7話集
- 1 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/01/30(金) 16:47
- 7話集
- 2 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:48
- 12月の晴れの日
冬の或る好日。今日は学校も休みなので、れいなはお昼前の寒い小路を
手袋を買いに出かけた。ふと、「今日は何の日だか知ってる?」という
声が聞こえてきたので、振り向くと、可愛らしい女の子がニコニコしながら見ていた。
「なあに?」と訊きかえしたらもう一度「今日は何の日だかわかる?」ときいてきた。
れいなはその女の子を全く知らなかった。
少し考えてから「天皇の誕生日か知ら?」と言うと、女の子は
怒ったみたいに行ってしまった。
- 3 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:49
- 雪の夜の話
ここ3日間、記録的な大雪が降り続いた。町はもうすっかり雪に閉ざされてしまい
電車も自動車もとても走れなかったし、人も歩けなくなっていた。
真理の家でも、玄関の戸すら開かなくなってしまい缶詰状態になった。
それで、することがないので真理は窓の外の雪を見つめた。
雪はやむことなく深々と降りつづけていて、辺りはとても静かだった。
夜になって、漸う暗くなっても雪は変わらず降り続けた。
時折、屋根から雪がカタマリになってバサバサと落ちる音が遠くから聞こえた。
いよいよ静かになった。
真理はふと、このまま雪がやまないのじゃないだろうかと思った。
このまま閉ざされて、大好きな仲間にもう会えないんじゃないだろうか、と思った。
真理は不安になって、仲間のところに電話をかけた。それで、夜通し
いろいろな話をして笑ったりした。次の朝、真理が目を覚ますと日の光がさして
銀色の世界がキラキラと光っていた。
- 4 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:50
- 丘の上
息も白む夕刻。あさ美は町の裏の小高い山に散歩に出かけた。
山の頂には、眼下の町並が見渡せる小さな展望スペースがあって、あさ美は
そこが好きだった。よく晴れた日には海が見えたが、はたして、この日も
綺麗な橙色に染まった海が望めた。あさ美はうっとりとしてそれを見ていた。
そうしているうちに寒さが増してきた。ふと、振り向くと、少女がトラに跨って
そこにいた。あさ美はビックリして目を見開いた。
トラは2メートルよりもっとあって、黒と黄のストライプが夕日に良く映えていた。
少女はニッコリと笑って、トラの耳の付け根を優しく撫でながらあさ美を見ていた。
あさ美は、寒いのも忘れてその二人をしげしげと見つめてから「トラだよね?」
と言った。少女は口元をふくらませて「猫です」と言った。
- 5 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:51
- 桜の話
粉雪がハラハラと舞う並木道を里沙が散歩していると、黒い枝ばかりの桜の中で
一つだけ、幾つかの花を咲かせている木を見つけた。それで先輩にきくと
「それは狂い咲きだよ」と言われた。「ここ数日続いた陽気で、おっちょこちょいの
樹が間違えて花をつけたんだよ」里沙は夕方になってもう一度その木を見に行った。
やっぱり一本だけ花をつけて、並木のなかで佇んでいた。それが何だか
居直っているみたいに見えて可笑しかった。その木が一番綺麗だと思った。
- 6 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:52
- 風邪をひいた話
れいなは朝から風邪をひいていて、少し熱っぽかったし喉が痛かった。
お仕事の間にも何度か咳がでた。それをみた希美が、「大丈夫?」と言って
小首を傾げてれいなの顔を覗き込んだ。れいなは「大丈夫です」と応えた。
でも、それからも続けざまに咳が出たので、希美は心配そうにれいなを見つめた。
それで、れいなは何だか照れ臭くなった。
希美が不意に「熱は?」と言っておでこを合せたので、れいなはビックリして
ほぅっと頬が熱くなった。希美が「わぁ、あつい!」と言ったので
れいなは慌てて「風邪をひいているんです!」と言った。
- 7 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:53
- ペルシアの夢
朝、気が付くと回りがグチャグチャに揺れ暴れていた。何がなにやらわからないまま
とにかく家の外に這い出ると、その瞬間に家が潰れてしまった。揺れがやんで一瞬の
静けさの後に、劈くような怒号と悲鳴が聞こえた。いそいで仲間の家にいったら
大好きな仲間がレンガの下で冷たくなっていた。
目が覚めて、愛はそれが夢だったことに安堵した。しかし、目からは一粒涙が落ちた。
- 8 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:53
- 朝の光景
美貴は朝早く町を歩いていた。指の先がかじかんでしまったので、場末のチョコレート屋に
入った。まだ暖も充分でない店内は寒々としていたが、チョコレートを一口飲むと
なんとも言えず暖かくなった。曇りガラスを間にして、起きぬけの人並みが面白い。
チョコレートの不思議な香りの湯気をみつめていると、大好きな人の顔が
浮かび上がってくるようだった。美貴は嬉しくなって、可愛いらしいウエイトレスの
女の子に「これはなあに?」と尋ねた。ウエイトレスは「はい、チヨコレイトです」
と照れ臭そうに言った。
- 9 名前:7話集 投稿日:2004/01/30(金) 16:54
- 〈終わり〉
- 10 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/04(水) 14:29
- なんかすごくいい。作者さんお疲れ様。やっぱ7つ書いた
から終わりなんだろか?
- 11 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/18(水) 12:02
- 春の嵐の夜の手品師
- 12 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:03
- 春という季節が、もう眼前に迫っている事が感じられる。
それと言うのも、風は相変わらず冷たいにしても
その風に、どこか香ばしい匂いの含まれているのが感ぜられるからである。
私は、何年か前からこの匂いに兎角敏感になったので
路往く人よりもそれが良くわかるのである。
今晩は嵐が吹く。
これが過ぎれば、春になる。
季節は移ろう。
冬の終わりが、すぐ向こうの丘の裏まで忍び寄っている。
コートにマフラー、そんないでたちで路を歩く。
次第に、風が強くなってきた。
いよいよ嵐だ。
- 13 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:03
-
公園に赴く。
毎年、春の嵐の頃は公園で過ごす。
何人か子供たちが遊んでいる。
ブランコで、砂場で、木に登ったりして。
ベンチにやっぱり今年もいた。
彼女は、今年もベンチに座って、手品をしている。
あまり興味なさそうな子供たちを集めて、大して上手でもない手品。
私も子供たちに混じって彼女の周りに集まって手品をみた。
何も無いところからボールを出す。カードを出す。
透視とか、物体浮遊とか、手先の技術が大事な手品とか。
彼女はあんまり上手でないから、私にはときどき種がわかったり見えたりする。
でも子供たちは、最初と違って凄く楽しんでいる。
手品というのは凄い物だ。
子供心に誰かのスプーン曲げやら、UFOの話なんかよりもずっと純粋な
感動を与える。不思議を与える。
タネがあるのを知ってても、それは絶対にわからない。
子供の目には純粋な魔法が映るのである。
タネが分かれば魔法も解ける。
でも、世界中で解けない魔法がどんどん生まれる。
魔法は確かに私たちの世界にある。
- 14 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:04
- 日が傾くに連れて風がどんどん強くなってきた。
彼女が子供たちに向かって、そろそろ自宅に帰るようにと促がすと
子供たちは口々に手品を続けてくれとせがむ。
彼女はこの短い午後のひと時で、見事に子供たちを手なずけていた。
風がいっそう強く吹いて、子供の一人がくしゃみをしたのに乗じて
また、彼女が促がすと、子供たちも渋々といって散っていく。
彼女の優しい微笑みは、母のそれに似ている。
それから幾ばくか手品を続けるうちにトワイライトの刻となって
いよいよ肌寒くなった。
それで、とうとう最後の子供が帰ったのと時を同じくして公園の電燈も点った。
- 15 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:05
-
手品は尚も続く。
客は一人。私だけ。
私一人になると、気を抜いているのかさらにしっぱい続き。
彼女も、最初のうちは苦笑いで済ますけど、そのうち顔が強張ってきた。
私が笑うとむっとする彼女。
「けっこう難しいんですよ」
「うん。私にはできないだろうね」
暫くそうして続けていたけどいよいよ手品どころでなくなってきた。
空は東から濃い紺が広がり、複雑な形の雲が轟々と唸りながら流れている。
木々の梢からは蟲の羽音のような複雑な音が
留まることなく打ち鳴らされる。
嵐がいよいよ街を包んでいるのがわかる。
私は、彼女の横に腰掛けた。
それを見て彼女も手品を披露するのを諦めて、道具をしまった。
それから傍らに青い小さな小箱を大事そうに置いた。
二人とも、暫しの間無言で風の音を聴く。
「私、こう見えても昔はアイドルだったんですよ」
- 16 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:05
-
手品師がぽつりと呟いた。
「華やかな衣装きてね…綺麗なステージに立ってたんですから…なんで笑うですか!」
「知ってるよ。ファンだったもん」
風の音で殆ど聞こえなかった彼女の声が大きくなった。
それが、私の言葉を聞いてまた静かになる。
隣から微かな雰囲気のなかで照れているのが感ぜられる。
それがまた私の笑いを誘う。
「普通、アイドルって自分で言わないよ」
私の笑いに対して、彼女は下を向いてもじもじ。
強い風が二人の髪をぐちゃぐちゃに掻き乱して抜けた。
辺りはいつしか街灯の光の他には届かない真っ暗闇になっていた。
- 17 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:06
-
「で、その天下の松浦亜弥ちゃんが、どうして手品師してるの?」
彼女はまた首をあげて、少し思案するしぐさをしてみせた。
「やっぱり、あのステージくらい大きくはなくても、見られる仕事って言うのかな…
人に夢を与えられる仕事がやりたかったんだよね」
「夢、ね」
- 18 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:07
-
強風に煽られて、公園の粗い土の上をカラカラとなにかしらが転がっていった。
それが何かはわからなかったが、風に抗うのを辞めた気楽さが
その音になって響いているように思えた。
「去年もここであったね」
「そうですね」
「ちょうど、今くらいの時期…嵐の夜だよね」
彼女はこくりと頷いた。
それから私の方を振り向いた。
風の合間を縫って届いた街灯の微かな光を受けて
亜弥の顔は青白く、美しく照った。
私も彼女を見た。
じっと見つめた。
昔と変わらない、意思の煌く清らかな目。
透き通るような肌も変わらない。
- 19 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:07
-
「ごっちんは、今何してるの?」
彼女ははっきりと私の目を見ていった。
私はすいっと彼女の顔から目を離し正面を見た。
「別に、何ってこともないよ」
亜弥が未だに私の顔を凝視しているのが感じられた。
「どうして、芸能界辞めちゃったんですか?」
亜弥の手が私の手を握った。
冷たい手だ。私のよりずっと、ずっと。
でも、彼女に触れたという事実だけで心はどうしょうも無い熱を帯びる。
「亜弥ちゃんが居なくなったから」
彼女の、唇を噛むのが分かった。
未だ彼女の方へは向かない。
- 20 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:08
-
「そんなの…」
「亜弥ちゃんが居ない芸能界なんて意味ないもん」
彼女はまた向き直って下を向いた。
マフラーが崩れそうになって慌てて手で抑えた。
その時、繋がれていた手も外れた。
沈黙になった。
その間私は、絶えず吹きつづけるが、刻一刻と調子を変える風の音に
唯耳をすませた。
それが続いた。でも、目を瞑っては、隣の亜弥がまた消えてしまう気がして出来なかった。
風の音に注意を向けつつも、彼女の存在を感じない瞬間は無かった。
亜弥は、青い小箱を手にとって、それれを大事そうに撫でていた。
「それってタネが入ってるんだよね?」
亜弥は驚いたみたいに、また私の方を向いた。
「うん、そうだよ。私の全部のタネ。こればっかりはごっちんにだって見せられないよ」
「そう…」
- 21 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:09
-
また、お互い黙った。
風の冷たさが、手や首筋や顔に容赦なく降った。
感覚が痺れ亜弥の存在が、どうにも薄らいでいるような
そんな不安が急に心を駆け上がった。
振り向いて、亜弥の居るのを確かめた。
それでも足りない。
不安が増す。何故だか、もう終わりのような気がした。
そんな、訳のわからない情動に駆られて気が付くと亜弥を抱きしめていた。
亜弥の戸惑いが伝わる。
でも、離せない。
今日の亜弥は毎年ここで出会う亜弥と少し違う。私も違う。
「ごっちん…」
亜弥のくぐもった声が聞こえる。
どうしょうもない。
もう、はなしたくないんだ。
風が急に凪いだ。
一度、亜弥の手は私の背中に回った。
でもやっぱり押し返された。
心許ない力で。
- 22 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:10
-
「ごっちん、やっぱりね…」
私は、ただ亜弥の目を見ていた。
亜弥の顔は街灯の光以外の陰があった。
気が付くと、ほんの微かに東の空が白んでいた。
「やっぱり、もう、手品は終わりだよ」
亜弥の言葉の意味。
わからない。分かっているけど、わからない。
「これ」
そういって亜弥が例の箱を取り出した。
可愛らしい細工がしてある、木造りの小さな青い箱。
私はそれを知っている。
「覚えてるよね?ごっちんからもらったんだよ。あの日に…」
そうだ、私があげたんだ。
あの日に。覚えてる、全部覚えてる。
- 23 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:11
-
「これ、やっぱり返さなきゃいけない。私が持ってちゃいけない」
「どうして?一番大切なんでしょ?持っててよ!私はいらない!」
また、風が吹き始めた。
でもさっきまでとは違う。今度の風は暖かい。
強い風なのに、心地よい、そんな風。
東の空は段々に、濃い青、それから海の色に変わる。
雲が幾重にも折り重なってはるか彼方まで続いているのがみえる。
空は変わらずに唸っている。
「一番大事だよ。私の心の中の、一番大事な宝物。
私ね、今でもごっちんのこと好きだよ?大好きだよ?
