Si
- 1 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:25
- ◇
- 2 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:26
- 海が綺麗だった。
光は海面にキラキラと反射して、起き抜けの瞼の奥へと真っ直ぐ射し込んでくる。
朝凪のさざなみは心地よいリズムを作り、遠くで鳴いている海鳥の声と段だらに織られて、耳に届く。
目に映る風景はやたら青かった。
(こんな場所、あったんだ)
亀井は辺りを見回した。
小さな入り江だ。
砂地から顔を覗かせる無数の大岩さえなければ、そこそこ穴場の海水浴場になっていたかもしれない。
- 3 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:27
- 春の太陽は岩に腰掛けた亀井の頬を柔らかに照らし出す。
潮風になびく黒髪を手で押さえながら、亀井は穏やかな表情で水平線をしばらく眺めていたが、おもむろに立ち上がった。
ストライプのギャザースカートをパタパタとはたいて、少し目を細めた。
(焼けちゃったかも)
手の甲を少し火照った頬に当ててみる。ひんやりと気持ちよい。
頬を擦りながら海にくるりと背を向けると、目の前には入り江を囲むようにそびえ立つ崖があった。
亀井を押し潰そうとせんばかりに迫り来る絶壁の上、風に揺れる緑の隙間からは、ガードレールだろうか、
白い線状のものが見え隠れしている。
おそらく、そばを走る国道だ。
- 4 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:28
- 亀井はぼんやりそれを見上げていたが、不意に周囲を見渡し始めた。
思案に暮れた様子で岩壁を睨みつけている。
(……どこから降りて来たんだっけ)
一生懸命思い出そうとするが、まだ頭が起きていないのか一向に働かない。
いい加減頭痛を覚え始めた頃にようやく、茂みに隠れた急な坂道を見つけ出した。
細い傾斜を目で辿ると、確かに崖上の国道まで続いている。
亀井はほっと胸を撫で下ろした。
- 5 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:29
- 今はどうやら引き潮の時分のようだ。満潮になるとこの辺りまで海は侵食してくるらしく、
砂の上に連なる鈍色の岩肌は波で滑らかに削られていて、ところどころ乾いた海藻がへばりついているのが見える。
白い光線を受けてテラテラ光る表面はどことなく無気味で、それを認めた途端、潮の香りが生臭くなったようにさえ思える。
どす黒いそれを横目で見ながら足を滑らせないよう慎重に岩を伝い、人ひとりがやっと通れるほどの上り坂へ向かった。
荒れたけもの道は歩きづらかった。
両手で草木をかき分けながら進まなければならないため、七分丈から伸びた腕には掻き傷が増えてゆく。
汗を感じる。息が切れる。
それでも、潮の香りに背中を押されて、亀井はどうにかこうにか崖の上へと到着した。
- 6 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:30
- アスファルトに立ち、ふうと息をつく。
潮煙を含んだ風を存分に吸い込んだ土は、白く磨かれていたバレエシューズをひどく汚してしまった。
茶色い染みがべったりとついている。
地面を軽く踏み鳴らし泥を落とそうとしてみたが、簡単には落ちそうにない。
諦めて、目を上げる。
見下ろす海の色は深みを増し、入り江で見ていたよりも白く泡立つ波頭がよく目立つ。
ここからではあの入り江は視界に入らない。
亀井はガードレールに手をかけて覗き込んでみたが、結構身を乗り出さないと見えないようだ。
登ってきたはずの小道も緑に埋もれてしまって入り口さえも判別し難くなっていた。
夏になったら、みんなで来てみようか。
ガードレールの塗料のついた手を払いながら、亀井は少し微笑んだ。
- 7 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:31
- 山の中腹、国道の先。
二手に分かれた道路を左に曲がると亀井が暮らす寄宿舎が見えてくる。
築数十年にもなる石造りの建物は校舎と背中合わせに建てられており、
いつもは賑わしい声が庭の辺りまで漏れ聞こえるのだが、
今は春休みのため宿舎には十数人程度の生徒しか残っていない。
居残り組以外は皆、迎えに来た車であの国道を通り、実家へと帰っているのである。
亀井は通用門をくぐると、学校の敷地へ入った。
校庭には誰もいない。
そよぐ芝生を抜けて玄関の大きな両開きのドアを開け、そのまま食堂へ向かう。
