終の実
- 1 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 00:00
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州*‘ o‘リ <車の中は今日も…他の誰かの香水……
- 2 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:50
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モノクローム
- 3 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:50
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都心にいることを忘れてしまいそうな、整然とした緑に溢れた公園。いつだったか早く起きた朝、仕事の前に少し歩こうと、遠回りの途中で見つけた。それほど広くはないけれど、大きな樫の木が公園の端に何本か植えられていて、そこの木陰に入ると、視界にあるはずのビル群がすっぽり隠れてしまう。
平日の午後は人もまばらで、皆それぞれに忙しくて誰も私たちに気が付かない。娘。を卒業する間近、新たにユニットを立ち上げることに二の足を踏んでいた私に仕事はなかった。しばらくはゆっくりしてみたいと考えていた。そう事務所にも了承させた。
- 4 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:51
- 「ねー、梨華ちゃん。このままずっとこうやってボーっとしてたいね」
のんびりと甘く響く声が、すーっと青空に吸い込まれる。
柴ちゃんもやはり仕事がなくて時間があった。念願の紅白に出場した四日後、大谷さんが健康上の理由での脱退を発表した。そしてその四ヶ月後、ファーストコンサートの千秋楽を迎えた渋谷AXでの大谷さんのラストライブ、柴ちゃん、斉藤さん、村田さんは、メロン記念日は四人でメロン記念日だからと、その場で解散を宣言した。私は二階席でそれを見ていたのだが、ファンよりも隣にいた事務所の人間の動揺の方が大きかった。何が何だかわからないまま、私は混迷を極めた会場から連れ出された。スタッフに手を引かれながら見たステージでは、大谷さんが泣き崩れていた。
「ね、どうかな?」
試すように柴ちゃんが私の目を覗き込んでくる。
「無理だよ」
素っ気なく返す私を気にする様子もなく、「いいなぁ、こういうの」と、芝生に寝転んだ。柔らかく熱を帯びた木漏れ日を気持ち良さそうに全身で受け止め、目を閉じている。
そして、ふと起き上がり、私に言った。
「このまま全部サボっちゃおっか?」
にぃっと悪戯っぽく笑う。
それきり、その笑顔は帰ってこなかった。
- 5 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:52
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柴ちゃんは生きることを放棄したらしい。
甘美な死に酔わされるわけではなく、生に執着することもなく。
生きないことを無意識に選んだ。
- 6 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:52
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柴ちゃんのそれは精神症に近いようで、季節性の鬱病だと診断した臨床心理士がいた。
また、何件目の臨床心理士だったろうか。奇跡としかいいようがない、と溜息混じりに言った。その先生によると、柴ちゃんは周りの全てを認識している。体だけが動かない。肉体と精神が完全に分離しているのだという。それを意識的にやっているのだとしたら、それは神に近い存在だ。そうも言った。そのすぐあと、笑えないジョークだ、と苦々しげに言い捨てたけど。
方々手を尽くしたが、それ以外に納得できそうな結論は見つからなかった。何にしても、柴ちゃんは生きてはいるけれど、何もしようとはしない。私にはそれだけわかれば十分だった。
- 7 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:53
- 柴ちゃんのお母さんは、この事実を認めると同時に崩れ落ちるように伏せってしまい、自然、お父さんはその看病に傾いた。柴ちゃんの選択をどこか納得できてしまった私は、その看護を願い出た。
誰に理由を聞かれても、答えなかった。あまりに下らなくて切なくて、自分はおろか、他人まで巻き込んでしまいそうだと判断したから。
また新しくユニットを組む気になれなかっただけの話だ。娘。のメンバー以外とは、活動したくなかった。柴ちゃんを理由にしていたのかもしれない。
卒業だと言われた時、もう何もする気がなくなっていた。モーニング娘。には必要のない人間だと言われたような気がして、断ろうにも断れなかった。新ユニットで頑張ろうとも思っていた。けど、無理だった。モーニング娘。としての終わりが近づき、それに代わるユニットが動き出してから気付くなんて馬鹿げた話だけど。
- 8 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:53
- 新ユニット結成のための卒業としたまま、表向きは僅かばかりの充電期間だと発表した私は娘。を去った。
そして、都心からたっぷり三時間はある山奥の平屋を借りた。ガスと水道だけはどうにか使える、住めるのが不思議なくらいの古い日本家屋。必要のないものはいらない、と周囲の心配を跳ね除けた。もしもの護身用にと、噴きかけるだけで大男でも卒倒させてしまうというスプレーを持たされたけれど、幸いなことに一度も使っていない。最寄りのスーパーまでスクーターで一時間は掛かる交通の便の悪さも、却って私たち、いや、私には好都合だった。
- 9 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:53
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極僅かの人間しか知らない、二人だけの静かな生活がここにある。
私の吐息に蝋燭の灯が小さく揺らめく。眠っている柴ちゃんの髪をそっと梳いた。全てを受け入れたような安らかな寝顔が薄暗闇に浮かんでいる。一方、人間臭さを一切排除したような空虚さが、透き通った美しさを拵えているような気もする。
- 10 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:54
- 柴ちゃんは基本的に寝食以外に興味はないようで、生命を繋ぐことだけに忠実に生きている。ふらりと近くの渓流に散歩しに行ったりもするが、それは本当に極稀だ。陽射しがお気に入りのようで、一日のほとんどを縁側でぼんやり佇んで過ごしている。
始めのうちこそ慢性的な疲労に侵された肉体が極端に食物を欲していたのか、旺盛に食べていたが、今では体を酷使しないせいか、必要分以上には食べなくなっている。心配するほど太ってしまった体も、見違えるほど細くなった。無駄は何一つない、どこか人間らしさを欠いた、それ。柴ちゃん。これが純粋な人間の美なのだろうか。山に入って少しだけ筋肉のついた私の体と見比べて、そう思う。
最初は会話のないことにヤキモキしたりもしたが、私の話を聞いているような気もするし、何より二人でいる時の空気は何も変わっていないから、次第にそんなことは気にならなくなってきた。
柴ちゃんは太陽と共に起き、眠る。季節性の鬱病の原因は、太陽光の増減にあるらしい。普通は冬型、夏型と分けられる。柴ちゃんのように太陽が出ている時間帯しか動かないという極端な臨床例はないだろう。とにかく、柴ちゃんは太陽の出ている時間帯にしか活動しない。雨や曇りの日は、ぐったりして布団から出ないこともある。
私もいつしかそのサイクルに吊られるように、陽が登り傾き、月が夜空に顔を覗かせるのを待って眠る生活になっていった。もちろん、雨や曇りの日に起き上がれない、ということはない。
- 11 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:55
- 何もなくただ静かに、時の流れと些細な季節の変化を眺めている。
太陽の軌道、月の満ち欠け、星の流れ、空の色、少しばかりの植物の盛衰。
昨日と似たような今日を捲り、明日も今日を繰り返す。
気が付けば加速がついたように季節が変わっている。ただ流しただけの大きな時間にゾッとすることはあっても、不思議とそれが無駄だとは思えなかった。
これまで過ごしてきた生活の反動からか、対照的なそれに、私も柴ちゃんも不気味なくらいはまっていた。社会から取り残されていくような気がして不安を感じることはあっても、柴ちゃんの穏やかな顔を見ていると、焦燥は蜃気楼のようにゆらゆら融けて消えてしまう。
- 12 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:55
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陽射しに力が失せ始め、風に涼を感じられるようになった夏の終わりで秋の始まり。街の空気を纏った飯田さんがやってきた。綺麗に晴れた日で、空が高かった。
「よかったよ、二人ともいて。こんな遠くまで来て、誰もいなかったらどうしようかと思った」
中へ案内しようとする私をやんわり制すと、いつものように縁側で呆けている柴ちゃんを一瞥し、家の周りをゆっくりと歩く。
ひとしきり見終えると、今度は空を見上げた。
「いいところだね。私もこういうところに住みたいよ」
どこか故郷と重なるのか、憧憬を帯びた寂しそうな笑顔で言う。
「いいところですよ。静かだし、時間がゆっくりで。何もかもが綺麗に見えるっていうか──」
「いつか……だけどね」
眉を八の字に顰め、困ったように私を遮る。私達の間で揺れる微妙な戸惑いを感じ取ったのか、柴ちゃんはするりと沈圧を避けるように家を出ていった。
「とりあえず、中に入りましょうか。立ち話もなんですし。あ、柴ちゃんは大丈夫です。散歩を終えたら帰ってきます。人の来ないようなところなんで」
離れた期間が長かったせいか、今の生活にどこか負い目があるからか、距離の測り方がわからなくなり、ガチガチの敬語になってしまう。玄関を開け、飯田さんに背中を向けると、気付かれないようにそっと頬を歪めた。
- 13 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:56
- 飯田さんは、私がお茶を出すなりそれを飲み干すと、まじまじと私を見つめた。
「石川、なんか感じ変わった?昔の大人しくて可愛い梨華ちゃんっぽいよ」
「前みたいにはしゃぐことがなくなったからかも……」
言われて気付く、自分の変化。私も柴ちゃんほどではないにしろ、必要のないことはしない、そんな生活をしているのだということを実感する。
「そりゃそうだ」
飯田さんは面白くなさそうに笑い、ふっと息を抜く。そのまま視線を窓の外に移し、庭木に目を留めたまま何かを探すように自分の世界に溶けていく。
柴ちゃんとは対照的な、洗練され続けている美しさが自然の中で孤立する。滑らかに整った顔は、その向こうに続く濃い緑と陽光の中で鮮やかに映えていた。
思わず見惚れてしまった。その裏で、化粧気がなく、黒く焼けてしまった自分を恥じている。
私の視線に気付いた飯田さんは、ん?と口元を緩めて大きな瞳で私の言葉を待つ。
「え?あ、いや、みんな元気ですか?」
「元気じゃない?最近あんま会ってないから、わかんないけど。…あ、でものんちゃんとあいぼんには会ったよ。あの子ら、今は娘。じゃないけど」
飯田さんはぐるりと家の中を見回し、どうやって暮らしてんの?と不思議そうにしている。
- 14 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:56
- 月に数度、私がスクーターで山のふもとまで降り、ダンボールいっぱいに食材を含む生活必需品を買いに行けば事足りる。食事は一日二食、私が作っている。柴ちゃんは、私が用意した食事をお腹が空いた時間に食べる。私もそれに合わせて食べるようにしている。大体、それが朝の十時と夕方の四時頃。
洗濯はある程度洗物が貯まってから手洗いだけど、それほど苦ではなかった。私が不精のせいか、不潔にならない程度にしか服を替えない。柴ちゃんもそれに気を留めない。週に二三程度だ。
- 15 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:57
- 飯田さんは納得したようなしないような顔で頷くと、あの石川がねぇ、と呟いた。
「ところでさ、アンタいつ戻ってくるの?」
そして、どこか躊躇うように言葉を留める。
「まあ、今更戻ってきたところで居場所はないんだけどね」
その意味を理解するより先に体が反応してしまう。ありったけの空気の塊を喉に詰め込まれたような、重い衝撃。それが一気に広がり、体中に重くのしかかり、そのまま潰れて消えてしまうのではないか、というくらい。声が出ない。
「アハハ、そんな顔しないの。嘘に決まってるっしょ。なに?信じた?」
私はほっと胸を撫で下ろした。
「でも、本当にどうするの?私が勝手に思ってるだけなんだけど、戻ってこないことも許されると思うの。一緒に仕事できることはそうはないだろうけど、そりゃ帰ってきて欲しいよ、私は。でも、今の石川、柴田もだけど、見て、なんとなくこのままでもありかな、なんて思っちゃって。……戻ってくる、でしょ?それを聞きに来たの。あんたらの顔見るついでに」
- 16 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:58
- ここでの生活を始める前から、いつかステージに立つ日が来ることは覚悟していたはずだ。新しく立ち上げるユニットを率いて。実際、飯田さんが来た時、ユニットの話はどうなっているのか聞こうと思っていた。しかし、実際にこの生活に終止符を打つとなると、私の意志に反して全てが硬直してしまう。覚悟が足りないのだろうか、ここでの生活から抜け出せなくなってしまったのか。
「もちろん、戻ります。ただ……」
「ただ?」
これ以上は踏み出してはいけない。しかし、楽になりたい自分がガードをすり抜けて飛び出してしまう。
「今はまだ、柴ちゃんのことが心配で」
後悔が心を握り潰す。案の定、飯田さんは悲しそうに私のことを見ている。そして、私の心の内を理解してくれているのか、包むように話しかける。
「いや、いいんだ。柴田を理由にしても。見た感じ、生活には何の支障もなさそうだけど、やっぱりどっか不安だもんね。柴田に何があったのかはわからないけど、多くの人がやりたいけどできない壁をあっさり越えた。だって、生きてるだけで何もしていないんでしょ?」
優しい声ながらも、無遠慮に聞こえる言葉にむっとしたが、黙って頷いた。
「なかなかできるもんじゃないよ。勇気ある決断だと思う。……で、アンタはどっち?」
- 17 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:58
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次の日も仕事があるという飯田さんは、夕暮れ前には山を降りて行った。往復の移動は六時間、滞在は二時間だと笑っていた。