でもね、これはやっぱり返さなきゃ。タネ明かししなきゃ。
私の手品。でないとごっちんがずっとダマされたまんま」
「それでいいよ!私はずっと騙されてたい。私も亜弥ちゃんが好きだよ。
今までも、これからもずっと!」
- 24 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:11
-
亜弥は静かに首を振った。
東の空はだんだん明るさをまし、公園も全体が見えるようになってきた。
それにともなって、風の暖かさも増してくる気がする。
季節が移り変わっていく。
亜弥が笑っている。
寂しそうに笑っている。
私はどんな顔をしているんだろう。
きっと醜い。
「ごっちんは生きてるんだから。ダメだよ。もう、お終いにしなきゃ。あたしのことは」
亜弥が立ち上がった。
季節の移り変わりに、私の心は少しの落ち着きを取り戻していた。
いや、諦めに近いのかもしれない。
亜弥を愛してる、愛する気持ちに変わりは無い。
でも、こんな形ではいけないことを
心のどこかで認め始めていた。
- 25 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:12
-
風の音が緩まってきた。
その代わりに、小鳥の囀りが近くから、鴉の嘶きが遠くから聞こえた。
私はベンチにうな垂れている。
亜弥は私の前に立っている。
顔が上げられない。
どんな顔をしてるか知ってる。
「ごっちん」
やっぱり。
その優しい笑顔。綺麗過ぎて、堪らなくなる。
一番好きな笑顔だ。
「ごめんね。ばいばい」
- 26 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:12
-
嵐の後の公園の朝には気持ちのいいそよ風だけが残っていた。
清々しさに誘われて、朝一番の子供たちがやってきた。
日差しは濃く、柔らかく大地を温め、生き物達の息吹が
俄かに踊り始めるのを感じた。
私はまだベンチに腰掛けうな垂れている。
傍らには青い小箱。
私に夢を見せていた手品のタネ。
空を見上げた。
真っ白な雲が次々と流れてゆく。
子供達のはしゃぎ声が聞こえる。
瞼を拭う。
もう一度。
大きな伸びをして、私も立ち上がった。
- 27 名前:春の嵐の夜の手品師 投稿日:2004/02/18(水) 12:13
- 〈終わり〉
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/18(水) 12:14
- >>10
ありがとう。もう少し続くかもしれないです
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/18(水) 22:44
- ペルシアの夢すきー。最後の1行こわーい。
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/21(土) 11:01
- 楽しませてもらいました。また書いたら載せてほしいとか
思ってます。
- 31 名前:dusk 投稿日:2004/02/24(火) 13:09
- こういう不思議な物語好きです。
読み終わって余韻が残りました。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/12(金) 00:50
- ハイカラはくち
- 33 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:51
- 忙しない心で眺めた街は忙しなく見える。
これは私がある人から聞いたことだが、実にその通りである。
ゆっくり、のんびり街を眺めてみれば、本当にあくせくした人なんて驚くほど少ない。
欠伸をしていたり、携帯をいじっていたり、とても忙しそうには見えない。
でもみんな心はいそがしいんだろうけどね。
私は急ぐのをやめた。
慌てたってどうにもならないし。
ゆっくりすごしていた方が楽しいんだ。
今日の街は灰色。
空が曇っているから。いつもの私だったら、ただの白黒の世界にしか見えなかっただろうけど。
本当はそんなことはない。
こんな日は、いつもよりも赤や青や黄が映えるんだよ。
行き交う人は誰も気付いてないけどね。
灰色だって一通りじゃない。
少し肌寒い空気や、アスファルトの鈍い色や、凄く綺麗なんだよ。
歩く人の服や靴の色もね。
- 34 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:52
-
今日は素敵な物を見つけた。
辻端の絵描きさん。
小さな女の子の似顔絵描き。
みんな見てるんだけど気に留めない。
折りたたみの木の椅子に座ってスケッチブックを広げてる。
「描いてくれる?」
「いらっしゃい」
彼女の前の椅子に腰掛ける。彼女のよりちょっと上等。
「べっぴんさんですね」
そういった絵描きさんの顔は、まだほんの子供で
その物言いがとても面白い。
「絵描きさんも可愛いね」
「よく言われます」
そういいながら照れた様子がまた可愛い。
泣き出しそうな空の下、灰色の街が虹色の少女を演出してる。
「何を描きましょうか」
「似顔絵じゃないの?」
「じゃあ、似顔絵描きます」
- 35 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:52
- 傍らに彼女が今まで描いた絵のサンプル。
街の絵とか物の絵なんだけど、なんだか不思議な絵。
この街でもないし、どこの街でもないみたい。
「帽子を…」
「あ、とらなくていいよ」
「私知ってる?」
「知らない」
「藤本美貴って、一応歌手なんだけど」
「ああ」
「知ってる?」
「知らない」
まあ、怒るまい。不思議な女の子。
帽子をとらなくても描けるのかな。
「これはどこの街?」
「話せばながくなる」
- 36 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:53
-
そう言ってクスクス笑う。もう完全に溜め口。絶対私の方が年上なのに。
まあ、そんなこと全然気にならないけど。
彼女は、スケッチブックの新しいページを開いてペンを手にもった。
「描いてる間、暇だと思うから、何かお話しましょうか」
「聞きたいな。名前何ていうの?」
「私はみちしげさゆみ」
「さゆみちゃんか」
「なんの話がいい?この街が出てくる話もあるよ」
そう言ってさっきの街の絵を指す。
「あー、いいな。聞きたい」
都会の曇った空の下で、可愛い絵描きの女の子が話し始めた。
それはこんな話。
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- 37 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:53
- 少女の名前は亀井絵里といった。
薄汚れた、ゴミゴミした貧民街。そこが彼女の住みかだった。
絵里はいつも薄汚れたチョッキを羽織って
ぼろぼろの、丈の無いジーンズのパンツを履いていた。
煤色に汚れた顔。ぼさぼさに放埓に伸びきった髪。
彼女は猫のようにすばしっこくて、影のように
街を飛び回ることができた。
彼女はいつも口元に微かな笑いを貼り付けて、喋ろうとするとどもるので
みんなに馬鹿と呼ばれていたが、貧民街ではとても愛されていた。
彼女はとてもハイカラで、ことにダンスは素晴らしく踊った。
華奢に細った腕はしかし汚れていても綺麗だった。
ちょっと吊った眼窩に嵌った瞳は黒くて綺麗だった。
彼女はいつも笑っていて、誰も彼女の考えている事を知らなかった。
ただ、人たちは絵里を馬鹿と呼んだ。
- 38 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:54
-
絵里は小さな恋をしていた。
スラムと接して、上流の大豪邸が連なる地帯が広がっている。
そこでは、スラムの10分の一の人しか住んでいない。
それなのに、スラム全体の20倍の敷地があった。
絵里は、スラムから上流街まで、影のように飛び回った。
その街の中でも、特に一番大きな豪邸が絵里の目指す家だった。
月は、スラムとの境を越えたとたんに厭味な電気屋から
風流なセレナード奏者に変わるのだ。
夜の、街を絵里は駆けた。
目指す豪邸は城塞のような巨大な真っ白の塀で取り囲まれている。
絵里はその壁を何の事も無くするすると登ると内側に下りた。
中には、鬱葱とした森のような、庭が広がっている。
その奥の、一番綺麗に月が見える窓の下からコンコンと戸を叩いた。
影と風と、少しの雲が粛々としている、見事な夜の話。
- 39 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:54
-
「絵里ちゃん!」
少女は、絵里の合図に、満面を喜色にして豪奢な観音開きの窓を開け放った。
彼女の名前は道重さゆみという。この街で一番の有力者の娘で
この街で一番豪奢なこの家にいつも臥していた。
さゆみ、は重い肺の病気で、絶対に安静にせねばならんとの
医者のお墨付きを得ていたのだ。
絵里は、夜毎、さゆみの元にいった。
それで、スラムやら、街の、ハイカラな、楽しい話を
どもりながら一生懸命に話したのだ。
もちろんさゆみの家の人間には秘密のうちに。
さゆみの、つまらない日常は絵里のおかげで一変した。
いつかベッドを抜け出して街に出てみたいという思いを膨らませていた。
そしてその旨を絵里に話、きっと連れ出すと絵里も約束したのだ。
この日がその決行日。
さゆみは期待のために、よく休んでいるべき時間もずっと起きて
お月様を見ながら絵里をまっていたのだ。
「さゆ!準備は?」
「ばっちり!」
- 40 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:56
-
絵里の手を取って、さゆみは窓を降りた。
籠の中で育ったさゆみにとって、月夜の外出は心躍った。
それよりも絵里はお月様に照らされて、天女みたいに綺麗なさゆみに
心奪われていた。
二人は手を取って庭の化け物みたいな木の影の間を歩いた。
それから、庭の端の巨大な塀を、まず絵里がするすると攀じ登ると
ロープをたらし、さゆみもスカートの端を抑えながら上った。
さゆみ胸はドキドキと踊った。
屋敷を抜け出して秘密のデート。
月夜のデート。
絵里はさゆみの手をしっかりととり、さゆみも四苦八苦しながら塀を攀じ登る。
絵里はそのままぴょんと向こう側に飛び降りると
さゆみに向かって飛び降りるように身振りで示した。
どこからか寝ぼけノラの遠吠えが聴こえる。
- 41 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:56
-
さゆみは逡巡したが、絵里を信じて飛び降りた。
さゆみを抱きとめてそのまま崩れる絵里。
それでもお姫様はちょっとだって字面には触れさせない。
心配して顔を覗き込んださゆみの目に満面の笑みの絵里が映る。
姫も満面の笑みで返してきつく抱きしめた。
夜に抜け出し。
夜にありがとう。
絵里に導かれるままに、さゆは一生懸命ついていった。
二人の手は堅く堅く繋がれて、あったかい二人の心が
掌を通して行き来する。
やがてさゆみにとって見たことも無い風景がやってきた。
絵里の住む世界。
上品な整合性の中で生きてきたさゆみにとって
雑然として、それでいて無意味が一つだって無い『街』は
ギラギラ宝石箱よりずっと面白いのだ。
- 42 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:57
-
赤いランプの下で靴を叩き売る、絵里と同じようなボロを纏った男。
似非紳士きどりで草臥れたスーツに煙草を吹かす男。
庭で見るよりずっと褪せた花を一本一本並べて売っている少年。
何をしているのか、ぼそぼそと立ち話をしているぼろぼろの
シルクハットを気障に冠った黒ずくめの集団。
なにもかも始めて見る人で、とても恐かった。
それでも絵里がしっかりと手を繋いで、笑ってくれるから
夢みたいに楽しかった。
絵里は人と行き違うごとに声を掛けられる。
みんな知り合いなんだ。そんなことがさゆみをもっと安心させる。
それに、そんな絵里がとってもかっこよく見える。
青白いガス灯の光の下に
真っ赤な大きな鼻と真っ白に染め上げた奇怪な人が
だんだらのけばけばしいがばがばの服を着て突っ立っていた。
絵里がその人の前で立ち止まったのでさゆみも止まる。
男はにやりと笑う。
心配そうに絵里を見る、さゆみに絵里が安心しろって言うみたいに優しく笑う。
「大丈夫だよ。見てて」
- 43 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:57
-
言われたとおりに道化師を見ていると
男は面白い調子で自己紹介をした。
それから、何も無いところから急にカラフルなボールを取り出した。
かと思うとそれを5つも出して、ジャグリング。
さゆは吃驚して目を見開くけど
ピエロは尚も得意そうに、ボールをかざすと
それが一瞬にしてジェイの字のステッキになってしまう。
さゆみが大喜びに拍手を送ると
なおピエロに振りかざされたステッキが無数のコウモリになって
飛び立ってしまったのだ。
夜の街を沢山巡った二人は
橙色の優しい光の漏れる、小さなバーに入って休んでいた。
「絵里ちゃん、凄いね!私こんなに楽しかったの、生まれて初めてだよ」
- 44 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:58
-
さゆみの表情は純粋でいとけなくて
絵里も嬉しくなる。
「亀公!そっちのべっぴんさんは誰だい?」
両手にビンを抱えた、熊みたいな髭面の厳ついマスターが
さゆみの可愛いさに目じりを下げながら訪ねた。
「さゆ!」
絵里はそれだけ、マスターにいって、さゆみに笑いかけた。
「何にする?コカ・コーラにする?」
マスターが絵里とさゆみを交互に見ながら訊いた。
さゆみが不意にごほごほと咳をしたのを見て
絵里が
「コカはダメ。さゆは胸の病気なんだから。
もっと優しい飲み物にして」
マスターはガッテンと、ホットチョコレートを作りに掛かった。
「なんか、一生分楽しんじゃった。
もう、絵里といっしょなら死んじゃってもいいや…」
ぽつりと呟いて絵里の肩にもたれかかるさゆに
きょとんとする絵里。
- 45 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:58
-
真っ白のドレスを着て、雪みたいに白い肌のさゆみ。
その頬を薔薇のように赤く染めて、うっとりと潤んだ目を静かに閉じる。
その頭の下には、ぼろぼろの茶色いチョッキを羽織った絵里の肩。
「絵里ちゃんって、不思議だね」
小首を傾げて絵里がさゆみの顔を覗き込む。
「なんでそんなにいっぱい楽しい事知ってるの?
あ〜あ、なんだか私の人生って損だったなぁ」
目を閉じたままで、さゆみが言うのを絵里はただ黙って聴いていた。
そこにホットチョコレートを二つ持ってマスターが現れた。
「ほい、お待ち!亀公はここいらでも有名な遊び屋だからな!
