君は僕の宝物
- 1 名前:円 投稿日:2004/03/21(日) 21:22
- 同じ世界観で短編を載せていきます。
時間軸、メンバーはバラバラになるかと。
一応の主軸は田中さんと亀井さん。
下層でのんびりやるのが性に合っているようなのでsage進行で。
エロはないですが男ネタは多少あります。
「男の影が出てくるだけで嫌だ」という方はスルーの方向でお願いします。
前提条件:『天使のらくがき』
http://mseek.xrea.jp/blue/1064327128.html
469〜494レス目
- 2 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:22
- ごろりとカーペットの上へ寝転がり、つけっ放しのテレビを眺める。
しばらくそうしていて、CMに移ったところで体勢をうつ伏せに変える。胸の下でオレンジの
クッションが潰れている。
外は暗い。もう夕飯時も過ぎている。父親は残業が長引いていて、今日の夕飯は一緒じゃ
なかった。そろそろ帰ってくる頃だろうか。
れいなは手を延ばしてゲーム機の電源を入れる。それからリモコンでビデオチャンネルに
変え、ゲームのコントローラを手にする。
起動している途中で気が変わった。まだスタート画面すら表示されないうちにスイッチを
オフにする。クリスマスに買ってもらったソフトの寿命はわずか3ヶ月弱。飽きたなんて
言ったら、また母親に小言をもらってしまうから、れいなは遊ぶふりをする。
そうすると今度は勉強しなさいと別方面から小言が来るのだが。
春と言うにはまだ早いが、学校は春休みに入っている。宿題がない休みというのは、
楽ではあるが暇だ。こちらはまだまだ中学生、遊びに行くにも先立つものがない。
- 3 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:23
- テレビを消して、カーペットに転がっていた漫画を手にする。クッションを潰したまま
それを見ていると、ドアの外から声がかかった。
「れーなー」
妙に間延びした、幼さの見える声。れいなは少しばかり動揺する。
手にしていたものと、それからあと何冊かの散らばった漫画を気忙しい動作で本棚へ
押し込み、クッションを軽く叩いて形を直す。
髪に手櫛を入れてから「どうぞー」とドアの向こうに応える。開いたドアから絵里がひょこと
顔を出した。
「――――っ」
度肝を抜かれた、というのは言い過ぎかもしれない。
しかし、それに近いものは、あった。
「どう? どう?」
絵里はふにゃふにゃ笑っている。ちょっとばかり照れ臭そうだ。少し大きめの上着が
手のひらを隠している。袖口を指先で掴みながら軽く腕を広げて、れいなの言葉を待って
いる。
「あぁ……うん」意味のない頷きをして、れいなは決まり悪そうに視線を逸らした。
これはまいった。いきなりこう来るとは思わなかった。まだ三月だというのに、彼女は
何を考えているんだ。こっちとしては四月までに心の準備をしておこうと思っていたのに。
いつもは遊びに来る前にメールなり電話なりを入れてくるのに、今日はそれがなかった。
とすれば、彼女の狙いは考えるまでもない。そして、その狙いは成功している。
- 4 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:23
- 絵里は制服姿だった。見たことはあるが見慣れていない制服。
つまりは高等部の制服だ。基本的なシルエットは中等部のそれと対して違わないが、
リボンは細めのネクタイになっているし左腕に縫い付けられた校章は確かに高等部のもの。
れいなが顔の右半分を手のひらで覆う。出来る事なら両手で頭を抱えたいくらいだった。
「ねえねえ、どう? 可愛い?」
れいなが何も言ってくれないので痺れを切らせたのだろう。絵里が頬を膨らませながら
膝をつき、下から覗き込むようにれいなを見つめてきた。
息苦しい。だから、挟まれるのは好きじゃないのだ。れいなは首を大きく逸らして絵里の
額を手で押しやる。
「んー」
「制服じゃね」
「うん。どう?」
「……うん」
「うんじゃなくてー」
絵里は不満顔だ。どうしても言わせたいらしい。まったく、冗談じゃない。
れいなは溜息をひとつ落として、それから絵里と目を合わせないまま独り言のように
呟いた。
「いいんじゃない?」
「いいってなにが」
「だから……」
似合ってるね。可愛いよ。
無理だ言えない。人には出来ることと出来ないことがある。れいなにとってこれは後者だ。
- 5 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:23
- そもそも、彼女にそんな事を言わなければならない義理はどこにもない。
絵里が勝手に来て勝手に見せてきただけで、別に似合わないとか可愛くないとか
言ったって構わないはずなのだ。
まあ、それも言えないけれど。
「れいな。れーなー」
少し大きめの上着に包まれた腕が延びてくる。絶大なる焦燥感に襲われて、れいなは
慌てて後ずさる。
「待って。待って待って待って待てっちゅーとるやなか!」
どれだけ止めても絵里が甘えてこようとするので、最後には逆切れで叫んだ。
力任せに彼女の肩を突き飛ばし、わずかに荒くなった呼吸を整える。
絵里はきょとんとしていたが、さしたる時間も要さず不機嫌になった。
「れいな生意気」
「……絵里が変な事するからじゃんっ」
こめかみを汗が伝う。「変な事ってなに」不機嫌なまま絵里が呟く。いつもは笑ってなくても
上がっている口角が下に向いている。れいなは僅かに焦る。それでもご機嫌取りをする
気にはならない。
- 6 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:24
- 「……べたべたすんの、やめ」
「べたべたなんかしてない」
「しとる」
「しとらん」
れいなの真似なのか、絵里は唇を尖らせたまま方言で言い返す。れいなは溜息をつく。
可愛いとは思う。似合うとも思う。それは否定しない。だが、言葉にするとなると話は
別だ。さゆみにもよく強要されるが、そういう状況とは意味が違う。
どう意味が違うのか。それは出来れば考えたくない。考えたくないから今まで考えない
ようにしていた。そのまま、これからもずっと考えずにいられたら、それほど幸福な事も
ないだろう。しかし、今はそういう甘っちょろいことを言ってられる状況でもない。
だからつまり、彼女はもしかしたら、ひょっとしたら。
れいなの事が好きかもしれないからだ。
確かめたわけではない。ちゃんと聞いたことはない。それでも、そう思わせるだけの事を、
彼女はしてきた。
もう二ヶ月くらい経っているが、たった一度だけ、そういう事が、あった。
それからも彼女の態度は変わらない。次の日も普通にメールを送ってきたし、休日には
遊びに誘ってきたりする。遊ぶ時はさゆみがいる事もあれば、二人だけの事もあった。
たとえ二人きりでも、あれ以来そういうことは起きなかった。れいなもなんとなく聞き
辛くてその事を話題に出したりはしなかった。
話題に出さないから、それはれいなの中にずっと留まっていた。そんな中途半端な状態
だから、れいなは彼女をどう扱っていいのか判らない。
- 7 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:24
- 絵里がじっと見つめてくる。れいなは困っている。その視線に込められているものを
読み取れるほど、れいなは経験を積んでいない。
「……もういい」
「あ、ちょ、絵里」
すっかり機嫌を損ねてしまったらしい。しばらく見つめた後、絵里は眉根を寄せた顔を
れいなから離した。助かったはずなのにれいなは思わず彼女を引き止める。
「や、あの、よかよ? なんか大人っぽい、と思う」
「もういい。れいなバーカ」
さっきから生意気だとかバカだとか、絵里は言いたい放題だ。それは気に入らないものの、
これで怒ったりしたら更にこじれてしまいそうなので、れいなはぐっと堪える。
立ち上がり、部屋を出て行こうとする絵里の手を掴んで引き寄せた。強い抵抗にあうが
構わず引っ張る。絵里はこちらを向かない。それでも足を止める。
「絵里」
「…………」
「あの……よかね。似合っとる」
奇跡的だった。壁を越えられた。ブラボーとか叫びたい気分だ。
しかし、状況はそうも言ってられない。絵里の表情は多少和らいだものの、いまだその
頬は膨らんだままだ。
- 8 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:25
- やはり言わなければならないのだろうか。これはまいった。どうにかして切り抜ける方法は
ないものかと思索するものの、やはり経験不足だった。彼女と喧嘩をした事がない訳でも
ないが、今はちょっと、難しい関係になってしまっている、ような気がする。
絵里は立ったままそっぽを向いている。膝立ちで彼女の手を掴んだまま、れいなは癖に
なってしまった溜息をつく。
「離して」
硬い口調で落とされた小さな声。それはどうしてか、れいなの心をざわめかせる。
その言葉は駆け引きだった。れいなは勿論、絵里ですら気付いていない駆け引きだった。
二人とも気付いていないのだから、それは意味を成さない。
れいなが手を離す。軽くなった手に、絵里は少しだけ傷ついたような顔をした。
「おじゃましました」
あてつけなのか他人行儀な言い方をして、絵里が出て行く。れいなは困惑したままドアが
ゆっくりと閉まるのを見ていた。
ドアの止め具が填まる音がして、それから嫌な静寂が訪れた。胃の辺りが重くなるような、
自分の部屋なのに居心地が悪くなるような、ここにいたくないと思わせるような静寂。
- 9 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:25
-
テレビの電源を入れる。神経質にも見える手つきでチャンネルを変えていく。ゲーム機を
立ち上げる。すぐに切る。テレビの電源も切る。漫画を引っ張り出す。すぐに放り出す。
教科書なんて論外だったし携帯電話は高校生になるまでお預けになっている。
5分ほどして、れいなに我慢の限界が来た。クロゼットからコートを取り出して羽織る。
居心地が悪い。ここにいたくない。それ以外に理由はない。ただそれだけの事だ。
- 10 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:25
-
デジャヴを覚える。彼女を追いかける。あまり思い出したくなかった。走る。程なくして
彼女の背中を見つける。コートは私物であり学校指定の物ではない。彼女は歩いている。
左胸が痛い。走る。喉が絞まって叫べない。掠れた呼び声と共に彼女の腕を掴む。彼女が
振り返る。ああ、お願いだから。れいなは肩で息をしながら彼女を真っ直ぐに見つめる。
そんな顔をしないで。絵里は唇を引き結んでいる。
胸が、痛い。
腕を掴んだまま呼吸を整える。絵里は強く握ってくる手を振り解こうとはせず、しかし
捕らえられてやるつもりなどこれっぽちもないと、全身で訴えかけてきていた。
- 11 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:26
- ようやく肩で息をしなくても平気なくらいに落ち着いて、れいなが口を開く。
「……絵里」
「れいなムカつく」
「ごめん」
珍しく素直に謝ってきたれいなに、絵里は僅か驚いたようだった。唇を結んだままだが
その瞳が多少大きくなる。
れいなは絵里を見上げながら息をつく。また身長差が広がったような気がする。
なんとなく悔しかったが、今はさすがにそれを言えるような状況じゃない。
「おいで?」
腕を掴んでいた手を一度離し、それから手を繋ぐ。近くにある公園へ誘い、ベンチへ
並んで腰掛ける。もう少し遅い時間であれば子供二人が立ち入れるような場所ではなく
なるが、夕飯時を過ぎた程度の今時分なら大丈夫だろう。興味がないわけでもないが、
さすがにそれはちょっと。
地面を見つめながら、れいながぽそりと呟く。
「ごめん。あの……」
「別に」
絵里の態度は素っ気無い。こっちがこれだけ下手に出ているのだから、もうちょっと
柔らかくなってもいいじゃないか。れいなが溜息をつく。
- 12 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:26
- 「あ、猫。ほら絵里。猫がおる」
視界の端に入った、白と黒のブチ猫を指差しながら、明るい口調を作って言う。
絵里はそれを一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。それに多少怯みながらも負けるものかと
気合を入れて、れいなは尚もはしゃいだふりをする。
「野良かな。ぶさいくじゃねぇ」
「れいなみたい」
「うわ」
思わず引きつった笑いが浮かんだ。いくらなんでもそれはどうかと思う。
絵里が空を見上げる。猫はその間に住宅街へ消えてしまった。
「言うこと聞かなくて、生意気で、可愛くなくて、我がままで、れいなみたい」
「……ボロクソじゃね」
前三つはともかく、最後のは絵里に言われたくない。
猫がいなくなってしまったので、れいなは話題を失った。どうしたもんかな、と悩んで
いる途中で、手を繋いだままなことに気付く。解こうとしたら絵里が強く握ってそれを
阻んできた。れいなは戸惑いながらも手の力を抜く。
「あー……東京は星が出とらんね」
「れいな、こっち来て2年とか経ってるじゃん」
絵里に突っ込まれてしまった。これは屈辱だった。「星が出んことくらい知っとぅ」眉を
寄せながら言い返す。「ひひっ」絵里が小さく笑声を溢す。意地を張ることに飽きてきた
のかもしれない。そういえば、もう頬は膨らんでいなかった。
- 13 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:26
- それから、二人揃って空を見た。真っ黒い、飲み込まれそうな黒という黒が広がっていた。
黒いが、汚いとは思わなかった。墨汁やインクの黒とは違う、光を反射しない事から来る
黒ではない、光が存在しないからこそ存在する黒。
それは、真正面から強い光を当てられた時と同じように、れいなの目を眩ませた。
飲み込まれたのかもしれない。深い深い黒に。
それは自然に、あまりにも自然にれいなの唇から発せられた。
「……絵里」
「んー?」
「前、屋上で花火した時」
「んー?」
「なんで、キスしたと?」
絵里は空を見上げたままだった。れいなも空を見上げていた。二人の手は繋がれていた。
繋がれているから、きっと飲み込まれても二人一緒だろう。そう考えると、それもまあ
悪くないかなとれいなは思う。
夜空の向こうに何があってもあまり驚かないだろうなとか、妙な事を考えた。
仕方がない。忘れたり気にしないでいられたりするほど、経験豊富じゃないのだ。
初めてだったというのもあるし、多分、相手が彼女だった事も大きな割合を占めていた。
絵里が唇を尖らせる。けれどそれは、怒っているわけでも拗ねているのでもなかった。
- 14 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:27
- 「だってれいな、生意気なんだもん」
「それは何回も聞いた」
「年下のクセに命令するしー」
「絵里がぼけっとしとるから気になるんよ」
「絵里よりちっちゃいくせに偉そうだしー」
「背ぇは関係なか」
はぐらかす絵里の手を、急かすように強く握る。ますます彼女の唇が尖る。
そのくせ、声はひどく柔らかい。
「博多弁直んないし」
「全然関係なか」
そろそろ呆れてきた。積極的なのか消極的なのかはっきりしてほしい。
絵里が大きく上体を逸らす。倒れそうに見えてれいなは思わず繋いでいた手を外し、その
背中へあてがった。絵里は倒れることなくふにゃりと笑った。
「三番レフト」
「は?」
「さゆの彼氏。野球部の三番レフトなんだって」
「……で?」
とうとう、れいなとは全く関係のないところへ話題が移ろった。いい加減苛々してくる。
威張れる事ではないが気は長い方じゃない。
れいなの口調に棘が含まれていた事に気付かなかったのか、絵里は笑ったまま視線を
合わせてきた。
「野球は、四番サードが一番カッコいいんだって。さゆ、四番サードの人の方がカッコい
いって言ってた」
「ふぅん」
「でも絵里は、四番サードの人よりれいなが良かったの」
唐突に狡猾に突然に雑然に、絵里は言った。
- 15 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:28
- れいなが棒を飲み込んだような表情を浮かべる。後ろからいきなり殴られたような気分だ。
これはもう本当に度肝を抜かれた。だってまさか、こんなタイミングで来るとは思って
いなかったから。
それはつまりそういうことだろうか。これはつまりあれだろうか。
代名詞だけでれいなの思考は巡る。明確な言葉を使って考えたくないという無意識の意識が
そうさせたのだろう。
「……絵里」
胸が痛かった。手を離したのは失敗だった。飲み込まれるのは自分ひとりだけだ。
けれど本当は、最初から彼女は飲み込まれたりしなかったのだ。
逃げようと思えば逃げられた。避けようと思えば避けられた。外そうと思えば外せた。
消えようと思えば消えられた。投げようと思えば投げられた。かわそうと思えばかわせた。
「れいなが良かったの」
ふにゃりと笑いながら絵里が顔を覗きこんでくる。息苦しい。息が出来ない。視線を
外せない。動けない。逃げられない。かわせない。軽く咳き込んだ。左胸が痛い。
彼女が刻んだらくがきが熱い。
熱に浮かされる。融かされる。焦がされる。
- 16 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:28
- 「悪いことする。」絵里がわざわざ宣言してくれたのに、れいなは微動だに出来なかった。
しなかった、と言った方が正しいのかもしれない。どちらが正しくても結果は同じだから
意味はないのかもしれない。
飲み込まれる。やっぱり悪くないな。れいなは目を閉じながらそう思う。
彼女がいいのかは、まだ判らない。ただ、それに飲み込まれるのは気持ちがよくて、
静寂に包まれたが別にそれは嫌じゃなくて、だからやはり。
悪くない、が正直な感想だった。
ゆっくりと絵里が唇を離す。目を軽く伏せて笑むその表情はひどく大人びていた。
多分、制服のせいじゃないんだろう。
夢うつつにいるように瞳を揺らしながら、れいなが絵里の首へ腕を廻す。
軽く引き寄せ、鼻先が触れるか触れないかくらいの距離で、彼女の瞳を覗き込みながら
微かに濡れた声で囁いた。
「……悪いことしたらいかんよ」
「んー? なんで」
「してもいいけど、あたし以外にはしたらいかん」
まだ判らないから、伝えることは出来ない。
だからそう言った。それだけは判っていたから告げた。
「れいな偉そう」
絵里は軽い苦笑のような声音で言う。「いいんよ」唇をへの字にして応えた。
- 17 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:28
- 人は夜に惹かれるのだそうだ。闇は全てを隠してくれるから、だから正直になれるから、
夜は人を惹きつけるのだそうだ。
れいなは瞳を揺らしている。親戚のおじさんにアルコールを飲ませられて酩酊した時と
よく似ていたが、それよりもっと気分が良くて、それよりもっと中毒性が強かった。
「絵里。……目、つぶって」
「なんで?」
「いいから」
アルコールを飲ませられた時よりも顔を赤くしながら、僅かに強い口調で促す。
絵里が瞼を下ろした。彼女は割合素直にこちらの言う事を聞く。
どこかで猫が鳴いていた。
絵里が腰に腕を廻してくる。甘えるように、誘うように。ああ、だから拒んでいたのだな
とれいなは今更ながら自分の行動に納得する。
暗くてよく見えないがちゃんと出来た。誰に教えられたわけでもないのに、ちょっと首を
倒した方がしやすいとか、顎に手を添えると位置が掴みやすいとか、そういう事を知って
いた。
「――――れいな」
微かな呼び声に、れいなが触れさせようとしていた唇を止める。「なん?」熱に浮かされた
瞳で絵里を見つめ、彼女の次の言葉を待つ。
- 18 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:29
- 「好きって博多弁でなんて言うの?」
「へ?」
れいなが片眉を上げる。まさか言わせようとしているんだろうか。いや、それはちょっと。
「ね、なんて言うの?」
「あー……なんだろ……」
「むー」
誤魔化そうとした事が気に入らないのか、至近距離のまま絵里が頬を膨らませる。
腰に廻っている腕に力がこもって、それは明らかにれいなを咎めていた。
「れーなー」
首筋に膨らんだ頬が擦り寄ってくる。どっちが猫なんだか。れいなは甘い匂いに惑わされ
そうになりながらそう思う。
猫が擦り寄ってくるのは匂いつけのためだというのが一般的な説だ。自らのテリトリィを
示すためにそうするのだそうだ。
それから、甘えているというのも間違いではない。触れるというのは相手に対して警戒を
抱かせないための行動だから。
まったく、冗談じゃない。普段偉そうにしているのはこっちの方なのに。
眉を寄せて、口をへの字にする。せめてもの抵抗だった。
- 19 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:29
- 「……好いとぅ、かな」
「じゃ、大好きは?」
勘弁してほしい。そんな事まで言わせるのか。それは逆上がりが出来ない小学生に大車輪
をやらせるようなものだ。
「れいな。れーな」
「………………ばり好いとぅ」
死ぬ気で言った。鼓動が激しくなりすぎて本当に死にそうだった。
「ふーん。そっか」
満足したのか、絵里はふにゃふにゃ笑って額をれいなの首筋に押し付けてきた。
飲みすぎて潰れたおじさんより赤くなったれいなが、ひとつ空咳をしてから絵里を引き
剥がした。「も、もう遅いし、帰ろ」これ以上なにか要求されたら堪らない。
まあ、悪いことならしてもいいけれど。
絵里は少しだけ唇をすぼめたが、すぐに元に戻った。
ベンチから腰を上げ、ん、と手を出してくる。れいながその手を取る。
「ねーねー」
「な、なんね」
さすがに気構える。今度は何を言うつもりなのか。
「どう?」
「え?」
「んっ」
絵里が繋いでいない方の腕を広げる。「あ、ああ……」何を言いたいのか悟ったれいなが、
口ごもりながらわしわしと頭を掻く。
毒食らわば皿まで、というやつだろうか。ちょっと違うかもしれない。
- 20 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:29
- 軽く息を吸い込み、空を見上げながら口を開いた。
「……可愛いと思う」
「んひひっ」
照れ臭そうに、それでもひどく嬉しそうに笑って、絵里がれいなの手を引っ張る。
「よくできましたぁ」
「……うるさか」
「頑張ったれいなに、絵里からご褒美をあげましょー」
笑い混じりの言葉にれいながきょとんと絵里を見遣る。なんだろう。悪いことだろうか。
いやあ、それはさっきたくさん貰ったし。くれるというなら貰うけど。
れいなは期待と不安が7対3くらいの心持ちで、絵里の言葉を待つ。
絵里が手を外す。立ち止まり、自由になった両手を口の横に当てた。
大きく息を吸い込む。そして。
「絵里はぁー、れいなのことばり好いとぉー!」
夜空に向かって思い切り叫んだ。その先には月が照っている。おりしも満月、眺めるにも
叫ぶのにも最適だった。
「な! ば、ばか! やめぇ!!」
思いがけない行動にれいなが慌てて絵里を羽交い絞めにした。絵里も負けてはいない。
腕は拘束されたが口は自由だ。更に叫ぶ。
- 21 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:30
- 「れいな好いとぉー! 四番サードの人よりもばり好いとぉー!!」
「わー! 待って待って待って、お願いだからやめて!」
必死に止める。絵里がようやく口を閉じる。れいなの顔は赤を通り越して青ざめている。
「んひひ」絵里は得意げに笑っている。こっちが喜んでいるとでも思っているのだろうか。
……完全否定はしない。
胸の中でとぐろを巻く、どうとも言えないもやもやを持て余しながら、れいながキッと
絵里を睨みつける。
「ったく、なに考えとるんよ」
「だってぇ」
絵里は全く堪えた様子がない。口を出た言葉も、続きは存在しないんだろう。彼女の中では
既に完結していて、つまりれいなが何を言っても変わらない。
居心地が悪い。一刻も早くこの場を離れなければ。なにせここはご近所だ、知り合いも
多いし誰かに捕まったら大変だ。
絵里の手を引いて走り出す。追いかけないのはなんだか変な感じがした。
「今度やったら絶交するけんね!」
「なんでぇ」
「当たり前やろ!」
- 22 名前:『月に吠える』 投稿日:2004/03/21(日) 21:30
- 絵里と一緒に走りながら叫ぶ。明日の事を考えると憂鬱になった。絶対に、完全に、
間違いなく聞かれている。春休みだったのはラッキーだろうか。とりあえずクラスメイト
とは顔を合わせずに済むなと考えて、休みが明けたら標的にされるのは自分だけだと
気付いて愕然とした。絵里はもう卒業している。
これは、まったく、本当に、冗談じゃない。
何がご褒美だ。こんなのこっちが困るだけだ。だから、つまりこれは。
彼女がしでかした、最大級の『悪いこと』だ。
《I wish sunshine does not come.》
- 23 名前:円 投稿日:2004/03/21(日) 21:32
-
以上、『月に吠える』でした。
- 24 名前:円 投稿日:2004/03/21(日) 21:33
- 次回は……また田亀かも。
ひょっとしたらよしののが来るかもしれません。
- 25 名前:円 投稿日:2004/03/21(日) 21:35
- ではまた。
- 26 名前:円 投稿日:2004/03/22(月) 20:32
- _| ̄|○
け、削ろうと思って忘れてた……。
>>9の
教科書なんて論外だったし携帯電話は高校生になるまでお預けになっている。
は脳内でデリートして下さい。・゚・(ノд`)・゚・。
- 27 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/22(月) 20:50
- おっ、円さんの新作発見。
「LC」の頃からずっとROMってました。
田亀もいいですね。
- 28 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/23(火) 02:12
- 6期の話って言うのはあんまり読まないんですけど、
円さんの文章だと不思議と抵抗なく
その世界に入っていけるので驚いています。
僕もあやみき期待してます。
次に来るかもというよしののにもです。
- 29 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/23(火) 23:41
- あああこんな素晴らしい田亀は初めてです…
「天使のらくがき」から円さんの書く田亀にハマりました。
次回も、田亀かな?とにかく期待してます!頑張ってください!
- 30 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 04:09
- れーな振り回されまくり。
絶交とか懐かしい。しょちゅうしてましたねw
そんな簡単にすんなー。と数年経った今思ったり。
ヽ(´ー`)ノマターリ期待させてもらいます。
- 31 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/03/24(水) 17:42
- もうこの世界観にハマりまくり。
何度も読みたくなるような後味に酔っていますよ(笑。
田亀好きなんで嬉しいですね〜
まったりと次回作お待ちしています♪
- 32 名前:つみ 投稿日:2004/03/24(水) 21:47
- こんなところに・・・
また作者さんの世界観にどっぷり浸からせていただきました。
次回作も楽しみにしてます!
- 33 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/24(水) 22:20
- 『天使のらくがき』すごく好きだったので、
またあの二人を読むことができて嬉しいです。
今までの作品も好きでしたが、また新しい気持ちで
楽しませていただきました。
- 34 名前:名無し読者 投稿日:2004/03/26(金) 05:38
- 天使のらくがきに凄く引き込まれたので続編を読むことができて嬉しいです。
また作者さんの書く二人を見れることが出来るといいなー。
これからも頑張って下さい。楽しみにしています。
- 35 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:34
- リズミカルに階段を上っていく背中を、れいなは特に表情を浮かべる事も無く見上げ、
自身もそれに続いて足を進めている運んでいる。
二階に到着。左に曲がりかけた背中に一瞬だけ呆れた色を浮かべ、その襟首を掴んで
引き寄せて階段へ戻した。「あ、そっか」ワンテンポ遅れた呟きが耳に届き、れいなは
僅か眉を顰めた。
三階へ上がる。教室の出入り口へ掲げられたクラス名の書かれたプレートを確認しつつ
進み、目的地を見つけて中に入る。
教室の中はざわざわしている。どことなく浮かれた空気がそこかしこに漂っていて、
つられたのかれいなの気分も多少上向いた。
「れいなの席、ここみたい」れいなの手から逃れたさゆみが机を指しながら言う。視線は
マグネットで黒板に貼り付けられた席順へ固定されていた。
椅子を引き出して座り、バッグを机の上に置く。今日は入学式なので授業はない。
中身のほとんど入っていないバッグは、机の上で軽く跳ねてから落ち着いた。
「ねえねえ、絵里いま何してるかな」
「さあ」
「見に行こっか」
「なんでよ?」
二人より一学年上である絵里は、高等部の入学式に向かっている。式の時間はずらされているという話だった。兄弟姉妹で入学時期が重なる家庭を考慮しての事だろう。
中等部の入学式は、高等部のそれより早めに行われる。だからその気になれば覗きに
行けない事もないだろうが、わざわざそうする意味がないので、れいなはさゆみの誘いを
一言で取り下げた。
- 36 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:34
- さゆみの席はれいなのすぐ後ろだった。出席番号順ということでもないらしい。
やる気のない顔で頬杖をつき、ぼんやりと窓の外なんかを眺めているれいなの背中を、
後ろからさゆみが指で軽く突付く。
「絵里の制服、見た?」
心臓が跳ね上がる。れいなはそれを必死に押し隠す。
「見た」
「私まだ見てない。どうだった?」
知らず溜息が洩れた。する事がなくて暇なのは判るが、もっと当たり障りのない話題に
してほしい。
窓の外を見遣ったまま、意識して素っ気無い口調を作って答える。
「どうもなかよ。高等部の制服ってだけやけん」
「えー、可愛かったとかさあ、惚れ直したとかさあ」
「なん……っ」
最後の一言は聞き捨てならない。勢いよく振り返ると、ほわほわと笑っているさゆみの
目と正面からぶつかった。その瞳に嫌なものを見つけたれいなが、小さく眉を上げながら
口を開く。
「なに、わけわからんこと」
「れいなの事ばり好いとー」
ゴン、と鈍い音が額を通して聞こえてきた。骨振動の実験などしたい気分ではないのに。
- 37 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:35
- それは。その台詞は本当に心底まかり間違っても聞きたくない。
さゆみのそれは、別にれいなへ告白をしたわけではない。単なる物真似だ。
そしてその本家は今ここにはいない。
「……やっぱ知って」
「うん。たぶん、結構知ってる子いるよ」
悪い予感が当たった。改めて周りを見回してみれば、なんとなくある種の好奇心のような
ものが見え隠れする視線を、いくつも見つける事ができた。
額を机に押し付けたまま、顔の横に置いた手を強く握って震わせる。これはまずい。
非常にまずい状況下に置かれている。
忘れもしない12日前。自分も絵里もはぐらかし続けていた事柄について、何となくどこと
なくそれとなく答えが出たような出なかったようなあの日。
そう、彼女は叫んでくれたのだ、さきほどさゆみが呟いた台詞を。
顔を上げ、しかし顎は机にくっつけたまま、れいなが上目遣いでさゆみを見遣る。
「そんな事しても私より可愛くはなんないよ」
「誰もカワイコぶったりなんかしとらん。……誰に聞いたん、それ」
「んーとね、うちのクラスの子。あ、二年の時のね。その子も他の子に聞いたって言ってた」
「……うそぉ」
絶望的だ。こういう連絡網というのは非常に綿密で厳密で鮮烈な弁舌を持っている。
「あの、アレ。絵里のは友達って意味で……」
「友達であんな風に叫ぶ?」
「……絵里、変わっとるけん」
「変わってるけど。私そんな風に叫ばれたことないよ」
冷静に言い返されて言葉に詰まった。確かに、いくら絵里だからといってもこれは説得力が
なかったかもしれない。
- 38 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:35
- さゆみは右手を顎の下に置いてそれを支えにすると、ほわりと笑いながられいなの目を
覗き込んできた。
「付き合ってるの?」
「……知らん」
「知らんことないでしょー」
「……わからん」
れいなの表情がどんどん情けなくなってきている事に気付いたさゆみが、軽く首を傾げた。
最初のうちは照れて誤魔化そうとしているようだったが、どうも今は違っているような
気がする。どちらかというと、困惑しているのではないだろうか。
接着剤でも使っているかのように机と顎がくっついたままのれいなの、その頭を淡く
撫でる。れいなは一瞬だけ反抗するような色を瞳に浮かべたが、結局は何も言わずに
さゆみの好きにさせた。
「あのね、私べつにそういうの嫌だとか思わないよ? 他の子はどうか知らないけど、
絵里とれいながそうなってても全然平気だよ」
「……そういう事と違う」
れいなの口から溜息が洩れる。拗ねたような、幾分幼い表情を浮かべ、ぽつりと呟いた。
「絵里とどうなったんか、あたしにも判らん」
「なんで? ばり好いとーって言われたんじゃん」
「それはもういい」
何度も聞きたい台詞でもない。それが本人ではなく、ただの友人であるさゆみの口から
発せられるのなら尚更だ。
どうなったのか、本当に判らないのだ。あれから「付き合って下さい」「はい」というような
やり取りがあったわけでもなく、彼女に好きだと言ったわけでもなく、そもそも自分の
気持ちが未だによく判らない。
- 39 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:36
- それまでの11日間は別段それらしい事もなく普通に過ぎていって、その間彼女に会いたくて
堪らなかったとか絵里の事で頭が一杯になったとかそういう事もなく、ただ、昨日の夜に
絵里が遊びに来て、れいなの方が早く出るから今のうちにとか訳の判らない言葉の後に
「悪いこと」をされて、やはりそれは嫌じゃなくて、だからつまり彼女の行動はいつも
唐突で、れいなとしてはやはり、訳が判らないままなのだった。
さゆみはきょとんとした顔で首を傾げている。彼女としてはもうちょっと浮ついた感じの、
きゃーきゃー言えるような話を期待していたのだろう。ミーハーではある。
「絵里んこと好きなんかどうか、わからん」
「えぇ? なにそれ」
「だって、ずっと普通に友達で、いきなりそんなんなっても、わからん」
「そんなん?」
「あ……や、なんでもなか」
「なに。なになになに」
さゆみがずいと身を乗り出してくる。食いつきがいいのは食べ物だけにしてほしい。
いつもは勝手に食べられて怒るが、今ならバッグの中のチョコレートを差し出してもいい。
かわすためにバッグを漁ろうとした手をさゆみに止められる。れいなはそれに逆らって
バッグのファスナを開けようとする。
「さゆ、チョコ食べんね」
「後で食べる。で、何があったの」
なんて事だ、さゆみがチョコレートよりも優先するものがあったとは。しかし「いらない」と
言わないあたりが彼女らしいといえばらしい。
- 40 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:36
- 「好きって言われただけじゃないんだ」
「それだけ。他になーんもない」
「れいな嘘ついてるー」
うきうき、という擬音語がこれほどしっくりくる表情もあるまいという顔で、さゆみが
れいなの頭を両手で挟み、無理やり自分の方を向かせる。「にぎぎぎ」首を力尽くで回され、
その痛みにれいなが小さく呻いた。
「ちゅうでもされた?」
「にぎ!」
呻いている途中でいきなり図星を刺された。おかげで妙な叫び声が教室に響いてしまう。
注目を浴びている。これは、本当にまずい。れいなはさゆみの手を外させ、それを掴むと
一目散に教室を飛び出した。もうすぐ担任教師が来る時間なのは判っていたが、今は
非常事態だ、仕方がない。教師に目を付けられてもこっちが目を瞑ってしまえば関係ない。
- 41 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:36
- 人気のない階段下の踊り場で立ち止まり、さゆみの手を離す。
「い、いきなりそういう事言うのやめぇ!」
「え? ひょっとして当たっちゃった?」
さゆみの方も驚いている。あの慌てようと、今の彼女の紅潮した頬。これは疑いようが
ないだろう。
「嘘、ホントに!? どういう感じだった?」
「アホ! ……き、聞かんでもさゆは知っとぅじゃろ。彼氏いるくせに」
「知らない。先輩そういう事しないもん」
「へ?」
どこか飄々としたような、茫洋としたような表情で答えられ、れいなは肩透かしを食った
ような気分になる。
「ふ……ぅん」
そうか、さゆみはしていないのか。ちゃんとオツキアイをしていても、そういうのがない
事もあるのだなと、妙に納得したりした。
そこではたと気付く。ちゃんとオツキアイをしているわけでもないのに、そういうのを
してしまった自分は人としてどうなのだろうと。
――――あれ?
胸の辺りがもやもやする。焦燥感とは違う、急き立てられるというよりも押し潰されると
言った方が近いような、奇妙な重圧。
――――なんね、これ……。
思わず俯いて粗い息を吐き出した。ボロボロと落ちる、塊の吐息だった。
- 42 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:37
- 「れいな? どうしたの、気持ち悪いの?」
「え……あ、ちが、なんでもなか」
さゆみが心配そうに覗き込んできたので、れいなは慌てて顔を上げるとその表面に軽い
笑いを浮かべた。
「んー」さゆみはホッとしたのか、また茫洋としたようなほわほわした笑顔に戻って、
れいなの頭を二回、柔らかく叩いた。その意図はれいなには判らない。彼女は単純だが
何を考えているのかよく判らないところがある。単純だからこそ判らないのだろう。
複雑であれば手を延ばせばどこかに触れるが、単純だと隙間が大きすぎて、適当に手を
延ばしても何も触れない。
布に触れるより紐に触れるほうが難しいという、そういう話だ。
さゆみが唇をひん曲げる。笑っているのだが、妙に気に障る笑みだった。
「で? 何回くらいした?」
たぶん、両手の指で足りないくらいは。
などと正直に答えられるはずもない。れいなはそっぽを向く。
「もう先生来とるんじゃなかね? 戻ろ」
「えー?」
「うちらの担任、保田先生だった。たぶんめちゃくちゃ怒られっとよ」
脅し文句が効いたらしい。さゆみはつまらなそうに唇を尖らせながらも、それ以上追求
したりせずさっさと歩き出したれいなの後に続いた。
教室に入ると担任の保田はとっくに来ていて、二人は三年生になったその日のうちに
大目玉を食らう羽目になった。
自分の席につくまでの間、お互いに「さゆのアホ」「れいなのアホ」と言い合っていて、
聞き止めたクラスメイトに笑われたりして、れいなは更に機嫌を損ねた。
- 43 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:37
-
- 44 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:37
- 入学式も滞りなく終わり、絵里の制服姿を見物に行くというさゆみと別れて家路に着く。
なんだか最近、いい事がない。式後のホームルームが終わってからすぐ、逃げるように
教室を出たのも、周囲の無遠慮な視線に耐えられなかったからだ。まださゆみ以外は
直接聞いてきたりしないが、明日以降はどうなるか判らない。やらなければならない事は
ちゃんとやるタイプではあるが、これは出来れば避けて通りたい道だった。
学校は自宅より街の中心部に近い。せっかく午前中で学校を出られたのに、このまま
真っ直ぐ帰るのはなんだか勿体無い気がした。電車で一駅かバスで三つ。遊びに行くには
手ごろな距離ではある。
適当に歩きながらどうしようかと考える。その途中に胃がキリと鳴いて、そういえばまだ
食事を摂っていない事を思い出した。昨日はあんな事があったせいでなかなか寝付けず、
それまで長期休みだった影響もあって今朝は寝坊をしてしまったから、朝食も食べていな
かった。
目に留まったコンビニへ入る。ここは以前小さな本屋だったところだ。いつの間に潰れた
のか、れいなは知らない。
「いらっしゃいませー!」
花粉症なんだろうか。少々鼻声の、しかし元気のいい挨拶が降ってくる。いちいちそれに
挨拶を返すほど礼儀正しくはない。そもそも向こうだってそんな事をされたら困るだろう。
いや、ひょっとしたらマニュアルにそういう時の対応とかもあるかもしれない。どうでも
いい事だが。
- 45 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:37
- 「あ! ちょっとちょっと」
陳列されているパンなんかを眺めようとしていたれいなに、先ほどの店員が声を掛けて
くる。まさか挨拶を返さなかった事を怒られるわけでもないだろうな。そんな話は聞いた
ことがない。
れいなが振り返る。店員と目が合う。「あ」れいなが小さく呟いた。
「屋上の……」
「あ、やっぱあん時の子? やっだーちょーグーゼンー」
ふざけているのだろう、わざとらしいギャル喋りで話しかけてきたその人は、以前屋上で
居合わせた高等部の生徒だった。確か美貴とかいう名前だったか。胸元のネームプレート
には『藤本』と印刷されているので、フルネームは藤本美貴、なのだろう。
美貴はもう一人レジで待機していた店員に何かを告げると、軽く手を振りながられいなの
方へ近づいてきた。
れいなの隣で足を止め、サボっているのではないというアピールのために、並んでいる
商品の整頓をし始める。
「今日って入学式だっけ?」
「はあ」
「高等部はもうちょっと遅いんだっけか。じゃ大丈夫かな」
「はあ?」
商品の隙間が埋まっていく。れいなはそれを黙って見ていた。手馴れたものだ、もう長い
ことバイトをしているのだろうか。
- 46 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:38
- 手を止めないまま、美貴が口を開く。
「なにちゃん?」
「え? あ、田中れいなです」
「田中ちゃん。今日はあの子一緒じゃないの? あん時一緒にいた可愛い子」
「あ、絵里は今年から高等部じゃけん、たぶんまだ入学式終わっとらんのだと思います」
「そなんだ。年違うとそのへん大変だよねえ。亜弥ちゃんも美貴が高等部上がる時とか
すんごい拗ねちゃってさあ。あんたは幼稚園児かっちゅーのって感じだったんだよね」
思い出したのか、美貴が小さく苦笑のように吐息を洩らす。しかしながら、れいなは当然
その時のことなど知らないので、やはり「はあ」と気の抜けた相槌を打つしかなかった。
「亜弥ちゃんって、あん時の人ですか?」
「え? ああ、うん。ま、高等部じゃ二年一緒にいたからちょっとはマシだったけど」
それとも大人になったのかなあ。いややっぱ違うな。美貴は独り言のように続ける。
ように、というか独り言なのだろう。わざわざこっちに来たくせに自分の世界へ入って
しまうのはどうかと思ったが、年上でしかもほとんど面識のない相手へそれを言うのも
気が引けたので、れいなはそれに関しては何も言わず、代わりに別の方向から切り出した。
「二年?」
れいなの問いに、美貴が軽く苦笑する。
「うん。ホントは学年二つ違うんだけどね。美貴、三年生二回やったから」
「はあ」
「事故って入院してね。二学期丸々出れなかったんだよね」
面白いね。美貴が笑いながら言った。「何がですか?」れいなは素直に問う。
「美貴が普通に進級してたらさ、あそこで田中ちゃんと会う事もなくて、そしたら今だって
普通にお客さんとバイト店員でさ、とっくに美貴ありがとうございましたーなんて言って
田中ちゃん出てっちゃってたわけじゃん。面白くない?」
つまりは縁の話だろう。れいなは特に面白いとは思わなかったが、とりあえず合わせる
ことにした。
- 47 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:38
- 「そしたら、うちのお父さんが転勤とかせんかったら、こうやって藤本さんと話す事も
なかったっちゅー事ですね」
「そうそう。てゆーか田中ちゃん、やっぱこっちの子じゃなかったんだ?」
「小学校まで福岡です。言葉聞いたら判るじゃないですか」
「いやあ、最近はそういうのが中等部で流行ってんのかと思ってさあ」
そんなわけがあるか。喉まで出かけた言葉を飲み込む。
美貴は手前の棚をあらかた整頓し終え、次の棚の前へ移動し始める。隣にいるれいなも、
なんとなくそれに従った。
「学年違うのに仲いいのって珍しいね」
「そしたら、藤本さんたちだって珍しいじゃないですか」
「あー、まあ。あの子は存在自体が珍しいし」
「……わけ判らん」
れいなの独白に、美貴がふふりと笑う。
「亜弥ちゃんと会ったの、中三の夏なんだけどね。結構強烈な出会い方で。
なんだかんだあって……まあ、捕まっちゃいましたとさ」
「はあ……」
よく判らない。世の中は判らない事だらけだ。美貴の言葉も、二人の関係も、絵里の事も、
二人の関係も。
「で、田中ちゃんの方は?」
「一年の時、体育祭で一緒の係やったとです。そんで絵里、ぼけーっとしとるから何か
気になって、色々話しとるうちに仲良くなって一緒に遊んだりするようになったんですよね」
「ふぅん。気になったってどういう意味で?」
「は?」
棚から視線を移さないまま投げられた質問に、れいなの眉が訝しげに上がる。声も多少
上ずっていたかもしれないが、それは動揺したせいではなく単に疑問だったからだ。
- 48 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:38
- 「ああ、ごめん。なんでもない」美貴は片手を振りながらそう言った。れいなが首を傾げる。
袋入りの菓子が手前に引き出される。それと同じ感覚で、彼女は何かを引き出そうとした
のだろうか。
美貴は苦笑したまま整頓を続けている。れいなはその横顔を見ている。
店内に流れるBGMがれいなの好きなアイドルの曲になって、それに思わず顔を上げた時、
美貴がやはり苦笑混じりの声で呟いた。
「……屋上で会った時、君ら普通のオトモダチじゃないっぽく見えたから」
れいなが視線を美貴へ戻す。眉は訝しげに上がったままだ。
「なんですかそれ」
「絵里ちゃんだっけ? あの子、田中ちゃんのこと普通のオトモダチとして見てない感じ
したんだよね」
だからちょっと助けてあげたくなった。締めに使われた言葉は随分と情報量が足りて
いなかったが、れいなを動揺させるには十分な内容だった。
「な、なんですかそれ」
「ううん。美貴の勘違いだったら別にいいんだ」
どうしよう。れいなは迷う。どうも彼女は何かに気付いているらしい。何か、どころの
話ではない、はっきり気付いている。れいなはとりあえず固有名詞を使って考える事を
放棄する。
この人にあの事を聞いてみようか。この人ならアレに対する答えを教えてくれるだろうか。
「あの……ちょぉ、話せます?」
整頓が終わった。美貴が店内を見回す。平日の昼食時を過ぎた今、オフィス街にあるわけ
でもないここは閑散としている。
「ちょっと待ってて」美貴が片手をかざす。れいなはデジャヴを覚える。まあ、バーナーは
出てこないだろうが。
- 49 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:39
- レジにいる店員と何か会話をした後、美貴がれいなに向かって手招きをしてくる。
それに従ってそちらへ向かうと、手を引っ張られてバックヤードへ連れ込まれた。
「藤本さん、マネージャに怒られるよ」
「ちょっとだけだから」
気にした風もない美貴とは対照的に、れいなは僅かに不安を覚える。怒られるとしたら、
おそらく自分も一蓮托生だろう。
「いいんですか?」「いいのいいの」あっけらかんとした口調で答え、美貴はバックヤードの
中へ入り、積み重ねられた箱へ腰掛けた。
「適当に座って」
「はあ」
仕方なくれいなもそれに倣って腰を下ろす。当たり前だが座り心地が悪い。ついでに言う
なら居心地も悪い。
「さ、お姉さんに言ってみなよ。なに悩んでんの?」
「あの……」
れいなはとつとつと説明を始める。屋上でのこと。それからのこと。公園でのこと。
それからのこと。絵里の気持ち。自分の気持ち。
れいなが口を閉じてから数十秒間、美貴は無言だった。れいなは窺うように上目遣いで
彼女を見遣る。「その目、苦手なんだよね」どうしてか美貴は苦笑する。「あ、すいません」
れいなは反射的に謝った。
美貴の指が、自身のこめかみ辺りを掻く。そのまま指先で軽く叩きながら、美貴はふむと
小さく唸った。
「田中ちゃん、可愛いねえ」
「なんですか、いきなり」
「んーん。独り言」
ふふり。美貴の唇から笑声が洩れて、れいなはどうしてかマイナス方向の感情を覚える。
だからつまり。
馬鹿にされたような気がした。
- 50 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:39
- 「変だと、思いますか?」
「何を?」
「だから……」
「変だろうね。うん」
聞き返したくせに、美貴はれいなが答える前にその前の問いに答えた。
れいなの顔が瞬時に紅潮する。悔しいのか恥ずかしいのか情けないのか、自分でもよく
判らなかった。美貴はその様子を面白そうに眺めている。
「変だけど、しょうがないんじゃない?」
「へ?」
「どうにもなんないじゃん、気持ちとかって」
美貴の表情は困ったような笑顔になっていた。
ああ。れいなはそれで察する。
彼女もたぶん、「どうにもなんない」気持ちを、持っているんだろう。
「あの人と付き合ってるんですか?」
「おー、そう来たか」
くつくつと困ったように笑って、美貴が自身の鼻先を指で撫でた。
「そうって言うか違うって言うか。恋人みたいな感じだけど、よく判んない」
「判んない?」
「うん。なんだろうね、超微妙」
「はあ」
- 51 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:39
- 間の抜けた顔になってしまったんだろう、美貴がこちらの眉間に人差し指を当てて、
揉み解すように押し付けてきた。れいなは慌てて顔を通常に戻す。
「でも美貴の目に最初に入ってくるのは亜弥ちゃんなの」
「え?」
眉間を押さえつけたまま、妙に静かな声音で美貴は言った。
「どんだけ沢山の人がいても、美貴が最初に見つけるのは亜弥ちゃんなんだよ」
それが。その言葉がどういう意味を持つか判らないほど、休みボケした頭は鈍っていた。
鈍っていなくても判らなかったかもしれない。
判らないから、忘れないだろうと思った。
彼女のこの言葉を、これから先忘れる事はないだろうと、思った。いつか理解する日が
来たとしても。
美貴が指をれいなから離す。それから優しくれいなの頭を撫で、田中ちゃんは可愛いねと
さっきと同じ事を言った。
二度目は、嫌な気分にはならなかった。
「愛し合っちゃってるからね。恋かどうかは判んないけど」
だからしょうがないんだよ。困ったように笑って美貴は言う。
しょうがないという言葉を、こんなに前向きなニュアンスで言う人に、れいなは初めて
出会った。
それは諦念の言葉であり、諦観の心情であり、経年の悟りであり、静観してきた末の
答えだった。
ああ、だからか。れいなはようやく合点がいく。
あの時、「悪いことをしている気分」になったのは、そういう事だったのだ。
やはりあれは、見てはいけないものだったのだ。
それは彼女の諦念と諦観と経年と静観を、穢す行為だから。
- 52 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:40
- それはさゆみに尋ねられた時に感じたもやもやとも通じるものだった。見てはいけない
ものを見てしまった罪悪感と、してはいけないことをしてしまった罪過。
それでも多分、見てはいけないと、してはいけないと思っていたのは自分だけなんだろう。
「ま、本人には絶対こんな事言わないけどねー。調子に乗るから」
「はあ」
ひょっとしてノロケられたんだろうか。美貴の表情を見て、れいなは僅かに首を傾げる。
美貴は手持ち無沙汰なのか、商品をまとめているビニールを裂いていじり出した。
「もやもやして何か気になるっての、判るけど。多分そのうち納得できるようになるよ。
美貴なんか三年くらいかかったからね。田中ちゃんまだ若いんだし、焦る事ないんじゃ
ないの?」
「そう……ですね。そうかもしれんと、思います」
「お、素直」
可愛いねえ。美貴が呟く。妙な人だ。可愛いという言葉をやけに多用する。こんな風に
色んな人へ可愛いと言っていたら、そのうち誤解する人だって出てくるだろうに。
しかし、彼女にそういう風に言ってもらえたというのは、なんとなく嬉しかった。
「あの、ありがとうございました」
「もういいの?」
「はい。なんかスッキリしたんで」
二人揃ってバックヤードを出る。相変わらず店内は人気がない。これでやっていけるんだ
ろうかと、れいなはいらぬ心配をする。
マネージャとやらはまだ来ていないらしい。それにちょっと安心しながら、れいなは
店を出ようとした。
- 53 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:40
- 「田中ちゃん」
「はい?」
振り返ったところに何かが飛んで来た。「うわっ」取り落としそうになりながら、なんとか
キャッチしたそれに視線を落とす。
黄色い、平べったい箱だった。有名なブロックタイプの栄養補助食品だ。そういえば結局
何も買っていないなと、それを見た瞬間に思い出す。
投げてよこした美貴はきょとんとしているれいなに向かって、初めて会った時と同じ
ように「にひひ」と笑いかけた。
「奢り。頑張れワカゾー」
ピ、と指を突きつけながら放たれた台詞は、妙に嵌っていて格好良かった。
れいながくしゃりと顔を崩して笑って、手にした箱を軽く振って見せる。
「藤本さん」
「ん?」
「バーナー、結局あたしが返しに行って、先生にめっちゃ怒られたんですけど」
悪戯な口調で言われた言葉に、美貴は一瞬表情を失って、それから肩を竦めながら苦笑した。
「結構ちゃっかりしてんね」
言いながら、今度はゼリータイプのパックを放り投げてくる。
「まいどっ」危なげなく受け取って、れいなはそれを高く掲げた。
- 54 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:40
-
- 55 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:40
- 勤務時間が過ぎ、エプロンを外して帰り支度をしているところで、更衣室のドアが開いた。
「お疲れさまでーす」
言いながら美貴に抱きついてくる。他に人がいない事は確認したのだろうが、やはり少し
気恥ずかしい。
エプロンを畳む手を止め、抱きついてきた相手の顔を手のひらで押し退ける。
「こういうとこでそういう事しないの」
「ぶー」
「亜弥ちゃん、今日入学式だったんでしょ? どうだった?」
「にゃはは、寝てた」
「駄目じゃん」
悪びれもせず言ってくる亜弥に小さく苦笑して、その額を拳で軽く叩く。
「だって、みきたんいないからつまんないんだもん」
「なに、美貴もっかい留年すればよかった?」
「そうじゃないけどぉ」
入ってきた時に浮かんでいた人懐こい笑みは消え、今はぷくっと頬を膨らませている。
それに目を眇めて笑いながら、慰めるように柔らかい髪を撫でた。「へへ」途端に亜弥が
嬉しそうに笑う。単純なものだ。彼女は単純で愛しい。
亜弥が人懐こく笑いながら目を覗き込んでくる。美貴は首筋に嫌な感覚を覚える。だから
上目遣いで見つめられるのは苦手なのだ、彼女に限らず。これはもうトラウマと言っても
いいくらいだ。
彼女を愛しいは思うが、それとこれとは話が別だった。
次第に険しくなっていく美貴の表情とは対照的に、亜弥は笑みを深めて言った。
「みきたん、キスしていい?」
「駄目です」
渋い顔で返された言葉は、草原を走る猫のようにしなやかだった。
- 56 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:40
-
- 57 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:41
- 美貴に奢ってもらったパックの飲み口を齧りながら、れいなは塀に凭れかかってぼやんと
向こう側を眺めている。
時折通り過ぎる自動車が、邪魔臭そうにれいなを避けて曲がる。住宅街の道幅は狭い。
パックをぎゅっと握り潰す。押し出された中身が口の中に飛び込んでくる。
ゼリーを飲み込んで、空になったそれに蓋をしてバッグへ放りこんだ。その辺に投げ捨て
たりはしない。ご近所だし。
「れいな?」
少しだけ驚いたような声音。真新しい制服に身を包んだ絵里が、れいなから3メートルの
位置で立ち止まっている。その姿を見るのは二回目だった。
「なにしてんの?」
「絵里待っとった」
絵里の自宅の前に立っているのだから、向こうだって聞く前に判っていたのだろう。
「そっか」と小さな呟きを洩らしたが、絵里はそこから動こうとしなかった。
れいなが黄色い箱を開ける。折り紙の金色のような、いやに煌く包装を破り、中から
ブロックを取り出す。咥え、顎の力で中ほどから折る。フルーツ味だ。れいなはそれが
一番好きだった。二番目はチョコレート味で、チーズはあまり好きではない。
「食う?」
包装に入ったままの一本を差し出す。絵里が歩み寄ってきて、れいなの目の前で立ち止まる。
- 58 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:41
- かふ、と乾いた音がして、れいなが差し出したのとは逆の、つまりは半分がれいなの口に
収まった方の、三分の一が消えた。
れいなは無言だった。絵里も無言だった。れいなは残った全部を絵里の口に押し込んだ。
「んあぁ」
ハムスターのように絵里の頬が膨らむ。ちょっと苦しそうだ。乾燥しているから飲み込む
のに苦労しているんだろう。いい気味だと思うのは性格が悪すぎるので、思わなかった。
口元を手で覆い、むぐむぐと必死に口の中のものと格闘している絵里は、どこか間抜けて
いておかしかった。笑ったら怒るだろうが、だからといって堪えられるものでもない。
意地悪く笑いながら、必死な絵里の顔を下から覗きこむ。
「絵里、大変ちゃね」
「むーっ」
むぐむぐむぐむぐ。絵里は眉根を寄せながら懸命に咀嚼する。
ようやく飲み込めたのか、絵里の手が口から外れた。
「れいな、ひどい」
「ひどくなか」
「むー」
また、絵里の頬がハムスターになる。中には何も入っていない。
「れいなムカつくー」
不機嫌に言い捨てて玄関へ向かう絵里の腕を、れいなは冷静に掴む。
「違う。こんなんしにきたんと違うんよ。絵里」
「なに」
絵里が振り返る。れいなは手を離す。溜息をつきたかったが、その前に笑ってしまった。
- 59 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:41
- 唇が尖っていて、頬が膨らんでいて、そのくせ目は赤ん坊のようだ。
怒っていて、拗ねていて、それでも世界は自分を愛していると信じて疑わない赤子の
ように、絵里はれいなを見つめている。
ああもう、本当に冗談じゃない。それは買い被りすぎだ。
れいなは切なくなる。
「……あたしは、絵里んこと好いとうのか、判らん」
「え?」
「けど、他の人にあたしとするような事してほしくないし、多分あたしが最初に見つける
のは絵里だし、絵里が最初に見つけるのもあたしだと、思う」
「なにそれ?」
彼女が判らないのも無理はない。それでもれいなは無視して進める。
「だから絵里は、あたしの事だけ見といて」
判らないわりに、随分と告白じみているなと、言ってから思った。
絵里がふにゃりと笑った。何を考えているのかよく判らない笑顔だった。
「れいな変なの」
「変でもいいんよ」
それでもいいと、美貴が言ってくれたから。先輩の指導は、時には教師のそれよりも
ためになる。
しょうがない。歩み寄ってきた彼女を拒絶するほど嫌いではないし、こっちから与えて
やるほど好きだという自覚もない。だからとりあえず、しばらくはここにいようと思う。
まだ若いんだしさ。目線を下に向け、前髪をかき上げながら、れいなは美貴の言葉を心の中で繰り返す。
そうですね、まだ若いですから。
だから、もうちょっとこのままでいようと思います。
心の中の返答は、誰にも届かない。だからそれは、答えていないのと一緒だった。
- 60 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:42
- ふにゃっと笑ったまま、絵里が首を傾げた。何を不思議に思っているんだろうか。先程の
台詞の意味が理解できなかったのか、れいなの気持ちが判らないのか。
「って、待てぇ!」
慌てて絵里の顔を手のひらで覆ってガードする。彼女は不思議がって首を傾げたのでは
なかった。
「んむー」きゅう、と絵里の眉根が寄せられる。その感触がくすぐったい。れいなは笑い
出しそうになるのを堪えながら手を離した。
それから唇をひん曲げて怒っているような表情を作り、絵里を睨みつける。
「ば、馬鹿! 誰かに見られたらどうしよぅとよ!」
「けちー」
「そういう問題じゃなか!」
「だって、したかったのー」
絵里の不器用で無軌道なリビドーを正面から浴びて、れいなは言葉を失う。
真新しい制服は糊が効きすぎていてシルエットが鋭角的だった。それを打ち消すかの
ように、彼女の笑みは柔らかい。
「うち来る?」「……うん」自分が平静でない事を、どこか冷静に察していた。
お邪魔します、とリビングにいた絵里の母親へ声をかけてから彼女の私室へ入り、さっき
押し留めたキスをした。
音は立たない。12日前にしたものより、少しだけ時間が長い。絵里の指先がれいなの髪に
潜り込んでくる。それにくすぐったさ以外のものを覚えるほど、れいなは成熟していない。
離れ、頬へ軽く口付けられる。なんだかそっちの方が気恥ずかしかった。
- 61 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:42
- 「……さゆ、そっち行った?」
「うん。れいなのこと聞かれた」
「な、なんて言ったと?」
「ばり好いとーって」
またそれか。れいなが脱力する。絵里の方は既に凭れかかってきていたから、結果的に
抱きしめるような形になって、れいなは慌てて身体を起こす。
「べ、別にあたし、絵里と、こ、こ……そういうんになるわけじゃないけんね。
あんたんこと、好きかどうか判らんし」
どうあっても、れいなの脳は固有名詞を使って思考することを拒むらしい。
明確な思考であれ、暗黙の思考であれ、結局は同じ事なのだが。
照れているのを隠そうとして隠しきれていない表情で告げられた言葉に、絵里は無邪気に
笑った。
無邪気ではあるが、無作為ではない笑みだった。
つまり、れいなに「冗談じゃない」と思わせるくらいには、作為的だった。
- 62 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:42
-
- 63 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:42
- れいなは窓枠に凭れかかりながら、ぼんやりとグラウンドを眺めている。
グラウンドは中等部と高等部で共通のものだ。都市部の土地不足は深刻である。
ジャージ姿の生徒が、砂糖に群がる蟻のようにわらわらと集まっている。濃い青色の集団。
それは高等部の生徒たちである事を意味している。中等部の指定ジャージは白だからだ。
夏の空と同じ配色であるが、そういう詩的な理由だったのか、それともただの偶然なのか、
れいなは知らない。
――――あ。
ひとつの後ろ姿が目に止まった。流れる真っ直ぐな黒い髪。ジャージの袖を指先で摘み、
身体を少しだけ縮こまらせている。寒いんだろう、四月とはいえ風はまだ冷たい。
れいなはその背中をじっと見ている。
最初に目に入ってくるのは。
なんとなく悔しいな、と思った。
――――あれ?
