under the cherry tree

1 名前:dusk 投稿日:2004/02/12(木) 15:55
初めまして。duskと申します。
小説を書くのは初めてで、至らない点もあるかと思われますが、
よろしくお願いします。

お話はアンリアルで、主人公は吉澤、その他に2名登場します。
暗い話で不快なところもあるかもしれません。
少し気が早いですが、吉澤は大学1年の設定で。

前編と後編に分かれる予定です。
2 名前:プロローグ 投稿日:2004/02/12(木) 15:57


『桜の樹の下には屍体が埋まっている』


私はそんな言葉を口の中で呟きながら川沿いを歩いた。

河川敷では子供たちがサッカーをしていた。

風はまだ冷たくて薄手のセーターだけでは寒さを感じる。

歓声が上がる方を眺めるとゆっくりとうねる川面が日差しで反射して眩しかった。

 

満開の桜が春風に吹かれて、辺りは舞い散る花びらで一面覆われていた。

あれは何の本で読んだんだろう。

高校の読書感想文だったからもう覚えていない。

昨日の雨のせいか土がぬかるんでいた。

私は足を滑らせないように一歩一歩バランスを取りながら歩いた。

 

あの美しい桜の樹の下には何が埋まっているんだろう。

やはりドロドロに腐敗した屍が埋まっているんだろうか。

いっそのことそうであって欲しいなと思った。

全ての美しいものはきっと屍体に根を張っている。

そうやって吸った養分は、だからこそ傲慢なまでの美しさを醸し出すんだろう。

そんなことを考えながら、私はあの頃のことを思い出していた。
3 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:00
思えば私と真希はいつも一緒だった。

どうしてと言われると判らないけれど、二人とも同じ高校だったし相談したわけでもないのに大学も一緒だった。

なんとなく朝は同じ電車で会って、学校に行き、授業を受けて、一緒に夕食の買い物をして別々のアパートに帰った。

淡々とした日常だった。

若さを謳歌してはしゃぐ周りの連中とくらべて私達はずっと覚めていたような気がする。
4 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:04

 
「アイツらバカみたい」
 

真希は鼻で笑うような仕種で言った。

そして視線を空に向けて遠くを見るような目をして呟いた。
 

「本当に自分が何を望んでるのかなんて判ってないんだよ」
 

じゃあ真希は一体何を望んでいるんだろうと思ったけれどいつも質問しそこねた。

だからこの話は必ず二言で終わりだった。

けれどそれも悪くはないと思っていた。

私達は沈黙に耐えられるだけ相手の息遣いを知っていたから。

5 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:05
 
私は私鉄の駅から五分くらいのところにある景色のいい部屋に住んでいた。

目の前には川があって、河川敷の広場はサッカーが出来るくらい広かった。

土手には100mほど桜の樹が並んでいて、春になると青い空に映えて綺麗だった。

休みの日には真希と二人で土手に座って買ってきたパンを食べた。

栗色の髪が風に吹かれてキラキラと輝いた。
 

(綺麗だな)

 私と真希は同じ女の子なのに、どうして神様は彼女にばかり美しさを与えるんだ、なんか不公平じゃないだろうか?
と、私はいつも心の中で不満を漏らした。

その当時の思い出はそんな程度だった。

私には特に恋人と呼べる人はいなかったし、真希にもいないようだった。

つまり私達は幸せというほどでもないけれど、不幸というわけでもなかった。
6 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:16



――――――――――――――――――――――――――――――


7 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:18

市井さんに再会したのは桜が咲き始めた頃だった。

彼女が現れたのは本当に突然だった。

予告もなく現れた彼女を見てひょっとしたら幽霊かもしれないと疑ったくらいだった。

白いシャツにストレートの洗いざらしのジーンズというシンプルな格好をしていた。

8 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:19
 
「オッス!吉澤、調子はどうだい?」

 
古びた正門は構内に続く道に不釣り合いに大きかった。

私と真希を待ち伏せするように突っ立っていた市井さんは笑顔で話し掛けてきた。

それは全く何年か振りに会ったことを感じさせない挨拶で、昨日あったばかりじゃないかと錯覚するくらいだった。
9 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:21


「アンタ誰?」

「やあ、初対面の人間にご挨拶だね」

「.....................」


10 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:23

左腕をたてかけて正門にもたれて親しげに話しかける市井さんに対して、
真希は私以外の人間に接する冷めた態度で、市井さんを完全無視していた。

昔から変わらない、人をつっぱねる彼女の姿。

私にとってはもう見慣れた姿だったけれど、市井さんを怒らせるんじゃないかと一瞬心配した。

でも市井さんは案外平気だったらしくニコニコと笑っていた。
11 名前:-前編- 投稿日:2004/02/12(木) 16:24

なかなか口を開こうとはしない真希だったけれど、市井さんの優しい笑顔に徐々に気を許したのか、
ようやく話しかける市井さんに対して無愛想ながらも一言二言ポツポツと答えるようになった。


真希と市井さんの会話はそうやって始まった。

 
12 名前:dusk 投稿日:2004/02/12(木) 16:36
更新終了。

プロローグと本編の間にタイトルを書くつもりだったのに、
すっかり忘れてしまった...。

感想、ご指摘等お待ちしております。
13 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/13(金) 03:33
続きが気になる!
期待してます!!
14 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:27
 
桜の下でたまに言い争う真希と市井さんは、二人ともとても綺麗で、桜の精がじゃれ合っているよう見えた。

私は市井さんと会った嬉しさでちょっとうきうきした。

このまま真希と市井さんが仲良くなれば私達は三人でいられるな、そう思った。

それは最近真希以外の人とつきあうことを避けていた私からすれば、久しぶりに他人に興味を持った瞬間だった。

そして市井さんが私から離れないのが幸していつの間にかなんとなく三人でいるようになった。


15 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:29

真希には私と市井さんの関係は話さなかった。

彼女があの日、故意でなくても私を傷つけてしまった過去や、それでも私は市井さんを慕っていたこと。

二人の暗い過去を真希に話さなかった、というより寧ろ、話せなかった。

その日の出来事を口にするのは私にとってもまだ重過ぎることだったから。

それは市井さんも同じようで、何も話そうとはしなかった。

だから昔の友達、私はそれ以上真希には説明しなかった。

16 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:34
 

「へぇ、ひとみにもあたし以外に友達なんていたんだ。それにしてもキザなやつぅ〜」

 
口を尖らせて話す真希はソッポを向いて、市井さんには良い印象は持っていないようだった。

だから三人で歩く時は私が真ん中で両脇に市井さんと真希が並んで歩くのが普通になった。

三人になっても私達の日常はあまり変わらなかった。

朝は同じ電車で会って、学校に行き、授業を受けて、一緒に夕食の買い物をして別々のアパートに帰った。

そして休みの日には河川敷に座って川の流れを見ながらとりとめのない話をしたりパンを食べたりした。

17 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:37



――――――――――――――――――――――――――――――


18 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:40

市井さんは何でもできる人だった。

なんでも知っていたし、誰に対しても物怖じしなかったし、綺麗といっていい容貌をしていた。

なにより話がとても面白かった。

普段ムスッとしている真希までもプッと吹き出したりした。

その頃真希の笑う顔を殆ど見なかったので、それはちょっとした驚きだった。

ただ市井さんは私たち以外に友達はいないようだった。

私達といる時はフランクで気さくだったけれど他人にはとても冷淡に見えた。

まるで私達以外には存在する価値はないと言わんばかりで、時々その冷たい視線にぞっとすることすらあった。

19 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:42
 

「人間には必要な人とそうでない人がいるよ」

市井さんはよくそう言った。
 
「必要ってどういうこと?」

真希は決まってそう尋ねた。

そして真希はその後決まって不機嫌になって市井さんを激しく罵倒した。

20 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 09:45
私は最初心配したけれど、何時の間にか毎度のことのじゃれ合いのようになっていった。

少なくとも私はそう理解した。

そして嬉しかった。

この頃になると真希も市井さんに対して、ちゃんと話すようになっていた。

私はやじろべえの支点のように何をするでもなく二人の間でバランスを取っていて、
そして私以外の人間にはそれが出来ないと思っていた。

21 名前:dusk 投稿日:2004/02/13(金) 10:05
更新終了。

>>13 名無飼育様
 レスありがとうございます。
 もう物語はほとんど出来上がってるんで、
 更新はスラスラできるかと思います。

まだ今日の分のお話が短いので、もう少ししてからまた更新。
22 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 12:08
 
 
私達はどこに出掛けるのもいつも一緒だった。

騒がしいのはみな苦手だったけれど、どういう訳かビリヤードにはたまに出掛けた。

今思い出してみると市井さんの趣味だったらしい。

当時あまり流行っていないビリヤードが出来る店なんて街に数軒かしかなかったけれど、
市井さんはどこからか探し出してきた。

23 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 12:09

 
「どうしてこんなのが好きなの?」

「一度突かれた玉が次々にぶつかって世界を変えて行く。自分の意志でなく偶然にね。面白いと思わないかい?」

「全然思わない」

真希はフンと笑った。

24 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 12:10
 

「どうも9ボールって邪道じゃないかと思うんだ」

「じゃあ、全部の玉使えば?」

「15個も使うなんて大袈裟すぎるよ」

「なんで邪道なの?」

「だって9を落としさえすればお終いじゃないか。そんなのおかしいとは思わないかい?。人生には近道なんてないよ」

「ビリヤードは人生じゃないでしょ」

「似たようなものだよ」

25 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 12:12

 
「近道は邪道なんじゃないの?」

「それが目の前にある以上はそこに進むしかないんだよ。判っていてやらないのは正直さとは違う気がするね」

「じゃあなんなの?」

「可能性の魔ってやつだよ。人間って堕ちることが出来るときにはそれを選んでしまうと思わないかい?」

「...よく判らないよ」

「そうか、ごめんよ、吉澤」

「ひとみって一度自堕落になったらとことん堕ちそうなタイプだよね〜。そういうのってつきあってらんな〜い」

「真希につきあってくれなんて言ってないよ」

「フン、こっちこそ」

26 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 12:13
 
また真希がイライラしているのを見て私は吹き出したけれど、真希は真剣らしくその日は口を利いてくれなくなった。

私はしまったと後悔したけれど遅かった。
27 名前:前編 投稿日:2004/02/13(金) 12:15

それでも私にとってこんな生活は楽しいことだった。

何ゲームかしたあとは必ず誰が勝って誰が負けたかを忘れていた。

そして皆で笑った。

私はそんな三人の関係を楽しんでいた。

そしてその関係は永遠に続くと思っていた。

28 名前:dusk 投稿日:2004/02/13(金) 12:34
更新終了。

あらら、また失敗してしまいました。
>>24>>25の間に


そんなことを言う割に市井さんは直接狙い玉を落とすのでなく、ガムシャラに9番の黄色いボールだけを狙った。

真希は腕はなかなかだったけれど勢いが良すぎてコントロールにムラがあるようだった。

一方の私は玉を突くのが慎重過ぎるらしく一番下手だった。

そしてお互いに下手だと指差して笑った。



という文が入ります。意味分からないですよね〜、申し訳ないです。
29 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:03



――――――――――――――――――――――――――――――
30 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:04

何かが徐々に変っていったのは三人で飲みに行ったときだった。

その日は試験が終わったばかりでみんな開放感に浸っていた。

それは私たちも同様で、まだ未成年である私と真希だったけれど、市井さんが飲みにいかない?と誘ってくれた。

31 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:06
そこは大学の近くの畳敷きのこじんまりとした内装の居酒屋だった。

入り口の暖簾をくぐるとカウンターの奥の畳の席に案内された。

まだ時間が早くて殆ど人はいなかった。

私達は四人用のテーブルに三人で座って、私の隣りに真希が座り、正面の真ん中に市井さんが座った。

取りあえず中ジョッキのビールで乾杯をすると真希が口を開いた。

32 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:07


「つまんない試験だったぁ。自由に学問すべき大学生に減点方式の試験を受けさせるなんて、
無能以外の何物でもないじゃん」


真希には珍しく勉強のことを話題にしていた。

高校での成績は常に首席をキープしていた程、私より頭のいい真希だけど、
普段は勉強のことを話題にしたことはほとんどなかった。
33 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:08


「それは違うよ。世の中の常識者は自分の常識を常に確かめてみたいんだよ。
儀式につきあうのは社会の成員としての義務さ」

市井さんはサラリと答えたが、私は正直、その話題についていけなかった。


「バッカばかしい。そんな儀式」

「本質と全く違うところでムキになって批判を繰り返すなんて、真希は随分エネルギーの無駄遣いをしているね」
34 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:09

私は二人が口泡を飛ばしながら議論をしているのを聞いていた。

合格点が取れればどっちでもいいじゃないかと思ったけれど、
そう言うと真希はきっと鋭い目つきで睨んでくると思って黙っていた。
35 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:09


「そうじゃないよ。本当に必要なこと以外で力を使うのは馬鹿馬鹿しいと言ってるだけだよ」

「いちーちゃんが言う本当に必要なことって何?聞かせてよ」

36 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:11

沈黙が流れて気まずい雰囲気を感じた私は面倒くさくなってトイレに立ち上がった。

先客がいたのを幸いに5分くらいかけて戻ると雰囲気は変っていた。

真希はちょっと上気した目で市井さんを見つめ、そして市井さんは澄ました顔でテーブルに目を落としていた。

37 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:12


「フン、バカだね、いちーちゃんは」

「...どうしてそう思うんだい?」

真希は黙り込んでいた。
 

二人は帰り道でも時々思い出したように議論したけれど、電車の音で何を言っているか判らなかった。
38 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:14


「送ってくよ」

「気遣ってやるって顔しないで」
 

39 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:14

市井さんは酔って少し足元がふらつく真希に手を伸ばした。

バランスを崩しかけた真希は悔しそうな顔をしながら市井さんにしがみついた。

そして私には聞こえないような小さな声で伏し目がちに呟いた。

小首を傾げてニコリと笑う市井さんが真希になにかを囁くと真希は顔を真っ赤にしてソッポを向いた。

そしてその後二人は黙り込んだ。

電車を降りて改札を抜けて、アパートに帰る分かれ道まで私達は黙ったまま歩いた。

40 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:17


そして次の日からなにかが変った。

いつも一緒に乗っていた電車に三人が揃うことは珍しくなった。

市井さんだけいないときもあったし、真希だけいないときもあったし、二人ともいないときもあった。

そのことを尋ねても市井さんは笑って答えなかったし、真希は怒って答えなかった。
41 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:17

 
だけど二人が仲良くなったというわけじゃなかった。

市井さんは真希に冷たくなり、時々黙り込んで醒めた目で眺めるようになった。

真希は市井さんに対して常に不機嫌で、感情剥き出しで怒鳴るようになった。

ただ自分の感情を表に出そうとしない真希がそんな風に変わっていくことに、私は少し戸惑った。

真希の目は昔と変らずに綺麗だったけれど、その視線にはますます不安が交じるようになっていた。
42 名前:前編 投稿日:2004/02/14(土) 22:18

私には全く理解できなかった。

ただ普段三人で一緒に行動することは変わらなかった。

どんなに二人が言い争いをした後も私達は当たり前のように一緒に歩いた。

それだけは以前からの決まり事のように誰も異を唱えなかった。
 
43 名前:dusk 投稿日:2004/02/14(土) 22:21
更新終了。
44 名前:みるく 投稿日:2004/02/15(日) 00:06
展開が予想できなくて、続きがとても楽しみです♪
3人の関係が、なんか不思議ですね。空気感がとてもいいです。
頑張って下さい!!
45 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:41



――――――――――――――――――――――――――――――



46 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:43

市井さんが倒れたのは再会して一年経った頃だった。

近くの総合病院に担ぎ込まれて結局入院することになった。

見舞いに来た私と真希に、市井さんは優しく説明するように言った。
 

「心配しなくていいよ、すぐに退院できるらしいから」
 

47 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:44

しかし言葉とは裏腹に市井さんはものものしい看護体制の下に置かれていた。

だだっ広い部屋にポツンと置かれたベッドの上で、体に何本ものコードを取り付けられ腕には点滴をつけられていた。

ドアには絶対安静と書かれていて、関係者以外は立ち入り禁止だった。

染み一つない白壁は気持ちが落着かなかった。

48 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:46

それでも南向きの窓から見える桜の並木が私達の目を慰めてくれた。

空気を入れ替えようと窓を開けると花びらが病室に風で運ばれてきた。

だけど咲き誇る桜は市井さんから生気を吸い取るように思えて私を複雑な気持ちにさせた。
 
市井さんは、実はここ最近の自分の体が徐々に弱っていたんだ、と言った。

つい最近まで自由に動き回れたのが不思議なくらいだと言った。

そしてその理由を専門用語を交えて内蔵機能から細胞の働きに至るまで詳しく説明してくれた。

それが何を意味しているか判らなかったけれど、ただこの病気が容易に治らないことはおぼろげに理解できた。

49 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:47

 
それからは毎日市井さんの見舞いに行った。

真希を誘ったけれど彼女は何故か私を相手にしなかった。

理由はすぐに判った。

彼女はいつも先に病室に来ていた。

何を喋るでもなくベッドの横に腰掛けて、市井さんも黙って天井を見詰めていた。

50 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:48

白い病院着を着て胸まで布団をかぶった市井さんはニコリと笑いかけて、やあ、と言ってくれた。

私もそれに応えるように返事をした。

真希は黙ったままだった。

そして長い沈黙が訪れた。

二人ともまるで銅像のようで、私は居辛い空気に無理して冗談を言った。

それでも真希は寂しそうな目で視線を泳がせた。

彼女はやつれていた。

傍目から見ていてどちらが病人か判らないくらいだった。

私達は沈黙したまま桜の花を眺めてた。

51 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:50
 

真希を見て段々と私は自分を理解するようになった。

 
(真希をこんな気持ちにさせるなんて)
 
52 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:50

市井さんに腹を立てていた。

そしてそれはとても悪いことのような気がした。

その頃私にとって「友達」だとか「友情」だとかは、まだ地に足のついた言葉じゃなかった。

もしそんな人がいるとしたら市井さんと、そして真希の二人しか頭に浮かばなかった。

だけど心の中で首をもたげた感情は段々と私を変えていった。

二人が一緒にいるところを見ると、真希に対しては切ない気持ちを抱く一方で、
市井さんにはやりきれなさが沸き上がってきた。

53 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:52
 
そして私はあることに気づいた。


私は真希が好きだった。


今まで自分自身に隠していた感情だった。

私は病院の入り口で真希を待った。

そして私はもう我慢ができなかった。
54 名前:前編 投稿日:2004/02/15(日) 13:53


「ちょっと歩かない?」

「ひとみ、待ってたんだ...」



55 名前:dusk 投稿日:2004/02/15(日) 14:09
更新終了。

>>44 みるく様
 レス嬉しいです、ありがとうございます〜。
 ちょっと文章が淡々としてるかなと思ったんですが、
 空気感がいいと言ってもらえて嬉しい限りです。
56 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:22
 