その帰り際、あまり意味はないのだが、飯田さんは声を潜めて私に言った。柴ちゃんが散歩から帰ってきたからだ。
「柴田さ、凄く綺麗になったよね。ほんと、びっくりしたよ。でも、柴田っぽくないっていうか、大人っぽい容姿のクセして幼い感じの無邪気な笑顔みたいなの、あれ、なくなった?けっこう好きだったんだけどね」
軽い調子で柴ちゃんに「また来るから」と言い残して山を降りて行った。
- 18 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:59
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その夜、柴ちゃんが布団から抜け出す音がした。うとうとしていた私は、柴ちゃんの後を追おうか少しだけ迷ったが、やはり追うことにした。私の知る限り、柴ちゃんが夜に動き出すのは初めてだ。
寝室を出ると、そのすぐ先に柴ちゃんはいた。縁側に座り、月明かりに濡れた夜空を眺めている。その方向に目を凝らすと、山の合間から花火が打ち上がっているのが見える。気付かないくらいに、小さく。握り拳ほどのそれは、小さいながらも異様な迫力を持って私に焼き付いた。ステージ上から見る、色とりどりに踊るサイリウムを連想させたからかもしれない。
私は今日一日を、飯田さんの言葉を反芻していた。力ある風が私の髪を巻き上げた。
- 19 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 02:59
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「柴ちゃん、一瞬だったね。私たちがスポットライトを浴びて歌ってたのって。今この瞬間にも、娘。に入る前に戻れそうな気がするよ」
「ねぇ、柴ちゃん。私たち、このままじゃ駄目になっちゃうのかな。変わらなきゃいけないのかな。正直、自信ないよ。またあの目まぐるしい生活に戻るの」
「今の私たちってさ、結構バランス取れてるよね。私が動で、柴ちゃんが静。二人でこうしているから、こんなに穏やかな日々を過ごせてるんだよね、きっと」
「どうせさ、いつかは表舞台から消えていくんだよ。それをここで終えるか、もう数年ながらえるか。どっちにしても、瞬く間なんだよ」
「でもさ、今と比べると、ステージにいた私たちの方が輝いてたよね。閃光のようなものだったけど。もう少し長いかな?花火、くらいでいいかなぁ……」
「花火だよね、きっと。打ち上がる時の期待とか、高揚とか。終わったあとの寂しさ、充足……」
- 20 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 03:00
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柴ちゃんは花火の終わった夜空をただ見ている。柴ちゃんの見ている先は、街の灯のせいか闇にはなりきらず、ぼんやり白く浮かび上がっている。私はゆっくりと真上の空へと視線を滑らせた。数え切れないほどの星が瞬いている。
「さ、寝よ?柴ちゃん」
私は柴ちゃんを立たせようと、脇に手を入れた。立ち上がる途中、柴ちゃんの体がぐらりと私に傾き、その腕が背中に回った。私を抱きしめるような格好になった。それは偶然だったのかもしれない。けれど、意志を持っていたようにも思う。
厚い雲が月を遮り、闇と影が重なった。瞬間、世界が黒く染まったような気がした。雲が風に流れる。
月明かりの下、私は柴ちゃんの確かな鼓動を感じていた。
- 21 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 03:01
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- 22 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 03:01
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- 23 名前:: 投稿日:2004/06/17(木) 03:01
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- 24 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:18
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水の部屋
- 25 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:19
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「これね、水の香りなの。私が一番自然でいられる匂いなの」
他にもいろいろと水の香りについて話してくれたけど、その言葉と匂い。その時の温もりが、そして飯田さんの優しく響く声。今も鮮明に覚えている。
- 26 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:19
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正直、私はあの当時、小学四年生の頃のことはあまりよく覚えていない。いろいろな媒体での私は残っているし、いろいろあったはずだけど、それが記憶とむすびびつかないのだ。
愛理も似たようなことを言っていた。そして、ほかの子とは少しちがうという意識はあったけど、習いごとの延長のような気分で仕事をしていた、と。
今でこそ、特殊な仕事をしているという認識はあるものの、当時はその状況に求められるままに働いていた。覚えていないのも、当然といえば当然かもしれない。
- 27 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:19
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その年、私は3日間だけ、どういう経緯でそうなったのかはわからないけど、飯田さんの家にあずかってもらったことがあった。お母さんが妹をうむということで、弟をつれて田舎のおばあちゃん家に行くことになったからだ。
私もついていきたかったんだけど、仕事がそれをゆるさなかった。
「梨沙子はもう大きいんだから、ちょっとくらいお母さんがいなくてもだいじょうぶよね」
本当はお母さんと離れるのがすごくさみしくていやだったけど、心配そうに言うから、頷くしかなかった。お母さんに言われたその日、ごはんを食べてからすぐに寝ると言い、こっそり泣いた。その日はレッスンがきつかったから、はやく寝るのは不思議じゃない。お母さんによけいな心配をかけずにすむ。
子供心ながら、そうかんがえていた。
お母さんがいない間、私の面倒をみてくれるおばあちゃんが苦手だったのだ。背が高くて、大きくて、力も強い。日本語もほとんど話せない。お母さんは、お父さんのおばあちゃんは外人さんなのよ、と納得させようとするのだけれど、私はその外人さんが苦手だったらしい。
はでな柄の布をかぶっただけの大きな体で私のところまで駆けてきて、ぐっと私をもちあげ、よくわからないイントネーションでもみくちゃにする。表情と声の感じで私をかわいがってくれているのはわかるのだけど、やっぱり苦手、というか怖かった。
- 28 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:20
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そのおばあちゃんの到着がおくれると聞いたとき、嬉しかった。お母さんが、まだいてくれると思ったから。だから、飯田さんに預かってもらうと聞いた時、少なからずショックだった。
飯田さんは、表情の少ない美人で、無意味に人に威圧感をあたえてしまう。今なら、かんたんにそう言えてしまう。小学四年生だった私には容姿についての認識なんてほとんどなかったし、ちょっと怖いけどおもしろそう、という部分だけが、やけに強調されていたように思う。
そして、飯田さんは本当は怖い人なのか、おもしろい人なのか、どちらなのかが不安だった。
- 29 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:20
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学校が終わり、友達と少し遊んでから私は事務所にむかった。会議室のすみでなにかを読んでいたような気がする。でも、目は字をおうばかりで頭に入らず、八畳ほどの窓に面した部屋の中、首都高の渋滞する車の上半分ばかりをながめていた。
お腹がすきはじめた頃、飯田さんが私を迎えに事務所にやってきた。
会議室にいた私がよばれた。
「ごめんね、待ったでしょ」
そう窮屈そうに身をかがめた飯田さんは疲れていたのか、私と同じように緊張していたのか、笑顔がぎこちなかった。態度次第で怖い人にもおもしろい人にもなると勝手に判断した私は、ほとんど無意識に変な顔をしてしまった。
辻さんに教えてもらった、ごりらの顔。頬を緊張させて笑みを作っていた飯田さんの目が丸くなり、それがふっとほどけた。
飯田さんは綺麗な声で笑った。目尻に走ったしわがかわいく見え、安心した。飯田さんは私の頭を遠慮がちに撫で、手をつないでくれた。
- 30 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:21
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飯田さんは家につくと私をソファにすわらせ、オレンジジュースをだしてくれた。そのオレンジジュースは、私が家でいつも飲んでいるようなペットボトル入りのではなく瓶に入ったもので、今考えるとおかしな話だけど、それに抵抗があった。実際、飲んでみると、これまで知らなかったくらいにおいしかった。
「梨沙子ちゃんがどんなもの好きかわからなかったから、カレーしか作らなかったんだけど好き?」
飯田さんが心配そうに、しゃがんで私に聞いてきた。私は頷いた。
「はい、好きです」
自分でも口調が硬くてびっくりしたが、飯田さんは、よかった、と安堵の息と共に言った。
「じゃあ、暖めるから、ちょっと待っててね」
鍋を火にかけ、そのままお風呂場に向かった。廊下の途中で振り返り、
「大丈夫?本当にカレー好き?」
私は大きく頷いた。
「気を使わなくていいから、なんでも言ってね」
- 31 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:21
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飯田さんが優しくて、しかも晩御飯が大好きなカレーでよかった。安心した私は、ソファで足をぶらぶらさせながら、部屋を見回した。
TVの上の写真立てが目についた。少し長めの黒髪を乱暴に後ろに流した、整った顔をした男の人。憮然とした表情で写ってはいたけど、カッコいい人だと思った。
お風呂場から戻った飯田さんは私の視線を追ったのか、小さく呟いた。
「ああ、これね……」
飯田さんはそう言い澱み、写真をそっと倒した。気まずそうな顔とは裏腹に、愛情がにじみでていた。
- 32 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:22
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カレーはおいしく、私は二回もおかわりしてしまった。味がどうか不安だったのか、心配そうに私を見ていた飯田さんは、本当に嬉しそうだった。
食事も終わり、お風呂の時間だと飯田さんはタオルを渡してくれた。そして、私のプライドを傷つけないためなのか、申し訳なさそうに、探るように聞いた。
「えっとね、私、梨沙子ちゃんぐらいの時のことってあんまり覚えてないんだけど、一人でお風呂って入れるのかな?」
私が黙って頷くと、飯田さんはほっとした顔でタオルを渡してくれた。恥ずかしながら、本当は一人では頭を洗えなかったんだけど、そんなこと言えるはずもなく、だまって浴室にむかった。顔はどうにか洗えるのだけど、長い間目を閉じて髪を洗う、というのができなかったのだ。けど、飯田さんの顔を見て、正解だったのだと思った。
私は仕方なく、顔と体だけを洗い、髪を濡らすだけ濡らして、洗ったフリをした。お風呂場はなんだか懐かしいにおいがして、ふいにお母さんのことを思い出して悲しくなった。お母さんのことを意識しないよう、飯田さんが写真の人と並んで歩いているところを想像してみた。いいカップルだろうな、と訳もわからずにドキドキしてしまった。
- 33 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:23
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翌日、学校を休む手筈になっていた私は、勉強という名目で飯田さんにくっついてモーニング娘。の仕事の見学に行った。せっかく学校も仕事もない平日なのだから、NHKの教育番組を見ていたかったんだけど。
学校に行く日よりも早く家を出て、飯田さんに手を引かれてスタジオにむかった。忙しなくスタッフの人が動き回る中、私は隅に置かれた椅子に座り、収録を眺めていた。入れ替わり立ち代り誰かが来て私の相手をしてくれたけど、なぜか飯田さんが来てくれたときが一番うれしかった。ひそかに憧れていた矢口さんよりも、石川さんよりも。
午後を少し過ぎ、飯田さんは収録が終わると、私を動物園に連れて行ってくれた。こういうきっかけがないと、来るところじゃないから、と。飯田さんは初めて見るというパンダの前で、たっぷり一時間目を輝かせ、その後、私は飯田さんの手を引き、動物園脇の小さな遊園地で暗くなるまで遊んだ。夜ごはんはちょっと高そうなレストランで、私はハンバーグ、飯田さんは白身魚の何かを食べて、少しお酒を飲んだ。
- 34 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:23
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飯田さんの家に帰ると、私は昨日と同じようにソファに座らされ、そしてやはり、昨日と同じように飯田さんはお風呂場に向かった。シャワーで浴槽を洗う音が聞こえ、お湯がコポコポたまる音が届いた。
昨日、髪を洗わなかったせいだろう、頭が痒かった。ちゃんと洗おうとは思ったけど、やっぱり目に泡が入るのが怖い。飯田さんが昨日と違うタオルを渡してくれたとき、お願いしてみた。ふしぎと飯田さんの気分を害してしまうのではないかという不安はなかったけど、胸がひきちぎれそうだった。
「……私、一人じゃ髪が洗えないので、一緒にお風呂はいってくれませんか」
飯田さんは一瞬困ったような顔になったけど、すぐにそれを隠した。私は失敗したと思い、後悔しながら言った。
「けど、大丈夫です。一人では入れます」
