私の気持ちもわかってよ!〜高橋篇〜
- 1 名前:まほろ 投稿日:2004/03/14(日) 20:59
- 始めましてまほろです(漢字ちがうかな?)小説は家でノートとかに書いてるけど、
サイトで書くのはあんま慣れてないんです・・・・・
おかしな文章書くかもしれないけどよろしくお願いします。
*日記みたいなレス
例:1月14日
あたしの存在って意味あるの?
このようなレスは、その日の高橋の日記です。
それではどうぞ。
- 2 名前:プロローグ 投稿日:2004/03/14(日) 21:02
- なぜ私だけ こんな目にあわなくちゃならない
皆とは違い
私は
こんなにも浅い友情
親友もできない
なぜ
私の気持ちをわかってくれないのだろうか
言葉だけじゃ足りないのか。
- 3 名前:プロローグ 投稿日:2004/03/15(月) 20:23
- 「今日は誕生日カードを千秋さんにかいてくださーい!」
千秋か。
千秋は、あたしの親友・・・・・・だったはず。
ココ最近、あたしをさけてるカンジ。でも、あたしへの誕生日カードには、「親友だよ」って
書いてあったもん。だから、安心してた。
よし、気合入れて書くぞ、千秋に書くんだもん!
- 4 名前:1 投稿日:2004/03/15(月) 20:28
- 「愛〜!愛〜っ!」
声のするほうを見ると、友達の蘭子がいた。
「蘭子!どったの?」
「ちょっと、こっち来てね・・・・・」
蘭子はためらった。言おうか言わないか迷ってるらしい。
そして、決心がついた。
「い〜い?今から言うこと、誰にもいっちゃだめだよ!」
「何!?蘭子」
「あのね・・・・・・・」
ガーン
そんな・・・・・ひどすぎるよ・・・・・・・親友じゃない、だなんて・・・・・
千秋・・・・・信頼してたのにな・・・・・
それに・・・・愛のこと大嫌いなんて・・・・・・私・・・・・・・千秋に何かした?
- 5 名前:1 投稿日:2004/03/15(月) 20:31
- 「あと、千秋がね・・・・」
「もういいっっ!」
あたし、悲しかった。今までのうれしかったことが消えてしまいそうなくらい。
親友だったのに・・・・・・・・
こんな些細なことで、泣いてしまうあたし。
変わらなきゃ・・・・・もっと前向きにならなきゃ・・・・
でも・・・・・・・あたし、千秋に裏切られた。
もう、親友なんて作らない。
どうせ、裏切られてなくのがオチだから。
- 6 名前:1 投稿日:2004/03/15(月) 20:34
- 「ええええーーー!!!」
「義也、好きな人いたの?」
「う、ん、里音なんだ・・・」
やっぱり里音だよ・・・・・・
はぁ・・・・恋愛もダメ。
- 7 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/16(火) 15:14
- uzai
- 8 名前:2 投稿日:2004/03/16(火) 18:04
- 次の日だ。
学校へつくと、蘭子が走ってきた。
「愛!千秋がね〜!愛がトイレ入ってるとき、「死ね」のポーズやってたよ〜!」
「・・・・・・・」
あまり驚いたので、高橋は言葉を失った。
もう、いいよ!
高橋は、無意識のうちに蘭子を蹴り飛ばしてしまった。
・・・・・・・もしかして、ウソかも。
ウソなら、蘭子は裏切った。もしホントなら千秋が裏切った。
どっちみち、裏切られなきゃいけないんだから!
だって、昨日相談したら、「そんなこと聞かれた覚えない」って言ったもん!
いいかげん、私の気持ちわかってよ。
仲良くなりたいのに。嫌われるなんてなきゃいいのに!
- 9 名前:麻姫 投稿日:2004/03/16(火) 18:06
- わかりますね〜!高橋の気持ち!更新お疲れ様です!
- 10 名前:2 投稿日:2004/03/16(火) 18:17
- 「愛〜っ!おはよ!」
「ち、千秋っ!」
高橋と千秋はいつものように、笑顔で話し始めた。
「・・・・・・やめとこ。」
蘭子は、気まずい表情で、身を隠しながら玄関へ入っていった。
「えっ?蘭子がそんなことを?あのデカめ!」
「そうなのそうなの!」
高橋は、いつものように明るい千秋を見て安心した。
二人で話をしながら、玄関に入っていった。
「キャーッ!」
高橋の叫び声を聞いて、千秋が驚いた表情で走ってきた。
なんと、教室の黒板にラクガキがしてあった。
「うっわー!細かい!」
「なになに・・・・?
”死ね・くたばれ・失せろ・消えろ・バカ・あほ・トンチキ・トンチンカン・ボケナス・デクノボウ・
オタンコナス・邪魔者・死神・キモイ・エロイ・チカン・公害・ダイオキシン・悪魔・有毒物質・
毒物・インフルエンザ・サーズ・ライノウイルス?」
「うっわー!ひっどーい!何これ!」
「きゃー!下に”AIへ”って書いてあるよ〜!」
どうしてだ?あたしがなにをしたっていうの?
- 11 名前:2 投稿日:2004/03/16(火) 18:23
- そして、そのラクガキの下に、なぐりがきで赤いチョークで、
”腐ったリンゴ・不潔とラブラブ・ヒ素中毒・売れないラーメン屋”
と書いてあった。千秋は、動揺して、慌てて、近くにあった机にぶつかってしまった。
「あいててて〜・・・・ でも、誰がやったんだ?」
すると、高橋は考えこんで、
「やりそうなひと?まず美保子に麻子に恵莉奈に彩奈に・・・」
「麗香に雪乃に・・・・・・・・蘭子!」
「そうだ!蘭子!」
高橋は、だんだん蘭子に対しての憎しみがこみあげてきた。
- 12 名前:2 投稿日:2004/03/16(火) 18:36
- 「裏切り者ー!!」
キーンコーン
チャイムとともに、1時間目が始まった。
高橋の苦手な調理実習だ。
今日は、両親への感謝を込めて、プレゼントするためのケーキとチョコを作ることになっている。
「お父さんとお母さんへか・・・・・・ちょっぴり恥ずかしいな」
「え〜ケーキは前に作ったから〜、え〜わかりますね?え〜チョコはとかしてかたにいれて固めるだけです!」
担任の植村が話し終わると、いつものように、千秋と真実がコソコソ話し始めた。
「今、「え〜」て3回言ったよ!」
「あはははははっは!」
二人は、大きな声で笑い始めた。植村は見逃すはずもない。
「そこ!話をちゃんときく!それで進級できるとおもっとるんかー!」
植村は、ものすごい叫び声で怒鳴った。
- 13 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/17(水) 22:56
- 予約しておきます
- 14 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/18(木) 00:57
- 一旦下げよう
- 15 名前:3 投稿日:2004/03/18(木) 17:24
- 「もう・・・・蘭子ったら・・・・・・・」
授業が終わって高橋は、蘭子のことを蘭子の親友の結花にいいつけていた。
「いや、蘭子の言ってることは本当よ」
「えっ?」
結花は急にまじめな顔になって下を向いた。
高橋はどうしたらいいかわからない。しばらく沈黙が続く。
「そうよ、あのラクガキも全部千秋。見ちゃったのよ!」
「え〜!そんな〜!」
千秋のバカ。
ウラでそんなひどいことするんなら、はっきり言ってくれればいいじゃん!
- 16 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/18(木) 18:02
- 一旦、落とそう
- 17 名前:3月20日(土) 投稿日:2004/03/20(土) 14:00
- みんなひどいよ。
みんな誰も助けてくれない。どうせあたしは孤独だもん!もういいもん!
今日は、悲しい一日でした。もう嫌だ!
- 18 名前:4 投稿日:2004/03/20(土) 14:09
- 高橋は、日記を書いていた。なぐりがきだ。
「もういいっ!もうねるっ!」
月曜日になって、学校へ、蘭子と一緒に登校した。
「こんどから、親友だよ!」
二人は、約束を交わしていた。
教室に入ろうとすると、もうほとんどの人が来ていた。
- 19 名前:4 投稿日:2004/03/24(水) 15:41
- 「あっ!蘭子〜!今日は一段とサラサラ髪だねぇ〜!」
どうして?あたしもいるじゃん!何でアタシには気がつかないの?
「あ、蘭子、あのね、今度からあの新聞、蘭子とウチで書くことになったから!よろしっく〜!」
「ちょ、ちょっと!あたしもいるってば!」
叫んでも、みんな無視する。
「ねえ、ねえってば!」
高橋は、こんなにも自分の影が薄いのか・・・・・と思い悔しくなった。
- 20 名前:まほろ 投稿日:2004/03/24(水) 15:43
- なんか評判悪いみたいですけど、ダメ出しとかはっきり言っていいですよ。
落とされるとこまるんで。それよりだったら、はっきりダメ出ししてほしいなぁ〜と思います。
意見あれば気軽にどうぞ。
- 21 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 17:05
- 更新するんだったら1・2レスだけじゃなくって
せめて10レスくらいにしてほしいな。
メモ帳かなんかに書き溜めしとけばいのでは?
- 22 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/25(木) 12:36
- 飼育はハロプロ関連の人が登場人物であることを前提としてます。
高橋が主人公であるのでそれはクリアしていると思いますが、あまりにも他のメンバーが出てこないのは読者としてはあまり面白くないでしょうね。
あと失礼ですが文体が幼いような気がします。
一人称なら一人称で統一する、もう少し比喩等を入れる、空模様等を入れて登場人物の気持ちと照らし合わせてみるetc・・・と工夫はいくらでも出来るでしょうね。
1番気になるのは物語の展開が速すぎる、といったところでしょうか。
1度他の作者さんの書かれた小説を読むとこつが掴めるのでは?
- 23 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/30(火) 02:02
- せめてsage更新でお願いします
落とすけどね
- 24 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/31(水) 04:48
- べんきょうがひつようだとおもいます。たくさんほんをよんだらいいとおもいます。がんばってください。
ちなみに私は読み専ですが
- 25 名前:5・放課後 投稿日:2004/03/31(水) 10:47
- 高橋は、下校時間になっても、教室に残っていた。
制服のポケットから青の携帯電話を出して、しばらくその電話を黙って見つめていた。
「よし、紺野ちゃんにメールしようっと。」
紺野あさ美は、高橋の幼なじみで、近くの学校に通っている。
紺野は、高橋とは違い、親友なんて十数人いる。
友達もすぐにできてしまう、女子に大人気の女の子だった。
「なんて書こうかな・・・・・その前に、ここに先生来たらヤバイな・・・・帰ろう。」
高橋は、教科書をカバンにつっこみ、ファスナーを適当に閉めて、大急ぎで教室を出た。
- 26 名前:5 投稿日:2004/03/31(水) 11:05
- 「えーーーっと・・・よし、相談してみよう。」
高橋は、紺野に今の友達関係のことを相談することにした。
「それにしても、よく一日中見つからなかったよね、この携帯電話。」
高橋は、味方ができたような気がして、嬉しくなってきた。
「あっ、愛ちゃんからメールだっ。なんて書いてあるんだろ〜」
紺野は、高橋からメールが来るのをいつも楽しみにしている。
「どれどれ〜・・・・えっ。」
紺野は、驚いて思わず叫んでしまった。
「愛ちゃんが、こんなこと書くなんて!」
紺ちゃん♪
ちょっと長くなるけど。
あのさ、今ちょっとしたイジメみたいなのに合ってるんだ・・・・
親友だったはずの千秋も、新しい友達の蘭子も相手にしてくれない。
なんで、私を無視するの?
私がしゃべったあとはシーンとなる。
私が入ったはずのグループは、遊びに誘ってくれない。もう、あたしなんていなくてもいいんでしょ!
誰も助けてくれない。
だれか、助けて・・・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・・・・」
紺野は、目を疑った。
「いつも明るい愛ちゃんが、こんなことを・・・・・・」
いつもなら、「紺ちゃんはおとぼけだから、ボケちんっていうあだ名ね☆」とか、
「イエ〜イ☆今日は親友とお出かけさ〜♪」とか、明るい内容ばかりだった。
でも、その裏では、こんなにも悩んでいた。
紺野は、だんだん悲しくなってきた。そして、高橋をできる限り助けてやりたいと思った。
「わかるなあ、愛ちゃんの気もち・・・・・」
- 27 名前:6 投稿日:2004/03/31(水) 11:12
- 「ピーピピピピーピピピピピピ〜」
高橋の携帯電話から”シャボン玉”の着メロがなった。
「紺ちゃんからメールかな?」
あけてみると、やはり紺野からだった。
愛ちゃん♪
愛ちゃんがそんなに悩んでいるとは思わなかったよ・・・・
今は詳しいことはわからないから、アドバイスはできないけれど、
悩みがあったらいつでも話してね。ぜったいに助けてみせる!(^0−)
愛ちゃんは、あたしの親友だよ♪
「紺ちゃん・・・・・・・・・」
高橋は、涙が出てきた。
「ありがとう・・・・・・・・」
高橋は、ずっとその携帯電話を抱きしめていた。
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/31(水) 11:25
-
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/31(水) 11:32
- せりふがいやにせつめいちょうすぎるとおもいます
それいぜんにぶんしょうがいみふめいですが。
とりあえず、にほんごでぶんしょうをかけるようになるまではよむのにせんねんすべきでしょう
こういったじこまんぞくなものがいちばんうえにあるのはきもちわるいのでおとしました
いこうまだつづけるきがあるならsageでおねがいします
- 30 名前:まほろ 投稿日:2004/04/01(木) 12:09
- >>29
ごめんなさい。貴方の言っていることがよくわかりません。私まだ小6なんで。
自己満足じゃありませんよ!あと、せつめいちょうすぎるってどういういみですか?
もしかして暗いってことですか?あと、私は本は読んでいるんだけど、まだ言葉とかあんま知らないんで
みなさんのような小説はかけないと思います。
意見言ってすいませんでした。
- 31 名前:まほろ 投稿日:2004/04/01(木) 12:09
- 落とすんなら勝手にどうぞ。
- 32 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/01(木) 12:21
-
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/01(木) 21:39
- 小6て・・
- 34 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/01(木) 22:47
- ( ^▽^)<もうほんとね、小6にしても馬鹿っぽいよね
- 35 名前:3月21日 投稿日:2004/04/05(月) 12:39
- 今日は紺野ちゃんにたくさん助けられました。
紺野ちゃんどうもありがとう。
- 36 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/05(月) 13:05
- 川o・∀・)<どういたしまして
- 37 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/05(月) 14:46
- フォォォォ!!
- 38 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/05(月) 22:07
- >>36
w
- 39 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/06(火) 15:09
- だおとな
小6の読んでるとでも?
- 40 名前:7 投稿日:2004/04/10(土) 20:13
- 次の日だ。
「ピリリリリリリリリ〜」
紺野から電話だ。
「もしもし、高橋ですけど・・・・えっ!」
- 41 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/10(土) 21:39
- 1〜2レスずつ更新するのはポリシーなんですか?
- 42 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/10(土) 23:41
- しかも、4行って少なすぎじゃないですか?
- 43 名前:まほろ 投稿日:2004/04/15(木) 13:44
- 展開を秘密にしたいときはそういうふうにするようにしてます。
- 44 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/15(木) 15:01
- リレー小説にしよう!
- 45 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/16(金) 02:49
- てかいいこと教えてあげる
小説を更新して最後にレスするのが普通だよ
- 46 名前:8 投稿日:2004/04/16(金) 20:29
- 「愛ちゃん!蘭子と千秋が愛ちゃんいじめるための作戦立ててるって!」
「ええ〜っっ!」
蘭子・・・・・・・・・
どうして裏切るの?
なんで、なんでよ・・・・・・・・・・・
- 47 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/16(金) 21:05
- ってかさ、お前と小春ってやつ同一人物だろ
いい加減にしろよ
- 48 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/17(土) 03:03
- まぁそれはいいとして自分で落としてるしいいんじゃね?
- 49 名前:14 投稿日:2004/05/01(土) 21:38
- しばらく勉強することにします。気に入らないんなら、かってに削除希望すればいい!
- 50 名前:おち 投稿日:2004/05/01(土) 21:38
- おち
- 51 名前:おち 投稿日:2004/05/01(土) 21:38
- 上は間違い
- 52 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/04(火) 14:47
- 誰か削除依頼出せよ
- 53 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/04(火) 19:10
- (〜^◇^)<おいらが再利用するよ
- 54 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/05(水) 15:10
- >>53
頑張って下さい。
- 55 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/13(木) 10:36
- 長編じゃなくても(・∀・)イイ!よね
- 56 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/05(土) 10:24
- (〜^◇^)<もうちょっと保全
- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/14(水) 23:16
- コソーリボツ小説
- 58 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/14(水) 23:17
-
砂浜には十字架が突き刺さっている。
いや、それは十字架と呼べるのだろうか。
その十字架は、全身が鉄で出来た、機械仕掛けの玩具のようだった。
時折、垂れ下がったコードから電光が飛び交っている。辺りは散乱としていた。
――いやだ
砂浜には身を焦がす日の光のみ。
――やめて
そこに投げ出されたモノは、
なんであれ為すすべもなく焼けていく。
- 59 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/14(水) 23:17
-
――こんな風景、見ていたくない
焼けていく。焼けていく。焼けていく。
――お願い、誰か
そして
君の首がとぶのが見えた。
「うわぁあああああああああ!!!!!!!!」
- 60 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:04
-
1
- 61 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:05
-
ガターン!
上半身を起こした拍子に大谷雅恵は椅子から転げ落ちた。
周りの同僚たちが驚いたような目で彼女を見ている。
どうやら、昼食を食った後の心地よい満腹感と春先の日差しが相俟ってそのまま眠ってしまったらしい。
仕事中じゃなかったのがせめてもの救いと言ったところだろうか。
周囲から事情を察した忍び笑いが聞こえてきて大谷は顔を赤くする。
「な〜んの夢を見ていたのかね、大谷クン?」
そこへ、あからさまに「からかってやる!」と言う感じの声が近づいてきた。
- 62 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:06
-
「…えっと……」
まだぼーっとしている脳を覚醒させるために、
小刻みに頭を振りながら大谷は声のした方に顔を向けた。
そこにいたのは柴田あゆみだった。
大谷の大切な友達。いつもふざけあって笑い合う……
「…ちょ、ちょっと雅恵ちゃん?」
なぜか、その顔を見た途端、涙腺が緩んだ。
今までにない早さで涙がこみ上げ、それはあっという間に両目に溜まる。
顔が少し左に傾いていたため、万有引力の法則に従って、
大谷の左目から一筋涙がこぼれた。
- 63 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:06
-
「どうしたの?そんなに怖い夢だったの?」
柴田は顔を近づけ声を潜めて心底心配そうに聞いてくる。
泣いていることを周りに訝しがられないよう気遣ってくれているのだろう。
不意に、吐き気がした。
「あ…や、欠伸しただけ」
大谷は、涙を拭いながらなんとかそう言い訳した。
いっそのこと、欠伸をするフリもしようかとも考えたが、
そんなことをしたら、本当に吐いてしまいそうだと、止めておいた。
- 64 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:07
-
「なんだ…びっくりしたぁ」
安堵の息を吐き、柴田が上体を起こす。
いや、驚いてるのはこっちの方なんだけどね。大谷は、内心、呟く。
なんで見飽きてるあなたの顔を見たくらいで泣かないといけないんでしょう?
ましてや、吐き気なんて?
自分で自分の起こした現象が信じられない。どうしたんだろう。
「で、どんな夢見てたの?」
しかし、大谷の心情などは他所に柴田が好奇心たっぷりの顔でそう聞いてくるので、
大谷は今の現象に対する疑問をとりあえず保留にしておくことにした。
どのみち考えても解らないような気もしたし、もともとそう頭の働く方ではないのだ。
- 65 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:08
-
「ああ、そうそう。それが、なんか妙な夢で…」
夢の内容は既におぼろげにしか覚えていない。
とりあえず、茹だる様に熱かったことだけはよく覚えている。
それと、十字架。機械仕掛けの。そして、砂浜。
夢の内容を説明しようとして、大谷はふと奇妙なことに気付いた。
柴田の胸元がうっすらとだが赤く染まっていたのだ。それは血のようにも見える。
「…それ、どうしたの?」
「ん?」
大谷が指差した箇所に柴田は視線を落とし
「それって、どれ?」不思議そうに言った。
「あれ?」
気のせいだったのだろうか。
さっきまで赤くなっていたそこは普通の色をしていた。
- 66 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/15(木) 22:08
-
「マサオ君、まだ寝ぼけてるね」
「そうなのかなぁ?」
首を傾げた大谷に、あゆみがそうだよと笑う。
いつもの笑顔。それがなぜかやけに悲しく感じられて
大谷の瞳からまた意味不明の涙が零れ落ちた。
戸惑いながら大谷は柴田に見られる前にそれを服の袖で拭う。
そして、首を捻った。なんなんだろう、一体。
- 67 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/15(木) 22:27
- ええカンジ
- 68 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/16(金) 21:56
-
2
- 69 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/16(金) 21:56
-
誰かの泣き声が聞こえた。よく知っている、だけど誰のものか分からない泣き声。
どこから聞こえているんだろう?
大谷は、慌てて辺りを見回す。
砂浜には十字架以外視界を遮る物は何もない。
なのに、視界の何処にも見当たらない。見えない。
だから側に行けない。助けてあげられない。
砂浜はだだっ広い。助けてあげられるわけがない。一人ぼっちだ。
途方に暮れて、ふと気付いた。
そこは砂浜なんかではなく廊下だということに。
- 70 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/16(金) 21:57
-
大谷は、書類を二階上の営業二課に持っていくところだった。
チーン。エレベーターが止まる。
いつもなら人がたくさん乗っているエレベーターはがらがらだ。違和感。
「乗らないんですか?大谷さん」
中からヒョコッと見知らぬ少女が顔を出した。
大谷は、その声に慌ててエレベーターに乗り込む。
乗り込んでしばらくして大谷は気づく。
どうして、この子は自分の名前を知っているのだろう?
- 71 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/16(金) 21:57
-
「大谷さん」
「え?」
「暑くないですか?」
少女がにこっと笑いながら言う。
意味不明。大谷は、あからさまにこの子頭大丈夫だろうか、というような表情を浮かべる。
少女は、そんな大谷を見てどこか同情交じりの笑みを浮かべた。
なぜだか、少女を見ていると不安になってくる。居心地が悪い。
チーン。
タイミングよくエレベーターが止まった。
大谷は、これ幸いとばかりに足早にエレベーターから降りる。
- 72 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/16(金) 21:58
-
「大谷さん」
呼び止められた。
「今、何時ですか?」
言われて咄嗟に腕時計を見る。壊れていた。
長針が3の数字を指したまま、見事に透明のカバーごと潰れている。
いつ壊れたんだろう?さっき椅子から落ちた時ぐらいしか思いつかない。
大谷がそんなことを考えていると、
少女の笑い声と共にエレベーターの扉が閉まった。
「…高かったのになぁ」
呟いて、もう一度腕時計を見ると時計は13時30分を回った所だった。
――なにか違和感を感じた。
- 73 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/17(土) 05:05
- ぞくぞく
- 74 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/17(土) 21:58
-
3
- 75 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/17(土) 21:59
-
営業二課のオフィスは静かだった。がらんとしていて、誰もいない。
元々この時間外回りに行っている人が多く人が少なくなるのだが、
それでも誰一人いないなんておかしい。
忘れ去られたディスプレイがちかちかと点滅している。
映像がぼやける。
誰もいない。なんにもない。
そんなことを思っていると、
どこからともなく風が吹き込み、オフィスを埋め尽くす金色の砂が舞った。
- 76 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/17(土) 22:00
-
「マーサオ君!」
「うひゃっ!!」
背後からひんやりとした腕ががばっと首に回されて大谷は飛び上がる。
けたけたと笑い声。振り返ると柴田が笑っていた。
「ビックリするじゃん」
大谷は軽く彼女を睨みつける。
「なかなか戻ってこないからサボってるのかと思って迎えに来たんだよ」
「…だって、二課の人たちいなくてさ」
「は?」
柴田が口を開ける。
それが合図だったかのように静寂は終わりを告げた。
ざわめき。電話の音。キーボードを叩く音。
動き出す。
違和感。
- 77 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/17(土) 22:01
-
「ワケ分かんないこといいから、戻らないと怒られちゃうよ」
唖然とする大谷の腕を柴田が引っ張る。
その腕はやけにぶらぶらしており、
よく見ると筋肉繊維だけでなんとか繋がっているようだった。
吐き気がする。目を閉じる。開く。
大谷の視界から唐突に柴田が消えていた。
「あゆみ?」
大谷は驚いて周囲を見回す。見回して驚く。
エレベーターに乗った覚えもないのに、
いつの間にか、二階下、自分たちのオフィスがある階に大谷はいた。
そして、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。
大谷は、膨れ上がる違和感を抑えて走り出した。
- 78 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/17(土) 22:02
-
「あゆみ!?」
柴田が、入り口の前でへたり込んでいる。
その顔は、涙でぐしゃぐしゃだ。
「ぁ…人…しんで……」
全身がぶるぶる震えている。
歯の根が合ってない。
「あゆみ、落ち着いて。どうしたの?」
大谷は、柴田の前に座り込んで優しく声をかける。
だけど、彼女の涙はますます溢れ出すばかりだ。
なにが起こったのか、まったく要領を得ない。
仕方なく、大谷は立ちあがりオフィスに足を踏み入れた。
- 79 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/17(土) 22:03
-
真ん中に、金色の砂山がある。
否。
人が――見たこともない人間が死んでいた。
首を、あらぬ方にねじ曲げて。目と舌を信じられないくらい飛び出させて。
大谷は、咄嗟に目を逸らす。
一体、誰がこんな事を――
吐き気がする。
気持ち悪い……
しばらくたって、視線を戻すと誰だか分からない死体はもう砂に埋もれかけていた。
- 80 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/17(土) 23:26
- ・・・・
- 81 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:19
-
※
柴田が目の前で泣いている。あの気丈な彼女が怯えている。
そんな中――大谷は、誰が犯人なのかを考えていた。
答えはすぐに出る。エレベーターの中にいた少女だ。
確信を持って大谷はエレベーターまで駆け戻りボタンを押す。
最上階から光が降りてくるまでが待ち遠しい。大谷は、額の汗を拭った。
走ったせいか暑くてたまらない。体に張り付くシャツを手でつまんではためかせながら大谷は、
エレベータの電光掲示をにらみつけた。
- 82 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:19
-
ちーん。
どれくらいの時間が経ったんだろう。ようやくエレベーターの扉が開く。
大谷は素早く中に乗り込む。
「暑そうですね」
少女が大谷を見て目を細めた。大谷はまた額の汗を拭う。
扉は閉まらない。少女が開ボタンを押しているからだ。
- 83 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:19
-
「…あんたが殺したの?」
「……なんのことですか?」
「オフィスの死体だよ!ここには、あんた以外、いないじゃないか!」
白ばっくれる少女に大谷は怒鳴りつける。
と、少女は肩をすくめ
「いるじゃないですか。大谷さんのお友達」
「……え?」
一瞬、なにを言われたか分からなかった。
- 84 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:20
-
「私は、ずっとエレベーターに乗ってましたし、大谷さんは、二階上のオフィスにいた。
そして、あなたのお友達は一人だった」
少女は淡々と続ける。
「彼女が殺したんじゃないですかねぇ」
「なにを……」
大谷は後ずさる。
無性にこの得体の知れない少女のことが怖くなった。
こいつは誰なんだ?どうして、こんなことを言うんだろう?
混乱しかけた耳になにかが崩れ落ちる音が聞こえ、
足元になにかがぶつかって大谷は危うく転びそうになった。
ひっと息を呑み下を見るとそこにはまた誰かが死んでいた。
両足の、膝から下が潰れている。
頭や腕から流れ出ている血を吸い込んだ砂がひどく怪しいきらめきをみせていた。
- 85 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:21
-
「…マサオ君」
背後から呆然としたような声が聞こえた。
振り返らなくても、分かる。そこに誰がいるのか。
大谷は、少女を見る。少女は、ただにっこりと笑った。
吐き気をこらえながら振り返る。柴田のほうを。
犯人は誰だ?
柴田は、なにも言わずぶんぶんと首を横に振る。
でも、彼女がここに来て人が死んだ。突然。
でも、ありえない。ついさっきまで人なんていなかったんだ。
でも――
柴田は、大谷の疑心暗鬼な視線になにも言わずぶんぶんと首を横に振り続ける。
- 86 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:21
-
「……あゆみ」
呼ぶと、柴田は顔を上げちぎれるくらいに首を振る。
と、思っていたら、本当にちぎれた。
宙を待ったそれは砂の上に、ぼそっと音を立てて落ちる。
大谷は声にならない悲鳴をあげていた。
柴田の首から吹き出した血が、全身にかかる。
けれど、それもあっというまに乾いて、固まって、皮膚に張り付いた。
- 87 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/18(日) 22:23
-
もうイヤだ。
気持ちが悪い。
吐き気がする。
涙が止まらない。
熱い。
焼ける。
皮膚が焼ける。
私が焼ける。
あゆみが焼ける。
世界が焼ける。
世界が。
夢でしょ?
これは悪い夢。
夢ならさっさと醒めてよ。
目が醒めたら
何もないいつもの日常。
死体なんてどこにもない。
首のないあゆみも。
こんな風景、見ていたくない。
お願い、誰か――
「うわぁあああああああああああ!!!!!!」
- 88 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:03
-
4
- 89 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:04
-
砂浜には十字架が突き刺さっている。
いや、十字架と言っていいのだろうか。
その十字架は、全身が鉄で出来た、機械仕掛けの玩具のようだった。
時折、垂れ下がったコードから電光が飛び交っている。
辺りは散乱としていた。
- 90 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:05
-
体は自分の意思とは関係なく小刻みに震えている。けれど、別に寒くはない。
身を起こそうとするがひどく重たく感じて無理だった。
唯一、動かせそうな顔を僅かに滑らすと、頬にサラサラした砂の感触。
大谷は、僅かに目を開ける。暗い。夜だ。
運良く、自分の左手が目の前に投げ出されていた。腕時計を見る。
壊れていた。長針は3の数字を指したまま、透明のカバーごと潰れている。
左手を握ってみる。自分の手でじゃないみたいに上手く動かせない。
少し離れた所に死体があった。暗くてよく見えないが、両足が潰れている。
墜落したときの衝撃だ。
- 91 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:06
-
そうだ。アレは十字架なんかじゃない。
飛行機だ。
みんなを乗せた飛行機。
海岸に墜落した飛行機。
覚えている。墜落直前に、隣の席のあゆみと話をしていたこと。
墜落を始めると、とてもまともなことなど考えられなかった。
シートベルトをはめるなんてとんでもない。
アテンダントを殴り飛ばして窓を開けようとする人。
操縦室に向かう人。椅子によじ登って少しでも高いところへ移動する人。
ショックに備えてありったけの荷物をかき集めて抱きかかえる人。
気付いた時には、もう墜落した後だった。
- 92 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:07
-
大谷は周囲に立ち込める血の匂いに吐き気を催しながらも助けを期待して外へ出た。
外にでてはじめて気づいた。
誰もいない。助けなんてどこにも来ていない。
それなら、どこに行けばいいんだ。どこに――
「……雅恵ちゃん」
途方に暮れて立ち尽くす大谷の背後で声がした。
先ほど自分が出てきた扉に寄りかかるようにして柴田が立っていた。
柴田の胸には窓ガラスの破片がたくさん突き刺さっていて痛々しかった。
だけど、彼女は生きている。絶望的でも、生きていた。
自分一人だったならば希望を持つのは難しいだろう、だけど、二人ならば。
- 93 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:07
-
「あゆみ…」
大谷が、柴田の元に戻ろうとした。
その時――
どん。
飛行機の、折れた翼の破片が、落ちてきて、柴田の、首が、とんだ。
確かに自分は叫んだような気がする。
しかし、その直後に続いた爆風に吹き飛ばされたのだ。
- 94 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:08
-
それから、どうしたんだっけ?思い出せない。
でも――もう、どうでもいいや。ひどく眠い。
瞼を落としかけた視界に誰かの影が見えた。助けが来たんだろうか。
「……すけて」
大谷は、微かに口を動かした。
音にならなかったが、影は大谷の言わんとしていることを理解してくれたようだ。
しゃがみ込んで大谷の手を励ますように握ってくれる。温かくて優しい手だった。
――だから、大谷は安心して目を閉じた。
- 95 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:09
-
※
- 96 名前:NIGHTMARE 投稿日:2004/07/20(火) 23:09
-
「おやすみなさい」
大谷雅恵の手を握った影は静かに言った。
大谷は、最後まで自分がとっくに死んでいることに気づかなかったようだ。
でも、その死に顔は綺麗なものなのでよしとしよう。
影――死神は繋いでいた手をそっと離して立ち上がる。
「お休みなさい……永遠に」
終
- 97 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/21(水) 03:27
- Siみたい
- 98 名前:愛乞人 投稿日:2004/07/22(木) 23:25
-
序章
- 99 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:26
-
社殿の前には人々が跪いていた。
いつ果てるともなくしとしとと降りしきる雨の冷たい雫に打ち据えられるのも構わずに。
辺り一面を覆うのは静寂。人々の息遣いの一つも聞こえない。
その、いっそ不気味なほどの沈黙を守る人々を背に、
社殿の中には板張りの床に一人の少女が坐している。
少女は、巫女を思わせる白絹を重ね、布帯びでキリッと占めたシンプルで上品な衣装を見に纏っている。
その顔にはまだ幼さが残っていた。
少女の黒い円らな瞳は瞬きを忘れたようにただ一点だけを見つめ微動だにしない。
まるで人形のように――
比喩でも誇張でもなく本当にそれと見間違うばかりに少女は生気のない顔をしていた。
- 100 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:27
-
少女が見つめる先には注連縄が張られており、
現世から区切られた広大な闇が広がっている。
背後の静寂を遥かに凌駕する死滅した虚無。
少女の目が誰にも気づかれないほど僅かに細められた。
不意に少女は立ち上がる。その動きに合わせて、
腰に結わえた飾り紐の先端の小さな鈴が妙に澄んだ音をたてた。
背後の名もなき群集は静寂を破るその音にはじかれたように顔を上げる。
その一瞬、場を支配していた沈黙が緩み生者の空間が姿を表す。
群集が固唾を呑んで見守る中、少女は首にかけていた勾玉と丸玉を連ねたネックレスを外した。
それを眼前に捧げもつと一度深く頭を下げ胸の前で合掌する。
やがて、その小さな口から抑揚のない声がもれはじめた。
- 101 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:28
-
異変。
大気が震えはじめる。
少女の言葉によって力を得た何者かが低い音を立て、少女の前の闇、
地の底から這い上がろうとしている。
群集は、その鳴動に怯えの色を浮かべ闇の帳を見守った。
抑揚を欠いたままの声で少女はさらなる言葉を紡ぐ。
生気の乏しかった頬には、赤みがさし額にはうっすらと汗が浮きたっていた。
闇の底からの鳴動は次第に高く大きくなっていく。
形容しがたい音。聴覚に直接訴えかけるような。
もうあと少しでそれは姿を現す。
誰もが思ったその瞬間――突風が闇の帳を突き破り少女の傍らを駆け抜けた。
少女は突風にはじかれてふらりとよろめく。
突風は社殿から飛び出て群集に迫り、咄嗟に身を伏せた人々を嘲笑うかのように
その頭上で渦を巻くと雨粒を蹴散らしながら四散した。
一瞬遅れで雨音と静寂が蘇る。
人々は身を起こし、しばし放心したまま空を見上げた。
- 102 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:28
-
「今のは……?」
誰かが呆然とした口調で零す。
たちまちその疑問は人々の口に上り、彼らは一斉に社殿に向き直った。
「今のは一体!?」
「神は何とおっしゃったのですか?」
誰もがあれは怒りだと思った。
神が何かに憤っており、それを我々信者にあのような形で示したのだ、と。
怯えきった群衆を背に少女は闇の帳を見つめていた。
何事もなかったようにその凶悪な爪をおさめた、太古の闇の集う穴を。
そして、少女は信者たちを静かに見下げた。
- 103 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:29
-
「神はお怒りになっているのではありません」
大きくはないがよく通る澄んだ声が信者たちの頭上を駆ける。
その声は見た目同様に幼いものだった。
「まもなく我らの行く手を阻む者が現れる。それは我らが神にも仇なすであろう。
神はそう仰ったのです」
「なんと!」
「放っておられません、巫女様!」
「そうだ!我らの神に敵対するような輩など、ひねりつぶしてしまいましょう!」
- 104 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:30
-
少女が伝える神の言葉に信者たちが一斉に色めき立つ。
男も女も、老いも若きも関係なく、皆口々にそう主張する。
それらの声を一切聞き逃さず耳に入れた少女の人形のような顔に一瞬笑みが広がった。
僅かに口角を吊り上げただけの薄い微笑。
そして少女はネックレスを高く掲げる。
「では行け!我らが神の御為に行く手を阻む者は抹消せよ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
「おおぉ――!」
- 105 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:30
-
まるで薬物を摂取しているかのような
異様なまでの興奮が信者たちを取り巻いていた。
口々に殺せと叫び、神の名を称え、なにかにとりつかれたように躍り狂う。
しかし、誰一人、それに異を唱えるものはない。
皆、それを使命として受け止めているからだ。
神の言葉は絶対であり、それに従うのはむしろ喜び。
神がそう望むなら、なんとしてもそれをかなえねばならない。
すべては神の御為に。
- 106 名前:序章 投稿日:2004/07/22(木) 23:31
-
そんな信者たちの浮かれ騒ぐ様を冷めきった瞳で見つめていた少女は、
やがてネックレスを首に戻し、闇の方へ向き直った。
「……これでいいよね、お父さん?」
その声に闇の帳のすぐ右、柱の影から一人の男が姿を現した。
彼は、少女と視線を合わせると柔和な笑みを浮かべてゆっくりと頷く。
その瞬間、少女の顔に安堵交じりの本当の微笑が浮かんだ。
- 107 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/23(金) 02:20
- このスレ再利用されてんのか
- 108 名前:愛乞人 投稿日:2004/07/23(金) 22:59
-
第一章 人形
- 109 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/23(金) 23:00
-
1
なにを思ったか、飯田圭織が突然N県に行こうと後藤真希を誘ったのは三日前のことである。
N県になにかあるのか訊ねてみるも、
飯田は行けば分かるよとしか教えてくれず、後藤は興味本位で彼女に同行することにした。
しかし、N県に入るなり後藤は安易に飯田に着いてきた事を後悔しはじめていた。
雨である。頃はまだ梅雨には早い五月半ばだというのに、
N県を覆う雨雲は一定のリズムで地表に雨を落としていた。
このリズムがまた曲者で、いっそのこと外に出るのも憚られるほど豪雨であればよかったのだが――
しとしとと時雨れているため、散策しようと思えば出来てしまう。そう、散策だ。
- 110 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/23(金) 23:01
-
雨のため多少の変更はあったものの、飯田のプランはほとんどが徒歩移動。
天流教で有名な天流市から南へ山地伝いに
桜市へと抜ける国内最古の道として名高い山辺の道をてくてくと。
その道は、社寺仏閣、あるいは古墳などの遺跡に恵まれているうえに、
山歩きというほど激しくはない緩やかな上り下りの連続で、
ちょっとした散策気分を味わうには中々快適な道らしい。だが、それは晴天時ならではの話。
雨で泥濘んだ道を辿りながら、後藤真希は心の中で不平不満を次々と並べたてていた。
足元はどろどろで滑る。傘は邪魔臭い。
折角のいい景色もこの視界では、なにがなんだか。ほとんど見えない。
思えば思うほど気が滅入って足取りが重くなってくる。
- 111 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/23(金) 23:02
-
それでも歩き始めた頃はまだ後藤はそれなりにではあるが楽しんでいた。
JR日向駅を起点に次の美野駅までの一駅分程は、
初めて見る田植え前らしい水田や、途中いきなり現われる古墳などに心躍らせていたものだ。
どれもあまり都会ではお目にかかれない光景であったし、
平坦な田んぼのど真ん中に緑の生い茂る小山がもこっと居座っている様なんて
中々にユーモラスだった。ところが、その興奮も檜野神社を過ぎたあたりからは
急速冷めてしまい、いまやもう完全に辟易している。
世界は重く灰色で、足元はどろどろグチャグチャ、おまけに雨がしとしとじめじめ……
- 112 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/23(金) 23:03
-
「んぁっ!!!」
いい加減、溜まりに溜まったフラストレーションがついに爆発した。
前を歩いていた女がその奇声に立ち止まる。
後藤は両手で傘を握り、これでもかとばかりに頬をふくらませその背を見据える。
その視線を感じたのか女がゆっくりと振り返った。
「なに?」
「雨、ウザい」
後藤はわざとらしく目を細め吐き捨てる。
その声は不穏な気を纏い付かせ――
雨は彼女のせいではないと言うのに――完全にケンカ腰だった。
- 113 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/23(金) 23:03
-
「ホント、ウザイよね」
女のほうは別段気にした風なく冷静に同意する。
「んぁ…」
後藤は言葉に詰まった。
そんなに素直に返されては八つ当たりの仕様もない。
「でも、あと少しでつくから頑張ろ」
やんわりと言い聞かせられて、後藤はまた渋々と女の後を歩き出した。
- 114 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:16
-
2
散策の終点である美野山は古来より神の宿る山として崇められ護られてきた。
山岳信仰の根付く日本の中でもその存在はまた特異で、
美野山は山そのものがご神体とされている。
その麓に多く点在する社寺仏閣の中で、
正式に美野の大物主神を祀るのは大神神社である。
そのため、この神社には神体を祭るための社殿がなく、
重要文化財に指定されている豪華な拝殿と、その奥の独特の形が有名な三ツ鳥居だけで、
神域と現世を分かっているのだ。
- 115 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:17
-
雨の中、大神神社にようやく辿り着く。
飯田と後藤が通ってきた山辺の道からだと
一の大鳥居も二の鳥居も潜ることなくいきなり境内に入ってしまうようだ。
がらんとした敷地が視界に入る。
さすがに平日の午後三時、しかも雨天となれば、人出もないのかやや寂しい気もする。
だが、神域の護りという本来の意味を考えると、この方がむしろ正しい姿と言えるのかもしれない。
それにしても――これはひどい。
飯田圭織は境内に足を踏み入れるなり表情を厳しくしていた。
尋常ではない気の乱れが感じられる。おそらく後藤もそれを感じたのだろう。
- 116 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:18
-
「んぁ…カオリがここに来たわけ分かったよ」
暢気な声で言う。
「それはよかった」
小さく返しながら飯田は真っ直ぐと切り妻平入り桧皮ぶきの拝殿を見据えた。
霊性、いや神性というべきか。
神社ではなく美野山そのものの気の流れが著しく変調し大きく神性を乱していた。
悪意を孕んだ不穏な気配が辺り一面に濃厚に立ち込めており、
感応しなくとも胸が悪くなる。
飯田には、こういった乱れを察知する力があった。
例え、それが遠く離れている場所だとしても――
そのため、三日前この乱れを察知した飯田は
こうして遠路はるばるN県に向かうことにしたのだ。
- 117 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:19
-
「どうすんの?」
「まずは原因を突き止めないとね」
視線を巡らすと右斜め後方に社務所が見えた。
飯田は後藤に目でそちらを示すと歩き出す。
近くまで来て中を窺うと三十代前半と思しき巫女が一人で退屈そうに座っていた。
「すみません」
飯田が声をかけると巫女は驚いたように――ヒマを持て余していた所へ
いきなり人が現れたからだろうか――目を丸くして顔を上げた。
飯田は、巫女に目礼し口を開いた。
- 118 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:20
-
「少しお話を伺いたいんですが、今、構いませんか?」
「あ、はい。なんでしょう?」
「えっと、春の大神祭って滞りなく行われましたか?」
「…は?大神祭?」
この上なく唐突な質問に巫女が聞き返した。
飯田は、頷く。
「ええ、四月九日がそうでしたよね?」
「あ、ええ、はい。八日の内に若宮様がこちらへお渡りになり、
九日に市内へ渡御されますね」
巫女はようやく意味を悟ったのか頷いて答える。
- 119 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:20
-
「その間、別に変わったこととかなかったですか?」
「そうですねぇ……」
しばし記憶をたどるように巫女は目線を少しだけ上にあげた。
それから、思い出したように軽く手を叩き
「…そういえば、渡御へお出ましになる際、
神輿を担ぐ男衆が階段でこけてしまって、神輿に傷がついてしまったんです。
代わりのなんてありませんから、渡御は中止になったんですよ。
まあ、滅多に起こることじゃございませんから、不吉だと騒ぐ者もおりましたけど……」
「いわゆる祟りを危惧して?」
飯田は僅かばかり眉を寄せる。
- 120 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:21
-
「そういうことになりますやろか。
でも、昔ならいざ知らず、いまどき祟りなんてねぇ……
現に、特別変わったことはございませんし。まあ、そんなトコぐらいでしょうか」
「そうですか」
それが原因だろうか?
一旦、巫女から視線をはずし飯田は考えをめぐらせた。
大神祭中の事故が原因で神の不興を買うことはあるだろう。
それこそ――巫女は今時と言っていたが――祟りとなって示されるものだ。
だが、それにしてもこの気の乱れ方は大事すぎる。
はっきり無関係とも言い切れないが、その他になんらかの原因はありそうだった。
根本的な問題はもっと別の場所で起こっているのではないだろうか。
つまり、それを突き止めて解決しないことには
この乱れた霊場も元には戻らないということだ。
- 121 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:22
-
「何か調べてはるんですか?」
巫女の遠慮がちな声に、飯田は我に返った。
「あ、いえ、大したことじゃないんです。
お仕事中お邪魔してすみません、ありがとうございました」
「あ、いえ。ようお参りでした」
会釈をしてから飯田は踵を返す。
隣で静かに話を聞いていただけの後藤も慌てて巫女に頭を下げ飯田のあとに続いた。
パシャパシャと水を弾く足音がすぐに飯田の隣に並ぶ。
- 122 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 00:23
-
「今のでなんか分かったの?」
後藤の問いかけに飯田は首を振った。
その時――
「だれか……っ!」
異様に緊迫した若い男のものと思しき声がどこかから聞こえてきた。
飯田と後藤はおもわず顔を見合わせる。
しかし、耳を欹ててももうそれきり何も聞こえない。
それが逆に飯田の心に不穏な種を植え付けた。
首筋の毛が粟立つような、あまり歓迎的とはいえないこの感触は――殺人。
「行くよ!」
「んぁっ!!」
二人は、傘を投げ捨てて林道を駆け出した。
- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/27(火) 19:15
- こんなスレに書くのはもったいないんじゃないかってくらいクソ真面目な文章ですね
- 124 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 21:47
-
※
「――あっ!」
少し離れた林道上でそれは行われていた。
浅葱色の袴姿の男が三人、先ほどの悲鳴の主らしい青年を
地面に押さえつけて右腕を切断している。
青年は、もう死んでいるのだろう――抵抗している素振りは見えない。
死人の腕を切り取ろうとしている光景に嫌悪感が背中を駆け上り飯田は歯を食いしばる。
- 125 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 21:48
-
「なにやってんだよっ!あんたら!!」
後藤が怒鳴った。振り絞るような声には怒りの色が露になっていた。
それを耳にした男たちが反射的にこちらを振り返る。
男たちは互いになにやら目配せし、行為を中断して立ち上がった。
と、同時に殺気をまとってこちらへ駆け出してきた。
その行動の意味するところを悟って飯田は腰を落とし身構える。
「カオリ、やっていい?」
後藤が低い声で尋ねてくる。
「殺しちゃだめよ」
「んぁっ!」
後藤は返事をするなり、向かってくる一人の男に狙いを定めて飛び出した。
- 126 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 21:49
-
次の瞬間、その体は男の鳩尾あたりに食い込み、勢いのまま、男もろとも後ろへ倒れこむ。
二人は縺れ合ったままゴロゴロと転がり――
しかし、後藤はすぐさま身を起こし、トドメとばかりにその男の顎に手拳を叩き込んだ。
そして、Vサインを飯田に向ける。
飯田はそれに苦笑で返しながらも、
視界に迫る男に気づいて咄嗟に身を沈める。男の拳が頭上で空を切る。
その手を掴み、起き上がりざま片足を男の足に引っ掛けると飯田は男を力まかせになぎ払う。
男は見事に一回転をして地面に叩きつけられた。
- 127 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/27(火) 21:49
-
「うわぁっ!!」
勝てないと悟ったらしい最後の一人が悲鳴をあげて逆方向へ逃げ出す。
「仲間を見捨てちゃダメっしょ」
泥濘んだ土を蹴る音がして後藤の姿が宙に舞う。
そして、あっという間に逃げ出した男の目の前に着地、鳩尾に蹴りをめり込ませた。
男は悲鳴もなく吹き飛ばされ飯田の前に転がった。
「雑魚すぎ」
後藤が邪気のない微笑を浮かべた。
時間にして、ほんの一分たらずのことだった。
- 128 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/29(木) 21:19
-
3
二人は、携帯で警察に通報をすると
そのすぐ傍の大きな木の下で雨宿りをしながら彼らの到着を待つことにした。
遺体をそのまま雨ざらしにするのは忍びなかったが、
殺人現場は保存しておくのが鉄則だから仕方ない。
「なんで右手を切ろうとしたんだろう?」
飯田が、雨ざらしになっている死体のほうに視線を定めたままポツリと疑問を洩らす。
後藤は雨に濡れて冷え切った体を両手でさすりながら
「そこに右手があったからじゃん」
「…少しは真面目に考えてね」
後藤の言葉に飯田が大げさにため息をつく。
後藤は肩をすくめた。
- 129 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/29(木) 21:20
-
「真面目にってもねぇ……
じゃぁ、犯人の袴姿ってのがポイントとかじゃない。なんか宗教関係っぽいじゃんん。
きっと儀式する時の貢物が右腕だったんだよ」
「あ」
言われて初めて気づいたように飯田が短く声をあげた。
遅すぎだ。後藤は思う。普通、一目見てそれくらい分かるだろう。
今時の日本で普段着に袴姿なんてめったにいない。仕事の関係でもない限りは。
「そっか、神道関係者なら袴姿でいてもおかしくないし――
もしかしたら美野山の異変にも関係あるのかも」
何かひっかかりを感じたのか飯田が眉をひそめたまま独り言のように言った。
- 130 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/29(木) 21:21
-
異変ねぇ――後藤は、口の中で呟く。
先程、訪れた大神神社の気の乱れは確かにひどいものだった。
しかし、だからといってそれと今の殺人事件を結びつけるのはどうも後藤にはピンとこない。
元々、飯田と違って後藤は日本古来からある
神道の歴史など勉強したことがないのだから仕方がないのだが。
「ねぇ、カオリ」
「ん?」
「気が乱れたらなんかヤバいことでもあんの?」
「ヤバいなんてもんじゃないよ。
天変地異、疫病、飢饉、内憂外患その他もろもろ」
「は?」
不意打ちの難しい言葉に思わず問い返すと、飯田が穏やかな横目で見下ろしてきた。
こういう時の彼女はまるで学校の先生みたいで嫌になる。
後藤は片眉をあげて飯田に言葉を促す。
- 131 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/29(木) 21:23
-
「日本っていうのはさ、元々多神教国なの。話が面倒くさくなるから、
仏教やキリスト教なんかの外来宗教は置いとくけど……
日本古来の神様は自然や事象を神格化したものだからそれこそ無数に存在してると言っていいんだ。
で、それがそれぞれ自分の領域を持ってて……これが神社にあたるんだけど、
そこを中心に霊場を形成してるワケ。それで、数が多ければ、
当然気の合わない人も出てくるでしょ。そうするとどうなるかっていうと…」
「んぁ、神様がケンカするんだ?」
「そう。っていっても、ごっちんが想像してるような
取っ組み合って殴る蹴るの応酬をする類の喧嘩じゃないけどね」
「ん…んぁ、別にそんなの想像してないし!」
図星だったので後藤は真っ赤な顔で反論した。
それを見て飯田が口許を緩める。
- 132 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/29(木) 21:24
-
「どれだけいがみ合おうと、力関係ははっきりしてるから、
普通なら神社がご神体の祭を誤らなければ問題なんて起こらないんだよ。
問題が起こる時は、何らかの原因で神の本性……御霊を変調させた時ぐらい」
「御霊を…変調?」
後藤は、もごもごと反芻して眉を寄せた。
飯田はそれに「んーと、そうだなぁ」と腕を組み
少し考えた末に言葉を続けた。
「分かりやすくいうと――例えばA国とB国が仲が悪いとするよ。
でも、とりあえず国交は正常で問題なしなの。
だけど、A国で何か大きな問題が起こって、他国に対する影響力が低下してきちゃうと、
単純に考えるとB国はここがチャンスとばかりにA国に攻め入るなり貸しを作るなりするじゃない?
つまりは、霊場もそれと似たような感じで、そういう微妙な力関係で成り立ってるんだよ」
- 133 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/29(木) 21:24
-
「ふ〜ん」
「だから、御霊の調子が狂えば霊場を維持する力も弱まる。
そうなると、ここぞとばかりに他の神が勢力を伸ばし
従来の力関係をひっくり返そうとする。そこで、気の乱れがおきる。
神界が乱れれば物質界にも当然影響が出てきて、
それが天変地異やら疫病やらに繋がってくるんだけど……
ただでさえ、美野の神は土着の被征服民の崇めてた神の代表的存在だからね。
何かあれば天神族、今現在の主神である天照側が黙ってないんだよ。
だから、絶対にちょっかいをかけてくるとして、最悪は世界大戦の悪夢再来かな」
話の半分ほどは理解不能だったが、
とりあえず、後藤が考えていたよりも事態ははるかに大事だったようだ。
これは少しばかり認識が足りなかった。後藤はそのことに気付いて少し反省した。
- 134 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:54
-
「ところで、ごっちん」
話題の転換を図るように飯田が声の調子を高くした。
「んぁ?なに?」
「あの子、警察に見える?」
くいっと促されて後藤は飯田の視線を辿る。
と、殺人現場の中央に髪の毛をお団子状にした少女が一人、
のびている袴姿の男たちを見降ろしていた。
いつからいたのだろう。こちらに全く気配を感じさせずに。
「どう見ても警察じゃないでしょ」
とりあえずそう答えを返す。
しかし、どうしてあんなところにじっとしているのか、疑問が浮かんだ。
死体を目の前にして気味が悪くないんだろうか?
それとも、立ち竦んでしまって動けなくなっているのだろうか。
後藤が少女の動向を窺っていると、不意に彼女は顔を上げた。
- 135 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:55
-
少女は、辺りにぼんやりとした視線を巡らせ、二人の姿を真っ直ぐに捉えると口を開く。
「これ、あなたたちがやったの?」
「んぁ?えっとぉ」
「発見したのは私たちだけどその時はとっくにこの状況だったわよ」
返答に詰まった後藤のあとを継いで飯田がサラリと答える。
後藤はチラと飯田に疑問の視線を投げた。
と、彼女は余計なことは話さないようにとばかりにどこか厳しい目線で後藤に指示していた。
「そう」
少女は、短く言うとそれきりまた口を閉ざす。
だが、もうこちらを見てもいない。ただ死体と男たちを見下ろしている。
なにを考えているのか、まったく読み取れない。
- 136 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:56
-
「ねぇ」
たまりかねて、後藤は一歩踏み出した。
雨粒があたる。
「あんたさ、何やってんの?そいつらに見覚えでもあんの?」
「どうして?」
「だって変じゃん。そんなの目の前にしたら
普通、平気で立ってられるワケないと思うけど」
「そうかなぁ」
後藤の言葉に、少女は本当に不思議そうに小首を傾げ、
それからまたこちらを――今度は後藤だけをしかと見つめた。
視線が交差する。しばし見詰め合う。
- 137 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:57
-
少女の黒目がちな瞳と見つめ会っているうちに、
後藤は自身の鼓動が妙に早くなるのを感じた。
少女から得体の知れない、後藤にとっては不快な何かが伝わってくる。
ゴクリと息を呑んだ瞬間、唐突に少女が笑った。
口角をうっすらと吊り上げただけの、微笑というのも憚られるほどの微かな笑み。
それを見た瞬間、後藤の背に冷たいものが伝った。
異常だ。あんなのは笑みではない。
あんな表情を殺してしまうような笑い方、生きた人間がするものではない。まるで人形みたいだった。
少女は後藤に笑い続ける。
それはどこか記憶の奥底で見たことがある笑みでもあった。
後藤は、耐え切れずに少女から目を逸らした。
目の前が赤く染まったような気がして後ずさる。
その背にいつのまにかすぐ背後まで来ていた飯田の体がぶつかった。
- 138 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:58
-
「あなた、なにを知ってるの?」
毅然とした飯田の声。振り仰ぐと憮然とした顔がある。
その目にはあからさまな敵意が揺れていた。
まるで見るもの全てを切り裂くような冷たく鋭い視線。
だが、飯田の方を見た少女はその視線を真っ直ぐに受け止めると
動じるワケでもなく、ただじっと見つめ返す。
そのことに感心したように飯田が目を細める。
だからといって、発している敵意までは緩めない。
時間にして数秒――少し離れた所から、パトカーのサイレンの音が聞こえた。
そこで初めて少女は眉を潜めた。あくまでもそれとわかる程度にだが。
それから、残念だというように小さく息を吐くと、もう一度後藤の方に視線を動かす。笑み。
- 139 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:58
-
「また会おうね」
後藤はその言葉にピクリと身を強張らせた。
「その時は、もれなく私もついてくるよ」
飯田が言葉を挟んだが、少女はそれを無視するように背を向け、
そのまま歩き出す。そして足早に立ち去っていった。
その姿が声も届かないほどに遠のいてから、
飯田は疲れたようにため息をつき後藤を見下ろした。
- 140 名前:第一章 人形 投稿日:2004/07/30(金) 22:59
-
「ごっちんでもびびる時あるんだね」
「あたし、人形だけは苦手なんだよ」
後藤は、冗談っぽい口調で返す。
が、飯田は少しも表情を緩めることなく
「そうだね。あれは人形になろうとしてなりきれていない可哀想な紛い物だよ」
呟いた。
どうやら見た目ではなく中身のことを言ってるらしい。
彼女がそう言う言葉を口にするのは滅多にないことだ。
後藤は少し驚いて飯田に視線を向ける。
飯田は、まだ少女の消えた道を見つめていた。
- 141 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/01(日) 23:13
-
第二章 生贄
- 142 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/01(日) 23:14
-
1
K地方を中心に降り続く雨は
一時の休みもなく一定の調子で降り続けている。降り出したのが丁度五月の初め、
ゴールデンウィーク明けというから、もう彼是二週間近くが経とうとしているのか。
河川の増水は、場所によっては浸水の被害となって表れ、
地盤の緩い山沿いでは度々土砂崩れが起きている。
そんな中、二人は昨日と同じように美野山を登っていた。
- 143 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/01(日) 23:15
-
※
「ねぇカオリ……」
傘の下から山頂の少し開けた場所を視界にいれ、後藤はやや硬い声で聞いた。
「もしかして、この雨って異変の表れとか?」
「多分ね」
隣を歩く飯田が答える。
「美野の主祭神大物主命は現世では蛇の姿をとると言われてるの。
蛇といえば水神だから、御霊が変調した結果がこの雨ってのは理に適ってるよね。
今は時期も梅雨に入る頃だし、日神の影響力が後退するから」
「そっか……じゃ、やっぱもう異変は起こってたんだね」
「まだまだこの程度ならかわいいもんだよ。
でも、ここまで日神の影響力が落ちてるってのも引っかかるんだよねぇ。いくら大物主が神格として上位といっても、相手は主神たる天照だから…ここまで影響が直接出ちゃうっていうのは……もしかしたら、発想が逆なのかな」
「逆?」
後藤は首をかしげ、飯田の思案深い横顔を伺う。
- 144 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/01(日) 23:16
-
「天照にこそ異変が起こって影響力が落ちてたところへ、
大物主が逆に力を得たとか」
「……意味分かんない」
「ま、とにかく今ここでどうこう言ってても仕方ないよ。
感応すれば全部分かるだろうし」
飯田が視線を上げる。登りきったそこはどうやら登山用の休憩所だったらしい。
簡単な屋根もついているため地面は乾いたままで、
無論中にいれば雨を凌ぐことが出来る。感応するにはもってこいの場所だった。
- 145 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/01(日) 23:17
-
「ごっちん、ヒマだろうけどちょっとそこにいてね。
うろちょろして神の気に障ったら感応うまくいかないから」
「あ、うん」
「それから、一応結界張るから外からの刺激はないと思うけど、
もし何か襲ってきたりして手におえないようだったら、
この水晶の環をカオリから取り上げて。それで戻ってこれるから」
言いながら、飯田は服の下からネックレスを外して後藤に示した。
二粒の翡翠の勾玉を交ぜて連ねた水晶のネックレスだ。
飯田はこれを常に携帯しており禍津としてではなく、
シャーマンとしての能力を使うときに用いるのである。
- 146 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/01(日) 23:18
-
「それを取り上げればいいの?」
「そう。けど、最終手段だよ。戦えるなら戦って。
これ使うと強制的に意識引き戻されるわけだから
こっちの体に結構負担がかかるんだ」
「おっけー」
後藤が神妙な顔で軽快に頷くと、飯田はネックレスを首にかけなおす。
そして、適当な小石を手に取ると屋根のあるぎりぎりの所まで行き、
地面に結界を彫り付けた。それが終わると中央に戻ってきて直に腰をおろし
両手を軽く膝に乗せ姿勢を正すと体中の息を吐き出す。
「がんばってね」
そう声をかけると、飯田は薄く口角を上げ自信に満ちた笑みを返し、
静かに目を閉じて行を開始した。
- 147 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 21:58
-
2
飯田が感応を始めてから十分とたたないうちに後藤は暇を持て余し始めていた。
動くなと言われたら余計動きたくなるのが人間の常だ。
当初、飯田から少し離れて座り、その様子を観察していたのだが、
特別何か変わったことが起こるわけでもなし退屈なことこのうえない。
一体、どれだけの時間待っていればいいのか。
後藤は飯田のように地べたに座って大きく欠伸をする。
と、細めた視界に一つの影が動いてみえた。
「?」
鼻をひくつかせると、雨風の匂いに混じって人間独特の匂いが混じっていた。
思わず立ち上がるが、飯田の言葉を思い出して後藤は足を止める。
結界からは出るなと言われている。
しかし、こんな雨の中、山を登ってくる人間の存在はとてつもなく怪しかった。
飯田の言いつけと、自身の好奇心。
しばらく逡巡した挙句、結局好奇心に負けた後藤は結界の外に向かって駆け出した。
- 148 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 22:00
-
※
「んぁ?」
鼻を利かせ、匂いを辿っていった後藤は岩棚にぶつかって足を止める。
辿ってきた匂いはその岩棚の奥へと続いていた。
どうやら洞窟状になっているようだ。
奥に向かって緩く上りになっているらしく、地表を滑る雨水もそこまでは流れ込めないでいる。
光が届かないので外から見るだけでは奥がどうなっているのかは全く見当がつかない。
それが後藤の好奇心をさらに刺激した。中に足を踏み入れる。
一歩進むにつれ足元が見えなくなるので、細心の注意を払いながら
後藤は、壁に沿って進みはじめた。
- 149 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 22:02
-
「痛っ!」
しばらく、進むと頭が何かにぶつかった。
突然の痛みに後藤はぶつけた箇所を押さえて蹲る。
「ったく、どんなドジだよ」
視界が悪いのだから仕方ないのだが、頭を抑えながらついそう毒づいてしまう。
痛みが鎮まるのを待って、
後藤はそろそろと立ち上がり辺りを手で探ってみた。すぐに天井に手が届く。
徐々に低くなっていたらしい。ぶつけたというよりはつっかえたわけだ。
そこで今度は天井に手を添え高さを確認しながら
後藤は奥を目指すことにした。
だが、その先は一歩進むごとに身を屈ませなければならず、
ものの十歩も行くとついには膝をつくほどになってしまう。
- 150 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 22:03
-
後藤は、一旦立ち止まり周囲を見回す。
もう完全に手元も足元も見えない。振り返っても出口さえ見えない。
真っ直ぐな道程ならこの程度の距離、
いくら何でも辿って来た辺りが薄明るくなっていてもおかしくないはずだ。
歩いている間は気づかなかったが、どうやらこの洞窟は緩く曲線を描いていたらしい。
このまま進めば引き返せないような気がしてくる。引き返すか否か。
好奇心は貪欲に先へ行けと指示している。
その反面、理性は妙に反対していて、なかなか答えが出ない。
好奇心と理性の鬩ぎあい。
しかしながら、やはり後藤は好奇心に負け再び動き出した。
ところが、だ。
そこから1mも行かないうちに道はぷっつり途切れていた。
不思議に思い、右手を伸ばして地面を探るとその手は空を切る。
- 151 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 22:05
-
「穴……?」
どうやら、後藤の前には道幅一杯の裂け目が広がっているようだった。
案外、飛び越えられる程度のものかもしれないが、
灯りがなくてはそれも確認できない。
第一、立つこともままならない状況では飛ぶもなにもあったものではないだろう。
「降りられるかな」
ここまできて諦めるのもシャクだったので、
後藤は腹ばいの姿勢で裂け目の際まで行き、地面に沿って右手を伸ばしてみた。
感覚でいえば、傾斜はほぼ90度に近い。となると、降りるのは到底不可能だろう。
深さも分からない裂け目でのその行為は、はっきりいって自殺行為に等しい。
転がり落ちればまだしも、いきなり底へ転落してしまう確率の方が高そうだ。
後藤の旺盛な冒険心もさすがにそれ以上の危険は要求しない。
- 152 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 22:05
-
「ま、いっか」
ため息をつき、後藤は伸ばしていた右手を引き戻すために力を込める。
その時だった。何かが後藤の右手を捕らえた。
続いて強い力で下へ引っ張る。ありえなかった。
気配も匂いも感じなかったのに。
「な……放せよ、このっ!」
左手と両足で踏ん張り、夢中で右手を振ったが
それはがっちりと後藤を掴み放してはくれない。
着実に後藤の体を奈落の底へと引きずりこんでいく。
- 153 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/03(火) 22:06
-
「くそ……っ」
能力を総動員してみるがそれでもびくともしない。
さらに強い力が右手に掛かる。骨の軋む嫌な音がした。
「うぁあああああああああああああああっ!!!!」
耐え切れなくなった後藤の体は裂け目に投げ出され転落していった。
- 154 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:52
-
3
どれくらいの間、気を失っていたのだろう。暗闇の中でようやく後藤は目を覚ました。
目を覚ますなり後藤は寝転がったまま体の具合を探る。
幸いと言うべきか命はある。口の中に血の味はしないので内臓関係も無事のようだ。
痛みに顔を顰めながらでもなんとか体は動かせそうだった。
ただ、どうしても右腕に力が入らない。おそらく骨折でもしているのだろう。
人一人引きずりこめるだけの力がその一点にかけられていたのだから無理もないことだ。
後藤はゆっくりと一回瞬きする。
しかし、よくこれだけの怪我ですんだものだ。心底、思う。
この時ばかりは、忌まわしい自分の血に感謝しなければならないだろう。
「たたた…」
後藤は苦心して仰向けになると、ひとまず安堵のため息をついた。
しかし、先ほどの強い力は一体何だったのだろうか。
冷静に追想してみると、掴まれたというよりは何かが巻きついてきたという感覚に近かった。
ひんやりとして、妙につるりとした。
- 155 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:54
-
『美野の主祭神大物主は、現世では蛇の姿をとると――』
不意に飯田の言葉が脳裏に蘇り、瞬間、後藤の背筋を悪寒が走った。
まさか、蛇神――光を奪われた世界には何が潜んでいてもおかしくない。
それこそ、本当にすぐ手の届くところにとぐろを巻いた蛇身の神がいて、
自分の動向を探っているのかもしれない。
突然、降ってわいた生贄に再び襲い掛かる機会を伺いながら。
後藤は、寝転がったまま視線を忙しなく動かす。
気配は感じない。しかし、先ほども気配を感じさせず自分の腕を捕らえたのだから
油断は出来ない。静寂の中、自らの鼓動の音が五月蝿い。
- 156 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:55
-
「か、考えすぎだよ…後藤のアホ」
そう声に出して言い聞かせなければやってられそうになかった。
後藤は、小刻みに頭を振り馬鹿な妄想を打ち消す。
その時――視界の隅でちらりと何かが動いた。
そして、無臭のこの場所に漂う匂い。人間のものだ。後藤が追ってきたものと同じ人物の。
後藤は顔を持ち上げそちらを真っ直ぐに見据える。
淡い光が不確かな線を描きながら揺らめき流れている。
自然のものではなく人工物くさい輝き。ちょうど懐中電灯のような。
耳を澄ませば、微かだが足音のような物も聞こえる。
後藤は、ゴクリと唾を呑み込む。
相手が敵か味方なのか分からない以上、迂闊に助けを求めることはできない。
- 157 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:56
-
後藤は、息を殺して光を見据えた。
光の主は、なにかを探すように四方を隅々まで照らしていく。
このままこっちに来られると見つかるのも時間の問題のようだった。
まずい。移動しようと咄嗟に体を起こそうとして後藤は
「いったーっ!!!!!!!」大きな声をあげた。
慌てて口を押さえるも時既に遅し。
少しの惑いの後、やがて光がこちらを照らしだした。
そのまま狙いを定めた肉食動物のように向きを固定し
光の主はこちらに向かってゆっくり動き始める。
それほど大きくはない足音が着実に近づいてきた。そして――――
「あれ?あなた、どうしてこんな所にいるの?」
「え?」
顔がまともに光に照らされて誰か分からなかったが、その声に聞き覚えがあった。
加えて、初めて来たこの土地で、飯田以外に自分を知る者といえば彼女だけだろう。
そのことを悟り、後藤の首筋の毛が逆立つ。背筋を冷たい戦慄が走りぬける。
- 158 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:56
-
「驚いた。神が騒いでいらっしゃるから戻って来たら……」
間違いない。
この感情を抑えた無機質な声はあの少女だ。
「あんたこそ……どうしてこんな所にいんの?」
慣れてきた目は、確かにあの少女の人形のような顔を捉えていた。
「だって、ここは私の神の御座所だもん」
少女の口から悦に入ったような忍び笑いがもれる。
後藤は痛みをこらえながら、上半身を起こし少女を見据えた。
少女も真っ直ぐに見返してくる。その目がキュッと細められた瞬間、
後藤の体を何か強い力が貫いた。
「く…あ……っ!」
痺れを伴ったその鋭い痛みに
後藤は折角起こした上半身を支えきれず後ろに倒れる。
少女がそれを見て口角を吊り上げる。これまでで一番造り物めいた明確な笑いだった。
- 159 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:57
-
「昨日会った時、神があなたを欲しいとおっしゃってたの。
今日探しに行かなきゃいけなかったんだよ。でも、丁度よかった、
あなたから来てくれて。急いで儀式の支度をしなくちゃね」
「儀…式……?」
「そう。神は体を欲しておられるのよ。
封じられた御霊を解き放ち、現世に返り咲くためにね。
その器としてあなたが欲しいんだって」
「なんで、あたし?」
息も絶え絶えに後藤は聞く。
「だって、あなた人間じゃないでしょ」
少女は簡潔に答え優しく後藤の髪を撫ぜた。
ぞっとするような感覚を覚えて後藤は顔を歪ませる。
- 160 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:57
-
「心配しなくてもあなたは死ぬわけじゃない、
神として生まれ変わるんだよ。そしてもう一度この国を支配するの」
「…神?……」
「そうそう、あの禍津の血を引くものは始末しないとなぁ」
少女の含み笑いを聞きながら後藤は意識を闇に沈めた。
- 161 名前:第二章 生贄 投稿日:2004/08/05(木) 22:58
-
※
「……ごっちん?」
急速に覚醒を促され、飯田ははっと顔を上げた。
しかし、見渡しても後藤の姿はない。ということは、意図したわけでもないのに
勝手に意識が引き戻されたということだ。
飯田は、一度深呼吸をし体の強ばりを解すようにゆっくりと胡坐を解く。
それから、現世に戻ったばかりでまだ醒め切らない思考を総動員し何が起こったのか考える。
いや、考えなくとも答えは明白だった。
「動くなって言ったのに」
飯田は、辺りを見回す。そして少しだけ表情を緩めた。
雨が降っていてくれて助かった。
視界の先には転々と後藤のものらしき足跡が残っていたのだった。
- 162 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/07(土) 23:40
-
第三章 荒御霊
- 163 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/07(土) 23:41
-
1
『お父さん、ここ何処?』
『神の眠る場所だ。私が発見したんだぞ。
これを見ればあの頭の固いおいぼれ共も認めないわけにはいかないだろう。
私の説は間違ってなどなかったとな』
『うん。お父さんは正しいって。今、だれか言うたよ』
『…何?今なんと言った?』
『耳のそばでだれかがお父さんは正しいよって』
『誰かって誰だ?』
『わからん。でも、ヘンや。ここは真っ暗でよぅ見えんけど、うちとお父さん以外だれもおらんよね?』
『あい、もう一度耳をすましてよく聞いてごらん。もしかすると他にも何か聞こえるかもしれないからね』
『何が聞こえるん?』
『いいから、さっさとやれ!』
『は…はい』
- 164 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/07(土) 23:42
-
暗転。
『お父さん、おとなりのおじちゃん、喜んでくれたよ。
大切なものやったから見つかってよかったって!
もうあきらめとったのに、うちの言うとおり探したらほんまに見つかったって!
めっちゃ喜んでくれた』
『ちゃんと誰のおかげか言ったか?』
『うん。うちやなくて、本当の日の神様のおかげやって』
『それでいい。これでゆっくりとでもあのお方の存在が世に広まっていく。
そうすれば私が正しかったといやでも証明される』
『うち、何でもするよ。お父さんのためなら何でも』
『あいはいい子だな。
お前のおかげで私は自説を証明することができる。お前は自慢の娘だ』
『誉めてくれるん、お父さん?』
『お前がちゃんと私のために神の声を聞き、働いてくれるなら、いくらでも誉めてやるとも』
『うん!がんばる』
- 165 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/07(土) 23:43
-
だからうちを見てね、お父さん。
こんなにがんばってるんやから、ちゃんとうちを見て誉めて!
うちは道具やないんよ。神の声を聴いて伝えるだけの人形やない。
お願い、お父さん。うちの力やなくて、うち自身を見て!
トウサン、アタシヲミテ……
- 166 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/07(土) 23:44
-
「っ!!」
そこで後藤は目を覚ました。
今のはなんだ?
男と幼い少女の声が、後藤の頭の中に響いていた。
そして少女の言葉の裏に隠されていた本音。
後藤は、切なげに顔を歪ませ唇を噛む。
「同じじゃんか…」
あれは、かつての自分と同じ叫びだった。
父親に振り向いてほしくて、ただ我武者羅に命令を実行していた時と同じ。
心の悲鳴だ。あれは一体誰のものなのだろう。
父親に誉めてもらおうと必死で自分に出来ることをしていた、
あの幼い少女の声は。
あい――
神――
もしかして、あの少女だろうか?
- 167 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/07(土) 23:45
-
そこまで考えて後藤は左手を額に乗せ軽く目を閉じた。
漏れるのは重たい溜息。
どうしてあんな夢を見たのだろう。
誰かの記憶を読み取り、夢の中で再構築するような能力は自分には備わっていない。
だからといって、あらかじめ自分の記憶として今の場面があったわけでもないのだ。
断言できる。あれは、まったく身に覚えのない他人の記憶だ。
しかし、同じだからこそシンクロしたのだろうか。
父に疎まれ、愛してもらえなかった自分。
唯一、父が振り向いてくれる機会は、命令のままに彼の邪魔になる人物を殺害した時だけだった。
その時だけ父は笑みを浮かべよくやったと頭を撫でてくれた。
もっと機嫌のよい時は抱きしめたり、何か買い与えてくれたりもしたが、
その短い至福の時間が過ぎると父はまた後藤を無視した。
- 168 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/07(土) 23:46
-
あの少女もきっと同じなのだ。
自分よりはまだ父親に愛されているかもしれない。
それでも、父親に協力することで必死にその関心をかい
振り向いてもらおうと足掻いているのだろう。
始めてあの少女と出会った時に感じた不快感は、
昔の自分自身を思い出しそうだったからに違いない。
そして、彼女はきっと自分に同じ匂いを感じていたのだろう。
だから、お互い必要以上に見詰め合ってしまったのだ。
あるいは、無意識に救いを求める信号を発していたのかもしれない。
同じ心をもち、同じ過ちに陥っている者がここにもいることに気づいてほしくて。
- 169 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/07(土) 23:46
-
あの子を救うことが自分には出来るのだろうか?
飯田が助けてくれたように。
後藤は息をつく。
分からない。
分からないが、それでもあの少女を助けたいと思う気持ちが自分の中に生まれていることは確かだった。
- 170 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:15
-
「起きた?」
そのとき、頭上で声がした。
後藤は我に返り、額から手をのけてそちらを見やった。
視界に、少女の顔が逆さ映しに映る。
後藤が気を失っている間に着替えたのだろう。
先程は制服らしきブラウスとスカートだった少女は、白い絹の上衣と緋の袴をはいた巫女の姿をしていた。
「…ここ、どこ?」
今さら気づいたがここは引きずり込まれたあの暗い闇の中ではない。
相変わらず光量が少なくあまり物の形がはっきりしないが
どこか家の中だろう。木の天井、ふすま、背に当たる感触は布団だ。
- 171 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:16
-
「私の家。神をお祭りする社も兼ねてるの」
「一応、あそこから出してくれたんだ」
「儀式のためにあなたの身を清めないといけないからね。
ただの贄ならあのまま放っておいて神のお好きなようにしていただくけど、
あなたは神の肉体となるんだから、身の穢れをすべて祓って、
正式な手順に則って捧げないと」
「……ねぇ、あんたの名前聞いていい?」
唐突な後藤の問いに少女が僅かに眉を上げる。
それから、小さく笑み
「亜依。加護亜依だけど……あなたは?」
やはり、そうだ。この少女が夢の中の。
後藤は音にならない息を吐きだす。
- 172 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:16
-
「ごっちん」
「ごっちん?」
「って呼ばれてる。真希ちゃんでもいいけど」
「…真希ちゃん」
加護が確かめるように反芻した。
後藤は、一度深く息を吸い呼吸を整える。
それから勢いをつけて畳の上に身を起こし、真っ直ぐに加護の目を見据えた。
加護は驚いたように一歩下がる。
- 173 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:17
-
「もう、やめたら?」
「…何を?」
「父親のために、自分犠牲にすんの」
反射的に亜依が目を見張った。
それが何の感情ゆえか読み取るにはまだ足りないが、
少なくとも的外れな指摘ではなかったらしい。
「それで人形になっちゃったんでしょ、あんたは。
最初は誉めてもらえるのがうれしくて、でも段々誉められているのが自分じゃなくて
自分の力なんだって分かってきて、それでもやっぱり誉めてもらいたかったから
気づかないふりして、それであんたの心、壊れちゃったんでしょ?」
「…何の話?」
亜依は無表情のまま問う。
- 174 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:18
-
「分かるんだよ、あたしもあんたと一緒だったから。
親の勝手な欲望につきあって……そんな自分に可哀想なこともうやめなよ」
「どうして?」
「どうしてって……このままでいいの?
このままずっと父親の都合に合わせて人形のままでいる気?
そんなのイヤなんでしょ?人形じゃない本当の自分を父親に見て欲しいんでしょ?
だったら、このままでいちゃダメなんだよ。
ホントのさ、加護亜依に戻んなきゃダメなんだよ!」
「これが一番ええんや!」
後藤の声に被せて加護が叫んだ。初めて彼女の声に感情がのった。
それは先ほど見た夢の中の幼い少女と同じ関西弁交じりのもので、
驚いた後藤は息を飲む。
- 175 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:18
-
「やっと何をしたらお父さんが喜んでくれるか分かったんや……
この状態を壊したない!!うちさえ我慢してればずっとこのままでおられる!
だからこのままでええ!口出しせんで!」
「…そのために自分が何やってるか、分かってんの?」
「分かっとる……やから、自覚させんでっ!」
加護のガラス玉のような瞳には涙が揺れていた。
後藤は言葉を失う。
「うちが人形でおるのは、そのためでもあるんやから」
加護は苦しそうに呟く。
- 176 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:19
-
「うちは人殺しや。そんなんちゃんと分かっとる。
でも、お父さんがそれを望んどるんやもん。ええやんか、
どうせうちには関係のない人たちなんやから、殺したって!