私達は市井さんの病室の前の桜の並木を歩いた。

そしてベンチに座って青い空を眺めた。

暖かくなりはじめた春の空気と日差しが心地よかった。

57 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:24

 
「市井さん大丈夫かな」

私は聞いた。
 
「解るわけないじゃん。...治るんだったらそのうち治るよ」

真希は抑揚のない声で答えたけれど、すぐに悲しそうな顔をしてつけくわえた。
 
「危ないかもね。医者の態度見てるとなんとなく判る」

「どういう病気なの?」

「分かんない。でもきっと重い病気だと思う」

58 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:25
 
真希の横顔を見たけれど、目は何の感情も映し出していないように見えた。

私は聞かなければ良かったと思ったけれど気を取り直して言った。

59 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:26


「真希は市井さんのことどう思ってるの?」

私は質問した。
 
「いちーちゃんのこと?...別になんとも思ってないけど」

真希は気のなさそうに答えた。
 
「そう?最近仲良さそうだったからひょっとしたらと思った」

「ヘンなの」

「そうだね。確かにそうは見えなかったけど」

「もしかして嫉妬してるの?」

「うん」

「えっ...」

「嫉妬してたよ、私は。」

「それってどういう...」

「真希のこと好きだから」

「...困るよ」



60 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:28
 
真希は端から見ても明らかに動揺していた。

そしてうつむいて顔を上気させながら考え込んでいた。

真希がこんな時に告白なんてする私を批難しないことが意外だったのと、真希の動揺を見て勢いづいて言った。

61 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:30

 
「好きなんだ。今の私には真希しか見えてないと思う」

「な、なんで?ごとーなんかの、どこが良いの?」

「私は真希以外にはもっと知りたいと思う人間はいない」

「どうして?」

「他の奴等には生きることの重みも大切さも判らないよ。なぜだかそう思うんだ」

「でも、あたしは...」

「真希のこともっと知りたいんだ。私は真希を理解できると思うし、真希になら理解されたいと思う。
今はまだなにも理解してないかもしれないけど、でも時間をかければきっと判り合えるよ。

私達には時間はたくさんあるんだ」

「あたしが言いたいのは...」

「勿論うまく行かないこともあるかもしれない。でも今の気持ちは本当なんだ。
だから真希の気持ちがどうであれ、今真希に気持ちを伝えたことを後悔はしない。
真希は居心地のいい人なんだ、ずっと側にいることが当たり前になってるくらい」

「本当にそれが理由?」


62 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:31
 
真希は横目で私を見た。

そして口元をすこし歪めた。

 
「も、勿論...真希が綺麗だってこともあるよ。私は...いつも真希に見惚れてた」

私はつけくわえた。
 
「ありがとう、そう言ってくれる方が信用出来るかもしれない」

真希はニコリと笑った。

63 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:31

 
「とにかく私は真希のこと...好きなんだ」

「...」

「それとも、市井さんのことが...」

「...違うよ」


64 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:33

真希は目を伏せたまま大きく息を吸い込んだ。

そして肩を震わせた後で、上目遣いに私を見た。

65 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:34

 
「あたしを見てくれる?」

「真希を見るよ」

「あたしだけを見てくれる?」

「真希だけを見るよ」

「あたしがひとみを見なくても?」

「そうなっても後悔しない」

「あたしが酷い人間でも?」

「後悔しない。その気持ちは本当だから」


彼女は惚けたように口を開けてもう一度上目遣いで私を見上げた。

66 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:35

 
「どうしよう。今ドキドキしてるよ。足が地についてない感じがする。変だよね」

「...」

「今はまだ実感が湧かない気がする。でも、ごとー、すごくドキドキしてる。きっとひとみの気持ちが嬉しいんだよ」

「...真希」

「今すぐは答えられない。でも嫌だって意味じゃないの。判ってくれる?」

「今答えなくてもいいよ。もう少し考えてからでも」

「うん、ごめんね。きっとあたし考える時間が欲しいんだよ」


67 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:36

 
結局その日はそこで別れた。

家に帰ると急に不安になった。

ひょっとしたら真希にうまくかわされたかもしれないという考えに捕われた。

私はベッドに横になって何度も天井の染みを数えた。

けれど、5まで数えるといくつ数えたか判らなくなって何度も最初からやり直した。

ケータイが鳴ったのはイライラして枕元の本を天井に向けて投げつけた時だった。

68 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:37
 

「もしもし」

受話器の向こうから真希の小さな声が聞こえた。
 
「はい」

私は声を震わせながらも返事をした。

69 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:39

 
「...ひとみ、さっきの話ね。OKだよ」

「OK?」

「うん。ひとみの気持ち凄く嬉しい。だからOK」

「...ありがとう」

「でもね、一つだけ覚えておいて。多分あたし、ひとみに好かれるような良いところなんて何もない人間だから。
だから失望したときは早くそう言って欲しいの。そうじゃないと...」

「そうじゃないと?」

「あたし、ひとみのこと離せなくなると思う。自分の幻想を相手に押しつけ合うのって多分すごく大変なことだよ」

「うん...じゃあ真希も私のことに失望したら言っていいよ」

「ごとーは多分ダメだな」

「え?」

「また明日会おうね、ひとみ」


70 名前:前編 投稿日:2004/02/16(月) 15:39
 
そう言うと真希は電話を切った。

私は大きく息を吸い込んで、その日は寝ることにした。

それは今まで感じたことのないような安心感につつまれた夜だった。

71 名前:dusk 投稿日:2004/02/16(月) 15:41
更新終了。

次の更新で前編終了の予定です。
72 名前:みるく 投稿日:2004/02/16(月) 19:13
更新お疲れ様ですm(_ _)m
ついに、カップル誕生ですか!でも素直に喜んでいいのかな…
ごっちんには何かありそうな気が…

前編のラスト楽しみにしてます☆
73 名前:dusk 投稿日:2004/02/17(火) 15:17
>>72 みるく様
 はい、よしごまでCP誕生です^^
 でもそうですね、なんか素直に喜べないですよね...。ハハハ...。

 こんな釈然としない物語ですけど、
 これからもどうか読んでやって下さい〜。
 
 では今日の更新です。
74 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:18


――――――――――――――――――――――――――――――


75 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:20
 
だけど翌日市井さんの病室を訪れたとき、私は嫌な気分になった。

真希は同じ格好でベッドの横に座っていたからだ。

以前と同じように寂しそうな目で視線を泳がせていた。

市井さんも、真希も、私も、そして桜の花も、何も変っていなかった。

多分その時私は猛烈な嫉妬に捕われた。

やっと手に入れようとした幸せを市井さんが奪おうとしている。

一瞬耳鳴りがして、心の中でなにかが壊れた気がした。

76 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:20

 
「市井さん、早く良くなるといいね」

私は出来る限り優しい表情と声を作って真希に聞いた。

真希は何も答えなかった。

まるで昨日のことはなかったようだった。

看護婦さんが入ってきたのはちょうどその時だった。

77 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:21


「あら、面会の方ですか?お薬の時間ですけどちょっとよろしいですか?」

「ちょうど寝たところなんですよ」

「あら、困りましたね。今日から新しいお薬飲んでもらわないといけないのに」

「起こしましょうか?」

「でももうすぐ起きますよね。すみませんけどお見舞いの方でこれ飲ませて上げてくれます?」

「ええ、いいですよ」

「三食食後に一回づつ飲ませてあげてくださいね。必ずですよ」


78 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:22

看護婦さんは忙しいのかそそくさと出ていった。

小さなビンに入った牛乳のように白い薬だった。

その時、頭にある考えが閃いた。

それはとても嫌な考えだったけれど、でも私は押さえることができなかった。

79 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:23

 
「真希、もう帰りなよ」

「いい。まだいる」

「だめだよ。それじゃ真希が倒れちゃうよ。今日は帰って休みなよ」

「いいじゃん、そんなのあたしの勝手でしょ」


80 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:24
 
私は文句をいう真希を必死に説得した。

真希は最初冷たい目で私を睨みつけてたけれど、やがてしぶしぶ帰ることを決めた。

彼女の後ろ姿を見ながら私は天井を見上げて呟いた。
 

(ごめんなさい、市井さん)

81 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:26

ドアに鍵が掛っていることを確認して、私は白い薬を流しに捨てた。

頭の中が真っ白になった。

市井さんが目を覚ましたようだった。

82 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:29

 
「おはよう」

「おはよう、吉澤。来てくれてたんだね」

「調子はどう?」

「うん、まあまあかな」

「しばらくは薬飲まなくて良いって」

「そう。少しは良くなってるってことかな?」

「看護婦さんもそう言ってたよ。きっとすぐに退院出来るんじゃないの?そうしたらまた三人で集まろうよ、今まで通りにさ」

「そうだね、私も待ち遠しいと思ってた」

「...」

「ねえ、吉澤、...私はひとみちゃんに会うために生まれてきたのかもしれない」


83 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:30
 
そして市井さんは笑った。

春の柔らかい日差しの中で輝く、ドキリとするような優しい笑顔だった。

窓の外では日差しを浴びながら桜の花びらが散っていた。

84 名前:前編 投稿日:2004/02/17(火) 15:32

 
市井さんが消えたのは翌日の朝だった。

彼女がどこに行ったのか誰も教えてくれなかった。

それどころか今までここに入院していたことすら記録から消されていた。








................................to be continued


85 名前:dusk 投稿日:2004/02/17(火) 15:35
更新終了。
86 名前:dusk 投稿日:2004/02/17(火) 15:40
次は後編に入る予定ですが、
少し間を空けてから更新したいと思っております。
このお話だけだと短いため、
スレの無駄遣いになってしまいますので、
その間に短編を考えようかと...。

勝手な言い分、申し訳ないです。
87 名前:dusk 投稿日:2004/02/17(火) 15:49
次に更新するときはスレをいったん上げたいと思っております。


では、後編の方もどうぞよろしくお願いしますm(_ _)m
88 名前:みるく 投稿日:2004/02/17(火) 20:21
よっすぃ〜なんて酷いことを…(T_T)
市井ちゃんとごっちんの関係、市井ちゃんの行方…謎です…
後編も楽しみに待ってます!!
89 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:46



90 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:47
心にポッカリ穴が開いたようだった。

多分真希もそうだったと思う。

私達は市井さんの話をすることを避けるようになった。

三人で一緒に行った河川敷にも行かなくなったし、ビリヤードは勿論のこと、あの居酒屋へも行かなくなった。

だけど時間の流れは残酷だった。

私は少しづつ、少しづつ、市井さんのことを忘れていった。


91 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:48

――――――――――――――――――――――――――――――

         under the cherry tree

            − 後 編 −

――――――――――――――――――――――――――――――



92 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:50

私達はよく水族館に行くようになった。

市井さんの思い出が残る場所にはあまり行きたくなかったからだ。

段々と人工が膨れる私達の街にできた、コロセウムを思わせるような白い水族館。

あまりはしゃぎたくない私はゆらゆらと泳ぐ魚を静かに眺めることで心を安らげることが出来た。

93 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:51
 
雨がひどい日だった。

もう何度来たか判らない水族館だったけれど私達はその日も足を向けた。

水槽の前に立つ真希は青白いバックライトに照らされていた。

熱帯魚の赤や黄色が彼女の瞳に反射していた。

近くから見る真希の目元は優しげで、そして憂いを含んでいた。

94 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:51

 
「熱帯魚って好き?」

私は聞いた。
 
「ううん、別に」

彼女は静かに答えた。


95 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:52
 
先に進もう、そう言って肩に軽く手をかける私に対して、彼女は体を強張らせることで答えた。

彼女の柔らかくて小さい肩の感触がいつまでも右手に残った。

真希を遠くに感じた私は、気持ちが沈み込んでいった。

96 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:53
 

通路を進むとそこはイルカのショーだった。

小柄な調教師がマイクを手にして、スピーカーが割れるようなボリュームで喋っていた。

不必要に明るい声が投げやりな気持ちになりつつあった私には丁度良かった。

観客席は満員で辛うじて空いている前方の右端の席に座った。

調教師がステッキを振り上げると、突然水槽からイルカが飛び出てジャンプした。

大きな水しぶきが観客席の前方まで飛び散り、スローモーションのように水滴が迫った。

97 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:53

 
「うげ〜!ひどいよなぁ。ずぶ濡れじゃん」

「ちょっとぉ、なにこれ!」

「もう...行こう、真希」


98 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:54
 
私は叫んだ。

周囲の人達がクスクス笑って、その席濡れるんだよと教えてくれた。

私達は恥ずかしくなって座ったばかりの席をあとにした。

そしてずぶ濡れになったお互いの姿を見て笑った。

真希はお腹を抱えていた。

こんな風に笑う真希を見るのは久しぶりだった。

だから私は嬉しくなった。

99 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:55

 
「ねえ、真希」

「なに?」


100 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:56

久しぶりに笑う真希を後ろから抱きすくめた。

真希は驚いたように身を堅くした。
 

「ねえ今、真希に言っても良い?」

「なにを?」

101 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:56

私の問い掛けに、真希は目を見開いて首を後ろに回して横目で私を見た。

腕の中の真希は小さくて柔らかくて、そして髪からは甘い香りが漂って鼻をくすぐった。

真希が痛がらない程度に腕に力を入れた。

私は多少やけ気味だった。

102 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:57

 
「今、私がどれだけ幸せか」

「...どうして?」

「だって真希と一緒だから」

「今までだって一緒だったじゃん」

「でも今までとは違うよ。真希にとってはそうじゃないんだ?」


103 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:58

真希は小首をかしげると、潤んだ目で私を見つめてそして呟いた。

 
「あたしね、本当は死にたかったのかもしれない」

彼女はそう言って笑った。

私は呼吸ができなかった。

「だってこの世の中に、自分の存在価値が見出せなかったんだもん」

「じゃあ、...今は?」

私は恐る恐る聞いた。

「少し気が変わった、と思う。ひとみといちーちゃんの3人でいるのが楽しかったからかな」 

‘いちーちゃん’の言葉に、彼女を抱きしめる腕が強張った。

でも真希は真剣な顔を崩さなかった。

104 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 10:59
 

「誰もね、本当のあたしなんて見てもくれないし、理解してくれないと思ってた。
ほら、ごとー性格こんなんだし、上っ面も恐そうだし。その上両親いないからみんなあたしを同情の目で見てくるし。
でもひとみだけは...ちょっと判ってくれるかなって感じがする」

「あ、ありがとう」

「でも考え出すと止まらなくなるの、なんでごとー、まだ生きてるんだろって。
あたしそういうこと考えるのが悪い癖みたい。...あたしさ、一体何が欲しいんだろう」

「私は真希を見てるよ。それじゃダメ?」

「...ちょっと嬉しいかな」


105 名前:後編 投稿日:2004/02/24(火) 11:00

真希の微笑みは以前とくらべて柔らかだった。

そして突然私の腕からすり抜けると、何事もなかったかのようにスタスタと歩き出した。

そして10歩ほど歩くと急に振り向いて、ひとみ早く!、そう呼びかけてもう一度笑った。

106 名前:dusk 投稿日:2004/02/24(火) 11:16
更新終了。

>>88 みるく様
 後編お待たせしました。
 前編は謎ばっかりでしたねf^^;
 でも後編でちゃんと謎が明かされるように
 頑張りたいと思います。


 
107 名前:みるく 投稿日:2004/02/24(火) 20:21
後編始まりましたね♪
これからも楽しみにしてますので、頑張って下さい!!
108 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:31