ほら、どうだい?可愛い恋人にダンスを疲労してやったら?」
さゆみはぱっと頭を上げた。
- 46 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:59
-
「ダンス!?見たい見たい!絵里ちゃんのダンス見たい!」
絵里はキョトンとしたけれど、すぐ笑顔になって頷いた。
「よし、それなら今日はダンスパーティーだ!」
マスターが叫んだ。
さっきからずっと可愛らしい二人の天使を見守っていた客達も
ワッと歓声を上げる。
テーブルが避けられ、店の中央にスペースが設けられると
店に来ていた人のうちで、楽器を持ってる人たちが
各々の楽器を鳴らし始めた。
オカリナだったり、セロだったり、カンカンのドラムだったり
ギターだったり、バラバラの音は一つ一つ混ざり合って
綺麗な音楽になった。
バーの中が音楽に満たされると、客達は思い思いに踊りだした。
絵里はチョコレートを一口飲むと立ち上がった。
- 47 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 00:59
- それから、トントンと軽くステップを踏むと踊りだした。
星の光みたいに優しいステップ。
名前も無いし、誰も知らない。
だけど、綺麗で、妖艶なダンスステップ。
絵里の長い黒い髪がサラサラと揺れた。
思い思いに踊っていた人たちも踊りながら
中央に絵里のスペースを空けて、半ば陶酔して
彼女の夜のダンスを見つめた。
マスターは満足そうに髭をかきながら
絵里を見つめた。
さゆみも、放心したみたいに口をあけて
絵里のダンスステップに見惚れた。
やがて音楽につられて、店の外からも続々と人が集まってきた。
- 48 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:00
-
絵里は踊りながらさゆみの側によると
彼女のしなやかな手を取った。
戸惑う、さゆみに優しく笑って手を引いた。
さゆみは引き寄せられるみたいに絵里の胸に飛び込んだ。
意識は朦朧として、でも喜びの絶頂だった。
二人は、小さなバーの即席ダンスホールで、
最高のダンスステップを踏んだ。
二人の息はぴったしで、絵里の踊りが
何時もよりも何倍も綺麗に見えたし
さゆみの純白のドレスは、さながら妖精の羽みたいに
幻想的に揺れた。
楽隊の方が先に参って、音が無くなっても
二人はまだ踊っていた。
もう、踊っているのは絵里とさゆみの二人だけで
回りは黒山の見物人だった。
ブラボーの拍手が鳴り響いた。
さゆみは最後のステップを踏むと、汗ばんだ額に
清浄無垢な会心の笑みで絵里の胸に再び崩れた。
大歓声に包まれた舞台の真中で
荒い息をして抱き合う二人。
幸せだった。
この空間に、この瞬間幸せしかなかった。
それが、一瞬の虚を置いて、豹変した。
- 49 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:01
-
さゆみが虚ろな目で顔を上げた刹那だった。
突然苦痛に顔を歪めたさゆみは
突き上げるような衝動を阻みきれずに、大量の血を吐いた。
それが、絵里の白いシャツと、顔と手を真っ赤に染めて
またさゆみは絵里の中に倒れこんだ。
怒号と悲鳴が起こった。
それが、すぐに止んだ。
一人の、男が二人の前に歩み出た。
全く皺の無い、ピカピカのスーツを纏い
上品に口ひげを生やし、真っ白のシャツにピンと貼った蝶ネクタイをした
40絡みの男。
そこいらに溜まってる人間とは、明らかに格が違ういいたげな
倣岸な態度で歩み出たその紳士は
怒気の為に引きつった顔を抑えようともせず
さゆみを抱きしめた絵里の前に立った。
そして、あらん限りの力で絵里を殴り飛ばした。
寄り場を無くしたさゆみを男が抱きとめた。
絵里は群集の間に突っ込んでしたたか腰を打った。
しかし男は尚も怒りの為に顔を真っ赤にして絵里を睨んだ。
- 50 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:01
-
「貴様が…貴様か…
うちの娘を連れ出し、あろうことか、こんな薄汚れた場所に…
どうだ、見ろ、そのせいで…そのせいで娘はこの有様だ。
どうしてくれる!?このドブ鼠が!!
いいか!?二度と娘に近づいてみろ、貴様を斬首台に送ってやる。
分かったな!!?」
男はそれだけ怒りに任せて叫ぶと、男の後から出てきた
使用人にさゆみを預けて、やはり倣岸な態度で店を出て行った。
店の客やマスターは凍りついたみたいに固まって
固唾を飲んで様子をみていたが、
男が出て行くと絵里の元に駆け寄った。
「大丈夫かい…亀公…」
絵里はそれに応えずに、たださゆみが出て行った戸を
ぼんやりと見つめていた。
絵里の白いシャツはさゆみの血で真っ赤に染まっていた。
手や首やチョッキにもさゆみの血がべっとりとついている。
絵里の口の中も切れて左頬は腫れ
黒い血が口の端から漏れていた。
それでも絵里はぼんやりと見ていた。
- 51 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:02
-
そんなこんなで、さゆみは自宅の元のベッドに逆戻り。
意識が戻らなくなっていた。
「さゆみ…なんであんな無茶をしたんだ…。
あんなドブ鼠に誑かされて…」
枕もとで心配げに見守る家族、使用人。
しかし、さゆみはそんなものとは関係なく
絵里の夢を見ていた。
それで、さゆみの表情は、寝汗が浮き出ていながら
穏やかだった。
翌日、さゆみは目を覚ました。
始め自分の状況が飲み込めなかった物の
目に映る家族の顔に
いつの間にか家に戻っていた事を知った。
あまりにも咎められず、家族にも、使用人にも普通に、いやそれ以上に慇懃に扱われて
絵里とのことが夢だったんじゃないかという不安に駆られた。
その夜からまたいつものように絵里をまった。
しかし、絵里は来なくなった。
- 52 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:03
-
あの一夜いらい、さゆみの邸宅の周りには雇われガードマンが張るようになっていた。
それで、絵里もどうしても中に進入する事ができなくなった。
絵里は、仕方なく諦めて
夜毎、スラムの教会の三角屋根に登るとバンドネオンを鳴らした。
そして、悲しい歌を歌った。
月夜に透き通る綺麗な声で歌った。
絵里は誰も見ていないところではよく血を吐いた。
さゆみと同じ肺の病気を、絵里も持っていたのだ。
しかし、絵里は誰にも知られないようにしていた。
もちろんさゆみにも。
絵里の血はさゆみのように赤くなかった。
薄汚れた茶色で、どろどろとしていた。
絵里の病気はさゆみのそれより遥かに重かった。
しかし絵里はいつも笑っていた。
寂しそうに。
絵里は血を吐くとき、シャツにかからないように気をつけた。
さゆみの血で真っ赤に染まったシャツは、そのまま赤かった。
そこにどず黒い自分の血をかけるのが嫌だった。
- 53 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:03
-
一月経った。
さゆみの様態は日に日に悪化していた。
絵里に会いたいのが、会えない。
それが精神の斧となり肺腑を蝕んで
とうとう最悪の病状になった。
毎日の喀血は半端でなく多かった。
さゆみは魘されながらよく絵里の名前を呼んだ。
父親はそれを聞くたびに旋毛を曲げたが、知らん顔を決め込んだ。
絵里は嫌な予感に襲われていた。
さゆみが心配だった。
もう一度会いたい。
思い出すと止まらなかった。
絵里の様態も、もう手遅れに近かった。
それでも絵里は平静を装って笑っていた。
ある月の晩、絵里はとうとうさゆみの邸宅に向かった。
- 54 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:04
-
この日は月が無かった。
星も無かった。
真っ暗闇だった。
絵里は音を立てないように、見つからないように塀を登ると
さゆみの部屋の明かりに向かった。
コンコン。
さゆみの部屋の扉がなった。
さゆみは、驚いて、でも嬉しくて
勢いよく身体を起こした。
「絵里!?」
そこには、前より一層汚れた痩せた顔で
でも相変わらず綺麗な絵里が相変わらずの笑顔で立っていた。
「しー。見つかるよ」
「絵里ちゃん…もう、なんで来なかったのよ…さびし、かったんだから」
さゆみの目から涙が溢れ出す。
しかしそれ以上に、身体を起こすだけでも辛そうで
痛々しい。
「ねえ、今日も、連れ出してくれるんでしょ…?」
- 55 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:04
-
絵里の瞳が寂しそうに笑う。
さゆみは不安になった。
でも
「いこう」
差し出された絵里の手を見て、さゆみは力ないながら
満面の笑顔になった。
さゆみは殆ど歩く事もできなくて
絵里の肩にずっとしがみ付いていた。
あたりは信じられないくらい真っ暗で
絵里ですら殆ど見えなかったくらいだから
さゆみにとっては目隠しをされてるのも同じだった。
どうやって歩いたかも分からなかった。
どうやって塀を越えたのかも。
ただ、絵里の肩に捕まって闇雲に歩いた。
そして、小さな教会に辿り付いた。
月が無い変わりに、教会の門灯が、不思議な明るさで輝いていた。
二人は教会の石段に腰掛けた。
さゆみは、絵里の肩に頭をあずけて、絵里を感じた。
意識は朦朧としていた。
- 56 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:05
-
突然さゆみがまた咽て、血を吐いた。
さゆみの肺から吐く血は、赤くて綺麗だった。
絵里はその血を腕に浴びながら、苦しそうなさゆみを支えて
胸をさすった。
暫くそうしているとさゆみの息が落ち着いてきた。
「あ…ごめん、ね…絵里ちゃん…血が、ついちゃった…」
絵里はさゆみを支えながら言った。
「ううん。さゆの血は綺麗だから平気だよ」
さゆみは弱弱しく笑った。
「私…もう、だめみたい…ごめんね…絵里ちゃん…おわかれ、だよ…」
絵里はさゆみを正面にして、その目を見据えた。
さゆみは、ドキリとして霞む視界の中に絵里の顔を見返した。
- 57 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:05
-
「さゆ。さゆはダメじゃないよ。絶対助かるんだから。
さゆはこんなに綺麗なんだから。さゆの血はこんなに真っ赤なんだから。
私と違って、こんなに、真っ赤なんだから。まだ、全然平気だよ。
ねえ、ダメなんて言わないで…。私が、助けてあげるから。ね?」
さゆみは今までに見たことが無いくらいに
はっきりと喋って、力強い絵里にびっくりした。
でも、絵里の目はどこまでも真剣で真っ直ぐで
さゆみは頷くしかできなかった。
「ねぇ、よく聞いて。さゆの病気はね、まだ全然死ぬくらい重くないの。
でもさゆが病気に勝とうって思わないと、このままなの。でもね、
私はもうどうせ長くないの。だからね…」
さゆみは目を見開いた。
絵里の突然の物言い。それは驚愕以外の何者でもなかった。
信じたく無かった。でも、絵里が一度だって嘘を言った事が無い事を
さゆみは知っていた。ましてこんなに真剣な目で。
「私がさゆのを貰う。いい…?」
- 58 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:06
-
直感で、それがいけないことだと感じた。
それは、永遠の別れを意味するのだと。
絵里はさゆみの肩を引き寄せた。
さゆみは厭々と首を振った。
でも、力が入らない。
絵里が顔を近づけた。
絵里は笑っていた。
心底から愛しそうに笑っていた。
さゆみの目から涙が溢れた。
絵里の唇が、さゆみの小さな唇に触れた。
目をきつく閉じる。身体からは力がどんどん抜けていく。
絵里の舌が、さゆみの唇を割る。
鉄の味が、お互いの口内に広がる。
強く、強く唇をあわせた。
まるでさゆみの中から悪魔を吸い出すみたいに。
- 59 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:07
-
唇が離れた時には、さゆみの視界は涙で殆ど見えなかった。
絵里は、まだ静かに眼を閉じていた。
やがて、絵里が、肺の中のすべての血を吐き出したのでないかと思うくらいに
大量の血を吐いて崩れ落ちた。
受け止めたさゆみの純白のドレスは教会の優しい光の下
真紅に染め上げられた。
絵里は静かに、息を引き取った。
さゆみは泣いた。
ありったけの涙を流して泣いた。
絵里を抱きしめて泣いた。
絵里は、とても穏やかな顔で、さゆみの胸に頬を預けていた。
天使のような姿で。
- 60 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:07
-
―――――――――――――――――
――――――――――――――
―――――――――
「おしまい、おしまい」
絵描きさんの言葉に、暫く忘れていた息をほっと吐いた。
「…悲しい話だね。それで、さゆみちゃんはどうなったの?」
「そのあと、不思議なことに肺の病気は綺麗になおったの。
それで、あとでバーでのお父さんの話を聞いたりして、
家がいやになって家を飛び出したってはなし」
「…そうなんだ」
- 61 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:08
-
さゆみちゃんは話している間も、こうして話し終えた今も
たんたんと絵を描いてる。
どんな絵かは見せてくれない。
物語の中のさゆみちゃんは、今目の前にいるさゆみちゃんなんだろうか。
ここは東京。物語はとても今の日本の話と思えないけど。
さゆみちゃんに見せてもらった絵は、なるほど物語りにぴったり。
雑然としてて、変な人が沢山いる。
でもみんなそっぽ向いてて、後姿。
不思議な街。
どこの街なんだろう。
そうしてるうち、空からぽつ、ぽつと雨粒が落ちてきた。
- 62 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:08
-
「雨だぁ…」
私が帽子の頭を抑えて空を見上げていると、さゆみちゃんがペンを置いた
。
「雨だから、続きはまた今度にしようか」
「え?」
言うが早いか、道具類をテキパキとしまいだした。
「また、ここに来てくれれば続き描きますよ。
そのときには、また別のお話もしてあげる」
さゆみちゃんは悪戯な笑みを浮かべると
綺麗に一式に纏まった絵描き道具と椅子をもってすたすたといってしまった。
それと同時に、たらいを返したような雨。
慌てて屋根をさがす。
そうしているうち、さゆみちゃんはどこかに消えてしまった。
次に会う時が楽しみ。
次はどんなお話を聞かせてくれるんだろう。
それに、どんな絵ができあがるんだろう。
私は雨の空を一瞥してから
又歩き出した。
- 63 名前:ハイカラはくち 投稿日:2004/03/12(金) 01:09
- 〈終わり〉
- 64 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/12(金) 01:12
- >>29
ありがとん。いーたんはエスパーです。
>>30
ありがとう。まだあと幾つか書く予定です。
>>31
ありがとう。そう言ってもらえるととても嬉しいです。
- 65 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/22(月) 16:57
- 感動の一言。
続き楽しみに待ってます。
- 66 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/14(金) 14:03
- 一千一秒の恋
- 67 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:04
- 憂鬱な雨がしとしとと降っていた。
透明なビニル傘を透かして遥か上を見上げると、何処までも憂鬱な
灰色の空がその足を濛々と垂れている。
れいなは右手に買い物袋を提げ、左手には傘をさして帰り道を歩いていた。
整備の悪いアスファルトの路はでこぼこと波うっていて、その凹所には
水溜りが点々とある。
畦道にふきだまった雑草が雨の雫を浴びてくたくたと萎えている。
れいな以外で人通りはない。
ただ脇の道路を突っ切る車の立てる水しぶきが、ばさばさと空気に雑ざるばかり。
雨音と水音と、雲の轟き。エンジン音。
騒がしい、だけど静かな帰り道。
- 68 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:05
-
れいなのちびたスポーツシューズが、ぱちゃ、ぱちゃと水を弾く。
その度にれいなの足先がじん、と冷えるのが分かる。
(そろそろ靴も買わなきゃ…)
茫洋とした空から目線を切って自分の足先に運ぶと、薄汚れて穴も開きそうなくらい
ひび割れた靴が見えた。
小さな溜息が漏れる。
ビニルの袋をもった右腕がだるくなってきたのでそれを左手に持ちかえる。