私は飯田さんの横をすり抜けてお風呂場に行った。さいあくの気分だった。
- 35 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:24
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私は湯船に浸かり、何をするでもなくじっとしていた。しばらくしてバスタオルを巻いた飯田さんが入ってきて、言ってくれた。
「いっしょに入ってもいい?」
それが嬉しくて、同じくらい自分が情けなくて、涙が出そうになった。バスタオルを巻いたままお風呂に入る飯田さんがふしぎだったけど、恥ずかしいのだろうと何も言わなかった。いつだったか桃子に「梨沙子は恥じらいがなさすぎる」と言われたことを思い出したからだ。
- 36 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:24
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飯田さんはどうやって私の髪を洗えばいいのかわからなかった。私はいつもお母さんにやってもらうように、飯田さんに正座してもらって、その膝に頭をのせた。
なんとなく勝手がわかったようで、飯田さんは私の髪を洗い始める。飯田さんはお母さんよりも指の力が強くて気持ちよかった。
「痒いところないですか〜?」
そんなことを言いながら、丁寧に私の髪を洗ってくれる。
飯田さんを覆う濡れたタオルがその重みと、腕を動かす振動で結び目がほどけて落ちてしまった。飯田さんは小さく声をあげると手をとめ、少し考えるように首をかしげ、「ま、いいか」と笑った。
- 37 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:25
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飯田さんの体は本当にきれいで、細くて、白かった。腰がなだらかに丸く、ウエストもくびれていて、おっぱいもたれていないのにやわらかそうだった。
私は好奇心のまま、腕の動きにあわせて揺れるおっぱいに手をのばした。期待通り、やわらかくて、なのにぷるぷるしていた。飯田さんは驚いて体を震わせ、私の頭が少し浮き上がった。目があう。飯田さんは私の瞳の奥をのぞき、そして優しい顔をした。
その瞬間、はずかしくなってしまった。私の体はガリガリで胸もあばらも骨が浮いているし、おなかもぽっこりと出ている。飯田さんとは、何もかも違う。
「私、飯田さんみたいな体がいい……」
飯田さんはさらりと笑うと、私の髪を流しはじめた。
飯田さんも髪を洗い終えると、私を膝に乗せ、湯船に浸かりながら話をしてくれた。あの水の香りの話だった。
- 38 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:25
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あれから六年が経ち、私は十六歳になった。背もかなり伸びたが、飯田さんには及ばなかった。
純白のウエディングドレスを着た飯田さんは、幸福の顔をしている。手に持ったブーケを掲げ、後ろを向き、放り投げた。力が入り過ぎたのか、ブーケは嬌声をあげる女の群れを飛び越え、離れたところにいた私の手元に落ちた。飯田さんは私を見とめると、大きく笑い、手を振ってきた。私は笑顔を作り、小さく返した。
飯田さんは、隣の白いタキシードを着た男と視線を交わし、微笑み、腕を絡めた。その男の背は私よりも低いくらいで、青年実業家らしいけど、お世辞にもかっこいいとは言えず、頭もあまりよくなさそうだった。親が資産家なのだと、誰かが言っていた。
飯田さんと男はまっすぐ私のところへ来て、二言三言話すと、車をカランコロンさせて去って行った。二人からは水の香りがしていた。
- 39 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:25
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- 40 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:25
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- 41 名前:: 投稿日:2004/06/26(土) 22:25
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- 42 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:41
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のんね
- 43 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:41
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私はあの夏の一時期、のんつぁんのことを、のんね、と呼んでいた。高橋さんをお姉ちゃんと呼んでいたことがきっかけで、ののお姉ちゃんと呼ぶようになった。それがいつからか縮まり、のんね、になったのだ。
のんつぁんが話を切り出すとき、のんねー、と使うのをどこかバカにして面白がって、というのもあったかもしれない。
辻さんがさらにアホっぽく見えるからと──私は気に入ってたけど──つっこまれ、周りの評判が悪かったせいか、そのうち使わなくなった。
- 44 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:42
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東京ですごす二回目の夏は、うんざりするくらい暑かった。その前の年は雨が多くて、比較的すごしやすかったせいか、その暑さはことさらひどく感じられて、それが憂鬱だった。
ちょうどその時期はモーニング娘。としてやっていくことに慣れ、少しだけ余裕ができたせいか、無駄にいろいろと考えることが多かった。それは学校の友達が受験がどうとか、将来の不安を口々に零していたせいかもしれない。
私には受験勉強をする必要がなかった。中学校に入る頃は、私の中に受験勉強という項目はあったというのに。わかりやすい未来への不安がないかわりに、言いようのない閉塞感があった。
- 45 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:42
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仕事の予定がなかった私は、学校に行く途中、ふとそんなことを思い、来た道を引き返し、同じ制服を着た生徒とすれちがっていった。家に帰ると、お母さんは出かけていたのか、すでに誰もいなかった。
誰か暇な人はいないだろうかと、携帯を弄んでいると、のんねからのメールが入ってきた。写真メールの中ののんねは、いつもなら確実に吹き出すんだろうな、というくらいに壮絶な変顔だったけど、私はにこりともできず、キモいし笑えない、と返信しようとしたけど、やめた。前にもそんなことを送ったような気がしたからだ。
結局、のんねの顔を真似て返信した。まだ朝だというのに、学校から引き返してきただけなのに、一日を終えたように疲れ果てていた。携帯の電源を切ると、私はまっすぐ眠りに沈んでいった。
- 46 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:43
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午後になる少し前に目覚めた。体中、べたついた汗で粘つき、けだるい体を起こすと、不意に溜息が落ちた。
ほとんど水に近いシャワーを浴び、ガリガリ君を食べながら、外に出てみた。空は雲なんてほとんどないくせにぼんやりと白く、それがたまらなく腹立たしくて、そのすぐあとに故郷の空の色を思い出しそうになってしまった。
「あつーい!」
てきとうに声を放り出し、おでこにじんわり張りついた前髪を振り払った。
雨が降ればいいのに、と空を見上げるが、それは叶いそうにない。照りつける太陽を睨みつけ、唇を強く噛み締めた。
苛立ちついでに、食べかけのガリガリ君を叩きつけた。溶けて水分の多くなったそれは、かしゃという音を立ててアスファルトに崩れた。
- 47 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:43
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なにをする気もなくなり、家の中に入った私は、とりあえず買ってそのまま使っているビニール張りの硬いソファに腹ばいで寝転がり、クーラーの設定温度を15℃にまで下げた。クーラーの唸りだけが低く響いている。TVをつけ、チャンネルを五周させたところで、主電源ごと切った。
食卓テーブルに置いてあった、パサパサの皮が硬くなったシュークリームを齧った。温くて甘すぎるカスタードクリームが、べっとり舌に張りつく。ティッシュに吐き出した。
キッチンの隅に置いてあった鶏のから揚げをひとつ、口の中に放り込んだ。じゅっと油が滲みて、生姜の匂いが鼻に抜けた。
ハムスターのはむちゃんのケージを覗く。つんと据えた生き物の匂い。はむちゃんは木屑でこしらえたベッドに体を埋めて眠っている。ケージの隙間からキュウリを落としてみたけど、はむちゃんの反応はなかった。
- 48 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:43
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退屈にかまけ、切っていた携帯の電源を入れた。七件、メンバーと出会い系からのメールが入っていた。そして、留守電が一件。のんねからだった。
「いまね、ちょっと時間あるんだ。たぶん、二時くらいになるかな、さゆの住んでる駅につくから」
それだけが携帯の向こうの喧騒に紛れ、私の耳に届いた。ぴー、という無機質な音でのんねの声は途切れ、クーラーのうんうん悲鳴をあげる 声だけが部屋に残った。室内はきんと冷えている、寒い。
窓の外は光の筋が見えそうなほどで、世界そのものが焦げついているようだ。
- 49 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:44
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短く息を吐き出した反動で立ち上がる。ごく近い過去と遠い未来が現在で同時に駆け巡った。感情が混乱に近いくらいに震え、その昂ぶりを抑えられない。
死がひどく近いところにある気がする。疲れているからかもしれない。なんともいえず厭世だけが私の中で浮き上がり、このまま自分が擦り切れてしまうのではないかというような気持ちになる。
前にそう感じたのはいつのことだったろう。
たしか、なにかのリハ終わり、スタジオの入ったビルの屋上でメンバーと花火を見たときだ。次々に打ちあがっては消えていく花火を見て、綺麗だと思い、それと同じくらいの儚さが私の胸を打った。私も、私のがんばりも花火と同じように瞬く間に消えてしまうものなのだろう。そう思い、気がつくと涙がこぼれていた。追い詰められていたのかもしれない。
故郷を思い出していた、なんて嘘ぶいたけど。その時に似ている。
「はあー」
私の大仰な溜息には声が混じり、私の意味もなく甲高い、あー、という音が耳についた。腹が立った。
- 50 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:44
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太陽が天頂近くにある。光がつよく、影も濃くて、世界がぐにゃりと芯を失ったように歪んでいた。むっとする空気をかきわけるようにして、駅まで十五分ほどの道を急いだ。
家が覆いかぶさるように密集した狭い路地を抜け、視界が開ける交通量の多い道路に出た。ひっきりなしに往来する車の排気ガスが煙り、太陽に熱され、嫌な匂いが漂っている。
背中にじんわりと汗がたまる頃、私は駅前の小さな交差点で信号に止められた。少し遠いところで、踏切が間抜けに甲高い音をひびかせる。電車が通りすぎると、当たり前のように音は止んだ。次いで、車やらバイクやら、騒音を撒き散らせながら、歩いて数歩の踏み切りの大移動をはじめる。熱がふわっと舞い上がったような気がした。
信号はまだ青にならない。ラーメン屋の行列に、昼から酔っ払ったおじいさんが何か叫んでいる。私は巻きこまれないように、一歩だけ車道に踏み出した。
私が渡ろうとしている逆の信号を見る。陽光に邪魔された薄い青が、ひっそりと点滅していた。
- 51 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:44
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駅前、改札横の券売機の近くにできた影の下にのんねはいた。私をみつけると、ふっと八重歯を見せ、手を振った。
のんねは髪を下ろし、さっきコンビニで買ったような粗末なサングラスをしていた。着ている白いノースリーブは、のんねの趣味とはまるで違っている。収録の合間なんだろう。のんねと向かい合った。
「どうしたの?こんなとこまで」
「さゆがどんなとこに住んでるか、見てみたかっただけ」
こんなところ、と、小ぢんまりとした駅前の広場に視線をずらした。小さなスーパーがあって、その前ではたこ焼きが売られていて、キオスクがあって、街路樹があって。それらがせせこましく配置され、その隙間を埋めるように老人がのそのそ歩いている。
- 52 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:45
-
「最近、元気なくない?」
「そんなことないと思いますけど」
「そう?なら、いいや」
のんねは小さく笑った。その声があまりに優しくて、私のガードは余計に固くなった。
「のんねぇ、さゆぐらいの時、いっつも仕事やめたかった」
急に周りの音が遠のき、のんねの声しか聞こえなくなった。
「歌の練習してもあんまうまくなんないし、笑ってりゃいいやーって」
今ののんねは違うから、反応してやんない。
「でも、みんなといるのが好きだったから我慢してた」
あっそ。
「しょうがなく、仕事してたの。みんなといたかったから」
それは、わかるかも。
「最近だよ、なんかマシかな、って思えるようになったの」
のんねはそれだけ言い、まだ仕事があるからと、私の頭を一つ撫で、改札を抜け、すぐに見えなくなった。
- 53 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:45
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あれから二年経ち、私は十七歳になった。