お父さんの邪魔をする人たちなんか皆敵や!敵なんか、殺してしまえば……
それでお父さんが喜んでくれるなら、うちはダレだって殺せる。
殺すように指示を出すのだって平気なんや」
紡がれた言葉は彼女の悲鳴だった。
痛いほどその気持ちが伝わってきて後藤は眉を寄せる。
「……でも、時々心が痛なって……やからうちは心を捨てた。
人形でいれば何も感じなくてすむから。やから…ええんよ、本当にこれで……」
一息に言ってのけると、加護は固く目を閉じた。
そして心を静めるように二、三度肩で大きく息を吸い静かに目を開ける。
その時にはもう今の激昂がウソのように表情は消え元の人形に戻っていた。
たとえ目が赤みを帯び、目尻に涙は残っていても。
加護が、後藤に背を向ける。
- 177 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/08(日) 22:20
-
「これより禊の行を始める」
静かに彼女が合図をすると、まもなく襖が開き三人の男が現れた。
そして、二人は後藤の両脇に立ち折れていない左腕をとると無理矢理立ち上がらせる。
後藤は抵抗をしなかった。促されるまま引っ立てられるようにして歩き出し、
加護の脇を通り過ぎる。
「‥…バイバイ、真希ちゃん。会えてうれしかった。
うちの声に気づいてくれたのあんただけやったから」
すれ違いざま、小さな小さな言葉になっていない声で彼女が言った。
反射的に後藤は振り向く。
だが、加護は後藤から逃げるように反対側の廊下を歩いて行ってしまった。
「止まるな」
左脇の男が気づいて腕を引く。
後藤は渋々歩みを再開したが、顔だけはなおも加護の後姿を捉えていた。
- 178 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:35
-
2
後藤の足跡を辿って飯田は岩棚の洞窟を見つけた。
どうやら後藤はこの中に足を踏み入れたのだろう、
そう見当をつけて飯田は洞窟内を進み――そして、大きな裂け目に辿りついた。
飯田は、足元から適当な小石を拾い上げ、その裂け目に落としてみる。
数秒の後にカツンと音がした。思っていたよりも、底は深いようだ。
飯田は、息を吐き出し腹腔に力を込める。体が硬化されていく。
これで怪我をすることはないだろう。
しかし、底の見えない裂け目に飛び降りるのはやはり恐怖だった。
飯田は、ゴクリと息を呑み
「行くよ」
自分に声をかけると意を決して飛び降りた。
- 179 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:35
-
胃の中が浮くような奇妙な感覚。
着地の衝撃に備えて飯田は足に力を込める。振動。
ビリビリと足裏から痺れるように上がってくる。
着地して飯田はすぐに眉を寄せた。
衝撃故ではない、異常なまでの気にそこは満ちていたのだ。
何者かの――飯田は、目が暗闇に慣れるのを待ってから歩きはじめた。
強く気を感じられるその場所に向かって。そして、見つけた。
打ち捨てられ、長い年月の内に見る影もなく崩れた神の祠を。
- 180 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:36
-
「……これは」
ゆっくりと近づく。そこは覚醒した神の気に満ち溢れていた。
これはおかしい。通常、誰からも忘れられた祠の神は眠りについている。
霊場を形成する力も失い、ただそこに在るだけで。
しかし、忘れられている筈にも関わらずこの神は活気を帯びていた。
しかも、はっきりと荒御霊に変調して。
「…こんなところに原因があったんだね」
飯田は悟った。美野山の変調は、この荒御霊が原因だ。
美野山には、忘れられたもう一体の神が居たのだ。
大物主に影響を及ぼし、天照さえ脅かすほどの力をもった神が。
それが、信者を持ち霊場を取り戻そうとしている、荒御霊として。
飯田はすぐさまその場で鎮魂法を試みた。
しかし、何度祓詞を唱えてもうまくいかない。
- 181 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:37
-
「誰なのよ、この神様」
飯田は忌々しげに舌打ちする。
神の正式名称が分からない。
考え付く神の名を全て試して見たというのに――
そんな飯田を嘲笑うかのように不意に神の気配が消えた。
「なっ!?」
逃げたのか?
いや、そんなはずはないだろう。なにか目的があって――
考えて飯田はハッとする。
これからなんらかの儀式がどこかで行われるのではないだろうか。
そうなったら、大変なことになる。飯田は、神を追いかけて走りだした。
- 182 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:39
-
※
男たちの手で服を脱がされ、頭から何度も冷水を浴びせられても、
後藤は一切抵抗しなかった。
そんなことよりも、どうすれば加護を助けられるのかを考えることに頭が一杯だったのだ。
加護はすべてを理解して、自覚していた。
自分のしていることをちゃんと分かったうえでの行動なのだ、と。
それがために、あの子の背負う業は重くなる一方だ。
罪を罪として自覚して犯すのと、自覚のないまま犯すのと、
どちらがより重いのかなどといった現実的な問題はともかく、
本人の心の問題としては最悪のケースと言っていい。
その上、それでいいのだと本人が開き直っているのだから、やめさせるのは容易ではないだろう。
では、どうすれぱ救えるのか。
父と言う頚城から彼女を解き放ち、犯罪行為を止めるには――
父親の方をこそ改心させるしかないのか。
だが、元凶たる彼にそんな気があるとは思えない。
大体、親子の情に訴えてどうにかなる問題なら、
彼はそもそも初めから娘の手を汚したりはしないだろう。
それでも、どうにかしないことにはこの父娘の結末は悲劇でしかない。
そんなの絶対ダメだ。同じ過ちは繰り返されてはならない。
後藤は、無意識のうちに立ち上がる。
- 183 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:39
-
「おいっ」
男が慌てたように後藤の肩を掴む。
「邪魔すんな!!」
後藤はかっと目を見開き、荒々しく叫んだ。
同時に力を放ったため肩を掴んだ男も後藤を取り巻いていた男たちも一瞬にして吹き飛ぶ。
男たちは、薄板の壁を打ち抜き木片ごと外に転がり出る。
後藤はそんな男たちに目もくれず周囲を見回し、
そこにあった白い浴衣をいい加減に身につけると外に飛び出した。
- 184 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:40
-
「何してるんだっ!?」
壁板の破壊音を聞きつけたらしい家人が廊下の向こうから四人ほど駆けつけてきていた。
禊場と母屋をつなぐ渡り廊下は狭く、前に二人も立てば進路がふさがれてしまう。
かといって、他に逃げ道もなく、正面から相対して撃破しないことには進みようがなかった。
「加護はどこ!?」
全身から攻撃の意欲を立ち上らせ後藤は先頭に立ちふさがる男を見据えて問う。
男たちも応戦する気で腰を落とし構えている。
「禊が終わったのなら、次の指示があるまでおとなしくここで待ってろ」
「どこにいんの、あいつ!?会わせてよ!」
叫ぶなり、後藤は男たちの中に飛び込んだ。
- 185 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/10(火) 21:40
-
男たちもそれを正面から受けて立ち、すみやかに後藤を取り囲んで退路を断つ。
狭いという条件だけが今の後藤にとって有利なことだった。
人数がいても一斉攻撃に出られず、取り囲んだ所で結局個別にしか挑めない。
勿論、連携して波状攻撃に出られれば休む暇のないこっちが不利になるが、
頭に血が上っていてもその辺のことは本能的に察している。
だから、後藤は男たちに取り囲まれるなり能力を放った。
「うわぁぁぁぁっ」
四人が一斉に四方へ吹き飛ぶ。
その行く末を見届けるような真似はせず、
後藤はそのまま母屋の方へ走った。
- 186 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:12
-
※
暗闇の中に灯りが灯っている箇所があった。
そこは、どうやら地上に上がる階段らしい。どうしてこんな所にあるのか。
不思議に思いながらも、しかし洞窟から出ないことにはどうしようもないので、
飯田は階段を駆け上がってみる。と、その先には木戸があった。
中からなにやら音がしている。
なるべく戦わずにいきたいところだが――飯田は、そっと木戸を開けた。
視界に広がったのは社殿。一人の男がなにやら祭式の準備をしていた。
- 187 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:14
-
「…なにしてるの?」
「!!な、お前、誰だ?どこから入ってきたんだ」
「そんなことはどうでもいい。あなたがあの神を崇めているのね」
驚く男を、飯田は容赦なく問い詰める。
しかし、男は飯田の問いに答える気は全くないようだ。
こちらを憎憎しげに睨みつけ
「……そうかお前、亜依の言っていた禍津のものか」
洩らす。
「亜依…?」
殺人現場にいたあの少女のことか。
彼女を知っているということは、この男は何かを知っているはずだ。
- 188 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:14
-
「あなたたちが奉っている神の名前はなに?」
「さぁな…そんなこと知るか!!」
叫ぶなり、男ははっきりと敵意を露にし、小刀片手に飯田に掴みかかってきた。
舌打ちして、飯田は応戦する。
こんなところで戦っている場合ではないというのに。
それが頭の片隅にあったからだろうか。飯田は全く手加減をすることが出来なかった。
- 189 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:15
-
ものの数分で男からは敵意が消えて、残ったのは飯田に対する恐怖のみ。
すっかり腰を抜かして縮こまってしまった。飯田は、男に歩み寄る。
男は地面に尻をつけたまま後ずさる。
素早く胸倉を掴むことでそれを制止すると飯田は男に顔を近づけた。
男の顔が恐怖に引き攣る。
「神の真名を教えてもらおうか」
男はぶんぶんと首を振る。
「まだ痛い目にあいたいの?」
飯田は、唇の端だけを吊り上げて笑ってみせる。
こういう場面では効果的だ。男がひっと息を呑む。
その時――
天から自然のものとは思えない雷光が裏手に落ちるのを飯田は見た。
- 190 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:16
-
※
右腕に添え木はされているというものの痛みは時間と共にひどくなる。
後藤は痛みに顔を歪めながらも、外周を取り巻く縁側を走る。
角を曲がったところでまた別の集団に出くわした。
あちらも非常事態と分かったのだろう。
先程よりも人数が増えている上に、てんでに木刀や刃物を構えて
丸腰の後藤に容赦ない構えをとっている。
「…か弱い女の子にそれはないんじゃないの」
後藤は、溜息混じりに呟く。そして、身構えた。
男たちにも緊張がはしる。
- 191 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:17
-
「こいつ、妙な力使うからな。子供や思わんと殺す気でいけ!」
先頭の男が刃物を構えて指示を出し、先陣切って突進する。
後の男たちがそれに倣って、容赦なく武器を振りかざす。
相手が戦う気なら手加減はしない。
近づきさえさせなければこちらが負けることはないのだ。
後藤は男たちに向かって能力を素早く放つ。
襖を突き破り、隣の部屋へ転がる者があれば、
運悪く柱の角に頭を打ちつけ、昏倒する者もある。
あっけないくらい簡単に廊下が開ける。
よし、と一気に走り抜けようとしたその時、後藤は転がった拍子に
持っていた刃物が体に突き刺さってしまった者を見つけた。
思わず、足を止める。殺すつもりはないのだ。
- 192 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/11(水) 23:18
-
「…大丈夫!?」
後藤は、苦悶の表情を浮かべる男に駆け寄る。
「うぉおお!!!」
その機を逃さずに新たに加勢に来た男の一人が
背後から雄叫びを上げながら木刀を振りかざした。
気配を察した後藤は素早くそちらに振り向くが、咄嗟のことに態勢が整わない。
能力を集中したが間に合わず、後藤は男の木刀をまともに食らってその場に昏倒した。
瞬間――
意識を失った後藤の体を、天井を撃ち抜いて落ちてきた雷光が貫いた。
- 193 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:46
-
3
「今のは何!?」
異様な轟音を聞きつけ、祭式の支度に追われていた巫女や神官と共に加護が駆けつけたのは、
後藤が雷に打たれてすぐのことだ。
縁側に面した庭には、祭式に参加するために気も早く集まってきた信者たちの姿もある。
もうしばらくするとこの社に雷光が閃いたのを見た近所の者たちまで
何事かと飛んでくることだろう。そして彼らは皆、目撃することになる。
雷光に貫かれた後藤が、ゆらりと立ち上がる姿を。
この雷光が自然現象だったなら、
まともに貫かれた後藤は焼け焦げた無残な死体となってその場に転がっていなければおかしい。
しかし――後藤の周囲にいた男たちは無残な焼死体となっているというのに――
後藤だけは今衆人環視の中、その身に焼け焦げた痕など見せず、
奇妙なまでの輝きを放って立っていた。
- 194 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:46
-
「一体……」
「亜依様……?」
誰もが固唾を呑んで見守りつつ、
縁側に立つ巫女たる少女に解答を求めるかのように視線を動かす。
だが、加護にも何が起こっているのか分からなかった。
ただならぬ予感にざわざわと心が騒ぐばかりで、
事態を把握できるほどの情報を掴むことができない。
その時、答えを教えるかのように後藤がうなだれていた顔をゆっくりと上げた。
「まさか……」
加護は目を見張った。後藤の赤い瞳はどこか濁った血の色を思わせ、
口角を吊り上げて笑う様は常人のそれではない。
あれは――昏い欲望に満ちた、狂える神の微笑。
- 195 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:47
-
「伏せてっ!」
呆然とする加護に向けて誰かの鋭い警告が飛んできた。
同時に、後藤が言うことをきかぬはずの右手をゆらりと挙げ、
真っ直ぐこちらを指さした。刹那、加護の両脇を風が駆け抜ける。
「キャアアアアッ!」
背後で巫女の悲鳴が上がった。
反射的に振り返った加護は、すぐ後ろにいた二人の神官の首が切断されて宙に舞うのを見た。
続いてまたその隣の人間の首が飛ぶ。頬になにかが当たった。
手で拭うと赤く染まる。加護はよろめく。背中に主柱が当たった。
そこに体を預け加護は立ち尽くす。目の前に広がる血塗れた地獄絵図。
- 196 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:48
-
集まっていた人々は恐慌に陥り我先に出口へと走る。
だが、出口には雷光を気にして駆けつけた次の野次馬集団が押し寄せ、
逆に中へ入ろうとしており、二つの勢力が拮抗して流れがその場で停滞してしまう。
その混乱が恐怖に拍車をかけ、脱出を妨げられた者は怒りに狂い
中に入ろうとする者に殴りかかる。後から来た者は何が起こっているのか分からず、
余計中に入ろうとして無理矢理流れを押し戻す。
しかし、彼らもじきにその恐怖の正体を知ることになる。
信者の騒ぎにひかれた後藤が自然と人々の固まる縁側に出てきたのだ。
そして、獲物を見つけた彼女はまた口許を歪め、容赦なく狩を再開する。
集団の中からまた次々と首が飛び血飛沫があがる。さらなる恐慌。悲鳴。
- 197 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:48
-
いつのまにか雨脚は強まっていた。
雨の匂いと血の匂い。
上空に重く立ち込める雷雲に時折不吉な稲妻が走る。
「なんで……なんで、こんな……?」
加護は角の柱にもたれたままずるずるとその場に力なく腰を落とし、
逃げ惑う人々を呆然と見つめていた。
なんでこんなことになったのか……
- 198 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:50
-
雷光に貫かれた時、一体、後藤の身に何が起きたのだろう。
彼女は今正気を失っている。
あの目、あの表情、全てが人ならざるものの気配に満ちている。
血に飢えた地獄の神の化身のような、この世のものとは思えない狂気にとり憑かれている。
あの狂気が自分たちの奉っていた神の本質だったのだろうか。
夢だと思いたい。これは性質の悪い夢なのだ、と。
「どこ行ったかと思ったら、こんなところでごっちんに取り憑いてたんだね」
先に警告を発したのと同じ声が不意に頭上から聞こえ加護は我に返った。
「あなた、禍津の…」
血の海に散乱する死体やその切断された首を横目に見ながら、
飯田圭織が加護の傍に立っていた。
その右手には、襟元を掴まれてもがく父の姿まである。
どうして父と飯田が一緒にいるのだ。
さらに頭が混乱して、加護はただ目を見張るばかりだ。
- 199 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:50
-
「話は後。先にごっちんをどうにかしないと犠牲者が増える」
「これはなに!?何が起こってるの?」
「後って言ってるでしょ!あなたはそこにいなさい!
今のところ、ごっちんには巫女のあんたを傷つけないだけの分別は残ってるみたいだからね。
だけど、下手に動くとあなたも狩の対象にされるよ」
「…じゃあ、やっぱりあれって」
「そうよ、分からないの?あなたの神様でしょ」
飯田は冷たく見下すように加護を一瞥すると、
右手に掴んだ男をゴミか何かのように横へ放り出す。
それから、首にかけていた水晶のネックレスを指にかけ一歩後藤の方に近づいた。
- 200 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/12(木) 21:51
-
「もう、カオの声は届いてないよね、ごっちん?」
その声に後藤がゆっくりと振り返る。
それは、名を呼ばれたからというよりは、すぐ傍で人の声が聞こえたからという反応にすぎない。
案の定、今の後藤は声の主が飯田のものだということは分からないようだ。
後藤は飯田を視界に捕らえると、
ただ活きの良さそうな獲物を見出して歓んでいるような歪んだ微笑を浮かべる。
飯田は僅かに目を細め、顎を引くと、
後藤が右手を挙げるより早くネックレスを掲げた。
「水晶方陣、縛」
飯田の手元から凄まじいスピードで後藤に向かって光が発せられる。
後藤が衝撃波を放つ。光は衝撃波を突き破り後藤にぶつかる。
後藤の口から小さな苦鳴がもれた。一旦、彼女の動きを封じたのだ。
- 201 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/13(金) 23:56
-
「ねぇ!」
視線を後藤に固定したまま、飯田は背後の少女を呼ぶ。
加護は弾かれたように飯田の背を見上げた。
「あなたの神の正式名称は?」
「え?」
「え?じゃなくて正式な名前!!あいつを呼んで覚醒させたのがあなたなら知ってる筈でしょ?」
「あ……」
「言うな、亜依!」
躊躇している加護に傍らに放り出されていた男が叫んだ。
だが、ここへ来るまでに相当ひどい目にあわされたらしく、
斜め上から飯田に鋭くにらまれると、彼は反射的に首をすぼめて身を縮める。
- 202 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/13(金) 23:57
-
「いいから早く教えて!!」
「で…でも……」
「言っとくけど、あの石室に封じられていた間はおとなしくしてても、
肉体を得て解き放たれた今は、箍の外れた荒御霊!!
このまま好きにさせておいたらこの社殿を出て今度は関係ない人まで襲い始めるのよ!
霊場だってもう限界に来てるし…
このままいったら無理矢理天照のテリトリーを侵して根本から国をかき乱していくわ!
最悪、世界中巻き込んで大戦争が起こるのよ!!」
「うそ……」
告げられたことに加護は絶句する。そんなこと一度も父は言っていなかった。
本当なのか父を見やる。
しかし、彼は加護の方など見ておらず飯田に向かって怒鳴っていた。
- 203 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/13(金) 23:57
-
「そんなことになるものか!あのお方は正当なるこの国の支配者なのだ!
今は抑圧されていた恨みが爆発して暴走されているのかもしれないが、
落ち着けばこの国を正しく導いてくださる!伊勢の天照など
この国をダメにする一方なのだから!」
「こいつが落ち着く頃にはとっくに日本が滅びちゃってるよ!
荒御霊は勝手に和魂に戻るようなモンじゃない。
鎮魂し、正しく祀りなおさないといつまでもあのまんまだよ!
崇りを思い出せばそれくらい分かるでしょ!あれは自然に鎮まるようなモンじゃない、
崇りの正体こそが神の荒魂なんだから!!」
飯田の恫喝に父親がうぐっと言葉を詰まらせる。
ややあって、彼はこちらに振り返った。
加護は、その目に宿る狂気に息を呑む。
- 204 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/13(金) 23:58
-
「…亜依、お前がやれ。あのお方の巫女はお前なのだから!」
「お父さん?」
父は、自分にあの後藤を相手に戦えと言っているのだろうか。
加護は信じられない気持ちで父を見やる。
「あなた、自分の娘を殺す気!?その子にそんな力はないわ!!」
飯田の激が飛ぶ。
「さっさとしろ、亜依!」
血走った目で父に睨まれ、加護は余計身を強ばらせた。
そんなことを言われても、どうしていいか分からない。
いや、もし自分がどうにかできる問題ならば言われなくてもとっくにやっていた。
自分を信じて付き従っている信者たちを守るために、
ただ成す術もなく殺戮現場を見つめていたりしない。
- 205 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/13(金) 23:58
-
「亜依…ちゃん」
飯田が静かに催促する。
よく見れば、彼女の額には玉のような汗が浮いている。
表情にも態度にも出ていないが、
結界を維持して後藤を抑えておくのに相当な力を注いでいるのだろう。
今、彼女が力を緩めれば、後藤は――
いや、その身を支配する神は結界を破り怒りに任せてこちらを攻撃してくるはずだ。
そして、間違いなく自分と父の首は飛び、
神の真名を知る者がいなくなり、飯田には成す術がなくなる。
そうなれば、彼女の言うとおりの事態が待つだけだ。
加護は決意して一度強く唇をかみ、それから父を真っ直ぐに見た。
- 206 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/13(金) 23:59
-
「ごめんなさい、お父さん……」
「亜依……?まさかお前、私を裏切るのか?」
「ごめんなさい!」
もう一度口にして、加護は飯田に向き直った。
「私の祀っていた神は高皇産霊尊!」
「オッケー」
飯田が心もち口角を緩めたように思う。
そして彼女は立ったまま姿勢を正し後藤を見据えた。
それからゆっくりと深呼吸し、両腕を胸の高さに水平に保ちつつ、
合掌する。加護には理解不能な呪文のようなものが
飯田の口から漏れ聞こえ始める。
それを二度繰り返したとき、辺りに重苦しい沈黙が立ち込めた。
- 207 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/14(土) 00:00
-
「招来」
その言葉に後藤が弾かれたように天に顔を向け身を強ばらせる。
「高皇産霊尊の荒魂、我が声を聞きたまえ。
我は請う。我が声に従いてその身よりいでたまえ。
御身の依代はここに在り――招来!」
もう一度飯田が強く唱えると、後藤の体から光の塊のようなものがポンと飛び出してきた。
後藤はそのまま力を失い倒れるが、光の方は真っ直ぐに飯田の頭上にかかる。
光はゆっくりと形を崩し、飯田の身の外郭にそって足下へ広がった。
やがて飯田の全身が光に包まれたかと思うと、
内なるものに吸い寄せられるように光は彼女の体内へ消えていく。
行く先は飯田の精神の深いところに用意された、神を降ろすための祠。
彼女の禍津としての能力の一つ、神をその身に降ろし、
その力を御するものだ。言葉と祭式で行う鎮魂も、
彼女の場合、その身に直接神を降ろして行う方が確実だった。
- 208 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/14(土) 00:01
-
加護の見守る前で、飯田は内に降ろした神の荒御霊と闘っている。
口からは絶えず祓詞のようなものがこぼれ、表情は固く強ばり、汗が光る。
もし、負ければ今度は飯田が神の器となり、惨劇の繰り返しだ。
それだけに彼女の責任は大きい。相手は天照の霊場を脅かしたほどの神だ。
並みの霊力では呑まれてしまう。だが、やれると踏んだから飯田は帰神したのだろう。
時間にしてどれくらい経ったか――
不意に辺りを支配していた不吉な気配が消滅する。
血の臭いに満ちた吐き気を覚えるほどの圧迫感も消え、呼吸が楽になる。
加護はこの確実な変化を見逃さず、目を見張ってもう一度飯田に注目した。
いつのまにか彼女の表情から強ばりがとれ、和らいでいる。
息遣いも落ち着き、肩の上下動も平常のリズムを取り戻している。
半ば衝動的に加護は空を見上げた。雨がやんでいた。
重く立ち込めていた雷雲もどこかへ消え去り、
この土地では約一ヶ月ぶりの青空がのぞいている。
- 209 名前:第三章 荒御霊 投稿日:2004/08/14(土) 00:01
-
「散!」
やがて、飯田が一際高く唱え、勢いよく拍手を打つ。
その音がやけに清冷に辺りに響いたかと思うと、元の和魂に戻った神が
飯田の体から抜け出し、それこそ太陽にも似た眩しい光となって
一筋の尾を引きながら空高く昇っていく。
「あ……」
我知らず、加護は震えた。目尻に涙が浮かぶ。
本当は、あんなに綺麗な神だったのか。
天の高みに昇りつめた神は、そこで宙に溶け、消えた。
- 210 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/14(土) 22:48
-
第四章 親子
- 211 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:51
-
1
なにか異様に重い気分で後藤は覚醒した。
「…カオ…リ…?」
目の前にその顔がある。
何かを案じるようにに眉根を寄せ、唇を固く結んでまっすぐに自分を見据えている。
長い髪が幾筋か顔に落ち、後ろの方も無造作に肩にかかっている。
いったい、彼女は何をしていたのだろう。やけに疲労の色が濃く見える。
そこまでぼんやりとしたまま感じ取って、それからようやく自分は
今飯田の腕に支えられているのだと後藤は気が付いた。
- 212 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:52
-
「どこもヘンな感じはしない?右腕の骨折以外で、たとえば頭痛とか?」
「んぁ……頭痛いかも。すごいガンガン……
あと、体中あっちもこっちも痛いし右腕感覚ないし……」
「そう……よかった」
「はぁ?」
「それだけですんで良かった……」
言いながら軽く目を伏せ、ため息をついたかと思うと、
やんわりと腕に力をこめ飯田は後藤を抱きしめた。
後藤は始めそれが何故の行為か分からず、彼女の肩口に顔を預けたまま目をしばたかせる。
飯田は何を案じていたのだろう。
そして、どうして自分の体はこんなにも痛み、また、重くだるいのだろう。
記憶は遅れて蘇る。加護のこと――
- 213 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:53
-
「そうだ、カオリ!のんびりしてる場合じゃ……」
「終わったよ」
「え?」
「もう、終わったの。全部ね」
言いながら、飯田は後藤の体を放しそちらに向けてやる。
そして、後藤はその光景を見て息を詰めた。
血だまりに転がるおびただしい死体、切断された首、
この世のものとは思えない、あまりに惨い光景だ。
「……なにがあったの?」
血の臭いに吐き気がする。おもわず後藤は口許を押さえた。
「神が暴走したその跡。一足遅かった。
鎮魂に成功して神は和魂に戻ったけど、それ以前のこの惨劇は……どうしようもなかったんだよ」
小さくため息をつく。
それで飯田の顔に疲労の色が濃く残っているのだ。
感応して、その直後に鎮魂帰神を行えば、どれだけ体に負担がかかったか知れる。
- 214 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:53
-
ふと後藤の視界に加護が映った。
血に濡れた縁側に力なく腰を落とし、庭の惨状を見つめている。
身じろぎもせず、ただ呆然と。
その少し離れた所にまだ生きている男が一人いた。
加護と同じように庭の方を見つめているが、
畳についたその手は小刻みに震え、全身から何か不穏な気が立ち上っている。
歯軋りの音まで聞こえてきそうだ。
いやな予感がして、後藤は心持ち身を乗り出した。その瞬間――――
「この裏切り者!」
男が叫び、立ち上がる。
バネ仕掛けの人形のように加護がその声に反応した。
その目は恐怖に見開かれている。
- 215 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:54
-
「教えるなと言ったのに……
お前は私よりあの女の言うことを信じたんだな!
何でも言うとおりにすると言ったくせに、土壇場で裏切りおって……!
今まで誰が血の繋がらないお前を育ててやったと思ってるんだ」
「ごめん…なさい、お父さ……」
「謝ってすむと思っているのか!?おかげで私の計画はつぶされたんだぞ!
もう後一歩だったのに……せっかく神がご降臨くださって、
私の説が証明されたというのに、世に知らしめる前につぶされた!
お前がつぶしたんだ!実の娘のように育ててやったというのに、許さんぞ、亜依!」
「…ごめんなさい、ごめんなさい……」
加護はただ両手をつき、頭を床にすりつけて謝るばかりだ。
声に嗚咽が交じっている。その様に、かつての自分の姿が重なる。
狂ったように自分を罵る父、ワケが分からず、ただひたすら泣いて許しを請うた自分……
無意識のうちに後藤は唇をかみ、手に力をこめる。
そんな彼女の不穏な情動を、体を支えている手を通して感じ取った飯田もまた眉根を寄せる。
- 216 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:54
-
「消えろ!」
男がまたヒステリックに叫んだ。
「お前などもういらん!さっさとどこかに消えろ!」
「お父さん!?」
反射的に加護が顔を上げる。
そのとき、男が勢いよく加護に詰め寄り、右手を振り上げた。
「やめろ!」
男が何をする気か察した後藤はとっさに能力を放つ。
同時に後藤の体をすぐ横の柱に預けて、飯田が駆け出す。
- 217 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:55
-
「ぐわっ」
後藤の能力に弾かれ、男が勢いよく転倒する。
そこへ駆けつけた飯田がすみやかにその襟首をつかんで起き上がらせた。
「まだ痛めつけられたいんだね」
「ひ……っ」
飯田が侮蔑も露に見据えると、男がとっさに身を縮める。
「お…お父さんを放して!」
それを見て加護が叫び、立ち上がりざま飯田の腕につかみかかった。
「かばうなよ、加護!」
後藤は叫んだ。
今の咄嗟の攻撃でまた体力を削ってしまい、身を支えるのがやっとの状態で、
それでもやりきれない怒りに両目だけは鈍く光っている。
飯田の腕を掴んだまま加護が後藤を振り返る。
- 218 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:56
-
「それ以上、あたしとおんなじことすんな!!
無駄なんだって、かばったって……」
「でも……!」
「あたしも思ってた!いつか父さんはわかってくれるって!
でも父さんには全く通じてなかった!父さんはあたしを殺そうとした……
あたしを裏切り者って……」
「真希…ちゃん…?」
「何でわかってくれないのよ、あんたたちは!?
あたしたちはただ愛して欲しいだけなんだよ!なのに、なんであんたたちは
あたしたちを裏切り者って言うの!!なんで……」
最後は涙に揺れ、震えていた。
それを見ている加護の目にも涙が浮かぶ。
そして加護もまたその場に腰を落とした。
両手を床につき、小さく肩を震わせて嗚咽を繰り返す。
その様を見てため息をつくと、飯田は男の襟首をつかんでいた力を緩めた。
その機を逃さず男は身を放し、何を思ってか突然背中を向けて走り出す。
- 219 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:56
-
「往生際の悪い……」
その意図を悟って飯田は後を追いかけた。
つられて加護も腰を浮かす。
「加護、行っちゃダメ」
素早く後藤が呼び止める。
「な…んで……?」
「……多分、見ないほうがいいと思う」
「……だったら、やっぱりうちは行かな。お父さん、一人ぼっちやから。
お父さんにもうちしかおらんもん。一緒にいってあげないと」
後藤の忠告に加護は首を振った。
- 220 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/14(土) 22:57
-
「ば…バカ!そんなの絶対ダメだよ!
あんたが引きずられる理由なんてひとつもないじゃん!」
「やけど……」
「加護!」
「ホントに…バイバイ、真希ちゃん」
そこまで言って、加護は二人の後を追って駆け出した。
「加護っ!!」
後藤は必死で体を起こす。
「糞ッ!!動け、この、動けったら!!!」
節々が痛んで重い体を激し、左手一本で支えてなんとか立ち上がると、
危なっかしい足取りで後藤はさらにその後を追った。
- 221 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:07
-
2
「振り出しに戻って何をしたいの、あなたは」
男が駆け込んだのは社殿の最も奥まった神聖な場所、
神の眠る祠へ続く、暗い洞窟の入り口だった。
事態が動き出す前に男と出会った場所だ。
あの時、男がすぐに神の名を明かしていればその場で鎮魂法に入り、
あの惨劇は起こらなかっただろう。
- 222 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:08
-
飯田は男ごし、改めて穴の様子を窺った。
もう騒ぎの前のような不穏な空気はまとっていない。
神はあの祠でまた長き眠りについた筈だ。
もう二度と彼の名を唱える者が現われなければよい。
再び目覚めさせるには危険すぎる力を持った神だった。そのためには。
「そこから離れて」
強い口調で飯田は穴のそばに立つ男に言った。
だが、男は血走った目で飯田を睨みつけるぱかりで一向にその場から動こうとしない。
面倒くさげに舌打ちすると飯田は男に歩み寄ろうと足を踏み出す。
しかし
「来るな」
どこか上ずった声で男は言い小刀をちらつかせた。
それは祭壇のそばに転がっていたもので、いつのまにか手にとっていたらしい。
そんなものは飯田にはなんの効果もない武器だが
あまり刺激するのも好ましくないので一応その場に立ち止まる。
- 223 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:09
-
「お父さん!」
そのとき、加護が駆け込んできた。
彼女は、飯田の傍らを行き過ぎようとした時点で父の手に握られた小刀に気づき、
とっさにその場に踏みとどまる。
「お父さん……?」
「私は間違ってなどいない。あの方でなければ日本は治まらないんだ」
血走った目、憑かれたように強ばる表情。
もう、とっくに正気ではなかったのかもしれない。
「亜依、来い。最後のチャンスだ。もう一度私のために神を呼ぶんだ」
「お父さん……」
「行ってはダメよ」
「…あなたに、そんなこと言われる筋合いなんかない」
加護が敢然と頭を上げ、飯田を見た。
ここへ来た時点で加護の心は決まっているようなものだった。
- 224 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:09
-
「もう一度神を呼んだりはしない。それは約束します。
でも、私はお父さんのそばにいたい」
飯田は理解できないという風に顔をしかめた。
「どうして…自分から苦しみを選ぶの?」
「分からない……だけど、あの人は私を…」
無理矢理に笑みの形に歪めた口許が震えている。
最後の方は言葉にすらなっていなかった。
目にはうっすらと涙が浮かび、その姿は見ていて痛々しい。
「お父さん、今そっちに行きます。だからその刀をしまって」
「よぉし、いい子だ、亜依」
男が笑う。醜悪な笑みだ。
そのとき――
- 225 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:10
-
「――あ!?」
加護の体が見えない力によって背後に引き戻された。
「ごっちん!?」
飯田が振り返ると、入り口の柱にもたれてうずくまりながら、
後藤が歯を食いしばり、青ざめた顔で必死に加護を凝視している。
執念さえ感じる集中力だ。
「亜依、やっぱり私を裏切る気だな!?」
飯田の元から動こうとしない加護に男が忌々しげに叫ぶ。
「ちが……違う、お父さん!放して、真希ちゃん!お願いやから!」
加護が悲鳴に近い声で懇願しても、後藤は能力を解かない。
必死だ。これで倒れても悔いはないくらい集中している。
彼女の頑張りを無駄にしてはならない。飯田は視線を穴の方に戻した。
- 226 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:10
-
「これが最後の忠告よ、そこをどきなさい」
「う……うるさい!」
男は絶対に聞き入れないつもりなのか、その場に座り込んでしまった。
飯田は仕方ないとばかりに目を伏せ、小さくため息をつく。
そうして一切の迷いを捨てると、おもむろに合掌した。
「我、ホノリ神に願いたてまつる。とく来たり石室の扉閉じたまえ…
大地厄災!!」
まもなく地の底から不気味な轟音が響いてきたかと思うと、
四人の眼前で穴の周囲の岩壁に亀裂が走った。
「な……!?」
その瞬間、大音響と共に岩壁が崩壊し、破片が礫となって周囲に散る。
それは最も近くにいた男に容赦なく襲い掛かった。
- 227 名前:第四章 親子 投稿日:2004/08/15(日) 23:11
-
「お父さん!」
「烈風!!」
風が男の体をさらい、外へ放り出す。
そのとき、岩壁に接していた屋根の梁が嫌な音を立てる。
「外へ出て!」
気づいて飯田が叫び、後藤に駆け寄る。
ワケが分からないまま加護はその指示に従いとにかく外へ飛び出す。
そのころにははっきりと天井にも亀裂が走り、岩壁に近いところから崩れ始めていた。
そして、飯田が自分の体で後藤をかばうようにして外に転がり出たと同時に、
社殿は悪夢の終焉を告げるように一気に崩壊した。
- 228 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:07
-
終章
- 229 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:09
-
「…彼女はのちに天照大神とされた大日霎貴尊のことである。
「霎」は靈と女が重なった文字で一字で霊の巫女であることを示している。
彼女は日霊女であって真の天照太神ではなかった。
では、この日霊女が使えていた太陽神というのは何者であろうか。
巫女というからには、遣える相手は男神である。陰陽道の立場から見ても
太陽は『陽のもの』であるから、太陽神は本来男神でなくてはならない
(中略)
結論からいえば、この本来の太陽神は高皇産霊尊であったと考える。
言うまでもなく、高皇産霊尊命というのは天地のはじめに出現した神であり、
造化三神(ぞうかのさんしん)の一神であり古来、天皇家の最大の儀式である
新嘗祭や大嘗祭の祭主とされた神である……」
- 230 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:10
-
矢口真里は、その論文を読み終えるとパサッとテーブルに放り投げる。
そして
「結局…これって正しかったの?」
目の前に座って新聞に目を通している飯田圭織に聞いた。
新聞に目を通していた飯田がゆっくりと顔を上げる。
「天照が元は男神で、遣えていた巫女が昇格して女神としての天照が誕生したって辺りは、
ありえないとも言い切れないし、その辺の展開は新説としてはありなんじゃない?」
「まぁ、確かにね。その男神としての天照に高皇産霊尊命を挙げる理由も論として納得できるけどさ、
それほど奇抜でもないし。でも、他にもイザナギ・イザナミの最初の子、ヒルコや
ニギハヤヒに求めたりする説もあるから、どれが正しいとかって断言できる代物じゃないじゃん。
高皇産霊尊命って意味もなく断言してるあたりから胡散臭いよね」
そこで一旦言葉を切り、矢口は飯田を見る。飯田は頷く。
- 231 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:11
-
「そうね。ただ、本当に高皇産霊尊命の眠る祠があったから、
あの人がどこまで確信をもってそんなことを言い出したのかは気になるよね。
はじめっから確かな証拠を握っていたくせにあえて隠していただけなのか、
それとも単に山勘が当たっただけなのか……彼は神道者だったから、
その頃にそういった情報を得ていたんだとすると、
学会に認められなかった自説に固執するあまりタガが外れて
あんな切羽詰った状況に自身を追い込んでしまったのも、同情の余地はないけど
動機としては仕方なかったのかも」
「けど、そんなつまんない意地のために娘まで巻き込むもんかなぁ」
矢口は視線をチラリと動かす。
廊下の奥。後藤真希の部屋がある場所へ。
- 232 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:12
-
「証明の仕方を間違えたんだよ。
発見した時点で新聞発表なりなんなりして学術調査に委ねれば良かったのに、
何を間違ったのか高皇産霊尊命の復活なんか企んで
新興宗教まがいの活動を行ったりするからあんなに話がおかしくなった」
そもそも加護が神を呼ぶ能力など持っていたのが転落の始まりだったのかもしれない。
加護は学界に認められず、日々鬱々としていた父の姿をずっと見て育ったはずだ。
その父の役に立ちたくて、幼いなりに色々考えたのだろう。
結果、元神職者の父はそんな大それた愚かな計画を思いついてしまったのかもしれない。
だからといって、その罪を加護に問うのはナンセンスだ。
彼女が悪いのではない。彼女の能力と献身を利用して誤った道に進んだのは、
あくまでも父親の方だ。罪はやはり彼にある。
- 233 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:12
-
「……ごっつぁんは大丈夫そう?」
不意に真里が声のトーンを落とした。
後藤の部屋は奥にあるとはいえ、おそらく今までの二人のやり取りは聞こえているだろう。
「大丈夫だよ、あの子と約束してるみたいだから」
飯田は、微笑みと共に頷いた。
- 234 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:15
-
※
あの後、崩壊した社殿や夥しい血と死体に埋もれる庭をそのままにして去るわけにいかず、
飯田はまとめて葬送の火を焚き、燃してやった。
この計らいに加護は頭を下げ、自分と父の処遇は飯田に一任する旨を告げた。
既に父親の方は正気を逸しており、ぼんやりと虚空を見つめるばかりで
話にもならない状態だった。そのため、罪は全部自分が償うからと加護が言いだし、
それがまた後藤の癪に障って口論にもなった。
ただなんにせよ彼らをこのまま一般警察の手に委ねられるはずがなかった。
これは、あまりにも普通から掛け離れている事件だ。
そう判断した飯田は禍津の血を引くものとして公安に協力を仰いだ。
結果、父親の方は、ある病棟にて一生隔離監視下に置かれることとなった。
そして、加護のほうは公安が探しだした彼女の母方の祖父母の下へ預けられることになったのだ。
事件そのものは今まで飯田が扱ってきた事件と同じく極秘裏に処理されることになるのだろう。
- 235 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:15
-
「絶対に迎えに行くから」
後藤は迎えに来た黒い車に乗りかけた加護にそう声をかけた。
加護は、半瞬ポカンとした顔になりややあって、嬉しそうに小さく頷いた。
ドアが閉められる。車がゆっくりと走り出す。
加護は、二人の方を一度も振り返らなかった。
「どこの父親も一緒なのかな」
遠ざかる車の砂煙を見送りながら後藤が呟いた。
あまりにも小さな呟きだったため飯田は思わず「え?」と聞き返した。
- 236 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:16
-
後藤は薄く笑い
「子供が慕ってるのいいことにさ、こき使うだけ使って都合が悪くなったら
お前が悪いって子供のせいにしてさ。愛してほしいって思う方が間違ってんのかな?
だとしたら、報われないよね。人間自体がもうとことん腐ってんのかなぁ」
「ごっちん……」
飯田はかけるべき言葉を見つけられなかった。
なにをいっても詭弁にしかならないような気がした。
飯田が黙っていると後藤が溜息とともに歩き出す。
- 237 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:16
-
「そういえばさ…カオリ、言ってたじゃん」
「なに?」
「いずれ専門の研究所作るって。そしたら、あたし、加護迎えに行っていいよね」
後藤は立ち止まって飯田を振り返った。その目は真剣だ。
飯田は、頷く。
「…勿論」
飯田の答えに後藤は満足そうに笑った。
それは、ようやくみせた晴れ間と同じように明るい笑顔だった。
- 238 名前:愛乞人 投稿日:2004/08/16(月) 23:16
-
終
- 239 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/16(月) 23:18
- ボツ理由
日本神話?とかそういうの分からないのに調べてないし適当だし
- 240 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/17(火) 23:12
-
- 241 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/17(火) 23:12
-
薄暗い倉庫の中、少女の悲鳴が響き渡る。
いや、最早そこで響いているのは少女の声だけではなかった。
確かに先ほどまでは彼女だけがその悲痛な音を奏でていたのだが、
ソレが現れてからは、先ほどまで少女に恐怖を与えていた少年たちも同じように
恐怖に引き攣った叫びを上げはじめていた。
ソレは薄暗い倉庫を真昼のような明るさで照らし出し、中の様子をはっきりと浮かび上がらせる。
しかし、これほどまでに明るい光を眼前にしても
少女にはどういうわけかソレが眩しいものだとは感じられなかった。
- 242 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/17(火) 23:13
-
少女は、もう悲鳴をあげることをやめていた。
ただ強張った表情でソレを見つめる。おかしい。おかしかった。
自分以外の者はあまりの眩さにソレを直視できないらしく、
手で眼を覆い隠しているというのに、どうして自分だけ平気なんだろう。
少女にははっきりと彼らが見えた。
ソレに照らし出された彼らの顔は皆一様に恐怖に歪んでいた。
ソレがゆっくりと動き出す。
少女が見守る中、ソレはまず彼女にのしかかっていた少年に牙を剥いた。
ソレと少年の体が重なる。かと思った瞬間、少年の体は黒い煙を立てて消えてしまった。
少女は目を見張る。
- 243 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/17(火) 23:14
-
「…めて」
震える声が少女の口から零れる。
しかし、ソレは少女の言葉など意に介さず、続けて彼女の手を押さえつけていた少年に襲い掛かった。
「やめてーっ!!」
叫びと、じゅっという音と、肉の焦げる匂い。
少女はより一層大きな声をあげながら意識を失った。
- 244 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/21(土) 22:55
-
- 245 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/21(土) 23:00
-
1
どういう人間にも一日の内どこかに落ち着いた時間と言うものは存在している。
布団の中で眠っている彼女、藤本美貴にとっては夢の中にいる今その時がそれであっただろう。
しかし、往々にしてそういった至福の時は長続きしないものでもある。
- 246 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/21(土) 23:01
-
静寂に包まれていた部屋の中に無粋な電子音が鳴り響いた。
その音に僅かながら目を開けた藤本は一瞬何事かと音源の方を見やる。
だが、その正体が分かると彼女はその音に抵抗を示し、
頭まで布団をかぶって再び眠りにつこうとした。
そんな彼女を嘲笑うかのようにその電子音はゆっくりと、そして確実にその音量を上げていく。
「ああ、もう……」
布団の中からくぐもったそんな声が漏れた。
同時に布団の脇から手が伸び出て、音源と思わしき場所でしばらくばたつく。
数秒後にその手は時計の位置を探ることに成功するが、
ぎりぎりでその音を止めるスイッチに手が届かない。
藤本は、布団の中から精一杯に手を伸ばしてみる。
既に上半身はベッドからはみ出しており危なっかしいことこの上ない体勢だ。
それでも構わずさらに手を伸ばす。
そして、その手がようやくスイッチに届いた瞬間、
気が抜けたためか藤本は派手な音を立ててベッドの脇の床と仲良くキスをする羽目となった。
- 247 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/21(土) 23:02
-
「……ったぁ」
あまりの痛みにしばらくうつ伏せで大の字になっていた藤本だが、
ベッド脇の机から彼女と仲良く落下していた目覚し時計が耳元でその存在を誇示しつづけていたので、
のそのそと体を起こしようやく目覚ましを止めた。
所定の位置に目覚ましを置き直し、藤本はカーテンを一気に開く。
既に日は高くなっており気持ちいいほどの太陽光が一瞬にして部屋の中に差し込んでくる。
藤本はその光を浴びながら、先ほど自らの責務を果たした目覚まし時計に視線をやった。
時計の針は11を指している。
仕事を済ませて眠りについたのが深夜の二時過ぎ。十分すぎるほど寝ていたようだ。
もう一度眠りにつくのはやめ、藤本は顔を洗うために洗面所へと向かった。
- 248 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/21(土) 23:03
-
朝食兼昼食を済ませ、テレビを見ながら食後のコーヒーを楽しむ。
一人で暮らすには広い部屋の中は心なし埃っぽく感じられた。
それもそのはずで、藤本がこの部屋に入るのは実に二ヶ月ぶりのこと。
その間、この部屋に入る人間は誰一人としていなかったのである。
掃除しなきゃな――藤本はそんなことを思いながらテーブルの上の食器類を手に重い腰をあげた。
丁度その時、玄関の方からインターホンの音が聞こえてきた。
「はいはい」
軽く呟きながら、来訪者を出迎えるために藤本は玄関へと向かい、
しかしながら、玄関の扉を開けた瞬間、死ぬほど後悔した。
目の前に立っているのは派手なサテンのスカジャンを羽織り髪を明るめの金髪に染めた女。
こう見えて藤本の上司である。
そう身長があるわけでもない藤本よりもさらに10cmほど低い彼女は、
藤本が今最も会いたくない人物でもあった。
- 249 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/21(土) 23:04
-
「えっと、どなたでしたっけ?」
藤本は、あらぬ方向に視線をやりながらとぼけた風に言ってみる。
ちなみに笑顔を作ってはいるが、かなり無理をしているため顔がひくついていた。
「キャハハ、冗談がうまいなぁ、藤本」
目の前の女性は甲高い声で笑い藤本の肩を叩く。
しかし、その目の奥が笑っていないのは気のせいではないだろう。
「…どうぞ」
その笑顔に気圧され、渋々扉を大きく開くと藤本はその女を部屋の中へといれた。
- 250 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:37
-
※
一般には公にされていないが、刑事局の協力を得てつくられた犯罪捜査研究所がある。
所長は飯田圭織。彼女は、古来から国内で有事の際に駆りだされていた禍津の血を引く者で
その年齢に関係なく国家から信頼されている能力者だ。
研究所が取り扱う事件は、簡単に言えばあまりにも異常すぎて刑事局の手には負えないもの、
もしくは、一般常識から大きく離れてすぎていて――たとえば妖怪退治だとかである―一対処できないものである。
勤務している人間は――仕事の内容上仕方のないことだが――数えるほどしかいない。
ちなみに、常時研究所にいる人間はというと藤本を入れて三人だ。
そういうわけで、事件の内容によっては全国各地の勇士を募ることになっている。
要するに特殊な力を持った者たちに協力を求めるわけだ。
藤本も元々はそういった臨時要員だったのだが――今、彼女の目の前にいるこの上司――
矢口真里に誘われて正式に所属することになった。
矢口は、この研究所の副所長をしている。副所長とはいえ、所長の飯田圭織は滅多に日本にいることがないので、
実質、彼女が研究所を仕切っているといえよう。
- 251 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:39
-
矢口をリビングまですすめコーヒーを出したところで藤本は用件を切り出した。
「で、今日は何の用なんですか?」
問いながら、矢口の対面に座る。
「まぁ、急かさずにこれみてよ」
矢口がバックの中から一本のビデオテープを取り出す。
藤本は訝しく思いながらそれを受け取るとテレビの電源を入れビデオデッキに差し込んだ。
最初に画面に映ったのはただのノイズ。次いで映像が映る。
画面に映し出されたのは、一人の少女とそれに迫る三人の少年。
場所は何処なのか定かではない。
かろうじて差し込んでくる薄明りから、そこに映し出されてる人影の姿がようやく捉えられるという程度である。
藤本は、それを見た途端に顔をしかめた。
少女の顔には明らかな怯えが浮かんでおり、場所的にもこれから起こるであろう事が容易に想像できたからだ。
- 252 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:41
-
「矢口さん、これって……」
藤本は一度矢口のほうに険しい顔を向けたが、彼女が自らの視線を受けてもテレビから視線を外さず
黙ったままでいるため、仕方なしにビデオの映像に目を戻した。
ビデオの中で事態は急変していた。
二人の少年に腕を押さえられた少女の衣服をもう一人の少年が乱暴に破り去り覆い被さった。
その時――少女の全身が急に赤く光りだしたのである。
光に照らされた少年たちは、一瞬何が起こったのか分からないという表情をしており、
口々に戸惑いの声をあげていた。そんな少年たちの様子にお構いなしに変化は続く。
少女を取り巻く光は次第に彼女の右手に収束していき、さらにその輝きを増していく。
そして、爆発的に光が広がったかと思うと、直後、カメラは何も写さなくなった。
- 253 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:42
-
「なるほど……」
取り出したビデオを矢口に渡しながら、納得したように藤本は小さく呟いた。
「これを調査しろってことですね」
「正解。って言いたいんだけどちょっと違う」
すっかり冷めてまずくなったコーヒーを一口だけすすって矢口がそう返す。
「とりあえず最初から話すよ。事の発端は朝野高校ってところで起きた火事」
矢口の口ぶりから話が長くなりそうだと悟った藤本は、
コーヒーを新たに淹れ直して、また彼女の向かいに座りなおした。
- 254 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:43
-
「まあ、火事っていっても、燃えたのはすでに使われてない体育倉庫だったから、
学校自体には大した被害でも無かったんだけどね。そんで、ここからが本題なんだけど。
火事だと普通は消防の仕事になるはずでしょ?それが今回はいきなりウチに話が回ってきた」
「つまり、火事自体が普通じゃなかったってことですよね」
「そういうこと。人気がない夜とはいえ、全焼するのはおかしいし、
その焼け跡からは無傷の女の子が保護されたんだから、ますます話はおかしくなるわけ」
そこまで話すと矢口は少し間を置くためにコーヒーを一口だけすすった。
藤本の言葉を待っているようだった。
「…まぁ、それが異常だってことぐらい猿にだってわかりますね」
「でしょ。それで、警察はその女の子に詳しい話を聞こうとしたんだけど、
怯えるばかりでどうにも埒があかない。なにか手がかりがないか現場を調べてみたら
そのテープが残ってたってわけ」
- 255 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:45
-
「テープだけ?カメラは?」
「残念ながらカメラは焼け残りさえ見つからなかったらしいよ」
「なるほどねえ……」
一度だけ唸ると藤本は考え込んだ。
説明を受けてもなお、藤本はなぜ自分の所へ矢口がやってきたのかいまだに分らないでいた。
その夜、少女に何が起こったのかはテープによっておおよそ想像出来るので、
事件を改めて調査する必要はないのである。藤本は、その疑問をそのまま口にした。
「だったら、事件は解決してるわけだしこっちに話がまわってくる必要ないんじゃ」
「話は最後まで聞くもんだよ」
優しく嗜めるように言うと、矢口が先を続ける。
- 256 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:46
-
「藤本の言うとおり、大体のあらましは分かってんの、警察にもね。
でも、あくまでもそれは予想でしかない」
「…その子に確認取りたいってことですか?」
「半分正解。彼女に確認を取りたいのもあるけど、
彼女がもう一度同じことを繰り返さないようにしなくちゃいけないんだよ。
どう見ても能力者でしょ。そこで、彼女の力の特定及びその力の封印って仕事を協力してもらいたいんだ」
矢口が協力と言う言葉を出した途端、藤本の顔は曇り、
そしてそれを隠すかのように彼女は俯いた。
今回は警察からの協力要請。協力要請には依頼料が払われない。
かといって、断れば依頼人付きの報酬のいい仕事はこなくなる。
依頼人にここを紹介しているのが警察機構だからだ。
世の中持ちつ持たれつ上手くできている。
- 257 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/22(日) 22:47
-
「ま、それは表向きの理由でね」
続けて放たれた矢口の言葉に藤本は訝しげに顔を上げる。
「あとは個人的に彼女を助けたい。
藤本の手でね、助けてあげて欲しいんだ」
「美貴の手で?なんでですか?」
「理由は……行けばわかるよ」
そう言った矢口の眼にはなにか思惑を秘めたような色が浮かんでいた。
- 258 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/23(月) 22:56
-
2
乾いた音が病院の廊下に響き渡る。その音を発生させているのは二人の少女だ。
一人は、金髪のスカジャンで颯爽と廊下を歩いているのだが、
パーカーにジーンズというラフな格好のもう一人は、てれてれとだらしない足取りで後ろをついていっている。
矢口真里と藤本美貴である。矢口の方は何度かここに来ているためか、
すれ違う幾人かの看護婦に挨拶をしているが、藤本はといえば
この病院の雰囲気を全く気にしていないのか、緊張感のない顔つきで窓から見える景色に視線を移していた。
病院内を幾分か歩いていくうちに、看護婦の姿も見えなくなり静かな病棟にたどり着く。
病院の奥、普通の患者が収容されないような――特にここは警察病院でもあるので―
一室の前で矢口が歩みを止めた。
- 259 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/23(月) 22:57
-
「ここがその子の部屋?」
矢口の少し後方を歩いていた藤本は立ち止まった彼女に声をかけた。
そのまま視線を患者のネームプレートに移す。
「……松浦亜弥、か」
「ちょっとここで待ってて。様子見てくるから」
矢口は、藤本を部屋の前で待たせると病室の中に入っていった。
矢口から受けた説明によると、少女に外傷等は全くと言っていいほどなく、
本来ならこうして入院する必要はないらしい。ただ、精神的な傷が大きく、
極一部の人間を除いて誰とも会いたがらないということだった。
両親にさえ面会が出来ないほどひどいらしい。
そんな状態なら自分とも会わないのではないだろうか?
藤本は思いながら、半開きになっている扉から病室をこっそり覗いてみた。
すると、たまたま視線をこちらに向けていたらしい少女と完璧に目が合ってしまった。
その瞬間、少女が矢口の手を掴み、身を強張らせたのがこの場所からでもはっきりと分かった。
ただ目があっただけであの反応。相当、重症なようだ。
- 260 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/23(月) 22:58
-
「……松浦?」
ちょうど背面に扉が位置するように座っているため、
矢口にはその少女、松浦亜弥の変化の理由が分からないようだった。
突然、変わった彼女の態度に戸惑っている。
藤本は気にせず、そのまま松浦を見つづけた。
「ね。どうかした?なんか嫌なことでも思い出した?」
どうにか松浦を落ち着かせようとして話し掛ける矢口の態度は、
嘗て藤本に対して見せたものと同じであった。
それで、なんとなく矢口がどうして自分にあの少女を任せようと考えたのか分かった気がした。
本当にお節介な人だ。藤本は嘆息して、松浦から見えない場所に移動すると、そのまま壁に寄りかかる。
しばらく待っていると、難しい顔で矢口が病室から出てきた。
「…あのさ、今日はちょっと話するの無理かもしんない」
矢口は藤本の前に来るなり小声で告げた。
藤本はチラリと矢口を見やり、それから再び病室内を窺おうとドアに手を掛けた。
- 261 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/23(月) 22:59
-
「ちょっと、藤本待てって」
慌てたように矢口が藤本の腕を掴む。それも厭わずに藤本はドアを開けた。
突如、開かれたドアに松浦の目が見開かれる。
その瞳は、見る見るうちに怯えの色に染まっていく。
それを見て藤本は彼女から視線を外し矢口に向かって口を開いた。
「あの…美貴と彼女、二人っきりにさせてもらえませんか?」
「は?今言ったじゃん、今日は……」
いきなりの提案に一旦は否定しようとした矢口だったが、
藤本の目がいつになく真剣だったため言葉がそこで止まってしまった。
「お願いします」
追い討ちをかけるように頭を下げた藤本に逆らえるはずがなく、
矢口は不安げに自分を見つめている松浦に小さく「大丈夫だからね」と声をかけた。
- 262 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:22
-
※
「やあぁぁ。こないで!!」
矢口がいなくなったことでいっそう怯えた松浦は、藤本が近づくのを感じて鋭い牽制の声をあげた。
その声に藤本は一瞬怯む。だが、歩みを止めず先ほど矢口がいた場所――
彼女のすぐ隣――まで行くとようやく足を止めた。その時には、松浦の叫び声もやんでいた。
しかし、それは落ち着いたからとかそういった類のものではなく、
恐怖のためにもう声すら出なくなったからのようだった。
「亜弥ちゃん……だよね?ちょっと、いいかな?」
返事はない。聞こえてくるのは、震える歯が重なって出来る音と
時折唇からもれる「助けて」や「ごめんなさい」といった小さな言葉だけだった。
- 263 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:24
-
松浦のその反応に眉根を寄せた藤本だったが、根気よく何度も話しかけてみた。
しかし、いくら繰り返しても彼女の反応は変わらず、ただ悪戯に時が流れていく。
藤本は、松浦の手に軽く自分の手を添えてみる。
先ほど矢口が彼女に話し掛ける時にしていたように。
藤本自身も経験があるが、他人に触れられるという行為は、
時に信頼や安堵を生み出してくれる。今おかれているこの状況には適切な行為だろう。
藤本のその行動に対して、松浦は一度だけ大きく震えたが
特に振り払ったりといった拒絶の意を示しはしなかった。
ただ彼女の手は、極度の緊張を表すかのように小刻みに震えており
今一度声をかけるのは躊躇われた。
藤本は、根気よく松浦が落ち着くのを黙って待つことにした。
そのままの姿勢で緩やかに時が流れていく。
- 264 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:25
-
「…少し話できるかな」
松浦の手の震えが収まってきたところで藤本は改めて質問を開始した。
今度は一瞬びくっとなっただけで――会話をする心積もりが出来ていたようだ――彼女は小さく頷く。
藤本は少し安堵の笑みを洩らす。
「そう。よかった。えっと、うちは藤本美貴っていいます。
少し君と話したくて来たんだ。別に危害とか加えるつもりはないから、
落ち着いて美貴の話を聞いてほしい」
一言口にするたびに松浦の反応を窺いながら藤本はゆっくりと会話を始めた。
「これから美貴が少し質問するけど、それに「はい」か「いいえ」でいいから答えてくれる?」
言ってから松浦を伺い見る。
松浦は、再び頷いた。
- 265 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:27
-
「よし。じゃぁ、まずは…亜弥ちゃんはあの日のことを覚えてるかな?」
松浦がこくんと頷く。
「そっか。なら、あそこで何があったか美貴に説明できる?」
次の質問には首を振る。
「そう…じゃ、何があったか知りたい?」
今度の質問には何の反応も示さない。
再び震え始めた松浦に藤本は眉を寄せる。しかし、言葉を続けた。
「……これから美貴が話すことは亜弥ちゃんにとっては酷なことかもしれない。
でも、ちゃんと聞いててほしいんだ。おそらく、あの日に起こったことだから」
そう言うと、藤本はいまだに視線を合わそうとしない松浦の横顔を見つめたまま話始めた。
- 266 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:28
-
「まず美貴があの日のことを知ったのは矢口さんがビデオを持ってきたから。
そのビデオには亜弥ちゃんと数人の男が映ってた。おそらく、あの学校の生徒じゃないかと思ってる」
そう言って松浦の表情を見てみる。そこから見える感情は恐怖のみである。
おそらく彼女の中でその時の情景が浮かび上がっているのだろう。
本当に酷な事をしていると思いながらも、
彼女が全てを知らなければ次のステップには進めないのだと自身に言い聞かせ、藤本は言葉を続ける。
「…その男たちは亜弥ちゃんに襲い掛かり始めた。でも、次の瞬間あることが起こったんだ。
ビデオにはほんの一瞬だけしか映っていないけど、亜弥ちゃんの体から紅い光が飛び出した。
そして、その光が……」
「違う!」
藤本の言葉を遮るように松浦が荒い声を上げた。
- 267 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:29
-
ぶんぶんと首を振りながら
「違う!あれは私がしたんじゃない。私はそんなことしてない!!」
「いや、あれは亜弥ちゃんがしたことなんだよ。
たしかに君の意思でしたワケじゃないだろうけど。
亜弥ちゃんがあの状況から逃れたいと思ったために起こったことなんだ」
癇癪をおこした子供のように違うと叫びつづける松浦に対抗して藤本も声を荒げた。
「知らない。あたしはそんなことしてない。なんで?なんで私を苛めるの?もうやめてよ!!」
「いい?亜弥ちゃんは、その事実から逃げちゃいけないんだよ。
なかったことにするのは簡単だけど、それじゃ何の解決にもならない。
また同じことを繰り返したいの?」
すでに松浦には藤本の声が届いていないのだろう。
ただ、体全体で藤本の言葉を否定し彼女は泣き叫びつづけた。
- 268 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:29
-
その声は病室の外まで届いたらしい。
何事かと矢口がドアの隙間から様子を覗きに来るが、
藤本は彼女に手で入ってくるなと示し松浦との話を続けた。
「本当は、あの日何が起こったのか自分でも分かってるんでしょ。
君は誰かに自分を止めて欲しくて無意識にあのテープだけ残したんだ。
だから、美貴が来た。君を助けるために。逃げないでよ」
耳を押さえて音を遮断しようとする松浦の腕を
藤本は力づくでベッドに押し付けて止める。
何が起こっているのか分からない矢口は、ただ入り口で二人のやり取りを呆然と眺めているだけだった。
そんな矢口の視線を一切無視しながら、藤本は手により一掃の力をこめる。
そうして、彼女の耳元に顔を寄せはっきりと次の一言を発した。
- 269 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:30
-
「逃げんな」
それは先ほどまでの声と比べると恐ろしく冷静で、ぞっとするほど冷たいものであった。
しかし、その言葉のおかげか、ただ松浦の興奮が冷めたのか、
彼女は幾分か正気を取り戻したようでもあった。怯えた目でこちらを見つめてくる。
藤本は、掴んでいた腕を離して体勢を元に戻すと
「いい?一度だけしか聞かない。亜弥ちゃんは助けを求めてる。そうでしょ?」
うってかわって優しい声色で松浦に尋ねた。
彼女はそれに対して泣きだしそうな顔で小さく頷く。
- 270 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/24(火) 22:31
-
「そうだよね。だから、美貴は亜弥ちゃんを助けに来たんだよ。
美貴を信じてくれないかな?」
松浦が俯いて黙ってしまったのを見て藤本は頭をかく。
「ゆっくり考えていいからね」
そう言って、ぽんと、松浦の肩を叩くと、
藤本は部屋の入り口でこちらの様子を黙って見守っていてくれた矢口の傍らまで行き
小さな声で話し掛けた。
「ってことになったんで、あとは彼女の答え次第。それまで美貴は外で待ってますよ」
「わかった」
藤本と入れ替わりに矢口が松浦の部屋に入る。
少し離れた所にあるベンチに腰掛けて藤本は
「自分みたいでしんどいよ、矢口さん」そうぼやくと疲れた溜息を洩らした。
- 271 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:14
-
3
数分後、部屋の中からは邪魔な器材が取り出された。
そして、今病室の中に残っているのは椅子が一つだけ。
腰掛けているのは松浦である。対面には、松浦を見下ろすような形で立っている藤本と矢口。
部屋の中にはその三人以外の人影はない。
「じゃ、簡単にこれからすることの説明をするね。やることは単純だから、
説明ってほどのもんじゃないんだけど……」
そう切り出すと藤本は一歩下がり、松浦に対して講義を始めるかのように話し始めた。
「まず、亜弥ちゃんの中にある力を具現化させて実体化させる。
それを直接叩いて弱らせたあとに封じるって方法。
これだと、亜弥ちゃんにあまり負担をかけずに安全に力を封印することができるんだ」
- 272 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:15
-
「……わかりました」
その説明に対して松浦が小さく了承の意思を示す。
だが、藤本がどういうことをしようとしているのかが十分に分かっている矢口は
松浦に聞こえないぐらいの小さな声で「大丈夫なの?」と聞いてきた。
藤本はそれに対し微笑みを返すと
「じゃあ、始めるので…えっと、矢口さんは部屋の四隅にこれを貼って、
貼り終わったら部屋から出てってください。亜弥ちゃんは右腕出して」
矢口は渡された札を言われた通り部屋の四隅、ちょうど目線の高さに貼る。
それが終わると彼女は一度だけ中の二人に視線を送り部屋を後にした。
松浦も矢口と同様、藤本の言葉に素直に従って、
パジャマの右腕部分の裾を捲くりその肌を露にする。
- 273 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:16
-
「少しくすぐったいけど我慢してね」
そう声をかけて、藤本は鞄から取り出した筆ペンで松浦の腕に文字ならぬ文字を書いていった。
くすぐったかったのかそれとも別の理由からか、松浦は一度、腕をわずかに震わす。
だが、その後は藤本が書いている文字をしげしげと興味深げに見つめていた。
「ああ、これね、梵字っていうんだよ。元々は仏教方面で残ってたんだけど、
それをアレンジしたやつなの。何かと使い勝手がいいんだ」
松浦の視線に気づいた藤本は、手を休めることなく簡単な説明を加えた。
- 274 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:19
-
「……筆ペンで書いて効果あるんですか?」
しばらく戸惑っていたような松浦だったが、
好奇心には勝てなかったのかポツリとそう聞いてきた。
藤本はその言葉に驚いて手を止めると、この作業に入ってから初めて顔を上げ松浦と視線を合わせる。
「初めて亜弥ちゃんから喋りかけてくれたね。なんか嬉しい」
そのまま、にっこりと笑う。
それに対して気恥ずかしくなったのか松浦は真っ赤になって俯いてしまった。
「あれ?美貴、なんかまずいこと言った?」
せっかく、彼女から話しかけてくれたというのに――
俯いてしまった松浦に藤本は慌てた。
「…えっと、そうそう筆ペン使って大丈夫かて質問だったよね。
この筆ペンの中の墨が特別製なんだ。だから大丈夫。筆ペンだと携帯も楽だしさ。
ほら、さすがに毎回毎回習字道具もってうろつくわけにいかないじゃん」
再び作業を始めながら藤本は冗談交じりに軽く説明をつけた。
- 275 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:22
-
「さてと。それじゃ、始めるけど……」
全ての下準備を終えると、藤本は懐から札を二枚取り出し、
そのうちの一枚を文字で真っ黒になった松浦の腕に巻きつけるようにして
貼りながらそう声をかける。松浦がビクッと顔を上げた。
「あんまり緊張しなくていいからね」
強張った表情の松浦に藤本は安堵させるために微笑を投げる。
その言葉に松浦は頷き、目を瞑ると小さく深呼吸をするように息を吐き出した。
もう一度、松浦の様子を確認してから藤本は残りの一枚の札に自らの念をこめはじめた。
その念に呼応するかのように松浦の腕に貼られた札が輝きを始める。
藤本が、念を強めていくに従いその輝きは増し、
そして周囲の文字も触発されたかのように輝いていく。
文字の輝きが増すのに比例して、部屋の中の空気にも熱がこもり始める。
- 276 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:24
-
「う……くっ……」
部屋の温度が上昇するにつれ、松浦の口から苦しそうな呻き声があがりはじめる。
先ほどあえて説明を避けたのだが、
力を具現化させるというのは術者本人にある程度の負荷をかけなかればならないのだ。
つまり、負荷は藤本の手によって今松浦にふりかかっている状態だ。
「うう……うああああああぁぁぁぁぁ……」
その負荷が極限まで達した時、無意識だろう、
松浦は大きな叫び声をあげそれから逃れようとした。
その声が、きっかけとなったのか藤本の持っていた札と
松浦の腕に貼っていた二枚の札が炎を上げて、一瞬のうちに燃え尽きた。
- 277 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/25(水) 23:27
-
「やっぱり炎蛇か……」
顔を上げた藤本が目にしたのは、意識を失い椅子から落ちてしまった松浦と
彼女を守るかの如く、その体に巻きついている猛々しい一匹の蛇であった。
この世界では炎蛇と呼ばれるものだ。
炎を操る術者というのは少なくはない。そうした術者たちは、力を制御しやすいよう、
いろいろな形としてその力を具現化させる術を身につけている。
この炎蛇もそうしたうちの一つだ。
ただし、その中でもこの炎蛇というのは特別で、
術者に制御されていない状態の場合、まるでそれ自身に意思があるかのような動きをすることが多々ある。
おそらく、松浦の場合もそれに当てはまるのだろう。
松浦の体から飛び出してきた炎蛇は藤本を威嚇するようにゆらゆらと揺れている。
無意識下の防衛本能で呼び出されたソレは、
こちらが何も仕掛けなければおとなしいのかもしれない。
だが、今の今まで松浦に負荷をかけていた藤本をソレが敵と認めるのは当然であった。
- 278 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 22:48
-
「さーてっと、おとなしく封印されてくれると嬉しいんだけどなぁ」
目の前で怒りに燃えているかのように爛々と輝く炎蛇を見ながら
そう嘯く藤本だが、その頭の中では不吉な考えが過ぎっていた。
最悪の場合、ビデオに写っていた少年たちのように
死体すら残らない事態になるかも知れないということだ。それだけは勘弁してほしい。
「ま、なるようにしかならないってね」
浮かんできた考えを振り払うように呟くと、
藤本は懐から取り出した小刀を眼前に構え、流れるような滑らかさで宙に複雑な文様を描いていく。
それによって力が宿ってきた小刀は徐々に輝き始め、やがて長刀へと姿を変えた。
- 279 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 22:51
-
「水撃礫!!」
落ち着いた声色で藤本が言い放つのと同時に
手の中に収まっていた長刀から高水圧の水の固まりが炎蛇に向かって放たれる。
それはそのまま大量の蒸気となって炎蛇の周囲を煙幕のように包み込んだ。
多少は効いてくれてるといいんだけど――そう願いながら、じっくりと真正面を見据え、
立ち込める蒸気の奥の獲物の様子を藤本は観察する。
しかし、願いも虚しく、藤本の視界に映ったのは、
蒸気のために霞んではっきりとしない炎蛇の輪郭から
拳大ほどの球状のものが周囲に吐き出される様子だった。
その球状のものは蒸気の壁を突き破るようにして、一斉にこちらに襲い掛かってくる。
- 280 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 22:52
-
「くっ」
予想だにしなかった反撃を藤本はすんでのところで交わす。
しかし、次々と途切れることなく襲いくる火球全てを交わすことは出来なかった。
そのうちの一つが脇腹を掠る。
「ぁつっ!!」
脇腹から昇ってくる臭気と痛みに顔を顰めながらも藤本は、
さらに襲い掛かってくる火球を水剣で防ぎながら何とか次の攻撃を試みようと長刀を構える。
しかし、炎蛇の攻撃により新たに念を込めるのもままならない状況であった。
「…くそ」
横飛びで火球を避けたその時、藤本は視界の端で、
蒸気の向こう、炎蛇の背後に倒れている松浦の姿を捕らえた。
捕らえるなり、藤本の顔に翳りが浮かぶ。
- 281 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 22:57
-
視線の先にある松浦の姿は、もう負荷をかけていないというのに
いまだに苦しそうに呻いており、はっきりとは見えないが顔色もあまりよくなかった。
理由ははっきりしている。
術者が気絶している場合のこれは一言で言い表すなら暴走である。
それは、さきほど藤本がかけていたよりもなおの負荷を彼女に及ぼしていることに他ならない。
この状態を長く続かせるということは命にも関わってくるだろう。
さっさと片付けないと――
そうは思うものの、炎蛇の容赦のない攻撃に反撃はおろか
自分の身を守ることさえ怪しくなってきていた。
- 282 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 23:00
-
「・・・っ!!」
背中に壁が当たる。気ばかりが焦っているうちに、
いつのまにか藤本は部屋の隅まで追い詰められてしまっていた。
まるで勝利を確認したかのように炎蛇は藤本にゆっくりと詰め寄ってくる。
その様子は炎蛇自身の姿と相まって、獲物を追い詰めた蛇そのものに見えた。
炎蛇はゆっくりと鎌首を持ち上げ周囲に炎の玉を次々と生み出していく。
一気に藤本に止めを刺すつもりらしい。
- 283 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 23:06
-
「…容赦ないなぁ」
藤本は背中に当たる壁を恨めしく見やる。その目がなにかを捉えて僅かに細められた。
次の瞬間、炎蛇の周りにぷかぷかと浮かんでいた数十もの火球が
雨のごとく藤本に一斉に降りかかった。
それらがまさに藤本に当たろうかとした瞬間――
突然電気がはぜるような音がして、周囲に眩い輝きが散った。
病室の窓ガラスが爆風によって割れ飛び、頬を掠る。
しかし、それだけだ。火球による攻撃はまったく当たっていない。
- 284 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 23:07
- 「…ふぅ」
光が収まると、藤本は息をついた。
藤本にとって、部屋の隅に追い込まれたのは逆に幸運だったのだ。
なぜなら、そこは部屋自体が燃えないようにと、
儀式を始める前に矢口に対火炎用の護符を貼ってもらった場所の一つだったからである。
藤本は咄嗟にその符をはがし火球があたる直前に剣に突きたてたのだった。
「23式水壁!」
火球の効力が札の効果により消えていったのを感じ取るなり、
藤本は床に突き立てた剣を抜き素早く印を組み合わせ炎蛇に向かって術を解き放った。
- 285 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 23:11
-
声とともに藤本の周囲に彼女の身長ほどの水の壁が現れる。
その間に新たに生成され藤本に放たれた炎蛇の火球はその中に吸い込まれ、
鬩ぎ合う水と炎は大量の熱気と水蒸気を沸き起こす。
藤本は、その水蒸気を隠れ蓑にして素早く自分と炎蛇の位置を入れ替えると
剣を投げ捨てた。
「これで終わらせてやるよっ!!鬼神召還!!」
その声と同時に藤本の体から一匹の怪物が姿を現す。
鬼だ。鬼と藤本との意識は連動し、重なり合っていく。
それは意識の上に鬼の意識が重なるような、
そんな、自分の境界が曖昧になるような感覚を齎す。
そして、同時に通常では得ることのできない大量の情報が一気に
藤本の体の中に流れ込んできた。
「ぐっ」
常人ならとっくの昔に発狂にいたるほどのそれを藤本は素直に受け入れる。
- 286 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/27(金) 23:14
-
藤本の視覚と鬼の視覚が、藤本の聴覚と鬼の聴覚が。
その他のありとあらゆる感覚がその中で渾然一体となり存在している。
自らの体に起こった変化を認識すると、藤本はゆっくりと鬼の歩みを進ませた。
鬼が一歩進むごとに周囲に漂っていた水蒸気が消えてなくなる。
それはまるで鬼が水蒸気を吸い込んでいるようにも見える。
もしかすると事実そうなのかもしれない。
ただ、その水蒸気がなくなったせいで炎蛇はようやく藤本と自分以外の異形の存在に気づいたようだ。
一度、威嚇をするかのように鎌首をもたげ、その輝きをいっそう強める。
すでにその色は赤熱というよりも白熱に近づいていた。
炎蛇の正面に位置する鬼もその細長い首を高らかに上げ、炎蛇の威嚇に精一杯対抗している。
彼らの力がそのまま投影されるかのように、
部屋の中には鬼が放つ怒気と炎蛇の放つ熱気で異様な空気が漂いはじめていた。
- 287 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:43
-
『キシャァァァァァァッ』
蛇が威嚇のために喉を鳴らすような声をあげると
炎蛇は自分の周囲に生み出していた火球を鬼へと向かって放った。
それらがあたろうとする瞬間、鬼は豪腕を振るう。
その空間の振動によって歪んだ幕が出来る。
火球はそれに触れた途端、吸い込まれるように消えていった。
その幕はすべての火球を飲み込んでもなお広がりつづけ、炎蛇を包み込む。
炎蛇を包み込むと幕は膨張と収縮を繰り返し漣む。
鬼の力と炎蛇の力が押し合っているせいだ。
- 288 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:46
-
「…くぅ」
炎蛇の抵抗の力は、すべて鬼を通して藤本自身が受け止めることになるのだ。
それでも、藤本は苦痛に歯を食いしばりながら自らの分身たる鬼に力を注ぎ込む。
それが功を労したのか、炎蛇の抵抗が徐々に小さくなり始めてきていた。
その機会を逃すまいと藤本はよりいっそう念を強め鬼の力をサポートする。
終わりは唐突に訪れた。
炎蛇自体に限界がきていたのか今までのようにゆっくりではなく――
瞬時にして炎蛇は藤本の目の前から掻き消えたのだった。
- 289 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:49
-
それを確認した藤本は自らの手にある符を両手で破った。
途端、鬼の姿が消え、部屋の中には今の戦いの傷跡と、
藤本と松浦、そして椅子が一脚と大量の符だけが残された。
「あとは…封印だけか」
疲れたため息をつくと、藤本は、床の上で穏やかに眠っている
松浦の側までふらついた足どりで近づく。
「亜弥ちゃん。起きて」
藤本は彼女を丁寧に抱え上げ軽く頬をたたいて起こしにかかった。
「んっ……」
松浦が小さく声を漏らしゆっくりと目を広げる。
まだ夢を見ているようなそれは徐々にはっきりとし、
周囲の状況を確認するように二、三度大きく揺れた。藤本は、松浦に微笑みかける。
- 290 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:50
-
「後は、」
仕上げだけだからね、と続けようとした藤本だったが、松浦の不穏な変化に気づき言葉を止めた。
彼女はついいましがたの安らぎきった表情とは打って変わって
小刻みに体を震わせ恐怖を体全体で表していた。
「だめぇ!!」
そして、突然藤本の体を突き飛ばすように両手で勢いよく押した。
突然のことに驚くが、藤本は半ば反射的に松浦の左手をつかみ彼女の体を再び支える。
しかし、それすらも振り払おうと松浦がちぎれんばかりに腕を振った。
- 291 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:52
-
「亜弥ちゃん!?」
「いやぁ…こないで。近づかないでぇ!!」
子供のように自身の存在自体を否定する松浦に対して
藤本は驚きの表情のまま固まる。だが、それでも松浦の手を離さないようにと
その手をより一層きつく掴んだ。
「お願いだから、逃げてえぇえええ!!!」
直後の松浦の絶叫とともに例のビデオの時と同様彼女の体が光りだす。
藤本はその後に起こることを半ば予想しながらも、
まだ激しく振られている松浦の手から自分の手が離れないよう
彼女の体をしっかり抱えなおした。
- 292 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:57
-
「あやちゃ……っ!」
とにかく落ち着かせようと声をかけるがそれを遮るように
松浦の体から先ほど消えたはずの炎蛇が再び勢いよく飛び出してきた。
炎蛇は、一度天井すれすれまで上りあがると藤本の体めがけて飛び掛ってくる。
藤本は反射的に松浦を庇って彼女に覆い被さり、すぐに襲い来るであろう衝撃に対して身を固めた。
だが――その衝撃はいつまでたってもこなかった。
藤本はしばらく体を強張らせていたが、不審に思い顔を上げる。
と、丁度、視線の高さで炎蛇は静止した状態のまま浮かんでいた。
すぐ間際で感じる熱気に藤本はゴクリと息を呑み、炎蛇を見る。
しかし、下から聞こえてきた松浦のすすり泣く声に視線を落とした。
「もう、やだよ・・・…私のせいで人が傷つくなんて」
「亜弥…ちゃん?」
「終わらせたいの」
囁くような小さな声。
しかし、そこにはある決心が感じられた。
それに気づくよりも早く、松浦が藤本を思いっきり突き飛ばした。
不意を衝かれ藤本は尻餅をつくような体勢で後ろに転がる。
その隙に松浦は藤本の下から抜け出し距離をとった。
- 293 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:58
-
「これで終わりだから」
松浦が泣き笑いの表情で告げる。
その表情を見た藤本に一つの考えがよぎる。
彼女は炎蛇と共に死のうとしている。
「だめだよ。亜弥ちゃん。美貴を信じるって言ったじゃんか」
藤本は起き上がり松浦に近づこうとする。それを炎が遮った。
炎の向こうで松浦が首を振っている。
「ごめんね。せっかく助けにきてくれたのに。
でも、これが私なりのけじめのつけ方なの…」
ゆっくりと、しかし確実に炎蛇は松浦へと近づいていく。
藤本はそちらを一瞬だけ眺め、すぐさま松浦に視線を戻した。
藤本の視線とぶつかった松浦は寂しそうに微笑み、
ゆっくりと炎蛇に向かって両手を広げていった。
炎蛇の動きが徐々に速さを増してくる。
そして、炎蛇がその輝きを一層強めたとき、藤本は炎壁を突き破り素早く松浦に飛びついた。
そのまま覆いかぶさるように倒れる。背中を炎蛇の火が掠める。
- 294 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 22:59
-
「っ!!」
呻き声とともに辺りに臭気が立ち込める。
「やっぱ、即席の結界じゃ耐えられないか」
握り締めた手のひらを開くと灰と化したぼろぼろの札が落ちていった。
「なんで。私なんかのために……」
両目に涙をためた松浦が驚いた顔で藤本と視線を合わせる。
「言ったじゃん?亜弥ちゃんを助けるって。
美貴はおせっかいだから亜弥ちゃんがそれを信じようと信じまいと関係ないんだって」
無理やり笑顔を作りそう軽口を叩いてみるも、
顔からは大量の脂汗が流れだしており、決して無事という状況ではないことを告げていた。
松浦が、辛そうに顔を背ける。
- 295 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 23:00
-
「でも、私なんか……助ける価値もないのに……」
「自分に「なんか」とかつけるんじゃないよ。
じゃないと、亜弥ちゃんを大切に思ってる人まで否定することになる」
あくまで自分を卑下する松浦に対して、藤本は痛みに顔を顰めながらも
真剣な表情をつくりそう諭す。
「私を大切に思ってる人?」
「そうだよ。亜弥ちゃんの両親や友達。
それに矢口さんや美貴だってそうじゃんか」
「藤本さんが……?」
「うん。美貴は亜弥ちゃんに生きてほしいし、元気になってもらいたいよ。
んで、笑顔でいてほしい。だから、死ぬなんて考えちゃダメだよ、ね?」
- 296 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/28(土) 23:01
-
ややあって、松浦が小さく頷いたのを確認すると、
今まで張り詰めていたものがほどけてしまい、藤本は彼女に倒れかかるように気を失った。
「えっ。ちょっと……藤本さん?」
突然のことにパニックを起こした松浦は藤本の体をゆすったりしてみるが、
彼女が目を覚ます様子はまったくない。
結局、数分後に松浦の泣き声を聞きつけた矢口が
意識を失っている藤本を発見し、彼女は無事に保護されることとなった。
- 297 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:38
-
4
結界のおかげか、松浦が無意識のうちに炎蛇を制御していたのか、
藤本の火傷はそれほど大したものではなく、退院するまでに一ヶ月とかからなかった。
退院の手続きを済ませた藤本は病院の玄関までたどり着いたところで、
丁度、捜査員らしき男と話している矢口の姿を見つけた。
そういえば、入院している間彼女は一度もお見舞いに来なかったな、と藤本は思い出す。冷たい上司だ。
- 298 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:39
-
「矢口さん」
話が終わり矢口が一人になった頃を見計らって藤本は声をかけた。
「よぉ。今日退院だったんだ。見舞いの手間が省けてよかったよかった」
藤本に気づいた矢口が片手をあげた。
冷たい上司だ。藤本は再び思う。
「っていうか、お見舞い来る気なかったでしょ、矢口さん」
「そんなわけないだろ、この心優しい矢口さんに限って」
「はいはい」
「キャハハ…まぁいいけどさ、時間あるならちょっと付き合ってよ」
「なんですか?もしかして退院祝い焼肉パーティーとか?」
にやけた顔の藤本に矢口は「んなわけないじゃん」と言いさっさと歩き出す。
その場にポツンと残された藤本は慌てて矢口の後についていくしかなかった。
- 299 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:40
-
結局、連れてこられたのはパーティーという言葉には程遠い雑多な雰囲気の喫茶店だった。
周りのサラリーマンがせわしなく商談を進める中、
矢口が運ばれてきた紅茶に一度だけ口をつけペコリと頭を下げる。
「この度はご苦労様」
それに対する藤本の返事はコーヒーをすする音だった。
「その後の松浦さんのことなんだけど」
矢口のその言葉に藤本はコーヒーカップを机の上に置き彼女の顔を真剣な面持ちで見つめた。
先に退院した松浦とは結局あれから会わずじまいだったので気にしていたのだ。
「大丈夫みたい。彼女自身が炎蛇の存在を認めたからね。
今はおいらが制御の仕方を教えているところ。あの様子なら封印することもないと思う」
「そうですか……」
期待していたものとはほんの少し違っていた矢口の言葉に
藤本の相槌はやや精彩に欠ける。
- 300 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:42
-
「それと……ありがとう」
「えっ?」
「やっぱ藤本に任せてよかった。あのあと松浦さんの回復、驚くほど早かったんだよね。
何があったのか、おいらにはわかんないけどさ・・・でもやっぱりそれって
藤本のおかげだと思うから」
「まぁ、亜弥ちゃんは昔の美貴と同じですからね……」
「…そう、だな」
同じだからこそ、本当は完璧に封印してあげたかった。
制御できるとはいっても、いつ暴走するか判らないような力など
本来持たない方がいいのだ。結局、力不足でできなかったが――藤本は、視線を下げる。
会話が止まる。矢口の頭に過ぎっているのはおそらく同様の状況だろう。
周りのサラリーマンの声。カウンターの奥で料理が焼かれる音。
そして、手元のカップから漂ってくる香り。
その場の時間は止まることなく流れているのに、
二人は時間を遡っていた。二人が出会うことになったその日まで。
- 301 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:43
-
「…そ、そうそう、それで松浦さんなんだけどすごいんだよ」
先に回想から戻ったのは矢口だった。
時間がたちすっかり冷めてしまった紅茶に再び口をつけると彼女は努めて明るい声で話し始める。
「元々、好奇心の強い子だったんだろうね。制御の方法教えてるといろんな事聞いてくるんだ。
術のこととか、この仕事のこととかさ。あと藤本のこともよく聞いてくるな。
どんな術使うのとかお礼がしたいから住所教えてとかって……そんで」
「矢口さん。無理しなくてもいいですよ。美貴は全然大丈夫ですから」
口早に言葉をつむぐ矢口に少し戸惑いながら藤本は笑顔で言う。
「…矢口さんが誘ったんだから、ここは奢りですよね」
一呼吸間をおいて立ち上がった藤本は軽く手を挙げ喫茶店を後にした。
「無理してんのはどっちだか……」
残された矢口は小さく呟き、再び紅茶に口を運んだ。
- 302 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:44
-
※
お世辞にも高級とはいえない外観のマンション。
そこには藤本が暮らしている部屋がある。
藤本は階段を上りながら外を眺める。
それほど時間がたった気がしなかったのだが、矢口と喫茶店にいた時間は結構なものだったらしい。
日もずいぶんと傾き、そこから見える建物の窓には
ポツリポツリと明かりが灯りはじめている。
それにしても――あんな話ならわざわざ喫茶店で話さなくても部屋で出来ただろうに。
そんなことを思いながら、ちょうど三階分の階段を上り廊下までやってきたところで、
藤本は自分の部屋の前に座っている人影を発見して足を止めた。
割と小柄な人影が、藤本の気配に気づいたのかこちらに顔を向ける。
そして、立っているのが藤本だと分かったからか、小走りに駆け寄ってきた。
- 303 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:45
-
「おかえりなさい」
目の前で真夏の向日葵でさえ霞むような眩しい笑顔を向けるその人影は、
確かに藤本の記憶の中にあった。しかし、藤本は一瞬それが誰だか思い出せずにいた。
「あれ?もしかして私のこと忘れちゃったんですか?ひどいなぁ……」
「えっと…」
両手で顔を覆い大げさに泣き真似をする目の前の少女と記憶の中の少女の顔が重なる。
しかし、その少女と目の前にいる少女とでは明らかに雰囲気が異なっていた。
確かに顔は同じなのだが。
「ほんとに忘れたの?」
そう言って顔をあげた少女は本当に悲しそう表情をしていた。
その顔を見たとき藤本はようやく目の前の少女と自分の記憶の中の少女が
同一人物であることを実感した。
- 304 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:46
-
「…いや、覚えてるよ。亜弥ちゃんでしょ。なんでこんなとこにいんの?」
「あれ?矢口さんから聞いてないんですか?私、藤本さんにお礼しようと思って」
「あ、ああ、お礼ね。お礼かぁ、そりゃうれしいなぁ」
「はい。だから私をここで雇ってください」
「はっ?」
まるで他人事のように聞き流していた藤本だったが、
思いもよらない松浦の言葉に呆けたような顔になる。
- 305 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:47
-
「雇うって……亜弥ちゃんを?」
「はい。炊事洗濯料理に掃除。何だってやりますよ。
藤本さん、忙しいから家のことあんまり出来ないって矢口さんが言ってたし」
「や、でも家族の人が心配するでしょ。それに学校だってあるし」
「だから、学校行って帰ってからここに来ることにします。
家の人は「お礼はせなあかんからな、行ってこい!」って快く送り出してくれましたよ」
無邪気に笑いかけてくる松浦に
何を言っても無駄だと悟った藤本はとりあえず扉の鍵を開け
彼女に中に入るよう促した。
- 306 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:47
-
もしかして、毎日自分の退院を待っていたのだろうか?
