があることに気づかずに
他人の目の中にあるおがくずをとろうとする、とありますがこれは・・・」
今日の礼拝は院長先生。テーマは『丸太とおがくず』の話。
もうこの学校も6年目。5年間毎日のように礼拝にでていれば
ほとんどの話のあらすじや教訓はもう頭に入っているから聞かなくても
だいたいのことは分かるつもりだ。
「あのさ、ちょっといいかな」
退場の奏楽が始まると同時に私の4列前のあさみの席に行く。
ヤマもオチも知り尽くした礼拝の間ずっと考えていたことを実行に移す。
「うん。いいけど・・・。どうしたの?柴っちゃん。怖い顔して」
「朝練、結局最後まで来なかったね。来るって言ってたのに」
「あー、ごめんねー。みうながさ、ちっとも吹けるようになんなくてさ」
「今度の礼拝いつだか知ってる?来週だよ?」
「そういえばそうだったねー」
・・・こりゃダメだ。
私なりにガツンと言ってやったつもりなんだけど、全然きいてない。
- 223 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:33
-
「ちょっとあさみちゃん」
私が講堂を出ようとあさみに背を向けたのとほぼ同時に背中から声がした。
「そろそろみんなリハモードだから来てもらわないと困るんだよね」
よっすぃーだ。
礼拝での講堂の席は前の列から学年順、名前順に指定されている。
高3で出席番号11番の『木村あさみ』と、出席番号は知らないけれど
高2の『吉澤ひとみ』の席は当然近くなるわけで。
さっきの私たちのやりとりはすべて聞かれていたようだ。
「そだねー。ごめんごめん」
「ごめんじゃないでしょ。いい加減にしてよ。みんな迷惑してんだから」
よっすぃーの言い方にトゲがある。いつもはどちらかというとおおざっぱで
あんまり怒らない子なのに。この子も今日は相当イラだっている。
まずいな。
こんなつもりじゃなかったのに。
「放課後の部活でまた同じとこやるから。その時にちゃんとあわせよ。
じゃ、あさみ、教室戻ろ?」
二人で話させておくと危険だ。
何となくそんな気がして二人の間に割って入り、ちょっと強引に
ここでの会話は終わらせた。
- 224 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:34
- 火曜日の部活はいつもざわめきが消えない我が管弦楽部管楽器パートには
珍しく、静かなものだった。
その原因はただひとつ。いつもうるさい人たちが大人しくしてるから。
あさみは礼拝のあとによっすぃーに言われたことを気にしてるみたい。
よっすぃーはあさみに強いこと言っちゃった手前、真面目にしている。
まいちゃんはいつも一緒に騒いでいる2人が相手してくれないから黙っている。
「んじゃあ3小節目から」
ごっちんの一声ですんなりと演奏に入る。
なんとなく雰囲気がぎこちないような気がするけれど、いつもより
集中して練習できているような気もする。普段ならこんなにすんなりと
練習が進むことはありえない。これはこれでいいかも。
- 225 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/22(月) 01:35
-
- 226 名前: 対星 投稿日:2004/03/22(月) 01:46
- レスのお礼です
>>207
(・∀・)イイ ですか!それなら良かったです。
レスありがとうございました。( ‐ Δ‐)ノ
- 227 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/22(月) 21:45
- 柴っちゃん…みんなをまとめる役というのは大変ですね…
誰が悪いというわけではなく、なんとなくタイミングが合わない…
そんな時ってありますよね。
柴っちゃんガンバ!!
- 228 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:09
-
「おはよう」
「おはようございます、柴田さん」
通学中の車内で会ったのはみうなちゃん。
昨日は遅れてしまったから今日こそは朝錬に一番乗りしようと思って
いつもよりだいぶ早めの電車に乗ったんだけど。
「早いねぇ。いつもこんな時間に来てるの?」
「だいたいこんなもんですね」
「なんで?」
「朝の学校って気持ちがいいじゃないですか。それにあさみちゃんや
まいちゃんが来る前に練習しておきたいですし」
みうなちゃんはさすがに練習熱心。
彼女が所属するトランペットパートはああ見えて相当な実力者集団。
管楽器の中では一番レベル高いんじゃないかな。
特に高3の2人は小学生の頃ブラスバンドをやっていただけあって
正確で力強い音を出せる。みうなちゃんは去年入部した初心者だけれど、
この2人に屋上で毎朝のように鍛えられているだけあってなかなかの腕前。
- 229 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:10
-
「今日はどこやるんですか?」
「えーとね、昨日の部活で伴奏の曲はだいたいできてたから、今日は
奏楽のとこだね。2編の156番かな」
私たちが礼拝で演奏するタイミングは、生徒入場、賛美歌合唱、生徒退場の
3回。生徒入場のときの奏楽ではその日合唱する賛美歌を演奏することに
なっているから、礼拝のために用意する曲は2曲。
だけど礼拝というものの性質上、退場の奏楽も賛美歌となる。
- 230 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:12
-
改札を出て、校門をくぐり、靴を履き替え、みうなちゃんとは別れる。
「今日の朝錬も地理教室だから」
「はーい」
「じゃあ今日は2編の156番から」
今日もまたトランペット3人組は不在。さっきした練習場所の確認は
朝錬に来てね、っていうプレッシャーのつもりだったんだけど。やっぱり
あの子には通用しなかったのかな。
- 231 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:13
-
「ちょっと柴っちゃん、トランペットの3人は?」
その場にいた全員が気づいていながらだれも指摘しなかったことを口に出す。
昨日の放課後の練習を思い出し、教室内の空気が張り詰める。
よっすぃー、もしかして今日もイライラさん?
どうかしたのかなぁ。いつもはこんなにキツいかんじの子じゃないんだけど。
「まぁいいじゃん。始めよ」
そのうち来るだろうと少なからず思っていたあさみたちは、結局
朝練に顔を出すことはなかった。
一応一言言っておこうと礼拝終了後の講堂であさみの姿を探したけれど、
見つからなかった。身長148cmの彼女のことだから退場する生徒の波に
隠れているだけだろうと思って、
その時の私はそれ以上考えようとはしなかった。
- 232 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:15
-
『高等部3年C組柴田あゆみさん、至急教員室までお越しください』
選択科目である一時間目の世界史を終え自分の教室に戻ると、息つく暇もなく
呼び出しの放送がかかった。
呼び出しがかかるのはふつう生徒も教師も時間的な余裕がある昼休み。
こんな時間に何の用だろう。
部活のこととかで呼び出しには慣れているけれど1・2時間目の休み時間に
呼ばれたのは初めて。なんだかあんまりよくない予感がする。
「おう柴田。忙しいとこ悪いな」
「いえ、別に」
いつもは冗談の一つも言ってくる中澤先生だけど今日はそんな感じじゃない。
なんかやだな。このかんじ。
- 233 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:16
-
「あんなぁ、今日呼び出したんは木村・里田・斎藤の3人のことなんやけど」
トランペット三人組は学校を抜け出し、礼拝と一時間目をサボっているところを
礼拝での演奏を終え帰宅途中だったオルガニストの和田さんに見つかったらしい。
『風炉学院中・高等部規則第三項
登校後は下校時まで許可なく校外に出てはならない』
『風炉学院中・高等部文化部規約第六項
部員が風炉学院中高等部規則を違反した場合、部も自主的に然るべき対応をとる』
この二つの規則は中澤先生に説明されるより先に頭に浮かんだ。
まずいことになったな。
- 234 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:19
-
「あの、それで今三人は・・・」
「あー。院長室で説教されとる。まだ当分かかりそうやな」
「そうですか」
「で、柴田。どうするつもりなん?」
文化部規約では罰則措置は自主的に決めていいことになっている。
校則第三項の違反ならわりとよくあることだし、部での話し合いの上
反省文提出ってパターンで十分だろう。
「最近な、教員たちの間で管弦楽部の、特に管の評判があんまよくないんよ。
授業態度が悪いっちゅうか。いろんな先生からクレーム来とんねん。
吉澤は授業抜け出したかと思うと違うクラスの体育に混じっとるし、
後藤はいつも寝とるし、藤本は目つき悪いし、辻はこっそり菓子食うし
小川はいつも口開いとるし、亀井は鏡ばっかりみとるし、ちょっと今回は
反省文程度じゃ他の先生に理解してもらえないっ気がするんよ」
中澤先生は早口でまくし立てると、申し訳なさそうに私の方を見た。
この人にこんな顔されたらイヤとはいえない。
- 235 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:22
-
「・・・じゃあ活停ですか」
「そういうことになるなぁ」
活動停止処分。略して活停。罰則措置としてはもっとも重いもので、
ある一定期間内、部としての活動の一切が禁止される。
礼拝での演奏を一週間後に控えている身としてはかなりキツい。
「3日でいいねん。3日で」
中澤先生にこうまで言われて断れるわけないのだけれど、この事態は
できることなら避けたい。
- 236 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:23
-
「でも、そうしたら弦の方は・・・」
活動停止処分は部全体にかかるもの。管パートだけじゃなく中澤先生が
力を入れて育てている弦パートも練習ができなくなってしまう。
先生としてもこれはかなり痛いはず。
「あー。あっちは気にせんでええよ。おととい礼拝も終わったし、
今はなんもないから。」
「・・・はい」
「じゃあそういう方向で話し合ってくれるか?」
起死回生の一撃もむなしく空振りに終わり、私は教員室を後にした。
今日の昼休みは話し合いしないとなぁ。
この程度の校則違反で活停なんて、みんな分かってくれるかなぁ。
とりあえず早いとこ放課後の集合かけとかないと。
召集の理由がこれじゃ、みんな何ていうだろう。
はぁ。気が重い。
- 237 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:25
-
緊急ミーティングの知らせに集まったのは管弦楽部管楽器パートの
高校生と中等部副部長のまこっちゃん。総勢12人。
今日トランペットの3人の無断外出が見つかったこと。
管楽器パートの素行の悪さを注意されたこと。
今回の罰則措置は3日間の活動停止にして欲しいと中澤先生に言われたこと。
今日のミーティングの要点を一通り説明する。
今日の地理教室は昨日以上に険悪な雰囲気。さっきから誰も口を開こうとしない。
- 238 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:27
-
「あのさぁ、三人とも何か言うことないの?」
ここ数日よっすぃーはイライラモード。今日は特にひどいみたい。
三人が下手なことを言おうもんならすぐにでも噛みつきそうな勢い。
「迷惑かけちゃって本当にごめん」 珍しく殊勝なあさみ。
「すいませんでした」 みうなちゃんも反省してる。うん。いいかんじ。
「今度から外出るときはばれないように気をつけます」
あーあ。言っちゃったよ、この人は。いくら本音でもそりゃマズいでしょ。
「まいちゃん!少しは反省したらどうなのさ!」
よっすぃーがキレた。こうなるともう手がつけられない。
「うちらもう高校生なんだよ!?あさみちゃんとまいちゃんなんて
高3なんだよ!?いい加減ちょっとは自覚もって行動したらどうなの!?
だいたい3人は昨日も練習さぼってたし、挙げ句の果てはこれでしょ。
信じらんないよ」
よっすぃーはすごい剣幕でまくしたてた。
はじめの方はただ呆気にとられていただけの3人だったけど、最後には
ぱっと見で分かるほどしゅんとしていた。
よっすぃーは前からトランペット隊の出席率の悪さにムカついていたから
この怒りようも分からなくはない。でも今のはちょっと言い過ぎじゃないかな。
- 239 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:29
-
「ちょっと待ってよ、よしこ」
沈黙を破ったのはトロンボーンのミキティ。
「今回の活停にされるのって別にあさみちゃん達だけのせいじゃないでしょ。
そうだったよね?柴っちゃん」
「うん。なんか普段の授業態度が悪くて先生たちの心証悪いみたいで」
「だったらうちらみんなの責任じゃん?3人だけ責めるのは間違ってるよ」
「でも・・・」
「そういえばよっちゃん、今年に入ってから古文の授業一度も出てない
じゃない?それが良くなかったんじゃない?」
「それを言うなら梨華ちゃんだっていつもキャーキャーうるさいじゃん」
「もー。よっちゃんったらひどい」
「んじゃあ今回はそれでいいね?」
空気が和んだところでごっちんがしめる。
今回の罰則措置は当初の予定通り活動停止3日間ということで決定。
「じゃあ今日はこれで解散ということで」
心配だった罰則も無事に決まり、今日のミーティングはこれで終了。
- 240 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:31
-
「みんなごめんね」
「礼拝の準備はいいかんじに進んでるし問題ないよ」
「そだねー」
申し訳なさげに謝るあさみをごっちんとミキティがフォローする。
本当にうちの高2はすごい。来年は安泰だ。
「でもトランペットはあんま合わしてないから心配だけどね」
「そうかもー」
ごっちんとまいちゃんが笑いあう。まいちゃんの笑い声が響いて
いつもの部活のようなくだけた雰囲気。やっぱこっちの方が落ち着くな。
「ちょっとまいちゃん、それ笑えないんだけど」
よっすぃーの声が教室中に響く。この人だけはさっきと変わらないテンション。
- 241 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:38
-
「まいちゃんさ、少しは反省したら?」
せっかく場はおさまったのにまだつっかかっていくよっすぃー。
「もー。よしこ、その話はもういいじゃん」
ちょっとうんざりした顔でごっちんがたしなめる。
「よくないよ。礼拝の曲だってうちらは出来てるかもしれないけど
トランペットは1回しか合わせてないんだよ?そんなんでそうすんの?
ちゃんとできるわけないじゃん」
「いや、できるって。大丈夫、大丈夫。うちら確かに練習には出てない
けど、礼拝で吹くの3小節だけでしょ。プーププププープッってとこ。
あれぐらいの曲だったら練習しなくたって余裕でしょ。任しといてよ」
まいちゃんはそういうと誇らしげに笑った。
- 242 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:39
-
「ちょっと、今の何?練習しなくたって余裕ってどういうこと?
3小節だけだから?それとも簡単なフレーズだから?
オーケストラってそういうもんじゃないでしょ?バカにしないでよ」
ミキティは早口でまくし立てると、早足で地理教室を出て行った。
ドアが閉まる音が響いた頃、亜弥ちゃんがあとを追うように出て行った。
残された私たちは呆然とするばかり。
チャイムの音にせかされ解散したけれど、この日のミーティングはとても
後味の悪いものになった。
これから当分部活はない。私たちが集る機会はないだろう。
こんな悪い雰囲気では合奏なんてできない。どうしたらいいのだろう。
- 243 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/24(水) 01:39
-
- 244 名前: 対星 投稿日:2004/03/24(水) 01:40
- レスのお礼です
>>227
そうなんですよね。柴田さんには頑張って欲しいものです。w
レスありがとうございました。
- 245 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 22:49
-
「できました」
「おーう。はいはいはいはい。うん。正解、正解」
うららかな日が差し込むスターバックス。
くつろぐスーツ姿のお兄さんや雑誌を読むお姉さんたちに混じって
2階一番奥のソファー席に陣取ってノートと参考書を広げている
メガネの女子大生と制服姿の女子高生。それが私たち。
今日は私が一週間のうちでもっとも楽しみにしている月曜日。
『村田博士の数学講座』開講日。
- 246 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 22:52
-
「じゃあ次は・・・」
村っちは私の顔をちらっと見ると問題集のページをめくる手を止めた。
「今日はもうやめにしよっか」
「でもまだ二問しか・・・」
「まあたまにはいいじゃない。先は長いんだし。今日の授業はおしゃべり。
ちょっと待っててねー」
一応勉強を教わるという名目のこの時間。こういうのはちょっとどうだろう。
でもまぁ私としてはこっちの方がうれしかったりするんだけど。
- 247 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 22:58
-
「お待たせー」
戻ってきた彼女の手にはいつものドリンク。
本当のこというとマンゴーフラペチーノは甘すぎてそこまで好きじゃないんだけど、
村っちが持ってきてくれるオレンジ色のドリンクは大好き。
「村っちは部活何やってたんですか?」
「高校時代? 村田はねぇ、写真部だったのよ」
「へぇ。なんか意外だな」
「そう?これでも部長とかやってたんだよ?」
「えー!?すごーい!私の副部長なんかより全然すごいじゃないですか」
「でしょ?」
軽く胸を張るようなポーズをとって村っちは白い歯をのぞかせた。
「でもねぇ、本当言うとこれがちっともすごくないんだよ。
部員はいっぱいいたけどみんな幽霊部員でさ。部活の時間も何にもしないの。
私もいっつもマサオとかと遊んでたなぁ」
村っちは目を泳がせる。違う世界を見ているようなそんな目をしてる。
- 248 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 22:59
-
「マサオさんも写真部だったんですか?」
「マサオさんだってー。ちょっとあゆみんおかしすぎー」
村っち大ウケ。バシバシと机を叩きながら笑い転げている。
マサオさんっておかしかったかな?別にそんなにおかしくないよね?
だってあんまり知らない人だし。
「はぁ。あゆみん、おもしろいねー。
マサオはね、写真部じゃなかったんだ。美術部。ああ見えても
すっごい絵上手いんだよ」
「へぇ。それじゃあなんで仲良かったんですか?学年違いますよね?」
「あー。それはねー・・・なんかさ、うちの高校、美術部と写真部って
部室近くてさ。美術部の子で仲いい子がいたんだよね。それでその子が
うちの部室にマサオ連れてきて。なんかいっつも3人でつるんでたなぁ」
村っちはさっきと同じような遠い目をして私の後ろの壁を眺めた。
このことに関してはこれ以上つっこんではいけない。
なんとなくそんな気がして、私は何も言えなかった。
- 249 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 23:03
-
「あゆみんさ、部活のことでなんかあった?」
「えっ・・・?」
「いや、なんか今日のあゆみん、いつもと違うから。元気ないっていうか」
こっちの世界に戻ってきたと思ったらそれですか。全くこの人は。
ボーっとしているようで本当に周囲のことがよく見えている。
それにしても。
知り合ってまだ数えるぐらいしか話したりしていないのに、
なんでこんなことまで分かっちゃうんだろう。
「ちょっと最近いろいろとありまして」
私の所属している管弦楽部管楽器パートのこと
部員が問題を起こし、その罰として現在活動を禁止されていること
素行の良くない部員が多く、教師からの評判が悪いこと
最近部員どうしの関係がうまくいっておらず、雰囲気が悪いこと
明日再開する部活と明後日の礼拝での演奏が不安でしょうがないこと
自分は副部長で管楽器パートをまとめなくてはいけない立場なのに
それが全くできていないこと
いま私を悩ませているさまざまな事柄。
どうせ分かってはもらえないと思い今まで誰にも言わなかった私の気持ち。
今日はすらすらと口から出てきた。
ものすごく長い私の話を、村っちは時おり相槌を打ちながら聞いてくれた。
- 250 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 23:04
-
「そっか。高校生もいろいろと大変だね」
コーヒーを啜っていた村っちは、久しぶりに口を開くとつぶやいた。
「でもさ、そのままでいいよ。あゆみんはよく頑張ってる」
村っちは視線を上げると、まっすぐに私の目を見てそう言った。
その目は本当に優しくて、口元は少し緩んでいた。
なんだろう。この感じ。
胸が熱くなる。鼓動が早い。それにいつもより強い。
目元に血が集まってような気がする。視野の下のほうがぼやけてきた。
あ、ほっぺたに何か落ちた。
あれ?なんか濡れてない?どうしたんだろう。
あ、私、いま泣いてるんだ。
頭の上に手がのせられた。
ポン。ポン。ポン。ポン。緩やかなテンポでリズムを刻む。
なんかすごく気持ちいい。
- 251 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 23:06
-
「今日は本当にありがとうございました」
かなり長いこと泣いていた私は涙が止まってもなかなか落ち着かなかった。
けれど村っちはそんな私がしっかりと言葉を発せられるようになるまで
ずっと向かいの席に座り、頭をなで続けていてくれた。
「大丈夫。何も心配することなんてないよ」
明日のこと、明後日のこと、もっと先のこと、不安は数え切れないほど
あったけど、何だかすべてたいしたことじゃないと思えた。
月曜日の別れ際に村っちが口にした言葉どおり、
火曜日の部活は少し前のような明るく和やかで充実したものだったし
水曜日の礼拝では今までの管楽器パートからは考えられないような
良い演奏ができた。
部のみんなも前より落ち着いて素行も少しは改善されたみたいだし、
自分の副部長としての働きについてもそれはそれでいいんじゃないかと
割り切れるようになった。
今度の月曜日には、今週あったこと全部、村っちに話さなきゃ。
先週のお礼もきちんと言って、今週はコーヒーをおごらせてもらおう。
- 252 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 23:06
-
- 253 名前: オレンジ 投稿日:2004/03/31(水) 23:06
-
- 254 名前: 対星 投稿日:2004/03/31(水) 23:08
- 今回更新分をもちまして第4話柴田編は終了です。
レスを下さった方をはじめ、読んでくださった方、どうもありがとうございました。
ところで、最近なんだか調子に乗って当スレッドの番外編掲載のために
森板に新たなスレッドを立てさせていただきました。
こちらです↓
『Morning Philharmonic Orchestra』
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/wood/1080060204/
柴田さんの所属している管弦楽部の話です。
本編とはあまり関係なかったりもしますが、読んでいただけると嬉しいです。
- 255 名前:名無し読者 投稿日:2004/04/02(金) 23:04
- 更新お疲れ様です。
村田さんと柴田さんはもちろん、大谷さんと斉藤さんの進展も、
森の番外編のこれからも。楽しみに待っております。
これからも是非に頑張って下さい!
- 256 名前: 対星 投稿日:2004/04/04(日) 00:04
- まずはレスのお礼から。
>>255
レスありがとうございます。
森板の方も見ていてくださるなんて。本当に嬉しいです。
ご期待に添えるほどのものが書けるかわかりませんが、精一杯頑張りますので
どうぞあたたかく見守ってやってください。
- 257 名前: 投稿日:2004/04/04(日) 00:05
-
タイムロス
- 258 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:06
-
飲み会、サークル、バイト、そしてまた飲み会。
何の根拠もなく勝手に想像し、勝手に憧れていた大学生の生活パターン。
それがやりたくて『日本一楽しい!』と自負する波浪大学に入学して
早2ヶ月。そういった生活とは縁遠い。
いまの毎日もとても楽しいのだけれど、やっぱりちょっと物足りない。
とりあえず何かサークルにでも入らなくちゃなぁ。
正直そろそろ焦りみたいなものをかんじる今日この頃。
- 259 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:07
-
昼下がりの学生会館ロビーで眺めているのは『ハローストーン』
学生発行の波浪大学情報誌で、サークル情報や講義情報がもり沢山。
科目登録の時にはものすごくお世話になった。
高校時代の先輩の無責任な言葉をうのみにしていろいろなイベントを
避けて通っているうちに、新歓の波に乗り遅れてしまった。
あのメガネにはだまされた気がする。
もうすぐ6月。早いとこどこか入らないと。いいところないかなぁ。
そういえばひとみんはどこのサークル入ってるんだろう?
今度会ったときに聞いてみよう。
- 260 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:08
-
とりあえずたたいた扉に掲げられた文字は『会計学会』
いかつい名前からも分かるとおり、いわゆる学術系のサークル。
別に、会計学を真剣に勉強しよう、なんて気を起こしたわけではない。
これは単なるテスト対策。自分の学部の学術系サークルに入っておけば
ノートとか過去問とか、有効な資料が簡単にそして確実に手にはいる。
「いらっしゃーい」
さっき電話したときに応対した女の子が出てくるものだと思っていたのだけれど、
扉を開けてくれたのは黒ぶちメガネの男の子。
- 261 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:09
-
「あの、私、さっき電話した・・・」
「大谷さんでしょ。うん。聞いてるよ」
「私、このサークルに入りたいと思いまして・・・」
「うん。それも聞いた」
にこりともせずこちらをみつめる黒ぶちメガネを前に、何も言えない。
こういう人、苦手だ。
「でさ、大谷さんはここで、何がしたいの?」
長かった沈黙を破る黒髪(仮名)の言葉に目が点になる。
なに? ここってそんなに敷居の高いサークルだったの?
- 262 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:10
- 「いえ、別に、特に何ということは・・・」
「じゃあ何でここに来たの?」
「単位がちゃんと取れれば良いな、と思いまして・・・」
ふぅん。なんてつまらなそうにつぶやくと黒ぶちメガネ(仮名)はおもむろに
立ち上がって背後にあった棚に手を伸ばす。
細いなぁ、なんて黒ぶちメガネ(仮名)の必要以上に細い足のラインにびっくり
していると、黄色いチラシを差し出された。
「そういうアナタにはこれ。とりあえずこれ、読んどいてね」
『会計学会』のチラシ、概要なんかをいただいて今日のところは失礼する。
ここのサークル、どうなんだろう。なんか私にはあわない気がする。
でもなぁ。商学部の学術系サークルはここだけだし。
- 263 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:10
-
3限は教養科目なのをいいことに、前の列から回ってきたレジュメには目もくれず
『会計学会』の資料に目を通す。
設立は1954年。今年で50年。けっこう古い。
学生が自主的に会計学などの共同学習をすることを目的に創設された。
上級生や院生による経営学、数学、簿記などのフォロー講義や
知識の実践として実際の企業の経営分析や討論会などを行う。
勉強会を活発に行い、公認会計士や税理士といった職業を目指す人も多い。
私が思っていた以上に真面目なサークルらしい。
単位が欲しい、程度の同期で入ってしまうのは厳しいところなのかもしれない。
やっぱりやめとこうかな。
- 264 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:11
-
ふーん。
入る気がなくなるともうこんな資料に何の価値も見出せないけれど、それでも
ついつい惰性で読み進めてしまう。どうせ授業も面白くないし。
『村田めぐみ』
ん?なんだ?これ。
概要の最後から3ページ目、幹部紹介の欄に見慣れた名前。
だけどあんまりこの場所には似合わない。こんな真面目なサークルに
あんなおちゃらけたメガネは似合わない。
同じメガネといえどもさっきの黒ぶちとは大違いなんだから。
- 265 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 00:12
-
『経済学部3年』
ん?なんだ?これ。
見慣れた名前の隣に書かれた学部と学年は、よく知っているあの人のそれと
同じもの。
これって、明らかに村っちだよね?
経済学部は1学年600人近くいる。その中で女子は1/3ぐらいを占めているから
約200人というところだろうか。
その中で1人や2人まったく同じ名前を持つ人がいたとしてもおかしくはないけれど、
そういったことはちょっと考えにくい。
でも何でまたこんなところに?
ここは『会計学会』 商学部の学術系サークル。経済学部と商学部は実はけっこう
守備範囲が違う。経済の人が在籍しているのは珍しい。
実際、この概要を見る限り、上級生で商学部以外の人は1人だけ。
どういうことなんだろう?これは。
今度あったときに聞いてみなくちゃ。
- 266 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 21:59
-
- 267 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:05
-
今日もじとじとくもり空。いやになっちゃう天気だけどそんなもの気にならない。
だって今日は火曜日。あの子と一緒の授業がある日。じとじとなんてしてられない。
天気が悪いからちょっとたまっている洗濯物はそのままで、可燃ゴミだけ
つかんで家を出た。昨日のうちにまとめておいてよかった。おかげで少し
寝坊したけれどちゃんと予定通りに家を出ることができた。
今日はきっと始業20分前には教室に入れる。いつも朝早いひとみんは
たぶん今日もその時間にはもうばっちり席についているだろう。
ここ最近遅れがちだったから、今日こそは目標通り早く行って少しでも長く
しゃべるんだ。
- 268 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:06
-
ようやくちょっとずつ仲良くなってメアドと番号を交換したまではいいけれど
どうにもこうにもそれ以上発展しない。
私としてはもっとよくひとみんのことを知りたいし、もっとしゃべりたい。
もっと長い時間一緒にいたい。
でも用もないのにメール打ってみたり電話かけてみたりってのは気がひける。
そこまで仲いいわけじゃないのにそんなことしたらきっと迷惑だろうし。
ウザがられるかもしれないし。彼女は優しいからそんなことはないだろうけど。
だから火曜日は貴重な時間。朝の準備は辛くないといったら嘘になるけれど
この時間にかえられるものではない
・・・のだけど。
何で私はこんな大切な時間にこんなダテメガネとマックにいるのだろう。
- 269 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:07
-
「でね、カフェオレとカフェラテだとオーレの方が牛乳の量が少ないから
苦くなるのよ。そんでもってカプチーノはミルクが泡立ってる分だけ
マイルドになるんだよね。だからカプチーノ、ラテ、オーレの順で
飲みやすいわけね」
本当にミルク入りコーヒーの違いとか聞いてる場合じゃないんですよ、私は。
これだからブラックコーヒーが飲めない喫茶店店員は困るんだよ。まったく。
それに村田さん、あなたメニュー名とか言えてないから。
「あのさ、私もう行かないといけないからさ」
「えー。何それー。もうちょっとつきあってよー」
「ごめん。無理。じゃあね」
珍しく強気で村っちの話を切って席をたつ。後ろからなんだかぶつぶついう声が
聞こえるけれど、そんなもの気にしてなんかいられない。早く行かないと。
ようやくインチキなメガネから解放されて、予定よりだいぶ遅れてしまった
けれど、教室へ向かう。
・・・つもりだったのだけど。
- 270 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:09
-
「あ。そうだ。村っちー」
背を向けたら急に聞きたいことがあったのを思い出して、年甲斐もなく
ドリンクの紙コップとストローでガチャガチャやっているおしゃれメガネの方へ
向き直る。
「ん?何?どうしたの?」
振り返った先のおねえさんは私の変わり身の早さに何やら驚いているご様子。
「あのさー、戸田さんからハガキが来たんだけど、村っちのとこには来た?」
戸田さんというのは高校時代の部活の先輩。
私の所属していた美術部は部員数はバカみたいに多かったけれど幽霊部員ばかり
だったのでその実体はとても小規模なものだった。
部長をしていた戸田さんはそんな部活には珍しく、放課後や昼休みにはよく
美術室にこもって絵を描いているような熱心な人だった。かといって他の部員に
部活動への参加を強要することはせず、マイペースに絵を描くことを楽しむ、
そんな人だった。
画題は決まって牛や馬といった動物で、彼女のキャンバスの中の動物たちは
みんなものすごく優しい目をしていた。私は彼女の絵が大好きだった。
真面目に絵を描くのが初めてで何も分からない私に、戸田さんは画材の使い方を
教えてくれたり、画集を貸してくれたり、いろいろと親切にしてくれた。
部活動以外でも、よく一緒に遊んでくれたりした。
先輩というよりお姉さん。戸田さんは私にとってそんな存在。
- 271 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:10
-
「村田のとこには来てないけど・・・」
「え?本当に?」
そもそも1つ上の学年の村っちとこんなに仲良くなれたのは戸田さんのおかげ。
戸田さんと仲良しだった村っちが美術室に遊びに来たのが私たちの出会い。
飄々としてにくめないキャラクターの彼女とは、わりと人見知りの激しい私でも
すぐに打ち解けることができ、それ以来村っちは頻繁に美術部の部活に顔を出す
ようになった。
戸田さんとは、明らかに私より村っちのほうが仲がいい。
私にハガキが来ていて村っちには来ていないなんてちょっとおかしい。
どうしたんだろう。
「で、なんだって?りんねは」
「あー。なんか戸田さん今、留学してるらしいよー。アメリカだってさ。
なんか毎日いろいろあって楽しいってさ」
りんねさんから届いた夕日をうけて黄金色に光る麦畑のポストカードの裏面に
記された見覚えのあるかわいい字からは、慣れない地で暮らすことによる
新鮮な感動がつたわってきた。右端に小さく描かれた絵もすごく彼女らしくて、
すごく嬉しかった。
- 272 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:10
-
「そっかぁ。りんね、そんなハガキ書いたんだぁ」
私の方を向いている村っちの目線はあきらかに私のことなんて見ていない。
この人、たまにこういう顔するんだよなぁ。
いつもただおかしいだけの人だから、急にこういう顔をされるとなんだか
無性に心配になってしまって、容易に話しかけることが出来ない。
「ところで、マサオくん行かなくていいの?」
「え? ああ。うん」
「そういえば今日ひとみんの日だもんねー。はやく行きなよ」
なんだ、コイツ。あからさまにニヤニヤしていやがる。
しかも人の思考までしっかりと読み取りやがって。
さっきちょっとでも心配してしまったのがバカみたいだ。
- 273 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:11
-
『会計学会』のことを聞こうと思っていたことは忘れたわけじゃなかったけど
こんなインチキメガネとこれ以上一緒にいるのは明らかに時間の無駄だから
自分のトレイを持って今度こそ席を離れた。
もうこんな時間だ。急がないと。
走るのは遅いからあまり意味がないことは分かっているけれど、それでも
少しでも早くつきたくて、教室までの500mほどの道のりは全力で走った。
本気でダッシュするなんて高校の体育以来だ。
ありえないほど汗をかいてしまってこのまま教室に入るのは恥ずかしかったから、
持っていたハンカチで顔を拭いて汗が引くのを廊下で待つことになった。
これだったら普通に歩いていった方が早かったかもしれない。
- 274 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/04(日) 22:12
-
- 275 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/06(火) 00:26
- 更新乙です!
村田さんの謎っぽいとこが気になる・・・。
それにしても大谷さんは村田さんに対してシビアですねw
次回更新楽しみに待ってます!
- 276 名前: 対星 投稿日:2004/04/11(日) 20:35
- 本文更新の前にお礼をさせていただきます。
>>275
どうもです!
博士と助手はなんだかんだいって仲良しってことです。(←意味不明)
レスありがとうございました!
- 277 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:36
-
「まぁ以後気をつけてってことで。今日はもう帰りぃ」
稲葉さんの大きい目は伏せられ、いつになく深刻な顔が事態の重大性を物語る。
「お疲れさまでした」
「ああ、お疲れー」
帰っていいといわれたわけだから、今日のところはもう帰る。
タイムカードが打ち出した時刻は21:15。いつもより1時間も早い。
- 278 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:37
-
こんなことになったには理由がある。
7時頃頂いたLサイズのピザ2枚にアップルパイ、ドリンク3本のオーダー。
伝票はきちんと処理され、20分後には宅配できる状態が用意された。
今日はいつものデリバリーのメンバーが急に風邪で休んでしまっていたから
原付に乗れる私がかわりに届けることになった。
最近よく練習のために乗っているから、運転の方はできるようになった。
けれど私はこの辺りの地理がいまいち分からない。稲葉さんに地図を書いて
もらったけれど、どうにもこうにも目的のマンションが見つからない。
いつの間にか自分の現在位置までも分からなくなっていた。
そんなこんなで迷うこと1時間弱。お客様の家に到着したのは8時30分。
その頃にはピザはもはや提供できない状態になっていた。
店長である稲葉さんの指示を仰ごうと店に電話すると、すぐ戻るよう言われた。
宅配が遅い、とのクレームをいただいてしまっていたようだ。
参ったことにこのお客様は月に2度はご利用くださるお得意様。
こんな粗相が許される相手ではない。
- 279 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:38
-
あー。もう。
少なくはない頻度で起こるミスだから、稲葉さんはあまり怒らなかったけれど、
それでも自分の至らなさに腹が立つ。
なんでもっとちゃんと確認していかなかったんだろう。
なんで早いうちに店に電話して道を教えてもらわなかったんだろう。
なんで前々からこの近辺の道を調べておかなかったんだろう。
やってしまったことは取り返しがきかないし、これから努力することしか
できないのはわかっているけれど、どうしても後悔の念が先にたつ。
どうにもこうにもこうにも気持ちが落ち着かない。
- 280 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:39
-
気づいたときには私は自分のアパートとは逆方向である東口の方へと原付を
走らせていた。
無意識のうちに向かっていたのはこの街で一番高いマンション。ではなく
その裏のファミレス。つまりひとみんのバイト先。
今日は木曜日。この前バイト帰りにあったのも木曜日。
シフト制ではなく曜日固定制の店だって話だから、今日も彼女はここで働いている。
・・・はずなのだけど。確証はない。
お客さんとして入っていくのはなんだか憚られるし、遠くからガラス越しに
彼女の姿を探すのもストーカーじみていて気が引ける。
今の時刻は9時25分。
この前彼女とあったのは10時半近かったから、たぶん今日も彼女のシフトアウトは
そのぐらいの時間だろう。あと1時間。長いのか、短いのか。
待てない長さではないことだけは言い切れる。
- 281 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:40
-
とりあえず店から借りてきた地図をながめる。今日のようなミスはもう二度と
したくない。失敗は一度で十分だ。
お得意様の家にはチェックが付いているし、渋滞しやすい道や一方通行、
抜け道なんかには色が塗ってあるから、なかなかの便利モノ。
これさえしっかり頭に入れれば立派なデリバリーになれるだろう。
店から駅前の2車線道路へ出て、3つ目の信号を右折。一方通行の細道に入る。
突き当たりを左に曲がり、国道をひたすら直進。
うん。家まではこの道が一番近い。今日はこれで行こう。
いや、待てよ。この経路だと確かに早いけど、危なくないか。
交通量が多い大通りや国道を通るし、右折も多い。原付にはきつい。
一人で乗るならまだしも、後ろにひとみんを乗せるのだから。
それにあんまり早く着いてしまうと、一緒に乗っていられる時間が減ってしまうし。
よし。この道ダメ。
- 282 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:41
- ここからだと、マンションの裏の路地に入って2つ目の角を右折。直進して
はじめの信号を左折。そのまま直進すればひとみんの部屋まで行ける。
うん。これなら原付の30km制限を守って無理のない安全な運転ができる。
裏道ってかんじの道だから二人乗りしていても安心だし。うん。これで行こう。
いや、待てよ。こういう住宅街の中の道は狭くて交通量が少ないのは
いいのだけれど、こんな夜中に原付で走ってもいいのだろうか。明らかに
迷惑だよね。
よし。この道もダメ。
この道を直進してあの信号を左折して・・・。あ。ダメだ。
あの道の2つ目の交差点を右折して・・・。あ。ダメだ。
そこの角を曲がって直進して・・・。あ。ダメだ。
うーん。広くもなく狭くもない道で、なるべく右折の回数は少なくて
安全に運転できて、なおかつ遠回りすぎずかといって近道すぎない経路・・・。
- 283 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:45
-
やめた。何やってるんだろう、自分。
こんな家までの経路とか何パターンも考えてる場合じゃないから。
そんなことするためにわざわざ地図借りて帰ったわけじゃないから。
とりあえず今日迷ったところとめぼしいお得意様の住所は確認して。
あと二段階右折が必要な3車線道路はなるべくなら避けたいから、有効な抜け道は
チェックして。一方通行とか進入禁止とかの交通規制区域も調べとこう。
最初からこうして勉強しとけばよかったのに。失敗してからやり始めるなんて。
ひとみんならきっとこんなミスなんてしないんだろうな。
オーダーもバッシングもキャッシャーも完璧にこなしてその上笑顔もばっちり
ふりまいて。いいなぁ。私も彼女みたいになんでもちゃんとできればいいのに。
私がこバイトでミスってヘコんだから会いに来たと知ったら、
彼女はどう思うだろう。
こんな簡単なことで失敗して、一人でヘコんで、あげくに
励ましてもらおうなんて考えて、のこのこ会いに行って。
自分の愚かさや勝手さ、かっこ悪さに自分でも呆れてしまう。
あー。何で私ってば、こんなにも小さいんだろう。
- 284 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:46
-
あー。もう。全然集中できない。
そもそも地図とにらめっこしてたって道なんて覚えられるわけないし。
ムダだよ、ムダ。まったく1時間近くも何やってたんだろう。
窓越しに見える店内の時計の、短針は10を、長針は3を指している。
きっともうそろそろひとみんが出てくる時間だ。こんなところで座り込んでる
場合じゃない。シャキッとしないと。
あ。
立ち上がってみたのはいいけど、ここでこうして突っ立てるのもどうだろう。
これじゃなんかまちぶせしてたみたいじゃないかな。
まちぶせしてるわけなんだけど。
どうしよう。
- 285 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:47
-
ちょっと10mぐらい移動して店内からの視覚に入って、ひとみんが出てきた
ところで出て行く、と。うん。これだ。
あー。でもなぁ。
なんかどうもわざとらしいよね。これ。それにガラス張りのこの店の視覚って
どこだ、っていう問題もあるし。
裏のマンションのエントランスにいようかな。それでちょうどいいタイミングで
出て行く、と。うん。いいな。あそこなら待ていたのがバレる心配はないし。
あ。ダメだ。
こっちから見られないって事はあっちからも見えないってことじゃん。
どうやってタイミングを見計らうのさ。
向かいのコンビニで雑誌読んでるフリするのはどうだろう。それでもって
ひとみんが出て来たの確認したらいかにも偶然っぽく出て行く、と。
うん。これでいこう。よし。
- 286 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:48
-
「雅恵ちゃん?」
え?なに?何でひとみんがこんなとこにいるのさ。ってここは彼女のバイト先
なんだから、いて当然って話なんだけど。
それにしてもタイミング悪いよ。今コンビニ入ろうと思ってたのに。
「何してるの?こんなところで」
うわっ。いきなり一番イタいところをツッコまれた。
「ぃえ? あー。ちょっとコンビに行こうと思って」
「わざわざここまで?雅恵ちゃんとこの近くの方がいっぱいあるんじゃない?」
「ぅん? あー。そうなんだけどねぇ」
そうです。その通りです。
コンビニっていうのはさすがに無理があったか。でもかといって
ここであなたをまちぶせしてました、なんて口が裂けても言えない。
- 287 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:49
-
「で、なに買おうとしてたの?」
「へぇ? あー。ちょっとアイスとか」
「今日蒸し暑いもんねー。いいなー。私も一緒に行っていい?」
「ほぃ? あー。うん。一緒に行こう」
はぁ。よかった。
どうしてこうしてなんとか上手に話がまとまった。冷や汗ものだよ。ほんと。
アイスはチョコがいいだのやっぱりガリガリ君はソーダ味だのしゃべりながら
アイスケースを物色し、ついでにドリンク棚やらお菓子のコーナーやらにも
移動しているうちに腕の中に商品はどんどん増えていく。
あー。口元が緩んでるのが自分でも分かる。
もう何でこんなになんでもないことが嬉しくって楽しいんだろう。
さっきまであんなにヘコんでいたのがうそみたい。
やっぱり今日はひとみんに会いに来てよかった。
- 288 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:50
-
会計を済ませコンビニを後にすると、2人で外のゴミ箱の横に止めておいた
マイ原付に足をかける。
ん? ちょっと待って。
いくらバー付きだっていっても運転しながらアイスはちょっと無理だろう。
ひとみんが買ったのはカップアイス。これもちょっときついでしょ。
これはどうだろう。家に帰りつくまでもってくれるか微妙なところ。
あー。アイス買いたいなんて言うんじゃなかったよ。全く。
ほんと私ってばアタマ足りない。
まぁいいや。ひとみんも何かうれしそうだし。
今日は急ぎ目で帰ろう。
交通量とか右折とか住宅地だとか気にしないで、早さ重視で行こう。
さっき近道調べといて良かった。
でも制限速度は守っていこう。後ろにひとみんが乗っているのだから。安全第一。
- 289 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/11(日) 20:50
-
- 290 名前:275 投稿日:2004/04/12(月) 02:41
- わーい更新されてたー♪
乙です!!