――――――――――――――――――――――――――――――


109 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:32
 
その晩真希はちょっと出掛けると言ったまま帰ってこなかった。

2時間待った挙句、耐えられなくなった私は彼女を探しに出掛けることにした。

いつも行くコンビニにも、商店街にも、そして真っ暗になった河川敷にも彼女はいなかった。

私は途方に暮れた挙句電車に乗った。

都心に向う電車は帰宅で満員の下り電車と対照的にガラガラだった。

私はガランとした車両の中で祈るような気持ちで真希のことを考えていた。

110 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:33
 

乗り継ぎの駅から降りて大学の正門にたどり着いた。

初めて市井さんと会った場所だった。

冷えた空気を感じながら肩で息をして周囲を見回すと、真希はそこにいた。

照明の下の真希は、まるで初めて市井さんと再会したとき私が錯覚した妖精のように綺麗だった。

歩きだすと靴音が響いたのか、真希は顔を上げてこちらを見た。

111 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:33

 
「ひとみ...」

「どうしたのさ、こんなとこに来たりして。心配したじゃん」

「うん、...ゴメンネ」

112 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:34

彼女は素直にペコリと頭を下げた。

そして私に向って言った。

113 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:35
 

「今ごとーね、考えてたんだよ」

「何を?」

「いちーちゃんのこと。ひとみのことよくあたしに話してた。ひとみに酷いことしたって」

「え、...どういうこと?」

「ひとみはいちーちゃんと昔知り合いだったんでしょ。ごとー良く知らないけど」

「うん、まあね」

私は曖昧に返事をした。

114 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:36

「昔ひとみを酷く傷つけたって。でもそれでひとみが自分を忘れられなくなれば嬉しいって。
自分は残酷だって笑ってた」

「...もう、ずっと昔のことだよ」

「ねえ、ひとみといちーちゃんって何があったの?」

「まだ市井さんのこと忘れられないんだ」

「え?」

115 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:37

私は真希の質問には答えずに問い返した。

真希は驚いたようだった。

116 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:40
 
「考えてたことってそのことなの?」

「ううん、もっといろいろ。自分のこと、...他人のこと」

「どういうふうに?」

「うん...なんて言ったらいいか判らないよ。...でも」

「でも?」

「結局自分一人で考えなくちゃいけないことだよね」

117 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:41
 
私は、一人で、なんて言ったら私は寂しいよ、と言った。

そして小さな声で、市井さんのことは思い出さないで欲しいと付け加えた。

真希は小さく頷いた。

そして私は真希を抱きしめた。

背中に手を回すと、真希は私の首筋に手を回した。

そして市井さんがいなくなってから初めて、私は真希とキスをした。

118 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:44


私達は一言も話をせずにアパートに帰った。

そして初めてのセックスをした。

真希を抱き寄せると、もどかしそうに私の首筋に抱き着いて唇に吸いついてそのまま横になった。

ショーツに手を伸ばすと腰を浮かして脱がすのを手伝ってくれた。

119 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:45
 
「ストッキング、破んないでね」


120 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:46

何度も何度も体中に唇をつけた。

手を伸ばすと真希は濡れていた。

私は指を入れた。

真希の湿りと暖かさを指を動かしながらゆっくりと感じるうちに、私は彼女の名前を何度も呼び、真希は絶頂を迎えた。

121 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:47

そして真希は枕元のティッシュに手を伸ばして自分で拭き取ったあと、私の分も同じように優しく拭き取ってくれた。

そして二人で長い時間体を密着させたままでまどろんだ。

彼女は初めてじゃなかったけれど、そんなことは私にはどうでもいい問題に思えた。

私の目の前には長い間望んでやっと手に入れた暖かい居場所があった。

それは代えるもののない悦びだったし、同時に切ない幸せだった。

幸せという感情は涙がでそうな悲しみに似たものだと真希の胸の中で初めて理解した。

私はもうこれ以上世界には求める価値はない、何度もそう考えた。

122 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:48


――――――――――――――――――――――――――――――



123 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:49

真希が帰ったあと、私は鏡の前に立って左後頭部の髪を掻き揚げた。

...今見ても痛々しい傷跡。

今が幸せだから、この傷も久々に見つめられた。

124 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:50



私と市井さんは昔の知り合いだった。

それも私が幼稚園に通っていた頃の。

当時は市井さん、なんて他人行儀な呼び名ではなく、サヤちゃん、なんて呼んでいた。

それに彼女も私のことを『ひとみちゃん』と呼んでいた。

彼女のほうが年上だったけど、家が近所だったし、彼女はすごく優しかったから、
自然と二人で遊んでいるのが当たり前だった。

その頃の私は今よりも性格が明るくて、友達もたくさんいた。

でも、あの出来事ですべてが変わってしまった。

125 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:52


ジャングルジムで遊んでいたときのこと。

いつもは優しく私と遊んでくれる市井さんは、そのときはやけに挑戦的だった。

すでにジャングルジムの頂上に登っていた市井さんは、まだ下の方でモタモタしている私を見下ろして

「ひとみちゃん、遅いよー。早くしないと置いてっちゃうよ〜」

と、私をからかいながら言った。

「待ってよ、さやちゃ〜ん!」

私はいつも待っていてくれる市井さんに置いていかれるのが嫌で、必死になって上を目指していた。

126 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:54

すごく焦っていた。

もう少しで市井さんがいる頂上まであとわずか、というところで、私は足を滑らせた。

落ちそうになる私の手を市井さんが掴もうとしたが、それは手と手が掠めただけだった。

私は勢いよく地面に叩きつけられた。

こらえ切れない激痛に、私は意識を失った。



127 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:54

私のケガは数十針も縫わなければならない程の重傷だった。

長い入院生活のあと、私は自分の家に戻ることができたが、彼女は戻ってくることはなかった。

ちょうど彼女の父親が急な転勤になって、引っ越さなくてはいけないというタイミングだったらしいが、
当時の私には彼女が逃げてしまったんだ、とずっと思い込んでいた。

だた、ポストにこれだけは残っていた。

128 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:56


『ひとみちゃん、ごめんなさい』




それだけ書かれた、素っ気無い一通の手紙だけが。

129 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 15:58

それからというもの、天真爛漫に明るかった私は事故を境に、一変したように内向的な性格になった。

誰よりも信じきっていた彼女に裏切られ、何もかも信じることができなくなってしまった。

それでも、私はあの時からずっと、彼女を慕ってやまなかった。

常に私の中で彼女が一番だった。








でも、もう今は違う。

130 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 16:02


――――――――――――――――――――――――――――――


131 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 16:03


やがて私と真希は一緒に暮らすようになった。

私が手料理を食べるとき、彼女は頬杖をつきながら楽しそうに眺めた。


132 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 16:04

 
「美味しい?」

「うん、真希がこんなに料理上手だったなんて知らなかった」

「これでもごとーね、けっこう料理するの好きなんだ〜」

「ふーん」

「...いつも誰かが側にいる。それってすごく不思議なことだよね」

133 名前:後編 投稿日:2004/02/25(水) 16:04

彼女はそう言うと小首をかしげてクスリと笑った。

私と真希の生活はそうやって過ぎて行った。

まるで春の日だまりのように暖かい、永遠に続きそうな幸せだった。

守るものがあることはなんて素晴らしいんだろう、そう思った。

私達はもう大丈夫なんだ、市井さんがいた頃みたいに不安定なんかじゃないんだ、
真希のことを考えるたびに私はそう感じた。

134 名前:dusk 投稿日:2004/02/25(水) 16:19
更新終了。

>>107 みるく様
 はい、一週間ぶりに後編お待たせしました〜♪
 そして後編始まったばかりなのですが、次回で実は最終回の予定です...。
 区切って更新しようかと思ったのですが、やっぱり一気に更新した方が
 いいかなと判断しました。そのぶんいつもより量は多いかと。
 そしてレスありがとうございます!嬉しいです。

 では最終話もよかったら見てください〜☆
135 名前:みるく 投稿日:2004/02/25(水) 17:16
更新お疲れ様ですm(_ _)m

次で最終話って事で…びっくりです!
楽しみにしていた小説だけに終わっちゃうのは残念ですけど、
最終話楽しみにしています♪
頑張って下さい!!

136 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:06


――――――――――――――――――――――――――――――



137 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:09

 
真希が倒れたのはそれから1年近く経った春の日だった。

昨日まで笑っていた真希は私が家に帰ると台所に倒れて額から脂汗を流していた。

急いで吹きこぼれる鍋の火を止めて近くの病院に担ぎ込んだ。

だけどなかなか診察をしてもらえずイライラしていると、病院の院長がやってきた。
 
「吉澤さんですね。後藤さんが担ぎ込まれた場合は移動するよう通達が来ているんですよ」
 
私は驚いて説明を求めたけれど彼は要領を得ない答えを返すばかりだった。

深夜に移動したのは市井さんがいたあの総合病院で、あのときと同じ部屋に真希は移された。

138 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:10


それから私は毎日真希を見舞った。

私は自分の幸せがもろい砂の城だったと知った。

授業もそっちのけで面会時間の許す限り真希の側にいた。

真希は心配ないからと言ったけれどその目からは生気が消えていた。

市井さんの時と同じだった。

139 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:12

真希は徐々に痩せていった。

それでも彼女は笑っていた。

手を伸ばして私の頬を撫でる手は骨と皮のようになっていたけれど、でも彼女の美しさは全然変わらないように思えた。

真希は市井さんと同じように体に何本ものコードを巻かれて、腕には点滴をつけていた。

染み一つない白壁は気持ちが落着かなかった。

窓からは痩せてゆく真希と対照的に桜の花が咲き誇っているのが見えた。

何もかも市井さんの時と同じだった。

140 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:13
 

いつものように見舞いに来ると、その日真希は目を覚ましていた。

彼女はしばらく私を見つめて、やがて口を開いた。

141 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:16
 
「ねえ、ひとみ。今までありがとうね。あたし、そろそろダメみたい」

「どうしてそう思うんだよ!これから良くなるに決まってんじゃん」

「これはね、感染症の病気らしいの。うつる人もいるし、うつらない人もいる。原因は不明らしいけど。
でも一回うつったらもう治らないんだって。」

「え...」

「徐々に体が弱ってきて、最後は骨も肉も全部跡形もなく消えちゃう、奇妙な病気らしいよ。
いちーちゃんが最後に教えてくれた」

「じゃ、じゃあ市井さんは」

「きっと死んだんだよ。あたしもそうなるよ、きっと」

「だって、そんな」

「大丈夫。ひとみはうつらない体質だってことも言ってた」

142 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:17
 
真希は目を細めて小さく笑った。

私は急に市井さんのことを思い出した。

そして市井さんに対する罪悪感がよみがえって冷や汗が出て叫びたいような衝動に駆られた。

まるで市井さんが私に意地悪をして真希を連れて行くようだと想像した。

私はもう黙っていることに我慢が出来なくなった。

143 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:18
 
「...真希がいなくなったら私は生きてる意味なんてないよ」

「...」

「真希には黙ってたけど、...真希を手に入れようとして私は市井さんにひどいことをした」

「何?」

「聞いたら私を許せなくなることだよ」

「...じゃあ言わないで」

「いや...でも言うよ。真希に秘密をつくるのは我慢できない。...私が市井さんを殺したんだよ」

144 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:19
 
目の前が真っ暗になった。

いっそこのまま地面が崩れてしまわないかなと思った。

だけど真希の言葉は私をもっと絶望させた。

145 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:20

「知ってたよ、そんなこと」

「...ど、どうして」

「薬...あのとき捨てたんだよね。あたし知ってるよ」

「じゃあ、どうして...」

「ごとーね、ひとみとつきあう前はいちーちゃんが好きだったの。...知ってた?」

「いや」

146 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:20

私は驚きながら答えた。

真希は窓の方に首を回して話を続けた。

147 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:23
 
「初めていちーちゃんと会った時ね、学校の正門のところ、覚えてるでしょ?」

「うん」

「雷に打たれたように思ったの。なんて綺麗な人なんだろうって。ああ、ごとーはこの人のこと好きになっちゃうんだって」

「市井さんは...そうだね、綺麗だったね」

「あたしね、この人に抱かれたらどんなに素晴らしいだろうって、そう思ったの。
いつもいちーちゃんのことで頭一杯になった。
あの人から愛されるところ想像して、心も体も溶けちゃう自分を一人で想像してた。

でもね、いちーちゃんはあたしのことなんて全然興味なかった。っていうより...」

「...言うより?」

「多分誰のことも好きじゃなかったんだと思う」

「...」

148 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:25

「いつか、いちーちゃんと一緒に帰ったとき、いちーちゃんをアパートに引っ張りこんで抱いてって頼んだの。
自分でも間抜けだったけど、でもいちーちゃんはそうしてくれた。
多分いちーちゃんはあたしに同情してくれたんだと思う。
それにあたしが同情されるのが死ぬほど嫌いだってことも知ってた。

いちーちゃんね、ごとーを不幸にすることが嬉しかったの」

「い、市井さんはそんな人じゃないよ!」

 
私は思わず大声を出した。

けれど真希は淡々と続けた。

149 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:26

「知ってる。いちーちゃんはね、人を傷つけてる自分を醒めた目で眺めて自嘲してた。
だからいちーちゃんのこと憎かった。憎くなるほど抱かれたいと思った。バカだよね」

「...」

「ケンカした日はいつもいちーちゃんの部屋に転がり込んでセックスしてた。やりまくってたよ。
朝までやりっぱなしなんてしょっちゅうだったもん」

「...」

「体だけ抱かれてるんだって思うとね、自虐的になって頭が真っ白になってバカになっちゃうの。
でもね、...その瞬間はとても気持ちよかった」

「だからって、そんな」

「いちーちゃんがよく言ってたの。『私達は馬鹿なことしてるんじゃないのかい』って。
好きでもない人間の感傷につきあって...誰も愛せないんだって自分で自分を責めてたんだと思う」

「誰もって、...市井さんはあんなに優しかったじゃないか」

「ひとみにはね。...ひょっとして...」

「ひょっとして?」

150 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:27

「案外いちーちゃんが好きだったのって、ひとみだったのかもね」

「私?」

151 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:28


『ねえ、吉澤、...私はひとみちゃんに会うために生まれてきたのかもしれない』
 


152 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:28
 

真希は天井を見上げて大きく息をすった。

そして激しく咳き込んだ。

私はカラカラに喉が渇くのを感じた。

153 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:32

「だったらどうして私なんかと...?」

「ひとみはあたしのこと何も判ってないし、不器用で人の愛し方も知らないけど、いつもあたしのことばかり見てたもの。
いちーちゃんとは正反対だったよね」

「じゃあ、真希は私のこと...」

「違うよ、ごとーはひとみのこと好きだったよ。これは誓ってもいい」

「だって」

「でもひとみが期待してるのとは違う好きかもしれない。
ねえひとみ、人間ってね、一度本気で人を好きになったら多分同じように人を好きになることなんて二度とできないよ。
神様はね、...きっと誰かを好きになる気持ちは同じ量しか与えてくれないんだよ。だから使っちゃったらもう終わりなんだよ」

「じゃあ私のことなんか...」

「ごとー、あの頃もう限界だった。体だけでも良いって思ったけどそんなに強くなかった。
毎日石みたいに何も感じない心が欲しいって思ってた。だからひとみが好きだって言ってくれたとき嬉しかった。
だからOKって言ったの。...まだあのときのこと覚えてくれてる?」

「あ、当たり前じゃん」

「きっとね、ごとーは愛されたかったんだよ。ごとーだけを見てくれる人が欲しかったの」

154 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:32
 
真希はニコリと笑った。

そして私の頬を右手で撫でながら言った。

155 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:34
 
「あたしね、酷い人間なんだよ。あたしの体の中にはドロドロした汚い感情が沢山つまってるの。
いつもひとみをあたしだけのものにしておきたいと思った。ひとみがいちーちゃんにしたこと、わざと知らない振りしてた」

「...」

「本当はね、ごとーも同じことやってたんだ。
いっそのこといちーちゃんが死んでくれればあたし何も感じなくて済むだろうって。
そしていちーちゃんが死んでもまだあたしの中に悲しいと思う気持ちが残ってたら...
あたしも死んでやろうって。...無理心中だよね」

「...」

「でもひとみがあたしに好きだって言ってくれて気持ちが変った。あたしのためにいちーちゃんに嫉妬してくれたんでしょ。
このまま秘密にしておけばひとみ自分のせいだって悩み続けて、ごとーのことしか考えられなくなると思った」

156 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:34

私は身を乗り出して真希に詰め寄ろうとした。

その瞬間ドアをノックする音が聞こえて看護婦さんが入ってきた。

157 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:35

彼女は笑顔でおはようございますと言うと、私にはお構いなしに真希の体調を調べ始めた。

私はぼんやりと窓の外に咲き誇る桜の樹を眺めた。


看護婦さんは5分くらいで出ていった。

158 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:36

その後私はさっきの話を問い直す気にはなれなかった。

というより言葉がなにも出てこなかった。

口を開いたのは真希の方だった。

彼女はうつむいて前髪を垂らしたまま、横目で私を見るとまた視線を逸らして言った。

159 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:40

「ひとみあの時あたしを好きになったこと後悔しないって言ったよね」

「...言った」

「だからあたしはおまじないをかけるの。ひとみが一生あたし以外の誰も愛せなくなるように、って」

「え?」

「ねえ、窓から桜が見えるでしょ。

ひとみは桜を見るたびにあたしのことを思い出すの。

そしてあたしを好きだって言ったことを思い出すの。

そして他の人を愛せなくなるの。
きっとそう思うの」

「どうしてそうなるって判るんだよ」

「ごとーのおまじない、効くよ」

160 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:42

真希は優しく笑った。

それは今まで一度も見たこともないような柔らかい微笑みだった。

鳥肌がたつほど綺麗だと思った。

そして私は真希のこの笑顔を見るために生まれてきたんだ、そう思った。

胸に何かが込み上げてきた。

それは口では言えないくらい、とてもとても甘くて、そして切ない気持ちだった。

161 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:42
 
「ひとみはあたし以外の誰も愛せなくなる。きっと」


もう一度真希は言った。

162 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:44

「桜の樹の下には屍体が埋まってる、って聞いたことがある?」

「うん、...高校の頃何かで読んだ気がする」

「桜ってね、屍体から養分を吸い取るんだよ。だからあんなに綺麗なの。知ってた?」

「ううん」

「前にひとみ、あたしのこと綺麗だって言ってくれたよね。でもきっと本当のあたしは屍体の部分なんだよ」

「な、何言ってるんだよ、真希」

「ねえ、ひとみは薬を捨てたよね。いちーちゃんが最後に言ってたよ。『これで吉澤は私のことを忘れないよね』って」

「...市井さんも...知ってたんだ」

「ねえ、あたしひとみのこと好きだったのかな、それとも...憎いのかな?」

「真希!」

「人間ってさ、どうして愛されないと悲しいんだろう?」

「...」

「あたし...愛されたかったな。すごく、すごく、愛されたかったな」

「...」

「ねえひとみ、...桜を見たら絶対あたしのことを思い出して」

163 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:45
 
顔を伏せた真希の目からは涙がとめどなく流れベッドに落ちた。

うめくような泣き声はやがて鳴咽に変った。

そして小さな声で、ひとみゴメンね、ひとみゴメンね、と何度も何度も呟いた。

164 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:47

窓の外を見ると日差しに照らされた桜の花が風に吹かれてちらちらと舞っていた。

考えてみれば私の人生には真希と市井さん以外に心を揺さ振られるものは何も無かった。

そして真希と今こうして一緒にいる私は世界一幸せで、そしてこれからはその幸せを反芻して生きてゆくんだと思った。



 
真希が市井さんと同じようにベッドから忽然と消えたのはその翌日だった。

165 名前:後編 投稿日:2004/02/26(木) 10:48


――――――――――――――――――――――――――――――


166 名前:エピローグ 投稿日:2004/02/26(木) 10:50


あれからもう3年も経つ。

春の日の日差しは柔らかくて風は生暖かかった。

私はコンビニのアルバイトで生活している。

大学は中退した。

もう何もせずに、何も考えずに、そして何も感じずに生きたいと思ったから。

167 名前:エピローグ 投稿日:2004/02/26(木) 10:51

病院があの奇妙な病気のことを話したがらなかったのは、人々の混乱を防ぐためだったらしい。

私がバイク事故であの病院に担ぎ込まれて数日後、二人の担当医だった医者がそう教えてくれた。

そして今でもあの病気に苦しめられている人々がいるということも。

しかし二人がいない今とはなってはどうでもよいことであった。

168 名前:エピローグ 投稿日:2004/02/26(木) 10:52
 

真希が私にかけたおまじないは本物だった。

散って、そして地に落ちる桜の花びら。

でも来年も、そしてその次の年も、ずっとずっと同じように桜は咲き、そして散り続けるだろう。

全ては流れてゆく。

私と、桜だけは変らない。

今はくる日もくる日も心に焼きついた真希の姿を思い出して毎日を過ごしている。

169 名前:エピローグ 投稿日:2004/02/26(木) 10:53

 
『桜の樹木の下には屍体が埋まっている』


咲き誇る桜の樹を見るたび何かが埋まってるんじゃないかと掘り起こしたい衝動に駆られる。
 
私は...。

私は一体どこにいるんだろう。

私は一体どこにゆくんだろう。

170 名前:エピローグ 投稿日:2004/02/26(木) 10:54
風が吹いた。

舞い散る桜の花びらが嵐のように私を取り巻いて何も見えなかった。

私は目眩を覚えて、いつまでもいつまでも、永遠のような時間をただそこに立ち尽くしていた。
 














 
 
FIN
171 名前:dusk 投稿日:2004/02/26(木) 10:56
更新終了。
172 名前:dusk 投稿日:2004/02/26(木) 11:04
これにてunder the cherry treeのお話は終了です。

135>> みるく様
 楽しみにしていたなんて、なんて嬉しすぎる言葉でしょう!
 短かったですが、今まで読んでくださってありがとうございました。
 みるく様のレス、とても励みになりました♪
 
173 名前:dusk 投稿日:2004/02/26(木) 11:13
まだスレの容量がけっこう残っていてもったいないので、
短編とか、また新しいお話ができたら
更新しようかなと思います。

こんな駄文ですが、よろしかったらまた読んでやってください☆
174 名前:みるく 投稿日:2004/02/26(木) 15:20
更新お疲れ様でした&完結おめでとうございますo(^-^)o

市井ちゃんも、そしてごっちんまでいなくなってしまって
よっすぃ〜はかわいそうでした(>_<)
3人それぞれが葛藤しながら生きていて、
それぞれの立場に立ってみると、とても複雑ですね。
予想外の終わり方で、とても楽しませてもらいました♪
次回も楽しみにしていますo(^-^)o
175 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/29(日) 15:58
いやーあれだね。究極の三角関係?みたいなw
176 名前:番外編 投稿日:2004/03/06(土) 17:03



――――――――――――――――――――――――――――――


177 名前:番外編 投稿日:2004/03/06(土) 17:06

あたしが4歳のときに父は他の女と駆落ち、その道すがら、父はその女と共に交通事故で呆気なく死亡。

母は愛する人に裏切られ、失ったことで精神を病み、発狂。

1年後、自殺。

身寄りのなくなったあたしは親戚に預けられ、長い間片身の狭い思いを強いられる。

そして高校卒業後、堰を切ったように家を出て、バイトで生計をたてながら、
奨学金制度のある大学へ入学した。

178 名前:番外編 投稿日:2004/03/06(土) 17:09


                under the cherry tree
                   -番外編-
                   (maki)



179 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:13

父の顔は覚えていない。

物心のつく前に父は母を裏切って家を出ていったから。

母の顔は覚えている。

あの顔、あの時の顔だけは今でも忘れられない。

あんなに幸せそうな顔をしている母の顔を見たのは、後にも先にも、あの時だけだった。

精神を病んでからずっと入院していた母が退院できたと、病院から親戚に電話があり、
それはあたしにも伝えられた。

それを聞いたあたしは、震え上がるほどの喜びを覚えた。

幼いながらも親戚の家は居心地が悪かった。

その上、母が精神科に入院しているという事実により、
常に同情と軽蔑のこもった目で見られていることを感じ取っていた。

でもその時はどうでもよかった。

とにかくあたしだけの母の元へ早く帰りたかった。

それだけだった。

180 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:16

一刻も早く帰りたい。

伝えたいことがある。

それは大切な人だけに。


「はじめてのともだちができたの」


それを聞いたら、母はどんな反応をするだろうか。


親戚の叔父の車に乗り、かつて父と母とあたしの3人で住んでいた家に連れられる。

家を一目見て、幼いあたしでも懐かしい思いでいっぱいになった。

まだ家までは遠いけど、あたしは車を降りて、自分の足で駆けた。

どこまでも続く、舗装されたアスファルトの一本道。

そしてその道に沿うように幾重もの桜並木。

その先にあるものは。

あたしの瞳にはしっかりと映っている。

・・・決して見失わない。

ただ大切な人が待つ場所へと走る。

走る、走る、走る。

ただそれだけだから。

そしてそれは届かない場所ではない。

ずっと会えなかった母に会えると信じている。

そしてあたしを見て、笑顔で迎えてくれることを信じている。

あたしの今伝えたいこと、これを聞いたら母はきっと喜んでくれるはず。

そして温かい手で、あたしの頭を優しく撫でてくれるはず。

そう信じて疑わなかった。


181 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:20


「まだだれにもおしえてないの」


そう。あたしに関心をもってくれない叔父や叔母になんか教えない。

・・・でも。


「いちばんさいしょに、おかあさんにだけおしえるね」


それは大好きなあの人に教えてあげたいことだった。


「そのこはね、いつもいっしょにあそんでくれるの。だからもうさびしくなんかないよ!」


もう泣かなくたっていい。

寂しい思いに駆られて、咽び泣くこともない。

それにこれからは大好きなお母さんも側にいる。

だからあたしは強く呼びかけた。


「お父さんがいなくてもだいじょうぶ!さびしくなんかないよ」


もう我侭なんて言わないから。

寂しいなんて言わないから。

いい子にしてるから。


「だからみて!」


「あたしをみて!」


(そしてあたしに笑顔を見せて!!!)