そのことを知っていたから矢口はわざわざ喫茶店を使ったのかもしれない。
今にも飛び跳ねそうな勢いで部屋に入っていく後姿を見つめながら
藤本は自分の部屋の前で制服姿のまま待っている松浦に対して
隣人達が奇妙な視線を投げかけている姿を思い浮かべ、思わず苦笑を洩らした。
- 307 名前:贖いの炎 投稿日:2004/08/29(日) 23:48
-
終
- 308 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/08/29(日) 23:49
- ボツ理由
読んだままです
- 309 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:35
-
- 310 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:35
-
『櫻の木の下には屍体が埋まってゐる』
そんな古い詩人の言葉よりも正しく、
矢口真里はそれが決して根拠の無い偽りでないことを知っている。
ただし訂正をしておくと、埋まっているのは死体なんかではない。
櫻の木の下に埋まっているのは想いだ。
人の想い。
彼の想い。
彼女の想い。
矢口は、どこか悲しそうに満開の櫻を見上げた。
- 311 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:36
-
- 312 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:37
-
1
学校の櫻の木には幽霊が棲んでいる。
それは何処の学校でもあるように、密やかに囁かれていた
他愛もない学校の怪談の一つだったが、矢口はその噂が事実であることを身をもって知っていた。
- 313 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:39
-
矢口が初めて彼に逢ったのは入学式の時だった。
櫻の花は優しく咲いていた。
樹齢何十年という見事な木の下で、彼は花が散っていくのを黙って見守りながら
ただ寂しげに微笑んでいた。初めは同じ新入生かとも思ったのだが、
直ぐに彼が生きた人間ではないことに矢口は気づいた。
元々、そういうものが視える力を持っていたので怖いとは思わなかった。
なにより、彼の持つ空気が穏やかだったから。
「櫻・・・綺麗だね」
「え」
話し掛けると、彼はぱちくりと目を瞬かせた。
生きている人間に話し掛けられるという経験に慣れていないのか
驚いた白い頬がぽっと櫻の花のように色付いた。
そこに生きて、存在している人間のように。
- 314 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:39
-
「僕が見えるの?」
「うん」
「・・・人間じゃないのに・・・怖くない?」
幽霊、という言葉を敢えて濁して、彼は俯いた。
短い黒髪が微かに揺れる。そんなところまでリアルで、
まるで彼が死んでいることなど忘れてしまいそうなほどだ。
「怖くないよ、慣れてるし」
怖いというのと別の感情で、矢口はどきどきしていた。
彼が幽霊というよりも精霊のように美しい少年だったからだ。
- 315 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:40
-
「・・・君は、誰?」
「矢口真里。あなたは?」
なるべく怖がらせないように優しく訊ねた。
彼は戸惑いを面に浮かべて、呟いた。
「覚えてないよ」
「そっか。じゃぁ、櫻君って呼ぶことにする」
「櫻君?」
「ぴったりじゃん」
笑いかけると、彼は初めて矢口に向かって笑い掛けてくれた。
それは想像以上に綺麗な微笑みだったが、やはり何処か寂しげに見えた。
- 316 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:41
-
「ねえ、櫻君の体はこの木の下に埋まってんの?」
矢口は、彼の笑顔を見てそう尋ねた。
彼はこの櫻の木に縛られている。言いかえるならば地縛霊だ。
それなのに、むしろ自然霊のようにこの木と共にいた。
それはこの木と半ば同化しているからだろう。つまり――
だが、彼は寂しげな微笑みを浮かべたまま力なく首を振った。
矢口は、訝しげに思いながら
「じゃあなんでこの木に拘ってるの?」
「・・・多分、人を待ってるんだ」
「人?」
「そう」
「誰を?」
矢口が聞くと彼は困ったように俯いた。
- 317 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:41
-
「分からないよ。随分昔のことだから」
それから、ふと懐かしむような表情になり
「でも、僕はその人のことが好きだったんだ」
矢口は、曖昧に返事を返すことしか出来なかった。
なぜなら、彼の想い人はもうとっくの昔に亡くなっているだろうから。
- 318 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/08/31(火) 22:42
-
それから、矢口は櫻の咲いている間だけ彼とここで逢えることを知り、
最後の一片が散ってしまうまで、ずっとその木に通うようになった。
彼からは人間にとって有害な気の一つも感じられなかったので、
成仏させず放っておいても大丈夫だろうと判断したのだ。
- 319 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:33
-
2
「矢口さん」
彼は桜の季節になるとここに現れた。
冬の間はどうしているのかを訊ねると木に寄り添って眠っているのだと彼は答えた。
まるで冬眠だねと笑うと、冬眠だよと彼も笑った。
- 320 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:34
-
「久しぶり、櫻君。冬眠長かったんじゃない」
「今年は少し風が冷たくて櫻も遅咲きだったからね」
「そうだね」
それはその年はじめての邂逅だった。
季節は彼と出逢ってから二度目の春を迎えていた。
来年は卒業して、この場所に来ることも難しくなる。
今から一年後のことを思って憂鬱になっていた矢口は、
その時はじめて自分が随分と彼のことを好きなんだなと気づいた。
多分、好きだという言葉では足りないくらいに。
- 321 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:35
-
「あのさ、矢口さん」
「ん?」
あるとき、彼はやけに思いつめた表情で口を開いた。
「君には力があるんだよね」
「え?」
「霊を消滅させる力」
矢口は、彼の言わんとすることが分からず曖昧な表情で首をかしげた。
別に、櫻君をそうするきはないけど、呟く。
すると、彼はいつもの寂しげな微笑を浮かべ
「僕がお願いしても?」
妙にゆっくりと言った。
- 322 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:35
-
「どういうこと?」
訊ねる矢口を彼は何も言わずに真っ直ぐ見返してきた。
世界そのものを映しているような黒い瞳を見つめているうちに
矢口の胸は言い知れぬ不安で痛くなる。
「僕は誰かを待ってるっていったでしょ」
頷く。
「その子の魂を持つ人は入院してるんだ」
その言葉に矢口は目を見張った。
彼が視線を落とす。
- 323 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:36
-
「……僕のせいなんだよ。そんなこと、したいわけじゃないけど、僕のせいなんだ」
思いの強さが、人を――
愛する人を引いてしまうのはよくある話だ。
意識しているわけではなく無意識に。
「僕を消してくれないか?」
彼は優しい声で言った。
「……それで、いいの?」
「うん。彼女を苦しめたくはないんだ」
「でも……」
- 324 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:36
-
自分がなにを言おうとしているのか分からなかった。
彼を引き止めて、それでどうにかなる話ではない。
霊体が協力してくれているのだから、そうするべきなのだ。
矢口は自分の手に視線を落とす。閉じて広げる。
「櫻君が…好きだよ」
矢口は呟きその手を伸ばして彼に触れた。
触れたと思っただけで、実際に触れられるものはない。
だが、彼は実際に僕に触れられたようにびくりと反応しておそるおそると目を閉じた。
矢口の手の平に頬を寄せて。彼から感じる熱は人間のそれと同じだ。
矢口は顔を歪めて涙を堪える。
- 325 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/01(水) 22:37
-
「……ありがとう」
彼は薄く目を開け矢口を見つめ、
それから何故か今にも泣きそうな顔で笑った。
それでも、それは矢口がはじめて見る満開の櫻のごとき、満面の笑顔だった。
- 326 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:11
-
3
三度目の春。
卒業式が終わって学校の外に出てきた矢口はふと立ち止まった。
校門の所には一台の車が止まっており
そして、あの桜の木の下には高校生だろうか――
自分よりは年上と思われる少女が立っていた。彼の彼女だ。直感的にそう悟る。
「櫻・・・綺麗ですよね」
「え」
彼とはじめて会った時と同じように話し掛けると、彼女はぱちくりと目を瞬かせた。
矢口はその顔に彼を思い出して微笑む。
- 327 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:12
-
「もっと綺麗だったんですよ」
「…知ってます」
彼女は櫻の木を見上げながら言う。
「夢で見てましたから」
矢口の不思議そうな顔に気づいたのか彼女は寂しげに微笑んだ。
そんなところも彼と重なる。矢口は、無言のまま櫻の木を見上げる。
「ありがとう」
彼女が唐突に言った。
「え?」
「なんだかあなたには助けてもらった気がするから」
- 328 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:13
-
その言葉に矢口が首を振りかけたとき、車のクラクションが鳴った。
彼女が校門の方に顔を向け、それから矢口に戻す。
「もう行かなきゃ。それじゃ」
「…お元気で」
「ええ、あなたも」
彼女は軽く会釈をすると車に向かって駆けていく。
その背中に彼の姿が見えたような気がした。
矢口は、小さく息をつき櫻の木に触れる。
「よかったじゃん」
そう小さく呟くと歩き出した。
- 329 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:13
-
※
「なにボーっとしてんだ、このチビ」
「うわっ!!」
ぬっと顔を覗き込まれて矢口は我に返る。
飯田犯罪研究所毎年恒例のお花見。
気が付けば、目の前にいる人物の目はいつも以上に据わっている。
矢口ははっとして少し真向かいに座っている所長の飯田圭織に視線を向ける。
飯田は楽しそうにこちらを見ていた。
- 330 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:14
-
「カオリ、あんた藤本に酒飲ませたな!!」
「さぁ?」
「あんたねー!」
我冠せずの飯田に言い返そうと矢口が立ち上がりかけた瞬間
「酒は飲んでも飲まれるなぁっ!!分かったか、チビ!!」
ガバッと矢口の頭を抱えて大声で叫ぶ酔っ払い藤本美貴。
「お前が飲まれてんだよ、バカ」
矢口は頭の上の藤本に言い返す。
- 331 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:14
-
「ミキたん、矢口さん潰れちゃうからやめなって」
「うるさーい!!亜弥ちゃんも飲め飲むのだ美貴の奢りだぁっ!!」
奢りも何もこっちが用意したものだ、矢口は藤本を押し退けなんとか脱出する。
「ったく…」
髪がぐちゃぐちゃだ。
手櫛で整えるもののいまいちな感じがして矢口は立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
ひらひらと手を振る飯田。聞こえていない酔っ払い他一名。
歩き出した矢口の背後で
「ちょっと、そんなところでラブシーンはやめなよ」
飯田の冷静な言葉が聞えた。
一体なにやってんだか、矢口は苦笑する。
- 332 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:15
-
「違いますよー」
「なにが違うんだぁっ!ほれ、口移しで飲ませてやる」
「やだってばー」
「遠慮するな。ほれほ」
ドカっという鈍い音と共に藤本の声が途切れる。次いでドサッという音。
飯田の爆笑。
あまり想像したくない光景が広げられているようだ。
矢口は、呆れた息をついて桜の木を見上げた。
- 333 名前:櫻の木の下 投稿日:2004/09/02(木) 23:15
-
終
- 334 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/02(木) 23:17
- ボツ理由
チャラっぽいから
- 335 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/05(日) 23:03
-
- 336 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/05(日) 23:04
-
0
深夜というにはまだ早い時間。そこは生温い現実から切り離された世界と化していた。
辺り一面に漂う血臭。折り重なる死体。
常識的な感性の持ち主なら吐き気を催す風景。さながら異界。
それは本来こんな場所に広がるはずのないものだ。
道路に面したコインパーキング。周囲に遮るモノなどなく
いくら夜とはいえ、道路から、それを挟んで建っている民家から、
いくらでも見る事の出来るはずの場所。だが、いつまで経ってもそこに人は来ない。
今日に限って近くを通りすがる通行人がいないのか。
今日に限って窓から外を確認しようと思った人間がいないのか。
理由はともかくとして、今そこで生きているのは二人だけだった。
- 337 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/05(日) 23:05
-
一人は殺す側。
もう一人は殺される側であったはずの存在。
殺す側は十代半ばの少女。
地面に倒れ伏している死体は彼女の手にしているナイフが創り出したもの。
彼女は、首筋をさくっとそのナイフで抉った。
まるで流れ作業のように表情を変えず淡々と。
殺される側にいるのは制服姿の少女。
恐らくは中学にあがったばかりだろうか。
がたがたと震えている様は傷ついた動物を思わせる。
- 338 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/05(日) 23:05
-
「お前は運がいい」
「…え?」
「あたしは今日疲れてんだ。見逃してやるよ」
殺す側にいた少女はナイフを懐に戻して目だけで笑うと、
その場から素早く立ち去った。少ししてバイクのエンジン音が残された少女の耳に入る。
目撃者を始末せず、颯爽とバイクで消え去る殺人鬼。
「……カッコイイ」
残された少女は青褪めた顔で、けれど、どこかうっとりとしたように呟いた。
それが、彼女がボタンを掛け違えた瞬間だったのだ。
- 339 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/06(月) 23:16
-
第一章
- 340 名前:第一章 投稿日:2004/09/06(月) 23:17
-
1
酷い雨が降っている。
差した傘が折れてしまうんじゃないかというくらいの大量の水滴は
安いビニール生地を乱暴に揺らし、柄を握り締める飯田圭織の手を重たくする。
飯田は、馴染みの通りを歩いていた。
とはいえ、この街に帰ってきたのは数ヶ月ぶりなので久しぶりの通りともいえるのだが。
近道をするために路地裏へと入り色あせた景色に飯田は溜め息を投げる。
ただでさえ憂鬱な雨。それに加えて季節は秋。
秋といえば、食欲とスポーツと芸術と、それから溜め息だと飯田は常々思っている。
新緑の季節が過ぎ去って、夏の間中ずっと立ち込めていた人々の活力も弱まり、
これから冬へ向かおうというこの季節。哀愁を感じる。
そんなことを考えながら飯田は細い道を歩く。
- 341 名前:第一章 投稿日:2004/09/06(月) 23:18
-
記憶では、数分もすれば抜け出せてしまう道のはずだったが、
なぜだか、なかなか終わりが見えてこない。
なぜだろうと訝るうち、向こうの方から小さなざわめきが聞こえてきた。
人口密度とは無縁の路地、当然なにごともなければそこに人気なんか無いはずで、
多くの人々がそんな場所に集まっているというのなら――
それは、その場所で何かが起こったということぐらいしか考えられない。
飯田は、嫌なものを感じながらゆっくりとざわめきの方に近づいていく。
すると、十じゃ収まらないくらいの人が山のように集まっているのが見えてきた。
何ごとだろうか。飯田のいる所からは人々の中心が見えない。
だが、ふと見回すとそこには警察官の姿が多く見られた。
- 342 名前:第一章 投稿日:2004/09/06(月) 23:19
-
「あの……なにかあったんですか?」
飯田は、群衆の中かで一番話しかけやすそうな人のいい顔をしたおばさんに
好奇心からそう声を掛けてみる。声をかけられた彼女は眉を潜めたまま答えた。
「例の連続殺人よ、これでもう四人目なのに警察はなにしてるのかしらねぇ」
- 343 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:32
-
※
停滞、ではなかった。思考も吐息も心音も、空気も、何もかもが動いている。
動き回っている。ただ藤本美貴の目では何も見ることが出来ないだけで、
それらの内的要素は、確実に彼女――矢口真里を中心として部屋を回っていた。
机の上にはばら撒かれた資料、それらの全てに洩れなく殺人事件の面影が見て取れる。
切り抜き、週刊誌、コピー用紙、あらゆる情報媒体に刷り込まれた情報は、
すべて先日からの連続殺人を示唆していた。
それらの山に埋まって、矢口は難解な顔をし続けている。
藤本が今朝研究所に来た時からずっとこんな調子だから、
一体何時間そうしているのか分からない。
それでも、いまだに矢口はただ一人、誰の介入を得ることもなく、
目の前の藤本ですら居ないかのように、じっと黙想を続けている。
- 344 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:33
-
「あの、矢口さん……なにか気になることでもあるんですか?」
重たい沈黙に息が詰まりそうになって藤本はおずおずと彼女に声をかけた。
たった今気づいたという風に矢口が資料からハッと顔を上げる。
そして、藤本を認めると彼女は一枚の切抜きを見せ付けるように掲げた。
「この首の傷が死因ってのはどういうことだと思う?」
「は?」
「この事件の死因だよ。どれもこれも首の原因としか書いてない」
「…それは、首を切られたってことじゃないんですか?頚動脈スパッて」
戸惑いながら藤本は答える。普通に考えるならそれしかないだろう。
それ以外に思いつかない。
しかし、矢口は「ブーッ、はずれ」と両手で罰点をつくった。
「被害者たちは首を切られて殺されたんじゃない。抉られて殺されたんだよ」
そして、そう断定する。藤本は首を傾げた。
- 345 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:34
-
「どうして抉られたって分かるんですか?」
「おいらの情報網を甘く見るなってことだな」
「…また勝手に警察の捜査資料見たんですね」
「うっさいな」
藤本の呆れた溜息に矢口が顔を顰める。
だが、すぐに彼女は気を取り直したように言った。
「マジな話、見る前からそう思ってたんだって。
首の傷が死因っていう連続殺人は以前にもあったしね。聞いたことない?
朝比奈市を中心にして起きた事件なんだけど」
「……ああ。えっと、確か30人くらい殺した上に、
逃げられないと悟って孤児院の子供たちと職員を全員殺して自殺したっていう奴でしたっけ?」
その当時、藤本はまだここに所属していなかった。
そのため、ニュースで聞きかじっただけの僅かな記憶を頼りにそう答える。
それそれ、と矢口が頷く。
「ってことは、今回の事件の犯人はその朝比奈市の事件を模倣してるっていいたいんですか?」
その問いには首を振る。
- 346 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:35
-
「あの時のマスコミは、今の藤本と同じように首の傷が死因って聞いて、
被害者たちは首を切られて殺されたと思い込み、ほとんどがそういう方向で報道してたんだ。
だから、もし犯人が模倣しているなら頚動脈を掻っ切るのが普通でしょ。
つまり――この事件は、模倣犯の犯行ではない。とすると考えられるのは一つ」
矢口がどこまで捜査情報を引き出しているのかは定かではないが、
ここまで断言するのなら、今回の事件と二年前の事件は全く同じ手口で行われているのだろう。
そして、何年か前のその事件と同じ様に首を抉られ殺されていく被害者たち。
つまるところ、これらの事から導けるのは呆れるほど単純なことでしかない。
「…つまり、死んでいた朝比奈の殺人鬼が生き返ったとか?」
「まぁ、ホラー映画ならそういうのもありだよね。
でも、生憎ココは現実だから、そう都合のいいことは起こらないよ」
話が進んでいくにつれ先ほどの難解な顔はどこへやら、
矢口はどこか楽しそうな顔にさえなってきている。
なにかを知っていて、わざと教えずにいる子供のような悪巧み顔――
藤本は、そんな矢口の態度に若干の不満を覚えるが思考を続ける。
- 347 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:36
-
朝比奈の殺人鬼は公に死んだと報道された。
最後の現場となった孤児院は殺人鬼自身の手によって爆破され、
後には大量の破損死体が残っていたという。
その死体の山のどれが殺人鬼だったのか判別つきようがないくらいの有様だったらしいが、
それ以降ピタリと犯行が止まったため警察は公式にそう発表したのだろう。
だが、もしかしたら朝比奈の殺人鬼は孤児院を爆破したあと、
そのまま逃亡し、今の今までどこかに潜んでいたのかもしれない。
世間を誤魔化して、過去を誤魔化して、どうにかひっそりと生きてきた。
そう考えることも出来る。けれど。
「もし、犯人が生きてたならなんで今さら戻る必要があったんでしょうね。
うまく世間を騙せてたのに……このままどこかに隠れていれば捕まる心配もなかったじゃないですか?」
藤本が投げかけた疑問に、矢口はにやにやとした笑みを口元一杯に広げた。
- 348 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:38
-
「まずは常識で考えてみなよ、常識でね。
犯人は昔の快楽を忘れられなかった、そして、耐え難い殺人衝動に負けて
ついに犯行に及んでしまった。昔と同じ手口を用いて、昔と同じ殺しをね。
あるいは、犯人はずっと犯行を続けていたという説も考えられる。
ここ数年はうまくやってこれたけど、気が緩んだのかヘマをして証拠を残しちゃったわけ。
そうして犯行は露見したと」
常識で考えれば、まあ確かにそういうことになるのだろう。
なにはともあれ殺人鬼は生きていて殺人を犯し、
それが世間の目に触れられることになってしまった。筋は通っている。
ただ、それは常識でなら、の話だ。
矢口が、常識でなら、と無意味に強調していたのだから、
それは逆に考えろということに他ならないだろう。
つまり、常識ではないのだとしたら――藤本は矢口を窺い見る。
それだけで藤本の考えていることが分かったのか矢口が口を開いた。
- 349 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:38
-
「魂が抜け出して殺してるとかね」
「は?」
「殺人鬼は本当に死んでいて、その亡霊が事件を起こしているとか」
それではまさしく先程矢口自らが否定したホラー映画じゃないか。
一転して、茶化すような口調になった彼女に藤本はむっとして眉を寄せる。
それがあまりに凄い顔になっていたのだろうか。
矢口がビクっと肩を強張らせ、それから取り繕うように顔を引き締めた。
- 350 名前:第一章 投稿日:2004/09/07(火) 22:39
-
「ま、まぁ、今のは軽い冗談で……結論をいうと」
「結論をいうと?」
「朝比奈の殺人鬼は確かに今も生きてるんだけど、彼女は犯行を行えないんだ、絶対に」
矢口はそうきっぱりと言い切ると、不意に顔を右手側にあるドアの方に向けた。
そして、言った。
「そうだよね、カオリ」
「…は?」
カオリ。
唐突なその音の羅列から「圭織」という漢字を当てはめるまで、
実に藤本は数秒の時間を要した。
その間に矢口が見つめていたドアが開き
「よく気づいたね」と微笑みながら本人が姿を現したのだが。
それは、この研究所の所長である飯田圭織の実に三ヶ月ぶりの帰宅だった。
- 351 名前:第一章 投稿日:2004/09/08(水) 22:35
-
2
「話戻しますけど…」
突然の飯田の帰宅に狼狽えながらも藤本はそう切り出した。
「どうして、朝比奈の殺人鬼は犯行を行えないんですか?」
その問いかけに矢口と飯田が意味ありげに顔を見合わせる。
「ミキって知らないんだっけ?」
飯田が矢口に尋ねた。それに矢口は頷く。
藤本は二人のやり取りを怪訝の目で見つめていた。
「なんですか?ミキが知らないって?」
剣のある言い方になるのは仕方がなかった。
飯田が苦笑する。
- 352 名前:第一章 投稿日:2004/09/08(水) 22:36
-
「ねぇ、ミキ」
「なんですか?」
「吉澤ひとみは最近ここから外に出た?」
飯田の問いに藤本は思いっきり疑問の色を浮かべた。
吉澤ひとみとは、この研究所の地下にある特別房で生活している少女の名前だ。
藤本が飯田犯罪研究所に所属した時には既に彼女はここで暮らしており、
一番に矢口から紹介された。穏やかな目が印象的な人物だった。
外に連れ出すこと以外ならば、なにをしてあげてもいいと言われた。
ただし、外に連れ出そうとしたら容赦なく攻撃するとも言われた。
どういう事情があるのか知らないが――矢口にそんなことを言わせるのだから、
まぁ、ソレ相応の事情があるのだろうと、藤本はさして追及せず、
房の中で退屈そうな吉澤と普通に仲良くなった。
だから、藤本には飯田の質問の意図がよく分からなかったのだ。
- 353 名前:第一章 投稿日:2004/09/08(水) 22:37
-
「出てませんけど」
「じゃぁ、勝手に抜け出したみたいなことは?」
益々、意味不明だ。
第一、あのセキュリティを掻い潜って抜け出すなんてどんなプロでも無理だろう。
「あるわけないじゃないですか?」
一体、なんなんですか?藤本はそう続けようとした。
だが、その前に飯田がにっこりと笑い「つまりそういうことだよ」と言った。
「……そういうって、どういう?」
口にして藤本はハッとなった。
朝比奈の殺人鬼の話から、どうして突然吉澤の話を彼女がはじめたのか。
冷静に考えれば分かる話だ。
それは――吉澤がその殺人鬼だということではないだろうか。
そう考えるのが一番自然だった。
- 354 名前:第一章 投稿日:2004/09/08(水) 22:38
-
現に、矢口はこう言っていなかったか。
――朝比奈の殺人鬼は確かに生きてるんだけど、彼女は犯行を行えないんだ、絶対に
そう、彼女と。
殺人鬼というワードから藤本は朝比奈の殺人鬼をてっきり男性だと思い込んでいた。
そのため、矢口のその言葉をつい聞き流していたのだ。
だが、思い返してみれば矢口は確かに彼女と言っていた。
まるで殺人鬼を知っているかのような口ぶりで。
藤本は飯田を見る。
にわかには信じられないことだった。
「…よっちゃんさんが……朝比奈の殺人鬼………」
問いかけともいえない響きの言葉に飯田がこくりと頷いた。
- 355 名前:第一章 投稿日:2004/09/08(水) 22:38
-
「…で、でもどうして?だって、死んだって発表され」
「色々あったんだよ。吉澤を全ての犯人にして消す必要がね」
矢口が口を挟む。いつになく強い口調だと藤本は感じた。
こちらに何も言わせないような、何も追及させないような、有無を言わせない声色。
飯田もなにも言わなかった。矢口同様、話す気がないのだろう。
けれど、それではあんまりだ。藤本は思った。
「それじゃぁ、よっちゃんさんはなんにもしてないのに、
死んだって発表されて朝比奈の殺人鬼になったってことじゃないですか」
言うと、矢口が苦笑して頭を振った。
「そういうことじゃないよ。吉澤はマジで殺人鬼だったんだから、それもかなり最悪なね」
その言葉に藤本は目を丸くした。
- 356 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 22:59
-
※
「おー、珍しい人がいるじゃん」
地下七階の特別房から、飯田の姿を認めた吉澤ひとみは気だるげに言った。
だが、後ろに藤本と矢口の姿があることに気づくと彼女は訝しげな表情になる。
三人の間には少し硬い空気が流れている。
全員揃って和やかに談笑をしにきたというわけではなさそうだ。
吉澤は一番離れた場所にいる藤本にどういうことかと視線を投げる。
「あー、えっと…美貴はよく知らないから二人に聞いて」
吉澤の視線に気づいた藤本は曖昧な口調で言った。
矢口が一歩踏み出す。
「座ってないでこっち来いよ。大事な話なんだからさ」
房の奥のベッドに座ったまま三人を見ていた吉澤に言う。
そこまで距離があるわけでもないのに、面倒くさい。思いながらも吉澤は
素直に重い腰をあげ鉄格子のすぐ傍、彼女たちの目の前に立った。そして、飯田を見やる。
- 357 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:00
-
「なに?大事な話って」
「今ね、世間では連続殺人事件が起きてるの」
飯田がゆったりと口にする。吉澤の眉が寄った。
「あたしがここから抜け出してやってるとか言う気だったりする?」
「しないよ」
吉澤の軽口に飯田は苦笑しながら首を振り話を続けた。
「ただ吉澤の亡霊がやってるみたいな感じなんだよね」
「はぁ?あたしの亡霊?死んでないのに亡霊なんかでるかよ」
飯田の言葉を遮って吉澤は吐き捨てる。だんだん苛々してきた。
吉澤の怒りの沸点は極端に低い。自覚している。
だから、回りくどく話をされるのは昔から大嫌いだった。
ここが房じゃなく、手にナイフがあれば――こんな回りくどい話し方をする奴は
とっくに殺しているだろう。もっとも相手が飯田なので実際にその状況下にあってもそうするとも限らないが。
- 358 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:01
-
「いいから要点だけ言ってよ」
「そうだね。じゃぁ、単刀直入に聞くけど、あなた、あの事件の時、
誰かに殺害方法を話したことがある?詳細に…ほら、首をナイフでどうしたとか?誰かに話してない?」
「どういう意味?……あたしが誰かと一緒にやってたとか思ってんの?」
吉澤は低い声で問い返す。
飯田の問いかけに怒りはピークに達しようとしていた。
殺人は吉澤にとってもっとも大切な行為だ。
唯一人で誰の手も借りずに行うことに意味がある。
そんなこと、誰からも理解されないし、してほしいとも思わない。
けれど、飯田は自分の事を多少なり理解していると思っていた。
人を殺すことが好きな吉澤と、人を救うことが好きな飯田は、
絶対に相容れない存在だということは判っているが、そう思っていたのだ。
彼女もまたどこか世間と隔てられた違う存在であるだろうから。
なのに、こともあろうに吉澤がまるで誰かと共同で殺人をしていたともとれるような質問をしてきた。
人をバカにするにも程がある。
- 359 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:02
-
「そういう意味じゃないんだよ、バカ」
吉澤の醸し出す不穏な空気を察したのか、矢口が口を挟む。
吉澤はギロリとそんな矢口を睨みつけるが、それも意に介さず彼女は肘で飯田を小突く。
「カオリももっと分かりやすく話をする努力をしろよな」
「わかりにくかったかなぁ」
「分かりにくかったね」
「そっかぁ」
「そうだよ。だいたい、いつもカオリはさぁ」
「……どうでもいいからさっさと説明してくんない」
ずれた会話をはじめだした二人に吉澤の怒りは急速に冷め、
逆に呆れてしまう。二人は吉澤の声が聞こえなかったのかまだなにか話している。
やれやれと髪を掻き揚げふと視線を動かすとなぜか藤本がこちらを見ていた。
それもどこか探るように。
- 360 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:03
-
藤本は吉澤が見ていることに気づくと慌てたように視線を逸らす。
それを不思議に思って彼女に声をかけようとした所で飯田との話が終わったのか
矢口が口を開いた。
「おいらが説明するよ」
微妙なタイミングの悪さに、軽く舌打ちしながら吉澤は矢口に視線を移す。
「なに?」
「実はね、最近巷で連続殺人事件が起こっててね」
「それは最初に聞いた」
「うん、まぁ聞けよ。その事件の犯人がどこで知ったのかわかんないんだけど、
二年前のお前と同じ手口で犯行を繰り返してるんだ」
それがどうした。吉澤は思う。
そんなもの単なる模倣犯ってやつに違いない。
自分もなかなか有名になったものだ。
約束どおり、あいつが布教しているんだな――
吉澤は、一人の少女の姿を思い浮かべ口元に笑みを浮かべる。
- 361 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:03
-
「なににやにやしてんだよ。ちゃんと聞いてんのか?吉澤?」
「聞いてるよ……でも、同じ手口だからってあたしが関係してるって短絡的だろ。
どうせ犯人は、二年前の事件を真似してるだけの無個性な奴だよ」
「でもね、吉澤の手口……あの首を抉るやり方、あれ公に発表されてないんだよ。
だから、真似しようにも真似しようがないってワケ」
「なら、たまたま首抉るのが好きなヤツがいたってことじゃないの?
だいたい、あたしは目的あって首を抉ってただけでそれが主流じゃないし」
なんにせよ、どうでもいいことだ。
あまりにくだらない話に立っているのも億劫になった吉澤は大きく伸びをして踵を返し、
ベッドに向かった。
「カオには、たまたまだと思えないんだよ」
飯田が呼び止める。吉澤は顔だけで振り返り
「でも、あたしは一人で行動してた。誰にも話してないし、話せることじゃないでしょ」
嘲笑う。
- 362 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:04
-
「そうだよね」
飯田は素直に頷き、一旦視線を落とした。
しかし、すぐになにか思いついたのか視線を上げる。
「じゃぁ、目撃者を見逃したことは?あなた、たまにそういうことするんじゃない?」
飯田がなんのことを言っているのか分かる。
顔を顰めながら、吉澤は体ごと飯田に向き直った。
「あれは、相手があんただったからだ。普通の目撃者は見逃したことない」
「……そう」
答えると、あてが外れたように飯田が溜息をついた。
「ったく、三人揃ってなにかと思えば……」
吉澤も溜息をつき、今度こそベッドに寝転がった。
飯田の視線を感じるが構わずに背を向ける。
- 363 名前:第一章 投稿日:2004/09/09(木) 23:05
-
「話は終わってないってば、吉澤」
「矢口、もういいよ……」
「でもさぁ」
「なにか思い出したら教えて」
まだ不満のあるような矢口を諌めるように言った飯田がそう声をかけてきた。
吉澤は、振り向かずに片手をあげて応える。
数秒の後、三つの足音が諦めたように遠ざかりはじめた。
「あ、ミキちゃんさんは残ってて!」
ふと先ほどの藤本からの気になる視線を思い出して吉澤は慌てて彼女を呼び止めた。
- 364 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:45
-
3
まいったなぁ――吉澤に呼び止められた藤本は
その理由が分かっているだけに重く嘆息する。
ついさっき吉澤が殺人鬼だったと知った藤本は気がつくと彼女の事を観察しすぎていた。
どうにも吉澤が殺人鬼だったというのがしっくりこなくて見入ってしまっただけで、
藤本としては別に変な目で見ているつもりはなかったのだが、
彼女はきっとそうは思っていないのだろう。
ベッドの淵に腰掛け、こちらをじっと見つめてくる目はなにか物言いたげに揺れている。
藤本はもう一度嘆息し吉澤より先に問いかけた。
「…えっと、ミキになんか言いたいことある?」
「そっちがあたしに言いたいことあるんじゃないの?」
案の定、問い返されて藤本は苦笑する。
吉澤は笑わない。
「なんかずっとあたしのこと見てたじゃん」
「見て…たねぇ」
見てないよと、誤魔化そうかとも考えたが、
どうせ無駄だろうと考え直し、語尾を変える。
- 365 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:46
-
「なに?」
端的な言葉。少し苛立っているようだ。
理由を言わないと殺されそうな気がしてくる。
殺されそう?
自身の思ったことに瞬時に藤本は疑問を抱いた。
今まで、吉澤が苛立っていると感じることは何度もあったが、
それで殺されそうだなんて思ったことはない。
吉澤が殺人鬼だったと知って無意識の内に変な色眼鏡をつけてしまっているのだろうか。
となると、吉澤が自分の視線から不快なものを感じても当たり前なのかもしれない。
内心で反省しながら藤本は口を開く。
- 366 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:46
-
「…美貴、今まで知らなかったんだよね」
「なにを?」
「よっちゃんさんが、えっと…朝比奈の殺人鬼だったっていうの」
言って、吉澤を伺い見る。吉澤は、なんだか微妙な表情をしていた。
けれど、そこに苛立ちの欠片は見られない。
半ば安堵しながら言葉を続ける。
「だからさ、さっき初めて知ってなんていうか……
なんだろな、そう見えないなぁって思ってたら、ついよっちゃんさんをじっと見ちゃってたってワケ」
「……殺人鬼に見えなかったってこと?」
吉澤が呟く。
「うん、見えなかった。言われなきゃ、ミキずっと知らなかったか…」
ドン。
言葉を打ち消すような重たい音が地下に響いた。
藤本は驚いて吉澤を見る。吉澤の右拳がベッドに打ち付けられていた。
その周囲は異様な空気に満ちている。怒りだけではない、なにか。
- 367 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:47
-
「…よっちゃん、さん?」
一拍置いて、藤本がおずおずと声をかけるのと、吉澤が飛ぶのはほぼ同時だった。
そう彼女は跳んだのだ。ベッドから手で弾みをつけ、一気に藤本との間合いを詰めてきた。
殺意のぎらついた穏やかな瞳がこちらを捕らえる。
藤本は、鉄格子から一歩後ずさった。腕が首筋に伸びてくる。
咄嗟に藤本は体を沈めた。深く深く――チッと微かに髪を爪が掠る音。
次いで、ガンというなにかがぶつかる鈍い音がした。
「いってー!!」
その声に屈みこんだ体勢のまま藤本が視線を上げると吉澤が顔を顰めて蹲っていた。
あの勢いで鉄格子にぶつかったのだろう。肩と胸の辺りを押さえている。
それはそれは痛そうだったが、同情する気にはなれなかった。むしろ自業自得といえる。
一体なんだったんだ、藤本は痛みに呻いている吉澤を呆気に取られた思いで見つめながら立ち上がる。
平常を装ったつもりだったが僅かに膝が震えていた。
- 368 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:48
-
「マジいてー。美貴ちゃんさんのせいだ」
藤本が立ち上がる気配に気づいたのか吉澤が洩らす。
そこに今までの異様ななにかはなかった。
ホッとした息をついて藤本は腕を組む。
「……自業自得。っていうか、なんなの急に」
「あんまりムカついたもんだから、つい」
「なににムカついたの?美貴が今なんかしたワケ?」
まったく悪びれた風のない吉澤に藤本は今さらながらカチンとくる。
睨み付けると吉澤は右腕をぐるぐる回しながら立ち上がり、あっけらかんと言った。
「ミキちゃんさんはぁ、あたしを侮辱した。鉄格子なかったらマジで殺してたな」
「は?」
- 369 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:48
-
「あたしが殺人鬼に見えないなんて、冗談でも言っちゃダメだよ」
そう言って、屈託なく笑う姿に藤本はどういうわけか戦慄を感じた。
吉澤は、ただの人間のはずだ。
飯田のように生まれつき人間以上の力を持っているわけでもなく
矢口のように修行を積んだわけでもなく、自分のように体に異形を飼っているわけでもない。
普通に戦えば負けるわけがない。それくらい分かっている。
それなのに――藤本はゴクリと息を飲む。無性に喉が渇いていた。
- 370 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:50
-
「……ごめん」
「分かればいいけど。ミキちゃんさんは、いい奴だし今回は許す」
吉澤は笑いながら藤本に目で頷いた。
その目。穏やかに揺れる瞳。藤本がいつも見ていたもの。
だが、奥底に姿を潜めて息衝いているのは穏やかとは別種の炎。
こんな相反する光を宿った瞳を持つ人間など見たことがなかった。
しかし、これもまたいつも見ていたものなのだろうか。
藤本がそうとは気づかなかっただけで。
ゾクリとした。そして、納得した。矢口の言っていた意味。
彼女が最悪な殺人鬼であるということを、今度こそはっきりと。
「……ねぇ、よっちゃんさん」
「ん?」
「…やっぱいいや。なんでもない」
藤本は頭を振る。
自分でもなにをききたかったのか分からなかった。
- 371 名前:第一章 投稿日:2004/09/10(金) 22:50
-
「じゃあね」
「ねぇ、ミキちゃんさん」
ぐったりしながらその場を後にしようとした藤本を吉澤が呼んだ。
緩慢に藤本は振り返る。
「…なに?」
「思い出した」
「なにを?」
一瞬、意味を汲み取れず藤本は問い返す。
吉澤が目を細めた。
「あたし、二年前、一人だけ目撃者見逃してたんだった」
- 372 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/11(土) 14:16
- 面白いですよ。
- 373 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:29
-
※
「…あの事件、知ってる人ってやっぱりいないと思うんだけどなぁ」
用意した事件の資料をパラパラとめくっている飯田を見ながら矢口はぼやく。
「公安の何人かとカオと矢口…あとは、吉澤とあの子ぐらいかな」
資料から顔を上げずに飯田が呟く。
あの子――そう言われて矢口は唐突に思い出した。
あの事件の時、吉澤と一緒にいた幼い少女。今まですっかり失念していた。
「なんだっけ、名前?」
「それが…カオも思い出せないんだよね」
「んー…あ、そういや一回、吉澤に面会しにきたよ、あの子」
思い出すと早いもので、矢口はポンと手を叩くと立ち上がり
飯田になんの説明もせずに研究所の受付に向かう。
あとからついてきた飯田が不思議そうに言った。
- 374 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:30
-
「どうしたの?」
「面会記録が残ってるはずなんだけど」
面会者の情報は受付に設置されたフォルダに保管されてあるのだ。
取り出したフォルダの中はごちゃごちゃとしていた。
「……ったく、あややもなかなかいい加減だなぁ」
ぶつぶつと文句を言いながら矢口は手当たり次第に面会記録を漁る。
実際、受付をしているのは松浦よりも藤本のほうが多いことを彼女は知らない。
「矢口もいい加減だよ」
矢口がぽいぽいと投げ捨てる記録を飯田はすぐに直しやすいように纏めていく。
「カオリに言われたくないって」
ザーッと記録をフォルダから掻き出して――
その行動に飯田が顔を顰める――数分後、矢口はようやくそれを発見した。
- 375 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:31
-
この二年間で、吉澤ひとみを訪ねてきたのは公安関係者以外彼女だけだった。
飯田も矢口もその時期、彼女に会って会話を交わしているはずなのに、
二人してどうしてこうも記憶に残っていないのだろう。不思議な話だ。
「ま、いいや」
気を取り直し、矢口は面会記録に目を通す。
飯田が興味深げに覗き込んでくる。
「なんて名前?」
「えっと…亀井…絵里。そっか、そんな名前だったな」
「亀井さんか…探してみる価値はありそうだよね」
「唯一、吉澤と一緒にいて生き残った子だしな」
飯田と矢口は顔を見合わせ頷く。
その時
「矢口さん、飯田さん!」
今まで吉澤と話していたはずの藤本が慌てたようにその場に姿を現した。
- 376 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:32
-
4
「また三人揃って…いい加減、寝かせてよ」
ベッドに寝転がったまま吉澤がにやにやとしながら言った。
しかし、三人は笑わない。飯田が問う。
「目撃者を見逃したって、誰のこと?」
「さぁ?」
「…亀井絵里?」
その名を口にするなり、吉澤がバネのように体を起こした。
飯田の後ろにいた藤本は軽く身を強張らせる。
またさっきのように跳んでくるのではないかと警戒したのだ。
しかし、そんなことはなく――
「なんでそこであいつが出てくんの?」
吉澤はベッドに腰掛けたまま不思議そうに言った。
- 377 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:33
-
「唯一、あなたが殺さなかった人間だからよ」
飯田が簡潔に答える。
すると、吉澤は噴出した。
「なにかおかしなこと言った?」
「言ったよ」
「なに?」
「だって、あたしと会った時あいつはとっくに死んでたんだよ。
いくらあたしでも死人は殺せない」
笑いながら吉澤が言う。
意味不明の事を。
- 378 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:34
-
「死んでたって…生きてただろ」
矢口が言う。
「いいや、死んでたんだよ、最初はね。あいつ、途中で生き返ったんだ」
ますますワケが分からない。飯田と矢口が思わず顔を見合わせる。
事件の全貌を知らない藤本は、そんな二人よりもさらに話から取り残されていたが、
ただ三人ともが吉澤の言葉に翻弄されていて同じような顔になっていた。
それがおかしかったのか吉澤は笑いをさらに深め、
ついには爆笑の域まで達する。
「あのやろ」
苛立たしげに矢口が洩らす。
それを諌めるように飯田が彼女の肩を叩いた。
- 379 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:35
-
「…っていうか、まさか、あいつのこと疑ってんの?」
ひとしきり笑うと吉澤は笑いをおさめ、そう飯田に問いかけてきた。
飯田は隠さず頷く。
「可能性はあるでしょ?」
「どうかな?ぶっちゃけないと思うけど」
吉澤はあっさりと否定した。
それから、思い出したように口にする。
「でも、あいつを追っ掛けてると犯人に辿り付けるかもな」
「…どういう意味?」
「さぁね。でもって、あいつと巡り合えるのはあたしだけだ」
自信たっぷりに言う。
- 380 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:37
-
「……もしかして、亀井絵里って」
不意に藤本は一人の少女の顔を思い出して、口を開く。
飯田と矢口が振り返り、吉澤は視線をこちらに向ける。
「…そっか、あの子のことか」
「なんだよ?」
「え、いや……確かにあの子おびき寄せるにはよっちゃんさんがいるかも」
矢口の問いかけに答えるわけでもなく、藤本は自らの思考をただ口にしていた。
「あぁ、でもなぁ‥‥‥よっちゃんさんさぁ、あの子にもう会いたくないとか言わなかった?」
その問いかけに視線は一斉に吉澤の下へ。
吉澤は珍しく気おされたように一瞬口ごもり
「…そういや、言ったような気もする」
「じゃぁ、ダメじゃん」
「そうか、ダメか」
藤本と吉澤は揃って嘆息する。
- 381 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:37
-
そんな二人を交互に見比べながら矢口が口を尖らせ
「お前ら、二人で何の話だよ。全然見えてこないんだけど」
「…とりあえず、あいつ探してみればいいんじゃない?
あーあ、久しぶりに娑婆にでたかったんだけどな」
意気消沈したように言うと吉澤はベッドに寝転がる。
「答えろよ、バカ」
「もういいよ、矢口。とりあえず、吉澤の言うとおりあの子を探そう」
「でもさぁ、カオリ」
肩を叩かれた矢口は飯田を見上げる。
「でももストもないよ、矢口」
「ほら、駄々こねないで、矢口さん」
藤本はポンポンと矢口の頭を撫でた。
「子ども扱いすんなよ、二人して」
飯田の死語と藤本の行動に、気を悪くしたらしい矢口は早足でその場を後にした。
- 382 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:39
-
※
あの人は自分を見逃した。
本来なら、怯えた程度で許してもらえるわけがない。
あの人の通った後に生きている者が残るはずがない。
なぜならそれこそがあの人の力だからだ。
あの人が人を殺そうとした時それは発動する。
現に殺された人間は誰一人あの人から逃げ出せなかった、
誰でも出入りできるただの駐車場だったにもかかわらずだ。
勿論、逃げだそうとした人も確かにいた。
だけど、出入り口に向かった男は何もないところで自らの足を縺れさせ転倒し、
フェンスをよじ登って逃げようとした男は錆びて切れた網目の端が服に引っかかって
最後まで登り切れなかった。
- 383 名前:第一章 投稿日:2004/09/11(土) 22:39
-
殺すという行為において偶然という現象はあの人に味方する。
それはあの人の力だ。
それなのに、あの人自ら自分を見逃してくれたのは
「…私があとを継ぐ存在だから」
彼女は呟く。
鉄橋下、血臭。死体。
「まだ足りないよ。あの人に届くにはまだ…」
彼女はもはやぴくりとも動かないそれを軽く蹴飛ばし笑みを浮かべた。
心からの笑顔のつもりだったそれは、
しかしながら、凍りつき引き攣った笑みであった。
- 384 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/12(日) 22:06
-
第二章
- 385 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/12(日) 22:08
-
1
少女は、新聞の切り抜きと何枚かに束ねた地図を片手に歩いていた。
地図には赤い文字で日付とバツ印がつけられている。
ようするに、それらは、いつ、どこで事件が起きたのかを示している地図であった。
一つ、二つ、三つ――合計八つの赤いバツ印が見て取れる。
つまり、現段階でもう八人もの人間が殺人鬼の手に掛かってしまったということだ。
しかし、もはや無機質でしかないそれらの情報を見ても同情も悲しみも湧いてこない。
もしかしたら、ある日突然自分が殺人鬼に殺されるかもしれないという恐怖も全く――
そんな感情を抱けるほど少女は大人ではないからだ。
巷で起こる事件の全てはきっとそんなものなのだろうし、
直接自分たちに関わりがなければ、それは映画の中の1シーンとしか思えない。
どこか遠く海の向こうで起きている戦争に実感が湧かないのと同じことだ。
- 386 名前:第二章 投稿日:2004/09/12(日) 22:09
-
ただ少女には他の者とは違い、被害者になるべき自分とは無関係な人間に
してあげなければならないことがあった。とても大事な行為。
それは少女の絶対的な存在理由。
しかし、ここ数ヶ月どういうわけかそれが出来ない状況に陥っている。
殺人鬼のほうが少女よりも行動が早いのだ。
追いつけない。先回りが難しい。今までにない事態に少女は疑問を抱いた。
そして、知った。
死体をつくっている者は――
起こるはずのない事態に少女は酷く戸惑い、
仕事は二の次で、その行方を追うことに決めたのだった。
- 387 名前:第二章 投稿日:2004/09/12(日) 22:11
-
※
ほんの二週間前には恐らく野次馬で埋め尽くされていたであろう現場も、
今はただ閑散としているだけだった。嘗て存在した喧騒が賑やかであればあるほど、
残された静寂は耳に微量な痛みを呼ぶ。何もない。そこは本当に何もない路地裏だった。
けれど、そこになにかがあったことを地面に残されたチョークの痕が謙虚に主張していた。
この中に頸部を抉られた死体が放置されていたのだ。
今ではそのことが到底信じられないほど、血の跡もなく、死体もなく、
綺麗に、綺麗に、処理されてはいるが、確かにそこにあってはならないものがあったのだ。
人の目に触れてはいけないもの。
人ではなくなってしまった人の凄惨な結末が。
結末は速やかに片付けられなければならない。運ばれなくてはならない。
遺族を納得させるために、人々を震え上がらせないように、
この場所から、この世界から、持ち出さなくてはならなかった。
- 388 名前:第二章 投稿日:2004/09/12(日) 22:11
-
けれど、死体の無い殺人現場は――ひどく不自然に見えた。
きっとそれは思ってはいけないことで、口にしてはいけないことだというのは分かる。
ただ死体が無いこの場所を殺人現場などと呼んではいけないような気がした。
ここは、この場所はもう、いくらその名残を残していたとしても
全て片付けられたただの路地裏でしかないのだから――藤本美貴はそんなことを思う。
殺人現場に佇みながら、そんなことを彼女は思っていた。
- 389 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:40
-
「ミキたん、どう?」
「どうって…今、来たばっかじゃん」
そんな藤本に一緒に来ていた少女が声をかけた。
今朝、矢口から今まで起きた殺人事件の現場巡りを言いつけられた藤本は、
家を出る際にこの少女、松浦亜弥にばったり会ってしまったのだ。
怖がりな彼女を殺人現場なんかに連れて行けばどうなるかおおよその想像はついたのだが、
何度、説得を試みても彼女は頑として聞かず、結局、藤本が折れる形となって
こうして今、一緒に現場にいるわけだ。
案の定怖いのか、先ほどから彼女は藤本の肘辺りを掴んで離そうとしない。
動きが制限されてしまい、邪魔だなとは思うものの、
あまり邪険にも出来ず藤本はゆっくりとそのまま現場を調べていくことにした。
- 390 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:41
-
上体を折り壁や地面を舐めるように見回していく。
「亜弥ちゃん、カメラ頂戴」
「うん」
松浦の取り出したカメラを受け取るとフラッシュを焚いて現場を保存する。
ポケットからメモ帳を取り出し、気づいた事を書き付ける。
やがて、全てを調べ終えると藤本は今まで回ってきた現場のメモと
たった今取ったメモを見比べて首を捻った。
「何か分かったの?」
「ん、いや、ちょっとね…」
言葉を濁すと松浦が説明を求めるように、ぐいっと顔を覗き込んでくる。
藤本は顔を引きながら「…説明するってば」松浦を両手で後ろに押し戻した。
- 391 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:42
-
「…今日、全部の現場を見回ってきてここが最後じゃん」
「うん」
「なんか変なんだよ」
「何が?」
「この場所がさぁ…」
場所。松浦が眉を寄せる。
藤本が引っかかったのは一つだった。
朝から七つの現場を回ってきて、これが最後、八つ目の現場である。
藤本は改めて周囲を見回す。
薄汚れたビルの壁、高い高いビルの壁が、路地裏を四角く囲っている。
出口はたった一つだけ、それも途中で折れ曲がっていて、通りからこの路地裏は完全な死角だ。
誰にも見えない。誰にも見つからない。
殺しをする側にしてみれば、こんなに都合のいい場所は無いだろう。
それこそが藤本に疑問を持たせた。ここがあまりにも殺人現場になるに相応しすぎたため、
それ以前の場所のおかしな点が浮き彫りになってきたのだ。
- 392 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:42
-
「被害者は全員首筋を抉られてるワケじゃん」
「うん」
「この場所ってどう?人目につきやすいと思う?」
問われた松浦の方は藤本がしたのと同じように周囲を見回した。
彼女が思うことも藤本が思うそれと一緒だろう。
「多分、夜なら絶対に人目にはつかないと思うけど……それがどうかしたの?」
「この犯人はさ、ここだろうが他の場所だろうが――
そう、えっと、ここよりも圧倒的に人目につきやすい場所でもやってることが同じなんだよ。
意味分かる?」
「…意味って」
松浦が口ごもる。
- 393 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:43
-
「つまりね、犯人は人目をまったく気にしてないみたいじゃん。
そんなことあるのかなぁと思ってさ。人を殺す時に人の目を気にしないなんてありえなくない?」
藤本の言葉に松浦がもう一度辺りを見回し、どこか怯えたように頷いた。
彼女が怯えたのも最もだ。藤本が言ったことから犯人像を想像していけば――
犯人は人の目を気にせず人を殺せる、まるで幽霊か透明人間のような存在になってしまうからだ。
朝比奈の殺人鬼、吉澤もまたそうだったのだろうか。ふと思う。
「…まぁ、いいや。帰って考えよう」
もう落ちかけている陽に気づき、藤本は怯える松浦の肩をぽんと叩いた。
- 394 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:44
-
昼間の残り香が少しだけ残る世界は、もう消えかける寸前の蝋燭の炎のようだ。
これから光がぶり返すようなことは無いし、朝日が昇ってくるまで世界は夜の帳に包まれる。
そうしてまたその闇に溶け込んだ殺人鬼が獲物を求めて動き出すのだ。この街のどこかで。
藤本は嘆息し、歩き出す。松浦がすぐに腕を絡めてきた。
「……ちゃんと守ってよ」
「はいはい」
同じ現場に犯人が戻って来るのはドラマの中だけだ。
引っ張るような早歩きの松浦に苦笑しながら、藤本は家路の方へ体を向け――
そこに、路地裏を塞ぐように人が立っているのを見つけた。
松浦の手がビクリと反応する。
- 395 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:46
-
「…大丈夫だって、美貴、強いでしょ」
安心させるように松浦に小さく声をかけながら藤本は人影を見据える。
奇妙な気配を放つ人影はゆらゆらと怪しげに揺れている。
そんな馬鹿な、という思いが胸に湧いていた。こんなことあるはずが無いという漠然とした確信が浮かんでいた。
しかし、すべての被害者もまたそう思っていたに違いない。
藤本は気を落ち着かせるために息を吐き出す。
自分を囮にして松浦を先に逃がすべきかどうか悩んだ。
あの人影が犯人だという確証はない。
もしもあれがただここを通りかかった普通の人間だったとしたら大恥をかくことになる。
けれど、普通の人間がわざわざこんなところを覗き込むものだろうか?
ここには何も無い。
あの人影が立っている所から見ても先が行き止まりなのは明白だ。
本当に何も無いのだ、ここには。
やはりあの人影はここに来るために立っているとしか考えられない。
- 396 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:46
-
その時、人影がこちらに気づいたように小走りに近づいてきた。
藤本は手で松浦を自分の後ろに隠す。
「こんにちは」
なにがあっても松浦だけは守るつもりで身構えていた藤本にそんな間延びした――
緊張感の欠片も無い声が投げられた。
「は?」
対して藤本は、緊張感の欠片もないなんて、人のことをとやかく言えない
間抜けな返事しか返せなかった。しかし、その人影――少女はそんなことを気にすることもなく会話を続けてきた。
「なにしてるんですか?こんなところで?」
「なにって…」
少女が一歩足を踏み出す。顔がはっきりと見えた。
どこかで見たことのある――
- 397 名前:第二章 投稿日:2004/09/13(月) 22:47
-
「あ」
思い当たって藤本は小さく声を零す。
それに気づいていないのか少女がちょこんと小首を傾げながら言った。
「あなたが吉澤さんの真似っ子さん?」
「……やっぱりそうか」
その言葉で自分の記憶に確信を持つ。
少女が不思議そうな顔になる。
「覚えてない?一年くらい前にあんたに気持ち悪いって言った」
藤本は自分の顔を指差しながら少女に言う。
まじまじと少女は藤本を見つめ、時間にして約三秒後「あー」と口を開けた。
- 398 名前:第二章 投稿日:2004/09/14(火) 22:18
-
2
「うちのミキたんが失礼なこと言ってすみません」
「うちのってどこのうちだよ、バカ」
頭を下げる松浦に藤本がツッコミを入れる。
少女は、その様を見て微笑する。
「ニヤニヤしない、そこ」
「あ、すみません」
ずびしっと指を突きつけられて少女はつい頭を下げる。
どうもこの人は苦手だ、と思う。
「たんも威張らないの」
「うっさいなぁ」
母親の小言を鬱陶しがるように藤本が手を振る。
そして、少女に向きなおった。
- 399 名前:第二章 投稿日:2004/09/14(火) 22:18
-
「やっぱりあんたもこの事件が、よっちゃ…吉澤ひとみの仕業だと思って調べに来たの?」
随分、直球な質問だ。
少女は苦笑する。
「そんなとこです」
「そう。美貴たちも調べてたんだよ。
ちなみに吉澤ひとみはちゃんと研究所にいるから安心していいよ」
「…そうですか」
安心すると同時にほんの少し落胆する。
吉澤があそこから抜け出していたら、楽しかっただろうに。
そんなことを考えていると不意に頭の中にビジョンが浮かんだ。
少女は目を見開く。また誰かが殺されようとしている。
- 400 名前:第二章 投稿日:2004/09/14(火) 22:19
-
「すみません、用事が出来たので帰ります」
「は?」
「すみません」
もう一度口にし、少女はとんでもないスピードでその場から駆け出した。
「ちょっと!!」
慌てたような藤本の声。足音。
しかし、少女は止まらない。振り返りもしなかった。
「待てってば!!亀井絵里ぃ!!!!!!!!!」
足音が遠ざかる。追いかけられなくてよかった。
少女は思いながら――
そういえば、亀井絵里と呼ばれるのも随分久しぶりだなと微笑んだ。
- 401 名前:第二章 投稿日:2004/09/14(火) 22:20
-
※
「…相変わらず礼儀がなってないな、君たちは」
長い吐息と共に心情を吐き出した男は、目の前に佇む二人の女を上目遣いに見上げた。
警備局公安六課特殊処理係改め、刑事局特別捜査第六課のオフィス。
その管理職に与えられたにしては極質素な余り広くない部屋。
「ちゃんと手続き取ってたら待たされちゃうじゃないですか」
皮肉っぽい矢口の言葉に男はまいったというように首を振る。
「しかしなぁ、俺の一存だけじゃなんとも言えない相談だな」
「そこをなんとかしてもらえませんか?」
「ばれなきゃ大丈夫ですよ」
冗談めかした矢口に飯田と男の冷たい視線が投げられる。
矢口はちぇっと肩をすくめた。
- 402 名前:第二章 投稿日:2004/09/14(火) 22:20
-
「吉澤ひとみを放して犯人を捉える、か。それで吉澤が犯人を殺す確率は?」
そんな矢口には構わず男が飯田に尋ねる。
「…確率は60%。ううん、70。いや、80かな」
「おいおい、それじゃ俺は首を縦に触れないぞ」
正直に答える飯田に男が苦笑する。ですよね、と飯田も苦笑する。
矢口は呆れたように二人のやり取りを眺めていた。
「まあいい。どうせあの事件以来左遷人生だしな。
吉澤を放して犯人を死体にするか、今回の犯人を野放しにして死体を増やすか。
どちらも同じことか」
合理的な男の言葉に矢口はぽかんと口をあけ、飯田は満足げに微笑んだ。
- 403 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:34
-
3
少女は動き出す。
流れていく景色と意識。
地面を蹴りつけるその一歩が脳内に陶酔をもたらしていく。
あの殺人鬼と比べものにならないほど稚拙だというのに、少女は、それでも自身の殺人に酔っている。
駆け出していく衝動に酔っている。目標に近づいていく怜悧に酔っている。
相対する距離に、切り裂いていく空気に、朱に染まり始めた景色に、
鼻腔に流れ込む訥々とした空気の脈動に――彼女はその全てに酔いしれていた。
視界は平行を保持したまま動かない景色を彼女に映す。
最低限の振動と上下を続ける歩行は、正確に獲物との距離を測り、その接近速度を割り出す。
残りは三秒。たった三秒。けれど長すぎる三秒。
少女は、唇を舐め、脳裏で転がし、堪能した。その長く短い一瞬を、久遠を。
角膜に数字が瞬きカウントダウンが始まる。
- 404 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:35
-
三――
指先でナイフを強く握り締める。
ハンドルのざらつきが指紋の一つ一つと融合する感覚。
獲物と呼吸を合わせる。
その全てが、殺し合いに特化した身体の進化。殺人の空気に汚染された少女の変化。
二――
舌の先に塩辛い汗の味を感じ、衝突が近いことを納得する。錯覚する。
きっとそれはつまらない手数。一瞬で全てが決するはずの、薄ら暗い退屈の予測。
けれど高揚は変わらない。多分、いつまでも変わらない。
一――
眼球の裏に、瞬く殺人の感覚を抱き、少女は――
零――
ナイフを振りぬいた。手首に、肘に、跳ねる振動。
彼女を焦がしていく一瞬だけのシジマ。
呼吸も脈拍もなにもかもが凍りつく一瞬。
- 405 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:36
-
少女は息を吐きだした。
今日も無事にやれたことにホッとして力が抜け、膝から崩れ落ちる。
その視界にふっと影が落ちた。少女は、ビクリと怯えた顔を上げる。
「…誰?」
「……ふぅん、あなたが本物の真似っ子さんか」
影は少女の質問には答えず、納得したように頷く。
その影には一切気配がなかった。
影は少女に背を向け、少女の作り出した死体を前にしゃがみ込むと手を合わせた。
隙だらけのその背中。しかし、少女は動けない。
影に対して得体の知れない恐怖が湧き上がっていた。全身に鳥肌が立つのを感じる。
なんだ?なんなんだ、コレ?――少女には、この影が人間とはとても思えなかった。
姿形はそうだが、これは別物だ。やばい。これはヤバいやつだ――
少女は、使ったばかりのナイフを影に気づかれないよう最低限の動作で握りなおす。
- 406 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:37
-
「ねぇ、どうして吉澤さんの真似するの?」
背中を向けたまま影が呟いた。
「…吉澤、さん?」
「アレ?真似してるのに名前知らないの?」
影がこちらを振り返り嘲笑を浮かべた。
「なーんだ、つまんない」
いうと、影は立ち上がりその場から立ち去る気なのか歩き出す。
慌てて少女は立ち上がった。
「ちょっと待ってよ、あんた誰?あの人のこと知ってるの?」
影が歩みを止め、顔だけを少女に向ける。
- 407 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:38
-
「真似っ子さんは吉澤さんに会いたいの?」
「え?」
「だから、こんなことしてるの?」
影は少女の答えを待っている。少女は答えあぐねた。
会いたいのかどうなのか、分からなかった。
少女は、あの殺人鬼がもうとっくにこの世にはいないものだと思っていたので、
そんなこと一度も考えたことがなかったのだ。
少女を突き動かしていたのは一つ。
あの時、あの人を見てドキドキした。憧れた。
あの人のようになりたいと思った。それだけだ。それだけが少女を突き動かしていた。
けれど――
もし、あの人が生きていて、この影はその居場所を知っているのだとしたら?
「……会いたい」
少女は掠れる声で答えた。
会って、思いを告げる。自分はあなたになるためにこんなに頑張っているのだと。
どんな顔をしてくれるだろう。少女の成長振りに殺人鬼は喜んでくれるだろうか。
- 408 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:39
-
「ふぅん。それじゃぁ、吉澤さんの居場所のヒントなら教えてあげてもいいよ。交換条件だけど」
「…条件ってなに?」
「死ぬ時はちゃんと私に看取られて死んで」
可愛らしく首を傾げて影が言う。少女はギョッとした。
死ぬ時?そんなのいつくるんだろう。
とりあえず、当分の間そんな予定はないし、
そもそもあの人に会って死ななかった自分が死ぬなんて事態はありえないような気がした。
「……いいけど」
「じゃ、ヒントあげる。真似っ子さんが四回目に人を殺した場所かな。
あそこの目と鼻の先にある大きな建物。実はあそこにいるんだよ、吉澤さん」
「ホントに?」
「疑うよりもまず行動しましょう。それじゃ」
今度こそ影は歩き出した。しかし、すぐに立ち止まりこちらを振り返る。
- 409 名前:第二章 投稿日:2004/09/15(水) 22:39
-
「約束守ってね」
小指を掲げて影は笑った。
少女は一瞬呆気に取られ、そしてさっきから聞きたかった事を口にした。
「あなた、一体なんなの?」
一拍の後、影は答えた。
「死神だよ」
それは決して冗談ではなく、真剣で、そしてどこか誇らしげな答えだった。
呆気に取られている内に影は本当に闇に呑み込まれて姿を消してしまう。
「……死神なんて縁起でもない」
少女は影が消えた場所を見やりながらそう呟いた。
- 410 名前:第二章 投稿日:2004/09/16(木) 23:01
-
4
三人は再びひんやりとした廊下を歩いていた。
向かうは吉澤の住まう地下特別房。
一日中かかって見て回った現場状況を報告するつもりだった藤本を待っていたのは、
吉澤を外に出すという飯田の言葉だった。
結局、今日一日の自分の行動が徒労に終わった事を知って
藤本はムスッとしたまま飯田たちの後に続く。
飯田が、隠しキーを一定のリズムで叩くのを壁に寄りかかって眺めながら
藤本はわざと大きく溜息をついた。
「…なに怒ってんだよ、藤本」
それを聞きとがめたのか矢口がこちらに顔を向ける。
- 411 名前:第二章 投稿日:2004/09/16(木) 23:02
-
「別に…」
「お前が亀井を逃がすのが悪いんだろ」
「だから、なんにも言ってないじゃないですか」
「カオリは、美貴のおかげで亀井さんも無事に生きてることがわかって安心したよ」
矢口の言葉にますます不機嫌になってきた藤本の機嫌を取るように飯田が言う。
虚をつかれて藤本はキョトンと問い返す。
「無事生きてるって?」
「だって、あの子家なき子だもん。同情するなら金をくれってね」
「は?」
藤本の疑問と共にエレベーターが到着した。
「美貴は上にいていいよ」
「はぁ?」
藤本の疑問と共にエレベーターの扉が閉まった。
- 412 名前:第二章 投稿日:2004/09/16(木) 23:03
-
※
まるで飯田たちが来る事を知っていたかのように
吉澤ひとみは鉄格子の外側――即ち、自分たちへ――鋭い視線を投げていた。
飯田は苦笑する。
「もう準備できてるみたいね」
「あぁ、もちろん。万端だよ」
吉澤が首をコキコキと鳴らす。
飯田は頷き、腰につけていたキーホルダーからカードキーを取り出しカードリーダーに通す。
ピーッという機械音と共に、電子ロックが解除される。
音もなく吉澤が立ち上がった。
出口のすぐ前まで彼女はやってきて、しかし、訝しげに立ち止まる。
飯田が、その目の前に立ち塞がるようにして立っていたのだ。
- 413 名前:第二章 投稿日:2004/09/16(木) 23:03
-
「条件は二つ、かな」
「…なに?」
「一つ、絶対に戻ってくること」
言うと、吉澤がふっと表情を緩める。
「それなら安心していいよ。あたしが逃げる時は自力でだ。
今回は、あんたが逃がしてくれるんだろ。ちゃんと戻ってくるよ」
「そう」
飯田は体をずらし鉄格子を開ける。吉澤が一歩足を踏み出す。
そして、そのまま去っていこうとする。
「ちょっとカオリ、このまま行かせていいの?」
吉澤を止めようとしない飯田に矢口が焦ったように声をかけた。
飯田は矢口に頷き、吉澤の背中に顔を向けると言った。
- 414 名前:第二章 投稿日:2004/09/16(木) 23:04
-
「もう一つの条件」
「…なに?」
階上へと向かうエレベーターの中、吉澤が振り返る。
一瞬――その姿が誰かと被った。なぜなのかは考えなくても分かる。
これから自分が言おうとしていることは、あの時、言ったことだ。
そして、それは今回も守られることはないだろう。
「犯人は殺さないこと」
吉澤が笑いながら手を上げ、まったくやる気のない返事を返した。
ドアが閉まる。
「…善処するよって、絶対しないだろあいつ」
「そういえるだけ吉澤も大人になったってことね。
矢口は、和田さんへの報告どうするか考えといてよ」
ぽんと矢口の肩を叩くと彼女は「また尻拭いかよ」と毒づいた。
- 415 名前:第二章 投稿日:2004/09/17(金) 23:14
-
※
「…転職しようかな」
受付の椅子に座り、今日取ってきたばかりの現場資料をぼんやり見ながら藤本美貴は呟いた。
展開が速すぎてついていけない。どうせ吉澤を外に出すのなら、
自分に現場を見て来いなどと言わないでほしい。
大体、矢口も矢口だ。飯田がいない時だけこき使って、いる時はのけ者にするなんて本当に酷い。
そんなことを考えながら、何度目かの溜息を藤本がついたときだった。
奥の廊下から吉澤が一人で駆け出てきた。藤本は驚いて立ち上がる。
飯田も矢口もその傍にはいない。
彼女に協力させるとは聞いたが、野放しにするなんて聞いていない。
- 416 名前:第二章 投稿日:2004/09/17(金) 23:15
-
「よっちゃんさん!?」
「おぅ、ちょっくら行って来るよ!」
藤本の呼びかけに吉澤はにこやかに手を上げ表玄関から出て行った。
「行ってらっしゃい…じゃなくて、飯田さんたちは?」
あまりの勢いに取り残された藤本はそう洩らす。
その時、今度は裏口玄関のチャイムが鳴った。
- 417 名前:第二章 投稿日:2004/09/17(金) 23:16
-
玄関を開けると、見知らぬ少女が立っていた。
黒髪でどちらかといえば真面目そうな印象を受ける。
裏口から訊ねて来るのは飯田か矢口の知り合いだけのはずだが、
その二人の知り合いにしてはどう見ても若すぎる。
勿論、事情ありで二人を訪ねてくる者もいないわけではないのだが。
「…えっとぉ、どなた?誰に用?」
藤本の問いかけに少女はどこか怯えた様子を見せた。
また顔が怖くなっているのか?思って、微笑んでみる。
すると、今度は怪訝そうに少女は一歩後ろに後ずさった。失礼なやつだ。
思わず、舌打ちしそうになるのをどうにか堪える。
- 418 名前:第二章 投稿日:2004/09/17(金) 23:17
-
「あの」
少女が口を開いた。
「ん、なに?」
「ここに吉澤…さんっていますか?」
続いた言葉に藤本は目を見開いた。
その反応に少女が「本当にいるんだ…」誰にでもなく洩らす。
その目はもう藤本を見ていなかった。
ただ吉澤がいるという事実を噛み締めているような恍惚の表情。
こいつ、おかしい。藤本は気づく。
なにがどうとかじゃなく、本能的にそう察知した。
- 419 名前:第二章 投稿日:2004/09/17(金) 23:17
-
「あんた、どこでそんなこと聞いたの?」
「生きてるんだぁ!生きてる、生きてる!!やったぁ!!」
藤本の言葉がまったく聞こえていないかのように少女は体一杯で喜びを表現する。
「ねえってば!」
藤本は少女の肩を掴んだ。
その瞬間、眼前に銀光が閃く。ナイフだった。
「っ!!」
間一髪で、体を右下方へ流しナイフの攻撃を躱しつつ
藤本は手加減なく少女の体に蹴りを打ち込んだ。少女の体が道路にすっ飛ぶ。
藤本はそれを逃すまいと一気に間合いを詰めようとして――
「…なっ!」
横っ飛びに転がった。
- 420 名前:第二章 投稿日:2004/09/17(金) 23:18
-
半瞬遅れで藤本のいた箇所に飛んで来たのは、
少女の手にしていたナイフだった。しかし、投げたのは少女ではない。
藤本は、すぐさま立ち上がり新たな攻撃者を睨みつける。
「どういうこと!?」
「悪いね、これはあたしの獲物なんだよ」
その攻撃者はニッと笑うと少女を肩に担いで走りだした。
一体、どこにそんな力があるのかと思ってしまうほどその足は早い。
「ちょっと!待ってよ――よっちゃんさん!!」
追いかけようとした藤本だが――数歩動いた所で足首にはしる痛みに蹲る。
どうやら飛んだときに捻っていたようだ。
「…もうマジ転職する」
がっくりと項垂れたまま藤本は呟いた。
- 421 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:19
-
5
ドサっと地面に投げ捨てられて少女は顔を顰めた。
強打した腰をさすりながらおずおずと視線を上げる。
「…吉澤、さん?」
あの日見た殺人鬼が目の前に立っていた。
あの日よりも少しだけ大人っぽくなった殺人鬼。
「善処する、しない、する、しない……」
殺人鬼は、こちらを見下ろしながらなにやら難しい顔でぶつぶつと言っている。
そして「やっぱしない」きっぱりいうと、いきなり少女の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。
キレイで大きな二つの瞳が真正面に降りてきて少女は息を呑む。
「お前さ、あたしと勝負しないか?」
「え?」
穏やかに穏やかに揺れる瞳が目の前にある。
これがあの日の殺人鬼と同じ人なんだろうか?
そんな疑問さえ浮かんでくるほどそこにあるのは慈愛に満ちた瞳だった。
- 422 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:20
-
「…ど、どうして私があなたと勝負するんですか?」
「そりゃぁ、お前があたしの真似っ子だからだろ」
「真似っ子…」
その単語に少女はあの自称死神を思い出した。
彼女も自分の事を真似っ子と呼んでいた。
「あたしの真似してなにしたいんだ?」
「それは…私がずっとあなたに憧れてて」
殺人鬼の目が細くなる。
笑ったのだ、と気づくのにどうしてか時間が掛かった。
彼女はただ笑っているだけなのに、少女の体に冷や汗が伝い落ちる。
それを緊張のせいだと思い込んで、上擦った声で少女は言葉を続けた。
「私は、その、だから…あなたみたいに強くなりたくて、
怖いものなんてなにもないあなたになりたくて、それに……」
「それに?」
短い言葉で促される。
心臓がバクバクと早鐘を打つ。
- 423 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:21
-
「あなたは、あの時私を見逃してくれた。
それは私があなたを継ぐ存在だからじゃないんですか?」
少女は一息で言い切った。
あまり息を吸っていなかったので語尾がかすれてしまったが意味は伝わっただろう。
殺人鬼を窺い見る。殺人鬼はやはり目だけで笑っていた。
「随分と楽観的な奴だな」
「……」
「まあいいけど。でも、お前があたしを継ぐ存在なら尚更戦わないといけなくなってくるな」
「な、なんでですかぁ?」
「尊敬する者を殺してこそ大人になった証拠だ。聞いたことあるだろ」
そんなの聞いたこともない。
少女は思うが、殺人鬼の断定ぶりについ頷いてしまう。
「ならば、勝負しよう」
「……それは、殺し合いということですよね?」
「勿論」
- 424 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:22
-
少女は迷った。
折角、会えた憧れの人物に殺し合いを求められている。
彼女に憧れ、彼女のようになりたくて、同じ事を繰り返してきた自分。
彼女のようになれれば、世界中から怖いものなどなくなると思っていた。
初めて人を殺したとき少女は吐いた。胃の中が空っぽになるまで吐いた。
首筋にナイフを刺し込んだ時の感触がいつまでもいつまでも手に残っていた。
怖かった。何度か数をこなしたら、それはなくなるのだと思った。
けれど、吐くことはなくなったけれど、少女はいつも怖かった。
人を殺すとき、少女はいつも怖かった。
何人殺してもそれは変わらなかった。少女は、変われなかった。
あの時、殺人鬼を前に震えていた頃となんら。
それはなぜなのか――囚われているからではないか?
