おにぎり

1 名前:名無し猿 投稿日:2004/02/22(日) 21:28
初めまして。アンリアルいしごま書きます。
色々突っ込みどころは満載かと思われますが、生温くそして暇潰しにでも
目に留めていただければ光栄です。よろしくお願いします。
2 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:29
「いやーっ!寝過ごしたぁーっ!」

布団を跳ね除けて目覚めるなり、甲高い声が狭いアパート内に響き渡った。
石川梨華、19歳(を迎えたばかり)。
職業、会社員。もうすぐ社会人歴1年目。

ベッド脇の目覚まし時計がけたたましくベルを鳴らしていたのは覚えてる。
早朝、部屋の中の冷え切った空気に体を震わし、八つ当たり気味に目覚まし時計を
叩き付けたことも、覚えてる。
あと5分…あと5分、呪文のように唱えて、それから。
…それから?

3 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:30
「あぁーんもぉ、あたしのバカァー」
バタバタと散らかった部屋の中を右往左往しつつ愚痴を零すも、
朝の習慣というか何と言うか、出勤スタイルを整える作業は無意識に進む。

顔を洗って歯を磨いて。
髪をブローしてスーツに着替えて。ナチュラルメイクを施して。

「おはよー梨華ちゃん。朝ご飯、食べてく?」

コートを羽織って鞄を抱え、いざ出陣!と玄関に直行する梨華の背中に、
場違いにのんびりとした声が投げ掛けられた。

4 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:31
「あ、あ、あー今日は時間ないからいい!ごめんねっ!」
「んぁあいいってことよ。行ってらっさーい」
「行ってきます!………っていうか、起きてたんなら起こしてよ!!」

激しい口調で同居人を叱責すると、「あはぁごめーん」と全く心の篭らない
お詫びの言葉。でも寝坊したのは自分の責任。
「はぁ、」と溜息を漏らすに留めてそれ以上の文句は飲み込んだ。

平日。朝。デジタル時計にAM8:15の表示。

慌しく仕度を整え、パンプスを履いてアパートを出るまでに要した時間は約7分。
狭いキッチンに面したリビングの中には2人分の椅子に、小さな円卓。
その食卓上にはやっぱり2人分の焼き魚と生卵とお味噌汁と、伏せたお茶碗。
部屋の隅に置かれた14インチのテレビから、抑揚の無い声でニュースが流れている。

5 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:31
「あああんもぅホントに遅刻しちゃーう!」
そんな平和な朝の風景を全く無視して、梨華は勢い良く玄関から飛び出していった。
玄関に並べられていた幾つかの靴が、あちこちに蹴散らされて転がって。

しっかりと和風の朝食を用意していながらも何故かコーヒーを啜っていた真希は、
同居人の嵐のような身支度を半ば感心して眺めていた。

「朝ご飯はねぇ、しっかり食べないともたないぞぉ社会人」

6 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:32
独りごちながら、マグカップを置くとのそのそとキッチンに移動し、ご飯をよそう。
梨華はどうだか知らないが、真希は取り合えず朝食を採らないとその日一日を
乗り切ることが非常に難しい。
生卵は割っていないから1つは冷蔵庫に戻せばいいだろう、
お魚は2つとも食べちゃおう、お味噌汁は大目に作ってあるから鍋に戻して
夜にでも温めて梨華ちゃんと一緒に飲もう。今日のは自信作なんだ。

高校生である真希にとって、しかも3年生でこの時期は自由登校の身であるため
比較的 ――― というかバイトに勤しむ以外ほとんど暇である彼女にとって
急ぐ、慌てる、という概念は存在しない。

ほかほかの白いご飯に生卵をかけて、いざ口に運ぼうとしたその瞬間、
「忘れ物ーっ!」
叫びながら玄関のドアが乱暴に開いた。
「車の鍵忘れちゃったわよ、もぉ!」
怒りを帯びた調子の独り言は、やはりキンキン甲高く響く。

7 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:33
一瞬、口を開けたままぼうっと梨華を見ている真希と、目が合った。
そして、梨華の表情がやや憮然としたそれに変わる。
何よ何よ、あたしはこんなに時間に急かされて朝ご飯食べる余裕がないっていうのに
(もちろんそれは自分のせいなのは分かってるけど)呑気に大口開けちゃって ―――

が、すぐに本来の目的を思い返し、
玄関脇に取り付けてあるキーボックスから、車のエンジンキーを引っ掴む。
デジタル時計は現在AM8:17と表示して。

8 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:33
「ごっちん!」
「はい」
鬼気迫る勢いで名前を呼ばれ、素直に返事。
うらめしそうな目でちらりとテーブルの上の逃した朝食に視線を走らせた後、
「今日の晩ご飯はオムライスがいい!」
「…らじゃ」

力の抜けた笑顔と敬礼を返すのと、再び梨華の姿が玄関ドアの向こうに消えるのは
ほぼ同時だった。
バタバタ、遠ざかっていく荒れ模様の足音。

ようやく卵かけご飯を口に到着させ、既にいない人物に「行ってらしゃ〜い」と
ひらひら手を振って。もぐもぐ、ごくん。
「あ、漬物あったっけ」
冷蔵庫から白菜の浅漬けを取り出して、優雅な食事タイム。
納豆も食べようかな。いや、それじゃ食べ過ぎかも。

9 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:35
もぐもぐ。
ぱくぱく。ごく。ごく。
ふはー。
「そういえば」
しばらく食べ物を消化する作業に没頭した後、真希はふと思い出したように呟いた。

「オムライスと味噌汁って、合うかなぁ?」

10 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:35

◆◆◆
11 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:36
石川梨華19歳、後藤真希18歳。
2人の関係は高校の先輩後輩というもの。それだけ。
学年も部活も違えば性格も全く異なる2人は、共通の友人を通して知り合った。

それほど親しい友人関係を築いていた訳ではなかったが、体育会系特有の
上下関係を重んじる梨華にとって、礼儀や遠慮など無関係に振舞う真希の大らかさ
は決して嫌なものではなかった。

そして、真希も。

押しが弱く、頼み事をされると困った顔をしながら絶対に嫌だと断ることの出来ない
1つ年上の少女をからかい半分に慕っていて。

だから、現在に至るのだ。互いの性格の相違が、この同居の発端となる。

12 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:37
ちょうど1ヶ月程前の話。
午後7時30分を回った頃、仕事を終えて帰宅した梨華が上下スウェット姿で
バラエティ番組を何気なしに見ながらコンビニ弁当を摘んでいた時に鳴ったチャイム。

こんな時間に新聞の勧誘?
訝しがりながらも、そこは真面目に居留守を使うことの出来ない梨華が「はぁい」と
答えた後に、「りーかーちゃーん」と小学生のような挨拶の声。
…この声は、と懐かしいような不思議な気持ちでドアを開ければ、案の定。
「えへへへ。久しぶりィ」

やや離れ気味の目尻を下げて、人懐こく微笑む少女は確かに、
「ごっちん?」
そう、長い髪がばっさりと短くなったことを除けばまるで変わらぬ後輩の姿。
「どうして、急に…」
言い掛けて、梨華の目はある一点に釘付けになった。
真希の足元に、でんと置かれた大きな黒いショルダーバッグ。
ぱんぱんに膨れている形態から、相当中身が詰まっていることが容易に想像できるそれは。

13 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:37
「えへへへへ」
不敵に笑い掛ける後輩と、大荷物。
何となく嫌な予感が全身を走り抜けたその直後、真希は明るく言い放った。
「家出してきちゃった」
「…………え」
「だから、しばらく泊めて?」
「ええ!?」

満面の笑顔でサラリとのたまう真希を前に、梨華はひたすら、呆然唖然。
梨華の反応を予測していたのか、真希は飄々とした態度を崩さなかった。

14 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:38
真希には、梨華より仲の良い友人がいるのを知っている。
けれど、彼女は自分の元に来ることを選んだ。
思い当たる理由はある。

真希の友人のうち、同級生はほとんどが親元で生活しているため、そこに真希が
居着いてしまえば当然、親から親へと連絡が届く。即、家出終了だ。
かといって、先輩といえば。

何日も居座るつもりならば、ある程度気心が知れていなければ成り立たない。
1人暮らしをしている真希の年上の友人を、全て把握している訳ではないけれど、
少なくとも梨華が知る限り、安易に高校生の家出を許すような人はいない。
社会に一足早く身を置いているからこそ、厳しい意見を突きつけるだろう。

15 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:39
そもそも大前提として、完全なワンルームに住んでいる者は除外される筈。
生憎、というか何というか、梨華のアパートは小さいながらのキッチン付きで
洋室1部屋に和室が2部屋ずつの1人暮らしには広い作りで。
娘にとことん甘い父親が、いい物件を探してきたのだ。知人の伝手を頼ったとか、どうとか。

和室の1つは自分の寝室、もう片方はほとんど物置と化してあったのだが、
何度か友人と連れ立って遊びに来た事のある真希は、それを覚えていたのだろう。

16 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:39
「ね、お願いしますぅ可愛い梨華ちゃん。ちゃんと食事代とか入れるからぁー」
「え、いや、あのねごっちん。そんな、突然言われても、っていうか来られても」
「そーそー、後藤暇だからさぁ家事全般お任せしてくれていいよぉ」
「…そーじゃなくて」

困惑する梨華を余所に、おじゃましまぁすとさっさと靴を脱いで大荷物を抱えた
後輩はずかずか部屋に上がり込んだ。
最初から梨華の都合など意に介せず。
というか、断られるなど微塵も考えていない様子。

「散らかってるねー」
「ほっといてよ」
「なに、コンビニのお弁当?侘しい食生活だなぁ梨華ちゃん」
「いーでしょ別にっ」

17 名前:1. 投稿日:2004/02/22(日) 21:40

勝手に他人の部屋に上がりこんでおいて、やたら態度がでかいのも彼女の特性か。
きょろきょろと不躾に部屋を見回してから、不意に振り向いてぺこりと頭を下げる。

「そいじゃ、お世話になりまーす」
「……あ、うん」

勢いで頷いてしまい。駄目とは言えず。やはり、拒絶できない梨華だった。
そしてそれが、全ての始まりだった訳で。

18 名前:名無し猿 投稿日:2004/02/22(日) 21:42
こんな感じで進めて行きたいと思います。
放棄だけは絶対しないように頑張ります( ^▽^)人(´ Д ` )
19 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/23(月) 19:16
いしごま同棲か・・・萌えw
続きが楽しみです。頑張ってください!
20 名前:名無し読者 投稿日:2004/02/24(火) 00:24
かなりめちゃめちゃうぅんと楽しみなのが始まったかも(w
めちゃ面白いですねー
すっごい先が楽しみです^^d
21 名前: 投稿日:2004/02/25(水) 20:28
「オムライスと味噌汁って、合うかなぁ?」
この一行からごっちんののほほんさとか優しさとか
いろいろ伝わってきますね。思わず笑みがこぼれてしまいました。
アンリアル自分には書けない部類なので尊敬しちゃいます。
続き楽しみにしてます。
22 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/27(金) 22:35
面白いかも!期待
23 名前:1. 投稿日:2004/02/28(土) 10:30

事前に何の連絡もなく、脈絡もなく、荷物を抱えて現れた後輩は、
それを全く大事とは考えていないあっけらかんとした顔で「家出してきた」と告げ、
どういうつもりか「だからここに泊めろ」と続けた。
家主の承諾を得る前に、彼女、後藤真希は居座ることを決めたようだった。

――― よろしくねー梨華ちゃん。え、いつまでかって?さぁ、いつまでだろーね。


だから、正確に言えば真希は同居人ではなく、全くの「居候」といって良い。
突然押しかけて、勝手に居着いただけのこと。

それでも口約は守るつもりらしく、炊事洗濯などはきっちりこなすし、バイトで稼いだ
給料も食費として梨華に渡してくる。
ただ、掃除だけは苦手というか嫌いらしい。
梨華自身も掃除や整理整頓は横着してしまうタイプなので、アパートの中は大概、汚い。

24 名前:1. 投稿日:2004/02/28(土) 10:31

高校卒業と同時に親元を離れ、1人暮らしを始めた梨華にとってこれほど他人と
長く生活し、時間を共有することは初めての経験だった。
同じことは真希にも言えるだろうが、案外これが上手く行っている。

他人事にはあまり頓着しない真希が相手だからこそ、というのもあるが、それ以上に
真希の作る食事は抜群に美味しかった。
元々、料理は好きだという彼女の腕前は知っていたけれど、
毎日温かいご飯が用意されているのは単純に嬉しいもの。

「おかえり」の声と、食欲をそそる美味しそうな匂い。
シャワーを浴びるだけで済ませていたのが、たっぷりとしたお湯に浸かって
はぁー極楽、などと寛ぐことのできる日々。

言ってみれば、家政婦が住み込みで居るようなものだ。食費だけ払って。

25 名前:1. 投稿日:2004/02/28(土) 10:31

順調に共同生活を送りながらも、気になることはあった。
真希の家出の理由が、ずばりそのものだ。
本人は「親と喧嘩して」との弁解だったが本当にそれだけだろうか。
それに、彼女の親も心配していることだろう。

おせっかいとは思いつつも先輩としての義務だと、同居して2日目に
梨華は真希に内緒で、仕事場から後藤家に連絡を入れた。

しばらくの間、真希ちゃんは私の家に泊まるみたいなんですけど、
あの心配なさらないでください、私も1人暮らしで寂しかったので嬉しいんです ―――
とか、そんな内容のことを。

26 名前:1. 投稿日:2004/02/28(土) 10:32

案の定心配していたのだろう、電話口で応対した真希の母親は明らかにほっとした口調で
すみません、ご迷惑かけますね。ありがとう石川さん、邪魔になったらすぐに
蹴り出してくれていいから、忙しいでしょうに本当にごめんなさいね、―――

しきりに頭を下げている様子が、見なくても充分伝わってきた。
時々、梨華の携帯には真希の母から連絡が入る。
「本当に迷惑じゃないかしら?図々しい子でねぇ、全く」
迷惑、とは思っていないけれど、後半部分は同感だった。


そんなこんなで、1ヶ月が経過した今は共同生活も落ち着いていて。
梨華の会社勤めには全く支障はないし、真希も家事をするのは楽しそうだ。
近所のコンビニでのアルバイトは昼間が多かったし、時々高校にも行っている。

27 名前: 投稿日:2004/02/28(土) 10:33


28 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:34

この日、梨華が帰宅したのは午後7時少し前だった。
愛車のワゴンRを駐車場に入れて、一発でぴたりと定位置に納めたことに
ささやかな満足感を得る。
遅刻はぎりぎり免れて、仕事はさしたるミスもなく。
デスクワークより立ち仕事が多かった今日はいつもより、足がむくんで疲れてるけど。

1日を無事、平和に終えた安堵感。家に帰れば美味しいご飯。
体は正直に疲れているけれど、部屋の明かりを見ると自然と顔が綻ぶ。

「そぉだ、こないだ貰った入浴剤、使っちゃお」
最近、隣の部屋に越して来た新婚さんが挨拶周りの際に差し出してきた、
バラの香りの入浴剤。小さなことでも、胸は躍った。

29 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:34

「ただいまぁ」
「おっかえりー」

テレビから流れる笑い声と共に、緩みきった返事が梨華を迎える。
「今日はけっこー早かったね」
「ん、まぁまぁね」

以前より寄り道が減ったせいもある。自炊を滅多にしない梨華は、真希が来る前は
ほとんど外食か買い食いで済ませることが多かった。
今は、その必要がないから。真っ直ぐ帰ってくるので帰宅時間も早い。

「ご飯できてるよ、オムライス。リクエストどぉり」
「ありがとっ。着替えてくるからちょっと待ってて」

30 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:35

ぱたぱたとスリッパでキッチンを横目にリビングを横切り、自分の部屋に向かう。
同時に、コンロに点火する音。スープでも温めるのだろう。
あぁごっちんレンジも使ってる。オムライス冷めちゃってたのかな。
結構早かったね、なんて言ってたけど、いつ作ったんだろう。待たせちゃったのかな?

手早くスーツを脱ぎ捨て、高校時代の愛用ジャージに腕を通す。
初めは散々、真希に「だっさー」と遠慮なく笑われたものだが、今は梨華の寛ぎ
ファッションがどんな格好であれ何も言わない。慣れたのだろう。

外で気張っている分、家では徹底して楽な格好を選ぶのだ、それが梨華の主張。

31 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:36

ピー。
ストッキングとワイシャツを脱衣籠に放り込んでから手を洗い、リビングに戻ると
丁度レンジがオムライスを温め終わったところだった。
「わ。おいしそ」
「ふふん。おいしいに決まってるでしょ。誰が作ってると思ってんの」
自信満々に言ってのける真希も、褒められて悪い気はしない。
素直にはしゃぐ梨華を見て、嬉しそうにニカッと笑う。

32 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:36

「付け合わせは後藤シェフ特製の味噌汁だよー」
声を弾ませてお椀を2つ、リビングに運んでくる真希を見て梨華が首を傾げる。
「オムライスにお味噌汁?合うのそれ?」
「やーだってさー、朝、誰かさんが食べてくれないから余ってんだもんさ」
「うっ…嫌味…」
「まぁまぁ、美味しいことに変わりはないから、黙って食え」
「命令したぁ。ご主人様に向かってぇ」

さり気なく、朝食に手をつけなかった(というよりつける暇がなかった)梨華に対し
遠まわしに報復してくる居候相手に開き直る。
わざと偉そうに腰に両手を当てて仁王立ち。「ご主人様」を強調して膨れ面。

「はいはいすんませんご主人様黙ってお食べください」
「心が篭ってなぁい。それに、言葉を丁寧にしただけで内容変わってないよ」
「細かいことは気にしない気にしない。それより冷める前に食べるぞぉ」

33 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:37

年下相手に、軽くいなされる家主=梨華。
ああだこうだと言い合ってるうちに、真希がさっさとスプーンをオムライスに突き刺した。
生意気な居候に文句を言い足りない感は残っていたが、美味しそうに自作の
オムライスを頬張る真希に釣られて梨華もスプーンを口に運ぶ。


「うん」
「おいしいでしょ」
「おいひい」

偉そうな物言いにも腹を立てる気は起きない。
真希の自信を裏づけする料理の腕は、確かに上々なのだ。
素直に感想を述べた梨華を見て、真希は満足気に微笑むと今度は味噌汁に手を伸ばした。

34 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:38

食事の間、ほとんど会話はない。いつものこと。
テレビから流れる賑やかな喧騒だけが、リビングを支配する唯一の音源となる。

やがて先に食べ終わった真希が「ごちそぉさまー」と手を合わせ、ようやく2人に
会話らしい会話が戻った。

「早いよごっちん。もっとゆっくり味わって食べればいいのに」
「味わってるよ。梨華ちゃんが遅すぎるだけだって」
「ごっちんが早過ぎるのッ」

35 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:39

真希が先に完食するのも、梨華を「遅い」とからかうのも、いつもの光景。
大体、一緒に暮らし始めてから分かったことだが何をするにも梨華は遅かった。
というより、彼女なりのペースが他人と比べて緩やかだ。
風呂に入るのも、洗濯物を干すのも。
本を読むのも着替えるのも、往々にして真希より先に梨華が終えることは滅多にない。

今朝の様に切羽詰った時にこそ、鬼人のような素早さを発揮するけれど、その嵐同然な
荒れ切った被害を残す梨華の「本気」は、誰より同居人且つ家政婦と貸した真希にこそ
最大の迷惑を与える。
だから当然、真希にとってみれば歓迎すべき事ではなかった。

36 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:39

「さてと。食後のコーヒーでも飲もうかな」
「あ、あたし紅茶ね。ミルクティがいいな、今日は」
「まだ食べてるでしょ、梨華ちゃんは」
残り四分の一程度残ったオムライスを視線で示し、真希は無下に言い捨てて
さっさと自分の分だけマグカップを手にしてキッチンに向かった。

ポットからお湯を注ぐ真希の背中に向かって、梨華はべーっと小さく舌を出す。
ちょっとついでに紅茶煎れてくれるだけでいいのに、ケチ。
「あのさー、梨華ちゃんさぁ」
はわはわはわ。
不意に真希が声を上げて振り向く様子が見えたので、梨華はぎょっと慌てて
残りのオムライスをかっ込んだ。

「……何そんな焦って食べてんの。味わって食えっつったの誰だっけ」
「…んんんんん」

37 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:40

むぐむぐ顎を上下させ、ちょっと詰め込みすぎたかなと思いつつも振り向いた真希の
怪訝な様子など知らん振り。ついでに彼女の突っ込みも知らん振り。

小さく首を傾げながらも、真希はそれ以上梨華を追求するつもりはないらしい。

「そういえばの話なんだけど」
湯気の立ち上るマグカップを手に、真希が戻ってくる。
「そういえば、何?」
何となく、威圧感の篭る彼女の声に梨華は無意識に身構えた。

「空気が読めない」と職場の同僚にも高校時代の友人にも耳にタコができる程
言われ続ける梨華だけど、こと真希に関しては僅かな声色の変化でも、彼女の
機嫌くらいは察知できるようになっていた。
1ヶ月半の同居生活は伊達じゃない。

38 名前:2. 投稿日:2004/02/28(土) 10:41

だから分かる。
―― ああ、なんか文句言われそうな気配。

39 名前:  投稿日:2004/02/28(土) 10:42


40 名前:  投稿日:2004/02/28(土) 10:42


41 名前:名無し猿 投稿日:2004/02/28(土) 10:43
レスがついている!…ありがとうございますありがとうございます。

>19 名無し飼育さん
    萌えな展開とか表現がもっと上手くなるよう頑張ります。
    初レスありがとうございます!
>20 名無し読者さん
    期待をかけていただいて光栄です!
    期待外れだったとがっかりされないように努力しますので。
>21 @さん
    現役いしごま作家さんからのレスは嬉しいと同時に緊張しますた;
    自分にとってはリアルをあれだけ上手く表現できる@さんの方にこそ尊敬しますよ。
>22 名無し飼育さん
    2回目の更新で「やっぱりつまらなかった」と思われないといいですが…
    どうでしょうか?   

更新しました。これからもう少しキャラを増やしていくつもりです。
軽く流し読みでもしてもらえれば幸いです( ^▽^)人(´ Д ` )
42 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/02/28(土) 21:29
いやー、ここのいしごまイイ!!続きがめっちゃ楽しみです!
43 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/06(土) 02:05
今更いしごまはないと思ふ
44 名前:名無しさん 投稿日:2004/03/06(土) 05:56
いしごまのアンリアルものは少ないので楽しみです

>>43
そう思うなら読まなければいいのでは
45 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/06(土) 19:20
こんな作品あったなんて気づかなかった。
いしごま好きですよ〜(ごま絡みの中でもベスト3に入るくらい♪)
ほんと、面白いと思います。
後藤が何を言い出すのかドキドキ…(w
続きが楽しみです。
46 名前:ナナシ 投稿日:2004/03/07(日) 17:29
続きがすっごく楽しみです!
作者さん頑張って下さい!応援してます。
47 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:49


「梨華ちゃん、よっすぃーに言ったでしょ」
おもむろに、真希が口にしたのはそんな言葉で。

48 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:50

「……何を?」
「だーかーら」

予想していた内容と違う。
はて?と首を傾げる梨華に、真希は苛々とやや口調を荒げた。
「後藤が、梨華ちゃんちに居候してること、よっすぃーに喋ったでしょ」
「あ、……言ったけど」

「それがなに?」と、困惑気味に梨華の眉毛が下がる。
未だ真希の発言の意図が掴めない。
どうもさっきから、2人の論点は噛み合っていないようだ。
49 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:50

「何で言っちゃうかなぁ、内緒にしてたのにー」
「え?」
「後藤は誰にも言ってなかったんだよ?梨華ちゃんちに居ること」
「……」
「あーあ、梨華ちゃんのせいでバレちゃったよー。ったく」
「…っていうか、ひとみちゃんに話してなかったの?あたし、とっくにひとみちゃんは
 知ってるものだと思って…」

明らかに自分を責める口調の真希に対し、益々理解不能に陥る梨華。
何故なら。
よっすぃー=ひとみちゃん。
なる彼女は、真希のクラスメイトにして唯一無二の親友の名前だからだ。
その仲は、真希と梨華のそれより余程長く且つ、親密のはず。

真希が梨華の家に居候している事実など、とうの昔に伝達済みのことだと勝手に
思い込んでいた。特に秘密にするような事でもないと。
50 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:51

机に肘をついて、真希は呆れた様子で「もぉー」と盛大な溜息を付く。
ぶぁか、だなぁ梨華ちゃんは、と続ける愚痴には、さすがに黙っていられない。

「どうしてあたしが馬鹿なのよ、だってごっちんとひとみちゃんは親友同士でしょ?
 普通、ごっちんが話してるって思うじゃない」
「言わないよ、わざわざ。よっすぃーがどんな行動に出るかなんて、想像つくじゃん」
「え?」
「面白がって、『ウチも泊まりに行く!』とか言い出すに決まってんでしょ!」

数秒の間が空く。
ちらり、と梨華が真希を盗み見ると、むすっとコーヒーに口をつける年下の彼女。
時として自分以上に大人びて見えることのある彼女は、視線こそテレビ画面に
向けられているものの、内容などまるで気にしていないのは一目瞭然だった。
51 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:52

「……そう言われたの?」
「言われた」
「……ひとみちゃんに?」
「よっすぃーに」
「……あたしが、ごっちんがうちに居候してるって話したから?」
「他に、情報源があるの?」
「だからあたしのせい?」

半目で、真希の目が梨華を映して。
もう一度、テレビに視線を戻して。コーヒーに口をつけて。
ごくり。
そしてようやく、「梨華ちゃんのせい」と、こっくり頷いた。
52 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:52

「どうしてあたしのせいになるのよ!?」
「逆ギレ…」
「だってここはあたしの家なんだよ、いいじゃない誰が来たって、ましてひとみちゃん
 なら問題ないわよ友達なんだから。それとも喧嘩でもしてるの?」

猛然と反発する梨華を仏頂面で見つめながら、真希はあああ、と2度目のワザと
らしい溜息を吐いてゆるゆると首を振った。

「喧嘩とかとは違うけど。……はぁ、もういいや梨華ちゃん鈍感だから」
「何それ、どういう意味よ」
「どうとでも受け取ってくださいよご主人サマ。お風呂入ってくる」

これ見よがしに再び、数えて3度目の溜息をついて。
真希はぱたぱたとスリッパの音を立てながら自分の部屋へと消えた。
すぐに着替えを持ってリビングに戻った彼女は、無言で洗面所へと向かう。
53 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:53

「あ、ずるいっ!今日はあたしが先に入ろうと思ってたのに!」

はっと思い出して慌てて叫ぶも、既に風呂場のドアは閉められた後だった。
間髪入れず、シャワー音が聞こえてきた。
「……バラの入浴剤…使いたかったのに」
いじけた表情で誰に言うでもなく呟く。

真希が出た後で自分が入る際に使えばいいものだが、人一倍生真面目な梨華は
居候相手とはいえ勝手に使ってしまうことに引け目を感じてしまう性質である。
例えそれが、貰ったタダの入浴剤であってもだ。
そんな所が、真希に目を付けられた要因なのだろうけども、持って生まれた性格は
簡単に直せるものではない。
54 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:53

「もぉ、ごっちんのバカ。バカ。ばーか」

むうううう。
何だか居候の彼女は機嫌を損ねたようだが、その原因がいまいち判然とせず
すっきりしない気分のまま、梨華は自分のために紅茶を煎れた。
――― 今日は疲れたから、思い切り甘くしちゃえ!
クリープを2つにステッィクの砂糖を2本入れる。

「うぇぇ…あっまーい」
キッチンからリビングに戻り、1人それを啜ると甘ったるさと侘しさが同時に広がった。
こんな中途半端な苛々感。さっきのやり取りが原因なのは明らかだ。

(何なのよ、一体)
「ごっちんてば何でひとみちゃんに話したこと怒ってるのか分からないし」
55 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:54

付けっ放しのテレビからけたたましい笑い声が響く。
勿論、内容が頭に入っていない梨華には何が面白いのかさっぱり分からないが。
「勝手に先にお風呂入っちゃうし」

(ごっちんのせいなんだから)

ざあざあと、風呂場からシャワーの音が聞こえる。
こうしてても仕方ない、洗い物でもしてようかな。

(先にお風呂入っちゃうし、紅茶は甘過ぎるし、テレビは面白くないし、ごっちんが
 勝手に怒ってるし、入浴剤は使えないし……オムライスは美味しかったけど)

だから全部、真希のせいなのだ。
56 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:55

釈然としない気持ちを抱え、梨華は食器を洗いながら悶々と、真希が風呂から
上がるのをひたすら待った。
冬だけど、お湯は使わない。冷たい水でじゃぶじゃぶ泡を濯いでいく。
――― 『お湯で洗うとね、手が荒れるから』
そう教えてくれたのは確か、同居し始めの頃の真希だった。

分かんない、分かんないよごっちんの馬鹿。
勝手に理由も分からず同居人が怒っているのは、気持ちの良いことじゃない。
原因くらいは聞かせて欲しい。
57 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:55

確かに、吉澤ひとみに対し真希が梨華の家にいることを伝えたのは梨華自身。
しかし。
吉澤ひとみは梨華と同じ中学出身の後輩で、真希とひとみは高校の同級生で、

『ごっちん、紹介するね。彼女が梨華ちゃん。ウチの中学ん時の先輩。黒いでしょ』
『梨華ちゃん、紹介するね。彼女がごっちん。同じクラスの友達。魚ってるでしょ』
『『一言多いっ!!』』
――――
言わば梨華と真希を引き合わせたのは彼女、そう、吉澤ひとみがきっかけだったと
表現しても過言ではないくらいの存在なのだ。

だから梨華は、真希が怒っているのが腑に落ちない。
多数の友人に触れ回った訳じゃない、それにひとみに話したのは彼女から電話が
掛かってきて「最近どうよ?」ときたから「元気だよ、ごっちんが料理上手だから
凄く助かってるの」と返しただけ。
58 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:56

それについて、ひとみは深く追求してはこなかった。
当然、ひとみは知っているものだと疑わなかったのだ。
なのに、真希はひとみに黙っていた。内証にしていたと言う。そして「秘密」を
喋ってしまったということで、梨華に腹を立てている(ように見える)。
訳が分からない。
59 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:56

「だから、ちゃんと説明してよっ!」
「―――― 梨華ちゃん、あのねぇ…」

60 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:57

風呂上りに奇襲をかけた。
と言うと聞こえは悪いが、まさに梨華の取った行動はそれだった。
脱衣所で、寝巻用のジャージにTシャツ姿で濡れた髪をがしがし拭いている所を
「ごっちん!」と叫んで押しかけて。

「……普通、言いたいことがあるからってお風呂場まで来る?
 まだ裸だったらどーすんのさ」

呆れた口調で呟く真希の体からは、石鹸の匂いがした。

口調同様、呆れ返った顔で真希はタオルで頭を拭きながら脱衣所を出て行く。
自分を無視して目の前を素通りしていく真希に憤りつつ、「ちょっと待ってよー」と
その後を梨華はガチョウの親子よろしくちょこちょこと追い縋った。
61 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:58

「ねぇってば、何で怒ってるの?ひとみちゃんに話したらいけなかったの?」
「あーもー、しつっこいなぁ」

冷蔵庫を開け放し、ペットボトルに直接口をつけてミネラルウォーターを飲んで
いた真希は、なおも食い下がる梨華を一瞥し、ぶつぶつとごちる。

「ホント、1度こうなるとしつこいしクドイんだよね梨華ちゃんは」
「ちょっとごっちん、冷蔵庫開けっ放しにしないで!それとミネラルウォーターは
 共用だからちゃんとコップに移して飲んでって言ってるでしょぉ!?」
「うーるーさーいーなー。怒るか質問するかどっちかにしてよ」

バタン!と乱暴に冷蔵庫を閉めて、無造作に濡れた髪をかき上げて。
そして、何でもないことのように一言、口にした。
62 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:58

「よっすぃーに黙ってたのはねぇ、邪魔されたくなかったからだよ」

「…………」


しばし、沈黙。動き、硬直。
―――――
「…え?」
「だから、」
ぼけっと口を開いて思わず聞き返す何処か放心気味の梨華に、僅かに苦笑を
浮かべながらも真希は律儀に言った。

「後藤はさ。今の生活が気に入ってんだ。梨華ちゃんと、生活のペースは違うけど
 上手くやってると思ってる。それが崩されるのは嫌なの、例え親友相手でも。
 だからよっすぃーにも誰にも内緒にしてたんです!」
63 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:59

それが理由だよ、てゆーか別にもう怒ってないからこれ以上うるさくしないでよね
梨華ちゃんの声ってただでさえ頭に響くんだから、と早口に続けて。

「……それって…あの…」
ぼけっと立ち尽くす梨華の横を擦り抜けざまに「これで満足?」といたずらっぽい
声を残し、良い香りと湯気を纏った同居人は再び脱衣所へと消えた。
ブオオオオォォ
少し遅れて、ドライヤーの音が低く響いてくる。
64 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 18:59

「な…」

―――― 邪魔されたくなかったからだよ

(何を?)

たっぷり十数秒ほど経ってから、梨華はへたへたとフローリングの床に座り込んだ。
(び…びっくりした)
ばくばくばくばくッ
自分の意思とは関係なしに勝手に鼓動を早める心臓と。
かーっと熱が上って赤く染まった頬を押さえ、梨華は思わず悔しくなって呟く。

「そんな言い方、反則…」
65 名前:3. 投稿日:2004/03/08(月) 19:00

あんな風に意識せずにサラリと言われて。上手い反応なんて出来ない。
何より悔しいのは、年下の居候に過ぎない彼女が、照れもせずに口説き文句とも
取れる言葉を気軽に口にしたこと。
そして、

(何でドキドキしちゃってるのぉ、あたし?)

―――― 梨華ちゃん鈍感だから

(どういう意味よぅ、ごっちんてば…)
「ただの居候」に。「図々しい生意気な後輩」相手に。
一瞬でも、ときめいたりしてしまったこと。胸が、高鳴ったりしてしまったこと。
それが1番何よりきっと、大問題。

66 名前:  投稿日:2004/03/08(月) 19:01


67 名前:名無し猿 投稿日:2004/03/08(月) 19:02
最初は短編集に載せようと思ったネタが、想像以上に内容が膨らんでしまい
収集つけるのに苦労しています。レスに力をいただき、頑張っている最中です。
本当に、こんな話に感想を下さる方へ、お礼申し上げます。

>42 名無し飼育さん
    いしごまは作者が最も好きなカプなので、良いと言ってもらえると凄く嬉しい
    です。本当にありがとうございます。
>43 名無し飼育さん
    今更、ですかね?少しでもいしごま好きな人に認めてもらえるように
    精進したいと思う日々です。
    期待外れだったとがっかりされないように努力しますので。
>44 名無しさん 
    いしごま作品は減ったと思いますが、やはり萌えるし好きなものは好き
    なんですよね。最後までお付き合いいただけると嬉しいです^^
68 名前:名無し猿 投稿日:2004/03/08(月) 19:02
>45 名無し飼育さん
    いや〜、気付いていただけて本当に良かったです。というか嬉しいです。    
    面白いと言っていただけるのは何より力になります。   
>46 ナナシさん
    褒めていただけるほどの内容に値するか不安ですが、最後まで完結させられる
    ように頑張りたいと思います。

更新しました。
メディアに少しでもいしごまネタがないか、目を皿にして探す日々です。
69 名前:名無しさん 投稿日:2004/03/08(月) 22:50
おお、ごっちんストレートだな。
振り回されっぱなしのいしかーさんが可愛いです。
70 名前:なち 投稿日:2004/03/09(火) 16:31
おもしろーぃ♪2人の関係がどぉ変わっていくのか
楽しみです♪これからも頑張って下さい(^O^)
71 名前:名も無き読者 投稿日:2004/03/09(火) 18:22
面白〜い♪
いしごまは久しぶりに見るので期待してますw
72 名前:45 投稿日:2004/03/09(火) 20:25
更新お疲れ様です。
・゚・(ノД`)・゚・作者さんあんた最高だよ(ぇ
萌えのポイントを掴んでますね〜(私のw
これからは毎日チェックさせて頂きます♪
73 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/09(火) 21:30
積極的な後藤さんに押される石川さんって好きです
続きが楽しみです
74 名前:名無し太郎 投稿日:2004/03/13(土) 00:49
アンリアルで、社会人の石川ってあんまり見なくて新鮮です。
2人の同居がどんな風に展開してくのか、楽しみに見守らせていただきます。
75 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:46

2月、火曜日、午前6時40分。
公立高校3年生、自由登校の身。
後藤真希は、朝からちょっと不機嫌だった。

76 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:46

「いらっしゃいませー」
「ませー…」
「お弁当は温めますか?」
「後ろでお待ちのお客様、こちらのレジへどうぞ」
「……が一点、…が一点…」
「2000円からお預かり致します、367円のお返しになります」
「ありがとうございました」
「――― したー」
「いらっしゃいませ!」
「せぇー」
「………後藤さん、後藤さんってば」
「ああ?」
「そんな怖い顔しないてくださいよ、っていうかもうちょっとこう、愛想よくできません?」

レジの前に仲良く並んだ仕事上の相方が、おずおずと口にした言葉。
何気なしに彼女を振り向くと、何故か怯えた顔で逃げるように目線を外されたりして。
悪気はない、悪意はないけれど ―――― 少々不貞腐れる心情は隠しようもなく。
77 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:47

現在、駅に続くメインストリートに面したコンビニに、真希はいた。
偶然にも、梨華のアパートから原付でたったの約3分で着くその店に、
短期アルバイトとして勤め始めたのは、昨秋の11月ころ。

進路が他の同級生よりもやや先に決定してしまった真希は、これ幸いとばかりに
バイトに精を出そうと考えた。
…訳ではなく、それ程困窮な生活を強いられているものでもなく、ごく暇潰し程度に
続けているだけなのだけれど。

同じシフトに配置されることの多い、同じアルバイト店員の彼女は真希よりも少し、
いや大分、生真面目に過ぎた。
だって別に、「スマイルいくら?」な職業ではない。
レジ打ちは、機械的作業。
78 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:47

真希とてバイトとあらば、営業スマイルくらいは苦にならない。むしろ、楽しい。
だから決して、普段からこうも仏頂面で構えているのではない。
今日くらい見逃してよちょっと気分晴れないんだからさーという言い訳は、自重して。

「別に怖い顔してるつもりはないけど。なに、高橋は後藤の顔、怖かった?」
「え、いやその、そーいった意味ではないんですが…」
「何故に目を逸らす?」
「ええええ、いやぁ、なんつーかその、…怖くないですよ?ただちょっと、
 ぶっきらぼーな感じだったんで…」

明後日の方向に視線をきょろきょろ巡らし、あたふたと狼狽する仕草が何だか
幼くて可愛らしい。
79 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:48

その彼女、
ほぼ同時期に真希とアルバイトとして雇われた高橋愛という少女は、偶然にも
同じ高校の後輩にあたり自然と打ち解けた関係にあった。
大雑把な真希に対し、几帳面でよく気の付く愛。

何度「敬語じゃなくていい」と諭しても、断固として「先輩は先輩です」と言い張る
愛は大人しそうな外見とは裏腹に、意外と頑固な一面も時々伺わせた。

その率直で一本気な所は真希の中で梨華と重なって見えることがある。でも、
…梨華ならば。
愛のように真っ向から反抗したりはしない、押しが弱い。
…梨華だったら。
愛のようにテキパキと仕事を覚えたりはしない、結構とろい。
80 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:49

どこか似ているからと意識すればこそ、異なる面にもよく気付く。
そう、例えば。

「とにかくっ!今は仕事中です!これから忙しい時間帯です!
 2人で力をあわせて頑張りましょうっ!」

まるでスイッチを切り替えたかの如く、愛は健やかに笑って言い放った。
多少強引とも取れる手段で勝手に話を終結させ、愛は「ゴミ捨てしてきまーす」と
たったか外へ出て行く。(というか逃げた)
眩しい程の若々しさとその変わり身の早さに、真希は引き摺られて苦笑する。

(…梨華ちゃんはこんなに、上手く切り替わんないんだよなぁ。演技下手だし。
 ストレート過ぎるし。すぐ顔に出るし) 
81 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:49

今は家でまだ睡眠を貪っているだろうか、
又はそれとも、出勤のため目覚ましに従い起き出した頃か。

(何でもかんでも、いーっつも引き摺るタチなんだ、梨華ちゃんは)
どちらにしろ、思い描く人物像はただ1人。
朝っぱらから自分の機嫌を損ねる原因を誘発した人物。
真面目で、不器用で、一生懸命なんだけど空回り気味な、真希の同居人
――― というか可愛い可愛いご主人様の、彼女。
82 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:49

◆◆◆

83 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:50

早朝4時前、夜明け前のその時間はまだ暗闇。
新聞配達のバイクの音が、微かに脳裏に響く程しか外気から伝わる音はなく。
一般的に言うと、冬ならばまだ「夜」といっても差し支えないその時間。

“二度寝したらお仕置きよっ二度寝したらお仕置きよっ二度寝し…”

放っておけば際限なしに音鳴り続ける目覚まし時計を黙らせることから、
真希の朝が始まる。

眠い目を擦りつつ、午前5時からのシフトに間に合うように起き出して、準備して。
どんなに早い時間だろうが切羽詰った状態だろうが、朝飯だけは抜けない真希は
トーストにベーコンエッグに簡単なサラダ、+インスタントのコーンスープという
割と(真希にとっては)手抜きな内容で済ませたところ。
84 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:50

まだ出発まで時間まで余裕はあるから、と。
半日で終わる自分と違い、彼女は一日仕事だから、と。
(意外とこれでも思いやりはあるのだ、えへん)
自分の分より力を入れて、朝食にサンドイッチでも作ってあげようと ――――

優しい居候はそう思ってたのに、あんにゃろう。

85 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:51

寝惚け眼で彼女が起き出してきたのは、トイレにでも行くためか。
ぺた、ぺたと響く足音は、彼女が裸足であるが故。

くぁぁ、と欠伸を噛み殺しながら自室から出て来た梨華は、リビングの真希を見るなり
黒目がちで細い目をいっぱいに見開き、
一瞬、体を硬直させて、
「あ」、と唇だけを辛うじて動かして、
どうしたのかと訝しげな真希を前に、少女漫画の如く、さぁっと頬を赤く染めた。

まさに瞬間覚醒、瞬間沸騰。
「なんだ早いね。梨華ちゃんおは…」
んぁ?と呆気に取られつつも挨拶の言葉を投げ掛けようとした真希の目の前で、
思いっきり障子が閉じられた。「よ、う?」
ピシャン!
どたどた
ぼふっ

「………」
86 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:51

障子を力一杯閉めて、裸足で床を数歩走って、ベッドにダイブ、
ってとこだろう。なるほど。

ていうかしかし。…そんなに全身全霊、あからさまに逃げなくたっていいじゃんか。
化け物に会ったみたいなリアクション取られたら、さすがに傷つく。
パンにマーガリンを塗る体勢のまま放置された真希は当然、憮然として。

(一晩経ったというのにまーだ照れて顔合わせ辛いってか、あの人は?)

思春期真っ只中、青春謳歌の中学生男児じゃあるまいし。
純情っていうのか、子供っていうのか。
どう考えても年上で、且つ立派に(とは少々言い難いが)勤めに出ている社会人
らしからぬ行動に、呆れるやら疲れるやら。

誰かさんの為に「心を込めて」、作り掛けのサンドイッチに目を落とし、梨華の部屋
に視線を向け、ようやく真希のこめかみに青筋が立つ。
(そういう態度取るわけ?ふーん)
87 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:52

『邪魔されたくなかった』

昨夜、彼女にそう囁いてみた時、「ご主人様」は面白いように動揺していた。
真っ赤になって固まっちゃったりして、
年下の居候に翻弄されてる社会人の彼女があまりに愛らしくて、
(あぁヤバいヤバい、)思わず緩みっ放しになりそうな頬を無理やり引き締めてた。

咄嗟に「お風呂」と口をついて出たのはそんな自分の表情に気付かれぬためだ。
要は、自主的に避難したもの。

梨華に向けて放った言葉の内容が10割真実で、嘘偽りのない純真な気持ちを
口にしたのだ、とはとても言い切れないし、
実際語弊はあるとしても。
多少からかってやろうとか。他意が含まれてはいるけれど。


真希は「居候」であって、人畜無害の愛玩用ペットなどではないんだよ。
そこんとこ分かってるオーナー?
感情もあるし時々でいいから手放しで褒められたいし、
結構、自己顕示欲が強くて、
ぞんざいに扱われるとやっぱり寂しいんだよ、反抗もしたくなるの。

88 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:52

――― が、あれでは意識し過ぎだ。
少しはオブラートに包んだ表現だと思っていたのに。真希としては。

誤解していた。らしい。
石川梨華という1つ年上の時々寝坊する社会人1年生の彼女はもっと鈍感だと思ってて、
もしかしたら言外に匂わせた含みなど、全くスルーしてしまうんじゃないかと。
それくらい、疎いタイプだとうっすら考えていたのだった。

ふむ。ちょっと反省。
というか考え直し。真希が危惧していたほど、鈍感ではないらしい。
まぁ、人の好意を受けるのには慣れてそうだし、告白された経験も豊富だろうから
意外と言ったら失礼なのかもしれない、が。
89 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:53

(ま、いっか。考えるのいい加減もうメンドイ)

寝起きの頭は晴れないし、元々考え事をするのに向かないと真希自ら括ってしまう
様な頭脳では結論など出しようもない、と結論を出す。
梨華のことを思い出すのは一旦、放棄。
ふとコンビニのガラスに透けて、せっせと愛がゴミ箱の周囲を掃除しているのが目に入り。

なるほど彼女は逃げる口実でも、有言実行。
働き者の後輩を見て、仕方ない自分もやるか、とようやくのそのそ行動開始。
90 名前: 投稿日:2004/03/15(月) 18:53


91 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:54

「おす。勤労高校生。しっかり働いてるかね?」
「何しに来たの」
「言うねぇ、大事なお客様に向かって」
「しっかり働いてるから遊んであげる余裕ないよ、あっち行って」

賞味期限切れの弁当を1つ1つチェックしながら、買い物篭に放り込む作業の傍ら。
聞き慣れた声が、軟派口調で呼び掛けてくるのをあしらう。

「えー、せっかく朝早くから会いに来た親友に対して冷たくない?ごっちーん」
「別に頼んでないし」
「んまー何て言い草!」

振り向いて確認するまでもない、仏頂面(というつもりが本人になくとも、無言で
考え事をしているとほぼ周囲からはそう見えるらしい)の真希に対し、
これほどまでに軽い調子で吹っ掛けてくる存在はあまりに稀有だ。

「そんな風につれない所も素敵だよハニー」
「……あのねぇ」
92 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:54

歯の浮くような台詞、本人はふざけてやっているのだろうがあくまで真希は仕事中。
「何しに来たかって聞いてんの」

冷たい視線で睨まれることなど物ともせず。
実に飄々とした態度で、ひとみは手の中の品物を掲げるように。

「買い物だよ、買い物ー。コンビニに軟派しにくるように見える?」
「…見える。よしこなら」
「んっもー、冷たいんだからごっちんてば。ホラ、見える?ゆでたまごにサラダ!
 立派なお客様ですぜこっちは?この店べーグル置いてないからさ」
「はいはい。ゴライテンアリガトーゴザイマス」

大袈裟なアクションは、ひとみの特徴というか特技の一つだ。
ゆでたまごと野菜サラダを舞台女優よろしく高々と掲げるその仕草は、どう贔屓目に
見ても阿呆らしく馬鹿っぽいのに。
美形というのはまったく得だと、真希は思う。何故かそれが、様になる。
93 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:55

「愛ちゃんはあんなにも愛想がよく笑顔も可愛いというのに…ごっちんのこの徹底した
 氷の女っぷりと言ったら…」
「買い物が終わったんなら早く帰りなよ、仕事の邪魔しにきたの?」
「…っていうか、普段より7割増しのその突き放すような物言いは……薄々、勘付いて
 んじゃないの?ウチが朝っぱらからここに来た理由」
「お客様、お会計ならレジの方へお願いします」

「まぁたそんな話ごまかしてー」などとあくまで吉澤ひとみは余裕の表情。
黙々と賞味期限切れのパンを籠に放り込む作業に没頭し(ているように振舞う)
ている真希の正面に回りこみ、わざわざその顔を覗き込んで。
「……だからよっすぃー、仕事の邪魔」
「ひひひ」

徹底して崩さぬポーカーフェイス。迷惑そうな顔の真希と、楽しそうなひとみ。
94 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:55

「もうすぐ仕事終わりでしょ?今日の勤務は8時まで」
「……」
「愛ちゃんに確認したから間違いなし。偉いよねーあの子。この後、学校行くんだぜ?」
「……あのね…」
「何が言いたいか分かる?」
むぅ、と真希が屁の字に口を曲げた。

相対するひとみには、相変わらず悪戯ッ子のような微笑みを湛え、
「梨華ちゃんとごっちんの愛の巣、遊びに行くつもりで来たのさぁ!」
「……ぁそ」
目を輝かせ得意満面に言い放つひとみは、新しい「玩具」を発見した子供のようで、
邪気の欠片も見当たらない。
最早、突き放すのも知らぬ振りをするのも無意味と悟る。

(こうなると思ったんだよ。だから内緒にしてたのに…)

今更心中で零したところで来てしまったものは仕方ない。
こういう場合はあきらめが肝心。
心中でこっそり白旗を揚げて、今度は如何にして早々にひとみを追い出すか、
真希は真剣にプランを練り始めた。
95 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:56

――― でもって。

  
96 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:56

「お疲れさまでしたー」
「おうお疲れぇ。勉強がんばれよぉ」
「はい、行ってきます!」

勤務時間を終え、高橋愛はブレザーの制服に手早く着替えて店を離脱する。
真希はというと、急ぐ用事はないためのんびりとしたものだ。
大体、ロッカールームなど必要ないくらいである。
店員用の制服は薄手のジャンパーを羽織るだけなので、着替えらしい着替えは
ロッカーに仕舞ってある自前の上着と制服を交換するだけ。

と、自身のジャケットを着込んでバッグの覗き。
いつもの癖で、先ず携帯をチェックする。バイト中は持ち歩き禁止だ。
97 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:57

メールが一通、未開封。
朝1度、というより一瞬顔を合わせただけの、ご主人様。


□梨華ちゃん
2/12 7:32
ごめんね
―――――――
サンドイッチおいしかったよ。
いつもありがとう、今日も一日
がんばるね。


(……梨華ちゃんめ…)

98 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:58

「いつもありがとう…今日も一日がんばるね、かぁ。まるで」
「な、いつの間に?ていうか何見てんの、見るな読むなっ!!」

振り向けば耳元に息が掛かるくらいの至近距離から、じっと真希の携帯電話を
覗き込んでいる友人ひとみの姿。
興味津々、目がらんらん。
コラ、お客のくせに店の奥までずかずか入り込んで ――― などと文句を言う前に、
慌てて携帯を折り畳む。がしかし、既に内容はしっかり盗み見られたようで。

「ぷぷぷ。新婚さんみたいだぁねぇ?でも、ごめんねって何のこと?喧嘩でもした?」
色白+中性的な友人の顔が、ニタッと気味の悪い笑みを浮かべる。

「うるさいっての。バカよしこ。邪魔よしこ」
「くぅ……ヒドイごっちん大の親友にそんなこと」
「…………」
「放置されるのが1番辛いって知ってて無視するんだもんな、冷血ごっちん」
「うるさい」
99 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:58

茶々を入れる騒がしい親友をロッカールームから容赦なく蹴り出して。
「ひでー蹴ったーひっでーいてー」と抗議の声がドア向こうから上がるのも、
完全徹底無視。
少しすれば、沈黙する。

はぁ、と1つ息をついて真希は再び、じっと携帯の画面に目を落とした。
(時々、天然でこーゆー風に核心ついてきやがる)

「今日はちゃんと起きれたみたい、だね。梨華ちゃん」
返信しようかと一瞬迷うが、多分今ごろ出勤中、それとも既に出社してお茶汲みなんか
の雑用中?でもって新人仲間と愚痴り中?
どちらにしろ、私用のメールに気付く時間も余裕も、ないだろう。
100 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:59

□梨華ちゃん
2/12 7:32
ごめんね
―――――――
サンドイッチおいしかったよ。
いつもありがとう、今日も一日
がんばるね。

101 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 18:59

(がんばれ)
ニシシ。
再び頬の筋肉が緩んでいくのを自覚して、
慌ててマフラーをぐるぐる巻いた。
少しは、口元に浮かんで押さえきれない笑みを隠すことが、出来るだろうか。


ほんの少し、動揺させようとからかうだけで。
ほんの少し、本音を含ませ様子見するだけ、それなのに。
面白いように反応して、真っ赤になって照れて、困って、恥ずかしがって。

無意識に人の心を掴む術を心得ているのだ、彼女は。
もしかしたらそれは、真希自身だけに通用する術かもしれなくて、だからこそ。
102 名前:4. 投稿日:2004/03/15(月) 19:00

「……参ったなぁーもぉ」

個人用のロッカーに凭れ掛かり、複雑な胸中を吐露するよう呟いて。
予想以上に自身の心を占める彼女の割合が、大きくなっているのに気付く。
微々たる誤差、だけど確実にそれは、計算外。

103 名前:  投稿日:2004/03/15(月) 19:00

104 名前:  投稿日:2004/03/15(月) 19:00

105 名前:名無し猿 投稿日:2004/03/15(月) 19:01
更新しました。あまりに現状はいしごま不足に過ぎる(´・ω・`)…
せめてコント内でも絡んでくれないかなぁとか悲しい妄想したりしてます;

>69 名無しさん
    後藤さんはマイペースで石川さんは巻き込まれ型という感覚が強いので。
    そんな作者的イメージを感じてもらえて嬉しいです。
>70 なちさん
    2人の関係の変化はこの話の軸というつもりで書いていきます。
    できれば(途中で飽きられないことを祈りつつ)またお付き合いください。
>71 名も無き読者さん 
    メール欄に加護同です。いしごまの「らしい」部分を上手く描写できれば
    良いんですけども。他の作者さんの作品に読み耽り勉強してます。
>72 45さん
    萌えのポイント掴みましたか?かなり嬉しいですヽ( ´∀`)ノ
    気が合うかも、などとおこがましくも思ってみたり…どうぞまた読んでやってください!    
>73 名無し読者さん
    自分的には、その形がとても書き易いかもしれませんw 表現力に乏しい文章
    でありきたりな設定かもしれませんが、少しでも気に入ってもらえれば幸いです。
>74 名無し太郎さん
    一時より大分いしごまというジャンルの作品が減ってしまい寂しい限りですね;
    更新はゆっくりめですが、続きもよければ楽しんでもらえれば。

自分的に大量更新(のつもり)です。
また次回、できれば週一程度の間隔で更新できるよう頑張ります。
106 名前:72 投稿日:2004/03/15(月) 19:36
ポヮヮ(*´∀`*)
ごっちんなんかかーいいーww
大量更新お疲れ様です。メールを見てニシシなごっちん萌え!(w
んでもって照れて困りまくる梨華ちゃん…w( ´Д` )w<キャヮ!
次回もキリンになって待っております。
107 名前:名も無き読者 投稿日:2004/03/16(火) 08:59
乙です。
いやぁ絡みなしでここまで萌えな作品は初ですw
いしごまらしさが出てていい感じです。
今回初登場の二人もイイ感じw
では次回も楽しみにしております。。。
108 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/19(金) 22:21
ごっちんの目覚し時計はセーラー○ーンなのか…(w
微妙な距離感と、生活感溢れる描写に引き込まれます。
続きが楽しみです。
109 名前:名無し? 投稿日:2004/03/24(水) 14:49
いっきに読ませていただきました。いしごまの同居イイです!(・∀・)!
自分はいしごま1番好きなんで、これからも期待しています!!
110 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 15:10
レスで上げるなって
111 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 20:10
>>110
まあまあ、気持ちはわからんでもないが、もちっとソフトにさ。

初レスですがここの二人の関係好きです。どっちが大人でどっちが子供なんだか、とか。
石川さんが社会人ってやっていけるのだろうか…そこも目が離せないっすわ。
112 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:21

ねぇ、何か食べる物ない?朝から何も食べてなくて、お腹空いちゃってさー

…おにぎりなら、あるけど…

マジ?やっりぃ、1個ちょーだい!らっきぃもーけっ!アンタ良い人だねー!!

ねぇ、それより………あなた新入生でしょ、入学式出なくてもいいの?


113 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:21
――――
114 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:22

―――― 吉澤ひとみを介してお互いの名を知り、真っ当な「出会い」を果たす前。
初対面ながらそんなやり取りがあったことを、彼女は覚えているだろうか。

115 名前: 投稿日:2004/03/24(水) 22:22

◆◆◆

116 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:23

午後5時15分。規定終務時刻到来。
石川梨華、19歳、主な仕事は雑用ばかりの女子社員。
今日は残業もないし頼まれ事もないし、真っ直ぐに家に帰るぞぉ!と意気込みつつ
化粧直しの真っ最中。

いくら後は家に帰るだけだと言っても、
その帰宅先に待っているのは1ヵ月半程前から居候している後輩1人だけとしても、
身嗜みは最低限整えておきたい。そんな乙女心。
――― ではなく、単純に周りの同僚達の流れに乗って、梨華にもそんな習慣が
身に付いただけのこと。

最も、先輩に言わせれば“社会人ながらノーメイクでいるのはスカートに素足でいる
のと同じくらい失礼なこと”らしいので、化粧の重要性は梨華の思う以上に比重が
大きい…らしい。

117 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:23

新作のルージュを丁寧に引いて、ティッシュで押さえて重ね付け。
先週末、真希と一緒に並んで見ていたテレビで流れたCMで、
『この色さー梨華ちゃんに似合うんじゃない?』
『そっ…かなぁ?』
『うん(多分)』
『…………よぉしっ』
――――

何気なしの彼女の言葉に触発され、次の日に立ち寄ったドラッグストアで衝動買い。
結構単純で、乗せられ易い性格だ。
意気揚揚と帰宅した梨華に、「あ、思ったほど似合ってないね」とあっさり言い放った
ことなど、真希はもうとっくに忘れているだろう。
次の日丸々、梨華が落ち込んでいたことも、おそらく。

118 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:24

とにかく、身支度を早々に整えて。
ずらっと鏡の前に居並ぶ諸先輩方の脇を擦り抜け、素早く化粧室を後にする。
自然と急ぎ足になるのには理由があった。
(さっさと帰ろ、ごっちんと何だか気まずいし)


内緒にしていた、二人暮し。
親友にすら隠し通していたという、意外な告白。
曰く、邪魔されたくなかった、というのが彼女の弁明。
けれど。困惑より先に、酷く動揺する自分がいるのに気付く。

119 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:24

家出して来たからしばらく泊めろと、家に押し掛けて来たことからも分かっていた。
後藤真希という年下の彼女は、一筋縄ではいかない自分本位人間。
(もう…ホントにもう、振り回され過ぎじゃないあたし)

“ただの居候”の冗談のような一言を受けて、
ガチガチに意識してしまい、
正面から顔を合わせることすら適わなず、尚且つ会話も成り立たなかった自身の狼狽ぶり
を少々情けなく思える程には、落ち着きを取り戻している。

朝。目覚し時計よりも早く目を覚ました梨華がトイレに立った時、
思いがけず早起きの真希と鉢合わせになって、心底焦って慌てて。即座に逃げた。
そんな自分の行動も、理解できない。
(怒ってるよね…あんな態度とったら)
機嫌を損ねているであろう居候の少女を思い、足を速める。

120 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:25

「でも、ごっちんにだって原因はあるんだからね」
それでも相手に強く出れない弱気な自分を嘆きつつ、ぽつっと呟いた。


朝食は具沢山のサンドイッチ。
手間が掛かっただろう。
メールだけは送ったけれど、返事はなく。
気にならない筈がない。

121 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:25

ケーキでも買って行こうかな。でも、もう全然気にしてないかもしれないよね、ごっちんは。

感情の起伏が少なく、強気な笑顔が印象深い掴み所のない居候。
いつだって周囲を気にせぬマイペースぶりを如何なく発揮している彼女は、変に機嫌を
取るような真似をすると逆に臍を曲げてしまう恐れがあった。
マイペース。=悪い言い方をすれば、我侭で自分勝手、なのだ。
「居候」という、梨華より遥か下の身分に関わらず。

それでも、相手を怒らせたという負い目を気にしてしまい、
必要以上に気を回す対照的な性分の梨華。

「ベリ工房のロールケーキは美味しいって喜んでたよね。メロン堂の羊羹は甘過ぎるって
 ケチつけてたし……案外ベタに蒲公英屋のショートケーキとかの方が喜ぶかも…」

122 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:26

(怒ってるかなぁ〜…忘れてるといいなぁ…)

会社を出て、すっかり日の落ちた夜空を見上げ、梨華は深く息を吐く。
と、不意にポン、と肩を叩かれびくりと身体を震わせた。
「よ、お疲れ」
「市井さん…」
振り返れば、同じ目線に女性が1人。

細身のパンツスーツに、モノグラムのショルダーバッグ。
ごくシンプルな装いであるけれど、彼女の身に付けている物のほとんどが
梨華にはとても手を出せそうもない高級ブランドであるのは間違いなかった。
最も、目の前のスマートなその女性は、所持品を見せびらかしたり
ひけらかすような気質でない。

1つ年上の会社の先輩、市井紗耶香。
細いしっかりした眉と大きな瞳が、意志の強さを伺わせる。

123 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:26

「今日、この後何か予定ある?夕飯、一緒しない?」
出し抜けに市井が言って、梨華は面食らう。

「え、あたしですか?」
「石川以外に誰がいる?君に聞いてるんだよ」
「……あのぅ…」

予定なら、ない。
しかし、断りたい理由ならあった。

124 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:27

一刻も早く自宅に帰りたい、美味しい夕食を作って待っているであろう同居人の元へ。
即座にOKサインを出さず、むしろもじもじと返答を渋る気配の梨華に、市井は問う。

「ん、なんだよ先輩の誘いを断るっての」
「そぅゆぅわけではないんですけど…」

冗談めかした口調の市井紗耶香の表情は、目だけ笑っていない。
「先輩後輩」関係を前面に出してくるのは柔らかい脅迫だ、と梨華は内心焦る。

別に、食事の同席くらい断る理由はないし、
(むしろ、奢ってもらえるからありがたいくらいなのだ)
市井という女性は頭が良く仕事も出来て朗らかで、社内における評判も上々で
――― 実は梨華も同性として憧憬の念すら抱いていた。

125 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:27

「市井さんに誘ってもらえるのは嬉しいんですけど…」
「なんだ嬉しいの?なら問題ないでしょ、行こう」
「あ、あの…っていうか、ですね」

(でもまだ、ちゃんとごっちんに謝ってないし)

社会人としての立場を弁えるなら、正当な理由なしに誘いを断るのは失礼だ。
まして、それが平素世話になっている相手からなら、尚更。
「ちょ、ちょっと待っててください」
咄嗟に鞄を漁り始めた梨華を見て、市井は怪訝顔。

「何だ、やっぱり予定あるんじゃないの?」
「いえ、そうゆうわけでもないんですけど…」

126 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:28

適当にごまかして退散する、という手法はそもそも梨華の頭にはない。
素直で誠実なのは彼女の美点だが、逆に真希などに言わせれば単なる「不器用」。
先輩に頭を下げながら、バッグをがさごそ。
「スミマセン。ちょっと待ってください」
「携帯?」
「はい。……えぇっと……」

一心不乱に携帯電話を探すけれど。
「あれ?あれ?」

焦れば焦る程見つからない、というのはよくある話。
意外と、手の中に握っていたとかも、よくある話。
しかし、どこをどう探しても見つからない ――― 記憶を辿る。

今日、会社で携帯は使った?…使ってない。
朝起きてからは?会社に行くまでには?
………

127 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:29

「あ!」

突然声を上げた梨華に、黙って見守っていた市井は驚いて目を丸くした。
常人より若干、異質な声の持ち主である彼女の声は、興奮する程に高くなる。
「何だよ石川?」
「ケータイ…家に忘れてきちゃった…」
「はぁ?」

使わなかったので思い出さなかった。
携帯電話を不携帯。しまった、面白くない。しかも非常に困った。緊急事態だ。
朝、美味しいサンドイッチを作ってくれた居候に出したお礼メール。
自室でメールを送信したのは覚えていた。
着替えながら(片手でボタンを止めるのには苦心した)打ったのだから間違いない。

128 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:30

そして?その後は?
真希へ送信後、その携帯はどうした?バッグに入れた?
記憶にない。要は、そのまま机かどこかに置き忘れてきたのだ。

返事が来ないのも当然だった。
携帯が手元にないのだから、受け取ることなどそもそも不可能である。

「別にいーんじゃん?家族にでも連絡するわけ?だって石川一人暮らしなんでしょ」
「それは…まぁそうなですけど…」
「じゃぁ誰に連絡するの?約束とか予定はないんだよね?」
「ないですけど……」

一層訝しげに目を細めて、市井がずいっと梨華の顔を覗き込む。

「もしかして男?男を家に匿ってるとか?」
「違います!」
即答。匿っているのは事実だけど、いるのはただの後輩だ。

129 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:30

妙に動揺させるようなことを口にしていたけれど、
そのせいで馬鹿みたいに意識してしまっているけれど、
我が物顔で居座っている同居人は、紛れもなくあくまでただの「後輩」なのだ。

「怪しいなぁー、本当は男いるんでしょ?で、あんたが毎日食事を作ってやってる、
 とか?だからさっき困ってたんだー。そっか石川にはヒモがいたんだぁ」
「違います違います違います!」

真っ赤になって勢いよく手を振りながら否定する梨華を、市井は半笑いで眺める。
勘の良い者なら、ここらで遊ばれていることに気付きそうなものだが。
そして、真希に毎日のように手玉に取られている梨華には免疫もありそうなものだが。
受け流せず真正面から応対してしまう、損な性格である。

130 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:31

「本当ーに、違うの?男じゃなくて?」
「いませんそんなの!ひ…とり暮らしですからあたし!!」
「へーぇ、じゃ、いいよね。創作料理の美味しい店見つけたんだけど、付き合ってよ」
「わわ、分かりましたよっ」

売り言葉に買い言葉、ではなく。単純な誘導尋問にまんまと引っ掛かり、
勢いついでに梨華は市井の誘いを了承して。
(…あぁ〜!!)
一呼吸置いた後に、ようやく自身の言葉を認識する。
(ごっちんが…ごっちんに…)

131 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:31

「あの〜市井さん、あのぉ〜」
「んん?何だ今更、やっぱオ・ト・コ?」
「違いますぅ!!……あのぉ〜いや、本当はですね〜…あのぅ〜」
「いいから行くよ、ホラ。さっさと歩け歩け」
「ぅぅぅ…」
強引に腕を引っ張られ、為す術く連衡される梨華。先輩命令、逆らえません。

(謝らなきゃいけないのに…携帯ないから連絡もできないよぉ、どーしよぅ?)

かくして今夜、市井のお相手をすることになった梨華。
言い逃れはおそらく不可能だ、同年代の同僚達の中でも1番要領が良く口も回る
市井相手に、梨華程度で上手い対処など出来ようもない。

頭を巡るのは同居人の姿。
(今夜は何作ってくれてるんだろ…)

132 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:32

ただでさえ機嫌を損ねているであろう真希に、余計なことで日に油を注ぎたく
などないのに ――― 普段通り夕飯を用意してくれている彼女に無断で外食するなんて。
怒る、絶対怒る。何で遅くなるなら連絡しないのかと怒鳴るでもなく暴れるでもなく、
静かに静かに、じわーっと身体に怒りのオーラを纏って詰問するのだ。

(何でこうゆうときに携帯忘れるかなぁ、あたしのバカぁ)

泣きたい気分でてくてく歩く。
隣の市井が「結構近いとこにあるんだよ歩きで十分」とか何とか話し掛けてくるのにも
ほぼ上の空でお返事しながら。
脳裏を過ぎる、怒れる年下の居候 ――――

133 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:32

そして。

134 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:33

「……っ遅い!」
「マジで遅いねぇ。連絡もないじゃん」
「何やってんだか梨華ちゃんはもー」
「腹減ったよーう。ごっちん、先食べちゃおうよーひもじくて死んじゃうよー」
「…よっすぃーさぁ、付き合って待ってくれなくていいんだよ?家帰れば?」
「追い払おうたってそうはいかんもんねー。我慢するわい!」
「まぁいいけど。でも確かにお腹空いたぁ…」

ぐうう、と腹の虫が盛大に自己アピール。
情けない顔で、真希は「飯をくれ」と主張する自身のお腹を押さえた。

135 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:33

普段は2人分の料理しか用意されない小さな円形テーブルの中央に、
でんと置かれたるはカセットコンロ。
― 今夜はお鍋にしよ。鍋パーティ。
これなら人数分捌く手間省けるし後片付けも楽だし、と提案した真希の意見に、
― いいねぇ冬はやっぱ鍋に限るし日本人万歳!
押し掛け訪問客・ひとみは意味不明な事を口走りながらも諸手を上げて賛成した。

数時間前には2人で近所のスーパーへ買出しに行って来たり、それすら楽しんだりして。

必要な具材も全てスタンバイオーケー。
後はこの部屋の主人こと、梨華が帰宅するのを待つだけだ。
というのに、一向に帰る気配のないルームマスター。
空腹のため募る苛々。
時計はもうすぐ、午後9時になろうかという時間を指している。

136 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:34

「少なくとも8時を回るときは、事前に連絡くれるんだけどね。
 遅くなるから先食べててって」
「電話してみれば?梨華ちゃんに」

溜息を共に呟いた真希に、ひとみがげんなりとした表情で答える。
そだねぇ、と軽く同意して携帯を取り出し、リダイヤルの履歴から梨華の番号をプッシュ。
人間関係は狭く適度に深く、という持論の真希の携帯電話のメモリーは、決して多くの
件数は登録されていない。
掛ける相手もまた然り。

ちゃららっらららっりろりろりろーん♪

梨華の携帯に呼び出しを開始。
と同時に聞き慣れたメロディーが、耳に届く。音源は近い。

137 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:35

携帯を耳に押し当てた真希と、テーブルに頬杖を付いた体勢のひとみ、
同時に視線を同じ所へ向けた。

「…もしかして梨華ちゃん、携帯忘れたの?忘れて会社行ったの?」
「みたい」
「アホだねー」

同時に顔を見合わせ、真希とひとみはがっくり項垂れる。思わず脱力。
間抜けな曲調の着メロの出先、リビングの隣。
即ちそれはまさしく ――― 待ち人梨華の部屋。ビンゴ。

138 名前:5. 投稿日:2004/03/24(水) 22:37

「…たく何やってんだかあのヒトは」

ぽつん、と机の上に無造作に放り出された携帯電話を手にとって、溜息を深々と1つ。
持ち主に置き去りにされたそれは、延々と無機質な音楽を奏で続ける。
呆れ半分、脱力半分、小首を傾げて眉根を寄せて、真希はぷぅっと頬を膨らす。

目を離せない。世話が焼ける。
これだから放っておけない、おっちょこちょいの彼女。…全く。
「ヨケーな心配させんな、あほぅ」


139 名前:  投稿日:2004/03/24(水) 22:38

140 名前:  投稿日:2004/03/24(水) 22:38

141 名前:名無し猿 投稿日:2004/03/24(水) 22:39
更新しました。また1人登場人物増やしてみましたが。人選考えた方が良かったかなぁと
思いつつ、他に適任がいなかったので「彼女」で変更せずに載せますた。

>106 72さん
    ありがとうございます。毎回読んでもらえてると思うと励みになります。
    マイペースでもやっぱり子供な後藤。照れ屋な石川。そんな感じで( ^▽^)人(´ Д ` )
>107 名も無き読者さん
    ありがとうございます。コンビニバイト経験者ですか?同士ですね。
    何気にメール欄の感想も、毎回チェックしながら楽しみに読ませていただいてます。
>108 名無し飼育さん
    ありがとうございます。この話はアンリアルですが、いしごま特有の
    「微妙なホノボノ感」を目指して書いてます。気に入ってもらえると嬉しいです。
>109 名無し?さん
    ありがとうございます。最初から読んでくださったんですか!
    いしごま好きの同志の方にイイと言ってもらえると本当にホッとします。    
>110 名無し飼育さん
    |´ Д `)ノ …上げちゃいます(コソーリ
>111 名無し飼育さん
    初レス、ありがとうございます。主役2人のあやふやな関係を好んでもらえた
    ようで、嬉しい限りです。ちなみに石川さんは…仕事、どうなんでしょうw

ありふれた小説ですが、感想いただけて本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
次回の更新は少し間が空くかもしれませんが、またよろしくお願いします。
142 名前:春雷 投稿日:2004/03/24(水) 22:50
はじめて読みました。いしよし好きなので、嬉しいです。
設定も、かなり面白いので。
リアルタイムっす
143 名前:ぴけ 投稿日:2004/03/24(水) 23:44
とてつもなく梨華タンがかわいいんですが・・・萌ェ〜
そしてやきもきしてるごっちんが愛しいです。
144 名前:名も無き読者 投稿日:2004/03/25(木) 15:03
更新乙彼〜♪
新キャラの人選は決して間違ってないと思いますよ。
むしろ最近彼女を見る機会が無いので嬉しいぐらいですw
次も楽しみにしてます。
145 名前:名無し 投稿日:2004/03/26(金) 11:27
携帯忘れちゃう石川さんがカワイイです…(*^−^*)
あの人がでてきたのは予想外でした。
ますますおもしろくなりそうですね!
期待してます。
146 名前:名無し 投稿日:2004/04/10(土) 03:11
続きまってますね
147 名前:名無し 投稿日:2004/04/18(日) 20:44
作者さん頑張って下さい
いつまでも待ってます。
148 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:34

「あーいいお湯だったぁ」

首にタオルを掛け、真希のジャージを着込んだひとみが全身から湯気を立ち上らせ、
悠々と風呂から出て来たのは午前0時を回った頃だった。
ぼんやりとリビングで片肘を立てて頬杖を付いた真希が、
見る気もないテレビを眺めながら「んー、」と返答する。

空いた手の先、彼女の綺麗にカットされた爪先が、かつんかつんとテーブルを
何度も打ち付けている。
長らく友人をやっているひとみには分かっていた、
それは真希の機嫌が頗る悪い時の癖 ――― 即ち今、彼女は機嫌を損ねているらしい。

149 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:35

空になった円卓上の鍋。
同じく空になった大皿。無造作に鍋に放り込まれた二膳の箸。
そして、使用されることのなかった一組の小皿に、箸。

結局、「待っていてもしょーがない」「連絡も取りようがない」ことから
夕飯は家主の梨華抜きで、との結論を下したのが3時間前。
未だに待ち人は帰宅しない。
言葉少なに採った夕食は勿論、美味しかったのだけれど。

「梨華ちゃん、まだ帰って来ないの?ちょっと遅過ぎない?」
「大丈夫でしょ、子供じゃないんだから」

突き放した回答の割に、真希の方が余程心許ない顔なのは、口にはすまい。
昔から変わらぬ自己表現の下手な親友に、こっそり呆れながらも。

150 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:36

何でもソツなくこなすくせに、妙に人間関係の構築だけは不得手な真希で、
そんな彼女だからこそ、これだけ深い付合いに至ったのだとひとみは自覚している。
(要は面倒見の良いひとみにとって放っておけなかったって訳だ)

殊更に、真希は梨華のことを「不器用だ」と揶揄することがある。
確かに手先の面や要領の悪さならば、それは事実だ。
しかし、人付き合いの面で言えば真希は決して梨華のことを笑えない。
他人に媚びたり謙ったり。愛想笑いも苦手で群れることを嫌う真希は、円滑な
人間関係を築いているとはとても云い難い。

(だからそう、ごっちんと梨華ちゃんを足して2で割ると、とても“出来た”人間が
 いっちょ上がりってコトだね)

最初は、まるでタイプの違う2人が同居していてしかも、案外それが上手くいって
いるという話は少々眉唾ものだったけれど。
そう、意外と相性はいいのかもしれない、本当に意外な話。
『ご主人様』の帰宅を殊勝に待ち続ける真希を見て、ひとみはつらつらと考える。

151 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:36

「でもさ……もう日付変わっちゃったよ?」
「午前様になって帰って来たことは何回かあるし。会社の飲み会とかじゃないの。
 いちいち深く心配することないよ」
「別に、騒ぎ立てるつもりはないけどさー。梨華ちゃんが、今まで何の連絡もなしに
 この時間まで帰ってこなかったことってあるの?」
「……ないけど…」

濡れ髪をタオルで巻きつけながら、ひとみは親友に話し掛ける。
気を紛らわす為、などと思ったのが裏目に出ているようだ。
徐々に真希の表情が暗くなっていくのが、傍目にもはっきりと分かる。
口調だけは冷静なところが、真希の負けず嫌いな一面を表しているようで、
こんな場面ながらひとみには何だかそれがおかしかった。

152 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:37

「あのさぁごっちん。そんなに心配なら探しに行けば?付き合うよ?」
「だーから。別に心配してないって。大体どこ探すっての」
「ごっちんは気付いてないかも知れないけどさ。
 『どうしたんだろ梨華ちゃん、こんなに遅くまで帰らないし連絡もないし
  朝にも何も言ってなかったのにどうしたんだろ』
 …って、顔に書いてあるの、ごっちんの考えてることは分かり易いんだよー」

おちゃらけたひとみの言い方にさすがにカチンと来たのか、
真希がゆっくりと挑むような視線を返してくる。

「何で、考えてることが分かるの、よっすぃーに?」
おーおー、不機嫌な声出すこと。
「さぁね?内緒だよーん」

何故なら。夕食後から一度も、真希の体勢は変わっていないのだ。

153 名前: 投稿日:2004/04/22(木) 10:37

◆◆◆

154 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:38

―――― どさっ

重い荷物を床に下ろしたような音。
それを皮切りに、不意に、廊下に複数の足音が響き渡る。

おいっ石川着いたぞぉここでいいんだろまったくちゃんと歩けってのこら寝るなぁ
どた、どた、だだだ、べち。
ばぁっか今思いっきり壁に頭打ち付けたでしょ何やってんだよもぉーほら
鍵出せ鍵、早く出しなってだから寝るな!
どたどたどたどたどたどた。


「……?」

155 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:39

話し声に、梨華の声はどうも聞き取れない。
しかし、足音はぴったりと部屋の前で立ち止まり、話し声はドアの丁度真向こうから
響いている。足音の主の目的はここらしい。

「何かな」
「さぁ……とりあえず見てくる」

ぼんやりと首を傾げるひとみをリビングに残し、真希は一応ね、と言いながら
スリッパを突っかけのたのたと玄関に向かう。


こらぁ、もう石川寝るな、鍵、鍵出せこら、座るなよまだ家の中じゃないぞ!
なーにやってんだよ鍵だってばか・ぎ!家入れないでしょもー

(…石川?やっぱ、梨華ちゃん?)

156 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:39

ドア向こうの会話の中に、待ち人の名前を聞き取り真希は主人の帰宅を確信した。
にしてはどうも様子がおかしい、とも。
何故さっさと鍵を開けて入って来ないのだろう。自分が家主のくせに。
普段からどちらかの帰宅が遅い時には、チェーンを掛けないようにしている。
そう取り決めたのも、梨華だったというのに。

真希はかちっとロックを外し、勢い良くノブを回した。

がちゃり
「わあっ!?」
唐突にドアが開いたことに驚いたのか、人影が一際大きな声を上げた。

「……何やってんの梨華ちゃん」
玄関の扉の向こうに予想通り、ご主人様・梨華の姿と。
予想だにしなかった人物の顔が、彼女の隣に並んで ――― というよりも
顔を真っ赤に染め、覚束ない足取りの梨華を、抱き抱える様にして立っている姿。

157 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:40

「あーびっくりしたー、いきなりドア開くんだもんなー石川1人暮らしって言ってたのに」
「ふぁ〜…たらいま…」
「うっわ、酒くさ」

とろん、とした目つきに上気した顔。
梨華の姿は酔っ払った状態そのもので、半ば意識も飛びかけているようだ。

「あ、キミ石川の友達?実はさ、私会社の同僚なんだけど会社帰りに…」

ふらつく梨華を支えていた人影。
若い女性だ。自分達と同じか、少し上と言ったところか。
きちんとした身なりに、整えられたメイク。おそらくは梨華の同僚なのだろうが、しかし。
何よりもその顔、その仕草、その声に覚えがある。
思わず真希の口から、小さく「げっ…」と驚愕の声が漏れた。

158 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:40

それが耳に入らなかったであろうその女性は、いきなり玄関から顔を出した真希の
顔を見ることもなく、ぺらぺらと状況を説明し出した直後。
ようやく彼女の目が、真希を捕らえた。
「………」
じっくり見据えて、「……あ?」その場に固まる。

「ご、後藤?」
「……お久しぶり、市井ちゃん」

159 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:41

「え、何で何で?何で?」

元より大きな目を更に見開いて、その女性・市井紗耶香が口をぽかっと開ける。
顔見知り同士の再会にしては、真希の口調は嫌に冷たい。
加えて、市井が梨華の身体に回した腕を鋭い目で睨みつけ。

「なんで石川んチに後藤がいるワケ?」
「こっちが聞きたいよ。何でこんな時間に市井ちゃんが梨華ちゃん連れて帰るのさ」
「何でって……さっきまで一緒に飲んでたからさ」
「………」

唇を真一文字に結んで黙り込む真希。
折角久しぶりに再会したのに、妙にそっけない態度の真希に戸惑う市井。
その市井の腕に支えられた梨華は、目を閉じ、寝息すら立て始めていて
不穏な空気の流れるこの場に介入することは適わない。

160 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:41

「――― あのー、何か怒ってる?後藤」
「別に」
「怒ってるじゃん。別に、って応える時は大抵、アンタ機嫌悪かったり怒ってるでしょ」
「うっさいな、知った風なコト言わないでよ。とにかく」

スリッパのままずんずんと廊下へ踏み出し、真希の腕が梨華の腰に回された。
しっかりと腕を固定したのを確認して、ぐっと梨華の身体を引き寄せる。
「ぉお、っと」
「梨華ちゃん、もう休ませるから」
結果として市井から梨華を奪い取るような形で、真希が低い声で言い放つ。

161 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:42

「どういう経緯で飲むことになったか知らないけど、梨華ちゃんてすっごい
 アルコール弱いの。っつーか未成年に酒飲ますなんて非常識」
「…やっぱ後藤、怒ってる?怖いよメチャクチャ。それに、石川とどーゆうカンケ」

「ハァ、何言ってんの!?自分が過去にしたこと考えてよね、怒るに決まってんじゃん。
 もう遅いから帰ってよ、さっさと帰って!あと、もう梨華ちゃんに近付かないコト。
 どんな魂胆で梨華ちゃんを飲みに誘ったのか、分からない訳じゃないんだからね」

「いや、だからさ、過去は過去で……後藤ちゃーん、誤解しないで聞いてよ、
 今度はマジなんだ、石川にさ、本気よ本気。で、石川と後藤はどんな関係で」
「もういいから帰ってっつってるんだけど、聞こえない?」

冷たい視線で市井を睨みつけながら、真希の右手がしっしっと追い払う仕草をする。
その拍子に、梨華の身体がずるりと滑ってガクン、と首が揺れた。

162 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:42

「ん…?…」
急に体勢を崩された振動で意識が覚醒したのか、それまで目を閉じてうつらうつら
していた梨華がぼんやり目を開ける。
ふと横を見れば、真剣な眼差しで何やら誰かと言い争う素振りの居候の彼女。
自分の身体をしっかりと支えている、力強い腕。伝わる体温。

「あぁーごっちんだぁー」
「…とと、り、梨華ちゃん?目ぇ覚めたの?」

普段から他人より数割増の甘い声に、更に艶っぽさを加えて。
ぼうっと視界の中、何故かいつもより精悍に見える姿の後輩にぎゅっと抱きつく。
慌てたのは真希だ、意外な梨華の覚醒に驚きつつ、バランスを崩して2人して
倒れないように腕に力を込める。

163 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:43

腕の中で、梨華がくすくすと機嫌良さそうに笑って。
目の前には、少し因縁めいた関係の昔の知り合い。
何だか、何だかなぁドラマか何かみたいだよと気が抜けそうになるのに、渇を入れる。

「支えるの、手伝おうか」
「結構です」

見かねた市井が腕を伸ばし掛けるも、即座に突っぱねる真希。そのまま梨華の耳元に
「悪いけど梨華ちゃん、ちょーっと大人しくしててくれるかな」
囁き掛ければ、
「はーい」
などと、しおらしくコックリ素直に頷いた。
アルコールが入っていなければ、あり得ない反応だ。
164 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:43

「あのさ後藤、ちょっと、よく事態が飲み込めないんだけど、石川んチに後藤が何で
 いるの?休ませるって、え?何何?どーゆーこと」
「別に、大した事情じゃないし。だから帰れって何回言わせる気?」
「……じゃぁ、2人の関係聞いたら、帰るよ」

妙に勘繰り深い性格は相変わらずだ、とうんざりする気持ちを隠そうともせず
盛大な溜息をこれ見よがしに吐いて、真希は徐に口を開いた。
―――― じゃー話すけど、と前置きの後。

ちょっと前から後藤は梨華ちゃんチに居候してんの、でもってその分家事全般は
後藤が担当してんの、だから後藤にとって梨華ちゃんはご主人様なの、最優先なの、
ってゆーか会社の同僚でもこんな時間まで酒飲みに付き合わせたりしないでよね
梨華ちゃんべらぼーにお酒弱いんだからあの状態見れば分かるでしょ大体まだ
このヒト未成年なんだから堂々と外でお酒飲むこと自体間違ってるっつーのー
普通社会人ならそのくらいの配慮して良さそうなもんだけど?