・・・心からの笑顔・・・・それが・・・ただ欲しかった。











「おかあさん!!!」











一際大きな音をたてて開け放つドアから、桜の花びらと共にあたしの瞳に飛び込んできた世界。





「・・・・・・・・・・・・」


182 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:23












そこであたしを待っていたのは母の優しい微笑みでもなく・・・

聞きたかった母の自分を喜んでくれる言葉でもなく・・・

自分をそっと抱きしめて包んでくれる母の温もりでもなく・・・

舌をまるで怖い絵本に出てくるお化けのように長く延ばし、

血走った眼を見開いたまま絶命した、

母親の首吊り死体だった。


183 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:25

微かに香る死臭は、言葉では言い表せないような、おぞましい臭いでその世界を満たしていた。

もし地獄というものが存在するのなら、そこはこんな空気で満たされているのではないだろうか。



ぎしぃ・・・ぎしぃ・・・


風もないのに静かに振り子のように左右に揺れる母。

その振り子は不規則に揺れ、次に周りそして止まる。

まるであたしに向き直るように。

184 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:27

天井から吊されたままの変わり果てた母は、ちょうどあたしを見下ろすカタチになる。

だがあたしの瞳に映った母の目は、決してあたしを見ることはなく、
あたしの体を通り抜け、遠い世界を見つめていた。

目の前の現実の世界を見ず、遥か遠い世界を見つめ焦がれる瞳。

その瞳に再び慈愛に満ちた優しい光りが灯ることはもう・・・絶対に無い。

この世に『絶対』というものは無いと言われるが、よく言ったものだと思う。

死を境にあの世に旅立った者になら、『絶対』という言葉の加護を受けることを許されるのだから。

そしてその『絶対』が今、ここに存在する。

あたしは自分に微笑みかけてくれる母の笑顔をこの瞬間、永遠に無くした。

それは・・・『絶対』のことなのだ。

それは定められていること。

もう決まっていること。

誰にも覆すことはできない。

185 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:28


今は理解できないかもしれない・・・でもいつかは受け入れていかなければならない理。

空に向かって手を伸ばしても雲を掴むことが出来ないように、

地面にこぼれ落ちた水をすくい上げることが出来ないないように、

死んだ人間には微笑み返してくれることなど出来ないのだ。

指の隙間からすり抜けていったあたしの幸せは、霧散し捕まえるコトなんてできやしない。

186 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:30

だが仕方のないこととして、それを受け入れるには、この時のあたしはあまりにも幼かった。

大いなる悲しみを受け入れるには、あたしの身体はあまりにも小さく脆弱だった。

大好きな人に二度と抱きしめてもらえることができなくなった日。

世界でたった一人になってしまった事実を、身を削られるような出来事の中で知った日。

唯一の肉親を失った日。









           忘れるコトなんてできはしない





                  だって・・・その時の母の顔は
  





             ・・・・母の死に顔は






                  ・・・・『笑顔』だったのだから。


187 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:31

母の顔はとても幸せそうだった。

恍惚の表情という表現がもっともふさわしい。

お化けのように長く伸びた舌を延ばしていても、別人のような姿をしていても。

この世界を旅立った母は間違いなく幸せだったのだ。

それだけは幼いあたしにも、はっきりとわかってしまった。

母はあたしを置いて旅立つことに、何も負い目を感じずに逝ったことを。

取り残されるあたしを見ないことで、母は幸せを手に入れたことを。

死ぬことが母にとって何よりの幸せだったのだ。

188 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:33


自分が幸せを感じることが、母にとっても幸せなことだと信じてきた当時のあたしにとって、
それはあまりにも惨く悲しすぎた。

あたしは母にとって重荷でしかなかったのだろうか?

そしてその重荷は飛び立つ鳥を繋ぎ止める枷にすらならなかった。

自分という存在は人一人繋ぎ止めておけないほど、あまりに軽いのだ。

それを肯定する事象が、あたしの目の前にだらりとぶら下がっていた。

あたしと桜の花びらを残して―――――。














189 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:35


その後、あたしがあの親戚の家に逆戻りされたのは言うまでもなく。

親戚や周りの目がより一層同情の色を濃くしてあたしを見ていた。

みんなの視線にビクビクして怯えている自分が嫌だったし、そんな目で見てくる奴らも死ぬ程嫌いだった。

でもせめて親戚の叔父叔母には同情だけじゃなく、関心をもって欲しかった。

褒めて笑顔を見せてほしかった。

あの時、母にはそうしてもらえなかったから。

190 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:37

頭が割れてしまうくらい死物狂いに勉強した甲斐はあったらしく、
中学でも高校でも成績は常に首席だったけれど、叔父も叔母もあたしを見てはくれなかった。

彼らにはあたしより2つ年下の実の娘がいて、その子ばかりに関心をもっていた。

むしろその子と一緒になって、成績優秀のあたしを妬んでいるようだった。

次第にあたしは自分の居場所を失くし、ついには疎まれるようになった。


191 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:39


家の中でも学校でも、あたしは常に同情というものに付き纏われていたが、
高校は家からかなり離れた私立に入学したおかげで、自分の過去を陰口する者達から逃れることができた。

そしてこの頃に知り合ったのが、吉澤ひとみという少女だった。

192 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:42

一見華やかそうな美少女に見えたが、どこか自分と似たニオイがした。

彼女は入学して3ヶ月経っても友達ができなかった。

いや、つくろうとしなかった。

それは彼女の瞳を見れば、一目瞭然だった。

どす黒く、淀んでいる。

大好きだった人に裏切られ、もう期待など誰にも寄せたりなんかしないという目。

自分から分厚い膜を覆っていた。

彼女の過去に何があったかは分からない。

ただ、あたしと同種類のものを抱えているような気がして、自分でも気付かぬうちに声をかけていた。

193 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:44


それからはずっと一緒。

確認はとっていないけど、これだけ長く居てもあたしを嫌がる素振りもなく離れようとしないのだから、
きっと彼女も気に入ったのだろう、あたしと一緒にいることを。

彼女は自分から人を近づけようとはしなかった。

でも元々人を引きつける要素のあるひとみは、慣れればとても居心地のいい存在になった。

あの時以来友情なんてものを捨ててしまっていたけれど、ひとみにだけならそんな関係で呼ばれてもよかった。

あたしは知らず知らずのうちに、彼女に癒されていたのだから。


自分のことを‘ごとー’と呼ぶようになったのもこの頃だった。

194 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:46


高校卒業後も、別にひとみと申し合わせたわけでもなく、大学も同じところになった。

ただあたしは奨学金が給与される大学と、
その近くにアルバイトだけでアパートが借りられる条件があればどこでもよかった。

私には選択肢なんてもの、ほとんどないのと同然だったから。


そしてあたしは大学でも特にこれといった友達をつくるわけでもなく、毎日をひとみと一緒に過ごしていた。

淡々とした日常だったけれど、親戚の家に預けられていたあの頃に比べれば至極幸せな日々だった。

195 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:50


でも、時折夢を見た。

それもとびきりの悪夢。

母の、あの最期の笑顔がちらつく夢を見ると、喉がカラカラになる。

それは過去のおぞましい記憶を振り返させられるという恐怖だけではなく、
今現在の自分が本当に望んでいるものを、未だ得ることができていないという焦燥感。

若さを謳歌してはしゃぐ周りの連中を見る度に、

「本当に自分が何を望んでるのかなんて判ってないんだよ」

とひとみに言ってみせるけど、

当の本人でさえ、自分が何を望んでいるのか分からないでいた。

そして次第にそれはあたしの心にぽっかりと穴を開け、
言い知れない虚無感に打ちひしがれるようになった。








『あたしは一体何が欲しいんだろう』


















そして桜の咲く頃、あたしはいちーちゃんと出会う――――。
 















 
FIN

196 名前:番外編-maki- 投稿日:2004/03/06(土) 17:52

後藤真希編、終了。

197 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 17:54



『ねえ、吉澤、...私はひとみちゃんに会うために生まれてきたのかもしれない』




それは愛する人に想いを告げることのできない私ができた、最期の告白。


198 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 17:57


                under the cherry tree
                   -番外編-
                    (sayaka)




199 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 17:59


彼女―――吉澤ひとみちゃんはとても明るい子でした。


どんなことにも好奇心旺盛で、無邪気で、彼女のはしゃぎ回る姿は、
まさに天真爛漫という言葉がしっくりくるもので、
それこそ当時毎日のようにひとみちゃんと一緒にいた私から見れば、
太陽のようにポカポカして暖かい光に包まれているような女の子でした。

いつからひとみちゃんとよく遊ぶようになったのかと聞かれると、
その頃の私もまだ幼くて記憶は不鮮明なため、正確には答えられませんが、
きっかけは彼女と私の住んでいた家が近かったという理由でした。

しかしひとみちゃんには私以外にも沢山友達がいました。

それでもいつも私の側に懐いてくる姿を見ると、堪らず彼女に愛らしさを覚えたのは、
その頃の私は彼女を可愛い妹のような存在として捉えていたためだと思います。

それはもう雪のように肌の白い、可愛い可愛いお姫様のような子供でした。


200 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:01


―――きっかけは、あの日すべてに集約されています。

あの日とは、実質的に幼少期のひとみちゃんと最後のお別れになる日でした。


201 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:04


ひとみちゃんは根っからの高所恐怖症でした。

そのために幼稚園ではいつもジャングルジムに登れなく、友達に置いてけぼりにされているというのを本人から聞いていたため、なんとかして彼女の苦手意識を克服しようと奮闘していました。


私がそう思い立ったきっかけは至極単純なものです。

その日は、父の転勤のために近いうちに当時住んでいた家から引っ越さなくてはならないと母親から聞かされていたので、私が彼女と離れ離れになってしまう前に、どうしても手助けをしてあげたいと思い立っただけなのです。


いつもなら私についてゆくのがやっとな年頃の彼女に

「ひとみちゃん、遅いよー。早くしないと置いてっちゃうよ〜」

と意識して意地悪な言葉を選んだのも、
彼女にジャングルジムが登れるようになって欲しかっただけなのです。


それなのに。


それなのに、私はとんでもないことをしてしまった。









202 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:07





足を滑らせ、必死で掴もうとした私の手をすり抜けていくその瞬間は
恐ろしいくらいにスローモーションで、

あの時見た彼女の顔は今でも忘れられません。


でも一番忘れられない光景は、地面に叩きつけられたひとみちゃんの頭から流れる血の色と、
そこにひらりと舞い降りた桜の花びらが彼女の血に染まり、気違いに侵食されてゆくさまでした。

しかし気違いなのは私の方です。

私は眼下に広がった悲惨な光景を見ていたのです
――あまりの奇景に見惚れてしまうほどに――。




こんな自分に身震いしました。

しかし咲き誇る桜の樹の中で、彼女が創り出した血の桜はどこまでも幻想的で、美しく、非現実的でした。

私は彼女の変わり果てた姿に怯えるわけでもなく、ただ馬鹿みたいに惚けて眺めているだけだったのです。


203 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:09


病院に運ばれ、集中治療室から一般病棟に移動されて2週間後、
ようやく私はひとみちゃんと会うことを許されました。

その時の彼女はぐっすりと眠っていて、まるで物語の眠り姫宛らでした。

まだ充分に体力が回復していなかったらしく、普段でさえ白い肌がさらに血色を失くして、
彼女にこの世のものでない儚さを与えていました。

そして私はその時になってようやく、自分は彼女を殺しかけていたという事実に気付かされたのです。

そして私はどうしようもないくらいに
ひとみちゃんが好きだったということにさえも。

204 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:13

全ては遅すぎました。

結局彼女は一度も目を覚ますこともなく、とうとう引越しの日を迎えてしまいました。

私はあの日のことを謝りたくて、彼女の家のポストに置手紙を入れました。

きっとどんな美辞麗句を連ねても不快な思いを募らせるだけだろうと思い、
実に簡素な手紙を残しておきました。

会って直接謝りに行きたかった。

しかし彼女は未だに目覚めていないと聞かされていたので、
こうするしか私には手段が思い浮かばなかったのです。

彼女がいつか目覚め、この手紙を見たら、きっと私を憎むに違いない。

私はそう確信せずにはいられませんでした。

端から見ても分かるほど、私を信頼しきっていた彼女が裏切られたという思いは深いものになるでしょう。

でもそれはひと時だけ。

離れ離れになる私達はそのうち互いを忘れ、遠い記憶の彼方へと葬り去られるだけのことです。




―――少なくとも彼女にとっては。

205 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:14

私は一生忘れることなんてできないでしょう。

一生?き苦しむのです。

傷つけてから自分の気持ちに気付いた愚かさに。

愛しい人を自分の手で亡き者にしようとした罪の深さに。

幼心でも、絶望的なこの思いを漠然と感じ取っていました。

この日から、私は見えない十字架を背負うと共に、報われない自分の運命を呪い続けました。

206 名前:dusk 投稿日:2004/03/06(土) 18:17
ごめんなさい、「?き」のところは「もがき」です。
207 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:21



それから月日は流れ、こんな自分でも人の命を救える人間になりたいと思った私は、
大学で医学部を専攻し、暇があれば貪る様に医学書を読み漁っていました。

軽い眩暈が頻繁に起こるようになったのはその頃で、最初はただの疲労だと思い込んでいただけでした。

しかし私は気付かぬうちに、ある病魔に侵されていたのです。

208 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:22

それは感染者の身体を徐々に弱らせ、
最後は一夜にして血も骨も肉さえもすべて跡形もなく食い尽くしてしまう、奇妙な病気。

感染能力はかなり低いが、一度他人に感染すれば治ることのない、不治の病でした。

唯一の救いとして、この病原菌に感染しない体質の人間が大部分で、
感染してしまう可能性のある人間の数は微々たるものであるということでした。

しかし自分の体の、ほんの一部でさえ、この世に残すことができないというこの病は、
余りにも残酷すぎるものでした。

209 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:24

まるで自分の存在が忘れ去られてしまう病気。

別にこの世に忘れられても構わない。

でも私にはどうしても忘れて欲しくないあの人を思い浮かべてしまいました。

必死に自分の気持ちを打ち消そうとしても心の何処かで、彼女に忘れないでいて欲しいと叫ぶ自分。

そんな自分が醜くもあり、可笑しくもありました。


今まで彼女を片時も忘れたことはなかったけれど、彼女に何かを求めようとしたことは一度もなかった。

あれだけ酷いことをした私はこのまま苦しんで死ぬゆくことが当然の身分なのに、
今更彼女に会って昔の記憶を掘り起こさせるなんて、なんて自分勝手な人間でしょう。

それでも私は自分自身に負けてしまったのです。

210 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:28

でも、せめてこの想いは彼女に伝えることなく、静かに一生を終えようと誓いました。


私には愛する人に愛される資格など無いのだから。

想いを告げる資格さえも無いのだから。



『人間には必要な人とそうでない人がいるよ』

私はひとみちゃんしか要らない、必要ない。

それが私の全ての答え。


















そして桜の咲く頃、私はひとみちゃんと出会う――――。
 















 
FIN

211 名前:番外編-sayaka- 投稿日:2004/03/06(土) 18:30
市井紗耶香編、終了。
212 名前:番外編 投稿日:2004/03/06(土) 18:31



――――――――――――――――――――――――――――――



213 名前:dusk 投稿日:2004/03/06(土) 19:11
番外編なんかを書いてみました。
本編だけだと、ごっちんや市井さんの過去がよく分からないと思い、
二人の番外編を書いてみたりしたのですが、
ない方がよかったかも・・・。

そして「もがき」という漢字が出てこなかったことに凹んでしまいました。
とりあえず、すぐに訂正できてよかったです(;-_-)=3

>>174 みるく様
 毎回読んで下さって、本当にありがとうございました!
 こんな拙い文章でも、3人の複雑な心境を表せていたことにほっとしました。
 予想外だったですか?良い意味での予想外だったら嬉しいですね〜(^^)
 初めての小説でとても緊張していましたが、楽しんで頂けたようで嬉しいです♪

>>175 名無飼育さん
 レスありがとうございます。
 究極の三角関係ですか?!
 そう言って頂けるとは、とても感激です!
 全部読んで下さってありがとうございました〜。
214 名前:dusk 投稿日:2004/03/06(土) 19:21
ではよっすぃ〜にずいぶん可哀相な思いをさせてしまったので、
ほのぼの?を狙った短編と、
コメディ?を狙った短編の
2つを続けて更新したいと思います。
215 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:25



             『よしごま。』



216 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:31

ある昼下がりの吉澤家。

蝉の大合唱と、垂れ流される午後のワイドショー。

汗を掻くことを嫌う後藤の意向で、二人が居るリビングは冷蔵庫状態。

真夏だというのに、吉澤はハイネックのセーターを手放せないでいた。

217 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:32


「―― ねえ、よしこ〜。魔法使えるようになったらなにしたい?」

「……唐突だなぁ……」


218 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:33

寝そべりファッション雑誌を眺める後藤。

視線を離すこともなく、ポツリ漏らすと、
 

「なにしたい?」
 

再び言葉を繰り返す。

吉澤はシャーペンの頭でテーブルを叩くリズムを止めて、

 
「そういうごっちんは何がしたいのさ」

 
手元の教科書に栞を挿んだ。

219 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:34


「んあ?……そうだなぁ」
 

頬杖をつき天井に視線を投げる。

後藤もまた薄手のセーターだ。

220 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:35


「だいたい、ひと口に魔法って言っても色んなのがあると思うんだけど。
手品みたいなレベルから……超能力のような力。
他人を傷つけたり、大切な人を幸せに出来たり……使い手によって善にも悪にもなる諸刃の刃。
ごっちんが言う魔法って、自分が願えば何でも出来るものなの?」
 