あの日、この殺人鬼に植えつけられた恐怖がこの体から消えず
深い痕となり残っているのではないか。少女の勝手な思考は進む。
そうならば、もしも自分が目の前にいるこの人物を殺せたならば――
なにもかもが変わるのかもしれない。恐怖はなくなるのかもしれない。
そうなった時こそが、本当に彼女になれた時だ。真似っ子なんかではなく本物に。
- 425 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:23
-
「……分かりました。やりましょう」
少女は、殺人鬼に言った。
はじめて少女は殺人鬼と真っ直ぐに視線を合わせた。
「よし。じゃぁ、名を名乗れ」
「は?」
「冥土の土産に名前を聞いといてやる」
「…こ、紺野あさ美…です」
紺野あさ美ね、と殺人鬼が少女の名前を確認するように呟く。
少女は頷き、ゆっくりと立ち上がった。
先ほど蹴られた腹部が痛んだが、これから殺しあう殺人鬼に悟られないように
少女は無表情を装って、ナイフを取り出す。しかし、殺人鬼のほうはピクリとも動かない。
それどころか
「勝負は明日にしよう」
唐突に提案した。
「え?」
「明日の夜、お前が最初に人を殺した路地で待つことにする。
それまで腹治しとけ」
最後の言葉にぎくりとした。
上手く隠していたつもりだったが、殺人鬼にはすっかりお見通しだったようだ。
恥ずかしくなってくる。チラリと窺うと殺人がニヤリと笑った。
カッと頬が熱くなって
「…分かりました……た、楽しみにしています」
口早に言うと少女はその場から駆け出した。
- 426 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:24
-
※
逃げるようにして走りだした少女を視界に捕らえたまま――
殺人鬼、吉澤ひとみは口を開いた。
「で、お前はそこでなにしてんの?カメ」
曲がり角のすぐ傍、電柱の後ろにいる影がその声に反応してピクリと動く。
道を挟んで立っているガードミラーにしっかりその背中が映っているというのに、
あれで隠れているつもりなのだろうか。
「…か、隠れてるんですけど」
案の定の答えに吉澤は彼女から見えないように小さく噴出す。
「丸見えだ、バカ」
「すみません」
「出てこいよ」
吉澤は促す。
しかし、彼女はその場から動こうとしなかった。
- 427 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:24
-
「なにやってんんだよ?」
「だって、吉澤さん、生きてる間は死神なんかに会いたくないって言ったじゃないですか。
約束ですから、姿は見せません」
だから、見えてるんだよ――吉澤はそう怒鳴ろうとしてやめる。
頑張って隠れている彼女があまりにも間抜けすぎて怒鳴る気がなくなってしまった。
「ああ、そうか。で、なんで見張ってんだ?」
「えっと……あの子と約束してて」
「約束?」
「はい。死ぬ時は看取らせてもらう約束」
誇らしげに言う彼女に吉澤は呆れた息を付く。
- 428 名前:第二章 投稿日:2004/09/19(日) 22:25
-
「あたしを看取る羽目になるかもしれないな」
「それはそれでチャイコーですけど」
「あっそ」
薄情な奴だ。吉澤はけっと舌を出す。
「う、うそですよ。絶対に死なないでください。
吉澤さんが死んだら、私、すごく悲しいもん」
いつの間にかガードミラーに映っているのは背中ではなく体の表側になっていた。
二年ぶりに見る彼女の顔に吉澤は表情を緩める。
「…あたしが死ぬワケないだろ」
吉澤はくるりと踵を返して歩き出した。
背中に彼女の視線を感じながら――
- 429 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:14
-
第三章 殺人鬼の宴
- 430 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:15
-
1
長い長い夜が抜けると、
長い長い昼があった。
あんなことがあったのに
何も変わらない、いつもと同じ一日があった。
私はそれを惨いと思った。
私はそれを酷いと思った。
誰も私に気づいてくれなかった。
助けてくれるのはあの人だけだと思った。
でも、あの人はいなくなった。私をおいてあの人は勝手に死んでしまった。
私に恐怖だけを植え付けて消えてしまった。
怖くてどこにもいけない私は毎日毎日同じ日を繰り返す。
延々と続く平穏と、永遠に続く日常。
誰も知らない。親も気づいてくれない。
この胸の中の恐怖がどれだけ根深いかなんて。
私はきっと
恐怖もなくただただ平穏に
世界を謳歌する他の皆が羨ましくて大嫌いだった。
- 431 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:16
-
※
ただでさえ人気とは無縁の夜は、少女の起こした殺人騒動のおかげで
より一層の孤独を深めていた。出歩く者など皆無に等しい。
こんなに月の綺麗な夜だというのに勿体無い。少女は思う。
夜道には誰もいなくて、たった一人。誰とも出会わない。出会えない。
少女はただ一人で歩く。しかし、それはなにも今に限ったことじゃない。
あの日から少女はずっと一人だったのだから。
世界から隔絶され、少女もまた世界を受け入れず、神経が、精神が、心などという虚ろな物が――
壊れてしまいそうな、皮肉なまでに完成した単独な孤独。少女は、そんな生を生きていた。
今まで認めたことはなかったが、少女は今、純粋にそれしかなかった自分の生を寂しいと感じていた。
- 432 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:18
-
「・・・?」
ふと自分の名前を呼ばれたような気がして少女は立ち止まる。
昏い路地裏、陽はとうに息絶えた丑の刻。本当に凍りつくような深夜。
何もかもがあやふやで、自分自身にすら確信を持てない、そんな夜の具現――
普通なら気のせいだと笑い流せることだった。だが、今日ばかりはそうはいかない。
おそらく自分を呼んだのは殺人鬼だ。いつ来るかも分からない相手。
少女は、腰にくくりつけていたナイフを握り締め、溜め息を吐く。
目を閉じて月の光を浴びる。
冷気を帯び始めた季節の風を浴びる。
朝も昼も夜も、全ての時間が消え去って、ただここに、
この時間だけが永遠に続いていくような空想じみた連続化の衝動。
それがなぜだか無性に可笑しくて、少女は表情を変化させないまま笑った。
- 433 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:18
-
目を開けて夜を見る。
冬のように鋭利ではなく、夏のように強引ではない、ただ在るがままに自己を主張する、
静かに謙遜された夜。特別、夜が好きと言う感情はなかったが、
ただ今だけはこの夜を愛でていたいと思う。それほどに隙のない、死の無い夜だった。
しばらくすると、そんな綺麗な夜に似つかわしい綺麗な殺意が少女の周囲に漂い始めていた。
もう少し、もう少しだけ、素直にこの夜を受け止めていたかったがタイムリミットのようだ。
でも、いい。決着がつけばまた夜を、
いや、今までと違う本当に心のそこから静謐な夜を味わえるようになるだろう。
- 434 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:19
-
少女は、徐に走りだし身に纏わりつく殺意を誘導した。
路地の奥へ奥へ。暗い方へ、暗い方へ、薄汚れた闇の方へ。
道を交差して、直進して、右折し、左折し、また直進し。
どこまでも、ゆける。きっとどこまでも行ける。
世界の果てで、世界の果てで、自分は最強で最高の殺人鬼と殺りあうのだ。
それはきっと、きっと楽しい宴。
ギャラリーはたった一人、あの大きな丸い月。それで充分だ。
巨大な眼球が自分たちを見ていてくれる。それだけで、充分すぎるくらいの餞別になる。
他には何もいらない。気の済むまで殺しあえる。
- 435 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:20
-
やがて、少女はたどり着く。
入り組んだ路地の、入り組んだ終端。死地。
殺すか、殺されるか――充分だ。
少女は振り返った。
揺れている。
金色の髪が、月明かりを受け止めながら風に揺れていた。
膝が笑う。ナイフを持つ手が小刻みに震える。
少女は沸きあがってくる恐怖を必死に押し殺す。
自分が殺人鬼を継ぐものならば死ぬはずがない。殺されるはずがない。
殺すのは自分だ。
「私は、あなたになる!!」
叫ぶなり、少女は駆けた。
- 436 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:21
-
※
「はじまったな」
少し離れた場所から二人を見守っていた矢口真里は
隣にいる藤本美貴に言うでもなく洩らした。
「…そうですね」
律儀に藤本が答える。
「どっちが勝つかな」
「…さぁ。っていうか、今捕まえた方がいいんじゃないですかね?」
その問いには答えず矢口は顔を動かした。
- 437 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/20(月) 23:21
-
「どうかしました?」
「今、そこでなんか動いたような気がしたんだけど」
一段と暗くなったように感じる箇所を指差す。
藤本が釣られるようにそこを見やり首を捻った。
「何も見えませんよ」
「気のせいか……」
矢口は呟くと視線を戻した。
殺人鬼二人は空を駆けていた。
- 438 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/21(火) 21:59
-
2
触れたなら、何もかもを返上できる。少女は、ナイフを振り上げた。
交差。軋み。いつも隙をついて一瞬で相手を殺してきたため、
こんな戦いをするのは初めてだった。こういった使用を繰り返していない筋肉が
柔軟性を受け止めきれずに破壊されていくのを感じる。
だが、その軋みすらも今は気分を高揚させる効果音でしかない。
この腕に掛かる重圧が、圧力が、自身を作り変えていく。
もう一度生まれ変われる。意識が触れるほどの恍惚。
少女は画を描くように虚空に軌跡を穿っていく。
死点をなぞり、死線をなぞり、跳ね返され、振り回されるナイフを制し、
操り、裁き、描いていく。そうして、ただ一つの画を描く。
その完成に向け、殺人という完成へ向け、少女は半ば狂乱気味にナイフを振るい続けた。
その感覚に、悍ましいまでの歓喜の昂ぶりに、自分自身をどっぷり浸からせる。
- 439 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/21(火) 22:00
-
ナイフを振るうたびに、迸る血管。
取り留めの無い意識、拡散していく自我。思考。
ただ本能の赴くままに腕を振るう。肩が軋む。足が軋む。
踏み込みと手数に全身が軋む。筋肉が悲鳴をあげる。
オーバーワークに打ち震えている、この体。この、脆弱すぎる体。
息は切れ、意識は切れ、何もかもが断たれ、切断されゆくそんな状況。壊れていく寸前の体。
なのに、止まらない。少女は止まらない。きっと、いつまでも止まらない。
殺せないから、殺せないから、少女は描き続ける。この空に描き続ける。
- 440 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/21(火) 22:01
-
腕を、足を、胴体を、口を、鼻を、目を、表情を、顔を、頭を、脳を、
全てを突いて、全てを殺して、そうして広いキャンバスに描かれた
殺人鬼の死という完成を目指して、ナイフに全てを託していく。
殺せるように、殺せるように、繰り返し祈りを捧げ描く。
殺人を、殺人を、殺人を、殺人を。
――殺人を!
キンと高い金属音が鳴った。
パッと制空権が開く。殺人鬼の腕が僅かに開く。
ほんの僅かな挙動。ほんの僅かな空白。
しかし、殺人鬼の世界を終わらせるには充分すぎる空白。
殺人鬼の方向性、思考と嗜好、距離空間と手数、その全てを統計し、少女の体が刹那に出した答え。
殺人鬼はこの一撃を防げないという単純明快な結論。
- 441 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/21(火) 22:02
-
笑みなんて浮かばない。ただ悲痛なまでに痛々しいだけだ。
ここから落ちていく憧れの人が哀れなだけだ。
だから、笑みは浮かべない。この殺し合いにそんなもの必要ない。
要るのは、たった一つだけ。要るのは、笑顔のような空白だけ。
笑みに似せた、せめて笑みに似た、脆弱な律動だけ。
腕が伸びる。指が伸びる。
その隙間へ。その隙へ。少女は割り入ろうと体を伸ばせるだけ伸ばした。
瞬間、肩にトンと軽い衝撃が走り――殺人鬼の形が目の前から消えた。
生の合間を、破り、広げ、壊せると思った瞬間、その対象は煙のように掻き消えた。
少女は、自身のナイフが空を切ったことでそのことに気づいた。それほど早かった。
- 442 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/21(火) 22:03
-
不意に、音がした。すぐ真後ろに新しい気配がした。
否。先ほどまですぐ傍にあった気配とソレは同じものだ。
自分の肩を軸にして、殺人鬼が後ろに回り飛んだのだと少女は理解した。
透明な殺意が背中に刺さる。
「ひっ!!」
少女は発作的に体を捻った。
頬に焼けるような感触。浅い。掠っただけだ。
誰も逃げることの出来ないあの攻撃を避けた。
それだけで――「死ぬわけがない」少女は確信を抱いた。
自分が死ぬわけがない。殺されない。
少女は強い視線と共に、再び殺人鬼に向かってナイフを振るった。
- 443 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:34
-
キン――
弾かれる。構わず振るう。
相手に攻撃を与える隙を与えず、少女はナイフを振りかざす。
指に、手首に、肘に、肩に、胸部に、腰に、足に、全身に跳ね返ってくる振動。
つまり、殺人鬼は止めていた。ナイフを。少女のナイフを。もっと小さなナイフで。
その場から一歩も動くことなく、全てを刀身に受け止め、その勢いを吸収し、
流し、踏み留まっていた。信じられないことに、信じ難いことに、
少女が繰り出した五回の攻撃を全て――全て、受け止めたとでも言うのだろうか?
ゴクリ。
唾液を飲み込む音が鮮明に聞こえる。呼吸する音が体内でエコーする。
ナイフを弾かれるたびに知らず知らず鎖となって体に巻きついていた恐怖が重かった。
少女は震える手を叱咤する。
肉体はもう限界にきていた。ナイフも同じく。
殺人鬼を観察する。少女とは対照的に息の一つも上がっていない。
それもそのはずだろう。彼女は先の一回しかこちらに攻撃を仕掛けていないのだから。
このまま長引かせるのは危険だ。少女はナイフを逆手にもつ。
終わらせる。
短く長く空虚で充実したこの宴を。
- 444 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:36
-
少女は、一気に間合いを詰めた。殺人鬼の瞳孔が微かに開く。
これで最後だ――
少女は笑った。笑ってはいけないこの勝負で。この一瞬で。
自分が笑っていることに少女は気づかなかった。
逆手に持ったナイフを横に滑らせる。
重心を下半身へと引き戻し、同時に踏み出す。
一歩、その内側へ、殺人鬼の懐へ、入り込み、叩きつける。刀身を打ち込む。
その体に、その線に、点に。刃先を、絶命を、叩き込んだ――筈だった。
衝撃が、消えて――音がした。
ナイフの跳ね返る、冷たい音がした。
また受け止められた。衝撃。
終わらない戦いに少女は固まる。殺人鬼は攻撃を仕掛けてこなかった。
ただ無表情に少女を見つめながら一歩足を踏み出す。
- 445 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:36
-
「うわぁあああああああ!!!!!」
少女は、絶叫し身を引いた。引いていた。
自分でも気付かないうちに――引いた、地を滑るように下がり、距離を保つ。
全身から、汗が噴き出しているのを感じた。
それでも――
死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。
死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。
死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。
死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。死ぬわけがない。
少女は狂ったように自分に言い聞かせる。
- 446 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:37
-
「…ぬわけがないんだ。私が…」
少女は、視線を向けて殺人鬼の目を見据えた。
穏やかな穏やかな――穏やかな、偽者の瞳。
その奥にある真実を求め、少女はさらに覗き込む。深奥を、意識の淵を。
ぼやけた角膜の向こう側、霞んだ網膜の先に、殺人鬼の意識を見据える。
「っ!!」
不意に――本物の瞳が少女に触れた。
驚いたことに、奥底にあるそれまでもがどこまでも穏やかで慈愛に満ちており、
だが、同時に殺人を嗜好し、今この闘いを歓んでいた。
アンビバレントな光がそこに存在していた。
相反するものが渾然一体となった瞳が奮然と少女を捕らえる。
心臓が跳ねる。奥歯が、震える。背筋が、一斉に粟立つ――怖い。恐い。こわい。
- 447 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:39
-
「死ぬわけがないなんて思ってるから、ダメなんだよ」
殺人鬼の体が伸びた。少女の視覚が捉えたのはその残像だけだった。
気付いた時にはもう眼前に迫っている。少女は、咄嗟にナイフで身を守る。
一閃、何かが反射して、宙に光が煌めく。少女のナイフが宙を舞っていた。
転がるように体重移動。後ずさる。けれどそこにはもう殺人鬼が居る。
開いた距離が消えて、元に戻る。
変わらない。距離は、変わらない。
また光。ナイフ、が光る。腕が熱を持つ。
切られた。掠ったのではなく今度こそ本当に。
避けられなかった。パックリと避けた皮膚から覗く生々しい肉の断面と
毒々しいまでの血の色に吐き気が込上げる。熱い。痛い。痛い。
何も考えられない。何も言葉になっていかない。
全てが未熟な発端のまま思考は混沌として消えていく。
痛みに、それから恐怖に、考えるべき場所が全て吹っ飛んでしまったかのような、そんな焦燥。
痛い、痛い、痛い。そして、怖い。
- 448 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:40
-
心臓が高鳴る間すらない。もう自分の身を守るものは無い。
時間などはない。
あと一瞬もすれば、命は無い。亡い。失くなる。
何かが溢れていく、肺から、気道から、何かが溢れていく。
とても原始的な何か、恐怖を感じた生き物が上げる、とても原始的な逃避行動。
声。声の欠片。
だが、それを上げてしまえば、自分は――この人にはなれない。
恐怖に負けてしまえばもう二度と。
また熱。
腹部。熱い。痛い。立っていられない。
少女は尻餅をつく。
それでも手だけを使って必死に後ろへと逃げる。
殺人鬼が、ゆっくりと近づく。
今まさに――いや、あの時からか――殺人鬼は、少女の世界の絶対だった。
少女は、悟った。
自分がその後継者なんかじゃなかったということを。
- 449 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:40
-
もう何を思えばいいのか分からなかった。
もう何を叫べばいいのか分からなかった。
もう何をすればいいのか分からなかった。
悟ってしまえばもう少女にはなにもなかった。
恐怖以外のなにも残ってはいなかった。それはまさにあの日と同じだった。
カタカタとフィルムが回り始めたのを感じる。
あの日、殺人鬼に見逃してもらった時が動き出したのを感じる。
少女にはもう抗う術はなかった。結局、自分は殺人鬼に殺される運命だったのだ。
絶対的な絶望。
「人を殺すとき、あたしは常に自分が殺される事を考えている」
殺人鬼が一歩足を踏み出す。少女は一歩後ずさる。
世界は動かない。
ここでこうして自分が殺されようとしても動かない。それが現実だった。
- 450 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:41
-
「祈ろうが、足掻こうが、死ぬものは死ぬし生きるものは生きる――
それが現実ってもんだ」
誰も救ってはくれない。誰も助けてはくれない。
あの日も今も。それが現実だった。
「その覚悟があれば恐怖なんてなくなる」
それを、誰よりも知っているからこの人には恐怖がないのだろうか。
では、自分がしてきたことはなんだ?
「お前は、自分だけが死なないと思っていた。
死んでもいいじゃなく、死にたくないと思いながら戦っていた。
それは致命的なミスだ」
心を読んだかのように殺人鬼が言った。
- 451 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:42
-
「そして、もう一つ」
目の前に殺人鬼の靴があった。
ボロボロの古臭いタイプのスニーカー。
「お前はあたしに憧れてたんじゃない。復讐してただけだ。
あの日、お前に気づいてくれなかった全ての人間にな」
復讐――そうかもしれない。
いや、そうだ。あの日、殺人鬼と会った事を少女は誰にも言わなかった。
言えなかった。言えば、殺人鬼が殺しに来るかもしれないと思ったから。
でも、本当は気づいてほしかった。せめて両親には気づいてほしかった。
自分の様子がおかしいことに。
- 452 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:42
-
「殺人に意味を持たせるのは感心しない……
素質はあったのに残念だったな、我が弟子よ」
少女は伏せていた目を上げ、殺人鬼を見た。
殺人鬼は、相変わらず穏やかに笑っていた。
「…ぁ」
淀みが消えた。
自身の中に蟠っていたなにかがなくなっていくのを感じた。拡散していくのを感じた。
もう、何も、ない。何も感じない。
何も、何も、彼女に言うようなことなど、何一つ。
そして、少女は今まで味わったことのない熱を感じた。
- 453 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/22(水) 22:43
-
※
「終わったかな」
煙草をふかしていた矢口は携帯灰皿に吸殻を落とす。
その声に、藤本が静かになった路地に目をやって嘆息した。
「犯人は結局捕まらず、あの子が最後の犠牲者で事件は終わりってことですか」
「そうだよ。そうするのが一番いい」
「どうして?」
「娘さんが例の連続殺人犯でしたなんて言えるか?」
矢口はわざとぶっきらに言って肩をすくめた。
- 454 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/23(木) 22:33
-
3
何もできなかった。ただ恐怖して、泣き喚くことしか出来ない。
いや、それすらも、もう出来ない。
今はただ最後の視界に映った殺人鬼の残像が恐くて怖くて仕方なかった。
最後の最後までこうしてあの人の恐怖に囚われている。
けれど、この終わりこそが自分に相応しいのかもしれない。少女は思った。
恐怖とあの人への憧憬を混同し、傷を癒したいがために人を殺し続けてきた自分には
この終わりこそが当然なのかもしれない。自業自得だ。
あの日から、全てが恐かった自分にとって、この終わりこそ、
一人ぼっちで恐怖に包まれて消える終わりこそが――
- 455 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/23(木) 22:33
-
「約束守ってくれましたね、紺野あさ美さん」
不意に、そんな声が聞こえてきた。
死神が、少女を見おろしていた。
射すくめるような目で、けれど、憐れむような目で。
それは、どこか殺人鬼の目にも似ていた。
死神の言葉はそれきりだった、もう呟かれることもないだろう。
死神がしゃがみ込み少女の手を握る。温かくて優しかった。
どうしてか、ただそれだけで体から恐怖が抜けていくのを感じた。
- 456 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/23(木) 22:34
-
はは、と、少女は笑った。笑えたと思う。
なぜなら、死神が不思議そうに首を傾げていたから。
笑うたびに体からどくんどくんと血が流れ出すのを感じたが、それでも構わずに少女は笑った。
なんてバカだったんだろう。
恐怖なんてこんなにちっぽけなものだったんだ。
そんなものを、消そうと、必死になって。
あの人になれば恐怖なんてなくなると、勘違いして。
ぐにゃりと視界が歪む。終わっていくのを感じた。
後悔はなかった。もう死んでしまうというのに、少女はなぜだか清清しい気分だった。
気付いたから。気がついたから。
恐怖が大したものじゃないということに気がついたから。
だから、もう怯えなくていいんだ。潰れていく感覚――
「バイバイ」
死神の、柔らかな声が聞こえた。
- 457 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/23(木) 22:35
-
あの日から。
殺人鬼の影が恐かった。
暗闇が怖かった。
何もかもが、恐かった。
けれど。
もう、こわくない。
――こわく、ない。
- 458 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/24(金) 23:29
-
4
「終わったか」
背後で声がした。死神はビクリと周囲を見回す。
いなくなったことを確認してから、彼女を看取ったはずなのに。
「心配するな。約束だから今度はあたしが隠れてやってんだよ」
声が言う。死神は噴出した。
「別に絵里は吉澤さんに会いたくないなんて言ってませんよ」
「あたしが言ったことだから、お前にのこのこと姿を見せられるか」
「…つまんないな」
死神は死神ではなく――一人の少女として会話をしていた。
- 459 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/24(金) 23:29
-
「つまんないとかそういう問題じゃないだろ。
それより、さっさとその場から消えたほうがいいぞ。研究所の奴らがあたしを迎えに来るから」
忠告。少女は顔を上げる。そこには二つの人影。
こちらを指差しなにか言っている。
「もう遅いです」
「は?」
「もう来ちゃいましたよ」
少女は立ち上がり、駆け寄ってきた二人組にペコリとお辞儀をした。
- 460 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/24(金) 23:30
-
※
しゃがみ込み死体になにか話しかけている人影を見つけ藤本は眉を寄せる。
「矢口さん、あれ亀井絵里じゃないですか?」
「……ホントだ、なにやってんだ?」
二人は訝しげに顔を見合わせ、そして現場へと急ぐ。
足音に気づいたのか、亀井が立ち上がりこちらに会釈した。
「なにやってんの?」
「お仕事です」
亀井は簡潔に答えた。藤本は死体と彼女を見比べる。
仕事って、なんだ?疑問が浮かんだ。
- 461 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/24(金) 23:30
-
「藤本、お前さ、足悪いんだからここでその子保護しといて。
おいら、吉澤探してくるから」
思案する藤本の肩をぽんと叩いて矢口が暗闇に走りだす。
「あ、はい」
遅れて返事を返し、藤本は亀井に向き直った。
彼女はにこにことした笑みを浮かべていた。
「仕事って、なに?」
「あれ?吉澤さんから聞いてませんか?」
「あんたの話なんてしたこともない」
藤本が言うと、亀井は「ひどいですね」と苦笑した。
だが、すぐに元の笑顔に戻り、彼女は死体に視線を落とした。
- 462 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/24(金) 23:31
-
「いい死に顔と思いませんか?」
そういわれてみるとそんな気がしないでもないが、藤本にはよく分からなかった。
返事の代わりに肩をすくめる。
「看取ってあげたんです、約束してたから」
「……で?」
「だから、死神なんですよ、私」
亀井絵里は――いや、死神は笑った。
言葉の意味を捉えられず、藤本は首を傾げる。
- 463 名前:第三章 殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/24(金) 23:32
-
「どういう意味?」
「あなたが死ぬ時も看取ってあげますよ。だいたい分かるんで、人が死ぬ時って」
「…縁起でもない」
顔を顰めた藤本に死神はさらに笑い――
「さよなら!」
唐突に、走りだした。
「へ?」
あまりにも唐突だったため藤本は反応が遅れた。
これが戦闘時なら藤本は死神が走りだした瞬間にその手を掴んでいただろう。
戦闘時における彼女の反応速度は研究所一を誇るのだ。
ただそれ故、戦闘態勢に入っていないときの反応速度は最も遅くなっている。
どんどん小さくなっていく背中に藤本は「…ホントもうマジで転職する」ぼやいた。
- 464 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/25(土) 22:14
-
0
地下七階の特別房で藤本美貴は吉澤ひとみと話していた。
「…ま、そんなわけで美貴は転職することにしたよ」
「唐突になに?」
吉澤が驚いたように目を開いた。
「亀井絵里には二回も逃げられるし、よっちゃんさんには二回も殺されそうになるし
なんかもうね…」
藤本は少し寂しげな微笑を浮かべて答えた。
「昔からカメは逃げ足だけは速いんだよ」
「…カメなのに」
「そう、カメなのに」
吉澤が笑う。
無理矢理、元気付けようとしてくれているのかもしれない。
藤本はしみじみと溜息をついた。
- 465 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/25(土) 22:15
-
「そういや、あの子ってさ、よっちゃんさんのこと好きだよね」
「は?」
「とぼけちゃって。一年前胸揉んだんでしょ。エロエロだぁ」
からかい雑じりにいうと、心底、呆れたような眼差しがこちらに向けられた。
「・・・なに馬鹿なこと言ってんだか。
第一、死神なんかに好かれても嬉しくない」
「あ、そうだ。その死神ってなんなの?」
「そのまんま、死神なんだよ、あいつ」
「いや、意味わかんないから」
「死にかけてる人のところに出向いて看取ってやるんだってさ」
どうでもいいとでもいうように吉澤が欠伸交じりに答える。
- 466 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/25(土) 22:15
-
「助けとか呼ばないの?」
「呼ばないだろ、死神だから」
「……ふぅん」
「美貴ちゃんさんも現場で会わないように気をつけな。
あいつがいるってことはその場で誰かが死ぬってことだから」
それすらもどうでもいいように吉澤は言ってベッドに寝転んだ。
藤本はしょんぼりとその場から立ち去る。
地上へあがると、受付に憮然とした顔の矢口が座っていた。
- 467 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/25(土) 22:16
-
「かわりますよ」
「悪いね」
藤本の言葉に矢口は立ち上がる。
本来、あまり受付をすることのない矢口だが藤本がいない時はしなければならない。
人手が足りないのだ。そう、飯田犯罪研究所にいる職員は再び二人になっていた。
所長である飯田圭織は、二人が事件の事後処理を終え
研究所に帰宅した時にはすでに「ちょっと出かける」とだけの書置きを残して姿を消していた。
「…困った所長だ」
「まったく」
二人が情けない顔で呟いた所に、新たな依頼を告げる電話が鳴った。
- 468 名前:殺人鬼の宴 投稿日:2004/09/25(土) 22:16
-
終
- 469 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/25(土) 22:17
- ボツ理由?
話が一転二転三転四転……十転ぐらいして当初の予定とは別次元にいってしまったから(´・ω・`)
途中で色々なミスに気づいたから(´・ω・`)
正直、放棄すればヨカタ(´・ω・`)
- 470 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/25(土) 23:43
- 放棄だなんて。
描写が凄いですね。
面白かったですよ。
- 471 名前:名無し読者 投稿日:2004/10/01(金) 10:56
- 面白いよ
亀井と吉澤の関係が気になるところ。。。
- 472 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:22
-
- 473 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:23
-
シンシンと雪が降っている。窓からは白しか見えない。
辺りは静寂に包まれ、物音一つ聞こえなかった。
窓越し目をやっていた少女は小さく息をつくと、ふと思い出したように立ち上がり
暖炉に薪をくべ始めた。湿気ていたのかそれは火に触れた刹那、
軽く爆ぜる。ぱっとあがった火の粉を避けるため少女は僅かに身を引き、
それが収まるとまた火に近づき同じ作業を続ける。
そうして、薪をくべ終えると少女はその場に座りこんだ。
- 474 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:24
-
町外れにひっそりと佇むこの礼拝堂で過ごし始めて何年経つのだろうか。
五年、六年。多分そのくらいだと思うが、曖昧な記憶に自信はもてない。
もしかしたら、一年も経っていないのかもしれない。自身の姿を見て少女は思う。
時の移ろいに反して少女の姿は少しも変わっていないからだ。
しかし、そんなことは最早どうでもよかった。
ただここで祈りを捧げる。何も覚えていなくともそんな日々を送っていけばいいだけだろう。
少女は別にキリシタンではないし、その祈りが天に通ずるとも思っているわけではない。
それでも、毎日祈り続ける。それしかすることがないからだ。
- 475 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:25
-
不意に表から人の気配が近づいてくるのを感じて少女は恐々と扉に近づいてみる。
「…辻希美さん?」
その問いかけに、少女は身を強張らせた。
少女を訪ねてくる者など、知っている者などいるはずがないというのに
外にいる人物はどうして自分の名前を知っているのだろう――体に異様なまでの緊張感が走る。
「危害を加えるつもりはないから、開けてくれない?」
その穏やかな声に少女の警戒心はほんの少しだけ緩む。
躊躇いながらも、少女はそっと扉を開けた。
扉の隙間から見えたのは背の高い女だった。髪が長い。
若くも見えるし年にも見える年齢不詳の容姿だ。雪の中にいるからか雪女のようにも見えた。
「入っていいかな?」
その問いに少女は無言で後ろに体をずらし女が扉を潜りやすいようにしてやる。
女は少女ににっこりと微笑み、ゆっくりとした足取りで中に入ってきた。
- 476 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:25
-
コトコトと鉄瓶が音をたてる。
蒸気が白い軌跡を描いてゆるゆると天井にのぼった。まだ、雪はやまない。
女は、少女が差し出したティーカップを手に暖を取っている。
一体何しに来たというのだろう。そして、なぜ自分の名前を知っているのだろう?
少女は、注意深く女を観察する。と、不意に女が口を開いた。
「こんな所に一人で寂しくない?」
「別に……慣れたから」
慣れた、というよりは最初から一人だったような気がする。
誰かと一緒にいたことなど――考えると、チクリ、とコメカミが痛んだ。
少女の答えに女は僅かに眉を動す。
「それじゃ、怖くはない?ここは昔殺人事件が起きた場所よ」
「殺人事件……」
ぼんやりと少女は反芻する。
- 477 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:26
-
「四人家族のうち三人が殺されたんだよ」
女の声が頭の中を廻る。
「最後の一人は?」
無意識のうちに少女はそう訊ねていた。
女が首を振る。
「行方不明。死体は見つかっていないわ」
「…知らなかった」
そんなことがここで起こっていたなんて。チクチク。頭が痛む。
女の目がキュッと細められる。
- 478 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:26
-
「本当に?」
「え?」
「本当に知らなかった?辻希美さん」
瞬間、フラッシュバックした視界一面の赤に少女は目を落とした。
足元に血の海が広がっている。声にならない悲鳴をあげながら少女は天井を見やる。
天井にも同じくべっとりとペンキで塗りたくったような赤が広がっていた。
少女は、叫びだしたくなった。
- 479 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:27
-
「辻さん、大丈夫?」
女の呼びかけに少女はハッと我に返る。慌てて周囲を見回す。
そこに赤はない。あるのは静かな灰色の空間と炎のオレンジだけだ。
少女はホッと安堵の息をつく。そして、女に向かって「大丈夫」頷いた。
対して女は少女から目をそらした。
綺麗な漆黒の瞳に暗い影が走ったのは気のせいだろうか。
女は、なにかを考えるように暫く視線を宙にさまよわせていたが、
やがてゆっくりと少女に向き直った。
「鵺って知ってる?」
唐突な質問だった。少女はきょとんとして彼女を見る。
女は生真面目に少女を見つめ返した。
- 480 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:28
-
「鳴き声が虎鶫、頭は猿、尾は蛇、胴体は狸、四肢は虎。
人の中に棲まうこともある有名な奇獣なんだけど知らない?」
少女は唇をキュッと結ぶ。
女はどうしてそんなことを言うのだろう。
そんな中途半端な怪物の話など聞きたくもない。
女はそんな少女を食い入るように見つめていたが、天井に目を移すと、微かに溜息をついた。
「存在すると思う?」
抑揚のない声で女が問いかける。
少女は、反射的に頭を振った。
- 481 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:28
-
「そんなの本当に存在するわけないじゃん」
少女が吐き捨てると女は同情交じりに口元を歪めた。
「鵺を信じていないの?」
「うん。あなたは信じてるの?」
女は即座に頷いた。
少女は、訝しげに眉を寄せる。
「どうして。見たことあるの?」
女は更に、同情の色を濃くした笑みを浮かべる。
- 482 名前:雪路 投稿日:2004/10/08(金) 22:29
-
「いま、ここで見てるよ」
「……どういう意味?」
少女は声が震えるのを止められなかった。
おずおずと背後を見やり、なにもないことを確認すると女を見つめる。
女は少女の半ば恐怖に満ちた視線を受け止め、寂しげに目を伏せた。
そして、身につけていたウェストバッグから新聞の切れ端を取り出し少女に差し出す。
少女は震える手を抑えながらそれを受け取り視線を落とした。
一家心中か!?女児行方不明――
飛び込んできた見出し。
少女は目を見開いたまま切れ端を読んでいく。
信じられない。信じたくない。
読み進めていくうちに少女は心の中で叫んでいた。
どうして、どうして、どうして!?
どうして、行方不明の女児の写真に自分の顔があるのだろう。
- 483 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:29
-
※
――あの日。いつかのあの日。
放課後、いつものように教会で遊んでいた時だ。
どういうわけか、家にいるはずの家族が強張った顔で教会にやってきた。
『どうしたの?怖い顔して』
少女は家族の顔を順に見上げた。目が合うと父親は息を吸い込んだ。
怒鳴られる。なぜだかそう思って少女は肩をすくめた。
が、意に反して父親は声を出さなかった。
ただ無骨な手を伸ばし、少女の肩を優しく捕らえる。
- 484 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:30
-
『ここでいつもなにをしてるんだ?』
父親が痛いくらい手に力を込める。少女は、痛みにはっとした。
身をよじるが、少女の力では彼の手から逃れることはできない。
救いを求めるように少女は母親を見つめたが、彼女はすっと目を逸らした。
『私見たんだからね、あんたが墓地で…』
姉がおぞましいものを見るような目つきで少女を睨みつける。
姉はなにを言ってるんだろう。
『なに?墓地って…』
キン、と耳の奥で金属音がした。少女は身を強張らせる。
- 485 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:31
-
『知られないとでも思っていたのか。おまえは毎日何をしていた。
この礼拝堂の裏の墓地に行って、死肉を食らっていたんだろう!
お前みたいな化け物を何年も育ててきたのかと思うと、ぞっとするよ!!』
少女はかぶりを振った。何度も、激しく。
しかし、父親は少女を捕らえる腕にますます力を込める。
そのまま、彼はそろそろと腰に手を伸ばした。
するり、と銀の光がこぼれる。大きな包丁だった。
『あなた』
母親の声。構わずに、父親は逆手に構えた刃を少女の喉元に向けた。
彼の目には、何の感情も浮かんではいなかった。
憎悪も、一抹の愛情すらも。
全ての感情を、鈍く光る刃が、吸い取ってしまったようだった。
そして。
少女の目からも同様に光が消えた。
- 486 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:32
-
※
「私には分かんない」
少女は乾いた声で呟いた。ぱちん、と暖炉の火が爆ぜる。
漸く暖かくなった礼拝堂の中で、少女は女を見つめた。
あの日の父親と同じ感情の欠落した眼差しで。
暖炉の灯りに照らされた女の顔は静かだった。
「信じなければそれでもいい。信じない方が幸せかもしれないね」
女はゆっくり立ち上がる。
「また来るよ」
出ていこうとする女の袴を少女はとっさに掴んでいた。
知らず、手に力がこもる。少女は振り返った女の顔を見上げ、
小さく幾度もかぶりを振った。
- 487 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:33
-
「そんなの嘘、だよ?」
その目にうっすらと涙が滲む。やがて、それはぼろぼろと頬に零れ落ちた。
女はそっとかがみ込み、親指で少女の涙を拭う。
「嘘だと思えばいい。あなたにとっては、その方がいいみたいだもの」
「……」
「それでも…もしあなたが寂しいのなら」
女は淡々と言った。少女は無言で女を見ている。
瞳の奥から新たな涙が溢れてきた。しゃくりあげ、少女はもう一度言った。
「鵺なんて、いないもん」
血を吐くような、全霊を込めた言葉だった。
女はそれに頷き優しげな笑みを浮かべた。
- 488 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:34
-
※
我に返ったときは、辺りは血の海だった。
さして広くもない礼拝堂の床から天井からべっとりと血で汚れていた。
その中に少女は一人で佇んでいた。
家族の、否、元は家族であったものたちの亡骸を抱えて。
父親の顔は恐怖に引きつり、母親の顔は一瞬の出来事に呆然とし、
姉の顔はもう判別すらできないほど変形していた。皆、まるで別人のようになっていた。
少女は家族をはじめて見るように、濁った白目をのぞき込む。
ぽとり、とその上に血が垂れた。
少女は何でもないように血に濡れた唇を手の甲で拭う。
- 489 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:35
-
『皆が…悪いんだよ』
かすれた声で呟く。
『のんのこと、化け物なんて言うから』
抑揚のない声だった。少女はそれが自分の声だとは思えなかった。
手の中で滑る血染めの短刀を強く握りしめ、少女はきつく唇を噛んだ。
自分は化け物ではない。
そんなもの存在しない。
絶対にいないのだ。
少女は父親の髪を優しく指で梳いてみる。
微笑み、父親の奇妙に捻れた唇に己のそれを重ねた。
まだ、温かく柔らかい。少女は絡め取った舌に歯を立て、
一息に食いちぎった。とろりと新鮮な血が喉に流れ込んでくる。
- 490 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:37
-
『ねえ、お父さん。人は物を食べないと死んじゃうんだよ。
獣の肉も、人の肉も、肉には変わりないよ。ねえ…』
その後、少女は礼拝堂を後にした。
少女が歩く度に、ぽたぽたと血が滴る。
まっさらな雪の上に落ちた血痕はまるでイチゴ畑のようだった。
これだから、出来立ての死体は嫌なんだ。
固くても冷たくても、年季の入った死体の方が服を汚さなくていい。
少女は迷子の子供のように泣きじゃくりながらその土地を離れた。
それからしばらく各地を歩いて回り色んなことを忘れていき
気がつくと、いつの間にかまたこの礼拝堂にたどり着いていたのだった。
- 491 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:38
-
※
「もしも…あなたが、このままでいたくないのなら」
滲む視界の中で女が口にした。少女は固く唇を噛んだまま、かぶりを振る。
獣の肉よりも、人間の肉の方が美味だと感じたのは一体いつのころからだったろう。
礼拝堂裏の墓地に埋められた棺を掘り返しては、
死体を食いあさるようになったのは、いつからだろうか。
もう思い出せなかった。
ほとほとと窓の向こうでは雪が降り続いている。
小豆色のどんよりとした空から、止むことを知らぬように。
女は窓越しにその空を見上げ、低く尋ねた。
「私と一緒に来ない?」
「?」
意外な台詞に少女は戸惑った。女は更に続ける。
- 492 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:39
-
「私ならあなたを助けてあげられるかもしれない。
その欲望もなにもかも抑えてあげられる。その力があるからあなたを迎えに来たの」
「……」
「でも、あなたがここにいたいというのなら、自分が鵺であることを忘れた方がいい。
自分を認めたくないのなら、認めなくてもいいのよ。どうする?」
「……」
少女は視線を落とした。女はそれ以上は何も言わなかった。
彼女は、少女の頭を優しく撫でると素早く踵を返し
振り返ることなく礼拝堂の出口へと歩いていく。
少女はその姿を見送り――否。立ち上がった。
- 493 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:39
-
「待って」
少女の声に女が立ち止まる。
振り返る。
視線が交錯し、そして少女は泣きだしそうな顔で口を開いた。
- 494 名前:雪路 投稿日:2004/10/09(土) 22:39
-
終
- 495 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/09(土) 22:40
- ボツ理由?
ともかくダメダメだから(´・ω・`)
- 496 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/10(日) 22:17
-
- 497 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/10(日) 22:19
-
序
少女は本能の命じるままにただひたすら走っていた。
すぐ傍で自分を捕まえようとするなにかの気配を感じながら
必死にそれから逃れようと足を動かしていた。しかし、その一方で
逃げても無駄だという諦めの気持ちが胸の内に沸々と浮かんできており、
少女はそれを否定するためにさらに地を蹴る足に力を込めなければ前に進みだせそうになかった。
空気を切り裂くようなスピードで生い茂る木々の隙間を抜ける。
不意に、その耳にキィンという残響以外の音が入ってくる。
少女はその音に意識を集中させた。明るい話し声。
男だろうか。女だろうか。二人――いや、四、五人はいる。
なにをしに?こんな山の中へ?
- 498 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/10(日) 22:21
-
さらに聴覚へと神経を研ぎ澄ませようとした矢先、少女の視界はぐらりと傾いた。
音に気を取られて足元への注意を怠ってしまったのだ。
気づいた時にはもう遅く、少女は派手に一回転して地面へと背中を打ちつけた。
一瞬、息が出来なくなる。少女は、酸素を求めるように大きく口を開ける。
今まで全力で走っていたため心臓はバクバクと悲鳴をあげていた。
何度か深呼吸をするように慎重に全身に酸素を行き届かせると、
少女はハッとしたように体を起こそうとし――全身に走った痛みに再び地面に転がった。
仰向けに転がった視界には恐ろしいまでにざわめく木々が見える。
葉擦れの音。声。自身の動悸。そして、少女を追っていた巨大な影。
もう目の前にいた。少女は、恐怖に目を見開く。
- 499 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/10(日) 22:21
-
「…誰かいるんですかぁ?」
場違いに暢気な誰かの声が近づいてくる。複数の足音。
来るな来るな来るな来るな来るな――少女は、必死に両手で土を掻く。
爪の間にひんやりとした泥の感触。巨大な影は少女に手を伸ばす。
「あ、いた!!」
「大丈夫ですか?」
少女の姿を認めて駆け寄って来る誰かたち。
巨大な影はもう少女の喉元へ手を――少女の目からはぼろぼろと涙が零れ落ちていた。
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな
「来るなぁああああああっ!!」
滲んだ視界に、キョトンとした誰かの顔と――
獲物を追い詰めた悦びに身を震わせた鬼の凶悪な笑みが映って消えた。
- 500 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:22
-
一
- 501 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:24
-
電車の旅は良いものだと思う。
特にローカル線は満員電車などという言葉すら忘れてしまいそうなほど空いていて我が物顔に寛ぎ放題だ。
目的地に辿り着くまで静かに揺られ、目を閉じて窓の外から注ぐ日差しを感じる。
このままずっとこの揺りかごで揺られ続けるのも悪くない、
そんなことまで思ってしまう。これが旅行ならば本当にそうしたかもしれない。
しかし、これは旅行ではない。遊びじゃなく、仕事なのだ。
- 502 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:25
-
矢口は家から持ってきた数週間前の新聞に視線を落とす。
そこには、『男女五人が重傷』という大見出しが入っており、
更に『喉元を噛み千切られ……』『腹部を裂かれ……』という文字が見える。
他にも常識で考えれば信憑性に欠ける情報が載っている。
人間業ではないとか。熊か何かの動物に襲われた可能性とか。
しかし、あながちこの情報が誤りでもないのだから嫌になる。
刑事局の和田から軽く調べてほしいと依頼されて矢口をここに向かわせた飯田は
これは鬼の仕業だと断言していた。この地方のある村ではそういう言い伝えがあったという。
だが、六年前にその村は原因不明の大火事によって燃え尽きており、
今ではその言い伝えを後世に残す者はいなくなってしまった。
そういう曰く付きの土地で起きた凄惨な事件。
確かに鬼の仕業といってもおかしくはないのかもしれない。
矢口は、新聞を丁寧に折りたたむと憂鬱な溜息をついた。
電車は、そろそろ目的地に到着する頃だった。
- 503 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:25
-
※
「…まいったな」
焼けたトタン屋根の無人改札を出て矢口は周囲をぐるりと見回し一人ごちた。
改札が無人だったことから薄々想像してはいたが、ドンと矢口を出迎えている濃い緑の林。
その林を右に、段々畑が広がっている。現場は前方の林の深奥らしいが、
途中までタクシーで行こうと考えていた矢口は自分の考えが甘かったことを後悔していた。
駅前だからという喧騒はどこにも見られないこの場所。
勿論、タクシー乗り場なんてものはない。事件が起きてすぐなら警察が来ていたのだろうが、
さすがにもういなくなっているようだ。
「歩くか……」
溜息混じりに呟くと矢口はとぼとぼと歩き出した。
- 504 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:26
-
暫くはただ黙々と整備された登山道を進む。
様々な種類の木々が左右を流れ、矢口はふとこの木は何の種類なんだろうと思ったり、
春には花を咲かせるのだろうかという疑問を頭に浮かべていた。
そんなどうでもいい事が頭の中に浮かび上がるのはきっと滅多に山などに登らないからだろう。
矢口は、少し景色を楽しみながら歩を進める。
やがて、警察が入った痕跡が残っている箇所を発見した矢口は
登山道から少し外れ森の奥に入り込んでいった。
どうして、被害者たちは登山道を外れたのだろう。そんな疑問を抱きながら
少し急な傾斜を下り矢口はようやく現場に到着する。
そこは栂の木に囲まれた場所で、夏だったならばセミの大合唱がさぞかし騒々しいのだろうが、
今は鳥も黙したまま沈黙だけがその場を支配し、秋の弱い日差しが覗くのみの
薄暗い木々の迷宮が作り上げられていた。
- 505 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:27
-
矢口は、すぐにこの場所が妙だと感じた。
しかし、何が妙なのか理解するには少し時間がかかった。
矢口は意を決して地面にしゃがみ込んでみる。
枯れ果てた落ち葉がカサカサと乾いた音をたてるだけで、
矢口が内心恐怖していた虫たちの姿はどこにも見当たらない。
ホッと安堵の息をつきながら、矢口は自分がこの現場を妙だと感じた理由が
間違いではないことを悟る。
通常森林というのは鳥がいなくても様々な動物や昆虫に溢れ、
その生命力の洪水に圧倒されそうになるものだ。
勿論、ここまで来る登山道ではそうだった。しかし、この現場はそれが全く無く
墓場のように閑散としているのだ。いや、墓場にもなんらかの生物はいるだろう。
この何の生命も存在しない全く無機質な空間は、
まるで月の表面を一部分切りとって持ってきたかのような印象を矢口に与えていた。
- 506 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:29
-
「…虫って危険を察知して大移動するって聞いたことあるけど」
ここまでいなくなるのは明らかに異常だ。
飯田の言うとおり、本当にここに鬼がいたのだろうか。
思案顔のまま矢口は立ち上がり、右手の人差し指の第一関節と第二関節の間を軽く噛んだ。
そのじんわりとした痛みが思考を明晰にし、脳を冴え渡らせていくような気がして
癖になっているのだ。そのまま傍らにある一本の樹に背中を預けるようにして凭れかかると
矢口はウェストバッグから手帳を取り出した。
その一ページには、発見された時たった一人だけ意識が残っていた被害者が口にした言葉が書きつけられてある。
「…女の子が倒れていて……目が赤い…巨大な、化け物」
もうほとんど暗記してしまったそれを確認するように声に出して読んでみる。
もし、その女の子が事件となんの関係もないのだとしたら、
被害者たちと何者かに同じように攻撃されていないのはおかしな話だろう。
上手く逃げ切れたとも考えづらい。
警察も同じ見解だったのだろう、被害者が見たと言う女の子を総出で捜したらしい。
だが、結局見つからず終いで捜査は打ち切られた。
その女の子は、よほどかくれんぼの名手らしい。
- 507 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/11(月) 22:30
-
「広いしなぁ……」
警察が総出で捜して見つからなかったものを、
矢口が一人で探し回ったとしても結果は見えているはずだ。
但し、それは自力で探そうとした場合に限る。
「…奥の手使わせてもらうよ」
誰に断るでもなく口にすると、矢口はよっという掛け声と共に木から体を離し、
服の袖口から呪符を取り出した。それを人差し指と中指の間に挟み
顔の前に翳すと矢口は静かに双眸を閉じる。
「陰陽五行を使役して、我、五十猛神に助力願う。
此地より立去りし者の行方をどうか我に教え給え」
パッと目を開け矢口が呪符を投げると、符はまるで意志を持っているかのように飛行を始めた。
- 508 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/12(火) 22:59
-
二
- 509 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/12(火) 23:00
-
夢というのはいつも鮮明かつ曖昧である。
目が覚めると全てがぼんやりとなって朧にしか語ることが出来ないが、
その中にいる時は全てがはっきり明確に感じられる。
少女はどこかに向かって早足で歩いていた。
辿り着いた先は穏やかな流れの川。
少女は全身に水が飛び散るのも構わずに乱暴にバシャバシャと水で顔を洗い始める。
少女がたった今見た悪夢(それがどんなものかは思い出せない)の残像をかき消すために。
そして、荒い呼吸をやっと落ち着けると少女は水面に映った自身の姿をじっと見つめた。
水面にゆらゆらと浮かぶ自身の目を、睨みつけるように見据えていると、
水面に投影されていた像は強い風によって揺らされたように歪曲し、
次第に醜く歪んだ顔になっていく。少女はそれから目を逸らす事ができない。
やがて水面に映っているのは鋭い牙と赤い目を持つ地獄からやってきたような
おぞましい獣へと変化し、それは、憎しみに燃えた目から冷たい凍りつくような視線を少女に向けて放った。
- 510 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/12(火) 23:01
-
少女は、大声で叫んで恐怖を発散し背を向けて逃げ出したいのだが、
体がぴくりとも動かず全く叶わない。
化け物が水面からゆっくりと、鉤爪のある右手を少女に向かって伸ばしてきた。
コウモリとトカゲをかけあわせたような気色の悪い手が
金縛りにあったように動けない少女の頬をそっと撫でる。
それから更に手を伸ばし胸に指をつき立てると、化け物はそのままずるずると
少女の体の中に入ってくる。水面から全身を乗り出して少女の中に入り込んでくるとき、
そいつは笑った。その笑みは心臓に氷の杭を突き刺されるほどの衝撃を受ける恐怖を持った、邪悪な笑みだった。
- 511 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/12(火) 23:02
-
「っ!!」
ガバッと少女が飛び起きると、目の前にふわふわとなにかが浮かんでいた。
よくよく目を凝らしてみると、それはなにかのお札のようだった。
少女は、訝しげに眉を寄せる。その時、札の後ろ、入り口に小さな人影が立っていることに気づいた。
少女は身を強張らせ精一杯の威嚇を示して見せる。
「えっと……怪我してんの?」
しかし、その人影は少女に臆することなくそう問いかけてきた。
- 512 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:47
-
※
符を追って矢口がたどり着いたのは六年前に滅びた例の村の跡地だった。
村は、当時の様子そのままに放ったらかしにされており、
ほとんど全ての住居が赤黒い無残な有様で残っている。
矢口の鼻にはまだ木々が焦げつく匂いが漂ってきており、その匂いの中に
人が焼けた匂いも混ざっていた。それは現実のものではなく、
この地で死んだ者の霊たちが矢口に与えている虚偽の情報だが、それでもやはり気分が悪くなってくる。
矢口は頭を振ってそれらを振り払うと、目標を見つけたかのようにスピードを上げた符のあとを追って駆け出した。
- 513 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:48
-
その家は、村の一番奥まった所にポツンと建っていた。
周囲まで火が回ってきた痕跡があるのに、その家自体には不思議と火事の影響が見られない。
住もうと思えば今でもなんとか住むことができそうな感じだ。
符は、その家の入り口の前で役目を終えたように動きを止めた。
矢口は、おそるおそる入り口から中を覗き込む。
中は暗く荒れており、とても人が生活しているような匂いは感じられない。
だが、部屋の奥に、行き倒れのように無防備に身体を横たえている少女がいた。
年はそう変わらないくらいだろうか。矢口は静かに少女を観察する。
- 514 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:49
-
華奢な身体、白い肌、床の上にはらりと広がる肩より長い髪、
目は閉じられたままだが、瞼を開いたらきっと可愛いだろうと想像できる寝顔だ。
ただそれよりも矢口を驚かせたのは、その少女の体から流れている赤いものだった。
明らかに血である。
さてどうしたものかと、矢口が思案していると不意に少女が体を起こした。
その目は夢でも見ていたのか恐怖に染まっていた。
暫し、呆然としていた少女だったが不意にこちらに気づいたように視線を止めた。
瞬間、手負いの獣のような強い威嚇の眼差しが矢口に向けられる。
矢口は戸惑いを胸に抱きながらそれを受けとめ、
が、あることを思い出し彼女に声をかけた。
- 515 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:50
-
「えっと……怪我してんの?」
少女からの返事はない。矢口は、家の中に足を踏み入れる。
ビクリと少女が反応を見せた。それに呼応するかのように血がポタポタと床に落ちる。
矢口は眉を寄せ少女に駆け寄るとその前にしゃがみ込んだ。
少女の全身は血塗れだったが、よく見るとそれらはもう固まっており
少女から流れ落ちたものではないと分かる。
今現在の出血は脇腹の辺りからだけのようだった。
襤褸切れのような着物には赤黒い染みが広がっている。
明らかに例の事件とこの少女がなんらかの関係を持っていることは分かるが
このまま放っておけなかった。
- 516 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:50
-
「ちょっと見せて」
ひとまず応急処置を施そうと矢口は少女の服に手を伸ばす。
と、少女の目が光りパシンとその手は払われてしまった。
「な、なにすんだよ」
矢口は驚きの目で、払われた手と少女を見比べる。
少女は無言で矢口を睨みつけている。
まるで全身の毛を逆立てて、近づくなと言われているような気がした。
一瞬、心を過ぎるのは、このまま怪我は放っておいて
事件について聞いてしまおうかという思い。
こんなに完全に拒絶されてまで助ける義理はない。
だが、その思いを掻き消したのは、その瞳だった。
あるいは、放って置けないと思ったのも、そのせいなのかもしれない。
- 517 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:51
-
全身で精一杯威嚇して、近づくなといいながらも、
その瞳は『助けて欲しい』と泣いている子供のようにも見えたのだ。
「……手当てするだけだからさ」
矢口は、少女のぼさぼさの髪をあやすように撫でた。
触れた瞬間、硬直した体。しかし、撫で続けているとその瞳からほんの少しだけ警戒の色が薄まった気がした。
「……っ」
なにかを言おうと少女が口を開く。
「…なに?」
「……っ…ぁ」
開きかけた少女の唇が言葉を紡ぐことなく閉ざされた。
そして、そのまま、少女は矢口の腕の中に崩れ落ちる。
- 518 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:52
-
「おいっ」
完全に意識を失って、ぐったりと身体を預ける少女。
瞳を閉じ、すっぽりと腕の中に収まったその姿はいやに幼く見えた。
一体この少女は何者なのだろうか。
疑問が浮かぶが、それを考える時間は矢口には与えられなかった。
「……ぅ」
腕の中の少女がくぐもった声を上げ――そして、急激に不穏な空気が辺りを包み始めたからだ。
肌を張り出さすような何かの気配を矢口はもろに受けていた。
怪物の巣の中にいるような感覚。薄闇が凝って濃度を増していく。
ぞわぞわと壁から天井から染み出すように闇が流れ出し、そこに真の闇を形作る。
- 519 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/13(水) 22:52
-
「おいおい…なんだよ、これ」
矢口は引き攣った顔で少女に視線を落とす。
異形の気配を発しているのはまさに腕の中にいる少女だった。
「……ちょっとまずいってやつ?」
その気配が最高潮に達しようとしているのを感じた矢口は
少女を床に横たえると反射的に後ろに飛んだ。
その直後、少女が大きな咆哮を上げカッと禍々しい瞳を開いた。
- 520 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:30
-
三
- 521 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:31
-
「…マジで鬼がいるなんてね」
矢口は呆然と目の前を見詰めながら呟く。咆哮と共に崩れ落ちた住居。
変貌を続ける少女。唇は大きく左右に裂け、額の皮膚を突き破って一気に二本の角が現れる。
メキメキと筋肉が、骨が音を立て、彼女は人間ではない異形に――
鬼へと変化する。肌は血を流したような朱色。瞳も同じく闇でもぎらつく朱。
額の角は長さ二〇センチにも達し、猛るように蠢く髪の間から天を突く。
細い枝のようだった手脚は、めりめりと音を立てて筋肉で盛り上がり、
大人の腕で一抱え程にもなった。その姿に、元は人間であった面影は、微塵もない。
- 522 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:32
-
少女が――いや、鬼が一声高く咆えた。
その声に呼応するかのように、地鳴りか山津波でも起きたような地響きが大気を震わす。
上空では闇色の雲が低く垂れ込め、周辺の雑霊や雑鬼を呼び込んでは、
鬼の頭上で渦巻き、それらの力を次々と鬼に注ぎ込み続けていた。
鬼が再び咆える。轟、と風が鳴った。
鬼の吐くその息が高熱を帯び、紅蓮の炎となって矢口に襲い掛かる。
「っ!!」
矢口は咄嗟に結界を張るがほとんど役目を果たさず髪の先をちりちりと焼いた。
「お前なぁっ!!髪は女の命だってんだよ」
新たに牙を剥く炎をギリギリで躱すと矢口は文句を言いながら
森の奥まで一目散に走りだした。見通しの利き過ぎるこの場所で戦うのは
不利だと判断してのことだ。
- 523 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:33
-
ちらりと後ろを振り返り、図体の大きな鬼の動きが鈍い事を確認した矢口は、
鬼が追い付いて来るまでの僅かな時間に、自分の周りに素早く、
そしてでき得る限りの結界を張った。地面に投じた呪符に、独鈷を突き立てる。
呪符は炎に変わり、大地に真円と、その内に五芒星を描き出す。
矢口は、更に呪符を投じ幾つもの真言を書き加えていく。
しかし、それさえも気休めでしかない事は判っている。
程なく追い付いて来た鬼がその結界の貧弱さを一笑に付した。
「ソレシキノ結界デ、我ヲ防ゲルト思ウノカ?」
発声器官も異質なモノに変化したのか、鬼の声は雑音の多い酷くしゃがれた低音で、
気を付けていなければ聞き取れない程だった。
鬼の嘲笑を黙殺し矢口は真言を唱え続ける。
その足元の結界に次々と新たな梵字が書き加えられていった。
- 524 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:33
-
「無駄ナ事ヲ……!」
殺意でぎらつく鬼の瞳が、赤銅色よりなお濃い炎の色に染め上げられ、
妖しい光を放つ。鬼の怒気を一身に受けながらも矢口は迷っていた。
本当は、攻撃の準備は既に整っているのだ。あとは印を切るのみ。
それでおそらく鬼を殺すことは出来るだろう。
だが、果たしてそれでいいのか。
この鬼の中にいる少女ごと消してしまってもいいのか。
後悔はうまれないのか。
- 525 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:34
-
「グオォォォォッ!!」
歓喜の咆哮を上げ鬼が巨大な腕を振りかざした。
矢口の結界と鬼の爪が交差した瞬間、ドオン!と言う轟音と共に
周囲を薙ぎ払う突風が辺りに吹き荒れる。土埃が舞い上がり、全ての視界を奪っていく。
矢口は腕で顔を庇いながら薄目で目の前の鬼を見上げる。
無理矢理に結界を破ろうとする鬼の脇の辺りからは鮮血が飛び散り地面を紅く染めていた。
それが鬼があの少女だということを矢口に教えいてる。
矢口は、憐憫の眼を持って鬼を見つめた。
その視線が鬼の気に障ったのか結界を突き破った爪が矢口の頭上に迫る。
矢口は反射的に呪符を取り出し式を打とうと手を翳した。だが、その手は動かない。
指から呪符が零れ落ちる。
- 526 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:35
-
「…やっぱ……無理」
その呟きは、轟音に掻き消された。
鬼の爪によって矢口の周りに張られていた結界は破られた。
途端、荒れ狂うように吹き荒れる風に身を任せ矢口は宙に飛んだ。
そして木の枝に身を停めると、自分を探している鬼の後方から手刀で印を切る。
生木を引き裂くような音と、肉が焼ける焦げ臭い匂いに混じって、
五亡星が鬼をぎっちりと束縛した。光が爆ぜる。腐臭が辺りに満ちていく。
一陣の風が土埃を吹き払い、ようやく視界がクリアになったそこには身動きの取れなくなった鬼の姿があった。
- 527 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:36
-
「へへー、ポケモンゲットだぜぃってね!」
矢口は、木から飛び降り鬼の前に降りたつ。
声の割には笑顔など浮かんでいない。決して、油断はしていなかった。
「さあ、その体から出ていってもらおうか」
「コノ程度デ我ヲ封ジラレルト思ウノカ、人間ヨ」
「思うよ、鬼さん」
スッと呪符を翳して矢口は鬼に向かう。
「貴様ァ……」
鬼の声が怒りに震え、口から吹き出す炎が紅蓮から蒼い炎に変わる。
その身体からも、じわじわと湯気が立ち始め、体温が急激に上昇している事を示していた。
- 528 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:37
-
「ウォオオオオオオオオオオオ!!!!」
鬼は体を縛り付ける五亡星をちぎろうと全身に力を込める。
そのたびに、温度を増した吐息が空気を焦がし、発火しそうに熱い身体が地面を灼いた。
「おいらを殺さなきゃそれは消えない。お前の負けなんだよ!」
言うなり、矢口は呪符を鬼の周囲にばら撒いた。
「キ、サマァ……!!」
「急々如律令奉導誓願何不成就乎、悪鬼封滅!!!!」
二つの声が重なり合い、炎と炎が空中で激しくぶつかり合った。
拮抗した力と力がぶつかり合い、逃げ場を失った熱と質量がその場で渦を巻き、
更に激しい爆発を誘発する。膨れ上がった熱風が辺りの木立を薙ぎ払い、地表をも焦がす。
炎の中で、鬼の身体が僅かに傾いた。
すかさず矢口は印を結び鬼に向かって跳躍する。
- 529 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:37
-
「ノウマクサンマンダ バザラダン!」
「グオォォォォ!!!!!」
鬼が咆哮し動かせないはずの腕を振り上げた。
ブチブチと鬼の鋼の皮膚が悲鳴をあげる。
「センダン マカロシャダ ソワタヤウンタラ カンマン」
鬼が腕を振るう。空気の振動が刃となって矢口に襲いくる。
ビシビシと腕が服が切り裂かれその隙間から鮮血が飛び散った。
構わず矢口は両腕で頭を庇ったまま鬼に突っ込んでいく。
その手には細かい梵字をびっしりと書き連ねた呪符。
「不動明王よ、我が盟約の名を以て彼の者の魄を解き放ち、ここに顕し給え!」
空気の刃が納まった瞬間矢口は呪符を直接鬼の体に貼り付けた。
- 530 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:38
-
「鬼神除光!!!」
ドオン!!
ひときわ激しい音と共に、鬼の頭上に雷光が落ちる。
「グオォォォォ……!!」
メキメキと音を立て、鬼の身体が縮んでいく。
「許サン…許サンゾ、人間!!!」
ほとんど少女の体となった鬼はまだ意識を保っているのか
矢口に対して憎悪の眼差しをぶつけてくる。
「コノ肉体ハ我ノ者ダ!!誰ニモ邪魔ハサセン!!」
矢口は、油断なく呪符を構えたまま、鬼が少女の体の内に封じられ
そのままゆっくりと地面に倒れ込むまでじっと動かなかった。
- 531 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/14(木) 23:39
-
「我…ハ……必ズ復活……ス」
どうっ、と音を立てて少女が仰向けに地に沈む。
土埃が舞い、その姿を隠す中で、矢口は電池切れしたぜんまい人形のようにがくんと膝を突いた。
「……疲れた」
安堵のためか掠れた笑い声がその喉から零れ落ちる。
矢口は暫く少女と同じように仰向けに寝転がった。
鉛よりも重く、指一本動かしたくない倦怠感をその全身に覚えながら、
矢口は横目で少女の様子を窺う。そして、あることを思い出して顔を顰めた。
「怪我の、手当て…しないと」
大きな溜め息をつきながら、よっこらせ、と勢いを付けて立ち上がると
矢口はまだ気絶中の少女の手当てを始めた。
- 532 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:32
-
結
- 533 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:33
-
「それからここに連れてきて…今の松浦と同じように力を制御する術を教えてやったんだよ」
炎蛇の力を制御する定期訓練の休憩中、
いつもの如く松浦から藤本について聞かれた矢口はしみじみと口にすると胸を逸らした。
「まぁ、そういうわけで藤本は一生おいらに頭が下がらないわけだ」
「ミキたんにも色々あったんですねぇ」
「そうだぞ。松浦にとっての藤本が、あいつにとってのおいらみたいなもんだよ」
「ええ?それはちょっと違う気が……」
松浦が聞き捨てならないと言うように眉を寄せる。
- 534 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:33
-
「なんだよ」
「だって、ミキたん、矢口さんのこと嫌いじゃないですか」
「なんだとぉっ!おいらと藤本はラブラブだぞ」
失礼なことを口にする松浦に矢口が食って掛かると、
彼女は臆することなくちっちっちと舌を鳴らし自信たっぷりな顔で言ってのけた。
「ミキたんとラブラブなのは私ですよ」
今の今までそんなこととは露知らずだった矢口は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になり、
ややあって少し声を潜めてたずねる。
「なに?松浦って藤本のこと好きなの?」
確認。
「好きですよ。めっちゃラブですよ」
簡潔且つ明朗な答え。通りで藤本のことを知りたがるわけだ。
矢口はあっさりと納得してしまった。
- 535 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:34
-
「ふぅん…なかなか隅に置けないね、二人」
「にゃはは」
照れたように笑う松浦をどこか羨ましく見つめると
矢口はそろそろ訓練を再開しようかと示すように立ち上がる。
そこへノックの音がして返事も待たずにドアが開けられた。
どうせここに来るのは一人しかいない。
相手の確認もせず矢口は見切り気味に言う。
「いくら松浦ラブだからって訓練中は邪魔すんなよな、藤本」
「は?」
返ってきた疑問は矢口の予想通りの人物のものだった。
ヒョコッとドアから顔を出し、意味が分からないと言うように眉を寄せている。
- 536 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:35
-
元々凶悪な顔がそうするとますます凶悪になるが、
「ミキたーん、私に会いたくなったのぉ?」
いつの間にか隣にいた松浦はそんなこと意に介さず彼女に抱きついている。
炎蛇以外に超能力でもあるんじゃないかと疑いたくなる移動速度だ。
感心しながら見ていると藤本がべったりくっつく松浦をこれまた物ともせず用件を切り出した。
「矢口さん、この間の波浪市の事件の報告書ってないんですか?」
「…波浪市?ああ、あれね…あれは作ってない」
「…作ってないって、なに威張ってんですか?美貴にはすぐ報告書作れっていっつも言うくせに」
「いいんだよ、あの事件は。特例だから」
矢口の言葉に不満そうに口を尖らせた藤本だが
自身の唇を狙うハンターの気配に気づいてすぐに表情を変えた。
- 537 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:35
-
「亜弥ちゃん、邪魔。うざい。離れろ、バカ」
「またまた照れちゃって」
浴びせられる罵倒すら愛情表現であると勘違いしているのか
藤本に抱きついている松浦は嬉しそうにつんつんと指で彼女の体をつつく。
「照れてないってば…ほら、訓練中なんでしょ」
「そうだけどぉ…」
「そうだけどぉ、じゃないから。美貴も仕事残ってるんだかんね」
半ば呆れたように慣れた手つきで松浦の腕から逃れていく藤本を、
ある意味尊敬の眼差しで見つめながら矢口は助け舟を出してやる。
- 538 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:36
-
「藤本は仕事終わんなかったら当分家に帰ってこなくなるぞ、松浦」
その言葉が聞いたのか最後の最後までしつこく藤本の指に絡めていた左腕の小指を松浦はパッと離した。
藤本は、ここぞとばかりに部屋の外側に移動し
「それじゃぁ、亜弥ちゃん頑張ってね」手を振ってドアを閉める。
閉まるドアを名残惜しそうに見つめると松浦は矢口をじと目で睨んだ。
「矢口さんの意地悪」
「なんでだよ」
理不尽な言葉に矢口は思わずムッとなるが、すぐに気を取り直して
訓練を再開する準備をはじめた。
- 539 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:37
-
「…ねぇ、矢口さん」
「ん?」
「ミキたんの中の鬼ってどうなったんですか?」
その質問に振り向くと今までのようなただの好奇心というわけではない、真摯な顔がそこにあった。
「完全に封印するのは無理だったよ」
答えると、松浦の顔は分かりやすいほど曇る。
矢口は彼女を安心させるように緩やかな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「でもね、ちゃんと力は拘束されてるから安心しなよ」
「拘束?」
「うん。あいつ、いつも刀持ってるでしょ。
アレはね、力を引き出すためのものでもあり、力を抑制するためのものでもあるんだ。
それで力をちゃんと制御できてるから、大丈夫」
- 540 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:38
-
「……」
「そんな顔しないでよ」
まだ不安げな松浦に矢口は困ったように眉を下げる。
「…たんが鬼に乗っ取られちゃうことはないんですよね?」
「当たり前じゃん。乗っ取られたりするのは、
だいたい力を持っているっていう自覚がない時だけなんだ。
自覚があれば抗うことも出来る。松浦も分かるでしょ?」
松浦はこくりと頷く。
「藤本は、一番自分の力を恐れてる。
だから、絶対に鬼の言葉には耳を貸さないよ」
これでこの話はお終いとばかりに松浦の肩を叩くと
彼女は微笑を浮かべてもう一度頷いた。
- 541 名前:鬼譚 投稿日:2004/10/15(金) 22:38
-
終
- 542 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/15(金) 22:39
-
ボツ理由?
全体的にいまいちなのにラストがさらにいまいちだし
どうせいまいちならタイトルを美鬼譚にしておけばよかったなと思って(´・ω・`)
- 543 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/10/20(水) 22:29
-
Crazy In your love
- 544 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/20(水) 22:31
-
時折、思うのです。
私はどうしてここにいるのだろうと。
そうして、ここにいる理由を思い出そうとするのですが
いまひとつ思い出せず、悩みに悩み、消えようとしました。
けれど、彼女が一人にしないでと
私の腕を掴むので消えることもできず
仕方なく、ここにいる理由を思い出そうとするのですが
やはり、ちっとも思い出せません。
彼女は、それでいいんだよと
私の頭を優しく撫でるけど
どうしても納得できない私は
大声を出して彼女に八つ当たりをしてしまいます。
私はどうしてここにいるのでしょう?
- 545 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/20(水) 22:31
-
第一章
- 546 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:33
-
1
「ホントにすごいところね」
飯田圭織は、ロビーを見回してそう感嘆の溜息をついた。
ね?と後ろにいる二人に同意を求めて振り返る。
しかし、彼女たちはまったく飯田の言葉など聞いていなかったらしい。
飯田の後ろで繰り広げられるのんびりとした会話。
「…真希ちゃん、ちゃんと起きてる?」
「んぁー」
「起きてへんやん」
ここに来るまでの道中、熟睡していた後藤真希は未だに寝ぼけ眼で、
加護亜依の支えがなければまともに立っていられない状況のようだ。
「…もうしゃんとしてよね、ごっちん」
飯田は腰に手をあてて呆れ顔で言った。
- 547 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:36
-
本来、飯田は、矢口とこのホテルに向かう予定だったのだが、
緊急の用件――と、本人は言っているが本当は追試らしい――で彼女がいけなくなったため、
急遽後藤と一緒に向かうことになったのだ。後藤とはいつもコンビを組んで仕事をしているので
そう不安はしていないのだが、たまたま飯田の家に遊びに来ていた
加護の存在を飯田は気にしていた。危険な仕事だからと何度説明しても
彼女は後藤が行くなら一緒に行くと言い張り、後藤は後藤で加護と遊ぶ約束をしてるので
仕事には行きたくないなどと我侭を言う始末。
結局、こうして二人を連れて行くことになったのだ。
「飯田さん、ごっちん重いからあっち座らせて来てもええですか?」
「…重くない……痩せた、もん」
言葉尻を捉えてむにゃむにゃと言い返す後藤に加護が笑みを浮かべながら
飯田の返事を待っている。
- 548 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:37
-
「いいよ」
飯田が頷くと、加護は目礼して後藤を連れてロビーの方へ向かった。
後藤は加護に凭れかかる様にして歩いている。あれではどちらが年上なのか分からない。
なんだかんだで、加護も一緒だったのはよかったのかもしれないな、と
飯田は苦笑しながら彼女の背中に声をかけた。
「加護ちゃん、オーナー来るまでにごっちん起こしといてね」
「はーい」
返事をしながら、加護は半分寝ているような後藤を
ロビーの真っ赤なロングソファに座らせていた。それを横目に押さえ、
飯田はホテルの全体に視線を巡らせる。実の所、飯田はホテルに足を踏み入れた時から
悪寒を覚えていた。その理由は分かっている。ここでは人が多く死んでいるからだ。
飯田たちがそんなホテルにやってきたのは調査依頼があったためであり遊びのためではない。
なにより、このホテルは、三年前に閉館していて今はもう営業していないのだ。
- 549 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:37
-
閉館の理由は殺人事件である。
それも一件どころの話ではない。二年間で、未遂事件も合わせ、
合計六件の殺人事件がこのホテルでは起きていた。
自殺事件に至っては、殺人事件を上回る八件だ。
だが、それは分かっているだけの数で、ホテルの裏手にある湖には
未だ浮かび上がっていない死体が沈んでいるとさえ言われている。
どうしてそうなるまでホテルが閉館されたなかったかというと、
最初の殺人事件が起きてからというもの逆に有名になったこのホテルは
一時期は予約待ちになるほどの盛況さを誇ったからだ。
それが、さらなる事件を呼んだのは間違いないだろう
- 550 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:38
-
そんな状態で二年持ったホテルは、だが最後に起きた凄惨な事件が新聞の一面を飾り、
とうとうその門を封じられた。事件の概要はこうだ。
地元の少女を、三人の宿泊客と従業員が地下に監禁。
食事を与えず暴行した上、全身を切り裂いて惨殺した。
程なくして逮捕された彼らは取調室で皆一様に
「どうしてあんなことをしたのかわかりません」と供述し、果てには狂ってしまったらしい。
容疑者である彼らに以前からの面識はなく、
事件は人間の心の闇がどうとかそんな議論を世間に与えはしたが、
しばらくすると様々な事件と同じように忘却されてしまった。
かといって、その事件を掘り起こして調べるのが今回の主な調査内容ではない。
- 551 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:39
-
数々の血生臭い事件が起きたこのホテルに
なおも一人で住み続けている女がいる。ホテルのオーナーの娘だ。
いや、オーナーであった父親がホテルの閉館と共に亡くなっているので、
今は彼女が実質上オーナーといってもいいのだろう。
彼女は、受け継いだこのホテルに対する愛着が消えず、ホテルを再業しようと考えているらしい。
そこで、このホテルで殺人事件や自殺が多発するのは、
ホテルとは無関係だということを証明してほしいと飯田たちに調査を依頼してきたわけである。
どう考えても無関係ということはありえないだろうが――
飯田は、思考をクリアにするために軽く頭を振る。
「なにか視えました?」
不意に、そんな声がかけられた。
振り向くと、一人の若い女性が立っている。飯田はぱちぱちと瞬きし
「あ、えっと、オーナーさん…ですか?」
「ええ、保田と申します。わざわざ来て頂いて申し訳ありません」
ホテルのオーナー保田が会釈する。
つられて飯田も頭を下げた。
- 552 名前:第一章 投稿日:2004/10/20(水) 22:40
-
「飯田圭織です。あっちにいるのが後藤真希と加護亜依で」
ロビーの方を指差して――飯田は恥ずかしさに言葉を止めた。
後藤と加護がソファの上で猫の子供のようにじゃれあっていたのだ。
保田が微笑む。
「皆さん、お若いんですね。もっと年配の方を想像していました」
「…それはこっちの台詞ですよ。オーナーっていうからてっきり」
二人は言って笑いあう。
保田は、ホテルの異様な雰囲気にまったく毒されていないようだった。
大きな瞳は威嚇とは程遠く和やかに細められている。
「では、お部屋に案内しましょうか」
保田が言った。
飯田は下においていた荷物を手に取るとロビーの方に呼びかけた。
「二人とも、行くよ」
その声に、じゃれあっていた二人は転げるように慌ててソファから立ち上がった。
- 553 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 22:58
-
2
- 554 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 22:59
-
先頭に飯田が立ち、その後をちょこまかと加護がついていく。
もうすっかり目を醒ました後藤はその隣を憂鬱な表情で歩いていた。
「すっごいなぁ!」
加護がはしゃいできょろきょろと首を動かし後藤に「ね?」と同意を求めてくる。
しかし、後藤は加護のようにはしゃぐことができなかった。
曖昧に笑いながら視線を動かす。
歩くたびに纏わりついてくるこの気味の悪さはなんなのだろう。
到着したばかりの時は、眠気のせいだと誤魔化せたが――
はっきりしてきた意識だとそうはいかなかった。
ホテルの奥へ進むほどに悪寒は増していく。
このホテルで何度も殺人事件が起きているせいで霊がうろちょろしているのだということは知っているが、
どうにも解せないのは、もしかしたら自分よりも霊に敏感なはずの加護が
まったく不調を見せていないことだ。
- 555 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 23:00
-
「ねぇ、加護」
「ん?」
「あんた、気持ち悪かったりしない?」
彼女が痩せ我慢をしているのではないかと勘ぐって聞いてみる。
加護は後藤の言葉にきょとんとした顔で「全然」と首を振った。
そこに嘘は見られない。拍子抜けして息を吐く。
何なんだろうなぁ、一体――後藤は首を捻りながら、
赤い絨毯が段々になった螺旋階段に足をかけた。上を見上げると、螺旋階段が繰り返されている。
数にすれば少ないが、重なった様は永遠かと錯覚しそうな出で立ちだった。
- 556 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 23:00
-
「お部屋は、この階のものを自由に使って構いません。
私は一階の職員専用の部屋に泊まっていますので、何かありましたら内線で御連絡ください」
客室フロアに着くと、保田が鍵を飯田に渡し笑顔を見せた。
「はい。お世話になります」
「では、私はこれで」
保田が頭を下げ、去ろうとした。
後藤は見送ろうと右に体を回し、ふと絵の存在に気がついた。
金の額縁に飾られているかのように見えたその絵は
よく見ると壁に直接描かれているようだった。眠っている女性の絵だ。
穏やかな寝顔。しかし、青と黒が基調になっているためかどこかしら不気味さも漂っている。
それが、やけに後藤の胸に引っかかった。
- 557 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 23:01
-
「あの……この絵って」
後藤は保田を呼びとめた。
保田は立ち止まって絵を見つめ、ああと洩らす。
「当ホテルをお気に召して、よく宿泊されていた画家の方が描かれた絵ですね……
フランスに留学されたこともある、著名な方でした」
でした、と過去形で言葉をしめた保田に、
まさかこの画家も死んでいるんじゃないだろうなと思ってしまう。
だが、答え終えった保田が会釈をすると足早に去っていったため
それを訊ねることはできなかった。後藤は絵をマジマジと見やる。
絵の隅には、1998、と走り書きがされてあった。
- 558 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 23:02
-
「ごっちん」
「んぁ?」
呼ばれて我に返ると、何度か呼んでいたのだろうか
飯田が怪訝そうにこちらを見ていた。
しかし、彼女はすぐに気を取り直しように保田から貰った鍵を揺らし
「部屋どうする?加護ちゃんと一緒がいい?」
「んぁ、どうするー、加護ぉ?」
この階に着くなり、興奮が最高潮に達したのかぽっぽーと叫びながら
廊下の奥まで走っていった加護に後藤は少し大きめな声で問いかける。
「一緒ぉー!!」
返事はすぐに返ってきた。
「一緒だってさ」
後藤は飯田と顔をあわせ微笑した。
- 559 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 23:03
-
結局、一番奥の左側、201号室に飯田、202号室に後藤と加護という部屋割りになった。
部屋に入って後藤は「げ」と顔を顰める。
薄紫の小花が咲いた白い壁に、純白のレースが重なったカーテン。
真ん中で堂々と客を迎えているベッドのカバーは壁と揃えているのか小花模様。
ベッドの脇に置かれたキャストと机は猫脚で金色。
18世紀のフランスで流行したロココ調を思わせるデザインのこの部屋は、
シンプルを好む後藤にはどうにも居心地の悪さを感じる部屋だったのだ。
なにはともあれ、二人分の荷物を置いてベッドに腰掛ける。
「ぽっぽー!!」
加護が隣にダイブしてきた。ベッドが撓む。
「ま、いっか」
「なにが?」
「んぁ、別に…」
顔を覗き込んできた加護の頭をなぜて後藤はベッドに寝転がった。
- 560 名前:第一章 投稿日:2004/10/21(木) 23:04
-
※
息が荒くなった。入ってくる。
二人、いや、三人か。青くなっていたホテルの脈が動きだし、赤く染まる。
久しぶりに美味しい獲物が迷い込んできた。
「一人くらい食べていいんでしょ?」
「……ダメよ。女王のためにもっと人を呼べるようにするんだから。
そのためにはあの人たちに保障してもらわないといけないの」
「どうしても?」
上目で窺うように見ると彼女は困ったように目を逸らした。
彼女が自分にこうされることを最も苦手とすることを知っている。
これで一人くらいなら手を出してもいいと了解されたようなものだ。
女王は微笑んだ。どういう理由で獲物がここに入ってきたのか名前は何というのか、
興味はない。女王が食べつくしたいのは、中にある魂だ。
その健全な魂が自分に囚われていく様を見てみたい。
ホテルの脈が、動き出し、真っ赤に染まる。
女王は体の中で悪魔が目覚めるのを肌で感じ。恍惚の息を、吐いた。
- 561 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:44
-
- 562 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:45
-
目が覚めるといつも
彼女のホッとしたような顔があるのです
もしかして、ずっと起きてた?