マサオ元気出せー。・゚・(ノД`)・゚・。
ってあの人のお陰で(ちょいネガながらも)元気が出てよかったw
次回更新マターリお待ちしております〜。
- 291 名前: 対星 投稿日:2004/04/15(木) 00:07
- はじめはレスのお礼です。
>>275・290さま
わーいレスいただいたー♪
どうもです!!
1度ならず2度までも・・・。感涙いたします。・゚・(ノД`)・゚・。
マサオも元気出たみたいで。よかったよかった。
というわけで、今日も更新いってみます。
- 292 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:08
-
- 293 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:09
-
ん?
なんかいつもと違うな。
ベッドは柔らかいし布団は軽い。枕もなんだか感触が違うような気がする。
テレビはあんなに大きくないし、ああいう形の時計はうちにはない。
それに私の部屋はこんなに片付いてない。
ん?
これってもしかして・・・。
- 294 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:12
-
なんだかこのベッドはいいにおいがする。
甘くてふんわりして落ち着くにおい。
どこかでかいだ覚えはあるのだけれど、それがいつのことか思い出せない。
あー。気持ちいいなぁ。
ここはいつものベッドよりもずっと寝心地がいい。また眠っちゃおうかなぁ。
・・・って、そんなことしてる場合じゃないよ。
やばいことになった。どうしよう。
良かった。とりあえず服は着ている。
それにしても、ここはどこなんだろう。
私はどうしてここにいるんだろう。
- 295 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:13
-
昨日はバイトでミスって、すごくヘコんで、
ひとみんに会いにいって、一緒にコンビに行って、原付で送っていって、
そのまま帰るつもりだったけどひとみんの部屋におじゃますることになって、
買ってきたアイスとか食べつつご飯ご馳走になって・・・・
・・・ってことは、ここ、もしかしてひとみんのうち?
そういえばなんかここ、見覚えあるかも。
暗くてよく分からないけど、上がったときにすごく片付いてるなって感じたし、
あのテレビもうちのに比べてすごく大きいなって思ったし、
あそこの時計もいかにもひとみんの趣味だなぁって気がした。
それにあそこに光ってる2つの点はたぶんさっき見た大きいプーさん。
暗いとこんなに怖いとは。さっきはかわいかったのに。
結論。ここは斉藤瞳さんの部屋。
- 296 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:14
-
あーーーっ!! どうしよう。どうしよう。
初めておじゃました人の家で眠り込むなんて、厚かましいにもほどがある。
その上自分が眠ったあたりの記憶がないだなんて。最低。
いくら疲れていたとはいえ、ありえないでしょ。
ひとみんが起きてきたら、とりあえずお礼を言って謝ろう。
少しでもイメージを回復しておかないと。
けど、ここがひとみんの家だとしたら、彼女はどこに?
ベッドはうちのよりも広いけれど、隣には誰もいない。
まぁいいや。どこかにはいるのだろう。
勝手に1Kだと思ってたけれどこのデラックスな部屋にはもしかしたら
他に部屋があるのかもしれないし。
- 297 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:15
-
時刻はまだ3時30分にもなっていない。
このままひとみんが起きてくるまで待っているのには早すぎる。
疲れているのだから、もう少し眠ろう。
それにこのベッドはすごく寝心地がいいわけだし。
とりあえずコンタクト外さなきゃ。
今日は朝から装着したから、もう20時間近く付けっぱなし。
目が痛くてしょうがない。
確かトイレのところに洗面所もついてたはず。
コンタクトを使い始めてもうだいぶ経つけれど、いまだに鏡の前でしか
付けられないし、外せない。
- 298 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:16
-
ん?
立ち上がった足元にふんわりやわらかい感触。
屈んでよく見るとなんだか布団っぽい。
なんだ。ひとみん、ここにいたのか。
暗かったのとベッドの高さから下が見えなかったので気づかなかったけれど
彼女は私のすぐそばで寝ていた。こういうのって、なんか嬉しい。
私をベッドに寝かせ、自分はカーペットが敷いてあるとはいえ固い
フローリングの上に薄い掛け布団1枚で眠っている。
こういうのがいかにも彼女らしい。
それにしても寒くないかな。寝心地悪いだろうし。申し訳ないことしたな。
- 299 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:18
-
眠っている彼女を起こさないように、間違っても踏んだりしないように、
ゆっくりと慎重に洗面所に向かう。
「・・・ん〜・・・」
やばっ! 起こしちゃった?
「・・・む〜・・・」
あ、良かった。大丈夫みたい。
なんか気持ちよさそうに眠ってるなぁ。
ドッドッドッドッ
心臓がうるさい。この音がひとみんを起こさないといいのだけど。
- 300 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:19
-
「・・・ま・・えちゃ・・・」
ん? 今、何ていった?
なんか聞き覚えのあるフレーズだったような気がしたんですが。
ドッドッドッドッドッドッ
黙れ心臓!
どうしようどうしよう。
・・・・ってどうもしないんだけれども。
「・・まさえちゃーん・・・・」
えーーー!?
やっぱり今の私の名前ですか!?
これってもしかしてこの人の夢の中にまで私がおじゃましているってことで
いいんですか?
- 301 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:20
-
ドッドッドッドッドッドッドッドッ
だからうるさいってば!そこのアナタ!
・・・・っていうか私なんだけど。
「・・んふふふ・・・」
うわーーー!!
なんか眠りながら笑ってるしー!!
しかもなんでまたこんなにも無邪気な顔して笑ってるんですか!?
そんな顔して微笑まないでちょうだいよ。かわいすぎますから。
ドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッドッ
あー!もう!
ヤバイヤバイ!見てられない!
- 302 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:21
-
- 303 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:22
-
このままここに居たらどうにかなりそうな気がして、ベッドの横にあった
鞄をつかんで彼女の家を出た。
急いでいたから確認はしてこなかったけれど、原付の鍵はちゃんと鞄の中に
あって、ホッとした。昨日とはうって変わって、今日はついている日なのかも
しれない。何か他に忘れているような気もするけれど、今日は気にしない。
だって取りに戻ることなんてできるわけない。
もう一度あそこに戻るなんて耐えられない。
とりあえず今日はとっとと自分の部屋に帰って眠らないと。疲れているのだから。
早いとこコンタクトもはずさないといい加減目が痛い。
あまり寝心地の良くない固いベッドと彼女の部屋とは大違いな散らかり放題の我が家が
今日はひどく恋しい。
- 304 名前: タイムロス 投稿日:2004/04/15(木) 00:22
-
- 305 名前:275 投稿日:2004/04/17(土) 01:21
- 更新乙です!
マサオは初々しいですねぇw
襲っちゃ(ry
では次回更新お待ちしております〜♪
- 306 名前: 対星 投稿日:2004/04/19(月) 00:12
- はじめはレスのお礼から。
>>305 275さま
ですよね。ここは襲うべきでしょう。まったくもうこの人は・・・・。w
(*`_´)<ヘタレは恥ずかしいことです。
- 307 名前: 投稿日:2004/04/19(月) 00:12
-
サラウンド
- 308 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:13
-
「いらっしゃいませ。こんばんは」
「この『苺のパルフェ』頼んだんだけど、まだ?」
「申し訳ございません。もう少々お待ちくださいませ」
「あの、コーヒーおかわりください」
「かしこまりました。ただいまお持ちいたします」
「ありがとうございます。またご利用くださいませ」
ファミレスのバイトも楽じゃない。お皿やらグラスやら持って歩き回って、
何かあるたびに頭下げて、笑いたくもないのに笑顔を作って。
もういい加減嫌気がさすけど働かないと食べていけない。一人暮らしの辛いところ。
- 309 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:15
-
あと10分。たったそれだけの辛抱だ。
「こちら、『シーザーサラダ』でございます」
あと5分。
「ありがとうございました。またご利用ください」
あと3分。
「かしこまりました。ご注文、以上でよろしいですか?」
あと1分。
「ありがとうございます。またご利用ください」
10:00だ。よし。今日の仕事、無事終了。
- 310 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:16
-
「スタッフ斉藤、シフトアウトします」
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
タイムカードを押して階段をあがって更衣室へ。
扉を閉めると速攻で靴をぬぐ。
立ちっぱなしの仕事はまず足をだめにする。指定された黒の革靴はヒールが5cm。
別にこんなに高い靴はく必要はないんだけど、私が持っている黒の革靴は
2足しかない。この制服にローファーはあわないような気がして、こっちの靴をはいている。
ストッキングも脱いで裸足になって、ロッカーにもたれて足をなげだす。
はぁ。気持ちいいな。
こうしていると足の裏からたまった疲れがぬけていくような気がする。
- 311 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:21
-
「お先にー」
「あ、お疲れー」
制服姿で座ったままの私の前を、同じ10:00あがりのシフトの子が
通り過ぎていく。私もそろそろ着替えようかな。あー。立ちたくないなー。
「お先に失礼しまーす」
「あー、斉藤ちゃん。お疲れー」
「お疲れさまでーす」
思い立って立ち上がってみるとその後の行動はスムーズに進む。
足取りもすごく軽い。仕事中より高くなってしまう声に気持ちがあらわれる。
あー。ようやく帰れるー。
それはすごく嬉しいんだけど、この先の暗い細道のことを思い出すと
げんなりする。あそこの道、ちょっと怖いんだよね。通りたくないな。
でも駅まではあの道を使わないとおそろしく遠回りになるからしょうがない。
やっぱり疲れているから長い距離を歩くのはいやだし。
- 312 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:22
-
「雅恵ちゃん?」
店の窓の右端あたりに座ってる半分だけの金髪。きっと彼女に違いない。
あんなアタマ、ちょっとやそっと探しても他にみつからない。
「何してるの?こんなところで」
「ぃえ? あー。ちょっとコンビに行こうと思って」
「わざわざここまで?雅恵ちゃんとこの近くの方がいっぱいあるんじゃない?」
「ぅん? あー。そうなんだけどねぇ」
「で、なに買おうとしてたの?」
「へぇ? あー。ちょっとアイスとか」
「今日蒸し暑いもんねー。いいなー。私も一緒に行っていい?」
「ほぃ? あー。うん。一緒に行こう」
やった! 思いがけずものすごく都合のいい展開。
ラッキーは歩いていれば拾えるところに落ちていたりするみたい。
それとも真面目に働いてる人間に神様は優しいのかもしれない。
雅恵ちゃんとお買い物だー。
場所はコンビニだけど、そんなこと気にならない。
- 313 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:24
-
- 314 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:24
-
「あー!気持ちいー!」
道路を挟んで向かいのお店のドアを押し開けると、冷たい風が迎え入れてくれた。
声を上げた雅恵ちゃんの額には、蛍光灯に照らされた汗が光っている。
コンビニの空調はすでに夏仕様。来週にはもう6月。
大学に入って1ヵ月半。雅恵ちゃんと出会って1ヶ月半。
ほんと早かったなぁ。
こんなペースでこれからも時間は流れていくのだろうか。
気がついたら6月になって、7月になって、夏休みに入って。
夏休みになると当然ながら授業はなくなる。雅恵ちゃんとも会えなくなる。
私たちのつながりは今のところ授業だけ。
少しは仲良くなったけど授業がなくなってしまえば切れてしまう。その程度の関係。
怖いなぁ。
このまま6月にならなければいいのに。夏になんてならなければいいのに。
- 315 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:25
-
「ひとみんはどれがいい?」
「え?」
雅恵ちゃんの声で我にかえる。
「ひとみん?」
やばい。ボーッとしてたみたい。
のぞき込んできた雅恵ちゃんの顔はどこか心配げ。
「どうしたの?」
「どうもしてない。どうもしてない。アイスどれにしよっか?」
「マサオはガリガリ君にしよっかな。だって今日、暑いんだもん」
「あはは。雅恵ちゃん、自分のことマサオとかいってるしー」
「え?おかしい?」
「おかしいよー」
「だってみんなそう呼ぶんだもん。クセになっちゃったよ。
で、ひとみんはどれにする?」
「ひとはー、これ。チョコアイス」
「ひとみんだって自分のことひととかいってるしー。私のこといえないじゃん」
雅恵ちゃんの笑顔にうれしくなる。
思わず私の口元もゆるんでしまう。
- 316 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:26
-
「アタシさ、お茶とか買いたいんだけど、いいかな?」
「うん。私も欲しいし」
アイスの他に緑茶やら雑誌やらお菓子やら。
カゴの中身はどんどん増える。
「雅恵ちゃん、重くない?」
「うん? 大丈夫。大丈夫。重くないよー」
「でも雅恵ちゃんだけに持たしてて悪いよ。半分持つって」
「いいのー?」
こんな風にありがとうなんていわれて笑いかけられたら、どうしていいか分からない。
耳が熱くなっていく。きっと顔とかもすごく赤くなってるんだろうな。
やだな。恥ずかしい。
- 317 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:27
-
- 318 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:28
-
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
聞きなれたセリフに送られて外に出る。
ドアを開けたらおそってきた生暖かい風に少しだけひるむ。
私たちが買い込んだものは2つのビニール袋にわけて入れられた。
でもさりげなく両方の袋を持ってくれる雅恵ちゃんはやっぱりすごく優しい。
「じゃあね。今日はありがとう」
コンビニを出たら思いがけないハッピーショッピングタイムは終了。
スクーターに鍵を差し込んでいる雅恵ちゃんの背中にお礼を言って家路に着く。
・・・・はずだったのだけれど。
- 319 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:29
-
「あれ? ひとみん、家帰るんじゃないの?」
「うん。そうだけど」
「なら乗っていかない? 家まで送るから」
「いいの?」
「いいにきまってるじゃん。おなじ方向だし」
ね。乗ってこう? なんていって屈託なく笑いかけてくる彼女の笑顔に
胸が苦しくなる。鼓動が早くなる。反対に頭の回転は遅くなる。
「ひとみん、大丈夫? いくよー?」
この前みたいにヘルメットをかぶるとシートの後ろ半分にまたがって、
雅恵ちゃんの背中につかまる。準備はOK。
- 320 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:29
-
発進したスクーターは車線の中央より左側をゆっくりと進む。この速さで
進んでいると歩いていても車で走っていても見えない街の風景が見えてくる。
夜の住宅街も街灯で意外に明るかったりとか、
繁華街はものすごくきらびやにかがやいているとか、
タクシーやトラックの運転手さんをはじめとして夜でも働いている人は沢山いるとか。
あたりまえなのに気づかなかったことがいっぱい。
暗い夜中に楽じゃない労働をしている自分はなんて頑張っているんだろう、なんて
今までの私はどこかでそう思っていた気がする。でも世の中には
こんな時間に働いてる人なんていっぱいいて、それは全然特別なことなんかじゃなくて。
いつも何の感情もなくただ通り過ぎていくだけの道が、今日はとてもきれいに見える。
顔に当たる風が心地いい。
雅恵ちゃんも同じ風をうけてる。たぶん同じように感じている。
ただそれだけのことがすごく嬉しい。
- 321 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:30
-
何台か自動車に抜かれたけど、スクーターはペースを変えることなく進む。
雅恵ちゃんの背中もほとんど動かない。
手を伸ばせばすぐのところにあるけれど、っていうか現に今つかまっているけれど
この背中はものすごく遠い。
後ろから思いっきり抱きしめてしまえればどんなにか楽だろう。
雅恵ちゃんに近づきたい。雅恵ちゃんにふれたい。
いつからこの気持ちはこんなにも大きくなってしまったのだろう。
でもそんなこと知られるわけにはいかない。
週に1回授業で顔をあわせて一緒にご飯を食べて、それ以外にもたまにこうやって会う。
今の関係はすごく都合がいい。壊したくない。
雅恵ちゃんの背中がずっとここにあってくれたらいいのに。
左手には見慣れたオレンジ色の大きなマーク。うちの裏手のスーパーはもうすぐそこ。
- 322 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/19(月) 00:30
-
- 323 名前:275 投稿日:2004/04/19(月) 04:36
- 更新乙です!
あぁなんて乙女で情緒纏綿なひとみん・・・!!
つーかこの2人の甘酸っぱ感(←!?)がたまらんです!
対星さんはすごいなぁ(゚Д゚)ウマー
では次回更新お待ちしていますー。
- 324 名前: 対星 投稿日:2004/04/23(金) 00:22
- レスのお礼です。
>>323 275さま
すごいだなんて。そんなそんな。ありがとうございます。光栄です。
それにしても情緒纏綿・・・・ _| ̄|○<ヨメナカッタ.....
( `_´)<頭が悪いのは恥ずかしいことです。
- 325 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:23
-
「ありがとう。この辺でいいよ」
スクーターは赤信号で停止。目の前にはいつものオレンジのスーパー。
横断歩道を越えると大きな交差点。その前の道を右折したらうちのアパート。
雅恵ちゃんちはもう少し直進。
「え? ひとみんの家ってこの道入ったとこだよね?」
「うん。そうだけど・・・」
「ならアパートの前まで送るよ」
- 326 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:41
-
うちに続く道はかなり小さい。もちろん歩道はないしセンターラインもない。
自動車一台通るのが精一杯。トラックなんて通れないんじゃないかな。
「ひとみーん。こっち?」
「ううん。ここ真っ直ぐ」
「わかったー」
徐行に近い速度で走っていると、雅恵ちゃんの声はちゃんと聞こえる。
「雅恵ちゃーん」
「うん?」
「雅恵ちゃんちって3丁目のどの辺?」
「うーんとねー。さっきの道行くと本屋があるじゃん?」
「あー。あるね」
「そこんとこで曲がって真っ直ぐ行くとコンビニがあるのね」
「うんうん」
雅恵ちゃんは運転をしつつも、少し首と腰を曲げてこちら振り返りながらしゃべる。
私に分かるように一生懸命になって説明してくれてるのがすごく伝わる。
「でね、そこの2つ右隣のアパートの2階」
「へぇ。2階なんだ。うちと一緒だね」
雅恵ちゃんと同じ階に住んでいる。新しい共通点。新しい感動。
- 327 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:42
-
「あ。ここ。ここ」
「これ?」
「うん」
うちのアパートのポストの前にスクーターは停止。
「すごーい! きれー! おっきーい!」
アゴを上げうちアパートを見上げ、やたらと興奮する雅恵ちゃん。
そんなにいうほどの家じゃないと思うんだけど。
「ありがとう」
「うん。どういたしまして」
ヘルメットをぬいで返す。
アゴのベルトはやっぱり上手につけられないけど、外すのはわりと簡単。
じゃあこれ、なんて言ってコンビニ袋を手渡される。ヘルメットと交換。
さっき買ったアイスとか雑誌とかが入ってるみたい。
- 328 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:46
-
「んじゃねー」
ヘルメットをかぶった雅恵ちゃんは、陽気な声を出して手を振ると、
今来た道を大通りの方へ走っていく。
いかにも彼女らしいあっさりした引き際はこの前と同じ。
今日のラーキーハプニングはこれで終了。
・・・のはずだったんだけど。
「待って」
予想以上に大きな声に、出した本人もちょっとびっくり。
でもそれ以上に思ってはいても口に出すつもりはなかった言葉が飛び出したことにびっくり。
- 329 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:47
-
「ん?どうしたの?」
ちょっと驚きつつも雅恵ちゃんは笑顔で戻ってきてくれる。
「あのね、さっきアイス買ったじゃない?」
「うん。買ったね」
「雅恵ちゃんちって近いけど、それでもここからだとまだちょっとかかるじゃない?」
「うん。かかるね」
「でさ、今日暑いじゃない?その間にアイス溶けちゃうんじゃないかな、って。
よかったらうちで食べてかない?」
両手がしきりに空をきる。口より手の方が激しく動いている。
雅恵ちゃんは相づちをうちながらもなんだかおかしそう。私がテンパっていることはきっとバレてる。
あー。もう。
「うん。じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
「え? いいの?」
「うん。ってかこっちこそ本当にいいの? 迷惑じゃない?」
「ううん。全然。迷惑じゃない。迷惑じゃない」
ラッキーはまだ続くみたい。神様、どうもありがとう。
- 330 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:49
-
「ただいまー」
階段を上がって一番奥が私の部屋。鍵を開けて中に入る。
中に誰もいないのがわかっていても、ついつい口にしてしまうお決まりの言葉。
「すごーい! 玄関広―い! 靴箱おっきーい!」
「靴脱いだらあがってねー」
まだ玄関でキョロキョロしている雅恵ちゃんをおいて荷物の整理。
アイスはとりあえず冷凍庫で、緑茶とヨーグルトは冷蔵庫。
スナック類は戸棚にしまって、チョコはベッドサイドのチェストの上。
「おじゃましまーす」
コンビニ袋が空になった頃、ようやく雅恵ちゃんが入ってきた。
「その辺に適当に座ってねー」
「うん。ありがとー」
なんかこういうのっていい。友達っぽい。親友っぽい。いいな。いいな。
- 331 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:51
-
「そういえば雅恵ちゃん夜ご飯食べたー?」
「え? 食べてないけど」
「あのさ、カレーあるんだけど、食べない?」
「いいの? 食べる。食べる。」
昨日なんとなく作り置きしていたカレーはまだ鍋半分ぐらい残っている。
朝炊いて保温しっぱなしのご飯は少しばかり固くなってはいるけど問題ない。
「いただきます」
両手を合わせたあと、雅恵ちゃんはスプーンをとる。
昨日作ったカレーはちょっといつもよりも頑張った力作。
あゆみオススメのジャワカレーは私には辛すぎるから、すりりんごとはちみつで
微調整してみた。我ながらけっこう、というかかなり美味しく出来ていると思う。
それでもやっぱり緊張してしまうこの瞬間。
- 332 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:52
-
「・・・どう?」
雅恵ちゃんの反応を知りたいような、知りたくないような。
でもけっきょく気になって自分から聞いてしまう。
「すごくおいしい」
「ほんと?」
「うん。なんか今まで食べたカレーの中で一番おいしいかも」
おかわりもらってもいい? なんていいながら雅恵ちゃんはハイペースでスプーンを口に運ぶ。
褒めてくれる言葉ももちろん嬉しいのだけれど、それ以上においしそうに
ほうばる姿に嬉しくなる。
昨日カレー作っといて良かった。昨日の私、ありがとう。
- 333 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:54
-
「そろそろアイス食べようか」
「あー。マサオはいいや。もうお腹いっぱい」
「そう?」
結局、雅恵ちゃんは私が出したカレー2杯とサラダを完食した。
もう食べたくないっていうのはよく分かる。
すっかりきれいになったお皿をシンクまで運び、その横に陣取っている
冷凍庫の扉をあけて、さっき買ったカップアイスを取り出す。
フレーバーはもちろんチョコレート。
今日はアイスを食べるって決めてたのだから。
自分1人で、っていうのは何か違う気がするけど。
- 334 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:55
-
「これ、見せてもらってもいい?」
「うん。どうぞー」
雅恵ちゃんが手にとったのはファッション誌。さっきのコンビニ袋に
一緒に入っていたもの。
「・・ふーん・・・・ほぉ・・・」
雅恵ちゃんはなにやら感心した様子でページをめくっている。
目の前の雑誌にうつる服は明らかに彼女の趣味ではないように思うのだけど。
静かになった部屋に雑誌をめくる乾いた音だけがゆっくりとしたペースで響く。
何か話さなきゃ。
話題を見つけなきゃ。
あー。どうしよう。
「ごめん。テレビつけてもいいかな」
「うん。いーよー」
沈黙がどうしても居心地悪くて、結局テレビの力に頼る。こんな時に
上手に何か話せたらいいのだけど。
- 335 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 00:56
-
「・・・日差しが心地いい、初夏らしい陽気になるでしょう。東京は・・・」
ふーん。明日は天気いいんだぁ。
数あるチャンネルから選んだのは落ち着いたニュース番組。
バラエティはうるさいしスポーツには興味がない。ニュースが一番当たり障りが
なくて妥当な選択かな、と思ったのだけどそうでもなかった。
たいして重要でもない情報ばかりで、わざわざつけているのはしらじらしい。
居心地の悪さは逆に増してしまった。
はぁ。どうしたもんだろう。
他にやることがないからアイスをつつく。甘ったるい脂肪が口の中に広がる。
お気に入りのいつもの味なのに今日はちょっと甘すぎるように感じる。
目の前の茶色いかたまりはけずってもけずっても一向に小さくならない。
手の平に乗っているカップがとてつもなく大きな物に感じられる。
- 336 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 01:01
-
「あのさ、ちょっともらってもいいかな?」
「へ?」
不意に隣から聞こえた言葉に思わず出てしまった変な声。
「あ、ごめん」
「うん? いいよ。いいよ。どんどん食べて」
「ほんと? じゃあお言葉に甘えて」
雑誌をおいた雅恵ちゃんにスプーン入りのカップをさしだす。
「いやー。ごめんねー」
「ううん。全然」
「なんか人が食べてるの見てるとついつい自分まで食べたくなっちゃうんだよね」
おいしいとか甘いとかチョコだとか、一口ごとに感想をいいながら
せっせとスプーンを口に運ぶ姿はなんだか小さい子みたいでかわいい。
思わず笑いをもらした私に雅恵ちゃんは不思議そうな顔でどうしたの?なんて
きいてきたけど、さっき思ったことは言わないでおいた。
- 337 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 01:02
-
あれだけ多く感じられたアイスも2人で食べるとそんなに大変な量ではなく
あっけなく片づいてくれた。
カップを捨てると雑誌タイム再開。
雅恵ちゃんは壁によりかかりベッドの上で体育座りのような姿勢で雑誌を読んでいる。
2冊目に突入した彼女の隣に座り、彼女がさっきまで読んでいたものを手にとる。
どう考えても面白くはないTVはもう消した。
夢中になって読んでいる雅恵ちゃんの邪魔はしたくなくて、私も黙って雑誌を開く。
部屋にはページをめくる音だけが響いている。
さっきまであれほど嫌だった沈黙は気にならない。むしろ心地いいぐらい。
- 338 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 01:02
-
あれ?
読み始めてからどれぐらい経っただろうか。
後ろの方にあるダイエット食品の宣伝まですべて読み終えたころ、
私は隣から音が聞こえなくなっていることに気がついた。
隣に目をやると、さっきまで壁にもたれて雑誌を読んでいた雅恵ちゃんは
同じ姿勢のまま90度回転していた。足を曲げ、小さくなってベッドに寝転がっている。
あー。これは完全に寝てるね。
- 339 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 01:03
-
すやすやと安らかな顔で眠る彼女の顔は無邪気そのもの。
いつも優しくてかわいくてカッコいい彼女とはまた違った顔。
かわいいなぁ。きれいだなぁ。
見つめているとなんだかほほえましい気持ちになって思わず顔がニヤけてしまう。
そういえばこんなにまっすぐ彼女の顔を見ることはあまりない。初めてかもしれない。
神様、ありがとう。貴重なこの機会、大事にさせていただきます。
- 340 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 01:04
-
明日は金曜日。
普通に学校はある日だけれど、確か雅恵ちゃんは授業入れてなかったはず。
ハッピーマンデーの週は4連休になるんだよ、なんてちょっと
得意げに話していたことを思い出す。
でもきっとこれって村っちの入れ知恵なんだろうな。
さすが3年生ともなるといろいろなアイディアを知っている。
今日はこのままうちに泊まっていってもらうことにしよう。
気持ちよさそうに眠っているところを起こすのは申し訳ないし。
もっとも私がもうちょっとこの寝顔を見ていたいっていうのが
彼女を起こさない一番の理由なんだけど。
- 341 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/23(金) 01:04
-
- 342 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:02
-
ピピピピ ピピピピ
目覚ましを止めて起きあがる。7:30。よし。いつも通り。
チェストの上にあるチョコレートを一つ口に入れたら、とりあえず洗面所へ向かう。
寝起きのままの姿じゃ恥ずかしい。顔を洗って寝ぐせをなおして歯を磨く。
うーん。
歯ブラシを口にいれたまま伸びをする。
曇りガラスごしに見える空は青い。今日も天気はいいみたい。
口の中に広がるミントの香りでだんだん目がさめてきた。
よし。今日も1日頑張るぞ。
- 343 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:04
-
すっきり爽やかな気分で部屋に戻ると、ベッドに人影はなかった。
掛け布団はめくれあがり、人がいた形跡は色濃く残っているのに。
どういうことだろう?
昨日は雅恵ちゃんがうちに来て、ご飯食べたあと雑誌読んでるうちに
雅恵ちゃんは眠っちゃって、そのままここで寝ていたはずなのだけど。
どこ行っちゃったんだろう。
トイレかな。でもそんなかんじじゃないし。
コンビニかな。でも何を買いに?今日の朝食はもう昨日買ったし。
散歩かな。でもなんか不自然だよね。それ。
- 344 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:04
-
そういえば雅恵ちゃんの荷物が見あたらない。HEMのミニボストン。
教科書とかいろいろ入っていて、見るからに重そうだったあのバッグ。
カバンがないってことは、雅恵ちゃん、帰っちゃったのかな。
はぁ。なんか一気に脱力。
そっか。雅恵ちゃん帰っちゃったのか。
一緒に朝ご飯食べれると思ってたのになぁ。
まぁしょうがないか。
休みなら休みなりに彼女にはいろいろと予定があるのだろうし。
もしかしたら普通に授業がある日より忙しいのかもしれないし。
そういえば今日はゴミ出しの日。金曜日は燃えるゴミと資源ゴミ。
まだまとめてなかった。ゴミ出しは8時半まで。急がなくちゃヤバい。
今日の2限はフランス語。たしか宿題が出ていたはず。やってないし。
ばっちり出欠をとるから遅刻はできないし。こっちもやっておかないと。
のんびりしている場合じゃない。
- 345 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:05
-
- 346 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:06
-
「ただいまー」
扉をあけるといつもの我が家。やっぱいいな。自分の部屋は。
今日は2・3・5限と3コマも授業があったから、特にそう思う。
玄関にバッグを置くと、冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出す。
昨日雅恵ちゃんと買ったもの。
昨日は楽しかったなぁ。雅恵ちゃん、また来てくれるといいなぁ。
- 347 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:07
-
コップに緑茶を注いで部屋に持って入ると、
本棚の横に私の部屋にはどうも似つかわしくない物があることに気がついた。
どういうことだろう?
見慣れた黒のメッシュキャップは雅恵ちゃんのお気に入り。
なにせ髪の色が派手だから、帽子でもかぶっていないと電車の中とかで
じろじろ見られて落ち着かないらしい。
どうしたんだろう。忘れていったのかな。
来週のテーマカレッジは休講。次に雅恵ちゃんと授業で会うのは再来週。
10日以上も先のことになる。
よし。届けに行こう。
他人が忘れていった物が家にあるっていうのはやっぱり気になる。
持ち主のもとに返したい。
こういうのは早い方が良い。時間が経てば経つほどタイミングが難しくなる。
- 348 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:07
-
- 349 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:07
-
ありふれたアパートの階段を上り通路を進むと、目的の部屋はすぐに見つかった。
ドアの右上にかかげられているのは彼女の名字。
間違いなく、ここが雅恵ちゃんの家。
勢いで来てしまったのはいいけれど・・・・
いざ目の前にすると何も行動できない。
インターフォンなんて押せやしない。
いきなり家に押し掛けられたら絶対迷惑だし。
友達とかもしかしたら彼氏とかが来てるかもしれないし。
せめて来る前に電話のひとつでも入れておけばよかった。
自分の気の回らなさ加減に頭が痛くなる。
ドアの前に立って、私の動きは止まったまま。
それでも時間の動きは止まってはくれない。
むしろよけいに早くなっているように感じる。
もう大分長いことここでこうしているような気がする。
どうしても体が動いてくれない。
どう考えても私が今ここに来ていることは間違っていて、
大人しく帰るのが正解なんだってことはよくわかっているんだけど。
- 350 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:08
-
ゴンッ
鈍い音とともに前頭部に激痛が走る。
自分の額に何かが当たったことを理解するのに5秒ほどかかった。
なんなのよ。もう。
コブでもできたらどうしてくれるのよ。まったく。
「あれ? ひとみん!」
「へ? 雅恵ちゃん?」
顔を出したのはまぎれもなく雅恵ちゃん。
予想していなかった展開を解釈するのにまた時間がかかる。
どういうこと? なんでまた?
どうやら私のおでこに当たったのはドアで、それを開けたのは彼女みたいで。
そういえばここは彼女の家。そこから彼女が出てくるのは何も不思議ではない。
「ごめん。今、ドアぶつけたよね? 大丈夫? 痛くない?」
「ううん。全然。痛くない。痛くない。大丈夫だから」
「本当? ごめんね」
背をかがめて、彼女よりちょっとだけ背が低い私の顔を心配そうにのぞきこみ、
ひたすら謝る雅恵ちゃん。
いかにも申し訳なさそうな雅恵ちゃんの態度に、こっちが申し訳なくなる。
だってこんなとこにいる方が悪いし、雅恵ちゃんは私がいることなんて知らなかったわけだし。
こんな顔させてこちらこそごめんなさい。
- 351 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:08
-
「そういえばさ、どうしたの?」
「あのね、昨日うちに帽子忘れたでしょ? 届けに来たの」
ようやく本題に入り、私は彼女に右手に握りしめていたキャップを差し出す。
「そうそう。置いていっちゃったの。わざわざごめんねぇ」
「ううん」
「あと、昨日は黙って帰っちゃってごめんね」
「気にしないで」
「ってかその前に、泊めてもらちゃってほんとごめん」
「いいって」
雅恵ちゃん平謝りタイム再開。
そんなに謝ることじゃないのに。
帽子届けに来たのも泊まってもらったのも私の勝手だし。
私が起きる前に帰っちゃったのはそりゃちょっと寂しかったけど。
- 352 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:09
-
「あのさ、ここじゃなんだからさ、うちあがっていかない?」
「え?」
「あ、時間ないんだったらいいんだけど」
「ううん。そんなことない。そんなことない」
良かったぁ、なんて言って目を細める彼女のやわらかい笑顔に
心臓が跳ねあがる。急速に首から上に血があつまっていく。
雅恵ちゃんといるときに出てしまういつもの症状。
あー。もう。
とっさに落としてしまった視線を上げると、雅恵ちゃんと目があった。
どんどん症状が悪化していくのがわかる。
恥ずかしくって何も出できないけれど、それでも幸せなのは何でだろう。
- 353 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:09
-
「あーっ!! ひとみん、ちょっとそこで待ってて!!」
急に眉間にしわを寄せて叫んだかと思った瞬間にはすでにドアは閉まっていた。
耳には重い金属音だけがのこる。目にはクリーム色の扉だけがうつる。
なんなの? どうしたの?