- 8 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:32
- 食堂はがらんとしていた。
窓際の席に着き、しばらく待ってはみたものの誰も現れそうにない。
みんな、もう朝食を食べてしまったのだろうか。
そんなに長い間、あの入り江にいたのだろうか。
亀井は戸惑いながら辺りを見回してみるが、肝心の時計は見当たらない。
こめかみに指を当てて考えようとしたその時、背後からポンと肩を叩かれた。
亀井が驚いて振り向くと、2人の少女が立っていた。
首を傾げて微笑む色白の少女と、その後ろで丸っこいつり目で呆れたふうに亀井を見つめる少女。
「どこ行ってたの?」
淡い桃色のワンピースに身を包んだ少女は、亀井の肩に手をかけたままそう尋ねた。
- 9 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:33
- 道重さゆみと田中れいな。
今から1年前に、亀井と共にこの寄宿舎に入った少女だ。
人見知りの激しい亀井は初め、このなんともアクの強い2人と上手くやっていけるのか不安で仕方がなかった。
が、それは杞憂に過ぎなかった。
先住の先輩も職員もみんな親切でいい人だし、この2人とももうすっかり仲良くなっている。
- 10 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:34
- 「ちょっと、散歩」
「まだこんな早いのに? えり、何時に起きたの」
腕組みをした田中が窓の方へ目線を投げる。
亀井もつられてそちらを見ると、大きな時計が窓際の壁で8時前を告げていた。
首を傾げて「さあ」と答えてから2人に視線を戻す。
すると彼女たちはいつのまにか向かいの席に落ち着いていて、
両手で頬杖をついた田中が亀井の答えに「なんだそりゃ」とけらけら笑う。
楽しそうな田中とは対照的に、黒いTシャツに描かれた鬼がこちらを恨みがましく睨みつけている。
- 11 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:34
- 「ゴハンは?」
「いまから」
「わたしも。じゃあ、取ってくる」
田中がそう言って立ち上がると、道重もその後に続く。
いつのまにか食堂には居残り組の面々が次々と姿を現していて、
静かだった食堂はあっという間に賑やかになった。
亀井はカウンターに向かう2人を見遣りながら、肩までストンとおろした髪に手をやった。
海に近いこの一帯は基本的に空気がべたついている。そのせいか、髪が重い気がする。
シャワーを浴びたい。
亀井はグッと伸びをして天井を見上げると、小さなため息をついた。
- 12 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:35
-
- 13 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:36
- ぼんやりと天井の染みを眺めていた亀井の視界に、不意にピンク色が転がり込んだ。
ゆっくり目線を落とすと、桃色ジャージを着用し、頬を紅潮させた道重がニコニコと佇んでいる。
「シャワー、空いたよ」
「ああ―――」
思い出したように返事をしながら後ろ髪をかきあげる。
冷えた汗が襟足を湿らせている。
「ありがと」
気の抜けた声と妙な間が気になったのか、
道重はそのまま控え室には向かわずに長椅子に座った亀井の横に陣取った。
- 14 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:37
- 「どしたの? ぼーっとしてる」
「…うーん」
道重の言うとおりだった。どうも頭がはっきりしない。
頭の中をいろんなイメージがチラチラ見え隠れするのだが、いったい何なのか、判然としない。
まるで自分の意識の中に自分でないものが存在しているようだ。
それに気を取られていたせいで、先ほどのレッスン中もなかなか集中できなくて夏に何度も注意された。
それゆえ、道重も気にかかっていたのだろう。
亀井がそのことを告げると、心配そうに亀井の顔を覗き込む。
- 15 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:37
- 「熱は?」
「ないよ。測ってみたけど」
改めて額に手をあててみるが、やっぱり熱はなさそうだ。
「なんていうか――そう、夢を思い出せそうで思い出せない感じ」
「ふーん」
わかったのかわかっていないのか。
道重はスニーカーの両足をばたつかせながら曖昧な相づちを返した。
そのまましばらく2人とも黙っていたが、ふと道重が笑顔で口を開く。
「明日、楽しみだね」
「明日? ――ああ、『モーム素。部屋』かあ」
「ねー。なんか、面白そう」