そう聞くと
彼女はいつも
まさかと笑います
たまに見張られているような気がします
それが気のせいであればいいのだけれど…
- 563 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:45
-
第二章
- 564 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:46
-
1
食事の場として保田が案内してくれた特別客専用の食堂は、
他の華々しい部屋と違い、純白で統一されたすっきりとした内装になっている。
しかし、豪華なことに変わりない。落ち着いた華やかさとでもいうのだろうか。
高い天井からつり下げられた巨大なシャンデリアは部屋の隅々をきらびやかに照らし、
総レースのテーブルクロスの上に並べられた銀の食器の一つ一つまでが
磨きあげられたばかりというように光りを放っていて、後藤は目が眩みそうになる。
その場にある料理もまた然り、閉館したホテルには不釣合いな見事さで、
これを保田が一人で用意したのかと思うと感心してしまった。
暫くは談笑しながら料理を楽しんでいたが、
食後のシャンパンが出される頃、まるで待っていたかのように会話が途切れた。
飯田が、ワイングラスを置いて保田に視線を向ける。
ワイングラスに映ったシャンデリアが微かに揺れた。
- 565 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:47
-
「保田さん。事件当時のことを話してもらえますか?」
飯田は穏やかな声で尋ねた。
それまでにこやかだった保田の顔が曇る。
ついに話さなければならないかと落胆したような顔だった。
「ええ……では、最初の事件からお話ししましょうか」
保田がテーブルに肘をつき、左手を右手でさすりながら、遠くを見た。
「一番初めに起きた殺人事件の犯人は新婚旅行でこのホテルに泊まっていた若い夫婦の方です。
当時の私から見てもとても羨ましいくらい仲がよくて…
今になっても、どうしてあんな事件が起きたのか理解できません。
ボーイがオーダーメイドのデザートの注文を伺いに行った際に、
ベッドの上で果物ナイフを胸に刺された旦那様が
血まみれで天井を睨んでいるのを発見したんですが、
その傍で奥様の方は焦点の合わない目で独り言を……」
- 566 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:48
-
「どんな独り言ですか?」
飯田がメモ帳を開き、問うた。
保田は、顔を伏せる。
「聞いた所……これは私の意思じゃない。
まったく何も覚えていない……とそればかりを繰り返されていたと」
「私の意志じゃないって…誰かに操られていたってこと?」
後藤は口を挟む。
「さぁ……そこまでは。
ただ、このホテルで起きた事件の加害者全員が同じようなことを口走っていたのは事実です」
「全員?娘を殺した父親も、友人を殺した男も、少女を監禁して殺した全員が全員?」
飯田が目を瞬かせて問う。驚いた時の彼女の癖だ。
これだけ驚いてくれれば自分が驚く必要はないだろうと
後藤は頬杖を付いた。
- 567 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:49
-
「ええ……刑事さんから教えてもらったんで確かです。
私は、このホテルのせいだとは思いたくありませんけど……
昔からこの地に住んでいる者はこれは呪いなんじゃないかと噂して」
保田がテーブルの上で小刻みに震えていた手を隠すように膝に下ろした。
飯田は立て続けに質問をするのが悪いと思ったのか一旦間を開ける。
しかし、飯田の遠慮も空しく
「呪いってなんの?」
興味津々といった表情で加護が問うた。
後藤は目で加護を咎めるが、彼女は目が合うと
悪い事をしたと思っていないのかにこりと邪気のない笑みを浮かべた。
テーブルの上には冷たい沈黙が走っている。重苦しさに、飯田が息をついた。
「……この土地は私の祖父が買い取ってホテルにしたんですが、
元々は、ある伯爵家の館だったそうなんですよ」
その息に渋々と言った風に口を開いた保田に視線が集まる。
彼女は顔を上げずに言葉を続けた。
- 568 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:51
-
「私も噂で聞いただけなんではっきりとは……
ただ祖父が来るまで誰もあの土地を買い取ろうと言うものはおらず、
館は長年放置されていたそうです。その理由が、呪われているせいだと。
江戸時代には殺された数人の女郎が埋められ、その後に館が建てられたのですが、
館に住む一家は謎の死を次々と遂げていき……昭和三十年頃に
中で女が焼身自殺したという話です。このホテルが建てられる前から、
裏の湖で入水自殺する者も絶えなかったみたいで。
だけど、祖父はお客様が集まれば大丈夫だろうと豪語していました。
ホテルを始める前にちゃんとお祓いもしてもらって、事実、最初の内はなにごともなく上手くいってましたし……
それが、父がこのホテルを継いだ1999年から突然……不幸な事件が続いて……」
保田が声を震わせ目を瞑る。
「辛いことをお聞きしてすみません……
あの、最後にもうひとつだけいいですか?
1998年には、なにか変わったこととかありませんでしたか?なんでもいいんです。
この辺りで事件かなにかありませんでしたか?」
- 569 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:51
-
「んぁ、1998年って言ったらあの絵が書かれた時期と一緒だね」
ふと思い出して後藤は口にしてみた。
飯田が咎めるようにこちらを睨みつける。これではさきほどの加護と同じだ。
後藤は肩をすぼめた。怯えたように保田が二人を交互に見て、飯田に視線を定めると言った。
「…私は当時高校生でしたから、ずっとホテルにいるというわけではなかったので。
だから、1998年になにがあったかはちょっと……」
「そうですか。どうもありがとうございました。
お疲れになったでしょうから、後はゆっくり休んでください」
飯田がペンをテーブルに置き、頭を下げた。
後藤もつられて保田に頭を下げていた。
「はい……そうさせていただきます。皆様もごゆっくりお休みください」
保田は大儀そうに立ち上がり、膝を擦って食堂のドアへと歩いていった。
- 570 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:53
-
※
「すべての事件は呪いなんやな。亡霊の怨念が数々の殺人事件を起こしたんや」
保田が去った後、空になっている飯田のワイングラスにワインを注ぎながら
加護が得意げに言った。こういう所は変に気が利く。
「カオリはどう思う?」
頬杖をついたまま尋ねて後藤は金のキャンディボックスから取り出したチョコレートを口にいれる。
「どう思うって?」
「マジで呪いだと思う?」
- 571 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:53
-
「どうかな?事件は99年から突然始まってるんでしょ。
本当にこの土地が原因ならホテルが建ってすぐに始まってもおかしくないと思うけど」
飯田がつまらなさそうに答えた。それもそうだ。
後藤はもう一つチョコレートを口に運ぶ。
では、1999年になにかがあったのだろうか。
99年ではなくとも、おそらく事件が起こるきっかけになるようなことがその前後にあったはずだ。
そして、それを受けて眠っていた怨霊たちも一緒に動き出した。そう考えるのが一番妥当だろう。
「ただね、一つ気になることがあるの」
思考を続けている間に飯田が口を開いた。
「なに?」
「98年にね、この辺りで女の子が一人行方不明になってるの」
「98年?」
「うん。ここに来る前に少し調べたんだけど、結局、いまだに見つかってないみたい」
- 572 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/23(土) 22:54
-
「となると、やっぱりあの絵が気になってくるね」
「あの女の人の絵?なんで?」
後藤の言葉に加護が首をかしげた。
後藤は、ちっちと指を振り胸を張って言った。
「だって、あれ書かれたの1998年じゃん」
「それだけ?」
「…うん」
年下の加護に呆れたように言われて、後藤は少しムッとしながら頷いた。
飯田がくっくと笑い
「じゃぁ、明日はごっちん、そこから探ってみたら?
カオは、事件のあった部屋を見て回るから」
そう言って、シャンパングラスを口に運んだ。
大時計が十時を知らせる音が、ホテルに響く。
後藤はふと誰かの視線を感じて天井を見上げ、気のせいだと、苦笑した。
- 573 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:32
-
2
- 574 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:33
-
ねぇ、起きてよ――
「…んぁ、なに…加護?」
誰かに呼ばれたような気がして後藤は寝ぼけ眼で隣にいる加護に声をかけた。
しかし、隣から返ってくるのは規則正しい寝息だけ。
気のせい、にしてはいやにはっきりした声だったが――不思議に思った後藤は
目を擦りながら加護を起こさないようそっとベッドから降りる。
起き上がると体がひどく重く感じた。胸も重い。
頭も重いから、原因を考えるのさえ気だるくなってくる。
後藤は、鏡台に映った自分の姿をチラ見した。目が虚ろで、青白い顔をしている。
まるで何者かの見えない手によってじっくりと首を締められているような顔だ。
「……人殺しはとりつかれやすいって感じ?」
自嘲気味に呟いて大きく嘆息する。
その時、部屋の外から階段を使う誰かの足音が聞こえた。
- 575 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:34
-
飯田がなにか発見でもしたのだろうか。
後藤は慌ててスリッパを履いて、部屋のドアを開けた。
廊下には誰もいない。否。白い影が見えた。人だ。
飯田ではない。それは、後藤が見たこともないシルエットをしていた。
「んぁ?」
後藤は眉を寄せる。
人影は、丁度、あの壁画の前に立っているようだった。
足音を立てないよう気をつけながら、後藤はその人影に近づく。
「そこでなにしてんの?」
「…ん?あー、お客さんか」
自分の声に驚くこともなくゆっくりとこちらを振り返ったその人物の顔を見て、
後藤は思わず、一歩後ずさった。その人物は、壁画の女とまったく同じ顔をしていた。
たった今、この絵から出てきたといってもいいくらいに瓜二つなのである。
- 576 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:35
-
「なんつぅ顔してんの?私をモデルにして書かれた絵なんだから、そっくりで当たり前でしょ」
後藤の顔がおかしいのか女が唇の端を吊り上げて不敵に笑う。
「・・・モデル?」
「そうだよ。絵よりは少し年取ったかな、なにしろ三年前だからね」
女は、目を細めて絵を見つめる。後藤も絵に目をやった。
確かにこの女をモデルにして描かれたというのならば、
彼女が絵の中の女とそっくりなのはおかしくないことだ。
しかし――こんな夜中になにをしていたのだろう。
まさか自分の絵を見に来たわけでもあるまいし。
「……そのモデルさんが、こんなところでなにしてんの?」
後藤は聞いた。
その質問を待っていたかのように女が後藤に顔を向ける。
顔がしっかりと見えた。目が合うと女は少年のように悪戯っぽくにっと笑う。
一瞬、後藤は彼女に見惚れてしまった。
女がどこか中性的な顔をしているせいだろうか。それとも――
- 577 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:35
-
「実はね、君に会いに来たんだよ」
「は?あたし?」
「うん。名前は?」
女は後藤の顔に手を添えた。
反射的に身を引きかけるが、女の漆黒の瞳に吸い込まれて後藤の体は固まる。
「…ご、後藤真希」
「後藤か。あたしは、市井サヤカ」
女が、市井が目を細める。
この女の笑い方おかしい――市井の視線に囚われたまま後藤は今さら気づいて思う。
口は微笑んでいるが、目は決して笑わない。いや、笑えないのだろうか?
- 578 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:36
-
「ねぇ、後藤。あんたはあたしを好きになるんだ。
きっと好きになってくれる、そうだろ?」
市井が後藤の髪を梳く。愛しげに優しく。
視界が淀む。花の腐った匂いがする。息が苦しくなった。
眼は開いているはずなのに、前がよく見えない。
「後藤は、あたしを好きになる」
市井の声が頭の中に響いた。
- 579 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:37
-
※
「……ちゃん、真希ちゃん」
誰かが名前を呼んでいる。聞いたことのある声だ。
後藤はその顔を見ようと、ゆっくりと目を開いた。顔が、明瞭になった。
「・・・加…護?」
「大丈夫?なんやめっちゃうなされとったよ」
加護が心配そうに自分を覗きこんでいた。
目覚めたばかりの瞳で周囲を確かめる。部屋だ。廊下ではない。
さっきのは夢だったんだろうか。後藤は、乱れた呼吸を整えようと、息を大きく吸い込んで吐いた。
全身が汗でぐしゃぐしゃに濡れているのが気持ち悪い。
シャワーを浴びたかった。
- 580 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:37
-
「真希ちゃん?どうしたん?」
「…んぁ……ごめん、シャワー浴びてくる」
まともに受け答えもせず後藤はふらふらと起き上がる。
「真希ちゃん!」
慌てたように加護がベッド脇のルームライトをつけた。
そして、間髪いれず彼女はヒッと息を飲んだ。
どうしたのかと加護の視線を辿った後藤は自身の体を見下ろす。
「…ぁ」
悪夢は後藤の体にしっかりと痕を残していた。
鮮やかな、赤である。人工的でない、美しい赤。生き物の体を流れていた赤。
後藤は、震える手でシャツに触った。手に、べっとりとつく。微かに、暖かい。
喉の氷が溶けた。叫び声が喉を震わす。
体が震えて止まらない。奥歯がぶつかり合い、かちかちと鳴った。
- 581 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:38
-
「…真希ちゃん・・・」
震える体を加護がそっと抱きしめてくれる。後藤は長く続く叫び声を止め、
崩れるように加護に抱きついた。怖かった。なにかが無性に怖かった。
普段ならこんなことぐらいなんともないというのに――
まるで自分ではないかのようだ。いや、その通りだったのだろう。
後藤は、後藤ではなかった。自分が誰なのか、自分がどういう風に生きているのか、
すっかり分からなくなっていた。今、自分は生きているのか死んでいるのかさえ、
よく分からなくなっていた。
『後藤の仲間はあたしだけだよ』
頭の中で声が響いた。抗うように後藤は加護にしがみつく。
- 582 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/24(日) 23:38
-
「大丈夫やから…な?ちょっと待ってて」
加護は後藤の背中をあやすように叩き
「飯田さん、呼んでくる」
一目散に部屋を出て行ってしまった。
「ほーら見ろ。後藤にはあたししかいないんだよ」
すぐ真後ろで声がした。
- 583 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:06
-
3
- 584 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:07
-
「……飯田さん……飯田さん!!」
加護は必死にドアを叩いた。すべての力を拳に集め、叩いた。
なかなか飯田が出てこないのがもどかしかった。
いい加減、ドアを蹴破ってやろうかと思ったその時
「……どうしたの?こんな夜中に」ようやくドアが開いて、
寝起きで機嫌の悪そうな顔をした飯田が出てきた。こんな時に悠長に欠伸をしている。
加護は内心腹をたてながらも飯田の手をぐっと掴む。
「ちょ、ちょっとなに?」
「ええから、来てや!真希ちゃんがなんか変なんや!」
「なに?ごっちんがどうしたの?」
戸惑いながらも、彼女はさすが場慣れしている――
引っ張っていた腕からすぐに抵抗が消えた。飯田も走りだしたのだ。
すぐさま二人は部屋に飛び込み、同時に息を飲んだ。
- 585 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:08
-
「真希ちゃん!」
「ごっちん!」
部屋の真ん中で後藤は仰向けに倒れていた。
加護がすぐさま彼女を抱きかかえる。
飯田もその傍にしゃがみ込み後藤の顔を覗き込んだ。
気絶しているわけではないが、その目の焦点はどこにもあわされていない。
「ごっちん、しっかりして!!」
飯田は、後藤の頬を二、三叩いた。
与えられた刺激に後藤の視線が揺れる。
やがてその視点が一点に定まると彼女は飯田に向けて微笑を浮かべた。
長い睫に縁取られた大きな瞳は凍てつき、彼女の肌は青ざめている。
血の気のない美貌が怖かった。本当に後藤なんだろうか、と飯田は探るように彼女を見つめた。
- 586 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:08
-
「…飯田さん」
不安げに加護が呼ぶ。
彼女を安心させるために飯田は無理矢理に笑みをつくり
「ともかく、ベッドに運ぶよ」
「大丈夫だよ、カオリ」
後藤が青ざめた顔で笑う。病人の肌に不似合いな、健康的な笑顔だった。
飯田は訝しげに後藤を見つめる。
「どこが大丈夫なのよ。すごく顔色悪いし…それに、その血どうしたの?」
「……悪い夢見ただけだって。血は、ホテルの呪いなんじゃない」
笑顔を貼り付けたまま、後藤が加護の腕を離れる。
- 587 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:09
-
「真希ちゃん…」
「シャワー浴びてくる」
呼びかける加護にひらひらと手を振りながら
後藤は頼りない足取りで風呂場に向かった。すぐに水の流れる音がする。
飯田は顎に手を添え一寸思考に集中した。
ホテルに来た時から感じていた気配。それがなんらかの霊であることは分かっていた。
ここになにかがいるのは間違いなかった。この土地では人が死に過ぎているのだから、
霊がいたっておかしくはないのだ。
ただ彼らはこれだけこちらに存在を匂わせながらも
今までその姿を全く現そうとしなかった。たいがいの霊は、
その地に新しい人間が来た瞬間から姿を現すというのにだ。それは不気味なことであった。
相手の真意が分からなければ、こちらもどう動けばいいのか判断を付け難い。
だから、まずはそれを探ろうと飯田は考えていた、矢先にこれだ。
一体、どうして後藤が狙われたのだろうか。
- 588 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:10
-
「…大丈夫なんかな?」
加護が音の聞こえる方に顔を向け呟いた。
思考を中断して飯田は彼女の頭を撫ぜる。
「…ごっちんもそうだけど、加護ちゃんは大丈夫なの?
そういうの感じるんでしょ?」
「ん、うちは慣れとるからあんまり気にならんのや」
「そ、そっか」
どこか達観したような加護の口ぶりに飯田は苦笑する。
それを咎めるように加護が飯田を睨んだ。
「うちのこと気にするより、敵のことやろ」
「……そうね。でも、体に不調感じたらちゃんと言うのよ」
「…うん。それで飯田さん、なんか分からへんの?」
「…今んとこ分かってんのは、霊がカオたちを警戒してるってことだけかな」
「警戒?」
「こっちに全然姿を見せようとしないでしょ。
隠れて敵がどんな奴らかを窺ってるのね、きっと」
水の音が止まった。
加護と飯田は顔を見合わせる。
- 589 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:10
-
「いい?とりあえず、今日一日ごっちんは休ませるから、
加護ちゃんも一緒にいてあげて。カオは一人でホテルを調べてみる」
そう早口で告げると加護は真剣な面持ちで頷いた。
そこへ、さっぱりした顔の後藤が戻ってくる。
「ごっちん、気分はどう?」
「…んぁ、気分って?っていうか、カオリ、なんでここにいるの?」
後藤がきょとんと首を傾げる。冗談を言っているわけではなさそうだ。
霊になにかされて記憶があやふやになるのは珍しいことではない。
どうやらシャワーを浴びる前のことを彼女はまったく覚えていないのだろう。
- 590 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/25(月) 22:11
-
「真希ちゃ」
「あ、ちょっと怖い夢見ちゃって加護ちゃんに慰めてもらってたの」
加護の言葉を遮って飯田はいう。
加護がこちらに疑問の視線を投げているのが分かったが
あえてそれを無視しながら飯田は「まいったまいった」と後藤に笑いかけた。
後藤は呆れたように目を細め「怖い夢って、カオリらしくないね」言った。
「これでもカオって繊細だからね」
「はいはい」
「それじゃ、そろそろ部屋に戻ろうかなぁ」
苦笑いを浮かべながら飯田は立ち上がる。
「あはっ、また怖い夢見たらあたしたちの部屋来なよ」
後藤の軽快な笑い声が聞こえた。
- 591 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:03
-
第三章
- 592 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:04
-
君があの子を殺すのは
あの子を憎んでいるからじゃない
あの子が背負う重たい十字架から
早く楽にさせてあげたいと
君の深い深い愛情は言っているんだ
さぁ、迷うことはない
殺してあげなよ
- 593 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:05
-
1
- 594 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:06
-
保田から借りた鍵で、飯田は地下室へ行くドアの鍵を開けた。
例の少女監禁事件の現場だ。狭い階段を下りると重たそうな二つの扉が現われる。
右は食料倉庫、左はワインセラーだ。左の部屋で事件は起きた。
そへこ足を踏み入れると思うだけで気が滅入ってくる。飯田は息を吐き出し、
冷静な横顔でドアを開ける。錆びたドアは久しぶりに開けられたことに甲高い悲鳴を上げた。
長い間、誰も足を踏み入れていなかった地下室には饐えた臭いが充満している。
中は真っ暗で何も見えない。飯田はドアのすぐ傍のスイッチを落としてみた。
しかし、裸電球はとうに切れているのかなんの反応も示さない。
こんなこともあろうかと準備してきた懐中電灯を取り出して飯田はふとある一点に視線を止めた。
- 595 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:07
-
居た。目が、合う。
彼女は、古い椅子に優雅な様子で座っていた。
ビロードが所々はがれた古い椅子だ。木の箱に囲まれて、彼女は微笑んでいる。
淡い桃色のワンピースの勝気そうな目の少女。少女から、敵対心は感じられない。
彼女はただそこにいるだけだ。
殺された未練で離れられないのか。それとも、殺された少女ではない別の霊なのか。
この土地自体が霊の宿木といってもいいのだから、霊が他から集まってきている可能性もある。
飯田は、眉間の皺を消して、無表情になった。
笑ってもいけないし、怒ってもいけない。悲しんでもいけない。
そうして、無表情で霊と立ち向かう。
- 596 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:07
-
「こんにちは」
「…こんにちは」
少女が、飯田を見つめて微笑んだ。
もう死んでいると言うのに、その輪郭はやけに鮮明でまるで生身の人間のようだ。
「名前はなんていうの?」
「…さぁ、忘れちゃった」
「そっか」
「ねぇ、どうして私に会いに来たの?」
少女の目が飯田を探る。
「なにかあたしに伝えたいことがあるんじゃないかと思ってね」
答えると、少女は首を傾げて、ふふふ、と笑った。
それは少女に不釣合いな艶っぽい笑い方だった。全てを見透かしているかのようでぞくりとする。
- 597 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:08
-
「事件のことを聞きたいの?」
「……そういうことだね」
「私はね、別に殺されたんじゃないのよ。殺されてあげたの」
どこか誇らしげに少女が言う。
「薄汚いあいつらじゃなくて……私は、女王に命をあげたんだから」
「……女王……?」
「あら?あなた、まだ女王に会っていないの?
不思議の国にきたら、まず女王に挨拶しなきゃいけないんだよ、アリスちゃん」
少女が笑う。
飯田は惑う。――女王とは誰だ?
- 598 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:09
-
「女王は、ここの全てを統べる人だからね。私はあの人に殺されてあげたの。
だって、一人ぼっちで寂しそうだったもの。誰にも理解されない私と同じ。
私、生きていてもちっとも楽しくなかったし。だから、女王には感謝してるわ。
あの人は永遠を私にくれたの」
「それは違うでしょ」
飯田は冷たく言い放つ。
少女の言葉はあまり理解できないが、それを否定せずにはいられなかった。
「あなたは、本当にこうなることを望んでいたの?
こんな薄暗いところで一人でいることを望んでいたとでも?」
「愚かね」
少女が飯田を嘲り笑う。
- 599 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:09
-
「私は一人じゃないのよ。女王もいるし、みんないるじゃない。
ここで死んだ人は、肉体を失うだけでその高貴な魂は死なない。
ここは永遠が存在する不思議の国。分からないなら、あなたも早く来てみればいいのに」
乱れた頭を整理し飯田は必死に車輪をまわす。
女王。ここの全てを統べる。
永遠。この場所で女王は何者かに殺され、成仏できずにこのホテルを呪い、
数々の事件を起こした。これでは、まるで三文ホラーの筋書きだ。
しかし、これは仕組まれたホラー映画などではない。
胸糞が悪くなるまでの現実だ。
- 600 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/26(火) 23:10
-
「…女王って誰?どこにいるの?」
飯田は少女に近づいた。
少女が飯田を鋭く睨みつけ、その足を止めさせる。
「生きているあなたには教えない」
笑いながら少女は飯田の目の前から姿を消した。
彼女の笑い声だけがいつまでも耳の中で木霊する。
飯田は、耳を押さえた。これくらいで動揺してはいけない。心をかき乱されれば相手の思う壺だ。
一時、そうやって我慢していると、ふっと電池が切れるように静寂が訪れ、
あとにはがらんどうの地下室が残った。
- 601 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/27(水) 22:13
-
※
「ダメって言ったじゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ」
「でも、あいつ可愛いし。見てるとドキドキするんだよね。一目ぼれかなぁ?」
聞き捨てならない言葉に保田は眉を寄せて振り返る。
女王は革張りのソファーにふんぞり返るようにして座っていた。
保田が見ていることに気づくと彼女は微笑み、気化するように消える。
しかし、彼女の笑い声はその部屋に残っていた。保田の気持ちがそれで満足するだろうとでもいうように。
確かにそれは間違いではなかった。
- 602 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/27(水) 22:14
-
保田は、耳を澄ませ、目を爛々と輝かせ、その笑い声にうっとりと酔いしれる。
女王の手の平の上で玩ばれていると判っていても。
保田はホテルの壁を撫で舌を這わせた。
保田を骨の髄まで狂わせた女王。保田がこの手で作り出した、造形美の頂点に立つ女王。
保田の理想をすべて叶える女王。
「あなたほど、愛しい人はこの世にいない……」
保田は、女王の脈を肌で感じて愛しさに悶えた。
それを邪魔をするかのように唐突にノックの音が聞こえた。
笑い声が止む。全てが平常に戻る。
舌打ち一つ、壁から体を離すと保田は平静に戻りドアを開けた。
そこに立っていたのは、加護だった。
- 603 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/27(水) 22:14
-
「…仕事中でした?」
「いえ。大丈夫ですよ。どうかしましたか?」
遠慮がちに聞いてきた加護に保田は微笑んだ。
「あの、お昼なんですけど…部屋に運んでってもええかなぁって」
その言葉で保田は女王の意図が判って内心拍手を送りたくなった。
女王が後藤を狙うと言い出した時はなぜ彼女なのかと疑問を持ったし、
まさか本当に一目惚れなどしたのではないかと嫉妬もしたが――
女王には分かっていたのだろう。あの三人の中で後藤が一番弱いということを。
さすがは女王だ。後藤は今、動けないほど弱っているのだ。
- 604 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/27(水) 22:15
-
「…保田さん?」
「え、あ、勿論大丈夫ですよ。お昼になったらお運びします」
「いや、一人で運ぶからええです。ほな」
加護は保田の申し出を口早に拒否するとそのまま走っていってしまった。
「…お昼ね」
忘れていた。
口笛を吹きながら上機嫌で保田は食堂に向かった。
- 605 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:00
-
2
- 606 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:01
-
後藤は、低く唸りながらごろんと寝返りを打った。
実をいうと、後藤は昨夜の出来事を薄ぼんやりとだが覚えていた。
だから、今朝、調査に参加しなくていいと飯田から言われた時、素直に従うことにしたのだ。
加護は後藤を心配してかずっと傍にいてくれる。おかげで大分調子もよくなっていた。
霊気も加護が中和してくれているようだった。
だが、加護が昼食のことを保田に訊ねに部屋を出ていってから、
再び、後藤は全身に重たいなにかを感じはじめていた。体が嫌な汗で濡れる。
誰かに観察されているような感覚。ここで死んだ人間たちの不気味な囁き声が聞こえる気がした。
それもこれも――市井サヤカのせいだ。
後藤は苦々しく顔を歪める。あの女が、自分の心を汚したのだ。
- 607 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:02
-
額に伝う汗を拭うと後藤は体を起こしシャワールームに向かった。
こんな時間にシャワーというのもなんだがそんなことはどうでもいい。
汚された心を洗い流したかった。纏わりつくなにかを落としたかった。
コックをキュッと捻り、シャワーの温度を一番熱くする。
水飛沫は白いタイルに落ち、白く湯気立つ。後藤は一心不乱に体を擦った。
だが、ボディーシャンプーを泡立てて体をこすっても、髪を洗ってもすっきりしない。
今まで擦り付けられた汚れはまったく落ちていない気がする。
後藤は苛立たしくシャワーを止めた。顔を上げる。湯気で鏡が曇っている。
今の自分の顔が見えなくてよかった。
後藤は頭を振ってシャワールームを出た。
- 608 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:02
-
脱衣所の棚からバスタオルを掴み取り、乱暴に体を拭く。
シャワーの熱で火照った体は思考を鈍らせる。
後藤が異変に気付いたのは、腹まで水気をぬぐった後だった。
後ろに誰かが立っていた。気配で分かる。
「…市井、サヤカ」
「ご名答!」
ガバッと後ろから抱きすくめられる。ひゃっと後藤は間抜けな声を発した。
火照った体に彼女の体はあまりにもひんやりしていて一気に全身に鳥肌が走る。
「な、な、なんでいんの?」
「そう、怖がるなよ、後藤」
「別に怖がってるとかじゃなくて……」
彼女の声を聞くと頭が痛くなる。
後藤は、首筋に絡まる市井の腕を乱暴に振りほどきながら体を反転させた。
- 609 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:03
-
「あたしは、あんなワケ分かんないことしたあんたに怒ってんの!!」
「…後藤」
後藤の一喝に市井が目を丸くする。
彼女はこちらをまじまじと見つめ
「お前、怒った顔も可愛いな」
言った。今度は、こちらが目を丸くする番だった。
後藤は唖然としてしまう。
「あんた、バカじゃないの!?」
「そう言うなよ。後藤の味方は私しかいないんだぞ」
市井の目がきゅぅっと細められた。
蟲惑的な瞳に後藤は目を見開く。油断していた。
頭の中に薄いベールがかかりはじめる。
意識を鮮明に保つことを何かに妨害されているような、そんな感じだった。
- 610 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:04
-
「そうでしょ、後藤」
どこからかまた、声が響いた。
体がピクリと反応する。
「私のために動いてよ。ね」
「…ぅあ」
クラクラした。頭の中に溢れる言葉に意思が飲み込まれていく。
市井の言葉が知らないうちに後藤の言葉に切り替わり、意思となる。
抗おうにも抗えない意思となる。
「やっぱ可愛いな、お前」
市井が微笑む。
それと同時に後藤の頭の中のモヤモヤが消えていった。
- 611 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/29(金) 22:04
-
「真希ちゃん!」
「……んぁ?」
気が付くとまた昨夜と同じ、そこにいた市井ではなく
いなかったはずの加護の心配そうな顔が目の前にある。
後藤は視線を巡らせる。なにもない。脱衣所だ。
髪を掻き揚げる。濡れている。
それでシャワーを浴びていたのだと思い出す。
「まだ体調悪いん?」
「…んぁ、普通だよ。っていうか、あたし裸なんだからじろじろ見ないでよ、エッチ」
「……え、エッチー!?心配しとるだけやろ!」
後藤の言葉に加護は裏返った声で叫ぶと顔を真っ赤にして出ていった。
後藤は薄く笑む。それは、市井と同じ決して目を細めない笑い方だった。
- 612 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:21
-
3
- 613 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:21
-
「あ、飯田さん。お昼の準備が整ってますけど」
地下室から上がってきた飯田を見つけて保田は声をかけた。
飯田は、少し疲れたような顔をしている。
「どうしました?なにかありましたか?」
「え?あ、いや別に」
「別にって顔には見えませんけどね」
言うと、飯田が苦笑する。だが、その理由までは口にしない。
そんな飯田の態度を多少気にしながらも、保田は平静を装い食堂へ向かう。
- 614 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:22
-
「あれ、あとの二人は?」
食堂に着くなり飯田が言った。
「お二人なら部屋で食事を取られるそうですよ」
「…そっか」
飯田の顔は終始張り詰めており、考え込むように目の前のワイングラスを見るともなく見ている。
この女、地下室でなにを知ったのだろう?
どうして依頼者である自分になにも言ってこない。
ナイフで肉を切り分けながら、保田は飯田を観察する
- 615 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:23
-
「ねぇ、保田さん」
「はい?」
「女王って知ってる?」
突然、彼女の口から飛び出した単語に保田は思わずナイフを取り落としそうになった。
どうにかそれを避けると、冷静な顔を作り上げて首を振ってみせる。
「いえ、知りませんけど……それがなにか?」
「ん?これは仮説なんだけどね」
行儀悪く飯田が頬杖をつく。その仕草は頭が痛いかのようにも見えた。
保田は皿を飯田の前に置いて彼女の対面に座ると話を聞く体勢になる。
- 616 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:24
-
「……ホテルで起きた殺人事件の犯人は誰かに操られていたんじゃないかなって」
「それはやっぱり呪いってことですか?」
「…じゃなくて、女王?」
自分で言っておかしかったのか飯田がふっと笑う。
保田は笑えなかった。飯田はなにかに気づいている。
女王の存在にどうやってたどり着いたんだ?保田は、窺うように飯田を見た。
飯田にバレたらホテル再興など出来なくなるだろう。
だが、バレることなく彼女にホテルで起きた事件はただの偶然だと
太鼓判を押してもらえれば、また以前のように営業再開できる。
女王の食料を調達できる。
飯田にこの仕事を依頼したのは保田にとって一か八かの賭けだった。
それも絶対に負けるわけにはいかない。
- 617 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:24
-
「あの…女王ってなんの話なんですか?」
「あ、大したことじゃないんです。気にしないでください」
話を打ち切るように飯田が料理を口に運び始めた。
それもまた保田の心に漣を立たせる。
おそらく保田に見られているという意識はあるのだろうが、
飯田は飄々としたままナイフとフォークを動かしていく。
「飯田さん」
「ん?なんです?」
「…もし、もしも、さっき言ってたことが本当なら」
脅すもりで保田は口を開いた。
「あなたたちの中に、亡霊に操られている人がいるかもしれませんよ」
「そうですね。怖い怖い」
保田の意図に反して飯田は笑いながら震えて見せた。
- 618 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:25
-
ますます判らなくなってくる。飯田がなにを考えているのか。
もし、仲間が死んでもなんとも思わないのだろうか。
カチャカチャと飯田の皿の上でフォークが音を立てる。
その音に思考を奪われそうになりながら、保田は必死に思案し続ける。
もし、飯田に調査はもういいと言ったところで彼女は帰らないだろう。
一番最良な方法は女王に頼むことだ。こうなったら、全員生きて帰さなければいい。
そうすれば、賭けは全てチャラになる。
- 619 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:26
-
「保田さん」
「…なんですか?」
「いい加減、98年になにがあったのか話してもらえないかな?」
音が止まった。保田は目を見開く。
今までとは違った冷淡な眼差しがそこにあった。
保田はその時ようやく自分がとっくに賭けに負けていた事を悟った。
「…し、失礼します」
保田は立ち上がりその場から逃げだした。
飯田が追ってくることはなかった。
- 620 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:27
-
※
保田の出ていったドアをじっと見つめながら飯田は嘆息する。
多少、鎌をかけたつもりが保田は明らかな動揺を示した。
やはり彼女は何かを知っているのだ。それも相当に深く。
「…女王、か」
もしも、そんなものが本当にいるとすれば、保田もまた彼女に操られているのだろうか?
その可能性がないとも言い切れない。
ただどちらにせよ分からないのは――なぜ自分たちを呼んだのかということだ。
保田が依頼してこなければ、このホテルの存在に飯田が気づくことはなかっただろう。
もし、気づいたとしてもホテルが閉館してからはなんの害も起きていないのだし、
調査することもなかったと思う。では、保田の目的はなんなのだろう。
危険を冒して飯田たちにホテルを調べさせてなにを企んでいるのだ。
そこまで考えた所で、ガチャリとドアが開いた。
入ってきたのは後藤だった。
シャワーを浴びたばかりなのか髪が濡れている。
- 621 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:27
-
「ごっちん、もう大丈夫なの?」
「んぁ、なにが?」
「…食事、部屋で食べるって聞いたから具合悪いのかと思って」
後藤が昨夜の事を覚えていないのを思い出して、飯田は慌てて言った。
「ああ、そのことね。単に加護と二人っきりで食べたいだけだよ」
「カオが邪魔者ってこと?」
「まぁ、そんな感じ」
顔を顰めて見せると、後藤は口元だけの子悪魔のような笑みを浮かべて頷く。
彼女にしては珍しい笑い方だ、と飯田は思った。
昨日の今日だ。少し気になる。
- 622 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:27
-
「加護ちゃんは部屋にいるの?」
「うん、昨日あんまり寝れなかったみたいで今寝てる」
「そう」
昨夜は後藤のことが心配で寝れなかったのだろう。飯田は納得する。
「それよりさ、カオリ。なんか分かったことはないの?」
いいながら、後藤は二人分の料理をてきぱきとトレイに乗せていく。
「全ては女王の仕業らしいよ」
「女王?」
後藤が手を止めて飯田を見た。
飯田は頷く。
- 623 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/30(土) 21:28
-
「それで、保田さんもなにか関わってるみたい」
「へぇ……」
さして驚いた様子もなく後藤が相槌を打つ。彼女らしいといえばらしい。
先ほどの笑みは考えすぎだったようだ。飯田は少し安堵する。
「ま、なんか手伝ってほしいことあったら言ってね」
そう言うと、後藤はトレイを持って飯田に背を向けた。
不意にその背中が別人のように見えて飯田は目を瞬かせる。
「ごっちん」
「んぁ?」
呼び止めると、後藤は顔だけをこちらに向けた。
いつもと同じ顔。気のせいだ。
飯田は、腑に落ちないものを感じながらも「なんでもない」言った。
- 624 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/31(日) 23:07
-
4
- 625 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/31(日) 23:08
-
いつのまにかうとうとしていた加護は体を起こそうとして動かないことに気づいた。
数十個の目が、加護の体を縛っている。皮膚も髪も、細胞も骨もしっかりと固定して
加護をベッドに縛り付ける。うんざりして目を閉じてしまいたかったが瞼も下がらない。
空気に晒され続ける瞳から涙がとめどなく溢れた。視界が滲む。
その時、音もなくドアが開いた。室内に入ってきた影が近づいてくる。
それでも、縛りが解けないことに加護は狼狽する。
加護は、入ってきた彼女の名前を呼びたくて口を動かそうとする。
しかし、微かに開いたままの唇はやはり固まったまま動いてはくれなかった。
- 626 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/31(日) 23:10
-
影がゆっくりと近づいてくる。数十個の目は、これから起こる事を待ち望むかのように
傍観を決め込んだようだ。ベッドが軋んだ。影が加護の上に覆いかぶさる。
乾いた瞳は限界だった。激痛で脳まで痺れてくる。
いっそ意識を手放してしまいたかったが、限界の所で加護は痛みに耐えてしまっていた。
冷たい手が首を包んだ。そのまま強く締められていく。親指で気道を圧迫されて苦しい。
加護は、彼女の名を呼びたかった。本当にこの手の主が後藤真希なのかを確かめたかった。
けれど、声は漏れない。音はない。
死の絶望で視界が黒い縁に囲まれる。
殺される。
じわじわと首を締めている手にさらに力が加わる。
後藤の表情は見えない。前髪で目は隠れ、彼女の形の良い鼻だけがくっきりと見えた。
- 627 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/31(日) 23:11
-
真希ちゃんに殺される――加護は心の中で唱えた。
唱えてみると、なんだかそれでもいいような気がしてきた。
絶望が一変して穏やかさに変わる。
その気持ちを悟ったのかふっと全身の呪縛が解かれた。
視線が加護を開放した。動かそうとすれば体はもう動くのだが
加護は一切の抵抗をせず、ただ痛みに苦しんでいた瞼をゆっくりと閉じた。
涙が一筋頬を伝った。
後藤の手が熱を持つ。加護はその温かい手に命を委ねた。
心はもう死を受け容れてしまった。
首を締めているのは、見知らぬ殺人鬼ではなく、大好きな後藤真希だ。
彼女になら殺されてしまってもいいと、体が死を受け容れてしまった。
後はただ、死を待つのみ。
- 628 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/10/31(日) 23:12
-
しかし、加護の首を締め付けている後藤の手は躊躇いを見せており、
あと少しの力が足らず加護は死ぬことができない。
早く苦悶から開放されたいと体が熱く熟れていた。
加護はもう開けることはないと思っていた目を億劫に開け、十分に潤った目で後藤を見つめた。
もう殺していいよ。もう苦しみはいらない、と。彼女に告げる。
首にかかる力が強くなる。頭の奥がとろけていく。
呼吸は後藤の手によって完全に塞がれていた。
黒い瞼の裏が、白く染まった。熟れ切った体が落ちる。
加護は解放された快楽に戦きながら幸せそうな顔で、眠りの深淵に堕ちていった。
- 629 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 21:55
-
第四章
- 630 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 21:56
-
彼女は、私を女王と呼ぶ。
私はその呼ばれ方が好きじゃない。
どうしても、それが自分のこととは思えないのだ
けれど、彼女がそう呼ぶので
私はその呼ばれ方を受け入れる
- 631 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 21:56
-
1
- 632 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 21:58
-
白いレースが揺れて、後藤の徒波を騒がせる。
いつのまにか室内の窓が全て開いている。
「……殺してないじゃんか」
レースの内側から現れた市井は加護の息を確かめて後藤を睨みつけた。
市井の背後に立つ後藤は頭を振りながら笑う。
「あんたって残酷だよね。あたしに加護を殺させようとするなんて……」
後藤は、おもむろに市井のしなやかな体を抱き寄せると、
その真っ赤に燃える唇に静かに唇を落とした。月光が二人の影を絨毯の上に描く。
驚いたように市井が後藤の胸を強く押し返して、体から離れた。
「っにすんだよ!」唇を拭いながら彼女が吐き捨てる。
「なにって…どうしたの?あんたが言ったんでしょ。あたしがあんたを好きになるって…
そうなったからキスしてあげたんじゃん」
せせら笑って見せると市井は艶やかな瞳で後藤を睨んだ。
顔に翳る影が震える。
- 633 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 21:59
-
「……じゃぁ、なんでその子を殺さなかった?」
「んぁ、それで怒ってんの?」
市井の頬に触れながら、後藤は目を細めた。
「友情と愛情は別でしょ。後藤は友達少ないから加護がいなくなるのは嫌なだけだよ」
もう一度接吻しようと顔を近づけた後藤の頬を市井が平手で打った。
後藤は、片眉を吊り上げて口角に嘲笑を浮かべる。
「嘘つくなよ!お前は私を好きになったとか言いながら、心じゃその子を愛してるんじゃないか」
市井の目が屈辱で燃えていた。
「あはっ、ばれた」
後藤は両手を開いて、肩を竦めた。
市井の燃えるような瞳に青白い顔の加護。
白枠の窓から溢れる月の光に風にはためくカーテン。画的に素晴らしい光景だ。
後藤は笑っていた。
- 634 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 22:00
-
市井の怒りが手に取って判る。
後藤の心はもうどこまでも冷静になっていた。
彼女が後藤に加護を殺させようとした。そのことが後藤に正気を取戻させたのだ。
もう彼女に隙を突かれることは絶対にないだろう。
逆に今、市井の隙を付こうとしているのは後藤のほうだった。
烈火の如く怒る市井の隙を氷の刃で貫いてやろうと、後藤は口を開く。
「市井サヤカ、あんたが女王なの?」
その言葉に怒りに歪んでいた黒い瞳がはっと見開かれた。
返事がなくとも、その動揺は肯定を示している。後藤は市井を凝視した。
「…女王、あんたの目的は何?」
「お前まで…それかよ」
傷ついた瞳で吐き捨てると市井は後藤に背を向けた。
その輪郭が、顫動しながら小さくなっていく。いつものように掻き消えるのではなく
彼女は歩いてこの場から逃げ去ったのだ。
- 635 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 22:00
-
後藤は揺れる背中を目で追ってから、加護に視線を向ける。
その顔が今にも泣きだす前のように歪む。
「……真希ちゃん、こっち来て」
ベッドに寝転がったまま加護が両手を伸ばす。
後藤は、黙って彼女の言葉に従う。加護の手が後藤の首に回った。
そのままベッドへと抱き寄せられる。
「浮気もんやな、真希ちゃんは」
加護が耳元で囁いた。
後藤は笑って「ごめんね」とだけ答えた。
- 636 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 22:02
-
※
保田は髪を掻き毟った。緩いウェーブの掛かった栗色の髪が数本床に落ちる。
女王を抱き寄せキスをする後藤真希。
保田は、目を見開きすべての様子をうかがっていた。
一語一句聞き逃さなかった。
女王を抱き締める、後藤真希。
保田は嫉妬で焼けただれた胸をおさえ、痛みにもだえる。
愛する女王を抱き、汚した憎むべき存在。保田は頭を抱えてうなった。
女王を抱き寄せた後藤の姿がいつまでも脳裏に残ってきえない。
後藤の腕に抱かれた女王の姿が脳裏を過ぎる。
保田は、女王を愛している。しかし、それは一方的な愛だ。
昔からずっと、女王が女王になる前からずっと、
彼女にとって保田は取るに足らない存在だった。
- 637 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/01(月) 22:02
-
「誰のおかげで……生きていられると」
保田は歯噛みする。脳裏に浮かび上がる一つの光景。
獣の目。真っ赤な血。真っ赤な夕やけ。背筋を走る、人を殺す快感。
美しい少女が涙交じりに懇願する。
ああ、そうだ。保田は笑い膝を落とす。
快楽が甘くのしかかり、保田の体を重くさせる。
「……あなたを愛してる」
保田は腰を曲げて、床に頬をつけた。
湿った息で愛していると繰り返す。
保田だけが知っている。このホテルは血で生きている。
このホテルは女王だ。彼女だ。保田が彼女を女王に仕立て上げた。
「…サヤカ」
保田は、湿った息を吐きながら彼女の名前を呼んだ。
- 638 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/02(火) 22:50
-
2
- 639 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/02(火) 22:51
-
「ごっちん、加護ちゃん、大丈夫!!?」
突然、ノックもなしに部屋に飛び込んできた飯田を見て
ベッドの上で抱きあっていた二人は固まった。飯田も目を丸くして固まる。
「だ、大丈夫みたいだね……その、加護ちゃんはまだ子供なんだから…
後藤はちゃんと、体のことを考えて――えっと、あと、あの」
頬を朱に染め、ぼそぼそと忠告の言葉を口にし始めた飯田に
後藤は「ち、ちがうって、カオリ!!」と、慌てて叫んだ。
それから、勝手な妄想に飛んでいった飯田をどうにか宥めて、
今まで起きた事を説明すると後藤は疲労の溜息をついた。
- 640 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/02(火) 22:52
-
「結論をいうと、このホテルを支配し、あたしたちを殺そうとしているのは
女王と呼ばれる、二階の廊下の壁画に描かれた人なんだよ。
敵の姿はもう見えてる。後は彼女を倒して、仕事終了」
珍しく後藤はやる気になっていた。
市井が自分に対して怒ったように、後藤も彼女に対して怒りを覚えていた。
命よりも大事に思っている加護をこの手で殺させようとするなんて――
その場で感情的になってはまた隙をつかれると冷静を装っていただけで、
内心は腸が煮えくり返る思いだったのだ。
- 641 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/02(火) 22:52
-
「でもさ、ごっちん」
「んぁ?」
「カオはその女王に会った事ないからよく分からないけど、
彼女も操られてるってことはないかな?」
その言葉に後藤は眉を寄せる。
飯田の顔は真剣に張りつめていた。後藤は市井の姿を思い出す。
彼女の言動は誰かに操られているようには見えなかった。
自らの意思で、後藤を選んできたように思う。思うが――
「それは、ないと思うけど」
確信が持てず視線を下げながら後藤は答えた。
- 642 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/02(火) 22:53
-
「ねぇ」
二人の話を聞いていただけの加護が不意に口を開いた。
二人はそちらに視線を動かす。
「うち、あの人、そんなに悪い人には見えへんかった」
「…加護、あんたね、お人好しにもほどがあるよ。
だって、あいつがさ、その…」
自分を操って加護を殺そうとしたんじゃないか。
もう口にもしたくない。そんな後藤の気持ちを汲み取ったのか加護が「そうやけど」言う。
「でも、あの人から真希ちゃんには悪意感じられへんかったもん」
後藤は溜息をつく。
「百歩譲って、女王が操られてるとするよ。それじゃぁ、誰が操ってんのさ?」
「……保田さん」
眉に皺を寄せたまま飯田が零す。
後藤は「はぁ?」と飯田に目をやった。
- 643 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/02(火) 22:54
-
「一番、妥当でしょ?」
「そうやな。あのおばちゃんは怪しいで。顔からして犯人顔やもん」
加護が同意する。
「でもさぁ」
「わかってるって。それは女王に聞いてみないと分からないことよね。
それでごっちんは、彼女を呼びだせるの?」
文句を言いかけたところで飯田が言った。
後藤は頷く。
「じゃぁ、聞いてみて。保田さんは私がつついてみるから」
「オッケー」
「うちも行く!」
後藤の声に被さって加護が手を上げた。
- 644 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/03(水) 22:06
-
3
- 645 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/03(水) 22:07
-
どこからか鳥が飛び立つ音が聞こえた。
外は風が流れ、動いているというのにここだけは空気が止まっているようだ。
女王を迎えるべく、加護はロビーのソファーに座っていた。目には決闘への自信が込められている。
不意に音もなく金色の扉が左右に開いた。黒髪を靡かせながら女王が姿を表す。
「話ってなんだよ、ごと……」
「ご機嫌はいかがですか?女王さん」
彼女は加護を見るなり不本意そうに顔を顰めた。
加護は立ち上がって、女王に一礼する。女王はそれを無視して赤いソファーに腰を下ろした。
加護も彼女を見つめたまま、腰を据える。
- 646 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/03(水) 22:10
-
「真希ちゃんじゃなくてすみませんね」
後藤の名を出すと、女王は加護から視線を逸らした。
大きく上下した胸が彼女の動揺を物語っている。
「別に誰だっていいよ」
視線を逸らしたまま女王が小さな子供のように唇を尖らして呟く。
加護は、彼女の意外に可愛らしい一面に微笑みを浮かべた。
「ならよかった。一応、すぐ近くに真希ちゃんおるから、
うちとの話が終ったら会ってもええよ」
言うと、女王が悔しそうに視線を下げる。
外見は加護よりも年上に見えるだが、目だけを見ると人見知りの激しい子供のようだ。
- 647 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/03(水) 22:14
-
「話ってなに?」
「話っていうよりも、同士として一ついいこと教えてあげようと思って」
「いいこと?」
女王が首を傾げた。
「操られた真希ちゃんよりも普通の真希ちゃんのほうが可愛いよ。知らんやろ」
加護の言葉に、女王の目が、すっ、と凍る。
顎を引き、彼女は加護を上目で睨んだ。
「あとなぁ、寝起きの真希ちゃんの動きは面白いとか…
ああ見えて意外と笑い上戸で笑顔が超可愛いとか」
「…意味が分からないな。そんなこと知った所で私には関係ない」
「またまたぁ、真希ちゃんのことホンマに好きな癖に」
加護は笑う。
女王が眉を寄せ、笑う加護をますます強く睨みつける。
- 648 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/03(水) 22:15
-
「さしずめ、うちと女王は恋のライバルってとこやけど…
残念なことに生きてない女王に勝ち目はないな」
女王の目が傷ついたように揺れた。
加護は、情け容赦なく笑い声をロビーに響かせる。
女王が唇を噛み、顎を持ち上げた。このまま引き下がるわけにはいかないとでもいうように。
「言っとくけど、あいつは一回私の手に落ちてお前を殺そうとしたんだよ」
「やけど、途中でうちに戻ってきたやん」
加護は笑い声を止めて、冷たく言い放った。
女王が言葉を失う。
- 649 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/03(水) 22:16
-
「言いたかったことはこれだけや、もうええよ」
憤然とした様子で女王が立ち上がる。硬く握られた拳は震えていた。
「うちは子供やからな、ライバルは叩き潰したくなるんや」
歌うように言って加護はまた笑った。
女王は憎憎しげに加護を睨み、踵を返して去っていく。
加護は、笑いながらその背を見届けた。
そして、女王が出て行ったのを確認するとその笑みを打ち消し
「なんか、うちって悪役やん」呟いてソファに体を深く沈めた。
- 650 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:25
-
第五章
- 651 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:25
-
私は死んでいるらしい。
彼女は一度もそんなこと言わなかった。
このホテルの女王だからあなたはここにいなければいけないのだと
彼女はそれだけを私に言った。
私は何のために、いつから、どうして
――ここにいたのだろう?
- 652 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:26
-
1
- 653 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:28
-
母が買ってくれたあの本は今どこにあるんだろう。
昔の思い出だ。遠い遠い、思い出。
――私がいないとあなたはここにいられないのよ
声が囁く。形のない黒い影。
いつから自分はこの黒い影に支配されているのか。
廊下には自身の姿が描かれた壁画。
見れば見るほど自分と思えぬ艶やかさで女王はそれを見るたびに
昔の自分と今の自分が違うことを認識させられる。
確かにこの壁画の中のような自分は昔いた。
脈打つ心臓と、考える脳を持って生きていた。
それが今はどうなのだろうか?
- 654 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:29
-
女王は鏡の前に立つ。その姿は鏡に映らない。
自分はここにいないのだろうか。もういない人間なのだろうか。
ならば、なぜホテルに来た客たちは自分の姿に怯え、時に見蕩れるのだろう。
彼らを虜にさせる時のことを覚えている。しかし、それは本当に自分といえたのか。
覚えている記憶はただの妄想なのだろうか。考えれば考えるほど混乱してしまう。
――あなたは私のものなんだから
声は言う。女王は悩む。
世界はいつのまにこんなに不可解になってしまったのだろう。
世界はいつの間にこんなに暗くなってしまったのだろう。
先程のことを、思い出す。
あの少女は生きている。しかし、彼女は女王を生きていないと言った。
――話が出来るのに。
- 655 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:31
-
確か、生きている者と死んでいる者は、話ができないのではなかったか。
彼女と話が出来たということは、自分は生きているということではないのか。
こうして苦しんでいる自身はなんなのか。
魂とは、何だったか。
生とは、何だったのか。
死とは、何だったのか。
すっかり忘れてしまった。全部、忘れてしまった。
そんなこと考えることもなかった。
影が女王をしっかりと捉えていたから――
女王の中は今までからっぽだった。
だが、あの少女と話したことによって女王の心は揺れはじめていた。
- 656 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:32
-
女王は視線を下げる。
見えるのは勝手にどこかへ向かう足。止めることはできない。
この足は一体どこに向かっているのか?
いつも、こうだ。自分の体が、勝手に動き、いつも恐ろしいことをする。
女王は恐ろしさで意識をどこかへ追いやる。
そして、気がつくとホテルは血に染まっているのだ。
ぴたり、と足が止まった。
霞む意識の中で女王は後藤真希の姿を確認する。
彼女はまるで死者を送るような黒い服を着ていた。
彼女は螺旋階段の上から半眼で女王を見おろしていた。
彼女の瞳を見つめると女王の意識を覆う霧が晴れていく。
心の破片が脈打ち、落ち着きがなくなってしまう。
女王の心が騒げば、ホテルの空気も騒ぐ。
- 657 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:34
-
――あいつを殺すんだ
耳の奥で影が囁く。女王は息を飲む。
とても、そんなことは出来ない。
「どうしたの?いつもみたいに軽口叩かないの?」
いつの間にか後藤が階段を下りて目の前に立っていた。
女王はびくりと体を引き、
彼女の問いかけに少し遅れで首を横に振る。
「ふ〜ん……まぁ、いいけど」
後藤は一旦間を置き、女王から視線を逸らした。
「今までの事件は全部あんたの意思なの?」
薔薇のトゲが指に刺さったように女王の心がじくじくと痛んだ。
しかし、否定はしない。できない。分からないからだ。
世界は不可解で自分のことさえも分からない。
ただ女王は後藤を見つめた。
後藤が拍子抜けしたように頭に手をやり壁に凭れかかる。
「…分かった」
ややあって、答えのない答えに彼女はそう頷いた。
- 658 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:37
-
「もう一ついい?」
「…なに?」
「女王って呼ばれるのは嫌いなの?」
女王は俯き、小さく頷いた。
頭の上で後藤が大きな溜息をつく。
「なんか調子狂うなぁ。一発、殴ってやろうと思って待ってたのに」
「……殴ってもいいよ」
「加護になに言われたの?」
肩をすくめ女王は後藤を見た。
彼女の赤い瞳はなんの感情も浮かべていない。
こいつ目が赤かったんだな、女王は今始めて後藤の目を見たかのようにそれを新鮮に思った。
- 659 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:38
-
「…ホント、らしくないねぇ。もっと傲岸不遜だったのに。
そんで、女王じゃなかったらなんて呼ばれたいワケ?
市井サヤカだから…市井ちゃんとか?」
「なんだよ、それ」
唐突に話を変えられて、後藤の目に引き寄せられていた女王は一瞬呆気にとられる。
「普通、下の名前とかで呼ぶもんじゃないの?」
「あたしは普通じゃないらしいからね」
言って、後藤が笑った。女王はその笑顔に見惚れる。
確かに加護の言ったとおりだ、彼女は思った。
「とりあえず、市井ちゃんのことは保留しとく。
なんかまた騙されてる気がするけど…」
頭の後ろで手を組んだまま後藤が女王に背を向けて歩き出した。
女王は後藤の背を見届ける。
刺さった薔薇のトゲが心臓に達したかのように胸が切なさで痛んだ。
- 660 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:40
-
※
保田の姿を求め、ホテル中を歩き回った飯田は厨房に辿りついていた。
キッチンの前、果物ナイフを片手に保田は立っていた。
どこか鬼気迫るものを感じさせる背中だ。
「保田さん」
飯田は決して警戒を解かず、声をかけた。静かに保田が振り返る。
その瞳を見て飯田はゾッとした。まるで死んだ魚のように濁っている。
それは、一番、最初に会った時の印象とは掛け離れており、
本当にホテルの邪気に囚われていたのは彼女なのだと飯田は確信を持った。
「どうかしましたか?」
だというのに、口調自体は変わらず、それがますます不気味さを増している。
「大体のことが分かったので報告しようかと思って」
「大体のこと?」
「ええ。事件は全てこのホテルに住まう女王の仕業でした」
淀んだ瞳が飯田を凝視する。
泥が全身にまとわりついてくるような感覚。飯田は、それを気で制しながら言葉を続ける。
- 661 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:41
-
「でも、彼女はもうなにもしないでしょう」
途端に、保田の濁った瞳に怒りの泡が現れる。
「どうして、ですか?」
「女王を操っている人物を見つけたからです」
飯田は挑発的に笑い、保田の怒りを真っ向から受け止めた。
「…へぇ、女王も操られていたってことですか?」
「ええ」
保田の言葉に飯田は腕を組んで頷いた。
チラリと保田の手元に視線を落とす。
果物ナイフが今にも獲物を求めるかのように揺れていた。
- 662 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:46
-
「誰に、操られていたのかしら?」
「その答えをあなたに教える前に、一つ聞きたいことがあるんですけど」
保田が無言で飯田を睨む。
「98年の事件のことですよ。
あなた、カオが聞いたとき教えてくれませんでしたよね」
「なんのこと?」
「知らないはずはないと思いますよ。
98年に行方不明になった少女はあなたの幼馴染じゃないですか」
ドン。保田がキッチン台を力いっぱい叩く。
俯いたその横顔一杯に怒りが露になっていた。
しかし、瞳を閉じ大きく息を吐き出すとそれはすぐに姿を消してしまう。
怒りを押し隠した平静さで彼女が口を開く。
「その事件が関係あるんですか?
私は、思い出したくなかったから言わなかっただけです」
「カオリは、その行方不明になった少女が女王なんだと思っています。
そして――」
キッと飯田は保田を睨みつけた。
「98年に彼女を殺し、再生させたのはあなただと思っています」
保田の頬がひくりと動いた。
彼女はなにかを言おうとして口を開くが、発するべき言葉を見つけられないようだった。
- 663 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:50
-
「あなたは再生したばかりの彼女を縛り付けるためにこう言って惑わせた。
このホテルに血を捧げないと、あなたは死ぬんだって。
そうやって彼女を縛り付けたんです。違いますか?」
「……なんの根拠があんのよ。全て、あなたの勝手な憶測じゃない」
「ええ、そうですよ。鎌かけただけです、今回はひっかかりませんでしたね」
飯田は笑う。
保田がぎりりと音がしそうなほど歯噛みした。顔が醜いまでに歪んでいる。
「また来ます。今頃、後藤が女王と話しているはずですから、
もう少しちゃんとした根拠持ってきてあげますよ」
笑ったまま飯田は保田に背を向けた。
いい加減、安田の手から果物ナイフが飛んでくるんじゃないかと
飯田は歩きながら文字通り身を硬くしていたのだが
どうやら彼女の心にはそんな余裕はなかったようで、なにごともなく飯田は厨房を後にする事ができた。
- 664 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:54
-
※
「けーちゃん、どこ行ってたの?」
ふらふらとした足取りで保田が自室に戻ると、
黒い革張りのチェアーに待ちくたびれたというような顔をした女王が座っていた。
保田はぼんやりと彼女を見つめる。
悪いのは全部彼女なんじゃないだろうか。ふとそんな考えが浮かんだ。
そして、それを肯定する声が頭の中で響く。
厨房から握り締めてきた果物ナイフに視線を落とす。
切先に映った自分は言っている。
今しかない、と。
この手で彼女を殺められるのは、今しかない。
あの時のように。もう一度。狂おしい愛。嫉妬。執着心。
自分の下から離れていかないように――
- 665 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:55
-
※
「……け…ちゃん」
彼女は驚いたように目を見開いていた。
「……なんで……なん・・・で」
彼女の胸に、果物ナイフが刺さっている。
ナイフの柄を掴んでいるのは保田だった。爪まで赤く染まっている。
「どうして……どうしてこんな……」
疑問の言葉しか漏れない彼女の口から血が流れる。
白いシャツが、真っ赤に濡れる。
保田は喉に張り付く笑い声を上げていた。
「圭ちゃん……なんで………」
血まみれの手が、頬を撫でる。血に濡れた指が唇に触れた。
生臭い味が口に広がった。
保田は恍惚に顔をとろけさせる。
「大丈夫だよ。すぐに生き返らせてあげるから…」
- 666 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:56
-
※
「圭ちゃん?」
体を揺すられて保田は我に返る。
彼女の目には、保田が気を失いそうに見えたらしい。
目が心配そうに揺れている。
「…サヤカ」
保田は、彼女の頬を両手で掴んだ。
呼ばれた彼女は一瞬ポカンと子供のような顔になり、
それからふっと口元だけを緩めるあの独特の笑みを浮かべた。
「圭ちゃんにそう呼ばれるの久しぶりだね」
保田は、ぐっと喉を鳴らした。
どうして、彼女はこんな顔を自分なんかに見せるのだ。
- 667 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:57
-
保田は笑い出したかった。泣きたかった。叫びたかった。
全身が震えていた。彼女が愛しかった。手放すことなど出来ないと思った。
だが、保田の中の保田は言う。
構わぬ。殺してしまえと、保田の中の化け物が冷酷に言う。
五体が、ばらばらになってしまいそうだ。
支離滅裂な精神に、虚を映す瞳。
ふと気づくと、白かった壁が黒くなっていた。保田は目を見開く。
ホテルが変わろうとしている。
生血を吸い生きてきたホテルが死のうとしているのだ。
それはつまり女王が自ら死のうとしているに他ならない。
そうなれば、保田は居場所を失くしてしまう。彼女を失ってしまう。
- 668 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/05(金) 22:58
-
「…サヤカ」
「ん?」
「あんた、私になにか話があったから待ってたんじゃないの?」
問うと、女王は、いや、市井サヤカは深く息を吸い吐き出した。
滑らかに光る二つの瞳が保田を真っ直ぐに捕らえる。
彼女がなにを話にきたのかは分からないが、頭の中が静かになった気がする。
「話っていうか聞きたいことがあってさ」
「うん、なに?」
「私ってもう死んでる?」
あまりにもストレートな質問だった。
それゆえ、保田は動揺を隠すことが出来なかった。
彼女が、そっかと小さく呟き微笑する。
「どうやったら終われるのかな……」
困ったような顔でいうと彼女は保田の前から姿を消した。
- 669 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:37
-
2
- 670 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:38
-
飯田は、呆れた眼差しを二人に向けた。後藤と加護だ。
女王と話してきたこの二人、しかし、なにも聞き出してこなかったというのだ。
「だからぁ、女王って呼ばれるのが嫌なんだって」
後藤が女王から聞いてきたことはこれだけだ。
加護に至ってはただ喧嘩を吹っかけてきただけらしい。
「二人ともなに考えてんの。真面目にしてよ。
これじゃぁ、カオが嘘つきになるじゃん」
「なんで?」
さっきまでのやる気はいったいどこにいってしまったのやら――
あっけらかんと後藤が問い返してきた。
- 671 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:39
-
飯田は後藤のあまりの暢気さに溜息と共にがっくりと項垂れる。
飯田が保田にあれだけの啖呵を切ったのは、
この二人が女王から聞きだしてくる話を頼りにしていたからに他ならない。
推測を保田にぶつけ、そして、確固たる証拠とともに再度ぶつかりにいく。
その予定だったのだ。
「…予定が狂ったよ」
「んぁ……で、でもね、あたしも今の市井ちゃんからは悪意を感じられませんでしたよ、隊長!」
「う、うちも確信もったよ。あの人、真希ちゃんのことが好きやねんって、隊長!」
落ち込む飯田に後藤と加護がとりなすように言う。
誰が隊長だ。飯田は視線をあげじっとりとした目線をバカ二人に投げる。
しかし――
「んぇ、市井ちゃんがあたしのこと好きってどういうことよ、加護」
「女の勘や、女の勘」
「加護のどこが女なんだか。おこちゃまの勘でしょ」
「なんやと!」
続いて聞こえてくるのは、さらにバカな会話。
頭が痛くなってくる。
- 672 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:43
-
「そこのガキ、勝手に私が後藤を好きってことにするな」
あまりにも低レベルな会話を続ける二人に飯田がいい加減頭を抱えたところで、
ふと聞きなれない声が耳に飛び込んできた。
顔を上げると、いつのまにか室内の人数が増えている。
見慣れない少女がそこにいた。
「市井…ちゃん」
後藤がパカッと口を開ける。
市井ちゃん?まさかこれが女王?
飯田は、まじまじと少女を見詰める。
確かに加護や後藤が口にしていたように彼女からはなんの悪意も感じられない。
- 673 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:48
-
「ねぇ、なんか私、滅茶苦茶あの人に睨まれてないか?」
「あれがカオリのデフォだから」
「そうか……」
ひそひそと失礼な会話をしたあと、女王は飯田の顔を覗き込むように上体を曲げる。
飯田は驚いて顔を上げた。その俊敏な反応が面白かったのか、女王がぷっと吹き出す。
笑うと子供っぽくなる。そんなことを思いながら、
女王自らここに来てくれたチャンスは逃すまいと飯田は口を開く。
「ねぇ、じょお…っと、この呼ばれ方は嫌いだったんだっけ」
女王と呼びかけようとして彼女の顔が僅かに顰められたのに気づいて飯田は訂正する。
しかし、名前が分からないので続けられない。
- 674 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:49
-
「市井サヤカ」
彼女がぶっきらに言う。
「…オーケー。市井さん。あなたに聞きたいことがたくさんあるんだけど」
「こっちは、一つだけそっちに頼みがあって来たんだよ」
飯田の言葉を遮って市井が後藤を見る。
後藤はキョロキョロと周囲を見回し、自分の顔を指差す。
加護は後藤を取られまいとその前に立ちはだかった。
市井が苦笑を浮かべ頬をかいた。
「私の死体を見つけてほしいんだ」
「死体?」
「そう。厨房にある三番目の食器棚の後ろにあるはずだからさ」
「…どうして死体を見つけたいの?」
詳しいことも聞かずに飯田は問いかけた。
- 675 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:50
-
「……自分が本当に死んでいるのを確認したら、終わるかなって思って」
淡々とした口調で市井が答える。そういうことか。
飯田は納得する。彼女が奇妙な形でこの世に留まっていられたのは、
彼女自身はっきりと自分が死んだことを認識していなかったからだったのだ。
無理もない。若くして、それも唐突に幼馴染に命を奪われたのだから。
「市井さん、成仏したいんですか?」
「お前と話す口は持ってませーん」
加護の言葉に市井が子供のように耳を塞ぐ。
- 676 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/06(土) 22:51
-
「市井ちゃん、成仏したいの?」
「ああ、後藤を連れて成仏したいね」
後藤の言葉にはしっかりと反応する。
そして、後藤の腰の辺りに手を伸ばし――たところで、彼女は後藤に頭を殴られた。
これが女王なの?
飯田は本当に呆気に取られてその光景を眺め――やはり頭を抑えた。
- 677 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/07(日) 22:51
-
3
- 678 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/07(日) 22:53
-
話し合った末、市井の体を捜しに行くのは後藤と加護、
職員専用の部屋にいるという保田の元には再び飯田が行くことになった。
「…手品みたいやな」
加護が部屋を見回して呟く。広がっているのは黒。
市井が部屋に来てからのこの変貌は早かった。
黒い壁。就寝に使っていたベッドも黒い。なにもかも。
部屋はもう客室ではなく牢獄のような、窓もない、漆黒の箱と化している。
「もう長くないんだよ、このホテルも私も。
ホテルが閉館になってからなにも食べてないからね」
市井が嘯く。強がっているようにも見える。あまりそういう姿は見たくない。
この人は傲慢なくらいが丁度いい。後藤は、そんなことを思いながら
「ともかく、急ごう」部屋のドアを開けた。
なんなく開いたことに少し安心する。しかし、安堵の息はつけない。
- 679 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/07(日) 22:55
-
「うわぁ、ここもやん」
そう、出た廊下も漆黒だったのだ。
世界からほかの色がなくなったのかと思ってしまうほどの黒。
このホテルが長くないのは本当のようだ。
そして――後藤は、チラリと市井を見やる。
気づいた市井が嬉しそうに眉を上げた。
「なんだ、後藤。ちょっと私に惚れそうになってる?」
「ち、違うよ」
「そりゃ残念」
市井は、ちぇっと子供のように口を尖らせた。
- 680 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/07(日) 22:57
-
※
ロビーで飯田と別れて後藤、加護、市井の三人は厨房に向かった。
鈍く光る厨房の扉を開ける。霊の姿はない。なにも感じられない。
ただひんやりとしている。
「三番目の食器棚って…」
後藤はキョロキョロと厨房内を歩き、それらしき食器棚を見つけた。
三番目の食器棚、とは左隅に置かれたこの食器棚のことだろう。
並べて置かれた食器棚の二つは大きく、一人ではとても動かせそうにないが、
左隅の食器棚だけは、縦に長く横は薄かった。
「市井ちゃん、これ?」
「ん…ああ、それそれ」
軽い調子で市井が答える。
後藤は両手を交互に回すと戸棚を抱えた。加護も手を貸してくれる。
市井は一歩はなれたところでその後ろを見ていた。
- 681 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/07(日) 23:00
-
「せーのっ!!」
大げさに掛け声など出さなくとも簡単に食器棚は動く。
床に傷がつくのも構わず、二人は食器棚を縦に移動させる。
すると、昔使われていたのだろうか。その後に灰色のドアが現れた。
「…ここだ」
ふらりと市井が動き、ドアノブに手をかける。
加護が止めようとした所を後藤は首を振って制した。
ここから先は市井だけでもいいような気がした。
これで全て終わるのだと思った、矢先――
「なにしてるの」
背後から足音が聞こえた。
- 682 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/07(日) 23:01
-
市井が振り返る。後藤と加護も振り返った。
「そこに入るのは許さないわ」
笑う唇。濁った瞳。
立っていたのは保田圭その人だった。
- 683 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:13
-
※
全てが終幕へと向っている。
この世に在ってはならない闇が、光へ吸い込まれていく。
光と闇。光の先には闇が。闇の先には光がある。
物事は二つのことを兼ね備えようやく物事として成り立ち、ひとつでは成り立たない。
世界から闇が消えてしまっては、光もなくなる。光だけではいけない。
しかし。闇より深い闇は、光を侵食し、世を狂わす。
保田のように闇に囚われた人間は存在してはならない。
もしかしたら、彼女もまたこの土地の闇に狂わされた一人なのかもしれないが――
そうだとしても。飯田は眉を吊り上げた。これが自分の仕事だ。
深くなりすぎた闇を、闇の先の光へ導くこと。
だが、保田の元に行く前に飯田には一つだけしなければならないことがあった。
「…ごめんね、すっかり忘れてた」
飯田は、口だけで笑った。ロビーに立った少女が飯田を睨んでいる。
彼女の存在は薄れ始めており後ろの壁が透けて見えていた。
- 684 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:14
-
「これでもまだ楽園だと思う?」
「全部あんたのせいじゃない!」
少女が叫ぶ。ポニーテールが揺れた。
彼女の怒りに呼応するかのようにホテルが軋んだ。
「みんなを返して!」
飯田は、目を伏せる。
「あなたが返せと言っても、行くべき場所へ行ってしまった者たちは帰って来ない。
ここは地獄よ。好んで地獄に留まる人なんていない」
「ここは地獄じゃない。天国だよ。ここを離れたら私は消えてしまう……
みんな死にたくなんかないもん。そうでしょう?」
少女が眉を寄せた。
死後に天国も地獄もない。言葉の綾だ。天国と地獄は生の世界にある。
それは少女本人が一番知っていることだろう。
- 685 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:15
-
「ようやく本音を聞かせてくれたね」
飯田に見据えられ、少女の瞳が震えた。
華奢な少女だ。飯田は彼女に近づく。
「……近づかないで。あんたなんか大っ嫌いなんだから!」
天井の電球が割れた。電球を囲っていたガラスの傘も割れて、
破片が飛び散る。傘の大きな破片が浮き上がり、飯田の顔めがけて飛んできた。
飯田は、避けなかった。頬に熱が走る。
硬化もしなかったから痛いものは痛い。
飯田は苦笑を浮かべ、流れ落ちた血を指で拭う。
少女が両手を口に当て、睫を震わせた。曲がった眉に、後悔があった。
ただ脅しのつもりだったのだろう。
- 686 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:17
-
「どうして……避けなかったの」
首筋に血が垂れる。
飯田は、眉を下げる。
「こんなものじゃなかったでしょ、あなたの痛みは」
自失している少女に問う。
少女はポニーテールを左右に揺らした。
「……座ろう」
飯田は少女に微笑んだ。
我を失いこちらを見つめていた少女が促されて座る。
飯田は、絨毯の上に体操ずわりをして、掌についた血を服で拭った。
血のついた服に真っ赤に濡れた頬。
保田に逢う前に着替えて顔を洗った方がいいだろう。
だが、その前に。
飯田は少女を見つめた。少女もこちらを真っ直ぐに見つめ返してくる。
さっきまでのヒステリーは消えていた。
- 687 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:18
-
「あなた、死にたくなかったでしょう?」
飯田は穏やかな声で訊いた。少女は答えない。
「あなたは自分の死を認めたくない。だから、いつまでもここに留まっている。
死ぬ時は殺されてあげる、と優越感を味わい、死を認めた。
だけど、心の底では認めたくない気持ちで一杯だった。
幽霊のほとんどがそうなの。未練であの世へいけない」
飯田は壁に凭れかかり、足を伸ばした。横目で少女の背中を見る。
小さな背中だ。丸い肩に、床に広がったワンピース。
まだまだやりたいこともたくさんあっただろう。
「……痛かったよね。何度も泣いたでしょ。
泣き叫んでも誰も助けてくれなかった。体も心も蹂躙され、
いっそ殺されたいのにそれでも生かされる。身も心もぼろぼろにされ……そして切り刻まれた」
「勝手に語らないでよ。私の何がわかるって言うの!」
低い声で、少女が否定する。
瞳に、再び怒りの炎が宿った。
- 688 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:21
-
「あなたは泣きたいんでしょう」
飯田は少女に触れる。爪弾けばいい。その指で。悲しみを昇華させてやろう。
頭の奥が真っ暗になって、少女の悲しみが見えてくる。
少女が振り向いた。自分の一部が、飯田の中に入ったことに気付いたのだろう。
悲壮の面持ちで少女は飯田を見る。
「涙を流したい。けど、生身の体がない。悲しくてたまらないのに……
あなたの涙には行き場がない。だから、どうしていいか、わからない」
少女の顔が歪む。細い腕が伸びて、飯田の腕に絡まった。
食事もろくに与えられなかったのだろう。酷く痩せていた。
このか細い体で、少女は獣じみた暴虐を受け止めた。
飯田はその体をしかと抱き止める。
- 689 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/08(月) 22:22
-
「すべてを預けていいよ。あなたが流せない涙を流してあげるから。
私が、あなたの行き場になるから」
箍が外れたように少女が飯田の肩に顔を埋め、泣きだす。
飯田の右目から涙が落ちる。飯田は少女の嗚咽を聞きながら、泣いた。
呼応して、少女はまた一際子供のように泣きじゃくる。
「殺されたくなかった……生きている間は最悪なことがいっぱいあったけど
まだ生きたかったのに……消えたくなかった…怖かっ……」
あやすように、背中を撫でる。頬を染めた血が、涙で洗い流される。
深すぎる闇を光へ。死にきれぬ霊を救済へ。
「……お母さん……」
飯田の肩で、少女が最後に呟いた。
- 690 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:25
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- 691 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:27
-
「すべてを燃やす。ホテルに火を放って焼き尽くす。
こうなったら全員を殺してみせるわ。奪われるくらいなら、自分で終わらせてやる。
邪魔する者は許さない」
狂気じみた調子で保田が口早に言った。
市井はドアノブから手を離す。
「圭ちゃん、ホテルを焼くなんてやめなよ」
「大丈夫よ。またサヤカのために新しいホテルを建ててあげる。
心配しなくていいわ」
そういう意味ではない、市井は唇を噛み締める。
どうして分かってくれないんだろう。
市井がホテルを黒く染めても、保田は気付いてくれない。
もう終わりにしよう、という市井の気持ちに気付いてはくれない。
それでも市井は諦めず、保田に話しかける。
「もう疲れたんだ……私はもう終わりたいんだよ、圭ちゃん」
「どうせ、そいつらにそそのかされてるんでしょ?