「……難しいこというなぁ〜。
あたしはヒマそうなよすぃこを相手にしてあげようと話題を振ってあげただけなのに」

「暇じゃないよ!宿題たまってるんだから。……暇なのはごっち―― 」

221 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:36

視線が突き刺さる。

ものすごく機嫌の悪そうな視線。

コートも羽織ろうかと思うほど、背筋が凍りつく。

222 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:37


「まあ……ただ単に使えちゃうってのもつまんないかぁー」

後藤はまた魔法の話題に戻る。


「……例えば?」

「相手が願ってることを叶えられるとか?」

「願いを叶える、ね……まあ確かに魔法らしいね」

「でしょ?」

223 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:38


後藤の表情は非常に豊かだ。

興味なさそうにボーっとしていたかと思えば、一転、無垢で柔らかい笑顔を浮かべたりする。

もっとも、吉澤的にはどちらも可愛いらしいが。

224 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:39


「さ、よしこの願いを言ってみてよ。
大魔法使いごとー様が叶えてしんぜよう♪」
 

手を広げ、それらしいポーズを取る後藤。

天に大きく掲げられた右腕、豊かな胸が大きく膨らむ。

225 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:39


「うーん……じゃあ、今度の日曜日……」

「日曜日……?」

「晴れにして欲しい!」
 

ズルッ。

226 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:40

ついていた頬杖、左手から顔が落ちる。

危うくカーペットに鼻を打つところだった。

227 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:41
 

「ナニそれ……」

「だってさあ、予報だと雨だっていうから。
 せっかくメンバーみんなでお祭り行くのに、ごっちんは残念じゃないの?」

「予報は予報。それに雨降ったってお祭りは来年もあるじゃん。
 もっとないの? 危機迫るような、譲れない願いみたいなの!」

228 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:42


……思案顔。

どうやら本気で困ってるらしい。

あまり欲のない吉澤らしかったが。

229 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:42


「……あ。洗濯物しないと」


吉澤の顔面にクッションがクリーンヒットした。

230 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:44



本日二度目の寒気。


『なんか最近のごっちんイライラしてるなぁ』


理由が全然分からなくて、吉澤は相当困っていた。

そのとばっちりを喰らうのは、いつも自分だったから。

前に理由を聞いても教えてくれなかった。

その代わり

「よしこのヴァカ!」

と叫んでどっか行ってしまったけど。

231 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:45


「でもさ、願い事って口にしたら叶わなくなるんじゃない?」

「ふぁぁぁ〜、そんなに言いたくないの?」


232 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:46
 
もうその話題に飽きかけているらしい後藤は欠伸をしながらそう言った。

そんな彼女を見て、吉澤は一言。

233 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:47


「ごっちんを……アタシのものにしたい」
 

234 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:48

つまらなそうな顔をしている彼女のお返しに、ちょっとからかうつもりで口をついた。


『何を言ってるんだ自分は』


あまりの恥ずかしさに心の隅で言ったことをやや後悔しかけたが、
よくよく考えればこんなジョーダンみたいな発言、彼女が本気にするとは思えず、
どうせまた『よしこ、おもしろ〜い』などとケタケタ笑われるだけだと思った。

235 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:48


「ふぇ?……そんなの魔法使わなくたって出来るじゃん」


沈黙。



236 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:49


「へっ……?」




長い長い静寂。





237 名前:よしごま。 投稿日:2004/03/06(土) 19:51





「…………あっ」





















End
238 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 19:55


             『痛井歯科』



239 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 19:56

◇◇吉澤家にて◇◇


いつもと変わらない、静かな日曜の朝。

吉澤の好きな、平凡な日常。

だが、今朝は違った。

前夜に気になった微かな歯の痛みが、大波になって襲いかかってくる。

少し頬が腫れてきているらしく、僅かに口元が歪んでいる。

おかげで、朝御飯の食事が一向に進まない。

240 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 19:57


「・・っつう・・・・くっ!・・・」

「なに、あんたどうしたの?」



241 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 19:57

心配、というよりも、怪訝な表情を浮かべている吉澤母の問いかけに、
吉澤は手を頬に当てて苦悶の表情のまま返事もできない。

242 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 19:59


「・・・昨日弟に蹴られたときの後遺症?」

「ちがっ・・・歯が・・・痛い・・・の・・」



243 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:00

「ああ・・・でも日曜日じゃあどこのお医者様もお休みだしねー。
とりあえず、あんた今日も仕事あるんでしょ?連絡なりしといたほうがいいんじゃない?」

「ダメだよ、休めないよ・・・。とりあえず、仕事行く」

「我が子ながら勤労な子ねぇ。もうちょっと勉強もそのくらい努力してくれたら、
お母さん嬉しいのにねぇ。まあ、今日は特別に車に乗せていってあげるよ」


244 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:01

吉澤母の自分に対する愚痴なんて聞いてる余裕はなかったけれど、
それでも耳に入ってくるその言葉は、よけいに吉澤の歯の痛みを促進するものとなった。

245 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:02

◇◇楽屋にて◇◇


「おはよ〜、よっちゃんさん。・・・・ぷっ、くくっ・・・なあに、その顔!?」


楽屋にやってきた藤本が、醜く腫れた顔を指さして笑い声を上げる。

気にしている上に、面と向かって笑われては何か言い返したいものの、
痛くて痛くてしょうがない今の吉澤に言い返す力があるわけもなく、
藤本から顔を背けるのが精一杯だった。

246 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:03


「朝から笑わせないでよ、まったく。」

「好きでこんな顔になったんじゃないよ!」

「そんなのいちいち言わなくても分かってるよ。・・あ、そうだ。
今日が日曜で、どこも病院開いてなくてここに来たんでしょ?
美貴、日曜でもやってる病院知ってるよ」

「え、マジ?!」



247 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:04

吉澤は嬉しくて、思わず藤本の手を両手で握るほど。
まるで「救われた〜」とばかりに安堵の表情をしていた吉澤に対し、
藤本の顔がニヤッと怪しい笑みを浮かべていることに全く気付いていなかった。

248 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:05

病院の住所をメモした紙を渡し、楽屋を出て行った吉澤の姿を確認した後、
藤本はとあるところに電話をかけた。


「あ、もしもし。藤本ですけど」

249 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:06


――――――――――――――――――――――――――――――



250 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:07


メモに書かれた歯科医院は、わりと事務所のすぐ近くにあった。

見た目は普通の歯科医院と同じだが、受付には誰もいない。


「なんだよ、やっぱ休診なの?ミキティ嘘ついたのかよー?!」


吉澤が受付の前でイライラを募らせていたとき、見慣れた少女が受付に現れた。

251 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:07


「はぁ〜い!チャーミー石川です!」

「は?」



252 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:08

吉澤の目の前に現れた人物は紛れもなく、こんな所にいるのが有り得ないはずだった。
しかも服装だけは看護婦さんみたいなイデタチで。

253 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:09


「なぁに〜?歯が痛いのぉ〜?」


歯痛以外に、こんな所に何しに来るんだよ?などと吉澤は思ったが、敢えて頷いた。

254 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:09


「じゃあ、ここに歯の絵が書いてあるから、痛いところに○をつけて。」

「うん・・・じゃなくて!!梨華ちゃんは、こんな所で何やってんの?!」


自己申告の用紙に記入しながら、吉澤は石川に聞いてみる。

255 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:11


「違うよ、よっすぃ〜。私は梨華ちゃんじゃなくてチャーミー石川ですぅ」

いつもだったらそんな風に頬を膨らませて拗ねる石川に抱きつきたくなるが、
今日の吉澤は危うくキレる一歩手前まできていた。
しかしケンカするほどエネルギーもないので、仕方なく石川のノリに乗ってあげた。

256 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:11


「じゃあチャーミーさんは、こんな所で何やってるわけ?」

「今の時期だけ臨時代行〜。」

「・・・って、まさか、梨華ちゃんが治療するの?(資格持ってるのかなぁ?・・ていうか、普通に考えて持ってないだろ)」

「ん〜ん。違ーう。ちゃんと先生がいるよ。私はただの受付〜」

「あ、そうなんだ・・・(よかったぁー。死ぬほど安心した)」



257 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 20:59

しかしなぜ石川が歯医者の受付をしているのかという疑問をもつことを忘れてしまっている吉澤だった。

258 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:00

◇◇治療室にて◇◇


「じゃあ、そこ横になっててね〜。もうすぐ先生来るからー。チャ〜オ〜♪」

「うん」

ドキドキしながらも、大人しく待つこと数分、白衣を着た先生らしき人物が視界の隅に映った。

259 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:01

先生はウェーブのかかった綺麗な黒髪の、スラリとした長身の女の人で、
大きな目が特徴で、最近は減ってきたけど、以前はしょっちゅう宇宙と交信していて・・・・




「って、飯田さんじゃないっスかーーーーー!!!」

「よ。吉澤」

「よ。じゃないですよ!よ、じゃ!なんで飯田さんまでこんな所にいるんですか?!
しかもなんですかその格好!どうして白衣着てるんですか!しかも思いっきし短いし!」


「仕事だから。」

「・・仕事?」

「そう。」


260 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:02

ひどく淡々と答える飯田の態度に、吉澤は何も言えなくなってしまった。
ん?よく見ると工藤静香メイク・・・?


「何してるの?早く座って。」

「・・え、あ、すいません。」


261 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:02

なんかこんなとこでリーダーっぷり発揮されちゃうと、
素直に従わなくちゃいけない気分になっちゃうなーと吉澤は考えていたが、
ふと我に返ると、再び奥歯の痛みが蘇ってくる。

かたや、表情一つ変えずにマスクをつけ、サニメント手袋を装着している飯田。

262 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:03


「じゃ、口開けてくれる?」

「あ・・・はい。」



263 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:04

なんか恥ずかしいなぁ、なんて吉澤は思ってたりなんかする。

飯田は別にそんなこともなく、淡々と吉澤の記載した用紙を覗き込み、患部を鉗子で探る。

264 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:05


「!!・・あがっ!」

「目標を確認。」

「ほ、ほっほ!ほふほーっへはひ!?」(ちょ、ちょっと!目標って何!?)

「・・・喋らないで、よく見えない」

「・・・・」

「目標中央部に腫れを確認・・・これより迎撃するわ。」

「ひ、ひひらはん!ほひはひへはほんへなひ!?」(い、飯田さん!もしかして遊んでない!?)

「・・お願いだから喋らないで!」



265 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:06

飯田は吉澤を睨み付けながらも、真剣な眼差しそのもの。


「・・・はひ・・・・・」


吉澤は先輩の恐怖に怯え、素直に返事をする以外になかった。

266 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:07


「その他、周辺部歯茎、肥大を確認・・・攻撃の必要ありね・・」

「!・・・・・(だから、攻撃って、何する気なんだよぉ・・)」

「一旦、うがいして。」

「はぁ。」

「それに麻酔が入ってるから、治療の痛みは感じないわよ。」

「あの・・・さっきの・・」

「済んだら早く寝てくれる?」



267 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:07

飯田、既に仕事人の顔になってたりする。

「は、はい・・・」


268 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:08

攻撃とか物騒な事言わないで下さいよ、と言おうとしたが、あっさりと諭される吉澤。


「今から目標を消滅してみせるわ・・・喋らないでね」

「・・・はい。(だから消滅って・・)」

「飯田圭織、これより歯茎及び目標中央部分への攻撃、開始します。」


− キュイィィィィィィィィ −


勢いよく機械音をたてる備え付けのドリルが唸りを上げる。

あとは、吉澤の絶叫が響くのみであった。

269 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:10


――――――――――――――――――――――――――――――



270 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:11



地獄の30分が経過。

既に吉澤は地獄を見たらしく、真っ青になりながら診療台を降りる。

しかし幸いなことに、あのおぞましい痛みは和らいでいた。

271 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:20


「明日、また来なさい」

「・・・はい」

「それと・・・歯の磨き方に問題があるから、歯ブラシの持参を忘れないように」

「え?・・・は、はい」


明日も来なくちゃいけないわけ?と心の中で呟く吉澤であった。


272 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:21


――――――――――――――――――――――――――――――



273 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:22

◇◇受付にて◇◇


「あ、よっすぃ〜!仕事、行くんでしょ?一緒に行こ☆」


今では天使が笑いかけてくれているようだと錯覚してしまう、石川の笑顔。

飯田の治療に吉澤は本当の地獄を見ていたらしい。


「うん、行こうっ!」



石川はあっという間に着替えを済ませると吉澤を促す。

274 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:23


「ちょぉーっと待ったぁぁ!」

受付からまたまた聞き慣れた声がする。

275 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:24


「吉澤ぁ〜、支払い済ませてくれなきゃ商売あがったりやでー!
まさか、タダなんて思うてへんよなぁ?」

「な、中澤さん?なんでここに?」

「臨時の受付や。・・んなこたぁどーだってええの。早く払い!」



276 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:25

中澤の怒声と看護婦姿に思わず顔をしかめる吉澤。


「い、いくらっスか?」

「初診だからちょっとばかり値が張るわな〜。3万5千円ってとこ?」


『ってとこ?』って何なんだよ?と言いたいが、相手は中澤さんだ。言えるはずもない。

277 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:27


「た、高すぎません?!いくらなんでも、おかしいですって!」

「・・・よっすぃ〜、1350円だよ。」

「石川ー!せっかく吉澤からふんだくれるチャンスやったのにぃ!どーしてくれんや!」

「中澤さん、誤魔化した残り、どうするつもりだったんですか?」

「うっ!・・そ、そんなの、みんなのために使うに決まってるやろ!」


(ウソだ!絶対自分の酒代に使うつもりだ!すっげー顔に書いてあるもん!)

278 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:29


「・・・中澤さん、受付失格ですね。つんくさんに言って、明日から担当変わってもらおー。」

「な、なんやねん!石川、あんた疑ってんのかー?!」



――――――――――――――――――――――――――――――

―――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――

―――――――――――――――


279 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:30


――――――――――――――――――――――――――――――



280 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:31

どうやらこの歯科医院のセッティングはつんく♂さんのバックボーンらしい。

というより、なに企んでんだ、つんくさん♂。


どっちにしろ、吉澤は明日からの我が身の安否を案じるのであった。
 















 
オワリ。

281 名前:痛井歯科 投稿日:2004/03/06(土) 21:37
更新終了。
282 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/07(日) 15:30
番外編面白い!
283 名前:みるく 投稿日:2004/03/08(月) 16:40
番外編よかったです。
ごっちんの過去は辛かったですけど…

反面、短編は幸せなよしごまでよかったです♪
284 名前:dusk 投稿日:2004/03/11(木) 00:10
レスありがとうございます!

>>282 名無飼育さん
 おぉ!嬉しいです。
 番外編、書いてみたものの、更新しようかどうか迷っていたものですから…。
 読んでくださってありがとうございました!

>>283 みるく様
 ごっちん編、やっぱり辛かったですよね。
 自分で書いておいて、く、暗い…。と思いましたからw
 短編のよしごまも楽しんで頂けたようでよかったです〜。
285 名前:dusk 投稿日:2004/03/11(木) 00:14
では、また続きものを書きたいと思います。
主人公はこれも吉澤さんです。というか吉澤さんしか書けないんですが…。
相手役は今日のを読んで、なんとなく分かると思います。

内容はまた暗いです。そして元ネタありです。
それでは、どうぞー。
286 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:17


蝶が、好きだ。

他の虫にはないその美しさ、儚さが好きだ。

だから、私は蝶を採った。

たくさん。

でも、しょせんは虫だ。いくら大切に飼ったところで、
やがて力尽きてあっという間に死んでしまう。

死んだ蝶は、干からびたただの虫の残骸だ。

美しくない。

287 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:19

かつての姿を思い出して、その儚さに、少し悲しくなるが、それも束の間……。

そんなことを繰り返すうち、私は蝶を標本にするようになった。

標本になって、羽を広げた姿でとまっているように見える蝶は、美しい。

そして、その美しさは、永遠のものだ。

薬品で処理してあるから、干からびることもない。

ガラスケースの中に、ピンで留められて並ぶ、自然が生んだ美の結晶。

私は永遠に美しい蝶を手に入れたことに気づいたとき、とても嬉しかった。

失われることのない美しさ。

素晴らしいことじゃないか。

288 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:21

なのに、私の自慢の標本を見せてこの話をしたとき、彼女は最初、とても不思議そうな顔をして私を見た。

『こんなことをして、何が面白いの?』と。

そして私が、どうにか彼女に蝶の素晴らしさを理解してもらおうと説明すればするほど、
こちらを見る目に浮かべた、何か……とても汚いものを見るような色を濃くしていった。

……結局、彼女は、私のことを何ひとつ、理解してくれようとはしなかった。

私を拒絶したのだ。

そしてそのまま、私と彼女の関係は、予期せぬ突然の幕切れを迎えてしまった。

289 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:23


そう……まだ彼女のことを、きちんと説明していなかった。

まず、そのこと──私の、永遠にとり戻せない彼女との時間のことを、話しておかなければいけないだろう。




290 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:24




                    採集者




291 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:25


――――――――――――――――――――――――――――――



292 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:28


私が彼女を最初に見たのは、駅のホームだった。

その頃の私は、学費に金銭的な余裕のある者でないと通えないような大学、
つまりお嬢様ばかりが集まる女子大に通い、勉強するだけの、かなりつまらない毎日の繰り返しをしていた。

確かにこの社会の不景気を考えれば、金持ちの大学に行ける自分の境遇は恵まれているのだろう。
しかし私はこれといって、学校で何をしたいわけでもなく、
友達とはしゃぐことにさえも、これといって面白味を感じられなかった。

ただ、同じゼミのあの先輩とは、いろいろなことを話していた。
背丈は私よりとても小さくて、会ったばかりの時はまるで小学生のようにも見えた。
でもそんな外見を裏切るほど、彼女は私よりも大人で、恋もしていた。

293 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:33


「誰かを好きになるのに、理由なんてない」

二人でいつものように飲んだ帰り道、その先輩──矢口さんは、私にそう教えてくれた。
その一言と、綺麗にルージュのひかれた唇は、今でも妙に印象に残っている。

私は誰かを好きになったことなど、一度もなかった。
母は物心つく前にこの世を去り、父はよほどのことがない限り口を開かない、かなり寡黙な人だった。
そんな親を、私が別段好きになるはずがなかった。
私を取り囲む人間は、みんなどれも同じ人間に見えた。
そんなふうにしか人を見ることのできない私が、誰かを好きになれるはずがなかった。

でも今なら、あの先輩の一言が分かる気がする。

294 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:35


その日も私は、学校に行くために電車を待っていた。

その私の横を、彼女が走り抜けた。

ラベンダーの香りがした。

295 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:36

彼女は私の待っているのとは反対側の、
扉の閉じかけた車両に駆け込もうとして、私の肩に軽くぶつかった。

別に私は不快にも思わなかったし──そんなに強く当たったわけじゃない。
よくあることだ──彼女はそのまま乗り込むものだと思ったのだけれど、
律義に私のほうを向いて「ごめんなさい」と謝った。