- 16 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:38
- 明日のスケジュールは朝から娘。総出で地方の宿泊施設を借り切って、
『モーム素。部屋』の第2弾を撮る予定になっていた。
カメラが設置されているとはいえ、自由に好きなことをしていてよい、というのが非常に惹かれるし、
海の近くにある山沿いのリゾート用ペンションというのがこれまた魅力的で、ちょっとした小旅行気分だ。
娘。全員がなんだか浮き足立っている。
亀井ももちろん、例外ではない。
撮影が決まってからというもの、6期の3人の間でももっぱらの話題だ。
- 17 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:39
- 「そういえば、れいなちゃんは?」
「まだレッスン室」
道重が廊下の先にある重そうな鉄の扉についと顔を向けた。
田中は意外と努力家だ。度々居残りをしてはダンスレッスンを続けているのは亀井もよく知っている。
そんな田中に焦りを感じてレッスンに付き合うこともあるが、
さすがに今日は無理だ。体調が芳しくない。
「じゃ、時間がかぶらないうちにシャワー浴びちゃうよ」
亀井がそう告げると、道重は「先に行くね」と長椅子から腰をあげた。
控え室へ戻る道重に軽く手を振った亀井は、トイレの横に設置されたシャワー室の扉を開ける。
- 18 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:40
- 熱く湿った空気がドアの隙間からこぼれ出す。
淡い光に照らし出された小さな脱衣所は灰色のタイルで囲まれており、水滴が表面を覆っている。
亀井は手早くレッスン着を脱いで、シャワーの前に立った。
蛇口を捻り、熱い湯を頭からかぶる。
首筋を伝い流れてゆく液体は背中の汗を洗い落としてくれるが、
頭の中まではスッキリさせてくれない。
亀井はがくりとうなだれた。
落下する水の膜で囲われた視界の先には、
熱気で薄赤色に彩色された自分の足が流れの中に佇んでいる。
熱は全身にまわる。頬が火照る。
換気扇から漏れる微かな風がひんやり心地よい。
そのままぎゅっと目をつぶって、息を吐いた。やはりまだ頭はモヤモヤする。
- 19 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:41
-
―――石造りの建物。8時前。白いバレエシューズ。頬を掠める風。緑の芝生。
頭を上げて、大きく目を見開く。シャワーの飛沫が桃色に紅潮した胸元で砕ける。
沸きあがった光景の羅列を再度思い出そうとするが、そのイメージはもう輪郭さえもつかめない。
諦めた亀井はシャワーを止め、さっさと脱衣所へ向かった。
風邪をひかぬよう、丹念に髪と身体を拭く。
小部屋に篭った湿気のせいか、息が苦しかった。
- 20 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:42
- 控え室にはもう誰もいなかった。部屋の隅には荷物が2つだけ残されている。
田中はまだ練習しているのだろう。
一瞬、待っていようかとも思ったが、どうも早めに休んだ方が良さそうだ。
亀井は帰り支度をとっとと済ませると、マネージャーを探してタクシーを呼んでもらった。
マネージャーに明日の集合時間の再確認をしてから、口を開けたタクシーに乗り込む。
自宅までの行き先を告げる。タクシーは暗がりの街を快調に走り出す。
夜はもう深く、辺りにはネオンがちらついていたが、
亀井は景色を楽しむ気にもなれず、ずっと目をつぶっていた。
(なんか疲れた)
帰宅した亀井は倒れるように眠りについた。
- 21 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:42
-
- 22 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:43
-
パン。
突然の音に、亀井は驚いて目を丸くする。
見開かれた目の先には両手を打ち合わせた道重がニヤニヤしている。
「なにー。びっくりするじゃん」
「今寝てたでしょ」
「寝てないよ。目、つぶってただけ」
クスクスと笑い続ける道重の隣では、田中がロールパンをかじっている。
亀井の前には食べ終わった朝食のトレイが置かれていて、
窓から射し込んだ陽光がその上に木の葉模様の影を作る。
他の人達はすでにいない。
賑やかだった食堂には風にそよぐ木々の音がかすかに響いていた。
- 23 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:44
- 「天気いいねえ」
温かい光を頬に受け、亀井は思わず呟いた。