呆気にとられているうちに、さっきまでの症状は見事に消えていた。
- 354 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:09
-
- 355 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:10
-
「・・ごめん・・・・いいよ・・入って・・・」
待っていること約5分(体内時計計測)、目の前の扉が開いた。
出てきた雅恵ちゃんは明らかに息を切らせている。
「いいの?」
「・・・うん・・・いい・・よ・・」
ただ事じゃなさそうな彼女の様子にちょっと心配になって思わず聞いてみた。
けれどやっぱりただ事じゃなさそうな声によけい心配になる。
本当にあがっていいのだろうか。
「おじゃましまーす」
サンダルを脱いで上がった雅恵ちゃんの家はすごく片付いている。
うちと違って物自体が少ない。シンプルイズザベストってかんじ。
いかにも雅恵ちゃんらしい部屋。
- 356 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:11
-
「ん?」
妙な予感がして右方向を見ると、目があった。
水槽の中で水草とたわむれているのは一匹の魚。
蛍光がかった緑色のからだに黒い斑点がとんでいる。
飛び出た黄色い目と膨れた白いおなか。
なんでこんなところに魚が・・・・
「あー。この子ねぇ、ハイハイっていうんだ。
緑フグっていってね、フグの一種なの」
雅恵ちゃんは目を細めてうれしそうにしゃべる。
この顔はペットを飼う人に共通しているものらしい。
たしか飼い始めたチワワのことを話しているとき、あゆみもこんな顔してた。
「すごいかわいいんだよぉ。マサオが餌持ってくるとね、ちゃんと分かるの」
魚? なんて思ったけど、飼っている方にしたら犬とか猫とかと一緒みたい。
熱帯魚とか、金魚とかじゃなくてフグっていうのは雅恵ちゃんらしいかも。
人と違ったものが見えていて、違うものを大切にして。
そういうところが好きなんだよなぁ。
- 357 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:12
-
「それでね、水替えてあげたりするとすごい嬉しそうにするの」
熱弁している隣の人の視線はずっと水槽の中。
水槽じゃなくて彼女をすぐ横で見つめている私はきっと視界に入ってない。
聞いているのはきっと私じゃなくてもべつにかまわないだろう。
「ね、かわいいでしょ? こないだなんかね」
ハイハイに向ける雅恵ちゃんの顔はすごくきれい。すごく優しい。
愛しそうにハイハイを見つめる雅恵ちゃんからはすごい愛をかんじる。
いいなぁ。ハイハイは。
私もあんな風に愛されたい。あの優しい視線を向けられてみたい。
フグに妬いたってしょうがないことは分かっているし、
願ってもかなわないということも分かっているけれど、
30cmの距離にある横顔を見ているとそう思わずにはいられなかった。
- 358 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/25(日) 06:12
-
- 359 名前:275 投稿日:2004/04/28(水) 01:52
- 更新乙です!
ペットに妬くひとみんキャワ!
まぁこの状況になったからには…!!
マサオの勇気に期待しる!w
では次回更新お待ちしております!
- 360 名前: 対星 投稿日:2004/04/30(金) 00:19
- 本文の前にレスのお礼を。
>>359 275さま
まぁこの先は頑張れマサオ!ということで。
共に応援することにしましょう。w
それでは今日の更新いってみます。
- 361 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:21
-
授業が終わり教室をでると、水分をふくんだ重い空気がまとわりつく。
気温自体は大したことないんだろうけど、やたら暑いのはこの湿度のせい。
外は雨だから仕方がない。
これだけイヤな天気なのに、それでも気分は悪くない。
自分でも不思議なくらい。
もうけっこうな時間が流れたけれど、あの日のふわふわしたドキドキは続いている。
おかげで土日のバイトも今までにないくらい楽しくできた。
面倒なフランス語の予習もスイスイ進んだ。
毎朝うんざりする通勤ラッシュもそれほどイヤじゃなかった。
こんなこと初めて。
雅恵ちゃんの家に行って、忘れ物の帽子を渡して、一緒にテレビ見て、ご飯食べて。
たったそれだけのことで、と思われるかもしれないけれど私にとっては大事件。
彼女の愛を一身に受けるハイハイには妬けちゃったけれど、
帰りに私がアパートの階段で足をすべらせたとき、差し出してくれた手は
やっぱりすごくあたたかくて、雅恵ちゃんの顔はすごく優しくて
ハイハイになれなくてもいいと思った。
- 362 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:22
-
傘を開いてメインキャンパスの方向へ足を進める。
今日は2限のテーマカレッジが休講になってしまったから、あっちに行くことは
ないかと思っていたんだけれど、用事ができてしまった。
4限の授業で出されたレポート課題の資料はあっちの図書館にしかないらしい。
文学部からメインキャンパスの図書館まではけっこう遠い。
自分の学部で用意できない本を課題にしないでよ、なんて思わないこともないけれど、
雨の中、学生で込み合った道を500m歩くこともべつに苦痛ではない。
そんな気分。
- 363 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:22
-
歩道を傘がうめつくしている光景はなかなかおもしろい。
ほとんどの人がビニール傘を使っている中で、たまに見かける色付きの傘は
まさに花のよう。すごくきれいですごく目立つ。
あ
なんともメルヘンな淡い緑の傘からのぞく茶色い髪と異様に細い背中は
紛れもなくあの人のもの。
意外な場所で意外な人を見つけてちょっと嬉しくなる。
意外、とはいってもあの人も同じ大学の学生なのだから、ここにいるのは
むしろ自然なことなんだけど。
同じ方向に歩いているってことは村っちも図書館に行くのかな。
それなら一緒に行きたいな。メインキャンパスの図書館は初めてだし。
- 364 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:23
-
声をかけようと早足で歩いているのにも関わらず、私たちの距離は一向に
縮まらない。それどころかよけいに広がっているような気さえする。
私が反対方向から来る人に傘をぶつけて止まっている間に、すれ違う人たちを
華麗によけて村っちは進む。
そうこうしているうちにいつの間にか私は彼女を見失ってしまった。
まぁいいや。ひとりでも行けるし。
- 365 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:23
-
- 366 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:23
-
そびえ立つ建物は堂々としていて前にする物を圧倒する。
『波浪大学総合図書館』と楷書で書かれたいかめしい門。
建物のエントランスまで続く階段はやたら長く、そして広い。
図書館という施設には不似合いなほど大きなベンチスペース。
その隅で自己主張する立派な欅の木とその下で悠然としている創設者の銅像。
ブリティッシュブロックと呼ばれる2種類の煉瓦を用いた外壁と大きな窓。
なんだかえらいところにきてしまった。
私には文学部のこじんまりとした図書館の方があっている気がする。
- 367 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:24
-
でもここで帰るわけにはいかない。火曜3限はいつも雅恵ちゃんとサボっていて
ただでさえ出席がやばいのだから、レポートを出さなければ単位はもらえない。
勇気を出して階段を上りたどり着いた自動ドアの先にも同じ世界が広がっていた。
トランポリンができそうなほど高い天井に広々としたロビー。
その中央に鎮座するうちのベットよりも明らかに大きいソファー。
静まり返ったフロアに響く自分の足音すらも私を圧倒する。
ダメだ。ここで負けちゃいけない。
- 368 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:25
-
サイフから学生証を取り出し、パスに通すと緑色のランプがついた。
よかった。入っていいみたい。
ここの学生として当然の権利の行使が認められただけなのに、なぜかホッとする。
付随するものからして、どんなに立派なものかと想像していた図書館の中は意外に普通。
確かに広々とした造りではあるけれど、天井は低いし、大した威圧感はない。
本棚、自習スペース、貸し出しカウンターに検索コーナー。配置も普通。
ただちょっと普通じゃないのは2階から4階までの3つのフロアを占有してること。
いったいどのぐらいの数の書籍をそろえているのだろう。
そしてエレベーターで入ることができない1階には何があるのだろう。
課題の文献の検索は後回し。
その前に今日はこの建物をまわってみることにしよう。
- 369 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:26
-
とりあえずエレベーターに乗り込み4階のボタンを押す。
入る前に長い階段をあがっただけあって、2階はかなり見晴らしがよかった。
それなら4階から見える景色はいったいどんなものなんだろう、なんて思って
行き先は下方ではなく上方になった。
っていうか1階へ降りるルートが見つからなかっただけなんだけど。
この施設に似合わず、狭くて動きの遅いエレベーターのドアが開くと、
目の前には一面に広がる大パノラマ。メインキャンパスだけじゃなく、
文学部キャンパスまで、いやもっと遠くまで見渡せる。
「うわっ・・・」
思わずこぼれてしまった声に一人で焦る。
だってここは図書館。静かにしていなくちゃいけないところ。
でも周りにいる人は誰も私のことなんて見ていない。それ以前に人がいない。
人口密度はさっきまでいた2階とは比べものにならない。
あー。良かった。
- 370 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:26
-
目の前にある案内板によると、どうやら2階は文庫本や一般書籍、
3階は政治学、法学、経済学といったこの大学では文系の学部で扱う学問の専門書、
4階は化学、物理、生物、地学など理系の学部が扱う範囲の書籍、と
分類されているみたい。
どうりで人が少ないわけだ。
理工学部はもっと離れたところに独立したキャンパスを持っているから、
理系の学生はここの図書館は利用しない。
文系の学生でこっちの分野に興味を持つ人はきっと多くないだろうから、
文系の学生は4階まで上がってこない。
いいなぁ、ここ。
2階もすごく良かったんだけど、私はこっちのほうが好き。
テストやレポートの役に立つ本はないかもしれないけど、すごく落ち着く。
今度から時間が空いたときはここでつぶすことにしよう。
もしかしたら雅恵ちゃんに会えるかもしれないし。
- 371 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:27
-
理系の本ってどんなのだろう。ちょっと見てみようかな。
怖い物見たさみたいな好奇心におそわれ、本棚をのぞいてみることにする。
うーん。
なんか古い感じの本が多いなぁ。背表紙が破損している物も多いし。
うわっ。なにこれ。
左右両面にずらっと同じ本が並んでいる棚を発見。
足を踏み入れた先は『理化学辞典』のコーナー。同じだと思ったものはすべて
発行年数が異なるらしい。
こうして並べてみるとまさに壮観。
でも版によってそんなに内容は違うのかな。
こんな風に並べてみても比べてみる人なんているのかな。
あ。なんかかわいい。
日本のものとは違って海外の専門書の装丁はすごくかわいい。
カラフルな柄や文字がおどるカバーはちょっとおしゃれ。持ち歩きたいくらい。
きっと頭が痛くなるような内容が書いてあるんだろうけど。
- 372 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:27
-
あ。
意外なところで意外な人に遭遇。
あのまっすぐにのびた背中と薄い身体は紛れもなくあの人のもの。
棚の前で本を手にとり熱心に眺めている。
今度は本当に意外。まさかこんなところで会うなんて。
今度こそ声をかけようとして歩み寄ったけれど、2歩ほどすすんだところで
村っちがいつになく真剣な顔をしていることに気がついた。
眉間にしわを寄せ、食い入るようにして手の上にある本を見つめている。
なんだろう。勉強中かな。
それにしても彼女が釘付けになっている棚のカテゴリーは『畜産・酪農』
なんでそんな本こんな熱心に読んでいるんだろう。
- 373 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:28
-
邪魔しちゃいけないと思って近づけないでいるうちに、村っちは本を閉じて
早足で歩いていってしまった。
あー。まただ。今日2回目。
私はまたしても彼女においていかれてしまった。
- 374 名前: サラウンド 投稿日:2004/04/30(金) 00:28
-
- 375 名前: 投稿日:2004/05/02(日) 23:31
-
- 376 名前: 投稿日:2004/05/02(日) 23:33
-
モノクローム
- 377 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:34
-
「古文の範囲ってどこまで?」
「えーとね、たしか14ページから48ページまでだったと思うよ。
ほら、幼女の家に挨拶に行くとこ」
「あー。あそこか。・・・古文はオッケーっと。で、日本史は?」
目の前で繰り広げられる恒例の光景。テスト前の風物詩。
「ごめん。わかんない。私、世界史選択だからさ」
「まじかー。ならいいや。ありがとね。」
ここでミカちゃんはギブアップ。
でも英語・地学・漢文・古文の4科目をクリアしたのだから立派なものだ。
さすがミカちゃん。
「あ。柴っちゃーん。日本史のテスト範囲分かる?」
「うん。摂関政治の始まりから鎌倉時代の終わりまでだったかな」
「おう。ありがとー。柴っちゃん素晴らしい」
「ってかさ、さっきの授業でいわれたよね?」
「え? そうなの?」
「そうだよ。あさみ、また寝てたでしょ?」
「うん。だって眠いんだもん」
悪びれたところのない明るい笑顔にこっちが脱力してしまう。
こんな人がいつも私よりはるかに高い点数を叩き出すのだからイヤになる。
明後日からテストが始まる。
せっかく7月に入って晴れの日が多くなって嬉しかったのに。まったく。
- 378 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:35
-
たしかに憂鬱なのは変わらないんだけど、今回はいつもよりは心が軽い。
いつも一番の心配である数学が今回は足をひっぱらないでくれそうだから。
これはやっぱり毎週月曜の『村田博士の数学講座』のおかげ。
あの人に近づきたい、っていうただそれだけの不純な動機で始まったものだけど
意外に勉強の方でも成果を発揮してくれた。
うちの高校には付属の大学があって、ほとんどの生徒がそこの大学に進学する。
受験する必要もないし、授業にさえ出ていれば卒業はできる。
テストや通知票の数字で突きつけられるのはけっこうキツいけれど、
それにさえ目をつぶれば嫌いな科目は避けて通ることができる。
私は今までその状況に甘えていた。数学には目を背けてきた。
村っちに教わるようになって、本当に久しぶりに学校の授業以外で
数学の勉強をするようになった。村っちに頭が悪いところは見せたくないから、
教わっている時間以外にもちゃんと勉強した。
努力のかいがあってか、確実に実力はついてきたと思う。
- 379 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:36
-
「あれっ。柴っちゃん、もう帰っちゃうの?」
「うん。ちょっと用事あるんだ。あさみたちはまだ学校のこってくの?」
いくら付属校でテストで点数をとる必要がないとはいえ、みんなそれなりに
力を入れる。テスト一週間前は部活もなくなるし、ほとんどの生徒は
その分早く家に帰りテスト対策をする。
こんな日でもいつもどおりの生活を崩さないのはこの子たちぐらい。
「うん。これから少し練習してく。みうながまだ全然吹けないからさ」
「そっか。頑張ってね」
「うん。頑張るさー」
そういえば再来週の礼拝でやる曲は金管のパートがかなり多いアレンジになっている。
あさみの気合いが入るのは当然だろう。
それでもやっぱり今はテスト前。
みうなちゃんは正直なところ先輩の気合いに迷惑してるんじゃないかな。
ちょっと心配になる。
- 380 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:36
-
「失礼しまーす」
ドアをあける大きな音とともに黒髪の女の子が入ってきた。
なんかみうなちゃん、2人に似てきたな。
「あさみちゃーん。何してんですか。遅いですよ」
「ああ、ごめんごめん。 じゃあ柴っちゃん、またねー」
さっきのは私の取り越し苦労だったみたい。
笑顔で手をふる2つ下のあの子はきっと迷惑だなんて思っていない。
でもそうすると逆にみうなちゃんの成績の方が心配になってくる。
まいちゃんもあさみちゃんもなんだかんだいって頭が良いから心配はいらないと
思うんだけど、みうなちゃんは転入生。ちゃんと授業についていけてるのかな。
まぁいいや。
本当に困ったら勉強の方も2人に教わればいいでしょ。
- 381 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:37
-
階段を降りて靴をはきかえ校舎をでる。
冷房がきいた教室にいたときには気づかなかったけれど、今日はかなり暑い。
夏服が似合う季節になってきた。そりゃ期末テストが始まるわけだ。
テストが始まるということは、もうすぐテストが終わるということ。
テストが終わるということは、『村田博士の数学講座』も終わるということ。
それはつまり私があの人に会う機会もその大義名分もなくなるということ。
憂鬱な気分で駅の方向へ足を進める。
駅を通り過ぎて学校とは反対方向の大通りのわきに目的の場所はある。
「あ、あゆみん。こっちこっち」
ドアを開けると店員の挨拶とほぼ同時に聞きなれた声がむかえてくれる。
相変わらず私の名前はちゃんと言えてない。
- 382 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:37
-
この人はすごく活舌が悪い。『村田博士の数学講座』で学んだこと。
ヤ行の発音は苦手みたい。他にもいろいろ苦手な音がある。
はじめの方は聞き取るのに苦労したり思わず吹き出しちゃったりしていたけれど
もうだいぶ慣れた。
「今日はちょっと準備してきたんだ」
なにやら得意げな顔で村っちが取りだしたのはB4版の紙2枚。
1枚目の左上にかかれた文字は『定期試験対策実力テスト』
「・・・ぇ? これやるんですか?」
さらっと問題を見渡す限り、いつも私がといているものよりも難易度は高い。
ちょっと前の私だったら目にした瞬間に問題集をとじてしまうような問題が並ぶ。
最近はちょっと自信がついてきたけれど、それでも解こうとは思わない、
そういうタイプの問題。
「うん。そだよー」
「ちょっとこれは・・・・」
「大丈夫だって。解いてみなよ。できるから」
「そんなこといわれたって・・・」
いろいろ言いたいことはあったけれど、この人に言っても無駄なことはもう知っている。
渋々と、ではあるけれど私は1問目から解きはじめることにした。
- 383 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:37
-
ん?
なんでだろう。解き方がわかる。
あっ。
axでくくって出てきたのは見たことがある形の式。これなら解ける。
おっ。
よく見るとこの形、村っちと解いたことある。おひさしぶりです。
うん?
これってあのときの公式がつかえそうなかんじ。
あれ?
なんか変だ。スムーズに解けてる。
- 384 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:38
-
「はーい。終了」
村っちの声でペンを置き、解答用紙を彼女にわたす。
どうだろう。
紙の上半分をおりまげて持つ彼女の右手にある赤ペンの動きはうかがい知れない。
とりあえず夢中で解いてみたけれど、やっぱり時間は足りなくて、
見直しまではできなかった。正直いうとあまり自信はない。
あー。やっぱりだめだったのかなぁ。
眉間にしわを寄せ、いつも少しだけ下がっている眉を上げた彼女の表情に不安が募る。
- 385 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:39
-
「うん。よくできてるね」
顔を上げた彼女の口から出てきたのは意外な言葉。
「へ? 本当ですか?」
「うん。私が採点するとしたら7割ぐらいかなぁ」
7割かぁ。なんか微妙な点数。
この前の中間がたしか62点だったから、私にとってはそれなりにいい数字なんだけど
喜べるほどいいってわけじゃない点数。
「ほら、こことかさ、条件抜けてるでしょ?
答えの前にa>0ってちゃんと書いとかないと点ひかれるよ」
「はい。書くようにします」
「あと、ここ。+と−違ってる。もったいないよ。こういうミスは」
「はい。気をつけます」
「それでここだね。このグラフ、題意に合ってないよね?
解は3つとも正なわけだから、y軸の位置はここじゃないんじゃないの」
「はい。そうです」
ミスばっかりだ。
ちょっとはできるようになったと思ったのは思い上がりだったのかなぁ。
- 386 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:39
-
「でもね」
村っちがゆっくりと口を開く。
やっぱりおかしいナ行の発音に少しだけ心がゆるむ。
「この問題さ、はじめの頃のあゆみんだったらさ、きっと手つけることも
なかったと思うんだ。うん。だからちゃんと解けるようになったのは
すごい進歩なんだよ」
時おり顔を上げながら、一つ一つの言葉を確認しながら村っちは話す。
この人、こんなに私のことちゃんと見ていてくれたんだ。
いつもと違った真剣な顔が今はちょっとうれしい。
「ほんと、よく頑張ったね」
村っちの言葉にようやく素直にうなずくことができた。
- 387 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:40
-
「短い間でしたけど、今までありがとうございました」
勉強の時間が終わり、いつものようにコーヒーとフラペチーノがのったトレイを
持って戻ってきた村っちに頭をさげる。
絶対に今日のこの時間に伝えようと思っていた感謝の気持ち。
単に村っちと近づきたかっただけで、べつに数学の勉強なんてするつもりの
なかった私に村っちは熱心に教えてくれた。
キレイなお姉さんといった風貌にそぐわず舌がうまく回らなかったり
子供っぽい部分があったり。それでもやっぱりすごく視野が広くて
大人な部分はしっかり兼ね備えていて。
回数を重ねる度に今まで知らなかった村っちの新しい一面を見ることができた。
遠くからただ見ていた頃からは考えられないほど村っちに近づくことができた。
「なに?どうしたの? そんな改まんないでよ」
「だって今日は最後だから」
「そりゃそうかもしれないけど」
めずらしく素直に感謝の言葉を口に出した私に目の前に座っているメガネさんは
なにやら照れているご様子。なんかかわいい。
- 388 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:41
-
「だってさ、最後とかいっても勉強教えるのが終わりってだけじゃん。
これでもう会えなくなるわけでもないし」
「へ?」
「だってうちら友達じゃん。これからだってまた顔あわせるでしょ?」
友達? 私と村っちが?
村っちが当然のようにサラっと言い放った言葉が私の動きを止める。
「おーい。あゆみーん」
「・・・はいっ」
「なに固まってんのさ?」
「いえ、別に」
友達かぁ。
- 389 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:41
-
「それともさ、もしかしてあゆみんはもう私と会いたくない?」
「そんなことないです! ありえないです!」
反射的に出てきた自分の言葉の強さにちょっとあせる。
自分のやましい部分を村っちには知られたくない。
「そっか。よかった」
にこっと笑った村っちの顔にはいつものえくぼがうかぶ。
また会えるんだ。
それも友達として。
ひとしきりフラペチーノをガシャガシャとかき混ぜて、顔をあげると
ちょうど村っちがガムシロップの開封に失敗したところだった。
顔に似合わずドジなんだから。
ま、そういうところが好きなんだけど。
- 390 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/02(日) 23:42
-
- 391 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:01
-
「うわっ。やばっ」
「なになに? どうだったの?」
「やっ。もう。ちょっと見ないでよー」
教室のあちらこちらから黄色い声が飛ぶ。
高3にもなってもうだいぶ落ち着いたけれど、こういうときは女子校らしく
キャピキャピした雰囲気になる。
「あー。もう。まじキツいんだけどー」
受け取った答案をとじたあさみの表情は苦々しい。
言うことはいつもと同じだけど、こんな顔しているのは初めて。
今回の点数は本当に悪かったのかもしれない。
あさみが数学で失敗するなんて珍しいな。
- 392 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:02
-
工藤さん、小島さん、佐藤さん。
順調にテスト返却は進む。
クラスメイトはベルトコンベアに乗せられているかのように同じペースで歩み
教卓で答案を受け取ると、自分の席へと戻っていく。
石井ちゃんはもう手をのばせば届くところにいる。
もうすぐ私の番だ。
いつもは苦手な数学だけど、今回はそれなりに自信がある。
うちの高校には付属の大学があって、ほとんどの生徒がそこの大学に進学する。
受験する必要もないし、授業にさえ出ていれば卒業はできる。
テストや通知票の数字で突きつけられるのはけっこうキツいけれど、
それにさえ目をつぶれば嫌いな科目は避けて通ることができる。
私は今までその状況に甘えていた。数学には目を背けてきた。
村っちに教わるようになって、本当に久しぶりに学校の授業以外で
数学の勉強をするようになった。村っちに頭が悪いところは見せたくないから、
教わっている時間以外にもちゃんと勉強した。
努力のかいがあってか、確実に実力はついてきたと思う。
それにこのテストも解いていてけっこう手ごたえがあった。こんなの初めて。
- 393 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:02
-
けれど不安はいつも以上に大きい。
もし点数が前回と変わっていなかったらどうしよう。
それどころか落ちていたりしたらどうしよう。
今回努力したのは私だけじゃない。
村っちは毎週けっこうな時間をさいて私の勉強を見てくれた。
基本的な公式すら覚えていなかった私にひとつひとつ根気強く教えてくれた。
テストで結果が出なかったら村っちに申し訳がたたない。
きっと村っちは私がどんな点数をとっても、頑張ったね、なんていって
にっこり笑いかけてくれるんだろうけど。
あー。いやだなぁ。
テストなんて返ってこなければいいのに。
- 394 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:05
-
「はい。柴田さん」
「ありがとうございます」
B4の解答用紙2枚を折りたたんだ状態で渡される。
受け取って席へ戻るとき、石井ちゃんと目があった。
石井ちゃんが微笑んでいたように見えたのは気のせいだろうか。
「いくつだった?」
「そっちは?」
後ろの席でのやりとりが耳にはいる。
こういう会話はデキる人たちだけの特権。
他人に自分の点数を教えるなんて私には考えられない。
あちこちから聞こえてくる高い声を煩わしく思いながら、私は机の上においた自分の答案に手をのばす。
期待と不安が混ざり合た複雑な気持ちが解答用紙をひらく手の動きを遅らせる。
え? なにこれ?
まっさきに目に飛び込んできた赤い数字は今までお目にかかったことのないもの。
- 395 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:05
-
ありえないって。間違ってるよ。
出席順では私より一つ後ろの佐藤さんは数学が得意。これはたぶん彼女の答案。
でもどう見ても私の字だし、左上にかかれた名前は私のもの。
この答案は私のもので間違いないみたいだ。
きっと石井ちゃんが点数をつけ間違えたんだ。けっこうドジなとこあるからなぁ。
それにしても数学教師が計算間違えるなんてどうなんだろう。
でも小問ごとにつけられた点数はどう足しあわせても87になる。
赤ペンでつけられたマルの数もやたら多いし。
どうやら87点で間違いはないみたい。
うわぁ。
それでもやっぱり自分のとった点数がよく理解できない。
喜びと戸惑いが混ざり合った複雑な気持ちが頭の回転を遅くする。
- 396 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:06
-
「柴っちゃーん。どうだったー?」
「ん?」
「何これ!? すごいじゃん!」
「ちょっとあさみ、他人のテスト勝手に見ないでよ」
後ろからの声に振り返ると、既にあさみの手には私の答案があった。
まったくもう。油断も隙もないんだから。
「柴っちゃんって数学苦手じゃなかったっけ?」
「ねぇ」
「どうしちゃったの?」
「どうしちゃったんだろうね」
「すごくない?この点数」
「そう?ありがとう」
あさみの驚いている顔を見ていて悪い気はしない。
でも私ってそんなに数学できないと思われてたのかな。それはちょっと心外。
まぁ実際できていなかったわけだけど。
「もしかして柴っちゃんの彼氏って理系の人?」
「だから彼氏いないって」
「そんな隠さなくてもいいから」
- 397 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:07
-
「柴田さんいますかー」
「あ。こっちこっち」
「失礼します」
ドアの前に立っていた後輩を手招きで呼びよせる。
教壇には誰もいない。いつの間にか授業は終わっていたらしい。
「どうしたの?」
「ラジカセ借りたいんで、申請かいてください。ここのところ、お願いします」
「はいはい」
うちの学校のシステムはすごく面倒で、ラジカセひとつ借りるのにも
いちいち届け出をしなければいけない。しかもそれには部の幹部の署名が必要。
「ラジカセ使うの?」
「はい」
「何か聞くの? 新しい曲?」
「はい。シューマンをやってみようかってことになって」
「すごいね。ホルンは。頑張ってるじゃん。 そういえば新入生はどう?」
「田中さんですか? すごい上手いんですよ。覚えも早いし。真面目で練習熱心だし」
「へぇ。頼もしいね。よかったじゃない」
はい、なんてうれしそうに返事をしてくる高橋ちゃんはすっかり先輩の顔になっていた。
それでもやっぱり私にとってはかわいい後輩なんだけど。
高橋ちゃんも頑張ってるなぁ。私も頑張らないと。
- 398 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:07
-
来週からは夏休み。だけど休んでなんかいられない。
夏休みが終わったら文化祭。
管弦楽部は例年通り、講堂でコンサートをする。
礼拝での演奏と違って与えられた時間が長いから、大きな曲ができる。
練習もその分大変になる。でも大変な分だけやりがいもある。
だから文化祭での公演は私たちにとって1年で一番大きなイベント。
それに私たち高校3年の生徒にとっては最後の文化祭。
中学・高校生活の集大成として、悔いのないものにしたい。
あれだけ苦手だった数学でもちゃんと伸ばすことができたんだから
頑張ればきっと結果はついてくるはず。
きっとこれからもっと忙しくなる。もっと気合入れていこう。
去年までは毎年練習のことをおもってげんなりしていたけれど、
今年はストレートにやる気になれる。
- 399 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/07(金) 00:07
-
- 400 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:33
-
「明日はCのパラグラフから、集合は今日と同じく講堂です」
「お疲れ様でした。明日も頑張りましょう」
今日の練習も一通り終わり、部長・副部長による締めのあいさつ。
中澤先生は後ろで腕を組んで見ている。
部員全員が立ち上がり私たち2人に注目している。
この張りつめた空気にはいつまで経っても慣れることができない。
管楽器だけで練習しているときにはない雰囲気。
やっぱり弦は違う。さすがに上手なだけあって緊張感が違う。
「「「ありがとうございました」」」
もともとよく響くように設計されている講堂で、部員全員の声がそろうと
けっこうな大きさ。何回聞いても引いてしまう。
「柴っちゃん。一緒に帰ろう」
「私まだやることあるから時間かかるよ?」
「いいよ。待ってる」
あいさつが終わるとすぐに梨華ちゃんが駆け寄ってきた。
そういえばよっすぃーは? って聞こうとしたけれど、やめた。
あー。またなんかあったんだな。この人たちは。
まったく世話が焼けるよ。
- 401 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:34
-
「柴っちゃん、遅―い」
「ごめん。ごめん」
梨華ちゃんはむくれ顔。
だから時間かかるよっていっておいたのに。
ムカつかないこともないけれど、こういうとこもきっとかわいいんだろうな。
よっすぃーからしてみれば。
校舎を後にして駅へ続く道を進む。
照りつける日差しが厳しい。さっきまで気づかなかったセミの声が頭に響く。
もう8月なんだなぁ。
文化祭まであと1ヶ月。私たちに残された時間は長くない。
練習は例年に比べても順調に言っているとは思うけど、それでもまだまだ
完璧ではなく、課題は多い。
フルートは指揮を無視してつっ走ることし、クラリネットはいつもちょっと遅れる。
オーボエはそれ以前に音を間違えて曲を壊すことが多々あって危機的状態。
もともとけっこうレベルが高いうえにパートが少ない金管に比べて、
出番が多い木管はミスが目立つ。私のいるオーボエは特に。
それでも去年の状態よりはだいぶマシになったから、みんな褒めてくれるし
それはそれで嬉しいことなんだけど、この程度で喜んではいられない。
いつでも当たり前のように完璧なハーモニーを作る、
管楽器もそういう存在になりたい。そういう存在でいたい。
弦のおまけみたいなポジションで甘んじている状況から抜け出したい。
「うちらも結構うまくなったよね。今日福田さんにほめられちゃった」
隣で嬉しそうにしゃべっている梨華ちゃんにこんなこと言っても
きっと分かってもらえないんだろうけど。
- 402 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:34
-
あれ? 村っち?
横断歩道をわたる人の波の中にみつけた見慣れた姿。
この暑さの中、7分袖のシャツに膝丈スカート。2ヶ月ぐらい季節のずれた
その服装は人混みの中でも目を引く存在。
「ごめん。先行ってて」
どうしたの? なんていう梨華ちゃんの甲高い声を背に受けて、気づいたら私は
走り出していた。
村っちは反対側の歩道の200m先を歩いている。追いつけない距離じゃない。
あー。もう。
信号機は私のじゃまをするかのように色を変える。
私が足止めを食っている間に村っちはすいすい進んでいく。
この数十秒の待ち時間さえもわずらわしい。
よしっ。
車の波が切れたところで走り出す。目の前の信号はまだ赤い光をともしたまま。
同じ道を進んでいると通行人の身体で村っちの姿が見えなくなる。
目をはなしていると見失ってしまいそう。
かといって遠くにばかり視線を向けていると追い抜きもすれ違いもスムーズにいかない。
- 403 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:35
-
ん? なんだろう?
村っちは急に立ち止まってなにやらキョロキョロと辺りを見渡している。
何か探してるのかな。
ここは村っちの大学からもすぐだから、大体のものの場所は分かるはずなのに。
どうしよう。
今、声掛けちゃったらまずいかな?
でも今声かけておかないと、もうこんなチャンスはないかも知れない。
いつでもメールしてね、なんていわれたけれど、なんとなく送信ボタンが
押せなくて、メールのやり取りはしていない。
最後の『村田博士の数学講座』の日以来、会うこともなくなった。
この機会を逃すともう二度と会うことはないかもしれない。
いいよね? 大丈夫だよね?
- 404 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:35
-
「村っち」
「おー。あゆみん。どうしたのさ、こんなところで」
「ほら、うちの学校この近くだから」
「そういえばそうだったねぇ」
すっかり忘れてたよぉ、なんて笑っているこの人は、私が声をかけるのに
どれほどのエネルギーを使ったのか知っているのだろうか。
「村っちこそどうしたの?こんなところで。もう夏休みでしょ?」
「うん。ちょっとね」
村っちはサークルは入ってないっていってたし、私と違って夏休みの学校に
用はないはず。
でも私から少し目をそらした村っちの顔が、しゃべりたくない、って
いってるような気がしたから、これ以上は聞かないでおいた。
- 405 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:36
-
「あのさ、久しぶりにあったんだし、ここじゃなんだからどこか入らない?」
村っちの提案でやってきたのはいつものコーヒー屋さん。
本当にここにはよくきているな。最近はちょっと足が遠のいているけど。
初めて村っちに会ったのもここだし、月曜日に数学をやってたのもここ。
初めてしゃべったとき、私はすごく緊張してた。めちゃくちゃ気合い入ってたし。
まさかあんな崩れたキャラだとは思ってなかったな。
勉強はけっこうキツかったな。
まさか本当に数学やるとは思わなかったもん。
いつも休憩なしで1時間半。村っちはけっこうスパルタで、次から次に解かされた。
でもそのおかげで数学もできるようになったし。今となってはすごくありがたい。
勉強終わった後の村っち、いつもやさしかったなぁ。
あのオチがよく分からないおかしな話でいつも和ませてくれたし、
私の話も聞いてくれた。しゃべりながら泣いちゃったこともあったっけ。
今から考えるとほんと恥ずかしいな。
- 406 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:36
-
「おまたせー」
村っちのトレイにはいつものもの。アイスコーヒーにフラペチーノ。
さっきちょっと走ったから冷たい喉ごしが気持ちいい。
実はあんまり好きじゃかった甘ったるいマンゴー味も今日はなつかしい。
「あゆみんは今、夏休みだよね?」
「はい。そうなんです」
「そのわりには制服だけど」
「夏休みでも練習があるんですよ。部活の」
「あー。そっかそっか。大変だね」
「部活はどうなの?うまくいってる?」
「今のところけっこう順調ですね」
「そっか。よかったね」
ナ行が言えていない村っちの声を聞いているとすごく安心する。
「そうだ。今度コンサートがあるんですよ。文化祭でなんですけど。
よかったら村っちも来て下さいよ」
「文化祭っていつ?」
「今年は9月の3週目の土曜と月曜です。うちの部の公演は月曜なんですけど」
「第3週っていったら中旬だね。うん。行く行く」
「ほんとですか?ありがとうございます」
メモっとこう、なんていいながら村っちはバッグをあさる。
本気で来てくれるつもりみたい。こういうとこ、ほんと優しいな。
- 407 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:36
-
ん?
村っちのバッグの中に白地に赤とグレーのラインが入った封筒が見える。
右下にある見慣れたロゴは大手旅行会社のもの。
「ねぇ、村っち。旅行でも行くの?」
「え? なんで?」
「だってその封筒」
「あー。 うん。そうなの。旅行するんだ」
「いいなぁ。どこ行くの?」
「あー。・・・アメリカ」
「へぇ。そうなんだ」
アメリカと言うのにも口ごもった村っちを見ているとあんまり突っ込んじゃ
いけないような気がして、アメリカのどこなんですか? っていう質問は
のど元にとどめておいた。
沈黙が空気を重くして、ちょっと居心地が悪い。
村っちと話しているとこういう状況がたまにある。
「そういえばさ、文化祭ってなんで土曜と月曜なの?日曜はやらないの?」
「うちの学校プロテスタントなんですよ。だから日曜は休まなくちゃいけなくて」
「へぇ。そうなんだ」
「カトリックだと日曜もやったりするんですけどね」
「っていうかさ、カトリックとプロテスタントってどう違うの?」
いつもの明るい声で村っちが話題を振ってくれると、とたんに空気が軽くなる。
当然会話もはずんでくる。
- 408 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:37
-
この雰囲気は月曜日に勉強を教わっていた頃と全然変わらない。
ただひとつ違うのは、今日は数学をやらなくてもいいってこと。
だってもう私と村っちは友達なんだもん。
会ってしゃべるのに大義名分は必要ないんだもん。
期末テスト以来1ヵ月半も会ってなかったし、
テスト結果の報告以外にメールも送っていないけれど、
それでも私たちは友達。
そう思っていていいんだよね?
- 409 名前: モノクローム 投稿日:2004/05/10(月) 01:37
-
- 410 名前: 投稿日:2004/05/14(金) 01:42
-
タイムリミット
- 411 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:43
-
「ラスト一本!」
「はいっ!」
懐かしい声が耳に入って思わず体育館の中をのぞく。
バスケ部は相変わらずシャトルラン。
いいねぇ。青春だねぇ。去年までの自分を思い出すわ。
別に運動部とかじゃなかったけど。
体育館を通り過ぎて北階段を目指す。
教員室の前を通るのはちょっと憂鬱。知ってる先生に見つかったらどうしよう。
卒業生なんだから無断で入ってきていることは咎められないだろうけど
長話につきあわされるのはごめんだ。
こんな田舎の高校からは珍しく東京のちょっと有名な大学に進学した私は
先生たちにとっては自慢の卒業生らしい。夏にここに来たときはいろんな先生が
寄ってきて大変だった。在学中は私の名前も知らなかったくせに。
教師というのも勝手なものだ。
- 412 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:44
-
存在感を消しながら問題の場所を通過すると、目の前には階段がのびる。
昼間だというのに薄暗い階段を一歩一歩上る。
エレベーターなんていうステキなものに慣れきった身体にはけっこうしんどい。
相変わらず湿っぽいなぁ。どこかカビ生えてんじゃないの。
はーっ。
息を切らしながらようやく上りきった4階には、目的のものはあった。
うわーっ。
やってきたのは暗室アンド写真部部室。
幽霊部員とはいえ部長までやった部活だもん。思い入れは海よりも深く山よりも高い。
・ ・・・なんてはずがあるわけもなく。
目的の場所はもちろんその隣の美術室。
木製のドアはとってもカラフル。それにしてもどうしたらドアに絵の具がつくだろう。
- 413 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:45
-
「おじゃましまーす」
努めて明るく言った私のあいさつも空しく、あけた扉の奥に人影はない。
なんだよ。マサオ、いないじゃん。
ここに来たら会えるんじゃないかな、なんていう小さな期待は
あっさり裏切られた。まぁあの子ももう3年だもんね。
絵とか描いてる場合じゃないのかも。 しょうがないか。
あー。このイス、いい加減に捨てるか直すかしたらいいのに。
底が抜けたままじゃ邪魔なだけでしょ。
ぅげっ。これ、私が描いたやつだ。
もって帰るのが面倒で放置しといたんだけど、まさかまだあるとは。
誰にも見られないように端っこに隠しとこう。
おー。なんか見たことのないもの発見。
なんだろ? 粘土だよね? これから焼いたりするのかな?