左手で傘と袋。今度は左手の負荷がぐんと増えるので
5分も歩かないうちに左腕もだるくなってしまった。
そんなことをしているうちに、れいなの肩は疲れに疲れて
持ち上げるのでも億劫なくらいになってしまった。
- 69 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:05
-
もともと小さなビニル傘。
それを、あっちやこっちやに動かすものだから、れいなの両肩はびしょ濡れになっている。
それに気がつくと、さっきまでの憂鬱に輪をかけてれいなは不機嫌になった。
独りで歩いている道すがら、誰に文句を言うわけにもいかないので
黙々と歩いてはいるけれど、れいなの顔はその秀麗さをだいなしにする仏頂面。
やっとの思いで駅に着いた時にはれいなの両肩はふらふらだった。
切符を買うために小銭を取り出すのでも思うようにいかないくらいで
身体はそれほど疲れていないれいなには、それがもどかしくて苛立った。
何とか改札を抜けた。
あとは電車を待って、それに乗って、家に帰るだけ。
あと一息の辛抱だが、その前につかのまの休息が得られる。
- 70 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:06
-
この駅は田舎の駅ではあるけれど、ラッシュ時にはそれなりの利用があるため
なかなかに広い。
ホームは6両分くらいもあるのだ。
でも、今の時間というのは全く利用者のいない時間帯なので
どうにも無駄にだだっ広い気がしてしまう。
ホームの両側にはニョッキと大きな屋根が聳えていて、暑い日には格好の日よけになるけれど
今日のように暗い日には、さらに薄暗くなって不気味な感じがする。
レールは登りと下りの2本で、その真ん中の上に少し空が覗ける隙間がある。
その隙間からぱらぱらと雨の粒が落ちていくのが、白い光の筋のなかにぼんやりと
浮かんでいる。
それが何だか大ホールの真ん中にある舞台のように映えていた。
静かなホームには、その屋根にあたる雨音がこだましている。
利用者は殆どいない。
ざっと見渡してみて、れいなの立っている側にはれいなしかいないし、反対側のホームには
奥の方の喫煙コーナーの辺りに身をちぢこめて煙草をふかしている老人が一人いる。
それだけだ。
- 71 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:06
- やっと一休みできると思ったれいなの心は幾分軽くなった。
でもそれもすぐに元に戻る。
腰を下ろそうと思ったホームのベンチが濡れていたのだ。
ずいぶん古くなったホームの屋根には向こうのひび割れた壁との間に隙間があって
そこから滴る水や、風で気ままに漂ってきた霧雨にさらされているベンチは
しとど濡れている。
これでは座って休むこともできない。
れいなはまたがっかりとして、静かなホームに佇んだ。
ホームの縁に立って傘を杖のように立てて、その上に両手を乗せて体重を預けてみる。
100円で買ったビニル傘はその細い骨をキシキシと言わせてしなり
抗議の声を上げるけど、れいなの耳にはまるで届かない。
せめて荷物を置こうにも、ねずみ色のホームの床はどこもかも濡れていて
とても降ろす気になれないのだ。
- 72 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:06
-
電車はなかなか来そうに無い。
このホームでは急行も止まらないし、場合によっては30分も待つこともあるのだ。
座って待っているならその何も無い時間はありがたい休憩にもなる。
でも座ることができないでは、ただ気だるい時間。
ぼんやりと待っていても、一向に駅に人が入って来る気配が無い。
雨はだんだんと細かくなって、線路の間の屋根の切れ間から舞い込む粒が
れいなの頬にも届いてきた。
- 73 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:07
-
不意に「カンカンカン」と遮断機が下りる音が聞こえてきた。
駅のすぐ脇にある踏み切りのそれ。
続いて
『一番乗り場を電車が通過します。黄色い線までお下がりください』
おなじみのアナウンス。
一番乗り場はこちら側。つまり、れいなのいるホームだ。
アナウンスはれいなの為だけに響いていた。
やがて向こうから轟々と大仰な音を立てて電車がやってきた。
そのあいだじゅう「カンカン」という音が鳴り響いていたので
いつの間にかそこには非常に騒がしい音があふれ出した。
電車はれいなの前を、知らん顔で通り過ぎていく。
ごうごうと音を出しながら、この緩やかな雨と、気だるい空気にそぐわない慌しさで。
次々と眼前に迫る車内には殆ど乗客もいないように見えた。
やがて最後の車両が通過すると、そのとたんにびゅんっと一際大きな風が吹いて
あたりに漂う雨粒を巻き上げ、れいなの黒髪を掻き乱して過ぎた。
すぐにまた静寂に戻る。
踏み切りの音は気づかないうちに止んでいたようだった。
雨音が、我を主張するように再び辺りを支配した。
- 74 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:07
-
れいなの足はいよいよ疲れてきた。
さすがに傘も悲鳴を上げだしたし、そうやって立っているのが辛くなってきた。
薄暗い、だだっ広いホームを一旦見渡す。
煙草のお爺さんは相変わらず煙草をふかしながらぼんやりと外を見ている。
れいなはとうとう自分に折れて、その場にしゃがみこんだ。
ジーンズの下が地面に着かないように気をつけて。
いったんしゃがみこんでしまうとなんともいえない開放感がある。
身体の疲れがどっとふきだして、なんだか体裁を繕っていた自分が
滑稽に思えてきた。
- 75 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:08
- 濡らすまいと意固地になっていた荷物も、どうせビニル袋じゃないか、と思うと
すんなりと濡れたコンクリートの上に投げ出せた。
立てていた傘も寝かせて地面に置く。
ずいぶんと楽になった。
視線が低くなった分、屋根が高くなる。
上から舞い落ちる霧雨も、より気ままにれいなの顔に降り注いだ。
お爺さんが向かいの離れからちらとれいなの方を瞥見して、また向きなおった。
或いはマナーの悪い娘だと思われたのかもしれない。
でもれいなには関係ない。
相変わらず空は暗い。
向かい側のホームに人が入ってきたのがわかった。
- 76 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:09
-
れいなと同じくらいの年か、もしかするともっと幼い少女。
膝丈までの空色のワンピース、その上に薄い白いパーカーを羽織っている。
れいなと同じような白いビニル傘から、まだ水滴が滴っている。
その少女が、やはりベンチに腰掛けようと見渡すのだけれども
向こう側のベンチも同じように濡れているらしくて、落ち着けるすべがなさそうだ。
れいなは、なんとは無い風でぼんやりと向かいホームの少女を見ていた。
キョロキョロと辺りを窺うさまがなんだか可笑しい。
- 77 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:09
-
真向かいに来たときふと、少女がこちらのホームのれいなの方を見た。
れいなと、少女の目がばっちりと出会った。
れいなの、よく斜視と揶揄かわれる目が、少女の円らな目に吸い込まれる。
雨は変わらずさぁさぁと滴って、れいなと少女の間に
乳色の帳を垂れ込めていた。
- 78 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:10
-
はたと、れいなは見られているのに気付いた。
濡れた駅のホームで荷物も投げ出して膝を抱えている状況。
あまり見栄えがするとは言いがたい。
そのことに気づくと、なんだか恥ずかしさがこみ上げてきた。
それで、照れ隠しにか、出会いっぱなしの少女の目に向かって、殆ど睨み付けているような
鋭い視線を送っていることに本人は気づいていない。
少女の視線はれいなより若干高いので見下ろす格好。
だのにどうしてか、見上げられているような妙なくすぐったさがあった。
- 79 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:11
- 少女がすっと膝を折った、かと思うと、れいなと同じようにしゃがみこんでしまった。
れいなは驚いて目を見張る。
それを見て取った少女の方はしてやったりな、それに照れ隠しの混じった笑みを
れいなに投げてきた。
笑った少女の頬にはぽっとえくぼが浮かんだ。
白い肌。それが真上から射す淡い光の下で陰って、美妙な憂いを見せている。
れいなの目が、いっとき少女に釘付けになった。
こそばいような恥ずかしさがれいなを襲う。
でも、相手のなんとも無邪気な笑顔を見てるうちに
れいなの頬も緩んできた。思わず、苦笑い。
- 80 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:11
-
なんとも不思議な光景だった。
薄暗い広いホーム。その真ん中あたりで、二人の可愛らしい少女がしゃがみこんでいる。
広い黒い線路の堀を間にして、向かい合って。
少女の目が何か話しかけるみたいに好奇な視線を寄せる。
れいなの方でも、それに応える。
どんな会話があるのかなんて誰にも分かりはしない。もちろん本人たちにしても同じ。
雨音と遠くから響く、何か分からない轟きとしか音は無い。
二人とも声を出そうとはしなかった。
目での会話の間、れいなは女の子のことをよく観察してみた。
もちろん、今までに出会った記憶などない。
年は、やっぱり自分と同じくらいだろうか。
長い睫と漆黒の瞳。手も足も白くてしなやかで、なんとはなしに艶っぽい。
でもその表情は無邪気で、子供っぽくて愛らしい。
- 81 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:12
-
相手が何を言っているのかも全然理解できないのだけれど
そのかわりこちらも言いたい放題に目で言ってみる。
なんだか分からないのがまた可笑しくて、お互いに笑った。
しゃがみこんだ少女のスカートの下が拍子に見えそうになったのを
れいなが手まねでからかってみせる。
初めて、お互いに言葉が通じた。
女の子は慌てて裾を抱きこんだ。
それから怒ったみたいに頬を膨らませてみせる。
そんな顔がまた可笑しくて大げさに笑って見せる。
二人はまるで無声映画のように一言も喋らなかった。一つも声を立てなかった。
音といえば古い映画フイルムのようなザーザー雨の音。
- 82 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:12
-
しゃがんで動くのは疲れるもので、お互いが身振りでじゃれた後には静かな見詰め合いが続いた。
二人、微動だにせずに、相手を見ているのか、何処を見ているのかも
分からないような曖昧な視線。
れいなの方では恥ずかしくてあまり見られたくないし、見ていたくないのだけれども
それと同時に、何時まででも見ていたいような、見られていたいような
名状しがたい心地よさがあった。
れいなの頬は心なしか火照っていた。
冷たい雨が頬に当たるたびにれいな自身にそれが分かる。
- 83 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:13
-
雨音の数だけ時間が進む。
その間じゅう、れいなは女の子を見つめていた。
じっとしている。
煙草のお爺さんは二人をわざと見ないみたいに、相変わらず他所をぼんやりと見ていた。
その手にはもう煙草は無い。
- 84 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:14
- また踏み切りの「カンカンカン」という音が響いてきた。
そして今度はあちら側の線路を、急行だか特急だかが通過する旨のアナウンスが響いた。
れいなと少女は二人して上を見上げた。
ややもせず、また轟々と音をたてて電車が入ってくる。
思う間にれいなと少女の間を切り裂くようになだれ込んできた。
れいなの視界から完全に少女が消えた。
ぶるぶると空気が震える。
ふと、この電車が過ぎきったあとに、少女は居ないんじゃないだろうか、と思った。
電車を待っているのだから、普通に考えればそんなことはないのだけれど。
無性に、寂しくなった。
もし、再び視界が拓けたとき誰も居なくて、ただ自分一人ぼっちで佇んでいたら…。
- 85 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:14
- どうしても少女に居て欲しい。また笑いかけて欲しかった。
雨の日の幻のように可憐な
名前も知らない少女。
れいなはそのとき、自分が少女に何かしら言い知れない好意を抱いていると実感した。
それを恋と呼ぶとすると、不思議にしっくりと来ることに戸惑った。
電車は数秒間目隠しをしてからあっという間に過ぎ去った。
再び静かになった。
はたして少女は、いた。分かりきっていたことだが、れいなには胸を撫で下ろす心地がした。
こちら側と同じであちら側は何も変わっていなかった。
お爺さんは相変わらず、向こうで立っていた。
- 86 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:15
-
少女は電車が過ぎたときに顔にしたたか浴びたらしい水滴に
眉をしかめて目を瞬かせていた。
それをみて、れいながまた笑った。その笑いに多分に
安堵が混ざっていたことをれいなだけが知っていた。
どうしても少女のことが好きだ。
そのときれいなは胸のうちにそう確信した。
そんなれいなを見て、また少女は照れくさそうに笑った。
ほんのりと頬を染めて。
相変わらず、吸い込むように大きな少女の瞳は綺麗だった。
れいなが目を凝らすと、少女の口元に小さなほくろがあるのが見えた。
その発見が、なんだかとても嬉しかった。
- 87 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:15
-
少し足が疲れてきた。
それでも腰を下につけるわけにはいかないので、そのまま我慢する。
なぜだか、立ち上がるのも嫌だった。
こうしてしゃがんで見詰め合っているという、変てこな状況が好もしかった。
しかし、随分と待っている。
もうそろそろ、電車が来てもいい時分ではないか。
そう思うとまた不安がれいなを襲った。
あちらが先か、こちらが先か、どちらにしても電車は来るのだ。
その事実が今更ながらに思い出されて
れいなは秘かに狼狽した。
- 88 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:15
-
二人の間は電車の幅の2本分とちょっと。
5、6メートルくらいだろうか。
その距離が、何だかとても遠い、遠い距離のように感じられた。
それはそうだろう。あちら側で乗る電車と、こちらの電車とでは
全く逆の方へ連れて行くのだから。
二人は実測以上に、とてつもなく隔たっていた。
彼女はいったい何処に行くのだろう。
自分のように、うちに帰るのだろうか。とするといったい何処に住んでいるのだろう…。
暫くまた見詰め合っていた。
その間、れいなの考えはだんだんに芳しくないモノに移っていた。
次第に焦燥が沸いてきた。
どうしようもなく、寂しくなった。
- 89 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:16
-
それが伝わったのか、はたまた彼女も同じことを考えていたのか
少女の表情は何処となく寂しそうに変わっていた。
れいなの顔もまた増し増しに翳ってくる。
声を出してみようかしら。何か話しかけてみてはどうだろう。
そんな考えがふと沸くのだけれども、それが何かをぶち壊してしまうみたいに思えて
どうしても実行に移せない。
そんな悶々とした考えが、焦りが、時間を早めてしまったのだろうか。
また踏み切りの遮断機の音が響いてきた。
次いで、れいなの乗るべき電車の到着を告げるアナウンスが響いた。
れいなの目は殆ど泣きそうなくらいになった。
そんな姿が、少女の目にはどんな風に映っただろうか。
幼い女の子がしゃくりあげる前、そんな顔。
- 90 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:17
-
そろそろ荷物を持たなければいけない、立ち上がらなくてはいけない。
それなのにどうしても立ち上がりたくない。
電車はさっきと違ってだんだんと減速しながらホームに入り込んできた。
れいなと少女との時間をじりじりと屠るように。
この電車が通り過ぎた時、まだ自分がここにしゃがんでいたとしたら
彼女はどう思うだろう、そんなことをぼんやりと考えた。
そうすれば何かしら、話しかけてくるかもしれない。
笑ってくれるかもしれない。
(でもじゃあ、それから彼女の方の電車が来たときにも、彼女は残るかしら?