眩しい光線につられて外を見遣ると、緑に萌えた中庭が春の匂いを存分に漂わせている。
陽気に誘われて木陰でのんびり、もいいかもしれない。
素敵な思い付きを向かいの席で手持ち無沙汰げにしている2人に話してみたが、
道重は先に帰ると言い、田中はもうしばらくここにいると言う。
彼女達は笑顔で首を横に振った。
- 24 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:44
- 校舎と宿舎の間に位置する芝生敷きの一帯を、生徒達は中庭と呼ぶ。
真ん中に小さな池があるこじんまりとした場所で、
その周りを囲むように植えられた木立が適度に日陰を作るため、割と生徒にも人気のポイントだ。
さすがに今は閑散としていて少しうら寂しい感じもするが、
それは亀井にとっては贅沢な場所を独り占めできる格好のチャンスだった。
亀井はいそいそと手近な木陰に座り込み、立派な幹に背を預けた。
- 25 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:45
- 水の香りと土の香りと草の香りが交じり合った風には、時折潮の香りがうっすら混じる。
それにつられて海の方角に目を遣る。視界に海は見えやしない。
ただ鬱蒼と茂る山の緑の中に、小高い丘の向こう手に建つリゾート用の宿泊施設の赤い屋根が異彩を放っている。
そういえば2人に入り江のことを話すのをすっかり忘れていた。
そんなことを思いながら風で乱れたスカートを整える。
真っ直ぐ伸ばした脚の先には、真っ白のバレエシューズが明るい草色に見事に映えていた。
- 26 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:45
-
- 27 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:46
- 緑色の絨毯から足を上げて、座席の下のステップに引っ掛ける。
亀井が辺りを見回すと、少し上の先輩達がさっそくお菓子を開封しているのが見えた。
遠足みたい、と亀井は微笑ましく思う。
マネージャーはガサガサガヤガヤうるさい中、娘。全員乗り込んだことを確認すると、
運転手にゴーサインを出した。
そうして人がぎっしり詰まったマイクロバスは、軽快に東京の街を出発した。
ロケバスの座席は適度に狭く、窓際の席を獲得した亀井は非常に居心地がよかった。
実際、頭のモヤモヤはまだ取れていなかったが、心待ちにしていたロケというのも相まって、
そんなことはあまり気にならなくなっていた。
- 28 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:47
- 渋滞に捕まることもなく、娘。を乗せたロケバスは早朝の都心を軽やかに抜けていた。
順調に郊外を走る頃には朝早くに集められたせいもあり、
はしゃぎ疲れたメンバー達が次々と眠りに落ちてゆく。
しばらくは隣の田中と他愛のない話をしていた亀井だったが、
ふと気がつくと話し相手はいつの間にか寝息を立ててしまっていた。
手持ち無沙汰の亀井は背もたれに体重を預けると、カーテンの隙間、
少し開いた窓から外の景色を眺めた。
もう付近に高いビルはなく、風景にも徐々に緑が増えている。
吹き込む風は緩く、暖かく、亀井の睫毛をかすかに揺らす。
心地よいバスの振動と、静かな車内。霞がかる意識。
いつしか亀井も眠りへと誘われていった。
- 29 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:48
- いきなり目が覚めた。
ロケバスはすでに海沿いの曲がりくねった坂道を登っており、
洩れる光が寝起きの亀井の眼に眩しく刺さる。
手をかざして外を見てみるが、深い木立しか見えない。
田中はまだ眠っている。車体の揺れに合わせて、時折肩に軽く体重がかかる。
バスが大きく左に揺れた。窓の向こうの景色が急に開ける。
朝の太陽に照らされた青い海。
途端に亀井の目が驚愕に見開かれた。
(あのイメージだ)
目の前に広がっている風景は、幾度も頭の中に浮かんでは消えてゆく映像の切れ端。
と、突然例の靄が深くなり、自分の意識とは別のものが薄い膜の向こう側で盛んに渦巻き始めた。
- 30 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:49
-
―――静かな海。談笑する3人。朝食前の散歩。迫り来る岩肌。赤い自転車。
ぎゅっと目をつぶり、頭を抱え込む。
流れてゆくイメージを必死で掴もうとするが、相変わらず指の間をすり抜けていってしまう。
それでもそれは徐々に、そして確実にこちら側へ近づいてきている。もう少しだ。