165 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:44

悪意と皮肉をたっぷり込めたマシンガントーク、
目を丸くして呆気に取られる市井を尻目に、
「じゃ、梨華ちゃん送ってくれたことだけいちおーありがとう。はいサヨナラ」
これまた早口に言い切って、
ばたん
市井の鼻先寸前で、勢い良くドアが閉められた。

酔った後輩を送って来ながら、閉め出された形のしばし呆然と立ち尽くし。
階下にタクシーを待たせてあるのを思い出して、ようやくその場で踵を返した。
思い返すは、かつての後輩、後藤真希の自分を敵視したあの態度。
石川梨華を、市井に触れさせるのを許さないというような、あの行為。

166 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:44
  
「まだあの時のこと怒ってんのかなぁアイツ」
困ったように頭をがしがし掻き回し、市井はバッグを抱え直すとコツコツ足音を立てて
しっかりとした足取りで歩き出した。
階下にタクシーを待たせてある。「仕切り直しだな、こりゃ」

167 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:44


168 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:45

よいしょ、という掛け声と共に梨華の身体をベッドに横たえたのは、市井が去って
ものの1分後ほどのことだった。
酔って正常な歩行すらままならない梨華を真希が支え、ようやく「何事か」と顔を
出したひとみにも手伝わせ、彼女の部屋へと2人掛りで運んで。

「…ふはー、はー、疲れた。ありがとよっすぃー」
「いいってことよ。しっかし、梨華ちゃんなかなか帰ってこないと思ったらこぉんな
 ヘベレケになるまで飲んでたのかよぉ」
「お酒弱いくせに、誘われると断れないんだよね、このヒトは」

169 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:46

くーっと気持ちよさそうに寝息を立てる梨華を見下ろし、年下2人が息を切らせつつ
言葉を交わす。少々の物音ではもう、目を覚ます気配はない。
「んんん…ごっちーん」
「う、わぁっ?」
と思いきや、不意に目をぱっちり開いた梨華が手を伸ばし、真希の上着の裾を
引っ張った。油断していただけに、すぐに体勢を崩し床に膝をつく真希。

「ちょ、ちょっと梨華ちゃん?」
寝惚けているのか、梨華はベッドの隣に膝立ちになった真希に覆い被さるように
抱きつき、取りあえず真希はそのまま倒れないよう必死で2人分の体重を支える。
細い腕ながら、しっかり組み付いた梨華の腕は離れない。

「おおーう、刺激的……♪」
濃密に抱き合っている(ように見える)2人を茶化すように、ひとみは頬に手を当て
わざと素っ頓狂な声を上げた。こういったことを面白がる性質なのだ。

170 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:46

「よっすぃー傍観してないで助けてよッ。梨華ちゃん、重い、おーもーいっ」
「何時の間にかラブラブだったんだね2人ってば。そっかー同棲してんだもんな」
「1人で納得して妙な結論出すなっつーの。大体同棲じゃなくて同居!」
「ふふふ……ごっちーん…ふにゃ…」
「キミは寝てなさい」
「はーい」

アルコールのせいで体温が上がっているのだろう、
(身体を支えるため)抱き締めた梨華の身体は、何だか熱っぽく。
それでいていつもより素直。子供のように返事をする様はまさに貴重極まりない。

真希の首に腕を回し、顔を肩に埋めたまま梨華はすぅすぅ寝息を立て始めた。
「しょーがないなぁ、ホントに」

171 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:47

「言葉の割に、満更でもないって顔してますぞ」
「うるさいなっ。そだよっすぃー、洗面所から拭き取り用のメイク落とし持ってきて」
「人遣い荒いんだから…。いくら梨華ちゃんと離れたくないからって」
「離れたくないんじゃなくて離れられないの!いいから行け」

若干、普段より頬が赤く染まっているのは柄にもなく照れているからだろうか。
内心そんなことを考えながら(口にしたら余計憤慨しそうだ)、ひとみは大人しく洗面所へ。
(そっかそっか)
酔っ払った弾みに抱きついた、とも取れるけれど。
(梨華ちゃんもごっちんも……そーゆうことだったのね)
アルコール含有状態の場合、普段は巧妙に押さえている本音が、理性という枷が外れる
ことにより欲望に忠実になるという。

――― お似合いなんじゃん?

場外のひとみとしては、無責任にそんな感想を抱く。ちょっと、面白くなってきたぞ。

172 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:47

「あ、これかこれか」
目的物を発見し、足取りも軽く梨華の部屋へUターン。
「ごっちん、これっしょ?」
「あ、さんきゅ。それそれ」
「ほい」っとメイク落としの箱を放って、ひとみはニヤニヤ笑いを浮かべたまま。

「じゃ、邪魔者は先に寝てるよぉ」
「はあ?何言って…」
「あんまり興奮して大きな音立てちゃダメよ〜ん。そいじゃ、オ・ヤ・ス・ミ」
「ちょっとよしこ!変な誤解しないでよね」

「ひひひひ」薄く開いた襖の隙間から、ひとみのほくそ笑んだ顔が言って。
するーりするーり、緩慢に襖が閉められた。ぴしゃり。
「ったくもー、よしこのヤツ…」
受け損なったメイク落としの箱がベッドの上に転がり、梨華の身体を支えたまま
何とか腕を目一杯伸ばして、手元に引き寄せる。

173 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:48

「梨華ちゃん、寝た?」
「………」
極小に絞ったボリュームで話し掛けても、返事はない。規則正しい寝息を認め、
そして自身に回された彼女の腕からも力が抜けていることを確認し、
ようやく真希は静かな動作で、梨華の身体を横たえた。
「ふぅ…」

思わず溜息。
ほんの数分程度のことなのに、どっと疲労を感じる。
反して、平和そうな表情で幸せそうに眠る、可愛い酔っ払いのご主人様に。
携帯を忘れ、
夕食の時間にちゃんと帰らず、
あまつさえ自歩行もままならぬ程酔った状態で帰宅して。

174 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:48

何より気に食わないのが、あの「市井紗耶香」なんかに抱き抱えられて、送られたりした。
不満だらけで、言いたいことは山ほどあるのに。
(文句も言わせずに寝てるんだもんなぁ)

無防備に、口を少しばかり開けて、呑気に眠っているのだから。
小火に水をかけるように、さっきまでの苛々が嘘のように晴れていく。

175 名前:5. 投稿日:2004/04/22(木) 10:49

丁寧に、丁寧に。
(鼻の頭、ファンデ浮いちゃってるな)
少しずつメイクを拭き取っていく。
(口紅、完全に落ちちゃってるよ)

ご主人サマは、目を覚まさない。眠ったまま、スッピン状態。
仕上げに、たっぷり化粧水を含ませたコットンで充分にパッティング。
「優しいよなー…後藤ってば」
少しだけ、会社用より幼さを増すその愛らしい顔を見て、思わず笑みが零れた。
まったく世話の焼ける。

「おやすみ、梨華ちゃん」

いい夢見てね。文句は明日、たっぷり言わせてもらうから。


176 名前:  投稿日:2004/04/22(木) 10:49

177 名前:  投稿日:2004/04/22(木) 10:49

178 名前:名無し猿 投稿日:2004/04/22(木) 10:50
久しぶりに更新しました。現在、インターネットに接続出来ない状態のため、
なかなか更新ができません…

>142 春雷さん
    ありがとうございます。いしよし好きですか!ハロモニでいつも絡んでますよね…
    いしごま好きとしてはうらやましい限りですw
>143 ぴけさん
    ありがとうございます。茶髪の方が歴史長いと思うんですけど、この話では
    黒髪石川のイメージで。今回は更にやきもきしてます(´ Д ` )
>144 名も無き読者さん
    ありがとうございます。新キャラ市井さんの扱いは結構酷いかもしれないです(笑)
    やっと話が開けてきました。また次回もよろしくお願いします。
>145-147 名無しさん(同一人物の方ですよね?)
    本当にお待たせしてしまって申し訳ありません!でもってありがとうございます。
    更新量だけは多めのつもりですが、中身が伴っているかは;
    待ってくださる方がいると思うと心から励まされます。    

実はまだ自宅のネットが復旧していないため、これからも不定期更新になると思いますが、
放棄だけは決してしませんので気長に待っていただけるとありがたいです。ではまた次回。
179 名前:春雷 投稿日:2004/04/23(金) 00:00
うわっ、なに馬鹿な間違いをしてたんだ自分・・・
はい、いしよしでなく、いしごま好きです。
失礼しました。

ごっちん、手強いライバル(?)出現ですね?
きなが〜にまってます。


180 名前:名も無き読者 投稿日:2004/04/23(金) 17:08
更新お疲れ様です。
酷い扱い・・・面白そうw(コラ
話も開けてきてますます目が放せませんねぇ〜。。。
次回も楽しみに待ってます。
181 名前:名無しさん 投稿日:2004/04/24(土) 01:07
年上なのに介抱される石川さんと年下なのに世話焼きな後藤さんがいいですね
楽しみなアンリアルいしごまスレです
182 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/28(水) 19:59
更新お疲れ様です。
ぐ、あぁあー!!!萌えー!!!
なんか、もうこの2人いいです!もどかしいこの小説が大好きです!
いつまでもついていきますよ(笑)頑張って下さいね。
183 名前:名無し 投稿日:2004/05/18(火) 19:20
更新待ってます!!
184 名前:名無し読者 投稿日:2004/06/03(木) 17:39
いしごまにはあまり興味なかったんですが
作者さんが描くいしごまにはひどく惹きつけられます。
更新お待ちしてます。
185 名前:名のナイ読者 投稿日:2004/06/05(土) 18:16
期待保全
186 名前:名無し読者 投稿日:2004/06/20(日) 04:23
最終更新から2ヶ月…
まだ放置と決めつけるには早い。頑張れ俺!
187 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:03

ねぇ、何か食べる物ない?朝から何も食べてなくて、お腹空いちゃってさー

…おにぎりなら、あるけど…

マジ?やっりぃ、1個ちょーだい!らっきぃもーけっ!アンタ良い人だねー!!

――― “アンタ”、って……あたしね、一応、あなたより年上っていうか…先輩に
あたると思うんだけど、あの…

んー、あー。そゆの、気にする人?いいじゃんたかが数ヶ月早く生まれたかどうかの差だよ?

(……そりゃそうだけど)
ねぇ、それより………あなた新入生でしょ、入学式出なくてもいいの?

188 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:04


189 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:04

ずっと心の奥底に眠っていた思いがある。

今更、聞くに聞けなくなってしまった小さな疑問。
記憶の底に沈んでいた、思い出の断片。それを何故か、最近ふと思い出した。
もう3年近くも前になる、「彼女」との出会いのことを。

190 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:05

春。
桜。
爽快な青空が広がっていたけれど、少し肌寒い日だった。
強く根付いた印象。思い出す時には、いつもその背景が一緒についてくる。


『いやもー朝起きたら入学式の時間ギリギリでさぁ、朝飯ヌキで来たら』
初対面の新入生に、成り行き上渡してしまった梨華母お手製のお弁当。

『お腹空いて式どころじゃなくってさー』
彼女が何ら躊躇うことなく手にしたそれは。

『んー、んまーいこのおにぎり』

―――
191 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:05

……ねぇ、ごっちん ――――

(覚えてる?)

192 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:06

吉澤ひとみという共通の友人を介して「正式に」知り合う前に、
実際は顔を会わせていたその出来事を、
少ない会話を交わしたことを、
美味しそうにおにぎりを頬張る彼女が、無邪気に笑っていたことを。
鮮明に覚えているのは自分だけかも知れないという一抹の寂しさが、たった一言の
素朴な疑問を口にするのを阻んでいる。

あの時彼女は、おにぎりを頬張ってサラリと言い放った。
「こんなにおいしーお弁当を作ってくれる優しいお母さんに感謝だね」
三口ほどで米粒一つ残さずたいらげて、2つ目に遠慮なく齧り付いて。


『お母さんに感謝だね』
そんなこと、彼女に言われるまで考えもしなかった。
だから、その一言はとても重く強く、胸に響いて、5分にも満たない体面の割に、
新入生の彼女の印象は、梨華の中に色濃くその存在を残した。

193 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:06

吉澤ひとみに真希を紹介された時、すぐに入学式の時の「おにぎりの子だ」と気付いた。
あの時、直接聞いてみれば良かったはずだった、
入学式の日、会ったよね?
一言、聞いてみるだけで良かったのに。でも聞かなかった。
「覚えてない」と言われるのが嫌だったから。恥ずかしかったから。


(変だよね。どうして今更、こんなこと思い出すんだろう?)


一緒に住むようになるまで、特別に親しい付き合いなんてしていなかったし。
2人きりで会ったのだって、数えるくらいしかなかったのに。
彼女のことを以前よりずっと身近に感じるようになってから逆に、酷く意識して、
臆病になったり強気になったり。
不安定な感情を、持て余しているのを自覚してる。

…ね、ごっちん。初めて会った時のことって、覚えてる?

194 名前: 投稿日:2004/07/01(木) 13:07

◆◆◆

195 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:07

ごつっ

鈍い音は、自分の耳元で低く響く。
ベッドから滑り落ち、強かに頭を床に打ち付けた痛みで目を覚ました。
「ぅう…いたぁー…」

ぼやっと歪む視界の中、白っぽく広がるそれが天上だと気付いたのは、床に転げ落ちた
そのままの体勢でたっぷり2分は経過した頃だった。
「…っくしゅ!」
寒気と共に盛大なくしゃみを1つ、
後頭部を撫でながらようやく毛布と一緒に起き上がり、妙に動き辛い身体を見下ろす。
「……なんでコート着てるのあたし」

通常より数段枯れている自身の声にはまだ気付かない。
そして、鈍い頭痛が打ち付けた痛みによるものだけではないことも。
勿論、たった今まで見ていた夢など、すっきり頭からは消え去っていた。

「あー…もぅあったまいたぁい…」

196 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:08

ずきずきと軋ような痛みを堪えつつ、姿見を覗き見れば見事によれよれな自らの姿。
髪はぼさぼさ、顔は怖いくらいに浮腫み気味。
どうやら化粧だけは落としていたことだけが、不幸中の幸いというところか。

コートの下に着ていたスーツもブラウスも(当然だが)皺だらけになっていた。
(あぁもうサイテー)
何故、よりによってこんな時に着ているのが入社式用に買った一張羅のスーツなのか。
自身を叱咤してみたところで、問題が解決する訳でもない。

(とりあえず、上下ともクリーニングに出さなきゃ)
(何だかコートも煙草の匂いが染みついちゃってるし)

197 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:08

「あ、梨華ちゃんオハヨー」
「おはよ…」

脱衣所へと向かう際に横切ったキッチンで、朝食の準備をしている真希と軽く挨拶。
寝起きと本人に自覚のない二日酔いの頭痛のせいで、
まだ梨華の頭は正常に働く状態にはなかった。
皺だらけのブラウスとストッキングを洗濯籠に放り込み、再びUターン。

無償に喉が渇いていた。
むしろ、全身が水分を欲している。
「やだなぁもう…体はダルいし…」
それが所謂二日酔いの諸症状であることに、未だ気付かない。

香ばしい匂いの立ち込める狭いキッチンで、フライパン片手の真希と背中合わせに
なるようにして冷蔵庫を開ける。
「…あれ?」
冷蔵庫を開け放したまま、梨華はぐるっと頭を巡らした。

198 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:09

「ごっちん、ミネラルウォーターは?」
「ああ、切らしちゃた」
悪びれず平然と答える真希に、不満げに口を尖らす。
「えー!?だってあれ、あたしが買ってきたのにー」

それでも冷蔵庫の扉をきっちり閉めてから文句を口に出す辺りは、無意識に
律儀な性格の片鱗が現れているからなのだろう。

「だって、昨日の夜よっすぃーが風呂上りに凄い勢いで飲み干しちゃって、
 後藤も止める暇なかったんだもん」
「なんだ、ひとみちゃんが飲んじゃったんだ。じゃぁしょうがないよね」
「うん」

「………」
あれ?
何かが心に引っ掛かるも、矢張りそれにも気付かない梨華。

199 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:09

そこでタイミング良く、リビングの椅子の上で正座をしながら新聞に目を通していた
ひとみが「ごっちんご飯まだー?」と声を上げた。
自分と真希以外の第三者の存在に、ようやく気付く家主。

「もうちょっと待っててー」
「はーいよー」
「っていうか何で普通にひとみちゃんがいるのっ!?」

ごく自然に石川家のリビングに溶け込んでいるひとみを指差し、眉尻を八の字に下げる。
真希が答えようと口を開く前に、自らの甲高い声のせいで「ううう、」と苦痛に呷いて
こめかみの辺りを押さえた。
「それよかもー、頭痛いよぉ…なんなの…?」
「二日酔いでしょ」
「えぇ…?」

冷蔵庫から数歩進んだところで、梨華は思わず床にへたり込んだ。
内側から重く響くような頭痛。覚えがないこともない。
アルコールに弱い梨華、飲んでいる最中にはその自覚がなくなる為、
自身のキャパシティ以上に飲み過ぎてしまうことは何度かあった。
その翌朝、見舞われるこの災難。

200 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:09

「そっか…昨日、市井さんと…」

会社帰りに呼び止められ、夕食に誘われたこと。
続いて市井の行きつけのダイニングバーへ連れて行かれ、そこで飲ませてもらった
小洒落たオリジナルカクテルが抜群に美味しく、
『わぁ、市井さんコレすっごいおいしいです!』
『でしょ。ほらほらもっと飲め飲め。今日は先輩が奢ってやる』
『ありがとーございまーす』
次から次へと注文を繰り返し…
―――― そして、記憶はそこから途切れている。
(最、悪)

またやってしまった。
自分がお酒に弱いことは重々承知しているのに。
自己嫌悪と頭痛の板ばさみで、情けないやら気持ち悪いやら。
「ごっちーん、頭痛いよぉー」
「当たり前でしょ、昨日どんな状態で帰って来たと思ってんの?」
「ごめんなさいぃ…」

201 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:10

微妙に険のある真希の言葉の裏に、市井紗耶香の存在が絡んでいることを
当事者でありながら梨華は当然、分かる由もなかった。
昨夜(ではなく実際は今日だけれど)の真希と市井のやり取りなど、梨華は欠片も
覚えていないのだから。

「ったく世話が焼けるんだから、ホラ」
「…ありがと」

調理の手を止めた真希が、座り込んだ梨華の体を支えて立たせてやる。
「まだちょっと、お酒臭いの残ってんね」
「えー、ホント?…うぅ、頭いたいー」
「もう喋んなくていいから、ちょっとそこで休んでなさい」
「うん」

リビングの椅子に腰掛けさせ、真希は冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「ああそうそう、二日酔いには牛乳が効くんだよねぇー」
梨華の斜め向かいに座っているひとみが、物知り顔で頷いた。
「それと、味噌汁も効くらしいよ。ま、ヨシザワ的には牛乳が1番って感じだけどー」
経験者らしい。(高校生なのに)

202 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:11

「りーかちゃん、平気?」
「ダメかも……」
「あはは、顔色青いの通り越して白っぽくなってるもんねぇ。普段は黒っぽいけど」
「うぅう…ほっといて…」

ひとみの辛口に言い返す元気もない梨華。
新聞から目を離し、そんな梨華の顔をじっと覗き込んでいたひとみは、真希の持ってきた
牛乳をグラスに並々と注ぎ、差し出した。
「とにかくまあ、飲みねぇ」
(何故飲み屋口調?)
「ありがと…」
「久しぶりに会えると思ったら、いきなり酔っ払って帰って来て、次の日見事に
 二日酔いとはねぇ。梨華ちゃんらしくないんじゃない?」

おそらく、ひとみの言葉に他意などなく、純粋な軽口だろう。
人一倍真面目で責任感の強い梨華は、こと後輩の前では必要以上に気張って
振舞う傾向が強い。
とにかくまぁ ――― 真希相手に限って言えば、その法則は成り立たないけれど。
覚えている限り、梨華がひとみの前で酔っ払った状態を見られたなとどいうのは
初めての失態かもしれなかった。

203 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:11

バツの悪い顔で、梨華は俯く。
「いつも、こんなことしてるわけじゃないもん…」
稀なる大失態なのだと言いたい。その力も沸いてこないけれど。

一息に飲みきれない梨華は、4口ほど分けてようやくグラス一杯を飲み干した。
「朝ごはん、出来たよー」とほぼ同時に、真希がクロワッサンサンドとトマトサラダ、
付け合せの野菜スープを円卓に運んでくる。
まぁ、ちょっとしたシェフの様に見えなくもない。

「はい、よっすぃーお待たせ。適当に牛乳注いで食べて」
「わーうまほー。いっただっきまっす♪」
待ってましたとばかりに、ひとみが嬉しそうな表情でクロワッサンに齧り付いた。
余程空腹だったのか、物凄い勢いで食卓上の料理が減っていくのを横目で見ながら。

(あー、ダメ、気持ち悪い…)

204 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:12

普段なら、その香ばしい匂いや美味しそうな盛り付けに、今のひとみと同じような行動に
出る筈の梨華も、さすがに手を伸ばす気にはならない。
牛乳一杯で精一杯。

「梨華ちゃん、食欲ないっしょ」
「うん…ちょっと、やっぱりね」
「シャワー浴びてきなよ。少しはさっぱりするから」
「うん」
真希に促され、素直に梨華は風呂場へと向かう。

「あ、それとね、お湯と水、交互に顔濯ぐといいよ。ちょっとは浮腫み取れるから」
「…ぅ、そんなにヒドイ?顔」
「はっきり言っていい?かなりヒドイ」
「…………分かってるもん」
「えっとそれから、お風呂ん中で寝ちゃダメだよ」
「…寝ないよっ!………つぅ〜頭痛ぁい〜」

言い返した声で再度痛みのぶり返す頭を抱え、のろのろと歩く梨華の背中に
容赦ない笑い声が飛んだ。
「あははははは、すっごい辛そ〜!」

205 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:12

「………」
「ねぇねぇごっちん、最近二日酔いになる程飲んだことってあるー?」
「別に。だって後藤、次の日に残らないタチだし」
「だーよねー!もぉ最近さぁ、ヨシザワいくら飲んでもあんま酔わなくなってきちゃってさー」

……

(うううっ……もうひとみちゃんは立ち入り禁止にしちゃうからぁっ)
頭痛いのにうるさくするし。
全然心配もしてくれてないし。
(大体、酔う酔わないって、まだ未成年だし高校生のくせに早いのよっ)

色々愚痴っても、それは全て心の中で。単に自己管理がなっていないのが何より
最大の原因だと分かってはいるのだ。

(っていうか、何でひとみちゃん、こんな朝早くからウチにいるの?)

206 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:12


207 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:13


ざあざあと頭から熱めのお湯を被って何とか人心地がついて来た。
ダルい体に鞭打ってシャワーを浴びながら、ようやく徐々に正常化してきた頭で
梨華はぼんやりと考える。否、思い出していた。


『梨華ちゃん、よっすぃーに言ったでしょ』
『後藤が、梨華ちゃんちに居候してること、よっすぃーに喋ったでしょ』
『何で言っちゃうかなぁ、内緒にしてたのにー』

事の発端は、梨華が電話上で何気なくひとみに喋った内容だった。
真希と今、実は同居しているということ。何故か、これが意外に上手くいってるということ。
それだけの筈だった。深い意味などなかった。

『よっすぃーがどんな行動に出るかなんて、想像つくじゃん』
『面白がって、「ウチも泊まりに行く!」とか言い出すに決まってんでしょ!』

208 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:13

あははははっはははっは…
頭の中で反響する笑い声は、さっきまでひとみが発していたそれの名残か、それとも
リビングで談笑している彼女のものか、判然としない。
それでも確実に認められる ―――― 確かに面白がっていた。真希の予想した通り、
彼女は問い詰めるまでもなく。


数日前に交わした真希との会話が脳裏を過ぎる。
「喧嘩」とくくるには余りに些細で、
言うなれば、ただの意見の食い違いに過ぎなかったのに。

そういえば。
真希と気まずくなる(というか一方的に顔を会わせ辛くなっただけ)要素を生み出した
原因を思い出した。
「…ごっちんが…あんなこと言うから…」

209 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:14

体が火照ってきたのは、熱いシャワーを浴びているからだ。
前後不覚の泥酔状態で帰宅するような、醜態を晒してしまったのが恥ずかしいからだ。
言い訳を並べて、今度は火照った顔を冷たい水でパッティング。
(変なこと言うから、ごっちんが)
ぱしゃぱしゃ。
(だから、気にしちゃって、ぎくしゃくしちゃって)
ぱしゃぱしゃぱしゃ。

<よっすぃーに黙ってたのはねぇ、邪魔されたくなかったからだよ>

冷静な頭で考えれば、それほど意識するような衝撃的な言葉ではなかった。
なのにどうして、自分はあれだけ動揺してしまったのだろう。
真希は変に思っていなかっただろうか。いや、思っていたはずだ。

様子は変わっていただろうか?いや、確か……
半ば無意識で行動していたさっきまで、特別真希の様子に変化は見られなかった。
梨華より先に起きて、テレビを付けたまま朝食を作り、
二日酔いのちょっとした対策をアドバイスして、ごく自然に。

ごく自然に、そしていつものように笑っていた。
(何よ、ひとみちゃんが来たって全然、普通じゃない)
(邪魔されたくないとか、言ってたくせに…)

210 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:15

ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ。

「…………」
「…………」

『梨華ちゃんは、鈍いから』
ぱしゃっ

「……もしかして、ただからかわれてた?…だけ?」

昨日のやり取りから既に丸一日が経過しようとしていたその時点で、
更に大量の水浴びでようやくはっきり目覚めた梨華の思考に一つの結論が浮かぶ。
「は…」
水をたっぷり張った桶に、心なし強張った自分の顔がゆらゆらと映りこむ。
(あたし、もしかして、1人で勘違いして暴走してたのっ!?)
猛烈な恥ずかしさに見舞われ、かーっと頬が赤くなる。そして、

「……っっくしゅっ!」
水面の梨華の顔が、波紋状に広がり、盛大に崩れた。

211 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:16


「ごっちん、からかったでしょ!」

風呂から上がるなり、髪から滴る雫を気に留めるでもなく剣幕荒く言い放った梨華に対し、
真希の反応は鈍かった。

「はぁ?何、いきなり。目ぇ覚めたの?気持ち悪いの治った?」
「もぉ、絶対これからごっちんの言うことは信用しないんだからねっ!」
「何、え、もしかして怒ってんの?」
「勘違いさせるようなこと、言わないでよバカッ!年上をからかわないでっ!!」

一方的に捲くし立て、梨華はそのままドシドシ足音荒く自分の部屋へと消える。
「「なんだ、あれ?」」
目を丸くして、思わず顔を見合わせた真希とひとみ。
土曜日の午前中、向かい合わせで腰掛けた高校生2人は仲良く首を左右対称に傾けた。

212 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:16

「………何で梨華ちゃん怒ってるんだろうね?」
「さぁ…?」
「さぁ?って、怒られてんのはごっちんでしょ?」
「だって覚えないもん………あ?……あぁ」
「何、1人だけ分かった顔しないでよ」
「ははは。やっぱ面白いや、梨華ちゃんは」


状況を飲み込めない怪訝な表情のひとみを他所に、
(まだ気にしてたんだ、軽い気持ちで言ったのにな、アレ)
真希はさっさと部屋へ引っ込んでしまった梨華の姿を追うように視線を走らせ、
小さく、ひっそりと笑った。
(でも)

彼女は怒っている。
とはいっても、今までの経験から判断するに、あれは照れ隠しの一種に分類される
程度の怒りに過ぎないだろう。
(本当はからかったんじゃぁ、ないけどね)

梨華ちゃんてホント、笑っちゃうくらい鈍いんだもんな。

213 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:16


214 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:17

ホットココアを飲みながら、2人掛けのラブソファを一人で占領している梨華。
きっちり髪を乾かし、ラフな普段着に着替えた彼女はもう、二日酔いに苦しんでいる
でもなく、真希に蟠りを抱えている様子もなく、
すっかり落ち着いているように見えた。

それでも何となく、口元に機嫌の悪さが伺えるのはきっと真希の思い過ごしに違いない。

「ねー梨華ちゃん」
「なぁにっ」
「いい加減機嫌直してよ」
「別に、機嫌損ねてなんかないですぅっ」
「思いっきり喧嘩腰じゃんか、口調が」
「いつもこんな感じだもんっ」
「…………ハァ」

ちびちびをマグカップに口をつけながら応戦する梨華からこっそり顔を背け、
真希はゆるゆる首を振りながら呆れたと言わんばかりに息をつく。

215 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:17

「何よ、溜息なんかついてっ!感じ悪いっ」
「すごい言いがかりだねそれ。せっかくココアいれてあげたのに」
「頼んでないもん」
「しっかり飲んでおきながらよくゆーよね」
「な…」

冷ややかに突っ込む真希にカチンときたのか、目元を吊り上げて梨華が言い返そうと
したその刹那、
「あーもー、喧嘩する程仲が良いのはよく分かったから!」

放っておけば延々と半日は続きそうな押し問答、
整理整頓好きな来訪者が勝手に片付け、見違えるように整然としたリビングの中を満たす
微妙な空気を割って入るように、ひとみが口火を切った。

「しっかしさぁ、ごっちんの料理マジ美味いよね。ウチも梨華ちゃんち、居候していい?」
「「はぁ?」」

216 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:18

単にこの場を盛り上げる為の冗談なのか、それとも本気で言っているのか。
この程度の軽口が日常茶飯事のひとみでは、どちらとも判断出来かねた。
同時に怪訝な声を上げた梨華と真希を、ひとみは面白そうに眺めている。

「なんかさー、いつの間にかごっちんと梨華ちゃん、メチャメチャ仲良くなっちゃっててさぁ、
 ウチもなんつーの?仲間に入れてぇ、みたいな?」

「…別にメチャメチャ仲良い訳じゃないけど」
とは毒気の抜かれた表情の梨華の弁。

「てゆーかダメ。よっすぃーは居候不可」
にべもなく切り捨てたのは真希。

「なーんでだよー」とやはり何所か作り物じみた笑いを滲ませながら抗議するひとみ
を差し置いて、先ず梨華がむうっと真希を睨みつけた。
自分だって居候のくせに。決定権を握っているのは梨華だけだというのに。

217 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:18

「どうしてごっちんがきっぱり断るの。ってゆーか仕切ってるのよ。ここ、あたしの家でしょ」
「あのね、梨華ちゃんは昨日いなかったから知らないだろうけど」
「…」
『昨日いなかった』、を若干強調し、仄かに皮肉を込めた真希の言葉に一瞬、梨華は
ピクリと反応したが ―――― 一応「大人」としての余裕を見せた。受け流し。
「よっすぃーなんかが居候しちゃった日にはもう、平穏なんてなくなるよ?」

「仮にも親友に向かって“なんか”って、ちょっちヒドクないかいごっちん」
無視。
「っもー、ピロピロピロピロひっきりなしに電話掛かってきまくってさぁー。絶対、朝から
 晩までお客が絶えないだろうね、老若男女?押し掛けてくるよ」

「さすがに…おじいさんやおばあさんの知り合いはそんないないけど…」
再度、無視。
「後藤はね、騒がしいの嫌いだから。家ではゆっくりまったりしたいわけ。静かに過ごし
 たいワケ。だからよっすぃーはダメ」

218 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:19

控え目なひとみの反論はすっきり無視して、真希は悠々と持論を吐露し、
背もたれにふんぞり返った。
誰が家主なのか分かったものではない。
居候の分際ながら「家」と断言する彼女に最早、梨華は突っ掛かる気すら起きず。

「…ひとみちゃん、そーなの?」
「まぁ……電話が掛かってくること自体は嘘ではないデスガ」
上目遣いに尋ねる梨華に、若干バツの悪そうな表情で、ひとみ。

人気者の宿命とでも言うのか、また吉澤ひとみという少女の性格からして、
慕ってくる者を無下に断ることのできない性格が災いして ――― 否、影響して、
ほとんど初対面に近い人間との電話でさえ1時間を越えてしまうのは珍しくない。
「でもね、一応反論させてもらうとぉ」

言われっ放しでは立つ瀬がないと、ひとみが矛先を隣の真希へ向ける。
ひとみの視線に従い、梨華の目も同じく真希へ。
「反論って何。後藤は真実を述べただけだけど?」
「ごっちんは黙ってて」
「……ハイ」

(うっわー、梨華ちゃん、顔、こわっ)
明らかに不機嫌モードの梨華に遮られ、どことなく真希は居心地の悪さを覚えていたり。

219 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:20

「言っとくけどね、ごっちん。ウチに電話番号を聞いてくる子たちの何割かは、確実に
 ごっちん狙いだよ?なんつーか、ウチに仲介して欲しい?…みたいなさ」
「まっさかぁ」
軽く笑い飛ばす真希に、意外に真面目な顔でひとみが食い下がる。

「マージーだって。ごっちんは視野が狭いし人見知りで愛想ないから、ウチみたいに
 気軽に声掛けらんないの、特に後輩の子とかはさ」
「そんなの初めて聞くけど」
(つーかドサクサ紛れてかなり毒吐かれてる気がすんなぁ…)

「だって初めて話すんだもん。なんか悔しいから今まで言わなかったけどさ」
「あそ…」
ケロッとした表情であっさり言ってのける親友に、真希は溜息をついて口を噤んだ。

220 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:20

「何ていうの?まだ若い子達ってゆーのはさ、ごっちんみたいに一見クールっぽいタイプに
 弱いんだよねぇ。幻想しちゃうんだろね。クールっぽいのに実は優しいってとこに惹かれる
 つうか。単に人見知りしてるだけってところに気付かないのさ、夢見る少女は」
「……」
「実際に付き合ってみたら、そーゆう子らとごっちんじゃ絶対、場が持たないと思うんだけどさー。
 漫画ちっくなタイプが好きなんだろうなぁって感じ?」
「微妙ーにさっきから不愉快な表現するね、よっすぃー」
「そう?夢見がちな女の子諸君に人気だよって話なんだけど」
「だからそれが…」 
「…へぇ。もてるんだね、ごっちん」

ひとみに食って掛かろうとする真希の言葉に割って入り、低い声で言い放ったのは
二人のやり取りを面白くなさそうにマグカップを両手で弄びながら聞いていた梨華だった。

(…もてるんだね、って。アンタがそれを言うかな…)
昨夜、梨華に対する市井の態度を目の当たりにしている真希としては、梨華の責める
ような言葉に理不尽さを感じないではない。
けれど、面を向かってそれを口にする程考えなしでもない。
「いやだからそれは…」

221 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:21

反論はもごもごと口の中で堂堂巡り。
ジト目で「良かったねーごっちん、モテモテでぇー」
などとちっとも賞賛の感を含まない声で言われても、それはただ畏怖に値するだけの
梨華の言葉に益々萎縮する真希に、ひとみは面白がる視線を向けるだけだ。

何故、自分が針の筵状態なのだろう。別に悪いことをした覚えはないんだけど。
心中こっそり首を捻っても、事態が好転する訳ではない。
仕方ない、話題を逸らすか。

222 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:23

苦手な作り笑顔を浮かべて、
「あ、そーだ。今日はぁ、せっかく3人が久しぶりに揃ったんだし、外はいい天気だし、
 散歩でも行こっか?お弁当持ってハイキング」
明後日の方を見ながら真希が突然の提案を掲げた。
この場しのぎの妙案なのは火を見るより明らかな申し出。
(我ながら、なんてベタな提案なんだろーか)

「ハイキングって…あのさごっちん今、2月だよ?めっちゃ外寒いよ?」
「いいじゃん、歩けばあったかくなるでしょ」
「ごっちん、それ強引過ぎ」

突拍子もない申し出に、当然梨華とひとみは交互に渋って見せる。
(てゆーか後藤も別に外に遊びに行きたいとか思ってないし)
何にせよ、話題を逸らす作戦は成功した訳で、断られようが万事オーケイだ。
が、

「ま、たまにはいっか?気晴らしにお散歩ってのもいいかもね」
「「は?」」
前触れなく、ひとみが笑って肯定の意見を挙げる。
驚いたのは梨華と言い出しっぺの真希で、同時に疑問の声を上げた。
思わずハモッてしまったことに顔を見合わせ、気まずそうに目を逸らす。

223 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:23

付き合い始めの初々しいカップルのような2人を微笑ましげに見守りながら、
「お金を使わずに休みを過ごすってのは良案だよね。
 いやぁ実はさぁ、ヨシザワ今月ちょっとお財布ピンチでさぁー」
屈託ない笑顔でひらひら手を振るひとみの表情に、これまた真意は読み取れない。

発案者ながら戸惑い気味の真希は、それでもひとみに『いやそれ冗談だから』と笑い飛ばす
器用さを持ち合わせてはおらず、
また即座に相手を説き伏せる適当な理由をでっち上げられる程、弁の立つタイプでもない。
あからさまに不審そうな目で、ひとみを見返すのが唯一の抵抗手段だ。
(…何考えてんの、よっすぃー?)

「…え、本当に外行くの?この寒いのにお散歩?本気で?」
冷めかかったマグカップを円卓に戻し、幾分引き気味に梨華が尋ねる。
真希もその意見には同感だ。
進んで外に遊びに行こうとは思わないインドア派。話題を逸らす為とはいえ、
(ハイキングに行こうなんてセンスの欠片もないったら……自分が情けない)

224 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:24

そんな真希の内心の葛藤を知ってか知らずか、
「せっかくだから、ごっちんに紹介したい子がいるんだけどどぉかな?今日呼んでもいい?」
「はぁ!?」

再び抗議と疑問の混じった声をひとみに向ける。
ひとみはと言えば、真希の困惑した反応を面白がっているのは一目瞭然だ。

「よっすぃーさ、今日すんごい絡むよね?勝手に泊まりに来といて何、なんか不満あるわけ?」
「不満?ないよぉ、ごっちんのベッドから落ちたのも気にしてないよぉ」

「……あのさぁ、キミがベッドから床に落ちたのは別に後藤のせいじゃないよね。
 よっすぃーの寝相が問題だよね。何、もしかして根に持ってるわけですか?」
「べっつにぃ、ヨシザワは細かいこと気にしないからぁー。床に落ちた後、トイレに行こうとした
 ごっちんに踏まれたことだって全っ然恨んでもないし根に持ったりしてないからー」

(……やっぱりそれが理由か…どうりでさっきから突っ掛かると思ったら…)

225 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:25

「んでもって心の広ーいヨシザワはぁ、ごっちんに踏まれたことも忘れて可愛い女の子を
 紹介しようってんだよ、素晴らしき親友愛っしょ?」
「あのね」
「いいじゃない、紹介してもらったら?年下に人気の後藤さん」
ひんやりとした響きを持った梨華の言葉に、思わず背筋に寒気が走って苦笑い。

「だから、それはよっすぃの口から出任せだって梨華ちゃん」
「あらぁ、ごっちんてば何弁解しちゃってんのかな?梨華ちゃんに誤解されると
 何か問題でも?」
「よっすぃーいい加減に」

奮い言い方をすれば、そろそろ堪忍袋の緒も切れる。
文句の一つや二つ、ぶつけてやろうと口を開きかけた瞬間。
ピリリリリリリ ピリリリリリリッ
単調な電子音が石川家のリビングに鳴り響いた。発信源は真希の携帯だ。
午前11時過ぎ。
こんな時間に電話を掛けてくる友人など、真希にはひとみくらいしかいない筈なのに。

226 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:25

「…誰だろ?」
液晶画面には、見慣れない番号が羅列されている。
発信者の登録がされていない。真希は小さく首を傾げた。間違いだろうか。
「もしもし」

怪訝な表情で携帯を耳に当てる真希。
その一連の動作を、何となく会話を止めて梨華とひとみが見入っている。
気を利かせてテレビの音量を下げたのは当然、梨華だ。

電話の向こうの相手の言葉までは聞き取れないまでも、何かを相手が喋っている
様子なのは分かる。
まずは、相手が名乗ったのだろう。はっと、真希の表情が変わった。

「やぐっつぁん…?」

227 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:26


普段はあまり抑揚のない真希の声に、動揺が走った。驚きと、嬉しさと、懐かしさと。
そして隠しようのない憂いを帯びた、溢れ出る感情が、平静さを彼女から奪った。
だから、声が震えている。
少なくとも梨華にはそのように感じた。
(……誰?)

何故か胸に、チクリと針を刺されたような感覚を覚える。
無視することの出来ない、微かな痛みを。


228 名前:6. 投稿日:2004/07/01(木) 13:26


229 名前:名無し猿 投稿日:2004/07/01(木) 13:27
またまた久しぶりに更新しました。2ヶ月以上開いたというのにこの更新量で
申し訳ないです。まだネット復帰していない猿です。見込みもないです。ガクー

>179 春雷さん
    あ、いしごま派でしたか!いやぁ同志と知って心強いばかりです。
    きなが〜に待っていていただけると嬉しい限りです。(忘れられてないと良いですが…;)
>180 名も無き読者さん
    毎回、レスありがとうございます。話がようやく開けてきたと思ったら間が開いてしまい
    随分とお待たせしてしまいました。そして引っ張ってます、因縁w
>181 名無しさん
    >年上なのに介抱される石川さん・年下なのに世話焼きな後藤さん
    まさにそれが書きたかったので、いいと言っていただけてホッとしました。ありがとうございます。
>182 名無し飼育さん
    萌えてくださったのですか!ありがとうございます!しょぼい作者と作品ですが、
    よろしければ引き続きお付き合いください。また不定期になるかとは思いますけども…
>183 名無しさん
    はい、ようやく何とか更新しました!少なくて本当にすみませぬ。
>184 名無し読者さん
    興味を持っていただけて嬉しいです。メディアで見掛けることは期待できないCPですが
    なるべく面白いと感じていただけるように頑張ります。
>185 名のナイ読者さん
    保全ありがとうございます。無駄にはいたしませんので。    
>186 名無し読者さん
    何のアクションもなく間を空けてしまいました、待っていてくださってありがとうございます。
    絶対に放棄だけはしません。お待たせしました。

まだ復旧していない我がPCにございます。というわけでまだこれからも
不定期更新になると思いますが、続けさせてくださいませ。また次回に。
230 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/01(木) 14:12
久々更新お疲れ様です。
更新量、十分ですよ!待っててよかったっ…
この三人のなんとなくくだらないやり取りが大好きです。
今回登場?のあの人も気になりますが。
名無し猿さんのペースで無理せずがんばってください。
次回楽しみに待ってます。
231 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/01(木) 17:04
更新お疲れ様です。
あぁ、もー。この2人の会話いいなァ(;´Д`)ハァハァ
新たな人物登(ryでどうなるか今からワクワクです。
232 名前:名のナイ読者 投稿日:2004/07/01(木) 20:26
更新待ってましたぁー!!しかも大量更新!!お疲れさまです。
やっぱりごっちんって、モテモテなんですね!
矢口さんとどういう関係なのかが気になります、
233 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/01(木) 21:52
>>232
ネタばれ気をつけて…
234 名前:春雷 投稿日:2004/07/01(木) 22:24
忘れてませんよ〜。
大量更新、お疲れ様です。
もてもての三人ですね(笑)
235 名前:名も無き読者 投稿日:2004/07/02(金) 18:30
更新お疲れサマです。
また気になる切り方して下さいますなぁ〜w
因縁の方も引っ張ってくれてるようで益々続きが楽しみです。
次回もマターリとお待ちしております。
236 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 14:58
ちょっと展開遅くないですか?更新量の割にあまり話が進んでないような・・・
237 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 21:16
感じ悪いな。
展開遅くてもいいだろ。
238 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/08(木) 21:51
>>236
そんなの作者の勝手だろw
239 名前:   投稿日:2004/07/09(金) 05:44
落ち着いて、ゆっくり
待ちましょ〜\(^◇^)/
240 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/09(金) 21:40
そだね(^_^)
241 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/26(月) 13:40
おもろい!!
待ってますよー
242 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/07(土) 00:25
かなりツボないしごまですね。
更新を期待して待ってます!
243 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/17(火) 13:24
更新頻度低杉
244 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/17(火) 14:19
>>243
作者、倉庫落ちを期待してるとか
245 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/18(水) 01:43
またーり待ってます。
246 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/29(日) 23:27
自分ものんびりと続きを楽しみにしてます
247 名前:名無し飼育さん 投稿日:2004/09/06(月) 17:57
しかしこう間が空き過ぎるとおもしろくないよね。
1ヶ月も2ヶ月も経つと前の話忘れるんだよ。
248 名前:nanashi 投稿日:2004/09/06(月) 20:04
>247
楽しみにしてるんだったら 読み返せよ(w
249 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/08(水) 00:18
楽しみに待ってます。

雑談はよそでやれ>>all
250 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:27

「あーさむぅ〜……チキショウッ」

じんじんと、体の芯まで底冷えする寒さ。
両腕で自身の体を抱き抱えながら、真希はぶるるっと体を震わせた。
凍えそうな寒さも当然だ。真冬の2月、土曜日、AM11:15現在。

駅前の駐輪場は4階まで既に満車状態になっていたけれど、強引に他の車両を
動かしたことによって生まれた少しの隙間に、無理矢理愛車を押し込んだ。
梨華のアパートを出ること僅か3分、真希は既に駅前に到着していて、
その行動の俊敏さたるや、
バイトに行くにも学校に行くにも、こんなに急いだことはない、という位。

自分で記憶する限り、真希がこれだけ迅速に行動したのは高校の入学式以来 ―――
とも知れない、と思い至った。
要はそれだけ、珍しいことって訳だ。

251 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:28

ロックを掛けるのももどかしく、乱暴にヘルメットを脱いで、
手の中でちゃらちゃらと暴れるキーホルダーを強く握り締めた。
ショルダーバッグを上下に激しく揺らしながら、急ぎ足で階段を駆け下りる。
吐き出される息は白く、真希の体に纏わりついては消えていった。

  『あっれー、ごっつぁん髪染めたの?イケてんじゃんキンパツー』
  『んはは、夏休みだからやっちゃった。地肌めちゃめちゃ痛かったけどぉ』
  『きゃはははは、そうらしぃねぇ。オイラも染めよっかなぁ、髪』

原付を走らせ、尚且つ赤切符で切られる程に速度を上げて初めて、
冷たい空気を直に浴びた首筋の寒さに、マフラーを忘れたと認識する程、
頭の中が真っ白になっていた数分前。
我知らず、呼吸が荒くなっている。

252 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:28

土曜日の駅前歩道上は普段より人通りも多く、
軽快なステップで人の波を縫って走りながら、規則的なリズムで白い息を吐き続けた。
上気した頬は何も、寒さのせいだけではないのだろう。
自分が相当に浮かれ、神経が昂ぶっているのを真希は充分に自覚している。


  『でねぇ、ウチの母さんてばさぁー』
  『こらっごっつぁん、ストローがしがし噛むのやめなさい!お行儀悪いでしょ』
  『もーうるさいなぁやぐっつぁんは。口うるさいおばさんみたい』
  『くっ、このセクシー女子高生矢口に向かっておばさん言うなぁ!』

構ってくれるのが嬉しくて、わざと軽口ばかりたたいていた。
気を引きたくて、派手な服装を真似したり、映画の趣味を合わせたりもした。
対等に扱って欲しいと渇望しながら、いつまでも甘えていたいという願望も消えなかった。
一緒にいるのが何より幸せで、
なのにどうして、今はこんなに距離が開いてしまっただろう。
彼女の居ない生活に、慣れてしまったのは何時からだっただろう。

253 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:29

(やばい……すっごい、緊張してる)

およそ1時間前などの段階では予想もしなかった現状に。
そして自分の動揺ぶりを感じて思わず笑い出しそうになる頬と同時に、
何所か逃げ出したい、立ち止まりたいと感じる自分がいるのも事実だったりするのだから、
全く。

人間ってヤツは本当に、複雑で厄介な生き物だ。
それでも、会いたい。
(やぐっつぁん…)
その気持ちは偽りようの無い、真実。

254 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:29
 

255 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:30

良く言えばクラシカルな ――― 実直な感想として言えば「古びた」装いの小さな喫茶店。
息せき切って駆けつけたドアの前、しばし立ち尽くす。
この店に、そうだ。真希が中学生の頃には、足繁く通っていたのだ。
真希と、「やぐっつぁん」と、そして彼女の隣にはいつも必ず市井紗耶香の姿があった。

256 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:30

  『ちょっとー聞いてよ矢口ぃ。後藤のヤツがさぁ、まーた悪さしてさぁ』
  『またって何さ、市井ちゃんの女癖の悪さに比べたらよっぽどマシですー』
  『んだとこのヤロウ、生意気言うなっつの』
  『言っとくけど、ごとーはね。ちょこっとセンセーに反抗しただけだからね、
   女の子泣かせまくってる市井ちゃんの比じゃないもーん』  
  『うるさい一年坊!先生に盾突く方がタチ悪いだろ、宿題忘れるわ髪染めて学校来るわ
   注意した先輩に対して喧嘩売るわ…』
  『喧嘩売ったんじゃないもん、向こうが因縁つけて来たんだよ。一年のくせに髪染める
   なんて生意気だーとか言って。ごとー、悪いことしてないよ』 
  『アホか!染髪は校則違反なんだよ馬鹿!!』
  『もーちょっと喧嘩しない!大体、紗耶香だって矢口から見たらまだまだガキだって』
  『1歳しか変わらないじゃん。それに見た目は1番ガキでしょ矢口が』
  『むっかー何だとこのクソガキ!』
  『ちょっとやぐっつぁん落ち着いてよぉ』
  ――――  

257 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:31


「…………」
(もう、関係ない)

脳裏にこびり付いた残像を振り払うように小さく頭を振って、目前のドアを押し開く。
小さく深呼吸していたのは、ほぼ無意識の行動だった。

カランカラン、
客の来店を告げる、鐘の音。申し訳程度、控え目な響き。これもまた、変わってはいない。
たった3年、されど3年。
街並みも思い出の中の景色も、さしたる変化はないけれど、
真希は確実にあの頃からは変化を遂げている。肉体的にも、精神的にも。

258 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:31

指定されたその喫茶店に、既に待ち合わせ相手は到着しているようだった。
店内の奥まった席、観葉植物の陰になるように小柄な人影を見る。
不意に、ひょこっと小柄な影が動き、短めに切りそろえられたミルクベージュの髪が揺れた。
心拍数が上がるのを、抑えきれない。

どう声を掛けようかと真希が迷う隙も与えず、
背中に目でもついているのではないかと思わせる程のタイミングで、振り向く小さな頭。
視線の中に真希の姿を捉え、白い歯を覗かせて、彼女が笑う。

「よっ!ごっつぁん、久しぶりー」

「……やぐっつぁん」
感慨深さから、我知らず声は擦れた。
何とか搾り出した言葉は、ただ彼女の名前だけ。

259 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:32

懐かしい声、変わらない仕草に思わず頬が柔らかく緩むのを、意識しないではなく、
ただ温かい何かが胸に満ち足りていく感覚に、酔いしれそうになる。
眩しいものを見るように目を細めて、真希は彼女の向かい合わせに腰掛けた。
「久しぶり…」
「きゃはははは」
感傷に浸りそうになる真希を現実に引き戻したのは他でもない、
久しぶりの再会には似つかわしくない程明るい調子の『やぐっつぁん』だった。

「もー、15分とか言ってたのに、半分の時間で来るなんて雪が降るんじゃないのぉ?
 珍しいなぁー寝惚スケで遅刻魔のごっつぁんが〜」

懐かしがる素振りもない、拍子抜けする様な淡白な再会のシーン。
昂揚感を殺がれた不満を若干覚えないではなかったけれど、それもまた彼女のペース
だったと思い返す。

「…昔の話だよそれ。今はかぁなり、真面目になりましたー」
「マジでぇ?じゃ、学校もちゃんと通ってるのぉ?遅刻も減ったのかぁー?」
「まぁ、そりゃ、ちょっと…は」

そう、こうやってリードされていたんだ。安心する、この空気。

260 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:33

「うん、でも、成長したよね。大人っぽくなったよ、外見上は」
「やぐっつぁんはあんまり変わってないね。特に身長とか」
「むっかぁー」
身長、と強調して口にした真希に、矢口は口を尖らせ不満気な表情を見せた。
それでも目が笑っているところから、彼女が本気で怒ってはいないことが窺い知れる。

「喧嘩売ってんの?もぉーごっつぁん、口悪くなったんじゃない?
 …まぁ、生意気なのは昔から変わってないか」
「くふふ」
「なんだよ、その含み笑い。ヤな感じだなぁー。変わってないわ、ホント」
「そうかな。やぐっつぁんの前だからじゃない?」

電話を取った時に感じたのは何を先置いても、懐古の念だった。
それが今は、滲み出るような愛情に変化している。
再会が、素直に嬉しい。
他人に「甘えたい」と、久しぶりの感情を抱いた。

261 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:33

「後藤にとって、素の自分を正直に出せる相手ってあんまいないからさ」
「…そっか」
懐かしそうに、そしてどこか納得した様に、矢口真里は穏やかな笑みで呟いた。

「――― うん、矢口にとってもね、ごっつぁんはいつまで経っても妹みたいな感覚だよ。
 可愛くって、でもすんごい生意気で」 
「生意気かなぁ?」
「そーだよ、めちゃくちゃ。自覚しなさい」
「妹、ね…」

“妹”。
やぐっつぁん、こと矢口真里と共有しているであろう記憶の中の、キーワードの1つ。
ほんの少し、胸が痛むような、苦しいような思いを抱えていたあの頃。

262 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:34

  『ごとーね、多分、すっごい、やぐっつぁんのコトが好きかもしんない』
  『えっと……それは何、マジ話?』
  『めちゃめちゃマジ』
  『……友達として、じゃなくて…、だよね。そっちの、意味だよね』

ぱちぱちと黒目がちな瞳を瞬かせて、驚愕と困惑の色を見て取ったその時に、
真希は自分の思いが潰えたことを察知した。(…あぁ、やっぱり)
予想しなかったことではなかった。
落胆と、悲壮。それを表に出さないままに、真希は辛うじて小さく頷いた。

  『うん』
  『えっと…ごめん、ごっつぁん』

見事玉砕し、笑って「気にしないで」とフォローを入れることすら出来たのは、
今になって考えても奇跡的なこと。
“切ない”という気持ちを、心底味わったのはその時がきっと初めてだと気付いたのは、
数年も経過してからだ。


  『ごっつぁんは、良い友達で。いや、友達っていうか…』

263 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:35

「そう言われて、フラれたんだよなぁ後藤」
「え、そうだっけ?そうだったっけ?」
ボソッと呟いた真希の言葉を拾って、
目をパチクリと見開く矢口の反応にはただもう、苦笑する他ない。

「そうだよー。覚えててよ、ちょこっと傷ついたよ今」
笑って、笑って。
傷ついてなんていないよ、それは全部過去の出来事なんだから。
自分の顔に、上手くその感情は表現出来ているだろうか。

   『矢口はね、ごっつぁんのことは妹みたいにしか見れなくて、それに』

「ゴメンゴメン、ほら、あのさ、矢口って」
少しばかり肩を竦めて(アクションが大袈裟なのは昔から彼女の癖なのだ)、
矢口真里は両の掌を小さな顔の横に添える。
そしてその両手を、そのまま一直線に正面に突き出す仕草を見せた。
(視野が、狭い)と。

264 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:35

「あの頃は紗耶香しか見えてなかったからなー。もうなんていうかね、視野がさ、
 メチャクチャ狭くなってたんだ。しょうがないよね、子供だったし」

  『紗耶香が好きなんだ。――― ずっと、前から』

(…知ってたよ、そんなこと)
矢口が言葉として発する前に、その行動と表情、リアクションを見ればそれだけで。
彼女の気持ちなど、言いたいことなど、見えてしまう。

それが、中学生時代、一方的に片思いしていた年上の少女を見守り続けた結果の
賜物である真希のその特技を、
彼女が。
(気付かないわけ、なかった)
矢口真里当人が知る得ることは、決してこの先もないのだろう。
真希自身が矢口に伝えない限り、誰も知らない真実を。

(やぐっつぁんが市井ちゃんしか見えてなくて、周りなんて目に入ってなかったことくらい。
 後藤のことを、『カワイイ後輩』以上の感情を持ってなかったことくらい)

265 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:36

知っていて、おそらく真希の想いが成就しないことも全て承知の上で、
でも伝えずにはいられなかった。あの頃、若かった、幼かった15歳の後藤真希。

「それよりさ」
思い出話で盛り上がる前に、確認すべきことがあった。
一先ず真希は感傷を断ち切るように、緩やかに首を振って真っ直ぐ矢口を見据える。

「本当はどうしたの?やぐっつぁん」
「何が?」
「だってさっきの電話、……話があるんだけど、って呼び出したじゃん。
 何か深刻そうな声してたから、何事かと思って。だから後藤、めちゃ急いで来たんだよ。
 昔話をするため?ならそれで別に全然オッケーなんだけど」

「…うん、紗耶香のこと‥でね」

266 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:37

深く息を吐き、上着もバッグも身に付けたままだったことに気付いた真希が、
ようやくダウンジャケットを脱ぎ始めたその動きが、矢口の発した一言で硬直する。

「あのさ、ごっつぁん、…紗耶香と会ったんでしょ?」
「………」
ピキキッ
「昨日ね、っていうか今日か、もう。夜に紗耶香から電話きて。
 『後藤と久しぶりに会って、超ビビッたー!』って。矢口も驚いたんだけど、突然で」
――――――
一瞬、沈黙。
「………ごっつぁん、顔、コワイよ」

上目遣いに、控え目に、矢口が呟く。
前触れなく唐突に引き合いに出された名前に即座に反応し、
(そして昨夜、泥酔した梨華を抱き締める様にして連れ添った“アイツ”の姿が脳裏を過ぎって)
真希の強張った片頬は分かりやすいくらいに、引き攣っていた。


267 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:37


268 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:37


269 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:38

一方、取り残された形の、石川家の2人。
3人揃うと狭く感じる部屋の中も、1人数が減っただけで妙に寒々と感じるのは何故だろうか。
元々は、梨華が1人で生活していたのだ。大して広い空間ではないというのに。

一緒に暮らし始めて一月半。
いつだってマイペース、飄々として掴み所のなかった居候の真希が、たった一本の電話で
見たことない表情を浮かべていた。

“やぐっつぁん”
真希は電話の相手を、確かにそう呼んだ。
聞き慣れない人名。梨華がひとみを見ると、彼女も首を傾げて見せた。
居候の彼女の交友関係が、さして広くないことを梨華は兼ねてから知っている。
ひとみの知らない真希の友人。
先ずその事実に、何故か胸騒ぎを感じて。

270 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:38

例えばそれは、姉や妹の交際相手を初めて知った時のような、
(いい人で良かったじゃん)(ずるい、いつの間に)(そんな素振り全然見せなかったのに)
そんな、近親者相手特有の複雑な嫉妬心に、似ているかもしれなった。
実際にそれを「嫉妬」とくくるのが正しいかどうかなど判断はつかないとしても、
他に上手い例えようも浮かばない。

どちらにしろ、
真希の声が心持ち上擦っていると感じるのは、梨華の気のせいなどではない筈だった。
認めたくない、という隠れた本心は別にしても。

271 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:39


数分前。
『え、今から……?ちょっと待って』

携帯の相手からの(おそらくは)突然の呼び出しに、
真希は素早く目線を壁掛け時計へ向け、早口に答えたのだ。
『あと15分、15分待って!』
何の迷いもなく、そう断言して。
『駅前のCHOKOLOVEね、おっけ、待っててすぐ行くから』

彼女が興奮状態なのは一目瞭然だった。
真希が早口になっている時即ち、彼女のテンションが上がっているということは
親しい友人なら誰でも知っている。
電話を切るなり、真希はひとみと梨華の2人など視界にも入っていない様子で、早足に
自分の部屋へと立ち去った。
パタパタと遠慮なしに響く、スリッパの音。

272 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:39

かと思いきや、ものの十数秒後にはダウンジャケットとヘルメットを手に
リビングに戻り、
『ごめん、ちょっと出掛けるから』
心ここに在らず、そんな表情で言い残し、真希の姿はさっさと玄関から消えた。

『ちょっとー、ごっちん?』
ひとみの呼び掛けに応える声はなく、
おそらく真希にとってそれは引き留めるきっかけにすら、なっていなかったろう。
梨華に至っては、素早い真希の行動と浮ついた上々にただただ呆気に取られるばかりで、
声を掛けるタイミングさえ見逃している始末。

原付のエンジンが遠ざかっていく音。
聞き慣れている筈のその音に、梨華の中に一抹の寂しさが残されたのだった。
そして。

273 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:40


「何だろ…ごっちん」
「さあー?」
会話が途切れてしまい、取り残された気分のまま真希の動向に目を奪われていた
梨華とひとみは、ようやく気の抜けた会話を切り出した。

「さて。どうしよっか梨華ちゃん」
「…うん…」
「あんな慌しいごっちん、初めて見たかもね。遅刻しそーな時でも、余裕ぶっこいてんのに」
「……うん…」
「で、どうしよっか」
「……あ、あたし、洗濯しなきゃ…」

洗濯籠に放り込んだ皺くちゃで煙草臭い洗い物、
半ば放心気味だった梨華が、ぼんやりとした口調で残った家事仕事を思い出した。
「ひとみちゃん、適当にくつろいでてね」
「あぁ、うん。煙草吸っていー?」
「ダメ」
後ろから、恨めしそうに「寛げって言ったくせにー」とひとみの声が追い掛けて来たけれど、
勿論それは聞こえぬ振りに徹した。
そして梨華は、そそくさとリビングを後にする。

274 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:40

慌しい真希の外出と同時に発生した、どこか気詰まりなその空間にひとみと2人きりで
居るのがどうにも耐え難かった、という理由もあるが、それと。

勘の鋭いひとみを前に、動揺した心中を気取られないだろうかと。
梨華自身さえもはっきりと形の掴めない正体不明の感情を、
見透かされ、言い当てられることを無意識のうちに、畏れていたのかもしれない。
(どうして、あたしがひとみちゃんから逃げなきゃいけないのよ…バカみたい)

決してそれは、純粋で透明な気持ちなどではないことくらいは、承知していたから。

275 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:41

下着とブラウスはそれぞれネットに入れて、
風呂のお湯を引いて溜めた洗濯機に洗剤と柔軟剤を加える。
洗濯物を放り込んでスイッチ1つ、あとは全自動の機械にお任せ。洗濯終了だ。
早くも仕事を失った梨華は、とりあえず気持ちが落ち着くまで
ぐるぐると回転して泡立つ洗濯機を覗き込んだまま、しばらく静止状態。

(はぁ〜…、何やってんだろ、あたし)

がつがつ、ぶるぶる。
全自動とは言え、決して高性能とは言い難い洗濯機は無遠慮に騒音をかき鳴らす。
(…やだぁ、もう…)
数十秒程、ぐるぐると絡み合っては不規則に回転を続ける洗濯物に視線を注いだ後、
仕方なしに足をリビングに向けた。
沈んだ気分と、二日酔いに起因する浮腫みの相乗効果で、足が鉛のように重い。

276 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:41

どうやら無駄に気疲れしているのは、家主である梨華だけのようだった。
来客者であるひとみは、梨華が戻ってきたことにも気付かぬ様子の上、
比較的リラックスした面持ちで新聞のテレビ欄に目を落としている。

端整な彼女の横顔は、それだけで一枚の絵として成立するほど。
正真正銘の「美形」である吉澤ひとみという後輩は、
自分の容姿の価値を一体どこまで認識しているのだろう。
その外見からは一見思いも寄らない程ひょうきんで気さくな人柄でなければ、何所か
近寄りがたい雰囲気を醸し出すであろうことは、想像に難くない。

(いいなぁ、ひとみちゃんは。どんな場所でもどんな人相手にでもすぐに馴染めて、
 堂々としてて、人気者で、運動も勉強もできて…)

我知らず羨望の溜息をつく梨華の前で、ひとみが真剣に目線を落としているその先が実は、
アニメ欄であることには気付いていない。

277 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:42

「…そっか…今日は30分繰り上げで始まるんだ、ハ○レン…」
「え?何レン?」
「あ、いや、独り言」
不意にひとみが呟いた耳慣れない単語を聞き止めて、梨華が聞き返すと
はぐらかすように手をひらひら振って、ばさっと新聞を折り畳んで顔を上げた。

「…そだ、ひとみちゃん、なんか飲む?」
「うーん、と、それじゃ紅茶とかある、かな」
「うん、じゃ、煎れて来るね」
「ありがと」
「うん」
「……………」
「……………」

278 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:43

ピロリンッピロリンッ♪ピロリ「…ピッ」

気まずさの残る静寂を切り裂いて、奇怪なメロディーが鳴り響いた。
梨華のものでないそれは、言わずもがなひとみの携帯の着信音であることに間違いない。
「ぁ…」
液晶画面を見る彼女の表情に、戸惑いと梨華への遠慮が見て取れる。
「いいよ、早く出なよ?」
「ゴメンね、梨華ちゃん」

促す梨華に大袈裟に目を瞑って見せてから、ひとみは素早く通話ボタンに指を掛けた。
申し訳ない、そんな表情が電話の相手を確認してから一変した。
「なんだよ小川、こんな時間にな……え?え、そうだっけ?」
迷惑極まりないうんざり顔 ――― そんな表情が一変して、ひとみは突如、
珍しく狼狽の様子を見せ始めた。

「愛ちゃんももう来ちゃってる?マジで?あ、うーんじゃぁ折角のチャンスだと思って
 今日は二人で楽しんでくればいいじゃん。はぁ?ったくなんだよー、ホントお前は
 そっち方面は奥手っつうかさぁ、意気地ねぇなー。
 ああううん、分かった分かったから、んな情けない声出すなっつの」

279 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:43

宥めたり貶したり、表情のころころ変わるひとみを眺めていると、その視線に気付いたのか、
彼女はふと携帯から耳を離す。
大きな瞳は更に申し訳なさそうに伏目がちに、
「ゴメン、梨華ちゃん……今日、約束あったの忘れてた」
「え?」
「ちょっと、大した用事じゃないんだけど、軟弱な後輩の頼みでさー…どうしよ?」
「何言ってるの、そっちが先約なんでしょ?あたしも自由に遊ぶから、行ってあげなよ」
「んー…でもさぁ…」

ガサツでお調子者風情を装っておきながら、意外と人の良いひとみは1人、
梨華を残して出て行くことに気が引けるのだろう。勧められてなお、幾許かの逡巡を見せる。
数秒の思案顔の後、ひとみはぱっと顔を輝かせた。

「そーだ!梨華ちゃんも一緒に行こうよ!
 今電話してたヤツさ、小川って後輩なんだけどすっごい馬鹿で良いヤツなんだ。
 梨華ちゃんならすぐ打ち解けると思うんだけど。せっかくだからさ、どう?」

280 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:44

『すっごい馬鹿』、というひとみなりの褒め言葉は、付き合いの長い梨華でこそ
理解できるけれど、
言われた当人の「小川」という彼女はきっと猛然と抗議するだろう。
何しろ仲間内で率先して三枚目を演じるのは他でもない、ひとみ自身なのだから。

その『すっごい馬鹿』、こと彼女の後輩との集いに突如誘われ、
梨華としては困惑する他ない。

「え、でも…」
幾分引き気味の梨華に、ひとみは屈託ない笑顔を向けながら楽しそうに続ける。

「それと、ごっちんと同じバイト先の子もいてね。実は同じ高校の後輩だってことが判明してさ、
 しかも何と!馬鹿の小川がそのコに ―――― 愛ちゃんつーんだけど、そのコに片思いして
 るワケよ。愛ちゃんもさぁー、可愛〜い女の子って感じのコでさぁー。
 真面目で超良い子なのよこれが。全然すぐ仲良くなれるって、梨華ちゃんなら!」
「ごっちんと同じ、バイト先?」

281 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:45

たった一言に、引っ掛かりを覚えた。だって、そんなの知らない。
真希から、バイト先に同じ高校の後輩の子がいるなんて話を聞いたことなんてない。
大体、真希が進んで自身のことを語る機会すら滅多になかった。
(何で)
尋ねてもはぐらかす。
家出の理由すらまだ、ちゃんと打ち明けてはくれていない。
(あたしばっかり、何も知らない)

“せっかくだから、ごっちんに紹介したい子がいるんだけどどぉかな?”

人懐こい笑顔で話を進めるひとみを前に、脳裏を横切るその言葉。
もしかしたら。その『後輩』というのは?

282 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:45

1人勘繰って、口をついて出たのは辞退の台詞。
「ごめんね、今日ちょっと体調良くなくて……また、今度誘ってくれる?」
「あ。そっか、梨華ちゃん二日酔いだったっけね。じゃぁ今日は無理しない方がいいかもね」
「うん。ホント、だからあたしのことは気にしないで行って来てよ」

嘘。
本当は、体調も気分もとっくに回復している。全快とは言わないまでも。
けれど、このままひとみと一緒にいれば、その後輩達に会えば、
訳の分からない感情に振り回されて、余計な気苦労を負ってしまうかもしれない。
どうしてこんなに、自分は臆病なのだろう。

「言い訳」を真に受けたひとみは、既に梨華から視線を外しており、
耳元の携帯に向かってのんびり口調で会話を再開していた。

283 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:46

「あーじゃぁ、あと30分くらいで行けると思うから適当に待ってて。
 それから水族館着いたら費用は全部小川持ちだから。はぁ?付き合ってやるだけ感謝せぃ。
 今日マジで手持ちないから。電車代しかないし。嫌なら2人で行ってこい。あーもー」

分かったわかったすぐ行くから、と宥めるような口調は、ひとみがそれなりに年上の
余裕を持っていて、先輩風を吹かせている様に思える(実際その通りなのだろうが)。
それが何やら可笑しくて、梨華は僅かな含み笑いを漏らした。

「ったくしつこくてしょーがないわ」
口先ではどう言っても、ひとみの表情は穏やかだった。
慕ってくる後輩をどんなに邪険に扱っているようでも、その対応は彼女なりに可愛がっている
結果であるのは明白なのだ。
通話を終えたひとみは、少ない荷物を既に肩から下げ、梨華に再度手を合わせる。

「えと、じゃーごめんね梨華ちゃん。ごっちんにもよろしく言っといて」
「うん。楽しんできてね」
「あんがと。梨華ちゃんもしっかり休むよーに。またご飯、御馳走になりに来るから」
「ふふふ。今度はお土産持ってきてね」
「おっけー」

284 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:46

右手の親指と人差し指で○を作り、
ひとみは見る者を魅了し、或るいは好意を向けていると相手を錯覚させるに充分な
爽やかな笑顔を振り撒いて(微笑みの貴公子も真っ青だ)、石川家を後にした。
同じく笑みを浮かべた梨華が手を振って送り出し、
急に無音と化した我が家で1人、玄関先にぼうっと立ち尽くす。


「なんだ…結局1人になっちゃった」

ぽつりと呟いて、梨華は壁掛け時計を見上げた。まだ午前11時を回ったばかり。
休日は始まったばかりだ、どう過ごそうか。
とっくに冷め切ったマグカップに、三分の一ほど残ったココアを見つめて、小さく溜息をついた。
(やだ、もう、ホントに…)

285 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:47

―――― 後藤はさ。今の生活が気に入ってんだ

―――― あんな慌しいごっちん、初めて見たかもね

―――― やぐっつぁん?

―――― 何割かは、確実にごっちん狙いだよ?

―――― 待ってて、すぐ行く!

286 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:47

頭の中を去来する、複雑に絡まりあった感情に押しつぶされそうになる。

(気にしなければいいんだ)
出掛けよう。
こんな鬱々とした気持ちで家に篭っていたら、益々気分が沈むことなど目に見えている。
(別に、ごっちんのことを好きな後輩がいたって、誰と会ってたって)
もう飲む気のないココアは流し台に捨てて、綺麗に洗ってしまえ。
冷たい水道水に手を晒して、軽く目を閉じた。

(ただの同居人。ただの後輩。何をしてたって、あたしには関係ないんだから) 


287 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:48

◆◆◆
288 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:48


「ごっつぁんはまだ、紗耶香のこと許してないんだね」


「え?」
ホットコーヒーにクリープを1つ落とし、スプーンで掻き混ぜながら矢口が呟いた。
何となく、濃茶色に白い渦が溶け込んでいく様子に気を取られていた真希は、
一瞬返事が遅れる。
更に遅れて脳裏に矢口の言葉の意味が伝達された時、表情に険しさが浮かんだ。

「市井ちゃんから、何か言われたの?」
「…ホラ。紗耶香の名前出したらめっちゃ恐い顔になった」

289 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:48

ソーサーに戻したスプーンがかちゃりと小さく音を立てた。
返す言葉もなく、真希は固まったまま矢口を見返す。
矢口の口元には、困ったような諌めるような、複雑な微笑が見て取れる。

「やぐっつぁん、何で」
訝しげな真希の追及を避けるように視線を外して、矢口が口を開いた。

「うん。……あのね、本当言うと、あれから矢口と紗耶香ね、連絡取り合ってるの、たまに。
 別れてからも、友達として。矢口が、そうしたいって言ったから」
「はぁ!?」

目を見開いた真希が素っ頓狂な声を上げ、
周囲の席にいた他の客から、じろりと無遠慮な視線が飛んでくる。
「ちょっとごっつぁん、声、大きいよ」気まずそうに辺りに気を払った矢口とは対照的に
周囲の様子など気に求めない真希は、
一瞬、唖然とした表情を浮かべてぽかんと口を開いた。
数秒もおかぬうちに、その顔がじわじわと怒りの色に侵食されていく。

290 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:49

「何、それ?どういうこと?何でよ!?」
憤然とした荒い口調が、普段の呑気な真希の態度とは打って変わって、
彼女の周囲を包む空気をも剣呑としたものにしていた。
「や、待って、怒らないで聞いてよ」
何時の間にか固く握り締められている真希の拳を見て、矢口は宥めるように
両手を小刻みに胸の前でひらひらと横に振った。

「落ち着いて、ねっ?ごっつぁん」
「だって」
「…矢口と紗耶香が別れることになった直接の原因はやっぱり、それはやっぱり
 紗耶香の浮気が…原因なんだけど、でも、突き詰めていけば単にそれだけが
 理由ってワケじゃないんだ」
「………」

291 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:49

そこまで言い切ってから、矢口は伺うように真希の顔をチラリと見上げた。
身長が極端に低い彼女の座高はやはり低く、向かいに座った真希のことも
自然と見上げる形になる。
「それで?」
「…うん」
不機嫌さを目一杯に表情に浮かべながらも先を促す真希を認め、
矢口は再び話を続けた。

「元々、矢口と紗耶香が付き合うことになったのは、矢口から告ったのがきっかけ
 だったから、何ていうか……矢口の方が、引け目を感じてる部分があったの。
 変な言い方だけど、『付き合ってもらってる』、っていうようなね」
「それは」
「ううん、いいんだフォローしてくれなくても。当時、本当に矢口が感じてたことだから。
 ――― それで結局矢口が進学する為に引越して、遠恋ってカタチになった時に、
 紗耶香は文句も不満も一言だって言わなかった」
「……」
「だけど本当は、矢口のことを『勝手な奴だ』って、思ってたかもしれない。
 実際に、紗耶香のことを振り回す結果になってたんだもん」
「………」

292 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:50


既に聞き役に徹している真希は、凛とした態度のまま落ち着いた口調で話す
矢口の直視に耐えかねた様に、つぃっと窓の外へと視線を外した。
真希らと同年代と思しき少女達が、楽しげに談笑しながら通り過ぎていく。
彼女達の笑みを湛えた口元からゆったり流れる白い息を見つめつつ、ぼんやりと
(寒そうだな、)などと考えていた。

「だから、…紗耶香から、やっぱり離れてるのは耐えられない、他のコと浮気したって
 聞かされた時、すごくショックで悲しくて、怒りが込み上げるのと同時にね、
 心のどこかで『やっぱりな』『仕方ないな』って、考えてる自分もいたの」
「何だよ、それ…」

293 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:50

「自分の進みたい道で勉強したい、好きな人とも仲良く付き合っていきたい、
 両方を選ぶのはやっぱり欲張りなのかなって。
 だって、矢口の都合で遠恋になったのに、相手にまで我慢しろ、なんて言えないよ。
 環境が変わって、忙しいからなかなか連絡取れないし会えないけど、
 それでも我慢しろなんて言えなかったよ」
「……」

不満を吐き出そうと口元を歪め、それを思い留まったように唇を噛み締め、
再び口を開こうとして ―――― 真希はふぅーっと盛大に息を吐き出した。
深呼吸によりやや落ち着きを取り戻した様子で、ようやく言葉を発する。

「何で、そこまで達観した物の見方できるの?
 だって、やぐっつぁんすっごい悲しんで、泣いて、めちゃくちゃ落ち込んでたじゃん。 
 だから、後藤は市井ちゃんのこと…」
「ごめんね。……あの頃は、ホント、ごっつぁんに甘えてたから」

294 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:51


  『ごっつぁん……あのね、紗耶香、他に、好きな人できたって』
  『え!?何、市井ちゃんが、そう言ったの?だって』
  『やっぱり、離れてるのはダメだったみたい。…へへっ、振られちゃった、オイラ』
  『ちょっと待ってよ、待って、やぐっつぁん、今どこ!?』
  『………しずおか。今、家…』
  『泣いてる?待って、泣かないで、今からごとー行くから』
  『……っ…いい…来ないでいい。……こんなカッコ、悪い、姿見せらんない…っ…』


静岡まで会いに行った回数なら、
当時矢口が付き合っていた相手の市井紗耶香よりもきっと、真希の方が多かった。
新幹線の各駅停車、こだまの最終出発時刻も覚えていた。
ろくな荷物も持たず、ほとんど頭の中が真っ白なまま静岡に向かったこと。
無理に笑いながら、携帯電話を握り締め、半泣き状態で自分を迎えた矢口の小さな姿。
今でも鮮明に、当時の光景が色濃く真希の脳裏に焼き付いている。

295 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:51

「今みたいに、落ち着いて考えることも出来なくて、ただショックで、
 誰かのせいにしなきゃ、紗耶香に全ての責任を負わせなきゃ、立ち直れなかった。
 自分の非を認めることなんて、とても出来なかったんだ」

「やぐっつぁんの非って何?やぐっつぁんが、悪いことしたワケじゃないじゃん!」
「違う、違うのごっつぁん」
「何が違うっての!?」
「……紗耶香と別れて、ごっつぁんに慰めてもらって。
 少し時間が経って落ち着いたら、気付いたんだ。悪いのは紗耶香だけじゃないって。
 それで、……まだ、紗耶香を好きな気持ちが消えてないことも、気付いた」
「っだよ、そんなの、意味分かんないよ!」

知らず知らずのうちに、真希の口調は荒くなる。
「ごめん……」
ふと、矢口に責める様な言葉を突きつけていたことに気付いて、視線を逸らした。
矢口真里の表情に、大きな変化はなかった。ただ少し、申し訳程度の小さな笑みだけ
口元から絶やすことはないまま、真希を見つめ返して。

296 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:52


  『……ごっつぁん、ごめんね。わざわざ、こんなトコまで…』
  『いいよ。それより、市井ちゃんと会ったの?会って、別れようって言われたの?』
  『…ううん…電話、で…』
  『電話ぁ!?直接、会ったんじゃないの?そんなの卑怯だよ市井ちゃん!ずるいよ』
  『……っえ、く…』
  『やぐっつぁん、泣かないでよ。やぐっつぁんは悪くない、絶対悪くないから』

297 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:52

「ごめん、やぐっつぁん。ちょっと、混乱したから…」
項垂れる真希を捉える矢口の瞳は、あくまで慈愛に満ちていた。
「いいよ。矢口だって、調子のいいこと言ってるって自覚はあるから」
「………」
「気付いたことっていうのはね。矢口が弱い人間だったように、紗耶香も同じように、
 弱い人間だったってこと。しっかりしてるようで、結構、脆かったんだって」
「……市井ちゃんが?」
「別れた原因が矢口にもあるんだって認めた時、このまま紗耶香と縁を切るなんて
 出来ないって思ったの。そんなこと、出来ない。したくないって」
「ちょっと、待って」 

はぁっと息を整えて、
真希は手にしたカップから熱いコーヒーを一口だけ口をつけた。
味など分かる筈もない。ただ、一呼吸置く必要があった。
興奮するあまり、不用意に彼女を ――― 過去とはいえ、一度本気で心惹かれた相手に
取り乱した姿など見られたくはない。

298 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:53

「それじゃ、後藤は単なるピエロだったってこと?
 泣いてるやぐっつぁんを慰めて、市井ちゃんに怒りぶつけて、恨んで、
 市井ちゃんとやぐっつぁんが“友達”として付き合いを続けることも知らずに?」
「ごめん、ごめんね」

怒りよりも、悲しみよりも、
やり切れなさが一瞬にして全身を包み、脱力感が真希を襲った。

「だって……後藤は…市井ちゃんが言ったから……絶対に、やぐっつぁんのこと不安に
 させたり泣かせたりしないって…傷つけないって約束したから…」

だから、やぐっつぁんのことあきらめて、2人を応援しようって決めたのに。

299 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:53

後半部分は口にはしなかった。それでも矢口にはきっと真希の考えなどお見通しで、
だから彼女は少し辛そうに、困ったように、笑っているのだろう。
「ごめんね、ごっつぁん」
「なんで後藤に謝るワケ?元はといえば、市井ちゃんが浮気したのが全ての原因で、
 謝んなきゃいけないのは市井ちゃんだし、大体」
「ごっつぁん」

幾分トーンの落ちた口調で、早口に真希が捲くし立てるのを制して、
矢口が静かな声で呟いた。

「人と人っていうのはさ、近くにいるのと離れているのじゃ、全然違うんだ。
 会いたい時にすぐ会える距離にいる安心感。会いたくても会えない、心まで離れて
 しまったんじゃないかって不安感っていうのに、すごく振り回される」

(知らないよ)
(だって、やぐっつぁん、あの時は)
(市井ちゃんが先に心変わりして、やぐっつぁんは傷ついて)
何を言っても、それは滑稽な姿でしかなく思えて
真希はひたすらに口を噤む。無言でいることの辛さを実感した。

300 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:54

「多分紗耶香って子はね、矢口やごっつぁんが思ってる程強い人間じゃなくて、
 すごく寂しがり屋で弱いんだ。先に関係を壊すきっかけを作ったのは紗耶香だけど、
 そうさせた、紗耶香の苦しさに気付いてあげられなかった矢口にも原因があったんだよ」
「原因なんて…」

ないよ。
伝えたいことは言葉にならず、言い掛けては下を向く。
饒舌でない自分が、今更ながらに腹立だしく、それ以上に歯がゆかった。

「ねえ、ごっつぁん?
 また昔みたいにさ、いや、昔と同じようにっていうのは無理かもしれないけど ―――
 3人で、仲良くすることは出来ないかな。また、3人で遊んだり、一緒に話したり」
「……そんなの……」
「矢口も、紗耶香もね。今はもう、好きとか一緒にいたいとか、そういう気持ちは
 持ってないんだ。ただ心を許せる友達として、すごく良い感じで付き合えてるの。
 時間が、そんな関係を可能にしてくれたと思うんだ。だから、ごっつぁんも…」

301 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:54

懇願するような矢口の視線から目を逸らし、
真希は唇をきつく噛み締めた。

「市井ちゃんとやぐっつぁんにはそれが出来ても、
 後藤は無理だよ、絶対に、市井ちゃんと仲良くなんて、もう出来ない」

心の底から搾り出すように応えた言葉。
震えた声は我ながら、今にも泣き出しそうで限りなく情けない響きを隠せなかった。
それでも、あくまで矢口の目は優しい。
罪悪感と、成長した「大人」としての余裕と。
「…やぐっつぁんは市井ちゃんを許せても、後藤は許すことなんて出来ない…」
「ごっつぁん」
目を伏せて、辛うじて紡いだ言葉はもはや囁きに近い。

「昔っからそうだったんだ。何か、やぐっつぁんと市井ちゃんの間には後藤がどうしても
 入れない、壁…?なんつーか、隔たり、みたいなもんがあって。
 それを境界って言うのかな。そんなのがあった。ずっと感じてた」

302 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:55

それを思い知らされる度に、真希は1人で疎外感を覚えていた。
笑みを浮かべながら、胸の中に酷く苦いものが広がっていく。

「それで、今回もだ。3年経って、改めて知っちゃったよ」
「違う、よ。別にごっつぁんを仲間外れにしようとか、思ってたワケじゃなくて」
慌てた様子で口を挟む矢口を遮り、
真希はくくっと自嘲気味な笑いを漏らした。

「うん、分かってる、それは。意識的にやってたことじゃない筈だから、2人とも」
「壁なんて、ないよ。
 矢口と紗耶香の方が付き合い長かったから、それだけの差でしょ?」
「…ちょっと違う」

付き合いが少しだけ、真希が市井や矢口と知り合うまでの僅かな時間差。
それだけでは説明できないだけの「絆」の様なものが、確かに彼女らにはあった。
互いに惹かれ合っていたせいか、他に理由があったのか、今となっては知る由もないけれど。
「それに、市井ちゃんは」

303 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:55

梨華の華奢な腰に回された腕。よろける彼女を全身で支えていた市井の姿。
―― あのニヤケ顔で、梨華ちゃんにベタベタ触ってやがったんだ、エロバカ市井ちゃんは。
いい加減過ぎる。
どうしていつも、後藤の邪魔ばかりするんだ、あんにゃろうは ――――

304 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:56

「でも、まぁいいや。今更だしさ、何言ったって」
重苦しくなった雰囲気を払拭するべく、真希は吹っ切れた表情で口を開く。
自分自身、まだ沈鬱な思いは抱えているが、
今は久しぶりに再会した、かつて思い焦がれた相手にまで暗い表情をさせたくはなかった。

「やぐっつぁんが市井ちゃんと会ってたって、後藤には関係ない話だもんね」
ちくり。
「ごっつぁん、あのね」
「後藤はやぐっつぁんとは会いたいけど、市井ちゃんとは会いたくないしさー。
 昨日は偶然会っちゃったから、マジでちょっとやーな気分なったけど、あはは」
ちくり、ちくり。

渇いた笑い声は、真希しか上げていなかった。
目の前の彼女は、矢口は憂いを帯びた顔のままニコリとも表情を崩さない。
そして、陽気に振舞い矢口と市井の名前を並べて口にする度に、
針で刺される様な小さな痛みが、胸に蓄積されていく。

「あはは…はぁ」

305 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:56

力ない笑い声は次第に勢いを失い、真希は両手を顔に押し当てた。
懸命に笑顔を保とうとする頬の筋肉が、ぴくぴくと引き攣る。
どうしようもない。
そんなのは分かっているけれど。

「あんまり、紗耶香のこと責めないであげて欲しいんだ」

苦悩する真希を見透かしたように、矢口がぽつりと呟く。
「どういう意味?」
ふと顔を上げた真希と、真剣な矢口の視線が絡み合った。
「だって…紗耶香、本当はね…実はね…」
数秒の間、逡巡の様子を見せて、矢口は悲しそうに首を左右に振った。

「ごめん。やっぱ、言えない。矢口が勝手にベラベラ喋って良いことじゃないから」

申し訳なさそうに、それでもきっぱりとした口調で。
引っ掛かりは感じたものの、市井紗耶香の裏事情について深く詮索するのも癪で、
真希はそれ以上の追及は敢えて避けた。
別に、市井ちゃんがどうだって何考えてたって知るもんか、関係ない。

306 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:57

「ね、ごっつぁんはさ、今でも矢口のこと、好き?」
「へ?」
「答えて」
「……好きだよ、そりゃ。何聞くの、いきなり」

唐突な問い掛けに、照れ臭さから一瞬、はぐらかす返答が脳裏を過ぎったけれど。
真摯な矢口の瞳に気圧されるように、思わず本心が口から滑り落ちていた。
その言葉に、矢口はほとんど表情を変えず、変わりに小さく、頷いた。

「それは、昔みたいに、ってこと?」

「そッ……れは…」

『そうだよ』
勢いでそう答えようとして、すぐに詰まった。
言葉には、上手く表せなかった。
『好き』だという感情に違いは無い、好きだけれど、同じ種類の感情だとは言えない。
あの頃は間違いなく、矢口真里に恋していた、と思う。好きで好きで堪らなかった、

今はそう、少し違う。

307 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:57


「分かるでしょ?」
(……分かんない)
「人の気持ちっていうのはね、変わるんだ」
(……そんなの、都合の良い言い訳じゃんか)

「多分、そのうちごっつぁんも分かるよ。分かってくれると思う」

言い返せないでいる真希の心情を見透かしたように、
「――― はい、この話題はもうお終い!」
明るい声で言い放ち、矢口は伝票を掴んで勢い良く立ち上がった。
「もう出よ、場所移動ー」
「ちょっと、やぐっつぁん…」
怒りを噛み殺した複雑な表情で、真希も勢いに引き摺られてのろのろと立ち上がる。


「せっかく久しぶりに会ったんだから、今日はぱぁーっと遊ぼうぜぇ、へへへっ。
 とりあえず、ここの御代はお姉さんのオイラが奢っちゃる!」

(なんで、やぐっつぁんは笑顔で市井ちゃんのことを話題にできるの?)