その彼女の背中で無情にもドアは閉まり、電車は発車してしまった。

彼女は電車のほうを向いて、二、三歩追いかけようとしたものの、すぐに思いとどまったようで、

「あ〜、もう。信じらんない。午前中の講義、落とすと後がないってのに。
しょうがない、タクシー代、奮発するか」

などと言うが早いか、来たときの階段へと走り去ってしまった。

296 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:39

そのとき私は、そんな彼女の勢いのよさと、相反する可愛らしい容姿に、少しばかり驚いていた。

彼女の見た目は、特に強く際立つほどの美人というわけではないのだが、
自己主張をしない顔のパーツには欠点などなく、かえってそれが小奇麗に見えた。
そして彼女の話しぶりと動作を見る限り、可愛らしいというよりも、さっぱりとした性格なのだろう。

彼女の後姿には爽やかな空気が滲み出ていた。


これは後で知ったことなのだが、彼女は中学から高校まで、ずっとバレー部で活躍していたらしい。

確かにその通りだろうと思った。彼女の負けん気なところも、きっとそんなところで培われてきたのだろう。

私は何か気の利いた一言を返す間もなく、彼女が走り去ってしまっても、
しばらくその階段のほうを向いたまま、ただひたすら立ち尽くしていた。

297 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:42


なんとなく大学に行って、淡々と授業を受けて、また家に帰る……。

別段したいこともなく、好きだった蝶の収集も前ほど積極的にはなれなくなっていた私が、それでも何か、
ずっと捜し求めていたものがそのとき見つかった……そんな気がしていた。



298 名前:採集者 投稿日:2004/03/11(木) 00:44


その日以来私は、駅のホームで彼女の姿を追い求めるようになっていた。

五回に一回くらいは、彼女の姿を見つけることができた。

彼女はどちらかと言えば小柄な方だったが、私の目は惹きつけられるように彼女の姿を見つけ出していた。

それに比べ彼女からみれば私なんて、電車を待つ多くの人々の一人、という存在なだけなのだろう。
電車の中にいる彼女はいつも眠そうにしていた。
私が密かに見つめていたなんて、気付きもしなかっただろう。

でも、それだけで、十分満足だった。

そう、ある『きっかけ』が、私に訪れるまでは。


299 名前:dusk 投稿日:2004/03/11(木) 00:47
更新終了。

蝶集めなんて、リアルな吉澤さんではあり得ないですね。
まあアンリアルということでお許しを。
300 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:01


――――――――――――――――――――――――――――――


301 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:02


その『きっかけ』のひとつは、父の死だった。

母の死以来、父は手がけていた事業に、ますます没頭するようになった。
寡黙なうえに、仕事一筋だった彼は、私と滅多に顔を会わすことはなかった。

こんなことがあった。

中学生のころの進路相談の時期に担任から、
『父兄の方と三者面談をするから、連絡するように』
と言われて、父の職場に電話したことがあった。

「そういった件は、家庭教師に一任してある。私は忙しいんだ、切るぞ」

それだけだった。

そんな父が、死んだ。

仕事で出かけた、海外での飛行機事故だった。

父は親戚の少ない人だったので、その葬儀は、ほとんど仕事関係の参列者のみといってよいものだったから、
私にとってそれは、何か作り物じみたセレモニーにしか見えなかったし、さほど悲しくも思えなかった。

302 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:05

私に父の訃報を知らせてくれて、葬儀のとり仕切りなど一切の面倒ごとを引き受けてくれたのは、
父の唯一の友人で、事業でもパートナーでもあった、弁護士の寺田光男さん──なぜか自分自身のことを‘つんく’と呼ぶ人──だった。

もっとも、寺田さんの言葉を借りれば「俺は雇われの名誉職でしかないんや」ということだったが。

303 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:06

その寺田さんから、父の遺言状を預かっている、と聞いたのは、初七日の法要が済んだころだっただろうか。

父の直筆で書かれたその内容は、


1.父に万一のことがあった場合、事業はその組織ごと売却し、清算後に残った利益は、
彼の個人資産とあわせて、娘である私に相続する。

2.組織の売却先の選定と金額面の交渉および、売却益に対する課税と相続税他の税務処理、
私に相続された金銭・証券等の運用は、顧問弁護士たる寺田氏に一任する。

3.寺田弁護士への報酬は、父の死亡保険金および、その後の私の資産委託運用益の一部より支払うものとし、
報酬額は、年一回交渉の上、別途契約更新することとする。


というものだった。

304 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:10

私は父の生前から、その事業に関与する気は全くなかったので、この遺言内容は、ありがたいことだった。
物心がついてからはじめて、父に感謝した。

父の死後数ヶ月経って、寺田さんから職場に電話があった。

遺産相続の件で、私の承認が必要、とのことだった。

305 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:12

呼び出された寺田さんの事務所の応接室で、いくつか形式的な事務手続きを済ませた後に見せられたのが、
私が相続できる父の遺産の目録だった。

そこには、事業組織を売却した結果の金額と、いくつかの不動産・証券類などが明記されていた。

寺田さんは、自分が受けとった報酬に対して、
売却手続き後に残った金額があまり芳しくない成果であったことを、しきりに申し訳ながっていた。
自分にもう少し──父のような、商才があれば、と。

だが私には、見せられた金額が自分の経済観念を逸脱したものだったので、
彼が何をそんなに申し訳なく思っているのかピンとこなかった。

とにかく、私は今後、働かなくても生活に困ることはないくらいの資産を手にしたことは、間違いなかった。

306 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:15


――――――――――――――――――――――――――――――


307 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:16


実質的にはその必要がなくなってしまったとはいえ、父の死後も私は大学へ通い続けていた。

そうした方がいい、という寺田さんのアドバイスもあったし、何より私自身、そうしていたかった。
いくらつまらないとはいえ、皆と普通の接点を持ち続けていたかったからだ。

それに通学を理由に、コンスタントに彼女を見かける機会が得られる、
ということも、また大きな理由のひとつだったろうと思う。

もうひとつの『きっかけ』があったその日も、だから私は通学のために、駅のホームにいた。

308 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:18

その日は、運良く彼女を見つけることができた。

彼女ははじめて私がその姿を見た日と同じように、
私の利用するのとは反対側のホームから、電車に乗り込もうとしていた。
そしてそのときも、発車間際に慌てて下りようとしたマナーの悪い客にぶつかって、
バッグを落として危うく乗り遅れそうになっていた。

私はそんな彼女の一挙手一投足を、内心はらはらしながらも、
その姿が多くの乗客にまぎれるまで、見守っていた。

ホームの中央のベンチの側に、パスケースが落ちていることにふと気がづいたのは、
彼女を含めた多くの乗客を飲み込んだ電車が走り去り、私の待つ側のホームに案内放送が流れたときだった。

309 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:21

私は、誰も気に留めないそれに近づいて拾い上げ、中を確かめた。

そう、世の中には、こんな偶然もあるものなのだ。

そのパスケースの中身は、彼女の学生証だった。

310 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:24


 学籍番号 3496189
 所属 外国語学部伊太利亜語学科
 氏名 藤本 美貴
 生年月日 1985年 2月 26日


311 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:26

私はその日、駅から『風邪をひいた』と、友達に電話して学校を休み、
そのまま部屋に帰って一日中、この出来事が私にとってどんな意味をもたらすのか、と思案に明け暮れた。

真っ先に思ったのは、明日以降、駅で会ったときに彼女に声をかけて、素直にこれを返してあげることだった。

彼女は間違いなく困っているだろうから、それで十分喜ばれるだろう。
勇気を出して誘ってみれば、お茶くらいならつき合ってくれるかもしれない。

でも、その先は?

きっと、これまでとさして変わらないだろう。駅で会ったら挨拶くらいはしてくれるかもしれないが、
それ以上には私を特別に見てくれはしない。

そう思えるのも、今まで私とほんの少しでも関わりのあった人々は、皆そうだったからだ。

312 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:30

前に、矢口さんは私に向かってこう言っていた。

「よっすぃ〜は背も高くてカッコイイけれど、でもそれだけじゃ、人は振り向いてくれないよ」

私は初対面の人にはよく、好印象をもたれる。
それは自分の良い容姿があるからだ。
自分でもそれを自負している。
でもそこから人を引きつけることができない。
それがなぜだか分からなくて、矢口さんに聞いてみたのだった。

要するに、私には何もないのだ。
誰からも好かれる、人気者の矢口さんとは違って、
誰かに優しくすることもできないし、
世話を焼いてやることもできないし、
面白い話をすることもできない。
上辺だけの、中身は何もない、ただのつまらない人間なのだ。

だからみんな、私から離れていくのだ。

そうして、私にいろいろなことを教えてくれた先輩は、昨年の冬、
彼女の恋人と一緒に夢を追うために海外へ行くことを決め、
私の前から姿を消した。

313 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:30

誰も、私のことを一番に思ってくれる人はいない。
特別に思ってくれる人などいない。
私なんか、いてもいなくても、どうでもよい人間なのだ。

それなら……。

314 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:35

そう思いながら私の頭に、何かが引っかかった。

だが、それが何なのか、すぐには思い至らなかった。

しばらくの間、私は自分の記憶の引き出しの中身を、片っ端から取り出して、
今閃いたものに一致する内容を探すことに夢中になった。

彼女の学生証。身分証明書。身元。
それを元にできること……調べること。
何を?
……彼女がどういう人なのかを。どうやって?
……私にはできない。やり方がわからない。
ならば……
それを知る人に頼むというのはどう?
誰に?
……専門家に。
そう、
雇われて人を調べる専門家がいる。
探偵、興信所……どこかでそんな文字を見た。
あれは……たしか、父の遺産目録。寺田さんのところで見た……
念のため、と写しをくれたはずだ。
あの時は必要ないと思って、すぐにどこかにしまい込んだのだったが……。

ようやく私は、とりあえず何をすべきか、目的を見つけた。

315 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:36

今度は本当に、引き出しの中身を、片っ端からとり出して目的の用紙を探しはじめた。
見つけようと思うと、なかなか出てこない。気があせる。

見つからない。

机と本棚の引き出しを一とおり探しきってしまうと、もう一度それらを引っ張り出し、
今度は中身を床にぶちまけて、引っ掻き回した。

ない。

316 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:37

諦めかけて、絨毯に這いつくばったまましばし呆然とし、
寺田さんに改めて、写しをもらうことにしようかと思いかけた。
そのとき、部屋の隅に立てかけてあった蝶の図鑑の隙間から、
見覚えのある色のA四サイズの封筒──寺田さんの事務所名が印刷されたもの──がのぞいているのを見つけた。

317 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:39

思い出した。
あの日、帰りに書店で買った図鑑を先に開いて、そのまま……。

私は、立ち上がるのももどかしく、赤ん坊のようにひざで這いずって、図鑑が立てかけてある隅に寄った。

封筒の口をほとんど引きさくようにして、中の紙をとり出した。

旧式のワープロで箇条書きされた、かつての父の存在の証がそこにあった。

未売却物件等の項を順に追ってゆく。

不動産の部。

318 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:42

……そう言えば、折りからの不景気のせいか、都市部の商用地以外の物件は
未だ買い手がついていないものがいくつかある、と寺田さんが言っていたのを思い出した。

『とくに、信州にひとつ別荘が売れ残っている件は、維持管理のための人件費も馬鹿にならないから、
早目に結論を出すべきやな』

いずれは、私に──市価よりもずっと落ちる価格での売却を──決断して欲しい、ということだった。
その時点では、曖昧にしか答えられなかったが。

……とにかく、これは今は関係ないものだ。

319 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:43

証券・債権の部。違う。


法人の部──引きとり手のなかった会社など。

これだ。

320 名前:採集者 投稿日:2004/03/13(土) 00:51

そこに、「市井興信所」の文字を見つけた。
ここに載っている、ということは形式上、私がオーナーである、ということだ。

なぜ、父の事業がこんな組織をその傘下に組み入れていたのか、
それが疑問でありながら、寺田さんには聞きそびれてしまっていた。
それでこの名を記憶していたのだ。それも、今となってはどうてもよいことだが。

住所も、そう遠くない。電話番号も載っている。

私は漠然とした思いつきが、次第に自分の頭の中で形になってくるのを実感していた。

321 名前:dusk 投稿日:2004/03/13(土) 01:03
更新終了。

もちろんミキティの学生証はフィクションです(w
322 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:17


――――――――――――――――――――――――――――――



323 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:18


調べた電話番号にかけてみると、妙に甲高い女性の声が応対した。
所長は今、仕事で出ております、と。

私は名乗り、所長に会いたい旨を伝えた。

すると電話の向こうで、少し息を呑むような間があり、次にほんの微かではあるが、緊張を増した声が、答えた。

「今、調査中であれば、すぐには難しいかもしれませんが、呼び出してみますので、
いったん電話を切ってお待ちいただけますか?」

324 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:19


十分くらいして、電話が鳴った。

別の女性の声だった。

「どうも、市井です。オーナーから直々にご連絡があったと聞いて、慌てましたよ。
いや、先代にはお世話になりっぱなしだったのに、あいにくと葬儀の前後には海外出張してましてね。
不義理をしまして。その、言葉もありません」

その女性は、受話器の向こうに、軽快な笑みを浮かべていそうな声で詫びていた。
私はその声に、あまり真面目な人間でない印象を受けた。

「そんなことは、別に気にしてませんから」

それしか答えられなかった。事実、そのとおりなのだが。

325 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:20

「で、ご用件は?」

口調に若干の真摯さが加わった。案外、ふざけてよいときをわきまえている人ではあるようだ。

「仕事を頼みたいんです。もちろん、正規の料金はお支払いします」

私は単刀直入に言った。

326 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:23

「そういうことでしたら、日を変えて、直に話を伺いましょう。実は今とり込み中でして。
いやなに、依頼者の奥様が、今一汗かき終えて、お帰りあそばすところなもので……と、これはこっちの話。
お会いするのは明日、ということで。
時間は、追ってこちらからもう一度ご連絡差し上げます。
場所は私のオフィスをご存知ですね?……お、出てきた出てきた。
それでは、そういうことで……」

浮気調査の現場の張り込み中に、携帯電話からでもかけてきたものだろうか。
ひょっとしたら電話と反対側の耳では、盗聴機でもモニターしながら、こちらと会話していたのかもしれない。

私は電話の向こうの情景を想像してみたが、自分には探偵の真似ごとすらできそうにない、という確信が強まっただけだった。


327 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:26


翌日、後に市井が指定してきた時刻──午後六時──の五分前に、私は事務所の入った雑居ビルの入り口に着いた。

正面入り口のガラス戸は、薄汚れて中の様子は窺いにくかった。
自動ドアかと思ってしばらくその前で立っていたが、何の反応もなかった。

押してみると、そのまま開いた。

玄関ホールというには狭い入り口の空間の、入ってすぐ左に、テナント案内のプレートがあった。
五階建てのそのビルの、奇数階にしか店子はいないようで、他の階の枠のアクリルプレートは、抜きとられていた。
案内プレートの下に並ぶ郵便受けのひとつに、一週間分以上もの新聞や郵便物が差さりきらずにこぼれ落ちているものがあった。
名前を見ると、五階のテナントのものだった。

市井の事務所は、三階の枠に収まった白地のプレートに、手書きの黒マーカーでその名が記入されていた。

エレベータを使おうかと思ったが、階数表示のランプが消えていたので、試す気にもなれず、その横の階段へと向かった。

薄暗い照明の、やけに足音が響く階段を三階分まで上りきると、短い廊下の左右に都合三つのドアがあった。
もうひとつ、突き当たりに防火ドアがあり、その上の非常灯がやけに明るく見えた。

目的の事務所は、左手──二つのドアがある側の奥だった。

市井興信所、と、こちらはちゃんとしたデザインのプレートが、ドアにとりつけてあった。

そのすぐ下ををノックしてみた。二回。


ドア越しのせいか、少しくぐもった女性の声で「どうぞ」と招かれた。

328 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:27

中に入ると、正面に小さな事務所用のカウンターがあって、そのすぐ後ろの事務机に、入り口を右手に見る形で女性が一人、座っていた。
その女性は、肩で受話器をはさみ、机上のノートパソコンを操作しながら電話の相手と、何やらせわしなさそうにやりとりしていた。
ちら、とこちらを見ると、目顔で入り口左のソファーを、私に勧めた。

腰掛けながら、見るともなく事務所の様子を眺めると、奥にやや幅広の机が見えた。
様々な書類が山積みになっている。
おそらくは興信所長──市井の席なのだろう。

ブラインドがつるされた奥の窓を背に、入り口に正対する向きに配置されたその席の主は、現在不在のようだ。


腕時計は、ちょうど約束の時刻を指していた。

329 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:28


――――――――――――――――――――――――――――――



330 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:29


ドアが開き、この建物とは似つかわしくない清潔感のある人が入ってきて、市井と名乗った。
私が待ちはじめてから、壁の時計の長針がきっかり四分の一周した後だった。

331 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:30

「おいおい困るじゃないか、石川さん。
少し遅れるから、オーナーのお相手をよろしくって、くれぐれも頼んでおいたのに。
お茶も出さずに……どうもすみませんねぇ。
この様子だと、私が遅れるってこと自体、お伝えしてなかったようですね」

言葉の前半分は、市井が戻ってくるとほぼ同時に、電話の用件が終わったらしい女性──石川さんに、
後のほうは、私に向けられたものだ。

332 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:31

「すみません。ごっちん……後藤さんが、ドジを踏んだみたいで、巻かれたっていうものですから。
目標の足取りを発信機から割り出し直して、もう一度補足させるのに手間どっちゃって」

黒髪を肩まで伸ばした石川さんが、フレームレスの眼鏡を外しながら、本当に済まなそうに、市井に釈明した。
真面目に話しているようだが、この独特な声、この会社に電話をした時に応答した人間であるとすぐに分かった。

「ああ、またやったのか。後藤のアルバイト料からペナルティ分、差っ引くのを忘れないでくれよ。
それで、オーナーにお茶を出してくれたら、今日は上がっていいから」

それだけ石川さんに向かって言うと、市井は私の向かい側に、どっかと腰を下ろした。

333 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:34

「……と、お見苦しいところをお見せしまして、失礼いたしました。
まったく。いきおいはいいんですが、緻密さに欠けるのが一人いましてね。
どうしても雇ってくれって言うもので、ここ半年ほどアルバイト扱いで使ってみてはいるんですが」

石川さんが帰るまでは、あたりさわりのない世間話でも、というつもりらしかった。

「後藤……さんでしたっけ?
その人には悪い言い方かも知れませんが、誰にでもできる、という職種でもないでしょう?」

私もそれに乗ることにした。いくら事務所の職員といえど、市井本人以外のいる状態で、本題を切り出す気はなかったからだ。

334 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:35


五分ほど、そんな話をしたところで、石川さんがトレイを持って、ついたての向こうから現れた。

「先ほどは、大変失礼いたしました」

香ばしい香りを漂わせたカップを、私と市井の前に慣れた手つきで置いた後、石川さんは言った。
本日私に向かって、はじめてまともに口を開いたことになる。

「気にしないでください。私も身内みたいなものだから」

待たされたこと自体は、当然愉快とは言えなかった。だが、私はそれが顔に出ないように気をつけて、
やや赤面しながらトレイを抱きかかえるようにしている石川さんに答えた。