- 54 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:45
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- 55 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:45
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- 56 名前:: 投稿日:2004/07/13(火) 22:45
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- 57 名前:名無飼育さん 投稿日:2004/09/19(日) 21:03
- ここの作品好き
続き待ってるよ
- 58 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:36
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安心感
- 59 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:37
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もうすぐで、上京して5年になる。奈良にいた時間よりも、東京にいる時間の方が長い。奈良にいた時間の方がずっと長いはずなのに、部屋に溜まった物を整理していて、そう感じた。
部屋の奥から出てくる物ほど、恥ずかしい。そんな思いとは裏腹に、衝動に駆られるまま過去の欠片を引っ張り出しては作業を止めてしまう。そして、薄れていく記憶を呼び起こしては、一人こっそり笑う。
そんな緩やかな時間の流れるオフのひととき、何気なく捲っていた交換日記に、脳を握りつぶされたような圧迫を感じ、世界が白く遠のいていくような衝撃に、思わず心を閉じた。
死んだフリをしてみた。とか、○○と友に生きる決意をした。とか、ランドセルの赤色が血に見えた。とか、明日は休み死んだフリをした。とか、死んだ。とか、チーン。あしたの夜はきっとムシになってるよぉ。とか、私の文字で書いてあったからだ。
深呼吸を繰り返し、弾けてしまいそうな鼓動と震える息をゆっくりと落ち着け、そして考える。あの頃の私は、死んでしまいたいというよりも、存在そのものを消してしまいたかったように思う。そのくせ、誰よりも自分のことを認めてほしかったのだ。それだけのことだ。
ゆっくりと目を閉じ、浮かんでくるたくさんの笑顔に、今はもう大丈夫。心の中で、強く唱える。今の私は、もう大丈夫。
- 60 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:37
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のんの様子がおかしいことにはすぐに気付いたけれども、何も言わなかった。のんにだって、私に知られたくないことくらいはあるだろう。それに、どうしようもならなくなったとき、のんにとって私が必要だったら頼ってきてくれるだろう。それに何より、私はのんを信じている。
「あいぼん、もう覚えたの?」
難しそうな顔をして台本を捲っていたのんが怪訝そうに眉を顰めた。
「やりながら覚える」
「そんなこと言ってるから、ギリギリになって、どうしようどうしよう、って慌てるんだよ」
「のんに、だいじょぶだいじょぶ、って言ってもらうからいいもん」
のんは台本で私の頭を軽く叩き、甘ったれるんじゃないよ、と言って、弱く笑った。そして、再び台本を捲り始めた。その横顔にはやっぱり陰があって、私は動きを止めてしまう。
私の視線が、こっちを向いたのののそれとぶつかる。
「だから、なんなんだよ。早く台本覚えなよ」
「うん」
いつも通りに元気なのんだけど、少しずつ違う。息をすっと吐くときの口の動きだったり、表情を切り替える僅かな隙間、私に話しかける瞬間の頬の動きだったり。それは私にしか気付かないことなのかもしれない。マネージャーさんや周りのスタッフさんは、誰ものんの変化に気付いていない。
- 61 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:38
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弟と妹を連れて、お母さんが奈良から遊びに来ていた。
「おねえちゃん、だぶるゆーしよ」
少し前まで歩くのがやっとだった妹が、よたよたと走ってきて、私の膝につかまって止まった。ぷにぷにのまぁるい顔を綻ばせて、私を見上げる。膝に感じる小さな存在の感触が心地よかった。
「おねえちゃん」
笑顔のまま私を見上げている妹を抱き上げ、ちっちゃな小指を絡ませる。
「いくよ、せーの……ダブルユーで〜す」
妹の高い体温に、何故か声が詰まりそうになってしまった。
- 62 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:38
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周りの人が気付かないのが不思議なくらい、ののは日増しに翳っていった。その分だけ、ののは元気に振る舞っている。そんなののの強がりに、誰も気付かない。
そして、私が耐え切れなくなった。
「のの、最近元気ないやん。大丈夫?」
「あいぼんこそ元気ないけど、大丈夫?」
逆に問い返され、戸惑ってしまった私に、ののは優しい口調で言う。
「べつにあいぼんが大丈夫ならいいんだけどさ」
揺らいでしまいそうになる自分が、怖かった。今の私は大丈夫。心の中で、何度もそう繰り返す。
「大丈夫だよ。で、のんは?」
「のんは大丈夫。だけど、マロンが死にそう」
ここでひとつ区切り、ののが静かに続ける。
「もう寿命なんだって。だんだん弱ってご飯も食べられなくて、これは元々だけど全然歩きたがらないし。脳もちょっとおかしくなってきてるみたいで、体が正常に機能してないんだって。獣医さんが言ってた。だから、今は点滴して延命みたいなことしてる」
なんでもないといった顔でのんはそう言ったけど、それがとても痛々しかった。
私はどんな顔をしてののを見ているのだろうか。ののは無表情に私の視線を受け止めると、だからのんは大丈夫、と呟いた。
- 63 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:39
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マロンの病状は上向かず、ののは仕事以外の時間は看病に付きっ切りらしい。ファンデーションの色をひとつ濃くして、元気を振り撒き続けるののを隣で見ていて心が痛んだけど、私にはどうすることもできなかった。何かできることがあったら何でも言って、とは言ったけど、それは言葉以上の意味を持たなかった。
ののは完璧に、いつものののを演じていた。メイクさんにはファンデーションを濃くしたほうが私と区別がつきやすいから、と言い張り、元気がありすぎだと首を傾げるマネージャーさんには、もうすぐ18歳だからもっと元気を出していかないとおばさんくさくなりそう、と嘯いていた。
そんな中、梨華ちゃんとよっちゃんが、のんの異変に気付いて声をかけてくれたのが嬉しかった。
私は、あの交換日記を持ち歩くようになっていた。これは乗り越えなきゃいけない過去なんだ、と自分に言い訳していたけど、本当は違う。家の誰かに読まれてしまうのが怖かったからだ。今はお母さんも弟も妹もいる。常に持ち歩いていないと、不安で仕方がなかった。家に置いておくようなことはできなかった。
- 64 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:39
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ののが左手に大きな絆創膏を貼ってきた。病院に連れて行こうとマロンを抱き上げたとき、噛み付かれたのだそうだ。マロンは今、自分の体の異変には気付いてはいるのだけれども、それが何なのか理解できずに、訳もわからずに攻撃的になっている。ののはそう言って悲しそうに腫れた自分の左手を見つめ、右手じゃなくてよかった、と笑った。
収録に入る前、そっちのほうが気付かれにくいだろうから、と絆創膏を外した。ののの左手に開いた穴からは、何かが発酵したような匂いがした。苦味のある、落ち着かない嫌な匂いだった。生が朽ちて、死へ近付いていく匂いなのだと思った。生と死は隔てられているものではない。緩やかな時間の堆積と、その変化なのだろう。
- 65 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:39
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ここしばらく、ろくに眠っていない、と言うののは、二個目のお弁当を食べながら、こんなことを話していた。
「なんかさ、ずっと寝てないと、頭が痛くなってきちゃって。だからかもしんないんだけど、すっごいお腹が空くんだよね。マロンはさ、ほとんど動けなくて寝たきりで、苦しそうにぶるぶる震えて、夜になるとどっか痛いのかキャンキャン鳴くっていうのに、ののは頭が痛いだけで、元気なんだよね」
マネージャーさんが楽屋に入ってくると、ののは硬くなっていた表情をだらしなく緩めて、白身魚のフライを頬張った。そして、私だけに聞こえるような声で、短く言った。
「わかってるんだけどね。もうどうしようもない、ってことは。だけど、いろいろ考える」
何を言いたいのか、私にはよくわからなかった。けど、その声は、これまで聞いたどの声よりも重く、私の心を締めつけた。
- 66 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:40
-
どうしようもなく沈鬱な気分で、机に向かって交換日記を眺める。読む気にはなれなかった。
のののことを考えていた。
数年前の私が、今のののを酷く蔑んでいるような気がして、それが許せなかった。揺らいると認めてしまった自分が嫌で嫌で仕方がなかった。今になって立ちはだかる過去に、立ち向かうこともできず、目を逸らすこともできずに、ただじっと耐えることしかできない。
首を下げて目を閉じて、大きく息を吸って、吐く。呼吸を強く意識する。鼓動に体が包まれる感触を得るまでじっとして、そして足先にまで神経を集中させる。きちんと脈が打っている。
「亜依ちゃん、なにやってるの?」
お母さんの声に、慌てて目を開けたときは、もう遅かった。
隠す気にもならず、言い訳しようとも思わなかった。楽になりたい自分がいる。
私越しに日記を見るお母さんの顔がどんどん曇っていく。
沈むお母さんの表情が暗くなるに連れ、罪悪が膨れ上がる。その分だけ、私は楽になっていくような気がした。
「ごめんな。お母さん、亜依ちゃんが辛かった時期に、なんの助けにもなってあげられなくて」
許された。お母さんの涙声を聞いて、そう思った。
こんな簡単なことだったんだ。それだけのことに安心しきって、私は久しぶりに声をあげて泣いた。
- 67 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:40
-
翌日、すっきりした顔をしたののが、顔を合わせるなり私に言った。
「マロン、殺してきた」
淡々としたののの口調の、殺してきた、という言葉の響きが、私を凍りつかせた。
「安楽死。もう絶対によくならないし、マロンが苦しそうだったから」
ののはそう吐き捨て、自嘲気味に笑んだ。
「納得してマロンを殺した、っていうのに、もしかしたら生きてるんじゃないかって、一晩中心臓触って確かめてたんだよ?」
そう言って、マロンに噛まれて青黒く腫れた左手を愛しそうに撫でる。
私はののの名前を小さく呼ぶことしかできなかった。けど、その声は口内に篭って私の中で反響しただけで、ののには届かなかった。
「ちょっとずつ死んでいく、っていうかさ、腐っていくような感じで、のんの中でもどっか覚悟してた部分はあるんだろうね。マロンが冷たくなって、死んだんだ、って認めた瞬間、ずっと痛かった頭が軽くなってさ、終わったんだなって安心しちゃったよ。そのくせ、一晩中マロンが生きてるんじゃないか、って心臓触ってたんだよ。わけわかんないでしょ? 涙も出なかったよ」
「なんで?」
私はそう声を搾り出すのがやっとだった。
「泣いたら負けじゃん」
「そんなことないよ。私たち、まだ17歳なんだよ。泣かなくちゃダメなんだよ」
そう言いながら、私は今どこにいるのか、自分が生きているかどうかさえ、わからなくなってしまった。
- 68 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:41
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- 69 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:41
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- 70 名前:: 投稿日:2005/02/22(火) 03:41
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- 71 名前:マチル 投稿日:2005/03/29(火) 10:56
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- 72 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:46
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一年後
- 73 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:46
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「さゆ、爪」
絵里がそっと後ろから囁きかけてくれた。
一体私はどうしてしまったんだろう。そんな思いばかりが募る。少なくとも、私自身は何も変わっていないはずだ。変わったのは私を取り巻くもの。それは小春ちゃんと教育係という新しい役割の二つのはずなのだけれど、それだけじゃない。よくわからないものに振り回されて、私の中に変化が訪れようとしている。それは私が望んだものではない。自分のことを自分で決められないのは、心がじくじくと黒ずんでいくようで耐えられない。
- 74 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:47
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爪を噛む癖がまた出てきた。いつまでだったかは覚えてないけど、お姉ちゃんやお母さんに、けっこうな歳になるまで爪を噛む癖が抜けなかったと言われたことがある。今はまだ指を口に持っていく程度だけど、私はそれが不安でならない。不安がまた、新たな不安を呼び寄せる。