何度も、聞きたかったこと。
明るい表情で会計を済ませている矢口の背中に、その疑問を突きつけることは出来なかった。

308 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:58

◆◆◆

309 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:58

ゲームセンターのクレーンゲームで取った景品の水色のプーさんを抱き締めて、
真希は深々と細い溜息を吐いた。
円らな瞳で見つめるプーさんの視線が自分を慰めているようで、余計に情けなくて、
ふかふかのお腹に顔を押し付けるように埋める。
「ちきしょ〜…っ」
くぐもった声で呟いた。

310 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:58

――― 矢口はね、思うんだよ。初めて心も体も曝け出せた相手っていうのは、
     本心から嫌いにならない限り簡単に縁っていうものは切れないんじゃないかって。
     違うな、切れないんじゃない、切りたくないんだ。矢口は、そりゃ紗耶香の浮気は
     ショックだったけど、でもね

「なんだよそれ…意味分かんないよ…」
2月の冷気で頬は赤く染まっている。
矢口の言葉は、彼女と別れてからもずっと脳裏にこびり付いたまま離れなかった。
市井紗耶香と矢口真里。真希が一方的に市井に絶縁を突きつけた後も、2人が連絡を
取り合い、繋がっていたという事実。気に障らない筈がない。

――― だからって完全に交流を断ち切れる程、簡単に割り切れる程、軽い気持ちで
     付き合ってた訳じゃなかったから

311 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:59

それ以上に今、真希の気持ちを一層沈めているもの。
年上の2人は大人同士の付き合いを続けることが出来ていて、
自分はそれを受け入れられない現実を知ってしまった。
距離は、確実に開いていた。以前よりも、ずっと。


  『あのね、……矢口、静岡の大学に推薦決まったんだ』
  『静岡ぁ?お茶の美味しい、あのしずおか?』
  『うん。ずっと、狙ってたトコだったんだけど……勉強したいことが、あってね』
  『知らないよ、そんなの。聞いてないよ!』
  『ゴメンね、ごっつぁん。正式に決まるまで、誰にも言うつもりなかったから』
  『だって、でも、いきなりそんな…市井ちゃんは知ってるの?』
  『 ――― まだ』
  『なんで?それに、どうして今日は市井ちゃん一緒じゃないの?』
  『うん、あのね、そう、実は…紗耶香のことで、ごっつぁんに相談があって』

312 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 12:59

「妹」というなら、真希にとっては市井紗耶香の方こそ「お姉ちゃん」の存在だった。
少しばかりヤンチャをしていた中学時代、優しくも厳しく諌めてくれた頼りになる「お姉ちゃん」。
それでも、惹かれていた相手は別にいて。
当時の真希は間違いなく、他の誰でもなく、矢口という「年上の少女」に恋をしていた。
毎日が充実していた。楽しかった。苦しくても切なくても、幸せだった。

市井紗耶香も、矢口真里も。
真希にとっはかけがえのない、大切な存在であることに変わりはなくって、
この先ずっと良好な関係が続いていくのであれば、
矢口に対する密やかな想いだって、打ち明けることなんて毛頭考えていなかった。
一生、そう、お墓に持っていこう。そのくらいの気持ちで、抱え込んでいくつもりでいたのだ。


  『矢口ね、紗耶香に告白しようかなって思ってんだ』
  『………へ…』

313 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:00

矢口が、市井紗耶香に向ける想いが単なる友情などに留まらず、
深い愛情であったことも、誰より特別視していたことも、矢口をひたすら見守り続けていた
真希が知らないではなかった。けれども。
それを「一大決心」という形で、矢口が相手に伝えようと考えていたことまで、見抜けなかった。

  『もう、3月下旬になったら東京離れないといけないから…未練、残したくないし』

真希は、矢口への想いを秘めていて、
だからも矢口も、市井紗耶香への想いを表に出すなど考えも及ばなかったのだ。
全ては真希の思い込み、つまりは勝手な主観から出した結論だったけれど、
三人の関係を良好な状態で保つにはそれが最良の手段だと、信じて疑わなくて。

裏切ったのは彼女で、心地良い関係を壊したのは彼女達なんだ。
なのに何故、自分は置いていかれるんだろう。追いつけないのだろう。
永遠に、同じ土俵には立てないのだろうか。

314 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:00


きっと、本心から市井紗耶香のことを嫌いになりきれていない自分がいる。
そんな自分が居る事を承知している自分もいる。
何所かでまだ、矢口を好きかもしれないと囁く自分もいる。
だから、自分が分からなくなる。

大人になるということは、様々な自分を受け入れるということなのだろうか。
そうであれば、真希はまだ、幼稚な子供でしかないかもしれない。
不意に、梨華のことを思い出した。

( ――― 梨華ちゃん)

315 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:00

  『やぐっつぁんは市井ちゃんが好きで』
  『市井ちゃんはきっと、そんなやぐっつぁんを受け入れるハズで』
  『そして後藤は、誰よりやぐっつぁんが好きだ』
  『後藤が大人しく身を引けば……ううん、自分の気持ちを抑えてれば、それだけで』

全部上手くいく、そう思ってた。

  『だけど、でも、市井ちゃんは』

秘めている筈の想いを吐露してしまったら、後には退けなくなった。

(大人になるって、しんどいね)

316 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:01

片思いをしていた相手を再会を果たした後。
なのに、胸を占めるのは畳み掛けるような孤独感と、僅かばかりの悔しさだった。

出掛け際の昂揚感は跡形もなく消え去っている今、
どうしようもなく打ち拉がれた気分で、石川家を見上げた。
「なんだ。梨華ちゃん、いないのか…」

締め切ったカーテンから漏れる明かりは見つけられない。
就寝にはまだ早い時間帯。ということは梨華もまた、外出しているのだろう。
ふと腕時計に視線を走らせれば、長針は既に午後9時40分を指している。

317 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:03


「……なんでいないんだよ、もー」
誰もいない部屋を思い、侘しさと孤独に苛まれる。
胸中にすうすうと、冷たい風が通り抜ける感覚に小さく舌打ちした。
理由もよく分からない。
子供な自分も、梨華がいないことも。何もかもが気に入らないくて、堪らなく、苦しい。

それでも、
やっぱりまだ、真希にとって帰るべき場所はここしかなかった。
他に、居るべき場所なんて見つけられそうもない。

( ――― やばいなぁ)
目頭を、親指で強く押えて歯を食いしばった。
座り込みたい衝動を必死で抑え、両足を踏ん張って立ち尽くす。

(マジで、泣きそうだ)


318 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:03


319 名前:7. 投稿日:2004/09/21(火) 13:04


320 名前:名無し猿 投稿日:2004/09/21(火) 13:09
またまたまたまた久しぶりの更新>>250-319です。
今更ながら、2,3回に分ければ良かったと禿しく後悔中;
そんな訳で不定期過ぎる為、これからsage更新で進めていきたいと思います。
何だかんだでレスをたくさん貰ってしまいました。の割に遅過ぎる更新ですが、
どうぞお目通し願います。


>230 名無し飼育さん
    前回とは随分雰囲気が変わって暗い内容の今回です。
    本当はくだらないやり取りの話が好きなんですけどもw
>231 名無し飼育さん
    今回、バラードを聴きながら書いていたらこんな話になってしまいますた。
    次回はもう少し……もう少し……
>232 名のナイ読者さん
    3人がモテモテ、というのはかなりヨシザワ嬢の誇張表現によるものが大きいかも
    しれないですw この先、その辺は少しだけ説明的な話が出るかもです。
>233 名無し飼育さん
    返レスさせてもらってる中にもネタバレがあるかも…すみません。
>234 春雷さん
    途中経過も報告せず、今ごろ更新ですが(前回は)忘れられてなかったようで
    良かったです。あの三人組は書いてて楽なんですけども、今回は(ry
>235 名も無き読者さん
    また微妙な所で切ってみました。わざとじゃないです(嘘です)
    引っ張ってる割にアレなのは作者の力不足なんですが、何とか収集はつけますので。
321 名前:名無し猿 投稿日:2004/09/21(火) 13:10
>236 名無し飼育さん
    嗚呼…申し訳…
>237-240 名無し飼育さん
    更新が遅いのは言い訳のしようもありませんが、フォローしてくださりありがとうございます。
    マイペースにも程があるかもしれませんが頑張ります。    
>243-244 名無し飼育さん
    ぎくり。いや、放棄はしません。絶対に。
>245-246 名無し飼育さん
    ありがとうございます。本当にマターリペースなんですけども、レス嬉しいです。
>247 名無し飼育さん
    まったくですね。一度更新する度こんなに間が空くとなぁ…
>248 nanashiさん
    読み返してもらうのは嬉しいのですが、きっと物凄い粗に気付くかとw
>249 名無し飼育さん
    お待たせしました、ありがとうございます!

こんな猿の作品を待って下さる方には本当に申し訳ないです。でも嬉しい限りです。
次回更新時は未定ですが、放棄ではないので気長にお待ちいただけると…(ry
勝手な作者でまことに申し訳ないです。もう少し、よければお付き合いくださいませ。
322 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/21(火) 17:58
更新お疲れ様です。
いやぁ〜待ってましたよ♪
ほぅほぅほぅ。。。そう来ましたか・・・と言うよりも何だか話が遠くって・・・w
でもなぜそんなにごっちんが怒っていたのか少しわかった気がします。

ゆっくり更新でも待っておりますのでがんばってください。
323 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/21(火) 18:22
更新待ってました!おつかれさまです
ここで過去が明らかになりましたか。ごっちんも優しいですね
これからも楽しみにしています!
324 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/21(火) 19:26
待ってたよー。
大量更新で一気にあちこち絡まって転がって、と。厚みがさらに増したじゃないですか。
後藤さんも切ないですなあ。梨華ちゃんしっかりしろ。市井は許さん。
吉澤と後輩達が一服の清涼剤というか微笑ましいです。

ではまた続きを気長に待ってます。
325 名前:名無しさん 投稿日:2004/09/23(木) 03:06
ごっつぁん誕生日オメ
大量更新お疲れさまでつ。人間関係が混み合ってきましたね。続きが楽しみです!
326 名前:ZpT8ZEbM 投稿日:2004/09/23(木) 07:20
はじめまして
大量更新乙です
自分ははじめていしごまよむわけですが…


タイトルみておもいました。名無し猿さんはあの「さる。」さんですかね?違ったらスマソ。
327 名前:名無し読者 投稿日:2004/10/03(日) 05:59
相変わらずおもしろいです。
今年中にもう一度更新来る事を祈っております・・・
328 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/03(日) 14:55
っくあー!待ってました!
凄まじい大量更新ですね(w ありがとうございます。満腹です。

まだまだ謎な部分が多いですね。
い(ryって実は…と、自分なりに推測してるとこがあるんですが。
と、ゆうかそうなってほしいなぁー と勝手に思ったりして楽しんでおります^^
今の後藤さんの状況を救ってあげられるのはやはり彼女だけですよねー。
次回が今から待ち遠しいです。焦らずゆっくりとがんばってください!
329 名前:名無しさん 投稿日:2004/11/06(土) 06:20
hozen
330 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/19(日) 14:56
待ってます
331 名前:名無し読者 投稿日:2004/12/27(月) 00:56
あみん
332 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:37

後藤真希、中学3年生、12月。
市井紗耶香、高校1年生、12月。
矢口真里、高校3年生、12月。

実に、真希が中学1年生の頃から続いてきた良質なトライアングル。
誰が欠けても成り立たなくなる様な、そんな脆い絆で繋がれていた3人。
その事実は、随分後になってからようやく気付いた。
真希が予想していたよりも遥かにずっと、
人間同士の繋がりや信頼関係は傷つき易く、壊れ易いものだと学習したのは。

彼女ら、「年齢」の垣根を超越した、ある意味特殊な関係に罅が入ることになったのは
矢口真里の進学問題が引き金で。
3人の中で最年長である、言わばまとめ役の立場にいた矢口真里が、
静岡の大学へ推薦入学が決定したためだった。
即ち、彼女が地元を離れてしまうことが現実となり。
関係性が揺らいできたのは、何より彼女を「喪失」する恐れが発端だった、と。

333 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:37

そもそも、
心から他人に打ち解けることが稀だった当時中学1年生の真希を、
まず仲間に引き込んだのは2つ年上の市井紗耶香だ。

(…市井ちゃん)

彼女はその責任感の強さと面倒見の良さから、少々「やんちゃしていた」
後輩の後藤真希という少女に目を付け、頼みもしないのに何かと世話を焼き始める。
当初は勿論、それを撥ね付けていた真希だったけれど、


――― また来たの?
――― おう、市井は後藤の教育係りだからさ
――― 頼んでないよ
――― 奉仕活動だからね


反発し合う内に何故か、妙な信頼感というか友情が、生まれてしまった。
まるで、陳腐な青春映画さながらに。

334 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:38

元々、姉が2人いる環境も手伝ってか同級生より年上の人間と相性が良かった真希は、
案外あっさり市井と打ち解けた後、彼女経由で矢口真里を紹介された。
市井よりも更に1つ上の矢口は、当時高校1年生。
明るく活発で、また好奇心旺盛な性格がその知識量を増やしていた矢口は
ユーモアセンスも抜群で、話術もまた優れたものを持っていた。

(市井ちゃん。やぐっつぁん…)

335 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:38

あっという間に、彼女らのテリトリーに引き込まれて、
いつの間にか、グループ構成員として数に入れられていて。
―――
群れることを嫌い、また苦手だと自覚していたにも関わらず、
何故か彼女らと共にいるのは決して真希にとって不快ではないことだった。

それはきっと、初対面を果たした時から既に市井紗耶香という人柄に惹き付けられ、
矢口真里という人物に心深く、傾いていたからなのだろう。

そんな中、
どうして市井ではなく、矢口に惹かれたのかは今でも分からない。
理由などないのだろう、「恋」なんて、そんなものだ。
(敢えて付け加えるならば、市井紗耶香の体育会系な鬱陶しい程の暑苦しさも、
 反して嫌味なくらいの爽やかさも何処か、――― 嫌いではなかったのだけれど)

336 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:39

当の矢口は、他人の心の機微は敏感に察知する割に、
自身に向けられる好意などには全く鈍いことこの上なく。
よく回る口と頭を持っているというのに、自分の恋心は持て余す。

(すごく、居心地が良かった)

そんな、魅力的な年上の彼女に惹かれ始めるのに、時間は必要なかった。

(やぐっつぁんが笑ってれば、幸せだった)

337 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:39



338 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:40

とぼとぼと、薄暗いアパートの廊下を静かに進む。
足取りは重く、ついでに気分も絶好調に沈鬱状態。
スニーカーを履いた足音は、ぎゅ、ぎゅと湿った音を立てていた。

残業を終えて家に帰っても、皆寝静まっていて誰も出迎えてくれることのない
世間のお父さんの心情は、こんな感じなのかな。
ひっそりと静まり返り、人気を感じさせない廊下の寂しさは、
CMなどで目にする侘しそうな「お父さん」の姿を彷彿させた。
脈絡なくそんな事を考えてしまうのは、もしかして一種の現実逃避だろうか?


「ただいまー…」

鍵を開けて、暗闇が広がる室内へ足を踏み入れる。
誰もいないのが分かっていながら「ただいま」と口走ってしまうのは、只の習慣だ。
『1人暮らし』を初めて半年以上経ってもその癖は抜けないのだと、
珍しく梨華の意見と真希の主張が一致し、意気投合したことがあった。

339 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:41

キッチンまでの短い距離を手探りで歩み、電気のスイッチを探り当てる。
ぱちぱち、と僅かな明滅と共に点る灯りに目を細めた。
静まり返った室内では、僅かな衣擦れの音すらよく響く。

ふう、と小さく溜息をついた。
動物学的に言えばおそらく、縄張りに戻ってきたというささやかな安心感。

スリッパを履き、滑るように歩く足元が不意にばさりと紙束と思しきものを蹴り飛ばした。
雑誌か、新聞とみた。おそらくは。

「…また梨華ちゃんは散らかしたまんまで」
呆れた口調でぶつぶつ語散ながら、取り合えず拾おうと腰を屈め、
(なんだこりゃ)
視点が通常より低い位置。
その狭まった視界の中で、先ず最初に目に飛び込んできたものは。

340 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:41


流し台の横、申し訳程度の調理台の上に所狭しと並んだ料理。
ラップで一つ一つ包まれたおにぎり達。
三角形なのか俵型なのか微妙に判別しかねる、不恰好な米粒の集合型だ。
横には鳥の唐揚げ、アオノリ入りの卵焼き、ミニトマトを添えて。
そして、明らかに不揃いな大きさのかぼちゃの煮付けやら。鮭の塩焼きやら。

( ――― お弁当?)

341 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:42

言わずもがな。誰が見てもまるっきり「弁当」に他ならない。それも、手作りらしい。
並んだオカズの内容は勿論、
それぞれが弁当箱やタッパーに詰められているのだから、否定し様もない。

小学校の遠足やら、運動会などにならすぐにでも持参出来そうな出来栄えで、
ただ、よくよく観察すると「自称」料理名人の真希に言わせれば
おにぎりのカタチだとか、卵焼きが綺麗に渦を巻いていない、だとか
『粗が目立つ』感は否めないけれど、まぁ、それは今の論点ではないし。

美味しそうだと言ったら確かにその通り違いないけれど、でも何故?
試しに、タッパ―へ几帳面に並べて詰められたラップ巻きのおにぎりに手を触れる。
冷たい。
ひやりとした感触に、すぐに手を引っ込めた。
(……いつ作ったんだろ?)

誰が、などという疑問は浮かぶ筈もなかった。真希に覚えがないのなら、
考えるまでもなくそれは彼女の同居人、つまり家主である梨華以外に存在し得ない。

342 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:42

何とはなしに数歩進み、リビングを覗き込み、そうしてギョッと真希は立ち止まった。
ぽかっと口を開いて、目を見開く。
所謂『驚愕の』表情である。
「       」
本当に驚いたとき、人間は咄嗟に声を出せないらしい。
(ぅえ)

―――― 何で? 

343 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:43

ぽつんと、小さな小さなシルエット。
居ないものと予め判断していた、居ない筈の彼女が、いる。
真希の視線は、ソファの上に体育座りをして、
微動だにせず膝に顔を埋めている石川梨華を捉えていた。
凝視。
「…………」
更に凝視。
「………………」

「……何やってんの?」

視線くらいでは全く起きる気配のない梨華へ、何とか掠れた声を掛けるも、
ぴくりとも彼女は反応を見せない。
物事には滅多に動じない真希もさすがに驚いて、梨華に駆け寄る。

「ちょっと梨華ちゃん?どうしたの、ちょっと、ねぇ」

344 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:43

軽く揺さぶると、上手い具合に膝に乗っていた額がカクン、とずれ落ち
「ん、んー…」と呷いて数秒、その衝動にどうやら寝入っていただけらしい梨華が
魘されつつ、薄目を開ける。

寝起きに違いなく、見るからに緩慢な動作できょろきょろと周囲を見回す
彼女の目線が、部屋中をぐるりと巡って真希を認めた。
「あ…」
梨華の視角内に捉えられた自分に、彼女の焦点が定まるのにたっぷり十数秒
は要した上、じぃっと見据えられた格好で動くに動けない真希。
腰を屈めて彼女の肩に置いた手はそのままに、硬直・静止。

345 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:44

ふわり、と。
遅まきながら真希の姿を認めた梨華が、ほっとしたように微笑んだ。
(…?…えっと、)予想外の彼女の応対に、逆に面食らう真希。
「帰って来たぁ…」
「え?だって、後藤ここしか帰るとこない…んだけど?」

何がなにやら分からず、語尾が疑問調になっていることも気付かぬ様子、
半分寝惚け眼の梨華は、目を擦りながらしばし朦朧とした状態で俯いている。
また寝るのだろうか?と真希が梨華の顔を覗き込もうとした刹那、
「くしゅっ」

ごく控えめなくしゃみが梨華の口から飛び出した。
ぶるぶるっと子犬のように体を震わせ、
寒そうに自身を抱き締める彼女を見れば、心なしか唇が青いようで。

346 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:44

「あ、あーもう」

話し掛けるきっかけができた、これ幸いと。
何となく、真希はそっと胸を撫で下ろした。

「この季節のこの時間に暖房も入れないでうたた寝なんかしてたらさぁ、
 ふつー風邪引くでしょ?何やってんの梨華ちゃんてばもう」

347 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:44

ぶつくさ呆れ口調で呟きながら、真希は自分が着ていたダウンジャケットを手早く脱ぎ、
少々乱暴な動作で、梨華の肩へばさりと放った。
彼女がもたもたそれを身に付けるのを見取る間も置かず、家主を放ったらかしのまま、
暖房を入れる為せかせかと部屋の中を歩き回る。

エアコンのリモコンをonにして、ハロゲンヒーターを凍えた彼女の横まで運んだり。
(つーか、考えてみれば自分もさっき帰ったばっかで、結構体冷えてんだけどなー、
 超尽くしてるよなぁ。偉いぞ、ごとー)
我ながら何て甲斐甲斐しいんだろうと、意味も持たぬ自画自賛。

一連の作業を手早く終えて、ふと座ったままの梨華を見やれば、
真希のジャケットに包まり、ぬくぬくと見を縮こまらせている様子が目に入った。
「………」
(もー、自分ばっかり)

348 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:45

呆れ半分、苦笑半分でついた悪態は、当然真希の心の声に過ぎなかった。
どうにもこうにも、真希は彼女のそんな姿に弱いようで。
同居するようになってすぐの頃、梨華の寝顔を「ヒヨコみたい」と評した事がある。
無防備な状態の彼女は、どうやら異常に愛らしいオーラを発散しているようなのだ。
何か、構いたくて仕方なるような、そんな感じ。

こういう時、
(ああもうなんつうか、まったく)
ほんの些細な仕草でさえ、彼女だと無駄に可愛いのだから、始末に終えない。
本当に、性質が悪い。

(梨華ちゃんのが年上なのに、何甘やかすよーなことしてんだ、後藤は)

349 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:45

思わず、ほのぼのそれを見守り ――― 違う違う、和んでどうする。
梨華の世話を焼くことに気を取られて、一瞬記憶が飛んでしまっていた。
空気に流されそうになり、慌てて先程までの思考を手繰り寄せた。

350 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:46

(えーと、何だっけ、何を聞こうとしてたんだっけ後藤は)
(梨華ちゃんは出掛けてるんだと思って帰って来たんだけど)
(何か椅子の上で体育座りで寝こけてて、寒そうにしてて)
(いや、その前だその前、えーとーキッチンにいっぱい料理が)
(そうだ、料理!っていうかお弁当みたいな)

「っていうかさ。あれ、どうしたの?」
もやもやした感情を強引に脳裏から振り払い、真希は気を取り直して
当初の疑問であるキッチンの方向、数々の手作り惣菜を指差し、梨華に問う。

指差した方向に首を向け、その先へ視線を飛ばした梨華の口が「あ、」と
短い声を発した。「あ、あー…」
どうにも歯切れの悪い口調に、何故だろう途端にバツの悪そうな顔。

351 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:46

「あ、それね、あの、今日あたし暇だったから、ちょっと暇潰しに作ってみただけ、
 たまにはあたしがごっちんに晩ご飯くらい作ってあげようと思って」
取り繕うように早口で捲くし立て、
彼女は羽織っている真希のダウンジャケットに包まったまま首を窄めた。

「…へぇ?」
真希はぽかんとした調子でほんのり朱に頬を染めた、梨華を見つめ返す。
どことなく、気分が沈みがちに見えるのは気のせいだろうか。
寝起きの為どう見えるだけなのか、今の所、真希に判別する術はない。

「いやでもさ、何でお弁当にしてあんの?お皿使えばいいのに。面倒じゃない?」
「………えっと、だって、ごっちんがもし、晩ご飯食べて帰って来たら余っちゃうから、
 保存…しやすいように?…タッパーに入れてた、っていうか…」
「なるほど」

352 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:47

身振り手振り交えて何故か、しどろもどろな返答の梨華に不審なものを抱きつつ、
納得の相槌を打って真希はくるりとキッチンの方へ振り向いた。
「わざわざ、おにぎりとかまで作ってあるの何で?」

それも、あんな歪な形の。
梨華ちゃんて、結構手先不器用なんだね。
おにぎりっていうのはさぁ ―――― 今度、後藤がお手本作ってあげようか?
なんて余計な言葉は心の奥底に封印して、素朴な疑問のみを口にした。

(あれ、でも今朝ってパンだったしご飯炊いてなかったよなぁ?)

「え」

不意打ちの問い掛けに、困惑した表情を見せる梨華。
「えーと、あの、や、なんていうか」

(つまり、わざわざお米を研いで、炊いて、おにぎり作ったってことだよね)

353 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:47

“暇だったから作った”にしては、かなり手間を要したものと推測できて、
そして真希の何気ない疑問が、意外な形で地雷を踏んだ。

取り繕うような笑顔だったのが、言い訳を並べるのに限界が生じたか
諦めたのか吹っ切れたのか、瞬く間に膨れっ面へと変貌を遂げる。
「え、と。…梨華ちゃん?」
その変化は、いくら他人の心の機微に疎い真希にでも見て取れるほど。

「ごっちんが、言ったんじゃない」
ぼそり、と梨華が呟いた。
普段の彼女の声よりも数トーンは低いと思われる。
悔しさとも寂しさとも取れる複雑な感情を滲ませた、震える言葉。
「ほえ?」
急に自らに矛先が向けられ、真希はパチクリと目を見開いた。はて?

354 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:48

「ハイキング行こうねって言ったから。せっかくの休みだから、行こうって、
 ごっちんが言ったから」
「…………あ?あ、あぁ…」

  『せっかく3人が久しぶりに揃ったんだし、外はいい天気だし、
   散歩でも行こっか?お弁当持ってハイキング』

彼女が、今朝のやり取りを引き合いに出していることにはすぐ気付いた。
そういやそんなこと言ったっけ。よっすぃーの粘着な追及逃れの為に、その場の勢いで。

355 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:49

「ごっちん、何時に帰って来るか分からなかったし、メール打っても返って来ないし、
 でももしかしたらすぐに帰って来るかもしれないし、…」
「 ――― あ」

メール。
気付いて、真希はショルダーバッグの中へ衝動的に手を伸ばす。
(ケータイのことなんか全部全てまるっと記憶から飛んでた!)
出掛け様にほぼ無意識に携帯を放り込んでおいてから、一度もその存在を気に掛けては
いなかった。着信はおろか、メール受信なんてまるで意識の範疇外だったことに気付く。

焦り気味にカバンの中の携帯電話を探り当て、取り出そうとして、
やはり梨華の手前それは憚られて、結局止めた。    

「何回も電話したらウザいかなとか、何度もメール打ったらしつこいかなとか、
結構気を遣って、……返事くるまで待とうと思って、それで、そのまま…」

356 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:49
 
言葉を切って、口を屁の字に結んだ梨華は気を抜けばすぐにでも泣いてしまう
のではないかと思わせるような、脆さと危うさを窺わせた。
今の彼女は張り詰めた糸だ。少し強めに触れれば、弾けてしまう。


意識の彼方に追いやられていた、「ちょっとした提案」。
思い返すと同時に、すっかり失念していた自分への非難と、俯いた梨華への
申し訳なさと痛ましさが頭を擡げてくる。

まさか、だって。
(梨華ちゃんだって、苦笑いしてたじゃん。よっすぃーだって、非難轟々で)

357 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:50

あんなの、変なこと言うよっすぃーの話題逸らしに口に出しただけで、
普通は「ハイキングに行こう」なんて冗談だって、判断するでしょ?只の、冗談。
だって、……ねぇ?実際、自分は冗談のつもりだったし。
――― そんな微々たる反論がないではなかったけれど、目の前の彼女が。

元々華奢な体つきの梨華は、眉を八の字に寄せて黙りこくって、体を丸めて
座り込んでいて。何だか心細くて、いつも以上に小さく見えた。

「ごめん…」
だから、自然に謝罪の言葉が口をついて出る。

358 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:50

「いっつも、ごっちんにご飯作ってもらってるから、たまにはあたしが作っておいたら
 喜んでくれるかなって、ごっちんが帰って来たらすぐに出発できるようにしてたら
 嬉しいかなって思って、それで…」
「ごめんね、梨華ちゃん」

突っ立ったまま、「ごめん」と繰り返す真希。
自分の語彙の貧困さを呪わずにはいられない。どうしてもっと、気の利いた台詞が
出てこないのだろう。饒舌なあの友人、吉澤ひとみのように? 

口を真一文字に結んだ梨華の体が、細かく震えている。真希を睨みつける双眸、
黒目がちな瞳がみるみるうちに潤み出し、
「……何で返事の一つもしてくれないのよ、ばかぁ!」
とうとう、梨華の目からぱろぽろと涙が零れ始めた。

359 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:51

「本当は、今日は色々計画立ててたのに!
 買い物言って春物のチェックしようかなとか、
 美容院行ってカラー変えようかなとか、
 料理教室の広告チェックして入会するか考えようかなとか、
 会社の先輩に貰ったエステの無料体験やってみようかな、
 とか色々……いろいろ、お休み満喫しようと思ってたのに、ごっちんが…」

ずずっと鼻をすすり上げて、濡れた瞳で居候を鋭く射抜く梨華と、
視線を受けて、反射的に身を竦ませる真希。
反論の余地なく体裁が悪い、世間一般で言うこれが『修羅場』かもしれない、
恐縮して全身に反省の色を示す傍ら、ちらりとそんな思いが真希の脳裏を掠めた。

「ごっちんが、出掛けようなんて言ってくるの、今までなかったから」

360 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:51

「あ……」


共同生活を始めて、梨華が真希に外出に誘われたのは実は、初めてだった。
そこに、吉澤ひとみという共通の友人(おまけ)が含有されていたとしても。
だから『ハイキングに行こう』なんて、
きっと冗談だということくらい、梨華にだって分かっていて、
分かっていたけれど ――― もしかしたら。

「ただいまー」なんて、何時もの惚けた具合で、
半刻もしたらひょっこり戻ってくるかもしれない。
そう、思ったから。家を空けることに、気が引けてしまった。

何気ない一言のようで、
それでいて真希は本気かもしれないから、それは所謂「妙案」に過ぎないけど。
彼女の気まぐれっぷりを踏まえれば、
梨華はそれを「約束」として捉える必要があるかも知れない、思った。
帰ってきた真希が空っぽの部屋で、肩を落とすなんてことがないように。

361 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:53

「なのに、いつまで経っても帰って来なくって」
「ごめ……マジで、全然、気付かなくてさ…」
「でも、もしかしたら、って…出掛けらんなくて」
「……ごめん、ほんっと、ごめん」

真希は何も話してくれないから、余計なことにまで気を回して、
一人で勝手に気を揉む結果になって、苦しくなって、馬鹿みたいだと思う。
「押し掛け同居人」に過ぎない彼女が帰って来ない、それが不安材料に繋がる
事実がどうしようもなく情けないし、苦しくて堪らないし。

どうにもこうにも、情緒不安定。

362 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:53

目に焼きついて離れない。
『やぐっつぁん』
上擦った声、見たことのない興奮した真希の表情。
大事な人、なのだろうと。真希の態度だけで見抜いてしまったから。
心を乱された。

ひとみは知っているという、
『愛ちゃん』
真希のバイト先の後輩。
可愛らしい名前も、真希が一切そんなことを口にしなかったことも、
もしかしたら、その後輩が真希に好意を持っているかもしれないという可能性も
心に引っ掛かって、追い討ちを掛けられた。

今日、真希が帰って来なかったら。
居候の彼女が優先させたのは、梨華の知らない誰かだったということになる。
それは少し、悔しくて。
若干の意地も含んだ重い気持ちは、梨華の足を外に向ける力を押さえつけていた。

363 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:54

「それで、1人でお弁当作って、返事もこないのにずーっと待ってて、
 あたし、バカみたいだし、ダサいし、カッコ悪いじゃない…」
「梨華ちゃん」
「何の反応もない人を待ってるのって、すごく心許ないっていうか、寂しいんだよっ」
「ごめんね」
「…本当に、寂しかったんだからね」
「ゴメンナサイ」

最早米搗きバッタよろしくひたすら頭を上下させ、
(目ぇ腫れちゃうよ、梨華ちゃんそれじゃ)
ぐしぐしと乱暴に目元を擦り上げる梨華の目元は既に真っ赤で、
居たたまれない気分を抱えたまま真希は無言でティッシュを箱ごと差し出した。

緩慢にそのティッシュを2,3枚を一度に引き抜き、梨華はそれを強く目元に
押し付けて、顔を伏せたその体勢のまま、しばらくの間呼吸を鎮めようと努める。
んぐんぐと、押し殺した嗚咽に真希の胸がぎゅうっと締め付けられた。

(泣かないでよ、後藤なんかのために)

364 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:55

「…梨華ちゃん?」

心配そうに気遣う様な真希の声が至近距離の頭上から降ってきたけれど、
梨華はすぐに顔を上げることが出来なかった。
今、きっと自分は嫌な顔をしてる。そんなこと鏡を確認するまでもなく分かるから、
だからこそ気持ちは益々塞ぎ込んでいくのだ。


こんなの、八つ当たりだって、自覚している。
自分が勝手に勘違いしたことだって分かっている。理性では納得している、だけど。

多分、自分が抱えている想いが嫉妬という感情であることも、
原因が誰であるのかも明白で、
気にすまいと心に決めても、拭い切れない不安と苛立ちを抱えて、
思い悩む必要などない相手を思って、空回りして。

365 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:55

勝手に解釈していたのだと、1人で真希の帰宅を待ちながら思い知らされた。
後藤真希という居候が、最も優先しているのは自分なのだと。
いつも捉えどころの無い笑顔で、確かな料理の腕で、
気付けばいつも梨華の側にいた、彼女は。
自惚れなどではなくて、そうだと思わせる行動を、確かに真希は取っていた。


昨夜はこれが全く逆の立場だったことなど、梨華は思いも寄らない。
居候の真希が、何の連絡もせずに帰宅しない梨華を、責める気持ちと心配する
相反する気持ちが、内心ずっと鬩ぎあっていたことなど。

真希が決して口を割ろう筈もないその事実を、梨華が知る確立は極めて低かった。
そうして。

「だいたい、ねぇ」
「うん?」

366 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:56

顔を伏せたまま梨華がくぐもった声を発して、真希は彼女の言葉を聞き逃すまいと
慌てて腰を屈めた。目の前には、愛すべきご主人様の後頭部。
あ、つむじ発見、などと考えていると突然、梨華が顔を上げた。

「なんであたしがごっち…」
「わあ!」
「きゃぁ!」

あまりと言えば、あまりに至近距離に過ぎた。
不意に顔を上げた梨華と、腰を屈めていた真希の鼻と鼻が触れ合うくらい間近に
お互いを見つめる顔が、ある。
先行して、驚きの声と共に思わず飛ぶように後ず去った真希と、
その声と予期せぬ距離の近さに驚いて悲鳴を上げた梨華。

367 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:56

「………」
「………ぁ」

気まずい雰囲気と、2人して顔を染めているおかしな現状。
もじもじと視線をあちこち彷徨わせたり、忙しなく両手の指を絡ませ合ったり。
何気なく相手に飛ばした視線が偶然、お互いを捉えて、
仲良く硬直し合う、梨華と真希。

「あー、えーと、あの……」
「………」

目が合ってしまった以上、根競べ、なんてものではないけれど
どちらとも無くその視線を外せなくなってしまった。
濡れた瞳でじっと自分を見据えてくる梨華を前に、真希は心底困り顔で頭を
ガシガシ掻き毟る。どうしようどうしようどうしよう。
向き合った2人に再び漂う、静かな緊張感。

368 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:56

「あのね、ごめんね、梨華ちゃん」
結局口から出るのは芸の無い同じ台詞。
「『ゴメン』はもう、聞き飽きた」
「ハイ」

取り付く島も無い梨華の切り替えしに、真希は閉口させられる。
そりゃそうだ、確かに、その通りに違いない。「ごめん」しか言えてないし。
一体この、小学生の初告白如き微妙な空気をどう切り抜ければ良いのだろう。
謝れば良いのか、慰めた方がいいのか。
焦りながら、こんな時ばかりは、恐ろしく口の回るひとみのことを羨ましくも思えた。

「えっと………」
「………」
「………」

369 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:57

…………………
ふと。
双方が沈黙を守る重い空気を切り裂いて、
きゅうううううう、と搾り出す様なうめき声に似た音が何所からか漏れ出した。

「あ」

絶妙なタイミングで鳴り響いたのは真希の腹の音。
きゅるるるる、きゅううう
「う、」
主張を続けるそのお腹に、真希は無意識のうちに手をやった。
かーっと耳まで赤く染まった彼女はあたふたと、意味もなく視線を彷徨わせる。
「いや、ちが、これは、うそーぉ…」

370 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:57

明らかに挙動不審なその動きに耐え切れなくなったように、思わず梨華が
くくっと吹き出した。その仕草に、真希も気が抜けたように笑う。
「もぉ〜…」
「えっと、あはは」

「ずるいよごっちん、狙ったみたいなタイミングでお腹鳴らすんだもん…」
「いや、ごとーそんな器用な芸当は出来ないんだけどね」
一応反論を返しながらも、泣き笑いのような梨華の表情に、どこか安心感を覚えて
真希もようやく、僅かばかりの笑顔を零した。

「もー、なんか、ふふ、怒ってるの馬鹿らしくなっちゃった」
「はは。あははは」

軽くでも笑ったことで何かが吹っ切れたのか、
はぁ、と大きく息を吐き出し、梨華がお弁当を指差して言った。口調は明るい。
「じゃ、ちょっと遅いけど晩ご飯、食べようか」
「……後藤も、食べていいの?」

371 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:58

恐る恐る、確認するように上目遣いに真希が尋ねて。
くすくす。
呆れた様子で苦笑し、少々首をすくめるようにして梨華が答えた。

「あれだけ盛大にお腹鳴らすくらい、お腹空いてるんでしょ?」
「返す言葉もゴザイマセン」

昼に矢口とお茶した後、午後5時ころ軽い夕食を採った。それ以降は何を口に
した訳でもない。ただでさえ大食漢の真希、就寝までもつ筈がなかった。
緊張感を無視して鳴り出した自分の腹の虫に、こんな形で救われるとは。
安心したやら、恥かしいやら、複雑な気持ちで曖昧に笑う真希を見て、梨華は
相変わらず眉を困ったように寄せたまま。

「1人で食べ切れる量じゃないし、それに、……」
少し躊躇って、「本当は、」とすぐに続けた。

「ごっちんに食べてもらいたくって、作ったんだもん」
―――――
照れた様にまた、彼女は小さく笑った。


372 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:58

涙の跡を残した梨華の笑顔は勿論、素晴らしく可憐で綺麗なのだけれど、
真希の胸はきりきりと締め付けられるように痛んだ。

大人になりきれない自分。子供のままの自分。
市井と矢口の間に入れずに、ずっとその場で足踏みして、前に進めない自分。
散々打ちのめされて、落ち込んで、暗い部屋を見上げて、
本当に泣きそうだったのに。
どうして、要領の悪い彼女に、こんな素晴らしいタイミングで救われるのだろう。
梨華の方が突然泣き出したものだから、真希の涙はどこかへ引っ込んでしまったし。

泣いてしまうくらいに、自分が彼女に影響を与えているとは予想の範疇外だった。
真希の存在はあくまで、一居候に過ぎないのだ。

それは自身で重々承知の上。なのに、梨華は自分の軽い冗談を受け止め、
無視することも出来ずに独り、部屋で真希を待ち続けていたという。

373 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:59

「梨華ちゃん…」
「いつも美味しいご飯作ってくれてるお礼に、っていうか、うん、だから、何てゆーか
 ……食べて、いいよ。いいの、ご主人様がいいっていってんだからいいの!」

「あり……がとう」

ぎこちなく礼を口に乗せると、梨華が満足げに、嬉そうにえへん、と胸を張った。

374 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 17:59

むしろ、逆なら良かったのに。

真希は梨華に振り回されることを苦としない。
昨夜のように、例えば連絡も入れず、あの女たらしなんかに送られ泥酔して帰ってくる
ことなどは心底気に食わないし、散々気を揉んで心労は溜まるけど、
それでも、自分が気苦労を負う方が、良かった。

梨華を泣かせてしまうこと。
目の前で彼女の涙を見てしまったら、それがどれ程辛いか実感する。

うっすらと潤んだ赤い瞳で、照れ臭そうに、それでも何とか威厳だけは保とうと
努めているであろう梨華の物言いと姿に、胸が締め付けられた。とても痛い。

共に過ごす時間が深く、長くなる程に。
真希の心中を占める梨華の存在、その比重は確実に大きくなっていく。
大いなる誤算だった。
いざ出て行かなければならない時に、自分は一歩を踏み出せるのだろうか。
こんなにも、梨華という少女にのめり込んでいるのに。

375 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:00

(……ったく何でこんなにこのヒトは…)
誰かを心から「愛しい」と感じたのは何年ぶりだったろう。
不意に抱き締めたくなる衝動が走ったことは、真希の胸の中にだけしまわれた。
また1つ、梨華には秘密の気持ちが積み重ねられていく。

(こんなに心惹かれるなんて)
(好きになってしまうなんて、どうして予測できたろう)

これが自他共に認める恋人同士という存在であったなら、
迷わずその衝動に従うことも可能だっただろうけれど。
理性がストップをかける。「駄目だ」と警告音を鳴らす。自分は「居候」の立場だから。
その先は禁止区域だ。それ以上、踏み出すことは許されない。

「うわー全部美味しそー。梨華ちゃん、すごいじゃん」
「えへへ、そうかなー?」
褒められて悪い気はしないのだろう、
真希が褒めるとやや誇らしげに、梨華の表情が緩む。泣いた彼女がもう笑った。
「いただきまーす」

376 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:01

無理を言って置いてもらっている身。
真希は親の庇護で高校に通う学生で、梨華は独り立ちしている会社員。
どうして、自分の勝手な思いの丈を無粋に曝け出すことなど出来よう。
それで、少しの間でも彼女の側にいられるなら、多少の苦労や不器用にこなす
演技など全く厭わない。自分は、その道を選んだのだから。

「うん、カタチはいまいちだけど、んまいわ」
「ぅぅ、なによう、おいしければいいの」

自制心がブレーキを掛ける、本心を隠して笑顔を見せることにはもう、慣れた。
褒められて満更でもなさそうな梨華の表情がまた、何とも言えず可愛らしくて、
真希はひたすらに目の前の料理を賞賛することに専念する。

377 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:01

…いや、しようと思ったんだけども。

「でもさぁ、おにぎりとかお弁当のおかずと紅茶って、微妙な組み合わせだよね」
「…だって、普段は緑茶とか飲まないもん。ねーごっちん、お茶、買って来てくれない?」
「ヤダよ。外寒いし今日立ちっぱだったから足浮腫んでるし」
「だっておにぎりには緑茶がいい!」
「我侭言わないでよ、だったら梨華ちゃんが用意しておいてくれれば良かったでしょー」
「…………」

ん、と梨華の眉間に皺が寄る。むう、と頬がぷくっと膨らむ。
あ、マズイ。迂闊なことを口走っちまった、とここは必至に要弁解の真希。

「あ、嘘、嘘、嘘です気が利かなくてゴメンナサイ。や、でもこれ美味っしいねぇーうん、
 おにぎりにはこれまた紅茶が合う!
 それにやっぱお弁当の卵焼きは甘いのが最高だね、ホント」

「…嘘つき。紅茶じゃ絶対合わないもん。大体ごっちんコーヒー党のくせに」

378 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:01


379 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:02

今なら、少しは矢口の言った意味が分かるだろうか。
人の気持ちは変わるんだよ、と。

矢口真里のことは昔と変わらず好きだけど、含まれる意味は違っていて
石川梨華のことは昔よりずっと好きになっているけど、含まれる意味は違っていて


真希の中で梨華の存在は次第に、確実に、大きくなっているし、
おそらくそれは彼女にとっても同じことかもしれない。
梨華が真希に関することで泣き出すなんて、同居する前は考えも及ばないことだった。

だから今は、2人の時間を大事に過ごそう。
人の気持ちは変わるのだったら、尚更に、この楽しい時間くらいは、ね。

380 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:02

「最後の1個、おにぎり貰っていい?」
「うん。あたしもうお腹いっぱいだから」
「やたっ。いただきまーす」

嬉々としてラップを外し、まず一口齧り付いて真希の表情が綻んだ。
幸せそうなその顔に、思わず梨華もつられて微笑んでいることに彼女は気付いていない。

「そういえばさぁ」
もぐもぐと口を動かしながら、唇は薄く閉じたままの状態で器用に言葉を発した。
形を崩していく自身の手製であるおにぎりを見つめながら、梨華が「ん?」と返す。
一心不乱に米粒を頬張りつつ、

「梨華ちゃんと初めて会った時、おにぎり貰ったよね」

381 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:03

ごく自然に、真希がぽつりと呟いた。「なんかちょっと、懐かしいな」  
一瞬、彼女の言葉を理解するのに時間を要した。
初めて会った時、と反芻してようやく、“入学式・屋上”というキーワードと共に
ようやく梨華はその真意を察知する。

―――― 覚えてた。
初めての出会いを、あまりにさり気なく会話の中で引き合いに出され、
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ始める。


梨華自身は、何故か躊躇してしまい聞けなかったそれを、
サラリと流すように真希は口にした。
いや、言い方など何も問題ではなくて、要はそれを彼女が、およそ記憶力が乏しい
と分類される系統の後藤真希が覚えていたことが。

「そうだっけ…」
「そうだよー、何だよ梨華ちゃん覚えてないのぉ?」

――― 勿論、あたしは覚えてた。だって、だけど、ごっちんが。

382 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:03

相変わらずもぐもぐと一生懸命口を動かし、おどける様に真希は首を傾げる。
覚えている、というより同居生活が始まってから頻繁に思い出すことも多かった、
真希にしたら些細な話題に過ぎないそれが、梨華にとって
想像以上に精神に大いなる衝撃を与えた。

――― ごっちんが覚えてるってことが、どうしてこんなに嬉しいんだろう

大袈裟に、そして簡潔に言ってしまえば、感動しているとも言い切れない自身の
胸の内を思い、梨華は苦笑した。
1年下の後輩の入学式、
堂々とすっぽかして屋上でまどろんでいた驚嘆すべき新入生の姿。
真面目な優等生で過ごしていた梨華にしてみたら、それは遥か対極に位置する人種。

初対面の上級生に食べ物をねだり、
美味しそうに満面の笑みでおにぎりを頬張っていた彼女のことは、
鮮烈な印象と共に梨華の中に存在を色濃く残していたから。

383 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:04

吉澤ひとみことよっすぃー嬢に互いを紹介された時、真希は一言も屋上での件に
触れなかった。忘れているのか、自分を覚えていないのか。
どちらかだと思っていた。
でも、今更になって、ごく気軽に真希は記憶の一部をあっさり、はっきり吐露した。
矢張りあの時のように、満面の笑みで、おにぎりを食べながら。

どうして自分は喜んでいるんだろう、こんなことで。
共通の思い出が増えたこと、そんなことが嬉しいんだろうか。
自問自答する。分からない。それでも確かに、梨華の胸は温かいもので満ちている。

我ながら単純だとは思うけど。
予想外に優しい気持ちに浸りながら、ひたすら食に専念する真希を見つめている梨華。
いつになく、和やかな時間。

384 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:05

と、そんな空気を切り裂いて
2人が向かい合って座っている円形のテーブルに、所在なさ気に放置されていた
携帯電話が、唐突にその存在を主張し始めた。

ちゃららっらららっりろりろりろーん♪

「わっ」
「…梨華ちゃんのじゃない?」

奇妙な着メロとバイブレーションの振動に、
ぎょっと体を起こして、梨華は恨めしそうに携帯を睨む。強引に、現実に引き戻された。
――― せっかく今、良い気分だったのに台無し、もう

液晶画面には見慣れない数字が無機質に表示され、発信主の名前はない。
誰だろう?不審に思いつつ、一応通話ボタンに親指を乗せる。

385 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:05

もくもくと手製のおにぎりを頬張る真希の横で、
「あ、市井さんですか?」
「 ――― !」
“市井”の言葉には例外なく素早く反応の真希、ふっと目を細めて梨華を見る。

そんな同居人の行動など露知らず、
「こんばんわ、昨日はどうも御馳走様でした」と無邪気に口走る梨華。
実にその昨夜、
会社の先輩と自身の居候が険悪なやり取りをしたこと(まして顔見知りなんて!)など
欠片も記憶に残していない梨華は、傍らですぅっと表情を無くした真希に気付く訳がなく。
鋭い視線にも気付かぬ様子で、市井との会話に興じている。

(そーいえば梨華ちゃん、昨日送られて帰って来たっては車ないじゃん。
 ってぇことは…)

思い出す限り、アパートの前、駐車場に梨華愛用のワゴンR(左前側のホイール紛失)
は見当たらなかった。
朝は正直覚えていなかったけれど、少なくともさっきの帰宅時には。

386 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:05

1人蚊帳の外ながら、梨華の話し相手が「あの」市井紗耶香であるならば、
その出方はある程度予測可能である。
伊達に深い付き合いをしていた訳ではないし、

―――― 今度はマジなんだ、石川にさ、本気よ本気

更に昨夜、市井が発したあの意味深な言葉を真希はしっかり覚えているのだ。

387 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:06

『………〜…』
「あ…そういえば、そうですね。ええ、…え、本当ですか?」
(石川さぁ、月曜出勤する時のアシないっしょ?迎えに行くよ、朝、市井が)
とか言ってんだろどーせ?ムカ

『〜〜…………』
「でも、悪いですよ、そんな。うちと市井さんち、結構遠いし……いえ、でも…」
(遠慮するなって、出勤ついでに石川んち寄るだけだしさー)
とか、ニヤケ顔で言いそうだ。ムカムカ

『…〜』
「でも、市井さんて普段電車じゃ…」
(平気だよ、たまには車も動かしてやんなきゃ、なーんてね)
とか、あの気取り口調で?ムカムカムカ

『………〜…』
「あ、そうなんですかぁ、あはは、スミマセン」
(何だよ市井だって車くらいは運転できるぞ:笑)
冗談混ぜながら相手を自分のペースに引き込むんだ、得意だもんね市井ちゃん。
あははー、もう、
ムカムカムカムカムカムカムカ


ああ、いい感じに苛々してきた。


388 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:06

「会社の先輩」と談笑している梨華はあまりに無防備で純粋過ぎるし、
自分が久々に連絡を取った、過去の想い人である矢口真里と市井紗耶香が
実はひっそり続いていたことが判明してしまったし、
(…あんのたらしヤローめぇ!)
真希の中で着実に、確実に蓄えられていた怒りが、膨れ上がった。

取り合えず、
梨華お手製のおにぎりをきれいに平らげて、(だって彼女の手料理なんて
この機会を逃したらいつ食べられるのか分からないし、味わっとかないとね)
紅茶を一口に飲み干し、真希は勢い良くその場に立ち上がる。

梨華は気付かない。
そして、通話に夢中な彼女の真後ろに回りこんでも、やはり微塵も気付く様子はない。
(苛々増長だ、ホントに)

389 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:07

「あの、でも、あたし明後日はバスで…………あっ!?」

会話途中の梨華が、突然素っ頓狂な声を上げた。
背後から、真希が彼女の携帯を抜き取るように取り上げたのだ。
自分より身長も低く、力もない油断している彼女から携帯を奪うなど、
簡単過ぎて失敗する方が難しい。

「ちょっとごっちん!」という非難めいた抗議の声は右から左に聞き流し。
焦って取り返そうと手を伸ばす梨華の手をひょい、と交わし、
「もしもーし」
『え!?』
勝手に電話口の相手に話し掛けた。相手は驚いている、そりゃ当然。

「ちょっとごっちん、返してよ、会社の先輩なんだからっ」
「知ってるよーっと」

390 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:07

「もうっ!ふざけないでよっ」
顔色を変えて焦り半分、怒り半分の形相で真希に追い縋る梨華と、
リビングの中を悠々と歩き回ってその追従を楽々あしらう真希。
のらりくらり動き回りつつ、
「ごっちん、返して、かーえーしーてっ!怒るよ、本気で!」
「やだ」
梨華の攻勢をかわす為器用に体勢を変えながら、再び携帯に口元を寄せた。

「市井ちゃんさぁー昨日、後藤が言ったこと聞いてなかったぁー?」
『え、なに、――― 後藤ぉ?何で?え、マジ?』

市井紗耶香の狼狽ぶりが、携帯電話を通じて伝わってくる。
ふと、梨華の方を伺えば目をぱちくりさせて「知り合い?」なんて首を傾げているようで。
不思議そうに目を瞬かせているのが何だか面白い。
返事はせずに、取り合えずにこりと笑顔を見せると梨華はぽかんと口を開けた。

391 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:08

本当に彼女は表情をコロコロと変えるから、
見ていて飽きないし、それに何よりそんな所が可愛いのだ。
「ごっちんが、市井さんと?何で?え?そーだったの?」
なんて、しきりに首を捻って、呟いている彼女に笑顔を残し、再び携帯を口元へ。

「後藤さぁ、梨華ちゃんには近付くなって言ったよねー。覚えてるー?」
『えっと、いや…後藤ちゃん?怒ってる…かい?』
「声聞いて分からない?」
『や、だってさ、他人の電話に勝手に出るのはマナー違反ってやつで一応市井はい』
「うっさい!市井ちゃんに説教される覚えはないんだからこっちは!!
 とにかくもー切るからね!」
『いやいやいやいやちょっと待って、市井はさ、シタゴコロがある訳じゃなくって、
石川が車をさ、会社に置きっ放しだから、月曜の朝だけ送るよ、って提案をだね…』

392 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:08

「しつこい」
無碍に言い捨てると、まままま待て待て待て待てと焦り気味の市井の声。
やっぱり市井ちゃんはヘナチョコだ。優位な立場に、少しだけ安堵する。

『後藤ぉぉ〜。だって、困るのは石川だよ?』
「じゃ、月曜日は後藤が梨華ちゃん送ってくから。それで万事解決。そんじゃ」
『待て待て、ちょっと待っ』
「あ、言い忘れてたけど」

一呼吸の間を持たせて、真希は横目でちらりと梨華の様子を伺った。
その彼女はというと、予想外であろうこの事態にほけっと立ち尽くしている。

「金輪際、梨華ちゃんにちょっかい出さないでね、やぐっつぁんは優しいから市井ちゃんを
 許したかもしんないけど、後藤は絶対認めないから。ハイじゃーさよなら」
ピッ
「あ、あーっ!勝手に切っちゃったの!?」
携帯電話の持ち主から上がる悲鳴を背中に、
ついでに、ぴぴぴっと操作、完了。

393 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:09

「何してるの?何したのよごっちん、ちょっとやだぁー」
慌てふためく梨華に、
「別に。着信履歴消しただけ」

「えー!?あたし、市井さんの番号知らないのにー!」

携帯を奪い返すも、どう操作しようが後の祭り。
こちらから、市井紗耶香に連絡する術は絶たれたことに呆然とする梨華。
真希にどれだけ私恨があろうが、梨華にとって尊敬すべき先輩であることに
変わりはないのだ。

「ばかぁ、ごっちんのバカーッ!あんな失礼なこと言ったまま切るなんてヒドイ!」
「いーの。どうせ下心のスケベ心しか持ってないんだから、ヤツは」
「変なこと言わないでよ、市井さんはあたしが明後日の月曜日、会社に行く足がないから
 迎えに来ようか?って、わざわざ気を遣ってくれたんだから」
「はん、予想通り」


憤然と抗議する梨華の言葉は、ぞんざいにスルーされているようだった。
ついっと明後日の方向へ顔を向け、市井擁護情報は一切シャットダウン体制に入る
やっぱり子供な後藤真希、18歳。

「そーれーがー市井ちゃんの手口なの!ったく姑息な真似を…」
「っていうかどうしていちいち市井さんのこと否定した言い方するのよ、ごっちんは」
「………とにかく、明日は代わりに後藤が送ってくから」

394 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:10

抑揚を付けずに言い捨てて、真希はあくまで梨華から視線を逸らす。
あまり市井紗耶香との関係について詮索は受けたくない、と言外に匂わせて。

「送ってくって、ごっちん車どころか免許自体持ってないじゃない、原付だけでしょ?」
「じゃあ原チャ2人乗りで」
「違反じゃない!」
「バレなきゃだいじょー………ぶじゃないっ!!駅に原付置きっ放しだぁ!!」
「ええ!?」
「うっかり歩いて帰ってきちゃったあ、しまったー」
「……自業自得よ、市井さんに酷いこと言うから」
「梨華ちゃーん、……ちょっと駅前までハイキング行かない?」
「行くわけないでしょおっ!」
―――――
――――

395 名前:7. 投稿日:2005/01/06(木) 18:11


同居を始めて1月半。
ご主人様と、居候(兼料理人)の関係が微妙に揺らぎ始めた、真冬の夜。


396 名前:  投稿日:2005/01/06(木) 18:11

397 名前:名無し猿 投稿日:2005/01/06(木) 18:13
>>332-396 今回更新分

明けましておめでとうございます。
というわけで、3ヶ月以上も間が空いての更新です。
sageてマターリ更新、というにも期間空き過ぎだろうと我ながら思いますが
遅筆なりに進めていきますので、思い出した時読む程度にでもお目を掛けて
いただければと思います。本当に申し訳ないです。


>322 名無し飼育さん
    ありがとうございます。一応少しずつ過去の因縁やらを解明してますが、
    何分上手いこと表現できていないので分かりにくいかもしれないです;
>323 名無し飼育さん
    ありがとうございます。今のところ後藤さんの優しさは特定の相手にしか
    表れていないんですけどね。某親友に対してなんか相当冷たいです。 
>324 名無し飼育さん
    ありがとうございます。期間が空いてしまう分、少しでも大量投下しない
    と話が進みませんので頑張ります。(その割に内容が進んでいなry)
    吉澤さんは書いてて楽しいですね。彼女がいないと息抜きが出来ないw
398 名前:名無し猿 投稿日:2005/01/06(木) 18:13
>325 名無しさん
    ( ´Д`)ノありがとーござんす。
    人間関係は狭い範囲でこじれてますね。これから多少動きがあるかも…
>326 ◆ZpT8ZEbMさん
    初めて読むいしごま小説が自作ということで、大変恐縮です。ありがとうございます。
    とりあえず、あの「さる。」さんとおっしゃる方とは別人だと思います。心当たり
    もないもので…すみません。
>327 名無し読者さん
    ありがとうございます。去年中、間に合いませんでした!申し訳ないです。
    覚えていてくださったら、また読んでやってください。
>328 名無し飼育さん
    ありがとうございます。>い(ryって実は…と自分なりに推測してるとこが
    とのことですが、もしかしたらご想像通りかもしれないです。アチャー
    予想と同じでも違っていても、生温く見守っていただけると嬉しいです。
>329 名無しさん >330 名無し飼育さん >330 名無し読者さん 
    保全ありがとうございました。

この先もまたマイペース更新になるかと思いますが、
完結まで頑張りますので、今年もどうぞよろしくお願いします。
399 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/06(木) 19:16
待ってましたー!!
大漁更新お疲れ様です。私にとって一番のお年玉ですよー
柔らかい空気感が心地よいですね。
これから二人の空気もどんどん変わっていくのかな…?
次回更新まったり待ってます。
400 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/06(木) 21:12
更新キテタ──(゚∀゚)──!!
これからの2人どうなるんだ─?!にしても梨華ちゃんカワイイ(*´Д`)続きマターリ待ちます!
401 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/06(木) 22:55
よっしゃー。お年玉キタ━━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━━!!!!!
待ってましたよ
二人の気持ちが徐々に変わっていく様がいい
次の更新楽しみにしてます
402 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 00:58
大量交信キター!!
ああ、ホントにお年玉…。
403 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/07(金) 02:38
大量更新お疲れ様です。
ほんと大漁ですw
じっと待ってたかいがありました!
これから楽しそうな展開になるような予感ですw
次回更新もマターリお待ちしております。

404 名前:名無し? 投稿日:2005/01/07(金) 13:21
待ってました!!
更新お疲れ様です!
二人の関係がこれからどうなっていくのかが気になります(;∧;)
405 名前:名無しの読者 投稿日:2005/01/08(土) 00:52
更新きてたの気付かなかった!大量投下乙です。
にしても、主役の2人が可愛過ぎる・・・これからどんな風に関係が変わってくるのか本当に楽しみだす
406 名前:Liar 投稿日:2005/01/14(金) 18:48
いつも楽しみです。続きが早く見たい!
407 名前:Liar 投稿日:2005/01/19(水) 19:23
今日は梨華ちゃんの誕生日!おめでとう。梨華ちゃん。
408 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/19(水) 19:38
>>407
そういうことはおたおめスレに書きなさい
あとメール欄には「sage」と入れるように
409 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/19(水) 21:55
>>406-407お前絶対わざとやってんだろ。作者が下げ更新宣言してんのに上げんなよ
410 名前:名無し読者 投稿日:2005/01/20(木) 16:01
しばらく放置で大量更新。
作者様の0か100かってペースが憎い!w
やっぱこの二人が出てこないと物足りません。
作者様以外のごまりかは受け付けないのです。
次回更新は桜の花びらが舞う頃でしょうか?
楽しみに待ってます!
411 名前:Liar 投稿日:2005/01/20(木) 22:46
406と407のLiarです・・・。ス、スイマセン!!実は、sageとかageとかしらなくて・・・。悪気はなかったんです・・・。
408さん、409さん、わざわざ指摘してくださってありがとうございます。作者さん、本当にごめんなさい。以後気をつけマス!いつもたのしみにしてます。がんばってください。
412 名前:名無し読者 投稿日:2005/01/27(木) 12:24
次の更新はいつかな
楽しみに待ってまーす
413 名前:John 投稿日:2005/02/16(水) 07:40
推しカプでも推しメンでもないのになんかひきこまれます。すげぇ。

それ故か激しいドキドキ感でなくあたたかいお湯のようなほんわかした雰囲気がして妙に心地いいし二人がかわいい。

更新お待ちしてます
414 名前:名無し猿 投稿日:2005/02/20(日) 02:11
中途半端に書き続けてます、作者です。
更新はもう少し後になりそうですが、決して放置はしませんので…。
レスいただいて本当に嬉しいです。返レスは次更新時にいたします、では生存報告でした。頑張ります
415 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/21(月) 09:34
生存報告ありがとうございます。

この作品大好きなので、いつまでも待ちますよ。
作者様のペースで頑張ってください。
416 名前:名無し読者 投稿日:2005/03/19(土) 21:58
待ってますね
417 名前:名無し読者 投稿日:2005/04/13(水) 01:27
ほぜんですよ
418 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/04/18(月) 00:02
待ってます
419 名前:名無し読者 投稿日:2005/05/06(金) 20:50
ほぜん
420 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/02(木) 01:58
待ってます
421 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:40


一つ屋根の下で暮らしている友人 ――― もとい図々しい後輩と、仲違いしっ放し。
いくらお互いに適度な距離を置いて生活しているものとはいえ、
それはやはり、どう考えても気分の良いものではなくて。
日曜日は何だかんだで結局、
石川梨華(会社員)は居候こと、後藤真希(高校生)と2人で過ごした訳なのです。

422 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:41

午前中、レンタルビデオショップで借りたDVD。
ホラー映画を観たがる梨華と、単純明快なアクション映画を推す真希とで
散々揉めた挙句、結局両方借りることで決着し、
ついでにその場の勢いとノリで、柄にも無く純愛映画まで一緒に借りたりなんかした。

で、午後に並んで鑑賞三昧。
オマケで借りた筈の純愛映画に1番嵌って、2人でティッシュの取り合いに。
夕食は珍しくデリバリーピザで済ませた。
さすがに土曜日のゴタゴタ、というか言い争いを翌日に持ち込む程、粘着に相手に
絡むつもりもなく、「ハイキングすっぽかし」の埋め合わせをする形で一応仲良く、
時間を共有した日曜日。

昨夜の些細ないざこざがほんの引掻き傷程度に後を引き、
時折、相手を気遣う視線が飛び交うのはお互い様だった。


423 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:42

さあて。と。
憂鬱な気分は、その夜に再び頭を擡げた。

(ああ、きっと市井さん怒ってるだろうなぁ…何て言い訳しよう)

胸を圧迫するような重い不安感が、自室で1人になった途端に梨華を襲う。
映画を観ていれば、美味しい食事をしていれば、真希とくだらないお喋りでもしていれば
――― そう深く、考え込まずに済んでいたのだけれど。


 大丈夫大丈夫、市井ちゃんは絶っっっ対梨華ちゃんのこと怒ったりしないし
 後藤のことも怒れないはずだから、だって市井ちゃんヘタレだし
 心配しないで会社行けばいーんだよ、梨華ちゃんは


“市井紗耶香”をよく知る(自称)という同居人は、ヘラヘラと表情を崩しつつ
あっけらかんと前記の通り述べていた訳だが、
昼間、そんな楽観的な真希と一緒にいる時間はともかく、
就寝前、ベッドに入れば否が応でも意識せずにはいられなかったりして。

自他共に認める『ネガティブ』思考、昔よりは改善されたと思っていたのだが、
どうやら人間の本質というものは、そう容易く変わることもないらしい。

(やだなぁ、明日、怖いなぁ〜…)

424 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:42

425 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:43

―――― で。時の流れは容赦せず、本日、月曜、早朝。
通常より30分早めに家を出て、対象こと尊敬すべき先輩・市井紗耶香の姿を待つ。
とはいえ、現在の梨華の心境からすれば「尊敬」というより「畏怖」の感情が先立って
しまうのは仕方のないことと言えよう。元来気の小さい人間なのだ。
「はー」
そわそわ。
制服に着替え、特に業務にとりかかるでもなくウロウロと歩き回る。


普段より若干早出の梨華を、疎らに出勤してくる社員がちらほらと不審な視線を
向けるが、最早彼女がそれに気付ける心の余裕など残されていない。

「はああああ…」

426 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:43

重い気持ちを背負い、手持ち無沙汰の梨華が十数度目になる深い溜息と共に力なく
項垂れた時、まるで頃合を見計らったかのタイミングで肩をぽん、と叩かれた。
「よう、オハヨ石川」
「きゃあっ」
「え?」

思い掛けぬ遭遇。
気付けば目と鼻の先に、朝からずっと胸中を占めていた畏れる対象の出現。
飛び出した悲鳴は勿論、無意識のものだ。
心臓、ばくばく。焦りと動揺に目を白黒させて。
ああびっくり、動悸が激しいなぁ最近、救心必要?あたし若いんだけど…

「ちょっと石川?なんかトリップしてんの?おい」
「は、す、みません。すみませんっ」

予期せぬ衝撃で受けた軽いパニック、背中を伝う嫌な汗。
自分を大きな瞳で射抜く(というか思い切り顔を覗き込まれているし)先輩とご対面、
いきなりのラスボス登場、朝っぱらから四面楚歌。
とは過大表現だが、今の梨華はそんな追い込まれた気分を味わっていた。

(ごっちん、本当に市井さん怒ってないよね、ないよね、信じるからねっ)


427 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:44

腑抜けた顔で微笑む居候の彼女を思い浮かべ、
怖怖と、梨華は市井に視線を返す。
「あの、この間はご馳走様でした。…あたしかなり酔ってたと思うんですけど、
 ご迷惑お掛けしませんでした?」

一瞬、不思議そうに小首を傾げて、市井はぱっと花咲くように笑った。
「いや、全然平気だよ。気にすんなってそんなこと」

朝から眩しいくらいの爽やかさだ。
上品なベージュ系の口紅に、すっきり扇状に立ち上がった長い睫毛、
今日も完璧メイクを施した先輩の口元には(冬だというのに)涼やかな笑み。

整い過ぎているが故の嫌味を感じさせないのは、彼女特有の朗らかさ、気さくさのせい。
そこらの若い男性社員より余程男前、と同期達の中で評判なのも頷ける。
予想以上にあっけらかんとした市井の態度に、小さな希望の光が点り始めた。


428 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:45

…市井さん、笑ってるよね?怒ってないのかな

うん、大丈夫だ、きっと大丈夫。
よし、と自分に喝を入れて再び梨華は口を開いた。

「それと、昨日…あの、ごっちんが…電話であの、凄く失礼なことを…。
 あたし、あの…市井さんとごっち、じゃない後藤さんが知り合いだって
 知らなくて、……とにかく、本当にごめんなさい!」

歯切れ良く、とはいかないまでも何とか本題を切り出せた。
搾り出すように謝罪の意を表明し、勢いのままに頭を下げて、目を瞑る。
と、間を置かずぽんぽん、2回頭を小突かれた。「まったく、なんていうか」
「え?」
「生真面目だなぁー石川は」
驚いて梨華が跳ねるように顔を上げると、破顔した市井と視線が交差した。

「別に、石川が何かしたワケじゃないっしょ?やったのは後藤だし、
 そもそもあれくらいで怒らないよ。気にしてないし、大丈夫だって」
「え……」


429 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:45


 大丈夫大丈夫、市井ちゃんは絶っっっ対梨華ちゃんのこと怒ったりしないし
 後藤のことも怒れないはずだから、だって市井ちゃんヘタレだし



自動的に脳内再生、あくまでお気楽極楽な口調の彼女の台詞が甦る。
市井紗耶香が“ヘタレ”かは知らないが、少なくとも彼女が「気にしてないから」と呆気なく
片付けたその表情は本心の様で、
それはまさしく真希の言葉が間違いでないことを証明していた。

(怒ってないの?本当に?)


430 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:46

「あの、でも市井さん…」
「おーっとストップ、これ以上謝るんなら止めてくれよぉ、マジで市井はんな小さいコト
 全っ然、気にしてないんだからね」
「だけど、あたし…電話掛け直しもしないで」
「どうせ後藤に携帯奪われた時、市井の着歴消されたりとかしたんでしょ?
 石川、市井の番号知らないはずだもんね、教えてなかったし」
「どうして…」
「分かるのかって?分かるよ、そのくらい」
「え」

ひらひらと手を振って、口元の余裕気な笑みを絶やすことなく、あくまで市井紗耶香は
寛大なオーラを放ち続けている。
……何で、どうして分かるんだろう、市井さん。
梨華を支配していた不安と恐怖心が拭われつつある中、今度は新たな疑問が
膨らみ始めていた。不審に思う、と言うのが正しいだろうか。
市井の言動はまるでずっと、真希を観察でもしていたかの様な的中度。

(ごっちんは市井さんの行動を予測出来てて、
 市井さんはごっちんの行動を言い当てるなんて)

431 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:46

考えてみたらやっぱり変だ。市井さんはこんなに大人で、余裕持ってて、心が広いのに。
今の一貫して優しい態度とか対応とか見てたら、すぐ分かるのに。
およそ、嫌悪するような感情が沸くような対象だとは思えない。
―――― なのに、何故?
どうしてごっちんはあんなに喧嘩腰だったんだろう、何で機嫌悪かったんだろう。

微かな胸騒ぎは、けれど決して気のせいだと見過ごせない引掻き傷のように
梨華の胸に小さなかさぶたを形成して、その存在を主張していた。

腑に落ちない、そんな感情が表に現れていたのだろうか。
黙り込んでしまった梨華を気遣うような優しい声色で、市井が言った。

「石川さ、良ければ今日ランチ一緒しない?」
「あ、はい。……はい?」

432 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:47

反射的に同意の意思を返してしまってから、ワンテンポ遅れてその意味を察し、
慌てて、梨華は市井の表情を窺うように顔を上げた。
遠慮なく表情に滲み出した怪訝な色を読み取ったように、市井が応える。

「色々、話したいことあるし。石川も市井に聞きたいことあると思うんだけど?」
「え」
梨華を試すような口ぶりで言ってのけた後、
同期内でも憧れの的であるその先輩はいたずらっぽく笑って、付け加えた。

「それに、今度はちゃんと携帯番号、教えておかないとね」


433 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:47

◆◆◆

434 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:47

同時刻、早朝バイトに勤しむ真希。
弁当や煙草を買い求める現場勤め風のおじさん集団や、制服・ジャージ姿の登校途中
な中高生の群れが押し掛けていた、ピーク時を過ぎてしばらく。
偉いなぁ後藤ってばあんな時間にガッコ行くなんて片手の指にも足りないくらい
だったのに、などと決して誇れない思い出に軽く浸っていたりする、そんな頃。

「後藤さん、後藤さんってば」
「んあー、何?」
「ドリンク補充終わりましたって声掛けたんですよぉ、聞こえませんでした?」
「ああゴメン、ぼぉっとしてた」

バイト仲間の高橋愛が、文字通りぼぉっと突っ立っていた真希を不思議そうに眺めている。
くりくりとした小動物を連想させる目が自分を真っ直ぐに見据えており、
「ごめんね、1人でやらせて」
取り繕うように手を合わせれば、くしゃっと顔を崩して笑う愛がいて。
「後藤さんがぼーっとするのはもう、慣れましたけど」
「なーんだとぉ。言うようになったじゃん高橋」

あはははは、
うふふふふふ、
なんてお互い顔を見合わせて何となく笑った。朝からほのぼの、バイト中。

435 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:48

キビキビ動き回る愛は働き蟻で、集中力が続かない真希は差し詰めキリギリスか。
なのに、何故か波長が合ってしまうこの不思議。
おしゃべりでもなく、かと言って話題が途切れて気不味くなる訳でもなく。
何所か捉えどころのないその後輩との仕事は、割と居心地が良かった。

無論、高橋愛自身が時々サボりがちな真希をどう認識しているかは別として。
まぁ、手が空いている時は特に会話が続かなくても、話が弾まなくても、
ちょこちょこと真希の側に寄ってくる高橋だ。
少なくとも悪い感情は抱いていなのだろう。

436 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:48

客足が一先ず落ち着いた矢先、来客を告げるベルが鳴った。
「「いらっしゃ ―――― 」」
店員同士、仲良くハモり、
「いませ、」と続けたのが愛で、ふいっと他所を向いたのは言わずもがな、レジに並んだ
(やる気の感じられない方)アルバイト店員の片割れ。
顔に疲労の色濃く滲ませた真希である。

満面の笑みで、芸能記者に機嫌良く愛想を振り撒く胡散臭い二流タレントの如く、
軽やかに片手を上げ、くるっと回って指ぱっちん。
何故か満面の笑みで登場したるは、

「よっ!ごっちんに愛ちゃん、お疲れさーん」
「……さて、ピークも過ぎたことだし休憩もらおうかな」
「後藤さん、吉澤さん来てますけど」
「真面目に対応しなくていんだよ、高橋。ああいう変な人には」
「はぁ」

437 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:49

真希の親友であり、或いは
「なーんだよー、冷たいなぁごっちん」

ひゃらひゃらと笑いつつ、目線はしっかり真希にロックオンした「悪友」ひとみ。
最近、どうも毎日のように顔を合わせてる気がするなぁ、
当たり前の様に阿呆面で現れる友人に慣れてしまっている自分。
元々は精悍で整っている美形な彼女なだけに、その落差が勿体ないやら呆れるやら。

「よっすぃーさぁ、もしかして暇なの?」
仕事中であり、ひとみが仮にも「客」という立場であるにも関わらず、
真希の体は一気に脱力感に襲われる。
何でこう、この親友は人を異常に疲弊させるのが得意なのか。
万事テンションを高く保っている、尋常でない体力も謎だし。

「何をおっしゃるか、大忙しの毎日だよ。こうやって愛しのハニー達に会いに色んな
 店やら学校やら巡らなきゃいけないからね」
「…暇なんじゃん」

438 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:50

「ところで愛ちゃん?」

大袈裟な身振り手振りで熱い視線を振り撒きつつ、
疲れた表情を浮かべた真希の迷惑そうな態度など何所吹く風のひとみは、
ターゲットをあっさり高橋へとスライドさせる。
(さくっと無視するわけね。別にいーけど)
朝っぱらからよしこの対応する気力ないし。変わり身の早さはいつものこと。


唐突に自分に話が振られてビックリ顔(はいつものことだが)の高橋は、
相も変わらず愛嬌のある丸い目でひとみを見つめ、

「あ、こないだはありがとございました。水族館、すっごい楽しかったです!」
妙にかしこまった態度で素早く頭を下げた。
艶のある、黒に近い茶髪を結わったポニーテールがくるり、と宙で踊る。
顔を上げた彼女の顔には、若さ弾ける満面の笑み。

「いやいやいやー」
「よっすぃー、鼻の下伸びてる」
可愛い子は、どんな表情をしても可愛いものだけれど、
嬉しそうな笑顔というのはやはり格別である、と。要約すればつまりそんな反応。

439 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:51

「何、高橋とよっすぃー、どっか行ったの?」
卓絶の微笑みを添えたお礼を述べられ、デレデレと相好を崩しているひとみなど
当然の如く無視することにして、真希は高橋に向かって問い掛けた。

「あ、はい、おとといの土曜日に、」
律儀に答えようとする高橋を遮り、
「ホラ、ごっちんが昔の女(らしき相手)に誘われてホイホイ出てったあの日だよ」
「……殴るよ」
「ジョーダンだって冗談、冗談だからその顔マジで魚のように怖っ…ぐふっ」

茶々を入れるひとみは取り敢えず肘鉄で黙らせた。
矢口真里の笑顔が脳裏を過ぎり、
一瞬胸を針で刺された様な微かな痛みが走ったのも、気付かない振り。

440 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:51

「で?」
と軽やかに高橋を促すべく彼女に改めて視線を送る、真希。
脇腹を抑えて蹲る(一応は店の)お客様ことひとみに心配そうな視線を送りつつ、
強引に話の続きを促されて、高橋は真希の方へと向き直った。

「はぁ、えっとですね」

ぱっちり開いた彼女の大きな双眸の奥に、密やかな畏怖の色が宿っている様に見える、
のはまぁ気のせい ―――
そう、真希の思い過ごしにすぎないのだということにしておこう。


「実はですね、こないだの土曜日に、吉澤さんとマコト…同じガッコの後輩で
 小川麻琴っていうコなんですけど、後藤さん知ってます?」
「あー、初めて聞く名前だけど、それで?」
「で、その麻琴って子と私と吉澤さんと三人で、茅ヶ崎の水族館まで遊びに
 行って来たんですよ」
「…そりゃまた遠くまで」
「あ!後藤さんにお土産買うの忘れてたです!すみません」
「…いや、そんなことで謝らんでも」

441 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:52

何故か見当違いの方向で恐縮している様子の高橋愛に苦笑を返し、
真希はその小柄な身体の背後でもそもそと立ち上がった影を一瞥して、一言。

「へぇーさっすがよっすぃ、手が早いねぇ」
「あう」
そこは腐っても親友同士、口に出さずとも心中での意思疎通。
冷ややかな真希の視線に気付いたひとみは、弁解したいのかぷるぷると小刻みに
首を横に振り続けた。

― 違うよ。ごっちん、これは違うんだよ

後輩はあんまり興味ないとか自分は年上専門だとか
セクシーなお姉さん大好きとか言っといて、ちゃっかり後輩とデートですか?
しかも両手に花状態で?へえー、ふーん、いいご身分だねー

― 違う違うんです、ごっちん聞いてクダサイな、これには事情があるんです
決して下心があった訳じゃなくってそもそも本気なら最初っから小川みたいな
オマケは切り捨ててるって、いやマジで。後輩思いなだけですからー!

442 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:52

で、高橋とその小川って子、どっちが本命なわけ?