言ったじゃない、サヤカには私しかいないんだって」
保田の血走った目が市井から後藤たちに動く。
「殺してやる」
空気が冷たくなった。
保田は、今にも叫び出しそうだ。憎悪が、顔に無数の皺を刻ませている。
それは、彼女の実年齢を遥かに越えた皺だった。
- 692 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:28
-
「あたしが、おとなしく殺されると思う?」
後藤が一歩踏み出した。
「殺すよ」
保田も一歩踏み出す。市井は、それを悲しい目で見ていた。
まだ生きていた頃、苛められていた自分を助けてくれた彼女を思い出す。
まだ生きていた頃、一緒に河原で歌を歌った姿を思い出す。
思い出は、たくさんあった。
女王でなくなった時から思い出しただけでも数え切れないくらいに。
思い出の中の保田はいつも優しかった。
どこで歯車が壊れてしまったのだろう。
- 693 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:29
-
「市井さん」
体が揺すられて市井は思考を止める。
加護だった。
「なんだよ?」
「早く、あそこに行きましょう」
加護が目で示したのは、市井の死体があるはずの扉だった。
市井は眉を寄せる。
「あたしに圭ちゃんを置いてけっていうのか?」
「真希ちゃんが言ったんや」
市井は驚いて、保田と対峙している後藤を見やる。
後藤の背中には強い怒りが浮かんでいた。
ぼぅ、と暗闇で発光する姿は、人には無い魔性がある。
- 694 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:30
-
「ほら、行くで」
加護がドアノブに手を駆け、市井の腕を引っ張る。
市井は引っ張られるままにその奥へと足を踏み入れた。
「サヤカ!」
保田の鋭い声が聞こえ、ドアが閉まった。
- 695 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:33
-
※
太陽が燃えている。気が付くと、市井は大地の上に立っていた。
乾いた土の感触まで、しっかりと感じられる。けれど、体は無い。
ベージュの四角い建物が背後にある。ホテルだ。
この光景を市井は見たことがあった。この空気を、感じたことがあった。
熱された土の匂いが鼻腔に蘇っってくる。
これは――あの日だ。市井が殺されたあの日。
視線を上げると二人の少女が前方から歩いてくるのが見えた。
その顔には、笑顔が浮かんでいる。市井は、右側にいる少女を見つめた。
澄んだ目をしている。自分ほど強い者は無いと、愚かなまでの自信に輝く目。
あれは。あれは、自分だ。生きていたの頃の、自分がいる。
少女たちが近づいてくる。あるはずのない心臓が、踊った。
魂にも鼓動はあるのか。全身の力が逆流し、空の頂点に意識が到達してしまいそうな、
快感的動揺。少女は、やがて市井とすれ違う。
その時、市井は少女の一部になった。過去の自分と、ひとつになった。
肉体がないからそれは容易なことなのかもしれない。
- 696 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:34
-
「サヤカ、湖に行ってみない?」
「なんで?」
「デートよ、デート」
影が市井の手を引っ張って走り出す。市井も走った。
唐突に世界は移動する。
太陽は沈み、生温い夕闇が視界に映った。
そして、自分にのしかかっている重み。
影が動く。一筋の光が見えた。
市井は手を伸ばして、軌道を変える。光が頬を掠る。熱。熱い。
- 697 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/09(火) 22:34
-
「死んでよ。私のものにならないなら」
声。
これは誰の声だ。
いや、考えなくても分かる。この声は。
「…圭ちゃん」
再び襲い来る閃光。市井は保田の影を蹴り上げた。
影が、しりもちをつくようにして転がる。
彼女が手にしていたナイフが市井の足元に。
拾い上げ、市井は容赦なく彼女に突き刺した
瞬間――
市井は全ての終わりを感じた。
- 698 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:29
-
5
- 699 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:30
-
保田の動きは、後藤からみればスローモーションのようなものだった。
加えて、ただ振り回すだけのなんのテクニックもないナイフ捌きでは掠るはずもない。
「ほらほら、あたしを殺すんじゃなかったの?」
後藤は嘲るように笑う。
その分かりやすい挑発に、だが、保田の怒りは高まったようだ。
おもむろにナイフを投げ捨て掴みかかってきた。
首を掴まれ、そのまま食器棚に押し付けられる。
背中の後ろで食器棚のガラスが割れたのを感じた。
絞められている首の苦痛よりも、そちらの方が痛くて後藤は顔を歪める。
- 700 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:32
-
「…服、絶対破れた」
忌々しく呟くと、後藤は自分の首を絞めている保田の腕を掴んだ。
そのまま力づくで引き剥がし、その手が剥がれるなり、保田の腹に蹴りを叩き込む。
たまらずに保田が蹲った。容赦なく下がった保田の顔面を後藤は蹴り上げようと足を振り上げる。
保田は必死で仰け反り、それを回避する。
だが、後藤は攻撃の手を休めることはない。
すぐさま胸倉を掴み、無理矢理引き寄せるとその顔面に頭突きを放った。
無言で無表情に淡々と、機械作業のような動きで後藤は攻撃を続ける。
誰かが止めに入るか、保田が死ぬか、そうでもない限り後藤は止まりそうになかった。
再度、腹部へ与えられた蹴りに保田が胃の中のものを吐瀉する。
「どっちが死ぬのかなぁ?」
咳き込む保田の前にしゃがみ込み、後藤は笑う。
保田の濁った目は苦痛に潤んでいた。
- 701 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:34
-
「多分ねぇ、市井ちゃんはもっと痛かったはずだよ」
「…」
「で、あたしの服ももっと痛かったはずだね」
後藤はぐるりと顔を後ろに向けて自身の背中を見た。
案の定、ガラスの破片によって細かな穴が開いている。
血も滲んでいて、もう着るのは無理だろう。
「さて、あたしが怒ってるのはどっちのせいでしょー?」
顔中血塗れの保田ににこやかに後藤は問う。
保田は俯く。顔を上げていられる力も残っていないようだ。
「答えてよ」
「…服」
「ブッブーッ!!」
後藤は、両手でつくったバッテンを保田の後頭部にアチョーと叩き込んだ。
保田は顔面から床に這い蹲る格好で倒れこむ。
- 702 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:35
-
「友達は大切にしないといけないんだよ」
拳についた血をぺろりとなめると後藤は立ち上がった。
その直後であった。轟音と共に、大きな揺れがホテル全体に生じた。
「んぁっ!?」
危うくバランスを崩しそうになりながら、後藤はなんとか自分の足場を保つ。
地震かとも思ったが、揺れは治まるどころかさらに激しくなっていく。
まるでホテルが泣いているかのように。
「真希ちゃん、ホテル崩れる!!」
不意に、隠し扉に入っていった加護が血相を変えて飛び出してきた。
それも一人で。
- 703 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:36
-
「市井ちゃんは!?」
「もうおらん!!早く逃げな」
加護が後藤の手を掴む。
揺れにより、ありとあらゆるものが落ちては音を立てて壊れていく。
建物が鳴動する。灯っていた蛍光灯が消える。
「分かった。保田さん、ほら」
床に倒れている保田に後藤が手を伸ばした。
刹那――
「危ない!!」
加護が後藤を引っ張る。声をあげる暇もなかった。
目の前で、食器棚が保田の体を潰していた。
後藤は、一瞬唖然とするも、すぐに保田を助け出そうと
その食器棚に手を掛けた。
- 704 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:37
-
「っく!!」
しかし、さっきのとは違ってそれは重くびくともしなかった。
とても一人では持ち上がりそうにない。
その間にも、ホテルの律動は続いている。
パラパラと瓦礫の破片が落ちはじめる。
「真希ちゃん!」
悲痛な加護の声。
後藤は、食器棚と加護を交互に見やり――
諦めて加護の手を掴んで走りだした。
- 705 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:38
-
※
薄れ行く意識の中で保田は彼女の姿を見た。
「今、助けるよ」
伸ばされた手を止める。彼女が訝しげに眉を寄せた。
保田は、首を振る。
「……一緒に……死んでいきたいのよ……私は……」
黒い幕が降りて来る。保田は目を瞑った。
音が消える。色が消える。意識が、消えていく。
死の暗闇にすべてが吸い込まれていく。
頭の裏で記憶が回る。
アルバムの写真が次々と暗闇に浮かんでは消える。
どれも笑顔だった。家族も保田も、そして、彼女も写真に映っている全員が笑っている写真。
こんな死に方をしても、最後に浮かぶのは、笑顔なのか。
こんな死に方だからこそ、笑顔ばかりが思いだされるのだろうか。
- 706 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/10(水) 22:39
-
「サヤカを……殺した…………許されない…ことだわ……ここで、死ぬことが
……今の私にとって幸せだから……あなたを殺し……あなたをホテルと同化させ
……丸ごと愛したのは私……だ……から……一緒に終わるのが、いちばん……
私にとっていいこと……なんだ……」
「…私も圭ちゃん殺したからお相子だよ」
頭の中に彼女の声が響く。
生から死に落ちていく感覚がある。
死は、優しい手で保田を天へ連れていこうとしていた。
最後に浮かんで消えたのは、昔の二人の笑顔だった。
狂った人生だったけれど。最後に彼女に出会えて、よかった。
「ごめ…さい」
「怒ってないよ」
彼女の言葉に、保田は弱弱しく微笑み返し、静かに、息を失った。
- 707 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/11(木) 23:11
-
6
夜明け前の薄暗い空に、細い月がかかる。
星の瞬きの中、冴える月の色。
地べたにぺたりと座り込んだ加護は、力を失ったホテルの残骸を見上げる。
突き出た骨組み、砕けたレンガ。もうなにもそこには残っていなかった。
やがて、変わり果てたホテルの残骸を朝の光が無慈悲に照らし出すことだろう。
「…終わったね」
隣に立っていた後藤が瓦礫の山を見ながら洩らす。
その横顔に浮かんでいるものはどういった感情なんだろうか。
怒っているのか、悲しんでいるのか――加護には分からない。
「そういえば、あの部屋に死体あったの?」
後藤がこちらに顔を向けた。加護は少し逡巡し、首を振った。
- 708 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/11(木) 23:13
-
あの部屋――市井サヤカと一緒に入った小部屋はがらんどうだった。
なにもなかった。だが、そこには全てがあった。
市井サヤカと保田圭の思い出の全てが見えた。
部屋に入るなり、市井は加護の前から姿を消し、そして過去の彼女と同化していた。
市井は、加護の存在など忘れたようにもう一人の少女、保田と歩き出す。
加護は、じりじりと照りつける太陽の下、彼女の背中を追って森へと入った。
森の奥にある湖の前で市井と保田が止まった。
保田の手には光るナイフが握られており、今か今かと市井の血を飲み干すタイミングを窺っている。
加護は口を開けた。だが、声は出ない。
市井の記憶の中に、自分はいないからだ。余計な者は出演してはいけない。
時が止まってしまったかのような静止の中、不意に市井がなにかに気づいたように湖を指差した。
保田が動く。世界が動いた。市井が倒れる。その上に保田が圧し掛かる。
ナイフを振り上げて、息の根を止めようと――
加護は見ていられなくなって目を瞑った。
次に加護が目を開けたとき、倒れていたのは保田だった。
ナイフを手にしていたのは市井だ。
- 709 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/11(木) 23:14
-
「…ぁ」
全ての終わりを告げるように声が出た。
市井がこちらを振り返る。加護の知る姿の彼女だった。
「覗きなんて趣味悪いな」
市井が、皓歯を除かせる。
加護は軽く目を見開く。市井の微笑みはまるで――
「後藤にさ、伝えてくれないかな」
「…なにを?」
「全部終わったら来てほしいんだ、あたしが死んだ場所に」
市井の姿が揺らぐ。電波妨害をくらったTV画面のように。
揺らいで揺らいで、そうして彼女は消えた。
- 710 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/11(木) 23:15
-
※
「ごっちん!!加護ちゃん!!」
その声に加護は我に返る。崩れた建物の残骸によって巻き起こった砂塵が晴れ、
中から一人の女が姿を見せた。飯田だ。
彼女のことだから建物の下敷きになるようなことはないと思っていたが、元気すぎだ。
そもそも飯田が保田を止めていれば、
自分はあの恋のライバルのお願いなんて聞かなくてもよかったというのに。
後藤にそれを伝える役割なんて――加護は、走ってくる飯田を睨みつけた。
「んぁ、カオリ、大丈夫だったぁ?」
「待って」
後藤が手を上げて飯田の元に駆け寄ろうとするのを加護は慌てて止めた。
「んぁ、なに?」
「…市井さんから伝言」
不本意ながらも加護は市井の言葉を後藤に伝えた。
後藤は眉を寄せ――そしておもむろに走りだした。
- 711 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/11(木) 23:15
-
「ちょっとごっちんどこ行くの?」
驚いたように飯田が声をあげる。
「ちょっと野暮用やって」
「なに、それ?」
「ええから、ここで待っとこ」
腑に落ちない顔の飯田を無視して
加護は、後藤の走っていた方角に体を向ける。
「最後やから…特別や」
森に吸い込まれていく背中を見つめながら加護は呟いた。
- 712 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/12(金) 23:04
-
エピローグ
- 713 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/12(金) 23:05
-
「市井ちゃん…」
肩を揺すられて市井は目を覚ました。朝の光が眩しくて目を細める。
小鳥の囀りが耳をくすぐった。とても体が重かった。
「よいしょっと」
市井が動けない事を悟ったのか、彼女が上半身を抱え上げてくれる。
瞬きをして、市井は肩を抱いている彼女の顔を見る。
「…来てくれたんだ、後藤」
「んぁ、来てあげたんだよ、こんなとこまで」
「恩着せがましいな」
市井は、笑う。後藤も微笑んだ。
- 714 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/12(金) 23:06
-
最後の最期に逢いたかったのだ。だから、伝言を頼んでいた。
市井が保田の影を打ち破ったあと、一緒にいたライバルに。
全てが終わった後に後藤にこの場所へ来てほしい、と。
後藤の笑顔に、市井は幸福を味わう。なんて光は優しいのだろう。
「ちゃんと終われたかな」
「んぁ…終わったよ」
市井は後藤の口から「終わった」と聞いて楽になった。
体がふわりと、浮いてしまいそうだ。
- 715 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/12(金) 23:06
-
「市井ちゃん、眠そうだね。寝ちゃっていいよ。後藤、ここにいてあげるからさ……」
後藤の顔を、もう少し見ていたいけれど。瞼が重くて、もう開けていられそうになかった。
市井は後藤の顔をもう一度よく見てから、瞼を閉じる。
とても優しい顔。もう不安はなかった。
市井はやっと奇妙な生を終えることが出来るのだ。
肩を支えている腕が暖かい。体がとても暖かい。嬉しくて嬉しくて、けれど少し切ない。
市井は、ずっと後藤を待っていた気がする。
こんなことになってしまってから、彼女が救いに来てくれるのを。
最後の最後まで後藤は市井を見てくれている。
ありがとう。
心の中で言葉を残し、市井は幸福に満たされたまま本当の眠りについた。
- 716 名前:Crazy In your love 投稿日:2004/11/12(金) 23:07
-
終
- 717 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/12(金) 23:07
- ボツ理由?
ビヨンセが前に突進してくる映像が頭から離れなかったそんな時期に書いたっていうタイトル(´・ω・`)
市井さんがでてる(´・ω・`)
( ` Д ´)<なんか途中から嫌になってなんか端折り杉たポ!
- 718 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/14(日) 20:58
-
存在するはずのない断章
- 719 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:00
-
午後から降り出した雨は雷鳴を伴い、大粒の雨と湿気を含んだ風が激しく硝子窓を叩く。
窓越しに、木村アヤカはじっとその光景を見つめていた。
その日、アヤカは何かを感じていた。こんな嵐の晩は何かが起こる。
虫の知らせとか、勘と表現するような感覚。確信にも似た予感。
FBIか、それともあの日本から来た女か。
確率は50:50に見せかけて、その実、0:100だろう。
FBIみたいな糞ったれが自分のところまでたどり着くわけがない。
アヤカは佇み、じっと雨が硝子窓を伝う様を眺める。
そこに何かの回答があるわけではないと知ってはいるが、
そのような人間的行為は嫌いではなかった。
アヤカはただ、自分以外の人間が嫌いなだけだ。
それも自分よりも目立とうとする目障りなbitchが。
- 720 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:01
-
「木村アヤカ」
その呼び声に、アヤカはゆっくりと人間らしく振り向いた。
アパートメントのドアは開け放してある。誰が入ってきても不思議ではない。
そして、そこにいたのは予想通り例の女だった。確かカオリと言ったか。
「……ケイト・ウェバーは死ななかったわよ」
「そう。でも、壊れたでしょ」
女の顔が歪む。思ったとおりだ。
彼女がアヤカの存在に気づいてから、ここに来るまでのタイムラグ。
おそらくどうにかしてケイトを助けようと奔走していたのだろう。
疲労も見て取れる。けれど、あれは他人がどうにかしようとしても無駄なのだ。
自分が死なない限り――あれはどうしようもないのだ。止められない。
アヤカは邪悪に笑う。
- 721 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:01
-
「糸の切れた操り人形に意味があるのかな。
あのまま自殺させてあげたほうがケイトにとっては幸せだったんじゃない?」
「…自殺じゃないでしょ、あなたがさせてることよ」
「そんな証拠はないじゃない」
アヤカの言葉に女の目が熱を持った。
だが、それも一瞬のことで女は視線を下げることですぐに冷静さを取戻す。
怒りを押さえ込む、強靭な精神力。面倒な相手だ。能力を使うにはやり辛いタイプ。
だが、そういうのを操ってこそ得られる快楽もあるわけだが。
この綺麗な顔をした女がグチャグチャの肉片になるところを間近で見てみたいものだ。
想像するだけでアヤカの下腹部は熱を持つ。
- 722 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:02
-
「さて、そろそろあなたがここに来た用件を聞いてもいいかな?」
内心の興奮を億尾にも出さず、アヤカは女に聞いた。
女が視線を上げる。そこにある光を見てアヤカは我知らず息を飲んだ。
熱ではない。氷だ。
「木村アヤカ、あなたを殺す」
絶対零度の強固な意志をもって女が宣言した。
アヤカは口笛を鳴らす。面白い。面白いじゃないか。やってやる。
女が一歩踏み出す。余裕を持って、アヤカは声をあげ笑おうとした。
力を解き放とうとした。しかし、その意思に反してアヤカの体は女とは逆の方向に動いていた。
女の目が驚きに見開かれる。
- 723 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:02
-
「アヤカ!!?」
走り寄る女の動きがまるでスローモーションのように見えた。
すぐに彼女の姿は視界から消える。違う。消えたのはアヤカのほうだった。
女から背を向け――窓に向かってアヤカの体はダイブしていた。
「…っ!」
どうして?という疑問は考えるまでもない。恐怖だった。
女は一歩踏み出しただけだというのに、全身が粟だった。
逃げなければ――体がそう判断した。意識よりも早く。
アヤカにも信じられない肉体の裏切りだった。
風と雨が激しく頬を叩きつける。視界に雷光が閃いた。
それを背景にして立つ、人影が一つ。黒いコートに身を包み、全身は雨に濡れそぼっている。
その――少女はアヤカに向かって微笑んでいた。
アヤカの意識はそこで途切れた。
- 724 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:03
-
※
気が付くと、アヤカは一台の車の中に寝ていた。
記憶が曖昧だ。一体、自分がどうなったのか分からない。
まさか全て夢だったわけではあるまい。
体を起こそうと力を入れてみる。吐き気を催す程の痛みが全身を襲った。
呼吸が止まりそうだ。声も出ない。仕方なく、アヤカは力を抜く。
「…起きた?」
運転席にいた誰かがこちらに顔を向けた。少女だ。
どこかで見たことのある顔だ、と思いアヤカは気づく。
あの女が探していた少女じゃなかったか?
ということは、あの女の仲間か?
shit!アヤカは顔を顰め舌打ちする。少女が笑った。
「命の恩人にそーゆー態度取るかな、普通」
「……誰が命の恩人よ。あんた、あの女の仲間でしょ」
「カオリのこと?」
「…そうよ。あいつ、三ヶ月前からあんたを探してた。
あいつが来なきゃ私もこんな目にあわなかったのに」
アヤカが吐き捨てると少女は困ったような笑みを浮かべる。
- 725 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:04
-
「しつこいなぁ、カオリは」
ぼやく。アヤカは訝しく思い眉寄せた。
少女の言葉には、こちらを騙そうとしている意思を感じられない。
心底から少女はあの女の存在を疎んでいるようだった。
「仲間じゃないの?」
「仲間だったけどね……あたしはもう終わってるから」
なにが?とは、問うことが出来なかった。
問わずとも、感じた。気づいた。
終わっている。この少女は人として終わっている。
自分が終わっていると思っていたアヤカに、そう感じさせるくらいに彼女は終わっていた。
酷く虚ろな生の持ち主だ。アヤカの鼓動が新たな獲物を見つけて跳ねる。
終わった者を真に終わらせるのはどんな感じなのだろうか。
- 726 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:04
-
「…どうして私を助けたの?」
「別に。気まぐれ」
「……」
「あ?もしかして、今、あたしに力使おうとしてる?」
ギクリとした。図星だった。
少女がくすくすと笑う。
「日本じゃ命を助けてもらった動物は恩返しするもんだけどね。
アメリカじゃ殺すのか、勉強になるねぇ」
「……」
「やってみたら?あたしとあんた、どっちが先に力を放てるか、試してみるのも面白いし」
にこにことしたまま少女が言う。
少女の虚無の目はアヤカをしっかりと捕らえていた。
体を鎖で縛られていくような感覚。このまま見詰め合っているのは危険だ。
アヤカは、目を逸らす。
- 727 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:05
-
「やらないの?」
どこか残念そうな響きでもって少女が言う。
「……やらない。体が動かないしどう考えても不利だもの」
アヤカは言って目を閉じた。素直に負けを認めるのはプライドが許さなかった。
が、少女にはきっとバレバレだろう。
「ねぇ、さっきの質問の答え、変えていい?」
「え?」
アヤカは目を開く。
「あんたを助けたのは、いつかあんたに恩返ししてもらうためだよ」
少女は相変わらず笑っていた。
誰が恩返しなんてするものか、アヤカは心の中で少女に唾を吐く。
しかし、これより三年後、アヤカは少女の指示で日本に向かうことになるのだが――
勿論、それは今の彼女が知る由もないことだった。
- 728 名前:存在するはずのない断章 投稿日:2004/11/14(日) 21:05
-
終
- 729 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/11/14(日) 21:06
- ボツ理由?
存在してるから(´・ω・`)
- 730 名前:電脳幻夜 投稿日:2004/11/20(土) 20:43
-
プロローグ
- 731 名前:プロローグ 投稿日:2004/11/20(土) 20:44
-
「んーんんーんんんんんー」
朝日が昇る前の薄明るい河原で一人の少女がぼんやりと立ち尽くし鼻歌を歌っている。
飲み会の帰りでご機嫌なのだろうか。否。そうではない。
その証拠に、少女の視線にはまったく生気が宿っておらず、
彼女が正気ではない事を示していた。いや、目を見ずともその出で立ちを見れば分かるだろう。
少女は、ボロボロに裂けたカーディガンを羽織り、
いまだ肌寒い空気に剥き出しの右腕を晒していた。
その腕は朱に染まっており、赤い手は黒いゴミ袋をしっかりと握っている。
平穏な朝が来るのを否定するかのようにその少女は世界に異常を撒き散らしていた。
- 732 名前:プロローグ 投稿日:2004/11/20(土) 20:45
-
※
街は眠らない。人は眠らない。文明の光は偉大だ。
しかし、人間はそうそう夜に動くようにはできていないらしい。
そんなことをつらつらと思いながら、矢口真里は草臥れた顔で
朝焼けの河原沿いをふらふらと歩く。ブルーのスカジャンの下はラフなパーカー、
それにゆったりめのデニムを穿いている。耳にはゴールドのリングピアスがキラキラと揺れていた。
クラブDABDABからの帰り道だ。無論、遊んでいたわけではない。
調査中の仕事を矢口に託して忽然と消えてしまった飯田圭織の行方を、
昔から情報提供に協力してもらっているニューロであるクラブのオーナー
明日香に聞きにいっていたのだ。嗜虐的な彼女から情報を得るのは毎度のことながら大変で、
普通にクラブで踊り明かすより肉体的にも精神的にも矢口は消耗していた。
鬱々とした矢口とは対照的に、乳白色の朝靄に包まれていた空は
小鳥の声が爽やかに響き徐々にその青さを増していく。
- 733 名前:プロローグ 投稿日:2004/11/20(土) 20:46
-
「…ん?」
ふと矢口は川縁に立ち尽くす少女を見つけた。
袖の破れたカーディガン、しかも剥きだしになった右腕からはまだ新しい血が滴り落ちている。
いくら犯罪が過激化した現在に置いても、それは尋常ではない光景だった。
「ちょっとあんた、どうしたの?大丈夫?」
矢口は慌てて少女の元に駆け寄る。
その声に少女が気だるげに振り向いた。その瞳は焦点を結んでいない。
事件の予感。矢口の顔が引き締まる。
「……なにが?」
「なにがって、その手だよ」
「……手?」
少女は、緩慢な動作で自分の手を眺めた。
- 734 名前:プロローグ 投稿日:2004/11/20(土) 20:46
-
「……赤い」
「血でしょ、それ」
「血……?」
呟いたっきり、ただじっと己が手を見つめる少女。
ポタリポタリと地面に血が垂れていく。
少女のずれた反応に戸惑いながらも、矢口はバッグからタオルを取り出し手際よく血を拭ってやる。
鮮血の下から一瞬、傷跡が露わになった。つい習慣で矢口は傷口を調べてしまう。
どうやらなにか鋭い刃物で傷つけられたようだ。
傷跡は広範囲に渡っており、白い肌に幾本もの赤い線が刻まれていた。
アルファベットだろうか?それは何らかの文字のようにも見えた。
だが、新たに溢れくる血のためにはっきりとは読み取れない。
先に止血した方がいいだろう。考え、矢口はタオルをきつく少女の手に巻きつける。
- 735 名前:プロローグ 投稿日:2004/11/20(土) 20:47
-
「ねぇ、なにがあったの?」
「う……」
その問いかけにほんの少し少女の瞳が焦点を結び、
しかし、彼女はそのまま返事をすることなく矢口に向かって崩れ落ちた。
「うわっと」
間一髪で矢口は少女を抱き留める。すぐ足元でバサッと音がした。
視線を動かすと力を失った少女の手から持っていたゴミ袋が零れ落ちていた。
ゴミ袋の口が開き、中から白いモノが見える。
矢口の瞳孔があまりの驚きに拡大する。
開いた袋口から覗いていたのは、白く細い指先だった。
矢口は息を呑み、おそるおそる袋を覗き込む。
「……お、おはようございます、みたいな」
袋の中に放り込まれていたモノ。矢口を直視したモノ。
それは白目を剥いた若い女性の首だった。
- 736 名前:電脳幻夜 投稿日:2004/11/21(日) 21:58
-
第一章
- 737 名前:第一章 投稿日:2004/11/21(日) 22:01
-
1
警察による公式発表
『3月26日未明 波浪市暁河川において、
同市在住三野晴海さん(22)と思われる女性の頭部を発見。
また同時に波浪学園中等部生徒Aさん(14)を保護。
尚、Aさんには二日前から捜索願が出されており、
事件に巻き込まれた可能性が強いとみなされている。
現在Aさんは心神衰弱状態にあり同市立病院に収容。
当局は、早急な容疑者の特定を急いでいる』
波浪市立病院公式発表
『患者Aの記憶に著しい混乱があり、特に行方不明中の記憶はほとんど皆無といえる。
暴行による傷害は見受けられないものの、
右腕部に鋭い刃物で付けられたと思われる傷跡有り。
何らかの大きな精神的ショックにより失語の症状が見られる。
数日様子を見た後、退院の予定』
- 738 名前:第一章 投稿日:2004/11/21(日) 22:02
-
「記憶に著しい混乱、か……」
矢口真里は、一ヶ月前、自身が発見した少女Aに関する新聞記事を見ながら呟くと、
多機能デスクの上にぽつんと置かれた一冊の手帳を手にとりページを返した。
それは波浪学園高等部の学生手帳だ。開いてすぐのページには、
こちらに向かって硬いというよりは暗い笑顔を浮かべた一人の少女の顔写真が貼られてある。
飯田が調査していて矢口が引き継いだ事件の最初の死者である。
事の発端は、波浪学園の校医で飯田とも矢口とも仲のいい石黒彩が
学園内で起きている不思議な現象を相談しにきたことだった。
聞いたところ、保健室を訪れる生徒の中に記憶の喪失を訴える者が増えているらしい。
この写真の少女、柴田あゆみもまたその一人であった。
矢口は、特別柴田と親しかったわけではない。いや、知己ですらなかった。
ただ、その死の間際、最も近くにいたことだけは事実だった。
屋上で彼女は泣きながら矢口に訴えた。
まるでそれは自問のようにも聞こえた。
矢口は、今でもその時の彼女の言葉を覚えている。彼女の表情全てを覚えている。
- 739 名前:第一章 投稿日:2004/11/21(日) 22:03
-
「エフが、エフが私の中にいるの。私から全てを奪って…違う。
分からない。どうして?私はなにも知らないの…知らない。
エフってなに?エフがいるのに……エフがなんなのか私には分からない。ねぇ、Fって誰?」
青褪め紫色の唇を震わせ虚ろな目で彼女は空を仰いだ。
そして、両手を広げて――止める間もなかった。
落ちていく。彼女の体は落ちていった。
高いビルの上から、その躰は小鳥のように。
伸ばした手は届かない。ほんの少しだけ届かなかった。
後に警察は、柴田あゆみが母親の内縁の夫――要はヒモだ――から
性的暴行を受けており、それを苦にしての自殺と発表。
男は容疑を概ね認め、現在も裁判中である。
- 740 名前:第一章 投稿日:2004/11/21(日) 22:04
-
――忘れてしまいたい。何もかも。F……私を壊して
マスコミによって報道された柴田あゆみの日記の一節だ。
勿論、プライバシーの侵害である。だが、マスコミというものは視聴率さえとれればお構いなし、
死人に鞭打つのは得意中の得意なのだ。
柴田あゆみの残したこの一節の解釈は様々な憶測を生みだした。
しかし、後に警察の発表が行われると人々の興味はすぐにそちらへと移っていった。
そして、全てはあっという間に忘れ去られていった。
事件そのものも。あの一節も。
結局、無名の女子高生の自殺などいつでも恒常的に起こっていることであり、
退屈な視聴者に提供されるちょっとしたショーに過ぎない。
身近な関係者――そして、真相を知りたい矢口のような者を除いては。
柴田の死から波浪学園では記憶の喪失を訴えるものがさらに増加していた。
そこに今回の事件が起きたわけだ。
彼女もまた波浪学園の生徒であり、そして同じように記憶に混乱をきたしている。
「Fと関係あると思う?」
矢口は写真から目を離さずに呟いた。
それから、手帳をポケットにいれると立ち上がり、波浪学園へと向かった。
今日は、その少女Aが事件後はじめて学校に登校する日である。
- 741 名前:第一章 投稿日:2004/11/21(日) 22:05
-
※
陽光がたくさん降り注いだ晴れた日の海のような
生き生きとした明るく爽快な青を基調にして、臙脂のタイをあしらう。
それが波浪学園中等部のブレザータイプの制服になる。
ブレザータイプとあえてわけるのにはもう一つ別のタイプの制服があるからだ。
臙脂のリボンに濃紺のセーラータイプ。
波浪学園の生徒は、この二つのどちらかを選んでいいことになっている。
どちらかといえば生徒たちにはブレザータイプが人気がある。
しかし、田中れいなは少数派に属する人間だった。
- 742 名前:第一章 投稿日:2004/11/21(日) 22:06
-
細めの腕を紺色の袖に通す。
腕だけでなくスカートの中からすらりと伸びる脚もかなり細い。
形を整えるのが面倒くさいためリボンをつけないのが田中流のセーラー服の着こなしだ。
そのままスカートのホックを留める。覗き込む姿見の向こうに自身が映っている。
おかしなところがないかチェックを終えると田中は、
机の上に無造作に置いた一つの機械を手に取った。
失語してから一ヶ月、病院が用意してくれた簡易の音声ユニットだ。
田中は慣れた手つきでそれを装着していく。
腕時計のように左腕に機械音声ユニットがつけられた本体を、
右腕に触覚センサー対応キーボードを取り付ける。全部装着しても二s足らず。
加えて、昔ながらの革の学生鞄を手に田中は静かに部屋のドアを閉じた。
- 743 名前:第一章 投稿日:2004/11/22(月) 22:00
-
2
明るい生徒たちの賑やかな声が沿道に弾けとんでいる。
朝の通学風景はいつの時代でも然程変わらない。
校舎前の交差点、そこで一気に人が増える。
信号が青に変わると、生徒たちは他愛も無い会話を繰り広げながら
一斉に横断歩道を渡りだす。渡り終えると、校門はすぐそこだ。
ブレザーの生徒たちに混ざってセーラー服の田中は、その賑やかな中を一人闊歩する。
時折、見知った顔も視界に映るが、話しかける気にはならないし、
話しかけられることもない。元々、田中にはあまり仲のいい友達というものが存在しない。
なぜかと聞かれてもその理由は本人にもよく分かっていない。
ただ昔から怖そうというだけでクラスメイトから敬遠されてきた。
そして、田中はそのイメージを覆そうとしてこなかった。きっとその結果なのだろう。
だが、一人であるということに田中は特別引け目を感じたことはなかった。
- 744 名前:第一章 投稿日:2004/11/22(月) 22:01
-
「れいな!」
校門を潜ろうとしたその時、田中は不意に背後からそう呼び止められた。
その声には覚えがある。振り返ると満面の笑みを浮かべた幼馴染、
道重さゆみが案の定こちらに向かって駆けて来ていた。
彼女はこの学園で、唯一、怖がらずに田中と接してくれる親友でもある。
「体はもういいの?」
並んで歩き出すなり道重が言った。田中は微妙な表情で頷く。
その心情に気づかないのか、道重は言葉を続けてくる。
「病院にお見舞いに行きたかったんだけど、れいな面会謝絶だったでしょ。
追い返されちゃって恥ずかしかったんだよ」
「ごめん……」
「怪我したって聞いたけど」
「……らしいね」
根ほり葉ほり探るように道重が尋ねてくる。
だが、田中の返事はまるで他人事のように煮え切らない。
- 745 名前:第一章 投稿日:2004/11/22(月) 22:02
-
「らしいって、自分のことなのに?」
「ごめん。あんまり覚えとらんとよ」
少し辟易気味に田中は道重の台詞を遮った。嘘ではなかった。
覚えていない。あの時のことは本当に記憶の中にないのだ。
田中は自分がどうして怪我をしたのかも、朝焼けの中、
まったく見知らぬ他人の首を持って川縁に立っていたのかも
まったくといっていいほど覚えていなかった。
入院中、事情を聞きに来た警察にも何度も同じ事を聞かれたが、答えは決まって一つだった。
覚えていない。
彼らに話せることなど、田中の中には一つとしてなかった。
追求されればされるほど、まるで他の誰かの身に起こった事象を
自分に起こったこととして無理矢理認識させられているようで気分が悪かった。
そして、怖かった。だから、もう田中はこの話をしたくなかったのだ。
- 746 名前:第一章 投稿日:2004/11/22(月) 22:03
-
「…そっか、ごめんね、本当に覚えてないならいいの。
それより、今年はれいなと私一緒のクラスなんだよ。A組!席も前と後ろなの!」
田中が俯いたのを怒っていると誤解したのか、
道重が明るい声で話題を変えた。それからは彼女の独擅上。
新しい担任。授業の課題。新カリキュラム。
知っておかなければまずいこと。どうでもいいこと。
聞きたいこと、聞きたくないこと。つらつらつらつら。お喋りは続く。
道重がこういう取りとめもないおしゃべりを始めたら
滅多なことでは止まらないことを十年来の付き合いで良く知っている田中は、
ただ黙って彼女の話を聞くことに集中した。
結局、彼女が話をやめたのは新しい教室につき、始業のチャイムがなって担任が姿をあらわしてからのことだった。
- 747 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 21:52
-
3
「人の記憶には三つのレベルがあって……数秒で消えてしまう瞬時記憶、
情報を残すという判断が加わった短期記憶、そして、ほぼ永久に保存される長期記憶。
記憶喪失っていうのは、短期記憶または長期記憶が失われる現象の事を差すわけ」
扇情的な赤い唇が紡ぎ出す言葉は保健室の中をはね回って消える。
「ふーん。それから?」
「短期記憶は大脳辺緑系の海馬に一時的に蓄えられて、
大脳皮質の前頭葉、頭頂葉、即頭葉の連合野に送られるから……難しい?」
「ぶっちゃけ、意味不明理解不能」
「……じゃぁ、すごく簡単に言うわ。つまり、短期記憶はここにあることになるわけ」
しなやかな指が金髪なす側頭部、こめかみの上あたりをコンコンと叩いた。
「で、記憶は脳のシナプスによって電気的に脳細胞に保存されているから、
この辺りに100v程の電気的刺激を与えれば、ここ数日の記憶なんて簡単に吹っ飛ぶのよ。
なんなら試してみる?」
「やめてよ」
鬱陶しげに金髪の少女――矢口真里は頭から悪戯に動く指を振り払った。
それから、保健室の主を呆れたように見やる。
- 748 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 21:53
-
「っていうか、あやっぺみたいなのが保健室の先生になれるなんて世も末だよね」
「失礼な」
あやっぺと呼ばれた彼女、石黒彩は矢口の言葉にムッとするでもなく苦笑した。
「それでどうなの、調査の方は?」
「手がかりなし…っていうか、今日は大体あやっぺに会いに来たんじゃないんだけど」
校門の所でばったり石黒に会い、そのまま保健室に無理矢理連れ込まれた矢口は
意地悪い調子で言う。
「じゃぁ、何しに来たのよ?」
「一ヶ月前、おいらが河原で発見した女の子だよ。
ここの学校の子でしょ。記憶失ってるみたいだからさ、
Fと関係あるのかなと思って直接話聞きにきたんだ」
- 749 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 21:55
-
「あぁ、田中さんね。確か今日から登校してるんだっけ」
「知ってんの?」
「そりゃ、元保健室常連だから」
「へぇ。常連ってことはサボり魔か。
その時は記憶がどうとかって相談はなかったの?」
「そうねぇ、なかったと思うけど」
「となると、事件に巻き込まれて記憶を奪われたってわけか」
そこまで言って、矢口はふと顔を扉に向けた。石黒は視線だけを向ける。
保健室の引き戸が開かれたのは、そのちょうど三秒後だった。
- 750 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 22:02
-
「あら、登校早々早速お出ましね」
石黒がいう。噂をすればなんとやら――
そこにはあの朝矢口が発見した少女A、いや、田中れいなが立っていた。
- 751 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 22:09
-
※
保健室に姿を現す数十分前、田中れいなは暫くぶりの授業を受けていた。
授業というのはとかく退屈なものだ。
久しぶりの授業だったが、田中が感じることは以前のそれと変わらない。
ひたすら教室前面の巨大スクリーンに向かって説明を続ける教師と、
これ幸いと睡眠学習に入る生徒達。教室内の3分の2は睡眠中で、
残りの3分の1は友達同士でメッセージを交換し合っているのが現状である。
しかし、教師は気づかない。
全生徒の机に置かれた学校支給のノートパソコン、
そのディスプレイが格好の障壁になっているからだ。
田中もご多分に漏れず睡眠学習をするつもりだったのだが――
今日はどういうわけかなかなか眠りにつけない。
眠ろうと努力するのも馬鹿らしいので、仕方なく教師の声を聞くともなしに聞いていると、
ふと目の前のディスプレイに新着メッセージの到着を告げる一文が浮かび上がっていた。
田中は、ん?と眉を寄せる。
- 752 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 22:12
-
『新着メッセージが届きました 発信 死神 着信 レイナ』
死神などという不吉な名前の発信者には心当たりがなかった。
それに道重以外に田中にメッセージを送ってくるような人間はこの学校にいない。
もしかしたら、道重の悪戯だろうかと田中は思わず前の席に視線をやる。
しかし、当の彼女は背中を丸め、しっかりと睡眠学習に入っているようだった。
発信者は彼女ではないらしい。田中は首を傾げた。
誰かの嫌がらせにしては、ウィルスチェッカーにも掛からないし容量もごく僅か。
ただの悪戯とも思えるそのメールにどうしてか田中は興味を惹かれた。
キーを操作してそのメールを開く。
『dot J3A-99』
開いたメールにはそんな一文、それだけが田中の目に飛び込んでくる。
一瞬、疑問が浮かんだが、思案してすぐにそれがなにを表しているのかを悟る。
それは波浪学園内だけで通じるアクセスコードだった。
- 753 名前:第一章 投稿日:2004/11/23(火) 22:17
-
学校支給のパソコンは、全て学園のホストコンピュータに接続されており、
それを利用して、生徒達は互いに連絡を取り合うことが出来るようになっているのだ。
dotとは、波浪学園の生徒達に支給されているノートパソコンのことを指しており、
頭文字のJは中等部を、その後に続く番号は生徒のクラスと出席番号を表している。
つまり「dot J3A-01に連絡請う」とメールが来たらそれは
「中等部3−A出席番号一番のパソコンにアクセスしてほしい」という意味なのだ。
しかし、文の意味に気がつくと同時に新たな疑問が田中の中に浮かんできた。
なぜなら、dot J3A-99というアクセスコードなど存在しないからだ。
DotJ3A-99は、中等部3-A出席番号99番を差すコードになる。
だが、現在、田中自身が所属しているこの3−Aには生徒は31人しか存在しない。
つまり、99という番号はあり得ないのだ。
どうせ繋がらないだろうと思いながらも、田中は念のためそのコードにアクセスを試みてみる。
すると、不思議なことに存在するはずのないどこかと田中のパソコンが繋がったのか
不意にディスプレイにノイズ混じりの映像が映し出される。
動画がおもむろに流れ出す。田中は、好奇心からそれに見入った。
それが、自分の運命を大きく変えることになると知らずに。
- 754 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:11
-
※
『なんで、なんでこんなんすると……』
『なんで?なんでって面白いからだよ』
激しくぶれる画面の中に響く声の一方に聞き覚えがあった。
田中は目を見張る。その声は紛れもない田中自身の物だった。
危険だ。直感的に田中はそう感じていた。この映像を見続けるのは危険だと。
しかし、自身の警告とは裏腹に映像から目を離すことができなかった。
画面がさらに大きく揺れ動く。
息を詰めて見つめる田中の視線の先には、まるでペンキをぶち撒けたように
赤く染まる床が映り始める。画面の中の自分が小さく息を飲む音がする。
視点がゆっくりと上がる。そこには、無惨にも首と胴体が切り離された女性の姿があった。
いきなり画面が狭まり、ブラックアウト。だが、音声だけはしっかりとしている。
『ちゃんと見てよ。こんな機会滅多にないよ』
獣じみた咆哮となにかがごりごりと刻まれる音に混じって酷くくぐもった声が聞こえた。
ゆっくりと画面が元に戻る。
- 755 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:12
-
「っ!」
田中は、口元を押さえた。
画面に映っていたのは金髪の男の後姿。
彼は女の胴体を恍惚の様相で抱きかかえ、女性の胸にしゃぶりつきながら
ごりごりとその右腕を鋸で刻んでいた。
『凄いと思わない?サイコパスの記憶を擬似的に植え付けて、
その上で自発的な意思で動いてくれるように調整したの。
この調整がすごく難しくて、ほんとに苛々しちゃった。でも、なんとか成功したみたい。
最もこんな可愛くない趣味はいれてないんだけどね……
元々の素養までは、どうしようもないのかな。ホント可愛くなぁい』
くぐもった声の明るい説明は陰惨な光景とは裏腹で、吐き気を催すほど不似合いだった。
やがてぼとりと女性の右腕が落ちる。男は奇声をあげながら狂ったように腰を振り、
残っている左腕を切り落とす作業に取りかかり始めた。
また画面が暗くなる。コードだらけの床が映る。画像が滲む。ポタリと床に水が落ちた。
それで分かった。これは田中自身の視点から切り取られた映像なのだと。
おそらくこの映像の中の自分は今泣いているのだろう。
- 756 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:12
-
『ねぇ、れいな。人間の進化の過程って、プログラム言語の進化と結びつくと思わない?
最初は、低水準言語の機械語とアセンブラ。それから高水準言語、FORTRAN、
COBOL、LISP、パスカル、A、B、C言語。C++、JAVA、D言語。
言語の進化は修正の繰り返し。人間もまた然り。
人間の脳とコンピュータの違いなんてそれぞれをプログラムした言語だけだって思うの。
なのに、人間の記憶はコンピュータみたいに自在に書き換える、ってわけにはいかないみたい。
だからこそやりがいがあるのかもね。思い通りにいかないことってぞくぞくするもん』
『あんた、狂っとぅ……』
『やだ、れいな。今、自分がどんな顔してるか分かってる?可愛くないよ』
ぼやけた視界の向こうで、不機嫌そうな声が響く。
『触らんでっ!』
『きちゃないから拭いてあげてるの』
横合いからのピンクのハンカチが乱暴に視界を擦る。
まるでディスプレイを拭くかのようにごしごしと。
『ほら、やっぱりきちんとしていた方が可愛い。れいなだっていちおー女の子だもんね』
- 757 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:14
-
田中は、絶句したま画面の向こうを見つめ続ける。
これは一体なんなんだ。このような記憶は田中の中のどこにもなかった。
しかし、作られた映像にしてはあまりにも生々しくリアルで――
ふと、ある一つの考えが浮かんでくる。この映像の中で起こった出来事は、
もしかしたら自分が失った三日間の記憶なのではないだろうか、と。
死体の女性は、田中が発見当時に持っていたというあの首の持ち主。
なんらかの理由で事件に巻き込まれ、そこで田中の自己防衛本能が
脳が覚えておくには危険すぎるこの記憶を消し去ったとしたら、
自身が事件の間の記憶を喪失している現状も納得できる。
信じたくもないし信じられないが、辻褄はあうだろう。
考えていくうちに強い吐き気が催してくる。
田中は、教壇の教師が朗読に夢中になっている隙にそっと教室から抜け出し保健室に向かった。
- 758 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:14
-
※
パソコンのディスプレイは見るものがいなくなってもなお映像を流し続けている。
女性の胴体にむしゃぶりついていた男が不意に身を離し死体の処置を傍にいる誰かに訊ねた。
『ゴミ袋に詰めてダストシュートにでも入れたらいいと思うの。
明日の朝には、生ゴミ回収車がどっかに持っていってくれるもん』
くぐもった声が的確な指示を出す。
その声の指示通りに、男はゴミ袋に自らが切り刻んだ首や手足を詰め込み、
無造作にダストシュートへ放り捨てた。瞬間、画面が激しく揺れる。
彼女が走りだしたのだ。ダストシュートの前に突っ立っていた男を突き飛ばし、
彼女は自らそのダストシュートの中に飛び込む。
『止めて、エフ!』
遠く声が聞こえ、画面はただ闇を映し続ける。
がつんがつんとあちこちに体をぶつける音とそのたびに揺れる画面。
やがて、ぼふっとなにかの上に着地する音が聞こえ画面はやっと安定した。
- 759 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:16
-
ゆっくりと彼女が目を開けて画面にはゴミの山が映る。
どうやらそれらがクッションになったようで彼女に怪我はないようだ。
すぐさま彼女は立ち上がり脱出通路を探すべく辺りを見回す。
その時、なにかに気づいたように彼女の視線が
今しがた潜り落ちてきたダストシュートの中へと向かった。
奥には奇妙な物体が輝いている。ダストシュートの上から飛来してくる灰色の翼を持ったなにか。
それはまるで天使のようだった。しかし、その顔に浮かぶ邪悪な笑みは悪魔のようでもあった。
小さく悲鳴をあげて彼女が恐怖に走り出す。
画面が一回転した。ゴミに足を取られて転倒したようだ。
慌てて起き上がろうとするも画面には翼をもつなにかが笑みを深め
彼女を見下ろしている姿が映っていた。
パチパチと瞬きの回数が多くなり、映像は途切れ途切れになる。
- 760 名前:第一章 投稿日:2004/11/24(水) 22:17
-
『ぁあああああああ!!!』
恐怖に慄きながら、彼女は手当たり次第に辺りのゴミを投げつける。
空き缶や腐れたリンゴやバナナの皮などが宙を舞うが、
翼を持ったなにかはまるでそこに存在しないかのようにそれらを全てすり抜けていた。
不意に彼女の動きが止まる。揺れる視界に震えている左手が映った。
その手に握られているのは小さなカッターナイフの刃だろうか。
彼女の手は躊躇なくそれを自らの腕にはしらせる。傷つける。
鮮血が溢れ、滴り落ちるのを気にもせず深く深く彼女は文字を刻みこむ。
「HPT」と。
それを邪魔するかのように勢いよく伸びてきたなにかに気づいた彼女が振り返る。
瞬間、バチリと画面に微細なプラズマがはしり、彼女の絶叫が響いた。
そして――映像は唐突に途切れた。
- 761 名前:第一章 投稿日:2004/11/26(金) 22:18
-
4
「去年はお世話になりました。今年もお世話になります」
保健室のドアを開けて入ってきた田中は二人の視線を一身に浴びて戸惑った様子だったが、
ふと我に返ったように深々と石黒に頭を下げた。石黒がそのご丁寧さに苦笑する。
「まあ、ほどほどにね。今日はどうかしたの?少し顔色悪いみたいだけど」
「ちょっと……」
機械音声を曇らせるように発音し、田中がベッドに座ったままの矢口に不審な目を向けてくる。
矢口は真っ向からその目を受け止め「久しぶり…っていっても、覚えてないのかな?」
軽い口調で告げた。田中が訝しげに眉を寄せる。
「これ、矢口真里。あなたを暁川で発見した人よ」
重くなりかけた空気を感じたのか石黒が場違いなまでに明るい言葉で田中に矢口を紹介した。
それを聞くなり、田中の顔が一気に緊張したものに変わる。
「・・・そんな顔しないでよ。ちょっと聞きたいことがあるだけなんだからさ」
矢口は苦笑交じりに言った。
- 762 名前:第一章 投稿日:2004/11/26(金) 22:19
-
※
田中は蒼白な顔のまま後ろ手で引き戸を閉めると、
待ち構えたように保健室にいた矢口を見やる。自分が巻き込まれたと言われる事件。
何も覚えていないのに、いつの間にか関係者にされていた事件。
最も知りたいと願う事件。あの悪趣味な映像と関係があるかもしれない事件。
しかし、たかだか自分を発見しただけの人物が
田中の問いに答えられるなにかを知っているはずがない。
では、彼女は自分になにを聞きに来たというのだろう?
「…Fっていうのに心当たりはあるかな?」
「…エフ」
田中は、背中に冷や水をかけられたような気がした。
エフ、先程の映像で誰かが叫んでいた言葉と同じだ。偶然だろうか。
それとも――探るような目をこちらに向けている矢口に対し、
鎌をかけるつもりで田中は首を振った。
「なんですか、それ」
「…二ヶ月前に自殺した女の子が残したメッセージだよ」
矢口が苦々しい顔をし、小さく呟いた。田中は、おや?と思う。
矢口の反応は、田中がエフのことを知っているのを分かっていて
わざと惚けているようには見えず、まったくの素のようだったからだ。
しかし、だからといって簡単に信用は出来ない。
二ヶ月前の自殺なんて自分と全く無関係の話を持ち出すのは変だろう。
田中は、そう勘繰って疑問の表情を崩さない。
- 763 名前:第一章 投稿日:2004/11/26(金) 22:20
-
「知ってるでしょ。高等部の柴田さん」
白衣の裾を跳ね上げ足を組み替えながら、
田中の疑問に答えるように石黒が言った。高等部の柴田。
田中は二ヶ月前の記憶を掘り起こす。しかし、曖昧にしか思い出せない。
そういわれればそんなこともあったような気がするというくらいの曖昧さだ。
田中は、石黒に視線を動かす。
「その子が、記憶喪失だったのよ」
長いスカートの先で室内履きのサンダルがゆらゆらと揺れている。
まさか彼女も矢口の仲間なんだろうか。訝しむ田中に石黒が微笑し矢口を顎でしゃくる。
「こいつ、犯罪研究所の人間でね、丁度その事件を調べてもらってるところだったの。
それで、田中さんの事件も関係あるんじゃないかと思ったみたい」
「…どうしてですか?」
「あの自殺事件を前後して、この波浪学園では部分的な記憶の喪失を訴える生徒が増えてたのよ」
言いながら、石黒は机の上に手を伸ばしカルテを手に取る。
保健室を訪れた生徒の症状などが簡単に書かれているものだ。
本来なら生徒には見せてはいけないそれをこちらに突き出しながら彼女は続ける。
- 764 名前:第一章 投稿日:2004/11/26(金) 22:21
-
「新学期が始まってからも、情緒不安定で保健室を訪れる生徒が増えてるでしょ。
この時期は新しい生活への漠然とした不安なんかもあって、
毎年そういう症状を訴える生徒が多いんだけど、
中には頭痛や変な妄想に悩まされてる子がいるの。で、彼らは皆、記憶に混乱をきたしている。
田中さんもそうでしょ?あなたの場合は、他の生徒に比べたらもっといろいろありそうだけど」
含みのある言い方に田中は眉を寄せる。
やはりあの悪趣味な映像のことを彼女たちは知っているのだ。そう確信した。
「…あの映像は嫌がらせなんですか?」
だから、言った。
あの事件以来、失語に陥っている田中の言葉は腕に付けられた音声ユニットから発せられている。
それは感情の動きに合わせて大きくなったり小さくなったりはするが、
内心の怒りや不安までを正確に相手に伝えることはできない。
普段なら気にもならないどうでもいいことだが、今の状況ではそれが少しもどかしかった。
- 765 名前:第一章 投稿日:2004/11/26(金) 22:21
-
「あの映像って?」
矢口がきょとんとしたような顔になる。しらばっくれているのだろうか。
田中は、疑念を抱く。しかし、矢口はキョトンとしたまま、もう一度同じ台詞を繰り返した。
「あの映像って何?」
「……さっき変なメール送ってきたのあなたですよね。
そこにアクセスしたら――」
田中はそこで言葉を止めた。
とてもじゃないがあんな内容、口で説明できそうにない。
思い出しただけでも気分が悪くなってくる。
「そんなメール知らないよ。第一、あんたのメアドなんて知らないし。
それで、アクセスしたらどうしたんだよ?」
矢口が田中に詰め寄ってくる。本当に知らないのだろうか。
詰め寄る矢口の前で田中は彼女から顔を逸らし首を振る。
- 766 名前:第一章 投稿日:2004/11/26(金) 22:22
-
「あぁ、もう面倒くさい奴だな!」
矢口がぶんと両手を挙げて天井を仰ぐ。
「落ち着きなよ、矢口。
どこにアクセスしたかだけ教えてもらえれば、そっちで見れるでしょ」
石黒がとりなすように口を挟んだ。
それから、ね?と田中に微笑みかける。
矢口は面白くもなさそうに頭を掻く。
「……dot J3A-99。発信者は死神」
田中は、矢口を睨みつけながら言った。
「……死神……ってまさか、あいつも絡んできてんのか」
矢口がどこか呆れたような声で呟いたのを田中は聞き逃さなかった。
「知り合いなんですか?」
「知り合いたくないよ」
言うと、矢口はそのまま一気に保健室を飛び出していく。
残された二人は顔を見合わせた。
「…ベッド空いたけど使う?」
ややあって、石黒がそう口にした。
- 767 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:06
-
5
授業中というのは生徒が使っていなければどこも静かなものだ。
矢口は、視聴覚室に人がいないのを確認してからこっそり中に忍び込むと、
適当に選んだ一台のPCを即座に起動させた。
「dot J3A-99……」
田中れいなに教えてもらったそのコードを手早く打ち込む。
エラー。矢口は舌打ちして、もう一度――今度はゆっくりと打ってみた。
エラー。そんなファイルは存在しないというメッセージが画面に現れる。
どうやらもう削除されてしまったらしい。自分の存在さえ消すようなヤツだから、
ファイルの一つくらい簡単なのかもしれないが――この手際のよさ、さすがとしか言いようがない。
なんらかの手がかりを得られるかと思っていた矢口は落胆の息を吐く。その時だった。
「ファイルならもうありませんよ、矢口さん」
背後から、聞き覚えのある声が聞こえたのは――。
「…あんたねぇ」
矢口は、椅子を回転させ体ごと声の主の方へと向ける。
立っていたのは一人の少女だ。
- 768 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:06
-
「あんたって…ひどいなぁ」
少女が傷ついたように眉を下げる。
「どう呼んでほしい?亀井絵里?それとも、死神?」
「エリザベス・キャメイで」
「ふざけんな」
矢口は少し苛立たしげに言った。
「ったく…あんたが田中れいなに映像を送ったの?」
「そうですよ」
「何の映像?」
「んーとぉ、秘密っていったら怒っちゃ…いますよね」
死神がおどけたように口にし、矢口の顔色を窺ったのか途中から苦笑を洩らした。
- 769 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:07
-
「簡単に言うと、田中さんがなくした記憶の断片映像」
「…なんでそんなものあんたが持ってんの?」
「現場から盗んできちゃいました」
「……そこでなにがあった?」
矢口は視線を鋭くして死神を睨みつける。
死神は、分かっているでしょ?と言わんばかりに不敵に片眉をあげた。
「私がいたってことは、そういうことですよ」
「人が死んだ」
矢口の言葉に死神がゆっくり頷く。
- 770 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:07
-
「現場にいたならどうして止めなかったんだよ?」
「干渉しないことにしてますから。
私は、ただ死にそうな人の元に行って彼らを看取るだけが仕事です」
「干渉しないってんなら、どうして田中れいなに映像を送った?」
矢口の執拗な問いかけに、死神はうざったそうに目を細めた。
「同情ですよ」
「同情?」
「死ぬときに自分の本当の記憶が分からないままなんて、可哀想だもん」
死神は、なにかを知っているような口ぶりだ。
いや、仮定ではなく確実に深いところまで彼女は辿りついている。
- 771 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:08
-
「それって田中れいなが死ぬってこと?」
「さぁ?確率の問題ですよ」
「……その確率を信じて、あんたは柴田あゆみが死ぬ時も現場にいたんじゃないの?」
睨みつける。矢口の問いかけに死神はとぼけたような顔つきになる。
「なんにせよ、もう少し誰かが死にそうですよ、この事件」
「縁起でもない」
問いかけとは掛け離れた死神の返事に、
彼女がもうなにも話す気がないだろうということを悟った矢口は顔を顰める。
「矢口さんも死なないように気をつけてくださいね。
知り合いの死様なんてあまり見たくないですから」
「縁起でもない」
矢口はもう一度同じ言葉を繰り返した。
それに対し死神は軽く肩を揺らすと身を翻す。
- 772 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:08
-
「どこ行くの?」
「死にそうな人がいる所」
死神の答えに、矢口はやれやれと言う風に肩をすくめた。
「そうだ、矢口さん」
ドアの前で、死神がなにかを思い出したように振り返る。
矢口は眉を寄せ、先を促した。
「吉澤さんは、元気ですか?」
その問いに矢口はへッと笑う。
「気になるなら、会いに来ればいいじゃん」
言うと、死神は少しだけ悲しそうな表情をみせた。
しかし、彼女はすぐにそれを打ち消し
「生きてるうちから、死神なんかには会いたくないって言われてますから」
笑顔で口にする。だが、やはりその笑顔はどこか悲しそうだった。
- 773 名前:第一章 投稿日:2004/11/27(土) 23:09
-
死神は、そのまま身を翻し――今度こそ振り返らずに視聴覚室から出て行く。
矢口は、追いかけなかった。彼女を追いかけてもたいして意味がないと判断したのだ。
干渉しない、という言葉どおり。
なにがあろうと、誰が死のうと、彼女はただそこに影のように存在するだけだ。
今までそうだったのだからこれからもそうだろう。
今回、田中れいなに事件と関係のあるなんらかの映像を見せたことの方が、
今までの彼女からしたら余程異常な行動なのだ。
「……同情ね」
矢口は、死神が出て行ったドアを横目で見やると、
胸ポケットから手帳を取り出した。相変わらず、内側に暗い笑顔を浮かべた少女がいる。
「ったく、協力してくれりゃ簡単に事件解決なのに…」
矢口は嘆息しながら手帳を仕舞うと、携帯を取り出した。
- 774 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:50
-
6
「本当に大丈夫?」
保健室まで迎えに来てくれた道重が心配そうに田中の顔を覗き込む。
中休みのこと。気分はとうによくなっていたので石黒に挨拶をして
道重と一緒に保健室を後にした田中は、その問いかけに一応頷き返すものの、
いまいち冴えない顔をしていた。道重がそれを見咎めるように眉を寄せ、
彼女曰く、一番可愛く見えるという角度15度の首の傾きでもって田中をじっと見つめる。
「れいなは、いろいろ考えすぎなの」
「……」
「…無くした過去に拘るのはあんまりよくないと思うよ」
道重の発言は正論だった。
それは分かっている。分かってはいるのだ、田中だって、拘るつもりなどなかった。
記憶を忘れていることさえ忘れてこれから先を平穏に生きていきたかった。
だが、あの映像――あんな物を見れば拘りたくなくとも、拘らずにはいられない。
自分があんな凄惨な場面に居合わせたというのに、それを思い出せないという恐怖。
きっと道重には分からないだろう。
- 775 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:51
-
「……でも、気になるし。疑われるのも気分よくない」
田中の言葉に道重が大きく頭を振って諦めたように手を広げた。
「昔から一度決めたら、私がなに言っても聞かないんだよね、れいなって」
「…ごめん」
身長は道重の方が田中より10pほど高い。
少し屈むようにして彼女が田中の顔を覗き込む。
じっと中心を凝視される息苦しさに田中は目を逸らし、
そのまま廊下の窓に目を向けた。穏やかな春の光が悠然と漂っている。
後ろで道重の嘆息が聞こえた。
「別にいいけどね。それより、これから外行こっか?」
「は?」
「学校さぼっちゃお」
唐突な道重の誘いに田中は目を丸くする。
さぼる。自分ならともかく、それは彼女にしては珍しい発想だった。
「ね」
可愛らしくウインクすると返事も聞かず道重が昇降口へと走り出す。
慌てて彼女を追いかける田中の頭の中には教室に置きっぱなしの鞄の事が浮かんでいた。
- 776 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:53
-
※
「さぁ、犯人探しするよぉ。名探偵さゆみんなの」
学校を抜け出して、しばらくすると先を歩いていた道重がくるりとこちらを振り返りそう言った。
「犯人探し!?」
田中の動揺を表すかのように音量の大きくなった音声ユニットが、
耳障りなハウリングを起こす。道重が両手で耳を抑える。
抑揚がないかわりにつけられた強弱性能だが、
これはどう考えても失敗だろう。田中は不快に顔を顰めた。
「いい加減それ外してよ。れいなの声が聞きたい」
耳を押さえた道重が田中の腕に繋がった音声ユニットを視線で差す。
田中は、肩を竦め、彼女の言うとおりにそれを外した。
道重は満足そうに笑い、耳から手を離す。そして、気を取り直したように口を開いた。
- 777 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:53
-
「れいなは、犯人が捕まれば失った記憶を探すのやめるんでしょ?」
「……ん、それで自分が納得できたら」
「納得かぁ…それは難しいね」
道重は視線を下げなにかを真剣に考えはじめる。
どうやら、彼女は冗談ではなく本気で犯人探しをする心積もりらしい。
「ね、犯人探しはせんでいいって。危ないし…
それにれいなを発見してくれた人がそういう事件を調べるのが本業みたいで、
なんか今いろいろ調べようみたいやけん」
これ以上、彼女の勝手な暴走を止めないのは危険だと判断した田中は
道重が考えをまとめるよりも先に、矢口が現在例の自殺事件から
記憶喪失事件の調査をしている事を彼女に教えた。道重が丸い目を田中に向ける。
不満そうに、けれど、彼女はそれを口にしない。
変わりに彼女の口から出てきた言葉は真摯なものだった。
- 778 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:54
-
「分かった。プロの人が調査してくれてるなら犯人探しはやめる」
「うん」
「でも、忘れないでね。私はいつでもれいなのこと一番に心配してあげてるんだから」
「……うん」
「私の方が百倍可愛いけど、同じ遺伝子調整を施されて産まれたんだから、
ある意味双子みたいなものだし。れいなになにかあったら私はきっと分かると思うの」
その割りに事件があったときはなにも感じなかったんだね。
田中は、危うく零れそうになったその言葉をごくりと飲み込み、
偽善の笑みを浮かべた。
- 779 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:55
-
結局、犯人探しを取りやめた二人は、学校にのこのこ戻るのも躊躇われたので
そのまま日が暮れるまで街中を遊び歩き、他のクラスメイトたちが下校をはじめるのと同じ頃に帰路についた。
「また明日ね。大好きだよ、れいな」
別れの交差点で触れるだけのキスを交わすと道重が手を振る。
「……うん、れいなも」
反射的にそう答えはしたが――スキって何だろう?――
去っていく道重の背中を見つめながら、田中は自身にそう問いかけていた。
その時、ぼんやりと立ち尽くす田中の視界に
夕日を浴びてキラキラ光る金髪が飛び込んできた。
「矢口…真里?」
田中は目を細めて、それが間違いではない事を確認すると
彼女のあとを追いかけるよう小走りに駆け始めた。
- 780 名前:第一章 投稿日:2004/11/28(日) 22:56
-
※
さて、田中と道重が別れた交差点。
人目を避けるように二人を見守る影がこれまた二つあった。
「…突然、中学生見張れってなんなんだよって話だよ。
しかも、学校サボってあっちこっち遊びすぎだし、けしからん全く」
影は、ぶつぶつと文句を口にしている。
「文句言わないの、たん。お仕事でしょ」
その影を宥めるようにもう一人、制服姿の少女が肩を叩く。
「っていうか、あんた学校どうしたの?」
「学校は自主休講」
「それはサボりって言うんだよ。けしからん全く」
「だって、私はたんの助手でしょ?
助手がいないと探偵さんはなんにもできないもんだよ」
「ミキは探偵じゃないし、亜弥ちゃんは助手じゃなくて邪魔しかしないじゃん」
「なにそれ、ひどーい」
二つの影は軽い口喧嘩をしながら、
仕事を無事に終えた安堵を胸に抱え夕暮れの街に消えた。
- 781 名前:電脳幻夜 投稿日:2004/12/17(金) 21:34
-
第二章 Infiltration
- 782 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/17(金) 21:35
-
1
波浪学園をあとにした矢口真里は、柴田あゆみの自殺現場と
彼女がその前日まで入院していた病院にて何度目かの聞き込み調査をすると、
本日最後の訪問先として柴田の家に向かっていた。
「…?」
ふと後ろから誰かにつけられているのを感じる。
曲がり角を曲がる際、矢口はチラリと気配がする場所に視線を走らせてみた。
チラリと見えた制服姿。田中れいなだ。
煙草に火をつける振りをしながら立ち止まってそれが見間違いではないことを確認する。
一体、彼女がどうしてこんなところにいるのか。
尾行を頼んでおいたはずの藤本はどこでなにをしているのか、
彼女が田中をつけている気配はない。矢口はやれやれと小さく首を振り、
だが、放っておいても大した害はないだろうと気を取り直すと再び歩き出した。
柴田の家はもうすぐそこだった。
- 783 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/17(金) 21:36
-
事件当時はマスコミによって埋め尽くされていた玄関も今は閑散としている。
これなら落ち着いて母親から話を聞くことが出来るだろう。
ともかく情報が少ない事件なのでどんな小さなことでもいいから知る必要があった。
矢口は、インターフォンに指を伸ばす。
だが、しばし反応を待っても返答はかえってこない。
「留守かな」
小さく舌打ちした矢口の目にふと何日分か分からないほどの新聞紙と
広告類がはちきれんばかりに突き刺さった郵便受けがうつった。
矢口は不信感を抱き、家を仰ぎ見た。窓は全てカーテンや雨戸で覆い隠されている。
事件後、家の者が引っ越したという話は耳に入ってきていない。
だとすれば、旅行にでも出ているのだろうか。
「…庭だけ庭だけ」
周囲に人目が無いことを確認すると、田中の視線を気にしながら矢口はこそこそと門を潜った。
- 784 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/17(金) 21:37
-
家人不在の家はしんと静まり返り、手入れのされていない荒れ放題の庭が矢口を出迎える。
その有様は、さすがに一日二日の留守ではなかった。
一週間、いや一ヶ月以上は放置されていたはずだ。
ということは、マスコミの攻撃が沈静化した頃ぐらいだろうか。
矢口は訝しげに首を巡らし、どこからか漏れる異様な臭気に気づいた。
鼻をひくつかせて発生源を探る。それは、家の中からしているようだった。
矢口は、一抹の不安を抱きながらドアノブに手をかける。
すると、それは呆気なく廻り音も立たずにドアが開いた。
暗い室内に篭っていた臭気の塊が逃げ場を求めるように開かれたドアに向かい、
矢口の鼻腔を突き刺す。矢口は溜まらず手で口元を覆った。
家の外からも感じられたそれは強烈な死臭。矢口の不安は確信に変わる。
「お邪魔します……」
一応の挨拶に当然ながら反応はない。
足跡を残さぬよう、履いていたスニーカーの上から備え付けのスリッパをつっかけ、
矢口は臭気のする方向へ一目散に向かった。匂いは二階から漏れているようだった。
- 785 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/17(金) 21:38
-
階段を音も立てずに上ると、矢口は一番強い臭気のするドアをゆっくりと押し開く。
そこは薄暗い十畳ほどの部屋。雨戸が閉められており室内に光はない。
呼吸をすると、もわっと立ち込める死臭と、それに混ざって強い揮発性の匂いも感じられた。
手探りで照明のスイッチを探していた矢口はそれを訝しく思い、
ポケットからペンライトを取り出すとそっと床を照らし出してみる。
床には毛足の長い絨毯が敷かれており、どうやら揮発性の匂いはそこから発せられているようだ。
しゃがみ込んでそっと指で絨毯を撫ぜてみると、指先に冷たい水の感覚が走る。
鼻の前に濡れた指を運んで矢口は眉を寄せた。
「ガソリン……」
そう、矢口の指を濡らしていたのはガソリンだった。
- 786 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/17(金) 21:39
-
一層険しい表情になった矢口は、足元から部屋の隅までをじっくりとペンライトで照らしていく。
やがてペンライトの小さな輪が床に垂れ下がった剥き出しのコードを映し出した。
矢口はふぅ、と息をつく。これで確定。ブービートラップだ。
もし、なんの疑いもせず部屋の照明を入れていたら、電気が床に流れ
ガソリンまみれの床が一気に発火していたことだろう。
どうしてこんなところにこのようなトラップが仕掛けられているのかは分からないが、
仕掛けたのはなかなか手馴れている奴のようだ。
そうなると、他にもなにか仕掛けられている可能性がある。用心しなければならない。
矢口はゴクリと息を呑み、再び中を照らしだしていく。
朧気な光の輪がすぐに床に転がる二つの人影を映し出した。
中年の女性とまだ若い男性。
柴田家の家族構成から察するに柴田あゆみの母親と兄だろうと予想がつく。
二人は、口と手足をビニールテープでぐるぐる巻きにされていた。
これでは声も出せず、文字通り手も足も出なかったことだろう。
- 787 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/17(金) 21:40
-
矢口はそろそろと室内に足を踏み入れ、そっと男性の頸動脈に手を押し当てた。
既に硬く冷たいそれに矢口は顔を顰め、小さく溜息を付く。
遅かった。二人は口封じのために消されたに違いない。
いや、果たしてそうだろうか。矢口は、すぐさま自分の考えに否を唱えた。
二人がなにを知っているというのか?
Fについてなにかを知っていたとでもいうのだろうか?
それとも――自答を続ける矢口の耳に不意にぶーんと言う機械の作動音が届く。
矢口は吃驚して立ち上がった。視線を動かすと、ビジネス用の多機能デスクの上で
今まで起動していなかったディスプレイがちかちかと点滅していた。
不審に思って一歩近づいた矢口の前に赤い点が現れる。瞳だ。
翼を持つ赤い瞳の、まるで天使のようななにかがディスプレイの中からじっと矢口を睨み付け、
そしておもむろににこりと笑んだ。瞳が怪しく光る。
「っ!!」
瞬間、矢口は脱兎のごとく部屋を飛び出した。
けたたましい警告音が鳴り響き、部屋の照明が全て灯る。
そして、二階の廊下の窓、ガラスを突き破って飛び降りる矢口の背後から
轟音と共に炎が吹きだし、家は一瞬で火の海と化した。
- 788 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/22(水) 00:47
- めっちゃ面白いです。今まで気付かなかったのが悔しい。
続き期待してます。頑張ってください。
- 789 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:43
-
2
波浪市立病院は、市街からは少しはずれているが、
それなりに交通の便が整った立地条件のよいところにある。
広大な敷地を早足で横切り、藤本美貴は受付で救急処置室の場所を訊ねた。
教えられた場所に着くと、ロビーにいた制服姿の少女が立ち上がった。
波浪病院から連絡があったのは、矢口から頼まれていた彼女、田中れいなの尾行を切り上げ、
藤本と松浦が部屋に帰りつきこれから夕食の準備でもしようという中途半端な時間のことだった。
田中の説明は激しい動揺のためいまいち要領を得なかったが、
とりあえず矢口がなんらかの事故に巻き込まれたということだけは分かった。
- 790 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:44
-
「矢口さんは?」
問うと、田中が「えっと…まだ処置中です」と青褪めた顔で答える。
そう、と藤本は頷き処置室のドアに視線を投げた。
そこに心配の色はない。あるのは呆れ。
どうせ矢口のことだから無茶でもしたんだろうという確信が藤本にはあった。
「あの…突然家が爆発して…で、矢口さんが気絶する前にあなたに、
あの連絡をしてほしいってれいなに言って、それで」
「…そっか、連絡ありがとね。心配しなくても大丈夫だから、
君はもう帰ったら。遅くなっちゃうでしょ」
震える声で一生懸命状況を説明しようとする田中の肩を安心させるように叩き
そう言うと彼女は首を振った。
- 791 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:45
-
「じゃぁ、とりあえず座ったら?疲れたでしょ、慣れないことして」
苦笑しながら肩に置いた手に軽く力を入れ、備え付けのベンチに座らせてやる。
座っても、田中はなおも揺れる瞳で藤本を見上げていた。
藤本は微笑み、その隣に腰を下ろす。
「うちら、仕事してると危険なことなんてしょちゅうあるんだよ。
君にはちょっと刺激強すぎたみたいだけど……
まぁ、矢口さんだし、多分無傷だと思うから安心しなよ」
「む、無傷って…だって凄い爆発だったんですよ」
田中が声をあげた瞬間、処置室のドアが開き藤本の言葉どおり
どこからどう見ても無傷の矢口が姿を現した。
「ね?言ったでしょ?」
隣で唖然とする田中に藤本は笑いかけた。
- 792 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:47
-
※
「いやぁ、まいったまいった。入院なんておいら初体験だよ」
不機嫌そうな藤本とは対照的にベッドの上の矢口は大して悪びれもせずに頭をかく。
「っていうか、入院する必要ないですよね」
「しょうがないじゃん。頭打ってんだからさ。
無傷に見えてある日ぽっくり逝っちゃったらどうすんだよ」
この人に限ってそんなことは絶対ない。藤本は思う。
それから藤本は、矢口が無傷だったことに驚きすぎたのかほっとしたのか
あの後気絶してしまった田中が眠っているカーテン越し隣のベッドを
気にするようにチラリと視線を走らせ、彼女を起こさないように声を潜めて訊ねた。
「それで、一体なにがあったんですか?」
「まぁ、ちょっと宣戦布告されたって感じ、かな」
「はぁ?」
言葉の意味が分からず、矢口に顔を向け藤本は小さく息を飲んだ。
今までの暢気な口調とは似つかわしくない表情が矢口の顔一面を覆っていた。
それは明らかな怒りの色。
触らぬ矢口に祟りなし。藤本は身震いする。
- 793 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:48
-
「だいたいお前、田中の尾行も満足にしないでなにやってんだよ」
「あ、それそれ、それなんですけど」
危うい怒りの矛先がこちらに向かってきたので藤本は尾行を切り上げたことに対する弁解はせず、
話を少しだけずらしてみた。
「なんかあったの?」
ずらした先は大成功だったようだ。矢口が興味深げに食いついてくる。
「大したことじゃないんですけどね」
藤本は、一応の念押しをする。
本当に大した話じゃないなと思いなおしたからだ。
田中れいなの失語がもう治っているというそれだけのことだから。
単純に空気を変えたかっただけのことなので、ここまで食いつかれると正直気が引けてしまう。
- 794 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:48
-
「いいから、なに?」
「えっと、ほら美貴、矢口さんから連絡貰って彼女のこと尾けてたじゃないですか」
「うん」
「最初、彼女、音声ユニット使って喋ってたんですけど、
急にそれ外して普通に喋りだしたんですよね。
だから、失語の振りしてただけなのかなって」
藤本は言ってから、矢口にそれだけかよと毒づかれるんじゃないかと身構える。
しかし、予想に反して矢口は無言だった。
口元に手を当て、なにかを深く考え込んでいる。
- 795 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:49
-
「…矢口さん?」
「それ外した原因ってなに?」
「え?」
「突然外したんだろ?」
「あぁ、多分一緒にいた子がなにか言ったからだと思いますけど……
さすがにそこまでは聞こえませんでしたよ」
「一緒にいた子……」
矢口は再び深く考え始める。
- 796 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/23(木) 21:49
-
「ところで……あのぉ、美貴、もう帰ってもいいですかね?
亜弥ちゃんが夕飯作って待ってるんですけど……
それにほら、田中さんだって送ってかなきゃいけないし」
そんな矢口に藤本はおずおずとそう切り出した。
すると、彼女は思い出したかのように顔をあげ
「松浦にはおいらから謝っとくし田中の家にも連絡するから、
今日は三人で一緒にいようよ。おいら一人ぼっちなんてさぁみしぃなぁ」
奇妙な節をつけて上目遣い。ぞわぞわっと全身に鳥肌が走る。
「・・・キショッ!マジキショイんですけど」
「つれないなぁ、ミキちゃんは」
矢口が、なにかを企むような笑顔で藤本の服をくいくいと引っ張った。
- 797 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/25(土) 22:27
-
3
「人が死んだんだぞ。なのに何も覚えてない?覚えていないはずがないだろ。彼女の死体は君が運んできたんじゃないか」
「いいかい。君が殺したとは言っていないんだ。
だが、このまま犯人が捕まらなければ、それは君が殺したのと同じ事になるんだぞ。
そこをよく考えて話してほしい」
「あの娘の事、どんな些細なことでもいいんです。
なにがあったのか教えて下さい。お願いします!」
「何も覚えてないと君は言う。君はそれでいいだろう。
だが、本当にいいと思うのかい?彼女は残酷に殺されたんだぞ。
残された遺族の方のためにも」
執拗に責め立てる人々。だが、記憶にないのだ。どこにも。見つからないのだ。
自分の中にはなにもない。なにも。なにも。なにも。
だからこう答えるしかない。それがどれだけ苦しくても。
「覚えてません、何も」
- 798 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/25(土) 22:30
-
白い天井。見慣れない天井。
田中はじっとその天井を見据え、ゆっくりと上半身を起こした。
制服で寝ちゃったんだ、ぼんやりした頭で思う。背中がじっとりと汗ばんでいた。
溜息をついて、両手で顔を覆う。
三野晴海殺人事件の重要な証言者として取り調べを受けた記憶。
夢にまで見るほど気にしているのに、未だに何も思い出せない。
何も覚えていない自分が腹立たしくて、苛立たしくて――
道重には犯人探しはしないと言った手前教えなかったが――
田中は失われた記憶を探す事を密に心に決めていた。
今日、道重と別れた後に見かけた矢口真里をつけたのもそのためだ。
つけていくと矢口は柴田という表札のかかった家に入っていった。
昼に聞いた自殺した高等部の生徒の家だろう。
なにか手がかりがあると踏んでいたのかもしれない。
矢口の知りたいことは自身が知りたいことと関係がある。
田中は、矢口が家から出てきたところで彼女から詳しい話を聞こうと家の外で待つことにした。
だが、どういうわけか彼女は爆発音と共に家の窓から飛び出してきたのだ。
家は物凄い勢いで燃え爆ぜ、驚いた田中はその場で救急車を呼んだため、
結局矢口がその家でなにを探っていたのか知ることが出来たのか、分からず終いになってしまった。
そこで田中はふと思い出す。そういえば矢口はどうなったのだろう、と。
- 799 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/25(土) 22:31
-
「松浦にはおいらから謝っとくし田中の家にも連絡するから、
今日は三人で一緒にいようよ。おいら一人ぼっちなんてさぁみしぃなぁ」
不意に奇妙に節つけた声がベッドを囲っているカーテン越しから聞こえた。
田中はゆっくりとベッドから降りる。
靴下を通して、ひんやりとした床の感触が伝ってきて微かに肌が粟立った。
「・・・キショッ!マジキショイんですけど」
「つれないなぁ、ミキちゃんは」
声はまだ聞こえる。田中は、勢いよくカーテンを開いた。
そこにいたのは、矢口真里と藤本美貴の二人。
二人は、突然現れた田中に一瞬驚いたように目を丸くし、すぐに笑顔を浮かべた。
- 800 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/25(土) 22:32
-
「あ、起きたんだ。丁度よかった。今から帰るとこだから、送ってくよ」
藤本がこれ幸いとばかりに笑顔で立ち上がる。
逃すまいという風にその手をがしっと矢口が掴んだ。
「いや泊まってけって言ってるだろ。田中も泊まるよね?」
「え?」
急に振られて田中は口ごもる。
「あぁ、無視していいからね。
頭打ってちょっとおかしなくなってるんだよ、この人」
藤本が矢口につかまれていないほうの手でこめかみの辺りを叩きながら笑った。
おいおい、と矢口が頭を振る。
「言っておくけど、ちゃんと理由があるんだぞ。
こんな目にあった以上のんびりと正攻法でなんてやってらんないんだよ、おいら的には」
「正攻法……」
「そう。丁度運良く波浪私立病院に入院させられたんだから、
これを利用しない手はないっしょ」
- 801 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/25(土) 22:33
-
波浪市立病院。田中ははっとする。
事故の動揺でごたごたしていて、ここがどこなのか全く気づかなかった。
ここは自分が一ヶ月前まで入院していた病院だ。
田中の反応を見た矢口が満足げに口元を緩める。
「田中は分かったみたいだな。これで藤本も泊まり決定な」
「はぁ?いや、美貴、ぜんっぜん分かってないんですけど!
大体、なんで美貴が巻き込まれなきゃいけないんですか」
「いいからいいから。お前の力が必要なんだよ。
頼りにしてるんだからマジで。ほら、田中からも頼んで」
促されてなんとなく田中は自分よりほんの少し背の高い藤本を上目で見る。
藤本が、うっと一歩後ずさる。
- 802 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/25(土) 22:34
-
「あの…お願いします、藤本さん」
「……っく!」
よく分からないがペコッと頭を下げると、藤本がさらに一歩後ずさった。
「よし、あと一息だ。手を取ってもう一回ペコリだ」
矢口の小声での指示を受けた中は藤本の手をおずおずと両手で握る。
「お願いします」
ペコリ。
手を握られた藤本は口をパクパクさせ
「…こ、子供使うなんてずるいですよ」
ようやくそれだけを呟くとがっくりと項垂れた。
なんだかよく分からないがチラリと矢口を窺うと、彼女はニヒヒとピースサインを出していた。
- 803 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/12/26(日) 01:04
- 実はずっと読ませてもらっています。
マジでこの話好きです。
登場人物の関係性とかもかなり面白いです。
これからも続き期待してます。
- 804 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 22:57
-
4
見回りの看護士が病室を懐中電灯で一通り照らし、
異常がない事を確認して遠ざかっていく足音を聞きながら、矢口はベッドの下を覗き込んだ。
そこには、藤本美貴と田中れいなが潜んでいる。
「ったく…いくらなんでもここまでしなくても」
いまだ納得いっていないのか不満の色を露にしたまま藤本がベッドの下から這い出て来る。
田中がその後に続く。
「即決断即実行。それがおいらのモットーだからね」
「美貴のモットーは、石橋を叩いても渡らない、にするんで帰っていいですか?」
「ダメだって。田中が悲しむだろ」
藤本の性格をよく知っている矢口は田中をダシにしてにんまりと笑う。
藤本が背後に立つ田中をじと目で見て肩を落とした。
- 805 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 22:58
-
既に時刻は0時近く、日付も変わろうとしている。
当たり前だが面会時間はとっくに終わっている。見つかれば追い出されることは確実だ。
「大体、依頼されたの矢口さんなのにさ。美貴は関係ないし。
亜弥ちゃんのご飯食いっぱぐれるしお腹すいたなぁ」
藤本は鼻をすすりながらベッドに腰掛ける。
そうすると丁度、田中が彼女の前に立つ形になった。
「…すみません。れいなのせいで」
「い、いや、田中ちゃんが謝ることじゃないけどさ」
申し訳なさそうに頭を下げる田中に慌てたように藤本が手を振る。
それから、誤魔化す様に咳払うと彼女は矢口にしかめっ顔を向けた。
- 806 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 22:59
-
「これで最後にしてくださいよ」
負け惜しみとも取れる藤本の台詞を、はいはい、と軽くいなすと
矢口は立ちっぱなしの田中に備え付けの椅子を勧めた。
素直にそれに従うと田中は矢口に尋ねる。
「それで…これからなにするんですか?」
「あんたのカルテをこっそり拝見しちゃう」
その答えに田中は唖然とし、藤本が眉を上げる。
「まぁ聞いてよ。おいらね、なんで自分が狙われたのかを考えてみたワケ。
柴田あゆみの自殺事件に関していうと、ぶっちゃけおいらはほとんど情報を持っていない。
マスコミの連中とほぼ一緒くらいかちょっと多いかなってとこ」
二人から質問が飛んでくる前に矢口は口早に説明を始めた。
- 807 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:00
-
「それであんなに周到に命を狙われるとは思えないんだよ。
ってことは、おいらが狙われた理由は田中れいなの方じゃないか、ってね。
おいらは多分、あの河原で田中を発見した時に何かを見てるはずなんだ。
犯人が一番知られたくない事をね。つまり、それはFに繋がるなにか。それでおいらは狙われた」
「なんで犯人がFのことを知られたくないってわかるんですか?