その背中に近づく別の人影があった。同じくらいの長さの黒髪と、のんびりとした歩調。
れいなが見ていた少女がそちらを向く。横顔が見える。
新垣さんだった。中等部の頃も絵里と同じクラスだった彼女は、高等部でも一緒らしい。
だから、つまり。
……間違えた。
- 64 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:42
- 「い、いや別に絵里んこと探してたわけじゃないし」
パタパタと仰ぐように手を振りながら自分に言い訳をする。これはなんというか、非常に。
恥ずかしかった。
絵里には黙っておこう。予感の域を出ないが、言ったら怒りそうだ。
その絵里はと言えば、新垣と何か話している。寒いねーとかそんな感じだろう。
気を取り直して見物を続ける。男子生徒がマーカーでグラウンドにラインを引いている。
今日は陸上競技の授業のようだ。転んだりせんといいけど。運動神経が悪いわけでもない
のにどこか抜けている絵里に対して、そんな事を思う。
「ん?」
不意に絵里がこちらを見上げてきた。さしたる時間もなくその顔に笑みが浮かび、大きく
手を振ってくる。
校舎の三階と地上で交わされる視線。おいおい、とれいなは口の中だけで呟く。
最初に目に入るのは。
気まずさと多少の後ろめたさのせいで引きつる口元を精一杯引き上げ、れいなが絵里に
手を振り返す。
どうにもならない気持ち。
夏の空を思わせる青いジャージがわらわらと集まる。雲ひとつないその光景は清々しいが、
まだ春の先である今時期、それはまだ早いだろうとも思う。
予鈴が鳴った。教室にガタガタと椅子を引く音の連弾が響く。無作法で無遠慮なそれは、
彼女のリビドーを思い出させた。
- 65 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:43
- れいなも自分の席に着き、机の中から教科書を探し出す。さゆみが後ろから背中を
突付いてくる。「なんね」さして気のある気配もない口調で応じる。
「さっき、絵里見てた?」
「見とらんよ」
「うっそお」
さゆみは面白そうに、オーバーな口調で驚いてみせた。何が「うっそお」なのか、そして
何がそんなに面白いのか、れいなは噛み付くかどうか瞬時迷う。
しょうがないという諦念。
迷った末に出てきたのは、溜息ひとつ。
「……見とった。それでいい?」
「怒んないでよ」
「怒っとらん」
「うっそぉ」
今度はあまり面白そうではなかった。
「もうそういうの、やめ」
別に不機嫌でいるつもりはなかったが、予想外に声音は硬くなった。怒っていないと
告げた言葉は、嘘ではないはずだったのに。
さゆみが困惑する気配が背中にさわさわと触れてくる。今のはちょっと無いなと自分でも
思ったので、れいなは謝ろうかと後ろを向いた。
「別に怒っとらんよ。ほら、絵里がおらんとこでそういう話すんの、なんか良くなかやん」
「うん、判った」
- 66 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:43
- さゆみはほわほわした笑顔だった。もうちょっと落ち込んでいるかと思っていたれいなは
わずかに拍子抜けする。
「じゃ、今度から絵里もいる時にするね」
「……そういう事じゃなか」
れいながぺたりと机に突っ伏す。絵里もさゆみも、どうしてこうこっちを疲れさせるのか。
「どしたの? れいなー」さゆみが頭頂部を突付いてくる。手探りに払ってそれをやめさせ、
一度身体を起こして自分の机で寝なおした。
つつ、とさゆみの指先がれいなの背筋をなぞる。突付かれるより腹が立ったので、それに
ついては無視を決め込んだ。
「んじゃ最後に一個だけ教えてよ。どうなったの?」
「んー?」
うなじの辺りに響いた問いに、れいなは突っ伏したまま気のない相槌を打つ。
「よう判らん」
「えー?」
「……まあ、謎は謎のままって感じ」
「わっけ判んない」
さゆみがつまらなそうに言って、そこで担任の保田が教室に入ってきたので会話は終了した。
- 67 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:43
- 出席を取り始めた保田の良く通る声を聞き流しながら、れいなは窓の外を見遣った。
準備運動でもしているんだろう、ホイッスルが一定のリズムで鳴っているのが聞こえる。
今日は一緒に帰ろうか。まだ朝のホームルームが始まったばかりだというのに、れいなは
そんな事を考える。それもまた、青いジャージのように早すぎたが、まあ悪くはない。
「田中れいな」
「はい」
「今日はちゃんと来てたわね」
からかいじみた嫌味を、へらりとした笑みでかわした。
保田が苦笑して次の生徒の名前を呼ぶ。点呼と応答の連弾。それはホイッスルに呼応する
かのように一定のリズムを保っている。
頬杖をつき、窓の外に広がる空を眺めながら、れいなはハッカ飴のような吐息を洩らした。
今のところは、謎は謎のまま。いずれ答えが出る日も来るだろう。その頃には、美貴が
言った言葉の意味も理解出来ているかもしれない。
今日は三人で帰って、途中あのコンビニに寄ろう。
雲が散らばる空を見ながら、そんな事を思った。
《The truth is under summer sky.》
- 68 名前:『DOUBT』 投稿日:2004/03/26(金) 23:44
-
以上、『DOUBT』でした。
やっと重さん出てきたー。
参考:http://mseek.xrea.jp/silver/1057398331.html 610〜635
というわけで、この物語は3スレに渡って展開される大長編です。
……すいません、単に計画性がないだけです_| ̄|○
- 69 名前:円 投稿日:2004/03/26(金) 23:44
- レスありがとうございます。
>>27
田亀いいですよ! 控えめな絡みっぷりが堪りません(爆)
田中さんはもっと松浦さんを見習ったらいいと思います。
>>28
6期いいですよ!(くどい)
すっかり6期ヲタ状態な自分が恐い。あの頃にねえ戻し(ry
あぁ!の田中さんは卑怯です。
>>29
はい、田亀でした(笑)ところで田亀よりれなえりって言った方が
メジャーなんでしょうか。
>>30
絶交は子供の最終兵器です。
でも次の日になったら普通に遊んでるという(笑)
>>31
あわわ、何度も読まれると文章やら構成やらの粗が(爆)
いや、ありがとうございます。嬉しいです。
>>32
やはりこう、世界観というのは大事にしたいなと。
でも統一させるのがちょっと大変……(苦笑)
>>33
天使〜は何気に自分でも気に入ってたりなんだりします。
お子様恋愛が大好きなもんですから。
>>34
一応主軸なので、この二人(と重さん)はちょこちょこ出てきます。
全く出ない話もあったりしますが(苦笑)
- 70 名前:円 投稿日:2004/03/26(金) 23:45
- えと。あやみきを期待されているようなのですが、本スレにおいてあやみきメインの
話はありません。
このスレに載せる話には全て共通のテーマがありますが、藤本さんと松浦さんだけは
そこから外れているため、主人公にはなり得ません。
前々作『Lost Childhood』で、辻視点の描写がなかったのと同じ理由です。
あやみきを期待して本スレを覗いてくれた方には申し訳ないのですが、
書き手として最低限守りたい矜持という事で、理解して頂ければ幸いです。
でも今回のように、サラッと出てきて無駄にいちゃつくくらいはします(笑)
- 71 名前:つみ 投稿日:2004/03/27(土) 01:11
- なるほど・・・
そうつながるのか・・・
3スレに渡る長編だったとはびっくりでした!
次回も楽しみです!
- 72 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/03/27(土) 14:56
- 重さんや藤本さん松浦さんがいい味出してますね〜
主人公と脇役の差があまり感じられないって言うのもいいなぁ。と思ったり。
読んでいて、あぁ、こんな気持ち分かるなーとか思ったりしてます。
次回も楽しみにさせていただきます!
作者さんのペースでごゆっくり頑張ってくださいませ♪
- 73 名前:27 投稿日:2004/03/27(土) 16:39
- 更新お疲れ様です。
ぜひサラッと出てきて無駄にいちゃつかせて下さい(笑)
あやみきは一押しのCPですが、それ以前に円さんの文章が大好きなので
次回も楽しみにしています。
- 74 名前:33 投稿日:2004/03/27(土) 18:46
- 「繋がり」に思わず膝をパンと叩いてしまいました。
重さんと藤本さんが暖かいですね。
最後の二行、なんとなく好きです。
- 75 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/03/27(土) 22:39
- そういうことかぁ〜!!
っはーっ…思わず唸らされました。
円さんが書かれていたのはぎりぎりの時期の女の子の美しさみたいなのかな、
なんて勝手にですけれど思いました。
失礼ながら、あやみきを期待して覗いたスレですが、
もう、気付けば世界にどっぷりです。
藤本さん以外の六期って正直に言えばあまり興味なかったんですが、
なんだか好きになりそうです。
てゆーか、もう好きになりかけてます。w
とにかく脱帽の一言。
- 76 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:16
-
シューズの紐を結び、傍らに置いていたボールを手に取る。軽くバウンドさせながら
ドアを開けて、音を立てずにそっと抜ける。
家の中はシンとしている。まだみんな寝ているのだろう。当たり前だ、今は午前の6時を
過ぎたばかりで、両親も弟たちも起床する時間じゃない。
自転車の前カゴにボールを入れる。本当はマウンテンバイクが欲しいのだが、何度頼んで
みても親は首を縦に振ってくれない。女の子なんだから、というのがその理由だった。
ひとみはそれをとても不満に思っている。
中学時代から使っている自転車はチェーンが錆びかけていてペダルが重い。それを力一杯
踏み込んで、ひとみは走り出した。
- 77 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:16
- いつもの公園に到着する。数年前に大掛かりな整備をされたそこはかなり広くて、周りを
取り囲むように遊歩道が設けられている。朝はジョギングをする人達が何人か見え、昼は
健康のためにウォーキングをする老人や犬の散歩に来ている人を見かける。夜に来た事は
ないが、多分色々と有効活用されているだろう。
ボールはひとまずそのままにして、ひとみは首にスポーツタオルを巻き付けてから遊歩道
へ入って走り始めた。まずは軽くウォーミングアップ。
フッフッと短い呼気が一定のリズムで唇から洩れる。走って十分もする頃には身体が
気持ちのいい熱を持ち始めていた。買い換えたばかりのシューズはまだ足に馴染んでいな
くて少し痛い。それでもひとみは気にする事なく走っている。
前方に先客の姿が見えた。一つにくくられた長い髪が身体の動きにあわせて尻尾のように
跳ねている。なるほどポニーテイルとはよく言ったものだ、ひとみが小さく笑う。
足を速め、その人影に近づく。背中を軽く叩くと、うん?というようにこちらを振り返って、
ひとみの顔を見止めて笑いかけてきた。
「おっす」
「おっす」
短い呼吸を繰り返しながら彼女と並んで走る。ひとみは自分のペースを崩されていない。
彼女との身長差は10センチ以上。つまり歩幅にも差があるという事だが、彼女は別段
辛そうな様子もなかった。
「のの、今日早いじゃん」
「来月大会だから、お父さんが気合入れろって」
「へえ。頑張れよー」
ペースを落とす事もなく二人は走っているが、喋っても息が切れたりはしない。それは
二人の身体能力の高さを物語っており、同時に二人とも運動バカだという事も物語っていた。
- 78 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:17
- 隣を走っている彼女は辻希美という。陸上競技界隈では多少知られている存在だった。
専門は短距離で、中学に入ってから陸上を始めたのだが、初めての大会でいきなり三位に
入賞して注目されるようになった。それから二年間、彼女は大小様々な大会で上位入賞を
果たし、三年生に進級した4月の段階で、既に複数の高校からスカウトされていたらしい。
しかし彼女はそれから五ヶ月が過ぎた今も、どの高校に進学するか決めていない。
希美と知り合ったのは一年位前だ。早朝の自主練を始めた頃、今日のように遊歩道を
走っている彼女を見つけ、通り過ぎる一瞬に挨拶の声をかけたのがきっかけだった。
それからほぼ毎回顔を合わせるようになり、なんとなく仲が良くなった。
「大会ってなんの? 県のやつ?」
「よく判んない。なんかセンコウカイだって先生が言ってたけど」
「選考会?」
ひとみは運動バカではあるが、陸上競技には詳しくない。中学時代はバレー、高校に
入ってからはフットサルに没頭したから、他のスポーツについてはあまり興味がないのだ。
だから希美の言う『センコウカイ』も、何を選考するのかは知らないが、なんとなく
すごそうだな、と思うしかなかった。
「ふぅん……まあいいや、頑張れ」
「うん」
頷いて、希美がかふ、と欠伸をする。気合は入っていても、眠いものは眠いんだろう。
- 79 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:18
- 公園を三周してから二人は足を止める。軽く汗ばんだ気配が背中から伝わって心地良い。
ひとみが自転車からボールを取り出して地面に落とし、爪先で蹴り上げてリフティングを
始める。希美は腿上げをしながらそれを眺めていた。
「ののはさー」
「んー?」
高く蹴り上げたボールを額で受け止める。勢いを殺して膝へと流し、ポンポンと慣れた
様子でボールを操る。
「フットサルとかやんないの?」
「ルールっ、判んないんだもん。陸上はっ、走るだけでっ、いいから、楽っ」
腿上げをしたまま答えるから、言葉が妙なところで切れている。そんなもんかな、と
思いながら、ひとみは「ふーん」と相槌を打つ。
ボールを足の甲で何度も跳ね上げる。ポーンポーンと間延びしたリズムでボールが浮かぶ。
おもちゃを目の前で揺らされた猫のようにボールの行方を目で追っていた希美は、いつの
間にか腿上げをやめていた。それに気付いたひとみが、殊更高くボールを蹴り上げて、
見事胸でトラップしてみせる。
すごいだろ、みたいな顔で笑うと、希美は何故かムッとしたようだった。
「フットサルなんかサッカーの子供みたいなヤツじゃん」
妙なところからいちゃもんをつけられる。それはちょっと、ひとみも黙ってられない。
「うわ、フットサル馬鹿にするなよ。サッカーとフットサルは全然違うんだから」
「おんなじじゃん。ボール蹴ってゴールに入れるゲームでしょ?」
「そ、それはそうだけどさ……」
人数が違うとか、細かいルールが違うとか、色々と反論できる材料はあるものの、さあ
それを逐一説明しようと思っても、ひとみにはサッカーの方の知識がなかった。
「とにかく違うんだよ」不機嫌にそう言って、ひとみはまたボールをいじり始めた。
- 80 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:18
- 希美は屈伸をしている。かれこれ一年くらいの付き合いだ、彼女のメニューはひとみも
知っている。これからダッシュ10本。
「走るのは、なんにも考えなくていいから楽」
呟いて、希美は走りだした。「おー、速い速い」ひとみが感心したようにひとりごちる。
「タイム計ってやろうか?」
「いらないー」
ヒュン、と音がしそうな速さで駆け抜けていく希美に声をかけたが、返答はにべもなかった。
ひとみはちょっとつまらない。
ダッシュを続ける希美はひとまず放っておき、眼前に頭の中でラインを描く。
S字を何本も繋げたような、曲線だけのラインだった。ひとみはそのラインの端にボールを
置いた。
軽くボールを蹴り出し、ラインをトレースしながらドリブルをする。何か目印になる物が
あれば簡単なのだが、手ごろなものがないためいつもこういう手法を取っている。
何も考えずに走る希美と、常に考えながらボールを繰るひとみと。
無言のまま、二人は自分の世界を走っていた。毎日のように続けているからだろう、
ここをジョギングコースにしている人達も、この時間は道の端に避けてくれたり、別の
ルートへ入ってくれたりするから、二人を邪魔するものはない。
それは交錯しない、到達しない、重複しない二人の孤独だった。彼女たちはそれが楽で
心地良かった。そういう二人の世界だった。
- 81 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:19
- 「――――ふいーっ」
ダッシュを終えた希美が、まさにひと仕事終えた、という表情で息をついた。さすがに
肩で息をしていて、それを見つけたひとみがドリブルをしたまま自動販売機まで走る。
スポーツドリンクを二本買い求め、希美へ一本を投げてやる。「さんきゅー」希美が邪気の
ない笑みを見せた。
ベンチに並んで腰かけて一休み。手の中のジュースは、どちらの物もすぐに空になった。
「あー。いい天気だー」
「うん、いい天気だー」
「眠てー」
「眠てー」
本当にごろりと寝転がって眠ってしまいたい気分だった。身体を動かした後の程よい
疲れは、ひどく睡眠への思慕を深める。
とはいえ、そんな事ができるような場所でもない。ひとみは代わりとばかりに大きな
欠伸をしてから、勢いをつけて立ち上がった。
「さて、そろそろ帰りますか」
その一言をきっかけに、希美も同じようにしてベンチから腰を上げた。
「ばいばーい」
「バイバイ。選考会頑張れよー」
「おー」
希美が走っていくのを、ひとみはしばらく見送る。家はこの近所なんだろうか。彼女は
いつも走って帰る。
小さな後ろ姿が見えなくなってから、ひとみも自転車に乗って家路についた。
- 82 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:19
-
- 83 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:19
- 朝の学校は騒がしい。昼も騒がしいが、朝のそれは比べものにならない。
ざわざわザワザワ。昨日のテレビ番組。新作ゲーム。デビューしたてのアイドルについて。
芸能人のゴシップと数学教師への不満と美味しいケーキショップの話題が同時進行して
いる。ひとみはそのどれにも加わっていない友人の頭を叩く。
「……んあ?」
加わっていないのは眠っていたからだ。唐突に訪れた睡眠妨害に、真希はぼんやりとした、
しかし咎めるような視線を送ってくる。
「おっはー」
「おっはー。てゆーか寝かせてよ。昨日遅番だったから眠いのぉ」
「なんで? いっつも9時には上がってるじゃん」
ひとみがきょとんと首を傾げた。真希は両親が経営するコンビニでバイトをしている。
バイトというよりは手伝いに近いようなものらしいが、ちゃんと手当てはもらえている
らしい。もらえなかったら絶対手伝わないよ、というのは彼女が愚痴る時の常套句だ。
「美貴ちゃんの代わりに入った短期バイトがソッコーやめちゃってさあ。人足りない
からっていきなり入れられた」
「はー。そりゃ大変だ」
横を向き、腕を枕に突っ伏した頭をわしわしと撫でてやる。労わったつもりだったのだが、
撫で方が乱暴だったせいか真希は眉間に皺を寄せると、んーと唸って首を振った。
- 84 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:20
- 「あ、美貴ちゃん退院延びたって。再来月の終わりくらいになるみたいよ」
「マジ? んじゃお見舞い行くかー。鉢植え持って」
「美貴ちゃんに殴られるよ」
「そしたら赤いバラの花束で」
「まっつーに殺されるよ」
つまらなそうに言いながら真希は目を閉じる。
今度は優しく撫でながらその横顔を眺めていたひとみが、小さく苦笑いを浮かべた。
あまり相手をしたい気分じゃないらしい。仕方なく口を閉じる。
鉢植えやらバラの花束やらは冗談としても、見舞いには行こうかと思った。夏の間は
練習試合や大会でなかなか時間が取れなかったが、最近は落ち着いているから行こうと
思えば顔を見せられるだろう。
折りよく今日は顧問がいないために部活動は休みだ。放課後すぐに向かえば、面会時間に
は間に合う。
真希を誘おうかと思ったが、やめた。
そっと真希の顔を覗きこむと、彼女は既に熟睡している。なんだか寂しくなってしまった。
溜息よりは重くない吐息をこぼして、ひとみは自分の席に戻った。
本鈴が鳴って、生徒たちが次々に席へ着いていく。ひとみはそれを端から順繰りに眺めて
いった。廊下側から男子女子男子女子男子女子。カテゴライズされ、区分けされ、整列。
ひとみはこの光景があまり好きじゃない。制服もあまり好きじゃない。
バレーからフットサルに転向したのは、ユニフォームが男子も女子も同じだったからだ。
別れてから3時間も経っていないのに、希美に会いたくなった。
けれど、ひとみは彼女の家も連絡先も知らない。
- 85 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:20
-
- 86 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:20
- 病院の近くにある花屋へ足を運ぶ。いい立地条件だと思った。
「いらっしゃいませー」
バイトなのだろうか、小柄で純朴そうな少女がにこやかに出迎えてくれる。花の匂いが
充満していて、ひとみはくしゃみが出そうになった。
それを堪えながら、そういえば美貴は鼻が弱かったなと思い出す。
「あの、お見舞いに持って行きたいんですけど。あんま匂いがきつくないので作ってもらえ
ますか?」
「その人、好きな色とかあります?」
問われてひとみは首を捻る。真希を通じて知り合った彼女とは結構仲がいいが、そういう
話をした覚えはそれほどない。
「んー……着てる服が白とか黒とか多いから、その辺かな。ピンクとか、あんまり女の子
っぽいのは好きじゃないかも」
「じゃ、白をベースにしてちょっと他の色も入れてみますね」
いくらなんでも黒は無理らしい。白も葬式に使われる色として縁起があまり良くない。
だから彼女は他の色も組み合わせると言ってくれたんだろう。
- 87 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:22
- 花束を作ってもらう間、ひとみは勧められた椅子に座って待っていた。少女の小さな手が
花の茎を切り、束ね、形作っていく。自分には出来ないな。ひとみは感心しながらそれを
見ていた。
「あれ……。矢口ー! やーぐちー! リボンないよー!」
包装にくるんだところで、少女が奥に向かって大声で呼びかける。その小さな身体には
似つかわしくない声量に驚いて、ひとみが僅かに仰け反った。
呼び声に応じて出てきたのは、更に小柄な少女だった。在庫の整理でもしていたのか、
その両手には軍手がはめられている。
少女は呆れたように眉を寄せていて、そのままの表情で相手の足元のあたりを
指差した。
「この前場所変えたじゃん。そこの下の棚」
「あ、そっか。ごめんねぇ」
えへへ、と誤魔化すように笑い、言われた場所から淡いブルーのリボンを取り出す。
「すいませんね、うるさくて」軍手を外しながら謝ってこられて、ひとみは慌てて首を振る。
出来上がったのは、片手で持てるくらいの控えめな花束だった。これくらいが丁度いい。
あまり大げさにすると返って彼女を怒らせてしまう。本気で怒るわけではないが、何せ
彼女は照れ屋だから。
「はい、お待たせしました」
「ありがとうございます」
花束を受け取り、代金を支払って店を出る。なんだかちょっと気恥ずかしい。
「似合わねー」自嘲のように笑いながら呟いた。
顔を近づけて息を吸い込むと、仄かに甘い香りが流れてきた。
くしゃみは出ない。
- 88 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:22
-
リノリウムの床がローファーの底と擦れて音を立てている。病院特有の匂いはどうしてか
不安にさせる。自分は命に別状のない友人の見舞いだからまだいいが、そうじゃない人には
この匂いは堪ったものじゃないだろうなと思った。だから見舞いには花を贈るのかも
しれない。少しでもこの匂いを緩和させるように。
目的の病室へ到着し、花束を持った方とは逆の手で軽くノックをする。返事を待たずに
ドアを開け、「おーっす」と声を掛けようとしたひとみの動きが止まった。
「……お邪魔しました」
「馬鹿! 助けてよ!」
いやいやまいったねこりゃみたいな笑顔でドアを閉めようとしたら、美貴の悲痛な叫びが
突き刺さってきた。
病室は四人部屋だが、今は美貴しか使っていない。
その妙に広い部屋の中では、妙に切実な表情の美貴と、妙に幸せそうな亜弥がいた。
そしてその二人は、妙な攻防を繰り広げているらしかった。
美貴の左腕はギプスで固められ、ベッド脇に置かれた台に吊り下げられている。右腕も
包帯は巻かれているが、動かす事はできるらしい。
その右手で、美貴は亜弥の顔を全力で押し退けている。
- 89 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:23
- 「いやあ、吉澤にはあややとのスウィートタイムを邪魔する権利なんてないし。
まあごゆっくり。もうちょっとしたらまた来るわ」
「これのどこがスウィートタイムなのよ!」
「みきたん、せっかく吉澤さんがああ言ってくれてるんだからさ、遠慮しないでゆっくり
いちゃいちゃ」
「しません!」
「まだ全部言ってないのにぃ」
亜弥がぷう、と頬を膨らませる。それに苦笑しながら、ひとみは病室の中へ入った。
「はいはい、ごめんよあやや。すぐ帰るからね」
宥めるように言って、花束を差し出す。「お見舞い」「ありがとうございますー」受け取った
亜弥がそれを花瓶に生けた。美貴は何か言いたそうだ。おそらく、どうして美貴への
見舞い品を亜弥に渡すのか、とかそういう事を言いたいんだろう。だってねえ。ひとみは
やはり無言で言い返した。
亜弥と並んで椅子に腰かけ、窺うように美貴と視線を合わせる。
「調子どう? ごっちんが退院延びたって言ってたけど」
「あー、傷口にばい菌入っちゃってさ。どっかの誰かが暴れさすから」
「ひどい事する人もいるもんだよねー。でも大丈夫、あたしがちゃんと看病したげるから」
美貴が微妙な表情になった。それを見ていたひとみもどういう顔をしたらいいか判らな
かったので、とりあえず軽く笑っておいた。
本当に判っていないのか、それとも判ってていなしたのか、亜弥の表情はいつもと変わる
ことのない、人懐こい笑顔だった。
- 90 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:24
- ひとみがベッドサイドに置かれていたシュークリームを勝手に取り、遠慮なく食べ始める。
「こらこら、それ美貴のお見舞いなんだから」呆れたように言ってくるが、もう口に入れて
しまったから返せない。
シュークリームを頬張りながら、ひとみは美貴の胸元を指先で示した。
「学校、大丈夫そう? 再来月ったら二学期ほとんど出れないじゃん」
「うん。お父さんと相談して休学することにした。美貴の頭じゃ、追いつくの無理だしさ」
渋い顔で答える美貴に、ひとみは微かに同情する。
「じゃ、来年はウチと同学年か」
「くっそー」
誤魔化すようにおちゃらけた口調で言うと、美貴も冗談じみた口調で言い返してきた。
彼女は今まで無遅刻無欠席だったわけではない。面倒臭くて途中で帰った事もあるらしい。
それでも、『行かない』ことと『行けない』ことの違いを、ひとみは知っている。
美貴が着ている開襟のパジャマから、包帯が覗いていた。
そんな風にひとみがしんみりしている横で、亜弥は人懐こく笑っている。
「でもちょっと嬉しかったりして。来年もみきたんと一緒にいられるんだよね」
「人の不幸喜んでんの、あんたくらいだよ……」
深く嘆息して美貴が呟く。
いや、他にも結構いるよ、と言おうとしたが、彼女が不機嫌になることは目に見えている
のでひとみは口を挟まなかった。
なにせ美貴は人気者だから。男女問わないが女子の比率が多少大きいかもしれない。
知ったら喜びそうな友人を、ひとみは男女共に何人か知っている。
- 91 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:26
- 「だいたい、バイト先も一緒で休みの日はうちに押しかけてきて、そのうえ学校でまで
一緒とかってなに? ストーカーかあんたは」
「だって、好きな人とは一緒にいたいじゃん」
さらりと言ってのけて、亜弥が美貴の首筋に腕を巻きつける。
「ば、馬鹿っ、よしこ見てんでしょ!」慌てて引き剥がそうとするが、ギプスで固められた
身体は上手く動かない。
「あ、ウチの事は気にしなくていいから」
「気にするっつーの!」
やっとの事で亜弥を引き剥がした美貴が強い目で睨みつける。ひょう。ひとみは自分が
睨まれたわけでもないのに僅か身を引いた。
だが、当人である亜弥は全くダメージを受けていないようで、人懐こい笑みを浮かべたまま
美貴の頭を撫でていた。
ノックの後にドアが開き、看護師が入ってくる。その手には何か器具を持っていて、
「ごめんなさいね」とひとみ達に声をかけると準備をし始めた。
「これから検査なのよ。面会は終わりにしてもらえる?」
「あ、はい」
「えー」
不満そうに膨れる亜弥を、ひとみは苦笑しながら連れ出す。美貴の様子を窺うと、苦い
ものでも舐めたのを我慢しているような顔をしていた。そんな顔するくらいならもっと
優しくしてあげればいいのに。ひとみは二人の関係がよく判らない。
「じゃあ」
「うん。来てくれてありがと」
「みきたーん、明日も来るからね」
「来なくていいです」
合唱部のハーモニーのように、軽やかで滑らかな返答だった。
- 92 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:27
- 病室を出てすぐ、ストレッチャーを押している看護師とすれ違った。上には誰も乗って
いない。これから手術でもあるのだろうか。「大変そうですよね」亜弥が呟いた。
ロビーに出ても、あの病院特有の匂いは薄れる気配がない。自分の身体にも染み込んで
いるようで、ひとみは嫌な気分になる。
この匂いは嫌だ。別に近親者を失った事も自身が入院した事もないが、とにかく嫌だ。
生理的嫌悪というやつかもしれない。
自動ドアを抜けると、ようやくあの匂いから解放された。ひとみは安堵したように息をつく。
「ミキティも大変だね」
「そうですねー。最初は全然動けなかったし」
ひとみは一日中あの匂いに囲まれていることが災難だという意味合いで言ったのだが、
隣の彼女は違う風に捉えたらしい。とはいえ、ひとみの台詞はその部分が完全に省略され
ていたので、それも仕方のないことだった。
「てゆーかさ、マジで思ってんの? ダブり決定してよかったって」
さっきは口を挟む余地がなかったので黙っていたが、どうしても気になってそう聞いた。
それはなんというか。あまりにも……あんまりだと思えたから。
亜弥が歩幅を広げてひとみより一歩前に進み出る。くるりと身体を反転させて、こちらに
向き合う形になった。仕草の一つひとつが可愛らしい。さすがだな、とひとみは感心する。
どうやっても自分には出来ない動作だ。例えやったとしても、美貴あたりには「キショイ」
とか言われるだろう。それ以前に自分でもしたいとは思わない。
- 93 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:27
- 「マジなわけないじゃないですか」
人懐こく笑いながら亜弥が答える。「そっか」それならいい。ひとみは彼女を気に入って
いるのでその返答に安心した。本気だと言われたら、きっと彼女に対して失望してしまう
から。出来ることならそれは避けたかった。
「じゃあ質問その2」
「まだあるんですか?」
亜弥が軽く苦笑する。ひとみも苦笑でそれに応じる。困った時はとりあえず笑っておく、
というのは日本人の美学だ。そして二人とも生粋の日本人である。
亜弥が隣に戻ってくるのを待ってから、ひとみが口を開く。
「なんでミキティだったわけ?」
その質問に、彼女はちょんと首をかしげた。
「なんで、ですか?」
「ん、なんで」
「えー。なんででしょうねえ」
首をかしげたまま彼女は言った。別段、誤魔化そうとしているわけでもないらしい。
「理由ないの?」ひとみが食い下がる。
だって、人の行動には理由があるものだろう。自分がバレーボールを辞めた時のように。
フットサルを始めた時のように。真希が授業中眠っているのも、希美が朝早くから公園を
走っているのも、みんな理由がある。
- 94 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:28
- 教えて欲しかった。判らないから。彼女が彼女を選んだ理由を。彼女が彼女でなければ
ならなかった理由を。
「なんででしょうねえ。……可愛かったからかな」
「は?」
「みきたん可愛いじゃないですか」
俗すぎる答えに、ひとみはポカンと口を開く。
予想していたのはもっと違う答えだった。こっちが思いもよらないような、けれど聞けば
すぐに納得できるような、そういう答えを期待していた。
それなのに、返ってきたのは。
それは、あまりにも……あんまりな答えだ。
「可愛いもの好きなんです。色も、形も、仕草も、性格も、考え方も」
遠くを眺めながら、亜弥はひとつ笑ってそう言った。
「自分もずっと可愛いまんまでいたいし、側に置いておくのも可愛いものがいいんです」
「……だから、ミキティ?」
「はい」
全く納得できない。そんな理由じゃ何一つ受け入れられない。
ただ。
ひとみが二人を受け入れなければならない理由は、ない。
「わっかんね」
髪の毛をかき回しながら愚痴のような口調で呟く。
判らないが、ちょっとだけ羨ましい。
「可愛い、ねえ……」
「吉澤先輩も可愛いですよ」
「……ふぅん」
邪気のない笑みで言われた台詞に、ひとみはありがとうと言うでもなく、そんな事ないよ
と謙遜するでもなく、ただ単純な相槌を打った。
彼女の言葉は、全然嬉しくなかった。
- 95 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:28
-
- 96 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:29
- 相変わらず、希美は早朝の練習を続けている。そしてひとみも続けている。
週に五日、慣習のように繰り返されるそれは、既に二人の日常と化している。
「高校、決めた?」
「んー……まだ」
「そっかあ。でも、ののならどこ行っても通用するしさ、ほら、どこだったかすごい名門の
学校あったじゃん。そことかは?」
ジョギングしながら話していると、希美は僅かに不機嫌そうな素振りを見せた。
それに気付いたひとみが小さく眉を上げる。
「辻は走れたらどこでもいい。メイモンとか関係ないよ」
「あ……そう」
褒めたつもりだったのだが、どうやら失敗したらしい。
それから希美は黙々と走り続けた。たまにひとみが話しかけても「うん」とか「さあ」とか
そんな一言を返すだけで、いつものように朗らかな笑みで応えてくれる事はなかった。
何がいけなかったんだろう、とひとみは不思議に思う。
「ねえのの」
希美は一定のペースで遊歩道を走っている。すぐ隣を走っているんだから聞こえていない
わけがないが、彼女はペースを狂わせることなく無言で走り続けた。
ひとみはめげずに話しかける。
「なんで陸上始めたの? 小学校の時はバレーやってたんでしょ?」
「……最初は、先生にやってみろって言われたから」
「今は?」
「……早くオトナになりたいから」
「大人に?」
「速く走れるようになったら、早くオトナになれるかもしんないって思ったから」
- 97 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:29
- よく判らない理屈だ。希美はそれ以上の説明をするつもりはないらしく、また黙々と
走り始めた。それに続きながら、ひとみは頭の中で彼女の言葉を反芻する。
何度反芻しても、やはり判らなかった。
「まあいいや……。おっと、三周目終わった」
二人が足を止める。これから希美はダッシュに入る。
ひとみがなんの気なしに、準備を始めた希美へ声をかけた。
「のの、ちょっとキーパー役やってくんない? コントロールの練習したいんだよ。
あんま強く蹴んないから」
「ん? いいよー」
希美の承諾を受け、ひとみは土がむき出しになった場所へ移動する。
小石で地面に枠線を引いてゴールの代わりにし、希美をその前に立たせた。
「おーし、行くぞぉっ」
「よっしゃー」
楽しそうに声をかけ合い、ひとみが合図に片手を上げる。
ボールから数歩下がった位置から駆け出し、ゴールの隅を狙って足の内側で蹴り上げた。
軸足の踏み込みが甘かったのか、ボールは希美の右脇へ走り、それは易々とキャッチされる。
「よっすぃ下手くそー」
「い、今のはちょっと失敗したんだよっ」
これはちょっと格好悪い。投げ返されたボールをシューズの底で受け止め、今度は真剣に
狙いを定める。
- 98 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:30
- 駆け、ボールの半歩手前で踏み込み、さっきとは逆方向を目掛けてシュートを放った。
それは吸い込まれるように綺麗なラインを描いて、枠線のギリギリ内側を過ぎていく。
延ばされた希美の手は、惜しいところで空を切った。
「どうだ!」
いえい!とガッツポーズをして勝ち誇るひとみに、希美が悔しそうな表情を浮かべる。
「もっかい来ーい!」
「よっしゃー!」
それから20本くらいシュート練習を続けた。ひとみが打ち損じるのが2割、希美がナイス
セーブを見せるのが3割くらいで、成功率は半々といったところ。
素人キーパーに止められるようではまだまだだが、ひとみは結構満足していた。
どちらかというと豪快なシュートを好むので、こういった小手先の技術にはあまり執着
していない。
だからこの練習は、希美と遊ぶのが主な目的だった。どうやら彼女の機嫌を損ねて
しまったようだから、一緒に遊んでそれを直そうという意図だった。
彼女が笑わないのはちょっといただけない。
希美といると楽しい。それは、ひとみが見たくないと思っているものを彼女が持っていない
せいかもしれない。
彼女は多分、ひとみをカテゴライズしていない。男も女も可愛いも可愛くないも何も。
だから、ひとみも彼女を枠組みに入れない。ひとみにとって希美はののであり、希美に
とってひとみはよっすぃだった。ただそれだけの単純な認識。不等号も不一致も存在しない、
イコールの関係。
ひとみにとって、それはとても心地良い関係だった。
- 99 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:31
-
二日後の早朝、そんな心地良い関係が崩れた。
それは本当に他意がなく、ただ単に前回はこちらに付き合ってもらったから、今度は
こっちが希美の専門分野に付き合おうという、それだけの理由で言い出した事だった。
「ねえねえのの、ちょっと競争してみよっか? ウチも足にはちょっと自信あんだよね」
並んで走りながらそう切り出すと、希美はどういうわけか小さく眉根を寄せた。
「やだ」
「そう言わずに。中学生と高校生なんだから、負けたって恥ずかしくなんかないからさ」
「やだってば」
「なんでだよ。ちょっと遊びでやってみよって言ってるだけじゃん」
段々とひとみも意固地になってきていた。希美が不機嫌になってきているのは判って
いたが、これくらいで何ムキになってるんだよ、という気持ちの方が強くてひとみは
言葉を取り下げない。
しばらく走りながら「競争しようよ」「やだ」のやり取りが繰り返されて、我慢の限界を
越えた希美がいきなり立ち止まった。通り過ぎかけたひとみが慌てて方向転換する。
希美の顔は朱に染まっていた。羞恥でものぼせているのでもなく、それは怒りによる
紅潮だった。
「なんでさあ!」
舌足らずな、しかし強い声。ひとみは僅かに怯む。
- 100 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:31
- 「なんでみんな、辻に競争させたがんの!? 辻は走ってるだけでいいのに、走ってれば
それで楽しかったのに! なんであいつに勝てとか負けたらキョウカセンシュになれない
とか、そんなこと言ってくんの!? 辻は……辻は、あいぼんたちとかけっこして
遊んでるのが一番楽しかったのに!!」
誰も遊んでくんなくなった。最後に落とされた呟きは、それまでの怒声とはうって変わった
弱々しい声音だった。
思いも寄らなかった彼女の言葉に、ひとみは呆然と立ち尽くす。
なんてことだ。ひとみは頭を抱えたくなった。
選考会。頑張れ。名門。競争。
どれもきっと、彼女にとっては嬉しくないものだったのだ。
悪気がなかったのが、余計に罪深い。
彼女は本当に走りたいだけだったのだ。勝ち負けのない、本当にただ走るというそれだけ
の行為が彼女の全てだったのだ。それはあまりにも純粋な欲求だ。純粋すぎて、きっと
大人には理解できない。
- 101 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:32
- 希美が求めていたのはかけっこだ。目的もなく走り回り、疲れたら休み、そしてまた
目的を定めずに走る。
そういう、駆けっ子でいたかったのだろう、彼女は。
「……ごめん」
早く大人になりたいから。今となってはその言葉はひどく悲しい。
それはつまり、彼女はもう戻れないという事を意味していた。
「ホント、ごめん」
「……いいよ」
気まずさに耐えられなかったのだろう、希美はもう帰ると呟いて踵を返した。
去っていく背中を、ひとみはずっと見ていた。
見ている事しか、できなかった。
- 102 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:32
-
- 103 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:33
- どんよりとした気分のまま五日を過ごした。
あれ以来、公園には行っていない。希美と顔を合わせても、どう接していいか判らない
だろうと思ったからだ。
既に習慣となっていた彼女との逢瀬は、できないとひどく寂しくなった。
まるで恋人と喧嘩したみたいだと思ってから、その馬鹿馬鹿しすぎる考えに自分で笑った。
彼女はそんなんじゃない。ただ、一緒にいると楽しくて、彼女が笑ってると嬉しくて、
そういう時間が大事だった。
それを壊してしまったのは自分だ。そして償うことも出来ずに逃げているのも自分だ。
嫌になる。
ひとみはグラウンドの隅で小さくなっている。今日の体育はサッカーだった。いつもなら
率先して授業を受けるところだが、そんな気分にはとてもなれなくて、具合が悪いと
教師に告げて見学していた。
体育だけは皆勤賞だったのだが、それも崩れてしまった。
その事についてはあまりショックじゃなかった。今はそれどころじゃない。
「はぁ……最悪」
立てた膝に額を押しつけ、深い深い溜息をつく。グラウンドではクラスメイトたちが
きゃーきゃー言いながらボールを追いかけている。男子は休憩中らしい。狭いから
同時に行う事は出来ないのだ。だからといって男女混合で授業をするにはサッカーは
激しすぎる。
- 104 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:33
- 「サボリ?」
上方からかかった声にひとみが膝に埋めていた顔を上げると、ジャージのポケットに
両手を突っ込んだ真希が見下ろしてきていた。「違うよ」素っ気なく返してまた蹲る。
真希が隣に腰を下ろしたのが気配で判った。
「ま、ホントに調子悪くなきゃ体育休んだりしないか、よっすぃは」
脚を延ばし、グラウンドではしゃぐ一群を眺めながら、真希がからかうように言ってくる。
「ほっといてよ」今は誰とも話したくない。
拒絶の匂いを隠そうともしない言葉に、隣の彼女は苦笑してみせた。それから手のひらが
頭に乗せられて、髪を柔らかく撫で梳かれる。
「調子悪いの、どっち?」
「え?」
「身体と心。どっちが調子悪いわけ?」
ひとみが地面を見つめる。膝を抱えていた手を離し、地面の草を千切り始める。ひとみの
手を離れた草の欠片は、秋風に飛ばされてどこかへ消えた。
さわさわと風が舞っている。真希はひとみの言葉を待っている。ひとみの手は止まっている。
「……こころ」
小さく小さく呟かれた言葉は、ギリギリのところで風に飛ばされることなく真希の耳に
届いた。
- 105 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:34
- 「ウチ、学校来る前に公園で朝練してるんだけどさ。ほら、二丁目の坂上ったとこの」
「うん」
「そこでいっつも会ってた子がいて、その子陸上やってて、短距離の選手で。そんで
おんなじように練習してて」
「うん」
「一緒に走ったりとかさ、ボールで遊んだりしてたんだよね。一年くらい」
「へえ」
真希はいちいち相槌を打つ。そうしてやらないとひとみが先に進めないことを知っていた
のかもしれない。
「……この前、ひどいこと言っちゃったんだ。あ、別に苛めたとかそういう事じゃないん
だけど……その子が、言ってほしくないって思ってたこと、言っちゃったんだよね」
「ふぅん。そんでどうしたの?」
「どうしていいか判んなくて、それっきり公園行ってない」
ひとみの表情はどんどん暗く沈んでいく。真希が手を延ばして頭を撫でる。
見当外れに蹴り上げられたらしいボールが転がってくる。平時であれば喜び勇んで蹴り返す
ひとみはちらりとも動かない。面倒くさいと思いながら、真希は立ち上がってボールを
グラウンドへ蹴り戻した。犯人らしいクラスメイトがごめんごめんと手振りで言ってくる。
「いいんじゃないの?」
「なにが?」
ひとみの隣には戻らず、ボールを蹴った位置に立ったまま呟いた真希に、ひとみが訝しげ
に片眉を上げた。
- 106 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:34
- ジャージのポケットに両手を突っ込んで、大きめな前歯を僅かに覗かせながら笑う真希は、
どうしてか少しだけ意地悪そうな顔に見えた。
「公園に行かなきゃ、もう二度と会わないんでしょ? だったらそれでいいじゃん。
別に絶対会わなきゃいけない理由とかないんだったら、このまんま終わりにしちゃえば
済む話なんじゃないの?」
風になぶられる髪を手のひらで押さえながら、なんでもないことのように真希は言った。
事実、なんでもないことだった。彼女の言う通り、他に何の接点もないのだから、もう
あの公園には行かずに過ごして、数年かけて「あの時は悪いことしたなあ」なんて具合に
ちょっと切ない思い出のひとつにしてしまえば、それで済む話だった。
「けど…けどさぁ……」
ひとみの手が、また草むしりを始める。真希はポケットに両手を入れたままそれを見ている。
「やっぱ、ちゃんと謝りたいじゃん」
「だったら次の日にでも公園行って謝ればよかったんだよ。そんな風に何日もグズグズして
その子のこと避けるんなら、そんなの理由になんない」
その通りだった。先延ばしに出来る程度の問題なら、それは彼女に会わなければならない
理由にはならない。
理由がない。彼女に会う理由も、真希に反論する理由も、何もない。
- 107 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:35
- 「よしこ、もうちょっと割り切れるタイプかと思ってたんだけど。結構純情だね」
からかい混じりに真希が言う。ひとみはその言葉に首を振る。
純情なんていいものじゃない。そんな可愛いものじゃなくて、ただ怖気づいているだけ
だった。
授業時間の終わりが近づいていたらしく、鋭い笛の音の後に、名前を大声で呼ばれた。
真希はひとみに声をかけないままグラウンドへ戻っていき、残されたひとみは三度目の
呼びかけで重い腰を上げた。
グラウンドでは自分以外の生徒たちが二列に並んでいる。向かって右が男子、左が女子。
体育の時間は好きだった。ジャージは男女で別になっていないから。
授業の初めと終わりにある、この整列くらいには目をつぶってもいいと思う。
別に、男女平等を唱えるつもりも個性がどうとか言うつもりもない。
スカートを穿きたくないわけでもない。それが女子の象徴として扱われているのが嫌なのだ。
男になりたいとか、そういう話じゃない。
女でいたくないという、そういう話だった。
だから美貴が羨ましかった。亜弥は彼女を選んだ理由を可愛いからだと言った。
性別というカテゴリも年齢というカテゴリも、他のどんなカテゴリも、亜弥にとっては
意味のないものだった。そして彼女は彼女を選んだ。
それは、どうしようもないほどの憧憬。
- 108 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:36
- 希美にそれを求めていたという自覚はあった。直接言った事はない。言う必要もないと
思っていた。既に、彼女にとってイコールが成立していたから。
イコールはまだ成立しているだろうか。彼女にとって、今もひとみはよっすぃのままで
いるんだろうか。
もっと別の、不等号や不一致記号が入り込んだ存在になってしまっているんだろうか。
希美に会いたい。相対してちゃんと謝りたい。
自分の浅ましい過ちについて弁解をして、また以前のように。
希美に会いたくない。彼女のイコールが壊れてしまっているのなら、もう二度と会わずに
過ごしたい。傷ついてしまうのなら、自分の過ちを見過ごしてしまいたい。
割り切れない思いは、遣り切れない。
最後尾について、教師に一礼する。三々五々散っていく中で、真希の姿を探した。
向こうもこちらを待っていたらしい。半身をこちらに向けて立ち止まっている彼女へ
小走りに駆け寄り、一緒に校舎へ向かう。
「さっきの話だけど」
「んあ?」
校舎に吸い込まれていくクラスメイトたちを眺めながら、ひとみは溜息をつく。
「ごっちんはああ言うけどさ。……ウチはやっぱ、ののと一緒に遊びたいよ」
理由なんてないのにね。自嘲気味にひとみは言った。その台詞に、真希がきょとんとする。
「よしこ、ひょっとしてマジで判ってないの?」
「なにが?」
「……うわお」
- 109 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:37
- 妙に抑揚のない声だった。なんとなく呆れているように聞こえて、ひとみが首を傾げる。
真希は小さく唸りながら髪の毛をかき回すと、「あのねえ」と今度ははっきり呆れていると
判る口調で話しかけてきた。
「そういうのに理由とかいらないの。一緒にいたいんでしょ? それでいいじゃん。
なんでよしこ、あたしと一緒にいんの?」
「なんでって、そりゃ……」
気が合うから。面白いから。
そう答えると、彼女は眉間に皺を寄せながら首を振った。
「そんなの理由になってないよ。後藤より面白い子はいっぱいいるし、よしこと気が合う
子だって他にいっぱいいるじゃん」
どういうわけか、真希は怒ったような顔になっていた。彼女にしては珍しい。
「あんたその子のこと好きだよ」
「……へ?」
希美のことを知らない彼女に断言されて、ひとみは思わず間の抜けた顔をする。
昇降口の階段を軽やかに上がりながら、真希は大げさに溜息をついて見せた。
「好きだってのが一緒にいる理由。一緒にいたいってのが好きな理由。違う?」
あーもーしょうがないなー。呆れ返った呟きが聞こえてきたが、ひとみはそれに反応
できない。
イコールの理由。
「そう……かな」
「そうなの。いいじゃん、会いたいなら会いに行けば」
そこに行かなければ会わずに済むという事は、そこに行けば会えるという事。
ひとみは振り返ってグラウンドを眺めてみた。
狭いグラウンドだ。中等部と共同だし、整備もあまりされていない。
それでも、そこで走る事はできるのだ。
- 110 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:37
-
- 111 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:38
- 遊歩道を走る小さな人影を見つけて、ひとみは駆け寄った。
「おっす」
「……おっす」
希美は目を合わせてこない。それにはちょっと落ち込んだが、そこで諦められるような
ことでもない。ペースを合わせて走りながら、ひとみは口を開く。
「この前、ごめん」
「別に。もう気にしてないよ」
「気にしてんじゃん」
「してない」
「してる」
「してない」
このままだといつまでも続きそうだ。やれやれと溜息をひとつ落として、ひとみはそれに
区切りをつける。
「じゃ、してないって事でいいよ。ウチが勝手に謝るだけだから、ののは聞かなくてもいい」
希美は真っ直ぐに前を向いたまま遊歩道を走っていく。心なしかペースが上がった気が
するが、彼女なりの抵抗だったのかもしれない。
遅れを取らないように走り、切れそうになる息を懸命に抑えながらひとみは希美の横顔に
向けて話しかけた。
「知らなかったとはいえ、ののにひどい事言った。ごめん。あと、ののは判ってなかった
かもしんないけど、ウチはののにもっとひどい事してた」
「もっと?」
意地よりも好奇心が勝ったのか、希美が相槌を挟んでくる。首を回さずに視線だけが
一瞬ひとみの方を向いて、それから慌てたように元へと戻された。
「うん。……ウチ、区別されんの嫌いでさ、男とか女とか年上とか年下とか、そういう事で
判断されたりしたくなくて。ののはそうじゃないって勝手に思って、あ、多分間違ってる
わけじゃないと思うんだけど」
ペースが落ちてきた。ひとみは内心ホッとする。体力には自信があるが、さすがにこの
状態で喋り続けるのは一苦労だ。
- 112 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:39
- 「でも、それって逆だったのかも。ウチの方が区別に拘りすぎてたのかも。
ののも他の子も、そんな事考えたりとかしてなかったのにね」
コースがないから走れないというのも、コースがあるから走りたくないというのも、
突き詰めれば同じ事で。
コースがなくたって走れるし、コースがあるからといってそれに沿って走らなければ
ならない理由など、どこにもないのに。
彼女も真希も、他の誰もそんな区別なんてしていなかった。それなら、希美は違うから
一緒にいて楽しいという理由にはならない。
「もしかしたら、ウチの方がみんなを区別してたのかもしれない」
アレはいいコレは駄目だと、自分勝手に決め付けて。
亜弥が美貴を選んだ理由も病院の匂いも、悪いと言い切ることなんて本当は出来ないのに。
それはただそうであるというだけで、いいとか悪いとか、そんなものは受け取り方
ひとつで変わってしまうんだろう。
だったらそれは、カテゴライズして決め付けているのと同じことだ。
「初めてののが走ってんの見た時さ、すげーかっけーって思ったんだ。ちっちゃいのに
めちゃくちゃ速くてさ、すごい綺麗なフォームで」
ひとみが足を止める。それと同時に希美の腕を掴んで引きとめた。彼女は戸惑ったような
表情でこちらを見上げてくる。
思い出が浮かぶ。遊歩道を走る小さな背中。真っ直ぐに前を見据えて、一心不乱という
言葉がとても似合う姿勢と視線で走る彼女の。
隣に行きたいと、思った。
「やっぱのの、足速いなあ」
前髪をかき上げながら苦笑のように笑って、ひとみが小さく肩を竦めた。
希美はまだ戸惑っている。薄青の中に浮かぶ彼女の視線が、一直線にひとみを捉えている。
側にいたいと、思った。
- 113 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:40
- 「ウチ、色んなこと考えすぎてたのかも。どんな事でも全部理由がなきゃいけないと
思ってて、そういうの、全部決めなきゃいけないと思ってた。でも違うかも。理由なんか
なくたってホントは全然平気なのかもしれない」
誰かを好きになる理由。
「なんでか判んないけど。理由とかないんだけど」
何かを求めて願う理由。
「……あたしは、ののともっと一緒にいたい。許してくれなくていいから、あたしの事、
好きにならなくてもいいから、一緒にいてほしい」
うまく笑えている自信がない。どうして泣きたくなっているのか、自分でもよく判らない。
判らなくてもいいんだろう。理由なんかなくたって、泣きたくなる時くらいある。
涙を堪えるのに必死で、ひとみは自身の一人称が変わっていた事にすら気付かない。
希美の手が、柔らかくひとみの肩を撫でさすった。本当は頭を撫でたかったんだろうなと
思うと、少しだけおかしかった。
競争とか、順位とか、そんなものはひとみにだって関係なかった。
ただ彼女が走っている姿が好きで、彼女が笑っていると嬉しくて、彼女と一緒にいると
楽しいという、それだけの事だったのに。
「よっすぃの言ってること、よく判んない」
ひとみの肩を撫でながら希美が言う。それに対してひとみは情けなく笑った。
「いいんだよ、あたしが勝手に喋ってただけなんだから」伝わらなくてもしょうがない。
伝えようとすらしていなかった過去に比べれば随分進歩した。
それだけでもいいと思えた。
- 114 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:41
- 「でも、今日よっすぃが来てくれて嬉しかった」
イコールの気持ち。
鼻の奥を小人に掴み上げられているような感覚を覚えた。
ゆっくりと、希美の肩に額を乗せる。自分の頭より低くなった頭を希美が撫でる。
本願達成できて嬉しそうに笑っていた。
「……ありがと」
ひとみが消え入りそうな声で囁く。
君が、側にいてくれると嬉しい。
希美に凭れていた身体を起こして、へへ、と照れ臭そうに唇を歪める。手を差し出すと、
彼女はそれを当たり前のように受け取った。
「ここ、歩くのって初めてかも」
「辻もー」
シャリシャリと靴底が遊歩道を擦る。木々が風に揺れていて、開けた芝生では飼い犬と
フリスビーで遊んでいる青年が駆け回っている。ベンチには老人が座って新聞を読んで
いて、逆側では母親が赤ん坊をあやしていた。
ここには様々な世界があった。交錯しない、重複しない、しかし孤独ではない世界。
孤独にしていたのは自分自身だ。何も見ようとせず、何にも触れようとしていなかった。
希美との距離だって、きっともっと縮められたのに。
目を開けて飛び込んできた世界は、どれも心地良い。
- 115 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:41
- 「のの」
「んー?」
「入り口んとこまで行ったらさ、かけっこしようよ」
「いーよ。言っとくけど、手加減しないかんね」
きしし。悪戯な笑みで挑発される。「そりゃこっちの台詞だよ」中学生に手加減される
なんて真っ平御免だった。
手を繋いで入り口まで戻り、二人は横一列に並ぶ。
「もし、あたしが勝ったらさあ」
軽く柔軟運動をしながらひとみが声を掛ける。「ん?」希美は伸びをしている状態のまま
こちらへ振り向いてきた。
「のの、うちの学校来なよ」
「げー、なんだよそれ」
「ちっちゃいとこなんだけどさ。グラウンドの周りに桜の木が植えてあって、春とか結構
綺麗だよ。私立だから校則もそんな厳しくないし、何より学食が美味い」
伸ばしていた腕を下ろした希美が、最後の部分でちょっとばかり目を輝かせた。
「美味いの?」
「うん。Aランチとか超美味いよ。いっつも早い者勝ちでさ、食べれた日は一日中
ハッピーだね」
当然だが、本当はそこまでのものじゃない。それでも希美は勢いよく食いついてきた。
唇は硬く引き結ばれている。もしかして涎が溜まっているんだろうか。
- 116 名前:『秋色協奏曲』 投稿日:2004/04/02(金) 21:42
- あやすように希美の頭を叩きながら、ひとみは優しく目を細める。
「だからうち来なよ。あたしも、ののが来てくれたら嬉しい」
そう、それが本心。
彼女の綺麗に走る姿が見たい。彼女と一緒にいたい。
彼女がいてくれると、嬉しい。
希美は「うーん」とわざとらしい唸り声を上げると、腕組みをしてひとみを見上げた。
「まっ、よっすぃが勝てたら考えてあげるよ」
「よーし。忘れんなよ」
ニッと笑いあって、指きりの代わりに拳を突き合せた。
公平を期すために、ベンチで休んでいた青年にスターターを頼む。青年は突然の申し出に
面食らったようだが、それでもフリスビーをスタートフラッグ代わりに構えてくれた。
小石で線を引いて、その手前でクラウチングスタートを取る。
全力で走るのなんて久しぶりだ。気分が高揚していくのが判った。
本気で走ろう。何も考えずに、彼女と一緒に。
コースなんかなくたって、どこでだって走れるのだ。
青年がスタートの合図にフリスビーを振り下ろす。二人は全く同じタイミングで走り出した。
頭の中を真っ白にする。木々の緑と茶色と空の薄青と遊歩道のねずみ色と彼女の着ている
ジャージのオレンジに真っ白な頭が塗りつぶされていく。
それは極彩色に煌く、泣きたくなるほどの。
《The picture of future with You.》
- 117 名前:円 投稿日:2004/04/02(金) 21:43
-
以上、『秋色協奏曲』でした。
「協奏曲」は「コンチェルト」と読んでください。
春なのに秋の話って……。
そういえば、初めてごまっとう+よっちゃんさんが総登場しました。
- 118 名前:円 投稿日:2004/04/02(金) 21:44
- レスありがとうございます。
>>71
ええ、『リストラ』に並ぶ大長編です。
……うわ! い、石が! いたたた。<ボケ倒しはやめましょう。
>>72
頭の中には色んな人の色んなエピソードがあるので、全員一筋縄ではいかない
キャラとなっております(笑)
でも書くかどうかは別問題なんですけどね(苦笑)
>>73
書き手として、文章を気に入ってもらえるのが何より嬉しいです。
松浦さんはともかく、藤本さんは非常に動かしやすい(というか勝手に動く)ので
結構出てくれるんじゃないかなーとか。
>>74
基本的に優しい人しか書かない(書けない)もので(苦笑)
重さんはとても大事にしているのですよ、色々と。
>>75
「ぎりぎりの時期の女の子の美しさ」、それは自分が三度の飯より好きなもの(変態)
まさにそれです。子供以上大人未満ですかね。よく判んない(笑)
<よろセンネタでした。
- 119 名前:円 投稿日:2004/04/02(金) 21:44
- 次回は初挑戦の二人で。
……って、候補多すぎ(苦笑)
では。
- 120 名前:つみ 投稿日:2004/04/03(土) 01:18
- 惚れました・・・
作者さんの世界観に惚れました・・・
- 121 名前:堰。 投稿日:2004/04/03(土) 18:19
- …。今回も乗り遅れた…ヨ。
_| ̄|○ デオクレタ…。
一気に読むのはやっぱり大変なんですが、
それでも疲労感はないです。お見事。
隙間が無いのか、余地があるのか。
私はやはり貴君の世界が好きなようです。
ガラスの箱の中というか、透明な球体というか、
そういうモノを思わせるつづりというか。
それでもね、作り物の冷たさじゃなくて、温度が好ましい。
今後の紡ぎも期待しております。
- 122 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/04/03(土) 20:12
- これほど毎日のようにチェックしてるのは初めてかもしれない、と思いました。
壊れそうで壊れなくて実は丈夫で、何かギリギリな場所にいる感じが心を締め付けますね。
淡白で実はそうじゃないかもしれない作者さんの文章に惚れます。てか、惚れてます。
生ぬるい、心地良い雰囲気が漂っていて、ほっとできる場所ですね。ここは。
では、次回もまったりと更新お待ちしております♪
- 123 名前:名無しさん 投稿日:2004/04/05(月) 18:30
- た、田亀!