― いやあのね、ごっちんも小川と直接顔合わせれば分かると思うけど、100パー
ヨシザワ的に圏外だから、付き合うとかあり得ない部類の子だから

ふーん。へー。随分焦ってません?吉澤さん 

― 何ですかその意地悪な笑顔。後でからかう気満々でしょこないだの仕返し?
そんなに梨華ちゃんにあれこれ吹き込まれるのが嫌なんだそーなんだ
っていうか愛ちゃんはともかく小川が本命とかあり得ないから、冗談でもナイです


口元には微笑、目だけで静かな睨み合い。冷戦勃発。

「…あの」
タイミング悪く不穏な空間に巻き込まれた高橋が、真希とひとみの固い笑顔を交互に
見比べては、小さく身を竦ませている。
彼女には全く落ち度がないだけに、悲壮感漂う光景だ。
居心地の悪い空気を振り払うように、高橋は突然真希へと引き攣った笑顔を向けた。

443 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:53

「こ、今度は後藤さんも一緒に行きましょう、ね!」
「は?」
「へ?」
「え?」

――― びっくり顔の後輩は、この静かな睨み合いの原因をどうやら履き違えて
捉えているらしい。静かなる2人の冷戦が、1人仲間外れにされて拗ねている真希に
起因するとでも踏んだのか。
突飛な提案に思わず間抜けな声を上げた真希とひとみの反応に、逆に惚けた声を返す高橋。
それはもう、ボケとしては見事な間だ。

「…そうだね」
「…一緒にね」
何となく毒気が抜かれて顔を見合わせる2人。
何だかなぁ、何だかねぇ、ちょっと面白いよねこの後輩。なんて相も変わらず目で会話。

444 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:53

他に客が訪れないのをいいことに、会話に興じるアルバイト店員2人と客1名。
店長に見られたら怒られちゃう、などと思い至る程に真面目でない真希はいいとして、
威圧感のある先輩2人に足止めされて動けない高橋は相当、気が気でなかったりする。
「あのー、そろそろ仕事にもど」
そわそわと辺りを気にしつつ、高橋が口を開き、

「つうかさ、そもそもウチは愛ちゃんに用があって来たわけで」
と、
そんな後輩を遮り、続いてひとみが切り出した。

「はぇ?」
がっちりと腕を掴まれ逃げるに逃げられなくなった高橋が、ひとみに拘束されたことにではなく
問い掛けの内容に、分かり易い疑問の表情を浮かべる。「うちに用事、ですか?」

「愛ちゃんさ、水族館、楽しかったよねー?」
「あ…?あ、はい、楽しかったです、また行きたいです」

質問に関する解答の検索結果に関った時間は約0.5秒。
仮にも先輩相手に、「楽しくなかった」などと言い放つ筈もなく、生真面目な表情で
ごく優等生な答えを口にする高橋に、うんうんそうだよねーそうでしょーと相槌を打ちつつ、
ひとみはごく満足気な笑みを浮かべた。

445 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:53

「………?」
(何考えてんだか、よっすぃーは)
あからさまな企み顔のひとみに胡散臭さを覚えながらも、真希は一応静観に留まっている。
そんな真希の様子など意にも介さない調子で、ひとみ。

「でさ、小川のことってどう思った?」
何の前振りもなく、唐突に切り出された台詞に高橋がは?と口を開ける。

「マコ…マコトですか?」
「そうそう、その小川麻琴について。どう思ってる?」

バイトを邪魔されつつ、全く予期しない質問を受け、更に何故かその問いを投げ掛けた
当の先輩に期待に満ちた視線で見据えられている高橋だったけれど、
怪訝な表情でも一応そこは律儀に、ゆっくりゆっくり口を開く。

「えっと、本当に吉澤さんと仲良いんやぁて思いましたよ。息ぴったりて感じで、
 何ていうか夫婦漫才みたいな」
「………」

446 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:54

天然なのか、軽く本題を逸らされているのか判りかねる返答である。
望む回答を得られなかったひとみが、がくっ、とお約束のコケっぷりを見せておいてから
ごほん、と思わせぶりに咳払いして、直球勝負な質問を投げ掛けた。

「いやあのね、ヨシザワと小川がどうとかじゃなくて、愛ちゃん自身が小川のことをね、
 どう思ってるのか知りたいんだけどね」
「マコトのことを?うちが、ですかぁ?」

きょとんとした表情で、高橋が不思議そうな声を上げる。
誰がどう見ても必要以上に驚愕している顔の高橋であるが、今は純粋な疑問を
素直に表しているに違いない。驚き顔に変わりはないが。
そして。
1人蚊帳の外で会話についていけない真希が、ここで素朴な疑問を吐き出した。

「…あのさぁ、後藤にも分かるように話して欲しいんだけど」
「別にごっちんには関係ない話だから」
「……」

(にゃろう)
自分の顔すら見ることなくあっさりひとみに切り捨てられ、
真希はむっつりと唇を屁の字に曲げた。
――― まぁ、そんな顔をしても既に高橋の方へ意識を移していたひとみは
不機嫌な真希の様子に気付きようもないのだけれど。


447 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:54

「それで、愛ちゃん」
「はぁ…」
返事を催促するひとみを見上げ、「ええと」、「なんていうか、」と煮え切らない態度の
高橋は、明らかにこの状況に当惑を抱え、困り顔を浮かべている。

その高橋が、助けを求めて傍らで(仕方なく)この事態を静観している真希へと、縋るような
視線を向けた。某消費者金融の小動物の様な愛らしさと頼りなさ。
助けたいのは山々だ、しかし。

微かに憐れみを滲ませた表情でその視線を受け止め、真希は緩やかに首を振った。
―――― ごめん、後藤にはどうにも出来ない

(他人の色恋沙汰に異様な関心と興味と持ち、更に必要以上の口出しと茶々入れを
 趣味とするひとみの暴走は、例え親友といえど真希には止められなかった。
 大体、現在進行形で自分も被害に遭っているというのに)

448 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:55

目でそう伝えると、高橋は諦めたようにひとみに向き合い、
「あのー、マコトは仲の良い後輩で、面白い子です……だと思いますけど」
上目遣いに、更に言葉を選びつつ答えた。
どうやら、場の雰囲気からあまり迂闊な回答は出来ないと判断したらしい。
なかなかに鋭い、というか慎重派な高橋愛(高2)である。

「うんうん、それで?」
「それでって、その答えじゃ駄目なんですか?」

腑に落ちないように訊き返す高橋、そのあからさまな逃げ腰の態度に痺れを切らした
様子のひとみが、「いやあのね、」と真剣な表情で前置きして一言。

「ぶっちゃけ、小川のこと好き?」
「………え?」

449 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:55

容赦なく、遠慮も配慮も欠片ない本題をぶつける。
今まで遠まわしに聞いていた意味を全く無くす問い掛けに、高橋は一瞬口を噤んでから、

「まぁ、それなりに」
「それなりって」
「えぇと、ですからトモダチとして…?好きですよ」
きょとんと首を傾げ、微笑む仕草は愛らしい。
だが無邪気に笑んだ唇から発せられた言葉は、悪意がないだけ残酷なものである。

「じゃ、恋愛対象……とかには」
「あ、それは確実に無いですね」

迷うことなく、しかも、『それなり』に好き。にっこり笑って、きっぱり答える、
つまりそうです、――― 『確実に恋愛対象にはなり得ない』

「 ―――― やっぱり、駄目か…」


まぁ、想定の範囲内の解答ではあったけども。
あくまで淡々と話す愛を見て、ひとみはこっそり嘆息を漏らした。爛々と熱を帯びていた
相手を射抜く様な大きな目から、急速に希望の光が失われていく。

“駄目だこりゃ。小川、すんごい見込みないわ”

450 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:56

(……ああ)
ひとみが素早く且つ小さくそう言い捨てたのを、唇の動きと囁くばかりの音量から
間近にいた真希だけが、辛うじて聞き取ることが出来た。
(そゆこと)

悲壮感漂う空気を発散し、「すまん小川……無力なセンパイですまん…」などとブラックな
雰囲気を纏い始めたひとみに横目で視線を送りながら、簡単に推測を立てる。
端的に言えばそう、後輩思いなのは良いがお調子者の彼女は、
その場の勢いか何かで「高橋との仲を取り持ってやる」くらいの口約束を結んだのだろう。
例の“小川麻琴”という少女と。

結論から言えば、どうやら高橋愛はその“小川麻琴”に対して後輩以上の感情は抱いて
いないらしい。つまり、現時点で言えばひとみの作戦成功には程遠い。
割と素直に感情を表すタイプの高橋だが、その彼女が冷静さを失わない反応を見せて
いるのだから、小川という少女に見込みがないのはおそらく間違いない訳で。

(まぁ、ご愁傷様)

口を利いたことはおろか、会った事さえ皆無の少女に対してでは同情こそすれ
吉澤ひとみという人物によりにもよって恋愛相談などを持ち掛けてしまった「小川麻琴」に
憐れみ以上の感情は抱きようもない。―― ま、相談相手を誤った、ってことで。

451 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:56

そして、撃沈したそのひとみは、というと。

「ちなみに、愛ちゃんて付き合ってる人いるの?」
僅かながらでも望みを繋ごうとしているのか(或いは単なる好奇心か)、
「愛ちゃん可愛いしモテるだろうからー、いるよね恋人くらい?」
「い、いないですよ!」


またもや唐突な上ぶしつけとも言える問い掛け(最早芸能レポーターさながらである)に、
今まで常に困惑ばかりを浮かべていた表情がぱっと赤く染まる。
そこは年相応な少女らしい反応を見せる高橋愛。

(自称)恋愛の達人殊吉澤ひとみは、そんな些細な反応を逃がさない。
してやったり。
慌てて否定する高橋の姿にひとみがニヤリ、と唇に三日月を作った。
―――― まだ可能性はある、イケるかも。

452 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:57

策士の目つきに一瞬で戻った友人を見て、真希は密かに肩を竦める。
他人の色恋沙汰に何故これだけ全力を注ぎ込んで一生懸命になれるのか、
意識して人と距離を置いている真希には理解のしようもなかった。
しかも、あからさまにがっつき過ぎな態度に深い溜息。

よっすぃー、分かり安過ぎです。目があれだよ、噂好きのおばちゃんの目になってるよ。


「それじゃ、愛ちゃんの理想のタイプってどんなの?」
「そーですねー、えっと、まず年上でー」
「OH!!」

453 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:57

“小川、いきなり対象外かよ!”

KOされる寸前のボクサーの様に顔を歪めたひとみを見て、
真希は前触れなく美術の教科書に乗っていた『ムンクの叫び』を思い出した。
身体をくねらせ、声にならない叫びを発しているあの何所か不気味な絵画、あれと目の前の
親友の姿が妙にシンクロして見える。

(はぁ…)
重ね重ね、残念に思わずにはいられない真希である。
美麗衆目、口さえ開かなければこの親友は文句なしのクールビューティで通るのに。

無論、何の予備知識もない高橋は、先輩の妙なリアクションに途方に暮れた様子。
「あの…吉澤さん?」
「あー、気にしなくていいよ、よっすぃが変なのはいつものことだから」
仕方がないので、真希が助け舟を出してやる。
「それで?」といっても、話の続きを促しただけだけなんだけれど。

454 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:58

「後藤も年上好きなんだよねー、高橋はどんな人タイプ?」

と、口に出してから気が付いた。
真希が心惹かれる相手は矢口真里といい石川梨華といい確かに年上に偏っている。
そして、何の因果かその2人に共通して見え隠れする影がいる。
(あーあ、嫌なヤツ思い出しちゃった)
市井紗耶香の存在と、矢口への想いと、梨華の困った顔を同時に思い出し、
何となく真希は陰鬱な気持ちに襲われた。

とはいえ、梨華への気持ちは未だに自分自身の中でさえ正確な感情は掴みあぐねている
のが現状なのだけれど、抱えた想いが好意か否かと問われれば間違いなくそれは、
好意の部類に当たると言えよう。
だから『ただの後輩もしくはただの同居人』というポジションから離脱出来ない今、
市井の存在が脅威に感じるのだろう。個人的な好き嫌いの感情も勿論関係はあるだろうが。

「なんつーかさ、年上の人に甘えたい願望あるのかも後藤って」
(ああ、本当にその通りかも。って何今更自覚してんだろうごとーってば)

あはは、なんて照れ隠しの様に笑いながら、
真希は自己嫌悪からこっそり、心で深い嘆息を漏らした。

455 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:58

そんな真希の複雑な胸中など当然ながら知る由も無い高橋は、普段こういった内容の話をしない
先輩からの問い掛けが珍しかったせいだろうか、
案外あっさりと答える素振りを見せた。

「あ、後藤さんも年上の人好きなんや、後藤さんに憧れてる友達とか後輩、けっこいますよー。
 残念がるでしょうねーそっか、へぇー」
「あ、ははははは」
何となく返事に困って、低い笑い声を上げた。

その手の話はつい先日、ひとみから告げられたばかりで(しかも梨華の目の前で!)、
正直嬉しい恥かしいなどではなく、ただ困惑しているばかりなので。
ちくり、ちくり
目に見えない浅いダメージは、確実に図太い神経にも蓄積されていく。

456 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:59

「んで、その高橋は?」
「えっと、あんまりそんな理想は高くないと思うんですけど」
と前置きしつつ、
「頭が良くって、話が面白くって、弱者には優しく強者には強く、みたいな感じでー、
 締めるトコは締める!みたいな人で。まぁ顔はそこそこ美形でいいです」
指折りそう例えを挙げていく後輩に、
「へぇーそうなんだ…」なんて、少し引き攣った笑顔で答えてやる真希。

――― そんな人格者を高校生レベルに求めるのは無茶というものだろう、が。
最早、突っ込む気にもならない。そうだね、恋愛は自由だからね。

完全な他人事だけに、真希はつらつらとそんなことを考える。
少なくとも、顔すら脳裏に浮かばない「小川麻琴」なる後輩の片思い騒動のせいで
真希が被害を被る可能性は限りなく少ない訳で、呑気に構えていられる訳だ。
が、そうもいかないのがひとみである。

「そうか…淡白そうに見えて意外と好みは細かいんだね愛ちゃん…小川、敵は
 なかなかに強敵だぞ……」

457 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:59

「つぅかよっすぃー邪魔」

床に蹲ったまま何やらブツブツ独り言を呟く親友を一蹴し、真希がレジに並ぶお客様の
会計を始めると、高橋が慌ててその隣に立ち並ぶ。

「す、すんません全然気付かないでっ」焦りつつ品物をビニール袋に入れながら、早口で
捲くし立てる高橋に、苦笑しながらアドバイス。
「はい、500円からお預かりいたします ―― だから言ったでしょ、よっすぃーはあぁいう人だし
 そんな真面目に相手する必要ないんだって、――― 150円のお返しになります、」
「ありがとうございましたー」「っしたー!!」
 
足早に出て行くお客様(推定28歳男性トラック運転手)の姿が完全に視界から消えるまで
お見送り、ようやく高橋が疲れた声を上げた。
「…これから、気を付けます…」
「何が?」
「いや、あの吉澤さんへの対応について…」
「ああ」

458 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 15:59

高橋が意味深にちらりと視線を走らせた先を追うと、

「年上で」
「頭が良くて」
「話が面白くて」
「弱者に優しく強者に強く」
「締めるところは締める、と?」

相も変わらず1人ごちるひとみがいる。
「ちょっとちょっとよっすぃー、もう分かったから高橋も困ってるしいい加減にさぁ…」
さすがに制止の言葉を掛け ―― 否、掛けようとしてはたと気付いた。
どうやらこちらの意見は彼女の耳には届いていない。



(あイター。小川、全く望みなしだよ。美形…じゃあ確実にないし、あいつ年下だし
 …あーあ………………
 ………(○´〜`)→(○・〜・)→(○゜ー゜)!!
 
 ……………いや待てよ、それって)  

459 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:00

口に出さずとも、ひとみの思考回路は至極分かり易い。
表情の変化に真希が身構えるよりも早く、彼女の周囲にぱぁっと薔薇の花が咲き誇った。
極上の笑みを湛えた親友は、色白な細い片腕を高橋の肩に回してその顔を覗き込み、
「分かったよ愛ちゃん♪」などと歌う様な調子で語り掛ける。

流し目の似合うひとみのこと、この手口でどれだけの純情可憐な少女達を惑わせてきたのか
皆目検討もつかない ――― というレベルの所謂口説き文句を並べるのは彼女の常套手段だ。

「うんうん、そんな遠まわしに表現しなくてもいいんだよ、
 ずばり理想の相手ってこのヨシザワなんじゃーん!?いや実はウチもさ、前からあ」
「違います」

真面目な彼女らしく、冗談めかすこともなく真っ向から即・否定。
「………」
古典的なコント的に表現すれば、金ダライががつーんと落ちてきた、そんな感じ。
「…ごっちん…」
「はいはい」
くりっとした円らなどんぐり眼で見つめられ、真顔でコンマ1秒すら開けることなく即答され、
真剣に切り返されると逆にキツイんだよー笑って流してもらった方が楽だよー
しくしくしくしく
ずーんと落ち込むひとみの背中を、真希がぽんぽんと軽く叩いてやる。

460 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:00

そんな自分らを不思議そうに見つめる高橋を見返し、そう言えばと真希が思い出した
ように口を開いた。レジから見て正面、保冷庫の上の掛け時計は既に9時10分を差している。

「高橋さー、ガッコ行かなくていいの?もう9時回ってるけど」
「何言ってるんですかあ後藤さん」
「え?」

すっかり萎んで立ち直れそうもないほど落ち込んで居るひとみをぞんざいに慰めながら、
(感情の起伏が激しいひとみのこと、少し待てば訳無く復活するに決まっている)
高橋に話し掛けると、意外にも破顔した彼女からは簡潔な答えが返される。

「今日、高校入試で学校は1日お休みですよ」
「お休み?…そうだっけ?」
「そうですよぉー、後藤さん自由登校だから知らんかったかもしれないですけど」
「はぁ、そうなんだ」

461 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:01

自由登校を良いことに、石川宅にて気侭なその日暮らしを送りつつ高校生活から
しばらく遠ざかっていた真希にとっては、初耳に近いそんな諸事情。
そういえば2月中旬、今くらいの時季に自身も入試を受けていた筈だった。
矢口真里と市井紗耶香との関係に揺らぎが生じ始めたのも確か同時期で、苦い思い出と
共に、一連のその頃の出来事は記憶から無理矢理抹消しようとしていたんだ。

(昔の話過ぎて忘れてたよ、そんなこと)
思い出を振り払うように、真希が高橋に強引に作った笑顔を向ける。

「じゃぁさ、バイト終わったら一緒に昼ご飯でも食べに行く?
 よっすぃーも暇そうだし、どうせなら3人で」
「いいですねー。行きたいです行きまーす」
真希の思惑など知らない高橋は無邪気に喜び同意の声。

「ウチはいい…ヨシザワは当分立ち直れそうにな」
「行きたくないなら別にいいよ無理しなくて。じゃぁ高橋、2人で行こっか」

「………ぉぃこらごっちん」
泣き言すら途中で一蹴され、「こんなに親友がショックを受けて気落ちしてるのにその態度は
ちょっと冷たいと思わないかいトモダチとしていや人間として ―――― 」

462 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:01

くどくどと難癖をつけ始めた矢先、客の来店を告げるベル再び。
そしてそれにいち早く反応したのは何故か、同じく客として来店中の筈のひとみで、

「あ、カワイイ♪」

可愛い・綺麗な女性専用のレーダーでも兼ね備えているのではないかと思う程の感知力。
ひとみの視線が来客した2人の女性に止まった途端、憮然としていた表情が瞬時に満面の
笑みへと変化すると同時に、ぱっと身を起こしひゅうっと軽い口笛など吹いている始末。
――― 早くも立ち直った様子だ。
単純といえばそれまでの驚異的な回復力には、呆れを通り越して敬服に至る。

「いらっしゃいませー」
「いらっしゃ…」

そのひとみから遅れること数拍の後、高橋に続き声を発した真希は、その客の片割れ、
ごく小柄な特長的なシルエットに息を呑み、思わず口を噤んでいた。
思い掛けぬ衝撃に、ドクン、と大きく胸が波打つ。

463 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:02

「やぐっつぁん…」
(……なんで?)
呟いた彼女の名は、当の客には勿論1番側にいた高橋やひとみにでさえ聞こえない程度の
僅かな声色で、当然誰も気に留める人物はいなかった。

店内を窺うようにして足を踏み入れて来たその人は、真希から遅れて数秒後、

「あっいたぁ、ごっつぁーん」
明るい笑顔で手を振るのは、過去の想い人矢口真里。
横から刺す様な強烈な視線(を送るのは一人くらいしかいないので誰なのかは割愛しよう)を
感じつつ、真希は曖昧な笑みと共にひらひらと手を振り返した。


「よかったぁ、会えて。今日矢口さ、静岡に帰る予定だったから」


464 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:02

そう言う矢口の手には彼女が好むブランド物のボストンバッグ。
微笑みを見せる彼女の傍らには、真希の知らない少女が寄り添うように立っている。
背は矢口より数センチほど高いばかりの、小柄で黒目がちな顔が印象的だ。

派手さや華々しさはないものの、純朴で可憐なその容姿は、ひとみが反応したのもなるほどと
頷けるような、街を歩けば確実に男性は振り返るであろう、人目を引く美少女。
その見知らぬ美少女にちらちら視線を走らせながら、真希は滑りの良いとはいえない口を
必死に回して会話の内容を探した。

「どうしたの、急に来ると思わなかったからびっくりしたよー」
「んー、ちょっと……ごっつぁんにね、会っておきたくって」

ともかく、接客だ。
胸に細波の様に広がる動揺を努めて隠し、真希はぎこちない笑顔を返す。
全く予備知識など持たないながらも、突如現れた2人組 ―― 矢口真里とその美少女 ―― は
何故かお似合いだと妙に納得するものを感じつつ、
真希ははにかみ顔で自分を見つめる矢口に向かって、一歩を踏み出した。

465 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:04

心の片隅で、どうやら高橋との食事の約束は反故になりそうだと冷静に予想している
自分に少なからず驚きながら。
――――

466 名前:  投稿日:2005/06/11(土) 16:04


467 名前:  投稿日:2005/06/11(土) 16:04


468 名前:8.  投稿日:2005/06/11(土) 16:05


混雑のピークを過ぎた食堂、その空いた席で梨華は先輩の市井紗耶香と向かい合い、
アイスティをストローでゆっくり、噛むように飲み下していた。
季節は真冬、けれどもアイスを注文したのには理由がある。
この非常に優秀な先輩と1対1で会話をするのは、想像以上に喉が渇いて仕方ないのだ。

「てかさぁ、石川寒くない?そんなん飲んで」
「いえ、あたし冷たいのが好きなんで…」

怪訝な視線をアイスティのグラスに注ぐ当の先輩の手元には、当然ながらホットコーヒー。
知的でクールなイメージにそぐわず、クリープと砂糖がたっぷりと注がれてあった。
こうして話している側から肩が凝っていきそうな程、気を遣って言葉を選んで。
しかし、緊張しているなど相手に気付かれてはならない。愛想笑いを返しながら、
梨華はまた一口、アイスティを口に含む。
……ああ、2杯目を頼みたい勢いだ。

「いやー、びっくりしたよ。石川が後藤と知り合いだったなんてね」
「あたしも驚いてますよ。ごっち、……後藤さん、全然教えてくれなかったから」


469 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:06

職場の先輩に対する手前、他人行儀な呼び方に言い直してから、
(…なんか、変な感じ)
年下の居候に対する「さん付け」が想像以上に違和感のある表現である事を意識した。
――― ごっちんはごっちんなのに、「後藤さん」なんて呼ぶと物凄く他人行儀で、
何だか遠い存在になった気がするんだ。

「いや、いいよ“ごっちん”で。その方が言いやすいんでしょ」
「はぁ…」
「もともと、アイツにそんなあだ名付けたのって市井の親友だからさ」

(ごっちんのこと、そんな風に呼ぶんだ…)
気さくな態度に少しばかり気持ちが軟化するも、市井が口にした『アイツ』の言葉に
心をぐらりと揺さぶられた。アイスティのストローを掴む指が、ぴくりと震える。
少なくとも、気軽にそんな呼称を使える間柄であることは間違いない。そんな仲なのだろう。

470 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:06

「つーかさ、石川覚えてないの?市井が石川をアパートまで送ってった時、後藤と市井が
 話してたの。その場に石川もいたじゃん」
「…恥ずかしながら……すいません、全然覚えてなくて」

必要以上に恐縮して、梨華が細い声で答える。
あの日、――― 市井と食事したことまでは覚えているものの、アルコールの魔力にやられた
その後は翌朝酷い二日酔いと共に目覚めるまで、記憶がほぼすっぽ抜けていた。
「はぁー、本当に酒弱いんだね。悪かったな、あんな飲ませて」
逆に、申し訳なさそうに呟いた市井に「いえ悪いのはあたしで…」と首を振りながら、
梨華の脳裏にはそんな流れに逆行した考えが渦巻いている。

(聞いても…いいかな。いいのかな)

思い出されるのは真希の硬い表情と、市井紗耶香へのあからさまな嫌悪の態度。
反して、目の前の市井が真希の名を口にする時、その表情は親しみ溢れた優しい顔。
その落差、温度差は一体何なのだろう。

471 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:07

「あの、市井さん、ごっちんと…後藤真希ちゃんとはどんな知り合いなんですか?」
「中学ン時の後輩なんだよね、実は。だからかなりびっくりしてさ」

中学時代の後輩。それならば、真希にとって市井は先輩にあたる訳だ。
特に因縁を持つような関係性ではない。ならば、真希のあの敵意たっぷりな態度の裏には、
どんな事情が存在するというのだろう。芽生えたささやかな疑問が膨れ上がる。

「そうだったんですか。……ごっちん、一言もそんなこと言わなかったから…」

悶々と、真希と市井の関係性について考えを巡らしていた矢先、それを直接口にして
問い質す前に、梨華の方が先手を打たれた。

「でさぁ、石川と後藤ってどんな関係?なんか後藤は居候してる、とか言ってたけどさあ、
 ぶっちゃけデキてる訳?2人」
「 ―――― 」


472 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:07


思わず口をぽかっと開けて、一瞬放心、慌てて眼前の市井を見返すと、
何故か神妙な面持ちで自分の顔を覗き込む先輩の姿。しかも少し、机から乗り出し気味。

「え、ええっ!?デキてるってどういう」
「や、だからさ、後藤と付き合ってんのかってこと」
「つっ付き合ってません!!ななななな何言ってるんですかそんな!!」


吃りつつ、息せき切って大声で叫ぶ。
思わず椅子を派手に鳴らして立ち上がった梨華に、ちらちらと不審そうに複数の視線が
向けられた。「あ……」しんと静まり返った食堂の中ふと我に返り、梨華は耳まで真っ赤に染めて
俯きながら大人しく椅子に腰を落とした。
(…ああもう、顔が熱い!何やってるのよあたしってば)

「そんなムキになって否定すると益々怪しいな」
「あ、怪しくなんてありません!ごっちんが強引に住み着いて、それが続いてるだけで」
梨華の狼狽えぶりを面白がる様子で、にやにやと笑いながら市井が更に追い打ちを掛ける。
からかわれていることに気付かない梨華は、既に余裕を完全に失った形相で否定することに
必死になっていた。

473 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:08

「お互い特別な感情なんて持ってませんし、ちゃんと朝晩の料理とかお洗濯とか、
 居候なりに仕事はしてもらってるし」
「ふんふん」
「食費だって入れてくれてるし、向こうは授業ないからすっごく自由に暮らしてるし」
「どうでもいいけど、石川ソース掛け過ぎじゃない?」
「あ、ああっ」

動揺を隠そうとこまめに動き回っていたのが裏目に出てしまい、梨華は頭を抱えた。
先輩である市井紗耶香の昼食であるコロッケ定食、
その云わばメインディッシュである野菜コロッケが、ソースの湖に浸かっている。
気を利かせてやったつもりが裏目に出てしまった。何かにつけて気張ってしまいがちな
梨華にはよくあることだが、失敗すれば落ち込むのが人の性。

「すいません、ほんと、あたし、またやっちゃって……」
慌てて手を引っ込め、梨華はぺこぺこ頭を下げた。微苦笑を浮かべ、「そそっかしいことは
仕事ぶり見てれば分かったけど、想像以上だな」
幼子を見守る母親の様な優しい顔で言われてしまうと、返す言葉もない。

474 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:08

落ち着きなくきょときょとと周囲に視線を散らしながら、梨華はこの居たたまれない空気を
何とか打破しようと(といっても居心地悪く感じているのは当の梨華だけなのだけれど)、

「それより、なんだかごっちん、すごく市井さんに対してなんていうか
 あからさまに敵意剥き出しな感じなんですけど、何かあったんですか?」
「うっ」

話の中心を市井に摩り替えてみた。
唐突に話題の中心に据えられ、市井の表情が見る間に余裕をな失くして行く。
どうやら、カウンターは予想以上に効いた模様。

「このやろ石川、嫌なとこに食いついてきやがったな」
予想外の切り返しに、苦虫を噛み潰した表情で呷く市井の姿が妙に子供っぽく見えて、
社内でも「優秀だ」と評判の尊敬すべき先輩が身近に思えた瞬間。
梨華はこの日初めて、愛想笑いでないごく自然な笑みを零していた。

「えー、素朴な疑問じゃないですか」
「…そんな楽しそうな顔で聞くなよ、答えにくいことを」
「えへへへ」
「お前、急に生き生きした顔になったぞ石川」
「そんなことないですよー」

475 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:09

言葉とは裏腹に、そんな市井の表情は何故か嬉しそうに綻んでいる。「…ったく」
その理由は、梨華が疑問に思うより早く市井自らが答えを発していた。

「そーいう風に笑ってた方が可愛いよ、石川は。
 答えにくい質問だろうが何でも答えてやろうと思っちゃうくらいにさ」
「……え」

笑顔を浮かべたまま、梨華はその場で動きを止めて市井に戸惑った目線を返した。
対する市井も笑顔ながら、瞳の奥に宿るのは真剣味を帯びた光。

「石川ってさ、市井の前ではいっつも表情硬いから結構気にしてたんだよ。これでも。
 やっぱり気になる相手には、笑顔で接して欲しいじゃん?」
「……」

かーっと、頬に血が上るのが分かった。
気負いなど微塵も感じさせない、ごく軽い調子で。梨華が赤面することなど見越していたような
余裕を含んだ笑みを唇に湛えた、市井の言葉だ。
歯の浮くような気障な台詞も様になってしまう、偉大な先輩の直視に囚われる。
(……どうしよう…)

476 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:09


椅子に掛けたまま硬直した状態で、市井の大きな瞳に吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
頭がグラグラする。大きな瞳で見据えられて、視線を外したくとも動けない。

(…なんかあたし)

とうに空になったアイスティのグラスの中、溶けた氷がカランと湿った微かな音を立てる。
渇きを訴え続ける喉の主張を無理矢理抑えつけて、梨華は火照った掌をただ、強く握り締めた。

ドクンドクンとうるさいくらいに鼓動する心臓の音を、何処か他人事のように認識して。
紛れも無い、疑い様もない、市井が仄めかしているのは冗談ではない、実直な好意だ。
いくら鈍い鈍いと揶揄される梨華とて、此れほど直線的に気持ちをぶつけられてさえ
気付かずにいられる程、恋愛感情に疎く出来ている訳ではなかった。


――― 大丈夫大丈夫、梨華ちゃんなら絶対大丈夫だから ――― 


(ごっちん…)

なんて能天気に笑っていた同居人の笑顔が脳裏を掠めた時、
梨華は自分が今苦しいのだと、ようやく気が付いた。


477 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:10


◆◆◆



478 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:11


安倍なつみです。歳は矢口の1つ上。
なっち、でいいよ。

479 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:11

矢口の側に佇んでいた美少女はそう名乗った。
慌てて真希が「後藤真希です、歳はやぐっつぁんの3つ下で、えーと…」不慣れな自己紹介
で躓いていると、キャハハハと遠慮の無い笑い声が傍らから上がる。
「いいよぉ無理しなくて、なっちは知ってるからごっつぁんのこと」
「え?」

フォローとも取れるその言葉を意外に思いながら面前の少女 ――― まぁ真希にとって
4つ年上になる彼女を少女と評するには語弊があるかもしれないが ―――― 安倍なつみこと
“なっち”を見ると、彼女はマシュマロのように柔らかい笑顔を浮かべて小さく頷いた。

「よくね、矢口から聞いてたの。大学に入る前、1番仲の良かった友達だって」
「へぇ…そう、なんだ」

ぐるんと首を捻って横の矢口を見下ろせば、彼女はニコニコと笑うばかりでそれ以上答える気など
無い様子。なつみが聞かされていた「友達」の中に市井紗耶香が入るのかどうかは定かでは
ないけれど、まさか面と向かって矢口に問い質す程無神経にはなれなかった。

480 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:11

真希のバイト先であるコンビニの裏、小さな児童公園に一先ず3人は移動していた。
あまり日当たりが良いとはいえず、普段から人気の無い場所だけに、
現在その公園にある人影は真希たち3人限りだ。

『せっかく美少女と知り合いになるチャンスなのにどうして付いて行っちゃ駄目なんだよ
 ごっちんのケチ!人でなし!』と主張しごねるひとみを何とか宥めすかし、
その相手を高橋に任せて店を出て来たのが、ほんの数分前の話。

結局「一緒にランチに行く」という約束を果たすこと叶わなかったものの、
「今度奢ってくださいね」と笑顔でひとみの相手を引き受けてくれた高橋愛には、ほとほと
頭が下がるばかりである。
(何と出来た後輩なんだろう、よっすぃーにも少しは見習って欲しいものだ)

481 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:12

二連のブランコに真希と矢口とがそれぞれ腰掛け、
安倍なつみは矢口と向かい合わせになる形で柵に軽く腰を下ろしている。

矢口の方から誘ってきた割に、彼女はまだ本題を話そうとする気配はない。
何となく無言になりそうな空気を打ち破って、真希が口を開いた。

「ところでやぐっつぁんとなっち…さん、今日は大学平気なの?」
「春休みだから、今」
「2月なのに?」
「休み長いんだよね、大学は」
「じゃぁ、ずーっと暇なんだね」
「ま、今年4年だから就活なんかも始めてるんだけどさ」
「シューカツ?」
「就職活動」
「へぇ…」
「なっちは就職も卒業も決まってるからほんと、楽だよねー今の時期」
「まあね」

真希が知らない矢口の一面を垣間見たことで覚えた違和感は、最初の数拍程度の間だけだった。
考えてみれば、連絡を絶ってから数年が経過している相手なのだ。
(そっか…やぐっつぁんは大学生なんだよな。3年間も大学生をやってきたんだよなぁ)

482 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:13

互いの生活も環境も人間関係も移ろい、変化していて当然だろう。
そして何より、矢口真里と安倍なつみという組み合わせが長いこと連れ添った夫婦の
如く、自然な画として真希の目に写ったという理由は非常に大きかった。

寂れた公園、子供用のブランコ、白い息を吐く小柄な大学生の美少女2人、
真希の形成してきたちっぽけな世界の中に、彼女らはごく自然に馴染んでいる。


一方で、仲睦まじく息を合わせる矢口となつみに、過去の市井と矢口の姿を重ね合わせて
妙に真希は感慨深い想いに囚われた。
当時はよく疎外感に悩まされていたものだ。躍起になって年上2人の会話に無理矢理
割り込み、見当違いの発言を連発したこともあった。
何もかもが、切ない微かな痛みと共に懐かしい思い出として胸に焼き付いている。


483 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:13

他愛も無い会話をしばらく交わしていた中、矢口がちらりと意味深な視線をなつみに向けた。
その眼差しを受け止めたなつみが柔和な笑みでこくりと頷く。
どうやら、2人にしか通じ得ないアイコンタクトが主題に入るきっかけだったらしい。
何処か照れ臭そうにほんのりと頬に朱を滲ませた矢口が「あのね」と改まって口を開く。

「何、やぐっつぁん。そんな怖い顔して」
「怖くないだろ!真剣な顔っていうんだよこれは」

もう、いきなり話に水差しやがってとブツブツ口の中でぼやいてから、
コホンと軽く咳払いの上矢口は再び真希をまっすぐに見据えた。

484 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:14

「実はさ、あのさ、なっちはただの友達じゃなくて。今、矢口はなっちと同居してて、
 なんていうか………彼女なんだよ…ね」
「ほえ」
「いや、ほえ、じゃなくて何そのリアクション」
「…あ、あーびっくりした」
「全然伝わらないよ!つーか表情全然変わってないじゃんか」
「いやだって…」

ああ、やっぱり。

相変わらず突っ込みの激しい性格だ、鈍い思考回路の端でぼんやりそんなことを思う。
改まって告白された、その内容に驚きの感情はほとんど沸かなかった。
言葉よりも説得力のあるものを自身の目で認めたのだ。
(市井ちゃんなんかより、全然お似合いだもん)

むしろ、此れほどの真密度を目の当たりにして「ただの友人」と分類される方が、余程疑問が
残るというものだろう。本人達は全く意識していないのだろうけれど。

485 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:14

「だってなっちさんて優しそうだし、可愛いし」
面と向かって言うのはさすがに照れるので、
なつみの口元辺りを見つめながら(彼女の唇はそれは見事に綺麗な三日月を描いていた)
真希は、ぼそぼそと含みを持った口調で返す。「普通にそーいう関係に、見えるし」

普段言い馴れない褒め文句を並べているせいで背骨の辺りがむず痒くなる。
がしがしと背中を掻き毟りたい衝動を堪えていると、
「なっちさん、じゃなくてなっち、ね」
やんわりと本人に訂正されて、
「なっち、……って、優しそうだし、可愛いし」
律儀に言い直した真希を見て再び2人が声を揃えて笑う。

平和な雰囲気、知り合ったばかりの美少女、心地良い日差しの中眩しく目に映る
安倍なつみの柔和な優しい目元に見とれて惚けた真希の唇は開いたまま。
「惚れんなよう、ごっつぁん」
「は!?」
耳元で甲高い抑止の言葉。慌てて振り向けば、いつの間にか目と鼻の先に
いたずらっぽい瞳で今にも笑い出しそうな顔の矢口が立っている。

「矢口のだからね、なっちは」
「……あのね」

486 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:15


――― 見るからに見込みのない相手を好きになるわけないじゃん
――― 大体、やぐっつぁんに振られてその彼女に惚れるってどれだけ節操ないんだよ
――― それに今、後藤は好きな人が、…………いるし


487 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:16

冗談交じりに発した言葉の割に、矢口の含まれた本音の比率の大きさを鋭く読み取って
何か反論を試みようとして次々に脳裏を過ぎった幾つかの御託は、どれもこれも口にするには
あまりに稚拙で幼い強がり。
そんな表現しか思い浮かばない自分が元々口達者な矢口に、必死になって否定するのも
非常に馬鹿馬鹿しいことだと気付いた時点で、結局止めた。

(最初から変わってないんだ、やぐっつぁんと一緒にいるとどうしたってペース握られるって)
今更、多少歳を重ねて経験を積んだからとて太刀打ち出来る相手ではなかったのに。
無駄な足掻きを軽くあしらわれることを、密かな楽しみにしていた時代もあったけれど。

「ごっつぁん、ごめんね」


488 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:16

ごちゃごちゃと脳内整理に勤しんでいた真希を、再び現実に呼び戻す声。
唐突に謝罪の言葉をぶつけられ、真希はいつの間にか真摯な表情を浮かべて自分を
見上げている矢口を、それを見守るなつみを、交互に見比べた。
そして戸惑った。
「何?…突然、やぐっつぁんてば」
「ごめんね。色々。今までのこと」
「だから何…謝ってるの」

矢口に関する思い出は膨大な量のアルバムが存在するけれど、その中で陳謝される
必要のある覚えはない。…無い筈だ、具体的な出来事を特定するのを敢えて避けるような
アバウトな表現のせいもあるけれど、少なくとも今思い出せる記憶の限りでは。

それでも確かな謝意を込めて自分を見据える彼女に、
真希は困惑を色濃く顔に浮かべた。

「意味分かんないよいきなり謝られたって」
「矢口は」

口を尖らせて僅かな憤りを吐く真希の言葉には答えず、
矢口真里が淡々と話を紡ぎ始めた。「矢口は今、幸せに暮らしてるんだ」

489 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:17

「そんなこと…」

明言されずとも、矢口が充実した日々を送っているであろうことは目の前で清々しく
生き生きとした表情を浮かべる彼女を見れば、否応なしに分かる話だ。
まして、真希は矢口の涙を見たあの日からずっと ――― 連絡が途絶えてからもずっと、
気に掛けていた。彼女の幸せを願ってきた。

(そんなこと、やぐっつぁんの当然の権利だ)
「後藤が謝られる理由にならない、やぐっつぁんは幸せになって当然じゃんか」
「その言葉を逆にごっつぁんに返したいよ、矢口は」
「は?」

妙に達観したような矢口の表情から、その考えは読み取れない。高校時代の面影を残した
小さな顔は相変わらず綺麗というよりは可愛らしく愛らしいけれど、
ふと気付く落ち着いた表情は明らかに、ここ数年で彼女が身に付けたであろう、
大学生としての素養と経験を積んだ大人としての貫禄のように思えた。

また1つ、矢口との距離が開いたようで一瞬寂しさが胸を過ぎる。
この場には必要のない感傷を押し殺して、真希は矢口の真意を推し量るように
探るような視線を返した。

490 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:17

「ごっつぁんはさ、矢口のことばっかり気にしてる。自分のことは等閑にして、いつもいつも。
 失恋して傷付いてたのは矢口だけじゃなかったでしょ。どうして矢口のことばっかり
 気にして、優先しちゃってるんだよ」
「………」 
「そりゃ矢口も被害者意識丸出しで人のこと考えてる余裕なかったから、ごっつぁんが
 気にしてくれてるのも仕方なかったけど……3年経った今でも、紗耶香に敵意向けて
 矢口に気兼ねしてるなんて、おかしいよ」

お姉さんぶった口調は健在で、真希はマシンガンの様に捲くし立てる矢口に気圧されて
呆気に取られていたが、思い出したように「だって、」と嘴を挟んだ。

「市井ちゃんに同情する部分なんてないもん。後藤はやぐっつぁんが好きだったんだよ?
 そのやぐっつぁんが市井ちゃんと別れて、しかもその原因は市井ちゃんの浮気で、
 だから ――― やぐっつぁんに肩入れする理由がそれじゃ、おかしい?」

(酷いことをしたのは市井ちゃんだ……だって、やぐっつぁんが泣いてた、それで充分だ)

491 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:18

3年間引き摺ってきた矢口への想いを頭ごなしに否定された気分で、子供のように拗ねて
言い返す自分を惨めに思い始める。疑うことなく信じていた事実、その根底を揺さぶられた
ようで真希の心がぐらぐらと揺れる。それは不安だ。

対する矢口は、真希の心情とは裏腹に穏やかな表情に微かな呆れを乗せて
溜息と共に吐き出した。

「違うって。矢口が言ってるのは、」
「何が違うの、分かんないよ」
「ごっつぁん自身の幸せはどうなるんだってことだよ」

「な……え…?」

492 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:20


感情的になり、反論を試みようと開きかけていた真希の口がそのまま固まった。
「え?」と間抜けな声を上げた真希は、ゆっくりと窺うようになつみへと目を動かす。
ブランコの柵に腰掛けていたなつみは、真希の視線を受けて小さく、且つ勇気付ける様な
笑みを寄越してきた。彼女はどうやら、何もかも矢口に聞かされているらしい。

あの時から、と矢口は再び話を紡ぎ出した。あの時、矢口が市井紗耶香と遠距離恋愛になり、
擦れ違いがあり、行き違いがあり、そしてたった数月で別れに至った、あの時。

「矢口と紗耶香のことを気にして、ごっつぁんが少しでも塞ぎ込む時間を作ってしまってたなら
 それは充分、ごっつぁんに謝る理由になる筈だよ。違う?
 年上の矢口を慰めに静岡まで来てくれたことや、長電話の相手してくれたこと、矢口を支えて
 くれてた優しいごっつぁんにだって、誰より幸せになる権利があるでしょ」
「 ――――…っ 」


493 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:23

今度こそ本当に、真希は返す言葉を失った。
ぐ、と唇を噛み締める。不意に泣き出しそうになった為だった。胸に込み上げるものがある。
考えてもみないことだった。目から鱗、とはこんな感覚なのだろうか。
音信不通になったのは真希自身が矢口への連絡を断ち切ったせいで、なのにその矢口は自分の
幸せを願ってくれていて、嬉しさが同時に照れ臭さに変わっていく。

その中で、真希は小さな罪悪感の芽を感じ取った。
全身全霊、当時の真希は矢口真里と市井紗耶香の仲が上手く行くよう願っていたか?
嘘偽りなく本心から、本当に ―――― ?

(後藤はそんな風にやさしい言葉を掛けてもらえる様な人間じゃ)

その価値はあるのか、自問自答しても正解は出そうもない。
真希の目は答えを求めて矢口の口元へと引き寄せられる。

494 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:24

「なっちを連れて来たのは、分からず屋のごっつぁんを納得させるため」
対面に座するなつみと一瞬視線を交錯させて、矢口は続ける。
「ね、矢口はもう、紗耶香のことを引き摺ってもいないし、新たな道をとっくに歩き始めてるんだ」

「……だけど、やぐっつぁんは後藤を過大評価し過ぎだよ」
意味の無い反抗だった。俯いたまま、真希は搾り出すように呟いた。

「そうかな?」
「そうだよ。これでも結構ずるいし、自己中だし、好き勝手やってるんだよ。」
「そうなの?」
「…そうだよ。やぐっつぁんが思う程立派に出来てないよ。心狭いし、嫉妬深いし」
「そう」
「………」

見透かされたような笑顔で見つめられるのが、酷く居心地悪くて真希はもぞもぞと子供の様に
身体を揺すって、視線を上げた。矢口を目が合う。
慌てて首を背けて彼女を視界から排除した。矢口の笑い声。
――― やはり、どうにも居心地が悪い。

495 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:25

「大丈夫だから。矢口は元気だし、毎日充実した暮らしを送ってるから。
 …だから、ごっちんにも幸せになって欲しいんだ。他人の為に自分を押し殺すようなこと
 しないで、自分のしたいように、自分が満足できる選択ができるようになって欲しいんだ
 傲慢な意見かもしれないけど、そう思ってる」

俯いた真希の耳に、ゆっくりと染み込む様にその言葉は流れ込んできた。
それは、ごく好意的に解釈すれば素晴らしく前向きで発展的な意見に違いないけれど、
否定的に捉えれば身勝手で偽善的といえなくもない。
それでも、支えとしたい。縋りたい。そんな想いが勝った。

(後藤は今、どうしたい?やぐっつぁんと、どうなりたい?
 過去がどうとかじゃなく、未来の話だ。これからどうしたいか、だ)


だから、決めた。そうだ、今決めた。
もう、この想いにケリをつけよう。ここで、やぐっつぁんのいるこの場で気持ちの整理をつけよう。


496 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:25

「やぐっつぁんはさ、後藤がまだやぐっつぁんのことをすんごい好きで、今回やぐっつぁんが
 可愛い彼女を同伴させて来て後藤が傷付く、とかは考えなかったの?」

少し、意地の悪い質問だった。
正面からぶつけると、矢口は苦笑いを口に浮かべて右手の指で額を掻く。
「あー、それを言われるとちょっと辛いんだけど」
そんな前提は全く蚊帳の外だった。表情がそれを物語っている。気落ちはしない。
最初から解りきっていた話なのだから。 

「でもね、何でも曖昧にして傷付けないのが真の優しさとは思わないし」
彼女が頭の中で話を整理して口に出すまでの時間は短い。
言葉を選びつつ、真剣な顔で自分を見つめる矢口に改めて、真希は見惚れそうになる。
大人と子供、強さと弱さ。極端な両面を併せ持った彼女。そんな所に惹かれたのだ。

497 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:26

「矢口はごっつぁんが好きだから、今の生活にすごく、満足してるんだって知って欲しかった。
 ただの自己満足だし矢口のエゴにしか過ぎないけど、でもね」
息を吐いて、彼女は毅然とした口調で言った。

「紗耶香が矢口の全て、だった過去とは違うんだよっていう証拠を見せたかった……
 見て、認めて貰いたかったの」
「…やぐっつぁん」

「矢口もね、誰かに認めてもらって、大丈夫だよって念を押して欲しいの、自分の行動に。
 年齢では成人してても、中身は意外と変わらないものだから」
「うん」

誰もがきっと、そう思っているのだろう。中学生の頃思い描いていた高校生や大学生像は
想像の中でもっと大人である筈だった。今の自分が胸を張って大人になったかと問われれば
首を振らざるを得ない。
人間の根幹なんてそう、簡単に成長するものではないのだ。

498 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:26


「結構ね、変わらないもんなんだよね。子供なんだよ、未だに矢口も」
「子供だよ、後藤だって」
「それは知ってる」
「なんだよそれー」
真面目な顔で矢口が切り返したので、真希は思わず吹き出した。「やぐっつぁんに合わせて
謙遜したのにー」

何処か張り詰めていた空気がふと緩む。ギィ、と軋んだ音を上げて真希がブランコを揺らして
勢い良く立ち上がった。足元の砂をしっかり踏みしめて、ぐっと伸びをする。背中がぱきんと
音を立てた。軋んでいるのは古びたブランコだけではなかったらしい。

光が差し込んだ。人気の無い公園に、真希が溜め込み鬱積した心の中に。

「ありがとう、やぐっつぁん」

499 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:27


矢口真里の主張や謂わんとすることを10割理解しているとは言い難いかもしれない、
それでも真希の気持ちは納得していた。落ち着くことが出来た。
そうだ、それは、物凄い進歩なのだ。
かつての片思いの相手である矢口真里の言い分を感情的にしか訊くことが出来なかった、
先週、喫茶店でのやり取りの当時よりは、少なくとも。

矢口の大きな瞳が、ようやく霧の晴れた真希を包み込んでいた。

「ごっつぁん。あのね、矢口は今でもごっつぁんのこと、妹みたいに思ってるよ。
 可愛い妹で、大好きな妹だよ。そういうの、おせっかいで、迷惑かもしれないけど」
「……ううん」
緩やかに否定して、真希は頭を振った。
「後藤も、やぐっつぁんのことお姉ちゃんみたいに………」

思ってる。…うん、思うことにするよ。

後の言葉は飲み込んで、そっと独りの誓いを立てた。きっと矢口には伝わっている筈だ。
そう、偽りでなく本当の気持ちとしてそう思えたら、今までよりずっと楽になる。
長いこと溜め込んできた、行き場を失った想いもきっと救われる。


500 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:28

何となく2人押し黙って、その無言の空気を心地良く思いながら空を見上げた。
すぐ側で、安倍なつみが静かに笑んで2人を見守っていた。
童顔な彼女の穏やかな微笑みは、何処と無く仄かな母性を漂わせていて、だからこそ
周囲の人間( ――― この場合つまり矢口真里に、だ)
安らぎを与える存在になっているのかもしれない。

「やっぱ東京は静岡より寒いわ」
白い息をはーっと吐き出して矢口が呟き、なつみが「なまら寒いっしょ」と相槌を打つ。
わざとなのか天然なのか真希には判りかねる微妙なイントネーション、同じツボに嵌ったのか
2人は顔を見合わせてくすくす笑い出した。
些細な、ほんのそれだけのやり取りに十分な説得力を真希は見出した。


――― ああ、こんなにも互いの魅力を引き出す相手に巡り合うことが出来るんだ

501 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:29

抜けるような、澄み切った青空が視界一杯に広がる。
ハイキングに行くなら今日にすれば良かった、などと素晴らしく穏やかな胸中でそっと
呟いて、真希は大きな伸びを1つ、した。

隣に座っている矢口真里の存在が、その体温以上に暖かかった。

502 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:29


503 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:30


そして真希は、青い空の白い雲に、梨華の姿を見た。
眩しいくらいの輝きを放つ真冬の空の彼方、
抜けるような蒼さには不釣合いの困った顔にまずおかしさを感じ、それからふと胸騒ぎを覚える。
ぴかぴかに磨いた鏡に落ちない錆を見つけた様な僅かな不快感が、脳裏を掠めた。

(ああもう、最悪)
梨華の隣に、市井紗耶香の影を同時に見てしまったためだった。


504 名前:8. 投稿日:2005/06/11(土) 16:30


そして当然ながら真希は知らない。本当に、今この時間その梨華が当の市井と対面し、
やはり ―――― 困った顔で自分を思い出し、名を呼んでいることなど。


505 名前:  投稿日:2005/06/11(土) 16:31


506 名前:名無し猿 投稿日:2005/06/11(土) 16:32
今回更新分>>421-505

久々の、5ヶ月ぶりになる更新です。
まさか自分でも半年以上期間を空けるとは思いませんでしたが…奇特にも
待っていてくださる読者の方には本当に申し訳ないばかりです。しかも大して話が
進展していないといえばそれまでであります; 謹んで続きを頑張らせていただきます。


>399 名無し飼育さん
    柔らかい空気感、とは嬉しい褒め言葉です!なんとかいしごま二人の時は
    そんな雰囲気を作ろうと奮起しているものですから…ありがとうございます
>400 名無し飼育さん
    ありがとうございます。うっかり更新を先延ばしにしている間に石川さんは
    卒業してしまいましたorz これからもよろしくお願いします
>401 名無し飼育さん
    お年玉とお褒めに預かってからもう早半年近くもあわわわ;;
    こんな更新内容となりましたがいかがだったでしょうか
>402 名無し飼育さん
    今回も一応大量更新ということになるんでしょうか…見捨てられないよう
    頑張りますので、また気が向けば読みにきてやってくださいね
>403 名無し飼育さん
    楽しみと予感していただいていたような展開に持っていくにはまたしばらくの
    年月が必要かもしれません、この更新速度では。。ああ申し訳ないです
>404 名無し?さん
    ありがとうございます。主役2人の関係性については、今回更新分の某脇役たちが
    少し影響してくるかもしれないです。
    まぁ誰とは言いませんが(登場人物自体が少ないのは置いておいて…)。
>405 名無しの読者さん
    主役2人、可愛いですか?ありがとうございます。実物は文句なく可愛い人たちですので、
    何とか好感をもってもらえるようなキャラクターになっていればと思います。
507 名前:名無し猿 投稿日:2005/06/11(土) 16:32
>406>407>411 Liarさん
    レスありがとうございます。自分も上げ下げはごっちゃになることがあるので
    気になさらないでください。まず自作を読んでいただけるだけで光栄です。
    というか、本当にお待たせしてすみません。
>408>409 名無し飼育さん
    色々すみません、ありがとうございます。
>410 名無し読者さん
    桜どころか梅雨入りしてからの激遅更新となってしまいました…。内容はともかく、
    完結までは責任を持って締めたいと思いますので今後もお付き合いくださいませ
>412 名無し読者さん
    次の更新はなんと5ヶ月後でした、今でも待っていてくださるでしょうか。
    こんな作者ですみません本当に 
>413 johnさん
    めちゃくちゃ嬉しいお言葉、ありがとうございます!この先、あたたかいお湯を少し
    掻き混ぜてみようと思ってますので、お付き合いいただければ幸いです。   

>415 名無し読者さん
>416 名無し読者さん
>417 名無し読者さん
>418 名無し飼育さん
>419 名無し読者さん
>420 名無し飼育さん
    保全ありがとうございました。そしてお待たせしてすみませんでした。

この先もまたマイペース更新になるかと思いますが、
完結まで頑張りますので、今後ともよろしくお願いします。

508 名前:名無し読者 投稿日:2005/06/11(土) 18:57
更新待ってました!
二人の関係がもどかしいですね。
次回をマターリ待ってます!
509 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/11(土) 23:03
大量投下乙です!
やっぱりこの小説好きです。次回あたり話が大きく動きそうで楽しみにしてます
510 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/12(日) 13:49
キテタ━━━━━━!!!
前半の3人で笑って後半の3人であったかい気持ちになりました。梨華ちゃんがどうなっていくのか楽しみです。マターリ作者さんのペースでこっちは追いかけますよw
511 名前:名無し? 投稿日:2005/06/12(日) 18:05
大量更新お疲れ様です!!
今回ので、ごっちんも石川さんも何か変化があったみたいで…
この先どうなっていくのかとても楽しみです!
512 名前:名無しJ 投稿日:2005/06/14(火) 05:23
更新キタ━━━(゚∀゚)━━━!!
やっぱりいいですね、なんか。なにかが。
よっすぃとのごちゃごちゃや矢口さんとかにやっぱりポワワな気分になりました。
なんかあちらはお湯がぐるぐるになりそうな雰囲気ですねw
次回もまったり待ってます。
513 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/06/23(木) 05:31
初めて読みました!
ここのよしごまイイ!(・∀・)!
普通の絡みがなんとも・・
これからのいしごまにも注目!!

市井ちゃんとごまもどうなるのかいろんな意味で楽しみですね!!
更新マターリお待ちしております!!!
514 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/07/07(木) 13:46
更新お疲れです(・∀・)
市井さんとりかちゃんのその後が気になりますねー。
後半の3人の会話はなんだか心が暖かくなりました(*´∀`*)
次回も大期待して待ってます。
515 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/08/06(土) 09:48
hozen
516 名前:ななし 投稿日:2005/09/03(土) 14:44
続きまってます
517 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/03(土) 18:06
催促ageはやめなさい>>516

待ってます
518 名前:ななし 投稿日:2005/09/03(土) 19:59
すみません
ageになってました
519 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/03(土) 23:22
催促
520 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/09/04(日) 01:09
sage
521 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/03(月) 10:28
522 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/22(土) 03:06
待ってます
523 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:08



真冬の午後6時半は既に真っ暗だった。

剥き出しの指先や耳たぶを、冷風が容赦なく襲う。きりきりと捩じ上げる様な冷たさは
既に痛みの感覚に近いけれど、十数秒の我慢、と必死に堪えた。
仕事を終えた梨華は、足早に駐車場へと小走りに向かいながら、はあっと両の手に
己の吐息を吹きかけた。
僅かばかりの暖に安堵する余裕もない、とにかく寒い。
(東京の2月半ば、寒いのも当たり前だ)

早々に帰宅しようと愛車に乗り込んだとほぼ同時に、携帯電話が鳴り響く。
口元まで出掛かったあくびを無理矢理かみ殺し、
梨華は助手席に放り投げていたバッグを慌てて引き寄せた。

「はひもしもし? ―――― なんだ、ひとみちゃんかぁ」

≪なんだとは何だよう梨華ちゃんてばひっでーなー≫


524 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:09


焦って出ることなかった、とこっそり呟いた独り言。
それを耳聡く、電話越しに拾った着信主である後輩の声が苦笑を帯びる。

≪まずは久しぶり、元気?くらい言うもんでしょが≫
「どうしたの突然、珍しいじゃない電話なんて」
≪んー、気持ちの良いスルーっぷりだ、さすが梨華ちゃん最高だぜイエー≫

「意味分からないし」
今度は梨華が、苦笑を零した。「何でそんなにテンション高いのよ」

携帯電話を通じて無駄にはしゃぐ後輩の姿が、容易に想像出来る。
電話口だろうが正面に向かい合わせていようが、吉澤ひとみが終始ハイテンションを
維持しているのは、彼女が変わらず元気な証拠だ。

相手が気心を許せる後輩とあらば、自然と力が抜けるのも当然のこと。
ただでさえ、今の梨華には(昼間の市井紗耶香とのやり取りのせい、というかそれが
原因の大方を占めるのは間違いない)疲労感が普段以上に溜まっているのだ。

「まぁそれでこそひとみちゃんだけどね、いつも元気で」
ふーっと息を吐き出して。
取り合えず運転席に身を落ち着け、携帯を耳に当てたまま首をぐるぐる回す。
ぱきぱきと小気味よく鳴る音は、心なしか肩凝りを緩和してくれたようにも感じる。


525 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:09


ヒーターを点けると(エンジンが温まっていないので当然ながら)勢い良く涼風が吹き出して
きた為、思わず携帯を取り落としそうになりながら慌てて切ったことはまぁ、黙ったまま。

≪なーんかさ、疲れてね?梨華ちゃん≫
「疲れてるわよ、そりゃ、今仕事終わったばっかりなんだもん」
≪やべ、じゃー今運転中?いちど切ろっか?≫
「大丈夫、車の中にはいるけど運転前だから」

通話相手がひとみであるため、遠慮など1つの必要もない。
自分に緊張感など欠片も負わせず、且つお気楽な口調の中。意外と気遣いを含ませるひとみの
低めに落ち着いた声は心地良く、狭い車内で伸びなどしながら目を閉じしばしの休息。

「それで、どうしたの?………うん、うん………あはは、やだぁ」

彼女の話題はくだらない小話や冗談ばかりで、安心してぼんやりと聞き入ってた時だ。
唐突に、しかし確実にその話こそが本題らしくタイミングを窺っていた様子で、電話越しの
ひとみが不意に声を潜めた。
≪…ところでさぁ、梨華ちゃん?≫

そんな風に芝居がかって大袈裟な調子の後輩は意外と、嫌いではない。
「何よぉ、そんなにあらたまって」

526 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:10


引き摺られて元気になれるような気がするから。
携帯電話に向かって身振り手振り話し掛けているひとみの姿を思い浮かべて、梨華の口元は
思わず綻ぶ。電話だと、普段の5割増しでそっけなくなる某居候とは大違いだ。

≪あのさー、梨華ちゃんもしかして気にしてるかもしれないから、一応言っとくね≫
が、そんな穏やかな微笑も次のひとみの一声で影を潜めた。

「…なぁに?」
≪ごっちんのこと、好きな後輩の子の、話≫
「………」

――― ウチに電話番号を聞いてくる子たちの何割かは、確実にごっちん狙いだよ?

「……」
(気にして…なんかないわよ)

いちいち単語を区切って明瞭に話すひとみに罪はない。

(だって、そんなこと、今更)

が、この流れで一体何を応えろというのだろう。


527 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:10


かといって無言でいるのも変で、何か言わなくてはと口を開くものの、結局適切で
無難な言葉など見つからず、梨華は唇を軽く噛み締めた。
忘れていた胸の痛みが再発する。

(あたしには関係ないもん)


≪おーいおーい梨華ちゃーん聞いてる?≫
「……聞こえてるわよ、そんな大きな声出さなくても」
≪なんだ、電波の調子悪いのかと思っちゃった≫

痺れを切らしたということでもないだろうが、急に黙り込んでしまった梨華に
ひとみが戸惑った声で呼び掛けてくる。
さすがにそれを無視する訳にもいかず、動揺を隠して応じた梨華の様子がおかしいことに、
勘の鋭い後輩は幸いにも、気付かなかったようだ。

≪あのね、あれね、冗談だから≫
「……?」
≪冗談、冗談≫
「………へ?」

528 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:11


けろりと告白するひとみの言葉を理解するのに要した時間は数秒ほど、「はぁ!?」と盛大な
疑問の声を上げた梨華に、≪いや、反応遅いよ≫と冷静なひとみの声。
彼女の身も蓋も無い突っ込みに返す言葉もなく、
唖然としてニ、三度瞬き。うん、別にあたしはおかしくない、聞き間違いでもない、よね。

「…ひとみちゃん?あの、冗談、って…」
≪うん。だから、嘘って訳じゃないんだけどなんつーか…かなり大袈裟に脚色したっつーか
  とにかく、ちょっとした冗談でした、あははん≫
「ちょ………何よそれ…」
≪だから、ごめーんって≫

誠意の欠片もない軽い調子で謝罪の言葉を繰り返すひとみに、
携帯電話を握り締めたまま放心して固まる梨華。

「…………」

怒りや戸惑いよりも先に、変に張り詰めていた気が抜けてへなへなと脱力感を覚える。
無駄に力が入って気を揉んで、関係ないと無理矢理自分を押し殺し納得させようと
苦心していたことは本当に、水の泡となった訳 ――― らしい。

「じゃあ、つまり、ごっちんに憧れてる後輩が多いって話は」
「だから。冗談でした」
「ひとみちゃんに言い寄ってくる後輩の何割かがごっちん狙いって話は」
「あは、だから、嘘」
「……………嘘、って」


529 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:11


たちまち憮然として、梨華は通話口に噛みつかんばかりに不満をぶつけた。

「もうひとみちゃんたら何考えてんのよぉ、意味わかんない!」
≪…ごめん、あんまりキンキンでっかい声で喚かないで梨華ちゃん。耳おかしくなりそー≫
「う、うるさい!」

同年代の女性に比べ、梨華のその声色は平均より随分高くあるらしく、
それを“アニメ声”などと一括りに揶揄される経験は少なくない。
現状でそれを頻繁に用いるのは言わずもがな、減らず口ばかり叩く同居人に他ならず、
生意気な点でばかり共通する年下の少女達を「可愛いもんだ」と評するには、聊か彼女らと
梨華の歳は近過ぎる。

思わず頬を赤くして一喝すれば、≪迫力ねー≫などと遠慮なく笑う後輩の声。
慣れたとはいえ、腹が立つことこの上ない。

≪まぁ、そこまでどーしてもと言うなら説明を申し上げましょう≫
「どうしても、なんて言ってない」
不貞腐れて呟く梨華の言い分はまるっきり無視して、
ひとみは意味ありげにううん、と咳払いを1つ。

(もったいぶって、なんなのよもう)
何故か偉ぶった口調に突如変貌したひとみの物言いに文句をつけたい衝動に駆られた
けれど、それで変に話が長引くのも嫌でだんまりを決め込む、梨華。


530 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:12


≪確かにごっちんは後輩の人気、高いんだけど。でもそれって梨華ちゃんが想像するような
  種類の憧れじゃあないわけよ≫
 
「……あたしが想像する、憧れって」
≪要は恋愛感情ってことでしょ?≫
「なっ……」
あたしは別にそんな意味で想像なんかしてない、と慌てて否定する梨華の言葉に、
まるで最初から取り合うつもりなど持ち合わせていない様子のひとみは、


≪梨華ちゃんがあん時すっげー不機嫌になったのは≫
………
至極あっさりと、事もなげに言い放った。
≪ごっちんに、恋しちゃってる後輩がいると思ったからでしょ≫


その内容が先日の土曜日
(つまり梨華が市井と飲んだ翌日、二日酔いの酷い状態でひとみと対面した日のことだ)の
出来事を指しているのは明白だ。
即座に当時の自分の行為を思い出した梨華の顔色が、瞬時に朱色を帯びる。


531 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:12


1つ、二日酔いで苦しむ醜態を見られたことを思い出した。
1つ、ひとみに小突かれ絡まれ、いやに焦り動揺し取り乱していた真希に面白くない感情を
抱いたことを思い出した ―――― そう、そちらが問題だった。

……『ふーんそう、モテるんだねごっちん』
なんて、
自分の発言が、時間を置いて客観的に判断できる思考回路を取り戻した頭で考えれば、
そして今のひとみの的を射た言葉を踏まえれば、
当時の感情が所謂「嫉妬」に過ぎないと気付いたからだ。

≪よしざーには分かるのさ。梨華ちゃんヤキモチやいてたね≫
「なっ、ちが、何言ってるのひとみちゃんてば!」

心の準備もないところへ狙いすましたように核心を突かれ、こと真希の件に関しては何故か
感情の起伏が激しく動揺に至り易い梨華が平静に対応するなど、当然のことだが不可能な話。
論理的な反撃1つ返すことも叶わず、ただ口だけをぱくぱくと動かしていると、
梨華の沈黙すらも見透かしていたように、ひとみが電話口の向こうでカラカラと笑った。


532 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:13


「もう…ほんと、馬鹿ぁ…」

自分自身に非難の意を込めて自嘲気味に呟いた。
それでも、嘆きたい様な笑いだしてしまいそうな、不思議な気分だった。

結局それは、ひとみのちょっとした悪戯心によって齎された勘違いという結果に終わった、
分かったことはそう、
真希に「憧れている」(≒「恋愛感情」)という名前すら知らない後輩に、
どうやら嫉妬していたらしい、梨華は。

ただ、それを素直に認められる程梨華の精神は成熟した状態にない訳で、
おそらく誰に指摘されようとも、必死に否定するのに違いないのだけれど。


533 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:13

◆◆◆

534 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:14


梨華が予め指定していた予定帰宅時刻にきっかり時間を合わせ、真希が用意していた
夕食、本日のメインディナーは大きめ野菜のホワイトシチュー。
あまりに大きなジャガイモをそのまま無理に口へ運び、その熱さに身悶えしたことを除けば
文句無しの料理内容だった。

いつもと変わらず2人で向かい合い、いつもの様に「おいしい」と感想を述べ、
いつも通りにほぼ無言でテレビの騒音をバックに美味しい料理に舌鼓。そんな普段と
変わらぬ夜、そう“振舞う”梨華。

否、自分としてはそう振舞っていた「つもり」だった。けれど、早二ヶ月を共に過ごしていた
年下の居候の観察眼はそう侮れたものでもなく、直接口にこそ出さないものの、
シチューを頬張りながら怪訝そうな視線を送ってくる回数が一度や二度でないことに
さすがの梨華も気付いていた。
(………もう、探るような目で見ないでよ…)

「あのさー」
「え、な、なに?」
「や、別に。やっぱいいや」
「…やめてよ、気になるじゃない」
「うん、気にしないで」
「何よそれ」


535 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:14


意味ありげに言葉を切られ、ぎくりと箸を止めてしまう。
そんな些細な行動にでさえ真希の追及と猜疑心が向けられている気分になるのだ。
「いいから食べよ、ご飯冷めちゃうから」
「そうだね」

あまり本人の感情を映さない真希の深い湖のような静けさを湛えた瞳で見据えられると、
本音も建前もなく丸裸にされていく様で、梨華の内心はさっきから非常に落ち着かない
状態に陥っていた。
(でも)
元々、梨華は真希に対して何ら落ち目もないし、隠し事もない。
ただ先程ひとみに言い当てられた言葉の数々が胸裏に引っ掛かり、何も知らない
真希を変に意識してしまって1人ドギマギしている、それだけ。

(いつも通り、いつもと同じように、1人で先走って空回りして馬鹿をみるのはごめんだもの)


「さっき、よっすぃーから電話あったよ」
「え!?」

そんな感情の予防線が、呆気なく崩される。
不意に真希が発した言葉に、動揺を隠しきれず跳ね上がるように梨華は顔を上げて
ぎこちなく表情を強張らせた。
嘘、まさか ――― ひとみちゃん、変なこと言ってないよね!?


536 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:14


「梨華ちゃんに伝えといてって言われたんだけどさ」
「…あたしに?」

「うん。≪1つ報告。こないだ言ってた小川って馬鹿の後輩の話なんだけど、
 愛ちゃん相手に見事玉砕しました!好きな相手がいるってさー≫だって」
「…小川?」

全く念等になかった名前が挙がり、面食らう梨華。
誰だっけ、と覚えがあるようなないような、そんな朧げな輪郭の「小川」という名前の
存在について必死に記憶の引き出しを探す。
(小川って馬鹿、愛ちゃん、失恋………あ、そうだ!)

その名前を聞いたのはごく最近の話だ。そう、ひとみが我が家に泊まりに来た、
翌朝。確か、ひとみを電話で呼び出した彼女の後輩の名前が確かそのような
名前だったことを思い出した。
乱暴な口調のひとみがしきりに馬鹿だ馬鹿だと強調していたことも。
押しの弱いその後輩の為に、デートの同伴に(半ば強引に?)呼び出されていたことも。


537 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:15


「そう言えばひとみちゃん、小川さんて後輩と仲良いみたいだったね」
「後藤も名前しか知らない子なんだけどさ。なんか、うちのバイト先の同僚のコに
 惚れてたらしーんだ。あ、それが“愛ちゃん”っていう。本名高橋愛」
「高橋愛…」

確か、『小川』という(ひとみ曰く)馬鹿の後輩は、ひとみを電話で誘い出したあの日
水族館へ行くなどという話をしていた。2人きりで会う勇気がないとか、その様な
理由付けで。曖昧にひとみの弁を聞き流していた梨華だから、正確な記憶とは言い難い
けれど、大方間違ってはいないだろう。


(そう、告白したんだ)
顔も知らない『小川』という少女を何となく思い浮かべようとした。
(でも、失恋しちゃったんだ…)
同じく名を聞いただけの少女、「高橋愛」も思い浮かべようと試みる。
けれど、当然と言えば当然ながら全く上手くいかなかった。

名前すらつい最近知ったばかりに過ぎない繋がりの薄い後輩達の色恋沙汰。
まして人伝に聞く内容では、涙もろく何事も入れ込み易い梨華とはいえ、さすがに
感情移入することなど不可能に近い。
只一つ、『失恋』という単語にだけは微かな痛みを伴った引っ掛かりを覚えたのだった。


538 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:16


「もしかして、梨華ちゃんに言うの初めてだったっけ?バイト先でシフト一緒になること
 多いんだけど、実は同じガッコの後輩でさ、割と仲良いんだよね、高橋」
「へぇ…そうなんだ」

初めて聞くような顔で、梨華は笑って見せる。
よく観察すれば少しわざとらしい演技だと見抜いたかもしれないが、シチューを口に運びつつ
話していた真希は、欠片も気付いていない様子だった。

愛ちゃん=真希のバイト先の後輩。
「 ―――― その愛ちゃんって子の好きな相手って」

その図式を脳裏で認識すると同時に、先刻ひとみが否定したばかりの仮定が瞬時に
頭を過ぎって、同時に芽生えた不安が意図することなく口先を付いて出ていた。
もしかして。
(ごっちんに憧れてる後輩)
不安、焦燥、様々な感情が一瞬の内に渦巻いた梨華がその先を言葉にする前に、
大き過ぎる人参を口に入れ、もごもごと口を動かしながら真希が答えた。

「何かさ、学校の先生に片思い中なんだって、高橋。ホラ梨華ちゃん覚えてる?
 生物の中澤って教師。関西弁の、口がよく回る…」


539 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:16


目の前の料理から目を離すことなくあっさりと言い放った真希に、
必要以上に身構えていた梨華はきょとんと首を傾げた。
話の雲行きが予想外の方向へ転換することに戸惑いつつ、

「覚えてる!え?あの中澤先生?え、え?」
「うん。どうも見込みは薄いらしいけどさ、やっぱ好きなんだって」
「…そう、なんだぁ」
「ってさー。後藤はあんま興味ないんだけど、よっすぃーに無理矢理聞かされた」
「はぁ…」

久しぶりに耳にした教師の名前、その姿や顔がちらりと脳裏を掠める。
いたなぁ、そんな先生。金髪で関西弁が怖くて授業態度にはすごく厳しかったけど
熱くて良い先生だったな。懐かしい。
一瞬、じんわりとした懐古の念が胸を温かく覆う。卒業してから大分時が経ったことを
遅まきながら梨華は実感した。

と、のんびりと感傷に浸る隙も作らせてはくれない。真希が平然と話を続けた。

「そんでね、だから、梨華ちゃんちで小川の失恋慰めパーティやるって」
「へぇ…」
「来週の土曜日来るから、部屋片付けておいてねだって」
「ふぅん……って、えぇっ!?」


540 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:17


頬杖をついて(行儀が悪いと真希に指摘されて仕方なく姿勢を正したけれど)、ぼんやりと
生返事をするばかりだった梨華が、ようやく会話の流れが変わっていることに目を見開いた。

「うちで!?」
「だから、梨華ちゃんちでって」
「どうしてよ!?」
「さぁ。ここが気に入ったんじゃない?」

淡々と、サラダのトマトをフォークで突き刺しながら真希が応える。
といっても、梨華にとっては答えになっていない。
こめかみを強く押さえながら、溜息と共に愚痴が出る。頭痛の種がまた増えた。


541 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:18


「…ひとみちゃんてば、わざわざ人に電話してきておいて、どうしてそういう大事なことを
 ちゃんと話さないのよ、もう」
「え?梨華ちゃんにも電話あったの?よっすぃーから」
「あ、え?ううん、大したことじゃないから」

思わずぽろっと呟いてしまった独り言を慌てて打ち消し、引き攣った作り笑いを浮かべた。
慌ててぶんぶんと首を振りつつ、
梨華は下手にボロを出す前に退却することに決めた。

「ごちそうさま。美味しかった」
なるべく怪しまれないよう、時間を掛けて出された夕食を残さずきれいに平らげてから、
再度の賛辞を述べる。そうして梨華は椅子から緩慢に立ち上がった。

「ああ、うん……それとお風呂、沸いてるから」
「ありがとー」

結局、しっかりと真希の瞳を正面から見据えることが終に出来なかった。
そんな梨華の様子がおかしいことに彼女はおそらく、いや確実に気付いている筈で、
けれど積極的に問い詰めてくる訳でもない。
この時ばかりは、彼女の他人への無関心さがありがたかった。


同時に、全く矛盾する思いではあるけれど、
決して歩み寄ることが叶わぬ近いようで遠い距離感にもどかしさをも感じていた。


542 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:18


543 名前:9. 投稿日:2005/10/23(日) 12:18


自室の質素な座椅子に腰を落ち着け、梨華は細く長く、疲弊しきった溜息を吐き出した。
――― 夕飯だけで、なんだかものすごく体力を消費してしまった気分。

大丈夫、一晩も経てばいつもみたいに軽口を叩き合える。意識せずに過ごせる。
経験に裏付けされた確信めいた思いを脳裏で反芻している。
他人の意見に振り回されやすい梨華は、裏を返せば柔軟に己の意思や思考を翻すことも
改めさせることも厭わない性格で、
加えて「ポジティブ」をモットーとする彼女は割と立ち直りも早いのだ。

だから、大丈夫。一晩経てば、いつも通り。

「さ、お風呂入ってこようかな」

風呂が沸いているという真希の言葉を思い出し、自分に言い聞かせるように呟いて
梨華はのそのそと動き始めた。温かい湯舟に浸かってリフレッシュすれば、少しはこの
気分も変わるだろうとささやかに期待しながら。


544 名前:  投稿日:2005/10/23(日) 12:19


545 名前:  投稿日:2005/10/23(日) 12:19


546 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:19


ばふっと音を立てて、梨華の体が毛布に沈む。


≪ ―――― ほら、梨華ちゃんだって昔経験あったでしょ?≫

濡れそぼった髪をタオルで包み、入浴を済ませた梨華は上下スウェット姿という至極ラフな
寝巻き姿に着替え、倒れ込むようにベッドに寝転んだ。弾みで枕がベッドサイドに転がり
落ちたが、ぼんやりとしていた梨華は気付かなかった。

スプリングがぎしぎしと軋み、その上でうーんと思い切り伸びをする。
眩しい蛍光灯から視線を逸らし、ぼんやりと天井を見上げていると、   
会社帰り、電話にて頭に来る位呑気な口調で話していた、後輩の言葉が脳裏に甦った。
「真希の後輩に嫉妬していた」、などと自信満々に言い当てられて暫し硬直してしまった梨華が
ようやく落ち着いてきた頃、ひとみは何故か非常に楽しそうな口調でそう、始めたのだ。

≪話もしたことないけど目立つ、かっこいい憧れの先輩、いなかった?
  つまりね、後輩の子達は、自分とは系統の違うごっちんのクールな風貌と立居振舞に、
  ただ陶酔してるだけなんだよ。本性知らないし、知る必要もないから≫

≪恋に恋する、じゃないけどさ、ちょっと素敵♪な先輩相手にミーハー感情で騒いでみたい
  だけなんだと、そういうわけ。そういうのが楽しい年頃なわけ≫

その時のひとみの口は普段以上によく回っていて、梨華は何処か釈然としない気持ちを
抱えながらもひたすら聞き役に徹していた。
純粋に、ひとみの見解に興味があったという理由もなくはなかった。


547 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:20


≪まあそれでもさ、もし仮に本気でごっちんに惚れてる子がいたとして、真剣に告白受けたと
  しても、その子の望みが叶えられることなんて確実にあり得ないんだけどさ≫

―――― 回りくど過ぎて分かり辛いよ

≪んっとにもー梨華ちゃんはさぁー≫

口を挟むと、何故かひとみは呆れた笑い声を梨華の耳に届けるばかりで、
それが益々自分を苛立たせる要素になると知っている上でそうなのだから性質が悪い。
湯上りのためフローラルの香りに包まれた梨華の耳元で、回想上のひとみが囁く。

≪分からないならそれでいいけど梨華ちゃんてさぁ、天然で鈍いよね≫
≪ごっちんの気持ちがさ、何所向いてるのか、≫
≪まぁーったく分かってないっしょ?≫

呆れたように、笑いを堪えるように。
反論を許さず一息に捲くし立てたひとみの言葉は、釈然とせず携帯電話を握り締め、
納得のいく返答を望んでいた梨華を殊更、激昂させる材料になるばかりだった。


548 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:20


―――― 何よ、ごっちんの考えてることなんて分かるハズないでしょう?

その不服な表情はひとみには見えなくとも、不満な感情は届いただろう。

―――― いっつもマイペースであんまり顔に出ないタイプだし、あたしのことからかってばっかで。
何が本心でどれが冗談か全然分からないんだから


(それをどうやって、見極めろっていうの)
深々と溜息を付き、梨華は天井を睨みつけた。
へらへらと、人をからかう気たっぷりに笑みを含むひとみの姿が脳裏に張り付いている。
その姿を直接目にした訳ではないにしろ、彼女の本意に違いはあるまい。

ひとみにしろ真希にしろ、どうにも自分を年上扱いしないばかりか率先して遊び半分に
吹っ掛けてくる傾向にあると梨華は常付け感じていた。
威厳がないのか、反応がただ面白いだけなのか。
不愉快だけれども、おそらく両方というのが正解なのだろう。


≪だから梨華ちゃんは鈍いって言ったんだよ≫

当然、敏感なひとみは不平の意を嗅ぎ取ったようで、しかしその上でもまだ意味ありげに
くすくすと笑みを滲ませて続けていた。


549 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:21


……分からないわよ、鈍いなんて言われても。
誰に見せるわけでもないけれど、天井を見据える梨華が不満を表すように口を尖らせる。
ひとみとの電話によるやり取りから数時間、聊か興奮も収まった現段階で何度反芻しても
未だ、彼女の言い分を理解することは出来そうもない。

嘘も真実も本音も建前も散りばめられた言葉の数々から、真相を上手く嗅ぎ分けられる程
梨華は勘が鋭くも観察眼に長けている訳でもないのだから。


≪…しっかし、梨華ちゃんの前で動揺するごっちん、想像以上に面白かったなぁー。
  あんなにオタオタすると思わなかったよ、すっげうろたえて超おかしーの≫

―――― 大体ね、どうしてそんな冗談言ったの?ごっちんをからかいたかっただけ?

最早、このどこまでも能天気な後輩相手に苛立ちのテンションを持続させるのは無意味、と
正しい判断を下した梨華が、その楽天家気質に呆れを通り越して微かな羨望さえ抱いて
投げ掛けた問いに、ようやくひとみの本心が垣間見えた。

≪だってさぁー≫
―――― だって、何よ

≪だって腑に落ちないじゃん?≫
いきなり同意を求められても困る。
―――― 知らない、だから何がよ

≪ウチがさ、渾身の努力と誠実さでたくさんの女の子達の気を引くために尽心してるってのに、
  どうして、ウチの隣でボケーッと「んあー」とか気抜けまくってるだけのごっちんの後輩人気が
  高いんだよー。理不尽だと思わない?梨華ちゃん≫
――――
―――


550 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:22


「………もう、ひとみちゃんの馬鹿…」

つらつらと不満を述べていたひとみの姿は、きっと子供の様に口を尖らせて膨れっ面で、
おそらく今梨華が想像している表情そのままで寸分の狂いはないだろう。
本当に、納得がいかない。
子供のような口調の、子供のような理由のひとみの冗談(内至悪ふざけ)に対し、彼女が意図
したであろう以上に振り回され、心を乱された。

――― のは当の真希ではなく、彼女の弁にまんまと引っ掛かってしまった梨華の方なのだから。


幾度目かも数え忘れた溜息を付いたと同時、
唐突に、音も立てず梨華の部屋に突然の来訪者が赴いた。
するりと開けられた襖。
ひょい、と顔を出したのは彼女。

「ねー梨華ちゃん」
「え!?」

ぼんやりと自分の世界に浸り、後輩の彼女達(主には同居人の彼女のこと)を考えていた
梨華は、現実に呼び戻される声に驚き、続いて何故か赤面した。
実家でもないのに、自分の部屋に侵入してくる人物など居候以外にあり得ない訳で。


551 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:22


別に内心を口に出して喋っていた訳ではないのだから、一つ屋根の下にいるとはいえ
居候の彼女に自分の思いを気取られる心配などない。筈ではあるけれど。
現在進行中の小さな葛藤の要因である真希と直接対面することに、気恥ずかしい思いが
瞬時に芽生えるのはまぁ仕方ないことだろう。

「入ってもいい?」
「え?ちょ、ちょっと待っ」

そんな梨華の内なる葛藤など当然知る由もない真希は、躊躇することなく
部屋主の許可を得る前に襖を開け放した。
ぺたぺたと。
足音を立てて遠慮なく侵入してきた居候に、見事に虚を突かれ為す術のない梨華は
結局その侵入を許す結果となってしまった。

「もう、いいって言ってないのに」
ぶつぶつ呟きながら、
今更慌てて追い返すのも不審に思われるだろうと、諦めて梨華はベッドから身を起こした。
それを横目に、真希はベッドの端によいしょと腰を下ろす。


552 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:23


「あのさー、梨華ちゃん今日、どうしたの?」
「……何よ、藪から棒に」
突然部屋に来るなんて、こっちがどうしたのかって聞きたいのに、と梨華は口を尖らす。
「いや、なんていうか」言いながら上手く言葉がまとまらないのか、
真希はしきりに髪を弄りながら、梨華からついと視線を逸らす。そして続けた。

「…何か変だよ。ミョーに浮ついた顔してるってゆーか」
「浮ついた?」
「思いつめてるっつーのか」
「思いつめてる?」

聞き返した梨華はそこで初めて、真希が缶チューハイを手にしているのを認めた。
しかも、すでに開けられている。またぁ、未成年のくせに ―――― などと咎めようとした矢先に
彼女の腕が自分に向けられ、近付いてくることに気付いた。
(え、なに、なに………?)