だって、田中ちゃんとその柴田あゆみの事件が関係あるかどうかは
まだ確定してないんでしょ?」
藤本が問う。
そうくるだろうと予想していた矢口はTVドラマなんかで探偵がするように格好付けて一本指を立てた。
「まずね、犯人は残された柴田家の人間を殺してるでしょ。
それはなぜか。殺す必要があったからだ。
なぜなら、彼らはFのことを知っていた。もし、知らなくても、彼らはFが、
マスコミが言うようにあゆみを虐待していた父親'Father'を指しているんじゃないってことを知ってたんだ。
柴田あゆみの意味不明な言葉を毎日聞いていれば、それくらいは分かるはずだからね」
「つまり…Fの本当の意味を誰かに知られたくないから彼らは殺されたってことですか」
呟いて、藤本が眉を寄せる。
それに大きく頷き矢口は言葉を続けた。
- 808 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:01
-
「そうなると、次の疑問が湧いてくる。どうして今頃トラップを使って家を燃やしたかってこと。
家にあるなんらかの証拠を隠滅したかったんなら、柴田あゆみの家族を殺した後に
すぐ燃やせばいい。いくらでも時間はあったはずだ、犯人にはそうできたはずなんだよ。
なのに、あえてそれをしなかった。ブービートラップをつくってまで、
誰かがあの家を訪ねて来るのを待っていた。ここで問題。誰が来るのを待ってたと思う?」
その問題に二人の視線が一斉に矢口に向けられる。
そして、どこか遠慮したようにおずおずと田中が言った。
「……矢口さん、ですか?」
期待通りの答えに矢口は目を細め頷く。
「そういうこと。ただの自殺事件として片付けられた事件を掘り返して、
うろちょろ柴田あゆみとFについて調べているおいらが柴田家に来ることは
犯人にも簡単に予想できることだからね。そこで、まとめて邪魔なものを始末したかったんだろ。
だけど、引っかかるのはあの日おいらが柴田家に侵入した事を
犯人がどうやって知ったかってことなんだ。
だって、犯人はおいらがいつ家に来るかも分からないワケじゃん。
まさかずっと近くで見張っていたとは考えられないし」
- 809 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:02
-
「…監視カメラみたいなのが部屋に設置されていたとか?
そこから矢口さんの姿を見て、遠隔操作で爆発させたとか…」
自信なさげに藤本が口にすると矢口は頷いた。
「かもね。けど、おいらはあの時ディスプレイの中にいたヤツが気になるんだ」
「ディスプレイの中?」
「そういや、藤本って電脳機とか詳しい人?」
矢口は不意に言った。急な話題変換に藤本が難しい顔のまま首を振る。
「全然。さっぱり。まったくもって知りません」
電脳機。ネットを自在に徘徊できるプログラム。
ある程度の命令を与えてやれば自動的に簡単な任務をこなしてくれるが、
作り上げるにはそれなりのプログラミング技術が必要とされる。
藤本の中にある電脳機の知識はそれくらいだ。
こんなこと、最近では小学生でも知っているような常識である。
つまり、全く知らないと言う藤本の言葉はあながち嘘ではない。
- 810 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:03
-
「田中は?」
「…授業で習ったぐらいですけど」
「そっか」
頼りない返事の二人に矢口は苦笑し、自らの仮定を話そうか話すまいか逡巡する。
だが、興味津々にこちらの言葉を待っている二つの視線に口を開いた。
「ディスプレイの中で天使がおいらを待ってたんだ」
「…どういう意味ですか?」
「犯人は、コンピューターの中からずっとおいらが来るのを待ってたってこと」
「あ、それが電脳機なんですか?」
藤本が今気づいたと言わんばかりにぽんと手を打った。
田中も同じ気持ちなのか一瞬目を輝かせた。
- 811 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:03
-
「ま、そういうこと」
「…でも、そんなことが出来るですか?
電脳機って……要はウィルスみたいな物ですよね?」
「いや、それはちょっと違うだろ。電脳機は組まれたプログラムによる情報の位相。
人格と自由意志が無いことを除けば、人間と何ら変わらないし」
「…はぁ」
途端に難しい顔になった藤本にため息を付き、矢口は簡潔に説明する。
「どっちかっていうと、人工知能の強化版って言ったほうが近いかな」
「へぇ……じゃぁ、超すごいってことですね」
「…ま、まぁそうだな」
理解したのか理解していないのか、にっこりと歯を見せた藤本に矢口は苦笑する。
- 812 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:04
-
「……じゃぁ、現代ってその超凄いのが一杯出回ってるわけかぁ。
美貴には分かんない世界だな」
「ところが、そうでもないんだよ。田中は習ってるかな。
電脳機がなんでたくさん出回らない理由とか」
矢口の突然の振りに田中が曖昧に頷く。
「えっと………基本プログラムの他に電脳機のマスターになるには
10%以上のオリジナルプログラムをいれたチップを直接体内に埋め込まないといけないから、
スキルが伴ってない状況でそれを行なうと体に負担がかかり
上手く機能しない中途半端な電脳機になってしまう」
「そうそう、それ。模範解答だね」
教科書に書いていることを丸暗記していたかのような田中の答えに矢口は拍手をし、
なお疑問符を顔一杯に浮かべて首を捻っている藤本に呆れながら言葉をかける。
- 813 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:05
-
「結局ね、持つものは限られてくるってことだよ。
いくら情報化社会が発達としたとしても自分の体の中にプログラムを走らせるわけだからね。
なんか怖いじゃん。それに電脳機を完全に操れるほど複雑なプログラムを組める人なんて
そうはいないし、組めたとしてもその事後処理が大変なんだ。
維持費だけでも目ん玉飛び出ちゃう。
だから、結局そういうことは物好きなニューロぐらいしかやりたがらない」
「はぁ……大変なんですね。
あ、でも、売るためだけにチップを組んだりする人とかいそうですよね。
なんかちょっとした小金もちになれそうだし」
その言葉に矢口はずるっとこけそうになった。
今までなに聞いてたんだ、こいつは――
藤本の機械音痴は矢口の想像以上のもののようだった。
- 814 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/26(日) 23:08
-
「だからさ、さっき田中が説明したじゃん。
体内にオリジナルプログラムを埋め込む必要があるんだってば。ちゃんと聞いてんのか?」
「聞いてますよ。だからぁ、その埋め込むプログラムをコピーして売っちゃえば
同じ電脳機がたくさん出来てなんとなく心強くていいんじゃないですか」
「そう簡単にはいかないんだって。
同プログラム同士がネット上で接触したら、勝手に融合しあって消滅しちゃうんだよ」
「なんでですか?」
「いきなり自分に二人のマスターが出来ちゃったら電脳機だって混乱するでしょ。
自己矛盾を起こして自壊するわけ。だから、コピーチップが出回っても意味がないってことだよ」
「……?」
「なんで分っかんないかなぁ……
だから、電脳機ってのは結局オリジナルプログラムが一番重要なんだよ。
人間みたいに肉体を持たないからより明確な定義の違いが必要になってくる。
そうだね…人間で例えると遺伝子レベルの違い」
「なるほどぉ。じゃぁ、絶対に同じ電脳機は存在しなし、
同じ電脳機を誰かと共有することは出来ないってワケですね」
「まぁ、理論上はそうなるね」
こんな講義みたいな話をする羽目になると分かっていたら
藤本に電脳機の話題なんか振らなければよかった、ため息混じりに矢口は頷いた。
そして、チラリと時計に視線を走らせると
「そろそろ行こっか」立ち上がった。
- 815 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 21:59
-
5
深夜の病院はしんと静まり返り、時折見回る夜勤の看護士や警備員の懐中電灯や靴音が響くのみ。
その薄暗い廊下を足音を忍ばせて三人は歩く。
矢口と藤本は元々足音を立てずに動くのは慣れているが、
こんな経験が初めての田中は生まれたての子馬のようにともかく慎重にその歩を進めている。
と、不意に先を行く矢口の足が止まった。また警備員の靴音でも聞きつけたのだろう。
案の定、矢口が指で空き病室を示す。滑り込んで息を殺すこと数分。
懐中電灯の明かりと靴音が通り過ぎる音を確認して三人は再び廊下に出る。
そして、また暫く歩きエレベーターホールの傍に張られた病院内地図の前まで来ると
矢口が立ち止まった。
「カルテ庫は……地下だな。よし」
地図の一箇所を指差して矢口が頷く。
「あの、鍵かかってるんじゃないですか?」
田中は、場所を確認すると、また静かに歩き出した二人に至極当然の質問を投げた。
藤本が苦々しい顔で振り返り「だから、美貴がいるんじゃん」と返す。
田中は、なにをいっているんだろうという顔をして、それから矢口にその疑問の視線を向けた。
「ルパンルパーンみたいな」
矢口がルパン三世のテーマソングを言って笑う。
相変わらず、藤本は苦い顔をしていた。
その意味を田中が知ったのはこれから約10分後のことである。
- 816 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:00
-
※
カルテ庫の鍵は藤本が想像していたよりも簡単に開けることが出来た。
後ろで矢口が音を立てないよう気をつけながら拍手をしている。
こんなことで拍手なんかされたくない。藤本は顔を顰めドアを開く。
さっさと中に入っていく矢口、その横にいる人物は唖然とした表情のまま動かない。
藤本を見つめる目が今までとは微妙に変わっている。
「言っておくけど、普段はしないからね、こんなこと」
そんな泥棒を見るような目は勘弁願いたい。
藤本は田中の背中に手を回し中に入るよう促す。
ぎくしゃくとした動きで田中は漸く動いた。
室内ではすでに矢口が大きなデスクトップPCの電源を入れていた。
コンソールの上を素早く指が動いている。
キーを数度叩くたびに画面にめまぐるしく文字が踊り、やがて一つの画面が映し出される。
自分もあれだが、矢口のハッキング能力もどうかと思う。
これで二人して刑事局と繋がりがある研究所の一員なのだから世も末だ。
藤本は、背後で矢口を見守りながら小さく嘆息した。
その隣では、やはり田中が驚いた表情で固まっていた。
- 817 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:01
-
「きたきた」
矢口の楽しそうな声。
「あれ?」
一転、それが不思議そうな声に変わる。
藤本は、なにか異変でもあったのかと画面を覗き込んでみた。
「おかしいな、田中が病院に運び込まれた3月26日以降の入院データがない」
「刑事事件だから、極秘扱いになってるんじゃないですか?」
「そっか……調べてみる」
藤本の言葉に矢口が再び軽快にキーを叩きはじめる。
三野晴海殺人事件の項目。
そして、田中れいなの情報が藤本の視界にチラリと入ってくる。
さすがに一般の患者と殺人事件の関係者を一緒の場所には置かないようだ。
藤本は窺うように遠巻きにこちらを見ている田中に
「あったみたいだよ、田中ちゃんのカルテ」と頷いてみせる。
しかし、キーを叩いていた矢口がすぐに不可思議な言葉を呟いた。
- 818 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:02
-
「あった…けど、ない」
「…なに?どっちですか?」
その矛盾した言葉に藤本は苦笑しながらディスプレイを覗き込む。
膨大な情報の海の中、確かに田中れいなの項目は存在している。
だが、矢口の言葉どおりその記述はほとんど残されていなかった。
いや、リアルタイムで削除されているのだ。
「クソ、なんだこれ!」
矢口の必死な声。
矢口はどうにか失われていくデータを修復してかき集めようとしているみたいだが、
データを削除するスピードの方が圧倒的に速い。
「藤本さん、あれ!」
いつのまにか同じように矢口の後ろからディスプレイを覗き込んでいた田中が
驚愕の声をあげてなにかを指差した。ディスプレイの片隅に奇妙な白い物体が動いている。
それがどうやらデータを削除していっているようだ。
- 819 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:03
-
「矢口さん、なんですか、これ!?」
藤本の声が聞こえたかのように白い物体が不意にこちらを振り返った。
灰色の翼。赤い瞳。天使のような、悪魔のような、奇妙な物体。
それは藤本ではなく矢口を見ていた。
目が合うという表現は妙だが、確かにその時、その物体と矢口の目は交差しているようだった。
「またこいつかよっ!」
矢口がちぃっと舌打ちする。
彼女はどうやらそれがなんであるか知っているようだ。
「…電脳機」
「え?」
田中の呟きに藤本は眉を寄せる。
- 820 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:04
-
「矢口さんを襲った電脳機なんですか、これ」田中が叫んだ。
「あぁ、そうだよ!」
矢口がバンと苛立たしげにデスクを叩く。
その音に釣られてディスプレイに視線を戻すと全てのデータは消え去り、
勝ち誇った笑みを浮かべた電脳機がこちらを見ていた。
「……お前……何者だよ?」
その目に何か奇妙な圧迫感を覚えたのか微かに震える声で矢口が尋ねる。
「……フラウロス……」
答えて、にこりとソレは笑った。
奇妙に人間くさく、それでいてどこか獣じみた笑み。
その笑いだけを残し、ソレは画面上から掻き消えた。
- 821 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:05
-
PCの電源を落とすと矢口は重い息を吐いた。
柴田あゆみの一家は殺された。田中レイナの入院データも消された。
おそらく、警察にある事件データもとっくに消されているだろう。
敵はそうまでしてなにを隠したいのか。田中は一体なにを知っていたというのか。
とりあえず、現段階で分かったことは――
「……おいらが監視されてることだけは分かったね。
なんつったっけ、さっきのヤツ」
「フラウロス」
藤本が苦々しく呟く。
どうしたのかと振り仰いだ矢口に彼女は一言で説明した。
「悪魔の名前ですよ」
「……悪魔?へぇ…西洋は専門外だったなぁ」
- 822 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:06
-
「本物の悪魔なんですかねぇ。
ネットに巣くう悪魔とかあんまりゾッとしないけど」
「バイオで人工的に化け物が作り出せる時代だから、
本物の悪魔がでてきても驚かないけど……なるべく遠慮願いたいな」
呟きながら矢口は立ち上がる。
敵に先手先手を打たれるため空ぶってばかりだ。
一旦、腰を落ち着けてじっくり考える必要があるのかもしれない。
ともかく、もうここにいる意味はないだろう。
「矢口さん、どこ行くんですか?」
「…なに?」
呼び止める藤本に矢口は振り返った。
と、やけに自身ありげな表情とぶつかる。
- 823 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:06
-
「諦めたらそこで試合終了ですよ」
「安西先生…って、なにやらせんだよ、バカ」
「矢口さんが勝手にやったんじゃないですか」
「…で、なんなの?」
的確な藤本の返しを無視して矢口は問い直す。
藤本がぐるっと室内を見回し両手を広げる。
「なんだよ?」
「実は、この部屋全部カルテなんですよ」
言われて、室内全体に改めて視線を巡らし矢口はポカンと口を開ける。
入ってすぐに中央のコンピュータに向かった矢口はまったく気がつかなかったのだが、
ただの壁だと思っていたそこには大きな棚が幾つも並んでいたのだった
- 824 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:07
-
※
「わっかんないなぁ。なんで電子カルテ導入してるのに、
こんなにいっぱいアナログなカルテまで取ってるんだ、この病院」
三人で手分けして田中れいなのカルテを探し始めて三十分。
棚の下から三番目の引き出しに手をかけながら矢口がぼやく。
「結局、人を治すのは人ってことでしょ。たとえ電子カルテみたいな便利なものが導入されても、
医者がその手でカルテを書く姿が患者に安心感を与えるなら医者はそうするものなんじゃないですか。
パチパチとキーボード打たれながらの診察なんてなんか味気ないですし……」
手に持ったカルテの束を検分しながら藤本が答えを返す。
矢口は「そんなもんかぁ」とあまり納得がいっていないようだが、
田中はなるほどとと感心していた。確かに、そんなものなのかもしれない。
営利性や効率だけを求めて患者の気持ちを置き去りにする病院なんて
怖くて誰も利用したがらないはずだ。少なくとも自分は嫌だ。
医者がいてこその病院というが、患者あってこその医者でもある。
患者が求めるなら多少非効率な作業でもやってほしいものだ。
とは思うものの――やはり、多い。田中は少しうんざりしながら新しい引き出しに取り掛かる。
- 825 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:08
-
「カオリがいたら、ここにある気がするとか言って速攻見つけてくれそうなのにな」
「あぁ、そうですね。飯田さん、変に電波受信するから」
「あれは宇宙のお告げだよ、お告げ。アカシックなんとか」
手を動かしながら田中の反対側の棚にいる二人が軽い雑談を始める。
「…飯田さんって誰ですか?」
田中は、なんとなく二人の会話に割って入った。
矢口が棚に寄りかかって座り、こちらを向く。
「元々、この事件を調べてた人だよ。一応、おいらたちの上司」
「へぇ…あれ?でもどうして今はおらんとですか?」
「その人放浪癖があってさぁ…美貴たちの前に戻ってくるのなんて
年に数えるくらいだもん。仕事放ったらかしにするのもしょっちゅう」
田中の質問に藤本が笑顔を向ける。
- 826 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:09
-
放浪癖。電波受信して、お告げをもらえて、さらにこの二人の上司。
一体、どんな人なんだろう?と勝手な想像は膨らむ。
想像していくうちに、人間と掛け離れたとても恐ろしいモンスターが出来上がってしまい
田中はぶるりと身を震わせた。その時、開けた引き出しに肘がガツっと当たる。
引き出しの中でカルテの束がバサバサッと倒れた。
「あ」
その中から露になった一冊のカルテを田中は目ざとく見つけて取り出す。
患者名の欄にはっきりと自分の名前が書かれている。
「あ、ありましたよ。れいなのカルテ」
田中はカルテを掲げた。
どこどこ!と駆け寄ってきた矢口に田中はカルテを渡す。
藤本が腰から懐中電灯を取り出し彼女の手元に光を当てた。
用意がいいな、と思いながら藤本を見ていると「なに?」彼女がこちらを振り返った。
「あ、いや。いつも持ってるんですか、懐中電灯」
「まぁ、潜入七つ道具ってやつだからね」
からっという藤本に田中は、この人本当に泥棒してないんだろうな?と疑念を抱いた。
なにはともあれ、丸い光りの中、映し出される白い紙を三人で食い入るように見つめる。
- 827 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:10
-
『患者、田中れいなの記憶に著しい混乱。特に、行方不明中の記憶は皆無。
暴行による傷害は無し。右腕部に鋭い刃物で付けられたと思われる傷跡有り。
一時的な精神錯乱に陥った患者自身がつけたものと思われる。
何らかの大きな精神的ショックにより失語症状が見受けられる。
暫く様子を見た後、退院の予定』
- 828 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:12
-
「これだけかよ?」
失望の色を込めて矢口が呟く。そういいたくなる気持ちも分かる。
カルテに記されていたのは公式発表とほぼ同じもの。
あとは、入院中にどのような薬を投与したかといった専門的なことだけであった。
「ぅわ」
今までカルテを見ていた矢口に急に右腕を掴まれ袖をめくられて田中はびくっとなる。
「な、なんですか?」
「あ、傷跡のこってるかと思って」
「残ってませんよ、もう」
マジマジと自分の右腕を見やる矢口に口を尖らせ、田中は捲くられた袖を直した。
矢口が肩を竦める。
その時、クリップで留められていた紙片がカルテの中からぱさりと床に落ちた。
- 829 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:13
-
「なんか落ちましたよ」
藤本が光りを翳しそれを拾い上げる。
そして、訝しげに眉を寄せた。
「矢口さん、これ」
それは一枚の写真のようだった。
写真を受け取った矢口が目を細める。
「右腕部に…鋭い刃物で付けられたと思われる痕跡有り」
カルテの文字を読み上げながら矢口が照らし出された写真を凝視した。
「これだ…これがFが隠したかったものだよ。田中も見てみろよ」
覗き込んで田中は目を見開く。
映っているのは細い右腕。幾本もの桃色の肉を見せる痛々しい傷跡。
それは文字のように見えた。よく注視すると、青白い肌には幾つもの直線で
なんとか『HPT』と読みとれるアルファベットが刻まれていた。
- 830 名前:第二章 Infiltration 投稿日:2004/12/27(月) 22:14
-
「……HPT」
呟いてみる。その単語を知っているような気がした。
おそらく事件に巻き込まれた田中自身が記憶を失う前に
今の自分に残したメッセージに違いない。田中は眉を寄せる。
その時の自分は腕を傷つけてまでなにを伝えようとしていたのか。
その答えを知ることが出来れば全ての真実に辿りつけるのかもしれない。
一番知りたい真実に。
けれど、それがなにか思い出そうとすればするほど阻むかのように
頭の中に濃い霧のベールがおちてきて、田中は悔しさに唇を噛んだ。
「田中ちゃん、大丈夫?」
気がつくと心配そうな顔で藤本が顔を覗きこんでいた。
今、声を出すと涙が出てしまいそうな気がして、田中は頷きだけを返す。
まだ心配そうな藤本の横では矢口が「よーし、やるぞーっ!!」と興奮気味に拳を突き上げていた。
- 831 名前:電脳幻夜 投稿日:2005/01/04(火) 23:20
-
第三章 Fragmentary memory
- 832 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:21
-
1
病院のカルテ庫に忍び込んだ日の後、なにか分かれば連絡をするからと矢口に言われて三日が経った。
その間、田中は一人で『HPT』という単語から失った記憶の断片を取戻そうと躍起になっていたが、
その虚しく非生産的な行為は未だに何の進展も見せていなかった。
登校するなり、田中は仏頂面で机に頬杖をつく。
いつにもまして不機嫌そうな顔なのだろう、
クラスメイトたちが自分を遠巻きに観察しているのが分かる。
好きにすればいい。彼らに聞こえるくらい大きく溜息をつき、田中は目を瞑った。
瞬間、ガバッという擬音語がぴったり当てはまるような勢いで誰かに抱きつかれる。
それが誰なのか、顔を見なくても分かる。こんなことをするのは一人しかいない。
さゆだ、田中は目を開ける。すぐそこに後ろから自分の顔を覗き込んでいる彼女の顔があった。
「どうしたの、れいな、怖い顔してるよ?」
田中が目を開けたのを見て道重は体から手を離し、
彼女自身の席に座る。そして、こちらに体を向けた。
- 833 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:22
-
「……別にどうもせんけど。怖い顔しとった?」
虚ろに答える田中に道重は無意味に明るく微笑んだ。
「少しね。れいならしくていいけど、あんまり可愛くないよ」
「……あっそ」
頷いた田中の答えが返るが早く、道重が続けざまに言葉を続ける。
「進んでるの?記憶の捜査」
「全然…っていうか、なんで知っとうと?」
答えた後で気づいた。
手伝うよ、と一人張り切って危ない事をしでかしそうな彼女には、
自分が失った記憶を探していることは秘密にしていた。
驚いた顔をしていると、道重は呆れたような顔になる。
- 834 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:23
-
「言ったでしょ。れいなと私は双子みたいなものなんだって。
私にはれいなの考えそうなことぐらい手に取るように判っちゃうの」
「…すごいね」
「でしょ。でも、れいなさ、記憶ないわけだし進みようがないよね。
だから、もう諦めたら?別に生活するのに支障はないんでしょ」
「それはそうやけど…なんかすっきりせんし」
「無くした過去に縛り付けられても意味ないと思うの。
思うべきは私との可愛い未来、とか」
「……さゆの言うとおりかもね」
頷きながらも田中の心はすっきりしない。
道重はそんな田中の態度にも変わらぬいつもの笑みを浮かべている。
そうしていれば、自分の機嫌がよくなるとでも思っているのだろうか。
道重の思惑にのって笑顔を作るのも癪なので、ますます田中は暗い表情をつくってみせる。
すると、痺れをきらしたように彼女はこちらに背を向け、
ごそごそと鞄からなにかを取り出すとばぁんと突きつけた。
- 835 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:24
-
「ほら、これ見て」
彼女が、手にしていたのは新聞紙だった。
その所謂『三面』と呼ばれる部分をめくり記事の一文を指さしている。
『暁河川女性バラバラ殺害事件に進展』
それは、田中の視覚を刺激するのには十分な内容だ。
田中は息を呑んで、その部分を凝視する。
「やっぱりね。れいなって新聞読んでないと思った」
道重が言ってまた笑う。
『……先日、三野晴海さん殺害の重要参考人に、
波浪市内在住ゲーム会社勤務の男性が浮上した。
男性は、同事件について何らかの事情を知っている可能性が強いとみられる。
波浪署と県警の捜査本部などは聞き込み捜査などから、
この男性を割り出し、慎重に内偵捜査を続けてきた。重要参考人として、事情を聴く模様だ』
田中は、暗澹たる思いで口元を押さえた。
自分の記憶に関わるかもしれない殺人事件の容疑者が浮上した。
それは本当だろうか。胸の奥底から言いしれぬ不安と薄気味の悪さがどろどろとこみ上げてくる。
- 836 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:25
-
「ね?殺人事件の容疑者も逮捕されたことだし、もうれいなが疑われることもなくなった。
記憶を気にする必要なんて全然ないよ。これで万事解決なの」
気楽な口調で道重が大げさに両手を広げる。
新聞紙がその動きに合わせてばさばさと音をたてる。
「…でも、これ重要参考人やん。犯人じゃないかもしれんし」
「絶対犯人だよ。そういうことしちゃう人なんて家系ごと死刑にしちゃえばいいのにね」
「……そう言う言い方やめたら」
「冗談なの…でも、いいじゃない、これでお終いで。
殺人事件もれいなの記憶も全部。だって、もう意味が無いと思うの。
終わったことにうじうじ悩むのは精神的にもよくないの」
ぼろぼろになった新聞紙を畳みながら道重が諭すように言う。
田中は首を振った。
- 837 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:26
-
「……そんなんじゃないとよ。
れいなが記憶を求めるのはそういうんじゃなくて」
「じゃあ、なぁに?れいな、まさかFを追うつもりなの?
どこの誰なのかも分からない、存在するのかも分からないものを、
あの女の人と探し続けるの?」
「……F。さゆ、なんでそのこと知っとうと?」
「なんでって……この間、一緒に帰った時にれいな教えてくれたよ」
「そうやった?」
田中は顔を上げて、じっと道重の目を見つめた。
そうしていると、確かに矢口の事を話したついでにFについても話したような気がしてくる。
相変わらず、ただにこやかに笑う彼女の目には自分の影がうっすらと反射して映っていて、
それ以外には何も見いだせそうになかった。
- 838 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:27
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「ねえ、れいな。私が嘘が嫌いって知ってるよね。
嘘は人間関係を破壊するもん、汚いよ。可愛くない。
だから、私は嘘はつかないし、れいなにも嘘を付いて欲しくないの。
ねぇ、今、れいなが何を考えてるのか教えて」
道重の囁きに、だが田中はただ黙って首を横に振った。
道重が落胆したように息を吐き肩をすくめる。
しかし、彼女はまたすぐに変わりない笑顔を浮かべ
「どうしても、Fを探すの止めない?」
「やめん」
「そう。じゃあ、Fが死んだられいなは記憶を探すのも辞めるってことだね」
「え?」
あっさりとしたその言葉に田中が驚いても、道重はただにこにこと笑っていた。
本当に彼女はただ意味もなく笑っている。
こちらの頑なな態度に怒っているというわけでもなく、かといって、楽しんでいるわけでもない。
道重は、きっと何も考えてなどいないのだ。
ただ思いついた事を口にして、ただ唇を笑いの形に曲げているだけ。
なんだかそれはとてつもなく異様な表情に思えた。
- 839 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:27
-
「そうでしょ、れいな」
田中は、道重をマジマジと見つめる。
見慣れた顔。もう十年以上の付き合いがあるのだから当たり前だ。
唇が触れ合う距離で見つめ合ったことさえある。
だというのに、田中は今はじめて彼女の笑顔のおかしさに気づいた。
「Fがいなくなれば、れいなが記憶を探す必要なんてないんだよね」
その笑顔が無性に恐ろしいもののように感じられて、田中は彼女から顔を背けた。
「どうかしたの?」
「……何でもない……ごめん、なんか気持ち悪い」
田中は、道重から顔を背けたまま椅子から離れる。
「大丈夫?保健室、一緒に行ってあげる」
「いい、一人で行ける」
道重が立ち上がりかけたのを田中はきっぱりと制した。
今は、彼女から離れたかった。
好きとか嫌いとかそう言う次元の問題ではなく。ただ離れたかった。
- 840 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/04(火) 23:28
-
「でも」
「ごめん」
道重の言葉を遮って田中は足早に出口へ向かった。
彼女が、ついてくるのではないかとドアの前で一瞬振りかえる。
だが、道重はただじっと田中を見つめていただけで、
ただ無表情に自身の背中を見つめていただけで、先ほどの場所から1mmも動いてはいなかった。
その目から一片の感情も読みとれず、田中はやはり恐怖に目を逸らす。
教室の扉を閉めた時、ようやく田中はつめていた息を吐き出した。
- 841 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:26
-
2
穏やかに朝の日差しを受け止めている保健室の主、石黒彩は
田中の姿を認めると人好きのする笑顔を浮かべた。
「今日は、どうしたの?」
「ちょっと気分悪くて」
田中は言いながら慣れた足取りで保健室奥のベッドに横になる。
石黒は呆れたように肩を竦め、ベッドに横になった田中の上にふわりとシーツを被せると
仕切りのカーテンを閉めた。
- 842 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:27
-
「授業終わっても治らなかったら早退していいわよ」
「はい」
チラリと腕時計に目をやる。一限が終わるまでまだ一時間ほどあった。
ほっと息を吐き、田中は静かに目を閉じる。
目を閉じて、先ほどの道重の顔を思い出してみた。
笑っているようでその実、無表情なあの顔。なにもない笑顔は無表情と同じだ。
彼女はいつもあんな顔で自分を見ていたのだろうか。
考えていると、そのことに気づいた時の恐怖がぶりかえしてきて、
田中はぶるりと身を震わせシーツを頭から被った。
きりきりと胃が痛む。吐き気が込上げてくる。
田中はその不快だけに意識を集中させた。
体の不調は生きている証拠。だから、痛いうちは安心なのだ。
痛まなくなった、その時こそが。
- 843 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:28
-
※
その数時間前、矢口真里は早足で人影疎らな早朝の街を歩いていた。
歩道橋を渡り、さくら通りの脇道に入る。直線30mほど歩いて角を右手に曲がると、
朝の爽やかな雰囲気はどこにあるのかいかがわしそうな店がずらりと並んで矢口を迎える。
目的の店はもうすぐだった。僅かに傾斜になった先の十字路に見える雑居ビルの地下がそれだ。
一階は居酒屋になっており、ビルの前では髪のてっぺんを紫色に染め、
それ以外の部分はきれいに刈り上げた男が、箒と塵取りを持って掃除をしている。
矢口はその男にもう店に入れるのかどうか訊いた。
唇にピアスをした男は、入れない時間なんてありませんよ、とどこか得意げに答えを返した。
- 844 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:29
-
地下に続く専用の階段を下まで降りきったところに入り口があり、
頭上には『DUBDUB』と形作られたピンク色のネオンが光っている。
福田明日香の経営するCLUBだ。この店では朝も昼も夜も関係無しに、
毎日飽きもせずなんらかのイベントが開かれている。そして、毎日飽きもせず誰かがいる。
ドアの前にいたボーイに金を払い、ドリンク券を二枚受け取ると、
矢口は防音になっている鉄製の重いドアを開けて中に入った。
鼓膜が破れんばかりに鳴り響くミュージックが矢口を盛大に出迎える。
MCが日本語とも英語ともつかぬ、おそらく誰にも解読不能の未知の言語をがなりたてる。
廻るミラーボール。光の元で踊り狂う人々の影、影、影。
誰が誰なのかも解らない。ただの影。
上半身の一部を金ラメの布で覆ったたげで奔放に腰をくねらせる女達。それに群がる男達。
クラブ『DUBDUB』は朝から大盛況のようだった。
- 845 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:29
-
無作為に動く人の波を矢口はまるで障害など無いように、
あるいは人の動きを完全に予測しているかのようにするりするりと進んでいく。
そして、店の一角にある金属製の扉の前に辿りつくと躊躇なくその扉を潜った。
扉を閉めると、先ほどまでの喧噪が嘘のように消える。
聞こえるのは、低く響く機械の作動音のみ。
完全防音は、この中で何がおきても気付けないことと同義語だ。
薄暗い照明が硬いフロアを照らしており、部屋の中程には薄手のカーテンが引かれ、
仕切られた向こう側には何の影も見えない。
矢口は、落ち着いた視線で周囲を見回し
「BB!」とそこにいるはずの人物の名前を呼んだ。
- 846 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:31
-
「これはこれは矢口さん、ようこそ」
声は突如背後から聞こえ、矢口は苦笑交じりに振り返る。
先ほどまで誰もいなかったそこにはヒョロリとした長身の浅黒い肌のボーイが一人佇んでおり
慇懃に矢口に向かって礼をしていた。
「オーナーがお待ちですよ」
完璧な一礼の後、男はゆっくりと顔を上げて、部屋の中央を指し示す。
すると、先ほどまで何もなかったカーテンの向こう側には、
いつの間にか大きな影が現れていた。
「遅かったね、矢口」
カーテンの向こうから聞こえるそれは機械音声。
田中れいなが一時期使っていた簡易なものとは違い、
きちんと女の声に聞こえるように調整された精巧な合成音声だ。
「これでも飛んできたんだって。
それより、話ってなに?カオリがサハラ砂漠で見つかったとかそういうの?」
「カオリは見つけてないけど、ちょっと矢口が欲しがりそうな情報を見つけたんだよ」
くすりと笑った福田がカーテン越しにこちらに視線を投げたのが気配で分かった。
矢口は背筋を伸ばす。
- 847 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:32
-
「おいらが欲しがりそうな情報ってなに?」
「矢口、今、記憶喪失事件調べてるんだって?」
どこで知ったのか福田が言う。
その出所を聞いたところで教えてはくれないだろうから、矢口はそれを聞かず素直に頷く。
「暁川の事件も一緒に調べてる?」
「そうだよ。それが何?」
全てお見通しの明日香に矢口は顔を顰める。
「私の視覚がこの店に置かれた全ての光学機器と直結してるのは矢口も知ってるよね。
一度、この店を訪れた者は全て私のデータベースに登録されるし、
それを私が引き出すのは造作もない。入場者数から従業員の下着の色まで、
この店で私が知らない事は何もない。ま、そこまでは知りたくもないんだけど」
「だから、なんなんだよ」
なかなか本題をいわない福田に矢口は焦れて声を荒げる。
カーテンの向こうで影が動いた。
- 848 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:33
-
矢口の見ている前で、舞台の幕が上がるように上へカーテンが開いていく。
薄暗い照明の中から進み出る一台の機械。大きな車椅子だ。
それがただの車椅子ではないことは火を見るよりも明らかである。
所々にコードが配線され、それらは、椅子の中央に座る人間の頭部に集中している。
その顔は、ヘッドマウントディスプレイと呼ばれる鼻から上全てを覆う機械で包まれており、
見た目だけでは性別の判別がつかない。
初めて会った時既に福田はこのような状態だったので、
矢口は彼女の使っている機械音声と名前から彼女が女であると認識しているにすぎない。
後頭部からはまるで髪のように無数のチューブが伸び、電子が流れる光となって煌めいている。
「そうだね、3月23日の夜って言えば判る?」
楽しげに福田が口にした日付に矢口は視線を鋭くさせた。
それは田中が失踪した日の前日の日付だった。
- 849 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:34
-
「…なにが映ってたの?」
「さぁ?なんでしょう?ヒントは田中れいなさん?」
惚けながら、福田はタッチマウスの填められた指でこつこつとリズミカルに肘掛けを叩いている。
「まだるっこしいなぁ。何が望みなんだよ」
矢口が苛立たしく髪を掻き揚げそう口にすると、
彼女は待ってましたとばかりに嬉しそうに手を擦りあわせ首を傾げた。
細いファイバーがざらざらと揺れて音を立てる。
「私と矢口の間じゃん。楽しませてよ」
気難しく肘掛けを叩いていた指が止まり、彼女は注意を引くように一本指を立てる。
「この椅子には、私のデータベースの一部が組み込まれている。
勿論、3月23日の記録もね。私は見せる気がないけど見たいのなら矢口に見せてあげてもいい。
十秒だけ私と有線させてあげるよ。その間に好きな情報を拾い出すなりなんなりすればいい。それでどう?」
「…ったく、相変わらずのサドっぷりだね」
矢口は吐き捨てる。と、福田が口元をキュッと吊り上げ綺麗に笑った。
- 850 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/05(水) 23:35
-
ニューロと有線するということは繋がった瞬間にこちらが逆ハックされる危険を伴っている。
その上、福田は凄腕のニューロであり、且つ人を甚振るのが趣味のようなヤツだ。
有線した瞬間、彼女が視覚変換プログラムから電子変換して
矢口の脳味噌全てを犯しにくることは用意に想像できた。
先月も犯されたばかりだというのに。矢口は、苦虫を噛み潰したような顔で、
福田の機械椅子から毒蛇のように飛び出してきたコネクタを掴みとる。
「どうぞ」
待っていたかのように男が簡易型ヘッドマウントディスプレイを矢口に差し出した。
「サンキュ」
それを受け取ると、先ほどのコネクタとソケットを繋げて頭部に装着する。
「そんじゃ…やりますか。BB、計測頼むよ」
男が頷くのを確認すると不敵な笑みを浮かべ
矢口はディスプレイ越しに福田を見つめた。
- 851 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/06(木) 23:13
-
3
「マイナスカウント10からスタートして、0でチャンネルオープン。
プラスカウント10でクローズ。オッケー?」
響く機械音声がルール説明し、矢口が頷くと、
ディスプレイ上、電子飛び交う空間に黒い髑髏の騎士が現れる。
「あれ?明日香、電脳機変えた?」
先日見たものとは少し変わっていることが気になって、矢口はそう問いかけた。
「え?ああ、うん。見た目だけね。矢口さ、そんなくだらないこと気にしてる余裕あるの?」
「緊張ほぐしてんだよ。それより、本当に使えるデータ入ってんだろうね?」
「私が嘘ついたことある?」
「ないけど」
「それじゃ、はじめるよ。健闘祈ってるよ、矢口」
笑い混じりの呟きと共にカウンタが減り始める。
- 852 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/06(木) 23:14
-
3……2……1……。
チャンネルがオープンした瞬間、情報が怒濤のように押し寄せてくる。
その流れに矢口の体はちりぢりに翻弄されて流された。
視覚変換映像は瞳孔収縮ポインタに対する視覚混乱防壁と判断しカット。
だが、カットしたはずの変換映像はすぐに復活する。
視界の片隅で髑髏の騎士が薄く笑った。
舌打ちと共に矢口は必要な情報だけを集めるためダイブを続ける。
キーワードは、3月23日。田中れいなの顔。
変幻する光景をカットしていく時間はない。
意識野に何かが入り込む気色の悪い感覚。
見られている。リアルタイムで脳を覗かれている。
矢口は唇を噛む。噛み締めた唇に滲む血の味。
何を見られても構うものか。そんな気概が矢口をただ深く深く潜らせていく。
- 853 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/06(木) 23:16
-
※
BBは険しい顔でタイムウォッチに視線を落とした。
もう約束の10秒はとうにすぎているはずだが、二人とも凍り付いたように動かない。
どうやらお互い深く繋がりすぎて、回線が閉じられなくなっているのだ。
意識野で繋がったままになっているその状況は危険といえた。
ソケットを引っこ抜いて強制的に引き戻さなければならない。
そう判断し、BBが一歩足を踏み出した瞬間、福田の車椅子の一部から高密度光が投射され、
一体の異形の化け物が映し出された。下半身は馬、上半身は骸骨。
四本の鎌を振り上げた異形の姿が高密度ホログラフィに投影される。
練り込まれたプログラムの巨像。バージョンアップしたばかりの福田の電脳機だ。
BBは息を呑む。あの福田が電脳機をリアルに出してまで強制的に有線を切ろうとしている。
それはつまり彼女が矢口に押されているということに他ならない。
福田がそこまで追い詰められる場面は見たことがなかった。BBは呆然と電脳機を見上げる。
飛び出した電脳機は彼など眼中にないように矢口に襲い掛かった。
- 854 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/06(木) 23:17
-
BBは咄嗟に飛び出す。しかし、その速度は電光。間に合うはずがなかった。
矢口の頭上に落ちる死に神の鎌。次に来る悲劇にBBは目を背ける。
同時に、打撃音とも金属音ともつかない奇妙な音が室内に響いた。
BBがおずおずと目を開けると、寸でのところで死神の鎌を矢口の腕が受け止めていた。
いや、手の先にある札――それがどうやら死に神の鎌を鮮やかに跳ね返したらしい。
髑髏の騎士はそのまま掻き消える。
福田の体がビクンと跳ねた。
BBは慌てて福田の元に走り車椅子から落ちそうになっている彼女の体を支える。
「ぷはっ!!」
矢口が大きな息と同時にソケットを引き抜き、
ヘッドマウントディスプレイをほうり捨てるとこちらに駆け寄ってきた。
- 855 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/06(木) 23:18
-
「ごめん、明日香。潜りすぎた。限界まで潜ったかも」
その言葉に腕の中にいる福田が喘ぐような呼吸を繰り返す。
「……矢口、今日気合入れすぎ…死ぬかと思った……これじゃどっちがサドなんだか」
「だから、ごめんって。どうしても必要なものだったからつい」
もう一度謝罪しながら矢口が額を拭う。消耗は激しいようだが福田ほどではない。
ニューロに打ち勝つなんて信じられないヤツだ。
BBはあまり表情の変わらない顔ながら戦慄していた。
そして、どうして福田が矢口を気に入っているのか分かったような気がした。
「やっぱり矢口が来ると楽しいわ」
BBの手の中で苦しげなまま福田がクスクスと笑いだす。
矢口がそれに苦笑で返した。
- 856 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/11(火) 22:40
-
4
夢を見ているというはっきりした自覚があった。そういう夢は明晰夢というらしい。
田中はどこか冷静にそんな判断をしながら視線を巡らす。
広がる光景は過去のもの。
砂場にいる女の子。一人は自分。そしてもう一人は――
顔にぼんやりと黒い膜のようなものがかかっていてはっきりとしない。
不意に場面が変わり、田中は昔、通っていた小学校の校庭に立っていた。
少し離れたところにある教室に二人の女の子がいる。
一人は自分。そしてもう一人はやはり、黒い霧のようなもので顔を覆われておりはっきりしない。
また場面が変わる。目の前を喪服を着た参列者が前を通り過ぎていく。
これは――砂利の上に立つ田中はただじっと佇む。
その場面をはっきり覚えていた。二年前だ。
視線の先には「道重家葬儀」とかかれた札が下がっている。
亡くなったのは道重の家族。葬儀の場所は近所のお寺だった。
- 857 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/11(火) 22:44
-
堂々とした門構えの寺で、その中庭に幼い自身が学校指定の制服を着てぽつんと立っている。
その自分を見て田中は違和感を感じた。制服が違うのだ。
目の前にいる二年前の自分はセーラー服ではなくブレザーを着ている。
おかしい。自分は中学に入学した時からセーラー服を着ていたはずなのに。
ブレザーを着て学校に通った記憶などない。これが夢の中だと分かっているのに、
田中は信じていた過去の記憶からも裏切られたような感覚に陥る。
混乱に二年前の自身の姿がぼやけだしたその時――
「まだ二人ともお若いのにねえ」
「押し込み強盗ですって。可哀想に……」
「さゆみちゃん、一人きりなんでしょう。これからどうするのかしら」
「それがね、遺産はあるから一人で暮らすんですって。
まだ中学生だって言うのに立派よねえ」
耳障りな噂話が勝手に耳に飛び込んできた。
- 858 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/11(火) 22:45
-
その声に我に返ると、いつのまにか過去の自身の姿が消えていた。
慌てて視線を動かすと、すぐにその背中が見つかる。
どうやら道重の所へ行こうと思い立ったのか、彼女は聞こえてくる念仏の方へ向かっていた。
田中もその後に続く。
あの時も、きっとそこにいるだろうとあたりをつけた大きなお堂の中。
仏像の前で僧侶が死者を弔う経を唱えている。
神妙な顔をして座る親族の中に、二人の田中は道重の姿を探した。
同じ学生服はすぐに見つかる。
正座するその姿に手を振りかけた過去の――いや、いまや同化している――
田中はふと顔を強張らせ手を下ろした。
そこにいた道重には顔がなかった。
顔があるべきはずの場所にはただブラックホールのような黒い穴が浮かんでいた。
今まで断片的に見た世界で幼い自身と一緒にいた少女と同じように。
親の葬儀中だと言うのに、いかにも退屈といったようにその穴があくびをして、
ふと、こちらを認めてにこやかに手を振った。
いつものように、いつもの笑顔で、黒い穴は手を振った。
見えるはずがないのに――田中はそこに道重の笑顔を見た。
- 859 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/11(火) 22:46
-
「……中さん……」
それが怖くて逃げ出したのだ。
あの時も今日と同じように。
「…田中さん?田中さん……」
呼びかける声が石黒のものだということには気づいている。
ここは保健室。今は授業中。状況もはっきりと認識している。
だが――石黒の声に反応したいのに、早く目が覚めたいのに
田中の体は金縛りに掛かったように言うことを聞かない。
目前で揺れ続ける黒い穴。
醒めない悪夢に苛立って、田中は懸命に目を覚まそうとする。
覚めない。覚めない。まだ体は動かない。
動け、動け、動け。
動けっ!!
はっと目が開く。
そこには、心配そうに眉を潜めた石黒の顔があった。
- 860 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/11(火) 22:48
-
「大丈夫、田中さん?」
「……」
無言で頷きながら田中は額の汗を拭う。
じっとりとした汗が手について、それが嫌でシーツで拭きつぶす。
胃の痛みや吐き気は寝る前より幾分か回復していたが、
睡眠後の爽快感などまるでなく田中は力無く訊ねた。
「……授業終わったんですか?」
「いいえ、まだなんだけど……」
石黒はそこまで言って少し身をずらす。するとそこから人影が現れる。
「…矢口、さん」
彼女の後ろに立っていた人物に田中は安堵の息を洩らした。
今、信じられるのは彼女だけのような気がした。
- 861 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:18
-
5
春の空はぼんやり霞んでいる。
中国大陸から飛んで来た細かな黄色い砂が偏西風に巻き上げられて飛来するからだ。
春の使者とも呼ばれる黄砂は様々な有害物質を付着させており
それらは酸性雨の元凶になっている。だが、今のところ空から雨が降る気配はない。
矢口と田中は市外の喫茶店にいた。
先日、タウン誌で紹介されたというその店内は八割ほどの席が埋まっている。
二人は、その一角、扉から最も離れた席に腰を落ち着けると
運ばれてきたオレンジジュースにそれぞれ口づけた。
「なにか分かったんですか?」
「見せたいものがあってね」
矢口がごそごそとポケットからなにかを取り出し手の平を田中に向ける。
差し出された手の平には小型のホログラフディスプレイが淡い光を発しながら、映像を映し出していた。
暗い場所でひしめき合う人々。
田中は眉を寄せる。それがどこなのか分からなかった。
- 862 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:20
-
「DUBDUBってクラブ知ってる?」
「…いえ」
首を振ると矢口の目が心なし鋭く光ったような気がした。
「この映像は、そのクラブの3月23日の映像なんだ。
時刻は午後11時40過ぎ……よく見てな」
わけも分からず田中は映像に視線を戻す。
じっと目を凝らしていると、映る人並みの中に見覚えのある姿を見つけた。
そう、自身の姿だ。
聞いたこともない名前のクラブ。行った覚えのないクラブ。
その店内映像に自分が映っていることがひどく滑稽な気がした。
「覚えてない?」
気遣うような柔い調子で矢口が訊ねた。映像から目を外さないまま田中は頷く。
映像の中の自分は誰かを見つめているのか、
人並みに押されながらもある一方に顔を向けている。
「…誰かと一緒なんですか?」
「って言うと思って、視点変えverも貰ってきたぴょん」
矢口が硬い空気をかき混ぜるようにふざけた風に言うと、映像の視点が変わる。
広い店内を広角で取った映像。
そうなると、かなりの人数が所狭しと犇きあっており自身の姿を探すのも容易ではなくなる。
田中は目を細める。
そして、ふとある人物に似た人影を見つけ店内の一角を指差した。
- 863 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:21
-
「矢口さん、ここを拡大してみてください…」
「ん?あ、うん」
拡大映像が映し出された瞬間、田中は息を呑む。
気のせいではなかった。そこに映っていたのは――
「さゆ……」
「知り合い?」
「……幼馴染です」
「へぇ……ねぇ、その子と一緒に話している男は知ってる?」
不意に矢口が厳しい顔で問うた。
言われてよく見てみると道重は確かに誰かと話しているようだった。
見慣れない男だ。年は三十代後半ほどだろうか。
ぎょろぎょろとした目にこけた頬と顎。
まともな職についてなさそうな風貌だが、仕立てのいいジャケットが
それなりの高給取りだということを示している。だが、見覚えはない。
道重からこんな男紹介されたことはなかった。
田中は首を振る。ふぅむ、と矢口が思案げな溜息を洩らす。
- 864 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:22
-
「…誰なんですか、これ」
「ソフト会社(株)Hello Project teamの社長、つんく」
「ソフト会社?」
「……略して、HPT社」
どこか言い辛そうに矢口が言った。
HPT――田中の腕に彫られたアルファベット。
それはただの偶然なんだろうか?それとも――
ざわざわと胸からなにかがせりあがってくるような不快感にも似た焦燥感。
「でもって、これが事件の重要参考人として今取調べ中のHPT社の社員」
矢口は言いながらウェストバッグから一枚の写真を取り出す。
田中は差し出されたそれに視線を落とした。
黒髪で大分肥満気味の男だ。
犯人はこいつじゃないと、頭の中ですぐに否定の言葉浮かぶ。
それは数日前の授業中に死神から送られてきたあの映像が証明していた。
- 865 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:23
-
「この人犯人と違いますよ。犯人は黒髪じゃなくてきんぱ」
言いかけて、田中の脳裏にあの凄惨な映像が蘇る。
死体と性交をしていた金髪の男。
それはたったいま見たばかりの映像の中にいた、HPT社の社長に似ているような気がした。
けれど――もし、そうだったら道重は彼となにを話しているのだ。
たまたまその場で会って話をしているにしては、親しすぎるように見えた。
「なんで金髪ってわかるんだよ」
思考を飛ばしていた田中は詰問調の矢口の声に引き戻される。
田中は、はっとなって矢口を見た。
そうだ、彼女はあの映像の内容を知らないのだ。
言うべきか、言わざるべきか。
言えば道重まで疑われるのは目に見えている。見詰め合うこと数秒。
「…少しは協力してくんないかな?」
疲れたような重い溜息とともに矢口が言った。
- 866 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:24
-
「Fに迫るものは皆消されてる。記憶も、記録も、そして人間も。
それはあんたも例外じゃないと思う。
っていうか、今じゃあんたが一番の鍵なんだよ、きっと」
「……」
「とりあえず、あれはおいらの敵でもあるから逃がさないけど、
協力がないとあんたまで守れるとは限らない。
おいらはもっている情報を全部あんたに教えてる。
だから、そっちも知っている事は教えてほしいんだ」
その真摯な顔に田中は耐えられず目を逸らした。
矢口は、自分を守ってくれようとしている。その気持ちが痛いほど伝わってきた。
彼女に隠し事をするのが躊躇われてくる。
あの映像の事を話しても道重が疑われないようにすればいいのだ。
道重と幼馴染である自分が彼女は無関係だと言えばきっと矢口も信じてくれる。
答えを待つ矢口の前で田中は慎重に自分の考えを口にした。
- 867 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:25
-
「…自分を構成する一部が無いのはとても不安ですよ。
やけん、れいなは知りたいだけなんです。れいなの真実を」
「真実なんて大した物じゃないよ。今ここにある現実に比べたら」
「真実の無い現実。そんなものに意味があるとは思えません」
「それはどうかな」
「矢口さんは当事者じゃないからそんなこと言えるんですよ」
「かもね」
頭を掻く矢口の前で田中は店内を眺めた。
ざわざわとした人の談話はどこか別の世界のことのようだ。
このざわめきならこれから話す内容を包み隠してくれるだろう。
田中は意を決した瞳で矢口を見つめながら、自分が見た映像の内容を告げた。
- 868 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:26
-
※
「うーん」
田中の話を聞き終えた矢口が難しい顔で唸った。
それ以外には何も言わない。
「…あの、矢口さん」
「なに考えてんだか…」
居心地が悪く話しかけようとしたその時、矢口がぶっきらに吐き捨てた。
自分のことだろうかと田中はヒヤリとする。
それに気づいた矢口が頭を振り「あ、いやこっちの話だから」苦笑した。
それから、目の前に置きっぱなしにしていた写真に手を伸ばす。
「その映像の中の男は絶対にこいつじゃないんだね?」
「…違うと思います。画質が荒かったからはっきりとはいえませんけど、
その男は金髪やったし……この人は黒髪でしょ。それにちょっと太りすぎだと思う」
「ダミーに使われてるってことか」
矢口が納得したように呟く。
- 869 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:27
-
「ダミーって?」
「人の記憶を弄るようなやつだから、自分以外の人間を犯人に仕立て上げることくらい楽勝でしょ。
こいつ、自白してるんだよ。あれは自分がやりましたってね。
それでお役御免。多分、もうすぐ消されるよ」
至極あっさりととんでもないことを口にした矢口に田中は言葉を失う。
唖然とする田中に矢口が困ったように頬をかいた。
「そんな顔しないでよ。こっちだってどうしようもないんだから……」
「・・・す、すみません」
田中は慌てて頭を下げる。
と、矢口はますます困った顔になり「中学生って素直だな」呟き、
いまだ映像を写し続けているホログラフディスプレイに視線を落とした。
「金髪の男と謎の声。金髪は、つんくに間違いないな」
口にして、矢口がこちらを窺うように見つめてくる。
田中は、険しい表情を浮かべた。これから矢口の言わんとしてることは分かる。
やはり彼女は道重に疑いを持ったのだ。
けれど、それは絶対にありえないと断言できる。
- 870 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:29
-
「さて、謎の声は誰だと思う?」
「…分かりません」
「……この子が関係してる可能性は?」
その言葉に田中はきっと矢口を睨みつけた。
「どうしてですか?さゆが関係してるっていう状況証拠も物的証拠も何もないじゃないですか。
ただ23日にあのクラブでつんくって男と接触してたってだけで」
「なにムキになってんだよ。おいらは可能性の話をしてるだけじゃん」
懸念していた通りの流れに田中は複雑な面持ちで矢口を見つめた。
「さゆがそんなことするわけありません。
だって、さゆとれいなは幼馴染なんですよ」
「幼馴染だからなんだよ」
矢口がいい加減呆れたというように冷たく吐き捨てる。
田中は大事なものを馬鹿にされたようで悔しくなった。
幼馴染。
それは田中には立ちがたい絆。だが、矢口にはなんの意味もない単語だった。
いまやその価値観の壁が二人の間に立ちはだかっている。
- 871 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:30
-
「何年経とうと、他人の全てを理解するなんて無理でしょ。
それは、あんたたち二人にもいえる。
あんたが見てきたもの全てが道重さゆみの本質ってわけじゃないかもしれない」
皮肉な声に、田中はむきになって反論する。
「矢口さんはひねくれすぎですよ」
「おいらは当たり前の事をいってるだけじゃん。
じゃぁ、聞くけどさ…あんたが見た映像はなんなの?声だけの女は一体誰だと思う?
あんたを知ってて、あんたをれいなと呼ぶのは他に誰がいる?心当たりでもあるの?」
矢口の鋭い言葉に田中はぐっと言葉を詰まらせる。
「いい?ともかく、疑わしきは調べる。それがたとえ無関係でもね」
「もういいです!」
諭すような口調の矢口に田中は声を荒げると
財布から千円札を一枚置いて店を飛び出した。
- 872 名前:第三章 Fragmentary memory 投稿日:2005/01/12(水) 22:30
-
「幼馴染なんて盲点だったなぁ……
通りで、こっちの動きが漏れるわけだよ」
田中が置いていった札を手で玩びながら矢口は顔を顰めた。
- 873 名前:電脳幻夜 投稿日:2005/01/14(金) 22:49
-
第四章 Lament
- 874 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 22:50
-
1
どんなことがあろうとも日常は続く。変わることなく。
醒めない悪夢がないように明けない夜もまたない。
例え覚えていなくてもきっと昨日は在ったのだ。
例え明けなければいいのにと思っても日はまた昇るのだ。
若葉へと様相を変えつつある桜並木の下を田中はいつものように一人で歩いていた。
昨日の別れの後、矢口からの連絡はなかった。
さすがに見放されてしまったのだろう。何十回めの溜息をつき視線を落とすと、
長く伸びた樹の影にくっついては離れてを繰り返す田中自身の影が視界の先に映った。
どっちつかずのその影はまるで道重と矢口のどちらを信じればいいのか迷っている今の自分のようだった。
- 875 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 22:53
-
田中は樹の影に自分の影がくっつかないように歩道の端に寄る。
もういい加減にはっきりさせなければならない。
記憶喪失事件。HPT社。そして、F。
全てを知るのは当事者である自身の役目だと田中は思う。
矢口が自分のために今まで動いてくれたことは本当に感謝しているが
けれど、もう彼女に任せるわけにはいかない。真実は自分の手で掴まなければならないのだ。
そのためには――まず道重に話を聞くしかないだろう。
23日、どうしてあのクラブにいたのか。
自分と一緒に行動をしていたのか。そうじゃないのか。
もし一緒に行動していたならばどうして今まで教えてくれなかったのか。
そうじゃなければ、HPT社の社長とあの日なにを話していたのか。
彼とどういう知り合いなのか。
頭の中で道重への質問を積上げながら、
だが、それでも田中は彼女と顔を合わせるのがひどく憂鬱だった。
- 876 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 22:54
-
「おはよう、れいな」
「……おはよう」
交差点から駆け寄ってきた田中の悩みの種はいつもの明るさで、いつものように並んで歩き出す。
のぞき見たなにも知らない横顔は、ただにこにこと笑っていた。
まずはどう切り出せばいいものか、田中は逡巡する。
「ん、なぁに?」
田中の視線に気づいた道重が小首を傾げた。
「さゆ…DUBDUBってクラブ知っとぉ?」
結局、いい切り口が思い浮かばず
田中は矢口が昨日自分にした最初の質問を口にした。
頼むから嘘はつかないでほしいと祈りながら。
知らないと彼女が口にした瞬間、道重は自分になにかを隠していることになってしまうから。
- 877 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 22:57
-
「うん、知ってるよ……」
田中の懸念とは裏腹に呆気ないほど簡単に答えが返される。
口をパカッと開けて田中は道重を見た。
「あの日、一緒に行ったこと思い出したんだね」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げる。
「え?」
「何度も言おうと思ったの……でも、一緒に帰らなかったせいで
れいながあんな目にあったんだと思ったら言いだせなくて……
ごめんね、れいな」
道重の目が見る見るうちに泣き出しそうに潤む。
そうか。そうだったのか。
道重がどうしてあんなに自分が失った記憶にこだわるのを嫌がったのか、
田中は、なんとなく分かった気がした。怒りは湧いてこなかった。
きっと彼女も悩んでいたのだろう。
あの日、一緒に帰っていればと一人で何度も後悔していたかもしれない。
そんな彼女を責める気にはなれなかった。田中は、道重の手を握る。
揺れた瞳が怯えたように田中を見つめた。
「怒らないの?」
「怒らんよ」
田中が微笑んでみせると、道重はホッとしたように目を細めた。
- 878 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 22:58
-
「でも、なんでまたれいなたちはそんなクラブに行ったと?」
「…えっと、それも怒らない?」
道重が窺うように聞いてくる。
他にもなにか自分が怒るようなことがあの日あったのだろうか?
分からないながら、田中は頷いた。
「あのね…私がこっそりバイトしてた会社にれいなが殴りこんできて」
「はぁ?」
「……ほら、怒ったぁ」
思わずあげた声に道重がビクリと反応して口を尖らせる。
「怒っとらんって。ビックリしたと。それで、どうしたと?」
「社長さんが殴り込みとかロックやん。ええ友達やんってやけに感動しちゃって…
で、ご飯をご馳走になることになって、そのままあのクラブに連れてかれたの」
- 879 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 23:00
-
「それで?」
「それで…れいながこんな如何わしい店に中学生連れてくるとか
あんたおかしいっちゃないと!ってまた怒り出して
どっか行っちゃったから……探したんだけど、すごく人多くて見つからないし、
もう店の中にいないかなって思って…私、社長さんに断ってすぐにれいなを追いかけたの」
なにをやっていたんだ、23日の自分は。喧嘩っぱやいにも程がある。
話を聞いていくうちに段々恥ずかしくなってくる。
しかし、田中は胸の支えがとれるような感覚をも同時に味わっていた。
道重がこっそりバイトをしていたという会社はおそらくHPT社だろう。
つまり、自分たちをクラブに連れて行った社長と言うのはあの金髪の男。
あの日、怒りに我を忘れて道重を置いていってしまったことに気づいた自分は
フロアに戻ったのだ。けれど、彼女の元にまた戻るのは、
きっと自分のことだから格好悪いとでも思ったのだろう。
だから、少し離れたところで彼女と社長を見張っていた。
そう考えれば、矢口から見せてもらった映像の辻褄があう。
- 880 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/14(金) 23:01
-
そうして、なんらかの理由でHPT社の社長をつけることになって、
それで、彼に記憶を消された。そう考えてもおかしくないはずだ。
いや、そう考えて然るべきだ。
田中は確信した。道重は事件とは無関係だと。
過去の自分が残したのはHPTなのだし、道重は幼馴染だし、ありえるはずがない。
「本当にごめんね。全部、私のせいだよね。嫌いになった?」
「ううん。安心した」
田中は首を振って、今の気持ちを口にした。
道重がキョトンとなり、だが田中が笑っていることに気づくと同じように顔を崩した。
それは、やはりあのなにもない無表情な笑顔だった。
- 881 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/17(月) 22:30
-
2
「…では、よろしくお願いします」
電話を切って矢口は脱力した吐息とともに天井を見上げる。
これ以上、Fによる被害者を増やしてはいけないと、
田中が巻き込まれた事件の参考人として現在拘留中の男に対する厳重な保護を警察に頼んでいたのだ。
暫くぼんやりして疲労を吐き出すと、矢口は顔を下げデスクの上に置かれた資料を手に取った。
それは、昨日、田中と別れてから一日がかりでかき集めた道重さゆみについての資料だった。
- 882 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/17(月) 22:31
-
道重さゆみ。
田中れいなとの関係は彼女が言ったとおり幼馴染に間違いはない。
親同士も仲がよかったらしく、両家は子供たちに同じ遺伝子調整を施したようだ。
遺伝子調整とは先進国アメリカを中心に、
人間を形作るために一人一人に設定された情報ヒトゲノムを全て解読して
人の遺伝情報を明らかにし、医学などの分野で役立てようと進められた
国際計画『ヒトゲノム計画』の副産物である。
そうした遺伝子解析の進化に伴い、人はパートナーに「優秀な」遺伝的要素を望むのではなく、
我が子にそれを望むようになっていったのだ。
身体的に精神的に全てにおいて発達した人種の誕生。
それは何れ遺伝子差別といったあまりに短絡的で危険な思想に繋がることも予想されたが、
既に人種、宗教、経済などで差別と偏見と争いで満ち溢れていた世界は
さして気にすることもなく研究を続けた。
- 883 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/17(月) 22:32
-
しかしながら、結局、病気の治療以外での遺伝子調整は広く流布する事はなかった。
理由は様々だが、一つに遺伝子の一部を調整したところで、
全体としてさしたる能力の向上が見込めなかったことがあげられる。
そのため、人間の能力は後天的性質によるものが大きいという認識が広がってしまったのだ。
そして、もう一つ最大の理由は、度重なる遺伝子調整は人の本来持ち得る生命力を減少させることが判明したせいだった。
近親婚を繰り返すことと同じ理屈なのだろう。
同型の遺伝子の交配は、確かに突出した天才を出現させやすいが、
その反面で、生存に不適応な奇形や抵抗力の極めて低い者を産み出す確率も高かったのだ。
結果、極少数の博打好きをのぞいて、
人類の概ねは今までどおり自然な生命の誕生が一番だという考えに落ち着いた。
だが、道重と田中の両親は極少数の部類に残ったらしい。
そして、隣同士仲のよかった両夫妻は奇しくも産まれてくる子供に同じ遺伝子調整を行った。
その内容は定かではない。
- 884 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/17(月) 22:33
-
「…田中って特別変わったとこないけどなぁ。なにしたんだろ」
念のため、どんな遺伝子調整を行なわれたかをあとから調べることにして、
矢口は手にある資料をめくる。
出産後も家族ぐるみの付き合いをしていたとされる田中家と道重家。
ただし、二年前、道重の両親は押し込み強盗に襲われて既に死亡している。
当時、中学一年生だった彼女は以降、親の残した遺産で一人暮らしをしているそうだ。
成績は中の中。よくもなく悪くもない。
特別、なにかに際立っているわけでもないごく普通のパッとしない少女である。
それゆえ、普通に暮らしていれば接点など持つはずのないつんくと
あのクラブで彼女が親しげに会話を交わしていたことが妙に浮いてみえた。
田中には言わなかったが、矢口はなにも知らなかった昨日の時点でも断言したかったくらいだ。
道重さゆみは黒だと。限りなく灰色に近いクロ。
なんの根拠もなく矢口は直感だけでそう思った。
- 885 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/17(月) 22:35
-
無理矢理にでも理由をつけるとすれば、Fと関わった全てのものが命を狙われていると言うのに
田中れいなだけが狙われなかったということ。
たまたま、あの日河原で彼女を保護した矢口でさえ狙われたというのに、
実際に現場にいた田中をFが狙わないのはおかしいだろう。
それは幼馴染である道重を庇う田中のように、
彼女が幼馴染である田中を殺したくないと思ったからではないだろうか。
そして、もう一つは、田中が一緒に下校していた少女に言われて
機会音声ユニットを外したという――藤本の証言だ。
田中が一緒に下校していたのはきっと道重に違いないだろう。
田中と会っている時、矢口はあえて言及しなかったが、
ソレ以降彼女は機械音声ユニットを外しているようだった。
失語に陥っていたはずの彼女が幼馴染に言われたくらいでなんの疑いもなく喋れるようになる。
どう考えてもおかしな話だ。それを田中自身はおかしいと思わなかったのだろうか。
「…こじつけっちゃ、こじつけか」
矢口は薄く笑った。だが、ともかく一度道重さゆみと会ってみたかった。
それも早急に。寝不足の体を奮い立たせ矢口は立ち上がった。
- 886 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:10
-
3
午前の授業の途中、田中は教室を抜け出して屋上にいた。
考えることがたくさんありすぎて、授業を受ける気になれなかったのだ。
「大丈夫ですか?」
ふと耳元でそう囁かれたような気がした。否。気がしたではない。
田中は、驚いて振り返る。その人物は、別に隠れてもいなかった。
振り向いたすぐそこに彼女は立っていた。にこにこと意味もない笑顔を浮かべて。
それは道重とは違う意味で奇妙な笑みだった。田中は、訝しげに眉を寄せる。
「…誰、あんた?」
「エリザベス・キャメイです」
「はぁ?」
そのふざけた名前に田中は顔を顰める。
すると、彼女はさらに笑みを深めた。
- 887 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:11
-
「名前言うと、皆、同じ反応するから嫌になっちゃうなぁ」
「……名前変えれば」
「結構、気に入ってるの」
おどけたような口調で言うと彼女は首をすくめた。
田中は、少し口を噤んでそれから彼女に問いかけた。
「さっきの大丈夫ってどういう意味?」
「ん?えっとねぇ、あなたが暗い顔してたから。死んじゃうのかなぁと思って」
爽やかな笑顔で物騒な事を口にする彼女に田中は眉を潜める。
「……そんなに暗い顔してた?」
「そりゃもう、今からダイブしますよってくらいに」
大仰に頷いた彼女に、田中は苦く唇をほころばせる。
- 888 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:12
-
「あんたって変なヤツ」
「よく言われる」
うんうんと彼女は頷く。
「……ね、ちょっと聞いてもいい?」
「んー?」
「もしも、あんたが昔からすごく信用している人間がいて、
その人とは別に新しく信頼できる人間が出来たとするよ」
「うん」
「それで、そのどっちかが真実を、どっちがが嘘を、自分に語っとうとしたら……
どうする?どっちも信じたいんやけど、片方は絶対に嘘をついとうって分かっとうと」
田中自身、どうしてこの人物にそんなことを聞いたのかは分からなかった。
勿論、だからこそ明確な答えなど求めていない。
答えが出る類の質問でもなかった。だが、あっさりと彼女はその答えを口にした。
- 889 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:13
-
「んー……どっちも信じない」
「え?」
「誰を信じるか分かんないなら、どっちも信じなきゃいいんだよ。
なにがあっても信じられるのは自分だけ。人生なんて甚くそんなものなんだから」
明快な答えはウインクと共に。
まず呆気にとられ、次いで相好を崩した田中に彼女は得心顔になった。
「…やっぱり同情しちゃうなぁ」
「なんか言った?」
「んーん、なんにも。それじゃ、私はもう行くからがんばってね」
来た時と同じように彼女は唐突に去っていった。
残された田中は彼女が吸い込まれるように消えたドアを見つめ
「なにがあっても…信じられるのは自分だけ、か」
どこか自分に言い聞かせるように呟いた。
- 890 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:13
-
※
『Fについて貴女に聞きたいことがある』
メールを送信して数分後、パタパタと規則的な足音がして情報処理室のドアが開いた。
矢口は入り口に顔を向ける。
「よく来たね、道重さゆみさん」
「授業中なの」
「知ってる」
「あなた、誰なの?」
道重は平然とした顔で矢口と対峙する。
「田中れいなに聞いてない?
波浪市近隣の記憶喪失事件を調べてる超敏腕の」
「事件を調べている人がいるのは聞いたけど、超敏腕とは聞いてないの」
「はっきり言うねぇ」
矢口は苦笑する。
だが、すぐに笑いを収め本題に入った。
- 891 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:15
-
「3月23日、クラブ『DUBDUB』であんたはHPT社の社長と会っていた。
そこでなにを話していたの?」
「23日?さぁ?なに話してたのかな」
その日の事を思い出そうとしているのか道重の視線が左上方向に向かう。
人間は記憶を辿る時は左上、架空のものを想像するときは右上を見る傾向があるという。
だから、視線の動きを見れば、相手が嘘をつこうとしているかどうかがわかるらしい。
しかし、そのことを知っている者が相手ならばそんなもの意味を為さないのだが。
矢口は、道重の視線の奥を覗き込むように彼女の目を真っ直ぐ見つめる。
「会ったことは否定しないんだ?」
「れいなにも聞かれたもん。だから、裏は取れてるんだろうし…
それに別に隠すようなことじゃないの。私、嘘は嫌いだもん」
「嘘は嫌い、か。よく言うよ」
吐き捨てると、道重が訝しげに眉を寄せた。
- 892 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:16
-
「幼馴染の記憶を奪うってのはどんな気分なワケ?」
「質問の意味がわからないの」
ますます眉を寄せて、彼女は首を25度ほど傾ける。
鎌かけには反応しない。随分と冷静のようだ。
「ああ、そう。じゃぁ、はっきり言ってやるよ。
おいらはFはあんただと思ってるんだ。HPT社の社長じゃなくね」
矢口は道重を指差した。
一瞬、彼女はなにを言われたのか分からなかったのか呆けた顔になり、だが、すぐに破顔した。
くすくすと可愛らしい笑い声が室内に響く。
「そんなに面白い?」
「すごく面白いよ。どこから私がFだなんて思ったのか聞いてみたいの」
笑顔のまま、道重が言う。
矢口は片眉を上げ不敵な表情をつくると一単語。
「勘」
言った。
「カン?」
怪訝そうに問い直す道重に頷く。
- 893 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:17
-
「そう。会ってみて、ますますあんたがFだって思った」
「こんなに可愛い私に向かって酷い…あなた、最低だと思うの」
「最低なのはあんただろ。人の記憶を弄って、一体なにがしたいんだ?
あんなことされてまで、あんたを信じなきゃならない田中が可哀想だ」
吐き捨てた言葉に今までなにをいわれても動かなかった道重の眼輪筋がピクリと反応を示した。
それは傍目には全く分からないくらい僅かな反応だったが、
じっと彼女の目だけを注視していた矢口は気づく。
今の自分の言葉のどこに道重は動揺したのだろう。
「……あんなことってどんなこと?」
内心の疑問に彼女自身の問いかけが答えてくれた。
そこか――矢口はにやりと笑った。
- 894 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:18
-
「あの映像だよ。田中の視点から切り取られたあの悪趣味な映像。
あの中であんたは田中になにした?あれは最低なことじゃないの」
田中から話を聞いただけの実際には見たこともない映像のことを
あたかも見てきたかのように矢口は言った。
それは完璧にはったりだったのだが効果は確かにあったようだ。
「映像…」
矢口の前には絶句する道重。
絶句した表情のまま、彼女は矢口を今までとは違う漆黒の瞳で見つめていた。
自然、矢口の体は戦闘態勢に入る。
対峙している瞳。底の見えない瞳だ。
なにもない、なにも見ていない無表情の瞳。
けれど、その顔にははっきりとした笑顔が浮かんでいる。
見続けていると鳥肌がたってきそうな虚無の笑顔だった。
- 895 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/18(火) 23:18
-
「それがあんたの本性ってワケか」
「本性?そんなものどこにあるの?
人間は、自分自身のことも分からない愚かな生物だと思うの」
「…だからって、あんたが分かりやすいように他人の記憶を弄ってもいいってことにはならないよね」
「私がしてるわけじゃないの。私は関係ないもの」
認めるかと思いきや道重は笑顔のまま否定した。
「今さら開き直っても遅いよ」
「全てはFがしてること。そして、私はFじゃない。
れいなは私を信じてくれる、きっと最期まで」
歌うように言うと道重は身を翻し部屋を出て行った。
それを鋭い目で見送り矢口は
「…やっぱり田中の説得かぁ」呟くと深い溜息をついた。
- 896 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:04
-
4
「れいな…HPT社行ってみる?」
放課後の帰り道、並んで歩く道重が不意に田中に言った。
虚をつかれて田中は軽く目を見開く。
「急にどうしたと?」
「…矢口さんに会ったの」
「え?」
「れいなの記憶を奪ったのはつんくさんだって言ってた。本当にそうなの?」
潤んだ瞳で見つめてくる道重に田中はなにも答えずに思案を巡らした。
矢口が道重と会った――目的は、道重が白か黒かはっきりさせるために違いないだろう。
いや、昨日の時点で矢口はもう道重を黒に近い灰色だと思っていた節がある。
それが、実際彼女に会って一転したというのだろうか。
しかし、そんなに簡単に矢口の考えが変わるとは思えなかった。
ならば、道重が嘘をついているのか。
矢口と会ったというのは事実にしても、そこで彼女になにかを言われたから先手を
――違う。田中は内心で首を振る。それはない。だって、道重は事件とは無関係なのだから。
「・・いな。れいな」
自分を呼ぶ声に田中は意識を引き戻される。
さきほどと変わらぬ様子で道重が顔を覗きこんでいた。
- 897 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:05
-
「どうしたの?」
「ん…ううん、なんでもない。それで、なんやったっけ?」
「だからぁ……もし、れいなの記憶を奪ったのがつんくさんなら、
れいなは彼に会いたいんじゃないかと思って」
「それは、そうやけど…」
会いたいとは思う。どうして自分にこんなことをしたのか、問い詰めたい。
けれど、一人で会うのは危険じゃないだろうか?
その気持ちが強かった。また同じ目に合うのは御免だ。
だから、もし会うとしたら勝手な話しだが田中はやっぱり矢口についてきてもらいたかった。
「矢口さんも呼んでるの」
矢口に相談しようと考えていた田中の思考を読んだかのようなタイミングで道重がいった。
田中は軽く驚き問い返す。
「矢口さんも?」
「うん。二人だと危ないから来てくれるって」
「…そうなんだ」
「うん。どうする?」
「じゃぁ、行く」
戸惑いながらも田中は頷く。
矢口が一緒なら大丈夫だろうと少し安堵していた。。
- 898 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:07
-
「それじゃ、今日の六時HPT社の前で待ち合わせしよ」
田中は反射的に腕時計を見る。
時刻は五時。あと一時間。あと一時間で全ての謎が解ける。
そう思うと緊張なのか不安なのか分からないが不思議と気分が高揚していくのが分かった。
「遅刻しないでよ」
「え?さゆも行くと?」
「当たり前。だって、私が紹介したんだし……第一、私が一緒じゃないと
またれいなが喧嘩吹っ掛けても止める人がいないからつんくさんだって会ってくれないと思うの。
それに、れいなの無くした記憶が分かるかも知れないんでしょ。付き合うの」
「……そっか。ありがと」
「いいのいいの」
道重の足が止まる。
いつのまにか別れの交差点に来ていた。
「それじゃ、後でね」
いつものように田中の唇に軽くキスをして、道重が鮮やかに交差点を駆けていく。
何か言う間もなく塞がれた唇に田中は指を当てる。
当てて、離す。その指をじっと眺める。
どんよりと曇った空は今にも泣き出しそうだった。
- 899 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:07
-
※
薬理研究所に見事にカモフラージュされた、特殊生命実験研究所内。
矢口が通された部屋は、小さな個人の研究室。
しばらく待っていると白衣を来た男が会釈をしながら入ってくる。
矢口は立ち上がって挨拶をする。
「突然、申し訳ありません」
「いえ、いいんですよ。それよりお急ぎなんですよね」
男は穏やかな笑みを浮かべ手にしているケースに入ったCDを矢口に差し出す。
「これに二人に行った遺伝子調整の情報が入っていますので」
「どうもすみません」
矢口はそれを受け取ると頭を下げて部屋を後にしかけ、
ドアの前でふと立ち止まった。
- 900 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:08
-
「あの…簡単に言うと二人にはどういう遺伝子調整が?」
「ええ、そうですね。知能指数の増大を目的とした天才型の遺伝子調整だったと思いますが……
ここだけの話、あまり上手くいきませんでした」
「……そうですか。ありがとうございました」
もう一度、頭を下げ矢口は今度こそ部屋を後にした。
廊下を走って出口へ急ぐ。次の目的地はHPT社だった。
学校での道重との会話。あの絶対的なまでの彼女の自信を崩せとしたら田中しかいない。
だが、昨日の一件で、田中が道重を絶対的に信じてしまっていることを矢口は知っている。
だから、田中を説得するためには確固たる証拠が必要になってくるわけだ。
まずは外堀から責める。矢口は、研究所を出ると愛車の改造型VOGUEに飛び乗った。
- 901 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:10
-
とりあえずHPT社について分かっていることは、
そこがソフト開発系の会社でCGの下請けや、ゲームの開発を主とした企業だといういことだけだ。
一年前までパッとしなかったが『朝娘。』という陵辱系アダルトゲームのヒットから
業績をあげたらしい。社長であるつんくはどうやらニューロであり、
電脳機を維持するために必要な大がかりな電子機器設備も、
そして、それを扱う技術も持っている、Fが隠れ蓑にするにはもってこいの人物だった。
全身に強い風を浴びながら、車の隙間をひゅんひゅんと通り抜けHPT社へ向かっていたその時、
矢口は不意に胸の中で振動を感じた。こんな時になんだよ、内心毒づきながらも
止まらない振動に根負けした矢口はウィンカーを出してゆっくりとVOGUEを路肩に止めると
メットをハンドルに引っ掛け胸ポケットから携帯を取り出した。
- 902 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:11
-
「もしもし」
『あ、矢口さん』
聞こえてきたのは聞き覚えのない声だった。矢口は眉を寄せる。
「誰?」
『やだなぁ、道重ですよ。道重さゆみ』
そう名乗られて、矢口の顔に緊張が走る。
『今から、れいなとHPT社に行くんですけど、
よかったら矢口さんも来てください』
「は?ちょっと待てよ。どういうこと!?」
『Fを捕まえにいくの。それじゃあね、矢口さん』
唐突に通話が切られる。
「おい!!もしもし…もしもし!?」
矢口はつい勢いで切れてしまった電話に何度か呼びかけ、
舌打ちと共にすぐに登録してある田中の携帯にかけた。
だが、圏外にいるのか電源を切っているのか彼女には繋がらない。
- 903 名前:第四章 Lament 投稿日:2005/01/19(水) 22:12
-
「クソ…あの馬鹿」
乱暴に携帯をしまいメットを被りなおすと、エンジンをかけるために矢口はペダルに足をかけた。
だが、何度蹴ってもエンジンがかからない。
ペダルを漕いでみてもかからない。矢口の顔は青褪める。
「…マジかよ」
このVOGUE。メーターはスピードメーターしかないため
給油のタイミングはまさに野性の勘にかかっているといえる。
それを見誤ってしまった矢口はまんまとガス欠に陥ってしまったのだ。
「こ、こうなったら、根性で気合でガッツだぁああああああああああっ!!!!!!!」
矢口は叫びVOGUEを車道から歩道に乗せかえると、
第二の機能、自転車モードにシフトして必死にペダルを漕ぎはじめた。
勿論、警察に見つかれば注意されるのだが、それどころではない。
田中の身の危険が迫っているのである。
険しい顔で矢口はHPT社に向けてVOGUEをかっ飛ばした。
さっきまでじっとりと湿っぽい風を吹かせるだけだった空からは
とうとうこらえきれずに雨が落ち始めていた。
- 904 名前:電脳幻夜 投稿日:2005/01/21(金) 22:12
-
第五章 A lunatic laughs
- 905 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/21(金) 22:15
-
1
「遅いなぁ」
HPT社の前で田中は小さく呟く。時刻は6時10分。
約束の時間からもう10分も過ぎている。
だというのに、道重も矢口もまだ姿を現さない。遅刻を知らせる連絡もない。
田中は嘆息し目を上げた。眼前に聳え立つビルの粟立つ壁は黒い雨に濡らされ
酸に浸食され不気味に塗れ光っている。厚い雨雲に覆われた空は
時間にそぐわぬ薄暗さを見せ、けばけばしいネオンを覆ってしまっているため、
街は尋常ならざる闇に沈んでいた。行き過ぎる人々もどこか生彩無く見える。
それら全てが田中が抱いているこれからのことへの不安をさらに掻き立てていた。
まさか、二人ともFに襲われたのじゃないだろうか?そんなことさえ脳裏を過ぎる。
その時、不意に田中の携帯が音を鳴らした。ビクッと反応し、田中は携帯を取り出す。
- 906 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/21(金) 22:16
-
「も、もしもし!」
『…な!た…けて』
ざぁざぁと言う音に混じって聞こえてくる悲痛な声。
驚きのあまり田中は思わず携帯を落としそうになった。
それは聞き間違える筈がない道重の声。
「さゆ!?どうしたと、さゆ!」
田中は携帯に噛み付かんばかりの勢いで訊ねるが、
その問いに答える声はない。
「…さゆ」
まさか本当に――田中は、HPT社を見上げ、そしてキュッと唇を結ぶと一目散に走りだした。
自動ドアを潜りぬけると、さっきまでの耳障りな雨音がピタリと止む。
大した防音設備だった。近代的な空調は湿気を取り去り人工的な空気を吐き出している。
しかし、それら動いている機械とは裏腹に社内には人影がまったくなかった。
田中はじっとりと手に汗が滲むのを感じる。
- 907 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/21(金) 22:18
-
「さゆーっ!!」
お通夜のような沈黙の中、田中は辺りを見回しながら道重の名を呼んでまわった。
走りながら田中は既視感を感じていた。
以前にも同じことをしたような気がしてたまらなかった。
それは失った記憶の中の出来事だろうか。殴りこみに行ったというあの日の。
田中はその既視感に動かされるようにして足を進める。
「……っ」
エレベーターホールの前。
そこで田中の足は止まった。まるでなにかを伝えるかのように。
田中は視線を上げる。ドアの上部にあるエレベータのパネルがチカチカと動いていた。
じっと凝視していると、地下三階でそれは止まる。
すぐに案内板に目を走らせて地下三階になにがあるのかを確認してみると
そこはつんくの個人オフィスのようだった。
間違いない。確信を持った田中は迷わずにボタンを押す。
やがて到着した狭いボックスがごとごとと田中の躰を運び、
そして目的の階に止まると緩慢にドアが開いた。
- 908 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/21(金) 22:19
-
視界に幾つものパソコンが飛び込んでくる。
そして、男が一人ディスプレイに向かい何事かをぶつぶつと呟いていた。
三十がらみの金髪の男。妙な文様のシャツの上、首筋にある幾つかのソケットはニューロの証。
HPT社の社長つんくだ。これが、Fの姿。
田中は一つ確かめるようにゆっくりと息を吸ってから、口を開いた。
「…つんくさんですよね?」
瞬間、バネ仕掛けの人形のようにがくんと男は振りかえった。
明らかにドラッグをやっている痩せこけた頬の奥、
カラーコンタクトだろうか、色の入った細い瞳が忙しなく小刻みに揺れている。
- 909 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/21(金) 22:20
-
「あぁ、田中さんか。今日は殴りこみちゃうよなぁ?あん時はビックリしたで。
なんや、こいつロックやん。友達のために殴り込みとかロックやん、なぁ?