発見が遅くなりましたが、よしのの含め読破させて頂きました。
円さんのお話は、必ずキューンとして、その後ほわほわー、となります。
幼稚園児みたいな感想でごめんなさい(笑)
ところで、花屋の二人はアレですよね・・・うふ。
- 124 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/05(月) 20:35
- このスレの短編のタイトル(リンク含む)ってどこかで聞いたことあると思ったら…
もしかして円さんってTPDファンでした?
懐かしくなって昔のアルバムとか引っ張り出して聴いてしまった…
- 125 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:35
- 壁も窓もドアも、激しい雨に打ち鳴らされていた。
圭はヘッドフォンを耳にはめて音楽を聴きながらパソコンの前に陣取っている。ヘッド
フォンから流れる歌は天城越え。何度聴いてもいい曲だ。
表計算ソフトを使用して次の授業で使うプリントを作成しているのだが、山積みになった
資料の上にコーヒーカップを置いているので危なっかしい事この上ない。しかし今まで
一度もカップを倒した事はない。
一区切りついたところで、休憩を入れようかとヘッドフォンを外した。そういえばまだ
夕食をとっていない。簡単に何か作ろうか、とキッチンへ向かう途中、雨音以外にドアを
叩く音があるのに気付いた。
新聞の勧誘とかにしては叩き方が強くて速い。ひとつの可能性に思い至り、圭は溜息を
落とした。
キッチンへ向けていた足を変え、玄関のドアロックを外す。一応、チェーンはつけたままに
した。もしもの事があってはいけない。
「やずだぜんぜえ〜!」
用心は意味が無かった。そこにいたのはやはり圭が思っていた通りの人物であり、彼女は
雨と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらドア前に突っ立っていた。
圭が一度ドアを閉め、チェーンを外して再度ドアを開ける。えぐえぐとしゃくり上げながら
入ってきた彼女は、顔どころか全身びしょ濡れだった。
- 126 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:35
- 「何してんの、傘も差さないで」
「だっで、びっぐりしぢゃっで……」
それ以上は言葉にならないようだ。圭は彼女をその場に待たせるとタオルを取りに部屋へ
戻った。
こうして彼女を迎えるのは、果たして何度目なのだろうか。
タオルで適当に拭かせて浴室に放り込んでから30分。スウェットとトレーナーに身を
包んだ彼女がおずおずと部屋に入ってくる。圭はキッチンでミルクティーを淹れると、
彼女にそれを差し出した。
「これ飲んでちょっと落ち着きなさい」
「はい……。ごめんなさい、急に来ちゃって」
「あんたいつもいきなり来るでしょうが」
呆れたように言って、自分のカップに口を付ける。そうすると彼女は叱られたみたいに
肩を落として、しょんぼりと頭を垂れた。圭は怒っているつもりはない。これはだから、
彼女の思考が基本的にネガティブである事を表している。
もう四年くらいの付き合いになるが、直る気配はない。
「石川」
「は、はいっ」
彼女が弾かれたように顔を上げた。「飲まないの? 冷めるよ」カップから人差し指だけを
離し、それで彼女が持っている物を指し示すと、言われた方は慌ててミルクティーを口に
含んだ。熱くはないはずだ、彼女がそうする事を先読みして最初から飲みごろにしてある。
- 127 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:36
- 何度、彼女にミルクティーを淹れてやっただろう。圭は考える。少なくとも、慌てて
カップに口をつける彼女の火傷を予測できるようになるくらいは、繰り返している。
石川梨華、という名前を最初に見たのは、大学二年の時にバイトをしていた家庭教師の
派遣業者から渡された資料だった。
その時彼女は高校生で、大学に行かせたいという親の意向に反して、成績の方は芳しく
なかった。そして圭に白羽の矢が立てられ、顔を見たのが名前より遅れること五日。
学費以外は頼らない、という条件付で大学へ進学していた圭にとって、バイトの数が減る
のはあまり嬉しい事ではない。
メイクやら物腰やら、とにかく柔らかく優しく見えるようにして彼女の家を訪問したの
だが、梨華は最初からかなり恐がってくれた。多分、今でも恐がっている。
そのくせ、もう大学生になって圭も教師になった今でも、何かあるとまず圭のところへ
泣きついてくるのだ。堪ったものじゃない。
「で、今度はなんなのよ。浮気? 暴力? 遊ばれた?」
「……男って決め付けないで下さいよぉ……」
「違うの?」
梨華は拗ねたように唇を尖らせ、熱くもないミルクティーへ息を吹きかけてから、小さな
声で違わないですけど、と呟いた。
「……追い出されちゃいました」
「はあ? 同棲してたの?」
眉を段違いにして呆れ返った声で言ったのだが、梨華はてへ、と笑い、頷く。
「すっごい高いマンションで、あ、高いって言っても階数の事じゃないですよ。家賃が
何十万円とかするとこで、めちゃくちゃ広いんです。車とかも外車いっぱい持ってて、
ホントカッコいい人なんですよ」
「……そいつ、ホストでしょ」
「なんで判ったんですか?」
わからいでか。コーヒーを一気に飲み干し、わざとらしく音を立ててテーブルに戻す。
梨華が一瞬だけ身を竦ませた。
- 128 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:36
- 「石川。あんた……」
「判ってます。男運が悪いって言うんでしょ?」
「てゆーか男を見る目がない。ホストに入れ込んでどうすんの」
「……だって」梨華は俯いてごにょごにょと言い訳をし始めたが、圭は聞く耳を持たない。
聞いても無駄だ。遅刻してきた生徒の誤魔化しと大差はない。
いつだって彼女は、自分を恐がって、それなのに自分を頼って、そしてしばらくすると
何事も無かったように自分の前から姿を消していく。
四年前から、ずっと。
何も変わらない。梨華が大学生になっても、圭が教師になっても。その証拠に、彼女は
未だに圭のことを「保田先生」と呼ぶ。圭はもう彼女の先生じゃない。
「電話貸すから親御さんにさっさと連絡しなさい。あたし、プリント作りで忙しいのよ」
「いえ……それがですね……」
決まり悪そうに視線を彷徨わせ、それから探るように圭を見つめる。その瞳に不穏なものを
感じ取った圭が訝しげに眉を上げた。
梨華の視線はすぐに圭の向こう側へ外される。これは彼女の癖だ、顔はこっちに向ける
のに、絶対に目を合わせようとしない。
「あの……今うちの両親、カナダに海外赴任中でして。しばらく帰ってこないからって、
家も処分しちゃいまして……」
「……は?」
勘弁してくれ、というのが正直な感想だった。
- 129 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:37
- 話をちゃんと聞いてみると、家族は先ほどの言葉どおり日本にはおらず、元々梨華が
住んでいたアパートも、同棲を始める時に引き払ってしまったらしい。
そしてその数ヵ月後、彼女は身ひとつで放り出された。
圭が頭を抱える。彼女も友人の何人かはいるだろうが、おそらくみんな学生だろう。
その中には自宅暮らしの子もいるだろうし、そうでなくても学生の一人暮らしにもう一人
加えるのというのは多大なる迷惑になる。
つまり、次の住居を決めるまでの間、彼女を預かれる人間が必要だ。生活が安定していて、
一人増えてもなんとかなるくらいの部屋を持ち、休日に出かけられるような。
「あのですね……ホント申し訳ないとは思うんですけど」
「言わないで。ちょっと今、考えてるから」
片手を広げて梨華の前にかざし、圭は自身の交友関係を必死に探る。
「紗耶香……駄目だ、あの子夜遅いし。圭織は……北海道に転勤したんだっけか……」
「あの、保田先生……」
「あーちょっと待ってってば。なっちのとこは駄目だなぁ、もう一人いるし……」
額に指先を押し付けながら考えていると、不意にポトリと雨音のような音が聞こえてきた。
最初は雨音そのものかと思ったが、壁を叩く雨はそんな生易しい音は立てていない。
なんだろうと思って顔を上げる。テーブルに水滴がふたつ、落ちていた。
「ちょっと、石川なに泣いてんの」
「……ごめんなさい、保田先生だって迷惑ですよね。あの私、もう帰ります。
お茶とお風呂、ありがとうございました」
「は? ちょ、待ちなさいって」
はたはたと涙を溢しながら頭を下げてきた梨華の腕を慌てて掴む。確かに迷惑だと
思ったが、誰かに押しつけようと思っていたが、ここで追い出すのはあまりにも酷すぎる。
- 130 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:38
- 「帰るったって、帰るとこないんでしょうが」
「大丈夫です。ホテルとかに泊まって、その間に新しいおうち探しますから」
「そんなお金あるの?」
梨華が押し黙る。彼女は学生で、バイトをしていても貯蓄なんて高が知れている。
家族に連絡して援助してもらうにしても、海外からではすぐにというわけにもいかない
だろう。
強引に梨華をソファへ戻させ、圭が溜息をつく。
「判ったわよ。とりあえずここに置いてあげるから、住むとこ探しなさい。あと、ちゃんと
学校には行くこと。いい?」
梨華が小さく頷いたのを確認して腕を離した。彼女は大人しくソファに座り、捨てられた
犬か猫のように小さくなって震えている。
比喩になっていないな、と圭が軽く苦笑した。
ゴールデンウィーク前のこの時期、物件を探すのは簡単じゃないだろう。
最低でも一週間、最長で一ヶ月というところか。平日は共に学校があるから、なかなか
動くことは出来ない。そうすると休日に探すしかないのだが、自分も付き合った方が
いいだろうと圭は思う。とかく彼女は……色々なものに対して、見る目がない。
圭は彼女の自宅を思い出す。家庭教師をしていた頃は両親も日本にいて、小さ目の一軒家
に三人で暮らしていた。そして彼女の私室は。
ピンクだった。
- 131 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:38
- この一言で全ての説明がついてしまうくらい、ピンクだった。ずっといると気が狂いそうで
圭は休憩のたびにリビングへ避難していたりした。よく一年以上家庭教師を続けられた
ものだと、圭は今でも思い返すだに自分を褒めてやりたくなる。
「保田先生?」
「ん? あ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
現実に引き戻されて、圭は慌てて取り繕う。そうだ、思い出はひとまず置いておいて、
これからの事を考えなければ。
「とりあえず、日曜に最低限のもの買いに行こうか。着替えとかはあるの?」
「あ、はい。それくらいは」
梨華が手元のバッグを叩いてみせる。旅行に使うようなボストンバッグだが、それほど
膨らんではいない。
「じゃあ、必要な物があったらメモっといて。お金はあたしが出しとくから」
「いいですよ、ちょっとだけど持ってますから」
「いいの。こっちは社会人なんだから、ちょっとくらい甘えなさい」
格好つけて言ってみたが、家に置くだけで十分甘えられているような気がしなくもない。
まあ口に出してしまったものを撤回するのもなんなので、圭はそのまま格好をつけておく
ことにする。
「色々あって疲れたでしょ。今日はもう寝な? 布団は自分で敷いてね」
「はぁい」
ぺこりと頭を下げて梨華が寝室へ向かう。これもまた、何度となく繰り返されたやり取り
だった。
圭は二人分のカップをキッチンへ持っていき、シンクに置いて水にさらした。シンクは
やけに綺麗だ。当たり前だった。突然の闖入者によって、夕飯を食べ損ねているのだから。
そういえば彼女は食事を取ったんだろうか。来た時にはもう九時に近かったが、もしかし
たらまだ食べていないかもしれない。
寝室のドアを開け、中を覗き込む。夕飯はどうしたのかと尋ねようとしたが、梨華は既に
客用布団へ潜り込んで寝息を立てていた。
よほど疲れていたのだろうか。
圭は逡巡してからドアをそっと閉めた。
- 132 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:39
-
- 133 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:39
- 「いらっしゃい……おお、圭ちゃんじゃん」
顔なじみのバーテンが、圭の姿を見とめて相好を崩す。それに軽く片手を上げて応え、
圭はカウンターに腰を落ち着けた。
「いいの? 明日も仕事でしょ?」
「今日は飲むのはほどほどにしとくわ。適当に食べるものくれる?」
バーテンが珍しいな、という表情を隠そうともせずに頷く。冷蔵庫からベーコンと
マッシュルームのキッシュを取り出して温め、二切れを皿に乗せて圭の前へ置いた。
受け取った圭はそれを手づかみしてかぶりつく。「今、フォーク出そうと思ってたのに」
バーテンが呆れたように言った。
「はやってるわね」
「おかげさまで。なんか飲む? 軽めのカクテルくらいならいいでしょ?」
「じゃあハイボールで」
「了解」少年のように笑い、バーテンが二本の瓶を取り出す。圭が頼むにしては、
それは可愛らしすぎた。カルアミルクとか言われるよりはマシだったかな。手馴れた
様子でハイボールを作りながらバーテンは思う。
グラスに注いだハイボールを差し出す。圭がそれを一口含み、僅かに目を眇めた。
「薄い。ただの炭酸じゃないの」
「これで普通だよ。圭ちゃんいつも焼酎ばっか呑んでるから舌が麻痺してんじゃないの?」
「言うわね。紗耶香こそサボりすぎて作り方忘れてんじゃないの?」
「ひっでー」
苦笑しながら圭の前に鶏肉とほうれん草のカシューナッツ炒めを置く。圭とはホール係の
バイトをしていた頃からの仲だ。これくらいの憎まれ口は聞き流せる程度に、交友関係は
良好だった。
- 134 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:40
- さすがに手づかみはせず、圭はテーブルに置かれていた箸で炒めものを食べ始める。
オリーブオイルが効いていて美味い。彼女の料理の腕も、圭がここへ通う理由のひとつ
である事に間違いはない。
濃い味付けのせいでますます味が飛んでしまった炭酸水を舐めながら、圭が窺うように
紗耶香の顔を見遣った。
「なに?」
「いやあ、女の子ひとり預かるつもりないかなあと思ってさ」
「ご冗談。そういうのはもうこりごりだよ」
圭が本気だと思っているのか、それとも冗談だと思っているのか、紗耶香はグラスを
拭く手を止めないまま笑った。「そうよね」本気じゃないのが正解だったから、圭もそれ
以上は話を続けない。
「とっておき」
悪戯い口調の言葉と共に、差し出された皿に乗せられたものを目にした圭が目の色を
変える。
「白子っ」
「あははっ、圭ちゃん相変わらず好きだね」
紗耶香が笑いすぎて白子の網焼きが乗った皿を思わず取り落としそうになり、圭は咄嗟に
それを受け止めた。
「わたしにはどこが美味いのか判んないんだけどなあ」
「そりゃ紗耶香がまだ子供だって事よ」
「はは、そしたらまた中学校に入ろうかな。圭ちゃん担任になってよ」
せっかくの冗談も、圭は柚子とポン酢で白子を頂くのに忙しく、何の反応もくれなかった。
紗耶香がちょっと寂しそうな顔になる。
友情は白子より脆いものらしい。
- 135 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:41
- 「こうなると焼酎が欲しくなるわね」「駄目、明日仕事でしょ」客なのにバーテンに止められ
てしまった。代わりというように出されたクエーカーを一息に空け、最後の一切れを口に
放る。適度に硬く焼き上げられた表面が弾け、半生の感触が舌に落ちる。ゆっくりとそれ
を口の中で溶かしていくのが最高に楽しい。
幸せそうに白子を味わう圭の様子に、紗耶香は呆れたように笑っていた。
それは二人の関係が客とバーテンの域に収まっていない事を意味している。そういう仲
だから、紗耶香は圭が何かを抱えている事にも気付いていた。
他の客から注文されたカクテルを作り、それをウェイターに渡してから、紗耶香が圭へ
視軸を定める。
「教育者として何かお悩みですか? 先生」
「違うわよ。ちょっとね」
「へえ?」
圭にハイボールのお代わりを頼まれた。カクテルとはいえ、ベースはウィスキーだ。
紗耶香はこっそりとウィスキーの割合を減らしてグラスに入れた。
「カテキョしてた子がいるのよ、学生の時に」
「ああ、ピンクの子でしょ?」
「名前覚えてないの?」
「いや、ピンクの話がインパクト強くて」
誤魔化すように口元を上げて紗耶香が言う。圭の口から何度か出ている話題だった。
名前も聞いていたはずだが、とにかくピンクだという彼女の部屋の話が印象深くてそっち
ばかりが頭に残っている。
圭が薄めのハイボールを受け取って一口含む。酔いが回ってきたのか味などどうでもいい
のか、文句はつけてこなかった。
- 136 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:42
- 「もう何年も経ってんのにさ、何かにつけてあたしに頼ってくんのよね。まあ大体が男に
フラレた時なんだけど。しかも今回はしばらくおいとかなきゃいけないのよ。今はうちで
ぐーすか寝てるんだけど」
「迷惑なわけ?」
「それもあるけど、それはまあいいのよ。どうせひと月やそこらだから。
ただ、なんでかなって思ってさ」
「ふーん?」相槌を打ちながら圭が空にした皿を片付け、空いた所に海藻サラダを置く。
当たり前のようにそれを食べ始めた圭が、箸を咥えたまま溜息をついた。
紗耶香が少年のように笑った。それは彼女の素の笑顔だ。圭はその笑顔が好きだった。
それもやはり、ここへ通う理由の一つである。
少年のような笑みを浮かべたまま、紗耶香が僅かに目を伏せる。
「そりゃあ、圭ちゃんが優しいからじゃないの?」
「は? あたしのどこが? 生徒とか怒りまくってるわよ」
訳が判らない、という顔をする圭に微笑みをひとつ投げかけ、紗耶香は指先で手前の
テーブルを叩く。
「その子が起きちゃわないように、わざわざウチに来てご飯食べてるとことか」
紗耶香の明るい色の髪が、一瞬煌いた。
圭の頬がアルコールとは別の理由で紅潮する。「馬鹿言わないでよ」視線を逸らし、
俯いてサラダを勢いよくかき込み始める。紗耶香は面白そうに喉を震わせた。
「わたしはその子の事よく知らないけどさ。頼られるって事は圭ちゃんが信頼されてる
証拠でしょ。素直に喜んでおきなよ」
「……体よく利用されてるって感じもするけどね」
「そういう捉え方は良くない」
笑ったまま、目を伏せたまま、紗耶香が諌める。酔ってんの、と言い訳のように呟いて、
圭は彼女から視線を逸らした。彼女はよく理由を飛ばして核心だけを告げる。それは、
その言い方は聞いていて時折辛い。
- 137 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:42
- 年下である紗耶香に説教をされて腹は立ったが、言い返すほど怒ってはいない。
圭自身、口にしてからそれは違うと思ったからだ。紗耶香はきっとそれを判っていて、
尚且つ圭を諌めた。だから圭は何も言えない。それはいつも自分がしている事だ。
自分が悪いと判っている生徒に、それでもお前が悪いと告げるのは、結局のところ
反省を促す以上の意味も理由もない。だから反論のしようがない。
けれど、本当にわからないのだ。梨華は友人がいないわけでも、自分で何とかする能力が
ないわけでもない。家に置いたのは、彼女が傷付いていたせいと、少しでも安全な選択肢
を選ぼうとした結果だ。追い出したとて妙なことにはならないだろう。
圭が迷っている時、彼女はあっさりと出て行こうとした。それはその選択が困難ではない
と判断していたせいだろう。
それなら何故、最初に自分の家へ来たのか。それが圭には判らない。
紗耶香は苦笑しながら圭を見つめている。
「そろそろ終電だよ」
「……うん。ご馳走様、美味しかった」
会計を済ませて店を出る。紗耶香が外まで見送りをしてくれた。
また来るね、と声を掛けてから彼女に背を向ける。夜はまだ冷え込むが、アルコールを
飛ばすには丁度良かった。
ドア横の壁に凭れかかり、帰って行く圭の背中を見つめながら、紗耶香は少年の匂いが
する笑みをその顔に浮かべた。
- 138 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:43
- 「てゆうかさ。その子って圭ちゃんの事好きなんじゃないの?」
声が届かないくらい彼女の背中が小さくなってから、笑声混じりに呟く。
なんとなく、言わない方がいいかと思ったから圭には言わなかった。彼女はどうも甘え
られることに慣れていないようだ。だったら言っても伝わらないだろう。
誰にでも、ではなく、誰かに甘えるのなら、それはそういう事だろうと紗耶香は思ったの
だが、圭はそんな事にすら気付いていないらしい。
「市井さん、オーダー詰まってるんですけどっ」
「あ、ごめんごめん」
バイトに呼ばれて、慌てて中へ戻る。盛況なのはいい事だが、もう昔のように裏へ回って
自主休憩を取れないのはちょっと残念だなと、バーテン一年目は小さく笑った。
- 139 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:43
-
- 140 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:44
- 休日はゆっくり眠っていたいタイプだが、今日はそうも言ってられない。
朝食を作ってから梨華を叩き起こし、一緒に食べて準備をして、車を走らせた末に到着
したのはこの街最大のショッピングモールだった。数年前に出来たばかりのそれは数十の
テナントが入っている。ここなら生活に必要な物を一度に揃えられると見込んでの選択だ。
「とりあえず、一通り見て回ろうか。欲しい物があったら言いなよ」
「はい……でも、ホントにいいんですか?」
「いいってば。別に後でたかろうとか思ってないから」
梨華の「はぁ」という溜息なのか相槌か微妙な呟きを了承の合図と解釈して、圭は先立って
歩き出す。「あ、待ってくださいよぉ」梨華がわたわたと追いかけてきた。
一時間くらい歩いただろうか。その間に梨華の両手には紙袋が増えていき、持ちきれない
分は圭の担当にさせられていた。自慢ではないが体力には自信がない。雑貨の詰まった
紙袋を抱えながら、圭は肩で息をしていた。前を歩く梨華は元気なものだ。ちょっと
年の差を感じる。
「い、石川。まだ買う物あるの?」
「そうですねー、あ、この前出たファンデ試してみたいんで、見に行っていいですか?」
既に必要最低限のものという条件は崩壊していた。「ちょっとは遠慮しなさいよ」愚痴の
ように呟いたら、梨華はピタリと足を止めた。
「……ごめんなさい。そうですよね、保田先生だって忙しいのに、あたしなんかのために
貴重なお休み使いたくなんかなかったですよね。あたし一人で浮かれちゃって、こんな
女、嫌になりますよね……」
「いや、誰もそこまで言ってないから」
また出た、と圭がうんざりとした表情をする。それを見た梨華の周りに暗雲が立ち込める。
怒っているわけじゃないのだ。ただちょっと疲れただけで。しかし、「疲れたから休もう」と
言うには、なんというか年上のプライドとか、そんな感じのものが邪魔をしていて、
だからちょっと、遠回しにアピールしてみただけだったのに。
- 141 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:44
- いつもこうだった。四年前から、ずっと。
彼女は人の本音を探ろうとしない。建前はそのまま受け止められ、圭の本音はいつだって
彼女には届かない。
注意を促す意味で怒れば落ち込み、からかいに傷付き、飴を後ろ手に隠した上での鞭に
泣いて逃げる。
いつしか圭自身も本音と建前の区別がつかなくなって、建前は本音として扱われ、いつの
間にか本音はどこかへ消えてしまう。
そうだ。彼女はいつだって。
自分を恐がっていた。
「保田先生? あの、もう帰りましょう? まだお昼前だから、午後からなら好きな事
できますよ。あたし留守番してますから。あ、お掃除とかしましょうか?」
執り成すように媚びるように彼女は言う。
なんだそれは。
圭は紙袋の取っ手を強く握った。
ああ、そうか。恐いんだ。彼女は恐がっている。
本当は、一緒にいたくなんて、ないんだ。
紗耶香、違うよ。心の中の独白。彼女は自分を好いてなどいない。多分、他に選択肢が
ないのだ。頼れる大人の知り合いが他にいないから、自分ひとりでどうにかするよりは
簡単だから、仕方なくここへ来ているだけで。
だから、昨日から続けていた建前は、本音にするしかない。呆れたポーズを取って、
彼女の行為を迷惑だと強調して。
傷付いた梨華が最初に頼る相手が自分だった事を嬉しいと思う本音は、消してしまおう。
- 142 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:45
- 「……そうね、じゃあ石川には留守番してもらって、呑みにでも行こうかしら。
最近忙しくて全然遊べなかったからね。たまには一人で羽伸ばさないと」
「……ですよね」
梨華が気弱く笑った。その口元には寂しさが覗いていたが、圭はそれに気付かなかった。
「あー! 保田せんせえ!」
「へ?」
突如聞こえてきた大声に、圭が思わず振り向く。これで自分以外に「保田先生」がいたら
間抜けた話なのだが、大声の主は真っ直ぐに圭を見つめていた。
視界に飛び込んできたのは、平日は毎日見ている二つの顔と、最近見なくなったひとつ。
ほてほてと駆け寄ってきた三人が、圭の前で足を止める。
三人は見慣れた制服姿ではなく私服だった。当たり前だ、休日に制服で出かけるなんて
よほど真面目か他に着る物がないかのどちらかしかない。
そしてこの子達はどちらでもない。
「田中に道重。と、亀井? あんた達なにしてんの」
「ゴールデンウィークにみんなで遊びに行くけん、そん時のもん買いに来たとです」
きょとんとする圭に、れいなが代表して答える。「相変わらず仲いいのね」目を細めて
言うと、さゆみがにししと笑った。
「れいなと絵里は特に仲いいよね」「さゆ!」れいなが張り手のように手のひらで
さゆみの口を押さえる。圭にはその意味が判らない。
何故か顔を赤くしているれいなが、圭の隣にいる梨華を視線で指し示した。
「先生の友達?」
「あー、まあ。石川、この子達うちの生徒。田中と道重はクラス受け持ってんの」
梨華に一人ずつ紹介すると、彼女は微笑んで小さく首を傾げた。
- 143 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:46
- 「こんにちは、石川梨華です。保田先生には昔家庭教師してもらってたの」
「あ、こんにちは」
れいなが照れたように笑いながら頭を下げる。顔を上げたれいなが、ほう、と溜息を
ついたのを見て、絵里は少しだけ頬を膨らませた。
「……れーなデレデレしてる」
小さな、しかしその場にいる全員に聞こえるくらいの声で落とされた呟きに、れいなが
眉を顰める。
「は? 誰もデレデレなんかしとらんし」
「してるー」
不機嫌そうにそっぽを向く絵里に、れいなは訳が判らないという顔で頭を掻く。そんな
二人をさゆみはほわほわした笑みで眺めている。
圭も、どうして絵里が不機嫌になっているのか判らない。梨華とは普通に挨拶をしただけ
で、れいなが彼女を怒らせるようなことをしたようには見えないのだが。
しかし実際に絵里は不機嫌になっている。何の気なしに隣を見ると、梨華は目元だけで
苦笑していた。
「ねえねえ、お菓子見に行こうよ」
むーと拗ねている絵里と困惑しているれいなの間に、さゆみが割って入る。
「あ、ああ。そうしよっか」れいながホッとしたように息をついて頷いた。絵里も無言では
あったが異論はないようで、さゆみに手を引かれるまま方向を変える。
どっちも引っ込みがつかなくなっていたようなので、さゆみの行動は非常に的確だった。
圭はそんな子供達のバランスを心地良いものとして眺めていた。
「そんじゃ先生、またねー」
「遅くならないうちに帰りなさいよ」
「はーい」
- 144 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:46
- 食品を扱うテナントへ向かう三人に手を振り、圭が紙袋を持ち直す。
「ホントに帰っていいの? 他に欲しいものとかないわけ?」梨華に視線を移して尋ねた
圭の、その眉が小さく顰められた。
どういう事なのか、梨華の表情は暗く沈んでいる。落ち込んでいるというよりは、先程の
絵里と同じように拗ねているような感じだ。ついさっきまで笑っていたくせに、どうして
そんな顔をするのか、圭は判らない。
「なに?」
「いえ……。帰ります」
「あ、そう……。ああ、ご飯でも食べに行く? ちょうどお昼だしさ。あたしいい店
知ってんのよ」
「いいです」
さてどういうわけか。梨華の機嫌は斜めに傾いたまま戻る気配がない。
気にはなったが、とりあえず駐車場へ向かった。
引っ込みがつかなくなっても、仲裁に入ってくれる三人目は自分達には存在しない。
後部座席に荷物を押し込み、助手席に梨華を乗せて走り出す。
しばらくの間は二人とも無言で、圭は沈黙が嫌なものになり始めたあたりでカーステレオ
のスイッチを入れた。
流れ出したお気に入りの曲に、梨華が思わず吹き出す。
「やっぱり天城越えなんですね」
「いいじゃないの。演歌は日本の心なのよ」
家庭教師をしていた時にも、こうして梨華に笑われ、同じように言い返した。
確か、圭の私物であるMDウォークマンを彼女が見つけて、何を聴いているのかと問われた
のだった。最初は口頭で答えたのだが信じてもらえなくて、証拠とばかりにイヤフォンを
渡して聴かせてやったのだ。
- 145 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:47
- 「あの時、ホントびっくりしましたよ。保田先生ってなんか、洋楽とか聴いてそうな
イメージだったから」
「そう? まあ普通に色んな曲聴くけどさ」
「エリック・クラプトンとかビートルズとか、そういう渋いのが出てくるかなって
思ってたら演歌なんですもん。あ、演歌もやっぱり渋いですけど」
天城越えのおかげで凝り固まっていた空気がほぐれて、梨華の顔にも笑みが戻っていた。
圭は軽快にステアリングを切る。心なしか気分も上向いていた。
「田中にも前に笑われたわよ。失礼よねみんなして」
「さっきの子ですか?」
「うん。受け持ったの今年からだけど、度胸があるっていうかなんていうか。
まあ、生意気なのよ。可愛いもんだけどね」
くすくすと笑いながら話してやる。初日から遅刻というか自分よりも後に教室へ入って
きたり、質問しに来たくせに答えてやると「そうですかぁ?」とか反論してきたり。
面白い生徒ではある。
さゆみはさゆみで授業中にも関わらずいきなりチョコレートを食べだしたりして、しかも
注意すると「食べたかったんですっ」などと自信満々に答えてくるつわものだ。教育者と
してはもっと厳しくするべきなのだろうが、あそこまで堂々と言われると返って何も言え
なくなってしまう。
「……すっかり、学校の先生なんですね」
「そりゃあね。あんたの先生でいたのなんて、もう四年も前の話だし」
「そう、ですよね」
妙なものを感じ取って、圭が信号待ちで車を止めたところで隣を窺う。
梨華は視線を前に向けてはいるが、焦点の定まらない、茫洋とした瞳をしていた。
- 146 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:48
- 「石川?」
「保田先生、もうあたしだけの先生じゃないんですよね」
「……何言ってんの?」
梨華が微かに視線を揺らした。こういうのを何と表現するのだったか。国語教師である
圭は自分の中にある辞書をめくる。
信号が青に変わる直前に思い出した。
……儚い、か。
「海外転勤って、ホントはお父さんだけだったんですよ。でもお母さんもついてっちゃって
家も処分して。あたし一人だけ残されて。昔っからそう。大学に行きたいなんて、あたし
一度も言わなかったのに、二人とも行かなきゃ駄目だって言って。あたし、ホントは
洋服屋さんの店員になりたかったんです」
いやあんたのセンスじゃちょっと厳しいかも。
などと言える雰囲気では決してない。圭は黙って梨華の独り言にも似た言葉を聞く。
「みんなそう。あたしだけ置いてきぼりにして勝手にどっか行っちゃうの。
お父さんもお母さんも、今まで付き合った人も……保田先生も」
「……あのねえ」
彼女がネガティブなのはいつもの事だが、これはちょっと見過ごせない。
これは、れいなやさゆみの口答えのような、可愛いものじゃない。
「あんた、あたしの事恐い?」
「……ちょっとだけ」
「だったらしょうがないわよ。誰もビクビク怯えてる奴の相手なんかしたくないもの」
車を走らせながら話しているから、彼女の表情は窺えない。
- 147 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:48
- 「勝手なのはどっちよ。勝手に全部悪い方に考えて墓穴掘ってるだけじゃないの。
一人になりたくないんなら泣いて叫んでみたらよかったのよ。みっともなくても無様でも、
なんにもしないでウジウジ不満垂らしてるよりよっぽどマシだわ」
「だって……」
「だってもあさってもないわよ。大学に行きたくないならそう言えばよかったし、
別れたくないなら相手の男にそう言ったらよかったの。で、あたしはやっぱ、もう石川の
先生じゃないわけ」
彼女は変わっていない。四年前から自分を恐がり、四年前から自分を頼って、そして。
四年前からずっと、寂しがり屋だ。
車は細い裏路地へ入っていく。軽自動車はこういう時に便利だった。そういえばこの車を
買った時、紗耶香に「やっぱ圭だけに、軽?」と笑われたものだ。人生の色々な場面で圭は
笑われている。それは別に嫌ではない。
自宅へ帰るのに、こんな道を通る必要はないと、梨華は気付いているだろうか。
「……友達でしょ?」
「え……?」
「さっき田中に聞かれたでしょ、保田先生の友達なのって」
その問いに圭は頷き、梨華は家庭教師をしてもらっていたと答えた。
それが二人の認識の差異。
梨華が驚いたように目を丸くした。本当に驚いていた。それを横目で見ながら、圭は
眉を顰め、溜息をついた。
驚くような事じゃない。しかし彼女にとっては思いもよらない事だったんだろう。
- 148 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:49
- ビックリするより喜びなさいよ。ちょっとばかり拗ねたが、それは表情にも言葉にも
ならない。しない。
視界から梨華を追いやって、呆れた口調で告げる。
「石川、あんたあたしの事好きなのね?」
何気なさを装ったつもりだった。何気なくなったはずだった。彼女に本音は通じない。
梨華が瞬時に紅潮し、それから小さく頷いた。その仕草は圭には見えない。見えなくても
それくらいは感じ取れた。
紗耶香、やっぱ当たってたわ。再度、心の中の独白。
あの頃の自分では気付かなかった。
それどころか、梨華がれいな達に嫉妬してみせなければ、多分ずっと気付く事はなかった。
中学生相手に妬いて、それでも喧嘩を売らなかったのは大人の意地か。それとも、単に
気が弱いだけだったのか。
彼女が傷付き、圭の家に来るというやり取りは、何度繰り返されただろうか。
現実はいつしか口実になっていたのか。事実は切実な不実を作り上げたのか。
何が手段で、何が目的だったのか。
建前と本音はどちらが真実だったのか。
圭が車を止める。そこで梨華は初めて目的地が変わっていた事に気付いたようだった。
「あんた、月5万出せる?」
「え? はあ、それくらいなら……」
「2LDKは欲しいわよね。それか3Kかな。ちょっとくらいならあたしの方で調整できるし。
あんたも自分の部屋は欲しいでしょ?」
駐車場の看板には、賃貸住宅の仲介業者だと一目で判る社名が書かれている。
- 149 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:50
- 「ま、あたしも今の部屋、結構手狭になってきたし」
「保田先生……?」
圭はあくまで本音を言わない。
「あんたの方が時間あるんだから、掃除くらいはしてね。でもご飯はあたしが作るから」
以前、彼女の手作りクッキーと思しき黒い物体を口にした時の事を思い出し、圭は急遽
付け加える。
「それって……」
「男連れ込むのは禁止。やるんなら外でやんなさい」
「……なんかやらしいです、その言い方」
「……ともかく。ちょうどいいじゃない、あたしもいきなり来られるより最初っから
いた方が都合いいし」
自分も何も変わっていない。四年前から彼女の気持ちを判っていなくて、四年前から
彼女が求めているものに気付いていなくて、そして。
四年前からずっと、彼女が好きだった。
「文句は? ある?」
「な、ないです……」
「じゃあ決まり。部屋決めに行くわよ」
自分もやはり寂しがり屋だったという事か。そろそろ犬か猫でも飼ってみようと思って
いたところだ。人間なら、犬猫より世話の手間がかからないだけ楽だろう。
自分を恐がる子供のままな彼女は、きっと手を焼かせるけれど。
まあ、そういうのも悪くない。どうせ普段から40人の子供に手を焼いているのだ、
もう一人くらい増えたって変わらない。
- 150 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:50
- ようやく圭が車から降りる。梨華は慌ててそれに続いた。
「あの、保田先生」
「なによ?」
「あたし、男見る目ないかもしれませんけど」
「かもじゃなくて、ないのよ、はっきり」
梨華がしゅんと頭を垂れる。あ、しまった。後悔したが、意地でなんでもない風を装った。
フォローもないのに、梨華は気丈な態度で顔を上げた。お、と圭が片眉を上げる。
多少は打たれ強くなったのかもしれない。
「でも、女を見る目は、あったんじゃないかなあ……って」
「……遅いわよ、気付くのが」
言い置いて、ドアを開けた。
背後にいる梨華が嬉しそうに笑っているのが、ガラス張りのドアに映って見えた。
部屋が決まって、引越しが住んだら紗耶香の店に彼女を連れて行こう。
紗耶香はきっと少年のように笑うだろう。それはちょっと悔しいが、悪い気分はしない。
芋焼酎に白子をつけて、梨華に笑われるのも悪くはない。
《A child sleeps at my Home.》
- 151 名前:『WILD CHILD』 投稿日:2004/04/10(土) 08:51
-
以上、『WILD CHILD』でした。
こんなに保田さんの出番が多い話は初めて書いた気がします。
そしてまたもや人が増えてます。
- 152 名前:円 投稿日:2004/04/10(土) 08:52
- レスありがとうございます。
>>120
ふつつかな娘。ですが、今後ともよしなに(笑)
>>121
すいません、こっそり始めてました。
気持ち的にはですね、行間に最も重要なものを入れてます。
……と言うと、説明不足もなんかカッコよく見えたりなんだり(爆)
>>122
自分が書く話は基本的に崖っぷちです(笑)
でも、人ってそう簡単に壊れたりしないんだよーみたいなのが書きたいんですね。
>>123
ほわほわーとなって頂けたら本望です。
花屋の二人はアレです(笑)わざとらしい出方をしてるだけあって、その内メイン張ります。
……多分。
>>124
現在進行形でファンです(笑)オトコマエなダンスマスター激ラブでしたり。
ちなみにスレタイが関係ないのは、当初このタイトルで長編にするつもりだったからです。
- 153 名前:円 投稿日:2004/04/10(土) 08:53
- 次回は田亀に舞い戻り。
- 154 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/10(土) 14:52
- 圭ちゃんカッケー!!
- 155 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/10(土) 17:24
- いつもいつでもどこにいても
この話が気になってます。がんばってください!
- 156 名前:つみ 投稿日:2004/04/10(土) 17:35
- 保田さんかっこよすぎます・・・
次々に登場人物がでてきて楽しみっす!
次回も期待できる予告だ・・・
楽しみにしてます!
- 157 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/04/11(日) 16:05
- やっぱり作者さんの文章って人を引き込む力があるんだなぁとつくづく思いました。
この2人はこんな関係が合ってるなぁと思ったり。保田さんはカッケー過ぎです(笑
何気に出てきた生徒にも笑いました。脇役も大切ですね♪
次回、田亀だそうで楽しみにまったりとお待ちしております。
- 158 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:23
- 耳をつんざくような轟音が教室中に響き渡り、それから3秒後、力任せにドアを開く音が
続いた。レールの上を勢いよく走ったドアが反対側にぶつかり、反動で更にレールを滑る。
ドアが止まり、それで教室は静かになった。誰も喋らず、誰も動かず、誰も追わなかった。
さゆみは銀紙に包まれたチョコレートを指先で摘み上げ、包装を解いて口の中へ放った。
甘いチョコレートは大好きだ。最低でも一日一箱は空ける。朝の分はこれで最後だから、
大事に食べなければ。
ゆっくりと舌の上でチョコレートを溶かし、その甘さに浸る。さゆみがそうしている間も、
誰も喋らなかったし誰も動かなかったし誰も追おうとしなかった。
さゆみが立ち上がる。もごもごと口を動かしながら、教卓へ向かう。まだ、朝のホーム
ルームすら始まっていない早い時間、保田先生はいない。
黒板は白い線が走っている。緑色やピンクも混じっている。さゆみは数ある色の中で
ピンク色が一番好きだったが、黒板を走るピンクはくすんでいてあまり好きじゃない。
白や緑やピンクの線は一部が掠れている。さっき殴られたせいだ。黒板じゃなくて人
だったら泣き叫んでいるだろう。黒板は人じゃないので泣いていない。
綺麗じゃないから、消した。黒板消しを二つ両手に持って、何の迷いもなく何の躊躇も
なく何の困惑もなく何の嫌悪もなく何の悲哀もなく何の慟哭もなく何の遠慮もなく消した。
「ぷう」
舞い散ったチョークの粉が煙くて、さゆみはそれを吹き飛ばすように息を吹く。
黒板は一面が掠れた白に覆われた。黒板消しも白くけぶっていた。
- 159 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:23
- それは、堂々とした飄々とした朗々とした煌々とした稜々とした早々の宣戦布告だった。
「ちょっと、なんで消すの?」
「ん?」
ほわほわした、茫洋とした笑みを浮かべて、さゆみが振り返る。
視線の先には面白くなさそうな顔をした、しかしどこか怯えたような顔をした、どことなく
引っ込みがつかなくて困ったような顔をしたクラスメイトが三人、腕組みをしながら
突っ立っている。
その周りには不安そうな顔や面白がっている顔や興味のない顔が並んでいる。その中の
何人かは、ドアの向こうを心配そうに見遣っていた。心配するくらいなら行けばいいのに、
さゆみはそう思う。
「可愛くないから」
「はぁ?」
「可愛くないから、消したの」
真ん中にいる少女へ笑いかけながら、ちょこんと可愛らしく首を傾げてみせる。
少女は訝しげに眉を顰めたが、相手にする気にならなかったのか、ハッ、と鼻で笑って
さゆみの肩を掴もうとした。
「さわんないで?」
パシン。さゆみが肩へ触れようとした手を払いのける。それは軽いものだった。
「私、れいなみたいに優しくないよ」
次の瞬間、少女の頬からいい音が響いた。黒板よりも澄んでいて綺麗な音だった。
手を払った返す手で頬を打たれたのだと、少女が理解するまで少しの時間が必要だった。
- 160 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:24
- 「な……なにすんだよ!」
激昂してさゆみへ掴みかかる。「ぷう」さゆみは笑いながら少女の額へ息を吹きかけた。
邪魔なものを吹き飛ばすみたいに。
「この……っ」左手でさゆみを捕まえたまま、その頬を力任せに叩く。さゆみは僅かに顔を
しかめたが、それ以上のリアクションは起こさず、そして次の瞬間には笑っていた。
何度も何度もさゆみの頬目掛けて手のひらが飛んでくる。
それでもさゆみは、やはりほわほわと茫洋に笑ったままだった。
「……おいちょっと、やめろよ!」
正義感の強いらしい男子生徒が止めに入った頃には、さゆみの頬は赤く腫れ上がっていた。
後で確認したさゆみが「可愛くない」と落ち込んでしまって、その時の方が悲しそうだった
のだが、今はまだ、ほわほわと笑っている。
熱を持った頬をそのままに席へ戻った時、タイミングよく保田が教室へ入ってきた。
他の生徒たちもそれで日常に戻れたようで、一箇所に集中していた意識と視線が
そこかしこへ散らばった。
「おはよう。……あら、今日は黒板汚れてるわねえ。ちょっと日直、黒板消しクリーナーに
かけてきて」
「……はい」
さっきの少女が立ち上がり、黒板消しを二つ持って廊下に設置されているクリーナへ急ぐ。
- 161 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:24
- ――――ジゴウジトク。
この前授業で習ったばかりの四文字熟語を思い浮かべる。こんなもの日常生活で使うの
だろうかと思っていたが、なるほど、使い道はちゃんとあるらしい。
「田中。田中れいな。あら、来てないの?」
「おなか痛いって保健室に行きました」
出席を取っていた保田の訝しげな声に、さゆみが手を上げて答える。友人のフォローは
大事だ。それが大事な友人であるなら尚大事だ。
「そう。じゃあ次――――」
保田は特に疑問を持つこともなく出席を取り続ける。れいなが保健室になど行っていない
ことは、保田と遅刻してきた男子生徒以外、全員が知っている。
それでも誰も何も言わず、ただ自分の名前が呼ばれた時に応えるだけだった。
「道重さゆみ」
「はい」
さゆみはチョコレートが食べたくなった。
- 162 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:24
-
- 163 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:25
- 子供というのはどうしようもなく子供で、どうにもならないくらい子供で、
どうでもいいくらい子供で、同情の余地もなく子供なのだ。
れいなはひたすらに走った。徒に走った。意味もなく走った。意義もなく走った。仕儀も
なく走った。思想もなく走った。理想もなく走った。偽装もなく走った。理由もなく走った。
自由もなく走った。義勇もなく走った。雌雄を決する事もなく走った。
つまりそれは逃亡だった。
どうしようと思案できるほど大人ではなく、どうにかできるほど大人ではなく、
どうでも向かえるほど大人ではなく、同情の余地があるほど大人でもないから、逃げた。
ハッハッと短い呼吸が舌からこぼれて外に出ていった。
走り続けた最果てには、コンビニがあった。
「はあ…はあ……ハ……」
笑いたいのか泣きたいのか、よく判らない。とりあえず、現状泣いてはいない。
ガラス張りのドアから中を覗くと、出勤前のサラリーマンやOLがレジの前で列を作って
いた。忙しそうだな、と思ってれいなは中に入ることをやめにする。
と、気忙しい手つきで商品を袋に入れていた美貴と目が合った。うわ。れいなは何故か
たじろぐ。目つきが恐かったからかもしれない。
回れ右をしようとしたれいなを、美貴が交わしあった目で引き止める。
れいなは渋々浮き上がらせた爪先を地面に戻した。だって目つきが。単に忙しいから気が
立っているだけなのかもしれないけれど。
- 164 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:26
- それにしても、コンビニ店員があんなに不機嫌そうでいいのだろうかと思って中を眺めて
いたら、客に向いている美貴は満面の笑顔だった。あ、ひどい。いたいけな後輩を苛める
とはなんて先輩だ。れいなは少し面白くない。
仕方なく中へ入って、雑誌が陳列されているところで適当に一冊抜き取り、立ち読みを
始めた。
453円です。1000円からお預かりします。ストローはお付けしますか? お待ちのお客様
こちらへどうぞ。547円のお返しです。マイセンライト。ありがとうございました。こちらでよろ
しいですか? またお越しくださいませ。
「すごかねー……」
ぼんやりと客をさばいていく様子を見物しながら、れいなは感心したように呟いた。
中学生の朝は早い。ついでに言うと帰りも早い。昼は弁当派なので外には出ない。よって
れいなは混雑がピークを迎える時間帯、コンビニへ入った事がなかった。
次々に会計をこなしていく美貴ともう一人の店員を、半ば尊敬の眼差しで見守る。
見守ったからって二人の忙しさが緩和されるわけでもなく、れいなもすぐに飽きたので
また雑誌へ目を戻した。
やがて人の列も収束していき、れいなが雑誌を読み終える頃には客もまばらになっていた。
「お待たせー」
美貴がレジを抜けてこちらへ来る。れいなは雑誌を棚に戻した。「買えよ」「いらんですもん」
苦笑いしながら言われたが、そんなつもりは毛頭ない。
- 165 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:26
- 「てゆーか不良ー。サボっちゃダメなんだぞ」
「サボリくらいで不良って言われたら、うちの学校不良ばっかですよ」
呆れた口調で言い返し、「いいんですか?」とレジを指差す。
「ああ、いいのいいの。もう忙しいの抜けたし。あとはお昼まで結構暇だから」
「はあ」
「で、どうしたのよ。ちょっとセンセイに言ってみなさい」
美貴はセンセイじゃなくて先輩だ。素直にそう言ったら、彼女はにひひと悪戯に笑った。
「心のお悩みを解決してあげようってんだからセンセイでしょ。藤本メンタルクリニックへ
ようこそみたいな」
自分で言ってておかしかったのか、彼女は最後まで言い切る前に笑い出してしまった。
持ちネタに自分が笑うのは芸人として失格だと、以前なにかのテレビ番組で言っていた。
しかし美貴は芸人ではないので、れいなはその辺を見逃してあげることにする。
「……大したことじゃないんで」
「ふぅん。別に言いたくないなら言わなくてもいいけどさ」
軽く肩を竦め、れいなの頭をぽふぽふと叩いてくる。れいなはそれに甘えそうになるが、
それよりもプライドが邪魔をして言えなかった。
「……藤本さんは」
「ん?」
「あの人のこと、友達とか知ってたんですか?」
「亜弥ちゃん?」
れいながこくりと頷く。
「知ってたも何も」
美貴が重い溜息をつく。
「クラス全員が美貴の敵だったよ」
「え……」
- 166 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:27
- その、あまりに重く暗い口調に、れいなは聞いてはいけないことを聞いてしまったような
気がして顔を上げる。美貴は眉をきつく寄せながら商品を整頓していた。
「朝も昼も帰りも足止めされて、おかげで朝っぱらからハイテンションな亜弥ちゃんに
抱きつかれるわ昼寝できないわ『ムーディーだから』とかワケ判んない理由で放課後の
教室に二人っきりにされるわ! あの時はマジ貞操の危機だったね」
ガコガコと雑誌の棚が揺れる。整頓する手が激しすぎるせいだ。
「美貴ちゃん、あんま乱暴にしないでよ。壊れるから」もう一人の店員が困ったように
言ってきたが、美貴の手は静まることを知らない。
そしてれいなも、彼女を静める方法を知らない。
「亜弥ちゃんは亜弥ちゃんで『ありがとうございますー』なんつって愛想振り撒く
もんだからみんな調子に乗っちゃうし! あんな可愛い顔でニッコリ笑われたらそりゃ
協力もしたくなるってもんだよね! 特に男子! そんなんするくらいなら自分が
コナかけてみろって話じゃん!? まあ無理だけど!」
段々ノロケになってきたような気がする。しかも美貴自身は気付いていないような気がする。
- 167 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:27
- とりあえず、そろそろ止めなければならないだろう。彼女がクビになってしまう前に。
「あの、藤本さん」
「なに!」
「お客さんが逃げてます」
ようやく雑誌をかき回す手を止めた美貴が店内を見回すと、なるほど確かに誰もいない。
いくらピークを過ぎたとはいえ、まったく人がいなくなるなんて、この時間では考えにくい。
「……えーと。」
人の気配がひどく薄い店内に、アップテンポなBGMが悲しげに流れていた。
「美貴ちゃーん……」
「あ、あはは。ごっちんあとヨロシク」
ぐったりしている同僚に一声かけ、美貴はれいなの襟首を引っつかむとバックヤードへ
姿をくらました。
「……まっつーはアレのどこが良かったんだろ」
残された同僚は疲れた顔で呟いてから、美貴が散らかした雑誌を整えるためにレジを出た。
「ああ、あたしっていい奴。後で紺野に褒めてもらお」
- 168 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:27
- 二度目となるバックヤード。相変わらず薄暗くて寒くて狭い。
れいなを隣に座らせ、美貴がからからと笑う。その頬が微かに赤いが、さすがに恥ずかし
かったのだろう。
「ごめんごめん。で、何の話だっけ?」
「あの……」
藤本メンタルクリニック、再度開業。
しかし、れいなは自身に訪れた心境の変化に戸惑っていて、ちゃんと話を出来そうにない。
言ってしまえば妬んでいた。目の前の彼女に対して持ってはいけない感情を抱いていた。
クラスメイトが協力してくれて。話を聞くに単に面白がられていただけのようだが、
それだってれいなにとっては羨ましい。
彼女は、あんなことを黒板に書かれたりはしていないだろうから。
美貴の表情がにわかに真剣みを帯びる。決まり悪そうに鼻の頭を擦り、優しく問いかける。
「……なんかヤな事でもあった?」
「ヤ……ていうか。あの……」
自分はきっと。
どうしようもなく子供で、どうにもならないくらい子供で、どうでもいいくらい子供で、
同情の余地もなく子供だ。
- 169 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:27
- 「……朝、ガッコ行ったら、あの……黒板に、なんか書いてたんですよね」
「なんか?」
「なんだろ、よく覚えとらんのですけど。あたしと絵里の名前書いてて、あの……」
本当に思い出せない。ちゃんと認識していない内に飛び出してしまったのかもしれない。
そうじゃない。ちゃんと判っていた。それが何を意味しているか。だからあそこにいたく
なかったのだ。
両手を組む。右手はもう痛くない。
「なんか……なんだろ、みんな笑ってて。なんでやろって思って、さゆ見たら笑ってなくて。
さゆが笑ってないとこ、あたしあんま見た事なくて、なんでって思って……」
やはりちゃんと話せない。美貴が手を延ばして髪に触れてくる。
「そっか」
美貴が発したのはそれだけだった。それ以外には何もなかった。
それは、ずるいと、思った。
「あたっ、あたしもやけんど、絵里んこと、馬鹿にされたみたいに思ったけん、なんか
頭に来て、けどそんな連中の相手なんかしとれんから、なんでもないふりしてさゆんとこ
行こうって……さゆんとこ、行こうって」
れいなは前を向いていた。視軸を水平に固定し、乱雑に積み上げられている段ボール箱を
見つめている。視界が歪んでいることに気付いてはいたが、それを直そうとはしなかった。
- 170 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:28
- 髪を撫でていた手が離れる。膝の辺りで柔らかく組まれた両手を、れいなは静かに見ている。
「田中ちゃんは、潔い泣き方をする子だね」
「え……?」
「女の子ってさ、泣く時下向いたり手で隠したりするじゃん。恥ずかしかったり、
そうした方が有利になるって計算してる子もいるかもしんない。でも田中ちゃんは
真っ直ぐ前向いて泣いてる。それって潔いなって思った」
れいなは『いさぎよい』というのがどういう字を書くのか思い出せなかった。まだ習って
いないのかもしれない。
ただ、美貴の口調でどういう意味なのかはなんとなく判った。
「美貴のこと、羨ましい?」
軽く首を傾げながら、美貴が問いかけてくる。れいなは素直に頷いた。それに対しては
柔らかい微苦笑が返ってきて、れいなは彼女の表情を不思議に思う。
「……田中ちゃんは可愛いね」
また言われた。自分では、どちらかというと可愛げのない方だと思っているのに。
そう何度も言われたら、信じたくなってきてしまう。
抱き寄せられて、よしよしと頭を撫でられる。体格なんてそれほど変わらないのに、
やっぱオトナの人だなあとか呑気な感想を抱いた。
美貴の手は女の子にしては大きくて、それでもやはり柔らかくて気持ちが良かった。
- 171 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:28
- しばらくそうして撫でていてくれた美貴が、不意にれいなへ顔を寄せた。
「元気が出るおまじない」
「へ?」
ふわり。熱を持った瞼に違う熱が触れる。一瞬何が起きたか判らなくて、れいなは目を
瞬かせた。
「へ……へぇ!?」
「にひひ。絵里ちゃんじゃないから物足りないかもしんないけどねー」
「なな、なんばしよっとですか!」
「あ、初めて本場のそれ聞いた。カッコいいなー」
泣いたのとは別の理由で赤くなった顔を慌てて美貴から離す。気分的には逃げていた。
絵里といい美貴といい、なんでこうあっさりとそういう事をするのか。
左目を手のひらで強く擦る。心臓が口から飛び出るくらい驚いた。
驚きすぎて涙は止まっていた。
「元気出た?」
「出ました! 出たんでもうせんといて下さい!」
「そんな逃げないでよ、傷付くなあ」
そう言いながら、美貴は面白そうに笑っている。いたいけな後輩をからかわないでほしい。
「元気出たなら学校戻りなよ。勉強は学生の本分でしょ?」
くしゃりと髪を撫で上げられ、そう諭される。彼女はあまり真面目に勉強をしていた
ようには見えない。それでも先輩なので、言う事は聞かなければいけない。
- 172 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:28
- バックヤードを出ると、さっきの店員がぼぉっとレジに待機していた。朝のラッシュで
散らかされた商品は綺麗に整頓されている。いい加減やる事がなくなったのだろう。
「おー、おかえり」
「ただいま」
二人に気付いて笑いかけてきた同僚へ笑顔を返し、美貴は最後にもう一度れいなの頭を
撫でた。彼女の撫で方は乱暴だが優しい。
「藤本さん」
「ん?」
今だ赤くなったままの瞼を擦りながら、れいなが照れ臭そうに笑う。
「あたし、藤本さん好きです」
虚を突かれたのか、美貴は一瞬お?という顔をした。
「うん。美貴も田中ちゃん好きだよ」
「でも一番は絵里ですけど。ちなみに二番はさゆです」
「……ふはっ」
悪戯な口調に、美貴が苦笑した。「じゃあ」言いかけた言葉は途中で止まる。多分、何番目
なのか聞こうとしたんだろう。やめた理由はれいなには判らない。
- 173 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:29
- 「そういう事は本人に言ってあげなよ」
額を指で弾かれ、もっともな事を言われた。れいなは笑うだけでそれに答えない。
「また遊びに来てもいいですか?」
「ん? いーよ。また三人でおいで」
頷いて、目を細める。
ここへは何度か三人で来た事がある。美貴がいる事はあまりなかったが、彼女は既に
全員と顔なじみになっていた。だからだろう。
きっと藤本さんは、絵里もさゆも好きだ。そう思うとちょっと嬉しかった。
れいなが店を出てから、レジに控えていた同僚兼友人がからかうように美貴の腕を肘で
突付いてきた。
「本人に言ってあげなきゃいけないのは美貴ちゃんの方じゃないの?」
後輩の前だからっていいカッコしちゃって。きししと笑いながらツッコまれて、美貴は
小さく肩を竦めた。
「あの子は判ってるからいーの」
「……わお。」
今度は同僚が肩を竦める番だった。
- 174 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:29
-
- 175 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:29
- どんな事であれ、途中入場というのは気まずいものだ。
二時間目が終わるまで保健室で時間を潰し、それから教室に入ってきたれいなへ、そこに
いた全員の視線が集中する。
胸焼けがするほどの居心地の悪さを感じていたが、れいなは何事もなかったかのように
振舞った。そうすることで視線も次第に本来の場所へ戻っていき、れいなはホッと息を
つく。
「れいな、大丈夫?」
「ん? 平気」
さゆみが背中をつついてくる。振り返ったれいなの目に、赤く腫れたさゆみの頬が入り
込んできた。微かに眉を上げる。指先でそっとその頬を辿る。さゆみは計り知れない笑み
でれいなの指を受けた。
「あいつにやられたと?」
「うん」
「……ったく」
正直に答えるあたりがさゆみである。それに呆れながら、それ以上に怒りながら、
れいなは深く嘆息した。
「さゆが怒ることじゃなかよ。あんたは関係ない」
「私は怒ってないよ」
「……じゃ、なんで喧嘩したとよ」
「れいなが怒ってたから、代わりにひっぱたいてあげたの」
ほわほわとした、自分のする事は全て正しいとでも思っていそうな笑顔で、さゆみは言った。
見慣れているはずのその笑みに、どうしてかれいなは呆気に取られる。
- 176 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:30
- れいなが怒ってたから。
それはだから、そういう事なのだろう。
彼女を非難するような、先端の鋭く尖った溜息が口から飛び出た。
まったく、冗談じゃない。そんな事は誰も頼んでいない。
「……さゆはそんな事せんでよか」
「だって、れいな行っちゃうんだもん。絵里もいないし、じゃあ私しかいないなって」
訳の判らない消去法を持ち出して反論するさゆみに、れいなは嬉しいような腹立たしい
ような、脇腹の辺りをころころとくすぐられているような気分になる。
「でもね」さゆみがおもむろに鏡を取り出し、自身のかんばせを覗き込んだ。
「赤くなっちゃったしちょっと腫れちゃった。可愛い顔が台無し」
「……そ」
だったらそんな事しなければよかったのに。れいなは言いかけてやめる。それを言える
立場でもないことに気付いたからだ。
ちらりとくだんの相手を見遣る。向こうも仲良し三人組だ。ただし、れいなたちのように
横一列に並んでいる間柄ではなく、リーダー格に取り巻き二人という構成。
さゆみが一発お見舞いしたのは中心にいる少女だろう。不機嫌そうに赤い線の入った頬を
押さえながらこちらを睨んでいる。さゆみが手を出したのは一度だけのはずだ、彼女は
いつもそうだった。
それなのにまだ跡が残っているということは、余程強く叩かれたか。
れいなは目を逸らす。相手にするのも馬鹿馬鹿しくなってきたからだ。
「……さゆ、今のあんたでもあいつより百倍かわいかよ」
「当たり前じゃん」
やっぱり怒ってるんじゃないか。れいなは息をついた。
- 177 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:30
-
- 178 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:30
- さゆみの一発が効いたのか、それ以降は誰も何もアクションは起こさず、授業中も休み
時間も平和な時が続いた。それついては随分ホッとしていた。周りの評価がどうだろうと、
れいなは今日の出来事に何も思わないほど傲岸不遜な性格ではない。
授業を全て終え、帰宅部である二人はバッグを肩に掛けて帰ろうとする。今日はいつも
見ている音楽番組にれいなの好きなアイドルが出演するから、寄り道をせずに帰ろうと
思っていた。
「さゆ、帰ろ。何やっとぅとよ?」
鏡の中をためつすがめつ、難しい顔をしているさゆみを、れいなは首を傾げながら促す。
「ん〜……」さゆみの表情はかなりの曇天模様だった。まだ叩かれた箇所を気にしている
のかと溜息をついて、ひょいと彼女の鏡を奪った。
「あぁん」
「もう判らんって。早く行こ」
パタン。れいなの手の中で鏡が折り畳まれる。指先でそれを転がしながられいなが歩き
出し、鏡を人質に取られたさゆみも仕方なく席を立った。
「返してよぉ」「返して欲しかったらさっさときぃ」ぶーたれるさゆみに向けて鏡を高く上げ
て見せる。そのまま後ろ歩きにドアまで進み、開いたままだったそれを抜けようとした。
「――――っと……」
「あ、れーなー」
背中に柔らかい感触が当たって、れいなが謝ろうとするより早く届いた声に、鏡を掲げた
ままの妙な視線で固まってしまう。
- 179 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:30
- 首を少しだけ傾け、背後を見遣る。ふにゃりとした笑みが視界に入って、れいなは条件
反射のようにそこから離れた。
どうして彼女はこう、こっちを驚かせるような事ばかりするのか。もうちょっと予測可能
な行動を取って欲しい。そうしてもらわないと、いつか胃に穴が開いてしまいそうだ。
こんな年で胃潰瘍なんて経験したくない。
「……絵里、なんでこっち来とぅとよ」
「んー、れいなとさゆ元気かなーって思ったから」
ふにゃふにゃした声で答え、絵里が二人に向かって「いえー」と気の抜けたピースサインを