あ。オオタニだって。マサオはちゃんと活動してるんだね。感心感心。
- 414 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:45
-
美術室を一周して入り口の対角まで行くと、ロックされたガラス戸に
手をかける。 扉を開けた先にあるのは普通の教室についているものより
ちょっと大きめのベランダ。
実は3年間授業で使った美術室よりもこっちのほうが思い出深い。
はーっ。
合わせた両手の手のひらに思いっきりはいた息はやっぱり白い。
張りつめた冷たい空気に身がひきしめられる。
この感覚、懐かしいな。
別にそんなに長いことここから離れていたわけじゃないのに。
- 415 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:46
-
ちょっと出っ張っている窓枠のところに腰掛けて校庭を見渡す。
さすがにドがつくほどの田舎なだけあって、大して高くもない4階から
学校の近隣のだいぶ広い範囲が見渡せる。
目の前に広がるのは文字通り、純白の世界。
一面に降り積もった雪はシャレにならないほど白い。
さすがにこんなに雪が積もっていると走りこむ運動部員もいないし
歩いている人すらあまりお目にかかれない。
こんな日に好き好んで歩きで出かけるような人はそうそういない。
均等に積もった雪はそのまま汚されることがない。
雪が日差しを反射してきらきらと光る。その美しさに少し焦る。
見慣れているはずの景色なのに。
生活の拠点を東京に移してもうすぐ一年。
いつもにぎやかで刺激的な街は私にとって、大人しく閉鎖的なこの土地よりも
ずっと過ごしやすい。
それでもやっぱりここが自分の帰る場所であることに代わりはなく、
私はここに帰ってこなければいけないのだ。
この土地を忘れた訳じゃない。
この土地を捨てた訳じゃない。
現にこうして帰ってきているのに、こんなにも後ろめたいのはどうしてだろう。
- 416 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:46
-
太陽はいつの間にかずいぶんと低いところまで来ている。
思わず時計を見てしばらくびっくりしてから思い直す。そうだ。ここ、室蘭だった。
北国の夜は早い。さすが東京より10度近く緯度が高いだけのことはある。
もうそろそろ帰ろうかな。
あ。
立ち上がってガラス戸に手をかけたとき、その向こうにいる人と目があった。
誰よりもあいたくて、誰よりもあいたくない人。
驚きと戸惑いで固まった私をしりめに、彼女は近づいてくる。
「久しぶり」
戸を開くと、目の前にいる私にいつもの笑顔で話しかける。
「めぐみが帰ってくるなんて珍しいね。春休み?」
私の横をすり抜けた彼女が腰を降ろしたのは、さっきまで私が座っていた場所から
50センチだけ右にずれたところ。座る場所まで昔通り。
- 417 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:47
-
「どうしたの? もしかしてもう帰るとこだったり?」
「ううん。別に」
「そっか。良かった」
ついさっきまで帰るつもりだったなんてことは言えない。
彼女にうながされるままに、さっきまでの場所に戻る。
そっちも春休み? だとか、学校はどんなかんじ? とか、当たり障りのない
話題はいくらでも思いつくのに、どれもこれも口に出せない。
右隣の横顔を盗み見ると、だまったまま遠くを見ている。
この子は見た目ほど大人しい子ではないけれど、私と2人の時は普段ほど
しゃべらない。こんなところも全然変わってない。
ただひとつ違うことはあの頃は気持ちよかったこの沈黙が、今日はひどく
居心地悪く感じること。
- 418 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:47
-
隣の子は顔も視線も固定して、動かさない。
彼女は何を見ているんだろう。何を考えているんだろう。
「あのさ」
久しぶりの空気の振動に耳が過剰に反応する。
けして大きな声ではないのにすごく入ってくる。
「やっぱり行くことにしたんだ」
ゆっくりと確実に彼女は言った。
「そっか」
感情を出さずに、了解の意だけを簡潔に伝えることができる便利な言葉。
「驚かないの?」
「行くんだろうな、って思ってたから」
「そっか」
今度は彼女がこの言葉を使う番。
「離れちゃうね」
長い沈黙を崩した私の言葉は、その意に反して私の心をうつしたもの。
「今だって十分離れてるじゃん」
いつも通りの優しい声が響く。
彼女はどんな顔してこんなこと言うのだろう。
すごく知りたかったけれど、彼女と目をあわせることはどうしてもできなかった。
私の勇気のなさはあの頃と同じ。
隣の人はおもむろに立ち上がった。
夕日で茜色にそまった肩までのウェーブした髪を見上げる。
何か言いたかったけれど、その美しさに出かかった言葉を引っ込める。
- 419 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:48
-
「そうだ」
小さくつぶやくとこちらに向きかえり、私の目を見つめる。
彼女と目をあわせるのは一年ぶり。今日だってずっと避けていたのだから。
彼女はそんな私の気持ちなんかに構わない。
なんだろう。何を言い出す気なんだろう。
正面から見据えられて心が波たつ。
「マサオがさ、東京で浪人することになったんだ」
は? 何それ? 私のことじゃないわけ?
「助けてあげてね。 あの子、いい子だけどあんまり器用じゃないから」
言い終わって柔らかく微笑むと、彼女はベランダを後にした。
ちょっと待ってよ。
心の中で叫んでいる声は彼女には届かない。
せっかく久しぶりに会えたのに。
したいこと、話したいこと、いっぱいあったはずなのに。
次はいつ会えるか分からないのに。
行かないでよ。
- 420 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:48
-
- 421 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/14(金) 01:49
-
はぁ。
目をあけると最初に薄いテキストが山積みになった机が視界に入る。
なんだ。夢か。
背中がなんとなく気持ち悪い。汗をかいてしまったみたいだ。
それにしてもリアルだったな。
さっき見た光景は1年半前に見たものそのものだった。
ピピピピ ピピピピ
ワンテンポずれたタイミングで鳴り出した目覚まし時計を止める。
もうちょっとこのままボーっとしていたいけれど、そうもいかない。
今日は決戦の日なのだから。
- 422 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:07
-
- 423 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:07
-
カッカッカッカッ
タタタタタタタタ
残り時間20分。
この時間帯に入ると会場内は始めの頃とは比べものにならないほど静か。
たまに退場する人がイスを引く音が響く程度。
一通り解き終えて、私も見直しにはいる。
はい。
はい。
はい。
はい。
うーん。
はい。
はい。
不安なところがないわけでもないけれど、一応それなりの答案は作れていると思う。
うん。いいかんじ。
- 424 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:07
-
残り時間5分。
退場することもできるけれど、やっぱり不安だからまた見直しする。
とりあえず名前と受験番号は完璧。
はい。
はい。
はい。
はい。
- 425 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:08
- 「試験時間終了です。解答をやめてください」
ベルと共に響きわたるマイクの声にうながされるままに自分の答案を前に回す。
そのまましばらく待っていると退場が許された。
あー。終わったんだなぁ。
出口に向かう長い人の波にのまれながら、ぼんやりと思う。
「村っちゃーん」
「あら」
駅に続く道を歩いていると、予備校の友達に声をかけられた。
「どうだった?」
「うーん。まあまあ、かなぁ」
隣の子は浮かない表情をしている。試験の感触は聞かなくても分かる。
そんな人を前にして、自分はいいかんじにできたなんて言えるわけがない。
- 426 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:09
-
ターミナル駅で多くの乗客とともに電車を降り、駅に隣接する百貨店の中の
階段を上ると、すぐに有名ブランドの総合ショップが目にはいる。
私たちが目指しているのはそんなところではなく、その上のフロア。
「おー。村っちゃん」
「あら」
エレベーターで4階まで行くと、学生ラウンジはすでに人があふれていた。
そのどれもが知った顔。
「法人税法の第二問、どうした?」
「あぁ、減価償却のとこ?」
「ううん。そっちじゃなくて帰属事業年度の方」
「ああ、工事進行基準は適用されないよね。この場合だと翌年に参入してるじゃん?」
「あーっ!そうだ! どうしよう。まじやばいんだけど」
言葉とは裏腹に楽しそうに騒いでいる友人たちは放っておいて、
5階の講師室で解答速報をもらい、8階の自習室にあがる。
- 427 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:09
-
所得税法の第一問は記述。
うん。
問1は親族の給与の他に原則的取扱いもちゃんと書けてる。
問2の出国する場合の確定申告も問題ない。
よしよし。
第二問は簡単な経理用語と課税関係の計算問題。
はい。
はい。
はい。
あー。
はい。
問3で未償却残高の計算をミスったのは痛いけど、それ以外の数字は
全部あってる。我ながらすごいな。
さーて。法人税法はどんなもんだろう。
第一問の記述はそれなりだな。 うん。
株主の課税は大丈夫。発行法人の課税は消却時の資本積立額減少が弱いかな。
記入量の多い第2問は相変わらず答え合わせが大変。
面倒だから解答ガイドなんて読みとばして模範解答のページに進む。
はい。
はい。
はい。
はい。
うん。
やっぱりミスが多いけど、こんなもんでしょう。
この前の前の模試もこんなかんじだったけどA判定とれてたし。
- 428 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:10
-
「おー。村田さん。 どうしたの?答えあわせ?」
「ええ。まぁそんなようなところです」
自習室をでたところで遭遇したのは、一年半お世話になったここの講師。
「で、どうだった?」
「まぁ普通にできたかんじですね」
クラスメイトには言えなかった手応えもこの人になら正直に言える。
試験はこの前の模試と同じ程度にはできたと思う。
「そりゃそうだね。だって俺が教えた生徒だもん」
「あはは」
得意げに胸を張って見せる仕草がちょっと笑える。
この人はもういい年なのにけっこうなおちゃめさんなのだ。
「それに真面目な話、全答錬であれだけ点数取ってた生徒が落ちたりしたら
うちとしてもシャレにならないから。 期待してるよ、うちのエース」
「あはは」
きりのいいところで世間話を切り上げて、階段を下りる。
1年半毎日のように使ったこの階段を下りるのも今日が最後かもしれないと思うと
ちょっと感慨深い。
- 429 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:10
-
税理士の試験は全11科目の中から必須科目2つ、選択必須科目1つ以上を
含めた合計5科目に合格すれば資格取得となる。
必須科目の簿記論と財務諸表論、消費税の3科目は去年合格したから、
今年は選択必須科目を含む選択科目2科目だけ受かればよい。
今日受けた所得税法と法人税法、この2つ両方が合格点に達したら
晴れて税理士資格取得となる。
12月の合格発表まで確かなことは分からないけれど、
この感触だとなんとかハードルは越えられたようだ。
1年半という準備期間は私にとってはけっこうな長さだけど、
この世界では短期合格ということになるのだろう。
あのベランダでりんねに会ったあの日以来、私は憑かれたように勉強した。
何もしないでいると夕日に照らされた彼女の横顔が浮かんできた。
あの時ああしていればよかった、とか、何でこっちの道に来てしまったんだろう、
とか、後悔がとめどなく溢れてきて苦しかった。
逃げていられるのも今日まで。
もうそろそろ次のことを考えなければいけない。
- 430 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/17(月) 19:10
-
- 431 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:00
-
気合いを入れてみたのはいいけれど、することがない。
やるべきことは殆ど終わっていたりするのだ。
今まで税理士試験の勉強に費やしていた時間がぽっかりあいてしまったから
生活にハリがない。
よし。今日はちょっと出かけてみることにしよう。
まず向かうのは旅行代理店。
予約しておいた飛行機のチケットを取りに行かなければいけない。
久しぶりの外出だというのに、行き先が大学のそばというのが少し気に障る。
どうせだったらもう少しいい所に行きたい。
でも手続きをした店舗がそこなのだから、仕方がない。
- 432 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:01
-
「ありがとうございました」
制服姿のお姉さんに見送られてカウンターを後にする。今日の目的は
たったの3分で達成されてしまった。
国際線のチケット予約なんてどんなに大変なんだろうと思っていたけれど、
実家に帰るときに札幌までのチケットを手配するのと大して変わらなかった。
なんか拍子抜け。
これで渡航準備は完了・・・・なのかな?
面倒な留学の手続きや書類関係はすべて7月に整えたし、必要な物も全部買った。
試験が控えてたのに、よくこれだけできたもんだな。我ながら感心する。
国家試験終わった次の週に発つなんて無茶な計画が本当に実行できるなんて
思ってもみなかった。
っていうか、そもそも今年の夏に留学するってプランがおかしすぎる。
唯一の救いは、これから通うはずの語学学校が11月から始まること。
普通に9月から授業開始されたら、私はきっと行けなかった。
留学先が適当な所で良かった。
その上、波浪大学の姉妹校であるミシガン大学の傘下の学校だから
そこでの単位も波浪大の卒業単位に認められる。ゼミの先生にはメールでの
レポート提出を許可してもらったし、うまくいけば4年で卒業できる。
大学の国際交流課で初めてこの話を聞いたとき、なんていいかげんな大学
なんだろうと呆れてしまった。だって4年のうち1年半も出席しないのに
卒業できるなんてどう考えたっておかしいでしょ。
けれどそのおかげで私はやりたいことができる。
いいかげんな学校、いいかげんな制度、どうもありがとう。
- 433 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:02
-
そのまま帰宅してもよかったんだけど、帰ってもやることがないから
今日はちょっと隣の駅まで散歩していくことにする。
人と放置自転車があふれる大学通りの歩道は、今日も狭い。夏休みだって
いうのに。どうしてうちの大学の人はこうも大学大好きなんだろう。
試験の日も感じていたことだけれど、空気の肌ざわりが悪い。
湿度が高いせいかな。なんか気持ちよくない。
東京で夏を過ごす以上、我慢しなければいけないことなのだけれど。
きっと今ごろマサオはダラダラ汗流してるんだろうな。
暑いよー、なんて言いながら色つきの汗を流す姿が浮かんできて
思わず笑ってしまう。蒸し暑い夏ってのも面白くていいかも。
そういえば最近マサオに会ってないな。 どうしてるだろう?元気かな?
- 434 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:03
-
あーっ。
古本屋の軒下におなじみの子を発見。
去年の春ごろから1年間サークルで餌付けしていた子犬さん。多分パグ。
単にサイズが小さいってだけで本当に子犬なのかは疑わしいんだけど。
最近めっきり姿を見せなくなって心配していたけれど、どうやらうまく
やっているらしい。さすが世渡り上手だ。
「久しぶりー」
得意のスマイルで話しかけると、何もいわず隣の不動産屋さんとの隙間に
トコトコと小走りで入っていってしまう。相変わらずつれない子だなぁ。
ん?
いつもはそのまま逃げてしまうあの子だけど、今日は向こうの路地に
立ち止まって、私の方をじっと見ている。
なんだ。やっぱり遊んで欲しいんじゃん。
ほんと素直じゃないんだから。
あそこの路地まではこの狭い隙間を通らなければいけないけれど、
この子の誘いは断るわけにはいかない。
いいよね?
誰も見てないよね?
こんな所に入っていく人なんて傍から見れば不審極まりないけれど、
今は夏休み。ここを通りかかる友達はきっといないだろう。
知ってる人にさえ見られなければ、べつに問題はない。
周囲を見渡した限り、知っている顔はない。こっちを見てる人もいない。
よし。今だ。行こう。
- 435 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:04
-
「村っち」
後ろから声をかけられて思わず声をあげそうになる。
振り返った先にいたのはあゆみちゃん。びっくりしたのを悟られたくなくて
笑ってみせると、彼女も笑顔で返してくれた。
さっきまでの私の行動、見られてないよね?
べつに何もあやしまれてないよね?
「おー。あゆみん。どうしたのさ、こんなところで」
「ほら、うちの学校この近くだから」
適当にだした話題は続かない。あゆみちゃんの高校がこの辺だってことなんて
何度も聞いてるから。 あー。もう。苦しいなぁ。
「村っちこそどうしたの?こんなところで。もう夏休みでしょ?」
うわっ。ダイレクトに痛いところを突いてきたよ。この子は。
猫を追いかけるために他人の私有地に侵入しようとしていました、なんて
まさか言えるわけがない。
あゆみちゃんは答えにつまっている私に不思議そうな視線を送ってくる。
困ったなぁ。まったく。
- 436 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:05
-
「あのさ、久しぶりにあったんだし、ここじゃなんだからどこか入らない?」
「はい」
苦し紛れの提案はあっさりと受け入れられた。
これで危機回避。はぁ。良かった。
あゆみちゃんはそんなに訝しがっていないみたいだし。
「あゆみんは今、夏休みだよね?」
数ある中から一番当たり障りのない話題を選んで振る。
学校のこと、部活のこと、あゆみちゃんはいろいろと嬉しそうに楽しそうに
しゃべってくれる。
練習がどうの、文化祭がどうの、なんて話を聞いていると、青春まっさかり
ってかんじの彼女がうらやましくなる。
いいなぁ。高校生って。私も戻れるもんなら戻りたいな。
ん? 待てよ。 そういえば私は高校生のころからいいかげんに生きてたな。
高校生に戻ったとしても、こんな青春ってかんじにはなれそうもない。
- 437 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:07
-
「ねぇ、村っち。旅行でも行くの?」
急に話題を変えられてびっくりする。
なんだってこの子の言うことはこうも突然かなぁ。心臓に良くないよ。
「え? なんで?」
「だってその封筒」
いつものようにとぼけてみたけれど、あゆみちゃんには通用しないみたい。
本当に鋭いなぁ。この子は。いい探偵になれるんじゃないかな。
「あー。 うん。そうなの。旅行するんだ」
「いいなぁ。どこ行くの?」
「あー。・・・アメリカ」
「へぇ。そうなんだ」
観念して打ち明ける。こうも後ろめたいのはなぜだろう。
あゆみちゃんはこれ以上話したくない私の気持ちまで察知してくれて
何も言わないでいてくれる。その心遣いが嬉しい。
けれど私は秋から留学するから準備のためにその前に向こうに行っておく、って
どうして胸を張って言えないのだろう。
- 438 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:07
-
「そういえばさ、文化祭ってなんで土曜と月曜なの?日曜はやらないの?」
続いてしまった沈黙を壊すために話題を振ると、あゆみちゃんは
プロテスタントやらカトリックやら、やっぱり嬉しそうに話してくれる。
この子は本当に素直でいい子だと思う。
こんな風に生きていられたら、きっと自分も周りも幸せなんだろうな。
ローマ法王だのマルチン・ルターだの知ってるような知らないような名前が
いっぱい出てきて、あゆみちゃんの話は正直よく分からなくなってきた。
それでも私に分かるように一生懸命しゃべっているあゆみちゃんの姿は
すごく微笑ましくて、私は見ているだけで幸せな気分になってきた。
- 439 名前: タイムリミット 投稿日:2004/05/24(月) 00:08
-
- 440 名前: 対星 投稿日:2004/05/28(金) 00:08
- お詫びと訂正です。
>>435
× 猫を追いかける
○ 犬を追いかける
チェック不足です。申し訳ありません。以後気をつけます。
- 441 名前: 投稿日:2004/05/28(金) 00:09
-
シカゴ
- 442 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:10
-
「ちょっと」
いきなり後ろから肩をたたかれた。
せっかく夏の日差しを浴びながら気持ちよく全面ガラス張りのロビーを
アメリカンガール気分で歩いていたのに。
こういう時は無視すべし。機内で読んだガイドブックに書いてあった。
振り返らない。けして振り返らない。何があっても振り返らない。
それにしても11時間イスに縛り付けられてて、ようやく開放されたと
思った矢先にこれか。全くついてない。この旅行もどうなることやら。
いくらアメリカは治安が悪いといったって、こんなに突然なのはどうだろう。
せめて空港ぐらいはしっかり警備しといてほしい。
ん? でも今の、日本語だったよね?
「ちょっとどこ行くのよ」
「ああ、りんねか。誰かと思った」
「は? ターミナル5の到着ロビーで待ってるって言っといたよね?」
「ああ、そうだったねぇ」
「しっかりしてよ。本当にもう」
りんねの後につき、スーツケースを引っ張ってモノレールに乗り込む。
聞いていたことだけど、税関からホームまで本当に近くてびっくりする。
世界有数のハブ空港は利便性が違う。
- 443 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:11
-
コーカソイド、ネグロイド、それに私たちモンゴロイド。
大きくない車両にはいろんな人がいる。さすが人種のるつぼ。
「めぐみ、降りるよー」
「へ? もう市内? 早いね」
「は? っていうかまだ空港出てないから。これから乗り換えて市内に行くの」
さすがオヘア国際空港。世界一忙しいといわれる空港だ。
成田なんかとは比べものにならないスケール。
敷地内にモノレールがあるなんて、東京ディズニーリゾートみたい。
ボソっと呟いた私の独り言は、隣に座るりんねに聞かれていたみたいで
次に乗った地下鉄の中では最近のディズニーランド事情をしつこく聞かれた。
バグズライフのアトラクションが出来たとか、ダンボが8人乗りになったとか、
あることないことしゃべったら、どうやら彼女は信じてしまったみたい。
クリスマス休暇に乗りに行こう、なんて声を弾ませている。
バレたときが怖いんだけど、まぁいいか。
- 444 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:12
-
りんねにうながされて地下鉄を降りる。
確かこれからお世話になるお宅はイリノイ州の中央部。ここからだと
もう一本違う電車に乗らないといけないはず。
「ちょっと、どこ行くのよ?」
「んー?どこだろうねー」
オレンジラインのホームを通り過ぎ、りんねはどんどん歩いていく。
たまにこっちを振り向いて嬉しそうに笑う。
「ぅわーっ・・・」
階段を上りきった私の目に飛び込んできたのはいつか映画で見た世界。
ホワイトグレーを基調にした街並みに空と緑がよく映える。
「すごいでしょー」
呆然としている私の顔をのぞき込み、りんねは歯を見せて笑う。
この子がこの笑い方をするのは本当に嬉しいときだけ。
- 445 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:13
-
スーツケースを預けてダウンタウンを観光。
私たちは観光客っていうのとはちょっと違うけど、こういうのもあっていいよね。
まずはループと呼ばれる中心部から。
市庁舎にシカゴ・テンプル、連邦政府センターを回ってオーケストラホールへ。
ひとつひとつ隣で解説をしてくれるりんねの声が得意げでかわいい。
このビルは誰の設計だとか、ここはアメリカ初のメソジスト派の教会だとか、
内容はさっき読んだガイドブックと大して変わらないけれど
彼女がしゃべるとすごくおもしろいものに感じられる。
「どうしたー?」
「ん?」
「なんか上ばっか見てる気がするんだけど」
「ああ。ビル高いなぁって思って」
「えーっ。なにそれー」
隣の人は私の反応がやたら気に入ったご様子。前のめりになって笑ってる。
「だってさ、東京もこんなんでしょ?」
「そうでもないよ」
「ほら、新宿のあたりとか」
「あー。そうかも。でも私、あの辺はあんま行かないんだよね」
「でも大学は?」
「一応同じ区内なんだけどね。こんなビルはないかな」
ふぅん、なんて言って、りんねはどこか不満気。
修学旅行ぐらいでしか上京したことのない彼女には分かりにくいのかも。
- 446 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:14
-
オーディトリアム・ビル、コングレス・プラザを過ぎてヒルトンの交差点で曲がる。
線路を越えた先にあったのは公園。
さっきからやたら緑が多いと思ってはいたけれど、まさか公園があったとは。
意外ではあるんだけど、そんなに驚きはしない。
そういえばこの光景、どこかで見たことある気がする。何だったかな?
「あのさぁ」
「んー?」
「ここさ、何かのロケに使われたりとかしてない?」
「あー。名所だからね。いろんな映画の舞台になってるよ。『逃亡者』とか」
「・・・分かんない」
「『バックドラフト』とか」
「・・・知らない」
「『ブルース・ブラザース』とか」
「・・・名前だけなら」
何だろう。他に何かあったよな。
高校の頃たくさん見てたうちの一つで、確かりんねとも一緒に見たはず。
2人ともすごく気に入ってたと思うんだけど。何で思い出せないんだろう。
- 447 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:14
-
8月のグランド・パークを歩く人の服装はどれも開放的。
Tシャツ、短パンが最もポピュラーな格好。街の中心部だというのに
水着姿の人も少なくない。
日本では考えられない光景に、ここがアメリカだということを実感させられる。
湖に面していることもきっと原因のひとつだろう。
ミシガン湖はさすが五大湖のひとつだけあって湖というより海といったかんじ。
ということはここはビーチですか。そりゃ水着でも何も問題ないわけだ。
ローラースケートのおじさんやサイクリング中の少女を見送って
有名なバッキンガム噴水の40mといわれる高さにキャーキャーいいながら、
そのまわりをぐるっと1周。南の方へ進路を変える。
公園を抜けると街並みはだんだん変わってくる。
建物は低くなり、その色も古ぼけたかんじになっていく。壁には落書きも多い。
ここら辺は多分ガイドブックに載っていなかったエリア。
ダウンタウンの南は所得の低い人たちの居住区で、犯罪発生率も高く
一般の観光客が好んで足を踏み入れるところではないのだ。
何でまた、こんなところに?
聞いてみようと思ったけれど、私の半歩先を歩くりんねはまっすぐに
前を見ている。少なくとも間違ってここに来てしまったわけではなさそうだ。
ここは黙って彼女についていくべきだろう。
- 448 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:19
-
直行していた道を本屋の前の角で曲がる。
通りの名前を書いたプレートは左半分が削られていて、肝心の名前が分からない。
雑貨屋の前に、明らかに中学生ぐらいだと思われる黒人少年数人がタバコ片手に
たむろしている。いかにも治安悪そう。
でもこの雰囲気は嫌いじゃない。むしろこっちのほうが好きかも。
私にとってのアメリカ、シカゴはこんなかんじだから。
そういえばこの辺り、見たことあるかも。
この通りもあのバス停も見覚えがある。初めて来たところなのに。
あー。多分あの映画だ。
おぼろげにではあるけれど、だんだん思い出してきた。
たしか主人公の女の子があそこのパン屋でデニッシュを買ってた。
まだこっちに来たばっかりでここの雰囲気に戸惑いながら。
で、相手役の男の子があそこの角でヒップホップ踊ってるの。
タイトル何だったかなぁ。もうちょっとで出てきそうなんだけどなぁ。
「あのさぁ」
「んー?」
あいかわらずりんねはちょっとだけ振り返ってこたえる。
「ここを舞台にした映画あったよね?」
「そうなの?」
「バレエでニューヨーク目指してた子が事故にあって挫折して、シカゴに来て
っていう話でさ。タイトル覚えてない?」
「分かんないなぁ」
「高校の頃、一緒に札幌まで見に行ったじゃん」
「そうだったっけ?」
つれない態度はいつものことだけど、今のはちょっとへこむ。
ストーリーとか音楽とかすごく良くて、気に入って2回も見に行った映画だったのに。
まぁ他にもいろいろ見てたから覚えてなくてもしょうがないんだけど。
- 449 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:21
-
フリーウェイの出口を通り過ぎた辺りから、徐々に雰囲気が変わってくる。
さっきまでとは違った明るいかんじ。
「ぅわっ・・・」
路地を抜けた私の目にまっさきに入ったのは野球場。
球場が街の中に普通に存在していることがすごく意外でびっくりする。
「すごいでしょー」
ニコっと笑う得意げな顔はさっきと同じ。
そういえば私もさっきと同じ反応をしてしまっていたことに気づく。
本当に私たち2人はどこまでもワンパターン。
飲み物買ってくるね、なんて珍しく自分から言いだして、
りんねは私を置いてどこかに行ってしまった。
つまらないから『球場の概要』なんてボードを読んでみる。
さすがに観光客の多いこの球場だけに、簡単な英語で読みやすい。
シカゴ・ホワイトソックスの本拠地である現在のコミスキー・パークは
1991年にオープンし、その歴史と美しさでアメリカでも5本の指に入るほど
有名な球場。MLBの試合やコンサートなどの興行に多く使われ、
シカゴの誇る名所の一つ。
そういえばここはあの映画にもちょっとだけだけど登場していた。
田舎町から出てきたばかりで、大都会シカゴの、しかも黒人街にはなじめなくて
それでも必死に頑張ってて。
そんな彼女が飲んでいたのは、たしかペプシコーラ。
なんでこんなことは覚えているのにタイトルは出てこないんだろう。
- 450 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:23
-
「買ってきたよー」
戻ってきたりんねの手から紙コップを受け取る。
黒い液体はきっとコーラ。やだな。炭酸苦手なんだよね。
「めぐみ? どうしたの? 飲まないの?」
「炭酸がさぁ」
「何いってんの? ここ来たらコーラでしょ」
「は? なんで?」
「覚えてないの? 『セーブ・ザ・ラストダンス』」
そうだ。それだ。あの映画のタイトル。
「りんね、覚えてたんだね」
「当たり前じゃん。2回も見に行ったし」
「ねー。すごいはまったよね。なんでだろ」
- 451 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:25
-
「なんかさ、あれさ、昔のめぐみみたいだったんだよね」
「へ? どこが?」
うつむき加減で口にしたりんねの言葉がすごく意外で、私の声は思わず裏返る。
「めぐみさ、高1で引っ越してきたばっかりの頃、あんまとけこめてなかった
じゃん?室蘭にも、みんなにも。でもさ、必死になじもうと頑張っててさ。
で、どんどん明るくなっていって」
「あー。そうかもねぇ」
確かに仙台から引っ越してきたときは室蘭の気候や閉鎖的なかんじが
肌に合わなくて、私は浮いた存在だった。
仲間はずれにされてると思い込んで、自分から心を閉ざして。
けっこうヤなかんじの子だった気がする。
「それでさ、めぐみが明るくなっていったのって、私と出会ってからかなぁって
ちょっと思ってたんだ。思いあがりかもしれないんだけど。
ほら、あの女の子、ヒップホップの男の子に会ってから変わっていったでしょ?
私さ、あの2人に自分たちのこと重ねてたんだよね。
めぐみには悪いんだけど」
下を向いたままでりんねは少しだけ笑った。
- 452 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:26
-
いつかみたいに夕日が彼女の髪を茜色に染め上げる。
黙ったままで何もいえない私もあの時のまま。
でも私たちはこれでいいんだ、って今なら思える。
何も言わなくても私の気持ちは彼女に届いているはずだから。
「帰ろっか」
立ち上がった彼女が座っている私に右手を差し出す。
逆光でよく見えないけれど、彼女はきっといつものやわらかい笑顔を浮かべているはず。
「うん」
コーラを思いっきり飲み込んで、私も立ち上がる。
炭酸の刺激でのどが痛むけれど、それも心地よく思えた。
- 453 名前: シカゴ 投稿日:2004/05/28(金) 00:26
-
- 454 名前: 投稿日:2004/05/30(日) 23:28
-
アメリカガエリ
- 455 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:30
-
はぁ。
本棚の上で黄緑に光るデジタル時計の一番左の数字は5。
またやっちゃったよ。
日本に帰ってきてからずっとこの調子。もう2日経つのに時差ボケが抜けない。
昼夜逆転したところに3週間もいたのだから当然か。
うーっ。
起きあがって伸びをしてみる。
二度寝する気分じゃないし、今日はすごく早起きしたってことにしとこう。
ふーん。今日は晴れか。暑くなりそうだなぁ。
あ。日ハム勝ったんだ。やっぱヒルマンはかっこいいわ。
やることがなくてとりあえずニュースを眺める。こんなときに
新聞があればいいんだけど、アメリカ行くときに契約を切ってしまったから、
うちに新聞は届かない。はやまったことをしてしまった。
本やビデオは実家に送ってしまったし、この部屋には暇つぶしに使えるものがない。
つまんないなぁ。
何かおもしろいことないかなぁ。
今日は1:00に予定があるだけで、それまではヒマ。
あっちに行って留学手続きは完了したし、ホストファミリーへの挨拶も済んだ。
あとやるべきなのは荷造りぐらい。それももうほとんど終わっている。
あ。そうだ。行くところ、あった。
ちょっとした思いつきのおかげで急にやる気が出てきた。
よしっ。そうとなったらこうしちゃいられない。ちゃっちゃと動こう。
- 456 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:31
-
地下鉄を2本乗り継いで、私鉄に乗り換えて。所要時間40分、合計金額500円。
うちからここまで来るのには時間もお金もなにげにかかる。
時間は有り余っているからいいのだけれど、定期の期間が過ぎてしまった身としては
この出費はけっこう痛い。
押し寄せてくる紺色の波をすり抜けながら目的の場所へ歩く。
進行方向が逆の私はきっと迷惑な存在。
そういえば今の時間は一般的には通勤・通学の時間だ。どうりで駅にも道にも人が
あふれてるわけだ。
しばらく見ない間にこの街も少しだけ変わっている。
一番最近ここに来たのはいつだろう。少なくとも半年は来てなかったと思う。
改札を出てすぐに銀行があって、その隣がドラッグストア。右に曲がって
信号を過ぎるとスーパーに到着。忘れかけた道も歩いているうちに思い出してくる。
裏の路地に入り住宅街の中をひたすら直進すると赤い屋根の家が見えてくる。
その隣が今日の目的地。
相変わらず幅が狭くて段差が大きい階段を2階まで上がる。
折り返して一番奥があの子の部屋。
- 457 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:31
-
ピーン ポーーン
チャイムを押して待つこと数十秒。全く反応がないからもう一回。
それでも中から声はしない。
マサオ、まだ寝てるのかな。それとも出かけてるとか?
何だよ。せっかく来てあげたのに。
「・・・あ。村っち」
扉を開けて出てきたマサオの息は明らかに切れている。
「どうしたの?こんな朝早く」
「ヒマだったから遊びに来た。 はい。これ。おみやげ」
「ありがとう。・・・っていうかなんで落花生?どこ行ってきたの?」
「千葉」
「・・・ふぅん」
マサオの足の後ろに白いミュールが見える。マサオはこんなのはく子じゃない。
ああそうか。
じゃあ上がりなよ、の一言が彼女の口からいつまで経っても出てこない理由が
ようやく分かった。
- 458 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:32
-
「村っちー。ひさしぶりー」
「ちょっとひとみん!何出てきてんの!あっちいてくれればいいから!」
「あら。ひとみん。おひさしぶり」
奥から顔をのぞかせたのは予想通り瞳ちゃん。
一人慌てているマサオを横目に、お嬢様言葉で愛想をふりまく。
「雅恵ちゃん、上がってもらったら?こんなとこじゃなんだし」
瞳ちゃんの威力抜群の提案で、会話の舞台は部屋の中に移された。
同じ部屋なのに、以前来たときとはどこか雰囲気が違う。別の部屋みたいだ。
「村っちー。 お茶、暖かいのと冷たいの、どっちがいい?」
「お茶なんて出さなくていいよ。村っち、どうせすぐ帰るし」
「え、でも・・・」
「冷たいのがいいなー」
後ろのキッチンの2人の会話に横やりを入れてみる。きっと邪魔しないで
聞いていた方が面白いのだろうけれど。
- 459 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:33
-
「ウーロン茶開けるねー」
「あー。ひとみんはそんなことしなくていいから。あっちで座ってて」
「いいの?」
「うん。ありがとう」
背中を向けているせいで顔は見えない2人の表情を想像して楽しみながら、
部屋の中を見渡す。
何が違うんだろう。
何で違うんだろう。
まず、水槽の中身がザリガニからフグに変わってる。
次に、服も雑誌もちらばってない。よく片付いた部屋になった。
あとは何より本棚の上に鎮座するヘルメットが部屋の印象を変えている。
アイボリーにオレンジのラインが入り、ゴーグルが巻かれたアンティークっぽい
デザイン。おしゃれっぽくってなんか悔しい。マサオのくせに。
夏休み前に学校で見かけた時にはあんなの被ってなかったと思うんだけどなぁ。
それにマサオのスクーターはシートの下に収納スペースがあったような。
さてはこれはインテリア?
- 460 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:34
-
「どうしたの?」
声をかけられ前を向くと、瞳ちゃんが不思議そうな目で私を見ていた。
「ああ。ごめん。何でもない」
「そう?なら良かった」
笑顔でごまかしてさりげなく話題を変える。
「そうそう。ひとみんに渡すものがあったんだよ」
「本当?なになに?」
「この前ちょっと旅行したからさ。そのお土産」
バッグから包みを取り出し、目の前の女の子に手渡す。中身はぬいぐるみ。
体長50センチの特大プーさんは寝そべった体勢で、そっちの方向に興味が薄い
私から見てもかわいらしい。
「うわーっ!これ、前からすごい欲しかったの!貰っちゃっていいの?」
「うん。どうぞどうぞ」
予想通りの好リアクションに嬉しくなる。頑張って穫って良かった。
それにしてもこの子は本当にいい顔で笑うなぁ。
- 461 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:35
-
「なんかそれ、私にくれたのとえらく違わない?」
コップを3つ持ってやってきたマサオは不満顔。
「人に物をあげるときはその人が喜びそうなものを考えろ、っていうでしょ?」
「で、私は落花生なんだ。へぇー。
そもそもこれってお土産としてどうよ? 絶対おかしいから」
「そう?どっちも千葉の名産物じゃん」
「落花生はスーパーで売ってるやつだし、プーさんはUFOキャッチャーだし。
どこでも手に入る物じゃ意味ないじゃん」
「まぁいいじゃん。村っちがせっかく買ってきてくれたんだから。
ね?雅恵ちゃん」
「うん。まぁありがたく受け取るけどさぁ」
マサオの攻撃は瞳ちゃんの一言であっけなく終了した。
けっこうな勢いだったから、早いとこでカタがついて良かった。
実をいうと落花生はここに来る途中にドンキホーテで買ったものだから、
責められても仕方がなかったんだけども。
「そうそう。私も村っちにあげなきゃ。ちょっと待ってね」
「うん」
「はい。これ」
「あー。ありがとう」
受け取ったのは一枚の茶封筒。
この光景をマサオはわけが分からないといった顔で眺めている。
「今度の土曜、あゆみんの学校で文化祭があってさ。これはそのチケット」
「へー。高校の文化祭にチケットがいるんだ。さすが東京の学校は違うねぇー」
「良かったら雅恵ちゃんも来ない?」
「うん。行く行く」
傍から見ていてもマサオの目が輝いたのが分かる。
瞳ちゃんに誘われたのがそんなに嬉しいかねぇ。行き先はたいしてよく知らない
高校の文化祭なのに。
「じゃあ私はそろそろ帰るわ」
「そう? プーさん、どうもありがとね」
「いやいや。こちらこそ。マサオんちにひとみんが居てくれて良かったよ。
わざわざ学校まで行く手間が省けた」
「何? 大学に1:00の待ち合わせって村っちが相手だったの?」
「うん」
「なんだー。そうだったんだ」
- 462 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:35
-
「じゃあねー」
「うん。またねー」
手を振られて部屋をでる。2人とも座ったままとはどういうことだろう。
せめてどっちかは玄関まで見送りに来てくれたっていいのに。
まぁ2人とも楽しそうだから別にいいんだけど。
今日ここに来て本当に良かった。
あっちに行く前にやっておかなければいけない大切なことが一つ終わった。
マサオはもう私たちがいなくても大丈夫。
何も心配する必要はない。
りんねに聞かれても自信を持ってこう答えられる。
- 463 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/05/30(日) 23:35
-
- 464 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:23
-
「あと10分で着く。そのまま待ってて」
マサオへのメールを送信すると、乗り換えた地下鉄を3つ目の駅で降りる。
学校に行くときにいつも使っている駅のホームはいつもとは違う顔。
今日は私と同年代の学生の姿はなく、かわりにそのだいぶ下の女の子と
かなり上の上品なおじさまおばさまでにぎわっている。
こんなふざけた服着てきて良かったのかな。
もっとちゃんとしたやつにした方が良かったかも。
出口から徒歩10分。風炉学院中高等部合同校舎はすぐに見つかった。
そこそこ距離はあるから迷うかと思ったけれど、すんなり行けて良かった。
「村っちー」
茶髪ロングと金髪ショートの2人組がこっちに向かって手を振っているのが見える。
二人の派手な格好は明らかに私よりも場違いだ。
「遅いよー。何してたのさ。 ん?