そんなの…)
れいなと少女は電車が来るまで、むっつりと口を閉ざして見詰め合った。
れいなは泣きそうだし、少女の方でもなんだか判然としない変てこな顔をしている。
でも、いよいよ電車が二人の間に割り込んできた。
- 91 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:18
-
そのとき、確かに彼女は笑った。
れいなの目には、確かにそう見えた。
はっきりとした笑みではかった。
綺麗な笑みなのだけれども、れいなには憫笑のように見えた。
それから口元だけが微かに動いた。
少女が、言葉をついたのだ。
勢いよく電車がなだれ込む。
少女の姿が見えなくなった。
最後にその口元が「バイバイ」って言ったような気がした。
- 92 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:19
-
ふいと何だか自分が子供みたいで悔しくなる。
自分だけ彼女のことが好きになったみたいで、悔しくなる。
自分には、一言だって声をかけることが出来なかった。
それが何だか、無性に悔しくなった。
電車がどんどんスピードを緩めて、れいなの前に完全に止まる、その前に
れいなはビニル袋とビニル傘とを持って立ち上がった。
足と腰とがキクリと痛む。
どちらにしても、帰らなければいけないのだ。
雨が電車と屋根の隙間からサラサラと落ちていた。
- 93 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:19
-
気の抜けた音とともにドアーが開く。
何だか、泣きたくなった。
少女の笑顔が、どうしてもれいなの頭に張り付いて離れない。
電車に乗った。
がらがらの車内。
無機質な機械音とともにドアーが閉まった。
もう、会えないのだろうか。
たぶん、会えない。
電車が動き出すまで向こう側を見なかった。
あんまり未練たらしいと思われるのが嫌だったのかもしれない。
でもそんな意固地がやっぱり子供っぽかった。
- 94 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:20
-
動き出してから、ちらと見た窓は水滴に曇って殆ど見えなかった。
それでも彼女の姿がおぼろに目に飛び込んでくる。
少女はかわらずしゃがんでいて、下を向いていた。
お爺さんの姿が見えた。
女の子の方を横目で見ながら、また新たな煙草に火を点けているところだったが
大きな壁の陰になったその顔はなんだかさみしそうに見えた。
空は相も変わらず鼠色だった。
電車がスピードを上げて走り出す。
れいなは暖かいシートに深々と腰を下ろして、ゆっくり目を閉じた。
心地よい暖かさに保たれた車内には
静かな雨の音は聞こえてはこなかった。
- 95 名前:一千一秒の恋 投稿日:2004/05/14(金) 14:21
- 〈終わり〉
- 96 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/14(金) 14:22
- >>65
そんな言葉がもらえるとは思ってなかったです。カオマッカ。
- 97 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/14(水) 13:07
- 保全
- 98 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/12(木) 18:40
- 青い怪人
- 99 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:40
-
真夜中の青い怪人を知っている?
あついあつい夏の日が暮れると
青いマントに青いステッキ、青い目を光らせて夜から夜へ渡り歩く
奴は子供が大好きで、夜に子供を見つけると
どこかの国へ連れ去ってしまう
だから、夜に外に出ちゃだめだよ
青い怪人に攫われちゃうよ
この町の子供ならみんな知ってる
みんな、青い怪人が大好きでしょ?
- 100 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:41
-
あさ美の様子がおかしい。
小川麻琴は、どうしてもそのことが気になっていた。
夏休みを目前にして、気持ちもどこかしら弾む季節。
日差しは日に日にその威力を増して、カンカンと照りつける頃。
紺野あさ美は、普段からぼんやりとした女の子だった。
あまりあくせくと動き回ることを好まないで、あくまでマイペースを崩さない。
それでもあさ美は学校の勉強もよく出来るし、意外に運動神経もいい。
そして、とても芯が強い女の子でもあった。
あさ美はあまり積極的に人と話すタイプではなかったが
麻琴の前では、いつもよく笑ってよく喋った。
麻琴はそんなあさ美が大好きだった。
麻琴は親友として、あさ美のことを最も理解しているという自負があった。
だからこそ、最近のあさ美のおかしさにも誰よりも早く感づいた。
- 101 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:41
-
あさ美の変化は本当に小さなもの。
それは、普段よりぼんやりの回数が増えたという、ただそれだけのこと。
しかし、その中身には大きな違いがある。
今までのあさ美なら、そうしてぼーっとしている間の考え事といえば実に些細なことで
食べ物のことが大半を占めていたものだ。
それで、自分の中で考えが完結すると満足そうに笑って
「ごめん、なんだっけ?」と麻琴に問いかける。
麻琴がそんなあさ美に怒ったふりをして見せるやら、からかってみれば
あさ美は照れ笑いしながら「ごめんってば、ちょっと今日の夕ご飯何かなって」
そんな風に言い訳をするので、そんな小さな会話が笑いの種になった。
それが、最近のあさ美では、ぼんやりと考え事をする間も浮かない顔つき。
「あさ美ちゃん、ぼーっとしすぎ!」
麻琴がからかっても、「ごめん」の一言のあとは、なお上の空。
それが少し経つとはっとなってまた普段のあさ美に戻るものの
どこか心ここになくて、麻琴の目にはどうにもあさ美の所謂マイペースが
崩れているように見えるのだ。
- 102 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:41
-
それが夏休みに入ってからも続いて、毎日遊んでいた麻琴の目には
日増しにあさ美の様子のおかしさが顕著になっていきた。
夏休みも半ばを過ぎた日。
この日も麻琴はあさ美と連れ立って街に買い物に行った。
買い物をしているときのあさ美はいつもの彼女で、どくとくのテンションと間とが
麻琴を引き回して、あさ美に負けないのんびりや麻琴もすっかりくたくたになる。
二人にとって一番楽しい時間があっという間に流れ落ちた。
その帰り道、あさ美達が生まれる数年前に出来たという新興住宅街の
夏の夕日に赤く照らされたひび割れたアスファルトと、作為的な不整合の
朱色の家々の塀の間を二人はぶらぶらと歩いていた。
一日楽しんだ反動からどっと押し寄せた疲れを
やや弱まった、それにしても暑い暑い日差しにゆるゆると溶かしながら
二人はのんびりと帰り道を歩く。
- 103 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:42
-
麻琴はあさ美を観察していたここ数週間のうちにあることに気づいた。
それは、例のおかしなあさ美になる時間帯、それが夜が近づくにつれて
多くなるということ。
それが、ここ数日では特に顕著で、夏の長い日が落ちて
街がだんだん暗くなるにつれ決まってあさ美は消沈したように思い耽ってしまう。
それが、いよいよ明らかで、麻琴は本当にあさ美のことが心配になった。
帰り道の途中に、小さな児童公園に差し掛かった。
遊具といっては滑り台とブランコ、それしかない、本当に小さな児童公園。
それでも二人にとっては幼い日々を過ごした思い出の場所。
麻琴が目で、少し寄っていこうと合図をするとあさ美はただぼんやりして
麻琴の後についてくる。
お日様は遠い地平線の下にもう殆ど沈んでいるが
そらはまだまだ赤く、空気は依然としてむんむんと蒸し暑い。
それでも二人がブランコに腰掛けた時分には、大きな楠の影が二人を覆って
それにどこかから小さな風が吹いて、とても心地よい場所になっていた。
「ねぇ、あさ美ちゃん」
暫くブランコを漕いでいた麻琴が声を発する。
- 104 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:42
-
「なに?」
あさ美はゆらゆらと心許ない首を麻琴に向けて応えた。
「そろそろ、教えてくれないかな…?
ここのところあさ美ちゃん、ずっと変だよ?
自分でも、わかってるよね?」
「うん…」
あさ美はまたゆらゆらと揺れながら俯いてしまいまう。
「何か悩み事があるんだったら、私でよければ言って欲しいな…
なんか凄く心配で…。ほら、一応、親友、でしょ、私」
あさ美の打ち沈んだ姿を見るうち、麻琴の不安は募った。
夕焼けの影はじりじりと伸びて、段々とその色を霞めてゆく。
- 105 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:42
-
「ごめんね…まこっちゃん…。
あのね、話すから。ちょっと、変な話だけど、笑わないで?」
あさ美がふいに顔をあげ、おずおずと声を発した。
「笑うわけないじゃん」
麻琴はようやっとあさ美が口を開いてくれたことに些かの安堵を覚えながら
なるたけ優しい口調でいう。
あさ美は、一度考え込んでから、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
――青い怪人…知ってるよね?――
――私、青い怪人に会ったの…――
- 106 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:43
-
学習塾からの帰り。
分からないところを先生に聞いていていつもよりも遅くなったので
バスに間に合わず、仕方なく歩いて帰ることにした。
そんな夏の夜道に、見上げればぽっかりと青いお月様が浮かんでいた。
街路樹の袂や、塀の向こう側の人家の庭から微かに虫の音が響いてくる。
静かな夜。
小さい頃よく遊んだ近所の公園に差し掛かって足を止めた。
広くもなく狭くも無い、ただ幼かったあさ美たちにはこれ以上無い素敵な空間だったそこは、
今では遊ぶ子供も少なく、昼間でもガランとしていることが多い。
街灯に照らされて淡く浮かび上がったベンチやブランコ、
そのすべてに彼女達のかけがえの無い思い出が詰まっている。
一歩踏み込めば、まるで歓迎されるかのように夏の虫達の声が高まった。
青々と茂った足元の雑草の間から見える粗い公園特有の砂の感触は
忘れていた感覚をよみがえらせてくれる。
- 107 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:43
-
幻想的に浮かび上がったベンチに腰掛けると
まるで映画のヒロインのような気分。
ぼんやりと頭上を見上げると、こうこうと光りながら虫達をはべらせる電灯と
それに負けじと絶対的な美しさを放つ青い月とが静かな角逐を繰り広げていた。
星の無い夜だった。
空を見上げていた間、ふと暖かい風が足元をなでた。
黒い影―――
それが帽子だとわかるのにさしたる時間はかからなかった。
ただ意識は、なぜこんな所にこんなものが、ということに移った。
背筋を一瞬冷たいものがよぎる。
しかしそれは本当に一瞬で、すぐに別の、もっと大きな驚きに埋もれることになった。
- 108 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:44
-
「わぁ、ごめんごめん」
それは、虫達が歌う静かな月夜によくとおる声だった―――
帽子を拾い上げようとしていた所に
突然の人の声を聞いて、さすがに心臓が飛び上がるくらいに驚いた。
声の主は優雅な動作で近づいてきて、
やがてこのベンチの街灯の光の届くところまできた。
鼻筋の通った端正な顔立ち。
街灯の光を受けて遠慮がちに青光りするマント。
嫌味の無い青いスーツを纏って、
やはり青い、いささか時代遅れな「J」の字のステッキをコツンと突く。
全身の神経が瞬時に緊張した。
そのいでたちはすぐに脳裏に『青い怪人』を思い起こさせたから。
目は見開き口はパクパクと開閉する。
しかし手が勝手に、拾い上げた帽子を差し出していた。
「ありがとう」
ふわりと笑ってそれを受け取るその人をみて、
すぐにあまりに馬鹿馬鹿しい考えを自嘲する。
- 109 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:44
-
そうだ、『真夜中の青い怪人』なんてただの作り話じゃないか。
呆れながら、少しだけ言い聞かせるように反芻すると、
「いえ」
と、ぎこちないながらも言葉を返した。
『青い怪人』でないにしても、この時間にこんな所でこんな格好をしている目の前の人物が
怪しい人であることにかわりはないのだ。
「となり、いいかな?」
「あ、はい」
それでもなぜかそう答えてしまったのは
その美しい容姿であったり、どこか人を寄せ付ける空気が、
思考を超えてうったえかけるからだ。
そう、不思議な感覚だった。
深夜の公園のベンチでこんな会話普通はありえない。
どっこいしょ、と
年より臭い声とともに隣に腰掛けるその人。
その時初めて、後ろにくくっている長い髪や、ほんの少し丸みを帯びた肩のラインを捉えて
「その人」が女性だということを知った。
そのことにさして持てないでいた警戒心はさらに薄れる。
- 110 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:45
-
「ねえ、君はどうしてこんな時間にここにいるの?」
彼女が静かな、柔らかい声で言った。
「塾の帰りなんですけど…その、この公園が懐かしくて…」
自分でも驚くほどに、言葉が自然に口をつく。
となりの人物はあさ美の言葉をきいて、そうなんだ、と満足そうに笑った。
あさ美は遠慮がちに、その姿を観察してみた。
シルクハットは脇に置いて、ステッキで何かの音楽を奏ででもするように
地面をコツコツとついている。
ふと、目が合って、また綺麗な笑みを投げかけられたあさ美は
薄明かりにほんのりと頬を染めて俯いた。
「あの…あなたは?」
動揺して口走った言葉が、我ながら変な台詞だと思ったが
彼女が怪しい人物には変わりないことをまた直ぐ思い返す。
マント、ステッキ、シルクハット、こんないでたちは実際には
そうそうお目にかかる姿ではない。
先刻からあさ美の俯いた横顔をじっと見ていた彼女は
またクスリと笑った。
- 111 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:45
-
「知ってるでしょ?」
あさ美の心臓がまたドキリと跳ね上がる。
『青い怪人』
彼女が言うことと、あさ美のイメージとがピタリと重なった。
「青い…怪人…?」
顔を少し上げて覗ったあさ美の目を、彼女は真っ直ぐに見ていた。
薄い黒雲が一旦月を覆って、過ぎた。
沈黙が流れ、辺りの虫の声が一際大きく響く。
あさ美の心音は、しだいしだいと高まっていった。
暫くして、じっとあさ美を見据えていた彼女が
フッと噴出した。
「アハハハ。そんな訳無いっしょ。
この格好は仕事用。あたしも君と一緒だよ。
ここが懐かしくって、つい寄っちゃっただけ」
破れた沈黙と、彼女の現実的な言葉を聞いて
あさ美の鼓動も一時収まる。
しかしまだ何処か不可解な思いがあった。
そもそも、そんな格好でいったい何の仕事をしているというのか…。
「あたしの名前は後藤真希。この町生まれのこの町育ち。
君は?」
- 112 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:45
-
真希は尚も可笑しそうに微笑しつつ尋ねた。
「紺野、あさ美です…。えっと、私もこの町生まれの…」
真希は、今度は声をあげて笑った。
あさ美の緊張はいつしか大分ほぐれていた。
真希の言葉、仕草ににはいちいち端々に魅力的な何かがある。
「この町、好きでねぇ。
大分子供も減っちゃって、何だか寂しくなったけどね」
「私もこの町、好きです」
真希は嬉しそうに頷いた。
- 113 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:46
-
二人は、僅かな時間で不思議なほど打ち解けていた。
少なくともあさ美にはそう思えた。
真希は親しみやすく饒舌で、共通の思い出もないはずの二人の会話は
この町の思い出話のうちに盛り上がった。
真希はこの町でおこったことを驚くほどよく知っていたし
覚えていた。
「後藤さんはどんなお仕事をしてるんですか?」
いつしか始めに持っていた警戒心を完全に解いて
真希に対して大きな好意を抱いていたあさ美は
予てより聴きたかったことを尋ねた。
「人攫い」
「もう、からかわないでくださいよ…」
笑いながら言う真希に、あさ美も苦笑交じりに言い返す。
「んー、じゃあ、秘密ってことで」
月明かりに映える美しい笑みで、真希は悪戯っぽく言った。
- 114 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:46
-
「そんな変な格好の仕事なんて…」
「あ、変って言ったな」
「だって、変ですよ。 デパートのショーだって
そんな格好の人見ませんもん」
しかし、それが不思議と似合っていると感じたことは口には出さない。
真希はまた不適に笑ってみせた。
「さてと、もうこんな時間か」
不意に言って真希が立ち上がる。
あさ美は狼狽した。
真希との時間が、何かしら永遠に続くかのような錯覚を持っていた。
真希は時計をしてる風でも無かったし、公園にも時計はない。
一体何を見てそういったのかわからなかった。
「紺野はもう帰りなよ。中学生でしょ?