してきた。さゆみはそれに応じたが、れいなはそんな事をする気になれない。
だからつまり。タイミングが悪い。
教室の中には、まだクラスメイトたちがたむろしている。そのほとんどがこっちに注目
しているのを背中越しにひしひしと感じる。今朝の『事件』のご当人が登場したら、まあ
気になって当然だろう。
身体が冷えていく。そんな気になっているだけだ、本当はれいなの顔は朱に染まっている。
ざわりざわり。囁きが全身を撫でていく。誰の声かなんて関係がない。その内容も関係が
ない。気に障るのはその湿度だった。冷えているくせに湿度が高い。
はっきり不快だった。居心地が悪いなんてレベルじゃない。
「れいな?」
表情を失くしたれいなに、絵里が困ったように眉を下げた。ああ、違う。彼女が来た事を
怒っているんじゃない。それを伝えようとするれいなの口からは海岸の砂に似た粒子の
粗い吐息しか出てこない。
- 180 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:31
- 「れいな、行こ?」さゆみが手を引っ張ってくる。れいなはそれを振り解く。
さゆみからいつもの笑みは消えている。絵里もどうしていいか判らないようで、気弱に
れいなの制服の裾を掴んでいる。初めてだろうか。違う。初めてなんかじゃない。
こういう二人を、見た事がないわけじゃない。これはだから自分の中の問題で、それを
制御できないくらいに冷静さを欠いているという、そういう事だ。
何かひとつ。気泡が弾けるくらいの小さな刺激があれば、れいなの中にある何かは容易に
『それ』を解放するだろう。さゆみは自覚しているのかそうでないのか、それを止める
ために手を引いてくれたのだ。そこで止まるべきだった。引かれるままに足を踏み出し、
ドアを抜けて、不快な気泡の外に出てしまえば避けられる事態だった。
そうしなかったのは、望んでいたからかもしれない。
何かひとつのきっかけで、とにかく欠片だけでも決着をつけたかったのかもしれない。
意思を以って異議を唱えて時宜を見計らって基層を作り上げて未曾有の危機を乗り越えて
微少の正義を振りかざして固有の情を正当化して浮遊する想いをぶちまけて畏友を守って
雌雄を決したかったのかもしれない。
呼吸は相変わらず粗い。れいなの口から零れ落ちた呼気は湿度の高い音を吸い込んで
足元に溜まる。
「気持ち悪い」
イエス。気泡が弾けた。待ち望み待ち焦がれ待ちぼうけた、ひとつのきっかけ。
悪いことでもしてみようか。一瞬だけ考えたがやめた。
それは今ここでするべき事ではないように思えた。
れいなの手が固く握られ、ゆっくりと肩の辺りまで上がる。
……まったく。
冗談じゃあ、ない。
- 181 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:32
- 「れい……」呼び声の主が誰だったか、判らなかった。
強烈に猛烈に壮絶に饒舌に暴説に冷徹に低劣にれいなの拳が壁を殴りつけた。
声が止む。激しい通り雨のように、それは唐突に止まった。
「絵里が」
砂を鬱陶しそうに吐き出しながら、れいなは喉からジャリジャリした声を絞り出す。
「絵里があたしん事好いとぅのが、そんなにおかしいんか!」
言い捨てて、れいなは絵里の手を取って教室を後にした。
誰も喋らず、誰も動かず、誰も追おうとしなかった。
残されたさゆみが、ほわほわと笑って視線を一点に定める。
「れいな優しいよね?」
ちょこんと首を傾げながらそう言って、二人の後を追いかけ始めた。
しばらくして、誰かが喋り、誰かが動いたが、誰一人として三人を追う者はなかった。
- 182 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:32
- 「アレ、れいなが絵里のこと好きって言うより恥ずかしいよね」
「……うるさか」
「でもれいなかっこいー」
「うるさか。黙れ」
「れいな生意気ー」
ほてほて歩きながら、れいなと絵里はそんなやり取りをずっと続けている。そんな二人の
半歩後ろをさゆみが歩いている。鏡はちゃんと返してもらったのでご機嫌だ。
今現在、れいなの身体は間違いなく疑いようもなくどうしようもなく火照っている。
怒りに任せてなんて事を叫んでしまったのか。しかも自分の教室で。
右手が痛い。なんだか今日はいい事がない。二度も物に当たる羽目になったし、サボった
事が保田にバレて叱られたし、美貴には変な事をされるし。
「明日はきっと、いい事あるよ」
「え?」
半歩後ろを歩いていたさゆみの口から出た言葉は、あまりにタイミングが良く、あまりに
的を射ていて、あまりに自然で、あまりにれいなの心を突いた。
だかられいなは、頷けない。
「判らんっちゃ。また……ああいう事あるかもしれん」
「そしたらどっか遊びに行こ」
いい事がないなら作ればいいという理論らしい。「どこ行く? どこ行く?」絵理が声を
弾ませる。いい事がなかったら、という前提は聞こえていないようだ。
れいなはそれに溜息をついたものの、それでもいいかと思った。
いい事があってもなくても。誰かに何かを言われても誰も何も言わなくても。
- 183 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:33
- ああ、ひょっとしたら一番子供なのは自分なのかもしれないと、無邪気に遊びの算段を
している二人を見ながら思った。
「海とかー」
「まだ早かよ」
「山とかー」
「……ホントに?」
「うっそー」
「映画ー」
「遊園地ー」
「ショッピングー」
「動物園ー」
絵里とさゆみは楽しそうに好き勝手な事を言う。お互い、相手の提案なんて聞いていなくて、
れいなも二人同時に相手をするのは疲れるので、中盤くらいからは口を挟まずにいた。
どうせ出来る事は限られている。最終的にはプリクラを撮りに行くとかカラオケとかに
なるんだろう。
鬱々とした気分は晴れない。おまじない効かないですよ、藤本センセイ。二人の楽しげな
声を聞きながら、れいなは溜息をついた。
きっとあの人には、美貴のおまじないは絶大な効力を発揮するんだろう。プラスアルファ
というやつだ。生憎と、れいなにはプラスできるような要素はない。
れいなは瞼を擦る。嫌だったわけではなく、なんとなく申し訳ないような気がしたから。
多分、知ったらいい気持ちはしないだろうなと思ったのだ。自分が絵里には他の子に
そういうことをしてほしくないように。
- 184 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:33
- 擦ったからといって事実が消えるわけでもない。だからこれは、自分に対する言い訳なの
だった。自分以外の誰かにするなと彼女に言っておいて、他の人にそういうことをされて
しまった事に対する、後ろめたさを誤魔化すための仕草だった。
さゆみが乗るバス停に到着して、彼女とはそこで別れた。からかい混じりに言われた
「邪魔してごめんね」という台詞には、「アホ」の一言を返しておいた。
バスが走り去るのを見送ってから歩き出す。絵里が痛む右手を取ろうとしてきたが、
れいなはそれをさりげなく避けた。「むー」不満そうに頬を膨らませる絵里の隣で溜息をつく。
「で、結局どこ行くと?」
「わかんない」
やれやれ。予想はしていたがやはり二人とも自分の好きなことを言っていただけか。
決まるのは明日の放課後だろう。そうすると、さゆみと一緒に学校を出て、絵里とは
どこかで待ち合わせる事になるのか。今日のように彼女が中等部に来るのはやめておいた
方がいいだろう。無駄に騒ぎを起こしたくない。
そうした方がいいのは当たり前の事だった。れいなはそれをちゃんと判っていた。
「絵里」
「なに?」
「あの……」
前を向いたまま、言いにくそうに口ごもる。
嫌な思いをさせたくないから、もう中等部には来ない方がいいとか、騒がれたくないから
あんまりべたべたしてほしくないとか、そういう事を言おうとしたが、れいなの口から
そんな意味合いの言葉は出てこなかった。
- 185 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:33
- この時間、住宅街の人気は少ない。早い家では夕食の準備が始まっているらしい。
換気扇から湯気と香りが漂ってきている。犬を散歩させている老人とすれ違う。ペコリと
頭を下げる。道幅が狭いせいか、自動車もあまり通らない。
どこかの家の犬が吠えている。落ちかけた陽に照らされた電信柱の影は長い。
その影に右足が乗った時、絵里がれいなの手を取った。今度は拒まなかった。
れいなの足が止まる。右手と左手だけで繋がった二人の影が長く伸びている。
プラスアルファ。
「あの……」
俯き、決まり悪そうに視線を揺らすれいなを、絵里はきょとんとした顔で見ている。
夕闇にはまだ早い。お互いの表情が判らないほど暗くはない。だかられいなは視線を
逸らすしかない。
「目、に」
別にそんなものを信じているわけじゃない。
疑いもせず、伺いもせず、うろたえもせず、嘯きもせず、そんなものを信じられるほど
子供ではない。少なくともれいな自身はそう思っている。
絵里がふにゃりと笑う。手のひらを重ねるように繋ぎ直して、ゆっくりとれいなへ側寄る。
いい事がなければ作ればいい。
瞼に触れる。二人の影は融け合い、区別がつかなくなっている。
影は影だ。二人は融け合ってなどいないし区別がつかなくなっていないしひとつになんて
なっていない。
同化などしていないから伝わる熱。
- 186 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:34
- 「……アホ」
「ん? 違った?」
視線を右下に落としたまま呟かれたれいなの言葉に、絵里は少し不満そうに唇を尖らせる。
違う。いや違わないが違う。して欲しかったのはそれだったが、そうして欲しいと願って
しまった自分が情けなくて出てきた呟きだった。
何より情けないのは本当に元気が出てきてしまった事だ。れいなは手のひらで顔を覆って
溜息をついた。
「やす……」
「保田先生?」
「違う」
ああもう。年明けからこっち、ペースを狂わされてばかりだ。こんな風に、彼女に甘えた
ことなんてなかったのに。
今日はちょっと弱っている。明日にはきっと元に戻っている。楽観主義ではないが、
どちらかと言えば悲観的な性格ではあるが、れいなはそう願わずにいられない。
絵里はきょとんとしている。彼女は気楽でいい。
「どしたの?」
「なんでもなかよ。行こ」
並んで歩いて、れいなの自宅まで曲がり角二つ、というところで絵里が手を引っ張ってきた。
「れいな」
「ん?」
「明日、どこ行こっか?」
彼女はもう既に楽しそうだ。「鏡と隙間がないとこ」からかい混じりに言うと、絵里は
その言葉に込められた意味を正確に読み取ったらしく、ふくと頬を膨らませた。
- 187 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:34
- 「れいなムカつく」
「はいはい」
「でも好き」
「………………」
嬉しいような腹立たしいような、微妙な心境になった。
どうも最近、彼女はやけに素直だ。それとも最初から素直だったんだろうか。
「……そう」思いがけず不機嫌そうな声になってしまった。誤解されただろうかとれいなは
顔を上げて絵里の横顔を盗み見る。ふにゃふにゃと笑っていた。なんだかなあ。よく判ら
ない独白が口の中で転がった。
カタカタと鞄の金具が鳴っている。それが妙に気になった。
瞼が熱くて、絵里に触れられた瞼がいやに熱くて、れいなは視線を落とす。
ちょっとばかり、藤本センセイにお礼を言ってもいいという気分になっていた。
なにせおまじないで元気が出てしまったし。
「……明日も、一緒に帰ろ」
「うん」
「明後日も、しあさっても、来週も一緒に帰ろ」
「うん」
「……さゆがおらん時も、一緒に帰ろ」
「うん」
絵里の口元がふにゃりと緩んでいる。カタン。鞄の金具が一度跳ねる。
二人の髪が風に揺れて、触れて、離れる。
決着がついた。
- 188 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:35
-
- 189 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:35
- やかましい目覚まし時計を止めて再度布団に潜り込み、ウトウトと心地よい夢心地で
いたら、母親に容赦なく布団を剥ぎ取られた。
「いつまで寝とぅとよ! さっさと下りてきんさい!」
「……んー…………」
乱れた髪が顔にかかって鬱陶しい。それをかき上げながら、れいなは仕方なく身体を起こす。
カーテンの隙間から差し込む朝日がまぶしい。今日はいい天気のようだ、腹が立つくらい。
ベッドの縁に手をつき、思い切り身体を伸ばす。「っしゃ」ひとつ唸って気合を入れ、
カフェオレ色のカーペットに足をつける。柔らかい起毛のカーペットは少しくすぐったい。
身支度を済ませてからリビングに入り、用意されていた朝食を食べ始める。
「あ、今日学校終わってから絵里たちと遊びに行くけん、ちょっと遅くなるね」
「あんまり夜遅くまで遊んだらいかんよ」
「判っとる」
ホットサンドを飲み込みながら頷く。先月母親が専用プレートを衝動買いしたおかげで、
週に三回は朝食にホットサンドが出てくる。まあ、中身のバリエーションは豊富なよう
なので助かっているが。
- 190 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:35
- 最後のひとかけを牛乳で流し込んで、制服に落ちたパンくずを払い、バッグを手に取る。
「行ってきます」「はい、行ってらっしゃい」母親はキッチンで洗い物をしながら見送った。
外はやはりいい天気で、れいなは眠いときの猫みたいに目を細める。
遊びに行くには絶好の日和だ。今日はどこに行こうか。
どこでもいいなと思いながら、れいなは学校へ向かう。
あの二人が一緒なら、海だろうが山だろうがどこだろうが構わない。
カタカタとバッグの金具を鳴らしながら、れいなは走り出した。
《Thank you for "SOUL DOCTOR".》
- 191 名前:『きのうの雨は花と樹のため』 投稿日:2004/04/17(土) 01:36
-
以上、『きのうの雨は花と樹のため』でした。
別名「え! 藤本さんが田中さんにそんな事を!」話(爆)
という思わせぶりな事を書いても、2chブラウザを使っている人には何の意味もないわけで。
そしてどうしても痛い描写は逃げてしまいます。修行が足りません。
- 192 名前:円 投稿日:2004/04/17(土) 01:36
- レスありがとうございます。
>>154
圭ちゃんはかっけー人です。たとえオチが白子でも!(爆)
>>155
あんまり気にしすぎると、自分みたいに全然違う名前の人に「田中さん」とか
話しかけちゃうかもしれないので気をつけてください。
素で恥ずかしいです。
>>156
登場人物増えすぎちゃってどうしよう状態です。
相関図を(登場済み、未登場合わせて)作ってみましたが、自分で訳が判らなくなったので
放り投げました(爆)
>>157
保石ってけっこう好きなんですけど、あんまりモロなCPとしては書けなくて。
自分でもこういう距離感の二人が好きなんでしょうね。
あの話で書きたかったのは、むしろ生徒側でしたり(笑)
- 193 名前:円 投稿日:2004/04/17(土) 01:37
- これまでなるべく週一ペースで更新するようにしてきたんですが、事情により
難しくなってきました。
これまでの半分……いや四分の一くらいになるかもしれません。
つまり月いち。あ、石が!(二回目)
えーと、のんびりとお付き合い頂ければ幸いです……。
- 194 名前:つみ 投稿日:2004/04/17(土) 10:46
- 少し痛かったですね私には・・
わたしはこういう考えはわかるんですけどね〜・・
自分的にはなぜ同姓と付き合ってはいけないのかとも思います。
そんなこんなを考えさせてくれてありがとうでした。
- 195 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/04/17(土) 16:42
- 痛くて甘くて、結局最後にはどっちかよく分からない。そんな感じでした(笑)
円さんの作品は甘くて痛くて最後には両方を与えてくれるモノばかりで、感想が
上手く書けません(笑)修行が足りませんね(^^;
言葉使いが巧みでいつもため息が出て止まりません。素敵過ぎです。
では、まったりと次回お待ちしております♪
- 196 名前:_ 投稿日:2004/04/18(日) 16:33
- すっごいですねー
小さなことにも色々気が配られてて。。。
- 197 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:10
- 成績…多分同じくらい。
運動神経…ちょっと負けてるかもしれない。
身長…ちょっと負けてる。体重…不明。
誕生日…勝ってるけど意味がない。
髪の長さ…勝ってる。
というわけで、里沙は髪を切らない。毛先を整えるために美容院へ行っても、美容師が
呆れるくらいに「出来るだけ切らないで」と頼み込んでいるくらいだ。
そして里沙は今日も入念に髪を梳かし、少しでも艶が出るようにヘアクリームを塗り込む。
言うなればこれは戦闘準備である。里沙以外の誰も、彼女でさえも知らない事だが。
「……よし」ひとつ頷いて、洗面台に水を流して手を洗う。情けないが、他の部分では
後れを取っているのだ。髪は里沙にとって最後の砦となっているから手を抜くわけには
いかない。
「行ってきまーす」
母親に声をかけてから出ようとしたら、「ご飯くらいちゃんと食べて行きなさい!」と
怒号が飛んで来た。里沙は慌ててリビングに入り、用意されていたトーストを口の中に
押し込む。気を張りすぎて朝食の事を忘れていた。気分的にはそんなものに構わず学校へ
向かいたいところだが、この前授業で朝食を採らないと成長に影響を及ぼすと聞いたので
それ以来できるだけ食べるようにしている。里沙はまだ諦めていない。
野菜ジュースでトーストを押し流し、ゆで卵を二口で平らげて今度こそ家を出た。
里沙の黒髪が朝の光に照らされて煌いている。
- 198 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:10
-
- 199 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:11
- 中等部三年の教室は校舎の三階にある。不公平だ、といつも思うが、里沙だって一年生
だった時代はあったわけで、その時はラッキーだと思っていたのだから本当は不公平では
ない。
階段を駆け上がり、教室のドアを開ける。クラスメイト達に挨拶をしながら、教室の中を
見回した。……よし、まだ来てない。
これもまた、里沙が行っている勝負だった。自分だけで勝手にしている勝負だから、
相手は知るべくもない朝一番の決戦だった。
自分の席につき、筆記用具と昨日の宿題を引き出しにしまう。教科書やノートは全教科を
机の中に置きっぱなしにしている。ほとんどの若者が取る合理性への道だった。
「絵里おはよー」
里沙がノートを押し込んでいる時、クラスメイトの声が聞こえた。顔を上げると他ならぬ
亀井絵里が教室に入ってくるところで、里沙は周りに気付かれない程度に顔を引き締めた。
誰あろう、彼女こそが里沙のライバルだった。別に仲が悪いわけでもないし、ライバル視
しているのは里沙の方だけだったので、クラスの誰もそんな事は知らない。
きっかけは些細なものだった。去年の体育祭で二人はパン食い競争に出場し、絵里は見事
三位入賞を果たして里沙は四位だった。
それだけならもうちょっとで入賞だったのになあとか、そんな感想だけで終わっただろう。
しかしその時、絵里は友人らしい少女たちに手を振りながら走っていたのだ。
そのあからさまに手を抜いている様子に、一生懸命走った自分を馬鹿にされたようで、
以来里沙は彼女をライバルと勝手に認定して勝手に勝負を挑んでいた。
- 200 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:12
- 「里沙ちゃんおはよー」
「あ、おはよ……」
絵里の席は里沙のそれよりも後ろにある。通り過ぎる間際に声をかけられて、里沙は
慌てて返事をした。絵里の髪が背中で跳ねている。まだ勝ってる、よしよし。
艶は……同じくらいだろうか。
里沙は後ろの壁に貼られた時間割を確認するふりをして、絵里の後ろ姿を観察していた。
出来れば隣に並んで身長を確認したいところだ。伸び悩んでいる自分と違って、どうも
彼女は順調に成長しているような気がする。
しかしいきなり「背比べしようよ」なんて言ったら変に思われる事は確実なので、里沙は
ぐっと堪えた。
絵里は他の友人と楽しそうに喋っている。教室の中は騒がしくて、何を話題にしているの
かは判らなかった。
「はいみんなおはよお」
本鈴が鳴った直後に担任教師が入ってきた。年若い男性教師、しかもバスケ部の顧問と
三拍子揃った彼は、ちょっと背伸びしたい年頃の女子生徒に人気があったが、里沙は
あまり興味がなかった。中学生活の残り一年を絵里との勝負に捧げる気でいるから、
そんな事にかまけている暇はないのである。
出席を取った後、担任はいくつかの連絡事項を告げてホームルームを終えた。彼の担当
教科は体育だ。今日は三時間目までお別れである。
里沙は次の授業で使う道具を机の中から探し始めた。
- 201 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:12
-
- 202 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:12
- その体育の授業。10月に行われる校内マラソンの練習という事でグラウンドを五周する
と教師から告げられて、生徒たちが一斉にブーイングをした。
「文句言うんじゃない。タイムも計るからな、サボるなよ」
にべもない言葉に、みんな渋々広がって準備体操を始めた。里沙もその中の一人で、
こっそりと絵里の姿を探したら、何を考えているのか判らない顔で柔軟をしていた。
なんとなく悔しくて、里沙は「マラソンなんて全然嫌じゃありません」という表情を作って
伸びをした。
教師のホイッスルに合わせて準備体操をして、それから一斉に走り始める。コースの
中心に白線が引かれていて、男子は外側、女子が内側を走るようになっている。
当然男子から不公平だと不満の声が上がったが、教師が何か言うより早く投げつけられた
女子陣の鋭い睨みにみんな押し黙っていた。情けない、と里沙は胸中で溜息をつく。
団子状態だったのが次第にほどけていって、数人のトップグループとそれに続く第二陣が
点在し、更に遅れたあたりはまだ団子になっている。里沙はそこにいた。
ぜえぜえと息を切らせながら絵里を探す。もうひとつ先のグループに、背中で跳ねている
黒髪を見つけた。里沙は一念発起して力強く足を踏み込む。
どれだけ頑張っても、差は縮まってくれなかった。
やっぱり運動神経はちょっと負けてるみたいだった。
五周を走り終えてグラウンドの芝生に倒れこむ。大の字に寝転がって、荒い息を必死に
立て直していると、隣に誰が座った気配がした。
「疲れたねー」
「……うん」
彼女がいつも浮かべている、ふにゃふにゃした笑みが視界に入り込んだ。里沙よりも
早くゴールしたからか、既に呼吸は平静に戻っている。
また悔しくなって思わず息を止めた。途端に苦しくなって「プハッ」と吹き出す。
- 203 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:12
- 「……絵里ちゃん、さっき本気で走ってた?」
「えー? 絵里ちょう本気だったよ。めちゃくちゃ疲れちゃった」
掴みどころのない、気の抜けた声はどこか謙遜しているように聞こえた。それが彼女の
普段からの喋り方だと知らないわけでもないのに。
「ま、まあ私はちょっと手抜きしちゃったけどねっ。だってさあ、本番でもないのに
本気だしてらんないじゃんっ」
強がった直後、まるで彼女を馬鹿にする言い方になってしまったと気付いて後悔したが、
絵里は特に気にした様子もなく、「そっかー」とやはり気の抜けた声で相槌を打ってきた。
何か言い訳をしようかと思ったが、思い直して「ねえ?」と笑いかけた。訂正するのは
なんだか格好悪いような気がしたのだ。絵里も別に不快にはなっていないようだし。
そうだったら謝るまではいかないにせよ、弁解めいたものはするつもりだった。
里沙は別に、彼女を嫌っているわけではないし、ライバルと同時に友達だとも思っている
ので、喧嘩になってしまうのは避けたかった。
「でも、れいなとかこういうのすごいムキになるよ。負けず嫌いだから」
ふにゃふにゃ笑いながら絵里が言う。一学年下の彼女の友人については里沙も知っている。
何度も話に出てくるし、一緒に帰る約束をしていたりするのか、もう一人加えた三人で
校門へ向かう姿を見かけたこともある。
「れいな体育苦手なのにさー、いっつも一生懸命走ってんの。そんでさゆはいっつも
サボってんの」
「ふーん。なんで知ってるの?」
「見てるから。絵里の席窓際だから、れいなたちが体育してんの見えるの」
思い出しているのか、絵里は小さく喉を震わせながら笑っている。
里沙が校舎を見上げる。確かに自分達の教室はグラウンド側にあって、窓からここを
見る事は可能だろう。しかし距離はかなりある。立ち止まっている時ならともかく、
走っていたらあそこから特定の誰かを判別するのは難しいような気がする。
- 204 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:13
- 不思議に思って素直にそう言ったら、絵里はまたあの笑みを浮かべた。
「絵里わかるよ。れいながどこにいるかすぐわかるもん」
「へえ……」
やけに自信たっぷりに言われて思わず感心してから、また後悔した。敵に塩を送って
どうするのか。
なんだか胃の辺りが重くなった気がする。なんだろう、走りすぎて具合でも悪くしたの
だろうか。さっきまでは普通だったのに、突如訪れた嫌な感覚。里沙はそっと自身の
腹部をさすった。
絵里は里沙の変調に気付いていないのか、得意げな顔のまま「いひひ」と笑声を洩らして、
里沙の髪を指先でつまんだ。
「里沙ちゃん、髪伸びたねえ」
「え? あ、まあね」
「前は絵里とおんなじくらいだったのにね。すごーい」
努力が実を結んだ実感を得られて、里沙の口元が緩む。ここ数ヶ月間、念入りに手入れを
してきた甲斐があったというものだ。
絵里に触れられている毛先がちょっとくすぐったかった。
しばらくそうやって里沙の髪をいじった後、絵里は前を向いて膝を抱えた。
「れいなはねー、髪長い人好きなの」
「そうなの?」
「うん。多分だけど。一緒に歩いてる時とか、『綺麗っちゃねー』って言うの髪長い人
ばっかだもん。博多弁で言うの。博多弁」
たまに何言ってるかわかんないんだよ。ふにゃっと笑いながら絵里は楽しそうに話す。
さっきから、れいなれいなってしつこいな、と里沙は少しだけ不機嫌になった。
それからどうして不機嫌になる必要があるのかと自問する。絵里とれいなが仲良しなのは
とっくに知っているし、彼女がれいなのことをよく話すのもいつもの事だ。自分が怒らな
ければならない道理はない。
それは里沙自身も原因が判らない、不条理な憤りだった。
- 205 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:13
- 集合をかけられて、二人は教師の元へ向かい、指示に合わせて整列した。
特に身長順とか出席番号順とか決まっているわけでもない。絵里と並んで芝生に体育座り
をする。
教師は生徒の人数を指差しながら数え、全員揃っている事を確認してから一つ手を叩いた。
「みんな頑張ったなー。ご褒美に今日はみんなの好きな事して遊ぶか」
おお、と歓声が上がる。こういうところも彼が人気教師である理由だった。
男子を中心として、口々にサッカーとかドッヂボールとか野球とか提案がなされる。
教師はその一つひとつに頷いたが、さり気なく紛れ込んだ「教室で自習」という声は
にこやかに無視していた。
「よし、じゃあそれぞれ分かれて遊んでろ。休むのはナシだぞ」
あらかた希望を採り終えたあたりで教師がゴーサインを出す。運動好きな面々は一目散に
準備を始め、それ以外の生徒は何をするか考えながら立ち上がった。
「里沙ちゃん、なにやる? 絵里ねー、野球やってみたい」
「じゃ、じゃあ私も野球やる!」
勢い込んで答える。ライバルとして他の競技に逃げるなんて出来ない。
野球なんてボールを持ったこともないが、彼女も「やってみたい」と言うからには未経験
だろう。だったら条件は同じはず。これはいい勝負になりそうだ。
里沙が心の中で燃えている横で、絵里は何を考えているのかよく判らない、ふにゃりと
した笑みを浮かべていた。
- 206 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:14
- 準備を終えた野球グループに混じり、チーム分けをしてポジションを決める。
男子も女子も混じっているが、ほとんどが野球をした事がなく、本気でプレイをするわけ
でもないので問題はない。
ただし、約一名本気を出すつもりの生徒がいたが。もちろん、絵里とは違うチームに
なっておいた。
「ばっち来ーい!」
バッターボックスに立ち、ビシッとバットの先をグラウンドの隅に向けて
ホームラン予告をしてから構える。自チームも敵チームも苦笑していた。里沙がふざけて
そんなポーズを取ったんだと思ったのだろう。笑わば笑え。里沙は燃えている。
このポーズだって心底本気だ。
バットは野球部で使用しているものだから、女子で平均身長にちょっと足りない里沙には
長すぎる。ふらつくそれを力いっぱい握り締めて構える姿は、自分では決まっていると
思っているのだが、その実腰が引けていてかなり情けない様相を呈していた。
ピッチャーの男子生徒が、ソフトボールのようなアンダースローでボールを投げる。
手加減されても彼は別にライバルではないので関係ない。
ふらふらと進んでくるボールに狙いを定め、里沙は思い切りバットを振り抜いた。
ブン!とバットが空を切った。ボールは待ち受けていたキャッチャーミットに収まる。
「まだまだぁ!」
ブン。
「もいっちょ来ーい!」
ブン。
「今度こそ!」
「いやもう三振してるから」
呆れたようにキャッチャーから言われて、里沙は野球のルールを思い出す。
「あ、そっか……」ちょっとばかり熱くなりすぎたようだ。諦めて、バットを引き摺り
ながら、ベンチ代わりにみんなが座っている場所へトボトボと向かう。
- 207 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:14
- 自信過剰だとは思わないが、野球部みたいに見事なヒットは打てなくても、かするくらい
出来るかと思っていた。プロ野球のテレビ中継とかを眺めている時は、もっと簡単そうに
見えたのに。
二番バッターはチーム唯一の野球部員だ。補欠ではあるが、やはり経験者。構えも堂に
入っている。ピッチャーも里沙と対峙した時とは違って大きく振りかぶった。
里沙に向けて放たれたのとは比べ物にならないスピードでボールが投げられる。
男子生徒二人、どうも女子にいいところを見せようとしているようだ。この中に好きな
子でもいるんだろうか。
金属の鈍い煌きが里沙の目を眩ませ、その一瞬後、澄んだ音がグラウンドに響いた。
おお、と里沙を含めたベンチ陣が歓声を上げる中、ボールは空高く舞い上がり、外野を
守っていた絵里の頭上を易々と越えていった。
バッター走る。ベンチは煽る。絵里がほてほてと走って草むらに消えたボールを探す。
バッターがホームベースを踏んでしばらくしてからも、絵里は戻ってこない。里沙のいる
場所からでは彼女の姿は見えなくて、なかなかボールが見つからないのだろうかと額に
手をかざしながら探す。
三分ほど経ってから絵里が戻ってきた。両手が胸の前で組まれ、そこに何かを抱えている。
まさか野球ボールをあんなに大事そうに持ったりはしないだろう。絵里がこっちに来る
まで待ちきれなくて、里沙は自分から駆け寄った。
「絵里ちゃん、なに持ってんの?」
「んー……」
いつもの笑みに、ちょっとばかり苦味を加えた表情で絵里は唸った。こちらを見つめて
いる瞳がどういうわけか助けを求めているようで、里沙は不可思議な動揺を覚える。
「どうしたの?」と聞く前に、絵里が胸を反らせて、そこにあるものを里沙へ示してきた。
- 208 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:15
- 「わ……猫?」
元は赤毛のようだが、泥にまみれて墨灰色になっている子猫が絵里の腕にくるまれながら
震えている。怯えているのか衰弱しているのか、鳴く気配はない。
「ど、どうしたの、それ」
「箱に入ってた」
簡潔に絵里が答える。里沙もこの子猫がどういう状況に置かれていたかなんとなく察しが
ついた。二人とも直接的な表現を使いたくないと思っていた。
クラスメイトたちが集まってくる。絵里が抱いている猫を見つけても、誰も可愛いとか
そういう浮ついた言葉は発しなかった。泥で汚れてはいるが、小さいもの特有の可愛さは
子猫から見て取れる。それでも誰もそんな事を言わなかったのは、つまりそういう状況に
ないからだ。
「と、とにかく、ご飯あげようよ。きっとおなか空いてるよ」
「あ、俺ちょっと買ってくる」
男子の一人がそう言い置いてその場を去った。教師に見つかって声をかけられたが、
彼は「トイレ」と叫び返してグラウンドを駆け抜けていった。
薬局で子猫用のミルクと離乳食を買ってきた彼が戻ってくるまで、その場に固まった
全員が何も言わなかった。
ただじっと、震えている子猫を見ているだけの集団の中で、里沙だけは絵里の指先と
ジャージの袖をその視軸に定めていた。
彼女の指先もジャージも、子猫の泥で黒く染められている。それでも、そんな風に汚れて
いても。
なんて綺麗なのだろうと、里沙は無意識下で感動していた。
- 209 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:15
- 離乳食を手のひらに乗せて子猫へ差し出すと、子猫は物凄い勢いでそれを食べ始めた。
子猫を囲んでその様子を眺めていると、さすがに他の生徒たちも気付いたようで次第に
人だかりが出来始める。
そうすると教師だって気付くのは当たり前で、「なにやってんだ?」と訝しげに眉を顰め
ながら輪の中に入ってきた。
「あぁ? 猫?」
「グラウンドのはじっこにいたんだって」
「なんだ、捨てられてたのか?」
里沙と絵里が敢えて使うのを避けた表現を、教師はあっさり言ってのけた。それに対して
微かな憤りを覚えたものの、里沙はそんな事で突っかかってもしょうがないと自らを
押し留める。
教師は何か迷っているようだ。今の授業はあと10分くらいで終了する。まさか校舎に
連れて行くわけにもいかないだろう。しかし「元の場所へ返してこい」とも言えない。
情操教育は大事だし。
「あー……誰か、この猫引き取れないか?」
気まずげに洩らされた教師の一言が、波紋のように生徒間へ広がって、それは沈黙を生み
出した。
- 210 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:16
- やがて口々に、家族が猫アレルギーだとかマンションだから無理だとか既にペットがいる
からたぶん駄目だとか、そんな風な言い訳をし始める。
里沙の家もペット禁止のマンションだ。言い訳はしないものの、教師の目に留まらない
ように顔を俯けてじっとしていた。
「絵里、うちに連れてく」
食事を終えた子猫を抱き上げた絵里が、ぼそりと呟いた。
「亀井、飼えるか?」
「わかんないけど。お母さんに聞いてみます」
「そ、そうか。じゃあ今日は早退していいからうちに連れてってやれ。学校には先生から
言っておくから」
あからさまにホッとした表情で教師は言った。生徒に助け舟を出されて喜ぶ姿は
少しばかり情けなかったが、彼にも彼の事情がある。体面を気にしてられる心境でも
なかったんだろう。
絵里を先に帰らせ、丁度よくチャイムが鳴ったので教師はそのまま解散にした。
数人のクラスメイトが絵里を追いかけて、腹がくちたせいか腕の中で眠っている子猫を
覗き込んで騒いでいる。
里沙はその中には入らず、他の友人と何かを話すでもなく、一人で昇降口へ向かっていた。
- 211 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:16
-
- 212 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:16
- ぎゅっと拳を握り締め、気合を入れてから人差し指を伸ばす。
そんなに気負うようなことでもない。確かに初めて訪れる場所ではあるが、赤の他人と
いうわけでもないし、だいたい今日は大義名分があるのだから。
ゆっくりと、インターフォンに押し付けた指へ力を込める。遠いところから間延びした
チャイムが聞こえてきて、しばらく待っていると彼女の母親らしき女性が玄関を開けて
顔を出してきた。
「はい。あら、絵里のお友達?」
制服姿だったからだろう。里沙が何か言う前にそう聞かれて、ちょっと慌てながら頷いた。
先手を打たれて頭の中で繰り返していた挨拶が全部飛んでしまった。里沙はあたふたしな
がら早口に言う。
「あの、絵里さんと同じクラスの新垣です。えーと、子猫が…」
「ああ、はいはい。どうぞ上がってって」
用意していた言葉の十分の一も言わない内に中へ通されてしまった。知らず里沙の頬が
紅潮する。こっちとしては、もうちょっと心の準備をする時間が欲しかったのだが。
「お、お邪魔します……」
母親に案内され、絵里の部屋のドアをノックする。ドアの向こうからは賑やかしい話し声
が聞こえてきていて、どうやら彼女以外に何人かいるらしいと知れた。
予想はしていたが部屋の中には見知った顔が並んでいた。部屋の主である絵里は当然と
して、彼女と仲のいい、つまりは何度も一緒にいるのを見かけた二人がそこにいる。
「あれ、新垣さん。どげんしたとですか?」
すっかり元気になったらしい子猫と戯れていたれいなが、ちょんと首を傾げながら里沙へ
向き合う。首を傾げたのは里沙の訪問を不思議に思っていたのではなく、子猫が肩から
頭を目指して上ってきたからだ。
- 213 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:16
- 里沙はバッグを下ろしながら誤魔化すようにはにかみ、れいなの頭からさゆみの手へ
移った子猫を指差した。
「その子、大丈夫かと思って。でも元気そうだね、よかった」
「お医者さん連れてったらねー、ちょっと弱ってただけだって。もう元気だよ」
「そうなんだ。で、絵里ちゃん家で飼うの?」
三人の和やかな雰囲気に、てっきりそうなのだと思って聞くと、絵里たちは皆一様に
沈み込んだ表情をした。一瞬流れた微妙な空気に、里沙は立派な眉毛を軽く歪める。
れいなが絵里とさゆみの顔を見遣り、ひとつ溜息をついた。ああ、この子達はそういう
役割分担がされているのかと、明確に考えたわけではないが里沙はそう感じ取る。
「それが、絵里ん家はお父さんもお母さんも働いてるけん、昼間この子だけうちに
置いとくわけにはいかんて。あたしとさゆも、うちの人が駄目って……」
「あ、そう……。他にいないの?」
ふるふると、れいなが首を振る。さゆみの手から脱け出した子猫が、俯く絵里の膝に
乗った。それを抱き上げながら絵里は唇を尖らせた。
「……この子、どうなっちゃうんだろ」
その一瞬。里沙の時が止まった。
- 214 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:17
- 「あのっ、私ももらってくれる人探す! 高等部にも友達いるし、そっちの人達にも
聞けば絶対見つかるから!」
勢い込んで絵里に詰め寄ると、迫られた絵里だけでなくれいなとさゆみも驚いたようで、
ぎょっとした顔で里沙を見つめていた。
空虚の時間が流れて、里沙が我に返る。
「え、あ、えーと……」言い訳をしようとして、する必要がない事に気付いてやめた。
だから、子猫のためだ。また放り出されてしまったら可哀想だから、そのために里親を
探そうと思ったのだ。そうに違いない。
「私も探すからさ、絵里ちゃんも頑張りなよっ」
そうだ、これは勝負だ。どっちが里親を見つけられるかという勝負なのだ。
「じゃあ私も探すー」
「……ま、あたしも友達とかに聞いてみるけん」
余計なのがついてくるみたいだが、まあいい。れいなかさゆみが見つけたら引き分けと
しておくことにしよう。三対一じゃ分が悪すぎる。
子猫が膝に上ってきて、身体を思い切り伸ばすと里沙の長い髪にじゃれついた。
- 215 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:17
-
- 216 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:17
- 「あ、あさ美ちゃん? いきなりで悪いんだけど……」
家に帰ってから、今年高等部へ進学した友人へ電話をかけた。向こうは携帯電話だが、
外にいるらしい物音は聞こえない。もう帰宅して部屋にいるんだろうか。
電話口で事の経緯を話す。勿論、勝負云々というところは省いた。
『猫かぁ……うちはマンションだし……』
「だよね……」
難しい表情をしているんだろう。あさ美は決まり悪げな口調で呟き、それから携帯を
少しだけ離したようだ。受話口から遠い声が聞こえてきた。
『後藤さん、子猫とか飼えます?』
『んあ? ごとーん家はパパとママがいるから……』
『そうですよね』
『うん。食べちゃったりしたら困るしね』
意味不明だ。友人といるらしいが、その人のお父さんとお母さんは猫を食べるのか。
そういえば中国の人は椅子とテーブル以外の四つ足はほとんど食べると聞いた事がある。
日本人みたいな名前だが、ゴトウさんとやらは中国人なのかもしれない。
「あさ美ちゃん、いいよ、ごめんね急に」
『うん、私も一応、知り合いに聞いてみるね』
「ありがと」
『話終わった? じゃあ続きしよう続き』
『え!? ちょ、後藤さんちょっと待っひゃあぁ』
よく判らないがお取り込み中のようだ。きゃーとか悲鳴みたいな声が聞こえてきたので、
邪魔をするのも悪いかと思って、里沙は何も言わずに受話器を置いた。
何してたんだろう何してたんだろう。やだもーあさ美ちゃんてば。
- 217 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:18
- 高校生ってすごい。自分の想像に顔を赤らめながら、里沙はリビングを出て行った。
里沙が今も通っている塾で知り合った彼女は、おとなしくて控えめであまりそういう
方面は得意そうじゃなかったが、人は見かけによらないという事だろうか。
「……あれ?」
電話越しでかつ遠かったのでよく聞き取れなかったが、ゴトウさんの声は男の人にしては
ちょっと高かったような気がする。
「…………まいっか」
なんとなく勝手な憶測で考えてはいけないような気がして、里沙はその事については
忘れる事にした。
今、一番大事なのは絵里との勝負だ。
それから父親の部屋でパソコンを使わせてもらって、インターネットで里親募集の
掲示板へ書き込みをする。写真を撮っておけばよかったな、と今更になって後悔した。
絵里の家に行った時、子猫はすっかり綺麗になっていてものすごく可愛かった。
あれだけ可愛かったら、たとえ雑種でも貰い手の一人ふたり出てくると思うが、文章だけ
では他の書き込みに埋もれてしまって印象が残らない。
メールアドレスは父親のものなので、キーボードの上へ里親候補からメールが届いて
いたら教えてくれとメモ書きを残して部屋を出る。自分の携帯メールのアドレスを
書いてもよかったが、あさ美からインターネットについて色々と怖い話を聞いていたので
躊躇した。
子猫の貰い手が見つかったら自分の勝ちだ。
もしそうなったら、絵里は喜ぶだろうか。
「……ん?」
立派な眉毛が八の字になって、それから首が45度傾いた。
別に彼女を喜ばせようと思ってやってるんじゃない。
- 218 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:18
-
- 219 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:18
- 子猫の貰い手は、驚くほどあっさりと見つかった。
「マジ!?」
2時間目の休み時間にあさ美からメールが届き、里沙は思わず声を上げた。何事かと
教室のクラスメイトが一斉に里沙へ注目する。それは絵里も例外ではなくて、ほてほてと
里沙に近づき、どうしたの?と言いたげに顔を覗きこんでくる。
「猫、もらってくれる人いたって!」
「え?」
絵里の制服の袖を掴み、ガクガクと揺さぶる。「んいぃぃ」あまりに激しいので絵里の
身体も一緒に揺れる。
「あさ美ちゃんていう友達で、そのあさ美ちゃんの友達で、猫飼ってくれる人、いたって」
「ホント?」
微妙に要領を得ない説明だったが、最後の部分だけで絵里にとっては十分だった。
里沙が勢いよく頷く。証拠とばかりに表示させたままのメールを絵里へ向けて突き出し、
どうだ!という風に笑う。
「そんで、絵里ちゃんがよかったら、今日その人と一緒に猫見に行きたいって」
「いいよいいよ。お母さんにゆっておくからー」
絵里が満面の笑みで頷いた。里沙の手を取ってきて、「ありがとー」と相変わらずの
ふにゃふにゃした声で礼を言う。「いや、ははは」柄にもなく照れて、里沙は謙遜する
ように首を振った。
なんか嬉しい。なんだか知らないがものすごく嬉しい。
これは多分、子猫が助かってよかったという安堵と、それをもたらしたのが自分の力だと
いう優越感と、絵里との勝負に勝ったという満足感が混ざったものだ。
それ以外にあり得ない。
- 220 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:19
- じりじりしながらその後の授業を受けて、終わると同時に絵里と教室を飛び出した。
校門のところでれいなとさゆみが待っている。絵里が伝えていたんだろう。
四人揃って高等部の校舎へ向かう。同じ敷地内に建っているのだが、グラウンドを挟んだ
向こう側にあるため、ちょっとだけ距離がある。里沙は率先して走った。あさ美の顔を
知っているのは自分だけなんだから先頭にいなければ、という意識だった。
高等部の校舎前、桜並木が続く手前で、あさ美と友人らしい少女が待っていた。
イエロー系統に染められた髪が肩に落ちている。あまり上品な色味ではないが恐そうにも
見えない。顔立ち自体が柔和だからだろう。
四人はふたりの前に横一列で並び、揃って頭を下げた。里沙はあさ美とは友人だが、
もう一人の方は単なる先輩で、他の面子は二人とも単なる先輩だ。心持ち顔が緊張して
いるような気がしないでもない。
「えと、こっちの人が紺野あさ美ちゃんっていって、同じ塾に通ってる人」
紹介がてら三人に笑いかける。その笑みが得意げになってしまったのはしょうがない。
「こんにちはー」
「こんにちは」
「……ども」
やっぱりしないかもしれない。里沙は横目で三人を見ながら思う。絵里はふにゃふにゃ
笑っているし、さゆみは何を考えているのか判らない、ぼんやりとした笑顔で、れいなは
先輩だからなんだ、というようなふてぶてしい表情をしている。
頭を下げたのは、里沙がそうしたからなんとなく合わせただけのようだった。
「こんにちは」
あさ美は気にしていないのか、緩やかに笑んだまま隣の友人を手で示した。
- 221 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:20
- 「里沙ちゃん、この子が猫飼ってくれるって」
「どうもどうもー、小川麻琴です。いやー、うちで飼ってた猫がこの前死んじゃって。
まああたしと同い年だったからしょうがないんだけど」
顔つきに違わぬ、理知的とは絶対に表現出来ない口調で麻琴が言い、後輩たちに握手を
求めてくる。「はいどうもー、はいどうもー」順番にそれを受けていって、最後のさゆみが
握手を終える頃には、バラバラだった四人の表情は同一のものになっていた。
つまり、呆気にとられている。
「あ、あの、まこっちゃんちょっと面白い子だけど、すごく優しいの。
里沙ちゃんたちが拾った子も絶対大事にしてくれるから、大丈夫だよ」
「面白い」という表現は、本当はもっと別の言葉に置き換わるんじゃないかと思った。
そういえばあさ美は国語が得意だった。咄嗟に言い換えられる語彙の豊富さは
見習わなければ。
「それで、メールにも書いたけどちょっと見に行きたいんだ。いいかな?」
「あ、うん。絵里ちゃん家に聞いたらいいよって。今からでも大丈夫?」
「うん」
絵里は人見知っているらしく、照れたように笑いながら身体を揺らしている。
その動きはなんだかくなくなしているが、彼女はいつもこうなので里沙たちは何も思わない。
しかし先輩ふたりはそれが面白いようで、あさ美は忍び笑いを洩らし、麻琴は口を開けて
「あははー」と気の抜けた笑い声を上げた。
- 222 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:20
-
- 223 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:21
- 絵里の部屋で子猫は元気に駆け回っている。数日前の衰弱しきった様子が嘘のようだ。
「るーるるるー」麻琴が妙な呼びかけをしながら指先で招く。子猫は興味をそそられたのか、
僅かに警戒する様子を見せながらも鼻先で麻琴の手を探り始めた。
「あはー。可愛いねえお前」
ひょいと抱き上げ、自分の顔より上に持ち上げる。前脚の付け根を支える抱き方というか
持ち方なので、後ろ脚はだらりと下がっていた。
「あ、女の子だ」
「まこっちゃん、私にも触らせてよぅ」
「ダメー。あたしがお母さんだもんねー?」
「ええ、ずるいー」
きゃっきゃとはしゃぐ先輩たちに、里沙は小さく眉を下げた。高校生というのはもっと
大人なものだと思っていたが、考えてみれば年齢なんてひとつしか違わないわけで、
冷静な反応なんて期待すべくもなかったのかもしれない。
まあ、麻琴が子猫を気に入ってくれたようでよかった。これで可愛くないからいらない
なんて言われたらどうしようかと思っていた。
道すがら聞いた話では、麻琴の家族にも既に了承をもらっているらしい。
母親がペットロス症候群になってしまって、この話がなくても猫を飼うつもりだったから
丁度良かった、と麻琴は笑っていた。
「れいな、れーな。猫ちゃん新しいおうち見つかってよかったね」
「んー、そやんね」
「絵里えらい? えらい?」
「もらってくれるのは小川さんで、見つけたのは新垣さんっちゃろ。絵里は別に偉くなか」
「んむー」
- 224 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:21
- 気付けば、絵里はれいなの肩に圧し掛かるように抱きついていて、その首元で膨れていた。
「絵里、邪魔」れいなが呆れた顔で絵里を押し退ける。ふくっと膨れたまま、絵里は隣に
腰を落ち着けて彼女の腕へ自分のそれを絡めた。それくらいなられいなも許容範囲の内で
あるらしく、そのまま好きにさせている。
里沙の腹部に、何か小さなしこりが出来た。
「でも、最初に見つけたのは絵里ちゃんだしさ、預かってくれたのも絵里ちゃんの家だし」
言ってから後悔した。だから、敵に塩を送ってどうする。
「まあ、そりゃそうですけど……」
曲がりなりにも先輩なので、れいなも強く反論は出来ないらしい。不服そうな顔で小さく
頷いて、それから溜息をついた。
味方をつけて自信が出たのか、絵里が得意そうに笑った。
「ほらあ、絵里えらいじゃん」
「……はいはい、偉い偉い」
仕方なくというように、れいなが纏わりつかれていない方の手で絵里の頭を撫でてやる。
「んひひ」絵里はれいなの片腕を両手で包み込みながら口元を緩ませた。
里沙のしこりが大きくなった。
これはアレだ。里沙の手柄をまるで自分のことのように言う絵里の態度が気に入らない
のと、それを引き出してしまったのが自分だという事に対するもので、他に理由はない。
- 225 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:21
- さゆみは退屈なのか、本棚から勝手に漫画を抜き出して読みふけっている。いつでも
どこでも、どこまでも彼女は自分のペースを崩さない。
「この子、名前なんにしようかなぁ」
転がっていたおもちゃで猫と遊びながら麻琴が呟く。
一緒になって遊んでいたあさ美は小さく笑って、麻琴に目線を向けた。
「アイは?」
「ななな、なに言ってんの、そんなの付けないよぉ!」
麻琴があたふたと両腕を振り回しながら叫んだ。中等部組は訳が判らずきょとんとする。
子猫は麻琴の手にあるおもちゃを目掛けて懸命にジャンプしていた。
後輩の視線に気付き、麻琴は何故か取り繕うように両手を振る。おかげで子猫は惜しい
ところで目標を捕獲し損ねた。
「なんでもないよぉ。うん」
「いいじゃん、ね、いい名前だよね、アイ」
「可愛いですね」
さゆみが漫画から顔を上げて頷く。空気読めよ。里沙とれいなが微かに顔をしかめて
ほわほわ笑っている彼女を見遣った。
- 226 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:22
- 「ほら、可愛いって」
「だ、ダメダメ! ……判った、じゃあこの子の名前ゴッチンにする!」
「ええ!? そんなの女の子の名前じゃないじゃん!」
「あさ美ちゃん、自分で何言ってるか判ってる?」
「……う…」
中等部組には全く意味の判らない会話を繰り広げつつ、あさ美と麻琴はどちらも顔を
赤くしている。
なんなんだろうと首を傾げつつ、里沙は事の成り行きを見守っていた。
「……まこっちゃん、私たちの友情にヒビを入れないためにも、普通の名前つけてあげる
のがいいと思うんだ」
「うん、そうだね……って、言い出したのあさ美ちゃんの方じゃん」
「まあまあ」
顔に似合わず的確なツッコミを入れてきた麻琴に、あさ美は誤魔化すように笑いかける。
子猫の名前はとりあえず保留になったようだ。
週末に引き取る約束を取り付けて、麻琴とあさ美は帰っていった。里沙もこの中では
ビジターの部類に入るので、おいとましようと腰を上げる。
誰も引きとめようとはしなかった。当たり前だ、うん。別に悔しくなんかない。
だいたい、自分は勝負に勝ったのだ。勝者だ。英語で言ったらウィナーだ。悔しくなる
理由がない。
「お邪魔しましたー」
「ばいばーい」
絵里が抱き上げた猫の前脚を掴んでバイバイをさせた。
それが可愛くて、里沙はちょっとだけ笑った。
- 227 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:22
- いや、猫が。猫が、可愛くて。
- 228 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:22
-
- 229 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:23
- 猫を麻琴へ渡す時、成り行きで里沙も付き合った。もらってくれる人を探してくれたから、
と絵里が誘ってきて、断る理由もないのでそれに応じた。
ケージに入れられた猫が、麻琴の父親が運転する車に乗って走り去って行く時、彼女は
少しだけ寂しそうな表情をしていた。数日とはいえ一緒にいたんだから、情が移るのも
仕方ないだろう。
「寂しいね」と声をかけたら、絵里は小さく笑って、もう一匹いるからいいんだと言った。
意味が判らなかったので、その一言はしばらく里沙の中に留まっていた。
あさ美の話では、猫は可愛がられているようだった。
名前は麻琴が悩んでいる間に母親が前に飼っていた猫と同じ名前をつけてしまったらしい。
ガッタスなんちゃらとかいうその名前は、長すぎて麻琴も覚えられないそうで、又聞きの
あさ美も同様。だからいつも「ガッちゃん」と呼んでいた。なんだか昔の漫画に出てきた
キャラクターみたいだ。歯医者の待合室でちょっと読んだだけなのでよく知らないが。
ガッちゃんにはそれ以来会っていない。知り合ったばかりの先輩の家へ押しかけるのも
気が引けたし、三年の後半という事で勉強の方が忙しくなってきたというのもある。
持ち上がりで高等部へ進学できるとはいえ、入試はあるから勉強をしないわけにもいか
ない。教師も気を引き締めさせようという意図なのか、試験に関係ある箇所を強調したり
脅しみたいに「ここ覚えてないと困るぞ」なんて言ってくるものだから、そうそうたるんで
いられないのだ。
そうやって勉強に打ち込んだおかげか、教師が言うより試験が易しかったせいか、里沙も
無事高等部に進学できた。
- 230 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:23
- 里沙は家を出る前に、いつもより入念に髪の手入れをした。
妙な勝負はいつの間にか面倒臭くなってやめてしまったが、それだけはもう習慣づいて
いたのでずっと続いていた。
髪も伸びた。高校生になったら前髪を作ってみようかなあと思いつつ、踏ん切りが
つかなくて結局は入学式の今日も中等部の時と同じような髪型だ。
担任の女性教師は注意事と今日の予定を告げて教室を出て行ってしまった。
これから30分くらい、生徒たちには空白が与えられる。ただし教室の外には行けない。
ホームルームの後でしばらく休憩というか自由な時間があるのは、中等部の入学式を先に
行っているせいだ。そういう時間がある事はあさ美から聞いていたので、里沙は鞄から
文庫を取り出して読み始めた。
「里沙ちゃん里沙ちゃん」
「あ?」
顔を上げると絵里がこちらへ向かって手招きをしていた。相変わらず動きがくねくねして
いるが、いい加減それに反応する神経は麻痺している。
彼女の席はここから一列飛び越えた二番目にある。文庫を机の上に置いてそちらへ向かう。
「どしたの?」
「絵里ねー、里沙ちゃんにお願いがあるんだけど」
「お願い?」
んひひ、と絵里は照れ臭そうに笑っている。なんなんだろう。里沙が怪訝そうに眉を
上げると、椅子から立ち上がった絵里が、指先でそれを指した。
- 231 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:23
- 「座って?」
「え?」
何が訪れるか判らないまま、彼女の空気に飲まれて椅子に座ってしまった。
絵里は鞄からポーチを取り出すと、中から平べったい櫛を取り出した。
「編みこみしてもいい?」
返事を聞く前に、絵里は既に里沙の髪を梳り始めている。突然のことに目を白黒させて
いると、こめかみの辺りを両手で押さえつけられた。動くな、ということだろう。
その手のひらが柔らかくて暖かくて、里沙は思わず硬直する。
絵里の指先が、長い髪の一房を絡め取る。さわさわと触れる感触が首筋を熱くした。
「あの……なんで?」
「えー? 里沙ちゃんの髪、長くってサラサラで綺麗なんだもん」
ふにゃっとした声で答える彼女の手は止まらない。
多分、これは彼女の暇潰しだ。中等部からの顔見知りである女子は里沙しかいなくて、
さすがに男子の中へ混じるのは嫌なんだろう。
人見知りだから新しいクラスメイトへ話しかけることも出来ず、それで里沙を呼んで
持て余す時間を消費しようとしているのだ。
そこまで推測したのはいいが、だからといってどうにか出来るものでもない。
今更嫌だとは言えないし、編みこみは進んでいるから途中で止めたら変なクセがついて
しまう。
- 232 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:24
- しょうがないので、里沙はおとなしく絵里に髪をいじらせてやった。それはもう諦め以外
の何物でもなかった。まあいいか、しょうがない。そういう意識だった。
「れいな、全然触らせてくんないんだよね。こちょばいとか言って」
「……へえ」
自覚できないくらい微かに、里沙は落胆した。彼女の今の言葉はつまり、里沙が
代わりだという事を意味していたから。本人にそのつもりはないだろうが。
櫛で梳かれ、三つ編みにされていく感触は確かにくすぐったい。
それをもたらしているのが彼女の指先だから尚更だ。
その事にも里沙は気付いていない。
あまり手際の良くないヘアメイクをしてもらいながら、里沙は小さな小さな溜息をついた。
まあいいか、しょうがない。
それでもいいや。
なにが「それでもいい」なのか判らないまま里沙はそう思って、それから二本のおさげが
出来上がるまでじっとしていた。
- 233 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:24
-
- 234 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:24
- 秋晴れ、というのはよく聞くが、春晴れという言葉は聞かない。夏も冬も聞かない。
どうして秋だけそんな言い方をするんだろうとか、そんなどうでもいい事を考えながら、
里沙はぼんやりと男子が準備をしているのを見ていた。
入学後最初の授業は、全員揃っての体力測定だ。100メートル走と、幅跳びと持久走。
考えただけで気が遠くなりそうなラインナップだった。もう絵里との勝負はやめて
しまったので、こんなのはただ疲れるだけだ。そもそも運動は得意じゃないし。
鬱々としていると、なんだかくねくねと歩いてくる姿が視界の隅に留まった。
どうも自分を目指しているらしいと思える距離まで近づいてきてから、里沙はそちらを
振り向く。青いジャージのその姿は目に新しかった。
「今日、寒くない?」
「寒いよねー」
今朝方、雨が降ったせいだろうか。霧雨のようなものだったのでグラウンドは濡れて
いないが、どことなく寒々しい。
「でも走ればあったかくなるよね」
「私は教室にいる方がいいけど」
「絵里もだけど」彼女は苦笑みたいに眉を下げて笑った。
誰かがどこからか見つけて来たのだろう、男子が三人でキャッチボールをしていた。
三角形を作って、時計回りにボールを投げ合っている。グローブも何もなく、素手で
受け止めているが、痛くないのだろうか。
- 235 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:24
- 「あ、れーな」
不意に絵里が後ろを振り返って、呟いた。つられて里沙もそちらを見ると、窓から身を
乗り出してこっちを見物している生徒が目に入った。距離があるから顔はよく判らないが、
彼女がれいなだと言うならそうなんだろう。
絵里が大きく手を振る。れいなは一拍遅れて振り返してきた。
「背中向けてたのに、よく判ったね」
感心したように言うと、絵里は得意そうに笑った。
「わかるよ。れいなが見てんのわかるから、絵里もわかんの」
なんだか以前も同じような台詞を聞いた気がする。あの時はどう思ったんだったか。
忘れてしまったが、とりあえず今は自然と笑みがこぼれてきた。
「すごいね」意識したわけでもないのに、それはとても柔らかい口調になった。
絵里がますます得意げな顔をする。里沙は小さく肩を竦めると、彼女に付き合って
れいなへ手を振った。律儀に手を振り返してくる彼女は、なんとなく苦笑してるんじゃ
ないかと思う。
妙に清々しい笑みが、里沙の口元に浮かんだ。
「……髪、切ろうかな」
「切るの?」
「んー、バッサリいくのはちょっと勿体無いから、前髪だけとか」
指先で自身の髪を摘み、このくらい、と絵里に示してみせる。
彼女は猫みたいに目を細めて、「似合うと思う」と頷いた。
- 236 名前:『二人はライバル』 投稿日:2004/04/20(火) 23:25
- じゃあやっぱり切ろう。あんなに大事にしていたのに、どうして切りたくなったのかは
判らないが、里沙はもう決めてしまった。
馬鹿馬鹿しい勝負をやめたせいかもしれない。自分の中で、何か一区切りついたような
気になっていて、そのせいでちょっとした心境の変化が訪れたんだろう。
週末にでも美容院に行って、美容師さんに頼もう。きっと驚くだろうな。そう思うと
なんだかワクワクした。
前髪を切って、ちょっとだけ変わって、それで彼女が例のふにゃふにゃした笑みを見せて
くれたら嬉しい。
そのためなら、髪を切るくらいなんでもない事のように思えた。
里沙の中にあった、小さくて曖昧で薄ぼんやりとした想いの欠片は、当の里沙自身ですら
気付かないままその役目を終えて、深く深く沈んでいった。
だから、里沙の本当のライバルは絵里じゃなくてれいなだったという事は
世界中の誰も知らなかった。
そして勝負の行方も、そもそも勝負があった事さえも、誰も知らないのだった。
《Good-bye, dear kitten.》
- 237 名前:円 投稿日:2004/04/20(火) 23:26
-
以上、『二人はライバル』でした。
実は好きなんですよ、今回メイン張った人。
しかし、こういう話は珍しいなあとか思ったり。我ながら。
- 238 名前:円 投稿日:2004/04/20(火) 23:26
- レスありがとうございます。
>>194
>なぜ同姓と付き合ってはいけないのか
最も説得力のある理由は「子孫を残せないから」ですかね。
自分としては、作中で藤本さんが言ってる「しょうがない」が一番近いですね。
正しくはないけど悪くもないというか。
>>195
痛くて甘いのが好きなもので(苦笑)今回はちょっとライトにしてみました。
言葉、というか音が好きなんですよね。いかに自分が心地良いリズムを探し出すか、
というのが命題です(笑)<そして言葉遊びに繋がる。
>>196
騙されちゃ駄目です、小さなことから大きなことまで矛盾がいっぱいですよ!(自爆)
全て後手後手に回りながら、ゴテゴテと取り繕っております(苦笑)
- 239 名前:円 投稿日:2004/04/20(火) 23:26
- ではまた、いつか。<いつになるんだろう……。
- 240 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/04/21(水) 00:27
- なんかもう、、作者さん凄いわ・・・w
更新、気長に待ってます!