モヤモヤは亀井に重くのしかかり、後頭部を疼かせる。亀井は苦しそうに息を荒くした。
そんな様子を心配したのだろうか。背後から小さな手がそっと亀井の肩に置かれた。
- 31 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:49
-
- 32 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:50
- 「亀井」
突然の呼びかけに身を固くする。
肩に添えられた小さな手を目で伝ってゆくと、その先には寄宿舎の職員、矢口真里が立っていた。
手には何やら書類のようなものを持っている。亀井は芝生から立ち上がって、ぺこりとお辞儀をした。
「おはようございます」
「ああ、おはよ」
矢口は小さい。そのうえ、うつむき加減のせいもあって、亀井は矢口の頭頂部を見下ろす形になった。
目の前で、陽光に貫ける明るい髪が風に揺れる。
学校職員なのに、注意されたりしないんだろうか。
矢口に呼び止められ思わず肩ひじをはってしまった亀井だったが、職員に詰問されるようなことはしていないはずだ。
次第に緊張は解け、どうでもよいことが頭をよぎる。
- 33 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:50
- 「あのさ―――」
矢口はなぜか言いよどんだ。時が止まったように亀井の顔を見つめている。
亀井は不思議そうに、なんですか、と矢口の顔を覗き込んだ。
それでも矢口は動かない。
「言ってください」と言おうとした瞬間、呪縛が解けたように軽く開かれた矢口の口から言葉が繋がれた。
「貸出中の自転車、まだ返ってきてないぞ」
「自転車、ですか?」
「そう」
「私が、ですか?」
「そう。貸したじゃん、今朝、散歩に行くって。赤いヤツ」
- 34 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:51
- 矢口はそう言って手元の書類を亀井に見せた。
確かに書面には亀井の文字で借りた時間と亀井の名前がサインしてある。
思わず校舎の壁面に設置された大きな時計を確認する。
鋭い針は8時前を指している。
記された貸出時間は今からほんの5、6分前。なのにまったく覚えていない。
だいたい、この木陰でぼんやりしていた時間は?
あの食堂で過ごした時間は?
入り江から寄宿舎まで戻る時間は?
急に後頭部が疼き始める。
赤い自転車? そんなの知らない。
散歩。岩だらけの入り江。青い風景。海の音。朝の光。
―――その前は?
頭を抱えて辺りを見回す。とうに矢口の姿はなくなっている。
亀井は歯を食いしばり、ふらふらと走り出した。
- 35 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:52
-
- 36 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:52
- フロントガラスの向こう側、稜線の陰からとうとう石造りの建物が現れた。
亀井は歯を食いしばりながら、辺りの風景を無言で見つめる。
揃ったピース。
ばらばらになっていた光景が一本の映像へと繋がってゆく。
完成されたイメージは亀井の頭の中でゆっくりと再生される。
石で出来た建物。朝日に光る海。潮の匂い。山に沿う国道。
赤い自転車。風を孕むスカート。視界の脇を過ぎ行く緑。
そして―――
- 37 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:53
- 「ああ…」
亀井はうめいた。
疼く後頭部を押さえて、座席の上でうつむいて縮こまっている。
「大丈夫? 酔った?」
その様子を見ていた矢口が後ろの席から顔を覗かせて、心配そうに亀井の肩を撫でる。
亀井は下を向いたまま、黙って首を横に振るだけだ。
「遠くの景色眺めてるといいらしいよ」
前の座席の背もたれからひょこんと顔を出した道重が親切にアドバイスする。
亀井はそれにも答えずに、ただ誰にも聞こえない小さな声で一言ポツリと呟いた。
- 38 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:53
-
―――思い出して。
- 39 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:54
- 亀井は見つけてしまった。折り重なるような岩の陰でぐにゃりとひしゃげた赤い自転車を。
亀井は見つけてしまった。腰掛けていたはずの大きな岩にべったりとついた赤黒い染みを。
突然の嘔吐感と共に頭が締め付けられるように痛み始める。動悸が速い。息が荒い。
どうやってこの入り江を見つけた?