子供がこんな時間まで外にいちゃ、家族が心配するよ」
- 115 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:47
-
月と街灯を背にして影になった真希の顔は恐ろしいほど綺麗だった。
あさ美は、何だかよくわからない、非常な寂しさに襲われた。
真希の笑顔をもっと見ていたいと感じる。
真希の声を、ずっと聞いていたいと思う。
この町を愛しているという真希が、あさ美にはこの僅かな時間で
とても近しい、安心する存在となっていた。
「子供じゃ、無いです…」
実際にはあまり遅くなりすぎると家族が心配する。
そんなことも判っていたが、なんとか真希を引き止めたい気持ちが
そしてまるで子ども扱いにされたことに対する些細な憤りが
あさ美に小さな声を出させた。
真希は小さなため息に似た笑みを零した後
その手をあさ美の頭にのせて、ぽんぽんと撫でた。
「子供だよ」
続けて真希が口の中で何か呟いた声はあさ美には聞き取れなかった。
「また会うよ。同じ町にいるんだから、ね?」
- 116 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:47
-
真希が立ち上がろうとしないあさ美を諭すように言う。
あさ美はぱっと頭を上げて、また真希の顔を見た。
「あの、後藤さんは、本当は何のお仕事してるんですか…?」
真希は応えず、シルクハットを手にとって
すっと目を細めた。
「じゃあ、あたしは行くね」
「あ、あの…」
歩みだそうとする真希に、あさ美は慌てて腰を浮かし
声をかける。
真希はそのまま歩き出すと、数歩歩いたところでふっと振り返った。
そして、目を細めたままで、愛しそうに数瞬あさ美を見つめて言った。
「じゃあ、次に夜君を見つけたら」
あさ美は、真希の言葉を真っ直ぐに聞いた。
その目が、青い月の光を受けてほんの少しだけ青く輝いたように見えた。
「今度は君を攫いに来るよ」
- 117 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:47
-
―――――――――――――――――
――――――――――――
- 118 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:48
-
あさ美の話を聞き終えて麻琴はつと黙り込んでしまった。
『真夜中の青い怪人』もちろん麻琴もその話は、幼少から親しんだもの。
しかし、もちろん作り話に違いないと疑いは無かったし
話の人物にしても、ただの怪しい人に違いないと思える。
あさ美にしても半分まではまだそう思っていた。
しかし、あとの半分に、どこかに『青い怪人』を信じる気持ちがあった。
そんなあさ美の、思いつめた眼差しをみては、麻琴も、その話を
一笑に付すことはとてもできない。
二人は二人とも、作り話を盲目的に信じるほど幼くはなかったが
ありえないことだと笑い飛ばせるほどに大人でもなかった。
麻琴は無理やり、現実的な思考に移し変えようと努力した。
あさ美が嘘を言っているわけではないはず。
誰かと夜の公園で会ったのは事実なのだ。
そして「攫いに来る」と言われたとしたら、それは誘拐予告ではないのか。
しかし、あさ美の思いつめていることはそんなことではないのは
明らかだった。
- 119 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:48
-
話し終えて俯くあさ美の、既に日が沈み果せた夜の闇に浮き上がった
ほの白い横顔を見ているうちに、麻琴の心に確信めいたものが浮かんできた。
あさ美は、もう一度その人に会いたいと思っている。
もし、『青い怪人』ならば、攫われてしまう。
その恐怖と、他の何かの感情が引き合っている。
それが、ここ数日のあさ美のおかしさの正体だった。
「あさ美ちゃんは…」
長い沈黙の後でやっと麻琴が口を開いた。
「それから、その人には会ったの?」
あさ美は黙って首を振る。
「会おうとした…?」
あさ美はやや逡巡した後、小さな小さな声で呟いた。
「一度だけ…」
夏休みに入ってから一度、理由をつけて夜に外出を許可してもらい
前と同じ公園のベンチで待っていたことがあった。
恐怖が、会いたいという気持ちに一層不可思議甘さを加え
時計の針が、0時に近づくまでそうして其処で待っていた。
しかし、とうとう真希は現れなかった。
その後あさ美は両親にこっぴどく叱られ、それ以降夜の外出の機会は
巡ってこなかった。
- 120 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:49
-
夏休みのうちで、夜の外出が許される機会といっては
あと一度きりしかない。
それは、夏祭りの日だった。
この町では毎年お盆の時期に町の中心のショッピングモールと
その周辺を利用した夏祭りがある。
その夏祭りは、毎年あさ美と麻琴が連れ立っていくことが恒例となっており
親もそれに対しては咎める理由は全く無かった。
日はもう落ちてしまっている。
また、あさ美が怒られてはまずいと
二人は家路につくことにした。
歩きながら麻琴が問いかける。
「会いたいの…?」
「わからない…」
「もし…」
麻琴は少し語気を強めて言った。
「もし、本当にそれが青い怪人なら、攫われちゃうんだよ?
ううん、そうでなくても、その人はあさ美ちゃんを攫いに来るかもしれない」
- 121 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:49
-
「うん…」
あさ美の返事は力なく、どうにも要領を得ない。
麻琴は、今の不安定なあさ美がひどく儚げに見え
その「青い怪人」だという人物に並々ならない敵意を覚えた。
それとともに、あさ美を守りたいと強く感じる。
青い怪人だとすれば、夏にしか現れない。そういう約束だ。
夏休みを無事過ぎれば、また元のあさ美が返ってくる、そう考えた。
「夏祭り、やめとく?」
麻琴の言葉に、あさ美はびっくりしたように顔を上げた。
「えっ!? どうして…?」
「だって、もしかしたら…危ないかもしれないじゃん…」
「そんな…行こうよ、お祭り。毎年の楽しみじゃん。ほら
まこっちゃんも『夏祭り行かないと夏休みって気がしない』って言ってたじゃん…」
「そうだけど…」
麻琴は急に声高になったあさ美に押されて弱く呟いた。
そして、そんなあさ美に更に不安は募る。
- 122 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:50
-
「じゃあ、行くけど…。絶対一緒にいようね?
ずっと、離れちゃだめだからね?」
「うん…」
そのまま、二人は帰途への分かれ道で別れた。
麻琴は、不安を裏に回し、あさ美を怪人から守ろうという
どこかヒーローめいた空想を逞しくし、自分を鼓舞して
眠りについた。
大丈夫、青い怪人なんていやしない…
でも、もし…
床につくと、不安ばかりが過ぎる。
それは麻琴も、あさ美にしても同じだった。
不安な数日は徐々に進み、とうとう夏祭りの日がやってきた。
この日、朝から強かった日差しは、昼には茹だるような猛暑となる。
麻琴とあさ美は、それぞれの不安を胸中に置きながらも
年に一度の、そして毎年の恒例のこの行事を心待ちにしていた。
- 123 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:50
-
少し日差しが弱まった夕刻に、あさ美は麻琴の家を訪ねた。
そして、二人連れ立って祭りの会場へ向かう。
二人は競って何を食べるかについて熱く語りながら
想像を膨らませて楽しんだ。
祭りの前ほどに気持ちが弾む時間は無い。
昼から既に祭り会場は人でごった返していた。
会場に着いた二人はしっかりと手を握って
あっちでも無い、こっちでも無いと食べ物を探し歩く。
たこ焼きにわたあめ、りんご飴、やきそばにとうもろこし――
祭りの定番メニューを、二人勢いよく食していく。
普段から食いしん坊な二人は、そろそろ年頃になって
体系のことを気にしだしたりしていた。
それで、なるたけ控えるようにと心がけていたのだが、祭りの時だけは特別。
そんな制約は一切取り払って、好きなだけ楽しめるのが祭りなのだ。
- 124 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:50
-
人の数は夜に向かってどんどんと増える。
ともすれば逸れそうになるのを、放すまいと二人の手はしっかりと繋がれていた。
日が落ちて、辺りが暗がりに包まれると、いくつも吊るされた提灯に明かりが灯され
いよいよ本格的な祭りの様相が出てくる。
広場の中央に組まれたやぐらからは祭囃子が響き
その周りを盆踊りが回っている。
あさ美と麻琴は、石段に並んで腰掛、暫しの休息についた。
「食べたねー」
麻琴が笑いながら言うと
「まだまだ、食べるよー」
あさ美も負けない笑顔で返す。
「あたしも食べるけどね!」
「それでこそまこっちゃん!」
二人は声を挙げて笑った。
- 125 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:51
-
一通り笑い終えた後には、またすっと気が落ち着く瞬間がある。
二人は同時に黙りこくった。
祭囃子やざわめきが遠くに聞こえる。
二人は、その瞬間、それぞれ同じことを思い出していた。
麻琴は、お祭りの気分と、楽しさから今まで忘れていた。
あさ美は、時々ふと思い出す瞬間があっても、それを表さないように気をつけていた。
先に沈黙を嫌ったのは、あさ美だった。
「今日、花火打ち上げるらしいよ」
「へぇ、どうせしょっぼいやつでしょ?」
「ううん、ちゃんとしたやつだって。ほら、脇に
ちょっと大きな公園あるじゃない、そこで」
「うひょー、それは楽しみだねぇ」
「うん」
二人はまた、夜店の中に潜りこんだ。
- 126 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:51
- かき氷にソース煎餅、フランクフルトにじゃがバター…
二人して本当にもうお腹いっぱいというころには
そろそろ花火の時間が近づいていた。
再び二人、さっきの石段へと腰をおろす。
花火が上がり始める時刻は8時半。
既にその時刻は回っている。
どうやら少し予定より遅れているようだった。
一日歩き回って疲れ、お腹も膨れて休む二人を
夏の夜独特の熱気と、溢れ返る人の放つ熱気とが包んだ。
「ねえ、まこっちゃん」
あさ美がぽつりと呟く。
「私たちって、こどもかなぁ…?」
麻琴は返事に窮して黙った。
- 127 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:52
- 一概にそうだとも言いたくない。
しかし、もう大人かと聞かれればそんなことはない。
「大人と子供の区別ってさ、なんだろうね…」
麻琴は思う。
こうして夜に怯え、夜に憧れるから私たちは子供なんだろうか。
大人になれば、夜はただ来て過ぎる、時間の流れの一つになるのだろうか。
大人になれば、悩まないのだろうか。
あさ美は思う。
こうして、ずっと友人の手を握っていないと、いつでも夜の誘惑に
飲み込まれそうな自分がいる。
自分で自分のことが、まるでわからない、ふらふらと揺れ惑う自分がいる。
大人になれば、それが全部わかってしまうのだろうか…。
何も、悩むことも、惑うことも無くなってしまうのだろうか…。
世界と私自信とが、まったく切り離された存在になる。
私は、果たして大人になりたいのだろうか…。
長い沈黙が続いた。
今度はその沈黙を、麻琴が先に嫌う。
- 128 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:53
-
「あさ美ちゃんは、もう身体はオトナだけどね!」
おどけてあさ美の胸を小突くと
期待通りにあさ美は膨れて麻琴を殴るフリをした。
そのとき、ヒュー、と細長く夜空に音が響いた。
二人がぱっとそちらに顔を向けると、その瞬間に、ドン、と
真っ黒な天幕の上に大輪の華が咲く。
「うわぁ、花火だぁ!」
せわしなく蠢いていた人々の群れも、一瞬水を打ったように静まり
夜空に咲いた花火を見上げた。
また、次の花火が打ち上げられる。
赤、青、緑…鮮やかな花が次々と夜空に咲いた。
人々が歓声と拍手を送る。
麻琴は、回りの人達と同じように、
ただただ、圧倒的な美しさを誇示する花火に見惚れていた。
さながら舞台の上で舞い踊る少女のように
天空に、花火は気持ちよく広がり、散って、直ぐに消える。
一瞬の煌き。
雄大で鷹揚で、そして脆弱な…。
麻琴は何故かそれが、あさ美のようだと思った。
- 129 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:53
-
ふと、隣を見た。
あさ美が、いない。
麻琴に何も告げずに、どこに立ったのか。
麻琴は急激に背筋の冷えるのを感じた。
勢いよく立ち上がって辺りを見回す。
やっぱり、いない。
不安が、あさ美の話を聞いてから、消えることの無かった不安が
今ハッキリと冷酷に麻琴の胸を穿つ。
「あさ美ちゃん!」
叫ぶ。返事はない。
人はみな、立ち止まって花火を見ている。
麻琴のこめかみを、幾筋も冷たい汗が伝う。
駆け出し、人の波を掻き分け、あさ美の名を叫ぶ。
視界の中に、ふと青い帽子が目に入った。
- 130 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:54
-
どこにあるのかわからない。
人並みの間に、チラと見えたような気もするし、全然別の方向にあったような気もする。
麻琴は、また人の波を掻き分け、自分の目を信じて
闇雲に探した。
また、今度は青い帽子に青いマント、青いステッキ――
間違いない、「青い怪人」――
人々の輪郭がぼやける。
麻琴は、確かにこの目で捕らえた、青い怪人をのみ追い求めて、
ずんずんと人並みを掻いた。
どこまで行っても青い怪人に追いつけない。
青い怪人が振り返る。
帽子の下から覗く青い眼。
美しい顔立ちの女性。
その気障なマントで覆うようにして抱きしめているのは――あさ美だ。
あさ美は、不安げな、それでもどこか恍惚とした
幸福の表情を浮かべて、怪人の胸に縋り付いている。
麻琴が思わず声を張り上げる。
「あさ美ちゃん!!」
- 131 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:55
-
あさ美が、その声に気づき、麻琴とあさ美の視線があった。
あさ美の目が、不安げに揺れる。
怪人はそんなあさ美を一層強く抱き寄せると
麻琴の方に、悪戯な笑みを投げ放った。
もう一度、麻琴が叫んだのと、
夜空に一際大きな轟音が響き渡るのとは同時だった。
背にして見えない麻琴の代わりに、群集がわっと沸き立ち、惜しみない拍手を送り
そして麻琴の声は、掻き消された。
視界にはもう、誰もいなかった。
「真夜中の青い怪人」も、あさ美も……
ざわめきだけが、いつまでもいつまでも、辺りに木霊していた――
- 132 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:56
-
あさ美はその日から行方不明になった。
殆ど口も利けないショックの内にあった麻琴が
恐る恐る口に出した「後藤真希」という名前を元に
警察を動員し捜索をしたが、そんな人物は
この町のどこにも居はしなかった。
麻琴だけが知っていた。
オトナ達には、知る術も無かった。
あさ美は、青い怪人に見初められ
つれ去られた―――
何年経っても、あさ美はとうとう帰ってはこなかった。
麻琴はいつまでも、夏になるとあさ美を思い出す。