- 241 名前:つみ 投稿日:2004/04/21(水) 15:51
- めずらしいCPありがとうでした!
すべてがつながっていく感じがたまりません!
今回出てきた少し気になる二組もこれからでてくるんでしょうか・・・?
楽しみにしてます!
- 242 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/04/21(水) 21:45
- めずらしいCPにビックリしていましたが、やっぱりどのCPもいいですね(ぇ
前に書かれていた作品と少しずつ繋がっていく感じが面白くて溜まりませんね。
それに、細かい所まで手が回されてて、安心して読める感じです(笑。
痛くて甘いのもいいですが、こんな風にマッタリとしているのもいいなぁと思ってしまったり。
では、次回まったりとお待ちしております♪
- 243 名前:名無しさん 投稿日:2004/04/22(木) 00:35
- 誰が出て来ても違和感ないのが凄い。
観察力の鋭さに感心させられます。
- 244 名前:_ 投稿日:2004/04/25(日) 22:04
- 甘くはなくてとてもシックなのにとても甘い物を食べた後みたいにとても幸せで
どこか淋しい感じがたまらない。
すっと物語に馴染めるし作者さんの言葉遊びがとてもいい。毎回の楽しみです。
このまま本にして毎日でも読みたいぐらい病気ですよ(笑
- 245 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:34
- 「おい、そっちじゃないよ。会場は向こうの体育館」
「んあ?」
背中へ届いた声に振り返ると、上級生らしい少女が苦笑いをしながら手招きしていた。
入学式の案内係なのか、片手にはメガホンを持っていて、それで自身の後ろを示している。
視線を移した先には群れを成して歩いている新入生たちの姿。自分だけがそれから外れて
いた。ごとー一匹狼だ、かっこいー。口の中だけで呟く。
「ったく、入学式からサボリかぁ?」
先ほど声を掛けてきた先輩が呆れたように言った。ガシガシと乱暴に頭を掻く仕草は
少年のようだった。顔立ちも、可愛いと格好良いが半分ずつ混じったような凛とした
雰囲気で、やはり少年のようだった。
「あっち、芝生があるから。寝たら気持ち良さそうだなって」
自分が向かおうとしていた校庭の隅を指差す。既に散り始めた桜の樹の下、落ちた花びら
が絨毯のように芝生を白く染めていて、その上に寝転がったらさぞかし気持ちがいいだろ
うと思ったのだ。
先輩はきょとんと真希が指差す芝生を見ていたが、ようやく意味が理解できたのか
くしゃりと相好を崩した。
「ははっ、面白いなー。噂通りだね」
「噂?」
「後藤だろ? 後藤真希。高等部にいても色々と聞こえてくるよ、お前のこと」
ふぅん。あまり意識はしていなかったが、どうやら自分は有名人らしい。
中等部では確かに、色んな事を影に日向に言われていたが、高等部にも伝わっているのか。
まあ、高等部の生徒と噂が立つような事も、あったかもしれない。なかったかもしれない。
あまり気にならない。
- 246 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:35
- 「男女構わずとっかえひっかえなんだって? すごいな、モテモテじゃん」
「まあねー」
「あと、いきなり『ごとーは旅に出る』とか言って行方不明になったとか」
「あったねー」
「お土産はういろうと博多ラーメンと泡盛だったって話だけど」
真希が頷く。しかし本当は、土産じゃなくて自分のために買ったのだ。心配をかけた罰だ
と親に全部取られたが。
先輩は、いつの間にか腕組みをしていた。その顔には微かな苦笑が浮かんでいて、真希は
「しょうがないな」とでも言われているような気になる。
初対面の相手にどうしてそんな顔をされなければいけないのかと、少しばかり気分が悪く
なった。噂はほとんどが真実だろうが、それだけで好き勝手やってるだけの手に負えない
子供だと判断されるのは、気分が悪い。
「武勇伝のオンパレードだよな。中等部の奴であんな有名だったのって、お前と……
なんだっけ、松なんとかくらいじゃないの?」
「ふーん」
生憎、真希には「松なんとか」の心当たりがなかった。同じ学年に松本とか松田とかいう
生徒はいたが、みんなごくごく普通の生徒で、高等部に名前が知れ渡るような存在じゃ
ない。
「もっとすれてんのかと思ってたけど。なんか全然普通なんだな」
どこか感心したように言われて、真希が小さく眉を上げる。
- 247 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:35
- 金髪で化粧が濃くて制服を改造していてジャラジャラとアクセサリーをつけていたら、
彼女のイメージどおりだったんだろうか。
実際は、髪の色は多少明るめに脱色されているものの、その他は特に目立つものはない。
あとはピアスくらいか。15歳の誕生日に、誰かに開けられた。誰にだったかは覚えてない。
多分、もう二度と会わないか会っても判らないような相手だろう。閉じなかったのは
いつか誰かにもらったピアスが気に入ったからだ。その相手も顔を覚えていない。
「まあいいや。ほれ、さっさと会場行け。どうせ昼寝なんかこれからいくらでも出来るん
だから」
「うん。じゃあね」
「……さっきから思ってたんだけどさ。先輩に対してタメ口ってどうなんだよ」
一応三年なんだぞ、と彼女は腕組みをしたまま胸を張った。それは彼女が本気で怒って
いたり不快になっているわけではない事を示していた。本気でも、真希はきっと気にしな
かったんだろうが。
真希は後ろを振り返り、桜の花びらが舞い散る樹の下を眺めた。
「桜の花って、白いんだね」
「無視かよ」
「ピンク色だと思ってた」
何言ってんだよ。変な奴だな。
そういう反応が来ると思っていた。どうしてか、真希が思った事をそのまま言うと、
大抵そんなことを言われた。自分では判らないがきっと自分は変なんだろう。
だから彼女も、そう言うと思っていた。
- 248 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:35
- 「ああ、そうだな。桜色ってピンクのイメージあるなあ。でもピンクって桃色だもんな。
ふうん。丸二年通ってたのに気付かなかったよ。後藤よく見てんね」
予想に反して彼女は感心したようにそう答えた。それには真希の方が驚いて、思わず
桜から彼女に視線を移す。
花びらの白が、彼女に反射しているように見えた。
「ん?」
「……名前」
「え? ああ、わたしの? 市井紗耶香」
「ふぅん」
「それだけか」
真希のリアクションの薄さが面白かったのか、紗耶香は喉を鳴らして笑った。
少年のような笑みだった。
「市井ちゃん、変わってるって言われたこととかある?」
「ちゃん付けかよ。まあいいや。たまにあるけど?」
変人同士で会話が成立したということか。それなら納得いく。
「ほら、遅刻すんぞ」
立てた親指で体育館を示されて、今度こそ真希はそちらへ向かって歩き出した。
一度振り返った時、紗耶香は他の新入生を急かしていて、それには僅かに失望のような
感情を覚えた。
- 249 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:36
-
- 250 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:36
- それから半年後、彼女はあっさりと姿を消した。
といっても、真希のように旅に出たわけではない。高校を中退して、それからどうして
いるのか知る術が無かったというだけの話だった。彼女とは入学式の時にちらりと会話を
したくらいで、それほど親しくしていたという事もない。
高校生活もあと半分、というところで彼女がそうした理由は判らなかったし、別に気にも
ならなかった。
真希の方も相変わらず、男女問わずとっかえたりひっかえたり、ふと思い立って北海道を
目指してみたり、芝生で昼寝をしていたりと自由気ままに過ごしていた。
変わった事と言えば、時々小言を頂くようになったくらいか。
中等部の有名人二人と言われた片割れの名前が「松浦亜弥」である事を、真希はひと月
くらい前に知った。
きっかけは脱サラした父親が計画しているコンビニ経営のために、「武者修行だ」とか
言われてバイトに入らされた近所のコンビニだった。
そこへ数ヶ月遅れてバイトとして入ってきた美貴は、真希が通う学校の二年生で、彼女を
追いかけ回しているのがくだんの松浦亜弥だった。
学年が違ううえ、あまり噂とかに興味がないのでよく知らないが、まだ中等部三年である
はずの彼女は毎日高等部の校舎で目撃されているらしい。
中等部の制服で高等部の校舎にいたら、それは目立つ。有名にもなろうというものだ。
それくらいする子だから、当然コンビニにも遊びに来る。律儀に毎度毎度買い物をして
くれるので、こっちとしては有難い。
美貴もバイト店員という立場柄、彼女を邪険に扱う事もできず、困り果てた様子で相手を
しているのが面白くて、ちょっとからかった事がある。
からかったというより、手を出そうとした。亜弥ではなく美貴の方に。
別に本気でしたわけではなく、わざと亜弥がいる時に「後藤と付き合えば追っかけられ
なくて済むんじゃないの?」とかそんな事を言っただけだ。真希としては、そうなっても
よかったし、ならなくてもよかった。それくらい適当な発言だった。
- 251 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:36
- 美貴は困ったような顔でこちらを見遣った。それは「ペンキ塗りたて」の張り紙がされた
ベンチへ知らずに座ってしまった人を見た時の表情とよく似ていた。
そして亜弥は怒った。怒鳴りもせず、泣きもせず、ただいつも浮かんでいた人懐こい笑み
がどこかへ消えて、それからきゅうっと美貴に抱きついた。それだけで彼女が怒っている
のだと知れた。
「ごめん、この子ダメなんだ」
わざとなのか無意識なのか、美貴は主語を入れずに言った。いつもは逃げ回っているのに、
こんな時だけ彼女の両腕は亜弥の背中を柔らかく包んでいて、だから。
そういうことなのだと判った。
その翌日に北海道を目指し、青森で面倒臭くなって戻ってきてから、亜弥は事あるごとに
というか事がなくても、真希と顔を合わせるともっとちゃんとしろとか本当に好きな人と
じゃなきゃそういう事はしちゃいけないとか周りに心配かけちゃ駄目だとか言ってくる
ようになった。
まあ、嫌われたわけではないらしいので、真希はそれでよしとしている。
そして小言は全て聞き流している。
- 252 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:37
-
聞き流しているから、やはり真希はいつもの通りに日が暮れてからふらりと出かけて、
声を掛けてきた大学生くらいの男とふらりと歩いていた。
「なんか食いに行こうか? 酒オッケー?」
「うん」
真希は出会ってから彼に対して「うん」しか言っていない。「一人?」「うん」「暇?」「うん」
「どっか行かない?」「うん」。相手はそれでいいらしいので他のことを喋るつもりはない。
誰かと話す時っていつもこうだったっけ、とふと考えた。次の瞬間には忘れた。
連れて行かれたのは小さめのバーだった。怪しげな店だったらさすがに逃げようと思って
いたが、そういう風にも見えなかったので真希は青年に続いてドアをくぐる。
カウンターと、ボックスが四つ。20人も入れば一杯になってしまうだろうそこには、
その半分くらいの客がいた。空いているボックス席へ向かい合わせに座り、ビニール
コーティングされたメニューを手に取る。ほとんどがアルコールで、下のほうに申し訳
程度のソフトドリンクが小さくなって並んでいた。肩身が狭そうだな、と思った。
「いらっしゃいませ、ご注文は?」
ホール係が伝票片手に聞いてくる。「ウィスキー、ロックで」青年がちょっとばかり気を
張った姿勢で注文し、目線で真希に促す。
彼が求めているのはなんだろうと、メニューに目を走らせた。本当は眠いのでアルコール
を取りたくないのだが、さっきああ聞いてきたという事はこっちを酔い潰したいのかも
しれない。
カルアミルクでは子供っぽすぎるか。しかしソルティドッグではいささかイメージが
強すぎる。カシスオレンジあたりが無難な線だろうか。
- 253 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:37
- 「あれ、後藤?」
「んあ?」
ホール係の声に顔を上げると、なんとなく見覚えのあるようなないような顔がこっちを
見つめていた。
「やっぱ後藤かー。覚えてないかな、市井だよ、市井紗耶香。入学式の時会ったじゃん」
「……あ、白」
「そうそう、桜が白いって話したよな」
紗耶香が懐かしそうに、少年みたいな顔で笑った。真希の白という呟きは桜のことじゃ
なかったのだが、わざわざ言うのも面倒臭いので訂正はしなかった。
置いてきぼりにされた青年が興味深そうに二人を見遣っている。「友達?」尋ねられて
真希はどう答えるか迷った。彼女は、知り合いには違いないが友達かというとそうでも
ない。
曖昧に笑ってから、彼女はここにいたのかと嬉しくなって、それからどうして嬉しく
なったんだろうと心の中で首を傾げた。
少年のように短かった髪は、襟足が隠れるくらいに伸びていた。
「ご注文は?」
紗耶香は仕事モードに戻ったらしい。それでもその顔には「しょうがないなあ」みたいな
色が浮かんでいて、真希はそれが面白くない。
「XYZ」
メニューを戻しながら切りつけるような鋭い口調で言った。紗耶香が呆れたように唇を
すぼめる。ラムベースの辛口なそれは、女子高生が大人の真似事をして飲むには強すぎる。
- 254 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:38
- 紗耶香の目が伏せられて、伝票に落ちる。真希は目の前の青年に微笑みかける。彼も
驚いたのだろう、調子を合わせるように笑っていて、それはちょっと好ましかった。
どうやら酒なんてみんな同じ、というタイプではないようだ。薀蓄を垂れるようなのは
好きじゃないが、区別がつかないのも嫌だった。
「ご注文はウィスキーロックとジンジャーエールでよろしいですね?」
「は?」
「違った?」
紗耶香は飄々と真希に笑いかける。その笑みは好きじゃない。
「全然違うじゃん。聞こえなかったの?」
「聞こえたよ。うちは未成年にアルコール出すような緩い店じゃないわけ」
彼女の表情はやはり、「しょうがないなあ」と言っていて、それが気に入らなくて、
頭に血を上らせた真希は青年がさり気なく席の端へ移動した事に気付かない。
「ちょっと、後藤お客さんだよ? 店員が偉そうにしないでよ」
「だったら市井はお前の先輩だよ。先輩の言う事はちゃんと聞け」
「もうガッコなんか辞めてんじゃん!」
「人生の先輩ってことだよ」
悪びれなく笑う紗耶香の指先が真希の額を突つく。それを手の甲で払いのけ、「出よ」と
青年へ声をかけた。彼に対して「うん」以外の言葉を発する気はなかったが仕方ない。
「あー……なんか取り込み中みたいだしさ……。俺、もう帰るわ」
二人の、というか真希の張り詰めた空気に気まずくなったのか、彼はそう言い置いて
席を立った。真希は胃の辺りがムカムカした。
- 255 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:39
- 「置いてかれちゃった」からかうように呟かれた紗耶香の台詞は、真希の深くて弱い部分を
的確についていた。真希は完全に、完璧に、完膚なきまでに貫かれた。
まるでそれが狙いだったかのような口調だった。合っているかどうかは知らないが、
真希にはそう思えた。
腹が立った。これなら、亜弥の小言の方が数倍マシだ。あっちは適当に聞き流せるが、
彼女の行動はどうやっても見逃せない。
「……責任取ってよ」
「うん?」
「市井ちゃんが、アイツの代わりになってよ」
数瞬かけて、紗耶香はその意味を理解したようだった。軽く肩を竦め、真希の頭を
ポンポン叩き、それから後ろを振り返った。
「すいません、用事できたんで今日上がってもいいですか?」
店長らしい青年があからさまな溜息をついた。「いいよ」紗耶香の都合を尊重したのか
これ以上ここで騒いで欲しくないのかはわからないが、彼はそれだけ返して二人から
視線を外した。
紗耶香は真希をその場に残して裏へ回り、着替えを済ませてから戻ってきた。
ジップアップのパーカにストレートジーンズというその姿は、以前見た制服姿よりも数段
似合っていて、まるで彼女はあそこにいるべき人間じゃなかったと主張しているように
見えた。
「じゃ、行こっか。わたしん家でいい?」
「一人暮らしなの?」
「うん。ちょっと一人で全部やってみたくなってさ」
真希としては場所なんてどこでもいい。特に不満を漏らす事もなく彼女の後を追った。
彼女は本気だろうか。
- 256 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:39
-
そこはこじんまりとした、二階建てのアパートだった。築年数が若いのか、それほど
古びた様子はない。しかし壁は薄そうだ。
「隣に声聞こえそう」
「音楽とかかけとけばそれほどでもないよ」
トントンと慣れた様子で階段を上り、一番手前の部屋の鍵を開ける。一応お邪魔しますと
一声おいてから真希は中へ入った。
中はそれなりに散らかっていて、それなりに清潔で、それなりに狭かった。
「なんか飲む? 腹減ってるなら簡単に作るよ」
「いい。それよりこっち来て」
彼女の城であるそこは、当たり前だが彼女の気配が充満していて、なんとなく部外者の
ような気分になる。招かれたのだから自分はここでも客であるはずなのに。
ベッドに腰掛けて部屋の中を見回すと、コンポとテレビとテーブルが目に入った。
それから、一際目立っているギター。壁に立てかけられたそれはむき出しで、色は白だった。
なんとなく、意外な組み合わせだと思った。あまり使い込まれた感はない。単なる
オブジェなのかもしれない。
「ギター、やるの?」
「ん?」
玄関の鍵を掛けて、バスルームにお湯を張ってから戻ってきた紗耶香が、
ちょっと決まり悪そうに笑った。
「最近はあんま触ってないよ。最初は面白かったんだけどさ……」
「ふぅん」
そこでギターに関する話題は終わった。それは本題じゃない。
- 257 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:40
- 彼女の背中へ腕を廻し、ゆっくりと身体を倒す。「おいおい」苦笑した紗耶香が後頭部を
叩いてくる。
「風呂入ってこい。寝るのはそれから」
「……んー」
そういうのを気にするタイプなのか。久し振りだった。最近は途中のプロセスが面倒臭くて
飛ばしてばかりだったから。
着替えにと渡されたトレーナとハーフパンツを持ってバスルームへ向かう。どうせすぐに
脱いでしまうのにと思ったが、紗耶香が「いいから」と勧めるので仕方なく受け取ったそれは、
ギターと違って随分と着古された感じがした。
真希の姿が見えなくなって、シャワーの音が聞こえてきてから、紗耶香は溜息をつく。
「ったく……なんでこんな事してんだろ……」
ちょっと話した事があるくらいの、ただの後輩なのに。
それでも紗耶香は、先ほどの真希と同じように見逃せなかった。
多分、彼女と自分は真逆の位置にいるんだろう。だからこそ判ってしまった。
壁に立てているギターを見遣る。格好良いからと始めて、すぐに飽きてしまったそれは
毎日埃を払っている。埃を被っていたら格好悪いから、というのが理由だ。その理由こそ
格好悪い。
真希が上がるまでしばらくあるだろう。
紗耶香はギターを手に取ってチューニングを始めた。
- 258 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:40
- 戻ってきた真希と入れ替わりに紗耶香が入浴を済ませ、それから二人揃ってベッドに
入った。シングルサイズのベッドはちょっと狭い。
明かりを落とした直後、真希は彼女の首筋へ腕を廻して寄り添った。圧し掛かった、と
言った方が近いかもしれない。それに対しては軽い苦笑が聞こえてきて、真希は触れよう
としていた手を止める。
「なに、する方が好き?」
「そうじゃないよ。ホントなんだな、男女問わずって」
軽い苦笑は次第に大きくなっていく。紗耶香は爆笑したいのを必死に堪えているらしい。
何がそんなにおかしいのか、真希には判らない。
「安心してよ、後藤けっこう上手いから」
「ばっか、違うって」
「なんなの?」
紗耶香の腕が真希の頭を抱え込んで、優しく引き寄せられる。そのまま肩口に置かれた
頭を、彼女の手のひらが柔らかく撫でた。
「悪いけど、後藤とそういうコトするつもりはないよ」
「なんで? あたしのこと嫌い?」
「嫌いじゃないけど。そういうのは一人いれば十分だからね」
- 259 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:40
- 髪を撫で梳いたまま、手のひらと同じくらい柔らかい口調で紗耶香は言った。
その言葉に覚えるのは軽い失望。以前感じたそれと同じものだが、真希はもうその時の
事を忘れていた。
「……恋人、いるんだ」
「まあね。はは、なんか照れるなこういうの」
言葉どおり照れ笑いをしながら頷く紗耶香に、真希は更に失望する。
何度も覚えた失望はいつだって理由が判らない。彼女だけじゃない、真希はいつも
誰かに失望していて、その度にどこかへ行きたくなった。
圧し掛かっていた身体を彼女の隣へ戻した。望まれていないなら、する必要もない。
「もう寝なよ。別にどっか行ったりしないからさ」
その言葉を疑ったわけではないが、真希は彼女の腕を取って伸ばさせると、ころりと首を
転がしてその腕へ頭を乗せた。重しの代わりだ。本当は首が疲れるから腕枕はあまり
好きじゃない。
紗耶香はそれに逆らわないまま「おやすみ」と小声で囁いた。真希も倣って目を閉じる。
ベッドも身に纏ったままのトレーナも彼女の匂いがして、ちょっと安心した。
- 260 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:41
-
- 261 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:41
- 「おーい後藤。起きろー。もう学校行く時間だぞ」
「んー……」
「人が早起きして起こしてやってんだから、ちゃんと起きろって」
目が上手く開けられない。ぼんやりとした視界の中で紗耶香を探して、その腰に抱きつく。
紗耶香は髪を撫でてくれて、それはなんだか嬉しかった。
「休む」眠い声のまま告げると、例の「しょうがないなあ」みたいな苦笑が聞こえてきた。
「まあ、昨日遅かったしね。わたし夕方からバイトだから、そん時までには帰れよ?」
「うん」
自分も二度寝に入ろうということなのか、紗耶香が腕を解かせてからベッドに潜り込んで
きた。昨夜と同じように腕枕をしようとしたら「痺れるんだよ」と断られてしまったが、
真希はまあいいかとそのまま眠った。
今までの誰かと違って、彼女は次に目が覚めても消えたりしていないと思った。
- 262 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:41
-
いちーちゃんいちーちゃんと、真希が懐き始めたのはそれからすぐの事で、彼女は
週に三日くらいの割合で紗耶香の家に泊まるようになった。始めのうちは家族に心配を
かけないようにと紗耶香が彼女の自宅へ電話していたが、次第にそれは「いつものこと」に
なって、面倒でもあるのでやめてしまった。
ひと月くらい、そういう関係が続いた。紗耶香がバイトの日は店内か裏で待っていて、
彼女が上がってから一緒に帰った。休みの時は電話を入れてから彼女の家へ向かって
テレビを見たり話したりして、眠くなったら眠った。身体を重ねる事はなかった。
紗耶香は一度も恋人を真希に会わせる事はなかった。照れ臭いから、と言っていたが、
本当の理由は違うような気がしていた。
そうやって懐いてくる真希を、紗耶香はいつでもあの笑みで迎える。少年のような笑顔で
彼女の髪を撫で、手を繋いで歩いて、一緒に眠っていた。
「うわーん、いちーちゃん行っちゃやだー」
「ばっか、トイレだっつーの」
こっそりベッドを脱け出そうとしたら腰を全力で捕まえられて、紗耶香は困ったように
彼女の頭を叩いた。
どうも最近、真希の精神年齢が下がってきたような気がする。最初の頃の喧嘩腰が嘘の
ようだ。ここにいる時はとにかく一緒にいたがって、いつだったか風呂にまでついて
こようとした事があった。とりあえず止めたけれど。
- 263 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:42
- 彼女をそちらに引き倒したのは紗耶香なのだろう。16歳というのは微妙な年齢だ。
不安定で不条理で不確かな彼女は簡単に転がる。きっと、今まで誰も彼女をそうしようと
しなかったんだろう。だからこそ紗耶香は彼女を甘やかした。
そうしないと、彼女が求めているものはいつまで経っても見つけられない。
トイレから戻ってきたら、ベッドの端で小さくなっている背中が目に入ってきた。
紗耶香が側を離れたのは一分かそこらだ。それだけで彼女は小さくなる。
「後藤」呼びかけてからベッドの縁に腰掛けた。真希が待ち構えていたと言うように身体を
反転させ、紗耶香の膝に頭を乗せる。
しばらく彼女の頭を撫でた。それは二人の儀式のようになっていた。こうしていると
真希はそのうち眠ってしまって、紗耶香はそれを確かめてからベッドへ潜る。
「……後藤、最近夜遊びしてないな」
「んー。いちーちゃんがいるからもういいんだ」
幸せそうに、満足そうに真希は言った。
「そっか……」
彼女は無防備に目を閉じている。
- 264 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:42
-
- 265 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:42
- 最近真面目じゃん、とからかうように言ってきたのは美貴だった。
「亜弥ちゃんのお説教が効いた?」
「違うよーん」
きししと笑いながら、紗耶香が作ってくれた弁当を口に運ぶ。残念ながら亜弥の言葉は
何一つ響いていない。その原因は隣で焼きそばパンをぱくついている彼女にあるが、
真希はそれを言うつもりはない。それほど重要な事ではないし、言っても意味がないから。
屋上で昼食を取るのが二人の日課だった。お互いに仲良しグループの中にいなければ
辛抱できないようなタイプでもなく、どちらかといえば一人で好きに行動するのが性に
あっているため自然そうなった。二人とも、相手に不干渉でいることもなく過干渉になる
こともなく、ずっと喋っている時もあれば最後まで言葉を交わす事なく教室に戻る事も
あった。真希はそれが楽だったからいつもそうしていた。
「ま、何があったか知らないけどいい事だよ。女の子なんだから、もっと自分のこと
大事にした方がいいと思うしさ」
唇についた欠片を親指で拭いながら美貴が言う。真希は自分を大事にしていないつもりは
なかったが、彼女の目にはそう映ったんだろうと考えて適当に頷いておいた。
「オトコなら大事にしなくてよかった?」
「そういうわけじゃないけど。なんとか……なりそうな気がすんじゃん、男の子なら」
「ふぅん」
ひょっとしたら、彼女は女である自分では絶対に及ばない部分があることを知っていて、
それを心よく思っていないのかもしれない。そういう考え方をしている友人が一人
いたから真希はそんな風に感じた。二人は気が合うかもしれない。今度紹介してみようか。
- 266 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:43
- 風に乗って誰かが駆けて来る音が聞こえてきて、美貴はそれに気付くと「うわ」とか
言いたげな表情をした。真希が携帯電話の時刻表示を見遣る。なるほど、いつもの時間だ。
「みーきーたーん!」
バックに花でも撒き散らしてそうな笑顔で駆け寄ってくる亜弥に、美貴が重めの溜息を
ついた。
学校というのはひとつの独立国家のようなもので、それは中等部と高等部でもきっぱり
分かれている。要するに中等部の生徒にとって高等部の校舎は他人の陣地である。そこへ
足を踏み入れるというのはかなりの勇気がいる。逆の場合は多少楽になる。元々は自分の
陣地だからだ。
しかし亜弥はそんな領域などものともせず、毎日のように通ってくる。真希にとって
彼女の行動は好ましい。
「仲良いねえ、君ら」
「……美貴はあんまり仲良くしたくない」
渋い顔で呟かれた言葉には、亜弥と真希が同時に「嘘ばっか」とツッコんだ。
本気でそう思っているなら毎日屋上で昼食を取ったりはしないし、亜弥が来るまでの間に
食事を終わらせるようなこともないだろう。
教室で食事をしないのも、周りに騒がれたくないのもあるだろうが、亜弥に対してやけに
協力的だったりいいところを見せようとする男子生徒が出始めたからだ、多分。
今はもう、彼女たちの繋がりを見ても旅に出たいとは思わなくなった。
以前は、亜弥が好きになるのが自分だったらよかったのにと思っていた。彼女は自分が
欲しいと思っているものを惜しげもなく美貴に捧げていて、だからそれを自分に捧げて
くれていたら、きっと。
けれどもういい。これからはそれを探しにふらりと家を出る事もないだろう。
紗耶香がいてくれるから、もういい。
- 267 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:43
-
- 268 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:43
- いつものように朝学校へ向かう真希を見送って、日が暮れかけた頃にバイト先へ向かった。
ホールに出ると見知った顔がカウンターにあって、紗耶香は気安く声を掛ける。
「いらっしゃいませ」
「ああ、紗耶香。元気?」
「ぼちぼち」
圭が軽くグラスを振ってくる。彼女は通っている大学の飲み会でここを訪れて以来
いたく気に入ったらしく、結構なペースで通っていた。年が近いせいか紗耶香も
話しやすくて、客が少ない時などは世間話の相手をしたりする事もあった。
「ぼちぼちって、微妙よね」
圭の前に陣取り、グラス磨きをしながら紗耶香は苦笑する。「元気だよ」言い直すと圭は
猫のように目を細めた。
「最近なんかあった?」
「そうだなあ。子犬拾った」
「子犬?」
少年みたいな笑みが深くなって、それから瞼が軽く閉じられる。
「ちゃんと家あるみたいなんだけど、誰彼構わずについてっちゃうんだよ。危ないから
わたしが拾って保護してんの」
「紗耶香、アパートでしょ? ペット禁止とかじゃないの?」
「そうだけど、大人しい犬だから。鳴かないしトイレもちゃんとしてるし、お風呂も
嫌がらないし。てゆーか、だいたい寝てるしね」
くすくすと笑いながら答えたので、圭は不思議に思ったようだ。犬を拾ったのがそんなに
面白いのだろうかと眉を上げる圭に、紗耶香が含み笑いをする。
- 269 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:43
- 「可愛がってるみたいね」「まあね」判っていないらしい圭の口元が上がる。それは本当に
気安くて、紗耶香は少しだけ気が楽になった。
全てを話すことはまだ迷っている。きっと、全部終わって辛くなったら話すだろう。
圭に話すのは、彼女を離してからでしか出来ない。
「でも、そろそろ帰してあげないと」
「家は判ってるんだ?」
「うん。やっぱりわたしじゃ、飼い主にはなれないから」
それは最初から判っていた。自分では駄目だという、核心にある確信。
無邪気に懐いてくる子犬に嫌われないよう、見せてはいけないものを見せてないだけで、
本当は自分の側になんて、置いていてはいけないのに。
「あたしも犬とか飼おうかな。でもペット可のマンションとかって高いんだよね」
「まあ……大変だからね」
何かを引き受けるというのは大変だ。それがどんなものであれ。
彼女の不安定さを思い出す。
あれを引き受けるのは、とてもとても大変だろう。だから誰も引き受けなかった。
自分も、例外ではない。
- 270 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:44
-
腰に抱きつくように頭を乗せている真希を撫でてやりながら、紗耶香はタイミングを
見計らっていた。
真希は安心しきった表情で甘えてきている。本当に犬のようだと笑って、彼女の長い髪を
指先で梳いた。うなじの辺りに指先が滑ると彼女はくすぐったそうに身を捩じらせて、
それから更に密着してきた。
「ねえねえいちーちゃん」
「ん?」
紗耶香の腰に埋めていた顔を上げ、ふわふわした柔らかい、子供のような笑みを浮かべる。
「ギター弾いてみてよ。ごとー、一回も聴いたことないから聴いてみたい」
無邪気にねだる真希に、紗耶香は少しだけ大人びた苦笑を唇に乗せた。
「もう全然触ってないから弾けなくなっちゃったよ」
「ウソだあ。いちーちゃん、ごとーがいない時は弾いてんでしょ? ちょっとだけ場所
変わってんもん」
紗耶香がまた苦笑した。「よく見てんね、後藤」彼女は色んなものをよく見ている。
桜が白いとか、ギターの置き位置が少しだけ変わっているとか。
それなのに、どうして気付かないんだろう。それとも気付いているのに気付かないふりを
しているのか。
それは、ずるいよ、後藤。
- 271 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:44
- 「……後藤がいる時は弾けないんだよ」
「なんで。いいじゃん、下手くそでも笑ったりしないから」
「確かに下手くそなんだけどね」
しょうがないなあという苦笑と、宥めるような手のひら。
真希は抱きついていた身体を離して、壁に立てかけられているギターを手に取ると、
紗耶香へ差し出した。
どうしてか真希は得意げな顔をしている。お遊戯を終えた子供のようだ。見ていた大人が
自分を褒めることを知っている狡猾な子供のように、彼女は笑っている。
紗耶香が苦笑に隠して溜息をついた。
それは、本当にずるいよ、後藤。
差し出されたギターを手にする。真希が満足そうに笑って紗耶香の隣へ腰掛けた。
「まだ一曲しか弾けないんだ」
「それでいいよ。なに?」
「……多分、知ってると思うよ。有名な曲だから」
怠けてレパートリーを増やさなかったことを、今ほど後悔した時はない。
もうちょっと上達してから聴かせようと思っていたのだ。勿論、今弾こうとしている曲
ではなくて、もっと他の曲を。
紗耶香の指先が弦を爪弾く。つっかえつっかえ、格好悪いなあと自分で思いながら二小節
弾いたところで、真希が「あ」と小さく呟いた。
「この曲知ってる。えと……」
『STAND BY ME』。二人の声が重なる。
- 272 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:44
- 初心者向けの曲だからと勧められて練習を始めた曲だった。ある程度弾けるように
なって飽きて、それから埃を払うだけの日々が続いて、だから紗耶香のレパートリーは
増えなかった。
最後の一音を奏でて、紗耶香の指は止まった。「おー」真希が無邪気に拍手をする。
紗耶香は俯いてギターを傍らに放った。
茶番もいいところだ。
彼女の前で、この曲を弾きたくなんてなかった。
「そばにいて」というタイトルのこの曲を、彼女に捧げる資格なんて持っていないのに。
「……後藤」
「いちーちゃん結構上手いじゃん。まあプロみたいにはいかないけどさ。サボってて
こんだけできたらすごいんじゃない?」
「後藤。聞いて」
「……いちーちゃん?」
紗耶香の唇が噛み締められている事に気付いて、真希が幾分不安そうな表情をする。
いつもの少年みたいな笑みはなかった。
真希の脳裏に、いつかの光景がフラッシュバックする。
自分の不用意な一言で、人懐こい笑みが消えて。
その後に来たのは。
「後藤、もうここに来ちゃ駄目だ」
最後通告。
- 273 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:45
- 「な……んで?」
「わたしじゃ駄目なんだよ。わたしじゃ、後藤の欲しがってるものをあげられない」
「そんなことない!」
不安に押し潰されそうで、真希は彼女の肩に取りすがった。拒絶されたらどうしようと
思ったが、紗耶香は俯いたまま動かなかった。
「ごめん、後藤」
抱きしめてあげられたら、どれだけ良かったか知れない。
「わたしは、後藤のことだけ愛してあげる事はできない」
「そんなことしなくていいよ! ごとーは、ただいちーちゃんと……」
「違うよ」
真希の頭を手のひらで抱え、自身の膝に乗せさせる。彼女は強く強く抱きついてきて、
それは紗耶香が出来ない代わりにそうしているようだった。
真希の髪をやさしく撫でながら、紗耶香は意識的にゆっくりとした口調で話し始めた。
「後藤は、自分の事を好きじゃない人が許せないんだろ。愛されてる実感がないと、
自分の事愛してくれないと気に入らなくてしょうがないんだ。だから色んな奴について
行ったりしてたんだろ? その……そういうコトすると、一時的にでも錯覚でも、自分が
愛されてるって思えるから」
「違う…ちがう……」
「それでも足りなくて他の街にまで探しに行って。ねえ後藤。わたしはそれをすごく
悲しい事だと思ってたんだ。後藤と会う前に、噂で聞いてた頃から」
彼女はあまりにも子供で、そして自分もとても子供で。
ただそのベクトルは真逆だった。
- 274 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:46
- 紗耶香は自分を最優先に大事にしていて、他のものは躊躇なく捨ててきた。
真希は自分を大事にしないことで誰かに愛されて、躊躇なく置き去りにされてきた。
そんな、全く違ってだから似ている彼女の話を聞くたびに、悲しくなっていた。
初めて会話をしたあの時だって、その悲しみは胸の中で疼いていた。
だから近づけなかった。自分はきっと彼女を駄目にする。全ての入り口を閉ざして、
何も入れなくなってしまう。八方塞がりだ。それじゃあ彼女の欲しいものはどこからも
入れない。
二度目に会った時、彼女の手を引いたのは。
今、彼女の手を離すのと同じ理由だった。
「このままずっと、後藤を騙し続けていこうかと思った時もあったよ。
でも駄目なんだ。わたしは耐えられない。……後藤を一番好きになれない自分に、
耐えられなかったよ」
彼女を一番に愛せたら、どれだけ幸福だったか知れない。
真希がぎゅっとしがみついてくる。
「やだよ……いちーちゃん、ごとーを独りにしないでよ……」
「独りになんかならない。後藤は大丈夫だよ」
宥めるように彼女の頭を撫でた。それを遮るように首を振り、ますます強くしがみ付いて
くる真希の喉から、くぐもった呻きが洩れる。
あの時、彼女の手を取らなければよかったんだろうか。それとも他のみんなと同じように
彼女に抱かれてやればよかったんだろうか。そうしたら彼女は諦めただろうか。
最低だな、と思った。最後まで責任を負うこともせず、気紛れに手を差し伸べていい人を
演じて見せたくないものを見せないままにして、そうしてまた彼女を放り出すのか。
- 275 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:46
- 色々なものが上手く行かない。ギターも、真希のことも、何もかも上手くいかない。
だから彼女を救ってあげたかったのに。それすらもままならなくて、いたずらに彼女を
傷つけた。
「……後藤。お前はもっと色んなことを大事にしろよ。自分とか、周りの人とか、
世の中の守んなきゃいけない決まり事とか、そういうもの全部大事にしろ。
そしたら絶対にお前の欲しいものが見つけられるよ」
自分のように自らだけを大事にするんじゃなくて。
色々なものを大事に出来たら、きっと彼女は世界に愛されるから。
「そんなの、いらないよぉ……。いちーちゃんがいてくれたら、他のものなんていらない」
「それじゃ駄目だよ。わたし以外のものを捨てちゃったら、それは何も手に入ってないって
ことなんだよ」
真希が駄々っ子のように首を振る。
彼女だって判っているはずなのだ、紗耶香が自分を一番には愛していないことを。
だからこそ彼女は紗耶香のそばにいて、愛されたいと願った。
知ってるくせに知らないふりをするのは大人の狡さだ。彼女には相応しくない。
「後藤が好きだよ。噂で聞いてるだけの頃からずっと好きだった。変だと思うだろうけど
ホントなんだ。全然違うのに、まるで自分の事を言われてるみたいに思ってた。
でも後藤はわたしじゃないんだ。わたしは……市井紗耶香のことが、一番好きなんだよ」
それはもう、何があっても覆らない理だった。原理であり心理であり真理だった。
- 276 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:46
- 紗耶香の腰に廻している腕に力を込めて、逃がしたくないと言葉以外のものを使って
告げて、それから真希は濡れた声で呟く。
「なんで……なんでさあ……」
欲しがっているものを判ってくれた人は、それを持っていなかったんだろう。
「……うん。うまくいかないね」
それはもう本当に、救いのない言葉だった。
真希が身体を起こして、紗耶香から腕を解いた。その顔は涙でぐちゃぐちゃになっていて、
いつもの子犬みたいな無邪気はなくなって、紗耶香の顔からも少年のような笑みは失われ
てしまっていて、二人ともそういう顔で見つめ合った。
「……いちーちゃん、もっかい、『STAND BY ME』弾いて」
「……いいよ」
相応しくない二人に、相応しくない曲を。
紗耶香がギターを取り上げる。爪弾きながら、今度は歌を加えた。
つっかえつっかえ奏でられる音と、時折ひっくり返る声は、とてもとても格好悪くて、
やはりこの曲は自分達には相応しくないのだと思い知った。
- 277 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:47
-
- 278 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:47
- 紗耶香がいっとき与えてくれた安息地を離れてから、一年と少しが過ぎた。
真希は彼女の言いつけを守って、色々なことを大事にするようになっていた。
とりあえず自分を大事にして、友人を大事にして、世の中のルールを大事にしてみた。
そうしたら色々なものが自分を大事にしてくれるようになって、なるほど世界は思って
いたより優しいのだと知る事ができた。
それでも、今でも、これだけの時間が過ぎても、あのそれなりに狭い部屋は真希の大切な
場所で、時々あそこへ逃げ込みたくなった。
あの部屋へ行きたいと思っても行く事はなかった。もう既に、あそこは真希にとって
侵さざる聖域になっていたから、自分ですら踏み込んで穢す事はしたくなかった。
春を迎えて、校舎にも新しい顔が訪れる日がやって来た。真希はクラス毎の係決めで
昇降口前の案内係になってしまい、朝早くから外に立ちっぱなしでいる羽目になった。
せめて少しでも先延ばしにしようと、時間ギリギリまで教室に居座る。夜遊びをやめた
おかげで眠くはないが、一人で外にいるのはなんだか嫌だった。
「寝坊したー? 何やってんだよ、急げ急げ」
二列隣の席で、友人が誰かと携帯電話で話している。
相手は今年入学する彼女の友人だろう。呆れたように、どこかくすぐったそうに笑いつつ、
彼女は電話口で友人を急かしていた。
「走ってくれば? いいトレーニングになるかもよ」
からかい混じりの言葉に相手は怒ってしまったらしい。彼女はごめんごめんと口先だけで
謝って、それから柔らかく目を細めた。
「早く来いって。待ってるから」
最後に「うん」と頷いて、携帯を折り畳む。ニコニコと気味が悪いくらい口元を緩ませて
制服の襟なんかを直し始めた友人に、真希は小さく笑った。
- 279 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:47
- そろそろ頃合か。面倒臭かったが仕方がない。これもルールだ。
椅子の背にかけていたブレザーを羽織り、友人に軽く手を振って教室を出る。
廊下では退屈を持て余した男子生徒が、窓から身を乗り出して新入生を待ち構えていた。
品定めでもするつもりなんだろう。俗だがそういう年頃なので仕方がない。
玄関前の廊下には、案内状が積み上げられた机と一脚の椅子、そしてそれに座って
ふんぞり返っている美貴がいた。復学した直後に面倒な仕事を押し付けられて機嫌が
悪そうだ。
「美貴ちゃん」
「ん? あー、おはよ」
「おはよ。まっつーは?」
「さあ? 自分の教室にいるんじゃないの?」
てゆーか二人ワンセットみたいに言わないでよ。むっつりとした表情で言われて真希が
苦笑する。「違うの?」と返そうかと思ったが、本気で怒りそうだから笑って誤魔化した。
そういえば、紗耶香に言われたことは全て、それ以前にこの二人から言われていた。
自分を大事にしろとか、周りに心配をかけるなとか。
彼女たちに言われた時は聞き流せた言葉を、どうして紗耶香に言われたら素直に聞いた
のかといえば、それは考えるまでもないことで。
真希はきっと、どうしようもないくらいに彼女のことが好きだった。
いつからだったのかは判らない。初めて言葉を交わした時からだったのかもしれないし、
あの部屋で一緒に眠ってからかもしれないし、バーで自分を見つけてくれた時からだった
かもしれない。
そのどれでもいいと思った。始まりがどこであれ終わりは明確で、それは覆らない。
- 280 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:48
- だからこそ真希は、彼女から離れた。どうしようもないくらい好きだったから一緒には
いられなかった。
彼女のことが好きで好きで仕方がなくて、それなのに彼女は自分を一番好きになって
くれなかったから、どうしようもないほど彼女に対して失望してしまって、彼女は
どうしようもないほど自分を責めてしまって、二人とも、側にいるのが辛くなった。
側にいられないならせめて、彼女のいいつけだけは守ろう。
それが、彼女を好きだという証になるから。
「美貴ちゃんは幸せだねえ」
「は?」
「でも、後藤も結構幸せだったりするんだよね」
「……ふぅん。よかったじゃん」
訳が判らないまま、美貴は適当に相槌を打った。真希が柔らかく笑う。
あの頃、彼女と過ごした時間は間違いなく幸福だったし、それを得られたという事実を
持った今の自分も、やはり幸福なのだ。
他の誰でもなく、紗耶香が手を差し伸べてくれたという事実は、覆らない。
「さーて、後藤もお仕事してこよっかな。じゃあね美貴ちゃん、頑張ってー」
「おー。ごっちんも頑張れよー」
気の抜けたエールを送りあってから昇降口を出る。予想通り、外はいい陽気で気持ちが
良かった。気温が高いせいか桜は満開になっていて、新入生を迎えるには絶好の日和だ。
ぞろぞろぞろぞろと校門から流れてくる新入生たちを誘導していって、たまに見当違いな
場所へ向かおうとする子を呼び止めたりする。思っていたよりも忙しい。面倒臭いとか
思っている暇もない。
- 281 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:48
- そんな中で、一人流れから取り残されている少女を見つけた。
真新しい制服はこれからの成長を考えられてか少し大きめで、まだまだ似合っていない
それに長い黒髪が落ちている。
少女は真希に背を向けた形でぼんやりと突っ立っていた。誰かを待っているなら校門を
見ているだろう。しかし彼女は校門から90度ずれた、校庭の一角をじっと眺めている。
軽く首を傾げながら、真希はその背中に近づいた。
「そっちはなんも無いよ。まず玄関入って、すぐのとこにちょっと恐そうなお姉さんが
いるから案内状もらって。あ、恐そうだけどホントは恐くないから大丈夫だよ」
少女が驚いたように振り返る。本当に驚いたのだろう、くりくりとした子犬のような目は
大きく見開かれていて、真希の姿を見止めた途端、慌てて頭を下げた。
「す、すみません、すぐ行きます」
「んあ、そんな急がなくていいよ。まだ時間あるし」
パタパタと手を振ると、少女は「はあ」と曖昧に頷いた。しかし、また校庭を眺める気は
ないようで、真希の横を通り過ぎようとする。
「ねえ、さっき何見てたの?」
なんとなく気になってそう聞いた。少女が立ち止まり、どういうわけか恥ずかしそうに
頬を染める。おお、後藤の魅力ってばまだ衰えてないじゃんとか真希が内心得意になって
いると、少女はおずおずと真希の後ろにある桜の樹を指差した。
- 282 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:49
- 「あの……桜の花って、白いんだなって思って……」
「……え?」
ゆらり。視界が揺れた。
「あ、当たり前だと思うんですけど、あの、ずっと桜ってピンク色だと思ってたんで……」
ふらり。足がもつれた。
ぐらり。ふらつく体勢を慌てて立て直す。
真希が何も言わないので、少女は呆れられたと思ったのだろう。ますます顔を赤くして
頭を下げてきた。
「すみません、変な事言って。あの、私もう行きますね」
「あ、ちょ、ちょっと!」
「は、はい!」
駆け出しかけた足が急ブレーキをかける。先輩に呼び止められてそのまま走り出す度胸は
なかったようだ。真希はそれにホッとした。
「あ……あたし、後藤。三年の後藤真希。あんたは?」
「……紺野、あさ美……ですけど」
「そ、そっか」
どうして名前を告げたのか判らなかった。どうしてか彼女に名前を知って欲しかった。
どうして名前を聞いたのか判らなかった。どうしてか彼女の名前を知りたくなった。
それは自分と同じ事を考えた相手に対する興味だったのかもしれないし、もっと他の
何かがあるのかもしれなかった。
どうでもいいとは、思えなかった。
- 283 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:49
- 「あの……私、もう……」
「あ、うん。ごめんね急に」
「いえ」
ぺこりと頭を下げ、今度こそ彼女は昇降口へ入っていった。
真希は他の生徒を案内することも忘れて、その場にただただ呆然と突っ立っていた。
一番大切な場所は紗耶香の部屋で、一番大切な人は紗耶香だった。それは覆らない。
ただ、それ以外の心の場所が、これから変わっていくような、そんな予感を覚えた。
桜の花びらが風に散らされて、芝生をまだらに白く染めた。
《You dive into the Rule of Heart.》
- 284 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:50
-
以上、『Sanctuary』でした。
むしろ聖域なのは自分にとってのこの二人なわけで。
ところでどっかの二人は伏線ばっかり増えていきますね。
でもまだメインにはなりません。だって書いてな(ry
- 285 名前:『Sanctuary』 投稿日:2004/05/05(水) 09:50
- レスありがとうございます。
>>240
こんな節操のない話に付き合ってくれる読者の方々も凄いと思います。
気長にお待ちいただけると有難いです。
>>241
あ、やっぱり珍しかったですか?
実のところ、ガキさんはあんまりCP色のない話で書きたかったんですが、
なんか無理でした(爆)
二組はこれから出ます(笑)
>>242
リンクさせるのは書いてる方も楽しいんですが、そうすると藤本さんの出番ばかりが
増えてしまうという(苦笑)
この人、あらゆるメンバーと絡ませやすすぎです。
>>243
そう言っていただけると、一日中部屋にこもって動画見まくった甲斐があったと
いうものです。ありがとうございマックス。
>>244
甘くなくてシックということで、新亀のテーマはお煎餅です。嘘ですが。
ほ、本にですか……。うひゃー、ありがとうございます。
でもホントにやったらとても大変だと思います。
- 286 名前:円 投稿日:2004/05/05(水) 09:50
- ではまた。
- 287 名前:つみ 投稿日:2004/05/05(水) 11:56
- 更新お疲れです。
なんか正直「すげー・・・」って思いました。
愛することの条件ってゆーかそんなことを考えました。
ホントに作者さんの文才には毎回驚かされる所存であります!
次回も待ってます!
- 288 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/05(水) 12:44
- 初めてレスします。
すごく面白いです。作者さんのペースで頑張って下さい。
これからも応援してます。
- 289 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/05(水) 23:04
- 久しぶりに悲しいって思いました。
私の聖域もかつてこの二人でした。物語、ありがとうございました。
- 290 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/05/11(火) 19:27
- 聖域、って言葉が一番似合うCPありがとうございました。
直接的には悲しくないのに、何故か読み終わった後泣きそうになりました。
何か凄過ぎて上手く言えないですね・・・(笑)
では、次回の更新まったりとお待ちしています!
- 291 名前:名無し読者 投稿日:2004/05/12(水) 00:58
- 円さんの文章とても好きです。
ずっと読ませて頂いているんですが、
CPとか関係なくどの作品も心に憶えのあるような思春期の感情に
切なくなります。
あ、あと関係なかったらごめんなさいなんですけど、藍川さとるお好きですか?