来る途中に・・・重い荷物を持ってる、腰の曲がったおばあちゃんがいて
・・・ってなんでジェスチャートークなのさ。普通にしゃべれよ」
口調は怒っているけれど表情はそう怒ってもいないマサオとその隣で
コロコロと笑う瞳ちゃん。瞳ちゃんと一緒の時のマサオは穏やかでいい。
- 465 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:25
-
「何それ?」
「さっき上で買ったの。 あ。村っちも食べる?」
「いいの?」
「うん。どうぞー。 っていうかさ、講堂の中飲食禁止らしくてさ。
今ここで食べきらないとまずいんだ。だからどんどん食べて」
「それじゃあお言葉に甘えて」
瞳ちゃんの手にあるポップコーンに手をのばす。
こんなの食べるのはどのぐらいぶりだろう。懐かしいな。
「で、二人はあゆみんには会えたの?」
「いや、全然」
「携帯に連絡はいれたんだよ。でもなんか出てこれないみたいで」
「へぇ。やっぱ忙しいんだ」
正門の受付には結構な長さの列ができている。これは高校の文化祭といっても
あなどれない規模のイベントだ。運営している側はきっと大変だろう。
「あゆみんの部活の発表って何時からだっけ?」
「1時半・・・だね」
「もうそろそろじゃん。村っち、急いで受付すませないとやばいよ」
「え? 2人は?」
「うちらもう済ませたもん。再入場は受付なしでいいの」
「行っておいでよ。待っててあげるから」
2人に見送られて列の一番後ろにつく。これは時間がかかりそうだ。
管弦楽部の公演まであと20分。
それまでに入れるだろうか。入れたとしてもちゃんと席はあるだろうか。
入り口の横でポップコーンを真ん中に笑いあっている2人がうらやましい。
こんなことなら私も早く来ておけばよかった。
- 466 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:25
-
「・・・うわぁーっ」
重い扉を開くと目に入ってきた光景に思わず声がもれる。
外壁と同じ黄土色のレンガの壁面に、整然とならんだ木製のイス。
客席はゆるやかなカーブを描き、段差を降りた先には巨大なパイプオルガンと
ワインレッドのカーテンに彩られた舞台が広がる。
1階だけでなくその上にもある客席は、ざっと見積もったところ総数2000席。
これはもう、立派なホールだ。
高校の講堂がこんな豪華でいいわけ?
「すみません。失礼します」
やはり席はもうかなりうまっていて、3人一緒に座れるところは見あたらない。
しかたなく私だけ2人から離れ、座っている人の間をぬって斜め上あたりの席に
腰をおろした。
落ち着いて聴きたい私としては、この状況は逆にありがたかったりする。
2人の邪魔はしたくないし。
- 467 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:26
-
既にうす暗い客席からは、いくつもの照明に照らされた舞台が本当に
まぶしくみえる。こんなところで、これだけの人数に見らて演奏するのは
さぞ緊張するだろう。私なら舞台に上がった瞬間に逃げ出してしまうかも
しれない。
もともと暗かった客席の照明がさらに落とされると、講堂には目に見えて
分かるほどの緊張感が広がる。
客席と対照的にますます明るさを増した舞台に、袖から演奏者が出てくる。
黒パンツの指揮者らしき女性以外は全員白のブラウスに黒のロングスカート。
テレビで見たことがあるオーケストラの映像と重なる。服装もかなり本格的。
あゆみちゃんは・・・いたいた。
私が座っている席は1階席でもかなり後方で、舞台との距離はけっこうある
けれど、はっきりした彼女の顔はここからでもよく分かる。
細長い楽器を大事そうに両手で持ち、10人目ぐらいに出てきたあゆみちゃんは
たくさん並んだイスの中央あたりに立つ。
- 468 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:26
-
バーーーーーーーッ
全員が指定の位置につき、客席に向かって頭を下げたのと同時に
会場は拍手で包まれる。
クィーーーーーーッ
拍手がおさまり、他の全員が席についても一人立ったままだった人が
おもむろにバイオリンを肩にかけ、音を出すと、それにあわせて他の全員が
音を出す。単なる音合わせなんだろうけれど、けっこうな音量があって
これだけで相当な迫力がある。
数秒間音を出したところで全員が席に着き、指揮者の両手が高く上がる。
その瞬間、会場中がひとつになる感覚をおぼえた。
舞台・客席に関係なくここにいる全員がこれから始まる演奏に集中している。
この感覚は間違いではないだろう。
- 469 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:27
-
あゆみちゃんの部は管弦楽部というよりもオーケストラという言葉が似合い、
その演奏も発表というよりコンサートというものに近い。それぐらい規模が
大きくて、本格的。
私が想像していたものとは比べ物にならない代物で、正直おどろいた。
オーケストラの演奏なんてあまり聴いたこともないし、よく分からないけれど
とにかくすごいということはよく分かる内容だった。
1曲1曲が長くて聴いているのは少し疲れたけれど、2時間の公演中、
全く飽きることはなかった。
舞台上に並んだ沢山の楽器はその数・種類をもてあますことなく様々な音を
かなで、しかもそれがうまい具合に調和していてすごく心地良い。
それに、演奏そのもの以上に一生懸命な彼女たちの姿がすごくすてきで
一瞬たりとも目が離せなかった。
その子たちの中心に、あゆみちゃんはいた。
- 470 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:28
-
彼女は目の前のことに正面からとりくむ子だ。
たくさん悩んで、たくさん考えて、たくさん努力して、ハードルを越えていく。
壁に当たっても逃げずに立ち向かう。そのたびに成長していく。
だから彼女はいつもまぶしいんだろう。
それに引きかえ、私は困難に出会うたびに言いわけと逃げ道をさがしてきた。
室蘭の寂れた街を夢が見つからない言いわけにして、上京した
それでも何も得られない言いわけとして、資格を取った。
今度の留学を打ち明けないでいるのも、途中で挫折して帰ってきたとき用の
逃げ道を残しておくため。
だから私はだめなんだ。
だから私は成長できないんだ。
このままじゃいけない。
もうそろそろこんな自分は卒業しないといけない。
- 471 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:30
-
「なんかすごかったねー」
「うん。曲がすごいきれいで気持ちよかったね。眠くなっちゃうぐらい」
マサオと瞳ちゃんと一緒に校門であゆみちゃんが出てくるのを待つ。
2列前の席で仲良く寄りかかりあいながら演奏中ずっと居眠りしていた
2人の感想にはなかなか説得力がある。
「みんなー」
手を振ってこっちに駆け寄ってくるあゆみちゃんはさっきまで舞台上に
いた人とは別人みたい。制服に着替えただけでかなり雰囲気が変わっている。
「あー。あゆみん。お疲れさまー」
「瞳ちゃーん。わざわざ来てくれてありがとー」
「演奏、よかったよ。ハーモニーって感じだった」
「本当?」
「うん。本当に。びっくりしちゃった」
「マサオさんもありがとー」
楽しそうに談笑する3人に入っていくタイミングを逃してしまったみたい。
感想を言いたいのに、さっきのコンサートに似合う言葉がみつからない。
- 472 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:32
-
「村っちもありがとね」
「あ、うん」
「ほんとに来てくれてすごく嬉しかった」
「え? もしかして私は来ないだろうと思ってたの?」
「あー。村っちいつも口ばっかだもんねー」
「いや、そういうわけじゃないんだよ? 来てくれるとは思ってたんだけどぉ」
あゆみちゃんに話しかけられてようやく輪の中に入ることができた。
少しはにかみながらしゃべるあゆみちゃんは、高校生、といったかんじで
すごくかわいい。
「あー。もうそろそろ戻らなきゃ?」
「これから何かあるの?」
「うん。引退式。花束もらうんだー。で、そのあと打ち上げ行くの」
「うわぁ。大変だ」
「明日は? 何か予定ある?」
「特になにもないけど」
「それならちょっと出てこれない?」
「うん。大丈夫」
「ひとみんとマサオは? 明日の午後、空いてる?」
マサオと瞳ちゃんを誘ったときに、あゆみちゃんが少しだけ残念そうな
顔をしたのはきっと気のせいではないだろうけど、仕方がない。
今回は2人にもいてもらわなくてはいけない。我慢してもらおう。
- 473 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/04(金) 12:32
-
- 474 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:42
-
BGMのビートルズと窓から差し込んでくる光が融合し、
なんとも気持ちよい夏の終わりの昼下がり。
大学通り沿いにある、シアトルスタイルのコーヒーショップ2階ソファー席は
午後のひと時を過ごす、いつもの場所。もう私の庭。
今日はそのお庭にお友達3人をご招待。
1人は私よりも早く来て、ぼんやりとファッション誌をめくっている。
私が来ても視線を上げようとしない始末。あの子がまだ来ていないから
やる気が出ないのはよく分かるけれど、おねえさん、その態度はちょっと
ないんじゃないの?
まったく。うちの庭なのにいい度胸だ。
- 475 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:43
-
「おはよー」
「おー。よく来たねぇ」
今日の瞳ちゃんは半袖のTシャツにジーンズ。太股にあいた穴と膝下に散る
ラインストーンがかわいい。この子はいつも気をつかった服装をしている。
それもきっと奥に座っているコイツの為なんだろうけど。
「雅恵ちゃん、何読んでるの?」
「雑誌。・・・ってのは見れば分かるか。 ひとみんも一緒に見る?」
「うんっ」
瞳ちゃんはせっかく空けておいた私の隣ではなく、その奥のソファー席に
腰をおろす。
「これ、かわいくない?ゴツすぎなくて」
「うん。かわいい」
「どうしよー。買っちゃおうかなー。でも値段が微妙だなー」
「雅恵ちゃん、指輪とかしない人じゃなかったっけ?」
「そんなことないよ。ただ気に入ったのがなかったり、あっても高かったり
するだけで」
「へぇ。そうだったんだ」
ゴシックなデザインの指輪の特集ページを間にはさみ盛り上がる2人の視界には
私の姿なんてきっと入ってないんだろうな。分かってたことだけどこの状況は
正直あんまり愉快じゃない。まぁ2人が楽しそうだから良しとするか。
- 476 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:44
-
「あら。いらっしゃい」
休日のコーヒーショップに不似合いなバタバタした足音に、階段を見やると
あゆみちゃんがかけ上がってくるところだった。
そんな急ぐことないのに。深刻そうな顔しちゃって。
お嬢様しゃべりで声をかけても彼女の顔は緩まない。それどころか
よけいに険しくなってるような気がする。まじめな性格ってのはこれだから。
「ごめんなさいっ!私、遅れちゃって」
「顔あげてよ。みんな本当にさっき来たとこだからさ。気にしなくていいって。
そもそもまだ約束した時間じゃないし」
「え? 3時でしたよね? もう3時20分・・・」
「何言ってるのさ。待ち合わせたのは3時だよ?」
「へ?そうでしたっけ?」
「分かったら早くお座りなさいな」
「はい。・・・あっ。ありがとうございます」
ご丁寧にお礼を言ってくれたあゆみちゃんに笑いかけると、彼女は少し
はにかみながら視線を落とした。本当かわいいな。この子は。
あゆみちゃんが席について、ようやく同じテーブルに4人がそろった。
4人がここに集るのは初めてじゃない。今回は2回目。
瞳ちゃんの紹介であゆみちゃんと初めて会ったのがここだった。
あれからもう3ヵ月以上経っているんだなぁ。
100日という時間は長いのか短いのかよく分からないけれど、
この程度の期間で心をゆるせる関係を築けたのは、なにげに人見知りな私にとって
めずらしいことだと思う。
- 477 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:46
-
「何見てるんですかー?」
「ん? あゆみんも一緒に見る?」
「あ。あゆみ。おはよー」
「マサオさん、こんなのつけるんですか?」
「こんなのって何だよー。実物見るとけっこうかわいいんだよ?」
「ね。 私でも全然つけられるかんじだし」
談笑する3人の姿はとても微笑ましいけれど、頬をゆるめている場合じゃない。
私は今日、目的があって彼女たちをここに呼び出したのだから。
「学生注目ーっ!」
「「何だーっ!?」」
おもむろに立ち上がり、右手人差し指を突き上げ波浪大学学生には定番の
セリフを叫んだ私と、それに応えた2人の姿を前にして、あゆみちゃんは困惑顔。
「わたくし村田めぐみは、この度、アメリカに行くことになりましたっ!
はいっ! みんな拍手っ!」
「何言い出すかと思ったら。こんな大げさな言い方しなくてもいいから」
マサオは呆れ顔。それでも律儀に拍手なんてしちゃってる。
「もうそろそろ授業はじまるよね?いつ行くの?」
さすが瞳ちゃん。気にするところが授業とは、さすがだ。
この前会ったときに持っていた航空券を見られてしまったあゆみちゃんには、
別段驚いた様子はない。
っていうか、誰も驚いてくれない。ま、あんな言い方じゃ当然か。
- 478 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:46
-
「みんな分かってないみたいだから、ちょっと言い換えますね。
この秋からイリノイ州立大学シカゴ校に留学することになりました」
3人の表情が固まる。
みんな拍手っ! なんて言ってふざけてる空気じゃないみたい。
私の言葉を理解してくれたのはうれしいけれど、この雰囲気はうれしくない。
「いつから行くの?」
「来週の火曜日の便で発つ予定」
「そんな急なの?」
「うん。 ほらみんな、そんなくらい顔しないで。私がいなくなるのが
さびしいのは分かるけど、別に一生の別れってわけじゃないんだし」
ヘラっと笑ってみたけれど、誰も一緒に笑ってくれない。
「何の勉強しに行くの?経済学?」
「ううん。アグリカルチャー。はじめの1年は語学研修なんだけどね」
「アグリカルチャー?」
「うん。農学っていうか、農業を全般的に。中心は酪農なんだけど」
「酪農?何でまた」
瞳ちゃんは眉根をよせてこっちを見ている。あゆみちゃんも何かいいたげ。
そりゃ、理解不能だってのは自分でもよく分かってるんだけども。
- 479 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:48
-
「・・・もしかして、戸田さん?」
「そう。りんね」
おそるおそるといった様子でマサオが口を開いた。
「あ、りんねっていうのは高校の同級生で、マサオの先輩なんだけど、
自分の牧場持つのが夢なのね。今はあっちでファームステイしながら
大学通って酪農の勉強してるのよ。
で、私はこれから彼女を追いかけに行く、と。 この説明で分かった?」
私たち2人の話についていけていないであろう2人に少しばかりの補足説明。
うん、なんて口では言っているけれど、瞳ちゃんは明らかに私の留学の動機を
理解しきれていない様子。
そりゃそうだろう。いきなりこんな話きかされてもね。
- 480 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:48
-
「そんなの初耳なんだけど。村っちと戸田さんがそんな関係だったことも、
そもそも戸田さんが牧場のために留学してるってことも」
「だろうね。黙っててごめん」
落としていた視線を上げて、マサオがしゃべりだす。
ただでさえちょっとあがっている目が、今日はいつも以上に強い力を持って
私にせまってくる。
「アメリカまで追っかけに行くって大決心だよね?悩んだりしたよね?
なのに何で私に相談してくれなかったの?私は村っちのことも戸田さんのことも
よく知ってるよ? しょっちゅう顔合わせてたわけだし、タイミングには
困らなかったはずでしょ?
何で何も言ってくれなかったの?私ってそんなに頼りないわけ?」
マサオは早口でまくし立てた。
感情を表に出すことを嫌うこの子には珍しい。
っていうか、この子のこんな姿、初めて見た。
打ち明けられなかったのは、決心が揺らいだときにその存在をなかったことにするため。
やっぱりやめました、という結果になって失望されるのが怖かったから。
マサオが頼りないとか、そんな理由なわけがない。
自分の弱さが情けなくって隠れてしまいたいような気持ちだけれど、
マサオの真っすぐな目が私の視線を捕まえて、いっこうに逃がしてくれない。
- 481 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:49
-
あ。
少しだけつり上がった目から白い肌に大粒の涙が落ちた。
涙を拭うとマサオは私に背を向け、階段を降りていく。
「ごめん」
マサオの背中と呆然としている私の顔を見比べ、瞳ちゃんはそう言い残して
マサオを追いかけていった。
- 482 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:52
-
ガッ ガッ ガッ ガッ
空いた両手はやることがなく、目の前のグラスに入れられて固まってしまった
氷を砕いている。氷の塊はもう随分小さくなったけれど、それでも右手は
止まらずに、一定のリズムでストローをグラスの底に打ちつける。
隣のあゆみちゃんは私の隣で紙ナプキンをちぎっている。5ミリ程度の大きさに
されたナプキンはテーブルの上で5センチほどの高さの山になっている。
これを全て手にとって風に乗せたら、きっときれいな紙吹雪ができるだろう。
私たちは黙ったままひたすら手を動かしている。
マサオたちがいなくなってからずっとこの調子。
周囲の人の目に私たちの姿はものすごく変な客として映っていたのだろう。
そんなことは分かっていたけれど、私の手は止まらなかった。
その日はいつまでも、私はストローでグラスを打ち続け、
あゆみちゃんは隣でナプキンをちぎり続けた。
- 483 名前: アメリカガエリ 投稿日:2004/06/07(月) 00:53
-
- 484 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/07(月) 22:29
- いつも楽しみにしています。
頑張ってください。
- 485 名前: 対星 投稿日:2004/06/11(金) 00:42
- >>484
レスどうもありがとうございました。
いつもとは。どうもありがとうございます。本当に。
ラスト頑張ります!
ということで今日の更新いってみます。
- 486 名前: 投稿日:2004/06/11(金) 00:46
-
ララバイ サラバイ
- 487 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 00:58
-
大きな窓から差し込んでくるうるさいほどの日差しを受けながら、
東京に2年半いても数えるほどしか使ったことのない電車に揺られ、
普段の生活ではお目にかかれない田園風景の中を進む。
今日は向かいの席が空いていてよかった。
これなら短くはない時間を落ち着いて過ごすことができる。
ボックスシートで知らない人と向かい合って座るのは妙に緊張してしまうから
好きじゃない。
あと20分ほどで電車は私を目的の駅まで運んでくれる。
こうしてまどろんでいられるのもあとわずか。
- 488 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 00:58
-
- 489 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 00:58
-
「ひとみん?」
電車を降りて、スーツケースを引きずりながらやって来た1階ゲート入り口。
壁に寄りかかって携帯をいじっているのはたぶん瞳ちゃん。
少し不安だったけれど、私は彼女の肩をつついた。
「良かったー。いつまで経っても来ないから、もう行っちゃったかと思ったよ。
携帯にかけても出てくれないし」
「電話くれたの? ごめん。気づかなかった」
「いいって。こうして無事に会えたわけだし」
瞳ちゃんはいつもと同じようにくしゃっと笑った。
- 490 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 00:59
-
カウンターで搭乗手続きを終え、スーツケースを預ける。
これで集合時刻までの1時間半、空きができたことになる。
「手続き終わった?」
「うん。ちゃんとできた」
「スーツケース、重量オーバーとかしてなかった?」
「うん。大丈夫だった。制限すれすれだったけど」
「これってさ、制限超えてたら乗れなかったりするの?」
「うん。多分」
「良かったねぇ。超えてなくって」
しゃべりながらゲートを出る。もう9月の終わりだから海外旅行シーズンは
終わったはずなのに、空港には人があふれている。
この喧噪が気に入らなくて、私は瞳ちゃんを連れてエレベーターを探した。
- 491 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 00:59
-
- 492 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 00:59
-
「いらっしゃいませ。 航空券を拝見してもよろしいでしょうか?」
「はい。お願いします」
4階の一室の扉を空けると、紺の制服姿のお姉さんが微笑みかけてくれる。
私はパスポートケースからチケットを取り出し、彼女に手渡した。
「ありがとうございました。 お飲物はいかがなさいますか?」
「コーヒーで」
「お連れのお客様は?」
「じゃあ同じ物を」
「はい。かしこまりました」
そう言い残すと、受付の女性は上品な業務用スマイルをうかべ
カウンターの奥に消えていった。
「なんかすごいね。ここ」
滑走路が見える窓際の席に座ると、瞳ちゃんはつぶやいた。
「静かでいいでしょ。 それに新聞は読めるし、テレビも見れるし、
コーヒーも飲める。そして無料」
「へぇ。そうなんだ」
「うん。航空会社の待合室だからさ。チケット持ってればタダ」
さっきのお姉さんが持ってきてくれたコーヒーをすする。
きっとインスタントなんだろうけど、香りはよい。
- 493 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:00
-
「あー。もうっ」
瞳ちゃんは右耳に携帯電話を押しつけたままで、小さく声をもらした。
「どうしたの?」
「全然つながんないの」
「マサオ?」
「そう。雅恵ちゃん。 今日ここに来る前に雅恵ちゃんの家に行ったんだけど
いなくって。電話しても出てくれないし、メールの返事もこないし」
携帯を見つめる彼女の表情が曇る。
「雅恵ちゃん、どうしたんだろう。このまま来ないつもりかな」
「あー。そうかもねぇ」
この前の様子だと、マサオはきっと見送りになんて来てくれない。
あの子とは高校時代からの4年以上のつきあいになる。それがこんな形で
切れてしまうかもしれないのは、すごく寂しいし悲しいけれど仕方がない。
私が悪いのだから。
マサオが怒るのはもっともだし、許してくれないのも当然だ。
- 494 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:01
-
「こっちもダメだ」
瞳ちゃんは少し苛立たしげに携帯をはなした。
「誰?」
「あゆみ」
「あー。あゆみんか」
「何してんのかなー。あの子ったら。 さっき家に電話したら午前中に
出かけたって言ってたのに」
「あゆみんにも何か用事とかあるんじゃない」
「そうなのかなー? 村っちは今日アメリカ行っちゃうっていうのに」
あゆみちゃんがわざわざ成田まで来てくれないのも理解できる。
短い間だったけれど、週1回のペースで会ってしゃべったり勉強したりして
私はあの子と仲良くなったつもりでいたし、あの子が私に好意を持って
くれているような気になったりもしていたけれど、あの子にとって私はきっと
ただの知り合いのお姉さん。その程度の存在だったのだろう。
それだけのことだ。
- 495 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:01
-
「何時の便だったっけ?」
「4時のユナイテッド航空」
「分かった。ありがとう」
のんびりとした口調とは対照的に、瞳ちゃんは高速で親指を動かす。
「何してんの?」
「雅恵ちゃんとあゆみに送るの。今からなら間に合うかもしれないし」
お別れはちゃんとしたいでしょ、なんて言って瞳ちゃんは口の端を上げた。
そんなメールをしても2人はきっと来てくれないだろうけれど、瞳ちゃんの
気遣いはすごく嬉しいものだった。
- 496 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:02
-
気づくと壁にかかった時計の表示は集合時刻まであと少しになっている。
「そろそろ出ようか」
「もう時間?」
「うん。まだちょっとあるけど」
バッグを持って席を立つ。あたりを見渡してみると、
待合室にいる人たちの顔は私たちがここに来たときから随分入れ替わって
いることに気がついいた。
「ありがとうございました」
「またご利用くださいませ」
「はい」
待合室のお姉さんのスマイルに、こっちも笑顔でこたえる。
そういえばこの前ここを利用したのは1ヶ月半前。税理士の試験が終わって
留学の手続きとホストファミリーとの顔合わせの為にあっちに行った時だった。
次にここに来るのはいつになるのだろう。
- 497 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:03
-
- 498 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:03
-
「じゃあ、ね」
搭乗ロビーの入り口まで来て、向きを変え、瞳ちゃんと向き合う格好になる。
「うん。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
誰も私の見送りになんて来てくれないと思っていたから、瞳ちゃんが
来てくれたのは本当にうれしかった。
当たり前でしょ、なんて言って笑う彼女の笑顔は、いつも以上にまぶしい。
「本当に行っちゃうんだね」
急に真顔に戻った彼女はどこか遠い目をしている。
「なんか実感わかないんだよね」
「そう?」
「だってアメリカだよ? 簡単には会えないし、電話だってできないんだよ?
今までは同じ大学行っててしょっちゅう会ってたのに」
「あー。そうだねぇ」
「それに留学するって聞いたの先週だよ?まだ実感なんてできないよ」
「あー。ごめんねぇ」
- 499 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:04
-
「手紙、書くからね」
「うん。待ってる」
「メアド決まったら教えてね」
「うん。メールする」
「電話ちょうだいね。時差とか気にしないでいいから」
「うん。そうする」
「離れてても友達なんだから。そのこと、忘れないでね」
「うん。忘れない」
瞳ちゃんの目がどんどんうるんでいくのが分かる。
ああ、こういうのが別れなんだ。
「それじゃあ、もう行くね」
「うん。行ってらっしゃい」
このまま瞳ちゃんの顔を見ていると私まで泣いてしまいそうだったから
彼女に背を向けて搭乗ロビーに入る。
「村っちー! 頑張ってねー!」
後ろから瞳ちゃんの声が聞こえてくる。
視界にうつるもの全てがゆがんでいく。
まったくあの子はもう。
これじゃ出発の時は泣かない、っていう私の決意が台無しじゃないの。
私は涙がこぼれないように少しだけ顎を上げて歩いた。
- 500 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:05
-
- 501 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:06
-
あー。あれだ。
前面がガラス張りになっている搭乗ロビーからは、滑走路の様子が見渡せる。
沢山ある飛行機の中でも青のラインに赤と青のロゴがデザインされた
ユナイテッド航空の機体はすぐに分かった。
これからあれに乗るんだなぁ。
これから11時間も命を預かってもらうと思うと、この白い金属塊に対しても
特別な感情が芽生えてくる。
無事にシカゴまで連れていって下さいね、と。
よし。あいさつ完了。
- 502 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:07
-
人の列が搭乗口に向かって続いている。
どうやらベンチに座ってぼんやりしているあいだにエコノミークラスの乗客の
搭乗時間になったようだ。こうしちゃいられない。
膝に置いていたバッグを肩にかけ、私も列の後ろについた。
機械にチケットを通して機体までの狭い通路を行く。
それにしてもどうしてこの場所はいつ来てもこんなに蒸し暑いんだろう。
今日は視界が良くて気持ちが良い。パスポートの写真照合の為に
最近トレードマークになりつつあったメガネを外したからだ。
もともと視力は悪くない。むしろかなり良い方。生まれてこのかた視力検査では
間違えたことがない。あのメガネは当然ダテメガネ。
あっちに行ったらメガネはどうしよう。
目に良くないし、メガネキャラにもそろそろ飽きてきたから、外していようかな。
でも日本のメガネっ娘文化をアメリカに輸出するってのもいいな。
それでむこうですごい人気者になるの。いいな、そのアイディア。
あっちに行ってからの楽しい生活を想像しているうちに、さっきまでの
湿っぽい感情が薄まっていった気がする。
良かった。これで大丈夫。
今なら颯爽と笑顔を振りまきながら飛び立てる。
- 503 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:07
-
- 504 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:07
-
35のA・・・。35のA・・・。
あ。ここだ。
座席の間の狭い通路を歩きながら、チケットに記された座席を探す。
見つかった席は機体の左端の席。
やった!窓際だ!
これなら空から夕日も雲もシカゴの夜景だってしっかりおがめる。
いいかんじ。いいかんじ。
- 505 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:08
-
『当機はまもなく離陸の体勢に入ります。お手持ちの全ての電子機器の
スイッチをお切りください』
英語の後に聞こえてきた日本語のアナウンスにうながされて
MDウォークマンのスイッチを切り、携帯の電源を確認する。
あー。これから日本を離れるんだなぁ。
次はいつ見られるか分からないこの景色、今のうちにしっかり目に
焼き付けておかないと。
今さらやってきたアメリカ行きの実感と軽い義務感に背中を押され、
少しだけ前のめりになってすぐ右隣の小さな窓に顔を近づけた。
- 506 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:08
-
ん? なんだあれ?
空港の建物の上にある人影は、頭部の色が明らかにおかしい。
マサオ?
淡い黄色と鮮やかなオレンジ。きれいに染め分けられた2色の髪の毛。
こんなアタマしてるのは日本中探してもあの子しかいない。
こっちに向かって思いっきり手を振ってる。
鼻先に刺激が走ったかと思うと、頬に生温かい感触がした。
顎を上げた程度では今度の涙は言うことを聞いてくれない。
あー。もう。そんなめいっぱい腕振り上げなくたってちゃんと見えてるから。
まったく。あの子はいつも不器用で一生懸命なんだから。
なんだよ。マサオのバカ。おかげで涙が止まらないじゃないのよ。
これじゃ余裕しゃくしゃくで格好良く日本を去るっていう私の計画が
台無しじゃないのよ。どうしてくれるのさ。
- 507 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:10
-
あれ? マサオの隣の子は・・・あゆみちゃん?
派手なアタマをした子の右には彼女より少しだけ背が低い黒髪の女の子。
この子もこっちに向かって大きく手を振っている。
うわぁ。何これ?もうどうなってるのよ。
思いがけない事態に鼓動が速まり、呼吸が荒くなる。こぼれ落ちる涙も勢いを
ましていく。気づいたら嗚咽までもれている。
こんな風に泣くのってどれぐらいぶりだろう?もしかしたら人生初かも。
やばいな。これじゃまじ泣きじゃないのよ。恥ずかしい。
飛行機で一人マジ泣きする女なんて全く見れたもんじゃない。
こんなのは私のポリシーに反する。こんなの私じゃない。
私の意志に反して涙は止めどなく流れ落ちていく。
せっかく塗ったマスカラもファンデもドロドロになって一緒に流れてるんだろう。
もう。みんななんてことしてくれるのさ。
これじゃ颯爽と笑顔で出国なんて思い描いていたイメージと遠すぎる。
こんな息が苦しくなるほど泣くなんて、ありえないから。
- 508 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:11
-
- 509 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:11
-
次第に大きくなっていく音とともに機体はゆっくりと上昇し、
爆音の中で2人の姿は私の視界から消えていった。
それでもその後11時間、私の涙は止まらなかった。
おかげでシカゴにつく頃にはすっかり瞼が腫れ上がってしまった。
迎えに来てくれたりんねに、目開いてないよ、なんて言われて笑われてしまうほど。
- 510 名前: ララバイ サラバイ 投稿日:2004/06/11(金) 01:14
-
ありがとう、瞳ちゃん。
ありがとう、マサオ。
ありがとう、あゆみちゃん。
送り出してくれたみんなに恥ずかしくないように、私はシカゴで精一杯頑張ります。
だから3人は日本で頑張ってね。
いつでも、どこにいても、みんなのこと、応援してるよ。
- 511 名前: 投稿日:2004/06/11(金) 01:14
-
- 512 名前: アゲハチョウ 投稿日:2004/06/11(金) 01:15
-
- 513 名前: END 投稿日:2004/06/11(金) 01:16
-
- 514 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/15(火) 05:21
- 脱稿お疲れ様でした。
最後のシーンは思わず涙ぐんでしまいました。
4人の成長する様が目に浮かんでくるようでした。
この話が読めてよかったです。
ありがとうございました。
- 515 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/17(木) 21:15
- お疲れ様でした!
いつも更新を楽しみに待っていました。
メロン記念日が大好きなのですが、メロン記念日らしい、
4人の絆や暖かさが感動的でした。
ありがとうございましたm(__)m
- 516 名前:名無し 対星 投稿日:2004/06/20(日) 00:15
- テストの意味を込めて更新いたします。『アゲハチョウ』の番外編です。
- 517 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:17
-
はなれ ばなれ
- 518 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:18
-
お久しぶりです。お元気ですか?
そっちはもう大分涼しくなっているみたいだけど、風邪引いたりしていませんか?
この前うちにあった地球儀を生まれて初めてちゃんと見てみました。
シカゴと札幌の緯度ってそんなに変わらないんだね。北海道に住んでた村っちには
東京よりもシカゴの気候の方があってたりするのかな。
- 519 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:19
-
このあいだは見送りに行けなくってごめんなさい。
実をいうと、あの日は空港まで行っていました。
でも最後にどんな顔をしていればいいのか、どんな言葉をかければいいのか、
どうしても分からなくって、結局会いに行くことができませんでした。
それで、あの日はずっと屋上の展望テラスでぼんやり飛行機を眺めていました。
せっかく成田まで行ったのに。今考えると、すごく残念なことをしたと思うんだけど。
- 520 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:19
-
そういえば、テラスでマサオさんに会いました。
マサオさんは私よりもずっと早くから来ていて、私よりもずっとぼんやりしていました。
何となく声をかけづらい雰囲気だったし、マサオさんと二人きりになるのは
初めてだったから、正直ちょっと緊張しちゃいました。
でもマサオさんはあんな髪の毛してるけど、しゃべってみると瞳ちゃんが
いつも言っている通り、優しい人でした。
- 521 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:20
-
マサオさんは村っちのこと、いろいろ話してくれました。
オムライスを作る調理実習の時間、出来あがったものはオムレツだったこと、
運動部でもないのに毎年体力測定の長距離走をやたら頑張っていたこと、
写真は現像するとすぐにコラージュに使ってしまい原型を留めていなかったこと。
高校時代の村っちは、私が知ってる村っちよりもはじけたかんじだったみたいで、
ちょっと意外でした。
私もそんな村っちに会ってみたかったな、なんて思っちゃいました。
- 522 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:20
-
りんねさんのこともマサオさんから聞きました。
村っちやりんねさんと過ごした高校の頃の思い出をしゃべるマサオさんは
嬉しそうで、楽しそうで、そしてちょっぴり寂しそうで。
マサオさんのそんな横顔を見ていたら、村っちがどうしてあっちに行ってしまうのか、
うまく言えないけど、私にも少しだけ分かったような気がしました。
慣れないことが多くていろいろと大変だろうけど、村っちならきっと大丈夫。
くれぐれも身体には気をつけて、そっちでいろいろ学んできてください。
- 523 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:21
-
この前、瞳ちゃんとマサオさんと3人で遊んだときのプリクラを同封します。
かわいく撮れてるでしょ? 実はこれ、かなりの自信作です。
何だか爆発しちゃってるマサオさんの新しい髪形に驚いたかもしれないけど、
今ではもう違うアタマをしています。最近会ったときは赤のストレートでした。
でも瞳ちゃん曰く、今は黒髪らしいです。
マサオヘアー、変化が激しすぎて私にはフォローしきれません。
完璧にフォローしてるのはきっと瞳ちゃんだけなんじゃないかな。
- 524 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:22
-
―
――
――――
――――――
――――――――
「りんねー」
「ん?」
間延びした声を背にうけて、振り返る。
「ここん所の as の節ってどうとらえたらいいの? itが指示してるのが
何かわかんないんだけど」
「あー。これは as it happens ってのがイディオムで、たまたま、とか
あいにくとかそういう意味でとるべきなんじゃないかな」
「ほー。ありがとー」
「どういたしまして」
後ろにいるメガネさんは一つ疑問点が解消されると、もとの体勢にもどって
また英文に向きあう。いつもながらこの真面目な姿勢には頭が下がる。
- 525 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:23
-
「めぐみー」
「ん?」
お勉強中、邪魔しちゃって申し訳ないんだけれども、私の中に生まれた疑問も
解決をのぞんでいたりするわけで。
「このプリクラ、どっちがあゆみちゃんでどっちが瞳ちゃん?」
「あー。これはね、左からあゆみちゃん、瞳ちゃん、で、マサオ」
「ほー。ありがとー」
「どういたしまして」
へぇ。あゆみちゃん、えらくかわいいなぁ。いくつなんだろ?
こんな子に手紙かいてもらえるなんて、めぐみがちょっとうらやましい。
「・・・って、アンタ何みてんのよ」
「小さい事で騒ぐなよ」
「小さくないから。人の手紙勝手に読まないでくれる?」
「見られたくないんならこんなとこに置いとかないでくれる?」
「私の部屋なんだからどこに何おこうが私の自由でしょ?」
なんか私、おされてない? 前はこんなことなかったのに。
はなれれてる間に言葉もちょっと聞き取りやすくなったような気がするし。
- 526 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:24
-
「っていうかさ、アンタ今、宿題やばいんじゃないの?」
「・・・ぅ・・」
「手伝ってあげても良かったんだけどなぁ」
「・・・ぉ・・ます」
「え? 聞こえない」
「お願いします。手伝ってください」
「そういうんだったら良いんだけどぉ」
「ありがとうございます」
「じゃあここにいてあげるから、分かんないとこあったら見してみ?」
「はい」
めぐみは急に大人しくなってもとの姿勢に戻る。
うん。やっぱりこういう方が落ち着く。
でも勝手に手紙を読んだのはきっと私が悪いんだろうから、
あとで下に降りて何かもらってきてあげよう。
確か冷蔵庫にはメロンがあったはず。
めぐみ、きっと喜ぶだろうなぁ。
喜ぶ彼女が浮かべるえくぼを想像すると、私の頬も何だか少し緩んだ気がした。
- 527 名前: 投稿日:2004/06/20(日) 00:24
-
- 528 名前: END 投稿日:2004/06/20(日) 00:24
-
- 529 名前: 対星 投稿日:2004/06/20(日) 00:26
-
レスのお礼です。
>>514
読者の方の脳内メロン像による補完に頼ってばかりの話でしたが、
そのように読んでいただけて良かったです。作者として、嬉しい限りです。
>>515
いつもとは。本当にどうもありがとうございました。
メロン記念日が大好きで、彼女たちらしさが出せたら、と思いながら書いていました。
>>516
書き込んでくださったのに反映されなかったのでしょうか?