335 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:36

「そういえば、まだきちんと紹介していませんでしたね。
彼女は私の右腕であり、経理・総務・人事・営業担当兼所長秘書の石川梨華さんです。
彼女の能力のおかげで、この事務所がまともに機能している、といっても過言ではありません」

「所長、あまりおかしなことを言わないでください!」

かなり芝居がかった口調で持ち上げられて、石川さんはますます赤面すると、市井に食って掛かった。

「いやいや、正当な評価だよ。この際オーナーにも、きちんとアピールしておくつもりさ」

「もう、知りません!」


そんな一連のやりとりの後、石川さんが帰宅して、ようやく本題を切り出せたのは、六時三十分過ぎだった。

336 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:37


「お願いしたいのは、この人の身辺調査です」

私は、昨日拾った彼女の学生証をとり出した。

「事情を聞かせてもらっても構いませんか?」

市井は、おそらくは仕事用の──何かを嗅ぎつけたような表情をのぞかせた。
だらしなくにやけている口元に変わりはなかったが、目は笑っていない。

337 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:38

「それを伏せて依頼したいのですが、受けてはもらえませんか?そのために、父の関係からここを選んだのです」

私は、あらかじめ用意しておいたとおりに答えた。

市井という人が私が推測したとおりの人種ならば、これくらいの前提を拒否することはないであろうという確信があった。
それにもし、これが断られたならば、逆にこの人には依頼できないということにもなる。

338 名前:採集者 投稿日:2004/03/18(木) 09:40

「……いいでしょう。私もお父上の依頼で、理由は聞かされぬままに、かなりヤバイ橋を渡ってきましたからね。
そういった流儀には慣れています。まあ、それなりの特別料金を設定させていただいた上での話ではありましたが」

案の定、市井は金の話を持ち出してきた。生前の父を取り巻く人たちは、こういったタイプの人間ばかりであろうという予想は外れてはいなかったようだ。

「最初に電話でお話したとおり、『正規の』料金はお支払いしますよ」

そう言った私を見て、市井は口元を下碑た形に歪ませた。私も似たような顔をしていたかもしれない。

「お父上もとても強引な方だったが、あなたもその血筋を十分に受け継がれているようですね。
それでは、商談成立、ということで。……ご心配なく。この件は、すべて私一人で動きます。
一週間以内には、第一次報告ができるでしょう」

339 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/26(金) 23:02
シリアスな展開ですね。続きが楽しみです。
340 名前:dusk 投稿日:2004/03/31(水) 19:34
>339 名無飼育さん
 ありがとうございます。
 これからもこんな感じでいきたいと思います。
341 名前:採集者 投稿日:2004/03/31(水) 19:36


――――――――――――――――――――――――――――――


342 名前:採集者 投稿日:2004/03/31(水) 19:38

市井がもたらした情報に、とりたてて私の目を引くようなものはなかった。
もちろんそれは、ある程度予想はしていたので、落胆するようなこともなかったが。

ともあれ、彼女の日常、家族構成、交友関係、その他ごくありふれた、彼女の身のまわりのことを、
労せずして知ることができたわけだ。今はそれで十分満足だった。
そういう意味では、市井の仕事は要求する報酬もそれなりな分、確実なものではあった。

とはいえ、きっと傍目から見れば、そこまでする意味があるのか、と問われるようなことではあっただろうと思う。
その疑問は、実は私自身の中にも、ずっと残っていた。

だが、誰かを好きになるのに──そう、理由なんてない。

私は彼女のことを知りたいと思った。そしてその欲求に、忠実に従った。

ただ、自分でそれをする能力がなかったために、専門家の手を借りた。
私には、その専門家を雇うだけの財力があった。
それだけのことだ。

……ここまでは。


343 名前:採集者 投稿日:2004/03/31(水) 19:41


市井の報告から、彼女の日常のサイクルを知った私はそれを待つ間に練っておいた計画が、実行可能かどうかの検討に入った。
それには、彼女の足取りが、市井の調書どおりのものかどうかを追ってみる必要があった。

私は、市井からの報告のあった翌週の一日を、その目的に充てた。

彼女は、平日はかなり規則正しい生活をしている、という内容のとおり午後六時三十分には、改札を出てきた。
その後を、数百メートルおいて、私も歩き出した。

普通ならば尾行など、素人の私には上手くできるわけはない。
たとえ思いついても、行動には移さなかっただろう。

だが、この場合目的地──彼女の住むマンションは分かりきっていたのだ。
だから、そこに至る道のりを、彼女のずっと後から、
その後ろ姿を見失わないようにだけ気を配って進めばよかった。
それならば、私にも可能なはずだ、と判断してのことだった。

344 名前:採集者 投稿日:2004/03/31(水) 19:45

報告によれば、この帰り道での彼女のいつもの行動はほぼ毎日、通り道のスーパーで食材などを買い込む、ということだったが、この日は違っていた。

その代わり、というわけでもないだろうが、彼女はその先の書店に立ち寄った。
私は店の外で待つべきかどうか迷ったが、結局彼女の後を追って店内に入った。


どうにか彼女の姿を見通せるうち、もっとも離れたコーナーを選んで目当ての本を探すふりをしながらその様子を窺った。

しばらくして、不意に彼女が私の視界からその姿を消した。

彼女は通路奥、壁際の書棚を物色していたので、そこから私の死角に移ったのだろう。
そう思い、私は先ほどまで彼女がいた位置に移動しようとした。

と、そのとき彼女が、私の意表を突いて、引き返してきた。

反射的に彼女から顔を背けそうになったが、どうにか私は書棚を物色するふりをすることができた。
そんな私の横をとおりぬける彼女からは、初めて会ったときと同じようにラベンダーの香りがした。

すれ違いざま、彼女に手の一冊のハードカバーが目に入った。


タイトルは『これがキティちゃんの秘密です。』だった。


345 名前:採集者 投稿日:2004/03/31(水) 19:47

その日私は、変装、というには単純かもしれないが、意図的に普段しないような格好──よく知らないサッカーチームの帽子とブルゾンに伊達めがね──をしていたから、
万が一彼女が私のことを記憶していたとしても、以前会ったことがあるとは思われなかっただろう。
それでも、動悸が治まるまでには、しばらく時間を必要とした。

レジに向かったであろう彼女を、すぐに追うわけにも行かず、私は彼女が清算を済ませる頃合いを見計らって、店を出た。
彼女の進む先はわかっていたが、それでもなぜか、その姿を見失ってしまうことがとり返しのつかないことのように、そのときの私には思えた。

346 名前:採集者 投稿日:2004/03/31(水) 19:51


書店を出て、彼女のマンション方向を見ると、
薄暗い街灯の下でもそれと一目でわかるすらりとした後ろ姿が、角を曲がるのが見えた。

はやる気持ちを押さえて、私は進んだ。


彼女と同じ角を曲がって先を見ると、線路沿いの人気のない通りを行く後ろ姿があった。

彼女の位置から二百メートル、私からだと四百メートルくらい先が、彼女の住まいだった。

市井の報告から、日中一度この道を歩いてみたことがあるが、やはりこの通りが一番人目につかないことは間違いなかった。


場所は決まった……。

彼女の姿がマンションの入り口に消えるのを見届けながら、私はそう確信した。


347 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:18


――――――――――――――――――――――――――――――



348 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:19


数週間後の週末、夕暮れどき。
私は彼女のマンションの手前、人気の少ない線路沿いの路肩に車を停めて、彼女を待った。



時間どおりに、角を曲がって彼女は現れた。

外灯に照らされたその姿をルームミラーに捉えながら、私は自分が恐ろしく冷静なのを実感した。
神経が、研ぎ澄まされていくような気がした。

まわりに、人や車のとおる気配は、ない。

彼女の姿が、サイドミラーの死角に移ったころを見計らって、私は車のドアを開けた。
彼女はちょうど私の車の真横にさしかかっていた。

「すいません。ちょっと道をお聞きしたいんですが」

ありがちな声のかけ方だったが、とりあえずは、これが無難な方法だろう。

349 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:21

「はい?」

一台だけぽつんと停まっていた車から降りてきた人に、夜道で唐突に道を聞かれるという状況には、
彼女も若干の戸惑いを隠せないようだった。

「確か、このあたりだと思ったんですが、この図でわかりますか?」

私はさも困った迷い人、といったふりをして、あらかじめ用意しておいたこの付近の略図を彼女に見せた。
もちろん、記載された住所と地図に実在の番地を選んでおくことも抜かりはなかった。

「あ、すいません。もう薄暗くてよく見えませんよね。……申し訳ありませんが、灯りがこれしかなくて」

言いながら、私はあらかじめサイドウインドウをおろしておいた助手席のドアをいっぱいに開け、
点灯したルームランプがあたるように地図を示した。

350 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:23

彼女もやむを得ず、といった感じで、私の手元をのぞき込んだ。
それは──計算どおり、私の車の助手席に首を突っ込むような姿勢をとることでもあった。

「ああ、ここなら、この先の角を右に曲がって……」

説明しようと、彼女が地図から顔を上げかけたところを見計らって、
私は黒い握りのついた機具を彼女の肩口に押しつけ、スイッチを入れた。

「ぐっ!」

十二万ボルトの電圧は、二秒とかからずに彼女の意識を奪い去った。

351 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:26

私は、ぐったりした彼女を横から支えるようにして、そのまま助手席に座らせると、
何事もなかったふうを装って、運転席に戻り車を出した。

しばらくはむやみにルームミラーを気にしながら走ったが、郊外に出るあたりでようやく人心地ついた。

もし誰かがあの現場を見て不審に思い警察に通報したとして、検問が行われるようなことがあれとすれば、このあたりであろうか。

……だが、その気配もない。

352 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:28

ふと気になって私は助手席を見た。
彼女はまだ、気を失ったままだった。
気の毒だが目的地までは、もう少し眠っていてもらわなければならない。

私は車を停めると、用意してあったクロロホルムをハンカチに染み込ませ、彼女の口と鼻を覆った。

瞬間、息苦しさに気をとり戻した彼女は、呼吸器を覆ったその原因をとり除こうともがき、
私の手に血の出るほどの引っ掻き傷を作り、その後再び脱力した。

353 名前:採集者 投稿日:2004/04/01(木) 01:30

車を発進させた私は、念のため手近のインターチェンジをやり過ごし、一つ先から高速道路に入った。
高ぶる神経は、パーキングエリアを二・三通過するまでのあいだ、必要以上にアクセルを踏み込むことを私自身に強要した。

どうにか自分を落ち着かせて、法定速度の巡航に戻ったあともしばらくは
後続車のライトがルームミラー越しに近づくたびに、それが突然赤色灯を点灯させ、
停車を命じてくるような錯覚におそわれた。

ヘッドライトに切りとられた、妙に質感のないアスファルトだけが目前に広がる。

それを追いかけることが唯一の目的であるかのように、私は車を走らせつづけた。



354 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 18:59



――――――――――――――――――――――――――――――




355 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:01


彼女が目を覚ましたのは、翌朝だった。

彼女は、ゆっくりと身を起こすとまわりを見回し、目の前にいる私の姿を認め、
「ここは……?」
と、当然の疑問を口にした。

「ここは私の持ち家だよ。もっとも、父親からのもらい物だけれど」

「あなたは……」

視線は私のほうを向いているが、その焦点は合っていない。
まるで、宙に漂う何かを見るともなしに見ているようだった。

356 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:04

「はじめまして、と言ったほうがいいのかな。私は──」

「美貴、どうしてここに……?」

彼女はまだ少し、覚醒時の意識混乱をきたしていた。無理もない。
やむをえなかったとはいえ、そうしてしまったことに、私は自己嫌悪を感じた。

「手荒な招待の仕方をしたことは、最初にお詫びしておかなくちゃいけなかったね」

私がそう言うと、それまでの空ろだった彼女の視線が、徐々に焦点を結びはじめた。
そして、その整った面立ちに険しい表情を浮かべ、私が掛けてあげた毛布を胸元まで引き上げた。

357 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:04

「どういうこと!?説明してよ。
あなた、あのとき美貴に道を尋ねて、その後……よくわからない。
ここはどこ?あなた、いったい誰?
どうして美貴は、こんなところにいるの?
一体、どういうこと!?」

彼女は覚醒直後の放心を脱すると、今度は事態を把握できずに混乱をきたしてしまった。

この彼女の様子に、私の心にさした後ろめたさの影はその色あいを増したが、
どちらにせよもう後へは戻れないところまで、私は進んでしまっていたのだ。

だから私は当初からの考え通り、とりあえずの彼女の疑問に根気よく答えてあげることからはじめることにした。

358 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:05

「君の疑問は最もだけど、それに一度に答えることは難しいから、順に話すことにするよ。
……さっきも言ったように、ここは私の持ち家だ。正確には、別荘、になる。
父からのもらい物さ。もっとも、その贈り主はもう、この世にはいないけれど」

「……」

彼女もとりあえずは私の言うことを聞くことにしたようだった。それが正解だ。
私は彼女に感謝しつつ、話を続けた。

359 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:06

「さっき『はじめまして』と言ったけれど、実は一度、君とは会ったことがあるんだ。近くの駅で。
君は私にぶつかって、『ごめんなさい』って言ったんだよ」

「覚えて……ない」

彼女はごく短い時間、記憶の糸をたどる努力をし、それをすぐに放棄した。

「無理もないよ。ほんの一瞬の出来事だったしね。
そういえば、あの後電車に乗りそこなった君は、タクシーで大学に向かったようだね」

私は、はじめて彼女に会ったときの、あの勢いの良さを思い出して、微笑ましい気持ちになった。
そう、あの時から私は……。

360 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:07

「それは覚えてる。あのとき、確かに誰かにぶつかったこと。
その相手の顔も覚えてないけれど。それが……」

「そう、それが私」

「でも、だからって……どうして?」

この問いは、私にしてみれば、愚問でしかなかった。

361 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:08

「私は君に興味を持った。そして、君に私のことを見て、知って欲しいと思った。
だから招待した……それ以上の理由が必要?」

──そう、好きになるのに、理由なんてない。

私はその時、完全に確信犯の顔をしていたのだろう。

しばらくこちらを見ていた彼女は、追求の方向を変えてきた。

362 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:08

「……こんなことして、ただで済むと思ってるの?
誘拐は罪が重いってことくらい、いまどき子供だって知ってるよ!
それに美貴が帰らなかったら、すぐに家族が警察に届けるはず」

言いながら彼女は、その希望にすがるような表情になった。

「私が君の家族に脅迫状でも送っていたら、きっとそうなるだろうね。
もちろん、そんなことはしていないけれど。
だとしたら、一人暮らしの娘に、一日連絡がとれないくらいで誘拐だと騒ぐ親は、そんなにいないと思うよ。
まして、その娘が日頃親と連絡をとらないような子である、となればね」

彼女の言葉に虚勢と脅えを見てとった私は、自分が残酷なもの言いをするのを、止められなかった。

彼女は、もう「なぜ?」とは問わなかった──言葉では。

私は自分を見つめる、疑念に満ちた眼差しに答えるために、言葉を繋いだ。

363 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:10

「君のことはいろいろと調べさせてもらったんだ。人を使ってね。
だから両親のことも知ってる。……こう見えても私はいろいろとコネクションを持ってるし、
それを十分に活用できるくらいに裕福なんだ。
だから、君をここに招待したのも、もちろん、身の代金目的なんかじゃない」

彼女の瞳が疑惑から、再び困惑へとその色を変え、
さらに数秒して──私の言葉を別の意味に理解したものか、それは嫌悪の色へと移っていった。

「身体が、目当てなの……?」

口に出すのもおぞましそうに、彼女は私から視線をそらした。

364 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:10

「それなら、こんなに手の込んだことをすると思う?
この部屋をよく見て。すべて君のためにあつらえたものなんだよ」

そう。彼女のために、私は父の残したこの別荘の一室に、思いつく限りのものを揃えた。
寝台、机、クローゼットには彼女のサイズの衣類と靴、オーディオ、彼女の好きな楽曲のCD、
大小様々なキティのぬいぐるみ、趣味で絵を描く彼女のための油彩の用具一式、本棚に画集、
鏡台には彼女の使う化粧品──もちろんラベンダーの香水も含まれている──のたぐいまで。

それらを私の視線を追って見回した彼女の瞳は、疑惑の色を浮かべた。

365 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:11

「……美貴にここで暮らせ、っていうこと?」

答えるまでもなかった。

否定の言葉を期待する、すがるような彼女の表情を見て、私は冷然としていたことだろう。

「わかんない!どうしてこんなことするの?」

「さっきも言ったとおり、君に、私を理解して欲しかったからこうして招待したんだ。
そのやり方が少し手荒だったことは、もう一度謝るよ」

「……」

「……とにかく、君にとっても今はいろいろなことがありすぎて、すぐには受け入れられないことは理解しているつもり。
そうだね、少し休んで落ち着いたところでまた話をしよう。
その間に私は朝食の用意でもしておくから」

それだけ言うと、私は彼女に背を向けて、部屋の入り口に向かった。
そして、ドアノブに手をかけたところで振りかえってみた。

366 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:11

彼女は最初と同じ姿勢で──ベッドから身を起こして壁に寄りかかり、
肩まで引き上げた毛布に包まって私を凝視していた。

「言っておくけれど、ここは山の中だし周囲は私有地だから。
見てのとおり、この部屋には窓もないし──空調は完璧だけれどね──大きな声を出しても無意味だから。
それから……悪いけれど、このドアは、外から施錠させてもらうよ。
本当は、大切なお客様にこんなことはしたくないんだけれど」

答えは、なかった。突き刺すような視線が、その代わりだった。

今は、それもやむを得まい。

私はゆっくりと、ドアを閉めた。

鍵を掛ける音が、予想以上に、大く響いた。



367 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:12


――――――――――――――――――――――――――――――



368 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:15


一時間後。私は食事を乗せたトレイを手に、再び彼女のもとを訪れた。

ドアを開けると、彼女は私が部屋を出たときと同じ姿勢でこちらを見ていた。
まさか、私が戻るまでずっと同じ姿勢でいたわけでもないだろうが。

369 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:17

「ここから出して。……美貴を帰らせて」

彼女の、開口一番の言葉だった。彼女はとても疲れているように、小さく見えた。

「他の望みなら、できる限りかなえてあげたいけれど、それだけはだめだよ」

 ベッド脇のテーブルに、トレイを載せて、私は言った。

「今帰してくれたら、あなたのしたこと、誰にも言わないから。
あなたを普通の友達として、家族や他の友達に紹介してもいい。
そうやって、お互いを理解しはじめればいいじゃない」

彼女なりに考えた、交渉条件なのだろう。
もちろん、提示内容がそのまま履行されると思うほど私はお人好しじゃない。

370 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:18

「お腹空いたよね?食事はここにおくから」

私は彼女の言ったことには、あえて何も答えなかった。
なるべくならば、彼女に対して否定的な言葉を使いたくなかったからだ。

彼女は、動かなかった。

「人間、空腹だと気持ちが落ち込みやすいはずだからね。食べたほうがいいと思うよ。
……それとも、私が見ていると食べづらいかな。それなら、外に出ているけれど」

彼女は切れ長の瞳をさらに細め、冷たい眼差しを私に突きつけていた。
もう少し時間が必要なのかもしれない。

371 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:19

私はコーヒーカップから湯気が上がっているうちに、部屋を出ることにした。

食事を摂って、空腹がいえればまた、会話の糸口ぐらいは見つかるだろう。

「後で、また来るから」

そう言い残して私はドアへと向かった。

前回そうしたように、ノブに手を掛けたところで、彼女のほうを振り返ってみた。

372 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:19

「待って!」

思いがけなく強い調子の彼女の言葉が、私を引き止めた。

「半熟にしてある?」

彼女は壁際を離れ、ベッドに腰掛けた姿勢で言った。

その言葉が、トレイの上のエッグスタンドをさしているということを理解するのに、いくらかの時間を要した。

「……いや、ごめん。固ゆでだよ」

この状況で、朝食のメニューに注文がつくとは思いもよらなかったので、
私は少々面食らいながら答えた。

373 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:20

「それに、トーストとバターなんてイヤ。
美貴は焼き立てのクロワッサンにブルーベリージャムが食べたい」

彼女の突然のリクエストに、私は少しの間、考えた。

「それじゃ、明日の朝からは──」

「今すぐ用意して」

私のゆるやかな提案をさえぎるように、彼女は強い調子で言った。

374 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:21

こんな状況で、こんなことにこだわるとは。
市井の調査書に書いてあったように、確かに強気な子だ。少々我侭なところもあるようだが。

私も、普段であれば、突然こんな事を言われたら、腹を立てたり、
相手の気持ちをはかりかねて、疑問に思ったりしたかもしれない。
だが、このときは自分に対して、たとえ我侭であっても、
生の感情をぶつけてくれた彼女を、むしろ嬉しく思っていた。

「わかったよ。近くの店に仕入れにいかなければいけないから、すぐに、とはいかないけれど、
なるべく待たせないようにするから」

私は、ベッドサイドのテーブルの位置まで戻り、トレイを持ち上げると、ドアの方へと向かった。

────!