- 292 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/12(水) 01:07
- なんてこった、今さら気付いたんですけど。
誰か教えてくれたっていいじゃないか!!(w
すばらしいお話の数々に時間を忘れて読みふけってしまいました。
明日は一限からだっていうのに。
ちくしょう…おもしろい…もう一回読んでやる…。
- 293 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:34
-
- 294 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:34
- 高等部には、夏休みの数日を利用した課外授業がある。授業といっても勉強をするのでは
なく、公共の施設を借りて自然と触れ合う、いわば林間学校のようなものだった。
完全自由参加であり、希望者は学年を問わず参加する事ができる。
数日とはいえ夏休みが潰れるということで人気がなさそうだが、出席日数に加算される
事と、内申点に影響するというような噂があって、毎年進学や卒業が危うい三年生とか、
将来を見越した一、二年生、単純に自然が好きだったり暇だったりする生徒などで
参加者は30人を越えている。
小川麻琴はその最後の部類で、友人の紺野あさ美はどれでもなかった。
「いやあ、いい天気だねえ!」
「そうだね……」
「あさ美ちゃん、暗いよ! せっかく自然と触れ合えるチャンスなんだから、ほら、
大きく息を吸ってぇー!」
ラジオ体操のように両手を広げて深呼吸し始めた麻琴に、あさ美は疲れた笑みを見せた。
彼女はいつもハイテンションだが、今日はますます磨きがかかっているようだ。
要するに、あさ美は彼女に無理やり連れてこられたのだった。出来れば夜になると灯りの
ひとつもなくなる郊外より、評判のレストランや行列の出来るラーメン屋がある街の
中心地に行きたかったのだが。
- 295 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:35
- 麻琴がいっぱいに膨らんだバッグのサイドポケットから携帯電話を取り出した。
手馴れた仕草でそれを開き、ディスプレイを覗いて感嘆の声を上げる。
「おお! 圏外、圏外になってるよあさ美ちゃん!」
「そりゃあ、こんな山奥じゃ……え!?」
バッグを背負いなおしながらおざなりに相手をしていたあさみは、言葉の途中で弾かれた
ように顔を上げた。
自分の携帯を取り出し、麻琴と同じようにディスプレイを確認する。自身の物も、やはり
電波状態を表すアイコン部分に「圏外」と出ていた。アンテナが立っていないだけなら
まだしも、そんなにはっきり言われると妙に腹が立つ。
「ホントだ……」何かを憂うような口調で呟き、視線を落とす。残念に思っているのでは
ないようだった。もちろん、麻琴のように無意味にはしゃいでいるのでもない。
例えるなら、遊びに出かけるのを楽しみにしている子供の隣で天気予報を見ていて、
午後からの降水確率が90%だと知った時のような表情をしている。
「あさ美ちゃん? どったの?」
「あ、なんでもない……」
引率の教師に呼ばれた。二人は慌てて整列している他の生徒たちのもとへ向かう。
全員が揃ったところで、これからの予定を説明される。特に珍しいものもなく、川で魚を
獲るとか(事前に地元の人が放流してくれている)それをその日の夕飯にするとか、
就寝時間は9時だとか最終日はオリエンテーリングだとか、こういった行事にありがちな
日程だった。
- 296 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:35
- 出発前に手渡されたしおりをぼんやりと眺めながら、あさ美はこっそりと溜息をつき、
その隣では麻琴が小声で『ふるさと』を歌い始めていた。
「うーさーぎぃーおーいしーかぁーあーあーなー」
あさ美の肩が漫画みたいにがくりと落ちた。おいしいかなあって。誰に聞いてるんだか。
歌は更に続く。後に続く歌詞もめちゃくちゃで、終いには判らなくなったんだろう、
ハミングに変わってしまった。
「ふんふんふんふーんふふん」
「……ぶっ」
調子よくハミングしていたら、誰かが吹き出す音が聞こえて、麻琴は口を閉じた。
「ん? あさ美ちゃん?」隣に向くが、彼女は首を横に振っている。別に誤魔化そうとして
いる様子もない。麻琴は小さく首を傾げた。気のせいだったんだろうか。
「ごめんごめん、あの、堪えてたんだけど」
前に座っている生徒が、振り返ってパタパタと手を振ってきた。知らない顔だ。
ちょっとだけ色を染めているのか、茶色がかった髪が揺れている。笑っているのに驚いた
ような顔つきだった。
彼女の肩はまだ震えている。麻琴は何がそんなに面白かったんだろうかと不思議だったが、
なんだか受けが取れたようなので楽しくなって、彼女に対して笑いかけた。
- 297 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:36
- 「ちょっと愛ちゃん、落ち着いてよ。センセこっち見てんじゃん」
「亜弥ちゃんだって笑ってるし」
愛と呼ばれた彼女は、友人らしい少女に肩を小突かれている。いつの間にか麻琴の口は
ぽかんと開いていたが、それは彼女の癖だった。
「あの、ホントごめんね。悪気があったわけじゃないから」
「あはー、いいんですよぉ」
麻琴は何について謝られているのか判っていないまま頷く。「この子、ホントに気にして
ませんから」あさ美が横からフォローを入れてくれた。
そろそろ笑いも治まってきたのか、愛は目を細めただけの淡い笑みで麻琴に向き合った。
綺麗な人だなあ。麻琴はぽかんと口を開けながら見惚れる。
愛も、隣にいる亜弥も、笑うその表情はどこかコミカルで親しみやすいが、よくよく
見ればかなり整った顔立ちをしている。
こりゃあたしが男だったらほっとかないな、とか思っていたら、愛に目を覗き込まれた。
なんだろう、よくあさ美に言われる、やらしい目つきになっていたんだろうか。
「一年の子?」
「あ、そうです」
「うちら二年なんだ。高橋愛っていうの。で、こっちの子が松浦亜弥ちゃん」
「どうもどうもー。ピーマコ小川です。よろしくお願いしマックス!」
決めポーズつきで自己紹介。笑ってくれるかと思ったが、二人とも呆気に取られていた。
笑ってほしい時に笑ってもらえないのはちょっと悲しい。持ちネタの中でもかなりの
自信作だったのに。
- 298 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:36
- 「……あの。小川麻琴ちゃんで、紺野あさ美です」
見かねたあさ美が再度フォローしてくれる。「あ、うん。よろしくー」いち早く正気に
戻った亜弥がそう返した。
愛はその一瞬後に我に返り、同じように「よろしく」と笑った。
「マコトかあ。男の子みたいな名前だね」
「あー、よく言われます。幼稚園の時とか下駄箱が男子の方だったりしたんですよー」
なんだか盛り上がってしまった。麻琴は上級生に親しい知り合いはいなかったし、
あさ美の方はいるにはいたが、それもまたちょっと特殊というか普通の先輩後輩という
わけでもなかったので、こんな風に先輩と仲良く話をするのは新鮮で楽しかった。
「一年て、マコトたちだけ?」
「あー、みたいです」
「そしたら明後日のオリエンテーリング、一緒に行かない?」
三日目の夜に行われるオリエンテーリングは、必ず四人以上のグループになる事が
義務付けられている。危険な場所には大人が待機しているとはいえ、危険がないとも
言えないからだ。
オリエンテーリングといいつつ、その実は肝試しである。小高い山を登ったところにある
寺の境内に置かれた缶ジュースを取って戻ってくるゲームだ。
麻琴たちは断る理由がなかったので、その申し出を快く受けた。
- 299 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:36
-
- 300 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:36
- 今日はとてもいい天気で、日差しは強いが風が出ていて気温はそれほど高く感じない。
川べりで水遊びに興じる生徒の声に混じり、妙な掛け声が聞こえてくる。掛け声というか
遠吠えに近い。しかし声の主は動物ではない。
「あーああ〜!」
「まま、まこっちゃん、さすがにそれはどうかとっ」
「何言ってんの、山に来たら叫ぶ。これ常識」
「それは山に登ったときでしょー」
映画にもなった野生児のように、麻琴は片手を口元に当てて吠える。あさ美は諦めたのか、
ジャージの裾をまくって川に入り、水飛沫を上げて遊び始めた。
つまり、他人のふりをした。
愛は木陰に座って日差しを避けながらその様子を眺めていた。出会ってからまだ数時間
しか経っていないが、いつでも彼女は面白い。
「あーいちゃん」
「ん?」
顔を上げ、木漏れ日に目を細める。幼なじみの亜弥が濡れた手を振りながら笑っていた。
飛沫が顔にかかる。「んわ」思わず顔をしかめたが別に嫌だったわけじゃなくて、単なる
条件反射だった。水滴は冷たくて気持ちがいい。
- 301 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:36
- 亜弥が隣に腰を下ろしてくる。小学校の時、愛の祖母が体調を崩してその看病のために
一家揃って引っ越して離ればなれになり、中学に入ってから再会した彼女は、いつでも
人懐こく笑っている。
「遊ばないの?」
「や、マコト見てる方が面白くて」
「あはは。小川ちゃん面白いよねえ」
川には夕食となる魚が放されている。手づかみで獲っている豪気な男子もいれば、
施設で貸し出している釣り竿を持って太公望としゃれ込んでいる何人かもいる。
最終的に、魚はすべて回収されるから、無理に捕獲する必要はない。教師が雑談のように
話した言葉によれば、生きている魚を見せ、出来れば触ってもらうことが重要なのだと
いう。自分が生きるために犠牲としているものを実感させようということなんだろう。
そういう事を、生徒は考えているのかいないのか。とりあえず亜弥も愛もあまり考えて
いない。
亜弥も一緒になって麻琴がはしゃいでいる様子を見物する。あさ美にタックルして諸共
川へ飛び込み、全身ずぶ濡れになっていた。ジャージを着ているあさ美はともかく、
麻琴の方は上着を脱いで半袖のTシャツ姿になっていた。濃い色のシャツだったから
よかったものの、白いシャツだったらどうしていただろうと思う。
なんとなく、彼女は気にすることなく川に入り、同じ結果になっていたような気もする。
- 302 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:37
- 後輩たちの姿に笑っている愛を横目で見遣る。木漏れ日がもたらす奇妙な影の具合なのか、
亜弥の表情は苦笑のようになっていた。
「マコトって呼ぶんだね」
「え? ああ、なんかその方が呼びやすいから」
ふっと顔を上げて、愛が頷く。「そっか」名字で呼ぶ自分と、名前で呼ぶ彼女の差異。
亜弥は、その理由を知っている。
「あ、マコトまたこけた。怪我とかしないといいけど」
「うん」
「けどさあ」
「ん?」
「まっさか亜弥ちゃんが来るとは思わなかった」
くすくすと、からかうような笑みで愛は言った。途端、亜弥は憮然とした表情になる。
「しょうがないじゃん、強制参加なんだもん」
亜弥は天文学部に所属している。似合わない事この上ないが、クラスメイトに人数が
足りないから名前だけ貸してくれと頼まれて受けたのだ。当然、部活動には一度も出た
ことがない。だって美貴は帰宅部だから、そんな事してたら一緒に帰れないし。
- 303 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:38
- 天文学部の部員は、この課外授業に必ず参加しなければいけない。幽霊部員であっても
例外ではない。
亜弥はもちろんサボろうとしたが、顧問がわざわざ事前に電話連絡を入れてしまったため
親に知られ、どうにも逃げられなくなった。
「携帯も通じないしー。もう駄目。死にそう」
「そんなオーバーな」
愛が困ったように笑った。事の発端は自分にあるとはいえ、まさかこんな風になるなんて
思ってもみなかった。確かに藤本先輩カッコいいけどねえ。最初に彼女の写真を送った
直後、頼み込まれて何度も隠し撮りまがいのことをする羽目になったのを思い出して、
愛は軽く眉を下げる。
とりあえず、話の方向性を変えることには成功したようだ。こういう彼女の単純さは
好ましい。
「うえーん、みきたんに会いたいよぅ」
「なに、休み入ってから会ってないの?」
「ううん、今朝まで一緒にいた」
泣き真似をやめて首を振る彼女はけろりとしている。
今朝まで。はあ、そうですか。愛はどう応えていいか判らずに口ごもった。
「愛ちゃん、今やらしいこと考えたでしょ」
「え、えぇ!? 考えてないよ」
「うそしー。まあでも間違ってないけどねー」
間違ってないんですか、そうですか。やはり愛は言葉に詰まる。
- 304 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:38
- なんだか嫌な予感がする。
彼女はいつどこにいても、誰を相手にしている時でも、スイッチさえ入ってしまえば
留まることなくノロケる癖がある。そのスイッチをうっかり入れてしまったような、
そんな気がしていた。
愛はおもむろに立ち上がり、水と戯れている麻琴たちを見遣った。
「あたしもちょっと遊ぼっかな。亜弥ちゃんどうする?」
「んー、休んでる。愛ちゃん行ってきなよ」
ひらひらと指先を振り、愛を見送る体勢に入る。うん、とひとつ頷いて、愛は木陰を
あとにした。
亜弥はその後ろ姿を見つめる。麻琴たちと合流して水遊びを始めている。両手で水鉄砲を
作って飛ばしながら笑っていた。亜弥はそれを、膝に顎を乗せた体勢で見ている。
三人とも楽しそうだ。麻琴は人懐こい性格のようで、先輩である愛を相手にしても全く
物怖じしていない。その方が付き合いやすい。それは彼女の可愛らしさだ、亜弥は笑う。
愛は幼なじみで、友人だ。いつも一緒にいるわけじゃないが(だって美貴に会いたいし)
それでも大切な友人で、色々な話をしていて、だから、色々と知っている。
知っているから、後輩たちと楽しそうに遊んでいる彼女の姿を、素直に喜べない。
「あー……みきたんに会いたい」
膝に額を押し付けて、亜弥は溜息をついた。
- 305 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:38
-
- 306 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:38
- 夕食を前にした麻琴とあさ美は、感動の表情で互いの手を取り合っていた。
「あさ美ちゃんっ」
「まこっちゃんっ」
オアシスを見つけた砂漠の遭難者もかくや、という口調で、二人は声を揃えて言う。
「かぼちゃだよ!」
なんのことはない。夕食のメニューにカボチャの煮物が入っていたという、それだけの
話だった。それも別段、高級なものが使われているとか、特別な調理法で作られたもの
だとか、そんな事はない。ごく普通の、スーパーの惣菜コーナーで売っているのと同じ
ようなカボチャの煮物である。
何がそんなに嬉しいんだろうと、愛は半ば呆気にとられながら二人を見ていた。
隣にいる亜弥もきょとんとしている。
「まこっちゃん、はい、あーん」
「あーん」
あさ美が麻琴の小鉢から煮物を取り上げ、麻琴へ食べさせてやる。
「あさ美ちゃんもあーん」お返しにということなのか、今度は麻琴があさ美へ煮物を
差し出した。
- 307 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:39
- 「あーん。……おいしーっ」
「ねー。こんなとこでかぼちゃが食べれるなんて、あたしら幸せ者だよ、ホント」
愛は二人の会話を盗み聞きしながら魚を箸で突付いていた。
なんなんだろう、この子達。
可愛いんだけど。
魚を嚥下してからトレイを持って立ち上がり、丁度空いていた彼女たちの正面の席に移る。
「愛ちゃん?」置いていかれるのが嫌だったのか、亜弥が慌てた様子で追いかけてきた。
「マコト」
「はいー?」
「あーん」
手付かずだった煮物を麻琴の鼻先に突き出す。
「え?」驚きながらも麻琴はそれを口にした。本能だろうか。
三回ほど咀嚼してから、彼女は状況を飲み込んだらしい。カボチャはまだ飲み込んでいない。
「あ、へんはいのらへひゃっら」
「まこっちゃん、飲み込んでから喋りなよ」
あさ美に言われて、麻琴は素直に口の中のものを胃袋に送ってから言い直す。
「先輩の食べちゃった」
「いいよ。マコトにあげる」
「ホントですかぁ!?」
麻琴があまりにも嬉しそうな顔をするから、愛は思わず声を上げて笑った。周囲も同じ
ようにお喋りに花が咲いているから、注目されたりはしない。
- 308 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:39
- 「いやー、マコト可愛いわ。ほらほら、あーん」
「あーんっ」
もらえると判ったので麻琴は遠慮なく口を開ける。得だなあ、この子。愛は餌付けを
しながらほのぼのと笑った。
あさ美はそれを少しだけ面白くなさそうな顔で見て、それから自分の食事を始めた。
それに気付いた亜弥が眉を微かに上げる。
最初は仲良しの友達を取られて面白くないのかと思ったが、どうもその表情はそういうの
とは違うような感じだ。
――――あ。
試しに、カボチャを摘んであさ美の前へ持っていってみる。あさ美は箸を咥えたまま
それを横目で一瞥した。
「……あさ美ちゃん、あーん」
「え、いやそんな、いいんですよ別に私まこっちゃんほどカボチャ好きでもないし」
わざとらしいほどの早口で答え、あさ美が首を振る。亜弥はにひひと笑った。
「いいからいいから」
「えー、じゃあ……」
えへへ、と笑いながら亜弥が差し出したカボチャに食らいつく。その幸せそうな顔を
見て、亜弥は自分の想像が当たっていたことを知った。
友達を取られたことより、その友達がカボチャをたくさん食べられることが悔しかった
らしい。
あさ美にカボチャを差し出しながら、亜弥は隣にいる愛を盗み見る。
堪えきれずに口元が緩んでいる。多分、自分も同じような表情をしているだろう。
ヤバい、はまりそう。
揃って後輩を餌付けしながら、愛と亜弥は人知れず悶えていた。
- 309 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:40
-
- 310 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:40
- 「いやあ、運動の後のご飯は特別おいしいねえっ」
餌付けを終え、ようやく自分の分を食べ始めた麻琴が芝居がかった口調で言う。
それにうんうんと頷きながらもあさ美は食事の手を止めない。
「ご飯終わったらどうするんだっけ?」
「えと、館長さんのお話があるんじゃなかった? その後は消灯まで自由時間だっけ」
「お話かー。あたし恋愛ものがいいなあ。ハンバーガー屋さんの恋物語とか」
「……まこっちゃん、お話ってそういうのじゃないと思う」
「えー?」麻琴があからさまにがっかりした表情になる。それでも箸は止まらない。
「じゃあ、潰れかけた遊園地を立て直そうと従業員が頑張る感動ものとか」
「……ないよ」
「そしたら時代劇は?」
「ないってば」
「判った、環境問題を取り入れた学園ものだ!」
ここまで続くとツッコむのも億劫になる。あさ美は首を振るだけで食事に戻った。
- 311 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:40
- 愛は既に食事を終えて温かいお茶を啜っている。噴出すのを堪えるのが大変だった。
藤本先輩がここにいたら面白かっただろうなあとか思って、半ば条件反射で亜弥の方を
見遣った。にこにこと笑ってはいるが、いつもの覇気がない。やっぱり寂しいんだろう、
愛は慰めるように彼女の髪を撫でた。
「天文部は別行動だっけ?」
「ん? うん。屋上で星見んの」
「えー、そっちの方がいいなあ」
麻琴が話に割り込んできた。「でも、自由時間もないよ」亜弥が言うと、それはそれで
嫌らしく、麻琴は悩む様子を見せた。悩もうが悩むまいが、麻琴は天文部ではないので
館長の話を聞くしかない。
「マコト、星とか好き?」
「そうですねぇー。や、どうだろー」
「どっち」愛が苦笑しながら促す。
「いやー、今まで星とかちゃんと見た事ないから、好きかどうか判んないですねぇ。
見たら好きになるかもしんないかなあ」
とぼけた口調だが誠実な言葉だった。イメージだけで「星空は綺麗だから好きだ」と
言うより好印象な返答だ。愛は淡い笑みで頷く。
- 312 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:40
- なんだか不思議な子だ。どこかとぼけていて、見ているとほのぼのとしてしまう。
いつも気の抜けた笑顔でいるが、真剣な表情をするとなかなかに凛々しい。
ぼんやりしている割に身体を動かすのが好きなようで、外では少しもじっとしていない。
なんだか、田舎のガキ大将みたいな子だ。微笑ましい。
「……マコトはいいなあ」
「え? なにがですかぁ?」
「悩みとかなさそうで」
言ったら麻琴はきょとんとした。こっちが思いがけず重い口調になってしまったせい
だろうか。溜息をつかなかったのがせめてのもの救いか。
「あ、別に大した意味は……」
「悩みくらいありますよぉ」
心外だ、という表情で麻琴が言う。怒らせてしまったのかと愛は動揺する。
周りからどう見えていても、人というのは悩みをもつものだ。
たとえ悩みがなさそうに見えても、彼女だって何か悩み事を抱えているかもしれない。
見た目だけで判断するのはよくない。愛は自らが失言をしたことに気付く。
- 313 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:41
- 「マコト、ごめ……」
「ダイエット失敗してばっかだとか、お小遣いが増えないとか、中間テストで赤点取った
とか。あたしの人生真っ暗ですよぉー」
愛の謝罪を遮るように麻琴は言った。
真っ暗だと言う麻琴の顔は明るかった。怒っているのかいないのか、愛は判断に迷う。
「あの、ごめ」
「あさ美ちゃんともいっつも言ってるんです。太るって判ってんのに食べちゃうよねーって。
でもあたしとしてはおいしいものを我慢するってのは無理なんですよ。だっておいしい
ものって食べると幸せになるじゃないですか。おいしいものを我慢するってのは、
幸せをそんだけ逃がしてるって事なんですよ!」
麻琴はまたしても愛の謝罪を遮って力説する。ぼやぼやした口調の割にその発声速度は
速く、まるで愛に口を挟ませないようにしているようだった。
あさ美はこちらを見ながら、困った顔で首を傾げている。隣の友人が振るう熱弁に
気圧されているのか、それとも何か別の意味があるのか。
マシンガントークをぼんやりと聞きながら、愛はテーブルの下に隠した右手を、何度も
開いたり握ったりしていた。
- 314 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:41
- 謝罪をしたかったが、どうやら彼女はそれを許してくれないらしかった。
愛がしたがっていたことが、謝罪よりも懺悔に近いものだから、彼女は許してくれ
なかったのかもしれなかった。
懺悔をする事すら許さないというのは、全てを許さないという事だろうか。
それとも、全てを許しているという事だろうか。
聞きたかったが、上手い言葉が見つからなくて聞けなかった。
- 315 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:42
- 夕食後の自由時間、麻琴は割り当てられた部屋のベッドに寝転がり、持参していた漫画を
読んでいた。
一応、課外授業に必要なもの以外は持ってきてはいけないことになっているが、そんな
規則を守っている生徒なんてほとんどいない。大概が麻琴のように漫画やゲームなどを
持ち込んでいた。そういったところは修学旅行などと大差ない。
あさ美は施設に一台だけある公衆電話へ電話をかけに行っている。自費だが家族への
連絡などで電話を使う事は許可されている。しかしあさ美が電話をしに行った相手は
家族じゃないみたいだった。麻琴は詳しい事は聞いていないが、多分、親しくしている
先輩だろう。
ドアがノックされた。部屋の鍵はかけていない。あさ美にはそれを言ってあるから
彼女ではないだろう。
「はい?」教師か施設の職員だろうかと、麻琴は枕の下に漫画を隠してからベッドを下りた。
「あれ、先輩。どうしたんですか?」
ドアの前には愛が立っていて、挨拶代わりに軽く手を上げていた。
「マコト、今暇?」
「そうですねぇ、はい」
「そしたらさ、ちょっと星見に行かない? ほら、さっき言ってたじゃん、ご飯の時」
館長の話を右から左へ流している間に、一緒になって流れてしまった愛との会話を
引き戻す。そういえばそういう話をしていた。
漫画は急いで読む必要はない。麻琴は頷いて部屋を出た。
- 316 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:43
-
吹き抜けになっている多目的ホールの上部を抜け、ドアを開けるとバルコニーに出る。
蝉の声がうるさかった。それでも山が多少音を吸収しているのか、気に障るほどでもない。
風が出ていて心地良い。二人とも、ジャージは着ていなくて半袖のシャツから腕が
むき出しになっているが、それで丁度いいくらいの気温だった。バルコニーに人影はない。
灯りなんて見える範囲にはひとつもない。蝉の声も慣れてしまえば存在しないように
耳を通り過ぎていく。
「気持ちいいね」
「そうですねぇ」
手すりに両手を乗せ、愛が空を見上げた。
綺麗だなあ。麻琴は初めて会話を交わした時と同じ感想を抱く。
愛に倣って空を見た。下弦の月と果てのない星空が視界を埋める。落ちてきそうな星空
だった。
「どう?」
「え?」
「星。好きになったっぽい?」
どこか悪戯に笑う彼女は、そう言って麻琴の顔を覗きこんできた。
星空が瞳に映りこんでいるような気がしたが、角度的にはそんなことはあり得ない。
だからきっと気のせいか、何か錯覚したんだろう。何を錯覚してそんなものを見たのかは
判らない。
- 317 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:43
- 「うーん、うん。綺麗ですねぇ」
えへへぇ、と気の抜けた笑い方で答えた。愛の方を見て「綺麗だ」と言うのはなんとなく
面映い心持ちになる。麻琴は誤魔化すように空を見た。
「あ、あさ美ちゃんは? いなかったみたいだけど」
「電話かけに行ってます。なんか仲いい先輩いるみたいで」
「へー。寂しくなんない?」
「なぁんでですかあ?」
本当に意味が判らなくて首を傾げる。愛はその反応にこそ不思議がっていた。
「や……ちょっと悔しくなったりとかさ、そういうのってないの?」
「なぁんでですかあ?」
さっきと同じ返答をした。どうしてあさ美が先輩と仲良くすると、麻琴が悔しくなると
思ったんだろう。仲のいい相手は多いに越した事はない。それにその先輩と話している
時のあさ美は本当に嬉しそうで楽しそうで、それを見ている麻琴も一緒に嬉しくなったり
楽しくなったりするから、悔しがる必要なんて全くない。
愛にそう言うと、彼女はカレーだと思って食べたらハヤシライスだった時のような、
拍子抜けした顔をした。驚いたのでも不快に思ったのでもない、単純に「あれ?」と
肩透かしを食らった表情だった。
- 318 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:44
- 「あたしは、亜弥ちゃんが藤本先輩と仲良くなった時、けっこう悔しかったんだけどな」
「はあ、そうなんですかぁ」
「……なぁんか」
愛は気抜けた顔で笑った。それは麻琴がいつもしている笑顔とは少しだけ意味合いが
違っていた。麻琴のはなんとなく嬉しい気持ちが外に滲み出て浮かぶ笑みだが、彼女が今
浮かべた笑みは、なんとなく自嘲のようなものが自身に染み込んで出てきた微苦笑だった。
「マコトはいい子だね」
「そうですかぁ?」
なんだか、ここに来てから同じような台詞ばかり口にしている気がする。
知らず知らずのうちに警戒していたのかもしれない。人懐こい性格ではあるが、
誰に対しても無警戒でいるほど馬鹿でもない。
彼女が何を目的にここへ連れ出したのか判らないから、どうにかして距離を測ろうと
しているんだろうか。
「……マコト」
「はい?」
「マコト」
「はい?」
「マコト」
「えーと、なんでしょうか?」
愛は名前を呼ぶばかりで話題を出さない。これなら政治か野球の話でもしてくれる方が
まだ対処のしようがある。
- 319 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:44
- そうして麻琴が困っていると、愛は不意に腕を延ばして麻琴のシャツを掴んだ。
戸惑っているうちにシャツを掴む手は二本になり、それから引き寄せられて鎖骨の中央
あたりに額がくっついた。
「せ、先輩?」どうしていいか判らずに、麻琴は意味もなく両手を中空に彷徨わせながら
おずおずと声を掛けた。
「愛」
「へぇ?」
「愛って呼んでみて」
難しい要望だ。知り合ったばかりの先輩を名前で呼ぶというのは、高校生にとっては
とても難しい注文だった。
「えぇと、……愛先輩」
「先輩はいらない」
「うえぇ?」
彼女の額は、シャツにぴたりとくっついて離れない。麻琴の両手は彼女に触れない。
- 320 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:45
- 「じゃあ……愛、ちゃん」
名前の後に何をつけるか、一瞬悩んだ。
『さん』ではまたダメ出しをされるような気がしたし、呼び捨てなんてもっての他。
ふざけて「愛ちゅん」とか呼んでみようかと思ったが、そうやって誤魔化すと彼女を
傷つけてしまうような予感があった。
だから、愛ちゃん。適度に気安く適度に近く適度に他人行儀。いい言葉もあったものだ。
愛は「よし」と小さく呟いた。それでも麻琴から離れずにいて、手はシャツを掴んだままで、
額が押し付けられたままだった。
麻琴の両手が愛の肩に触れた。遠慮がちに撫でてから、やはり遠慮がちに腕が背中を
くるんだ。
なんとなく、彼女が泣いているような気がした。吐息が熱いわけでも、嗚咽が聞こえた
わけでも、濡れた感触が伝わったわけでもないのにそんな気がした。
そうしてしばらく愛の背中を撫でていた。彼女は何も言わずにじっとしていた。星空しか
見るもののないバルコニーには誰も来ない。みんなホールで遊んでいるか各自の部屋で
時間を過ごしているかどちらかだろう。
数分して、愛が消え入りそうな声で「ごめん」と言った。
「いいんですよぉ」何に対して謝られているのか判らないまま麻琴は流す。あまり細かい
ことは気にしないタイプだ。それを長所だと言う人もいれば短所だと言う人もいる。
麻琴本人としてはどちらでもいい。長短どちらでも自身を形成する要素であることに
変わりはない。
- 321 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:45
- 「ちゃんとね」
「おぉ?」
突然話し出したのに驚いて、思わず妙な声が出た。
愛が小刻みに肩を震わせたが、さすがにそれを泣いていると勘違いはしない。
震えが治まってから、愛は続きを話し出す。
「マコトのこと、ちゃんと呼んであげたいって思うんだ。面白いし、楽しいし、可愛いと
思ってるから。でもなんか、まだ、ちゃんと呼んであげらんなくて」
「……はあ?」
彼女の言葉の意味が判らない。呼べないもなにも、彼女はこれまで何度もマコトマコトと
こちらに呼びかけている。そういう事ではないんだろうか。
愛は繰り返し、ちゃんと呼べなくてごめんと謝ってきた。麻琴はどうしたらいいのか
判らない。いいんですよと流すには、その謝罪に込められた意味を理解できていない。
仕方がないので何も言わずに彼女の背中を撫でていた。もしかしたら、彼女はちょっと
混乱してしまっているのかもしれない。その原因は知らないが、あまり冷静ではない
ように見受けられる。だから落ち着かせるために愛の背中をやさしく撫でた。
- 322 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:46
- 「あー、あのですねぇ」
ぽふぽふと愛の背中を撫で叩きながら、麻琴が彼女の耳元に唇を寄せる。
「よくわかんないんですけど、別にちゃんと呼べなくたっていいんじゃないですかね?」
「え……?」
「だって、先輩とは今日初めて会ったんだし、そんなすぐにオトモダチにはなれないじゃ
ないですかぁ。んー、だからこう、もうちょっと時間をかけてですね、友情を深めて
いこうじゃないかと」
実のところ、一生懸命連ねた麻琴の言葉はまったくもって的外れで、何の慰めにも
なっていなかったのだが、愛はそれを否定する事も肯定する事もなく、ただ単純に
「そうだね」と相槌を打った。
額を押し付けられているから、麻琴には愛の表情は判らない。それでもその声に笑みが
含まれていたような気がしたので、なんとなく嬉しくて麻琴もへらりと笑った。
「戻りましょっかー。もうすぐ消灯だし」
腕を解かないままそう言った。「うん」愛は頷いたが離れなかった。
ちょっとドキドキする。
彼女は綺麗だから。繊細な顔立ちの割にふとこちらを振り向く時はいつもびっくりした
ような顔をしていて、麻琴は最初のうちは何をそんなに驚いているのだろうと思っていた
のだが、次第にそれは別に驚いているのではなく彼女のデフォルトなのだと察した。
びっくりしたような顔は麻琴を見つけるとくしゃりと崩れて、コミカルな笑顔に変わった。
麻琴はそれが嬉しくて、そんな彼女の表情は綺麗だと思った。
- 323 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:46
- そういう、綺麗なものに触れていると、ドキドキする。
恋でも憧憬でもなく、それは母親のアクセサリーをつけさせてもらった時の高揚に
似ていた。
なんだか背伸びをしたような、初めて不相応なものを手にした時のような、罪悪感にも
似た昂ぶりだった。
「んじゃ、戻ろっか。あさ美ちゃんも心配してるかもしんないし」
ようやく愛が掴んでいたシャツを離した。ずっと握られていたせいでその部分には
不恰好なしわが寄っていた。
「ごめん、しわになっちゃった」愛がしわの箇所を伸ばすように撫でる。
微かな焦燥を覚え、麻琴はそれを避けるように身を引いて首を振った。
「いやいやいや、大丈夫ですよぉこれくらい」
「そう?」
愛は困ったような苦笑をした。
ホールには既に誰もいなかった。消灯が近いから、みんな各自の部屋へ戻ったんだろう。
そこからより近い位置に、麻琴たちの部屋がある。そのドアの前で二人は立ち止まった。
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみー。寝坊しちゃダメだよ」
「あはー、どうですかねえ」
自慢じゃないが寝起きには自信がない。同室のあさ美も同様なので、こればっかりは
「大丈夫ですよ」と胸を張って答えることはできなかった。
- 324 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:47
- 愛と別れて部屋に入ると、あさ美は既にベッドへ潜り込んでいた。寝ているのかと思って
覗き込んだら、手帳を開いて何か書き込んでいる。隠すように覆いかぶさりながら書いて
いるので、その内容は判らない。
「あさ美ちゃん、何書いてんの?」
「ひゃあぁっ。……まこっちゃん、脅かさないでよ」
「おどかしてなんかないよぉ」
普通に話しかけただけなのに。麻琴が頬を膨らませる。
あさ美は手帳を閉じて壁際の枕元に置いた。よくよく見ると、それは手帳よりも厚くて
装丁がしっかりしていた。ハードカバーの小説みたいな外見だ。
「あ、日記?」
「……うん。中、見てないよね?」
「見てないよぉ。あさ美ちゃんの陰になってて見えなかったもん」
その言葉に、あさ美はあからさまにホッとした表情を見せた。見られて困るような内容
なんだろうか。まあ日記なんて普通は人に見せたくないか。麻琴は納得して自分のベッドへ
潜り込み、枕の下に隠しておいた漫画を取り出した。
- 325 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:47
- 「まこっちゃん、歯磨きした?」
「あ、してない」
「早くしてきた方がいいよ。消灯時間過ぎると、廊下ってちっちゃい電気しか点かないん
だって」
あさ美の忠告を受け、麻琴は再度漫画をしまってベッドを下りた。
バッグの中から旅行用の歯磨きセットを探す。ごちゃごちゃと適当に詰め込んでしまった
せいでなかなか見つからなかった。
探し当てた一式とタオルをまとめていると、あさ美が身体を起こして麻琴の胸元を
指差してきた。
「まこっちゃん、この辺しわになってるよ」
「ん?」
「ほら、お腹のとこ」
麻琴が視線を落とす。確かめるまでもなく、あさ美が言っているのは愛に掴まれた箇所の
しわだ。
「またトイレ行ってシャツで手ぇ拭いたんでしょー」
「あーうんうん、ハンカチ忘れちゃって」
事実をうまく説明する自信がなかったので、麻琴は適当に頷いた。
今までたまにそういう事があったので、あさ美は呆れ顔にはなっているが不審には思って
いないようだった。
「歯ぁ磨いてくんね」
「私、先に寝てるよ?」
「いいよー」
もぞりと掛け布へ潜るあさ美を尻目に、麻琴は洗面所へ向かった。
- 326 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:47
-
- 327 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:47
- 愛は携帯電話をいじっている。電波は入らないので、メールではないだろう。
ゲームで遊んでいるのか、保存されているメールを読み返しているのか。
ベッドにうつ伏せた姿勢でそれを眺めていた亜弥が、むくりと起き上がって言う。
「愛ちゃん」
「ん?」
「こっち来てー」
「なによ?」
携帯をたたんでバッグに戻し、手招きしている亜弥のもとへ向かう。
ベッド脇まで来た愛の腰に、亜弥がひしっと抱きつく。「うわ」愛は遠慮なく気味悪そうな
顔をした。
「一緒に寝よー」
「えぇ? やだよ」
「いいじゃーん。一人で寝んの寂しいんだよぉー」
亜弥はひしっと抱きついたまま離れない。幼なじみなので、小さい頃は一緒に眠ったりも
したが、さすがに高校生になってまでそういう事をするのは抵抗がある。
「うえぇ」不味い物を食べた時のように呻きながら、愛は甘えてくる友人を引き剥がそうと
その頭を両手で押しやった。
- 328 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:48
- 「高二にもなってそんな子供みたいなこと出来ないでしょーっ」
「出来るぅ」
「出来ないってば!」
「だってみきたんとしてるもん」
それは多分、意味が違う。愛は僅かに顔を赤らめながら、また「うえぇ」と小さく唸った。
もうちょっと羞恥心を持ってほしいものだ。いや別に、彼女は直接的なことなんて何も
言っていないんだけれど。やはりそれはトシゴロなので。
亜弥はいつまで経っても離れてくれない。愛はオロオロする。バルコニーで麻琴に触れた
時のような安堵も罪悪感も何もない。ただただ、「勘弁してくれ」という意識だけが愛の
内部を占めている。
「ちょっと亜弥ちゃん、寂しいからって藤本先輩の代わりにしないでよ」
「だってー」
ふに、と膨れて、亜弥は上目遣いに愛を見つめる。美貴ならここで負ける。何度となく
そういう光景を見てきたので愛はそう思う。
しかし、当たり前だが愛にはそんなもの通用しない。
「愛ちゃんだって、小川ちゃん代わりにしてるじゃん」
膨れっ面のまま放たれた言葉に、愛はぐ、と詰まった。
- 329 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:48
- やっぱり見透かされてたか。どこか諦念にも似た気持ち。
彼女の言うとおりだった。初めて会った時から、正確に言えば名前を知った時から、
愛は麻琴を代わりにしていた。
だから気のいい先輩のふりをして近づいて、気安く名前を呼んでいた。
その事について、愛自身なにも思わないわけじゃなかった。さっきだって、本当は
ちゃんと謝りたかった。
麻琴が何も知らないのをいい事に、勝手に代わりにして自分を慰めていたのだと、全部
説明して謝罪するつもりだった。
それなのに、麻琴は馬鹿みたいに優しくて、馬鹿みたいな勘違いをしていて、馬鹿みたいに
こっちの我がままを受け入れた。
そんな風にされたから、愛は結局、麻琴に何も言えなかった。
「だから愛ちゃんも、みきたんの代わりして」
ああ。
こんな風に、初めから素直に言っていればよかったのかもしれない。
亜弥の髪を撫で梳く。「判ったからどいてよ」諦めに溜息をついて、愛はそう言った。
- 330 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:48
- 横たわる亜弥の隣に潜り込む。なんだか背中の辺りがもぞもぞする。照れ臭いというのも、
恥ずかしいというのも違う、妙な居心地の悪さだった。
多分、愛がそこに相応しくないからだろう。代わりは結局代わりでしかなく、本来そこに
納まるべきものではないのだから。
「んー、やっぱちょっと違う」
「そりゃそうでしょ」
きゅっと抱きついてきた亜弥に呆れ顔で答え、愛はやれやれと息をついた。
「愛ちゃん、みきたんより胸あるよね」
違うってそういうことなのか。
「……怒られるよ」
「でもみきたん可愛いからいいんだもん」
それは半ば、彼女の口癖になっていた。
昔から可愛いものが好きな子だった。まるでそれが世界の絶対価値であるように、彼女は
いつでも可愛いものを探し続けていた。
それは単純であり純粋であるという事だった。
単純であるが故に愛は彼女が好きで、それと同じくらいに憎らしかった。
- 331 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:49
- 「もう寝ようよ」
亜弥と話をしたくなかった。このまま彼女の無邪気を見ていったら、何か正しくない事を
言ってしまいそうな気がした。
「うん。おやすみー」
亜弥は何も気付かないまま、気安くそう言って目を閉じる。
同じように愛も瞼を下ろした。
不意に夕食の時の麻琴を思い出して、口元が緩んだ。
- 332 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:49
-
- 333 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:49
- 二日目も三日目の昼もつつがなく終了し、残すイベントはオリエンテーリングのみと
なった。
各人ひとりずつに小型のベルを渡される。発信機が内蔵されており、GPSによって施設の
ホストマシンへ位置情報を伝える機能を持っている。ハイテクノロジな代物だった。
もしもの事があった時だけ使うようにと、教師から注意が下った。悪戯半分に鳴らして
しまう生徒がたまにいるらしい。
地図も配られたが、見てみるとほとんど一本道だった。迷いそうな場所には大人が待機
しているという話だったし、それほど真剣になる必要もないように思われた。
「いやー、ちょっとドキドキしますねえ」
順番待ちをしている麻琴が伸びをしながら言う。その顔は楽しみでしょうがないという
気持ちを抑えきれていない。
愛は何をするでもなく、スタート地点の方を向いたままぼんやりと佇んでいた。
それを横目で見遣りながら麻琴が小さく首を傾げる。あまり楽しみじゃないんだろうか。
まあ自分がはしゃぎすぎているのかもしれない。他にも面倒臭いと思っていそうな、
やる気のない顔をしている生徒はいるし、別に彼女が特別奇妙なわけでもない。
それなのに、どうしてか彼女だけが気になった。
- 334 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:49
- ほてほてと愛へ側より、軽く身を屈めて顔を覗きこむ。
しばらくぼんやりしたままだった愛は、麻琴に気付くと「うわっ」と小さく声を上げた。
「びっくりした。どしたの?」
「んー、なんか元気ないなあって」
顔を覗いたまま言うと、彼女は少しだけ居心地の悪そうな顔をして、それから眉を下げて
苦笑した。
「なんだろ。昼に遊びすぎて疲れちゃったかな」
そうなのか。麻琴はあっさり納得して顔を上げる。早寝早起き、十分な食事と運動と、
いたく健康的な生活のおかげか自分は元気一杯なのだが。
順番が迫っている。「先輩、行きましょっか」スタートを指差しながら言って、愛が頷くのを
見てからあさ美と亜弥に向かって手招きした。
麻琴が愛を呼ぶ時の呼称は、また「先輩」に戻っていた。あの時は呼べと言われたから
名前で呼んだだけで、一度そうしたからずっとそのままとするには付き合いが浅すぎた。
愛も何も言わないので、麻琴はそれでいいんだろうと思っている。
「松浦、高橋、小川、紺野ー」
「はーい」
「五分経ったらスタートして。暗いから足元気を付けてね」
名簿にチェックを入れながら教師が言う。それに頷いて、四人は手作りのゲートを
くぐった。
- 335 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:49
-
先導して歩く麻琴の手には小型のペンライトが握られている。暗闇の山中ではなんとも
心許ない光が前方を照らす。
ホウホウと夜啼き鳥が鳴いている。亜弥は怖いのか、愛の腕にしっかりとしがみ付いて
いる。最後尾のあさ美がもうひとつのライトで足元を照らしていた。
「もうダメ。マジダメ。早く行こうよー」
「亜弥ちゃんがくっついてくるから歩きにくいんだって」
背中から、そんな会話が聞こえてくる。怯える亜弥とは対照的に、愛の口調はごく普通の
それで、特に怖がっている様子はない。麻琴はちょっと残念に思う。
ハイキングコースなのか、道は土がむき出しになっているが傾斜は緩やかで歩きやすい。
一歩一歩、土を踏みしめながら歩き、ゴールの寺を目指していく。
前に出発した生徒たちの時間を見る限り、30分もあれば往復が可能なようだった。
麻琴が腕時計を一瞥する。スタートから10分くらい経過していた。そろそろ寺が見えて
くるはずだ。
- 336 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:50
- 「あ、あれじゃない?」
あさ美がライトを持ち上げて前方を指し示す。光線がその先にある影を浮き立たせる。
「おー、あれだあれだ」麻琴も古ぼけた寺の境内に段ボール箱が置かれているのに気付いた。
あの中にご褒美を兼ねたジュースが入っているのだろう。
「いこいこ」嫌なものは早く終わらせたいという事なのか、亜弥が愛の腕を離さないまま
麻琴を急かしてくる。「はぁいー」急かされるままに麻琴は足を速めた。
「ごぉるー」
境内に入り、箱から缶をひとつ取り出して高く掲げる。亜弥がその場にへたり込んだ。
それに苦笑した愛が手のひらを麻琴に向けてくる。それと自身の手のひらを叩き合わせて
麻琴は笑った。彼女も笑ってくれた。
「亜弥ちゃん、いつまでも休んでないで。戻んなきゃ」
「……そうだった……」
達成感に浸っていたんだろう。来たら戻らなければならないという事に気付いて
いなかったらしい亜弥が絶望的な顔をした。
ジュースの缶を手の中で転がしながら麻琴は空を見た。暗いせいか、バルコニーで
見た時より星がはっきりしている気がする。
左手の小指に何かが触れた。麻琴がそこへ視線を移すより先に、指先を温かいものが
包み込んだ。それはどこか遠慮しているようだった。
- 337 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:50
- 麻琴はそれをそのままにした。なんの反応もしなかった。
指先を包まれたので、握り返すことは出来ない。かといって振りほどく気もない。
だからそのまま、愛の手が触れるままにしていた。
「ここまで来るとさすがに暗いね」
「そうですねぇ。お、下の方にちっちゃく光ってんの、あれスタートしたとこですかねえ?」
「多分」愛が頷く。15分程度の距離にしては随分離れているように思える。高低差の
関係だろうか。
「こんなに暗いと、帰り道は迷っちゃうかも」
愛は少しだけ声を大きくして言った。隣にいる麻琴だけでなく、亜弥とあさ美にも
聞こえるように言ったような感じだった。
それを聞き止めた亜弥が小さく眉を上げる。愛は彼女と視線を合わせようとしなかった。
「愛ちゃん」
「帰りは来た時と逆になって行こっか。あさ美ちゃん先頭ね」
「はあ。いいですけど……」
「ちょっと、愛ちゃん」
亜弥が立ち上がり、愛の肩へ手を置く。どうしたんだろう。愛に手を取られたままの
麻琴は首を傾げた。
- 338 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:51
- 「危ないよ」
「大丈夫」
「だ……っ」
亜弥は何か言いたそうだったが、途中で口をつぐんで愛を見つめた。視線は正面から
ぶつかり合う。二人とも無言であり、残された二人も無言だった。
麻琴は愛の横顔を見ていた。綺麗だと思った。
「……もうっ」
多少苛ついたような表情で亜弥が唸り、それから所在無げに突っ立っているあさ美へ
振り返った。
「紺野ちゃん、早く行こ。も、ホントこういうの苦手なんだって」
「え? は、はあ」
頭の上に疑問符を浮かべながら、あさ美は亜弥に引き摺られるようにして来た道を
戻り始めた。亜弥は次第に足を速めていく。そんなに怖いのかなあと、亜弥が転んで
しまわないようにライトで照らしながらあさ美は思う。
「うちらも行こ」愛が麻琴の手を引っ張った。ぼんやりしていた麻琴は慌ててそれに続く。
遠いところであさ美が持っているライトの小さな光が見える。暗がりでは追いつくのは
難しそうだ。麻琴は急ぐ事なくほてほてと歩みを進めた。
- 339 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:51
- 「先輩、怖くないですかぁ?」
「ん、大丈夫」
怖いと答えられたら、掴まってもいいですよとかそんな感じのことを言おうと思って
いたが、あっさりかわされてしまった。
しかたなく「そうですかぁ」と気の抜けた応答をして前に向き直った。手の中の光線は
頼りない。自分はそれと同じくらい頼りないのかもしれない。
上手い話題もなく、二人は無言のまま山を下っていく。麻琴は退屈紛れにライトを
振り回した。影絵のスクリーンのように、光の加減で様々な形が浮き上がっては消える。
草むらに潜んでいた動物がライトに驚いて逃げ去っていく音が聞こえた。ガサッと音が
した瞬間だけ、愛は小さく身を震わせたが、怖がったのではなく単純に驚いただけの
ようだった。
「あ、先輩。キノコ生えてますよキノコ」
樹の根元に群生している茸をライトで照らす。「うん」愛は苦笑みたいに息をついてから
頷いた。
「食べれますかねえ」
「どうだろ」
「持ってきましょうかぁ」
「危ないって。コース外れちゃうよ」
草むらに入ろうとしたら、シャツを掴まれた。茸は少し奥にあって、愛の言うとおり
コースからは外れている。
麻琴は残念に思いながらも止められるままに諦めた。別に是が非でも欲しいわけでもない。
早く戻らないと心配をかけてしまうかもしれないし。
- 340 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:51
- 再度歩きだした麻琴のシャツを、愛は掴んだままでいる。やっぱり怖かったのかなと
麻琴は思っていた。頼られてちょっと嬉しい。
「マコトはさあ」
「はいー?」
「彼氏とかいる?」
「はいーっ?」
二度目の相槌は語尾が上がった。あまりにも唐突な質問ではあるが、この年頃では出ても
おかしくない話題でもある。
麻琴はライトを振り回しながら軽い笑い声を上げた。
「いませんよぉ」
「ふうん。あたしはいた」
「へえ〜。そうなんですかぁ」
彼氏自慢でも始めるつもりなのかと、麻琴はちょっと憂鬱になる。そういう話は嫌いじゃ
ないが、食べ物の話をしている時より楽しくはない。
「あれ? いた?」
「うん。今はいない」
「はあ〜。そうなんですかぁ」
愛が歩みを止めた。麻琴は振り返って彼女の顔を見る。
- 341 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:52
- 作りものみたいな顔だった。名のある芸術家の彫刻というより、伝統を受け継いだ工芸品
みたいな顔をしていた。作り手の色がない、一意ではない、それでも何かが際立っている
表情だった。
麻琴のシャツは捕まったままでいる。それは人質のようだった。この手を失いたく
なければ動くなと言われているようだった。
「先輩?」
「その人の名前ね、マコトっていったの」
以前と同じように、涙も嗚咽もないのに彼女が泣いているように思えた。
真っ直ぐに見つめてくる瞳は潤んですらいないのに、まるで赤ん坊のように大声で
泣き叫んでいるような錯覚をした。
それは彼女の懺悔の請いであり慈悲の乞いであり救済を願う声だった。
麻琴は彼女の言葉の意味を理解する。
今まで流していた、保留にしていた言葉の全てを理解する。
「そう……なんですかぁ」
理解しても口から出てくる言葉は変わらず、そこには何の意味もなかった。
「ごめん」
消え入りそうな彼女の謝罪に、「いいんですよぉ」とは言えなかった。
代わりは代わりでしかなく。
- 342 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:53
- 「……あたし、先輩のこと好きです」
二人の間に出来た距離を補うように、そう言った。
愛は驚いたように目を見開いている。いつも驚いたような顔をしているが、これはきっと
本当に驚いている。
「あ、好きっていってもそういう好きではなくて。あのー、なんですかねえ。
人として惚れてるというかですね」
誤解されたら、それはそれで困る。麻琴は慌てて言葉を追加する。
綺麗なものに変わりはなく。
「あのーですねえ。あたし結構気が長い方なんで、まあこれから友情を深めていってですね、
そんでちゃんと呼んでもらえたらそれでいいかなと」
理解しても出てくる言葉は変わらず、それは彼女に懺悔を許さない。
愛はきょとんとして、それから作りものの顔に苦笑いを浮かべた。その表情は作られた
ものじゃなかった。
「マコトって、なんでそう……」
彼女の苦笑は泣いているように見える。なんだか泣かせてばかりだなと麻琴は思う。
腕を延ばして、彼女の身体を柔らかく包み込んだ。あやすように背中を撫でたが、彼女の
手はシャツを掴まなかった。
- 343 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:53
- 「離してよ」「えー、えへへぇ」笑って誤魔化し、彼女の願いを聞き入れない。
夜啼き鳥が啼く。ライトは麻琴の手のひらに握り込まれていて用を成さない。
愛は何度も離して欲しいと願った。麻琴は何度も笑って誤魔化した。
愛の手は動かなかった。麻琴の腕も動かなかった。
麻琴は妙な幸福を感じていた。食事の後、ふかふかのベッドへ潜り込んだ時のような
心地良さだった。
彼女が綺麗だからだろう。綺麗なものというのは、本当は見るより触れる方が幸せに
なれるのだ。
芸術家の彫刻ではない彼女に触れる幸福。
「……離してくれないとベル鳴らすよ」
愛の手はポケットの中にあるベルを握っている。「いいですよ」麻琴はへらりと笑ったまま
腕を解くことなく頷く。
彼女は、綺麗だけどよく判らない。
離して欲しくなんかないくせに、どうしてそんな事を言うんだろう。
ねえ、だってほら。
- 344 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:54
- 「先輩笑ってる」
「笑ってない。怒ってるよ」
「うそだぁ」
彼女の顔から苦笑は消えている。唇は引き結ばれ、眉根を軽く寄せていた。
彼女のそんな顔は、笑っているように見える。
「ねえ先輩」
「なに?」
「いつか、あたしのことちゃんと麻琴って呼べるようになったら」
えへへぇ。麻琴が照れ臭そうに気抜けた笑いを溢す。「なによ?」愛が怪訝そうに促した。
「先輩のこと、愛ちゃんって呼んでもいいですか?」
「……な……」
愛は一瞬だけ呆れたような顔をして、それから何かを諦めたような顔になった。
麻琴は返事を待っている。その肩に愛がそっと頬を乗せて目を閉じた。
ポケットを探り、ベルのスイッチを入れる。
途端鳴り響いた耳障りなベルの音に、夜啼き鳥が暗闇の中で羽ばたいた。
- 345 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:54
-
- 346 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:54
- 「え? や、いいですよそんな」
帰りのバスに揺られながら、あさ美がようやく通じるようになった携帯電話で誰かと
話しているのを、麻琴はぼんやりと聞いている。別に盗み聞きしたいわけじゃないが、
隣にいるから自然と耳に入ってくるのだ。
「はあ……でもわざわざ来てもらわなくても…………あいえ、そういう事じゃなくて」
愛は亜弥と並んですぐ前の席に座っている。昨日こってり叱られた者同士仲良くしたいと
思うのだが、彼女は昨晩からちょっとよそよそしい。
亜弥は電波が通じているのに繋がらない携帯と格闘している。「諦めれば?」呆れたような
愛の声。いやあ、そう簡単には諦めませんよぉ。麻琴は心の中で勝手に返事をする。
「あの……じゃあ、はい。あと一時間くらいだと思うので……」
あさ美が電話を終える。亜弥はまだ格闘している。
- 347 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:54
- 「もーお! みきたん絶対電源切ってる!」
「充電忘れてんじゃないの?」
「みきたん、いっつも帰るとすぐ充電器に携帯置いてるもん」
「どっか地下のお店に入ってるのかもしれないじゃん」
「だって、市内に入ってからずっとかけてんのに繋がらないんだよ!?」
「んじゃ電源切ってるね」
「愛ちゃん!」
愛の溜息が聞こえてきた。果たして亜弥はどう言えば納得したんだろうか。
麻琴はバッグから封の開いていないお菓子を取り出し、あさ美にひとつあげてから
座席の背凭れを乗り越えて腕を延ばした。
「先輩、おひとつどうぞー」
「あ、小川ちゃんありがとー」
「……ありがと」
愛と亜弥が手を延ばす。「にゃはは、やっぱかぼちゃだー」亜弥は背凭れから退かない
麻琴に話しかけてきたが、愛の方はすぐに前へ向き直ってかぼちゃのクッキーを口へ
放り込んだ。
背凭れに顎を乗せ、鼻から息を洩らす。
まあ、この程度で諦めるくらいなから、最初から好きだとか言わないし。
- 348 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:55
- 「先輩。高橋先輩」
「なに?」
「見てくださいこれ。真ん中にかぼちゃの種が入ってるんです」
「……だから?」
「すごくないですか?」
「は?」とか、そういう事を言いたそうな顔だった。「すごいすごい」亜弥が無責任に
相槌を打つのに、愛は軽く肩を落とした。
「……マコト、危ないから席に戻りなよ」
あ、冷たい。麻琴はしょんぼりとうな垂れ、言われたとおりに席へ戻った。
まあ、気は長い方だし。ゆっくり頑張ろう。
- 349 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:55
- バスに揺られ、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
あさ美に肩を叩かれて目を覚ます。「着いたよ」言われて窓の外を見れば、なるほど
見慣れた校舎目の前にでんと建っていた。
ぞろぞろとバスを降りる列に並んで外へ出る。昼前の日差しは眩しい。
寝起きでしょぼしょぼする目を乱暴に擦りながら、麻琴は大きな欠伸をした。
「あー、こん」「みきたーん!!」
校門の辺りから届いた誰かの声に亜弥の大声が被さった。なんだろうと思って顔を上げた
先で、こっちに向かって手を振っている真希と何故か逃げ腰になっている美貴を見つける。
「あ、後藤さん」
真希が手を振っていた相手は麻琴ではなく隣にいるあさ美だ。
ゆるゆると歩いてきた真希はあさ美の前で立ち止まると、その頭に柔らかく手を置いた。
「おかえりー」
「へへ、ただいまです」
「ごとー、紺野に会えなくて寂しかったよ」
「は、はあ」
「紺野は? 寂しくなかった?」
「……あの、ちょっとだけ、寂しかったです」
「そっか」
嬉しそうに笑う真希に負けず劣らず、あさ美も嬉しそうだった。
いやいや、これはまたどうにもこうにも。お邪魔にならないようさり気なくその場を離れ、
麻琴は思わずにやけた口元を手のひらで隠す。
- 350 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:55
- 視線を左に転じれば、亜弥が思い切り美貴に抱きついていて、抱きつかれた方は忙しなく
周りを見回しながら必死にそれを押し退けていた。周囲の目が気になるんだろう。
亜弥の方は全く気にした様子がない。
「なんだもー、みきたんてばやっぱ松浦に会いたかったんじゃん」
「ちがっ、ごっちんに無理やり連れてこられて」
「照れなくていいの」
「照れてません!」
あっちはあっちでなんだか幸せそうだ。「春だねえ」夏のさなかに麻琴はそんな呟きを洩らす。
かし、と一度頭を掻いて、亜弥が行ってしまったせいで所在のなくなっている愛の隣へ
移動した。
愛は軽くこちらを見遣り、それからすぐに視線を外した。
こうもあからさまだと、返って怒る気が起きないから不思議だ。
「せーんぱい」砕けた口調で声をかけるが、愛はこっちを見ない。
「冷たいじゃないですかぁ。こないだまであんなに仲良かったのに」
「仲良くない。もうマコトの事なんかどうでもいいし」
「うそだぁ」
聞いてる方が脱力するような、空気のように抵抗のない声。視線を外したまま、愛は
不機嫌そうに眉を寄せる。
- 351 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:56
- 「ホントに、マコトのこと嫌いになったから話しかけないで」
「やですよぉ。あたしは先輩のこと好きですから」
ひょい、と愛の手を掴んだ。
ねえ、だって。
「あたしは怒んないから大丈夫ですよ」
好きだから。
それは恋でも憧憬でもなく、まして家族に対するような愛情でもない。
川原で見つけたピカピカの小石みたいな、自分にしか価値のない他の誰にも譲れない気持ち。
いつも優しく磨いていつまでもピカピカにしておきたいような、綺麗な気持ち。
「先輩が笑ってくれたら、あたしは嬉しいなあ」
愛はきゅっと唇を噛み締めた。嘘が通じているなんて、彼女自身も思っていないんだろう。
振りほどかれない手が何よりの証拠だ。
愛の眼差しが下に落ちて揺れる。諦めにも似たそれは水族館で泳ぐ魚を思わせた。
逃げる事はできないのだと、悟ってしまっている眼だった。
- 352 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:56
- わななく唇が、ゆっくりと音を作り出す。
「……マコト」
「はい」
「……マコト」
「はい」
「マコ、ト」
「はいよーっと。てやんでえ、こちとら江戸っ子よぉ!」
同じ答え方ばかりでは芸がないので、近所にある魚屋さんの真似をしながら返事をしたら、
愛は俯いたまま小さく吹き出した。
「ちょ……なにそれ」
「うちの近くにある魚屋の親父さんの真似です。似てるって評判なんですよぉ」
片手を額に当て、愛が肩を震わせる。本当は笑い上戸なのかもしれない。
「……も、マコトってなんでそう……」
ひとしきり笑って、麻琴に捕らえられたままの姿勢で、愛は軽く息をついた。
「ごめん。嫌いって嘘」
「ほらあ」
「でもやっぱり、まだちゃんと呼んであげられない」
「いいんですよぉ」
麻琴はぼんやりと笑って受け流す。
- 353 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:57
- ちゃんと呼べないとか呼べるとか、そんなのは愛個人の気持ちの問題であって、麻琴に
してみれば彼女は最初からちゃんと麻琴の名前を呼んでいる。
彼女がどう思っていようが、受け取るこちらは何の不都合もなく呼ばれていて、彼女が
その三文字を口にするというそれだけが絶対の真実で、その事にかわりはない。
だから本当は、彼女の拘りなんてどうでもいい。
それでも麻琴は、彼女に合わせてゆっくりこの問題に取り掛かることにする。
「ねえねえ先輩」
「ん?」
「先輩があたしのことちゃんと呼べるようになったら、あたしも愛ちゃんって呼んで
いいですか?」
愛が微笑う。目を細めて、眉は下がっていて、薄く開いた唇から僅かに白い歯が
覗いている。
麻琴はそれに見惚れる。彼女の笑みは、泣きそうに見えるものもコミカルなものも、
こういう素直な微笑も、全部が全部綺麗だと思った。
「いいよ」
「えへへぇ。やったっ」
無邪気な、狂信的なほどに挑戦的な笑顔に、愛は少しだけ疲れたような色を瞳に浮かべ、
それと同時に少しだけ救われたような光を瞳に宿した。
- 354 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:57
- 麻琴にはそんな事は判らない。ただ素直に単純に、読み取る事も探りを入れる事もなく、
綺麗だと、その一言だけで満足する。
いつの間にか、誰もいなくなっていた。声くらい掛けてくれればいいのにと思ったが、
あさ美は律儀に「じゃあね」と麻琴へ声をかけていた。麻琴が聞いていなかっただけの話だ。
彼女が綺麗だという厳然たる事実に頭を占領されていて、他の誰の声も耳に届いていな
かったという、そういう話だった。
「帰ろっか」愛が言って歩きだす。麻琴は靴紐を結び直すことで時間を稼ぎ、彼女との
距離が離れてから立ち上がった。
背中は遠い。真っ直ぐな髪が柔らかく揺れている。巻いたらふわふわで可愛いだろうなあ。
麻琴は彼女の後ろ姿を眺めて思う。
「………………愛ちゃん」
それはもう、本当に小さな声だった。風の悪戯でもなければ万に一つも届かないだろうと
思わせるくらいに微かな呼び声だった。
愛が振り返る。
- 355 名前:『逢いたい人の名を』 投稿日:2004/05/22(土) 10:57
- 「フライング」
白い歯をむき出しにして、まるで悪戯を仕掛けた子供のような笑顔で愛が言う。
彼女の笑顔はどれも綺麗だが、それはまた格別な感じの笑みだった。
麻琴はドキドキする。
《Call me.》
- 356 名前:円 投稿日:2004/05/22(土) 10:58
-
以上、『逢いたい人の名を』でした。
ちなみに、方言キャラは田中さんだけです。
自分自身が福井の人でも関西の人でもないので無理です(苦笑)
- 357 名前:円 投稿日:2004/05/22(土) 10:59
- レスありがとうございます。
>>287
想うだけなら自由なのですが。思いやろうとすると途端に難しくなってしまうという。
人を愛するというのはなんとも面倒臭いですね。
そういうのが書きたいから、自分はCPものを書くのかもしれません。
>>288
マイペースで頑張ります。
気持ち的には毎日更新したいくらいなんですが、いかんせん社会の荒波が。
>>289
この二人を書くと、どうしてもこういう形になってしまうわけで。
現実って強い(苦笑)
>>290
さあ、これで涙をお拭き。(そっとハンカチを差し出し)
まああの。書いてる時は自分もちょっと辛かったりしました。
>>291
「晴天なり。」シリーズは心のバイブルです。
これとかずはじめの「MIND ASASSIN」は、自分が書く全ての物語の基盤になっています。
元ネタという意識はありませんが、元ネタなのかもしれません。
>>292
ひっそりこっそり始まってました。なんせ初っ端からochiしてますし(苦笑)
夜更かしはお肌に悪いですよ(笑)
- 358 名前:円 投稿日:2004/05/22(土) 11:00
-
ではまた。
- 359 名前:つみ 投稿日:2004/05/22(土) 19:42
- ものすんごい長編ありがとうごとうございました!
今回もまたすごく情感がきれいで・・・すごすぎです・・
今回の2人はまた最高の2人ですね!
いろいろなストーリーが展開されていてとてもおもしろいっす!
次回も楽しみにしてます!誰だろうな〜?
- 360 名前:ヒトシズク 投稿日:2004/05/22(土) 20:31
- 長編なのに時間も忘れて読むふけておりましたっ!
もー・・・何か全てが綺麗ですね。。。綺麗過ぎてため息出ましたよ(笑)
標準語のあの方もいいなぁと思ったりして、やはりこのCPはほのぼのしますね♪
毎回の事ながら細かい所を探したり、感心したり。
では、次回まったりと楽しみにしております♪
- 361 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/22(土) 20:32
- 相変わらず作者様にはため息をつかされっぱなしです。
いつも楽しみにしているので頑張ってください!
- 362 名前:_ 投稿日:2004/05/22(土) 20:33
- 凄い、の一言だと。
やはり円さんの作品は安心して最後まで読めますね。
初恋のキュン、とした感じが胸に溢れてます。
次回、どのCPだろ?と楽しみにしてます。
まぁ、どのCPでも感心しちゃうんですけどね。
- 363 名前:堰。 投稿日:2004/05/23(日) 21:58
- ごめんなさい。完全降伏。無条件幸福。
スルっと、隙間を埋めるように言葉が入って来るのです。
言葉にすること。応えること。絶妙ですね。感服。
<あえて答えるとは書きませんが
夏の温度と匂いがしました。
次も楽しみにしてます。
- 364 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/05/23(日) 22:42
- 作者さんの今までの作品で一番好き。
某伝説化したあやみきより好き
- 365 名前:291 投稿日:2004/05/24(月) 05:41
- 今回も幸せな気分になれました。ありがとうございます。
晴天なり。シリーズは今でもときどき引っ張り出して読むんです。
そういえばマインドアサシンも好きでした。
通じるものもあるのかもしれないけど、
もちろんひっくるめて円さんの書いた物語が好きです。
これからも応援しています。
- 366 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/01(火) 06:42
- やっと円さんの最新の作品を見つけられた。・゚・(ノД`)・゚・。
LCを一ヶ月前に読んでめっちゃ感動して18ヶ月とか円さんの作品読み漁りました。
そこでちょっと気になったんですけど、羊で我犬。さんで書いてませんでした?