「ここに」
口を開きかけたまま固まる梨華の眉間に、真希が人差し指を軽く当てる。

「ずーっと皺寄ってる」
「わ、わっ」
そのままで後ろに押し出すように指一本でとんっと弾かれた。反動で仰向けによろめいて
思わず声を上げた梨華の視界の先、
不思議にも無表情に近い顔をした真希がぽそりと呟いた。
「もしかして、市井ちゃんが原因、とか」


553 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:23


よろけた上半身のバランスを何とか保ち、体勢を整えた梨華は突付かれた額を
無意識のうちに撫でつつ、嫌に真剣な面持ちで視線を寄越す真希を見返した。

「…市井さん?」
「会社でなんかされたりした、のかなー、…とか、思って」

どことなく頼りない、子供じみた口調で、真希。
徐々にその声のテンションが落ちていく様子を見て、梨華は遅まきながら彼女が
何を心配してこの部屋まで来たのかをようやく悟った。
同時に、自分の気持ちが気付かれはしないかという心配が杞憂に終わったことも。

「違う違う、ちょっと仕事で色々あって疲れただけだよ」
「本当に?」
「そうだってば」
「市井ちゃんは…」
「関係ないわよ。市井さんは、関係ない話だから」

再度念を押したい様子の真希を察し、皆まで言う前に梨華が畳み掛ける様に
強引に話を打ち切った。何故か、市井紗耶香のことで真希に変な誤解をされたくない
という気持ちが唐突に沸き起こったのだ。

554 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:24


ひとみとのやり取りで疲弊している今、それ以上の余計な心労を重ねたくない
心情が働いたせいもあるけれど、もっと単純な理由で、それは。

「なんかごっちん、ちょっと可愛いね。心配してくれてるんだ?」
「うっさいなーもー」

ああ、今日、ようやくごっちんの顔を見てちゃんと笑えた。
上目遣いに、梨華を窺うように押し黙っている真希を試すように瞳を覗き込めば、
照れたような怒ったような表情でぷいっと横を向く。
頬がしっかり赤く染まっているのを見て、声を出して梨華が破顔した。

「あはは、照れてるー。やっぱごっちん、かわいー」
「もぉ、しつこいなっ」
むっと眉を顰めて、真希は手にした缶チューハイをぐいっと呷る。
照れ隠しの一環にしか見えない行為に、梨華の中で燻っていたもやもやとした
気持ちが少しずつ昇華されていく。

心が解きほぐされて、ホッとして。
途端に今の状況がたまらなくおかしくなってしまう。収まりがつかなくなり、
ケタケタ笑い転げる梨華に
「ほんと、梨華ちゃん笑いすぎだし」、などと愚痴りながらとうとう根負けした形で
遂に真希も笑い出した。


555 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:24


「いつまで笑ってんだよぉ」
「だって、ごっちんが可愛く見えるの初めてなんだもん」
「うっわすごい嬉しくない表現。絶対小馬鹿にしてるっしょ今」
「だってもーあははは」
「あーくそっ、もう聞かなきゃ良かった。市井ちゃんのせいだチクショウ」

明らかに八つ当たりで吐き捨てて(でも表情は笑顔なのだが)、
再び真希がチューハイを呷った。たぷん、と音を立てて缶がサイドテーブルに置かれる。
馬鹿みたいに笑ったせいで、浮き足立ち、少しばかり憂鬱になりかけていたその原因を
今やすっかり梨華は忘れてしまった。すこぶる良い傾向だ。

吹っ切れてすっかり明るさを取り戻した梨華は、調子に乗って真希の飲み掛けである
缶チューハイを手に取った。訝しげな真希が制止する前に、ぐいっとそれを一息に飲み下す。
甘酸っぱさが口中に広がり、2分の1程度の残量だったそれは口当たりの良い果汁味である
ことも手伝い、たちまち梨華の胃袋へと全て流し込まれた。

「ちょ、ちょっと。梨華ちゃん、自分がアルコール弱いの忘れてない?」
目を丸くする真希が物珍しく感じられ、そんな表情を目にしていることすら何故だか梨華には
非常に心地良く、何処か誇らしげな気分させられる。

「だって、なんだか気分がいいんだもーん」
「人のこと散々笑い飛ばしておいて、気分がいいってか」

556 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:25


不満を零す居候、その呆れた視線などものともせず、梨華はうっすら上気した顔に相変わらず
笑みを残したまま、自身のベッドへと勢い良く倒れ込んだ。
「はぁー…」
枕に顔を埋めて、梨華が心地良さからリラックスした吐息を漏らす。
その顔は、湯上りとは別の要因でほんのり朱を帯び始めていた。即ち、缶チューハイ丁度半分の
アルコール量によって、である。

「梨華ちゃん…」
「はい」
「平気?」
「平気に決まってるれしょーふふふふっ」

何が楽しいのか、ベッドにうつ伏せになった梨華は足をばたつかせながら明るい声を上げた。
反して、真希の表情にどっと疲労の色が浮かぶ。
「…もうほろ酔い通り越してんじゃん。弱過ぎだよ梨華ちゃん…」

足をばたつかせた拍子に、寝巻き代わりである大きめのスラックスから梨華の引き締まった
細い足首が覗いた。無論、早くもアルコールの魔力に撃沈し始めた彼女に意図する所は
無いのだろうけれど、それを見守る真希としてはたまったものではなく。


557 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:26


「ねぇごっちん、寝る直前のふわふわした感じって気持ちいいねぇ」
「そうだね、じゃ早く寝た方がいいよ、おやすみ」
なるべく梨華のすらりと伸びた脚には目を向けないようにして、真希が素気無く言い放つ。
床に落ちて丸まっている毛布を乱暴に梨華に掛けてやり、とっととベッドから立ち上がろう
としたその瞬間。
「うわっ」
がしっと腕を掴まれた。「 ――― な、なに!?梨華ちゃん」
普段より体温が高いその掌で触れられた部分が、異常に熱を帯びて感じられる。

ぎょっとして梨華の顔を見下ろすと、にこにこと小悪魔の如く微笑む石川家の天使様。

「ごっちーん」
幼子の様な甘ったるい、舌足らずな声で梨華が真希の名を呼ぶ。
腕を掴まれたまま、真希は自由奔放な猫が気まぐれに人に甘える姿を連想した。
とは言え、相手は歴とした人間。しかも、可愛い自分のご主人様。


558 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:26


「何?」となるべく刺のない様優しく聞き返してやると、梨華は再度足をばたつかせて(!)
先ほど真希が掛けてやったばかりの毛布を勢いよくベッド下へと蹴り落とした。
「……こんにゃろう」
「あのね、足疲れたぁ。マッサージして?」
呟く真希など意に介さず、ゆらゆらと足を揺らしながら、可愛らしく梨華が小首を傾げる。

「面倒くさい。ヤダ。早く寝ろ」

律儀に梨華の身体の上に毛布と布団まで掛けてやりながら、真希は即座にきっぱり
その申し出を拒否してやった。瞬時に、梨華の頬が不満気にぷぅっと膨らむ。
しかし、家主はあくまで梨華である。
反抗的な召使に、何を言えば効果的か、充分承知済みなのだ。

「家賃徴収しよっかなー。そういえばこの間、一日お休み潰されたんらっけー」
「……ねぇ梨華ちゃんホントに酔ってる?」
「メールにも電話にも答えてくれなくて悲しかったなぁー」
「………やらせてくださいませ可愛くて優しい梨華おじょーサマ」
「ふふふふふ」


559 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:26


結局、真希が折れた。
「あーあー」と心底不機嫌な呟きを発しながら、続いて真希がベッドに腰掛ける。
不承不承、な態度を全面に押し出しながらも酔っ払っていてなお自分をコントロールしてしまう
梨華に苦笑してしまう。何だかんだ言えども勝てない、彼女には。

「うふふふ、ごっちんは優しいね」
「強要しといてなに言ってんだかもう」
「そゆとこ、大好き」
「…………」
「あんまり強くやらないでね」
「分かってるって」

――― 心臓に悪いこと突然言わないで欲しい、しかも本人でさえ意識していない状態で。
声には出さず、真希は肩を竦めて心中でこっそり呟いた。


560 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:27


梨華はよく、マイペースな自分に振り回されていると主張するけれど、実際のところ
その関係性は逆なのだと常々真希は思っている。
酔っている梨華にとってはおそらく何気なく発したであろう一言に、耳まで熱くなるのを自覚しながら、
真希は気取られないようベッドの足元付近に座り直した。


「ったくワガママなんだからなあ」
「誰がワガママなのよぉ」
「……ったくこのよっぱらいが」


愚痴は言っても、真希は梨華の頼みを本気で拒否したりはしない。
下半身の部分だけ布団を捲り、
自制の為に小さく捨て台詞を吐いて、やおら梨華の脚をがしっと掴んだ。
「きゃっ」
「きゃ、じゃないよ。マッサージしろって言ったのそっちでしょ」
「違うよ、くすぐったいの!」
「我慢しろー」


561 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:27


きゃあきゃあと笑いながら身を捩る主を迷惑そうに片手で制しながら、強引にマッサージを
続けていると、やがて指圧に慣れたらしい梨華が大人しくなった。
幸せそうな表情で目を瞑っている。
子供じみた穏やかな顔を見ているうちに、真希の表情も綻んでいた。

「んんー…」
「どう?」
「ちょーどいー……きもち…」

ぐに、ぐにと細い足首から締まったふくらはぎを程よい強さで揉み挙げる手。
嫌がる割に、一度マッサージを始めた真希は驚く程真剣にその作業に没頭している。
真希にしてみれば、いらぬ雑念に取り込まれない為の苦肉の策、というか手段に過ぎないが。


―――― 柔らかいお布団に、温かいごっちんの手。
何気ない会話。
ああ、なんて至福な時間。


居候のそんな葛藤など知る由も無い梨華は、
夢心地で寛ぎタイムを満喫中。


562 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:28



「最近は仕事どう?」
「うん……雑用も多いし……失敗もまだまだ多くって怒られるよぉ…、うん、あ……
 …そういえば今日ね…?」
「今日、何?」
「…市井さんにまた……夕食に誘われ…たんだけど……」
「はぁ!?」
「……やっぱり……ふふ、ごっ…ちんのご飯が1番…おいし………ら……」
「ちょっと、何?何だよ市井ちゃんにって、ちょっ寝るなぁコラ!」

ぐ、ぐ、ぐ、ぐ。心地よく刺激される度、
(あぁ〜……気持ちいいよぉ〜…)
うとうととまどろむ。
見えない触手が、自分の身体を夢の世界に強制的に誘っているようだ。

妙に焦った様子で、真希が自分の名を連呼しているような気がしたけれど、
それに対する梨華の返答は「ふにゃふふふ…」と意味不明な形で口から漏れるだけ。

(…だめ、寝る……)
くぁ、と欠伸を1つ残して梨華の意識はそのまま途絶えた。


563 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:28


「梨華ちゃん?おーい」
…………

力が抜け投げ出された細い足首を掴んだまま、真希は脚の主の顔を覗き込んだ。
しっかり目を閉じた彼女は間違いなく、完全に寝入ってしまっている。
長い睫毛が顔に微妙な陰影を作り出し、それははっとする程大人びて、綺麗だった。

そう、綺麗なのだ、綺麗なのは分かる、それはいいんだけど
―――― マッサージを始めて、ものの5分も経っていないんですけど、ご主人様?
「なんじゃそら」

(寝付くの、早過ぎ)
少しだけ、拍子抜け。
すぅすぅと寝息を立てる宿主を起こさぬよう、真希は静かにベッドから下りた。

そぉっとそぉっと、毛布と布団を彼女の足に被せてあげて。
でも、一言呟かずにはいられない。

564 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:29


「そんなカッコで無防備に眠っちゃったら襲われたって文句言えないぞ」


気になる事を呟いて、余計な心労を増やした彼女に腹立つ気持ちはあるけれど、
至福の表情で気持ち良さ気に眠り込んでいる梨華を起こそうという気になど毛頭なれず。
何故いつもいつも、学生の身分である自分が社会人の彼女の寝顔を見守る立場なのかと
浮かんだ疑問がちらりと脳裏を過ぎって、打ち消した。

「まぁ、慣れたよこーいう展開は、さ」
梨華の携帯電話をきっちり充電器にセットしてやってから、ようやく真希は電気を消した。


565 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:29

◆◆◆◆

566 名前:9.  投稿日:2005/10/23(日) 12:30


その数時間後、真希の部屋。
(…メール?)

風呂を済ませ、髪を乾かし、布団に入って数分後。
ブブブブブ、と枕元に置かれた携帯が振動し、暗闇の中で真希はぼんやりと薄目を開けた。
夢の世界に足を踏み込む寸前、
気付いて起きることが出来たのはほとんど奇跡に近い、そんな夜の最中。
「…っだよ、こんな時間に……」

眠りに落ちる寸前の、最も心地良い瞬間を台無しにされて舌打ちし、それでも眠気と疲労に
怒る気力も沸かず、体に染み付いた習慣で携帯の画面をチェックする。



□よっすぃー
2/17  1:19
無題
―――――――
相手はごっちんを待ってる
ぞ!!本能の赴くままに
ゴーゴーごっちん!!
経過報告は忘れずに頼む
ぜぃ(>▽<)


「……何だこりゃ」
(意味分からん)
ちらっと液晶画面に目を通しただけで、深く意味を考えることもなく真希は力尽きて枕に突っ伏した。
更に数分もすると、静かな寝息を立て始める。
眠気には人一倍弱い真希にとって、このメールが記憶の欠片にも残らないであろうことは必至である。
そして、取りあえず。
石川家の1日は一応平和に、終わりを告げた。―――― のであった。


そう。ほんの少し、波乱の予感を残して。



567 名前:  投稿日:2005/10/23(日) 12:32


 
568 名前:  投稿日:2005/10/23(日) 12:32


569 名前:名無し猿  投稿日:2005/10/23(日) 12:33
数ヶ月空くことがザラになってきてしまいましたが、何とか無事更新です>>523-566  
この小説を書き始めてからもうすぐ2年が経ってしまうというのに、話の中では
数日程しか時間経過がないという…w
スピードアップを目標に頑張りたいと思います。


>508 名無し読者さん
    お待たせいたしました、今回更新分でもヤツらは相変わらずもどかしくやってます。
    マターリ待っていただけるそうで、遅筆な自分としては非常にありがたい次第です。
>509 名無し飼育さん
    今回はあまり大量とはいかなかったんですけど、どうでしょうか。
    主役の2人以外が出た方が話を進めやすいですね、構想だけは先行ってるんですが。 
>510 名無し飼育さん
    レス番( ´Д`)ノゲットですわ、おめでとうございます。というか、まだ待ってて
    くれてるんでしょうか…石川さんは今回、またこんなんなりましたw
>511 名無し?さん
    いしごま2人の心情の変化がようやく顕著に出せ始めてきた(?)感じです。
    改めて読み返すとやたら無駄な文章が多いですが、ご愛嬌ということで;;
>512 名無しJさん
    なんか、なにかがいいですか。うわー嬉しいお言葉、ありがとうございます。
    雰囲気でごまかしてる感はあるかもしれませんが、今後ともよろしくお願いします。
>513 名無し飼育さん
    ありがとうございます!よしごまは友人同士の軽いノリがとても書き易いんで非常に
    助かってます(前回分はかなり削りました、あまりに長くなり過ぎてしまいw)。
    夫々の人間関係、またじっくり書いていきますのでどうぞまた読んでやってください。
570 名前:名無し猿  投稿日:2005/10/23(日) 12:34
>514 名無し飼育さん
    市井さんはなかなか掘り下げて書くことがまだ出来ていないんですが、この先(多分)
    出番は増える予定です。にしても石川家のマターリ具合、久々に書いた気が…
>515 名無し飼育さん >516,518 ななしさん >517 名無し飼育さん >519 名無し飼育さん 
>520 名無し飼育さん >521 名無し飼育さん >522 名無し飼育さん
    また期間を空けてまして、保全ありがとうございました。

感想を下さる皆様、本当にありがとうございます。
とにかく、完結までは必ず書き上げますので気の長い読者様にはお付き合い
いただければ幸いです。

571 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/23(日) 13:12
待ってました!更新お疲れ様です!!
もう、二人の間の雰囲気がとても可愛くてヤバイです。
更新の方はマターリお待ちしております。

572 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/23(日) 14:26
大量更新乙です!
やっぱ作者さんのいしごまいいわー
最後まで付き合せてください
573 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/23(日) 23:30
あ〜なんて萌える組み合わせ&展開なんだ。作者さん最高!待ってた甲斐がありました♪
続きも楽しみにしてます!
574 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/24(月) 22:22
二人とも可愛いよー!!
吉澤さんもイイ感じに素敵です。
更新お疲れさまです。
また、最初から読み返して
やっぱり面白いなぁと実感。やめられません。
最後までお付き合いします。
575 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/10/26(水) 02:43
待ってるに決まってますから。
読んでて頬緩みっぱなしでした。
てか、スレが大量に伸びてるだけでニヤリとします(´∀`)
次も楽しみにしていますので、頑張って完結目指して下さい。追走し続けますから!
576 名前:名無しJ 投稿日:2005/11/03(木) 17:20
梨華ちゃんもごとーさんもかわいすぎです(*´Д`)

ゆっくりゆっくり動いていく気持ちが心地よくてなんだか癒されました…
更新お疲れ様でした。次回も楽しみにしてます。
577 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/14(月) 23:39
もやもやするにょー!!!
はよ続きつづきー!!!!
578 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/15(火) 07:43
sageます
579 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/11/25(金) 21:00
いしごまに転びそうです。この小説のせいで。。。作者タン最高
580 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:27


………嫌な予感は、してたんだ

舌打ち一つ、憎々しげに呟いた。


581 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:28

珍しく梨華から電話があったのは、彼女の定時上がりとほぼ同時刻だった。
用事があればメールで済ませることが多く、予めの用件があれば朝食の時点で
伝えて終了。同居状態であるからこそ成立する関係の中で、わざわざ居候に
電話を掛けてくる特別な用事など皆無に等しい。

そう、思っていたからこそ。


―――― 今日の夕飯は外食にしない?


さあ、夕飯の準備だ。まずはお米でも研ごうかな。
そう思って腕まくりした瞬間に鳴り響いた携帯電話。
真希のバイト先近くのファミリーレストランで待ち合わせ。
早口にそう取り決めてさっさと電話と打ち切ってしまった梨華に不信感を抱いたものの、
断る程の理由になる筈もないわけで。


8時間労働・バイト上がりで疲労度ピークの体を奮い立たせ、
彼女の指定した店へ律儀に足を運んでみれば、案の定。
「 …… な〜んで市井ちゃんがいるんだよ…」
店内、禁煙席、奥まったボックス席に陣取る見慣れたセミロングの髪を見出し、
声を掛けようと数歩進んですぐに彼女が1人でないことに気が付いたのだ。


582 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:29


毎日家に帰れば当たり前に顔を合わせる生活なのだから、
別に、2人きりが良かったなんて嫉妬深い愚痴なんて言わない。
そりゃあ、そりゃあね。
少しばかり独占欲が強いのは認めるし、子供っぽい部分があるのも自覚している。
けれど、それとこれとは話が違う。
――― 真希は自分自身を納得させる言い訳をずらずら頭に並べた。

(だけど、市井ちゃんが一緒ってのは問題外だぞ)


このまま声を掛けようか、それとも見なかった振りして帰っちゃおうか。
立ち止まり、一瞬の逡巡。
市井紗耶香と顔を付き合わせるのは嫌だけど、
尻尾捲いて逃げ出す(ようなものだと真希は思った、)のはもっと嫌だ。

迷いは時間にしてものの数秒にもならなかったようで、結論を出すのは早かった。
腹を決めて一歩踏み出した瞬間にふいっと梨華が振り向いた。
「…あ」

入り口近くを彷徨った視線が次いで自分達の席へと近付いてくる真希の姿を認め、
梨華の口がホッとしたような声を漏らした。

何処か安堵の面持ちで綻ぶ彼女の表情を見て、真希はあのまま気短に踵を返して
しまわなくて良かったとささやかな満足感を覚える。
その頃には真希はもう、梨華が「良かった、ちゃんと来てくれて」と呟く声も拾えるほど
近くまで歩みを進めていたところだったから。

583 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:30


「ごっちん、こっち」
「うん」

極力、市井紗耶香の姿が視界へ入り込まないように尽心しながら、真希は梨華が
手招きするのに素直に従い彼女の隣りへと腰を下ろした。
「……それで」
「あ、うん、あのね、今日はいきなりでごめんね?」

席に着いて早々に口を開いた真希。
冷静を装っているものの、その口調に隠しきれない底知れぬ怒りと不機嫌さを帯びた
響きを悟り、梨華が慌てた様子で眉根を寄せて腕を組んでいる真希の顔を覗き込んだ。

「市井さんが一緒に食事でもしようって ―――― それで、
 2人きりもなんだから、どうせならごっちんも誘おうって」
「………」
「せっかく久しぶりに会ったんだし、あの、仲直りも兼ねて……とか、で…」
ジロリ、と無遠慮に凄味を利かせて口を噤んでいる居候と、有能で雄弁な会社の先輩の
板挟みとなり、可哀想なほど縮こまっている梨華。それでもこの場の淀んだ空気だけでも
何とかしようと早口に、高音で捲くし立てる。

「あんまり高級なところだとなんか気兼ねしちゃうし、こーいうところの方が砕けて、って
 いうか和やかっていうか、打ち解けてお話しできるかなぁって」
「おい後藤、ここ、禁煙席」
と、真希がダウンジャケットのポケットをごそごそと漁っているのを見咎めた様に、市井が
唐突に口を開いた。
「あのね」凛とした声に動きを止めて、真希がじろりと視線を上げる。

「言っとくけど、後藤はもうずっと昔にタバコ止めてるから」
偉そうに意見しないでくれ、と言外に匂わせた刺のある言い方など歯牙にも掛けず、
市井は「あっそう」と涼しい顔で一蹴した。

どうやらここは市井がペースを握っているようだ。

584 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:30


即座に自分の置かれた状況を判断をした真希は、このまま市井を力一杯睨みつけて
いるのもいい加減馬鹿らしくなり、ふぅっと盛大な溜息を付いた。
休戦協定の申し入れ、の合図。
「ほんと、嫌な予感はしてたんだ」

むすっと不貞腐れた表情を浮かべたまま、真希は何処か自嘲的な含みを持たせて
独り言のように吐き捨てた。隣りで梨華が身を硬くしている。

「でもほら、ちゃんと来た」
挑戦的な眼差しで、市井が言う。
「だって梨華ちゃんが来いって言うんだから断れないじゃん」ムッとして答える真希。
「ふうん?」
「何?なんか文句でもあるわけ?」
「べっつにぃ」

585 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:31


口笛でも吹き出しそうな調子で軽くいなして、市井が椅子にふんぞり返った。
「仲良いんだなぁって感心しただけだよ」
「いちいち癪に障る言い方しないでよ、捻くれてるね市井ちゃん相変わらず」
「あぁそりゃまぁお互い様でしょ」
「あ、あの…」

ハラハラ、そわそわ。
そんな感情を絵に描いた様なうろたえっぷりで梨華の視線が右往左往している。
「と、りあえずメニュー、そう、注文決めましょ?お店の人も困るし、ね?」

険悪な空気が支配するファミレス禁煙席の一角、
それでも条件反射の如く笑顔を浮かべてしまうのは、昔から揉め事や争いを苦手とする
梨華が自己防衛の手段として身に付けた無意識の癖だ。
「………」
「………」
睨み合い、数秒。(いや、睨んでいるのは真希の方だけだけれど)

そして、梨華の努力は何とか無駄にはならずに済むことになった。
睨み合いには飽きたと言わんばかりに、真希が目の前にメニューを無造作に開き、
市井もそれに倣って同じメニュー表を覗き込み始めた。
頬杖を付き、間延びした声で「もう決めたー」などと呑気に宣っている。
何とも切り替えの早い先輩に、梨華はただ感心し、ぼうっと成り行きを見守っていた。

(…心臓もつかな、あたし)

そして、どうやら和やかな雰囲気にはほど遠く、
陽気な晩餐とはいきそうもないと予感を胸に抱きながら少し、憂鬱に顔をしかめた。

586 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:31


587 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:31


料理が運ばれてきてしばらく、やはり彼女達のテーブルには冷やかな空気が漂っている。
沈黙を守る真希、その真希を全く気に留めず梨華にばかり話を振る市井、
そして双方の冷戦の矢面に立たされ、ひたすら萎縮している梨華。
(……ごっちんは何だか機嫌がものすごく悪いし)

黙々と注文した料理を口に運ぶ真希が立てるカチャカチャと食器が触れ合う音と、
向かいに座った梨華に身を乗り出すように話し掛ける市井紗耶香。

「そう、そういえば石川さ、総務の斉藤って知ってる?」
「…あ、あの見た感じちょっと派手目な人ですか?」
「派手目つーか超派手なんだけどさ、ハハ。あいつ市井の同期なんだけど、合コンの
 女王でさー。面白いんだよ、こないだなんてさ……」
 
(市井さんは空気読んでないのかワザとなのか、ごっちんなんてお構いなしだし)

梨華はと言えば、
時々思い出したように市井をジロリと鋭い視線で非難する真希に気を取られ、
素直に先輩との会話を楽しむどころではなかった。

更に言えば、丁度夕飯時でファミレスの混雑もピークになる時間帯でありながら
気疲れの為食欲すら湧かず、目の前のサラダをちびちびと突付いている。

588 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:32


食べる気のないサラダをフォークで切り崩しながら、当り障りのない相槌で市井に答え、
横目で真希の表情と様子を伺う。忙しいし、何よりストレスで頭痛が治まらない。
逃げようのない現状に、胃がキリキリと悲鳴を上げている。

「あ、石川飲み物切れてるよ。ついでに持ってきてやるから何がいい?」
「じゃ、じゃあえーとアイスティーで…」
「おっけい」
「すみません」

でも先輩に行かせるなんて、と腰を浮かしかけた瞬間、
隣りから強い威圧感を一瞬感じ、思わず動きを止めた梨華に構わず市井が立ち上がった。
見れば、真希の右手が自分のセーターを引っ張っている。これが原因か。
物言わず不機嫌な居候を見れば、梨華の視線から逃れるように顔を背けて、

「市井ちゃんは女の子に優しくするのが生きがいなタラシなんだから、
 気を遣わないで勝手にやらせとけばいーの」
などとぶっきらぼうに言い捨てた。

「はいはい、その通りですよ後藤ちゃん。
 気にするなよ石川、市井はこれが“生きがい”だからね。あ、でもタラシじゃないけど」

幼稚ともいえる真希の態度に苦笑を残して、市井が2人分のグラスを持って席を立った。
飲み放題のドリンクバー、店内の奥まった禁煙席からは少しばかり距離がある。
市井の姿が、声の届かない程度に距離に到達したことを確認してからようやく、それでも
若干声を潜めるようにして梨華が口を開いた。

589 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:33


「また、ごっちんはそうやって市井さんに突っ掛かるんだから」
「だって」
「だってじゃないわよ。すっごい立場弱くて居辛いんだからね、あたし」
「そりゃ、悪いとは思うけど」
ボソボソと呟くのは真希だ。口を尖らし、ぶつけようのない不満を零す。
「誘ったのは市井ちゃんと梨華ちゃんじゃんか」
「ここまで険悪になると思わなかったんだもん」
「やー、なんか後藤さ、市井ちゃんの顔見るとこうなっちゃうんだよなぁ」

真希としても、ただでさえ体育会気質で上限関係を重んじる梨華に、自分の市井に対する
生意気を超えた態度が必要以上に心労の負担を掛けていることは承知していた。
無意識に、敵意を向けてしまう。
その言葉に嘘はなかった。つい先日、矢口と再会を果たし、真希の知らなかった現実を
知ってしまったという背景もあってか、市井紗耶香の顔を見る度にムラムラと闘争心の
様なものが沸いてきてしまうのだ。
元々他人に関する興味が薄い上に普段の体内温度も低い真希としは珍しい現象だった。

590 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:34


とまあ、そんな事情も梨華の前には脆くも崩れ去ってしまう。
真希と市井紗耶香の、過去の因縁も現在に至る関係性も知らない梨華にそんな理由が
通じる訳もないのだ。当然。

「市井ちゃん見てるとムカムカしてきちゃって。ごめんね梨華ちゃん」
「謝るくらいなら普通にしててよぅ」
「それは無理」
「もう、ごっちんの分からず屋」
―――― ハイ、分からず屋ですとも。
負けず劣らず、あなたもね。むっつりと膨れながら、真希は内心で悪態を付く。

後藤の前でね、市井ちゃんに憧れて尊敬してるって、そんな顔したり嬉しそうに喋ってるのが
そもそも気に入らないって、分からないんだから梨華ちゃんはさ。


冷め切った目の前のカップ、中途半端な温さのコーヒーに閉口しつつ、
マズイ。ヌルイ。マズイ。むかつく。むかつく。
無性に苛立っていた真希は、止せばいいのに半ば意地になってそれを飲み下した。
その横顔、右頬あたりに梨華のちくちくと刺す様な視線を気配で感じ取る。突然に口を
噤んでしまった真希に、不安を覚えたのだろう。

(どうしよう、あたし、何かごっちん怒らせるようなこと言ったのかな)
表情からそんな心境を読み取るのは真希にとって容易なことだ。

もっと大らかに、悠然と、自分本位にどっかり構えてればいいのに。
自らが今、彼女に与えている不安の根本となっていることは一先ず棚に置いて、
それこそ自分勝手に真希は考えていた。

591 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:34


無理矢理空にしたコーヒーカップを真希がテーブル上へ戻すのとほぼ同時に、背後から
グラスの中で氷をちゃがちゃと鳴らしながら近付く足音に気が付いた。
梨華の視線が、真希の横顔から不意に離れる。
慌てて振り返り、彼女は軽く腰を浮かせて足音の主を迎えた。

「すみません、市井さん。何か、あたしここに座ったまんまで」
「いや、それはいいんだけど」
先ほど座っていた位置、即ち梨華の正面に回りこんで椅子に腰を下ろす市井の表情、
きょとんとした顔には微かに怪訝そうな色が浮かんでいる。
「2人、喧嘩でもした?」
―――― この短い時間に。

思わず「いえ、ちょっと、別に大したことじゃ」と即座に否定する梨華。
ふんと鼻を鳴らしそっぽを向く真希は、口にこそ出さないけれど内心穏やかではなかった。
(よく見てるじゃん、市井ちゃん。やっぱり)
一目見ただけで、近付いただけで、僅かながらに変化しただけの微妙に不穏な空気を
感じ取ってしまうのだから、

(……本気なんだ。梨華ちゃんのこと)
どうせ彼女の遊び心の一環だと、楽観視することが出来ない。

昔から観察眼に長け、こと人の顔色や心情を読み取ることにかけては非常に才を発揮
していた市井紗耶香だけれど、その能力が衰えていないことに舌を捲く。
当の彼女は、梨華の申し訳程度に過ぎない弁明にあっさり納得した様子で、
それ以上の追及はせず、ごく紳士的な態度でアイスティーなど手渡していたりする。
スマートで、優しくて、決して奢ることなく偉ぶることなく、
(全く嫌味なくらいに!) ―――― 何と隙のない人間だろう。

592 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:34


「はい、石川はアイスだとストレートでいいんだよね」
「あ、そうです。ありがとうございます」
ぺこんと頭を下げて、梨華が微笑んでグラスを両手で受け取る姿。
お似合いで、自分が場違いに思えて、少し情けなくなって、それから真希は我に返った。
ふと、思い至ったのだ。

(これが、目的か。市井ちゃんのヤツ)

市井紗耶香という人間の器を真希という「子供」に見せ付けるために。
卑屈に偏り過ぎた考えではあるけれど、市井という人間を知ればこそ、その可能性は
否定出来なかった。多分にあり得る見解だ。
真希が梨華へ向ける好意を介し、市井の存在を無視出来かねているように、
その逆もまた然り、という訳か。
市井もおそらく、かつての親しい妹分が好意を寄せる後輩の側へ唐突に出現したもの
だから、自分の存在や梨華との関係性が気になって仕方がないのだろう。

「あー、ちくしょう!」

天敵のつもりでいるにも関わらず、市井紗耶香の考えが意図せずして理解出来てしまい、
“似たもの同士”の単語が脳裏を過ぎる。真希は頭を掻き毟りたい衝動に駆られた。
思わず自身に向けた罵声が口から飛び出し、隣りの梨華がびくりと身体を揺らす。
「…ちょ、ごっちん?」
ぎょっとした顔。動揺を帯びた声に罪悪感。
目の前で、市井が不審気な表情でホットコーヒーを啜りながら目だけで成り行きを追っている。

593 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:35


(アンタのせいだよ、アンタの。ちくしょう、市井ちゃんのバカヤロー)

口汚く罵るのは当然、心の中だけで。
身体を竦ませている梨華へ「ごめん」と咄嗟に謝罪を口にしようとした瞬間、

ちゃららっらららっりろりろりろーん♪


ふと、鳴り響いた携帯の着信メロディーに真希は数度目を瞬いた。 
着信主は、梨華だ。
脇に畳んで置いてあったコートのポケットに手を突っ込み、素早く携帯電話を取り出した
梨華が「あ、」と呟く。「…お母さんからだ」。珍しいな、と続けて。

「ちょっとスミマセン、席外します」

真希ではなく市井に向けて、丁寧に梨華が断りを入れて席を立った。
ボックス席の内側にいた梨華を通す為、一旦椅子から立ち上がった真希の側を通り抜け際、
市井には届かないように声を潜めて梨華が「ごめんね、」と囁く。
(だから、気ィ使い過ぎだっつの)
ひらひら手を振って、大人しく見送った。

「全面対決だねぇ」

594 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:36


テーブルを挟んで二人きり、正面に向かい合って座った市井が面白そうに言い放つ。
何となく、市井がこの状況を予測していたらしことを嗅ぎ取った真希は、うんざりしつつも
特に言い返すでもない、明後日の方向へ目をやる。

「何考えてたんだよ、今?」
挑発など何処吹く風、の真希に、焦れた様子もなく市井。
意地悪く、などとというよりはいたずらっぽい笑みを含んだ口調で尋ねた。
無言を貫いても良かったのだけれど、そうすることで“全面対決”に不戦敗、白旗上げて
降伏したと市井に勝手にと思われるのは我慢がならず、
これが彼女の一方的な挑発だと踏まえながらも、真希は口を開いた。

「市井ちゃんのこと」

大分言葉を削ってストレートに答えると、優雅にコーヒーに口を付けていた市井が
途端にゴホゴホと噎せ返った。
「大袈裟な咳だねー」
「お前なぁ、ちょっと言葉を考えろよ」
「何が目的?」
市井紗耶香の言い分はまるきり無視して、
梨華の姿が店の外へ出たのを見届けてから、真希が口を開いた。

相変わらず視線は料理に向けられていて、その視界に市井を入れようとする意思は
微塵も感じさせない。
「目的って、何が?」こちらは飄々とした態度で、市井が答える。
「だからぁ」
苛々した態度で、真希が口調を荒げる。
「今日、何で後藤を呼んだわけ?ここに」

595 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:38


「いや、石川と後藤の仲をさ、自分の目で直接、確かめてみたくて」
「はぁぁ!?」
「会社で石川と話すとさ、どうしてもアイツって市井に遠慮しまくってるワケ。市井としては
 もっと和気藹々と仲良くしたいと思ってるんだけどさ、なんか壁を感じるっていうか」
「……アイツとか言うな」
「そんで、今、石川と“同居”してる後藤とはどんな感じなのかなーとか思って。
 後藤の態度見るからに、どうやら市井とはライバルみたいだし。気になるじゃん、普通?」
「市井ちゃんの『普通』なんて知らないよ」
「突っ掛かるねぇ」
「当たり前でしょ」
「くっだらない理由」
「くだらなくねーの、少なくとも市井にとっては重要課題なんだよ」
「あっそう」

「それで、」
意味ありげに言葉を切って、市井が真希の顔を覗き込むように言った。
「市井が二人を見てどんな判断したか知りたくない?」
芝居がかった口調と声には嫌悪感すら抱くが、
彼女の言葉に興味が沸かないと言えば嘘だった。
けれど。

「全然、知りたくない」
「あーそう」

精一杯の強がりを呆気なく見抜いた市井が軽く見下したような笑みを浮かべ、腕組みをしたまま
椅子に凭れ掛かった。
気分の悪さが募っていく。
どうしてこんなに、彼女という人物は人の神経を逆撫ですることが得意なのだろう。
中学時代からの昔馴染み、自分の性格を良く把握しているということを差し引いても
市井紗耶香の計算された言動や行動は、とことん真希を不快にするツボを心得ている。


596 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:39


そして厄介なことに、それは彼女が本気で嫌がらせしようという魂胆を持っている訳でない
ことも知っているから、始末に終えない。ある意味、それは市井なりの愛情表現の一つで、
昔、仲良くつるんでいた時の態度とまるで変わりがないものだから。
(…真剣に怒ったら、こっちが馬鹿みたいじゃん)

複雑な真希の心境を知ってか知らずか、
「じゃあ、市井は今から独り言を言います。勝手な独りよがりだから別に返事しなくてもいいよ」
妙な前置きをした上で、市井が口火を切った。

「職場の後輩にあたる石川梨華っていう女の子が今すごく気になってるんだけど、
 同僚の話じゃ特定の相手もいないし親元からも離れて生活してるってんで、落とすのは
 時間の問題かなと思ってるんだ。でも、ちょっとアクシデントが発生した。彼女はなんと、私の
 昔の知り合いで ―――― ちょっとした気持ちの行き違いから疎遠になってる、当時は
 妹みたいに思っていた後輩の女の子と、同棲してるらしい」

(同棲じゃなくて、同居だっつの)
まんまと市井の策略に乗っかるのが癪で、真希は黙ったまま知らんぷりの態度を貫く。

597 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:39


「その後輩は当時の出来事を未だ引き摺ってて、私に対して険悪な感情と敵意を剥き出しに
 している。これを何とかしないと石川と接近するのに非常に大きな障害となってしまう。
 市井としてはその後輩を憎からず思っているし、何とかこの現状を打破したいと思っている。
 どうしたらいいだろう。そうだ、やっぱり直接話をしないと駄目だ、ちゃんと顔をつき合わせて
 本音をぶつけなければ人間心から打ち解けあうことなんて出来ない、そうだろ?」

最後の一節は最早独り言ではなく、明らかに真希に向けて市井が言い放った。
鼻白み、怪訝な色を浮かべた真希の目を貫くような意志の強さを携えた瞳で、
彼女は市井は熱っぽい口調で続ける。

「駆け引きは得意だけど、相手にそれは通じない。何たって、昔馴染みだ。それも今は
 自分を嫌っている。だったらそうだ、はっきり言わなきゃ始まらない。後藤」
力強い口調で自分の名前を呼ばれ、無視も出来ずに真希はのろのろと市井の顔を見返した。
妙に自信に溢れた(少なくとも真希にはそう見えた)表情に、少なくとも真希の側に
良い兆候は感じ得ない。

「今日は宣戦布告しようと思って呼んだんだ。
 市井は石川が好きだ。そして、今日後藤と石川の2人の様子を見て……石川の気持ちも
 見当が付いた。だから、後藤に言う。市井は負けないからな」
「……」
ぎくりと、真希は市井の真剣な表情に気圧された。
本気の顔だ。


598 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:40


「石川、もらうぞ」
「…」
どくどくと、心臓がオーバーヒートしているのを感じる。
息の詰まりそうな圧倒的な威圧感。苦しい、なんで、逃げたい、苦しい。

「真剣勝負だ、手は抜かない」
「……意味分かんないし」


やっとの思いで、真希は擦れた声を吐き出した。
反撃の糸口が全く掴めない。強がりすら出てこない。
きっぱりと断言され、真希は当惑し、投げ返すべき言葉を失っていた。
避け様のない直球勝負に唇を噛み締め、怯んで、ただ膝の上で握った拳を持て余している。
だって、急にそんなこと言われたって。後藤はだって、だって、だって ―――――

「駄目だよ」

明らかな劣勢、圧倒的不利、
このままでは市井の完全試合。そんなことさせてたまるか。
嫌味ったらしくじわじわと攻めて来るものだとばかり予想していた市井紗耶香の思わぬ
ストレートな物言いにペースを下されたものの、言われっ放しでは立つ瀬がない。
後攻、後藤真希。拙いながらも反撃だ。

「市井ちゃんは梨華ちゃん泣かせるもん、絶対、分かるもん。
 やぐっつぁんの時、何ヶ月で終わったと思ってるの?どれだけ傷つけたと思ってるの?
 いけしゃあしゃあとよくそんなこと言えるね。市井ちゃんの好きなようにはさせないから」
「へぇ」

599 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:40


思ったより力強い声に、市井が感嘆の声を上げた。
「じゃあ、マジで全面対決だね。市井と、ごとーの」
目を細めて、白い歯を見せて笑う市井紗耶香がこの状況とは裏腹に、場違いなくらい
爽やかな雰囲気を纏っていて、
見開かれた目はきらきらと妙な輝きを放っている。

真希をからかって楽しんでいるのが半分と、
当初の目的 ――― 即ち、市井の気持ちと目的をはっきり真希に明示した上で、
所謂「恋敵」に宣戦布告してみせること ――― を果たした達成感から来る笑顔、
というあたりだろうか。

元来受身気質の真希相手なら、それは非常に有効な手段だと知っているのだ。
容赦ない先制攻撃に、真希の出鼻は挫かれる。
当然それも、市井の想定の筈に違いない。そしてその読みは見事に当たった訳だ。


動揺している自分を認めて、それでも真希はキッと市井を強く見返した。
心理戦に乗ったら負けだ。姑息な手段に乗るもんか。

「………帰る」
「は?」

唐突に言い放った真希に、市井がぽかんと呆気に取られた顔を浮かべる。
「ご飯、食べ終わったし」
上着に袖を通しつつ、淡々と真希が続けた。「もうこれ以上用はないから、帰る」
きっちりとマフラーを首に捲き付け、防寒対策を完璧にしてようやく、席から立ち上がった。

「んじゃ、ごちそーさま。とーぜん社会人の市井ちゃんが奢ってくれるんだよねぇ?」

600 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:41


感情が爆発してしまう前に、早々に帰途に着くことを選んだ真希はぞんざいな口調で
言い捨てると、呆然と見守る市井を尻目にさっさと歩き出した。
ショートブーツの踵をカツカツ響かせながら、真希は真っ直ぐに出口を目指す。
梨華を置いて帰ることに多少の葛藤はあったけれど、今はともすれば激情に駆られて
噴出しそうな憤怒の感情を抑え込む方が先決と考えたのだ。

謂れのない非難を梨華に向けてしまえば、それこそ取り返しがつかない。
ただでさえ、今の彼女は市井と真希の2人が同じ空間にいることに居心地の悪さを
抱いている梨華には、肩身の狭い窮屈な思いをさせているというのに。

(だから、嫌な予感はしてたんだよ、本当に)

後悔先に立たずとはよく言ったもので、
来るべきではなかったかとの念が胸を掠めていくけれど、市井が梨華に惚れている以上
遅かれ早かれこうなっていたのだと、自分に言い聞かせる。
嫌な思いをするのが早い段階で良かったんだ。
正直、この先いつまで梨華の家に居座っていることが出来るかも分からないんだし ―――

ギ、と僅かな軋みを立てるドアを押し開く。
丁度、店のドアを通り抜ける時だ。冷んやりした空気を纏った梨華が、うっすらと鼻の頭を
赤くして戻ってくるのに気が付いた。彼女の手には折り畳まれた携帯電話。やっと話が
終わったのだろう、寒そうに腕を摩りながら店内に足を踏み入れた彼女もまた、上着を
着込んで店を出ようとする真希に気付いたようだった。

601 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:42


「あれ?」
戸惑った表情。
「ごっちん、帰っちゃうの?」
「もう食べ終わったから。先帰るよ」

聊か冷淡とも取れる態度だったけれど、梨華は何かしらの事情を察した顔で、
「…そ……っかぁ」
けれどやや気落ちした声で(少し寂しそうな響きを含んでいたように思えたのは、真希の
一方的な欲目だろうか?)、ぽつりと答えた。
「気をつけて、帰ってね」

梨華としては、真希に残って欲しいというのが本音だったし、
(まだ、市井と2人きりは緊張するのだ)そう望んでいるのも真希は薄々感づいている
様子だったけれど、彼女が何も言わないから無理に引き止めるのは憚られた。
想像以上に真希と市井紗耶香の仲が険悪だったのに加え、真希は店に来た当初から
本意でない、不服だという感情を全面に押し出していたのだ。

そして、自分が席を外していた最中の緊迫したやり取りにより彼女らの溝が殊更、
深まっていようなどとは当然知る由もなく。


……あたしも一緒に帰りたい

喉まで出掛かった懇願をぐっと飲み込んで、「じゃあね、」と小さく手を上げた。


602 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:43


対する真希は未練無く店から引き上げ、駐輪場の愛車に向かいスロープを降りていく。
ガラス越しに真希のふかふかしたダウンジャケットのフードをじっと眺めていたけれど、
ついに彼女が振り返ることはなく、梨華は小さな望みが潰えたことに少しの落胆を覚えながら
温かい店の中へと足を踏み出した。

そのすぐ後、ごく僅かな時間差で真希がふと、振り向いた。
梨華の後姿が店内、その奥へ遠ざかっているのを見送りながら真希は自分の手元を見る。
じゃらりと揺れる原付のキーホルダー。
鍵穴にキーを差込み、ゆっくりと星空を見上げて真希はほんの少し、思案に暮れた。
「うーむ……」

低く唸る声は、白い吐息と共に暗い闇へ溶けて消えた。

603 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:44


くるりと踵を返した梨華の足は勿論、店内、元いた席へ。
真希が去った今は当然、2人掛けのソファにのんびり寛いだ風の市井の姿だけが目に入る。

「おー、戻ったか。後藤、今帰ったよ」
「あ、はい、……丁度そこで、すれ違いました」
事実の通り伝えて、梨華が椅子についた。
つい先刻まで真希が座っていた合皮のソファはほんのり温かみが残っていて、それが余計に
彼女が帰ってしまった現実を突きつけられている気がして、梨華は見捨てられた子供の様に
心許ない気分を味わっている。
あたしが戻ってこないうちに1人で帰ること決めちゃうなんて、ごっちんてば酷いよ ――――


「いやー、結局2人になっちゃったな」

一瞬、梨華の表情が曇ったのを市井は見逃さなかった。沈んだ空気を盛り上げるように
明るい声で、市井が言う。
言葉の割に、満更でもない表情で。
「ま、とりあえずさ、石川全然飯食ってないじゃん。何か腹に入れとけよ」
真希の推察通り、梨華の行動をよく見ている市井である。

604 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:44

カツカツカツ

「そうそう、 市井さぁ今観たい映画あって、よければ今夜一緒にレイトショーでも」

かつかつかつ、かっ

そして、
近付いて来る、荒い足音ににいち早く気付いたのは市井で、
驚きの混じった視線がその人影を捉える。市井の正面に座っていた梨華は、彼女の
視線の動きにようやく、接近して来た人物の存在に気付いて首をくるりと回転させた。
「……あれ、ごっちん…?」

無表情に自分の後ろに立ち尽くしている真希の姿が視界に飛び込んで来て、梨華は
素直に驚き、「どうして…」呟きながら、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
そんな梨華の表情の変化を目敏く察知したのは市井で、こちらは驚きと若干の不満を
色濃く滲ませて、真希の顔を見上げる。

「どしたよ後藤?何か忘れ物か?」
「 ―――― 忘れ物」
「え、何?どれ?」

さっきまで真希のいた位置に座っていた為、梨華が慌てて自分の腰周りに目を視線を
ぐるぐると巡らせる。真希が戻ってきた事を(一時的なことだとしても)単純に喜んで迎えていた
梨華は、その居候の声に幾分吹っ切れた感情が混ざっているのに気付かなかった。
気付いたのは、やはり市井だった。

……あれ、なんか、後藤。
様子が違う。

605 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:45

憑き物が落ちたかの如く妙にさっぱりとした顔の真希が気になったものの、梨華も居る手前
問い質すことが叶わず、もどかしそうに見ている事しか出来ない。

「なに忘れたの?」
「………」
どうも彼女の目的らしき物を見出せなかった梨華が、不思議そうに真希を見上げる。
応えず、真希が次々と手にしてるのは梨華のバッグやコート。
―――― って、え?
勝手に梨華の荷物を両手に抱えた真希は、くるりとその場でUターンして出て行く素振り。
ようやく自分の大事な所持品を真希に奪われたことを悟った梨華が慌てて立ち上がり、
「ちょ…っとごっちん!待ってよ、どうしたの!?」
ひっくり返りそうな高い声を上げながら、焦って梨華がボックス席から飛び出す。

さすがに市井も反応が遅れて、ぽかんと目を見開いて成り行きを見守るだけだ。
当の真希は数歩進んだ所で立ち止まり、けろりとした顔で振り向いた。
「家ん中に、鍵忘れちゃったんだよね」
何故か偉そうな物言いで、真希が口を開く。「だから、梨華ちゃん来てくれないと困るの」

「おいおいちょっと、何だよ後藤それ、強引過ぎるにもホドが…」
胸を張り、さも当然だろうと言わんばかりの真希の態度に、市井が焦って食って掛かる。
「いきなり帰るって出てったくせに今度は石川まで」
「うるさいなぁ」
思い出した様に慌てて反撃する市井のことなど歯牙にも掛けず、真希の反応はいたって、
落ち着き払ったものだ。仁王立ちして、堂々と言い放つ。

606 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:45

「後藤は鍵もってないから、梨華ちゃんが一緒に来てくれないと部屋に入れないの、
 だから連れてくの、何か文句ある?」
「む…」
「市井ちゃんの勝手な都合で呼び出されたんだよ」
「……」
「だから後藤の勝手な都合で梨華ちゃんと一緒に帰るのに、何か問題ある?」
「…う…」

真希らしからぬ(かなり無理矢理ではあるけれど)筋道立てた反論に、市井が言葉を失う。
弁の立つ市井が言い淀むのを見届けて、真希がわざとらしくニッコリ笑んでみせた。
「だから、ウチら帰るね。ごちそーさま、市井ちゃん」
甘える様に語尾を上げて、真希の足音が去っていく。カツ、カツ、カツ。来た時よりも数段
力強く、軽やかな響きを残して後姿は遠のいていく。


「ちょっと、ごっちん!?」
勝手に話を纏めて梨華の荷物をやはり手に抱えたまま店を出て行った真希に、梨華は
為す術もなく目を白黒させているしかなく、
切羽詰った声を上げてもかの居候は悠々と遠ざかっていくばかり。

「あ、あの…っ」
躊躇なく去っていく真希の行方と呆気に取られた市井を交互に見やりながら、梨華も
決断した。――― というか、財布・携帯その他荷物を人質に盗られたんだもん、
仕方ない、仕方ないよね。至極正当な言い訳が後ろ盾だ。

「スミマセン、市井さん、あんな失礼なこと言ってるごっちんですけど、一応あたし、
 保護者代わりっていうか、彼女のお母さんにもそんな感じでお預かりしてますって
 伝えてあるくらいなんで、放っておけないっていうか、あの、……」

「あ、あー…しょーがないよな、後藤のヤツ」

607 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:46

行け、という承諾の合図だ。
所在無さ気に佇んでいた梨華に、真正直にほっとした面持ちが覗く。
「ほんと、すみません!」
「いいって、早く行けよ、見失うぞ」
本当は、その方が市井にとっては都合がいいんだけど。本音は腹の中に留めて、促した。

苦笑するしかない市井に精一杯、深々とお辞儀を一つ、
梨華もまた慌しくパタパタと背を向けて駆けて行く。
数十秒のうちに後輩と2人きり、甘美な時間を味わおうとしていた矢先の筈が、何時の間にか
ぽつんと1人残される展開になろうとは。
しかも、石川梨華が後藤の後ろを追っていく足の軽さといったら。弾むような足取りってのは
ああいうのを言うんだろうな。

素直に自分の負けを認めることも、時には必要だ。
脳内スイッチを素早く切り替えて、市井は甘い夜を諦めた。
今はまだ、時期尚早ってことか。焦りは禁物、諺にもあるくらいだ、急がば回れってさ。

それでも若干の未練は捨てきれず、市井はあーあ、と大きく溜息をついて頬杖を付いた。
「後藤のヤツ、1番食っといて市井1人に清算押し付けやがったな」
悔し紛れに呟き、ひらりと注文伝票を目の前にかざして見る。
昔からよく食べ、よく眠るヤツだったな。感慨深い思いに囚われそうになり、振り払う。
いかんいかん、妹みたいな可愛い後輩だけど、市井はその気持ちに変わりはないけど、
何たって今はそう、立派な恋敵なのだ。


「ったく、市井のこと極悪な敵みたいな目でみるんだもんな。
 アイツ、自分がどれだけ石川の心ン中独占してるか分かってないよな…」

ライバルだから教えてやらないけどね、と付け加えて。
心理戦なら自分が圧倒的優位だと知っている。
そう、いくら睨まれ様が恨まれ様が市井としては可愛い後輩に違いないけれど、そこだけは
譲れないのだ。残された時間は少ない。市井は、指折り数えた。

――― あと、1年を切っている。

608 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:46


609 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:47

コンコンコン、とパンプスを鳴らし、小走りに緩やかな下り坂を駆け下りていく。

「ちょっと待って、待ってよごっちん、ごっちん!待ってってば」
息を切らせて名前を呼んでも、真希は立ち止まるどころか振り返る気配すらない。
原付を押しながら歩いているにも関わらず、真希の背中と、距離は縮まらない。
彼女に待ってもらうことは諦めて、梨華は更に歩調を速めてようやく真希に追いつくと、
黙っての隣り肩を並べた。息が弾む。運動不足だ。

取り合えず、梨華は真希の原付に引っ掛けられた自身のコートを引っ手繰るように
掴み、素早く腕を通した。ぶるりと身震いし、

「もう」
恨みがましい視線を向けても、真希が気に留める様子は全くない。腹が立つ位に。
「……何、怒ってるのよ、ごっちん」
「怒ってないよ誰も」
「なにも、あんな態度とらなくてもいいじゃない、市井さん困ってたよ」
「こっちだっていきなり呼び出されて迷惑してんだから」
「やっぱり、怒ってる」
「怒ってないって」
「ほらぁ、怒ってるじゃない」
「怒ってないってば!!」
「……っ」
「あ」

口調を荒げ、叫ぶように言い放ってから真希はハッと我に返り口元を抑えた。
いきり立っていた自分に気付き、申し訳なさそうに梨華を見返すと、暗がりにも彼女の目が
きっと釣り上がるのが分かる。
「そう」
へぇ、そう。そーいう態度するのね、ごっちん。
冷やかな目付きと低いトーンの声に、彼女の機嫌を損ねたことを真希は察知する。
(…しまった、やっちゃった)
踏んではいけない地雷を踏んだ。

610 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:48

「分かった、もういい」
きゅっと唇を結び、ぷいっと横を向いてずんずんと先を歩き出す梨華に、
「や、ちがうんだ、あの…」懸命に原付を押し歩きながら、今度は慌てて真希が追い縋る。
あっという間に立場が逆転だ。


「ごめん、梨華ちゃん」
「何で謝ってるのか分かりません」
「いやだから、ごめんって」

言い訳無用。
とにかくここは、ひたすら頭を下げるしかないと謝り続ける単純な戦法に出る真希。
「ごめん」
「知らない」
「ごめんてば」
「別に謝られる必要ないです」
「つーか何で敬語なの?怒ってるじゃん」
「怒ってないですー」
「怒ってるじゃん」
「だから、怒ってなんかいません」

「えっと………」

取り付く島の無い梨華に、真希が戸惑い気味に口篭った。
不意に訪れる沈黙、
気まずいのは真希だけではなく、梨華も同様だ。
ごっちんの気持ちも考えないで、いきなり呼び出してごめんね。それと、自分からは言えない
けどあたしも帰りたかったの。連れ出してくれてありがとう。

最初は、そうやって切り出そうと思ってたのに。
やけに真希の態度が頑なで、強情だったが故に言い出す機会を失ってしまったのだ。

611 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:48

カツカツカツ
コンコンコン

しばらくの間、2人分の足音だけが規則正しく闇夜に響く。
先に沈黙に根負けしたのは梨華だった。無言の空間に耐え切れない。
ちゃんと、話をしたいのだ。尊敬する先輩を吹っ切って真希を追い掛けてきたのは、こんな
根競べをする為じゃない。

「秘密にしてたことがあるの」
「…え?」
不意に、口を開いた梨華に、
「あたしね……実を言うと、中学生の時、ほんのりひとみちゃんのコト、好きだったんだ」

「……へぇ…そうなの?そうだったんだ」
唐突且つ、何の前振りも無しの告白に、虚を突かれて素の反応で返す真希。
「そう、中学生の時の話、だけどね」
「まぁ…今も進行形で好きだとはとても思えないけど、そっかー。
 よっすぃのことをねえ、梨華ちゃんがねぇ……へー」


意外そうな口ぶりを隠そうともせず、軽い驚嘆の声を上げて梨華の顔を思わず凝視する。
(梨華ちゃんが、『あの』よっすぃーをねぇ)
真希の脳裏に去来するのは、いつもおちゃらけてばかり、時には気取って女の子を周りに
侍らせたり、暇潰しに自分のバイト先へ邪魔しにやって来る、そんな吉澤ひとみ像。

何故か首を捻りつつ宙を見上げる真希を他所に、梨華はちらりと舌を出した。
一応、嘘は言っていない。
だって、“ほんのり”だもん。密かに、ちょっといいな、と思ってたのは嘘じゃないもの。
ぎこちない空気が消え、普段通りの長閑な雰囲気に戻っていることを感じる。梨華の作戦が
功を奏したということだろう。

612 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:49

「梨華ちゃんてさぁ、結構面食いなんだね」

ひとみの本性を知った上で惹かれていたというのなら、外見か。本人を目の前にしたら
至極失礼極まりない結論の下、真希がぽつりと呟いた。
「だって、そうでなきゃよっすぃを好きになるとか、ありえな」
「――― あたしは言ったよ、ちゃんと、内緒話」
「は?」

真希の言葉を途中、強引に話を割り裂く形で梨華が真っ直ぐな声を上げた。
一瞬呆気に取られる真希を真剣な表情で見返して、念を押すように梨華が言う。
「ちゃんと、正直に打ち明けたんだからね」
「……だから?」
未だ尚、梨華の意図する所を掴めず困惑気味に眉尻を下げる真希から目を逸らさず、
「だから、ごっちんもちゃんと言って」
毅然とした口調で、はっきりとした言葉を選んで、きっぱりと告げた。

「秘密にされるのは、嫌なの。あたしに全然関係ないところで秘密にされるなら仕方ないけど。
 でも、会社で市井さんとこれからも付き合いが続くあたしは、ごっちんから理由も無しに
 市井さんの非難を聞かされてばっかりじゃ、混乱するの。どうしていいのか分からないの。
 ……一方的に市井さんと仲良くするのは止めろって言われても、納得できないじゃない」

「なるほど」
「それで、今日みたいなことがあって、ごっちんが怒ってて、市井さんは何も言ってくれなくて、
 あたしだけが蚊帳の外で何も分からずにいるの、やだよ」

613 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:49

それはそう、その通り。
真希の感情的な意見を押し付けるだけで訳も事情も語らないとあっては、確かに梨華に
納得しろと押し付けても無理な話だろう。
「避けては通れないか、やっぱり」
苦笑いと共に小さな息を吐き、無意識に真希の手は肩口まで伸びた髪へと伸びる。
しきりにその髪を弄りながら、

「聞いてもきっと、つまんないよ?」
「面白い話を期待してる訳じゃないよ、本当の話を聞きたいの」

静かな、真っ直ぐ響きを残した声がそれに答える。茶化すことの出来ない真剣な言葉に、
刹那、軽く目を閉じて真希は覚悟を決めた。
梨華との生活を続けていくこと、彼女の側にいることを選ぶなら、
彼女が突然の心変わりにより今の会社を辞めるなんて言い出すことがない以上は、
何時かはきちんと話さなければならない義務の一つであるかも知れなかった。

おそらく今、この場で言わなければ、きっとこの先梨華に伝える機が訪れることは無いだろう。
そこまで考えを巡らせて、真希は思い改めた。
話したいんだ、自分は。誰かに聞いて欲しいんだ、この思いを。ずっと昇華されることのなかった、
報われなかった気持ちを、打ち明けたいんだ ―――― 多分、きっと。

614 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:50

今の梨華ならば誰よりも真摯に誠実に、耳を傾けてくれるのに違いない。
そして、真希の一口には説明し難い感情のほんの一部でも、理解してもらえれば充分だ。
言い出すべき内容を口の中で転がし、少し思い悩んだ末に真希が口を開く。

「むかーし、昔」
と時代劇口調を真似て口火を切ったけれど、梨華は笑わなかった。
気付かれないように、チッと軽く舌打ち。
ノリが悪いんだから梨華ちゃん。あんまり重い雰囲気じゃ話し辛いんだから、正直。

「知ってると思うけど、後藤と市井ちゃんは中学の頃に初めて出会って」

こっくりと、梨華が小さく頷いた。

「年齢差は、分かるよね?市井ちゃん、梨華ちゃんの1コ上だから後藤の2コ上。
 で、つまり。後藤が1年生の時ね、市井ちゃんは3年生で、先輩にあたるわけ。
 たまたま委員会が一緒で、……そう、放送委員だっけ?やってたの。後藤がよくサボってんの、
 優等生な市井ちゃんがよく注意しに来たりして、ウザかったけどしつこくて、話してみたら
 意外なんだけど何となく気が合って、仲良くなったんだ」

梨華は想像してみる。
少し不良ぶって一匹狼風な真希に、優等生然とした市井が朗らかに話し掛けている。
最初は邪険に扱われながら、
それでも次第に真希の頑なな態度を溶かせ始める市井紗耶香 ―――
何となく、その光景は無理なく梨華の中で自然に再生出来た。

話し始めればもう勢いに任せて、次々と真希の口から言葉が飛び出した。
懐かしさに浸りながら、思い出すのは青い中学時代の日々。

615 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:51

「でさー、その時市井ちゃんに紹介された人がいて。市井ちゃんの1コ上だから、
 後藤からすると3歳年上の人。やぐっつぁん、って言って、ああ『矢口』って苗字だから
 やぐっつぁんて呼んでたんだけど …………で、 まぁその人がね、すんごい背ぇ低くて、
 その割に元気で明るくてサバサバしてて、

 何ていうかすごい、後藤は好きだった。好きになった。やぐっつぁんが」

あまりに強烈にインパクトを残していた「やぐっつぁん」の名前に、梨華が密かに息を呑む。
呼び出しの電話に意気揚揚と真希が出て行ったのは、つい最近の話ではないか。
やっぱり、と何処かで感じながら、それでも大人しく真希の話に聞き入ろうと口を噤んでいた。

「初対面から人のこと「後藤だからごっつぁん」とか言って勝手に変なあだ名つけられて、
 タメ口も全然オッケーで、小さいとか可愛いとか言われて年下の後藤に頭撫でられても
 怒らなくて、いや、怒るフリはするんだけどさ…一応。まぁ全然恐くなかったけどね。
 ――― とにかく、可愛い、人だったの。
 3人でね割と仲良くしてたんだよ。2年ちょっとくらいはさ」

で、まぁここからは普通にありがちな展開なんだけど、と前置きして、

「やぐっつぁんを紹介してくれた市井ちゃんも、彼女のことが好きだったんだよね、多分。
 でもって、やぐっつぁんもまた、市井ちゃんのことが好きだった。
 だから、後藤が2人に会う前から2人は相思相愛?…みたいなもんだったわけ。 
 後藤は…2人の気持ちは知ってたけど、ついに中三の時、告白したんだよね、思い切って。
 時期的に、やぐっつぁんは受験シーズン真っ只中で、進路決まったらもう気軽に会えなく
 なると思ったからさ。結果?……あはは」

渇いた声で、真希が笑う。聞かなくても、その先は予想が出来た。

「めっちゃ玉砕」
予想外に明るい声で、けれどやはりそれは想像通りの結末だった。

616 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:51

「『ごめんねごっつぁん、矢口は紗耶香のことが好きだから、ごめんね』
 なんて困った顔で言われたらさー、引き下がるしかないじゃん。
 しかも、更に追い討ち。『ごっつぁんのこと、妹みたいにしか思えないから』だって。ハハ。
 ――― で、そのうちやぐっつぁんが静岡の大学に推薦が決まって、
 離れちゃう前に、って彼女は市井ちゃんに告白したのね。
 そっちの結果?ああ、カップル一組成立。2人は幸せな結末を迎えました、めでたしめでたし。
 ………にはならなかったんだ、結局」

好き同士なんだから、なんの障害もなく、上手くいくものだと思い込んでた。
だって、漫画でも小説でも、主人公の恋愛は清く正しく美しく、綺麗に進んでいくじゃんか。
だから、そのときはね。大人しく引くのが正しい、それで良いって、信じてたんだよ。

市井ちゃんがあんな性格だって思い知らされてなかったから。

「後藤はちゃんと市井ちゃんに言ったんだ、やぐっつぁんを幸せにしろって。
 市井ちゃんが相手だから、身を引くんだからねって。
 分かった、って頷いたんだよ市井ちゃんは。大丈夫だ任せろって。
 ……なのに」

言葉を切った真希の顔を、梨華はこっそり盗み見た。
数年前の話なのに、彼女の表情はつい最近のことを語っているように生々しい怒りに
満ちていて、苦しそうに歪んでいる。目が逸らせなくなった。

数ヶ月して、市井ちゃんはもう、別の女の子と仲良く歩いてた。腕なんかこう、組んじゃってさ。

「すぐやぐっつぁんに電話したんだ。そしたらあっさり言われた。『別れたんだ』って。
 東京と静岡は地図で言えばそんなに遠くはないけど、やっぱり今までみたいに
 頻繁に会うことが適う距離でもないんだ。まして高校生と大学生じゃ、尚更って話。
 市井ちゃんはね、「会える時間が少ないのは嫌だから」って理由で、『別れよう』って」

617 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:54


そう言ったって、聞いて。
勿論、市井ちゃんにも電話したよ?
したら何て言ったと思う?
「後藤、人生に絶対なんてないんだよ、人の気持ちは変わるんだから」……

唇を噛み締めて、真希は続けた。
俯き加減に歩いているせいで、どこか真希の声は内面に篭っているような印象を受ける。

「ふざけんな!――― って」
真希の声が震えた。
気に入らなかった、何もかも。市井の諭すような口調も、彼女の矢口に対する仕打ちも、
結果として自分の抑えた気持ちが無残に踏みにじられたように思えたことも、全て。
受け入れる?そんなこと、出来る訳ないだろう!?

「ばっかじゃないの、たった18くらいの小娘のくせにだよ。何もかんも人生悟ったよーなこと
 言っちゃってさ、後藤がまだ子供なことくらいちゃんと自覚してるよ、思い通りに行かないこと
 くらいたくさんあるって分かってるよ、
 だけど、だけどさ……本当に好きだったのに」

誰が、なんて今更愚問だった。
言葉の内容ではない、真希の震える声だけで充分伝わる偽りない純粋な事実だった。

好きだったのに、やぐっつぁんのこと、本当に、好きだったのに。

「どんな顔して会えっていうの?やぐっつぁんに。
 もう、会えない。会わせる顔なんてない。市井ちゃんと別れたんなら、今度は後藤と、
 ――― なんて、平気な顔して言えるわけないじゃん?
 大体、後藤は市井ちゃんの二番煎じなんて絶対、嫌だもん」

618 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:54

でも、思わずにはいられなかった。
あの時、無理矢理にでも市井ちゃんになんかやぐっつぁん、渡さなければ。
やぐっつぁんを昔みたいに、明るく笑わせてられることが出来たかもしれないって。

喧嘩なんて言えるものじゃなかった。
ただ後藤だけが子供で、受け入れられなくて駄々を捏ねてただけだよ。
つい最近、そう気付いたんだけど、さ。

自嘲めいた笑みに乗せて、淡々と真希が言葉を紡いでいく。
それは傍から見ていても辛く、悲しい作業だった。かといって、それを止める手段など
梨華は知らない。ただ、黙って耳を傾ける術しかないのだ。

「何時の間にか3年近くも、時は流れてちゃってたんだよね、2人とは断絶状態のまま。
 偶然再会した市井ちゃんは、何の因果か梨華ちゃんにマジ惚れとかしちゃっててるし、
 やぐっつぁんは新しい、可愛い彼女を連れてるしで、
 結局、前進も後退も出来なかったのが後藤だったわけで。
 なんかね、相当ね、めちゃくちゃミジメなんだよ、そーいうのって、自分が。
 何やってたんだろう、この数年、1人で、後藤は…」

言葉を区切って、ついと真希が顎を上げた。視線の先には、ちらちらと星の舞う夜空。
―――― とかね、色々考えたりしちゃってたわけです、以上。

言いながら、様々な感情が胸の中に渦巻いて。
不意に泣きそうになって、暗闇に真希は感謝した。外灯がなければ、顔を少し背けてさえ
いればこんな情けない顔を梨華に気取られる心配はない。

独白を終えて、しばらくの間無言が続いた。

ふと真希が梨華の顔をそっと窺い見ると、なにやら必死に考え事をしている様子で。
一生懸命に、眉を八の字にして。
くっと、気取られないように堪え切れなかった笑みを零した。
おそらく、上手く真希を慰める言葉でも捜しているに違いない。傷つけないように、
元気付けられるように、この場の空気を少しでも軽く出来るように。

619 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:55

全く、隠し事の出来ない人なんだから。
場違いに声を上げて笑い出しそうになり、こめかみをギュッと強く押さえた。
そんなに真面目に考え込まなくても良いのに。声を掛けようと思ったけれど結局止めて、
真希は梨華の好きなようにさせることにした。

(本当はね、言葉で慰めてくれなくたって平気なんだよ)
先ほどの怒りはとっくに解けてしまったらしい梨華の真剣な横顔をそっと盗み見て、
白い息を吐きながら真希はちらりと口の端だけで笑んだ。
胸の中が急速に温かいもので満たされ始めるのを感じる。ほっこりと、温かい何かで。

(そうやって、隣りでちゃんと話を聞いてくれて、一緒にいてくれればそれだけで)

「うまく言えないけど」
「…ん?」

白い息に埋もれながら、梨華が呟くように言った。
自分の世界に浸っていた真希は、彼女の囁くような一言を聞き逃しそうになり、慌てて
隣りを静かに歩く梨華の顔を覗き込んだ。

620 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:55

「そういう経験したごっちんは、ちゃんと成長してるんだと思うよ。不器用な人は不器用なりに、
 ちゃんと前に進んでいると思うよ。だって、ごっちんは色んなことに傷付いて躓いたりしても
 反対に誰かを傷つけたり悩ませたりしてないと思うもん。あたしは……」

一言一言を丁寧に発し、
区切りを付けて梨華は吐き出す白い息に負けない様、明瞭に告げる。

「当事者じゃないあたしには、市井さんとごっちんと、どっちが正しいとか悪いとか言う権利も
 資格もないと思うけど、あたしはそういう、不器用なごっちんの方が好きだよ」

「………ありがと」

短く応えて、真希は鼻の頭を擦った。
感傷的になっているな、と思う。梨華は長々と熱に浮かされたように話す真希にすっかり感化
されて、同情にも似た気持ちを真希に抱いているのだと感じ取って。元々、梨華は周囲に
流されやすいし、感応され易い柔軟な思考回路の人だから、と。
証拠として、梨華は真希に同調する余り重要な一節を聞き落としている。
『市井ちゃんは梨華ちゃんに惚れている』なんて、
普段の彼女なら、真っ先に反応して必ず、大袈裟なくらい赤面して否定する筈なのに、ね。

けれど。


( 正直言って、話したらすごく、気持ちが軽くなったよ。
 不器用で幼い自分をあるがままに受け入れてくれて、……ありがとう )


たった一言に込めた感謝の念まで、梨華が敏感に感じ取ってくれたかは甚だ疑問だ。

621 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:56

これが親友の吉澤ひとみなんかだったら、「おーありがとう!」なんて大袈裟に礼を述べて
顔をくしゃくしゃにして笑って、挙句の果てに梨華に抱きついたりなんかしても、彼女の
キャラクターだからと済ませられてしまうに違いないのに。
生憎と、真希は自分の感情表現が非常に拙く、どうしても素直に伝えられないことを
知っている。その場のノリで相手に抱きつくなんて、不可能極まりない話なのだ。


押し引いている傍らの重たいだけの原付、これがなければ冷え切った二人の手をごく自然に
握り合えるくらいには、良い雰囲気にいるのだけれど。

「……そうだ」

622 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:57


妙案をふと思い付いて、真希が立ち止まった。
同じように隣りで足を止めた梨華がきょとんと首を傾げる。丁度外灯の下に佇む2人は、
互いの表情が良く見えるくらいの至近距離に居た。寒いので、出来るだけ寄り添っていたいと
いう防寒上の理由もあるし、また別の理由もあるかも知れない、あくまで仮定のお話。

「なあに?」
手袋という便利な小道具を持たない梨華が、しきりに手を擦り合わせながら聞く。
その梨華の頭に、真希はぽすんと不意打ちで何かを被せた。重くて、硬い、丸いもの。
「…これ、どうするの?」ヘルメットだ。
されるがままの梨華の顎の下でしっかりバンドを留めてから、真希は原付に跨りキーを回す。

ぶぶぶぶぶぶ
ぶるんぶるん

安っぽいエンジン音を立てて、原付が稼動体勢に入る。
相変わらず取り残された表情で自分と原付を交互に見ている梨華に、真希が「乗って」と
目で後ろの荷台を指した。エンジン音に負けない様、自然と声を張り上げるようになる。

「このクソ寒い中、わざわざ歩いて帰ることないって、これならすぐ着くからさー」
「え、でも2人乗りって」
「硬いコト言わないで、早くー!」

赤いサイレンを鳴らして追い掛けてくるパトカーinお巡りさんを想像して、梨華が躊躇する。
それでも、この刺す様な冷気に辟易しているのも事実だった。それに、折角真希の調子が
いつも通りに戻ったのに、あれだけの重たい告白をした真希が明るく振る舞って、自分を
誘ってくれているのに、水を差すことはしたくない。
「…えっと、…」
「はやくはやく、寒いんだから」
結局、交通違反に対する気後れよりも、この雰囲気を壊すことのへの畏れが比重として勝った。

「じゃぁ…後ろ、乗るね」

623 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:58

「そうこなくっちゃ」
恐る恐る荷台に跨ると、ズボン越しにも飛び上がるような冷たさと、エンジンの振動が
ダイレクトに伝わる。思わず、梨華は運転席の真希にぎゅっとしがみ付いた。
「うわ、くすぐったー」
「だって」
「まぁしっかり掴まっててね、振り落とされないよーに」
笑うような声を上げて、真希が「出発するよぉー!」と背後の梨華に声を掛ける。

(あんなので、良かったのかな)
腕を回して抱き付いた真希の背中、柔らかいダウンジャケットの綿に顔を埋めるようにして、
梨華は尚も自問自答していた。辛そうに、市井や矢口真里という少女との過去を告白した真希。

(あんな稚拙な言葉で、あたし、少しでもごっちんの心を慰めてあげられたのかな)

もっと、もっと上手な方法があったのかも知れないと、
考えれば考えるほど深みに嵌っていく。
元々ポーカーフェイスな真希の表情から、梨華の言葉にどれだけの理解を示してくれたのか
推測するのも難しく、考えても正しい答えは見出せそうもない。
けれど、考えずにはいられないのだ。
―――― 助けになりたい。ごっちんの、力になりたいんだ

素直に、自分の気持ちに正直になればその感情の正体に気付くのは至極簡単な
ことであるけれど、真希の心を占有するものの大きさに気をとられ過ぎていた梨華は
生憎その事実を認める程落ち着いて物事を考えられる状態にはなかった。
ただ、そう。
(いつもは小憎たらしいくらいふてぶてしくって飄々としたごっちんが、
 苦しそうなの顔してるのなんか、見たくない)

624 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:58

ごっちんが、背を向けてくれてて良かった。
彼女の、女性ならではの柔らかい身体にしっかり腕を回し、額に押し付けた背中の
温もりに触れると何故か梨華は泣きたくなった。胸を占めるのは、誰より近くにいるという
つまらない、けれど梨華にとっては非常に重大な安心感だった。

(あたしの知らない過去を引き摺って、辛そうなごっちんの顔なんて、見たくない)

底冷えする真冬の空気も、今は気にならなかった。
目の前にある居候の背中だけが、正しく本物であり、彼女の側に居る最も正しい目印で
あることだけは確かな現実として受け止めることが出来た。

(よかった、―――― ごっちんの背中、あったかい)

ぶいいいいい
厳しい寒さを忘れられていたのもほんの一瞬、
発進すると、途端に梨華が「さむーいっ!!」と盛大な悲鳴を上げた。
空気を切り裂いて進んでいく真希の愛車は華奢とは言え、2人分の少女の体重を上に乗せて
慣れない重さに悲鳴を上げているようだ。スピードは上がらない。
といっても歩く速度と比較になる筈もなく、剥き出しの頬が、耳が、ぴりぴりと凍りつく様な
冷気は容赦なく運転席の真希に、荷台の梨華に、襲い掛かる。

「うしゃ、帰るぞおー!!」

抱えていた秘密を吐露してしまったせいか、妙にテンションの高い真希が上げる歓声が
静かな住宅街へ迷惑にも響き渡る。滅多に見せることのない彼女のそんな姿、
それを認めているのが自分だけだという事実が嬉しくて、意味もなく梨華も笑った。

625 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 11:59

「やだ、もぉさむーいーっ」
「さむくなぁいっ!」
「さむいものはさむいのぉーッ!」


とにかく2人は馬鹿みたいに笑って、嬌声を上げて、互いの傷には気付かぬ振りで、
笑い過ぎて苦しくなって、涙が一筋頬を伝うのも、気付かぬ振りを決め込んだ。
沈黙を畏れていることは、薄々感じ取っていて、それを回避するのは声を上げて笑う
しか手立てがないとでも言わんばかりに。

世界にたった2人きり、そんな錯覚からはものの数分で醒めてしまう。そんなことは、
口にせずとも端から承知済みだ。それを忘れたいから、笑うのだ。
ちりちりと、胸の片隅で燻っている火種がこれから大きくなることを強く意識して、
真希は悴んだ指でハンドルを強く握り締めた。寒い、でもまだ、こうしていたい。

626 名前:10. 投稿日:2005/12/04(日) 12:00

エンジン音が、賑やかな唸り声を上げて住宅街を突き進んでいく。
ヘルメットから覗いた梨華の髪が、風に舞って軽やかに踊った。
(お願い、もう少しだけ)
質素な2人の城が見えてきた ――― 梨華は真希のお腹で交差させた手に、更に力を込める。

もう少し、このままでいたい。
お互いの顔を見るのが、今はまだ少し、難しいから。

627 名前:  投稿日:2005/12/04(日) 12:00


628 名前:  投稿日:2005/12/04(日) 12:00

629 名前:名無し猿 投稿日:2005/12/04(日) 12:02
張り切って更新いたしました>>580-626  
年内にもう一度更新できればしたいところです(希望的観測)、頑張ります。

>571 名無し読者さん
    2人の雰囲気、ヤバイっすか、今回は別の意味でヤバイ感じになりましたw
    マターリ今回も更新しました、今後ともよろしくお願いします!
>572 名無し飼育さん
    いしごま、前回分は某ユニットにより栄養補給できました。
    相変わらず超マイペース更新ですが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
>573 名無し飼育さん
    萌える展開(?)から燃える展開へ…。某元メンバーはキャラのイメージが固まってる
    ので非常に書き易いです。続き、こんな感じで進めていきますのでよろしくです
>574 名無し飼育さん
    最初から読み返していただいたそうで、色々と粗が目立つでしょうがご容赦ください。
    頑張って更新しますので、どうぞ最後まで見届けてやってくださいませ
>575 名無し飼育さん
    嬉しいお言葉、本当にありがとうございます。今回もニヤリとしていただけたでしょうか?
    のんびり更新のあまり、追走するのに飽きられないよう頑張ります!
>576 名無しJさん
    癒し効果がありましたか、自分としてはその言葉が励みであり癒しです(*´∀`)
    今後は主役の二人以外によって話も展開していくと思います。よければお付き合いください。
>577 名無し飼育さん
    はい、この駄作者的には早めに更新してみましたw どうでしょうか?
>578 名無し飼育さん
    すみません、ありがとうございます
>579 名無し飼育さん
    ありがとうございます、どんどんいしごまに転んでください!
    仲間が増えるのは喜ばしい限りなので…これからも寄ってみてくださいね。


ということで更新終了です。
こんなペースでこの先、どうなることやら…;
とにかく読んでくださってる方々に見放されないよう最後まで書き上げたいです。
(このスレで終われますように)よろしくお願いします!

630 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/04(日) 17:26
キタ━━━(゜∀゜)━━━!!
あぁ作者さん最高です。
うまく文字に表せないけれど、このお話が非常に好きです。
好きすぎてバカみたいです。
631 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/04(日) 20:03
萌え〜というより、どことなく切ないようでおかしい2人のやり取りが好きです
次回も楽しみに待ってます
632 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/05(月) 16:48
読んでる間ずっと顔がにやけてしまってヤバイです。
おもしろい。
633 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/05(月) 20:29
更新キテタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
なんかもう…ホントに良いです。
634 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/10(土) 23:44
本当に面白いです。言い回しや心理描写に文才を感じます。
こんな面白いものを書いて頂き、ありがとうございます、って感じです。
作者さんのペースで、最後まで書き上げてください!
635 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:24
突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
636 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/19(月) 20:40
始まったね!!
637 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:39

がちゃがちゃ、ごとごと
638 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:40


自転車のカゴに山と積まれた缶やら瓶やらが、耳障りな音を掻き鳴らしている。
騒がしい自転車を押しながら歩くのは、2人の少女だ。

厚手のダッフルコートにぐるぐるとマフラーを捲き付け、寒さに縮こまる亀のように
首を竦めて小さな歩幅でちょこちょこ忙しく歩くのが小川麻琴、
そんな後輩の前を軽快な足取りで先行くのは、真冬というのにパーカーにジーンズという、
至極軽装且つカジュアルに固めた吉澤ひとみである。

何処と無く浮かない表情の小川に比べ、
ひとみのそれはいたずら好きなガキ大将の様な分かり易い企み顔を絶やさない。

「せんぱ〜い…やっぱりいいッスよぉ、マジで気ぃ進まないんスけど」
「ぁあ!?」
暗い表情と、何故か真昼間から疲労困憊と取れる重たい空気を纏った小川麻琴が、
雰囲気に違わぬ暗い声で告げた。
「全然知らない人たちに自分の失恋慰めてもらうとか、…なんつーか…」

ったく、とこれ見よがしに溜息を付いてひとみが立ち止まる。

639 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:40

ぼそぼそと独り言のように語散る小川を呆れた顔で振り返り、
「だっからー、全然知らない相手じゃないだろ。ごっちんのことは知ってんだろ」
跳ねつける様に言ってのけた。
益々小川が萎縮するのは分かりきっているけれど、これも一つの愛情表現、
可愛い後輩に愛の鞭なのだ。(だから小川がいじけようが別に構わないのだ)

「そりゃ知ってますけど…」
だって有名ですもん、友達も憧れてる子、いるし。
ぶつぶつ呟きながら何故かその独り言は、卑屈なものに変わる。
―――― フラれたあたしと違って、普通にモテてるし。

うじうじと愚痴を零す小川に痺れを切らし、ひとみがその場でくるりと踵を返した。
寒さに首を竦めている、自分より背の低い後輩につかつかと歩み寄り、
何の説明も無しにいきなり彼女の頭を拳でごつん。
一突きした。問答無用。

「な、なにすんですかぁ〜!」
「うっさいんだよ、いい加減」

640 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:41

情けない顔で抗議の声を上げる小川を一蹴し、
物分りの悪い後輩に若干の苛立ちを滲ませてひとみは頑固に言い放った。


「ごっちんも梨華ちゃんもよしざーの親友なんだよ、超良いヤツらだから心配ないって、
 絶対小川に損はないから、騙されたと思ってしっかり付いて来い」
「はぁ…」

納得出来かねている風ではあるものの、
吉澤ひとみがこうと言い出したら意地でも貫き通す親父的な頑固さを思い出し、小川は
諦めて溜息交じりの同意を吐き出した。
不審気な視線をひとみに向ければ、彼女はさっさと自分に背を向けて坂を上り始めている所。

…しょうがないよなぁ、吉澤センパイには敵わないもんさ

無意識に吐こうとした溜息を飲み込み、小さく肩を竦めると小川は小走りに自転車を押して
前を行く豪胆な先輩に追い縋る。
軽装で持荷の少ない筈なのに、当のひとみにはすぐに追いついた。
何気なしに見えてどうやら、あえて歩調を緩めて小川を待っていたらしい。

あまり面識のない女の子連中には呆れるくらい優しかったり紳士的だったりするのに、
砕けた関係になればなるほど、ひとみの態度は無粋になるのだ。
(素直じゃないな、センパイ)
嘗ては自身とその他女子に対する対応の格差に不満を抱いていたこともあったけれど
気心の知れた今では逆に、ひとみが小川に心を開いてくれている証明だと、
密かに誇らしく思っていたりする。

641 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:41

小川が肩を並べたのをチラリと横目で見届けて、ひとみが平坦な声で呟いた。

「多分、小川は気に入ると思うんだよね」
「え?何をですか?」
「そしたらごっちんは多少なりとも焦りが生まれるから、起爆剤とまではいかないまでも、
 ちょっとしたきっかけくらいにはなるだろ」
「……??」

全く主語を含まないひとみの言葉に小川は首を傾げるばかり。
疑問符を頭に並べている小川を振り返り、目の奥にいたずらっ子特有の輝きを忍ばせた
ひとみが妙に偉ぶった態度で勿体つけて、言った。

「じれったいヤツらのさ、カンフー剤になるかもしれないんだ、小川の惚れっぽさがさ」
「んまっ」

面と向かって「惚れっぽい」と評を下された小川が不満気に頬を膨らますが、
ふと思いつき、ニヤけた顔付きで何やら思案に暮れるひとみへ何気なしに
ぽつりと問いを投げ掛ける。

「もしかしてそれ、カンフル剤って言いたいんですかあ?」
「るっせーよ、ちょっと言い間違えただけたよ殴るぞコラァ」
「いたいいたいいたい、もう殴ってるじゃないすかぁー」

自転車を押しているが故、防御など敵わずされるがまま。
ぎゃあぎゃあ大袈裟に悲鳴を上げる相方を小突き小突かれじゃれ合いながら、
2人の少女は緩やかに続く坂をのんびり登っていく。

642 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:42

◆◆◆

643 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:42


あっと思った時はもう遅かった。
少し無理な体勢から手を伸ばして、向かいの同僚のデスクからホッチキスを拝借しようと
した自分の腕が積み上げた書類の束に触れた、瞬時にしまったと愚痴るのも意味のない行為。
バサバサと無情な音を立てて崩れ落ちる紙の雪崩を、呆然と見守って。

「あ、あ〜…!」
などと、思い出したように溜息を付いてがっくり項垂れる梨華。

今しがた、後は書類角を留めていけば終了という段階まで漕ぎ着けていた筈の仕事に
意味のない余計な仕事を加算させてしまった自分にほとほと自己嫌悪を覚えつつ、
とにかく書類をもう一度纏めようと腰を屈めた。
「よっ」
「あ」
不意に視界に入ってきた影に、梨華は動きを止める。
その相手の正体を認めるのに時間は掛からなかった。「……市井さん」

屈み込んだまま、呆然と市井を見上げていた時間はものの数秒程度に過ぎなかった筈
だが、その僅かな間に彼女の起こした行動は迅速だった。
薙ぎ倒され散布した書類を手早く纏めて拾い集め、デスクの上にどんと載せる、
その次はぼんやり見守る梨華の手を引いて立たせるというオマケつき。

一連の行動が無駄に素早くそれでいてスマートだ。

「あの、えと、ありがとうございます…」
「いや、あのさ。ちょっと休憩でコーヒーでも飲もうかと思って」
一先ずの例を手で制して、
突然の先輩の出現に戸惑う梨華の態度を見越したように、市井が率先して口を開いた。

644 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:43

自販機コーナーは梨華のいる総務課を更に突っ切ったコーナーに設置されている。
視線でその箇所を指しながら、市井が続けた。
「時々さ、無償にあっまーいヤツ、飲みたくなるんだよねぇ」
「分かります、ありますよね」

ぎこちなく相槌を打つ梨華を少し、小首を傾げて覗き込むようにして市井が言った。

「で、ちょっと通り掛かったらさ、石川が盛大に書類をバラ捲いてるの見えたから」
「…ぁ…」

彼女の言葉には他意も揶揄もない、けれど、関係なしに恥辱は芽生える。
笑いながら話す市井とは反対に、梨華の頬にかっと赤みが差した。
普段からそうしっかりしているという自負がある訳でもないが、殊更「優秀な同僚」である
先輩の前では失態ばかり見られている気がするのだ。

「あ、あの…あたしいっつも単純なミスとかドジとか絶えなくて、ホントに馬鹿で…」
「 ―――― というのは建前で」
赤面したままぼそぼそと呟く梨華の弁を気に留める風もなく、市井はその口上を断ち切る
ようにあっさりと言い放った。

「実際は、石川の顔見たくて会いに来たんだけど」

臆面もなく言い切る市井の顔をまともに見返すことなど適わず、梨華は耳まで紅潮して
ただただ押し黙る、(だって、そんなにストレートに言われたら!…)
その手はさっきから同僚のホッチキスを固く握り締めたままだった。

645 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:43

◆◆◆

646 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:44


「えっ、今日?」


鼻歌交じりに洗濯機を回していた真希は、親友からの突然の電話に裏返った声で答える。
がたん、ごとん。
やや旧式の洗濯機の騒音から逃げるためリビングに避難し、
再度携帯電話を強く耳に押し付けた。聞き漏らしなどないように。

≪そ、今日の夜小川と一緒に行くから準備よろしくねー≫
≪ちょ、センパイ絶対めいわくですからやっぱ止めましょうよ≫
≪るせーな小川は黙ってろって、ほら早く飲みたい酒選べ、酒≫
≪もういいですって、これだけあれば十分じゃないスか≫
≪ばっかオメ、ヨシザワとごっちん揃うのにこれだけで足りるわけねぇだろ≫
≪そんなの知らないですもんー≫

泣き声交じりの知らない少女の声をバックに、しれっとした声でひとみが告げた。
≪んじゃ今晩ねえ、ごっちんばいちゃっ≫

「…ちょい待ち、よっすぃ?」

ぷっ、ツーツーツー
何処かのショップ内と思しき喧騒をバックに、親友の陽気で勢い溢れる声は
唐突に(しかも一方的な言い分をまくし立てられ)打ち切られた。
憮然とした表情でしばらく携帯電話と睨めっこ、
当然勝てる訳もないので真希は早々に勝負を諦め、携帯を放り出してソファに身を投げ出す。

弁が立ち、強引さと頑固さには定評のある吉澤ひとみに押し切られることは一度や二度
の経験では追い付かない、

647 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:44


それでいて、彼女が無理矢理とも言える形で真希の領域に踏み入ってくるのが、
自分を思いやっての行為であることは重々承知しているのだ。
(伊達に親友を名乗っている訳ではない)
よって、彼女の行為を本心から非難することもなければ無碍にすることもないわけで。

つまり、そういうこと。
ひとみから見て、今の真希は放って置けない状況にあるということか。
確かに、精神的に不安定である感は否めない。

…よっすぃのおせっかいで本当に迷惑を被った試しは、一度だってなかったっけ。

ひとみの後輩である小川麻琴の失恋慰めパーティが、真希にどんな影響を与えると見越して
彼女が梨華の家でそれを実施すると提案したのかは知らないが、
ここは甘んじて受け入れることとしよう。それが、大人の対応ってヤツだ。

うつ伏せにラブソファーに倒れ込んだまま、真希はぐるりとリビングを一望した。
散乱した雑誌、新聞、取り込んだまま畳んでいない洗濯物、―― つまり散らかり放題の部屋。
ついこの間ひとみが遊びに来た際、掃除させてからものの一週間も経っていないというのに、
呆れる親友の姿が容易に想像出来る。
「まっ、いっか」

どうせならお邪魔しに来るついでだ、また片付けやってもらお、よっすぃーに。
割り切って英断すると、真希はのっそり起き上がり、バイトに行く為の身支度を始めた。
窓の向こうにどんより曇った薄暗い空。

ああ、今日も寒そうだ。


648 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:45

◆◆◆

649 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:45


昼過ぎ、会社近くのカフェ、目の前にはランチセットを注文した市井紗耶香。
同じランチセットを頼んでから手持ち無沙汰に、
ふと覗き込んだ携帯電話の液晶画面、未読受信メールの通知、1件。

650 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:45

□後藤真希
2/21 11:35
仕事中だと思うけど
――――――――――――
なんかいきなりよっすぃーから
電話きたよ。今日やるって、例
の後輩の失恋パーティー;;
ホントは明日の土曜日の予定
だったけど、オールで飲んで騒
ぎたいから今夜だって(‐_‐;)
もう超強引に決められたからや
るしかないみたい。そんな訳だ
から、仕事終わったら寄り道し
ないで帰ってきてね。
そんじゃーお仕事がんばって!