次の瞬間、突然背中に強い衝撃を受けた私は、トレイに両手をふさがれていたこともあって、
簡単にバランスを崩して、前のめりに転んだ。

当然、私の手から放り出される格好になったトレイは、その上物を派手な音とともに床に投擲した。
カップは割れ、その中身は絨毯に褐色の染みを広げた。

顔を上げた私の目に、開け放たれた入り口のドアが映った。

375 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:21

ゆっくりと起き上がって振りかえると、彼女の姿はなかった。

私は転んだときに強く打った肘をさすりながら、ドアの外に出た。

薄暗い蛍光燈が、打ちっぱなしのコンクリートの床と壁を照らし出していた。

右手は掃除用具入れのロッカー。正面は、壁。左手には……階段。

376 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:22

狭い階段を上りきった踊り場に、重い鉄扉の施錠されたノブを、必死にガチャガチャと回している彼女がいた。

私が上がってきたのを認めると、彼女は悪夢から逃れようとするように後ずさり、
すぐに背後の壁に背をはばまれ、そのままずるずると床へと座り込んでしまった。

「何なの、これ、一体……」

ひざを抱えて、私の方を見ようともしない。

「ここはずいぶんと古い建物でね──」

私は、彼女に語るともなしに、この建物の由来を話しはじめていた。

377 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:23

ここは、第二次大戦前中、某元子爵だったか──良く覚えていないが、そんな人物が別荘として建てたものだった。
おそらくは防空壕代わりに、地下にこのような空間を用意していたものだろう。

その後時代はめぐって、私の父がここを入手したときに、
何十年も使われていなかったこの地下室を発見した、という経緯だ。
父としても、いずれ売り物とするときのことを考えたのだろう。
とりあえず施してあった基礎工事からすると、ワイン倉庫にでも改造しようとしていたようだった。

私がここを手に入れたときには、まだ周囲をコンクリートで固めただけの状態だったものを、
今回こうして彼女を招待するために、再度手を入れて、今の状態に至る。

378 名前:採集者 投稿日:2004/04/17(土) 19:27

「まるで、牢獄じゃん……。で、美貴は囚人ってとこ?」

薄暗い照明の元で、彼女は皮肉とも自嘲ともつかない引きつりを片頬に浮かべた。

「そうしていたいなら、しばらくは構わないけれど、この床は冷えるからね。
部屋に戻ったほうがいいと思うよ。……私は、絨毯の掃除をしているから」

彼女の言葉──囚人、という表現は、少なからず私を悲しい気持ちにさせた。


そうじゃない。私は君と理解し合える時間が欲しいだけなんだ!


喉まで出掛かったその言葉を、私は口にできなかった。
今の彼女にそれを言ったところで、理解してもらえるはずもないことは、明白だったから。


379 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/25(日) 19:34
怖いですね〜
コミュニケーション能力のない人が増えている現在では
十分有り得てしまうような話かも知れませんね
380 名前:dusk 投稿日:2004/05/06(木) 22:15
>>379 名無飼育さん
 ありがとうございます。
 そうですね。相手の気持ちを考えない人が増加している現在、
 このような話はあり得ない話ではないのかもしれませんね。
381 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:19


――――――――――――――――――――――――――――――



382 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:21


翌朝。
私は彼女からリクエストされたとおりの朝食メニューを手に、ドアを開けた。
彼女は目覚めて、髪を梳かしているところだった。

「おはよう。よく眠れた?」

私の問いかけに、鏡に向かい、私に背を向けたままの彼女から、返事はなかった。
部屋の中央の机の上には、昨夜の夕食が手つかずでそのまま残っていた。

「食事を摂らないのは感心しないな。
昨日君が言ったとおりのものをそろえたから、今朝はちゃんと食べて欲しいよ」

彼女はゆっくりと、こちらを向いた。
やつれの色を浮かべつつも、真剣な眼差しの彼女は、未だ十分美しかった。

383 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:24

「取り引きしよう」

「取り引き?」

彼女に見惚れたせいもあって、私は間抜けにオウム返してしまった。
とっさに彼女の言う意味を、把握できなかったのだ。

「美貴がいつまでここにいたらいいのか、期限を決めるの。
あなたが言うように、美貴にあなたのことを理解させたいのなら、その期限までに努力して。
もしそれで、できなかったとしたらおそらく一生かかっても、無理なことなんだよ。
それはそれであなた自身の責任ってこと。どう?」

彼女が食事も摂らずに、昨日からずっと考えていたことは、これだったのだろうか。
私が彼女をここに招待した理由を逆手にとって、最終的には私の問題として突きつけてきた。

私が彼女の提案を拒否したら、どうなるだろう。

彼女が、私の持ちかけるすべてのことを拒絶するような事態だけはなんとしても避けたかった。
そう考える私に、反論の余地はなかった。

384 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:25

「わかった。私も、永遠に君を拘束できるとは思ってない。私の希望を言うよ。
二ヶ月。
その間に、私は君に理解してもらう努力をするよ」

「冗談じゃない。そんなの長すぎ。よくて二週間、それが限度」

「一ヵ月半」

「三週間」

「一ヵ月だ!これ以上の妥協はしない」

私は、少し苛立ちを覚えながら言った。

385 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:27

「……分かった。一ヵ月ね」

少しの間の後、彼女は言った。
おそらくは、彼女としても、交渉の余地として、そのくらいは見込んでいたのだろう。
そんな感じの諦め、あるいは妥協、といった様子だった。

「他にもいくつか要求があるの。まず一つはお風呂。ここの簡易シャワーじゃ全然入った気にならない。
それから二つめに、一日一回は外の空気を吸わせて。
完璧な空調だかなんだか知らないけど、ここに一日閉じ込められていると、息が詰まっておかしくなりそう。
三つめに、両親に手紙を書かせて。いくら美貴でも親を心配させたまま、放っておけないし」

彼女の言うことは妥当なものだろう。
何よりも私にとっては、彼女がここにいることに同意してくれたことが喜びだった。
だから、それと引き換えにに多少の要求が出たところで、聞き入れるつもりにはなっていたのだ。

386 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:29

「分かったよ。用意する」

私の返事を聞くと、彼女は満足したようで、ようやく食事の席に着いた。

その後の食事風景は、私から見ると、少しがつがつしすぎなような気もしたが、食欲があるのは良いことだ。

私はそんな彼女の姿を確認しながら部屋を出た。

彼女のためにすることはたくさんあった。
まず、バスルームを磨いて、それから封筒と便箋を買いに出なければ……。


387 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:31


こんな田舎でエアメールの封筒を入手するのは、意外に手間がかかることだった。

もちろん、ただ入手すればよい、というだけならば話は簡単だ。

だがこの場合、万が一にもこれが元で彼女の居場所が知れることは避けなければならないのだ。

だから、私は普段買い物をする地元の商店街は避け、隣町の百貨店まで足を伸ばした。
全国にチェーンを持つ、こういったところで手に入る、大手文具メーカーの商品のほうが足がつきにくい。
そう判断したためだ。

その他にも、不足していた細々とした日用品を補充したせいもあって、
別荘に帰り着いたときには、予定していた昼時を二時間ほど過ぎてしまっていた。

私は申し訳なく思いつつも、戻る途中で買い求めたできあいの食事を携えて、すぐさま彼女の元を訪れた。

388 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:32

「遅くなってごめん。とりあえず、食事はここに置くからね」

彼女は、見るともなく、といった調子でページをめくっていた画集から顔を上げた。
私がテーブルに置いた食事には、何の関心もないようであったた。

「手紙は?」

必要最小限の用件以外、私とは口をきく気もない。そう言わんばかりの聞き方だった。

「ちゃんと用意したよ」

それでも、私は素直に買い求めた封筒と便箋を彼女に渡した。

「ふうん……」

私が渡したそれらを、彼女はさしたる感慨もなさそうに、表裏と眺めた。

389 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:35

「書く中身は君に任せるけれど、当然書いたものはあらためさせてもらうから、そのつもりで。
……どこかに『友達のところに世話になっている』とでもつけ加えておいてもらえるかな」

私の言葉を無視するように、彼女は封を切った便箋にさらさらとペンを走らせはじめた。


数分して、彼女は私に書きあがった便箋をよこした。
母親に当てた、当たり障りのない伝言メモのような文面だった。

『思い立って、旅に出ています。一月ほどマンションを開けますが、心配しないで下さい。
今は大学の友達の実家にお世話になっています……』

要約すると、そんな内容だった。

私はそれだけ確認すると、彼女が差し出した、既に表書きの書いてある封筒に、
その便箋をきれいに折りたたんでしまおうとした。

指先の抜けていないドライビンググラブをしたままだったので、これには若干骨が折れた。
だが、便箋に彼女以外の指紋を残すわけにはいかなかった。
だから私は、いらつく気持ちを押えて慎重にその作業をこなした。

390 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:36

もたつく手元に注がれる視線が気になってふと横を見ると、心持ち不自然に、彼女が目をそらした。

その仕草に腑に落ちないものを感じつつ、私は今度はグラブを外して――いくらなんでも封筒は、不特定多数の指紋がついていても問題ないだろうと確信していたからだ――封筒の口を水で濡らして貼ろうと洗面台のほうへ向かいかけた。

「!」

そのとき私の指先は、グラブの上からではわからなかった、明らかに便箋のものとは異なる厚みを感じとった。

封筒から先ほどの便箋を抜き出しのぞきこむと、その奥に、小さく折りたたんだ紙切れが仕込んであるのがわかった。

抜き出して広げてみた。

391 名前:採集者 投稿日:2004/05/06(木) 22:37


『助けて』


「これはどういうこと?」

「……」

彼女の返事はなかった。答えようも無かったのだろう。

私は無言でそのメモと、便箋、封筒をびりびりに破いて床に捨てた。
言葉にできない怒りを押さえることができなかった。

私はそのまま部屋を後にした。
戸口で振り返ることすらしなかった。

後ろ手で思い切りドアを閉める直前、彼女の嗚咽が聞こえてきたような気がしたが、
私自身の手で叩きつけたその音にかき消されて、よくはわからなかった。

振り返り、ドアノブに手を掛けて数秒その場に立ち尽くしたが、
それを再び開けることが、そのときの私にはできなかった。


392 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:05



――――――――――――――――――――――――――――――



393 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:07
夕方になって、自分でも冷静さをとり戻せたと思った私は、ようやく彼女の部屋を訪れる決心をつけた。

ドアを開けると、彼女は絵を描いていた。モデルは、鏡に映った彼女自身。

私はしばらく、その姿と、描かれつつある作品をを眺めていた。

絵の中の彼女は、暗い瞳をしていた。

「何か用?夕食には少し早いみたいだけど」

彼女の背中が、言った。
その声は、描きかけのキャンバスが発したようにも思えた。

「バスルームの準備ができたから、よければ、と思って」

「……分かった。今支度するから」

先ほどの刺々しさを、幾分弱めて彼女は言った。
そして、スモック代わりに羽織っていたダンガリーシャツを脱ぐと、準備をはじめた。

394 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:08

「もしかしたらまた、気分を壊してしまうかもしれないけれど、これを着けてもらうことにするよ」

私は鈍く光る手錠を、彼女の目前にぶら下げた。

「ここは構造上、屋敷とは別になっているからね。
そっちに行くには一旦外を経由しなければならないんだ。
私としてもリスクを犯すことは避けたいからね、悪いけれど」

彼女は一瞬、信じられないものを見る目をして私を凝視した。
だが、すぐに諦めの表情をして、私の前に両手をそろえて差し出した。

395 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:09

「もちろん外に出たときに、新鮮な空気を吸いたい、という君の要求はかなえられるよ」

私は、彼女の片手にその金属の輪をまわすと、そのまま彼女の背後に回った。

「もう片方の手を出して」

「背中で留めるの?本当の囚人みたい」

彼女は、嫌悪感のこもった声で言った。

「悪いとは思ってる。でももし、走って逃げようなんて考えられると、私としても厄介だから。
こうしておけば、その気にもならないでしょ?」

「……」

彼女の答えは、なかった。

396 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:10


そのまま私と彼女は、部屋を出て、短い階段を上った。

重く錆をふいた鉄扉を押し開けると、夕暮れ時の空気が、乾いた晩秋の木々の香りを、辺りに漂わせていた。

私は彼女の後ろから、その肩を軽く押すようにして行き先を促した。

「もうひとつだけ言っておくよ。
もし君が屋敷に入るまでにおかしなそぶりをしたら、迷わずこれを、使わせてもらうからね」

私はポケットから黒い握りのついた機具をとり出すと、あえてスイッチを入れて見せた。

397 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:12

その先端からほとばしる、高電圧の青白い火花は、彼女の心胆を寒からしめるには十分すぎるほどの威力を発揮したようだ。

無理もない。
大の男でさえ、数秒で昏倒させることが可能な衝撃を、彼女は一度体験しているのだから。

脅えの表情を浮かべる彼女に、私は微笑んだ。

「恐がる必要はないよ?素直に従ってさえいてくれるなら、何もしないから」


398 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:13


地下室の扉は、ちょうど屋敷の裏手に位置していたので、私と彼女は、そのまま建物を半周する形になった。

その間、彼女は抵抗しなかった。
その代わりそれから後、バスルームの入り口まで、私の問いかけに一切答えようともしなかった。

屋敷──別荘の入り口を入ると、二階まで吹き抜けの玄関ホール、
その奥の扉を介して食堂、食堂の扉の手前から向かって左手が二階への階段、という造りだ。

玄関ホールに入って、入り口を施錠すると、私は彼女の戒めを解いて、二階へと促した。

「ここの造りは見てのとおりだよ。某元子爵は相当な西洋かぶれの人だったみたい。
一階はほとんど人が集まるための空間だからね。来客用のバスルームはこっちなんだ」

私は先に立って階段を上がり、上り切った正面に近い扉へと、大切なお客様を案内した。

「どうぞ、ごゆっくり。必要と思われるものは、中に用意してあるつもりだから。
それから一応、私はここで待たせてもらうから」

二回の通路は、階段を上りきったところから、内側に手すりを巡らせるようにして、屋敷を半周している。
私は、その通路に用意した椅子に掛けると、バスルームの中に消える彼女の背を見届けた。

399 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:14

彼女が中に入ってすぐ、バスルームのドアノブが数回、空回りする音が聞こえた。
私はそれで、もうひとつ言っておくことがあったことを思い出した。

「君のプライバシーを侵害するつもりはないんだけれどさ、
そこに立てこもられたりするのは困るから、内側からは施錠できないように細工させてもらったよ。
それから、入り口横の棚に入浴に要るものは並べてあるから自由に使ってよ。
……危ないものはとり除いてあるから、探すだけ無駄だけれどね」

彼女が何かをつぶやいたような気もしたが、続いて聞こえてきた水音に、すぐにかき消されてしまった。

まあいい。中の窓も、にわか作りではあるが、固定してしまっていることだし、彼女も変な気は起こさないだろう。

400 名前:採集者 投稿日:2004/05/20(木) 23:15










コンコン

───!

十五分ほどして、バスタブに湯をはる音が途切れたころに、屋敷のドアノッカーが二度、鈍く響き渡るのが聞こえた。


401 名前:採集者 投稿日:2004/05/27(木) 02:55



――――――――――――――――――――――――――――――




402 名前:dusk 投稿日:2004/05/27(木) 02:59
気分転換に違うお話を書いたんで、ちょっとupさせて下さい。
一つはすごい短い話で、もう一つは短編くらいのお話です。

まずは一つめのから。
403 名前:蒼闇月 投稿日:2004/05/27(木) 03:05



  「蒼闇月」



404 名前:蒼闇月 投稿日:2004/05/27(木) 03:07


バシャ―ン…!!

真夜中に凛とした静寂を破る水音。

世界が暗転してから、一体どれ位の時が経過したのだろう?

目覚めると、身を横たえていたのは、暗く冷たい場所だった。

「…ココハドコ?」

声の代わりに、幾つもの気泡が空へと昇っていった。

其れを辿って見上げれば、遠くに小さく揺らめくのは…まあるい光。

綺麗な綺麗な翡翠色をした満月が、自身を静かに見下ろしていた。

………そうだ、そう。此処は水の中。

ふわりと身体が浮き、足が尾びれに変化していることに気付いた。

ぼんやりと靄のかかったような意識の中、不思議と恐怖や違和感はなく、

彼女はサカナのように自在に水中を泳ぎまわった。



405 名前:蒼闇月 投稿日:2004/05/27(木) 03:12


そうして…


月が沈み、やがて世界が明るくなると、彼女は全てを思い出した。

現実を受け止められなくて、この湖に自ら身を投げた事を…。










悲しくはなかったのに

其の瞳から

真珠の涙が一粒零れた。


406 名前:蒼闇月 投稿日:2004/05/27(木) 03:14


   終



407 名前:dusk 投稿日:2004/05/27(木) 08:27
↑主人公は、い(ry 卒業…
なんか分かりづらくて、相変わらずunhappyendな話ばっかですいません。
次のお話は多少明るいと思います。
408 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/06(日) 21:42
under the cherry treeの話、とあるEVAのHPで昔見たことが・・・。
同じ作者さんですか?
そこでは、市井→カヲル 吉澤→シンジ 後藤→アスカ でした。
409 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/07/01(木) 23:34
今日一気に読ませていただきました。
ここでの吉澤はリアルから受ける印象とかなり違いますが、思わず引き込まれました。

「採集者」は今一番気になってる二人です。まだマイナーなんでうれしいです。
この元ネタは名作ですよね。
子供の頃観てすごく怖くて、去年たまたま観返してやっぱり怖かったです。
密室の二人がこの後どう変化するのか楽しみにしています。
410 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/10(火) 00:04
続きまだかなぁ(・∀・)
411 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/12(木) 00:12
ochi
412 名前:名無し飼育さん 投稿日:2005/02/01(火) 13:09
続き待ってます

Converted by dat2html.pl v0.2