間違ってたらごめんなさい。ちょっと作風が似てたんで。
- 367 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:37
-
- 368 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:37
- これなんかどう?とケースの背に指先を押し当てると、彼女はさして興味もないように
いいんじゃない?と返してきた。
「ちょっと、なんだよそのやる気ない態度」
「だって美貴、それもう観たもん。よっちゃんさんが観たいなら借りれば?」
「違うよ、ミキティがホラーばっか選ぶから、あたしはもうちょっとバリエーションを
豊かにしようと思ってさあ」
唇を尖らせながらぶちぶち文句を言って、ひとみは手を下ろした。
二人はレンタルビデオショップのDVDコーナーを物色している。美貴の手には既に三本の
DVDがあり、美貴が選んだホラー映画二本とひとみが選んだアクション映画一本という
構成。確かにバリエーションが少ない。
「いらないの?」美貴はどこかきょとんとした表情で見上げてくる。観たくないわけでも
なかったので、ちょっとだけ悩んでからラックのDVDを抜き取った。
「こんなもん?」
「ん、十分でしょ」
DVDを手にレジへ向かう。夏休み中、しかも週末とあって、店内は混雑している。
二人は列が出来ているレジ前に並んだ。
- 369 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:37
- 父親に連れられた子供がアニメ映画コーナーで駄々をこねている。父親は仕方がないと
言いたげな表情で頷き、子供は顔を輝かせてビデオテープを取り上げる。
美貴がくしゃみをした。炎天下の屋外とは打って変わって、店内は冷房が効きすぎている。
寒がりの彼女にこの状況は厳しいらしかった。
会計を済ませ、さっさと店を後にした。途端、肌に重苦しい熱気がまとわりついてくる。
二人は足早に駅を目指した。
「暑いー。なんでこんな暑いの」
「そりゃあ夏だからね」
じりじりと皮膚が痛む。到着する頃には赤くなっていそうだった。
- 370 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:38
- 「お邪魔しまーす」
美貴の自宅へ到着し、玄関へ入った途端訪れた緩やかな冷気に思わず息をつく。
誰もいないらしく家の中は静かだった。
「上がって上がって」美貴が手招いてくるのに従ってひとみは靴を脱いだ。
亜弥に知られたら怒られるかもしれないと思いながら、美貴の後をついて彼女の自室へ
入る。まあ、さすがに妙な勘繰りなどはされないだろうが、彼女はそれ以前の次元で
やきもちを焼くから。
その亜弥はといえば、一昨日から学校の課外授業のため郊外へ赴いている。
いつも言葉の上では邪険に扱っているが、いないとなるとそれはそれで寂しいらしく、
美貴は退屈紛れなのかやけにひとみへメールを送ってきていた。
いい加減その対応が面倒臭くなって、どうせなら一緒に遊ぼうと誘ったのが昨日の晩。
諸手を上げて歓迎されたものの、実は二人とも外に出るより家の中でゆったり過ごすのが
好きだったため予定が決まらないまま一晩過ぎて、じゃあ美貴の家で映画でも観ようかと
決まったのが今日の昼前。
待ち合わせて軽く昼食を採り、レンタルビデオショップで映画を借りて、今に至る。
- 371 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:38
- 「ごっちん、何時頃に来るって?」
「7時上がりだから、8時には着くって言ってたけど」
ひとみの問いに、ジュースを注いだコップを差し出しながら美貴が答える。
今日の予定が決まってから、同じように暇を持て余しているらしい真希を誘ったら、
二つ返事でオーケィされたのだが、何故か「ついでに泊めてほしい」と頼まれた。
理由は聞いていないが美貴としては別に構わなかったので了解し、なんとなくひとみも
それに付き合うことになっていた。
借りてきたDVDを並べて、どれから観るか選びながら、ひとみは不意に思いついて呟く。
「あ、ごっちんが観たいやつ聞いとけばよかったね」
「まあでも、来るの遅いし。いいんじゃない?」
「そう? ところでさあ、課題やってる?」
「やってるわけないじゃん」
だと思った。胸中で呟き、ひとみは荷物に課題を入れなくてよかったと、自分の読みが
当たっていた事をこっそりと喜んだ。外れていた方が有益だったに決まっているのだが。
「美貴これ観たい」ひとみが持っている一本を指差して美貴が言う。これ?と指定された
DVDを持ち上げると、彼女は頷いた。
「でもあたし、これも観たいんだよなー」
「いいじゃんどうせ全部観るんだから。こっち先にしよ、こっち」
「……おーい」
ちょっとくらいこっちの意思を尊重してくれないのか。ひとみは溜息のような苦笑をして、
パッケージをくるりと裏返した。
- 372 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:38
- ちょっと前に話題になったホラー映画だ。おどろおどろしい文体のキャッチコピーと
細切れにされたシーン。あらすじを読む。どうにも興味を惹かれない。
「これねえ」軽く眉を寄せながらパッケージをためつすがめつしていると、美貴にそれを
奪われた。
美貴は慣れた様子でDVDをデッキにセットする。こっちの意見は無視ですかそうですか。
ひとみが口を尖らせ、コップの中のジュースを一気飲みした。
大体、真昼間にホラーを観ても恐さは半減だろう。もう少し日が暮れてからにすれば
いいのに。
冒頭に入っている他の映画の予告が早送りされている画面を眺めながら心持ち拗ねて
いると、隣に座り込んだ美貴が顔を覗きこんできた。
「よっちゃんさん、怒った?」
「……別に、怒ってはないけどさあ」
そんな、さっきの子供じゃあるまいし、それくらいで駄々をこねるほど狭量でもない。
「だと思った」はにかみながら言う美貴は満足そうだった。
ひとみはテーブルに頬杖をついて微苦笑を浮かべる。亜弥が彼女を選んだ理由は、今なら
判らなくもない。
- 373 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:39
- 本編がスタートした。美貴の意識は既に画面へ向いている。それに倣ってひとみも画面へ
顔を向けた。
正直、気乗りしない。
なんとなく馬鹿にされそうだから黙っているものの、実のところホラーは得意じゃない。
悟られないよう顔だけを画面の方へ向けているのだが、視線は落ち着きなくテレビの
周辺を彷徨っていた。
美貴は一心に映画を観ている。無言だし、ピクリとも動かない。
これならあたしいなくてもいいんじゃ、と思ってしまうのも無理のない話だった。
ベッドに寄りかかって腕組みをする。首は回さずに視線だけを部屋の中に走らせる。
子犬の写真が上部半分を占めているカレンダーが目に留まった。その中に、赤ペンで
丸印が付けられている日付があるのに気付く。
印はひとつだけだ。日付を赤い線が囲んでいるだけで、コメントも何もない。
なんだろうと思った。美貴の誕生日ではないし、亜弥の誕生日は確かもう過ぎた。
家族の誕生日とか、何か記念日の類だろうか。それならそういうコメントを下に書いて
いてもよさそうなものだが。
「あれ、美貴が書いたんじゃないからね」
不意に隣の彼女が呟く。
- 374 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:39
- 「なんだ、映画観てたんじゃないの?」
「よっちゃんさんがキョロキョロするから気になんの」
「えーと、ごめん」
美貴は両腕で膝を抱え、テレビ画面を注視している。いじけている、というのはちょっと
違うが、雰囲気としては近い。
その様子に首を傾げながら、ひとみはカレンダーを指差した。
「あれってなに?」
「なんでもいいじゃん」
「いいけど、ちょっと気になったから」
「なんでもないよ。ただの落書き」
ストーリー判んなくなっちゃうから話しかけないで。最後にそう言って、美貴はまた
映画に集中し始める。
ひとみはその言葉に呆れた。最初に話しかけてきたのは美貴の方だ。
それでも何も言わずに、彼女の言うとおり口を閉じた。そんな風に溜め込んでしまうのは
いい傾向じゃないと真希に言われた事があるが、こういうのは変えようと思っても簡単に
変えられるものじゃない。
映画が中盤に差し掛かる辺りまで二人とも無言でいた。
途中二度ほどひとみがトイレに立ち、窓から差し込む陽光に目を細めて「…なんでこんな
いい天気の日にホラー映画なんて観てんだろ」と寂しく呟いてみたりした。
- 375 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:39
- 戻っても美貴は微動だにしていない。ひとみも驚かしたりする事なく隣に腰を下ろす。
「よっちゃんさん、こういうの苦手?」
視線は画面に固定したまま話しかけてきた。映画を観終わるまで会話をすることは
ないだろうと思っていたひとみは、丁度流れた派手な音楽と相まって僅かに身を震わせた。
「あ、ああ。苦手じゃないけど……あんま、得意でもないかな」
「おんなじじゃん」
美貴が小さく笑った。
物語は佳境を迎える。恐怖を扇情する音楽と死角の多いカメラワーク。
今にも画面の隅から何かが出てきそうだ。ひとみは目を逸らす。
「ごめんね、付き合わせて」
「や、別に。たまにはこういうのもいいよ」
「辻ちゃんといる方がいいんじゃないの?」
ひとみの唇が微かに上がる。
なんなのかな、彼女は。
映画に集中したいのか構ってほしいのか、どっちなのかな。
- 376 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:40
- 汗をかいているコップを持ち上げ、ゆっくりと中身を喉に流し込む。置いている間に
氷が融けて薄まってしまったそれは、口に妙な後味の悪さを残した。
「ののは今日、陸上の練習行ってるし。ミキティといるのも楽しいからいいよ」
「ふぅん」
美貴はちらりとこっちを一瞥して、膝を抱えていた腕を解き、ちょっとだけひとみに
にじり寄った。初めから隣にいたから、それだけで二人の間は紙一枚挟んだくらいの
隙間しかなくなる。
「なに、恐いの?」
「ちっがうよ」
その台詞はあまりに見当外れだったから、美貴は困ったように笑って首を振った。
もう終盤だ。ひとみにはもうストーリーが全く判らない。女の人が何かピンチに陥って
いるようだった。恐怖に引きつるアップが画面に映っている。美貴はそれをじっと見て
いる。
「……よっちゃんさんといると安心する」
「そう?」
「うん」
「まあ、あややはちょっと元気ありすぎだからね」
「そういう事じゃないよ」
もう一度、美貴は苦笑をした。
- 377 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:40
- ふと、こんな風に呼ばれるようになったのはいつからだっけと思った。
別に何かきっかけがあったわけでもないように思う。希美が最近、ひとみのことを
「よっちゃん」と呼んでいて、何故か美貴はそれに「さん」を加えて呼ぶようになったのだ。
彼女にとって、よっちゃんまでが名称で、さんは敬称なのだろうか。
それも微妙だなあ。ひとみは天井を見上げて溜息をついた。
抱えた膝に顎を乗せ、画面を見つめながら美貴が呟いた。
「……亜弥ちゃんと会ってなかったら、美貴はよっちゃんさんのこと好きになってたかも
しれない」
天井を見ていた目を美貴に移す。彼女の視線はひとみに向かない。
どういうわけか笑いがこみ上げてきた。喜んでいるのも確かだが、それよりもそういう
事を口にしてしまう彼女の強さに感情を揺さぶられた。
「そうだね。あたしもののがいなかったらミキティを好きになってたと思うよ」
へへ。美貴が笑う。ひとみも笑った。
「先に会わなくてよかったね」
「うん。危ないとこだった」
腕を組み、わざとしかつめらしい顔をして頷いた。
- 378 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:41
- 真希の紹介で美貴と知り合ったのは、高校二年の春だった。
「気に入ると思うよ」と、悪戯に笑いながら真希は言っていたが、実際はそうならなかった。
気に入るなんてレベルじゃなかったのだ、二人とも。
初めて会った時、お互いに気付いてしまっていた。
彼女は自分と同じだ。
磁石の対極が引かれ合うのとは違っていた。同一極は整列しようとする性質を持つ。
そちらの方が近かった。
相手の全貌を見れないまま、声だけが聞こえる位置で、決して触れることなく、それでも
必要以上に離れることを望まない。
亜弥や希美とは違う意味で、お互いに運命の相手だと悟ってしまった。
「こういうのは難しいよねえ」
「いや、すげー簡単だよ」
エンドクレジットが流れる。ひとみは結局、この映画の結末が判らなかった。
あの女の人は無事に危機を脱する事が出来たのだろうか。
「すっげー……すっげー簡単だよ」
- 379 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:41
- ひとみがそっと美貴の頭を撫でる。それは慰みに似ていた。
しばらくの間、ひとみの手は彼女の髪に触れていた。視線が交差する事はなかった。
エンドクレジットも終わり、画面に「FIN」の字が浮かんだところで手を離す。
「にひひ」美貴は照れ臭そうな表情でひとみを見た。
ひとみはそれに対する反応を、軽く目を細めるだけに留めた。
「次はよっちゃんさん観たいやつにしよっか」
美貴が立ち上がり、DVDをデッキから取り出す。「もうちょっと後でいいよ」両腕をぐっと
伸ばし、腰を捻りながら言った。
「そ?」デッキの電源を落とし、テレビのチャンネルを変える。一通り回して面白そうな
ものがないと判断したのか、美貴はそのままテレビの電源も切った。
「えー、じゃあ何してんの」
「トーキングタイム」
「無理に英語使わなくていいから」
「トゥーキンターイ」
「英語っぽく発音しても意味ないから」
すっかり氷が融け、薄い色水になってしまったジュースを飲み干す。美貴は空いた二つの
コップを持ってキッチンへ向かった。
- 380 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:41
- 美貴が戻ってくるのを待つ間、ひとみはずっとカレンダーの印を見ていた。
コメントのない赤丸。美貴が書いたのではないという。
色々と憶測は出来るが、ひとみは小さく肩を竦めて考えるのをやめ、転がっていた
黒のサインペンを拾い上げてカレンダーの前に立った。
今日の日付を線で囲む。コメントはつけない。
「なにしてんの?」
戻ってきた美貴がカレンダーに増えた丸を怪訝そうに見遣る。
ひとみは歯を見せながら笑って、サインペンのキャップをはめた。
「なんでもないよ。ただの落書き」
美貴は多少面白くなさそうな顔をした。
- 381 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:42
- それからしばらくは思いつくままに話題を挙げて話をしていた。
時折ふたりの意見が合わなくて軽い議論のようにもなったが、空気が凍ったりは
しなかった。
美貴は頑として自分の考えを譲らず、最初はそれに反論していたひとみも段々面倒に
なってしまって、結局は「それでいいよ」と折れていた。
「よっちゃんさあ」
何度目かの議論にひとみが「それでいいよ」と言った後、美貴が迷うような素振りを見せて
から口を開いた。
「美貴のこと、どう思ってる?」
「へ?」
少し驚いた。彼女がそんな事を聞くとは予想していなかった。
その質問は多分、こんな状況でもなければできないだろう。
他に誰もいない、誰にも聞かれる事がないこの状況でなければ、彼女はそんな事を
聞けないはずだった。
誰かが聞いても何とも思わないかもしれないし、何かを思うかもしれない問いだった。
だからこそ聞く事が出来ずにいた問いだった。
- 382 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:42
- ひとみが微かな溜息をつく。
「ノーコメントってことで」
「うん」
そういえば、彼女と二人きりになることなんて今までなかったなと、今更ながらに
気付いた。
「じゃあミキティは、あたしのことどう思ってる?」
「……ノーコメント」
「うん」
美貴はひとみに触れている。
まずいなあ。ひとみは口の中だけで呟いた。
表に出さないまま、彼女の手を拒まずにいた。
- 383 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:42
-
- 384 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:42
- 午後7時を過ぎたばかりの頃、ひとみは自分が選んだ映画を観ていた。
別に一人でいるわけじゃないが、それとほぼ同じ状態ではあった。
彼女は、それはそれは気持ち良さそうに眠っている。枕になっている右肩がちょっと
疲れてきていた。
初めはひとみに付き合って観ていたものの、やはり既に一度観てしまっているから
面白さが半減したのだろうか、次第に船を漕ぎ出して、30分も経つ頃には頭が完全に
ひとみの肩へ乗っていた。
無理に起こすのもなんなので、ひとみは仕方なく美貴をそのままにして映画鑑賞を続けた。
全然ふたりで映画観てないじゃん。胸中で呟き、視軸をテレビ画面に固定したまま
首を斜めにして彼女の頭へ頬を乗せた。
その微かな衝撃で沈んでいた意識が多少上昇したのか、美貴は子犬の欠伸くらい小さな
呻き声を上げて身を捩った。起こしてしまったかとひとみは慌てて身体を固める。
美貴の手が何かを探すように彷徨う。なんだろうと訝しみながら、何気なくその手に
自身の指先を触れさせると、彼女は安心したように微笑んで、指先をきゅっと握った。
思わず吹き出して、それから咄嗟に口を塞ぐ。
――――ああ、なんか。
彼女が彼女を選んだ理由に、納得できる。
- 385 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:43
- ひとみは身体を低くして美貴が寝やすいようにしてやった。身長差があるせいで、
ちょっと苦しそうだったから。
指先を掴まれた時の、ほんの僅かな、聞き取れるかどうかの境界にあった囁きは黙って
いることにした。言ってもどうせ彼女は認めようとしないだろう。そして結局はこっちが
「じゃあそれでいいよ」と折れる羽目になるのだから、聞かなかったふりをしておく。
それに、わざわざ自分が言うまでもない事だったし。
美貴に気を取られていたせいで映画の内容が飛んでしまった。ひとみは捕まっていない
方の手でリモコンを取り上げ、チャプタを戻した。
ぶつ切りの場面がどんどん切り替わっていく。
覚えている場面を探している途中で、携帯電話が震えた。マナーモードにしているせいで
それは振動音のみで着信を知らせている。ひとみが携帯とリモコンを持ち替える。
ディスプレイに表示されている内容は、電話の主が希美である事を告げていた。
フルネームでも名前でもなく、ひとみがいつも使うニックネームで登録されている。
何故ならひとみにとって彼女はののだからだ。
- 386 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:43
- 「もしもし?」
『あんねー、今練習終わってみんなでご飯食べに行くんだけど、よっちゃんも来る?』
唐突に用件だけを告げられる。まあ、いきなり時候の挨拶をされても気持ちが悪いし、
彼女はいつもこんな感じなのでひとみはそれに触れない。
その用件について、さてどうしようかとしばし悩んだ。
大抵の場合においてひとみはこういった誘いを断らない。だからこそ、希美もこうして
わざわざ電話をかけてきているのだ。
映画を一時停止したいのだが、今の状態では難しかった。
『なんか用事とかある?』
「あー、今ちょっと……」
携帯を構え直し、僅かに目を伏せて苦笑する。
「――――手が離せなくて」
その苦笑は自嘲に似ていた。
- 387 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:44
- 『そっか、んじゃいいや。そんだけーまた今度遊ぼうねー』
「うん。また今度ね」
電源ボタンを押してから、ひとみは深々と溜息をついた。
どうかしているのかもしれない。これから真希も来るんだし、事情を説明して詫びの
一つでも入れて希美のもとへ向かったっていいはずなのに。
ひょっとして、美貴の精神状態にシンクロしてしまったのだろうか。自分が人との距離を
測りながら時間を過ごすタイプだという自覚はあるが、だからといって自分を持ってない
わけでもない。
「……まあ、今日は特別かな」
どうかしている彼女と同化してしまったから、仕方ない。
指先だけでは足りなかったのか、いつの間にやらひとみの手はしっかりと彼女のそれに
組み込まれていた。おいおい、カップル繋ぎじゃんこれ。ひとみは困り顔でその様子を
見遣る。
ああ、まずいなあ。目を閉じ、細長く息を吐く。
彼女はあまりにも無防備すぎる。ひとみがそう出来る相手だからなのだろうが、それに
ついては結構嬉しいのだが、しかしこの無防備さはあまりにも……あんまりだ。
- 388 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:44
- 欲張りなのかもしれない。彼女か自分か……もしかしたら、二人とも。
そっと捕まっている手を持ち上げる。彼女の手も一緒になって上がってくる。
引き寄せて、静かに唇を当ててみた。
「セクハラすんなー」
「あれ、起きてたの?」
不意に笑声混じりのツッコミを入れられて、ひとみはきょとんとした目を彼女に向けた。
美貴は目を閉じたまま笑っている。組み込んでいた手をほどき、身体を起こして額を
ひとみの肩に置いた。
「辻ちゃんと電話してる辺りでちょっと目ぇ覚めた」
「ごめん、一応声ちっちゃくしてたんだけど」
「んー、別にいいよ。こっちもごめん、寝ちゃって」
額を押し付けたまま、美貴は「あー」と小さく唸った。
「さっき、ちょっとキた」
「うはは。うそつけよー」
「うそだけどさー」
「え、うそなの?」
「うそだよ。当たり前じゃん」
うそだけどもうしないでよ。美貴は拗ねたように言ってひとみの膝を叩く。
彼女が怒るのも無理はない。誰だって不可侵でいてほしい領域はあるものだ。
それが、入り込まれたら状況が悪くなると、お互いに判っているなら尚更。
- 389 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:45
- 恋心が芽生えたりする事はないだろうと、二人とも判っていた。
それでも、今以上に愛情を持ってしまうかもしれないとも思っていたから、過度に触れる
ことはしない方がよかった。美貴もひとみもスキンシップが好きなタイプなので、校内で
顔を合わせれば軽いハグくらいのことは平気でしているが、そういうのとは違う。
触れることの意味を、違えてしまってはいけないのだ。
「ごめん、今のはよしざーが悪かったね」
頭を撫でながら、宥めるように囁きを落とした。
「美貴はよっちゃんさんといると安心すんの」
「さっきも聞いたよ」
「だからそういうこと、してほしくない」
「判ってるよ。謝ってんじゃん」
膝に乗った美貴の手をぽふぽふと叩く。
壁に掛けられたカレンダーへ視線を移した。赤い丸印が目のように見えた。
そんな睨まないでよ。ひとみは苦笑する。
「ま、あたしも結構可愛いもの好きだって事ですよ」
「やめてよ。そういうのは一人で十分だって」
「うん」
映画はいつの間にか終わっていた。
- 390 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:45
-
- 391 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:45
- 真希は両手にコンビニ袋をぶら下げてやって来た。中身はお菓子やらジュースやらで、
夕飯を食べていない二人は喜び勇んで物色し始める。
「あ、これ新しいやつ?」
「みたい。今日入ったばっかだから」
じゃあこれからと、ひとみが袋菓子の口を開ける。
大きく広げてテーブルに置き、三人は一斉にそれを口の中へ入れた。
「……ごめん、あたしダメだわ」
「えー、アリだよ超アリ」
「ごとー的にはビミョー。んー、アリっていえばアリかなあ」
口々に観想を言いつつ、ジュースへ手を延ばしたり食べ続けたりする。
どうにも口に合わなかったひとみは別の袋を取り出してそっちに移った。
美貴とは、こういう嗜好や志向に関してはあまり共通しない。
何はなくとも焼肉大好きな彼女に比べ、こっちは肉類が食べられるようになったのは
ここ数年の話だ。考え方も方向性が同じものよりそうじゃないものの方が多い。
そのくせ、本質に近づけば近づくほど類似する部分は多くなり、あげく最も重要な部分が
同一ときている。
だから、難しいようだがとても簡単だった。思うことも想うことも、思考も施行もせず、
ただ感応するだけで完了する同調。
- 392 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:46
- 選択肢がないというのは、簡単だが逆に面倒臭い。
「ごっちんさー、なんで今日泊まんの?」
「え、ダメ?」
プレッツェルを咥えた真希が、ちょいと首を傾げた。「ダメってんじゃないけど」美貴は
頬杖をついた手の人差し指で自身の側頭部を叩きながら、真希を見つめる双眸を細めた。
ひとみは先ほどまともに観れなかった映画を再度観始めた。ベッドへ曲げた腕を乗せ、
それを枕の代わりにして流れる映像を眺める。二人の会話が聞くともなしに聞こえてきた。
「今ちょっと暇だからさー、美貴ちゃんたちといたら楽しいかと思って」
「ふぅん?」
「それに、美貴ちゃんもまっつーいなくて寂しいだろうから、ごとーが慰めてあげよっか
なーってね」
「はあ? 寂しがってないし全然平気だし清々してるしっ」
一息で言い切った美貴に、ひとみがくつくつと喉で笑った。なんでこう素直じゃないかな。
ひとみは彼女のそんなところだけは判らない。
「はいはーい」真希も呆れたように笑いながら流していた。美貴はむすっとしながら
プレッツェルを口に入れた。
- 393 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:46
- ひとみが立ち上がり、ペン立てから青のマーカーを取り出し、カレンダーの前に立った。
キュキュッとペンを走らせ、黒い丸がついている今日の日付を更に青で囲む。
ついでにその周りへ山の形にペンを動かし、小学校の先生がよくつけるような花丸にした。
「よしこ、なにしてんの?」
「んー、落書き」
「ごとーもやる」
「ダメ」
「なんでさ?」真希は不満そうに唇を尖らせた。「なんでも」カレンダーに咲いた花を眺めて
答えた。
黒と青の花はやはり、赤丸より目立たない。
まあそれでもいいかと思って、ひとみは元の場所へ戻った。
「てゆーかそれ美貴のだし」
「気にすんなー」
ひとみが悪戯く笑った。
- 394 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:46
-
日付が変わるくらいまで、映画を観たりゲームをしたりで時間をすごし、最初にバイトで
疲れていた真希が夢の世界へ旅立って、残された二人もいつの間にかベッドと客用布団に
潜り込んでいた。
夢を見ている時、腹部に鈍い衝撃を受けて目を覚ました。
「……げほ」軽く咳き込み、今だ身体にかかっている重みを確かめるために首を持ち上げる。
ひとみの身体を横断しているのは真希の足だった。意識のない人間の身体は重い。
それは一部であっても変わらない。
「……ごっちん、寝相わりーよ」愚痴を吐きながら腹に乗っかっている足を押し退け、
もう一度眠ろうと真希に背中を向けて布団へ潜った。
「――――てっ」
今度は拳が後頭部にクリーンヒットした。
わざとやってるんじゃないだろうかと、起き上がって真希の顔を覗きこんだが、彼女は
確かにぐっすり眠っている。試しに脇腹の辺りをくすぐってみたりしたが無反応だった。
- 395 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:46
- 溜息をつき、ちょっと離れたところで寝ようかと思っていると、背後で何かが動く気配を
感じた。
「よっちゃんさん、なにやってんの?」
「あー……ごっちんとちょっと異種格闘技戦をね」
「あはは、何それ?」
問うたものの、美貴は大の字になって眠っている真希を見て状況を察したらしい。
携帯電話のバックライトをつけて時間を確認した。もう朝まで何時間もない。
ひとみは真希の前で胡坐をかき、布団と斜めに交差して眠っている彼女をじっと見つめて
いた。
と、おもむろに真希の足を持ち上げて揃え始める。身体の向きを真っ直ぐにして、
それから広がっている両腕を胸に置かせた。
腹部に申し訳程度に掛かっていたタオルケットでグルグル巻きにする。真希はミイラか
羽を畳んだコウモリのような格好になった。
「……これでどうだ」
ひとみの努力も虚しく、真希は暑くなったのかすぐにタオルケットを跳ね飛ばして
手足を広げてしまった。
駄目か。ひとみはがっくりと肩を落とした。
- 396 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:47
- 「あはは、もう無理なんじゃないの?」
「なんだよー、あたしに徹夜しろっての?」
「なんならこっち来る?」
「へ?」
振り向くと、美貴が掛け布をめくり上げてポンポンとシーツを叩いていた。
確かにベッドの位置は真希の攻撃が及ばない程度に離れていて、高さもあるので安心だ。
じゃあ遠慮なく、とひとみは彼女の隣へ潜り込んだ。
「うあぁ、狭い」
「自分で呼んどいてそういうこと言うなよー」
「よっちゃんさんがでかいのが悪いんだよ」
そんな事を言われても、急に小さくなったりは出来ない。ひとみは天井を向いたまま
溜息をついて、ベッドの端に寄った。
「いや、そんな端っこじゃ落ちちゃうじゃん」
「……どうしろっての?」
「美貴だって判んないよそんなの」
「なんだよそれ」
仕方なく、また少しだけ美貴の方へ身体を寄せ、落ちかかった前髪をかき上げて天井を
見つめた。天井には木目模様が水の流れのように浮き上がっている。ひとみは頭の中で
大海原へ航海に出た。ところどころ渦を巻いていて流れが激しくなっている。
面舵いっぱい、よーそろー。意味が判らない、よく聞く台詞を航海士が叫ぶ。
- 397 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:47
- 船は懸命に嵐を乗り越える。時折、大きな波が甲板にまで乗り込んでくる。ずぶ濡れの
船員が必死に海水を汲み出している。負けんな。ひとみは天井いっぱいに広がる海と
闘う船へエールを送った。
次第に波は穏やかに変わり、船足も順調になった。頑張れもうちょっとだ。知らず知らず
拳を握り締めていた。
マストの上の見張り台で双眼鏡を覗いていた船員が目的地を発見した。甲板の船員も、
舵を操る航海士も歓声を上げている。
やがて船は海に浮かぶ瘤のような島へと到達した。この島は宝の島なのだ。
島のどこかに、昔の大海賊が遺した財宝が眠っていて、彼らはそれを求めて危険な旅に
出たのだった。
船を海岸につけ、ひとみは島に降り立つ。人の気配の全くない、静かな島だった。
部下を引き連れて財宝の捜索に向かう。鬱蒼と木々が生い茂る森の中は危険がいっぱいだ。
襲い来る怪物を退け、傷ついた部下を庇いながら森の中を進んでいく。
森の奥深く、ポッカリと口を開けた洞窟の入り口で光る物を見つけた。
金色の鎖と同じ色のコインでできたペンダントだった。ひとみはどういうわけかそれを
いたく気に入ったので、自分の首に下げて服の中へ大事にしまった。
- 398 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:48
- 洞窟の中は暗く、手にした松明の灯りだけが頼りだった。部下は疲弊していたが、
ひとみはどれだけ歩いても、それほど疲れを覚えなかった。時々、首のペンダントを
指先で軽く撫でると不思議と元気が出た。何か特別な力を持ったものなのかもしれない。
右手に銃を携え、左手の指先はペンダントを撫でながら、ひとみはゆっくりと慎重に
洞窟を進んでいく。
扉が見えた。あそこに財宝があるに違いない。ひとみは喜びに右手の銃を撃ち鳴らした。
パンパンと軽い音が洞窟の中に響いて鼓膜を叩く。
喜び勇んで扉を開けると、ひとりの少女が部屋の中央に置かれた椅子に座って待っていた。
「やっ」フレンドリィに片手を上げてきた少女に、ひとみは虚をつかれて銃を下げた。
「ミキティ、なにやってんのこんなとこで」
「んー、囚われのお姫さまってことで」
「そんなくつろいでる囚われのお姫様がいるかよ」
「じゃあ実は大海賊の子孫とか」
「ありがちじゃん」
「あーもう、なんでもいいよ。とにかく美貴はここにいるわけ。オーケイ?」
「……オーケイ」
美貴はよし、と満足げに頷いて、椅子に座ったまま優雅に長い脚を組んだ。
組んだ拍子に短めのスカートがめくれ上がり、綺麗な太腿が露わになる。おっと。ひとみは
無意識に首のペンダントを握り締めた。
- 399 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:48
- 椅子の背凭れ越しに、美貴が背後を指し示す。首を延ばしてそちらを見遣ると、粗末な
木でできた扉が見えた。蹴りの一発でも入れれば簡単に壊せそうな扉だった。
「この奥に宝物があるよ」
「マジ? よっし、行くぞみんな!」
「ちょっと待った」
美貴のてのひらが虚空を押し出す。出鼻をくじかれたひとみは不満そうに眉根を寄せた。
「あるんだけど、美貴はよっちゃんさんにここで帰ってほしい」
「なんでだよ? 止めるんならよしざーはやるぞ」
威嚇するように銃を持ち上げ、銃口を美貴へ向けた。指は引き金にかかっていない。
それを一瞥し、組んだ脚の膝を両手のひらで抱えて、美貴は表情を消した。
「美貴はここから動かないよ。よっちゃんさんを止める権利もないしね。
でも、美貴はあの扉を壊してほしくない」
彼女は真っ直ぐにひとみを見ている。ひとみの足元から真っ赤な蛇が這い出てきて、
鎌首をもたげてひとみを一睨みしてから、スルスルと地面を這って美貴の長い脚へ
絡みついた。彼女はそれを拒むでもなく手を延ばすでもなく、黙って好きにさせている。
- 400 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:49
- そんなに睨まないでよ。胸の中だけで密やかな溜息をついた。
ひとみが右手を下ろす。
「……判った」
「ありがとう」
服の下に隠していたペンダントを引き出す。おもちゃみたいなそれを、ひとみはどういう
わけかいたく気に入っていたので、これだけで十分だと思った。
コインを摘み上げ、片目を閉じてキスしてみせる。
美貴は喉の奥で笑った。
「じゃあ、元気で」
「うん。よっちゃんさんもね」
「また遊ぼう?」
「そうだね」
いつの間にか、部下の船員たちも見張りもいなくなっていた。「んあー」たった一人
残っていた航海士がやる気のない口調で唸った。
どこかで聞いたようなメロディが、どこからともなく流れていた。エンディングテーマに
してはちょっと軽快すぎるような気がする。
ひとみが入ってきた扉を開け、一度美貴に手を振ってからそれをくぐる。
見送ってくれている美貴は手を振り返してはこなかったが、名残惜しそうに扉の隙間を
見つめていた。
それを嬉しく思いながら、ひとみは扉を閉じた。
- 401 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:50
-
パタン。
- 402 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:50
- 妙にだるい身体を無理やり持ち上げて、ひとみはガシガシと乱暴に頭を掻いた。
枕が替わったせいでよく眠れなかったのか、どうにも身体が疲れていた。けれど、気分は
清々しい。大冒険を終えた勇者のような気分だった。
隣を見遣ると美貴が電源の切れた携帯電話を握ったまま眠っていた。察するところ、
アラームをセットしておいたのだが、いざその時間になったら眠くて電源ごと切って
しまったようだ。
どこかで聞いたメロディだと思ったが、なるほど彼女の携帯の着信メロディだったか。
ぼんやりとする頭で納得した。
ひとみが美貴の手から携帯電話を抜き取ってヘッドボードへ置いた。そのままにして
落としたり壊したりしないようにという配慮である。
カーテンの隙間から差し込む暖かな光を浴びながら、ひとみは気だるそうに息をついた。
「ミキティ、朝だよー。起きろー」
ゆっさゆっさと美貴の肩を揺さぶりながら起こすと、彼女は小さく唸りながら目を開けた。
- 403 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:50
- 「んん……おはよ」
「おはよー」
「ごっちんは?」
「まだ寝てる。今から起こすよ」
ベッドから降り、布団と垂直に交わっている真希を起こそうとして、ふとひとみが手を
止める。
寝起きは悪くないらしく、既にすっかり覚醒している美貴へ振り返り、
「ミキティ、なんで制服だったの?」
「は? よっちゃんさん何寝惚けてんの?」
美貴は訝しげに眉を寄せながら応じた。
- 404 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:51
- 真希を起こしてから、美貴の母親が持ってきてくれた朝食を三人で摂って、なんとなく
緩やかに時間が流れ始めていた。
ひとみは床に寝転がって雑誌を読んでいる。男性向けのストリートファッションを扱う
それは、美貴の兄のものだという。表紙の月表示は数ヶ月前のものなので、兄から借りて
そのまま忘れてしまったとかそういう事なんだろう。
そのひとみの背中に乗っかり、肩に顎を押しつけながら美貴は同じ雑誌を眺めていた。
「あ、こういうの似合いそう」
ひとみのページをめくる手を止めさせ、美貴がシルバーリングのひとつへ人差し指を
押し当てる。それに目を合わせたひとみは僅かに首を傾げた。
「えー、ゴツすぎない?」
「大丈夫だって、絶対よっちゃんさん似合うよ」
「あ、なんだ。あたしの事か」
「誰だと思ったの?」
「あややに似合うって言ってんのかと思った」
- 405 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:51
- 頬杖をついた姿勢で雑誌のページをめくる。背中の彼女は呆れたように言った。
「そんなわけないじゃん。あーでもどうだろ、意外と似合うかも」
「だろ? いつもと違うあややにクラッと来ちゃったりさあ」
「しないから。だったらよっちゃんさんも、たまにはミニスカとか穿いてみれば?
いつもと違う姿に辻ちゃんがクラッと来るかも」
「爆笑されて終わるって」
つまらなそうな口調で言ってページをめくる。そういう部分において、彼女はなかなかに
容赦がない。そのくせ自分が新しい洋服を着てきたりした時は褒めないと怒るのである。
年頃の女の子の扱いは難しい。まあそういうところも可愛いと言えば言えなくもないので、
ひとみとしては特に不満はない。
「こっち着くのお昼くらいだっけ? 学校まで迎えに行ってもいい?」
真希は携帯電話で通話をしている。
「ごとー、今ガッコの近くの友達ん家に遊びに来てるから、すぐに行けるよ。
うん、ホントたまたまなんだけどね」
スルリと耳に入ってきた真希の言葉に、雑誌を見ていた二人は心の中で手を打った。
なるほど、そういう事か。彼女の自宅はここより学校から離れている。最近ご執心らしい
相手に気を遣わせないよう先手を打っておいたのだろう。
ごっちん、大きくなって。彼女の危なっかしい時期を知っている二人は、真希がそんな
心配りの出来るようになった事をそっと喜んだ。
- 406 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:51
- 「……あたしが行ったら、迷惑かなぁ」
やはり遠慮されたらしい。真希は耳と尻尾をしゅんと垂れている。
「――――ホント? うん、じゃあそれくらいに行くから。じゃ、学校でねー」
オーケイが出たようだ。嬉しそうに相好を崩している真希につられたのか、ひとみと
美貴の顔にも笑みが浮かんだ。
通話を終えた真希がくるりとこっちを向いてきた。
「んじゃ美貴ちゃん行こっか」
「はあ? なんで美貴まで」
「まっつーも帰ってくんだから、迎えに行ってあげなきゃダメじゃん」
「ダメじゃないから必要ないからぜっっったい行かないから!」
限りなく力を込めて放たれた美貴の台詞にも真希は動じない。「ちゃんと準備してね。
そんなボサった頭のまんまじゃダメだよー」彼女は人の良さそうな笑みで言った。
- 407 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:52
- ひとみの背中で美貴が脱力する。耳元で小さな唸り声が聞こえた。
「……よっちゃんさーん。一緒に」
「やだよーん」
「なんでぇ」
もう、印のついた特別な日は終わってしまったのだ。気紛れに順番を入れ替えた日は
終わって、今日は既に日常へ戻ってしまっている。
だから彼女を最優先にするわけにはいかない。
「行ってくればいいじゃん」
「……うー…」
愚図ってはいるが、どうせ最終的には行くのだろう。なにせ彼女は照れ屋だから。
「っさ、よしざーはそろそろ帰るよ」
「え、もう?」
「うん、ちょっと用があって」
背中を下りた美貴がつまらなそうに口をアヒルにした。それに苦笑しながら「悪いね」と
口先だけの謝罪をして、ひとみは傍らに置いていたバッグを手にする。
「んじゃバイバイ。ごっちんも」
「んー。じゃあねー」
「じゃね」
「さあさあ、美貴ちゃん準備して」
「やーだーっ」
暴れる美貴に忍び笑いを洩らしながら部屋を出た。
- 408 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:53
- 特別な日は終わってしまったから。終わらせたから。
扉は開けないまま。宝物はたったひとつで。
それでいいのだとひとみは思う。
ひとみは駅には向かわず、軽く柔軟体操をしてから走り出した。
軽快に走るひとみの首元では、金色の鎖と同じ色のコインでできたおもちゃみたいな
ペンダントが、身体の動きに合わせて跳ねている。
《I run on Sunday for the Gold coin.》
- 409 名前:『土曜日だけはキミのために』 投稿日:2004/06/12(土) 09:53
-
以上、『土曜日だけはキミのために』でした。
これまた微妙。色々と解説したいのは山々ですが、野暮いので独り寂しく悶えておきます。
野暮いで思い出した。たまに出てくる「悪戯い」という言葉は造語です。そのまま
いたずらい、と読んでください。意味は……ニュアンスで(苦笑)
- 410 名前:円 投稿日:2004/06/12(土) 09:54
- レスありがとうございます。
>>359
自己新記録です。もう二度と塗り替えたくないです(爆)
今回はこの二人でした。既に1レス目が大嘘になっています。
>>360
綺麗と言ってもらえるのは本当に嬉しいですね。追求してますから。
ほら、人は自分にないものを求めるっていいますし。
>>361
頑張りますー。更新ペース落ちててすみません。
>>362
次回、次回は……フフフ(自嘲)
ほら吹きペーターですから。
>>363
あっ、言葉遊びされた!(笑)
夏というのは一番好きな季節なんですよ。青春て感じがするじゃないですか(笑)
>>364
おお、ありがとうございます。
伝説化って……知らぬ間にそんなものが(苦笑)
>>365
幸せになってもらえたら、こっちも幸せです。
あの二作は一生手放さないんじゃないかってくらい好きなので、がっつり影響受けてます。
>>366
やや、何やら探してくださったようで。
一年前の今頃はLC書いてたなあとか懐かしくなりました。
我犬。さんという方とは別人です。
- 411 名前:円 投稿日:2004/06/12(土) 09:54
- ではまた。
- 412 名前:つみ 投稿日:2004/06/12(土) 13:22
- 作者様お疲れ様です。
あなたは天才ですかw
なんとコメントしたらよいやらで・・・
このために生きてるってかんじになってきている今日この頃・・・
次回も待ってます。
- 413 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/12(土) 23:07
- 相変わらず上手いですねー。
独特な静かな文章がとても好きです。
また田亀モノも期待してます。
- 414 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/13(日) 00:04
- いやーおもしろかった。ほんとに。
…それ以外に言葉が出てこない感じです。
- 415 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/13(日) 11:19
- お疲れ様です。
すごく良かった。この3人好きです。
これからも応援してます。
- 416 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/13(日) 16:12
- ここの娘。たちの気持ちが痛いほどわかる。
特に今回の「土曜日〜」はすごかったです。
そういう心情を書ける作者さんがすごい。
- 417 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/13(日) 19:25
- やっぱり、雰囲気がありますね。
最後のほう、元ネタあったりしませんか?児童書に
- 418 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/13(日) 21:02
- 失礼ながら日に日に、というか作品ごとに上手くなってますね
- 419 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/17(木) 12:51
- すごいですねぇ。
このペースで書いてこんなに読者を集めたのは、物心先生以来なのでは・・・。
- 420 名前:_ 投稿日:2004/06/20(日) 19:15
- 次はどのCPだろう?
田亀に逆戻り、とかなら嬉しいんだけどなー
何かもう、凄過ぎて言葉が出ないですね。
上手いより、綺麗って感じで一杯で。
まったり頑張って下さい♪
- 421 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/21(月) 02:00
- ばり好いとぉー!!
(*´Д`)ポワワワワ
- 422 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/22(火) 17:58
- 作者さん。すいません。
私、田亀のところしか読んでません・・・。ええ非国民です。
いやね、田亀書けと言ってるわけじゃないです。
こんな体にしてくれてありがとうよ、ちくしょうめ。そんだけです。
ばり好いとぉー!!
- 423 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2004/06/24(木) 11:36
- 昨日の二人ゴトでの「彼女にしたい」発言が
妙に「土曜日〜」と脳内リンクしてしまってます
現実の本人達も「自分達の共通の部分」を強く意識してるようですね
- 424 名前:円 投稿日:2004/06/26(土) 07:10
- 始めにお詫びを。
>>70で偉そうなこと言っておきながら、今回はあやみきです。
ほら吹き街道まっしぐらです。すみません。
話としてはやはり浮きまくりです。でも実は前回もテーマから外れてるし。
まあ、松浦さんお誕生日記念特別企画、みたいな感じで。
- 425 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:10
-
- 426 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:11
- 「で、何が欲しいの?」
「みきたん」
「はあ?」
などという馬鹿みたいな会話をしてから二時間。美貴は亜弥の自宅へ拉致されていた。
家の中に人気はない。半ば予想していたとはいえ、それが当たった事に思わず溜息をつく。
「うちの人は?」
「誕生日プレゼントのお返しにって、家族旅行かっこあたし抜きをご進呈しました」
「……やけにシフト入れてると思ったら」
はふ。もう一度呼気が洩れた。道理で張り切っていたはずだと思ってから、あまりにも
自信過剰すぎると自分に呆れた。実際のところ過剰ではないが、それを理解するその事が
もう自信過剰だった。
「せっかく誕生日なんだから、一緒に行けばよかったのに」
「それじゃ意味ないじゃーん。昨日ちゃんと家族でお祝いしたから、今日はみきたんと
お祝いすんの」
「……そ」
パタパタと部屋履きを鳴らしながら階段を上り、両親の寝室へ入る。美貴が小さく首を
傾げた。こんなところに何の用があるんだろう。
「んー、この辺だったと思うんだけど……お、あったあった」妙に浮かれた独り言を洩らし
ながら、亜弥は洋服ダンスの上に置かれていた、見るからに重そうなケースを引っ張り
出してきた。
「アルバム?」「当たりー」浮かれた声のまま亜弥が答え、引っ張り出したそれを小脇に
抱えて寝室を出る。その事にはちょっとばかりホッとした。さすがに、彼女の両親が毎日
眠っている場所に長時間お邪魔するのは気が引けた。ダブルベッドとかあるし。
- 427 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:11
- 亜弥の部屋に移ってから、二人並んでアルバムを眺める。赤ん坊の頃から、小学校を
上がるまでの亜弥が、一冊の中に納まっていた。
美貴はベッドに深く腰掛け、壁へ背中を預けている。猫背なせいか何か背凭れがないと
すぐに疲れてしまうのだ。亜弥もそれに付き合って壁に凭れかかっている。
「これ三歳くらいかな。すごいよねえ、マジ可愛くない?」
「サルっぽい」
「はあ?」
「……サルっぽくて可愛い」
両肩に圧し掛かるプレッシャーに負けて言い直した。いつからだろう、こんな風になって
しまったのは。美貴は遠い目をする。
遠い目をしていたら、もぞりと動く気配があって、膝と胸の辺りに柔らかい重圧が訪れた。
眼前に現れた後頭部を平手で軽く叩く。「んー」亜弥がその手を掴んで自分の腰に廻させた。
とりあえず諦めて、美貴はもう片方の手も彼女へ廻す。
美貴の膝に乗った姿勢で、亜弥はアルバムめくっていった。
「あ、愛ちゃん愛ちゃん。引越しの見送りの日かな」
「高橋ちゃんの?」
「うん。すんごい寂しくてさあ、ずっと手紙とか送ってた」
写真に印字されている日付を見るに、亜弥が小学五年の時のものだ。
愛と並んで写っているが、二人とも笑うでもなく何をしているでもなく、ただ唇をきゅっと
引き結んで、微妙な距離で並んでいる。
- 428 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:12
- 「その手紙の中に、みきたんの写真も入ってたの」
「……前に聞いた」
高橋ちゃんめ、余計な事を。そのおかげでこっちがどれだけ苦労したと。
まあでも、多少感謝みたいな事をしていないわけでもない。
亜弥がアルバムを閉じ、ケースに入っている別の一冊を手にする。
「この辺から中学ね。転校する前」
「てか、前にも見たし。てゆーか見せられたし」
「何回見ても可愛いじゃん」
「あっそ」
亜弥の肩越しに写真を眺める。写真の中の亜弥は笑っている。今より幼いが、変わる事の
ない人懐こい笑み。
「あ、また愛ちゃん」
ページを押さえながら親指で一葉を示す。こちらは二人とも嬉しそうに笑っていた。
亜弥の肩越しに写真を眺めながら、美貴がからかうように言った。
「高橋ちゃんもサルっぽいよね。サル同士で気ぃ合ったの?」
「そうそう。ってなんでやねん!」
ビシ!と裏拳でツッコミを入れてくる。ノリツッコミとはなかなか高等な技術を使う。
美貴は喉の奥で笑いながら、手を延ばしてアルバムのページをめくった。そこに、ここへ
越してきた後の亜弥がいる事は知っている。
- 429 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:12
- 亜弥が少しだけ懐かしそうな目をした。ノスタルジィというにはまだ足りないが、何かに
思いを馳せている目だった。
「転校してきた頃ね。……先輩と逢った頃」
へへ、と照れ臭そうに笑う。写真の中の亜弥も笑っている。彼女は本当に単純に笑う。
単純に普通に人懐こく浮かぶ彼女の笑みが、自分に向けられるものだけは意味が違って
いる事を美貴は知っている。
「もうそんな呼び方しないくせに」
「んひひ。ちょっとドキッとした?」
「してません」
それは丁寧に磨かれた水晶玉のように綺麗な返答だった。
亜弥が首だけを回してこちらの頬に擦り寄ってきた。甘い匂い。美貴は苦笑する。
「嘘。したでしょ、思わずやらしい事したくなっちゃったでしょ」
「なにわけ判んない事言ってんの」
ひょっとして誘ってるつもりだろうか。生憎だがそうはいかない。
- 430 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:12
- 「亜弥ちゃん、昔の方が可愛げあったよ」
「は? なにそれなにそれ」
「今の方が可愛いけど」
「ふーん。じゃあいいや」
いいのか。もう少し怒るかと思っていた。美貴は拍子抜けする。
そういえば、彼女が本気で怒っているところをあまり見た事がない。もうすぐ丸五年の
付き合いになるというのに、これは結構な驚きだ。
ちなみに「付き合い」というのはあくまで「人付き合い」の意味合いである。亜弥の方は頭に
「恋」がついていそうだったが。
それについて、美貴は多少気にしているものの、特に何かを言った事はない。丸五年の
年月がもたらした諦念だった。
亜弥は写真を指先で撫でている。
「あん時、超嬉しかったね。ちゅーとかしちゃったし」
「されたね。無理やり」
思い出すたびに美貴は鬱々とした甘い焦燥に襲われる。何せ初めてだったし。亜弥には
「初めてじゃなかった」と言い張っているが。まあ、どうせ判っているだろうから、言っても
言わなくても同じ事なのかもしれない。
それでも言わないのは、半ば意地になっているからだ。
- 431 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:13
- 「普通、顔しか知らない相手にそういう事する? マジあり得ないんだけど」
「顔しか知らなかったけどさ。大丈夫だと思ったんだもん」
「なにそれ」
アルバムに美貴の姿が増え始める。写真は時系列に並べられている。几帳面な整理の
仕方だった。
几帳面なアルバムは、美貴の表情の変化を正確に記録している。完璧に意地を張っていた
のが、「半ば」にまで和らいだのはいつからだろうか。美貴は分析をするつもりはない。
「愛ちゃんが送ってくれた写真見た時、絶対この人だって思ったんだもん」
「……わっけ判んないしぃー」
わざとらしいギャル喋りで切り抜けようとする。なんとなく照れた。
「絶対、先輩のこと好きになると思ったんですぅー」
抜け出そうとしたところへ届いた、笑声混じりの切り返し。
始まる前の予感であるそれは、よく考えてみればはた迷惑な話だった。何せこっちは
全然知らなかったんだし。
人気のない家に、亜弥の笑声だけが小さくリフレインしている。彼女は大概の場合に
おいて楽しそうだ。
懐かしさに、目を閉じる。
初めて会った時から今日まで、彼女が楽しそうにしていないところを見た事は何度か
あるが、辛そうにしているところを見たのは一度しかない。
- 432 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:13
- 「本物の藤本先輩見たら、すぐ好きになったんですぅー」
「……そういうのやめなさい」
いい加減はっきり照れた。赤くなった顔を見られないように、亜弥の首へ腕を回して
固定する。大人しくくるまれた亜弥は、視線だけを下に向けてアルバムを見ている。
美貴もそれに倣って視線を落とす。
卒業証書の入った筒を片手に、渋い顔をしている自分を見つけた。なんで目出度い卒業の
日に、こんなつまらなそうな顔をしているのか。忘れているわけではない。筒を持った
手とは逆の腕に亜弥が張り付いていて、それに対する表情なのだ。美貴は小さく笑う。
写真では二人の身体で見えない位置、背後に回されている手は、彼女と繋がっていた。
「高校生のみきたんはっけーん」
楽しそうに亜弥が言う。真新しい、パリパリと音がしそうな制服をまとった美貴と、
その隣でピースサインをしている友人。さすがに入学式にまでは来なかったから、亜弥は
その中にいない。
――――ん?
美貴の眉が中央に寄せられる。
なんでこんな写真持ってるんだろう。
- 433 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:13
- 「亜弥ちゃん、これ」
「ん? 写りいいよね。みきたん可愛いよね。本物の方が可愛いけど」
「そうじゃなくて。なんで持ってんの?」
さらっと恥ずかしくなるくらい褒められて照れながら、美貴は話の方向を戻す。
「もらった」またしてもさらっと答えられたが、それは納得するには程遠い返答だった。
「誰に?」
「ひみつー」
んひひひ。亜弥が笑う。しかし、それは何となく、いつものそれとは違う気がした。
ぐ、と腕に力を込めてみる。「やだ、みきたん積極的」「違うから」首をホールドしたまま
亜弥の顔を覗きこむと、ちょっとだけ気まずそうに視線を泳がせているのが見えた。
自慢じゃないが、自慢になんかしたくないが、自慢には全くならないが、美貴は学生時代、
その辺の男子より女の子に人気があった。
そして自分の写真が、自分のあずかり知らぬところで流通しているというのも、風の噂に
聞いた事がある。それを知ってから、美貴はそういう方面の噂話を極力耳に入れないように
していたのだ。おかげで初めて会った時、亜弥に騙された。
数学パズルのようなものだ。ある現象があり、それに伴う条件式が存在する。
条件式に外れる事無く、現象を説明するには。
「……買ったの?」
「にゃはは」
亜弥はさりげなくアルバムの時間軸を進める。しかし、美貴はそんな事で誤魔化されない。
- 434 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:14
- 「マジで!? しんっじらんない! あんた美貴がそういうのにムカついてるって
知ってるくせに!」
「…うー……」
さすがに後ろめたいのか、亜弥は微かに唸って意味もなく足をバタつかせた。
これは本当に気に入らない。美貴は怒りに任せて亜弥の首を絞める。何を考えてるんだ。
そんな、どこからか流れてきたのか判らないようなものを。他の子ならいざ知らず、
よりによって彼女が。
「うあぁ、ギブギブ」
「駄目。も、マジむかつく」
「誕生日って事で許してよ」
「関係ありません」
高速道路を走るスポーツカーのように滑らかな返答をしつつ、美貴は更に掴んだ首を
激しく揺さぶる。
「だってさあ!」
さすがに苦しくなってきたのか、亜弥が力任せに手を振り解いて振り返った。
その唇は尖り、眉は角度が急になっている。
「みきたんいないんだもん!」
「……は?」
「高等部行っちゃったから会えなくなっちゃったんだもん! 寂しかったんだもん!」
「亜弥ちゃん……」
- 435 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:14
- 美貴は困惑したように眉を顰め、亜弥のこめかみの辺りから髪の中へ手を潜り込ませる。
真正面から絡む、困惑と幻惑が混じり合った視線と、切迫と裂帛が融合した視線。
もう片方の手も添えて両手で亜弥の頭を包みこみ、美貴は囁くように言葉を落とす。
「……あんた、毎日高等部に来てたじゃん」
逃げられないよう、両手に強く力を入れる。亜弥が「えへ」とか言いながら肩を竦めた。
「そだっけ?」
「そうだよ。あんたくらいだって、入学前から先生に顔と名前覚えられてたの」
ほとほと呆れ果てて、美貴は大きな溜息をついた。
脳裏に数々の思い出が甦る。高等部では静かに過ごしたいという願いも空しく、毎日の
ようにというかまさしく毎日亜弥に追いかけられて、入学三ヵ月後にはすっかり有名人に
なってしまっていた。クラスメイトなんて面白がって亜弥を応援する始末だ。
ああ、思い出すだに胃が痛い。
亜弥は美貴の両手を外させると、その顔に人懐こい笑みを浮かべた。
「だって会いたかったんだもん」
「……あそ」
力が抜ける。彼女はいつもストレートだ。しかもこちらがギリギリ受け止められる程度の
ストレートだ。出会った頃は即座に逃げ出すくらいの勢いだったが、最近は力加減という
ものを覚えたらしい。なんて嫌な知恵のつき方だ。
- 436 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:14
- 意味もなく額を手のひらで擦り、なんとか平静を取り戻そうとする。
「みきたん全然構ってくんないし。約束守ってくれたのだって、結局あたしが高等部あが」
「わー!」
更に強烈なのが来た。慌てて亜弥の口を両手で塞ぐ。いきなり何を言い出すかなこの子は。
「そそ、そういう事言うんじゃありません!」
「だってホントだしぃー。また会えたらって言ったのに、何回会ってもしてくんなかった
しぃー。針千本飲ませなかったこと、感謝してよ」
「あのねえ!」
これはさすがに、綺麗な切り返しは出来ない。そんな余裕はない。
そもそもあんな約束、守るつもりなんて全く無かったのだ。あの時だけの関係(なんか
やらしいと思ったので、美貴は頭の中で「付き合い」に置き換えた)だと思ったからこそ、
無茶苦茶に思えた彼女の提案を呑んだだけだったのに。
「大体、中坊にそんなコト出来るわけないじゃん!」
「とか言っちゃってぇ。みきたんビビってたんじゃないのぉ?」
「はあ!?」
妙に語尾を伸ばす喋り方に腹が立つ。にひひと嫌味たらしく笑う亜弥の額をひとつ叩き、
両肩を掴んでぐっと力を込めた。
「お?」亜弥はきょんと目を丸くしたが、そのままベッドに倒れこんだ。
よかった、抵抗されたらどうしようかと思った。
- 437 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:15
- 内心の安堵など欠片も見せないよう努力しつつ、美貴は彼女の至近距離まで迫ってその
目を見つめながら囁いた。
「あんま生意気言うと、嫌いになるよ?」
「にゃはは。なんないよ」
「なに決め付けてんの」
能天気な返答に、美貴の表情が険しくなる。亜弥はその緊張した頬を両手で包み込むと、
それはそれは人懐こく目を細めた。
「あたしが泣くから」
「は?」
「みきたんがあたしのコト嫌いになったらあたしが泣くから。だからみきたんは嫌いに
なんかなんないよ。違う?」
頬に添えられていた右手が滑り降りて、美貴の胸元で止まる。
そこに、彼女の手の下に何があるか気付いて、それで彼女の言葉の意味が判って、美貴は
呆気にとられたような表情をする。
なんて自信だ。自信過剰にも程がある。彼女のそれは、こっちなんか足元にも及ばない
くらいの自信だった。
彼女の柔らかい自信に当てられて、美貴の記憶がさかのぼる。
- 438 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:15
-
夏の日の夕暮れ。世界は熱と太陽と歪むアスファルトと喧騒と雑踏で構成されていた。
エアコンはついていなかった。寒がりだがさすがに暑かった事を鮮明に覚えている。
自分でさえそうなのだから、彼女はそれ以上に暑かっただろう。世界の熱と、自らの熱で。
それでも、二人ともそこから抜け出そうとすることはなく、ただただ、熱を感じていた。
珍しく遠慮する彼女を、無理やりついていくような形で送っていった。
引き寄せる腕と、反作用で飛ばされた自身。
クラクションと悲鳴。少なくとも身体に痛みはなかった。
彼女が泣いていた。人懐こい笑みはどこにもなくて、ただボロボロと泣いていた。
嗚咽もなく、周りの声も聞こえていないような様子で、ただただ、「先輩」とそれだけを
口にしていた。他の言葉を忘れたように、その単語だけが彼女の口から洩れていた。
それは彼女の嗚咽の代わりだったのかもしれない。
その時、美貴の思考を占めていたのは「悔しいなあ」という思いだった。
もっと力があれば、弾き飛ばされる事もなくその場に留まって、彼女を受け止めてやれた
だろう。女の細腕とよく表現されるが、まさにその通りだ。
ちゃんと受け止められたら、彼女のあんな表情を見なくて済んだのに。
彼女にあんな顔をさせなくて済んだのに。
- 439 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:16
- 次に彼女と会った時、彼女は笑っていた。人懐こく笑って、「先輩」とは一度も口に
しなかった。一生分言ったからもうなくなった、と彼女は美貴の右腕を覆うギプスに
油性ペンでいたずら書きをしながら言った。
ギプスには『売約済』と書かれて、それは一月くらいで取り外された。
泣かれると辛い。確かそんな事を言ったのだと思う。その時は既に意識が朦朧としていた
から、正確な内容は判らない。ニュアンスとしてそんな感じだったように記憶している。
それ以来、彼女が楽しそうにしていないところを、見た事がない。
それ以来、彼女が泣くような行動を、取った事がない。
- 440 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:16
- 美貴の口から溜息が洩れる。呆れ果てた末の嘆息だった。
「……なんないけどね」
柔らかく亜弥の髪を撫でながら呟く。「にひひ」亜弥は嬉しそうに笑った。
「ところでみきたん」
「ん?」
「今、結構ナイスな体勢なんだけど」
「へ? わあ!」
亜弥を押し倒している状態だという事にようやく気付いた美貴が、慌てて身体を起こし、
一歩下がって距離を置く。
その慌てぶりがおかしかったのか、亜弥は横に転がっていた枕に顔を埋めながら肩を
震わせた。その枕を目掛けて美貴が手刀を落とす。「ぷはっ」押し付けられて苦しくなった
らしく、亜弥が顔を出した。
「もっと早く言ってよ!」
「やー、みきたんそういう気になってんのかと思ってさあ」
「なってません!」
フリスビーを華麗に咥えようとして空振りした犬のような返答だった。
- 441 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:16
- 「いいじゃん、今日うち誰もいないしさ」
「なにサカリのついた男子高校生みたいなこと言ってんの」
腰の辺りにまとわりついてきた亜弥の髪を乱暴にかき回しながら、呆れた口調で言う。
今日は泊まるつもりなんてない。家族にもまだ何も連絡していないし、借りていたDVDの
レンタル期限が確か今日までだから返却に行かなければ。そうそう犬を散歩に連れて行く
当番も来ている。それからそれから。
「プレゼントなんだから、あたしんとこいなきゃダメでしょ?」
頭の中で最も有効な言い訳を考えていたら、それを邪魔するように亜弥が首筋へ上ってきた。
嫌味なほど甘ったるい声で囁かれて、美貴は思わず渋い顔をする。
「だからそれがわけ判んないっつーの。亜弥ちゃん毎年それ言うじゃん、なんなの?