今度の新作ゲームのネタに使ったるわぁ。これはすごいで
朝娘。越える大ヒットになりそうな予感がするねん」
男はいきなり録音テープのように意味のないことをぺらぺらと喋りだし、
こちらが口を挟む暇すら与えない。その顔は満面の笑みに覆われ、
それ以上の感情は読みとれなかった。冷や汗がコメカミを伝う。膝が震える。
本当にこんな男が『F』なのだろうか。
全くイメージと違うその態度に田中はそんな疑念を抱き始める。
瞬間――すぐ脇にあったロッカーからがたんと音を立て大きな塊が外に倒れてきた。
田中は、びくりと振り返り、だが、違う驚きに目を見開いた。
「さゆっ!!」
ロッカーから崩れ出てきたのはロープでぐるぐる巻きに縛られた道重だったのだ。
田中は、慌てて駆け寄り彼女の前にしゃがみ込む。
- 910 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/21(金) 22:21
-
「今ほどくけんね」
声をかける田中に道重が涙目で訴える。
田中は震える指で道重の体を縛り付けるロープの結び目を解いていく。
不意に道重の目がなにかに気づいたように驚愕に見開かれた。
「んーっ!!」次いで彼女は口を塞がれたまま必死に声をあげる。
田中ははっとして振り返った。
「っ!?」
そこにはいつのまに後ろに来ていたのか男がにやにやと下卑た笑みを浮かべ
田中を見下ろしていた。全身が総毛立つ。
「いや、ロックやなぁ。ホンマロックや、なぁ田中さん」
「……な、なにを」
「なにって」
爬虫類を思わせるつんくの目がきゅぅっと細くなり、
そして、まるで口が裂けるのではないかというくらい大きく彼は口を開けた。
それが笑ったのだと気づくよりも先に、田中は頭部への衝撃と共に意識を失った。
- 911 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/01/22(土) 21:00
- まじでおもしろすぎっす。
- 912 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/22(土) 22:44
-
2
濡れ鼠になって到着したHPT社はしんと静まり返っていた。
犬のように頭をぶんぶんと振って水滴をあちらこちらに飛ばすと
矢口は周囲をぐるりと見回した。動く物はなにもない。誰もいない。
チラリと視線を落として時刻を確認するとまだ18時40分である。
例え定時に仕事が終わったとしても、誰一人いないというにはおかしな時間帯だった。
若干、小走りに矢口はフロアを移動して人の姿を探す。
その時、チーンというどこか間抜けな音が後方から聞こえた。
おそらくエレベーターの到着音だろうと矢口は踵を返し、
先ほど通り過ぎたばかりのエレベーターホールに引き戻す。
すると、金髪の男がそこから出てくるのが見えた。矢口は目を細める。つんくだ。
- 913 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/22(土) 22:44
-
「…つんくさん!」
声をかけると彼は緩慢に振り返った。
矢口はすぐ近くまで駆け寄り頭を下げる。
「どうもはじめまして」
「ん?あ、どうも……って、君、誰や?」
つんくが胡散臭げに矢口を見つめる。矢口は頭を振った。
「…おいらが誰かなんてどうでもいいんですよ。
それよりも、あなたに話があって来たんです」
「話?」
「ええ。最近、記憶喪失を訴える連中が続出してるんですよ。
それも、この会社のバイトだけで、ね」
言って窺い見ると、つんくはきょとんとした顔で矢口を眺めている。
この反応は演技だろうか。矢口は思いながら言葉を続ける。
「だから、私はその現象についてちょっと調べに来たんです」
- 914 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/22(土) 22:46
-
「記憶喪失?そんな話聞いたことあらへんけどなぁ」
つんくが小首を傾げる。
その仕草が妙に女性っぽくて、矢口はうぇっと顔を引き攣らせた。
しかし、すぐに今はそういう場面ではないと気づき真面目な顔に戻ると、
矢口は彼を試すように睨みつけた。
「……とぼけても無駄ですよ。あなたと道重さゆみがなにかをしていたことはもう分かってるんだ」
「…ほんなら、有線でもしてみるか?そしたら、すぐ分かるやろ」
特に気分を害した風もなくつんくがそう進言する。
有線して記憶を覗く。先日、福田相手にしたことだ。
相手がニューロなら一番手っ取り早い方法でもある。
それはつまり、プライバシーを覗き見させてもらいますよ、ということに他ならないからだ。
けれど、同時にこちらが侵食されれば精神的危険を伴ってしまう。
だから、信用の出来ない相手と有線をするには細心の注意を払う必要があるのだが、
しかし、今の矢口には迷っている時間はなかった。田中と連絡がつかない現状において、
その申し出を断ることは矢口には出来なかったのだ。
- 915 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/22(土) 22:47
-
※
地下三階にあるつんくのオフィスに通され、
矢口は差し出されたヘッドマウントディスプレイを装着する。
つんくが有線ソケットを繋いだ。目の前に電脳空間が広がり、
黒いローブの神官が現れる。つんくの電脳機だろうか。
「ほな、始めようか」
「いつでもどうぞ」
返事をしたその時、背後のドアの向こうから大きな物音が聞こえた。
思わず、ディスプレイをあげて振り返ろうとした矢口を
不意打ちで一気に情報の渦が襲いくる。
視界の端に微かに映った人影は道重さゆみに似ていた。
- 916 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/22(土) 22:48
-
それに嫌な予感がして、矢口は本来マナー違反なのだが強制的に有線を切断する。
まだ有線中のつんくの身体が強制切断にビクンと跳ねる。
構わずに、ヘッドマウントディスプレイを持ち上げ、
矢口は視線を小窓の付いたドアへと向けた。
やはり先ほどドアを叩いたのは矢口が思ったとおり、道重だった。
彼女は必死になにかを矢口に訴えようとしているようだ。
ただ、ドアがあるおかげで途切れ途切れにしか矢口には彼女の声が聞き取れない。
それでも聴覚に神経を集中させていると
「…ちさん!!…げて!!!逃げて…さい!!」
どうにかそれだけが聞き取れた。
だが、矢口は彼女がなにを言っているのか――考える暇もなかった。
不意にドアに何者かの人影が落ちる。
そこには、有線を強制的に切られてまだ動ける筈のないつんくが、
椅子を振り上げて矢口の背後に迫っていたのだった。
- 917 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:26
-
3
「…うっ」
ゆっくり目を開くと、揺ら揺らとゆれる灯り。幾本もの蝋燭だ。
腹部の一部に感じる鈍痛。ひどく重く、そして苦しかった。
生理痛にも似たその痛みに田中は顔を顰める。
痛む箇所を押さえて蹲れたら少しは痛みを誤魔化せるのかもしれないが、
そうしようと手足に力を込めてもどうしてか全く動かなかった。
「?」
不思議に思って視線を下に落として、田中は自分の手足がまるで動かない理由を知った。
大きな台の上に大の字に寝かされ、両手両足を固い革紐で縛られて固定されている。
自分が今おかれている状況を認識して田中は混乱する。
力を込めてどうにか拘束から逃れようとするも、ただ体の痛みが増すばかりで
ピクリとも動くことができない。田中は力を抜き諦めの息をついた。
落ち着け落ち着けと心に言い聞かせ、田中は深呼吸をする。と、鼻腔をやけに甘ったるい匂いが擽った。
それがなんなのかは分からなかったが、不意に田中は自分以外の誰かの息づかいを感じた。
- 918 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:27
-
「誰?」
震える問いかけに誘われるように蝋燭の光の中に人影が現れる。
田中は目を見開く。
「…つんく」
そう現れたのはつんくだった。
田中は彼に背後から攻撃されたことを瞬時に思い出す。
道重はどうなったのだろうか。不安が過ぎるが、しかし今は自身の身の危険のほうが大きかった。
つんくはもうすぐ傍まできていた。その細い目は照り返しで鈍く光り、
ただ尊大な笑いが唇を歪めている。
「お前は名誉ある生贄や」
彼の手が田中の頬に触れた。
爬虫類を触ったかのようなおぞましい感覚。
田中は全身に鳥肌が立つのを感じる。
- 919 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:29
-
「よう帰ってきたわ。運命に定められし魔界の神に捧げられる贄よ」
「贄?あんた、なん言いようと」
大時代的な台詞に、田中は思わず目を瞬かせる。
それを無視するかのように大仰に手を振り上げてつんくが声高に叫んだ。
「どうや、覚えとるか、この部屋。かつて、お前はここから逃げ出した。
あの日、生け贄に捧げられるはずやったのにな。まさか逃げ出すとは思わんかったで。
しかも、同じ贄の三野晴海の首を持って逃げるとは…全く持って計算外やった」
「な……」
田中は言葉もなく目を見開いた。記憶の中にあの映像が浮かぶ。
金髪の後姿。あれは、やはりつんくだったのだ。
では、今、容疑者として拘留されているのは矢口の言ったとおり、
身代わりということだろう。つんくは、田中の動揺にも気づかず熱弁を振るい続ける。
「やけど!再びお前は俺の前に現れてくれた。
これが運命でなくてなんや?命を運ぶと書いて運命や。
まさにっ!まさにその通りやな。お前の命を運んできてくれた俺の運命に感謝せなあかんわ」
狂ったように笑うとつんくは黒いローブを頭から着込んだ。
それはまるで中世の神官と言うよりは、何かの子供向けアニメの悪の魔法遣いと言った感じで、
思わず田中は唇を綻ばせそうになる。だが現実に置かれた状況と、
何よりつんくが取り出したナイフにその頬は強張った。
- 920 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:30
-
「……れ、れいなを殺しても矢口さんがいますよ。あの人はそう簡単に殺せない。
警察に駆け込まれたら、あんたも終わりやけんね!!」
こういう時、音声ユニットをつけていれば相手にびしっとした調子で言えるのだが。
道重に普通に喋るように言われて以来つけるのをやめていたためそんなものはない。
仕方なく田中は肉声でせいぜい強く聞こえるように頑張った。
つんくが血走った目をぬうと近づけてれいなの顔の前で叫ぶ。
「無駄、無駄、無駄、無駄や!何も出来んやろ、あの馬鹿にはっ!!
いや、たとえ出来ても覚えてなかったら何もできん。分かるか。なんも出来へんのやっ!!」
「覚えて……なかったら?」
「そうや。お前、記憶喪失とやらで俺を訪ねてきたんやったなぁ。
ええやろ、冥土の土産に教えたるわ」
探し求めていた理由を唐突に自慢げにつんくが語りだす。
- 921 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:31
-
「お前の記憶は我が主フラウロスに喰われたんやで。あれは人の記憶を喰らう。
記憶を喰って、命を喰って、そしてこの世に降臨するんや。
フラウロスよ!今宵あなたに生け贄、田中れいなを捧げます。
これで三人目の贄、今こそ降臨の時!」
つんくがばっと指さした先には巨大なディスプレイ。
それが低い起動音を上げ、奇怪な紋様を映し出す。
つんくがまたも大仰に手を振りかざすや、今度は喉を振るわせて絶叫する。
意味不明の呪文が彼の口が飛び出す。それにつられてかディスプレイ上の紋様が、
息衝く様にちかちかと明滅する。それが何を意味しているのか田中には分からない。
分からないが、その呪文の終わりが自身の死を意味することは予想に難くなかった。
田中は手足に力を込め必死で暴れた。
たとえ肉が骨からそぎ取れようとも、その前にこの拘束から抜け出さなければならない。
暴れて暴れて暴れて、ぎしぎしとベルトが擦れて肌がひりひりとしてくる。
しかし、それだけだ。両手両足を拘束するベルトは緩みもしない。
その間にもつんくの高揚とした声が空間に響いている。
「…くっ!!」
田中は自分の非力さが恨めしかった。
- 922 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:32
-
※
「矢口さん、矢口さん」
頭の上で自分の名を呼ぶ声がする。矢口は微かに呻きながら目を開けた。
つんくに殴られた腹部と頭がズキズキする。
その痛みに反応するかのように視界が廻った。
そのぐるぐるの中に見えた顔が、安堵の笑みを浮かべる。
「やっと起きた。こんな所で死なないでくださいよ」
「…亀井……あんたも来てたんだ」
矢口は言いながら殴られた後頭部に手をやった。ぬるりとした感触。
目の前に手を持っていくと自身の血で濡れている。
「そりゃ、もうすぐ誰かが死にますからね」
彼女は矢口が体を起こすのを片手で支えながら言う。
「これ使ってください」
「ありがと…あぁ、クソっ」
差し出された包帯を頭に巻きつけながら、頭を振って意識を無理矢理はっきりさせると
矢口は辺りを見回した。開けられたドア。来た時は整然としていた作業用オフィスは
ぐちゃぐちゃに荒れている。道重の姿は既にそこから消えていた。
- 923 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:32
-
矢口は、ふらつく足を激してどうにか立ち上がる。
そんな矢口を見て死神はほぅっと感心するような声を洩らした。
「あいつ、どこ行ったか分かる?」
「…多分。でも、矢口さんは行けないんじゃないかなぁ」
「どういう…」
意味?と言いかけて矢口は言葉を止めた。
認めたからだ、一筋の光の中に浮かぶ悪魔の存在を。
そいつは妙に人間くさい表情でにやりとこちらに笑いかけていた。
「……フラウロス」
フラウロスは、矢口の動きを観察するかのように宙を漂っている。
「それじゃ、早く行かないと間に合わないんで私はもういきますけど、
矢口さんに一つだけいいこと教えてあげますね」
「なに?」
矢口は、フラウロスを睨みつけながら返す。
- 924 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:33
-
「本当の悪魔って嘘はつかないんです」
「は?」
「彼らの言葉は難解すぎて人間はよく理解しないまま、
勝手に自分たちで解釈をしてしまう。だから、結果として悪魔に騙されたということに――」
「それがなんなんだよ?」
矢口は、一瞬フラウロスから視線を外して彼女を見る。
悪魔の言葉よりも今の死神の言葉の方がよほど難解だった。
一体なにを伝えたいと言うのか。彼女が、つまり、と笑みを深めた。
「嘘をつこうとしてつくのは人間だけってことです。それじゃ、頑張ってくださいね」
結局、最後まで矢口には意味の分からない事を口にすると、
死神はフラウロスの脇をするりと駆け抜けて行ってしまう。
不思議なことにフラウロスは彼女にはなんの反応も示さない。
- 925 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/23(日) 22:34
-
「ちょっと待っ――」
すぐに彼女のあとを追いかけようとして、矢口は足を止めた。
先ほどはなんの反応も示さなかったフラウロスが
矢口の踏み出した一歩には素早い反応を示したからだ。
矢口は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「なるほどね。目的を邪魔するおいらだけは足止めってワケか」
その言葉が理解できたかのようにフラウロスが目を細め、
矢口に向かって前進した。
- 926 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:16
-
4
「今やその同類など呪われるがよい。人類が永遠に呪われてやまぬ事を!」
呪文を言い切ったのか、つんくが田中に視線を移す。
彼は、にやにやと笑いながら田中のセーラー服の裾を掴むと、
鋭い刃で下から上に向けて切り裂いた。
「っ!!」
下着ごと切り裂かれ、未だ発育途中の胸が露わにされるが、
田中はただ下唇を噛み締めてつんくを睨み付ける。
羞恥よりも自身に起きている理不尽な事態に対する怒りの気持ちのほうが勝っていたのだ。
田中の視線も気にせず、つんくは胸の上にどぼどぼと赤黒い液体を注ぎ、擦り付けていく。
乳房を乱暴に握り潰される痛みとその液体が発する刺激臭に田中は顔を背けるが、
その鼻をつまみ上げられ、口にもその液体を無理矢理にそそぎ込まれた。
吐き出そうとしてもつんくに顎を掴まれ許されず、
息苦しくなって田中は仕方なくその奇妙な液体を嚥下する。
それはひどく苦く、胸がむかむかする味だった。
咽る田中を見下ろし狂的な笑い声を上げるとつんくは再び呪文の詠唱を始めた。
- 927 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:18
-
口から泡を跳ばしながら唱えられる呪文を聞きもせず、
田中は自由にならない腕をまた必死で動かし続けた。
だが革製の手枷はやはりびくともしない。暴れているうちに次第に頭が痛み始めてきた。
先ほど呑まされた液体の影響なのか、額は熱を帯び、
つんくの苛立たしい呪文が頭の中をぐわんぐわんと文字になって駆け巡る。
同時に右手首にもぞりと何かが触れ動く感触を感じて、田中はその部位に目を向けた。
手首に絡みついていたのは蛇だった。ただし、その顔は人間のものである。
蛇が舌を伸ばし小さな歯を覗かせて田中の手首にかじりつく。
骨までかじり取られ、激痛に田中は絶叫した。
だが、蛇は容赦なく体をがぶがぶとかじり続ける。
その腕、その足、その腹、その胸、その首――いつしか田中は
首から上だけの存在になり果てていた。なのに躰はまだある。それが分かる。
蛇は休むことなく田中を喰らい続ける。痛みだけが永遠に続いていく地獄のような責め苦。
つんくの声はますます高く、そして――
「我は唯一無二の存在であり征服者である。
故に我が主、フラウロスよ。君臨して、この哀れなる生け贄の魂を受け取り賜え!!」
フィナーレ。
薄れていく意識の中で田中はディスプレイに浮かぶ巨大な悪魔の笑いを見、
そして耳に響く奇怪な笑い声を聞いた。
- 928 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:19
-
つんくの姿が揺れる視界に映る。ナイフの刃がキラキラと光っている。
もう死ぬのだと思った。
スローモーションのようにゆっくりと振り上げられるナイフをぼんやり見ていると、
不意に蝋燭に照らされた闇を火線と銃声が切り裂いた。
その轟音が白く霞んでいた田中の意識を少しだけ呼び起こす。
視線をあげると「お……お?」つんくが驚いた表情で変な音を発していた。
面食らった顔で彼は自身の腹に視線を落とす。
そこにぽつんと空いた黒い穴。
次の瞬間、その穴は先の轟音とともに三つ四つと増え、
つんくはどぅっと後ろに倒れた。
なにがなんだか分からないうちに、
いつの間にか手足を縛り付けている皮の手錠が外されて体が解き放たれる感覚。
誰かがいた。
「れいな!れいな」
パチパチと頬を叩かれて田中は助けに来てくれたのが誰なのかを悟った。
- 929 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:19
-
「れいな、しっかりして!」
「さ、ゆ?」
ぼぅっと答えると道重がホッとしたように表情を緩め、体を抱き起こしてくれる。
彼女に抱き起こされながら田中はぼんやりと自分の手足を眺めた。
おかしなことに、暴れて擦れた部分以外に傷などついてはいない。
先ほどの蛇はつんくに飲まさされたあの液体が齎した幻覚だったのだろうか。
「れいな、大丈夫?」
「…ん、頭がんがんするけど……大丈夫」
ふらつく頭を押さえながら答えると、道重が安心したように一つ頷いてギュッと抱きついてきた。
- 930 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:20
-
「れいな、ごめんね。遅くなって……」
首に巻きつけられた彼女の右手が持っていたのは拳銃で、
田中はそのままの体勢で視線を床に落とす。道重の足下に倒れているつんくは最早ぴくりとも動かない。
これで全て終わったのだろうか。田中のその疑問を打ち破るかのように
唐突に巨大なディズプレイに赤い瞳の悪魔が現れ、甲高い笑い声を上げた。
室内にけたたましく反響する笑い声に田中は耳を押さえる。道重が素早く動いた。
「死ね、悪魔!!」
彼女はそう叫んで銃を連射する。
ディスプレイに幾つもの弾痕が刻まれ、そして、呆気ないまでに簡単に悪魔は消えた。
ほぅっと道重が安堵の息をつく。それから田中の元に戻ると
「れいな?大丈夫?もう終わったよ」もう一度抱きしめられ耳元で囁かれる。
その声に、田中はゆっくりと意識を手放した。
自分が漏らした吐息を、どこか遠い出来事のように聞きながら。
- 931 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:21
-
※
「なんだぁ?」
矢口は戦闘態勢のまま呆然とした声を上げた。キョロキョロと辺りを見回す。
しかし、高速で矢口に接近していた悪魔の姿はどこにも見当たらない。
まさに接触すると思った瞬間、ふっとかき消えたのだ。
関係あるとすれば、どこかで聞こえた銃声。
確かに矢口と悪魔が接触しようとした瞬間に銃声のようなものが聞こえていた。
「…なんなんだよ」
矢口は手にしていた符を念のため天井のカメラに向かってひゅんっと放る。
その機体の中程に突き立った符は火花を散らし、小さな破裂音と共にカメラは沈黙した。
万能な電脳機が軍事用に使われないのはその弱点がはっきりしているからだ。
つまり、発生源のホログラフ装置を壊せば存在できない。それは戦場では致命的な弱点になるだろう。
ともかく、これで高密度光上に流れるプログラムである電脳機が再びここに姿を表すことはない。
額の汗を拭うと矢口はすぐさま銃声のした方角へ走り出した。
だが、その足は二度ほど角を曲がるとすぐに止まる。
そこには矢口を誘うかのように口を開いている大きな部屋があった。
- 932 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:22
-
室内は暗く人がいる気配はない。
警戒しながらも矢口はおそるおそる中へと足を踏み入れた。
右手の一振りで新しい札に火を灯してみると、そこはどうやら資料室のようで
両壁沿いの棚にはラベルの貼られたディスクケースがずらりと並び、
扉の正面には巨大なモニターと再生用機器、他には椅子が一つと小さなデスクが置かれていた。
これが全てゲーム関係の資料だとすると凄まじいものがある。
矢口はとりあえず全体に目を走らせてみる。と、気になる単語が目に止まった。
右手側の壁の一角、矢口は手を伸ばしてそのディスクを手にとる。
『田中れいな 20*2 3/25』
ディスクのラベルにははっきりとそう記されていた。
それは今から二年前の日付。
矢口は棚に視線を戻す。
すると、田中れいなとラベルに記されたディスクはもう一枚存在していた。
- 933 名前:第五章 A lunatic laughs 投稿日:2005/01/24(月) 22:23
-
「これは……」
『田中れいな 20*4 3/25』
それは記憶をなくした田中が河原で三野晴海の生首と共にいた前日。
そのディスク、奇妙に符号の一致する二枚のディスクに矢口は見入る。
ここには丁度、再生用機器が揃っている。
勿論、矢口はディスクの中身をその場で確認するつもりだった。丁度機材も揃っているのだ。
だが、少し離れた所から何者かの足音が近づいてくるのが聞こえて、
とりあえず中身の確認をするのは後回しにしたほうがよさそうだと判断する。
急いで二枚のディスクを懐にしまおうとして「あ」矢口は、誤って一枚を手から滑り落とした。
プラスチックのケースが無機質な音を立て暗い床に紛れ込む。
「くそっ」
一瞬身をかがめ探しかけるも、なおも近づいてくる足音に
仕方なくもう一枚のディスクだけを懐にしまい、矢口はその方角へ一目散に駆け出した。
- 934 名前:電脳幻夜 投稿日:2005/01/28(金) 22:38
-
第六章 Hateful Recollection
- 935 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/28(金) 22:40
-
1
軽快な足音が曲がり角の向こうから聞こえてきたかと思うと、
そこからすぐに姿を現したのは足音からは想像できない必死の形相の道重さゆみであった。
汗で前髪が額に張り付いている。
「矢口さん…よかった。探してたの」
彼女が矢口の姿を認めホッとしたように駆け寄ってくる。
その服に点々とついた血痕を見て矢口は警戒態勢を取った。
「…探してた、ってどういうこと?つんくは?」
「つんくさんは……私が殺したの」
「は?」
「今までごめんなさいなの、矢口さん。でも、全部、悪魔の仕業だったの。
殺人事件も、れいなの記憶喪失も。つんくさんが、フラウロスを復活させようとしていて
私も操られてた。だけど、れいなを助けようと思ったら奴の呪縛から解き放たれたの」
- 936 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/28(金) 22:40
-
道重はこちらが質問を挟む暇を与えない。矢継ぎ早に説明する。
身振り手振りを交えての説明に矢口は困惑に頭を掻き
「なんだかなぁ……」と、じっと道重を見つめた。
昼間のことを忘れたとは言わせない。あれが操られていた姿だとは矢口にはとても思えなかった。
確かに、矢口がつんくに襲われかけた時、助けようとしてくれていたみたいだが、
そちらのほうが演技だということもあるだろう。しかし――今は田中だ。
ここはひとまずひいて、道重はあとで個人的に叩いた方がいいのかもしれない。
矢口は視線をそのままに道重に聞いた。
「それで、田中は?」
問いかけに彼女はぽんと手を叩き、今、自身が出てきた廊下の奥を指差す。
「向こうの部屋で待ってるの。矢口さん行ってあげて。
私は、助けを呼んでくるから」
言うと、返事も聞かずに走り出す。
「……喰えないヤツ」
鋭い視線で彼女を見送ると矢口は田中の元へと向かった。
- 937 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/28(金) 22:41
-
※
「こりゃ、ひどいな」
駆けつけた矢口は室内を見回し顔を顰めた。
硝煙と火薬と血液と。それに得体の知れない甘い匂いにゴムが焦げる嫌な匂い。
それらが渾然一体となり鼻孔を刺激してくる。
無数の蝋燭が燭台の上でなお輝き、台の上に呆然と座る田中の姿を照らし出していた。
田中は、紺色のジャケットを躰に巻き付けるようにして自身の躰を抱いている。
その足下の床には巨大な魔法陣が描かれ、倒れ伏したつんくの姿があった。
こちらを向いた横顔は舌を剥きだし、その額の中心に穿たれた弾痕が絶命を示している。
そして、つんくの傍らには死神の姿。
「なにがあったの……?」
矢口は誰にともなく問いながら一歩足を踏み出す。
その足が魔法陣の一角を踏む。
それはなにかの粉で描かれていたものらしく、踏みつけると簡単に消えた。
- 938 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/28(金) 22:42
-
「なにがあった?全部悪魔の仕業って聞いたけど?」
もう一度問いかけると「そうらしいですね」
屈託ない笑顔で死神が矢口を振り返る。
「実際は?」
「さぁ?田中さんに聞いたらどうですか?」
死神は目線をあげ、未だぼんやりとした表情の田中に話を振った。
田中が目に怯えた色を浮かべ首を振る。
「……分かりません……けど、確かに悪魔の…Fの姿を見ました」
ジャケットの上から剥き出しの肩を抱いた田中の言葉にはいまいち感情が見えない。
だが、彼女の言葉は道重の説明を肯定しており、矢口は胡散くさげに辺りを見回す。
と、いつのまにか立ち上がってこちらをじっと見つめていたらしい死神とばちっと視線が合った。
死神は不躾なまでに矢口を見つめている。居心地悪くて矢口は口を歪める。
- 939 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/28(金) 22:43
-
「……なんだよ?」
「矢口さん。今日、お札って持ってきてますか?」
「持ってるけど……それがどうかした?」
「硬化してすぐ出せるようにしておいたほうがいいですよ」
「はぁ?」
「それじゃ。またあとで」
死神は言いたいことだけ言うと、ひらりと身を翻し
部屋の出口に吸い込まれるようにして消えた。
矢口は目を瞬かせ――
「またあとで、ってまだなんかあんのかよ」
死神の残した言葉に大きく嘆息した。それから、田中の元へと歩み寄る。
「立てる?」
促すと、緩慢な動作で田中は立ち上がった。
- 940 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:12
-
2
蛍光灯が照らし出す廊下を二人で並んで歩く。
どこまで助けを呼びに行ったのか、道重の姿は廊下には見えない
「……悪魔が、本当にいるなんて……」
田中の小さな呟き。矢口はそれを聞きとがめる。
「それはどうかな」
「……矢口さんは…見てないから」
「実体化したフラウロスなら見たよ……あれは誰かの電脳機だ。
多分、さっきの部屋のコンソールから送られてたんだろうね、
銃声が聞こえたと思ったら消えたし」
その返しに田中が一瞬目を見開いた。
その時、エレベーターホールの前にチラリと人影が見えた。
こちらに向かって手を振っている。道重だ。
助けを呼びにいったはずが、まだこんなところにいる。
矢口は怪訝に思いながら少し早足で彼女に近づいた。
「どうかしたの?助けは?」
「エレベーターが動かないの」
「動かない?さっきはちゃんと動いてたよ」
矢口はエレベーターのパネルに触れる。
だが、パネルは暗く沈黙したままだ。
- 941 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:13
-
「……電源が落ちたのかな……非常階段は?」
「そこなの」
矢口の問いに道重が指さした先には、
防犯用のシャッターがしっかりと降りていた。
それを軽く蹴飛ばし、矢口は「無理矢理開けるのは無理だね」
「……つんくの仕業?」
「さあ、どうだか」
田中の疑問に小さく答え、矢口は横目で視線を跳ばす。
それを知ってか知らずか、見られている彼女は甲高い声で
「どこかに非常用の電話があるかも知れないから探してくるの」
言い残し、また一人で歩き出した。その姿はすぐに廊下の向こうに見えなくなり、
矢口は何だかなと呟きつつも視線を彼女の消えた方角から離せなかった。
- 942 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:14
-
「まださゆを疑ってるんですか?」
そんな矢口の態度に、田中がうんざりしたように呟きながら
その場にへたり込む。矢口は、田中を見下ろし「悪い?」と言った。
田中が咎めるように眉を寄せる。
「助けてくれたんですよ、れいなを。人を……殺してまで」
「単なる口封じかもしれないじゃん」
「そんな」
絶句する田中を前に、矢口はただ淡々と台詞を続ける。
「可能性の話で確証はないけどね」
「だったら」
「けど、信用できない。あいつは絶対ヤバい」
矢口は、ただじっと道重が消えた方角に視線を投げかけ、
田中は大きく手を振って力説する。
- 943 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:15
-
「どうしてですか?さゆは、自分で認めたじゃないですか。悪魔……Fに操られてたんだって。
仮にそうじゃなくても、つんくに操られてたんですよ、あの狂人に。
そんな、最初からさゆが共犯でそれで口封じだなんて……ありえません。
さゆは警察を呼ぼうとしようし、もし、さゆが共犯やったらそんなことさせんはずでしょ。
そんな矛盾した行動、とるはずない。初めから計画的に仕組むんやったら、
もう少し上手くやれるはずじゃないですか。れいなのいっとること、どっか間違ってますか?」
「……間違っちゃ、ないけど」
声のトーンは落ちても矢口の視線の鋭さは変わらない。
田中は自分の膝に顔を埋めて呟いた。
「矢口さんは……悪魔を信じてないから」
「そんなことないよ」
はっきりした声に田中が顔を上げる。
- 944 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:15
-
「おいらの仕事は現代科学じゃ説明できないような化け物退治だもん。
幽霊だって鬼だって殺人虫だってなんだってやっつける」
一息ついて、矢口は続ける。
「おいらは悪魔がいないなんて一言も言ってないし思ってもないよ。
ただ全てを悪魔のせいにするヤツが信用できないって言ってんの」
吐き出された台詞に、田中の目が険しく細められた。
「陰口ですか?見損ないました」
視線は真っ向からぶつかり合い、そして先に矢口がやれやれ、と頭を振った。
「だいたい、あんたさ、よくそこまで他人を信じられるね」
「幼なじみを信じて、何が悪いんですか?」
- 945 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:18
-
ぶつかり合う視線は空気が白熱するほど。
数秒の交錯の後、やはり矢口から目を逸らす。
息苦しい沈黙が続き、ふと田中が一つ身を震わせた。
シャッターと同時に社内のエアコン設備まで落とされてしまったようで、
5月にもなるというのに体感気温は冬並だ。それなのに
今の田中は道重が服の上に着ていた紺色のジャケット一枚を
肌の上に直接羽織っている状態である。寒くて当たり前だろう。
もう一度田中が身を震わせる。矢口は自身の来ていた厚手のスカジャンを脱ぐと
どさっと彼女の頭にほうった。田中が戸惑いの視線を投げてくる。
それに小さな溜息をつきながら、
「着なよ。寒いでしょ。それに外でるまではまだ油断できないし…
それ防弾だから少しは安全だよ」
矢口はぶっきらに言った。
「何にせよ事件はこれで解決したことになるんだろうし、道重さんの言葉が嘘でも本当でも、あんたの記憶は戻らないし、もう追いかける手がかりも…………」
独り言のようにぼそぼそと。その途中で矢口はふと思い出す。もしかしたら、手がかりになるかもしれないものの存在を。矢口はすぐにそれがある部屋へと歩き出す。
「ど、どこ行くんですか?」
- 946 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/29(土) 23:19
-
田中が驚いたように言った。
「ちょっと気になることがあるから…そこで待ってて」
答えた矢口の歩みは、数歩で止まる。
田中に背を向けたまま矢口は天井を見上げていた。
その先には蛍光灯が白い無節操な光を投げ掛けている。
それを見上げながら矢口は呟く。
「ねぇ」
「はい?」
「悪魔の特徴って知ってる?おいらもさっき教えてもらったんだけどさ、
日本の妖怪とかと一緒なんだってさ」
「……いえ、知りませんけど」
唐突な問いかけに不思議そうに田中が答える。
そう、と矢口は頷き
「悪魔は嘘を付かない。つまり、嘘を付くのは人間だけってことらしいよ」
言って、また歩き出した。
- 947 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:30
-
※
気になる部屋の扉は先ほどと同じまま開け放たれており、
矢口は薄暗い部屋に静かに足を踏み入れる。
先ほどとは違い時間に余裕があるので矢口は手探りで壁のスイッチを捜し、
室内の電灯をつけた。天井自体が発光し室内を明るく照らし出す。
壁には大型のスピーカーが設けられ、部屋の中心部に音響が集まるような作りになっていた。
矢口はしげしげと壁の棚を眺める。
そこに並べられたディスクはかなりの量があり、それらはゲームの資料ばかりのようであった。
だが、田中れいなというラベルが貼られたディスクが保管されていた辺りだけは
他とは用途が違っていた。そこにあるディスクには、ほとんど人名が記されていたのだ。
そこにもう田中の名は見当たらない。矢口は指を滑らして柴田あゆみの名を探してみる。
それは自殺したこの記憶喪失事件の一番の被害者。『F』の言葉を残した者。
ふと滑っていた矢口の指が、あるディスクの上で止まる。
『実験レポート』と書かれた一枚のディスク。
それを訝しく眺めると、矢口はケースからディスクを取り出し傍らの再生装置にセットした。
- 948 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:31
-
数秒の読み込みの後、巨大なスクリーンに幾つものファイルナンバーが映し出される。
無数の日付が記されたそれはざっと見ただけでも百はくだらなさそうで、
矢口はうんざりした気持ちになった。しかし、そこに音声検索機能がついていることに気づいて顔を綻ばせる。
「検索、柴田あゆみ」
早速、検索してみる。
その声に返ってきた結果は四件のファイル。
【レポート 2/2 F】
『市病院にて柴田あゆみと接触。懸案の特定事項記憶消去の実験』
【レポート 2/3 F】
『特定事項記憶消去、失敗。Lv1Deleteの後、解放』
【レポート 2/17 F】
『対象者、柴田あゆみ Lv2Delet完了』
【レポート 2/25 F】
『柴田あゆみ Lv3 Delete完了。全行程終了』
選び出されたそのファイルを閲覧してみると、
それらの文だけがそっけなく表示された。
- 949 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:31
-
「何だ?Lv1とかLv2とか……」
呟きながら矢口はぽつぽつとデータの検索を続ける。
『三野晴海 3/25 Lv2 Delete 完了』
『三野晴海 4/3 Lv3 Delete 完了。全行程終了』
データ検索。
次いで出てきた文字に矢口は「はぁ?」と疑問の声をあげた。
『現在待機中の命令 矢口真里 Lv2 Delete 実行中』
「だからLv2 Deleteってなんだよ?」
データ検索。
『田中れいな Lv1 Delete 継続中』
- 950 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:33
-
データ検索。
『Lv1 Delete 《短期記憶消去並びに疑似記憶の刷り込み》』
『Lv2 Delete 《現実空間においての物理的消去》』
『Lv3 Delete 《対象の全記録破棄、並びに疑似記録への書き換え》』
画面を凝視していた矢口は舌打ちと共に先程床に落としたディスクを探す。
椅子の陰に隠れるように転がったそのディスク。
『田中れいな 20*4 3/25』
それを再生機器にかけ、矢口は大きなスクリーンを食い入るように見つめた。
- 951 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:33
-
3
『なんで、なんでこんなんすると……』
『なんで?なんでって面白いからだよ』
赤い床。無惨にも首と胴体が切り離された、女性の姿。
その胴体を恍惚の様相で抱きかかえている男が
女性の胸にしゃぶりつきながらごりごりと右腕を鋸で刻む。
『ちゃんと見てよ。こんな機会滅多にないよ』
やがてぼとりと女性の右腕が落ちる。
男は奇声をあげながら狂ったように腰を振り、残っている左腕を切り落とす作業に取りかかる。
- 952 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:34
-
『凄いと思わない?サイコパスの記憶を擬似的に植え付けて、
その上で自発的な意思で動いてくれるように調整したの。
この調整がすごく難しくて、ほんとに苛々しちゃった。でも、なんとか成功したみたい。
最もこんな可愛くない趣味はいれてないんだけどね……
元々の素養までは、どうしようもないのかな。ホント可愛くなぁい』
画面が滲む。床が映った。ポタリと水滴が落ちる。
『ねぇ、れいな。人間の進化の過程って、プログラム言語の進化と結びつくと思わない?
最初は、低水準言語の機械語とアセンブラ。それから高水準言語、FORTRAN、
COBOL、LISP、パスカル、A、B、C言語。C++、JAVA、D言語。
言語の進化は修正の繰り返し。人間もまた然り。
人間の脳とコンピュータの違いなんてそれぞれをプログラムした言語だけだって思うの。
なのに、人間の記憶はコンピュータみたいに自在に書き換える、ってわけにはいかないみたい。
だからこそやりがいがあるのかもね。思い通りにいかないことってぞくぞくするもん』
- 953 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:34
-
『あんた、狂っとぅ……』
『やだ、れいな。今、自分がどんな顔してるか分かってる?可愛くないよ』
画像が乱れる。
ぼやけた視界の向こうで、不機嫌そうな声が響く。
『やだ、れいな。今、自分がどんな顔してるか解ってる?可愛くないよ』
『触らんでっ!』
『きちゃないから拭いてあげてるの』
横合いからのハンカチが乱暴に視界を擦る。
まるでディスプレイを拭くかのように。
『ほら、やっぱりきちんとしていた方が可愛い。れいなだっていちおー女の子だもんね』
- 954 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:35
-
不意に女性の胴体にむしゃぶりついていた男が身を離し、死体の処置を訊ねた。
『ゴミ袋に詰めてダストシュートにでも入れたらいいと思うの。
明日の朝には、生ゴミ回収車がどっかに持っていってくれるもん』
声の指示通り、男は素直にゴミ袋に自らが切り刻んだ首や手足を詰め込むと、
無造作にダストシュートへ放り捨てる。瞬間、画面が揺れた。
ダストシュートが映る。風を切るような音。
『止めて、F!』
遠く声が聞こえ、画面はただ揺れる闇を映し続ける。
あちこちにぶつかりながら画像はやっと安定した。生ゴミの山。
不意になにかに気づいたように視点が上がる。
その先には奇妙な物体が輝いていた。
ダストシュートの上からこちらに向かって飛来してくる灰色の翼を持ったなにか。フラウロスだ。
- 955 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:36
-
悪魔が笑みを深め、ふわりと翼をはためかせる。
微細なプラズマがはしり、田中の絶叫が響いた。
『ぁあああああああ!!!』
叫びながら、田中が手当たり次第に辺りのゴミを投げつける。
空き缶や腐れたリンゴやバナナの皮などが宙を舞う。
だが、その攻撃に意味がないことを悟ったのか不意にその動きが止まる。
左手が映る。手に握られていたのは小さなカッターナイフの刃。
田中の手は躊躇なくその刃を自らの腕に走らせる。傷つける。
鮮血が溢れ、滴り落ちるのを気にもせず彼女は深く深く刻みこむ。
「HPT」と。
そして――映像は唐突に途切れた。
- 956 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:36
-
※
「これは……」
それ以上言葉が継げない。
これが田中が授業中に見たという映像だろう。胸糞が悪くなる内容だ。
再生も終わり、照り返しで室内を映す画面には驚愕の表情を浮かべた自身の姿が写っている。
「…っていうか、やっぱりどう考えても道重だろ」
吐き捨てる。
瞬間、唐突に室内のスプリンクラーが天井から水を吹き散らした。
「冷た」
突然の水に矢口は眉を顰め天井を振り仰ぐ。
だが、その顔は瞬時に強張り「う、ぁああああああっっ!」矢口の喉は絶叫していた。
開け放しの扉から矢口は廊下に飛び出し苦悶に転げまわる。
その躰が、一瞬バチッと放電する。電気だった。
スプリンクラーの水には電気が流されていたのだ。
それを証明するかのように室内では水に触れた電子機器が次々と火を噴いている。
- 957 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:37
-
矢口は、胸を掻き毟りながら激しく咳き込む。
全身が細かく痙攣し、それが電気ショックの凄まじさを勝手に物語っていた。
一体、なにがどうしてこうなったのか。矢口には考えるだけの余裕はなかった。
矢口に出来るのはただ痛みに呻き、どうにか息を吸い込むことだけ。
「あらら…」
喘ぎながら必死に酸素を求める矢口の前にそんな声とともに一組の靴が立ち止まった。
その靴。ツルツルと磨かれた可愛らしい丸靴。それは彼女に似合いの靴だった。
矢口は苦痛に顔を歪めながらその人物を振り仰ぐ。
そこには矢口の額を狙うV10ウルトラコンパクト。
「あの電気ショックで生きてるなんて、ホントゴキブリみたい」
彼女は呆れたように笑い、一瞬の停滞も見せずにその空間に轟音を響かせた。
- 958 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:43
-
4
「遅いなぁ、二人とも……」
小さく呟いて、体操座りの田中はスカジャンの袖に顔を埋める。
だが、その胸に固く当たる何かを感じて田中はすぐに顔を上げた。
内ポケットに手を差し込んでみる。そこに入っていたのは一枚のディスクだった。
しかし、注目すべきはそれに貼られたラベル。自身の名前と日付が記されている。
それは先程矢口が部屋から持ち出したディスクなのだが、そうとは知らない田中は首を捻った。
自分の名前が書かれたファイル。それも記憶を失った日と同じ日付。
違うのは年号だけだ。それが妙に気になった。
どこかでディスクの中身を見れないかと田中は立ち上がり歩き出した。
角を曲がってすぐにあった部屋のドアを開けて覗いてみる。
すると部屋には運良くPCがずらりと並んでいた。
ゲーム会社だから当然なのかもしれないが――兎にも角にも、PCの前まで移動して
田中は手にしているディスクを早速セットする。
少しの読み込みの後、ディスプレイにノイズ混じり映像が再生されはじめた。
- 959 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:44
-
それが何の映像なのか、分からない。
分かるのはどこかの部屋を移した映像だと言うことぐらいだ。
白い壁紙と木のテーブルと椅子。そこはどうやらリビングのようだった。
ふとその光景にどこか見覚えがある気がして、田中は首を傾げる。
「れいなん家に似とう……」
『どうして、どうしてこんな事するの、答えなさい!』
『うるさいなぁ。ちょっと失敗しただけなの。でも、大丈夫。合成疑似記憶と偽記憶症候群を重ねて上書きしてあげるから、今までとそんなに変わんないと思うの』
響く声は二つとも聞き覚えがある。
田中は画面にただ見入り、聞こえる声に細心の注意を傾ける。
画面が揺れ、床に座り込む中年の男性が現れる。
男性は痴呆のようにだらんと口を開き、その目は虚ろに中空を彷徨っている。
その男性を田中は知っていた。それは――
- 960 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:45
-
『問題ないよね、フラウロス』
その呼びかけに見覚えのある悪魔が男性の上に現れた。
翼の部分に触手のような物が二本現れ、男性のこめかみに当てられる。
『やめて、やめなさいっ!』
泣き叫ぶ中年の女性が、男性を抱きかかえるようにして叫ぶ。
その女性も田中は知っていた。カチカチと歯が音を立てる。
「これ、さゆの……」
『大丈夫大丈夫』
画面外からの楽しそうな呟きと共に悪魔が僅かに発光する。
男性が全身を痙攣させ、がくりと白目を剥いて項垂れた。
『いやああああああっっ』
『あれぇ、失敗しちゃった?……んー、年をとると脳細胞にも柔軟性が無くなっちゃうのかなぁ』
あっけらかんとしたその声に女性は目を剥き画面外にいるである人物に向かって絶叫する。
- 961 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:46
-
『あんたなんか、あんたなんか、産むんじゃなかったっ!』
その台詞に、声は一片の鬱陶しさを乗せて、あっそ、と呟いた。
『…悪いけど、あなたの後悔に付き合ってる暇はないの。
だって、私にはまだ試してみたい事がたくさんたくさんあるんだもん』
不意に画面の端に黒光りするものが映る。乾いた音が響く。
先ほども聞いた音。それは銃声。
何度も何度も繰り返し、女性が動かなくなるまで、それは続く。
跳ねるように画面が揺れる。画面が曇る。
まるで、涙で濡らされているように。
どこからか別の呻き声が聞こえ、激しく画面が揺れた。
『バイバーイ。後のことは気にしなくていいよ。
保険金と遺産、それに株式の運用で、私は貴方達がいなくても全然困らないの。
知ってた?私って結構お金持ちなんだよ……
あ、ごめんね、ずっと猿ぐつわしたままで。でも、外すとれいな煩いからもうちょっと我慢して』
- 962 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:46
-
爽やかな声は、最早間違いなく聞き覚えのある物で、
田中は頬を伝う涙を止められず、ただじっと画面に見入る。
『そうだ。れいなで実験してみようかな。まだ脳ミソちゃんも若いし、
きっと成功すると思うの。それに遺伝子の塩基配列も分かってるしね。
ふふ、やっぱり私って天才なの』
その顔、何の表情も見えぬ、ただ笑いの形に結ばれた唇、
がらんどうの瞳、夢で見た暗黒の顔。顔のない顔。
今よりほんの少しだけ幼い道重さゆみ。
呻き声は画面からなのか、それとも今の自分のものなのか。
判別は付かない。
- 963 名前:第六章 Hateful Recollection 投稿日:2005/01/30(日) 22:47
-
『大丈夫大丈夫。眼が覚めたら全部忘れてるよ、れいなは。
明日からはいつもどうり…だとつまんないからぁ、ちょっとした性格改造もしてあげるの。
どんなのがいい?時代錯誤だけど不良少女なんてどうかな?
周囲から敬遠されているって言う情報も付け加えて……
そしたら、ずっと私と一緒にいられるし、私に頼るしかなくなるの。
あと、私がこんなに可愛くてすっごい天才なんだってことも忘れてもらうね。
その方が都合いいもん。ね、フラウロス、そうしてよ』
応える様にふわりと悪魔が浮き、羽のような触手を伸ばす。
『何怖い顔してるの?可愛くないよ。ほら、猿ぐつわ外して上げるから機嫌直して。
いつもみたいにキスしてあげよっか?』
彼女の顔が近づく。嫌々をするように画面が揺れる。溜息。
『ま、いっか。今日のこと忘れちゃったら、れいなは私だけしか見なくなるしね』
『……忘れるわけないやろ、絶対に忘れん!』
『そんなのやってみなくちゃわかんないもん』
軽やかにいって、道重は可愛く15度小首を傾げた。
- 964 名前:電脳幻夜 投稿日:2005/02/04(金) 23:17
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第七章 a who sake
- 965 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:18
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1
轟音と共に吐き出された弾丸は矢口の顔面を襲い、
次の瞬間、跳弾は天井の蛍光灯を砕き、辺りにガラスの破片をまき散らした。
その破片にたまらず顔を覆った道重が再びその目を開いたとき、
矢口の姿は既にそこにはなかった。床には敗れた札が残されている。
それを拾い上げ、道重は嘯いた。
「あれで和風な人なんだ。こんなもので銃弾跳ね返すなんて感心しちゃう。
ホントゴキブリってしぶとくてヤダなぁ」
蛍光灯の破片をじゃりじゃりと踏みしめて道重は落ち着いた足取りで歩きはじめる。
そして、一番最初に辿りついた扉の前で止まった。
あの状態で矢口が逃げ込むとしたらこの部屋しかない。
そう予測して、道重は目の前にある扉をわざと勢いよく開けた。
- 966 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:19
-
※
その三十秒ほど前、道重の攻撃を尋常ではない反射神経で避けた矢口は
向かってすぐ突き当たりにあった部屋に飛び込んでいた。
そこは多人数用のコンピュータルームらしく、1.2m程の壁で仕切られたブロックの中に、
机、椅子、それにディスプレイと端末が無造作に置かれている。
そんな室内を疾走していた矢口は足を縺れさせ無様に転倒した。
障害物があったわけではない。電気ショックで足が痺れていたためだ。
倒れてしまったら最後。起き上がろうにも手に力が入らなかった。
いまや矢口の全身の筋肉は麻痺し、もしくは痙攣を繰り返し、
心臓はひっきりなしに不整脈を立てている。
随意筋、不随筋を問わず、今の矢口に痛みもなく満足に動く筋肉など
一片も残されていなかった。
そもそもあれだけの漏電を浴びて生きているのが自分でも不思議なくらいなのだ。
おそらくは、水を媒介にしたことで道重の計算よりも電圧が下がっていたのだろうが
九死に一生とはまさにこのことだった。
- 967 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:20
-
そして、もう一つ矢口の命を救ってくれたのは亀井の忠告。
もし、電流を喰らった後に札を硬化させようとしていたら
間に合わずにとっくに殺されていたはずだ。
たまにはあいつも役に立つ。矢口は転んだままの体勢でそんなことを思う。
体の痛みや麻痺に比べて頭の中は意外にもクリアだった。
矢口は痺れる肺の赴くままに荒い呼吸を繰り返しながら、
これからどうするかを考え始める。
だが、その考えが纏る前に部屋のドアが開き、道重が入ってくる気配がした。
「矢口さん、出てきて。もう逃げ場はないの」
明るい脅しの声に、荒い吐息をついていた矢口は
痙攣を続ける手でどうにか口元を押さえる。
肺は未だばくばくと酸素を求めているが、呼吸音で気づかれないようにするためには
我慢するしかなかった。こみ上げそうになる咳を懸命に押さえ込みながら
――どうしたらいい?道重に気づかれないようにこの部屋を脱出するにはどうしたら――
暗い室内、電撃に痺れる躰に鞭打って、矢口は必死で策を練る。
まず時間を稼ぐ必要があった。
筋肉の痺れがある程度とれて彼女に反撃ができるようになるまでの時間が。
苦悶の表情を浮かべうつ伏せになると、矢口は床を這いずるように移動を開始する。
- 968 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:22
-
「矢口さんに勝ち目はないの。はやく出てきたほうが苦しまずにすむと思うの」
暗い室内に道重の足音が響く。
移動しながら、矢口は札に念を通しその場に置いた。
ある時間が来たら、それは眩いばかりの光を放つ時限式のものだった。
そして、それが輝いた時、この暗闇に慣れた道重の目はきっと使い物にならなくなる。
その時が攻撃のチャンスになるだろう。
それまでに――矢口は視線を前方の出口に走らせる。あそこまで行く。
ぐっと歯を食いしばり矢口はまた床を這いずり歩く。
そうしながら、道重を挑発するように言葉を発した。
衝立の反響で道重は矢口の言葉の位置を掴み取れない。そこまで計算してのことだ。
「…こんなことして、もう装うのはやめたわけ?」
「面倒になっちゃったの。それに、れいなにちょっかいだしたあなたは許せないもん」
「……なんで田中にそこまでこだわる?」
「だって、れいなは私の大事なお人形だもん」
案の定、矢口の位置を掴みかねているのか道重がぐるりと辺りを見回した。
「なるほどね」
くだらないことを聞いてしまったと思いつつ、矢口は呟く。
- 969 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:23
-
「ねぇ、矢口さん。お人形をバラバラにしてみたいと思ったことない?
手とか足とか接合部分から切断するの。それをね、もう一つの人形と繋ぎ合わせて
別の人形を作るの。小さい頃好きだったな、そういう遊び」
「それが、他人の記憶を弄くることに変わったのか…」
「そうかもね。だって実際に人間をばらばらにしたら死んじゃうでしょ?
それじゃ、ちっとも面白くないもん。でも、記憶を弄れば姿形は一緒でも
別の人間を作り出せるの。それってすごく面白いことだと思わない?
つんくさんなんて最高だったでしょ。醜悪でもあったけど」
醜悪なのはどっちだ。矢口は、嫌悪に顔を歪ませる。
気づくと道重がすぐ傍に来ていた。
矢口はひやりとしながらも、横目で彼女の動きを確認しその反対側へ移動を続ける。
その際、一瞬だけ道重の表情を見る事が出来た。
声からは想像できなかったが、そこにはなんの感情も浮かんでいなかった。
人形なのは彼女の方ではないだろうか。そんなことさえ矢口に思わせるほど
道重は無感情な無表情で楽しげな声を発していたのだ。
- 970 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:24
-
「…救えないヤツだな、あんたって」
矢口は吐き捨てる。
「救えないのはあなたの命なの。
だって、私があなたを殺すんだもん、ね?」
そういって、道重は微かに喉を鳴らして笑った。
それもまた彼女の顔に変化は齎していないのだろう。矢口は移動しながらそれを想像し顔を顰めた。
「ねぇ、矢口さんはどうしてこの事件に関わったの?あなたには直接関係ないことなのに。
まさか正義の味方ってワケじゃないでしょ?」
道重が呑気な調子で言う。
「…柴田あゆみ……覚えてる?」
「柴田……あぁ、自殺した人だったっけ?なぁに、あなたのお友達だったの?」
「まあね」
矢口は嘘をついた。生きている間にあったのは数えるほど。知り合いともいえない。
だがそれは道重に教える必要のない事だった。
匍匐前進しながら、矢口は左腕の袖から小さなシークレットナイフを引きずり出す。
先に置いていた札はほんのりと灯り始めていた。
矢口の予想よりも少し早いが、それは功を奏しているようだ。
道重が灯りに引き寄せられるように矢口のいる場所の反対の方へと動き始めていた。
- 971 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:24
-
「友達の敵討ちなんて感動しちゃう」
その声には一片の感情も乗せられていない。
「映画にしたら大ヒットしそうな友情物語でしょ」
矢口はふざけ口調で返しながら、そろそろと壁を頼りに立ち上がる。
大分、体の痺れは取れていた。
「映画?今の売れ戦とは外れてると思うの」
楽しげな道重の声から少しずつ遠ざかり、矢口は出口へと体を動かす。
「それは残念」
大まかにしか分からないが、道重はもう札のすぐ間近まで来ているようだった。
衝立があるせいでそこに矢口がいないことに気づいていない。
出口の前で、ナイフを片手に矢口は呼吸を整える。
「だって、やっぱり最後は可愛い子が勝つ映画が売れると思うの!」
言いながら、道重がディスプレイの前に躍り出て銃を発砲した。
勿論そこには矢口の姿はなく、ただ矢口が置いた札が周囲をぼんやりと照らしているだけである。
- 972 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:26
-
「あれ?」
それに気づいた道重が小さく疑問の声を発する。
「じゃ、おいらが勝つってことだね!!」
矢口が叫んだ瞬間、道重の傍らにある札が激しく発光した。
闇の中に、眩しさに目を押さえる道重の姿がくっきりと浮かび上がる。
刹那、矢口は札付きのナイフを彼女めがけて投じた。
手加減はしない。道重さゆみは生かしておいてはいけない。
情をかけてはいけない対象の人物だった。
矢口が投げたソレは一条の閃光と化し、真っ直ぐに道重の喉元に走る。
殺った。矢口はそう確信した。
だが、まさにナイフが道重の喉を突き刺す寸前、彼女の前でなにかが駆けた。
「なっ!フラウロス!?」
思わず矢口は叫んだ。
死んでいるディスプレイから躍り出た悪魔が道重に向かっていたナイフを加え取り、
そしてその血のように赤い瞳で矢口を睨み付けたのだ。
それはあり得ないことだった。
電脳機が存在するために必要な高密度ホログラフ発生器はここにはないのだ。
だが驚愕もつかの間、憤怒の表情で道重が銃を構えなおすのを見るや、
矢口は脱兎のごとく出口から駆け出した。
- 973 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/04(金) 23:26
-
※
まだ目の奥に白い光が残っていて気持ちが悪い。
道重は目をパチパチと瞬かせながら矢口が出て行ったドアに視線を向ける。
「逃がしちゃった・・・・・・けど、行き先は分かってるよね、フラウロス」
呟く道重の背後、微かに闇を照らし悪魔は降り立つ。
鬼火のごとく光るその目と道重の視線が交錯する。
その時、フラウロスの目から細いレーザーのような光が発射され、
それは道重の目に吸い込まれていた。数十秒の奇妙な見つめ合い。
そして、道重は一つ頷いた。
「うん、そんなこと分かってるの。勝利はもう確定してる。
けど……念には念を入れなきゃ」
誰かと会話するかのように口にして道重はおもむろに歩き出す。
そうだね、そうだねと何度も繰り返しながら。
その背中を、フラウロスはただじっと見つめ、そして大きく裂けた口をくっと歪ませる。
それはあまりに人間くさい、そして何か邪な感覚を覚えさせずにはいられない、そんな笑みだった。
- 974 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:38
-
2
暗い廊下、幾つもの角を曲がり、
そして矢口はエレベーターホールに蹲る田中の姿を認めて精一杯に口を開いた。
「……田中、さっさと逃げるよ。あいつ……やっぱり敵だった」
座り込んだままの田中が顔を上げる。その顔を見て矢口は一瞬怯んだ。
感情の見えない虚ろな目からはただ滂沱の涙が頬を伝っている。
「…どうしたの?」
聞いても返事はない。
しかし、彼女の手に握られている一枚のディスクケースを見て矢口はその理由に思い当たった。
田中れいなと記されたそのケース。
「…見たんだ、それ」
全てを察し矢口は陰鬱に呟く。
そのディスクの中身こそ見ていないが、それに何が記録されているかは容易に想像ができた。
二ヶ月前のあの事件の映像のように、二年前の日付がついたそれにも
道重が田中になにかを施す映像が映っているのだろう。
道重を信じきっていた田中のショックは計り知れない。
矢口は田中になんらかの言葉をかけてあげたかったが、
もうすぐ自身を追ってここにやってくるだろう道重の事を考えると
今は脱出することを先まわしにしなければならなかった。
キョロキョロと周囲を見回す。
脱出口はやはりこのエレベーターしかない。
それを悟ると矢口は懐から呪符を取り出した。
- 975 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:40
-
「……悪いけど、呆けるのはあとにして。今は逃げるのが先だから」
電源の落ちているエレベーターの扉の隙間に呪符を挟み込み、それを爆発させる。
そうして僅かに開いた隙間を手がかりにして無理矢理扉をこじ開けると、
矢口はがらんと広がる暗いエレベーターシャフトを覗き込んだ。
太いワイヤーロープが数本垂れており、エレベーターは遙か上で止まったままになっている。
矢口はいまだ座ったまま動かない田中を窺い見る。
あんな状態の彼女を連れて上まで上れるだろうか。否。自身の体の状態も考慮すれば無理だろう。
矢口は小さく舌打ちし、シャフトの下を覗き込む。
遠回りになるが地下に降りて、他に脱出できそうな箇所を捜した方がいいかもしれない。
このフロアは完璧に閉ざされているが、他のフロアならば手が回っていないはずだ。
おそらく道重にそれをする時間などなかったはずだ。
矢口は思い、田中のほうを振り返る。
瞬間
「やっぱりここにいた……」
少し離れた箇所から声がした。
同時に矢口のすぐ真横をヒュンと風を切るような音と共に銃弾が通過していた。
壁が抉られる。
「!!」
矢口は咄嗟に一本のワイヤーを掴みシャフト内に身を隠し
その場から外を確認する。道重の位置を。
彼女は声から察したとおり、矢口からも田中からも大分離れたところにいた。
ただ爽やかな笑顔を浮かべ、彼女は廊下に座り込んでいる田中に視線を落としている。
- 976 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:41
-
「れいな、ちょっと待っててね。れいなに近づく悪い虫は始末しないといけないから」
かけられた言葉に田中が緩やかに顔を上げる。
矢口は半身をエレベーターシャフトに隠したまま道重に呼びかけた。
「おいらを始末したい割には遠すぎない?その距離じゃ当たらないよ」
「あなたの運動能力は知ってるの。
並の人間なら即死のはずの電撃を受けて、まだそんなに動ける。
これ以上は近づかない方が無難、でしょ?」
挑発にのらない道重に矢口は微かには舌打ちし、微かに残る痺れを取るために腕を揉み解す。
その時、固まっていた田中がディスクを掲げるように手を伸ばし、ぽつりと呟いた。
「さゆ…コレ、一体何なん?」
「ん、それ?つんくさんが作った疑似合成映像じゃないの。
言ってたじゃない。れいなが主役のゲーム作るって。
やだなぁ、れいなったら。まさかそれが本当にあった事なんて思ったの?」
田中の手に握られたディスクを見ても、まるで動じることもなくただ淡々と道重の声は響く。
「あんた、さっきと言ってること違うじゃん!」
矢口の怒鳴り声にも、道重はただ田中を見つめたまま優しげに微笑んでいる。
田中が矢口を振り返った。
- 977 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:42
-
「…さっきって?」
「あんたがあいつの大事なお人形さんって話さ」
「え?」
「バラバラにして遊ぶのが好きなんだってよ。記憶とかね」
田中の顔が今にも泣き出さんばかりに歪む。
自分のことのように胸を痛めながら、矢口はそれを億尾にも出さず道重を嘲った。
「そうだったよね、道重さん!」
「さゆ、どうなん?違うんやったらなんか言って?」
縋るように田中が道重を見やる。
しかし、道重はもう田中を見ていなかった。
彼女はどこもなにも見ていなかった。
ただ軽く首を傾げ、少し不満げに耳の後ろを掻いている。
「うるさいなぁ、なんかごちゃごちゃと」
「…さゆ」
「なにしてるの、れいな?早くこっちに来てってば。
そこにいる奴が、危険だって言っているの。
それとも、れいなは私よりもその人の言うことを信じるの?
そんなことないよね。れいなは、私が嘘をつかないって一番知ってるはずだもん。
この場で誰が嘘を言っているのか、れいななら分かるでしょ」
- 978 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:43
-
瞬きすら忘れたように田中は道重を見つめ続けている。
流れていた涙は止まっていた。だが、その場からピクリとも動こうとしない。
そんな田中に道重が苛立ちを吐き出すように大きく息を吐く。
「どうして分かってくれないのかなぁ、れいなは。
れいなが言ったんだよ。Fが死ねば記憶を追うの止めるって。
だから、Fを殺してあげたのに。元々、れいなが私に逆らって
無くした記憶なんて追うから悪いんじゃない」
「…勝手に盛り上がって、勝手に殺して、それでれいなのせい?ふざけんなっ!」
田中が声の限りに叫ぶ。
矢口は、その悲痛な絶叫にギュッと眉根を寄せる。
だが、それでも道重の心には何も届かないのか、彼女は微かに不快な顔を浮かべるだけだった。
「ホント苛々する。物事が上手くいかないのって、私、一番大嫌いなの」
視線を下に落とし子供のように彼女が大きく地団太を踏んだ。
ばんばん、という音が虚しく響く。
その反響が止まると、なにかいいことを思いついたとでもいうように
道重は煌く視線を上げ、こちらに向かってとびっきりの笑顔を見せた。
- 979 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:44
-
「分かった。れいながそこにいたいならそこにいてもいいよ。
代わりにそのちっちゃい人が出て来ればいいだけだもんね」
道重の目がエレベーターシャフトに身を隠している矢口に向けられる。
「……あんた、バカでしょ?
そう言われて、おいらがのこのことここから出てくると思う?」
矢口は毒づく。
その両手は感覚を取り戻すべく、未だ開閉を繰り返していた。
「思うの」
短く答えた道重はすっと銃を構えると躊躇無く田中めがけて引き金を引いた。
撃たれた田中が悲鳴もなく腹を押さえて床に転がる。転がって、咽る。
矢口は驚駭し、道重は悲しげに眉を下げた。
「ごめんね、れいな。でも、そこにいる人が悪いの。
その人が、素直に出てきてくれないから、私のせいじゃないの」
「ちょっ、はぁっ!?」
恐慌し狼狽しパニック状態で矢口は頭を振る。
道重の発言は、あまりに支離滅裂で、そして理不尽だった。
- 980 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:45
-
「どうせそのジャンパー、防弾なんでしょ?だから、大丈夫だよね。
もう二、三発ぐらい。れいなは我慢強い子だし」
言いながら、道重は無造作に田中に向かって引き金を引いていく。
確かに彼女の言うとおり、矢口が田中に渡したジャンパーは防弾だった。
それに加えて、術をかけた札で守られてもいる。
だが、そうだからといって全く痛みをうけないというわけではない。
銃弾が田中の肩や腹に食い込む度にか細い悲鳴が上がった。
銃口からは硝煙が、ジャンパーからは弾丸が布を焦がした煙が上がる。
「ほら、いい加減出てきたら?それとも、あなたはこれ以上れいなを苦しめるつもりなの?」
「く、苦しめてんのはあんただろっ!!」
「私じゃないよ。あなたが出てこないのがぜーんぶ悪いの」
「さ……ゆ……」
掠れ、呻く小さな声。
田中は、ようようにして顔を上げ、対して道重はにっこりと微笑む。
- 981 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:46
-
「泣かないで、れいな。大丈夫。その人を始末したら、すぐに病院に連れてってあげるから。
痛みなんてすぐに忘れる。ここであったこともなにもかもね。
今までどおり、れいなと私は仲良しさんでいるの」
全てを肯定したその台詞はあくまで涼しげだった。
田中はただ涙のまま動けず、そして、矢口は悔しさのあまり思い切り壁を殴りつけた。
鈍い音が響き、鋼鉄の壁が少し歪む。
「いい加減にしろよ!」
目を怒りに爛々と輝かせ矢口は遂に廊下に飛び降りた。
「やっと出てきたね。良かった。これでれいなを傷つけなくてすむの」
その声はほっとしたようにとは遠く、いつものようにただ微かな笑いを含んでいた。
「勘違いすんなよ。おいらの仕事はこの子を助けることじゃないんだからな」
暗く響く声と共に、矢口は道重に向かって片手を突き出す。
道重はその手の中にあるものを見て訝しげに目を細めた。
- 982 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:46
-
「なんなの?」
「コナン君もびっくりの爆弾付き腕時計」
微かな笑みを浮かべて、矢口は続ける。
「安全ピンは抜いてある。だから、あんたがおいらを撃ったら、
床に落ちた衝撃でドッカーン!!」
「……馬鹿馬鹿しい。そんなはったりに私が騙されると思う?」
「別に信じなくても構わないよ。その時は皆仲良く死ぬだけじゃん」
矢口はにっこりと笑ってみせる。
「だけど、おいらもまだ死にたくはないんだよね。
どう、取引しない?おいらを見逃してくれたら、あんたの大事なお人形さんは置いてく。
で、もう二度とちょっかいは出さないよ」
その言葉に田中がビクリと肩を震わせ、矢口を見上げる。
彼女の怯えた視線を感じるが、矢口は無視して道重を見つめた。
急転した展開に道重が疑り深げに微かに眉を顰める。
- 983 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:47
-
「いいよ。あなたがその気なら見逃してあげても。
もう二度とこの件に首を突っ込まないでね」
何度か矢口と田中を交互に眺め――やがて、道重は頷いた。
「オッケーオッケー。っと、まだ近づかないでね。おいらは今躰が満足に動かないんだから。
ほら、立ちなよ」
矢口は足を踏み出そうとした道重を言葉で静止させると、
田中に声をかける。田中が絶望の表情で矢口を見上げた。
「ほら、早く立って」
矢口は、肩肘の辺りを引っ張ってさらに田中を促す。
諦めきったように目を伏せると彼女はのろのろと立ち上がった。
「おっと、このジャンパーはおいらのだから返してもらうよ」
矢口は、田中の肩に手を置いたまま道重に問いかける。
道重が了承の意で頷く。矢口は彼女に見えないように口元で笑んだ。
- 984 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:48
-
「……そうだ、道重さん」
「なに?」
「やっぱり、あんたは大馬鹿だね」
「…あなたに言われたくないの」
「ああ、そうかい……おい、しっかり掴まってろよ」
道重に向かってベーッと舌を出すと、矢口は田中の耳元で囁いた。
その目が怪訝に染まる前に矢口は腕時計を道重に向かって投げつけると、
田中を抱きかかえて暗い空間に身を躍らせた。
道重が目を丸くして、矢口の投げた腕時計を反射的に打ち落とす。
その間に矢口たちは自由落下で地下へと落ちていく。
下を見てしまったのか、小さな悲鳴をあげて
田中がぎゅっと矢口の首筋を絞めんばかりの勢いでしがみついてきた。
歯を食いしばり、矢口はエレベーターを動かすワイヤーを片手で掴む。
- 985 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:48
-
「うぉおおおおおおおおおおお!!!!!」
矢口は吼える。吼えて、ワイヤーを握りしめる。
手袋が煙を上げ、裂けた掌が鮮血を散らす。
ワイヤーと頬を鮮血が染め、それでも離さずにいるとようやく減速がはじまる。
その一瞬の減速を利用し、矢口はナイフを引き抜き壁に突き立てた。
キィッと金属が擦れるような音が上がり、短い自由落下の旅は終わりを告げる。
目前には、地下五階の扉。呆然とこちらを見てくる田中に
「…おいらのハッタリは天下一品だろ」
荒い息をつきながらも矢口は会心の笑みを浮かべた。
- 986 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/07(月) 21:49
-
※
「ムカつく!ムカつくムカつくムカつく!!!!!!!」
打ち落とした腕時計の残骸を忌々しげに踏みつけて道重は半狂乱に叫んだ。
手にしたウルトラコンパクトを苛立ち紛れに連射する。
壁や天井に銃弾が跳ね、割られた蛍光灯が光を失って舞い散る。
弾切れになったのもかまわず、トリガーをカチカチと18回も空回せたあと
道重はいきなりすっきりした笑顔を浮かべ銃を納めた。
「優しい私って可愛い。けど、優しすぎてもダメなんだねぇ」
どこにともなく呟き、道重はエレベーターシャフトを覗き込む。
そこには当然ながらもう二人の姿はない。
「ご主人様に逆らうお人形にはお仕置きだよ、れいな」
悠然と微笑むと道重は立ち上がった。
- 987 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:30
-
3
扉をこじ開け、二人は地下五階の廊下に転がり出た。
そこに広がるは先と同じような廊下、同じような天井。だが、当然の事ながら道重の姿はない。
相当体力を消耗しているのか荒い息を付きながら矢口が、
ちょっと休憩、と仰向けに転がる。しかし、田中はそんな矢口を心配する余裕を持たなかった。
壁に寄りかかったまま座り込み、ひんやりとした床の感触に白い息を吐きかける。
「……れいなのこと、見捨てて逃げれば良かったのに」
「ピンチの人間は見捨てない主義なんだよ」
矢口が片目を細める。田中は俯いた。
電源が落とされているため、廊下は暗く、
別電力で動いている非常灯の灯りだけがぼうと二人を照らしている。
「……さゆはどうして、どうしてあんな事したんでしょう?」
「さあね」
身も蓋もない返答に田中は真剣な顔を矢口に向けた。
- 988 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:31
-
「さゆはフラウロスに操られてるって言ってましたよね。
なら、フラウロスを何とかしたら元のさゆに戻るんじゃないですか?」
言うと、どこまでお人好しなんだというように矢口が顔を顰めのっそりと上体を起こす。
「まだそんな馬鹿なこと言ってんの?あのディスク見たんでしょ?
あんたは、何度もあいつに殺されかけてる。防弾仕様のジャンパーの上からとは言え、
躊躇いもなくあいつはあんたを撃ったんだよ!それもおいらを脅すためだけに。
正気じゃない。目的のために手段を選ばなさすぎる。
どんな冷酷な奴だってもう少しはましなことをするもんだ」
吐き捨てるように矢口は続ける。
「それに、言ったでしょ。悪魔は嘘つかないって。
あいつはその場その場で自分に一番都合のいい物語を作り上げてる大嘘つきだよ。
だから、悪魔に操られてるわけがない。たとえそうだったとしても、
おいらは信じないね。あいつには単に心がないだけだよ」
強い論調に、田中は傷ついた瞳で押し黙る。
矢口は苛立たしげに髪を掻き上げ、言いすぎたと思ったのか何か言葉を言おうと
その口を開けたがそれは発せられない。
その前に彼女は立ち上がり、いきなりピタと壁に体を寄せた。
- 989 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:32
-
「足音三……発見されるの早すぎなんだけど」
独り言のように呟き廊下をぐるりと見回す。
「監視カメラはないし…偶然か?」
首を傾げながら、矢口が田中の腕を取る。
「行くよ」
その呼びかけに、田中はただ俯せたまま、動こうともしない。
「どうしたの?とりあえず移動しようよ」
矢口が怪訝そうな声を出す。
「……れいなはもういいから矢口さん一人で勝手に行ってください」
「ふざけんなっ!なんのためにこっちが命張ってんだよ!!」
首もとを掴み上げ、矢口が強引に田中を引きずり起こす。
田中は虚ろな目で矢口を見つめ、そしてのろのろと立ち上がった。
「よし」
田中の腕をつかんだまま矢口は廊下を小走りに奥へ進みはじめた。
- 990 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:33
-
※
近づく足音に耳を傾けながら何度か角を曲がり
矢口たちは第5会議室と書かれた部屋に飛び込んだ。
ドアを閉め、その場所に念を込めた札を噛ませる。
「矢口さん、どうするんですか?」
問われて、矢口は室内を見回した。
会議室だけあって、たくさんの机と椅子、前方にはホワイトボートとモニターがある。
戦えない場所ではない。それが矢口の出した結論だった。
逃げ回った所で解決にならないのならば――
「あんたは、机の下にでも隠れてなよ」
「え?」
「いいからさっさと隠れる」
急かすようにぱんぱんと手を叩く。
田中はしばしの躊躇を見せたが、他に選択肢がないことに気づいたのか、
黙って矢口の指示に従った。田中が隠れた事を確認すると、矢口はブラインドの隙間から外を窺う。
廊下から微かな明かりがチラホラと動いて見えた。
懐中電灯の光だ。足音と声。
- 991 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:33
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「こっちにはいません」
「いや、この辺りにいるはずだ。探せ」
「…了解」
「待て……会議室だ!」
確信を持った声が聞こえ、足音が一気に近づいてくる。
「なんでばれるんだろうなぁ」
矢口は不思議そうに呟くと、田中の居場所に一瞬視線を向け天井に飛んだ。
- 992 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:34
-
※
会議室の扉を蹴り開けた瞬間、火花が男達を襲った。
一列縦隊を組んでいた部隊は悲鳴を上げながら散り散りに逃げる。
その混乱の中、上から忍び寄る影に気付く者はいない。
一人の男が首を捕まれ声をあげる間もなく意識を落とされる。
「どうした?」
どさりという音に振り向いた前から三番目にいた男は闇の中に煌めく線を見た。
蜘蛛の糸のようにきらきらと光る線。
それがいきなり男の首に巻き付き猛烈な勢いで締め上げてくる。
「ぐぇっ」
漏らした悲鳴に前を行く二人が振り返る。
しかし、その視界には、二人いたはずの仲間の姿は既に消えていた。
「おい、どこだ?どうしたんだ!?」
問いに対する答えはなく、代わりに闇の中をふわりと炎が放物線を描く。
それは火のついたオイルライターなのだが、視界の片隅で何かが動いたとしか
男達には認識できない。軽快な銃声が連続で響き、辺りのディスプレイが次々と火を噴いた。
- 993 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:34
-
「まて、無駄打ちするな」
「分かってるよ!」
そう叫んだ男の手元を数条の火線が射抜き、悲鳴と共に銃は投げ出された。
「そこかっ!!」
残った一人が、火線の方角に振り向いて、存在する人影に咄嗟に銃弾を叩き込む。
人影はしばし着弾に揺れ、そして動きを止めた。
「やったか」
興奮気味に懐中電灯を向ける。そして、彼は驚愕した。
光の輪の中に映しだされたのは、ワイヤーロープで首をつられた仲間の姿だったのだ。
姿の見えない攻撃者に恐怖し、男が一歩後ろに下がろうとした瞬間
「残念でした」後頭部に冷たい感触が当たった。
- 994 名前:第七章 a who sake 投稿日:2005/02/08(火) 14:35
-
「まったく折角人が死人が出ないように気を遣ってんのに、仲間を撃つなよな」
うんざりした声。
「銃捨てなくていいし何も喋らなくていいよ。あんたを殺す口実が無くなるからね」
いつの間にか背後に忍び寄っていた攻撃者は冷たく男に告げた。
しかし、男は銃を捨て両手を上げる。
「待った、待ってくれ、何でも言うこと聞くから、撃たないでくれ」
「…やっぱり、こういう時ってそういう台詞が出るんだ。なかなかリアルだね」
声はどこか楽しげに言うと、一転した厳しい口調で詰問を始めた。
「どうしてここが分かったの?監視カメラ?」
「……む、無線で指示がきて…」
「他には何人動いてる?」
「えっと…あ、五人ぐらい」
「道重さゆみはどこにいるの?」
「地下一階の警備室に」
「OK。もういいや。おやすみ」
膝の裏を蹴りつけられ男はバランスを崩してがっくりと膝をつく。
その後頭部に銃把が叩き込まれると彼は声もなく昏倒した。
- 995 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/08(火) 14:36
- ノ
_/ ノ l
/ / |
● / / |
* / |
|
| <全部入らなかったの
● /
○ / 残念たい
・ * / ∨
/∋oノノハヽ ∬
/ 从*´ ヮ`) 旦._
/ ※ ̄※7 ̄※ ̄※ ※\
/※ ※ / ※ ※ ※ ※\
───────────────────────────
- 996 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 02:19
- えっ?終わり…って事ないですよね?
次スレを激しく希望。
- 997 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/02/09(水) 02:20
- ごめんなさい。
レスの無駄使い
- 998 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 13:05
- 氏にスレ知りませんかなの?
∨ たい? ノハヽ☆ ・・・
oノノ人ヽo ノノハヽo∈ (^ー^*从
从*・ 。.・从从 ´ ヮ`) (「 ̄⊂) __.
.┌──○‐○─○‐○―┐ ノ ノ_) ( ─
~.| ::::::: :::::::::::: ::::::::: |~~i~〜〜 ~i~!`~ii~~~~~
~ ! ::::::: :::::::: ::::::: !~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヽ :::: ::::: ::::::: / 〜
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知らない
∨ 残念なの
☆ノハヽ ∨ たい
ノノ*^ー^) ノ人ヽo oノハヽo∈
(「 ̄⊂) __ (・ 。.・*从 (´ヮ` 从
ノ ノ_) (─┌○‐○──○‐○‐―┐
~~~~i~~`〜〜~``~!i~i~~~.| ::::::: :::::::::: :::::: |~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~! ::::::: :::::::: :::: !~~~
ヽ :::: ::::: ::::: / 〜
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ノハヽ☆ ♪
(^ー^*从
(「 ̄⊂) _
ノ ノ_) ( ─ @)
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- 999 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 13:12
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氏にスレを探すたびは一ヶ月続いたの。
AA探してたわけじゃないの。
それで、やっと答えが出たの
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, ⌒ヽ (::::: )
(::::: ' (::::: ヽ⌒ヽ 、
ゝ `ヽ(::::: .::.⌒ )
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素直にゴミ箱行けばよかったの::::::::::::::::::: :
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/. oノノ人ヽoノハヽo∈\
/ .. (从从从从从从) たい
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/ | ト'__) | ト'__) .... \
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- 1000 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/03/08(火) 13:13
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- 1001 名前:Max 投稿日:Over Max Thread
- このスレッドは最大記事数を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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