もしそうでしたら、お手数ですが、もう一度、書き込んでいただけると嬉しいです。
これからはこちらのスレッドにまだかなり残っている容量を利用し、
番外編をのせていこうと考えております。
更新はかなり遅くなると思いますが、気が向いたらのぞいてやって下さい。
- 530 名前: 対星 投稿日:2004/08/13(金) 20:13
-
帰ってまいりました。
ぼんやりしているうちに更新間隔があいてしまい、申し訳ありません。
案内板で取り上げてくださった方、黙って見守って下さっていた方、
本当にどうもありがとうございました。
さて、番外編第2弾です。
本編 >>453-463 の続きととらえていただけるとありがたいです。
- 531 名前: 投稿日:2004/08/13(金) 20:14
-
残 暑
- 532 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:16
-
「そろそろ失礼するわね」
にっこり微笑むと、村っちは立ち上がる。
細い足が伸びる。白いフレアスカートには皺ひとつない。
こうしていると、本当にお嬢様な人みたいだ。本当はただの変な人なのに。
「もう行っちゃうの? もうちょっとゆっくりしていってよー」
「そうさせていただきたいのだけれど・・・」
ひとみんの言葉に優雅にこたえると、村っちは私のほうに視線を向ける。
何それ? ゆっくりしていけないのは私のせいだって言いたいわけ?
確かに長居されるのは迷惑なんだけどさ。
「また次の機会に」
「うんっ」
村っちが微笑むと、ひとみんは思い切りうなずく。
彼女の腕の中では、プーさんが気持ちよさそうに眠っている。
「じゃあねー」
「うん。 またねー」
陽気な声をのこして、村っちが部屋から出て行く。
ドアが開く音をききながら、私は背中の向こうに手を振った。
- 533 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:17
-
「雅恵ちゃん?」
「ん?」
ひとみんが顔をのぞきこむ。これは彼女のクセ。
最近少しは慣れてきたけれど、それでもやっぱりこの上目遣いにはドキっとする。
「どうかした?」
「いや、どうもしてないけど」
どうもしてない、なんて言ってはみたけど、そうでもない。
今の私は自分でも分かるぐらい機嫌が悪い。
そんなそぶりは見せまいとしたけれど、ひとみんにはやっぱり勘づかれてる。
「ならいいんだけど」
視線を落とすと、ひとみんは姿勢を戻して、少しだけ動いた。
腰をおろした先は私から少し離れたベッドサイド。
彼女の両腕はいまだにプーさんがひとりじめしている。
- 534 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:17
-
ジー ジジジー ジーーーーー
ブーーーーーーーーーーーーー
不規則なセミの鳴き声に規則的なクーラーのモーター音。
そんな音しか聞こえない閉め切った部屋。
体育座りでプーさんを抱き、床を見つめている彼女。
タンスに寄りかかり足を投げ出し、天上をにらんでいる私。
なんですか、この冷めた空気。
設定温度、3℃ぐらい上げようかな。地球環境のためにも。
夏休みだからといって、こうして会える時間が増えるわけではない。
お互いバイトもあるし、いろいろとイベントも多い。
それにひとみんは来週から帰省するから、しばらく会えなくなる。
今日みたいにずっと一緒にいられる日は珍しい。
大切にしなければいけないことは分かっている。
こんな風に過ごしていちゃいけないことは分かっている。
あー。 もー。
なんでいつもこうなっちゃうかな。
- 535 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:18
-
タイミングが悪い。 私の人生、いつだってそう。
小さい頃、お姉ちゃんと一緒にいたづらをしたときはいつも、
見つかるのも怒られるのも私ひとりだった。
せっかく水彩画で賞をもらったときには風邪を引いて表彰式にいけなかった。
今日だってそう。
せっかくひとみんといいかんじにダラダラしていたときに、村っちがやって来た。
もう最悪。
ジー ジジジー ジーーーーー
ジジーーー ジーーーー ジー
セミは今日もうるさい。
日差しが眩しいところをみると、外は今日も暑そうだ。
部屋の中はこんなにも涼しいけれど。
別に村っちが悪いわけじゃない。
ちょっとうちに来て、しゃべってお土産置いて帰っていった。
あの子がしたことは、たったそれだけ。
悪いのは、イラだっているこの私。
ひとみんが楽しそうに笑っていた、とか、お土産にプーさんのぬいぐるみを
もらってすごく嬉しそうだとか、そんな程度のことで。
それは分かっているのだけれど。
- 536 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:18
-
やっぱり設定温度上げよう。
このままだと地球環境よりもうちの電気代の請求が心配だ。
よいしょ っと。
立ち上がって窓際のエアコンの下まで歩く。
リモコンがあればいいのにな。
上京してきたときにケチって安いエアコン買うんじゃなかった。
コントローラーのフタを開いて温度設定のボタンをいじる。
ピ ピ ピッ
よし。
独特の高音をききおえてフタを閉じる。これで部屋の気温は確実にあがる。
今度は私たちの温度をあげなくちゃ。
テレビの前を横切り、部屋の反対側へ。
さっきからひそかにねらっていた場所に腰をおろす。
下を向いていたひとみんは顔を上げ、不思議そうにこっちを見ている。
その腕にはまだ黄色いクマさんが寝ている。
- 537 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:19
-
「貸して」
「これ?」
「うん。 それ」
いいけど、なんて言いながら、ひとみんはプーさんを渡してくれる。
そうそう。これでいいの。そこはアナタのいるところじゃないの。
かわいいからって何でも許されると思ったら大間違いなんだから。
ぬいぐるみをベッドの下に追いやったら、少し気持ちが軽くなった。
この状況を把握できていない、といった様子の彼女にちょっと笑いかけると、
ひとみんも笑ってくれた。
ニコっとしてクシャっとしたいつもの笑顔。
なんだ。別にちっとも大変じゃないじゃん。
室温を上げるのは、エアコンの設定温度を変えるよりもずっと簡単。
- 538 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:20
-
「今日、これからどうする?」
「どうするって?」
「どこか行きたいとことかある?」
「うーん。 特にないかなぁ」
「へ?」
彼女の言葉に拍子ぬけ。思わず変な声を出してしまった。
ひとみんはアクティブなアウトドア派。
行きたいところがない、なんて彼女が言いだすセリフじゃないはずなんだけど。
私が言うのならともかく。
「何かないの?」
「うん。 今日はずっとこのまま雅恵ちゃんと2人でのんびりしてたい」
やばい。もう。
こんなこと、そんなニッコリ笑って言わないでよ。
危険を感じ、顔をそむけて立ち上がる。
予感は見事的中。さっそく耳が熱くなっていく感覚におそわれる。
うわぁ。まただよ。
こうして彼女にやられてしまうのは、これで何回目だろう? もう数え切れない。
- 539 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:20
-
「ひとみん、何か飲む?」
「ありがとう。でもいいや。さっきのお茶、まだあるし」
そういやそうだったな。 キッチンまで来たのはよいけれど、
テーブルの上では村っちが来たときに出したウーロン茶が汗をかいている。
それでもそのまま戻るのは気がひけるので、左手のコップに水を注ぐ。
ついでに冷蔵庫の中を見渡すと、ボトルラックの上で涼む赤い箱に目が留まる。
「チョコレート、食べる?」
「うんっ。 ありがとー」
手を伸ばして私から箱を受けとると、フタを開ける。
嬉しそうなその姿はなんだか子供みたいだ。
はぁ。 彼女の様子を見ていたら、思わずため息がこぼれた。
なんでこんな子が好きなんだろうね。
なんでこんなにも好きなんだろうね。
答えなんて、当然よく分かってるんだけど。
- 540 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:21
-
「雅恵ちゃんもいる?」
「うん。 もらう」
私がじっと見ていることに気づいたのか、ひとみんが声をかけてくる。
その笑顔に、私の頬もついついゆるんでしまう。
「はい」
「ありがとー」
もらったチョコレートを口にむくむと、濃厚な甘さが口いっぱいに広がる。
朝っぱらからチョコなんて、と思わないこともなかったけれど、悪くない。
「おいしいねー」
「でしょー? やっぱり夏のチョコは冷やすべきなんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「マサオ的にはどっちでもいい気がするけど」
「どっちでもよくないって」
しゃべっているときも手は止まらない。 気がつくと箱の中は空になっていた。
カロリー高いものを食べたら、体温が上がる仕組みらしい。
さっきまで我慢できたこの気温も、急に高すぎる気がしてきた。
やっぱり23℃なんてありえない。だってマサオ、雪国出身だもん。
ピ ピ ピッ
よし。 これで適正温度。
- 541 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:21
-
「そういえばさ」
「ん?」
背中ごしにひとみんの声が聞こえる。コントローラーのフタを閉め
振り返ってこたえる。
「今日の夜、花火大会あったよね」
「ほんと? どこのやつ?」
「うちの区。隣の駅にいけば見えるんじゃないかな」
「へぇ。いいね。行こうよ」
「うんっ」
「で、それまで時間あるよね? 何する?」
「だから2人でダラダラするって、さっき言ったじゃん」
さっきまでの場所に座ると、ひとみんは私にくっついてきた。
いや、いいんだけどさ。 私はすごく嬉しいんだけどさ。
このままずっとこうしてる気なの? それでいいの? 花火大会まで、あと半日はあるよ?
まぁいいか。 夏休みはまだ長いし。
今日は2人でこうやってのんびり贅沢に過ごしても大丈夫。
- 542 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:21
-
- 543 名前: 残 暑 投稿日:2004/08/13(金) 20:21
-
- 544 名前: END 投稿日:2004/08/13(金) 20:22
-
- 545 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/30(木) 04:33
- 番外編第2弾乙です。
はぶてているマサオくんと
甘党なひとみんが大好きですw
- 546 名前:対星 投稿日:2004/10/31(日) 18:05
-
斉藤さんお誕生日記念ということでバースデー番外編を用意していましたが、
先日自宅PCのHDがダメになってしまい、消えてしまいました。
かろうじて手元に残った部分をもとに復元を試みましたが、間に合いませんでした。
どうしても更新したいので、全く違うものをUPすることにします。
かなり遅れましたが、志賀高原ツアー記念ということで。
ツッコミどころ満載なかんじですが、斉藤さんのお誕生日ということで
大目に見てやってください。
- 547 名前: 投稿日:2004/10/31(日) 18:07
-
ホワイトバーチ
- 548 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:09
-
プロキオン、ボルックス、ベテルギウスにアルデバラン。
オリオン座にカシオペア、はくちょう座。
この季節だったら、うお座も見えるはずなんだけど。今日はダメだ。
明るい星がない至って地味な星座だけれど、それでも自分の星座。
思い入れはそれなりにある。
星がきれいだって聞いて来たのに。流れ星も見えるって言われたのに。
星の数は東京から見えるものとたいして変わらない。
無理もないか。
こうしてバルコニーに出られる天気になっただけでも、感謝しなくちゃ。
どこかのメガネさんの仕業なのか何なのか、ここ数日の天候は最悪。
昨日は今年一番と評判の台風に襲われた。やっと行ってくれたと思ったのに
今日だってどんよりした曇り空に小雨までパラつくさえない空模様。
初ライブにイベントに、最近ではバーベキュー企画に、天候に恵まれないのは
もはや私たちの持ちネタだから、今さらこのぐらいのことでは驚かない。
少なからず影響を受けたけれど、無事に決行できたわけだし。
- 549 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:10
-
いい加減アゴが疲れてきた。
仕方がない。もう10分以上も動かしっぱなしだもん。
部屋を出るときに、口に入れてきたキシリトールガム。
噛みはじめたときの甘さはもう残ってない。口の中には独特のゴム臭さが広がる。
そろそろ吐き出せばいいんだろうけど、それも面倒。どうしたもんだろう。
始めはおいしかったのになぁ。
「さぶっ」
突然通り抜けた風に、身体が震える。 けれどそれ以上に、同時に出た
自分の声の低さにびっくりする。もっとかわいい声が出せないもんかね。
ボーイッシュ担当とはいえ、一応アイドルなんだからさ。
そういえばもう10月。シャツ一枚で外にでる季節じゃないのかも。
それにここは長野の山間部。東京よりも高度の分だけ気温が低い。
けれど冷たい空気に嬉しくなってる自分がいるのも事実。寒いのは大歓迎。
どさんこをなめるな。
- 550 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:13
-
「マサー?」
金属音と聞き慣れた声。ドアを開けて入ってきた人が誰かなんてことは、
振り返らなくたって分かる。
「んー?」
「ここにいたんだ。 探しちゃったよ」
「ごめん。今、何かやってた?」
「ううん。そういうわけじゃないの。 ただ、どうしてるかなって思って」
鼻先をかすめるやわらかい香り。視界の左端に淡い色の長い髪がうつる。
「みんなは? 何してたの?」
「大貧民やってた」
「はぁ? 何でまた」
「ほら、村っちがトランプ持ってきてたでしょ。それで」
「ふぅん。 修学旅行みたいね」
「ねー」
まったくあの人は。
メガネかけて大人ぶってて、実際最年長なのに、やること幼いんだから。
- 551 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:14
-
「抜けてきちゃって良かったの?」
「いいんじゃない? あの二人、楽しそうだったし」
「そっか」
「マサ、何食べてるの?」
「え? ああ、ガム噛んでる」
「ファンの人にもらったとか言ってたやつ?」
「そう。それ。 食べる?」
「うん。もらう」
ポケットから取り出したパッケージの中から一粒取り出して手渡すと、
隣の人は長い爪で器用に銀紙をはがしてゆく。
ガムを一つあげただけなのに、やたら嬉しそうなのは何故だろう。
「おいしいね。ありがとう」
「うん」
「そんなカッコで寒くない?」
「うーん。 寒くないこともないけど」
「良かったらこれ、着る?」
「いや、いいって。大丈夫だから」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
「そう?」
「うん。ありがとね」
差し出してくれたパーカーにようやく袖を通してもらえて、ホッとする。
こんな日に上着なしで外にでていて良いわけがない。明日だっていろいろ企画が
あるし、今はシングルリリースを控えた大事な時期。体調を崩したら大変だ。
ひとみんは雪国生まれだけれど、寒さにはそんなに強くないのだから。
- 552 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:15
-
「今日さ、楽しかったね」
「そうだね」
「ファンの人たちも沢山来てくれたし」
「ねー。 400人だっけ?」
「450人・・・だったかな」
タイルの溝を中指でなぞる。指先にはしる冷たい感触が楽しい。
隣を見ると、何故かひとみんも私と同じ行動をしている。
「すごいよね」
「本当にね。 この企画聞いたとき、何て言ってたか覚えてる?」
「最低決行人数すら集まんないかも、とか言ってたよね。たしか」
「そうそう。時期が微妙じゃん。しかも志賀高原とかいって」
「それにさ、料金設定もけっこうキツかったよね」
「7万弱だもんね。国内2泊3日なのに」
お互いの口から思わず苦笑いが漏れた。
結局うまくいったらから、こうして笑ってられるわけなんだけど。
- 553 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:16
-
「うちらさぁ・・・」
「うん?」
ひとみんの視線が床のタイルに向いていないことに気づいて、私も顔をあげる。
心なしか、空に浮かぶ星はさっきよりも多いように感じる。
「愛されてるよねぇ。ほんと」
「そうだね」
西に見えるのはわし座のアルタイル。その隣ははくちょう座。
夏の大三角形はついさっきまで雲にかくれていたとは思えないほど
自己主張している。
「また、できるといいね。こういうの」
「そうだね」
南の空にのびるのは、多分うお座。ようやく見つかった。
聞いていたとおり、ここの星はきれい。さすが高いところは違う。
- 554 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:18
-
「ねぇ、ひとみん」
「ん?」
ボイトレにダンスレッスン、定期的に組み込まれるスケジュールに加え、
ライブやリリースのタイミングで入ってくるいろいろな仕事。
売れているとは言えない身分だけど、それなりに忙しい。
「来年もさぁ」
「うん」
東京に帰ったら、きっと私には時間的余裕も精神的余裕もなくなる。
こうやってゆっくり空を見ることもないのだろう。
「絶対やろうね。ファンクラブツアー」
寂しい気はするけれど、別にかまわない。
今、メロンは伸びてゆく時期。そのための努力なら苦しくたって辛くはない。
- 555 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:21
-
「っていうかさぁ」
ひとみんの声は何やら不満気。地元で踵をつぶしたローファーに
ルーズソックスをはいてた頃を思わせるしゃべり方。
もしや私、何かマズいこと言った?
「ずっとやろうよ。再来年もその先も。 来年だけとは言わずにさ」
身を乗り出してしゃべるかんじがちょっとおかしい。
そんなに一生懸命うったえなくたっていいのに。
「うん。そうだね。毎年やろうね」
「ね。 5年後も、10年後も、ずーっと」
「10年後? そんな"松田聖子ディナーショー"じゃないんだから」
「無理かなぁ?」
「うん。多分」
「じゃあさ、5年後は?」
「5年後かぁ・・・」
5年経ったら、私たちはどうしているんだろう?
歌もダンスも今よりもっと上達して、カッコいい4人組になれていたらいいな。
- 556 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:22
-
「できるよ。きっと」
アイドルという身分である以上、時間が経てば商品価値の低下は避けられない。
ファンクラブツアーどころか、存続していること自体がおぼつかない。
認めたくはないけれど、認めざるを得ない。
「っていうかさぁ」
「ん?」
でも、私たちはメロン記念日。
解散の危機なんて数えられないぐらいあったけど、こうして今までやってこれた。
「できるように頑張ろうね。4人でさ」
「うんっ」
ひとみんは大きくうなづいて、にっこり笑った。
頼りにしてるからね、リーダー。
面と向かって言うのはやっぱり恥ずかしいから、心の中でそう口にした。
- 557 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:22
-
- 558 名前: ホワイトバーチ 投稿日:2004/10/31(日) 18:23
-
- 559 名前: END 投稿日:2004/10/31(日) 18:23
-
- 560 名前: 対星 投稿日:2004/10/31(日) 18:28
-
>>545
久々のレスに感激いたしました。 お気遣いどうもありがとうございます。
もしや広島の方ですか?
語彙が貧弱なため、"はぶてる"でぐぐってしまいました。
かわいらしい動詞ですね。これから日常会話等で多用したいと思います。
- 561 名前: 対星 投稿日:2004/12/13(月) 02:57
- 全く別の話を書こうと思います。今度は本当に中編になる予定です。
お付き合いいただけるとうれしいです。
- 562 名前: 投稿日:2004/12/13(月) 02:58
-
多摩川ラブソディ
- 563 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 02:59
-
隣の学区の小学校に通うまいちゃんとは、夏休みに遊びに行った
区民プールで知り合った。
きれいなフォームで水をかいて、ぐんぐん進んでいくまいちゃんは
広いプールの中でもすごく目立っていた。
プールサイドで座っていた私の近くまで彼女が歩いてきたとき、
私は迷わず声をかけた。
知らない子にいきなり話しかけられて、まいちゃんはかなり驚いていた
けれど、私自身も自分の行動力にびっくりしたことを覚えている。
その日以来、私たちは仲良しになった。
周りの大人が驚くぐらい、私たちは一緒にいた。
あれは秋のことだった。
ちょっと風が冷たくなって、もともと外で遊ぶのはそんなに好きじゃない私は
本格的に家から出たがらないようになっていた。
あの日も公園で遊びたいというまいちゃんに無理をいって、家まで来てもらった。
- 564 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 02:59
-
- 565 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:00
-
「まいちゃーん。おやつ持ってきたよー」
「おー。ありがとー」
お母さんが用意してくれた紅茶とパウンドケーキを持って二階に上がると、
部屋ではまいちゃんが私のベッドに寝そべって、ゲームボーイに夢中に
なってるところ。私が声をかけたって、こっちを見ようともしない。
まいちゃんのために、重いのをがまんして二階まで運んできたのに。
ま、いいんだけど。別に。
- 566 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:01
-
「あーっ。もーっ」
しずかだった部屋にとつぜんひびく、高くて大きい声と低くて小さい音。
「うりゃっ」
かけ声とともにベッドからとびおりて、まいちゃんは私の横にすわると、
さっきまで見向きもしなかった机の上の紅茶に手をのばす。
あの紅茶、ぜったい冷めてるよね。 どうしよう?
一階までおりて、いれ直してきてあげるべきなのかな。
ま、いいか。 早くのまなかったのが悪いんだし。
ジゴウジトク、ってやつだよ、まいちゃん。
- 567 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:02
-
「アヤカ、これしってる?」
ケーキと紅茶をたいらげると、まいちゃんは私に話しかけてきた。
その視線は私の後ろのかべに向かっている。
「これってどれ?」
「ほら、てっぺんにあるしかくいやつ。」
まいちゃんの指さした先にあるのは日本地図のポスター。小学校に入学したときに
パパが買ってきてくれたもの。私の部屋にはあわないような気がするんだけど、
お父さんに悪いから、こうしてかべにはってある。
「ええー。なんだろ。わかんない。」
「まじで? 3年生なのにそんなこともしらないの?」
まいちゃんは大げさにおどろいてみせる。完全にバカにされてる。
だってまだ習ってないんだもん。しょうがないじゃん。
- 568 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:03
-
「じゃあ、まいがおしえてあげる。これはね、ほっかいどーっていうの。」
「ほっかいどー?」
「そう。ほっかいどー。」
「へぇー」
そっか。ほっかいどーっていうんだ。
まいちゃんはまだ1年生なのにいろんなことを知ってるな。ちょっとそんけい。
「うしとかうまとかいっぱいいて、すごくきれいなところなんだよ。」
「まいちゃん、よく知ってるねぇ」
「だってまい、ほっかいどーでうまれたんだもん。こないだのなつやすみも
ほっかいどーにかえったんだよ」
「そうだったんだ」
まいちゃんの目がかがやく。
牛も馬も本物を見たことはないけれど、きっとまいちゃんによくにあう
すてきな動物なんだろうな。
- 569 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:04
-
「アヤカは?」
「ん?」
「アヤカがうまれたのはどこ? このちずのどこらへん?」
「この中にはないんだ」
「へ? なんで?」
「私が生まれたのはハワイってところなの」
「ハワイ? へんななまえー」
「だって日本じゃないんだもん。ハワイってね、アメリカなんだよ」
「へぇー。アヤカ、そんなとこでうまれたんだ。すごいねぇ」
別にすごいことでも何でもないんだけど。ただ、そこで生まれたってだけだし。
まいちゃんの視線がくすぐったい。
「ハワイってさ、どんなところ?」
「わかんない」
「え?なんで?」
「ようちえんの時にこっちにきたから、あんまりおぼえてないんだ」
「へぇ。 でもさ、あそびにいったりとかしないの?」
「行ったことないな」
「いっかいも?」
「うん。一回も」
だから私はハワイのことなんて本当に何も知らないし、分からない。
まいちゃんみたいに、自分の生まれた場所のことを上手に話すことはできない。
ふぅん、なんて言って、まいちゃんはのり出したからだを元にもどした。
どうやらがっかりさせちゃったみたい。
- 570 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:05
-
「アヤカはさ、いってみたくないの?」
「・・・うーん」
どうなんだろう? そういえば今まで考えたこともなかった。
「じぶんのうまれたところ、みてみたくないの?」
「・・・そりゃ見てみたいけどぉ」
行きたくないわけがない・・・・とは思うのだけど。
「じゃあいこうよ。みにいこうよ」
「でもね、まいちゃん。ハワイってすごく遠いんだ」
「そんなにとおいの?」
「うん。だってアメリカだもん。車でも電車でも行けないんだよ」
「えー?まじで?」
「日本とは橋でもトンネルでもつながってないんだから」
「ふぅん」
ハワイは遠いんだ。行きたいからって行けるわけじゃないんだ。
まいちゃんは不満そうだけど、これはしょうがないことなんだと思う。
- 571 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:06
-
「でもさぁ、ふねでいけるんじゃん?」
「船?」
「そう。くるまじゃいけないところには、ふねでいけばいいんだって。
パパがいってた」
「まいちゃん!それ、いい!」
「でしょ? ハワイ、とおくたっていけるよ。ぜったい。」
「だね」
ザッツァグッアイディーア!! さずがまいちゃん!!
今までずっと遠いところだと思っていたハワイは、急に私の元に近づいてきた。
私もハワイに行けるんだ。
船でだったら行けるんだ。
「おっきくなったらさ、いっしょにいこうね」
「うん」
私の右かたに乗せられたまいちゃんの手はあったかくて、しっかりとした
重さが気持ちよかった。
- 572 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:07
-
『まいちゃんと二人で、船に乗ってハワイに行く』
1990年11月15日午後3時20分、私の夢はこうして決定された。
- 573 名前: 多摩川ラブソディ 投稿日:2004/12/13(月) 03:08
-
- 574 名前: 対星 投稿日:2004/12/18(土) 01:30
- タイトル間違えてる・・・・ _| ̄|○
- 575 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:30
-
- 576 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:32
-
『まいちゃんと一緒に、船でハワイに行く』
そう心に誓ってから、いくつ秋が来ただろう。
まいちゃんは二十歳に、私は二十三歳になった。
14年の歳月は様々な出来事を運んできた。私たちは多くの感情を味わい、
それなりに知識も蓄えた。
河原にあったピッチャーズマウンドは崩され、かわりにサッカーゴールが置かれた。
子供のころ遊んだジャングルジムのある公園は取り壊され、駐車場になった。
駅前の本屋さんはファーストフード店になり、家の前のケヤキ並木は縮小された。
この街の風景はあの頃からだいぶ変わった。
時間が経つということはそういうことなのだろう。
けれど私たちは今日も変わらず一緒にいる。 夢だって変わらない。
- 577 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:33
-
夢を語るのはたやすい。けれど実現はそう簡単じゃない。
GPSと自動運転機能搭載の小型船舶のレンタル料が85万8千円。
ハワイまでの燃料が14万5千円。2か月分の食糧が9万4千円。
一級船舶免許取得費用が2人で27万6千円。
その他諸々にかかる経費が5万3千円。しめて142万6千円。
本当は生命保険とか損害保険とかも必要だと思うんだけど、お金はないし
ちょうどいいプランもないようだから、その辺のことは考えないようにしている。
それにしたって140万円っていうのはけっこうな大金。
私たちみたいな女の子がポンと出せるような金額じゃない。
だから私は今日も地道に労働に汗を流す。
4月に大学を卒業してから今日までで、たまった貯金は現在35万6千円。
ハワイまでの道のりは、まだまだ遠い。
- 578 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:35
-
「そこ終わったら、ドリンクの棚よろしくねー」
は? まだこっちの棚も終わってないのに。
っていうか、店長さっきから何にもやってなくない?
せめてゴミ捨てぐらいやってくれてもいいのに。
「木村さーん、分かった?」
「・・・はーい」
まったく今日はついてない。
時間が遅いからお客さんは少ないし、夜番は素晴らしいシフトなんだけど
今日はいつもとだいぶ様子が違う。 それというのもレジの前に座って、
パチスロ雑誌をくいいるように読んでいる50代男性(中肉中背・眼鏡着用)のせいだ。
今日は一緒に入るはずだった子が風邪だか何だかで、普段は昼番の店長が交代した。
いつもならこんな時間にはやらない品出しやらトイレ掃除やらを指示してくる。
何よりムカつくのは私にばかりやらせて自分は何もしてないところ。
- 579 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:35
-
ピロリロ ピロリロ ピロリロ
自動ドアの解放と一緒になる間抜けな音はお客さんが来店した合図。
「いらっしゃいませ、こんばんはー」
うわーっ。 今入ってきたお客さん、すっごい金髪。
今どきあんま見かけないよね、ああいう色。
なんか着てるのもジャージだし、もしやヤンキーさん?
夜は多いんだよね。ほんと。
来てくれる分にはお客さんだからありがたいんだけど、店の前にたむろしたり
されるのはすごく迷惑。正直いうと、あんまり来て欲しくない。
あーあ。嫌になっちゃうなー。
拭いてない棚はあと3段も残ってるし。店長はついに居眠りし始めてるし。
もう最悪。
「すいませーん」
「はーい」
- 580 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:36
-
「おまたせいたしましたー」
呼ばれて入った二番レジの前には、さっきのヤンキーさん。
私は急いでバーコードを読み取る。モタついてからまれるのはまっぴらだ。
バーコードを近づけたときになる電子音がリズミカルに響いて気持ちよい。
今日は珍しくレジの調子もいいみたい。
ポテトチップスが一袋で126円。発泡酒が一本で153円。
味付きゆでたまごが2個で147円。
「3点でお会計426円になります」
どうなんだろう、この取り合わせ。
スナックと発泡酒はいいんだけど、ゆでたまごって。しかも2つとか。
卵ぐらい自分で茹でようよ。まったくこれだから近頃の若者は。
- 581 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:37
-
うわっ。 何、この子?
袋詰めを終えて顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、見たことのない種類の顔。
透けるように白い肌に、すっきりとのびる鼻筋。
けれどそれ以上に凄いのは、びっくりするほど大きな目。本気でびっくり。
うわーっ。 きれーっ。
「あの」
「・・・はい?」
「おつり下さい」
「あ、はい。ただいま」
やばい。やばい。
目の前の美少女さんの顔にばっかり見とれて、私は自分の置かれている立場を
すっかり忘れていた。
「26円のお返しになります」
硬貨を財布にしまうと、美少女さんはゆでたまご2つが入ったビニール袋を手に
スタスタと歩いていった。
私の前には持っていってもらえなかったレシートだけが残った。
- 582 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:37
-
- 583 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/18(土) 01:37
-
- 584 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:13
-
んーーっ。 あー、最高。
健康にも美容にも良くないと分かっていながら夜番から抜け出せないのは
シフトが明けた瞬間のこの気持ちよさを知ってしまったからかもしれない。
自動ドアを抜けた先に広がっていたのは、全く別の世界。
張りつめた空気、誰もいない街並み、鳥のさえずり、そしてこの朝焼け。
これから始まる一日は素晴らしいものになる。そう確信させてくれる。
今日は何をしようかな。読みたい本も見たい映画もいっぱいある。
ふぁーっ。
深呼吸したつもりが、途中であくびに変わった。
どうやら身体は心より正直みたい。
とりあえず帰って寝よう。今日はいつもより働いたから疲れたし。
- 585 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:17
-
ん? 何だろ、あれ。
電柱の後ろにのぞく黒い物体は、ぼんやり歩いている私でも気づくほどの大きさ。
ゴミかな?なんかテカテカしてるし。
回収時間ぐらい守ってよ。こんな時間に捨てるからカラスが増えるんだよ。
それに今どき黒いゴミ袋って、どうなの?
あれ?
足を進めるにつれて目に入った白い物体。側面には見慣れたカーブ。
どう見てもあれはスニーカー。
っていうことは、もしや・・・
「うわっ!」
薄々かんづいてはいたけど、いざ目にするとやっぱりびっくりしてしまう。
私がゴミだと思っていた黒いのは紛れもなく人間。
黒いジャージに白いスニーカー、そして金髪。それもかなり鮮やかな。
これって、まさか・・・
- 586 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:18
-
やっぱり!
私の目の前で丸まっているのは、今日の夜うちの店に来た美少女さん。
発泡酒の缶と殻だけが残されたゆでたまごのパックが一緒に転がってる。
そっか。あのゆでたまごはおつまみだったんだね。
でも、ゆでたまごと発泡酒ってどうなんだろ? あうのかな?
納得したところで帰ろうとしてしまった私は相当疲れているらしい。
早く帰ってちょっと眠ろう。
でもその前に、この人をどうにかしないと。
いくら気持ちよさそうにしてるからって、このままこんな所に寝かして
おいて良いわけがない。女の子だし。
「あのー・・・」
しゃがみこんで美少女さんに声をかけてみる。
地べたで寝ころんでいたせいか、せっかくの白い肌は土で汚れている。
「朝ですよーっ!」
今度は耳元で叫んでみる。それでも起きてくれそうもない美少女さん。
肩を揺すっても彼女の様子に変化はない。
「起きてくださーいっ」
声をかけながら、顔を軽く叩いてみた。さすが、見た目にキレイな肌は
さわっても気持ち良い。女の子の、それもかなりキレイな子の顔を叩くのは
かなり気が引けるけど、仕方がない。
- 587 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:19
-
「お願いだから、起きてよー」
揺すったり、叩いたりを繰り返すこと15分。
一向に目覚める気配のない美少女さんは、スヤスヤと気持ちよさそう。
もう、どうしたらいいの?
涙がこぼれそうになって、気が付いた。
世の中には、周りが起こそうとしたって起きない人種がいるってこと。
この人はきっとそれだ。
ということは、私がどんなに努力したって効果はない。
ということは、私がここでとるべき行動は決まってる。
もちろん、置いて帰る。
・・・なんてことをするわけがない。相手は女の子。それもかなりキレイな。
こんな道端に放って置くわけにはいかない。
- 588 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:19
-
- 589 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:24
-
だからって、こうして家までおぶってきてしまうなんて、我ながら
立派なものだと思う。
笑いっぱなしの膝と、落ち着かない呼吸は殊勲の証。
体力にはそんなに自信はないのに、シフト明けで疲れていたのに、
さっきの場所からここまでけっこう距離があるのに、
私は人一人担いで家まで歩いてきた。
人間、その気になればたいていのことはできるのかもしれない。
腰を下ろして息をつくと、達成感がこみ上げてきた。
いいことするって、気持ちいい。
- 590 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:25
-
ん?
突然ムクっと起き上がった美少女さん。
立ち上がると何も言わず、フラつきながらも部屋の奥の方に歩いていく。
ちょ、ちょっと・・・
声をかける間もなく、美少女さんは私の部屋に入っていった。
そしてベッドに沈没。 また眠りの世界に旅立ってしまった。
私のベッドなのに・・・。
疲れた身体に鞭打って、ここまで運んできたらこの仕打ち。
今度こそ本当に涙が出そう。
こんな風に寝られたら、私が入るスペースがないじゃない。
どこで寝たらいいのよ?
- 591 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:26
-
もういいや。今日はあっちに行こう。
美少女さんのことは諦めよう。彼女を移動させる体力なんて、
私にはもう残ってない。
身長があるせいか、美少女さんは細い割に運ぶのが大変。
きっと怒られるだろうな。
眠りから覚めた後のことを考えるとちょっと怖いけど、そんなこと
気にしていられない。とにかく早く横になりたい。
だんだんと意識が遠のいていくのを感じながら、私は隣の部屋に移動した。
- 592 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:26
-
- 593 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/27(月) 03:26
-
- 594 名前:ナナシ 投稿日:2004/12/27(月) 14:31
- すげーいいです。っつーか作者さんのファンです。
子供の頃の里田はこんなんだったんじゃないか?って思います。
- 595 名前: 対星 投稿日:2004/12/31(金) 01:34
- >>594
ありがとうございます。レスいただくのは久々ですごく嬉しいです。
実はこの話、里田さんは利発な子供だったんじゃないか、という妄想から
スタートした話だったりします。
- 596 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:35
-
- 597 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:35
-
「ちょっ・・・な・・あ・・・・ね・・」
何だか遠くのほうで声がするような気がする。
それもすごく聞きなれた声。
「アヤカ! い・・かげ・・・し・・・」
私の名前が呼ばれてる。 あの声は、まいちゃん?
どうしたんだろう? 何だか声が荒れてるんだけど。
「起きなさい!」
あーっ。なんかマズいかんじかも。まいちゃん怒ってるよ。
ここは起きなきゃいけないのかなぁ。
でも今はまだ起きたくないなぁ。気持ちいいし。
「起きろっていってんでしょ!」
もーっ。しつこいなー。まったくまいちゃんは。
うるさいってば。もう。静かにしてよ。
せっかく人が気持ちよく眠ってるんだから。邪魔しないでよ。
- 598 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:36
-
攻撃に耐えること数十分。さっきまでの大声は聞こえなくなった。
まいちゃんはようやく諦めてくれたみたい。この勝負、私の勝ち。
意地で戦って良かった。これであと4時間は眠れる。
まいちゃんは小さい頃から運動がよくできた。2歳も年上の私は、
鉄棒をしてもうんていをしても勝てたことはない。
きっと勉強も私なんかよりずっとできるんだろう。
私はきっとまいちゃんには敵わない。何をやっても。いつになっても。
けれどこういう状況だといつも私が勝つのだ。
私が頼みごとをしたり、意地を張ったりしたときは、いつもまいちゃんが
おれてくれる。小さなことにはこだわらない性格ということもあるけど、
それ以上に、まいちゃんは優しいのだ。
まいちゃん大好き。
- 599 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:37
-
- 600 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:37
-
「ちょっと!ちょっと!ちょっと!」
はぁ? どうしたのよ?まったく。
ようやく静かになったと思ったのに。いい加減にしてよ。もう。
「アヤカ!起きてよ!」
「・・・うー・・」
「寝てる場合じゃないんだってば!」
「・・まだ眠いのー」
「それは分かるけど、起きて!お願い!」
「・・もー」
今まで見たことがないほど必死なまいちゃん様子に、身体をおこして
重い瞼を一生懸命持ち上げる。
- 601 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:38
-
「で、どうしたの?」
「でたの!」
「何が?」
「なんかすっごい生き物!」
「はあ?何それ?」
「女の子!女の子!すごいキレイなの!」
「あー、なんだそんなこと・・・」
まいちゃんが言ってるのはきっとさっき私が拾ってきた美少女のこと。
そういや私、あの子にベッド取られてまいちゃんの部屋で寝てたんだ。
そっか。だからああしてさっき起こされたんだ。ようやく分かった。
良かった。謎が一つ解けて、きっとよく眠れる。
「アヤカ!ちょっと!寝るんじゃない! アヤカ!」
あー・・まいちゃんの声が遠くなっていく・・・。
まだ何か言ってるみたいだけど、まぁいいや。ちゃんと起きてから聞こう。
- 602 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:39
-
「あの!」
ちょっとハスキーなまいちゃんの声とは、明らかに性質が違う声に
驚いて目が覚めた。
どうしたんだろ? っていうか、誰?
「しゃ、しゃべった!」
「さっきからずっとここで呼んでたんですけど」
ドアの所に立っているのはあの美少女さん。私たちの方をじっとみつめてる。
「ここは・・・」
「うちらの家ですっ!」
「へ?」
「ルームシェアしてるんです!2人で!」
「あー、そうなんだ」
「はいっ!」
冷静な彼女とは対照的に、あからさまにテンパってるまいちゃん。
ただでさえ大きい目がいつも以上のサイズになってる。
まいちゃんがこんな風になるなんて珍しい。 なんかかわいいな。
- 603 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:40
-
「で、連れてきてくれたのは・・・」
「あっちです!」
「あ、うん。私が運んできたの。歩道で寝てたから、このままじゃ
いけないと思って」
「どうもありがとう」
そう言って美少女さんがニッコリ笑うと、散らかり放題だった
まいちゃんの部屋に白い花が咲いた。
うわーーーっ!