絵里が、大丈夫だから、といった風に頷いて、自分の位置に戻っていった。
私たちの前にリハをしていた矢口さん以外の卒業メンバーが歌ったラブマシーンの余韻が、音の粒子となってざわついているように感じる。リハーサル中の客席はびっくりするほど無機質で、広い。うす暗いホールに、オレンジ色の客席が灰色がかって浮かんでいる。もう何時間もすれば人でいっぱいに埋まっていろんな光が灯って生々しい熱気が飽和する。
- 75 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:48
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小春ちゃんが不安そうな顔で、胸のあたりで手を手で強く握っている。今日が歌とダンスの初ステージ。私の時はどうだったろうと思い出そうとしたけど、そんな時間も余裕もないと小春ちゃんに歩み寄った。
「あ、道重さん」
私をみとめると小春ちゃんは弱々しく頬を綻ばせた。
「ここでいいんですよね?」
小春ちゃんが足元を見ながら、立ち位置が正しいのかどうか確認を求めてきた。私は、うん、と頷いた。それだけでは間が埋まりきらなかったから、大丈夫だよ、と付け足した。小春ちゃんは安心したように息を吐いて、
「緊張するんですよ」
と情けない声を出して、その場で足をジタバタさせた。私は努めてにっこりと微笑む。ファンの人はみんな優しいから。そう言うと、小春ちゃんは、そうですね、と笑った。
- 76 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:48
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私はこの子に信頼されているのだろうか。きっと信頼してくれているのだと思う。けれど、私はそこまで人の考えていることを読むことができない。
舞台監督の合図があって、リハーサルがスタートする。私の立ち位置は、ステージ下手側の後方、テープの貼ってあるところの三歩左。二人分の動きを覚えなければならない。新曲とは違い、ステージは修正していくだけだからわかっていることが多いけど混乱する時がある。急に不安になって、もっとちゃんと覚えておけばよかったと後悔するのだ。ステージ下手の後方、テープの貼ってあるところの三歩左、ステージ前のスピーカーが四つ目のところ、と覚えなおした。
- 77 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:49
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体の奥のほうでステージの熱が燻っている。新幹線がホームに滑り込んでくるのを待っている間、汗と埃とゴミの匂いのするムッとした空気と、暖められたアスファルトから立ち昇ってくる熱が不快で仕方がなかった。
新幹線が発車して、独特ではあるけれどそれなりに快適な車内の空気に、ようやくライブが終わったと息をつくことができた。すると急に眠くなってきたけど、初めてのライブを終えた小春ちゃんのテンションが高く、ずっと話しかけてくる。
道重さん、ライブってすごいですね。道重さん、ライブって本当にたくさんの人が集まるんですね、握手会の時とは全然ちがいました。道重さん、大勢の人の中でああやって全力で歌って踊るって楽しいですよね。道重さん、まだちゃんとはわからないけど、ライブが楽しいって先輩の言ってることがわかるような気がしました。道重さん、心配事が少なくなってくるともっともっと楽しくなっていくんですよね?
- 78 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:49
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私は歌もダンスも苦手だから、話くらいはちゃんと聞こうと、ひとつひとつ丁寧に応えていく。話を聞いているうちに、私はシゲさんでもさゆでもなくて道重さんなんだ。後輩ができたのだからそうなることは容易に想像できたはずなのだけれども、リアルな現実としてはまだ受け止められない自分を、今になって知った。
通路を挟んで隣の席では、絵里とれいなが並んで座っている。小春ちゃんが気を使うといけないから、気付かれないようにそっと二人を窺った。どちらも積極的に話すわけではないけれど、ポツポツと好きなことを話して、静かに笑っていた。絵里が隣なら、れいなでもそうだけど、眠いから寝ると言って目を瞑ることができるのに。
- 79 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:49
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新幹線を降りて、順番を待って乗ったタクシーの中で私は、行き先を告げると同時に眠った。解放された安堵に緊張がとろけたからだろうけど、そうは思いたくなかった。眠りに落ちる間際、嬉しそうにおつかれさまでしたと頭を下げる小春ちゃんが不意に浮かんできて、それがとても愛しく感じられたからだ。
事態は至ってシンプルだ。小春ちゃんの教育係になって、大きなプレッシャーと多少の不自由さがあるだけだ。それが劣等感と相まって、動き出せない。私が複雑に考えているだけなのだ。瞼の裏で、光が砕けている。
- 80 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:49
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矢口さんがいなくても大丈夫だった、だから私がいなくなってもきっと大丈夫。そう考えると、ひどく安心する時がある。
収録の待ち時間は、眠いからと目をしょぼしょぼさせて窓の外を眺めながらぼんやり過ごした。メンバーにはちょっと大袈裟に言ったけど、本当に眠かったのだ。自分の行動に理由をつけるようになった。
窓の外は大きくて重そうな太陽の光に潰されて歪んでいるように見える。夏はどうしても好きになれない。暑いのはもちろんそうだし、いろいろと思い出してしまうからだ。そのひとつひとつに明確な形はないけど、胸と喉が同時に締め付けられるような、嫌な感触を伴う。
- 81 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:50
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廊下のほうから、辻さんの楽しそうな大声が聞こえてきた。
うすく私が映る窓ガラスの向こうでは、トラックの通った橋に車塵が黒く煙っている。太陽の焦げ付きのようだ。いや、地球が熱くなりすぎて融けてきているのかもしれない。見ている世界がおかしいのだ。私は悪くない。けど、何度目を擦ってみても、目に映る世界は相変わらず曖昧に歪んだままだった。
「ちょっと、さゆ」
呼ばれて振り返ると、石川さんが笑顔で手を振っていた。
「どうしたんですかー?」
夏のせいか、石川さんは少し焼けて、ほんのちょっとだけど色っぽい。
- 82 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:51
- 「ちょっと最近どうなのよぉ」
「え? いつも通りかわいいですよ?」
いつもの私ならどうするか考えながら言った。不安定な自分を見透かされそうで怖かった。その時、気付いた。私は、悟られたくないのだ。何をしていても明るくてかわいい道重さゆみでありたい。辛いことがあって暗くなっているのは、かわいくない。
美勇伝の楽屋は、石川さんしかいなかった。水曜のこの時間は、大体いつも私だけが仕事なのよ。石川さんが得意そうに、どこか隙を作ってそう言った。石川さん、それは勘違いですよぉ、そこまで売れっ子じゃないですって。私はいつものように笑って辛辣な言葉を吐く。指先がピリピリしているのを感じた。
- 83 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:51
-
型通りに傷ついたふりをした石川さんが、私の肩に手を置いた。
「さゆぅ、あんたちょっと元気ないんじゃないの?」
いつもと変わらぬ口調で、おかしな節をつけて言った。
望んでもいないのに気付いてくれて、心配してくれている人がいるとわかった瞬間、目の前が真っ暗になった。色が急速に落ちていった。瞬きをするたびに視力が失われていくような感じだった。色とりどりだった世界が朽ちたようにセピア色になり、気が付いたらグラデーションの弱くついただけの黒い色彩へと沈み込んでいった。
「あんたなに笑ってんのよ」
空間のどこかが尖った。石川さんの声だろう。僅かな空気の揺れが、何か光って熱いものに影響し、私を突き刺した。
「さゆみはいつもかわいいから笑顔なんです」
無意識に声が出た。これまでの経験や反復が組み合わさったのだ。
- 84 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:51
-
視力は回復したのだろうか。困惑した石川さんの表情もわかるし、鏡の前に並べられたメイク道具のメーカーも鞄から半分はみでた緑茶のペットボトルの銘柄もテーブルに放り出された女性誌の表題も、半分開いたドアから見える絨毯の起毛や染みまではっきりわかる。だけど、見えてはいないような気がした。
「ま、いいけどね。なんかあったらすぐに連絡しなさいよ」
石川さんの私を守ろうとする意思が、うっすらとだけど渦を巻いて包み込んできたような気がした。とても暖かく、優しい感触がした。
- 85 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:52
-
収録の終わり際に、私と小春ちゃん、両方の名前の入ったケーキを絵里とれいなが運んできた。ハッピーバースデー! 蝋燭の炎が熱い。一年後、私は融けていなくなってるかもしれないと思った。
- 86 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:52
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- 87 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:52
-
- 88 名前:: 投稿日:2005/07/13(水) 22:52
-
- 89 名前:メトロ 投稿日:2005/10/27(木) 20:31
- 好きです。
きっとこのスレには作者様独特の世界があるので、
あまり野暮な感想は書き込みたくありません。
とにかく四文字。
好きです。
- 90 名前:名無飼育さん 投稿日:2005/12/12(月) 04:10
- 突然失礼します。
いま、2005年の飼育を振り返っての投票イベント
「2005飼育小説大賞」が企画されています。よろしければ一度、
案内板の飼育大賞準備スレをご覧になっていただければと思います。
お邪魔してすみませんでした。ありがとうございます。
- 91 名前:: 投稿日:2006/02/15(水) 16:48
-
みぎひだり
- 92 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:30
-
あゆみちゃんが指定したバーについたのは、二十一時を少し過ぎたころだった。
少し不安定な木造の階段をのぼっていくと分厚い扉から音楽が漏れ聞こえていて、中に入ると私の背中にあった繁華街の雑踏が吹き飛んだ。
店は私の部屋ほどの広さしかなく、小さなカウンターとテーブル席が並列していて、店の一番奥に大きなレコード棚があって、壁をくりぬいたような位置にキッチン、それだけだった。
- 93 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:33
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声を張らないと隣にいる人にも届かないような大音量の中、テーブル席でメガネをかけたスキンヘッドの白人と、頬の水分が抜けているブロンドの女が頬を寄せ合いビールをなめながら身を揺らしている。
「……ひとり。あ、あとでもうひとり来ます」
二十代後半だろうか、カウンターの向こうから出てきた乱雑に髪を短く刈った、しみついた汚れが模様になっているようなエプロン姿の男にそう声に出し、指を立てた。男は柔和な笑みを浮かべ、腕を広げてカウンター指した。
カウントダウンのようなものが私の中でスタートして、決定を受け入れられるようになった。誰かと話をしたくて、メニューを終え、着替えてからピッチに戻り、居残り練習をしているあゆみちゃんを誘った。美貴ちゃんがわたしに? と怪訝そうにはしなかったものの、不思議そうに目をまるくさせて、どこに行こうか考えてなかった私に笑いかけながらここを指定してきた。
- 94 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:34
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グレープフルーツの味のするカクテルを飲みながら、おそるおそるフロアを見まわす。最初に見たとおりだけど、ここには音楽が張り詰めている。この店のオーナーだろうか、すごく小さいけど妙に存在感のあるおじさんが誰に気を使うでもなく、自分が聞きたい音楽を聴いているような感じでレコード棚の前に座っている。
あゆみちゃんは、今日は夏のライブの打ち合わせがあるけど八時には終わるから九時くらいで、と言っていた。夕方には仕事の終わっていた私は、それまで時間を潰そうと渋谷のバスターミナルの前にある明治通り沿いの映画館に行こうと、練習場を出た時点で考えていた。なにが観たいというわけでもなかったけど、その場所のイメージが浮かんできたからだ。
実際に行ってみると、映画館はなくなっていた。記憶違いではなく、もう何年も前に閉鎖されたんだとすぐに気付いて、時間の経過が私のなかにはないんだと自分で自分に笑いながら悲しくなった。
- 95 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:34
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照明の暗さと白い蛍光灯のせいでぼうっと浮かびあがるカウンターのなかで、エプロン姿の男が煙草を吸っている。足元に向けて吐き出された煙は、それでも上昇し、フロアとカウンターの光と影を切り分ける。私の側に届いた煙が音を吸いこみながら渦を巻いている。
こんこんと麻琴のラストステージは感動的ではあったけどなぜだか現実感が薄れていて、今度こそは泣いちゃうんだろうなと思っていたけど、幾度か見たことのある光景だという感想以外はなにもなく、その瞬間がすっと消えてしまったんじゃないかと疑ってしまうほどあっけなく終わってしまった。
だからかもしれない。この前の大会が終わったとき、もうこんこんと試合をすることはないんだな、と閉会式で妙にやるせなくなった。本当なら、予定では、感極まって感情もなにもかも解き放って号泣してこんこんにすがりついてやろうと思っていたけれど、決勝戦の途中でどうあがいても勝てないとわかってしまったから、できなかった。