しかし、次第に、どうしてあさ美がいなくなったのか
わからなくなった。
家出をしたのだったろうか、それとも事故にあったのだろうか…
緩やかな子供時代の思い出に乗せて時々思い出しては、
何故か分らない、締め付けられるような胸の痛みを覚えるのだった。
- 133 名前:青い怪人 投稿日:2004/08/12(木) 18:57
- 〈終わり〉
- 134 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/01(水) 21:00
- すごいよかった。
子供の頃に感じた夏祭りの夜の妖しい熱気とか思い出した。
他の話も全部好き。短編なのに世界の広がりが感じられて素晴らしい。
新作待ってます。
- 135 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/26(日) 01:55
- 「青い怪人」ものすごく好きでした。
茫洋とした世界観が最高です。
「一千一秒の恋」の静寂も大好きです。
ふたつとも自分の中の理想の短編になりました。
マターリと新作がんばってください。
- 136 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/16(火) 22:41
- 木犀
- 137 名前:木犀〜1.月の光〜 投稿日:2004/11/16(火) 22:42
- 月の光が照っていた。
寥々として照っていた。
さゆみはどうしても表へ出たくなった。
犬は寝ぼけて付き合ってはくれぬ。
さゆみは一人表へ出た。
月の光が照っていた。
寒々として照っていた。
草叢に出でて耳を澄ますとにぎやかであった。
一と雨の後の草叢は仄かに青く照らされて
いつか見たような光の気がした。
ハアモニカを片手にしてきたはいいが
さゆみには弾けない代物であった。
それでも原っぱは賑やかであった。
夜も更けに更け、深々としていたが
それでも原っぱは賑やかであった。
昔ここで戦争があったのよと誰かが言った。
なるほどそれで賑やかなのかとさゆみは思った。
- 138 名前:木犀〜1.月の光〜 投稿日:2004/11/16(火) 22:43
-
既に散った銀木犀の微かに放つ匂いに雑じって
月の光のおもしろい匂いがする。
月の光の銀色が錆びたなら、きっとこんな匂いであろう、
さゆみはそう思う。
さゆみが草叢に腰を下ろすと
上品なされこうべがひょっこり出てきて挨拶をして
また草叢に隠れてしまった。
さゆみは彼を、見もしない弟だと思った。
ハアモニカを鳴らしてみた。
もう一度鳴らしてみた。
風が微かに棚引いて、さゆみの頬を白く刷いた。
辺りは深々として、賑やかであった。
月の光が照っていた。
月の光が照っていた。
- 139 名前:木犀〜2.壁の向こう〜 投稿日:2004/11/16(火) 22:44
- れいなは幼い頃から壁の通りを散歩していた。
壁は高く高く、その壁の上に緑色の葉のいつも茂った木が
脈々とあった。
それが毎年秋になると橙色の花をつけ
子供心を引く甘い甘い匂いを放った。
その時期だけは灰色のザリザリした壁の下に
オレンジの花絨毯が並んだ。
れいなは其処を歩くのが好きだった。
れいなは壁の向こうに行きたいと思った。
壁の向こうにはきっと素晴らしい楽園があるに違いない。
昔お母さんが、お父さんは壁の向こうにいると言っていた。
それでれいなはその考えを強めた。
一度秋にその壁を攀じ登ってみたら、鋭い棘に手を怪我して
真っ逆さまに落ちてしまった。
お母さんはカンカンに怒って、二度と攀じ登ってはダメと言った。
れいなは血の滲む手のひらを見ながら、
どうすれば壁の向こうへ行けるのか、そればかり考えていた。
- 140 名前:木犀〜2.壁の向こう〜 投稿日:2004/11/16(火) 22:44
-
少し大きくなると、秋に甘い香りの放つその大きな木々が
金木犀ということを知った。
もう少し大きくなると、金木犀にどうやら薔薇のように
棘があるのでは無いことを知った。
十五歳を迎えた今、れいなは壁の向こうが監獄であると知っている。
監獄とは『悪いことをした人』を閉じ込める場所であると知っている。
それでもどこかで、其処は素晴らしいところののような気がする。
オレンジの花絨毯も風に吹き流された寒い日に
いつものように散歩をしながら
れいなは知らないお父さんの顔を思う。
また一年、花は咲かない。
それは少し、寂しい気がする。
- 141 名前:木犀〜3.校庭の隅に〜 投稿日:2004/11/16(火) 22:45
- 雨がどうどうと流れる校庭を
絵里はぼんやりと眺めていた。
中学生活で最後の体育祭はとうとう雨で流れてしまった。
雨は勢いよく降る、降る、降る。
校庭にも、学校の向こうの家々の屋根にも。
クラスメイトはめいめいに
薄暗い蛍光灯の照っている教室で楽しそうにしている。
校庭の端に行儀よく植え並べられた柊木犀が
そろそろ白い花を付け始めていたのを思い出した。
絵里は傘を持ち出して、どうどうと降る雨の中
校庭へ駆け出した。
校庭には川のように泥水が、水溜りから水溜りへ
さらさらと流れていた。
柊木犀の蒼い葉は、知らん顔をして雨を弾き返していた。
白い花は、知らん顔をしてもう直ぐ咲きそうだった。
その気丈な、刺々しい葉っぱの一枚一枚に
絵里はなんだか寂しくなった。
- 142 名前:木犀〜3.校庭の隅に〜 投稿日:2004/11/16(火) 22:45
-
冬の前にこの控えめな、気丈な花が校庭の隅いっぱいに咲くのを
知っている生徒はいなかった。
みんなこのおとなしい甘い香りを知らなかった。
野球部の生徒たちも、ボールを取り落として茂みに飛び込ませ
一度に散ってしまう白い花と
ボールを捜すたびに肌を引っかく忌々しい葉のある
この木の名前を知らなかった。
絵里はなんだか寂しくなった。
去年も一昨年も、この木の下で体育祭の昼、汗を引き引き
食べるお弁当が楽しみだった。
最後の体育祭は、とうとう雨で流れてしまった。
雨はどうどうと降り続けている。
- 143 名前:木犀 投稿日:2004/11/16(火) 22:46
- 〈終わり〉
- 144 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/16(火) 22:51
- >>134
ありがとん。夏は熱いですねー。
>>135
ありがとー。照れるっす。
- 145 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/28(日) 10:17
- 三人それぞれにふさわしい話が綺麗にまとまっててよかったー
- 146 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/20(月) 12:27
- 廻れ、世界に
- 147 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:28
-
寒い季節が来ると街ではつとに賑やかになるものだが
あながちそれは空元気というわけでもない。
なにもかもが凍てるような冬の冷たさは
それだからこそ、一廉の暖かさを思い起こさせてくれるのではあるまいか。
とまれ、この季節街にいる人たちの間には何かしら
幸せそうな趣があった。
真希も、この季節は好きだった。
彼女自身にこの季節に対する特別な想いがあるわけではない。
ただ、真希の働いているケーキ屋の客足が
暖かい季節よりも格段伸びるというだけに過ぎない。
別に彼女の収入には変わりはないが
彼女はケーキ屋の店先で客と相対するのが好きだった。
- 148 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:28
-
一見して無愛想な彼女がそんな風に思っていることを
同僚や店長でさえ知らなかったが。
この季節、真希の店にケーキを買いに来る客たちは
一様に何か、誰かの仕合せそうな顔を思い浮かべているような
感じがあった。
それを満面にしている人もあれば、照れ隠しにか仏頂面で
ケーキを買っていく人もあった。
真希にしてみれば、そのどちらも仕合せそうであった。
仕合せそうな人を見るにつけ、自身にもそれが感じられるのは
別におかしなことではない。
殊、真希にはわが身に関してなにも、思いいれるものの
無い体であったので、いっそう人に敏感であったのかもしれない。
- 149 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:29
-
12月も半ばを過ぎ、舶来の祭りも直前に迫ったこの日は
寒さが一際凛冽を窮め、しかも重い鉛色の雲が空を覆っていた。
真希はイルミネーションに彩られた駅の改札をのんびりと降りると
売店でカイロを一つ買い、それを揉み解しながら
いつものバイトに向かった。
駅前の広場には大きなもみの木の容のモニュメントが立っていて
人々がそのぐるりで何やら楽しそうにしている。
それを見るにつけ、真希にも何処かしら面白い気持ちがして
これからのバイトにもやる気がでるのだ。
真希の働いている店は賑やかな駅前からは少し離れた
やや目立たないところにある。
そのためか、店長をして一年で一番の稼ぎ時とするこの時期でも
デパートにあるそれほどに客が来るわけではない。
慌しいことが嫌いな真希にとっては、その点でも
今のバイトが気に入っていた。
- 150 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:29
-
「おはようございます」
勝手口から真希が店内に入るとイの一番に店長が声を掛けてきた。
「後藤さん、早く早く!」
「そんなにお客さんが?」
「もー、忙しいったらないわ」
慌しく急かす店長に比べて真希はいつもの調子で応える。
「あは、まぁ年末はどこもそんなもんですよ」
「だったら早くしなさい!」
真希のそんな性格をよく知っている店長とのやりとりは
一種のじゃれあいのようなもの。
それでも、忙しいことは事実らしいので
真希は更衣室に入るとテキパキと制服に着替え店先に出た。
- 151 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:29
-
さて店先に出てみるとなるほど、普段なら店内に2、3人いれば
多いほうというところなのに、日も低いうちから7人もの客が
ケースに収められたケーキを物色している。
空調の効いた店内には、寒い外とは別世界のような
人いきれと熱があった。
真希が入ると、それまでてんてこ舞で頑張っていた同僚が
一挙に安堵の表情を浮かべる。
それがなんだか可笑しくて、視線だけで挨拶を交わした。
色とりどりのデコレートが施されたケーキが
ガラスケースの中に並んでいる。
誰かがフォークを差し込んだ瞬間に崩れてしまうそれに
毎日朝早くから店長は細心の心を注いでいる。
真希にはそんな装飾が甚だ無駄な気がしたし
それでもその無駄が好もしかった。
- 152 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:30
-
客の層はイロイロで、今日から休みになったのであろうか
学生らしい姿も目立った。
彼らは殊に素直で、ケースの中のケーキを
選ぶのだけでもその双眸を煌かせている。
それに仕事前のサラリーマンと思しき人もいる。
もう朝から疲れてウンザリしたような風で
しかしケーキを選び会計を済ませて、真希が綺麗に箱詰めした
ケーキを差し出した一瞬には、誰かの、多分子供たちの顔でも
思い浮かべたのだろう。照れくさそうに、嬉しそうに笑った。
真希と同僚はとにかくせっせと働いた。
昼近くになって、ようやっと客も途絶え始めた。
真希もホールに立ちながら小さな息をついた。
- 153 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:31
-
店内には有線の賛美歌がゆるゆると流れている。
窓の外を見るといよいよ空は曇っていて
いかにも寒そうだ。
それだから、店内や、窓から見えるそこ彼処にある
電飾の赤や青やが、妙に浮き立って見える。
店の前を行き交う人は一様に白い息を吐いていた。
「ごっちんは明日誰かと予定あるの?」
店内に客がいなくなると、同僚が興味津々と聞いてくるのを
真希はいつもの調子で応えた。
「んー、ないよ」
「えー意外だなぁ」
「そう?」
真希が乗り気でないのが分かると、会話は直ぐに途絶える。
実際真希には予定なんてなかったし、あって欲しいという考えも無かった。
- 154 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:31
-
「じゃあ私休憩入るね」
そう言って同僚は店の奥に入っていった。
「お疲れさま」
真希の聴こえるか聴こえないかという声は、小さな店内を
緩やかな賛美歌に乗せて微かに響いた。
一曲のフレーズが終わり
店内は数瞬、糸を張ったように静かになった。
- 155 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:32
-
店のドアがカランコロンと音を立てて開いた。
同時に新たな音楽が流れ出す。
また、時間が動き出した。
「いらっしゃいませ」
条件反射で声を出す。
見たところ、中学生くらいの可愛らしい女の子だった。
よっぽど寒かったのだろう、頬を真っ赤に染めて
両手のひらに息を吹きかけている。
「どうぞ」
真希に促されて少女は戸惑いがちに、真希の前の色とりどりの
ケーキの並んだショーケースの前までやってきた。
- 156 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:32
-
「うわぁ…」
少女の瞳がケースの中に吸い寄せられる。
雪景色を模したホワイトケーキや
ココアパウダーを塗したチョコレートケーキは
すべて店長の案を基にした手作り。
少女の穢けない視線は次々とそれらを目移りする。
真希自身あまり甘いものが好きというわけではないのだが
そんなだからこそ、その見かけの美しさに心惹かれる気持ちがよくわかる。
そして、純粋な少女の視線は、どこか真希を誇らしい気持ちにしてくれた。
「いろいろあるんですね…」
少女が感嘆の溜息をもらすと、いよいよ真希は嬉しくなった。
「ふふふ、全部うちの手作りですよ」
「へぇ…」
- 157 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:33
-
真希の言葉を聴く少女の視線がショーケースから外れることはない。
そんな少女の姿が愛らしくて、真希は普段にもなく
口を動かした。
「どんなケーキをお求めですか?」
「えっと…2つ…、小さいのでいいんで
2つ買いたいんです」
「それならこっちですね」
真希が言葉を受けて直ぐ、ショートケーキのコーナーを示す。
少女は言うと同時にそちらを見つけ、真希が示すより先にそこに
視線を移した。
それから、それらの並べられたケーキやタルトやミルフィーユやら…を、
あー、や、うーん、やと声を出しながら選び始めた。
- 158 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:33
-
真希は少女の姿を見ながら、少女の言葉に想像を膨らませていた。
2つのケーキ。一体誰と食べるんだろう。
こんな可愛らしい女の子の瞳をこんなに輝かせて、一生懸命にさせる
人はいったいどんな人なんだろう。
「あ、これ、これ2つお願いします!」
少女が選んだのは一番シンプルな、苺の乗ったショートケーキだった。
「ありがとうございます」
真希が言われたケーキを取り出し器用に箱詰めする。
少女はそんな真希に間髪なしに声を掛けた。