汚したはずのバレエシューズは?
どうして矢口さんは言いよどんだ?
どうして時間が進まない?
激痛に身を捩る。
不意に、曇っていたスクリーンが薄氷が溶けるようにじんわりと明確になり、
巻き戻されてゆく記憶を映し出した。
- 40 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:55
-
静寂。穏やかな海。優しい春の太陽。岩場に打ち付けられた身体。宙を踊る髪。
びゅうとすり抜けてゆく潮くさい空気。ガードレールから投げ出され、自由落下を始める四肢。
衝撃。精一杯握り締めるブレーキ。反転するハンドル。
鬱蒼とした木々の陰、緩やかなカーブの先から突如現れたマイクロバス。視界の脇を通り過ぎてゆく緑。
スムーズに回転するペダル。頬を刺す心地よい風。坂道を快走する赤い自転車。
- 41 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:55
-
(……ああ、そうだった)
膝から力が抜け、岩の上に崩れ落ちる。
熱く疼いた頭から幾筋の赤がすうっと線を引き、亀井の白いシャツに滲んでいった。
- 42 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:56
-
- 43 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:56
- 「止めて!」
緩いカーブを曲がり切った途端、疲れの漂うバスの中に亀井の声が響いた。
突然のヒステリックな叫びに応じ、鈍重な車体は低い排気音をたててガードレール脇に止まる。
静かな空気の中まどろんでいたメンバー達も何事かと起き出してきて亀井に視線を投げるが、
当の本人は下を向いたまま誰とも目を合わせない。車内は騒然となった。
マネージャーが駆け寄るが、やはり亀井は目を上げない。
ただ、右腕をスッと伸ばし、ガードレールの先を指差した。
- 44 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:57
- 「いま、なにかおちた」
一語一語確かめるようにゆっくりと呟く。
亀井の体は小さく震えていて、覆い被さる前髪の隙間から見える肌がひどく青白い。
尋常でない様子にマネージャーとスタッフは慌ててバスを降り、
ガードレールの向こう、切り立った崖の下を覗き込んだ。
が、遥か下の小さな入り江には何の影も見当たらない。
念のため車体を確認しても、ぶつかったような跡も見受けられなかった。
運転手も、何も見ていないと首を振る。
- 45 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:57
- 「疲れてるんだよ」
田中がそっと亀井の背中をさする。
メンバー達も窺うように亀井の様子を注視していて、先輩達は心配そうに声をかけてくれる。
それでも亀井は強く目を閉じたままだ。
しばらく付近を捜してみても結局何も見つからない。
首を傾げるスタッフ達を乗せ、バスは何事もなかったように出発した。
窓の隙間から再び潮風が舞い込み、亀井の髪を乱す。
- 46 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:58
- 海が綺麗だよ、と道重が視線を外へと促す。
しかし、亀井はうつむいたまま軽く頷くだけで、少しも顔を上げられなかった。
どこからか鐘の音が8つ聞こえてきたが、その響きも穏やかな春の海へと吸われてゆく。
ふと指先で頭を撫でる。もう痛みはなかった。
- 47 名前: 投稿日:2004/03/09(火) 02:58
-
FI
N
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 03:30
- こういうのコメントしづらいですね、アホだと思われるの嫌だし
なので無難に…
面白いです!
- 49 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/06(火) 22:38
- 何度も読み直しました。もう一人の彼女の時間がたわんでいたのは、彼女が
その場所に到着するのを待っていたからでしょうか。硝子細工のように綺麗
な話だと思いました。願わくば、別の短編が投稿されんことを。
- 50 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/19(月) 19:27
- もう一人の亀井の存在は消えてしまった
自分としてはこっちの方がしっくりくる。
死んでしまった亀井は夢なのか、現実なのか。
荘子チックな作者さんの次回作に期待
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