娘。からこんこんと麻琴がいなくなる。ガッタスからこんこんが抜ける。どちらも同じことなんだけど、私の中では絶対的に意味がちがう。ピッチの中には成功も失敗もなく、それは自分で決めるわけでもなく、誰に決められるわけでもない。あるのはただ勝ちと負けで、ガッタスからこんこんが抜けるのは、喪失ではなく不足だから自分自身を切り取られてしまったような気がする。
- 96 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:34
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人待ちの存在証明のように置いてあった携帯が、ニスが完全に剥げてするするに乾いたカウンター上で震えた。内容は確かめず、もうちょっとだけ一人のまま、人を待たずにいようと決め、グラスの残りを飲み干した。氷が溶けてほとんど水に近いそれは、かすかに舌を刺して余韻も残さず消えた。
会社の人に話が動き出したことを聞いたときは一瞬だけびっくりしただけで、ああそうなんですか、くらいの反応しかしなかった。うれしくないのかと聞かれたけれど、嬉しい嬉しくないというよりも本来の場所に戻るだけだし、モーニングのままならモーニングのままで、それはそれで何も問題はない。どっちでもよかった。そのようなことを不快に思われないように変換させて話した。
- 97 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:35
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椅子のパイプにのせていた踵が外れた。最後に一日休みをもらったのはいつだったろう。そう遠くもないような気がするけど、いつだったか思い出せない。スケジュールを決定する権限はないけれど、それとなく体調と休みが必要かを聞かれることがある。最近は休みが必要なのかどうかの判断も、伝えることも面倒で、マネージャーに任せている。
落ちた足が上がらない。上げようとしていないのかもしれない。意思の伝達を拒否するように筋肉が硬直している。プチンとなにかが破れるような音がして、意識が切り替わった。カウンターとテーブルの狭いスペースで、髪の長い男が奇声をあげながら腰をまわすようにして踊っている。薄汚いだけの若作りとリズムとはかけ離れた腰の重い動き、楽しんでいると言いたげな自己演出がただただ不愉快だった。
- 98 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:36
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先に気付いたのは亜弥ちゃんで、ふたりで外に出た日、美貴たんなんか条件出されたの? と普通に聞いてきた。
意味がわからず首を振ると、亜弥ちゃんは何食わぬ顔をして歩き、たぶんだけどカメラマンついてるよ、まっすぐに前を見ながら言った。ただどっちかについてるだけかもしれないけどさ、嫌だよね、こういうの、自分の知らないところでなにが動いてるのって、ホントうんざりしてくる。
亜弥ちゃんは珍しく腹を立てていて、苛立ちを紛らすように私の腕を抱き、毎日オシャレしとかなきゃって緊張しちゃうじゃんねえ、と笑った。
その日は焼肉屋の次の予定を変えて、久しぶりに亜弥ちゃんの家に行った。
みきたんが卒業ねー、と亜弥ちゃんはにこにこして私の上に座り、自分の腰に腕をまわさせた。そしてすぐ、ちょっと前に加入したばっかじゃんね、そうわたしの手を弄びながら身を凭せてきた。亜弥ちゃんの汗のにおいに混じる香水とシャンプーのかおりの向こうに、これまで感じたことのない濃い女の香が絡みついてきて胸が悪くなった。
- 99 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:36
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「吉澤さんには言ったの?」
まだ。亜弥ちゃんを抱きとめたまま、ほとんど口を動かさずに言った。
「どうすんのよ」
少し咎めるような口調には、自分のことなんだからちゃんと考えなさいってニュアンスがあって、それが面倒で黙っていた。
「どうすんの、その話受けるの?」
うーん、と考えるフリをしながら亜弥ちゃんを押しのけ、言った。つーか美貴が決められることじゃないでしょ。
「自分のことなんだから、自分で決めなよ」
今度ははっきり言葉にした亜弥ちゃんに、ならパピコのCMやめたいって言いなよ、そう笑って返した。
「たんはどうしたいの?」
なんでそんな追求するの? 愛想笑いもせずに聞いた亜弥ちゃんに返した。
「どうしたいのか、ただ知りたいだけ」
真顔でどうしたいのかを聞かれても、どうもしたくない、というのが正直なところだった。この青空がいつまでも続けばいいと一瞬言おうと思ったけど、あまりにもつまらなかったからやめた。
- 100 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:37
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ねえ、亜弥ちゃん。退屈そうに雑誌をめくりはじめた亜弥ちゃんの意識がこっちに向いたことを確認して、聞いた。美貴、ほんとに何したいんだろうね。
「知らねって」
だよね。
「でも、モーニングを続けるか、ソロになるか、どっちかじゃない?」
「大丈夫だって。たんが抜けたって愛ちゃんいるし、田中ちゃんもいるし、久住ちゃんだって急成長って話じゃん」
「続けるか、戻るか、どっちにしても経験済みのことなんだから気楽でいいんじゃない?」
微妙なニュアンスを訂正した亜弥ちゃんは、その上で言い切った。
「今のたんには自信がない。なんとなくやってるだけじゃないの?」
珍しく挑戦的な亜弥ちゃんを鼻息ひとつで流してしまおうとも思ったけど、想像していた以上に私には余裕がなかった。いつでも踏みとどまれるような冷静さを残しながらも、言葉だけが口をついて出た。
「なら、亜弥ちゃんだって美貴と同じじゃん」
言った瞬間、痛いところを突かれて、それを認めてしまったんだと気付いた。決して今をおざなりにしているわけじゃないけど、これまでの延長線上にいるとはとても思えないし、この先へのイメージも何もない。ふわふわと宙に浮いているから、感触がない。
- 101 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:37
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「わたしはちがうよ。わたしが誇るのは今じゃないもん。これまでしてきたことで、こうできるのにとか、こうなれるのにとかあやふやなことじゃない」
亜弥ちゃんは恥ずかしそうに笑い、切り替えるように息を抜いて、甘えてきた。よじ登るようにしてソファに顔をうずめ、私の膝にお腹を置いた。大きく伸びをして仰向けになって目尻にたまった涙を拭い、言った。
「事務所の人には言わないほうがいいよ、卒業が立ち消えになるかもしれない」
なんで? ほとんど何も考えないで反射的に聞いた。
亜弥ちゃんはリラックスしたまま、さらりと流すように知っていることを口の端から滑らせた。
「前にチラっとだけどさ、こんこんとまこっちゃんが、どっちかなのかな、卒業するって話聞いたことあるんだ。たんたんにソロに戻るって聞いたとき、あ、話の段階でなくなっちゃったんだって思ったんだけど、ちがうかもしれない」
どっちなのさ。亜弥ちゃんのお腹を撫で、ゆっくりと股間に手を伸ばす。亜弥ちゃんは目を閉じている。
「わかんないけど、たん次第じゃない?」
そんなことないよ。
「知ってるくせに。あの二人より優先される」
そんなことないよ。
「どっちにしても、どっちかしかないんだよ」
なにそれー。私は、なに意味ありげな陳腐をぶっこくんだよぉ、みたいな軽さで笑い、指に力を込めた。亜弥ちゃんが私の上で微かに反応した。
突き詰めればどっちか、するかしないかの二択しかない。そんなのみんな知ってる。バカだと思われるから言わないし、誰かが得意気に言っていても気にならないけど、うんざりしている。どこまで数限りなくある細かな二択が永遠に続き、決定し続けなければならないことに。
- 102 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:39
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定番の曲なんだろう、私も聞いたことのある曲が流れ、髪の長い男のまわりに似たようなヒトが集まっている。踊っているつもりなのだろうが体が鈍く動いているだけで、時折発せられる無遠慮な奇声が音楽の輪郭を破壊している。小さなおじさんは、周囲のことは関係ないように棚に詰まったレコードに指を差してジャケットを選別している。
半ば諦めたような心持ちで、私もああいう奴らときっと大差はないのだと、なんでもいいからと新たなドリンクを注文した。どんなに水分を取っても足りないような気がしている。体が熱くなるというよりも、水分が抜けていくときに熱が発散されていく、そんな感じがする。
もうあきらめちゃった? あの夜、亜弥ちゃんは私に聞いた。諦めているわけでも、投げやりになっているわけでもない。近い将来の自分を設定できなくなっているだけだ。それが今に影響し、この先を拘束している。
曲が変わり、駆け上がるように店内のテンションが上がっていく。きっと誰も楽しんでいない。そういうスタイルで、そうしなきゃいけないから、そうしているだけだ。
- 103 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:40
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「ごめんね、おそくなっちゃって」
走ってきたのだろう、息を切らせたあゆみちゃんの眉間ともみ上げのあたりが汗でうっすらと光っている。また髪の長い男が、奇声をあげた。あゆみちゃんが前髪をなおしながら、ぞっとするくらい冷たい目をした。そして、他の客の存在を完全に無視して、目が合った店員にオレンジジュースを注文した。
かんぱーい、とのんびりした声で、私の飲みかけにグラスを合わせたあゆみちゃんは本当においしそうにオレンジジュースを飲み干した。
あゆみちゃんは自然で、無理がない。おだやかな雰囲気とバランス感覚のよさが、人に安心感を与える。昔、私はそれを、どっちつかずで主体性のない性格だとどこか鼻白んで見ていた。いつからだろう、たぶんガッタスのメンバーとして共通意識を持つようになってからだと思うけど、あゆみちゃんのことを受け入れられるようになって、好きになった。私が少し、大人になったからだとも思いたい。
- 104 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:41
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「ここね、プロジェクターがあって、頼めばワールドカップも見せてくれるんだよ」
そう言い、フロアに目を走らせて、
「でも、家でゆっくり見たほうがいいかもね。もし見るなら」
それぞれ家に帰るとも、どっちかの家で見るとも取れるような口調で言ったあゆみちゃんは、コルクのコースターに置かれた青白いカクテルに口をつけた。
適度な距離感が信頼を生むこともある。
私はあゆみちゃんに話すのだろうか、話さないのだろうか。あゆみちゃんは私を軽蔑するだろうか。それとも笑顔で、それから表情を落として、そうなんだ、と受け入れてくれるのだろうか。
あゆみちゃんと目が合った。
- 105 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:41
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- 106 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:41
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- 107 名前:: 投稿日:2006/06/28(水) 01:41
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- 108 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/06/28(水) 14:14
- いいねぇ
- 109 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:20
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これから
- 110 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:20
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十七歳になった。
暗い色彩に落ちこんだ世界は少しずつその範囲を広げ、ぶよぶよと厚い膜となって私を覆っている。それは目を閉じていてもたしかにそこにあって、生きていけないほどではないけど、生きていきたくないくらいの圧迫感を意識させる。皮膚のすぐ内側でなにかがじりじりと疼いているような不快感が、私の外のすぐ数センチに纏まっている。
「いつでも帰ってこれるようにしてあるんだからな」
珍しく酔っぱらっていたお父さんが、電話口で言った。なんとなくだけど、誕生日をまたぐ瞬間は、お父さんと話していたかった。
早く仕事を終わらせて、七時前には閉まる魚屋さんでおさしみを買って、スーパーでお惣菜を買って、ずっと電話を待っていたらしい。お母さんと一緒に電話をしたのは一時間前だというのに、お父さんはまだまだ話し足りないようだった。
話半分に聞き流して、電話を切るとメンバーからの不在着信のお知らせとかメールがどっと押し寄せてきた。その中に紺野さんからのメールがあって、今日はずいぶんといい話ができたね、昨日か、といったことが笑いまじり書いてあった。
- 111 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:20
-
日付けがかわったばかりだけど昨日は、ハロモニ。の収録があって、紺野さんの卒業スペシャルだった。スタジオに入る少し前、私は窓辺に身を凭せかけ、外を見ていた。ぶよぶよとした膜の向こうは雨に濡れているというのに朽ちているようで、青や緑や白や黄が鮮明に見えていた頃を思い出せなくなってきた。
うるさー! あつー! れいなが叫んでいた。振り返ると、吉澤さんや藤本さんだけじゃ足りなくなってきた小春ちゃんが、れいなの肩に抱きついて引きずられていた。ボーっと歩いていた藤本さんが笑顔になって駆け出し、れいなの後ろにまわって小春ちゃんの足を掴んでぶらぶらさせた。宙ぶらりんになった小春ちゃんは、奇声とも嬌声ともつかない音を発している。膝が崩れそうなれいなが、楽しそうに悲鳴をあげた。ちょ、ちょー! 重い、重い重い。重いって!!