黙っていても十分かわいいんだけど、笑ってるほうが20倍かわいい。
「だ、大丈夫?」
美少女さんの顔がひきつってる。
視線の先を見ると、まいちゃんが目を開いたままかたまっていた。
「まいちゃーん」
目の前でヒラヒラと手を振ってみる。気づいている様子はない。
ダメだ、こりゃ。
美少女さんは何がどうしたのか分からない、といった表情。
そりゃそうだよね。初対面の人にいきなり放心されたら。
- 604 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:41
-
「喉乾いてない?何か飲む?」
ここで私がすべきことは、美少女さんのフォローをすること。
まいちゃんをこっちの世界に連れ戻すことじゃない。
「うん。ありがとう」
この子、良い子なのかも。
感謝の言葉が自然に口からでてくるのは、思いやりがある証拠。
「冷たいのと温かいの、どっちがいい?」
「冷たいの」
「ジュースと紅茶と烏龍茶があるんだけど、どれがいい?」
「じゃあ、紅茶で」
「レモンティーとミルクティーとストレート、どれにする?」
「ストレートで」
- 605 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:42
-
「選択肢多いって」
コップを持って部屋に戻ると、美少女さんに笑われた。
店からもらって来たりするから、うちには大量に飲み物があるのだ。
「まいちゃんは?」
「まだダメみたい」
「ごめんね。普段はこんな子じゃないんだけど」
まいちゃんはまだ固まったまま。 どうしたもんかな?まったく。
「この人はまいちゃんで、お姉さんは?」
「私?」
「そう、アナタ」
「アヤカです」
「アヤカさん?」
「呼び捨てでいいよ。まいちゃんもそうだし」
「じゃあ、アヤカで」
それから、石と化しているまいちゃんを横に、私たちは長々としゃべった。
美少女さんはキレイな顔をしているけど、それを鼻にかけている様子はない。
それにフランクに接してくれるから、わりと人見知りの強い私でも、
すごく話しやすかった。
そういえば、初対面の人とこんなに打ち解けて話すことができたのは
すごく久しぶり。もしかしたら小学生以来かも。
- 606 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:42
-
- 607 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2004/12/31(金) 01:42
-
- 608 名前:ナナシ 投稿日:2005/01/07(金) 17:02
- 読ませて頂きました。子供の頃の里田のイメージ。
背が人一倍低かったという事は何かで聞いたことがあります。
これからも期待しています。
- 609 名前: 対星 投稿日:2005/01/09(日) 01:05
- 少し遅れましたが、あけましておめでとうございます。
>>608
どうもありがとうございます。ご期待に沿えるかどうか分かりませんが、
自分なりに頑張ります。今年もよろしくお願いします。
- 610 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:06
-
◇
- 611 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:07
-
バイト帰りに美少女を拾ってきたあの日から、今日でもう一週間。
美少女さん、本名・吉澤ひとみ。
家出中だか何だか、特別な事情で帰る家がないらしく、我が家で
私たちと暮らすことになった。
一週間も一緒に生活していると、彼女の美少女オーラにもだいぶ慣れた。
よっちゃんの前ではやたら緊張してテンパっていたまいちゃんも、
ようやくドモったり固まったりすることはなくなった。
よっちゃんには顔に似合わず男の子っぽいところがある。
床に座るときはいつもあぐらをかく。さばさばしたしゃべり方をする。
だけどひそかに几帳面だったりする。
散らかった部屋はさり気なく片付ける。簡単なメモでもすごくキレイに書く。
よっちゃんが来てから、私たちの生活は変わった。
以前と同じ時間にバイトに行き、同じようにご飯を食べる。そういうところは
何も変わらないけれど、それ以外のところは確実に変わった。
私たちの毎日は明るくなった。よっちゃんがいる、ただそれだけのことで。
- 612 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:07
-
- 613 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:08
-
「おはよう」
「あー、おはよー。っていうか、もう昼だから」
目が覚めてリビングに行くと、そこにはまいちゃんがいた。
「よっちゃんは?」
「出かけたよ。私が帰ってきてすぐに」
「へぇ。今日もそんな早くから」
「うん。すごいよね」
よっちゃんは仕事や学校に行っている様子はないけれど、毎日かならず
どこかにでかけていく。我が家に来た日から、一日も欠かさず。
「アヤカ、ご飯たべる?」
「うん」
「ちょっと待ってて。今、用意するから」
「ありがとう」
- 614 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:09
-
「ただいまー」
ドアが開く金属音とよく響く角のとれた声。
「おかえりー」
「アヤカ、もう起きてたんだ。おはよう」
「おはよう」
「お風呂、お湯入れといたよ。入る?」
「うん。ありがとう」
汗だくのよっちゃんは、あわただしく玄関からバスルームに直行。
朝からすごいな。そういえば、もう朝じゃないんだっけ。
「気が効くね、まいちゃん」
「でしょ?」
「よっちゃん、いつもこんなかんじなの?」
「うーん。いつもではないけど、だいたいこの時間に帰ってくるね」
「ふーん。そうなんだ」
同じ家に暮らしているのに、私はよっちゃんのことをなにも知らないんだなぁ。
生活のリズムが違うから、しょうがないんだろうけど。
- 615 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:09
-
「よっちゃん、いつもどこに行ってるんだろうね」
「さぁ。公園かどこかだろうけど」
「公園?」
「うん。ジャージだし」
「そういえばそうだね。うちでも腹筋とかやってるしね」
「ねー。よしこってさ、実はマッチョだよね」
「そうそう。何気に重いのよ」
うちまで運んでくるのも大変だったんだよね。本当に。
たった一週間前のことなのに、随分昔のことみたいな気がする。
「よしこはさ、どうして身体鍛えてるのかな?」
「ダイエットとか?」
「必要ないでしょ。そんなの」
「そうだよね」
「何でだろうね」
「今度聞いてみようか?」
「そうだね」
- 616 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:10
-
「あー、気持ちよかったー。 まい、ありがとう」
首にタオルを巻いて、よっちゃんが戻ってきた。
白いTシャツとハーフパンツはまいちゃんがあげたもの。
「よっちゃん、よっちゃん。昨日買ってきた・・」
「ゆでたまごでしょ?おいしかったよ」
「は?何でまいちゃんが・・・」
「ごめん。いけなかった?」
「いや、別にいけなくはないんだけど・・・」
いけなくはないけど、良くもない。
だってあれは、よっちゃんのために買ってきた味付きゆでたまごだったのに。
全くもう。まいちゃんったら。
悪びれることなく笑う彼女の白い歯にムカつく。
「よしこもご飯食べる?」
「うん」
「いつもので良い?」
「いいよー」
まいちゃんは席を立ってキッチンへ向かう。 昼ごはんの準備は
まいちゃんの仕事。これは一緒に暮らし始めたときからのルール。
- 617 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:11
-
「いただきます」
1m四方のテーブルを中心に座り、食事をとる私たち。
けれどそれぞれの前に置かれた皿の中身はバラバラ。
よっちゃんが手にしているのはベーグルサンド。
中身は多分スモークボンレスとクリームチーズ。
顔立ちから受けるイメージ通り、偏食気味なよっちゃんはいつもこれ。
まいちゃんががっついているのはカレーピラフ。
明らかに一人分ではない量が盛られている。
これから労働に行く身としては、辛いものを思い切り食べる必要があるらしい。
私が食べているのはミルクをかけたコーンフレーク。
美容と健康のためにバナナとレーズンをまぜている。
正午近くとはいえ起きたばかりだから、重いものは食べられない。
生活スタイルが違う私たちは同じものを食べないのは当然かもしれない。
それでもこうして一緒に食卓を囲めることが、すごくうれしい。
- 618 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:14
-
「アヤカ、今日はどうだった?」
スプーンでお皿をつつきながら、まいちゃんはしゃべる。
「バイト?」
「うん」
「いつも通りかな。順調だったよ」
「良かったじゃん」
「今日からクリスマスケーキの予約が始まったんだ」
「へぇ。もうそんな時期なんだ」
「来週にはツリーも入荷するらしいし」
「すごーい。そんなの売るんだ。コンビニなのに」
「なんか店長が張り切ってるんだよね」
「じゃあさ、うちにも一個買ってきてよ。みんなで飾り付けしようよ」
「それ良い!」
「やろやろー」
クリスマスまであと一ヶ月ちょっと。
正直あんまり期待してなかったイベントが、急に楽しみになってきた。
今年はよっちゃんもいるし、楽しくなりそう。
- 619 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:15
-
「よしこ、今日はどこ行ってきたの?」
「今日は多摩川の方」
「走ってきたの?」
「うん。走ったり、ボーっとしたりってかんじかな」
「へぇ。すごいねぇ」
「よしこはさ、何でそんなに身体鍛えてるの?」
「惰性・・・かな」
「ダセイ?」
「うん。習慣っていうか。 身体動かさないと落ち着かないんだよね」
そういって目を伏せたよっちゃんの笑顔は何だか少し寂しそうで、
私はそれ以上聞くことができなかった。それはきっとまいちゃんも同じ。
私たちに会うまでどこでどういう風に暮らしていたのか、どうして
家を出たのか、あの日は何故あんな道ばたで行き倒れていたのか。
気になることは山ほどあるけど、よっちゃんが自分から話したいと思うまで、
私たちは黙って見守っていようと思う。
- 620 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:15
-
- 621 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/09(日) 01:15
-
- 622 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/12(水) 17:01
- この3人の話って初めて見たかも
続きが楽しみです
- 623 名前: 対星 投稿日:2005/01/16(日) 23:25
- >>622
プライベートでの交遊があれだけ公にされているのに、
飼育でこの組み合わせを見かけることは少ないですよね。
レスありがとうございます。
この先もお付き合いいただけると嬉しいです。
- 624 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:26
-
◇
- 625 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:26
-
「ありがとうございましたー。またご利用下さいませー」
タバコとパンとコーヒーを買って、スーツ姿のお客さんが店を出ていく。
サラリーマンかな。でもそれにしては若いな。就活中の学生とか?
こんな朝早くから大変だな。
あ、でもそんなに早い時間でもないか。 レジの後ろの時計の針が
指す時刻は6時25分。 ってことは・・・。
「木村さーん」
「はい」
「そろそろ上がっていいよ」
「ありがとうございます」
よし! 今日の労働、これにて終了!
- 626 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:27
-
パリラリラーン
間抜けな電子音におくられて店を出る。
澄んだ空気と青い空。張りつめた緊張感。やっぱりこの時間は気持ち良い。
さぶっ
日の出時刻あたりのこの時間は、一日で一番寒い時間。
放射冷却だかなんだかで、晴れた日は特に気温が下がる、っていうのは
まいちゃんから教わった。あれは私がいくつの時だったかな。
それにしても今日は寒いな。もうマフラーだけじゃしのげない季節に
なったってことみたい。早いとこコート買わないと。それに手袋も
買っておきたいな。明日は今日よりもっと気温が下がるらしいし。
今年はどんなのにしようかな。
とりあえず値段が問題。貯金中の身としては贅沢はできない。
できれば今日のうちに買いに行きたいな。思い立ったときにやらないと
いつまでもできないような気がするし。
- 627 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:28
-
「ただいまー」
しばらく待っても何も返ってこない。
おかえり、って言ってもらえるかもなんて期待は裏切られたみたい。
今日はいつもより帰りが遅いから、よっちゃんはもう起きていると
思ったんだけど。 まぁいいや。
ん?
玄関にはよっちゃんの靴がない。
私たちが初めて出会ったあの日も履いていた白いスニーカー。
今日はもうジョギング行っちゃったのかな?
なんだ。 つまんないな。
- 628 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:28
-
「たっだいまーっ!」
勢いよくドアが開いたと思ったら、まいちゃんが帰ってきた。
やけにテンション高いな。 朝なのに。
いや、朝だからか。まいちゃんの場合は。
「おかえり」
「おーっ、アヤカ。珍しいね」
「うん。今日はいつもより30分長く働いたから」
「あー、それでか。よしこは?」
「もう出かけたみたい」
「へー。今日も早いね」
「ねー」
「つまんないな。よしこがいないと」
そういって投げ出したまいちゃんの長い脚を見ていて、ひらめいた。
そうだ。そうしよう。
「まいちゃん、今日空いてる?」
「ん? まぁ、夕刊の時間までは」
「じゃあさ、買い物行かない?私と。 コート欲しくてさ」
「いいけど・・・。アヤカ、大丈夫?」
「うん。今日はシフト入ってないから、帰ってからゆっくり寝れるし」
「そっか。じゃ、行こっか」
「うん。ありがと」
朝刊の配達が終わったばかりで自分だって疲れてるはずなのに、
まいちゃんはこうして笑って引き受けてくれる。
まいちゃん大好き。
- 629 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:29
-
- 630 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:29
-
「なかなかいいのないねー」
「そうだねー」
10軒目の店を出てエスカレーターを下り、3つ目のビルを後にする。
これだけ回って探しても、気に入ったものは見つからない。
いや、気に入ったものがないわけじゃない。ただ、予算にあわない。
「ちょっと休もうよ」
「は? アヤカまだ何も買ってないじゃん」
「そうだけど、もう疲れたの」
「しょうがないなぁ」
まいちゃんは呆れ顔。私だってそれなりに体力はあるつもりだけど
新聞配達で鍛えている人にはかなわない。
「アヤカのおごりね」
「うん」
「じゃあ、アイス食べよう。アイス」
「へ? こんな寒い日に・・・」
「寒くないじゃん。べつに」
あっけらかんと言ってのけたまいちゃんは、確かに私よりもだいぶ薄着。
そういえば、この人は北海道出身。仕方ないか。
「いいよ。食べに行こ」
「やったー!アイスだー!アヤカのおごりー!」
「あ、でもトリプルはダメだからね」
「は?なんで?」
「お金ないの。ダブルで我慢して」
- 631 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:30
-
ヅーーー ヅーーー ヅーーー
鞄の中でうなっている携帯を取り出すと、ディスプレイには今ここに
いないもう一人の名前が浮かんでいた。
「メール?」
「うん。よっちゃんから」
「ふぅん。何だって?」
「『今、どこにいるの?』だって」
「へぇ。ちょっと貸して」
「うん」
私の携帯を受け取ると、まいちゃんはポチポチといじりだした。
どうやら私のかわりに返信のメールを打ってるかんじなんだけど、
大きな目がやたら輝いているのが気になる。
「よっし」
「何て書いたの?」
「内緒ー」
なんだかなー。 何か気になるんだよね、この笑顔が。
- 632 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:34
-
ヅーー
数回目にふるえた携帯を手にとると、さっきまで笑顔だったまいちゃんの
表情がこわばっていった。
「どうしたの?」
「アヤカ・・、これ、どういうことだと思う?」
「ん?」
『よかった。2人がもう帰ってこなくなっちゃうかと思った。』
まいちゃんの手をのぞきこむと、いつもとは明らかに違う文体。
ついさっきもらったメールには、ふんだんに使われていた
あやしげな絵文字も、脈絡の無い記号も入ってない。
いつもの弾けたメールの文章とは明らかにテンションが違う。
これはちょっとおかしいかも。
「よっちゃん、何かいつもと違わない?」
「ね。変でしょ?」
「うん。そうかも」
「やばいよ。ね、アヤカ、早く帰ろ!」
「いや、でも私まだ食べ終わってないし・・・」
「そんなのいいから。行くよ!」
チョコミントが半分ぐらい残っているカップを机の上に残したまま、
私たちは駅へと急いだ。
全力で走るまいちゃんのペースについて行くのに必死だったこと以外、
家につくまでのあいだに何を考えていたのか覚えていない。
- 633 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:34
-
- 634 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/16(日) 23:35
-
- 635 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:17
-
ロータリーを抜け、じれったい信号をすぎて交差点を左に曲がる。
1階にコーヒーショップが入ったビルを横目に、ひたすら直進。
3分ぐらい走ると、私たちのマンションに到着。
「た、ただいまっ!」
「おー、おかえり」
「よしこ!」
「ん?どしたの?そんな慌てて」
全力で階段をかけあがり、思い切りドアを開けた私たちを迎えて
くれたのは、何とも気の抜けたよっちゃんの声。
部屋の奥をのぞくと、よっちゃんはいつもの窓際のスペースで
ストレッチ中。のばした右腕はしなやかに弧を描き、部屋に陰をつくる。
「もーっ。うちら二人、超心配したんだよ?」
「へ? 何で?」
息を切らせてまくし立てるまいちゃんを、よっちゃんは不思議そうに
見つめている。その様子はいつもと何ら変わらない。
- 636 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:18
-
おかしいと感じたのは私たちの思い過ごしだったのかも。あんなに
急ぐ必要なかったみたい。こんなことならもっとゆっくりしてくれば
よかったな。渋谷行くのなんて久しぶりだったんだし。
でも良かった。よっちゃんがいつも通りで。
「うちら、帰ってくるとき大変だったんだよね」
「そうそう。電車乗ってるときとかね。すごいあせっちゃって」
「なんかアヤカがさ、私によしことどっか出かけろ、とか言って」
「あはは。 何それ?」
「おかしいでしょ?見せてあげたかったよ。アヤカのテンパり具合」
だって、今日は私がまいちゃんを連れ出したわけだから、今度はよしこが、
って思ったんだもん。 今から考えると確かにおかしいんだけど。
自分だってそうとうテンパってたくせに、私のことばかりしゃべって
大笑いしているまいちゃんは少しムカつくけど、まぁいいや。
よっちゃんがこうして笑ってくれてるわけだし。
- 637 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:18
-
- 638 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:18
-
◇
- 639 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:19
-
- 640 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:20
-
「よしこ見て! あの子、すっごいかわいいんだけど!」
「あの子ってどれ?」
「ほら、あの子。黄色いくちばしの子」
「いや、くちばしはみんな黄色いから・・・」
柵から身を乗り出した後ろ姿は、よっちゃんとまいちゃん。
色素が薄い二人の髪の毛は、太陽の下だといつも以上に明るい。
二人は池で泳ぐカモに夢中。
いや、夢中になってるのはまいちゃんだけか。
「おまたせー」
「おーっ、アヤカ。おかえりー」
「ジュース買ってきたよ」
「ありがとー」
3人そろってやってきたのは電車で40分ぐらいのところにある動物公園。
この間よっちゃんを残して私たち二人だけで出かけてしまったから、
そのうめあわせ、っていう意味も込めて。
昨日まいちゃんがバイト先でタダ券をもらってきたから、
みんなで行ってみようか、ってことになったわけなんだけど。
私たちの休みも重なっていたし、3人でどこか行きたいね、って
話していたところだったから、ちょうど良かった。
そういえば、もうだいぶ長いこと一緒に暮らしているのに、3人そろって
遠出することなんて今までなかったな。
- 641 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:20
-
「まいちゃん、ずいぶん熱心に見てたね」
「だってここのカモ、かわいいんだもん」
「きれいだよね。色が鮮やかで」
「そうなの!それにすごい軽やかに進むの!スイスーイって!」
このベンチは日当たりが良くってすごく気持ちがいい。
まいちゃんの声は大きくて響くけれど、聞き慣れているせいか落ち着く。
「ちょっとアヤカ!寝るな!」
「あはは」
「え? 寝てないよ」
「ウトウトしてたじゃん」
「してないって!」
「してた!」
「あはははは」
ムキになるまいちゃんに、身体をそらし声をあげて笑うよっちゃん。
広い園内に私たちの声が響く。通り過ぎる親子連れやカップルに
振り返られたりしてちょっぴり恥ずかしいけれど、すごく楽しい。
やっぱり3人一緒がいいや。
- 642 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:21
-
「でもさ、カモって多摩川にもいない?」
「え? まじで?」
「うん。たまに見かけるような気がする。 ね?まいちゃん」
「あー。いるねー。ここの子とは違う色してるけど」
「へー。それじゃ今度見てみよっ!」
よっちゃんはスタっと立ち上がると、早足で柵の前まで行った。
「なんかさー、カモって懐かしいんだよねー」
よっちゃんの声のトーンはさっきよりも少し低い。
「うちの近所さ、川とか流れてて。カモとか水鳥がいっぱい来てたんだ」
よっちゃんの目は、池の反対側を泳ぐカモを追う。
長いまつげが日差しに照らされて、キラキラ光る。
見慣れてきたとはいっても、この子の顔はすごくきれい。横顔は特に。
- 643 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:21
-
「よしこの地元ってどの辺?」
「埼玉の南の方」
「へぇ。けっこう近所なんだね」
埼玉なんだ。なんかちょっと意外かも。
「っていうか、ここからすぐじゃない? 埼玉なら」
「いや、そうでもない。1時間ぐらいかかるし」
よっちゃんは私たちの方に視線を戻すと、ニコっと笑った。
よっちゃんが自分のことを話してくれるのはすごく珍しい。
いまだに謎が多い彼女のことを知るには良いチャンスなんだけど、
この笑顔は、これ以上聞かれたくないっていう意思表示。
口に出さなくてもそのぐらい分かる。もう一ヶ月も一緒にいるんだから。
- 644 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:22
-
「次、どこ行こっか?」
「ゾウがいいな。ゾウ」
「反対側じゃん。もっと近くから回ろうよ」
「そうだね」
「ここ見て。フラミンゴだってよ」
「へぇ。そんなのまでいるんだ」
「じゃあ、フラミンゴから回ろっか」
「そうしよー」
ん? 何だろう?
「アヤカ? どうした?」
「今、誰かに見られてるような気がしたんだけど・・・」
「へ? 誰もいないよ?」
「うん。そうなんだけど・・・」
「アヤカ、自意識過剰じゃん?」
後ろからの視線は確かに感じた。それもやたら鋭い視線を。
でも振り返ってもそれらしき人は見あたらないわけだし・・・。
まいちゃんの言うとおり、自意識過剰なのかも。
いつもはこんなことないんだけど。おかしいな。
まぁいいか。
- 645 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:22
-
- 646 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/23(日) 01:22
-
- 647 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/23(日) 19:33
- いいお話を書かれますね。
思わず一気読みしてしまいました。
週末の更新が楽しみになりそうです。
- 648 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/23(日) 19:35
- ageてしまいました……。
作者さま、飼育のみなさま、ごめんなさい。
- 649 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/23(日) 21:45
- こんな小説があったとは。
この3人大好きなんで、続きが楽しみです。
頑張ってください。
- 650 名前: 対星 投稿日:2005/01/30(日) 01:50
- レスありがとうございます。
>>647-648
どうもありがとうございます。更新は定期的に行うつもりですので、
気が向いたときにでも覘いてやってください。
いつもsageで更新していますが、特別強いこだわりがあるわけではないので
あまりお気になさらずに。またレスつけていただけると嬉しいです。
>>649
この3人、いいですよね。自分も大好きです。
楽しめるようなものになっているか疑わしいですが、頑張って更新します。
- 651 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:51
-
- 652 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:52
-
「足長いねー」
「頭ちっちゃーい」
「ピンクだよ、ピンク!」
みぞおちほどの高さがある柵の前ではしゃいでいるのは、隣にいる
小学生ぐらいの団体さんではなく、私たち3人。
大人げない、なんて周りの人たちから思われてそうだけど仕方がない。
だってフラミンゴがあんなにかわいいんだもん。
「私、フラミンゴって見たことなかったかも」
「一度も?」
「うん。 見たことあった?」
「あるある。小学生のときとか。 まいは?」
「私も。小学校の遠足でここ来たし」
「ってかさ、二人は幼なじみなんでしょ?小学校とか一緒じゃないの?」
「うん。アヤカはずっと私立だったし」
「家は近かったんだけどね」
「へぇ。そうだったんだ」
よっちゃんはなにやら驚いている様子。
そういえば、私たちのことを話すことも今まであんまりなかったな。
知らないことが多いのは、お互い様だったのかも。
- 653 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:52
-
「まいってさ、フラミンゴに似てるよね」
「へ?」
「ほら、見てよ。あの足のかんじ、まいそっくり」
「はぁ?どこが?」
「長い足を持て余してるとことか、関節とか。似てるっしょ?」
「なんだかなー」
「喜んでよ。ほめてるんだから」
「ほめられてる気がしないんだけど」
あー。そっか。そうだったんだ。
初めて見たはずのフラミンゴに、どうしてこんなに親しみを感じるのか
よっちゃんの説明でようやく分かった気がする。
まいちゃんはどうも納得がいかない様子だけど。
- 654 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:52
-
- 655 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:53
-
- 656 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:53
-
青い空のもと、きれいに刈り込まれた木々が輝く。空気が肌に
冷たいけれど、あたたかい日差しはそれを補って余りある。
清掃が行きとどいた広い通路には、子供が走り回り歓声が響く。
のどかな公園の昼下がり。
目にうつる光景は確かにきれいなのだけど、どうもそういう雰囲気に
なれないのは、私だけじゃないはず。
くさい。
園内に入ったときから薄々感じてはいたのだけれど、ここは動物臭がする。
それも、ペット臭なんて生やさしいものではない強烈な臭いが。
動物園なんだから仕方がないんだろうけど、テンションが下がるのは
否めない。
「クマだーーっ!」
それなのに、まいちゃんは目を輝かせて臭いの発生源であろう熊の
スペースに走っていく。
さすが、北海道で牧場を営む家系に生まれ育っただけある。
この位の臭い、気にならないみたい。むしろ嬉しそうにも見える。
絶対喜んでるよ、あれは。
「置いてかないでよー」
よっちゃんもそんなまいちゃんの後を追って、私だけが取り残された状況。
整った顔立ちから神経質な子だと勝手に判断していたけれど、
もしかしたらそうでもないのかも。けっこう大雑把なとこもあるし。
- 657 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:54
-
「クッキー売ってないかなぁ。クッキー」
「売ってるんじゃない?」
「まいちゃん、お腹すいたの?」
「いや、自分で食べるんじゃなくて、クマに投げるの」
「ここ、餌あげるの禁止だから」
柵の中は私たちが立っている場所よりかなり低い。視線を落とすと、
そこにはクマが5匹。あの小さい子と一緒にいるのは母親っぽい。
ってことは、父親はあそこにいる大きいクマだろうな。
柵の真下にいる子もちょっと小さいから子供なんだろうな。きっと。
でもそうしたら残りの一匹は、どういう関係なんだろう?
一緒にいてケンカとかしないのかな?
「アヤカーっ」
「ん?」
「すごい見入ってたんだけど」
「そう?」
「クマ、かわいいよねー」
「そうだねー」
- 658 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:55
-
この臭いにはだいぶ慣れてきたけれど、サイズのわりに愛らしい動きをする
クマたちにもそろそろ飽きてきたから次のエリアへ。
ここの動物園は通路が広くて気持ちがいい。
「ねー、あれ見て!」
まいちゃんの指さした先にはパンダの着ぐるみ。寄ってくる子供に
風船を配っている。
私たちに気がつくと、手を振ってくれた。
あんなもの被っててもちゃんと周りが見えてるんだ。すごいな。
「まいちゃん、うらやましいんでしょ」
「もらってくれば?」「ほら、手振ってくれてるよ?」
「やだよ。恥ずかしいもん」
「いいじゃん。そのぐらい」
「やなの!」
別に恥ずかしがる必要なんてないのに。
まいちゃんだったら、あの赤い風船だってきっと似合うと思うし。
- 659 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:55
-
「あーーっ!」
甲高い声に振り返ると、風船が飛んでいく様子が目に入った。
明るい日差しの中で、赤い風船はスーっと垂直に上っていく。
このまま空まで真っ直ぐに浮かんでいくように思ったところで、
風船はふらふらと軌道をかえ、通路脇の木の枝に引っかかった。
なんかちょっと残念。
「パパ、とってよー。アヤちゃんのふーせん」
近くにいる親子連れから声が上がる。
幼稚園の女の子と、30代のお父さん、お母さん、というかんじ。
あの子もアヤちゃんなのか。私と一緒だ。
「ねー、パパー」
女の子はお父さんの袖を引っぱって、しきりにねだっているけれど
お父さんは困り顔。
無理もない。風船が引っかかっている枝はけっこうな高さ。
取ってあげたくても、手がとどかない。
「あれじゃなきゃイヤなのー」
ダダをこねる女の子。黄色いワンピースの裾が揺れている。
お母さんがなだめようと必死だけど、聞き分けてくれない様子。
- 660 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:56
-
「ごめん。ちょっと行ってくるわ」
「は? よしこ?」
よっちゃんは早足で風船がかかっている木の下まで行き、女の子に
二言三言声をかけると、少し距離をとった。何をする気なんだろう。
うわーっ
木漏れ日に淡く透き通った金色の髪の毛が大きく揺れる。
助走をつけて踏み切ったよっちゃんの身体は、ふわりと浮かんだ。
真っ直ぐ垂直に上っていく姿がスローモーションのようにうつる。
細い身体は空中でしなやかに伸び、振りあげた腕が弧を描いた。
地面に下りてきたよっちゃんの手には、さっき赤い風船。
急に大人しくなった女の子は風船を手渡されると、にっこり笑った。
- 661 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:57
-
よっちゃんは彼女の頭をなでて少しだけ言葉を交わしたかと思うと、
また私たちのところに戻ってきた。
「よしこ!ちょっとどうしたの!」
「すごかったよ、今の」
「フワーっていったよ!フワーって!」
「そうそう」
「飛んでたよね!」
「ね」
「あんなジャンプ、どこで覚えたの?」
「もしかして高校の頃、陸上部で高跳びしてたとか?」
照れくさそうに笑うよっちゃんを前に、私たちの興奮はさめやらない。
だってあんなの、今まで見たことないよ。
運動神経抜群のまいちゃんだって、あんな風にはとべない。
「次、どこ行こっか?」
よっちゃんは笑顔を浮かべつつも、質問には答えず、私たちから
目をそらすと足を進めた。
ちょっと消化不良なかんじだけど、まぁ、いいか。いつものことだし。
- 662 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:58
-
ん? 何だろう?
私もよっちゃんの後について行こうとしたところで感じたのは、
さっきと同じ感覚。
どうも後ろからの視線を感じる。それもものすごく鋭い視線。
振り返っても誰もいない、っていうのもさっきと同じ。 おかしいな。
「アヤカー?」
「どうしたの?何かあった?」
二人が、追いついてこない私に気づいて立ち止まり、声をかけてくれる。
「ううん。何でもない」
多分、今のもさっきのも私の気のせい。自意識過剰なんだ。きっと。
二人が待ってる。早く行かなくちゃ。
- 663 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/01/30(日) 01:58
-
- 664 名前:名無し読者 投稿日:2005/01/31(月) 00:38
- 思わず里田の特技の木登りかと思いました(笑
- 665 名前:名無し読者 投稿日:2005/02/06(日) 14:49
- 里田さんが良い味出してますね。
読み始めたら止まらなくて一気に読んでしまいました。
メロン記念日の話の方もずっと読んでました!
続き、楽しみにしています。
- 666 名前: 対星 投稿日:2005/02/07(月) 00:35
- >>664
そうだ! その手があった! すっかりさっぱりです。OTL
>>665
里田さんを褒められるとものすごく嬉しかったりします。そしてメロンさんの話も。
どうもありがとうございます。感激です。感涙です。
- 667 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:36
-
- 668 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:36
-
◇
- 669 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:36
-
- 670 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:37
-
「行ってきます」
「行ってらっしゃーい」
水曜日の午後二時。夕刊の配達に出かけたまいちゃんは不在。
よっちゃんの声におくられて家を出る。
今日はちょっと風が強いな。
今年は暖冬だといわれているけど、それでも冬は冬。やっぱり寒い。
こんな日は鍋にかぎる。
- 671 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:38
-
でもなぁ・・・。高いんだよね、この白菜。
うちから歩いて5分のスーパーではなく、自転車で15分のところにある
八百屋さん。ちょっと家から遠いけど、こっちの方がずっと安いから、
こうしていつも通っている。
「この白菜180円って書いてありますけど、もう少し安くなりませんか?」
「うちとしてもこれがギリギリなんだよねー」
「そこをなんとか」
「うーん・・・。おねえさんキレイだから、100円でいいよ」
「ありがとうございます」
こんなふうに値引きしてくれるとこも、ここまで足を運ぶ理由。
それに、クラシカルな店構えに似合わずお兄さんがかっこいいし。
野菜が調達できたから、次は肉。向かうは三丁目の精肉店。
歩けば15分の距離も、自転車なら5分。その上燃費はかからない。
自転車という乗り物はすごく便利なものだけど、難点がひとつ。
それは、冬は身体が冷えること。 早く行って早く帰ろう。
- 672 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:39
-
「すいません」
自転車にまたがったところで、後ろから声をかけられた。
振り返ると、立っていたのは女の子。
スタイル良い子だなー。足長いし、顔ちっちゃいし。それに細い。
普通のジーンズでも、こういう子が穿くと違って見える。いいなー。
何歳ぐらいだろ? 年下っぽいけど、まいちゃんと同じぐらいかな。
「アヤカさん、ですよね?」
「そうですけど・・・」
何で知ってるの? って聞きたいんだけど、口から言葉がでてこない。
スレンダーさんの表情は真剣そのもの。鋭い視線つきささって痛い。
背は私より小さいし華奢な体格なのに、この威圧感は何なんだろう。
「今、時間ありますか?」
「はい」
私は夜ご飯のお買い物の途中。これからお肉屋さんに行くところ。
その後スーパーにもいかなくちゃいけない。時間はない。
でも私をとらえてはなさないまっすぐな視線に、うなづくことしか
できなかった。
- 673 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:39
-
- 674 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:40
-
「すいません。いきなり声かけちゃって」
八百屋さんから少し歩いたところにあるファミリーレストラン。
座ってすぐに出された水を半分ほど飲むと、向かいの席に座った
スレンダーさんは口を開いた。
ちょっと崩したその表情には、さっきほどの攻撃力はない。
「私、藤本美貴っていいます」
フジモトミキ・・・。けして珍しいものではないけれど、今までの
知り合いにはいなかった名前だ。
女の子は3年会わないうちに人が変わるっていうけれど、やっぱり
この子は知らない子。だって見たことないもん。こんな細い子。
でも、それならこの子は何で私のこと知ってるんだろう。
- 675 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:40
-
「お待たせいたしました」
私たちの前にコーヒーが運ばれる。
お客さんもまばらな店内に、食器がこすれる高い音は小さく響いた。
ここのコーヒーは酸味が弱くて少し苦い。
「突然ですけど、一緒に住んでるんですよね?吉澤さんと」
コーヒーをかき混ぜる手を止めると、スレンダーさんは言った。
「ヨシザワさん・・・?」
ああ、よっちゃんのことか。そういえばそんな苗字だったっけ。
本当に突然切り出された言葉に、頭が追いついていけてない。
この子、何でこんなこと知ってるんだろう?
私の名前だって知ってたし。すごいリサーチ能力だ。
- 676 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:43
-
「よっちゃんさんと、どういう関係なんですか?」
私の目をしっかりと見据えるスレンダーさん改め藤本さん。
この視線なんか覚えがあるな。強くて、鋭くて、遠くからでも
つきささるような、そんな視線。
「どういう関係・・・」
正直、そう言われるとすごく困る。むしろこっちが聞きたいぐらい。
一緒に暮らしてはいるけど、よっちゃんのことはあんまり知らない。
だけど普通の友達なんかよりはずっと近くにいるつもり。
こうして面と向かって聞かれると、何も答えられることがないな。
言葉に詰まっている状況を、自分でも歯がゆく感じる。
- 677 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:43
-
「いつからの付き合いなんですか?」
言葉につまったままの私に、藤本さんは質問を変えた。
首を傾けるその仕草は、はっきりした答えを出せない私の態度に対する
イラだちの表れのようにも見える。
「知り合ったのは、一ヶ月半ぐらい前ですね」
「一ヶ月半?」
「はい」
「中学とか高校とかじゃなくて?」
「はい」
大きくため息をつくと、藤本さんはイスにもたれかかった。
顔に浮かべた笑い。力が抜けた表情。
「ずいぶん最近なんですね」
「そうですね」
藤本さんが呆れるのも無理はない。
いくら女の子とはいえ、知り合って半年の相手と一緒に住んでいる
なんて、普通ではあり得ない。
「どこで知り合ったんですか?」
「バイト先です」
「バイト?」
「コンビニなんですけど。よっちゃんがお客さんとして来てくれて」
「あー」
「その日の帰りの道でよっちゃんが行き倒れてて、それで・・・」
「行き倒れ?」
「はい」
- 678 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:44
-
藤本さんは小さく笑顔を浮かべたかと思うと、声をあげて笑いだした。
静かな店内に、藤本さんの笑い声が響く。
大きな笑い声は隣で聞いていて気持ちが良い。
この子、笑うとこういう顔になるんだ。
無邪気な笑顔にはトゲがなく、さっきまでの攻撃的な顔とはかなり
印象が違って、すごくかわいい。
この子、もしかしたら良い子なのかも。
「行き倒れとかいって。よっちゃんさんらしいや」
笑いの波が過ぎ去って落ち着きを取り戻すと、藤本さんはつぶやいた。
「コーヒー、おいしいですね」
そう言って頬をゆるめたその表情は、どこか寂しそうに思えた。
店内奥の大きな窓から入ってくる日差しは、淡い橙色。
もうあんなところまでのびてきてる。
- 679 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/07(月) 00:45
-
- 680 名前: 多摩川ラプソディー 投稿日:2005/02/14(月) 00:36
-
- 681 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:38
-
- 682 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:38
-
「いいですよ。私、払うんで」
テーブルに置かれた伝票を持ってレジまで行くと、藤本さんは右手を振って
財布を開こうとする私を制した。
やっぱり私のほうが年上なわけだし、ここは・・・・とは思うけれど
節約・貯金中の身であることはもう話してしまった。
このぐらい、甘えちゃってもいいよね。
「さむっ」
ドアを開けると、空気が違う。分かってはいたけれど、やっぱり外は寒い。
日が落ちてからは特に。
フッなんて、猫背ぎみの体勢でふるえる私を藤本さんは小さく笑った。
今まで気がつかなかったけれど、彼女の服装は私より明らかに軽やか。
「寒くないの?」
「はい」
「全然?」
「私、北海道出身なんで」
「へぇー。そうなんだ。 北海道のどこらへん?」
「真ん中らへんです」
「真ん中?」
「はい。真ん中らへん」
- 683 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:39
-
「うちにもね、北海道の子がいるんだよ」
「里田さん、でしたっけ?」
「よく知ってるね。 まいちゃんのことまで」
「まぁ、それぐらいは」
「まいちゃんはね、札幌なんだ」
「あー。やっぱり。そんなかんじですよね」
「住んでるのは、ずっとこっちなんだけどね」
階段を下りると、歩道には会社帰りっぽいおねえさんの姿がちらほら。
足早に歩いていく様子はこの時間帯にあわないような気がしたけれど、
この空の色には私よりも彼女たちのほうが似合っているのだろう。
私たちが店に入ったときは目立たなかった黄色い落ち葉は、歩道の両端に
コンクリートを覆いかくすほど積もっている。
「わざわざどうもありがとうございました」
藤本さんは足をそろえ、頭を下げる。腰から30度、きれいに曲がった
背中は体育会系の人っぽい。 いや、体育会系なんだよね。実際に。
「こちらこそ。今日は楽しかった。いろんな話も聞けたし」
「すいません。引き止めちゃって」
「ううん。いいの、いいの」
- 684 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:40
-
「よっちゃんさんのこと、よろしくお願いしますね」
自転車にかかっていたナンバー錠を外して立ち上がった私をみつめ、
藤本さんは大きくはないけれどはっきりした声で言った。
彼女の目にはさっきまでとは違う強さがあった。
「うん。まかせといて」
彼女の視線にちょっとひるみそうになったけれど、大丈夫。
目をそらしたりなんかしない。しちゃいけない。
「じゃあ、失礼します」
「うん。バイバイ」
もう一度頭を下げると、藤本さんは駅の方向へ歩き出した。
ボーダーのマフラーが縦にゆれている。
さて、と。私も行かなくちゃ。夕飯の買い物はまだ途中なわけだし。
- 685 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:40
-
- 686 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:40
-
- 687 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:41
-
「ただいまー」
電気が消えた部屋は暗く、静まりかえっている。帰ってきた私を
迎えてくれる声はない。
おかえり、とか何とか言ってもらえると思ったのに。
朝ならともかく、日が沈んだ後に誰もいない家に帰るのは寂しいもの。
この季節は特に。
携帯のサブディスプレイがうつす時刻はもう5時30分。
まいちゃん、何してるんだろ。
午後の配達はとっくに終わってるはず。いつもならこの時間には
家に帰ってテレビを見ながらゴロゴロしてる。
よっちゃん、どうしたんだろ。
いつもは午前中はロードワークに出てるけど、午後はずっと家で
筋トレに励んでる。
もしかして・・・。
さっきまで私の向かいに座っている藤本さんの顔が瞼にうつった。
- 688 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:41
-
- 689 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:42
-
ためらいがちにしゃべりだした藤本さん。
ゆるく組まれた手は落ち着きなく位置を変える。
少しだけ伏せられた目は、テーブルの上をうつろっていた。
よっちゃんのこと。それに藤本さん自身のこと。
私たちが初めて会ったとき、よっちゃんがなぜあんな服装だったのか。
毎食のようにゆでたまごを食べるのはどうしてなのか。
なぜ毎日こんなに熱心にトレーニングをしているのか。
ずっと気になっていたことのいくつかは、藤本さんのおかげで解消した。
でもそのせいで余計に分からなくなったこともある。
なぜ私たちと一緒にいるのか。
なぜ藤本さんの元に戻らないのか。
藤本さんと別れてから30分。
モヤモヤした気持ちはちっともまとまってくれない。
- 690 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:42
-
- 691 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:43
-
タタ タタタタ タタタ タタタ
ん?