651 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:46


くす、と無意識のうちに梨華の唇の端に笑みが浮かぶ。

(もう、本当にひとみちゃんてば勝手なんだから)

我が家を一方的に見知らぬ後輩の失恋パーティ会場に指定され、日時まで
(それも急遽だ)決められたというのに、梨華の中には当のひとみに対する反目の
感情は意外な程希薄だった。
それよりも。

(しょうがないなぁ、…了解っと)

一つ屋根の下で生活しているのだから毎日、当たり前の様に顔をつき合わせて
暮らしている居候の彼女からの、メール。

そう色気のある内容でもないし、この文面を打っている彼女が唐突な申し出に辟易して
いる姿も容易に想像できておかしく思う反面、
たったこれだけのメッセージに充分な安心感を覚えるのが梨華としても、不思議だった。

最近は何かと梨華の前へ顔を出し、尚且つ会社での昼食は勿論外食にも頻繁に誘ってくる、
市井紗耶香と共に行動する機会は以前と比べ格段に増えた。
さすがに前ほど(常に緊張して喉がカラカラになるくらい)には硬くなることもないものの、
そう易く気兼ねできる相手でもないわけで。

彼女ほどこの場にリラックスした状態で臨むことはまだ、適わない。
市井自身は自分に対し、もっと打ち解けて気安い関係になって欲しいと望んでいるのは
分かるのだけれど、だからといってスイッチを切り替える様に態度を翻すなんて真似は
ただでさえ不器用と自負する梨華に容易な筈もない。

結果、食事に同席する度にぎこちない空気が流れるのは、
最早お互い目を瞑っている始末。

652 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:46

何度も真希からのメールの文面を読み返し、
ほっと息を付いて梨華が携帯電話を折り畳んだ瞬間。
「後藤から?」
待ち構えていた様な勢いで、間髪いれずに市井からの突っ込みがねじ込まれた。

ぎょっとして顔を上げると、してやったりと言わんばかりに笑みを携える先輩の姿。
「あ、やっぱ当たり?」
「…え」
「いや、ちょっとカマ掛けただけなんだけど。市井さ、石川の友達って後藤しか知らないし」
「あの、大した用件じゃなくて、本当に…」
「へぇ、あっやしー。すごい嬉しそーな顔してたけど?」


何とも言えず、戸惑いながら梨華は口を噤んでいる。
毎度の事とは言え、掴み所のない市井紗耶香の言動は梨華の予想や意図する所を
全く掠りもしないことが多々あって、
彼女の言葉に即応した返答を咄嗟に口に出すのはとても、難しい。

「いやいや、今のは市井の独り言。気にすんな」
「はぁ…」

(気にするなって言われても…)

複雑な表情の梨華をあしらうように市井が笑って手を振る。
彼女が自分を殊更に気に掛けているのは否応無しに知っている。
ただそのベクトルが、『出来の悪い後輩』に対しての親心に似たそれか、それとも ――――
といった微妙な感情の機微に判断を下せるような材料は生憎、(というべきか幸いと言うべきか)
梨華の手元に持ち合わせていない。

653 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:47


尤も、市井が何らかの感情を多々行動や言外に匂わせていたとして、
それを梨華が敏感に察知出来ているという自信は勿論、無いのだけれど。

「それよりさ、石川、今夜暇?」
「え?」
「市井の知り合いで、最近店開いた人いるんだけど、和食の。
 すっごい美味いんだこれが。行けば多少のオマケはしてくれるっていうんだけど、
 どうかなーって」


   ≪仕事終わったら寄り道しないで帰ってきてね≫


瞬時に浮かんだのは、真希からのメール。
そして、先日のファミレスで起こった、市井と真希の諍いによる行き違い。あの日梨華は
せっかく御馳走してくれた市井の元を離れ、不遜な態度を崩さない居候の後を追った。
礼儀を弁えた後輩としてなら先輩の再度の誘いには当然、二つ返事で同意するのが筋だ、
だけど。でも。
不意に訪れた緊張に、梨華の全身はかっと熱くなる。

「すみません、あたし…」

慣れない嘘を付く時特有の、不規則な心臓の鼓動と生温い嫌な汗が背中を伝う。

「今夜、久しぶりに実家帰ることになってて、両親にもそう言う風に伝えてあって」
「実家?」
「はい、今日」
割り切って嘘を口に乗せてしまえば、後は調子よくぺらぺらと唇はよく動いた。

「久しぶりっていってもお正月には帰ったんですけど、おと…父なんか、すごく楽しみに
 してるみたいなんで、急に反故にするのはちょっと、なんていうか…」

654 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:47


ふんふんと真摯な顔で頷く市井に罪悪感が沸き上がるけれど、
今更嘘ですなどと言い出す訳にもいかず口から出任せを重ねて梨華は続ける。  

「なので、来週なら、いいんですけど……今日はちょっと、すみません」
「そっか」
案外あっさりした口調で市井は一も二も無く答えた。
「家族の都合なら別に謝ることないじゃん、親孝行してこいよ、遠慮なく」

(ごめんなさい、市井さん。ホントは真っ赤な嘘なんです)

心中で萎れるのは梨華が単純に真面目過ぎるが故だ。
元々約束としては(それが数時間のタッチであっても)吉澤や真希達とのそれが早い
のだからそれ程気負うこともないのかも知れないが、
面と向かって断りを入れるのと電話やメールといった電子機器を使って返答するのでは
心情の面で負債の桁が違う。

「本当に、すみません」
「いーっていーって。気にするなよ」


彼女の、大らかなこの言葉を聞くのは何度目だろう。
軽く頭を下げた状態でふと思い立った。

ここ最近の付き合いの中で、梨華が酷い二日酔いに悩まされた1番最初の食事以降、
市井紗耶香は強引な誘いを目に見えて控え、大らかな応対をする様になった。
そして彼女の『寛容さ』は梨華へだけでなく、あからさまに敵意を見せる真希にも
また向けられているように感じるのだから、分からない。

655 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:48

――― 市井さんが優しいから、あたしはそれに甘えて…

そう考えると、梨華の胸は更にきゅっと締め付けられて苦しくなった。

(これで良かったのかな)
(嘘なんてついて、本当に失礼なことしてるよね、あたし)
(だけど ―――― ひとみちゃんが前にウチに来た時、あたし酔っ払って帰っちゃって、
 ろくに相手できなかったし、その罪滅ぼしもあるし…)

何だかんだと思い浮かぶ理由は、
単なる自分自身への言い訳で、それも後付けに過ぎなくて。


『いいなぁ、梨華は』

不意に、柴田あゆみの声が脳裏に甦った。
梨華と同期入社で何かと気の合うあゆみが、ごく最近ふと思い出したように呟いていたのだ。
羨望と、嫉妬を同時に帯びた彼女の視線と共に。

『市井さんに特別に目を掛けてもらって』

それが今の梨華に憂鬱を齎しているなど、あゆみには知る由もないだろう。
市井が自分に向ける感情が単なる「後輩を可愛がる先輩」としてのそれだったなら、どんなにか
気持ちが楽になったことか。無論、事実を事実として相談出来ないからこそ梨華は悩み苦しんで
いる訳で、この感情を誰かに打ち明けようなどとは微塵も思っていないけれど。


「んじゃ、またこの次、付き合ってよ」
「あ、はい、もちろん」

切り替えの早い市井の気遣いに助けられ、梨華はほっと胸を撫で下ろす。
それでもしばらくは、胸を塞ぐ重しに悩まされそうだった。

656 名前: 投稿日:2006/01/09(月) 16:48

657 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/09(月) 16:48

658 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:49

「ただいまぁー…」


梨華が我が家に到着した時には既に、宴会は始まっていた。

明らかに同居人のそれとは違うけたたましい笑い声、歓声というよりは嬌声に近い。
やだなぁもう、あんまり騒ぐとお隣りから苦情きちゃうじゃない。
(実際に苦情が来たことなど一度もないけれど)
眉を顰めて、梨華は首をこきりと回し、バッグを無造作に玄関に放り出す。


「お、梨華ちゃんおかえり」
ドアを開けた音か、それともバッグを投げ出した音に気付いたのか。
ひょい、とオタマを持ったままの真希が玄関を覗いて声を掛けてくる。

座り込んで、ブーツを脱ごうと気張っていた梨華はぐるりと頭だけ回して答えた。
「ただいま、ごっちん。やけに盛り上がってるね」
「あー、よっすぃが連れてきた後輩、酒弱くて」
「そうなの?」
「まぁ、梨華ちゃんよりはマシだけど」

余計に付け加えられたひと言に気分を害して、梨華の片頬がぷっと膨らむ。
それを見届けることなく、再び真希の頭はキッチン側に引っ込んだ。

「もう晩ご飯始まっちゃってるから、早く着替えてきなよぉ」
「分かってる」
「あ、それとちゃんと手ぇ洗ってね」
「子供じゃないんだから、分かってるってば!」

姿の見えない居候から追い掛けてくる言葉に、苛立ちの声を返してもけらけらと
他人事のような笑い声が聞こえてくるばかり。

「…もう、変に子供扱いするんだから」
独り言と共に、それでも梨華は早く宴会に顔を出す為、先ずは浮腫んだ足へ完全に
フィットしてしまっているブーツから、自らの脚を引っこ抜くという至極面倒な作業に
取り掛かることとした。

659 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:49

―――――

660 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:50

「あれ、今日もお鍋してるの?」

ぐつぐつと、テーブル上で煮える鍋、使用頻度の高いカセットコンロが今日も
勢い良く炎を噴出しているのを目にして、梨華が言った。

だぼだぼのセーターとジーンズに着替え、(真希に言われた通り)きっちり手まで
綺麗に洗った梨華がリビングへ入って行ったのは、帰宅から10分程してからだった。
着替えだけならば数分で終わったそれに倍近く時間が掛かってしまったのは、
ふとバッグから覗いた自身の携帯電話に気付き、
意識せずうちに市井紗耶香のことを思い出していた為だ。

休憩時間にふと自分の前に姿を見せる時や、食事時に見せる肩の力を抜いた
時の柔らかい顔、彼女の誘いを断り、それでもいいよ、気にするなと自分を
思いやってくれている優しい笑顔が、次々と脳内で再生されて止まらなくなった。

つらつらと思い返していたら、ぼんやり突っ立ったまま5分も経過していて、
慌てて頭からセーターを被って部屋から出て来たという所。


「あっははははは、中澤がなんだー!!」

出迎えたのは、威勢の良いがなり声。
仄かに赤ら顔で左手拳を握り締め、椅子に片足を引っ掛けて高らかに吼えているのは
明らかに梨華の見知らぬ少女だった。
消去法でいけば、その彼女が本日の主役である「小川麻琴」であることは
火を見るより明らかだ。

661 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:50

(…なんというかまた、…元気な子……)

目を丸くして唖然と佇む梨華に気付く気配もなく、
朗々とした口調で小川の口上は尚も続く。

「年上がなんだー!!教師がなんだー!!好みがなんだぁーっ!!
 失恋がなんだー!!!人生はまだまだ長いんじゃあー!!にゃろーっ!」

口から泡を飛ばして、近所迷惑も顧みない(というかそんなことを気にする心の余裕が
あれば、そもそもそんな恥晒しな台詞を臆面もなく吐き出す筈もないだろう)、
彼女の右手には泡立つ黄色い澄んだ液体 ―――― 所謂ビールが、コップ半分。

ああ、と梨華は瞬時に理解する。
何の事はない、「小川」という少女も梨華の同類ってことらしい。
(端的に言えばそう、アルコールに弱いのだ、間違いなく)

そして、同席者の2人。
居候にして(梨華のいないこの場においては)責任者に当たる筈の真希は、当に小川
から興味を無くした様子で黙々と鍋を突付いており、
小川の直系の先輩でありこの宴会の主催者である筈のひとみは、「いいぞー」などと
無責任に煽りつつ、テンション高く拳を突き上げる後輩を腹を抱えて見守っているだけ、
という始末。

「おお、梨華ちゃん遅かったね。おかえりー」

ケラケラと笑い転げていた涙目のひとみが、梨華の姿にようやく気付いた。
因みに小川の方は今度は窓辺へ近付き、暗い夜空へ何事かを叫んでいる。
「神様のばっきゃろー!!!」
……まぁ別に、相手をしなくても問題ない内容のようだ。

662 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:51

「もう、あんなに酔っ払うまで何を放っておいてるの、2人して」
呆れた感情を全面に押し出しながら、梨華が空いた椅子に腰掛ける。
先ずは腹ごしらえだ。
この場にいる誰よりも今、疲れて栄養を欲しているのは間違いなく1日働き詰めだった
梨華に他ならないのだから。
 

「や、だってビールだけであんなになるなんて思わないじゃん、普通」
「そうそう、あれしきでねー、あんなベロベロにならないよ、普通」
可愛くない後輩2人は、
息の合った仕草で顔を見合わせ「梨華ちゃんじゃあるまいし」と仲良く声をハモらせる。
「ひと言多いのよ、そこ!」叫んだのは条件反射だ。


「ま、気分良さそうだからいいんじゃね?」
と明るくひとみ、
「そーだよ、溜めるより思いっきり吐き出した方が身体にもいいって」
あっけらかんと追随するのは勿論真希。
「もぉ、勝手なんだから!」

663 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:51

どうにも取り合う節のない薄情なひとみと真希には一旦見切りをつけて、
序に空腹をひたすら訴える腹の虫も我慢させて、
年長者&家の主と自覚する梨華はゆらゆらと窓辺で横揺れを始めた少女に近付く。

とんとん、
なるべく刺激を与えないように、驚かせないように必要最低限に軽く肩を叩き、
ふいっと振り向いた少女に(潤んで泣きだしそうな目だった)、優しく微笑んで見せた。

「あの、だいぶ酔ってるみたいだけど大丈夫?
 自己紹介が遅れたけど、あたし、ひとみちゃんと真希ちゃんの1つ上の先輩で
 石川梨華っていうの。
 えーと、初めましてだよね?あなたが小川麻琴ちゃんでしょう?話は聞いてるよ、
 大変だったね、今日はよろしくね」

ゆっくりと、幼児に言い聞かせるように優しい口調で一息に告げた。
振り向いて梨華を瞳の真ん中に映し出した小川が、途端にガキッと石のように硬直する。
「…?」
不思議そうに小川のぼんやり朱に染まった顔を覗き込む梨華を、
ひたすら凝視して固まる純情そうな高校生女子。(但し諸事情により充分な酩酊状態)

「あの、ひとみちゃん。小川さん、動かないんだけど」
「えー?どした。小川。もぉ限界かぁ?」
「うっそ、まだ飲み過ぎってほど飲ませてないよ?」
「最初から飲ませないでよ、高校生に!バカ!!」

怒鳴り散らす梨華に首を竦めて、真希は不満気に口を尖らせる。
けれど、拗ねた真希など今は気に留めていられない。
困った梨華がまず助けを求めたのは、当然ながらひとみだ。

「ねえ、ひとみちゃんってば」

664 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:52

「んー今いく」
「どしたどしたー」

呼ばれたひとみにくっ付いて、真希もトコトコとスリッパを突っかけ梨華の元へ。
反応の鈍い後輩2人に苛々しながら、取り合えず梨華の当面の意識は小川であり、
もう一度肩を叩きながらじっと彼女の反応を見守ってみる。
「小川さん…麻琴ちゃん?」

少し心配を覚え始めた瞬間、「あー」とひとみが気の抜けた声を上げた。
「なに?」
問う梨華には答えず、ひとみはすぐ隣り佇む真希にだけ聞こえる程度の声量で
ぼそっと呟いた。苦笑交じりに「惚れたな、アイツ」。

「ああ、」
呼応して、真希の視線は横揺れも収まり、梨華だけを真っ直ぐ見据えている小川麻琴
へと興味深げに注がれていた。
「…ちゃったみたい」

665 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:52

ただ1人、状況を把握出来ない梨華だけが小川を心配し、変化を見逃すまいと
彼女の凝視に微妙な居心地の悪さを覚えつつ、じっと様子を見守っている。
ふと、小川に変化が訪れた。
梨華、ひとみ、真希。
白状な高校3年生2人と唯一の会社員、三人の心情は当然夫々異なっているけれど、
彼女らが目にした小川の変化は皆同様に、見て取れるものだった。

「…………」

ぽかんと、と先ず口が開いた。
みるみるうちにぽっと頬が赤く染まり、一気に耳まで真っ赤に変わる。
極め付けに、一昔前の少女漫画の如く、背景にぱぁっと薔薇が咲き乱れた、
―――― そんな感じ。

「え、え?」
とろーんと半熟の目玉焼き以上にとろけそうな瞳で見つめられ、梨華の動きもまた、
止まる。なになに、どうしたらいいの、あたし?

この場の頼みの綱であるひとみと真希をチラリと横目で掠め見れば、
何やら2人でひそひそ内緒話など交わしている始末。
「ちょっと、ごっち ――― 」
強めに文句でも言ってやろうと口を開きかけた瞬間、熱い掌が自分の手を包んだ。
「え?」ぎょっとして慌てて視線を戻せば、熱に浮かされた表情の小川の姿。
「あの、石川さん…ゆっくり、お話でもしませんか?」

―――――――

666 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:53


「惚れたねありゃ」
「いやー、後藤、あれくらい分かりやすく一目惚れする人、初めて見た」
「おっもしれーよなぁ、小川。超困ってる梨華ちゃんの反応も面白かったけど」

あわあわと対応に困っているうちに、半ば強引に引き摺られるようにしてテーブルへ
連れ戻された梨華と小川の後姿を見つめる、真希とひとみ。
全く緊張感に欠ける声でひそひそと会話を交わす。

「もしかしてよっすぃー、これが目的だった?」
ニヤニヤと笑みを隠し切れないひとみに、半ば呆れ具合の真希が聞く。
「まぁね。失恋を忘れるには新しい恋ってことよ」
「高橋が好みじゃぁ、梨華ちゃんなんかど真ん中だよなぁ」
「ってこと」
「よっすぃーの狙い通りか、結局」

面白くなさそうに呟いた真希に、こちらは心底楽しそうにひとみが食い付いた。
「ん、なに?焦ってんのごっちん?焦ってんべ?」
「……焦ってないって」
「っははー、恐い顔してんよ、ごっちん」
「してねーよ」

憤然と(小声だけれど)言い放つ真希に、ひとみはこれ見よがしにひひひ、と
わざとらしく口元など押さえて笑いを噛み殺している。
そんな1人楽しげな態度には目を瞑って、真希が冷静な意見を述べた。

「つうかさ、小川が梨華ちゃんにマジ惚れしたところで成就する可能性は相当
 低いと思うんだけど、それはいいの?」
「何気に自信家だね、ごっちんよぅ」
「そーじゃなくて」

667 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:53

――――― 石川、もらうぞ


自信家なのは後藤じゃなくて、アイツの方だっての。
口には出せないのでそっと胸の中で毒づいて、
脳裏の片隅に、市井の姿を思い浮かべる。積極的なアプローチで梨華に迫り、
おそらくは早い段階で梨華に決断を迫るだろう。
その時、押しに弱い彼女がどうするのか、想像して良い気分にはならないのだ。

「まぁ、梨華ちゃんに振られるのは想定内だし、失恋するのは本人の資質の
 問題だから、別にその後のことなんてヨシザワに心配してやる義理はないよ。
 それに小川のことだから、、すぐまた別の子見つけるっしょ。
 アイツさー、ホント相当、惚れっぽいから」

気楽な口調で言うひとみに、幾許か小川への同情を滲ませて真希が切り返す。
「案外よっすぃー、シビアだね」
「や、だって小川が愛ちゃんのこと好きになったのってほんの数ヶ月前だよ?
 ごっちんが今のバイト先で愛ちゃんと知り合って、それがきっかけで紹介したんだもん」

ってことは。
真希が現在の駅前コンビニに勤め始めたのが11月からだから、およそ3ヶ月程度の
片思いか……で、早くも当の小川は新たな恋を見つけた様子。
成る程、確かに惚れっぽいと評するのは妥当な所かもしれない。

「大体さ、愛ちゃん紹介したのだって前の失恋吹っ切らせてやるためだし」
「前の?」
「そ、一つ年下の子を好きになって。速攻フラれたんだけどね」
「…へー」
少しだけ驚嘆したような声を漏らして、真希が呟いた。

668 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:54

「逞しいね、小川って。なんでフラれたの?」
「その子がよしざーに惚れちゃって、玉砕」
「……それでよく、今でも仲良くつるんでるなぁ」
「アイツ、結構甘えたがりでさ。大体小川も鈍いんだよ、近くでやさしーく見守ってて
 くれてる同級生の子がいるってのに、全く気付きもしないんだから」

友達としてしか見なしてないんだから、可哀想になぁ紺野のやつ。
「紺野?」
「そう、紺野」
「誰それ」
「バカの魅力にちゃんと気付いてくれてる、奇特な子」
付け加えるように呟くひとみの独り言をしっかり拾って、真希が得心した顔になる。

「ああ、だから小川がいくら失恋しようがよっすぃーは割と突き放して見てるんだ。
 小川をちゃんと心配してくれてる子がいるの、知ってるから」
「まーね」

答えて、一瞬宙に視線を巡らせてから、
思い出したようにひとみが真希の正面に回りこんで顔を覗き込んだ。大きな丸い瞳に
まじまじと(更に口元は薄笑いだ)見据えられて、真希がたじろぐ。

「…なに、よっすぃー?」
「ちなみにその紺野って子、ちょっとごっちんに憧れてるんだよぉ」
「そんなことはいちいち言わないでいいって!」

669 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:55

どっと疲労を覚えて、真希が憤然とひとみに噛み付いた。
対するひとみは悠々とそれを受け流して、顎に手を当てて自分の世界に浸っている。

「まぁ、それも小川が紺野を意識しない理由の一つでもあるんだけどさ。
 小川は紺野がごっちんのこと好きだと思ってるから。あれは単に先輩として憧れて
 るだけなんだって何回説明しても分かっちゃいねえ」
「……あ、そ」

肩を竦め、両手を広げてふるふると首を左右に揺するひとみを見て、
真希は何となく、外人みたい、と呑気な感想を抱いていた。
すぐに、これが他人事として見ることが出来なくなるなどと、真希はまだ知る由もない。

テーブルの方では、顔を真っ赤にした小川が品を作って梨華に入れ込んでいる。
舌足らずな拙い口調、ほんわりと上気した頬で「梨華さんてよんでいいですかぁ〜?」
などと甘えながら、身体をくねくね動かして。

少々、面白くない気分は正直感じてはいるものの、名目上は失恋したてで傷付いている
年下の少女、酔っ払い ――― それも真希は飲ませた側にある立場だ ――― 相手に
腹を立てるのも阿呆らしいと、真希は大人ぶってみる。

仕方ない。今夜だけは目を瞑ってあげるよ、今夜だけね。

670 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:56

一方、苦戦中の梨華。

「ね、麻琴ちゃん、もうお酒はやめたら?」
「うぃーあといっぱいだけー……梨華さんもどうれすか?」
「あたしはいいよ、すごく弱いの」
「………かあいいっすねー、梨華さぁん…うふふふふふ」
「…あはは…」

妙にがっつき気味な小川に対し、明らかに梨華の方は逃げ腰だ。
アルコールが入ればいつも早々に自分が酔っ払ってしまう彼女は、逆に酔った人間を
相手にする機会は非常に乏しいのだろう、四苦八苦し、困惑状態である。
更に言えば、初対面の少女から唐突な好意を正面からぶつけられて、冷静な応対が
出来るような器用なタイプでも、経験豊富な恋愛の達人でも当然、無い。

「お水、お水飲む?あたし持ってくるよ?」
言って腰を浮かし掛けた梨華の細い手首を、小川が掴むのは驚異的に速かった。
「きゃっ?」
「いっちゃやぁです〜」
捕まえた手首を両手で包み、潤んだ瞳で甘えて、懇願。

イラッ

見ぬ振りをしても、やはり気になるのが、人の情。
「ごっちん、おでこに青筋が」
やり場の無い苛立ちを募らせ悶々としている真希の傍ら。
ヒヒッと笑ったひとみは単純に、降って沸いたこの場の三角関係を楽しんでいる。

「うっさいなぁ」
「でも」
不意に、ひとみの表情から人を茶化す色が消えた。微妙にトーンダウンした声に、
僅かな憐憫の情が混じるのを真希は不思議そうに横目で見やる。

「小川のヤツ、素面であの積極性が出ればいいのにな」

ぽつりと呟いたひとみの言葉には、隠しようのない本音が滲み出ていた。
もう少し押しの強さが出せりゃ、然々振られることもなかろーに。

671 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:57


いつまで経っても窓際からテーブルに戻って来ず、挙句の果てに
ひそひそと内緒話を交わしている後輩2人に痺れを切らし、小川がふらりふらりと
横揺れを再開したのを機に、梨華がちょいちょいと手で真希たちを呼んだ。

「やば、梨華ちゃん目が怒ってる」
「怒ってんねぇ。延々と小川の相手、押し付けてたから」

――― 仕方がない、しっぽりと話し込む小川には悪いが、二人の世界はここまでと
させてもらおうか。
胡散臭い2時間ドラマの(実際にそんな台詞があるのか知らないが)三流悪役の如く
ひとみが言って、小川の元へ真っ直ぐ向かう。
彼女が変に芝居掛かって大袈裟なのはいつものことなので、真希は敢えて何も
言わない。常にエネルギッシュな振る舞いに、感心はするけれど。

「おう、小川、酔ってるかぁ?」
「せぇんぱーい」

声掛け様に、ひとみの手が小川の頭に伸びた。大きな掌が髪の毛をぐしゃぐしゃと
掻き回し、当然ながら彼女の髪形は盛大に乱れるが、小川は嬉しそうに笑った。
「うへへへへ、やめれくださいよぉー」
「うりうり、楽しいだろオマエ、感謝しろよヨシザワに」
「うひひひひ、かんしゃしてますおお」
笑い声は可愛くないけれど、真っ赤な顔をくしゃくしゃにして笑む顔は、可愛い小川だ。

672 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:57

―――― はい、選手交代。代打、吉澤選手に任せました。


と、その隙に真希はさっさと椅子に座ってしまう。
梨華を挟んでちょうど小川麻琴とは反対側、即ち彼女の正面席。丸いテーブルには
椅子が四脚なので、何処へ座っても誰かと隣り合わせか向い合わせになる仕様である。

普段は2人分の食卓であるそこに、
今日は4人分の取り皿と箸、真ん中にはキムチ鍋がぐつぐつと煮えている。
気の毒なことに、梨華だけは帰宅してからほとんど手を付けていない。

何か言いたげな梨華の方へふと顔を向けると、きっと釣りあがった眉の下で
疲弊した瞳が「遅い!」と叫んでいて、真希は思わず笑ってしまった。何て、分かり易い。

ともかく軽く手を合わせてごめんね、と唇を動かすと、
「悪いと思ってるなら、お肉とって」
自分の取り皿と鍋を交互に見つめて、むっつりと言い捨てる。
それでも明らかに迫力の出ないアニメ声はどうにも緊張感も締まりもなく、真希の方は
可笑しくて仕方ない訳で。

当座、小川の相手はひとみが引き受けてくれたようだと判断した梨華は、
ともかく自らの空腹を何とかしようと即決したらしい。

「はいはい」
けれども、自分は居候。
美味しい夕食を、まずはご主人様に食べてもらわなくちゃね。
よく煮えて熱々のお肉を小皿にたっぷり、つゆもたっぷり。
サービスに、冷えた烏龍茶を彼女のグラスに並々注いで。
「どーぞ」
「ありがと」

なんて気取って差し出せば、ようやく梨華の機嫌も治まり、彼女の顔が綻んだ。
食欲を満たせば、まぁ大抵の小事は気にならなくなるものなのだろう。
ほくほくと、幸せそうに豚肉を頬張る梨華を見ながら、真希は真希でぐいとビールを呷る。

673 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:58

「なぁにを、新婚さんみたいなやりとりしてんすかぁー」
「ん?」

じとっとした、恨めしそうな声と言葉。
髪を乱されてきゃっきゃと喜んでいた小川の目が、いつの間にか正面の真希へと
向けられている。
その隣りには、じゃれるペットの相手に飽きて酒に手を伸ばすひとみ。
(職務放棄早すぎだっつの、よっすぃーめ)

「あ、あ、あ、あのぉー」

どもった声を上げる小川を、真希が怪訝な顔で見返す。彼女の声が向く方向が、
自分の元であると気付いたのだ。けれど、後輩の視線を正面から受け止めるその間も
真希の手は休まず、空いたコップへ手酌でビールを注いでいる。
とくとくとく

「なに?後藤になんか言うことある?」
しゅわーっと、泡。
「あのー、ですねぇ」
「うん?」
答えながら、ゴクリ。

真っ赤な顔に、据わった目。
完全なる酔っ払いと化した小川が、テーブルの隣同士で座る真希と梨華に、絡みつくような
視線を向けて粘っこい口調で口を開く。
正確には真希に対して、なのだけれども。

674 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:58

「ごとーさんはぁ、梨華さんのぉ、恋人なんれすかあ?」
「あ?」
「え?」
「ほう」

梨華にも真希にも全く気兼ねなく、酔っ払い特有の躊躇の無さで単刀直入に切り出した
小川へ、それぞれの反応はこうだ。
真希は少しだけ目を細めて、睨みつけるような視線と不機嫌な声で。
梨華はあからさまにぎょっとした顔で、さっと赤面して動揺した声を。
ひとみは唯一、この場で第三者を自覚しているから呑気に、楽しげな顔と声。

さぁどう出る?
ニヤニヤ笑うひとみの顔を視界の端に認識し、真希はむっと唇を結んで声には出さず
返す言葉を考えた ―――― 酔っ払いに真面目に答える馬鹿がいるか、まったく。

『恋人だよ』と答えたら小川麻琴はどんな反応をするだろうか。
少しだけ意地悪に考えて口を開こうとしたら、先を越して慌てた風の梨華が言い放った。

「そんなんじゃないよ、恋人とか付き合ってるとか、……そんなんじゃないから!」
「えー」

憮然とするのは2人。
あまりに必死になって否定する梨華に不満を覚える真希と、
その慌てぶりを逆に「不審」と捉えたらしい小川。厄介なことに、酩酊状態にあっても
意外と他人の心情の機微には聡いらしい。

「じゃぁなんで、いっしょに住んでるんですかぁー?」

675 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:59

口を尖らせて、小川は梨華ではなく真希に問う。
梨華の躊躇ない否定に聊か機嫌を損ねていた真希はじろり、と遠慮なく小川を一瞥し
「大人には色々事情があるの」
ぼそりと言い捨てた。

「そうそう」賛同する梨華。
「そうかぁ?」からかい気味に双方を見回すひとみ。

「じゃあなんで、そんなに息ぴったりなんですかぁ?」

あくまで不満を唱える小川に、いい加減疲れた真希の口調はぞんざいになる。
「そりゃ、一緒に住んでるからでしょ」
「そうそう」
「そうかぁ?」

コクコク頷く梨華と、第三者としての立場を捨てないひとみも続く。
うーんとしきりに首を傾げるのは小川だ。
「じゃぁなんで、いっしょに住んでるんですかぁー?」

だあああぁあ、と小川を除く一同が崩れ落ちる。
堂々巡りだ、これじゃ。
再度の小川の質問を頭から無視して、真希は隣りの梨華を振り向いた。
困った顔で曖昧に笑う彼女と目が合う。困ったね、うん、困ったヤツだねぇ。
しょうがないよね、お酒入っちゃってるから。

676 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 16:59

目配せし合って意味ありげに微笑む2人をじぃっと目で追っていた小川が、
相変わらず真っ赤な顔にニカッと満面の笑みを浮かべた。
何となく、嫌な予感。
を真希が嗅ぎ取った直後、彼女から爆弾発言が飛び出した。

「まぁ〜後藤さんにはぁあさ美ちゃんが、いますもんねーえへへへへ。
 めっちゃいい子なんだからだいじにしてあげてくださいねぇー」

「!」
「…!!」
「……え、ええ!??」


へらへら笑って、そのまま小川はばったりテーブルに突っ伏した。
腕が投げ出された拍子に空のコップが転げ、フローリングの床へごとりと落ちる。
コップが割れた否かを心配するよりも先に、
刹那凍りついた空気の中で誰よりも反応が早かったのは、ひとみだった。
「こら、小川、酔い過ぎだオマエ!」

傍観を決め込んでいたひとみが初めて焦った顔で、ガタンと椅子を鳴らして立ち上がる。
完全に虚を突かれて硬直したのは真希で、
梨華は咄嗟に、隣りに腰掛けている居候を素早く振り返る。

「あさ美ちゃんて誰!?」
切迫した声に押されて、真希はぶんぶんと激しく両手を振った。
「いや、知らないよ、ホントに知らない!」
「誰よぉ?」
「初耳、初耳!知らないもんそんな子っ」
「大事にしてあげてって言ってたじゃない、麻琴ちゃん、今!」
「だってマジで知らないもん、酔っ払い高校生の言うこと真に受けないでよッ」
「う」

677 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:00

必死な形相で冤罪を主張する真希の弁に、梨華が一瞬ハッとした表情で押し黙った。
続いてバツの悪い顔でモゴモゴと歯切れ悪く呟く。

「でも、…火の無いところに煙は立たないって言うし」
「や、絶対、知らないから、後藤は。つうか梨華ちゃんに対してやましいことなんか
 全っ然ないからね」
「はいはい痴話喧嘩しない、そこの2人」

小声で言い合う梨華と真希の会話に割って入ったのは、糸の切れた操り人形の如く
ぐでっと力の抜けた小川麻琴を、重そうに引き摺って部屋から出て行くひとみだった。
「コイツ寝かせたらウチが説明すっから、『あさ美ちゃん』のことは」

重いんだよてめーは、まったくアホバカが。
何だかんだと悪態を付きながら、リビングから出て行くひとみ、
親友の姿がこんなに頼もしく思えるのは初めてかもしれない、と極めて冷静な感想を
胸に抱きながら彼女らを見送る真希。
「あ」
…と、思い切り他人事のように眺めていた矢先、ようやくふと我に返った。

「ごめんよっすぃー、布団まだ、2人の布団まだ出してないんだ、ちょい待ってー!」


ずり、ずり、と畳みの上でも容赦なく引き摺る音を追い掛けて、真希もまたリビングから
急いで飛び出して行ってしまった。梨華はまだ、呆然としている。
何というか、非常に、きまりが悪い。

「…あーもぅ、何言っちゃったんだろ、あたしのバカ…」

678 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:00

がっくり項垂れ、左手で顔を覆う。
何かにつけ、ひとみは梨華と真希の言い争いを『痴話喧嘩』などとと揶揄していて、
当初こそいちいちそれを否定する2人がいたけれど、
今日に限ってそれは正しい表現の様な気がしてきてしまったのだ。

『あさ美ちゃん』なんて知らない名前の少女が出てきて、
何故あれほどカッと熱くなり、真希を責めるような問い掛けをしてしまったのだろう。
別に、あたしたち、付き合ってる訳じゃないのに。ごっちんが誰と付き合おうが、
懇意にしてようが、あたしには関係のないことなのに。

平静に、そう気付いてしまったから非常に気まずい空気が残るのだ。
(でも、ごっちんだって)
(あたしに対してやましいことなんかない、とか)
(そんな言い訳するんだもん)


―――― ほらやっぱり、痴話喧嘩、って言いえて妙じゃん?


勝ち誇った表情のひとみの顔が思い浮かんで、梨華は悔しくなった、若干。
それから複雑な真希の顔が思い浮かんで、今度は猛烈な羞恥が込み上げてきた。
鍋だけが我関せず、とばかりに
ぐつぐつぐつぐつ、
平和な音と湯気を立てて、石川家の食卓を見守っている。

679 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:00

680 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:01

「おいこら、何を1人で肉ばっかパクついてるのかね石川くん?」
「あ、おかえりー。お疲れさま」
「あーもう疲れた、マジで」

わざとらしい厳かな言い回しでリビングに戻ってきたひとみを一瞥し、いっぱいに
膨らんだ頬をもごもご動かしながら、梨華が出迎える。
照れ隠し、も含めてよく煮えた肉に齧り付いたら、腹の虫が一斉に騒ぎ立てて
今度は箸が止まらなくなってしまったのだ。

鍋の湯気と具材の熱さと辛さに赤く染まった顔、肉を頬張ってまん丸の輪郭と
至極満足気に綻ぶ梨華とは全く対照的に、
ものの数分の間にぐっと疲労度を増した形相の真希とひとみは、それぞれ
緩慢な動作で自分の椅子へ腰を下ろした。

「あんなに酒癖悪いとはなぁ、小川め」

眉間に皺を寄せ、呆れた所作で言い捨てるひとみを、真希のきょとんとした視線が
捕らえた。「なに、今まで小川と飲んだことなかったの?よっすぃー」

「基本的にウチ、年下とは飲まねーもん。よしざーのペースに着いて来れる後輩
 いないから、つまんないし」
「あー、そう言われりゃそうだ」
「いやぁ、ごっちんと呑むのは久しぶりだぁー」

クツクツと低く笑う真希とひとみは、見る限りちっとも酔っているようには見えない。

681 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:01

テーブル上には既にビールの空き瓶が数本転がっている。にも関わらず、二人は
まだまだ飲む気配を充分に漂わせていたりするものだから、
梨華は思わず、この雰囲気に薄ら寒いものを覚えた。
(この子達、ホントに高校生?)

「…だから、可愛げが全くないんだよね」
烏龍茶のグラスを弄びながら呟いた台詞は、勿論当の2人には届かぬように。

「それでさぁ」
「なにごっちん?」

切り出したのは真希だった。
梨華が見ていた範囲内では7杯目に当たるビールを飲み干して、彼女は口を開く。

「さっきよっすぃーが言ってた『紺野』ってコが、つまり『あさ美ちゃん』?」

大分主語を要略した言葉ではあるけれど、
疑問を突きつけられたひとみの方は瞬時に、概ね言わんとする内容を悟ったらしい。
「ああ」と思い出した風に、一息ついて。


「報われないよなぁ、紺野…」
ひとみが吐き出し、真希と梨華が同時に注目する。
「さっきの小川の言い分からするとさ」

あれだけ豪快に酔っ払っていた小川麻琴の言葉を、何処まで信用していいのか
彼女と付き合いの浅い真希には判断する由もないけれど、
その小川本人と『紺野あさ美』という少女の友情が本物である事は、少なくとも
疑う必要は無いだろう。
あれだけ酷く酔いながらも、気に掛けていた存在なのだから。

「どういう経緯か知らないけど、もしかしてその紺野って子が後藤を好きだとか、
 思っちゃってるワケ?小川って」
「そ。そのとーり」
恐る恐る真希が聞くと、ひとみは素直に頷いた。
682 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:01

「フルネーム、紺野あさ美。彼女、小川のクラスメイトで、数少ない小川の魅力を
 理解してくれてる子なんだけどさ。かあいそーに、報われてないんだけど小川が好きで、
 アイツの惚れっぽさを見守ってやってて、マジでめちゃくちゃ希少価値高い子だよ」
「どうして麻琴ちゃん、その紺野って子がごっちんと…」
「ああ、それはね」

傍で聞き役に徹していた梨華が口を挟むと、― 単純なことだよ、端折る必要ないくらい。
そんな前置きをして、ひとみは苦笑する。

「うちの学校、5月に学年混合クラス対抗球技大会あるじゃん?
 その時ウチとごっちんが組んで、大活躍で、バスケで優勝しちゃったりしたの。
 で、それを見て紺野あさ美は友人の小川麻琴に言いました。
 『後藤さんって格好良いよね。吉澤さんもいいけど、あたしはどっちかっていうと
  硬派な感じの後藤さんがいいなぁ』と」

「…で?」
「終わり」
「それだけ?」
「そう、それだけ」

「…で、小川はそのあさ美ちゃんて子が後藤を好きなんだと勘違いした訳だ」
「それが、今に至っても勘違いしっ放しってこと」
「確かにそれは…」
全くタイミングを図ったように、同時に顔を見合わせる梨華と真希。

「悲しいね…」

683 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:02

見も知らない少女を思い、心底気の毒そうな表情で梨華がその場の三人を代弁して
呟いた。先刻ちらりと胸を掠めた動揺は、ひとみの端的な説明でとっくに消え失せている。
単純というか、洗脳され易いタイプではあるだろう。
何となく三人揃って沈痛な面持ちになり、同時に溜息をついた。


「というわけでまぁ、主賓は早々に退席してしまいましたが、こっからはまぁ
 無礼講の飲み会ってことで自由に楽しみましょーか?」

微妙に沈みかけた雰囲気を切り裂くように、パン、と手を叩いてひとみ。
切り替えの早い彼女は、矢張りこの場において頼りになるムードメーカーであり、
率先して話題を提供したり盛り上げた空気を作り出す才には長けている。

「せっかく色々酒買ってきたんだからさあ、いっぱい飲んで盛り上がろうぜい!」
「いえーい」

明るく言い放ったひとみが、床に置かれたビニール袋から焼酎やら日本酒やら
ワインやら色とりどりのアルコール類を取り出すのを見て、
真希の目は嬉しそうに輝いたけれど、梨華はげんなりとした顔で、閉口した。

(…結局、飲み会のきっかけが欲しかっただけなんじゃないの、ひとみちゃん?)

本当にそうだと答えられたらあまりに小川が不憫で可哀想なので、さすがに
面と向かってひとみに問い質すことはしないけれど。

684 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:02

そして、数時間後。
685 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:03

……そろそろお風呂にでも入ろっか。
いい加減空き瓶も増え、ようやく酒豪2人がほろ酔いに達した頃、
そう言い出したのは真希だった。

小川が抜け、お飾りの名目さえ無くしたただの飲み会、とは言え18歳のうら若き
乙女が3人揃えば話のネタも尽きないわけで、何のかんのと盛り上がって気が付けば
時計の針はとっくに日付が変わってから数刻を指し示している。

真希の発言は、長い夜の第一部「お開き」のきっかけになった。
先ずは仕事疲れを理由に梨華が、続いて客人の立場であるひとみが、
最後に洗い物や片づけを担当した真希が、という順で入浴という流れへ移行する。

「じゃぁ、先におフロもらうねー」
「はいよぉ」
「あれ、ひとみちゃんは?」

先陣を切って梨華が浴室へ向かう途中、ひとみの姿がリビングから消えている
ことに気が付いた。
「なんか小川の様子見てくるって」
ガチャガチャと洗い物の音に紛れて、真希の短い返事にあぁそっか、と納得する。

慣れない酒量に速攻でダウンしてしまった小川は、
普段居候の真希が自室として居座っている部屋へ布団を敷いて、先刻からずっと
横になっており、昏々と眠りに付いている筈だ。
途中で目などを覚ましていなければまあ、おそらくは。

一応、部屋に布団自体は二組用意してあり、ひとみの寝室としても宛がってはいる
のだけれど、当面今宵の宴が終わる気配はない為、実際に使用されるかどうかは
朝になってみないと分からないだろう。

686 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:03

(因みに真希は今夜に限り、梨華の部屋で寝ることになっている。
 さすがに ――― 大分整理したとは言え ――― 6畳の元物置部屋に小柄とは
 言い難い少女を3人も、すし詰め状態にして寝かせる訳にもいかない)


「なんだかんだいって、後輩のことちゃんと心配してるんだね、ひとみちゃん」
「あは」
そんな梨華の素直な反応を見てニヤリと笑った真希が、意味あり気に呟いた。
「よっすぃーは、夜のお勤め忙しいからね」
「?」
居候の吐いた言葉に首を捻る梨華、わざわざ詳細を説明する気はないのか、
真希は「律儀だからねぇよっすぃーって」と簡単に付け加えて流し台に向き直る。
ああ。
その短い言葉に封じられた一抹の尊敬の念を感じ取って、梨華は咄嗟に理解した。
(そっか、女の子絡みか)


「…えくしっ!!!」

―――― 同時刻、眠りこける小川に凭れ掛かってメールを打っていたひとみが
くしゃみを一つ、盛大に上げた。


687 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:04

―――――

冬場に濡れ髪は辛く、そのまま洗面所でドライヤーを使いたい気持ちはあったけれど
自分の後に控える居候1人と客人1人の存在を気にして、梨華は脱衣所を出た。
充分に湯に浸かった体は火照っていて、廊下のひんやりとした空気が心地良い。

梨華はリビングを迂回して物置部屋(本日限り、客室)へ向かった。
最初に決めた風呂の順番、次はひとみの番だ。

「ひとみちゃん、起きてる?」
「起きてるよぉ」
「おフロ、空いたよ」
「おっけー」

襖を挟んで小声で会話を交わす。
すかー、すかー、
規則正しく聞こえるBGMは、平和に眠りこける小川麻琴だろう。パタン、と携帯を折り畳む
音の後、がさがさと衣擦れが続き、ぺたぺたと足音、接近。
がらり。

「おう、梨華ちゃん」
「お風呂の使い方、分かるよね?」
一応、確認するのは曲がりに何もこの家の主人であるという自覚の為だ。
梨華の責任感の強さが可笑しかったのか、それとも我が家を強引に宴会場に
指定されたのに優しさを見せるお人好しな部分に呆れたのか、
ひとみが口の端にちらりと笑みを浮かべる。

「こないだ泊まりに来た時、ごっちんに教えてもらったよ」
「あ、そっか」
すっかり失念していたけれど、確かにその事実はあった。それもつい最近だ。
688 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:04

「じゃ、風呂借りるよーん」
何となく気恥ずかしくて梨華は素直にうん、と頷きひとみの後姿を見送る。


ふうと息を吐いて、梨華の足はそのまま自室へと向かった。
洗い物をしている真希を手伝おうという意識はあるのだけれど、元々ネガティブな
気質の強い梨華は、先刻の失言をまだ少しだけ、気にしている。

肩に掛けたタオルで髪を拭いながら、着替えをベッドへ放った。
バサリと広がるセーターの上へ、そのまま梨華は腰を下ろす。すぐに畳んでタンスへ
仕舞うという整理整頓の概念は、生憎持ち合わせていない梨華だ。
「ちょっと、携帯確認するだけ…ね」

時間稼ぎの言い訳に、梨華は呟いて通勤用のバッグから携帯電話を探り当てた。
かちゃかちゃとキッチンから聞こえる流し物の音が気になって、自然と手元は
慌しいものになる。不用意に携帯を取り落としそうになって、梨華は誰に言うでもなく
苛ただしげにもうっと舌打ちした。

(なんで、あれしきのことで動揺したりするのよ、あたしはっ)

紺野あさ美と真希の関係性はすぐに割れた。ひとみの証言もある、全く無関係だ。
なのに早合点して咄嗟に真希を責めるような口調になってしまった、
ああ、なんてあたしってばあたしってば ――― 恥ずかしい、本当に。

矛先は他でもない、自分自身だから余計に腹も立つ訳で。
どちらにしろ、宴会はこれで終わりじゃない。第二弾、もしかすると容赦なく第三弾と
朝方まで延々続く可能性だってある。(むしろ、その確率は高い)

(早く、気持ち切り替えて手伝いに行かなきゃ)

689 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:05

タダ同然で住まわせている居候だとはいえ、散々飲み食い散らかした部屋を片付け
させ、あまつさえ血も涙も無く自室に閉じこもったままというのは、さすがに酷過ぎる
仕打ちだろう。

ざあざあと風呂場から聞こえるシャワー音と、心中を急き立てる台所の水道の音をBGMに、
梨華は無意識に手元の携帯をポチポチと弄る。

ぎくり、と途中で動きが止まった。


そこにあったのは、何となくの、けれど確実な予感。
『受信メール1件』の表示に思い浮かんだ相手は1人だけ。



□市井紗耶香さん
2/20 20:47
今日もお疲れさん
―――――――
今頃はご両親と食事中かな?
近いうちに、また市井にも付き
合ってくれると嬉しいな(笑)
美味しい焼肉屋さんに招待す
るよ、石川も絶対気に入ると思
うぞ。
それじゃ、また明日会社で。
おやすみ

690 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:05

濡れそぼった髪からぽたりぽたり、雫が落ちる。
湯上りの自分から上がる水蒸気に液晶画面が曇ったけれどそれより先に
『受信メール××件』の表示を読み取って、開いたそこに。

しまった。

最初に思ったのは、忘れっぽい自分を殴りつけたくなる様な自責の念。
それから、どうにもならない後悔が次々生まれる。

誘いを断ったのに、どうしてあたしからメールの一つも送らなかったの。
どうしてバッグへ突っ込んだまま、身につけてなかったの。
……もう、自分の馬鹿さ加減にほとほと、嫌気が差す。

じくじくと胸を抉る様な痛みは、紛れもなく罪悪感のそれに違いない。
人並み以上に鈍感だと自負している梨華とは言え、毎日の様にランチに誘われ、
同じ頻度で夕飯を誘われ、社内で仕事の暇を縫って「自分に会いに来た」なんて
口説き文句(ととって何の異存がある?)を吐かれては、
どの様な意味合いであれ、彼女が仄めかす好意を意識せずにいられる筈もない。

「今頃、返事なんて送れないよね…」
時計を見て、憂鬱に梨華は呟いた。メールで済ますのも申し訳ないし、明日、じゃなくて
今日、ちゃんと電話しよう。――― すごく、気が重いけど。


「はぁ…」

重い溜息を付いて、画面をスクロールさせる。
と、否応なしに気付いた。
ここ最近で、市井紗耶香からの着信やメールが何と激増したことか。

一個人として、というより会社の先輩として、彼女のことは尊敬してやまないし
親密になれたことに誇らしさも純粋な嬉しさも感じている。
なのに、この胸を覆う一抹の不安は。

(ごっちんが気になってるからだよね)

正直に、梨華は認めた。

(あたしは一体、何がしたいんだろう。どうすればいいんだろう)
691 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:06

パンクしそうな思考回路に見切りを付けて、
梨華はのろのろと部屋を出る。リビングに立つ真希の後姿は淡々としていて、
自分だけが浮ついて落ち着かない状態のなのが馬鹿らしくも思えた。

「麻琴ちゃん、やっぱり熟睡してたよ。ひとみちゃんも、お風呂行ったから」

話のきっかけに客人2人の名を引き合いに出し、洗い物を続ける真希の背中へ
梨華が声を掛けた。「うん、聞こえてた」
背を向けたまま、真希は苦笑交じりに肩を揺すって答える。

「ねー梨華ちゃん、市井ちゃんからメールとか来てたでしょ」
「えっ?」
思い掛けず唐突に事実を言い当てられ、梨華がぎょっと目を丸くした。
まるで自分の行動や心理状態を見透かされたような ―――― 動悸が激しさを増す。

「なんで?」
ぎこちなく聞くと、真希はあっさりと答える。
「いや、何か部屋から出てくるの遅かったから、携帯でも確認してんのかなーって。
 で、返事に困るようなメールでも来てたのかなぁって」

だとしたら、相手は市井ちゃんしかいないでしょ。
抑揚無く言い放つ真希はやっぱり梨華には背を向けたままなので、どんな表情で
それを語っているのかは分からない。
目も顔も見れないのは逆に、梨華にとって居心地が良いものではなかった。

この場合、真希を何と表現するのだろう。目敏いでもない、耳聡いとも違う、
強いて言えば勘が鋭い、それが正しいだろうか。

「ね、市井ちゃんでしょ?」
「…う、ん」
何か悪いことを見つかった子供のようにバツの悪い顔で、梨華は静かに頷いた。
話題を振った真希も、それ以上は追及してこない。
692 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:06

また市井との付き合いを反対されるものだとばかり思い込んでいた梨華は、市井
からの連絡を肯定したにも関わらず真希が無言なのを不思議に思う。
勢い込んで市井紗耶香を扱き下ろしてばかりいた、真希なのに。

「ねえ、ごっちんはまだ……あたしが市井さんと仲良くするの、反対?」
だから、自分から聞いてしまった。
真希は怒り出すかもしれないと思ったけれど、つい口をついて言葉が滑り出して。

「そりゃ、反対だよ。勿論」
当たり前のことだ、何を今更と言わんばかりの断言する口調。
益々、梨華の疑問は深くなる。ならどうして、

「だって、ごっちん矢口さんて人とは仲直りしたんでしょ?」
「元々後藤はやぐっつぁんのことは怒ってなかったもん。合わせる顔がなかったから
 会わないようにしてただけ。市井ちゃんのことは変わらず嫌い」
「ならどうして……」

言い掛けて、梨華は口を噤んだ。
ならどうして、前みたいに正面切って堂々とあたしと市井さんの付き合いを咎めないの。
その言葉が酷く、思わせぶりで嫌味に響くことに気付いたからだ。

「まぁ、やぐっつぁんとまた連絡し合えるようになったきっかけは市井ちゃんだから、
 それだけは感謝してあげても、いいんだけどね」

梨華の内心の葛藤を知ってか知らずか、フォローする様なタイミングで合いの手が入る。
冗談めかして言う、真希の手元は相変わらずちゃっちゃと仕事を進めていく。
「今日も、メール来てたんだ。やぐっつぁんから。
 静岡にまた、遊びにおいでって……誘ってくれた。嬉しいもんだよね、そういうの」

一度切れた絆が繋がる喜びを、真希は知った。
ならば何故、市井紗耶香のことは頑なに拒むのだろう。確執の原因となった矢口真里
とは真希も市井も和解していて、傍から見れば何も問題など無いように思えるのに。

693 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:07

―― 市井が自分に好意を持っているのを快く思わないから。
まさかそんな思惑が働き、起因していることなど夢にも思わない梨華が気付く可能性は
微塵も無い、今のところは。

真希の方も梨華には伝えていないことがある。
矢口からのメールに、
『静岡にも前みたいに遊びに来てね、なっちと一緒に歓迎するから
 PS.彼女も一緒にね』
そんな追伸が加えられていたのは、梨華には内緒だ。

取り合えず洗い物が片付きそうな真希の近くまで寄って行き、自分の助けが必要
無いらしいと悟った梨華は、手持ち無沙汰にリビングをうろうろしている。
することないなら、座ってテレビでも見てればいいのに。
変なところで生真面目な梨華は、そんな所で「抜く」ことを知らない。

やがて、室内に干してある洗濯物を取り込み、畳むという仕事を見つけた梨華が
窓際で作業を始めた。洗濯バサミを順序よく外していき、左腕にタオルや住人2人分の
着替えが積み重ねられていく。

「ねー、ごっちん」
「ん?」
「ごっちんはさ、どうして、あたしんちに来ようと思ったの?」

お互いに背を向けたまま、
この場の雰囲気を変えようと口をついて出た梨華の問い掛けに、最後の洗い物である
土鍋を片付けた真希が振り向いて変な顔をした。

「何でそんなこと聞くの?」
「別に、……何となく」

呟いてから、梨華もまた真希を振り仰いで慌てた様子で続けた。
「大した意味はないの、ちょっと聞いただけ」

694 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:07

怪訝な表情で真希は梨華をしばらく見据えていたが、ふとその口元に意地悪そうな
笑みが浮かんだ。あ、来る、と瞬時に梨華は察する。
子供が悪戯を思いついた時のようなこの表情は。

「教えてあげよっか」
「な、なんで近付く必要があるの?」

キッチンからリビングへ、洗濯物を取り込む梨華まで数歩で接近する。
元々広い部屋ではないので、2人が近付くのにさした距離は必要でない。
意味も分からず近付かれると、逃げたくなる。
ハンガーから取り筈そうと、手を掛けていたワイシャツから離れ、胸の中で既に取り込んだ
洗濯物をぎゅっと抱き締めたまま、真希に壁際まで追い込まれた。

「な、な。何、何よぉ?」

どくん

695 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:08

壁を背に、完全に追い詰められる。
真希の両腕が梨華の顔の真横に伸びて、もう息のかかる距離に、顔がある。

どくん、どくん

「ななななな、何よ」

予想外の展開に、梨華の声がひっくり返る。下手に弱気な態度は見せられない。
強張って硬直する身体で、正面から真希を見返す。そんな彼女の目がすうっと細くなった。
三日月をそのまま模写した様な、出来すぎた笑みを口元に。

「後藤は梨華ちゃんが好きだから」
単刀直入に、真希は口を開く。梨華は固まって、ただ固唾を飲んでいる。

「……え」
「一緒にいたいから。自分のものにしたいから」
「………え?」
「だから、梨華ちゃんちに来たの」
「え、え、えぇ!?」
「意味、分かる?」
「ちょ、ちょっと待っ」
「可愛いよ、梨華ちゃん…」

低音に響く声で囁きながら、徐々に真希の顔が接近してくる。

どくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどくどく

早鐘のように打ち付ける心臓の鼓動が、聞こえた。自分自身の脈が、嘘みたいに
高く触れている。明らかに、これは、オーバーヒートだ。

(嘘、嘘、嘘!なんで、どうしてこんなことになってるのあたしごっちんに迫られてるの?
 え?え?え?え?顔が近付いてくるんだけどごっちんの顔がこれってやっぱり)

キスされる?

咄嗟に。
何故目を瞑ったのか、梨華自身も分からない。

696 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:09

……………

「ぶはっ」
耳元で、堪えきれず、といった風に吹き出した真希の気配を感じて、梨華はぱちっと
両目を開いた。顔の火照りは冷めるどころか、益々熱が加速していく。
くくくく、と忍び笑いが真希の閉じた口元から漏れる。
梨華の体温は、一気に上昇した。不本意ながらも。

「キスとか、されちゃうと思った?」
「…………」
にやにやと笑いながら顔を至近距離で覗き込んでいたのは、真希以外にいる筈がなく。
かーっと頭に血が上り、胸の熱さが全身に回る。
「ごめんねー、ちょっと期待しちゃった?」
ぐるぐると頭の中が沸騰して、それ以上に、頬が熱くて恥ずかしさのあまり卒倒しそうだ。

「またからかったわね!年下のくせに、居候のくせに、ごっちんのくせに!」
「ごっちんのくせに、ってのは意味不明だけど」
「うるさいうるさいっ!馬鹿、もう、馬鹿、馬鹿、馬鹿!!」
「…そんなアニメ声で怒られても怖くないもんねー」

ケタケタと笑いながら、真希はおどける様に数歩後退して、左右の手をひらひらと
振った。どうどう、馬を鎮める合図のように。

「可愛かったよー梨華ちゃん。顔真っ赤で、目瞑って。ホントに奪っちゃおーかと
 思っちゃった」
「バカッ!どーいう神経してるのよ、信じらんない!」

697 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:10

「んん、やっぱこーゆうところかな、梨華ちゃんを選んだの」
「は?」
「何つうかね、ホラ、梨華ちゃんて単純だし、年上のくせに弱いし、基本的に誰に対しても
 下手に出るタイプだし。内弁慶なところあるのは一緒に住んでから知ったけど」
「何が言いたいの?」
「居候の身でも、後藤の方が強く出れる相手って、意外といないもんでさー。
 梨華ちゃんを除いては」
「…………」

「出てけーっ!!!」

真希に向かって投げつけた筈のクッションは、勢い余って梨華の手元からすっぽ抜け、
真上の天井に激突した。跳ね返ったクッションの到達先は勿論、投手の梨華へ。
ぼふっと梨華の頭で跳ねたそれは、軽やかに宙を舞ってリビングの床へ落下した。
一連を見守っていた同居人の、遠慮ない盛大な笑い声と、
梨華が激昂するのはほぼ同時だった。

「市井さんじゃなくってごっちんの方が最低じゃないバカぁーッ!!」
「あんまり大声出すとよっすぃーに聞こえちゃうよぉ」

手を振り回しリビングを駆け回る梨華の追跡を交わしながら、真希の口調はあくまで
緩やかで、のんびりと緊張感の欠片もない。
そう、喧騒に包まれたこの石川家は今、平和に満ちている ―――― 多分。

698 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:10


「……てゆーか起きてるんだけどね」

リビングの騒ぎはダイレクトに浴室へも伝わっていて、騒音を耳に浴槽でメールを打ちながら
寛いでたひとみは、苦笑交じりに呟いた。
梨華と真希が起こすバタバタと賑やかで騒々しいやり取りと足音は、むしろ2人の仲の良さを
否応なしに感じさせられて微笑ましいとしか言い様がない。

「夫婦喧嘩はほどほどにしないと、苦情くるぞお二人さんよ」

『よっすぃーセンパイ大スキです』とハートマークだらけのメールの文面を見下ろし、
くぁ、と欠伸を漏らす。未読メールはあと7件、それぞれ愛を込めて返信してやらないと、
ひとみの夜勤は終わらない。

「よ・し・ざ・わ・も・さ・ゆ・が・す・き・だ・……よっと、送信」

全て違う少女に、それぞれ律儀に文面を変えて返信していく。
愛の伝道師、なんてふざけて自称することはあるけれど、未だかつてひとみには彼女ら
(そう、壁の向こうで無邪気にじゃれ合う2人だ)の様に、
「相性抜群」な相手など、未だ見つけられていはいない。

特別に想う少女からは芳しい回答を得られず、
逆にそう本意でない少女達からは、熱い好意を絶え間なく送られて。

…人生ってなかなか上手くいかないもんだよなぁ。

達観した感想を胸に、ひとみの作業はまだまだ続く。
リビングでの熱い追い掛けっこは、当分終幕を迎える気配は無さそうだ。どのタイミングで
出て行くのがいいかな。気を利かせて、真剣に考え込む。
ぶくぶくぶく
顔まで湯船に沈んで、まぁなるようになるさ、とひとみは結論付けた。
――― 少し、面倒臭くなったので。本音を言えば。
699 名前: 投稿日:2006/01/09(月) 17:11

700 名前:11. 投稿日:2006/01/09(月) 17:11


「あのー、やっぱり後藤さんと梨華さんって付き合ってるんですか?」
「しつっこいな、大概オマエも」
「だって、今日一緒のベッドで寝てたんですよねえ?」
「あんたとよっすぃーに来客用の布団出したから、後藤は寝るトコなかったの!」
「な、な、なんかやらしーこととか…!!」
「ちょ、麻琴ちゃん!何もないからねっ」
「…子供は知らなくていいんだよ、そういうことは」
「えー、こども扱いしないでくださいよーお、2コしかちがわないじゃないっすかー」
「あのねぇ、ビール一本で酔っ払ってるヤツをガキと呼ばなくて何て呼ぶよ」
「悪かったわね、一本どころか半分で酔う程度の子供で」
―――――
―――

石川家の食卓がそんな喧騒に包まれるのは、その翌朝の話。

701 名前:  投稿日:2006/01/09(月) 17:11

702 名前:  投稿日:2006/01/09(月) 17:11

703 名前:名無し猿 投稿日:2006/01/09(月) 17:14
あけましておめでとうございます。年明け最初の更新です>>637-700
初っ端から上げてしまいましたが、更新し易いですね、上にあるとw  
このペースで出来れば最後まで突っ走りたいと思っています。
それと、毎回レスをくださる読者様には本当に感謝しきりです。

>630 名無し飼育さん
    何よ何なのよ書けばいいんでしょ♪
    …本物の馬鹿です。失礼しましたw これからもお付き合いください。
>631 名無し飼育さん
    切なくおかしい2人、という風に伝わっているのでしょうか。やたら嬉しいです、
    どうにも表現が上手く広がらないので苦心してますが。ありがとうございます!
>632 名無し飼育さん
    ニヤけますか、そうですか( `ー´)ニヤリ 今回はどうだったでしょうか?
    吉澤さん絡みは書いてるうちにどんどん話しが逸れて大変です。熱い人です。
>633 名無し飼育さん
    いしごまという最近ではかなり減少方向にある作品のうち、微力ながら活性化に
    努めようという心意気のもとに頑張ってます。伝わってくださると嬉しいです。
>634 名無し飼育さん
    いやいやいや、勿体無いお褒めの言葉、ありがとうございます!
    こちらこそこんな作品に目を通していただいて感謝しきりでございます。もう後半部分
    に突入してますので、最後までよろしくお願いします。
>635 名無し飼育さん
    ご苦労様です。
>636 名無し飼育さん
    始まりましたね、新年が。(多分違う意味だとは思うのですが、一応)

ということで更新終了です。
出来ればあと2、3回のうちに終わる予定でいます。
最後までおおよそのストーリーは書きあがってますので、あとは肉付けです。(それが問題なんですが)
駄文を長々続けていますが、ここまで付き合ってくださった方にはどうぞ最後まで
お付き合いいただければと思います。よろしくお願いします。
704 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/09(月) 22:21
大量交信乙です。いやあ〜よしまこコンビはイイですなあww
からかうごっちんと怒る梨華ちゃんも相変わらずほのぼのでさらに(・∀・)イイ!
次回もワクテカしながら待ってます
705 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/10(火) 03:08
ハァ━━━;´Д`━━━ン
読後感が毎回良すぎてたまりません!
ラストまで頑張って下さい!
706 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/10(火) 14:19
更新お疲れ様です。
>>694辺りからは石川さんと一緒にこっちもドキドキでした。
次回更新も楽しみにしながら待ってます。
707 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/14(土) 17:42
更新ありがとうございます。
毎回楽しく読ませて頂いております。
非常に完成度の高い作品だと思います。
ラストまで頑張ってください!楽しみにしています!
708 名前:Liar 投稿日:2006/01/21(土) 09:48
お疲れ様です。更新ありがとうございます。
いしごまが大好きなのでとても、たのしみです。
これからどうなっていくのか期待してます。
これからも、頑張ってください。
709 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/01/25(水) 02:40
一気に読ませていただきました^^
作者さんのいしごまかなり良いです☆
続き楽しみにしてます。
710 名前:名無し読者 投稿日:2006/01/27(金) 21:58
毎回毎回にやけながら楽しみに読んでます。かつてないいしごま最高!
完結までしっかり着いていきますのでがんばってください
711 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/02(木) 07:19
わくわくします
続きが楽しみです
712 名前:猿さんのファン(・∀・) 投稿日:2006/02/06(月) 23:07
(*´∀`*)ポッ


ほんとに
イイ(・∀・)!笑


ごとーさん
そこまで迫れる余裕があったとは… 笑
酒のせいでもあるのかな(ノ∀`)?

ほんと読んでて楽しいです!
自戒も楽しみにして待ってます(*´∀`*)
713 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/10(金) 22:04
そろそろかな?待ってます
714 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:44


極寒の2月下旬、あと数日で3月。
真希が高校生でいられる期間も、あと僅かだ。
但し、感慨なんてものを覚える気配は今の所微塵も無いけれど。

715 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:45

相変わらず真希はバイトに勤しんでいるし、梨華は規則正しく会社へ通う。
市井との関係を思い出したように非難する真希も、以前のように感情的な勢いは無く
どこか事務的というか、義務のように時々それを口にするだけ。

当然そんな程度で梨華の行動が制限される訳もなく、
それより市井紗耶香の半ば強引な誘いにも慣れてきているところ、だったりするのだ。

家主と居候、厳然たるその関係性が全く崩れる様相のない当の二人に比べ、
着々と仲を深めつつある、梨華と市井。
その空気に真希が気付いていない筈はないのに、それでも彼女は口出しをしない。
―――――

市井と懇意になることで、真希との関係が希薄になること。
梨華が不安に思う根本的な要素を、全くもって真希の方は理解してはいなかった。

大切に、思う気持ちに変わりなんてないのに。
一方的な押し掛け同居というスタートから始まった2人は、その行き先が捻じ曲がり、
着地に失敗するという結末を恐れている。
だから、踏み出せないし自ら身を引くこともまた、実行出来かねて。

(このままじゃ駄目だ)
(分かってる、そんなの分かってるけれど……)

この居心地の良さを覚えてしまった。
一種の麻薬のような中毒性に、抗いながらも流されて。

716 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:45

ただ、そう。
淡々と緩やかに流れる日常で、そうそうドラマティックな事件なんて起きる筈もなく。

些細な諍いや周囲の友人を巻き込んだちょっとした人生の起伏は、大きく雄大な流れに
あっさり飲み込まれて、何事も無かったかのように続いていく。
お互いがお互いを思う気持ちはほとんど確信に近いものに変わっていて、
だけど変化を恐れる気持ちも共通していて、
波風を立てないよう、2人は慎重に舵を取っている。

それでも少しずつ少しずつ、
波の向きは変わっていて、気が付けば辺りの様相は見慣れたそれとは違ったものに
何時の間にか姿を変えてしまっていた。
長閑に穏やかに2人きりで過ごせる時間は短く、周囲はそれを許さない。
何故なら、彼女達が存在する世界は、常に変動している。

717 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:45


718 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:46

海岸沿いを行く当てもなく、のんびりドライブしたり。
会社の昼休みにはいつも待ち合わせでランチして、
帰りにお店で食事して、流行りの映画を観たり。

こーいう関係って、世間では何て言うんだろうな?

試すような口ぶりで、けれど酷く真剣な眼差しで市井紗耶香に問い掛けられた時、
梨華は彼女が思わず苦笑するくらい狼狽して、答えられなかった。

指折り一つ一つの行為を羅列されると、或いは完全な他人事として漫画や小説の
中の主人公たちに置き換えて考えたならそれは
「 ―――― 付き合い始めの、カップルみたいですね」
なんて、大した迷いもなく、すんなり答えられるのだろうけれど。

市井が、梨華のどんな回答を期待してそんな問いを差し向けたのか分からない。
…なんて蒲魚ぶったことは言えないし、彼女が曖昧な今の関係を明確にしたいと
考えている様なことは気付いている。
だけど。
ちょっと待って、と梨華は思うのだ。

719 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:46

先輩からの唐突とも言えるアプローチが始まったのは、ほんの数週間前からの話で。
現段階において、梨華の感情の大部分を占めるであろう居候へのあやふやな気持ち、
その正体を最近になり、ようやく(まだまだ?)掴んできた所だというのに、
市井へ向けた感情の答えなんて、そう早急に出せる訳がないではないか!

社内でも人気の高い市井が梨華へ興味を持った理由も知らないし、面白い話題
も提供できず、ドジばかり重ねている自分と一緒にいることで、市井が果たして
満足しているのか、そんな疑問だって感じてない訳じゃない。


市井紗耶香が挙げた通り、
彼女とショッピングもドライブも食事も行って、それなりに充実した時間を過ごして
いるとは言え、気心が知れた関係にはまだまだ、なれそうもなかった。
お互いの家に上がったことだって、未だ無い。

「あの…」

………ごっちんが『市井ちゃんとは付き合うな』なんて一方的に否定してた時は、
思い切り反抗出来たのに。
そのごっちんが何も言わなくなったら、今度は市井さんと親交を深めることに
揺らぎを覚えるなんて?どうかしてる。身勝手過ぎる。

(ごっちんと打ち解けたのは、一緒に住んでどのくらいだったっけ?)

ふと思いつき、当時を回想しようとしても霞みがかった脳裏では上手く再生出来そう
もなかった。大体、そんな時期があったのかも明確に思い返せない。

720 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:47

「なーにを、本気で考え込んでんだよ、石川」
信号待ちで車を停止させ、ハンドルから手を離した市井が、
助手席で微動だにせずじぃっと黙り込んでしまった梨華の頭を小突いた。

「あ、いえ…だってあの、市井さんが変なこと言うから」
「“変なこと”で一蹴すんのかお前、残酷な女だな割と」
「そ、そんな意味じゃっ!…そりゃ市井さんに変なトコロがあるのは事実ですけど」
「…石川、何気に言うことキツイね」

目を瞬かせ、落ち着かない態度の梨華に向けた辛辣な言葉とは裏腹に、
市井の眼差しは夜の街道、対向車のヘッドライト程度の明かりでも分かる程
優しいし、やっぱり二枚目で、素敵なのだ。困ったことに。

「まぁしょーがないか、ちゃんと言葉にして伝えたことはないもんな、今まで」

前方に目を戻した市井が、青信号に変わったのを見てアクセルを踏み込んだ。
「…え?」
何を、と問うよりも先だった。
ブロロロロ、
発進の反動でシートに押さえつけられてから、運転手の彼女に視線を返す。
梨華の頭を軽く小突いた手は勿論、とっくにハンドルへ戻っていた。

それを確認し、声に出さずに密かに溜息を零して。
一瞬、市井の手が触れたことによって強張った体から力が抜けたその直後。
市井紗耶香がぽろりと呟いた言葉に、梨華の全身に緊張が鋭く走り抜けた。

「あのさ、この際はっきり言っておくけど」

721 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:47

彼女が、あまり自分が触れたくない話題を突きつけてきたことを、瞬時に察知した。
数拍の間を置いて、すうと空気を吸い込み、梨華は腹を決める。
というのもおかしな表現だと、何処か冷静に分析する頭があった。
一方で、確かに梨華の本能の一部が市井の言わんとする内容をほぼ断定的に
予測した上で、拒む気持ちが存在したのだ。

「市井は石川のこと、好きだから」


耳を塞いで、聞こえない振りをしてしまいたい。    
酷くかさかさした喉を震わせて、梨華の唇から声が漏れる。


「……………はい」
何処か薄々と感じていた ―――― というよりは、まさに予想していた通りの告白で、
梨華は目を閉じ、搾り出すように答えた。自分の想像以上に、掠れた声で。
はい、分かってます。
…だって、分かるように接してきたのは、市井さんの方です。
挑発的な態度でごっちんまで巻き込んで、そう示したのは市井さんです。
ちゃんと、分かってます。

「ああ、伝わってたか、そりゃ良かった」

固い表情で、身を強張らせている梨華の態度に当然気付いている筈の(目敏い
彼女なら、余裕たっぷりに構えている彼女なら、勿論それを認めていないなんて
訳がないのだ、)……市井紗耶香は、カラリと笑った。

722 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:48

敢えて、そうしているのだろう。
堂々とした話し方も、真っ直ぐ前方を射抜くような凛とした眼差しも、普段通り。
異質さを生み出すのは、隣りで石を飲み込んだように口を噤んでいる梨華の方。

埠頭に向けてドライブ、夜半過ぎ、車内という密室で2人きり、
そして、愛を語らう憧れの先輩 ―――― 聊か出来すぎたシチュエーションともいうべき
この状況下に、戸惑い狼狽する以前に「拒絶」の感情が芽生えたことに、何故か
疑問は持たなかった。

(だって、あたしは)

「…で、すっげー安直なんだけど、ここはもうマニュアル通りに言わせてもらうと」

おそらく思惑通りに話が進んでいるのだろう、幾許の澱みもなく市井は続ける。
朗々たる口調には言葉の節々から余裕が滲み出しているようで、それでいて同時に、
強い緊張感も隠すことなく漂っていた。

(市井さんでも、緊張することなんてあるんだ)
場違いなことに小さく感嘆してしまったりするのは、現実逃避なのかもしれなかった。

何故って、こんな話の流れからどんな展開が待ち受けているかなんて、
いくら梨華とて察しないわけがない。
前座とも言うべき口上は、あくまで儀礼的なものだから。
「石川、あのさ、市井は石川が好きなんだ。だから…」

分かっているから、ぎくりと身体が硬直し、
本当に耳を覆いたくなる衝動が全身を駆け抜けるのを、必死に堪える。

723 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:48

「市井と、付き合ってくんないかな」
「えっ…と、あの」


だけど、あたしは。


―――― 『後藤は梨華ちゃんが好きだから』

―――― 『だから、梨華ちゃんちに来たの』


724 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:48

冗談だって、ふざけてからかわれたんだって、分からない程馬鹿じゃない。
けれど、その言葉に、何もかも忘れて舞い上がりそうになるくらい嬉しかったのは
決してその場限りのいい加減な感情じゃない、嘘偽りなんかじゃない。

つまり、「そういう意味」で真希からの好意を望んでいたのは間違いなくて、
そして自分も ――― 梨華もまた、同様に、いやそれ以上に、きっと。
「あたしは…」

いざ、言葉にするには想像以上の勇気を要して、唇が引き攣った。でも、今、言わなきゃ。
はっきり、素直な気持ちを伝えなきゃ。そうしなきゃ、あたしはいつまでも ―――

「つーか、単刀直入に言わせて貰うと」

逡巡する梨華が心情を吐露するよりも先に、一瞬迷うようにふっと視線を泳がせた市井が
妙に切羽詰ったような、真剣さを帯びた声で告げた。

「一緒に住まない?」

( えっ………)

予想外の展開は、唐突に始まるもので。
明らかに想定外の市井紗耶香の言葉に、梨華の頭は一瞬スパークして真っ白になった。
今、なんて?
振り向いて見つめた市井の横顔は真っ直ぐに暗い道路の方へ投げ掛けられていて、
安易に軽い冗談を口にした訳でもなければ、
曖昧にごまかすことの出来る雰囲気でも当然、なかった。

725 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:49

「というか、一緒に住んで欲しいんだ、市井と」

告白などではなく、懇願を。
そしてそれは本当に、何の前触れもなく、心構えもない状態で切り出されたから、
脳内で溢れかえる情報を正しく処理出来ず、梨華は言葉を失った。


「……市井さん」
忙しなく打ち付ける心臓の動悸、
苦しくて、すぐ隣りにいる市井紗耶香を直視出来ず、梨華の視線は空を彷徨う。

「海外赴任の話が出てるんだ」
「…海外赴任?」
「そう、アメリカ」
唐突に、市井が切り出した。静かな車内で、エンジン音だけが障害となるこの空間では
淡々とした口調でも、ごく僅かな声量でも言葉はしっかり届く。

「まだ先の話だけど、市井は受けるつもりでいる。というか、断る理由がないし。
 ただ、石川のことは……ずっと、気になってて」

そうして市井は少し、目を伏せた。
彼女が口を閉ざせば室内は余計に静まるばかりで、梨華は息を吐き出すのにも酷く
敏感に、気を遣っていることに気付く。
しかし、すぐに話は再開された。

「何に対しても一生懸命で、空回りして、人一倍周囲に気を配って、頑張って。
 そんな石川見てたら、どうしようもなく好きになっちゃって、止められなくってさ。
 石川といるとすごく安らげる。手放したくないんだ」

726 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:49

対向車のヘッドライトや街路の灯りがひゅんひゅんと遠ざかっていく。
ウウウウ、と低く唸るエンジンの重低音に身を浸しながら、そういえばと梨華は気付いた。
ついさっきまで(ドライブ中だ)ずっと掛かりっ放しだった騒がしい洋楽は、とっくにその活動を
終えている。あんまり好きな音楽じゃなかったから別にいいんだけど、何も音がないって
いうのは矢張り少し、居心地が悪い。

「実は、後藤の存在も気になってて」
「え、ごっちん……が?」

自分でもあからさまだと咄嗟に思う程に、勢い良く彼女の名前に反応してしまう。
運転中の市井に梨華の表情など読み取ることは不可能なのは分かっているけれど、
思わず赤面するのは止められなかった。
ハンドルを握った市井がハハハ、と乾いた苦笑を漏らす。

「後藤のこと話すとき、石川ってすごく嬉しそうな顔になるんだよ。気付いてなかった
 だろうけどね。で、そういうの客観的に見てる身としては、気が気じゃなくって、
 焦っちゃって。だから、伝えるのは急になっちゃったけど」 
「………」

返す言葉もなく、梨華は益々萎縮してしまった。
自分が真希に向ける感情の正体を、市井はとっくに見切っているのだ。その上で、
包み隠さず直球な好意をぶつけてきている。
つまり、この先輩は評判通り偉大なのだ。色んな意味で。

727 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:50

充分に思い知らされた梨華の中で、先程まで固まりつつあった決意が拍子抜け
する程呆気なく萎れ、みるみるうちに潰えていくのを感じた。
そんな簡単な決意だったのかと落胆する前に、市井は一方的に話続ける。

「突然で驚いただろうけど、真剣に考えて欲しい。
 まだここに、石川の近くにいられるうちに、確固たる絆が欲しいんだ。短い間でも、
 期間限定でもいい。石川への気持ちの決着になる、証が欲しい」

「だけど、あたしなんて市井さんには勿体ないですよ。本当、トロいし、特技とか
 何もないし、ドジ踏むのなんて日常茶飯事だし、えと、今朝だって危うく寝坊し」
「そういうの全部含めて、石川が好きだよ」

途切れ途切れに言葉を繰り出す梨華の顔から目を逸らすことなく。
臆面もなく市井が言い切ったので、今度こそ梨華は真っ赤になって押し黙った。
(……あぁ、ダメだ)

何を言ったって、上っ面だけの断りを入れたって、
市井紗耶香の気持ちは本物で、そう簡単に折れるような代物ではないんだ。

「色々ごちゃごちゃ言ったけど、ただ本音を言えば残された時間の中で、
 ただ石川に、側に居て欲しいだけなんだ」
「あたしに…」(こんな、あたしに?)
「そう、石川に」

梨華の躊躇を見透かしたように、市井は力強く頷いた。

728 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:51

「何で…?」
「さぁ。それが好きだってことなんじゃないのかな」

情熱溢れる求愛の言葉を矢継ぎ早に繰り出す彼女に、完全にこの場を支配されて
しまって、ペースを握られて、
それでいてこの状況を打破する上手い言葉など。到底、浮かぶべくも無かった。

  “市井ちゃんは、ダメだよ”

「それで」
脳裏を過ぎったのは不貞腐れた居候の姿と、
笑ってしまうくらいに散らかった我が家のリビングだった。何故か。

「今日、ずっと一緒にいて欲しいんだけど、駄目かな」
ふと、声のトーンを落としてポツリと市井が口を開いた。不意を突かれ、それまでと
打って変わった哀願の様な響きを感じ取って、梨華は戸惑い、流されそうになる。

729 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:51

「石川から見て市井は立派な社会人で、しっかりしてて、粗も弱い面もないように
 映ってるかも知れないけど、そう、演じてきたのは市井なんだけど ―――― 本当は、
 結構脆くて、堂々と胸張ってるようで実際は気が小っちゃかったりするんだよね」

こんな先輩はかつて、見たことがない。
こんな気弱な一面なんて、見たことがない。
何故?そうさせているのは、誰?自問自答すれば、己ずと導き出される正しい解答に
息を詰まらせそうになり、梨華は歯を食い縛った。自分を見失わないように、強く、強く。

「一緒に住んでくれなんて、即断は出来ないだろうからすぐに返事をくれとは言わない。
 でも今日、ちょっと1人にはなりたくないんだ」
「市井さん…」

あたしは、
あたしは、
あたしは、
本当は、あたしは ――――

全部、飲み込んで、膝の上で両の拳を握り締めて、梨華は項垂れた。
車の振動でさらさら揺れる髪、その毛先がうるさく頬を駆け回るのが普段は鬱陶しくて
堪らない筈なのに、今は気にならなかった。

(だから、言ったじゃない。いつまでも安穏とした時間が続くわけないって。
 このままじゃ、いけないって)

憎たらしい位冷静に告げる声が、耳の奥で木霊する。
きっと随分前から、梨華の中で結論は出ていたのだ。
それを、普段通り自信家で、迷いがなくて、揺ぎ無い凛とした佇まいを見せている
市井紗耶香になら、きっぱりと伝えられたのだろう。
そう、
「1人になりたくない」なんて子供じみた訴えを、寂しい微笑と共に吐き出すような
先輩の姿を見ることが今回、初めてでなければ。

730 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:52

今、それを叶えることはどうにも、出来そうにない。諦めに似た沈黙を抱えて、次に
自分が発すべき言葉をゆっくり梨華は自身の中で組み立てていく。
それは酷く、苦痛を伴う作業だった。


車という密室が、これほど窮屈に感じられる経験を梨華はかつてしたことがなかった。
そして深夜の国道を、2人を乗せた車は孤独に進んでいく。

731 名前: 投稿日:2006/02/23(木) 18:52


732 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:53


□梨華ちゃん
2/26 22:05
急なんだけど
―――――――
今日、ちょっと用事できて、
帰れなくなっちゃった。
ごめんね。

733 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:54

メールの着信画面を目にした瞬間、真希は盛大な溜息を吐き出した。

734 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:54

「用事」なんて言葉を濁したら。
余計なことに気付いてしまうじゃないか。
多くを語ればボロを出してしまう欠点を自覚しているから、彼女のメールは
シンプルで、逆に余計な勘繰りと詮索したくなる感情を陽動しているのではないか
との疑いさえ、抱いてしまう。

あー、ヤダ。
病的な、被害モーソー。
簡潔な自己批判を下して、真希は力なくラブソファへ腰を沈めた。

「帰りは遅くなるよって、朝はそれしか言ってなかったのにさぁ」

おそらく、それは市井紗耶香との約束があるからだろうと踏んでいた。
それが今の時刻になって、「帰れなくなった」とは?
計算機なんて使わなくたって、解答は自動的に導き出される。真希にとっては非常に
残酷で、認めたくはないことだけど、十中八九事実として。

(たまんないよなぁ…こーいうの)

真希が居候を初めて、梨華が外泊をするのは初めての経験だった。
知らぬが仏とはよく言ったもので、梨華の交友関係に無頓着で鈍くあれば、こんな風に
気持ちを掻き乱されることも無いのだろうに。
彼女の泊まり先も、その相手も。悟ってしまう勘の良さが今は恨めしい。

想像以上に、梨華と過ごした時間は濃密過ぎて、
(バカみたいだ)
知りたくないことまで見えてしまう、そんな欠点もあったらしい。全くそれは、盲点だ。
家主のいない静かな部屋で1人、真希は唇を歪めて重く笑った。

735 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:55

(違うか、本物のバカなんだ、後藤は)

人の気持ちは自由だ。
再び、矢口真里との付き合いが復活して、尚更その思いは強くなった。
だからこそ、梨華と市井の付き合いを、以前のように頭ごなしに批判するようなことは
意識して避けてきたのだ。

言うべきことは伝えた筈だった、梨華に。何故、どの様な経緯を辿って市井紗耶香への
反駁を抱くようになったのか、詳細に話したのだ。
それを踏まえ、理解した上で梨華が市井と付き合いを続けていくのであれば、真希の
方にそれを咎める権利も術もない。

―――― いや、権利なんて最初から持ち合わせてはいなかった。あくまで真希は、
どんなに真摯な想いを秘めていたって、ただの居候に変わりはないのだから。


胸に秘めた揺るぎのない愛情だって、
隠し切れない直向きな好意だって、
「冗談」という冠を付けてなら幾らでも、軽い態度と言葉に乗せて伝えられるのに。

736 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:55

今、自分達を繋いでいる唯一の証明は、彼女が『家主』であり、真希が『居候』という
脆い結び付きだけで、互いを結ぶ感情はどう足掻いたって明快なものには成り得ない。
厄介なのはその曖昧な関係が非常に心地良かったせいで、どうしてもその先の一歩を
踏み出せずにいることだ。

多分、それは真希だけの欲目ではなく、おそらくは梨華の方も。
否が応でも日々を一緒に過ごしていれば、言葉や行動の端々から自然と推測出来る。

真希が、何より大事な存在だと認識している“彼女”は、現在の2人の距離感が崩れ、
変化を迎えるのを決して望んではいない。
何より自分こそが、これ以上の接近を全身で拒んでいる。

(だって、少しずつ、少しずつ、慎重に築き上げてきたこのポジションを失うのは怖い。
 だって、どう贔屓目に考えたって現状以上に良い関係なんて生まれる筈がない!)