- 112 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:21
- 最近、みんなのテンションが高い。
「しげさん、なに見てんの?」
その原因となってる人の声は高くてか細くて、すーっと入ってくる。振りかえった私と目が合うと、ふぅっと微笑み、
「あぁ〜、けっこう降っちゃってるねぇ」
どうでもいいというように言って、となりに腰をおろした。
日曜日のライブが終わったあと紺野さんは、こんな大勢が集まるところに来ることはあっても、その中にいることはないんだろうな、そう誰に言うでもなく呟いていた。きっと、私がそれを聞いていたことを知らないだろう。
私は紺野さんの存在をゆるく感じながら、窓の向こうを見ている。糸のような細い雨が絶え間なく外を撫で、すぐ先のよどんだ運河に無数の波紋を落としている。ほぼモノトーンの視界いっぱいに広がる微細な蠢きに、気が狂いそうになる。
- 113 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:21
- 「雨の日ってさー、憂鬱になっちゃうけどなんか透明で好きなんだよねぇ」
今のこの景色が紺野さんにはどう映っているのか、私にはわからない。ただ、目の前にいる紺野さんはちょっとした弾みで崩れてしまいそうなほど不安定な気がして、どうせなら私が壊してしまおうと思った。
「紺野さん、いつから大学に行きたいって考えてたんですか?」
「いつって、前にさー、しげさんが中学生くらいのときだったかなあ、なんか大学行くとか言ってたことあったでしょ?」
紺野さんは、私の表情を見て、おぼえてないかもしれないけど、と付け足した。
「そのときに、言われてみれば他にもなんかあるんじゃないかな、って思ったのが最初」
「よく憶えてますね」
「うん、けっこうわたしの中ではインパクト強かった」
「そうなんだ」
「しげさんは、全然そういうこと考えない?」
だらけんな! 突然、甘たるい怒鳴り声が聞こえてきた。藤本さんが、小春ちゃんのお尻を叩いて笑っていた。
- 114 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:22
- 「考えないです。さゆみバカだから、他のところでやっていける気がしない」
「そんなことないよぉ。べつに娘。やめんのすすめてるわけじゃないけど」
「やめたってすることないですし」
思いのほか、言葉に笑いが混じらなかった。
「ライブでのしげさん、楽しそうだもんねぇ」
楽しいは楽しいけど、ちょっとちがう。決められたステージ構成のなかで、はみださずに好きなことをする。誰かに任せておいたほうが楽なだけだ。
「紺野さんは、これから……」
途中で、なにを言おうとしたのか忘れてしまった。忘れたのではなく、最初から言おうとしてたことなんかなくて、言葉だけが出てしまったのかもしれない。紺野さんは、ん? と小さく首をかしげて私を見ている。
- 115 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:22
- 「あ、いや、楽しいんだろうな、って思った、だけ、なんで……」
どうだろうなあ、そう紺野さんは胸を張るように伸びをして、ちらりと雨空を見た。
「きっと辛いことのほうが多いんだろうなー」
「じゃあ、どうしてですか?」
「自分で決めたことだから」
即答だった。そのすぐあと、サッカーボールを持った辻さんが紺野さんの手を引いて行った。途中、私を振り返り、言った。またなんかあったら、さゆんとこ行くから。
いつの話だよ、そう心の中で毒づき、もう私はそんなんじゃないと視界に再び外の景色を入れる。意味もなく暗い気持ちになってしまって、それはきっとまわりのことがきれいに見えないせいだと口に出し、言葉にするとひどく安心してしまった。泣きたくないと思ったら涙が滲んだ。涙に、膜の中が弱く泡立っている。
- 116 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:23
-
空気中に舞う塵すら熱されているような気がする。飽和した昨日の雨は、私の肌に流れ落ちる。街全体がぐにっと曲がって私に迫っているような感じがする。暑さにゆるんだ膜が、喉の奥にまで張り付いているようで気分が悪い。
「東京タワーおっきーですねー。歩いても歩いても、まだ大きい」
過ぎた東京タワーを振り返りながら、小春ちゃんが私についてくる。
会社で用事を済ませ、帰ろうと家と反対方向に歩いていくと、しばらくして小春ちゃんが、一緒に誕生日しましょー、と急な坂を駆け上がってきた。汗だくの顔に満面の笑みを浮かべ、息を切らせている小春ちゃんを見て、一緒にいると疲れてしまいそうだなと思ったけど、そうだね、と手をさしだした。
- 117 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:23
- 「小春、こんな間近でちゃんと東京タワー見たの初めてかも」
東京タワーって何色だったろう。小春ちゃんの手はいつの間にか離れていて、私はどこか放り出されたように行く先もなく歩いている。
「道重さん、どこに向かってるんですか?」
「え? どこにも向かってないよ」
「ええー、そうだったんですかー」
頬が赤らんでいる小春ちゃんは立ち止まり、鞄から古ぼけたハンドタオルを出して顔をぬぐった。
「じゃあ、小春の好きなとこ行っていいですか?」
いいよ、歩きながら答えると、小春ちゃんは私の手を取って足早に追い抜いていく。
- 118 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:23
-
モノレールは左に大きく曲がり、ビル群につっこんでいく。窓際に座った小春ちゃんは私に背を向けて、ゆっくりと動く町並みを眺めている。
「モノレール乗るの初めてなんですよ」
周囲を気にしてか自分の名前を言わず、声も小さかったけど、その興奮はじゅうぶんに伝ってきた。
「なんかこういうの東京って気がしますよね」
私を向いて早口に言って、再び窓の外に顔をつけた。小春ちゃんの口からは、さっき飲んでいたミルクティーの甘い匂いがしている。
そういえば、二年前、三年前の私はどんなだっただろうか。
車内に人が少ないせいか、車内と外を切り分ける陰影が歪で、おかしな既視感がすぐ目の前で揺れた。もう夕方に近いのだろうか。単色の視界に一際目立つ白っぽい円が見当たらない。
小春ちゃんがおでこを窓にくっつけ、ぽーっと口を開けている。命の抜けた人間の人形みたいだ。前から、疲れていたり、強い負荷がかかっていたり、それが連続したりすると、ふーっとどこか遠くへ行ってしまったりすることはよくあったけど、さすがにステージやカメラのまわってる前ではなくなった。けど、その分、普段のなんてことない場面で、こうやって抜け落ちたように静止してしまう。
- 119 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:24
-
さゆみはねぇ、笑っていても心では無表情でいることが多かったの。
あんまり我慢とか無理とかしたくないから、さぼっただけ笑顔でいようって思ってた。
笑うのもつかれちゃったりするんだよね。
思うとおりにいかないことはわかってるけど、それを受け入れるのはちがう。
でもね、そういうのも、みんながいるからいいかなって思えちゃうんだよね。
「着いたよ」
小春ちゃんは数度瞬きをしてビクッと肩を震わせ、驚いたように周囲を見渡す。視線をきょろきょろさせて自分の世界と現状の隙間を埋めると、ここどこですか? と聞いてきた。
「羽田。空港」
「あれ、お台場は? どこですか?」
「お台場に行きたかったの? このモノレールは行かないよ」
「知りませんでしたー」
そんな残念そうでもない小春ちゃんの手を取り、青暗いターミナルに向かう。
「さっき寝てたの?」
「寝てたわけじゃないけどけどー、でもなんか気持ちよくなってました」
「あはは、気持ちよくなるんだ」
「でも、まわりのことはちゃんと聞こえてはいるんですよ」
私は十七歳になった。
- 120 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:24
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- 121 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:24
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- 122 名前:: 投稿日:2006/07/13(木) 22:24
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- 123 名前:名無飼育さん 投稿日:2006/08/17(木) 22:06
- mattemasu
- 124 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:05
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ついのみ
- 125 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:05
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灰色に薄められた空から間断なく降り続く雪を、愛佳が目を輝かせて見つめている。晴れることはないんじゃないかと思えてしまうくらい分厚い雲に遮られているせいで、昼間だというのに暗い。雪が仄かに蛍っているはずなのに、どうしてこんなに暗いのだろうと、新潟の冬を思い出そうとしてもおぼろげなイメージしか浮かばず、目の前の景色と比較しようがない。
昨日からの降雪量は過去に記録がないほどらしく、動いているのは一部の地下鉄だけで、帰れなくなった私たちはホテルに閉じ込められたままだ。朝起きるとテレビが映らなくなっていた。仕事もキャンセルになり、暇を持て余していた。
「小春ちゃん、これ、すっごくないですかぁ〜?」
愛佳の昨夜から醒めない感激に苦笑し、窓際に立った。道路には乗り捨てられた車の列が雪に埋もれ、中央分離帯を沈めても止むことのない雪に、私は少し心配になる。
「ほら〜、これ」
返事をしない私の関心を引き寄せようと、愛佳がほとんど開かない窓を開ける。冷え切った空気が足元から鋭く入り込み、舞った雪が細かな水滴になった。驚いた愛佳はすぐに窓を閉め、曖昧な笑顔を私に向けた。
- 126 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:06
-
こんな関係になるとは思ってなかった。少なくとも最初、私は敵意を抱くくらいにライバル心を持っていたし、愛佳のほうもそれに近い感情があったと思う。歌も上手で踊りもそれなりにできる愛佳の存在に危機感も持っていた。私の場所に転がりこんできて、先輩の興味もすべて愛佳に持っていかれるような気がしていた。実際に、そうだった。愛佳はよく気がつくし、優しくて、私とはちょっとちがうけど甘えるのも上手で、あっという間に、先輩はみんな愛佳のことが好きになった。けれど、愛佳のかわいらしさは目の前の人には絶対的な力を発揮するけど、全体には作用しないみたいだ。それほど人気は出なかった。同学年の先輩として、愛佳は私にも甘えるようになった。
「せっかくだからなんかしましょうよ〜」
「じゃあ、誰かからゲーム借りてきて」
「そういうことじゃなくって」
愛佳はテレビの横のソファに座り、手をベッドに差し向けた。私はベッドに腰掛け、愛佳が喋ろうとするタイミングを見計らい、脱力してベッドに倒れこんだ。一緒に声も出た。大きくあくびをすると、涙で滲んだ視界になにかが映った。色のトーンが少し落ちた気がする。目を閉じるとそのまま睡魔に巻き込まれてしまいそうだ。愛佳のむくれた声がする。体を起こした。
- 127 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:06
-
「なんか話しましょうよ!」
珍しく強い声に、私はぼんやりと愛佳の顔を見る。次にテレビ、部屋全体を見まわした。特に変わった感じはしないけど、どこか違和感がある。
「なに話すの?」
「なんでもいいですよ。なんかないですか?」
「最近なんかあったー?」
「いっぱいありましたよ。紅白出場決定とか、辻さんに赤ちゃんが生まれたとか、」
「他には?」
「えーと、あ、クリスマスとか」
「一週間先じゃん」
「でも、そろそろプレゼント買っとかないと。小春ちゃん、なににします?」
「なんでもいいや」
「会話にならないじゃないですかあ」
愛佳の体が隣のベッドで跳ねた。埃が立ち昇っていく。見えたわけではないけど、イメージが視認できた。窓の外では相変わらず雪が降り続いている。上下に引きかされるような歪さに、私は身を縮めた。