ドアの奥から聞こえてくる小さいけれど、しっかりした音。
まいちゃんの部屋に電気は点いてない。第一、まいちゃんはまだ
帰ってきていない。
私が帰ってきたとき、玄関に靴はなかった。
今、家にいるのは私一人なはず。
ってことは、ここにいるのは・・・誰?
- 692 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:49
-
「おー。アヤカじゃん」
「よっちゃん! な、何してんの?こんなところで」
「んー?メール打ってるだけだよ」
「電気もつけずに?」
「あー。忘れてた」
上がった心拍数を下げられない私をよそに、よっちゃんはまのびした声で
答えると、立ち上がってスイッチに手をのばした。
「そういえば、靴が無かったんだけど、どうしたの?」
「うん。汚れたから洗った。白いと目立つんだよね」
いつもの窓際のスペースに腰をおろすと、よっちゃんはまた携帯を
いじりはじめた。
タタタタ タタタ タタタ タ タタタタタ
広くはない部屋に、携帯の操作音が響く。
いつもは会話が途切れないように話を振ってくれるよっちゃんは
今日は黙ったまま。真剣な顔で携帯と向き合っている。
なんかイヤだな。このかんじ。
- 693 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:50
-
タ タタタ タタタ タタ タタタタ
しゃべっているときはあんまり感じないけど、よっちゃんの顔は
やっぱりキレイ。こっちから声をかけるのは気が引ける。
かといってこのまま黙ってるのも気まずいしなぁ・・・。
タタ タタタタ タタタ タタタタタ タ
やっぱりこういうときは私の方から話題を出すべき。
頼りないとはいえ、3人の中では一番年上なわけだし。
たまには年上らしくいかないと。
- 694 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:51
-
「よっちゃん」「アヤカ」
「ごめん。何?」
「こっちこそごめん。アヤカから言って」
「いいよ。たいしたことじゃないし。よっちゃんからどうぞ」
ありがと、なんてつぶやくと、よっちゃんは少し笑った。
「アヤカ、今日誰かに会った?」
「え?誰かって、誰?」
「いや、いいんだ。別に。忘れて」
よっちゃんは慌てるように部屋から出ていった。
誰かって、藤本さんのことだ。
よっちゃんが視界からいなくなってからしばらくして、ようやく
私は気がついた。
にぶいなぁ・・・まったく。
その上、むこうの部屋に行ったよっちゃんにかける言葉が見つからなくて
ここから動くこともできないんだから。我ながら呆れてしまう。
やっぱり私に年上役はむいてない。
- 695 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/14(月) 00:51
-
- 696 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/02/17(木) 01:36
- ヤバイ
続きが楽しみで仕方ありません
個人的には里田のキャラ好きなんで
里田の内面的なドラマをもっと魅せてもらえればと思ってます
- 697 名前:名無し読者 投稿日:2005/02/19(土) 17:57
- 吉澤さんに何があるんだろう・・・
- 698 名前: 対星 投稿日:2005/02/20(日) 00:28
- 森板保全完了。
>>696
レスありがとうございます。 この話もそろそろ終盤に近づいてきました。
手元では既に完結しているので、サクサク更新していきたいと思います。
内面的なドラマは・・・・どうでしょう。痛いところをつかれました。
>>697
どうなるんでしょうか? そのうち見えてくると思います。
- 699 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:29
-
- 700 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:32
-
「まい、ポン酢とってー」
「はい」
「サンキュー」
自分用の食器を手に取ると、あぐらをかいてちゃぶ台に向かうよっちゃん。
その笑顔にも仕草にも、いつもと何も変わりがない。
いつもの食卓。いつもの風景。
だけど今日の私にはそれがどうしてもしっくりこない。
よっちゃんは、ここに居ることについてどう思ってるんだろう?
よっちゃんは、これからどうするつもりなんだろう?
さっきから、というか、藤本さんと話してからずっと、
私の頭の中にはクエスチョンマークがうごめいている。
- 701 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:33
-
中央に置かれた土鍋からモクモクと湯気が上がり、部屋全体が
白っぽい空気に包まれる。
白菜、長ネギ、水菜、春菊、焼き豆腐、エノキ茸、鶏肉・・・あと他に
何が入ってたかな。自分で作ったのに、鍋の中身はあんまり覚えてない。
それに私が肉を切る横で、まいちゃんが何やらコソコソ動いていた。
何入れたんだろ? 協調性のある食材ならいいんだけどな。
「アヤカー、食べないの?」
「え? ああ、うん」
「じゃ、お椀かして。ついであげる」
「うん。ありがとう」
私に向けられたまいちゃんの満面の笑顔が気にかかるところ。
今までに経験したいくつかの場面が頭に浮かぶ。
今日は何だろう。
- 702 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:33
-
「しっかり食べてね。これから仕事なんだから」
「う・・うん。ありがと」
メインである鶏肉を中心にバランスよく盛りつけられた小皿。
こうしてみると、別に変わったところはない。
とりあえず白菜から・・・。うん。普通においしい。
ガリッ
右の奥歯に、普通ならありえない感触。
けれどそれ以上に、大きく響いた鈍い音にびっくり。
あはは、なんて声をあげてまいちゃんが笑う。指までさしてるし。
どうやら彼女の思惑にぴったりはまったみたい。
「あ・・・スヌーピー」
「そう。かわいいでしょ。クリスマスバージョンなんだ」
口から出てきたのは世界的にポピュラーな犬のキャラクター。
赤いコスチュームに大きな白い袋を持ち、愛嬌ある笑顔を振りまいている。
元の姿が可愛らしいだけに、私がつけてしまった歯形が痛々しい。
「あ、チェーンホルダーがある。いいね、これ。携帯のストラップとかに
できるんじゃない?」
「うん。っていうか、ストラップから外したの」
「どうしたの、これ?」
「もらってきた。販促用らしいんだけど」
「いいの?」
「いいんじゃない? この前のタオルだってそうだし」
- 703 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:34
-
「ネギうまいね」
「そだねー」
「良かった。買おうかどうか、ちょっと迷ったんだよね」
「ネギ入ってない鍋なんてありえないでしょ」
「うん。ありえないね」
顔を上気させたまいちゃんの声はうわずっている。隣のよっちゃんも
いつもの低めの声で同意する。
「鍋の中身ってさ、家によってけっこう違うよね」
「そだねー」
「うちらもさ、大変だったよね。はじめは」
「うん。まいちゃん、何にでもとりあえず鮭入れるんだもん」
「はぁ!? 鮭は常識でしょ、鮭は」
「味噌汁に鮭とか、常識じゃないよ。絶対」
「常識だって! ねぇ、よしこ」
「いやー、鮭はどうだろうねぇ」
いきなり話を振られて、よっちゃんも困り顔。
何とかしてよ、と私に向けられた視線は訴えてくるけれど、ここは
引き下がるわけにはいかない。だって鮭は変でしょ、鮭は。
- 704 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:39
-
「でもさ、幼なじみでもそういうことってあるんだね」
「親の出身が違うからね」
「そだね」
やっぱりよっちゃんは偉大だ。会話のコントロールはお手の物。
新しい話題を振ってもらったおかげで、食卓は落ち着きを取り戻す。
「ってかさ、2人は何で一緒に住んでるわけ? 親は?」
「引っ越した。去年まではこっちにいたんだけど。北海道帰って
実家の牧場継いだんだ。アヤカんとこは神戸だよね?」
「うん。一昨年、転勤で神戸に。私は大学があったから、こっちに
残ったんだけど」
「で、アヤカと一緒って条件で私もこっちに残ったってわけ」
まいちゃんが私の部屋に一緒に住むことになったときは嬉しかったなぁ。
大学に入ってからは忙しくて、まいちゃんとはあんまり会えなくなってたから
そんな風に思っていてくれたことがすごくありがたかった。
あのときの喜びは今でも覚えている。
- 705 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:39
-
「ふぅん。そうだったんだ」
「やっぱ、一人で住むのって寂しいじゃん?お金もかかるし」
「そうそう。それが大きいよね」
「できるだけ早くお金貯めたいもんね」
「へ? 何で?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
まいちゃんの瞳がキラリと光る。
あーあ。よっちゃん、地雷踏んじゃったよ。今から後悔しても遅いからね。
「二人でハワイに行くんだ。船で」
「は? 何で?」
「アヤカの生まれ故郷だから」
「そうじゃなくて。 何で船?」
「何でって・・・。島といえば船でしょ」
「飛行機で行った方が速いじゃん」
「速さとか問題じゃないんだよ!船でハワイ、ロマンの問題なんだって!」
「へぇ・・・」
よっちゃんは視線を落として何やら考え込んでる様子。
やっぱりなぁ・・・。
この話すると、10人中9人は引くんだよね。いまどき船って、・・・ねぇ。
だから実はあんまり話したくなかったんだけど。
それをまいちゃんったら、あんなに自信満々に。
- 706 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:41
-
「・・かっけー」
え!? そっちかよ!?
「でしょ?」
「2人ともすごいよ。まじかっけー」
「じゃあさ、よしこも一緒に来る?」
「うん!行く行く!連れてって!」
「よっしゃ!まかせといて!」
よっちゃんはいつもは真っ白な頬をほんのり赤くして、興奮した様子。
まいちゃんは瞳はキラキラ輝かせ、ビシっと右手の親指を立てている。
私はなんだか居心地が良くない。
「アヤカ?」
「ん?」
「どうかした?」
「ううん。何でもない、何でもない。ハワイ、楽しみだね」
「そだねー。絶対行こうね」
「うん」
でも・・よっちゃんは・・・
ハワイとかいってていいの?
こんなとこにいていいの?
まいちゃんと楽しそうにはしゃぐよっちゃんに気をとられているうちに、
鍋の中身はなくなっていた。
残された食器や土鍋、コンロの片付けをまいちゃんに託し、私は
いつものようにバイトに出かけた。
- 707 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/20(日) 00:42
-
- 708 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:01
-
◇
- 709 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:01
-
- 710 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:02
-
クリスマスまで後一週間に迫っていたあの日、前に約束していた
ツリーキットを買って帰った私を迎えてくれたのは、よく通る
少し低めの声ではなかった。
なんだ。今日もか。
いつもと同じ静まり返った部屋に、特別な感情はわかない。
いつかの約束なんて忘れているであろうよっちゃんが、私が持って
帰ってきた大きなおみやげにびっくりする顔が見れなかったことと、
キラキラ光る星形がビニールからのぞくかわいいパッケージを一番に
見てもらえないことに関しては、少し残念に思ったけれど。
玄関にも、靴箱にも、いつもの白いスニーカーはなかった。
もうジョギングに行ってしまったのだろう。
その時はそう思っていた。
朝の冷え込みがいつも以上に厳しい日だったけれど、その程度のことで
よっちゃんが毎日の習慣を変えたりはしないだろから。
- 711 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:04
-
とりあえず一眠りしようとベッドに向かった私の口元から出かかった
あくびを消し去ったのは、一枚の紙だった。
その白い紙は、部屋の中央におかれたちゃぶ台の上で南向きの窓から
差し込む日差しを受けて、まぶしいほどの光を放っていた。
そんな紙なんて気にすることなく睡眠を味わうこともできたけれど、
部屋の中心でうるさいほどに自己主張しているそれを無視することが
できず、私はそれを手にとった。
『いままでどうもありがとう』
A5サイズの紙には、黒のボールペンでそう書かれていた。
きれいに並んだ大人びた字は、見慣れたものだった。
- 712 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:04
-
- 713 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:05
- ――――――――――
―――――――
――――
『よっちゃんさん、うちの大学のバレー部のエースなんです』
少しだけ顔をあげると、藤本さんはしゃべり始めた。その視線は
テーブルの上をさまよい、正面にいる私には向かわない。
『練習の後にコンビニ寄るって言って別れてから、いなくなっちゃって。
家にも最近ずっと帰ってないみたいで、みんな心配してたんです。
それに・・・もうすぐ大会もあるし』
口ごもった藤本さん。
黙ったまま向き合っているのがいやで、何となく口に含んだ水はぬるい。
『うちの部、すごい弱くって、試合に負けても楽しければいいじゃん、
ってかんじなんですよ、いつもは。
でも今回はちょっと違って、・・・どうしても勝ちたいんです。
部長は、今回が最後だから』
トーンを落としてつぶやいた言葉には、それまでにない強さがある。
- 714 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:06
-
『部長は、バレー部なんてなかったうちの大学に同好会を作って、
ちゃんと試合に出られるぐらいまで大きくした人で、なんていうか、
うちの部にとって特別な人なんです。次の大会で引退しちゃうから、
最後ぐらい勝たせてあげたいって、みんな思ってて』
さっきまでとはうってかわって、藤本さんは饒舌にしゃべる。
『うちの大学、付属の高校があるんですけど、バレー部は部員の
ほとんどは付属高から来た子なんですよ。だからみんな長い付き合いで。
何ていうか、結束とか絆とか、そういうのがすごく強いんですよね。
私は大学から入ったんであんまりよく分からないんですけど』
そう言って顔を伏せた彼女の表情はうかがい知ることができない。
『それでここ最近、大会に向けて練習量も増えてたんですよね。
みんな頑張ってるんですけど、それでもそんなに上達しないんです。
で、どうしてもよっちゃんさんに対する期待が大きくなっちゃって』
顔をあげた彼女の視線は、私の後ろの壁に向かっている。
- 715 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:06
-
『でもよっちゃんさん、あんまりそういうの得意なタイプじゃない
みたいで。最近、精神的にかなり疲れてるみたいだったんですよね。
けどよっちゃんさん、すごく頑張ってて。見てるこっちが辛くなるぐらい』
ため息を一つ吐くと、藤本さんは苦々しい表情をうかべた。
『それに、今回が試合で勝つ最後のチャンスなんです。戦力的に。
レフトの子が別の大学に編入することになって、4月にはいなく
なっちゃうんです。レシーブとかフォローとか、彼女に頼ってる部分が
大きいんで、抜けられるとかなり痛いっていうか』
組んでいた手を解くと、藤本さんは座り直した。
『その子、よっちゃんさんと同じ学年なんですよ。普段はあんまり
仲良いってかんじでもないんですけど、理解し合ってるっていうか、
そんなかんじがするんですよ、あの二人。
だからよっちゃんさん、彼女がいなくなるって聞いてから、なんか
ちょっとナーバスになってたみたいで』
そういうと、藤本さんは黙り込んでしまった。
その口元はかたく結ばれていて、唇を噛んでいるようにも見えた。
- 716 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:06
-
- 717 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:07
-
うちでのよっちゃんの様子を話したり、なんてことない世間話を
しているうちに、藤本さんの表情はだいぶほぐれ、固かった態度も
くずれていった。
別れ際、よっちゃんさんをよろしく、なんて言って笑った彼女の
表情には、清々しさすらあった。
藤本さんは私と話すことで何やら納得したようだったけれど、
私の頭はあの日からずっと混乱したままだ。
藤本さんの姿や私に語った言葉がグルグルと回るばかりで、
わずかに浮かんでくる考えもまとまることなく消えていく。
あの日からずっとそうだ。
――――
―――――――
――――――――――
- 718 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:08
-
よっちゃんがいつか私たちの元からいなくなることは分かっていた。
多分、藤本さんと出会うよりも前から。
よっちゃんが何か大きな問題を抱えていたことはかんづいていた。
よっちゃんは私たちの前ではいつも明るく振る舞っていたけれど、
寂しそうな表情や、考え込んでいる様子も何度か目にしていたから。
私たちの元にいることがいいことなのかどうか、ずっと気になっていた。
よっちゃんは明らかに何か思い悩んでいた。根が真面目なよっちゃんは
悩み事を自分の中にため込んでしまう。このままうちにいても、
何もできずに余計に精神的負担を増やすだけではないのか。
一緒にいてくれることは私たちにとってはありがたいけれど、それが
よっちゃんにとってマイナスにしかならないのなら、嬉しくはない。
- 719 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:09
-
よっちゃんが自分の意志でうちから出ていくのなら、止められない。
私たちは笑顔で送り出してあげなければいけない。
いつか来るであろうこの日のために、以前から覚悟はできていた。
いや、できているつもりだった、というべきだろう。
だってまさに今、こんなに動揺しているのだから。
同じ映像ばかり繰り返し再生するこの頭は、私がとるべき行動を
導き出してはくれない。それどころか、このモヤモヤした気持ちに
ふさわしい名前を与えることすらできないでいる。
今、私は何をしたらよいのだろう?
今、私は何をしたいのだろう?
いつもまいちゃんが使っている目覚まし時計の音が部屋に響いている。
小気味良く鳴るリズミカルな音に、柄にも無くイラついているのが
自分でも分かる。
おかしいな。普段は全然気にならないのに。
- 720 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/02/28(月) 01:09
-
- 721 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/28(月) 01:44
- レフトの子はあの人かな…
アヤカがどう出るか楽しみ
- 722 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:29
-
◇
- 723 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:30
-
- 724 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:30
-
「アーヤカーっ!」
うわっ。
突然名前を呼ばれ、驚いて顔をあげると、声がした方向でまいちゃんが
ケラケラと笑っていた。
まいちゃんが帰ってきたことにも気づかないほど、私はぼんやりして
いたのかな。
「そんなびっくりなくていいから」
「あ・・・、うん」
「どうした?」
「え? ううん。何でもない」
笑顔を作ろうとしたけれど、唇の両端を少し上げるのが精一杯。
いつものように、彼女の朝のテンションに合わせようとしても、
どうしても上手くいかない。
- 725 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:31
-
「それ、どうしたの?」
「これ?」
「うん。その白い紙」
「なんでもないよ」
「見して」
「へ? いや、ほんとになんでもないから」
「なら見せてくれていいでしょ?」
「いや、ダメだって」
抵抗むなしく、私の右手にあった紙はまいちゃんの左手に収まった。
満足そうにニヤリと笑った彼女だったけれど、左手の紙を開くと
その顔から笑みは消えていった。
まいちゃんの大きな瞳は、紙に書かれた文字を追っていく。
一度目はさっと、二度目はゆっくりと。
こんな風にこわばった彼女の表情を見ることはめったにない。
普段は笑っているから気づかないけれど、一つ一つのパーツが大きい
まいちゃんの顔はけっこう迫力がある。隣にいるだけで緊張する。
- 726 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:31
-
顔を上げ天井を仰いで、大きくひとつ息を吐くと、まいちゃんは
よっちゃんの手紙をちゃぶ台の上に戻した。
「アヤカ、行くよ」
まいちゃんはいつになく強い声でそう言うと、部屋から出ていった。
バタンと閉まったドアの向こうではドタドタと大きな音。
まいちゃんが、行くよって言うのは、付いて来いって意味。
家を出てドアに鍵をかけ、一階まで階段をかけ降りる。
道路に出てあたりを見渡すと、ショート丈のミリタリージャケットが
小さく見えた。まいちゃんはもうあんなところにいる。
私も早く追いかけないと。
- 727 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:32
-
- 728 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:32
-
まだ通勤や通学には時間が早いせいか、道には人が少ない。
立ち並ぶマンションや歩道脇の街路樹を横目に、朝の街を走る。
頑張って走ってるんだけど、まいちゃんの背中は小さくなるばかり。
あれは、本気で走ってるな。
ちょっとぐらいペース加減してくれると嬉しいんだけど。
全力で走るまいちゃんに私が追いつけるわけないんだから。
カーキ色の背中は曲がり角を曲がってしばらく走ると、道路脇の
建物に入っていった。
- 729 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:33
-
交差点に面した二階建ての建物。
かつては白かったであろう外壁は今ではアイボリーにしか見えない。
頑丈そうなカゴの付いた数台の自転車に、それ以上の数の原付が並ぶ。
一階正面のほとんどを占める大きなシャッターは、右側の半分だけが
開けられている。
話に聞いたことしかなかったけれど、ここがまいちゃんの勤務先で
あることはすぐに分かった。
まいちゃんは中に入っていったきり、出てこない。
建物の中の様子をうかがおうにも、ここからじゃ上手くいかない。
半分だけ開いた入り口の奥はうす暗く、物音は聞こえてこない。
まいちゃんはここで何をしてるんだろう?
- 730 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:33
-
「どうもー」
少しかすれた大きな声は聞き慣れたもの。
後ろを振り返って手を振りながら、まいちゃんが出てきた。
「ちょっとお願い」
両手の荷物を私に押しつけると、一台の原付の後ろにしゃがみこむ。
ジーンズのバックポケットから取り出したのはドライバー。
膝をついて腰を曲げ、原付の荷台部分を真剣な顔で見上げている。
いろいろ言いたいことはあるんだけど、ブツブツ呟いたり奇声を
上げたりしながら原付と格闘しているまいちゃんは、声をかけることが
できないほど異様なオーラを放っている。
「よっしゃ!」
突然まいちゃんが叫んだと思ったら、原付のシート後方につけられた
頑丈そうな大きなカゴは、いとも簡単に外されていた。
- 731 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:33
-
「じゃあ行こう」
私の方に駆けよってきて、持っていたヘルメットの一つを手にとって
そそくさと装着すると、まいちゃんは原付にまたがった。
「ちょっとアヤカ、何してんの。 早く乗って」
ああ、ごめんごめん、なんて口に出して言うと、今までまいちゃんの
動きの早さに気をとられ、ぼんやり突っ立っていた私も彼女に促される
ように原付に足をかけた。
私用の座席はさっきまでカゴが鎮座していたこの荷台らしい。
まいちゃんがガチャガチャやっていた理由がようやく分かった。
「ちゃんと乗った? それじゃ動かすよー」
地面から足をはなし傾いていた車体がまっすぐになると、原付は
エンジン音とともにゆっくりと進んで車道に出ていく。
荷台の座り心地は良くないけれど、文句を言ってられる場合じゃない。
- 732 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:34
-
- 733 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:37
-
最初は遅かった原付は次第に加速して、すぐに前を行くワゴン車と
同じぐらいのスピードになった。たいした速さじゃないんだろうけど
原付初体験の私には相当速く感じられる。
「アヤカー」
風に乗って耳に入ったのは、まいちゃんの声。
さっきから何やら聞こえていたけれど、ようやく聞き取ることができた。
「何ー?」
向かってくる風の音に負けないように、思い切り大きな声で返事をする。
「怖くないー?」
「大丈夫ー」
「無理すんなー」
後ろに座っている私に振動が伝わるほどの笑い声とともに放たれた
最後の言葉に少しムッとして、目の前の華奢な背中をはたいてみた。
自然に手を離すことができたことに、自分のことながら驚いた。
確かに怖くないことはないけれど、だいぶ慣れてきたみたい。
- 734 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:38
-
スムーズな加速に余裕のある減速。信号での判断も的確。
周りの自動車の動きを乱すことなく滑らかな走行ができている。
接触時に身を守る装備が少なく危険度が高いと言われるバイクでも、
まいちゃんの後ろなら安心。
第一、これは原動機付自転車。危なくはない。
ただ一つ、気になるのは交通法規。
「まいちゃーん」
「んー?」
「免許、いつ取ったのー?」
「はー? 免許?持ってないよー」
やっぱり・・・。
配達にも自転車を使うまいちゃんが、免許を持ってるとは思えない。
それにしても、もう二十歳にもなるれっきとした大人が無免許運転
だなんて・・・。頭痛がしてきた。
まぁいいや。気にしないことにしよう。
ここまで来たら引き返せないわけだし、普通に走っている分には
見つかることもないでしょ。運転はそれなりにできてるわけだし。
- 735 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:39
-
「ごめん。ちょっと待って」
小さな路地に入ったかと思うと、原付は道路の右端で止まった。
少しだけ首を回し、私に向かってそう言うと、まいちゃんは前を向いた。
あーっとか、うーっとか、小さな唸り声が聞こえてくる。
何をしているのか気になって、原付から下りて前に回ってみる。
「地図?」
「うん」
縦にしたり、横にしたりを繰りかえしながら、くいいるように
見つめている薄い冊子。私も一緒にのぞき込んでみる。
ページの上に置かれた人差し指がさしているのは、おそらく私たちが
今いるところではない。
「ここら辺じゃない?今いるのって」
「え? そうなの?」
「うん。だってほら、ここから来て、こう曲がったわけでしょ?」
「あー。そっかそっか。そうだね。うん。そうなるね」
しきりにうなずくまいちゃん。出発に備えて、私は原付の後ろに戻る。
現在地が分かれば、次に行くべき方向はすぐに分かるはずだから。
- 736 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:45
-
「アヤカ」
「ん?」
「地図お願い。絶対アヤカのがむいてるから」
「いいよ。目的地は?」
「赤ペンで印つけてあるとこ」
「へ? 見つからないんだけど」
「そこじゃなくて、その次のページ」
赤いボールペンでダイナミックにつけられたマル印は、ごちゃごちゃと
文字や記号がひしめきあうページの中でもすごく目立っていて、
すぐに見つかった。
「あのさ、まいちゃん、ここって・・・」
「道分かった?」
「ああ、このまままっすぐ行って大通りに出たら右に曲がって」
「はーい」
まいちゃんの明るい声とともに、原付はまた走り出した。
- 737 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:45
-
地図の上で丸くかこまれていたのは学校のマーク。
その上に書かれていたのは『M大学』の文字。
M大といえば、藤本さんの、そしてよっちゃんの通う大学。
「まいちゃん」
「んー?」
「よっちゃんのこと、知ってたの?」
「はー?」
「だから、よっちゃんのこと」
「何?聞こえなーい」
原付はスピードを上げ、風を切って進む。
M大のキャンパスまでここから直線で10キロちょっと。
順調に行けばあと20分ぐらいで着くだろう。
- 738 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:46
-
- 739 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/05(土) 16:46
-
- 740 名前: 対星 投稿日:2005/03/05(土) 16:48
-
>>721
こう出ました。レフトの人は多分あの人です。
レスありがとうございました。
長々と続いていたこの話も、次回の更新で終了します。
- 741 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 01:37
- 次で終わりですか
楽しみなような寂しいような
- 742 名前: 対星 投稿日:2005/03/28(月) 00:41
-
>>741
レス感謝です。
じゃあもうちょっと・・・なんて調子づこうかとも思いましたが、
今回は予定通り終わることにします。そろそろ息も切れてきたところですし。
- 743 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:42
-
- 744 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:42
-
◇
- 745 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:42
-
- 746 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:43
-
長方形を構成する4つの壁面に、楕円形の屋根がかかる。
カマボコ型の体育館はあまり大きくはないけれど、2階にはこうして
観覧用の座席がつくられていて、大学の設備としては良いものだと思う。
天井も高いし、バレーボールの試合会場には向いているのだろう。
1階の床にはここからでもよく見える太さのラインが引かれ、
コートが2面用意されている。
「おっし!」
ブロックに引っかかったボールが白線の外に落ちると、隣に座る
まいちゃんが声をあげた。
ヒザの上にのせた手をかたく握り、身を乗り出してコートを見つめている
その姿は、観客席の中でも目立っている。
左側のコートで行われていた試合は、もう随分前に終わってしまった。
こうなると、当然観客の目は試合をしている右側のコートに注がれる。
- 747 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:44
-
「あーっ!もう!」
コート中央でスーッと上がったボールが、バシッという鋭い音とともに
手前側のコートに打ち込まれる。これで相手チームのポイント。
右のコートに視線が集まるのは、試合をしているのがそこだけだから
というだけではない。今ここで行われているのは、このトーナメントの決勝。
試合を終えたチームの選手や応援の人たちも、帰らずに試合の行方を
見守っている。
さっきのポイントでスコアは23−23。セットカウントは2−2。
掛け声とともに低い弾道を描いてネットを越えたボール。このチームでは珍しい
少し色黒な選手が落下点に入り、軌道を変えると、白いボールはフワッと浮き上がる。
キュッと鳴るシューズの軽い音、ボールを弾く強い音、それにコートで
走り回る選手が発する高い声。
ボールの動きが変わる度、コートにいる誰かがハイッと声を出す。
体育館中に行き渡るほどの大きさの、叫び声に似た高音は
私にとっては非日常的なものだけど、彼女たちにとってはあれが日常なのだろう。
たしか私も体育でバレーボールをしていたときは、動けないながらも
チームで一つのボールを追いかけて、あんな風に声を出していたっけ。
ああいう声が出せなくなったのはいつだろう。
私とたいして歳の変わらない彼女たちが、すごく遠い存在のように思える。
- 748 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:45
-
チームの中でひときわ小柄な選手がジャンプしてトスをあげると、
それに反応したのは後列の選手。あの手足のバランスは、藤本さん。
タイミングはズレたけどボールはネットを越え、相手コート中央にストンと落ちた。
「よっしゃ!」
隣の私にも聞こえるほどの音を立ててヒザを叩き、まいちゃんが
イスから立ち上がる。
黒髪をなびかせた長身の選手を中心してコートにできていた輪が解けると
金髪のスラッとした選手がエンドラインを越えて進み出る。
彼女がボールを受け取り手元で弾ませているうちに、客席のざわめきは
おさまったけれど、ソワソワと落ち着かない雰囲気はそのまま。
ダンッ
体育館中に響く音を立てて大きく弾ませたボールは、彼女の手の中に
すいこまれる。
ボールをのせた左手を肩の高さで静止させると、会場の空気がしまる。
観覧席はまいちゃんの息づかいが聞こえるほど静まり返っている。
ここにいる全員が、よっちゃんの姿を固唾をのんで見つめている。
左手が高く上がり、ボールが前方に上がると、よっちゃんが踏み出す。
いち、にっ、さん。
ダッ
力強い踏み込みで高く浮き上がった身体が、半円状に反る。
空中で全身が弓のようにしなり、右腕が振りおろされる。
放たれたボールはこの試合一番の速さで飛び、相手コート右端に突き刺さった。
とびきりの笑顔で右腕を突き上げ、ガッツポーズをつくるよっちゃん。
彼女のもとにかけよるチームメイト。
主審の笛が響き、会場中から歓声がどっと上がった。
- 749 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:45
-
- 750 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:46
-
試合が終わり、あれだけうまっていた客席はだいぶ空きが目立つ。
私たちの周りにいた人も、もう帰ってしまった。
審判に促され、相手チームとの握手をすませた後も、M大バレー部は
コートで喜びにひたっている。
「よし」
試合中の熱のこもった表情とはうって変わったぼんやりした顔で
コートを見つめていたまいちゃんは、小さくつぶやくと立ち上がった。
「まいちゃん?」
「アヤカ」
「ん?」
「そろそろ行こっか」
まいちゃんは背を向けて観覧席の階段を上がっていく。
本当は表彰式まで居たかったけれど、私は彼女の後を追うことにした。
観覧席の後ろをのびる通路に出たところで、コートにちらりと目をやると、
ベンチの辺りにいた藤本さんと目があった。
彼女は私に気がつくと、この前会ったときと同じ笑顔で手を振ってくれた。
なにか言っているような様子だったけれど、ざわついた体育館では
彼女の声を聞き取ることができなかったから、私は手を振り返すだけで
カマボコ型の体育館を後にした。
- 751 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:46
-
- 752 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:47
-
ザクッ
一定のリズムで鳴っていた、土を蹴る音が止まった。
歩みを止めたまいちゃんに合わせて、私も足を止めた。
身体の方向を90度変えて、どこかを見つめている彼女。
青い屋根の家、白い大型犬を連れたおじいさん、葉の落ちた並木、
サッカーボールを追う小学生、オレンジ色に光る水面。
視線の先を追ってみるけれど、彼女の見ているものが何なのか、私には分からない。
体育館から出た後、私たちは寄り道をすることもなくバスに乗りこみ
まっすぐ家の帰る方向に行く電車に乗った。
歩きたいと言うまいちゃんの言葉で、最寄駅よりも2つ前の駅で電車を下りた。
足を動かすことをいとわない彼女と一緒にいると、こういうことは珍しくない。
あの駅から家まで、決まっているルートがいくつかある。
けれど今日、彼女が足を伸ばしたのはいつもとは違う道。
多摩川の方向へ向かう道は、家に帰るには回り道。だから普段はめったに使わない道。
- 753 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:47
-
「よいしょっと」
ポケットに親指だけ引っ掛けていた手をショルバーバッグの肩紐にかけると、
リズミカルな足取りで土手を下りたまいちゃん。
3メートルぐらい行ったところで足を止め、しゃがみこむ。
午前中に降った雨のせいか、まばらに生えた足元の芝生は濡れている。
芝の下の土と相まって、そのまま座るのが躊躇されるような汚いかんじ
なのだけど、まいちゃんにそんなことを気にするそぶりはない。
体育座りをしたまいちゃんの隣に、私も腰をおろした。
直接触れてはいないけれど、地面の冷たさは伝わってくる。それでもあの日に
比べると、今日の空気はずっと暖かい。
よっちゃんが出ていってから、今日でもう3週間になるのだから、当然か。
- 754 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:47
-
バイバーイ。
反対側の土手の声がここまで響く。手を振って甲高い声であいさつを交わし、
向こう岸で遊んでいた子供はどんどんその数を減らしていく。
もうそんな時間なのかな。どうりで空が赤みがかっているはずだ。
昼下がりにはあんなにいる、散歩やサイクリングの人たちがいないのも
そのせいかな。
あの日私たちは、まいちゃんのバイト先の原付ではるばるM大まで
足を伸ばしたのだけれど、期待したものはそこにはなかった。
体育館には鍵がかかり、グラウンドには人気がなく、すっかり休暇中のキャンパスは
私たちに何も与えてはくれなかった。
ダメだねー。これは。
とんだ無駄足だったのだけれど、まいちゃんはそう言って笑って見せた。
帰り道の国道で、冷たく乾いた空気がやけに気持ちよかったことを覚えている。
- 755 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:48
-
「今日さぁ」
目線は固定したまま、まいちゃんは口を開いた。
彼女が私に話しかけるのは、これが体育館を出てから初めて。
「よしこ、かっこよかったね」
風にのって聞こえた声は、彼女にしては小さい。そのせいか、いつも以上に
かすれているかんじがする。
「うん。そうだね」
「最後とかさ、ほんとにすごかったし」
「ね」
「やっぱさ、よしこはかっこいいよ。やっぱり」
うん、なんていって、まいちゃんは一人で小さくうなずく。
膝にかけられていた腕は、いつの間にか解かれていた。
「ねぇ、アヤカ」
「ん?」
「うちら、これでよかったんだよね?」
「うん。そうだよ。きっと」
まいちゃんの姿の後ろに見える太陽は、周りをかこむ空よりも
ずっと鮮やかな橙色。
正面に見える水面はさっきよりも色味を増している。
- 756 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:48
-
「よいしょっ・・と」
小さくひとつ掛け声をかけて、まいちゃんは腰を上げた。
膝を伸ばしパンパンとジーンズのお尻を何度かはたくと、
腰をのばしたり、ひねったり。
「行こっか」
ストレッチを終え、出てきたのはいつものボリュームの声。
「うん」
まいちゃんの差し出した右手につかまって、私も立ち上がる。
ずっとしゃがんだままだったから、膝と腰が痛い。
「アヤカ」
土手を上がりきったまいちゃん。
その姿はもうだいぶ落ちた太陽と重なって、赤味の強いオレンジ色。
「絶対行こうね、ハワイ」
私のほうを振り向き、まいちゃんは白い歯を見せてニコっと笑った。
いつも以上の音量のハスキーボイスが土手に大きく響く。
「うん」
私もまいちゃんに負けない声を返して、前を行く彼女の後を追った。
まいちゃんと私、たまった貯金は現在41万8千円
GPSと自動運転機能搭載の小型船舶のレンタル料が85万8千円。
ハワイまでの燃料が14万5千円。2か月分の食糧が9万4千円。
一級船舶免許取得費用が2人で27万6千円。
その他諸々にかかる経費が5万3千円。しめて予算142万6千円。
ハワイまでの道はまだまだ遠い。
- 757 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:49
-
- 758 名前: 多摩川ラプソディ 投稿日:2005/03/28(月) 00:49
-
- 759 名前: END 投稿日:2005/03/28(月) 00:49
-
- 760 名前: 対星 投稿日:2005/03/28(月) 00:57
-
>>562-759 『多摩川ラプソディ』 完結ということで。
ここまで読んでくださった方、レス下さった方、そして管理人さん、
皆さんのおかげで楽しく遊ぶことができました。どうもありがとうございました。
>>664
そういう話をどうしても書いてみたくなったので、ちょっとやってみました。
http://m-seek.net/cgi-bin/test/read.cgi/wood/1080060204/351-382
- 761 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/29(火) 02:42
- 完結乙です
でもなんか寂しいな
ハワイ行けるといいですね
- 762 名前:名無飼育 投稿日:2005/04/01(金) 23:07
- 完結お疲れ様でした!
本当、2人がハワイに行けるといいな、と思います。
最後の最後までアヤカさんも、吉澤さんもですが
里田さんが里田さんらしくて素敵でした。
実は森板の方もずっと読んでました^^;
作者さんが書く、作品はその人の「らしさ」が凄い出てて好きです。
次回作がありましたらまた読ませていただきますね。
- 763 名前:名無し読者 投稿日:2005/04/12(火) 15:43
- >>760
更新お疲れ様でした
最後の里田さんはやはり他の誰でもなく里田さんらしい
なんとも格好のよい里田さんでした
木登りの話も読ませていただきました。
いや、いつも脇役ばかりの彼女の独特の佇まいと雰囲気を
こんなに素敵に書かれる作者さんに出会えてよかったです。
Converted by dat2html.pl v0.2