「やだなぁもう」

自分がこんなに意気地なしで臆病だなんて知らなかった。
こんな情けない思いをするくらいなら、いっそ。
失うのが怖いなんて陳腐な感情を身を持って知るくらいなら、いっそのこと。
彼女に、石川梨華に、最初から近付かなければ良かった? ――― いいや、それは違う、
きっと違う。

こんなに充実して満たされて、酷く心許なくて切ない、こんな時間を与えてくれた
梨華に感謝こそすれ頭から否定する気持ちなんて、生まれようもない。
(満足じゃんか、じゅーぶんだよ)

「そろそろ、潮時なんだろなぁ……きっと」

受け止める相手のない言葉は、酷く空虚に響いて、静かに霧散した。

(そう、もう、ここらが潮時だ)

737 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:56

いいじゃないか、もう、充分じゃないか。
元々、梨華との親交を深めるために、この家に厄介になりに来た訳じゃなかった。
ほとんど接点などなく、馴染みの薄かった彼女に、近付いた。
そこに尊大な理由も感情的な思惑も、存在しなかった、それでも真希は一時的な
隠れ家に石川梨華の元を選んだのだ。

結論から言えば、それは限りなく正解に近い選択だった。
明確な将来のビジョンを描けずにいた自分に、それが無意識のうちであろうとはいえ
進むべき道筋を、正しい方向を指し示してくれた、彼女の側は。
無防備に笑顔を向けてくれて、
手放しで手料理を褒めてくれて、
時々、小さな子供のように甘えられたりして、心地良い関係を気がつけば、築いていた。

――― だから、ねえ。もう、いいじゃん?

ただ、現実からの避難所に選んだこの場所で、得たものは予想以上に大きくて。
結果的に、居心地の良さが仇となり、
今更になって出足を鈍らせる要因にはなってしまったけれど、酷く甘くて苦い収穫に、
深く感謝しなくてはいけないだろう。

738 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:56

唯一、石川家に居着いた上で弊害があったとすれば、
必要以上に彼女、梨華へ好意を抱いてしまったという点か。

「でも、もう終わりだ」

携帯の液晶画面から受信メール一件削除と選択し、真希は到着したばかりの梨華からの
外泊連絡メールを消し去った。これ以上、ただの文字列に心を乱されるのは精神衛生上
良くない。いや、全く、とても良くない。
パタンと二つ折りに閉じた携帯をテーブル上へ投げ出し、ごろりと横向きに転がると
付けっ放しのテレビ、そのチカチカ明滅する画面が無性に腹立だしくなり、強引に目を瞑った。
脳天を貫くようなけたたましい女性の笑い声に不快度指数が限界を振り切り、
目を閉じたまま手先でリモコンを探し当てた真希は結局、テレビの電源を落とした。

静寂と、暗闇に包まれた。
今の自分が身を置く環境としては打ってつけに違いない。自嘲気味に、真希は笑った。


全部、終わらせる。
こんな甘い夢からもう、目を覚まさなければいけない。

739 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:56

◆◆◆◆

740 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:57

「お客様用」の布団に包まり、すうすうと寝息を立て始めた市井を見下ろす格好で、
彼女のベッドを借りることになった梨華は未だ、眠りにつけずにいた。
メールをたった一通送っただけで、居候を1人で家に残して、後は知らん振りなんて。
後悔で胸が溢れ返っているのは送ってしまったメールの内容に対してなのか、
この状況を呆気なく享受してしまったことに対してなのか、思い当たる節は多過ぎて、
なのに何の1つも具体的な行動を起こせない自分に向ける強い嫌悪感だけは、確かに
本物だった。それがとても情けなかった。

いくら毛布をきつく身体に巻きつけても、まるで温まる心地なんてしない。


(ごめんね ―――― )


741 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:57


眠りは、ほんの一瞬だった。実際にどうかは別として、夜半ずっと寝付けなかったのは
事実だ。ふっと意識が途切れ、重い瞼を無理やり持ち上げると、既に見慣れない部屋は
白々と明け始めていて、暖房が効いた部屋に梨華は1人、ベッドで布団に包まっていた。


「石川ぁー、朝ごはんできたよぉ。早く着替えてきな、クローゼットのワイシャツ着替えに
 使っていいから!」
「え、はぁい!」

自分の名を呼ぶ声に慌てて返事を送り、梨華はベッドから条件反射で飛び起きた。
見覚えのないジャージと、決して我が家ではあり得ないすっきり整頓された部屋と、
昨夜ずっと一緒に居た先輩の声が次々に、眠気の抜け切っていない梨華を覚醒させ
続いて、この状況に至る経緯を余す所なく脳裏に甦らせる。

それは言うまでもなく、故意でないとはいえ居候に対する自己嫌悪溢れる仕打ちを
自動的に思い返させるきっかけになり、梨華は表情を曇らせた。
泣き言なら後でいくらでも言える、今は、朝から市井さんに暗い顔を見せないように
しなきゃ。嫌な思いをさせないようにしなきゃ。失望させないようにしなきゃ。
――――
半ば義務のように内心で呪詛のように唱え、雑念を振り払う。

742 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:58

先ず、市井に部屋を空けてもらったのをいいことに、寝巻き代わりのジャージを脱ぎ去った。
忙しなくワイシャツの袖を通し、ボタンを留める。
続き、荒い動作でタイトスカートのジッパーを引き上げた(これは昨日と同じ私服だ)。
淡い色のカーディガンを羽織ると、梨華はスリッパを突っ掛けて部屋を飛び出した。

ふわり、と鼻をついて。

着替えに宛がわれた部屋、即ち市井紗耶香の寝室を出ると美味しそうな匂いが漂って
きた。香ばしい、パンの焼ける匂い。
或るいは自宅に居たならば。
真希が用意してくれたそれなら、間違いなく食欲をそそる匂いなのだけれど。

「すいません、あたし、何をやるにも行動遅くて」
「いーって、そんな畏まらなくっても。ほら、朝飯出来てるから座った座った」

促されて席につけば、色とりどり大小様々な皿が並んでいるのが目に入る。一体何時
起きて市井はこれを用意していたのか、それともこれが彼女の日常なのか。

「わぁー、すごい!」
考え事ばかりしてほとんど眠った気もせず、疲労に塗れてはいるけれど、
努めて内心の余裕の無さが面に出ないよう、梨華は大袈裟に歓声を上げた。
「手が込んでますね、どれも美味しそう!」

ハムエッグに厚切りトースト、そして涼しげな皿に盛られたグリーンサラダ。
温かそうなコーンスープには生クリームで彩りを添えて。
とても美味しそうで、ただの朝食にしては随分と豪勢なのは間違いない。
それなのに、どうしようもないこの侘しさと物足りなさは何だろう。

743 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 18:58

ミニトマトが、ない。
生玉葱のスライスは苦手。
サラダにはドレッシングよりも、マヨネーズが好き。
パンの朝食にはいつも、コーヒーじゃなくてホットミルクティが用意されていて、
朝食はいつも寝巻きのままがいいの、不用意に出勤着を汚す心配をしなくてもいいから。

(あたし、何を考えてるんだろ。………最低)

梨華が食卓に居並ぶ朝食に素直な賛辞を述べたことに気を良くしたのか、市井は
のんびりとコーヒーを啜りながら顔を綻ばせた。

「家出るのまで30分は余裕あるから、ゆっくり食べていいよ」

―――― 食べるのが遅い梨華は、これだけの量をゆっくり胃に収めてなんていたら
30分なんてあっという間。きっと、会社になんて遅れてしまう。

「はい」

けれど、梨華はぱきっとアイロンの掛けられたワイシャツ姿で食卓についていて、
目の前には見慣れた居候ではなく、会社の先輩が新聞に目を落としていて、
いつもは芸能ニュースを垂れ流しているテレビは消されていて、
シンと静まったリビングで、自分の為に用意された豪勢な朝食を前にしている。

咄嗟に脳裏を占める幾つもの違和感。


それでも、無理矢理作ったぎこちない笑みを顔に貼り付けることは忘れなかった。
「遠慮なく、いただきまーす」

勿論、味なんて分からなかった。
しゃきしゃきした玉葱を無理矢理飲み込んだ。
無性に、家に帰りたくなった。真希は今頃、主のいない部屋で1人分の朝食を用意し、
独りそれを口に運んでいるのだろうか。
不意に、梨華は何だか泣きそうになった。

744 名前:  投稿日:2006/02/23(木) 18:59


745 名前:  投稿日:2006/02/23(木) 19:00


746 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:00


「……うん、うん…分かってるから、分かってるって。
 大丈夫、ちゃんと卒業式にも出るし、…一度、家に戻ってちゃんと話すから」


心身ともにぐったりと疲労困憊状態で我が家へ戻った時、リビングから抑えた話し声が
聞こえるのに気が付いた。音を低くしてテレビを見ている様子ではない、電話をして
いるのだ ――― 同居人である、真希が。

(珍しいな、それもこんな時間に)

747 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:01

市井紗耶香からの告白に戸惑い、拒否を許さぬ状況で彼女の家へ泊まり、
追い打ちのように寝不足で1日の業務をこなしてようやく付いた帰路。
容赦のない現実にひたすら苦痛を覚えていたことも忘れ、
梨華は無意識にスリッパへ履き替え、キッチンを抜けてりリビングへ向かう。

ぱた、ぱた、ぱた

フローリングの床は静まり返った室内によく響き、
携帯電話へ囁くように向かっていた真希、その目線がゆっくり動き梨華の姿を留めた。
『あっ』と小さく口が動き、
その瞬間、真希の表情に僅かに狼狽が浮かぶのを見逃さなかった。

「それじゃもう遅いから切るね……大丈夫だって、そんな迷惑は掛けてないから、
 それじゃ……うん、………おやすみ」

急に慌しい早口になった真希は、素早く話を打ち切って携帯電話を折り畳んだ。
気まずい空気を打ち破るように、真希が取り繕った笑顔を浮かべて梨華を見る。
「おかえり、おそかったね」
言外に市井に対しての非難を匂わせながら、決して真希は直接それを口にしない。

(……なんでよ)
最近、頻繁に感じる釈然としない思いがまた、胸を覆っていく。
ただいま、とは素直に答えず、梨華の視線は真希の手元へ向かっていた。
「今の」
視線を受けた真希が少し、身じろぎするのに気付いたけれど、構わず梨華の口から
問いは投げられた。
「こんな時間に、誰だったの?」
「お母さん」
「………えっ」

748 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:01

半ば口篭るようにして、けれど正直に真希は答えた。
一瞬ぽかんと馬鹿みたいに無防備に口を開けた梨華は、「あ、そっか」と遅い反応を返し、
真希の苦笑を買うことになる。

「そんなに呆気に取られた顔しなくってもいいじゃん」
ふはっと、多分に空気を含んだ気の抜けた声で、笑う居候。


「だって、連絡取ってるなんて思ってもみなかったんだもん。ごっちんは家出して
 来てるし、絶対ガンコに意地張って、断絶状態なんだとばっかり」
「…まぁ、実際つい最近までは、そうだったんだけど」

ぽりぽりと頭を掻きつつ、真希は困ったように梨華から視線を逸らした。 

「もう明後日には高校も卒業だし……いつまでも、親から逃げ回ってる訳にもねぇ、
 いかないじゃん?ずっと梨華ちゃんとこでのんびりまったり過ごしていくなんて
 現実が許してくれないのです」
「……!」

冗談めかして言った台詞にしかし、梨華はがつんと殴られたような衝撃を受けた。
――――― そうだ、いつまでも続く筈がない
真希は大人びているし家事も(掃除以外は)完璧にこなすけれど、親と喧嘩して
家出して来たと笑う様な、一介の高校生に過ぎなかったのだ。

高校を卒業したら、彼女はどうする?
進学する?就職する?今までそんな話が出たことはなく、敢えて彼女が避ける
傾向もあって、石川家で真希の進路について真剣な討議が持たれたことがないことを、
梨華は今更ながら思い出した。

749 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:02

適度な距離を保って、付かず離れず、些細なことに一喜一憂していく暮らしが
あまりに身体に馴染んでしまって、大事なことを失念していた。

真希に家出の理由を何度尋ねてものらりくらり、交わされる。
だから勝手にやむを得ない理由があるのだろうなどと推測して、もしそれが家庭の
事情か何かだとしたら無遠慮に踏み込んで聞くのも失礼な話だし、
だから梨華が改めて真希の実家へ連絡を入れた時だって、何があったのか理由を尋ねる
ような不用意な真似は避けたのだ。

それが今、こんな形で、心構えもない状態で切り出されるなんて。


「…それで、じゃぁ、ごっちんは卒業したらどうするの?」
「明後日の卒業式の日さぁ、晩ご飯どっか食べ行かない?後藤の卒業祝いで」
「えっ?」

椅子の上で膝を抱え、小さく首を傾げるようにして真希が言った。
幾許かの配慮の末、控えめに聞いた自分の問い掛けがまたもあっさり流された
ことより、珍しい真希からの誘いに驚いて梨華が目を見開いた。

「明後日…の夜?」
「うん、ダメ?」
「駄目じゃないけど…」
「じゃ決定。店は適当に決めとくから」
「でも」

話を打ち切って立ち上がろうと背筋を伸ばした真希の動きを、梨華の呟きが
制止した。ちらりと、横で佇む梨華に目を向ける。
戸惑い、眉根を寄せる梨華の表情に浮かぶのは不審というよりは「不安」の方が
色濃く浮き出ていて、真希は少し、辛そうな顔を見せた。本当に、少しだけ。

750 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:02

「どうしたの、急に。…本当に、卒業祝いってだけなの?」

ごく些細な疑問に答えた真希の表情は、いつになく真剣なものだった。
「やっぱ、話さなきゃいけないこととか色々、あるし。
 これからのこととか、色々、そう、イロイロ」


  “これから”


薄く笑みを口元に湛えた真希の瞳に、どこか寂しげな色が隠し切れず滲んでいることに
気が付いてしまった。そうと、望んだ訳でもないのに。
「そう」
努めて、感情が表れないように短く答える。
梨華もまた、寂しさが込み上げるのを我慢した。
彼女の言う『話さなければならないこと』が、決して明るく楽しい話題などではないと、
否応なしに感じさせられたから。

だって、彼女の指す未来に必要な選択は先ず、この家を出て行くことだと判断するのに
何の異論がある?赤の他人である梨華の家から、第一歩を踏み出せるとでも?

(もう、終わりなのかな…)

751 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:05

付き合おうと言った、市井紗耶香の真摯な声が耳の奥に焼き付いている。
一緒に暮らそうと言った彼女の本心を、今更ながら反芻してみる。
目の前では、ただ呑気に居候生活を満喫しているばかりだと思っていた、高校生の真希が
酷く硬い表情のまま、ある種の決意を思わせる光を目に宿している。

「…………そっか」

何かが一つ、梨華の中で消えたようで。
もしかしたらそれは新たな物語の始まりなのかも知れないけれど、今のところ
梨華に感じ取れるのは物悲しい終焉への兆候のように思えてならなかった。

752 名前:12. 投稿日:2006/02/23(木) 19:05


753 名前:名無し猿 投稿日:2006/02/23(木) 19:06

一応、半端に更新です。場面転換多いですね、読みにくかったらすみません。
今回更新分は>>714-751です。  

>704 名無し飼育さん
    ありがとうございます、今回よしまこコンビもほのぼの具合も出ていないんですが
    いかがだったでしょうか?見捨てず次回もよろしくお願いします。
>705 名無し飼育さん
    読後感、良いっすか!段々雲行きが怪しくなってきた本編ですが、
    どうぞ最後までお付き合いくださいませ!
>706 名無し飼育さん
    ありがとうございます、ドキドキしていただけましたか。光栄です。
    因みにここの後藤さんはふざけてる割に相当へタレなんですよねえ…どうなることやら。
>707 名無し飼育さん
    こちらこそ、ありがとうございます。完成度が高いなどと身に余る賛辞に改めて
    気持ちを引き締めたい次第でございます(真面目に)最後までよろしくお願いします!
>708 Liarさん
    実は、楽しみに小説の方を追わせていただいてます。勝手に仲間意識とか感じて
    しまったりしてますw せめて同じいしごま作者さんをがっかりさせない位には、精進して
    書いていくつもりなのでよろしくです!(これまた勝手に)
>709 名無し飼育さん
    ありがとうございます!こんな読みにくい文章を一気に読んでいただけるとは、
    本当に作者冥利に尽きますね。よろしければどうぞ続きもお楽しみください。
>710 名無し読者さん
    ありがとうございます。
    >かつてないいしごま この言い回しが何だか好きです。実際どうかは別としてw
    もうすぐ完結ですので、よろしくお願いします!
754 名前:名無し猿 投稿日:2006/02/23(木) 19:06
>711 名無し飼育さん
    わくわくしていただいたそうで、何よりです。今後は苛々するかもしれません、
    それでもどうか付いて来ていただけますように…
>712 猿さんのファン(・∀・)さん
    ファン……ファンですか!?ま、まさかー!?(のミス○リー)
    いや、ありがとうございます、そこまで賞賛されると普通に照れまくります。
    次回も頑張りますので、どうぞよろしくお願いしますね。
>711 名無し飼育さん
    お待たせ(?)したでしょうか。もし更新に気付いていたら、どうぞ読んでやってください。

ということで更新終了です。
多分あと1回か、多くて2回で終わります。どうやらこのスレで終われるかと。
最後までおおよそのストーリーは書きあがってますので、あとは肉付けです。(それが問題なんですが)
駄文を長々続けていますが、ここまで付き合ってくださった方にはどうぞ最後まで
お付き合いいただければと思います。よろしくお願いします。
755 名前:Liar 投稿日:2006/02/23(木) 22:58
ぇえ!私のあの駄作を読んでくださっているんですか!
光栄です!実は作者さんを尊敬していたんですよ!
メチャクチャ嬉しいです!
作者さんのに比べたらへなちょこなですが・…
もう少しで終わりなんですか…。話が急展開してきましたね!
がんばってください!
756 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/24(金) 00:00
更新お疲れ様です。
ど、どうなるんですか。これから。
こんな所で止められたら堪りませんよ!
続きが気になる…。
もうすぐ完結だそうで、寂しいですけども、
最後までお付き合いします。
757 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/02/24(金) 01:06
読んでいて一人やきもきしました!
どんどん引き込まれて、ずっと読んでいたいお話しです。
ラスト楽しみにしています。
758 名前:名無し読者 投稿日:2006/02/24(金) 23:30
なんか嫌な予感を残したまま次回突入とは・・・(;-_-)
どうか主役の2人が幸せな結末を迎えられるよう願う気持ちと、でも終わって欲しくない複雑な気持ちでいっぱいです
759 名前:名無しさん 投稿日:2006/03/08(水) 21:41
作者さんのいしごまアンリアルの雰囲気が好きで、
毎回の大量更新を楽しみにしています。
760 名前:猿さんのファン(・∀・) 投稿日:2006/03/13(月) 13:04
うわーっ(・∀・)!!


(;゚Д゚){見てられない


恋愛ってなかなか
うまくいかないものなんですね…。


たくさん書きたい気持ちはあるけれど
ネタバレしそうなんで、短くしときます(笑


毎回楽しみでしょうがないです。
娘小説の中でこの作品しか読んでいないもので(ノ∀`)
これからも更新楽しみにお待ちしております。
頑張ってくださいね。
761 名前:名無しさん 投稿日:2006/04/03(月) 01:02
待ってます保全ですよ
762 名前:名無し読者 投稿日:2006/04/07(金) 20:04
石川さんの気持ちが痛い程分かります。
ごく最近、私も実生活で似たような経験をしたもので…
長くおつき合いさせて頂いた分、終わりが近いのは寂しいですが
次回更新を楽しみに待ってます。
763 名前:名無し猿 投稿日:2006/04/12(水) 18:29
先ずご挨拶をさせてください。今まで大変お世話になりました。
本日で最後の更新となります。という訳で今回に限り先にレス返しさせていただきます。


>755 Liarさん
    駄作だなんてまたご謙遜をw 尊敬されるようなもんじゃないですが、今まで読んで
    いただいて本当にありがとうございました。どうぞ最後までお付き合いください。
>756 名無し飼育さん
    はい、ようやく最後まで書き上がりました。結末に納得していただけるかどうか…
    どうぞお手柔らかにお願いいたします。ありがとうございました。
>757 名無し飼育さん
    やきもきさせてしまいましたか。まんまと駄目作者の術中に嵌っていただけたようでw
    はい、今回がラストになりますのでよろしくお願いいたします!
>758 名無し読者さん
    ありがとうございます。2年以上引っ張ってしまったこの作品もどうにか完結を迎える
    ことが出来ましてホッとしております。どうか最後まで見届けてやってください。
>759 名無しさん
    ありがとうございます。毎回間を置いては大量(?)更新して参りましたが、今回で
    終了します。最初の頃と雰囲気は大分違うかもしれませんが、よろしくお願いします。
>760 猿さんのファン(・∀・)さん
    嬉しい感想を、本当にありがとうございます!楽しみにしていただいたようで、本当に
    作者冥利に尽きる次第です。ラストに納得してもらえるかドキドキです。
>761 名無しさん
    保全ありがとうございます。お待たせしました!
>762 名無し読者さん
    何だか実生活で大変な経験をされたようで…( T▽T)<辛いですよね〜
    長い間のお付き合い、ありがとうございました。最後までお目通しいただければ幸いです。

最終更新は少し長くなります。
同板の他作者様にはご迷惑かけますが、よろしくお願いします。
764 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:30


「これ、朝ごはんなの。朝、寝坊しちゃって…お母さんが学校に着いてからで
 いいから食べなさいって」

入学式だというのに悠々と屋上で伸びをしていた少女へ、何故か自分の弁当を
差し出して言った梨華に、彼女が向けた笑顔はどこかぎこちなく、皮肉っぽい憂いを
帯びていて、憂鬱そうに歪めた口元にそれでも何故か、強烈に惹き付けられた。


「へぇ。優しいお母さんだねー」
「あたしはいらないって言ったのよ?なのに、未だに子供扱いするんだもん」
「そりゃ子供だからでしょ」
「な……」
「高校生なんてただの子供だよー」

至極正当な結論を述べた上で、新入生ながら入学式を思い切り「サボった」らしい
彼女は、自身の指をぺろっと舐めとってにこりと笑う。
梨華の拳大、大きめに作られた食べ応えのありそうなおにぎりを、明らかに年下の
少女は何故か尊大な態度で、
そして(これはとても重要なポイントで)“心底?味しそう”に、口一杯頬張った。
爽快に映る「画」だった。

何だか、久々に、梨華はとても、爽快な気分になったのだ。高校2年生の春、あの日。

―――――
――――

765 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:30

「ごちそーさまでした。美味しかった」

ソースで滲んだ割り箸をきっちり皿の端に揃え、梨華は手を合わせた。
既に食べ終え、ぐびぐびと喉を鳴らして烏龍茶を飲んでいた向かい席の真希は、
そんな梨華にちらりと目を向けてうん、なのかふん、なのか分かりかねる不明瞭な
発音で答えた。
これが人生最後の制服姿と承知しているせいか、真面目くさってアルコールなどは
注文していない真希だ。(無論、したらしたで梨華が即却下しただろうけれど)


真希が自らの「卒業祝い」に選んだ店は、2人の住処から程近い、住宅街の一角に
ひっそりと店を構える、民家を改築したお好み焼き屋だった。
吉澤ひとみのぶっちぎりオススメだというその店(あまりに彼女に手放しで賞賛される
と逆に怪しい予感も覚えるから不思議だ)は、外観こそやや寂れた風ではあるものの、
味は保障するという推薦通り充分過ぎる内容で、梨華と真希の腹を満たした。

とは言え、煙をまともに浴びた髪や洋服に染み付いた匂いはそう生易しいものではなく、
会社帰りのスーツ姿だった梨華は、普段着に着替えて来れば良かったとの後悔が
胸を過ぎっていた。――― まぁ仕方ない、今日は特別だ、「卒業祝い」なのだ。

食後のサービスだというおかわり自由の烏龍茶を啜りつつ、ぷすぷすと焼け焦げから
煙を上げる鉄板を挟んで向かい合った二人、
朴訥に話を切り出したのは真希だった。
それは当然の事で、何せ今宵の晩餐はあくまで真希が梨華を招待したから始まるもの。
主賓はただ大人しくそこへ掛けているしかないのだから。

「後藤ね、もうすぐ梨華ちゃんち、出てくことに決めた」
「…そう」

766 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:31

しっかり夕飯を詰め込んで平静さを湛えた真希は、グラスに口付け烏龍茶を一口飲み下して
から、意外にさっぱりした表情で開口一番に告げた。


やっぱり、そうなんだね。
そうやって、来た時と同じように勝手に決めて、行動するのね。
―――― 出て行くんだ、突然で、あたしの中に嵐を起こすだけで、その被害なんて
顧みることもしないで。


望んでいた言葉なんかじゃなかった。
それでも、ほぼ予想通りの告白に梨華はそう取り乱したり、動揺したりはしない。
ただ落ち着いた態度で、表情で、落胆が声に滲み出さないよう気を遣って、
一言「なぜ?」と問うた。
それは、彼女の押し掛け同居が始まった事の発端の全てから繋がる質問であり、
最初から真希は答えを用意していたかの如く、
淡々と口を開いたのだった。

「まず……、そいじゃ、後藤が梨華ちゃんちに来た理由から話そっか」


そうだ、最初から、真希はそれを伝えたくて梨華と正面から向かい合っている。

「後藤、話上手くないからちょっと長ったらしくなるけど、いい?」
上目遣いに確認する真希が何だか年以上に幼く見えて、そんなことは非常に稀な
現象だから少し、梨華は優しい気持ちになって小さく1つ、頷いた。

767 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:32

――――――

768 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:32


昔、よっすぃーに紹介された時。
悪いけど、梨華ちゃんとは仲良くなれるタイプじゃないなぁって思った。

いや、よっすぃに紹介される前さ。入学式の日、屋上で会ったことあったじゃん。
すごく真面目な優等生然としてて、上の人に従ってるのが正しいって信じてるみたいな、
そんな顔で ――― いや、実際それは普通に正しいんだろうけど、
何て言うのかなぁ。ウマが合わないなぁって、直感。分かる?この感じ。

でも何だかんだ、梨華ちゃんって誘いを断れないタイプでしょ。
だから結局、付き合いで顔を合わせることも増えて、段々、見方が変わった。
意外とおっちょこちょいで、
予想通り正義感が強くて、
でもって義理堅くって、家族思いで。

………人に言われたら何でも受け入れるタイプかと思ったら、結構頑固で、
地に足がついた自分の意見を、ちゃんと持ってて。
そうだね、学校でオベンキョーなんて馬鹿らしい、なんて斜に構えて変に大人ぶった
後藤なんかより余程、「本物」の大人だった。


ごとーはさ、絶対にね、梨華ちゃんは進学するんだろうって思ってた。
短大か、大学の推薦とか取ったりして、――― 当然のことみたいに。
成績良いの知ってたし、
テニス部でも真面目に部長とかで活動してて、内申良かっただろーし。
それがさぁ何?びっくりしたもんマジで、就職したって聞いてさ。

「知りたかったんだ」、と半分に減った烏龍茶のグラスを握り締めて、真希は目を伏せた。
そして「恥ずかしかった、安直に考えてた自分が」、と低く響く声で声で続けた。

769 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:32

…梨華ちゃん、よっすぃーが計画した送別会、覚えてる?
後藤ね、その時さりげなーく聞いたんだ。さりげなーく隣に座って、聞いたの。

「どうして就職しようと思ったの。梨華ちゃんて成績いいんでしょ、進学できたんじゃない?」

って、あんまり単純な質問で呆れちゃうけど、そんな内容のこと。
覚えてるかな?ちょっとお酒入ってたから忘れてるかな。

で、さ。梨華ちゃんこう答えた。そんな質問にも、真面目に答えた。
今でも覚えてる。
相当、堪えたから。


―― うち3人姉妹でね、あたし真ん中。お父さんは普通の会社員で、お母さんは主婦。
大学でも短大でも専門学校でも、進学したら少なからずお金かかるでしょ。
入学金も、授業料も、総括すると、すごく掛かるでしょ。
あたし、どうしてもこれを勉強したい、将来これになりたいって夢がないの。

高校までは一応、親の体裁とか自分の面子とか考えてそれなりに頑張ってたけど、
正直、そんなに勉強が好きな訳じゃないし。
なのに親に負担かけてまで、進学しようなんて思えなくて。
今時、高卒で就職ってあんまり周りにもいないけど、でもやっぱり、家族の方が大事。
妹、いるんだけどね、あの子が大学に行きたいって言ったときに、あたしが無駄遣いしたせいで
無理、なんて話になったら嫌だもん ―――

“だから、就職を選んだの。面接、すっごく緊張したんだよぉ”


事も無げに言い切った当時の梨華の潔さは、眩しいくらいに清々しかった。
当時の彼女と同じように「受験・将来」という現実に直面した時、何の気負いも無く就職の道に
進んだ梨華が、何と未来を見据えて肝が据わっていたか。思い知らされた。
訥々と、そんな内容のことを真希は続けて伝えた。
梨華は思い掛けぬ昔話に照れたような、気恥ずかしそうな複雑な表情を浮かべている。

770 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:33

あのね、と息を吐いて真希は呟くように言った。

梨華ちゃんに初めて会った入学式で、おにぎり分けて貰ったんだよ、後藤。
お母さんの手作りだって言ったんだ、あの時、梨華ちゃんは。
すごいね、美味しかったの。忘れられない味。
ああ、そうなんだ、って思った。妙に納得した。
お弁当とかコンビニ行けば幾らだってあるのに。お母さんの手作りのおにぎり持ってきてて、
普通に愛情に包まれた家庭で育ったって感じで、
自然に家族を大事にしてて、それで全部、納得しちゃったの。

梨華ちゃんにとって、就職することは。
特別なことじゃなくて、家族を思えばこそ当たり前の選択だって。


「別にあたしは、そんな偉いことしてるわけじゃ…」
「そうしたらこないだ、梨華ちゃんがおにぎり作ってくれてて。なんていうか、嬉しくて。
 愛を感じちゃったわけです。何かすごい、めちゃくちゃ感動しちゃったの」

真希に、こんな風に持ち上げられてるのに慣れてないせいで、梨華は居心地が悪そうに、
膝の上で両手の掌を手持ち無沙汰に擦り合わせる。

そう、家族だ。
家族の話。
改めて背筋を正して、真希は正面から梨華の瞳を見つめた。瞬間的に、これが本題なのだ
と察した梨華も無意識のうちに気持ちをぴんと張り詰めた。

後藤んチってね、お父さんがいないんだ。小学生の時、事故で死んじゃってね。
それ以来、お母さんが家族を養ってきた。まさに女手1つで、ってやつ?

――― え?

「……そんな」

771 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:33

虚を突かれ、梨華はやや口篭りながら声を押し出した。
「…そんなこと、初めて聞くよ」
「あは、だって初めて言ったんだもん」

衝撃の事実をさらりと口に出した真希へ驚愕の視線を向けると、苦笑交じりに
肩を揺する、真希がいる。
肉親を亡くした苦しみというのは、梨華には未知の領域だ。
けれど、それがとても辛い、悲しい痛みだというのは朧げに理解出来る。想像だけでも酷く
陰鬱な気持ちにさせるものが、年下の少女が直面した現実だという。

「大丈夫だよ、昨日今日の話じゃないし、そんなに気を遣わなくても」
「だけど」

ひやりとした冷たい予感と共に、
咄嗟に今までの自身の言動を思い返し、失言や無遠慮な行動は無かったかと
梨華は振り返ってしまう。幸か不幸か、現時点では、浮かばなかった。

対して、真希の表情の芯にあるのはあくまで穏やかな決意を秘めた強さだ。


「うん……なんか同情されるの分かってるから、人に話したことないんだ、あんまり。
 同じ小中学校の子は知ってるだろうけど、今の高校で知ってるのは多分、よっすぃだけ。
 何でか、よっすぃーウチの家族と仲良くって、後藤は言ったことないけど母さんあたりから
 伝わってると思う、うん、だから、
 ―――― 自分の口で打ち明けるのは、梨華ちゃんが初めてだよ」

772 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:34

高3になってから進路を考えた時に、……後藤ってさ、ホラ料理好きだから、
漠然と調理師とかなりたいなー、そういう専門学校行きたいなーって考えてて、
先生に話したら賛成されて。あんまり学校の成績、良くなかったし大学とか絶対無理だったし?
で、北海道の調理師学校に進学決まって。入学金免除の試験も奇跡的に受かって。
あー、あのね、ウチの母さんの知り合いが北海道でお店やってて、そこに下宿するって
条件で、進学決めたの。店の手伝いもしながら、料理の勉強できると思って。

…うん、そう。全然苦労もなく進路が決定しちゃったんだよね。これでいいの?って能天気な
後藤でさえ、疑問に思うくらい。

ほんの少し、辛うじて読み取ることが出来る程度の笑みを滲ませて、真希は淡々と
言葉を繋いでいく。
その平坦さが逆に、真希の未熟さや不安定さを感じさせて、危うさを覚えた。

「で、何でだろう ――― 梨華ちゃんのこと、思い出したんだ。ホント、唐突に」

梨華ちゃんが卒業してから、思い出すことなんて全然無かったのに、突然、浮かんだの。
後藤の中では高卒ですぐ就職なんて、全く選択肢に含まれてなかったんだけど。
専門学校って結構思ったよりお金がかかるから、これでいいのかなって、ますます疑問は
強くなった。明確な将来のビジョンがある訳じゃない、ただ何となく料理が得意だからって
理由だけで……それでお母さんに負担かけてまで専門学校に進むのは正しいのかなって。
考えた。
すっごい色々、考えた。
初めて将来のこと、真剣に考えたんだよ。


後藤家の財政はね、ホント、芳しくないんだ。つうか単刀直入に言えば裕福じゃなくて。
しかも、ウチの出来の悪い弟は、私立の高校へ進学してて、学費とか馬鹿にならないし。
それで―――

773 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:34

やっぱり、専門学校行くの辞めて、お店手伝うよって思い切ってお母さんに話したんだ。
自分としては、気を遣った結果の、当然の結論として、喜んで貰えるかなって、内心。
でもさぁー、凄い剣幕で怒られたんだ。
アンタは、中途半端な気持ちで調理師になりたいなんて言ったの!?って。
こっちは喜んでもらいこそすれ怒られるなんて微塵も予想してなかったから、プチンて切れて。


――― 子供がお金の心配なんてするんじゃないのっ!!
――― もう子供じゃないよ、働けるよ!
――― 社会の厳しさも知らないで、簡単に働くなんて口にするんじゃないよ。あんた、どれだけ
     世間を知ってるって言えるの?
――― 何だよ、店の手伝いするのにそんなの関係ないじゃん!

――― 馬鹿言ってんじゃないよ、あんたみたいに何の技能も資格もない子が学校も行かないで
     将来どうしようっていうの!?店手伝って、その後どうするの、就職するのがどれだけ
     大変だと思ってるの?
     礼儀もなってない、時間にだらしない、それでやっていけると思ってるの!?

――― だって……うち、金ないじゃん。家が心配なのは、当然じゃんか


「それで、母さんいきなり言うんだ、再婚するかもしれないって。本当、唐突過ぎるよね。
 で、そしたらお金の心配なんて今みたいにすることなくなるからって」


――― なにそれ。やっぱり生活苦しいんじゃない、だから再婚するんでしょ?
     養ってもらう相手が必要だから!

――― それとこれとは関係ないでしょう、子供の心配することじゃないの

真希の激情に駆られた感情的な言い分に、母親は既に冷静さを取り戻していて、
理知的な響きで答えた。突き放されたと、一瞬思った。
何故かそれが。

「見捨てられたように感じちゃったんだよねえ。その時、如何に自分が子供なのかって、
 認めざるを得ないっていうか、それ以上反抗したって、無駄だって」

774 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:34

けれど、釈然としない気持ちが消えたわけじゃなかった。
納得なんて出来なかった。
だって、だってさ。
…お母さんが再婚して、旦那さんになる人の稼ぎで生活出来るようになるなら、
後藤はお店手伝う理由なんてなくなるじゃん。
お母さんを支えていくのは、経済面も精神面も、旦那さんの役目になるじゃん?

そしたら自分は、必要ないじゃないか。
何の気負いもなく、調理学校に行けばいいじゃないか。
「他人のお金で?」「他人じゃない、お父さんになる人だよ」「何を遠慮することがあるの?」
「子供なんだから、親に甘えればいいじゃん」
「本当に調理師の資格取りたいのかも分からないのに?」
「全部、“お父さん”にお世話になって?」「顔も知らないそんな人に」

でも。
だけど。
――― あれ、どうして、自分は、調理師を目指そうと思ったんだっけ

775 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:35

「もう、よく分からなくなった」


無性にやるせなくて、辛くて、気分どん底で。
子供であることが惨めで、自分の力じゃ何も出来ないのが悔しくって。

自分の人生なのに、どうしていいか分からなくなった。そんなの、初めての経験で、さ。
誰かの役に立ちたい、なんて思ったの初めてのことだったけど、
同時に必要とされてないことも否応なしに思い知らされたんだもん。

……家にはもう、居たくなかった。いや、居場所なんてないと思った。

急に、梨華ちゃんに会いたくなった。
今の自分と同い年で就職という道を選んだ彼女は、どうしてるだろって。
会って話したら、また何か価値観が変わるかもしれないって思うようになって。
後藤って、思いついたら即行動するタイプなんだよね。お陰で先走ったことに反省することも
多いんだけど ――― で、その日のうちに梨華ちゃんちに足が向いてた。

つまりね、後藤はさ、
全部から、逃げてたんだ。
母親からも、進路からも、いろんな現実から逃げて、笑っちゃうんだけど、未だにお母さんの
再婚相手のおじさんとも会ってない……というか、気が引けて、会いたくなくて。
こんな小さい自分を曝け出すのは嫌で、逃げてた。

776 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:35
―――
―――


「だから、梨華ちゃんちは後藤の秘密基地だったんだ」
「秘密基地?」

幾らか誇らしさと嬉しさを含んださっぱりした表情で真希が言う。不思議そうに小首を
傾げて反芻する梨華に笑みを向けて真希は答える。

「子供の頃さ、怒られたり落ち込んだりすると自分だけの秘密基地にさ、隠れて
 篭ってること、なかった?後藤の場合、公園の茂みの中だったけど」
「あたし、子供の頃は1人になるの苦手だったから」
「んぁ、そんな感じかもね」

低く笑って、真希が肩を揺する。そんな反応に怒るべきか反論すべきか梨華が
対応に困っているうちに、真希が再び口を開いた。

「結局さ、嫌なことから逃げ出すって意味では、秘密基地に隠れるのも家出も同じだよね。
 大きくなっても人間の習性って変わらないんだなぁ」


それで、“秘密基地”に隠れて、ちょっと人生立ち止まって考えて、……
ううん。1人で悶々と考えるよりも梨華ちゃんとの暮らしはもっと、得るものが多かった。
色々なことを見て、経験して、思い込みで狭くなってた視野がちょっと、開けた。
光が差し込んだと思った。
出口を探して暗闇を彷徨うだけだった自分の中に、弱いけど、一筋の光が見えた。

「だから、来て良かったと思ってるよ」
落ち着いた声で、決然とした態度で、真希は梨華を見てふわりと笑った。
妙に悠然と構えるそんな真希の姿は見慣れなくて、平静さを装う梨華の内面は
激しい不安に襲われた。だって、こんな大人びた彼女は知らない。

777 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:35

「それで……どうするのか、決まったの?」

うん、梨華ちゃんのおかげでね。

何時でも、後藤は梨華ちゃんのこと応援してた。一番下っ端の職場で、一生懸命、
責任持って働く梨華ちゃんをね、応援してた。
それで、さ。
――― 毎日毎日、後藤が作る料理を美味しいって口に出して、伝えてくれてたでしょう?
どんなに疲れて帰って来ても、美味しいご飯があると思うと嬉しくて、頑張れるって。
その言葉に、どれだけ励まされたと思う?

ただ無償でお世話になるのが申し訳なくてしたことで、喜んでもらえて。
必要とされてるって、実感できて。
今までそんな経験したことがなかったから、そうやって初めて、気持ちが固まったんだ。


「やっぱり後藤は料理をするのが好きで、
 誰かの喜んでいる顔を見るのが好きだって、教えてくれた。
 就職して働くのはすごく責任感のいることで、大変だって、教えてくれた。
 だからありがとう、梨華ちゃん。
 調理師になる夢、目指す決心、固まった。中途半端な気持ちじゃ何にも実にならない
 んだよね、だからちゃんと専門行って、しっかり資格とって頑張ろうって、決められた」

「ごっちん…」
「大事なこと、教えてくれたのは全部梨華ちゃんだったよ」

(浮ついていない、過酷な現実も)

梨華ちゃんは、大人だった。ちゃんと、「社会人」をこなしてた。
今の後藤にそれは無理かもしれない。でも。
自分に出来ることをやればいいんだって、気付いてね。

(胸に秘めざるを得ない、痛いくらいの強い気持ちも)
778 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:36

自分の存在意義を見失っていた。
誰かに必要とされたかった。
だけど、勉強なんてまるで不得手な自分が、家族以外を相手にして、
どうして社会に貢献できるだろう ―――

「あたしはそんな、大したこともしてないのに」
「してくれたんだよ、少なくとも後藤にとっては」

さっきまでじゅうじゅうと燻っていた鉄板は熱も引き、真っ黒な炭を残して完全に
鎮火していた。黙りこくってその炭に視線を落としながら、梨華の瞳はじわりと痛み、
潤んだ。煙のせいだと自分に言い聞かせながらも、胸の痛みは言い訳のしようも
なくて、誤魔化す様に梨華はセーターの袖で目元を拭った。

「それで、これは今、思ったんだけどね。
 ひょっとしたらずっと、入学式のあの日から梨華ちゃんの存在はずっと胸に
 引っ掛かっていたのかもしれない」
「……あの時、から?」

「そう、色々理由つけてさ、梨華ちゃんちに来たんだけど。
 親と喧嘩して家出中とか、お金関係とか母親の再婚問題でゴタゴタしてるとか。
 格好悪くて、体裁悪くて誰にも言えないから、詳しいいことは何も聞かずに側に置いて
 くれる人って存在として、梨華ちゃんを選んだつもりで。
 自活していて、それでもあんまり後藤のやることに口出し出来ない人。
 梨華ちゃんは打ってつけだった。それだけのつもりだったけど」

本当は、あの時から。


入学式の日に分けてもらったおにぎり。
とても美味しかった。だから、お礼をしたくて。

779 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:36

「あの日、実は静岡のやぐっつぁんの所から朝帰りした直後だったんだよね。
 泣いてるやぐっつぁん慰めて、結局ごとーは失恋して、家に帰って、入学式なのに
 朝ご飯も用意してなくって、仕方ないから制服にだけ着替えて、学校行ったの」
「え、…静岡から…?」

矢口真里との経緯を知っている梨華は、やや気遣うようなぎこちない視線を真希へ
向けた。完全に吹っ切れている真希は気にならないけれど、他人からすると矢張り、
痛ましいものと聞こえるのかもしれない。

「で、無性に腹立だしくってさー。やぐっつぁんを泣かせた市井ちゃんのこととか、
 朝ご飯も作ってくれない母さんも、そんな日に入学式があることなんかも、全部」


どうしようもなく、ささくれ立って荒んだ気持ちを沈めてくれた、あの日の屋上。
優しい天気と、アニメ声の先輩と、これぞお袋の味って感じの、シンプルなおにぎり。

「梨華ちゃんと出会って、毒気、抜かれちゃった感じ」

ぺろりと舌を出して、いたずらっ子の様に真希が笑った。だから、梨華ちゃんに
お礼したかったのかも、心の奥底では、ずっと。そう付け加えて、笑う。

「褒められてるのかなぁ、それ」
「何言ってんの、超褒めてんじゃん」
「どーも、引っ掛かるのよね、アニメ声とか…」
「別に、アニメ声が変で面白くって毒気抜かれたとは言ってないよ」
「あ、今言った!それ本音でしょ!」

普段のやり取りの延長の如く軽口の応酬が始まり、ようやくその場を支配していた
緊張感が引き潮のように去っていく。
ぐっと疲弊しきった気持ちで、それでも梨華は無理に笑顔を張り付けている。


真希の一言一言は痛みを感じないナイフで、少しずつ梨華の心を削り取っていった。
彼女が梨華に向けているのは、無神経という名の“凶器”だ。

それが例え、真希にとっては自分を思いやった結果の言葉としても、彼女は別れのつもりで
言葉を口にしているから、そして限りない感謝の気持ちを優しい音色で奏でるように
梨華に伝えるから、
嬉しいのに酷く苦しくて、足元が崩れそうなのにそれが見えない恐怖感の様な。

780 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:37

一緒に住むようになってから、互いの距離が近付いた。
だから、真希を意識するようになっていたと思っていた。

時々、初対面の夢を思い出し見るようになってからその考えが覆されるようになった。
価値観が違う、梨華の思いも寄らなかった事を言った、新入生に。
その時既に、心を強く揺さぶられていたのかもしれない。

「だから、ありがとう梨華ちゃん」
「ううん、あたしは何もしてないよ。本当に、何も……」

――― それを真希に伝えることはないだろう。きっと、その可能性は無いだろう。
唇を噛み締めて、梨華はそっと独り、心中で1つの決断を下した。

781 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 18:37


782 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:38

翌朝、9時前。天候は曇り、ついでに何となく、1人黙々と家事を行なう真希だけが
細々動き回る石川家の室内の空気も、どんより曇り。

そんな中、珍客は訪れた。

≪うおーい、来たよん≫
「……よっすぃー?」

梨華が会社へ出勤して30分ほど経過した頃。
朝食の後片付けをしていた真希は、自分の携帯が鳴っていることに気付いた。
ディスプレイに「よっすぃ」の表示。
もしもし、と出てみれば、「今玄関の前にいるよん」と能天気な声が明るく答えた。

携帯電話を通してか、それとも直接空気を通して聞こえてきたのか判断し兼ねる
程の至近距離で応えた声に、間違いなくすぐ其処に当のひとみがいると認め、
真希は慌てて玄関へ向かう。
出勤した梨華が出て間もないから、鍵は掛けていない。

忙しくドアのノブを回すと、陽気な空気が一気に玄関を制圧した。

「やほほーい、ごっちんおっはー!!」
「………」
思わず、ノブから手を放した。がちゃんと音を立ててドアが無情に締まる。
途端に静寂。ほっとする真希。そう、今のは白昼夢だ、きっと。
………
いやいやいや、朝っぱらから現実逃避は良くない、うんまあ一応、彼女は親友だ。
首を軽く振って、よしと気合を入れて真希は再びドアを押した。
(基本的に体温もテンションも低めの真希としては、午前中から彼女のパワーに
 太刀打ちするには非常に精神力と体力を要するのだ)

「どうしたの、こんな朝早くから」
やや不機嫌を帯びた声で聞いてみる。
たった今、目の前で一度ドアを閉められたことなど意に介する様子もなく、飄々とした
態度でひとみはくすっと笑い肩を竦めた。

783 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:38

「遊びに来たんだけど?某テレビ局の受信料の取立てに来たように見える?」
「…梨華ちゃん、いないけど」
「ごっちんに、用があるから」
「そ?ま、どうぞ」
「じゃ、おじゃましまーす」

言うなり、ひとみはスリッパも履かずにすたすたとフローリングの上を滑るように
進んでリビングへ踏み入って行く。
勝手知ったる何とやらで、ひとみは真っ直ぐ梨華お気に入りの場所である、
テレビ前に陣取った赤いラブソファに腰掛けた。
「何か飲む?コーヒーか紅茶しかないけど」
「コーヒーで」
「おっけー」

インスタントの粉を溶かすだけという至極簡単な作業の傍ら、ふとリビングにちらっと
視線を向ければ、微動だにせずにこちらを眺めるひとみが映る。
「……なんだよぉよっすぃー、あんま見つめんなよう」
「照れるとキショい、ごっちん」
「キショいって…」

ヒドイ、と呟き真希は2人分のマグカップを抱えてキッチンを出た。
ずっと身体に纏わりついて回る吉澤ひとみの視線は、かつて見たことが無い程の
粘着さを光を帯びていて、ただでは帰らないと無言の圧力を掛けている。
何となく居心地の悪さを覚えた。

「今日、ウチが来た理由分かる?」
「暇潰し?」
「ぶー。っていうか失礼な」
「朝ごはん食べに?」
「ぶー。いや、それもあるけど」
「………」
「ウチが、結構おせっかい焼きなのって知ってるよね」
「まぁ、割と」
「それが答えです」
「意味分かんないよ」

784 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:38

にべもなく真希が突き放すと、
はぁー、やれやれ、なんて「まぁったく嘆かわしい、」だのなんだのこれ見よがしに
大袈裟な身振り手振りを加え、ひとみは盛大な溜息をついた。
そうしてからようやく、コーヒーに口を付ける。一体何の儀式だというのだろう?

「実家に戻るんでしょ。んでもって、北海道行きの準備、するんでしょ」
「あ?何で知って……」
言い掛けて、真希は苛立たしげにチッと軽く舌打ちして天井を睨みつけた。「母さんか」

鞄を床に放り出し、フローリングの床にぺたりと腰を下ろしたひとみがピンポーンと
能天気に正解を告げた。この親友は、本人の知らないところで積極的に人の親と交流を
持っているので扱いに困る。

「だから、何か手伝うことないかなぁーって思って」
「嘘ばっか(手伝う気なんて絶対ないくせに)」
「うん、嘘」
「何だよそれ」
「じゃぁ、いきなり本題入っていい?」

急にひとみが真面目な顔になったので、内心、真希はぎくりと肝を冷やした。
ころころと百面相の如く表情を変えるひとみには付き合い慣れたつもりでいたけれど、
言わずもがな、人付き合いの経験豊富な彼女は何枚も上手だったようだ。

「単刀直入に聞くけど、ごっちんは梨華ちゃん好きだよね?」
「何だよぉ、いきなり」
笑い飛ばそうとした真希を押し留めたのは、怖いくらいに真剣で、人を射抜く鋭さを持つ
強さを秘めた、真剣な光を湛えたひとみの視線だった。

「いいから質問に答えなさい、ごっちん」
普段は馬鹿ばかりやっている親友の真っ直ぐな瞳は、時として、気圧されるくらいの
圧倒的な迫力を持つ。
嘘は付けない。
「そりゃ…」
彼女は必ず、真希の嘘を平然と見破るだろうから。
「 ――― 好きだよ」

785 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:39

さすがに正面から堂々と向き合う気力は無くて、視線を床に落としてから真希は
ぼそりと吐き捨てた。
ずっと、1人で抱えて悶々としていた事実も、案外あっさり告げることが出来て、
実際口に出してみれば、想像以上に現実を受け入れることが可能だと気付いた。

「好きなのに、あっさり離れちゃっていいの?手放していいの?」
「………」
「遠いよ?北海道は」
「…だって、そりゃ、……梨華ちゃんのことは、好きだけど。だけど」

高校も卒業した今、北海道に行くと自身で決めた今、
足掻きようも無い。結論はもう出ているのだ。これ以上、石川梨華への気持ちを
抱き続けるのは明らかにマイナス事項なのに違いない。

「ウチも、梨華ちゃんのことが好きなんだ」
「 ―――― は?」
吸い込まれそうな大きな瞳に見つめられると、心臓が止まりそうになる。
その場の空気に飲まれた。
突然の衝撃の告白に何も言い返せないでいると、ふとひとみが表情を緩めた。

「というのは、嘘ですが」
「あのね」
安堵するより先に、文句の1つも言ってやろうかと口を開きかけたのを遮って、
ひとみは真顔で淡々と言葉を並べた。

「でも、そういう人は必ず出てくると思う。梨華ちゃんてホラ、普通に可愛いし何気に
 スタイルいし、女の子らしい性格だからモテるでしょ。
 それに強引に誘われると断りきれないお人好しな部分もある」
「……知ってるよ」
「モタモタしてたら、横からかっさらっていこうとする人、出て来るよ?」
「……もう、いるし。そーいう人」

瞬時に脳裏を過ぎった「あいつ」の姿。ひとみから顔を背けて、小さく呟いた。

786 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:39

だけど、口出しは出来ない。
自分から、行動なんて起こせない。
溜息を1つ、真希は自身を納得させるため何度も胸中で繰り返したフレーズを
ひとみに向けて吐き出した。

「でも梨華ちゃんは、後藤の所有物じゃないし。
 後藤が干渉していい相手じゃないし。
 ……梨華ちゃんの幸せは、梨華ちゃんに決める権利がある、から、」

だから、何も伝える気はないと、真希はきっぱり言い切った。
好きだという気持ちを表に出して、壊れてしまった関係がある。苦い経験を持っている。
石川梨華という言わば正反対の性格の彼女とここまで親しくなれたことさえ、
真希にとっては奇跡的なことで、
それ以上の幸福を望んだら、間違いなく何もかもが無駄になり、破綻してしまうと
杞憂していた。いや、それは既に確信に近い。

「臆病っつーか、弱気っつーか…」

呆れた様に何か言いたげなひとみも、真希の苦しい立場を察してかそれ以上を口に
することはなかった。結局、ひとみは親友の真希も、先輩の梨華も、2人ともが心配なのだ。
おせっかいと自称するに偽りはなく、全く得にならない行動に精を出してしまう損な性格は、
最早賞賛に値するだろう。

「あ、あー、そういえばさぁ」
ふうっと己のマグカップ、そのコーヒーを冷ましながら話題転換の為に真希は敢えて
明るい声を上げた。その場の空気を読むのが得意なひとみならば、すぐに乗ってくる。

「よっすぃーはさ、誰か特定の相手って作らないの?」
「えー?だってさぁ、人気者のヨシザワがたった1人を選んじゃったら、泣く子がめっちゃ
 大勢出ちゃうっしょ。今は皆のアイドルってことでいいのさ」
案の定、ひとみは得意げに朗々と口上を述べた。話題が逸れたことにこっそり安堵
しつつ、真希も口を合わせる。

「幸せだねぇ、よっすぃは」
「まぁね」
「………後藤は駄目だわ、ほんと」
「ごっちんはよう、口に出さないけどネガティブ思考だよね」
「うん、最近、自覚してきた」
「遅いよ、気付くの」
「そうかもね」
787 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:40
会話の間に幾分冷め始めたコーヒーを啜りながら、諦めに似た表情で真希は自嘲気味に
肩を竦めて応えた。これじゃ、要領が悪いって梨華ちゃんを笑えないね。


「てゆっかさ、いつから気付いてた?」
「何が」
両手でマグを包み込んだ真希が、ちらちらと横目でひとみの反応を気にしながら
ふと思いついた疑問をそのまま吐き出す。
怪訝そうに眉を顰めて自分を見返すひとみに負けじと、真希は「だから」と続けた。

「後藤がさぁ、梨華ちゃんのこと好きなんだって確信したの、いつから?」
「えー?」
「だって、すっごい自信持って言い当てたじゃん、よっすぃー」

真希自身が、友達以上ご主人様未満という梨華を相手に抱いた感情が何であるか、
自覚し始めたのはそう早い段階ではない。
まして、頻繁に真希と梨華のやり取りや生活を具に観察出来る環境にない筈のひとみが、
迷いもなく事実を言い当てたことに拘りが生まれるのは、変な話でもないだろう。

純然たる好奇心というよりは妙に鬼気迫る表情の真希を相手に、一瞬ひとみが怯む
様相を見せた。
「ごっちん、顔怖い」
「失礼な」
「あんまり睨まないでよコワイから」
先刻の自分を棚に上げて、しゃあしゃあと宣う。

「いつからってゆーか、最初っから」
話題を逸らしておいて、さらりと彼女は答えを落とした。
会話の主旨が外れ掛け、そのまま流しそうになっていた真希が慌てて顔を上げた。
「最初っから!?」
動揺のあまり声が裏返るけれど、気にする暇はない。

788 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:40

「最初っていうか、ごっちんが梨華ちゃんちにいるって初めて聞いたときから。
 それを知ったのって偶然、ウチが梨華ちゃんに用事あって電話して、そんで
 教えてもらったからで、ごっちんは内緒にしてたんだよねー」
「…いや…、それはさ…」

冗談めかしてはいるが、自分を揶揄する響きを含んだ声に真希はもごもごと
言葉を詰まらせる。ひとみを黙らせる反論など、手持ちのカードにはない。

「それで、ピンときた」
「え、そんだけで?」
「それだけって言うけどさ。ごっちんが他人に世話になってるなんて、超珍しいつーか、
 かなり好感触の相手でなきゃあり得ないじゃん。それも、“親友”のよしざーにさえ
 黙ってるなんて、これはもう相当秘めた愛ってやつじゃーないかと」

明るい表情のひとみとは正反対のげんなりした顔で、真希が頭を抱える。
「うわー、そんなんでバレてたのかぁ…」
「あとはまぁ、実際ここに来て2人のやり取り見てればねえ、分かるでしょ」

元々他人の心情の機微に聡く、観察眼の鋭い少女だという認識はあった、そして
最も身近に位置する友人だという材料が手伝ったということも多少は関係あるだろうが、
こうも遠慮なく言い当てられてしまうと真希の立場もない。

「だから、よっすぃーすっごいからかってたんだ、後藤と梨華ちゃんのこと」
「やー、だって面白いんだもん」
「そんなに分かり易かったかなぁ」
「あっはは、多分誰でも気付くね、梨華ちゃんとごっちんを見てれば」
「マジで!?」
「気付いてないのはお互いばかりじゃよ」
「嘘ぉ?」

流石に顔色を変えて聞き返すと、豪快な笑い声が当然だと言わんばかりに答えた。

「大体さ、家出て、居候しようと梨華ちゃんちに駆け込んだ時点で自覚すべきっしょ。
 ごっちんみたいに人付き合い得意じゃない人がさー、何とも思ってない相手の家に
 来るはずないし、そのまま居着くなんてある訳ないんだから」

789 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:41

「…そうだったね。それもそうだわ」

腑抜けた表情でポツリと、ぼやき半分に同意を表した。
そう、いつも気付くのが遅くて、後悔するんだ。
だけど、梨華の家で手にしたものはそんな後悔の気持ちなんか消し飛んでしまうくらいに
大事な収穫だった。その筈だ、言い聞かせて、そう続けて、終わりを迎えるんだ。

「でも、もう決めたから。一歩、踏み出せなくなる前にここを出て行く」

床に視線を落としてきっぱりと告げた真希を見るひとみの目に、瞬時痛ましげな感情が
込められた。友人を茶化して笑っていたおちゃらけた表情はもう抜け落ちている。
「そっか。もう、決めたんだ」
「うん」

それでも、余計なことを言うつもりはないとばかりに口を結んでいた。ひとみは自身を
傍観者だと認めている。成り行きを、黙って見届けるだけだ。
そう、彼女もまた、決めている。

790 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 18:41


791 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:42

「…はい、それでは午後三時に。よろしくお願いいたします、失礼します」

早口に言って受話器を置いたのを見計らって、梨華は彼女に話し掛けた。
「市井さん」
「うあっ」

通話を終えて一息ついた背中と肩がびくりと震えて、目を丸くした市井紗耶香が
慌てた形相で素早く振り返る。デスク上の書類がばさばさ音を立てた。
全身全霊で驚きを表現しているのが可笑しくて、梨華は小さく笑う。

「珍しく挙動不審ですね」
「いきなりびっくりさせるなよ、石川」
「そんなあからさまに驚かれると思いませんでしたもん」
「つーか、こっちの課に顔出すの珍しいね、どした?」

言いながら時計に目を走らせ、何事かを手元のメモに書き留めている市井の姿は
それこそ立派なキャリアウーマンじみていて、梨華は真希の『ちゃんと社会人を
やっている』という賞賛は、彼女が受ける方が相応しいだろうとふと考えた。
勿論、真希はあり得ないと否定するだろう。
「あ、あの…」

いや、今は後藤真希の存在は頭から消し去るべきだ。声に、動揺が出ないように。

本当に不思議そうに自分を見つめる市井の目を見て、梨華は刹那、躊躇した。
どんな理由であれ、この市井という先輩は自分に好意を持ち、真剣に自分との
ことを考えてくれている。対して、梨華自身はどうだろうか、目先の感情にばかり
囚われてはいないだろうか?先走ったと後悔はしない?

(ねえ梨華、大丈夫?)
792 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:43

「おい、石川ー?」
ひらひらと自分の顔の前で手を上下させる市井のきょとんとした顔。
大人びて、仕事も出来て、リードも上手で、話も飽きない。そして時々、こんな風に
子供っぽくて、歯を見せて笑う顔は充分過ぎるくらいに魅力的だ。

(大丈夫。あたしは市井さんなら…)

「いつから行って、大丈夫ですか?」
「え、何が?」

本気で分かっていない様子の市井は、元から大きな目をさらに見開いて、ぱちぱち
とニ、三度瞬きをした。「ちゃんと主語入れろよ、オマエ」
流石に切れ者の先輩と言えど、職場でいきなりプライベートな話題までは咄嗟に頭の
切り替えが利かないらしい。また1つ、市井についての知識を増やした梨華は、
照れ笑いと共に「もう、」とわざと膨れたフリをした。

「だから、市井さんちに、あたしが行くんです」
「ん?晩飯でも招待してたっけ ――――――――――――― あっ!」

見当違いな独り言を呟いてから、市井は頬杖を突いていた手をぱっと放した。
ガタンと音を立てて椅子から跳ね上がるように背筋を伸ばし、背後に佇むの梨華の顔を
まじまじと覗き込む。
瞳に映るは、歓喜と疑義。そして惚けた表情の梨華自身。
何だか、ちっとも可愛くない。そんな風に見える、自分の姿だ。

「…それ、オッケーってこと…でいいんだよね?」
「はい」
「マジで、うちに来てくれるの?」
「…はい」

793 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:43

真正面から見据えられて問い質されると、腹を決めていたとはいえさすがに緊張が
込み上げてきて、梨華は真っ赤な顔で必死に何度も頷いた。
何処と無く、信じられないといった様に浮ついていた市井の顔が、ぱっと華やいだ。

「うっわ、すっげー嬉しい。いつでもいいよ、こっちは。石川の都合良い時で。
 それより石川、嬉しいから抱きついてもいい?」
「こ、困ります!こんな所で」
「冗談だよ」

周囲に視線を走らせ、声を潜めてぶるぶる首を振った梨華に破顔する市井。
本当で彼女の腕が伸びてくるんじゃないかと一瞬身構えてしまった梨華は、羞恥が
先行して思わず俯いてしまった。
ここが職場でなければ、十中八九、今は彼女の胸の中だろう。

「ったく、こんな所でそんな大事な話、するなよなぁ」

言葉の割に、そう言って笑った彼女の表情は、先程梨華が魅力的だと認めていた笑顔より
ずっと眩しく、輝いているように見えた。
そう、彼女は喜んでくれている。梨華の返事に喜んでいる。
だから、これでいい。あたしは間違ってなんていない。

子供のようにはしゃいだ素振りの市井を見ながら、梨華は言い聞かせるように胸の中で
ずっと念じ続けた。そうしないと、罪悪感に潰されるような、後ろ暗い予感と共に。
794 名前: 投稿日:2006/04/12(水) 18:43

◆◆◆

795 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/12(水) 18:44

感情の暴走を畏れて、予防線を張って、そうして過ごしていくのに不都合
なんて感じなくなった。当たり前のことになった。

796 名前: 投稿日:2006/04/12(水) 18:44

◆◆◆

797 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:45

「…やぐっつぁん、抱きしめてもいい?」

恐々、囁くような小声で問うとこくりと直ぐに頷いた彼女。
笑っているのに、今にも泣き出しそうな潤んだ瞳をそれ以上見たくなくて、腕を伸ばして
すっぽりと自分の胸の中に包み込んだ。
………このまま、誰の目にも触れないように、
自分の中だけに彼女を閉じ込めておけばいいのに、そう出来たらいいのに。
内なる願いは誰に聞き届けられる筈もなく、今にも崩れ落ちそうになる膝に力を込めて
何とか、その場に自意識を留められるようにただ尽くしていた。


小柄な彼女の身体は、抱き締めるとその体温の高さがダイレクトに自分に伝わり、
文字通り小動物を連想して何だかおかしくなった。
柔らかい身体にしっかり腕を回し、力を込めた。
自分の腕の中へ誂えたように収まった彼女からは、ふんわりと良い香りがして、頬に触れる
彼女のさらさらした髪から漂っているのだと遅まきながら気が付いたのだった。

熱っぽい自分の体に、真里のひんやりとした髪の冷たさが心地良い。

「やっぱり、やぐっつぁん、ちっちゃいよね」
「うっさいよ、ばか」

抱き締めている、そんな状況に照れ臭くなって憎まれ口を叩いた。
それでいて、
あまり力を入れ過ぎると小さな彼女は容易く壊れてしまいそうで、それでも一度自分の
手の中に納めてしまえば手放す離すことなんて到底出来そうもなくて、
不意に、目頭が熱くなった。
798 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:45

――――― ああ、覚えている。

この光景を覚えてる。


その日、決定的な失恋を経験して赤い目をした矢口真里。

小さな体、小さな手、小さな顔、大きな瞳、雄弁で魅惑的な唇、
その双眸から流された大粒の涙、
閉じられた唇から搾り出された嗚咽、
彼女を形成する何もかもを愛して止まなかったけれど、
何一つとして真希が手に入れることは終ぞ、叶うことはなかった。

胸の中で、くぐもった声で矢口真里は「苦しいよ」、と小さく笑った。
無理をしている声は聞きたくなくて、一層に腕に力を込めた、そんなことを。

年上の、それも一方的通行の恋の相手に一晩中付き合い、
高校の入学式を迎えたその日の明け方、日の出が上がるよりも早くに交わした会話。

「ありがとう」
「元気でね」
「それじゃ、後藤はもう、行くね」


――――― これが最後になるって、おそらく自分でも分かっていた。

恋焦がれてやまなかった、彼女との別れの光景。
最後に抱き締めた感覚。掌に感じた温かさと胸が焼け付くような焦燥と恋慕、
くっきりと胸の中に色濃く影を落とす喪失感。

帰りの新幹線の中で自分がどれほど憔悴するかを考えると、早くも憂鬱だった。
だけど、帰らなければならない、入学式には一睡もせず出席することになる筈だ。

「……大好きだよ」
「ずっとずっと、後藤はやぐっつぁんが大好きだよ」

さあ、お別れ。
さよなら、大好きな人。

799 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:45


800 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:46

「………げぇ」

目が醒めて第一声、とても可憐な女子高生(卒業組)とは言い難い低い声で呷いて、
真希はむっくりと重い上半身をソファから無理矢理立ち上げた。
どんよりと脳を圧迫するような鈍い痛みに顔をしかめながら、それよりも重要な問題として
自身の火照った頬に手を当てる。瞼の際が乾燥してピリピリと軋んでいた。

泣いてたのか、後藤さんってば乙女ちっくに。

たった今まで浸っていた夢の内容ならしっかり覚えている。
女々しい自分に嫌悪感すら抱いた。
「……とっくに吹っ切ってるのに、今更こんな…」
吐き捨てるように呟いて、ぐしゃぐしゃと右手で乱暴に髪の毛を掻き毟った。

理由は分かっていた。
市井紗耶香の存在のせいだ。
毛嫌いしていようが、真希としては認めざるを得なかった。今、自分を不安に貶めている
何よりの原因が、梨華に近付く市井に起因しているものだと。
矢口真里の時のように、自分が酷く傷付く立場にいるのだと。

先行きの暗い予感が、もう3年近く前になる矢口との別れを思い出させ、尚且つ涙まで
流してしまっているのに違いなかった。
いっそ、単なる未練なら良かったのにね、やぐっつぁん。

自嘲気味に呟いて、真希は薄く笑った。

( ―――― まだやぐっつぁんに片思い引き摺ってるだけだったら、
 なっちさんの存在で潔く諦めることが出来たのに)

801 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:46

後藤が梨華ちゃんの側から離れたら、
また、市井ちゃんに掻っ攫われるのかな。
つくづく、後藤の天敵だな、市井ちゃんてば ――― 本当は、自分の意気地なさが
多分1番、許せなくて嫌なんだけど。

だって、自分の意思で、真希は梨華の元を出て行くことに決めたのだから。
その後の梨華がどんな決断をし、誰と添い遂げる道を選んだとて、どうする権利も
力もない。おそらく人伝に聞いて、そうか、と自分を無理矢理納得させる程度にしか、
彼女の生活圏に介入する術はない。


(仕方ないよね、いつまでも成就しない思いに雁字搦めになって、梨華ちゃんだけに
 捕らわれてるわけにいかないもんさ。ごとーはまだ、ただの小娘なんだから)

時計を見ると、PM6:50を表示している。
間もなく、梨華が帰ってくる時刻だ。ほっと息を付いて、真希は安堵した。
もしこれ以上眠りこけて、妙な寝言でも家主の彼女に聞かれていたら、無駄な
ひと悶着でもあったかもしれない。

夕飯の準備を済ませ、眠気に任せて少し横になったのが不味かった。
たっぷり2時間以上も昼寝していた計算になる。勿体無い時間の過ごし方をして
しまったことに幾許かの後悔を覚え、すぐに真希は切り替えた。

なんにせよ、現状で問題は何もない。
直ちに、夕食の準備に取り掛かれ。OK、雑念は振り払った、これより作業に入る。

802 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:46
――――
803 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:47

夕刻、主人が帰宅。
食事を口に運びながら、真希は不審気な視線を隠そうともしない。
つまり、不穏なのは、いらぬ夢を見てしまった真希の方だけではなかったのである。

「…梨華ちゃんさー。なんかあった?」
「え、ええええなななな何かってナニ?」
「あそう、あったんだ」
「どどどどどうして分かるのっ?ごっちんてばエスパー?」
「…エスパーって…凄い久しぶりに聞いたよその単語。ってか、分からないと思ってんの
 その態度で?」

「妙に浮ついてるし」「挙動不審だし」「いつもより化粧濃過ぎだし」
「やったら、食べるの早いし」

指折り挙げていくと、みるみるうちに梨華の表情が曇っていく。
まずい、地雷を踏んだかと真希が怯んだ一瞬の隙に、主導権を梨華が奪った。

「あの、あのね…市井さんにね…市井さんに、一緒に住まないかって」
「はぁ!!?何、それ!?」
「…………」

付き合う、付き合わない。
そんなステップを無視した行動を市井が起こしてくるとは、さすがに予想しなかった。
同棲。
今、自分が梨華の家に居候していることとは全く、異なる意味と目的のそれ。
まさに寝耳に水だ。

「断ったんでしょ?」
「あの……あのね?ごっちん…」
「え?ちょっと待ってよ梨華ちゃん」

口の端が引き攣っているのは、きっと笑おうとしていて、でもそれは失敗している。
真希が、梨華の告白を懸命に笑い飛ばそうとしているのが分かるからこそ、
その顔を真正面から見返すことが出来ない。
一緒に、嘘だよ、なんて笑い飛ばせればどれだけ楽か。

「……何だよ、冗談なんでしょ?」
804 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:47

「ごめんね。あのね、聞いてくれる…?」
「マジで、っすか?はー、もぉマジでー!?」
珍しく大声を上げ、真希が投げやりな態度でくしゃり、と前髪を乱暴に掻き乱した。

そんな行動の端々に、自身を非難する響きを敏感に感じ取り、梨華は身を硬くする。
梨華の視線はひたすらに、じっとフローリングの床にだけ注がれていた。
こんなに深刻な場面なのに、やっぱり石川家のリビングは散らかっていて、
生活感丸出しの緊張感のないこの部屋で、こんな重苦しい空気を背負っているのが
何だか滑稽なようにも思えてしまう。

「だって、大して打ち解けてるワケでもないんでしょ?
 そんな思い切ったことして大丈夫だって自分で思ってるわけ?」
「…最近、普通に話は出来るようになったし、ランチはいつも一緒してる」
「はー、そりゃ結構なことで」
「………」

いつだったか、真希がクレーンゲームの景品として取ってきたブルーのプーさんが、
険悪な雰囲気の2人を、梨華を、静かに見つめていた。
矢口真里と一緒に取った、それ。
彼女が言っていた。『紗耶香はね、寂しがり屋なところがあって』 ―――
だから、梨華ちゃんと同棲ってか?ふざけんな、あんにゃろう。

などと口に出せる筈もなく、梨華もまた何も言わず、
沈黙が痛い。
耐え切れずに、先に口を開いたのは梨華だった。

「市井さんはね、半年後には渡米することが決まってて。海外赴任ってすごいことなの、
 だから、立派なことだから、市井さん勿論その話を喜んで受けるんだけど、その前に…
 ……向こうへ行くまでの残った時間、あたしに側に居て欲しいって。一緒に、暮らして
 欲しいって。今だけ、だって。日本で自由に過ごせる時間は今だけなのに、その時間を
 あたしと一緒にいたいって」

805 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:48

声が震えそうになるのを、唇を強く噛み締めて堪えた。
そんな弱い心を、真希に気取られてはならない。それだけは、はっきり自覚していた。
みるみるうちに険しさを増す真希の表情に気持ちが萎えそうになるが、それも堪えた。
腹に力を込める。言わなきゃ。

「だからね、だから……あたし、どうしたらいいか迷って」
言った。

「一緒に、側にいてあげるべきなのか、それともきっぱり断るべきべきなのか。だけど…」
「いーよ、もう」
「ごっちん」

「いい、その先は言わなくても分かるから」
真希の口からは淡々と声が漏れ出した。
自分で想像したよりもずっと、冷たく突き放す声が出たことに、内心驚き焦りながら。

「承諾、したんでしょ。あたしでよければ、とか、思ったんでしょ」

何で、と擦れた声を上げた梨華から、真希はふいっと視線を逸らした。
半分はカマを掛けたつもりで、もう半分はほぼ確信に近い見解を述べただけ、
そしてその推測は外れではなかった、それだけのことだ。

「お人好しも、度が過ぎると単なる馬鹿だね」
「何よそれ」
あからさまに挑発の意図ある言い方にさすがにカチンときて、強い口調で言い返すと
思いの外好戦的な表情で睨まれる。思わず、体が竦んだ。
威圧感のある態度に、年上である筈の梨華の方が怯んでしまっている。

806 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:48

「だって梨華ちゃん、ホントは嫌なんじゃない?市井ちゃんと一緒に住むの。
 はっきり断ればいいのに、ずるずる流されちゃってさ」
「嫌なんて思ってないもん。ごっちんに何が分かるのよ!市井さんは…」
「『仕事もできるし頼りになる憧れの先輩』、でしょ?」
「そうだよっ」

「だから逆に、梨華ちゃんみたいに必要以上に他人に気を遣う性格で、
 その『憧れの先輩』なんかと共同生活が上手く運ぶとは思わないんだけどな」

「…あたしは、そう望まれたの、一緒に住んで欲しいって、市井さんに望まれてるの。
 それを拒む理由なんてない………ないもの」
「無理にそう、自分に言い聞かせてるだけじゃないの?」

核心を突かれた。それが逆に逆鱗に触れた。
我を忘れて、梨華は口調を荒げて叫ぶように言い放った。

「だって、ごっちんは出て行くんでしょう!?北海道に行っちゃうんでしょう!?
 あたしが、ならあたしがここを出て行って何が悪いのよっ!」
「…後藤が出てくこと、関係あるの?」
「ないわよ、バカッ!」

―――― 支離滅裂だ、自分を叱咤しながらそれでも飛び出してしまった言葉はもう、
取り返しがつかない。唇を噛んで睨む梨華と、真っ直ぐに口を結んで静かな苛立ちを
募らせる真希。その真希が、口元を歪めてクッと笑った。

「結局、梨華ちゃんは寂しいから市井ちゃんと住むってこと?1人になって寂しくて、
 タイミング良く市井ちゃんに誘われたから、それに乗ったって?」

「分かった風なこと言わないでよっ!何よ、ごっちんだって何の相談も無く、勝手に
 出てくこと決めたんでしょう?なのに、あたしが決めたことには口出すっていうの!?
 ――― 大体、あたしが誰と住もうがそれがごっちんの知り合いであろうが、
 あなたには関係ない話じゃないっ!!」
「…………」
807 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:48

激昂して声高く言い放った梨華を前に、
真希は不自然な程表情を変えなかった。顔色も変えず、眉1つ動かさず、微動だにせず、
口を結んで梨華を見据えている。ただただ、体勢を変えることなく。

「あなた、とか初めて言われたな」
「…ぁ…」
「関係ない、と」
受けた言葉を繰り返して、自重気味に声のトーンが下がる。
「……ごめん」
「そりゃ、まぁ、確かにそーだわ。後藤には関係のない話だね。口出しする権利
 なんて、最初からないよね。梨華ちゃんの言う通り、じきにここから出てく身だし」

不意に、リビングに立ち込めていた熱い空気がふっと掻き消える。
残ったのは、表情を無くした真希と、戸惑った様子の梨華の2人だけ。

「ごめんね、梨華ちゃん。うるさく言って」
「ちが…」

違うよ。違うのに。
何で、謝るの。
何で、目を逸らすの。
何で、そんな、―――― 突き放した言い方するの。
808 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:49

「違うの、ごめんごっちん、今のは…」
「別に、梨華ちゃんが謝ることじゃないし」
「ごっちん」
「家出娘の居候が、生意気言ってごめんね」


―――― 本当は、嘘を付いてるのはあたしで、正しいことを言ってるのは彼女

(そんなこと、分かっているけど)

「………ッ」
1番言いたいことが、訴えたいことが、声にならない。
本心を伝えることがどれだけ、今後悪い影響を齎すか、予想出来ないではなかった。
たった数ヶ月、共に過ごしただけの居候相手に、依存という形で寄り掛って、
それがとても楽で、心地良くて、手放したくなくて、

―――― だけど、彼女はもっと未来を見据えていて、それを放棄した

(なのに、年上のあたしが、立ち止まってぐずぐずしてどうするのよ)

苦心して抑え込んだ感情も、伝わらないよう必死に表情を取り繕って否定するのも、
全部、「この家を出て行く」と宣言した彼女を思うが故の、足枷にならないよう考えた
結果なのに。どうしてこう、上手く伝わらないんだろう?
何が、誤解させるんだろう?