なんで毎年美貴がプレゼントなの? なんかこれ欲しいとかあれやってとかないわけ?」
出会ってから、今年で五回目を数える彼女の誕生日。五年間、亜弥は首尾一貫して
「プレゼントはみきたんがいい」と言い続けてきた。最初は遠慮でもしているのかと
思ったが、どうもそういうわけではないらしい。こっちが自発的に用意したプレゼントは
受け取ってもらえなかったし。あれはちょっと悲しかった。
そんな風に、人の好意を無にしてまで彼女が拘っているものは、一体なんなのか。
- 442 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:17
- 亜弥はべったりと美貴に抱きついたまま、温泉にでも浸かっているような、緩やかな
表情を浮かべた。
「物はいらないんだよね。あたしはあたしの中だけにみきたんを入れときたいの」
「……なに?」
判るような判らないような。そういう言い方をする場合、大抵は判っていないという
意味を持っている。
美貴はぽふぽふと亜弥の背中を撫で叩きつつ考えて、やはり判らなくて首を傾げた。
「思い出作りに協力してって言ったじゃん。あたしはみきたんとの思い出で一杯になって
たいわけ。一年中365日ね。あ、今年は366日か。で、みきたんと思い出作るには、そりゃ
みきたんがいないと始まんないわけじゃん? 他のものは自分だけでどうでもなるけどさ、
こればっかりはみきたんがいないと何にも出来ないからね」
だからプレゼントは美貴がいいと。ほうほうなるほど。
ようやく納得して頷いてから一瞬後、美貴の顔が火を噴いた。
どうしてこう、恥ずかしくなるようなことをさらっと言えるかな、この子は。
「……だったら、一回でいいじゃん。別に毎年もらわなくても」
「んー、ずっととか言ったら、みきたん嫌がりそうだからさー」
確かに。シミュレートしてみれば、即座に「嫌です」と答える自分の姿が目に浮かぶ。
- 443 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:17
- 「一年だけならちょっとは気楽でしょ? だから来年の話とかしないよ、
大喧嘩して縁切れてるかもしんないし。でも今年は、みきたんはあたしのだから」
じゃれつきながら甘ったるい声で語る亜弥に、美貴は「はあ」と生返事をする。他に言葉が
出てこなかったのだ。
ところでさらっとドライな事を言われた気がしなくもない。
まあ彼女の言う通り、一年くらいならなんとかなりそうな気がする。一生とか言われたら
重すぎて嫌になりそうだが、期限付きなら「まあいいか」と思える。
そういえば、初めて会った時も「まあいいか」と思ってその後ひどい目に遭ったような。
学習能力がないんだろうか。
それとも、願うのが彼女だから、だろうか。
首筋にまとわりついてきた亜弥がしなだれかかってくる。「おわっ」支えきれずにベッドへ
背中から沈んだ。亜弥は一度身体を起こすと、美貴のシャツに手をかけて、ボタンを
外し始めた。
うひゃあ。
- 444 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:17
- 「こらこらこら。何してんの」
「ん? 違うちがう」
亜弥はこちらの勘違いに苦笑いしながら、首を左右に振った。
ボタンを上から三つ目まで外して、そっと押し広げる。喉元から真っ直ぐ下がった辺り、
浮き出た鎖骨の隙間を縫うように、赤灰色の三日月が刻まれている。亜弥はそれへ静かに
唇を押し付けた。
美貴が押し退けようとしていた手を止める。目を閉じて、しばらく彼女の好きにさせて
やる。撫でるように唇が移動するのに、微かなくすぐったさを覚える。慰めるつもりで
彼女の髪へ指先を潜らせた。唇は離れない。
それすらも、二人の思い出だった。消えない三日月。美貴が側にいる限り、亜弥の中から
消えない思い出。
その刻印から、逃げる事だって出来たはずなのに。
「……もういいでしょ。くすぐったいんだって」
軽く頭を叩いてやめさせようとするのに、彼女はんーと喉で唸るだけの反応しか
示さなかった。
しょうがなく、抱きすくめるふりをして亜弥を三日月から離す。亜弥は「ちぇー」と
不満そうに言いながら、それでも抱きしめられて嬉しそうだった。側にいる時、彼女は
いつも嬉しそうだ。
照れ臭いので絶対に言いたくないが、そういう時は美貴も結構嬉しかったりする。
- 445 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:17
- 愛しちゃってるからね。しょうがないんだよ。
れいなに冗談のような口調で話したそれは、亜弥には絶対に言えない。
どうせ言わなくても判ってるし。
そういえばあの可愛らしい友人は、最近なんだかご機嫌だ。ちょくちょく美貴のバイト先へ
遊びに来るが、春先のような思いつめた表情をしている事はあまりない。
うんうん、良かったよかった。二度ほど協力してあげた甲斐があったというものだ。
田中ちゃんは素直で可愛いなあ。
「みきたん」
ほのぼのとした心境になっていたら、亜弥に頬をつねられた。
「あたたっ、何すんの!」
「今、あたし以外のこと考えてたっ」
「えぇ? 考えてない考えてない」
「うそー。絶対違うこと考えてたぁ。信じらんない、こーんな可愛い子と一緒にいてさあ、
しかも二人っきりとかでさあ。他の事とか考える? 普通」
おいおい、とちょっと呆れた。可愛いという単語だけならまだ判るが、それに含まれる
意味合いが大きすぎるような気がする。
言い訳かツッコミのひとつでもしようかと思ったが、面倒臭いので亜弥を抱き寄せて
その髪を撫でた。
- 446 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:18
- 「じゃあ、今から亜弥ちゃんのことだけ考える」
「うん」
亜弥が嬉しそうに笑う。彼女は単純で愛しい。
昔はひたすら逃げ回っていたというのに、今ではこんな風にかわす方法を覚えている。
その事実はちょっと寂しい。
ベッドの脇にアルバムが転がっている。そういえば途中までしか見てないなと思ったが、
またそれを開く気にはならなかった。亜弥の方もどうでもいいと思っているようだった
ので、美貴は黙って彼女の髪を撫でる。きっと新しい思い出を投入するのに忙しいんだろう。
壁に目をやれば、ハンガーにかけられた制服が視界に入る。
随分と几帳面に掛けられているそれは、帰ってきたらその辺に脱ぎ散らかしていた
自分とはえらい違いだ。
出会った頃、二人ともあの制服を着ていなかった。美貴の方は、半年後には着ていたけれど。
あの頃は大変だった。登校時と休み時間と放課後に必ず現れる亜弥から逃げるのに必死
だった。おかげで体力がついた上に逃げ足が速くなり、体育の成績が上がったりして
それはラッキーだった。
捕まったのはいつだったか。はっきりとは覚えていない。はっきりしていないのかも
しれない。「ここから愛情がスタートしました」なんて、明確に言えるケースの方が稀だろう。
田中ちゃんはいつからだったかな。声を出さず、口元だけで笑う。
屋上はきっと、あの二人の思い出の場所になるんだろう。自分たちにとって、プールが
そうであるように。
- 447 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:19
- 二人に出会ったのは偶然だった。美貴が高校を卒業する前に、思い出の場所を見て
回りたいという亜弥の我がままを聞いて、そのスタート地点が中等部の屋上だった。
プールから最も遠い場所を探したらそこだったのだ。だからあの日、亜弥が我がままを
言わなければれいな達には出会わなかった。
面白いなあ。たった数ヶ月前の出来事なのに、妙に懐かしかった。
五年前とオーバーラップしているんだろうか。
「あたしのこと考えてる?」
何か感じ取ったのか、亜弥が多少不機嫌そうな顔つきで見つめてきた。
「考えてる。めちゃくちゃ考えてる」
飄々とそれをかわす。信じていないようだったが、ほふ、と溜息をひとつついただけで、
それ以上特に何も言ってこなかった。
「今日、泊まってってよ」
「えー?」
「いいじゃん。思い出作ろーよー」
わざとらしく渋い顔をしてみせる。うなうなと猫のようにじゃれついてくる亜弥の吐息が
頬に触れる。「んー……」別にそうしてもいいかな、という気分にはなっていたが、正直に
言ってやると調子に乗りそうでなんとなく悔しい。
「はいって言わないとちゅーするよ」
「嫌です」
新体操の選手のように軽やかな返答をしてから、はてこの嫌ですはどの部分に対しての
言葉だろうかと自分で思った。
- 448 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:19
- 亜弥の唇が降ってきて、美貴のそれと重なる。ご丁寧に額を押さえつけながらされたので、
逃げる事が出来なかった。
本気で逃げていたのはいつまでだったか。もしかしたら、最初の一回だけだったのかも
しれない。照れ隠しに怒ってみたりはするが、別段本当に彼女を責める気があるわけでも
ない。
だって気持ちいいし。
触れるだけの緩やかなキスはすぐに終わって、美貴はとりあえず顔を渋くしておく。
「……やだっつってんのに」
「だってはいって言わなかったしー」
言ってもされていた、間違いなく。そういう子だ彼女は。
もう一度唇を奪われる。その度に別のものも奪われているんだろう。何であるか明確には
判らないが、もうちょっと曖昧で甘い何かを。
たまには流されてやってもいいかな。流されっぱなしのような気もするけど。
亜弥の髪に手を差し入れてそっと撫でる。堪えきれない笑声が重なる唇の隙間から洩れた。
「誘ってんの?」「違います」
スピードを出しすぎてコースを外れたスキーヤーのような返答だった。
亜弥の唇がそろそろと下りて、赤灰色のシルシに触れる。
誘ってんのはどっちだよとかちょっと言いたかったが、そういうのが野暮だと知らない
わけでもないので、彼女を抱きしめて上掛けの中へ潜り込んだ。
- 449 名前:『HOW TO LOVE FOREVER』 投稿日:2004/06/26(土) 07:20
- しょうがない、誕生日だし、プレゼントだし。
一年間の期限付きなら、付き合ってやってもいいかもしれない。
毎年プレゼントしていくなら、それはいつまでも期限が切れないという事で、つまりは
『ずっと』と同義になるんだろうけど。
それに気付かないほど頭の回転は鈍くないけれど。
どうせ同じ事なんだから、理由なんてどうでもいいんだろう。
「とりあえず、これから一年よろしく、ということで」
「にひひ。よろしゅー」
「…かわ……」
人懐こい笑みを浮かべる亜弥に、思わず可愛いとか口にしかけて慌てて唇を引き結んだ。
「言ってもいいのに」亜弥が笑ったまま呟いたが、調子に乗らせたくないので言わない。
その反動か、他の子にはやけに可愛いと言ってしまっているが。
「……言わなくても判ってんでしょ」
誤魔化すように囁きを落として彼女の首筋に顔を埋めた。
恋のような愛を持て余しながら、美貴は自らの諦念と付き合うことにする。
たぶん、ずっと。
《eternity Present in your hand.》
- 450 名前:円 投稿日:2004/06/26(土) 07:20
-
以上、『HOW TO LOVE FOREVER』でした。松浦さんおたおめ。
もうお気づきでしょうが、『Sanctuary』で松浦さんが藤本さんを「みきたん」と
呼んでいるのは間違いです。
あれ書いてた頃、既にこの設定あったのに……_| ̄|○
- 451 名前:円 投稿日:2004/06/26(土) 07:21
- レスありがとうございます。
>>412
では、長生きしてもらえるように更新速度を落と(殴)
コメントはしにくいと思うんですよ、自分の書くものって。
だいたい精神論ですから。
>>413
基本的に、大事件が起こるわけでもなんでもない、日常のちょっとしたいい事みたいな
ものを書きたいので、文体が静かになる傾向があります。
たた、田亀ですか。ええええとががが頑張ります(どもりすぎ)
>>414
面白い、というのは書き手にとって最大の賛辞だと受け止めるお調子者なので
非常に嬉しいです。ありがとうございます。
>>415
自分もこの三人好きです。大好きです。愛してます(痛)
むしろ書きやすい人トップ3みたいな。
>>416
伝わっている実感が得られると、小躍りしちゃうくらい喜んでしまいます。
恋愛系も好きですが、こういう微妙な関係もまた自分が書きたいものの一つです。
>>417
特定の作品はないんですが、児童文学っぽさを狙ってみたりなんだりです。
でもペンダントはその頃、桜庭一樹の「GOSICK」という本を読んでたのでその影響かと。
<まんま金貨のペンダントが出てきます。
- 452 名前:円 投稿日:2004/06/26(土) 07:22
- >>418
読んでくださってる方が、自分の文章に慣れてきているのかもしれません。
何気に書いた順番と載せる順番は一致してないので。
や、本当に上手くなってるならその方が嬉しいんですが(苦笑)
>>419
「一話完結形式」「なんかほのぼの系」「作者が返レスでボケる(爆)」と三拍子揃って
いるので、レスを付けやすいんじゃなかろうかと自分では思ってます。
でも感想もらえると素直に嬉しいので、大変ありがたいです。
>>420
たたたたたた田亀でででですか。じ、次回、次回こそはー(汗)
綺麗事とか優しさとか大好きなんです。だって綺麗なもの信じてなきゃ
汚くなっちゃうじゃないですか。<これぞ綺麗事。
>>421
ありがとうやよー(違)
頭の中ではあれが初っ端でした。
もうリアルで叫んでくれくらいの勢いで。
>>422
えーと、田亀のところだけということは……ある意味二ヶ月放置(爆)
うあぁすいません。自分で確認してちょっとビビりました。
なんでかこう、高等部のみなさんが出せ出せとうるさくてですね……_| ̄|○
>>423
元々、ラジオで二人が話してる内容から話を起こしたので(家で映画観るとか)、
一番本人たちを意識した話になってるのかもしれません。
対極にあるのは言うまでもなく田中さんと亀井さんですが(爆)
- 453 名前:円 投稿日:2004/06/26(土) 07:22
- 次回こそは! 次回こそは田亀!
……………多分。
- 454 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/26(土) 23:15
- >次回こそは! 次回こそは田亀!
承知!V( ̄^ ̄)m 期待待ち! <プレッシャー (`▽´)
- 455 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/27(日) 03:35
- うーむ・・・相変わらず、というかますます面白い。。
次回の?田亀を心待ちにしております!
ここまで中毒性を持たせる文章も珍しいと思います。
犯罪的ですらあります。
- 456 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/06/27(日) 11:24
- 久しぶりに作者さんのあやみきが読めてとてもよかったです。
前スレの話の世界観が好きだったので後日談的な感じでこの世界観がまた読めて嬉しく思いました。
是非また気が向いたらあやみきも書いて下さい
次回の田亀も期待して待っています!
- 457 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:46
-
- 458 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:47
- 中間考査の結果が存外良く、ご褒美にと買ってもらった新作ゲームを、れいなは夢中で
遊んでいる。
ようなふりをしている。
クッションを下に敷いて寝転がり、肘で上半身を支える格好でいるのだが、どうも
背中の辺りが痛くなってきた。無理もない。かれこれ2時間はぶっ通しでプレイしている。
試しに、肘の力を抜いて床に顎をつけてみた。
カーペットだから痛くはないが、それほどの間もなく苦しくなってやめた。
今度はそっと腰を捻ってみる。お、いい感じ。そのままそろそろと動き、ちょっとだけ
体勢を変えようとする。
「……んー……」
小さな唸り声が聞こえて思わず動きを止めた。まずい、体勢が中途半端だ。腹筋が痛い。
仕方なく身体の位置を元に戻す。「んん……」背骨の辺りにかかっていた重みとは別に、
脇腹をくるむように体温が触れる。
別に気にする事はない。そう、別に。
れいなはゲームを続ける。カチカチとボタンを押す音が響く。テレビのスピーカから
流れるBGMの音量はとても小さい。
- 459 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:47
- シャツ越しに、彼女の吐息が伝わってきた。
手のひらに汗が滲んで、れいなはカーペットに手をこすりつける。持ち直した
コントローラはすっかり熱を持っている。ゲーム画面では主人公が何度目かの死を迎えて
いる。彼女は生きている。そして眠っている。れいなの背中を枕代わりにして、擦り寄る
ように頬を押し付けて、両腕で淡くれいなの身体をくるんでいる。
ゲームは2時間続けられている。
れいなの視線が、ゲーム画面からカーペットへ落とされた。
なんというか、精神衛生上良くない。どうにかしてこの状態を脱け出さなければ。
本当は簡単な話なのだ。名前の通り小亀のように背中へ乗っている彼女を振り落として、
痛みを訴えている身体を起こしてしまえば問題は解決する。
それが出来ないのはつまり。
彼女があまりにも気持ちよさげに眠っているから。
「……絵里」
遠慮しがちな声音で呼びかけてみるが彼女は何の反応も示さない。こんな体勢でよくまあ
熟睡できるものだ。首が痛くなったりしないんだろうか。
「絵里、ちょお、どいて」
知らず懇願のような口調になってしまって、ちょっと悔しかった。
- 460 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:47
- 「……んー」
「起きた?」
「……寝てるー」
こいつ。
酔っ払いが「酔っていない」と言うようなものだろうか。いや、それはちょっと違うか。
れいなはコントローラを放り出し、上半身を捻って絵里の頭を叩いた。
「起きたんならどいて」
「やーん」
小さな子供がぐずっているような言い方で抗議して、絵里はますます強くしがみついて
きた。れいなは既に身体を横向きにしていたので、腹部に額を押し付けられるような
形になる。
まだ眠いから甘えたになっているのか、腰に廻された腕の力は弱まる気配がない。
これでも高校生か、とれいなは呆れたが、振り解くのも可哀想だし、体勢を変えた
おかげで多少楽になったのでそのままにさせた。
自分はクッションを枕にして、手元に転がっていた雑誌を取り上げて広げた。
こういう体勢なら小さい漫画の単行本の方がいいのだが、あいにくと手が届く場所には
そういった物がなかったのだ。薄めのファッション雑誌なのでそれほど辛くないし。
しかし勿論集中はできない。読みふける、というのは無理だった。
- 461 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:48
- 雑誌を流し読みしながら、腹部に触れる彼女の吐息と、腰に伝わる彼女の体温を意識して
いた。それはもうどうしようもなく。
今まで、彼女に触れられた事がないわけでもない。第一、もっと先にも進んでいるわけで。
逆説、進んだからこそ意識してしまうのかもしれない。相変わらず彼女との関係は曖昧な
ままで、自分の気持ちも曖昧なままで、彼女がそれをどう思っているのか判らなくて、
自分はこれからどうしたいのかも判らなくて、悪いことは悪いままで。
そのうち、彼女に呆れられてしまうかもしれない。
こんな中途半端な状態、もし自分が彼女の立場だったら嫌に違いない。
雑誌から片手を離し、絵里の頭を撫でてみた。微かな笑声が聞こえて、彼女の吐息が
熱くなる。
そういう反応が、嬉しくないといったら嘘になる。絵里が笑うと嬉しいし、悪いことも、
まあ彼女以外とはしたいと思わない。
けれど彼女はずっと友達で、一緒にいると楽しいというのも、昔からで。
悪いことも、初めてだったからちょっとテンション上がっちゃってただけだと思えない
こともなく。
れいなは溜息をつく。
ごちゃごちゃと考えて疲れてしまった。雑誌を床に置いて、下側の腕を頭の下に敷く。
- 462 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:48
- しばらくこのままでいいとも思っているし、絵里が他の誰かを見つけるのなら、それも
仕方ない事なんだろう。
「……絵里」
「んー?」
「悪いこと、しよっか?」
「しよう」でも「したい」でもなく、疑問形で言うのはずるいのだと、自分でも判っていた。
絵里は笑いを堪えるように一度強く額をれいなの腹部に押しつけて、それから腰に廻して
いた腕を解いた。
- 463 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:48
-
- 464 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:49
- 夕暮れが近くなって、絵里が帰ろうと立ち上がる。
バッグを持ち上げた途端に金具が派手な音を立てて外れた。留め方が甘かったようで、
開いた口から手帳やら筆記用具やらがこぼれ落ちる。
「なにやっとぅとよ」
呆れたように言いながら、落ちた物を拾い上げてやり、絵里に渡す。「むー」彼女は少し
不満そうだった。
ふと、拾い上げた物の中に異質な物を見つけた。
飾り気のない、白い封筒。他にも手紙の類はあるが、どれもシールが貼られていたり
表にも裏にも女の子らしい丸文字が踊っていたり、まあ友人と授業中にでもやり取りを
しているのだろうと思われるものばかりだ。
その中で、明らかにその白い封筒は異彩を放っている。
「絵里、これ……」
手紙を指先で取り上げ、尋ねようとした途中で思わず止まった。
ひっくり返した先にあった、右肩上がりの文字。直線的なそれはどこか神経質そうに
見える。書いた人の性格を映しているのかもしれない。
固まったままの指先から手紙を抜き取られた。その仕草は少しだけ乱暴で、れいなは
彼女の動揺をうすうす感じ取る。
- 465 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:49
- 飾り気の無い封筒。右肩上がりの直線的な文字。絵里の動揺。表書きの、『亀井絵里様』
という他人行儀な宛名。それらは全て、単なる友人からの手紙ではないことを示している。
だからつまり。これは。
ラブレターとかいうものではないだろうか。
「……それ、なん?」
「なんでもいいじゃん」
「いいことなか。なんね、ラブレターと? 誰にもらったとよ」
女の子の書く字じゃなかった。どこをどう取っても可愛らしさのない、力強い文字。
れいなの身体を焦燥感が走る。以前に感じたような甘みのあるものでも、重圧でもない、
それは本当に、辛いだけの。
絵里は気忙しい仕草で手紙をバッグにしまい、まるで何もなかったかのように背中を向けた。
誰にもらったのかというれいなの問いには答える気がないようだ。
「それ……どうしよぅとよ」
「どうしたっていいじゃん。れいなには関係ないもん」
「関係……」
なくない、と言おうとして躊躇する。
- 466 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:49
- 関係なくはない。それは確かだ。
絵里はれいなのことが好きで、お互いにそれを知っていて、なんとなくどことなく、
そういう間柄になっているような気がしなくもなくて。
それでも、二人の関係は中途半端だ。
彼女が。
彼女が、他の誰かを選んだら。
しょうがないと、思ったばかりだった。
れいなは言葉を失う。何を言っていいか判らない。
駄目だと、言えない。どうしてと、聞けない。
「明日、その人に会うよ」
「え……?」
背中を向けたまま呟かれた言葉は、どう捉えていいか決めあぐねた。
それは単に、どうするつもりなのかという問いに対する返答だったのかもしれないし、
もしかしたられいなに来てほしいのかもしれない。
- 467 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:50
- 「会うって、どこで?」
「坂の上の公園」
「あ、そ、そう……」
指針が無い。絵里の言葉に要求はなく、ヒントやアドバイスをくれそうな誰かもここには
いない。
それにしても明日。急な話だ。大体、公園ってなんだ、つまりそれは二人きりで会うと
いうことなのか。そんな危険な。あの文字から推測するに相手は男だろう。そんな、
公園なんて人気のない場所に二人きりなんて。
それに、何より。
坂の上の公園といったら、二人にとってある種特別な場所なのに。
「ばいばい」
どうとも出来ずに呆けていると、絵里は振り向かないままそう言って帰っていった。
れいなは柔らかい起毛のカーペットに座り込んで、しばらくぼんやりと閉められたドアを
見つめていた。
指先で、唇に触れる。もう、感触なんて残っていない。
それでも事実は消えない。
消えないのに、なかったことになるんだろうか。
- 468 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:50
-
- 469 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:51
- 格好悪い。こそこそと、人目を憚るように身を縮めて公園の中を覗いている今の自分は、
どうしようもなく格好が悪い。
それは判っているが、堂々とできるほど自信があるわけでもない。
絵里はまだ来ていない。そういえば時間は聞いていなかった。今はまだ朝の9時を過ぎた
くらいなので早すぎたかもしれない。まさかもう済んでしまったという事はないだろう。
まったく、冗談じゃない。いつもなら日曜日なんて昼まで寝ているのに、どうして
平日と同じ時間に起きなければならないのか。昨日はなんだか身体の内側がモヤモヤして
なかなか寝付けなかったのに、目覚ましを使うまでもなく早い時間に起きてしまった。
もうそろそろ眠くなってきそうだ。春を過ぎたこの時期、朝からいい陽気だし。
見て、どうするかはまだ決めていない。止める資格があるのか、そもそも自分は
どうしたいのか、彼女はどうしてほしいのか、その全ての答えが見えてこない。
だからここにいるのは本当は間違っているのかもしれない。絵里は断るとも何とも言って
いなかった。断るつもりがないのかもしれない。
れいなの事は、本気じゃなかったのかもしれない。
「あ……なんか落ちてきた」
手のひらを額に当てて溜息をつく。沈みこんだ気分を持ち直すために、公園の中へ入って
遊歩道を散歩し始めた。
- 470 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:51
- いい天気で、木々に囲まれたそこは空気が良くて、いつもなら清々しい気分になれるの
だが、今日はどうも調子がよろしくない。羽織ったパーカのポケットに手を入れて、
れいなはほてほてと遊歩道に沿って歩き続ける。
「こら。無視すんなー」
「へ?」
すれ違いざまに、笑声混じりの声をかけられた。
振り返ると、リードを持った美貴が苦笑しながら手を振っている。リードの先には犬が
おり、彼女の足元をウロウロしていた。
「藤本さん」
「おはよ。さっきから手ぇ振ってんのに、田中ちゃんシカトすんだもん。ひょっとして
美貴のこと嫌い?」
「や、違います、すいません。ちょっと考え事しとったけん……」
美貴も別に本気で言ったわけでもないんだろう。苦笑は消えないながらも犬を抱き上げて
歩み寄ってくる。
「藤本さん、いつもここで散歩しとぅとですか?」
「うん。この子がちっちゃい頃からね。おかげでうちの散歩当番のパターン読んだ
亜弥ちゃんに待ち伏せされたり……いやそれはどうでもいいんだけど」
誤魔化すように美貴が首を振る。思い出したくないのかもしれない。
なんだか、二人のエピソードは多種多様に渡っているような気がする。全部聞こうと
思ったら一週間くらいかかるんじゃないだろうか。
- 471 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:51
- 「田中ちゃんは散歩?」走りたいのか美貴の腕を脱け出そうと暴れる犬を押さえつけながら
問いかけてくる。れいなは頷くべきかどうか迷って、結局は曖昧に笑った。
「ちょっと……絵里、待ってて」
「えりえり? えーここ来んの? じゃあ美貴も一緒に待ってようかな。えりえりって
犬好き? アンと遊んでくれるかな」
「や、待ってるっていうか」
いつの間にか定着してしまった絵里の呼び名は、何度聞いても妙な気分になる。
しかしそれについて言及できるような精神状態でもなく、れいなは取り繕うように
手を振った。
美貴の勘違いはある意味正しい。絵里が来ると言うならきっと一緒に遊ぶつもりなんだ
ろうと、そう思うのは二人の関係を知っている美貴にとってはごくごく自然な流れだ。
だから、不自然なのはこっちの方なんだろう。
「……絵里、別の奴と会うけん」
「ふぅん?」
美貴が僅かに首を傾げる。れいなの表情には影が落ちている。
「男の子かな?」
「え、なんでですか」
「田中ちゃん嫌がってるみたいだし、『奴』って言ったっしょ。友達と会うくらいなら
そんな言い方しないかなと思って」
鋭い。れいなは決まり悪げな表情で視線を逸らした。
- 472 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:52
- 美貴の腕に抱かれている犬は、諦めたのか大人しくなっている。その頭を撫でてやり
ながら、美貴は小さな笑声を溢した。
「まあねえ。美貴もそういうのあったよ。や、美貴は覗いたりしなかったけどね、うん」
「……はぁ」
それはれいなのしている事が良くないということだろうか。それとも子供だと言いたい
のか。どっちにしてもれいなとしては嬉しくない。
「亜弥ちゃんもねー、自慢してくんだよね。ラブレターもらっちゃったーとか言って。
そうするとはあ?とか思うじゃん。なんか気に入らないじゃん。ムカつくじゃん?
うん、最初はそういう……ヤだったんだけどさ。なんかその内どうでもよくなっちゃって」
「……なんで、ですか?」
「だってあの子」
そこで美貴は引きつった声で笑った。
「美貴のことしか見てないんだもん」
笑ったまま美貴は言う。自分で言って照れたのだろうか、それとも何かがツボに入って
しまったのか、それからしばらく、彼女は笑ったままだった。
れいなは呆気に取られた。それは……それは、どうしようもないくらいの。
愛されている人の自信。
- 473 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:52
- 「すごいよね。だって亜弥ちゃん、最初美貴のこと写真でしか知らなかったんだよ。
それなのにあんなだよ? すごくない?」
「……はあ」
そういう美貴もすごい。まるで当たり前のように『それ』を受け止めているのがすごい。
彼女はフラットだ。起伏がなく、だからどんな力も均等に受け止められる。
歪みもなく、淀みもなく、軋みもなく、どこまでも平板な意思。
美貴が犬を撫でながら軽く目を細めた。しかし笑っているのではないようだった。
どちらかというと、視線の中に紛れ込んだ非難の意思を隠そうとしているような感じだ。
隠し切れない咎がれいなに突き刺さる。目を逸らす。彼女のほうも僅かに視線を外した。
手のひらに汗が浮かぶ。犬がクゥンと小さく鳴く。
「信じてあげらんないなら、やめときなよ」
「…………」
「そういうの、あの子に対して失礼だよ」
ああ、この人は。
どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも、フラットだ。
誰の味方でもなく、誰の敵でもなく、中立でもなく、誰を守るでもなく、誰かを傷つける
わけでもなく、誰にも何もしないわけでもなく、正しくもなく、間違ってもおらず、
普通ではなく、特異でもなく、優しくもなく、厳しくもなく、偏っておらず、全方位を
網羅しているわけでもなく。
彼女は何かの中心に位置している。
彼女はただ、「そこに在る」というだけで、何かに愛されている。
- 474 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:53
- 「好きっていうのは、綺麗なばっかじゃないでしょ。他の子と仲良くしてんのヤだったり、
自分のことほっとかれるとムカついたり。そういうの、別に変なことじゃないよ」
「けど……」
「判んなくなったら、とりあえず動いてみた方がいいと思うけどね」
抱いていた犬を下ろし、空いた手でれいなの頭を撫でる。
美貴は苦笑している。どういうわけかこの小さな友人が可愛くて仕方ない。
可愛い可愛いと連呼しているのは嘘じゃない。気が強そうなわりにどこか小動物のようで、
ついつい構ってあげたくなる。
「藤本さんは、松浦さんのこと、信じてますか?」
ふと、美貴が眉を上げた。
何事も疑問に思うのはいい事だ。自分自身、気になる事ははっきりさせたい性分だし、
そういう行動は好ましい。
けれどその答えは、既に出している。
「さっきも言ったじゃん。亜弥ちゃん、美貴のことしか見てないんだって」
それは信じる必要がないくらいの、明確な真実だった。
れいなの視線は地面に向いたまま上がらない。そこまでの自信は、自身にはない。
いつも何かしら不安で、いつもどこかしら不安定で、今もそこはかとなく曖昧だ。
「急ぐ事ないけどさ、止まってたらいつまで経っても同じものしか見えないよ」
最後にそう言って、一度れいなの頭をポンと叩いて、美貴は犬に先導されるように
歩き出した。
れいなは叩かれた頭に手のひらを当て、それからぐしゃっとかき回した。
- 475 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:53
-
- 476 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:53
- 遊歩道の中ほどで、美貴はピタリと足を止める。
「なにしてんの」
呆れたような声で言う。「にゃはは」木陰から亜弥が顔を出す。
「なんか真面目な話してるみたいだったからさー、邪魔しちゃ悪いかと思って」
「デバガメ。趣味悪いよ」
「あ、ひどい。そんな言い方ないじゃん」
せっかく気ぃ使ったのに。亜弥は両手を腰に当てて怒ったふりをした。それはただの
ポーズだ。そんな事はずっと前から知っている。彼女はいつも本気では怒らない。
美貴が予想していた通り、すぐに飽きたようでポーズは簡単に解かれた。
「アンくん久し振りー」
しゃがみ込み、すっかり顔馴染みとなった犬へ手を差し出す。子犬の頃からの付き合いだ、
何の警戒もなくその手へ鼻先を押し付けてくる。
美貴はやれやれとでも言いたげな表情で、戯れる一人と一匹を眺めていた。
何が「やれやれ」なのかって、その様子が非常に画になることだ。ポートレートにして
部屋に飾っておきたいくらいだ。本当にしたら大変なことになるのでしないけれど。
- 477 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:54
- 「亜弥ちゃん、今日は高橋ちゃんと約束あるんじゃなかったっけ?」
「ん? それがねー、愛ちゃん急におデートが入ったんだって」
そろいも揃って春めかしいことだ。亜弥の言う「おデート」が比喩だという事は知っている
のだが、あながち間違ってもいない事も知っている。
亜弥の幼なじみである彼女の「おデート」の相手は、去年くらいから仲が良くなった
一学年下の子だろう。バスケ部で、今年からレギュラーになったそうだ。美貴も試合を
見に行った事があるが、その気抜けた表情とは裏腹に、機敏な動きと華麗なボール捌きを
披露していた。
「なんかね、宝塚の特別公演があるんだって。それのチケットが偶然取れて、一緒に
観に行くみたい」
「へえ。タカラヅカ」
なるほど、それは亜弥を誘うわけにもいかないだろう。幼なじみとはいえ、そこは
彼女が立ち入れない領域だった。
「というわけで」
亜弥が立ち上がり、にひひ、と悪戯い笑みを見せる。美貴は嫌な予感を覚える。
「うちらもおデートしよっか」
「『というわけで』って全然繋がってないし。てゆーか美貴忙しいし」
「忙しいって?」
「だから……色々だよ」
本当は何の予定もないなんて言えない。
- 478 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:54
- 元々インドア派だから、誘われない限り家の中で過ごす事が多いのだ。
それを読んでいるのか、亜弥は人懐こい笑みで美貴の顔を覗きこんできた。
「ホント?」「ホント」目が泳がないよう、懸命に視軸を固定して頷く。
おそらく見透かされているだろう。なんの、負けるものか。
「――――ふぅん。そっか」
まばたきすら忘れるくらい必死に見つめていると、不意に亜弥が視線を逸らした。
助かった、と美貴は我知らず息をつく。
「で、どこ行く?」
「『で』って繋がってないし……」
がっくりと肩を落とし、深い深いため息をついた。相変わらずこっちの話を聞いて
くれない。
いつもこうだ。いつだって彼女はこっちの言う事なんて聞いていなくて、我がままで、
こっちの都合なんてお構い無しで。
「駅前にねー、新しいクレープ屋さんできたんだって。行ってみよ」
「行きません」
亜弥の笑みは崩れない。
- 479 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:54
- 「じゃあ、みきたんこれからどこ行くの?」
「うち帰るよ」
当然のことを当然のように答え、当然だろうという顔をする。
犬が走りたがっている。昔はここまで来ると疲れてぐずっていたが、成犬となった今は
まったく疲れを見せない。逆にこっちの方が音を上げて帰り道へ引き摺るくらいだ。
犬に引っ張られるまま歩き出す。亜弥はその隣を歩く。
「別に、どこだっていいんだけどね」
人懐こく笑いかけてくる。美貴はそれから逃げるように視線を外した。
彼女の我がままを可愛いと思ってしまうあたり、もう駄目だと我ながら悲しくなる。
きっと家に帰ってからまた出かける羽目になるのだろう。駅前へ、クレープを食べに。
美貴は細く長いため息を吐き出してから、亜弥と手を繋いだ。
- 480 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:54
-
- 481 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:55
- ――――来た。
どくりと、心臓が一度大きく跳ねた。
入り口で待ち合わせたのか、それとも偶然同じ時刻に来たのか、二人は一緒に歩いてきて、
ベンチへ並んで腰掛けた。
れいなはそれを少し離れた樹の陰で見ている。
少年は絵里と同い年くらいか。幼さの抜けきらない容貌はどこか中性的である。造形は
悪くない。背が高く、ひょろりとした印象だった。あまり個性的な容姿はしていない。
芸能人の誰それに似ている、と言われる事はあっても、それが特定の誰かにはならない
ような、平均的な顔立ちだった。
彼は制服を着ていた。真面目なのか、何を着ていくか迷って結局そこに落ち着いたのか。
それも彼を平均的に見せているのかもしれない。
絵里はふにゃふにゃ笑っている。何を笑ってるんだ、と不機嫌になった。
少年の方はちょっと緊張しているようだ。二人の間にある微妙な隙間は、関係ない人間が
見れば微笑ましいのだろうが、れいなにとってはそんなに呑気なこと考えていられない。
距離があるため、会話は聞こえない。彼は多少オーバーなアクションをつけて何かを
話している。絵里もそれなりに相槌を打っているようだった。
なんだか二人とも楽しそうだ。元々顔見知りなんだろうか。彼の着ている制服は自分達が
通う学校の高等部の物である。
- 482 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:55
- 信じてあげらんないなら。
「……なん……」
れいなの手が自身の胸元に延び、シャツをきつく握る。
矢庭に少年の表情が真剣みを帯びる。オーバーリアクションはなりを潜め、両手を膝に
置いてまるで武士のような姿勢になった。
彼女が他の誰かを選ぶなら。
僅かに、何かを探るように彼が距離を縮める。絵里は笑ったままだ。
叫びたいのを必死に堪える。叫びたいという欲求だけを自覚していて、どんな言葉を
表に出したいのかははっきり判らない。だから堪えなければ、動物の遠吠えのような、
言葉にならない単音節の叫びしか出ないような気がする。
それは本能という事なのかもしれない。
おどけたように笑っていた彼は、真剣な表情をするとそれなりに精悍な顔立ちになった。
絵里が困ったように笑う。困ったのは手を取られたからだろう。
れいなも困っている。それとも戸惑っているのか。いや、怒っている、のだろうか。
感情というのは知覚しにくい。時間が経てば尚更だ。
だからきっと、怒ってから戸惑って、それから困ったんだろう。
- 483 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:55
- 彼が触れたことに怒って、怒ったことに戸惑って、その戸惑いを消化しきれずに困って
しまった。
蓋を開ければそういうことだったが、れいなはそんな風に冷静に分析したわけでも
なかった。
嫌だ。嫌だ。
それだけが知覚できる全てだった。
圧倒的な雑踏的な激昂的な劣等的な荒唐無稽な構造無形な無意識な無為士気な。
嫌だ、という感覚。
それを一言で表現するなら、独占欲ということだったのだけれど。
れいなが走り出す。呼吸は五回。それだけの時間で、れいなは二人のもとへ辿り着く。
「前から、亀井さんのこと……」
「絵里!」
今まさに決定的な台詞を吐こうとしていた少年を遮るように叫んだ。彼はぎょっとした
ように顔を上げ、れいなを見つけて怪訝そうな表情を浮かべる。それを睨み返し、
れいなは彼が握ったままでいる絵里の手を奪い取った。
「な、なんだよあんた」
「……あ……」
ここで啖呵のひとつでも切れれば格好いいんだろう。
そうできたら良かったのに。
- 484 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:56
- 「……絵里」
「んー?」
強く彼女の手を握る。少しだけ震えている。震えているのはれいなの方だった。
「前、言ったっちゃろ」
あたしのことだけ見てて。
「守らんかったら、絶交するけんね」
情けない。こんな脅し文句で彼女を引きとめようとするなんて。
けれどれいなにはこれが精一杯だったのだ。これが、今の状態で言える精一杯の想い
だった。
抱き寄せて繋ぎ止めるほど側にはいなくて、声が届かないからと諦めるほど離れては
いない彼女に。
絵里は小さく笑っている。それはいつものふにゃふにゃした笑みより少しだけ大人びて
見えた。どこが違うとは言えない。目の錯覚かもしれない。それでも別にいい。
重要なのは、今、彼女がこちらを見ているということ。
「れいな、手ぇ冷たくなってる」
「え?」
「んひひー」
どんな心境なのか、彼女は嬉しそうだった。
- 485 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:56
- 「ちょっと、亀井さん?」
彼が戸惑いがちに割り込んでくる。さっきまで、彼は主人公の一人だった。絵里と共に
作り上げる、劇的でも刺激的でもない、ごくごく普通の物語の。
それが今や完全なる脇役だ。彼の存在に関係なく物語りは進み、彼はベンチや木々や
吹きぬける風と大した違いはなくなっていた。面白いはずがない。
ひょろりとした少年は、その長い手足を所在無げに投げ出し、どうやって元に戻そうか
考えている。
絵里はそれを打ち切るように立ち上がった。つられて彼の視線が上がる。
視線の先で、絵里はれいなの隣に並んだ。やはりさっきのは目の錯覚だったのか、彼女の
笑みはいつものそれになっていた。
「絵里はー」
例の、どこか間延びした気の抜けた声。それはあまりにもいつもと同じで、れいなの気も
幾分抜けた。
「れいなのことが好きなので、アナタとはお付き合いできません。ごめんなさい」
「……は?」
少年とれいなの声が見事にハモる。
「ちょ、絵里!?」知ってるけど。それは知っているが、こんなどうでもいいような相手に
まで言うようなことじゃない。
彼の反応が恐い。また、あんな思いをしなければならないのだろうか。
鼓動が速まり、れいなのうなじをゴソゴソと何かが這う。
- 486 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:57
- 「――――ハ……」
不意に彼の口端から苦笑みたいに呼気が吐き出され、そうして額に手を当てて笑い出した。
「やっべー。俺、女の子に負けちゃったわけ?」
「うん」
「ハハ! 即答かよ。マジ?」
「本気って書いてマジ」にこやかな視線が彼に向かう。それを決まり悪そうに受け止めて、
彼はやけに爽やかなため息をついた。
ガシガシと乱暴に首筋を掻き、「ちぇー」とわざとらしい呟きを洩らす。彼はずっと笑って
いる。だから絵里の言葉を信じているのかいないのか、よく判らなかった。
れいなは多少ホッとしていた。彼が笑い飛ばしてくれてよかったと思っていた。
これで嫌悪や怒りをぶつけられたらどうしようかと思っていた。それはどうしようもない
事だったから。
「まぁー、しょうがないか。うん、じゃ、ありがと。お幸せにー」
爽やかに笑い、手を振りながら去っていく。神経質そうな文字とは裏腹に、存外ノリの
いい性格だったようだ。
絵里は彼が公園を出るまで手を振っていた。れいなは呆けていた。
彼は、本気にしたんだろうか。それとも冗談でかわされたと判断したのか。
どちらにしても大した違いはないが、ちょっとだけ気になった。
- 487 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:57
- 「れいな、なんでここいんの?」
手を下ろしてから、絵里が顔を覗きこんでくる。何かを確信している瞳だった。
れいなは身体ごと彼女の視線から逃げた。絵里が手を掴んでくる。指先がほどけかけて、
無意識に力を込めそうになったが直前で気付いて止めた。
繋がっているというより、触れ合っているといった方が近いような、微妙な手のひらの
コミュニケイトだった。こんなところまで中途半端だ。れいなは溜息をつく。
開き直ってしまえば。
指先に触れる彼女の熱を意識してみる。
それは、抗いようのないほどの。
「絵里んこと、気になったけん」
「ん?」
「もし、絵里があいつと付き合うつもりだったら、邪魔してやろうと……思ったけん」
だからここに来た。開き直ってしまえばそういう事だった。
彼女が他の誰かの側にいるのが嫌で、もしかしたらという不安が消えなくて、じっとして
いられなかったから様子を見に来たのだ。
絵里が軽く笑い声を上げた。んひひ、という彼女の笑い方は嫌いじゃない。
- 488 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:57
- 「れいなさー」
「なんね?」
「もう絵里んこと好きってことでいいじゃん」
「はあ!? ちが、違う!」
しまった噛んだ。これでは認めてしまったようなものじゃないか。
そんなんじゃない。断じて違う。今はまだ、そこには行けない。
そうするにはまだお互いに幼すぎて、だからもうちょっとここに留まっていようと決めた
のだ。開き直って動いてはみたが、それは先走りすぎだ。
ああでも。
そろそろ限界なのかもしれない。開き直って動いてしまったら、それは存外に気分が良く、
そう簡単に止まれはしないのだと気付いた。
このまま緩やかに進んでいったら、いつか。
それは少しだけ恐くて、恐くなったら右手が気になった。
れいなが繋がっていた手を強引に振り解く。その行動は絵里にとって気に入らないもので
あったようだった。唇を尖らせて視線で抗議してくる。れいなは再度手を取られたり
しないように、パーカのポケットへ両手を収めた。それもまた、絵里は気に入らない
らしい。
「れいなムカつく」
ここ半年で何度となく聞いた台詞だ。いい加減耐性もついてくる。
- 489 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:58
- ポケットに入れた手の力を抜き、呆れたような表情で絵里に向き合う。
「絵里の『ムカつく』は、意味が違うけんね」
それはれいなに対してしか使われることのない単語だった。その意味は世界中の辞書を
紐解いても載っていない。
当たり前だった。世界中のたった二人にしか必要のない言葉なら、そして二人ともその
意味を正確に理解しているのなら、辞書なんていらない。
絵里の眉間に寄っていた縦線が消えて、瞳が幼さを持った。れいなはそんな彼女の表情に
微苦笑すると、ポケットに封じていた片手を出して前髪をかき上げた。
ああもう。本当に、そういうところが。
そこから先は明確な思考をしない。さすがにそこまで考えてしまうのは癪だったので
意識的に止めた。
片手をポケットに戻し、口元に薄く笑みを乗せて絵里を見つめる。
彼女は少しだけ唇を尖らせていた。
「れいなムカつく、れいなムカつく、れいなムカつくーっ」
「知っとぅよ」
眠くなってきた。昨晩からついさっきまでは、全く眠気なんて感じなかったのに。
多分、昨日は四、五時間しか眠れなかった。ベッドに入ったのはもっと早かったが、
寝付くまで随分苦労した。何時頃に眠れたのかは判らないが、きっと日付が変わってから
数時間は経過していただろう。
- 490 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:58
- だから、眠い。春眠暁を覚えず、という言葉を当て嵌めるには季節は進みすぎて
しまったが、そんなものとは関係なしに眠くなるものは眠くなるのだ。
だからもうこの話はお終いだ。早く家に帰って横になりたい。
「知っとるから、もうこんなことせんでよかよ」
「……むー」
「てゆーか、したらいかん。あたしが嫌じゃけん」
最後のはおまけだ。眠いからショートカットを使ったのだ。彼女を信じ切れなかった事に
対する侘びでもある。
欠伸が出た。かふ、と空気を噛むように口を閉じ、涙の浮かんだ目尻を拭う。
眠くてぼんやりしているから、抱きつかれてもそのまま好きにさせていた。上手く回って
いない頭は、それを拒むだけの理由を見つけられなかった。
さっきの彼がこの様子を見たらどう思うだろう。驚くだろうか。それとも仲のいい女の子
同士特有のスキンシップだと思うのだろうか。そういえば男の子はどれだけ仲が良くても
こんな事はしないなと、ふと思った。していたらそれはそれでちょっと嫌だ。
ああでも、彼女の身体は柔らかくて気持ちが良くて、自分の身体も多分、彼女を傷つけ
ない程度には柔らかくて、そういう意味では女の子でよかったなあとか思ったりした。
- 491 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:58
- 「……もう、したらいかんよ」
「んー」
「したら、もう悪いことしてあげん」
「やだ」
その返答はあまりに早くて、だからそれは彼女の本音で、なんだかそれがおかしくて
れいなは目を閉じて笑った。
両手を封じた格好で、首筋を撫でる彼女の吐息を心地良いと感じて、その心地良さは
眠気を誘って、誘われるままに目を閉じて、閉じた瞼の内側で雨の日のネオンのように
光が煌いて、煌きに目が眩んで、立ち眩む意識が縋りつくように彼女を抱き寄せた。
「約束する?」
「……うん」
身体がポカポカと温かい。眠くなると熱を持つのは子供だけなのだと何かで聞いた。
そうとも子供だ。知解のない、誓いに臆する子供だった。
それでも、何かを大切にすることくらいは出来る。
多分、守らなければならないものが多すぎるオトナよりも。
「んじゃあ」
軽く絵里の身体を押しやって離す。
きょとんとしている彼女に、背伸びしてキスした。
- 492 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:59
- 「……う? え?」
絵里は目を丸くしている。予想だにしていなかったんだろう。
してやったりみたいな気分になって、れいなは悪戯に笑った。
「約束」
「……ん」
「破ったらいかんよ」
「んー、うん」
さて、そろそろ睡魔が最高潮に暴れている。これ以上ここにいたら芝生の上に倒れこんで
しまいそうだ。まあそれもいいかもしれないが、出来れば他の誰かが介入しない場所に
行きたかったのだ。
閉じ込めたいわけでも、閉じこもりたいわけでもなかったが、なんとなく、そう、
不安にならずに済む場所へ。
「帰ろ」絵里に告げて歩き出す。別に一緒に住んでいるわけじゃないんだから、帰ろうと
いうのは間違っているかもしれないが、それは当たり前のようにれいなの口から出てきた。
絵里も特に何も言わなかった。ほてほてとれいなを追いかけて、その腕を取る。
左腕に絡みついた彼女の手を横目に見遣り、れいなは眠そうな目をつまらなそうに眇めた。
なるほど、両手を封印したところで意味はないのか。封じた両手は抵抗を許されない。
だかられいなは絵里の手をそのままにした。
言い訳だろう。別に両手を自由にしていたところで今の気分なら拒んだりはしなかった。
ああ、面倒臭いなあ。口の中だけで小さく呟いた。
- 493 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:59
- 生きることも誰かを好きになることも何かを許すことも、全て面倒臭い。
死ぬことや誰かを嫌いになることや何もかも許さないことは楽で簡単だ。
そうできないから辛い。
「れいな?」
「ん?」
「ぎゅーってなってる」絵里が自身の眉間を指先で押さえて言う。れいなは手のひらで
額を擦った。「眠いんよ」不機嫌な口調で誤魔化す。
辛いのに幸せだったりするから、せつない。
絵里が頭をぽふぽふと叩いてくる。それはまるで寝かしつけるようで、れいなは思わず
大きな欠伸をした。
家に帰ったら、間違いなくそのままベッドにダイブだろう。
その時、絵里が隣にいてくれたらいい。言葉にするのはちょっと恥ずかしいので、それは
単なるれいなの願望だ。彼女がそうしてくれたら嬉しいという、可愛らしい願いだった。
そうしたらきっと、よく眠れる。
- 494 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 09:59
-
- 495 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 10:00
- 高等部の校舎は、一階に三年生の教室があり、二階に特別教室。その先は二年生一年生の
教室が続く。中高通じて最も肉体が形成される時期に多く運動させて、身体の発達と健康
作りを促進しようという学校側の有難い心遣いである。ただし有難いと思っている生徒は
ほとんどいない。
その特別教室のひとつである化学準備室で、稲葉貴子はコーヒータイムを楽しんでいた。
漫画やドラマだと、こういう時は実験に使うビーカーとアルコールランプでコーヒーを
淹れるものだが、貴子は私物のカップと電気ポットを使っていた。ろ過の実験で泥や藻の
混じった緑色の水を入れたビーカーに口をつけるなんてとてもじゃないが出来なかったし、
アルコールランプは沸騰まで時間がかかり過ぎる。現代人として文明の利器は有効活用
しなければ。
そうしてインスタントのコーヒーを味わいながら窓の外を眺めていると、下に広がる
中庭に生徒が来るのが見えた。
二人。男子と女子だ。「おーっ」野次馬根性丸出しでカーテンの陰に隠れながら見物を
始める。教師とはいえ一人の人間、そういうシチュエーションには弱い。
どちらも貴子には覚えのない顔だった。化学は二年生に進級する時の選択科目だから、
一年生や他の教科を選択した生徒はあまり覚えられない。
どことなく初々しい様子が見えるから、一年生かもしれない。女子の方は柔らかい印象の
おとなしそうな子で、男子生徒は何かスポーツをしているのか、短く刈り込んだ髪が
清潔そうなイメージを持たせているなかなかの美形だった。
- 496 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 10:00
- 「おーおー、いいんじゃないのぉ?」
二人とも髪を染めているわけでもなく、制服を改造しているわけでもなく、世間を斜めに
見ていきがっているようなタイプにも見えず、つまりは大人受けする感じの子供だった。
並んで歩いているのを見かけたら思わず微笑んでしまうような組み合わせだ。
「お、いくか? 頑張れ少年っ」
貴子が小声で言いながら握り拳を作る。
頭の上から声援を送られていることなど露知らず、男子生徒が準備しておいた手紙を
制服のポケットから取り出して差し出した。
貴子のカップを持つ手に力が入る。「取れっ、受け取ってしまえっ」まるで野球観戦を
している中年のように好き勝手な野次を飛ばす。誰かに見られたらきっと呆れられる
だろう。
しかし、貴子の声援空しく女子生徒は手紙を受け取らずに頭を下げた。会話なんて全く
聞こえないが、これはどう考えても「ごめんなさい」されてしまったという事だろう。
「あー……ダメか。結構いい感じの子なんだけどねえ」
あたしがあと10歳若かったら、と考えて、なんだか悲しくなった。10年マイナスしても
あの二人よりまだまだ年上だという事に気付いたからだ。
- 497 名前:『Don't Stop Me!』 投稿日:2004/07/16(金) 10:00
- 少年は誤魔化すように笑いながら首を振っている。気にしないでくれ、みたいな事を
言っているんだろう。あらあら、いい子じゃないの。カップを口に運びながら貴子は
感心する。
「よっぽど理想が高いのか、他に好きな人がいるかだな、あれは」
インスタントコーヒー特有の酸味が舌を撫でる。貴子はそれが好きだった。豆から挽いた
ものやコーヒーショップで出されているものより、こっちの方を好むくらいだ。
窓枠に肘をつき、誰もいなくなった中庭を眺める。
「どんなのが好きかなんて、人それぞれだもんねえ」
一杯300円のコーヒーよりも400グラム598円のコーヒーが好きなように。
誰かがこっちの方がいいと言おうが、それは間違っていると言おうが、譲れない部分と
いうのは多かれ少なかれあるものだ。たとえ子供であっても。
本格だとか本物だとか正統だとか正式だとか、それだけで好きなものは決められない。
「いやー、なんかいいもん見ちゃった」
青春だねと呟いて、貴子はチープな味わいのコーヒーを美味そうに啜った。
《As for the kept promise, in the process which isn't right.》
- 498 名前:円 投稿日:2004/07/16(金) 10:01
-
以上、『Don't Stop Me!』でした。
だんだん、造語が増えてきてるような。
個人的にはやたらと水っぽい無糖缶コーヒーが好きです。
- 499 名前:円 投稿日:2004/07/16(金) 10:02
- レスありがとうございます。
>>454
というわけで田亀でした。
はっはっは、自慢じゃないですがプレッシャーには弱いですよ?<ホントに自慢じゃない。
>>455
ちゅ、中毒性ですか。いやありがとうございます。
>>456
あやみきはですね……この二人で書けるネタは大概書いてしまったというか_| ̄|○
<基本的にテーマ先行なので。
- 500 名前:円 投稿日:2004/07/16(金) 10:03
- そろそろ次スレの時期ですね。
よもや一枚に収まらないとわー。
- 501 名前:つみ 投稿日:2004/07/16(金) 12:29
- 更新お疲れ様でした!
またまた作者様に酔いしれてしまいましたw
不器用でもいじらしい方とはっきりでもなぜかつかめない方、
非常によかったです!
この世界観にもっと酔いしれたいんで、次スレも楽しみにしてます!
- 502 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/16(金) 19:23
- 先生、更新お疲れ様です!
この世界観と田亀の微妙な心の移り変わりがなんとも・・・ぃぃ。
- 503 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/07/16(金) 22:05
- 更新お疲れ様です!!!
待ちに、、、待ちに待った組み合わせが・・・・!!
今夜はよく眠れそうです、ありがとうございます。
- 504 名前:_ 投稿日:2004/07/17(土) 22:04
- 固まりそうで固まらない微妙な感じが心地良いでですね。
ずっとこのままこの世界の中でいたいなぁーと思ってしまったり。
何気に使われる造語が面白くて、興味深いですね。
次スレまったりとお待ちしています。
- 505 名前:田亀ファン 投稿日:2004/07/17(土) 22:35
- いやー、週末のひととき、マッタリさせていただきましたー♪
途中のさりげないあやみきも、良かったです。
やわらかく静かな物語。 これからも期待です♪
適度にプレッシャー掛けときますわ♪(^▽^)
- 506 名前:円 投稿日:2004/08/12(木) 14:04
- レスありがとうございます。
>>501
今明かされる衝撃の事実。
この二人、不器用すぎ&つかめなさ過ぎで、動 か な い ん で す。
でも頑張って決着つけさすので、次スレもどうぞご贔屓にー。
>>502
せ、先生って(苦笑)恐れ多いです。
田中さんのストッパーはかなり固いらしく、なかなか前に進んでくれません。
でもちょっとずつは進んでます。
>>503
よく眠れたでしょうか? 自分が書きやすいのが高校生なので、どうしても
高等部の方が筆の進みがよくなってしまうんですよ。
田亀大好きなのに! 大好きなのに!!(;皿;)ノ彡バンバン
>>504
一年位前にも同じことを言われた気が(笑)
あーもーいいからさっさとくっついちゃえよ、みたいな二人を書くのが好きなもので。
造語は全部ニュアンスです。広辞苑は手放せません(苦笑)
>>505
困った時の藤本松浦(or吉澤後藤)。みたいな感じになってきている今日この頃です。
- 507 名前:円 投稿日:2004/08/12(木) 14:07
- 次スレ立てました。
君は僕の宝物 NEXT STEP
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ここは今後更新なしかと。
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