「あの、包装してもらえますか…?」
よっぽど大事な人なんだろう。真希の頭にはふとそんなことが浮かんで
それがまたとなし、嬉しくなった。
- 159 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:34
-
「あはっ、いいですよ」
包装代は別なんて野暮な言葉が、全く頭の片隅にも浮かばなかった。
ただ、真希の言葉を聞いて嬉しそうにお礼を言う少女の笑顔が
真希を幸せにした。
小さな財布から小銭を掻き出す仕草も面白い。
代金を自分で数え終えると、真希が丁寧に箱を包む姿を
期待の眼差しで見つめる少女。
その視線の先には、ここに居ない誰かの姿が確かに映っている。
それが真希には何だかくすぐったかった。
真希が小さなケーキの箱に綺麗なリボンを掛け終わると
待っていたように少女が代金を差し出した。
「丁度頂きます」
真希もそれと分かって用意していた言葉を言うと
少女はまた照れくさそうに笑った。
- 160 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:35
-
箱を受け取ると少女はまた満面の笑みになって踵を返そうした。
真希がふと声をかける。
「あ、待って」
少女が振り返る。
「これあげる。寒いでしょ?外」
真希が思いつきで差し出したのは、今朝買ったカイロ。
空調の効いた店内では必要の無いもので、よっぽど寒そうにして
店に入ってきた少女には要りそうに思えたまでのことだった。
一瞬間きょとんと立ち止まる少女に
真希も何かしら退かれたかしらという拙い思いがしたが
少女はまた笑顔になった。
密かに安堵する。
「ありがとうございます!」
真希から使い捨てカイロを受け取った少女は
両の頬にぽっくりと愛らしい笑窪を浮かべて、今までより
一番の笑顔をプレゼントしてくれた。
- 161 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:35
-
その後の真希は、同僚をして「ごっちんじゃないみたい」な
上機嫌だった。
純粋な幸せは伝播するものらしい。真希にはそんな風に思われて
彼女に今日出会えたことを感謝せずにはおれなかった。
とにかく真希には忙しい仕事が楽しくて
時間はあっという間に過ぎていった。
夕方、一日の仕事がやっと終わって裏に下がった真希の身体には
さすがに疲労が溜まりに溜まっていた。
制服の首元を開いて休憩室の椅子に腰を下ろすと
それが一挙に出た。
それでいて真希はまだ幸せの余韻を感じていた。
外はもうすっかり暗くなっていた。
- 162 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:36
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「お疲れ様」
休憩室に下がった真希の前に外回りから帰ってきた店長が
暖かい缶コーヒーを置いてくれる。
礼を言って受け取り、タブを開けて一口飲むと
またどっと疲れが溢れ、それがコーヒーの湯気の中に
溶けていくような心地がした。
「外は相変わらず雲ってますか?」
「そうね、真っ暗。雪になるかもしれないわ」
「雪?この時期に雪なんて近年じゃ記憶にないなぁ。
そんなに寒いんですか?」
「もう、寒いなんてもんじゃないわよ。
あんたも気をつけて帰りなさい」
- 163 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:36
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店を出ると店長の言葉の通り、辺りはもう夜のかやの下りた後。
昼間にはぼんやりと浮かび上がっていた街のイルミネーションが
今はくっきりとその光を放っていた。
そして全く店長の言うとおり、手足も痺れるような寒さ。
『これは本当に雪になるかもしれないなぁ…』
真希の記憶にある限り、ここ数年で12月中にこの街に
雪が降ったということはなかった。
どんな、寒いと思っても降るのは雨で、少しばかり憂鬱にもなった。
しかし、今日は雪になるような気がする。
それは全く何となくで、だけれどもそんな気がした。
『雪が降ったらいいなぁ』
真希は脳裏に昼間の少女の姿を描いていた。
- 164 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:37
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駅に差し掛かると人通りが増えてくる。
いつもならサラリーマンや学校帰りの中高生の多い駅前。
しかし今日は煌びやかなイルミネーションに引き寄せられるように
男女の組が並んで歩いていた。
皆一様に幸せそう。
そして彼らに限らずに、駅に入っていく人たちには
少なからぬ幸せが零れていた。
駅の構内には、改札の前に大きな時計台が設置されている。
キラキラと光るその周りには子供たちの一団があって、何やらお楽しみ会でも
催しているようだ。
辺りには陽気な12月のメロディーが響いている。
- 165 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:37
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さて、切符を買おうか、と駅に入った。
少女が、いる。
昼間、真希の店でケーキを買った少女。
改札機の前に少し離れて、冬のメロディーと絢爛な光との
よく届く柱にもたれて、誰かを待っているよう。
真希は遠くから見つけたその少女に視線を奪われた。
- 166 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:40
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空は暗く、陽気な駅の構内は肌を裂くように寒い。
少女の頬は相変わらず真っ赤で、それでもその瞳には幸福と
期待とが横溢している。
少女の手には、昼間真希の店で真希から買った
リボンの掛かったケーキの箱が大事そうに抱えられている。
きっと待ち人は何処かの街から
この駅まで彼女のためにやってきて
この改札から出てくるのだろう。
一体どんな人なんだろう。
周りの人たちは、1人の人も、2人の人も、家族連れも
みんなそれぞれに少女と同じように幸せそうに歩き流れていく。
真希はじっと少女を見ていた。
- 167 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:40
-
今に改札を抜けて誰かがやってきて、
その途端にあの少女の飛び切りの笑顔が弾けるのではないか。
そう思うだけで、真希の心は躍った。
少女が時計を見る。
真希は黙ってそんな少女を
自分もまるで誰かを待っているふりをしながら見ていた。
真希が誰かを待っているのは本当。
まだ見ない誰かを、少女の笑顔を生み出す誰かを待っている。
人々は流れる。
少女がちらちらと、何度も時計を見た。
辺りは相変わらず賑やか。
真希もぼんやりと時計を眺める。
時の進みは遅い。
- 168 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:41
- 流れる人々にとってどれだけ早いか知れない時間は
今立ち止まってじっと待っている少女にはどれだけ遅いことだろう。
そんなことをぼんやりと考えた。
寒さがまた増したような気がする。
少女はポケットから、真希があげた使い捨てカイロを取り出すと
それを手のひらの中で遊ばせ始めた。
時計台の大時計が7時を告げる鐘を鳴らす。
辺りは変わらず、賑やかである。
少女が時計台にまた目をやる。
それから再び向き直る、その双眸には
いつしか不安の色が浮き上がっていた。
- 169 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:41
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『約束の時間を、過ぎたんだろうか…』
駅のホームを一団の冷たい風が吹きぬけた。
寒い!、流れる人たちが叫ぶ。その声にも何処か幸せそうな趣がある。
少女は箱を持った身体をギュッと抱きしめる。
その仕草が、誰よりも厳しい寒さを感じさせた。
時計を見る。
暫くして、また見る。
待ち人は来ない。
- 170 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:42
-
電車が到着するたびにどっと押し寄せる人並みの中を
少女の不安げな瞳が一生懸命に誰かを探す。
そしてその度ごと、少女の表情は曇ってゆく。
少女の表情が、半分の期待、半分の不安を宿していた時間が終わる。
その笑顔は完全に失せ、ただ不安だけが少女の顔を支配する。
少女は短いコートの背中を壁にべったりと預けて俯いている。
手には小さな箱。
- 171 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:42
-
真希が少女の代わりに時計を見る。
7時30分。
まだ、誰も来ない。
少女の俯いた顔。
真希の心臓はドキリと跳ね上がった。
その視線の中に見えたものは、彼女の涙だった。
- 172 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:43
-
とうとう堪えきれなくなった涙は
留まることも知らずに溢れる。
少女は涙を落とすまいと必死に瞼を拭った。
それでもどうしても、次々とあふれ出る涙を
どうする術もなかった。
幸せそうに人々は流れる。
改札を抜け、どんどんと人は出てきて
或いは待ち合わせていた恋人たちが抱き合う。
誰も少女のことを気に留めなかった。
それは、幸せが溢れる夜の礼儀ででもあるかのように。
- 173 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:43
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ざわめく駅の中で、少女はまるで其処だけ
時の流れから置いていかれたかのように
ただ涙を流していた。
時計の針が動くたび、真希の心は締め付けられる。
8時。
大時計が陽気に鐘を打つ。
まるで少女の姿など、どこを探しても無いかのように。
その時、空から何か降りてきた。
- 174 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:44
- 雪―――
その白い一片は駅の構内を往く人々の
喜びを促すように優しく降り注ぎはじめた。
真希はただ少女を見ていた。
どうして雪なんか降り出すのだろう…
これが雨でもあれば、人々の熱も冷め
少女の涙も見惑うようなもの、どうして。
あまりにも冷酷――
- 175 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:45
- 人々は雪の降り出したことを知るや、一層の喜びを顕にする。
そんな一切の暖かな、幸福な世界の真ん中にいて
一人涙を流している少女のことを、真希はたといようもなく寂しく
そして綺麗だと思った。
それは雪に濡れる彼女の肩、陽気なメロディーの
まるで届かない静かの中にいる姿をみるにつけ、思える。
綺麗過ぎて、悲しすぎて、真希は目を切れなかった。
誰の目にも留まっていながら、誰の心にも留められない少女。
その少女が未だ大事に抱えている箱の中に何が入っているのか
真希だけが知っている。
そのことすらも悲しかった。
2つのケーキ。恐らくそのどちらも元の形のまま。
- 176 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:45
-
まるでこの街に降る幸せは、総て彼女の涙の代償であると思えた。
声を掛けることなど、出来るはずもない。
真希はただ見ているだけ。
悲しみを自らの中に埋め、ただ見守るだけ。
少女の目がもう真っ赤になっている。何度も何度も
手のひらで擦られた瞼。
その上から涙は容赦なく溢れ出る。
少女はそれでも待っている。
どうして来ない。一体誰が?
恋人?家族?
真希は何も知らない。
ただ少女の悲しみを、寂しさを、不安を、想うことしか出来ない。
- 177 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:46
-
誰を待っているの?――
真希の心の中の問いかけは、賑やかな街の光にたちどころにかき消される。
まだ、待つの?――
少女の涙が尽きるまで、きっと待つに違いないと
そう思えた。
それなら、
真希も彼女の涙が尽きるまで
彼女を待っていよう。
もし彼女の涙が喜びの笑顔に掻き消されたなら――
でももし、彼女の笑顔が戻らないなら…
それでも――
行き交う人のうちの誰にも見向きさえされない
誰からも忘れられた
綺麗過ぎる少女の、綺麗過ぎる涙を
真希はただ見ていた―――
- 178 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:46
-
やがてまた鐘の音が辺りに響いた。
寒い寒い12月の或る夜。
雪は深々と降り続く。
夜は更けてゆく。
街はとても賑やかで 誰もがみな、幸せそうだった。
- 179 名前:廻れ、世界に 投稿日:2004/12/20(月) 12:47
- 〈終わり〉
- 180 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/20(月) 12:49
- >>145
ありがとー。6期の3人はよーわからんところが好きなのですた。
- 181 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/20(月) 12:55
- 「7話集」
>>1-9
「春の嵐の夜の手品師」
>>11-27
「ハイカラはくち」
>>32-63
「一千一秒の恋」
>>66-95
「青い怪人」
>>98-133
「木犀」
>>136-143
「廻れ、世界に」
>>146-179
以上でお終いです。すぺしゃるさんくす。
- 182 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/21(火) 21:18
- 「廻れ、世界に」よかった。
直接のシーズン言葉が一切出てこないもんなあ。初出の言い換えにちょっと違和感おぼえたけど
読み通すとなるほどそういうことかと納得した。話の締めくくりも普通こんな書き方できないよ。
こっちの勝手な期待をすいっとかわす匙加減が絶妙で気持ちいい。
終わりっすか。もっと読みたくもあり、でもお疲れさんっした。
- 183 名前:名無し飼育 投稿日:2004/12/22(水) 04:51
- 引き込まれる世界感・・・
ありきたりの感想しか言えない自分がふがいないです・・・。
「廻れ、世界に」最高でした。
- 184 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/11(金) 10:26
- >>182
ありがとん。またどっかで何か書くかもです。そんときはヨロシクです。
>>183
読んでもらえただけで嬉しいっす。レスまでしてくれてありがとうです。
上でも書きましたけども、このスレ終わりです。
改めて読んでくれた人みんなに多謝。
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