喉が詰まって言葉にならない梨華の目に、うっすらと涙の膜が張る。
ゆらゆらと歪む視界、揺れる部屋の中で涙が転がり落ちないよう、梨華は歯を食い縛った。
目を逸らし、磨かれたフローリングをじっと見据える真希の視界に、それは写らない。
どんなに我慢したって、耐えたって、お互いはお互いを見据えてないのだから、
肝心な気持ちは何も伝わっていない。
809 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:49

「で。いつから?市井ちゃんちに行くの」
「来週…もう、移る準備、しようと思ってる」

重苦しい空気の中、爪を噛んでいた真希が低く押し殺した声で、聞いた。
答える為に、梨華も緩慢に顔を上げた。涙目なのがばれてしまわないよう、敢えて視線は
窓に向けて。唇が震えてしまうのは、止めようもなかった。

「また、急だねぇ。市井ちゃんも強引で自分勝手なとこは変わってないなー」

(ううん、本当はあたしが行くって言ったんだ)
否定し、真実を告げる気力さえ、沸かなかった。真希が勝手に推測し、市井を非難する
のを梨華は自己嫌悪に似た思いを抱えて受け止めていた。

「ま、テキトーにがんばって」
微苦笑に、呆れと諦めを滲ませて。
不意に、真希がガタンと椅子を引いて立ち上がった。無言で空になった皿を片付け
ながらキッチンへと去っていく。がちゃがちゃという皿同士が鳴らす音ばかりが、
虚ろにぼんやりする梨華の耳に届いて来た。
水道の蛇口を捻る音と、真希が言葉を発したのはほぼ同時だった。

「じゃぁ、後藤はもう今週中に出てくから。それでいいよね」

同意を求めるのでも、確認する意図もない。明確な「宣言」だった。
梨華はそっと目を瞑った。そうして、黙って膝を抱える。
真希はもう、それ以上何も言わなかった。

810 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 18:49

811 名前:13.  投稿日:2006/04/12(水) 18:50

「じゃ、高橋あとよろしくね」
「あーい」

バイトの制服を脱ぎ去るのは一瞬で、私服に着替えた真希は店内の菓子類を
何とはなしに物色していた。時刻は午後3時、今日は日曜日の筈だったけれど
高校を卒業し、取り合えず現時点では春休み真っ只中の真希としては、だから
どうこうしようという気分でもない。

梨華は確か、高校時代の友人と買い物に行くと言っていた。特に目的も約束も
無い真希は暇だ。だから、何時までもバイト先の店内でぶらぶらしている。
やる事が無いなら石川家に戻って荷物の片付けでもすればいいんだ、
いや、それはそのつもりなんだけど、ちょっとね、今は、まだ。

結局溜息を付いて、真希の店の外へ足を向けた。
勤務中に目星を付けていた新製品のお菓子は、気分の優れない今、目にすると
そう美味しそうには見えなかった。

「あ、後藤さん」
「ん?」
自動ドアがうぃーと開いたところでバイト仲間の高橋愛に呼び止められ、回れ右をした
真希はそのままレジ側まで引き返した。
仕事が終わってから積極的に後輩である彼女に引き止められることは経験上、
少ない。「どうした?」

「あの…」
緩いパーマを掛けたらしい高橋は、急に成長して大人になったような印象を受ける。
それでも、相手の目をしっかり見つめて話す態度やまん丸の瞳は変わらない。
その高橋が、少し言い淀んで、結局口火を切った。

「今月一杯で、後藤さんここ、辞めちゃうって」
812 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:51

「あー。ごめん、言わなくって」
「いいえ、でもほら、調理師学校行くって、進学のためなら仕方ないですもんね」
「もしかして、よっすぃから聞いた?」
「はい」

こっくり素直に頷く高橋の髪がふうわり弾む。どうやら、色も抜いたらしい。
などと冷静に観察する一方で、真希は心中で舌打ちを1つ。よっすぃーのヤツ、
この調子じゃあっちこっちで吹聴して回ってるな?まったくもう。

もし仮に、高橋が「ならお別れ会でも」などと言い出すようなら丁重に断ろうと考えて
いた真希だったけれど、意に反して彼女の口からは予想外の言葉が飛び出した。

「余計なお世話かもしれないですけど、後藤さん、ちゃんと納得して行くんですか?」
「は?」
「あ、いえ、怒らないでください!」
「いや、怒ってないし。ていうか、何で?」

咄嗟に顔を引き攣らせて手をぶんぶん振る高橋に、作り笑いを浮かべて見せる。
怒ったつもりはないので、彼女が怯えた表情になったのは少しショックな真希だった。
取りあえず、話を促すと高橋はやや口篭るように、言った。

「だって最近少し、憂鬱そうっていうか、なんか……悩んでるみたいだから」

返事に詰まったのは、それが否定出来ない事実だったからか。
答えに窮して立ち尽くす真希を見て、高橋はそれが失言だったと思ったのか、ハッと
口元に手を当てた。くぐもった声で「すみません」と呟くのを辛うじて聞き取る。

『別に、大したことじゃないから高橋は気にしなくていいよ』

早く、そんな風に笑ってやらないと、彼女が不必要なことで気に病んでしまう。
頭の中では冷静な自分がそんな風に告げるのに、真希の唇は動かない。
こんなあからさまに動揺した状態で笑い掛けてもきっと、引き攣った表情しか生まれない。
813 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:51

「ゴメンナサイ、後藤さん。出過ぎたこと、言いました」
「あ、いや」

彼女のどんぐり眼に翳りが帯びて、ぺこりと頭を下げた拍子にウエーブがかった髪が
ふわふわと揺れる。少し前までポニーテールだった黒髪の面影はなく、すっかり子供
らしさを脱ぎ捨てた高橋愛の姿に、真希はふと時の流れの速さを実感した。
場違いだ。こんな時に。
心中で吐き捨てて、ようやく真希は笑顔を浮かべる。

「気にしないでいいよ、やっぱさ、新天地に引っ越すことになって多少はちょっと、
 不安もあるっていうか。すぐに慣れると思うし、大丈夫だって」
「そう………ですか?」

まだ不安気な面持ちの高橋に、今度は苦笑を向けた。
「だーから、気にしないでいいって言ってんの。じゃ、もう行くね。あとヨロシク」
「はい」

きっぱりと話を打ち切って手をひらひら振ってやると、ようやく高橋の顔から硬さが
若干抜けた。変な所で責任感の強い性格だ。
踵を返した真希が自動ドアの前に立った瞬間、「あ、後藤さん!」と今日1番の大声を
高橋が上げた。呼び止められて、素直に振り返る。

「卒業、おめでとうございます」
「…遅いよ、言うのが」

満面の笑みで祝辞を述べた高橋に捻くれた返事を投げて、「一応来週まではまだバイト
来るから」と告げると彼女は至極嬉しそうに、微笑んだ。

814 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:51

―――― お疲れ様でしたー


後輩かつバイト仲間に見送られて、真希はようやく店を出た。

“悩んでる”か。
ジャケットのポケットに手を突っ込んで、独りごちる。高橋愛の意外に鋭い指摘には
驚いたものの、確かにその通りだと素直に認めざるを得なかった。
現実的には実家に戻り、北海道へ発つと決定事項が下されている。問題なのは、
感情が追い付いていない事だ。高橋が「悩んでいる」と示したのもそれが表情や仕草、
行動に影響を及ぼしているせいだろう。

店の裏手にあるスタッフ専用駐輪場へぼんやりと考え事をしていた真希は、肩を
叩かれるまでその存在に気付かなかった。
とん、と軽い調子で小突かれて、振り向く。
「うげ」
瞬時に顔をしかめて、蛙が潰れた様な声を出す。実際に蛙が潰れた瞬間の鳴き声を、
真希は聞いたことなどないけれど。

「市井ちゃん」
「よっ」

思い切り眉を顰めて露骨に嫌悪感を表しているにも関わらず、市井紗耶香は白い歯
を見せて笑っていた。片手を上げて、苛立つくらい無駄に爽やかに。

「冬なんだから、そんな登場されても寒いだけなんだけど」
皮肉っぽく嫌味を言っても、当の市井は気にする様子もない。むしろ、笑顔の中の
真剣な眼差しが引っ掛かり、真希の方が変に気後れしてしまっている。

(…梨華ちゃんのこと、しかないよな)
直感というには余りに安易だ、けれどこの場で市井が自分をわざわざ訪ねてくる
理由など思い付きはしなかった。実際、梨華が告白したタイミングを考えれば
間違いなく市井の目的はそれしかないと言える。
815 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:52

「あのさ、後藤、ちょっといいかな?」
「やだ」

無碍に一言で切り捨て、ふいっと顔を背けて立ち去ろうとする真希。
慌てて、市井が追い縋る。
「頼むよ、ちゃんと、話したいんだ」
「……少しだけだよ」

必死に、懇願する市井の声に本気を嗅ぎ取り、逃げても無駄だと呆気なく陥落する。
呷くように、搾り出すように、ぼそりと低く真希が言い捨てた。
そんな真希の後ろ姿を見て、市井は安堵の息を吐き、同時に憂うような心苦しさ
を覚えて口を噤んでしまった、

肩口まで伸びた髪がさらさらと流れ、彼女の表情は隠れて見えない。
――― きっと、本意でない、そんな顔してるんだろ。



結局、2人は歩いて数分の距離である駅前のCHOKOLOVE(喫茶店)へと場所を移した。
勿論、移動の最中に会話などはない。市井の方は気を遣って何かと話し掛けようとするのだが、
真希の方が全身で拒絶しているのだ。
先行してずんずん歩いていく、かつて可愛がっていた後輩の後ろを歩きながら、
市井は何度めかの嘆息を漏らした。

沈黙のままの散歩は、本当にたった数分だ。当人達にとってはもう少し、長く
感じられる様な苦行の時間だったけれど。

真希にとっては先日矢口と逢う為に訪れたこの店も、市井にとっては数年ぶりの
来訪になる。
店内を見渡してへぇー変わらないなぁなどと呟いていると、とっくに店の奥へ歩を進めた
真希が冷たい視線を向けているのに気付いて、苦笑いしながらその向かいへ腰掛けた。

「えっと、なんつーか……久しぶり」
「前も会ったじゃん、つーか市井ゃんが呼びつけたじゃん、夜のお食事会に」
816 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:52

警戒の色濃く皮肉り、敵意露に自分を見据える後輩に再度、苦笑を零す。
取り合えず2人分のコーヒーをウェイトレスに注文し、市井は露骨に自分を睨みつける
真希へと視線を戻した。

「あんまりそう睨むなよ、お前、ホント目つき怖いから」
「で?本題はなに?」
「多分、後藤の予想通りだと思うけど」
「あそ…」

何となく、お互いに黙り込んだまま時間が経過する。
真希はただじっと耐えていた。
市井の話など耳を塞いで拒否し、この場から逃げ出したいという衝動に駆られる
自分と、しっかり膝を突き合わせて決着をつけないとダメだと主張する自分もいる。
理知的に後者を支持した真希は、じっと市井が話し始めるのを待っている。

やがてホットコーヒーが運ばれて来て、ふと重たい空気が動いた。
きっかけとしては、それで充分だ。

「市井さ、石川と住むことになったから」

明瞭な発音で、真希へと自分へと双方に言い聞かせるように、市井が口火を切った。
射抜くような視線も、偽りない澄んだ目も変わらない。
彼女は昔から、自分が選んだ道には迷いなく進んでいくのだ。そんな時、彼女はよく
こんな目をすることを、真希は知っていた。

中学1年生の頃、生活の荒んでいた真希を戒めに来た当時の市井紗耶香もまた、
この行為が間違いなく正しいと信じている様子で、こんな目をしていた ―――

「梨華ちゃんから聞いたよ」
「そっか。そうだよな、今、一緒に住んでるんだもんな、2人」
「それを報告する為だけに待ってたワケ?」
「いや、何つーか…」

いちいち簡潔に返事を寄越す真希に戸惑い、気圧されて、
市井の口調が歯切れの悪いものになる。
817 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:53

「一応、直接言っといた方がいいかなーとか、思って」
「何?『ほら見ろ石川はやっぱり市井を選んだだろ』とか自慢するために?」
「突っ掛かるな、なんか」
「別に、市井ちゃんに絡みたい理由なんてないし、後藤としては出来れば早くこの話を
 ちゃっちゃと打ち切って帰りたいんだけど」
 
怒気を孕んだ口調で早口に迫ると、観念したように市井が両手を合わせた。
あ、市井ちゃん拝んでる。拝んでる?誰に?ごとーしかいないじゃん、
何で?馬鹿じゃないの後藤は神様仏様じゃにんだけど?
訳も分からず混乱し、ぎょっと慄いて身を引く真希に、手を眼前で合わせたまま
市井紗耶香は片目だけを開けて、「頼むっ!」と声を上げた。

「な、んのつもりなの市井ちゃん」
「 ―――― 矢口に対しての前科があるから、後藤は市井を信用できないかも
 知れないけど。でも、頼む。今回ばかりは、石川、譲って」

「譲るって……そんな、モノみたいに。 梨華ちゃん聞いたら怒るよ?」 

困惑する真希からは、既に怒りの色は消えている。ただ、この状況が全くもって
理解できかねるため、困っているのだ。
梨華自身が、市井紗耶香の元へ行くと、一緒に暮らすとはっきり真希に告げたのに、
何故、改まって彼女はわざわざ自分の前に現れ、頼み込む必要があるのだろう。

「石川は、市井に惚れてない。これから、好きになってくれる可能性もないと思う。
 しかも、半年後には海外転勤だし、無責任に石川を置いてく立場なんだ」
「………」
「アイツの気持ちが完全にこっちを向くことがないなんて、胸張って断言できちゃうのは
 正直、悔しいんだけど、それでも市井は石川がいいんだ。側にいて欲しいんだ」
「……それで?
 ただ、惚気たいだけじゃないんでしょ?」
 
じくじくと、胸の奥へ墨を流したような薄黒い染みが広がっていくのを感じた。
虚勢を張って、何でもないフリをして、面倒臭いといった風に真希は毅然と市井を見返す。
818 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:53

「だから、頼むよ後藤。快く認めろなんて言えないけど、ちゃんと、承諾して欲しい。
 多分これが最後の我侭になると思う……から」

(こーいうところ大嫌い、本当に)

つまり、市井は真希に対してフェアにいきたいのだ。
彼女なりのプライドと、真希に対する弁解の意と、自分なりの納得を経た上で、石川
梨華を迎えたいのだ。そうまでする程つまり、梨華が大事なのだ。
(ホント、正直過ぎて、天然で正義振りかざしちゃうから、ムカツク)

市井ちゃんなんて大嫌いだ、ちくしょう。

市井の心情を全て見抜いた上で、真希は突き放す手段に出た。
最後の悪あがきのようでみっともないけれど、相手が相手だ、遠慮する理由はない。

「後藤の了解なんて得なくても、梨華ちゃんが承諾したんなら、反対も何もないでしょ。
 別に、勝手にすればいいじゃん」
「いいの?本当に」
「だから………何度も言わせないでよ、勝手にしなよ」

乱暴に撥ね付けて、真希は既に冷めかかって温くなったコーヒーを一口だけ飲み下し、
がちゃりとソーサーに戻すと同時に勢い良く立ち上がった。
ジャケットの裾を翻し、市井に背を向けたまま「帰る」と短く言い捨てて。

「なんつーか間が悪いよな、ウチらってさ」

苦笑いで市井が呟く声が背中に追い掛けて来たけれど、振り返らなかった。
紛れもなくそれは彼女の本心に他ならず、真希もそれにはほとほと同意だった
けれど、もう一度市井の顔を目にする気にはなれない。

―――― 本当に、間が悪い。自分達は。

819 名前:13. 投稿日:2006/04/12(水) 18:54

「後藤はやっぱり、市井ちゃんのこと嫌いだ」

ぶつぶつと呟きながら、
大股の早足で、荒い足音と共にバイト先のコンビニ駐輪場まで戻って来た真希は、
原付の鍵をポケットから探り出そうとして ――― 冷たい空気に晒され悴んだ指先が
それを取り落とした。
「あっ」
カシャン
渇いた音が何故か耳に痛い。路面に投げ出された鍵を拾おうと腰を屈め、真希は
そのまま立ち上がれずに膝を折って座り込んだ。 

「……なんで、だよ」

呟きは市井に対してか、梨華に対してなのか。

歯を食い縛り、全身を震わせた。悔しいのか悲しいのかもよく分からない。
ただ、自分の不甲斐なさを情けなく思う自分だけははっきりと自覚していた。
そして、震えが寒さのせいだけでないことも充分すぎる程、分かっていた。



一方、喫茶店CHOKOLOVEに残された市井もまた、脱力して動けずにいた。
ほとんど減っていない真希が残したコーヒーカップを見て、感慨深げに呟く。
「昔は砂糖もクリープも全部ぶっこんでたくせになぁ」
―――― 大人になってるんだよ、後藤、お前だって。気付かないだけで。

本当は、分かっているんだ。
石川が後藤を気にして返事を濁していたことや、
後藤が石川を引き止めたくて仕方ないのに、大人ぶって堪えていること。
だけど、分かっているけれど。
何事にも一生懸命で、おっちょこちょいで愛らしい彼女に側にいて欲しい、その願望
だけは変わることもなく、譲れないってこと。

それでも、胸を覆う輪郭の見えないぼんやりした不安感だけは拭い切れなかった。
梨華が市井の元へ来ることを承諾しても、真希が勝手にしろと他所を向いても、
尚全身に纏わりつく焦燥に苦しめられている。

傍から見て、彼女たちの結びつきはそれだけ市井にとって脅威だった訳で、
幸いだったのは、当人達自身がその強固な絆を認めず、意識していないことだった。
だから、逆に。

(あいつらがお互い正直に突き進んじゃったら、市井の出る幕はないんだよなぁ)


勿論、そんな展開にならないよう、市井紗耶香は祈るしかない立場にあって、
けれどその思惑とは相反する気持ちが芽生えているのも否定できなかった。

青春映画の様に、自分達を取り巻くもの全てを投げ出したった1人の存在の為に
―――― なんて、現実世界であるとも思えないんだけど、
アイツらなら、もしかして。
物語の主役みたいに、急展開とか見せてくれちゃったりするかも知れないな。
市井には絶対巡ってこない、純朴な恋愛ストーリーを。


「いやいやいや、期待なんてしてる場合じゃないだろ、市井」
苦笑気味に言い捨てて、市井は椅子から立ち上がった。
820 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 18:54
821 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:55

刻一刻と、真希が実家に戻る日が迫っている。
どことなく石川家の雰囲気にぎこちなさが纏わり付いているのも、そのせいだ。
例によってラブソファに埋もれながら梨華はテレビを観ていて、
キッチンでは真希が黙々と夕食の後片付けに徹している。

真希の様子ばかりが気になって、梨華の方はまともにテレビに意識を向けていない、
それでもこの雑音を掻き鳴らす箱を消してしまえば、極端な静寂が訪れる。それを
畏れて、どうにもテレビの電源を落とすことは出来なかった。

「そう言えばね、ごっちんのお母さんから電話きたよ」

洗い物をしている真希に届くように、梨華が細いアニメ声を張り上げる。
「ん?」と手だけは水道水に打たれたまま、居候の顔が振り向いた。


「やっと家に帰る気になったみたいで、ご迷惑掛けました、近々ご挨拶へ伺いますから、
 って。お礼言われちゃった」
「別に、お礼なんていいのにねぇ」
「ねえ。って、それはごっちんの言うセリフじゃないでしょ!」

ノリ突っ込みの様な形で梨華が切り返すと、真希はケラケラと明るい笑い声を返した。
こんなコントじみた可笑しなやり取りも、彼女の気が抜ける様な乾いた笑い声も、もう聞くことは
無くなるのだ。もうすぐ、タイムリミットを迎えるんだ。

1人しんみりしてしまい、梨華はぺちぺち頬を叩いた。感傷に浸るのにはまだ、
幾許か早過ぎる。声を掛ければ答えてくれる距離に、真希は居るのだ、今は。

(なんだか、涙脆くなったみたい、あたし)
822 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:55

そうこうする内に、台所での作業を終えたらしい真希がリビングへ戻って来るのが
目に入った。彼女もまた、夕食後の低位置である椅子へ腰掛け、丸テーブルの一角に
肘をつき、ぼんやりした垂れ目をテレビに向ける。
勿論、こちらも内容に集中していないのは明白だ。

「心の準備は出来た?」
「え、何が?」
視線だけはテレビの画面に向けたまま、真希が急に口を開いた。心構えがなかった
梨華が顔だけソファから起こして、声の主を見つめる。
相変わらず、居候の目線は無機質な箱から動かない。

「せいぜい、市井ちゃんに遊ばれないようにね」
「何よいきなり」
「同居して初日から襲われたりしないようにね」
「変なこと言わないでよ!」

あまりに淡々と真希が話すせいで、最初は単なる冗談に過ぎないだろうと構えて
いた梨華も、さすがにそこは聞き流せないとばかりに口調を荒げる。
「つか、動揺し過ぎだよ」
強い調子で言い返した割に、梨華の顔はしっかり赤く染まっていて、真希の笑いを買った。

もう、と口を尖らせて梨華は軽く微笑を浮かべている居候を睨みつけた。
最近、富に舐められている気がする、どうも。そんなに威厳ないのかな、あたし。
(最後なんだから、もう少し年上扱いしてくれたっていいのに)
見当違いな方向に怒り矛先が向いていることには、気付かない梨華だ。

「大体、ごっちんとは何もなかったじゃない」
「え、後藤?…がなんか関係ある?」

膨れっ面で膝を抱えて呟くと、真希が興味を示した様子でようやくテレビから
視線を引き剥がし、梨華の方へ身体ごと向き直った。
823 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:56

「だって、一緒に住んで2ヶ月以上経つけど、別に全然そういう雰囲気とかにならないし、
 そういう目でお互い見てないじゃない」

真希のいたずら心で、「未遂事件」はあったけれど。
あれは数のうちに入らない。からかわれただけで、実際には何も無かった。
いや、ある筈がなかった。“あってはいけないこと”だったとも言える。
居候という領域から踏み出さないこと、必要以上に立ち入らないという暗黙の了承は
必然の壁としてずっと梨華と真希の間に存在していたのだ。

「そういう雰囲気って?」
「だからその……襲うとか迫るとか…………聞かないでよ、そんなことっ」
「あーあぁ。そりゃ後藤はね。相手が梨華ちゃんじゃぁね」
「なによぉ、また馬鹿にしてー」
「あはははは」
「悪かったわね、魅力なくて」
「…なんだ梨華ちゃん、襲って欲しいの?」

会話の流れとして、何もおかしい所は無かった。冗談として、軽口の応酬。
それは単なる言葉遊びの延長だ。
間違った要素なんてなかった筈だった。
話ながら真希が不意に梨華へ近付くのだって、珍しい行為じゃない。

そう、それはいつもと変わらぬ淡々とした物言い。へらっと緩んだ口元。
すんなり伸びた手足。その腕がするっと伸びて、梨華の両頬を掌で包み込んだ。
あまりに真希の流れる様な動作が自然体のままだったから。
驚く間もなく、軽く唇同士が触れ合う。

「こーいう風に?」
824 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:56

驚愕は、咄嗟の判断力と行動力を一瞬のうちに無に返した。
「………!…」
呆然とされるがままになること数秒、真希の舌が侵入する気配を察知してようやく梨華は
我に帰った。あらんばかりの力を出して、真希の体を押し返す。
「何するのよっ!」

金切り声は、最早悲鳴に近かった。
はぁはぁと荒い息をついて、居候の姿を睨みつける。
いつもの調子なら、梨華のただでさえ高い声が跳ね上がる時、真希は決まって迷惑そうに
顔をしかめて、大袈裟に眉を顰める。それから、遅れて笑い出す、のだけれど。

数歩よろめいて後去った真希の表情は、怖いくらいに冷静だった。

「何、本気で怒ってんの?……ただの冗談じゃん」

ゆらりと、顔を上げた真希をうっすら影が覆っているようで。
その向こうに見える表情が笑みだと気付くなんてこと、梨華には出来なかった。
初めて目にする静かで暗い表情。その奥底に秘められた、激しい怒りの感情も。

両腕に力を込めて、自分自身を抱き締めるような格好になる。
知らず知らずのうちに、膝が小刻みに震えていた。
恐いのだ、自分は ―――― 何が?怯えている、誰に?
825 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:57

自問自答するまでもなかった。
何だかんだ言って今まで真希が従順な態度を見せていたのは、同居人という枷が
存在していたからだ。それが無くなれば、彼女が大人しく梨華に従う理由などない。

そして、自身の表情を走った怯えの色を真正面で捉える真希が見逃す筈もなく、
彼女が酷く傷付いた表情を浮かべた。
それを目の当たりにした梨華もまた、胸を抉られる思いに囚われた。
(……なんで……?)
何故2人で傷付けあっているのだろう、こんなときに。こんな理由で。


「梨華ちゃんはさ、市井ちゃんがこうやって迫って来るのは平気なワケ?」
「尊敬する先輩だからいいって、自分を無理矢理納得させるワケ?」
「ホント、馬鹿だよ」
「いい加減、その鈍感さがむかついてきた」


呆然と口元を抑え、硬直して立ち竦む梨華の脇、部屋の中を苛々と動き回って、
結局真希はキッチンとリビングの境目の壁に背をつけ、ずるずると座り込んだ。
こめかみを一度強く押さえ、
気持ちを落ち着けるように深く息をついて、
両手で顔を覆ったまま搾り出すように「ごめん」と呟いた。声は擦れていた。


――― そりゃ、勝手に押し掛けて居着いたのは自分だ。
何の相談もせずに、勝手に出てくことを決めたのも、自分だ。

「ごめん、梨華ちゃん」

けど。でも、でも。
何で、相手が市井ちゃんなんだよ。
納得できないんだよ、やっぱりどうしたって。

(だから子供だっていうんだ、後藤は)
826 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:57

「ごめん。大丈夫だよ、梨華ちゃんなら。相手のことをすごく思いやれる人だから、
 誰とでも仲良くやっていけると思う。だから……市井ちゃんのこと、支えてあげてよ。
 後藤は、今でもまだ市井ちゃんのことなんか大嫌いだし、許してあげるつもりなんて
 絶対ないけど、でも」

―――― でも、少しは、あの頃市井ちゃんが言ってたこと、本当に微妙にだけど、
理解できなくはないんだよ


「人の気持ちは変わるんだよね。一緒にいることで変わっていく気持ちはある、
 絶対に、確実に。だけど離れていることで変わる気持ちだって当然、あるんだ。
 癪だけど、それは確かに事実だって」

ほとんど独り言のように呟いて、俯いたまま真希はゆらりと立ち上がった。
ソファに腰を沈めた梨華は未だ、硬直したまま身動きひとつしない。

「ごめんね、無理矢理キスとかしちゃって。ま、市井ちゃんに対する免疫代わりだとでも
 思って許してよ。あ、それと、明日、出てくから。それじゃおやすみ」

立ち上がり、真希は梨華に背を向ける。
さっさと姿を消してしまったその背中は、どうしてかいつもよりずっと細く頼りなく見えた。
827 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:58

言いたい事だけ一方的に捲くし立て、リビングを出て行く真希に掛ける言葉はなく、
震える手で梨華は唇に触れた。
「バカ」

ぽろぽろと。

文句を言ったら、堰を切った様に、感情の洪水が溢れ出した。許容量オーバーだ。
(どうしてこんなときに、こんなことするのよ)
(いきなりキスして、明日出て行くなんて)
(あたしに、どうしろっていうのよ)

間違いなく、それは密かに思いを寄せる彼女とのファーストキスだったのに。
今でもそこは火が灯ったかのように熱いのに。
悲しい思いばかりが胸を占めて、苦しくて、虚しい。
(最低、最悪)、
頭の中でガンガンと太鼓を掻き鳴らされているような頭痛がする。痛い、うるさい、やめて。
「ホントに…バカぁ」

(どうすればいいの。教えてよ、ごっちん。
 責めるばっかりじゃなくて、ちゃんと、教えてよ)

ずきずきと痛むのは頭なのか、胸なのかすら分からない。目尻に滲んだ涙は、途切れず
次々と頬を伝って流れ落ちていく。熱い。
声を上げて泣きたかったけれど、それも適わず、梨華は自身を抱き締めるように腕を回し
ぽろぽろと涙を零した。項垂れて、酷く惨めな思いで。
828 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 18:58

そして、真希もまた。

自室の ――― いや、今夜限りで引き払わなければならない6畳部屋に寝転がり、
真希はじっと天井を見上げていた。
築7年だというこのアパートの天井はさしたる汚れもなく、
染みの数を数えるなんて粋な趣味が真希に定着することはなかった。

ぁぁぁあああ、地鳴りのような溜息を付き、ごろりと真希は寝返りを打った。

あんなことをするつもりじゃなかった、のに。
未練がましい。最低だ、最悪だ ―――― 最後の最後に困らせるようなことして、
悩ませてどうするんだ後藤は。
こんなに自分が嫉妬深かったとは、考えもしなかった。

矢口真里と久しぶりに再会した時、彼女は言った。
『ごめんね、ごっつぁん』

石川梨華が会社の先輩と同居すると打ち明けた時、彼女も言った。
『ごめんね、ごっちん』

共通する人物は、皮肉なことに真希が毛嫌いする人物、市井紗耶香だ。
自分が心惹かれる相手は何故、彼女の方を選ぶのだろうか。
いや、矢口はともかく、梨華のことは最初から欲していた訳じゃなかった。
一緒にいるのが自然になって、この関係が続くこと、ごく当たり前に彼女の隣りに
納まる位置にいることをただ、渇望してた。

それが強い独占欲と愛情であることに気付くのが遅かった。
安穏とした生活は長くは続かないと知った。
―― それだけのこと。

「何で謝るんだよぉ、もう…」

目頭を強く押さえ付けることで、何とか涙が流れることは阻止出来た。
泣かない。何も悪くなんてない、悪いことなんてしてない、ただ少し ――― 不器用過ぎただけ。
それは、勝手な決め事だった。それでも、長いこと守り続けてきた決め事だった。

「現実は、厳しいなァ」

泣いたら負けだ。後藤は泣かない、絶対に。
829 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 18:59


830 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:00

自分の歯ブラシ。
見る間に増えた、玄関の靴。
ジャンルのバラバラな漫画雑誌。コミック。ファッション誌。
大量に持ち込んだけれど、一度も聴いていないCDやMD。
一緒に観ようと自分名義のカードで借りた、話題のDVD。
共同で使っていた鏡台には、安物のコスメ、奮発して買った外資系の化粧水。
100円ショップで買った食器、タンスの代わりのカゴに放り込まれた洋服類。
すっかり自分の寝床として確立してしまった煎餅布団は、梨華の家に元からある客用のものだった。
洗面所のヘアアイロンとイオンドライヤーを忘れずボストンバッグに押し込んで、一息ついた。

「あー…重ぉ…」

大方は、片付いたはずなのに。
梨華の家の内装に、ほとんど変化は見られない。

酔っ払って帰宅した梨華を抱き抱えた玄関も、
朝夕、丹精込めた料理に取り掛かっていたキッチンも、
小さな丸いテーブルに向かい、黙々と食事を口に運んでいたリビングも。
連日の悪天候明け、大量の洗濯物に辟易しながら必死に格闘した、二本の物干し竿が並んだ
狭いベランダ(猫がよく、入り込んで日向ぼっこしていたな)も。


あの日、ボストンバッグを抱えた真希が訪ねて来た時と、一体何が変わったろう。

改めて自分は一時の客に過ぎなかったのだと、痛感させられた。
夜間、ほとんど眠れなかった割に不思議なくらい頭の芯は冷たく冴えている。
831 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:01

「おはよう」
「…おはよう」
寝巻き姿のまま、リビングに姿を見せた梨華はいつもの様な寝惚け眼ではなく、
意外にしっかりした表情と声で応えた。
「今日も寒いね」
「あ、今日ってこの冬1番の冷え込みだって」

それでも。
真希の目は、梨華の目の下にうっすらと見えるクマを目敏く捉えていた。
もしかしたら、彼女も眠れなかったのかもしれない。真希と同じように。

その梨華の目線は、真希の足元に置かれているぱんぱんに膨らんだショルダーバッグ、
並んで置かれた3つの紙袋へ真っ直ぐに注がれていた。
初めて梨華の家に足を踏み入れたあの日より、荷物は格段に増えている。

「今日、出て行くんだっけ」
「うん」
「そっか…」
「梨華ちゃんも、引越しの準備しないと、でしょ?」
「うん」
「大変だよ、早めに始めないと。こんだけの荷物でも、けっこー苦労したからね」
「そう」
「本当だよ、大変だよ」
念を押すように重ねて言うと、梨華は笑みを半分残して言った。
「…多分、あたしは業者さんに頼むことになると思うから」
「ずる」
「荷物多いし急なんだから、仕方ないじゃない」
………
「うん」小さく同意して、真希は本音を込めて返した。「急だよね、ホント」
832 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:01

昨夜のことは無かったことにして、触れぬようにして、表面上の会話だけを取り
繕って、お互い別れるんだ。
どちらともなくそれは暗黙の了承として、言葉少なに交わす会話。
本当に伝えたい言葉は、2人して隠している。
お互いに遠慮して、お互いを気遣って。
このまま笑ってサヨナラするのが1番平和なのだと、そう言い聞かせながら。

――― 3ヶ月だけ、時間を共有した居候。そう、たったの3ヶ月だ。
連続ドラマ1クール分、たったそれだけ。いや、それって結構長いんじゃない?
ううん、待ってる間は長いけど、終わってみればあっという間。時間の概念なんて
結構いい加減で、曖昧なんだよね。
ああ、それって私達の関係に似てない?そう、似てるね、すごく。


目を合わせないから、
双方が強張った表情を浮かべていることには気付かないでいる。
簡単な朝食を済ませたら、あとはお互い、最後のお別れをするだけだ。

833 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:02


「じゃぁ、行ってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
「あと少し、片付けあるから。鍵はポストに入れとけばいい?」
「そうしといて」
「体、壊さないようにね」
「ごっちんもね」
「梨華ちゃんは社会人なんだから、そっちの方が気をつけないと駄目だよ」
「分かってるわよ、もう」

苦笑いした梨華を見て、真希は「あのさ」と改まって口を開いた。鞄を肩から担ぎ直した
梨華が、何事かと振り返る。その言葉を伝えるべきかどうか瞬時迷ったものの、
結局曖昧なまま終わらせられないと、真希ははっきりした口調で告げた。

「忘れていいから」
「えっ?」

一呼吸、二呼吸。
時間にしては数秒程度の溜め、それでも梨華にとっては数分にも思える充分な
間を置いて、真希はあくまでそれを何でないことの様に、殊更軽い調子で。

「ごとーと過ごした時間のせいで、その習慣のせいで、市井ちゃんとの同居に
 支障が出るようだったらさ。それはもう完全に必要のない感傷だから、だから、ね。
 忘れていいよ。……っていうか、忘れた方がいいよ」
「………」
「ね」

笑顔を浮かべた真希が優しく、けれど有無を言わさぬ強い口調で念を押すように言った
から、梨華は無言で小さく顎を引いた。
納得なんて心からする訳はなかったけれど、そうする他なかった。
梨華の頭が縦に揺れたのを確認してから、真希も薄い笑みで応えた。
どこかホッとしたように、寂しさを吹っ切るように。
834 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:02

「じゃ、頑張って。バイバイ」

直接、手で触れてはいないけれど、確実に真希の言葉は梨華の背を押し出した。

「…うん」
「いってらっしゃい」
「……行って、きます」

ちらりと目線が合った、ほんの一瞬。
互いの瞳の奥に過ぎった翳りには、見てみないフリをする他なくて、視線を逸らした直後に
扉が閉じられて、2人の顔から作った笑みが消えた。

強く強く、痛いくらいに唇を噛み締めた。
声を上げて思い切り泣いてしまえばすっきりするだろう、分かっている。それでもまだ、
涙を流すことは許可できない。
耐えろ、耐えろ。このくらいで泣いてたら、この先やっていけないぞ。
自分で決めたんじゃないか。泣かないって。
「馬鹿だな、ホントに」


目頭を押さえてドアに凭れ掛かり、呟く。
家主の温もりも気配も、もうそこにはない。
「ばいばい、梨華ちゃん」

すっごい寂しくてめちゃくちゃ悔しいけど、キミが好きだから、キミの決断に従うよ。
生意気な居候だったけど、最後くらいご主人様に従順に。
835 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:02

836 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:03

今日、“居候の年下の少女”が家出を解消し、実家に戻った。
梨華の方も、市井の元へ越す日取りが決まった。

引越しの準備、部屋を引き払う準備を始めないといけない。
溜まった洋服もバッグも小物も整理して、お風呂場の四隅のカビだって落とさないと。
実家の両親にも報告して、説き伏せなくてはならない。
どう上手く説明すればいいだろう。
頼りになる先輩と、ルームシェアをすることになったと、そんな風にでも言えばいいのか。
間違いではないけれど、後ろめたさが残るのはそれが100パーセント納得した上での結論で
ないと心の片隅にしこりを残しているからだ。

けれど、
どんなに気持ちが沈んでいても、心も身体も重くても、仕事が手につかない程に
上の空になるという、ドラマのような展開には安易になるものではないようで、
案外正確に、業務をこなせるものだった。

休憩時間には市井紗耶香と一緒にランチを採って、
縮小を忘れてコピーした用紙は数枚無駄にしてしまったり、
得意先からの電話に、「担当者は外出中です、」なんて本当は休暇だったことを
間違えて伝えてしまったり、
退社時に間違えてタイムカードを裏表逆に印字してしまったり、
細々とした失敗は重ねてしまったけれど、それでも何とか1日は無事に過ぎるものだった。

いつものように女子社員でごった返す女子トイレで化粧直しを済ませ、
定刻上りで家路についた。
真希が居着いた当時からのくせで、寄り道もせず真っ直ぐに家に着いたのは、無意識のうちに
身体に染み付いた習慣のせいだ。
今朝方「忘れろ」と直々に指示された、習慣のせいだ。ああそうか、そういうことか。

「そっか……もう、ごっちんはいないんだっけ…」
837 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:03

部屋から漏れる灯りを、駐車場から確認できない。
玄関に、きっちり踵を揃えて並べられた自分のものでない靴も、確認できない。
手を洗っていると、漂ってくる美味しそうな夕飯の匂いも。
テレビから何気なしに耳に入って来る騒がしい音楽も。
小さな円卓に腰掛け、満面の笑みで「おかえり」と声を掛けてくれる人影も。

(変わらないよ、何も)

玄関の床には、郵便受けから差し入れられたであろう鍵が所在無さ気に転がっていて、
ドアを開けた梨華のつま先が蹴飛ばした拍子に、
しゃらん、
場違いに透明な音が響いてその存在に気がついた。

「それ、後藤の鍵?」
「……あ、…はい」

背後から玄関を覗き込んだ市井に言われてようやく我に返った梨華は、のろのろと
腰を屈めて鍵を拾い上げた。魚のキーホルダーは、確かひとみからのプレゼントだった。
ひんやりと冷たい鍵を握り締めて、急速に心が萎れていくのを梨華は実感する。

たった今、声を掛けられるまで市井紗耶香の存在すら忘れていた程に、真希の同居
解消という現実は深いダメージを自分に与えていたのか。
今更ながらに、彼女の存在の大きさを痛感して、その事実は梨華の涙腺を刺激する。

梨華の家の鍵。真希へ渡していた、合鍵。
つまりそれは、もう彼女が二度とこの部屋へ足を踏み入れる意志を無くしたという
結論を突きつけられたも同然だった。
帰って来ない。
もう、待っていてくれる彼女はいない。
838 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:04

「ふーん、今日出てったんだ、アイツ。良かったよ、顔合わせずに済んで」

冗談めいた口調で市井が言ったけれど、それに笑って返すような心の余裕はなかった。
引越しの準備を手伝うと申し出て、我が家まで足を運んでくれた先輩には悪いけれど。
張り詰めた顔で、鍵を握り締めて、梨華は黙って項垂れる。
震える唇を、噛み締めた。

(居候が1人出ていったからって、この先会社の先輩と一緒に住むことになったって、
 あたしは何も変わらない……)


あんなにあっさり別れてしまって良かったの?
(いいんだよ、これで)
いつもの朝の様に見送られたのに、どうして彼女はいないんだろう?
(だって、ごっちんは自分の家に帰ったんだから)
あれでさよなら?
(いまどき、今生の別れじゃあるまいし)

もう、彼女がこの家に来ることもない?
―――― きっと、二度とそんな機会が訪れることは、ない。
真希がこの家を出て行く道を選び、梨華がそれを容認したのだから、そう。

いってらっしゃい、
いってきます

そんな別れの言葉も、世の中にはあるのだ。自分が体験してしまったのだから、
否定も疑い様もない。自分達の当たり前の日常は、今朝の段階で終了したのだ。


誰もいない、静かな空間は、梨華1人には広過ぎる。
(ほら、やっぱりね)
自分に言い聞かせるように呟いた、その口元には無理矢理に作った微笑が浮かぶ。
(ごっちんと2人で過ごしてきたこの部屋に、1人で居るのは辛すぎるもの)
(だから、市井さんの所へ行くのが、正解なんだ)


(……寂しくなんてないもん、全然)
839 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:04

「へぇ、石川んチにちゃんと入るの、初めてだなー」
呑気な口調で呟きながら、市井は静かに室内を見渡している。
彼女の視線は、真希がそこに存在していたという痕跡を見つけることは出来るだろうか。
あたしは……あたしは。
見回せばごっちんの気配を、息遣いを、すぐにでも思い出せるくらいに。

ピンポーン

無音で静寂の満ちた部屋に、そのベルの音は酷く賑やかに響いた。
ハッと身を振るわせ、勢い良く立ち上がった。拍子に箸が片方、テーブルから転がり落ちて
不意に鳴り響いた玄関のベルの音は、孤独に苛まれる梨華を動揺させるには
充分な効力を持ち合わせていた。
強く胸を押さえ付けられる様な衝撃に突き動かされ、玄関前へ小走りに向かう。


息せき切って勢い良く駆けつけドアを開けると、そこへ佇んでいたのは若干驚いた表情の
宅配便のお兄さんだった。「お届け物です」渡された箱に機械的に印を押し、
戸惑いつつ差出人を確認すれば、数日前に通販で頼んだ品物というオチ付きで。

「……あは、バカみたい」
思わず、梨華は笑ってしまうのを抑え切れなかった。あたしったら、本当に馬鹿みたい。
全然吹っ切れてない、未練たらたら。何を期待してたの、今?


そこで、自分が誰の姿を期待したのかに気付く。明らかに、希望の対象外であるそれに
気落ちしたこと。
こんな時でも、配達のお兄さん相手に愛想笑いが瞬時に出てくること。
新たな発見だ ―――― 但し何の役にも立つとも思えないけれど。

「忘れろ」と、彼女は言ったのだ。
これ以上の未練は危険だ、とても危険だ。自分の気持ちを抑えきれる自信はない。
だから、忘れなきゃ。必要のない感傷は。
840 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:05

空虚な気持ちと段ボール箱を抱えてキッチンを通り抜けリビングへ ――― 向かおうとした
梨華の歩みが止まる。
視界の中、普段と違う「何か」を目にしたのだ。くるりと周囲に注意を向けた梨華は、ようやく
電子レンジに張り紙がしていることに気付いた。
841 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:05

      <30びょうあっためてから食べること>
842 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:06

乱暴且つ汚い字で殴り書きしてあるその張り紙は、間違いなく真希の筆跡だ。
慌ててレンジの中を見れば、お皿が1枚、そしてその上に。

「……………これ…」

シンプルなおにぎりが3つ。
きれいな三角形に、のりを巻いて。

――――― !

「…………秒、くらい漢字で書きなさいよぉ…」
こんなのは、反則だ。
「…もう少し丁寧に書いてくれなきゃ、読み辛いじゃない」
込み上げるのを必死に堪えながら、自制の為に梨華はぶちぶちとケチを付けた。

「大体、3個もあるのに、30秒で足りるわけないじゃない、コンビニのレンジとは違うのに」
本当、いつもいつも適当なんだから。
―――
ケチをつけながら譜面どおりにきっかり秒数をセットしていた自分に苦笑する。

チーンと間抜けな音を立てて30秒間加熱という役目を終えたレンジから、お皿ごと
手作りのおにぎりを取り出した。晩ご飯にしては少ないし、けれど他に用意された品物も
見当たらないし。
朝食のご飯が残ったから、作ったんだ。きっと。別に、そのままにしておいてくれても
いいのに、ラップに包んで冷凍してくれるだけで充分なのに、
わざわざ ―――― あたしの為に。最後まで、気を遣って。
843 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:06

(……………)
被り付いたのはほとんど無意識の行動で、
一口齧ったおにぎりは、ほっこり甘く、そして僅かな塩味と温かさが広がった。
でもやっぱり30秒じゃ短すぎて、
表面は温かいのに、中はまだ冷たくて。

「おいし…」
大きく口に含み過ぎて独り言すら上手に発せられない自分が可笑しくて、
おにぎりを頬張ったままの口元から笑みが漏れ出した。


見掛けはとても家庭的なんかに見えないんだ。
ぶっきらぼうで、不器用で、一見するとクールな一匹狼風で。
だけど触れてみたら、思いやりがあってどこまでも温かい、包容力を持った人、
こんなに美味しいおにぎりを作っちゃうような、母性溢れる人。

どれだけその温もりに浸っていただろう、助けられたんだろう。
「癒し」なんてものじゃない
彼女の存在は何時の間にか大きな「支え」となって、梨華の心の拠り所となっていた。
もう既に、とっくの昔にその事実には気付いていたけれど、
素直になれない自分が目を瞑り、見ない振りをしてきただけだ。依存していると認めて
しまうのが恐かっただけだった。


――― 何か、とても大事なものを失ったことに気が付いて、
――― 梨華の中で何かが、ガラガラと音を立ててゆっくりと崩れていく
844 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:07

梨華の顔に浮かんでいた笑みが引き攣り、強張る。

「…こ…んな、こんなの」

塩味が強さを増す。
間違いなく美味しい筈なのに、口に含んだおにぎりを、飲み込むのが困難になった。
ゆらりと水面に映したような世界が、歪む。
「ずるいよ……」

置手紙など他に残されたものはない。
綺麗さっぱり、彼女の持ち物は梨華の家から姿を消して、跡形も残さず去ってしまって。

おにぎりは、少し固いけれど、でも温かかった。

外食をして帰ってくる可能性だってあったのに、
真希は梨華が真っ直ぐに帰宅することを見抜いていたのだろうか。
仕事を終え、空腹で、弁当のひとつも買わずに真っ直ぐと ――――

「…気を遣う、ところが、間違ってるのよ……ッ…」


文句を言うだけ無駄だと百も承知の上で、それでも、零さずにはいられなかった。


開けっ放しのカーテンの外は、真っ暗な闇。
どこからか、救急車のサイレンが響いている。
真希がいないと、テレビが付けっ放しになっていることもない。静かな、夜。
煩いくらいに騒々しい部屋が、ただ1人の人物を失っただけでこんなにも無音の空間と化す。
胸にぽっかりと穴が開く。
そんな昔の歌謡曲みたいなフレーズを、まさか自分が体験するなんて。
845 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:08

(がんばったのに)

「……ばか…」
塩を振って、海苔を巻いただけのシンプルなおにぎりは、ひたすら美味しい。
真希の姿はないのに、それは先ほど作ったばかりのようで、ほんのりと温かく。

(……あたしは、ちゃんと、がんばってたのに)

温かくて、それは。
いつもこの食卓を挟んで、2人で馬鹿を言い合って笑い合った日々を、思い出さずにはいられない。

「ばか……ばかぁ…」
ぼろぼろと、膨れ上がった涙が堰を切り溢れて流れ落ちた。
泣きながらおにぎりを頬張るなんて、馬鹿みたいだ。ごっちんのせいだ。


(吹っ切れるように、納得できるように、自分に言い聞かせてがんばってたのに)

846 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:08

「っ、おい。どうした、石川?」
風呂場の辺りを見に行っていたらしい市井が、キッチンに足を踏み入れるなり素っ頓狂な
声を上げた。入り口で固まって、梨華をただ凝視している。
そんな呆気に取られた市井の相手をする余裕もなく、涙が止まらない梨華。


「…ちくしょう」
思わぬうちに、真希の口癖が零れ出していた。ちくしょう。
「おいしいじゃない…」

(あたしは一生懸命、―――― 我慢したのに)

口いっぱいに頬張ったおにぎりと、ぼろぼろ目から溢れる涙を嚥下して、
梨華は床とほぼ閉口の90度近く腰を折って市井に頭を下げた。

「ごめんなさい、市井さん。あたしやっぱり、市井さんとは住めません」
「なんで?」

落ち着いた声で、市井が淡々と返す。

「ここに、ごっちんと、過ごしたこの場所に、いたいんです」
「もう、後藤はいないのに?」
「それでも、ここは、出て、行けません」
「別に、気持ちを引き摺ったまんまでも市井は構わないんだけどな」
「あたしの、心が、ちゃんと納得して、いないんです…」

微苦笑を浮かべる市井の顔を、正面から見返した。そうしている間にも、嗚咽と
涙は止まらず梨華の顔をくしゃくしゃにしている。
ぼろぼろ零れる涙を乱暴に拭って、真っ赤な目で梨華は市井を見据える。今まで
ずっと胸に秘めながら、伝えられなかった言葉。

「好きなんです。どうしても」
847 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:08

誰が、と言い掛けて市井は「そんなに、アイツの方がいい?」と何処か遠慮がちに
吐き出した。憂いよりも諦めが色濃い表情に、けれど涙の膜に邪魔された視界の中で
梨華はそんな市井の感情の揺れには気付かない。

「どうしても、ごっちんじゃなきゃ…ダメなんです」
「市井じゃ、その代わりにはなれない?市井じゃ駄目?」
「………ダメなのは、あたしです」



抱き締められるどころか、手を繋いだことさえない。
優しい愛の言葉なんて一言だって口にはしなかったし、
時々思い出したように、訥々とぶっきらぼうな励ましをくれることはあっても、
毎日の会話はほとんどが軽口や皮肉の応酬で。

互いの髪や頬に触れたり、
真剣に見つめ合ったり、
普通の恋人同士がするような触れ合いなんて一切なかった。

ただ一度のキス。
あれがきっと、感情を込めた唯一のスキンシップで。
けれどそんなものが無くたって。
自然体を曝け出せて、一つの空間で同じ時の流れを共有して、たったそれだけのことが
何より幸せだったんだ。

どんな巡りあいの形であれ、
強引なきっかけで始まった同居ということであれ、
2人で過ごす時間は何より貴重で ――― あたしには全部、必要だったの。
848 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:09

「こんな、ダメなあたしが…市井さんの側にいたらもっと、もっと、嫌な思いを
 いっぱいさせます。市井さんに、迷惑かけます、だからっ……」 


しゃくり上げながら、梨華の口上は止まらない。必死に紡ぎ出す言葉に整合性などは
最早構っていられない、とにかく頭に浮かぶ限りの真希との思い出を胸に、正直な
気持ちを吐露するばかりだった。

「だから、市井さんの所へはいけません」

(本当は、もっと早くこうして伝えなきゃいけなかったんだ)

自分の隣りで笑っていて欲しいのは誰なのか、とっくに気が付いていたのに。
手放してからそれを取り戻したいともがいたって、無駄なのは分かっているのに。

「でも、後藤はもういないんだよ?なら…」
「ダメです、ここで市井さんに甘えたら」

流されて自分の進むべき道を見失って、今のこの姿だ。泣いて謝るしか術の残されて
いない、情けない自分だ。ここで市井紗耶香の手をとって縋るのは簡単だし、一時の
安らぎは与えられるかもしれない。

「やっぱり、あたしの胸の中にいるのは、ごっちんなんです。
 ここに、すぐ側に彼女がいなくっても、あたしが ―――― 」誰より、いて欲しいと願うのは。


はあっと、大きく溜息をついたのは市井だった。目を潤ませ、身体を震えさせる梨華の
首の後ろにするりと腕が捲きついて、耳に吐息が掛かるくらい、密着する。
びくりと身体を固くする梨華の馬鹿正直な反応に、脱力した苦笑を零した。
市井紗耶香は諦観の面持ちで、梨華の肩に顎を乗せた。

「そういうの、ちゃんと大事なヤツが側にいるうちに気づけよな、アホ」
「すみ、ません」

震える声で何度目かの謝罪を口にした梨華を抱き止めた腕に、市井が力を込める。
849 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:09

「やっぱ、負けちゃったか、市井は」
「ごめんなさ…」
「謝られると余計惨めなんだけど」
「……ごめん、なさ、い。こんな、こんな……」

「あーあー。全くよう。馬鹿だな、オマエ」

不意に力強い口調に戻った市井が、ぐいっと梨華の身体を押し返すように自身から
引き離した。よろけそうになり、それでも自分の体を支えるのは自分しかないわけで、
梨華は数歩蹈鞴を踏んでその場に足を踏ん張った。
ふと顔を上げると、妙に達観した表情で腕を組み、梨華を見下ろす市井と目が合う。

「こーいう時、映画のヒロインは脇役を振り切って本命の相手を追いかけて探しに
 いくもんだろ」
「市井さ…でも、もう」

―――― 市井さんに正直な想いを打ち明けられても、彼女を追い掛けるにはもう、遅い

「遅くはないだろ、まだ」
「え?」
梨華の心情を見透かしたように、市井が呟いた。
「別に後藤は死んだわけじゃないし、この家を出て行ったってだけだろ。
 ……馬鹿だな、オマエ。遅くないよ、まだ」
「市井さん」

胸が塞がれる思いだった。
覚悟は出来ていた筈だったのに。何度も、頭の中でシミュレーションして、
大丈夫だと確信を持っていた筈だったのに。
こんな、おにぎり1つで、全部崩れてしまって、挙句の果てに振ってしまった相手に
励まされて、背中を押されている。
850 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:10

「……ごめんなさい」
嗚咽が混じって、声が裏返って、情けなさと不甲斐無さを全開にしながら、それでも
梨華は何とかそう搾り出した。「ごめんなさい…」
まともに市井の顔を見ることなど敵わなくて、じっと床に目を落とす。

「目ぇ逸らすなよ、アホ」
途端に、叱責が飛んだ。
慌てて目線を上げると、再び市井紗耶香と視線がかち合った。

「バッカお前、そういう涙に濡れた目で人を見るな!」
「えぇ、どうすればいいんですかぁ」

無茶な注文だ。
泣き笑いで、梨華が市井を見上げる。存外に穏やかな表情の彼女の瞳の置に
慈愛の情を見出して、梨華はああと納得した。
真希だって、彼女、市井紗耶香にとっては親愛の対象に違いないのだ。

「あーあ、もう一押しで石川落とせると思ってたのになぁ。
 ここまで後藤に対して気持ち全開にされちゃ、入る隙ねーよ、こんちくしょう」

くしゃくしゃと頭を掻き乱して、市井はさっぱりしとした顔で笑った。
唐突に、梨華は彼女のその仕草が真希の癖とよく似ていることに気付いた。
(こんな土壇場になって気が付くことも、あるんだね。ごっちん)

「言っとくけど、頑張れなんて言わないからな。後藤のヤツ、最後で邪魔しやがって
 ふざけんなバカヤロウって思ってんだからな、市井は。あとは二人で勝手に決着
 つけろよ、勇気付けて送り出すなんて殊勝な真似、するつもりねーんだからな」

梨華が初めて耳にする、市井のぞんざいな口ぶり。
意外とそれは、常に完璧を纏っていた市井紗耶香にマッチしていて、違和感を覚える
こともなくすんなり一連の仕草も言葉も梨華の中へ入って来た。

「じゃ、来週。また会社で。………脇役は早々に退場するに限るかな」

遅れて、充分にそれは励ましになってるんじゃないかと疑問が浮かぶ前に、たった今
負け惜しみを吐いたばかりの先輩はドアの向こうへ消えていた。
851 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:10

「……」
ぺったりと、梨華はフローリングの床へ崩れ落ちる。
脱力感。無力感に苛まれる。
けれど、温かい何かが胸を覆っている。涙はもう、止まっていた。
ずずっと鼻を啜って、梨華は覚束無い足取りで立ち上がり玄関へ向かった。

行かなきゃ。ごっちんに会いに。

(当たって砕けろ、よ。ちゃんとごっちんに伝えなきゃ、何もかも無駄になっちゃう)

がちゃり。
玄関を開けた途端、身体が竦むような寒さに襲われる。
ひゅう、と吹き荒ぶ風に髪を乱されながら一歩を踏み出した。

「…あ………」

と、当然市井の姿は既になく、代わりに ――― というよりその前からずっとそこに居たのか
どうか、アパートの階段に見慣れた後ろ頭が見えた。
こちらに背を向けて、階段に座り込んでいる彼女。
つい先刻まで、梨華の同居人だった彼女。
風に掻き乱される髪も、ダウンジャケットのフードがばさばさ踊るのも意に介した風もなく、
じっと彫像のように身動きせずそこへ存在する彼女。
852 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:11

「おにぎり、美味しかった」

どうして、ここに。
喉まで出掛かった疑問を制して搾り出した声は、自分の想像以上に強張っていて、震えている。
体育座りの彼女、茶髪のショートボブが、僅かに揺れた。
「当たり前でしょ、誰が作ったと思ってんの」
梨華同様に、或るいはそれ以上に強張った声が返ってくる。彼女はまだ、振り返らない。

「でも」
「………」
「でも……」
「………」

続きが、言葉にならない。言いたいことは山程あるはずなのに。
どうして勝手に出て行くの。どうして何も言わないの。
出て行った筈なのに、どうしてそんな所にいるの。
外は寒いでしょ?中に入ろうよ、………うちに、早く、戻ろうよ。



「でも、おにぎりには緑茶がないと嫌だって、あたし言ったのに」

口をついて出たのは、そんな馬鹿みたいな我侭だ。
――――
「あったかいお茶がないと、嫌だって言ったのに」

後姿の真希が小さく揺れる。苦笑したのだと分かった。
「なんじゃそら」
呆れて笑みを含んだ口調が、それを肯定していた。「お茶くらい、自分で用意してよ」
853 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:11

それ以上、梨華は口を噤んでしまった。
駄目なのだ。涙が止まらない。何を言っても、きっと言葉にはならない。
ただでさえ夜間、暗い視界が霞み、ぐらぐらと不安定に揺れる。

(どうして)

幸いにも真希はこちらに顔を向けていないから、泣いているのは声を出さなければ
勘付かれないことだろう。

(どうして、居て欲しい時にそこにいるの……どうして、こんなに会いたい時に)

気を許せば嗚咽が漏れ出してしまいそうな口を強く押さえ、梨華はただ必死に、
確かに目の前に在る真希の後姿ばかりを必死に凝視していた。
消えない。
ちゃんと、彼女はそこに居る。
――― それだけの事実が、こんなに自分を満たしてくれるのだと、どうして気付かなかった?

「梨華ちゃんちには」
「……?」
「コーヒーと、紅茶と、ミネラルウォーターしかないから」

不意に、真希が淡々を口火を切った。
コーヒー派の真希と、紅茶派の梨華。他の飲み物はペットボトルの類しかない、
小さな石川家の台所事情。何故なら、単純に2人にとってそれら意外は必要なかったので。

否、必要だった。
ぽろっと零したことがある、梨華が。それを、まさか真希は覚えていて ―――

こん、と床に何かを置く音。しんと静まり返るアパートの廊下に、小さな音はよく通る。
涙で視界がぼんやりしていた梨華が、慌てて目元を拭って目を凝らした。
その対象は。

「用意は、したんだけど、一応」

梨華に背を向けたまま、真希が廊下に置いたのは350mlの缶ジュース。
見覚えのあるメジャーな緑茶。所謂『お茶』だ。単純明快に、それは普通の『お茶』だ。何故?
蓋はまだ、開けられていない。何故?
それは一体、誰のために?
854 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:12

「でも、買ってきたはいいけど渡すタイミングがさ。梨華ちゃん帰ってきちゃうし、ついでに市井ちゃん
 みたいないらん付属品はくっついてるし」

今帰ってったけど。付け加えて、不満げに真希の手は自身の髪へ伸びる。
「いきなり後ろから人の頭勢い良く叩いていきやがんの。すっごい痛かったし、もう」
「……」
「大体、先に鍵返しちゃってるからこっそり部屋の中にお茶置いておくなんて出来ないじゃん、
 とか気付いちゃって」

頬を膨らませて愚痴る真希を包む空気は、それでも柔らかで穏やかだ。
その温かさが身に染みて、梨華はまだ、声を発することすら適わない。


「そんでさ、どうしようかな、自分で飲んじゃおうかな、とか思ってたんだけど」
「…ばか…」
ようやく言葉が出た。でも、違う。
そんなことを言いたいんじゃない。なのに、口が上手く動かない。

「うんうん、どーしようもなく馬鹿なんだよね後藤って、やんなっちゃうよねぇー。
 でさ、自分で飲んじゃえばいいんだけど、やっぱ飲めないんだよねぇ。だってこれは、
 梨華ちゃんに買ってきたお茶だから、 おにぎりと一緒に飲んでもらうお茶だから」
「………ばかぁ…」

「うん、バカなのは分かってんだけど、ほらやっぱりさ。梨華ちゃんが、おにぎりには
 お茶だって、そう……言ってたからさぁ」

瞬時、俯いて真希が自嘲気味に呟いた。「だから、勝手に飲めないじゃん」
何だか、泣き出しそうな声だった。

――― 馬鹿なのは、あたしだ
855 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:12

一緒に過ごすようになってから、一度も後藤真希が涙を見せたことは無かったけれど、
彼女はまだ自分より年下で、様々な悩みを1人抱えて、梨華の前では笑顔を見せて。
きっと、泣きたいことは幾度となくあったのだろうに。

(どうして、いつもあたしは自分のことばっかり)


「…っく」
堪えきれずに零れ落ちた嗚咽。
「ん、…ぐ、えっ…うぅ」

――― ごっちんはこんなに、こんなにも

振り向いた真希は、既に涙でくしゃくしゃになっている梨華の顔を認めて眉尻を少し、
ほんの少しだけ下げた。
寒さのせいか頬を鼻をうっすら赤く染めて、呆れと、困惑の色を乗せて。
「何泣いてんの、梨華ちゃん」
「…泣いて、ない、もん」
「泣いてるじゃん」

容赦なく事実を言い捨てるなり、
梨華から視線を外すことなく真希はその場に立ち上がった。
階段の一段下で身体を伸ばした彼女は、梨華よりも頭1つ分低い位置に居る。
ほんの数センチ、真希よりも身長の低い梨華は、視線を下に、
真希の視線は斜め上に。

歩いて数歩の距離を動けず、見つめ合って数秒。

「ごっちんにとって、あたしって何なの?こんな…どうして?」
「前に、言った気がするけど」

『後藤は梨華ちゃんが好きだから』
――――― こんなにも、どうしようもないあたしを、大事に思ってくれてたのに
856 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:12

「……つうか、察してよそれくらい。鈍感」
「なっ」
「言わせるかこの状況で、普通」
「なっ…によぉ!」
「気付かない?何とも思ってない相手にここまでする訳ないじゃん、後藤がさ」
「………っえ」

「いや、これはよっすぃーの受け売りなんだけど」
照れた様に頭を掻いて、真希は涙に濡れた梨華の視線から目を逸らした。


「…か、」
「か?」
律儀に復唱する真希から視線を外して、梨華は真っ赤な目を潤ませた。
――― 帰って来たいんだったら、素直にそう言えばいいのよ!
精一杯の強がりは、言葉にはならなかった。

会いたくて、会いたくて。
会いたくて会いたくて、会いたくて堪らなくなって、
どんなに遠くにいても探しに行こうと思っていたら、扉を開けたそのすぐ前にいて。


「、ぅ…う〜…」
ぼろぼろと溢れ出る涙を拭いながら、胸を覆う感情の渦にある中心は、喜びが安堵か
自嘲なのか、答えが見つけ出せないまま、
食い縛った歯の隙間から抑えきれない嗚咽が漏れる。

とうとう声を上げて泣き出した梨華にぎょっと顔を強張らせて、真希は慌てた様子で手を
出したり引っ込めたりしている。
自分を差し置いて落ち着き払っていた真希のそんな狼狽ぶりが可笑しくて、梨華の全身が
温かいもので満たされていく。
何より、自分が欲しかったもの。
857 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:13

離れるのが寂しくて、別れた直後から酷い虚無感に襲われて
そうしたら、会えた。手を伸ばせば届くところで、待っていてくれた。



「家に帰ったら、ごっちんが、いなくて」
「うん」
「あたしが、どれだけ、寂しかったか分かる?」
「……分か」

るよ、と続けようとして思い留まり、真希は意外そうな感情を隠そうともせず
興味深い視線で梨華を見返した。「………そうなの?」

「寂しかったの!」
「…そっか」
「それで、…苦しかったの」
「うん」

ただ相槌を打つだけでも、真希が、すぐそこで自分の言葉に答えてくれるのが何より
嬉しくて、心強くて、新たな涙がまた梨華の頬を伝った。
ぽたぽたと、コンクリートの床に黒い染みがぽつぽつ続く。

玄関先に転がっていたサンダルを引っ掛けた状態で、梨華は進んだ。
ぺたぺたと歩いて、彼女の元へ一歩ずつ。
急がなくても、彼女は逃げないから。だから、転ばないように、姿を見失わないように、
しっかりと確実に歩を詰めた。
858 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:13

―――― そしてあたしはどうしようもない程、そんなごっちんが好きになってた
859 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:14

涙に濡れた瞳でじっと見据えられ、真希は困ったようなくすぐったいような、
何とも言えない曖昧な表情で頭を掻いている。
雄弁とは言い難い真希は全く融通が効かないし、気の効いた優しい言葉なんてものは
どう考えても、時間を掛けても、とても捻り出せそうにはない。

「梨華ちゃん」
真希に出来ることと言えば、不器用に態度で示すことだけだった。


「えーと…ほら、ハイ」


名前を呼んだ彼女は、おずおずと右手を差し出した。
梨華の目の前に、その右手を差し伸べた。
「 ―――― ッ 」
引き金はそれで充分で、視界は開けた。梨華から真希へ、一本の道で繋がれる。
また一筋、梨華の紅潮した頬を温かい涙がぽろりと伝って落ちた。

「……ん」

必死の思いで伸ばした手は、真希の腕も指先も素通りして、
辛うじて彼女のダウンジャケットの裾を掴む。
引っ張られたその裾をちらりと一瞥して、真希は何時に無く真摯な表情で
「梨華ちゃん」と名を呼んだ。優しく響く、自分の名前。
860 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:14

「………っ、……んの、…か、ばかぁ」

擦れた声で強がりを喉の奥から精一杯押し出すと同時に、ほとんど体当たりに近い
勢いで梨華が真希の首に腕を回した。
どんっと2人の体がぶつかり合って、咄嗟に真希の腕が梨華の腰を受け止める。

「あ、あ、あぶっ危ないって梨華ちゃん!!」

片手で梨華を抱え、もう片方の手で手摺を必死に掴んで体勢を保ちながら
真希が本気で切羽詰った声を上げた。2人を支えるのは真希のたった一本の腕だけ、
何とも心許ない状況に。
「2人で階段落ちるなんてシャレにならないから!」
「ごめんね…」

消え入りそうな声で、真希の肩に顔を埋めて梨華が呟いた。
涙交じりの言葉に、もう真希は何も言えない。梨華がもう一度「ごめんね」と囁いた。

戸惑い気味に背中に回された真希の細い腕が、強い力で梨華を引き寄せた。
トク、トクと心臓の鼓動が伝わる。通常より、きっと早いペースで。
しばらくそのまま、梨華を抱き締めたまま動けずにいた。

「あたし、人より鈍くって、気付くのが遅くって、だけど」

夜風の吹き付ける冷え切った外気に晒されながら、梨華が口を開いた。
真希の首の後ろに回した腕、握り締めた拳にぎゅっと力が込められる。
敏感にそれを感じ取った真希は、何時に無く梨華が緊張していることに気が付いた。
勿論、真希自身もそれと同様或いはそれ以上に、緊張のあまり体が強張っているけれど。

「ちゃんと、今は分かるの。あたしが…」
「梨華ちゃん?」
「あたしが、側にいて欲しいと思うのはごっちんなの」
「…梨華ちゃん」
「それで、ちゃんと、お帰りって言ってくれて。
 ごっちんじゃなきゃ、そうしてくれるのは、ごっちんじゃなきゃやなの」

真希に凭れ掛かった体勢で、梨華がそう吐き出して、
「良かった」
しゃくり上げる梨華の肩に額を埋めて、
噛み締めるように、ほっと安心したように今度は真希が、呟いた。
861 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:14

「ここに、 ―――― いてもいいんだ…」

梨華ちゃんの隣りに、後藤がいていいんだ。
そういう風に、彼女は望んでくれているんだね?

「馬鹿だなぁ、ごっちんは」
腕を緩めて真希から身体を少し離した梨華が、至近距離から真希の顔を覗き込む
ようにして真っ直ぐに見据えた。あまりに迷いのない視線に捉えられて、真希は身動ぎ一つせず、
じっと次の言葉を待っている。

「ごっちんじゃなきゃ駄目なの、……あたしが」
間を置かず、きっぱりと梨華は言い放った。
862 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:15

「後藤さ、もうすぐ北海道に行っちゃうんだ。だからここにいられるのもあと少しで」
「知ってるわよ」
「戻ってきたとしても、すぐに出ていかなくちゃいけなくて」
「分かってるわよ」
「それでも……やっぱり梨華ちゃんちにいたいんだ。まだ、もう少しだけ…」

(一度は、諦めようって決めてたけど)

言葉が途切れた。空気をいっぱいに吸って、気持ちを落ち着けて、しっかり彼女の
目を見つめて、決意に満ちた表情で、言った。

「側にいたい。一緒にいたい」

(やっぱり、自分の感情を偽るなんて、無理なんだ)

押さえ込めると高を括っていた思いは想像以上に昂ぶって、制御不能に陥った。
それもこれも全て、彼女という存在に計算を狂わされたが故だ。
きっと本能に近い部分が、きっと梨華を要している。ならばそれに従ってやることしか、
対処法はない。まぁ多分、おそらく。

「なんつーか、多分、一生伝えるつもりなんてなかったんだけど」
「うん」
「言ってもいいかな?」
「…どうぞ」

すう、と小さく息を吸い込んで、梨華の瞳を覗き込んで、言った。

「後藤は、梨華ちゃんのこと、 ―――――― 」
863 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:15

「………」
「……やっぱいい」
「は!?」

真剣な表情の梨華から視線を顔ごと逸らし、耳まで真っ赤になった真希は搾り出した。
虚を突かれて呆然とするのは梨華だ。
何で?こんな大事な場面でリタイア宣言?ちょっと待って、1番聞きたい言葉なのに!

「無理。言えない、やっぱ無理」
「何よぉそれ!」
「だって、無理なもんは無理だよ」
「無理って……」
機嫌を損ねて口を尖らす梨華からあくまで視線を逸らし、(但し腕だけはしっかり梨華
を抱き締めたままでいるけれど)真希もまた、口を屁の字に臍を曲げている。

「今、こーやって梨華ちゃん抱き締めてるだけでどんだけ後藤が緊張してるか」
「え?」
「分かってないんだ梨華ちゃんは、まったくもう」
「何ぶつぶつ言ってるの」

子供のように愚痴る真希に、梨華は思わず吹き出した。時々こうして不意打ち気味に幼さを
見せるから、普段とのギャップに心を掴まれてしまう。
耳まで真っ赤に染めて、「だって…」と延々と愚痴っている真希の耳元に唇を寄せる。

「言ってよ、ちゃんと。聞きたい、あたし」
「無理」
「ちぇっ」

囁くように訴えても、あっさり却下された。
(仕方ないか、急がなくても、そのうち言わせるもん絶対)
やや憮然として引き下がる梨華を抱きとめたまま、真希がぼそりと言い捨てた。

「こーやって梨華ちゃん抱き締めてるだけでも倒れそうなくらい緊張してんのに、
 これ以上はあり得ないし、ホント無理」
「何よぉケチ」
「じゃぁ梨華ちゃんが言ってよ」
「えぇ、無理ー」
「ほら」
「何よ」
「べっつにぃ」
「わ、ヤな感じ」
864 名前:14. 投稿日:2006/04/12(水) 19:15

くすくすと笑みを漏らす二人、
何でこんな時まで言い合いしてんだよ、ちょっと普通にラブシーンぽいのしようよ、なんて
笑い合って、再び梨華は真希の肩に顔を沈めた。

片付けなければならない多々の問題が色々脳裏を過ぎったけれど、
それでも今この幸せな時間を手放すだけの理由にはならなくて、
真希は梨華を抱き締めたまましばらく、その体温を感じていた。

随分長いこと、2人が冷気に晒されて本格的に寒さを感じるようになるまで、そうしていた。
865 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:16

866 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:16

867 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:16

ちょっとだけ、後日談。

「今日のランチはいかがいたしましょう?マスター」
「えっとね、チャーハンが食べたいな」
「らじゃ。ねぇ、じゃぁアレ使っていい?梨華ちゃんが会社の先輩におみやげで貰った、
 北海道産の蟹缶!蟹チャーハンとか、どうかな」
「あ……あれね、えっと」
「あれ?確かこの棚に仕舞わなかったっけ」
「……あの…」
「何?」
「ごめん。夜食で食べちゃった。ごっちん寝た後に」
「はぁあああー!!?」


「何よっ、あたしが貰ったんだから勝手に食べて何が悪いの!?」
「だって梨華ちゃん、めっちゃ笑顔で『一緒に食べようね♪』とか言ってたくせに…
 嘘つき……いじきたない…口では調子の良いことばっか言って…」
「仕事が忙しくてストレスが溜まってたの!何よ蟹缶の1つや2つで」
「あーだから梨華ちゃん、最近ちょっと太ったんだぁ」
「ひっどーい気にしてるのに!」
――――――
868 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:16

869 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:17
    エピローグ 

870 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:17

□梨華ちゃん
4/13 12:32
何してる?
――――――――――――
こっちはちょうどお昼休みだよ。
何だか市井さんとランチするの
が習慣になっちゃった、なんて
言ったらちょっとは妬く?(笑)
っていうのは嘘で、新人の女の
子と食事中なの。いよいよあた
しも先輩だよー(^▽^;)

―――――

――――――

□よっすぃー
4/18  0:10
起きてるかぁ〜い
――――――――――――
小川って覚えてる?何か真面
目に梨華ちゃんに告ったってよ
!結果聞きたい?聞きたいべ?
聞きたいっしょ?ぜひとも聞く
べきだよね?電話してけろ

――――

□やぐっつぁん
5/11  20:25
元気?
――――――――――――
北海道の暮らしにはもう慣れた
?ごっつぁんが相変わらずの低
血圧で寝坊してないことを願っ
てるよ。
話変わるけど実はね、なっちの
実家が北海道なんだ!!(びっ
くりでしょ)今度の夏休み、矢口
も一緒に帰省する予定だから、
そっちで会おうよ☆
871 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:18
―――――

□sayaka11cube@dacam
5/13  21:45
市井だけど
――――――――――――
矢口にアドレス聞いたよ。石川
との遠恋はうまくいってんの?
離れてると気持ちは変わるって
言った市井の言葉が今なら分か
ると思うぞ。つうか早く破局しち
まえ!市井の方が絶対的に石
川に近いところにいるんだから
な、そっちで焦ってろばーか
(`∀´)ノ

―――――

□やぐっつぁん
5/13  22:08
無題
――――――――――――
紗耶香からメールきた?ごめん
ねぇ矢口勝手にごっつぁんのメ
ルアド教えちゃった♪ていうか、
いい加減仲直りしなよ。
もう時効だと思うからバラしちゃ
うけど、中学の時紗耶香は本当
はごっつぁんのこと好きだったん
だよー。本当だよ?だからね、
そろそろ許してあげて欲しいか
なぁ、なんて。甘いかなぁ?

―――――
――

□高橋愛
5/25  19:22
こんばんばーん
――――――――――――
っていうあいさつがはやってる
高橋からです。こんばんばーん
新しいバイトの子がすっごいか
っこいいんです。仕事はめっちゃ
できなくて困ってるんですけど
ねー。えへ
こっち帰ったらカオ出してくださ
いね☆★☆★
872 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:18
―――――

□梨華ちゃん
6/6 22:32
やっほう
――――――――――――
料理の腕は上がったのかな。
あたしは相変わらず仕事、失敗
ばっかりでちょっと落ち込み中…
久しぶりにごっちんの手料理が
食べたいよー(;−;)



□梨華ちゃん
6/7 8:04
ごっちんのばーか
――――――――――――
落ち込んでるって言ってるんだ
からちょっとはなぐさめてくれて
もいいじゃない!
もうごっちんが落ち込んでても
なぐさめてあげないからねーだ



□梨華ちゃん
6/7 12:04
八つ当たりごめん
――――――――――――
なんか色々うまくいかなくって
怒りっぽいみたい。ごっちんも
大変なのに八つ当たりなんか
してごめんね。すごい自己嫌悪
だよー;;

―――
――――


□よっすぃー
6/14  2:10
幸せですか〜
――――――――――――
ごっちん、ウチはもう駄目だよ、
すんごい修羅場だよ、まずいの
よ、どうしようどうしようどうしよう
モテるって辛いよーん
そっちに緊急避難してもいい?
あーやばいがめんがゆがんで
きたあちょう酔ってるよまずいね
こりゃあははうよおよ


―――――
―――――

―――――――
873 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:18
□梨華ちゃん
7/7 20:30
今日は七夕♪
――――――――――――
織姫と彦星が一年に一度会う
日だよ。ロマンチックだよねー
あたしもごっちんに会いたいなぁ
(もしかして一方的!?;)
874 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:19

「そりゃ、後藤だって会えるもんならすぐにでもさぁ」


携帯電話を折り畳んで、真希はごろりと布団に寝転んだ。
夢の世界へ強制的に誘う麻薬のような睡魔から逃れることが適わず、梨華からの
メールを無視するような形で朝まで眠りこけてしまったことも多々あった。
その度、「疲れてるんだから気にしなくていいよ」という梨華の優しい言葉を鵜呑み
にし、ならいいかと甘えた状況にあることを真希としても気にしていない訳じゃない。

けれど、遠く離れた北海道というこの地から梨華にしてやれることには限界がある。
無責任に「頑張って」なんて声を掛けてみたり、柄でもないのに甘く愛を囁くなんて
表面上だけ繕った行為を、彼女が喜ぶとも思えないし。

様々な言い訳を並べ、自分に言い聞かせながら、
それでも真希の目はしっかりと壁に掛けられた飾り気のないカレンダーへ注がれている。
(もうすぐ、もうすぐだ)
調理師学校で学ぶ傍ら、下宿先の店を手伝うという予想以上にハードは生活に着々と
疲労が蓄積されてきたここ最近、
日付が変わるたびに指折り数えて、待ち望んできた日がもうすぐそこまで迫っている。

真希はごく微かに顔を綻ばせる。その数秒後には眠気の触手にしっかと捉えられ、
呆気なく眠りに落ちた。――― そんな日常だ。
875 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:19


876 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:19

紆余曲折あったものの、無事に互いの正直な気持ちを打ち明け、想いが通じ合っている
ことを認めてから約1ヶ月後。
真希は北海道へ発ち、梨華も住居を変えることなく1人暮らしを再スタートさせた。
お互いに時々、電話やメールのやり取りはする。ただし、毎日ではない。頻繁に連絡を
取り合う必要がないのは、強い信頼で結ばれるようになったからだ。
――― と、梨華の方は勝手に思っている。

(いいのよ、どうせごっちんにそんな甲斐性求めてないもん)

何せ、積極的に連絡を入れるのは専ら梨華の方が圧倒的に多く、真希からの返事は
10回に1度、といった程度に過ぎない。
だからといって梨華が不安に苛まれるようなことは幸い、(今の段階では)ない訳で。
何故って、一緒に暮らした数月の経験から、
真希が人付き合いという面で、そんなにマメな性格ではないことは承知しているし。

口下手な彼女は、メールという無機質な文面に思いの丈や近況を上手に記す術を知らない
のだ。多分。忙しいのと慣れない環境での疲れから、面倒臭がっていちいちメールや電話
に感ける時間を割こうとしないのであろう事実は、多分に考えられるけれど、まぁそれは
大目に見ることにしている梨華だった。
(一応人生の先輩として、それらの苦労話に理解はあるつもりなのだ)

季節は既に、夏。
1人の生活は、思ったより順調にいっている。真希が居たころより外食が増えたのは仕方ない
として、休みの日には積極的に自炊するようになったし、これは凄い進歩なのだ。
真希については梨華が心配する必要もないだろう。部屋がおそらく散らかっているのは
お互い様の筈だから、敢えて言及はしないでおくけれど。

調理師学校が夏休みに入ったと知らされたのは、土曜の昼下がり。
返事の来る当ての無いメールを手早に送り、
夢と現実の狭間でまどろみながら、のんびり家でとアイスティーを啜っていた梨華は、
携帯電話のバイブレーションでぱちっと目を開いた。
877 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:20

(メール…)


□後藤真希
7/21 13:34
やほーい
――――――――――――
飛行機疲れたよー。
今、バス停。これから行くね☆



夢うつつで携帯電話を手にした梨華は、内容を見て、腕時計を確認し、
「…嘘!!」
とにかく、一気に覚醒した。仰天する間もなくリダイヤルの履歴から対象の
彼女を呼び出し、通話ボタンに手を掛ける。
878 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:20

「ちょっと、ごっちん!」
開口一番、叫ぶように名を呼んだ梨華に、電話の相手はのんびりと笑い声を上げた。

≪あは、久しぶり、梨華ちゃん。メール見た?≫
みーんみんみんみんみん
じじじじじじじじじじ、みーんみんみんみーんみんみん
バックに、蝉の大コーラス。ついでに、梨華の耳に入るも同様・蝉の大合唱。
夏らしいと感慨に耽る間もなく、電話に噛み付かんばかり勢い込んで梨華が怒鳴った。

「見たから電話してるんじゃない、ねぇちょっと、今本当にバス停!?」
≪そーだよ、もうすぐ近く≫

「どうしてこういう大事なことを直前にメールするのよ!あたしが家にいなかったら
 一体どうするつもりな…」
≪もうすぐ着くからねぇー待ってて≫
「ちょっ、待ちな…」

ぷつっ

みーんみんみんみん

「…もー、もぉ、もーっ本っ当に勝手なんだからッ」

溜息と共に、梨華はあくまでマイペースな電話相手にそれ以上抗議することは
諦めた。何故なら一方的な電話はやはり、一方的に切られてしまった後だったからだ。
とにかくまぁ ―――― 何の連絡もなく家に押しかけてくる彼女の行動は、半年以上前の
それと全く同じな訳で、今後の展開が全く予想出来ないではない。
879 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:20
 
部屋を見渡せば相変わらず雑誌やゴミやら洋服やらで散らかり放題の惨状に、
梨華は思わず苦笑する。きっとまた、来訪した彼女は呆れて、
そして少しだけ口角を上げて笑うのだろう。

もうすぐ着くと、彼女は言っていた。
しょうがないなぁ、もう。
口では文句を並べながら、梨華の足は自然に玄関へと滑りだした。
………ともかく、久々だから、近くまでならお迎えに行ってあげるわよ

玄関へ向かい、ドアのノブに手を掛けて戸を開く、その動作の中で梨華は考えていた。
そうだ、彼女を迎える時、何て言ってやればいいだろう?
―――― 突然の来訪を怒るか、再会を喜ぶのか、
「久しぶり?」「連絡くらいしてよね?」「元気そうだね?」
「おみやげは?」「少し痩せた?」「髪伸びたね?」

―――― それとも、或いは。

「おかえり」

数々の思い出が一瞬のうちに脳裏を去来して。
最もこの状況に適切な言葉を選び出し、梨華はそのフレーズをゆっくりと口の中で転がした。
うん、そうだね、
それが1番しっくりくるよ。
刹那、感慨に耽り、満足気な笑みをちらりと浮かべて。
懐かしい、顔。限りなく愛しく思うその顔がどんな表情を携えて自分の前に現れるのか、
幸せな予想を胸に抱き、梨華の手は外界への扉をしっかりと押し開いた。
880 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:21

881 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:21

額から流れる汗を拭い、少女は手に下げたコンビニのビニール袋をぶら下げ、肩に引っ掛けた
大ぶりのショルダーバッグを揺らしながら、緩やかに伸びる坂を小走りに上っていた。
灼熱の太陽の下、ゆっくり歩けばその暑さも若干は和らぐのだろうけれど、
生憎あまり悠長にこの時間を浪費したくはなくて。


照りつける日差しの下、見慣れたアパートが視界に入る。
丁度その時、そのアパート一室、2階の右端のドアが開くのを認めて少女は足を速めた。
玄関前に姿を現した白いワンピース姿の彼女が、そのスカートの裾を翻して真っ直ぐに階段に
足を向ける。何をそんなに急いでいるのか、パタパタと急いた足音が大分離れた少女の元まで
聞こえるほどに。

思わず、くすりと笑みを漏らし、肩からずり落ちかけたバッグを担ぎ直す。
ふと、階段の上で彼女が自分の存在に気付いたらしい。
彼女の黒目がちな目が真っ直ぐに、汗だくで坂を上る少女へ注がれている。

ぱっと花開くように彼女の顔が輝いた。満面の笑顔を浮かべる彼女の姿が眩しくて、目を細める。
右手を軽く挙げて、彼女の笑みに答えた。


彼女の唇がゆっくり動いて言葉を紡ぎ、それから細い足が階段を軽やかに駆け下りた。
しなやかに流れる一連の所作が、まるで映画のワンシーンのようだ。
何だか急に照れ臭くなって、少女は汗まみれの顔をTシャツの袖で乱暴に拭った。
そうしてから、ショルダーバッグをもう一度、担ぎ直す。バッグの中へ適当に詰め込まれた
荷物がどしゃりと悲鳴を上げた。北海道土産のクッキーは、今の衝撃で御釈迦かもしれない。
些細な想像すら可笑しくて、少女の笑みは彫りを深くした。
―――― ああ、帰ってきたんだ、彼女の隣りに。

「ただいま、梨華ちゃん」

片手を顔の前に翳し、真夏の日差しの眩さに目を細め、
みーんみんみんみん、じじじじ
みー―― んみんみんみんみんみんみん……
最早騒音と思える程のバックミュージックすら、大事な青春の一コマとして、味方につけて。
彼女は、ふふっと笑みと共に息を吐き出した。
ただ真っ直ぐにたった1人の少女だけを視界の中央に捉える。目標、補足。
オーライ、さぁ、迷わず突き進め!
882 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:22

サンダルの踵を盛大に鳴らし、後藤真希は残り僅かな距離を一目散に蹴り上っていく。
883 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:22

   <終わり>

884 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:22

885 名前:  投稿日:2006/04/12(水) 19:22

886 名前:名無し猿 投稿日:2006/04/12(水) 19:24
ということで、足掛け2年半ほどになりましたが、「おにぎり」完結です。
駄文にお付き合いいただきました読者の皆様には本当に、感謝の限りです。
毎回毎回放置と思われる位に間を空けては保全していただいたり、励ましのお言葉を
いただいたり、多くの助力のもと完走することが出来ました。決して自分1人では
達成できなかったことだと思います。
大きな事件も動きもない話ながら、読み手がついてくださるのは意外でもあり非常に
嬉しい誤算でありました。これは絶対に放棄はできないなとw
脱稿に至り、改めて最初から読み返したところかなり辻褄の合わない部分や矛盾点、
誤字脱字を発見してしまい少々鬱になりましたが。。
それでも、最後まで読んでいただいた(こんな後書きぶった一文まで…)読者様に、心から
お礼を申し上げたいと思います。

本当に、ありがとうございました!
887 名前:名無し猿 投稿日:2006/04/12(水) 19:25
最終更新分です
>>764-883
888 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/12(水) 21:04
ついについに終わってしましましたか・・・
楽しみが減るのは残念ですが、ここのほのぼのいしごまが大好きでした。
ラストまで読み終えた今、充実感でいっぱいです!名無し猿さんお疲れさまでした&素晴らしい作品ありがとうございました!
889 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/12(水) 22:17
完結お疲れ様です。
楽しみにしていた作品だったので、
終わってしまうのは寂しいですが、
最後の最後まで楽しませて頂きました。
素晴らしい作品をありがとうございました!

名無し猿さんのいしごま大好きです!!
890 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/12(水) 23:02
お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。

  お に ぎ り ! 感 動 し た !
891 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/12(水) 23:21
ついに完結ですね。
長期連載お疲れ様でした。
うまく言葉にできませんが、この作品に出会えてよかったです。
ありがとうございました。
892 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/12(水) 23:38
完結お疲れ様でした
おにぎり最高!作者さん最高!!そしていしごま最強!!!
893 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 00:20
もうこれだけ。
名無し猿さま最高!!!
894 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 03:10
泣いた。
なんか言葉にできないです。
895 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 03:16
完結して頂き、ありがとうございます。途中涙で文章が読めなくなりました(^^;
話の構成や文章の書き方に知性を感じ、これほどまでにレベルの
高い作品は他に無いと思います。「夢」と「愛」に悩むその姿は
やきもきしつつも、共感、また感動し、
何より温かい、この作品が大好きで、毎日更新されたかチェックをしておりました。
楽しみが減り、寂しくなりますが…この2年間本当にありがとうございました。
「おにぎり」と出会えて良かったです!
長文、乱筆失礼しました。
896 名前:名無し読者 投稿日:2006/04/13(木) 06:51
更新、完結お疲れさまです!
二年なんて終わってしまうとあっという間ですね。
と、作者さんの苦労を無視した物言いですが(汗)
これで「おにぎり」が終わったんだと思うとすっごく寂しいです。
心の底で温かいモノがじわーっと広がってくような、そんな二人の物語が大好きでした。
こんな素晴らしい作品を読むことができて幸せです。
お礼を言うのはこちらの方です、本当にありがとうございました!!
897 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 15:00
読ませていただきました。
まどろっこしくて切なくて、優柔不断そうで、本当は頑固で生真面目で、
そして思いっきり不器用な主人公の二人が、いかにも『いしごま』といった感じで、
他の誰かに名前を置き換えたら成立しない、これこそがキャラクター小説なのだと、
コチラを読ませていただく度に感心させられていました。
お忙しいとは思いますが、また何処かで、
名無し猿さんの描く世界に出会えたらなと、勝手に念じています。
完結お疲れ様でした。
そして素敵な作品をありがとうございました。

898 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 16:52
完結お疲れ様です。
涙がウルウル出てきて止まりませんでした。
最後まで読み終わった後の何ていうんでしょうかこの感情・・・・



  感 動 し ま し た 。
899 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 17:20
完結お疲れ様でした!!

読んでいて何度も涙がこみ上げてきました。
最後の終わり方も不器用な二人っぽくて感動しました。

素晴らしい作品を、ありがとうございました!
900 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 18:45
泣かせていただきました。
ごっちん、本当に良かった!
不器用なごっちんがたまらなく大好きです!!

作者様お疲れ様でした。

そして感動をありがとうございました。
901 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/13(木) 23:14
完結お疲れ様でした。もう感無量であります!作者様感動をありがとう
902 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/04/14(金) 10:43
会話が素晴らしいですね。もう、ボロボロ泣いてしまいました!
903 名前:名無し飼育さん 投稿日:2006/04/14(金) 12:52
一気の大量更新&完結お疲れ様でした!!
もうホントに、最後までどうなるのかと
ハラハラドキドキしましたよぉ…w
もうこの二人に会えないかと思うと寂しい
気持ちで一杯です。
また次回作を期待いさせて下さい。
ありがとうございました!
904 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/14(金) 22:44
完結お疲れ様でした!
久しぶりに、こんなに感動する小説に出会った気がします。
「14」からはもう涙・涙でしたよw
この作品に出会えたこと、そして作者様に感謝です。
905 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/16(日) 19:36
最初から読破しました!やっぱイイワ〜これ
序盤から中盤はほんわか萌え、終盤はハラハラやきもき、まさに一粒で二度美味しいW
今まで読んだいしごま小説の中で、自分の中で1番になりました。おにぎり最高!猿さん最高!!

本当に素敵な作品をありがとうございました
906 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/16(日) 22:51
喫茶店の名前やメアド。
細かい部分に作者さんの愛情を感じました。
ありがとうございました。
907 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/04/20(木) 23:54
年がいもなくウルウルしながら読んでしまいました。

素晴らしい作品をありがとうございました。

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