- 128 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:07
- 「ちょっとー、寝ないでくださいよー」
「大丈夫、寝ないから」
「いっつもそう言って寝ちゃうんだから」
「じゃあ、なんか話してよ。あるんじゃないの? 話したいこと」
間が開いた。愛佳のつばの飲む音が聞こえた。
「幸せについて?」
私は鼻で笑う。んなもん、ねーよ。
「あー、鼻で笑ったー!」
愛佳がベッドに横たわったまま、手足をばたつかせる。引き裂かれていく感じが強くなる。
「幸せなんて言葉、とっくに忘れてたわ」
「わたし、幸せになりたいですもん」
「でも、言っちゃだめだよ」
「なんで?」
「そんなのどこにもないから」
「ありますよぉ」
引き下がらない愛佳に、イラついた。
「ない」
断言した。愛佳は黙っている。
「なんでそう思えるんだろう」
自然と私の口をついて出た。愛佳を否定しようと思ったわけでは絶対にない。あまりこういうことは考えたことがなかったけど、幸せなんてないと思っていたことに今気づいた。愛佳はなにも言わない。その無言は、私に返す言葉がないわけじゃなくて、私に気をつかってのものだとわかる。私はこどもだ。
- 129 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:07
-
聞きなれないメロディが鳴った。愛佳はすぐ反応して、携帯にさっと目を通した。
「新垣さんから。外に出ておいでって」
愛佳が窓に張りつくようにして、下を覗く。
「あ、吉澤さんもいる」
「うそ?」
「ほんとですって」
並んで下を覗くと、無人のホテルのエントランス付近に新垣さんとじゅんじゅんりんりん、どう見ても吉澤さんがいる。背中を丸め、遅れて出てきた道重さんと亀井さんに雪をぶつけている。
「ほんとだ。吉澤さんいるね」
「でしょう?」
「同じホテルに泊まってたんだ」
「すっごい偶然ですね」
「まあ、似たような仕事してるから」
「わたしたちも行きましょう?」
「いや、小春はいい」
ベッドに戻って背を向けると、それ以上は誘ってこなかった。愛佳が出て行くと、雪のせいか静寂が深くなったような錯覚に体が重くなった。ずっと下のほうから、嬌声が聞こえてくる。吉澤さんは卒業しちゃったし、藤本さんはいなくなってしまった。中途半端にあの頃に戻っても調子が狂うだけだ。数日前、偶然会社で会った吉澤さんと、辻さんのお見舞いに行ったときも、そうだった。
- 130 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:07
-
辻さんの出産が予定よりもずっと早くなりそうだという話が流れ伝ってきたのが十二月に入るかどうかのことで、もう生まれたと聞いたときは、ああ、そうなんだ、くらいにしか思わなかった。ちょうど年末年始に向けてスケジュールが詰まってくる時期だから、それほど興味を持っていられなかったし、メンバーもみんな口では祝福していたけど、ほとんど無関心だった。
紅白のMCで辻さんの出産を話題にすると話が持ち上がったとき、亀井さんが皮肉っぽく笑った。使えるものは使っとかないとってことなのかな。
11月に出したばかりの新曲は、こじつけようによっては新しい命をみんなで守ろうみたいにも聞こえるけど、私はレコーディングのときには、今にも壊れてしまいそうな弱り果てた星を大切にしようみたいな歌詞だと認識していたし、メンバーも曲をもらったときからそう解釈していたように思う。
辻さんのお見舞いに行ったというのも、誘われたからで、吉澤さん以外の理由はなかった。でも、求められれば私はお見舞いに行ったことをどこかで言うのかもしれない。
病室での辻さんはやつれていたけどすごく元気で、前とあまり変わらない笑顔で私と吉澤さんを迎えた。
- 131 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:08
-
「お前死んじゃうんじゃねえかと思ってさー、心配したよ」
吉澤さんが病室に入るなり、おどけた口調でベッドに腰掛けた。そして辻さんの顔をじっと覗き込んだ。お前、いま一人なの?
「うん、お母さん一回家に帰った」
「そっか。でも安心した。けっこう普通だな」
「そんな何ヶ月かで変わんないって」
にこにこと満面の笑みで、辻さんが軽く吉澤さんの腕を叩く。本当に辻さんは変わっていない。出産直後の人ってもっとふっくらしてるものじゃないんだろうかと思ったけど、私は黙っていた。
「よっちゃんなんか食べる? 久住ちゃんも。お見舞い、すごいいっぱいあるから」
「わたしはいいや。久住は?」
私は首を振り、丸椅子に座った。病室には簡単なキッチンがついている。ソファとテーブルは白ではなく、どちらも軽薄な木目調で、病室にも部屋にもならない空々しい印象がする。
- 132 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:08
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「つーかおめえ、もっとちゃんとした本読めよ」
部屋をうろうろしていた吉澤さんが、積み上げられた雑誌をパラパラめくって笑った。
「なんでよぉ、ちゃんとした赤ちゃんの本だべさ」
「服しか載ってねえじゃねえかよ」
「だって、のんは服の係なんだもん」
「他は?」
「……おかあさん」
「お前、子どもお母さんに任せっきりで遊び呆けるなよ」
「しないもん。もうのんだってお母さんなんだから」
辻さんは唇を尖らせて俯き気味に呟いた。どういう経緯があったのかは言わなかったけど、なんとなく想像がつく。
「そういえば一昨日、あいぼんが来たよ」
「そう、なんて?」
「アホか、って笑われた」
「そっか」
吉澤さんはずっと笑顔だけど、どうして笑っているのかさっぱりわからないような複雑な表情をしていて、それは私と辻さんも気付いているけど、吉澤さん自身はそのことに気付いていない。
- 133 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:09
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子供ができたから結婚して、産んで、ただそれだけの珍しいことでもなんでもないことが、すごくおかしなことだと、みんなそれぞれ思っているからなのかもしれない。それは新しい命が誕生したことに対してじゃなくて、今のこの状況が酷く不自然だからだと思う。私たちが特別なわけではなく、私たちのいるところが、発狂してしまいそうなくらいに特殊なのだ。そして私たちは、ここを選んだ。そこにどんな意志があったのかは、もう憶えていないけれど。
「辻の子、見れるの?」
「見れるよ!」
声を弾ませた辻さんが、ベッドから飛び降りる。少し足元がよろけたけど、しっかりした足取りで私たちを先導してくれた。
辻さんが慣れた仕草でエレベーターの階数を押し、ドアが閉まった。
「かおりんの妹の赤ちゃんと同級生なんだよ」
「なんか嫌になるな」
「なにが?」
「なんか」
吉澤さんは鼻でふっと息を吐いて、自嘲気味な笑みを浮かべていた。
- 134 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:09
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ガラスで仕切られた向こうに、個体が並んでいた。どこか無機質な感じがする。先に来ていた同じシルエットの小太りの親子が私たちをみとめて表情を変えたけど、自分たちの赤ちゃんに向き直って無関心を装った。
「どれ?」
吉澤さんがガラスに額をくっつけて赤ちゃんの群れを眺め回している。
「あれ」
辻さんが指差した先に、他の赤ちゃんよりも二周りくらい小さい、黄色っぽい肌をした子が、口をあむあむ動かして天井を見つめていた。体にはチューブが這わされ、足には点滴の針が刺さっている。
「辻似?」
「やっぱ?」
「うん。鼻のとことか、すげー似てる」
「みんなに言われんの。しかもぜったい似てほしくないって部分」
辻さんは口をへの字に曲げて、首を傾げた。全然嫌そうな顔には見えない。
「かわいいって」
びっくりするくらい相好の崩れた吉澤さんは、辻さんの鼻をつついている。私には、その感覚はわからなかった。育児カプセルの小さな命に感動はしていたけど、吉澤さんみたいな表情にはならない。
- 135 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:10
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「これが辻のみっこかー」
意味がわからなかったけど、吉澤さんの照れ隠しだろうか、変な表現だった。
「そう、あれがつぃの実。うんこみたいにポロンっとね」
大股広げた辻さんが、お尻のあたりに添えた両手を下に落とした。バカ、満面の笑みの吉澤さんが、辻さんの頭を小突く。吉澤さんも辻さんも、今まで私が見たことのないような笑顔をしている。きっと、あの子が生まれたからできる表情なんだろう。
「ご飯とかどうしてんの?」
「お乳? 母乳だったり、ミルクだったり、そのときによってバラバラ」
「そうなんだー」
「でも、毎日おっぱいは出してるよ」
吉澤さんは、なかなか辻さんの赤ちゃんの前から離れようとせず、結局疲れた辻さんと私が先に病室に戻り、一時間経ってから満足そうに戻ってきた。
病院を出て、吉澤さんが私に聞こえるかどうかの声で、本当はこういうのよくないんだけどな、と言った。私は聞こえないふりをした。わけもわからず抱えていた鬱屈が一気に蒸発してなにかが弾け飛んでしまいそうだった。そういうとき、どうすればいいのか、私は知らない。
- 136 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:10
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外の冷たい空気をまとった愛佳が戻ってきた。息を弾ませ、頬が上気している。まっすぐこっちには来ないで、一度浴室で雪を払ってから顔を見せた。
「すっごい楽しかったです。小春ちゃんも来ればよかったのに」
「いいよ」
「なに拗ねてるんですか」
「なんで」
愛佳はコートをハンガーに掛け、冷蔵庫からお茶を出すと、ゆっくり口に含むようにして飲んだ。さっきまでいた窓の外を見上げた。ずっと降ってればいいのにな。
「ねえ、みっつぃー」
「はい?」
「なんで?」
「なにがですか?」
「小春、拗ねてるように見えた?」
「見えたっていうよりも、なんとなくそうかなあ、って思っただけです」
どうでもいいみたいな顔をしていたけど、私の様子に、不安そうな表情を向けてくる。
「それより、吉澤さんの部屋に行きません? 新垣さんたちも行くって言ってましたし」
「後でね」
「えー? いま行きましょうよ」
「先に行ってていいよ」
「絶対来てくださいね」
愛佳は入念に身支度をして、絶対ですよ、と何度も私を振り返って部屋を出て行った。今日がなにか特別な日でもあるかのような興奮した表情は、まさに幸せそのものといった顔だった。そう見たいだけなのかもしれない。ずっとあった視界の違和感が消えた。
再び辻さんを思い出す。病人みたいだった辻さんと、カプセルの中で管に繋がれた赤ちゃん、吉澤さんの愛しくてたまらないといった表情が投げ遣りに交差する。あの子は幸せになれるんだろうか。そんなもの、この世にあるはずもないけど、そうなってほしい。暇つぶしの気まぐれだけど、本気でそう思った。
- 137 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:10
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- 138 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:10
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- 139 名前:: 投稿日:2007/06/17(日) 21:10
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- 140 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/17(日) 22:19
- さすが。
- 141 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/18(月) 23:03
- よかった
- 142 名前:名無飼育さん 投稿日:2007/06/19(火) 04:19
- 作者さま 待ってた甲斐がありました。
これから、また、最初から読み返してきますね。♪
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